なんでお前じゃないんだよ! (シャオレイ)
しおりを挟む

一話

 ラブレターが出てきた――幼馴染の靴箱から。

 朝の昇降口、爽やかな風の吹く麗らかな春の一日である。

 手紙を手にした幼馴染の顔を覗き込めば、とても複雑そうな顔をしている。ちらりと見えた中身には、熱烈な愛の言葉が刻まれていた。坂井瑞樹さまへ、から始まる三枚にも及ぶ大作だ。

 

「すごいな」

 

 このご時世に希少なものを見たオレは、そんな言葉しか出せなかった。こちらの言葉に対し、瑞樹は拗ねるように唇を尖らせながら言う。

 

「こんなの、困るのに……。それにこの人、うちの学校の生徒じゃないんだよ」

「どういうことだ?」

「ここに通ってる友だちに入れてもらったって書いてある」

「それはまた、随分な入れ込みようだな」

 

 憂鬱そうな表情を浮かべるのにも納得が行く。一目惚れだかなんだか知らないが、告白される側からしてみれば頭痛の種のようだ。

 

「どうしよう」

 

 瑞樹は思い悩んだような表情を浮かべてこちらを見る。困っているには困っているが、邪見に扱うのも気が引ける。そんな感じの顔だった。

 

「断るにしても、この人がどこの誰かも分からないし」

「律儀だなぁ、お前。そんなの無視でいいじゃねぇか」

「それは、でも、この人だって返事は欲しいだろうから……」

 

 言いながら、手紙を丁寧に封筒にしまい直す。そういうところも告白される原因の一つなのではと、思わずにはいられない。それに加えてこの容姿じゃあ、そんな事態になることも納得が行くというもの。

 いつもは快活な光を湛えている大きな目に長いまつ毛は、今は陰りを見せていた。小さな唇からほうと息を漏らし、華奢な肩を落としながら、ゆるいパーマのかかった柔らかな髪をほっそりとした指先で弄っている。

 

 他にもオレがぱっと思いつかないような特徴も含めて、ラブレターには詩的かつ叙情的に書かれていた。よくもまあ、といった具合である。

 確かに瑞樹の容姿は人並み外れている。そのせいもあってか、過去に何度か似たようなことはあった。その度に憂鬱を含ませたため息と共に言うのだ。

 

「ボク、男なのに……」

 

 坂井瑞樹は同性にやたらとモテた。

 

 

 

 教室に上がってきても、まだ瑞樹は落ち込んだ様子でいた。机に突っ伏して、頬を天板に押し付けている。

 

「ほら、機嫌直せよ。飴食べるか?」

「……食べる」

 

 飴の小袋を目の前に置くと、ようやく体を起こした。緩慢とした動作で袋を開けると、飴玉を口に放り入れる。

 

「あ、甘い」

 

 途端に表情が明るくなる。とりあえずはこれでしばらく大丈夫なはずだ。あとは話を逸らし続ければ、とそこまで考えたところで瑞樹の背中に影が差した。

 

「おっはよ~、瑞樹チャーン」

「うひゃ、お、おはよう、加苅さん」

「んふ~、今日もお肌すべすべ~」

「ちょっ、や、お腹撫でないで……!」

 

 唐突に現れたその女は瑞樹の背後から抱き付くと、シャツの中に手を突っ込んで腹部を撫でだした。

 

「あ、おはよー、やっチャン」

「はよっす」

 

 ついでとばかりに挨拶をされるが、その間も手を止めることはない。ひたすら瑞樹の体を弄んでいる。段々と瑞樹の息が荒くなり、服が乱れていく。周りの視線が怪しくなってきたので、流石に止めることにした。

 

「加苅、そろそろ止めろ。瑞樹が泣くぞ」

「泣かないよっ! でももう止めて!」

「はーい」

 

 ぱっと体を離し、瑞樹の隣に立つ。瑞樹が服を直している最中も、肌をなぞっていた指を微かに動かして感触を反芻しているようだった。

 加苅海夏。オレと瑞樹のクラスメイトで、学年で一、二を争う変人。かわいい女の子にちょっかいをかけるのが生き甲斐と公言しているが、もっぱらその被害を受けているのは瑞樹だったりする。本人曰く、瑞樹以上にかわいい子がいないかららしい。それを聞いたクラスの女子たちは妙な納得を示し、周囲の反応にショックを受けた瑞樹が立ち直るまで丸一日かかった。

 

「でも今日はちょっと機嫌悪いっていうか、落ち込んでるっていうか? なんかあったの?」

「あー、まあな」

 

 言葉を濁すが、逆にそれで勘付いたようでなるほどと頷く。

 

「また告白されたんだ、男子に」

「……うう」

 

 瑞樹が再び机に突っ伏した。ようやく持ち直した気分も急降下している。

 

「まあまあ、いいじゃない。それだけ瑞樹チャンが魅力的だってことだよ」

「男にモテたって嬉しくないよぉ……」

「あたしが知ってる限りだと……三回目?」

 

 加苅が指折り数える。

 

「ああ、あってる。“高校に入ってからは”三回目だ」

 

 そう、高校に入ってからは。加苅と知り合う前、オレと瑞樹が出会ってからの通算で言えば、今回で通算一〇回目だ。

 その大体が瑞樹のことを女子だと勘違いしてのことだった。昔からびっくりするくらいの女顔だったし、対外的な性格がひかえめな奴だったことも影響していたのだと思う。

 

「はあ……ねえ、八千代」

 

 瑞樹が潤んだ瞳でこちらを見上げる。何を言いたいのかはよく理解していた。

 

「分かってる。ついてってやるから安心しろよ」

 

 そう答えると、ほっと息を吐いて安堵の笑みを浮かべる。瑞樹の頼み事は、告白を断る際の付き添いだ。流石に一人で行くのは怖いようで、こういったときにはいつも頼まれる。

 

「それにしても、瑞樹チャンは律儀だよねぇ。アタシだったら無視しちゃうけどなー」

「だって、それは相手に悪いっていうか……」

「気にしすぎだってー」

 

 加苅にそのように言われても瑞樹の顔は晴れない。人のいい性格であるから、色々と複雑な思いなのだろう。男に告白される心境はいつまで経っても理解などできないに違いないが、幼馴染としてできる限りはしてやろうと決めていた。

 

「じゃあがんばる瑞樹チャンにコレあげる」

「わ、見たことないお菓子だ」

「今日コンビニを覗いてみたらあったんだー。はい、どうぞ」

「ありがと、加苅さん」

 

 加苅から菓子を受け取り、沈んでいた表情が明るさを取り戻す。まったく現金な奴だと感じるが、それくらい単純な方がストレッサーの多い瑞樹にとってはいいのかもしれない。

 それから話は別のものに移り、機嫌は上向きのままだった。

 

 

 

「そういえばいつ断り行くんだ?」

 

 学校も終わり放課後、オレの部屋に来た瑞樹はベッドの上でクッションを抱えていた。オレがゲーム機の準備を終えるまでの、いつもの姿勢だ。瑞樹は手紙の文面を確認しながらこちらの問いに答える。

 

「それが、特に書いてないんだよね。いつどこで、とか。メールアドレスとか、住所とかも。向こうの情報で書いてあるのは名前くらいで、学校名もないし……」

「なんだそりゃ。……単に書き忘れたのか、それとも手紙を渡すだけで満足だったのかは知らんが、だとしたらこっちからできることは何もないだろ」

「そうかな」

「そうだよ。どっちにしろ向こうの責任なんだし、気に病む必要はねえ。ほら」

 

 準備を終えて2P側のコントローラを投げ渡す。慌ててキャッチする姿を横目に、ゲーム機の電源を入れた。

 

「今はこれやろうぜ。楽しみにしてたろ」

 

 今日発売されたばかりのゲーム。昨日の夜からダウンロードだけは済ませておいたので、もうプレイできる。朝の通学路でもその話をしていたのだが、例の件でそれどころではなくなってしまっていた。

 結局ラブレターに関してこちらからできることはないのだし、それなら本来の予定通りゲームをしている方がずっといい。瑞樹はいいのかなぁと呟いていたが、タイトルロゴが表示されるとそんなことは忘れたようにこちらを急かしてくる。

 オレたちはそのあとしばらく、ゲームの世界に熱中するのだった。

 

 

 

 瑞樹は遅くまで遊んでいった。いつものように晩飯も食べて、今は玄関で靴を履いている。母さんと妹が並んでその様子を眺めていた。

 

「気を付けて帰ってね、もう暗いから」

「はい、ありがとうございます。あと、晩ご飯ごちそうさまでした。今日もおいしかったです」

「お兄ちゃん、ちゃんと瑞樹さんを送っていってよ」

「分かってるよ」

「あはは、千歳ちゃんも今日はありがとうね」

「いえいえ! こんなバカ兄貴でよければいくらでも酷使しちゃってください」

「そうそう。でかい図体もこんなときは役に立つし」

 

 妹も母もどちらも瑞樹の心配しかしていなかった。とはいえ気持ちも分かる。隣の瑞樹に目をやると、きょとんとした顔をしている。コレを夜の町に一人で放つのは気が引ける。なにが起こるかわかったもんじゃない。

 

「じゃあ、失礼します。おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」

「おやすみなさーい」

「んじゃ、行こうぜ」

「うん」

 

 二人で家を出る。もう春とはいえ、夜には冷たい空気が足下を抜けていく。瑞樹の家はここから歩いて十五分ほどだ。並んで歩きながら、オレたちはゲームのことを話していた。今日は金曜日、明日は朝から遊ぶ予定だ。

 

「明日中にはストーリーをクリアしておきたいね」

「だな。やりこみ要素はクリア後でいいか」

「うん。いや、でも、一つ一つアイテムを集めたい気もあるし……うー、迷う」

 

 うんうんと唸りながら明日の予定を呟く姿を見ていると、こいつは昔から変わらないなと感じる。あるいは子供のように性別の色が少ないから、今回のように告白をされるのだろうか。別に悪いことではないし、むしろそこが瑞樹の魅力なんだと思う。心配ごとが多いのが悩みではあるが。

 しばらく瑞樹が呟くに任せていると、唐突に沈黙が訪れた。足音も止まったことで、後ろを振り向く。足を止めた瑞樹は俯いて足元に視線を落としていた。

 

「どうした?」

「あのさ、ボク、迷惑かけてたりしないかな」

「なんだよ、いきなり」

「今日のラブレターの件とか、告白断るときに一緒についてきて欲しいって頼んだり」

「いつものことじゃねえか。気にすんなよ」

「……そうだね。昔っからそうだ」

 

 オレは答えるが、瑞樹の言葉に明るさが戻らない。

 

「ボクが八千代の助けになったことってあったかな」

「あん? ……そりゃあるだろ」

「適当な答え」

「適当じゃねえよ。瑞樹が気づいてないだけで、色々あるさ」

「そうかなぁ」

「ああ」

 

 いまいち納得できていないのか、首を傾げている。そんなに気にしなくてもいいと思うんだが、本人はどうにもそうじゃないらしい。少ししてばっと顔を上げると、キリッとした眼差しをこちらに向けてきた。

 

「決めた! ボク、もっと八千代の助けになるよ!」

「いったい何を助けるってんだよ」

「それは……分からないけど、でも、八千代が困ったことがあれば、そのときはなんでも言って。ボクにできることなら、精いっぱい恩返しするよ」

「へえ。それじゃあ明日のアイテム稼ぎは瑞樹に任せるかな」

「そ、そういうのじゃなくてっ。それは二人でやろうよ……」

「ああいう作業はやってると眠くなってくるんだ」

 

 そんなことを話しながら、通い慣れた道を行く。オレはふと、もし八千代に助けてもらうことになるとしたら、どんな出来事が起こったときだろうかと考えた。勉強? 怪我? それとも、もっと大変なことか。どれもあまり想像はつかないし、そもそも自分が困るような事態は起こらない方がいいに決まっている。

 だけどああもやる気になっている姿を見ると、多少は困ってやってもいいかなとも思うのだった。

 

 

 

 その夜、夢を見た。幼い頃の記憶、瑞樹と初めて出会ったときのことだ。

 瑞樹は公園で泣いていた。人目につかないような、木の陰に隠れながらだった。そのとき、オレは千歳とキャッチボールをして遊んでいた。その最中にすっぽ抜けたボールを追いかけて藪に入ると、足元に転がっているボールとオレを交互に見る瑞樹の姿があったのだ。

 

「なにしてんだ?」

 

 まさかそんなところに人がいるとは思わなかったオレは、ボールを取ろうともせず瑞樹に問いかけた。しかし瑞樹は困惑と怯えが混ざった顔をこちらに向けるばかりで、何も言わない。

 

「泣いてんのか?」

 

 小学生だったこともあってその頃のオレには遠慮とか気遣いとか、そういった相手のことを慮る心が足りていなかった。

 泣いているということは嫌なことがあったということで、嫌なことがあったときはとりあえず遊べばなんとかなる。そんな単純な思考回路は今に至るまで変わっていないわけだけれど、当時はより考えなしだったように思える。

 

「よっしゃ、キャッチボールしようぜ!」

 

 蹲っている瑞樹の手を引っ張り上げるとボールを拾うのも忘れて藪から飛び出し、直後にボールを取りに藪に潜った。

 そのあと、おどおどした態度の瑞樹を連れまわして千歳も含めた三人で遊び倒した。キャッチボールだけじゃなく、思いつくような遊びは一通りやった覚えがある。そうして夕方になるまで遊んで、その場で別れた。オレが瑞樹の名前を聞いていないことに気づいたのは、家に帰ってからだった。

 

 それから毎日、瑞樹は同じ公園に来た。瑞樹の表情は日に日に明るくなっていき、一週間も経つ頃には笑顔が目立つようになった。オレは瑞樹の泣いていた理由――大好きだった祖母が亡くなってしまったということ――も知り、どんどん仲良くなっていった。

 ……まあ、オレもしばらく瑞樹のことを女だと勘違いしていたのだが。

 ともあれ、瑞樹はオレの大切な友達になったし、これからもずっと一緒にいようと思っていた。たとえ向こうがオレの役に立てていないと考えていようが、そんなことで友達を止めるつもりはないし、オレたちの関係が変化することはない。

 そう、たとえ何が起こっても――。

 

 

 

「んん……」

 

 とか何とか、夢の中で思っていた気がする。自分に酔いすぎじゃあないだろうか。すっきりしているような、それでいて寝すぎたような感覚で天井を見上げる。

 なんとか力を入れて上半身を起こすと、頭がふらふらするし、全身が重い気がする。その上、体の違和感もひとい。風邪でもひいたか。瑞樹と遊ぶ予定だったが、もしかしたら断ることになるかもしれない。

 

 時計を見れば、もう九時半。そろそろ来る頃合いだ。とりあえず顔を洗おう。多少は良くなるかもしれない。

 よろよろとベッドから足を下ろして立ち上がろうとしたとき、長い髪の房が目に入った。それはさながらホラー映画のように、マットレスの上に広がっている。血の気が引く感覚と共に、違和感の正体に気がつく。

 体が動くと髪も動く。束ねて持ってみるとやたらと量があり、そして長かった。艷やかな黒髪をぐっと引っ張ると、鈍い痛みと共に頭が持っていかれる。それは確かに、オレの頭皮から生えているものだった。

 

「なんだこれなんだこれなんだこれ……!」

 

 痛みで正気を取り戻し、全速力で鏡を取りに行く。机の上に置かれた手鏡を手に取り覗き込むと、そこには知らない誰かが写っていた。

 

「なんだこれ――――――!」

 

 艷やかな濡れ羽色の長髪。動揺が滲みつつも、豹のような瞳はその鋭さを失っていない。目鼻立ちの通った顔面は、鏡などではなく雑誌やテレビに写っている方が正しいのではと思わせる。

 視線を下に下げると、男用のシャツをぱつぱつに盛り上げる膨らみが。そのせいで足元が見えない。恐る恐る触ってみると、柔らかくかつ適度な弾力が感じられる。筋肉の感触じゃない、脂肪のそれだ。

 

 夢だろうか? それにしてはやたらとリアリティがあるというか、意識がはっきりしているというか。それよりこのリアルさは、いやおっぱいを揉んだことは一度もないけれど、それでもこれが本物だということはなんとなく分かる。

 そのうえで股間に手を伸ばす勇気はなかった。何もせずとも、そこには何もないことがわかったからだ。股を閉じたときに、何もない感触がとても寒々しく感じられる。開いたり閉じたりを繰り返しても、違和感は増すばかりだ。

 女になっている。そう結論付けるしかなかった。とはいえ何が原因なのかはさっぱり分からないし、リアルな質感を前にこれが夢であるとも断定できずにいた。

 茫然と鏡を眺めていると、階段を上がってくる音が聞こえてくる。恐らく瑞樹だろう。

 

「やべっ」

 

 あたふたと右往左往しても何も思いつかず、意味もなく長く伸びた髪をぐしゃぐしゃと乱していると、ドアノブがひねられた。

 

「おはよー、もう起きて、る……?」

 

 瑞樹が目を丸くしてこちらを見ている。その瞬間、オレは一つの仮説に辿り着いた。もしや、性別が反転した世界にやってきてしまったのではないか。そう考え瑞樹を見るが、性別がどちらか分からない。

 これはどっちだ? 男か、女か? オレが変わったのか、世界が変わったのか?

 確認する方法は、一つ……!

 

「あ、あの……」

 

 ずんずんと歩み寄るオレに、瑞樹は怯えたように後退りしようとする。しかしそれを腕を掴むことで止め、確認のために片手を伸ばし、

 

「ふんっ」

「え、ひやぁああ!?」

 

 瑞樹の股間を思い切り鷲掴みにした。

 

「ちょっ、なっ、わっ、やああ」

 

 奇声も無視して、しっかり感触を確かめる。

 

「……ある」

「あたり前だよぅ!」

 

 見た目からはまったく想像もできないものが、そこにはついていた。オレの仮説が崩れた瞬間だった。

 であるとすると、世界が変わったのではなくオレが変わったということになる。しかし、いや、だとしても納得できないところもある。失った己の半身を求めるように、執拗に瑞樹の股間を揉みしだく。

 

「やっ、んっ、ふぅ……!」

「……なんでお前じゃないんだよ」

「な、なにが……」

「なんでお前じゃなくてオレが女になってるんだよぉ――!」

 

 親友には悪いが、そのようにしか思えなかった。オレが女になる理由はさっぱり分からないが、瑞樹が女になったと聞いたらなんとなく納得が行く。

 

「いきなりなに言って、ってまさか」

「ちくしょう。ついてなさそうな顔してるくせに、しっかりついてやがる。くれよこれ」

「んっ……いい加減揉むのを止めろー!」

 

 手を振り払い、身をかき抱くかのようにオレから離れた。顔は真っ赤で、目尻には涙が浮かんでいる。だからなんでお前はソレでついてるんだ。

 

「も、もしかしてだけど、八千代?」

「当たり前だろ、それ以外に誰だと」

「信じられるわけないでしょ! 本気で言ってるの? こんな突拍子もない……いや、でも、この感じは」

 

 うんうん唸っている瑞樹を後目に、頭を抱えて蹲る。もうなにをどうしていいか、さっぱり頭に浮かばない。

 

「あああ、マジでなにが起こってんだ。これが瑞樹なら納得も行くのに……」

「ちょっとっ、それどういう意味さ!」

「そりゃあ、お前。オレが女になるのと瑞樹が女になるのだったら、どっちの方が違和感ないよ」

「それは……それは別として! ああもう、少しずつ八千代に思えてきたっ」

 

 二人して騒いでいると、階段を駆け上がってくる音がしてくる。やばい、家族になんて言って説明すればいいんだ。考える間もなく、階段から顔が覗いた。

 

「ちょっとー、朝から流石にうるさすぎ……え?」

 

 前例と似たようなリアクションでこちらを見る千歳。はっと瑞樹に視線を向けるが、おろおろとしていてフォローは期待できそうにない。オレは猛獣を相手にするような心持ちで、両手を前に出して説得を始めた。

 

「落ち着け千歳。オレはだな、お前の兄ちゃんだ」

「……お兄ちゃん?」

「ああ。なにがなんだかオレも分かってないが、起きたらこんなになってた。意味が分からないと思うが、信じてほしい」

 

 視線がオレから瑞樹に移る。千歳に見つめられた瑞樹は躊躇い気味に頷いた。まだ完全に信じてもらえたわけではないようだが、一応肯定をする程度には信用してもらえたらしい。

 

「な? だから、ひとまず落ち着いて話を……」

 

 そうして話しの席につけようとしたオレの言葉はしかし、妹の突然の行動に阻まれることになる。

 急に怒りの形相を浮かべた千歳は、鼻息荒くこちらへと近づいてきたのだ。

 

「ち、千歳ちゃん! ちょっと待った!」

 

 尋常ではない様子を感じ取った瑞樹がそれを止めようとしたが一歩遅く、既に目の前に来ていた。あまりの気迫に息を飲んだ瞬間、衝撃が体を襲う。恨み真髄の表情で、地の底から響いてくるような恐ろしさを伴った叫びが轟いた。

 

「な、ん、でお兄ちゃんにはおっぱいがついてるのぉおおお!」

「い、っだだだだだ! もげる、もげるってぇ!」

「なんでよ――っ!」

 

 ぎりぎりと万力のように乳房を握りしめられ、痛みのあまり悲鳴を上げる。しかし力が緩まることはなく、なぜか片手は両手に増え、上下左右にと引き裂くように蹂躙し始めた。

 

「ありえないでしょっ! なんで男にこんなっ、乳がついて! 正真正銘女のあたしにはこれがないわけ!? よ、こ、せぇー!」

「無茶、言うなっ、て痛い痛い! 瑞樹っ、こいつを止めてくれ!」

「え、あ、うん、ええ?」

 

 だめだ、混乱していてしばらく動きそうにない。

 おろおろする瑞樹、胸を弄ばれ続けるオレ、怒りに燃える千歳。混沌とした場は、騒いでいたオレたちを母さんがしばきに来るまで続いたのだった。

 

 




書きだめはほとんどないです

読みにくいかと思ったので改行増やしました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二話

 室内は妙な沈黙に包まれていた。リビングのテーブルには現在、オレと瑞樹、千歳の三人がついていた。母さんは夕飯の準備をしている。

 朝の一件の後、オレたちは病院へと行った。昔からお世話になっているところ――瑞樹の家族が経営してる大規模な病院だ。事態が事態なだけに、話のつけやすい所を選んだ。説明に紆余曲折ありつつ、いくつかの検査をした結果、暫定的にではあるものの、オレ本人であると認めてもらえた。

 とはいえ、それが分かればいつも通り、というわけではない。妹も瑞樹もそわそわと機を伺っている。まあ、オレがあまりにも変わっているのだから仕方がないと言えばそうだ。

 

 この体になって一番に感じたのは、身長の差だ。元の身長は一八二センチ、対して今は一七一センチ。十一センチも違いがある。さらに言えば、縮尺そのままではないから手足の長さも変わってくる。

 目線の高さと手足の長さが大きく違うのだから、それはもう大変だ。色々なところに体をぶつけ、ときには転びかけた。そんな様子を見ていたからか、どうもこちらに気遣いをしているようだ。いつもなら息をするように煽ってくる千歳も、珍しく大人しい。とはいえ、立場が逆ならオレも軽々しく声はかけられないだろう。

 今この場に必要なのは切っ掛けだ。何かがあれば、きっといつも通りに話せるはずだ。ここはやはり、家人で年長者であるオレが行くべきだと判断し、話をするべく身を乗り出した。

 

「よいしょ」

 

 瞬間、千歳が激発した。

 

「アンタ喧嘩売ってんの!?」

「机を叩くな、振動が来るだろうが」

「なにそれふざけんじゃ……だからそれを止めなさいよ! 胸を机に乗せんなぁ!」

 

 机をばんばん叩く千歳、その度にゆさゆさと揺れるオレの胸。机に接している底辺から頂点までの振動の時間差が、その質量を強く主張している。

 

「だいたいおかしいでしょ!? アタシもお母さんもそんなじゃないのに、それはどこから湧いてきたわけ!?」

 

 叩くのを止め、指を指してくる。憎しみすら込められていそうな鋭さだ。とはいえ、そう感情を昂ぶらせられても困る。恣意的にでかくしたわけではないのだから。

 

「父さんの方の遺伝子じゃないか?」

「アタシの半分もそうなんだけど」

 

 喉から人のものとは思えないうなり声が響いてくる。隣に座っている瑞樹が怯えていた。妹が胸にコンプレックスを抱いているのは知っていたが、まさかここまでとは。

 

「邪魔だぞ、これ」

「ああっ! こいつ、言ってはいけないことを!」

 

 何気なく放った言葉はガソリンだったようで、派手に炎が上がった。しかしこちらも引き下がれない。

 

「でも、これじゃまともに走ることもできないぞ。歩くだけでも大変だ。女性がブラジャーをつける理由がよく分かるな」

「アタシはブラつける必要がないって言いたいの!?」

「千歳ちゃん、ちょっと落ち着いて……」

 

 喧々囂々とした――主に一人のせいで――リビングは実に混沌としていて、当初の目的などどこへやら、もうお互いが言いたいことを言い合うだけの場になった。瑞樹は瑞樹で、千歳の勢いに圧されてまともに発言もできていない。

 ヒートアップし、騒ぎが大きくなってきた頃、

 

「いい加減止めなさいっての。ご飯できたから配膳手伝いな」

 

 母さんがキッチンから顔を出して言う。

 

「全く、ぎゃーぎゃーうるさい子たちだよ。瑞樹くんもよかったら食べてってね」

「あっ、ありがとうございます!」

 

 これ幸いとばかりに、まず瑞樹が席を立つ。次に千歳が、納得していないぞという顔で場を離れる。最後に一人残されたオレは、立ち上がった瞬間に襲ってきた重心の変化に姿勢を崩され、机に手をつく。前に傾く体に対し、ため息がこぼれた。

 

「女になったのはまだしも……これだけはなんとかならんかったかなぁ」

 

 

 

 飯を食べ終わり、今は自室に戻っていた。ベッドに寝転がり、椅子に座る瑞樹に視線を向ける。いつもの光景のはずなのに、やはり違う。瑞樹は目に見えて緊張しているし、こちらも、体の差異からくる微少なズレが積み重なって、体感に影響を与えている。

 

「なんか、自分の枕から匂いがするのって変な感じだな」

 

 体臭が変化しているのか、以前までは気がつかなかった自分の匂いに意識がいくようになった。同時に、狭かったはずのベッドが丁度いいサイズになっていたり、物をいつもの場所に置いても寝ながら手が届かなかったりと、この体になったプラスの面とマイナスの面が浮き出てきた。だがしかし、

 

「やっぱ、不便の方が上回るな」

 

 今だって、仰向けには眠れていない。胸が重すぎて、仰向けに寝ると圧迫感を感じてしょうがないからだ。横を向いて、ようやく重力から解放される。

 

「いいもんじゃねぇな、巨乳」

「し、知らないよ」

 

 瑞樹に話しかけると、つっけんどんに目を逸らされた。瑞樹には珍しい反応だ。そう思ってじっと瑞樹を見つめていると、視線を落ち着かなくさまよわせているのがよく分かる。しかしたまに視線がこっちに向く。顔を見たり、体を見たり。どうにも挙動不審だ。

 もしかして、

 

「お前、この体がタイプだったりするのか?」

「はぁっ!?」

「いやでも、そうかそうか。お前、小学校の頃からエロに対する興味関心が全く成長してないなと思ってたが、こういうのが好みだったのか」

「いやっ、ちがっ」

「胸か? やっぱり胸がいいのか?」

 

 むくりと起き上がり、胸を持ち上げてみる。ずっしりと重たい質量が腕にのしかかる。反応は劇的だった。かぁっと顔が赤くなり、きゅっと唇を結んで俯いた。

 予想以上というべきか、予想外というべきか。まさかそこまでとは思いもよらなかった。気まずい沈黙が訪れる。

 

「あー……、そのだな」

 

 とりあえずで声を出す。なにを言うか考えているわけではないが、とにかく沈黙に耐えられなかった。

 

「お前も、その、エロに対して興味があるみたいで安心したぞ」

 

 息子のエロ本を見つけた父親みたいなことを言ってしまった。余計に縮こまる瑞樹。

 

「いや、なにもおかしくはないんだぞ? 男としてさ。普通はそういうのに興味を持つんだって」

「……それを親友から言われるこっちの身にもなってよぉ」

 

 蚊の鳴くような声が聞こえてきた。相当恥ずかしかったらしい。流石に悪いことをしてしまった。

 

「あー、悪かったよ。ちょっとしたからかいっていうか……」

「ううん、いいよ。ボクも悪かったんだから」

 

 瑞樹が顔を上げて、視線を合わせてくる。まだ少し瞳が揺れていたが、それでもこちらをまっすぐに見つめていた。

 

「一番大変なのは八千代だもんね。それなのにボクは、こんなに態度を変えちゃったりして。ごめんね、いやだったよね」

「いや、別に……」

 

 個人的には、瑞樹がそこまで大げさに考えていたことを驚いているくらいだった。

 

「気にすんなって。誰だってそうなるさ、どんな漫画だよってな。別に、この体になったからって、これから付き合ってくのが難しいってわけじゃないだろ?」

「それはもちろんだよ。なにがあってもボクは八千代の友達だ」

「ならいいんだよ。それに、オレだってお前と同じ状況に置かれたら、奇異の目の一つや二つ……」

 

 そこまで言いかけて、もし仮に立場が逆だったとしたらオレはどうしていただろうと考える。ずっと昔から一緒にいたこの幼馴染が、突然女になったとしたら。

 じっと見つめると、視線から逃れようとしてか身をよじる瑞樹。

 

「や、やめてよ、そんなに見るの……」

 

 かすかに頬を染め、まるで科を作っているようなポーズと表情に、うんと一つ頷き、

 

「別にお前が女になっても特に変わらないな、うん」

「ちょっとどういうこと」

 

 想像を軽く膨らませてみたが、さっぱり変化が思い浮かばない。例えそうなったとして、これ以上女らしいなにかになる気がしないし、このまま女になったとして、ああそうかで済ませてしまう気がする。

 

「もう、ひどいや。ボクだって八千代のこと心配してたのに」

 

 すねて唇をとがらせる仕草は、今のオレよりも余程少女らしかった。

 

「すまんすまん、悪かったよ」

「……ほんとにそう思ってる?」

「もちろん。それに、これから瑞樹には色々と頼ることになるからな」

「頼る?」

「だって、オレこんなになっちまっただろ? 学校も含め、一番長い間一緒にいるのはお前になるだろうしさ」

 

 オレだって今後に不安がないわけじゃない。これまで通りとはいかないだろうことは理解しているし、これからどう生活が変化するか、予想することも難しかった。そうなると、事情とオレのことをよく理解していて、日常生活でも頼れそうなのは瑞樹だけだ。だから、

 

「頼りにしてるぜ、親友」

「頼りに……うん、任せて!」

「なんだよ、かなりノリノリだな」

「えへへっ、だって昨日言ったでしょ。何か八千代の助けになりたいって。ちょっと不謹慎かもしれないけど、せっかくの機会だからね。ボクを存分に頼っていいんだよ」

 

 得意げに胸を張る瑞樹。当たり前だが、それは平坦だった。

 ともあれ、ひとまず助けを求められる先はできたのだから、先のことを考えよう。

 

「それじゃあ、明後日からよろしくな」

「うんっ。……うん? 明後日?」

「だって明後日から学校だろ?」

 

 ベッドから離れ、ハンガーに吊してある制服を手に取った。体型も変わってしまっているから着られるかどうかは微妙なラインだが、そこは気合いで押し込むしかないだろう。

 体型と寸法を見比べていると、慌てたような声と共に瑞樹が立ち上がった。

 

「えっ、ちょっ、学校行くの!?」

「そりゃ、行くだろ。高校生なんだし」

 

 当たり前のことを、と思いつつ答えた。しかし瑞樹はそうではないようで、学ランを羽織ろうとしているこちらの背に向かって声をかける。

 

「こんな状態なんだから、学校は休んだ方がいいんじゃ」

「それはいやだ」

「いやって……」

「今まで一度も学校休んだことないんだぞ。休んだら負けな気がする」

「そういう問題じゃない気が……」

「いずれは行くことになるんだし、だったらさっさと行っておいた方がいいだろ」

 

 結局、大事なのは勢いだ。オレの人生経験もそう言っている。だいたい、悩むのは性に合わない。

 オレの言葉に、最初はどう反論しようかと口を開閉していた瑞樹だったが、こちらの決意が固いことを悟ったのか、深いため息をもらした。

 

「君っていつもそうだ。何か決めたら一人でだーっと行っちゃって。……でもまあ、手伝うよ。幼馴染だもん」

「ありがとよ」

 

 互いに笑みを交わす。姿が変わってもオレとこいつは友達のままでいる。今はただ、それだけが分かっていれば十分だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三話

 明くる日、朝から諸々の説明やら手続きのために色々なところを廻った。一日で終わるだろうかと思いながら家を出たのだが、ここでも瑞樹の爺さんの名前に助けられた。

 地元の大病院の院長先生という肩書きは、大人たちにとってとても強いものらしい。いくつかの診断書を用意して、事情を説明しただけで用は済んだ。

 オレにとっては、遊びに行ったらお高めのお菓子をくれる好々爺といった認識でしかなかったのだが、それは改めた方が良さそうだった。

 しかしある程度やり取りが楽になったからといってもすべきことは山のようにあり、気がつけば一日が終わっていた。

 翌日は思った以上に疲れていたのか、瑞樹に起こされるまで眠ってしまっていた。遅刻もしたことがなかったオレだというのに、まさか寝坊をするとは。

 

「すまん、すぐ着替える」

「いや、そんな焦るような時間じゃっ、うわあっ! 急に脱がないでよぉ!」

 

 などというちょっとした騒ぎもあったが、無事に家を出た。いつもよりは多少遅い時間だが、十分学校には間に合う。

 妹は学校が逆方向にあるために家の前で別れることになるのだが、その際に強く釘を刺された。

 

「いい? くれぐれも気をつけてね? 普段通りじゃダメだってことは理解してるよね?」

「おう」

 

 オレは自信満々に言う。

 

「最初に一発かまして主導権を握れ、ってことだろ」

「違うわよこのバカ! っもう……」

 

 怒られる。千歳は続けてなにかを言おうとしたが、瑞樹の方へ視線を向けると頭を下げた。

 

「ごめんなさい瑞樹さん! 学校まで付いてはいけないので、瑞樹さん一人にコレをお任せすることになってしまいます……」

「ああ、うん。たぶん、大丈夫だから、ね?」

「うう……常々アレだアレだと感じてはいましたけど、ここまでだったなんて」

「うんうん。そうだね。こっちは任せて。なんだかんだ十年以上の付き合いだから。もう慣れたよ」

 

 曖昧な笑みを浮かべる瑞樹に対して、表情の申し訳なさが増す千歳。大きさの合わなくなってしまった腕時計をポケットから取り出すと、結構な時間になっていた。

 

「そろそろ行かないとまずいんじゃないか?」

「今お兄ちゃんの心配したげてるっていうのに……!」

 

 その後、二、三言オレに言いつけてから、千歳は小走りで去って行った。あの様子なら十分間に合うだろう。

 

「オレたちも行こうぜ」

「うん。……よし、気合いを入れろ、ボク」

 

 なにやら小声で呟き、小さくガッツポーズをとっている。コミカルな動作だが、それがよく似合っていた。こういった愛嬌があるのは、瑞樹の才能といっていいかもしれない。

 二人並んで歩き出す。いつも通るはずの通学路だというのに目新しく感じるのは、やはり体格が変わったからだろう。視線はいつもより低くなっているし、歩幅も違うためにいつもの歩き方では瑞樹と歩調が合わなくなるときも少なくなかった。

 ようやく学校に到着したときには、いつもよりも疲れが溜まっていた。

 

「なんとか着けたな……」

「大丈夫? やっぱり、どこか体が悪いんじゃ」

「いや、そういうんじゃない。ただ疲れただけ」

 

 肩が重い。胸に余計な重荷が増えたことも大きな要因ではあるのだが、もう一つ大きな要因があった。

 

「すごい視線を感じたぞ。なんでだ?」

「まあ、目立つから。服だって大きめの男子制服だし」

「そうか……」

 

 これまでの人生で注目を集めるような機会はあれど、そのどれとも異なった類いの視線だ。おかげで登校中ずっと体が痒かった。

 学校に着けば落ち着くかと思っていたが、よく考えればむしろ目立つことに気がつく。男子も女子も、それぞれの制服を着ているのだから、女の体で学ランな時点で結果は自明だった。むず痒さが背筋を撫でた瞬間、風が吹いた。何かが急に近づいてきたのだ。

 

「おっはよー!」

「へっ、わぁああああ!」

 

 瑞樹が襲われた。下手人は見覚えのある女生徒だった。下手人――加苅の手が縦横無尽に瑞樹の身体を這い回る。

 いつもならオレが止めるか、加苅が満足するまで続くところだが、声をかける直前に手が止まった。

 

「ところでさー、この男装女子はどちら様? というか、やっチャンが一緒じゃないとか珍しいね」

 

 つま先から頭の先まで、じっくりと観察される。オレだとは気づかないようだ。

 

「SNSで回ってきてたよ。二人の女の子が男装して学校来てるって」

「ボク男なんだけど!?」

「なっはは! まあ、瑞樹チャンが勘違いされるのはいつものことだけどさー」

「い、いつものこと……」

「この美人さんは誰? 流石にこの人は女の人だよねぇ」

「ええっとぉ、そのぅ」

 

 瑞樹が言葉に詰まる。正体を知っているがために、女性と言い切ることができないのだろう。オレも自分で自分を女だと言うのには抵抗がある。

 

「え、まさか男なの?」

「いや、そういうわけでも……」

「ん~?」

 

 要領を得ない答えに加苅が首を傾げている。どう説明したものかと瑞樹が困っているが、結局のところストレートに告げる以外にはないのではないだろうか。

 そしてそう思ったので、

 

「オレが八千代だぞ」

 

 即実行した。

 

「八千代ぉ!?」

「なにそれ、どゆこと?」

「いや、言葉通りの意味なんだが」

 

 極めて端的に現状を説明する台詞だと思ったのだが、どうやら瑞樹は気に入らなかったようだ。

 

「確かにその通りなんだけど、だからこそもっと慎重にだね……!?」

「はー、君がやっチャン……」

 

 瑞樹は取り乱し気味に、加苅は真顔でそれぞれ言葉を発している。

 反応からは、彼女が話の真偽をどう判断したのかは分からない。しかし、何やら思考を巡らせているのは分かる。

 やがて加苅が一歩踏み出し、オレのすぐ前に立った。そしてじっとこちらの顔を見つめてきたかと思えば、

 

「えいっ」

「おふっ」

 

 胸をわしづかみにしてきた。

 

「加苅さん!? なにやってんのっ」

「いや、突拍子もないこと言われたから、突拍子もないことしたら何か分かるかなって」

「何かって……八千代も! どうして無反応なのっ」

「いや、あまりに急だったもんで」

 

 こうしている間も、加苅は胸を触っている。千歳のときとは違い、痛さを感じるような触り方ではない。探るような手つきはくすぐったさがあり、背中がむずむずしてくる。

 

「はー、すっごい大きい」

「だろ? まさかこんな重いもんだとは思ってなかったぜ。それに、デカいから制服に収めるのも大変で……あっ」

 

 ずれた。

 

「ん? なんか触感が変わっ、えっ」

 

 加苅は事態に気づいたようで、顔色がさっと変わった。いつも余裕綽々といった様相のこいつが焦ったような表情を浮かべるのは、非常に珍しい。

 

「やっチャーン……。まさかこれ……」

「ん、そのままだと揺れて面倒だったから、タオル巻き付けてきた。流石に揉まれたら外れちまうか。覚えておかないとなぁ」

 

 今度は瑞樹も顔色を変えた。同時に、周囲がざわつくのが分かる。

 

「どうっすかなこれ。すまん、ちょっとトイレで直してくるわ」

「待って」

 

 校舎へ向かおうとしたところを、加苅に腕を引っ張られる。

 

「こっち来て」

 

 そのままどこかに連れていかれるオレ。瑞樹もあとを追ってついてくる。

 

「なんか、キミがやっチャンだって話、信憑性が出てきた気がするよ」

「なんだよ、急に」

「うん、普段の瑞樹チャンの苦労がちょっぴり分かったような感じがしてさー」

「加苅さん……!」

 

 瑞樹が感動したような顔で加苅を見る。しかし、まるでオレが悪いみたいに言われるのは心外だ。

 

「今回オレは悪くないだろ」

 

 この体になったのは不可抗力だし、胸を抑えるためにタオルを使ったのだって、他にそれらしい物が無かったからだ。確かに歩いている最中にはもう怪しかったが、揉まれなければ外れなかった。

 そう言うと、二人は複雑そうに眉をひそめた。

 

「うん、それは悪かったよー」

「まあ、忙しかったから仕方なかったかもしれないけど……」

「金曜日は男だったはずだからー……、土日かあ。それじゃあ確かにそこら辺までは手が回せないよねぇ」

「土曜の朝に目が覚めたら、だな。母さんには手続きやらなにやらをやってもらってたし、かといって妹はなぜか敵視してきて話が聞けないし。なんとかトイレのやり方だけは覚えたけど、それ以外はさっぱりだ」

「ト、トイレのやり方って」

 

 瑞樹が顔を赤くする。まるで少女がセクハラを受けたかのような表情だった。

 しかし、だ。

 

「お前、こっちはめちゃくちゃ大変だったんだぞ。アレがないから出すときにすごい手持ち無沙汰で違和感あったし、それに……」

「わああ! なに言ってんだよばかぁ!」

「いや、一回なってみれば分かるって。股の部分に何も無いと、すっごい落ち着かないんだよ」

「やめてよ! 外だよ!?」

「は~い、二人とも静かにする。目的地着いたからねー」

 

 その言葉に顔を向ければ、大きな和風の建物――普通の学校には珍しい、立派な弓道場があった。

 

「弓道場? なんでまた」

「いいからいいから。失礼しまーす」

 

 がらがらと引き戸が開けられる。中では朝練をやっているのか、何人かの生徒がいた。その内の一人、一番近い場所にいた女生徒がこちらに振り向く。

 

「加苅さんですか。それに坂井さんに……どなたでしょうか」

「智弥チャン、はよっす」

「おはよう佐々木さん」

 

 クラスメイトの佐々木智弥だ。こちらを訝しげに見ながら近寄ってくる。まあ、見知らぬ女が男装して学校に来ているのだから当然か。委員長気質な佐々木ならばなおさらだ。しかし、聞きたそうにしている彼女に対し、加苅は上から言葉を重ねる。

 

「あのさー、使ってないさらしとかってない? ちょっと困ったことがあって」

「……さらし、ですか? ええ、まあ。予備の物がありますが」

「じゃあさ、貸してくれないかな? こういう次第で」

 

 加苅がオレの胸を持ち上げた。タオルが取れて完全に支えを失っていたため、掴まれたままに形が変形する。重りを持ってもらっているような感覚だったのでこちら的には楽なのだが、周りの視線が一気にオレに集中した。全員が、信じられないものを見るような目をしている。

 

「なっ、なにをしてるんですか!」

 

 佐々木が体で視線を遮るように前に立ち、加苅の手を退かした。一気に重さが戻ってくる。急に離されると、周りの肉が重力に引っ張られて痛いので止めて欲しい。

 

「貴女も貴女です! どうしてなにも着けずに……!」

「しょうがないだろ、持ってないんだから」

「持ってないって、貴女、本当になんなんです」

「はいはい、それは後で説明するから移動しようね。どの部屋使っていいの?」

「……一応、用具入れが空いてはいますが」

「んじゃ、そこだ。さらしお願いね~」

 

 背中を押され、用具入れに連れ込まれる。

 

「なあ、さらしってなんだ?」

「胸を押さえつける布、かな。昔から使われてた下着みたいなものだよ。まあ、タオルよりは外れにくいし、着け心地もいいと思う」

「へえ……でも、よく佐々木が持ってるって知ってたな」

「うちの弓道部の子たちは着けてる子多いらしいよ? だから、和風趣味の智弥チャンなら持ってるかなって」

「へえ、そうなのか」

 

 そんな会話をしていると、手にビニール袋を持った佐々木がやってきた。

 

「持ってきました。それで……事情を説明してくれますね」

「うん」

 

 加苅はオレの肩に手を置き、

 

「これ、やっチャン」

 

 そのように説明する。いや、これにはオレも、流石に唐突過ぎると分かった。佐々木も意味の分からなそうな顔をしていたので、口を挟む。

 

「それじゃあ分からないだろ。もうちょっと詳しく言わないと」

「それもそっか。この人、二日前に突然女の子になったやっチャン」

「よし」

「なにもよくないよ!?」

「……ええ、その通りです」

 

 瑞樹のツッコミに、まるで頭痛を抑えるように額に手をやり同意する佐々木。とはいえ、これが事実だし、それ以上に分かっていることもないのだから仕方がない。

 

「つっても、この体になってからまだ三日目だし、他に説明できることもないんだが」

「まずその、貴女が源八千代さんであるという、説明そのものの意味がよく分からないのですが」

「あの佐々木さん、信じられないだろうけど、彼女……は八千代なんだ。金曜日まではなんともなかったんだけど、翌朝にはこうなってて。色々話を聴いてみたら、本当に本人みたいで……」

「それを信じろ、と」

「一応、学校には話を通してる……んだよね、八千代?」

「ああ、昨日やってきたぜ」

「はあ……、加苅さんも知っていたんですか?」

「いいや? 今朝、瑞樹チャンが見知らぬ男装少女と連れ添って歩いてるな~、って近づいてったらそう言われた」

「よく信じる気になりましたね」

「まー、短時間でもやっチャンだなぁと感じられるくらいにはやっチャンだったからねー」

 

 加苅の笑顔に毒気を抜かれたのか、険しかった表情が崩れて呆れを含んだ曖昧なものに変わる。

 

「結局のところ、証拠を出せと言われても、今の段階だとオレの証言だけだからな。病院でいくつか検査を受けはしたけど、詳細な結果はまだ出てないし。信じてもらう他ない」

「そうは言っても……、なにをしているんですか」

「タオル抜き取ってる」

 

 服の中でごわごわして気持ち悪いんだ。シャツをスラックスから引っ張り出し、中に手を突っ込んでタオルを取り出す。

 

「バスタオル……よくこれで抑えられましたね」

「けど十分じゃなかったってことだな。加苅に揉まれたくらいで外れたし」

「加苅さん、貴女はまた」

「まー、まー。本人確認のためにちょっとね?」

「胸を揉んで何が分かるって言うんですか。……はあ、もういいです。とりあえず、貴女が源さんであるということで話を進めます。さらしを使いたいという理由も分かりましたから」

 

 佐々木は疲れ切った声を出した。朝練が原因ではないのは流石に分かる。責任感の強い、厄介ごとに巻き込まれがちな性格だから、今後も面倒をかけることになってしまうだろう。

 

「悪いな。後でお代は返すから」

「ええ。それで、着方は……分かりませんよね」

「さっぱりだ」

「あたしもー」

「では、私が手伝います。時間もあまりありませんし」

「頼む」

「あ、じゃあボクは外に――」

「よいしょ」

 

 ささっとボタンを外す。少しきつかったからか、外し終われば自然を前が開いた。

 

「わあぁ!?」

「ちょっ、なにしてるんですか!」

「時間ないんだから急がないといけないだろ?」

「それはそうですがっ、そんないきなり服を脱ぐなんてはしたない!」

「そ、そうだよ! ボクもまだ外に出てないのに!」

「え?」

「えっ」

 

 一瞬の沈黙。少しして、はっとした顔をした佐々木が慌てだす。

 

「す、すみません! 坂井さんがいることに違和感がなくて……!」

「そんなことだろうと思ったよぅ!」

 

 叫んで外に飛び出していった瑞樹。当事者である佐々木はばつの悪そうな表情をしていたが、一連の流れを見ていた加苅は納得したように頷いていた。

 

「しょうがないって。男装した女がいるんだから、もう一人も女だと思っても」

 

 オレも加苅の言葉には同意だった。ただでさえ常日頃から少女だと勘違いされているのに、その隣に男装した女がいたら言わずもがなである。

 

「瑞樹のフォローは後でしておくから、気にすんな」

「でも……」

「なんだかんだ、瑞樹チャンも慣れてるからねー。咄嗟のあれこれで勘違いされるくらいだったら、そこまで怒らないよ」

「そう、でしょうか」

「気になるならあとで一言言っておけばいいよ」

「……分かりました。では、手早く着けてしまいましょうか」

 

 佐々木は袋からさらしを取り出した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四話

読みづらいかと思って改行増やしました


「なるほど」

 

 さらしを着け終えて、思わず声が出た。

 

「こういう感じになるのか」

 

 体を捻ったり、前後に傾けてみたり、室内を歩いてみたりしたが、揺れない。巨大質量に振り回される感覚が消え、重心が安定している。布で締め付けているので若干苦しいが、まあ我慢できる。逆にこれくらいの方が、男だったときの感覚に近くて良い。

 

「なんとかなりそうだ。ありがとな」

「それは良かったです」

「なあ、これってどこで買えるんだ? 一応何枚か持っておきたい」

「もしかして、下着をさらしだけで済ますつもりですか?」

「あん? これだけあれば充分だろ?」

「いや~、やっチャンそれはちょっと」

 

 加苅が苦笑しながら言う。佐々木も似たような表情を浮かべていた。

 

「なにか問題でもあるのか?」

 

 そう問えば、こちらの胸元を指さして、

 

「それじゃあ締め付けがキツすぎるよ。運動するときとかならいいかもしれないけど、それ以外のときはねー。その大きさだと、寝るとき用のもあったほうがいいかな」

「そうですね。普通の下着も用意した方がいいです」

「買いに行ったほうがいいよ。持ってないんでしょー?」

「んー……」

「いいから聞いておきなって。安めでいい感じの売ってるところ知ってるから、そこ連れてってあげるよ」

「……あれ」

 

 会話の途中で、佐々木が首を傾げる。

 

「あの、上が無いということは、下も」

「あー……」

 

 加苅もまた、何を言わんとしているのか気づいたらしい。しかし、下か。それならば普通に、

 

「今までのを履いてるけど、こっちも何かまずいのか?」

 

 てっきりこちらも即座に肯定されるかと思ったのだが、二人は複雑そうな顔をしている。

 

「健康的な悪影響については知らないけど……一応そっちも女性用を使ったほうがいいと思う」

「そういうもんか」

 

 なんとなくそういうものなのだと理解し、曖昧に頷いておく。二人は女として長く生きているのだから、アドバイスは聞いておこう。

 

「……大丈夫なんでしょうか」

「気になるなら智弥チャンもくる? 今日放課後は部活休みでしょ?」

「そうですが……。いえ、そうさせてもらいます。貴女たちだけで行かせるのは、なんだか不安です」

「オッケー。それじゃ放課後行こっか」

 

 どういうわけか、佐々木も買い物に着いてくるようだ。しかも今日の放課後に。

 

「いや、急すぎないか?」

「なに言ってんのー。下着は生活必需品だし、どうせいつかは買いに行くわけでしょ? それなら早いほうがいいに決まってるし」

「まあ、そうだが……」

「はい、それじゃ決定?」

 

 そういうことになった。

 しかし下着か。男がおれ一人だけなのは少し腰が引けてしまうな。荷物を片付けている女性陣二人に目をやりつつ思う。

 なので、

 

「なあ瑞樹、放課後買い物に行くんだが、ついてきてくれないか?」

 

 扉を開けた向こう側で座っていた瑞樹に声をかける。

 

「え? それはいいけど、なにを買いにいくの?」

「今の体に合わせた必要なものが欲しいんだ。お前がいてくれると助かるんだが、手伝ってくれるか?」

「助かる……うん、分かった! 任せて!」

 

 やる気に満ちた表情で、ふんっと気合を入れている。

 

「いや、あの、買いに行くものはした……」

「しぃーっ。黙ってたほうが絶対面白いことになるから、知弥チャン、しぃーっ」

 

 そのせいで、あとから出てきた加苅と佐々木のやり取りには気づいていないようだった。

 

 

 

 三人と別れ、オレは一人職員室へと向かった。

 中に入ってからのやり取りはスムーズに進んだ。事前の訪問と説明が功を奏したようだった。もっとも、今年から担任業務を始めたばかりの新人先生には悪いことをしてしまったと思う。

 神経質気味で気の弱い先生だから、先輩教師たちにどう対応すればいいのかと半泣きになりながら聞きに行っていた。端から見ていてあまりに不憫だったが、こちらとしても突然の出来事だったのだから許して欲しい。

 

 とにかく、ホームルームの際にクラスメートに事情を話すことになった。おおまかな説明は先生がするから細かい説明は任せると言われたが、まあ正直にありのままを説明する他ないだろう。少なくとも、既に事情を理解してくれている人物が三人もクラスにいるのだから、最低限の保証は為されていると考えていいはずだ。

 陰鬱な表情で歩く先生を励ましつつ、ホームルーム中で静かな廊下を行く。

 

「……では、入りますよ。呼んだら入ってきてください」

「分かりました」

 

 力なく引き戸を開け中に入っていく先生を見送り、しばらく待つ。教室から途切れ途切れに聞こえてくる声からは、今教室にオレがいないこととその理由を伝えている様子が聞いて取れた。次第にざわめきが大きくなる。困惑と揶揄と、そんな感じの騒ぎだ。

 沢山の声に萎縮してしまったのか、先生の声が段々小さくなっていく。このままだと騒ぎが収まらなそうだ。これはオレが出て行ったほうがいいかもしれない、そう思ったとき、

 

「あ、あのっ、みんな、話をきいて!」

「は~い、これ真面目な話だからね~」

「皆さん、お静かに。先生がまだお話しされている最中ですよ」

 

 瑞樹たちが声を上げた。三人の声に応じて、騒ぎが沈静化されていく。先生だけでなくクラスの三名も先生に追従する意見を出したことから、どうにも尋常ではないと判断したのかもしれない。

 そこからまた説明が続くのかと思ったら、当の先生が出入り口から顔を出してこちらへ手招きしている。

 

「……あの、後はお願いします」

 

 どうやら諦めたらしい。まあ、あまり引き延ばしてもホームルームの時間が無くなるし、仕方がない。オレは教室に足を踏み入れた。

 姿を見せると、小さくざわめきが起こった。教壇に立ち、全体を見渡す。事態を把握できていないだろうのが五割、訝しげな視線を送るのが四割といった具合か。残りの一割未満にあたる三名はどこか心配げにこちらを見ている。

 大丈夫だ、安心しろ。そんな気持ちを込めて視線を返すと、途端に瑞樹が不安そうな顔になる。失礼な。

 とにかく、こういうのは悩んだり時間をかけるほど、やりにくくなっていくもんだ。即決即断即実行、それが一番精神的な負担が少なくてすむとオレは思っている。

 

「あー、姿は変わったが、源八千代だ。原因は分からんが、急に体が女になった。まあ、でもそんだけだ、変わっているのは。ただ、この体になってからまだ慣れてないから、時々体をぶつけたり転びかけたりするかもしれない。というわけで、よろしく」

 

 とりあえずこんなもんか。説明は終わったという意味合いで先生を見ると、なぜか首を傾げられた。伝わらなかっただろうか。

 

「先生、終わりました」

「えっ」

 

 声を上げたのはクラスの誰かだった。それを皮切りに、室内にざわめきが起きる。

 いくつもの声が投げかけられるが、その大多数は詳細を求める声だった。とはいえ、先生とオレの説明以上の情報なんて殆どない。どうしたものかと頭をひねっていると、手を叩く音が聞こえた。

 

「聞きたいことがあるのは分かりますが、一斉に質問をしたところで答えが一気に返ってくることはありません。それと、もうホームルームの時間は終わっています。一時限目の準備をしてください」

 

 佐々木だ。委員長らしさ全開で場を取り仕切り、見事騒動を収めた。納得していない空気はまだ教室中に残っているが、時間が経てば少しは落ち

着くだろう。

 

 

 と、考えてから既に四時限目の終わりを迎えていた。気の早いものは既に鞄の中から弁当を取り出そうとしている。オレも似たようなもので、シャーペンをペンケースに戻していた。これ以上に片付けを進めると、後々佐々木から注意を受けることになるから気を付けなければならない。

 数学教師が授業のまとめを終えると同時にチャイムが鳴る。終わりの挨拶もそこそこに、教室は昼休みに入った。

 弁当を持って振り返ると、すぐそこに教科書やペンケースをしまう瑞樹の姿があった。

 

「飯にしようぜ」

 

 声をかけると、弁当箱を広げるスペースを空けてもらえる。すぐに食べられるような状態を作ってから、瑞樹の準備を待つ。しかしことここに至って、ようやく周囲の状況に意識が向いた。

 もう昼休みだというのに、やたらと静かだ。いつもならざわざわとした喧噪に、食堂や購買に駆け出す生徒の足音、それを注意する佐々木の声が聞こえてくるのだが、今日はそれがない。どういうことだろうかと思っていると、腹の音が鳴った。

 とりあえず瑞樹も準備ができたようだし、お互い手を合わせる。

 

「いただきゃーす」

「いただきます」

 

 食事を始める、が一度気づいてしまうと、周囲の状況が気になって仕方が無い。環境音が少ないせいで、手元の音が妙に大きく聞こえる。居心地の悪さに箸を咥えていると、近寄ってくる人影があった。

 

「な、なあ、話しいいか」

 

 三人、見知った男子生徒の姿だ。名前は相田、市川、岩瀬だが、出席番号の並びや、三人でいることが多いところ、普段の素行から三馬鹿と呼ばれている。正直そのあだ名はどうなんだと思わなくもないが、本人たちは案外気に入っているらしい。

 なぜか緊張した様子でいる三人は互いに目配せをしたあと、相田がまず口を開いた。

 

「その……本当に源なのか?」

「朝のホームルームで言った通りだが」

「そ、そうか……」

 

 こちらの出を窺っている、そんな感じだ。どうにも煮え切らない態度に、訝しげな視線を向ける。

 

「それで、だな……」

 

 やはり、信じられないだろうか。彼らの知っている源八千代は、クラスで一番身長が高く、体がごつい、そんな男のはずだ。それが今では、目線が並ぶくらいの身長で、やたらとグラマーな少女がその名を名乗っている。違和感の塊に違いない。

 気づけば、クラス中の注目がこちらに集まっている。皆行動には出ないものの、心情としては三馬鹿に近いものがあるのだろうか。

 探るような視線に、身を置いているだけで疲れてくるような空気感。雰囲気に呑まれ、こちらまで緊張してきた。

 

「聞きたいことが、あるわけだが……」

「……なんだよ」

 

 どこかから息を呑む音が聞こえる。

 

「おっぱいって……柔らかいのか」

 

 瞬間、空気の質が変わった。男子の好奇の色が増し、女子からの冷ややかな視線が三馬鹿に刺さる。それに気づいているのかいないのか、相田以外の二人も追従して口を開いた。

 

「どうなんだ!?」

「答えてくれ!」

「いや……どうと言われても」

 

 悪質な揶揄いかのかとも思ったが、それには三馬鹿はあまりに必死すぎた。

 

「重要なことなんだ!」

「全男子が知りたがっている宇宙の神秘だぞ!」

「こんなこと元男にしか、いや、源にしか聞けねぇよ!」

 

 三馬鹿の向こうにいる男子の集まりが小さく頷くのが見えた。なんでオレ限定なんだ。そう問い返してみると、

 

「突然性別が変わったってのに、ここまで平然としていられるほど図太い人間を他に知らない」

「失礼な、オレだってかなり焦ったんだぞ。なあ」

「うん……まあ……」

 

 瑞樹に話題を振ってみるが、曖昧に頷くだけではっきりと肯定しない。

 

「結局八千代が慌ててたのって、朝のうちだけだったような……夜にはいつも通りに戻ってたし」

「いや、そんなことは」

 

 言いかけて、どうだっただろうかと一昨日のことを振り返った。夜に瑞樹と部屋にいたときには、確かにいつも通りのやり取りをしていた記憶がある。

 おかしいなぁと首を傾げていると、相田たちが話を戻してきた。

 

「そ、それでどうなんだ!? 触りはしたんだろ!?」

「まあ、確かに触りはしたが」

 

 男子からのざわっとした空気。三馬鹿だけでなくこいつら全員馬鹿なのでは。対面だけは恥ずかしげに俯いていたが。

 

「じゃあどんな触感……ふげっ」

 

 奇声があがる。背後には丸めた教科書を振り抜いた佐々木がいた。表紙にやたらと落書きがされているから、あれは加苅のものだろう。ニコニコしながら様子を見ている加苅が後ろにいるから、間違ってはいないはずだ。

 

「デリカシーのないっ! もう少し話す内容を考えたらどうですか! いくら相手が気安い存在だからといって、していいことと悪いことがあるでしょう!」

 

 本気説教モードだ。三馬鹿も含めた男子たちはバツが悪そうに顔をしかめた。

 

「あ、その、悪い。なんか、朝から色々考えてたら、こんな感じになっちゃって」

 

 相田は素直に謝った。残り二人もそれに続いて謝罪の言葉を口にする。その様子を見ながら佐々木が諭すように言う。

 

「朝のことで混乱していたのは分かりますが、口に出す前にしっかりと内容を考えてから発言してくださいね」

「そうだよな。すまん、源。なんか色々と」

「いや、別に構わねぇよ」

「んっふふー、でも男子は気になるよねー」

 

 加苅が佐々木に持たせていた教科書を回収する。男子に同調するような言い方に佐々木が眉をしかめているが、それを気にせず続けた。

 

「おっきいのに形もいいしー。ここまでのはなかなかお目にかかれないよほんと」

 

 露骨に視線が集まるのが分かった。なぜか男子だけでなく女子にも見られている気がする。今はさらしで締め付けているから見た目でいえば小さくなっているはずだというのに、そこまでか。

 視線を下に向けて気づいたことだが、普段よりも弁当の位置を遠くに設置していた。いつものように体のすぐ近くだと弁当の中身が見えないし、さらには胸が当たってしまうこともあるからだと、無意識に取っていた行動を理解した。

 実生活に及ぶ影響をまた実感し、改めて不便なものであるなぁと思っていると、視線を遮るように佐々木が前に立った。

 

「とにかく、親しき仲にも礼儀あり、ですよ。いいですか」

「はい」

 

 三馬鹿は素直に返事をした。それを見届けてから、佐々木はクラス全体に向けて話し出す。

 

「皆さんも源さんに聞きたいことがあると思いますが、常識の範疇でお願いします。それと、まず大前提となりますが、今回の件で一番大変なのは源さん本人です。そのことをお忘れなきよう」

「まあ、落ち着けよ佐々木。注意してくれるのは嬉しいけどさ」

「ですが……」

「みんな色々気になってるってのは分かったからさ。答えられることは答えるよ。なんで女になったのか、とかは朝も言った通り分からないから無理だけど」

 

 そう言うと、真っ先に手を挙げたのは――なぜ挙げたのかは分からないが――三馬鹿の二号、市川だった。またセクハラか? そんな女子の視線が刺さる。それに気づいたのか、慌てて質問を口にした。

 

「いや、違う! ただ、週末の球技大会はどうするのかなと思っただけだよ! ほら、源は男子バスケで登録してるだろ。でも性別が変わったんなら、そのへんどうなるのかなって」

 

 言われて気がつく。確かに、今のオレは女の体になっている。その状態で男子に混ざってバスケをするのは、確かに問題だ。

 

「確かにそうだな、あとで先生に言っとかないと。足を引っ張るかもしれないし」

「あー、うん。確かに身体能力のこともあるけど、それだけじゃなく激しく動くと色々と……」

 

 なにかをボソボソと言っているが、そこは聞き取れなかった。ともあれ、市川が質問の一例をあげたことで発言のハードルが下がったのか、幾人かの生徒が歩み寄ってきた。

 いつの間にか周囲には人垣ができていて、今までにないほど忙しい昼休みを過ごすことになったのだった。

 

 




ストック無くなりました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五話

 放課後、生徒たちの視線を浴びながら学校を出る。話がある程度出回っていたのか、あの人が、というような声が聞こえてきた。

 

「んふふ〜。すっかりやっチャンも有名人だねー。瑞樹チャンくらいには名が知られてきたんじゃない?」

「笑い事ではないですよ。クラスだけでもあれだけ大変だったんですから、それが校内全体にまで広がるなんて考えたら」

「あんまり考えたくはないね……」

 

 加苅は楽しげに、佐々木と瑞樹は困り顔を浮かべて言う。

 

「ま、なんとかなるさ」

「またそんな楽観的なこと言って」

「できることはないんだ。だったら気にしないほうが精神的にも気楽だろ?」

「はぁ……」

「でもでも、やっチャンの言う通りだと思うなー。コッチでできることなんて、それこそ説明参りくらいなモンじゃない? そんなめんどくさいことしなくても、明日明後日くらいには話も広まりきってるよ」

「加苅さんまで」

「といっても、相手がやっチャンだからこその対応ではあるけどねー。こんくらい神経が図太い人間向けってこと。あっ、次こっち曲がるよ〜」

 

 加苅の発言に、なるほどと頷く二人。それで納得されるのは釈然としないが、良しとする。

 先導する加苅にしばらく着いていくと、瑞樹が口を開いた。

 

「それで、どこに向かってるわけ? なんか、体に合わせた物を、とは聞いたけど、なにを買うの?」

「あー、それは」

「それはねえ、服を買いに行くんだよー」

 

 疑問に答えようとすると、途中で言葉を奪われる。

 

「服?」

「体のサイズも色々変わってるからね〜。それに合わせたものを買わないとー」

「確かに色々とぶかぶかだったもんね」

「コレが治るのかどうかも分からないし、それだったら安いの買っちゃった方が快適だと思うからねー」

「へえ、……でも、それって女性用の服ってことだよね? ボクいらなくない?」

「いえ、ですから買うのはした……」

「いやいや! やっチャンだって男なんだから、そういうの買いに行くのも緊張するじゃん」

 

 佐々木の発言が強引に遮られる。ずいと瑞樹の前に出た加苅は、いつものニコニコ笑顔で語り始めた。

 

「男が女に連れられて女性用の服を買うのは恥ずかしいでしょー? だから、付き添いとして瑞樹チャンに頼んだってわけ。ほら、誰か自分の立場に立ってくれる人がいると心強いからさー、同じ男として」

 

 乗りに乗っている加苅の弁舌を聞きながら、そのトーンが瑞樹にいたずらをしているときのそれと同じ種類であることに気がついた。少し離れて佐々木に尋ねる。

 

「なあ、どういうつもりなんだ?」

「坂井さんをからかうつもりなのでしょうね、いつものように……」

「うん?」

「これから買いに行くのは、その、女性用の下着でしょう。それをギリギリまで知らせないつもりですよ。ほら、わざわざ私たちから距離を離して聞こえないようにしてます」

 

 見れば、瑞樹は加苅に肩を抱えられて大分前を歩いていた。

 

「悪趣味というか、幼稚というか……。坂井さんには悪いですけど、外で待っていてもらうことになるかもしれませんね」

「いや、それはオレが困る。男一人だけなんて、空気に耐えられないぞ」

 

 なんかこう、ピンクっぽい感じのファンシーな空間であれやこれやと見て回るとか、絶対一人じゃ無理だ。

 

「……まあ、あなたがそう言うだろうことも踏まえて、彼女はいたずらをしようとしているのでしょうけど」

 

 よく分からんが、どうやらそういうことらしい。瑞樹には悪いが、ここは付き合ってもらうとしよう。

 

 

 

 加苅の案内した店は、駅から少し離れたところにあった。なるほど確かに、これは女性向けの店舗なのだと一目で分かる。明るく清潔感があって、いやらしさがない。まさに縁の無いところだ。

 オレは呆然としている瑞樹の肩に手を置いて、先手を打って言葉を発した。

 

「頼む、オレを一人にしないでくれ」

「だ、だって、服買いに行くって……」

「それは加苅が勝手に言ってたことだな」

「言わずに連れてきたときの瑞樹チャンの反応が見たかったんだー」

 

 悪びれもしない加苅と、絶対に離さないように肩を掴むオレとを交互に見ている。

 

「そういうわけだ……、さあ行こう」

「いやいやいや」

 

 押した肩に反発が。瑞樹が足を踏ん張ってしまって、前に出ようとしない。

 

「分かってくれ。オレ一人じゃ耐えられない。味方が必要なんだ」

「そんなシリアスな言い方をする場面じゃないよねっ。そ、それに、今の八千代は女の子の姿だけど、ボクは違うから絶対変な目で見られるよ! お客さんだって迷惑に……」

「大丈夫だ、オレが学ランを着ている以上、お前も同じ性別に見られる」

「んんんーっ!」

 

 怒りの力からか踏ん張りがより強くなる。こうなったら仕方ない、前の体ではできたが、今の体でできるかどうか。

 

「よっ、と」

「わあっ」

 

 肩から脇の下に手を滑らせ、ぐいっと体を持ち上げる。身長差が縮まったとはいえ、まだまだオレの方が背が高い。いつものように腕力だけで持ち上げることはできないが、抱えるようにして体を反らせれば足を地面から離すこともできる。

 

「ほら、行くぞ」

「は、離してっ。下ろしてよぅ! ていうか、背中に……!」

「こら、暴れんな」

 

 ジタバタと抵抗する体をがっしりと押さえ込み、ゆっくり歩みを進める。そんなオレたちの姿を見た加苅が、にやぁと口角をあげた。

 

「はーん、なるほどねー。ふふん、瑞樹チャンもオトコノコだったわけだ」

 

 その言葉に反応したのか、抱えている瑞樹の体がびくりと震えた。

 

「どういうこった?」

「そりゃあもう、二人の体勢を見たら一目瞭然だよー」

 

 体勢。オレは瑞樹を抱え、瑞樹はオレに抱えられている。それ以上のなにかがあるというのだろうか。

 

「やっチャンはまだまだ自分の体に対する理解が足りてないねぇ。瑞樹チャンに当たってるもの、あるじゃん」

「当たってるもの? ……あー、そういうことか」

 

 瑞樹の抵抗の理由が分かり、拘束を解いてやる。地面に下ろされた瑞樹は逃げることもなく、その場に蹲み込んだ。耳だけしか見えないが、そこは真っ赤に染まっている。

 

「わりぃ、気づかなかったわ」

 

 瑞樹を抱える際、上半身が密着していた。そうすると当然、この無駄にでかい胸が向こうに当たるわけで。

 

「その辺の身体感覚も徐々に身につけてかないとねー」

「そうですね。この調子では、瑞樹さん以外の男子にも同じように接してしまうかもしれませんし」

 

 女の体って難しい。改めてそう思うのだった。

 

 

 

 店の中は下着でいっぱいだった。いや、当たり前のことなのだが、それらが凄まじい威圧感を発しているように思えてならない。できるだけ視界に入れないように工夫しつつ、隣を見る。瑞樹も同じ気持ちでいるのか、顔を硬らせて地面に視線を向けていた。

 入店してからというもの、人の目を感じる。なぜ男装しているのか、そんな訝しむような視線だ。瑞樹が男だとは思われていないようだが、入ってすぐだというのにもう帰りたくなってきた。

 

「ほらほら、まずはサイズ測らないと」

「サイズ?」

「大きさ測って丁度の買わないとだめなんだよー」

「……面倒だな」

「そういうもんなんだから仕方ないって。こっちきてー」

 

 先導する加苅に着いていく。

 試着室は店の奥まったところにあり、偶然にもいくつかある個室は全て空きの状態だった。

 

「で、ここでサイズを測ってもらうわけなんだけどー。やり方分かる?」

「分かるわけがないだろ」

「だっよねー。とりあえず試着室の中に入ってもらってー、さらしを取ってもらうんだけど」

「これ取るのか、分かった」

 

 中からカーテンを締め、シャツの前をはだける。巻いてある布を外すと、大分呼吸がしやすくなった。着ける加苅が言っていたように、これでは締め付けがきつかったのだろう。

 学ランをハンガーにかけ、いざカーテンを開けようとしたとき、向こうから加苅の声が聞こえてきた。

 

「いいこと思いついた。はいこれ」

「えっ? な、なに、スマホ?」

「んじゃサイズ測定よろしく! メジャーは多分試着室の中にあるから」

「はいっ?」

「あたしらに測られるよりも瑞樹チャンの方が気が楽でしょ。やり方が書いてあるから、その通りにやればいいよ〜。んじゃ、やっチャンに合いそうなデザインのやつ探してくるから。頑張ってね〜、んふふふ」

「えっ、あ、加苅さ、引っ張らないでっ」

 

 女子二人の突然の離脱宣告。そんなまさかとカーテンの隙間から顔を覗かせると、本当にどこかへ行ってしまったようだった。

 瑞樹は手元のスマホと去っていった二人に交互に視線を送り、最後にオレを見た。

 

「ま、待って二人と……うっ」

「待て、オレを置いていくな」

 

 二人を追いかけようとした瑞樹の腕を掴み、逃さないようにする。

 

「は、離してよぉ。ボクが測るなんて、そんなの無理だよぉ」

「だからってオレをここに一人で置いていくのか、薄情だぞっ」

「う、それは……」

「大丈夫だって、長さを測るだけなんだから。やれるやれる」

「うう……そういう意味じゃないのに」

「ほら、早く中入れよ。いつまでもここで騒いでると怪しまれるぞ」

 

 不承不承ながらも靴を脱ぎ、中に入ってくる。そして素早くカーテンを閉め、一安心、かと思ったら顔を真っ赤にした瑞樹が小さな悲鳴を上げた。

 

「ま、前! 前閉めて……!」

「前?」

 

 そういえば、シャツのボタンを外しっぱなしだった。乳に引っかかっているだけで、かろうじて脱げていないような状態。前に漫画雑誌のグラビアで似たようなものを見た覚えがある。

 とはいえ、

 

「測るんだから、結局脱がないといけないんじゃないのか?」

「え」

「だって、そうじゃないと正確に測れないんじゃ?」

「そ、それは……」

 

 スマホに目を落とし、書かれている内容を確認する。だが、服に関することは書かれていなかった。

 

「どうしよう」

「まあ、脱いでやった方がいいんだろ、多分」

「そんなぁ……」

 

 半泣きでこちらを見上げてくる反応はおかしくないかと思いつつ、足元のかごに入っているメジャーを渡す。

 

「まあ、頼むぜ。一人じゃできないしな」

「うん……」

 

 シャツを脱ぎ、落とす。ただ単に半裸になっただけだというのに、男のころとは微妙に違う感じがしてむず痒さを覚える。

 とにかく、さっさと終わらせよう。

 

「えーと、まず一番高いところで測るのか。一番高いところってここだよな?」

 

 指で指して瑞樹に確認を取ろうとするが、こちらを見ていない。

 

「じ、自分で判断してよ」

「そうは言われてもなぁ。まあ、合ってるとするか。次は、メジャーを体に巻きつけて……瑞樹、後ろの方頼む」

「うん……。恥ずかしいから、向こう、向いてて」

 

 それは女が服を脱ぐときのセリフだな。そう思いながら鏡に体を向ける。

 

「む……」

 

 このときに気づいたのだが、もしかして、はっきりと体を見るのは初めてじゃなかろうか。

 風呂のときは鏡が曇っていて見えづらかったし、普段は服を着ていた。自分の体だというのに、見ていると罪悪感が湧いて出てくる。難儀な身体になったものだ。

 目を慣れさせようと、あえてじっと身体を見つめていたら、横から手が伸びてきた。

 

「メジャー、体の前で回して」

「おう」

 

 紐を脇の下に通し、反対側に回す。逆の手に紐を渡すと、背中で一周した。

 

「前の方は自分で合わせて欲しいんだけど……」

「分かった」

 

 二、三度引っ張って具合を調整する。これがなかなか難しい。平坦じゃないうえに、硬くないから紐が沈んでしまって上手く合わせられない。

 

「なかなか難し、ぅおっ」

 

 変な声が出た。

 

「ななな、なに!?」

「いや、ミスって乳首こすった」

「ちっ……!?」

 

 顔は見えないが、声色でかなり焦っているのは伝わってきた。

 

「へ、へんなこえ、ださないでよっ」

「いや、不可抗力だこれは。声が出るのは仕方がないだろ」

「ぅ……知らないよっ。長さっ、測ってもいいの?」

「ん。おう、大丈夫だ」

 

 軽く紐が締められ、数値が読み上げられる。93。ってことはつまり、

 

「これってデカいのか?」

「ボクに聞かないでよぅ……。次、早く終わらせよ?」

「はいよ」

 

 紐を緩ませて、今度は胸の下に移動させる。

 

「あ」

「こ、今度はなに?」

「いや、紐をあんま動かさないでくれ。乳で挟まれてるから、下手に動かされると肌が擦れて痛くなると思う」

「はさま……わ、分かった」

 

 途端に瑞樹の動きがぎこちなくなった。注意した本人が言うのもなんだが、緊張しすぎじゃなかろうか。

 

「ちょっと締めすぎ」

「あう、ごめん」

「うん、そんくらいだな。数値は?」

「えっと、70だよ」

「へえ。……まあ、それでなにをどうするのかさっぱりだが」

 

 スリーサイズが数字で出るのは知っているが、それをどう使うのかはさっぱりだ。二人が戻ってくるまでおとなしく待っていよう。

 

「ありがとうな、手伝ってもらって」

「もういいよ。けど、今後こういうのは女の人に……わぁっ、こっち向かないで!」

「あ、すまん」

 

 話しかけるときに、思わず瑞樹の方へ向き直ってしまった。

 

「ボク、先に出てるから!」

「そんな焦らな……あぶねぇ!」

 

 勢いよく外に出ようとした瑞樹が、地面に落ちていたさらしを踏んだ。重なって置いてあったために足を滑らせた瑞樹は、鏡に向かって一直線に倒れていく。

 慌てて体を割り込ませ、倒れてくる瑞樹の体を受け止める。ここでも、元の体との認識の差にしてやられた。これで受け止められるとした力加減では足りず、自分の体をクッションにして受け止めるしかできなかった。背中を鏡にぶつける。

 

「ふう……大丈夫か?」

「う、うん、平気。ありがとう」

「気をつけろよ、頭ぶつけたら大変だぞ」

「ちょっとー、なんかぶつけた音したけど、どうしたのー? ……わお」

 

 カーテンが開いて加苅が顔を覗かせる。

 

「瑞樹が足を滑らせてな、受け止めようとしたんだが失敗を……なんだその顔」

「えー? だってさー。んっふふ、マンガみたいなラッキースケベじゃん。顔からじゃないから、少し惜しいけどねー」

「はあ?」

「え? ……わぁっ」

 

 加苅の言葉に瑞樹が跳ねるようにオレから離れる。外に出ようとしてローファーに足をとられ、転びそうになるくらいに慌てていた。

 なにをそんなに、と言いかけて、自らの体勢を顧みる。オレは今、上半身裸の状態だ。そんな状態で倒れてくる瑞樹を支えきれず、体で受け止めた。つまり、裸の上半身が瑞樹と直接接触していたわけだ。さらに、入店前に背中に当たったときとは違い、今回は後頭部だった。

 なるほど、ラッキースケベとはその通りだ。当の本人は赤くなったり青くなったり忙しそうで、あまり嬉しそうではないが。

 シャツを羽織りボタンを雑に止めると、カーテンを開ける。

 

「気にすんなよ。ただの事故だろ?」

「気にするな、なんて言われても……無理だよ……」

 

 ショックを受けたような表情で立ち尽くす瑞樹。その姿はまるで、

 

「なんか瑞樹チャンの方が乱暴受けたみたいな雰囲気出てるけど、起きた出来事的には逆だよね」

 

 オレもそう思った。だというのに、やたらとその姿が似合っていて、なんだか悪いことをしている気分にさせられる。

 

「そんな雰囲気出してないよぅ」

「出てたねー」

「そうだなぁ」

「うぅ……ボク、外で待ってるから」

 

 肩を落として力なく歩き去っていく。どうにも色々と起こり過ぎて、キャパオーバーを起こしたようだ。

 

「うーん、やりすぎちゃったかぁ」

 

 バツの悪そうな顔をして、加苅が頬をかく。

 

「ふざけ過ぎでしたね。あとでちゃんと謝っておくように」

「はぁい」

 

 オレもあとでなにかしら奢っておこう。とりあえずは買い物に付き合ってもらったお礼も兼ねて。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六話

遅くなりましたがなんとか完結させられるよう頑張ります


 加苅たちの選んだ下着は、オレの考えるそれとは些か違っていた。

 

「結局デザインってほぼ自己満足で選ぶものだし、こだわりがなければこういうのでいいんだよ」

 

 とは加苅の言だ。渡されたのは色も地味で布面積も多く、とにかく着心地に特化しているものらしい。

 実際、試着してみて着け心地の良さに驚いたほどだし、見た目もタンクトップのようで拒否感もほとんどない。

 下もまた、女性用としては丈の長いボクサーパンツのようなもので、こちらも違和感なく身に着けられそうだった。

 ただ一つ思ったことを聞いてみると、

 

「加苅はもっと派手な下着を持ってくるかと思ってた」

「だってやっチャン面白い反応しないだろうし」

 

 そう返された。もしこれが瑞樹相手であれば、色々と持ってきていたに違いない。

 数日着まわせるだけの枚数を買って、さっさと店を出る。

 店の外では瑞樹が所在なさげに待っていた。少し離れたところにはいたが、ランジェリーショップの近くにいるのは精神的に負荷があったのだろう。

 

「わり、待たせたか」

「ううん、平気。早かったね」

「悩むようなものでもなかったしな。それで、買い物に付き合ってもらった礼なんだが、なんか食べたいものとかあるか? 奢るぜ」

「え、いいの?」

「おう。騙して連れてきたみたいな感じになっちまったしな、詫びも込めてだ」

「あたしも半分だすよー」

 

 オレたちの言葉に多少戸惑った様子を見せた瑞樹は、少しの間悩んだあとなにかを思い出した様子で言った。

 

「……それなら、行ってみたいところがあるんだけど」

 

 

 

 スイーツバイキング、というらしい。瑞樹に謝罪の気持ちとして求められた、奢りの場だ。なんでも甘い物が食べ放題で、前々から行きたいと思っていたそうだ。

 午後六時までの限定で、学割一時間一五〇〇円。それなりに有名な店のようで、店内はそれなりに混雑していた。並ばずに入れたのは幸運だったと、以前来たことがあった加苅が語っていた。

 席に着いて早速取りに向かった三人を見送り、一人テーブルで荷物番をして待つ。見える範囲に並べられたものだけでも、随分沢山の種類があるようだ。

 思ったよりも時間をかけず、三人はそれぞれ三者三様の一皿を持って戻ってきた。こういったところにも個性が出るのは面白い。

 瑞樹は一口サイズのケーキを何種類も皿に盛っている。加苅はフルーツが使われた見た目のキレイなスイーツを中心に構成しており、佐々木は色々なものをバランス良く取ってきたようだ。

 

「はい、コーヒー」

「ありがとよ」

 

 頼んでおいたコーヒーを受け取る。

 

「取り行ってきたら」

「とりあえず一杯飲んでからいく」

「そう? あんま時間長くないから、気を付けてね。それじゃ、いただきます」

 

 皿いっぱいに盛られたケーキを頬張る瑞樹を眺めながらコーヒーをすすった。予想した通り、店内に満ちる甘い香りだけで充分ブラックが飲める。

 

「どーだ?」

「おぃひい」

 

 瑞樹に味を聞いてみると、満足げな笑みと共にそう返された。気に入ったようだ。

 

「なら良かった」

 

 幸せそうに食べ続ける瑞樹の姿を眺めながらコーヒーを飲み切ると、席を立つ。

 

「んじゃ、取ってくるわ」

「あ、ボクも行くよ」

 

 最後の一つを慌ただしく飲み込むと、瑞樹が後を追ってくる。

 

「そんな焦らなくていいだろ」

「だって色々食べてみたいから、急がないと」

 

 早くも次の目標に狙いを定めているようで、進む足に躊躇がない。オレはその姿を追っていくつか目についたものを皿に盛り、コップに水を注ぐ。

 先に席を立ったのに後から戻ってきたオレの皿を見て、佐々木が不思議そうに尋ねてきた。

 

「それだけですか?」

 

 そう聞かれた皿の上は、小さなケーキが一つと果物が三種類。一番小さな皿にしたのに、貧相な印象が拭えない盛り合わせになった。

 

「やっチャンは甘いの苦手だもんねー」

「苦手ってわけじゃねーよ。量が食えないだけで」

 

 甘いものは少し食べるだけで満足してしまうから、時折そういったものが食べたくなっても、量が多いものは途中で瑞樹に渡していた。

 

「なんかカレーとか置かれてるみたいだし、あとでそれを食べるさ」

「それ一応口直しようなんだけどね……」

 

 そんなやりとりをしつつ、一口でケーキを食べ……ようとして、元の体との感覚のの違いから、無理やり詰め込むような形になってしまった。こちらの様子を伺っていた瑞樹が、呆れたような顔を見ている。

 

「……ぅん、ふまいな」

 

 口がいっぱいなせいでうまく喋れないが、意味は伝わったようで嬉しそうに瑞樹が頷く。

 

「でしょ? ほんと美味しいよね」

「んー、ん」

 

 ようやく飲み込めた。水を含んで口腔内のクリームを洗い流すと、次は果物へ。前に食べたケーキのせいで、少し酸味が目立つ。先にケーキを食べたのは失敗だったかもしれない。残りの果物もささっと食べ終えて、そのとき違和感に気がついた。

 

「あ、取りにいくの?」

「おう」

 

 立ち上がり、再び料理の盛られたテーブルへと向かう。皿に盛るのは数種類のケーキだ。

 早々に戻ってきたオレを見て、瑞樹が驚いたように声をあげた。

 

「ケーキを取ってきたの? そんなに?」

「ちょっと気になることがあってな」

 

 ぱくりと一口。モンブラン。栗の風味と滑らかな舌触りがいい感じだ。次、チョコレートケーキ。一般的なものと違って苦味が強いが、それ故に飽きにくい味。最後、イチゴのソースが挟まれたショートケーキ。クリームの甘味とイチゴ酸味が相性最高。

 さて、ここまで食べて確信に至った。

 

「オレ、味覚変わってるな」

 

 間違いない。思えば、体そのものが変わっているのだから五感も変化していて当然だ。舌や喉、腹の感覚の違いに意識を傾けながら、残った水を一気に呷る。

 天井に向いていた視線を戻すと、三人の目がこちらに向いていることに気づく。

 

「どうしたよ、三人とも」

「味覚が変わったって……」

「そのまんまの意味だぞ。というか、瑞樹なら分かるだろ。前のオレじゃあ、絶対こんなに量が食えなかった」

 

 それが今は、甘味を食べた後特有の満足感も満腹感も、限界までいっていない。二、三回は余裕で同じ量をお代わりできそうだ。

 

「そんなにけろっと言うもんかねー、やっチャンは」

「んなもん仕方ねーだろ。もうなにが起こっても不思議じゃねんだから、起こったことは素直に受け入れるさ」

「あなたは……怖くないのですか?」

「あー、今のところは。やべぇことが実際に起こったら、まあ、怖くなるんじゃねぇかな」

「……こうも無頓着だと、関係ないのにこちらがムカついてきますね」

「でしょ?」

 

 理不尽なことを言い出す佐々木に同意を示す瑞樹。そんな光景を見て加苅はからからと笑っている。

 とはいえ、気持ちは分からんでもない。もし、ある日突然瑞樹が女になったら……いや、例えが悪いな。もしも加苅がある日男になって、それを全く気にもしないようだったら、いや少しは気にしろよと突っ込みを入れてしまうと思う。

 

「ま、そこは個人の感覚の差ってことだろ」

「そんな言葉で片付けられる問題ではないと思いますが……」

 

 あんまり深く考えるのは苦手だからな。疲れるし、案外他のことをやってるとぱっと答えが浮かんできたりするもんだ。

 

「だから、こんなもんでいいんだよ」

 

 オレがそう語ると、納得した顔とそうでもない顔をした三人がぱくりとケーキを口にした。

 

 

 

 結局、一時間をフルに使って甘味を楽しんでしまった。あれだけ大量に甘いものが食べられる感覚が面白くて、つい〆のカレーを食べ損ねた。

 加苅と佐々木とは店の前で別れ、今は瑞樹と二人で並んで歩いている。

 

「いやあ、美味かったな」

「そうだねぇ。見た目にも力を入れてて、感心しちゃったよ」

「見た目……」

「……覚えてないの?」

「あー、いや、喉元まで来てるんだが。むしろ、そっちは覚えてんのかよ。あんだけ急いで食べてて」

「まだ店を出てから三〇分も経ってないんだよ? 見た目に興味なさすぎじゃない?」

「うーん」

 

 呆れたように言われるとぐうの音も出ない。なんとか思い出そうと額を突っついていると、瑞樹がなにか言いたげな表情をしていることに気づいた。

 

「どうしたよ、そんな顔して」

「その、さ」

「おう」

「本当に、なんともないの?」

「あん? ああ、味覚のことか」

「それだけじゃないよ」

 

 急に真面目なトーンで話が始まった。

 

「……なんかあったか?」

「変わったのは味覚だけ? 他にもなにかあるんじゃないの?」

「そりゃ、身長とか体格とか」

「そうじゃなくて……もっと、こう、日常生活で支障がでそうな」

「結構不便だぞ。視線下がったし、重心ずれるし」

「もーっ! ボクが言いたいこと分かるでしょっ? なにか隠してるんじゃないかってこと!」

 

 ぷくっと頬を膨らまして怒りを表現してみせる瑞樹。まったく威圧感を感じないうえに、むしろ微笑ましさすら感じさせるが、言わないでおく。

 それはさておき。なにかを隠していると言われても、思い当たるようなものがない。それを正直に伝えても、瑞樹は納得していない顔だ。

 

「なんでそう思うんだよ」

「だって、全然大変そうな素振りを見せないから」

「オレがそういう性格だってよく知ってるだろ?」

「それでもだよ。こんなこと、今までに一度だってなかったじゃないか」

「そりゃそうだが」

 

 オレ以外に経験したことがあるような人間が他にいたら、是非とも会って話したいところだ。

 さて、瑞樹の懸念はなんとなく理解できる。どこかの変化や不具合が見つかったとして、連鎖的にいくつもの問題が発覚するかもしれないというのは想像に難くない。つい先ほど分かった味覚の変化だって、大きな変化の内の一つでしかないなんてことも可能性としてはあり得るわけだ。

 しかしながら、強がりや格好つけといったわけでもなく、素直にこれといった不満が思い浮かばないのだ。確かに身長やら体格やら性別やら、色々と大きく変わった。だが、極論な話で言えば四肢がしっかりくっついていて自由に動かせるのだから、これまでのような生活は送れるわけで。

 一方、精神的になにか変化があったかと聞かれると、それもまた自覚も他覚もないだろうと言える。一週間もしない内に判断を下すのはどうかとも思うが、記憶の連続性はあるし、過去の自分の行動に対してなにか改めて思うこともない。オレはオレのままだと、はっきりと言える。

 

「――だから問題はないんじゃねぇか」

 

 そう長々とオレの考えを告げると、瑞樹は納得したような、釈然としないような、まあ言ってしまえば今まで何度も見てきた顔をしていた。

 

「……またそうやって丸め込もうとしてくる」

「おいおい。オレの素直な感想だぞ」

「分かってるよ。八千代だったらそういう風に考えるんだろうなってことは」

 

 ため息が一つ。オレに聞かせるように大きめのものだった。

 

「とにかく、なにかあったらすぐに言うように。わかった?」

「わかったわかった。またなにか気づいたらすぐに言うさ」

「絶対だよ? 絶対だからねっ」

 

 念を押してくる瑞樹に生返事をしながら、今日の夕食について考える。新しく甘いものが存分に食べられるようになったわけだが、今のところ食べられなくなったものは見つかってない。つまり、食事の楽しみが一つ増えたということだ。

 体が変わっていいこともある。それに気づけただけでも、今日の収穫は大きかったと思うのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七話

なんとか書けたので投稿します


「どこで着替えりゃいいですか?」

 

 職員室でそう聞くと、体育の先生は困ったような顔を浮かべた。

 

 

 加苅たちと下着を買いに行った翌日。この日は、オレの身体が変わってから初めて体育の授業がある日だ。授業前休み、女子たちが出て行き、さあオレも着替えるかとシャツのボタンに手をかけたとき、ふと視線を感じた。同時にざわめきも。

 なんだ一体と思って辺りを見回してみると、不自然にこちらから顔を逸らしたクラスメートたちの姿が。

 

「ちょ、ちょっと八千代!」

 

 焦ったように瑞樹が腕を押さえてくる。

 

「なんだよ、どうした」

「なに着替えようとしてるの!」

「いや、この後体育……」

「バカ! 自分の体のことを考えなよ!」

「そうは言われても。どこで着替えろってんだ」

「それは……先生に聞いてみよう。とにかく、ここで着替えるのはだめっ」

 

 手を引かれて教室を出て、今に至る。

 先生は持っていたペンで頭を突きながら、ううむとうなり声をあげた。

 

「着替え……まあ、そうだよなぁ。教室だと着替えられないよなぁ。女子更衣室は……」

「使えるわけないでしょ。女子が使ってるんすよ」

「だよなぁ」

「やっぱり、もう普通に教室で着替えちゃってもいいんじゃないすかね」

「ダメだってば! 周り見てなかったの!?」

 

 しばらくして、先生は一つため息をこぼすと鍵を渡してきた。

 

「体育館の用具入れの鍵だ。とりあえずはそこかトイレで着替えてくれ」

「了解っす。んじゃ、行こうぜ瑞樹」

 

 鍵を受け取り、着替えを取りに教室に戻る。がらりと扉を開けると、

 

「ウオオオオオオ!?」

 

 野太い悲鳴が聞こえてきた。真っ先に振り向いた三馬鹿のものだ。手に持っていた体操服でなぜか上半身を隠している。女子じゃあるまいに。

 

「なんだ源……いや女子……いや源か」

 

 喋っていることを二転三転させながら、声をかけてくる。

 

「どうしたんだよ、戻ってきて」

「いや、着替えは体育倉庫でやれって言われてな」

「ああ、そういう……。うん、よかった」

 

 ほっとしたような空気が教室中伝播していく。なんだなんだ一体。不思議そうな顔をして見ていると、呆れたような顔を向けられた。

 

「お前……女子が同じ教室で着替えようとし出したら誰だって動揺するだろ」

「そうは言ってもオレだぜ?」

「だから余計に複雑な気持ちになってんだろうが」

 

 相田の言葉に何度も頷く市川と岩瀬。

 

「元が男、しかも源なのはよく理解してるけど、それでも目に映るのは美少女なんだ……。脳が混乱して変な感覚に目覚めそうになるのが怖いんだ!」

「ええ……」

 

 三馬鹿の残り二人が神妙な顔でいる辺り、こいつらもそう思っているようだ。だがしかし。

 

「オレでそうなるんなら、瑞樹の方はどうだったんだ。見た目で言うなら瑞樹だってその対象になるだろ」

 

 咄嗟に出した反論に、瑞樹がぎょっと目を見開いた。

 

「なんでボクを槍玉に上げるの!?」

「坂井だってそうだったさ! けど坂井は完全に男だって分かってるから、一緒の空間で着替えることには納得できる。ただ実際に着替えてるところを見ると変な気持ちになりそうで、見ないように気を付けてただけだ!」

「そんなこと考えてたの!?」

 

 一年間付き合ってきた級友からの告白に驚愕の色を隠せない瑞樹。しかしそんな反応に対しても三馬鹿の言葉は止まらない。

 

「正直体育のときも少しドキドキするんだ! たまにふわりと浮き上がった裾から素肌が見えたりすると、自分はとてもいけないものを目にしているんじゃないかって」

「プールのときなんかはもっと大変だよ。いざ授業が始まって水着の状態でいてくれたら、むしろ堂々としているから男子だと認識できるっ。けどシャワーを浴びるときとか、更衣室で着替えてるときに邪念が芽生えそうになるのを抑えて……っ!」

「そうして今なんとかやり過ごす術を身につけたんだ!」

 

 あまりに必死なその様に、瑞樹どころか最初は同情的に見ていた男子の半数も引き気味の反応を見せている。

 

「流石にそれは言い過ぎじゃ……そんなことあるわけないよ、ねぇ」

 

 あった。こちらを信じるような目で見てきた瑞樹には悪いが、中学のときにそういう奴から相談を受けたことがある。

 そいつは体育の着替えの際に、ちょうど悪い角度から瑞樹のことを“見て”しまったらしい。まるでホラー映画の悪霊じみた扱いだが、あのときの話のトーンからするとそう間違ってもいなかった。それ以降瑞樹に対する感情が膨れ上がり、どうすればいいのかとオレに聞いてきたのだ。

 結局紆余曲折を繰り広げ、彼も自分の感情にうまく折り合いをつけた。後遺症として性癖が一つ増えたくらいで済んだのは僥倖だと言えよう。

 とにもかくにも、そういった事例があることを知っているオレはただ口を噤むことしかしなかった。

 

「八千代? ……ねえ、八千代? どうして黙ってるの?」

「そろそろ移動しないと着替えられないな。どうせだから瑞樹も用具入れで着替えちまえばいいさ」

「ちょっと? まだ答えてもらってないんだけど?」

 

 後ろから聞こえてくる瑞樹の問いをはぐらかしながら、体育倉庫へ向かった。

 

 

 中休みだけあって、体育館に人は少ない。奥まった場所にある倉庫内は、そこそこ大きな窓がついていて以外と明るい。頻繁に換気しているからかあまり埃っぽさは感じず、着替えるにしても不快感は覚えずに済みそうだ。

 

「それじゃあ、先に着替えなよ」

 

 結局体操着を持って着いてきた瑞樹が言う。

 

「ボクが表で見張ってるから」

「そんなん必要ないだろ」

「いるってば。もし誰かが入ってきたらどうするつもり?」

 

 別に問題ないと思うんだがなぁ。とはいえもう時間も押しているし、さっさと着替えて瑞樹と変わろう。

 ささっと制服を脱ぐ。加苅たちに選んでもらった下着は、一応運動のときもそのまま着けていて大丈夫な代物らしい。流石にさらしを毎度毎度着けるのは時間がかかるから、これ一着でなんとか出来るのはありがたい。

 そんなことを考えている内に着替え終わった、のだが。

 

「着替え終わったぞ」

「ん、じゃあボクも着替え……うわあ」

 

 体育倉庫から出てきたオレを見て、瑞樹が声を上げる。

「サイズが……」

 

 一言で何が言いたいのか即座に伝わった。ずり落ちそうになる短パンの紐をぎゅうぎゅうに締めながら、自分の格好を見る。やはり、男の頃の体操着ではでかすぎた。

 袖は肘近くまであるし、短パンの方は膝が完全に隠れている。シャツの裾は少し長い程度に見えるが、それも胸が前面を押し上げているからで背中の方は尻まで隠れている。

 今の背も女性の平均身長よりは高いというのに。常々妹から無駄にデカいと言われてきた元の体がどれくらいのサイズだったのかを客観視する機会となった。

 

「それで体育できるの?」

「まあ、大丈夫だろ。躓くほどあるわけでもないし、なにかに引っ掛けるような運動をするわけでもないんだし」

 

 色んなところが余ってひらひらとしてしまうから、動きにくさはままあるが。

 

「とにかく平気だって。ほら、お前も着替えてこいよ」

 

 授業まであと三分しかない。幸い、授業は体育館でやるし先生も事情は知っているから、情状酌量の余地はある。

 瑞樹の背中を押して倉庫の中に入れ、今度はオレが入り口に立った。

 

 

「すいません、ちょっと遅れました」

 

 クラスに合流すると、準備運動を始めているところだった。

 

「これ、鍵です」

「ん、あ、ああ……。ちゃんと準備運動するんだぞ」

 

 なにか言いたげな顔をする先生に鍵を返すと、集団の後ろについて体を動かす。

 そうしていると、同じく体育館を使う他学年の生徒から視線を向けられているのを感じる。なぜ女子が混ざっているのか、あるいは事情を知っているものからすれば、あれが噂の、といったところだろうか。

 だがしかし、だいぶ視線に慣れてきた今のオレに動揺はない。準備運動もそろそろ終わりだ。体育委員のかけ声に従ってジャンプを始めた――瞬間、視線の質が変わった気がした。

 今まで横目でチラチラとこちらを窺っていたのが、横目なのは変わらぬまま、チラ見がガン見に変化している。バレていないと思っているのかもしれないが、見られている側からすると露骨にもほどがあるぞ。と、気づけばクラスの面々もこちらを盗み見ている始末。お前たちもか。

 しかし跳ぶ運動を移ったとき、その理由に気づいた。ジャンプすると、質量が慣性に従って動く。つまり、胸だ。

 下着で支えているはずなのにこの動き方。激しい運動をするときは相当な注意や準備が必要になりそうだ。そして、

 

「いってぇ……」

 

 思わずしゃがみ込むくらいに胸の付け根が痛い。千切れるんじゃないかと思うほどだ。いつものようにやっただけなのに、こんなことになるなどと誰が予想できただろう。女子か。

 

「ちょっ、大丈夫!?」

 

 急にうずくまったオレを心配して、瑞樹が近寄ってくる。

 

「どうしたの? もしかして、体のどこかがおかしいとか……」

「胸、胸が……」

「胸? もしかして心臓!?」

「違う……、胸が痛い……」

「え?」

 

 付け根部分をさすりながら、そう答える。瑞樹はなにがなんだか分からないといった表情だ。まあ、しょうがないだろう。これは持たざる者には分からない痛みだ。

 

「そのままの意味だよ……胸、乳、おっぱいが痛えんだよ」

「おっ……!?」

 

 瞬時に顔を真っ赤にし、ちらりと胸を見る瑞樹。そしてそれに便乗するように、同じく視線を送ってくる男子たち。お前らほんとに分かりやすいから気を付けろよ。

 胸を抱えて立ち上がると、すごく気まずそうな表情をした先生が声をかけてくる。

 

「あー……、調子が悪いようならしばらく休んでていいぞ」

 

 セクハラにならないようにという、過剰なまでの気遣いがうかがい知れる。こっちも元は男なのだから、先生の気持ちも理解できる。だが元男にそこまで気を遣わなくても。

 

「気をつけるんで大丈夫っす」

「そ、そうか。なにかあったら言うんだぞ」

「うっす」

 

 一先ず、探り探りで体を動かしていこう。早めに慣れないと今後大変なことになりかねないからな。

 

 チーム分けを済ませビブスを着る。が、予想通りにビブスがきつい。元の体のときとはまた違った窮屈さだ。ヘソの辺りまでしかない丈を引っ張りつつ、コートに入る。

 今日の体育はバスケだ。週末の球技大会の一種目で、オレが出る競技でもある。いつもならガンガン前に出てボールを運んでいくのがオレのやり方だが、今回は後ろで機会を窺いながらといこう。

 

「あれ、こっちにいるの?」

「ああ。対策を考えないと激しく動けないしな」

 

 同じチームになった瑞樹の隣に立つ。いつもは視界に瑞樹が映らないから、この視点も新鮮なものだ。

 全員がポジションについて、試合開始のホイッスルが鳴らされる。ボールは相手チームに渡り、フォワードが忙しく動き始めた。オレはその様子を見ながらゴール下で待つ。

 思わず足がボールを追いかけようとしてしまうが、ここは我慢だ。少しばかり待っていれば――、

 

「よしきた」

 

 フォワードを突破しゴールへ迫る相手選手の前に躍り出る。走り回ることはできないが、ボールを奪うことくらいはできるだろう。身長が低くなったとはいえ、これで男子平均くらいはある。身長はイーブン、あとはこの体がどこまで動いてくれるか。

 相手に触れないように、けれど大胆に距離を詰める。さっと手を伸ばしスティールを狙うと、

 

「うわっ」

 

 相手は大きく体をひねって避け、そのままボールを取りこぼしてしまった。ボールは追いついてきた味方が拾い、こちらを一瞥するとそのまま攻撃に転じる。

 オレはその背中を見送りながら、なんらかの違和感を感じていた。

 それの正体に気づいたのは、授業が終わってからのことだ。

 ボールを片付けてから着替えようと思い、体育委員に近づく。すると彼らはそれを遮り、着替えに時間がかかるだろうから、先に着替えてこいよ、と言った。

 そのときの表情で彼らの意図を察した。同時に、授業中の彼らの態度も。なるほど、オレは気遣われていたのだ。それに気づくと、なんとも形容しがたい感情に襲われるのだった――、

 

「ってことがあってな」

「なっははは! 男子ってほんと、あっはは!」

 

 ということを昼休みに話したら加苅に笑われたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。