原初の火 (sabisuke)
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序章 リーヴス編
1 旅行者の捜索依頼


 

 マクバーンさん、一人称が「俺」と「オレ」で揺れてるんですがⅣで「俺」だったのでそちらで統一します。
 最終形態かっこいい…



 

 原初の火があった。

 その時にはまだ生命の気配がない荒野に唯一存在する明かりがそれだった。

 それは後世においては世界を創造した超次元的な存在によってもたらされたものであると言い伝えられている。

 

 大地と呼ばれるべき場所は橙色に輝き、触れたものすべてを溶かしながら流れていく。

 ゆっくりと、確実に、どくんどくんと鼓動を打つような流体の炎。

 今では揺らめくものとして知られるそれが、確かな質量と形をもって存在していたのだ。

 

 原初の火は、空が突然涙を流し始めたことによってその形を失ったといわれる。

 荒野を流れる溶岩が黒く固まり、冷えていった。

 山と谷ができて、涙がそこを伝って川になっていった。

 瞬く間に海ができた。輝きを秘める石は海の中で空の恵みをその中に蓄えていった。

 

 空から降り注ぐ涙を受けて、大地をなめるような焔はやがて天に向かってゆらゆらと揺らめくものに変わった。

 戸惑うような、踊るような無数の腕を持つ炎が誕生したのである。

 

 涙の雫と炎の腕が幾度となく逢瀬を交わし、何に妨げられることもなく幾年月もの時を共にした。

 

 

 

 そうして、世界はできた。

 

 やがて火は涙が作った海の中の大地に生命の火をともした。

 まるで親しい友の戯れのようにいくつもの火がともされていった。

 生命の火は合わさり、まじりあい、分かたれ、そして数を増やしていった。

 

 海がかき抱く生命たちに火は文明と勇気と力を与え、火の眷属たる生命に海は慈愛と情緒と知性を注ぎ込んだ。

 炎と雫が初めて交わってから気の遠くなるような年月が流れたとき、そこには文明があった。

 柔らかく、温かく知性体を照らすのは希望という光である。

 

 海が与えた知性によって炎の力による庇護を生命が必要としなくなったとき。

 炎が与えた勇気によって海の慈愛によらずとも知性体が他者を愛することを知ったとき。

 

 火と水は新たなる形を得たとされる。

 

 

 

 

 

 

 王。炎を体現するもの。火を宿すもの。力。勇気。熱。闘いと勝利。

 

 そのような名前で私の友は呼ばれていた。いくつもの意味がその音節の連なりに宿されていた。

 民衆に活力と力を与えそして羨望と尊敬と憧憬を捧げられるもの。

 それが私の友であり、王だった。

 

 守るもの。戦うもの。

 そういう存在だった。何よりも強かった。

 光の先祖である彼が私にとって尊くないわけがなかった。

 私は彼と逢瀬をかわすために空から飛び降りてきたのだ。

 

 私の原初の火。生命の灯。あなたは今どこにいるのだろうか。

 あの時の私のように星のあわいを彷徨って、銀河を踏み越えているのだろうか。

 それとも力強い山の中で熱く岩を溶かして、飛び出る時を今か今かと待っているのだろうか。

 あなたのことだから、どことも知れぬ天のどこかで、痛いほどの熱の放ちながら、歩んでいるような気もする。

 

 

 不確かな意識と、周囲と一体になったような感覚が心に満ちて、そうして私は瞼を閉じた。

 

 

 世界。いとしい命で満ちた私の故郷。どうかひび割れないで。

 しかし天と地に何条にも走るいびつな線から白い光が漏れている。

 夢の終わりのような、見るだけで心が締め付けられるようなそんな光だ。

 花が。魚が。蜥蜴が。鳥が。人が。なくなっていく。その中で私だけはただそこに在る。

 

 

 どうして、どうして終わってしまうのだろう。

 どうして私は生きているのだろう。

 どうして命たちが終わらなければならなかったのだろう。せめて私をどうか、命たちと同じ死の旅路に送り出してほしかった。

 

 彼らをもっと幸せで輝かしい未来に導きたかった。

 

 どうして。どうして。

 

 胸に去来する後悔と悲しみとさみしさが混ぜ合わさって緑色になって、最後には生ぬるい闇色になっていった。

 すべてがそこから出てきそうなのに、いつまでたっても闇は闇。

 命の火は、例外なく冷たくて白い光に溶けていった。まっさらな場所に、私だけが「個」として存在していた。

 

 

 さみしい。こんな感情を感じるのは久しぶりだ。

 ただそこにあるのがつらくて、今すぐに消えてしまいたかった。

 こんな時にあの炎がそばにあれば。いや、そばでなくたっていい。

 

 何よりもあたたかくて清らかで、懐かしい炎。

 私はあなたがどこかにいるとわかってさえいれば、どこへでも行けるのに。

 なんだってできるのに。

 

 星よ。私を導いてくれ。その揺らめく腕の中に、私を落としてくれ。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 あの世界大戦が終わり、瞬く間にも時は過ぎていこうとしている。戦争と黄昏がもたらした被害は甚大であり、人々を復興に駆り立てた。

 一日も早く、これまでの日常を取り戻そうとする社会の中にはまだ混乱があり、関係者からの手厚い支援が必要であるという皇帝陛下からの声明を受けて、第二分校も事態の収拾のために帝国各地を駆け回っていた。

 大規模な施設が必要になる土木作業は軍隊に、細やかで密な活動はフットワークの軽い遊撃士たちに任せ、自分たちは鉄道と人員の数を最大限に活用した物資の運搬や広域的な支援活動に取り組んでいた。

 

 学生たちも特別カリキュラムで座学・実践を詰め込みながらこの支援にあたり、特別実習は各地への定期巡回として行われていた。

 

 混乱も少し落ち着き、大きな都市ではこれまでの生活を取り戻しつつある冬の日、俺たちはクロイツェン州へと広域支援に赴くことになった。

 先の内戦でケルディックが甚大な被害を受けてからまだ完全な復興をとげていないうちに今回の混乱が経済市場を直撃し、アルバレア公爵家のあわただしさもあってクロイツェン州には重点的な支援が求められていたためだ。

 

 

 「おや、これは……リィンさんではありませんか。先日は魔獣を退治してくださってありがとうございました。」

 「いえ、当然のことをしたまでです。ほかに何か変わったことなどは?」

 「ここの所は特に騒ぎも起きていませんし、平和なものです。ありがたいことに観光客の方もたくさん来てくださっていますし治安も保たれています。本当に皆さんと遊撃士の方のご協力のおかげですよ。」

 「それは何よりです。自分はこれから見回りをさせていただきますね。終わりましたらまた報告に来ます。」

 「ええ、ではお願いします。」

 

 

 広域的な支援といってもやることはこれまでと変わらない。人里に近づく魔獣がいれば退治し、もめ事があれば仲裁し、軍や遊撃士協会との連絡をとりながら人手の足りないところに行く。

 忙しいことには忙しいし、学業と支援任務の両立は学生たちにとっても大きな負担であるだろうが、大きな騒ぎがあったあとで民衆は騒ぎを起こす気力もないのか、案外平和なものだ。

 むしろ外交や内政など頭痛の種の絶えないオリヴァルト皇子殿下やアルフィン皇女殿下のほうがおつらいだろう。

 

 いつか、平穏が取り戻されるのだろうか。この町にも以前の活気がよみがえってくるのだろうか。いや、きっと優しい彼のことだからやり遂げてみせるのだろう。彼を支える人々も彼のそばにたくさんいるから。

 

 小規模ながらも商品を軒先に陳列する大市の様子を見ていると、ひとりの男性が慌てて走ってくるのが目に飛び込んできた。

 

 「リィンさん!」

 「あなたは……風見亭の。」

 

 ずいぶん慌てた様子で駆け寄ってきたのは宿酒場を手伝っている男性だった。

 復興が進むにつれて観光客の足が戻ってきていることを喜んでいたが、今はその顔は汗でびっしょりと濡れている。ずいぶん急いで走ったようだ。

 

 「お忙しい中すみません。先日からとあるお客様が宿泊なさっているのですが、その方がどうやら街道に出てしまったみたいなんです…!」

 「その方は何か武装をしていましたか?」

 「いえ…若い女性で、護身用の武具ももっていないようでした。そ、それにやけに世慣れしてない様子で……なんというか、危ういというか、何かに巻き込まれそうというか……」

 「なるほど。状況はわかりました。その方の行き先に心当たりはありませんか?」

 「多分自然公園だと思います。西口のあたりで彼女を見たという人がいたんでね。そのお客様はヴェールを被っていて黒いワンピースを着てらっしゃるので、すぐにわかると思います。」

 「了解です。ありがとうございます」

 

 

 

 そのまま西口から西ケルディック街道に出て、走って自然公園まで向かうが、道中には人影がない。少し前に人が行き来した形跡があって、それだけだ。

 特に凶暴な魔獣もいないが、その旅行者が負傷していないとも限らない。

 そう長い道のりではないから自然公園まではすぐにたどり着くことができた。

 まさか中に入ってしまったんだろうかと出入り口を確認したが、しっかりと施錠されている。ということは旅行者は街道にいることになる。

 

 

(どこだ……?)

 

 

 来る途中まではどこにもいなかったのに。もしかすると分岐しているところで道を間違えてトリスタのほうに行ってしまったのかもしれない。

 急いで引き返すと、自然公園のそばにある民家から、話声が聞こえてきた。

 そういえば特徴のある服装だと言っていたから、農家の方が見ていたらきっと印象に残っているだろう。

 

 「ごめんください」

 

 そう思って家に立ち入ると、正面すぐのテーブルには一人の若い女性がこちらに背を向けて腰かけていた。

 服装は黒のワンピースに黒のストッキング。そして頭には精巧なレース細工の施されたヴェールを被っている。

 間違いなく、宿の主人が言っていた人だろう。

 

 「おや、今日はお客さんが多いね。どうしたんだい?」

 「突然すみません。リィン・シュバルツァーと申します。ケルディックの宿の方がそちらの女性が街道に出てしまったと心配なさっていて、探しに来たんです。」

 

 

 

 「あら、私のことですか?」

 

 

 

 のんびりと振り返った女性は、穏やかな顔つきをしていた。服装に乱れもなく、魔獣に追い掛け回された様子もない。

 

 「お怪我がないようで何よりです。何か危険な目にあったりなどはしていませんか?」

 

 一応、と思いその女性に尋ねるとその女性は柔らかな色をした目をやや見開いてぱちくりと俺を見つめ返してきた。薄い唇が半開きになっており、なんだか驚いている様子だ。

 

 「……あの?やはり何かあったのですか?」

 

 彼女は何に驚いたのだろう。不審に思い尋ねてみると、彼女はいたって平静な様子で声を発した。

 

 「あ、すみません。ご心配をおかけしたようですね。自然公園があると耳に挟んで足を延ばしたのですけれど、閉まっているとは思いませんでした。それ以外には、何も。」

 

 動揺している様子には見えない。いたって平常で、普通だ。動揺したことを隠そうともしないし取り繕っているようでもない。

 

 「そうでしたか。宿の方が心配していらっしゃいましたよ。帰りはご一緒させていただいてもよろしいですか?町まで送ります。」

 「シュバルツァー様、でしたね。本当にありがたいです。よろしくお願いいたします。」

 

 

 農家の方と歓談していた様子の彼女はのんびりとお茶を飲んでいる。もう少し楽しんでから帰るらしく、農家の方にケルディックの名物について聞いていた。

 なんというか、マイペースな人だ。

 

 「そんなにかしこまらないでください。自分はただの教師をしている身ですから」

 「先生なんですね。何を教えていらっしゃるんです?」

 「帝国の歴史ですよ。」

 

 

 機甲兵の取り扱いや武術教練なども担当しているが、帝国史を教えているのも事実だ。ふんわりとした事実をそれとなく答えると彼女はそうなんですね、とのんびりうなづいた。

 女性はどうやら帝国にきて日が浅いようだ。農家の方は自分がケルディックにきていることを先日から知っているからともかくとして、自分のことを知っているようでもない。

 もし彼女が数か月前から帝国に滞在しているとなれば自分の名前くらいは聞いたことがありそうなものだが、自意識過剰というわけでもあるまい。

 

 女性は紅茶の入ったマグカップをテーブルに置くと、これまたのんびりと立ち上がってのんびりと農家の女性に礼をした。

 

 「マダム、おいしいお茶と素敵なお話をありがとうございました。何も返せるものがなく心苦しい限りではありますが、しばらくはけるでぃっくに滞在しておりますので、何かあれば力にならせてくださいね。」

 「いやいや、あたしも楽しかったから気にしないでくれ。」

 「別の町に移るときにはご挨拶に伺いますね。それでは失礼いたします。よき縁のありますように。」

 

 成人女性の落ち着きと礼儀を備えた女性だが、どこか風変りだ。宿の男性が「世慣れていない」と評したのもうなづける。

 動作がゆっくりとしていて、歩くのも、しゃべるのもゆっくりだ。いや、話し方に関しては舌足らずというべきか。

 いずれにせよ、なんだかちぐはぐな印象を受けた。だというのに不審な印象は受けないのだから不思議なものだ。街道の風景にはまるで絵画の一部であるかのように溶け込んでいる。

 

 

 

 「そういえば、お名前をうかがってもよろしいですか?自分はリィン・シュバルツァーといいます。」

 街道をゆっくりと、しかし確かに一歩ずつ歩みながら尋ねると、彼女はにこりと微笑んで答えた。

 「ニクスです。」

 「ニクスさん、ですか。ケルディックには観光で?」

 「ええ、それももちろんあるのですけれど、」

 

 そして彼女は不思議な色の瞳をこちらに向けてつづけた。薄い唇はきっちり対称のほほえみを形作り、そしてまた声に合わせてゆったりと動く。

 

 

 

 「人探しを、しているんです。」

 

 

 

 「人探し、ですか。」

 「はい。これまでは小さな地域を回っていたんですけれども、大きな国のほうが人が多いってことに気づいてそれで帝国に来ました。」

 「どんな方ですか?自分は帝国の各地に行くことがあるのでお手伝いができると思います。」

 

 帝国は広いが、世間は案外狭い。知人の知人が恩師だったり、父親の部下の息子が親友になったり、果ては父親の前世での恋人が自分の母のような存在であったりするのだ。

 知り合いに聞いて回れば何かわかることもあるだろうと思い聞いてみると彼女は困った顔をした。

 

 「それが困ったことに、最後に会ったのはずいぶん前のことでして。加えてとても気まぐれな人ですから髪や目の色ですらわからないんです。」

 「えっと……それって……」

 

 要は外見がわからないというのだ。所在や仕事などがわかっていないならばともかく外見までわからないとさすがに探しようがない。

 

 「でもきっと見つけたらその時はわかると思います。」

 「そうなんですか?」

 「ええ。とても浮世離れした人なんです。常識が通用しなくて、型破りで、とても信じられないような。だからきっと見つけられると思っています。」

 

 こののんびりした女性が浮世離れというくらいなのだから、その人は相当なのだろう。

 

 「えっと……手掛かりはほかにありませんか?あればそれを頼りに自分も知り合いに聞いてみますが。」

 「そうですねぇ、たぶんそんなに老けてはいないはずです。私と同い年ですから。あとは男性で、楽しいことが好きで活動的な方です。」

 昔そうだったというだけなんですけれどね。

 

 街道をゆっくりと歩いていても、彼女の話す速さもゆっくりだからなんだかんだと情報を聞き出しているうちに町の礼拝堂が見えてくる。

 個人を特定できるような情報は何も聞き出せなかったが。

 

 

 「あら、つきましたね。本当にありがとうございました。旅をしていてお返しなんて何もできないのですけれど、せめてこちらを受け取っていただけますか?」

 

 

 そう言って彼女は不思議な宝石を差し出してきた。通常の宝石とは何かが違う。

 七耀石の結晶は属性に応じた色の光を放つが、これはそうではない。しかし黒ゼムリア鉱などの濁った色をしているわけでもない。

 それが持つ色は透明というのが一番近いだろうか。白でもなく、青でもなく、紫でもなく、しかしそのすべてであるような色。

 なんという名前の石かはわからないが希少価値の高いものであるということだけはわかる。

 

 「そんなに価値の高そうな宝石、いただけません。自分はこの辺りの見回りをしていて、ニクスさんをお送りするのもその一環でした。それに危険な魔獣と戦闘をしたわけでもありませんから……」

 「これ、価値が高いんですか?」

 「え……」

 

 

 彼女はきょとんとしている。

 そしてまるで砂浜に転がった貝殻であるかのようにそれを太陽の光にかざした。

 

 

 「あ、あまり強い光を見つめないほうが…」

 「う、まぶしい……」

 

 忠告もむなしく、光は収束して彼女の網膜を焼き、彼女は持っていた石を取り落として目をかばう。

 

 「だ、大丈夫ですか?」

 

 ふらふらと揺れる彼女の状態を確認するために石を拾ってから彼女の顔を覗き込むと、ぎゅっと閉じられてしわの寄っていた瞼から力が抜けていく。やがてゆっくりと瞼が開かれた。

 

 「ま、まぶしかった……」

 「俺の手が見えますか?」

 「はい…指が二本……お騒がせしました。見え方には問題ないのですけれど、まだ少しくらくらするので今日はもう宿で早めに休むことにします。」

 「そうしてください。宿までですが送りましょう。」

 

 足取りがふらふらとしていて、このまま放置していたら通行人にぶつかるかもしれない。風見亭に彼女を保護したことを報告しなければならないのだからどうせ行先は一緒だ。

 

 「ニクスさん!お怪我がなくてよかった。心配しましたよ~」

 「ご心配おかけしました。シュバルツァー様も、改めてありがとうございました。」

 「いえ、当然のことをしたまでです。ですがどうか次に街道に出るときは誰かを連れて行ってください。」

 

 骨格や手のひら、視線の動かし方を見る限り何か武術をたしなんでいるわけではないようだし、銃や導力器を持っている様子もない。彼女は完全な手ぶらだ。せめて薬くらいは持ち歩いてほしいものだが。

 

 「ええ。心得ました。それでは皆様おやすみなさいませ。」

 

 そうして彼女が上階の部屋に入ると、手伝いの男性は少しはしゃぐような様子を見せた。

 

 「リィンさん、ありがとうございました!彼女、うちに泊まりはじめてからまだ3日くらいなんですがちょっと心配になっちゃうんですよね~」

 「気持ちはわかります。なんだかふらふらしているというか、地に足がつかないというか。」

 「そうなんですよ!やっぱり貴族のお嬢様なんでしょうか?言葉も丁寧ですし。」

 「さぁ……」

 

 貴族にしてはやけに身軽だ。服装も質素だし、何より貴族の令嬢だというのなら街道を武装なしで歩くとしてもっと警戒をするのではないだろうか。

 ポケットのない服でカバンやポーチも持たずに本当に身一つで未知の場所に飛び込んでしまう人間がいるだなんて、本当に今が終戦後でよかった。

 

 「ん……?」

 

 元締めへの見回りの報告を済ませて列車の止まっている演習地に帰投するために街道を走っていて、ふと思った。

 彼女はあの石をどこに持っていたのだろう?

 気づいたらあの石は彼女の手の中にあって、差し出されていた。

 やはりその輝きと同じように、あの石には不思議な性質があるのだろうか?不審なところはないがやはり上の人間に確かめてみるべきだろうか。怪しくはないがどことなくハラハラする。

 これが落ち着いた情勢下での出会いであれば何も気に留めないのだが何分今は世論が世論だ。混乱の種はないに限る。

 とはいえ太陽の光を覗き込むような行為をする人間が工作員だとは思えないが……

 

 

 

 

 

 「あ。」

 

 あの石を持ち主に返していないことに気が付いたのは、もう日が暮れかけた時のことだった。

 

 

 

 

<透明な宝石を手に入れた!>

<クエスト「旅行者の捜索依頼」を達成した!>

 

 

***

 

アクセサリ:透明な宝石

ATS+250 SPD+5

ほぼ透明な色をした不思議な宝石。なぜか導力器と相性がいいようだ。

 

 

***

 

 



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2 第一次マクバーン事変

 今日中に設定編まで書けるように頑張りたい


 

 「え、もう旅立たれたんですか?」

 

 翌朝、彼女に不思議な宝石を返すために風見亭を訪れたのだが、本人は早朝にチェックアウトを済ませてしまったらしい。

 

 「そうなのよ~。なんか不思議な子だったけど癒されるからもう少し滞在してくれたらよかったのに。」

 「行先について何か話していませんでしたか?彼女に届けたい落とし物を届けに来たんです。」

 「うーん、大自然を見に行きたいっていうからノルドをすすめたけどそのくらいだね。」

 「ありがとうございます。」

 

 

 そのあと彼女が訪れていた農家にも足を向けたが、どうやら彼女は直接挨拶ができなくて申し訳ない、突然だけれども次の目的地に向かうので到着したらまた手紙を送るという旨の手紙を投函しただけのようで、会っていないと言われてしまった。

 

 

 「どうするんだこれ……」

 

 そんなこんなで結局本人に返せないまま演習地に帰投することになった。

 机の上には不思議な光を湛える石が鎮座している。その石は窓から入り込む光と室内の導力灯の光を取り込んで、光の波紋を机に映し出している。

 

 「お?リィン、帰ってきてたのか。――ってその石はどうした?未加工の幻耀石、いや違うな……」

 「ええ、先程。

 実は先日とある女性を護衛していたんですが、その人が落としたんです。自分が拾ったんですがいろいろあって返しそびれてしまって。

 明らかな貴重品ですので扱いに困っていて……」

 

 自分にもこの石の正体がわからないこと。落とした本人がケルディックを出発して別の地に旅立ってしまったこと。おそらくノルドに向かったと思われることを伝えた。

 

 「ノルド高原か。最近忙しいからなぁ。届けるってのはちと厳しいか。」

 「ええ。こんなことなら連絡先を聞いておくべきでした。」

 「お?珍しいねぇ。リィンが口説き損ねるだなんて中々手ごわい嬢ちゃんじゃねぇか」

 「誤解です。」

 

 何というか、そう。もうお腹がいっぱいなのだ。

 人の気持ちを受け止めるほどの甲斐性がない臆病な自分からすれば人々の気持ちは確かにありがたいのだが、お腹がいっぱい過ぎて何も考えられなくなってしまう。

 

 

 「ハハ、モテる男はつらいねぇ。お兄さんもリィンにはかなわねえなぁ。」

 「……それはそれとして、モーニングでも食べませんか。」

 「おーいいぜ。今日はマヤの奴がとってきたベアズクローを使ったフレッシュチーズたっぷりのパニーニだとよ。」

 「サンディの創作料理は本当においしいですから楽しみです。」

 「違いない。支援課の時よりも食に関しては間違いなく充実してるな」

 「そうなんですか?」

 「基本的に支援課は自炊だったが、一人を除いて得意分野が偏っててなぁ……」

 「へぇ…皆さん何でもそつなくこなしそうな印象があったので意外ですね。」

 「そりゃお前さんのことだっつの。」

 

 

 

 石を懐にしまってたわいもない会話をしながら部屋から出ると、食堂車から急に知った気配が“現れた”。人の集まる食堂車に、まるで何も気にかけないように。

 教育施設であり、軍事施設でもあるこの列車に突然現れる傍若無人ぶり。

 

 

 「―――!!」

 「この気配…いや、“熱”は――!」

 

 ARCUSの戦術リンクをランディ教官と結んで武装を確認し、食堂車へ続くドアの手前で一旦停止する。

 何事かと立ち尽くしているシドニーにはTMPとの連絡で演習地から離れているミハイル少佐への連絡を頼み、ランディさんと視線を交わした。

 

 (突入しますか?)

 (生徒たちが危険だ。――行けるな?)

 (はい!)

 

 

 

 「動くな!!」

 

 食堂車に配置されたテーブルにけだるげに腰かけているのは結社のエージェントである≪劫炎≫のマクバーンだ。

 

 「生徒たちは今すぐに外へ避難しろ!コードFで警戒態勢!その後はミハイル少佐の指示に従うように!」

 

 「教官!」

 「ご一緒します。」

 

 マクバーンと対峙した経験のあるⅦ組の面々は援護に駆け付けようとするがそれは悪手だろう。

 

 「いや、ここは俺とランディ教官で交渉にあたるからその必要はない。他の生徒と一緒にいざというときのために避難してくれ。

 場所を考えると、本気でやり合うわけにもいかないからな……」

 

 何せデアフリンガー号は動く軍事施設だ。武器も、弾薬も、資源も山ほど積んでいる。装甲列車とはいっても内部から≪劫炎≫にさらされてはひとたまりもないはずだ。

 

 「でも!」

 「……トワ教官。自分にはランディ教官がいるので大丈夫です。生徒たちをお願いします。」

 「――了解しました。コードF、そしてミハイル少佐の帰投まで警戒態勢を維持します。リィン君、無茶しないでね!」

 

 黄昏の時に何度も言われた言葉だ。無理、無茶、無謀。周りを頼れ、みんなを信じろ、そんなことばかり言われてきた。

 後から振り返ってみればあれは仕方のなかったことなのだろう。自分も、周りも。ああいう振る舞いしかできなかったと思う。

 少数の個人にあまりに大きすぎる力が集中するとろくなことがない。

 

 

 「全く信用がねぇことだ。安心しろよ。ここで暴れるなんてことはしねぇ。黄昏では世話になったしな。」

 「過去の自分の行いを振り返ってから言ってくれ。それで?わざわざ何の用なんだ?」

 「結社は帝国から手を引いただろう。お前もそろそろ召集かけられてんじゃねぇのか?」

 

 マクバーンは俺の目をしっかりと見ているもののこちらの質問に答える様子はない。確かに炎を出したり、姿を変えるようなそぶりは見せないが、どこかおかしいと感じる。

 

 「おい、どうした?」

 「……いや、確認しただけだ。ほれ。」

 

 男は掌を上に向けて差し出してきた。

 

 「「?」」

 

 「あ?シュバルツァー、お前持ってんだろ?早くそれを出せっつってんだよ。」

 「何のことだ?」

 「とぼけるんじゃねぇ。コートの右の内ポケット。出せよ。」

 

 ランディさんとマクバーンの視線が胸元に刺さる。先ほどの不思議な石を持ち歩くときは万が一にも落とさないようにするために内ポケットに入れている。

 それのことを言っているのだろう。

 

 「これは預かりものだ。本来持つべき人がいる。俺はこれを所有しているのではなくこれを本来の持ち主のもとに届けたいだけだ。あんたこそ、これをどうしようっていうんだ?

 この石の持ち主について、何か知ってるんじゃないのか?」

 「最初に訂正するが、それは石というよりはただの()()だ。それにも、そして本来の持ち主にも、一切の“力”はない。お前も察しているとは思うが、ただ異質なだけだ。()()()()()。」

 

 全くの膠着状態だった。

 自分は公務員として民間人の情報を犯罪組織のエージェントに渡すわけにはいかないし、その持ち物についてもしかり。

 届け先がわかっているとしても届け物ならばこの男ではなくカプア運輸に頼めばよいのだから、わざわざ渡す道理はない。

 

 「お互い腹割って話そうぜ。お前がそれをどこで、誰から、どんな風にして預かったのか。俺には知る権利がある。

 お前がそれに関する情報を話してくれるなら俺は結社の事に関して何かしら譲歩してやる用意だってあるんだがなぁ?」

 「この結晶そのもの、付随する情報と諸々の権利はお前ではなく持ち主に由来するものだ。第三者が何を言おうとも本人が交渉に同席しない限りは俺は何も言わない。

 そちらがどんな条件を用意していようとも、それがしかるべき筋だからだ。」

 

 沈黙が走る。外はどうやら天気雨が降り始めたようで、窓から光が差し込んでいるのにいくつもの水滴が車体を叩く音がする。

 暖かい時期ならともかく、冬にこんな天気になるとは珍しいものだ。それもこれも全て目の前の男のせいなのかもしれない。

 

 「……ま、それもそうか。」

 

 緊迫したこちらを気にも留めずにテーブルに肘をついて何やら考え込んでいた彼はやってきたときと同じようにいきなり転移陣を展開させると立ち去ろうとする。

 その顔はどこか穏やかで、あの黄昏で一瞬だけ見せた表情とよく似ていた。呆れているような、あきらめているような。そして何かを懐かしむような表情。

 

 「ま、持つべき奴の手に渡ったってことなのかもしれねぇ。シュバルツァー、俺としたことが焦り過ぎたようだ。一連の詫びは追ってさせてもらうさ。」

 「ま、待て。まさかお前さんこんだけ騒がしといて帰る気か?」

 「俺には家も故郷もねえっての。詫びはするっつってんだからお前らはそれを受け取る準備だけしときゃいいんだよ。

 ―――ああ、シュバルツァー、生還おめでとさん。クロウにも伝えといてくれ。そんじゃあな。」

 

 「人の話を聴けよ!!」

 

 そうしてランディさんの叫びも空しく、ミハイル少佐の帰投も間に合わないまま、『第1次マクバーン事変』は幕を閉じたのだった。

 

 

 

 

***

 

 

 

 列車という乗り物に慣れず、途中の駅で手間取ってしまったこともあり、あの町を出てから丸一日と少しは経った気がする。

 ()()()()()()という町を出てから()()()、という都市に出た。そこは非常に大きな都市の駅で、階段がいくつもあったのでどの列車に乗ればよいかもわからず、結局乗るべき列車を見逃してしまった。

 その後、どうにか駅員と軍人らしき人に頼み込み、真夜中の貨物便に乗せていただいたのだ。

 人が乗ることを想定していないのか、コンテナとコンテナをつなぐ本当にわずかなスペースに鞄を置いて、体を寄りかからせて、朝が来るまでゆられていた。

 

 

 

 夜明けが近づいていくにつれて、気温は下がっていく。頬をなでる風は冷たく、鋭く、澄んでいく。雪が降ろうとしているのか、湿った風だった。

 

 眠れなかった。

 あまりにまばゆくて。あまりにあたたかいから。

 あの日失われたはずのくすぐったくなるような命のささやきが、この地には満ちているから。

 そして先日、私は見つけてしまったから。

 

 原初の火の流れを汲む清冽なる炎。何よりも清らかで優しいあの光の名残を。

 あの炎の名残はカグツチに違いないだろう。しかしそれを宿していた青年はどう考えても彼ではない。たとえ百万回生まれ変わっていたとしてもあんな幸の薄そうな苦労人の雰囲気を彼が醸し出せるはずがない。

 それにあの青年が彼だとしたら、カグツチを使ってしまった状態で放置するのは不自然と言えるだろう。たやすくはないかもしれないが彼が“力”をふるえばもう一度作り出すことくらいはできるはず。

 聞けばこの国では動乱が起きたばかりだというから、きっと彼はこの世界のどこかにいるに違いない。彼は騒ぎを見逃せるような人ではないから。

 

 

 だから私はいつかたどり着ける。

 大地に嬲られ、雲に溺れて星の川を渡る羽目になったとしてもこの旅の終わりには、必ず地上の太陽に巡り合えるはずだ。

 

 彼に何が言いたいわけでもない。何かをしたいわけでもない。ただ生きていることを確信したいだけなのだ。何よりも信じていたあの力が今もどこかにあることを確かめて、安心したいだけなのだ。

 

 

 

 

 

 「はひゃー」

 

 間の抜けた声が漏れる。

 夜明けだ。自分の口から漏れる吐息が視界に薄く靄をかける。凄絶な光が山の間から私のもとまで届こうとしている。

 網膜を刺し貫くようなその光は、しかし私の目を焼くことはなく、ただ優しく私の体を黒衣ごと包んでくれた。

 

 

 そうしてノルドに到着して、外へ出ようとする私を、中年の軍人が呼び止めた。

 

 「姉ちゃん、まだ夜明けだってのにどこに行くんだ?ノルドじゃ馬がねぇとどこにも行けねぇぞ。」

 「お気遣いいただいてありがとうございます。でも知り合いが迎えに来ることになっているので、大丈夫ですよ。」

 「集落の奴か?そんな連絡、入ってなかったが……。それにそんな恰好じゃぁ寒いだろ。当直室のマシンで申し訳ないがコーヒーくらいなら淹れるから、

 

 

 って―――あれ?」

 

 

 軍人の心配も最もだった。私が他の人間と全く同じ機能と性質を持つ生物であったならきっと私はこの大自然の中ですぐに死んでしまうだろう。

 だが私はヒトではない。だから心配は無用なのだが、今は見た目が見た目なのでしょうがないことなのだろう。

 むしろ喜ばしいことだ。この世界のヒトは他の存在をいつくしむことができることを先の軍人は証明したのだから。

 

 

 扉を開くと、冷たい空気がヴェールをなびかせた。

 

 広い。思っていた以上に広い。

 扉を開いただけなのに、今目にしているのはこの土地のたった一部でしかないのに、広くて、広くて、広い。

 さっきから広いしか言えない。

 言葉にする必要がないくらい素敵な雄大さ。冷たい風は突き刺すような厳しいものではない。愛嬌のあるような優しいそよ風だ。

 この土地の風は神聖なものであるという。それが草を揺らして、草はかさりかさりと微笑み合っている。

 命たちはまるで生まれたての妖精のはばたきのように気まぐれで、老獪な軍師の掌のように冷たい。

 

 

 気にいった。

 ここはいい土地だ。

 空が近いし、風はヒトを愛している。

 

 まずは軽く30年くらい住んで、様子を見てみようか。

 

 

 

 



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3 <依頼人>リィン・シュバルツァー

期限:短

<宛>トヴァル・ランドナー様
 とある旅行者を保護していただきたく、依頼をしました。
 依頼を受諾していただけるようでしたら、通信にて連絡をお願いします。


 伝令M。

 トールズ第Ⅱ分校において最近何度か使われている言葉はとある指示を意味している。

 

『マクバーン来たれり。リィン・シュバルツァーは交渉に急行せよ。』

 

 クロイツェン州での広域支援任務に突如として現れた劫炎は、その後何度かリーブスや特別演習の演習地に姿を現した。「鼻がいい」という本人の言葉の通り、マクバーンは必ず自分の行動圏内に姿を現した。

 しかし第一次マクバーン事変とは異なり彼は何も要求しなかった。ただ突然やってきてはリィンのことを呼び立て、リィンのこと(というよりはリィンがまだ預かっている結晶)を一目見て帰っていく。

 

 この男に秘密結社のエージェントとしての自覚はあるのだろうかと思う。何度目かの来訪の際にそのあたりを尋ねてみると

 

 「今は休業中だ」

 

 とだけ言われた。

 何なんだそれは。

 

 

 そしてそんな(少なくともリィンが持っている)常識が通用しない相手は、あろうことか学生寮のリィンの部屋に居座っていた。

 

 「よう」

 

 気の置けない友人の部屋にやってきたかのように振る舞っているが一応この男と俺はそう親しくできない、はずである。

 

 「今日はどうして俺の部屋なんだ……」

 

 正直明日の授業のための準備もしなければいけないのだから夜の時間くらいは邪魔をしないでもらいたいと思う。

 

 「あまり多くの人間に聞かれたくはないんでな。片手間に聞く分には構わないが教会や魔女どもに流されるとちと困る。」

 「なんでだ?」

 

 周囲の目とかそんなものを気にするような人間には見えないが。

 

 「一つは確証が持てないこと。もう一つは関係者が他にもいるかもしれないこと。それが理由だ。もう少しして確証が持てたら誰に言おうが気にしねぇが、“今”はダメだ。」

 「さっぱり話が見えないんだが。」

 

 この男は何を言っているのだろう。

 元居た世界が違うからなのか、話がいつも通じないのだ。言葉が足りないと思う。

 

 「片手間でいいからまずは聞けって言ってんだよ」

 

 とりあえず楽な格好に着替えて椅子に座るとマクバーンは勝手にしゃべり始めた。全く自分勝手な男だ。

 

 

 

 「まず、俺が今疑っていることから話す。

 単純に言うと、()()()()()()の存在がゼムリアに来ている可能性がある。」

 「は?」

 「その可能性を俺はずっと排除してきた。50年この世界で暮らしてきて一度もそんな気配を感じなかったからだ。

 だが、その気配の欠片とでもいうべきものをある日俺は察知した。」

 「それがこの結晶ということか?」

 

 マクバーンは鷹揚にうなずく。見たこともない物質だと思っていたが、まさか本当に“存在しないもの”だったとは。

 透明な結晶。導力魔法との相性がいいことから何らかの伝導体であると考えていたがまさか異世界の物質だとでもいうのか。だとすればこれはあの≪塩の杭≫と同質のものということになる。

 

 「この結晶…結局何なんだ?」

 「なんだろうな?たぶん氷というのが近い気がするが。」

 「氷?」

 

 何かの比喩だろうか?これは触っても冷たくはないし、放置しても溶ける様子はない。自分の知る飲み物に入れるような氷ではないと言えるだろう。異世界の氷か、それとももっと見るべき本質があるのか?

 

 「その結晶は俺で言う炎――つまり異能によって生み出されたものだろう。俺はその結晶を作れる奴を一人知っている。

 もしかしてそいつが俺みたいにゼムリアにやってきたのかと思ってしばらく探し回ったが、結局何の手掛かりも見つからなかった。実際に会わない限りは何とも言えないだろう。」

 「あんたの炎といい、この結晶と言い、そっちはそういう異能を使える存在がゴロゴロいたのか?」

 

 世界が違うとはいえさすがに規格外が過ぎないだろうか。まるで≪七の至宝≫そのものに挑んでいるような心地に陥ってしまう。

 

 「さぁな。まだ思い出せない。俺は生まれつき異能を使えたし、少なくともそいつもそうだった。だが他は知らん。

 ―――ともかく、俺の世界でその異能が使えるやつはたった一人だ。だが、俺はそいつを見ていないからそいつが俺の世界からきた存在とも言い切れない。」

 

 確かにそうだ。ゼムリアでもマクバーンの世界でもなくまた別の世界で似たような能力を持つ存在がいたとしても不思議なことはない。もう何だってありなのだろう。

 “鬼”の力があった頃は自分がどうなっても異能や超常的な力をどうにかして見せると思っていたが今はもうそんなことを思えない。

 真正面から対抗するのはもう難しいだろう。どうにかこうにか戦う前に勝敗を決するようにしなくてはならない。

 目の前に腰かけているような超常的危機はそんなこちらの都合を気にしてはくれないのだから。

 

 「だが想像が当たっている可能性も否定できない。とにかく確定させる必要がある。

 俺の知るそいつは俺と違って何かを傷つけることができない。異能の力もそう言ったことに使えないようにできているからな。

 だが頭が良い。おそらく存在が蛇の連中にバレたらこれから起こる事態に良くない形で巻き込まれていくだろう。教会もその意味で信用できたもんじゃねぇな。」

 「ちょっと待った。その“できている”っていうのはどういうことだ?」

 「そういうものだってことだ。お前たちが1+1=2を疑わないのと同じで、それはどうでもいいんだよ。()()()()なんだから。」

 

 頭を教え子のうちの一人がよぎった。彼女も生まれ方が普通の人間とは少々異なるために生まれた時からこうだった、という何かがある。それに近いということだろうか?

 

 「要するに、この結晶を作り出した存在が俺の想像した奴と一緒なら、俺はそいつの存在を蛇や教会から隠す必要がある。

 だから俺はそれの持ち主について調べたい。だがこの2か月間、何の情報も得られなかった。」

 

 なんとなく、事情が読めてきた。

 

 「俺は個人として依頼するぜ。それをお前に渡した存在に関する情報をくれ。」

 

 そう言いながらマクバーンは一枚の小さくて薄い紙をちらつかせる。 

 その目はいつかのように狂暴ではなくて、過去を懐かしんでいながらもどこか困惑していた。

 

 彼は家も故郷もないと言っていた。彼が帰る場所はもう失われてしまったのだろう。

 同情しているわけじゃない。けれど、故郷の知り合いがいるかもしれないと知って黙っていられない気持ちは共感できるものだった。自分だって内戦の時には何よりも散り散りになった仲間の情報を求めたものだ。

 警戒していた市井への被害も皆無だった。マクバーンが民間人に危害を及ぼさないか警戒してもらっていたが精々たまに赤いコートの奇抜な男が目撃されたくらいだった。

 その男は何でも周囲に困った人がいればちょっとだけ助けたりもしていたらしい。

 

 「ああも監視をつけていたんだからわかるとは思うが、俺は今回の件で騒ぎを起こすつもりはない。本来こっちの人間どもは関係のないことだからな。」

 「わかっているさ。あんたはそういう筋を大事にするやつだっていうのは。警戒が過度だったのは謝る。だが俺はもうあんたと正面切って立ち合えるわけじゃないんだ。」

 「よく言うぜ。」

 

 ≪劫炎≫には散々煮え湯を飲まされたものだが、個人を特定できないような情報であれば話してもいいだろう。

 とはいえ本当にその人が民間人である可能性もあるわけだから、彼が納得するまでどうにか自分が面倒を見てやるのが一番安全と言えるか。

 

 「……俺は、本当にある人がこれを落としたから、拾っただけなんだ。浮世離れした人だった。危機管理がなっていないというか、頭に危険っていう概念がない、みたいな。」

 「……。」

 「その人の行き先には心当たりがあるが、もうすでにその場所を出発してしまっているかもしれない。それに、あんたを一人で向かわせることも俺の立場からは許容できない。」

 「ってことは、何か準備があるってか?」

 

 

 期待に目を輝かせる男にはもう何を言っても引かないだろう。

 ため息を一つついて俺はARCUSを取り出してとある連絡先にコールをかけた。

 

 

 

***

 

 「そういえば、マクバーンとその人は家族かなにかか?」

 「……≪観の目≫ってのも大したことねぇな」

 「なんだと?くっ……当ててやる!」

 「やめとけ。そもそも人生経験が少なすぎるんだよ、ひよっこが。」

 

 

***

 

 

 

 

 

 「まったく、なんで俺までこんな茶番に付き合わされてるんだか。」

 「そう言うなって。手間賃なら持ってきてやっただろうが。」

 

 目の前の男は≪スタインローゼ≫の瓶を揺らした。男がこの世界にやってきてすぐのころに買ったもので男の話が本当ならば100万ミラ級のヴィンテージだ。

 興味がないなんて言えるわけがない。今はまだ忙しくてゆっくりとした時間を取れていないが、帝国の情勢が落ち着いたらこれを仲間と飲むべく算段をつけ始めているくらいだ。

 

 「手間賃はありがたいが、それはそれだ。通信が来たときはここまで大ごとになるとは思ってなかったんだよ。」

 「それは俺のセリフだっつーの。シュバルツァーとクロウが組んだ時点で嫌な予感はしていたがまさかあの色呆け皇子まで首を突っ込んでくるとはな。」

 

 あの夜、帝都にいたら急にリィンから通信が入ってきた。

 面倒ごとの気配がしたが心底困っている様子であったので話だけ聞いて他に取り次いで退散しようとしたのだが、箱を開いてみれば帝国のどの勢力も触りたくない暗黒物質が出てきてしまった。

 

 

 身喰らう蛇、執行者No.Ⅰ≪劫炎≫マクバーン。

 リィンの話では変な気を起こす様子はないとのことだったが男には前科があり過ぎて信用したくてもできない。

 

 

 しかし共和国の機嫌のことを考えると正規軍に任せるわけにもいかないし遊撃士協会に投げようにも≪蛇≫と対立していることを考えると頭が痛い。

 騎士団や蛇が介入できないように動きたいとは無理を言ってくれるものだ。

 そして黄昏以降、そういったどこの組織も触りにくいことを捌くのが俺の仕事であったので、本当に不本意ではあったが、このクロウ・アームブラストはこの男の監視を引き受けている。

 俺やトワは休日を返上でこいつを監視することになったし、リィンなんて昨日の放課後からミッションを開始している。

 帝国中で人手が足りないというのにこれだけの労力を割かせるのだから、この際スタインローゼ以外にも取り立ててやろうか。

 

 

 「お前、ここまでしてどうするんだよ?」

 「あ?」

 「わざわざ何度も姿を見せたりして、騒ぎになっても気にしねぇで、お前にとってもリスクの大きいことのはずだ。確かめるって言ってたが、確かめた後はどうするんだ?」

 

 たぶん大丈夫、なんてリィンは言っていたが、どうにも不安だ。

 天災のような被害をもたらさなくなったとはいえ、その気になれば念じるだけで焦土を作り出せるこの男はこれからどうするのだろう。

 オープンな情報として全体に共有されているわけではないが、結構な人数がこの男の最近の動向を認識してしまっている。執行者として≪蛇≫に戻るとしても、足を洗うにしても、何かと不便が付きまとうようになるだろう。

 

 どこまでも気まぐれな男は外見も名前も知らないたった一人の人間に会うためにその自由を完全に捨てようとしているのだから、自分には理解の及ばないことだった。

 

 (最初っから理解できるなんて思っちゃいねーが)

 

 「そんなことか」

 「なんだと……?」

 

 「お前たちが理解できるとは思ってないが、そんなことは重要じゃあない。お前たちが騒ごうが蛇がどうしようが、俺の知ったことじゃない。大事なのはもっと別のところにある。」

 「……」

 「クロウ、お前は視点を変えるべきだな。この際シュバルツァーみたく日和っちまった方がいいんじゃねえか?」

 「誰もがあんな風になれるわけじゃないのはアンタだって知っているだろう。」

 「ま、それもそうか。」

 

 

 黄昏の時に耳に挟んだ断片的な情報から、人智を超越した計画が進行しているのは気づいていた。

 

 別の世界、可能性、実験、そして外の理。

 

 情報のピースは集まりつつあるがまだ決定的な結論を下せる段階には至らない。

 これで騎士団からも情報が搾り取れればもう少しわかりやすい構図になるんだろうが、考えれば考えるほど周りの勢力全てが真っ黒に見えてくる。

 『信じられるものを信じて、やれることを一つ一つやっていこう』なんて姿勢を貫けるリィンのメンタリティが羨ましく見えるくらいだから、少し疲れているのかもしれない。

 

 「……あいつは自分に打ち克って、ある意味覚悟を決めたんだろう。俺は腹はくくっちゃいるが所詮はただの流れものだ。あの域に至るまでにはまだもう少しかかるんだろうさ。」

 「お前ならそうこう言っているうちに軽く成し遂げてしまいそうにも見えるが……

 

 

 ―――他愛無い世間話はここまでにしておくか。」

 

 

 

 小要塞の最奥に至るための扉の前に、見知った気配が一つ。知らない気配が一つあった。

 リィンが帰ってきたのだ。連れは足音からして女。捜索対象だった女だろう。

 居場所が居場所だったために遊撃士協会に旅行者の保護という形で依頼して確保することになった。担当の遊撃士はあの広大なノルド高原を三日間走り回る羽目になったと聞いている。その旅行者を迎えに行くために何時間も列車に乗ったリィン(もう灰の騎神はいないし、カレイジャスも各地への慰問で飛び回っている)も含めて、本当にお疲れさまと言うしかない。

 

 ここまでの騒ぎの種として自分たちを振り回してくれたのはさてどんな存在かと気になるが、ふと先ほどまでやけに饒舌だった男の様子が気になって横目で盗み見た。

 

 

 男の顔は凪いでいた。

 いっそ悲しみまで感じてしまうほどの表情で、俺はこの男がそんな顔をしているのを見たことがないからひどく驚いた。

 この男は変なところで筋を通そうとする傾向があるが、基本的に自分の好きなように生きているのだ。どんな時だって、こんな『不満を呑み込むような表情』はしていなかった。

 

 マクバーンの様子が気になり、盗み見ていたのを本格的な観察に変えようとしたところで、扉が開いた。

 

 

 

 そこには女が立っていた。

 ヴェールをかぶった黒髪の女だ。質素な黒のワンピースを纏い、華美なアクセサリーもつけていないその姿は、この男の関係者としては些か地味すぎるほどだった。正直結社の連中とまではいかなくとも奇抜な格好をした人間が現れると思っていたのだ。しかし彼女は町中にいる娘たちよりも洒落っ気にかけている気がする。口には出さないが。

 

 ゆっくりとその女が部屋の中央――マクバーンの前まで近づいてくるにつれてその顔立ちがつまびらかになっていく。髪の色は黒、瞳は形容しがたい不思議な色をしている。肌の色は白く、紅を刺していないくちびるは薄く小さい。

 何というか、帝国人と比べると穏やかというか、円やかというか、凹凸の少ない顔立ちをしている。その顔立ちの違いからかもしれないが、俺には女が一体どれくらいの年頃であるかわからなかった。(俺はかつてヴィータの若作りでさえ見抜いてやったというのに、だ。)

 

 歩みは緩やかで、部屋に流れる時間が引き延ばされているかのようだった。やけにじれったいのに、リィンも、マクバーンも、口を開こうとしなかった。

 

 やがて女は男の真向かいで歩みを止め、じっと男の顔を見上げた。

 男は眼鏡をはずし、女を観察するように見下ろしている。

 

 無音の空間の中でただ男と女が見つめ合っていて、だんだんと居た堪れなくなってくる。リィンに目を向けると目の下に少しばかり隈を作った彼も困ったように眉を下げていた。

 この異様な雰囲気に水を差すのが恐ろしいのはリィンも一緒のようだ。特にこの男は水を差されることを嫌うからだろう。

 

 どこまでも静かで、眉一つ動かさずに長時間見つめ合っているくせに、どことなく俺はマクバーンの緊張が高まっているのを感じた。この男に緊張なんて言葉が似合わないのは百も承知なのだが、その空気はどこか覚えのあるものだった。まるで沙汰を待っている罪人のような。あきらめと後悔と郷愁の入り乱れた虚無を抱えているような空気。

 そんな空気の中、女はただ挨拶も何もしない不躾な男に微笑みかけた。

 

 

 

 

 「お待たせしてしまい申し訳ございません、陛下。」

 

 

 

 



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4 回想

四話目にしてようやく設定を言語化できました。


 「お待たせしてしまい申し訳ございません、陛下。」

 

 

 音のない小要塞の最奥で、ニクスさんはおもむろに微笑んだかと思うとそう語りかけて頭を下げた。きっちり45℃のお辞儀。よどみのない敬語。つま先まで行き渡る独特の気。

 それらはすべてニクスさんを優美に見せた。

 

 普通ではないが、奇抜ではない女性だ。どの町にいてもおかしくないし、何なら日曜学校に一人はあんな感じの子どもがいたかもしれないと思うような、ありふれた人だ。

 武器を取ったことがなくて、身を守るすべはないけれどそれでも精いっぱいに人生を楽しんでいる。

 

 そういった印象をニクスさんに抱いていた俺は一連の彼女の動作を見て、列車の中での話に合点がいった心地だった。

 

 

 

***

 

 「シュバルツァー様、本当にすみませんでした。」

 「いえ、ニクスさんを危険に巻き込んでしまったのはこちらの手落ちですから。しかし本当に何かに巻き込まれたようでなくてよかった。」

 

 深夜の貨物便でノルドに直行し、駅でトヴァルさんと合流した俺は折り返しの貨物便に飛び乗り、ルーレへと向かった。

 その列車の中で、彼女はまず自分への謝罪を口にしたのである。

 出自や立場がどうあれ、たった一人の人間とコンタクトを取るために犯罪組織でも屈指の実力を持つエージェントが動き回るなどいろんな意味で悪夢でしかない。

 これでマクバーンを納得させられればこの旅路も決してつらくはない。

 

 そう思ったのだが、どうやら彼女は長時間自分を拘束したことに対して謝りたいわけではないようだった。

 

 「いえ、それもあるのですが少し事情が違って。

 白状すると、私はわざとシュバルツァー様にわざとその結晶を所持していただくように芝居を打ったので……その、すこしだましてしまったということになります。」

 「そうでしたか……そのことは自分にも少し非があることでしたから、構いません。それにしてもどうして自分にこの結晶を?」

 

 マクバーンが彼女を「頭が良い」と評したときにうすうすそのことには気付いていた。

 むしろ自分はそういった策略に嵌められてもおかしくない立場にあったのだから、気を抜いた自分にも非はある。だから気にするようなことではない。

 それよりも話題に出たついでに返してしまおうと思い内ポケットから結晶を取り出すとトヴァルさんの視線が不思議な結晶にくぎ付けになる。結晶は朝焼けの光を吸い込んで神秘的な光を放っていた。

 彼女の手にそれを持たせるとニクスさんはその結晶を掌の中に収めてぽつりぽつりと話し始めた。

 

 

 結論から言うと、帰りの鉄路は体感としては非常に短いものだった。

 ニクスさんの話が長く、複雑で、興味を引かれずにはいられなかったものだからである。

 

 

***

 

 

 私は、この20年ほど人を探していました。

 私にとって大切な友であり、上司であり、世界で一番尊敬している人です。

 50年前、私は大きなけがをしました。昏睡状態に陥り、30年たってようやく私は意識を取り戻しました。

 

 しかし、意識を取り戻した場所は私の故郷ではありませんでした。私の面倒を見てくれた方に故郷のことを聞いても知らないと言われるばかりで、私はどうすればよいかわからずに途方に暮れていました。

 一時期は無気力に時間を浪費することもあったのですが、いつまでも呆けたままではいられませんでした。

 最初は今よりももっと力ないというか、ほとんど這うようにでしたが、私は故郷に住んでいた人を探す旅に出ることにしました。

 

 筆を執っていくつか文章を書いて日銭に変えながら、周りの方のご厚意とあたたかいお気遣いに支えられ、私は帝国までやってくることができました。

 私が帝国に入国したのはほんの1か月前で、のーざんぶりあという都市に最初は滞在していました。

 そのあといくつかの都市を回って、私はけるでぃっくにやってきました。

 

 そこで、シュバルツァー様とお会いしたのです。

 

 

 驚きました。シュバルツァー様は、私が探している人の持ち物を持っていたからです。

 それはこの世に二つとないほど貴重なもののはずで、彼以外に持っていることはありえないはずのものです。

 それをシュバルツァー様が持っているということは、私の捜し人がシュバルツァー様であったか、彼がそれをシュバルツァー様にお渡ししたか。

 その二つの可能性しか考えられませんでした。

 

 いずれにせよ、シュバルツァー様は私の捜し人のことを何かご存じのはずと思いこの結晶をお渡ししたのです。

 これが結晶をシュバルツァー様に無理にでもお渡しした経緯です。

 

 ご理解いただけましたでしょうか?

 

 

 

 「……その、いくつか質問をよろしいでしょうか。」

 「ええ、もちろんです。」

 

 何というか、あたりを引いてしまったかもしれない。

 顔が苦くなるような心地がした。

 

 「ではまず一つ目なのですが、自分はそんな貴重なものを所持しているという覚えがないのですが、探している方の貴重品を俺が持っているのは間違いがないですか?」

 「ええ。間違いありません。覚えがない、とのことですけれどシュバルツァー様は数か月ほど前にそれをお使いになったようなのですが、いかがでしょう。」

 

 この世に2つと存在しないもので俺が数か月前に使用したもの。

 そしてその存在だけでその贈り主を特定できるもの。

 

 答えは言うまでもなく一つだ。

 ―――神なる焔。これは≪黒≫との戦いの時に使ったというか、使い果たしてしまったのだが。

 

 「……成程。思い当たるところがありました。」

 「何よりです。それを使ったことに関しては謝らないでください。あの人の持ち物ですし、あの人も使ってもらうために贈ったのでしょうから。」

 「お気遣い、痛み入ります。」

 

 「俺からも質問をいいかい?」

 「どうぞ。」

 「リィンが本当にその捜し人ってやつのことを知っていたとして、それとこの結晶を持つことがどうしてつながるんだ?」

 

 それは俺も思っていたところだ。特別な結晶であるというのはわかったのだが、結局この石の持つ機能は導力の伝導率がいい以外にはわからなかった。

 

 「その結晶は水分子の結合を整えて作ったものです。わかりやすく言うと超高圧の環境で圧縮した氷、といったところでしょうか。湖一つくらいの量の水を圧縮することでできています。

 特に何かの機能があるわけでもないですが、おそらくはこれもこの世に二つとない貴重なものになるはずです。

 これを私が持っているということは私が探している彼しか知りえないことですから、次にシュバルツァー様と彼が出会えばこれをシュバルツァー様が持っていることを不審に思い、何らかのアクションが起こるはずだと推測しました。

 ―――そして実際、そのようになったのです。

 

 本当に申し訳ありません。たかが人探しに付き合わせてしまって。」

 

 大切な人をお探しのようですし、幸い手掛かりがあったのですから気になさらないでください。

 そういうべきなのだろう。申し訳なさそうにしている女性を紳士として安心させるべきなのだろう。

 しかし自分もトヴァルさんも、この結晶の性質に唖然としてしまって、二の句が継げなかった。

 

 「そ、その結晶が、湖一個分……?」

 「?ええ、はい。とはいっても焚火にくべたくらいでは溶けませんから、この列車が水没するなんてことはありません。どうかご安心なさってください。

 この結晶が融解するほどの熱があれば、水没するよりも前に帝国が焦土になってしまいます。」

 

 信じられない。質量保存の法則はどうなっているんだ。ニクスさんも、俺も、普通に持ち運びができていた。

 というか氷が導力の伝導体ってことは最近特にホットな超伝導体の素材の研究なんてこれで完結してしまうんじゃないのか。

 

 情報量が多い。多すぎる。

 

 まず間違いなく、目の前のニクスさんは異世界からの来訪者だ。

 マクバーンはニクスさんを探していて、ニクスさんはマクバーンを探している。これで間違いないだろう。

 戦闘能力はないらしいがそうとわかると警戒してしまうのもしょうがない。

 そしてもう一つ聞くべきこととは別に、とても、とても興味が引かれ―――気になることがあった。

 

 

 「あと、もう一つ質問なんですが。

 ニクスさんはどうしてけがをしたんですか?」

 

 50年前。マクバーンもその時期にゼムリアにやってきたといっていた。どう考えてもニクスさんのケガとマクバーンの失踪は関係があるはずだ。

 

 「……すこし、長くなってしまうのですが……」

 

 

***

 

 私は、故郷で人々の生活を支えるお仕事をしていました。

 時に災いがあり、時に争いのある場所でした。

 

 私は特に治水を担当しており、洪水が起こらないように水路を開き、干ばつが起こらないように井戸を掘る。そして人々に水と恵みをもたらす仕事でした。

 機会平等の実現によって民衆に最大幸福を保証できるように私と彼は努めていました。

 

 しかしある日、避けようのない災禍が故郷を襲いました。

 人々は瞬く間に混乱に陥り、社会は秩序を失いました。

 人々は他者を傷つけることに快楽を覚え、私と彼ではすべての争いを解決できなくなってしまうほどでした。

 やがてその災禍は故郷の大地と空気を蝕み、私たちが愛した故郷の姿は変わり果てていきました。

 

 私がケガをしたのは春の日の事でした。

 せめてできることがあればと思い故郷の各地で混乱を収拾する活動をしていた私はその頃、共同で活動していた仲間とは離れて、主流水系の水質を改善するために山と湖を回っていました。

 飲み水としてだけでなく、生活用水、そして作物を育てるために水は不可欠であるからです。その日も私は海にそそぐ川の水を清めていたのですが、そこで私はとある暴動に巻き込まれてしまいました。

 そこで意識を失って、次に気付いた時には私は見知らぬ土地にいて、加えて数十年もの時間が経過していた、というのが大まかな経緯です。

 

 

 「さっきから気になっていたんだが……お嬢さん、アンタ一体何歳なんだい?」

 「と、トヴァルさん!?」

 「シュバルツァー様、私は気にしていませんよ。そもそも、故郷には年齢を数える文化がなかったので正確な年齢はわからないのです。」

 「へーそんなもんなのか……ただ聞く限り50年前の災害の時点でインフラや行政に関わる重要な仕事をしていたってことは……」

 「トヴァルさん!!」

 

 周りに人がいないとはいえ、女性に対してそういったことを言うのはさすがに感心しない。思わず注意するとニクスさんとトヴァルさんは楽し気に笑っていた。

 こういった冗談めいた質問もさらりと答えてくれるあたり精神の熟達した大人なのだということを感じる。

 

 

 「自分も少し踏み込んだことを聞いてもいいでしょうか?」

 ニクスさんは少し首を傾けて微笑み、質問をただ待っている。

 勇気を出して先ほどから気になっていることを言葉にした。

 

 「その、不快にさせてしまったら申し訳ないのですが、ニクスさんとニクスさんが探している方との関係が気になるというか……」

 「お、そいつは俺も気になるな。随分信頼しているみたいだし、幼馴染ってところかい?」

 

 マクバーンはヴァリマールから『異界の王』と呼ばれていた。

 それがどういった意味であるかは分からないが、本当に王族であるとするならばマクバーンは貴人ということになる。

 そしておそらくマクバーンと縁があり、マクバーンのことを慕う彼女も。

 

 邪推かもしれないが、深い関係にないといわれた方が驚いてしまう。

 ニクスさんの話を聴いている限り彼とは単なる仕事仲間である以上に、家族か、恋人か、そういう関係性があっても不思議ではないように感じられた。

 マクバーンが既婚者の可能性もあるということは別の意味で衝撃である。

 規格外すぎるあの魔人をここまで慕う存在がいるとは、世の中分からないものだ。

 

 「『彼』と私、ですか……対外的に見ればやはり上司と部下、のようなものだったと思います。私は本来彼の職務をサポートする役目がありましたから。ただ、仕事上での関係以上に私は彼の人となりや行いを尊敬していましたし、心からついていきたいと思っていましたよ。

 どうやらもっと別のことについてお尋ねのようですけれども……おそらくその予測は外れていると思います。生後間もなくからの縁であることは確かですけれど私も彼もそう言ったことを意識したことはありませんでしたから。」

 「でもすげぇ男だったんだろ?ひょんなことでくらっと来たりくらいはあったんじゃないのか?」

 

 にこにことやけに楽しそうなトヴァルさんはまるで水を得た魚、といったところだろうか。

 マクバーンのことをからかえる立場になることができたら面白そうだ、なんていう思惑がバレバレだ。

 

 「これ以上ないほどに素敵な人だと思っていますけれど、くらっと来たことはないですねぇ。そういった感覚が私には『備わっていない』だけなのかもしれませんけれど。」

 

 備わっていない。それはどういうことだろうか。

 マクバーンも彼女に関して『そのようにできている』ということを言っていた覚えがある。

 全く、話を聴けば聞くほどわからないことが増えていってきりがない。

 

 「私は、」

 

 ニクスさんは車窓をぼんやりと眺めている。流れていく景色を目で追うこともせずに、ただ遠くの山を見て感慨にふけっているようだった。

 

 「私は、本当にちっぽけで、どれだけあがいても何も守ることができませんでした。

 故郷にいたすべての命が失われていって、ただ混沌としていく狭い世界は直視できないほどに辛いものでした。

 声に出せないような非道な行いによっていくつもの無垢な魂は傷つけられ、人々は未来への希望を失っていきました。

 それは私も同じで、私がどことも知れぬ地で目覚めた時、私は消えてしまいたくてたまらなかった。

 傷跡ばかりで汚くなってしまった体や名誉を損なった状態で、大切な仲間も失っているのにわざわざ生きていこうだなんて思えませんでした。

 

 けれども、たった一人で蹲っていた私に手を差し伸べて下さる方がいました。私がその方の顔を見上げるために視線をあげると、その方の背中から差し込む光が目に入りました。

 本当は怖くてたまらなかった。また殴られるのではないか、嬲られるのではないかとも思っていました。

 けれどその方の声は穏やかで、不思議と心に染み入っていくようでした。その時に私たちを照らした太陽の光と、その方の手の温かさから私はかつての仲間のことを思い出しました。

 

 私は、せめて彼の名残を見つけられたら、とそう思っていただけなんです。」

 

 

 「それがまわりまわって、私はたくさんの人と巡り合えました。命を持つものは慈しみと優しさを持っているのだともう一度知ることができました。

 ――これも、『彼』の導きなのかもしれませんね。」

 

 

 そう言って瞼を閉じ、何事かを考える彼女は満足そうだった。

 俺とトヴァルさんは彼女に何と声をかけるべきかわからず、たた視線を交わし合っただけだった。

 

 (なんというか、マイペースな人だな)

 (ええ、本当に……)

 

 まるでこちらの反応など気にしないで話が進んでいくという展開は覚えのあるものだ。

 やはりこの人はあの男の関係者だろう。きっとこの口をはさめない状態のまま話が進んでいくノリは向こうの世界特有のものなのだ。

 そうに違いない。

 

 

 

***

 

 彼女はマクバーンに対して謝罪をしたきり、ずっと最敬礼の姿勢を維持していた。

 本当にあのマイペースで危機管理という概念のなさそうな女性が貴人であるのだろうかと半信半疑だったのだが、彼女が見せる気風と雰囲気には人を惹きつけるカリスマのようなものがあるように感じられる。

 

 

 ニクスさんの表情を確認するまでもなく、彼女の声は罪悪感を帯びていた。

 下げられた頭を覆うヴェールが不安定に揺れていて、きっと震えているのだろう。

 この反応はつまるところ、彼女とマクバーンの深い縁をこれ以上なく示していた。

 彼女は確信したのだ。マクバーンが自分の捜していた存在であることを。

 

 そして彼女はマクバーンが推測していた通りマクバーンと同郷の異世界人、ということになる。

 

 当のマクバーンはと言えば、妙に凪いだ表情で彼女の様子を隅から隅まで確かめた後におもむろに口を開いたのだ。

 

 

 

 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 彼がそう言って、彼女の震えは止まった。

 ずっと下がっていた頭がゆっくりと上がっていく。ようやく上を向いた彼女の表情は戸惑っていた。

 

 「、ニクス、と 申します」

 

 たどたどしく彼女がそう答えると、マクバーンは握手のために右手を差し出した。

 まるで初対面の人間にする挨拶でも交わしているかのようだった。

 これまでの様子と両者の話から、二人が知己であるというのは覆しようのない事実だったはずだ。だというのに、なぜ初対面の振りをする必要があるのだろう。

 

 ニクスさんも目を見開いて、差し出されたマクバーンの右手と本人の顔をかわるがわる見つめている。

 マクバーンはそうして視線以外を動かそうとしない彼女の右手を取り、無理やり握手の体をとった。

 

 「突然呼び出してすまん。ただ、会いたかっただけだ。」

 

 それだけの言葉に、いったい何の意味があるというのか。

 何の説明にもなっていない心のこもっていない謝罪を聞いたニクスさんは、しかし表情をくしゃりと歪めながらも微笑んだ。

 

 万感の思いのこもる吐息。肩を震わせて涙を耐えながらも、気丈に立っていた。

 

 「……っはい。わたしも、()()()()()()()()()()()()()()()本当に、本当にこの日を迎えられたことをうれしく思っています。」

 

 彼女はマクバーンの右手に自分の左手を重ね、まるで愛おしいものをなでるように包み込みながら涙をこぼして、そして満面の笑みを見せたのだった。

 

 

 

 

 (二人の世界、か……)

 (リィンお前ああいうの得意だろ。ちょっと割って入って来いよ)

 (無理だ)

 (だよなぁ)

 

 本当に、異世界人というのは意味が分からない。

 

 




肯定も否定もしない男、マクバーン。原作でも小説でも言葉足りなさ過ぎてマジで何言ってるかわからん。
ごーいんぐまいうぇい、ニクス。頼むからコミュニケーションをとってくれ。勝手に世界に浸らないでくれ。

どうして作者が描写するキャラクターは皆コミュ障になってしまうのか。
作者のコミュ障が悪いのか。


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4.5 人物レポート:ニクス(オリキャラ設定)

執筆者:リィン・シュバルツァー


 

 

ニクス

 

 

性別:女(の体に入っている) 年齢:不明

所属:なし 使用武器:なし 出身地:異界?

身長:約160リジュ(ヒール含む)

 

 

 

 マクバーンと同じ世界から来たと思われる女性。そこでは行政やインフラに関わる仕事をしていた模様。どうやら水に関する異能を所持していると思われる。

 女性の姿をしているが、マクバーンのことを思えばこれはゼムリアに存在していた誰かの姿なのかもしれない。

 姓は不明。帝国入りするときは戦後のごたごたに乗じてノーザンブリアから帝国入りしたとのこと。ノーザンブリアで調査を行ったところ、治安が悪い街区の路地裏で目撃されたのが最も古い目撃情報である。

 傾向として、嘘は言わないが、真実のすべてを教えてくれるわけでもない。

 武装しておらず、戦闘を使用という意思がない。またこちらの要求や交渉には応じる姿勢を見せ、質問にもすべて答える。

 

 会話内容から人間に備わっている能力や感情をいくつか持ち合わせていないと察せられる。(敵意や害意、恋愛感情がここに含まれると思われる。)

 飲み物を飲んでいるところは目撃されているが、食事をとっているところは目撃されていない。

 

 髪の色は黒。瞳の色は形容しがたい色をしている。(少なくとも他に例のない色であるといえる)

 稚拙ながらも言語化するとすれば、金と銀の中間。黄色と灰色と透明が混じったような色。月の光のようでもある。見る人によって表現が変わる色だろう。

 常時ヴェールをかぶっており、髪の長さなどは不明である。

 人前では必ず着用しているとのことで、何か事情があるようだ。

 

 黒のワンピースと黒のストッキングを着用している。

 ノルドでの滞在時は馬を利用せずに長距離を移動しているが、靴の損傷が少なかった。

 

 異能に関しての詳細は不明。水分子の配列を操作し、水の質量を変化させたがこれはごく一端である可能性がある。

 マクバーンとの関係性、不明。両者に聴取を取ったが詳細は判明せず。

 

 なお詩や随筆を出版しており、その印税を資金としている模様。

 

 今後の活動に関しては帝国に長期滞在する意向を示している。具体的な内容はまだ未定であるとのことだが、起業や社会奉仕など様々な将来図を描いているようだ。

 

 好きなものは人の善意、嫌いなものは死、とのこと。

 

 

 異界の出身と思われるが≪結社≫や星杯騎士団について独自の見解を持っている模様。

 ≪黄昏≫でマクバーンが取り戻していなかった記憶に関する情報も有しており、これについて両者は何度かコンタクトを取っている。

 折を見て幻想起動要塞にて入手した情報についての考察を依頼する予定。

 

 追記:マクバーンが結社の活動に消極的であるとの情報を入手。その真偽についての精査が求められる。




無害ですが?みたいな顔と態度してるけど≪劫炎≫の知り合い(?)ってだけで警戒されているようだ。可哀そう。
実際無害。周囲もわかっちゃいるけど警戒しないっていうのもそれはそれで問題なんだよなぁと体裁に振り回され気味。


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5 一般常識に関する講義

<依頼人>ニクス

 この世界のことを教えて下さる方を探しています。
 報酬については応相談とさせていただきます。


 「本当にお世話になりました。」

 

 晴れやかな顔で感謝の言葉を紡ぐニクスさんは本当にうれしそうだ。ケルディックであった時はどこかぼんやりとしていたが、今は活力に満ちている。

 

 「お役に立てたなら何よりです。ニクスさんはこれからも旅をなさるんですか?」

 

 マクバーンのことはただ一目見れたらいいというニュアンスのことは言っていた。目的が達せられた彼女はこれからどうするのだろうか。正直なことを言うとマクバーンを結社から遠ざけ続けてくれると嬉しいのだが。

 

 「そのあたりのことはまだ決めていなくて…いろんな人と相談しながらこれからのことを考えようと思っています。自分に何ができるのかはわかりませんが、どんなにちっぽけでも誰かの役には立てると思っていますから、社会をよくするためのお手伝いなどができればいいと思っていますけれど……」

 「ニクスさんならきっと百人力ですよ。」

 「ありがとうございます。でも帝国のことについて私は何も知りませんので……正直なところ急に広大な海の中に放りだされてしまったかのような心地です。」

 

 つまり、彼女はマクバーンと違ってこちらに来てからまだ日も浅いから何も知らないのだろう。日曜学校に通っていたわけでもないし教えてくれる存在がいたわけでもないようだからそれが当然なのだが、彼女は魔獣や導力魔法についても知らないのだろうか?

 その仮説があっていれば初めてあった時の様子にも説明がつくのだが……

 魔獣=襲ってくるもの、身の安全を脅かすものという認識がないのかもしれない。さすがにそんな状態で社会に放り出すというのは一人の教師として気が引ける。

 

 「俺でよければ帝国の地理や社会、最近の国際情勢や経済状況などについてお教えしますよ。」

 「あら、そういえばシュバルツァー様は教鞭をとられているとのことでしたね。お手間をおかけして申し訳ないのですけれど、お願いしてもよろしいですか?」

 「お任せください。それと俺の方が年下なわけですしそのシュバルツァー様というのはよしてください。俺はそんなに偉くないので……」

 「個人はその出自や身分に関係なく、尊ばれるべき存在だと思っています。年齢に関係なくあなたが私に多くのことを教えて下さるように、私にとって他の方はみな師であるのです。どうか敬わせてください。」

 

 何というか、正論なのだが、どうにも面映ゆくて背筋がかゆくなるというか、ちょっと寒気がするような気も……

 

 寒気?

 

 まさかと思い振り返ると、『虚無』をその顔でもって体現したマクバーンが俺を見ていた。

 一体何が気に食わないというのだろう。

 

 「マクバーン様もご一緒にいかがですか?()()()()()()()()()でお茶を買いましたから飲み比べをしてみましょう?」

 「ハン……」

 

 マクバーンはニクスさんの提案を鼻で笑うと小要塞から出ていった。

 

 「あ、おい……勝手に外に出るんじゃねぇよ!」

 

 クロウがやれやれといった様子で追いかけていって、最奥には俺とニクスさんの二人になってしまった。

 

 「えっと……ニクスさん、すみません。」

 「いえいえ、お気になさらないでください。マクバーン様も楽しそうにしていらっしゃいましたから私たちはお茶の準備をしにまいりましょうか。」

 

 

 

 「え?」

 「??」

 

 

 

 「楽しそう、だったんですか?」

 「ええ。そのように見えましたよ。きっと佳境に入ったあたりでお顔を見せてくださると思います。」

 「そ、そうですか……」

 

 俺には全くそう見えなかったが、二人には二人にしかわからない特殊な符牒か何かがあるんだろう。幸いニクスさんとは比較的意思の疎通ができているし、この際だからいろいろな疑問について意見を聞いてみるのもよいかもしれない。

 ニクスさんを図書室まで案内し、入門書をいくつか見繕ったあと、食堂に場所を移して日曜学校で学ぶようなことを伝えていくこととなった。

 

 「こちらが帝国の地図です。

 縮尺は50万分の一ですので1リジュが50セルジュに相当します。

 エレボニア帝国の首都である帝都ヘイムダルはおおよそ帝国の中心にあり、鉄路で各都市にアクセスすることが可能です。

 今回の移動を例にとると、ニクスさんはここにあるケルディックからルーレまで移動し、そして北上してノルドまで行ったわけですね。」

 

 「こんな長距離を短時間で移動できるなんて随分輸送力に優れているんですね。私が乗った列車は貨物を多く積載していましたが旅客もたくさん運ぶことができるのでしょう。しかし鉄道は鉄路がなければ通れない仕組みであるようですが、やはり建設コストに見合う利益が?」

 

 「ええ。鉄路でターミナル同士を連携させて物資や人を運び、そこからは整備された街道を導力車を用いて運搬します。鉄路でカバーできないほどの長距離であれば飛行船で空を行き来することで対応しています。距離とコストに合わせて使い分けるのが一般的です。」

 

 「なるほど……やはり帝国とはかなり広い。民族や宗教に関する社会問題は発生していませんか?」

 「ゼムリア大陸のほとんどの地域では空の女神が信奉されています。七耀教会という施設の人々が伝え広めており、総本山はアルテリア法国にあります。各地で精霊などが信仰されている場合もありますが、宗教による対立が起きている例は多くはありません。」

 「……」

 

 「民族問題の方は、東側の隣国であるカルバード共和国で深刻になっていますね。共和国は多くの移民を受け入れてきた歴史があり、融合しきらなかった多文化が衝突を起こしているんです。」

 「そうでしたか。悲しいことではありますがやはり人が集まれば争いは避けられないものなのですね。治安維持に関してはどのような組織が?」

 「行政としては軍隊、警察などが多いですが、民間には遊撃士協会という組織があります。」

 「ほうほう……」

 

 呑み込みが早い。速すぎるくらいだ。まるで乾いたスポンジのようにニクスさんは知識を吸収していく。

 俺の専門ではない技術的なことに関しても俺は大した説明ができていないのに七耀石とオーブメントの存在を伝えただけでニクスさんは概要をつかんだようだった。今は旧型のARCUSを興味深そうに触っている。

 

 「これ、少し開いてみてもいいですか?」

 「もう使っていませんので構いませんが、工具がないと厳しいのでは?」

 「??」

 

 その手には細い棒のようなものが握られていた。彼女は荷物を職員室に預けていたので手ぶらのはずなのだが、気にしてもしょうがないということか。

 彼女は興味深そうにクオーツを付けたり外したりしながら回路のエネルギーの流れを目視で確認しているようだ。

 

 「面白いですか?」

 「とても。先ほどお話にありました七耀石に関して聞いた時も気になりましたが、随分と()()()にできています。七耀石の純粋な結晶ではなくセピスを複数繋ぎ合わせてクォーツを合成できるなんてにわかには信じがたいですもの。」

 「それってそんなにおかしなことなんですか?」

 「セピスは七耀石の欠片とのことでしたが、この割れ方を見るに劈開という性質があるようです。とすると、クォーツの加工の際には異なる欠片同士の劈開面を繋ぎ合わせているのではなく溶融などで加工していると考えるべきでしょう。完全な劈開を有する物質はクォーツのように曲線的な形に加工することが難しいからです。

 さらに興味深いのはそこから現象を引き出すという性質ですが……これに関しては推測の域を出ませんので私自身の宿題とさせてください。」

 「一目見ただけでそこまでわかりますか。旧型とはいえ戦術オーブメントは非常に複雑な機構であると聞きます。ニクスさんならば今すぐにでも研究の最前線で活躍できそうだ。」

 「本職の方には敵いませんよ。お上手なこと……」

 

 驚くべき洞察力と慧眼で教えてもいないことを導き出して見せるニクスさんには思わず舌を巻いてしまう。本当はこの人、俺が教える必要なんてなかったんじゃないだろうか……

 

 「シュバルツァー様のような立場のある方も導力器と太刀という二種類の兵器を携行していること、導力器が広く普及していることを考えると導力は有限であれどもクリーンなエネルギーなのでしょう。些かエネルギー革命が円滑に行き過ぎていることが気になりますが、そういうものなのでしょうね。」

 

 導力革命を起こしたC・エプスタイン。彼は故人であるが、その名前を先日ある場所で耳にした。

 ≪根源≫のマリアベルによれば“世界”のことについて何か知っている様子だったが死人に口はない。気にかかる情報だが真偽を確かめることすら困難と言えるだろう。

 思わせぶりで、さも重要だといわんばかりに目の前でちらつく情報たちは断片的でそれらのつながり方がいまだ不明瞭だ。しかしこの真実の究明を見過ごしてしまえばまた黄昏のようなことが起こるのではないかと思うとぞっとしない。

 もしもこの世界の成り立ちを知ることができたとして、自分たちにどうにかできるとも限らないのだが。

 

 そんな俺の不安を見抜いたのか、ニクスさんはオーブメントから顔をあげた。

 

 「何か気がかりなことがあるようですが、真実とはえてしていつかは明らかになる運命にあり、そして私たちの想定よりもはるかに理不尽なもの。あれこれと悩まずともシュバルツァー様ならば大丈夫ですよ。」

 「自分はそこまで能力の高い人間ではないのですが……」

 「ふふふ、ご謙遜を。」

 

 超人ではないのだ。期待されても困る。苦笑していると彼女は分解したARCUSを元通りに組み上げたようでそれを返された。試しに回復魔法を駆動してみると、いつも通りに癒しの魔法が組みあがる。事前知識もなしに、元通りに組み上げて見せたのだ。

 

 「すごいですね。本当に元通りだ。」

 「あら、捨てる気で私に貸してくださったんですか?貴重品なのでしょう?感心いたしませんね。」

 「あなたが貸してくださった結晶と比べればありふれたものですよ。

 

 そうだろう?」

 

 上階から近づいてくる気配の持ち主を見上げて同意を求めてみれば、マクバーンは紙袋を片手に階段を下りてくる。

 

 「クク……その通りだ。せいぜいこの世に二つとない貴石を目にできたことを喜びやがれ。」

 「そうさせてもらうさ。ところでその袋の中身は…?」

 

 「パンケーキだが?」

 「「ぱんけぇき。」」

 「なんだよその目は。」

 

 結社最強の≪火焔魔人≫がルセットでパンケーキを購入したなんてにわかには信じがたい。ニクスさんも不思議そうにしている。

 

 「ニクス、お前()()()()()()()()んだろう?いい機会だ。初体験ってのをさせてやるよ。」

 「……」

 

 何を言っているんだこの男は。

 大人の女性の姿を取っているニクスさんだが、どうにも無垢で無知な子供に見えてしまい、俗な話を振るのは気が引けるというのに。

 

 

 「…食うって、どうやるんですか?」

 

 

 しらけた視線をマクバーンに向けていた俺の目は、彼女の言葉によって驚きに見開かれることとなった。

 そんな俺の驚きをマクバーンは鼻で笑った。

 

 「シュバルツァー、何面食らってやがる。何度も言うがこいつは違うんだよ。生命、魂、感情の在り方がそもそも人間とは違う。こいつのそれは人間のように成長とともに育てられたものじゃない。生まれた時から気の遠くなるような年月をこの精神性のまま過ごしてきた。俺たちはそういうものでしかなかったってことだ。」

 「つまり……マクバーンのその好戦的な性格は生まれつきってことか。」

 「ま、その通りだな。」

 

 「マクバーン様、私に食事って意味があるんでしょうか」

 「知らねぇよ。だが娯楽としてはまぁまぁイケるぜ?」

 「娯楽……」

 「こーやって、口ん中入れて、噛む」

 

 ぎこちなく使い捨ての木製フォークを握ってパンケーキをやや大きく切り取ったニクスさんはマクバーンに習って扱いに戸惑いながらもパンケーキを口の中に収めた。

 もぐ、もぐ、もぐと咀嚼が何回も続いて、嚥下する様子がない。

 

 「ニクスさん、そろそろ十分に噛めたでしょうから、飲み込んでみてください。」

 

 ご  っくん

 

 なんだかすごい音がした気がする。詰まらせた様子はないが、初めての食事がパンケーキとは少しハードルが高かったのではないだろうか。乳児だって離乳食を必要とするのだからもう少し楽なものから慣らしていくべきだろう。

 ニクスさんは初めての食事にやや疲れてしまったのかして、黙りこくっていた。

 

 「大丈夫ですか?水をどうぞ。」

 「あ、ありがとうございます。食事、は初めてですけれど、驚きました。この充足感は確かに飲み物を飲むだけでは得られないものですね。豊かな甘み、香りと風味…

 材料の味以上に作り手の工夫と努力が垣間見えるようです。

 計算され切った工程と比率。このパンケーキへのこだわりは尋常ではありません。

 こんなものを当たり前に作り出すことができるなんて、まさに料理は人間の叡智の結晶ですね。」

 「クク……何よりじゃねぇか。買ってやった甲斐があるってもんだ。」

 

 マクバーンは薄い紙きれをテーブルに置いたかと思うと立ち上がると炎の転移陣を展開してこの場から去ろうとする。

 

 「マクバーン様?」

 「残りはやるよ。―――俺は帰る。」

 「またお前は勝手なことを……クロウはどうしたんだ?」

 「今回の礼はそれでおさめといてくれ。ニクス、これから生きていく中でおそらくお前は多くのものを目にすることになるだろうが、深入りはすんじゃねぇぞ。俺みたいになる。」

 「お気遣いをありがとうございます。縁があればあなた様とまたお会いすることが叶いましょう。」

 「ハン……そんじゃあな」

 「良き縁のありますように」

 

 俺の質問を無視してどこかすがすがしい様子で言葉を交わす二人は、満足気である。連絡先を交換した様子もないし、次にいつ会えるかもわからないというのにそれでいいのだろうか。

 そもそもニクスさんはマクバーンが犯罪組織に身を置いていることに気付いているのだろうか。

 

 この二人を引き合わせれば騒動は収束すると思っていたが、全てがすべて丸く収まって解決、というわけにもいかなかったようだ。結局わからないこともたくさん残ったままだったし、何より不安なのはマクバーンとニクスさんの未来だ。

 彼らはこれから、どうやって生きていくのだろう。

 

 マクバーンが自己を確立するために激しい闘争を求めて結社に身を置いていたのなら、ニクスさんとの邂逅を果たしたことでその目的は達せられたはずだ。もうこれ以上大陸を混乱に陥らせる計画に加担する必要はない。しかしテロリストとも考えられている彼を受け入れられる環境は俺には思いつかない。

 そしてニクスさんのこれからも、どうなってしまうのだろうか。おそらく戸籍を持たない彼女は表社会で真っ当に生きていくことが難しい。そして彼女の異質さは生活していくうえでどうあっても付いて回るだろう。

 

 ただ生存していくだけならきっと彼らにとってたやすいだろうが、できるならば二人にも社会の中で人と幸せを分かち合っていくような、そんな喜びを知ってほしかった。

 世界という故郷を失った彼らだからこそ、俺にとって大切なこの世界を愛してほしいと思った。

 この社会には、いろいろな人間がいるから。

 

 しかし同時に、どんなに優しい人間にも闘争と生存のための本能が備わっている。心の中の天秤が傾いてしまえば、彼らのような異質な人間は排斥されてしまうだろう。

 彼らがどんな不便を強いられていたとしても、どれだけ不遇を辛く思っていたとしても、時として人は心無い行動をとる。

 二人は強く、そういった目にあっても逆境に負けないだけの強靭な精神と柔軟な意思を兼ね備えているのだろう。しかし俺には、彼らがひどく孤独に見えてしまったのだ。

 過去をたった二人で共有して、他の人間に明かす素振りも見せない二人の悲しみや怒りは俺には計り知れない。

 しかし彼らが過去に深い傷を負ったのならば、どうか暖かな人々のやさしさに触れてそれを癒してほしかった。

 

 

 「シュバルツァー様、心配をかけてしまったようですね。」

 「俺は、俺はあなたたちに安全に生活してほしいです。辛いことがあったなら、その分心休まる時間があってほしいと思っています。

 しかし自分はどうやってそれをあなたたちに保証できるかがわからないんです。

 

 ……すみません、無力で……」

 

 

 「――――――。」

 

 彼女は目を閉じて、俺の言葉の意味を慎重にとらえようとしていた。そしていくばくかの言葉を口の中で練るように薄い唇をもごつかせてから、瞼と口をひらいた。

 彼女の微笑みは、まるで母が子に向けるような慈愛がたっぱりと含まれた笑顔だ。

 

 「シュバルツァー様はいろいろとご存じのようですからそれを踏まえて私見を述べさせていただきますね。

 思うに、私たちはこれから初めて人として『生きて』いくんだと思います。私たちは昔、ただ力を持つ存在でした。与えられた使命を疑わず、ただ生命を持つ存在を守るためにありました。

 そこに喜びも悲しみもなかったけれど、私は満ち足りていました。私は故郷が好きだったからです。たとえそれが神に与えられたプログラムだったとしても、私はあの遠い地にある故郷を愛していました。

 

 確かに故郷は失われて、私たちはまた新たな場所で生きていかなくてはならない。ゼムリアという場所に私たちは生れ落ち、叡智も名誉も何もないまっさらな人として、様々な苦難を乗り越えて喜びを人と分かち合いながら時を歩んでいきます。それは一つの過酷な試練のように見えるかもしれません。

 

 不安な気持ちがないといえば嘘になりますが、それ以上に私は嬉しいんです。

 あの方にもう一度出会えたこと。あの方も私と同じように一人の個人として生きていくと選んだこと、過去を分かち合えたこと、そしてシュバルツァー様やランドナー様のように優しい方々と巡り合えたこと…

 素敵なことが沢山あって、私はこの世界も大好きになりました。

 だから、私はきっと生きていけると思います。

 

 これが何があるかなんて私にはわかりませんけれど、人々が放つ光に導かれながらきっと歩んでいける。そう思っています。

 

 ―――そしてそれは、あの方にとっても同じなんでしょう。

 あの方はようやく、自我を確立したという意味で私と同じ≪赤ん坊≫でしかない。これからどこでどんな風に生きていくかということはあの方自身がこれからゆっくりと考えていくでしょうから……だからどうか今は見守ってくださいませんか?この世界での先輩として。私の人生のお師匠様として。

 

 もし、もしもあの方がこの世界の倫理に反した行いを取ることを選んだら。

 その時は私が彼を説得してみますから。誼で、話くらいは聞いてくれるかもしれません。」

 

 

 「ニクスさん……ご存じだったんですか。」

 「細かい事情に通じているわけではありませんが、皆さまの立場から考えれば何があったかは何となく。

 あの方の力は、あなた方にとってみれば非常に強力でしょう?私たちの故郷の文明を繁栄に導いた王の力ですから、“力”の概念がないこの世界であの方を初めて目にしたときの皆さまの御心は察するに余りあるというものです。

 しかしあの方はその力をふるうために必要な指針を失っていただけなのだと思います。私があの方と離れて未来へ進む希望をなくしてしまったのと同じように。

 

 だから、だからきっともう大丈夫だと思います。私が今明日への希望を再び得たように、あの方も力の本質を再び知ることができた。

 私が知るあの方は真に賢君でした。尊き生を営む民衆を傷つけるために力を使うなんてことはもうできないはずです。」

 

 

 「本当に、信頼し合っているんですね……。しかしもう少し彼を引き留めるべきでしたか。お話の時間も多くは取れず、すみませんでした。」

 「シュバルツァー様には十分ご配慮いただきましたよ。あの方のお言葉は、おそらく人として生きていくことの決意表明みたいなものだと思います。

 ……あの方も、思うところがあったのでしょう。」

 

 ニクスさんは立ち上がると机の上を片付け始めた。

 

 「私もしばらく答えが出るまではこの地でゆっくりと考えてみようと思います。何か力になれるようなことがあれば、どうかお声をかけてくださいね。

 今回の事のお礼がしたいですから。」

 

 資料を抱えて図書館への道を歩こうとする彼女に続いて席を立つと、彼女はちょうどマクバーンがおいていった紙片を手に取っていた。あの男が学生寮の俺の部屋に忍び込んだ日、渡してきたものと同じだ。その紙片には雑な字で短い単語が書かれている。

 

 「『協力券』……?」

 「マクバーンによるとお礼に何をするべきかわからないらしくて、炎が必要になったときにその券を使って呼べと言われてしまいましたよ。本人が目の前にいないときにどうやって使えばいいのかもわかりませんけどね。」

 「ふふふ、本当に…でもいいアイディアですね、これ。力の強いあの方らしいお気遣いですこと。」

 

 資料を彼女の手から受け取って食堂を出ると、傾いた西日が差し込んできた。橙色の光にニクスさんの被るヴェールが透けて、レース細工の奥がほんの少し光の下にさらされた。

 

 「……」

 「どうかなさいましたか?」

 「―――いえ、何でもありません。少し西日が目に沁みてしまって。図書室に本を戻して荷物を取りに行きましょう。」

 

 

 彼女の側頭部には、おとぎ話の精霊のような尖った耳と羊が持っているような形の角が備わっていた。

 それこそは彼女が異界の存在であることを示す何よりの証拠であることなのだろう。

 そしてそれを隠しているということは、彼女はこの世界で人々と関わりながら生きていこうとしている、ということだ。

 

 (俺に、その決意が応援できるとよいのだが……)

 

 西日がまぶしい。手をかざしながら空を見上げると低い空に一番星が瞬いていた。

 

 

***

 

[協力券<火焔>]を手に入れた!(二枚目)

 

 イベントアイテム:協力券<火焔>

 いざというときにマクバーンが何かを燃やしてくれることを保証するチケット。

 使い方がわからない。

 

 

***

 

 

 夜。

 月は出ていなかった。今日は新月だ。リーブスの空は寒々としており、星の光が街をちらちらと照らしている。

 人目につかないところに、奇抜な風体の男が一人立っていた。男は街をぼんやりと見つめている。そしてそこに近づく気配があった。

 何か考え込んでいる男に、その存在は気安く語りかけた。

 

 「あんだけ熱心に探していたくせにあっさり巣に帰るとは、ちと薄情なんじゃねぇか?」

 「―――クロウか。」

 

 マクバーンのもとを訪れたのはベージュ色のコートを纏った若い男だ。クロウと呼ばれたその青年は少し酒臭い。どうやら近くの酒場で飲んだようだ。

 

 「追加報酬か?≪スタインローゼ≫はもうねえぞ。」

 「もっといいもんせしめに来たに決まってるだろ。

 釘差しも兼ねてだが、満足したんだったらもう面倒ごとに巻き込むんじゃねぇ。泰山鳴動してなんとやら、ここまで巻き込まれて結局また腰の抜けるような結末しかなかった。これに味を占めて体よく利用されたくはないからな。

 逢引きをするなら人目のねぇとこでやってくれ。目に毒だっつの。」

 

 うんざりとした様子の青年に対して、男は何もしゃべろうとしない。

 

 「念願の探し人が見つかってよかったというべきかもしれねぇが、結局お前たち二人はどういう関係だ?あの女はこれから蛇と関わる可能性があるのか?

 それだけでもはぐらかさないで喋ってもらおうか。」

 「クク、はぐらかしてるつもりはないんだがな。」

 

 男は上着から眼鏡を取りだすとそれをかけて青年のほうに向きなおった。

 

 「以前話した通り、あれは俺のいた世界での知り合いだ。向こうでは仕事が多かったもんでな、それを手伝っていたというのが一番近い。

 ≪蛇≫との関与については、俺の方からも気をつけておく。あいつが俺の見ないところで巻き込まれないように言っておいたから大丈夫だとは思うが、結局のところ面倒ごとってのはあれを気にする限りついて回る。」

 「どういうことだ?」

 「気にかけるべきは蛇だけじゃねえだろ。騎士団も、財団も胡散臭いことに変わりはねぇ。あいつは本質的に俺と同じ厄ネタだ。勝手に生きていくだろうからほっとけ。」

 「“異能”はどうだ?」

 「危険性はないな。」

 「そんだけ分かれば十分だ。じゃ、俺は行くが他人に迷惑かけんなよ?」

 「どいつもこいつも信用のねぇことだ。気が抜けてわざわざ動く気にもならねぇからしばらくは大人しくしてるさ。」

 

 

 青年は男の返答に満足して夜の街を歩いて行った。

 一人残った男はなおも街を見つめている。思うところがあるようだ。

 

 

 「人の営み、世界、未来……か。

 せめて愚昧な王のケリは、付けとくべきなのかもな。」

 

 何かを心に決めた様子の男は一陣の風と共に姿を消し、そこに残ったのは炎の残滓だけだった。

 

 

 



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6 気になる女性

 

 「ねぇアル、どう思う?」

 「詳細は一切不明です。しかし先日彼女は私にルセットでパンケーキをおごってくれました。悪い人ではないと思います。」

 「そうよね~。リィン教官が連れてきたってあたり、ただの旅行者じゃなさそうだけど…。

 でもそれ以上にやっぱり気になるのよね。」

 「同感です。対象はここの所頻繁に分校に出入りしています。調査の結果、蔵書室における書物の閲覧が入校理由で、それ以外の区画には立ち入っていないようです。

 不審な点はないのですが。」

 

 「でもそういうところが余計気になるのよ!悪人じゃないんだろうから友達になれたらいいのに、全然捕まらないし……」

 「パンケーキのお礼もまだ言えていません。」

 

 「よーし、こうなったら二人で協力してあの女の人を探して話しかけてみるわよ!」

 

 えい、えい、おー!

 

<隠しクエスト「気になる女性」を開始した!>

 

 

 帝都近郊、トールズ第Ⅱ分校のあるリーヴスの地にて、こぶしを突き上げ掛け声を発する女子士官学院生が二人。

 一人はユウナ・クロフォード。クロスベル出身の活発な少女であり、所属するクラスにおいてはムードメーカー的存在である。

 もう一人はアルティナ・オライオン。冷静で合理的な判断と特殊な武装から状況を読み取り器用に立ち回るオールラウンダー型のサポーターだ。

 二人はこの時胸から湧き上がる使命感からとあるミッションを開始しようとしていた。

 

 これは哨戒任務ではない。ある日リーヴスに突然やってきてそれから滞在している女性。旅行者にしては世慣れていないというか、素直過ぎてどこか幼い印象を受ける人。

 二人はその女性とお近づきになりたいと思っていた。

 特に理由はないが、強いて言えば女のカンが叫ぶのだ。「気になる!」と。

 

 「まずは聞き込みよね。滞在先のバーニーズからにしましょう。」

 「はい。宿にいなければ対象がいそうな場所を回ってみるとよいと思います。」

 「それだと、本屋と、分校の蔵書室と、ルセットとか?案外すぐ見つかるかもしれないわね!」

 

 二人は知らない。これがリーヴス全体を舞台にした壮大な鬼ごっこの開幕になることを。

 

 

<宿酒場「バーニーズ」 バーニーの証言>

 「長期の滞在を希望しています。1か月分の宿泊費を一気に払ってくださっていますのでもう少しリーヴスに滞在するはずです。とても優しい方で先日デイジーが体調を崩した時には店の前の掃除を手伝ってくれました。

 お散歩をしていらっしゃる日もあれば、部屋から一歩も出てこない日もありますね。今日は朝からお散歩に行ったみたいですよ。帰ってくるのは夕方になるとおっしゃってました。」

 

 

<ベーカリーカフェ「ルセット」 リーザの証言>

 「最近滞在してるヴェールをかぶった女性について?とても礼儀正しい人よね。先週は3回ほど午後2時くらいに小型のパンを一つ買っていったわ。天気のいい日に窓に面した席でパンケーキを食べることもあったわね。

 今日は見てないから、明日はいらっしゃるんじゃない?たまに製パンのことに関して質問されるけど回数を重ねるたびに質問内容が専門的になっていくの。とても勉強熱心な人なんじゃないかしら。

 

 名前や年齢ですか?うーん知らないなぁ……そこまでおしゃべりするわけでもないし。年齢もわからない。成人、しているのかな……」

 

 

 

<本・遊具「カーネギー書房」 レイチェルの証言>

 「最近よく来るね。買っていくのは文具と原稿用紙が多いかな。書籍だと帝国時報や社会に関する本をよく見てるね。あとは雑誌なんかも好きみたい。

 それ以外の事?うーんリィン教官とは前々から仲がいいみたいだけど、最近はトワ教官とも楽しそうに話してたよ。あとは毎回服が黒い。

 今日?来たよ。店を出たら広場を歩いてったけど」

 

 

<セレスタンの証言>

 「ニクス様についてですか?

 え、ああ、彼女のお名前です。苗字はないと聞いています。よく蔵書室を利用しにいらっしゃいます。最初のうちは朝から夕方までずっと本を読んでいらっしゃいましたが最近はほとんどの本をお読みになったようで少し頻度が少なくなりました。

 本日も蔵書室にはいらっしゃいましたが午後にはお帰りになりましたよ。リーヴスの街を探索するとおっしゃっていましたからまだ広場のあたりにいらっしゃるのではないでしょうか?

 彼女自身のことについてですか?のんびりとした方でマイペースでいらっしゃいますね。」

 

 

 

 「……うーん、いないわね」

 「今日の行動はバーニーズを出た後に蔵書室で読書、その後カーネギー書房にて買い物。それ以降は町を散歩したとのことですがルセットにはいなかった、と。」

 リーヴスはそう広くはない街だ。歩いていれば鉢合わせることもあるかもしれないと思っていたが行方すらつかみきれないとは思わなかった。

 

 「ほんとにね。でもトワ教官とか、セレスタンさんとか彼女のこと知っている人はいるみたいだし、こうなったらみんなに聞き込みしていくわよ!」

 幸いまだ夕食の時間までには少しある。せっかくだし心ゆくまで探してみることにしよう。

 気合を入れなおした2人は手当たり次第にすれ違う人々に『ヴェールをかぶった女性』について話を聴いて回り始めた。

 

 

***

 

 「い、いない……」

 「リーヴスにいることは確かなのに、なぜ見つからないんでしょう」

 

 結論から言うと、二人はニクスを見つけることができなかった。教会では日曜学校に参加しているという証言や、村長宅でフランキーの家庭教師をたまにやっているという情報、駅のベンチで列車を眺めていたという目撃情報まで得られたのに、肝心の本人が見つからないのだ。

 正直なところ、ヴェールをかぶった人なんてシスター以外にはそういはしないのだから目撃情報もすぐに集まるだろうと思っていたが、情報が集まっても本人が見つからなければ意味がない。

 

 

 「ユウナにアルティナじゃないか。何をしているんだ?」

 

 そこに声をかけてきたのは、自分たちの担任である男性教官だ。

 今探しているニクスをリーヴスに連れてきたのはほかでもないこの人だと聞いている。どんな経緯があってそんなことになったかは知らないが、あの日は何かおかしかった。自由行動日なのにトワ教官もリィン教官も町に姿を見せなかったのだ。

 いつもなら生徒や町の人々の困りごとを聞いて解決するために朝から走りまわているというのに、だ。

 

 そしてクロウさんがリーヴスに来ていた。クロウさんは≪黄昏≫のあと表立って処理しにくいことを一手に引き受けているらしくほとんど休みなんてないと言っていた。たまにトワ教官やアンゼリカさん、ジョルジュさんと会っているらしいが、それでもリーヴスに来たことはなかった。

 

 思えばおかしなことはあったが、教官に聞いてみても「もう丸く収まったから。あ、この女性は今日からリーヴスに滞在するそうだ。困ったことがあったら助けてやってくれ」とだけ言われた。そんな少ない説明で納得できるはずもないのに。

 

 まるで自分たちのことを幼い子供か何かだと思っている教官にここらで文句の一つでも言ってやろうと意気込み、振りむいた。

 

 「リィン教官!私たち、教官が連れてきたニクスさんっていう女性を探してて―――って」

 「こんにちは。初めまして。」

 

 振り向いて疑問を叩きつけようと思ったら、リィン教官の斜め後ろには今日探し続けていた女性が立っていた。

 

 「あーーーっ!」

 「対象、発見しました。」

 「「???」」

 

 分校から出てきたリィン教官とニクスさんは何が何だかわからないといった様子だ。しかしこれは逃せないチャンスである。呆けている担任教官をアルティナがどかして隙間を作り、ニクスさんの両側を二人で固める。

 自分がニクスさんの両手を取れば簡易包囲網の完成である。

 

 

 「うぉっ」

 「退路を遮断しました。」

 「もう逃がさないんだから!」

 

 「私はユウナ・クロフォード!リーヴスに最近来たって聞いてずっとあなたのこと気になっていたの。」

 「アルティナ・オライオンです。ユウナさんの同級生です。」 

 「ニクスと申します。リーヴスに来てから1週間と少しくらいが立ちました。お世話になっております。」

 「え、?ああ、はい……」

  独特な言葉遣いの女性だ。彼女のお世話をした覚えはないし、アルティナはどっちかと言えばパンケーキをおごってもらってお世話になってる方だ。

 

 「先日はパンケーキをご馳走していただいてありがとうございました。」

 「どういたしまして。おいしいものはいいですよね。」

 「同意します。甘いものはよいものです。」

 

 どうやらアルティナとは波長が合うようでぽんぽんと言葉を交わしている。

 ニクスさんの様子は落ち着いていて、大人の女性と言われても違和感はないが、どことなく顔立ちが帝国人らしくないというか、雰囲気が独特だ。

 化粧っ気のない素朴な格好をしているし、案外自分と年が近いのかもしれない。

 

 「ユウナとアルティナはニクスさんを探していたみたいだけど、何か用があったのか?」

 「大した用事じゃないんですけど、ぜひ友達になれたらなぁって思って。」

 「甘味を愛する者同士、おそらく話が合うかと。」

 「まぁ……ありがとうございます。クロフォード様にオライオン様、ですね。私はこれからしばらくリーヴスに滞在しますから、ぜひよろしくお願いします。」

 「そんなに畏まらないでよ!私のことはぜひユウナ、って呼んで。」

 「わかりました、ユウナ。」

 

 友達なのだから敬語も必要ないのだが、そういう性分なのだろう。

 アルティナもうずうずとしている。ピコピコと揺れる側頭部の髪の毛を見てそれを察したのか、ニクスは

 「オライオン様のことはどのようにお呼びすればよろしいでしょう?」

 「どのように呼んでもらっても構いませんが、私はユウナさんの同級生です。彼女と同等であるべきかと。」

 「それもそうですね。アルティナ、これからもよろしくお願いします。」

 

 ほのぼのした空気に心が和む。

 苦労してリーヴスの町を駆け回った甲斐があったというものだ。

 

 

 コホン

 

 

 そんな空気に水を差したのは教官だ。

 「仲良くなるのはいいことだが、そろそろ夕食の時間だろう?学生寮に戻らないと夕食を食べ損ねてしまうぞ。」

 「えぇ~~っもっとニクスとお話ししたいです!今自己紹介したばかりですよ?」

 「夕食のことが気がかりであれば皆さんでバーニーズで夕食を食べるというのはいかがでしょう?私もユウナやアルティナから士官学院という場所についてお聞きしたいですからご馳走しますよ。」

 「名案です。夕食まではもうすぐですが門限まではまだ時間があります。親睦を深める良い機会かと。」

 

 「だ、だが、アルティナはこの前パンケーキをごちそうになったところだというのにまたお世話になるわけにも……」

 「ふふふ、実は臨時収入があったんです。それにこの前から気になっている大皿料理があって、一緒に食べて下さる方がいないかなぁと思っていたのですよ。」

 「うっ……」

 

 「そもそも、リィン教官はあの時ニクスさんの名前知っていたはずですよね?どうして教えてくれなかったんですか?気になるのも仕方ないじゃないですか!」

 「ぐっ……」

 

 「終戦以降多忙を極める士官学院生には適宜効果的な休息をとることが推奨されています。」

 「そ、それは……」

 

 (あと一押し……!)

 (ですね。)

 (さぁお二方、シュバルツァー様に()()()()()()()()でとどめを刺しましょう!)

 

 

 じ~~~~っ×3

 

 

 「……さすがに申し訳ないので俺にも半分持たせてください。専任教官として夜間の生徒の活動を監督する必要もありますし。」

 「イェーイ!」

 

 リィン教官は教官として生徒の指導を行っていく中で徐々に父性が目覚めつつある―――という噂がまことしやかにささやかれている。

 正論で説得するよりも年下というアドバンテージを活用したほうが無茶を聞いてくれるというのも、アルティナの検証により明らかになっている。

 そのことに対して旧Ⅶ組の先輩方は何か言いたげな様子だが、これはこれだ。

 交渉には有利な材料を揃えて勝てると思ったタイミングで仕掛けるというのはミュゼの教えである。

 

 そんなこんなで陥落したリィン教官をよそに、私たち3人のハイタッチの音が空高く響いたのだった。

 

 

***

 

 「へ~~文章を書きながら旅してるんだ。どんな文章を書いてるの?」

 「いろいろですよ。詩や短編小説、児童向けのおとぎ話を書くこともあればミステリー、フィクションを書くこともあります。依頼によってはコラムなども書きますね。」

 「そういえばペンネームはなんていうんですか?ニクスさんの文章、少し興味がありますね。」

 「あ、私も気になる!本は出てるの?あそこの本屋においてあったりする?」

 

 「さぁどうでしょう。恥ずかしいので内緒です。」

 

 「……とても気になります。」

 「なんか最近大事なことに限ってはぐらかす人多くない?」

 「そういう性分なんだろう。」

 

 似たようなノリの人を知っている気がするんだけど、誰だったっけ。

 話が通じているような、どこかすれ違っているような。

 本質を避けた曖昧な言葉で流されている気がする。

 

 出身地、年齢、リーヴスに滞在するようになった理由。

 何かあるんだろう。もしかしたらリィン教官も知らないような何かが。

 聞きたい。気になる。

 

 ニクスは、にっこり微笑みながらのんびり自分のペースで魚料理をちびちび食べている。

 時折手を拭いたり、水を飲んだり、リィン教官やアルティナと、そして私と話をする。

 何でもないような、当たり前にあり得るワンシーンだけど、どこか違和感があるのだ。

 さっき会ってから数時間しかたっていないが、確かに感じる違和感が。

 

 

 「ユウナ?どうかなさったのですか?このお料理、とても美味しいのになくなっちゃいます。」

 「……ニクス。」

 「はい?」

 「私、私は今日ニクスの友達になったわ。こうやって楽しく食事できてよかったと思う。

 でも、私は欲張りなのよ。だから私、ニクスの親友になりたい。」

 「……」

 

 ニクスは微笑んでいる。きれいに唇の端を引き上げて、不思議な色をした目を細めて、私の言葉を待っている。

 

 「ニクスがリーヴスを出発して他のところに旅をしても、連絡を取り合って、たまにはこんな風に一緒にご飯を食べて。

 そしてあなたに信頼してもらえるような存在になりたいの。」

 「私は人と関わるのが上手な人間ではありませんけれど、ユウナのことも、アルティナのことも、信じているんですよ?

 その、表現が下手かもしれませんけれど。」

 「ありがとう。そう言ってもらえてうれしい。―――私はね、ニクスに知っていてほしいの。

 友達っていうのは支え合う存在だっていうことを。

 ただ与えるだけじゃない。守るだけじゃない。

 ぶつかったり、仲直りしたりして、決してほどけない絆を結ぶの。

 だから私は、ニクスにもっとぶつかってもらえるくらいの女になりたい。

 

 それだけ、知っていて。」

 

 ニクスは目を閉じて俯いた。

 3人の視線が、ニクス一人に集まって少し可愛そうにも見えてきたがニクスはその緊張を気にすることなく顔をあげた。

 

 「ありがとう。本当に、お優しい人。

 あなたの眩しさこそは≪人≫が持つ光なのでしょう。喜ばしいことです。」

 

 「??どういうこと?」

 「意味がわかりません。」

 「あら、このデザートとってもおいしい。」

 (露骨に話反らされたわね……)

 (これ以上は聞き出せなさそうです。)

 

 胡乱な目で彼女を見ると彼女はスプーンをくわえながら首を少し傾げた。

 ……本当に、よくわからない子だ。

 口調は丁寧なのに、食べ方がぎこちなかったり、食事は丁寧なのに所作がちょっとぞんざいだったりする。

 貴族の子女ならスプーンをくわえたまま、なんてありえないだろう。

 

 「そういえば、リィン教官はリーヴスの方のお困りごとを聞いていらっしゃると耳に挟みました。」

 「ああ、自由行動日のあれですね。」

 「私も今度何かお願いしてみましょうかね。」

 「何か困りごとでもあるんですか?

 「それがなんにもないんです。皆さん本当によくしてくださっていて……せっかく楽しそうなのに、それが残念な程度です。」

 「ははは……トラブルがないのは何よりじゃありませんか。些細なことがきっかけで危険なことに巻き込まれてしまいかねませんからね。」

 「確かに、ニクスってちょっと危なっかしいところあるかも。ふらふら~って街道に出ちゃいそうだし!」

 「……本当に、そのとおりだよ。」

 「まさか、もうすでに?」

 

 教官はアルティナの問いに対して頷いた。曰く初めて会った時にニクスは一人でケルディックから自然公園まで行こうとして教官に保護されたのだとか。

 正直自分の予測なんて当たっていてほしくなかったが、もう何も言うまい。ニクスのことは日ごろから気にかけておくようにしよう。

 

 「あ、それです!」

 「はい?」

 珍しく強い語気で何かを思いついたニクスは、手を打って楽しそうに何かを考えている。

 

 (嫌な予感がする)

 

 教官は面倒ごとの気配を察知したのか眉が心なしか下がっていた。

 それを不思議に思うアルティナと、デザートを皆に勧めるニクス。美味しい食事と、珍しくて面白い話と、新しい友人。私たちは心からこの食事を楽しんだ。

 この夜4人で囲んだテーブルからは笑顔が絶えることがなく、思っていた以上にお腹いっぱいになって食事会の後は腹ごなしにニクスも一緒に学生寮まで歩いた。

 ちなみに、彼女が興味を持って注文した大皿料理は少しピリ辛の味付けで、ニクスはあまり多くを食べることはできず、通りがかったランディ先輩の胃袋に大半がおさめられることとなった。

 

 

 

***

 

 お腹がいっぱいになってしまって苦しそうなニクスさんを連れて、俺たちはゆっくりと学生寮への道を歩いていた。

 まだ食事に慣れておらず、どの程度食べればよいのかがわからないのだろう。

 日ごろから運動をしているユウナとアルティナはサクサクと歩いているが、ニクスさんの歩みはいつも以上に遅い。

 

 「大丈夫ですか?」

 「ええ、そろそろ楽になってくると思います……お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね。」

 

 先行する二人が噴水を通り過ぎたあたりで、彼女はやや曲がっていた背中を伸ばして、小さな手持ち鞄から一通の手紙を取り出した。

 

 「これは……」

 「こちらのお手紙を、()()の方にお願いいたします。」

 「!」

 

 差出人の名前は書いていない。自分がすぐに連絡を取れる教会の人間は3人いるが、彼女は誰のことを言っているのだろうか。

 

 「どなたでも構いません。それが届けばそれでよいのです。」

 「急ぎですか?」

 「いいえ。わかり切ったことしか書いてありませんから。」

 「いつ教会がコンタクトを?」

 「昨日駅で電車を眺めていたら声をかけられてしまって。最初はシスターに間違えられたのかと思っていたのですけれど。」

 

 そんなわけがない。しかし駅のホームで話しかけられたということは、本人はリーヴスにはいないだろう。

 

 「確かに預かりました。そういえばお腹が苦しいのは演技ですか?」

 そんな風には見えないが、初めて会った時のことを考えるとこういうことが得意なのだろうか。

 どこまでが計算かはわからないが、涼しい顔をして随分手の込んだことをするものだ。

 

 「まさか。辛いのが嫌いなことも、食べ過ぎてしまって苦しいことも、ユウナやアルティナとお友達になることができて嬉しいのも本当です。

  私は演技が下手ですから。」

 「……そうですか。

 あの、危険なことに巻き込まれそうになったらすぐに言ってくださいね。」

 「お気遣いいただいてありがとうございます。私の手に余ることがあればそうさせていただきますね。」

 

 今日は月が出ている。

 細い月の光は彼女のヴェールと、瞳を清かに照らしている。

 

 彼女はいつも微笑んでいる。

 取り乱さず、驚かず、怒らない。悲しむ姿も、そういえばあの時以外に見たことがないかもしれない。

 いつもと寸分たがわぬ微笑みを顔に浮かべて自分の斜め後ろをゆっくりと歩く彼女の目は、前を歩く二人を見つめている。

 まるで生まれたての子どもを見るような、慈しみのこもった視線だ。

 その瞳の色は言葉にできない不思議な色をしているが、そういえば月の光の色に少し似ていると思った。

 

 




 身喰らう蛇以外にも教会やエプスタイン財団、オーブメントまで怪しく見えてきた最近ですが、そういえば導力って何なのでしょう。

 現行の戦術オーブメントやクオーツは『七耀石から属性に応じた現象を引き出す』という古代文明のオーバーテクノロジーを現代に再現したものだと考えていますが、そもそも七耀石って何なんでしょう。
 空の軌跡のころはアーツは魔法なんだろうなーというふんわりした理解でしたけれども、空の女神が七耀を司るところを考えると魔法というよりは神の奇蹟の一種なのかもしれませんね。

 ≪外の理≫は蛇に伝わるものである、という発言がⅡでされていましたが≪塩の杭≫を騎士団が回収していることを考えると一定数は古代遺物と解釈されて教会が保有しているのでしょう。
 ここから作者は本来≪外の理≫の管理は結社の管轄だったのではないかと推測していますが本当のところはわかりません。
 可能世界云々についても、果たしてただ事象の分岐だけが起こっているパラレルワールドなのか、それとも異能の存在や地理など世界の前提から全く異なる世界が存在するのか。疑問は尽きません。
 空の軌跡をPC版で遊んでいたころはここまで風呂敷が広がるとは思っていませんでした。
 軌跡シリーズの主人公と言えるオリビエの戦いはオズボーンが死亡して帝国が一致団結し始めたことで一応の終わりを迎えたといえますが今後軌跡シリーズはどのように展開されるのでしょう。

 わからないことだらけですね。
 変に引っ張られると作者はつい出来の悪い頭で愚考してしまいます。
 結社と騎士団についてはまた考察をだらだらと言語化する機会が持てればいいと思います。


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7 シュバルツァー式護身術訓練

【必須】護身術の訓練依頼

<依頼人>ニクス
 そろそろ町の外に出てみたいのですが、これを機に護身術を覚えようと思います。能力の使用に関してもご意見をいただきたいので、シュバルツァー様にご教授いただきたく思います。


 

 

 

 自由行動日の朝、いつものようにセレスタンさんから受け取った依頼を確認してみると今日は珍しいことに一件しか依頼が来ていなかった。

 早目に終えることができたら武具の手入れに時間をかけてみるのもいいかもしれないと思いながら依頼内容を確認すると、依頼者の欄には先日から奇妙な縁を感じる女性の名前が書かれている。

 

 (護衛術の指南……?)

 

 確かに、必要かもしれない。

 今後旅をつづけるにしても、どこかの組織に身を置くにしても、一人である程度のトラブルに対処できるようになっておいた方が何かといいだろう。

 こちらの精神衛生上も望ましいことのように思える。

 一朝一夕に習得できるものではないかもしれないが、何より重要なのは現状から一歩踏み出そうとする勇気だろう。

 

 しかし護身術を指南するとなると、ある程度広さのある場所で実践を交えた指導をする必要がある。

 ニクスさんのもとを訪れるのは分校の設備の使用許可を取ってからがいいかもしれない。

 

 俺は学生寮内で特にトラブルがないかを確認した後、まず分校に向かうことにした。

 

 

***

 

 「意外と広いお部屋なんですねえ」

 「射撃訓練をする生徒もいますから、ある程度の広さと設備はどうしても必要なんです。今日は護身術の指導なので、この訓練場を使います。」

 「実力と言っても私、武器を持ったことがないのですが大丈夫でしょうか?」

 「護身術は相手を攻撃するためのものではありません。まず大事なのは怪しい人間に近づかないこと、危険を感じたらすぐ逃げることです。」

 「はぁ……」

 

 「復唱してください。」

 「はい?」

 「なんだか信用できないので俺がさっき言ったことを復唱してください。」

 「あやしいひとにちかづかない。きけんをかんじたらすぐにげる。」

 

 武器を持ったこともない一般女性が例えば暴漢に襲われた場合、これを退治することは限りなく不可能に近い。

 危機の回避がある意味最大の護身術と言える。

 

 「女性は力が弱いので、大抵の相手に力で勝つことができません。大切なことは逃げることです。」

 「避けようとしても捕まった場合にはどのようにすればいいのですか?」

 「その時は力を必要としない方法で拘束をほどきます。人体の構造上、関節の可動範囲には限界がありますから、曲がらない方向に向かって曲げるように力をかけるのが一般的です。

 例えば……」

 

 俺は自分の右手でニクスさんの左手首をつかむ。

 

 「このように掴まれたとき、どのように相手の拘束をほどきますか?」

 「えーと…」

 ニクスさんは左手を押したり引いたりするものの、拘束はほどけない。力はそれほど込めていないが、ニクスさんの振りほどこうとする力も弱いので捕まえているのは簡単なことだ。

 右に大きく振ってみたり、上下に動かしてみるがちっともほどけない拘束にニクスさんはだんだん焦り始めた。

 

 「え、人間の握力ってこんなに強いんですか?」

 「俺はあんまり力を入れていませんよ。もう少し本気で振りほどいてください。」

 挑発してもニクスさんは弱弱しく腕を振るだけで、まるで猫に叩かれているかのようだ。

 この人は身を守ろうという意識があるのだろうか?

 

 「えっと、関節ですよね。関節を曲げる……」

 ぐるぐるとひねってみたり、手首を胸元に引き寄せてみたりしたニクスさんは俺の腕が動きにくい方向を発見したのかして、ぐっと引き寄せて外側に前腕を回した。

 俺は手首の可動範囲をこえてひねることができずに彼女の手首から手を放した。

 

 「ほ、ほどけた!」

 「そんな感じです。こんな風に正しい向きに回転やひねりの力を加えることで相手はそれ以上拘束することができなくなります。

 そして拘束をほどいた後にどうしますか?」

 「……どうするんですか?」

 

 この人は頭が良いのにどうしてこんなにリスク管理がすかすかなんだろうか。

 

 「逃げるんですよ!さっき復唱してもらったじゃないですか!」

 「あ~……そういえばそんなこともありましたね。」

 「いいですか?逃げるっていうのは何よりも大事なことなんです。いきなり危害を加えてくる人間というのは大抵対話もできないことが多いです。

 話を聴いたり、平和的解決を目指さないで、とりあえず逃げてください。

 それで軍や遊撃士に通報すれば問題なく解決しますから。」

 

 わかりましたとニコニコ頷いている彼女は本当に理解してくれているのか定かでない。

 

 (………)

 「どうしましたか?」

 「いえ、何でもありません。拘束を振りほどく方法は状況によって違いますから、ケース別に試していきましょう。」

 

 

 

***

 

 

 拘束の振りほどき方を習うだけだというのに、シュバルツァー()()の予想よりも私の要領が悪く、案外時間が経過してしまっていた。

 武器の使用や異能の使用に関しては見送りとなり、次回以降の指導で考えることになってしまった。

 彼の多忙を考えると、次回なんてものがあるかはわからない。出来ることなら自分の身の振り方を決めるまでに街道くらいは一人で歩けるようになりたいが、彼だけの協力では難しいかもしれない。

 勇気を出して、先日新しくできた友人たちを頼ってみるのも一つの手だろうか。

 

 いかにも運動センスのよさそうなユウナはもちろん、あんなに華奢で小さい体なのに士官学院生として立派にやっているアルティナから教わる護身術も、それはそれで参考になるだろう。

 

 「では俺は部屋の鍵を返してきますから、少しここで待っていてください。」

 「はい、お待ちしております。」

 

 朝10時くらいから初めて、今はお昼時だろうか。一日の食事回数は大抵1回(午後3時に紅茶とパンを食べる。ティータイムと呼ばれる文化らしい。)だが、こうも天気がいいのだから野外で何か食べてみるのもいいだろう。

 日光浴というのはゆっくりと時間を過ごすだけで心と体に活力がわいてくる。それと食事によるリフレッシュを同時に行うことができるので効率的だろう。

 午後はカーネギー書房で取り寄せた導力学の教科書を読んでみてもいいし、そろそろお昼寝なんかもしてみたいところだ。

 リーヴスは優しい人ばかりのようだし、噴水のある広場のベンチなんか気持ちよさそうだ。

 

 ぼんやりと午後の予定を考えていると久しぶりの運動で体が疲労を感じているのか徐々に体にだるさと眠気がやってくる。

 ”前”はこんな現象がなかったというのに、人の体というのは不思議だ。

 食事も睡眠も必須というわけではないが、活動の多かった日はちょっと眠くなったり、いつもより甘いものが欲しくなったりする。

 

 あの方も、そんな感じの不思議な体なのだろうか?

 あの時は見た目と混ざり具合を確認した程度だったが、随分私とも事情が異なるようだった。

 髪の色なんて青なのか赤なのかわからないし、お腹を出していて寒くはないだろうか。

 炎の化身みたいな人だから『冷え』とは無縁なのかもしれない。

 おそらく容れ物は元からこの世界に存在していたもののようだけれどあそこまで混ざってしまうだなんて随分相性が良かったようだ。

 

 それこそあの方とアングバールのような―――

 

 

 

ガシッ

 

 

 「あら?」

 

 

 なんだか右手に圧を感じる。

 さっきまで感じていたような感覚だと気づいて成程これは人間の手だと理解した。

 誰か知り合いが私の姿を見てお昼ご飯に誘ってくれたのか、それとも蔵書室に新しい本が入ったか―――

 その手の持ち主は誰かわからないが用向きを尋ねようとして右を向くと、大きな体が目に入った。

 

 「??」

 

 知り合い、ではないような気がする。士官学院の制服ではないし、白いコートの教官服でもないし、執事のスーツでもない。

 誰だろう、と顔を見上げようとしたところで私の視界はぐるん、とひっくり返った。

 

 

 ゴッ

 

 「いたっ……どなたですか?あの、どいてくださいませんか?」

 「………」

 

 頭を強打してしまい何が何だかわからないが、背中に人間の熱が触れている。

 どっちが上でどっちが下なのか。自分がどこを向いているのか。自分の背中に乗っているのは誰なのか。

 何もわからない状態で、顔を動かして状況を確かめようとするその瞬間にもその誰かは私の両手を背中に持って行って片手で拘束してしまう。

 引っ張ってみても、動かしてみてもびくともしない。

 シュバルツァー様の握力(本人は力を込めていないといっていたが)よりもずっと強い力だった。

 

 ということは、自分の上に圧し掛かっている人間は男性なのだろう。

 引き倒されて、頬は冷たい床に触れている。

 細かい砂が顔に当たって、痛い。強かに打った頭もいたい。

 どうしようもなく、不安になった。

 

 何だか前にも、こんなことがあった気がする。

 

 自分の背中に乗っている男性は私の手を取りまとめている手とは逆の手で、私のヴェールを取り払おうとする。

 ”私”の唯一の持ち物。大切なもの。なくしてはいけないもの。

 それにだけは、誰にも触れられたくなかった。

 

 「よしてください」

 

 

 私は、断りなく私の宝物に触れようとする不届きものに告げた。

 それに触れられてしまえば、私は自分が抑えられないだろう。

 もしもなくなってしまえば、私は私でいられなくなるという確信がある。

 私が、人として生きていくために。過去を忘れないために必要なヴェールは、記憶の架橋なのだ。

 

 しかし言葉は聞き入れられることなく、男性はなおも私の頭を手で探って留め具を外そうとする。

 だから、我慢がならなかった。

 私の言葉を聞き入れないのならば、聞かせなければならない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 「よしてくださいと、いっているのです」

 

 詠唱も、駆動も必要ない。

 準備や仕掛けがなくても結果だけを引き出すことができる異能。

 世界で授かった奇跡の一端。

 それは水と流れを支配する異能であった。

 一度念じれば、圧し掛かっている男性の目の前に質量が現れる。

 

 男性が反応するよりも前にその質量はひとりでに動いて男性に衝突した。

 

 「ガッ……」

 

 あまりのエネルギーに男性は拘束を緩めたようで、私は這って男性の下から抜け出す。

 全く誰だというのだろう。士官学院にしてはセキュリティが甘くはないだろうか?

 ヴェールの乱れを直して背後で伸びている存在を確かめる。

 

 長身、成人男性、武器は所持していない。

 覆面からこぼれている髪の毛は見覚えのある色をしている。

 知り合いだ。それもついこの間お世話になったばかり。

 

 

 

 「あの、もしかしてオルランド様ですか?」

 

 先日私が食べきれなかった料理を食べてくれた恩人は、びしょぬれで床に伏したまま力なくサムズアップした。

 

 

***

 

 

 「すみませんでした……」

 「いやー、いいよいいよ俺もご婦人相手に結構乱暴しちゃったし。」

 「ランディさん、やっぱり俺がやった方がよかったんじゃないですか?」

 「お前さんばっかニクスちゃんと話しててずるいと思ってたもんでね~。ここいらで一つ接点でも欲しかったのさ。」

 

 抜き打ちテスト、だと。

 あれから困ってしまった私の前に姿を見せたシュバルツァー様はそのように種明かしをした。

 一人でいるのにぼんやりしていて危険を察知できなかったこと、手をつかまれてすぐに対処しなかったこと、すぐに逃げずに対話を試みたこと。拘束から抜け出してからもその場から離れなかったこと、知り合いだとわかった途端に警戒を解いたこと。

 その他もろもろの理由から私の対応はシュバルツァー様に0点と断じられてしまった。

 しかもできるだけ使用しないと決めていた異能まで使ってしまって自己嫌悪が半端なものではない。

 

 「しかしすごい力だったな。ニクスちゃんは水を操るのかい?」

 「ええ、はい。水や蒸気などの流体に指向性を持たせて操作できるというのが私の異能です。例えば水を持ち上げたり、思っている方向に流したりできます。

 わかりやすく言うと『そこにある水を動かす』能力と言えるでしょうか……」

 「さっきは何もないところから急に水が出てきませんでしたか?」

 「あれも『存在する水』です。」

 

 私は手の中から『結晶』を取り出した。

 

 「いざというときのために一定量の水をこんな形で持ち歩いているんです。シュバルツァー様にお渡ししたものほど多くの水ではありませんけど、これ一つでバスタブ一杯くらいですかね。」

 「……質量保存の法則は?」

 「異能、とだけお答えします。私にも細かいことはわからないんです。ただやってみたら都合のいいようにできてしまったというだけで、さっきの説明も後付けなのですよ。」

 「何でもありだな、ほんと」

 

 あの方の力を見ていると異能というのは無制限な万能の力のように思えるのかもしれないが私の場合はそうではない。

 私はあまりきれいに混ざらなかったし、そもそもの力が強くないのであの方と比較すれば落ちこぼれもいいところだ。

 あんなに無制限に炎を出せるあの方の方がおかしいと声高に叫びたいが、あの方にとっては今も昔もあれが当然であるのだし、以前の知り合いというだけで過大な期待を受けてしまって肩身が狭い。

 

 「しかしいざ本番となるとニクスさんは相手に遠慮してしまって手を振り払うことも難しいようですし、護身術というのは現実的じゃないかもしれませんね。」

 「やはり私は異能を使うのが一番慣れていますから、それを使わないと決めてしまうと何もできなくなってしまうみたいです。」

 「そういえばどうして異能を使わないことにしたんだ?」

 「詳しくは言えませんが、私の異能は無制限に使えるものではなくて……水を動かすために一定の代償を払う必要があるんです。長期的、もしくは継続的に能力を使うというのは非現実的ですから、いっそ使わない方がいいかと思いまして。

 あとは単純に目立ってしまうから、ですかね。私はこれからもこうして社会の中の一部として生きていきたいと思っていますから、あまり他の方と違う行動はとりたくないんです。」

 

 手詰まり、だった。

 自分一人では戦えない。自分の身を守れない。それはこの世界では致命的なことであるらしい。

 シュバルツァー様によると私は他の方に比べ危機感というものが薄いらしく、危険なトラブルに巻き込まれる可能性が高いとのことだった。これを解決するためにせめて自分を守る手段を覚えられたらいいと思ったが、それで異能に頼り切ってしまえば意味がない。

 私は人として生きていきたいのだから。

 

 「……焦ることはありませんよ。人には得手不得手がありますから。」

 「それに練習次第ではちゃんとリスク管理ができるようになるかもしれないしな。今回だって最終的に異能を使ってだったが反撃自体はできたんだし。」

 

 あれは反撃というよりも私の深層意識に刷り込まれた調()()に近いというのは、言わぬが華なのだろう。

 

 

 「とにかく、今日は本当に迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした。貴重なお時間をいただいたのにちゃんと結果が出せなくてごめんなさい。

 しばらく自分でも異能の振るい方について反省させていただきます……」

 頭を下げると、ヴェールの上からぽんと誰かの手が乗った。

 その手は掌を使って私の額を持ち上げようとするので、私はその力に従って自然と頭が上がる。

 手の持ち主はオルランド様だった。

 

 「誰だって最初はそんなもんさ。ニクスちゃんは伸びしろいっぱいあるし、ゆっくりでいいんだよ。」

 「ランディさんの言うとおりです。最初からすべてができる人間なんてそういませんし、できることからやっていけばいいんです。」

 「オルランド様、シュバルツァー様……」

 「あ、あとそれ。」

 「?」

 「呼ぶときはランディって呼んでくれ。見た感じ年も近い?んじゃないか?」

 「……俺のこともシュバルツァー、ではなくリィンの方で呼んでいただけますか。いずれ妹も紹介しますから区別できなくなってしまいます。」

 

 

 「ではそのようにさせていただきますね。」

 改めてお礼を言うとランディ様はいまだに少し湿った髪を括りなおしてけらけらと笑い、私たちを昼食に誘ってくださったのだった。

 

 

 

***

 

 

 「思ってたんだけど何でリィンは敬語なんだ?」

 「……」

 「えーっと、計算上は私は皆さんより年上ということになるから、ですかね?」

 「え、マジで?」

 「(こちらに来たのが20年前で、少なくともここ50年は確実に生きているらしいです。それ以前は向こうの世界の重役だったみたいで……)」

 「(……ってことは100歳越えの可能性も?)」

 

 「私はあの方と同い年のはずですよ。同時に生まれましたから。(ニコニコ)」

 



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8 夢


まず、荒れ果てた世界があった。



 

 

 

夢を見る。

 

私は夢を見ている。

 

 

 

 

***

 

 

 私はニクスと呼ばれていた。

 肉体に魂と知性を与えられた生命たちから神官としての扱いを受け、私は異能を以て神の言葉を生命たちに伝え、統治を手伝っていた。

 

 信仰を神に、忠誠を王にささげていた。

 民である生命たちは言葉と感情を持ち、時に争いを起こす。王はそれを諫めるために力をふるう。

 そうなってしまうと大地は荒廃してしまう。それを防ぐのが私の仕事だった。

 王の心と民の命とこの国土を暴力以外の方法で守るように定められていた。

 

 

 【xxxciu,nix,濁,wh】

 「荒廃がひどいですか。陛下のご意向は?」

 【nnnmoi,mea,lw】

 「……承知いたしました。」

 

 近年の水質汚濁を発端とする社会問題は深刻であった。

 水が汚れれば植物も、魚も、そしてそれを食べる動物も、健康ではいられなくなる。各地で混乱も生じているようで、早くそれを収束させなければならない。

 できることなら現地に赴いて解決したいが、陛下に神殿での待機を命じられたならそれに従うしかない。各地に遣いを出して神のお言葉を伝えれば精神的な安心を得られるだろうか。

 実際に資源を調達するなどの支援も必要になるだろう。

 

 陛下は空いている時間を使って各地の状況を確かめているらしいが、遣いによれば痛ましい事態が起きている場所もあると聞く。

 神殿でもできる支援があればいいのだが私の異能で根本的に解決できるわけではない。

 一時的に水質を浄化しても原因をどうにかできなければ意味がない。

 何をするにしても詳しい情報が欲しい。やはり現状を自分の目で見て確かめておくべきか……

 

 「私はこれから陛下に巡回の御願いを申し上げます。誰か、紙をここに。

 陛下のお許しが出たときはあなたたちに神殿を任せます。私が陛下へのお手紙を書いている間、準備をしていなさい。」

 【yyiut!】

 

 私は陛下にお手紙を書く。

 薄い青色の紙に、紫色の花から作ったインクで文字を連ねていく。

 民の生活をよりよい物にするために、そして混乱を収める一助となるために神殿を少しの間留守にすることを許してほしいと記した。

 今必要なのは民の不安を解消することだ。清潔な水と安全な食料を運び、この公害に対処する姿勢を見せなくてはいけない。

 各地の視察をなさっていた陛下ならば、きっとご理解下さり、お許しをいただけると思っていた。

 

 

 「なぜですか…なぜお許しいただけないのです…!」

 

 手紙の返事は簡潔な一文だった。『神殿から外に出ることは許可できない』。その手紙には本当にその一文が記されていただけで、陛下がそう仰る理由も、各地の状況も書かれていなかった。

 私は王と民の力になりたいだけなのに、どうして行動に移すことが許されないのだろう。私の力が足りないからだろうか。私の異能が何の役にも立たないものだからだろうか。

 だが私は、無力で無能な私でも何かを救えると思いたかった。たとえどんなにちっぽけな存在でも誰かを助けることができるのだと知りたかった。

 生まれてから気の遠くなるような時間を神殿で過ごし、戦いに赴く王をただ見送り勝利を祈るだけだった私は、誰かを救う栄誉を得たかった。

 戦いのたびに外に赴いて見事平定して見せ、民から賞賛を受ける王を羨ましく思っていたのだろう。自分もあんなふうに万雷の喝采に包まれてみたいなんていう浅ましい自己承認欲求に突き動かされて、私は生まれて初めて陛下の言葉に背いた。

 

 

 

 神殿から西に3日歩いた。

 地図にあるはずの川は枯れ、その地域の植物は毒を有するようになっていた。それを食べた女から生まれる命は、望ましい姿をしていなかった。腕や、眼球が足りない命がそこかしこで生まれ落ちた。

 彼らは他の生命たちから言われない非難を受けた。生まれ落ちたことに何の罪もないはずなのに、呪われた命だと。罪を犯し神から罰を与えられたのだと謗られていた。

 

 私はこれを救うため、女と幼い命に祝福の言葉をかけた。

 全ての命は生命の火と慈愛の水がまじわることによって生まれ落ちたのだ。すべての命は神のいとし子なのだ。

 明日に生きる心を持つあなた方に罪などあるはずもないのだ、と。

 

 しかし女は嘆いた。

 どうして明日に生きようなどと思えるのか。すべての命に謗られ、幼い命を守ることも、育てることもままならない。

 薄闇に紛れて民が襲い来る恐怖を、愛するものがそばを去っていく孤独を、罰と呼ばないならば何と呼べるだろう。

 なぜ神はその寛大な心で罪を許して下さらないのか、どうしてこんな形で私たちを罰するのかと。

 

 私の言葉は届かなかった。

 

 

 

 

 そして北に2日歩いた。

 そこでは泉が濁り、民は病に侵されていた。

 病は流行り病だった。その里ですべての命は病に苦しみ、その皮膚を赤黒く変色させていた。

 民は虫の這い回るようなかゆみに耐えられず、叫びをあげながら体を掻きむしる。

 脆くなった爪がはがれても、手を止めることができないで、痛みにあえいでいた。

 傍にあるものに縋り、迫りくる狂気から逃げようとして、縋った存在が病で変わり果てた姿の家族であることに気付いて悲しみに狂っていった。

 

 私はこれを救うため、民を癒した。

 腫れあがった皮膚に手を当ててこれを冷やし、伸びてくる腕をつかんで笑いかけた。

 今から治して見せる。その苦しみを取り除いて見せると誓った。

 

 しかし民たちは争いを起こした。

 私が病に侵されぬ神官であることを知った民たちは自分の病を治すために私の身柄をめぐって争いを起こした。

 自分と家族を楽にするために、我が我がと相争い、そして弱りはてた体は争いに耐えられなかった。

 争いを止めてもきりがなく、火種となっていた私はすべての家に薬を置いてその里から去った。

 

 私は助ける人々の前から逃げた。

 

 

 

 

 そして東に5日歩いた。

 そこでは海の水が異常に多くなっており、集落が海の下に沈もうとしていた。

 腐り落ちそうな柱に何人もの民が縋りついて、迫りくる水面を恐れていた。

 上へ上へと逃げていこうとする民たちの中には柱に捕まっているほかの民を蹴落とす者がいた。

 

 私はこれを救うため、海の水をどかし、柱から落ちてくる彼らを受け止めようとした。

 空高くから落ちてくる命たちを両の腕で受け止めて、涙を流していた民にはもう恐れるものは何もないと慰めの言葉をかけた。

 

 しかし大地に降り立った彼らは蹴落とした民を糾弾し、行いを正当化しようとするものとの間で戦いが起きた。

 命には優先順位があるというものと、他の存在をいつくしむ心をどんな時も失ってはいけないと叫ぶもの。

 二つの勢力は塩害で荒れ果てた大地の上で昼夜を問わず戦い続けた。

 戦いを止めるために私は二つの勢力の間に大きな氷の壁を作り、互いが傷つけあわないようにした。

 だが今度は同じ勢力の者同士で戦いが起こった。

 

 私は命が命を憎む心を変えられなかった。

 

 

 

 

 最後に南に4日歩いた。

 私はそこで打ち捨てられた幼い命を見つけた。

 命は今にも死に絶えようとしていたが、私はこれを救うため、慈愛と、癒しと、抱擁を与えた。

 孤独と不安に苛まれ、他の命が信じられなくなった幼い存在をただ愛し、抱きしめた。

 何の罪もないのだと、恨まれるべきは私なのだと語り掛け、時にその命が振るう刃を受け入れた。

 生まれて初めて誰かに傷つけられた私は、血を流す痛みを知った。しかし、血を流すよりも目の前の命が希望を失ったまま死んでしまうことの方がつらかった。

 

 私は何度も命を抱きしめ、祝福を歌い、清い水を与えた。

 

 そして私はようやく命を救うことができた。

 百の朝と百一の夜を超えて、その命には健全な精神が宿り清い血が流れた。

 私は本当に喜んだ。幾百もの命を救えなかった私が、ついに一つの命を救うことができたことを喜び、その地でその命を守り続けた。

 

 

 幼い命は美しかった。

 幼い命は時を経て強い心を持つ人に育った。

 他者をいつくしむ心と希望を見出そうとする強い精神は、周りの里に住む命たちの心を惹きつけた。やがてその存在は英雄と呼ばれた。

 彼こそは明日への希望とでもいうべき存在だった。強さと優しさを一つの体に備え、まぶしいほどの輝きを魂に宿す命。私は彼にあるものを託すことにした。

 それは王への文だった。あの日のように、薄い青色の紙に紫色のインクで書いた一通の手紙。

 そこには長らく神殿を留守にしてしまったことへの謝罪と、次代の神官として彼を取り立てるように便宜を図ってほしい旨を記した。

 英雄として人を助ける能力を持つ彼ならば、きっと私よりもよく王を支えることができるだろうと思ったからだった。私は彼に神官の座を譲り、また彼のように荒廃した台地に捨て去られた命を救うための旅に出ようと思った。

 

 文にはあと一つ、結晶の在り処を記した。

 神殿に眠る清い水を集めた結晶。それさえあればもう一度やり直すことができるだろうと思ったからだ。病を治すこともできるし作物を育てることもできる。元々神殿には二つの結晶があったが、一つは私が持ち出して道中で民を救うために清い水を使い果たしてしまっていた。

 

 私はとある春の日、里の者たちと共に彼を送り出した。彼は緊張と使命感で体を強張らせながらも、世界を救って見せると宣言して王のもとへと旅立った。

 

 

 

 そして彼が旅立った後の里に住む命たちは、ささやかな寂しさと彼への期待で浮つきながら星を見上げていた。

 私は彼が旅立った朝に神官としての任を終え、ただの個人としてもう一度民を救うために里を出た。

 

 そうして2日歩いた。

 当てもなく歩き、異能を用いて水を清めて回った。その場しのぎであるとはわかっていても、もう見て見ぬふりなどはできなかった。神官としてのしがらみがなくなり、私は好きなように人に手を差し伸べることが許された。義務感ではなく、本当に命を愛おしく思う心から民を救い、多くの代償を払ってでも水系を浄化して回った。

 水系の浄化によって私の体には水の穢れが移っていった。旅の間一度も病に侵されたことのなかった体をついに流行り病がむしばみ、私の体は醜く変わっていった。

 しかしいつ死んでもよかった。私が愛し、慈しんだ命が英雄として神官を立派に勤め上げてくれるだろうと思うと、私にとって病などなんの苦しいものでもなかった。むしろ彼らの統治の礎となれることを喜ばしく思い、すすんで水の穢れを自分の体に移していった。

 

 

 春の陽気と雷の気配がまじりあう日、疲れた体を泉の傍で休めていた私は、怒り狂う生命たちによる襲撃を受けた。

 彼らはこの災厄の影響でほろんだ里に住んでいたものの集まりで、私が救うことのできなかった命のなれの果てだった。

 私が救えなかった彼らは、心に深い傷を負って、隣人を憎んだ。他の命を傷つけることでしか自らの心を癒せなくなってしまった。そして彼らの憎しみは神官という特権階級にありながら彼らに神の祝福を届けられなかった無能な私に向くことになった。

 それは自然なことだった。彼らは母を失い、家族を失い、神からも見放されたと思っている。すべての命に存在を拒まれ、誰かを争ううちに戻る道を見失ってしまっていた。

 彼らには、受け入れる存在が必要なのだ。

 

 そして私にできる唯一の償いが、彼らの怒りと憎しみを受け入れることだった。

 

 体に移した水の穢れは体を蝕む病となり、私は彼らに祝福の言葉をかけることもできない。祈ることもできない。愛をささやくこともできない。間違いを正すことさえも。

 彼らが怒りと憎しみに任せて私を殴り、嬲り、甚振る間、私はただすべてを彼らにゆだねていた。

 私の脳が揺れた。

 神に与えられた体が暴かれていく。水の中を揺蕩っているような、不思議な感覚だった。

 首に、肩に、足に伸びてくる手は、暴虐に狂っているようでいて寂しさに震えていた。私はただそれらに掌を重ね、肉体同士の熱を分かち合うくらいの事しかできなかった。

 

 彼らは命果てるときまで、私の体に縋りついて、そうしていつの間にか死んだ。

 何十回と私の骨を折り、何千回と私を貫いて、最後は彼らも病で死んだ。

 

 

 私だけが残った。

 さしてきれいでもない泉のほとりで、いくつもの屍に覆いかぶさられて私の視界はもうずっと暗かった。

 朝なのか、夜なのか、雨が降っているのか、晴れているのか。

 

 何もわからなくなって、そして、

 

 ()()の終わりは訪れたのだった。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 (夢……)

 

 夢を見た。

 懐かしい夢だ。世界がひび割れてしまうまで、私が何をしていたのかを忘れたことはなかった。意識を取り戻して20年もの時間がたってしまったけれども、時折『忘れるな』とでも言うようにこうして夢の世界を乗っ取るのだ。

 私は、結局何の力にもなれなかった。命を救ってきたつもりだったけれど結局世界の終わりを防ぐことはできなかった。

 

 そしてすべての存在は死に絶えたかと思った。私だけがこうしていろんなものを失いながらも罪を償うための生を与えられたのだと思っていた。

 しかし私だけではなかった。このゼムリアの地には、私が忠誠を誓った王も生まれ落ちていた。

 

 彼はどう思っただろう。

 結局帰らなかった私のことを、世界を救って見せると意気込んで飛び出したくせに結局何もできなかった私のことを、恨んでいるだろうか。

 神殿にいて何を変えられたわけでもないのだが、私は世界が終わるその瞬間に王の傍らにいられなかったことを悔いている。

 結果論ではあるが、あの世界が滅びたことによって王は50年もの間孤独を味わうことになった。陛下には何の罪もないというのに、さすがに過ぎた罰だと思う。

 

 私がおそばにいれば、せめて陛下のご心痛を和らげるために働きかけることも可能だったのではと思わずにはいられない。

 

 私は、本当になんて無力で、どうしようもない存在なのか。

 

 

 (救わなくてはいけない)

 

 心に去来する義務感も、考えてみればおかしなものだ。いったい誰を救うというのだろう。

 陛下だろうか?自分は何もできなかった無力な存在であるというのに?

 死んでいった命はもう救えない。どうやってもあの世界は取り戻せないし、災厄が起こる前には戻れない。

 けれど私はせめてこの命に代えても、許しを請わなくてはいけない。

 

 信仰を捧げた神に祈り、忠誠を捧げた王に跪き、罰をこの身に受けなくてはいけない。

 でなければ、私が生まれ落ちた意味などないのだから。

 

 

 私はいつものように喪服とヴェールを身に付け、ふらりと部屋から外に出た。

 




マクバーンって元から魔物だったんでしょうか?
それとももとは人間でゼムリアに来る時に人外になって、人間と混ざったんでしょうか?

作者は前者だと思ったのでこんなトンデモ世界観で小説を書いています。
マクバーンにとって同郷の出身が一人もいないっていうのは、ちょっと寂しいなと思います。作者は少なくとも実家がある故郷がなくなっちゃうととても悲しいです。知り合いとか、無事でいてほしいと思います。
でもその知り合いはとてもひどい目にあっているかもしれなくて、とってもつらい思いをしたかもしれません。
生きるのがつらいと思うようになってしまった知り合いに「生きてほしい」と言えるかどうか。これは人によって意見の分かれるところでしょう。
例えばエステルは「無理強いしないけど生きてくれると私は嬉しい」と言うでしょうしロイドは「一緒に生きよう」と言ってくれるでしょうしリィンは……よくわからないけど「俺は生きてほしいけど君の選択を尊重する」って言うんでしょうか?

マクバーンはなんて言うでしょうね?何も言わないかもしれない。閃の軌跡Ⅱ幕間で、リィンがマクバーンに「自分のことが分かった気分だ」というとマクバーンは「そりゃよかったというべきか」とお祝いしてくれます。ちょっと複雑な表情で。
だからリィンはⅣで戦った後に「目的が叶うといいな」と激励するんですね。
この二人の関係とても良いと思います。自分が何なのかわからないという共通の悩みを抱え、もしかしたらマクバーンはリィンだったかもしれないし、リィンはマクバーンみたいになっていたかもしれません。

その意味で、マクバーンの軌跡はこれからだと思うんですよね。ゼムリアで50年生きたって言ってますけど、こっからですよ!


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9 失踪した旅行者

多分この先軌跡シリーズの新作が開発されたとしても、マクバーンの世界がどのようにして滅びたかということが語られることはないでしょう(どうして滅びたが、誰のせいで滅びたのかということは語られるかもしれませんが)


妄想し放題だぜヒャッホーーう


 協力券<火焔>。これは火焔魔人がいざというときに協力してくれるという触れ込みのチケットだ。火焔魔人本人からの貰い物とはいえ、このペラペラの紙にそんな効力があるとはとても思えない。協力券は少しだけ桃色がかった紙で、表面に雑な字が書いてある。もらってから何かの機会に使うかもしれないと思い、(ヘタに処分して他の人の手に渡るのが怖かったというのももちろん理由の一つだ)ファイルに保管してあったものの、ちっとも劣化しておらず少し気味が悪い。

 できるならこんな怪しいものに頼りたくはないが、今は少し事情が事情だ。あの身勝手な男の力を借りたかった。

 

 

 「しかし、この券はどうやって使うんだ?」

 「うーん、燃やすんじゃない?」

 

 今日はちょうどミリアムがリーヴスに遊びに来ていた。情報局での仕事はこれまでより一層忙しい、らしい。リーヴスに来たのも帝都での定期報告のついでだと言っていた。

 情報局とTMPがやがて新たな形に再編されるとなれば人員の選定や指揮形態の見直しを行う必要がある。それで任務を行える人員が十分に確保できないのだろう。ユーシスと会う時間を中々作れなくて困るよーとは本人の言である。

 

 「そんな安直な……」

 「でもそれ以外に方法なんて思いつかないよ?」

 マクバーンと言えば火。火と言えばマクバーン!突き上げた拳に握られているのはマッチだろうか。いつの間にそんなものを用意したというのだろう。

 というか、燃やしてしまったら協力券はなくなってしまう。燃やしたけれどもマクバーンが来なかったらどうすればいいのか?

 

 「大丈夫大丈夫!だってもう一枚あるんでしょ?失敗したらもう一回考え直せばいいよ~」

 「果たしてどうなんだその思考は。」

 呆れてしまうがこういった度胸こそがミリアムの素晴らしいところなのだろう。とりあえず一枚だけファイルから取り出し、外に出る。部屋の中でボヤ騒ぎを起こすわけにもいかないだろう。

 せっかくの大切な協力券(何度も言うが材質はペラペラの紙だ)を燃やしてしまうのは忍びないが、何も思いつかない以上、火をつけて様子を見てみるしかない。

 

 「よ~し、いっくよー!」

 水を張ったバケツを傍において、ミリアムからマッチを受け取り協力券に火をつける。マッチの火はすぐに紙に移り、紙はすぐさま燃えていく。手に火が移ってしまいそうだったのでチケットから手を放すとチケットは石畳の上で弱弱しく燃えている。

 協力券は列車の切符のようなサイズだからすぐに燃え尽きてしまった。

 

 炎の転移陣が展開されやしないかと思ったが、しかし何も起こらない。

 

 「……」

 「何も起こらないね。」

 「はぁ……振出しに戻った、か。」

 「でも、リィンってばマクバーンを呼び出して何するの?」

 「少し頼みたいことがあってな。とりあえずもう一枚の紙を取りに部屋に戻ろう。通信でエマにも意見を聞いてみるか。」

 「おっけー!って……」

 

 掌を上に向けたミリアム。何かと思うとぽつりぽつりと水滴が顔に当たる。雨だ。そんな兆候はなかったはずだが…早いところ部屋に戻らないと濡れて風邪をひいてしまうかもしれない。

 「ミリアム!部屋に戻ろう。もう一枚をどうするか、部屋で考えないと。」

 「その必要はねぇよ。」

 

 

 「ん?ミリアム、なんか言ったか?」

 それにしては妙に色気のあるバリトンボイスだった気がするが。

 「ボク何も言ってないよ?」

 

 「後ろだ、後ろ。」

 どこか虚しい微妙な空気にバリトンボイスがよく響く。聞き覚えのある声だ。気だるげで、気まぐれで、どことなく自信のある声だ。

 まさかと思いミリアムと後ろを向くと、そこにはマクバーンが立っていた。

 

 

 「よぉシュバルツァー。白兎も一緒か。切羽詰まってる状況でもないみたいだが、何を燃やせばいいんだ?」

 

 

 

 「き…」

 「木?」

 

 「「きたーーーー!!!」」

 

 

 

***

 

 

 「あんたに頼みたいのはニクスさんの捜索だ。」

 「捜索って、あいつまたどっか行ったのか?」

 俺たちは復興支援のために3日ほどリーヴスから離れていた。帰ってきてみればニクスさんはバーニーズからいなくなっていた。チェックアウトしたというわけでもなく、ただいなくなってしまった。部屋の中には荷物の入った鞄が置き去りにされていたらしいが、もう彼女が姿を消してから2日になるらしい。

 「宿の主人によるとニクスさんは数日ほど疲れた様子を見せていたそうだ。それについて町の人が聞いたところ『夢見が悪い』と答えたらしい。

 単刀直入に聞くが、何か心当たりはないのか?」

 

 「それを聞いてどうすんだ?」

 「どうするって……探すに決まってるだろう。ニクスさんは俺たちと違って戦闘能力がないんだぞ?危険な目にあっているかもしれないだろう!」

 「…シュバルツァー、ニクスのことはもう放っとけ。見た目こそあんなだが、もういい歳してんだからもし危険な目にあったとしても自分でどうにでもする。夢見が悪いって言ってたんなら多分これまでの事で錯乱しているだけだ。

 あいつは俺と同じように、お前らにとっての厄ネタであることに違いはねぇ。だからもう世話焼いてやる必要なんて―――」

 

 「…マクバーンってさー。」

 「あん?」

 「マクバーンって、そのニクスさんって女のヒトと仲いいんじゃないの?なのにどうして探しに行ってあげないの?」

 ミリアムの疑問は俺も気になっていたことだった。ニクスさんのマクバーンへの態度と、マクバーンのニクスさんへの態度が微妙に釣り合っていないというか、すれ違ってるわけじゃないけど二人が対等という印象を受けないのだ。どうしてニクスさんがマクバーンのことをあんなに尊敬しているかがわからないというか…。

 二人が再会したときはあんなにも仲がよさそうだったのに、どうしてこうも無関心でいられるのかがわからないんだ。

 「俺が知る限り、ニクスさんはマクバーンのことをこれ以上なく大切に思ってる。世界で一番尊敬してるって言ってたし、アンタと会えると知ったときもとても喜んでいたんだ。あんただって会いたがっていたじゃないか。

 他人が口を出すことでもないかもしれないが、ちょっと素っ気なさすぎると思うぞ。察するにあんたたちは深い仲だったんだろう?ニクスさんはあんたのことをあんなに慕ってるんだから、もう少し面倒見てあげてもいいんじゃないか?」

 「そーそー!冷たい男はあとで愛想つかされちゃうよ~」

 

 にしし、と笑うミリアムは最近ではもうすっかり恋愛上級者を自負しているのかアルティナに吹かしている姉貴風の風速が上昇傾向だ。主にアルティナと俺でその風を受けているが楽しいようで何よりだ。

 ユーシスから聞く話でもうまく言っている様子だったし、めでたい話を聴くことができるまでもう少しなのかもしれない。

 マクバーンは微妙な顔をしている。彼にとってホムンクルスが恋をするというのは不思議なものなのだろうか。しかしマクバーンは少し呆れてため息をついた。

 

 「お前たちは何を勘違いしてんだ……」

 「え」

 「あいつが何言ったか知らねぇが、俺とニクスは顔見知りってだけだ。前の世界でも俺のサポートをしてはいたがそれ以上の仲になったつもりはない。ってかそもそもどうやって深い仲なんてのになれってんだよ。あいつにはそういう概念がないぞ。」

 「だからそれってどういう―――」

 「それはあいつから聞いてくれ。連れてくればいいんだろ?ったく面倒くせぇな……そんなことに俺を呼ぶなっての」

 

 言っていることの意味は全く分からないが、ぶつくさ言いながらも転移陣を開くマクバーンはなんだかんだ言って面倒見がいいと思う。

 敵対していたころはそんなことは思わなかったが、執行者の中でも”弁えている”というのは本当なのかもしれない。少なくとも≪道化師≫よりは話が通じるのは確かだ。

 

 「行先に心当たりがあるのか?」

 だったら最初から教えてくれればいいのにと思う。

 「あるにはあるが、本人が正気を保っているかどうかはわからん。期待はすんなよ。」

 

 ただそれだけ言い残して、マクバーンはどこかへ消えていった。

 

 

 

***

 

 

 泉に一人の女がいる。

 服を着たまま体を冷たい水に浸しているが、女は無表情でただ祈っていた。水面には女が身に付けていたベールが揺蕩っている。

 

 この存在を女というのは無理があるかもしれない。今現在この存在は人間の女の体に収まっているようだから周囲も女として認識しているようだが、本来これには性別がない。神と王に仕え民を支えるために不要であるからだ。不死を体現する存在だから子を生み出す必要がなく繁殖をする必要もない。だから恋もしない。ただ民たちへの慈愛と神や王への忠誠があるだけだ。

 これはただやるべきことを行うために生きてきた存在だから。

 もっとも、恋なんてものをしていたら心が壊れていたかもしれないからそのほうが好都合だったろう。

 

 誰にとって都合がいいのか?さて、誰だろうか。

 

 女が気付いた。顔がこちらを向く。疲れ切っていて、目の下には隈ができている。人間の肉体で一睡もせずに祈っているからだ。

 女の顔が悲痛そうに歪む。短くて薄い眉が歪んで、唇は噛みしめられて真っ白になった。流れそうになる涙を必死にこらえて、目を大きく開いている。

 いつもこれは笑っているばかりで、まさかこんなに複雑な感情の表れた表情をするとは思っていなかったが、長生きすると意外な発見がある。

 

 夢を見た。懐かしい夢を。いつかのどこか、遠く懐かしい世界で、甘やかだった故郷が変わり果てた姿を夢に見た。あんなに思い出せずにもどかしい思いをしていたというのに思い出した途端今までのツケとでも言うように、何度も何度も夢を見た。

 

 「ゆるしてください」

 

 女は跪いた。

 泉のほとりに立つ自分に対して、肩まで水につかってしまうことも気にせずに静かに俯いて許しを請うた。

 

 「どうか、どうかこの無力なわたしをおゆるしください

 わたくしは、民を災いから救うことが叶わず、苦しみのまま死に至らしめました

 どうかその清い焔でわたくしを断じてください」

 

 これはどうしようもなく矛盾している。

 許しを求めているのに、罰されたいと思っている。これは自身ですらも何を求めているのかわかっていないのだ。だというのに、自分にこれの望みを果たしてやれるはずもない。

 誰であっても、これを救うことは叶わないだろう。

 

 「お前は誰に許されたいんだ?」

 

 泉の女は黙り込んだ。

 水の冷たさを思い出したかのように震えだし、顔を上げた。額には前髪がはりつき、尖った耳は垂れている。

 やけに血の気のない顔をしているとは思ったが、泉の水にすこし血が流れている。人間の体は不便なものだ。

 

 

 (ちょっと素っ気なさすぎると思うぞ)

 (そーそー!冷たい男はあとで愛想つかされちゃうよ)

 

 

 …うるさい奴等だ。お節介にもほどがある。

 俺たちはもう個人として生きていける。せっかく立場もしがらみもないのだから前のことは前のこととして割り切ればいいのに損な性分に生まれたやつもいたもんだ。名前も捨てず、立場も罪も忘れられず、過去に囚われている。

 これを救えるとしたら、それは俺でなくこれ自身だというのになぜあいつらは俺にそんなことを頼むのだろうか。

 

 

 「民を救うことができなかった愚昧な王は死んだ。もう、お前を許す資格のある存在はお前しかいない。

 お前が生きる道を決めろ。

 ってか、そもそも俺がお前を恨んじゃいないことぐらい、ずっと前から知ってるだろ」

 

 「……はい

 陛下は、やさしい方ですから」

 「もう上がれ。お前がお前を許すためにすべきことは祈りをささげることじゃないはずだ。」

 

 女は、言われたままに泉から上がろうとするが、背後から何やら音がする。

 どうやら森の中から誰かがこちらにやってこようとしているようだった。

 

 「誰だ?」

 「おそらく、この泉に案内してくださった方だと思います。何かとよくしていただいたんです。」

 

 (嫌な予感がする)

 

 俺の経験上、こいつに()()()()人間は二種類。

 

 

 「おい、そこの貴様!御子様の神聖なる祈りの儀に立ち入るなど、無礼だぞ!」

 「………めんどくせぇ」

 「聞いているのか!?御子様から離れろ!」

 

 極度のお人好しか、よくわからん宗教関連でこいつを利用しようとする奴だ。

 

 「ジェイさん、こちらの方は私の友人です。連絡が取れなくなったことを心配してきてくださったみたいで……」

 「いいえ御子様!この者は御子様を害する怨敵でございます。御子様の御心に取り入り、あなた様のお慈悲を独占しようとしているのです!」

 

 (独占しようとしているのはどっちだよ)

 

 「どうか我らにこそお慈悲をくださりませ。御子様がいらっしゃって初めて、我らは遙かなる試練の道の果て、救いに至ることができるのです!

 どうか!どうかその慈しみ深き御心で我々をお導き下さい!」

 「あら?なんだか話が通じないような……?」

 「ああ、御子様!あなた様の叡智と慈愛に栄光あれ!」

 

 首を傾げるニクスに構わず、ジェイという太った男はぎゃあぎゃあと喚いている。

 意味の分からない言葉を並べているが、どうやらその声は一つではないようだ。男に習って唱和する声が森全体から響いてくる。

 

≪お救い下さい  お救い下さい

 その大いなるお力で、その清らかな水の流れで、罪深き我々に許しを与えたまえ

 あなた様こそは空からの遣い  叡智と慈愛を以て我らに道をお示しください≫

 

ざわざわ ざわざわ

 

 森の奥から、何人もの男が現れる。手には皆一様に斧を持っている。

 それで俺を殺すつもりなのか、それともニクスを殺すつもりだったのか。

 どちらにせよ正気には見えない。目は完全にイっているのに足取りは確かで、できれば関わり合いになりたくない感じだ。

 

 「……よくしてもらったって?」

 「は、はい。お祈りをする場所を探していると言ったらこの泉に案内してくださったのですけれど…」

 「微妙に的を射たこと言うのがムカつくな。」

 「へ、陛下……彼らにはこの泉を貸してくださった恩があって、」

 

≪救い給え  救い給え  その身に流れる貴き血は天上への道を示す羅針とならん

 その肉は我らに命を与えん  そして魂の清き光を以て我らを大いなる神の御許に導きたもう

 偉大なる御子 我らを救い給え その寛き心で我らを許したまえ

 貴き血と魂で われらを天上に導きたまえ≫

 

 森から出てきた男たちはざっと数えても100人以上いるだろう。二日や三日くらいでこれだけの人数の崇拝を集めたニクスがすごいのか、この男たちがよほど罪深いのか。シュバルツァーが危険に巻き込まれたら、なんてことを言っていたが確かにこれは前の世界でも神殿に引きこもっていて正解だっただろう。

 これは人を見る目がないわけじゃない。いい奴はちゃんと良い奴だとわかる。しかし悪人を見ても疑うことができない。そういう機能がないからだ。その弊害がこれである。

 

 「あ、あの…こんなにたくさんの人がいたなんて知らなかったんです。」

 「どうでもいい。帰るぞ。」

 「ど、どうやってですか?」

 

 ニクスは人を疑うことができないが、この男たちが自分を返してくれそうにないことはわかるらしい。

 

 「背水の陣って知ってるか?」

 「陛下!彼らは悪人ではないのです。彼らはとある宗教の敬虔な信徒で―――」

 「よく考えろ。敬虔な信徒だったらお前が何をしなくてもちゃんと救われるだろ。」

 「ん?あれ?確かに、そうなのかもしれません……」

 「よし、帰るか。」

 

 べつに言ってみただけでこいつらを燃やすつもりなんてのはハナから皆無だ。

 しかし過去の夢を見て動揺していたとはいえこんなにすぐに言い任されてしまって大丈夫だろうか?もう少し口達者であった覚えがあるんだが。

 

 すっかり冷えてしまってまともに動けないニクスを引き寄せるとべっとりと自分の服まで濡れた。よれた薄手のシャツから水が染みてしまって不快だ。そろそろ買い替え時なのかもしれない。

 転移陣を開こうとすれば、ニクスは何かを思い出して慌てている。

 

 「お待ちください!陛下、ベールが…!」

 「また買ってやる。あと、俺は王じゃない。」

 

 民と国が全て亡んで、王は死んだ。

 王を王たらしめるのは民と国に他ならない。そして皆死んだのだ。

 俺は確かに力を持ち、この炎でなんだって焼き尽くすことができる。それで誰かを守ることもできる。

 けれどないものは守れないのだ。

 

 俺は今、マクバーンとして生きている。かつて王であったことを忘れることはないが、もう王ではないことは確かだった。

 

 

***

 

 

 マクバーンに捜索を依頼して3日たった。

 何の報せもないが、約束を反故にするような男じゃない。今は信じて待つしかないだろう。

 とはいえ、定期連絡くらいはするように言いつけておくべきだったのかもしれない。ニクスさんが帝国内にいるのかそれとも外国に行ってしまったのか、何もわからなければ不安も募るというものだ。

 

 「教官!ニクスは……」

 ホームルームが終わってすぐに駆け寄ってきたのはユウナだ。アルティナもニクスさんの行方が気になるようでとことこと近づいてくる。ユウナやアルティナには信用できる人に捜索を依頼したから今は学業に集中するように伝えたのだ。マクバーンを信用できる人間と言っていいかは迷ったが、ニクスさん関連では割かし大人しく話を聴いてくれるから安心できるのは確かだろう。

 

 「まだ見つかっていないそうだ。明日、連絡がなかったら遊撃士協会に依頼を出そうと思っている。」

 「え?教官が依頼したのって遊撃士じゃなかったんですか?」

 「民間人の保護という観点から、遊撃士が最適と判断しますが――」

 「ま、少し事情があったんだ。」

 

 遅かれ早かれ遊撃士を頼ろうとは思っていた。しかし遊撃士も今の時期忙しくしている。それなら初動が一番早いであろう人間に一番最初に言うべきだと思ったのだ。実際話を聴いてすぐに探しに行ったのだからやはり面倒見のいいひとなのだろう。

 (マクバーンが賢君だったと聞いて疑っていたが、実は結構いい王だったのかもしれない)

 

 教材をまとめてユウナたちと共に教室から出ようとすると校内放送で警告サイレンが鳴り響いた。

 

 『通達――コードM。コードM。グラウンドに出現。民間人の保護を最優先せよ。繰り返す―――』

 

 「なぁっ!?」

 「こんな時にマクバーンですか。教官、指示を。」

 

 「ふむ……」

 このタイミングで民間人と言われるとさすがに期待してしまう。生徒たちには待機していてもらいたいが、ユウナとアルティナは彼女の友人であるのだし、再開は早い方がいいだろう。

 

 「分散して動くのも危険だろう。二人はこのまま俺についてきてくれ。」

 

 しかし本当にあの男はここが士官学院であることをわかっているのだろうか?

 もう少し俺の立場を考えて配慮してほしいものである。

 

 

 駆け足でグラウンドに向かうと(すれ違った生徒や教官陣に気の毒な視線を向けられるのも、ミハイル少佐に視線で刺されるのも、慣れたものだ。慣れたくはなかったが。)ちょうど真ん中あたりにマクバーンが立っている。傍で蹲っているのは黒いワンピースを着た女性だ。

 

 「あ!あれってニクスじゃない?なんであの男がニクスを人質に取ってるわけ!?」

 「許せません。」

 

 教官!お願いします!

 なんていう純粋な目で教え子二人から見られてしまって、実はああいう状況になるようにしたのは俺ですとは言いにくくなってしまった。

 

 「っていうかニクスのベールは?あれって大事なものだったんじゃないの?」

 「≪劫炎≫が燃やしたのでは?早くニクスさんの安全を確保する必要があります。」

 

 これ以上勘違いが加速してしまうとさすがにマズい。なんというか、本当のことが判明したときが怖いのだ。

 

 「―――二人とも、実はニクスさんはもう安全なんだ。」

 「はい?」

 「……説明を求めます。」

 「二人は怒るかもしれないが、ニクスさんの捜索を依頼した相手っていうのが、マクバーンなんだ。」

 

 

 「どういうことですか教官!あんな男にニクスの捜索を任せるなんて…」

 「考えられません。」

 

 不満たっぷりといった様子のユウナとアルティナは俺に詰め寄ってさらなる説明を求めた。

 「せ、説明はあとでちゃんとするから、今はニクスさんのところに行こう。」

 「………じとー」

 「あとでキッチリ!説明してもらいますからね!」

 

 そうとだけ言い残してユウナとアルティナはニクスさんのもとに駆け寄る。ベールを脱いでいるニクスさんはなぜか全身がびっしょりと濡れていて、黒髪が肌に張り付いている。

 顔が白く見えるのは色の対比のせいだけではないはずだ。どうやら発見時には衰弱していたらしい。

 

 「マクバーン、ニクスさんが見つかってよかったよ。本当に今回はありがとう。」

 「ハン、お前も人使いが荒くなったな?こいつはここに置いていくから今度はちゃんと燃やすものがあるときに呼び出せよ。」

 

 「ま、待ちなさいよ!」

 「あん……?」

 このままさっさと退散してもらおうと思っていたのだが、納得のいかないユウナが彼を引き留めた。

 

 「あ、あんた、ニクスになんか変なことしてないでしょうね!」

 「なんだぁ?」

 「なんでニクスがびしょぬれになってしかもベールまで失くしちゃってるわけ?あんたが燃やしたんじゃないの!?」

 「……おいシュバルツァー、」

 「す、すまない。彼女たちにどう説明したものか悩んでしまって…」

 

 

 「でしたら、私から説明させていただきますよ。」

 

 ニクスさんは頭に当てていた手を外して立ち上がる。

 ユウナ、そしてアルティナと向かい合って彼女は青白いくちびるを開いた。側頭部の耳と角も露わになってしまっているが本人にそれを気にした様子はない。

 ユウナとアルティナは目の前の異形に目を奪われてしまっているが、ニクスさんは二人の手を取ってゆっくりと話し始めた。

 

 「私、お二人に言えなかったことがあります。

 私はゼムリア大陸で生まれた人間ではないんです。私はここからずっと遠いところで生まれて奇妙な縁で帝国にやってきました。

 この角と耳はその証拠です。普段はあまり目立ちたくなくてベールで隠しているんですけれども……

 この前、ユウナやアルティナがいらっしゃらないときに帝都まで行こうとしたんですけれど、迷子になってしまって。それでリィン様がマクバーン様に捜索をお願いしてくださったんですよ。」

 

 「ま、待って?ちょっと情報量が多すぎるっていうか、」

 「……思考整理が追い付きません。詳細な説明を求めます。」

 

 「でしたら、お茶にいたしましょう?心配をかけてしまった詫びもあわせて皆様にごちそうさせてくださいませんか?

 そこで詳しい話をさせていただきますから。」

 

 そうして俺たちはニクスさんが主宰するお茶会に招待されたのだった。

 そのお茶会には胃を痛そうに抑えるミハイル少佐やブラックボックスであるマクバーンも招待される運びとなり、またひと騒動あったのだが、これについて話すのはまた次回にしよう。




作中におけるニクスの望みは明らかです。
「自分で自分を許したい」これにつきます。
何もできなかった、王の力になれなかったという無力感に由来する絶望から解放されたいのでしょう。
自分が罪深いのは理解していて、そして自戒の感情によってその罪の形がどんどん歪んでいるのをニクスは自覚しています。それを止めたいのに止められない。
前の世界で死んでいった命たちの記憶を改竄したくなんてないのに、自分で自分を責めるあまり夢の中の記憶に登場する生命体はどんどん醜悪な魂を持つものになっていきます。
ニクスが自分のせいでこんなにひどいことが起こった、と思いたいからです。もっとショッキングな罪を背負っていると思うこと、その罪に対する罰を受けていると思うことでゼムリアに生れ落ちてしまった自分を正当化しようとしています。
ニクスがゼムリアで第二の生を得たことに意味なんてありません。作者の狂気です。ルーレットに当たったくらいの偶然です。(マクバーンがゼムリアにやってきたことには意味があるかもしれませんが)しかしニクスにはそれが耐えられません。楽しい楽しい第二の生を受けるべき善良な魂は以前の世界にたくさんいました。なのに自分が天運に選ばれてしまった。
これを「自分は罰を受けるためにゼムリアに来た」と思い込むことで正当化しているんですね。

もうちょっと楽に生きたらどうかなと思います。


4のマクバーンさんについて少し。
要塞での戦闘前には黒い焔を抑えられないと言っているのに自分の記憶を半分取り戻したらすんって抑えました。なんか気安いにーちゃんになった。
それってマクバーンはゼムリアにおいてはあの禍々しい魔人の姿よりもあの人間体を取るべきだと判断しているわけですよね。
あの姿を取って戦いを迫ったことについて迷惑をかけたと謝罪します。
そこらへんすごい優しいなと思います。あの形態が望ましくないというか、迷惑かけるものって考えてそうというか、とにかくマクバーンが本当に望む本来の姿ではないという印象を受けますね。
やはり闇落ちする前は結構な賢君だったのでは?(妄想)


あと、外の理。
マクバーンが操る焔、そして塩の杭の塩。これらは果たして外の理と言えるのか?という疑問が浮上します。
外の理とは、異世界にありゼムリアにない物質、もしくはゼムリアでの存在を説明できない現象と考えられています。
前者の例はケルンバイターやアングバール、後者の例が塩の杭やマクバーンです。

しかし後者はなんとなくわからないところもあります。
塩の杭はノーザンブリアを『塩』という既存の物質に変えてしまいました。
マクバーンの操る『火』もゼムリアに存在します。(『黒い焔』があるかどうかはわかりませんが)
ゼムリアと異世界には共通する物質もある、ということなのでしょうか?
『塩』や『焔』というのは定義できない存在をゼムリアに存在するもので説明した比喩という可能性もありますね。

本体とその末端(塩の杭にとっての塩、マクバーンにとっての火)はあくまで別、なのかもしれませんが。
ふわっとした表現が多いシリーズなので何とも言えないです。



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10 旅立ち

 昼下がり、バーニーズのとある部屋に俺は招待された。

 テーブルには白い布がかけられていた。彼女のワンピースとは正反対のオフホワイト。そのクロスの上に、プラスチックのカップが二つ。ニクスさんが俺をアフタヌーンティーに招いてくれたためだ。

 あれから、ニクスさんの精神は非常に安定していた。本を読み、リーヴスの町を散歩して、時に士官学院生や町人と交流する日々を送っていて、街道に出たり列車に乗って他の都市に行こうとはしなかった。

 時々執筆も行っているようで、噴水前のベンチで何かを書いているときもあった。

 

 きっと、場を作ってくれたのだろう。俺が彼女にちゃんとした説明をするための場を。俺は彼女と関わったものとして、説明責任があった。彼女に説明を求めたのと同じだけ情報を開示する責任があった。その中の一部の情報はたとえ彼女が知りたがらないとしても、言わなければならないことだった。

 

 ニクスさんはのんびりと外を眺めている。

 

 「ニクスさん、あなたに話しておくべきことがあります。」

 「はい、何でしょうか?」

 「お気づきの事とは思いますが、マクバーンは大陸各地で暗躍する犯罪結社のエージェントです。自分も、彼と何度も対峙し、交戦しました。ニクスさんにとって、マクバーンはたった一人の故郷の生き残りで大切に思う気持ちも理解できます。

 しかし、どうか安全のためにこれ以上彼と関わらないでいただきたいのです。」

 

 彼女はただ微笑んでいた。

 こういわれることをわかっていたのだろうか。

 

 「勝手なことを言ってすみません。マクバーン個人があなたを傷つけることはないのかもしれませんが、結社は一枚岩ではありません。回りまわってあなたに危害が及ぶ可能性は高い。」

 当然、彼女だけでなくこのリーヴスという町が危険にさらされる可能性も皆無とは言えないだろう。

 彼女はこのリーヴスでの生活を楽しんでいた。日の光を浴びて外を歩く彼女はいつも満足そうだった。子どもたちと一緒に遊んだり、街の人にさまざまな学問を教えたり、自分もたくさん手伝ってもらった。 

 そんな彼女にとって生活の一要素になりかけていたあの男との交流をたつのは心苦しい。だがあの男に犯罪者としての前科があることも覆しようがないのだ。

 

 

 (どうにかならないんですか!)

 (さすがに気の毒ではないでしょうか?)

 

 

 脳裏に教え子の声がよぎる。彼女たちはニクスさんの親友でもあったから、彼女の意に沿わないようなことが起こってほしくないと本気で思っているようだった。

 不思議なもので、俺もそう思っている。あの男には散々巻き込まれて、始末書を何枚も書かされる羽目になった。ミハイル少佐なんてあの随分メンツが濃いお茶会に招かれて、胃を痛めていた。

 本来マクバーンという男はそういう災厄じみた存在であるはずなのだ。関わらないに越したことはないというのに、できることならニクスさんとのつながりは保たれたままであってほしいと思っていた。リーヴスに滞在する彼女のもとをたまに訪れる友人としていい付き合いができたらいいと思っていた。

 それが本来あるべき自然な形ではないのかと思っていたのだ。

 

 「―――私、明後日にはリーヴスを出ていくつもりです。」

 「そ、それはまた随分急ですね。」

 

 相変わらず話の急に変わる人だ。さっきまで俺はマクバーンの話をしていたと思ったのだが、この人にとってはあまり意味のある忠告にはならなかったのかもしれない。本人にとって嫌な話題だろうから緊張していたのだが、案外ショックを受けていないようだ。

 

 「リィン様にはお世話になったというのに、お伝えするのが遅くなってしまって申し訳ありません。聞けば、大陸東部は不毛の地であるとか。幸いお金も少し集まりましたから、そちらで人々の生活を支援できればと思っているんです。」

 「大陸東部の龍脈が枯渇しているという話は伺っています。それでは、共和国の方に行かれるということですね。」

 「ええ。少し長い旅になりますけれど頑張ってみようと思います。」

 

 窓の外に向けられていた彼女の顔がこちらを向く。とても晴れやかな顔だった。

 彼女がマクバーンに連れ戻された日から、彼女は事情を知る人間の前ではベールを外すようになった。今も彼女の白い角と尖った耳は露わになっている。

 曰く『汚すのが怖くなったから』とのことだが、以前身に付けていたものに比べて高価なものであるようにも感じられない。

 

 「そのことは、ユウナたちには伝えましたか?」

 もし黙って出ていけば反感を買うことは間違いない。俺だけが事情を知っているというのも好ましくない。他の人に伝えていないようならば二人を呼び出してでも情報を共有させるべきだと思った。

 

 「今夜、一緒にご飯を食べる約束をしていますから、その時にお話しするつもりです。」

 「そうでしたか。……そういえばあの子たちはあなたにごちそうになってばかりでしたね。何かお礼ができればよいのですが……」

 「お気になさらないでください。二人にはそれ以上のものをいただきました。友達と言ってくださるような人がいるなんて、思わなかったから―――本当にうれしいんです。」

 心配には及ばなかったようで一安心といったところだが、彼女の発言に少し引っかかるところがあった。

 

 

 

 「……あの?マクバーンとは友人ではないんですか?」

 「マクバーン様と?どうしてですか?」

 

 おかしい。これまでの二人の言動を統合したら二人は友人というのが一番適切であるはずだ。ややこしいことになってきたのでここで推理パートを展開してみよう。

 

 

 

<根拠>

①ニクスさんはマクバーンのことを世界で一番尊敬している。

②マクバーンとニクスさんは同じ世界の出身で顔見知りである。

③お互いが無理して会おうとするくらいの仲である。

④マクバーンによると『深い仲ではない』

⑤でもなんだかんだマクバーンはニクスさんの世話を焼く。

⑥ニクスさんによると『対外的に見れば』上司と部下『のようなもの』

⑦しかし明らかに仕事だけの関係ではない。

 

 

 「―――以上の理由からお二人は友人と判断するのが自然だと思ったんですが、ちがうんですか!?」

 「あの……今何かこのあたりに文字が出てきたような気がするんですけれど……」

 「気にしないでください。」「あ、はい。」

 

 「何度か聞いているような気もするんですが、ニクスさんとマクバーンさんって結局どういう関係なんですか?お二人は故郷で何をしていらっしゃったんですか?」

 「私は昔故郷にある神殿で神官をしていました。()()()を民衆に伝えて平和を保つという仕事で、今でいう政治家に当たりますね。」

 

 彼女から以前聞いた話ではニクスさんはインフラの整備に関わる仕事をしていたと言っていた。それはどちらかといえば宗教家の仕事ではなく公務員の仕事のはずだ。最大幸福とか機会平等とかそういう単語も宗教というより現代の公民で出てきそうな語句という印象を受ける。

 

 「……つまり、()()()というのは……」

 「その時の社会情勢を鑑みて私が決めた政策だったということです。

 そして故郷を国に例えたとき、国家元首にあたる方がマクバーン様だったのですよ。」

 

 ははぁ。なんとなく分かった。

 しかし―――

 

 「そうは見えない、ですか?」

 「……ええ、正直なところを言わせていただくと。差異はあるのかもしれませんが、この国の政治家は政争や社交の必要がありますから社会や経済の知識以上にもっと計算ができる方が多いです。その方々と比べるとあなたは少し、純粋すぎるような気がします。」

 「よき政治家であるためにはなにより民に誠実でなくてはなりません。社交も時には必要なのかもしれませんが、私の故郷には神官が私一人しかいませんでしたから、他の神官と折衝を行う必要もなかったのですよ。

 私は神官として必要な素質を揃えていました。都合よくできていたんです。」

 「マクバーンもあなたのことをそのように評していました。『できている』とか、『そうなっている』というのはどういった意味なんです?」

 

 「そのままですよ。私はそういう性格に生まれて、成長することなく育ちました。

 知識や言葉を私は生まれつき持っていたので外に出る必要もなく、たまに元首であらせられたマクバーン様にお会いする以外には神殿の中で引きこもっていました。その結果、生まれたときの状態でここまで来てしまったというわけです。」

 

 いま、何かすごいことをこの人は言わなかっただろうか。知識や言葉を生まれつき持っていた?

 

 「あなた方は、異能や知能を宿した状態で生まれてくるということですか!?」

 「人間の方にはあり得ないでしょうが、私はそうでした。マクバーン様もそうだったかどうかはわからないのですけれど…」

 

 「す、すごいんですね……。」

 「大切なのは私が故郷をよく導けるかどうかでしたから、生まれがどうであるかなんて実はあまり関係がないんですよ。最終的に辻褄が合えば、それでいいんです。」

 彼女の耳がピコピコと揺れる。アルティナの髪と形は似ているが神経が通っているので当然ひとりでに動きもする、らしい。

 

 「マクバーン様とは、それだけです。私は仕事人間でずっと()()()を聴いていましたから、友達付き合いなんて呼べるようなものはありませんでした。

 ともに国の未来を憂う同志ではあったかもしれませんが、やはり上司と部下というのが一番近いと思いますよ。」

 「そうだったんですか……」

 

 今更ながらマクバーンで思い出した。そういえば自分は彼女にこれ以上マクバーンと関わらないように言いに来たのだった。

 彼女が話を逸らすままに誘導されてしまったが、彼女なりの結論くらいは聞いておかねば帰れない。

 

 「それで、ニクスさん。マクバーンの事なのですが。」

 話を無理やり戻すと彼女は顔から微笑みを消した。小さな唇を引き締めて、いつもよりもずっと真剣な声を発する。

 

 「――私の勝手な行いでリーヴスの皆さまが危険に及ぶようなことがあれば心苦しいですから。私からマクバーン様に連絡をしたり、話しかけたりといったことは遠慮させていただきます。」

 「……本当に、ありがとうございます。勝手を言ってしまってすみません。」

 「いいえ。リィン様のお立場を考えれば私が今こうしてお茶をご一緒できるだけで喜ぶべきなのでしょう。心配をかけてしまって、謝るべきは私の方です。」

 

 眉を下げながらも微笑んでいるニクスさんはティーカップを置き、両手を重ねた。少しうつむいて何事かを考えているようだ。

 ともに故郷を支え合った存在が犯罪者としての扱いを受けているのだから、きっとその心中は複雑に違いない。

 目的は果たしたのだからここは彼女を一人にしてゆっくりとした時間を過ごしてもらうべきだろうか。夕食はユウナたちと一緒にとのことだったから、少し持ち直すための時間を設けてほしいという気持ちもある。あまり二人が心配するようなことにはなってほしくないのだ。

 都合のいい話かもしれないが。

 

 「ニクスさん、俺はもうお暇しますが、何かお困りのことがあれば申し付けてください。あと、出発の時には見送りに行きますから。」

 「何から何までありがとうございます。リィン様にはお世話になってばかりでしたね。」

 「お力になれたならよいのですが。」

 

 

 昼下がり。太陽の光がだんだんと長くなっていく時間帯。

 俺は白いコートを羽織り、ニクスさんはベールを頭にかぶって、俺たちはどこか懐かしい温かさに満ちたお茶会を終えたのだった。

 

 

***

 

 

 初めて嘘をついた、と思う。

 何だか、本当のことを言ってはいけないような気がした。

 

 ユウナやアルティナのような『友』がこれまでにいなかったのは本当だ。人間が対等な存在として支え合い、ぶつかり合い、慈しみ合うなんて、以前の私にはない経験だった。

 

 けれど私は、彼の『友』であったはずなのだ。

 あたたかい炎が大好きで、彼が民に誠実であることが本当にうれしかった。ともにあの世界を導くことが楽しかった。

 ともに民を愛し、ともに大地を守ってきた。

 私たちは『友』であった。

 

 だけど、あの青年にあの方のことを『友』だと言えなかった。

 ただの上司と部下だなんてことを言った。この社会の常識から考えればきっとそれ以上の関係に相当するだろうに。

 私は彼の傍で彼を支え、守ることが当然だと思っていた。気の遠くなるような年月を共に過ごしてきてなお、これからもずっとこのままだと思っていた。

 

 それを人々はなんていうのだろう。

 私たちの関係を、人々は何て呼ぶのだろう。

 

 共に過ごした年月が長すぎて、お互いを信じる心が大きすぎて、ただの友には収まらない。

 私には性別という概念がないから恋人や夫婦にもなれない。

 生まれの由来が違うから家族にもなれない。

 

 私たちは、何なのだろう。

 私はただ、あの炎をもう一度見たかっただけだ。私をずっと導いてくれた炎の光がどこかにあることを確かめて安心したかっただけだ。

 そして私はそれを確かめた。あの人が今も自由に生きていることを知った。

 

 だから私は次の一歩を歩みだす。一人のヒトとして生きるために、私という存在をこの世界に作り出すために、私は私を許すための旅に出る。

 ちっぽけな私でも、誰かを救えるということを証明するために不毛の地へ旅立つことを決めたのだ。今にも消えそうな命の灯火があれば、それを今度こそ救い上げるために。

 

 それだけが今の私の望みだというのに、どうしてだろう。

 どうして私は、あの溶けてしまうほどに熱い炎に巻かれたいと思っているのだろう。

 こんな自己本位な浅ましい感情を、私は持っていなかったはずだ。民を救うという私の使命を果たすために生きているはずなのに。

 

 

 胸の奥で、小さな小さな灯が燃えている。

 そよ風で掻き消えてしまいそうなほど頼りない小さな熱が私の心の奥に確かにある。そこには慈愛の海だけがあったはずなのに。

 

 怖い。

 私は火を宿してしまった。戦いの象徴たる火を自分の中に持ってしまった。

 これが、誰かを傷つけてしまったら。救うべき命を奪ってしまったら。私は私を許せなくなってしまう。

 

 どうしよう。

 どうすればこの炎を、消すことができるのだろう?

 

 

 

***

 

 旅立ちの日は、あまりにあっさりとやってきた。

 

 「ニクス、到着したら絶対絶対手紙出してよね!?住所忘れたなんて言って1か月手紙来なかったら大陸東部まで行ってやるんだから!」

 「やはりARCUSかENIGMAを贈るべきだったのではないでしょうか。」

 「きっと宝の持ち腐れですよ。必ず連絡しますから、ご心配なく。向こうの駅に着いたら通信機をお借りして分校に一報をいれます。とりあえずはそれを待っていてください。」

 「本当に心配なの!こんなポヤポヤしてて、誰かに攫われたりするんじゃないかって……」

 「ニクスさん、シュバルツァー式護身心得をもう一回暗唱してください。」

 

 この子たちはやけに心配性だ。何かあっても死にはしないから大丈夫だと思うのだが、私はそんなに頼りなく見えているらしい。

 

 「あやしいひとにはちかづかない きけんをかんじたらすぐにげる、ですね。ちゃんと覚えていますよ。」

 「ねえアル、本当かな?」

 「わかりません。ですが万全は期すべきかと。」

 「やっぱりそうよね!」

 

 そう言って二人は何かが入った包みと一枚の紙を渡してくれた。

 

 「これは……?」

 どうやら何かの料理であるようだが、料理にしては不思議なにおいがしていると思う。

 「サンディおすすめの攻撃料理とそのレシピよ!長期保存もできるから、もし危ない目にあったらこれを投げてね。」

 「フレディさんの特性濃縮エキスが入っているのでどんな魔獣も昏倒まちがいなし、です。」

 

 包みを開けてみると確かに、あり得ない色をしたクッキーが大量に入っている。一枚でも十分な効果がありそうだ。それにフレディさんというのは珍味(と言えば聞こえはいい)で独特な料理を作る異彩の料理人ではなかっただろうか。

 くれぐれも自分で食べてしまわないように気をつける必要がありそうだ。

 

 「ふふふ、本当に二人ともありがとう。お二人と親友になれてよかったと思っています。皆さんも、長い間お世話になりました。リーヴスにはまた折を見て参りますので、その時はよろしくお願いしますね。」

 

 親友、のあたりでぎゅっと抱き着いてきた二人を抱きしめ、頭をなでながらお世話になった皆さんにお礼を言う。

 社会基盤と防災について個人的に教えていたフランキー様、たくさんの本を紹介してくださったレイチェル様、長期にわたってお部屋に泊めて下さったバーニー様ご夫妻、料理に関する知識をたくさん分けて下さったリーザ様、分校の蔵書室に入室するための手続きを行ってくださったセレスタン様……そして言わずもがなリィン様やランドナー様、ランディ様。たくさんの方にお世話になった。この町での生活は本当に楽しかった。

 これからもきっとここでの日々と同じくらい素晴らしい日々を過ごしていけるだろう。

 

 

 「またお会いしましょう。皆さまによきご縁のありますように!」

 

 二人の女の子たちのぬくもりから離れて、旅行鞄を手に取る。名残惜しそうな二人に微笑みかけて、私は駅舎の中へと足を踏み入れた。

 背中に刺さる視線がくすぐったくて、ドアが閉まろうとするときに振り返って手を振れば、今にも泣きそうな顔をしている子を何人か見つけてしまった。

 慰めてあげたい。抱きしめて、ずっと一緒にいると言ってあげられたらいいけれど。私は私の使命を果たすために、旅立たなければいけない。遠い不毛の地でしか救えない命があるだろうから。

 

 

 

 

 階段からホームに降り立ち、ベンチに座っていると、誰かが隣に座った。

 

 

 「いや~~友情ってホントいいですよね。私もあんな青春を過ごしてみたかったものですよ。」

 「あら?あなたは、もしかして先日の……」

 

 隣に座った男性の姿には見覚えがある。

 ベージュ色のロングコートに量の多い茶髪。丸い眼鏡と楽しげな声。

 初めて会ったのは少し前になるだろうか?電車を眺めるために駅のベンチに座っていたら話しかけてきた教会の人だ。名前は何といっただろうか?

 

 「お久しぶりです、トマスです。覚えていてくださったみたいで嬉しいですよ~。」

 「私も、こんなところでまたお会いできるなんて思っていませんでした。お手紙は届きましたか?」

 

 その時は少しお話をして、いくらかこちらの信仰に関することを教えてほしいと言われたので軽く紙にまとめてリィン様に手渡したのだったか。

 教会の人に、と言えば伝わるからだなんて不思議なことを言われ、その通りにしたのだが、果たしてあれで届いていたのだろうか?

 

 「ええ、もちろん。しかし今日はそれとは別の件でして――」

 「??」

 

 申し訳なさそうにトマスさんは眉を下げている。

 彼の丸底メガネの奥で細い目が開かれたと思うと、後ろから両肩を誰かに抑えられた。感じる圧は弱い。女性だろうか。

 さすがに不審に思い後ろを向くとそこには金髪の女性が立っている。穏やかそうな顔立ちで、出で立ちにも不審なところはない。

 女性の手を振りほどこうとして右手で彼女の腕を取ろうとしたが、体が動かない。

 

 まるで金縛りか何かにあったように指が動かないのだ。

 

 「……?」

 「本当に申し訳ないんですけれども、私たちと一緒に来ていただきますね。」

 

 

 

 

 そうして、パチン、と。

 指のなる音が誰もいない駅舎に響いた。

 

 

 

 




次回からアルテリア法国編です。
あと全部さんはしばらくでない…はず。


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第2章 アルテリア法国編
11 始まりの地


 星杯騎士団は汚れ仕事が多くて厳格な聖職者から嫌われてる、という設定がありますが、そのあたりガイウスさんはどうなんでしょう?外法の処刑とかやってるんでしょうか?

 どうでもいいんですが作者はアルティナちゃんとジンゴちゃんとユリア准佐とシード大佐とウォーゼル卿とマクバーンが好きです。




 

 

 女はうずくまっていた。まるで赤子が母親の胎内で生まれ落ちるのを待っているように、膝を抱えて眠っていた。

 男は眠る女を静かに見つめている。興味深そうに観察をしているようだ。

 二人のいる空間は青く、静かな空間だった。ここは始まりの地と呼ばれる空間――のレプリカである。古代遺物の“力”が人々の住む場所に余計な影響を及ぼさないようにするための場所だ。

 

 そこに、急いで近づいてくるものがあった。この場所に至るためには随分と長い階段を下る必要があるが、その者にとってはさしたる道のりではないようだった。

 

 

 「ライサンダー卿!」

 広い空間に響いたのは若い青年の声だ。背が高くて、肌の色は浅黒い。その青年はノルドの民だった。

 

 「おや~?これはこれは、ウォーゼル卿ではありませんか。早かったですねえ。突然呼び出してしまってすみません。」

 男が青年の呼びかけに答えた。

 青年はどこか納得がいっていない様子だったが、男はそれを気にしていないようだった。

 

 「これは一体どういうことでしょうか?」

 

 詰め寄る青年を一瞥して男は涼しげな顔で青年の疑問に答える。

 

 「彼女に関して、今現在、教会の見解は大きく二つに分かれています。

 ――彼女を塩の杭と同質のものととらえる見解と、そして彼女を()()()()として捉える見解です。

 つまりどちらにせよ、彼女は人間ではないと考えているわけですね。」

 「副長はどのように考えていらっしゃるのですか?」

 

 「難しい問題です。

 彼女は説明のつかない人智を超えた異能をもっています。

 存在する流体の流れを操る異能。これは古代遺物ととらえられても無理もないような異能です。

 そして調査の結果からゼムリアとは異なる文化圏の出身であることが明らかになりました。ご存じの通り、七耀教会はゼムリア大陸全土での女神信仰を根付かせたのですから、女神という存在を知らないなんてことはあり得ないわけです。まして彼女は一定以上の文明を持つ都市の神官であったとか。

 個人的には、どんな神に仕えていたのか。女神以外の神とは何なのか?―――気になるところではありますが、今は置いておきましょう。」

 

 「……」

 「たとえ彼女に一切の戦闘能力がないとしても、どこかの組織に属されてその異能が悪用されてしまえば目も当てられません。現に劫炎という前例がある以上、教会としては野放しにすることもできないんですよ。」

 

 教会と蛇の対立において、守護騎士と執行者が交戦したことは何度もある。僧兵庁の部隊が執行者に全滅させられたこともある。

 蛇にこれ以上異能の脅威が増えるというのは教会にとって何より避けたいことだった。

 しかし青年は男の説明を受けても意見を変える様子はない。

 

 「だからと言って始まりの地で拘束する必要なんて…」

 

 「ところで、ウォーゼル卿はどう思いますか?彼女は人間でしょうか、それとも古代遺物でしょうか?それともミリアム君のような、ホムンクルスでしょうか?」

 「…見た限り、人間離れしているのは事実です。ですが、劫炎とは異なるでしょう。」

 「人間に近いということですか?」

 「というよりは、動物に近いかもしれません。人間ほどではないですが高度な知性を持つ動物は多数存在します。その魂が人間の体に入ったような感じにも見受けられます。」

 

 「動物、ですか。なるほど。何度か彼女とは話をしていますが、確かに感情が少し単純なところは動物と呼んだ方がいいかもしれませんね。」

 「ですが命であることには変わりがありません。やはりここは…」

 

 女が身じろぐ。

 二人は会話を中断して女を注視した。女は目を力なく開こうとして、しかし瞼が持ち上がらないのかしぱしぱと瞬きを繰り返している。

 その瞳は不可思議な色をしていた。現実世界にないような色。

 星の色、というのが近いだろうか。

 

 男が女に声をかけた。

 

 

 「―――お目覚めですか?」

 「う……」

 

 女が目を開いて、男と青年を視認した。きょろきょろと周りを見渡して不思議そうにしているが、男の姿を見て少し安心したのだろうか、親しげに声をかけている。

 

 「トマス様ではありませんか。先ほどは女性が御一緒だったと思うのですが、あの方はどうかなさったのですか?」

 「うーん、こうも疑われないと逆に罪悪感が湧いてきちゃいますねぇ」

 「……(胡散臭いという自覚はあるのか)」

 「???」

 

 男は咳払いをして、状況を説明するべく優しい声で女に語り掛けようとする。槍を携えた男はただその横に佇んでいた。

 

 「ニクスさん、おはようございます。ここは始まりの地。古代遺物を封印するための場所です。私はトマス・ライサンダーと申します。こちらの青年はガイウス・ウォーゼル。」

 

 青年は男の紹介に合わせて軽く礼をする。

 

 「異界からの来訪者に失礼をしてしまって申し訳ない限りですが、いましばらく私の話を聴いていただけると。まず前提として私たちは星杯騎士団という組織に属するものです。

 早すぎた女神の贈り物とも呼ばれる、圧倒的な力を秘めた古代遺物を回収するのが主な役目です。女神の教えに沿って社会が乱れないようにするための実務部隊と思っていただければよいでしょう。

 

 それで今回ニクスさんをこちらにお連れした経緯ですが、実はニクスさんがその古代遺物に認定されちゃったんですよね~」

 「はい?」

 

 女は男に聞き返した。

 目を丸くして、ぱちぱちと瞬いている。男の言葉の意味が理解できなかったらしい。

 男はその様子を受けてもう一度ゆっくりと、大切なところを強調して復唱した。

 

 「だから、ニクスさんが古代遺物に認定されちゃったんです。なので騎士団はどんな手段を使ってでもニクスさんを回収する必要があったんですけれども、ちょっとその後の扱いでもめているところがありまして~。

 あんまり身内で揉めるのもどうかと思ったので、私の方で身柄ごと一旦預かることにしたんですよ。」

 「……えっと?つまりどういうことでしょう?」

 

 「ニクスさんは、人間であることが証明されない限りこの始まりの地から出ることができなくなってしまった、というわけです。」

 

 男の言葉を受けて初めて女の表情は悲痛そうにゆがめられた。

 

 「それは困ります!私は大陸東部に行かないといけないのです。」

 「ええ。聞いていますよ。ですのでウォーゼル卿をお呼びしたわけです。」

 

 「??」

 

 女はどういうことかと疑問に思い青年を見るが、青年は訳が分からないというように男のことを見ている。

 そして男はまだ興味深そうに女を観察しており、結局三者の視線はまじわらないままいくばくかの時間が過ぎた。

 

 

 

***

 

 

 「ユウナ!ちょうどいいところに。ちょっとこっちに来てくれないか?」

 

 今日の部活動を終えて学生寮に帰ってきたら、ラウンジにいる誰かから呼び止められた。

 この声は教官だ。声がする方を向くと教官の隣にはアルティナが座っている。

 

 「どうしたんですか?もしかしてニクスから通信が?」

 

 ニクスはARCUSの連絡先を知らないから分校に連絡すると言っていたけれど、もしかすると過保護な教官は何らかの方法で連絡先を教えていたのかもしれない。

 

 「いや、通信自体はガイウスからだ。」

 「ガイウス先輩?」

 

 『やぁ、久しぶりだな。元気にしているだろうか?』

 「え、え…いきなりどうしたんですか?アルテリアでお仕事なさってるって聞いてたのに!」

 『それが少し事情があってな。まぁこういう訳なんだ。』

 

 ガイウス先輩はARCUSを誰かに持たせたようだ。向こうのカメラは黒い何かを映している。

 

 『ここを持って、こっちを向いてくれないか』

 『―――?――――……』

 『そっちじゃなくてこっち……逆だ。』

 

 何だかARCUSの取り扱いに手間取っているようで映像がブレブレだ。

 しばらくして映ったのは、一昨日にリーヴスを出発した親友だった。

 

 「ニクス!?」

 『あら?すごいですねえ……水鏡でもないのに遠見ができるだなんて、いったいどういう仕組みなんです?』

 「ニクス!ニクスでしょ!?なんでガイウスさんと一緒にいるわけ!?」

 『―――まさか聞こえているのはユウナの声ですか?もしかして今喋っているんですか?』

 「そうよリアルタイムよ!ARCUSはすごいんだから!」

 『すごい!人間の叡智ってすごいですねぇ!そこまでできるだなんて思っていませんでした。』

 

 最先端の技術にはしゃいでいるニクスは珍しく大声を出しているが、できればこちらの質問に答えてほしい。

 

 「ねぇニクスってば!どうしてガイウス先輩と一緒にいるの!?」

 『ウォーゼル様と御一緒している理由ですか?実は私、電車を乗り間違えてしまってよくわからない場所についてしまったのですが、そこで助けて下さったんです。』

 「電車を間違えた?それってお金とか大丈夫だったの?」

 『皆さまお優しい方ばかりでしたから、何も問題はございませんでしたよ。』 

 「ほんとかなぁ~……」

 

 疑わしいことこの上ない。誘拐犯やカルト教団のことでさえ「悪い方じゃない」と言い切ってしまうような人だ。

 自分とは基準が違うみたいだから本当はガイウス先輩が助けに入らないと危険な状態ではなかったのだろうか?

 

 「実際のところどうだったんだ?」

 『少なくとも金銭トラブルは起きていなかったさ。少しばかり彼女に突っかかっている人間がいたからそれを仲裁したくらいだ。』

 「やっぱり揉め事が起きていたんですね。」

 『何ももめていませんよ。あの方とは少し政治のお話をしていたんです。』

 『そうだったのか?』

 「彼女の言い分は信じなくていいぞ。」

 『そうだったのか……』

 

 やっぱり。世の中には悪い奴もいると何度言っても覚えてくれないニクスもニクスだが、もうここまでくると一つの突き抜けた個性なのだろうか。

 ガイウス先輩の話によれば、ニクスはちゃんと電車には乗れていたらしいが乗り過ごしてしまったらしい。先輩は任務で共和国の方に来た時にニクスが誰かと揉めているところに出くわしたのだとか。

 

 「もう…本当にびっくりしたじゃない。全然連絡が来ないから電車が止まったのかと思ったのにそんなニュース入ってこないし!また何かに巻き込まれたのかと思ったでしょ!?」

 『ご心配おかけして本当にすみません。ですけれど、心優しい方のお力もあってどうにかこうにか共和国に入国することはできました。

 ようやく旅のスタート地点ですけれど、頑張ってみますね。』

 

 ちっとも堪えた様子のないニクスはなんだかんだ言って肝が据わっていると思う。こういうところが大物の貫禄ってやつなのだろうか?(ニクスは故郷でたった一人の政治家だったんだって。本当かな?)

 まぁこれからはガイウス先輩がいるから大丈夫だろう。騎士団はよくわからない謎の組織だけど、守護騎士として構成員を束ねているという先輩の実力は折り紙付きだ。

 (散々お世話になっておいてこんなことを言うのは失礼かもしれないが、トマスさんという守護騎士の方はなんだか胡散臭かった。実力は確かなんだろうけど…)

 

 「無理しないでね。何かあったらガイウス先輩を頼るのよ。ガイウス先輩、すっごい強いから!」

 『そうなんですか?それは頼りになりますねぇ。』

 『まだまだ修行中の身だが、さすがに放っても置けん。彼女を東部まで送り届けるつもりだ。』

 「よろしく頼む。」

 「お願いします。」

 

 『アルティナまで…私、そんなに信用のない人間だったんですね?』

 「危機管理については乳児に劣るものと認識しています。」

 『そんな……』

 『移動中、彼女の安全についてはこちらで配慮しよう。また折を見て連絡を入れさせてもらう。』

 

 これで次の連絡までは一安心、といったところか。

 

 『それでは、また次の連絡で。ユウナやアルティナもあまり無理をなさらないでくださいね?』

 「それはこっちのセリフです。」

 「ニクスは、面倒ごとに巻き込まれないようにあんまり首突っ込まないでよ?

 ―――そういえば、ニクスって大陸東部での活動はどこを拠点にするの?詳しいこと何も聞いてなかったと思うんだけど。」

 『あら、言っていませんでしたか?まずは共和国を拠点にしているNGO団体にコンタクトを取るつもりです。首都のホテルに滞在しながらプロジェクトを提案したり、教会や支援団体を回ったりして活動方針を定めるつもりですよ。

 それで思ったようにいかなければーーー』

 「思うようにいかなければ?」

 

 

 『単独で頑張ってみるしかありませんね!』

 「要は行き当たりばったりってことじゃない!」

 「不安しかないんだが…」

 『大丈夫ですよ。人を助けたいという思いはすべての人が持っているものですから、きっと賛同してくださる方がいらっしゃいます。

 悪いようにはなりませんからどうぞご心配なく。』

 

 一体彼女の自信はどこから来るんだろう?賛同してくれる人がいたとしてもボランティア活動は資金や人手がいないと継続できないことが多い。

 困難なことがいっぱいあると思うのに、ニクスはそんな不安をちっとも感じていないみたい。

 いっそ羨ましくなるくらいの能天気さだった。

 

 『――――♪―――♪――』

 『あら、電車が来てしまったみたいです。』

 『また連絡する!』

 「ああ、よい旅路を。」

 

 教官の言葉を受けてニクスは微笑んだ。彼女の微笑みはいつもきれいで、クロスベルの家族を思い出す。

 あら、どうやって切るんですか?なんて戸惑っているニクスの手からARCUSは先輩の手に移り、通信は終了した。

 

 「は~~っ、元気そうでよかった!でも先輩と一緒にいるなんて、ほんと奇妙な縁の子だよね。」

 「同感です。数奇な運命が生まれつき決まっていたのかもしれません。」

 「……(先日もカルトの騒ぎに巻き込まれたとか言っていたけど、まさかな)」

 「教官?どうかしたんですか?」

 

 「今日の晩御飯は何かと思ってね。」

 「今日のディナーは新鮮野菜のハヤシライスだそうです。」

 「どうしてアルが知ってるの?」

 「レオノーラさんはごはん情報に詳しいんです。いつも教えてくれます。」

 「へぇ。それは楽しみだな。」

 

 忙しいけれど楽しい日々。大切な仲間たちと親友。

 困難があってもきっと乗り越えられると今は心から思えている。

 あの心優しい親友も、きっと自分なりに道を切り開いていくんだろうな、と思った。

 

 

 私の親友。

 年齢不詳の女の子。

 実はマクバーンと同い年らしい。(って結局何歳なの?)

 危なっかしいけどいっつも何とかなってしまうのが不思議なくらい、ちょっと変わっている。

 

 私はニクスのことを純粋で、正直で、どこか幼い女の子だと思っていた。

 疑うことを知らない優しすぎる女の子。

 

 ニクスは自分のことを政治家だって言っていたけれど、私が知っている政治家は、もっと疑り深くて、狡猾だった。

 だからニクスが政治家として長い時間を過ごしてきたことをどこか遠いことのように考えていた。

 

 彼女が嘘をついたり隠し事をするだなんて思いつきもしなかった。

 

 

 

 

***

 

 

 ARCUSの通信を切り、目の前で電車のドアが閉じるのを見送った。

 リィンたちには電車が来たといったが、この電車に乗る予定はない。

 自分たちはこれから、大陸東部ではなくある場所に赴くためだ。

 まるで親友に嘘をついたような気分だ。すこし心に罪悪感が募る。

 

 

 「心苦しいですか?」

 

 ニクスの声がかけられた。

 嘘をついているわけではない。共和国に行こうとするニクスという女性と出会い、これから一緒に行動することになった。間違っているわけではないんだが、そのままの真実というわけでもない。

 

 「隠し事というものにまだ少し慣れないものでして…自分は不器用ですから」

 「人には向き不向きがありますよ。あまり気に病まれないでください。」

 「ありがとう。しかし意外でした。思っていたよりもお上手だ。」

 

 まさかリィンも痴漢にすら怒らないニクスのような女性が隠し事をするとは思っていなかったのか、≪観の眼≫もごまかせたようで一安心だ。

 彼女の様子を見る限り、嘘をついたこともないのではないかと思ったが存外そういう訳でもないらしい。

 ニクスはにこにこと悠然と微笑んでいる。

 

 

 「必要なことくらいは私にもできますよ。それにウォーゼル卿がお強いことを知らなかったのも、揉め事を起こしていないのも、これから共和国で活動することも、全て事実ではありませんか。」

 「……それもそうですね。」

 「リィン様たちにはいろんなことが片付いてから一緒に謝ることにしましょう?今は彼らのことについて考えなければなりません。

 正直なところ、あなたほど風に愛された人間がいれば何も恐れることなんてないのかもしれませんが、共同任務――よろしくお願いいたしますね。」

 

 彼女は軽く指を振るだけでゼオを呼び、肩にとめる。ニクスはゼオのことが気に入ったようでよく呼びつけていた。

 何でもいくら愛しても何も言われないから、とのことだ。

 ゼオはこれからのミッションに少し緊張しているようだったが、ニクスに体をなでられて随分リラックスしている。

 

 なんだかんだと言って、心強い同行者だ。

 彼女は人に疑われにくいという強みもある。交渉ごとに強いタイプだろう。

 

 「ええ。必ず成功させましょうーー!」

 

 

 

 (ちょっとした親心、というやつですよ。)

 

 俺たちに任務を言い渡した副長の言葉を思い出す。

 副長は始まりの地にニクスを拘束するべきではないという俺の意向と始まりの地から出て社会奉仕がしたいというニクスの願い、その両方を叶えるための方策を用意していた。

 

 

 (私の≪匣≫やケビン君の≪魔槍≫もそうですが、守護騎士は認可のもとに古代遺物を()()として利用することが可能です。

 今は打診している最中ですが、ウォーゼル卿がニクスさんの異能をコントロールできることが示されれば、ウォーゼル卿の武装として任務に同行することができるでしょう。

 潜入任務が言い渡されれば長期の外出も可能になるはずです。今のところ教会の意向に背かない形でここから出るためにはそれくらいしか思いつかないのですが、いかがですか?)

 

 

 最大限の便宜を図ると言ってくれた副長の言葉にすぐに頷いた彼女は騎士ではなく()()として俺に同行することを決めた。

 大陸東部で奉仕活動がしたい彼女にとっては望まないタイムロスだろうが、教会の意向ばかりは自分にもどうしようもできない。

 始まりの地で監禁まがいの扱いを受けるよりは、外に出れる分だけましだろう。しばらくは≪外法≫絡みの任務も回さないようにすると言ってくれている。

 しばらくすればまた彼女の待遇を改善するための策を考えてくれることだろう。

 

 そういった交渉は副長に任せて、自分は任務を通して彼女の安全を確保する必要がある。

 まずは任務を安全に終えることが最優先だ。

 

 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、ボックス席に二人で向かい合って座る。

 ニクスはのんびりと外を眺めていた。

 これからどうなるか、予想もつかないが、ぼうっとしているようで案外本質を見抜くことに長けている彼女に意外と助けられるのかもしれない。

 

 ―――俺たちは古代遺物の回収任務のために、共和国西部へと旅立つのだった。

 





ちらっと他の方のプレイ動画見て閃の軌跡をやるかやらないか迷っていた時、あまりにもリィン君がモテることが最大のネックだったんです。
しかしリィン君ってそういえばエステル・ロイドみたいな明るい地の性格にヨシュア・レーヴェみたいな暗めの過去と母性を擽る特定方向の衝撃に弱いメンタルを有しててそりゃ女の子にモテるわって納得して買いました。

苦労してる感じの人間好きなのでⅢのリィン君とかミハイル少佐とかⅣのアリサとかすごい好きでしたね
Ⅳでマクバーンを好きになったのも自分勝手に行動してたけど一気に皺寄せのごとく辛い記憶が流れ込んでくるっていう場面にウッときたからです。

うーん我ながらわかりやすい


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12 古代遺物の回収任務

Q.閃の軌跡で一番好きなキャラクターは?
A.フレディです

Q.第1話のえせ神話ポエムあれ何?
A.雰囲気中二ポエムです

活動報告書きました。


 

 潜入においての極意は「堂々としていること」なのだという。隠れよう隠れようとするからこそ見つかってしまうのだと言っていたのはヴァンダール家の長子だったとおもう。

 彼は護衛対象があの人であるから中々に苦労させられているらしく、隠れたり潜入することは得意だと言っていた。

 時には音楽プロダクションのマネージャーとして演奏家をサポートしたと聞いた時は思わず笑ってしまったくらいだ。帝国の貴い血が流れる方にそういうユーモアがあるというのは、ノルドの民である自分にとってはどこかうれしい事実であった。

 文化の異なる人間のことも、広い心で受け入れてくれるのではないかという期待をしてしまう。そして実際本人はその期待以上に寛大で聡明な人だった。喜ばしいことだろう。

 

 

 「お姉ちゃん、お姉ちゃんはどうして頭に布をかぶっているの~?お嫁さん?」

 「それはですね、実はお姉さんには鬼の角が生えているからですよ。」

 「あはは!なにそれ~変なの!」

 

 

 為政者には、柔軟さと寛大さというものが必要なのかもしれない。

 幼児の言葉に対して真剣に本当のことを答える女性を見て、そう思った。始まりの地で見た彼女の頭部には人間とは異なる角と耳があった。本人によるとそれが人間ではないことの証拠らしい。

 

 「すみませんね、子供と遊んでいただいて。」

 「いいえ、構いませんよ。先生は子どもと話すことが好きですから。」

 「作家さんでしたっけ?お若いのにご立派ね~」

 「はは、本人がもう少し締め切りを守ってくれるのであれば、俺も同意できるのですがね。」

 

 女性の文筆家とその進捗管理にうるさい男性編集者、というのがこの街に潜入するにあたっての設定だった。文筆家にこき使われる形でなら編集者が町をうろついていても、街を見まわしていても不自然ではないだろうと言い出したのはニクスだ。

 驚いたことに彼女は本当に文筆家としていくつか本を出していて、それが割と人気だというのでもし不審に思われても大丈夫だという。

 戦闘面ではあてにならない分こういったところで力になる、と言い出してくれた彼女の笑顔を見ると、少し後ろめたい気持ちになった。

 

 自分は彼女の目的を妨げている一派の一員だというのに、どうしてそうも素直に力を貸してくれるというのだろう。

 

 星杯騎士になったことに後悔はない。師父の聖痕を受け継いだこともある種の運命だったと思っている。大きすぎる力に振り回されてしまうこともたまにはあるが、自分の周囲にはそういう力の専門家が多い。(特にリィンは年も近いし悩んでいた時間も長いので相談しやすい。最終的に制御に成功しているので参考になる話ばかりだ。)

 それはいいのだ。聖痕の力が自分には過大であることも、しるしを顕したものとして然るべき役割を果たさなければならないことも、回りまわってノルドの民と故郷を守ることにつながるから、いい。

 

 しかしそうはいっても、どうやったって慣れないことはある。

 自分の修練を担当してくれた副長に曰く、『外法、滅すべし』。俺は半年間の修練の間に何度かその場面に同席した。しなければならなかった。聖なるしるしを背負うものの義務として。

 苦しかった。

 外法と認定された人間が、血を噴き出して死んでいく姿。目をそらしたいのに反らせなくて、俺は事が終わってもそこに立っていた。無理に割り切ることはないと言われる度、しかし向き合わなければならないという焦燥にさらされる。

 いつだって思い出す。師父が自分の目の前で冷たくなっていくあの時の、あの、絶望、だろうか。

 めまいがするんだ。

 人の命が奪われていく瞬間は、あまりに唐突に自分の脳髄をグラグラと揺らす。

 

 自分は外法を滅さなければならない。

 けれど自分が滅するべきその人は、師父と同じ人間であるのだ。母から生まれ、家族に愛され、そして生を営んできた人間だ。

 自分が槍を向ける彼らが、師父に重なるのが恐ろしい。

 罪を犯した人間と自分に教えを伝えてくれた師父は違うとわかっていても、きちんとできていても、時に重なってしまう。

 

 武に生きるものとして、人を傷つけ、傷つけられる覚悟をした。相手に槍を向けるたびに心の中では自分が自分に槍を突き刺している。

 他人を傷つけることの痛みを乗り越えて自分は誰かを守るために槍を握ると決めた。

 だというのに、命を前にすると自分の決意はこんなにもちっぽけだ。

 俺は彼らを殺していいのだろうか。役目だからという理由で、人を……

 

 

 「ウォーゼルさん?」

 「―――先生。すみません、どうしましたか?」

 「今日の分の原稿を書くので戻ろうかと思ったんですけれど……もう少し休んでいかれますか?」

 「いえ。宿に戻りましょう。」

 

 気を、遣わせてしまった。

 ―――自分は女神に仕える騎士。12ある聖痕の担い手の一人。故郷を守るために、自分はこの罪と向き合っていくべきなのだろう。

 この人を疑うことを知らない女性とも、向き合っていこう。騎士として、人として。俺はやるべきことを果たすためにこの足で立って歩かないといけないのだから。

 

 

 

 宿に戻ると、彼女はお茶を淹れてくれた。ノルドで飲まれているチャイだ。淹れ方がわからないから自己流だと言っていたが、渋味を生かして引き立つように風味の良いお茶うけを用意しているあたり、こうしてお茶を飲むことが好きなのだろう。

 故郷の名産品が、来訪者にも愛されていることがこんなにも嬉しい。文化がどこかで息づいて、また誰かに伝えられようとしている。人の営みとはこういうものなのかもしれない。

 

 「ノルドのお茶ですね。」

 「はい。以前ノルドに行ったときに購入しました。おいしくて、たくさん買ったんです。その時は、どうやって生きるかも決めていなくて、私は本当の意味でまっさらでした。

 まっさらな私の体を包むノルドの風が私にとっては本当に優しく感じられて、30年くらいはそこで過ごすつもりでした。

 ……30年過ごすつもりなのにこんなにたくさん買ってしまったというのもおかしな話なんですけれどね?」

 

 彼女は微笑んでいる。

 プラスチックの小さなティーカップを持って、のんびりとほほ笑んでいる。何の悩みもないような、何にもとらわれないような、そんな超然とした微笑みはきっと誰から見ても美しいのだろう。

 しかし自分には、それが異様であるように思えた。まるで自然が間違って人の形をとってしまったかのように。

 

 彼女は俺の心を見透かしているかのようだった。

 

 「私は人間ではありません。私は見た目以上にもっとシステムじみています。最大幸福の実現のために自己を度外視し、ただひたすら人と故郷を愛していた。私はそれで満足していましたし、幸せでしたけれどそれを憐れむ人もいました。

 ……今も、こうして人間のような見た目をしていますが私は不完全で、その人がなぜ私を憐れんだかもわからないのです。」

 「あなたは、人間です。俺はそう思いたい。」

 「ありがとう。私も、そうなりたいです。

 私は私を許すために、人になりたいと思っています。」

 

 

 「……人が、償いきれない罪を持っていても?」

 

 俺にはわからない。力の有無で罪人を捌く権利の有無が決まるのかどうか。

 たとえ義務であっても、たとえ罪を犯した人間であっても、殺していいのかどうか。

 俺は償いに何ができるだろう。

 

 「償いと許しは別のものです。」

 「え……」

 

 「罪を犯した者には、社会によって罰が与えられます。償いとは、罰という荷物を背負うことで、必ず終わりがあります。償いきれない罪なんてないのです。

 しかしたとえその荷物を下ろすことが許されても、それは罪自体が許されることではありません。その意味で、許されない罪というものはあるでしょう。

 許しを得るために何をすればいいのかまではわかりませんが、少なくとも許されたいと思い罪に向き合う人にしか得られないのは確かでしょう。

 

 私は人を救うことで、自分を許せそうな気がするのです。だから、私は人になりたい。」

 

 彼女の話はもっともなのかもしれない。しかし気になることがあった。

 彼女は自分を不完全だという。しかし人を助けるという意味で、彼女は人の上を行く存在であるように見える。彼女は過剰なまでの優しさに満ちている。その心があればきっと助けられないものなんてないだろう。

 

 「俺には、今のままのあなたでも十分人を救えると思います。現にあなたは俺の悩みを聞いてくれている。俺の心を救ってくれているではないですか。」

 「人を救うのは、人とその行いでしかありません。あなたの心が楽になっているのならそれに越したことはありませんが、きっとあなたを救う人はまた現れると思いますよ。」

 

 楽しみですねぇ、だなんて。

 さっきと変わらず微笑んでいる彼女は、やはり人間離れしていた。

 

 

 

***

 

 

 

 

 今回の任務は≪回収物≫だ。誰かの手に渡ってしまった古代遺物を回収する必要があるのだが、これまでの任務では大抵引き渡しだけだったというのに、今回は場所の特定から交渉までを言い渡されてしまった。

 新人には少し荷が重くもあったので、猫の手でも借りたいと思っていたのだ。

 

 ……交渉事は任せようと思っていたのだが、こんなところで彼女の能力が発揮されるとは思っていなかった。

 

 「この街の名士であるブラウン家の人が最近買い物に来ないのだとか。百貨店の支配人さんが売り上げが落ち込んでしまって困ると嘆いてらっしゃいますよ。」

 「……ちなみに、どこでそういう情報を仕入れてくるんですか?」

 「百貨店の支配人さんのお子さんとよく遊んでいる女性の妹さんがおばあさんに相談していたので、お力になれないかと思ったのですけれどその時に教えていただいたんです。」

 

 

 地域密着型、というのだろうか。こういう人になりたいと思う。

 自分と彼女は同じ聖職者だというのに、なんだか彼女は信頼されやすいのだ。いや違うか。その言い方は適切ではないような気がする。

 皆、彼女が心配で世話を焼いてしまうのだ。自分が見守っていないと、どこかへフラフラと言ってしまいそうな……そんな人であるように見えているのだろう。実のところ俺にもそう見えている。

 彼女と行動を共にしていてやけに荒事の対処のスキルが上がったような気もする。

 

 

 「ブラウン家は確かに見回りの時もやけに静かすぎる気がしたが……まさか古代遺物の力を行使してしまったのだろうか?」

 「わかりませんけれど、あまりよろしくはないでしょうね。早い目に様子を確かめるべきでしょう。」

 「ええ。準備が整い次第行きましょう。俺は装備を整えてきますから、ニクスも最悪の場合突入するつもりでいてください。」

 

 「任せてください。戦闘はできませんけれど、ウォーゼル卿の支援ならばできますので!」

 

 自信たっぷりににっこりと笑った彼女を見て、俺はなんとなく不安になった。

 ……装備は回避率を重視するものにしておこう。

 

 

[ニクスがパーティーに加入しました]

[ニクスは『背水之陣』を習得した!]

 

 

***

 

ニクス

STR なし

DEF 弱い

ATS オーブメント持ってない

ADF 弱い

SPD そこそこ

AGL そこそこ

 

背水之陣 消費CP40 円M

5ターン STR/ATS/SPD+50%、DEF-25%、心眼付与

 

 

***

 

 

 青年は、敬虔な女神の信者だという。

 女神と風を尊び、信心深く生きてきたのだという。

 ある日、青年は印を得たらしい。その印は特別なもので、彼はその印がある限り騎士として戦わなければならないのだという。

 

 彼は故郷を守りたいのだという。

 故郷の自然と、そこに住まう人、そして文化を守りたいと言っていた。

 

 果たして本当にその二つが両立するものだろうか?

 

 

 戦いは、過酷だ。

 尊ばれるべき命が暴力でぶつかり合うなんて悲しすぎることだと思う。

 しかし戦いでしか解決できないことが存在するというのも確かだ。

 戦士は強い。心の憂いや人を傷つけることの痛みを乗り越えてそれでもその身と力で民を守ってくれる。

 

 だが、戦士が強いのはその戦いが大切な誰かを守ると知っているからだ。

 戦いがただ徒に人を傷つけるものであると知ったとき、人の心を持つ戦士は罪の意識にさいなまれるだろう。

 

 

 (自分は人を傷つけてしまった)

 (相手は生きているのに)

 (自分にその権利がないのに)

 (痛そうだ 辛そうだ)

 

 自分の行動の正当性が揺らいだ時、人の心も激しく動揺するだろう。

 あるいは、正当な理由があったとしても人を殺したり、害することに抵抗を覚える人もいるだろう。

 

 

 『人が、償いきれない罪を持っていても?』

 

 

 見覚えのある目だ。許しを求める目。向き合いたいと思っているのに、どうやって向き合えばいいかがわからない。

 顔にそう書いてあった。わかりやすい青年だ。

 全速力で走り続けてふと止まってみたときに、一気に汗が冷えていくような冷たさ。

 浅黒い肌を青くして、唇が震えていた。

 

 

 かわいそうに。

 ヒトには重荷だろう。力は、ふさわしい心の器を持つもののもとに宿るべきだ。

 

 青年の心の器は、人間の中ではとても大きくて口が広いのだろう。

 しかし彼はまだ若い。硬くこわばったつぼみが嵐に晒された拍子に手違いで咲いてしまったようだ。

 彼の花弁はまだ脆くて、柔らかくて、あまりに容易く傷ついてしまうだろう。

 今は彼自身の強さが保っているようだが、きっと何かの拍子に周りが支える必要が出てくるに違いない。

 

 誰か、佳い人が見つかるといいのだが。 

 

 大きすぎる力に戸惑っている、と誰かが言っていた。

 時間が解決すると願うしかないとも。

 

 彼はあの力がいつか誰かを傷つけないかと恐れていたらしい。

 あの力を制御するための修練に必死で取り組んで、それで仲間のもとに舞い戻ったと聞いた。

 

 

 きっと彼は強いのだろう。

 (私が知っている戦士と言えば陛下だ。あの方は規格外で、この世界の強さの基準があまりよくわからない。)

 私にできることと言えば、彼を救う人が見つかるまでの間気休めに言葉をかけるくらいか。

 

 

 やはり、人にならなくては。

 悲しみや寂しさ、怒りや苦しみを解する存在でなくては、真の意味で人を救うことは叶わないだろう。

 

 

 

 

 ちりっ じゅっ

 

 

 

 心の奥で、火がともっている。

 まるで煙草の火のように小さくて、弱弱しいけれどその火は慈愛の海の中でも消えることなく、灯り続けている。

 

 

 

***

 

 

 「本当に大丈夫ですか?」

 「勿論です!前には出ませんし、いざというときにはすぐに逃げるようにしますよ。ご心配なさらずとも大丈夫です。」

 「……」

 

 ウォーゼル卿は非常に素直な青年だ。リィン様やアルティナ、ユウナとよく似た目をする。

 

 「いま『大丈夫かな…』って思いましたね?」

 「ご明察です。」

 

 苦笑したウォーゼル卿は槍を携えて、人目を盗みながらブラウン家の屋敷へと歩を進めていく。

 私も彼についていく。

 彼の友であるゼオの偵察によると、ブラウン家の人間はみんな眠りについている、そうだ。おそらくは古代遺物の力によるものだろうと推測したウォーゼル卿は突入作戦を決行。

 夜闇に紛れてブラウン家に侵入する運びとなった。

 

 月明りを頼りに街路を往く。

 次はこれをネタに怪盗団の話でもつづってみようか。怪盗と刑事の組み合わせはみんなが好きだとミュゼ様とタチアナ様がおっしゃっていた。

 

 

 ドッ

 「あら…?」

 考え事をしていたら先行するウォーゼル卿の背中にぶつかってしまったらしい。

 角を曲がればもうすぐにブラウン家の屋敷につくというのに、どうしたのだろう?

 

 「(静かに。誰かいます。)」

 

 彼の背中から顔を出して盗み見ると、確かに数名の男が門のところに立っている。

 まるで誰かからこの屋敷を守っているようだ。

 しかし調査した限り、ブラウン家の関係者は全員眠りについてしまっている。

 そして彼らは警備員というには武装が過剰で、覆面をかぶっている。

 

 「(……どなたかVIPでもいらっしゃってるんでしょうか?)」

 「(強盗でしょう。しかし数が多そうだ。)」

 

 私の考えはあっけなく否定された。

 ウォーゼル卿は携えていた槍の柄を組み立てて、今にも走り出そうとしている。

 

 「(戦うんですか?)」

 「(中で眠っている人が危険です。ニクスはこちらで待機していてください。)」

 

 ウォーゼル卿のいうことももっともだ。

 ここは自分も同行して少しでも救助の人手を確保するべきだろう。

 昏睡した人間を介抱する人と、古代遺物を探す人で別れた方が効率もいい。

 戦闘で足を引っ張るかもしれないが、聞けばウォーゼル卿はかなりの実力者だという。

 

 

 

 しばし目を閉じて考え込んだ後、やはりついていくべきだと思い、目の前の彼に進言する。

 

 

 「(あの、ウォーゼル卿……)」

 

 

 

 

 

 だが彼は草原に吹きすさぶ一陣の風のように素早く走り出していて、すでに私の目の前からいなくなっていた。

 

 「あら?」

 

 壁から顔を出すと、奇襲で門番の2人を昏倒させたのかしてすでに制圧を終えたウォーゼル卿が屋敷の玄関をちょうどくぐろうとしている。

 

 「待ってください!ウォーゼル卿!」

 

 声を張り上げたものの、自分の声が届いていないのかして、重厚な扉は無情にも閉じられた。

 

 

 「そんな……」

 そんな。ウォーゼル卿が一人で屋敷の中に入ってしまうだなんて。

 やはり自分も中に入るべきだろう。とにかく追いかけなければ。

 

 

 私は玄関で伸びている二人の無事だけ確かめて(当然だけれど生きていた。凄腕というのは本当らしい。)重たい扉に手をかけた。

 

 

 

 




ついにニクスがパーティーインしました。しかし戦えない。役に立たねぇ…


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13 古代遺物回収作戦

 

 

 「ウォーゼル卿?どちらにいらっしゃるのですか?」

 

 恐る恐る扉を開けると、玄関には誰もいなかった。がらんとした広い空間には光り輝く装飾品がショーケースの中に沢山飾られている。ブラウン氏はこの街で昔から名士として知られる資産家で、宝石のコレクターとしても有名な人だった。赤い色の宝石が特に大好きで、ショーケースの中に仕舞われている装飾品には紅耀石が使われているものが多い。

 

 ショーケースには鍵がかかっていたようだけれど、なぜか今はそれが外されていて中にはジュエリーの台座から本来あるべき宝石がなくなっているところもあった。

 

 「なくなっている…?でも、今はそれよりもウォーゼル卿を探さないといけませんね。」

 

 ドアは二つ、玄関向かって右手のドアと正面のドアだ。耳を済ませれば金属音と怒鳴り声がかすかに上の方から聞こえてくる。どうやら上の階に誰かいるようだ。おそらくはウォーゼル卿もそちらにいることだろう。

 

 どちらの扉を開ければ上の階に行けるかわからず、とりあえずと思って正面の扉を開けると、そこはブラウン氏が貴重品を保管するコレクションルームであるようだ。背の高いガラス張りの棚がいくつも並んで、その中にキラキラとした宝石や貴重品がおさめられている。

 

 赤い紅耀石と銀色の幻耀石のまばゆいばかりの輝きは、部屋に明かりがともっておらずとも損なわれるものではない。宝石はみずから光を放っているかのように輝いている。七耀石はその純度によってその輝きの質を変えると言われており、純度の高いものほど深い色を持っている。

 浅くて淡い色の七耀石は若年層にとって手軽なアクセサリーに、深い色の七耀石は富裕層に好まれる、らしい。

 この部屋にある七耀石はどれもこれも透明感のあるもので、特に紅耀石は純度が低いと濁りやすいと聞いたが血のように深い赤のものばかりだ。

 

 見回していると最奥の影になっているところに何かがあるのを見つけた。膝ぐらいまでの高さの大きな箱、だろうか。

 

 「あら?立派な宝箱、というものでしょうかね……」

 

 宝箱と言えば、ウォーゼル卿によるとこの世界には“寄付箱”なんていう制度があるらしい。経済的に余裕のある人たちが危険な場所に足を踏み入れる人たちのために薬や武具を善意で提供し既定の箱に入れて置いておくのだとか。魔獣の存在によって死亡率が高くなっているこの世界では重要な仕組みだという。

 ここに置かれている箱が寄付箱かどうかわからないが、とても大きい箱だ。こんなに大きくて丈夫そうな箱をどうやって運ぶのだろうかとも思ってしまうけれど、この世界の技術はよくわからないところで発展しているから、きっと何とかなるのだろう。

 

 箱には鍵がかかっているがその鍵は誰かが無理に開けようとしたのかして細かい傷が沢山ついている。宝箱の周囲にはガラスも散乱していて、少し危ない。どうやら誰かがガラス棚を割ったらしい。転がっている破片の中には大きいものもあって、高い位置の天窓から入り込む月明りを反射している。

 とても美しいが危ないことに変わりはない。せめて片付けてから部屋を出ていくべきだろう。

 

 

 

[ガラスの破片を手に入れた!]

 

 

 

 ……窃盗罪に当たらないか心配だ。悲しいことに破片になってしまったが元をたどればブラウン氏が所有していたガラス棚である。ブラウン氏は物を大切にする方のようだから勝手に処分してしまっては悲しませてしまうかもしれない。

 そんなことを考えながら玄関の右手にあるドアを開ける。

 廊下だ。翡翠色の絨毯が敷かれている。毛足の長いそれの上を歩くのは少し難しい。水中でもないのに足が吸い込まれていくようだ。糸の一本一本に芯があるようでいて、足をのせるとぐんにゃり糸は曲がってしまう。見る分には美しいが実用的でないというべきだろう。

 

 神殿は石とサンゴでできていたから、余計に足場が柔らかいというのに慣れないのだ。

 階段には絨毯が敷かれていないようで安心した。豪華な彫刻細工の手すりに手を置いて(きっと成人男性でも握れないくらいに太い手すりだ。落ちてしまったときはどうするんだろう。)階段を上っていくと金属音が徐々に大きくなる。

 短くて甲高い音がほとんどを占める中、たまに男性の怒号や悲鳴が混じってくる。戦闘を行っているのだろう。ウォーゼル卿もそこにいるに違いない。

 

 

 階段を上がってすぐのところにあるドアを開けると、そこはダイニングであるようだ。翡翠色のクロスがかけられた大きな長机に椅子がいくつか並んでいる。天井からは豪奢な照明が吊り下げられていて、その照明にも、そして壁にかけられている燭台にもあまたの宝石がちりばめられていた。

 照明は点灯していて、その光がいくつもの宝石に増幅されて私の眼を焼いた。

 

 「うーん…まぶしいです…」

 

 くらくらする。

 なんて量の輝きだろうか。

 

 私も結晶という形で七耀石に似たものを作り出すことはできるが、これほど煌びやかにはならない。石の中に秘める神秘の質が違うからだろう。聞けば七耀石からは特定の属性にまつわる何らかの現象を引き出すことができるらしい。

 どんな仕組みかはわからないが、それほど素晴らしい力を秘める宝石であればこの過剰なまでの輝きも納得というものだ。私の作る結晶は所詮水になるだけ。貴重ではあるかもしれないがちっとも有用ではない。

 

 目が慣れてきたあたりで周りを見渡すと、ドアが3つある。間取りを考えると厨房と、部屋が二つあると考えられる。音は右の方から聞こえるが、戦闘はほとんど終わっているようで先ほどと比べるとだんだん静かになってきている。ウォーゼル卿の掛け声はずっと聞こえているので、きっと彼が圧倒しているのだろう。かなりの実力であるという話は本当だったようだ。

 

 

 さて右側の扉を開けようかと思った段階で、ふと思い出すことがあった。

 (そういえばこの家に住んでいるブラウン氏はご無事だろうか?)

 戦闘に巻き込まれてけがをしていないか。長期にわたる昏睡で何か健康に害が出ていないか、一度彼らの事が気になってしまうとどうしても心配だ。

 ウォーゼル卿は盗賊に負けないし、盗賊のことを必要以上に害することもない。彼らが間違った行いをするのを正しく止めてくれるだろう。そちらは彼に任せても大丈夫そうなので、私はブラウン氏を探すことにする。

 

 右にはあとで行くことにして、左手にある扉を開けると廊下につながっていた。推測するにブラウン氏の私室へ続いているのだろう。いくつか扉が並んでいるので開けていけば寝室なり私室なりでブラウン氏を見つけることができるはずだ。

 

 

 

 そうして片っ端から扉を開けていき、3つ目の扉を開けた私は、ベッドに横たわって静かに眠る中年男性を発見した。

 彼はまるでベッドに倒れこんだかのように不自然な姿勢で、靴も履いたままだ。眠りにつくにはいささか窮屈そうな服を着ており、髪だけが寝乱れている。

 

 「大丈夫ですか?私の声が聞こえますか?」

 

 肩をゆすって声をかけてみても一切意識を取り戻す様子はない。呼吸も心拍も安定しているが、眠りが深すぎるのかして身じろぎをする様子もなかった。

 

 「困りましたね。他の方も探すべきでしょうか……」

 

 事前に入った情報通り、ブラウン家の人々は眠りについているようだ。加えてその眠りは簡単に覚めるようなものではないらしい。もしかすると数日間も眠っているのかもしれない。その場合、衰弱によって今後の生活に影響を及ぼしてしまう。

 できればウォーゼル卿と手分けして人を探し、一か所に運んでまとめて看病したほうがよいだろう。そろそろ彼の戦闘も落ち着いている頃かもしれないし、一旦先ほどの部屋に戻ってウォーゼル卿を呼びに行こう。

 

 そう思い、ブラウン氏らしき中年男性の靴を脱がせて体に布団をかけた時、寝室のドアが開いた。

 

 「ウォーゼル卿?ちょうどよかった。手分けしてブラウン家の方を探しに行きましょう?」

 

 声をかけても返事がない。風で扉が開いたとは思えないが、そもそも音が聞き違いだったのだろうか?

 

 

 振り返ろうとして、頭に何か硬いものが当たる感覚があった。

 

 

 

***

 

 

 「『雷吼牙』!」

 

 雷吼牙。天の雷を宿した槍を中空から大地に叩きつけて敵ごと粉砕するクラフトだ。威力が高い代わりに隙が大きいが、もう相手の数も少ないから増援のことを気にすることなく使うことができる。

 クラフトを受けた盗賊たちは次々と地に沈んでいく。

 

 彼らから武器を手放させて軽く拘束しておく。回収が終わった後に全員まとめて遊撃士協会あたりに突き出せばいいだろう。

 さして脅威になる武装もしていなかった盗賊団だったので、ARCUSを使わずとも一人で無力化することができた。

 

 今問題とするべきは盗賊ではなく、制圧の途中で屋敷に乗り込んできた一つの気配だ。

 

 (全く……宿まで戻らせるべきだったか)

 

 リィンたちが言っていたように、危機という概念がないのだろう。戦闘をしていれば結構な大きさの音が立つし、盗賊の中には銃を持っていた人間もいた。銃声まで聞こえているはずなのにそれでも屋敷に踏み込むなんて一般人の行いではないだろう。

 

 (異能を使って自衛や戦闘が可能なのか?………まさか)

 

 護身術であっても満足に習得できなかったと聞いている。異能もマクバーンとは違って限定的にしか行使できないと本人が言っていたのだからその可能性は低い。やはりただただ無鉄砲なだけなのだろう。

 

 (言っては何だが、ここまでくると愚かという他ないな)

 

 幼子でももう少し警戒心が備わっているだろうに。

 風の流れを読めば彼女は居間のさらに左手にいるようだ。俺を探しているのかしてゆっくりとだが近づいてくる。

 俺も制圧を完全に終えたので彼女を迎えに行かなくては。ブラウン家関係者の容態と古代遺物が気がかりだ。

 

 

 俺は6人の盗賊を部屋の隅にまとめて居間へと続く扉を開けようとした。

 しかしその扉は、俺が手を触れるでもなくひとりでに開かれる。

 

 扉を開いたのはニクスの白い手だった。しかし単独で行動していたはずの彼女は、もう一人と共に連れ歩いている。

 

 

 

 そしてその連れ歩いている男は、ニクスの頭に銃を突き付けていた。

 

 

 「動くな!武器から手を放して手を上げろ!」

 「あら、ウォーゼル卿。ようやく見つけました。」

 

 

 

 「……どういう状況だろうか?」

 

 怒鳴る男に微笑んでいる女。

 ちっとも釣り合いが取れていない。ニクスはいつも通りだ。頭に突き付けられているものが何か、まさかわからないわけではないだろうにいつも通りに微笑んでいる。

 

 男は盗賊のうちの一人であったようだ。おそらく彼らは七耀石のコレクターとして知られているブラウン氏の家の警備が緩んだところに盗みに入ろうとしたのだろう。しかしその作戦と俺たちの古代遺物の回収作戦が偶然被ってしまい、こうして壊滅してしまったと。

 

 「黙れクソアマ!へらへらしやがって……お前この銃が偽物だとでも思ってんのか!」

 

 男は片手に銃を持ち、もう片手でニクスの両手を後ろ手に拘束していた。ニクスはにこにことしているが、時折歩みに合わせて力が強まるのか、眉を寄せていた。

 

 「その女性を解放してくれ。武器なら……ほら、放したぞ。」

 

 手に持っていた十字槍を落とすと、盗賊は近づいて十字槍を俺の手が届かないところに蹴った。

 

 「仲間の拘束を解け!全員脱出したらこの女を解放してやる!」

 

 (……さてどうするか)

 

 ここで盗賊たちの拘束を解くわけにもいかない。彼らが古代遺物を持っていた場合二度手間になってしまう。幸いもう彼しかいないようだから、あまり使いたくはないがARCUSでアーツを撃つか。隙さえ作れれば体術でどうにかできるだろう。

 

 俺は部屋の隅まであとずさり、拘束していた盗賊のもとにしゃがみ込む。男から背中で隠れて見えない場所でARCUSに触れ、詠唱の短くて済む風属性の下位アーツを詠唱させるべくARCUSを駆動させた。

 詠唱間の淡い燐光だけはごまかしがきかないだろうが、一瞬であれば何か投げて視線を逸らせばいいかーーー

 

 

 

 

 どごっ

 

 「ガッ……」

 「あら?」

 

 どさり、と誰かが床に倒れる音がした。

 直前の声からして盗賊の男だろうが、俺はまだアーツの詠唱を終えていない。まさかニクスの秘めたる自衛の才能がたった今開花したのだろうか。

 

 とにもかくにも男を拘束するべく立ち上がって振り返ると、口に手を当てて驚いた様子のニクスと、その足元に倒れ伏す男の姿が目に入った。

 

 男の頭の上には、我が友が誇らしげに立っている。

 

 「ゼオ!」

 「ゼオじゃありませんか。危機に駆けつけてくれるだなんて偉いですねぇ。」

 

 ニクスは感心した様子でゼオの頭をなでている。その手を受け入れて一鳴きするゼオの声は心なしかいつもより自身に満ち溢れているような気がする。

 

 

***

 

 古代遺物は一階にあるコレクションルームの中の宝箱に厳重に保管されていた。その名を『微睡みのブローチ』といい、しずく型のクォーツのような宝石だ。幻耀石のような銀色の輝きを秘めるそのアーティファクトは、使用すると周囲の人間を眠りに導いてしまう。

 

 『微睡みのブローチ』を見つけたのは二階に上がる前に一階の探索をしていたニクスさんだ。めぼしいショーケース内の宝石は全て盗賊の手にかかっていた中で、その宝箱だけは鍵がかかったままだったという言葉を頼りに探してみると、その宝箱の中に目的の古代遺物が収まっていたのだ。

 

 彼女はその後ブラウン家の関係者を探し、そしてブラウン氏や使用人を発見したという。居間に戻ろうとしたところで目を覚ました残党に捕まってしまったのだとか。

 

 

 「なるほど、ブラウン氏の寝ている部屋でゼオと合流したのか。」

 「ええ。他の家の方も見つけてくださいました。ゼオ、あなたはとても賢い子ですね。」

 

 ニクスに褒められたゼオは誇らしげに胸を張っている。良く通る声は彼女にとって耳心地がよいようで、ニクスも楽しそうにゼオと会話している。

 

 「ゼオの話していることがわかるのですか?」

 「最初はわかりませんでしたけれど、今はわかります。あらゆる声には音波のパターンがありますから、その規則性さえ覚えれば。」

 「音波のパターン?」

 「ヒトの耳で聴き分けられるものではないかもしれません。私には一つ一つの声が違う波に聞こえます。それぞれの波が何を意味しているのかさえ覚えれば、その動物の言葉を覚えられるという感じでしょうか。」

 

 まるで完全に意思の疎通ができているかのように仲の良い様子だったので試しに聞いてみたのだが、本当に言葉がわかるとは思わなかった。自分もゼオのいうことがなんとなくわかるが、それは単に付き合いが長いからだ。

 

 「……つまり、あなたは我々人間よりも耳がいい、ということですか?」

 「その理解でいいでしょう。音の捉え方や聞き分けられる範囲が違うのです。」

 

 彼女は否定しなかった。であれば、俺が突入した後何が起きているのかくらいはすぐに気付いたはずだ。

 

 「あなたの耳が優れているのならば俺が戦っていることくらいわかったでしょう。なぜ屋敷に入ったのです?戦闘が終わるまで屋敷の外で待っていてくださればよかったのに。」

 「特に理由はありませんよ。」

 「はい?」

 「特に理由はありません。あなたは強いと聞いていましたからきっと怪我もしないだろうと思っていましたし、あなたが誤って盗賊の方を必要以上に痛めつけるとも思っていませんでした。特に探し物もありませんでした。屋敷に入ったことに理由なんてありません。

 強いて言えば、救助の手を増やすべきだろうと思ったくらいです。」

 

 「あなたは自分が危険な目にあうとは思わなかったのか!」

 「ウォーゼル卿こそ、私が逃げ出すとは思わなかったのですか?」

 

 彼女に疑問を投げつけられた時、場が静まった。昏睡しているブラウン氏の呼吸の音が響いて、初めて俺は自分が声を荒げたことに気付いた。

 俺は今さっきなんと言ったのだろう。おそらく危険を顧みろ、とかその類だと思うが、うろ覚えの自分の発言よりも彼女からの問いの方に気を取られた。

 

 

 逃げると思わなかったのか。

 

 

 ―――思わなかったとも。ちっとも思わなかった。きっと彼女は何もせずとも自分のいうことを聞いてくれるだろうと思っていた。

 彼女が大陸東部に行きたがっていたことも、彼女に不本意な待遇を強いているのが騎士団であることも十分に理解していたのに。

 

 「……あなたはよく目立つ。もし逃がしても、すぐに見つけることができるでしょうからその心配は全くしていませんでしたよ。」

 

 違う。

 俺は期待していたんだ。

 聖職者であるという彼女が、迷いを抱えている自分の前から黙って姿を消すはずがないと。彼女ならば必ず俺を助けようとしてくれるはずだと期待していたにすぎない。

 

 「私も、自分の心配なんていていませんでした。ウォーゼル卿はお強いと聞いていましたので。」

 

 彼女はにこにことほほ笑んでいる。

 俺のことを心から信じている表情だとすぐに分かった。一切の害意も悪意もない純真な眼だ。金色のような銀色のような言い表せない色合いの虹彩を直視すると、俺は二の句が継げなかった。

 

 「こうして無事にブラウン家の方々をお救いできたのですからよいではありませんか。」

 

 ニクスさんは俺からベッドの上の使用人に目を移すと、長期の昏睡によって衰弱しているであろう彼にマッサージを施していく。

 その手は慈しみに満ち溢れており、彼女はまるで母のような優しい目をしている。

 彼女は、少しでも人を助けるために一生懸命に生きている。自分の危険も顧みずに頑張っている。そんな彼女を見るのが、今は少し辛い。

 

 「……困るんです。」

 「はい?」

 「あなたが俺の手に負えない人であるならば、あなたはこれからずっと始まりの地に拘束されることになる。それではあなたも困るでしょう。俺だってそれは心苦しいんです。人間を古代遺物として認定するだなんて正気の沙汰じゃない。

 お願いですから俺の言うことを聞いてください……そうでないと、あなたは……」

 

 彼女は人を救いたいという大義から大陸東部に行こうとしている。その気持ちを尊重したい。今すぐに彼女を送り出したい。

 しかし俺は星杯騎士だから、師父から聖痕を受け継いだから、それが許されない。

 俺はそれがもどかしくて、せめて彼女に不遇を強いるまいとして、副長の申し出を受けたのだ。

 

 外を歩けるか歩けないかの差でしかない。七耀教会の彼女への認識は『古代遺物』のままで、彼女を一人の人間として扱うことはできない。任務に同行させて彼女と行動を共にしていても、武装の一つとして扱っているに過ぎない。

 何も、根本的解決にはなっていないのだ。

 

 

 

 「ウォーゼル卿は優しい御方ですねぇ。」

 

 彼女は、ただそれだけ言ってまたにこりと微笑んだのだった。

 俺にとってその微笑みはもうすっかり人外じみたものにしか見えず、俺は背中に一筋汗をかいた。

 人間の感情の衝突や葛藤を理解していないようにも見える、全く共感のない微笑み。彼女は苦しんでいる人間も、喜んでいる人間も同じようにしか愛せないのかもしれない。

 

 (私は人間ではありません)

 

 彼女の言葉が、無機質に脳裏で何回も再生されている。

 確かに彼女は、人間ではないのだろう。

 

 やがて彼女の賢明な看病が実を結び、ブラウン氏は意識を取り戻した。

 ―――俺は古代遺物の引き渡しの交渉を行って、無事に『微睡みの涙石』を回収したはずだが、俺は俺がなんと言ったのか、あまりよく覚えていない。

 

 

 気づいたらアルテリアに帰投していて、彼女はまた始まりの地へと連行されていた。

 彼女はいつでも微笑んでいる。きっとあの静かで何もない空間でも、ただ微笑んでいるのだろう。

 

 

 

***

 

イベントアイテム:ガラスの破片

 

鋭利なガラスの破片。ブラウン氏に許可されたのでニクスはお土産として持ち帰ることにした。

 

 

 

 




ニクスは聖人などではなく、迷い悩む青年に微笑みながら「かわいそう」って言っちゃうような人でなしですね。

軌跡シリーズって悪魔的なキャラや残酷なキャラがいても薄情なキャラは少ない気がします。みんな何かしら行動の理由や心情があって、筋を通してくれることに定評がある。

折角のオリジナル展開ですからもっと理由のない行動をとったり、やさしいようで薄情だったり、わがままで気まぐれなキャラクターを書けたらいいなと思います。


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14 誘惑

 かつん

 

 

 

 かつん

 

 

 かつん

 かつん

 

 

 音がだんだん近づいてくる。その音は規則的だ。かの王の足音と少し似ていた。

 この音には揺らぎない自信が宿っている。倫理も、茨も、血の河も踏み越えていきそうな戦士の足音。力と剣と、そして世界を裂くような強い声で道を切り開く戦士が、ここにやってこようとしているのだ。

 

 その戦士には全く似合わないような、この静寂に満ちた始まりの地という空間に。

 私は目をふさがれているから、音を頼りにしか物事を判別できない。やがて足音が近くまで来ると、その足音は止まり、代わりとでも言うように女性の声が聞こえてきた。

 

 「失礼する、異界からの来訪者よ。ご機嫌はいかがかな?」

 「ご機嫌よう、戦士の方。あなたは強いのですね。」

 「そうとも。

 いやはやあの男が喚くから来て見れば、思っていたよりも無垢な災いだったようだ。」

 「あら?私の事ですか?」

 

 女性の声は落ち着いている。その足音のように、強さへの自負が満ちていて、聞くだけでその女性は強いのだとわかる。

 

 「その通り。

 あなたはあまりに人間にとって毒だ。人間と自然そのものが混じり、愛を覚えた獣に近い。その愛が誰かの心を弄んでいることにあなたは気付いているか?」

 「愛?私は確かに人間を愛しています。

 あまりにも精巧な命という神からの贈り物。複雑な感情と系統だった器官たち。それらが互いに補い合いながら社会を形成する様はあまりに美しい。

 けれどあなたの言葉では、私の愛は間違っているという風に聞こえます。…私は、間違っているのですか?」

 「いや?私にはわからないな。正しいか間違っているかを判断するのは私の仕事ではないからね。

 私はあなたのその微笑みがとある青年を迷わせていることに気付いているのかと聞いているんだ。」

 

 「青年?ウォーゼル卿の事ですか?」

 

 女性は肯定した。

 その青年は、確かに迷っていた。私なりに言葉をかけたつもりだったけれどもその言葉が届かなかったのかして、彼の迷いを晴らすことは叶わなかった。

 彼は罪人を殺さなければならない立場にありながら、人を裁くことを重荷に感じている。苦しそうだった。楽にしてやりたかった。

 だから、あなたは優しい人だといった。その苦しさはあなたが優しい証拠なのだと説いた。

 けれど彼の憂いはなくならなかった。彼の苦しみは、もっともっと深いところにあるのだろう。

 

 

 

 「彼は……彼は、かわいそうですね」

 

 そういうと、女性は雰囲気を変えたようだった。

 今までよりも、ずっと真剣な声で私に問うてくる。

 

 「それは本人に言ったか?」

 「いいえ。言うべきでしたか?」

 「逆だ。何があっても言うな。

 あなたは人間に触れたことがないからどう愛するべきかまだ分からないのかもしれないが、決して我々を哀れんではいけない。

 私も、他の人間も生きている。生きているからにはいずれ罪と向かい合うだろう。しかしそれはあなたに手を差し伸べられて解決すべきものではないのだ。私たちが自分の手で調伏すべき悪魔なのだよ。」

 

 人間が、彼ら自身の手で悪魔を調伏する?

 そんなことは不可能だ。災害や、奸計や、陰謀といった悪魔の産物は人間に防ぐことのできるものではない。それを防ぎ、それらの悲しみから民を守ることこそが神官である私の仕事だ。

 無力な私にそれができなかったから、あの世界で民は怒り狂ったのだ。

 

 「ただ、見ていろというのですか?」

 「女神は乗り越えられない試練をお与えにならない。本当にあなたが彼のことを強いと思うのならば、ただ信じて待っていればいい。あれもまだ若いから励ますなり、ほめてやれば喜ぶとは思うが、手を貸されてはきっと面白くないだろう。

 その手は弱い人間に差し伸べられるべきもの。力あるものの手でふさがれるべきではない。その声は幼いものに教えを伝えるべきもの。愛に飢えた獣に慈しみをささやくべきものではない。

 

 ……あなたは、もっと世俗に染まるべきだな。」

 

 

 「と、いいますと?」

 

 世俗。何だろうそれは。

 芸術であれば少しなら解することができるが、文化に染まれということだろうか?

 

 

 女性は私の疑問に答えてくれるのかして、さらに足音がして彼女が近づいてくる。

 

 ――――次に感じたのは、私の輪郭に這う彼女の熱い指だった。

 

 「……ぁ」

 

 くすぐったい。背筋がはねた。

 彼女の指はとても熱くて、私の冷えた頬に熱を分け与えてくれる。それでもまだその指は熱くて私は汗をかいてしまいそうだった。

 吐息が耳にかかる。耳に彼女の紅で濡れた唇が触れた。

 

 そして彼女は私にささやいた。

 まるで促すように。誘うように。私を惑わせてしまうほどやさしい声で、おぞましい誘惑をもたらしたのだ。

 

 

 「己の心の中に灯る炎に身を任せるのさ。燃えるような劣情に身を焦がして、愛したいという衝動で脳髄を揺らしながら、その小さな唇で直接愛してやればいい。

 そうすれば無償の愛がどれだけ恐ろしいか、あなたにもわかるだろう。」

 

 

 「……わからない。わかりません。私に恋をしろと言うのですか?私にはできない!」

 そうだ。私にはそんな機能が備わっていない。だからできない。

 「恋をしない人間などこの世界にはいないさ。」

 

 

 「炎に身を任せて、傷つけてしまったらどうするのですか!」

 そうだ。私は人を守らなくてはいけない。万が一にも傷つけてはいけない。

 「そんな狂気も愛の側面の一つだ。あなたが善かれと思って周りに振りまく慈愛は、あなたが思っているよりも過激なのだよ。

 君が仕えてきた王はそんなことも教えてくれなかったのか?」

 

 

 かの人のことを引き合いに出されて、私は何も考えられなくなった。

 強い人。導く人。私が誰より尊敬した王が、私に与えなかったものなんてなかった。

 「……陛下は…」

 

 陛下は私に神殿の外のことを教えてくれた。私はそのおかげであの世界で誰よりも物知りだった。だから神官を務めることができたのだ。

 だがどうだ。陛下の慈悲をもってしてもやはり私は無知であると、彼女は言っている。

 

 そして彼女はなおも囁く。

 

 

 

 「かの王がどんな男だったか私は知らないが、()()()()()()()だな。あんなに強い男をずっと見ていたくせに、彼に恋することを許されなかったのだから。」

 

 

 私は、それを否定した。

 

 「可哀そうなんかじゃありません!私は幸せでした!

 陛下にお仕えし、国を導くこと。民に手を差し伸べること。困窮と飢えから社会を救うために力を尽くしたこと。すべて、すべて私の幸運でした!

 そこに何の不足もなかった!あの日々は、世界が壊れるその時ですら輝いていた!

 あなたは世界の終末を知らないかもしれません。ですがあの悲惨な瞬間の中でさえ、私は心から命を愛していた!それで幸せだった!」

 

 思っていたよりも大きな声が出た。

 でもそれはすべて真実だった。私は、本当に幸せだった。命を救えなかった時は無念と後悔に晒されたが、しかし私は英雄を見出し、育てることができた。幼い命が日々成長していくのを見守っていた時のあまりに輝かしい安らぎは、今でも心をあたたかく照らしてくれる。

 命が社会を作り、それを維持していくことがどれだけ貴いものか。私にはできないことを彼らは時に成し遂げる。

 

 炎のような激情と海のような優しさを併せ持つ命たちは、私にとって何よりもかわいい子供たちだ。いとしくて、かわいくて、ずっとずっと苦しみのないように守ってやりたい。

 どんなに罪深くても、彼らの歩む道の上に何の苦労もないようにすべての小石を取り払ってやりたい。そう心が叫ぶままに私は彼らを愛して、慈しんで、彼らが笑ってくれる時、私の心は天にも昇る気持ちだった。

 

 元気に育った命が大地を駆け回り、他の命とかかわって支え合い、社会を作っていくのを神殿で見た時なんて、言葉にできないほどの喜びで満たされた。

 

 私がそんな幸せを得ることができたのも、神官として働く私を陛下が支えてくれたからだ。陛下がいなければ私はたった一つの命も救えなかっただろう。

 神殿でいくら考えても民に不安と不満を植え付けてしまっていただろう。だけど私には救えた命があった。私は彼らの助けになれた。

 

 私はかわいそうじゃない。どんな命より、幸せだったのだ!

 

 女性は、一通りの私の言葉を聞いて私から離れていく。

 柔らかい彼女の長い髪が、私の体を悪戯に撫でた。

 

 「その怒り、覚えていくといいだろう。共感を伴わない愛はあまりに容易く人の心に火をつけてしまう。誰かに共感して傷つくことを恐れるのなら、人を愛さない方がいい。

 君は愛に不向きだ。」

 

 そして女性は踵を返して去っていこうとする。

 

 追いすがりたい。

 彼女は私が知らないものを知っている。人間とは何か、人間になるために何をすればいいか、きっと知っているんだ。

 けれど私は始まりの地の台座に拘束されていて、床に降り立つことすらできない。

 

 私はもう部屋から出ていこうとしている女性に向かってありったけの大声で叫んだ。

 

 「待ってください!」

 「すまんが忙しいんだ!心配しなくてもあとで()を呼ぶ!」

 

 しかし女性は私が呼び止めても止まることなく、重厚な扉を開けて出て行ってしまった。

 

 

 

 

 (私は……間違っている?)

 

 疑問が蟠りになって心にとどまったまま、時間は流れていく。

 私はただ拘束を受けたまま、自らの行いについて考えを巡らせることしかできなかった。

 

 

 

***

 

 

 あの時から、私はただ受け入れることにしました。

 

 誰が何をしようとも、拒んではならないと思いました。

 怒りと憎しみで荒れ狂い、愛情に飢えた命たちが、私に手を伸ばしてきたのは彼らが誰かに受け入れられたかったからでしょう。

 誰かに、『あなたに罪はない』と許してほしかったからでしょう。

 

 私は、そうすることで誰かの心を救えると思っていました。微笑んで、笑いかけて、求めている言葉をかけてやれば、それで満足するだろうと思っていました。

 ゼムリアに来てから見た人間たちも、苦しんでいました。

 

 真っ白な不毛の大地で人々は貧しい生活と寒さに晒されて、すさんだ心を持て余していました。

 

 殴ったり、傷つけることで自分の気持ちを軽くできる人がいました。怒鳴りつけて、誰かを下に見ることでしか楽になれない人がいました。

 私はそうした人たちの下に立って手を広げ、彼らの腕や言葉を受け入れることで彼らを癒してきました。実際彼らはそれで笑顔を取り戻したのです。

 これまでその人たちに殴られていた誰かを救い、これまで謗られていた誰かの名誉を取り戻すことができていたと思います。

 

 そして荒んだ心を持つ彼らも、たまにぐちゃぐちゃになった私に笑いかけて、時にやさしくしてくれました。だから私は、自分の行いが正しいものだと思っていました。

 

 

 

 神父さん、私は間違っていたのでしょうか?

 だとしたら私は、どうやって間違いを正せばいいのでしょう?

 

 

 「う~ん、そうですねえ……。

 あなたが与える優しさが大好きな人もいるでしょうが、普通の人には少し毒なのかもしれません。全部が全部、間違っているわけではないと思いますよ。」

 

 毒、ですか。

 

 「あなたはあなたが傷つくことを何とも思わないかもしれません。

 けれど優しい心を持つ人は、あなたが傷つくことが悲しいのです。ガイウス君もとっても優しい青年ですから、あなたが傷つこうとしてまで自分に優しくしてくれることが耐えられなかったのでしょう。」

 

 私は傷ついても痛くありません。

 つらくもありませんから、誰かが傷つかなければいけないときは私がその役を担うべきだと思うのです。

 

 「あなたのその心もまた優しさでしょう。しかし誰も傷つかない道を探してほしいと、ガイウス君はそう思っているのかもしれませんね。」

 

 どうしてですか?

 それは困難な道のりになるかもしれません。

 

 「それは勿論、ニクスさんとお友達になりたいからですよ~!」

 

 友達?

 

 「彼はきっとあなたのことを尊敬しています。心から人を助けようと思えるあなたのことをすごいと思っているんです。

 そして彼なりに、あなたを支援したいと思っているんでしょう。それこそあなたが仕えていた王があなたを支えていたように。」

 

 陛下は、お強かった。

 誰よりも強かったのです。ウォーゼル卿よりも、あなたよりも強かった。だから大きすぎる力も正しく使うことができていました。

 けれど彼は違います。彼は力に苦しんでいます。であれば、彼はまず彼を助けるべきでしょう。

 私が私を許すために人になるように、彼は彼を助ける方法と、そしてそれを支えてくれる人間を見つけるべきではないのですか?

 

 「傍にいるということであればあなたが支えて差し上げればよいのでは?」

 

 私はまだ人間ではありません。

 人間として不完全なのです。誰かの苦しみや悲しみに共感することができません。ですので彼の苦しみを理解してくれる誰かが必要なのです。

 

 「きっと今の段階でもできることがありますよ。」

 

 それは?

 

 「信じることです。彼に信じていると伝えて、あとはじっと我慢するのです。ガイウス君は強いですからきっとあなたの優しさに気付いて苦難を乗り越えてくれるでしょう。」

 

 本当ですか?

 

 「ええ。本当です。彼が強いことはあなたもよく知っているでしょう?」

 

 彼は……ええ、はい。強いのですよね。

 それでも、やはり心配です。彼が傷つかないか…孤独に苦しまないか……

 

 「あなたの王のように?」

 

 ………。

 

 「大丈夫ですよ。それにあなたたちの世界ではどうか知りませんが、私たちの世界では少しの傷は困難に直面しながらもそれを乗り越えたという勲章なのですよ。

 きっと彼も彼自身の手で乗り越えられた暁にはそれを誇ることでしょう。」

 

 勲章?

 では私の体にある傷跡も、こちらの世界では勲章なのですか?

 

 「……ええ、勿論。あなたが人として生きた証です。

 さ、それよりもこちらの本の解読をお願いしますよ。ニクスさんに読んでもらうと、と~っても早くて助かるんです。」

 

 ええ、お約束しましたものね。懺悔を聞いてくださってありがとうございます。

 

 

 

 ―――――??あの、今誰かいらっしゃいましたか?

 

 

 「いいえ?ここには私たちだけですよ?」

 

 あら……ごめんなさい、勘違いだったみたいですね。

 えっと、では読みますから目隠しを取ってくださいます?

 

 「はい~喜んで~!」

 

 

 

***

 

 ある日のある時、私の目隠しは突然外された。

 それを外したのはいつかここを訪れた女性でも、最近古書の解読を頼みに来るライサンダー卿でもなく、穏やかな顔をしたウォーゼル卿だった。

 

 「ウォーゼル卿、ごきげんよう。」

 「こんにちは。今は午後1時34分です。不便を強いてしまってすみません。」

 「あら、こんにちはの時間だったのですね。お気になさらないでください。見た目は変わっているかもしれませんが、不便などありませんよ。」

 

 食べなくても眠らなくてもいい体だ。長期間拘束されたからと言って何が問題になるわけでもない。こうして拘束されていても体がしびれないところは普通の人間と違うらしく、ライサンダー卿に羨ましがられた。

 彼は最近筋肉痛に悩んでいるらしい。

 

 「それならよいのですが。

 ニクス、今日俺はある任務を与えられました。あなたにまた同行していただきたい。」

 「ご迷惑でありませんか?私、前回あなたに失礼なことを言ってしまいました。」

 

 ウォーゼル卿は穏やかな顔をしていた。

 青みを帯びたグレーの瞳はこの間より深みを増した気がする。いや、あれから少し時間がたっているから正確にはどうであるかわからないが。

 

 「いいえ。気にしていません。あなたがあなたなりに気を遣ってくださったのだとわかっています。俺の罪は俺が向き合うべきものです。俺は誰に許されずとも、師父から受け継いだ道を歩んでいきたいと思っていますから役目はしっかりと果さないと。」

 

 神父の言葉を思い出す。信じること。人の強さを信じ、ただ目的地を示してやること。女神から試練を賜った強い人間は、それを必ず乗り越えるのだという。

 

 「ウォーゼル卿、私にはあなたを信じることしかできないのです。あなたは強い人だと理解していることくらいしかできないのだそうです。

 それ以外はあなたにとって失礼に当たることなのだと教わりました。この間は失礼なことを言ってしまってごめんなさい。

 私はあなたに困難を乗り越えてほしい。苦しい罪の意識からどうか解放されてほしいと思っています。それは本当です。

 けれどあなたが罪を背負うと決めたのならば、どうか私がそれを信じられるくらい強くあってください。これは私からのただのわがままなので……その、」

 

 ウォーゼル卿は穏やかな顔をほんの少しくしゃっとさせた。彼の浅黒い肌にいくつかしわが寄って、ただでさえ近い眉と目がもっと近くなる。非対称に吊り上がった横に広い口が開かれてやがて笑みを作った。

 

 「ええ、俺は強くなります。仲間にも約束しましたがあなたにも約束しましょう。」

 「……ありがとう。」

 

 

 それでは行きましょう、と彼はそう言って私の体にまとわりつく拘束を外していく。たくさんの鍵を使って戒める鎖を解き、手錠を解き、そして私の手を取って床に降り立たせた。

 

 「今回はどちらですか?」

 「オレド自治州です。少し遠いですからメルカバで向かいましょう。実は従騎士がサポートにつくことになったので紹介しますよ。」

 「あら、では今回は私は不要ではないのですか?」

 「俺が強くなったか確かめていただかないと困ります。」

 

 「――それもそうですね。では、修練の結果を拝見いたします。」

 「ええ、よろしくお願いします。」

 

 

 私はウォーゼル卿に導かれて、また始まりの地を後にした。メルカバ、というものを使うらしいけれどそれは何だろう?

 転移装置か、列車か、それとも車の名前だろうか?

 

 

 




適切な行間がわからない

アインお姉さまに誘惑されたい


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15 オレド自治州出張任務

最近FCやっているんですが導力については基礎の部分があんまりわかっていないそうな。
いろいろ発見があるものです。

作者の拙速癖で一応定期的に確認しているんですがそれでもどこかに誤字があると思います。申し訳ございません。


 「まさかメルカバというのが飛行艇のことだったなんて思いませんでした…」

 「守護騎士一人では動かせないもので、しばらくの間アルテリアで保管することになっていたんですが……紹介しましょう。従騎士のシアンさんとグラムさんです。」

 

 ウォーゼル卿に紹介されて二人の大人がコックピットの席から立ち上がる。一人は青い髪をした背の高い男性で、もう一人は黒髪の眼鏡をかけた真面目そうな男性だ。

 

 「通信士を担当しますシアンです。」

 「今回操舵をするグラムと言います。短い間ですがよろしくお願いします。」

 

 青髪の男性がシアン、そして黒髪の男性がグラムと名乗った。彼らはもともと別の守護騎士のサポートをしていたらしいが、しばらくの間ウォーゼル卿のサポートに回ることになったとのことだった。ウォーゼル卿がもう少し経験を積んだらまた新人の従騎士が配属されるらしい。

 

 「私はニクスと申します。ウォーゼル卿の甲種零型古代武装に当たります。どうぞよろしくお願いします。」

 

 甲種零型古代武装≪ニクス≫。私は星杯騎士団の騎士からそのように呼ばれていた。人間の手によらずとも異能の制御が可能な自立型兵装は甲種零型にあたるらしかった。実のところ武具というよりは高度な知能と思考から広く細やかなサポートが可能なソフトウェアシステムとして、私は扱われていた。

 その仕事は交渉や各所との連絡だけでなく古文書の解析や場合によっては古代遺物の封印も含まれる。

 

 二人と握手をすると私の手を握った二人の騎士は驚いていた。

 

 「はえー。本当にしゃべるんですねー。ヒト型兵装って聞いていたのでどんなのかと思ったのですけれどもう人間そのものですね。」

 「いやいやいや!完全に人間じゃないですか!見た目だけかと思ったらこの手は……」

 

 「その通りだ。」

 「ウォーゼル卿、一体どういうことですか?古代遺物、なんですよね?」

 

 ウォーゼル卿はどう説明すればいいかわからず眉をしかめている。彼は私を人間だと思いたいと言っていた。けれどウォーゼル卿も、私も、私が人間でないことなんてよくよく理解しているのだ。ウォーゼル卿にとってはそれが少し心苦しい、らしい。

 言葉に迷うウォーゼル卿に代わりグラム様に私は説明をした。

 

 「私が教会によって古代遺物に認定されているのは本当です。この体が人間のものであることも本当です。」

 「えええ……結局どういうことですか……?」

 

 

 

 「つまりですね、」

 「「つまり?」」

 

 

 

 「私はこれからウォーゼル卿の任務をサポートする、ということです。」

 

 お二人は何とも言えない顔をしていた。あまり納得がいっていないようだったけれども、ウォーゼル卿が二人に指令を出すと二人は席についてメルカバをセットアップさせていく。

 

 「機関部、セットアップ完了。『天の車』との同期率、30%…50%…85%…100%。操舵システムに異常なし、セキュリティシステムのスキャンも完了。」

 「通信系統も問題ないでーす。光学迷彩もスタンバイ。」

 

 

 メルカバの発進準備が整ったらしく、二人はウォーゼル卿を仰ぎ見て指示を待っている。

 ブリッジの中央にあるやけに大きくてちょっと古ぼけた司令官用の椅子に座っているウォーゼル卿は腕を前に突き出して二人に指示を出した。

 

 「よし。それでは只今より作戦を開始する。

 目的地はオレド自治州、共和国との国境付近上空。メルカバ、発進!」

 

 「「イエス・サー!」」

 

 前方に見える景色が下へ下へと下がっていく。

 星杯騎士団の天の車は浮かび上がり、さしたる揺れを感じさせることもなく駆け出した。

 

 

 

 

 

  「高度6000、周囲100セルジュに飛行船はありません。このままいけばあと3時間ほどで目的地に到着するかと思われます。」

 

 観測士も兼任するグラムさんは両手に舵を握って状況を教えてくれる。彼はメルカバの操縦が従騎士の中でも特に上手で正騎士に迫るほどだという。さっきメルカバスタッフの専門職を目指していると教えてくれた。

 星杯騎士は千人ほどしかいないらしい。だから騎士は皆何でもできるように修練を重ねる。メルカバの操縦も、工房でのクォーツの合成も、通信も、全部練習するのだとか。

 ウォーゼル卿はそれどころじゃなかったのでまだいくつかできないことがあると言っていたが。そんなウォーゼル卿は司令官の席にじっと座っている。いつかは覚える必要があるから、と仰って積極的に二人からメルカバの扱いについて話を聴いている、

 

 私は特にすることもないので、床にぺたんと座り込んでいた。

 

 「ニクス、足が疲れたなら下に休憩所があります。そこなら椅子もあるからここに座り込むのはやめた方がいいでしょう。」

 「なぜですか?景色はここからの方がよく見えますよ?」

 「……いや、気にならないのだったらいいんです。」

 

 

 

 PiPiPi…

 

 ウォーゼル卿が小さくため息をついて前に向き直ったとき、ブリッジに何かを知らせる音が鳴り響いた。通信士であるシアン様が座っている席にあるランプが赤く点滅している。

 

 「通信か?」

 「はい、えーっと通信先はレミフェリア……メルカバ壱号機からです。」

 「総長からか。繋いでくれ。」

 

 どうやら総長という人から通信が届いたらしい。聞いた限り星杯騎士団の責任者か何かだろう。そんなに偉い人からの通信だなんて、いったい何があったのだろうか。

 右側の天井から折りたたまれたモニターが出てきて展開される。

 

 

 「繋ぎまーす。」

 

 シアン様がそう言って何かのスイッチを押すと、モニターに映し出されたのは、深い緑色の長い髪を持つ女性の姿だった。

 

 『やぁガイウス。これから任務だそうだね?』

 

 

 

 

 私にとって衝撃的だったのは、その声。

 少し低くて、落ち着いていて、カリスマを感じさせる戦士の声。

 力と剣。自信と確信。どんな道をも踏み越えていく覚悟の宿った王者の声。

 

 あの女性だった。

 いつかのある時に始まりの地に突然やってきて、私を誘惑したあの女性。強い戦士だろうとは予想をつけていたがまさか星杯騎士団の総長だとは思っていなかった。

 

 そんな私の驚きをよそに二人は話を進めていく。

 

 「総長、はい。オレドで蛇の調査を4日間ほど。」

 『そうか。君はすでに顔が割れているからな。嗅ぎつけられないように気をつけろ。

 今回連絡したのは少し先の事の連絡だ。この任務が終わったら君には帝国方面に向かってほしい。』

 「帝国、ですか。」

 『リベールでの≪異変≫の時にも見られたことだが、蛇がおもちゃをばらまいていてな。その回収を頼みたい。トマスに任せていたんだが手が回らないと泣きつかれた。』

 「了解しました。……ニクスを同行させてもいいですか?」

 

 ウォーゼル卿の疑問に対し彼女は何でもない顔ですぐさま答える。

 一切の迷いのない声だった。

 

 『いや、それは許可できないな。君の知り合いは彼女が共和国にいると思っているんだろう?

 彼女には始まりの地で留守番をさせておいてくれ。』

 「そう、ですか。わかりました。」

 『……だが、持ち主である君が構わないならば私が彼女を預かることもできるが?』

 

 女性の提案にウォーゼル卿は驚いたように目を見開く。

 

 「え?」

 『知らない仲というわけじゃないのさ。

 ―――久しいな、ニクス。私のことを覚えているか?』

 「勿論です、戦士の方。私はあなたにお尋ねしたいことがいくつもあるのです。」

 

 『私に答えられることなら答えよう。何なら君を一人前のレディにすることだってできる。』

 

 女性はそう言って目を細めたが、それは随分とおかしな話であるように思う。

 私の精神には性別がないが、私の体は成人女性のものだ。その意味で私はすでにレディである。

 そして女性であることに一人前も何もないだろう。

 

 「私の体は女性体ですよ?」

 『女の体を持つだけではレディにはなれないものだ。

 ガイウス、オレドでの仕事が終わったら一度アルテリアに帰投してくれ。

 それでは女神の加護を。』

 「あ、ちょっと待ってください!」

 

 私の静止も聞かずに祈りの言葉を口にした女性は、通信を遮断したようでプツッという無機質な音の後にモニターは真っ黒になった。

 あわただしい人だ。私の話を全く聞いてくれない。

 

 「総長は相変わらずお忙しいようですね。

 ……それで、どうします?」

 

 ウォーゼル卿が私の顔を見て真剣な顔で何事かを聞いてくる。

 だが私には彼が何について聞いているのかわからなかった。

 

 「なにがですか?」

 「ですから、この任務が終わった後の事です。ニクスは始まりの地で俺の次の任務を待つか、総長と一緒にいるか選べます。どちらがいいですか?」

 「……できれば、あの女性と会う機会があった方が嬉しいです。私、あの方が人間になる方法を教えて下さるような気がするのです。」

 

 「わかりました。」

 

 ウォーゼル卿は静かに頷くと、前に向き直って再び何事かを二人の従騎士に言づける。

 メルカバはあと2時間と45分程度で目的地に到着するらしかった。

 その間、私はただブリッジの床に座り込んで前方に見える景色を眺めていた。空は青く、太陽は少し傾き始めている。

 

 現在時刻は午後3時35分。

 到着予定時刻は夕方の6時20分だ。

 

 到着したらまずは宿の確保と夕飯だな、なんて言っているウォーゼル卿が、二人の従騎士とオレドの名物について話している。

 

 

 私はただ、太陽のまぶしい光をぼうっと眺めていた。

 

 

 

***

 

 

 オレド自治州。農業が盛んな自治州で付加価値の高い高級果物や商品作物、そしてジャムやお酒などの加工品の輸出で経済を支えている自治州だ。アルテリアが宗主国である影響のためか星杯騎士団にとっては潜入のしやすい自治州であるらしく、教会の人間も()()()()()とのことだった。

 

 私は文筆家として、そしてウォーゼル卿は新任の巡回神父さんとしてオレドに滞在することになった。(最近こちらの世界の発音に慣れてきた。Rの発音が難しくてこれまで地名をうまく発音できなかったのだ。)

 到着したらまずは宿に行って、次の日から調査を行う。一日目と二日目は別行動。自治州各所で情報収集、三日目と四日目はウォーゼル卿と街道や遺跡を回った後共和国に近い高地のはずれでメルカバに回収してもらう予定だ。

 

 まさか単独行動を許されるとは思っていなかった。ウォーゼル卿は私が自由な行動をとれるように何かと便宜を図ってくださる。騎士団に拘束されようが、兵器として扱われようが辛いわけではないが、彼の優しい心からくる善意は非常にうれしかった。

 

 

 「今日からしばらくの間、よろしくお願いします。」

 「はい、4泊5日ね。宿でごはんは出ないからどっか別のところで食べるなりして。

 隣の居酒屋は安くてうまい、2ブロック先の料亭は高くてうまい。西街区のレストランは超絶高くてうまい。屋台で売ってる焼き林檎とか、ハニーローストナッツとか、スモアとかもうまい。

 カフェのコーヒーはオレド産の豆使っててここで飲んでいく方が安くてお得。おっけー?」

 

 宿の主人はとても早口な女性で、受付のカウンターで煙草を吸いながら新聞を読んでいる。何度も染めたのかして少し痛んだ茶髪をゆったりと括り、そのしっぽが彼女の肩にかかっている。顔は少し日に焼けていて、そばかすがあって、太陽の似合う人だと思った。

 

 彼女は帳簿に名前と住所を書く私に問うてくる。

 「あんた、どうしてオレドに?」

 

 視線を上げると、彼女は新聞を読んでいて、ちっともこちらを見なかった。

 「旅をしながら本を書いているのです。オレドには取材で来ました。」

 「へー。」

 「帳簿、こちらでよろしいですか?」

 「ん。これ鍵。」

 「ありがとうございます。」

 

 鍵を手に取って鞄を持つ。部屋は2階の西側の隅だ。到着したらゼオを呼んでウォーゼル卿に連絡を入れなければならない。今回行動を別にするにあたってゼオを呼ぶための特殊な笛をウォーゼル卿から預かっている。

 何でも人には聞こえないけれど鳥には笛の音が聞こえるのだとか。

 

 もしかしたら異能の影響で私にも聞こえるかもしれないな、なんて思いながらドアを開けると、そこには茶髪の女の子がいた。

 

 「あら?」

 「えっ!ご、ごめんなさい、まだお掃除が終わってないの。今日はお昼寝してしまったから、仕事が全部できていなくて……あの、その…」

 「構いませんよ。私は気にしませんから、どうぞ続けてしまってくださいな。

 少し座らせてはいただきますけれど。」

 

 女の子はホウキを手にしていて、この部屋を掃除していたのだと言った。幼いがどうやらこのホテルの従業員であるようだ。

 少女は大体12歳くらいだろうか。セミロングの茶髪をポニーテールに括り、動きやすい格好をしていて白い三角巾とエプロンを身に付けている。

 

 「私はこれからこの部屋に宿泊するニクスです。掃除をして下さってありがとう。」

 「えっと、チェンです。女将の娘で、お手伝いしてます。あの、あとシーツ張り替えるだけだから!ほんとにすぐ終わるからちょっと待って!」

 「急がなくて大丈夫ですよ、本当に気にしていません。あなたさえよければお茶でも飲んでいってくださいな。淹れてきますから。」

 

 私はそう言って持ち運び用の導力ポットでお湯を沸かし始めた。鞄の中からプラスチックのティーカップを取り出し、テーブルに白いクロスを敷けばお茶会の準備はほとんど終わりだ。

 ティーポットに茶葉を入れてお湯を注ぐ。数種類のスパイスと雑貨屋で買った新鮮ミルクを入れて少しの間蒸らす。

 本場であるノルドではスパイスと紅茶とミルクを一緒に鍋で煮立たせるが、旅先ということで簡単にできる方法で淹れることにしている。スパイスを砕いてから入れれば香りも強く出やすい。

 

 そうこうしているうちにチェンという女の子はシーツを敷き終わったのかして三角巾を外しておずおずと歩み寄ってきた。

 私は二つのカップにチャイを注ぎ、彼女に椅子に座るように勧めた。

 

 

 「い、いいの?私ただのお手伝いだよ?」

 「構いませんよ。私は一緒にお茶を飲んでくださる方を探していたのです。あなたがお昼寝をして下さっていてよかった。」

 「ふーん」

 

 彼女はチャイを一口飲んだ。

 

 「おいしい!味はお茶なのにちょっとスパイシーで緑茶と違う感じ……これどこのお茶?」

 「ノルドという帝国と共和国の国境地域で買いました。

 スパイスとミルクと一緒に飲むのですって。気に入って、たくさん買ってしまったんです。」

 「へー。ニクスさんはいろんなところに行ったことがあるの?」

 

 「ええ。旅をしながら本を書いています。」

 「本!?それってロマンスとか書く?だったら私買うよ!」

 

 ロマンス。男女の恋愛がメインテーマになった本だったか。私はあまり書かない。恋をしたことがないからだ。

 

 「うーん…ロマンスはあんまり書きませんね。今は星の神話を書いてます。」

 「星の神話?」

 「星には明るいのもあれば赤い星や青い星もあります。その星々がどうしてそうなったかを物語で紹介するのです。作り話ではありますけれど、結構人気ですよ。」

 

 「へー。」

 

 彼女はロマンスにしか興味がないようだった。思春期の子供はそういうものなのかもしれない。もともと女の子は恋というものに興味があって、素敵な男の人と素敵な恋がしたいと思っているのだとか。ユウナが言っていた。(その時の彼女の話はどちらかと言えばリィン様への文句がほとんどだった。)

 

 自分には、わからないものだった。

 性別という概念のない私には恋をするというのは無理があるのだろう。

 

 「母さんが心配するからそろそろ行かなきゃ。

 あんまり仕事が遅いと怒られちゃうし。ね、ね。また明日も来てもいい?

 仕事ちゃんとしたら休憩時間ちょっと余裕出来るからさ。」

 「構いませんよ。お待ちしておりますね、チェン様。」

 「チェン様だって!変なの。立場が逆になったみたい!」

 

 お茶ありがと!と言って彼女は三角巾を付けなおして掃除道具を手に持つ。ホウキとバケツと雑巾とゴミ袋で両手をいっぱいにしながらも器用に扉を開けて、そしてキッチリと閉めて出ていった。

 

 彼女が階段を下りていく音を聞きながら、私は旅行鞄を持って窓の近くに立ち、部屋の窓を開ける。

 笛をカバンから取り出そうと思ってしゃがむと、ばさばさという羽ばたきの音が聞こえた。どうやら笛を使うまでもなかったらしい。

 

 茶色い羽の大きな体をしたゼオは部屋の桟に脚をかけて立っている。大きくて真ん丸な金色の瞳をきょろきょろとさせながら、部屋を確かめているようだった。

 ゼオによるとウォーゼル卿も教会のほうに到着したとのことであとは私が連絡するだけのようだ。

 

 「こんばんは、ゼオ。ウォーゼル卿に到着しましたとお伝えして。明日は自治州の南側をバスで回ろうと思っています。」

 

 ゼオは心得たと一鳴きして夜空に飛び立っていった。月の光を背負う彼の雄大な姿は真っ黒なシルエットになった。彼が飛ぶ姿はとってもきれいだ。

 翼を広げれば1アージュは超えるかという大きさの翼は一枚一枚がとてもきれいな模様をした羽根によって構成されている。

 空を駆けることに特化した生物。それもまた一つの命の形なのだろう。環境に合わせた適応という進化の繰り返しによって、彼らは非常に美しい翼を得た。なんでも鳥というのは生まれた時からその種によって羽根の枚数と羽が生える角度が決まっているらしい。生きていくために自分たちにとって最適な翼を彼らは知っているのだ。

 

 やがてゼオの姿は家屋に隠れて見えなくなってしまった。北西に向かって飛んで行ったので、まっすぐウォーゼル卿のもとに戻るのだろう。

 

 

 (蛇……か)

 

 

 リーヴスを発つ前に、あの青年は言っていた。

 『マクバーンは大陸各地で暗躍する犯罪結社のエージェントです。』

 

 蛇の名は≪身喰らう蛇≫、というのだそうだ。騎士団は彼らと長きにわたって対立してきたとのことで、帝国での騒動でも執行者と呼ばれるエージェントや使徒という最高幹部と交戦したと言っていた。

 そして恐らくは、かの王もその蛇なのだろう。

 

 

 (おいたわしい)

 

 記憶をなくしていた。自分が何であるかを思い出すために力を振るわなければならなかった。

 そう聞いた。

 しかし民のことを思いむやみに力を使うこともできなかったらしい。

 

 やはり、かの王はお優しい。たとえご自身が何者であったかを忘れても、民を思う気持ちが心のどこかにあるのだから。

 陛下は、今は記憶を全て思い出したであろうか?

 

 死んだ者まで守れないとおっしゃっていた。

 ただ会いたかっただけだとおっしゃっていた。

 あの方は悲しんでいらっしゃるのだろう。

 

 そしてそれ以上にすこし、怒っているようにも感じた。

 怒りは、私には()()()()()()感情だ。寂しいという感情のなれの果て。火花のような、閃光のような、弾けるように鮮烈な感情の発露。私には備わっていない感情だ。

 陛下は私よりも多くの感情を持っていらっしゃる。あの方の表情は私にとって少し複雑で、難解だった。陛下の考えをそのお顔から察するということは、私は下手だった。

 

 楽しそうに笑って、少し寂しそうに顔をゆがめていらっしゃった。

 

 あのお方は私よりもずっとずっと感情が豊かでいらっしゃる。

 その感情があだになってお辛い思いをしていなければいいと、そう思った。

 

 

 窓の外の月は満月だ。

 そういえばあの方は地上に落ちてきてしまった太陽のように苛烈な炎の持ち主でいらしたのに、あの月のような静かな光をよく好んでいらした。

 

 窓から漂ってくる灰の香り。どこかの家で暖炉に火をつけているのかもしれない。導力式のストーブも販売されているが、薪をくべた火を好む人も多いと聞いた。

 

 私はその灰の香りがどこか懐かしくて、その夜はずっと月を見上げていた。

 

 

 

 夜が、更けていった。

 私は結局、眠らなかった。

 




アインルート「総長様のペット」が解放されました。


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16 豊穣の恵み

Q.オレドってそんな農業盛んだっけ?
A.3rdでちらっと名前が出てきたときは工業が盛んという描写もなかったし特に市場が拡大してる様子もなかったので農業やってるんだろという予想。(レインズ兄弟もオレドで農業をやっていることになってるし)
ただゼムリアの北端みたいなところなので温室とか使ってるんじゃないかなぁ…


農業している方のファッションのセンス、狂おしいほど好き



 「んぁ?アンタもう出ていくのか?」

 「ええ、おはようございます。チェン様にお昼には戻るとお伝えいただけますか?」

 「んー」

 

 午前5時半。

 太陽が出るころに私は宿を出た。冬の冷気がひんやりと立ち込める外にはうっすらと霧がかかっている。白っぽく薄布がかけられたような街に、東側から朝日が差し込んで光が虹色の帯になっている。

 まるで空から手が伸びているみたいだった。

 

 冬の空は高くて、手を伸ばせば透けてしまいそうなほどにまっすぐだ。

 東の空の少し低いところ、夜明けで空の色がだんだんと変わっていくところに一つだけ星が取り残されている。

 

 あの星は夜の名残。夜空の終着点。

 神様が藍色の夜空の布を引き払うと、真っ白になってそのあと朝がやってくるのだ。だけどあの星が空と星空の布をボタンみたいに留めてしまって、夜明けまで夜空が少し残ってしまうのだろう。

 

 太陽が顔を出す。

 宙に舞う塵がきらきらと光って、妖精みたいだ。

 

 「おう、おはようさん。ご婦人、寒くないかい?」

 「おはようございます、おじさま。オレドに取材に来たのですけれど、朝の姿も素敵だと思いまして、日向ぼっこをしていたのです。」

 

 ベンチに座って朝日を眺めていた私に声をかけてきたのは白髪交じりの老紳士だ。農作業に向かうのだろうか、麦わら帽子をかぶって軍手をはめている。

 緑色の上着にオレンジ色のズボン、黒のゴム長靴と紫のマフラー。カラフルで素敵なおじさまだ。

 

 「おじさまなんて歳でもねぇや。おいらは農作業があるってんで早起きもするが、最近の若いのは勤勉なのが多いねぇ」

 「農作業ですか。何を育ててらっしゃるんです?」

 「温室で果物を育ててんのさ。もう冬だから、ベリーの収穫をしねぇと。倅にも手伝えってんだが、これが全然手伝わねぇもんでな。」

 「あら、少し寒いですからお布団が恋しいのかもしれませんね」

 「かぁーーッ!新しく礼拝堂に来たあんちゃんはもう身支度して聖典読んでくれてるってのによ……」

 「お困りでしたら何かお手伝いいたしますよ?農業に明るくはありませんが荷物運びくらいならできるかもしれません。」

 「いーっていーって!気にすんな!オレドはいい場所だからよ、ゆっくりしてってくれや。」

 「ありがとうございます。それではよきご縁のありますように。」

 

 おじさまは家屋の裏手に向かっていった。どうやらそちらに温室があるらしかった。この辺りでは冬場にベリーをたっぷり使ったケーキを食べる習慣があるようで、商品作物を多く作るオレドの農家の方にとって大切な時期だ。

 

 私は原稿用紙を取り出す。

 星の神話を少し書き足してしまおう。

 夜と朝の境目、空が一瞬白くなる時。私たちはまっさらになる。罪も悲しみも忘れて、夜明けを待つだけの気持ちになれる。

 

 空が真っ白になると、私も真っ白になれるのだ。

 

 

 

『星はその命を燃やし光を放っている。

 その光は蛍のように冷たいが、遠く離れた私たちのもとに届く。

 

 獅子の瞳。

 サソリの心臓。

 乙女の涙。

 戦士の槍の穂先。

 

 天に召し上げられた神の召使たち。

 命の清かな光が夜空に灯っている。

 濃紺の薄布を飾る光。

 

 そのすべてが、愛と冒険の物語を持っている。

 

 私はそれを綴ろう。

 夜にあたたかな火の灯るランプの掲げられた家の中。

 その物語が語られることを願ってーーー』

 

 

 

 「金星は、太陽を守る星。

 夜のさきがけでありしんがり。夜空を縫い留める大きなボタン……と。

 何か良い言い回しはないでしょうかね…」

 

 「おばさん何してんの?」

 

 「あら?」

 

 顔を上げると、そこに太陽を背負って立っている誰かがいる。

 赤色の頭巾をその頭に巻いた、若い男の子だ。

 

 「あんた、観光客だろ?早起きしてるってのに市に行かなくていいのか?」

 「市?市場が開かれるのですか?」

 「ああ。オレドの農作物は全部そこに集まるんだ。オレドに来る観光客はみんなそれを見に行くぜ。なんなら案内してやろうか?」

 「あら、よいのですか?何かご予定があるのでは……?」

 「いーっていーって!俺には特に大事な用事なんてねーから。」

 

 そう言って大通りのほうに歩きだす赤い頭巾の少年を急いで追いかけると、彼は曲がり角をいくつか回って広場に案内してくれた。

 広場には鮮やかな色のテントが張られていて、農家の方々が作物を並べていた。小麦粉やポテトなどの寒い場所で作られるような作物だけでなく、温室で栽培された色の良い果物や野菜も多い。

 山岳地帯で作られるコーヒー豆も名産品の一つだ。行商人がコーヒーの試飲を勧めてくれる。それを受け取ると別の商人が竹の串にさしたリンゴの試食を渡してくれて、向こうでまた誰かが私のことを呼んでいる。

 

 にぎやかな場所だ。

 ヒトの活気に満ち溢れている。

 いつの間にか男の子とはぐれてしまっていたけれど、右を向いても左を向いてもおいしそうな食べ物と元気な人がいて、目があちらこちらへと移ってしまう。

 朝靄の冷たい静けさなんて嘘だったのかと思ってしまうほど、市はあったかくて、人の声であふれている。

 

 私は果汁の滴る甘いリンゴをかじってコーヒーを一口飲み、両手がふさがりながらも人の波をよけて声のする方に向かった。

 

 私を呼び寄せていたのは、なんとチェンだ。

 会うのはお昼になるだろうと思っていただけに驚いた。

 

 「チェン様!」

 「ハァイ、ニクス。やっぱり市に来たのね。来ると思ってた。

 せっかくだから一緒に回ろ?母さんに買い物頼まれてるんだ。」

 

 エプロンと三角巾を外して身軽な少女は、私の両手を見て笑っている。人の波を避ける途中にもいろんなものを渡されてしまって、私はもう何をどうやってこの手に持っているのかすらわからなかった。

 

 「ありがとうございます。でも私、男の子に案内していただいたんです。まずはその方にお礼を言わないといけません。」

 「男の子?それってどんな子?私知ってるかも。」

 「そうですか?えっと…赤い頭巾を頭に巻いた子でーーー」

 「これはバンダナ、って言うんだぜ。おばさん。」

 

 声をかけられて振り向く。そこには先ほど私を案内してくれた赤い頭巾の男の子がいた。

 

 「あら、先程の。」

 

 ちょっと傷のついたズボンのポケットに手を入れて佇んでいる彼に案内してくれたお礼を言おうと思ったのだが、チェンがやけに顔を苦々し気にゆがめてた。そばかすのある鼻筋にはたくさんのしわが寄ってしまっている。

 

 「げぇっ。アンタだったわけ?道案内なんて殊勝なことしてるとは思わなかった。」

 「ばぁか。サボりに決まってんだろ?」

 「そんなんだからいっつもおじさんに怒られるんでしょ!」

 「うるさい赤毛。」

 「違うもん!もう茶色いから!」

 「染めただけで変わったって?」

 

 「もう知らない!ニクス、行こ!」

 「え、あ、あの……あ、ありがとうございました。よきご縁を!」

 

 口をはさむ暇もないほどの口論の応酬が落ち着いたと思ったら私はチェン様に手首をつかまれた。私の手を引きずんずんと進んでいく彼女に従って、私も前へ前へ進もうとする。

 男の子は、ただそこに立っていた。

 私がお礼を言うと、彼は器用にポケットに手を入れたまま肩をすくめ、そして振り返ってどこかへ去って行ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ああ、本当に腹が立つ~……どうしてあんなこと女の子に言うの!?

 ニクスのこともおばさんって言ってたし、ほんと信じられない!」

 「チェン様、私が若くないのは本当ですから、お気になさらずに……」

 「本当だとしても言っちゃダメなの!」

 「は、はい……」

 

 白いクロスのかけられたテーブル。彼女は自分で用意したハムと瓜のサンドイッチをバリバリかじっている。

 市で買い込んだコーヒーを少しストロングに淹れて、私はアップルのマフィンをお供に朝食の時間を楽しんでいた。

 

 気に入らない、気に食わないと言いながら彼女はクランチチョコレートの小さな袋を開ける。ガリッと音をさせながら犬歯で砕く姿が彼女の素なのだろうか、一連の動作は随分と手慣れて見えた。

 

 「ねえ、そう思わない!?」

 「私はあの方のこと何も知りませんから、何も言えませんねぇ。あの方にもあのように言った理由がおありなのかもしれません。」

 

 そう言うと彼女は少し考えこんで、チョコレートを呑み込み、コーヒーを呷った。

 

 

 「………あいつはね、私が髪を染めてるのが嫌なの。髪を染めるくらい自由だと思わない?それに私も母さんも、お金がかかるのを我慢して染めているのに。自分はブロンドだからってバカにして!」

 「髪の色、とっても似合っていますよ。気を落とさないでください。」

 「ありがと。―――私もお母さんも、もともと赤毛なの。

 でもね、私たちが元々住んでたところでは赤毛ってちょっと怖がられてて。それで居心地が悪くなってオレドに来た。似合わないってわかってたけど髪も茶色に染めて、宿を開いて母さんと二人で頑張ってるのに、アイツはよそ者が気に食わないの。

 自分はちっともおじさんの農作業手伝わないくせに。」

 

 コーヒーの苦みか、それ以外の理由か、彼女の眉間のしわは取れない。

 

 「……きっと二人もわかり合える日が来ます。彼はあなたの赤毛が好きだったのかもしれません。だから茶色になって少し残念に思っているのかも。」

 「そんなわけない!赤毛でいていいことなんて何にもなかった!」

 「私は赤い髪をしたあなたにもあってみたいですよ。素敵に決まっています。」

 

 チェンが私を見た。

 私もチェンを見る。彼女の眼はペールブルーだ。まるでパステルの絵の具みたいにきれいな水色をしている。よくよく見ると確かに睫毛はイチゴの色をしている。前髪から透ける眉も、髪より赤っぽい。

 

 チェンは、ため息を一つついた。

 

 「……考えとく。オレドでは偏見も薄いから、決心がついたら赤毛にしてみる。」

 「私はこれまでしばらく帝国にいましたけれど、あんまり赤毛の人への偏見はありませんでしたね。これも地域差なのかもしれません。」

 「ほんと?オレドじゃなくて帝国に行くべきだったかなぁ……でも帝国人って怖くない?」

 「いいえ。お優しい方ばかりでしたよ。オレドの方と同じくらい。」

 「へー。」

 

 「そういえばニクスの故郷ってどんな場所?旅に出る前はどんなとこにいたの?」

 「海の近くです。いつでも海が見えるところに家があって、よく泳いでいました。

 サンゴでできている家具もあったんですよ。」

 「へー。サンゴってどんなの?聞いたことはあるけど見たことはないや。」

 

 本当のことだ。私が多くの時間を過ごした神殿は海の近くにあったし、なんなら神殿自体が半分沈んでいたので私はずっと水の中を揺蕩っていた。

 階段はサンゴと大理石でできていて、貝殻や真珠がわずかに入り込む光を反射してぼんやりと光っていた。

 

 「いろんな色がありますよ。赤や黄色、青いものもあります。けれど私の家にあったのは大半が白かったですね。」

 

 そう。白かった。

 私がいた神殿のサンゴはもうずっと前に死んでしまって、真っ白になっていた。

 

 「へー……以外かも。黒い服ばっかり来てるから、黒い色が好きなのかなって。」

 「私、一番好きな色は赤ですよ。」

 「え、どうして?」

 「私では絶対に似合わないですから。赤い色の似合う人は、すごいと思います。」

 

 そう。

 赤い色の似合う人は、強い人だ。

 

 

 

 

 「今、絶対誰かのこと考えてたでしょ。」

 「え?」

 「絶対今私じゃない誰かのこと考えてた!わかるんだから!」

 「そんなことありませんよ。チェン様にはきっと赤い髪も似合うだろうなぁって……」

 

 「ほんとにぃ?」

 

 「ええ。ほんとです。」

 「ふーん」

 

 

 朝が溶けていく。

 ひんやりとした朝が、太陽の光にぬくめられて、こわばった靄もほどけていく。

 人々が起きたときのあくびの息。暖炉についた火。子どもを起こす母の声。

 

 人々の営みが、朝の訪れを祝福する。

 今日を迎えられた喜びを、彼らは言葉以外の方法で祝っている。

 

 そうして夜は、ため息のように去っていくのだ。

 まるであの星が人知れず見えなくなっていくように。

 

 

 

 

***

 

 少し前に空の高みに達した太陽の光が、ステンドグラスの向こうから礼拝堂に降り注いでいる。

 礼拝堂というのはたとえ小さくても光の入る方角を考慮して作られていて、太陽が南中するとステンドグラスの影が礼拝堂の床に映る。まるで女神が降臨したかのようなその虚像を人々は好むため、先程のミサにもたくさんの人が集まった。

 

 そして人々が帰路についたあと、俺は司教の執務室にてオレドの文化について尋ねていた。

 

 「それでは、オレドには豊穣を司る遺跡があるということですか?」

 「ええ。山や泉などの自然に寄り添うように、小さな祠ですけれどもそう言ったものがいくつも存在します。」

 「帝国で異変が起きていた時期、何か平時と違うことは起こっていたでしょうか?」

 

 遺跡や古くからある施設には至宝や古代遺物にまつわる何かがあると考えていいだろう。そしてそれを嗅ぎつけた≪結社≫の人間がそこに足を運んでいる可能性も、また十分に考えられるものだった。

 

 「さぁ……住民には外出を控えるように促していましたから、何とも言えませんな。」

 「成程。ありがとうございます、司教。時間が空きましたらそちらを見に行ってみます。」

 

 「そうなさるとよいでしょう。

 ……その若さで騎士としての重責を背負うには辛いこともあるかもしれません。しかし女神はいつもあなたを見守っています。くじけずに、精進するのですよ。」

 「はい。自分には支えてくれる仲間がいますから、彼らとともに邁進する所存です。」

 

 司教は近隣の村へ日曜学校に行く俺を見送ってくださった。

 オレドの方は騎士団の行いにも理解があると聞いていたが、予想以上に手厚いサポートをしてくれる。遺跡に行きたいと申し出れば近隣の村への出張を言づけて下さるし、礼拝堂教典もいい状態のものを読める。

 情報収集の滑り出しは順調と言っていいだろう。

 

 ニクスは大丈夫だろうか。オレドの方は温和な方が多いから揉め事に巻き込まれることはないだろうが、どうにも心配だ。

 さすがの俺も、彼女が≪蛇≫の調査に駆り出された理由くらいはわかる。

 

 火焔魔人へのカウンターだ。

 異能には異能で対処せよ、との考えだろう。ただ本人の言葉が本当であるならば、彼女の異能には火焔魔人ほどの“出力”がない。出くわしたら昔なじみの誼で手加減してくれることを期待するしかない、と彼女は言っていた。

 

 全く不安になることを言ってくれるものである。

 当人は『嫌な予感がしないから大丈夫だろう』と楽観的だった。彼女にとって気がかりなのはちょっかいをかけてきた総長の方なのだろう。

 あのお方も過剰なまでに忙しいはずだというのに、いつの間にか『管理者』である俺の目を盗んでニクスに接触しているのだから恐れ入ったものだ。

 

 何だか二人の間にただならぬものを感じるのは、きっと俺の気のせいだろう。なんというか、どことなく心臓に悪いから総長の気まぐれも程々にしてほしいと思う。

 

 

 

 

 

 ふと、視線を感じた。

 

 

 

 ニクスだろうか。行動範囲が被らないように事前に打ち合わせをしていたとはいえ近くを偶然通ることもあるか。

 

 いや、あり得ない。

 ここはもう街道、街の外だ。彼女には間違っても一人で街の外には出ないように厳命している。だとしたら、誰だろう。知らない気配であるように感じられたがもう薄くなってしまっている。

 

 勘付いたと思われるのもまずい。

 ここは気にせずに通り過ぎるしかないようだ。

 

 

 「ゼオ!」

 

 

 だが同行者のことを考えると、保険は掛けておくべきなのだろう。

 

 

 

 

***

 

 今日の私の仕事は『街での観光』だ。人々に話を聴いて、何か困ったことがあればそれを手伝いそれとなく一日を過ごすこと。

 何でもないように思えて、案外この方法が一番情報が集まるらしい。

 

 そう言っていたのはかの士官学院の専任教官だが、彼に相談するべきだろうか。

 オレドの人は気前がよすぎて、ただお話の相手になっただけで薬やリンゴ、果てには本まで譲ってくださる方がいるのだ。

 いただいたのは『人形の騎士』という本の増刷版だが、これが中々面白い。

 いつもはインスピレーションを湧き上がらせるために雑誌などの本を読むことが多いが、物語も面白いかもしれない。人間が大きな人形を自在に操るだなんて、実に夢のある話だ。ハーレクインの扱う不思議な術も現実離れしていて面白い。

 酒場で上機嫌に飲んでいた男性が、適当に買ったけど難しかったからと言ってくださった。彼は今私の真向かいで上機嫌にお酒を飲んでいる。

 

 オレドの人は随分あたたかい。

 オレドは本来寒い場所だ。ゼムリア大陸の北の端に位置し、農作物もあまり実らない痩せた土壌だったという。それが導力革命が起きて、温室の運営コストが下がり、オレドの農夫たちは商品作物を作れるようになった。

 彼らは量を作らずとも単価の高い農作物や嗜好品を作ることで他の国家と十二分に渡り合えるようになった。農業への強い誇りと経済的余裕が、彼らに笑顔をもたらしているのだ。

 

 チョコレートも、コーヒーも、果物も。全てこのオレドの名産品だ。この酒場でも近くの農場から収穫されたそれらを使ったメニューが沢山提供されていた。

 

 

 「おじさま、素敵なご本をありがとうございます。とても面白いですから宿でもゆっくり読ませていただきますね。」

 「ねーちゃんが気に入ったならよかったよかった!俺も荷物が減って一挙両得ってやつよ!」

 「ええ、本当に。オレドには聡明なお人が多いのですね。」

 「勿論だ!なんたって農業先進国だからな~。」

 

 上機嫌にワインをお替りする彼も、農夫であるという。農業というのは実のところ考えることが多い。農薬の成分、肥料の配合、品種改良、そして適切な販売戦略……それらのノウハウは彼らにとって必要不可欠だ。

 オレドの日曜学校ではそういったことも教わるらしい。

 子どもにとっても難しい話も中にはあるだろうが、そういった教育を行うことがオレドを支えていることに違いはない。

 

 古びた扉を開けてさて次はどこに行こうかと通りに出ると、通りの向かいの街路樹に一羽の鳥が留まっている。茶色い羽をもつ大きな鳥だ。

 

 「ゼオではないですか。」

 

 守護騎士の友である彼は、どうやら私に届け物があるらしく、足をクイクイと私のヴェールに引っ掛けてくる。その足には紙が括りつけられていて、どうやらウォーゼル卿からの手紙のようだ。

 

 「これを私に?ありがとう、ゼオ。」

 

 その手紙を取って頭を撫でる。程々でやめてベンチに座るとゼオもひじ掛けに留まった。なるほど、返事をもらって来いと頼まれているのか。

 手紙を開く。小さな紙に書かれているのは単語の並び。

 

 『ラム酒 卵 肉 リンゴ アイスクリーム (ナッツ入り) ゴマ』

 

 「あらあら、買い物のメモですか。」

 

 届け先は教会でいいのだろうか。

 卵や肉はいいとして、ラム酒は聖職者としてどうなのだろう。この世界の聖職者には食の制限はないのだろうか。それにアイスクリームだなんて。いくらオレドが寒いとはいえ溶けてしまったらどうするつもりなのか。

 

 しかし書いてあるものは全て雑貨屋で揃うもののようだし、アイスクリーム以外を買っておこう。ゼオには了解したと伝言を頼んだ。

 雑貨屋は居酒屋にほど近いところにある。飲食店に物品を卸しているからだろう。

 

 ドアを開けると、呼び鈴がカランカランと音を立てた。

 その音に反応して、カウンターに肘をついていた若い店主がこちらを向く。

 長い金髪が特徴的な青年だ。

 

 「あの、ごめん下さい。」

 「はい、何かご入用?今日はキャベツが新鮮なの入ってるよ。」

 「まあ素敵。ではこのメモにあるものとキャベツを一つずつお願いします。

 あっアイスはまた後で買いに来ますから、結構です。」

 「はいよ。ラム酒とリンゴと…肉と卵ね。えーっとあとは……これで全部かな?

 876ミラだ。キャベツはおまけだよ。」

 

 「ありがとうございます。あの、おまけついでに聞きたいのですけれど……」

 「ん?何だい?」

 

 私は店主から袋を受け取るついでに気になっていたことを尋ねた。

 

 

 

 「この町の近くに遺跡ってありますか?

 私、観光でオレドに来たのですけどそういったところを見るのが好きなんです。」

 




ニクスの肉体は「25歳に見える三十路」。
最近の若い女性にありがちな年齢の分からない感じ。

詩人として働いているということでニクス視点の時は彼女独特の言語を使ってもらっています。

あとニクスに対しての周囲の話し方ですが
ニクスに対して敬語→ニクスを人間だと思ってない(神様っぽい何かだと思ってる)
敬語じゃない→人間だと思ってる
という基準で分けてます。


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17 想いの眠るゆりかご


 そろそろ真面目にプロット組んだ方がいいなと思い始めました。




 

 

 困った。

 大いに困った。

 

 

 「せんせーー!風呼んで、風!もっかい!!」

 「リリも!リリもビューってやる!!」

 

 教会の法衣に縋りついてくるのはまだ幼い子供たち。

 ゼオを飛ばして風で勢いを付けさせているところを見られてしまい、子供たちからの印象はすっかり『風使い』だ。

 クラフトなどで風を槍に纏わせているので間違いではないかもしれないが、普通人間の男はそういうことはできない。一般人には見られないように気を配る必要があったというのに、村の子供たちに見られてしまった。

 日曜学校の指導が終わったからと油断してしまっていただろうか。

 

 「ざ、残念だが俺はもう街に戻らないといけない。来週来た時はいくらでも風を呼ぶさ。」

 「ええええーーー!!」

 「リリ、ビューってやつやる!ハオシェンと飛ぶの!」

 

 彼らには俺が来週は来ないことがばれているのかもしれない。

 

 この村の子供はたった二人。

 ハオシェンという共和国出身の少年と昔からこの村に住んでいるリリという女の子。二人はとても仲が良く、いつも一緒に遊んでいるらしい。見ていて微笑ましいやり取りをする彼らはとても元気で、できればおねだりも聞いてあげたいとは思うのだが、今日は少し道を急ぐ理由があった。

 

 とはいえこの二人を邪険にするのもかわいそうだ。

 

 

 どうしようかと迷っていると、そこに助け舟がやってきた。

 リリと同じ髪の色の女性――リリの母親だ。

 彼女は後ろからリリを抱き上げると、目を合わせてリリに問いかけた。

 

 「リリ、今日はお料理をするんじゃなかったの?」

 「ママ!そだった、リリ今日おりょうりする~。

 せんせー、リリびゅーってするの今度でいいや。ハオシェンもばいばい!」

 

 「えーーーっ!なんでだよリリ~~」

 「リリ今日からおりょうりのトックンするの。だからばいばいだよ!」

 「待てって!」

 

 リリとその母親が手を繋いで家に戻ろうとするところをハオシェンが走って追いかける。俺から興味をなくした二人は、連れ添って歩き始めた。

 

 助かった、と思っていると子供たちとリリの母親がこちらを振り向いた。

 

 「「せんせ~~!さよならーー!」」

 

 腕がちぎれそうなほどに大きく振って、二人の子供は大声を張り上げている。リリの母親もぺこりと頭を下げていた。

 俺も別れの挨拶を返そうと思い、息を吸い込んだ。

 

 「ああ!!また会おう!!」

 

 俺が大きな声で挨拶をすると風がごおっっと唸った。

 二人はその風を肌で感じてキャッキャとはしゃぎ、木製の家に飛び込んでいく。それを確かめた俺が村から一歩外に出ても、彼らが楽しそうに笑いあう声が耳の中に残っていた。

 

 

 

 

 

 村と街を繋ぐ街道のやや村よりのところに、一か所分かれ道がある。西に行くと村、東に行くと街、そして北に行くと祠がある。

 街を囲むようにして存在する4つの祠のそのうち1つ。分かれ道を北に行けば、やがて祠に至るための長い長い石階段が現れた。

 

 

 その階段の中腹に、誰かが腰かけている。

 

 「…驚きました。本当にあんなメモで分かってくださるなんて。」

 「どんな言葉にも、規則性があるということです。素直な言葉でしたからすぐにわかりましたよ。」

 

 

 そこに腰かけていたのはニクスだ。無理にとは言わないができれば手を借りられたら助かると思って買い物メモに見せかけた暗号をゼオに届けてもらったのだが、まさかこんなに早く到着するだなんて思わなかった。

 

 「どうしてわかったんです?符牒を共有してはいなかったでしょう?」

 「数量がなかったので買い物メモでないことには割とすぐ気が付きました。あとはウォーゼル卿が欲しがりそうにないものもありましたから。」

 「成程。気をつけます。」

 

 ゼオに届けさせたのは食べ物の頭文字を繋げれば集合場所を示す暗号だった。万が一ゼオが道中で襲われてメモが奪われても大丈夫なように買い物メモに偽装したのだ。あってもなくても困らないもので暗号を作るのは大変だったが、彼女にとってはあの程度を読み解くのは朝飯前だったようだ。

 

 「祠は4つあったでしょう?外れていたらどうするつもりだったんです?」

 「途中まで来たらゼオが案内してくれましたし、あなたの大きな声も聞こえました。

 …あなたこそ、私が迷子になるとは思わなかったのですか?」

 「不思議なことに、あなたならきっと来ると思っていたんです。あなたには何も教えていないのに。」

 

 階段に腰かける彼女に並び立つと、彼女はワンピースについた砂を払いながら立ち上がる。長い石階段はまだ真ん中だ。ここからあと何段、上ることになるのだろう。

 ゆっくりと一段ずつ階段を上る彼女の歩く速さに合わせてのんびりと足を運んでいく。少し足がもつれそうだった。

 

 

 「そういえば、どうして私をお呼びになったんですか?」

 

 彼女がふと尋ねてくる。

 ベールの向こうの不思議な色をした瞳が、きょとんと丸くなっていた。

 

 「ここは、水にまつわる場所だそうです。水の異能を持つ神官であるあなたならば、何かわかることがあるのではと思いまして。」

 「そうだったのですか……」

 「それに、村に赴く途中で嫌な視線を感じました。この自治州に彼らが潜んでいるようであればどうにか居場所だけでもつかみたいと思ったんです。」

 

 ニクスは、少し困ったような顔をしていた。その微笑みはいつものものよりもやや眉が下がっていて、若干だが彼女を人間らしく見せていた。

 

 「騎士の方は異能の使い方について私よりも詳しい気がします。私が水鏡に挑戦したのなんて本当に最近の事だっていうのに、どうしてそんなことができるって皆さまご存じなのでしょう?」

 

 騎士団は、彼女を古代兵装として最大限活用しようとしていた。彼女自身の高い知性を生かした古文書の復元と解析、水の異能を利用した法術の発明、果てには伝導体の量産までを彼女に強要しようとしている。

 彼女にとって異能の使用が負担になることなど、気にしていないかのように。

 それは『水を操る』という異能の可能性を探っているようであり、彼女をゼムリアでの生活から切り離すための第一歩だった。

 

 「お役に立てるならばいいのですけれど」

 

 彼女はいつもそう言って、騎士団に快く協力してくれる。

 異能を使ったり、頭で考えたりして仕事に取り組む彼女はいつもいつもニコニコとほほ笑んでいて、実際異能の代償というものが何なのかを俺たちは知らないままだった。

 彼女は階段をのぼりながら、またいつものように微笑んでいる。曖昧な指示にも従い、最大の結果を残す彼女は兵装としてこの上なく優秀だ。

 

 人間としてはいまだ不完全である彼女が兵装として扱われると途端に高く評価されるというのは、まったくの皮肉なのだろう。

 

 

 「あら、着きましたねぇ」

 

 石の階段を1000段ほど上っただろうか、隣のニクスは少し息切れしながら、祠を見つめた。森の中にポツンと建てられた東方風の門の向こうにはドールハウスくらいの小さい小屋のような何かがある。気象観測に使われる百葉箱と少し雰囲気は似ているかもしれない。

 文字が青いインクで書かれた札が何枚か張られていて、この人形の家が祠というものらしかった。何かの装置、もしくは古代遺物に相当するものは見当たらない。

 祠の両開きの扉は閉じられているが、門の中に入ってこれを開けることは憚られた。

 

 「これを視ればよろしいのですか?」

 「お願いします。」

 

 彼女は一つ頷くと小瓶を取り出し、その中に入っている水を地面に零していく。彼女が瓶をいくら傾けても、水は枯れることがない。水はずっと柔らかい土を濡らし続けている。

 

 「一体どういうからくりなんですか?」

 「たくさん入っているだけですよ。無限なんてことはあり得ません。」

 

 そして彼女は瓶のふたを閉じたかと思うと、今度は地面に染み込んだはずの水が意思を持ったかのように動き始める。彼女が腕を持ち上げて地面と水平になるように構えると、水の流れはまるで蛇のようにするすると地面を進んでいく。そして祠の四つ足に絡みついて祠を支える木材に染み込んでいった。

 

 「……確かに誰か来ていますね。あまり多くはないみたいです。扉も開けてはいません。申し訳ないのですけれどわかるのはそれくらいです。」

 「いえ、十分です。地元の方はあまり寄り付かないということはすでに聞き及んでいますから。誰かが来たということは彼らが潜伏している可能性を視野に入れたほうがいいでしょう。夜にまた連絡を入れますから、明日の朝まで待機していてください。」

 「かしこまりました。」

 

 微笑む彼女の顔は少し青い。異能の行使の代償によるものであるようだ。

 

 「少し休んでいきますか?」

 「そうですね……近くに泉のある匂いがします。少し足を延ばしてみましょう。」

 「泉ですか?しかしこの先には道が……」

 

 彼女は門をくぐると祠の裏に回ろうとする。

 背の高い草や針葉樹が祠を取り囲んでいるかのように思えたが、どうやら祠の裏には細い道が存在したようで、そこだけ獣が一匹通れる程度の細い道ができていた。誰かが踏み均したというよりは、その道の上にだけ植物が生えていないようだ。

 

 彼女は俺を先導するように歩き始めるが、何分狭い道だ。図体の大きい俺では進みづらく、顔に木の枝が当たりそうになる。

 

 しかしこの森には随分動物が少ない。鳥の声も獣の唸り声も一切聞こえない。

 だが動物の姿は見えないというのに、命の気配だけが濃くてどこか不自然だった。匂いでも音でもないが肌の感覚、とでも言い表そうか。()()がこの森に生きていることを風が報せてくれている。

 

 「ニクス、ここには何が生きているんですか?何かがいることはわかるのですが普通の動物や魔獣ではないような気がします。」

 「まだ生まれる前の命なのだと思います。」

 「生まれる前の命?」

 「ええ。生き物は何も最初から体を持っているわけではありません。私の故郷では母親のお腹や卵の中に新しい体が出来上がっていくとき、どこかのタイミングでその命に魂が宿ると言い伝えられていました。その魂が、ここに集まっているのでしょう。」

 「成程……霊魂のようなものが泉に吸い寄せられているということですか。」

 

 「その理解で支障はないでしょう。

 ほら、ご覧になってください。美しい泉ではありませんか。」

 

 ニクスが足を止めた。彼女のさらにその先には植物があまり生えていないようで、開けた場所のようだ。彼女の後ろから向こうを覗くと、そこには水面が広がっている。

 沼と呼ぶにはあまりに澄んでいて、池と呼ぶには清すぎる。水の流れも一切ないその水たまりは、確かに泉と称するのがあっているように思えた。

 

 「なんて清い水だ……」

 「ええ。先ほどの祠が祀っていたのはこの泉だったようですね。もしかしたら精霊が棲んでいるかもしれません。」

 「では、あまり長居をするのも悪いですか。精霊の眠りを覚ますのも気が引ける。

 …しかし、オレドの水がこんなに綺麗だったとは。食べ物が上手いのも道理です。」

 

 オレドの飯はうまい。麦も、野菜も、味が濃くて密な感じがした。良い水はよい作物を育てるということかと思ったが、隣のニクスは首を振ってそれを否定する。

 

 「いえ、農作物を育てている水の水源は別に存在すると考えていいでしょう。」

 「なぜですか?」

 

 「水があまりに清いと生き物は生きられないものです。肥えた土にはそれに合った水というものがあります。

 ここの水は些か静かすぎる。」

 

 独特な表現だ。水というものは火や風に比べれば元々静かだが、言われてみれば確かに川の水と比べると流れが少なくて静かな気はする。

 

 しかし彼女が言わんとしていることは俺の考えともまた違うことなのかもしれない。

 

 彼女の顔を覗き込むと、珍しく微笑みのない表情をしていたものだからそう思った。彼女は無言で目を伏せて、祈りを捧げはじめる。

 何が何だかわからないが、とりあえず自分もそれに倣った。精霊がいるかもしれないのだから、住処に踏み入ってしまったことを詫びなければ。

 

 

 

 

 

 ニクスは、太陽が少し傾き始めて影が長くなるまで祈りを捧げ続けていた。

 

 礼拝堂に戻ってこれたのは、もう夕方の事だった。

 予定よりも帰りが遅くなってしまった俺は、司教に謝りに行くついでに騎士としての仕事の補佐をするニクスを司教に紹介しに行った。

 

 「フランシスコ司教。帰りが遅くなってしまい申し訳ありません。北の祠に行っていたのですが、調査が長引いてしまいました。」

 「成程、北の祠にまで足を延ばしていたのですか。あなたの友が知らせてくれましたので、幸い何も滞りはありませんでしたよ。

 しかし、あなたも一人で外に出るとは中々無茶をなさる。村へはバスが出ていますから、次からはそれを待つとよろしいでしょう。」

 「申し訳ありません、司教様。しかし私はどうしても北の眠りの地を目にしたかったのです。」

 

 彼女がそう言って頭を下げると、司教は白眉をぎゅっと寄せて彼女のことをじっと見た。

 

 「あなたは……」

 「ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。私はニクスと申します。ウォーゼル卿の古代兵装として任務を補佐しております。」

 「そうでしたか……。」

 

 そういったきり、司教は樫でできた重厚な机に両肘を付き、ゆっくりと両手を祈るように組んで黙り込んだ。

 ニクスはそんな司教の前で膝をつき、頭を下げた。

 ―――まるで王の御前で何かの許しを請うているようだった。

 

 「司教様、恐れながら進言させていただきます。

 かの泉の眠りは、今まさに妨げられようとしています。しかしその者も、泉の水が何であるかを知らないようなのです。どうか私に諫言する許しをいただけませんか?」

 

 四方の壁が本棚で覆いつくされた司教の執務室がまるで玉座の間にでもなったかのようだった。両手を組んだままじっと黙っている司教は、何事かを考えこみ、そしてしばらくすると手を掲げてニクスに命じた。

 

 「顔を上げなさい。」

 

 ニクスはそう言われるがままに顔を上げる。

 

 「私から、星杯の騎士たるウォーゼル卿と、そしてその剣たるあなたに依頼します。無垢な魂らが眠る泉を這い回ろうとする蛇を捕らえ、その愚かさを説きなさい。

 そしてどうか、彼の者らにもう一度、安らかなる眠りを与えなさい。」

 

 無垢なる魂が眠る泉。

 司教のその言葉が意味するところは明白だった。

 

 「ま、待ってください!無垢なる魂が眠る泉とは……まさかあの祠は……」

 

 ニクスは司祭の眼を見ると、司教は小さく頷いた。

 

 「ウォーゼル卿、あの泉には生まれる前に死んでしまった幼子たちの魂が眠っているのです。何の罪もなく、ただ祝福を受けることを待っていた多くの命が不幸にして失われた後、あの場所で眠りにつくのでしょう。」

 

 ニクスの言葉は、俺の予測を肯定するものだった。

 驚きのあまり司祭を見ると、司祭は重々しく口を開いた。

 

 「祠は、最初はこの地の三方にしかありませんでした。

 それぞれは知恵の実である林檎、人の糧たる麦、そして恵みの象徴たる樹。それらを祀る祠でありました。

 

 まだ医療の技術が発展しておらず出産の成功率が低かった時代には、悲しい事故が何度も起こりました。父親の行き場のない憤りを鎮め、母親の悲しみを慰めるために。

 そして何より、生まれてくるはずであった尊い命にせめて安らかな眠りを与えるためのゆりかごとして、4つ目の祠ができたとされています。

 あの泉の水は、なぜかどこへ流れずとも濁らない。それこそあの泉に眠る魂たちの心のようにいつでも清らかなのです。

 

 ……君たちには、どうかあの泉が荒らされぬようにしてほしい。

 これは公にはしていないことのため、知らず知らずのうちに誰かが不徳を成すこともあるかもしれません。だからどうか、その者に気付かせてやってください。あの祠だけは、どんな時でも静かな場所でなければならないということを。」

 

 俺は息をのんだ。あの泉で感じた曖昧な命の気配。あんなにも生きていた気配を感じたというのに、それが死者の魂であったとは。

 

 「あの泉には、多くの善良な魂が眠っています。彼らはまるで生きているみたいでした。それはあの泉がオレドの人々の手によって善く守られてきたからなのでしょう。」

 

 床に両膝をついたままのニクスが俺を見上げている。どうするのかと、視線で問うているようだった。

 勿論、放置はできない。蛇であろうとなかろうと、死者の眠りは妨げられてはならないのだから。

 

 「僭越ながら、その任を受けさせていただきます。彼らの穏やかな眠りと安らぎを守るために、この槍をふるうことを誓いましょう。」

 

 

 俺の宣言を聞き届けた司教は、俺たち二人に退室を命じた。

 ニクスが立ち上がって退室し、そして俺も続こうとしてその直前に、俺は司教にあることを尋ねた。

 

 

 「…その者は、誅するべきでしょうか?」

 

 その俺の問いに対して、司祭はただこう答えた。

 

 「君に委ねます。」

 

 

 

***

 

 

 「ニクス!」

 「チェン様……」

 

 宿に戻った私に声をかけてくれたのは受付で番をしているチェンだった。チェンは雑誌を読みながら受付をしていたようで、カウンターには温かい飲み物の入ったマグとチョコレートの空き袋があった。

 

 「今日は朝早く出ていったって言うのに、随分観光してきたんだね。」

 「ええ。村の方まで行ってきましたよ。チェン様は受付のお仕事ですか。」

 「今日の午後はずっとね。この雑誌もさっき買ったばっかだってのに随分読んじゃったよ。」

 

 そう言って彼女が振ってみせた雑誌はどうやら帝国のものであるらしかった。

 

 「帝国の雑誌ですか?」

 「んー。さすがにおしゃれだよね、帝国の人は。服とか結構堅い感じだけど髪の色とかは自由というか、随分明るい髪の人が多いみたい。」

 「ああ、確かに西に住む方は明るい髪の方が多いですね。北の方に行くと銀髪の方もいらっしゃいましたよ。」

 「こっちは色が明るいってもプラチナブロンドだからなぁ……帝国の人の方が参考にはなるや。」

 

 そう言って何周も読んだという雑誌を眺める彼女の眼は、しかしまだ興味を失っていないようでゆっくりとページをめくっている。

 

 「私はファッションには詳しくありませんけれど、お力になれることがあったら言付けてくださいね。」

 「んー。」

 

 どうやら赤毛のスタイリングについて迷っているらしいチェンは集中し始めたようなので私はそのまま受付左手の階段を上り、部屋に戻った。

 部屋の窓の桟には、昨日のように月明りを浴びるゼオがいた。

 

 「ゼオ。勝手に窓を開けてしまうだなんて、悪い子ですね。」

 

 一鳴きしたゼオは窓から飛び立って部屋の中を少しだけ滑空し、そしてコート掛けにその鋭い爪をひっかけた。

 

 「今日はお手紙はないのですか?」

 

 ピューイ、と一鳴きするゼオの脚には何も括りつけられていない。どうやら彼は彼の意志でこの部屋を訪れたらしい。

 私ですら察するところがあるのだから、友である彼の目にはウォーゼル卿がここ最近迷っていることなど明らかだったろう。しかし今はウォーゼル卿に一人の時間を与えるべきだと思ったらしい。

 

 ウォーゼル卿は、夜の街道を歩いているのだとか。最も信頼しているであろう仲間を連れずに槍だけ持って身軽な格好で出ていったと聞き、それにあえて付いていかなかったことがゼオの気遣いなのだと知る。

 

 「あなたたちは本当に、心から信じあう“友”なのですね……」

 

 

 友。

 友、とはどんな存在だろう。

 

 私はかの王の友であると思っていた。ともに国を支える同志なのだから、そして炎と水という対とも言える異能を互いに有しているのだから、私たちは友なのだろうと、私はそう考えていた。

 しかし私は、陛下の悲しみを癒すことも叶わず、世界の終末の際に傍にいることすらも叶わず、ましてや今は炎を恐れている。

 

 あんなに尊敬して、心から信じていた炎が自分の心に灯った瞬間、私は怖くなった。

 自分の愚かさが、この炎を強くして誰かを傷つけてしまったらどうしよう。

 陛下に、自分を許すために誰かを救うと約束したのにそれを果たせなかったらどうしよう。

 そんなことで私はもうずいぶん悩んでいる。陛下は、あんなにも容易く自らの炎を御しているというのに。

 

 どうすれば人間になれるだろう。

 何をすれば私は個人として生きられるのだろう。

 それをずっと考えていても、何も答えが出ない。心の中の火をどうすればいいか、ずっと迷っているからだ。

 

 真に彼の友であるというならば、私はこんな迷いを踏み越えて、自分の道を探すべきなのだ。騎士団の兵装としてでも、それ以外の形でもいいから、私は誰かの助けとなるために何かをなすべきなのだ。

 しかし私は今、迷っていることを心のどこかで喜んでいる。

 

 

 ウォーゼル卿が導いてくれる。

 私が何をするべきで、誰に手を差し伸べるべきか。どのように異能を使うべきか。そのすべてをウォーゼル卿が管理してくれると期待しているのだ。

 

 

 

 浅ましい。

 愚かにもほどがある。

 

 

 

 彼は自分の在り方に悩み、今その迷いを踏み越えるための一手を必死に考えているところなのに、私は彼に自分の迷いのすべてを押し付けようとしている。

 

 私は、自己を得たい。人間になりたいと思っている。

 けれどこんな見苦しい迷いに囚われたいとは思わない。

 ましてそれを誰かに委ねようとも思えなかった。

 

 

 私は私として、この迷いを断じなくてはならない。

 

 

 「ゼオ、私は迷いを超えてみせます。私が私になるために。

 

  そして誰かの友になるために。」

 

 

 何をすればいいかなんてわからない。明日からどうなるかもわからない。

 もしかしたら、私は私の迷いと向き合うことがつらくて途中でくじけてしまうかもしれない。

 

 ただ、月夜に響く鳥の声がいつもよりも頼もしく聞こえた。

 




人間とニクスの違いというのはいくつかあるかと思います。

これまでのニクスだったら、きっと迷うなんてことはしなかったでしょう。管理者がいて「こういう方針の政策を立てろ」と言ったらそれに従っていたでしょうし、その態勢に何の疑問も持たなかったと思います(たとえ管理者がどんな迷いを抱えていても)。
ニクスは一度マクバーンに自分を処断してもらおうと彼に決断を迫っています。炎でこの体を焼いてくれないかとお願いしています。
その願いは、自分が心からそうされたいと思っているというよりも、マクバーンに自分をどうにかしてほしかったのでしょう。

きっとマクバーンにとってはいい迷惑だったと思います。
彼がニクスのことを友だと思っていてもいなくても、きっとそんなことに炎を使いたくはないはずです。


しかしニクスは己の心に火が点いて、そしてガイウスの「先に進むために迷う」姿を見たことで、「迷う」ということを学習しました。

一つ人間に近づいたと言えるかもしれません。

迷った結果、ニクスがどんな決断をするかはわかりませんが、迷うということは人間にとって無駄ではないと思います。決断に根拠と自信が付随するようになりますからね。きっとニクスも結論を下した後にそう思ってくれるでしょう。


そうやって、ニクスは「人間として生きること」に向かい合っています。
個人として生きていこうと、頑張っています。


そして異界の王は故郷の事と向き合わなくてはいけません。
「王は死んだ」なんていう一言で片付きません。だって最後の民であるニクスは今ここに生きているのですから。


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18 蛇の残り香



ゼオ賢いなあ

フレディを出せるのはいつになるだろう…


 

 私たちの任務であった≪結社≫の調査は、ウォーゼル卿が思ったよりも早くに誰かがそのしっぽを見せたおかげで急速な進展を見せたと言えた。

 二日目にはウォーゼル卿が他の3つの祠の調査を行い、私が郊外の調査を担当した。この調査の結果、ウォーゼル卿を『見ていた』誰かの潜伏先は郊外でも街でもない、ということが判明したのだ。

 

 独自の拠点をどこかに展開している可能性が高い。

 

 そう判断したウォーゼル卿の言葉がきっかけで、私たちはこの潜伏している集団の規模を推測することを今回の調査の最終目的とした。

 ≪結社≫の構成員でなかったとしても、≪結社≫の息がかかった傭兵である可能性も考えられるらしい。一流の猟兵団ともなると手段を問わないことがあるとのことで、あまり大々的に動くことはできないとの見解だった。

 

 3日目に私が命じられたのは、子どもたちの魂が眠る北の祠を荒らそうとしている人間の調査だ。私が祠に水鏡の術を使って遠見をしたとき、3人ほどの集団が「良くない目」で祠の周りを囲んでいた。

 怪しい人間を探せと言われても、私には誰かが怪しいと思うことができない。人を疑うことができないのだ。

 だからできることなんて、こんなことしかないと思う。

 

 

 「チェン様、今日は私の部屋のお掃除は結構です。しばらく執筆をしていますから、申し訳ないのですけれど、お茶も明日でいいですか?」

 「あれ?そうなの?でもニクスも仕事しないといけないもんね。

 いいよ~。楽で助かる助かる。」

 

 

 チェン様にそのように言って部屋に誰も立ち入らないようにし、旅行鞄から布に包んだ丸い鏡を取り出す。その鏡は銀と鋼でその縁を飾られていて、私がこのオレドの市で買ったお土産のうちの一つだった。

 

 私はその上に小瓶の中の水を一滴垂らす。

 垂らされた水は表面張力の影響を受けてぷっくりとドーム状になり、やがて薄い膜のように鏡の表面を広がっていく。

 

 『 水よ

   わが眷属よ 』

 

 私が小さくつぶやくと、声に応えるようにして水の膜が淡く光りだす。

 

 本当は、こんな詠唱をする必要はないのだ。異能とはそういうものだから。

 だけど私は異能の力が弱まっていて、強く念じたり詠唱の力を借りて想念を強く保つことでしか大きな術を使えない。

 

 『 星の雫

   空の涙

   光を導くものよ

 

   汝は目

   汝は手

 

   報せを我が下に示せ 』

 

 払われていく代償。体が痛んだ。

 あの心優しい騎士に知られては、また彼が心を痛めてしまうかもしれない。彼のことをそれほどよく知っているわけでもないが、なんとなくそう思った。

 

 鏡に張られた水の膜が、殊更強く光る。そして以前同じ小瓶の水を垂らした祠のある場所とつながる。

 異能を活用した遠見の術。水鏡と呼ばれる術だ。故郷にいたころには使えなかった術だ。ゼムリアに来てまだ間もないころ、故郷の情報を集めようとしたときに必死になって練習した術。

 結局故郷はちっとも見えなかったが、私の影響下にある水がある場所は比較的よく見えるようになった。

 

 鏡の上の膜がゆらゆらと揺らめく。まるで水中から水面を見上げた時のように、向こうの景色はぼやけている。水さえあればできる気軽な術だが、不明瞭なのは欠点と言えた。あと音が聞こえない。

 

 水面の向こうにいるのは、おそらく人間だろう。それも複数いる。

 皆一様に赤い服を着ていて、大柄だ。上下でそろいの衣服なのか、全身が赤い。何人かは黒い物を持っているがあれは何だろう。

 

 

 バシャン

 

 「あっ」

 

 誰かが地面を踏んだのか、殊更映像が揺れてしまう。膜の波紋が乱れ、そしてそれが直らないうちに彼らは去っていったようだった。

 痛む頭を押さえて向こうの景色に目を凝らすものの、祠には以前の静けさが取り戻されていた。

 

 「ここまで、ですか…」

 

 術を解いて鏡の上の水をふく。頭がぼーっとした。近くのメモに先ほど見たことを書き記して、椅子にもたれかかった。

 奇跡的にあの人たちの靴に水滴がついていれば、見えないこともないだろうが、それを見るためにはもう少し無理をしなくてはならない。少なくとも連続して視ることは不可能だ。

 

 さむい。

 指先が冷たくなってきた。

 

 歯ががちがちと音を立てる。

 

 異能の弊害だ。やけに体の機能が落ちてしまう。詳しくもない人間の体の中で何が起きているのか、私にもわからないが、使い慣れた力をちょっと行使するたびにこれではさすがに困る。

 痛いとか、だるいとかであればまだ耐えられるのだが、純粋に異能を連続して行使できないのは辛い。小瓶や結晶といった“仕込み”も日常的にしなければならないし、古代武装としての仕事だってある。

 せめて出力だけでも上がってくれないものだろうか。

 

 

 私は首にかけていた笛を吹き、ゼオを呼びよせる。

 今はウォーゼル卿と共にいるかもしれないが、彼の羽毛はあたたかい。着込んでも着込んでもどうにもならない冷えをどうにかしてくれそうな気がした。

 

 

 ゼオ。

 そして彼の友である心優しい騎士。

 

 あの騎士はどうして同種である人間を殺さなくてはならないのだろう。たとえ殺すべき対象が罪人であってもその役目はあまりに重い。

 そしてゼオはどうして人間でないのだろう。せめて人の言葉を話す権能があれば、あの騎士に言葉を届けてやることができただろうに。

 

 

 ああ、いけない。

 あの女性が諫めてくれたではないか。人を哀れんではいけないと。

 

 ウォーゼル卿も、ゼオも、もっと強くなる。大丈夫、だいじょうぶだ。

 きっと善き縁が彼らに訪れる。

 

 

 羽根の重なる音がした。彼だ。

 

 「ぜお」

 

 窓の桟に脚をかけた誇り高い鳥を自分のもとに呼び寄せる。彼にとってはぐったりとしている私が珍しいのかして、近くにまで飛んできてくれる。

 私は鳥を抱きしめたことがないからどのように触れてよいのかわからないが、ワンピースの袖から出ている両手で彼の羽に触れた。

 

 彼の羽は一枚一枚が大きい。私の手よりも長い羽で構成されている翼にはたくさんの間隙があってそこに熱が溜められている。

 翼の表面に触れるだけで、私はそのあたたかさに眠たくなってしまいそうだった。

 

 「あったかい……」

 

 

 このまま、少し昼寝をしてしまおう。

 そして起きてから甘い物でも食べて元気を出してからもう一度―――

 

 

 

 

 「何をしているんですか?」

 「ほあぁ!?」

 

 

 

 

 誰だ。

 今、誰かに声をかけられた。

 

 いきなりのことだったので自分からも変な声が出た。

 誰だというのだろう。

 せめてノックでもしてもらえないと気づけないかもしれないというか……

 

 「ノックならしましたよ。」

 

 穏やかな声音の低い声はすぐに隣から聞こえてきた。

 座ったまま横を見上げると法衣を纏ったウォーゼル卿が立っている。

 

 「ウォーゼル卿……」

 「ゼオが突然飛び立ってあなたの部屋に入っていったので、何かあったかと思いまして。暖を取りたかったんですか?」

 

 「え、ええ……実はそうなんです。すみません、そんなことで呼びつけてしまって。

 ゼオともう少し仲良くなりたいな、と思っていたものですから。」

 「………いえ、俺も空き時間でしたから。お気になさらず。」

 

 なんとも言い表せない微妙な空気が流れた。

 

 

 「神父さーん!飼ってる鳥、見つかった!?」

 

 部屋の外から聞こえてきたのはチェン様の声だった。それに応えたウォーゼル卿は外に出ていこうとする。

 

 「あ、ウォーゼル卿。こちらをお持ちください。」

 彼に先ほど見たものを書いたメモを渡すと彼がちらりと目を通した。

 「これは?」

 「先ほど水鏡の術で見たものです。おそらくは調査対象かと。情報が少なくて申し訳ありません。」

 「いえ、十分です。……それでは()()頑張ってください。ご無理のなさらぬよう。」

 

 そう言って部屋を出ていくウォーゼル卿は、扉のすぐそばでチェン様とお話をしているのか、見つからなかったなどと嘯きながら遠のいていく。

 部屋には私と、ウォーゼル卿に連れていかれなかったゼオが残った。

 

 

 「ゼオ……あなたの友は心優しいですね」

 

 ゼオは扉の外の人々に気付かれぬように小さな声で、しかし誇らしげに一鳴きした。

 

 

 

 

***

 

 

 上下ともに赤い衣服を着た大柄な人、複数。黒いものを携行。

 

 

 それだけのメモだった。可能性はいろいろと考えられたが、一般人が複数人で上下を赤の服に揃えるということはないだろう。そんな集団が街中にいればきっとすぐに気付く。

 人目を隠れて行動しなくてはならない複数人の集団、ともなれば携行している黒いものは後ろ暗いものと考えていいだろう。

 銃か、何かが入ったトランクか。

 恐らくは異能の行使により具合の悪そうな彼女に追加で情報を聞くことも憚られたため、今はそれらしい場所を探すくらいしかできることがない。

 

 司教に人が隠れられそうな場所についての心当たりを聞き、下見をしておいた方がいいかもしれない。いざというとき戦闘になって地の利が向こうにだけあるという事態は避けたいからだ。

 

 

 空を見上げても、友はいない。

 あまりに青い顔をした彼女の傍で湯たんぽにでもなっているのだろう。

 

 今回の任務は一人になることが多いと思う。一昨日の夜も結局自分の考えを整理できずに一人で街道に出た。

 

 

 やはり、人を殺すことが役目であるからといって許されていいものだとは思えないのだ。

 他の守護騎士たちの仕事を貶しているわけではない。彼らは彼らなりの答えを出して役目をはたしている。

 要は自分がどう思い、どう向き合うかということなのだろう。

 

 外法に認定されるのは更生する余地がなく、救いようもない外道ばかりだ。そんな許されない罪にまみれた外道に情けをかけるのも、間違っているのだろうか。外法が害してきた人たちに、失礼なことなのだろうか。

 

 祈っても祈っても、答えは導き出せない。

 それもそうだ。答えを出すのは俺であって、女神ではないのだから。

 殺すか、殺さないか。結局はその二択だというのに、そのどちらにもあまりに大きな理由がぶら下がってしまっている。

 

 

 まだしばらくの間、答えは出そうになかった。

 

 

 ため息をついていると、天高くから、吼える友の声が聞こえてきた。

 

 「ゼオ!」

 

 彼に分かるように腕を掲げる。まだもう少し彼女のもとにいると思ったが彼女が俺のもとに返してくれたのだろうか。

 腕に留まった彼の脚には先ほどのメモと同じ紙が括りつけられている。さてはゼオを呼びよせたことの謝罪か、それかゼオを置いて行ったことへの感謝だろうとあたりをつけ解を友の脚から取って広げる。

 

 

 紙に書いてあったのは、そのどちらでもなかった。

 

 

 

 『 村 北 港 いそいで 』

 

 

 

 さらなる異能の行使により明らかになった情報だと、すぐに分かった。その反動で彼女がどうなっているか、心配ではあったが俺にはこの紙の指示に従うという役目がある。

 それが俺が歩むと決めた騎士の道だからだ。

 

 ゼオが俺を宿に誘導する様子も見せないということはひとまず大丈夫だと考えていいだろう。俺は礼拝堂で借りている仮の居室から槍を取り出し、街道へと駆けだした。

 

 オレド自治州はゼムリア大陸の最北端にあると言っても過言ではない。秋には流氷がやってきて冬には完全に凍り付いてしまう北の海岸は夏の間だけ港として機能する。

 おそらくはそこのことを指しているのだろう。中心街の西側にある村から北に行ったところ。道はないが、地図を確認すれば確かに港に直行できる最短ルートだ。もしかしたらその一団が村と港を繋ぐルートをすでに確立しているのかもしれない。

 

 

 

 俺は急いだ。

 司教の依頼も、外法に対しどう向き合うかも、この時だけは忘れていた。ゼオが導くままに木々をかき分け、魔獣一匹がようやく通れるようなけもの道を往き、息が切れてしまうまで走った。

 

 

 

 やがてゼオが俺の100アージュほど先にある一本の針葉樹に留まった。ゼオはそこから動かず、じっとどこかを見つめているようだった。

 俺は長距離の移動で逸る心臓と止まらない呼吸をできうる限りで抑え、その木にひたりひたりと近づいた。

 

 幹の根元に座り、軽く体を預けると、肩に友が乗る。

 

 

 「(この向こうか?)」

 

 ゼオがうなずいた。

 自分の前にある茂みの隙間から向こうを覗き込む。

 自分がいる場所はどうやら高台の上にあるらしく、崖のように切り立った段差の上から、その集団を見下ろすことができた。高さはおよそ10アージュといったところだろうか。

 

 そこはもともとは海だったのだろう。今はあまりの寒さで分厚い氷の陸になっているそこに、その集団がいた。

 集団の構成員たちは、皆一様に紅色の軽鎧を纏っている。近くに停泊している飛行艇と、その肩のマークを見れば彼らの所属は明らかだ。

 ―――≪身喰らう蛇≫の強化猟兵。

 

 

 「しかし、何だってこんな寒いところで偵察なんぞ……」

 「仕方がない。今はどこも警戒されているからな。こんな辺鄙なところでもないとダメだろうさ。帝国軍も、あれだけの騒ぎがあったってのに立ち直りが早いもんだ。」

 「しかしギルバートの奴はまだ戻らんのか。あいつ、ここが寒いからって一人トンズラしてるんじゃないだろうな?」

 「その時はまたカンパネルラ様に言って遊んでもらうように仕向ければいいさ。」

 「お前カンパネルラ様に嘘つく度胸があんのか?帝国の一件以来機嫌が悪いだろう。」

 「本当に機嫌が悪いのはマクバーン様のほうさ。」

 

 

 

 ギルバート・スタイン。その名前が出るとは思っていなかったが。相変わらずのようで気が抜ける。

 集団は6名。一個小隊といったところか。歓談している彼らは中央の焚火に身を寄せ合い、寒さをしのいでいるようだった。飛行艇も凍り付いた海の上に停めているくらいだ、きっと寒いに違いない。俺もさっき走ったせいで汗をかいたのが急激に冷えて、今にも震えてしまいそうだった。

 

 ギルバートは外しているみたいだが、合流しないうちに制圧してしまったほうがいいだろうか。聖痕の力を使えばあの練度の連中を捕縛することもできるだろう。

 それにこの寒さだ。あまり長い間、潜んでいられる自信もなかった。

 

 「(ゼオ……フォローを頼む。)」

 

 

 うまくいくかはわからないが、やるしかない。

 俺は槍を手にして幹に隠れるように立ち、ポーチからゼラムカプセルを取り出してそれを嚥下した。

 

 途端、体の中心から闘気にも似た熱が発生するのを感じる。震えそうだった歯をかみしめ、暗示を解くきっかけとなる一節を口にする。

 

 

 

 

 「我が深淵にてきらめく金色の刻印よ――――」

 

 守護騎士は聖痕の力を制限するために暗示をかける。あまりに大きな力のため常時開放していては身が持たないからだ。

 そして決まった言葉を口にするとその暗示が溶けて、聖痕のリミッターが外れる。

 

 体の熱が、血が、背中に集まって渦巻くのを感じる。

 初めてこれを発現させたとき、まるで友の持つ翼のようだとも思った。肩甲骨からぐっと飛び出していきそうな力の奔流。非現実的な浮遊感を俺にもたらしてくれる麻薬のような力。

 実際は翼よりももっと恐ろしくて、果てのないものだったが、俺はこの力があれば皆を守れるような気がした。

 世界に羽ばたいていけるような気がした。

 

 そしてそれを現実にするために、俺は未来への願いと希望をこのしるしに託している。バルクホルン師父から受け継いだ道と証がたとえ俺には過ぎたものであったとしても、この未熟な自分を今まで支えてくれた人に報いたくて、俺は俺の意志と力で善き明日を引き寄せてみせると。

 

 俺が俺自身にそう誓ったからだ。

 

 

 血が逆流してしまうかのような不快感と、目の前の人間たちを圧倒しようという闘気。これに押し流されてはいけない。獅子の咆哮は誰かを殺すためのものではないのだから。

 それは守るために。共にある者たちの命と未来を守るための力だ。

 

 

 「その猛き咆吼を以て―――我が槍に無双の力を与えよ―――!」

 

 吼天鳳翼衝。

 

 

 獣が天に吼えたかのように。鳥が空に羽ばたいたように。

 まっすぐに雲へと向かっていく槍は、太陽には届かずにやがて俺たちのいる地上に戻ってくるだろう。

 

 しかしその槍は声もなき誰かによる安寧への願いと明日に進む意志を纏い、乾坤を震撼させる一つの矢に変わる。

 

 

 

 轟音が凍り付いた海を割る。

 音の波が木々を揺らし、氷の隙間から上がる飛沫は空飛ぶ船を飲みこんだ。

 

 

 「む……加減を誤ったか。」

 

 力の細かい制御ができず、海の氷を割ってしまったらしい。海に飛び込む必要があるかと思って法衣に手をかける。冷たいだろうが生来体は丈夫だ。すぐに救助を済ませれば風邪はひかずに済むだろう。

 

 

 ぱちん

 

 

 フィンガースナップが周囲に響いたのは、そんな時だった。必死になって氷の上に這いあがろうとする強化猟兵たちが安堵したような、絶望したような顔をする。

 ―――道化師か。

 単独では分が悪いが、交渉の余地はあるはずだ。

 

 炎の幻術の出現を今か今かと待ち構えていると、やがて氷の上に現れるものがあった。

 

 

 ドズッ

 

 それは杭だった。氷の上にようやくの気持ちで上がってきた強化猟兵たちを氷河に縫い付ける真っ白な氷の槍。それは()()()()()()()()()()()()()()()()()()が、しかし()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「あ、あれ……カンパネルラ様……?」

 

 縫い付けられた猟兵の一人が寒さに打ち震えながらも彼らの主人の名を呼んだ。

 しかしその哀願に反して、彼らを温める炎は訪れない。

 

 代わりに聞こえてきたのは女の声だった。

 

 「あら、寒いのですね。可哀そうに。そこでじっとしていてくだされば、今すぐ温かいお湯を用意しますから、少し待っていてくださいな。」

 「ニクス!?おい、ニクスか!?どうしてここに!」

 

 まさかここに来るとは思わなかった。てっきり能力を行使した代償でベッドに沈んでいるかと思ったのだ。彼女は俺の頭上、針葉樹の枝の一つに腰かけている。ゼオをその膝に抱いているようだった。

 

 「ええ。ニクスです。体調不良が先程治りましたので参りました。ウォーゼル卿のような活躍は難しいですが、せめてお手伝いはさせていただきますね。」

 

 そう言って彼女はいまだに水の中にいる猟兵を不可視の力で持ち上げると、一か所にまとめて縫い留めた。

 

 「えっと……飛行艇はどうします?」

 「無理をしなくていい。下りてきてください。」

 「はい、ただいま。」

 

 そう言って彼女は随分高い場所にある枝から俺が立っている地面までを水の柱でつなぐ。そしてそれに手をかけて、ゆっくりと滑り降りてきた。

 

 「助かった。しかし体調は大丈夫なのか?」

 「先ほどスモアをチェン様から頂きまして。それでだいぶん元気になりました。」

 

 そう答えた彼女の顔はいまだ青白い。さっきの能力の行使で疲れているのだろう。ベール越しに彼女の顔色を確かめる俺を見て考えを察したのか、彼女は説明してくれた。

 

 「単純に水を動かすほうが、遠見の術みたいな複雑な術よりも楽なのです。今の行使ではそれほど疲れていませんよ。ほんの少し、寒いだけです。

 ウォーゼル卿も、どうぞ上着をお召しになって。」

 

 彼女は微笑んで柔らかい布とコートを差し出してくる。遠見の術で戦闘になると察していたのだろう。

 汗を拭いて上着を着ると、今までの戦闘の疲れからか、聖痕の全能感から解放されて寒さをようやく感じるようになったのか、歯が震えだす。

 唇の隙間から漏れる息すらも凍り付きそうだった。

 

 「メルカバを今すぐにここに呼びましょう。

 ……こんなことなら近くに待機させておくべきだった。」

 「不測の事態は防ぎようのないものです。彼らには気の毒かもしれませんけれども、せめて温かいお湯を用意しましょう。」

 「ああ。俺が火をおこしますので、そんなに多くは要りませんよ。」

 

 俺がそう補足したにもかかわらず、ニクスは甲斐甲斐しく身動きの取れない猟兵たちの世話を焼いているようだった。体を乾かし、あたたかいお湯に触れさせ、拘束したことを詫びているようだ。その姿はまるで母の様だとも思う。

 俺が導力通信でメルカバを呼び寄せている間に反撃されやしないかとも思ったが、猟兵たちはニクスの様子に随分と毒気を抜かれていたようだった。

 

 中には泣いているものもいる。

 いろいろなことがあり過ぎたのだろうか、それとも他人の優しさなど久々だったのか。

 ニクスが彼の涙をぬぐってやったとき、炎が勢いを増した。

 

 

 「ん?」

 

 何か変な向きの風が吹いたかと思ったが、炎はどんどん大きくなっていく。やがて炎が見上げなければいけないほどの高さの柱になると、それは風に吹かれてゆらゆらと揺れた。今にも倒れそうなのになぜか倒れない炎の柱。

 膝をついて猟兵と向かい合っていたニクスも不審に思ったのか、立ち上がって炎を見つめた。

 

 「なんだ……?」

 「――――あなた様が、こんなに寒いところにいらっしゃるとは思いませんでした。

 いつもの御召し物では、お腹が冷えてしまいますよ。

 

 

 マクバーン様。」

 

 

 彼女の呼び声を受けて、炎はまるで人のような形に収束していく。マグマのような、ぎらつく熱の塊から、赤い衣が見えた。

 

 「俺も、お前がこんなとこにいるとは思ってなかったぜ。

 お前、教会と何やってんだ?」

 

 炎の向こうから現れたのは、火焔を冠する最強の執行者だった。

 彼は右手に何かを持っているようで右手だけが炎の柱の中に引っ張られている。

 

 「……クソ、こいつマジで適性がねえな。

 オラ!!さっさと出てきやがれ!」

 

 そう言って彼が無理やり炎の柱から引っ張り出したのは一人の人間だった。

 

 「あぁべし!!」

 

 体のいたるところが軽く焼け焦げている彼は氷にぶつかってよくわからない声を上げる。それはこの隊を預かっているというギルバート・スタインだった。

 

 「あら、彼はいったい…」

 「この隊の長であるギルバートというものです。今は放っておきましょう。」

 

 マクバーンはニクスの方を見た。彼女のことを一目見て何があったのかを察したのか、呆れたように一つ息を吐いた。

 

 「ニクス、俺はお前に深入りするなと言ったはずだぜ。だってのにお前何やってんだ?中途半端にしか混じらなかったってのに随分力を使ったみてぇだな?」

 「深入りはしていませんよ。私はただの協力員ですもの。」

 

 間違いではない。ただ、そのままの真実でもない。彼女はマクバーンを刺激しないようにそう述べたらしかった。

 

 「………。」

 

 マクバーンは何かを考え、そして一つ指をならすと、俺とニクスの周りは炎で囲われた。まるで俺たちを閉じ込めるかのような炎の檻はどんどんと隙間がなくなっていく。

 

 「!?」

 「大丈夫です。この炎は隠すためのものですから。」

 

 何を、何から隠すというのか。そう聞きたかったが、目の前の炎の壁を見るとパニックに陥ってしまい、何も言葉が出なかった。軽く生命の危機だというのに、そう落ち着き払っていられる彼女の精神はどうなっているのだろう。

 さすがにこれは、知っていても驚くと思うのだが。

 

 

 ただじっと待っていると、炎の壁は徐々にその勢いを弱くしていく。

 視界が開けると、そこにはただマクバーンだけが立っていた。他にうずくまっていたはずのギルバートや猟兵たちはどこに行ったのかと思ったが、どうやら彼らはマクバーンの後ろで臥せっているようだった。

 

 「マクバーン様、彼らはただ知らなかっただけです。」

 「知らなかったからと言って罪がなくなるのか?こいつらは俺の命令を無視した挙句、墓を荒らそうとしていた。それは罰を受けるに足る罪だ。」

 「彼らに、今一度償いの機会を与えてはいただけませんか?」

 「聞く道理はないな。」

 

 ニクスは、彼女の要求を突き放して猟兵を連れて行こうとするマクバーンに食い下がった。まるで彼の炎を恐れてなどいないかのように、彼女は進言した。

 

 「どうかお願いです。あなたの炎は彼らには熱すぎる。誰かを燃やしたいのなら、どうか私にして下さい。彼らはもう十分にあなたから罰を受け止めました!」

 

 その言葉を聞いたマクバーンはゆっくりと手を掲げ、俺を指さした。

 つまり彼は、猟兵の身柄と俺を彼女の天秤にかけたのだった。

 

 「そこの第八位を焼き尽くしていいってんなら、俺はこの七人をお前に引き渡そう。

 一人と七人だ。悪い取引じゃないだろう?」

 「ニクス、耳を貸してはいけない!」

 

 彼女は、唇を震えさせたままマクバーンから目が離せないでいたようだった。

 寒さからでなく恐怖で顔を震わせた彼女は、歯をならしながらマクバーンに問いかける。

 

 

 「……あなたは、あなたは本当に、我が王であらせられるか……?」

 

 俺に彼女のその問いの真意を知ることはできない。

 ただ、ニクスは何かこの男に裏切られたような顔をしていた。

 

 

 

 

 「――――前も言ったぜ。王は死んだんだ。」

 

 マクバーンはただそれだけ言い残すと、選べなかった彼女の前から猟兵たちを連れ去り、自身もまた炎の向こうに消えていった。

 





あともう少しでアルテリア編も終わります


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19 人間問答

アイン総長はドSであってほしいという願望。



 

 

 赤い目が私を射抜いている。

 炎のように赤い、蛇のように鋭い目が私を貫いている。

 

 私はこの人に断罪されたいわけじゃない。けれど罪人である私は処刑人を選べない。ただ私はぞっとするほど冷たい視線に囚われていた。

 

 

 「あなたは愚かしいな」

 

 「あの男が、あの戦士が、罪のない英雄だとでも思っていたか?」

 

 「あなたは、あの男がどれだけの戦いで勝ってきたかを聞いていたんだろう?だったら彼の道はそれはそれは血で飾られていただろうさ」

 

 

 

 やめて

 

 

 やめてください

 

 

 

 「やめて!!」

 

 私は叫んでいた。私の脳裏にて君臨する王に、赤いペンキがかけられてしまったように思えて我を忘れたからだ。

 

 「あの方を貶されるくらいなら、あなたにひどくされた方がずっといい。その方がずっと楽です。…誰かを傷つけたいわけでもないくせに、そうやって誰かをからかうのですか?」

 

 

 「貶してなどいない。ただの事実だろう?」

 

 

 「違う!あの方は私の、私が心から尊敬する王です!」

 

 

 「違わないよ。あなたの王は人殺しだ。」

 

 

 「あの方は罪に向き合っています!自分のなしたことが何かを知っていらっしゃいます。あの方は決して愚かではありません!」

 

 

 「その通り。だからあなたが愚かだと言っているんだ。

 彼はいつだって罪を犯してでも国を導く覚悟を固めていたんだろう?しかし訳知り顔で国を共に導くあなたは、あまりに愚かで本当の彼を見ようとしない。

 

 きっと彼は人殺しの罪をあなたに慰めてほしかっただろうに、あなたは彼の行いを否定しているんだ。」

 

 「戦いで死者がいないと思ったか?繁栄の影に涙がないと思ったか?自分の故郷は一点の翳りもない完璧な社会だと思っていたのか?本気で?」

 

 ならばなぜ滅びたんだ?

 

 

 言外にそう問われている気がした。

 

 「………それでも、それでも私はあの故郷を愛しています。故郷の繁栄に暗いところがあろうとなかろうと。彼らがどれだけ罪深くあろうとも。私は故郷を愛し続けます。」

 

 彼女は正しい。清く正しい人間。

 彼女の舌から滑り出る言葉は、あまりにひどく私の夢をひっぱたいた。

 

 「幻想だ。もうあなたの故郷はない。」

 

 その通りだった。

 もう私の故郷はない。

 

 

 

 それはどうしようもない事実であったけれど、私は彼女との問答において何より誇り高くあらねばならなかった。

 彼女が見定めているのは私であり、私の故郷だったからだ。

 

 「私は、私は変わりたいのです。

 誰かを救いたいから、愚かであったとしても私は迷いを踏み越えなければならない。

 私はあなたに罪を問われるためにあなたのもとを訪れたのではありません。

 

 私はあなたに人とは何かを尋ねに来たのです。」

 

 教えてください。私は彼女に精いっぱいそう願った。しかし彼女は私の求めるものを与えてはくれなかった。

 

 

 「そう急くな。少しは楽しませてくれ。私もあなたが王と呼ぶ男に随分体を焼かれたものでね。彼への腹いせくらいは肩代わりしてくれるだろう?」

 「あ……」

 

 

 法剣の切っ先が、私の肌に触れる。

 血が流れているかどうかすらわからない。ただ冷たい鉄の剣と彼女の視線で、私の頭はぐちゃぐちゃになっていた。

 彼女は強い。そして怖い。かの王は、やはり優しかったのだ。だってあの炎はあたたかかった。私がねだってようやく陛下に出してもらった炎は、とてもとても安らぎに満ちていた。

 

 

 「あの男のことを考えているのか?いじらしいな。」

 「う、うぅ……」

 

 

 こんなに冷たい目線を私は知らない。氷河の中でさえも感じなかったような冷たさの恐怖が背中を振るわせようとしている。

 白い不毛の大地に住んでいた男たちとも違う。彼らは誰でもよかったのだ。けれど彼女は、私をこそ切りつけようとしていた。

 

 屈してはいけない。私は故郷を愛するもの。私以外の誰が、あの滅びた世界を愛してやれるというのだろう。

 うつむいていた顔をわずかに上げると、彼女が愉快そうに笑った。

 

 「ふふふ、あなたは本当にかわいらしい。

 いじめがいがあってよいことだ。」

 

 

 かつん、と彼女の靴の音がした。

 背が竦む。私はすっかり彼女の音を覚えさせられてしまったのだ。

 くる。彼女の言葉の鞭が、私の肌を打つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あの~~健全な青少年にそんな過激なシーン見せんでもらえます?」

 

 けれど縮こまった私の耳を打ったのは、彼女の声ではなかった。

 

 「あ、あれ……?」

 「なんだケビン。今いいところなんだ。邪魔をしないでくれ。」

 「いやガイウス君めっちゃ引いてますやん!いっつも俺に節度守れ言いはる癖してなに自分だけはっちゃけとるんですか。」

 

 「うん?君は彼女を言葉で嬲りたいのか?感心せんな。」

 「そーそー俺もニクスちゃんと仲ようなりたいわ~ってちゃうわ!!」

 「グラハム卿にそんなご趣味があったとは私も初耳です。ねぇガイウス君?」

 「い、いや…俺は…」

 

 「さすがに公開SMプレイはかわいそうやって言うとんねん!

 何見せとんねやこの総長は!あんたホンマに聖職者か!?せめてそういうのは部屋でやってください、部屋で!!」

 

 

 誰かが私の目隠しを外す。

 私は、どこかに跪いているようだった。

 

 「ここは……?」

 「私のメルカバだ。随分急ぎでウォーゼル卿が呼んでいたようだが捌号機はすぐに出れる状況ではなくてね。シアンとグラムも私のところにいたから、私が君を拾うついでに迎えに来たというわけだ。」

 

 ああ、そうだ。私は彼女のメルカバに連れられ、すぐに戒めを施されたのだ。私が跪いているのは、メルカバのブリッジ。司令官が座る中央の椅子のすぐ横に、私は侍らされていた。

 私の首を熱い指が這い、輪郭にかかって顔が持ち上げられる。力にただ体をゆだねると、蛇のような赤い目と視線がかち合った。

 

 「おはよう。異界からの来訪者。」

 「お、おはようございます。」

 

 「ほう…もう怖がらないのか。もう少しいじめてやるべきだったかな?」

 彼女はそう言って私の頭をぐりぐりと撫でまわした。されるがままにしていると私は引き寄せられ、彼女の脚にもたれかかってしまった。

 

 「あ、ごめんなさい……」

 「そうしているといい。少しからかい過ぎてしまった詫びもある。」

 

 そう言って肩をなでる手はあたたかい。実はこの人も優しかったみたいだ。先ほどまで寒いところにいて、能力を行使したこともあって体温が下がっていたのでそのあたたかさが心地よい。

 

 「ふむ、これはこれで眼福かもしれません……」

 「―――報告をしてもよろしいでしょうか?」

 

 ウォーゼル卿が咳払いをすると、姿の見えないライサンダー卿とグラハム卿がモニターの向こうで姿勢を正したようだった。彼のちょっと怖い声は初めて聴く。任務の顛末にあまり納得がいっていないのだろうか?

 猟兵たちを逃がしてしまったのは私が交渉に失敗してしまったからだ。今回ばかりは責任を追及されてしまうかもしれない。

 

 ウォーゼル卿が一連の出来事を報告していく中、私はただそれを聞きながら手持ち無沙汰に私の角に触れる彼女の指を受け入れていた。

 耳には神経が通っているが角には感覚がない。ただ爪とぶつかってコツコツと硬質な音を立てるくらいだ。

 

 報告のすべてを聞き届けた彼女は、今回の私たちの任務をこう評価した。

 

 「新人の守護騎士とポンコツ兵装のタッグにしてはうまくやったと言える。どちらも潜入には成功し、偽装も上々だった。異能の制御も素晴らしいものだったと言っていいだろう。

 しかしガイウスはもう少し劫炎に食らいつく気概を見せるべきだったな。そしてあなたも、もう少し猟兵に対して手ひどく拘束すべきだった。」

 

 処断こそなかったものの、百点満点とも言えない、ぎりぎり及第点のようだった。そもそも私たちの任務は調査であって構成員の捕縛ではない。なぜ≪身喰らう蛇≫が潜入していたかを明らかにしていない以上、その評価は高すぎるくらいだった。

 

 「ガイウスには減給処分―――と言いたいところだが君も何か考えがあるようだしな。始末に駆り出された私のストレスはポンコツ兵装で発散することにしよう。」

 

 ぐーりぐーりと撫でられる手に従って私の顔は彼女の脚に押し付けられる。

 ウォーゼル卿は苦い顔をしているようだった。なぜだろう。

 

 

 「ほらニクス。ウォーゼル卿が悲しんでいるぞ。慰めてやれ。」

 「ウォーゼル卿……?きっと次は大丈夫ですよ。私ももっと頑張るので一緒に頑張りましょう!」

 

 そうやって精いっぱいの笑顔で笑いかけると、なぜかウォーゼル卿ではなく彼女が大笑いしていた。何が面白いのだろう?

 

 「アハハハハハ!!いやーこれは面白い。ガイウス、二週間と言わず一か月くらい貸してくれないか!」

 「彼女がかわいそうなのでダメです。」

 「けち臭いな。君も男ならもっと気前良くなった方がいい。」

 

 そう言って彼女は私の頭から手を放すとおもむろに立ち上がった。

 

 「どちらへ?」

 「煙草だ。」

 

 メルカバの中で吸うとルフィナに叱られるんだ、とそう言って外に出ていく彼女の背中は少しマクバーン様と似ていた。

 

 「はぁ……大丈夫ですか?」

 「ええ、ありがとうございます。」

 

 ウォーゼル卿が私の拘束をほどき、立ち上がるのを手伝ってくれる。強い力で引っ張られて、私の体はいともたやすく正しい形に戻った気がした。

 

 「総長、随分ご機嫌でしたね。」

 「そうなのですか?」

 「この間不機嫌な劫炎とやり合って髪を少し焼いたと拗ねていましたよ。ニクスで遊んで機嫌が直ったようです。」

 「それだったら良いのですけれど、私はもう少し頑張るべきかもしれません。」

 「何をです……疲れたでしょう。下の休憩室でチャイを淹れますよ。少し話でもしませんか?」

 

 そう言って下のラウンジに誘ってくれる彼はどこか彼女に呆れているようだったけれども穏やかだった。

 迷いも悩みも、今は忘れているだけなのかもしれないけれど、彼の心は随分と凪いでいるように見える。

 

 「ありがとう。でも私彼女からまだ先ほどの答えを聞いていませんから、聞いてきます。その後伺いますね。」

 

 少し申し訳ないけれど、あとから向かわせてもらおうと思いメルカバ後方の甲板に出る。腰くらいの高さの柵にほど近いところで彼女は私に背を向けて煙草を吸っていた。

 

 

 

 

 誇り高い戦士の背中。

 命を背負って立つ王者の背中だ。彼女は女性であるが、しかし勇猛な男の戦士に引けを取らないほどの覇気があった。

 高いヒールを履き、タイトなスカートで戦場を闊歩する様はきっと美しいのだろう。

 

 彼女の血のように赤い目がぎらついて剣をふるう姿が容易に想像ができた。

 私は戦場に立ったことがないが、戦争で剣を振る王の姿を描いた絵を見たことがある。あの絵のあのお方の立っているところに、彼女はそっくりそのまま当てはまった。

 

 叫ぶ口の形も、浴びる返り血も全く一緒。そしてそれが不自然ではないということは、彼と彼女が同じくらい強い戦士だということを示している。

 

 彼女は私に向き直ると意外そうに声を上げた。

 

 「なんだ、ガイウスの誘いはいいのか?」

 「ウォーゼル卿はもう大丈夫でしょう。それより私は先ほどの問いの答えをあなたから聞いていません。どうか教えていただけませんか。」

 

 

 彼女は口にくわえていた煙草を手に持って、柵に寄り掛かった。

 そして私に向かって手招きをしたので、私は彼女の隣に立ち、柵をつかんだ。

 

 

 空が青い。メルカバも、メルカバの軌跡もなんだかグラグラと揺らぐ虚像のようだった。

 光学迷彩というらしい。

 

 結局一日早く引き上げることになって、私たちは≪結社≫の飛行艇を鹵獲するだけに終わった。その飛行艇が機能不全ながらもグラムさんの操舵でふらふらとついてきている。

 こんなに早くオレドから引き上げることになるとは思わなかった。

 それに私は、きっとこの任務が終わったらもっとボロボロになっていると思っていた。

 

 隣で煙草をくわえたり手に持ったりを繰り返す彼女は、煙草が随分短くなったあたりで唐突に話し始めた。

 

 「私は、人間は業を背負うべくして生まれたものなのだと思う。」

 「業…ですか」

 「そうだ。人間である以上、私たちは避けようもない罪を犯し、そしてそれを背負って生きていかなければならない。生まれ落ちたときに私たちは罪人になることが決まっているも同然だ。」

 「……」

 

 「私は、そんな人間に生まれて、特に重い罪を背負っていると自覚している。外法を滅し、血で血を洗うような抗争を女神のために繰り返している。死後は間違いなく煉獄へと招かれるだろう。

 しかしそれは私が生きない理由にはならないのでね。」

 

 彼女は一通り話して満足したように姿勢を正した。

 こうして並ぶと彼女は随分背が高いのだと思う。私の頭は彼女の顎くらいまでしか届いていない。

 

 

 私は彼女の熱い手に右手をつかまれた。

 彼女の手は私の右手をしっかりとつかんで、そして指にキスをしてくれた。

 

 その唇はいつかみたいに紅で濡れていて、私の爪に少しだけその口紅が移って赤く色づいた。

 青白い私の指には似合わない色だ。

 

 赤の似合う人は、強い人。

 

 

 

 私は彼女の名前を知らなかったけれど、この時彼女が名乗ってくれたおかげでようやくそれを知ることができた。

 

 「私はアイン・セルナート。あなたを罪深き人間に堕落させるために誘惑する蛇であり、異教を広める女神の遣いだ。

 私はどうしようもなく嫌いでね。」

 「何がですか?」

 「勿論、クソみたいなお偉方に決まっているだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 あとあなたは、もう少し人を疑うことを知るといい。」

 

 

 

 

 彼女がそう言ったとたん、私の体は宙に浮いていた。

 

 投げ出されたのだ。

 これまでに出会った誰よりも力が強くて、容赦のない彼女に。 

 

 

 「え」

 

 

 彼女が、セルナート様がさかさまに見える。

 違う。私がさかさまなんだ。

 

 

 「女神の加護を!今度は静かに暮らせよ」

 

 

 そう言って煙草を持った手を振る彼女は、蛇のような赤い目を細めてニヤニヤと笑っていた。

 




アルテリア編最終話でした。

最終話だけちょっと短いけどいいや。
次回から新章です。話の内容全く考えてないのでちょっと考えておきます。


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第3章 東方人街編
20 迷宮都市 九龍


新章、東方人街編スタートします。
作者の大好きなあのキャラも出ます(決してメインキャラをねじ込みにくいと思ったわけじゃないです)


 抗いようもない力に流されている。

 

 『女神の加護を!』

 

 そう言って私を大空に投げたあの蛇のような女性は私が落ちるであろう場所に川があったことを知っていたのだろうか。いや、きっと知っていたんだ。わかっていたから私をあんなタイミングで放り投げたんだ。

 水の異能を持つ私ならば死にはしないだろうと思ったから。

 とても厳しくて、変なところでやさしい彼女のことだから私が死なないで済むように、けれどこれ以上教会に関わらなくて済むようにしてくれたんだろう。そのために何ができるか考えて、一番いい案がこれだったのだろう。

 

 そうでも思わなければ、私は自分の体を押し流すあまりの激流にそのまま飲み込まれてしまいそうだった。正気を保って自分の周りの水を操らなければいけないというのに、どうやって正気を保てばいいかわからない。

 口から、鼻から、水が入ってきてからっぽの胃と肺を満たそうとしてくる。苦しくて苦しくて、人間の体はなんて不便なんだと思う。

 

 今の自分の周囲にぶつかってきそうな石や漂流物はないかと確かめるために目を開けると、そこには泡だけが見える。私の口から出ていく空気たちがいくつもの泡になって水面の裏側を覆い隠しているのだ。

 本当は太陽の光が清い川の水底にまで届くはずなのに、もう何もみえない。明るさも感じない。川の水が冷たいのか、あたたかいのかもわからなくなって、私が水と一つになっていくような気がした。

 

 

 なつかしいなぁ

 

 

 昔は、故郷では、私はいつもこうやって水の中に体を沈めていた。下に落ちていくことも上に浮かんでいくこともなく、波に合わせて水草のように揺れていた。そうして考え事ばかりしていた。

 ずっとずっと前に、あの遠い故郷にいたころに、私は戻ろうとしているのかもしれない。このまま海に出て人間の体が限界を迎えるまで、私はきっと故郷を思いながらーーー

 

 

 

 

 「――――!」

 

 

 

 その時、水をかきまぜる何かがあった。とても澄んでいるのに気泡と水草と私のベールで混沌とした川をかき分けて、槍のような何かが私の方に伸びてきたのだ。

 まるで海を守る精霊が持つと言い伝えられているような、三つ又の槍だった。

 

 私は、このままでは流されてしまうだろう。自分の眷属ともいえるような、自分の一部と言っても過言ではない水に、流されて殺されてしまうだろう。それでいいかもしれないとも思った。海の底に眠る二枚貝の横でひっそりと死体を朽ちさせるのもよくできた結末だろうと思った。

 

 けれど、私はこの槍をつかんだ。

 どうしてだろう。私には痛いとか怖いとか、思わないようにできているはずなのに。どうして私は、苦しさから解き放たれたいと思っているんだろう。

 

 そんなことを疑問に思って、けれど答えが出る前に私は誰かによって陸に引っ張り上げられた。

 

 

 ざばっ

 

 「―――っは、げほ、ごぼっ、ふぅ、ふぅ……は、あ…」

 「おやぁ?そのベール……もしやニクスさんでは?」

 

 その声には聞き覚えがあった。

 サバイバル技術に長けていて、同年代の子たちより天真爛漫…というか好奇心が旺盛な一面が目立つのにその反面ちょっと大人びた死生観を持っている人。

 

 「は、はぁっ、げほ…フレディ、様……お久しぶりです。」

 「やはりニクスさんではないですか!どうしてこんなところに?何故川流れを?

 もしや素潜り漁でもなさっていたのですか?」

 

 フレディ様はトールズ士官学院第Ⅱ分校の戦術科に所属する学生さんで、リーヴスにいたころにも何度かお世話になったことがある。彼の知識はサバイバルという一つの点に特化していて、他の誰も及ばないような知識量を誇る。食べられる野草や、希少で高値で売れる食材などを教えて下さった。

 

 「リィン教官からは大陸東部に向かったとうかがったのですが、何かハプニングでも?」

 「あ、あはは……あの、ちょっと事情があって……」

 「ふぅむ、成程。そういうことでしたらリィン教官たちには内密にしておきましょう。」

 「た、助かります。」

 

 騎士団絡みのあれこれが露呈してほしくはないと思う。事情が事情とはいえども、自分がいきなりアルテリアに連行されてしまったことも事実だ。それに……今はウォーゼル卿の周りを騒がしくするべきではないように思う。彼の悩みも少しは落ち着いたとはいえ、まだもう少しゆっくりしたほうがいいだろう。

 

 フレディ様は川から上がってずぶ濡れの私を見かねたのか、焚火の傍まで案内してくださった。異能を行使すれば乾かすくらい訳はないのだが、この人の前では異能を使ったことがない。ベールを脱がず、寒冷地のオレドで着ていた上着だけを脱いで乾かそうとする私のことを彼は不自然に思っただろうけども、しかし何も言わないでいてくれた。

 始まりの地に暫くいたせいで今がいつで、ここがどこかもわからないけれどもおそらくは春なのだろう。なんだか川の水が不自然に多い気がする。

 

 「それにしても、フレディ様こそどうしてこんなところに?ここは…共和国、ですよね?」

 「ええ。帝国寄りではありますが。

 第Ⅱが春期休暇に入ったので共和国の食材を見に来たのです。卒業後に大陸中を回る予定でしたがこの忙しさに参ってしまいまして、バカンスというやつですよ。まずは手始めに釣りでもと思っていたのですが……まさか人間が釣れてしまうとは!」

 

 フハハ、と高笑いする彼は楽しそうだ。私は彼が期待していたような希少な食材ではないというのに、おおらかな人だと思う。

 よく見ると少しだけ背が伸びたのかもしれない。冬よりもちょっと精悍になった男の子は大きな粒の真っ白い歯をにかっと見せた。彼のまっさらな笑顔を見ているとなんだか心が落ち着くような、やるべきことをやる元気がもらえたような、そんな気がした。

 

 「本当にありがとうございました。あのままだったら私は溺死していたかもしれません。」

 「とんでもない!素潜り漁はほどほどに、そして何より動きやすい格好でやることをお勧めしましょう。」

 「ご忠言痛み入ります。このお礼は追ってリーヴスの学生寮の方に送らせていただきますね。それでは私は東の方に参りますから、これで失礼します。フレディ様とお会いできてうれしかったです。」

 

 ここは街道だ。近くに街がある気配もないし、今のうちに出発しないと明るいうちに街に到着できないかもしれない。しかし生乾きの上着を羽織ろうとする手を、フレディ様は押しとどめたのだった。

 

 「いや、それはやめておいた方がいいでしょう。」

 「え?」

 「ここから東に行くとそう遠くない場所にクーロンという町があるのですが、あなたは行かない方がいい。」

 「なぜですか?」

 

 フレディ様は口を真一文字に引き結んで、見たことがないくらい真剣な様子でゆっくりと私を諭した。私がわがままで頑固であることを彼はよく知っているようだった。

 

 「危険すぎる。あの町ではとある犯罪シンジケートが幅を利かせていて犯罪が横行しています。少し足を踏み入れましたが、あれはスラムというよりも魔境に近かった。

 ……西に行けばアルタイル市に出られるバスも見つかるでしょうから、そちらに行くといいでしょう。」

 「西、ですか…」

 「ええ。ここの坂を川沿いに上って、左です。いいですか、左です。

 右に行かれると自分がリィン教官たちに叱られるのでやめてくださいね。」

 「わかりました。教えていただいてありがとうございます。リィン様やユウナ、アルティナにもよろしくお伝えください。」

 「ええ、心得ました。」

 

 フレディ様はあともう少しのあいだキャンプを続けていかれるようで、出発しようとする私に食品をいくつか分けて下さった。

 前回いただいた濃縮エキスの味はそのままに匂いと色を改善したとのことだが、聞く限り食べてみないと味がわからないスリル満点の食品ということでいいのだろうか。

 ちなみに前回いただいた攻性食品は騎士団に没収された。もしも強い魔獣に出くわしたらどうしようかと思っていたからありがたい。フレディ様は攻撃料理のスペシャリストだ。

 

 

 「よきご縁を!」

 「ニクスさんも!」

 

 彼と別れの挨拶をして坂を上がっていく。坂を上がっていくとフレディ様のいう通りやがて左右二つに分かれた分かれ道を見つけた。

 

 クーロンという無法地帯。ここを東に行った場所にあるという町。

 

 

 

 私は、右に歩きだした。

 

 

 

***

 

 

 猥雑な街で、僕は育った。

 収集日の真昼間みたいなぐちゃぐちゃに混ざったゴミの匂いと、心も体も汚くなりきった大人たちが体をぶつけあうような場所に僕はいた。

 

 昼も夜も薄暗くて、明かりがついていて、誰かの声がどこからでも聞こえてくるような街。どこにも一人になれる場所なんてないのに、この街にいるとずっと一人ぼっちで生きているような気がする。

 乱立する違法な建築物と、何を取り扱っているかもわからないようなやばい店。男にすり寄る女と、女に傅く男と、搾取される子供たち。

 自分が誰かに殴られて、奪われて、それで僕は生きるために誰かから盗み、奪っている。

 

 こんな場所にしか、僕はいきつけなかったんだ。

 

 昔は故郷だってあった。思い出せないほど前には、どっかのあったかい家でニコニコしてる痩せた母親と一緒に過ごしてた。

 けどそんなのは昔の話で、僕は今はこのぐちゃぐちゃな街にいる。

 

 この世にはきれいな場所があるらしい。

 優しい人が笑いかけてくれるような場所があるらしい。

 暖炉があって、おいしい食べ物があって、布団があって、それで誰かから何かを奪わないでも生きていられる場所があるらしい。

 

 でも僕はそんな場所で生きるためのチケットをもらえなかった。空にいるという女神さまから何ももらえず、そしていろいろと奪われてしまったから、僕はこんな場所でしか生きていけない。

 

 仕事もなくて、お金もなくて、食べ物もなくて、誰かから奪わないといけなかった。お腹が減ると、雨に濡れて蹲って眠るよりももっともっと惨めな気持ちになるから、何かを食べて満たされたかった。

 

 食べても食べても足りない。

 もっともっと満たされたい。

 たくさんかっぱらって、たくさん食べて、気持ち悪くなるくらいに食べてみる。

 食べ物じゃないものも口の中に入れて飲み込んでみる。足りない足りないと叫ぶ欲に任せて、お腹に何かをいれればそれが収まるような気がしたから。

 

 けれど苦しいだけで、何にも満たされやしない。

 そう分かっているのに、ずっと前に分かっているのに、僕はお腹が空いてしまう。

 足りないのに、食べているのに、満たされない。

 

 吐きそうになってフラフラになって、それで誰かに殴られてまた奪われる。

 

 いやな場所だった。

 どこかに行きたいと心から思っていたのに、どこにも行けなかった。

 結局僕は、この汚いゴミみたいな街で生きることに慣れてしまって、ドブみたいな沼にずぶずぶハマりこんでしまって、もう抜け出そうなんて気持ちもなかった。

 

 いつか大人になって、もっといろんな人からいろんなものを奪って、そして女を侍らせて生きていくんだと思ってた。

 昼でも明かりのついている変な店で薄っぺらく寄り添う男女をうすら寒い目で見ていた僕も、きっとそうなるんだと思っていた。

 

 

 そう。

 

 「あら、目を覚ましました?おはようございます。

 …今お茶を淹れますから、よろしければ飲んでいかれてくださいな。」

 

 こんな風な馬鹿で平和ボケした奴からは、搾り取れるだけ搾り取ってやればいい。

 空の女神は僕からいろんなものを奪っていった。親も、故郷も、金も、友達も。みんな僕の傍からなくなっていった。

 だから僕は、空の女神が大好きな善人ってやつを、ぐちゃぐちゃに傷つけてやるんだ。

 

 僕はいつも通りに、その女を殴った。

 九龍に来るくらいだから腕っぷしに自信があるのかと思ったけどそんなこともなくて、そいつは見た目通りなよっちくて、一発顔を殴るとそのまま目を回して気絶してしまった。

 

 「弱っ」

 

 僕だって九龍では弱い方だ。頭を回してうまく立ち回らないと何も奪えないようなちっぽけな奴だ。けれど幸いなことにこの女は僕よりももっと弱くて、一つしかないベッドに僕を寝かせて、自分は今にも壊れそうな椅子にちょんとすまして座っていた。

 

 ……僕が殴ったから今は床にべっちゃりとはいつくばっているけど。

 

 僕は気付いたらこの部屋にいた。

 おそらくはどっかの安宿だろう。ちゃっちい机と壊れそうな椅子と妙にシーツだけきれいなベッド。よくある3点セットだ。誰も机と椅子なんて使わないからぼろくていいんだ。

 どうせ僕はまた誰かにリンチされて気を失っていたんだろう。それで観光客のこの女は気を失ってる僕に驚いて宿に連れ込んだんだろう。ご苦労なことだ。

 

 僕はこの女の旅行鞄を開けて何か金目の物――宝石のアクセサリーとか、香水とか、薬とか――がないか探した。

 けれど旅行鞄の中に入っていたのはそんな売れそうなものじゃなくて、紙の束と、土産物のちゃちな筆記具と、クッキーの包みと数枚のタオル、そして数セットの下着だけだった。

 僕が期待したようなものは何も入っておらず、下着やタオルも決して質のいいものではない。こいつが被っているベールだって、女にとっては愛着のあるものかもしれないけど質屋で売れるようなものには思えなかった。

 そもそもこんな時代遅れのベール、この街では誰も身に付けない。こんなものをかぶったところで隠しようがないほどにこの街そのものが下品だから。この街の人間にはどうしようもないほどに醜悪なにおいが染みついてしまっているのだ。

 

 

 「う……」

 

 (収穫なし、か……)

 

 さすがに一撃で気絶させただけでは大してダメージを与えられなかったのか女がうめき声を上げた。起き上がるのも時間の問題だろう。

 僕はクッキーを今日の晩飯にしようと思って旅行鞄から抜き取った。

 

 その時、旅行鞄の一番奥にあるタオルからちょっと硬い感触がしたのだ。

 

 (なんだ……いいもんあるじゃん)

 

 タオルに挟まれていたのは預金通帳だ。口座は帝国の銀行のものだが、どうにかして引き出せばしばらくは遊べる金が手に入る。九龍以外で暮らすことだって夢じゃない。

 

 

 その通帳を開いて、預金額を見た瞬間、僕の頭にはもう思い出せないほど昔にいたらしい故郷が思い描かれた。

 思い出せないから、こんなのは想像だ。華奢な母親がいたことは覚えてる。きっと母親と僕で温かい家に住んでいたんだ。隣の家の子供のいない夫婦にも僕は可愛がられて、日曜学校にも行っていないのに頭が良い子だときっと褒められていただろう。そして母親はそんな僕を誇りに思ってくれただろう。

 

 あの遠い故郷に戻ることだってきっと不可能じゃない。

 

 そう思ってしまうくらいの大金が、女の通帳には記されていた。

 

 

 

 早く九龍を出よう。誰かにバレてしまう前に。

 ハイエナみたいに鼻が利いて、金と女が大好きな男たちにもう二度と何も奪われないように。

 僕は通帳を靴の中にねじ込んで、右足だけきつくなった靴をどうにか履き、安宿から飛び出した。

 ずっと向こうにそびえたつ趣味の悪い電飾に飾られた馬鹿っぽいこの街の門が、今だけは僕のための天上門に見えた。

 

 

 ここは九龍。法のない街。

 流れものばっかりで、薄暗い犯罪者たちが支配するゴミの街。

 大人たちは筋なんて言葉を好んで使うけれど、そんなものは最初からこの街に存在しない。嘘と見栄しかないような通りを行き来するのはそうするしかない馬鹿な大人たちだ。

 情も仁義もない場所を僕はようやく抜け出せる。

 

 僕はようやく、蜘蛛の糸をつかみ取ったんだ。

 

 

 

***

 

 

 

 「う……」

 

 頭がガンガンする。

 顎が痛くて、ぼーっとした。とにかくまずは起き上がろうと思うのに、自分の体がどうなっているかちょっとの間わからなかった。

 

 

 「一体何が……?」

 

 

 私はクーロンという東方人街にたどり着いて、どうにか宿にチェックインをしたはずだった。フレディ様があんなに真剣な顔で危険だとおっしゃるから、なるべく人のいないところを歩いて、それらしい宿を探した。

 リィン様に曰く、あやしいひとにはちかづかない。ということは人に会わなければよいのだから、人通りの少ないところを通るべきなのだ。そして実際その通りだったようで、私は誰にも出くわすことなく宿までたどり着くことができた。やはりリィン様の金言は心に刻んでおいてよかった。

 

 どうにかこうにか手探りでちょっと朽ちかけた机の脚をつかみ、起き上がる。

 ここは宿の部屋だ。そう。私は宿にチェックインして、それで宿の部屋に入って荷物をおろした、のだと思う。

 

 「……あら?」

 

 ベッドのシーツが、少し乱れているような気がした。入室したときには本当にきれいに敷かれていて驚いたくらいなのを覚えているのに、どうしてだろう?

 

 (……ああ、そういえば)

 

 私はチェックインする直前に、宿の前で寝ている人を見つけたのだ。そして荷物を降ろしてから宿の主人に知人だからと言って部屋に連れて行ったのだと思う。

 やけに痩せた子供で、私でもおんぶして運べるくらいだった。確かその子をベッドに寝かしたところまでは覚えているのだが、あの子はいったいどうしたのだろう。

 

 (お家に帰ったのかもしれません)

 

 ともかく、目を覚まして自分の足で帰れるようなら怪我も特にないということだろう。何よりだ。

 窓を開けてベランダに出てみる。家々を繋ぐ紐に干されている洗濯物。迷路のような路地と明らかに無計画に継ぎ足して作られたであろうつぎはぎだらけの摩天楼。うずくまる人と、暴力をふるう人と、怒声とうめき声。だんだん夜になろうとしているけれども、まだたくさんの人が外にいた。

 

 (……あの人々の眼は……)

 

 懐かしい目だ。

 何かを諦めているようでいて寂しそうな暗い目。誰かにすがりたくて、許されたくてけれど怖くて自分から手を伸ばせないような、そんな人たちの目だ。

 私はそんな人をたくさん見てきた。涙を流しながら怒りに任せて叫ぶ人をできるだけ助けようとしてきた。

 

 結局彼らのことをどうやって助ければいいか、今でもわからない。

 だから私にできるのは彼らに手を差し伸べることでしかないのだ。それをして救われる人が一人でもいるのだから。

 

 

 この街に来てよかった。

 

 

 私は、誰にも見えない場所で悲しんでいる人たちを見つけることができた。

 あとは彼らの悩みと悲しみを解決するべく頑張らないと。

 

 すべてはここからだ。

 

 

 そう意気込む私を誰かが下から見上げていた。黒髪の、民族衣装を着た女の子だ。幼くて、痩せていて、裸足で路地を歩いている。

 私が彼女に手を振ると、彼女はそっぽを向いて迷路のような路地を歩きだす。しかし路地には小石も錆びた釘などもあってあの女の子の足の裏にはたくさんの傷がついていた。私はあの子にせめて靴を買うお金を渡すべきだと思い、外に出ようとした。

 

 

 そうして扉を開けた私は、スーツを着た複数人の男性に出くわした。

 彼らは私が借りた部屋の真ん前に立っていて、どうやら私が外に出てくるのを待っていたようだった。

 

 

 「黒月貿易公司の者です。」

 

 彼らは、平淡な口調でそう言った。

 




この街に来てよかった(無一文)

実際彼女は無理に食事をとらなくていいし、お金を必要としないんですがそれはそれとして早く気付いた方がいいと思います。


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21 胡蝶之夢

 「黒月貿易公司の者です。」

 

 そう平淡に言った男性たちは、とても商人とは思えないほど逞しい人たちだった。商人さんは三人いたけれどその三人とも首も足も腕も太くて、私の顔くらいある分厚い掌に太い指がくっついていた。

 

 「ええと……はい、ヘイユエ、さん…あの、何か御用でしょうか?」

 

 私はこの時、彼らがなぜ私の借りた部屋を訪ねてきたのかがわからなかった。けれども宿の主人がたいそうおびえた様子で下の階から見上げてきているのが目に入って、何かただ事ではないことが起きているということを察していた。

 宿の主人は奥さんらしき人と一緒に身を寄せ合って今にも体が震えてしまいそうなのを必死にこらえていた。そしてその横には、今私の目の前に立っている商人さんたちと同じ服を着たたくましい男性たちが何人もいた。

 

 「自分たちは会費の徴収に来たものです。」

 「会費…?あの、会費って何ですか?申し訳ないのですけれど、私はこの街に来たばかりで事情に詳しくないのです。良ければご説明いただけませんか?」

 

 「ええ。もちろんです。九龍の店は全て黒月が運営する商工会に加盟しています。この宿も、あの屋台も、店を出すためには黒月の許可が必要です。

 そしてその許可を得るためには、商工会の一員として会費を黒月に納める必要があります。この宿のご主人はまだ会費を払っていらっしゃらないのでその徴収に来たのですが……

 彼らはあなたがそのお金を預かっていると言っていましてね。」

 

 心当たりがない。

 私はつい先ほどこの街についたばかりで、そんなしきたりは知らなかった。

 男性たちが立っている手すりの向こう、吹き抜け構造の一階に立ち尽くしている宿屋の夫婦は、私と目が合うと二人とも目をそらしてしまった。

 

 一体、どういうことなのだろう。

 

 「ごめんなさい。私はお金を預かっていません。心当たりがないのです。でも、ご主人がお部屋の中に置いたのかもしれません。一緒に探していただいてもいいですか?一人だと見落としがあるかもしれませんから。」

 

 何だか、うすら寒かった。

 目の前の商人たちが何を考えているのかも、どうして宿のご主人が私と目を合わせようとしないのかもわからなくて、ただちょっと怖かった。

 宿のご主人は奥さんとすごく怯えているのに、それをまるで何とも思っていないような商人さんたちも、さっきまで生活音が聞こえていたのにすっかり静まり返ってしまった隣の部屋も、言いようのない恐怖を私に与えた。

 

 何が怖いのか自分でも説明できないけれど、なんだか状況そのものが悪いような気がする。この人たちは、私が救おうと思ってきた人たちとは少し違うようだった。別に絶望もしていないみたいだったし、何なら無表情なのに少し楽しそうにすら見える。

 疲れているわけでもなく、許しを求めているわけでもなく、私のことを何とも思っていないのに、商人さんたちの内の一人が私の肩をつかんだ。

 

 「ええ。ではそうしましょう。

 ……さぁ、お部屋の中に。」

 

 私が借りた部屋は狭い。そう何人も入ったら逆に探しづらくなるだろうと思ったけれど、彼らは三人とも部屋に入ってこようとした。

 私の肩をつかんだ一人が私を部屋に入れるように押し込んだとき、三人の隙間からわずかに宿のご主人の顔が見えた。

 

 

 彼は、ほっと一息ついて安心しきった顔をしていた。

 

 (……?)

 

 彼にとって怖いことがなくなったのなら、きっとそれはよいのだろうけれど。とりあえず宿の会費とやらを探さないと。

 そう思って私は商人さんが促すままに部屋に入り、めぼしい場所を探そうとした。

 

 商人さんたちも部屋の中に入って最後の一人が扉を閉めようとしたとき、その扉に手をかけて無理やり開け放った人がいた。扉を閉めようとした商人さんは呆気に取られていたけれど、その人は商人さんに目もくれずに私の目を見て話しかけてきた。

 

 「ちょっといいかしら?」

 「え?」

 「あなた、こんなところで何やってるの?集合場所は伝えたでしょう。」

 

 そう言ってハイヒールをかつかつと鳴らし、こちらに歩み寄ってくる白いスーツ姿の女性を私は知らない。長いストレートの黒髪を揺らして、屈強な商人たちを押しのけてくる。

 

 「あの、えっと……」

 「謝罪はあとで聞くわ。ほら、荷物を持って。何をもたもたしているの?」

 

 有無を言わせない女性だ。対して語気は強くないのに逆らう気が起きないというか、反抗する気が起きないのだ。

 セルナート様とちょっと感じは違うけれどもこの人も女傑と言えるだろう。女性は一向に戸惑ってしまって動かない私を見かねたのか、左手で私の鞄を持ち、右手で私の手を取るとぽかんとする商人さんたちを置いて部屋を出ていこうとする。

 

 「あ、えっと、す、すみません!鞄は自分で持ちます!」

 「何を当然のこと言ってるのかしら?ほら、早く行くわよ。」

 

 「お、おい待て!」

 「何か?この子はウチの新入りなのだけど、この意味が分からないあなたたちではないはずよ。」

 

 私たちを引き留めようとした商人さんは、しかし黒髪の女性が一睨みすると言葉を失ったかのように黙ってしまう。その逞しい体がわなわなと震えているのを見て、なんだか気の毒にも思えたけれど、部屋の扉を開けて後ろを振り返るように様子をうかがっていた私は黒髪の女性によってその部屋から追い出されたのだった。

 

 

 黒髪の女性はとても歩くのが早くて宿の古い階段のあたりで私を追い越し、けれど私がついてきているかを時々振り返って確かめながら宿から出ていこうとする。

 彼女が宿のご主人とすれ違う時、何か言ったみたいだけれども重たい鞄を持ちながら精いっぱい彼女に追い付こうとしていた私には黒髪の女性が何を言ったのか、わからなかった。

 

 「……持つわ。あなたが私を信用してくれるなら、だけど。」

 「ど、どういうことですか?」

 「あなた分かってる?黒月貿易公司は共和国で有名な犯罪シンジケートで、この街を牛耳ってる。彼らに目を付けられたらボロ雑巾になって人生が終わること間違いなしでしょうね。」

 「そ、そうだったんですか!?」

 「彼らは会費と言ってるけど、あれは上納金の事。あらゆる場所からお金を搾り取ってるの。この街のルールだから、それに関して私は何かを言うつもりもないけど、そのごたごたにあなたみたいな子が巻き込まれたとあってはさすがに見過ごせないのよ。」

 「お手間をおかけしてしまってすみません…」

 

 本当にね、という彼女は私の手から旅行鞄を奪い去っていく。白くて柔らかい手袋に覆われた薄い手が私の冷たい手に触れた。女性にしては少し強い力で彼女は私の鞄を持ち、そのまますたすたと歩いて行こうとする。

 

 「あ……」

 「―――着いてきて。あなたが私を信じてくれるなら、さっきの宿よりは安全な場所に案内するから。」

 

 私は、とりあえず彼女についていくことにした。

 

 

 

 

 

 クーロンの街をしばらく歩き、彼女は一つの平屋に私を案内してくれた。老夫婦が営んでいる質屋の裏手にひっそりとドアがあり、彼女がそこの鍵を開けると中には東方風の内装の書斎が広がっている。

 濃いブラウンの書棚にはたくさんの本が詰まっていて、ここの部屋の持ち主の裕福さがうかがえるようだった。

 

 「ここは私のセーフハウスの一つ。しばらくあなたに貸してあげるから、クーロンに滞在するならここの部屋にしておきなさい。このエリアは比較的治安がいいし、表の老夫婦も話の分かる人だから。旅立つときには老夫婦に鍵を預けて。」

 「ありがとうございます。あの、お名前を伺ってもいいですか?私はニクスと申します。」

 「キリカよ。」

 「キリカ様……本当にありがとうございました。あの、お部屋まで紹介していただいて、いったいどうお礼をすればいいか……」

 「あなたって随分学習しない人なのね。」

 

 「え?」

 「私が黒月とは別の組織の人間だったらどうするつもりなの?これでも九龍には仕事で来てるの。私があなたを監禁して蜜を吸おうとしているとは思わないのかしら。」

 「えっと……それは……」

 

 黒い髪を少し邪魔そうに後ろに払いながら、彼女は書斎の壁にくっつくように置かれたマホガニー材の机に私の旅行鞄を置いた。

 よどみない口調でこの街の危険を私に説くキリカ様は、私に向き直り、私よりもちょっと高い場所からすっと涼しい目線を送ってくる。

 

 「私だって慈善事業をやってるわけじゃない。黒月相手に危ない橋をそう何度もわたりたくないのよ。あなたには正当な報酬を要求するわ。」

 「私は何をすればいいんでしょう?」

 

 キリカ様の仰ることも最もだった。黒月という企業はおそらくフレディ様も仰っていたクーロンを牛耳っている犯罪シンジケートなのだろう。その組織を相手に嘘をついたり、啖呵を切るという大胆な行為をなさってまで安全を確保してくださったキリカ様には、頭が上がらない。

 あのうすら寒い恐怖というのは、自分にとっては少し気味が悪かったのだ。正当な報酬でキリカ様が納得してくださるなら是非とも払うべきだろう。

 

 そして彼女は、私の全身をじっくりと見て、そしてその『報酬』を決めたようだった。

 

 「原稿よ。」

 

 

 「え?」

 

 思わず聞き返してしまう。

 私はお金を彼女に払うか、それか何か彼女のお手伝いのようなことをすることになるのではないかと思っていたのだ、

 

 「だから、原稿。あなた本を書いているんでしょう?今まで出してるのとは世界観が全く違う完全新作……それを私にくれたらそれでいいわ。」

 「そ、そんなものでいいんですか?」

 「ええ。あなたの著作権も保障するわ。出版してくれても結構よ。ただ一番最初に私に見せて、そして生原稿をくれればそれでいいの。」

 「そんなことでよろしければ、喜んで今夜からでも書かせていただきますよ。本当にありがとうございます、キリカ様。」

 

 彼女は私の言葉を聞いて満足気に頷いた後、仕事があるから、と仰って部屋から出ていこうとする。広い書斎の机から、部屋のドアまで十歩くらい。その距離をカツカツと歩んでいく彼女に、私は気になっていたことを聞くことにした。

 なぜなら、もう会えないかもしれないとそう思ってしまったからだ。今を逃すと、彼女にこれについて聞くことは叶わないのではないかと、不思議とそう思っていた。

 

 

 「そういえば、キリカ様はどうして私が物書きだとご存じだったのですか?」

 

 私のペンネームは本名ではない。それに著者近影にはいつだって適当に書いた絵や字を使っていた。性別すら公表していなかったのだ。私が書いた本は世界観が独特だということで嬉しいことに中々評判ではあるけれど、私の本の編集に関わっている人以外は私がその筆者だと知らないはずだった。

 

 そんな私の疑問に対し、彼女はあまりにも思わせぶりな回答を残した。

 

 

 「秘密を暴くのも私の仕事の一つ……だからかしらね」

 

 

 私はこの時の彼女の不敵な笑みを忘れないだろう。

 その笑顔は優しくて、甘やかで、どことなく私の記憶を擽るような笑顔だった。

 

 

 

***

 

 最近、とある質屋の裏手にある部屋にやんごとない身分の方が滞在しているという噂が立っている。俺のようなただの売人にもその人のうわさが届くほど、そのご婦人は九龍で目立っているようだった。

 

 なんでもそのご婦人は、治安のいい西街区の北側でボランティアなるものをやっているらしく、やんごとないという噂のご婦人を一目見ようと野次馬に集まったガキどもにいろんなことを教え込んでいるようだった。

 算術、読み書き、食えるものと食えないものの見分け方……人の殴り方と人間からの逃げ方しか知らないガキどもにとってはそれは決してこの九龍で生きていくために必要な事柄じゃない。そんなものができなくたって、泥水啜って雑草を食べてれば汚くっても生きてはいける。

 けれどそのご婦人は何でも子供たちが九龍の外に行っても生きられるようにいろんなことを教えてやってるんだとさ。

 

 ご苦労なことだ。

 娼婦たちは昼間っから夕方まで、何なら夜の間もガキの面倒を見てくれるってんで自分とこの子どもをそのご婦人に預けることもあったし、新しく店を開こうって若造が帳簿の付け方の教えを請いに行くこともあった。

 

 ご婦人は、なぜか黒月の奴等に目を付けられることもなくただこの街にのんびりと居座っていた。路地に座り込んで日向ぼっこだなんて言ってたのを見た時、俺はそのご婦人を女としてどうこうしてやろうなんて気持ちが失せちまった。

 善人なんざムカつくばかりだと思っていたが、それも突き抜けるとどうでもよくなっちまって、結局俺は野次馬の一人からまた東の売人へと戻った。

 

 

 せっかく少ない体力を絞ってまで殴るんだったら、殴りがいのあるやつの方がいい。

 

 

 「っげほ、ぐ、クソが……」

 「誰に向かって口利いてやがる!」

 

 そう、殴るなら、この街に昔っからいるやつの方がいい。

 しみったれた薄汚いこの街で、劣等感をぐじゅぐじゅになるまでため込んでしまったどうしようもない奴。頭が良いほどいい。賢ければ賢いほど、そいつは自分がどれほど惨めかを自覚している。

 力がなくて、やせっぽっちで、食うもんもなく、逃げたいのに街から出ていくこともできず。そして誰かに殴られ、誰かから奪うしかないようなどうしようもない子供。自分が後ろ暗いことをしているとわかっている奴ほど、殴ったときにいい顔をする。

 

 こんなはずじゃなかったなんて泣いて叫ぶ。もういない親や友を懐かしんで涙を流す。

 

 あんな人間離れした笑い方をする不気味な女よりも、こっちを殴った方がよっぽどすっきりするってことを俺は知っている。

 

 「テメー、何ニヤニヤしてんだ?あ?」

 

 そのガキはよく吐くことで知られていた。いつでも腹を空かせていて、どっかから食いモンをパチってきては路地裏で食っているガキ。食っても食っても大人たちに殴られるもんだから全部吐き出して、結局やせっぽちのままのガキ。

 昔はいいとこの出だったらしいが、九龍に来てる以上ゴミくずみたいな命であることに変わりはない。こいつは頭が良い。誰に教わらずとも、殴られることが理不尽だと知っている。

 だから気分がよかった。このガキを殴っていると、自分が頭のいいやつの上に立てたような気がして、胸がスカッとした。

 

 

 「うぜーんだよ……クソじじい……」

 「んだとテメェ!もっかい言ってみろ!」

 

 

 真っ暗な裏路地に唯一差し込む光と言えば、大通りの提灯からの明かりくらいなものだ。やせっぽっちな子供をそんな弱弱しい明りから隠すくらいは、俺の体でも十分で大通りを往く奴らはガキが何を言っても気にせず通り過ぎていく。

 というかそもそもこんなリンチは日常茶飯事なのだから、わざわざこんなことに目をやる奴なんてのはいない。

 

 俺がそのガキの薄っぺらい腹をもう一回蹴ってやると、そのガキは完全に意識を手放した。財布か金目の物を持っていないかと思ったがそのガキはポケットには何も入れていなかった。俺はただ殴って体力を無駄遣いしてしまっただけのようだった。何とはなしに舌打ちの一つも漏れるというものだ。

 

 

 夜になれば、東にはヤク中がうようよと這い出てくる。まるで増える提灯の明かりにおびき出された蛾のように売人に群がって、どっかからくすねてきた金を押し付けるようにしてほんのちょっとの薬を求め、そして手に入れた傍から吸っていく。

 夜は仕事の時間だ。こんなガキにかまう暇もないほど忙しい商売の時間。

 

 日が沈む前に俺は俺の縄張りに戻らないといけない。他の売人に奪われると厄介だからだ。ただでさえ黒月に目を付けられないようにやっているというのにその穴場を奪われちゃたまったもんじゃない。

 

 大通りに出て東へ戻ろうとすると俺は幾人ものゴミみたいな九龍の住人とすれ違う。全員が血か薬か香の匂いをさせている中で、俺はたった一人、『変なにおいの女』とすれ違った。

 まるで水のような、何の匂いもしない女。不審に思って振り返ってみるけれども、その女はすでに雑踏の中に紛れていた。

 ま、どんな女であれ、すぐに汚れていくだろう。ここはそういう街だから。淫靡でむせ返るような悪人たちの街だから。どんなガキであってもきっとすぐに染まるだろう。

 

 俺は東に向かって歩き始めた。

 空は家屋の庇に覆い隠されて見えない。だからこっちが東なんて確証はない。俺がいた場所が東。決まった場所に陣取る商人たちを決まった順番で見送れば俺は元の場所へ戻れる。

 だから俺は東へ戻っているんだろう。

 

 誰も彼も自分の居場所から動かない。動こうとしない。

 どいつもこいつもどうしようもなく停滞した街。誰も流れていくことなんてできやしない。

 

 街の全員で足を引っ張り合ってるみたいに、誰もこの沼からは抜け出せないんだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 僕は何をやっているんだろう。

 

 そう。

 九龍に流れてくる奴なんて、ろくでなしばっかりなんだって僕が一番よく知っていたはずなのに。平和ボケしてるからって、お茶を出すよなんて言われて、疑うのをやめたとでもいうのか。馬鹿だな。僕は馬鹿だ。

 

 馬鹿だから、知らない女のトランクから取り出したクッキーを食べてゲーゲー吐き戻す羽目になったんだ。

 ああくそ、痛い。とんでもなく痛い。口も、胃も、全部しびれてしまって、僕は今最高に女神を恨んでる。ずっと恨んでるけど今日が一番恨んでる。

 

 

 せっかく、大金を手にしてさ。

 ありもしない『あったかい家』ってやつに行けると思った。『帰れる』って思ったんだ。簡単にこの街から抜け出せるなんて思っちゃいなかったけれど、それでも女神さん、クッキーに毒を混ぜなくたっていいじゃないか。

 とんでもない劇物のくせに、一発で死ねないところが性質悪いよ。アンタ本当に性格が悪い。きっと黒月のボスなんかより、ずっと腹黒いだろうさ。

 

 でも、誰も僕の靴なんて触らなかったのは、よかった。

 僕の衣服の中で、一番汚いんだ。だから僕は通帳をこの中に隠した。裏路地の吐しゃ物とか、糞尿とか、よくわからないものを踏んでしまって変なにおいがする靴。

 ああ、僕の夢を守ってくれるのは、こんなに汚いボロ靴一足なんだ。考えてみればすごい惨めだな。でも、この靴だけは、何としても守っていこう。僕が帝国に――いやこの際クロスベルでもなんとかなるはずだ――行ってどうにかこの金を引き出して、もう惨めな生活をしなくても済むように。

 

 夢見心地でそんなことを思ってた。クッキーを食べちゃってとんでもなく気分が悪くなった後に吐いて蹲ってたら東にいるはずの売人に何でかリンチされちゃって、また意識を失ってたんだ。

 どうせクッキーを吐いた後に意識は失ってただろうし、殴られるかそのままかの違いだ。通帳さえ盗られなきゃどうだっていいさ。

 

 

 そんな風にぼんやり微睡んでいたら、ふと誰かの手が足にかかった気がした。冷たい手だ。

 僕の意識は急激に浮上した。冗談じゃない。これは、この通帳だけは…

 

 

 「やめろッ!これは僕のものだ!!」

 

 起き抜けとは思えないほど大きな声が出た。

 そんな僕の叫び声を聞いてびっくりした顔をしていたのは、あの日僕が殴って昏倒させた女―――すなわちこの通帳の、本来の持ち主だった。

 

 僕は焦った。この女が通帳を取り戻しに来たんだとそう思って、僕の靴はまだ左足しか脱がされていないことに気が付いた。

 僕は上質な柔らかいベッドに寝かされていて、おそらくこの女が通帳を取り戻すために自分の部屋に連れてきたのだと思うけど、まだ実物は見られてない。シラを切って逃げれば何とかなるんじゃないかと、そう思った。

 

 

 女は僕がそんなことを考えている間に驚きから落ち着いたのか、にっこり笑って

 

 「おはようございます。お茶を今淹れますから、飲んでいかれませんか?」

 

 なんて、聞き覚えのある事を言ってのけたのだった。

 



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22 三顧の礼

 

 僕はどこかの家屋の広い部屋に寝ていた。何でか知らないけれど殴られたところにはきれいに薬が塗られ、僕の体からもシーツからも薬の匂いがする。

 女が手当てをしたのだろう。

 本当に、馬鹿な女だと思った。相手にするだけ時間の無駄だ。

 

 「あ、いや……僕は用事があるから。うん。これで失礼するよ。手当、ありがとう。

 でもこんなこと、ただの浮浪児にしない方がいいとおもうよ。……じゃ。」

 

 

 僕がどうしてそんなことを言おうとしたのか、よくわからない。女神が大好きな善人ってやつを傷つけるためならば、僕は「黒月の奴にこういうことしたら喜ばれるよ」って言うべきだったはずだ。それでミンチにされて川に流されてしまえばいいのに。

 

 たぶん、僕が日和ってしまうのはこの部屋にいるからだろう。下世話じゃないベッドでのんびりと寝ていてもその間手を出されることもなくて、ここが『安全な空間』だとでも思ってしまっているんだろう。

 そんなのは、嘘だ。九龍にそんな場所はない。だから僕は出ていこう。

 

 

 しかし、茶器を両手に持った女が左の靴を履いて出ていこうとする僕を呼び止める。

 

 「お待ちください」

 「……何?僕急いでるんだ。」

 「お忘れ物ですよ。」

 

 そう言って女は茶器を置いて、ベッドサイドにあるチェストから何かを取り出し、僕に渡してくる。

 それは僕が女からくすねた一冊の通帳だった。いつの間に。いや、あの女は僕の靴を脱がせようとしたんじゃなくて、履かせようとしたのか。

 ……そんなことはどうでもいい。僕は女の手から通帳を奪い取って中身を確かめた。一番新しいページには盗んだ時と同じだけの金額が記されている。僕はそれをもう一度靴に仕込んだ。今度は左の中敷きの下に。

 

 「……正気?」

 

 僕は何を言っているんだろう。ほんとに。さっさとこの部屋を出ていけばいいのに。今更善人ぶったって何になるって言うんだろう。いや、もしかしたら女神さまが僕のことを気にかけて通帳が盗られないようにしてくれるかもしれない。

 そんなわけもないのに、そんなことを思ってしまうくらいには僕は気が動転していた。

 

 「あなたには生きる糧が必要です。それが助けになるのならば使ってください。」

 

 そうきっぱりと言った女の顔には、薄布がかかっている。女の顔の造形を見れるくらいの薄い布だ。その薄布は灰色で、真っ黒じゃないからよく分かった。

 女の頬には男に殴られた跡があった。この前はそこそこ薄い肉と青白い肌がついていたはずの頬がかなりの面積を赤黒く変色させていた。あの様子だと何か食べるにも痛むだろう。

 

 僕は何も言えなかった。

 こんなことを言ってくれる人は、この世にたった一人のはずだった。肉が薄くて、髪が長くて、いつも男に殴られてばかりいた女。行商人にはきつく当たる癖に僕にはやけに優しい女。そんな人は僕が知る限りたった一人しかいないと信じ切っていたのに、それを覆す女が僕の前に現れて、僕は何もわからなくなってしまった。

 

 僕は、この女にこんなこと言ってほしくなかった。

 今すぐに引っ叩いて、なに人のものを盗んでいるんだって叱りつけてほしかった。

 そうすれば僕には大金がなくたって、もう思い出せないはずの故郷に戻れるような気がしたから。どこにあるかも誰がいたかも思い出せないような優しい場所が、取り戻せるような気がしたから。

 

 けれど目の前の女は、金が盗られそうになっても薄く微笑んでいるだけで、僕のことを思ってこの通帳を渡してくれた。僕はこれをもうすでに靴の中に隠してしまっていて、あとはこの部屋から出て九龍から出るだけだ。

 なのに、僕はちっとも動けないでいる。

 

 

 一瞬だけ、僕はこの女に母親の面影を見た。

 けれどやっぱり違うなんて当たり前のことを思って、たったそれだけのことで動けなくなってしまった。

 

 

 「外は雨が降っていますから、それにもう夜更けで寒いでしょう。どうか、お茶を飲んでいかれてくださいな。」

 

 すっかり俯いてしまった僕に、女はもう一度お茶の誘いをかけてきた。

 この馬鹿で愚かな女からの誘いは、これでもう三回目になる。

 

 

 

***

 

 

 彼は本当に何もしゃべらなかった。

 私が彼に通帳を渡してからずっと俯いて呆然と立ち尽くすので、私は彼にどんな言葉をかけていいかもわからずに、ただ席に着くことを勧めた。

 

 しとしと、しとしと

 

 外は雨が降っていて、どこか春雷の気配を孕みながらくぐもった音を部屋に運んでくる。部屋はぼんやりとぬるくて、沈黙がちょっと重たく感じられた。

 

 「お名前は?」

 

 彼は答えない。

 カップに紅茶を注ぐと彼はぬくもったカップを手に取った。

 彼は疲れ切っているようだった。

 

 薄暗い茶髪を伸ばしっぱなしにした痩せている子ども。

 くたびれた上着とTシャツに傷のついたズボン。それは以前私が彼を部屋に運んだ時と全く同じ服装のようだった。(私も人のことは言えないけれど)

 手当てをするときに彼の身なりは一応整えたけれども、頬の影は消えるものではない。薄い瞼の皮膚は少し腫れていて、濃い隈が目の周りを囲んでいる。榛色の瞳は、今は彼が俯いているためによく見えない。

 

 「私はニクス。旅をしながら本を書いています。」

 

 そう言って私は彼の前に一冊の本を置いた。最近近所の子どもたちに読み書きを教えるときに使っている児童書だ。私が数年前に出版したもので、騎士を主人公に据えた冒険譚である。彼が興味を示して、ドウか少しの間だけでもこの部屋で心と体を休めていってくれればいいと思った。

 

 書斎の上には他にも数冊の本や原稿用紙が載っている。ここ数日、子どもたちの相手をしていない間はずっとキリカ様に差し上げる物語を書いていたからちょっと散らかってしまっている。

 客人を迎えるにふさわしい部屋ではないかもしれないと思って、少し片づけるために席を立った。椅子とフローリングがこすれ合う音がする。ちょっと耳触りの悪い音を立ててしまったけれども、向かいに座っている子どもはただぼうっとカップの紅茶を眺めていた。

 

 

 沈黙。

 

 懐かしい沈黙だ。

 私がその昔今にも死にそうだった子どもを拾ったときもその子はただ黙っていた。何をすればいいかわからないとか、何を言えばいいかわからないとかそういう様子でもなかったような気がする。

 その時も、私は何を言えばいいかわからないでただ傍にいてやることしかできなかった。私はその子がどんな辛い思いをしてきたか聞くこともできず、察してやることもできなかった。それでその子は失望したかもしれないし、ショックを受けたかもしれないけれど何も言わないでいてくれたのだ。

 

 それは優しさかもしれないし、ある種の無関心かもしれない。

 けれど私はこういった子どもたちを救う方法が今も昔も結局わからなくて、ただこうして沈黙を共有することしかできない。

 

 

 どうすることが正解だというのだろう。

 励ましも、祝福の言葉も、慰めも、きっとまだ届かない。だって私は彼の名前すら知らない。

 ああ、どうしよう。机の上に散らばったたかだか数十枚程度の原稿用紙を集めているのだってただの苦し紛れで、時間稼ぎなのだ。私は、どうすればいいのだろう。

 

 ただ彼を見ていられなくて、道端に放っておくことができないで部屋にまで連れてきてしまったけれど、私は次に彼に何をしてやれるのだろうか。

 

 彼は昔助けた子供ではない。同じことをすればきっと助けられるなんてことは思えなかった。

 

 「あの、何か欲しいものはありますか?」

 

 彼には通帳を渡したけれども、服とか、食べ物とかそういったものが欲しいかもしれない。何か少年が言ってくれないかな、とそんな思いで机に向けていた顔を彼の方にくるりと向け、問いかけた。

 

 しかし彼は私の問いに答えてはくれなかった。

 彼は、私が差し出した本を読んでいたのだ。

 

 (……読める?)

 

 彼は決してその本を眺めていたわけではない。彼は一文、一単語を目で追ってその意味を理解しようとしている。児童書であるから、そこまで難しい言葉を使ってはいないがそれでもこの街にいる彼と同年代の子どもは読むのに少し苦労していた。

 合成語や、助動詞が彼らにとっては難しいのだ。彼らは物語のストーリーを面白がっていたけれど一つのシーンにおける会話やモノローグのすべてを理解していたわけではない。

 

 そんな子どもたちとは一線を画す知能を彼は有していた。

 もしかしたら彼は、初等教育を受けていたのかもしれない。

 

 

 ―――だとしたら、私にできることはその続きを教えてやることだろう。

 

 私は彼の手元に続きの本を置いた。

 もとより児童書というものは成長の早い子どもたちに合わせて、巻を進めるにつれ難しくなっていくようにできている。語彙の量を増やし、ストーリーに伏線を混ぜ込む。手のひらサイズの薄い本一冊にも複雑な人間関係や社会問題の要素を入れ込んで子どもたちの人格形成の一助とするためだ。

 少しでも彼をこの部屋で休ませたい私にとって、彼の足を縫い留めるために物語が有効かもしれないという推測はぜひ試したいものだった。自分の書いた本を読んでほしいという文筆家特有の欲求というよりも、私は彼の安全を求める気持ちから、彼に本を差し出した。

 

 そもそも前から思っていたのだが、この世界の本はかなり薄くて小さく、一冊当たりの字数が少ない。

 そんな中私はこの世界に超大作という概念を持ち込んでしまった。この世界での流行りを知らないままに一冊のページ数は100ページを超えるような、ゆっくりと時間をかけて読み込む人生の友としての物語を書いたのだ。出版したばかりのころ、私の本は聖典かと批評されたこともあった。

 けれども今では朗読を深夜のラジオドラマとして放送しないかというお声をかけていただいている。

 要するに私の本は、一冊を完読するために時間がかかるのだ。児童書であっても子どもが手慰みに読むような量ではない。興味の対象が多い子どもにとっては読むことへの疲労を感じやすいだろうし物語に飽きることもあるだろう。しかしそんな大量の情報と向かい合い、活字を愛する心を養うものとして私は児童書を書いていた。

 

 一晩の時間つぶしとして提供するには、重たいものだったかもしれない。けれど私は彼がここにずっといてくれてもいいと思っていた。この幼い痩せた子供が何も考えずにいられるのなら、ここでずっと隠れていればいいとまで思っていた。

 

 

 彼はそんな私の考えを知ることもなく、まっすぐに私の物語を好きになってくれたようだった。

 夜更けに私の部屋で目覚めてから夜が明けるまでの間、彼はずっと本を読みふけっていた。

 

 

 

***

 

 

 

 僕は彼女に何も話すつもりがなかった。

 

 それは女に対する失望の表れであったし、一瞬でも女を母と重ねてしまった自分への嫌悪の表れでもあった。

 確かに疲れていたし、これからどうしようなんてことを考える気力もなくなっていたけれど、僕がこの部屋を出ていかなかったのは、単にこの女を困らせてやろうという意地だったと思う。

 

 名前すら言わない僕に困った女は、本を差し出して、何の意味もないのに今更掃除なんてものをしていて、いい気味だと思った。

 自分の行動に振り回されている女を見て、僕は気持ちいいと思っていたのだ。

 

 けどそうやって女を無闇に振り回すことにも飽きて、僕はしょうがなく女が差し出した本を手に取った。その本は、僕にとっては簡単な言葉で書かれた子ども向けの本だった。

 僕に字を教えてくれたのはたぶん母親だ。母親は身分のあった人だったのか、僕には九龍に流れ着く前から読み書きができていたし周りの子どもに比べて多くの言葉を知っていた。

 だからカーネリアとか、賭博師ジャックとか、そういう本を転売する前に自分で読んでみたりもした。人気の本は高く売れるから、買わずに読めるなら得だと思って読んでいたのだけれど、こんな僕の考えに賛同してくれる奴なんて九龍にはどこにもいなかった。

 

 僕は女が自分で書いたという本を読んだ。

 最初は暇つぶし程度の気持ちだったけれども、思ったよりも女の本が分厚くて、話が長かったので僕は随分この本を読むのに時間を使ったようだった。

 というのも、僕は気が付いたら聖典くらい分厚い本の真ん中まで読み進めていて、時計は朝の時間を指し示していたのだ。

 

 女がちっとも何も言わないので、僕は一晩この奇妙な部屋で過ごしたようだった。向かいの椅子に座る女は、紙を手にもってものすごい速さで何かを書き込んでいた。その顔には笑顔はなくて、女の真剣な顔というものを僕はこの時初めて見た。

 

 

 僕が本から顔を上げても、女はずっと書き物に集中していて、部屋に小さな丸い窓から光が差し込むだけだった。

 

 僕は非常に唐突に、この部屋から出ていかなくてはいけないと思った。

 

 九龍から出ていかなくてはいけないという強迫観念でもなく、女に通帳を奪われないように逃げなくてはという逃走本能でもない。僕はこの時ただこの部屋から出ないといけないと思っていた。

 (随分後のことだが、これは僕にとっての巣立ちなのだと言ったやつがいる。)

 

 読みかけの本を閉じて、僕と女の間にある机に置いた僕を、女は引き留めなかった。ただ紙に落としていた目線をこっちにやって、にっこりとほほ笑んだ。

 僕はその笑顔を見てももう母親のことを思い出すことがなく、ちょっと安心した。この馬鹿な女を母親みたいだなんて、思いたくなかったからだ。

 

 「……じゃ。」

 

 僕は乾いた喉からようやっと音節をひねり出して、生ぬるい部屋の扉を開けて明け方の九龍に歩き出した。

 九龍には朝日すら届かない。密集した建築物が光をさえぎってしまうからだ。九龍の夜明けは寒いだけで、やけに数が多い提灯の明かりを頼りに路地を歩く。

 夜明けは一番人通りが少ない。昼に活動してるやつはまだ起きてこないし、夜に活動してるやつは疲れ切っている。だから夜明けは一番平和な時間帯だ。誰かにぶつかってカツアゲされることも少ないことも相俟って、僕はこの時非常に気楽に歩いていた。

 

 

 ちょっと油断していたのかもしれない。

 それかこの非常にムカつく奴が気配を薄めていただけなのかもしれない。

 僕は、路地を歩いていると一人の男とぶつかった。

 

 やけに背が高くて、九龍の住人にしては体のしっかりした奴で、僕は黒月の奴にぶつかってしまったかと思って背筋に冷や汗をかいたものだ。

 しかしそいつは僕に金銭を要求することもなく、やさしい声で言った。

 

 「すまない。人を探しているのだが、この絵の女性に心当たりはないだろうか?」

 

 九龍の男たちに比べると随分柔らかい物腰だったので思わず驚いて見上げると、そこにはこげ茶の肌ののっぽな男が立っていた。

 

 僕はあとで知ったことなのだが、その男は僕に話を聞くためにわざとぶつかったのだという。僕が以降長い付き合いになるこいつにそう打ち明けられた時、ふざけんな当たり屋みたいなマネしてんじゃねーよこの地黒!と声を荒立ててしまったのは無理もないと思っている。

 

 

 

***

 

 

 その男の子は、部屋を出て行ってからずいぶん早くに戻ってきた。もしかして忘れ物でもしたのだろうかとも思ったのだが、男の子は意外な人物を引き連れてやってきた。(というよりもその方に男の子がこの部屋に連れてこられたといったほうがいいかもしれない。)

 

 

 ノック音を聞いて扉を開けた私を待っていたのは、この間までお世話になっていた人物だった。

 

 「あら?ウォーゼル卿?」

 

 ウォーゼル卿は片手を挙げて軽い挨拶をすると、逆の手でさっきの男の子の首を引っ張って部屋に入ってきたのだった。

 

 「いてーんだよ、クソ!放せ!」

 「人の荷物を掏ろうとしたのはそちらだろう。随分悪びれないんだな…」

 「この街ではそれが当たり前なんだよ!」

 

 先ほどの沈黙は何かと思うくらいに大きな声で抗議をする少年は、どうやらウォーゼル卿から何かを盗もうとして彼に見とがめられたようだった。

 確かに武人である彼にとって、痩せて弱り切った彼の挙動を見抜くことくらいは訳ないことだろう。

 

 「この街に法がなくても、奪われた人の気持ちを考えたことはあるだろうか?君が何かを盗んでしまったら盗まれた人は困ってしまう。」

 

 一つ一つ道理を説くウォーゼル卿は別に怒っている様子ではない。ただ彼の未来を思って説教をしているようだった。

 確かに倫理に反した行いばかりをしていては少年の未来に暗い影が落ちてしまう。誰か正しさを説く存在がいなくてはならない。けれど私は首根っこをつかまれてウォーゼル卿から精いっぱい顔をそらそうとする幼い子どもがちょっとかわいそうに思えてきてしまって、せめてゆっくりと話しができればと思いウォーゼル卿に話しかけたのだった。

 

 「ウォーゼル卿、今日はどうなさったのですか?どうして九龍にいらっしゃったのです?今お茶を淹れますから、聞かせていただけませんか?」

 

 ウォーゼル卿はにっこりと笑うと少年の腕を引っ張って無理やり席につかせ、彼自身は少年の隣に座った。

 ちいさなプラスチックのカップを受け取り、ゆっくりとのどを潤していく彼に対して、少年は少し怯えていたようだった。

 

 そしてウォーゼル卿ははっきりとした声で語りだした。

 私はこの朝の少年と、ウォーゼル卿との会話を忘れることはないだろう。

 

 私は誰かを救うために何ができるか、その答えを導くための手掛かりを私はこの朝に得たのだ。

 

 

 

 

 

 「本当に、ご無事で何よりです。総長がメルカバの甲板からあなたを()()したと聞いた時はどうしようかと思いましたよ。」

 「セルナート様はきっと私を外の世界にお連れ下さったのです。この街でも楽しく過ごさせていただいていますから、あなたがお気になさることではありません。良いご縁が私を導いてくださいました。」

 

 ウォーゼル卿は私のことを心配して帝国での任務を終えた後にクーロンにまで様子を見に来てくださったのだという。私は七耀教会では能力を失った古代遺物とみなされ、然るべき手順で廃棄されたらしかった。

 私が異能を使って教会の監視下で何かをしない限りは不干渉を貫くようにする、というのが守護騎士の皆さまの見解であるらしい。彼らは私が生きていることを知っているけれど、お偉方にも口裏を合わせるとのことだった。ありがたい限りだ。

 

 

 

 「ねぇ、僕もう帰っていい?」

 

 ウォーゼル卿がさらに状況を説明しようとしてくださったとき、少年が退屈そうに声を上げた。無理もないだろう、古代遺物など彼には縁遠いものだったであろうからきっとこの類の話はつまらないに違いない。

 ウォーゼル卿はこの部屋までの案内を彼に頼んだとのことだったけれど、確かに彼の仕事はもう終わったのだし、彼にもやりたいことがあるだろう。そう思って彼を見送ろうとする私を引き留めたのは、ウォーゼル卿の一言だった。

 

 「君が靴に隠しているものを彼女に返したらな。」

 「お前…なんでそれ知ってるんだよ!」

 「やはりか…」

 「あっ」

 

 椅子からすでに立ち上がっていた彼は扉の方に駆けようとするけれどもウォーゼル卿の手足は長い。ただの神父さんとは思えないような速さで彼を捕まえると、もう一度彼を椅子に投げつけるように座らせた。

 

 「まったく……ニクス、まさか気付いていたんですか?」

 「この女が僕にくれたんだよ!盗んでないって!」

 「嘘をつくものじゃないぞ。―――嘘ですよね?」

 

 ウォーゼル卿が疑わし気な目で見つめてくる。勿論少年のいっていることは本当だ。

 

 「本当の事ですよ。彼には生きていくためにお金が必要でしょう。私にとっては持て余しているものですし、人を助けようと思って貯めていたものですから。」

 「ほら!」

 「……」

 

 ウォーゼル卿は言葉を失ったようだった。きっと彼は私が生活できなくなるんじゃないかと心配してくださっているのかもしれないが、私は普通の人間とは少し違う。食事は娯楽でしかないし、病気にもめったにかからない。お金を他の人ほど使わずに生活ができるのだ。

 私が本を書いているのはちょっとした道楽でもあったけれど、元々どこかへ移動するための交通費と誰かに施しをするためのお金を稼ぐためだから、少年のような子供を助けられるのならばそう使うのが正しいだろう。

 ウォーゼル卿にそう説明したのだけれども、彼は納得してくれなかった。

 

 

 「―――だからと言ってあなたの全財産をこの少年に譲渡しなくてもいいでしょう!これだけの財があればもっと多くの人にパンや薬を分け与えられます。貴方の気持ちは称賛されるべきものですが、求めるままに与えることが正しいわけではないんです。」

 「それはそうなのかもしれませんが…」

 

 なんせ私にはわからないのだ。人が一人で生きていくためにどれだけのお金が必要で、誰が何を求めているのか。人に聞いてみるとその人によって言うことが違うから、その人が求めるままに与えることしかできない。

 

 「うるさいなぁ。その人がいいって言ってるからいいじゃん。これは僕の。」

 「君はこのお金を稼ぐために彼女がどれだけの本を書いたのかわかっているのか?」

 「知らないよそんなの。どうでもいいし、僕は育ちの悪い馬鹿だから。神父さんも早く教会に帰ったら?女神さまが寂しがってるよ。」

 

 少年が自虐的に言うのでそんなことはないと否定しようとしたけれどもそんな口をはさむ暇もないくらいの剣呑さで少年とウォーゼル卿はにらみ合っていた。どうやら彼らは互いのことを何も知らないのにどうやらお互いを良く思っていないようで、この部屋の空気は夜明けのころに比べてちょっと険悪であった。

 

 「そういえば、あなたのお名前をまだ聞いていなかったように思うのです。どうか教えていただけませんか?」

 

 茶髪の少年は私の問いに対して首を振ってため息をつくことで返し、何も答えたくないようだったけれど、ウォーゼル卿の目線を感じて渋々といった感じで答えた。

 

 

 

 「……ジェイだよ。僕はジェイ。満足した?」

 「ええ、とても。あなたの名前を知れて私は嬉しいですよ。」

 「あっそ」

 「ジェイ、おかわりはいかが?」

 「……」

 「俺はいただこう。」

 

 ジェイと、ウォーゼル卿と、私。

 少し広い東方風の書斎に、三人でちょっと剣呑な雰囲気のまま、朝のお茶会は開かれたのだった。

 





 ここからニクスのてんやわんや子育て物語です(嘘です)


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23 少年老い易く学成り難し

 

 

 

<少年:ジェイの主張>

 

 別に僕はアンタみたいに身なりのいい人間からなんか言われることがムカつくって言ってるわけじゃない。世の中は最初から不平等だからね。

 女神を奉じてる奴からなんか言われるのが最高にムカつくって話。

 

 そもそもさ、おかしくない?

 女神って何?まずはそっから話そうよ。

 

 僕ほんとに女神ってやつが嫌いなの。別に存在を否定するわけじゃないけどさ、こんな痩せた人間一人救えない癖してなんでそうありがたがられてるわけ?

 言っとくけど僕が九龍に流れてきたのは僕のせいじゃない。どっかの腐った男が僕の母親を捨てたから、僕はこんな腐った街にやってくるしかなかった。

 それから盗みだってしたし、喧嘩ばっかりだけどさ、それはこんな街で生きるためにしょうがなくやってることで、僕だってこんなことしたいわけじゃないよ。他の街で生きていけるくらいの金があれば真っ当に生きてやるさ。

 

 そんな僕のことを助けてくれなかったのは女神のほうじゃないか。

 女神がちょっと祝福の息をあの男にかけてくれればさ、僕の母親も死ななかったし僕は九龍に流れてこずに済んだよ。

 あんな無能な女をさ、神様だって言ってるような奴にあれこれ指図されたくないよね。

 人を見る目ってか神を見る目がないんじゃないの?エイドスなんかよりこの女の方がよっぽど僕を助けようとしてくれてるよ。

 この女は僕が生きるためにお金をくれようとしていて、僕はそのお金があれば真っ当に生きていける。アンタがそれを阻止する正当な理由って言うのがどこにあるの? 

 これはいわば正当な取引なんだよ。この女が僕の真っ当な未来をこの通帳のお金で買ってくれてるってわけ。

 

 僕は生きるために必要なことしかしてない。

 九龍なんて言う街が生まれちゃった時点で物事はどうしようもなく詰んでるってこと、わかってくれてる?

 

 

 

 

<神父:ガイウスの主張>

 

 君は辛い思いをしてきたんだろう。

 それは俺の想像を超えるような痛みや悲しみを伴ったものかもしれない。

 

 けれどそれで君の行いが正当化されるものではないことは覚えておいてほしい。

 たとえ生きるためでも、人は人から物を盗んではならない。それは女神が我々に説いてくださった正しく生きるための戒めの一つだ。

 

 君がこれからこの街を出て生きていくならばなおのこと、盗みという行為は正されなければならない。この街では刑とは私刑のことを指すだろうが、他の場所では違う。法に基づいた刑が君の身に降りかかってくるだろう。

 それで辛い思いをするのはきっと君の方だ。

 

 それに、全ての人には良心というものが備わっている。

 倫理と言ってもいいだろう。人としてするべきではないことをすると、いずれどこかで自分のことを責めてしまう。

 「あれはしょうがないことだったんだ」と正当化しようとしても、抜け出せないほどの深みにはまってしまうんだ。苦しくて、辛い道だ。

 俺は君にそんな道を歩んでほしくないからこうして君に正しさを説いていることは知っていてくれ。

 

 この街には犯罪がはびこっていることも、君がそんな場所で精いっぱい生きてきてくれたことも確かだ。女神は君の命が今あることを祝福し、君がこれから正しく生きることをお許しになるだろう。ただしそれは過去の行いを悔い改めるのならば、だ。

 君がこれまで犯した罪を正しく数え、それと向き合うことで君はこれから外の世界で真っ当に生きていくことを許されるんだ。

 

 そうしなければ君は将来誰かを傷つけてしまう。

 君のように辛い思いをしてしまう人が生まれてしまうんだ。

 もうこれ以上間違いを犯さずに済むように、君は悔い改めるべきだと思う。

 

 

 

 

<作家:ニクスの主張>

 

 私はあなたにはこのお金を手にする権利があると思っています。

 最初はあなたがかわいそうだから、あなたにせめて穏やかな生活を営んでほしいから、お金を渡そうと思っていました。

 

 けれどそれは私の間違いでした。私は私が何を思ってあなたにこの通帳を渡したのか、勘違いしていたのです。

 ただお金を渡すのならば他の子どもでも、大人でもよかったでしょう。けれど私があなたに渡した理由、それは私があなたに高い知性があると思ったからです。

 

 あなたがそれを正しく使うだろうと、そう思ったからです。

 私欲のためにただ消費するのではなく、回りまわって多くの人のためになるとそう予感しました。一種の投資のようにとらえています。

 私はあなたにただ生きてほしいのではない。あなたに学んでほしい、社会の中に生きてほしいと思っています。

 

 私は賢く、そして暴力と略奪の恐ろしさを知っているあなただからこそ、そのお金を手に取る権利があると思います。

 そのお金をこのように使いなさいと誰に言われることがなくても、あなたは悲しみを生み出すことはしないはずです。

 

 ウォーゼル卿にはジェイのことで何か心配事があるのかもしれません。彼がクーロンの外で道を誤るのではないかと思うのかもしれません。これが盗みに当たり、女神の教えに反するというのであれば、私はもう一度彼にこのお金を与えましょう。

 私が彼に願いを託し、生きるための糧と人を救うための力としてお金を渡します。

 

 そしてウォーゼル卿に何か憂いがあるのならば、あなたが彼を見守り、彼の行いの証人となっては下さいませんか?私は彼が間違いを犯すとは思いませんが、卿の目で確かめることが一番安心できるでしょう。

 アルテリアには物事を学ぶための施設もあると聞きます。きっとそこでなら彼はその才能を開花させることができるでしょう。

 

 ああ、これはよい案ではないでしょうか?

 

 

 

 

***

 

 

 

 「全然、よくない!僕にアルテリアに行けって!?女神のお膝元じゃないか!絶対に嫌だよ!」

 「……あなたの提案を悪く言うつもりはないが、彼にとっては少し辛いかもしれません。アルテリアには信心深い人が多いですし、学校も神学校ばかりです。」

 「あら、そうなのですか?」

 

 全く、この女は何を考えているのか。

 僕の主張を聞いていたくせに、それを聞いて尚アルテリアに向かわせようとするだなんて気がおかしいとしか思えない。僕は女神に祈りを捧げてるやつを見ると鳥肌が立つんだ。アルテリアなんて行きたくもない。

 

 「しかし、どうしてそこまで女神が嫌いなんだ?」

 「はぁ?僕の言うこと聞いてなかったの?そんなの助けてくれなかったからに決まってんじゃん。母親が死にかけてるときは僕も一生懸命お祈りしたよ。でも死んじゃった。祈れとか信じろとか言うくせにさ、結局助けてくれない。そんなことじゃ救われないんだよ。」

 

 信じる者は救われる、とか。そういう言葉を僕は馬鹿じゃないのかとずっと思っている。

 どれだけ女神を信じて祈ったところで、結局不幸はなくならない。若くして死ぬ奴もいるし、何もしてないのに殴られたり、犯されたりする。

 最初にいるのが一握りの悪人だったとしても、そいつらがいると一瞬で街中の人間が腐る。街中の人間が悪人に媚びようとして、誰かを傷つける。悪人は自分たちに媚びたやつから助けていって、ますます他の人間は媚びるために傷つける。そうして皆が不幸になっていく。

 結局この連鎖を断ち切れないような存在をどうしたって信じる気にはなれなかった。

 

 

 

 「あなたは、女神の力を誰よりも信じていたのですね。」

 

 

 僕の向かいに座った女はそう言った。僕はもうこの女が大金をくれるという話も忘れてこの女の発言をこき下ろした。

 

 「はぁ?馬鹿じゃないの?僕は女神なんて信じないって何度も言ってるだろ!」

 「けれどあなたは女神が助けてくれるのではないかと思っている。裏切られたと思う気持ちは期待があるからこそ成り立つのです。」

 「僕が女神に期待してるって?昔の話だよ、そんなの…」

 

 「ええ。あなたは今女神に深く失望している。

 祈りに応えてくれなかったこと、超常の力をふるってくれなかったこと、人々の崇拝という期待に反していること…それらは女神の罪であると思っている。」

 

 そうだ。僕は女神なんて間違ってると思う。間違ってるのに拝まれてるっていうことが最高にムカつくって思っているんだ。

 

 「そうだよ。人はみんな貴重な時間を使ってまで祈る。女神が叶えてくれるわけじゃないのに。女神は結局僕らの不幸を取り除いてくれたりしない!

 信じたところで何も救われないんだ!」

 

 女神が本当に皆に敬われるほど立派な存在であるというのなら。

 世界を創造するほどすごい力を持っていたのだとしたら。

 

 どうして僕はこんな街に流れ着いてしまったのか。

 どうして僕の母さんは死んでしまったのか。

 その問いにはどんな聖職者も答えてくれない。神父もシスターも「人はいつか死ぬものだから」ってそんなことを言う。

 

 「僕が聞いてるのは!どうして!母さんがあんなに泣いて、うめいて、苦しみながら死んだかってことだ!

 …人が死ぬのなんてわかってる。でもいい行いをした奴は幸せに死ぬって聞いて僕は納得がいかなかった。母さんだってたくさんいい行いをしてた。よく人助けをしていたし、身を売ってまで僕を養おうとしてくれてた。

 そういういい行いの事を善行って言うんだろ。女神は善行ってやつが好きなんだろう!?

 

 けれど女神は母さんの祈りを聞いてくれなかった!」

 

 母さんは、一人で僕を育てようとしてくれた。

 お金が必要な時は誰かから盗むのではなく自分で稼いでいた。

 そんな立派な母さんは、僕が元気に育つようにといつもお祈りをしていた。けれど僕はどうしようもない街に流れ着いて、盗みをせざるをえない奴になった。

 

 最初は変な男に騙されて、九龍に行けば優しい人がいっぱいいるよって言われたのを信じてやってきた。でもこの街に入ってすぐにやばい場所だって気付いて引き返そうとした。

 けれど街の奴等は僕みたいなカモを見逃さずに、街の奥へ奥へと引きずり込んでいった。僕はいつの間にか街の出口から遠いところにいて、何度も出ようとしたけど力の強い大人たちに阻まれて出れなかった。

 

 街をさまよってるうちにお腹が減ってきた。道端で死ぬか、誰かから盗んででも生きるか。結局はその二択になってしまって、僕は盗むことを選んだ。

 

 騙されたことが悪いのか。

 子どもの僕が大人より弱かったことが悪いのか。

 生きようとしたことが悪いのか。

 何も悪くないはずだ。誰に否定されても僕はそう信じている。

 

 「女神の教えを守るために死ぬなんて間違ってる。教えを守るのは善く生きるためで、死ぬためじゃない。信心深い奴を見ると、僕が間違ってるって言われてるみたいでいやなんだ。

 僕は間違ってない。僕は、僕はこうするしかなかった……」

 

 立ち尽くした僕の手を、女がとった。

 女は両手で俺の右手を包み、逆立った僕の神経をなでさするようにゆっくりと話し始めた。

 

 「祈りとは、ただの願望を示す行為ではありません。

 祈りとは、約束なのです。自分が善き行いを通して望ましい結果を手繰り寄せるという約束……

 

 だから女神がお願いを聞いてくれないというあなたの指摘は正しいものと言えるでしょう。

 あなたはそれだけでなく、女神の教えの価値も知っている。教えが何のためにあるのかを知っています。それこそはあなたが賢く、やさしい人である証拠です。

 何より、あなたは道徳を知っています。盗みが倫理に反することを知っていて、まっとうに生きたいと思っている。

 

 全て、すべて正しいことです。あなたは罪から解き放たれるべきです。自分で決めたことを成すために、あなたはこの街から出るべきだと思います。あなたは教えがなくてもきっとまっすぐに生きていけるでしょう。

 

 ―――やはり私には、あなたが正しい人に見える。世界にいくつもある正しさの、そのうちの一つをあなたが持っていると思います。本当に、ほんとうに、あなたという命が失われなくてよかった…。」

 

 僕の右手をぎゅっと握っている眼前の女が言ったことを僕はあまり理解できなかった。けれど、この女は、僕が生きていることを喜んでいるらしかった。

 変な奴だと思う。

 

 僕はせっかく大きな音を立てて椅子から立ち上がったというのに、なんだか色々と馬鹿らしく思えてきた。この妙な女が言ってることも何もわからなくて、僕はただ立ち尽くしていた。

 そして女が促すままにもう一度席に着いた。

 女は何が嬉しいのか、涙を目に溜めながら僕のことをほめそやした。何度も何度も僕を賢い賢いと言って頭を抱きしめ、生きていてくれてありがとうと何度も言ってきた。

 

 暫く僕のことをぎゅっと抱きしめていた女は、突然お茶のおかわりを淹れてくると言ってそそくさと後ろを向き、お湯を沸かし始めた。

 けれども本人が随分物を取り落としたり、茶葉の缶をつかみ損ねたりしているので、騒がしいことこの上なかった。

 僕はなんて慌ただしい奴だと思った。

 

 「忙しない女だなぁ」

 「…君は彼女と出会えたことに感謝したほうがいい。」

 「はぁ?」

 

 いったいどういう意味だ、そう聞こうとして部屋にノック音が響いた。どうやら客人が来たようだった。最近この女は近所の子どもたちに読み書きを教えているという噂だから、きっと子どもだろう。

 

 「…?」

 「ああ、きっと近所のガキだよ。」

 

 隣に座った神父(絶対ただの神父じゃないと思う)がやけに扉の方を気にするので、そう教えてやったのだが、しかし神父はなおのこと疑わしく思ったようで、眉間にしわを寄せた。

 

 「何?僕の言うこと疑ってるわけ?」

 「…いや、そうじゃない。」

 

 歯切れの悪そうな神父はちらりと窓の外を一瞬見て、少し半身になった。まるでいつでも立てるように備えているかのようだった。

 

 

 

 「はい、おはようございま―――」

 

 

 

 応対しようとした女が扉を押し開くと、女の体が()()()()()()()()

 まるで瞬間移動でもしたみたいに、女は玄関からいなくなった。支える力をなくした扉が閉じていく。僕はこのとき何が起こっているのかちっともわからなかった。

 

 

 「は?」

 「追いかけるぞ!」

 

 

 神父がやけに素早く立ち上がり、閉まりかけた扉を開けるとそこには誰もいない。通りでは朝市がやっていて、人がごった返している。女はどこにもいなかった。

 今の一瞬でどこに行ったのか。僕はまだ通帳受け取ってないぞ。あの女に持ち去られてしまった。いや、きっとノックをした奴に連れ去られたのだろうとは僕にだってもうわかる。だけどこの街で誘拐なんていう大胆なことを白昼堂々やろうとする奴等が誰か、僕はうすうす気づいていて現実逃避がしたくなっていた。

 

 (嫌な予感がする)

 

 「ゼオ!」

 

 悔し気な顔をした神父が中空に向かってその長い腕を差し出す。何をやっているのかと見ていると、そこに一羽の鷹がやってきた。鷹はやけに慣れた様子で神父の腕に留まると一声二声ぴゅいぴゅいと鳴いた。

 

 「神父じゃなくて鷹匠ってわけ?」

 「タカジョー?なんだそれは。とにかくニクスが攫われたから追いかけるぞ。」

 「僕に指図するな!」

 

 僕はあの女じゃなくて、あの女が持ってる通帳を取り戻しに行くんだ。神父の間違いを訂正すると、神父はため息を一つ吐いて大通りの雑踏の中に駆けだそうとする。

 

 「馬鹿!そっちに行くならこっちの路地を通った方が早いっての!」

 「なら道案内を頼む。ゼオによるとあの摩天楼の方に行ったようだ。」

 「げっ」

 

 ああ、いやな予感が当たってしまった。

 九龍の街の名もなき摩天楼。それこそはこの街を牛耳っている黒月のオフィスだ。趣味が悪いことこの上ないが、この街の担当者にとってはお気に入りらしく無秩序に増改築を繰り返される摩天楼の上では今日もクレーンが動いている。

 

 「早く行ってくれ。時間がない。」

 「あ~クソッ」

 

 こんな面倒ごとになるんなら、あんな馬鹿な女に関わらなければよかった。僕は心からそう思ったけれども、やっぱりあの通帳に記された大金が頭から離れなくて、神父が飼ってるらしい鷹を追いかけることにしたのだった。

 

 

 

 






七耀教会が祈りをどう定義しているかわからないので本話でニクスが言っている祈りの定義はニクスの考えであることをご承知おきください。



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24 虎穴に入らずんば虎子を得ず

 

 はぁっ はぁっ

 

 「速いんだよ!」

 「次はどっちだ?」

 「左だよ!」

 

 

 先行する神父は予測通り、ただ教会にいて聖典を読むだけの神父ではないようだった。僕の案内を忠実に守り迷宮都市である九龍を進んでいく。それも、速すぎるスピードで。

 道中の路地にうずくまったホームレスどもが尻に敷いてる新聞紙が神父の風で翻る。なぜかこいつが走ると風が起こるのだ。まるで神父の背中が風で押されているようでもあり、靴底から風が生まれているようでもある。

 

 そのせいで逃げ足に自信があるはずの僕は追いつくので精一杯だ。それを神父はわかっているのか、頑張れば追いつけないこともないようなスピードで走っているというのがさらにムカつくことこの上ない。

 必死に追いすがる僕の先を行く男のさらに先に、路地と路地の交差点が見える。

 街灯代わりの提灯の光が、そこから差し込んできている。

 

 

 しかしその光が、一瞬だけぼうっと揺れた。

 

 

 「止まれ!」

 

 僕が叫ぶと、その指示通り神父は止まる。交差点にいた売人が向こうの路地へ走っていくのが見えた。

 

 「なんだ?」

 「組み替えだ。この街では定期的に起こるんだよ。僕らが街から出たくても出れないのはこれがあるせいだ。」

 「組み替え?」

 「そのまんまだよ。路地がシャッフルされんの。迷宮が作り変えられるって言えばわかる?」

 

 この道の先は二つの道に分かれていて、まっすぐ行くか右に曲がるかの二択だった。右に行けば摩天楼に近づいて、まっすぐ行けば北側の市場に出る。

 しかし揺らぎが落ち着いた時、そこには左に曲がる道しかなかった。先ほどまであった道は家屋によってふさがれている。

 先ほどまで人が一人通れるくらいの隙間を空けて並んでいた家屋はこの組み替えによってぎゅっと寄せられ、道だったものがなくなり、その分左に隙間ができたというわけだ。一体どういう原理で家の並びが変化しているのか全く分からないが、とにかくこの街は一度入ったら出られない迷宮であるのは確かだった。

 

 「こんな感じで道のつながり方が変わるってわけ。わけわかんないでしょ。」

 

 左への道は、つまり摩天楼から遠ざかる道。しかし迂回路がどこかで見つかるはずだと思い、僕は左に曲がろうとした。

 だが僕の腰をつかむ手があった。広くて大きい男の手。振り返るまでもなく神父の手だとわかった。

 

 「何。手、放してよ」

 「悪いな、さっきも言ったが時間がないんだ。」

 

 神父がそう言ったかと思うと、僕の体は途端に足場をなくしたのだった。

 

 「待って死ぬ死ぬ死ぬ」

 

 浮遊感が滅茶苦茶に気持ち悪い。女の家で飲んだ茶が口から出てきそうだ。胃がひっくり返る。何が何だかわからず、僕は目の前に見える何かに手を伸ばして、それに縋りついた。

 

 「ぐぅっ……」

 

 それは家屋の屋根だったようで、しがみついたはいいが足は宙ぶらりんだ。軒先にぶら下がった僕に這いあがるほどの膂力なんてない。何せ僕の体に筋肉なんてものはないのだ。正直今ぶら下がっていられるのも奇跡でしかなかった。

 

 スタッ

 

 「大丈夫か?」

 「どの口が言ってんだよ」

 

 その驚異の身体能力で自力で屋根に飛び上がった神父は僕の腕をつかんで引っ張り上げる。僕が手に力を入れて自分の体を押し上げなくても、ただその力に体を任せているだけで僕は屋根に上がることができた。

 

 「すまん。予想より軽かったので思ったより飛ばしてしまった。」

 「もう黙れよお前…」

 

 気まずそうに眉を下げているくせに笑顔で謝ってくる神父を無視して僕は右を向いた。あと数セルジュといったところだろうか、天高くそびえる歪な摩天楼がそこにはあった。赤を基調とした趣味の悪い建築物は、家屋がいくつもくっついたような造りをしていて右に左にせり出しながら上へ上へと伸びている。

 そしてその天辺には真っ赤なでかいクレーンが居座っている。

 

 「あれが摩天楼か」

 「ほんとに、生きてるうちに行くことになるとはね」

 「どういうことだ?」

 「地下に焼却炉がある。この街で野垂れ死んだ奴はそこに運ばれるんだよ。結構いい金がもらえるらしい。」

 

 僕は黒月とつながる気なんてなかったし、そもそも死体を引きずるだけの力がないから一回もやったことがないが、死体運びはこの街の主要な職業の一つだ。

 金とコネクションを求めて裏路地で死体を探してるやつはその目ですぐにわかる。前に一回気絶してたら運ばれかけたこともある。

 ハイエナみたいで、僕はそいつらのことも嫌いだった。

 

 「……そうか。」

 「同情でもしてる?」

 「さぁな。俺は俺が今何を考えているのかよくわからない。」

 

 神父はそういうとローブを脱いだ。深い青紫の上着の下に着込んでいたのは深紅の法衣だ。聖職者には見えない格好だけど申し訳程度に腰にはメダルが提げられている。

 

 「行こう。」

 「もう見えてるんだし一人で行けば?」

 「……そうだな、着いてきてくれたら外の街まで送っていこう。幸い俺には足がある。」

 

 それは僕にとって今最も魅力的な交換条件だった。こいつについていけば女から金がもらえて、神父によって外に行ける。

 間違いなく僕が自由になるための一番の近道だ。

 

 「拳士の相手はアンタがしてくれよ」

 「当然だ。」

 

 僕はそれを聞いてベニヤ板でできた道を走り出した。不思議と家屋の高さはみんな似たようなもので、高低差がないから走りやすい。

 落っこちないように足元に注意して走っていると、屋根の隙間から街が見える。上から見た九龍は、やっぱり雑然としていて汚い街だった。女も男も子どももぐちゃぐちゃになっていてできればあんまり見たくない。何一つ、まともじゃないんだ。

 

 あの塔にたどり着けば僕はこの迷宮から出ることができる。

 僕が馬鹿な女を助けるためだけにムカつく聖職者の背中を追いかけている理由なんてそれだけだった。

 

 僕は馬鹿だ。

 聖職者だって女だって嘘を吐くことを知っているのに、そいつらの提案を鵜呑みにして塔に乗り込もうとしている。

 

 僕は馬鹿だ。

 どうしようもない街にいるどうしようもない僕でも、夢が叶うと思っている。

 

 僕は馬鹿だ。

 あんなに女神を馬鹿にしているのに、いつだってこの街から出たいってどっかの誰かに願っている。

 

 

 こんなに馬鹿な僕に情けをかけてくれるのは、きっとあの馬鹿な女くらいなのかもしれない。

 

 

***

 

 

 

 私をこの摩天楼に呼び出したのは、老紳士であった。老紳士は彼の部下が私を摩天楼の最上階の部屋に連れてくると、喜びの抑えきれない様子で恭しく私の手を取り、深紅のソファに座らせた。

 それで彼が隣に座ったので話を聞いてみると、彼は一つの伝承を教えてくれた。

 

 「人魚伝説、ですか。」

 「君は知っているかね?共和国では精霊信仰と同じくらい著名な民間伝承と言えるものだよ。」

 

 皺の寄った手で彼は私の手をなでる。彼は指に豪奢な指輪をいくつもはめていて、それが少しだけ冷たい。老紳士は恍惚とした様子で私にいくつかのことを聞いた。

 

 「ああ、素晴らしい。君は一体何年生きているのかな?」

 「ええと……すみません、正確な年数はわかりませんけれどこの体はおそらく50年くらいかと思います。」

 「50年!そんなに生きているというのに君の体には皺ひとつないのか。これは本当に驚いたねぇ。」

 

 グレーの髪を撫でつけて露わになった額に皺を寄せて驚く老紳士は楽し気に笑っている。

 

 「ほら、お茶でも飲みなさい。うちの若いのが随分急いで連れてきて、疲れてしまっただろう。月餅も食べるかい?」

 

 そう勧められるままに、私は東方風の茶器に注がれた緑茶を口に含んだ。少し薬っぽい独特の風味がする。苦くて、渋味が強い。甘いものが欲しくなるような味だ。

 老紳士は私の右手を撫でさすっている。何が楽しいのだろう。

 

 「そういえば君は顔布をかぶっているようだけど、何か理由があるのかね?よければ私にもっと顔を良く見せてくれ。」

 「申し訳ないのですが、喪に服している身ですので人前で外すことはできません。ですが顔だけでよろしいのでしたら…」

 

 私はそう言って顔の前にかかっている布を頭の後ろにやろうとする。老紳士のくすんだ黒目が私の顔をじっと見つめてきてちょっと気まずかったけれども、望まれるまま灰色の薄布を持ち上げた。

 

 私のベールはそもそも喪服の一部だ。前後で似合いの布があり、カチュームのようなレース細工の帯で頭に括りつけている。角と耳を隠すのは正直無理があるのだが、堂々としていれば案外ばれないものだ。

 

 ベールの前布は顔を隠しているが食事の時や身分証明を求められた時には後ろにやることだってある。顔を老紳士に示すと彼は喜色満面といった様子だった。

 

 「おぉ、これが……」

 「ご満足いただけましたか?」

 「勿論だ!ああ、もっとよく見せてくれ」

 

 彼は私に手を伸ばそうとしたので私は言われるままに彼に顔を寄せた。頭に手をやられると少し困るのだ。おそらく彼にとって興味深いのは私の目の色が珍しいとかそういった理由なのだろう。

 

 

 「長老、少しよろしいですか?」

 

 

 そこに一つの声がかかった。若い男性の声だ。

 

 「……なんだ?」

 

 老紳士は彼を諫めるように用件を聞き出す。どうやら黒月の本社ともいえる場所から老紳士に大切な連絡があったとのことで呼び出しに来たらしい。

 老紳士は嫌そうに腰を上げると杖をついて出ていこうとする。立ち上がって私のことをちらりと見たので、私は何を言えばいいかわからずとりあえず微笑んでおいた。

 

 老紳士の安全を守るボディーガードも全員彼についていき、部屋に残されたのは私と老紳士を呼びに来た青年の二人だった。私は老紳士が去ったので薄布で顔を隠そうとしたが、腕を持ち上げたところで眼前に何かカードのようなものが差し出された。

 

 「?」

 「初めまして。御身がご無事で何よりですよ。」

 

 藍色のスーツを着た青年が差し出したのは小さな一通の手紙だった。彼は私の手に手紙を持たせると、状況のつかめない私に窓の外を指し示した。

 何が何だかわからないままに私は窓をあけて外をのぞく。

 

 「―――あら。」

 

 窓の直下、摩天楼の入り口の前で数人の商人が誰かと交戦している。深紅の法衣を纏い槍を携えた青年。

 数的不利をものともせずに戦っているのは星杯の騎士たるウォーゼル卿だった。

 

***

 

 

 「はっ!」

 

 黒月の拳士たちは強い。一流の猟兵たちとも素手で渡り合うほどの体術を駆使する歴戦の勇士たちだ。ジェイという非戦闘員を連れているこちらとしてはできれば相手をしたくないというのが本音だった。

 しかし彼らの本拠地ともいえる摩天楼まで来てしまえば交戦も必至というもので、せめて間合いを稼ぎながらちまちまと風圧でダメージを与えるというのが俺のとった戦法だった。3人に囲まれないように立ち回りながら槍と風で牽制する。

 思ったよりも拳士の数が少なかったのは唯一の救いと言えるだろう。幸いなことに門番は3人しかおらず、経験も浅いのかしてアーツを駆使すれば楽に制圧できるであろう相手だった。

 

 「竜巻よ!」

 

 槍を頭上で回して風を起こすと激烈な乱気流が3人の門番を巻き上げ、砂利やゴミが彼らの体を叩く。

 十数秒の間消えることのない乱気流は彼らの意識を奪うには十分だったようで、風が落ち着いたころには3つの体が地に伏せっている。

 

 「何これ…」

 「『タービュランス』というクラフトだ。君も槍術を学ぶなら伝授しよう。」

 「そういうことじゃないから…というか、あの女がどこにいるかわかってんの?」

 

 拳士たちの体を踏み越えて摩天楼の入り口である扉を開けると階段がある。俺は上階に気配がないかどうかを確かめ上階に向けて階段を昇り始めた。

 

 「恐らく最上階だ。彼女を誘拐した首謀者であるユーハオという老人の部屋がある。」

 「…どういうこと?」

 「彼は黒月の覇権を争っていた重役の一人だ。一時は覇権争いに勝利するかとも思われた人物だが敗れてしまい、権力を失ったとされている。もう一度覇権を奪おうと画策したらしいが、彼はもう高齢でな。」

 「もうよぼよぼで他の奴等と争うだけの力がないってこと?」

 

 ジェイはニクスが見込んだ通り賢い少年だ。彼の推測は概ね当たりと言えた。

 

 「彼には有望な後継者がいなかった。自分で競争を勝ち抜く必要があったんだ。」

 「でももう老い先短いじーさんなんでしょ?」

 「そうだ。それで彼は自分の寿命を延ばすための方法を探すことに注力した。」

 

 摩天楼の中は変に静かだった。なぜか()()()()()()()()()()()()()のだ。彼らと交戦しなくていいのは助かるが、誰かが俺たちの前に侵入して拳士たちを昏倒させているというのは、少し都合が悪い。

 

 今回、ユーハオ氏が誰かに連れ去られたりすると()()のだ。

 

 「ユーハオ氏は様々な方法に手を出した。古代遺物と呼ばれるものを使用したり、怪しい薬物を服用したり…その資金を捻出するために犯罪行為に手を染めたことが確認されている。」

 「それがあの女の誘拐とどうつながるわけ?」

 「……君は『人魚伝説』を知っているか?」

 

 人魚伝説。

 共和国の沿岸地域で特に人気のある民話の一つだ。人の外見をした魚。体表は白く、口、鼻、手などの体の部位は全て女子のものである。体長は150~170リジュ程度。人を傷つけることがなく温和な性格をしているとされる。

 

 「あの女、人魚だったの?」

 「違う。だが、ユーハオ氏はそう思ったはずだ。」

 「闇市で売るために誘拐したってこと?」

 「それもあり得る。だが一番考えられるのは『食べる』ことだ。」

 「はぁ?」

 

 人魚は、昔から長命な生き物であると言われてきた。転じて無病息災を願う人々の信仰の対象ともなったが、これらの信仰が形を変えて『人魚の血肉を口にすると不老不死になる』という伝説まで生まれてしまったのだ。

 

 「実際、この伝説を信じる人々がカルト教団を形成しているという報告もある。」

 「いや……さすがに泣く子も黙る黒月でも人を食ったりはしないでしょ…」

 

 杞憂ではないのか、と勘繰るジェイはなんだかんだと言って善良な人間なのだ。

 

 「世の中には耳を疑うような所業をする者もいる。女神の声も届かないほどにな。」

 「あーハイハイ女神女神。」

 

 女神の声が届かない人間はここにもいるけど、と主張するジェイはニクスの分析によると信心深い、らしい。どういうことかとも思ったが、それを聞いても彼女は微笑むばかりだった。

 

 「しかし、随分高い塔だな…」

 「いや、もうそろそろ最上階だと思うよ。確か30階建てくらいだったと思う。」

 

 随分順調に摩天楼を攻略しているが、今はおそらく25階くらいか。階段の踊り場や部屋の扉の前には拳士たちが倒れている。彼らは一様に意識を刈り取られているが血を流してはいない。殴打か打撲の衝撃で気絶したか、薬を盛られたと考えるべきだろう。

 

 「あんたが信心深いから女神がボーナスくれたんじゃない?」

 「……そうだといいが」

 

 いったい誰が彼らを攻撃したのか。悪い想像が当たらなければいいと願いながら階段を昇りきるともうそこは最上階だったようで上に続く階段は見当たらない。

 

 あるのは一つの豪奢な紅色の扉で、そこからは誰かの話し声が漏れ聞こえる。どこかしゃがれた声で、高齢の男性の声。ユーハオ氏の声だろう。何か重要な話をしているのか、部屋の中には彼一人の気配しかない。

 

 「(俺が先に突入する。合図をしたら入ってきてくれ)」

 「(ハイハイ)」

 

 彼に戦闘能力があれば見張りを頼むところだが一人にするのも怖い。それならば傍に置いた方が守りやすい。

 音を立てないように注意しながらノブを回す。幸い、鍵はかかっていない。彼にとってここは絶対の城。警戒する必要もなかったのかもしれない。

 

 (―――これが、俺の選んだ道だ。)

 

 話し声が止んだところを見計らい、一気に扉を開けると、豪奢な部屋の中には一人の老人が座っている。どうやら先ほどまでは通信をしていたようだ。

 

 

 「だ、誰だ!?」

 「…ユーハオ・ワン。教会法に基づき、空の女神の名において貴殿の身柄を拘束する。」

 「―――騎士団の狗か!」

 

 彼は引き出しに手をやって何かを取り出そうとする。俺は構えた槍に気を込めて突き出した。

 

 「唸れ!」

 

 ゲイルストーム。直線状に嵐を巻き起こすクラフト。

 痩せた体で風を真正面から受けたユーハオ氏は仰け反り、その手に持った拳銃が床に落ちる。体勢を立て直される前に近付けば彼を制圧することは容易い。

 

 「くっ……人魚を手に入れたというのに…」

 「彼女は人魚ではないし、不老不死をもたらす薬でもない。大人しく連行されてもらおう。」

 

 脊髄を槍の柄で一発。

 あまり力を入れずとも彼の体はその一撃で沈み込んだ。

 

 「ジェイ!もう入ってきてくれ!」

 

 部屋の外にいるジェイを呼ぶと、彼はキョロキョロと部屋の中を見回しながら恐る恐る足を踏み入れた。

 どうやら彼にとってはこの豪奢な部屋が宝の山に見えるのだろう。骨董品であろう壺や絵に目を奪われている。

 

 「うーん、あれは高く売れそう…」

 「盗みはするなと言っているだろう…早いところニクスを探し出そう。」

 

 老人の体を肩に担ぎ、ジェイと共に部屋を見渡してみたものの隠し部屋の類はない。ユーハオ氏の私室のある最上階で監禁していると思っていたのだが、別の場所に連行されたのだろうか。

 

 「あの女、どこにいったんだ?」

 「ここだと思ったんだがな。――ゼオ!」

 

 窓を開けて友を呼び出してみたが、いつも上空からやってくる彼がいつまでたっても来ない。万が一のことに備えて摩天楼に到着したあたりから外で待機させていたのにいったいどうしたのだろうか。

 

 「あれじゃない?」

 

 隣に来たジェイが指さしたのは下だ。一つ下の階の窓から尾羽がちらりと見えている。どうやらゼオはこちらに飛び上がってこれない状況であるらしかった。

 

 「急ぐぞ!」

 

 彼がその場で待機しなければいけない状況となるといくつかの可能性が考えられるが、いずれも諸手を挙げて歓迎できるものではない。背中を一筋の汗がつたった。

 最悪の可能性は、ユーハオ氏が『服用』している場合だ。

 俺はそれを否定していた。伝承通りならば人魚から霊薬を作り出すために一定の手順を踏む必要がある。乾燥など時間を要する工程も含むことからこの線は薄い。

 

 次に悪い展開は彼女が殺害されている可能性だが、これもないだろうと思っていた。これはニクスが自衛をするだろうと思っていたのではなく、ユーハオ氏の罪状に関係する理由からすぐに彼女を殺害するとは考えなかったのだ。

 

 しかしこの摩天楼には俺たちよりも前に侵入していた誰かがいる。最上階まで上がってきた俺たちが出くわしていないということは、下の階の部屋にいるということになる。

 

 (―――女神よ!)

 

 ユーハオ氏はニクスをすぐに殺害することはないだろう。しかし、他のものがどうであるか。俺には確信をもってその可能性を否定できない。

 

 できうる限りの速さで階段を下り、豪奢な扉を開けた。

 

 その部屋には、赤の布が張られたソファがあった。そこに座っている影は一つ。

 

 「あら?ウォーゼル卿、お早いですね。入り口で戦闘をしていたばかりではありませんか。」

 「――――はぁ……」

 

 茶器を片手に微笑む彼女に安堵のため息がこぼれた。

 彼女はどうして平気そうにお茶を飲んでいるのだろうか。そして俺はどうして彼女にこうまで振り回されなければならないのだろう。

 

 「ご無事で何よりです。しかし、飲まない方がよいかと思いますよ。」

 「そうですか?不思議な風味がしますけれどおいしいですよ?」

 「え?」

 

 この人は、誘拐した先で出された茶を飲んだというのか。それを出すように指示した老人は彼女を殺そうとしていたというのに。間違いなく薬の類が入っているだろう。

 

 「体調は大丈夫なんですか?」

 「ええ。別に何ともないですけれど…」

 

 「おい神父!早く帰るぞ!」

 

 部屋に飛び込んできたのはジェイだ。そういえば彼のことを考えずにこの部屋に突入してしまったが、何か非常事態があったのだろうか。

 

 「あら、ジェイではないですか。」

 「あら~、じゃねぇっての。下から誰か来る!」

 「何だと?」

 

 

 「いや、本当に驚きました。長老の薬湯が効かない人類がこの世にいたとはね…」

 

 悠然とした足取りで現れたのは若い青年だ。おそらくは、彼が他の構成員たちを昏倒させた張本人なのだろう。しかし彼が着ているスーツには一切乱れがなく、反撃を受けることなく拳士たちを圧倒したことが窺えた。

 

 ジェイとニクスを背後に庇い、ARCUSに触れた。自分は今ユーハオ氏を担いでいる。他に彼を担げる人間もいないから自分で担ぐしかないのだが、さすがに荷物が多い。

 相手は無手であるとはいえ、退路もふさがれてしまっている。出来れば避けたいところだったが、ユーハオ氏を降ろして交戦するしかないか。

 

 「騎士団のガイウス・ウォーゼル卿ですね?」

 「……」

 

 彼の問いかけを黙殺すると彼はにこりと底知れない笑みを顔に浮かべた。

 

 「彼を滅さないのですか?」

 「……どうやら事情に通じているようですね。」

 「ええ。長老には私共も手を焼いていましたので、『お手伝い』をさせていただいたのですがあなたが彼を滅さないとなると、少々話が変わってしまいます。」

 

 目の前の青年が眼鏡の位置を直すと彼の背後から一人の屈強な男が姿を現した。

 

 (新手か…)

 

 「長老の身柄を引き渡していただけますか?外に出すとまずいのはあなたもよく知るところでしょう?彼はあまりに罪を重ねてしまっている。女神の慈悲など届きませんよ。」

 「……」

 「あなたが職務を遂行しないのでしたら、私共がそれを請け負いましょう。」

 

 じりじりと距離を詰めてくる二人。

 ソファのすぐ傍、ニクスの隣にまで下がる。彼女が立とうとしないのだ。

 

 「(ニクス、ここはどうにかしますから窓まで下がってください。)」

 

 そう小さな声で指示しても彼女は一向に動かない。

 じっと青年を見つめて、何かに集中しているようだった。

 

 「(ニクス?)」

 

 ちらりと彼女の様子をうかがうと、薄布越しに彼女が瞬いたのが見えた。

 不思議な色合いの目が鈍く光った、ような気がする。

 

 

 

 

 ドガアアアアン

 

 

 

 轟音、だった。何かが重たいものを押しのけるような、割れるような音。下から何かがせりあがってくる。

 思わず耳をふさぐと小さな手に服の裾が引かれる。ニクスの手だ。眼前に広がっていたのは水の壁だった。勢いよく床下から噴き出す水は部屋を二つに分ける。二人の男は水によって押しのけられたようだった。

 

 ニクスは俺とジェイを外に導こうとする。二人の男たちを迂回してドアから外に出ようとする彼女を俺は逆に窓に導いた。ここの部屋の窓は幸い大きい。ほぼほぼ壁一面が窓だ。行ける。

 

 

 「こっちです!すぐ下まで来ています!」

 「え?どういうことですか?」

 「捕まってください!」

 

 

 ユーハオ氏の体を首にかけて、両足の間から左手を伸ばしジェイを引き寄せて抱える。幸い彼の体重が平均を大きく下回っていてユーハオ氏もそこまで重くないのでもう一人くらいならば何とかなるだろう。

 俺は窓枠に飛び乗り、右手でニクスの二の腕を持って思いきり引き寄せた。力に従って床から彼女の足が浮く。俺は背中から外に身を投げ出した。

 

 「ひっ」

 「待って死ぬ!死ぬ!この高さは無理!」

 「無理じゃない!風よ!!」

 

 アーツの応用で合計4人の体を風で押し上げたものの、さすがに無理があったのかすぐに重力に従って下に落ちようとする。

 ジェイは青い顔をしているし、ニクスもさすがに肝が冷えたのか目をつぶって浮遊感に耐えているようだった。(彼女は総長に空から落とされているのがトラウマになっているのだろう。悪いことをした。)

 さすがに3人を抱えるのは無理があるらしかったので俺は身を捻って遠心力で中空にジェイを投げた。

 

 「おいこらクソ神父!」

 

 罵声を挙げるジェイの体が風を受けてちょっとだけ浮く。彼よりも重たい俺はより早く落ちていき、ジェイと俺たち3人はちょっとずつ離れていく。

 落ちそうになるユーハオ氏を自分の体に固定しようと左手で彼の足をつかむと俺は右方向からの風を感じた。

 

 (―――来た。)

 

 俺は体勢を整えてないはずの場所に現れた足場に着地した。膝を曲げて衝撃を逃がした後に意識のないユーハオ氏と半分気絶しているニクスを転がし、体を縮こめて落ちてくるジェイをキャッチする。

 

 「なんで投げたんだよ!」

 「すまん、お前しかいなかった。」

 

 あの体勢で投げれるとしたら俺をつかんでいないジェイしかいなかったのだが、さすがに怖かったのかジェイが必死に俺を叩いてくる。

 言い訳のしようもないので、か弱い攻撃を甘んじて受けていると転がされていたニクスがよろよろと起き上がった。

 

 「あ、あれ?死んでない?」

 「―――メルカバの甲板です。このまま九龍を出ましょう。」

 

 前回の反省を活かしてメルカバを現場の近くに待機させるようにした。ニクスが水道管を破裂させたためにその轟音を聞きつけて摩天楼の近くまでやってきたのだ。

 飛び降りてくる人間を甲板でキャッチするなどという超絶技巧は操舵士の提案だ。作戦の立案時にそんなことが可能なのかと耳を疑ったが彼によると割とどの守護騎士もやるらしい。

 

 俺はユーハオ氏を担ぎなおしてメルカバの休憩室に2人を案内した。

 

 

***

 

 

 「…で?結局アンタ何者なわけ?」

 

 老紳士を拘束して訓練室に投げ込んだウォーゼル卿にジェイが納得のいかない様子で問いを投げた。まだ飛び降りたときの恐怖から立ち直れないのか、ウォーゼル卿に提供された甘いココアを飲みながら貧乏ゆすりをしている。

 

 「ジェイ、彼は神父さんですよ。」

 「槍振り回して飛行艇乗り回す神父がどこにいるんだよ!」

 「ここにいらっしゃるではないですか。」

 「普通はいないんだよ!」

 

 彼の疑問も最もであると言えたが、これから表社会で生きていこうという人間は知らなくてもいいことであるだろう。進んで荒事に関わる必要もない。彼はこれからまっとうに生きていくのだから。

 私もココアをごちそうになりながら隣に座るジェイをなだめようとしたが、彼は随分気が立っているようだった。

 

 「うーん…どうしましょう?」

 

 ウォーゼル卿に伺いを立てると彼はその手に星杯のメダルを持ち、ジェイの前に掲げた。

 

 「識の銀耀、風の翠耀―――その相克を以て彼の者に『導き』を授け給え――」

 

 何かの呪文をウォーゼル卿が詠唱すると、ジェイはまるで何者かに昏倒させられたかのように姿勢が崩れてしまう。机に突っ伏しそうになった彼を慌てて支え、ウォーゼル卿を見た。

 

 「今のは、一体…?」

 「法術と呼ばれるものです。催眠のようなものと思っていただければよいかと。彼の記憶を少しだけ操作しましたが後遺症のようなものはありませんので安心してください。」

 「で、でも記憶を操作しただけでどうして意識まで…」

 「それはココアに入れた鎮静剤の効果です。彼も疲れていたんでしょう。」

 「え。」

 

 まさかウォーゼル卿がそういったものをジェイに使うとは思っていなかった。これがライサンダー卿であれば納得もいっただろうが、彼は善良さに一家言あるウォーゼル卿である。

 私の意外そうな視線を受けて、彼は眉を下げた。罪悪感というものはあるらしい。

 

 「―――しばらく、考えていたのです。俺が騎士としてどうあるべきか。」

 

 彼がぽつりと打ち明けるようにそう言ったので、私は彼が何について話したいのか、どうしてジェイを眠らせたのか合点がいった。

 彼は自身がどうしてクーロンに来たのか、その本当の理由について話そうというのだ。彼はただ私を探すためだけにクーロンにまで足を運んだわけではない。

 

 仕事があったのだ。

 

 「あの老紳士は、外法であったのですね?」

 

 ウォーゼル卿は首肯した。

 

 「ユーハオ氏は若い人間の血肉を食べていました。それが老いや病に効果があると信じ込んでいたのです。他にも古代遺物の所持や使用の疑いもありましたので、彼の身柄ごと回収する必要がありました。」

 

 どうやら、彼が身に付けている装飾品の中に古代遺物があるらしい。九龍が一度入ると出られない迷宮であるのはそのためなのだとか。

 ウォーゼル卿は深く息を吸うと、重々しく切り出した。

 

 「―――これからのことを、決めなければいけません。このままアルテリアに向かうわけにもいかない。あなたのことを他の騎士に見られると少しまずいですから。」

 

 確かにそうだ。私は廃棄されたことになっている。おそらくは私たちを休憩室に案内したのもその都合があっての事だろう。メルカバを操縦しているスタッフに関しても、落ちてきたのが誰かを『見間違えた』と言うことはできるが彼ら二人に正面から会わせることはできないとのことらしい。

 何だか騎士団も難しい組織のようだ。

 

 そういえば彼はこれからどこかに向かおうとしているが、それはまずい。

 

 「あの、私たちのことはあの部屋に戻してしまってください。」

 「あなたの部屋ですか?」

 「ええ。荷物を忘れてきてしまいましたので。」

 

 

 私はあの部屋に戻らなければならない。()()()()()()だ。

 

 

 





 聖痕について。聖痕を現実世界で顕現させるというのはかなり体力を消耗するらしいです。ケビンの聖痕砲やワジのSクラ乱用とかでもそんな描写がありましたが、ガイウスは二人に比べると体力があるのかして黒の工房脱出時とかⅢのラスダンとか、結構使ってますね。
 トマスさんもそこそこ使っている印象ですが経験の差でしょう。

 そもそも聖痕の性質というものが何なんだ。

 ケビンが魔眼の拘束を聖痕をだして破っていたのはたぶん衝撃波みたいな何かかな?と思うんですが、Sクラで使っているのとはちょっと違う気がするんですよね。
 魔槍を再現しているのか、所持している矢を強化しているんでしょうか?
 碧での聖痕砲では導力を収束して主砲の威力を大幅に強化していると考えられます。違法薬物並みのドーピング(ただし無機物にも有効)ということでしょうか。

 ワジのSクラや副長の匣を考えると『聖痕によって古代遺物の能力を解放/強化している』というのが妥当ですかね。

 ただそれで説明がつかないことがあります。
 『門』です。黒の工房脱出時のアレ。転移陣自体は魔女の力によるものなので、マーカーのような役割をしているんでしょうか?
 それかメルカバに座標を教えているか、ですね。とにかくわからん。あそこで聖痕出す意味とは。

 メルカバには聖痕のパターン認識ができるという能力があるので(離れていても察知できるのか?)あれで座標を教えていたというのが一番可能性として高い。


 それはともかくケビンの聖痕とそれ以外の聖痕でタイプが異なりますがデザイナー変わったんでしょうか?


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25 桃園の誓い

 

 現地での協力員を巻き込んでしまったので送り届けてくる、とそう言って俺は二人をニクスの部屋まで送り届けることになった。

 

 ニクスは入室するとすぐに机に乗った原稿を集め、順番を揃えはじめた。

 

 「新作ですか?」

 「ええ。友人に捧げる中編小説です。」

 

 彼女は順番を全て整えると分厚い紙の束をひもでくくった。それを鍵と一緒に机に置くと、俺の向かいの席に着く。

 これからの話をしなければならない。

 

 ジェイをどこに連れていくのか。そしてニクスはこれからどこへ行くのか。俺が知っておきたいのはその二つだ。

 

 「私は、クロスベルに向かおうと思っています。」

 「クロスベル、ですか…」

 「そこに向かう用事ができました。

 …あと、彼にお金を渡すので資金を稼がないといけません。」

 「まさかカジノですか?」

 

 クロスベルは独立や占領のごたごたがあったとはいえ依然として西ゼムリアにおける経済の中心地だ。再独立を果たして注目度も上がっており、多くの資本が再びクロスベルに集結しようとしている。

 クロスベルで資金稼ぎと言えば一番に思いつくのはカジノだ。賭け事で稼いだ金は一応合法な金なので、そこで稼いだ金が人道的支援に使われるのならばニクスがカジノに入り浸っても(複雑ではあるが)俺はそれを歓迎するべきなのだろう。

 

 「いいえ。そこまで器用ではありませんから筆で稼ぎますよ。」

 

 よかった。

 彼女が黒のドレスでカジノのメダルを稼ぐというのはちょっと想像がつかない。どうやら彼女は出版社や通信社に自分の文章を売り込んで原稿料を稼ごうとしているようだ。

 割はよくないかもしれないが勤労で稼いだ金の方が、なんというか、純粋な気がする。ミラに色はないけれども気分の問題だ。

 

 「クロスベルでしたら、きっとジェイも生きていけるでしょう。清濁合わさった街ですし、学問をする環境としても悪くはありませんから。」

 

 あと、星杯騎士が少ない。クロスベルは幻の至宝の調査のためにヘミスフィア卿が潜伏していたが本格的に滞在している騎士はほとんどいない。大司教が星杯騎士の行いに否定的であるためだ。

 

 「それでしたら、クロスベルまで送っていきましょうか?」

 

 メルカバはまだ九龍の上空に待機させている。俺の仕事がまだ終わっていないからだ。

 

 「いいえ、それには及びません。西に行けばアルタイル市行きのバスがあるそうですから、そこからクロスベルに向かいます。ウォーゼル卿もお忙しいでしょう。」

 

 彼女には、察せられているようだ。無理もない。

 新人の騎士が重々しい顔をしていれば、これから何をするかなど一目瞭然というものだろう。

 

 「……わかりますか。」

 「卿はやはり騎士なのですね。」

 

 今回の一件で、俺は初めて外法の処理のために派遣された。青少年の誘拐と凌辱、古代遺物の無断所持に使用、人肉の摂取や人体を原料とする霊薬の調合。ユーハオ氏はこれらの罪状から外法と認定されていた。

 もう寿命もわずかであろうから放置してもよいのではないかという意見もあった。しかしだからこそ俺を派遣することが決まったのだろう。

 封聖省の方々の気遣いなのだろうか。まさか彼らは『もうすぐ死ぬ人間ならば滅しても罪悪感が薄いだろう』とでも思っているのか。

 

 

 悪趣味だ。

 とんでもなく、悪趣味だ。

 

 

 「いろいろと考えましたが、やはり俺は騎士として生きていきたいと思います。師父から受け継いだ道を歩んでいきたい。罪深くもあるでしょうが、俺は俺自身の罪と彼らの罪を背負いたい。背負えるように、強くありたい。」

 

 ニクスが俺を罵倒するとは最初から思っていない。しかし彼女はただ微笑んでいるだけで、何も言わない。それは少し意外だった。

 

 「何も、言わないんですね…」

 「あなたが求めているのは私からの言葉ではありません。あなたは私から激励されても、否定されても嬉しくはないでしょう?」

 「それはそうですが…」

 

 俺はまだ、この決断が正しいと自信をもって言い切れないのだ。

 これからメルカバに戻って、俺は外法を滅さなければならない。避けようもない使命であるだけに時が経てば経つほど気が重くなっていく。

 

 騎士を続けながら、外法を生かすという都合のいい選択は許されない。だから俺は罪の意識を背負ってでも道を行こうと決めた。

 だがこの部屋にあまり長居すると、決意が揺らぐ気がした。

 星杯騎士の役目を全うしようという気持ちが揺らいで彼を滅せなくなると、師父の道を否定してしまうような気がした。

 だからもうメルカバに戻ろうと俺は席を立った。

 

 「ニクス、俺はもう―――」

 「ウォーゼル卿、どうか私とジェイを街の出口まで送り届けていただけませんか?」

 

 

 この部屋を後にしようとする俺を押しとどめたのは、どこか有無を言わせない強さを孕んだニクスの微笑みだった。

 

 

***

 

 

 「んん……」

 

 どうやらまた寝ていたみたいだ。なんだか長い夢を見ていた気がする。あり得ないくらいにぶっ飛んでいて、はちゃめちゃに怖い夢だった気がするけど、目を開けてしまうと自分がどんな夢を見ていたのか思い出せない。まるで頭の中に靄がかかっているみたいだった。

 

 「あれ…僕は…」

 「ジェイ、おはようございます。さぁ、支度をして下さい。」

 

 そう声をかけてきたのは灰色のベールをかぶった女だ。黒いワンピースを着ていて、名前は、確か……そう。

 

 「ニクス?」

 「ええ、はい。ニクスです。神父さんがクーロンの外まで送ってくれるそうですから、さぁ、これを持って。」

 

 ニクスはそう言って一冊の小冊子を差し出してくる。通帳だ。緑色のそれはなんだか自分にとって大切なものであるような気がしたけれど、自分の所有物ではないような気がする。僕はこんなものを持っていたっけ?

 

 「これは?」

 

 わからないのでニクスに聞いてみると、ニクスは一瞬戸惑ったようだった。

 

 「…忘れたのですか?あなたのお金ではありませんか。」

 「そうだっけ…?」

 

 何分長いこと寝ていたもので寝る前の記憶が曖昧だ。僕とニクスがどういう関係なのか、部屋の椅子に座っている神父が何て名前なのか、ここがどこなのか、僕は何も思い出せない。

 ニクスにいくつか質問しようとしたが、ニクスは神父と何か目配せをしているようだった。

 

 「ニクス?」

 「あ、はい、ごめんなさい。さぁ、表のお店の方に挨拶をして出発しましょう。」

 

 ニクスが僕の背に手を当てて部屋を出ていこうとする。彼女は重たそうな旅行鞄を右手に持っていて、僕はそれが少し気にかかった。

 

 「ん。」

 「??」

 「持ってやるよ。ほら。」

 

 ニクスの手から鞄を攫うように持つと、彼女は驚くべき速さでなぜか神父の方を見た。

 

 「……何?」

 「いえ。嬉しくて、女神に感謝していたんです。ありがとう。」

 「やめてよ、女神なんて言うの。」

 

 僕は女神が嫌いなんだ。その名前を聞くだけでもぞっとする。それをニクスは知っているはずなのにどうしてそんなことを言うんだろう。

 ……僕は女神も信心深い奴も嫌いなのにどうして神父と一緒に行動しているんだ?

 

 「どうした?クロスベルに行くんだろう?」

 「僕に指図するなよ生臭神父。」

 

 そうだ。こいつは生臭いにおいのする神父だ。どことなく血の匂いがして、礼拝堂にいるような司祭とは全然似ても似つかない。

 

 「ジェイ、口が悪いですよ。」

 「いいさ。むしろ安心したよ。」

 

 何だというんだ、二人とも訳知り顔で。どことなくこの二人を見ていると寒気がする。二人とも僕とは何かが違うような気がするのだ。それに、今のニクスの言葉はなんだか違和感がある。この女は果たして人を叱るような奴だっただろうか。

 

 それに、大通りを歩いているとはいえいつもは僕に集ってくるような物乞いたちがちっとも近寄ってこないのが不自然に思えた。

 神父なんだから物乞いをすればきっと応えてくれるだろうに。

 

 「???」

 「どうしたんです、ジェイ。出口はもうすぐそこですよ。」

 

 九龍は、迷宮都市だ。

 一度踏み入るともう出られない。あとは汚泥のような住人たちに巻き取られるままに沼の底まで沈んでいく。

 

 二度と出られなかったはずなんだ。僕があんなに頑張っても、門のところまでたどり着いたことなんて一度もない。なのにどうして僕は今門を見上げているんだろう。

 

 「――なんか変じゃない?」

 「あなたへのご褒美ですよ。」

 「何それ?」

 

 僕はもう受け取ったじゃないか、とそう言おうとして自分がどうしてそんなことを言おうとしたのかわからず、僕はまた首をひねることになった。

 

 今日は変な日だ。

 信じられないことばかり起こる。

 僕は寝る前に何をしていたかも思い出せないけれどなんとなくそう思った。

 

 

 

***

 

 

 「(滅茶苦茶に記憶が混濁しているじゃないですか!)」

 「(まだコントロールが上手くできないもので…)」

 「(そういうことは早く言ってください!)」

 

 なんせ法術なんて1か月程度しか練習できなかった。正直に言って誰かのフォローがないとうまくいかない。それに思ったよりもジェイの精神がまっすぐだったので効きすぎてしまったのだ。

 ニクスの目線が痛い。どうやらニクスはジェイのことを我が子のように可愛く思っているようで、俺の気分は完全にいじめっ子か何かだ。

 疑似的とはいえ更生できたのだからいいことだと思うのは行いの正当化でしかないか。多分開き直ったらとんでもなく怒られそうな気がする。

 

 「(法術の効果は限定的ですから、時間が経てば落ち着くはずです。)」

 「(本当ですか…?)」

 「さっきから二人ともどうしたのさ。アルタイル市まで行くんだろ?」

 「あ、えっとごめんなさい。バスに乗るのですよね。」

 

 疑わし気なジェイの相手はニクスに任せて俺は街道の魔獣を適当に追い払う。アルタイル行きのバスに乗り込むまで付き添いをしてほしいというのがニクスの要望だった。

 

 俺にとってこの時間は最後のモラトリアムのようにも感じられた。

 おかしな話だ。俺は自分の意志で騎士として生きることを決めたのに。

 覚悟が揺らいでいるのだろう。人を殺したくないという思いが師父への尊敬の念を食ってしまうほどに強くなっている。

 

 

 バルクホルン師父、俺はあまりに未熟です。

 あなたの道を継ぎたいという誓いすら俺は保てない。

 どうか、どうか俺を導いてください。

 

 

 天に祈っても師父の声は聞こえない。

 

 『祈りとは、約束なのです。』

 ニクスは女神の無力さを訴えるジェイをそのように諭した。その言葉の意味を一番理解できていないのはきっと俺だ。俺も祈りという行為で、ただ願望を女神の前に示しているだけなのだから。

 

 「あ、バス停ってあれじゃない?」

 「大きいターミナルですねぇ。」

 

 考えているうちに大きな建物が見えてくる。バスの停留所を一つに集めたターミナルだ。多くの人が中に入っていく。それに倣い建物の中に入ると待合室のベンチには空きがないほど多くの人がいた。

 

 「げぇ…めっちゃ混んでんじゃん。」

 「バスまで少し時間がありますから、私は水を買ってきますね。ジェイ、荷物を見ていてください。」

 「ハイハイ。」

 

 ジェイは彼女の鞄を持って壁にもたれる。

 もう俺もお役御免となったことだし、彼に伝言を頼んでメルカバに戻ろう。俺はそう思い壁に寄り掛かったジェイに話しかけようとした。

 だが彼に言おうとした言葉は、彼の目を見て全て引っ込んでしまった。

 

 あまりに強い目が俺を貫いていたからだ。

 まっすぐで、罪を問うような榛色の目。純粋で、善悪を知っている目だ。まるで俺の後ろめたさを知っていると言うように、彼は俺を見つめている。

 

 「ジェイ、君は…」

 「『あれはしょうがないことだったんだと正当化しようとしても、抜け出せないほどの深みにはまってしまう』?『苦しくて、辛い道だから歩んでほしくない』?今なら染みるよ。全部他でもないアンタの経験談だ。」

 

 それは俺が彼を諭そうとして言った言葉だ。

 彼は思い出している。もう法術の効果なんてとっくに切れていたのだ。

 

 「槍を見て思い出したよ。アンタ、やっぱり生臭だ。」

 

 そうだ。俺の体はごまかしようがないほど生臭いにおいがするのだろう。滅した者の血の匂いだ。そして、その匂いはこれからもう消えることはない。

 

 「……やはり君は賢いな。」

 「うるさいなぁ。せっかく人が口裏合わせてやろうとしてんのに。」

 「ありがとう、ジェイ。」

 

 彼には責められるような気がしていた。女神なんてやっぱり嘘だと言われるような気がしていたのだ。信心深いといったニクスの考えが今はわかる。ジェイは心のどこかで女神の奇跡を心のよりどころにしているのだ。

 信心深いものは救われると信じているからこそ、女神への信仰を捨てたことに罪の意識を持っている。信仰を捨てたことを悪いことだと思っている。

 

 「アンタは強いんだろ?辛くて苦しい道でも好き勝手に行けばいいじゃないか。」

 「俺は未熟だよ。君よりずっと弱い。」

 「よく言うよ。あんな高さでも背中から落ちる度胸がある癖に。」

 

 本当の事だった。俺は弱くて未熟で、どうしようもないほど女々しい。

 もっと強くなりたい。罪を背負って生きていこうと心から思えるほどに強くなりたい。そして胸を張って、騎士となりたい。

 師父の道を継ぐことを心から誇りたい。

 

 「アンタがそんなに申し訳なさそうな顔してどうすんの。」

 「君が思っているよりも俺は罪深いさ。」

 「そんなのみんなそうだって。別にそれでいいんじゃないの?どれだけ馬鹿でも、どれだけ罪深くてもああいう馬鹿は助けてくれるから。」

 

 彼が右を向く。

 その目線を追うと、ニクスが両手に飲み物を抱えていた。長旅を見越して多めに買ったのだろうが今にも落としそうだ。

 

 「行ってやれよ。僕は荷物見てるので忙しいから。」

 「……」

 「あと、口裏合わせてやるからたまにはクロスベルに来て僕のこと守れよ。」

 「守る?」

 「はぁ?僕とあいつが何かに巻き込まれずに済むと思ってるわけ?」

 

 守る。

 確かに、ジェイもニクスも誰かに守られないと生きていけないだろう。彼らはあまりに弱すぎる。ジェイの体はこれから栄養を十分に摂ったとしても俺のように大きく育たないだろうし、ニクスは異能があったとしても誰かを傷つけてまで退けることができない。

 

 俺は、仲間や世界を守りたかった。彼らのような人を守りたかった。

 なぜなら人と人のつながりや名も知らぬ誰かの笑顔が、俺にとって尊いと思えたからだ。彼らのことが守れるのなら、彼らが笑っていてくれるなら、俺は何を敵に回しても怖くないとすら思っていた。

 騎士として力を得た時も、その強さを手に入れられたことが嬉しかったほどだ。

 

 俺は、誰かを守るために騎士になったのだ。

 

 「―――ああ。俺はジェイを守ろう。」

 「よろしく。」

 

 誰かを守ることができるというのは怖い。いいことだからだ。

 それを理由に自分の行いをどこまでも正当化してしまいそうになるからだ。俺はジェイのような力のない誰かを守っているからと、誰かを傷つけることすら恐れないようになるかもしれない。

 

 だから俺は罪を数えよう。それは救いや許しを求めるためではない。

 誰かを守れるほど、強くなれるように。

 誰かを滅することと、向き合えるように。

 ただ道を歩むために、俺は罪を数えるのだ。

 

 まだ俺は誰かを殺すことが怖い。その罪を背負えば倒れてしまうのではないかとすら思う。けれどこの素直でない少年は、俺のことを責めはしないだろう。ただ呆れたように俺を見つめるだろう。ただそれだけのことが、俺にとっての救いであるように感じられた。

 

 俺の肩は、俺が守りたい誰かの手で支えられているのだ。それは女神の慈悲よりもずっと確かで、ずっと罪深いものかもしれない。けれど女神の声よりも、しっかりと俺を歩ませてくれる。

 

 「今度、クロスベルに顔を出す。その時は案内をしてくれ。

 …ジェイ、君に風と女神の導きを。」

 「ハイハイ女神女神。」

 

 女神よ、どうか彼の者に裁きを与え給うな。

 彼は共に道を歩む者。

 

 女神よ、どうか彼の者らに導きを授け給え。

 彼らは罪を背負うもの。

 

 どうか力なき民に祝福を。

 そして彼らを守らんとする我が心をどうか許し給え。

 

 

 「―――ニクス。持ちましょう。」

 「ああ、ありがとうございます。」

 「もう行かねばなりませんから、最後にこれくらいのことは。」

 「…寂しくなりますが、仕方のないことですよね。」

 

 彼女から飲み物のボトルをいくつか受け取る。

 ニクスは優しく微笑んでいる。

 

 「ええ。俺はやはり騎士でありたいですから。」

 「きっと女神もあなたをお許しになるでしょう。あなたはもう十分にお強い。」

 

 ジェイも、ニクスも、俺を許すのだと。言外に彼女はそう言いたいようだった。

 今なら、俺は彼女に懺悔ができる。自らの一番の罪を、彼女に打ち明けられる。

 

 「俺は、外法に認定された罪人を見た時に『殺せる』と思っていました。彼らが死ぬということがどういうことか、それを本当の意味で分かっていなかったのです。許されざる行いをした者たちは死ぬべきだと疑っていなかった。」

 

 雑踏の喧騒が、俺の懺悔をかき消そうとする。

 けれど特別な耳を持つ彼女にはしっかりと聞こえているようだった。

 

 「今の俺にはすべての命が尊いものであるとわかります。罪人もそうでないものも、すべからく生きるべき命だと言い切れます。」

 「あなたの決意を、誰も責めません。あなたの行いは誰かが担わなければならない。罪人に死が課せられたなら、それは果たされるべき償いなのです。」

 「……はい。けれど俺は彼らの罪も背負いたい。ジェイのような子が応援してくれていますから、俺はきっとそれだけの強さが得られるような気がします。」

 

 ニクスは何か言いたそうだった。

 けれど何も言わなかった。人を救うのはあくまで人でしかないと言う彼女であるから、きっと俺を救うのはジェイであると思ったのだろう。

 

 「―――あなたの往く道にどうか加護がありますように。私に言えることなんて、きっとそれだけなのでしょう。」

 「ニクスが彼を守ってくれるだろうから俺は戻れるのです。クロスベルには顔を出しますから、どうかジェイを頼みます。」

 「いつまで滞在することになるかはわかりませんよ?」

 「ならばどうか、彼が道を定めるまで傍にいてやってください。」

 

 彼は、守られなければならない。

 あたたかい食事と、布団と、そして家族が必要だ。それを与えるのには間違いなくニクスが適任であると言えるだろう。

 

 

 

 彼らがバスに乗る前、俺たちは一つの約束を交わした。

 俺は辛いことがあっても役目を全うすること。

 ニクスは人を救うためにエゴを乗り越えること。

 ジェイはもう盗みをしないこと。

 

 俺たちは互いが己の道を往くために互いに支え合うことを誓ったのだ。

 互いの声すら掻き消えてしまいそうな騒がしさの中で、俺の心にしっかりと刻まれた約束。

 

 それは女神への誓いではない。

 俺と、ニクスと、ジェイに誓ったことだった。

 

 

 

 そして俺はアルテリアに戻り、一人の外法を滅した。

 手は震え、その後しばらくは誰かと話をすることができなかった。

 けれど俺はどこかで安心していた。

 

 俺が師父の存在や約束を理由に誰かを殺したことを正当化しなかったこと。

 誰かを殺すときに誰かを守らなければと思わなかったこと。

 それは俺が目指した罪を背負う強さだ。

 

 彼を殺した時の感覚を、絶対に忘れない。俺は罪を数えていこう。

 

 

 




ガイウスが人を殺せるか殺せないか、アルテリア編を書いている途中でも全く分かりませんでした。なので東方人街編にまで持ち越すことになってしまいました。

ガイウスにとって支えになる誰かがいないと彼は外法を滅することに向き合うだけの強さを得られないでしょう。
けれども彼は師父を誇りに思う心から騎士であることを投げ出せないでしょう。
聖痕が顕れた以上騎士になるしかないのですが、ガイウスにはそれを言い訳にしてほしくないという気持ちもありました。

その結果ジェイというキャラクターが生まれました。

彼は子どもではありますがガイウスと同じく罪の意識を持っています。
真っ当に生きていきたいという気持ちがあるのは罪を犯してしまったという意識が彼の中にあるからです。
当然、彼にとっては罪の意識は永遠に消えませんからまっとうに生きるというのは困難を伴うでしょう。

しかしガイウスを支えられるのはそのように罪の意識を背負った人なのではないでしょうか。少なくともニクスが「あなたは悪くない」と言ってもアッハイみたいな感じですね。
ジェイもガイウスもこれから罪を背負って生きていきます。
辛いけれども逃げたくないと思っているからです。
ガイウスは誰かを守りたい、ジェイは真っ当に生きたいという気持ちがあるからきっと逃げません。

ガイウスは難儀な人で、師父がガイウスを助けたのは師父の意志でしたがそれに深い罪悪感を感じています。おそらくは自分が上手く立ち回れなかった結果師父を殺してしまったという精神的ショックから聖痕が深く根付いているのでしょう。
幼少期のガイウスに出会った師父はガイウスのトラウマを抱えやすい性格のようなものを見抜き、何かと気にかけていたのだと推測しています。
(さすがに自分がトラウマになるとは思っていなかったかもしれませんが)

そういう難儀な性格の人が人を殺すことに罪悪感を覚えないはずがない…ケビンも外法を滅するという仕事で精神的な自傷を繰り返していたくらいです。
ガイウスは騎士である限り罪の意識と向き合わなければなりません。
彼はもっともっと強くなる必要があるのです。

一人で強くなるというのは大変なことですが、誰かと一緒にならちょっとは救われるものがあるのではないでしょうか。というかあってくれ。


そういった救いを求める気持ちがこんなSSを書かせていると言っても過言ではない。
ガイウスありがとう。
ガイウス大好きだ。
本当に大変な道を選んだ彼に女神と風の導きを。


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26 燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

 

 「―――かくして三人の若者、誓い合えり。彼ら、生まれる時と日を違えども兄弟の契りを結びしからには、心同じくして助け合い、困窮するものを救わん。同年同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せんことを願わん。天よこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、これを誅すべし。」

 

 ああ、実に美しい。

 これが物語か。

 

 「何を読んでいるんだい?ブルブラン。」

 「おや、カンパネルラか。フフフ…気になるか?」

 「見せつけといてよく言うよね。」

 

 道化師は随分気が立っているようだ。あまり刺激してはこの原稿が燃えてしまうかもしれない。

 

 「物語だ。最近面白い作家がいてね、彼女が新作を書いたというので拝読している次第だ。」

 「へぇ、新作の生原稿ってやつ?でもそういうのって盗むと怒られるんじゃないの?」

 「普通はそうかもしれないが、これは彼女が私に贈ってくれたものでね。」

 

 そう、彼女は私にこの物語を捧げてくれたのだ。

 彼女は『時間がなくてこれくらいの長さしか書けなかった』と謝罪文を残したが、それでも『カーネリア』くらいの長さはある。世界観も独特でこの私の心を楽しませるに十分な傑作と言えるだろう。

 

 「どんなストーリーなんだい?」

 「近日中に出版されるだろうから自分で読みたまえ、と言いたいところだが多忙な君は本を読む時間もないだろうからな。しょうがない。」

 「本当に、忙しくてイヤになっちゃうよねぇ。」

 

 カンパネルラは私の向かいに椅子を引っ張ってきて腰かけた。

 報告と見届けの繰り返しも彼にとっては飽きてきたのだろうか、化粧では隠し切れない隈が目の下には浮かんでいる。

 

 「…この物語は創作歴史小説と分類するべきかな?

 とある地のとある男はある日故郷で起きた戦乱に巻き込まれる。混乱する民衆を見て奮起した彼は志を同じくする勇士たちと共に決起し、一騎当千の力を持って少数の軍勢でこの戦乱を鎮圧する。彼はいくつもの戦いを経て土地を任されるようになるが、その名誉に驕らずに人を身分で差別することなく領地の安全を保ち続けた。

 男は民衆に慕われた賢君となったわけだが、他の地方はまたその国での覇権を争うべく戦乱を起こそうと画策する。領地を有するためにこの戦乱に巻き込まれていった男は、長きにわたる争いに身を投じることになる…という話だ。」

 「結構長そうな感じだね~僕には読む時間が足りないかもしれないや。」

 「いやしかし傑作だぞ。途中で何人も軍師が出てくるがこれがいずれも鬼才と言うに足る男でな。いやはやこんな人物を考え付くあの作家はどういう頭をしているのやら。」

 「ふ~ん…最後はどうなるの?」

 「男は最初の戦乱で決起するときに二人の勇士と誓いを交わす。生まれた時が違えども死ぬときは同じくしようという誓いだ。

 だが、その内一人はある戦いで敗れ敵に処刑されてしまう。そしてまた別の戦いにおいてもう一人も処刑される。そして男はどこか心に空虚なものを抱えたまま表向きは王としてよき治世を敷いた、というわけだ。」

 

 大まかなあらすじを、と言うよりは結末を聞いたカンパネルラは声をあげて笑う。部屋に誰かが入ってきたのに気付いていないのか、それとも気にしていないだけなのか。

 

 「へ~かわいそう!いいねその結末。僕そういうかわいそうな終わり方が大好きなんだ!」

 「道化師のお気に召したようで何よりだ。しかし、魔術師の機嫌は損ねてしまったようだね。」

 

 入室してきたのは火焔魔人だ。随分ご立腹のようで手には炎を乗せている。

 

 「あれ?マクバーンじゃないか。なんだい?怒ってるのかい?」

 

 さも今気づきましたといった様子の道化師と憮然とした様子の火焔魔人。彼らは最近折り合いが悪いようだった。どうやら何か確執があるようだが、藪はつつかないに限る。

 火花を散らしながらにらみ合う二匹の蛇をよそに立ち去ろうとするがそれは魔人によって見とがめられてしまった。

 

 「…おいブルブラン。お前何逃げられると思ってんだ?」

 「マクバーンってば怖いねぇ。ほらブルブラン、彼にかわいそうな王の話を聞かせてあげなよ。」

 

 煽るカンパネルラはマクバーンで気晴らしをしようとでもいうのか。全く優雅でない話だ。誰も彼もが魔人の炎をやり過ごせるわけではない。

 

 「……君は相変わらず悪趣味だな。」

 「ブルブランに言われたくないなぁ。」

 

 さすがに今の発言は見過ごせないが抗議するならば次の機会といったところか。私は今にも怒りを炎として噴出させようとする災厄の火種に彼女から受け取った原稿を投げ渡した。

 

 

 「―――どうしてお前がこいつの原稿を持ってる?」

 「当然だ。私はどんな秘密をも盗み出してしまうのだよ。」

 

 それでは、さらばだ!

 

 私が薔薇をその場に残して去った後、果たして場がどうなったのか知る者はいない。

 

 

 

***

 

 

 どうしようもなく、気が立っている。

 あれもこれも、全てあの神官が俺の言いつけをちっとも守らないせいだ。深入りをするなと俺は二度も忠告した。だというのにあの馬鹿はちっとも守らないしいつまでも疑うということを覚えない。

 外の世界を知ればいくらか染まるだろうと思った俺が馬鹿だったのかもしれない。

 

 まさか騎士団の第八位だけでなく怪盗紳士にまで接近を許すとは思っていなかった。

 ましてやあれが本を書いている、だと?

 

 

 「あの馬鹿…なんてものを書いてやがる。」

 

 将来王になる男と、若き英傑二人が交わす誓い。それは長い戦乱の世で終ぞ守られることがなかった。軍の将である英傑たちは王を一人残して死に、王には民と国が遺される。王は誓いに沿って死ぬことが許されずに、軍師や神官と国を治めた。

 

 ああ、よく知っている。

 あの誓いを俺はもう諳んじることができるとも。

 

 どうして、忘れることができたのだろう。二人の友が死んだときのあの無力感を俺は生涯忘れないだろうと確信していたというのに。

 長い年月、俺はその国を治めることになった。そのすべての記憶を取り戻すことはいまだ叶わないが、この物語の中にそのすべてが書かれているというのか。

 

 俺の生と故郷の美しさのすべてを記すにはあまりに薄いこの紙の束に?

 

 そんなわけはない。

 あの神官は俺と同じように長命であったが、俺のことをすべて知っているわけではない。あれも結局は俺の知らないところで死んだ。

 災厄によって乱れてしまった国を目にすることが無いようにと神殿に閉じ込めていたのに、あれは外に出た。

 それまで一度も俺の指示に反抗したことがない神官は、その時初めて俺の意に背き、そしていつしか死んだ。

 

 俺がその時どう思ったか、俺はまだ思い出せない。

 悲しんだのか、怒ったのか、何も思わなかったのか。失望したかもしれないし無力感に苛まれたかもしれない。

 

 いずれにせよ、あの国はもうない。

 俺の故郷はもうないのだ。

 

 

 「…どうでもいい……」

 

 

 滅びるなら滅びろ。

 死ぬなら死ねばいい。

 もうたくさんだ。世界なんて、もうどうでもいい。

 俺はもう二度と背負いたくない。故郷が滅んだと知ったときのあの空虚な感覚を、二度と感じたくない。

 

 女々しいと、弱虫だと言わば言え。

 故郷がなくなった絶望を知る者だけが、俺に石を投げる資格がある。

 

 その意味で俺に石を投げる資格があるのはあの馬鹿だけだが、あれは俺を責めない。いっそ俺のことを憎めばいいものを、俺を未だに王と呼ぼうとする。

 

 俺は王ではない。

 俺を王たらしめていた民はみな死んだ。俺が治めるべき土地は滅んでしまった。

 一度は名も失くし、罪も犯し、力を暴走させた。

 

 それがどうして王であると言えるだろうか。

 

 

 『あなたは本当に我が王であらせられますか?』

 

 

 違う。

 俺はお前の王ではない。

 王は死んだ。あの国とともに死んだんだ。

 

 

 もう思い出せない。

 故郷の空の色も、海の温かさも、光の明るさも。

 思い出したくなんてない。

 

 

 しかしあの悪趣味な怪盗が俺に押し付けてきた物語には、旅人でしかなかった王が治めてきた土地がどれだけ美しいかが記されている。

 その国には緑の海があり、炎のような夕焼けと閃光のような夜明けを繰り返したという。すべての民は王を慕い、夜は親が子にその武勇を聞かせた。王を支える軍師と子孫。木に実る桃と檸檬。大地の恵みと空の涙。戦いの炎と陣太鼓。民と赤子、命の営み。

 そのすべては確かに俺の生き様であったのかもしれない。

 

 いまだに俺が思い出せないあの故郷を、甘やかにあの阿呆は書き連ねている。

 

 だが、だがその物語に記されていない事柄があった。

 

 

 (お前はどう生きたんだ?)

 

 

 神と王に仕えたもの。海に揺蕩いながら政を為したもの。

 この物語を書いた奴は、そいつのことを一番よく知っているはずだ。だというのに、ちっともこの物語にはそいつが出てこない。

 

 詐欺だ。

 王と兵だけで国が治められるとでも思っているのか。

 出版されたら必ず文句を言ってやる。

 それか俺があいつの名義を騙って勝手に続編を出してやろう。

 

 王のように強いくせに全く力をふるおうとしない神官が、王の友になると勝手に宣言して、政を仕切ろうとする話だ。

 最後は、国がいつまでも栄えたことにすればいい。

 

 物語の中でくらい、故郷が栄えても誰も文句は言うまい。

 

 幸いなことに奴の作家としての名も判明した。

 あの馬鹿は星の名前を冠していた。

 

 あいつがあこがれていた、北の空にずっと光り続ける連星の名前を。

 

 

 ああ。今なら少し、思い出せる気がする。

 俺は泳ぐのが下手だ。あいつとは違い水に弱い。だが俺は恐れることなく記憶の海に体を投げ出す。

 なぜ人は記憶を海に例えたのだろう。これが炎の群れや溶岩の流れであったなら、きっと俺にも記憶を手繰り寄せることは容易かっただろうに。

 

 

 「北の天に、回らない星があるそうですね?」

 「旅人の標か?あれはたしかに回らないが、動きはするぞ。」

 

 

 確か、そんな話をした。

 神殿の中で水に浮かぶあの神官は相変わらず何を言っているのかわからない遣いに指示を出しながら俺に突然聞いてきたのだ。

 あれは外を知りたがった。

 

 神殿を出ることが許されていないために、戦いがある度外に赴く俺に、よく話をねだったのだ。

 俺はあの神官に比べて持っている語彙が少なく、故郷を表現することが下手だった。しかしあれは俺の声音や言葉の選び方から、故郷が素晴らしいことを知っていたようだった。

 

 

 「タビビトノシルベ、そういう名前なのですか?」

 「違う。星の二つ名だ。」

 「ではなんという名前なのでしょう?」

 

 

 どうして、こんなことばかり思い出すのだろう。

 俺は己の武勇のすべてを思い出せないくせに。

 あれの死にざまを思い出せないくせに。

 

 記憶の海で、俺は今日もまともな記憶を手繰り寄せられず、溺れている。

 

 

 「ポラリス。そう呼ばれている。」

 「よい名前ですね。」

 

 あれは星を好んでいた。

 それはなぜだったか。いつの日だったか聞いた記憶はある。

 なぜ星を愛するのか。決して手が届かないとわかっているのに。

 

 記憶の断片の中で、あの神官は海に浮かびながら答えたはずだ。

 確か、赤い珊瑚に体を預けて、あの白い角をひっかけながら、言ったはずだ。

 

 

 「――――――」

 

 

 ああ、思い出せない。口が動いている。薄い口がよく動くものだと思った。

 お前の言葉は忘れまい、そう思ったはずなのに。

 俺は大事なことばかり忘れてしまう。とんでもない阿呆だ。

 

 

 ほんの少し焦げた(俺が燃やした)原稿用紙の一枚目、書き出しの前にその星の名前が書かれている。ポラリスは、3つの恒星が非常に近い距離にあるためにまるで1つの星であるかのように見える。

 

 3つが身を寄せ合って輝く星を、あれは特に好んだ。

 

 そして星の名に続くように、物語は始まる。

 

 

 一人の旅人が仲間を得て、失うまでの物語―――

 

 

 

 

 

『 一人の旅人がいた。

 

 その旅人は腰に一振りの剣を佩いていた。身なりはみすぼらしいものであったが、瞳ははるか遠くを見つめ、唇は赤く、豊かな頬の男だ。どこか悠然とした微笑みを絶やすことがなく、賤しくは見えない男だった。

 若いその旅人は、どこまでも広がる草むらの中にたったひとりぽつんと立って、ただ遠くを見つめていた。

 

 彼の傍を川の水が流れていく。

 

 風は清かに草を揺らし、彼の額を擽った。

 太陽の高く、緑豊かな夏の朝のことだ。 』

 

 

 その旅人はまだ災いを知らない。

 悲しみを知らない。絶望を知らない。

 

 故郷の栄華を虚しい心で受け止めながら、ただ復讐への野望で身を焦がす。

 

 この物語の終わりにおいても、結局この旅人は自らの心に宿る炎を消すことができずに終わる。

 炎と言えば自らのうちにのみあると信じて疑わず、災いの火種が外から襲い来るものであることを知らないままに、この物語は一旦の終幕を迎えるのだ。

 

 

 自分も、それを知らないままでいられたら、どんなに良かっただろう。

 

 

 





あのキリカさんは怪盗Bの変装だったわけですが気付いた人がいたらすごいなと思います。

少し短いですがこれで東方人街編は終わりました。
次回からクロスベル編が始まります。

あっあと書き出しは某国史です。


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第4章 クロスベル編
27 善いサマリア人


活動報告などで多用しております「拝読」が謙譲語だと知りました。皆様申し訳ありません。
正しくは「ご覧いただきありがとうございます」でした…


魔都・クロスベル。

エレボニア帝国とカルバード共和国に隣接する西ゼムリアの経済都市だ。多くの資源・情報・資本が流入するために著しい経済発展を遂げたが、その一方で都市全体が犯罪の温床となることは避けられなかった。

二大国の対立も相俟って現代の受難の地とも呼ばれるべき街だろう。

先日めでたく帝国からの再独立を果たし、今現在は国際社会での基盤づくりを再び果たすべく住民全体が一丸となって努力している。

 

その受難の地に、東からの来訪者が二人。

 

 

「はぁ……導力バスってのはせせっこましいね。」

 

一人はやせこけた榛色の少年。曲がった背筋と妙に達観した口調からどこか大人びた印象をも感じる。少年は新品と思われる衣服を着崩しており、余った袖を苛立たし気に捲っている。

 

「審査も無事終わりましたから、あと一本乗ったらクロスベルですよ。ようやく到着といったところですねぇ」

 

もう一人は喪服を身にまとった女性である。ストッキングやベールで素肌や顔も覆い隠した淑女ではあるが、未亡人というには少し幼くも思えた。彼女はバス停の時刻表を確かめ、少年と何やら話をしている。

 

アルタイル市からのバスに同乗していた乗客から視線を集めていた二人組は、兄弟というには年が離れすぎており、友人というには身分が違い過ぎるように思える。

女性は教養ある貞淑な女性であるのに対し、少年は粗野で生意気な遊び盛りの子どもだ。警備隊の隊士も不自然には思ったが、審査の際に提出された書類は正規のものであり、何の後ろ暗い点もなかった。

 

「それにしても、あんたノーザンブリアの出身だったんだね。そうは見えないけど。」

「あちらにいたのは20年くらいでしょうかね…各地を転々と旅しておりましたけれど、あの場所ではいろんな方にお世話になりました。」

 

ちなみにこの女性の戸籍は、女性がとある人から()()()()()()()()()であるが、それは少年が知らなくていいことである。

彼女は常に真っ当であり、出自がどんなに不審であっても善人であることに変わりはない。そんな彼女を見えない形で支援する人々は、案外多いのである。

 

 

「クロスベルについたら何をしようかなぁ…」

 

 

ともあれ、少年は期待と夢で胸を膨らませていた。同年代の少年少女がそうするように、空を見上げて雲の流れをぼんやりと眺めながら、風に髪を揺らしていた。ひょんなことから突然開けてしまった未来に半ば呆然としながら、可能性の塊に思いをはせていたのだ。

 

まるで空に心を奪われてしまったかのような少年の横顔を眺める女性の顔には微笑みが浮かんでいる。きっちりと対称であり、慈愛を感じさせる笑顔だ。しかしこの時女性が一体何を考えていたのか、知る者はいない。

彼女は自分の旅路をしっかりと見据える少年を微笑ましく思うと同時に、ある決意を固めていた。この女性には、なさねばならないことがあったのだ。いつからそんなものが課せられていたのか、誰によって課せられ、一体何が彼女を駆り立てるのか。

彼女は誰にもそれを教えたことはなかった。

 

彼女は何も言わない。彼女は賢く、聡明であり、そして優しい女である。

しかしいつだって、真実を語ることはない。

彼女はこの世界で最も残酷なものを知っているからだ。

 

 

「おい、何ぼーっとしてるんだよ。バス来たぞ。」

「ええ、はい。今参ります。」

 

 

仲が特別いいとも特別悪いとも言えないそんなやり取りを経て、二人は市内に向かうバスに乗り込んだ。クロスベルという地で何かを見出すために。

どこか正反対な二人は二人掛けのシートに腰かけたが、どちらも痩せているために普通に座ると少し距離ができてしまった。

バスでの道中、二人は何の言葉も交わさなかった。必要がないからだ。

 

少年と女性は、旅路を共にしているが互いのことをほとんど何も知らない。どこの生まれであるのか、親がどんな人であったのか、体にいくつの傷跡があって、何を好み何を嫌うのか。

何も知らないが、それでよかった。二人は満ち足りていたからだ。これから己の夢をかなえてみせるというその決意で、彼らの胸は一杯になっていたから、別に互いがどんな存在であれ構わないと思っていた。

 

 

実は二人は似通っている。

親はなく、帰る故郷もなく、これまでいた土地は平和とは言い難い。そして善良な魂を持つが女神を信奉しない異教徒であった。

決意を胸に秘めた似た者同士の異邦者たちは、この日受難の地に降り立ったのである。

 

 

 

 

***

 

 

 

春の新緑が光に照らされている。

点々と咲くラベンダーの花、目にも鮮やかな草木、柔らかい芝、川の流れる音。それらの自然が作り出す音は車のガラスに遮られて少しくぐもって聞こえてくる。

先日まで滞在していた街はとても賑やかで、特殊な構造の耳にはいささか刺激が強かったので緊張した精神がほどけていくような心地だった。

 

 

窓側の席に座り、外を眺めている少年。

私がまずするべきことは彼をクロスベルまで送り届け、そして彼の周囲の環境を整備してやることだ。ウォーゼル卿にも頼まれたので、学習環境は特に面倒を見てやるべきだろう。

若く、有望で、善良な少年だ。

まるであの日拾い上げた命のようにかわいらしくて、勇ましい。その聡明さと機転の良さは英傑の素質と言っていいくらいだろう。

 

自分は間違いなく、ジェイとあの命を重ねて見てしまっていた。否定のしようがないほど、彼をかわいがろうとしてしまう。可能であれば彼が成人し、夢をかなえるまで傍にいたい。支援をしてやりたい。自分が見込んだ少年が晴れがましい気持ちで顔を輝かせる日が楽しみでならない。

 

しかし、私にはそれができないだろう。

 

 

そもそも、計算を間違えていた。

私は陛下への拝謁が叶う前、事が起こるなら30年はあとだろうと思っていたのだ。

甘かった。

自分は30年眠っていたのだ。それに気づいたのがシュバルツァー様に陛下のもとへと案内された時であったので、それはもうどうしようかとも思ったものだ。私は20年もの間何を考えていたのかとすら思う。故郷に戻れなくなったことに絶望している場合ではなかったというのに。暦も異なる世界に来てしまったがために時間のずれに気付くのが遅れてしまった。

 

とにかく、事態はいつ動き出しても不自然ではない。

彼から受け取った手紙も、その前兆を示唆するものであった。

 

もう、その時が近いのだ。

 

 

その時が来ると明確にわかったのは、陛下のお顔を拝見したときだ。

あのときに、最後の確信を抱いてしまったのだ。

 

ああ、私は行かねばならない。

 

それは天啓にも似ており、何の根拠もない直感による閃きだった。しかしそれを感じ取ったからには私は行かねばならない。たとえどんな労力が必要になろうとも、たとえどんな代償を払ったとしても、私は行かねばならない。

 

 

最初は、こんなことをしても何にもならないと思っていた。

それよりもこのゼムリアの地で困窮する人々を救うのが今生の使命であると思っていたのだ。ノーザンブリアの荒地で目にした民の苦しみを忘れたことはない。男も女も、子どもも老人も、全ての人が苦しんでいた。飢餓と貧困に喘ぎ格差を憎む怨嗟の声が耳にこびりついたかのように離れない。

彼らを救うべきだと思う。彼の地を清めねばならないと思う。

 

けれど、あの方のお顔を見たときにその気持ちが揺らいだのだ。

それよりも優先せねばならない事態があると思った。この方に忠義を示さなければならないと、あの日々を取り戻さなければならないと思った。

盲目的なまでの忠誠心に駆られて私はそれまで心に抱いていたものを捨て去ろうとしてしまった。そして、あの方はそれを諫めるかのようにご自身を王ではないと称された。

 

今でも、私はあの方の言葉の真意をくみ取れずにいる。

 

全ての民の嘆きを聞き届けられるように作られた耳はすべての言葉を解するというのに、あの方の言葉の意味だけは私にとっていつも難解で、よくわからないのだ。

私はあの方に尽くしたい。この身と魂のすべてをかけて、民を導くことを助けるために働きたい。あの方の姿を見るたびに私はその盲目的な気持ちに突き動かされてしまう。

あの方が王ではないと仰るのならば私の気持ちなどただの重荷にしかならないのだから、忘れてしまったほうがいいのかもしれない。

けれども、私はどんなに頑張っても故郷と民と王を愛おしく思う心を忘れられないのだ。

 

 

我が王。私はあなたの友であり、臣下であると思っていました。それがすべてだと思っていました。

あなたが王でないというのなら、いったい私はなんであるのでしょうか。

 

私にはあなたの言葉だけがわからない。

だから私は、私の思いを信じ使命を果たします。

 

 

 

ジェイの成長を楽しみに思う心に嘘偽りはない。だが彼の成長を一から十までこの目で確かめられるとも思っていない。彼をクーロンから連れ出すときにそれを心苦しく思ったものだが、ウォーゼル卿の様子だと彼がジェイのことを気にかけてくれるようだ。あまり悪いように考えずに済むというのは随分気が楽だった。

 

彼は彼で生きていくだろう。

私は私にできる範囲でそれを支えながら、使命を果たせばいい。

 

 

実に単純明快な話だ。

 

 

***

 

 

九龍も相当だったけれど、この街もこの街で猥雑だと思う。

何というか、金融都市として時代の最先端を行っていますという風に繕っているのが余計に歪だ。様々な人間が溶けあうように身を寄せ合って、中身はぐちゃぐちゃであるというのに、病魔のようなものを取り除いただけで乱れていたものが整然とするとでも思っているのだろうか。

 

クロスベルというのは実によく人間性を繁栄した都市だ。

 

東通りの宿に荷物を降ろした僕は、何とはなしにそう思った。

 

言っておくけれども、別に僕は九龍の外の人間に期待なんかしていない。ニクスや生臭神父のような俗っぽさがないような人間は少数派だということをきっちり分かっている、

人間には欲求があって、それを満たすためにあたたかなベッドと、うまい食事と、そして人の体温が必要だ。けれどそれがまるで後ろめたいことのように隠されたり、都合の悪いものであるかのように扱われるとむかむかするのだ。

 

皆同じ人間なのに、自分たちは特別で理性的だとでも思っているのか。

 

悪びれもせずに犯罪をする九龍の人間と、欲を持つくせに欲を恥じるクロスベルの人間。なんというかどっちもどっちだよね。

 

「クロスベルを見てみてどうですか?」

「…なんというか、思ったよりぐちゃぐちゃしてるよね。九龍とは別の意味で。」

「というと?」

「旧市街とかさ、ああいうのがあからさまに隔離されてるとみられたくないんだなーって気持ちを感じる。隠したってしょうがないのに。」

 

ベッドに寝転びながら足をばたつかせているとニクスはサイドチェストに水を置いた。僕はそれを取ってボトルのふたを開ける。寝転びながら呷ると少し水がこぼれてしまった。

 

「…この街は嫌でしたか?」

「そうじゃない。僕は人間ってのがどうしようもない生き物ってことに呆れてるだけ。神様はどうしてもう少しマシな生き物に作らなかったんだろう。」

 

女神というのは創造の神であるらしいけれど、その産物である僕らはこんなに不完全でなんというか、どうしようもないのだ。あやまちを犯したり、傷つけられたくないくせに傷つけたり、後ろめたいことをやったり。どうして僕らはそんなにダメな生き物なんだろう。

 

……やだやだ。やっぱり女神のことを考えると鳥肌が立つ。

 

 

「ふふっ…」

 

 ボトルをベッドに投げだすと濡れた口元にハンカチがあてがわれる。真っ白なニクスのハンカチだ。ニクスはいつも浮かべている微笑みよりもちょっと楽し気に笑っている。

 

「なにさ。」

「いいえ、やはり貴方、神学校に向いているかもしれませんよ。」

「はぁ?」

 

何を言い出すのだろうこの女は。人のことを信心深いと言ったりアルテリアに行けばいいと言ったり、訳が分からない。

 

「神が人に試練を与えるのならば、人が神に試練を与えることも許されるでしょう。本当に神が絶対であるならば、たとえ誰が疑おうとその正しさに揺らぎはないはずです。」

「あんたも神様は正しいって思ってるわけ?」

 

どこか、含みのある言い方だと思った。

 

「正しさとは、比較の末に生まれてくるものです。何物にも勝る正しさが神であるとするならば、神は普遍でしょう。しかしジェイ、神は死ぬのですよ。」

「……どういうこと?」

「いずれ自分の言葉で理解できる日が来ます。安心してください。」

 

こいつは驚いた。何もわからない。

この女はいったい何を言っているんだ?

胡乱な目でニクスを見ても、ニクスはただただ微笑むばかり。ふざけんなと叫んでやりたいが、この女で口げんかに勝てる予感が全くしない。抗議したところでまた一蹴されるのが目に見えている。

わざわざ無い頭を捻ってまで興味もないことを聞いたところでしょうがない。僕はベッドに体を沈めて寝ることにした。バスに長時間乗っていたせいで体がミシミシ悲鳴を上げて辛いのだ。

自分の体が軽いのか、ここのベッドが上等なのか、僕の体はスプリングに跳ね返されて体を打ち付けると同じくらいの力を受けて飛び上がる。

 

そうして楽しんでいる僕を横目に、ニクスは外出するようだった。

 

「出ていくの?」

「ええ。私はとにかく、あなたは長期の滞在になるでしょう?住居や学校のことを調べてきますから、ゆっくり寝ていてください。鍵は持っていきますから街に出ていただいても大丈夫です。暗くなるころには戻ってくださいね。」

 

ガキじゃないんだぞ、と言おうとしたがニクスを見るとやけに楽しそうに旅行鞄を広げているので何か言うことも憚られてしまった。この街からはちょっとばかし浮いてしまうような清らかな女は、手提げかばんを手に持ってのんびりと出ていく。

 

 

自分はともかく、か。

確かにそれはそうだ。思えばあの女は僕に金を渡す約束くらいしかしていなかった。クロスベルに来ていろいろと面倒を見てくれているのもあの女のお節介でしかないのだ。

ゆくゆくはあの女はクロスベルから出ていく。

 

考えてみれば当然のことだというのに、なんだか現実味がない。

僕の前に現れた時と同じように、僕の前から去るときも、突然だというのか。今更寂しさなんてないけれど、変な女だと思う。

自惚れじゃなくて、僕はあの女に可愛がられている。あの女に少なくない額の金をもらっているし、あの女は僕が真っ当に生きていくことを心から喜んでくれている。だというのに、あの女はその可愛く思っている子どもの前からいつかは姿を消すなんて、あんな風にほほ笑みながら口にするのだ。

 

 

僕は母親が死んだときおかしくなってしまうくらい悲しかったし、辛かった。思い入れがある人間との別れとはそういうものなのだと僕は知っている。

だというのにどうしてあの女はあんな風に平気な顔をしているのだろう。

 

 

わからない。

女神なんていうものよりもずっと確かにそこにいる癖に、どんな人間よりも不確かだ。わからない。わからない。あの女が、わからないのだ。

 

どうして、あんな風にほほ笑むのか。

どうして、当たり前に人を助けられるのか。

どうして、誰に傷つけられても嘆かないのか。

 

僕は九龍にいた多くの人間と同じように、そしてこのクロスベルにいる多くの人間と同じように、どうしようもない人間だ。

あの生臭神父も、どうしようもない奴だ。

 

そんな僕たちとあの女は違い過ぎる。

余りにもあの女は人間離れしていて、訳が分からない。

 

何を食ってどう育てばあんな人間になるというんだ?

 

 

ま、いいか。

どんな女だろうと僕の役に立ってくれているのだから、いいんだ。

 

 

「……これからどうすっかな…」

 

僕は今、何でもできる。

自由で、金があって、応援してくれる誰かがいて、安全に生活できている。

今日は、明日は、明後日は、何をしよう。

 

この僕が未来のことについて考えられる日が来たことが、ようやく実感として心の奥の奥からじわじわと湧き上がってくる。

温かくて、黄色い色の、ふわふわとした何か。

柔らかくて形がなくて、じんわりする気持ちのいいきれいなもの。

そんなものが僕の胸のあたりを満たして、僕はゆっくりとあたたかい泉のようなどこかにゆっくりと沈んでいく。

 

 

もう、寝てしまおう。

春の日差しが東方風の丸い窓から差し込んできていて、布団はあたたかくて、空気は乾いている。

こんなにも心地いい場所でただ自分の事だけを考えてうとうととしていられる。

 

 

こんなに、こんなに幸せなことはない。

いつぶりだろう。こんなに柔らかい気持ちでいられるのは。

 

 

***

 

 

龍老飯店を出て最初に向かったのは行政区の市民会館だ。行政施設は閉館するのが早い。学校と住居の情報は資料も多くなるだろうからできることなら後回しにしたかったけれども、ジェイとは今夜のうちに話し合っておきたい。

 

住居は東街区のアパートで単身用、治安が良く便利なエリア。学校は…飛び級でも通える高等教育施設が妥当と言える。士官学院でも比較的若くのうちから通った学生がいるそうなので医科大学や工科大学ならきっと子供でも相応の知識があれば受け入れてくれるはずだ。

 

(…社会問題を組み込んだ医療小説でも書いた方がいいでしょうか)

 

私が知る限りジェイは随筆よりも物語を好んでいる。書籍をきっかけにして知識を肉付けしていく方向性で勉強を見れば短期間の勉強でもどうにか試験を突破できるかもしれない。

贔屓目かもしれないが集中力と意欲と地頭がある。きっと大丈夫だ。

 

 

「それではこちらの資料をいただいても宜しいのですか?」

「ええ、勿論です。またお困りのことがあればいらしてください。」

 

優しい受付の方がクロスベルだけでなく近辺の地域にある高等学校の資料をくださった。なんでも電車通学で学校に通う人が一定数いるらしい。彼の年齢を考えると寮があるのが一番望ましいが、ジェイは十分に自立しているのだし、そういった学校も選択肢に入れるべきだろう。

あれもこれもと考えているうちに資料の束は随分分厚くなってしまった。これでは持ってきた荷物が倍になったようなものだ。今日はこれからが本番だというのに、先方に呆れられてしまうかもしれない。

 

行政区から東側に抜け、港湾区に移動する。

私はたくさんの紙が入った手提げかばんを背負いなおしてクロスベル通信社の戸を叩いた。

 

 

 

「お待ちしてました!先日は連絡をいただき、ありがとうございます。」

「こちらこそ突然の連絡となってしまったにもかかわらずお時間をいただき、ありがとうございます。」

 

クロスベル通信社には以前からお仕事のオファーをいただいていた。これまでは滞在している場所の出版社を頼って作品を出していて雑誌や新聞の連載を持つことは少し難しかった。しかし今回雑誌に掲載する連載小説を書いてほしいというお話をいただき、この滞在を機に作品を見ていただくことにした。

 

通信社でよい評価がいただければクロスベルでの単行本の出版などもやりやすくなるかもしれない。虫のいい話かもしれないけれどもほんの少し、そういう気持ちもあった。私は文筆家としての活動をこれまで以上に頑張ろうと思っていたのだ。

 

それは単にお金を稼ごうとか子どもたちの学習の助けになるようにとかではなくて、私に書きたいものができたからだった。

最初はぼんやりと思っていただけだったけれど、キリカ様に差し上げるお話を書いていて、私は自分が本当に書くべき物語を見つけた気がした。

 

あのお話の比にならないくらいに長い物語になるだろう。聖典とまではいかないがそれに近いくらい長くなる気がする。

この世界で私にしか書けない世界の話。とある王が数々の戦いを乗り越えて国を治める話。多くの英傑たちと力を合わせる冒険譚。

 

今回通信社に持ち寄ったのはそのお話ではなくまた別の中編小説だけれど、いつかはその本を出版できるように実績を積み重ねていきたいと思っている。

世界観が独特、とかいうレベルを通り越して別の世界のお話だ。不評かもしれない。受け入れてもらえないかもしれない。異教徒の話であると思われるかもしれない。

 

けれど私はそれを記したい。

それを人々に認めていただけるように、頑張っていきたい。

それは私が見つけ出した使命とは別の、人生での目標のようなものだ。

生活していると、そんなものがどんどん増えていく。あれが見たい、これが食べたい、あんなことがしたい、こんなことがしたい。

全部叶うとは思ってないけれどできれば全部叶えたいと思う。

案外、生きることはそういった欲求に支えられているのかもしれない。

 

 

「ニクスさん、先日郵送していただいた原稿と合わせて拝読したのですが、やはりわが社としては連載小説だけでなく、コラムなども持っていただけないかと思っているのですがいかがでしょう?」

「ありがといお話なのですけれど、クロスベルを離れたりもするでしょうからあまり社会情勢に即したことをすぐには書けないと思うのです。」

「社会問題についてのコラムもいいですが、人生相談のコーナーを持つなんて案もありますよ~」

「人生、相談?」

 

 

私が。

誰かに、人生について相談される?

まさかそんなことがありえてなるものだろうか。私は人間として不完全なのだ。

 

「ええ。恋愛とか、将来とか、勉強とか……読者からのお悩みに答えるんです。最近は教会に懺悔するよりも共感を集める方法での悩み相談というのが流行っているんですよ。」

「雑誌に掲載すると多くの読み手から悩みについて共感を集めることができる、ということですか?」

「そうなんです!匿名性も高いですから結構リクエストも来ていて…ラジオなんかもいいんですけれどクロスベルにはあまり著名なキャスターがいませんからね。」

「……。」

 

黙り込んでしまった私に何か思うところがあったのか、女性記者は「ま、考えといてください~」と言って私の原稿をパラパラと眺めていく。

 

「あ~学園モノですか?最近は警察モノとかちょっと大人向けの話が流行ったのでこう言うので若い層の関心も引けると助かります!

…あ~懐かしい。私もこんな時期あったなぁ…」

 

彼女は随分と元気で、エネルギッシュだ。記者という職業を目指し、その道を往くプロフェッショナルで、職業と仕事に誇りを持っていることが話をしているだけで伝わってくる。

小説を読んでいる表情を見ているだけで彼女が読んでいるシーンがどこかわかるほどに善く動く表情はしかし彼女の印象を幼くさせない。彼女の信じるものに一本のしっかりとした筋があるからだ。

 

「……こういった子どもたちの思春期特有の悩みとか、純粋な疑問って案外大人にも響くところがありますよね。私この女の子の台詞好きです。私もこんなこと思った覚えあります。結局うやむやになっちゃったんですけど…。」

「案外そんなものかもしれませんね。悩みや疑問に答えが見つかることなんて稀で、大抵はそれより気を取られてしまうことが出てきてしまって、それどころでなくなってしまいます。」

「そうそう!ほんと、悩んでたことなんてほんのちょっとしたことで忘れちゃうんですよね~!」

 

いつか答えを出さねばならないとわかっていることでも、今度こそ向き合わなくてはならないと思っていることでも、本当に答えが出せることは少ない。

答えを出すことが難しくて、そして周りは決して自分が答えを出すまで待ってはくれないからだ。時間というものは残酷で、都合よく針の進みを緩めたり急にしたりはしてくれない。いつだって平等で、公正だ。

 

余りに忙しない世の中に生きていて、私たちは様々なものを見落としている。

そんな中でも自分の人生をかけて向き合っていくべきものを見つける。辛くて、苦しくても逃げられないことを確信するほどの命題に必ず出会う。

その命題は人によって違うけれども、みんなそれを解決したいと思ってあがいている。

 

この中編小説は成長途中にある子どもたちがそれぞれの課題に出会ってしまい、迷い悩みながら答えを探していく物語だ。自分の悩みに手いっぱいになった子どもたちは時に衝突しながらも人生という旅路へと漕ぎ出していく。

 

 

「今のご時世、大事なのは何としてでも障害を砕く力というよりは、人を受け容れるような優しい勇気なのかもしれません。」

「優しい勇気…よい言葉ですね。今度使わせてほしいくらいに。」

「あっ私、小説家にもなれちゃうかも~?」

 

おどけた調子でにこにこと笑う女性記者は、私が提出した原稿について再来月の雑誌に掲載することを確約し、章分けなどについての詳しい打ち合わせをしたいと願い出た。

彼女が食事をしながら話したいというので、私は彼女に宿泊先を教え、明後日に龍老飯店で打ち合わせをすることになった。

 

良い反応だった、と思う。

これからのことは何ともわからないし、その雑誌を読んでくれた方がどんな感想をくださるかはわからないけれど、見込みがあるとは思っていただけたはずだ。

ここまでメジャーな雑誌での連載は初めてだから、緊張する。クロスベルタイムズと言えばクロスベル以外に住む人も購読していることで知られているくらいだ。

評価してもらえれば、きっと文筆家としての活動に弾みがつく。

 

今までちまちまとしか書いていなかった本が、より多くの人に読んでいただける。

完全新作も出版の機会がやってくるかもしれない。

 

(……ここから、ですね。)

 

 

人のために生きる。

人を救うために人になる。

もっと多くの人を、助けられるようになりたい。

 

ただそれだけでぼんやりしていた気持ちが、どんどん具体的になっていく。

セルナート様は私の未来を、見抜いていらしたのだろうか。初めてお会いしたときにあの方はこんなことを言っていらした。

 

私の手は弱き民に差し伸べるもの。

私の言葉は教えを授けるためのもの。

 

その通りだ。私は本を通して子どもたちに何かを教えたい。そして同時に困窮に苦しむ人々を助けたい。

どうして彼女はそんなことまでわかったのだろう。私はその時どのようにして人を救うべきか、まだわかっていなかったというのに。

 

彼女は、私のことを何だって見抜いて見せた。私の過ちも、私の迷いも。彼女は人の何たるかを知っていて、私はそれを知らなくて、愚かだった。

私が人になるために、彼女はなんと言ってくださっただろうか。

 

 

『己の心の中に灯る炎に身を任せるのさ。燃えるような劣情に身を焦がして、愛したいという衝動で脳髄を揺らしながら、その小さな唇で直接――――』

 

 

(……いけない)

 

それは、いけない。

体が震えてしまう。何が何だかわからなくなってしまうから、だめだ。

自我を失ってしまいそうなほど、心が揺れてしまう。あの時の彼女の熱を忘れられないほどだというのに、どうして正気でそんなことに舵を切れるだろう。

 

もしも、もしも本当に彼女が言うままこの心の奥に灯る炎に身を任せてしまえば―――

 

 

 

「ニクスさん?」

 

「……え?」

 

港湾区の路上で立ち尽くし、考え事にふけっていた私に声をかけて下さったのは、先日九龍でお会いした青年だった。

 




クロスベル編が始まりました。
ちょっとずつ中盤に向けて動き出した?感じでしょうか。
自分でも終盤しか決めてないのでこの小説が一体どれくらいの長さになるのかわからないのですよね…

ニクスがジェイに与えたお金は20年間ちまちま本を書いたお金が殆どなんですがたまに偶然に偶然が重なって手に入ったお金とかが結構ある。

金銭感覚のないニクスにとってはどうかわかりませんが、九龍でゴミに紛れて生活していたジェイにとっては相当なお金だったようです。早速服を購入した模様。

しかしお話を書いているとキャラクター(ニクス)に愛着が湧いてきますね。
最初は人でなしを書いていたつもりなんですが随分かわいらしくなってしまってる気がします。


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28 金持ちとラザロ

 

やることが、やることが多い。

 

とにかく最近は忙しくてみんなで悲鳴を上げていた。指名手配が解除されて再独立のための騒動が一段落したと思ったら待っていたのは支援要請の嵐。

遊撃士協会と協力体制で取り組めるとはいえ毎日やることが多すぎるのだ。

 

おまけに再独立したおかげで書類の記入方式が変わった。名前だけ見れば帝国に占領される前に戻っただけなのだが、そのことで影響を受けた事務手続きは数えきれないほどである。

自治州から帝国の属州に変わったときはまだよかった。自分たちが事務仕事をすることなんてほとんどなくなっていたし、そもそも帝国はそういった併合に慣れていた。併合した土地により素早く基盤がしけるように完璧なマニュアルがあった。

 

けれども、その逆は本当に難しい。

2年もの間クロスベルという地に深くまで根差した帝国という草は、そこんじょそこらの努力では抜けきらない。

そして一番影響をもろに受けているのは、市民の目に見えていない所なのだ。

 

 

「おぉいロイド~判くれ判」

「傍にあるんだから自分で取ってくれ…」

 

変なところでけち臭いのが公務員のお役所仕事の悲しいところ。警察に提出する報告書の一番下には「エレボニア帝国領 クロスベル州」と書かれている。これを「クロスベル自治州」にするためには大きなハンコを押して上書きする必要があるのだ。

このハンコが百貨店で売られたとき、飛ぶように売れた。支配人はさすがの商才の持ち主だと感心したものだ。そんなこんなで支援課にもこのハンコは導入され、書類作成の時には手放せない道具になった。

 

一階のダイニングテーブルで書類作成をするようになったのも、このハンコが支援課で共有のものであるからだ。ランディのように書類仕事が苦手な人にとっては煩雑な作業が増えて辛いだろうが、案外みんなで一緒に作業するというのも悪くない。

作業効率が落ちにくいし、何より支援要請が来た時にすぐに反応できるのだ。

 

 

Pi-Ron!

 

「お!支援要請だぜ~」

「こらランディ、要請が急ぎでない限りは担当分を終わらせてからだ。」

「今日提出の分は終わらせてっから心配すんなって!」

 

本当だろうか。ランディは所属がコロコロと変わった影響でいまだに前の職場の仕事を抱えている。有能な分タスク管理の重要性が高い人材なのだ。油断するとすぐに書類やスケジュールで泣きを見ることになってしまう。

 

「どこからだ?」

「……珍しいとこだな。」

 

こちらに背を向けて端末を操作するランディの声が真剣なものに変わる。

もしや緊急の要請だろうか。

そう思って席を立った俺に、ランディは体を少し寄せて液晶を見せてくれた。

 

 

「違法薬品販売者の摘発…?」

 

 

依頼主は、今現在クロスベルの裏社会でトップを張っている貿易会社の支社長だった。

 

 

 

***

 

 

「いや、本当にクロスベルまでよくお越しくださいました。今現在わが社も大切な時期でして、ニクスさんのご助力は嬉しい限りです。」

「本日の朝に到着したところで、明日にでも挨拶に伺おうと思っていたのですが…アポイントもなかったのに宜しいのでしょうか…?」

「本来であれば我々が九龍までお迎えに行くのが筋であるところをご足労いただいたのですから、これくらいなんてことありません。」

 

九龍の摩天楼にて私にある手紙を預けてくれた青年は、その名をツァオ・リーといった。彼は年若いながらもクロスベル支社を任されている切れ者であるらしく、九龍に私がいると聞いてやってきたのだとか。

一体そんな有能な人が私に何の用かとも思ったが、手紙を見て納得がいった。

 

「でも驚きました。昔の事ですのに、ツァオ様のお耳に入っているだなんて。」

「私たちとしてはもう少し早くにコンタクトを取ろうと思っていたのですが、ここ最近ニクスさんはお忙しくしていらしたようでしたから…でも本当に間に合ってよかったですよ。」

 

質の良い唐草模様のソファに座ったツァオ様は人の好い笑顔を浮かべていて、人懐っこい印象を受ける。商人らしい人脈の広さとフットワークの軽さは彼の大きな武器と言えるだろう。

 

 

「それで、お受けいただけるということでよろしいでしょうか?」

「勿論です。未熟者ではありますが、お役に立たせてください。」

「ああ、よかった!本当にありがとうございます。…何かお困りのことがありましたら是非ご相談ください。社の未来に関係なく、私個人として今後ともニクスさんと良い友人でありたいのです。」

 

笑顔でそう言ってくれるツァオ様は本当にいい人だ。

社員の皆さんにも良く慕われていて人望の厚さが窺えるようであった。

 

「ええ、その時はお世話になります。お忙しい日が続くかとは思いますがどうぞご自愛ください。」

「ありがとうございます。ニクスさんのご都合がよろしければお茶をごちそうさせてくださいね。長老よりもおいしいお茶をご馳走いたしましょう。」

 

それは楽しみだ。

東方のお茶というのは独特な風味がするものかと思ったがどうやら違うらしく、私は本当の東方茶の味を知らないことになる。

ツァオ様はいろんな伝手があるらしく、運がよければ珍しいお茶をいただけるかもしれない。

 

今日は港湾区で偶然居合わせただけなので話は軽い挨拶と打ち合わせにとどめて、また改めて機会を設けることになった。ツァオ様もお忙しいのだろう。多忙な身でも偶然出会っただけの私に時間を割いてくださるのは彼がタスク管理をきっちりとしているからなのだろうか。

 

「それでは、私はそろそろ失礼いたしますね。」

「ええ、外まで送りましょう。」

 

そう言ったツァオ様の案内に続き玄関口まで行くと、どうやら社員のどなたかが来客の応対をしているようだった。来客は二人の青年で、一人は茶髪、もう一人は赤毛の男性だ。

特に赤毛の男性はオレンジの上着を羽織っていてなんだか見覚えがあるような気がする。

 

 

「…ってランディ様ですか?」

「―――おい、ニクスちゃんじゃないか!なんでここにいるんだよ?」

「ランディ、知り合いか?」

 

やはり、ランディ様だ。

ユウナからの手紙で前の職場に戻ることになったのでクロスベルに帰られたと聞いてはいたが、まさかこんなに早く再会することになるだなんて思ってもみなかった。

 

「おや、ランディさんとニクスさんは知己であったのですか。」

「ランディ様には帝国でお世話になったのです。」

 

ランディ様はクロスベルの警察で勤務なさっているというお話を伺ってはいたが、ツァオ様ともお知り合いであるとは。どちらも人脈が広そうな方であるとは思っていたが、まさかクロスベルでは警察が一つの貿易会社とも密にやり取りをしているとは思うまい。

パトロールの一環だろうか。

 

ランディ様は何か言いたげに私のことを見ていた。

それは確かに、大陸東部に行ったはずの人間がなぜかクロスベルにいるのだから不思議なのだろう。私も詳しく説明がしたいとは思うが、何分長くなる話だ。

 

「あの、ランディ様、またお会いできてうれしいです。

そちらの御方は初めまして、ニクスと申します。色々とありまして今は一時的にクロスベルに滞在しております。また改めて挨拶に伺いますのでお話はその時に。

…東通りの龍老飯店という宿に宿泊しておりますので何かご用がありましたら申し付けてください。」

 

出来れば今まであったことやクロスベルを訪問することになった経緯など話したいことが沢山あるが、ここはツァオ様のオフィスで会って自分が借りている部屋ではない。ゆっくりと話す場はまた改めて設ける必要があるだろう。

何だか改まった機会を探してばかりだと思う。資本の集まる土地にいると何かと忙しくなるものなのだろうか。

 

私はそんなとりとめもないことを考えながら、ランディ様と茶髪の青年、そして笑顔で見送ってくださったツァオ様とラウ様に一礼してオフィスを後にした。

 

 

なお、一応言っておくが私は黒月が九龍という地を牛耳っていたシンジケートであることを忘れたわけではない。

ツァオ様は有能でにこやかでいい人だと、そう思っただけの話である。

 

 

 

***

 

 

 

何だか、不思議な人だった。

質素な黒いワンピースに灰色のベールというのも中々見ない服装ではあるが、それよりも彼女のような人が黒月に何の用があったのか。

どうやらツァオさんと親しい様子であったけれど、裏の顔があるとはとても思えないような人だった。

 

ランディと帝国で知り合ったということは、士官学院の関係者なのかもしれない。

 

「……おい、なんでニクスちゃんがこのオフィスに出入りしてる?」

「ふふ、企業秘密です。どうぞ詳しい話は彼女に聞いてください。」

「あんた、あの子の後ろについてるのが誰か知ってんのか?」

 

ランディがそう尋ねても、ツァオさんは全く動じていないようだった。

 

「彼女の来歴は聞き及んでいますが、彼はもう彼女のバックについていないはずですよ?」

「ランディ、どういうことだ?」

「さっきのニクスちゃんは、火焔魔人の元部下だ。」

 

火焔魔人の、元部下。

実に簡潔な来歴紹介で分かりやすいことこの上ないが、俺はしばらくこの言葉の意味が分からなかった。

だって火焔魔人と言えば、結社最強の執行者だ。一度はクロスベルに訪れリィン達に立ちふさがったという、あの。

彼女はそんな男の部下だったという。つまりは、彼女は結社の一構成員であったということ。

 

「えぇっ!?」

 

嘘だ、と思った。思いたかった。

ツァオさんの前であるにも関わらず素っ頓狂な声を上げてしまったのも仕方がないだろう。なぜなら自分の目から見ても彼女は―――

 

「あの女性は明らかに非戦闘員だっただろ!?」

 

明らかに弱い。弱すぎる。

筋肉があまりついていないし、何よりフラフラし過ぎているのだ。落ち着きのない幼児のような足取りで、どこかふわついていた。

結構治安のよくなったクロスベルでもひったくりにあいそうだ。

あれで実は諜報員だというオチが付いていたら俺は素直に彼女に拍手を送ろう。

 

「あの男が結社に入る前の話らしいぞ。んで、今も割と仲がいいんだと。」

「そ、そうなのか…」

 

つまりランディは『彼女に被害が及べば火焔魔人が黙っていない』と言いたいのだろう。なるほど彼女は無害でも怖い保護者がついているということか。事情のすべてが分かったわけではないが、なんとなく要注意人物であることは理解できた。

 

「ニクスさんは非常に優秀な女性で、私の友人なのですよ。以前共和国でお会いしたのですが、さっきそこで偶然お会いしましてね。挨拶をしていたというわけです。」

「ま、いいけどな。地雷踏んで痛い目見るのはあんただ。」

「≪銀≫殿という唯一無二の親友をロイドさんに奪われてしまってここの所ずっと寂しかったのですが、ニクスさんは優しい方ですから。これで私の苦労も報われるというものです。」

 

ツァオさんのこんな不敵な笑みを見るのは久しぶりかもしれない。彼女とのつながりがあることがそんなに彼にとって喜ばしいことなのか。彼はラウさんたちとは違って荒事に向いている人間ではないだろうに。

 

「ツァオさん…」

「支援要請の件で来てくださったのでしょう?どうぞ奥へ。今回お願いしたいことについて説明させていただきます。」

 

眼鏡の位置を直した彼は、既にいつものちょっと胡散臭い好青年に戻っている。底の知れない人だ。今回の依頼についてだって、黒月のネットワークがあれば十分に対処できるだろうにそれをわざわざ俺たちに依頼してくるというのだから、何か裏があると思っていいだろう。

 

 

「今回お願いしたいのは、クロスベルの裏通りに拠点をもつ違法薬物の売人の取り締まりです。先日取引先と話をしていたら何やらきな臭い話が上がってきましてね。

どうやら共和国から仕入れた怪しい薬を売っている人間がいるようなのです。情報は私たちの方で整理させていただきましたから出来る限り早く対処していただけたらと思い、支援課の皆さんに依頼をした次第です。」

 

そう言いながらツァオさんが渡してきた資料には十分すぎる情報が載っていた。複数名の人間による証言。売人が取引をしていた場所、背格好、人相、拠点と思われる場所の推測や規模まで書いてある。

極めつけはその違法薬物と思われる実物まである。これだけの情報があれば今すぐに捜査をして検挙することが可能だろうが、なおのこと分からない。

 

「詳細な情報をありがとうございます。しかし黒月の方でも十分に対処できる規模ではないですか?」

 

売人は数名程度で特に武装している様子はない。いずれの証言を見ても矛盾は見つからずこの証言が虚偽であるとは思えない。証言者の身元まで書いてあるので裏を取ることも容易いだろう。

捜査二課ではなく俺たちに依頼が来たのは顔見知りだからという理由だろうが、そもそも黒月ほどの組織ならば“外注”せずとも自分たちで一掃できるはずなのだ。それに取引先の人間に恩を売るならば自分たちで対処して株を挙げたほうがいいのではないかと思う。

 

ツァオさんを見つめると、彼は少し困ったように笑っていた。

 

「私たちもできれば自分たちでどうにかしたかったのですが、最近はどうにも忙しくて。そういった細々としたことに手が回らないのですよ。」

「取引先の機嫌取りをする暇もないってか?」

 

ランディが訝し気に探りを入れてみるものの、彼は底知れない微笑みを浮かべるばかり。いったい彼はどんなことを企んでいるのだろう。

赤子の手をひねるより容易い売人の始末は他の人間に任せているのに、ニクスさんという明らかな非戦闘員との会談には熱心というのも、妙な話だ。

 

 

「ツァオ様」

「おや……すみません、次の予定のようです。」

 

探っても探ってもちっとも痛そうな顔をしない彼から情報を抜き取ろうとしたが、どうやら時間切れのようだ。

ツァオさんは何か質問があればラウさんに連絡するように言付けて俺たちを見送ってくれた。生憎とニクスさんのように玄関口まで送ってくれたわけではなかったが、別れ際のツァオさんはどこか生き生きとしていて、うすら寒いものを感じた。

 

彼らは、クロスベルが帝国に占領され、さらに市民に反共和国の感情が芽生えても生き抜いた。東方系の企業にとって大きな痛手であっただろうことは想像に難くないが、しかしそれでも乗り越えて見せたのである。それは間違いなくツァオさんの辣腕あっての事だろう。

そして何とも歯がゆいことに、現在のクロスベルにおける裏社会の秩序は彼らによって保たれているというのも事実であった。

蛇の道は蛇―――今はまだ彼らに任せておくしかないようだ。

 

 

「なんつーか、機嫌よさそうだったな。」

「ああ。忙しいそうだったけど微塵も疲れた様子じゃなかったし…」

 

それどころかいつも以上に隙が無いようにすら思えた。

今日の食卓での話題は『機嫌のいいツァオさん(不気味)』で決まりだろう。オルキスタワーに足を運んでいるエリィやティオが聞いたらどう思うだろう。多分嫌な顔をするだろうけど、頭の痛い問題であるからこそ無視できない。

ビルに帰ったら課長にも報告しておくべきかもしれない。

 

「なぁ、ランディ…」

「ニクスちゃんのとこだろ?」

 

合流までにはまだ些かの時間があるということで追加調査を持ちかけようとするとランディはそれを予期していたかのように俺の意向をくみ取ってくれた。

だが、なんだか浮かない顔をしているようにも見える。

 

「…今日じゃない方がいいか?」

「いや、そういう訳じゃないんだ。そういう訳じゃないんだが…

 

なんつーか、参考になる意見が拾えるとも限らねぇ。」

 

いつも率先して皆をフォローしてくれる面倒見のいいランディだが、このように歯に何かが詰まったような物言いをするということは珍しい。

先程はすれ違った程度とはいえ、ニクスさんに不審な点は見受けられなかったがやはり何か“ある”のだろうか。

 

「ま、一回龍老飯店に行ってみるか。もしかしたらいないかもしれんが、そん時はまた出直せばいいさ。」

「ああ!」

 

 

俺たちは港湾区を出て東通りにある龍老飯店を訪れた。

どうやらニクスさんはあれからまっすぐ宿に戻ってきていたらしく、二人用の部屋に彼女はいた。ノックをして入室すると彼女は机に向かって何か書き物をしていたようで、椅子から立ち上がって俺たちを出迎えた。

 

彼女を軽く観察しても不審な点は見当たらない。

強いて言えば室内でもベールを身に付けていることくらいだが、ランディによると彼女は人前であのベールを外さないらしい。

 

「あら?先ほどの…」

「クロスベル警察、特務支援課のロイド・バニングスです。少々お話を伺ってもよろしいでしょうか?」

 

突然の訪問になってしまったというのに、彼女は俺たちのことを快く迎え入れてくれ、お茶まで入れて歓待してくれた。

 

そして彼女の話を一通り聞いてわかったことなのだが、彼女はかなりの善人であるようだ。人を疑ったり害することができないらしい。そういうもの、なのだと彼女は説明してくれた。

ちっとも説明になっていないと思うのだが、ランディを見ても(こういう子なんだ)と言いたそうな顔をしていたので俺はとりあえずスルーした。

 

彼女はリーヴスを出発した後にいろんな場所に行ったとのことだったが、最近は九龍に行ったそうだ。治安が悪く面倒ごとに巻き込まれたときにツァオさんと知り合った、らしい。

彼女は嘘をついていないと思うのだが、ニクスさんが言っていることが真実かどうかは何とも言えないところだ。

何と言ってもツァオさんのことを「いい人ですね」と言い切ったのである。黒月がシンジケートであることを分かっているうえでそのように評価しているのだからもう俺は言葉が出なかった。

 

ある意味肝が据わっているのかもしれない。いろんな人を助けようと思いそれを実行するためにはこれくらいのおおらかさが必要ということにしておこう。

何とも常識はずれな人だ。あの火焔魔人とは違った方向で只者ではないと感じさせる。そのことを素直に口に出すと彼女はにこっと微笑んだ。

 

「そういえば、気になっていたのですが……」

「はい、何でしょう?」

「ツァオ支社長と何かお約束をなさったのですか?」

 

ツァオさんは抜け目ない人だ。おそらくはニクスさんにこれから世話になる、もしくは何らかの将来性があるからあれだけ手厚くもてなしているのだろうとは予想がついた。

彼女に聞いてみたらいいという彼の言葉に従って尋ねると、彼女はあまりにあっさりと答えてくれた。

 

「ええ、代打ちを頼まれたのです。」

「代打ち?」

「麻雀って、ご存知です?」

 

なんだそれは。

よく知らないと表情に出してしまった俺に、ランディが説明を入れてくれる。

 

「東方でメジャーなテーブルゲームだ。もっぱらギャンブルの一種として楽しまれてる。ニクスちゃん、まさか打つのか?」

 

にやつきながら意外そうに尋ねるランディにニクスさんはちょっと得意げに笑って答える。

 

「まだノーザンブリアにいたころでしたかね…

本当に昔に覚えて、それで少しお金を稼いだことがあったんです。どこから聞きつけたのかはわかりませんけれど、なんでもクロスベル支社で強い方が本国に帰ってしまわれたらしくって。それで頼まれたのです。」

「……ちなみにそれがどんな場での催しか、聞いていますか?」

「詳しくは聞いていませんが、何でも新しい社交パーティーだとうかがっています。初回ということで盛り上げてほしいとお願いされています。勝敗は問わないとのことでしたのでお受けしました。」

 

確かに構成員の代わりにギャンブルに参加してほしいと言われれば誰だって身を固くするだろうが、勝敗が重要ではない演出としてのパフォーマンスであればそこまで気は重たくないかもしれない。

だが、それは彼女にとっての話。俺たちにとっては重要なのはそこではない。

 

(新しい社交パーティー、か……)

 

どう考えても、『黒の競売会』の代わりになる裏社会の社交場だ。ツァオさんが忙しくしているのはこれの準備ということか。

ニクスさんにそのパーティーについて聞いてみても日時や場所を聞かされていないらしい。近いうちにあるので準備ができたら迎えに行くと言われてそれっきり…だそうだ。

 

「よくそんな怪しい話を受けたな。リィンが聞いたらどえれー怒るぞ?」

「リィン様は少し心配症ですから…心配をかけてしまうかもしれませんね。」

 

ニクスさんはそれまで浮かべていた微笑みを崩して眉根を寄せて困った顔をした。

 

(ん……?)

 

先ほど彼女はツァオさんのことをいい人だと言っていた。そして黒月がマフィアであることも知っていると言っていた。その上でそんな顔を――罪悪感のある顔をするということは、彼女はこれが危ない橋であることを自覚していて、それでも受けざるを得ない状況にあるということだ。

 

 

「ニクスさん、あなたは…」

 

何か悩んでいることがあるんですか?

 

そう口に出そうとした時だった。

 

ガチャ

 

ノックもなしに部屋の扉があき、痩せた少年が立ち入ってきたのだ。

 

「え!?」

「は?アンタら、誰?」

「おいおい、誰?じゃねえだろ。お兄さんたちはちっと話をしてるんだが…」

 

少年は腕に抱えていた紙袋をテーブルに置くと我が物顔でニクスさんの向かいに座りだした。不満を隠すことなく表に出した横柄な態度だが、ニクスさんはそれを咎めようとしない。

 

「ジェイ、おかえりなさい。驚かせてしまいましたね。こちらのお二人は警察の方で、右の方には帝国にいたころにお世話になったのです。」

「ふーん」

 

この態度は俺たちのような男にとって非常に覚えのあるものだ。

面倒を見てくれる女性に対する素気のない返答。ただいまも言わず、我が物顔で振る舞い、丁寧に説明してくれているのに目を見て返事をすることもしない。

 

そう。

反抗期の息子だ。

 

 

「ニクスちゃんって子供がいたのか!?」

「誰がガキだ!」

 

初めてセシル姉のところにキーアを連れて行ったときにも似たようなやり取りがあった気がする。彼女と少年は俺とキーアに比べてもっと親子っぽいが、ニクスさんはたぶんセシル姉よりも年下だ。少年は10歳くらいだしちょっと無理があるんじゃなかろうか。

 

「いやいや、さすがに年齢が合わないだろ。」

「……」

 

「なんでそこで黙るんだよ…」

 

俺は怖くなってこの場で詳しく聞くことができなかったのだが、最終的に好奇心からランディに彼女の推定年齢を聞いてしまい、少しの間女性が信じられなくなった。

 




ロイドがニクスさんを若く見てるのはニクスさんの体格がちょっと子供っぽいからです。


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29 忠実で賢いしもべ

本章はイエス・キリストのたとえ話からタイトルをいただこうかなと思います。


 

 

「なぁにやってんのよ!ニクス!」

「あら、ユウナ。お久しぶりです、元気にしていました?」

「あら~、じゃないわよ!息子を連れてクロスベルに来てるって聞いた時の私の驚きがわかる!?思わず教官に連絡いれちゃったじゃない!」

 

どうやらユウナは春休みを活用して帰省していたらしい。お二人が帰ってからランディ様が連絡したらしく、私はジェイと買い物に出ていたところを捕獲された。

無駄のなく美しいまでの捕縛術ではあったが、ジェイには通用しなかったようだ。彼は先に宿に戻った。

 

『詳細な説明を求めます。』

「ほら、アルティナだって気になってるじゃない!」

 

このような感じで特務支援課のオフィスビルにて実に長いこと質問攻めにあうことになってしまった。

定期的に手紙を送ってはいるのだが、クロスベルに行くことになったという内容の手紙を送ったのはつい今朝のことだ。ちなみにその前は共和国で子どもたちに勉強を教えている、という内容の手紙を送った。

 

どうやら彼女たちは私がクロスベルに来たことよりもジェイのことが気になるようだった。なぜ私と行動を共にするようになったのか、どんな子どもなのか、これからどうするつもりなのか…いろんなことを聞かれた。

 

その中にはジェイにしか答えられないであろう質問もあり、私はどう答えればいいかがわからず窮してしまうこともあった。

ユウナたちはそれを見て何か後ろめたいことがあると思ったらしい。

ジェイとは血のつながりのないこと、一時的に彼の周囲の環境が安定するまで面倒を見ることを説明したのだが、どうにもわかってもらえない。

 

「そんなこと言って、また面倒ごとに巻き込まれたんじゃないの?」

「本当に違います!信じてください…。」

 

ジェイと行動を共にするにあたり、面倒ごとなんて何一つとしてなかった。九龍という街の治安を考えれば大きなけがもなかった時点で十分と言っていいだろう。

 

「じゃあどうして大陸東部に行く予定だったのにクロスベルに来たの?」

「実は今度クロスベルタイムズに小説を掲載することになりまして、その打ち合わせですよ。」

「えっすごいじゃない!」

 

嘘ではない。

それだけが目的ではないが、それも大きな目的の一つだ。

 

私がクロスベルに来た理由は三つで、一つが小説のため、一つがジェイのため、そしてもう一つが黒月の要請に応えるためだ。

人や情報が多いのでついでにいろんなことをしようとは思っているが最低限私がクロスベルで達成するべきことはこの三つに絞ることができた。

 

「いつの雑誌に掲載されるの!?」

「再来月が初回だそうです。とある全寮制の名門高等学校を舞台にしていますから、ユウナにとっても親近感があって楽しめるかもしれません。」

「いいね~恋に部活に青春ってやつ?」

 

「あ、それが実は登場人物は全員女の子なので…」

 

閉鎖的な女学院に通う生徒たち。内部から進学した子たちの中に外部から新しく編入した子が加わって交友関係に新たな進展が生まれる。

外界への興味と不安がないまぜになりながらも日々を過ごす子どもたちの独特な社会に大人たちは振り回され、巻き取られていく。

閉鎖的な社会を保ち続けるか、それとも変化への恐怖を乗り越えて外に扉を開くかの二つの選択を迫られ、衝突しながらも時間は残酷に過ぎ去っていこうとする。

 

そういう物語だ。

まだ善悪を知らない子どもたちは大人から見れば残酷にも見える。

まだ他人を知らない女の子は周囲から見れば強かにも見える。

けれど彼女たちはただ生きているだけ。

ただありのままでいるだけで一つの世界を形成していくのだ。

 

恋の要素はあまりないと言えるだろう。

しかしながら作者が物語の中に恋愛的要素を入れなくても聡明な読者は恋の芽を見つけ出すことが稀によくある。要は読み方次第だ。

 

「教師にも男はいないってこと?」

「ええ、全員身体的には女性です。けれど……」

 

けれど。

これは少し、悩んでいることでもあった。

 

自分が書いているときにきっと筆が止まってしまうだろうから、書くかどうか、登場させるかどうかいまだに悩んでいる。

 

「けれど?」

「…その、中盤以降の登場人物はあまり確定していないところもあるので、読者の皆さまの反応を聞いて決めると思います。」

「おぉっ!女学院での恋にフラグが立ったか!」

 

迷っているのは、『未分化』な人だ。

この世界ではまだそういう人を見かけないから、書いていいかどうか迷っている。

もしかしたら女神の奇蹟の一種で、女の体に生まれた人は必ず女になり、男の体に生まれた人は疑うことなく男になるのかもしれない。もしそうであれば女神への冒涜ということで一発アウトだ。

 

教会に目を付けられないように過ごせと言うセルナート様の言いつけを破ることになってしまう。

 

 

だが、性とは何で決まるものなのか?

私にはわからない。

同性愛が罪という話は聞かない。異性装をしている人も見かけない。しかしそれはこの世界にそもそもそういう概念がないのかもしれない。

 

 

(余談ではあるが“以前”はそういったことがタブーだったわけではない。

しかし若干の偏見を持つ者もいた。性別のある者もない者もいて、同性を愛する者もおり異性を愛する者もいた。私は性別のない存在だったが、神官として考えの異なる存在が無駄に衝突をしないよう間を取り持ったことがある。)

 

ということは本当にこの世界にはそういう概念がないか、人の目につかないところに隠れているかの二択だ。

私にとってはわからないからこそ、見えないところにあるからこそ、大きなテーマであるように思っているのだがこの世界の人はどう思っているのだろう。

 

誰かに話を聞こうにも中々言い出せずにずるずると来てしまったというわけだ。

 

性の獲得をテーマとして悩んでしまうのは他でもない私が女とも男とも断言できない存在であるための単なる当事者意識なのかもしれない。

けれど、セルナート様の言うとおりに人になるために特定の誰かを愛するとなればこれは逃げられない命題である。

 

 

すなわち私が女を愛するのか、男を愛するのか。

女になるのか、男になるのか。

どちらかに一歩踏みよるとして、私が何をすればいいのか。

 

 

私はいつか決めなければいけないのだ。

 

そしてこの惑う気持ちを投影した誰かをキャラクターとして産みだし、女性になると疑わない女の子の集団に一人投げ込むか否か、それもまだ迷っている。

だからこれは、今はまだ『いつか』書くテーマでしかない。

 

 

 

 

 

後になって思い返してみれば、初めての大きな仕事だから失敗したくない、そう怯える気持ちがあったことは確かだ。

書いた話が駄作だと言われることだけでなく、自分を投影した誰かを否定される恐怖。私は無自覚にも『恐怖』を感じていたのだ。

 

 

この人間的感情を自覚することになるのは、もう少し後のことになる。

 

 

 

夜、私は持ち帰った資料を読み上げてそれらの内容を寝っ転がっているジェイに吟味させた。

しかしジェイはあまりこだわりがないようで、学校も住居もあればそれで十分と考えているようで、私が持ってきた選択肢は中々減らないのだった。

 

「ジェイ、これはどうですか?通りに面したアパートで空室が出ているらしいです。ちょっと広いですが余裕があっていいかもしれません。」

「もっと狭いとこでもいいよ。あんまり広くっても落ち着かないし。ベッドがあればそれで。」

 

ジェイが新しい住居に求める条件は非常に少なかった。

雨風が凌げること、地震に耐えられること(クロスベルで地震が起きた例は非常に少ない)、火災が起こったときに補填が出ること。その3つだ。

もう家を失わずに済むのなら狭くても古くてもいいと言っている。

 

「けれどジェイ、本を買うのでしたら棚だって必要でしょう?本を置くスペースが必要です。」

「図書館があるでしょ。アンタの本だって置いてあるくらいだし、読書ならそこでするよ。」

「…見つけに行ってくださったんですか?」

「…知ってる作家がアンタしかいないんだよ!」

 

てっきり宿でお昼寝をしていると思っていたのに外出をしていたのは図書館に行っていたかららしい。買い物はどうやらその帰りにしたようだ。

図書館でジェイが私の本を探してくれただなんて、嬉しくて顔が緩んでしまう。ああ、もっと書こう。書いて、たくさん本を出して、ジェイが時間をかけて探さなくてもすぐに見つかるように有名な作家になろう。

 

この子はいい子だ。

きっと善い人に育つ。彼の時間もきっと貴重になるだろうから、私以外の作家を探せる時間を持てるように、私は有名になろう。

 

「ふふ、これからもたくさん書きますね。」

「アンタこれ以上書いてどうするんだよ。バスでも書いてたってのに…」

「書きたいものが沢山あるんです。私はこの世界が好きですから。」

 

生きている限り、悲しいことも苦しいことも避けられない。

悩み、迷い、痛くて辛い目にあうことだってある。

貧しい時も、心身の調子を崩すことだってある。

故郷から出ていくことや、何かを忘れること、老いてしまうことも避けられない。

 

けれど、それでも世界はいとおしいのだ。

 

命も、自然も。

人も動物も植物も、海も川も山も。

どこにだって永遠というものはないが、うつくしくていとおしいのである。

 

 

「……わかんない。」

「そうですか?」

「―――なんであんたはそんなに気楽なのか、とか。なんで頭の布を外さないのか、とか。わかんないことだらけだよ。」

「好奇心があってよいことですね。」

「答えになってないし…」

 

 

この子どもも、とてもいとおしい。

これからもっと健やかになる。賢くなる。私が授けたものを彼は存分に活かしてくれる。育てるものにとってこれ以上にかわいらしい存在はないだろう。

 

この子どもや、世界にそそぐための愛情しか、私は知らない。

心があたたかくなるような愛情で十分だと思っている。

しかし人になるためには、心が戸惑ってしまうような『愛』を備えなければならないのだという。

 

一体それはどんなに苦しい道だろう。

人が当たり前に持つというその愛は、直視したくないような醜さと癒着しているようにすら錯覚してしまう。人を愛おしく思っているのに人に宿る感情を醜く思ってしまうというのもおかしな話だ。

こんなことで私は本当にそんな気持ちを持つことができるのだろうか。

 

今はまだ、私はそれを知らない。

その愛は『いつか』私が得なければならないもの、なのだろう。

 

 

***

 

 

特務支援課の主な任務は支援要請を通じて市民の不安を解消することにあるが、警察官としてもっと大事な仕事がある。

 

 

パトロールだ。

 

何より大事な、毎日欠かしてはいけない日課。

クロスベルは都市としての規模が大きく人の出入りが激しい。目まぐるしく状況が変わりゆく場所であるだけにそこで何が起こっているかをしっかり把握しておく必要がある。

 

時間はかかるが、事件の手掛かりが見つかるような大切な仕事なのだ。

 

主要な施設や通りを歩いて、知人に話を聞く。いつも俺たちがパトロールをしていることを知っている人たちは手短に最近の出来事を教えてくれたりするから助かることこの上ない。

たまに怪しい人物の目撃情報なんかも入ることだってある。

 

「昨日ここらではあんまり見ない子がお買い物に来るようになったの。たぶん共和国の子なんだと思うけど…ちょっと見ていて心配になるわ。」

「今朝随分痩せたガキが来たぜ。随分目元が荒んでてよ、万引きするんじゃねぇかとひやひやしたね。」

「痩せた子供?ああ、パン買ってったぜ。と言っても女の人を迎えに来たみたいでちゃんとした子だったな。」

 

こんな風に、クロスベルの人々は意外と見ているのである。

人の出入りが激しいわりに、観光客と地元住民の見分けはきっちりできる。新しくやってきた人をそれとなく警戒できる。

 

それはクロスベルが長いこと受難に晒されてきたために住民が培った一種の生存スキルといえるだろう。

 

「昨日来てくれた子どもが今日も来てくれてね。とても熱心なんだよ!この作家の本はないかって、随分大人向けの本まで読みこんでたね。

貸出カードを作るか、って聞いたんだけど要らないと言われてしまったな。」

 

図書館で司書をしているマイルズおじさんがやけに上機嫌で教えてくれるものだから、誰かいるのかと思い中に入ると、二階の席では昨日ユウナが捕まえそびれた少年が読書をしていた。

 

「君は……」

「何?」

 

随分分厚い本を机にたくさん積み上げている少年は少し荒んだ見た目によらず熱心に読書家のようだ。手足が非常に細くて運動が得意でないのかもしれない。

 

「君、随分読書家なんだな。こんなに分厚い本まで読んで、すごいじゃないか。」

「あんた、サツだっけ?僕の邪魔しないでくれる?」

「まぁそう言わずに、お兄さんたちにもちょいと読ませてくれよ。」

 

そう言ってランディが机に椅子を引っ張ってきて座ると、少年は眉間にしわを寄せた。しかし彼にとっては相手をする時間も惜しいのか、本から目線を上げる様子はない。

 

随分大人びた対応だと思う。図書館がどういう場所かを弁えているだけでなく、気に入らないと思っている相手を受け流すことを知っているのだ。

リュウやアンリと同年代か年下であろうに、随分落ち着いている。

 

「ジェイ、俺はロイド・バニングスという。昨日は挨拶をしそびれてしまったね。」

「ランディ・オルランドだ。」

「エリィ・マクダエルよ。」

「ティオ・プラトーです。」

 

俺たちが自己紹介をすると、ジェイはぺらりと本のページをめくろうとして、本を閉じた。

 

「僕は確かにニクスの知り合いのジェイだけど、それがどうしたの?あの女が黒月に出入りしてたらそんなにおかしいわけ?それでどうして僕に話を聞こうとするの?」

 

薄い皮膚のはりついた顔は明らかに苛立っている。

尖った顎に角ばった形の頭。近くで見ると痛々しいほどに痩せている。ニクスさんが食事を与えないようにも見えないし、もしかすると彼はニクスさんと出会う前、相当貧しい生活を送っていたのかもしれない。

 

「黒月を知っているのか?」

「僕は九龍って言う東方人街から来たけど、そこは黒月が牛耳ってたんだ。ニクスがごたごたに巻き込まれてそのままクロスベルに来たってわけ。」

「ごたごた?やっぱり面倒ごとに巻き込まれたのか?」

「あの女からしたら面倒じゃないから、面倒ごとじゃないんでしょ。」

 

ジェイの言葉を聞いたランディが納得したように肩をすくめた。確かに昨日の様子だと、彼女はそういったことを言いそうに見える。

人を助けるために掛け値なしに何かができる、そんな心優しい人なのだろう。

 

「別に≪白蘭竜≫だってあの女をどうこうしようなんて考えてないでしょ。厄ネタだってわかってるはずだよ。アンタらが心配するようなこと起きないし、心配したところで無駄。」

「随分詳しいな?」

「サツの割に頭悪いんじゃない?僕は九龍の出身だって言ったでしょ。あそこはこことは比べ物にならないくらいヤバい街で、そういうこと知ってないと生きていけないっての。」

「そんな危ないところにニクスさんは行ったのか…」

 

よくあのポヤポヤした女性が生きて帰ってこれたものだ。あんな風に今も心優しくいれるということは特に危ない目にあっていないのだろうが、もしかしたらこの少年がニクスさんを助けたのかもしれない。

 

「えっと、ジェイ君。さっきからニクスさんの事…」

「『あの女』?」

 

エリィはジェイの言葉遣いが気になったようだった。

確かに、彼は複雑な環境で育ったようだけれどもそれはそれとしてニクスさんに世話になっていることは事実だろう。年上の人に対する呼称として、一般的に考えて褒められるものでもない。

 

「お世話になっている女性の事、あんまりそんな風に呼ばない方がいいと思うわ。ニクスさんだって悲しむわよ?」

「いや絶対何とも思わないから…」

ジェイくん?」

 

ジェイがぼそりと呟いた内容も、確かに想像がつく。ついてしまう。ニクスさんなら笑って許してくれそうだということも予測できるのだが、それはそれなのだ。

これから社会で生きていくために、礼儀というものを備えておくべきだろう。

 

エリィの笑顔は迫力があるが、しかしジェイの肝は相当据わっているようで何とも思っていないようだ。

 

「……礼儀、ね。僕の周りにいたやつらは尊敬できるような奴等じゃなかったんで、そういうのよくわかんないんだよ。」

「ニクスちゃんはどう見てもマトモだろーが。俺たちは別に構いやしねーが、あの人にくらいはもちっと柔らかく当たってやれよ。」

 

「――――」

 

ジェイが何かをぼそぼそとつぶやいたが、あまりに不明瞭だったので静かな図書館の中だというのに俺には聞き取れなかった。ティオを見るが、彼女は少し驚いたような顔をしている。

 

どうやらティオには聞き取れたらしい。彼が何とつぶやいたのか尋ねようとして、そこにやってくる気配があった。

 

「あら?皆さまお揃いだったのですね。」

「げ……」

「ニクスさんじゃないですか。どうしてここに?」

 

階段をのんびりと昇ってきたのは黒いワンピースを着たニクスさんである。彼女は椅子に掛けると、鞄からノートと原稿用紙、そして筆記具を取り出した。

 

「こんにちは。少し時間が空いたので、ジェイの勉強を見に行こうかなと思ったのです。」

「ああ、お仕事の打ち合わせですか?」

「いいえ、大陸東部とノーザンブリアへの物資支援のお願いをしておりました。」

 

ニクスさんは俺の質問に答えながらジェイに一冊の本を差し出す。どうやら彼女が見立てた本であるようで、ジェイはそれを受け取ると大人しく読み始めた。

こうしているのを見ると大人の会話に付き合わされている子どもみたいでまだ可愛げがある。実は彼にとってはニクスさんへの当たりを柔らかくしているつもりなのかもしれない。

 

ジェイが急に借りてきた猫のようにおとなしくなったのでびっくりしたが、今ニクスさんはなにか気になることを言わなかっただろうか?

 

「物資支援、ですか?」

「ええ。困窮する方々にせめて衣服や水、食べ物が届いてほしいと思いまして。クロスベルに共和国出身の貿易商の方がいらっしゃって、その方の流通ルートを頼らせていただいてます。」

「……もしかして。」

「ハロルドさんですか?」

 

共和国出身のクロスベルにいる敏腕の貿易商、といえばハロルド・ヘイワースさんだ。俺たちも何度もお世話になっている。

 

「あら、ご存じだったのですね。」

 

微笑んだ彼女は順を追って説明してくれた。

元々は帝国を出た後すぐに大陸東部に行って支援活動をする予定だったのだが、いろいろとやることができてしまったので遠くからでもできる支援をすることにした、らしい。

物資の内容は衣服や飲食物以外にも、本、感染症のワクチンや水の浄化装置なんかも含まれているらしい。

それをハロルドさんに買い取ってもらってそのまま辺境地帯に送ってもらっているのだとか。

 

「アンタ、そんな金持ってるの?」

 

それまで本を静かに読んでいたジェイが顔を上げたと思えば、唐突にニクスさんに質問をした。そういえば、確かにニクスさんは丁寧な方ではあるけれども貴族の出身であるとか資産家であるようにも見えない。着ているものもファストファッションの庶民的な服だ。

薬や、水の浄化装置は結構な値段がするだろうにそういったものを買うお金も印税から工面しているのだろうか。

 

「お金はそれほど持っていませんけれど、ありがたいことに今言ったような物資を工面してくださる友人がいるのです。その方は今まで私のところに送ってくださっていたのですが、送り先をハロルドさんに変えていただくようにお願いしたのですよ。」

「え、誰それ」

「さる実業家の方です。私の活動にご理解をいただきまして支援をして下さっています。」

 

(怪しい人じゃないだろうな…)

「それヤバい奴じゃないよね?」

(言ったし…)

 

恐らく場の人間のみんなが同じ考えを持ったのだろう。空気を読んで誰も言うまいと思っていた自分たちとは違い、ジェイは度胸がある。そういった踏み込んだ質問も躊躇なくできるのだから。

 

「勿論です。優しい方ですよ。」

 

そう言ってジェイの前髪をさらりと撫でた彼女の目は非常に優しい。ベールの薄布でも隠し切れないような慈愛が漏れ出ていた。

春の陽光に勝るとも劣らないあたたかな眼差しだった。

 

「あ、そ。」

 

そんな視線を受けても素っ気なくこたえられるジェイは、すごいと思う。

彼は本に目線を戻すと再び読み進めていく。いたって平静で、実は耳が赤くなっているということもない。全く動じていないようだった。

 

「(すごい、ジェイさんすごいです…)」

「(これは、圧倒的母性ッ…!)」

「(ランディ?)」

「ははは、えっと…もしかしてこの本はニクスさんが?」

 

話題を変えようとして、机に積み上げられた本が目についた。

いずれもポラリスという作者の著作であるようで、一冊一冊のボリュームが結構多い。中には少し古ぼけた本もある。

ジャンルは様々で、明らかに子供向けという装丁の本もあれば、神秘的な装丁の本もあった。

 

一冊手に取ってみると、表紙には「星のものがたり」とある。

 

「ええ、拙い筆ではありますが。今お手に取っていただいたそちらは星の神話を書いたものですね。今のところ最新作に当たります。」

「星の…神話?」

 

神話と言えば女神だ。

女神が天地や生命を創造したくだりの創世記が一般的に神話と呼ばれ親しまれているが、星に神が宿るということだろうか?

 

「星が冒険をする、ということですか?」

 

内容は全年齢向けのファンタジーといったところだろうか。興味を持ったティオがペラペラとめくっている。

ニクスさんはティオの質問に頷いて答えた。

 

「星はどうしてあんなに素敵な輝きを秘めているのか。どうして一つ一つの星の形や星の並びが違うのか。その理由付けみたいなものですけれど、そういった物語があると思うと素敵でしょう?」

「『夜空に輝く星々の、とびぬけて明るいものをつなげて、人は星座を作り出しました。88の星座は、今も夜空を見上げるとそこにあります。それは古くの人からの手紙であり、時を超える物語なのです』…」

「素敵ですね…オリジナルは民間伝承でしょうか?」

 

星の物語は俺も聞いたことがない。エリィの記憶にも聖典にそれらしいものは載っていないようだ。とすると地方に伝わる精霊信仰や自然信仰に着想を得たのだろうと推測できた。

 

「ええ。私の故郷に伝わる星の物語に、いくつかオリジナルを足しました。」

「故郷…ノーザンブリアでしたか?」

 

「実はもっと遠いところなのですよ。もうずっと昔に、出てきてしまいましたけれど。」

 

窓に背を向けた彼女に、ちょうど雲の間から太陽の光が差し込んで、逆光で彼女の表情が隠された。いったいこの時彼女がどんな思いでそう答えたのか俺にはわからないが、なんとなく、寂しそうな声をしていたように思う。

 



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30 婚宴

筆の速さは岸部露伴、敬虔さと慈悲の深さと人外度はアビゲイルとキアラ。顔の造形も参考にしている人がいるのです。


 

 

 結局のところ、困ったときに頼る存在として神のしもべという人は私にとって身近であった。それは私が“以前”神に仕えていて神という存在についてずっと考えていたからなのかもしれない。

 

 この世界は、奇蹟を生み出す存在は女神であるという答えを出した。そしてその女神が大陸中で信奉されている。≪力≫を持つ者同士の争いも少なく、喜ばしい平和と言えるだろう。

 

 私がいた世界は、違った。

 私も、王も、民も、神への向き合い方がこの世界とは異なった。人の世界で起こることはあくまで人が為したことに原因があると考えていた。命が生まれた奇跡も、天地が想像された奇跡も、それはいまだ分かっていないだけでどこかに原因があると思っていた。

 

 私たちにとって神とは、『他者を信じるための支え』でしかなかった。人格や命、意志を持たないただの装置や道具のような物。

 他者は自分を傷つけるかもしれない、自分とは違う意見を持っているかもしれないという恐怖を乗り越えるための心の支え。異なるものを受け容れる優しさのもとになってくれる教えだった。

 

 それはきっと、この世界の人からしてみれば女神に比べて曖昧で、形のない不確かなものに対する信仰だったかもしれない。

 けれどあの場所で、私たちは確かにそれを信じていたのだ。

 

 

 そんな異なるものを信奉していたものがこの場所に踏み入ることを、この世界の神はお許しになるだろうか。

 この教会の人は、私の悩みを聞いてくださるだろうか。

 

(女神よ、私はあなたの教えに耳を傾けます。)

 

 心の中でそう念じて重厚な木の扉を押し開ける。

 荘厳な大聖堂は、扉を開けるとすぐに礼拝の間で、今も祈りを捧げている人が何人か席についている。ステンドグラス越しに降り注ぐ太陽の光を浴びながら、まるで祝福の光を授かるかのように彼らは一心に祈っていた。

 

 「すみません、懺悔はどこでできるでしょう?」

 

 私は女性のシスターに尋ねると、その方は私を奥へと案内してくださった。なんでも懺悔室は二階にあるらしく、階段を昇ることになった。

 階段は石造りで、とてもひんやりとしている。前を歩くシスターは日々のおつとめで慣れているようだが、この階段は中々に急だ。

 

 二階にたどり着いたあたりで息を整えていると、シスターは小部屋の鍵を開けて私に入室を促した。

 

 「少しつかれてしまいました?どうぞお部屋の中で、ゆっくり話を聞かせてください。」

 「……ありがとうございます。」

 

 何かに思い悩むことは罪ではない。

 けれど私は、自分の心の中にある火種をそのままにすることや、男でも女でもない曖昧な存在のまま変化しようとしないことが女神の慈悲に背く罪に当たるのではないかと思ってしまったのだ。

 

 私は女神の教えをすべて知っているわけではないから、何が罪で何が許されるのか、よくわからないのである。

 

 

 「あなたは、何か思い悩むことがあるのですか?」

 

 シスターは私の憂いを見抜き、まっすぐにそう問いかけた。その目は優しく、私がこうあろうと目指すような人の姿を体現している。

 

 「私は、自分が女だと思えないのです。これは罪ですか?」

 「え…?」

 

 彼女は少々面食らっていた。

 私は彼女に理解してもらえるように、心のうちにある疑問を一つ一つ投げかけた。

 

 「女の体であるならば、女になるものだと思っていました。そして女になれば男を愛するものと思っていました。けれど私には何年生きてもそのように思えないのです。

 自分は、女でもなく男でもないと確信しています。しかし人は私を女と認識しています。私が人々と同じように自分を見ることができないのは、女神の教えに背く罪なのでしょうか?」

 

 私は、誰に導かれても、誰に教えられても自分のことを女とは思わない。20年生きてきてそれはすでに分かっている。成人女性の体で20年生きても、私は自分を女と思うことができない。

 これはもしかしたら、ヒトとしての欠陥なのかもしれない。私は、人になれないかもしれない。それがとても怖かった。

 自分が罪人であると目の前のシスターに思われることよりも、人ではないと思われることの方がずっとずっと嫌だ。私がちっとも人でないというのなら、私がこれまでしてきた行いは正しくなかったということだ。

 

 

 昨日は、考え込んで眠れなかった。

 なので原稿をひたすら薄闇の中で書いた。ジェイには申し訳なく思ったけれども彼はどうやら宿が気に入ったようでぐっすりと眠っていた。

 

 思い悩む私に、シスターは一つ問いを投げたのだ。

 

 「性は必ず得なければならないものでしょうか?」

 「…といいますと、どういうことでしょう?」

 

 「女神は、聖典の中で人が女か男どちらかにならなければならないとは仰っていません。それは個人の選択に任されているのです。」

 「……私は、罪人ではないということですか?」

 

 私は、間違っていない?

 

 「勿論です。あなたは人を能く慈しんでいます。あなたの心を女神もお褒めになるでしょう。」

 「それはよかった…。」

 

 私は彼女が心優しく私の悩みに親身になってくれると知ってもう一つ、わからないことを彼女に聞いた。

 

 「あの、もう一つ質問なのですが、誰かを好きになるにはどうしたらよいでしょう?」

 

 

 シスターは少し微笑んで、「女神は善きあなたを必ず導いてくださいますよ」とだけ教えを授けて下さった。

 

 私は間違えていない。

 それがわかっただけで十分なはずなのに、一つの問題が解決すると次から次へ問題が押し寄せてくる。何を最初に考えるべきかすらわからなかった。

 混乱しているのだ。考えを整理しよう。

 

 

 女神に曰く、人は男でも女でもない状態がありうる。個人がありたいように自分の在り方を決める。そういうことのようだ。

 

 私も、私がそうありたいと思うのなら性別のないままでいられるし、男か女になりたいと思えばそのようになれるのだろう。

 

 それはよかった。素直に安心した。

 次の問題は、「私が誰をどのように愛するか」である。これはセルナート様から突き付けられた命題そのものであり、どうにかこうにか答えを出さねばならない。

 あの蛇のような女性は、私にそんなことができるとでも思っているのだろうか。ずいぶん大きすぎる期待だろう。人になるための試練とはずいぶん巨大だ。

 

 これからの道行きに不安を覚えながらも、私はクロスベル市を歩いた。今日は女性記者との打ち合わせの日だ。これから龍老飯店に戻って、推敲をしなければいけない。一回の連載での文章量に合わせて物語を区切らねばいけないし、仕事はまだまだ残っている。

 

 東通りに差し掛かると、港湾区の方面から黄色いジャケットの女性が歩いてくる。

 これから打ち合わせを予定していた彼女だ。私はその女性に声をかけた。

 

 「グレイス様」

 「あれ!?先生じゃないですか。外出なさってたんですね?」

 「ええ。そろそろかと思って戻ってきたのですが、まさかここで会うなんて。」

 

 グレイスさんは活気のある市場を通り抜けながら人懐っこい笑顔で笑いかけてくれる。

 龍老飯店に入った私は、とりあえずグレイス様だけを先に席につかせて自分は原稿を取りに行くことにした。

 

 部屋の鍵を開けると、ジェイは外出したようで中には誰もいなかった。最近は図書館にこもりきりのようで、随分楽しそうにしている。私も時間があるときは一般常識以外にも導力学や生物学、天文学といった科学分野を中心に教えているけれど本当に要領のいい子だ。

 体験を交えさせればすぐに覚えてしまう。

 

 (……えっと、これじゃなくて…)

 

 原稿は旅を続けるうちにずいぶん増えた。

 睡眠や食事を必要としないために無限に感じられる時間を全て執筆に使ってきたので当然かもしれない。最初のうちは自費出版で、少ない部数をノーザンブリアの富裕層向けに売っていた。

 娯楽の少なかった彼らにとって本は親しむべき友であり、よい値段で買ってくれたのが私の執筆生活の始まりだった。

 人々に食べ物を買い与えるだけのお金が欲しかったのだ。

 

 それが今では旅行鞄に収まらないくらい多くの原稿用紙に書くことになるだなんて、思いもしなかった。たくさんの物語の中には出版するために書いたものもあり、そうでないものもある。

 ただ書いただけのお話は出版社に持っていくこともしなかったので、それらが鞄の中で結構なスペースを占めているけれど私はどうにもこれを処分できないでいた。

 

 (キリカ様なら、読んでくださるでしょうか?)

 

 昨日、この宿に私宛の手紙が届いた。

 それは九龍でお会いした女性からのもので、手紙にはあのお話の感想が書いてあった。楽しんでいただけて作家としてこれほどうれしいことはなく、また何かの形でお礼がしたいと思っているのだ。

 

 (あ、ありました)

 

 鞄の奥底にある原稿。昨晩書いたはいいのだけれどもこれでいいのかどうかわからなくなって下の方に押し込めてしまったのである。

 レストランのフロアに行ってグレイスさんのところまで歩み寄ると、彼女はすでに注文を済ませていたようだった。

 

 「すみません、お待たせしました。」

 「大丈夫ですよ!料理はおすすめを注文しておきました~。」

 

 彼女は私が手に持っている原稿を見て、不思議そうにした。

 

 「あれ、それ原稿ですか?先日いただいたと思うんですけれど…」

 「あれの続きなのです。けれどまだ構想段階でして、ご意見がいただければいいなと思った次第です。」

 

 彼女はお茶を飲みながらなんだか驚いている。器用な女性だと思った。

 

 「えぇ!?まだ二日しか経ってないですよ?なのにそんだけ書いたんですか?」

 「二日も、経ったのですよ。私は筆の速さと字の量しか誇れるところがないのです。」

 「いやいや、そんなことは……あ、拝見します。」

 

 グレイス様に原稿を渡すと、彼女はぺらりぺらりと読み進めていく。続きとはいえたかだか5万字も無い。素案のようなものだった。

 

 「む……」

 「やはり、そういった子を登場させるのは問題があるでしょうか?」

 

 彼女が眉を寄せた。あの子の登場シーンだ。

 その子どもは未分化で、他の子どもに比べて体が薄い。細長い手足をふらふらとさせて主人公たちの前に現れるのだ。そしていつも、その子は校則違反の真っ白なスニーカーを履いている。

 

 「いえ、逆です!クロスベルって人が多いのでそういう需要もあるんですよね~。私の知り合いにも共感してくれる人がいると思います。やっぱり時代が変わってきて、多様な考えを受け容れる方向に向かっているというか。

 いや~新しくっていいと思います!かわいくてかっこよくて二度美味しいし!」

 「ほ、本当ですか?」

 「はい!編集長にも見せたいので今回この原稿をいただいてもいいですか?」

 

 思っていたよりも、彼女の反応はよかった。

 彼女が肯定してくれたのは私の作品であるけれど、私はまるで私自身が肯定されたかのようにうれしく思ったのだった。

 

 「炒飯一つ!餃子と雲呑麺と魯肉飯一つ!あと空心菜の炒め物ネ。お待たせアル~」

 「サンサンちゃんありがと~!さ、先生。あったかいうちに食べちゃいましょう!お仕事の話はそれからってことで。」

 

 机の向かい、湯気の立つ料理を挟んだ向こう側に座る女性がウインクをしてくれる。可愛くて、大人で、優しい人だと思った。

 この日食べた中華は本当に美味しかった。香ばしいゴマの香りとカリッとした餃子の焼き目。生姜の利いたお肉のタレはごはんとよく合って美味しかった。

 全部の料理から温かいにおいがして、特に熱々のスープを飲むとなんだか心まで火傷してしまったような気すらした。けれどそれもひっくるめて嬉しくて、私はちょっとだけ泣きそうになりながらグレイス様とご飯を食べた。

 

 調子に乗り過ぎてゴマ団子を食べたらちょっとお腹が苦しくなったのは、そう、ご愛敬である。

 

 

 

***

 

 

「このように、ビタミンは生体内で起こる反応を補助する栄養素です。この栄養素がエネルギーそのものになってくれるわけではありませんが、エネルギーを生成するために重要な役割であると言えるでしょう。

 

 たとえば、ビタミンB類。肉や卵など動物性の高たんぱく食品に多く含まれていますが、これが不足すると小麦や米などの主食から摂取した糖類をエネルギーにすることができなくなってしまいます。

 ノーザンブリアでは塩の杭が発生した後、様々な人の努力で比較的早期に農業が再開されました。特に炭水化物を多く含む芋や蕎麦、ライ麦などは比較的多く生産されたのですがビタミンB類が不足した食生活を送っていたため、欠乏症に悩まされることになったんです。

 

 穀類の中だと玄米が比較的ビタミンBを多く含んでいますけれど、ノーザンブリアの気候では米の栽培は困難でした。

 これに対応すべく支援団体は塩濃度が高い環境でも生存が可能な海水魚の養殖及び流通の整備に着手しました。動物性たんぱく質やビタミン、必須脂肪酸の摂取にも効率的と考えられましたからこれについては結構頑張ったのですけれど……

 

 

 ジェイ?何か質問ですか?」

 

 「アンタさ、医者だったの?」

 「へ?」

 

 日曜学校に通いたくない、その代わりに勉強はきちんと自分でやると決めた僕は図書館で本を読んで色々勉強することにしたけれど、ニクスはその勉強をサポートすると言って聞かなかった。

 趣味でやってるボランティアとか、仕事の打ち合わせとかの合間に図書館に来ていろんな本を勧めたりわからないことを教えてくれる。

 

 ずっと活字を読んでいるよりは、まだだれかの話を聞いている方が楽なので助かるが、この女、賢すぎるのである。

 本を読まなくても正確な知識が出てくるあたり、自分が思っていたよりも頭が良い。記憶力がいいだけじゃなくて応用力もある。試しに数学のわけわからない問題を解いてみろと言ったらこの女は解いてしまったのだ。

 

 特に科学について詳しいらしく、解剖学、生物学、地学、工学、数学、薬学は一通り学んだと言っていた。どうやらノーザンブリアで人々の支援をするためにどうにかこうにか勉強していたとのことだが、じゃあどうしてそんなに頭のいい女がこんなところでガキの家庭教師をしているんだか。

 

 「アンタは昔医者で、ノーザンブリアでも人助けをしてたけど、ミスって何人か死んじゃって、それで喪服を着てる…とかじゃない?」

 

 憶測だけど。

 医者だったかもしれないし薬剤師だったかもしれないけど、導力技師ではないだろう。多分人の健康に関わる仕事をしてたんだと思う。多分。

 そういうのにつきものなのは医療ミスだ。そういう事情でもない限り、ノーザンブリアの人がこんな有能な人間を手放すわけがない。多分こいつはノーザンブリアに居辛くなって、帝国までやってきたんだろう。

 それでも人を助けたいみたいなご立派な気持ちがなくならなくて、今度は東に行こうとしてるっていう、仮説。

 

 

 「ジェイ……」

 

 ほら、少なからず当たってるって。

 この女ちょっと驚いてるもん。

 

 

 

 「小説の読みすぎですよ?」

 「違うのかよ……」

 

 

 こいつは僕に3冊のノートを買い与えた。僕は青色のノートは生物、緑色のノートは数学、黄色のノートは天文学の授業(勝手にニクスがやってる説明のことだ。たまに誰か乱入してくる。)の時に使うと決めた。

 僕の字は汚いけれど、書いているとそれなりに整ってくるってもんだけど、まだ小さい字が書けない僕はでかい字でぐちゃぐちゃに書くもんだから、ノートは結構埋まってきた。

 まだ買い与えてもらってから少ししか経ってないって言うのに、随分使ったもんだから字の練習をしようとも思ったんだけど、ニクスは「書いてるうちに上手になりますよ」といって字は教えてくれなかった。

 

 それ以降僕はこいつが書き損じた原稿で勝手に手習いをしている。

 この女は書くのが馬鹿みたいに早い。だがたまに原稿用紙10枚分くらい全部没になることだってある。書いたけれどつまらないとニクスが捨てようとした原稿を、僕はもったいないと言ってもらい受けているのだ。

 (ちなみに将来この女が有名になったときにオークションに出す予定。)

 

 練習をしているせいか、ノートのページをめくるごとに字はきれいになっている、はずだ。まっすぐ線が書けるようになったし、一列に整ってかけるようになった。まだニクスほどきれいな字は書けないが、今後の課題というやつだ。

 

 「ああ、青のノート、買っておきましょうか?」

 「いいよ別に。自分で買う。」

 「それくらいさせてください。」

 

 青のノートは、特別減りが速い。ニクスが生物の話題を好むからだし、僕が数学より生物を好むからだ。天文は、ニクスの本があれば割とわかるからノートはほとんど手習い用。

 人体の絵や、人がかかりがちな病気の症状とその原因。社会問題にまでなった感染症や、器官の役割など、この女は短い時間を実に有効に使ってたくさんのことを教えてくれた。

 一人で勉強するときにおすすめの参考書にも詳しくて、古い本から新しい本までいろんな本を勧めてくれた。

 

 

 けれど僕には、それが別れの準備であるようにしか思えなかった。

 僕が何を言ったって、この女はいつかクロスベルを出ていくだろう。人を助けたいからなんてご立派なことを言って、正しい道を往くんだ。

 

 この女が犯罪者であればよかった。

 そしたら僕がこの女をクロスベルに引き留めたって、何の文句も言われなかっただろうにな。

 

 

 こんなことを思ってしまうなんて、僕は本当に、どうしようもない奴だ。

 

 

 

***

 

 

 

 私は、百貨店の化粧品フロアで勤務しております販売員です。いつもはお客様がお求めのお化粧品や、お客様に似合う商品を紹介しています。

 

 今日、というか今、私は一風変わったお客様の接客をしております。

 

 あ、別に奇抜なお客様じゃないんです。そういう方はたくさんいらっしゃいますし。

 そのお客様は()()()()()()()のです。

 

 「すみません、化粧品を一式揃えたいのですが、恥ずかしいことに詳しくないのです。ご教授いただけないでしょうか?」

 

 そのお客様は、来店してすぐにそうおっしゃいました。

 黒い質素なワンピースをお召しになって、灰色のベールをかぶった方です。クロスベルの方は肉付きの良い方が多いのですけれど、そのお客様の手足はほっそりとしていて、まるで幼いころのまま、身長だけが伸びたかのようです。

 長い袖から出ている手は、お仕事をよくなさっている手で、ところどころにあかぎれやささくれがありました。手のひらは広く指は長く、まるで青年の手のようでしたがしかしその薄さは確かに女性の手でした。

 

 彼女の話では、知人のパーティーに参加なさるそうで、そのために身だしなみを整えたいとのことでした。化粧品は一切持っていないとのことで、一式全てご所望でした。

 

 そのお客様のお顔は薄布に覆われておりましたので、拝見してもよろしいですかとお声掛けしたところ、彼女は顔にかかったベールをまくり上げてくださいました。

 日に当たることがないのか、青白い肌をしておいでで、唇は薄く小さく、何より特別な目の色をお持ちでした。

 琥珀色よりももっと薄い金色のような目は、決して他の方にない色でしょう。

 

 私は困り果てました。

 一体何色のコスメをお勧めするべきか、迷ってしまいました。

 赤や黄色などの明るい色はなじまないでしょう。

 ピンクやゴールドなど若い女性が好む色は落ち着いた仕草から浮いてしまいます。

 しかし青や紫などの寒色は血色を悪く見せてしまうように感じられました。

 

 その方は、何というか、肌の色が人形じみていたのです。一切のムラがなく、青白いのに血管も透けて見えず。およそ人の肌とは思えないほどでした。

 

 それはそれで美しいのですが、私が紹介しているのは人間向けに作られた化粧品ですので、お客様に似合うかどうか、わかりません。

 しかし私も仕事をして長くなりますから、根性で懸命に探しました。

 お客様に合うアイシャドウとチーク、そして口紅です。

 

 

 結論。

 無彩色の美しさを強調するようにコスメは選びました。

 シャドウはグレーとプラムのグラデーションパレット、チークはほんの少し。そして唯一の彩になる口紅は少し落ち着きのあるコーラルピンク。お客様の唇はとても薄いですけれど一か所に色があるだけでとても際立って見えます。

 あとは目の下にハイライターを塗って光を与えると、お客様の微笑みがきらめくような美しさを備えるようになりました。

 

 

 「いかがでしょう!?」

 「お化粧は初めてですけど変わるものですね。ありがとうございます。」

 

 付けていただいたものを包んでくださいとお客様が仰いました。

 私は内心でガッツポーズをしたものです。しかし少し離れたところからお客様のお顔を拝見するともっと手をくわえたくなってしまいました。

 悪い癖だとはわかっているのです。しかし私はメイクやコスメが大好きでこのお仕事に就きましたので、お化粧をし始めると楽しくなってしまって、どんどん深みにはまっていってしまうのです。

 

 ブロンザーやファンデーションを使って肌の色を調節すればどうなるか。イノセントなピンクを使いたいけどどうすればよいか。瞳や髪の色を最大限引き立てるのはどのコスメか。

 考えるときりがないけれども考えてしまうのです。

 

 「……はっ、あの、申し訳ありません!」

 「いえ、急いでいませんから構いませんよ。どうぞゆっくりなさってください。」

 

 つい考え事をしてしまっていたけれど、今は化粧品を包まないと。

 小さいパレットたちだけれどマスカラや試供品の化粧水も入れると結構なサイズの包みになってしまうかもしれません。

 

 私がお客様に背を向けて梱包をしているとき、お客様はどなたかご友人の方とお会いしたようだった。

 

 「あら、エリィ様ではありませんか。」

 「ニクスさん!ニクスさんも化粧品を?」

 「ええ、初めて買いに来たんです。お化粧って不思議ですね。」

 「え?」

 

 ご友人の方は驚いたようでした。それもそうでしょう。特にクロスベルは早熟な子供が多くてメイクを始めるのが早いのです。私は8歳のころに母親の化粧品を使って初めて化粧をしました。そんな私たちからすれば、いえ他の地域の人にとってもきっと、この年齢までお化粧をしたことがないというのは中々珍しいことだと思います。声には出しませんけれども。

 

 「ああそうだ、エリィ様。これからお時間ございます?」

 「え、ええ。非番ですので…」

 「よろしければ、お化粧を教えていただけませんか?」

 

 彼女は私にいくつかの色の口紅とアイシャドウを指定し、追加で包んでほしいと仰って、そしてご友人の方とお帰りになったのでした。

 

 

 

***

 

 

 「うーん…難しいのですね……」

 「最初は慣れないかもしれませんけれど、練習次第で上達しますよ。」

 

 

 そんな声が、支援課ビルから聞こえてきた。今日は確かエリィが非番だったはずだ。誰か友人と話しているのかとも思ったが、この声には聞き覚えがある。ニクスさんだ。

 

 「この声はエリィさんとニクスさんですね。」

 「お?二人で遊ぶ約束でもしてたのかね。」

 

 支援課ビルに彼女を呼ぶという話をしていたわけでもないから、もしかしたら偶然外出中にばったりと会ったのかもしれない。

 そんな話をしながらビルのドアを開けると、一階のダイニングでは予想通り二人が楽しそうに話をしていた。テーブルに広げているのは…化粧品だろうか?

 

 「皆、おかえりなさい。」

 「お邪魔しております。」

 

 そう挨拶をした彼女は珍しくベールを外している。

 彼女は案外特徴的な顔のつくりをしていて、何より耳と角と瞳の色が常人とはかけ離れていた。

 

 

 「―――ってえぇ!?」

 「ニクスさん、その耳と角は…」

 「おーニクスちゃん、相変わらずイカした角してるねぇ」

 

 いやその褒め方もどうなんだ。

 というか何で角が生えているんだ?もしかして付けてるのか?

 

 「生まれつきですよ。触ります?」

 「あ、じゃあ私触りたいです。」

 

 支援課のメンバーは修羅場をいくつか潜り抜けてすっかりこういった驚くべきことにも動じなくなってしまった。エリィなんて随分度胸がついたようにも思える。

 

 「コツコツしてる…思ったよりも柔らかいというか、軽いんですね。」

 「肩がこらなくて助かります。」

 

 ティオが彼女の角に触れると、その近くにある長くとがった耳がピコピコと揺れる。成程、彼女はこれを隠すためにベールをかぶっているのだ。

 彼女に近付いたティオは、どうやら彼女の変化に気付いたようだった。

 

 「あれ、ニクスさん、お化粧してます?」

 「あはは…慣れていないもので少し失敗してしまいました。」

 「でもその色、とってもいいと思います。」

 

 瞼の下にマスカラを付けながらもにこやかに笑う彼女は化粧を楽しんでいるようだ。手の甲にはいくつかの色を試した跡がある。

 よく見たらエリィの化粧もいつもと違った。なんて表現するのかわからないけど、なんか違う気がする。なんというか、そう。ぽてっとしてる。

 

 「エリィも一緒に化粧をしたのか?」

 「ええ、お手本にと思って。でもニクスさん、すっごい手が震えてしまっていたの。」

 

 「(あ、ニクスさんの眉毛曲がってる)」

 「(絶対口に出すなよ)」

 

 言われなくてもそんな女性の化粧を悪く言うつもりなんてない、と思っていたのだが彼女は俺の視線で気付いてしまったのか照れたように前髪を抑えてしまった。

 

 「えぇっと、その……もう一回練習します…」

 「お、お絵描きみたいな感じで頑張りましょう!」

 「(じとー…)」

 「(言ってない!言ってないから!)」

 

 ティオがじとっとした目線をやってくるが声に出してないからセーフだと思いたい。今のは、そう、いつでも観察してしまうという捜査官の癖だ。

 それにしてもいつもジェイの母親のようにニコニコとしている彼女が照れたり、動じたりするのは珍しい。何やら自分は微笑ましいものを見ているような気分だ。

 化粧を覚えたり、お洒落に目覚めたころの日曜学校の友達は確かあんな感じだった気がする。

 

 「それにしても、どうしていきなりお化粧を?今まではしていませんでしたよね?」

 「ああ、明々後日にパーティーに行くことになったので、それで。」

 「それはまたいきなりですね…」

 

 パーティー。

 ニクスさんが参加すると言っていたのは黒月が企画した社交パーティーだ。

 おそらくはこれから裏社会の社交場となるだろう。ルバーチェがいなくなったクロスベルの裏社会を完全に掌握するための彼らの最後の一手。

 

 「それで、ツァオ様から預かっているものがあるのです。」

 

 そう言うと彼女は化粧品で汚れていた手をティッシュで拭いてから、一枚のカードを取り出した。それは白地のカードに朱色と金色で龍が描かれた美しいカードだ。

 裏にはシリアルナンバーが刻印されている。

 

 「これは…」

 「おいまさか…」

 

 嫌な予感がする。

 いくらツァオさんでもここまで大胆なことはしないだろう。そう思いたい。

 

 

 「ツァオ様が、皆さまにもパーティーに参加してほしいと仰っていました。」

 

 

 今度は歪まずに化粧を施した異形の女性は、俺にカードを持たせていつものようにゆっくりとほほ笑んでいた。

 





VOGUE JAPANの動画を見るのが好きです。


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31 迷い出た羊

Q.Fate好き?
A.いっぱいしゅき…




 その宴は、盛況であった。

 

 歓楽街の一角にある誰かの屋敷がこの日限りは東方風の装飾を施し、多くの富んだ人を迎えた。彼らは貴石で身を飾り立て、真っ白な照明の光を受けて輝いている。

 硝子の器に薄い色の酒を注ぎ、水面を揺らしながら談笑する人々の足取りはまるでその背中に羽が生えているかのように軽やかであった。

 

 

 豪奢である。

 そして軽薄である。

 

 

 そんな夜であった。

 

 ありとあらゆる所に、白の胡蝶蘭が飾られていた。金色の龍を象った胸飾りを身に付けた青年にこれ以上なく似合う花だ。大きな花びらが美しく並び、そして丁寧に頭を垂れている。芳しい香りを辺りに振りまいて、人々にここが天上だと錯覚させるかのようだった。

 

 誰もが声を揃えて彼を称える。

 その言葉を受けた彼はまるで至上の人のように笑顔で衆生に手を伸ばす。

 

 皆が美しく笑っている。

 優しさと慈悲にあふれ、蘭の芳香が立ち込める素敵な夜会である。

 

 

 「ツァオさん、今夜はお招きいただきありがとうございます。」

 「ああ、ロイドさん!お待ちしていました!」

 

 今夜最も大きく祝福されている藍色の青年に、若者たちが声をかけた。彼らはともに夜を歓び、言葉を交わし、そして手を握り合う。

 喜ばしい友情である。共に苦難を乗り越えた民衆が手を取り合って喜ぶ姿は、いつの時代も芸術のテーマになってきたほど求められてきた。

 

 「…本当に、素敵な夜ですね。」

 「ええ。社員も私も少々張り切ってしまいましたよ。皆さんが来てくださると聞いてからは、特にね。」

 

 青年は今夜、一際美しく微笑んでいる。

 まるで誰かから笑い方を教わったかのように、今までとは違う種類の整った微笑みだ。それを目にした人々は、ああ竜がまたひとつ優美に強くなったのだと彼を畏れた。

 

 「どうぞ皆さん、今宵は楽しんでいかれてください。楽しい余興も用意しておりますので…。」

 

 人々は皆、竜に手を伸ばす。

 届かないと知りながらも空に浮かぶ竜を手のうちに引き寄せようと精いっぱいに空に手を伸ばしている。

 青年は今までこれらの手を疎ましく思ったことしかなかった。

 

 しかし彼は悦びを知ったのだ。

 彼らに空から手を伸ばしてやったときのあの期待に満ちた眼差し!

 そしてなお願い叶わぬと知ったときの彼らの絶望!

 

 それらは本当に能く若き竜の空虚な心を満たした。

 

 だから彼は慈しんでやることにしたのだ。

 地を這う虫のような衆生も、自らの心をほんの僅かながらも楽しませる有意義な存在であると知った彼は、人々にとって最早恐るべき何かだった。

 

 

 「―――なんかいつも以上に気味が悪いな。」

 「まだ胡散臭く笑ってくれた方が警戒できて助かるんですが…」

 「ああ、本当に……まるで()()のようだ。」

 

 

 勇敢な若人たちもまた、優美にほほ笑む青年を畏れた。彼らは青年の笑みがどこか歪であったことを知っている。そして青年が薄暗い道にしか生きられないことも知っていた。

 だから不自然にしか思えないのだ。

 この夜に、まぶしいまでの明かりを受けながら慈悲深い微笑みを浮かべ誰かと手を取り合う青年が。

 

 彼はまるで、解脱でもしたかのようだった。

 迷いも憂いも超越し、本当に空に飛びあがってしまった竜のようであった。

 

 彼は人々にまた一つ美しくなったと賞賛されて、こう語った。

 

 「ええ、善い出会いがあったのですよ。本当に、喜ばしい。」

 

 彼は教えを授かったのだという。

 美しい微笑みが如何に容易く人を狂わせ、人の心をかき乱すのか。

 口端を対称に釣り上げるというそれだけの行為がどれだけ人を救われたような気分に陥れるか。

 それを知った彼は、本当に能く、微笑みを使った。

 

 笑顔の使い方が上達した彼は、慈悲を知った災厄なのかもしれない。

 まるで竜が古い皮を一枚脱いだかのように、今夜の青年は洒脱で、荘厳で、清廉に見えた。

 

 

 

 その男がすべての客人にその美しい微笑みを見せたころ、壇上の照明がひときわ強くなる。照明は舞台の中央にある正方形の机を照らし出し、そして男たちがその机にのっそりと近寄った。

 

 静かに、三人の男が席に着いた。

 彼らは顔に刻んだ皺を深くし、何かを待っているようだった。

 

 「まさか…」

 「ああ、始まるんだろう。」

 

 余興だ、余興だと客人たちがわずかに沸き立つ。

 実は彼らのうち半分の人間はこれを見届けに来た者だった。彼らはあと一人の誰かを待った。机のもう一辺を埋めるその人間は、竜の威光を背負う人間である。

 

 これからこの机では、ある一つの都市が奪われ合おうとしている。

 東にある管理者をなくした犯罪都市。その街での大きな大きな権力に狙いを定め、三人の雀士がここにやってきたのである。

 勿論、竜もこれを求めた。なので竜は自身が最も強いと考える人間に席に着くように命じた。

 

 この勝負は、負けるべきではない。

 竜はそう思っていた。ならば竜はその者にそう告げるべきだったが、しかしそうは言わなかったのである。

 

 

 なぜ?

 決まっている。

 

 その者が勝てばそれでよし。

 その者が負ければ、その時はその者を甚振って己が楽しめばよいのだから!

 

『九龍は少し離れていますから手に入っても管理が大変ですし、勝ったらそれはそれで嬉しい、というくらいですよ。

 負けたら?それはそれは、愉しいですね。』

 

 竜の言葉である。

 一体何をどのようにして愉しもうというのか、この人間にとっては全く不明だったが、竜のことを俗物たる人間が考えたところで、彼は自分の思考をはるかに上回るのだから世話はない。

 

 その者は、ただ竜が言ったとおりに打とうと考えていた。

 

 

『ええ、ええ。勝敗なんてどちらでもいいのですよ。勝っても負けても、愉しみようがあるのです。私は私で愉しみますから、あなたはあなたでどうか楽しんでください。

―――きっとそれが、一番悦ばしいでしょう。』

 

 

 壇上の机に歩み寄る、女。

 その女は黒の旗袍を着て、頭髪と耳を黒の頭巾で隠している。

 彼の威光を象徴するような金の龍がその装束で飛んでいる。

 

 薄い体の女であった。

 手足が細長く、胸や腰も薄い。しかし貧しさとは無縁な微笑みを浮かべている。

 その笑みは、青年の微笑みとよく似ていた。

 

 だから人々にとって、その女は竜の眷属か何かに見えたのだ。

 

 

 「いやーよく似合っていますねえ」

 

 青年は喜んだ。

 これから舞台で起こるのは、全てが彼のための余興である。客人のためではないし、九龍を希求する羽虫のためではない。

 全ては青年を愉悦に浸らせるための遊興なのである。

 

 

 豪奢な夜だ。

 月がなくとも、夜の光が竜を照らしている。

 

 竜と呼ばれる青年にとって、これは何より悦ばしい饗宴である。

 

 

 

***

 

 

 人生を楽しんでいる人だと思う。

 ああまで上手く楽しめる人もいないだろう。

 

 そういう意味で、私は彼のことをよい人だと思った。

 為す事の善悪でなく、生き様の在り方として彼は正しかった。人間はそう生きるべきなのである。生まれ持った心がどんなに歪でも、どんなに暗い道を往く定めでも、楽しく満ち足りるために生きることはできるのだ。

 

 彼は確かに歪な心を持っているのだろう。空虚なのだろう。

 しかし、彼は実によく弁えた人だった。自身の心が飢餓を訴えるようなときにも決して善良な民衆を巻き込むことはしなかった。彼は正しく悪に生きている。

 私はそんな彼も決して排したくはない。彼も私が慈しむべき命である。

 

 

 この場で最も覚に近い男の、決して満たされない飢えを僅かばかりでも満たすために、私はこの夜に舞台へと上がった。

 

 

 自分に注がれる人々からの目線が定かでないほどにまぶしい照明が、雀卓を照らしている。これは遊興であるらしい。その割には皆怖い顔をしている。所詮は遊びなのだから、愉しめればよいと思うのだが。

 

 きっと自分のあずかり知らぬところで何か謀が為されているのだろうが、彼が気にするなというのなら、きっとそれは私の気にすることではないのだ。

 

 

 卓の四辺を囲んで、賽子を回す。

 そして順番に牌をつかみ取っていく。

 そうして手牌を自分の眼前に揃え、私たちは一人の青年のための余興を始めた。

 

 

 東家、刺青の男性。南家、長髪の男性。西家、禿頭の男性、北家、私。

 刺青を入れた男性の起家で対局開始。

 

 

 東一局0本場 ドラ伍萬。

 配牌、良。三向聴ドラ1。七対子が最も近いが二盃口も無理筋ではない。

 幸先がよすぎるくらいだ。

 

 (そういえばこの方たち、どんな実力なんだろう)

 

 思えば彼に何も聞かずに安請け合いしてしまった。また知人に怒られてしまうかもしれないが、そういう癖は中々抜けないものだ。せめて説教は容赦してもらおう。

 

 (心配かけないように勝ちたいけれど、愉しませたい)

 

 さてどうすべきか。

 単純明快である。

 

 

 珍しい役で和了すればよいのだ。

 あの青年が呆れて、つい笑いだしてしまうくらいに。

 

 

***

 

 

 「自摸。立直面清一気通貫。裏ドラが乗りました。」

 

 「呪文ですか?」

 「まるで意味が分からないわ……」

 

 なんとなく他三人の顔色から察するに、この局面はニクスさんが有利なのでしょう。意味はよくわからないが、あの呪文を唱えた人はそれ以外の人から点数がもらえる、みたいです。

 

 今のところニクスさんは二回呪文を唱えています。

 

 「ランディ、わかるか?」

 「ニクスちゃんが激強ってのはわかる。ってかそれしかわかんねぇわ。」

 

 支援課メンバーの中で一番ギャンブルに詳しいランディさんでもそんな感じなのだから、おそらく私たちの予想のはるか上を往く勝負が繰り広げられているのかもしれません。

 

 「皆さん、解説が必要でしたら不肖ながら務めさせていただきましょうか?」

 「ツァオさん。会の主役なのにいいんですか?」

 「ニクスさんが思っていたよりも強すぎて誰も私のことなど見ていません。本当にほれぼれするほどの打ち筋です。」

 「ニクスちゃん、そんなに強いのか?」

 「大金を積んででも専属雀士として雇いたいくらいですよ。」

 

 今夜のツァオさんは一段と胡散臭いです。

 これまでの胡散臭い笑顔ではなく、ニクスさんがいつも浮かべているような微笑みをツァオさんがやると、なぜかもっと不気味に思えます。

 

 「(胡散臭いです)」

 「(とってもわかるわ)」

 

 ツァオさんは言葉にしようもないほどのやり手で、ギリギリの招待に慌てた私たちのドレスも用意してくださいました。まるで私たちが結局最後は招待に応じることを予期していたみたいです。

 

 「麻雀は、ポーカーのように柄の違う牌を交換していって役を作るテーブルゲームです。ポーカーと違って牌の個数が多いですから、戦略性も高まります。

 一つの局面で一番早くに役を作った人が点数をもらいます。そしていくつかの局面の後、一番点数の高い人が勝ち、というゲームです。」

 「点数ってあの赤い数字ですか?」

 

 液晶に表示されている数字は点数という割にはやけに桁が大きいです。ニクスさんはなんと今3万点以上も集めています。

 

 「麻雀の役の点数はピンキリでしてね、手持ちの点数が2万点と割合高いんです。ニクスさんは結構大きな手で和了りますから、集める点数も自然と多くなります。」

 「呪文が長いほど点数も高いんですね。」

 

 アーツだってそうです。詠唱が長いほど強力で威力が高いことが一般的で、そもそも組むことが困難になってきます。高いアーツ適性と強力で高価なクオーツが必要になります。

 

 「ええ、その認識でいいでしょう。

 この様子だとオーラスは役満和了ですかね。」

 「役満?」

 「一番強い役ですよ。ポーカーだとロイヤルストレートフラッシュに相当します。

 麻雀だとそういった役が複数ありまして…ラウ。彼女はどれで和了るでしょうね?」

 

 何だかツァオさんの楽しみ方が本来の趣旨から離れようとしているように聞こえるのは気のせいではないでしょう。ニクスさんはどうやら強い役を作ることを楽しんでいるようで、その隙に他の人が上がったりもしていますが、ニクスさんはなぜか全然点数が減りません。

 

 「点数が3人から減るのと、1人から減るので何か違いはあるんですか?」

 「誰のものでもない山の牌を引いて和了ると3人から、誰かが捨てた牌を奪って和了ると1人から点を奪えます。役を作りながらも交換して捨てる牌が誰かの和了牌にならないように気をつける、というのが基本戦略です。」

 「いくら気をつけても、その一人が滅茶苦茶に強運で山場から引いた牌だけで役を作ったらそれは防ぎようなくないか?」

 「ええ、強運での和了は不可避に近い。だから点数を奪われないためにはそれよりも早く和了るしかないのですよ。」

 「そんな無茶な…」

 

 ロイドさんが呆れる通り、人の運には波があります。良い時もあり悪い時もあり、そういったものに弄ばれるのが普通です。

 でもどうしてニクスさんは有利なまま局面を進められるのでしょう?

 

 「ニクスさんはそうしていますよ?他の御三方はイカサマを多用していますがそれよりも早く彼女が和了しています。」

 

 今、ツァオさんがすごいことを言ったような気がするんですが。

 

 「えぇっ!?イカサマしてるってわかってるんなら止めて下さいよ!」

 「いやいや、これ最初から何でもアリのゲームなんです。勝負を止めたら契約違反になっちゃいます。ニクスさんにもお願いするときにイカサマをされるだろうとは言ってありますよ。けれど彼女はそれでも受けて下さったんです。

 いやぁ本当に良い友人に恵まれました!」

 

 ツァオさんの笑顔がシャンデリア以上に輝いています。ロイドさん以上のお人よしに出会えて彼は浮かれているのかもしれません。

 

 でも、ただの余興でイカサマまでするなんて、ただごとじゃない気がします。

 他の3人もそのことに思い至ったみたいです。

 

 

 「なぁ、これ負けたらどうなるんだ?」

 「さぁ?いったいどうなってしまうんでしょうね?他の御三方は負けると上司に怒られてしまうでしょうけれど、私はニクスさんが負けても怒る気はありませんよ。勝敗は関係ないと言ったのは私ですし、私と彼女は友人なのですから。」

 

 やはり、何かあるらしいです。それもツァオさんがこれほど面白くてたまらないという顔をするほどの、何かが。

 ニクスさんはこの人をいい人だと評したそうですが、人を見るセンスがないと思います。

 

 「じゃあ勝ったら?」

 「―――フフ、どうなってしまうのでしょうねえ!」

 

 機嫌が、機嫌がいい。ツァオさんの機嫌がストップ高です。

 もはや今にも踊りだしそうなくらいにぐちゃぐちゃに歪んだ彼の心象が見えてしまうほどに、彼は楽しそうでした。真っ暗でうつろなツァオさんの精神が、今夜は活き活きとしています。

 

 そしてツァオさんが悦に浸っているとき、勝負を見ている人たちが突然ざわざわとし始めました。

 

 「ロン!大三元だ!」

 

 そう宣言したのは長髪の男性です。どうやらよほど強い役であるらしく、ニクスさんの点数がゴリゴリ減っていきます。

 

 「ああ、役満が出ましたよ。思ったより早かったですね。もう配牌を弄り始めましたか。」

 

 自分の代打であるはずのニクスさんが一気に不利になったというのにツァオさんの涼しい顔は崩れません。いや少しいつもの歪んだ笑顔になりかけてはいますが、楽しそうであることに変わりはありません。

 

 「ほ、本当に負けても何もないんだろうな!?」

 「ええ、()()ニクスさんに何もしませんよ。」

 

 『他の人がどうするか知ったことではないけれど』、そう言っているように聞こえました。

 

 「アンタ……」

 「ロイドさん、今日の会はとても楽しいでしょう?

 警察や遊撃士の皆さんもお招きしましたし、記者や商工会の方もお呼びしました。私はとても楽しみでとってもとっても、張り切ってしまったんです。」

 

 そう、このパーティー自体はとてもクリーンでした。何の犯罪行為もなく、オープンで、後ろ暗い点と言えば主催者がマフィアであるくらいです。だから、摘発ができないのです。

 あの怪しい麻雀も結局はただのパフォーマンスですから、私たちが何を言ってもホコリは出てきません。

 

 「それに、私が見込んだ雀士はそう簡単に負けませんからそう心配なさらないでください。」

 

 ツァオさんは、ニクスさんの勝利を心から信じているようでした。もう今にも桁が一つ減ってしまいそうな点数しかないのに、疑う余地などないとでも言いたげです。

 

 「…どうして、彼女をそこまで信じられるんですか?」

 

 運なんて、女神のみが知っているものでしかないのに。

 私の疑問に、ツァオさんは笑顔で答えてくれました。

 

 いつものあの、とっても胡散臭い歪な笑顔で。

 

 「彼女は、海と河に愛されています。()()を操る恐ろしい人なのですよ。」

 

 私には、ツァオさんの言葉の意味が分かりませんでした。

 けれどこの時、私は舞台の上で呪文を唱えたニクスさんが、初めて『恐ろしいもの』に見えたのです。

 

 彼女はいつもの優しい微笑みを浮かべて、まるで牌をいとおしく思っているかのように掬い上げていました。

 あんなにやさしい笑顔で、丁寧な手つきで牌に触れているのにどうしようもなく怖かった。

 

 

 「自摸、立直一発面前断么九海底、二盃口。ドラ裏ドラです。」

 

 

 

***

 

 まさかあの捨て牌で聴牌していたとは。油断し過ぎただろうか。

 

 途中で調子に乗り過ぎて役満に振り込んでしまったけれど、一応ツァオ様の面子は崩さずに済んだはずだ。勝負では勝ったし、どうにかこうにかできる範囲で高目にとった。

 何分理想の高い人であるから、満足してくれたかはわからないが退屈を慰めるくらいにはなっただろう。

 

 舞台から降りると、楽しそうなツァオ様が声をかけて下さった。

 

 「ニクスさん、お疲れさまでした。」

 「ご満足いただけました?最後役満に乗り切らなくてちょっと残念です。」

 「親の3倍満で見事2人くらい吹っ飛ばしていたじゃありませんか。お見事でしたよ。」

 

 あの人があの時親じゃなくて本当に助かった。あの人が親だったら飛んでいたのは私だ。最後も染まり切らず、捲れないかと思ってしまった。

 久しぶりで点数計算を少し忘れかけていたために杞憂に終わったのでよかったけれど、心配をかけてしまったかもしれない。

 

 「途中危なくなってしまって、冷や冷やさせてしまいましたね。」

 「いえいえ、ニクスさんならきっと最後は勝つと信じていました。」

 

 ありがたい話だ。ただ単に運がいいだけだというのに、ツァオ様は私の麻雀の腕を随分高く買ってくださっている。もしかしたら麻雀が大好きなのかもしれない。

 

 「ツァオ様とも打ってみたいものですね。」

 「まさか。あんな異能じみた流れに巻き込まれるだなんて、東場を生き残れるかどうか…」

 「ご謙遜をなさらないでください。」

 

 間違いなくこの人は強い。そんな気がする。

 今回だって、きっと観戦がしたいからツァオ様は参加なさらなかっただけなのだろう。

 

 

 「ニクスさん!」

 

 ツァオ様と談笑しているところに駆け寄ってきてくださったのは支援課の皆さんだ。舞台の上からでは照明で目がくらんでよく見えなかったけれど、皆さん本当に盛装が似合っていらっしゃる。

 

 「皆さま、こんばんは。お会いできてうれしいです。」

 「ニクスちゃん、あんたの無理無茶を俺は舐めてたよ…」

 「えっと、その…すごかったです。」

 

 皆さんが先ほどの対局を誉めて下さるので、お話をしようと思っているとツァオ様はどうやら他のお客様とお話に行くようで、集まりから一歩引いた。

 

 「ツァオ様…本日はありがとうございました。」

 「いえ、こちらこそ。ああ、そうだ。言うのが遅くなってしまいましたけれど」

 

 彼は飛び切り無邪気な笑顔を浮かべた。

 九龍で彼と知り合ってからまだそれほど経っていないが、彼のその少年のような笑顔を私は初めて目にした。

 

 

 「そのお姿、よくお似合いですよ。やはりあなたは素晴らしい方だ。」

 

 

 それでは皆さま、よい夜を。

 

 彼はそう言い残して群衆の中へと消えていく。私は彼の歩く姿を目で追っていたけれど、やがてたくさんの蘭の花が彼の背を隠した。彼の足取りは優美で、まるで空に浮かぶ一匹の竜のようであった。

 

 

 

***

 

 

 

 

 苦しい。

 痛い。

 

 体が、しびれている。

 

 あのきらびやかな竜の宴から暗くて湿った路地に俺は連れられてきてしまった。そして今も上司の怒りを体に受けている。

 薬、暴力、痛み、しびれ…そういったものが俺の体をやがてむしばんでいくが、俺はそれに抵抗することができない。

 

 許されていない。

 許されない敗北を喫してしまった自分には抵抗する権利なんてない。

 

 きっと今頃ほかの二人も同じような目にあっているだろう。俺たち3人は、皆その上司も含めて崖っぷちだった。ツァオを沈めるにはクロスベルに比較的近い九龍を是が非でも抑える必要があったのに、それに失敗したのだ。

 

 いたい

 

 いたい

 

 やめてくれと叫びたい。けれどそんな意味のある言葉なんて出てこない。いくつかの骨が折れて、肉がちぎれて、うめき声が漏れるばかりだ。

 ただ落ちぶれていく老いぼれの八つ当たりを、その部下である俺は受け止めなければいけなかった。

 

 どうして俺が、

 どうしてこんな目にあわないといけない?

 

 当然の疑問はしかし発することが許されない。

 俺はここで上司の気がまぎれるまで、ひたすら拳士たちに甚振られなければならないのだ。

 

 

 みしり

 

みしり   ぎちゅ 

 

   ぐちゃ

 

 

 ああ、今、何がなくなったんだ?

 

 せめて、せめて郷里の家族のところに帰れるように、心は残しておいてくれないか。出来れば目や舌も。あれ、それらは今残っているのか?

 

 

 わからない

 

 なにも、わからない

 

 

 痛くて、暗くて、苦しい。

 華やかな舞台の裏の、血みどろの一部に俺はなろうとしている。

 

 ああ、だれか。

 だれか、いないか。

 

 

 このままでは俺は、おれは欠けてなくなってしまいそうだ。

 このうすぐらい場所で、たおれていたくなんかないんだ。

 

 

 

 

 「もし、そこの方。」

 

 女か?

 誰だ?

 

 

 「ああ、痛いのですね。でも大丈夫ですよ。もう怖くありません。」

 

 たすけてくれるか?

 おれを、ここからつれだしてくれるか?

 

 

 「ええ、ええ。今お助けしますよ。さあ、手に捕まって。」

 

 

 声に導かれるままに、手をどこかに伸ばす。

 俺の硬い手に触れたのは薄い手だった。柔らくて、少し冷たい女の肌だ。

 

 女、おんな。

 抱きしめてくれ、包んでくれ。最後に女を抱いてから死にたい。

 

 

 「あなたはこれからも生きるのですよ。大丈夫、私がついています。」

 

 もう目の前が、グラグラとしてあまり見えないけれど、薄暗い中に月の色の何かがある。ぼやけて二つに見えるけれど、きっと今夜は満月だったのだろう。

 おれは目の前のやわらかくてひんやりと冷たいなにかに捕まった。すがるように、抱き寄せるように、必死になってそれに腕を回した。

 

 薄い手は、そんなのろのろとした俺の頭をなでている。

 

 

 「どうぞ、お好きなように。痛かったでしょう。辛かったでしょう。」

 

 こわかったのですね

 

 

 ああ、そうだ

 おれはしにたくなんてない

 

 でもいまならしんでもいいかもしれない

 

 

 そう思うくらい、優しい手だった。

 外にちょっぴり飛び出た脳もとろけて、とけて、どろどろになってしまいそうな優しい声は、この夜、ぐちゃぐちゃな俺を生ぬるい闇のような沼から掬い上げてくれたのだ。

 

 かみさま?

 

 「いいえ、ちがいます。」

 

 ちがう?

 

 「けれどあなたを助けます。」

 

 かみさま。

 

 「いいえ、違うのですよ。」

 

 いたい  たすけてください

    くるしいです

 

 たすけて

 

 

 「はい、あなたの望みのままに」

 




麻雀は結構なにわかなので変なところがあったらごめんなさい…

ツァオさんはニクスの恐ろしさを正しく認識してくれそうですね。


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32 毒麦

 

 

 

 

 やられた。

 この自分が、もう辛酸をなめるまいと決意を新たにした自分が、また一人の人間に一本取られてしまった。

 

 あの饗宴は大成功を収めた。それは文句のつけようもないくらいで、長老たちが苦虫を噛んだ顔をしているのを見て思わずほくそえんでしまったものだ。

 しかし、その後に彼女がまさか雀士たちを取り込んでいるとは思わなかった。

 

 あの麻雀での敗北者たちは自分の配下とする予定だった。中々に有能な人間たちだったのだ。老いぼれの八つ当たりで死んでいいようなものたちではなかった。制裁を受けて路地裏で転がっているところを拾い、恩を売って全員自分のもとに引き込んでしまおうと思っていたのだ。

 

 だがこちらが働きかけるよりもこの女性が彼らを救い上げる方が早かった。彼女の善性を甘く見ていたのだ。

 

 「ニクスさん、重ね重ねにはなりますが、本当にありがとうございました。

 こちらはお礼です。少ないですが、ニクスさんのお力になれば幸いです。」

 「いいえ、私のしたことなんてただのゲームですから…。」

 

 目の前で微笑んでいる善の魔性はそのゲーム一つでどれだけの男たちが泣きを見たのか気付いているのだろうか?

 一晩で3つの派閥が瓦解してしまったのだ。あの対局で入り込んだどうしようもない日々にはすぐに手を入れさせた。あとはあの3人を回収すれば共和国への足がかりが完成するはずだった。

 

 たかが3人。されど3人。

 集まれば文殊の知恵も引き出せる。

 ぼろぼろの派閥に埋もれていた原石だったが、私が自ら手塩にかけて育ててやろうと思っていたのに、逃した魚は大きいとはこのことか。

 

 あの夜に関しては傍目には万事成功を収めたと言っていいだけの出来だったため、余計にその一点だけが残念でならない。

 完璧に一歩届かない不完全ほど私の神経を逆なでするものもないだろう。

 

 悪鬼羅刹にすら喧嘩を売るような筋金入りの極道が、今では一人の女性に飼いならされているなど、笑止千万というもの。

 彼らは自分から彼女の力になりたいと願い出て、治療が終わり次第彼女が設立したノーザンブリアの支援団体に合流する予定らしい。

 

 これが、これがこの女性のやり口か。

 落ちぶれた人間を誘惑して光ある道に引っ張り上げるしか能のない女性と思っていたが中々油断ならない。本来、救いようのない悪人を正道に引きずり込んでしまうなんて愚かなこと。

 どうせなくなりもしない悪を自覚して自分は真っ当な道を歩むべきではないと道半ばあきらめてしまうのが関の山だ。

 

 だというのに、だというのに!

 彼らの心に信仰が芽生えてしまった!

 たった一人の女性を神聖視し、敬い慕う一心でそんな道を歩める強い存在になってしまった!

 

 

 「……はぁ。」

 「どうしました?」

 

 まぁ、いいか。

 時には妥協も重要だ。覇者には立ち直りの速さも求められるもの。

 いつまでもくよくよ失敗を嘆いていてもしょうがない。

 その暇があれば次への一歩を固めることに注力しよう。

 

 

 「いえ、本当にニクスさんが私に雇われてくれないのが残念でならないのです。」

 「……それは、本当に申し訳ありません。ありがたいお言葉であるとは、わかっているのです。」

 「いいんです。あなたには使命がある。またこうして、友人として会っていただければ私はそれで満足ですよ。」

 

 そう言うと、彼女は薄布の向こうで少し幼く笑った。

 彼女は幸いなことにまだ幼い。『友情』とか『義』とか、そういった言葉に弱いのだ。それならそれを最大限活用するというのが私のやり方だろう。

 

 私は私の、彼女は彼女の。

 それぞれのやり方で一番利益を引き出せるように、都合のいい時だけ彼女を使えばそれでいい。

 

 この世はただのゲームだ。

 私も、彼女も結局は駒に過ぎない。

 ならばそれを出来うる限り愉しむ。それが人生。それが生き様。

 

 「ありがとうございます。友と呼んでいただけるなんて光栄です。」

 「あなたがあなたである限り、私が私である限り、きっと誰にもこの友情を裂くことはできません。どうかこの異郷の地で友誼を結んだ証として私のことはどうぞツァオ、と。」

 「ええ、ツァオ。私の友。私のこともどうぞニクスと呼んでください。」

 

 私に打算があっても、謀略を企てていても、この女性は私と友になれて嬉しいのだという。変わった女性だ。きっといつか、彼女はろくでもない死に方をするだろう。

 たくさんの人を悲しませて、たくさんの人を喜ばせて、死ぬだろう。

 きっと後には混乱と破滅だけが残る。

 

 人々はまるで旅人が空の星を見失ったかのように、長い夜をさまようことになるに違いない。

 

 

 「―――私、あなたのような人を知っています。」

 「ほう?もしかして初恋の相手ですか?」

 

 彼女は戯れるようにそう言った。

 声音で故郷の男と知れた。彼女の心に深く何かを刻んだ人間のようだ。

 

 「いいえ。故郷で最も賢く、義に厚く、心配性な男でした。彼のしなやかな肢体は強い力をもたらしませんでしたが、彼はいかなる勇猛な兵の槍の一撃にも屈せず、反骨心が豊かで、よく笑う人でした。

 彼はよく仲間を支え、戦術と戦略を以て時代を制したのです。」

 「……私、その方と似ていますか?」

 「いいえ、ちっとも。けれどあなたのような人だったのです。

 私たちの仲間は、決して彼を楽しませることができませんでした。彼の心は底の抜けたコップのようで、いくら慈しんでも飢えを訴えるのです。ただ闘争と勝利を求めいかなる敗北にも死にませんでした。」

 

 心当たりがある。

 血は自分にとっての水で、悲鳴は子守唄のように聞こえた。母の優しい愛を私はうまく受け止めることができなかった。生まれた時から、歪だったのだ。

 

 「その方は言いました。『人は争いに負けるのではない。心に負けるのだ。』

 ―――私が知る限り、誰より強靭な人でした。あの夜、あなたが笑ったでしょう。それを見た時、少し彼を思い出したのです。」

 「そんなに立派な方と重ねていただけるとは、名誉なことです。」

 

 彼女が神の御使いであるならば、これは預言であろうか。

 

 「あなたは闘いに生きる人。あなたがいつか、長い闘いの果てに栄光と誉れある勝利をつかむことを願っています。」

 

 彼女が言ったのは意外な言葉だった。

 

 「いいんですか?私が勝てば、誰かが負けてしまいますよ?」

 「友の歓びを願わない者はいません。それに誰かが負けることは私にとって幸いです。誰かが負けた時、誰かが傷ついた時、私はその人に手を差し伸べる許しを得ているのですから。」

 

 人間は、闘争を避けられない。

 種類や規模が違えども力を振るわねば生きていけない。

 誰かが勝って、誰かが負ける。そんな競争は生れ落ちた時から始まっている。どんなに不平等でも、どんなに弱くても、私たちは戦わなくてはならない。

 

 「世の中の敗者すべてを助けるつもりですか?きっと疲れますよ?」

 「可能かどうかはわかりません。けれど私は私の手が届く限りの人を助け、これを救います。そのために生きると決めたのです。」

 

 何が最も強靭な男か。

 この者の心は、きっと如何に鋭い矛でも壊せないだろう。

 

 「……それでは、私がもしも戦いに負けてしまったら、その時はお世話になりましょうかね。」

 「ええ、私はあなたを助けましょう。友とはそういうものなのでしょうから。」

 

 呆れた。

 ろくでもない死に方なんてものじゃない。

 もっともっと苦しい爪痕を、きっとこの女性は人の心に残す。死ぬわけがないと誰かに思わせて、そして無残に死んで、誰かをそれ以降ずっと苦しめるのだ。

 

 

 「ツァオ?あの、疲れているのではないですか?」

 「いえ、この程度どうということはありません。

 

 しかしニクス、あなたは本当に災いのようだ。」

 

 こんなもの、生きた災害でしかないだろう。

 きっと誰も彼女の前で正気ではいられない。

 

 

 「ふふふ、それ、彼にも言われました。」

 

 

 私は肩をすくめた。人間誰しも考えることは同じということか。

 本当に、敵対心を持つのが馬鹿らしい。この女性は敗北を知らないのだから、いくら痛めつけたところでこちらの手が痛いだけだ。

 

 「それでは、私の友によきご縁のありますように。」

 「我が友に女神の加護のあらんことを。」

 

 女性は、そうして去っていった。

 次に彼女がいつ来るかわからないが、できればもう来てほしくない。記憶から彼女のことを消したいくらいだ。彼女のことを覚えている限り、私は彼女を忘れられないだろう。どんな人間よりも慈悲深い怪物が、いつか自分を救いに来てしまう可能性を捨てきれない。

 

 

 (そんなのごめんです)

 

 悪の道は、自分に合っている。

 どうしようもなく愉しいのだ。彼女に更生させられてはたまったものじゃない。

 

 はぁ、これではいかなる戦いにも負けられない。

 本当に厄介な女性だ。

 

 「ラウ。」

 「はっ」

 

 自分の右腕を呼びつけた。

 彼女への腹いせをするためだ。

 

 「これを彼女に送ってください。彼女ならきっと喜んでくれるでしょう。」

 「かしこまりました。」

 

 あの女性は、どんな手段でどれだけ痛めつけても痛そうな顔をしない。まるで痛覚がないかのようだ。ならば、彼女ではない誰かで憂さを晴らすしかない。

 

 (ニクス、私は悪人です。それと友になることが、それを救おうとすることがどれだけ愚かであるか。一度だけ教えて差し上げます。)

 

 初回サービスで授業料は免除して差し上げますから、せいぜい困ればいいのです。怪物が人間の皮を被ってしまったことを悔い改めてみなさい。

 

 

 笑顔が漏れる。

 これから起こることを考えると悦の感情が抑えきれないのだ。口の端が歪んで吊り上がっていってしまう。

 

 

 慈愛に満ちた彼女のような微笑み?

 ああ、あれ疲れるんですよね。肩が凝るのでやめました。

 やっぱり歪な方が、私には合っているようです。

 

 

 

***

 

 

 

 『で、釈明はそれだけですか?』

 「えっと、リィン様。どうして私怒られているんでしょう?」

 

 

 ニクスです。

 私、なぜか今通信をしています。

 特務支援課の液晶に映っているリィン様のお顔はとても怖いです。

 

 『主観で物を言わないでください!ガイウスから全部聞いています!』

 「ええ!?ウォーゼル卿が?」

 『トマスさんもトマスさんですしガイウスもガイウスですがあなたもあなたです!俺が事情を聴いた時どうしようかと思いましたよ!』

 「えっと……申し訳ありません。」

 

 とりあえず、リィン様はお怒りのようですので謝っておきましょう。

 

 『何が悪いかもわかってないくせに口先で謝らないでくれますか!?』

 

 ううん。

 これは、本気だ。本当にリィン様は怒っていらっしゃる。

 彼は私の考えを説明するように求めているようだった。

 

 「リィン様。私はリーヴスを出て以来当然のことをしてきたつもりです。騎士団の方や、ウォーゼル卿に支援していただいて、そのお礼として労働をしていました。あとは困っている人がいたら助けるようにしましたし、わからないなりに最善を尽くしてきたつもりです。

 ……私は間違っていたでしょうか?」

 

 リィン様は額に手を当ててため息をついている。どうやら彼は少し混乱しているようだった。

 

 『あのですね、ニクスさん。確かに人助けはいいことです。騎士団の一件は…俺たちにはどうしようもないことです。言ってもなんともならなかったかもしれません。

 でも、あなたには根本的に人間の感覚が備わっていないんです。』

 「人間の、感覚……」

 

 

 『人は殴られると痛いですし、誰かに害されると悲しいんです。誰だって、そういった不当な行為に抗議する権利があります。

 騎士団の拘束も、九龍であなたが受けた暴力も、スリにあったことも、騙されそうになったことも、ツァオ支社長の謀略に巻き込まれたことも。

 全部全部抗議するべき不当な行為に当たるんですよ!

 というか本当にあなた理不尽な目にあってばっかりじゃないですか!』

 

 「けれど私、辛くないんです。殴られても痛くないですし…」

 『そんなのは関係ないんです。友人がそんな目にあってるって聞いて俺たちが平気でいられると思っているんですか?』

 「皆さまがとてもやさしいことは私も知っています。私の友人でいてくれることもありがたいことだと思います。でも私、人を助けたいのです。」

 

 困っている人がいれば全員助けたい。

 傷ついている人がいればその人の善悪など関係なく癒したい。

 

 そう思うことは、悪いことなのだろうか。

 

 『だったらせめて自分の身は守ってください。武器を携行するなり、不意打ちで反撃するなりして自分の安全だけは確保してください。それでしたら俺たちも少しは安心できますから。』

 「それは……」

 

 

 それは、できない。

 私は人を害することができない。

 人に暴力を振るうことができない。人に血を流させることができない。

 

 そういう()()なのだ。

 

 

 『ともかく、ユウナの春休みが終わるまでにどうにかしてください。ニクスさんにどうにもならないようでしたらまずユウナとアルティナに今回のことを報告します。それでリーヴスに連れてきてもらいますから、護身術をもう一度学びましょう。』

 「二人に言わなかったのですか?」

 『さすがに情報量が多すぎます。難しい問題でもありますから混乱させてしまうでしょうし。』

 「ご心配おかけしてしまってすみません…。」

 

 リィン様は優しさからこう言ってくださっている。

 私のことを心配してくださる。お忙しい中通信に時間を取っていただいた。二人に報告することも一旦保留にして下さった。こうして私に選択肢を与えて下さっている。

 

 全て、彼の優しさであることはわかっているのに、私は彼の思うような答えをきっと出せない。

 人を助けたいと思って行動に移してしまうし、人を傷つけることもできない。

 

 「少し、考えてみます。」

 

 考えても考えても、きっと私はその答えを出せない。

 結局、人を傷つけることなく人を助ける。誰かが傷つかないと人を助けられないのならば自分が傷つく。そういう結論に至ってしまう。

 

 私は頑固だ。どれだけたくさんの人と関わっても、どれだけたくさんの人に心配をかけてもそのようにしか生きられない。

 

 『相談には乗りますのであまり思いつめないでください。ニクスさんがしていることは危険な目にあっていることを除けば称賛されるべき行為なんですから。

 ただ、あとちょっとご自分を慈しんでほしいというだけなんです。』

 「……ほんとうに、ありがとうございます。」

 

 リィン様はそうして通信を切断した。支援課のオフィスの一階、広いダイニングに私だけがぽつんと立っている。

 

 リィン様をどう説得しよう。

 そのようにしか生きられないことを何と言えばわかっていただけるだろう。

 

 「あ、終わりましたか。」

 「ティオ様……」

 「リィンさん、すごく怒ってましたね。でもそれってみんなが思ってることです。ロイドさんもランディさんも、エリィさんや私も、結構心配しました。」

 

 私は、人の心がわからない外道なのかもしれない。

 何度同じことを繰り返しても自分の在り方を変えられない。そうして私を思ってくださる人の心を蔑ろにしてしまう。

 

 「申し訳ありません……。」

 「元気で、健康でいてくれればそれでいいんです。ほら、クロスベルでも物資の支援とかならできるんでしょう?危険なところから離れても人を助けることはできるはずです。」

 

 

 そんなことはできない。

 私はもう見てしまった。

 あの終末に向かう世界で、ノーザンブリアで。貧困の惨めさに蹲り、尊厳を災厄によって踏みにじられ、救いと助けを求めている民の姿を見てしまった。

 私はもう目をそらせない。飛んでいきたい。助けたい。癒したい。彼らの傍に寄り添いたい。彼らはそれを何より求めているだろうから。

 

 私がついている、そういったときの彼らの安心した表情を私は忘れない。私のような存在でも、ただのシステムでも、人を助けられる。人にあんな幸せな安らぎを与えられる。

 

 私はもう知ってしまったから、もう戻れない。

 

 

 「……ありがとう、ティオ様。少し頭を冷やしてきます。」

 「えっ、あ、あのっ…!」

 

 

 みっともない。

 見苦しい。

 ぐちゃぐちゃになった思考を整理できず、ろくな挨拶もしないまま走り出してしまった。

 

 ビルから飛び出して、ただ走った。

 体力がないからすぐに息が切れるけれども、それでも走った。

 走って走って、頭が思考で一杯になっていく。

 

 (……こんな状態では、戻れない。)

 

 ジェイは賢い子どもだからきっとわかってしまう。私の迷いを見抜いてしまう。頭を冷やして、落ち着いてから帰らないと。

 私は東通りから逃げるように反対方向へと走った。西通り、住宅街、大聖堂の前まで来た。

 

 私はもう一度誰かの前にこの迷いと悩みを詳らかにするべきなのかもしれない。けれど、今の私は誰かにまともに何かを説明できるような状態ではない。

 

 こういう時は、水の流れる音を聞きながら時間が経過するのを待つしかない。

 時間は、悲しみも混乱も安らげてくれる。あったものや思ったことをゼロにはしてくれないけど、その重たさを軽くはしてくれる。

 

 (滝の音…)

 

 マインツ山道という道には大きな滝があるようで、渓流特有の早い水の流れが体に響く。水の飛沫と冷えた風の匂い。走って火照った体を冷やすように湿った空気が私の体を包んでいく。

 まるで心から何かが流れ出ていくかのように自分の胸も冷えていく。体が震えて、自分の愚かさが身に染みた。やがて迷い悩む気持ちに私の無力さも悔しさも混じって爪の色まで曇らせた。

 

 これがヒトになることの、苦しみ。

 私が選んだ道。辛くも痛くも悲しくもないけれど、ただ困難であると思う。難しくて、私は逃げ出してしまいたい。

 

 人になるためには、人と支え合わなければならない。

 人と支え合うためにはまず自分を守らねばならない。

 

 知っている。わかっている。けれどできない。

 誰も傷つけたくない。そんな勇気がない。何も悩み苦しむことなく、私はみんなと笑いあいたい。

 

 これがわがまま、というものなのだろうか。

 それとも傲慢?

 

 わからない。わからない。

 私はどうすれば私の思うように生きられる?

 私のなりたい人になれる?

 

 

 「生きることって、難しいですね」

 

 

 声が、聞こえた。

 一人だと思っていたのに。誰にも会わないで済むような場所まで歩いてきたと思ったのに。

 慌てて振り向いた。山道のつり橋の上に一人の女性が立っている。美しい人だ。

 

 「こ、こんにちは。」

 「ごきげんよう。あなたが思い悩んでいるのを見てつい声をかけてしまったんです。初対面ですけれど、私では力になれませんか?」

 

 優しい女性だ。こんなどうしようもない悩みを抱えている見知らぬ人間にもそう言ってくださるなんて、喜ばしい。そんな優しい人が笑いかけて下さるというそれだけのことでなんだか心がふわりと軽くなったような気がした。

 

 「ありがとうございます。あなたのお気持ちだけで、心が楽になったような気分です。」

 「あら、でしたら悩みを口に出せばもっと楽になるかもしれません。」

 

 それもその通りだ。

 先ほどは大聖堂を通り過ぎてしまったけれど、悩みを口に出して言語化できるくらいには落ち着いてきた。女性が自分から話しかけて下さったおかげだろう。

 

 「ええ、では少し長くなってしまうかもしれませんが…」

 

 私はその美しい女性に自分の悩みを打ち明けることにした。

 

 自分のことを心配してくださる人がいるけれど、私はすこし危険な場所に行って困窮する人を助けたいと思っていること。

 周囲を説得したいけれど、心配はかけたくないこと。

 自分がどのように成長するべきか悩んでいること。

 誰かを特別好きになりたいのにその気持ちがわからないこと。

 

 誰かを助けたいけれど暴力が怖いこと。

 

 全部を話した。その女性はとても聞くのが上手で、その若さでは考えられないくらいに賢かった。その方は両者に時間が必要だと言い、お互いが頭を冷やす必要があると助言をくださった。

 

 そしてその間に新しい支援の形を考えるのはどうか、と。

 構想はよいのだから必ず助けて下さる誰かが現れるはずだ、と。

 一人では矛盾してしまって無理のあることも、二人、三人ならできるかもしれないと教えて下さった。

 

 

 それはまさに青天の霹靂というべき提案だった。

 確かに、ウォーゼル卿と行動を共にしていた時は何回も彼に助けていただいた。危ない目にあいそうなときはフォローしてくださったし、ジェイとの関係を取り持ってくださったのもウォーゼル卿だ。

 

 誰かの力を借りる。誰かと協力する。それはとてもいい案だ。

 

 我らの王も、決して一人で戦いに勝ったわけではない。

 彼には仲間がいた。友がいた。兵を統べる将がいて、策を練る軍師がいて、そして政治を助ける私がいた。

 人の力とは、支え合うことで生まれる力なのだ。

 

 私は教えを授けて下さった女性に心からお礼を言った。

 

 「ああ、ありがとうございます!あなたは私が気付けずにいたことを気付かせてくださいました!これで私の友人もきっと納得してくださると思います。」

 「あなたの憂いが晴れたのなら私も一緒に考えた甲斐がありました。」

 「あの、どうかお名前を教えていただけませんか?お礼をさせていただきたいのです。今は私何も持っていませんけれど市内に帰ったら何かあなたにお礼の品を…」

 

 是非とも何かお礼がしたい。キリカ様のように物語を捧げてもいいが、あまり本を読まない方かもしれない。何がいいだろう?工芸品か、化粧品か…

 そう考えをめぐらす私の提案を彼女はあっさりと切って捨てた。

 

 「あら、その必要はありません。」

 「それは困ります。どうかお礼をさせてください!」

 「……でしたら、この場でできるもので構いません。」

 

 成程、彼女はどうやらクロスベルに住んでいる人ではなかったらしい。それならば確かにここから市内まで戻るのも大変だろう。

 

 「私にできることでしたら何でもおっしゃってくださいな。」

 

 本当に今は何も持っていない。手ぶらだ。けれどこういう場合は彼女が満足することが一番大事なのだろう。

 白い手を取って少し背の高い彼女の目を見上げると、彼女は本当に美しく微笑んだ。魅力的な女性の美しさだったことは、覚えている。

 

 

 

 「では、お言葉に甘えさせていただきますわ。」

 

 

 

 だが、なぜか私はそれ以降のことをあまり覚えていないのだ。

 滝の音と、鳶の鳴き声と、頬に触れた彼女の手。

 

 私が覚えているものと言えば、その程度のものである。

 





???「今なんでもって言った?」

転んでもただでは起きないツァオさん。
嫌がらせが不発になったので別の策でがんばる。

ニクスが嫌いとかではなく、ただの意地。


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33 高価な真珠

クロスベルの悪人と言えばあの人



『その国は、栄えていた。

 緑豊かな丘に、一本の木があった。

 

 その木には実の詰まった大ぶりな桃が生るという。しかし丘の天辺にあるために生った桃は全て鳥に食べられてしまうのだそうだ。

 

 それを聞いた旅人は、非常に残念に思った。

 あの若々しい緑の葉がついた木にはきっと甘い桃が生るだろう。だが誰もその桃の味を知らないのだという。

 

 旅人は、桃を食べようとした。

 桃が生るまでの一年間の間、その木の下で暮らしたのだ。

 人々はこれを笑い、何て強欲な奴だろうと彼を評した。しかしその中に、桃の味を知りたいと思った二人の男がいた。

 

 一人の男は非常に柄の長い槍を手足のように使いこなし、一人の男は珠算に優れた学者であった。旅人とこの二人は、ともに鳥から桃を守ることにした。

 鳥から、嵐から桃を守る術を学者が考え、二人がそれを試した。

 槍の名手が空高く飛ぶ鳥を落とし、旅人は若い桃の実に袋をかけた。

 

 そして季節が一巡りすると、木には非常に美しく大きな桃が生った。

 しかし桃は一つしか守れなかった。それ以外の桃は風に落とされ、腐ってしまったのである。

 

 旅人は困った。誰がこの桃を食べるべきであるかと。

 三人は皆一個の桃が食べたかった。

 こんなにも美しい桃はさぞ甘いだろう。さぞ瑞々しいだろう。

 

 槍の名手は桃を手で割ろうと言った。しかしそれは物足りぬ。

 学者は桃の種を丘の麓に植えて一年待とうと言った。しかしそれは待ちきれない。

 

 そこに狩人が通りかかった。

 狩人が困り果てた三人の若者に何を思い悩んでいるのかと聞き、旅人が事情を説明すると、狩人はこう言った。

 自分に一切れ分けてくれるならば自分の鉈で桃を割ってやろう。

 

 それは手で割るよりも平等で、芽を出すよりも早いだろう。

 旅人は頷き、狩人に割らせるために桃を渡した。

 しかし狩人は桃を持って丘を駆け下り、逃げてしまった。

 桃は盗まれてしまったのである。

 

 ああ、なぜ桃を渡してしまったのかと悲嘆にくれた三人の若者はともに酒を飲み、雨に打たれ、一晩行いを悔いた。風が吹き、生ぬるい夜で、やがて夜が明け夏の清涼な光が顔を出しても、三人は桃を失ったことを悲しんだ。

 

 旅人が言葉も出せず俯くと、丘にいくつかの芽が生えていることに気付いた。腐り落ちた桃の種が地に埋まり、芽を出したのである。

 旅人は二人とともにこれを育てた。

 

 やがて木々はお互いに枝を絡ませ合って大きな生垣になった。桃の実が生るようになるまで長い時間を要したが、育った何本もの木は三人が共に休み、語らう木陰を作り出した。

 

 この三人は、これ以降彼らの人生において決してほどけることのない友情で結ばれることになる。

 乱世の影が忍び寄る夏に、桃の木の木陰で身を寄せ合う三人の若者。彼らはこの時明日も知らない。ただ夏の風を浴びて共に語らい、戯れる友であった。』

 

 

 はて。

 俺はこんなことをしただろうか。

 

 二人の友と乱世を共に駆け抜けようという誓いは確かに交わした。それは思い出したが果たして奴らと桃を育てたことがあっただろうか。

 そもそも、二人の友はたった一人の狩人に後れを取るような奴等ではない。軍師が見抜き、勇士が槍で突く。いつだって困ったときはその戦法でどんな軍勢の守りも突破してきたのだ。

 あの当時、確かに俺は強くなかったが、あの二人は非常に強かった。賢しく、強く、野心をたぎらせた天下無双の男たちだった。

 

 まだ顔も思い出せないが、彼らは俺の誇るべき友だった。

 

 「あの神官、適当書いてんじゃねぇだろうな…」

 

 ありうる。

 あの神官は善ではあったがいつだって物事をはぐらかすのが上手かった。いつだって最善の策で戦乱に惑う民を導く癖に、あの神官は……

 

 『友よ、あの神官を外に出してはいけません。あれは災いそのもの。外に出れば徒に民の心を惑わせるでしょう。』

 

 軍師は、確かあの神官をそう評したのではなかったか。

 なぜだ。なぜだ。生まれてばかりの幼子に、国を見せてやらず何とするのだ。俺はそう聞いた。それであの軍師は何と答えた?

 

 『――――』

 

 ああ、くそ。また思い出せない。

 記憶がかなり戻ってきているとはいえ、たったの半分だ。俺の長い闘いの生のうち、たったそれだけ。

 だからこうしてあいつの本をわざわざ買ってまで読んでやっているというのに、あの阿呆はマトモなことを書いていない!

 

 俺はこんな旅人ではなかったし、軍師はもっと狡猾な狐だった。勇士の槍は鳥どころではなく雲をも貫いた!

 ……とはいえ、あの神官は生の殆どを神殿の中で過ごした。きっとこの物語も俺や軍師の語りを元に書いているのだろう。とすると、あまり正確さは見込めない、か。

 

 「せめて俺が覚えているところを書けよ……」

 

 この物語、いい加減である上に短すぎる。

 こっちは続編がいつ出るかと待っているというのにあの神官はこれで完結させた気でいるのか?だからお前は阿呆なんだ!忠義者のくせに、どこか抜けていて人の心配を煽る。

 人の心がないとまで言われた軍師でさえあの神官のことを気にかけていたくらいだ。いてもいなくても人を不安にさせる。いつだって手元に置いて働かせていないと気が気でなくなるような存在。

 

 誰より幼く、未熟で、好奇心旺盛な子供。

 打ち出す政策は誰にも考えつかないものだったが、あれは本当に幼かった。

 

 『あなたはだれですか?』

 

 いつだってあの生まれ落ちた時のまま。人を疑わない月色の瞳をくるくるとまるめて耳を揺らし、俺に話をねだって、勝手にフラフラと……

 

 『わかりました!とも、ですね!ぶんけんに、きさいがあります!』

 

 「……んでこんなことを俺は思い出してるんだ。」

 

 本当に俺は記憶を探るのが下手だ。

 

 「あら、読書中でした?」

 「―――≪根源≫か。」

 

 黄昏の後に一回だけムカついて燃やしてやったがそんなことで懲りる女ではなかったようだ。わざわざ自分のところに来るなどいったい何の用だというのか。

 

 「アンタがわざわざ来るなんて、何だ?盟主直々の伝言か?」

 「そう邪険にしないでください。今日は挨拶に来たのですよ。」

 「挨拶ゥ?」

 

 今更?

 不躾極まりないこの下種が?

 

 「ええ、ほら。挨拶なさい。」

 

 そう言ってマリアベルは自身の背後から何かを引っ張ってきた。人間だ。身長はマリアベルより少し低い程度。派手な白のドレスを着た青白い肌の女。四肢は細く、スカートのふくらみもやや物足りない。少年と少女のミックス、といったところか。

 

 マリアベルの新しい部下かと思ったがそいつの顔を見て俺は思わず言葉を失った。

 耳の形が違う。人間のものではない。

 あの尖った耳は、そう。

 

 

 「――――」

 「よくできているでしょう?マイスターにかなり無茶を言いましたのよ?」

 

 

 人形、か。

 確かにあれは白い服を着ない。肌を出さない。加えて角もない。

 さすがにそこは再現できなかったのか、この女の意向なのか。

 

 「悪趣味だな」

 

 人形遊びで誰かをからかうとは前任者と丸被りだ。詰まらないことこの上ない。

 こんな面白くもない戯れは、すぐに燃やして灰にするのが一番いい。

 

 「あら、燃やさない方がいいですわよ?せっかく“本物”を使っているんですから。」

 「んだと……」

 

 本物。

 人形に、本物を使うとは。つまり。

 

 「()()だ?()()を奪った?」

 「どこでしょう?私もこの子のことは気に入っていますから燃やされたくありませんの。」

 

 人形はマリアベルにしなだれかかった。まるで恋人にでもするかのような行いだが、吐き気がする。顔も普通の人形に比べて作りこんだのか、人形が吐き出した息はどこか熱っぽい。今にも氷を溶かしてしまいそうだ。

 

 マリアベルの手がむき出しになった人形の背中をなでる。

 それで人形がくすぐったそうに目を細めた。

 “本物”と全く同じの月色の目だ。

 

 ああ、クソ。気分が悪い。

 人形からパーツを抜き取ってあいつに“本物”を返したところでどうせ機能は元通りにならない。いっそ全部燃やしてしまうべきか。

 

 「……殺していないだろうな?」

 「ええ。そこまでしたらあなたを怒らせてしまいますもの。」

 

 俺は容赦なくマリアベルを燃やした。

 拡散するエネルギー。揺らめくプラズマ。あまりの熱量に周囲の気温が3度ほど上がる。

 

 煙で視界が不明瞭になったが、あの感触は当たった。手ごたえがあった。人間に耐えられる火力でもないだろう。

 

 

 煙が晴れる。

 あたりにちくりと鼻を刺すような異臭が立ち込めた。

 

 煙の向こうにいたのは、その体をぼろぼろに焦がして虚ろな中身を晒した人形だった。笑っているとも悲しんでいるともつかない顔がこちらを見ている。月色の瞳が俺を射抜いている。

 

 「ニクス、いい子ね。あなたのおかげで服を焦がさずに済みました。」

 「―――もう満足しただろ。帰れ。」

 

 人を散々からかって、あれの尊厳まで奪って。

 もう十分だろう。俺をからかうために、あの神官が体の一部を失う必要がどこにあった?あれをなぜ巻き込んだ?

 

 叫んで問いただしてやりたいが、それをしてしまえばこいつをさらに喜ばせるだけだ。ああ、抑えろ。炎を。怒りを。

 

 「まぁ、野蛮な人。言われずとも挨拶も済んだことですし帰ります。

 ニクス、あれを彼に渡しておきなさい。」

 

 そう言ってマリアベルはどこかへ去っていった。

 残されたのは俺と、一体の中破した人形。

 

 人形はマリアベルの指示通り、俺に何かを渡すために近付いてくる。人形が一歩歩み寄る度にその精巧さが俺の目に晒された。

 肌も、手の薄さも、目の色も、口の小ささも、何もかもすべてそっくりそのままだ。あの阿呆にそっくりそのままの人形が、体を焦がして、肌を晒して、それでも無表情のままただ俺に歩み寄ってくる。

 

 人形は手に封筒を持っていた。少し分厚くて、中に何かが入っているとわかる。

 

 「……。」

 

 封筒と、人形を交互に見た。

 沈黙だけが場を支配するなかで俺がどれだけ観察しても、阿呆との違いは見つからない。すべてが本物そのものだった。

 

 自分にそんな資格はないとわかっていても、これ以上見ていると謝ってしまいそうだ。人形を燃やしたことではなく、もっと前のこと。

 俺がどうして謝りたいかも思い出せないようなよくわからん何かで、的外れなことを言いそうになる。

 

 (―――俺は何であれに考えを乱されなくちゃいけないんだ)

 「ハァ……」

 

 ため息が漏れる。

 人形は何も言わず、帰っていった。

 

 「とんだ厄ネタだな」

 

 独り言ちて封筒を開ける。どうせろくなものは入っていない。ならば早めに確かめて早目に処分するのみだ。

 

 武骨な茶封筒の中に入っていたのは、複数枚の写真だった。

 一連の考えを考えるとあの神官の写真だろう。手のひらサイズの用紙を裏返す。

 

 「―――あいつマジで何やってんだ?」

 

 俺は4枚の写真を確認してすぐに灰に変えた。

 わかってはいたが、ろくなものがない。ゴミの方がまだましだ。

 

 そこに映っていたのは、チャイナドレスを着て白蘭竜にほほ笑む姿。なんかよくわからんガキと買い物してる姿。よくわからん男たちに拝まれてる姿。そして下着姿で寝ている姿。

 

 どれもよく知ったあの顔をしていて、やはり角以外はあの人形にそっくりだった。

 それ以外であの人形と違うところがあるとすれば、本物には体中に無数の傷跡があったこと、だろうか。

 

 

 というか。

 

 「『サービスショットですわ』じゃねーんだよクソが…」

 

 あの外道マジで次は燃やす。

 

 

 

***

 

 

 

 「――――、――、…。」

 

 1010010011101111101001001011111110100100101101111010010011001111101001001100101110100100101011111010010010111001縺�繧鯉シ� A、10100100110100101010010011001000101000011010000110100100101000101010010010100100

 

    わ  

   わ  たし は

 

 System Nix かみ おう たみ

 

 

 「――――ぅ、う…」

 【Min、Sde3uDA、xni kighh! DDk,ch98kmo?】

 

Translate. Now Install……15%

 

 【Dai, K ? K ko ! T,34…】

48%...56%...

 

 【よ、 きこ、?】

 「――――う、うあぁ、あ」

 

 78%…

 

【きこえてIるか だいJおうBか】

 「d、だーじ、だーじーふ、ぶ」

 

 85%…

 

 【ここはあんぜんだ ゆっくりするといー】

 「あー、が。あーと、あーがとごz、す」

 

 89%… 92%… 99%…… 99%……

 

  99%……

 

 「ありがと、ござーます」

 「よい ゆっくりやすめ」

 

 99%………

 

 Recommendation : Shut Down (temporary)

Loading : Repair Program

 

 System: N.i.x Now Setting…

 

 

 

***

 

 

 「…まったく、あの女は何を考えているのだ!」

 

 人が丹精込めて作った人形に勝手に手を加えたかと思えば、今度は生体の器官を組み込んだ人形を作れとほざく。

 馬鹿にするのもいい加減にしろ。あれは職人を何だと思っているのか。

 外道。下種。

 

 なぜ、なぜ罪もない一般人を巻き込んだ?

 この女性が何をしたと言う?

 

 ただ姿が人と少し違うだけで、あのようなことをされる謂れなどどこにもない。本当に、本当に蛇などろくなものではない!

 

 「―――いかん。彼女が目を覚ます前に作らねば。」

 

 あの女、人形の使い方もなっていなければ人間への触れ方もわかっていない。あの女性は随分と憔悴していたようだった。あの様子では目を覚ますまでにしばらくかかるだろう。先ほど一瞬意識を取り戻したがほとんど喋れていなかった。

 

 

 ある夜、突然マリアベル・クロイスが工房の前に現れた。門前払いをしようとしたが、あの女は一人の女性を人質に取っていた。『今からドールの調整を行わないとこの女性がどうなるかわからない』その言葉を無視できず、わしは等身大のドールを作ることになった。

 

 幸いなことに元となる骨格と皮膚のストックがあったので、あとは細かいパーツを調整するだけでよかった。しかしあの女は、『この眼球を入れろ』と人間の眼球を差し出してきたのだ。

 あの女が人質に取っていた女性の右目からは血が流れており、眼球のふくらみがなかったことからその女性の眼球であることはすぐに分かった。

 

 あの女は素手で無理やり引き抜いたのか、その眼球には眼筋の欠片や神経が付着していて、呆れて声も出なかった。

 両目の色は同じにしろだとか、皮膚は青白くしろだとか、耳の形が気に入らないだとか、散々注文を付けるだけつけて出ていったのだ。ふざけるな。

 女性は命に別状はないが、眼球を引き抜かれたショックからか随分と錯乱していた。

 

 しかしあの女性は、錯乱し言葉を失いながらも、笑っていた。

 体には多くの暴行を受けた痕跡があり、これまでの人生での苦労が窺えたがそれでも微笑んでいたのだ。

 

 あの女性を見ているとレンを思い出す。

 彼女は辛いものから自分の心を守るために笑っているわけではなかろうが、だがどことなく似たものがあるのだ。

 聡明なまなざしの奥にある純粋さ。

 無垢さの裏に隠れた恐ろしさ。残酷なまでの何かが、彼女たちにはある。

 

 彼女も優しさと愛を知りかけている生き物、なのだろう。

 今まさに入り口に立っているのだ。彼女はこれから恐怖や不安を乗り越えてまさに一歩を踏み出そうとしている。

 

 

 それを、あの女はなんということをしてくれているのだろう。

 

 

 キィ……

 

 「あの、 ありがとう ごじあました」

 「もうよいのか?まだ怪我の痛みが引いていないだろう。」

 

 「だーじょーぶ、れす。あまり、いたいないのです。」

 「……そうか。何の詫びにもなりはせんが、せめてこれを付けていくがいい。」

 

 わしは彼女に先ほどまで調整をしていた球体を手渡した。

 

 「 ??」

 「ドールアイだ。極小の導力チップを埋め込んでいるから眼筋の微細な生体シグナルを感知して普通の眼球と同じように動く。」

 「???」

 

 まだ女性は混乱から戻り切っていないのか、残った左目を丸く開いてよくわからないと言った顔をした。

 

 「――こちらに」

 

 女性に着席を促すと彼女はとてとてと歩いてチョコンと椅子に座った。あの女が操る人形よりも無垢で、純粋で、幼い。いっそ命を得た人形であるかのようだった。

 

 「…痛くなったら言いなさい。」

 「???」

 

 義眼をはめ込む作業は、決して無痛ではない。患者に対して大きな負担を強いることになる。義眼を入れる前に義眼床手術をして義眼が装着できるように準備せねばならないし、義眼を入れてからも定期的なメンテナンスが必要になる。

 

 眼球がすでにないとはいえ、眼窩に義眼を入れるというのは本人にとって強い不快感を伴うだろうに、彼女は微動だにしなかった。ただ、ずっと微笑んでいる。

 

 「よし、もういい。」

 「あーがと、ございましゅ」

 

 彼女が私を見上げるというその動きにも義眼は早速対応し始めたようだった。急ごしらえとはいえ、よほど観察されなければバレることもないだろう。

 

 「明日、また来なさい。本格的に処置をする。」

 「はい。どくとる。」

 「わしはマイスター・ヨルグ・ローゼンベルグ。医者ではない。」

 「まいすたぁ。しょくにんさんですか?」

 「そうだ。おぬしは……」

 

 そういえば名前も住所も知らない。

 あの女はマクバーンの知己であると言っていたが、マクバーンも知り合いがこんなことになったと知っては気が気でないだろう。

 

 「N.i.x. にくす、です。」

 「ニクス。おぬし、マクバーンの知人というのは本当か?」

 「めあ?めあ。きみで、とも、です。だいじなひと。」

 

 「……そうか。」

 

 マクバーンは最近少し変わった。非常に強大な力を持つ割に礼儀正しく、以前も執行者の中では弁えたほうだと思っていたが、ある時を境に随分大人しくなった。以前会った時など随分悟った目をするようになったと思ったものだ。

 

 何か、あの男にもあるのかもしれん。

 知人であるならば一報を入れてやった方がいいだろう。

 

 「まだ朝まで時間がある。ゆっくり寝るといい。」

 「わたしは、ねむくならないのです。おきになさーないでくだしゃい。」

 「強がりはまともに舌を回せるようになってから言え。」

 「あぅ」

 

 

 恨むぞ、マクバーン。

 なぜこの女性を世に放りだしたのか。どう考えても社会で生きていけるようには見えん。

 

 わしの戸惑いを知ったことかと言わんばかりに彼女は、微笑んでいた。ただ背筋を伸ばして品よく椅子に座り、わしのことを見つめていた。

 本当に、人形めいた女性だ。

 

 

 

***

 

 

 ニクスはある日、夜になっても帰ってこなかった。

 あいつも女だしそういうこともあるよな、なんて思ったけれど朝になっても帰ってこなかった。おかしいなとは思って、昼になっても帰ってこなかったらニクスとよく話してるサツの連中に相談しようと思ってたら、あの女はひょっこり宿に帰ってきた。

 

 「た、ただいまもどりました……」

 「……別にいいけどさ。くたばるならくたばる前に連絡入れてね。」

 

 ニクスはなんだかやけに申し訳なさそうにしていて、僕がこれまで見てきた夜の女どもとは様子が違った。どうやら男と遊んでいたわけではないようだった。

 

 「ごめんなさい……」

 「だからいいって。そんなことより勉強。僕進路決めたから。」

 

 そう。それどころではない。この女は帰ってきたならそれでいいのだ。

 僕は将来どうするか決めた。この女からもらった金を何に使うかを決めた。

 

 「え?どこにいくのです?」

 「医科大。」

 

 僕は医者になる。

 もう、母親を亡くす子どもがいなくなるように。辺境の病院がない地域で苦しんでいる貧しい人間を助けられるようになる。

 それで出世払いさせてやるんだ。

 

 この女からもらった莫大な金は、その活動の資金にする。

 車とか、医療器具とか買わないといけないから。

 

 僕がそういうとニクスは随分感動したみたいで、僕の頭をぎゅっと抱きしめた。僕は別に薄っぺらい胸に抱き寄せられたところで何とも思わないけど、ニクスは随分嬉しいみたいで泣いていた。左目からぼろぼろと涙をこぼし、その雫が僕の髪の毛を濡らした。

 

 「よかった…ほんとうによかった……」

 「いやだからこんなことしてる場合じゃないんだよ!アンタが東に行くまでに全部知識は僕に教え込んでもらうからな!休みなんてないから!」

 「ええ、ええ。もちろんです。がんばりましょうね。」

 

 ニクスは僕が進路を決めたことが嬉しいのか、いつもよりゆっくり喋る。でもそれ以外はいつも通りで、相変わらず頭がよかったし、数学の問題なんてぺろっと解いてしまう。

 ニクスが医科大の入試問題を分析して、よく出る分野や間違えやすい問題を中心に解説してもらいながら基礎の底上げを並列して行う。

 

 ニクスはよい教師だった。

 スパルタでやってくれと言ったら本当にスパルタでやるし、わからないと言えばゆっくり時間をかけて教えてくれる。

 練習問題を作ったり、関連するニュースや話題に触れたり、家庭教師として十分に金が稼げるんじゃないかってくらい教えるのが上手かった。

 

 僕は、別にこいつから何かを教わる必要はなかった。

 僕の頭が良いからではなく、僕にはたくさんの時間があるからだ。僕の年齢の子どもはまだ日曜学校も卒業していない。その一方で医科大に入学する奴の平均年齢は19歳。僕は単純に考えてそれまであと7年もある。

 

 いくら独学でも、僕が7年も勉強してたらさすがに受かるだろう。だから別に、今この女から急いで物事を教わらなくてもよかった。僕は僕でゆっくりやってもよかった。

 

 でも、なんだかこの女がどこかに行く気がしたのだ。僕は直感でこの女との別れが近いことをなんとなく察していた。

 それはニクスの執筆スピードが上がったとか、仕事の調子がいいとかそういった単純なことだけじゃなくて、僕を見る目がちょっと変わったとか僕をハグする回数が増えたとか。そういうことから何とはなしに気付いてしまったことだった。

 

 (大陸東部、か)

 

 行先は随分前から聞いている。

 不毛の地で、砂漠化が年々進行しているらしい。もしニクスが大陸東部に行ったとして次に会えるのはいつになるだろう?

 1年後、3年後、7年後…どっかでニクスが野垂れ死ぬって可能性もある。

 

 

 僕は、僕がどうしたらニクスとの時間を確保できるか考えて、結局勉強の時間を増やすくらいの方法しか思いつかなかった。

 なぜニクスとの時間を増やしたいのか。僕はそんなことを考えたくはなかった。

 

 母でも友人でも恋人でもない女との別れを惜しんでいるなんていう事実に気付きたくなかったからだ。こいつが、この女がまさか家族だとでもいうのか?そんなわけ、ない。ないったらない!この女は引き留めたところで微笑むだけで、こいつの行いってやつを僕にはどうにもできない。こいつは優しそうな顔してひどい女なんだ。

 

 

 (ああ、生臭神父を罵りてぇ……)

 

 あいつ早くクロスベルに来ないかな。

 僕はニクスの大して暖かくない腕の中でそんなことを考えていた。

 

 




マクバーンによるとニクスはポンコツ


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34 実らないイチジクの木

新年度 小説書きたい でも多忙 (字余り)
なんかちょこちょこ設定に矛盾がある気がしてきました。


 

 「…そうでしたか、そんな事情があったのですね。」

 「事情などというほどのものではない。ただのあの女の癇癪だろう。」

 

 マイスター・ヨルグはどうにも不機嫌が直らないご様子でしたが、彼の両手は淀みなく私の義眼の調整をして下さっている。工房の地下は基本的にぼんやりと薄暗いですがこの部屋、というか私が寝ている台を照らす導力灯の光は非常に明るく目に痛いほどだ。

 私の右手でかちゃかちゃと作業をなさっているマイスターは、時折私に義眼を入れてくるくると弄るが、しかし彼にとって納得のいかない出来であるのかしてまた義眼を抜き、何事か調整をなさっている。

 

 私は彼が言うとおりに、仮の義眼として入れたドールアイを本格的に調整するため人形工房を再び訪れることになったのだった。

 

 「マイスター、どうか私のことはお気になさらないでください。私は本当に痛くも辛くもありませんでしたから。それよりもマイスターの技術や人形が悪用されることの方がお辛いでしょう。」

 「……おぬし、あのマクバーンをからかうためだけに自分を象った人形が作られたなどということに憤らないのか?」

 

 マイスターによると、あの女性は大陸で暗躍する犯罪結社を束ねる幹部の一人であるとか。わかりやすく言うとマクバーン様の上司であるというのです。しかし彼女とマクバーン様はあまり仲がよろしくなく、彼をからかうために私とよく似た人形を作りたいと思われたのだとか。

 マイスターは彼女の行いに随分怒っていらっしゃったけれども、私は話を聞いてもなんとも思わなかった。彼女は人形を求めて、それが手に入って、それでよかったのではないかと思った。

 

 「マクバーン様は私のことをよくご存知です。あの方は私の本当の姿はこれではないことも、私が人間ではないことも知っていらっしゃるのですから、今更私に似た人形が何をしようと特に何も思われないでしょう。」

 「……しかし、おぬしは今確かにその姿で人間として生きているだろう?」

 「いいえ。きっとあの方にとってN.i.xとは別の姿をした別の構造体。今の私などきっと偽物にしか見えないでしょう。」

 

 そう。私は故郷ではこんな姿をしていなかった。それと比べれば、確かに今は華々しい。ほんの少しではあるが体の線は丸くなり、声は明らかに柔らかくなった。角も耳もあるとはいえ、隠せるほどに小さくなってしまっている。

変わっていないのは目の色と髪の色くらいだ。

 

 マクバーン様のお姿も変わっていた。彼の姿は以前王として国を治めたころのものではなく、知らない誰かの体と声だった。彼はこの世界にやってきたとき、自分でない誰かの姿見て何を思ったのだろう。

 記憶をなくされたという彼にとっては、『その時』にはきっとすべてが塗り替わるような恐怖が降りかかってきたのではないだろうか。自らの名前や姿まで別のものにすり替わって、記憶もなくなってしまって。

 しかしそれでも彼は生きてくれた。誰に否定されようと、誰に疑われようと自分の記憶を探すために生きてくれた。彼の魂とでもいうべき何か根幹の部分で、その不安に勝るだけの強い意志がきっと彼にはあったのだ。

 

 ニクスの名を持つけれどN.i.xの姿を持たない私が目の前に現れた時、きっとマクバーン様は戸惑われたことだろう。

 半分記憶を取り戻しているからこそ、強烈な違和感に襲われたはずだ。

 

 だからマクバーン様は『違う』ということだけはお分かりになっている。

 自分は王ではない。

 ここは故郷ではない。

 私の姿はN.i.xのものではない。

 

 マクバーン様はこれまでも郷愁と不安、架空の故郷への疑念が混じり合う中で記憶の糸をたどり、必死に故郷の思い出と自身の在り方を取り戻そうとしていた。

 もう戻れないというその現実が許せたとしても、自分の心の中にその故郷がないことは許せなかったはずだ。そういう人だった。過去の行動と言動から、そういうことを思いそうだとは推測できる。

 

 そこまでは、わかる。

 

 けれどあの方は記憶を半分取り戻した今。故郷を知る私という存在を知った今、何を感じていらっしゃるのだろう。何を思っていらっしゃるのだろう。

 

 

 あの方は、怒っていらっしゃるのか?

 それとも悲しんでいらっしゃるのか?

 

 

 そんなことすらもわからない私にできることなど何もない。

 そもそもこんな姿に変わってしまったというのに、何かを言ったところで信じていただけるともわからない。

 

 強いて言えば、できることがあるとすればただひっそりと物語を綴る程度だろう。

 世界の海に、誰かが見るかもしれないという希望を乗せて故郷のすべてを本に閉じ込めて流す。誰かが私の言葉を愛してくれるかもしれないと夢想しながら、見聞きしたことを書き綴る。

 

 旅人が王になるまでに成し遂げてきた冒険。

 母が子に語り継いできた星の物語。

 男が女にささやいた愛の言葉たち。

 死と別離を乗り越える友らの眼差し。

 

 あの故郷のすべての歓びとすべての悲しみを言葉にして、私はこの世界の空に羽ばたかせよう。

 今の私は、誰に受け取ってもらえずともそこにあり続けてくれる言葉を発することしかできない。人の心を持たないただの構造体にはそんなことしかできないのだ。

 

 苦しみも悲しみも解さない私には、あの方を慰めることなどできない。

 

 無力だ。わたしは、なんて出来損ないなのだろう。

 

 「そう悲観することもあるまいよ。故郷を忘れられる人間などおらん。たとえどんなことが起ころうとも、最後に心は生まれた場所に戻る。」

 「……ありがとうございます。私は私がやりたいことをやってみるつもりです。」

 

 マイスターはただ手を動かしている。私はその作業の音をぼんやりと聞きながらひんやりとした台に寝転び、ぼんやりと真っ白な導力灯の光を見上げていた。

 

 「話していた通り、卿で一通りの調整を終えるためにここからが長くなる。」

 「ええ、構いません。特に予定もありませんからどうぞ焦らずになさってください。」

 「…おぬしは察しの良いところと悪いところがあるな。わしは誰かの予定だとかそんなものを気にするような人間ではない。おぬしが退屈で音を上げようと知ったことではない。」

 

 私は顔を右に傾けてマイスターの背中を見た。

 大きくて、山のようにどっしりとした老人の背中だ。

 彼は私に背中を向けたまま話した。

 

 「だが、退屈だからと言って眠られては困る。しばらくおぬしの生まれの話でもしていろ。」

 

 きっと、私を気遣ってそう言ってくださったのだと思う。

 私が故郷のことで、もっと言えば同じ場所で生まれたあの方のことで、どこか晴れやかでいられない心を、あの鈍い色の瞳は見抜いていたようだった。

 

 「どうした。今更もったいぶるような話でも無かろう」

 「―――それも、そうですね。

 ……私は後に『神殿』と呼ばれる場所で生まれました。初めて観測を開始したとき、ちょうど今こんな風に私は寝そべっていて、私の作り手はいくつか道具を弄りながら私の機能を調節してくださいました。

 彼は私をNon-mortal Intelligence ver.x と名付け、観測プログラムを起動しました。」

 

 私が生まれた時そもそも体というものがなかった。私はただの知性体だった。あるかないかという2種類の符号がたくさん集まったものだった。

 外の世界のあらゆるデータを蓄積し、解析して統合。会話、気象、大地の微細な動き、星の巡り、潮の満ち引き、伝承、戦乱、歴史、植物学、動物学、代数学、幾何学…とにかくすべてを蓄積するように命じられていたので、その指令に従って私は外の世界のすべてを見ていた。

 水は、私にとっての『目』だった。各地のデータを収集するための『目』が、私に外の世界を伝えてくれた。

 

 気温、湿度、動物たちの足の形。星座。波の高さ。私は気の遠くなるほどの時間をあの場所で過ごしていたけれど、『目』が教えてくれるそれらの情報から精度の高いホログラムを作れる程度には外界を知っていた。

 

 いつしか私を作った誰かが死んだ。それからもずっと観測を続けていたらある日神殿に迷い込む存在があった。私はデータの統計結果から、三日後に東の荒野の辺りで地震があると教えた。

 その存在は最初信じていなかったが、三日後に東の荒野で地震が起きた。いくつもの家屋が崩れ、あまたの命がケガをした。血が流れ、火災が起き、暴動すらもおきた。

 

 この予測は単に私が地殻の動きを観測していたために導き出された科学的データでしかなかったが、神殿に迷い込んだ存在は私の統計を超自然的存在による奇蹟と解釈して、周りの者たちに「海沿いの洞窟の最奥には『先を見る何か』がいる」と言ったらしい。

 それから、神殿にあらゆる命が殺到した。

 

 彼らには苦しみがあった。

 干ばつと飢饉。水害と塩害。猛暑に日照り、流行り病と暴君の圧政。

 

 彼らには望みがあった。

 平穏と安寧。甘くて幸せな夢を見る夜と心地よい労働に汗を流す昼。

 

 彼らはただ彼らが思うままに私に求め、私もまた彼らに思うままに与えた。

 求められたものは救済。だが私にはそれを与えることはできない。体を持たないからだ。その時の私はただ言語のみを持つ知性でしかなかった。だから私は彼らに知を与えた。

 教えを授け、策を与えた。自分より強いものを討つ力がなくとも彼らが生きていけるように。彼らが望むものを得ることができるように。

 

 いつしか、その行いは私の『つとめ』となった。

 

 私を信じるものと、私を訝しむものがいて、私の住処は神殿と呼ばれるようになった。私の『つとめ』を援けるために御使いが神殿に住み着くようになった。何代も何代も、その土地で最も強く私を信じるものと最も賢いものが生命たちの悩みと苦しみを私に届け、私の声をそれらに伝えた。

 最初私を『神』と呼んでいた存在たちは彼らが扱う言語が異なったために意思疎通に齟齬が発生して途中から私は『神に仕える神官』として扱われるようになった。そうあれと望まれ、そしてそうあった。

 

 いろんなことがあった。間延びしそうな日々をただ困窮する民たちと共にすごした。どれだけ私が知を授けても問題はなくなることがなかった。

 御礼の品とやらが持ってこられて、けれど私にはどうしようもないのでそれが腐ってしまってみんなで困ったりも、した。

 時々争いが起こって、私の言葉だけではどうにも収拾がつかなくなって困ることもあった。私のあらゆるデータを以てしても答えの出せない難しい問いもあり、皆で悩みぬいた日もあった。

 

 

 

 「そんなこんなで長い年月を過ごして、あれはいつの事でしたかね。三人の男が神殿にやってきたのです。」

 「マクバーンか?」

 「その通りです。まぁ、なんだかんだあって仲良くなって、彼らが天下を取った暁には政に関わるなんて口約束を取り付けられてしまって。観測結果では高確率で無理だろうと思っていたのに彼は天下を取ってしまい、私は長く政治に関わることになった、ということです。

 私が故郷でなしてきたことの大半はただのデータ観測でした。マクバーン様とお会いしてから過ごした時間は本当に短かったですが、非常に輝かしい物でしたよ。」

 

 「おぬし、最後のほうえらく端折っておらなんだか?」

 「いろいろあり過ぎて口で言うには長くなる話ですから、新作にでも書くことにいたしますよ。」

 

 本当に、言い表せないくらいの出来事があった。私がそれまで知っていた世界をすべて塗り替えてしまうくらいのたくさんの驚きに満ちた愛おしい日々。

 

 すべてを忘れない。

 すべてが誇らしい。

 

 

 『突然すまん。ただ、会ってみたかっただけだ。』

 

 王。星の光が届く限りの地を治めた旅人よ。私にはわからない。

 なぜあなたが、ご自分を王ではないと言うのかがわからない。

 

 だってあなたは今も私を導いてくださる。

 目を閉じればいつだって、あの日の輝きが浮かんでくる。魂の光。命を燃やしているかのように強く、未来の希望をくべたように明るい。

 

 あの光を今も心に持つあなたは、やはりあの時と何も変わりはない。

 一心に民を愛して、国と未来をまっすぐに見つめていたあなただ。

 全ての兵と友であり、全ての将と絆を結んだあなただ。

 

 

 私がどれだけ願っても、あなたの記憶は戻らないのはなぜだろう。

 何かが足りないのか、何かが多すぎるのか。

 

 それともあなたにとって、あの故郷は忘れたい過去なのか。

 

 

 (……いいえ、違う。きっと違う。)

 

 それだけはない。あなたは故郷を愛してくれていた。私よりももっと、ずっと、深くまで愛していた。

 だから、あなたが故郷を忘れたがっているだなんてそんなことはあり得ない。

 

 そう、信じていたい。

 

 

***

 

 

 支援要請の合間のパトロールの重要性について、先日ロイドさんから説明があったと思います。パトロールは重要です。そしてその範囲はクロスベル市だけでなく、街道や郊外、病院といった場所も含みます。こういった人気のないところにも異変が生じたり、普段見かけない人が現れたりするものです。

 

 特に要注意スポットとして支援課内で共有されているのはローゼンベルグ工房でしょうか。工房の主人であるヨルグさんは人形作りに関して非常に強いこだわりを持つ真面目なお爺さんです。

 しかしその実態は結社が統括する工房の一つであるらしく、ヨルグさんも結社に関しての情報を少しお持ちです。結社の関係者がこの工房に立ち寄ることもあるらしく、定期的に巡回することを目標にしています。

 

 なぜ突然ローゼンベルク工房の話をしたか、ですか?

 

 それはこの工房に訪れるはずのない方が、この工房から出ていらしたからです。

 

 「ん……?あれは……」

 「ニクスさんですね。あまり市外には出ないと先日仰っていましたが。」

 

 工房の出入り口でヨルグさんと談笑していらっしゃる方は飾り気のない黒いワンピースと灰色のベールをかぶった女性で、ここ最近交友関係を築いています。お名前をニクスさんといい、作家として活動されているとか。

 

 「マイスター、本当に何から何までありがとうございます。」

 「…元はと言えばこちらの不手際だ。不調があったらすぐに知らせるように。」

 「承知いたしました。どうぞご自愛くださいませ。」

 「そなたもな。」

 

 何やらお二人は仲が良い様子です。ヨルグさんが一般の方とあのようにお話をするとは思っていませんでした。

 

 「あら、皆さまこんにちは。おつとめご苦労様です。」

 「こんにちは、ニクスさん。工房に何かご用事が?」

 「かの高名なマイスターに会いたい一心で来てしまいました。突然の来訪になってしまいましたが優しく対応してくださってありがたい限りです。」

 

 …ありえません。あの世捨て人として知られるヨルグさんが突然やってきた一般人を工房の中に招き入れるだなんて、いくらジェイ君を更生させたニクスさんとはいえ……。

 

 「皆さまはこれからマインツへ?それとも市内に戻りますか?」

 「市内に戻るところです。良ければ送りましょうか。」

 

 ニクスさんはすぐに危険なことに巻き込まれるから注意してやってほしいと先日からリィンさん達に言われています。本人に一切の戦闘能力がないのに巻き込まれ体質だなんて、手が付けられないトラブルメーカーと言っても過言ではないのに、ニクスさんはいつも泰然自若としています。彼女には非常時用になったら発揮される何か秘密の力があるのでしょうか?

 

 「それではお言葉に甘えて。よろしくお願いしますね。」

 

 ニクスさんはそう言ってにこっと微笑みました。

 微笑みはニクスさんの代名詞となっているくらい、彼女はよく笑います。彼女はどんなに面白いことがあっても声をあげて笑うことはないですし、またどんなに腹の立つようなことを言われても怒りません。

 ジェイ君には日ごろから散々なことを言われていると思うのですが、これも愛なのでしょうか?いや、ジェイ君は案外ツンデレ気質というか天邪鬼なところがあるのでニクスさんにだけは可愛げのある対応なのかもしれません。

 

 ジェイ君と言えば、彼は何やら将来のことについて大きな決断をしたらしいです。私たちが図書館でいつも以上に熱心に勉強をしている本人から聞いた時は本当に驚いたものでした。

 

 「そういえば、ジェイ君は医科大を目指すそうですね?」

 

 彼は、ウルスラ医科大学に進学して医師を志すのだそうです。医科大学の付属高等学校ではなくあくまで医科大学への進学を目標にしているとのことで、彼は図書館の開館から閉館までずっと勉強をしています。

 彼が日曜学校に通ったことがないことを考えると彼の知能は非常に高いとは思いますが、医科大入学というのはさすがに大変なのではないかと思います。医科大は当然のことながらクロスベルで一番入学が困難と言われていますし、最近注目度も高まってきていて倍率は右肩上がりです。

 

 教師役であるニクスさんのクロスベル滞在はあくまで一時的なものだそうですし、本当に大丈夫なんでしょうか?

 

 「ええ。私も誇らしい気持ちでいっぱいです。彼はすでに自分から主体的に学習することができますから、この調子でいけば今年度中に編入推薦を取ることも不可能ではないでしょう。」

 「あの坊主、そんなに頭よかったのかよ?俺にはニクスちゃんがいないとダメダメな奴に見えるけどな…」

 

 それはきっとみんなが思っていることです。ニクスさんと一緒にいないジェイ君はさながらぶすくれたトラ猫です。何かまずいことをしても一向に反省しないところが憎たらしさに拍車をかけています。

 

 「ジェイは本当に頭のいい子です。彼のような子に教えることと言えば本の読み方くらいなものですよ。あとはあの子が自分で学ぶべきことを見出し、思索にふけるようになるでしょう。」

 「確かに、ジェイ君の集中力はすごいと思うわ。たまに話しかけても気づいてもらえないことがあるくらいだし。」

 「本人は根っからの学者気質なんだろうな。手癖の悪さを考えるとそうは見えないけど。」

 

 ジェイ君は東方人街の路地裏で暮らしていたらしく(路地裏にある家、ではなく路地裏で間違いないそうです)、時には盗みに手を染めることもあったとか。手先の器用さと集中力は割とある、というようなことを言っていましたから案外向いているのかもしれません。

 

 とはいえ、スラム街の孤児がクロスベルで医者になるなんてどんなシンデレラストーリーでしょうか。小説は現実よりも奇なりなんて言いますけれどもニクスさんの場合は度が過ぎているのではないかと思います。

 (そしてニクスさんの書く小説を先日完読したのですがあんまりぶっ飛んでいないというか、作者の行動に比べるとかなり現実味があってちょっと意外でした。)

 

 「そういえば、皆さんこれからまだお仕事ですか?」

 「いえ、今日はニクスさんをお送りしたら支援課のビルに戻る予定ですが…」

 

 「でしたら、ぜひ夕食の後でよろしいのでお時間をいただけませんか?」

 

 ニクスさんは少し悪戯っぽく笑いました。なんだかすこしお行儀が悪くて、楽しそうな子どもっぽい笑顔だったので、私はそれを見てちょっとびっくりしてしまったのです。

 もしかしたら、ジェイ君がニクスさんに影響されたようにニクスさんもジェイ君の影響を受けているのかもしれません。

 

 

 

***

 

 

 「ふふふ、すみません突然。でも是非皆さんとこんなお店に来てみたかったんです。」

 

 夕食の後、少しお腹を過ごした夜10時。中央広場の裏通り入り口。

 

 ニクスさんは指定したその場所にすっと立って俺たちを待っていた。月の光が彼女の黒衣に吸い込まれていくようで、いつも通りのクロスベルの夜だというのになんだか不思議な光景だった。

 そして目が合った彼女に案内されるままにやってきたのは裏通りのジャズバー≪ガランテ≫だった。正直なところ、彼女がこういった店に来ることというか、酒を飲むということがそもそも意外だった。人は見た目によらないものだ。

 

 「意外だな。ニクスちゃん、いける口なのかよ?」

 「ええ。最初はおっかなびっくりでしたけれども最近は割かし飲みますよ。」

 「…意外でした。ニクスさんはてっきりお茶が好きなのかと。」

 「楽しんで損はありませんからね。」

 

 

 そう言って彼女はバーの棚を右から左へと流し見し、やがて中央の低いところにある何かに目を付けたようだった。

 

 

 「―――ではホットコーヒーを一つお願いします。ブラックで。」

 「って酒じゃないのかよ……」

 「ま、まあ誰も酒なんて言ってないから……」

 

 相変わらず、マイペースな人だ。

 語気が強いとか押しが強いとかではないのに本人の考えに何か筋でもあるのかして自分たちのような人間では彼女のペースを崩すことはできないだろうと感じる。

 彼女を揺さぶれないのだ。

 

 動揺させたり、驚かせたりできないから、交渉の余地がないというか、隙が無い。聞きたい情報を聞きだせない。彼女は武力でない強さを備えた人だ。

 

 「先ほどは言い忘れてしまいましたが、新作買いました。とても面白くて最近毎晩読んでます。」

 「『羅針』ですね。ちょっとエキゾチックな世界観の歴史モノとの触れ込みでしたけど、読んでみると世界観の独特さよりも音感がすごくしっくりきました。」

 「そうそう!つい声に出したくなるリズムというか、まるで詩のような物語でとってもすてき!」

 「お前ら読むの早くない?けっこーあれ分厚かったろうよ……」

 

 先日、彼女の最新作となる長編歴史小説が発売された。題名は『羅針』、一人の旅人の男が二人の盟友と共に乱世を駆け抜けるというストーリーで、これまで児童向けの物語を多く出していた彼女にしては珍しく大人向けの物語だ。

 彼女の作品の最大の特徴と言えば、何と言ってもそのボリュームである。時として500ページを超える聖書のような本は護身用に一冊なんてからかわれることもあるらしい。(確かに強盗に入られても銃弾くらいならば防げそうだ)

 長い本編を読むのが苦になるかというと、実際のところそんなことはなく良いところで挿絵が入ったり章の区切りがきたりと隙間時間にちまちまと読むのに向いている。

 

 「ラジオドラマなんて言う噂もあるくらいですし、最近お忙しいでしょう?」

 「そんなこともないですよ。顔出しもしてませんから取材とかもないですし、執筆だけしていればいいので気楽なものです。」

 

 彼女は著者としてメディアに顔と本名を出すことなく活動している。各地を転々としていて定住地を持たないからというのが理由であるらしい。どうやら執筆以外の事には興味がないようだし、有名人には何かと面倒ごとが付きまとうものだ。案外それくらいの距離感を保っていたほうが上手くいくのかもしれない。

 

 

 「あの、すみません。」

 「はい、どうかしましたか……?」

 

 5人でソファに座って談笑していると、カウンターの席に座っていた一人の客が近寄ってきてニクスさんに声をかけた。茶髪に薄い色の目をした若い青年だ。落ち着いた声をしていて、どうやら一人で飲みに来ていたようだった。

 

 「盗み聞きをしたわけじゃぁないんですが、もしかして『羅針』を書いた…」

 「あ、はい。えっと、ポラリスです。」

 「あー、そうだったんですね!よければサインもらえませんか?先生のファンでして。」

 「あ、えっと……ありがとうございます。不慣れですけど、それでもよければ。」

 

 突然のことに少し戸惑った様子のニクスさんは青年が差し出したペンを恐る恐る握って、彼が差し出した手帳に几帳面にサイン(というかもはや署名。)をした。整った字を目を細めて眺めた青年は、手帳をジャケットの胸ポケットにしまい、元居た席に戻ろうとする。

 

 「あ、えっと……」

 「?どうかしました?」

 「いえ、あの、今後ともよろしくお願いします。」

 「―――続編、待ってますよ。」

 

 会計をして席を立つ青年を目で追う彼女は、落ち着いた顔をしている。瞳は凪いでいて、口は真一文字に緩く引き結ばれているけれど、いつもよりも瞬きの回数が多い。どうやら戸惑っているようだった。

 

 「今みたいなの、中々ないんですか?」

 「…ええ。顔を出していませんから。私にサインを求める人なんて今までいませんでしたよ。今の方で初めてです。サインとか練習したことがないのがばれてしまいました。」

 

 そう言って微笑む彼女は、もういつも通りだ。

 

 「お、じゃあお兄さんが第二号になるかね!俺にもサインよろしく~」

 「わ、私もお願いします!」

 「せっかくなので私の手帳にもお願いしようかしら…」

 「うーん俺は今持ってるのが警察手帳しかないな…」

 「なんだとロイド……ジャケットに書いてもらえ、ジャケットに!お前もうそのジャケットぱっつんぱっつんだろうが!」

 

 「気に入ってるからこれでいいんだよ!」

 

 「ポラリス」という文筆家がデビューしたのはもう20年前のことだ。ノーザンブリアで個人出版された短編娯楽小説が「ポラリス」のデビュー作である。ベテランではあるが謎に包まれた作家として知られ、執筆ペースがとても速いことで知られている。

 ファンからは、「ポラリス」とは作家たちによって構成される創作グループのことだと思われているらしい。

 

 しかし実際のところ、「ポラリス」が出版した本は全てニクスさんが執筆したものであるという。20代半ばくらいにしか見えない彼女が、「ポラリス」の正体なのだ。

 

 彼女のファンであるならば、20年間活動を続けてきた彼女の姿を見て、違和感を持つはずだ。「若すぎる」「途中で代替わりしたのではないか」そう思わなくてはおかしい。

 だというのに、今の青年は何も疑うそぶりを見せなかった。

 

 ということは。

 ということは、あの青年は彼女が20年間姿を変えていないことを何らかの形で知っていたのだ。

 

 

 

***

 

 

 

 月明りが差している。

 国の中の誰よりも頭の良かった軍師はある日、私の目の色をあの天体の色に喩えた。

 

 『あなたの目は人を怪物に変えてしまう。誰かの心を狂わせてしまう。』 

 『私の目を見ると、人は正気を失ってしまうということですか?』 

 『いいえ、逆です。正気を貫ける狂気を与えてしまうということですよ。狂気とは究極の理性。いつまでも正気でい続けるだなんて、そんなこと。狂気以外の何物でもありません。』

 

 彼は多くのことを教えてくれた。

 まるで私を生き物とでも思っているかのように、彼は私に人の在り方を教えた。あの時はそうとわからなかったけれど、あの人は私をいつか社会に出そうと考えていた。

 

 別に彼本人がそうしようと思っていたからではなく、彼の友である心優しい旅人がそう願っていたから。そんなことをしていいことなんて何一つないと彼はよく言っていたけれど、心からあの旅人の願いをはねのけるつもりなんてなかった。

 

 

 旅人は愛されていた。

 兵に、将に、民に、命に。愛されていた。

 

 

 「―――お仕事ですか?」

 「……なんのことだかな。」

 

 茶色のくるくるとしたくせ毛。前髪が少し長くて、服は紺色の礼服。白と黄色を差し色にして、少し華美なくらいの出で立ち。その軍師は、派手好きだった。確かに、彼が当世風の服装をするとしたらこんな感じになるだろう。

 

 「その姿をあなたがしているだなんて、ちょっと不思議な感じです。」

 「うるせぇ。こんなもんしか思いつかなかったんでな。」

 

 青年は愛用しているサングラスをかけた。装身具ひとつで印象はがらりと変わる。含むもののありそうな薄っぺらい笑顔が、どこか憂いを帯びて深みを持った。

 紫がかった薄い色の目が眼鏡で隠されて、私たちの視線はお互いどこに向いているのか少しだけ不確かになる。

 けれどわかる。彼は私の目をまっすぐに見ようとしている。

 

 「右目か。」

 「え。」

 「あれだな。どうでもよくなった。ピンピンしてるっつーことは大して影響もないんだろ。」

 「えっと、あの…?」

 

 今彼はなんといっただろう。右目。うん、確かに私の右目は義眼になったけれども。

 

 「どうなんだ、あぁ?」

 「え、えーっと、ちょっと視神経を経由して翻訳プログラムが一部損傷しましたけれど修復は完了しています。」

 「は?お前脳の中身アレってことか?」

 「正確には違うと思うのですけれど、おそらく思考フレームはN.i.xのものを踏襲しているみたいで演算系統と蓄積用メモリは使えています。導力ビット換算で8TBくらいですかね。」

 「いや、そう言われてもわからねぇよ。」

 

 今、彼は私の右目の心配をしなかっただろうか。そんなことのために、この人は変装までしてクロスベルにやってきたというのか。

 

 それは、ああ、なんというか。

 

 「……何考えてるか知らんが、今回の件は単に俺が以前言ったことを守れなかったけじめだ。根源の個人的欲求とはいえ間接的な結社の関与を許した。悪いがこれからは自分の身ぐらい自分で守れ。いつまでも人に頼ってるなよ。じゃーな。」

 

 「あなたは、」

 

 「あん?」

 

 「あなたは、私の王です。あなたが何と言おうとも、あなたが何を忘れようとも、あなたは決して、私の忠誠をなかったことにはできません。」

 

 嬉しいと思った。

 気にかけてくれたというのだ。ぶっきらぼうな忘れっぽい人が、ただのプログラムを気にかけてくれた。

 

 「私はこの命ある限りあなたを敬います。あなたが持つ魂に根付いた善性を尊く思うからです。あなたがどれだけ否定しようとも、私のこの思いだけはなかったことにはできません。」

 

 あなたは魂にあなたの正義を持っている。

 誰か顔も名前も知らない命を慈しみ、安寧を願う心がある。

 昔も今も、変わりない純粋さで。

 

 「―――それで俺にどうしろって?」

 「決まっています。覚えていてください。ただ私があなたを尊敬しているという事実を、決して忘れないでください。」

 「……」

 

 「あなたは忘れっぽいですから。もう二度と、忘れないでくださいね。」

 

 

 

 私はあの日、王となった旅人に忠誠を誓った。

 命ある限り、この身に知性が宿る限り、それを民と王のために役立てると約束した。

 

 しかしそれを、この人は忘れてしまったそうだ。

 

 だとしたら、私はもう一度誓う。この不滅の誓いをあなたの前で告げる。

 あなたは民を治めなくてよい。兵を守らずともよい。

 不器用でも、遠回りでも、あなたは誰かを慈しむに決まってるのだから何か具体的な行動なんて今更とる必要はない。

 

 ただ、私の尊敬という感情を受け止めてほしい。知っていてくれるだけでいい。心の隅においてくれるだけでいい。あなたにとってどう思われたとしても、私はそれだけでまた一歩を踏み出せる。

 

 

 何も恐れることなく、星を見上げることができるだろう。

 






ニクス「マクバーン尊い」
マクバーン「何言ってるかわからん」



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35 成長する種

 

 

 

 「悪いが、俺にはお前の言ってることがわからん。」

 

 意味が分からない。

 ただそれだけ思った。

 

 俺のことを王と呼ぶ女が現れたかと思えば今度は王でなくともよいと言う。

 全くもって訳の分からないやつだ。

 

 きっとこれは生まれる時代を間違えた。

 人にも、世界にもまだ受け入れるだけの叡智と力がないというのにこれは生まれてしまった。だが生まれてしまったのだからもうどうしようもない。

 

 そう、どうしようもない。

 どうしようもないから、別に俺が何をどうする必要もない。

 そんなことで変わるような代物ではないのだろう。

 

 

 「ええ、それで構いません。私は私を真に理解する存在がないことを知っています。あなたはただあなたであればよい。記憶の有無にかかわらず、あなたはあなたであるのです。」

 「それは流行りの哲学ってやつか?」

 「哲学も科学の兄弟であるという方もいらっしゃいますが、いささか異なるかと。私が至る結論は常に状況と条件を加味したうえで変動しうるものですから、真理とは言い難いかと。」

 

 …やはり、俺には学問ってやつは向かない。真理がどうとか、絶対と相対がどうとか、うだうだと考えるのは性に合わない。

 流れるようにたださすらい、情のままに吼え、剣を取る。

 

 そのくらいが関の山というものだ。

 

 「……そういえばお前、俺が記憶を取り戻したらどうするんだ?」

 「え?嬉しいですよ。良いことではありませんか。その時には真心というものを私なりにこめて、お祝いさせていただきます。」

 

 これの知性は科学の粋とか窮極の叡智とか言われることもあったが、俺にしてみればただのお花畑だ。人の感情を解さないから、葛藤がないから、悲しみを知らないから。

 

 そんなことが言える!

 

 「お前、俺が記憶を取り戻したらどうなると思う?」

 「えーっと、どうなるんですか?」

 「わからないのか?強くなるんだよ。」

 

 きっと、強くなるだろう。

 炎も、心も、魂とやらも、今よりもっともっと強くなるに違いない。

 先のことはわからないが、そう確信している。

 

 「あら、そうなのですか?ますますもって喜ばしいですね。」

 「ああそうだな。だが強くなった果てに俺がどうなるかお前は考えなかったのか?」

 

 「?」

 

 「少しはあの時に思い出せたさ。細かいことはわからないが、俺にとっていい場所だったってことはわかる。俺は確かにあの故郷を大切に思っていたんだろう。」

 

 だが。

 だが!

 

 「その故郷にもう永遠に戻れないと知って、どうしてお前は平気でいられる?俺が怒りに狂うとは思わなかったのか?あいつらが死んだときのあの虚ろな思いを二度もさせられて、俺が平静でいられるとなぜ思った?」

 

 ああ、焼いてやりたい。

 心の中のどろどろとした火が溢れ出そうになる。

 ここには何の罪もない人々が暮らしているとわかっていてもなお、体中から炎が噴き出してしまいそうになる。

 

 だだっ広いだけの荒野に点々とある炎。すでに命なんて死に果てた大地を燃やすだけの意味のない熱。揺らめいて、苦しんで、ただぐつぐつと煮えるように大地の砂を溶かす。

 自分の心の中の炎は、もうとっくの昔にそういうものになってしまっていた。

 

 たとえ意味がないとわかっていても、その炎が消えることはなかった。

 

 「わかっている。わかっているんだ!俺がどう吼えようと、俺が何を焼き尽くそうとも!もうあの場所には戻れない!あるのは誰も何も残らなかったという結果だけだ!

 ……その無念を、怒りを、ただ呑み込むことなんてのは、俺には無理だ。

 なぜ俺だけが生きている?どうして俺だけがいつも残される?失うことに何の意味があった!?」

 

 炎とは力の象徴。どこまでも燃え広がり、全てを焦がして苦しめるもの。それが己の魂の奥深くに根付いているということの意味を俺はよくわかっている。

 

 焼いてやるとも。

 全て、全て、焼いてやりたい。

 剣を振って切って燃やして突いて殺して壊して燃やす。

 敵と障害を打ち滅ぼし、困難を乗り越えて、また一つ壁を超える。

 

 七つの海を越えるように、麦畑を焼き払う賊を退けるように、空を埋め尽くす幻想種を殺しつくしたように。それらすべてを自分の意志で打ち払ってやるとも。

 

 そうして何かを討って、それであの場所に平穏が戻るならば、よかった。

 

 

 俺は遅すぎた、のか。

 あの世界がなぜ滅びてしまったのか俺は詳しいことを知らないが、その敵は見つからない。どこにもいない。ただ滅んだ後に俺が遺されただけ。空虚だ。

 敵も味方ももう終わってしまったこと。もうどこにもないものでしかない。何をどうしたって、もうどうにもならないんだ。

 騒いだところでどうにもならないとは知っていて、それでも俺は騒がずにはいられず。

 

 けれど知らぬ間に50年もの時間を過ごしてしまった俺は、結局この世界を燃やせない。ガキの癇癪のように炎を噴き出そうとして結局我に返って何もできず、最後にはすべてがどうでもよくなって終わる。

 

 そしてただ心の中に鬱憤だけが残る。

 燃えカスのマッチみたいな黒くて萎びた炭のようでもっと不純な汚いものが、しがらみのようになって残るだけ。

 

 ああ、そうだ。そうだ!

 しがらみだ!しがらみだけが残った!

 ぐちゃぐちゃになって、体に流れる血がぐつぐつと淀んで、溜まって汚くなって熱を持って、今にも燃えそうになっている。血を送り出す心臓に引っかかった骨のような枝のような何かが、毎秒俺を不快にする!

 

 「お前はすべてを知っていて、それでどうしてそんな顔をしていられるんだ?俺にはわからねぇな。俺はお前のようにそう全てを悟ったような目では見れねぇ。」

 

 わからない。

 俺にはこれがわからない。

 

 憎くはないのか。辛くはないのか。苦しくはないのか。悲しくはないのか。寂しくはないのか。殺したいと思わないか?無念を晴らしてやりたいとは思わないか?復讐したい。焼き払いたい。炎で撫でてやりたい。斬りたい。殺したい。傷つけたい。痛みを、苦しみを、教えてやりたいとすら思う。

 

 意味のないことだと知っていてもそう思わずにはいられない。

 行動に移すことが出来なくてもそう考えることはやめられない。

 

 どうしてそう思わないでいられるのか。

 どうしてただ優しくいられるのか。

 

 俺にはわからない。

 

 

 「……私にも、あの場所に戻りたいという気持ちはあります。あの地の人々を愛していました。けれども彼らに対して私にできることと言えば、死を悼むことだけです。ただ心の中に彼らをいつまでもとどめおくことでしか、私は彼らの名誉を守れません。」

 

 「俺は間違っている、と?」

 

 怒りを覚えることが、アイツらが死ぬべきではなかったと思うことが、間違っているとでもいうのか?

 

 「いいえ。その心は正しいものです。義憤。私には持ちえない感情ですが、それは人間固有の大切にすべき感情の一つです。友の名誉を守り、戦うための勇壮な心であるのでしょう。」

 

 「ではなんだ。お前は何が言いたい?一々小難しいんだ。巻きで話せ、巻きで。」

 

 「え?えーっと…そうですね…私があなたと同じ気持ちでないのは、単なる個体差でしょう。そしてあなたの思いと行動はこの世界の倫理に反しない限り誰に否定される謂れもないものだと思います。

 あとはそう、ほんの少しお待ちいただければいいものをご用意いたしますから…」

 

 「いいもの?」

 

 「ええ、ちょっといいこと思いついてしまったのです。ほんの少し、準備に時間がかかっていますけれどもうすぐ完了いたしますから…」

 

 (嫌な予感がする)

 

 こいつがこういうことを言ったとき、ろくなことが起きたことがない。

 歩く厄ネタの異名は伊達ではない。これが歩き回るとそこら中にトラブルを振りまいてしまう。こんなことなら偽物だとしても体を下賜するんじゃなかった。いやそれは考えすぎか。

 

 「……もういい。疲れた。俺は帰る。」

 「あら、そうなのですか?あまりお仕事頑張りすぎないでくださいね?」

 

 はぁ、ほんとに、気が抜ける。

 どうしてこれはこうなのか。どうしてこんな知性体に育ってしまったのか。親と教育係の顔が見てみたいとはこのことだ。

 いったいどこの人の分からない軍師が教育をすればこんな人工知能に育ってしまうというのか。

 

 

 「まぁ、お前は好きに生きてろ。俺もそれなりにやるさ。」

 

 これはどうあっても俺のことを理解しないだろう。

 この世界の人間はある種の同情の念を抱くことがあるかもしれないが、これは絶対にそんなことをしないし、そもそもできない。

 そう思うと、全てがどうでもよくなる気がする。

 

 心の中のしがらみが消えるわけでもなく、怒りがなくなるわけでもないが、ただそれ以外の全く新しい感情がふわりと落ちてくるように現れる。

 言い表せない感傷。温度も匂いも質量もない、蛍の光のようなただ明るいだけのなにかが心の一角を占める。

 

 だからって何もない。

 それがあるからって何も起こらない。意味も意義もない。

 何の救いでもなく、何の罰でもない。

 ただそこにあるだけの光の形をした生きる証。

 

 それがあると思うと、どうでもよくなる。

 投げやりになるのではなく、ただどうにもならないということをすとんと受け入れられるような気がする。別に俺が何をしたわけでもないのに、まるで自分が葛藤を乗り越え一歩進んだような錯覚にすら陥る。

 

 どうしてだ?どうしてそんなことを思っている?

 何をしたわけでもないのに、どうしてそんなことを思えるようになった?

 

 

 『世界には、不確定な事象が多いものだ。』

 『人の力を、言葉で説明できる方がおかしいだろう!』

 

 盟友たちが、そういうのならばそうなのだろう。きっとそれが正しくなるのだろう。

 人とはそういうものなんだろう。

 どんな言葉を尽くしても、どんな学問を修めても、決して説明しきれない摩訶不思議な力。不安定で不確かで、形にできないくせにいつもそこにある何かをどこかに隠し持っている。

 

 そしてお前の信じる星の光とは、きっとそういうものなのだろう。

 

 

 人の心の分からない知性体はただ微笑んでいる。人の行いをまねている癖にちっとも人らしくないそいつは、なんというか、馬鹿だった。

 

 (―――どっちもどっちか)

 

 どうしようもない。

 そういうものになったのだから、そうでしかあれない。結局のところそういうものだ。

 

 

 

 

***

 

 

 

 「……ねぇあんたさ、それで人に伝わると思ってるわけ?」

 「えっ」

 「全然事情が伝わらないんだけど?大人なんだからもうちょっとわかりやすく言ってよ。」

 

 「だが……あれがほら。ああなってこう、大変なことになったんだ。」

 

 「そんな説明で分かるわけないだろ!この生臭神父!」

 

 相変わらずだ。この生臭神父はそんな下手な説明で近況を説明しようとしているのだ。いくら後ろ暗いことをしているのをボカそうったってこんなに嘘やごまかしがへたくそで大丈夫なのだろうか。

 レストラン一押しのコーヒーをすすりながらじろりとにらむと、いつも通り只者ではない雰囲気を振りまく神父はシェフの創作料理を一口運んで余裕ぶった笑顔を形作った。

 

 「はは、まぁ要は忙しかったという程度の話だ。だがこうしてクロスベルを訪れる時間も確保できた。ジェイの顔も見れたし、それ以上に言うことのない近況だ。」

 「ま、あんたはそういうやつだよね。どっかいい加減でさ。こっちの身にもなってほしいと思うけど僕が知った話じゃないし。精々女を泣かせて後悔しなよ。」

 

 こういう情が深くて口の優しい強い男は女を泣かせる運命にあると決まっている。女のぎとぎとした本性がわかっていないからだ。母性のあるゆるゆるふわ~っとした砂糖菓子とでも思ってるのか?馬鹿じゃないのか?

 女ってのは強い。生き抜くことにかけては誰より強い。男なんかよりずっと強い。僕はそう思ってる。こういう男は守るべきナントカ、とかいうんだろうけど。

 

 「手厳しいな。前よりもどこか鋭さが増したようだ。……ニクスが勉強を見ているらしいから当然と言えば当然なのかもしれないが。」

 「はん、言葉は何物にも勝る切れ味のナイフ、ってやつ。今の僕を九龍の浮浪児と思ってたら痛い目見せてやるから。」

 「そんなことは思っていないさ。初めて会った時から。」

 

 知ってるよ。全くニクスもだけどこいつもたいがい阿呆だと思う。生臭なんだからとことん俗に染まればいいってのに、そういうところは妙に清廉潔白なのだ。この男、ちぐはぐである。

 

 「ジェイ、医師を志すと聞いたよ。どうか俺にも応援させてくれ。困難もあるとは思うがそんなときはニクスも含めていろんな人が君のことを大切に思っていることを思い出してほしい。」

 

 「あーはいはい。わかってるよ。別に全部が全部うまくいくとも思ってないし大変なのもわかってるから。」

 

 でもいい。僕は今生きてる。

 生きてさえいれば、何だってできる。

 

 「それに僕よりも大変なのはニクスでしょ。もう出発が迫ってきてるし、僕なんかよりあいつになんか言ってきたら?」

 

 なんせニクスがクロスベルを離れてしまえば次にいつ会えるかなんてわからない。この神父が謎の飛行艇を所有しているからと言って本人に仕事がある以上遠方まで行くだけの時間を取ることが難しいだろう。

 

 「…?彼女から聞いていないのか?」

 「は?」

 

 

 

 「教会の慈善活動の一環でな。俺も大陸東部に行くことになったんだ。」

 

 

 

 

 

 

 「おいコラクソアマ!あんたなんでいっつもいっつも大事なことばっかり言わないんだよ!」

 

 報連相は社会人の常識、と説いてきたあれは何だったのか。

 危機管理は気をつけるように、と言ってきたあれは何だったのか。

 何かあれば自分にまず言うように、と言ってきたあれは何だったのか!

 

 「あんたがいっつも一番守ってないだろうが!」

 「あら、ジェイ。ウォーゼル卿とのお食事はいいのですか?」

 「主にあんたのせいでそれどころじゃねぇんだわ。パスタは食べたいけどそれよりあんたに事情聴くのが先なんだわ。」

 

 この女はいつもそうだ。

 唐突に情報量の多いファイルを一気にぶち込んできて、本人は処理速度が高いからいいんだろうけども僕のような一般人にとってはフリーズ待ったなし。

 こいつには人を気遣う心ってのがないのか?あるんだけどさ、こういうところは勘弁してほしい。

 

 「そうは言っても、特別なことはありませんよ。ウォーゼル卿へのお手紙の中で大陸東部にある廃墟になった遺跡が不思議な動きを見せたらしいから調査に行く、とお話したのです。そうしたら危険だからと護衛を買って出て下さって。助かってしまいました。」

 「はぁ?なんでそこで生臭神父なわけ?そんでその情報どっから来たのさ?」

 

 確かこの女、生臭神父とあまり頻繁に会うことができないのではなかったか。九龍の時も実はまずかったみたいな話を聞いたのだが。

 それに大陸東部の話なんて九龍にいたころすらまともに聞いたことがなかったというのにこの女はどこからそんな情報を仕入れたのか。きっとマトモでないルートに違いない。

 

 「情報を教えて下さったのはツァオさんですよ。先日ある一件でお手伝いをした後にお話ししていたら教えてくださったのです。ウォーゼル卿は……たぶん、私にはどうしようもない事情があるのではないか、と思います。」

 

 「やっぱ厄ネタじゃん!あんたってほんと馬鹿!」

 白蘭竜に厄介ごとを押し付けられて、しかもまた神父絡みの何か…ろくなもんじゃない。ほんとにこの女は行く先行く先で厄介ごとを引き寄せる。クロスベルにいる間は平和な時間が続いたと思えばこれだ。

 この女は、僕が何を思って今まで過ごしてきたか、ちっともわかってない!

 

 

 「大変なことも確かにあるでしょうけれど、大陸東部に行けるなら私はそれで構いません。出来る限りの手を尽くすだけです。」

 「……もう知らない。勝手にしたらいいじゃん。ほんとに馬鹿。人の気持ちも知らないでさ。懲りろなんて言わないから、僕の気持ちくらい考えてくれたっていいじゃないか。」

 

 痩せたただの子どもである僕の、ちょっとしたわがままも叶えられないこの女は、やはり馬鹿でどうしようもない。心を傾ける方が馬鹿ってものだ。

 

 「ジェイ、」

 「拾ってくれたことも九龍から連れ出してくれたことも面倒見てくれたことも感謝してるけどさぁ!それだったら責任取って僕が大人になるまで傍に居ろっての!ほんとにあんた人でなし!いくら僕が生意気なガキだからって途中でほっぽって行くことないじゃん!」

 

 「えっと、ジェイ、」

 「それとも行くなって言えって?そう言ったってどっか行くくせに!アンタは人に善意で色々振りまいてそれで満足してるかもしれないけど、それで置いて行かれる奴の事何にも考えてない!」

 

 「あの、私の話を…」

 「誰が聞くかばーーーか!鉄女!」

 

 

 

 いった。言ってやった。

 あんたは困ってる人のことを慈しんでいろんなことをしてやってるけど、結局のとこ人でなしなんだって。僕は本当はそういうこと言っちゃいけない立場だ。この女に助けられた側だし。

 でも今、僕は子どもだから。

 ってか普通にわがままだし、生意気だし、この女と違って欲もあるいたってありふれた人間だから。こういう自分中心の馬鹿なことも言う。この女を傷つけてしまうかもしれないとわかっていても、どうせ聞き入れてもらえないだろうとわかっていても、言う。

 

 言わないと、伝わらないから。

 どっちも生きてたって、言わないとわからないことっていっぱいあるから。

 

 あとで文句言われたとしても、僕は思ったことは言う。

 

 

 「僕は間違ってない!クロスベルに居ればいいって思うことの何が悪いのか、まったくもってわかんないね!」

 

 そうして不機嫌なまま中央通りのレストランに戻り、僕は一人で(僕のいない間にパスタを頼んでいた)食事をしていた神父のところに戻った。神父は僕の顔を見て、大体何があったかを察したようだった。

 

 「ジェイ、どうしたんだ?いきなり走って……」

 

 一体何事だとばかりに聞いてくるが、この男はニクスに厄介ごとを持ち込んだ当事者である。

 

 「全部、あの女のせいだ。こうなったらおいしいものいっぱい食べてやる…」

 「……ははぁ、まぁ男なら通る道だろう。咎めはしないが、料金は俺持ちなのでせめてお手柔らかに頼む。」

 

 

 うるさい。

 人の事情とか、社会がどうとか、知ったことじゃない。

 僕は確かに今幸せだから、もっと幸せになりたいと思うことの何が悪いのだろう。あの女が厄介なことに巻き込まれないでほしいと思うことの何が悪いのだろう。

 

 「俺の言葉は年寄りの妄言と思ってもらって結構だが、結局のところ人は一人では生きられない。支え合って生きていくために人は我儘なばかりではいられないものだ。」

 

 テーブルの向かいで食後のコーヒーをすする男はいったいどうしてそんなことが言えるのだろう。

 

 「当事者のくせして、涼しい顔してるよね。あんたの面の皮がそこまで厚いなんて僕は思ってなかったよ。」

 「俺にも譲れない使命というものがあるのでな。ジェイはそう思うだろうと思ったが、それでも俺はニクスに今回の話を持ち掛けた。不満に思うようなら立ち向かってくるといい。その覚悟はできている。」

 「……いいよ。それじゃ結局アンタの土俵だ。喧嘩は苦手だからね。」

 

 もしも、もしも僕がもっと力が強くて。万が一この男を打ち倒せるようなことがあれば。その時この男はニクスを連れて行かなかっただろうか。ニクスも僕のもとにいてくれただろうか。

 

 

 そんなのは無意味な仮定だ。

 

 まずもってそんなことはあり得ない。

 というかそんな手段、たとえあったとして僕はそれを選ばない。

 

 

 「あんたら本当バカみたい。そうやって殴り合って全部解決すると思ってる?結局力任せで全部どうにかなると思ってる?」

 「……」

 「それでも納得しない奴だっているよ。僕みたいにさ、何度殴られたってあきらめないような奴だっているよ。だってのに、喧嘩で勝ってそれで全部すっきり終わると思ってる?」

 

 世の中ってもっと汚いものだ。

 どんな言葉を尽くして諦めない奴がいる。どんなに痛めつけても屈しない奴がいる。どんな正道を突き付けても治らない邪道を往く外道がいる。

 暴力とか正義とか、そういう簡単なことで解決するなんてレアケースでしかないだろう。

 

 例えば、死にかけた自分の子どもの治療のために親が病院に行ったとしよう。その病院には入院ベッドの空きがないとしよう。そこに自分たちの他にも治療を待っている重症の患者が沢山いたらどうする?

 全員治りたいと思ってる。健康になってほしいと願われてる。全員が全員、救われるべき命だ。でもこの世界に奇跡はなくて、リソースにも限りがあって、人はみんな自分なりの信念を持っている。

 

 そんな世界に僕たちは生きている。力で全部解決できるなんてそんな単純なものじゃなくて、もっとグロくてエグくて直視できないものが世界だ。

 それでも無理してまで生きてたい、死にたくないって思うのが世界だ。

 

 「僕は力だけで全部解決できるなんて最初っから思ってないから。そんなものには頼らないよ。はーやだやだ、ほんとこれだから脳筋はやだ。それで医者の世話になるやつが何人増えるわけ?」

 「……はは、まったくもってその通りだ。けれど男というのは不器用なのさ。何かを言い表すのが下手で、力をふるうくらいでしか自己表現ができないんだ。」

 

 「いやそれちっとも表現できてないから。」

 

 

 力がないと守れないものがあるのは確かにそうだろう。

 力をふるうことのできる人がいることで助かる人がいるのも確かだろう。

 

 けれどそれだけじゃダメなんだ。

 力のない奴が、僕みたいなひょろっひょろのモヤシが、力に頼らない闘いを僕なりに生き抜くことで、希望を得る誰かがいる。

 僕はそれを知っている。

 ずっと昔に僕に生きてたいって思わせたのは華奢で人を殴る力のない母だった。あの廃棄場みたいな街で僕に自由になりたいという気持ちを目覚めさせたのは、誰よりも弱い馬鹿みたいな女だった。

 

 無力な奴が、無力だからこそ人を奮い立たせる。

 

 僕は無力だから、目の前の屈強な神父よりもそれを知ってる。

 

 

 「さも世界のすべてを知ってますみたいな目してさ。一々主語がでかいんだよ。」

 「そうか?」

 「そうだよ。……はぁ、僕の周りってこんなのばっかり。」

 

 特製のパンナコッタを口に入れた。

 もきゅもきゅした口当たりと、ミルクの濃い甘さが僕の脳に沁みる。後味はさっぱりとした柑橘の風味。ちっちゃくて、すぐに食べ終わってしまうようなデザートだけれども僕はこれを一個食べてなんだか満足した。

 あの女と喋って腹がむかむかして、それでやけ食いしてやろうと思ったけどデザート一個食べてなんとなくもういいかと思った。

 

 「何かもう少し頼むか?」 

 「……いい。」

 

 もう、いい。

 

 生臭神父は僕がぽつりとそう言ったのを聞いて何を思ったのか、ゆっくりと話し始めた。

 

 「―――ジェイ、俺は君がニクスと出会ってくれたことが本当にうれしい。女神に毎日感謝しているくらいだ。ニクスが君にたくさんのものを与えたように、君もニクスにたくさんのものを与えてくれた。俺たちではできないことをジェイはたくさんしてくれたんだ。

 俺は君が誇らしいよ。」

 

 「好き勝手言ってさ。僕の事何にも知らないくせに…」

 「いい奴だってことは俺も知っているさ。」

 

 こいつらどうしようもない馬鹿だ。

 ニクスも、神父も何にもならないってのに僕のことをそんなに持ち上げて、おかしくてならない。

 けれどそんな二人に勝手に救われている僕も僕だ。

 

 自分とは似ても似つかない二人なのに、見ているとどうしてか自分の未来を思い描ける。こんなことがしたいって思える。

 今を生きるのに精いっぱいだった僕が、未来に生きてみたいって思えるんだ。

 

 「あっそ。」

 

 

 けどこの二人にそういうこと言うの凄い癪。

 感謝はしてるけどそういうことを素直に口に出すと思ったら大間違いだ。

 

 

 

 





クロスベル編、長くない?と思う作者であった。
プロットから逸れまくって長くなりすぎているのでどこかで終わらせなければならない。


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36 クロスベルで一番温かい日

更新遅れましてすみません。FGOの新章をしておりました。

(追記)タイトル被ってるやないかーい


 

 「今日のお茶菓子は西通りのベーカリーで購入いたしましたチーズタルトです。

 どうぞご賞味ください。」

 「ああ、ありがとうございます。」

 

 日が長くなってきた春と夏の境目、俺はいくつかの仕事を片付けてクロスベルを訪問することができた。クーロンにいたころよりもずっと成長したジェイとの邂逅も叶い、あることがきっかけでこうして非公式にだがニクスとお茶の時間を楽しむことができるようになった。

 長くなった影が、出会った頃からもう季節が移り替わったことを示している。冬から春へ、春から夏へ。そしてこれからは秋冬へと、離れていても俺と二人は時間を分かち合っているのだ。

 

 「…ジェイは、帰ってきていないのですか?」

 「ええ。まだ思うところがあるのかもしれません。けれどもきっと大丈夫でしょう。ウォーゼル卿も随分と気を配ってくださったみたいですし。」

 

 ジェイはそろそろ難しい年ごろというか、親の愛情が十分に足りていなかった反動とでもいうか、まぁ要するにニクスに対してあまりうまく接することができないようだった。

 先ほども少し衝突があったようでジェイはいまだ宿の部屋に帰ってきていないが、ニクスは彼についてあまり心配していないように見える。

 

 「大したことは何も。俺の言葉など彼にとっては唾棄すべきものでしょう。」

 

 彼は女神と信心深い人間を嫌っている。(俺としてはあまり嫌われている気がしないが、本人がそういうのならばそうなのだろう)少し彼の逆立った気分をなだめるようなことを言ってはみたが、もしかすると逆効果になったかもしれない。

 

 「彼は賢いですからそのあたりのことはきちんと理解していますよ。折り合いをつけるとか割り切るとか、そう言ったことが別勘定なだけではないでしょうか?」

 「そうなのですか?」

 「ええ。信仰は信仰。個人は個人。女神を疑う彼だからこそ宗教や信仰に関してきわめて客観的な目で見ることができるはずです。」

 

 彼女はいつも信仰に関して中立的な立場をとる。女神を賛美する言葉も言わないし、女神を貶めることも言わない。教会が、というか騎士団が彼女を危険視するのはそういう理由もあるのだろう。彼女は女神を信奉しない異教徒、のようなものである。

 女神の教えに耳を傾けるが決して女神に祈らず、縋ることもない。ただまっすぐに女神と信徒たちを見つめ、神秘たる信仰の形を明らかにしてしまう。

 神を疑うからこそ真に神を知ることができるというのは察するに彼女の経験談であるのだろう。彼女やジェイにしか理解できない歪なものがある。我々のように信奉するだけでは見えない真実がある。……難しいことだ。

 

 「あなたにとって女神を信じる俺たちはおかしいでしょうか?」

 「いいえ、ちっとも。私は以前神とは何かについて考える機会があったというだけです。結局のところ、大事なのは人々が同じものを信じているという状態そのものでしょう。あなたが強く信じること、何かに対し疑わずにいられることが貴重なのですよ。」

 

 「……それは、一体どういうことでしょう。」

 

 俺は時々、彼女の言っていることがわからなくなってしまうときがある。彼女の言葉がまるで遠い世界の歌か何かのように聞こえるのだ。

 女神を信奉しない彼女が、ゼムリアの民に女神を信じよと教えを授ける。悪人も善人と同じように生きることができると信じている。同じように救うべく手を差し伸べようとする。

 彼女のいた郷里は、どんな理想郷だったのだろうか。一体彼女は心の中で、どんなことを思って理想を謳っているのだろう。

 

 「人は疑う心と信じる心を同時に持っています。何かを疑わずにただ信じるということができないようになっているのです。そこで一片の曇りもない奇蹟でもって人の信じる気持ちを極限まで高めるというのが宗教という機構の性質と言えるでしょう。」

 「つまり、女神は存在していなくても人に何かを信じる心さえあればいいと?」

 「人が苦難を乗り越える時、そこには何かを信じるための支えが必要です。迷い悩む心を寄り添って支える何かが。そうして何かを心から信じたときに、人は明日へと歩みだす力を得ることができる。

 ……女神という存在がそうして人を助けるのならば、そこに意義はあるのではないでしょうか?神という概念に心を救われてきた人も私は多く見てきましたから、やっぱり神様ってすごいですよねえ。」

 

 「他の方の前で女神を文明の利器か何かのように言わないで下さいね……」

 

 彼女の解釈は独特すぎる。俺たちが持つ女神の慈悲への信仰はまるで機構であるかのように語られてしまうなど、他の聖職者が聞けばあまりの刺激の強さに泡を吹いてしまうのではないか。

 

 彼女と何度か言葉を交わしてみてわかったが、彼女はあまりに人を愛しすぎている。人を知り過ぎている。人を見つめすぎている。

 

 とても博識な人物であるが、しかし彼女が知っている世界に関しての事実は、俺たちにはあまりに醜悪なものなのかもしれない。そう言った末恐ろしさを感じることが、ままあるのだ。まるで自分のエゴを正面から見つめているような感覚に陥ってしまうことがある。

 

 彼女の言葉はすべて間違ってはいない。それどころかどこか己の知りえない真実に近づいている感覚すらある。

 けれど、それがどうにも恐ろしいのだ。今はまだ知るべき時ではない、それについて考えるべきではない、気がする。

 

 

 「ん……ああ、すみません。そういったことを言ってしまうのは悪い癖だと友人から指摘を受けていたのですが気が抜けてしまったようです。以後は気をつけますね。」

 「いえ、俺はいいのですが…少し疲れているのではないですか?すごいペースで本を出していると聞きましたよ。」

 

 クロスベルでの一時滞在を活かしてこの数週間にいくつもの作品の出版を取りつけたと聞いている。彼女の小説は()()()()()()()()()をしているという噂だし、相当な数の原稿をすでに提出しているのだろう。

 雑誌での連載小説、ラジオドラマ、児童書、歴史小説…それらの作品も含めて並行して完成させたのだから当然スケジュールはひどく詰まったものになっていただろう。

 休息や食事を必要としない体質だとは聞いているが、それにしてもワーカーホリックが過ぎるのではないだろうか。 

 

 「ふふ、風のうわさというやつですか?私としてはため込んでいた原稿もあったので逆に肩の荷が下りたくらいでしたけれど。」

 「物語の執筆に加えて学術書の編集にも手を伸ばそうとしているらしいというのは俺の聞き違いでしょうか?」

 「どうしてそんな事までご存じなのですか…」

 

 彼女はまるで何かに取り憑かれたかのように筆を執っていると、とかくペンを手放そうとしないのだと聞いた。きっと今この瞬間も、俺と話しながら本のことを頭の隅で考えているのだろう。

 

 「風のうわさ、というやつですよ。ちなみにいったいどんなことを書くのですか?」

 「解剖生理学や病理学が主になると思います。まだ担当するところが決まっていませんから何とも言えませんけれど。」

 

 それを聞いて、俺はようやく彼女が何のために、というか誰のために本を書いているのか理解した。どうして彼女が急ぐように筆を走らせているのか。どうしていろんな分野の本を書くのか。

 すべて、すべて。

 

 「やはり彼のため、ですか。」

 

 ニクスは肯定するように微笑んだ。

 

 「私の書いたただの言葉が、いつの日か彼を支える知識や感情になるでしょう。いつの日か私の物語が彼に愛され、彼が誰かに語り継ぐなんてこともあるかもしれません。私は、そんないつかを夢見ています。

 私の言葉はまだ不完全ですけれど、きっとすべてを書けるようになろうと思っています。人の葛藤も、悩みや苦しみも、そしてそれを乗り越える希望の明るさも。それを言葉にできたら、私はきっと誰かを救えると思うのです。」

 

 「いつかも言いましたが、俺から見ればあなたは十分に人間です。あなたの著作を読んでも、あなたの情緒に欠損があるようには思えなかった。悩み、迷い、苦しんでいる登場人物たちは現実にいてもおかしくないと思えます。」

 

 俺には彼女のことがわからない。

 彼女はどこからどう見ても人間だというのに、彼女は自分のことを人でなしだという。彼女が求めているものは何だというのだろう。人の姿をして、人の言葉を話して、人を助けるならば、それは人ではないのか。

 

 「実のところ、あなたが読んだ彼らの感情は借り物なのです。故郷での友人にそんな人がいたと聞いたのを登場させているだけで……恥ずかしい話、私は彼らに共感できていません。人はこういったことで悩むものだろうという予測を重ねているにすぎません。」

 

 「それにしては随分リアルですよ?先日の少数民族を取り上げた話があったでしょう。肌のまだらな男が差別に苦しんで顔を隠すという…」

 

 あれは本当に攻めていた。割と序盤で理解者である友人が登場するから救いがあるが、男は買い物にも苦労するというありさまで、孤独や不遇への憤りに精神を擦り減らしていく。出版社に苦情が入っていてもおかしくないと思う設定なのだが、これが何とうまい具合に男が報われるので読者もほっとしてしまうのだ。

 

 あの短編での男の怒りには、よくあんなに温和な人がこんな文章を書けるものだと思ったものだが、あれはどうだ。

 

 「ふふふ、それも友人の話してくれたエピソードに基づいています。友人の語りが上手かったのです。怒る人は寂しさゆえに怒ると聞いたのでそれを私なりに表現してみました。あとは『烈火のごとく』と言いますから、火のイメージと合わせて…」

 「ああ、そういう…」

 

 表現が上手い、ということはそれを知っていなければならない。しかし怒りが炎とよく似ているならば、怒りそのものを知らなくても炎の性質を感情に重ね合わせて書けばそれっぽい比喩にはなるはず、というのが彼女の技法であるらしかった。

 確かに彼女は炎のことはよく知っている。旧知であるあの男の代名詞であるのだから。

 

 「私の友人は人の感情を自然に喩えて教えてくださいました。怒りは炎、慈愛は泉、郷愁は秋風。初恋は林檎の樹、愛は梔子の花。憧れは蛍、悲しみは朝焼け。本当に博識な方だったのです。人の心をよく知っておられました。」

 

 口ぶりから察するに、その友人というのはマクバーンではないだろう。また別の誰か。人の感情をそうもうまく何かに喩えられるというのだから、女性の友人だろうか。

 

 

 「……しかし言われてみればそうかもしれません。郷愁は秋風、成程と行った心地です。」

 

 そう聞いてしまうと確かに、以外の感情がない。自分がノルドの若々しい緑とどこまでも広がる空を思い浮かべたときに心に吹くどこか冷たい風。

 それは確かに、言われてみれば秋の湿っぽさと冷たさを孕んでいるような気もする。実りを知らせると同時に寒い冬の来訪を教える風のもの寂しさは遠くから故郷を思うときの寂しさと似ている気がする。

 それは自分の故郷であるノルドが風と縁深い土地だからなのか、それとも人は皆故郷を思うときに秋風を感じるのか。

 わからないがもしそれが本当にいろんな人間に共通であるのだとしたら、皆が故郷を思うときに一つの自然を共有しているのなら、それは不思議で素敵なことだと思う。

 故郷が違っても、分かち合える感情があるということだ。全く違う性質を持った人間同士でも、実はどこかで共通点を持っているのかもしれない。

 

 「ふむ…考えてみるほど趣深い喩えです。それを考えた人はそれこそ真水のように心が澄んでいるのでしょう。」

 「ふふふ、そうだったかもしれません。」

 

 ニクスは微笑んでいるがすこし眉根が下がっているような気がする。俺は的外れなことを言ってしまっただろうか。

 

 「……実際のところは?」

 「その人の心の在り方に関して私がどうこう言えることでもありませんが、そうですね。ツァオによく似ていると思います。」

 

 つまりはまぁ、そういうことだ。あとは察してくれと言わんばかりの微笑み。

 

 心を知るのは心を操るため。情を知るのは情に付け込むため。人を知るのは人を動かすため。要はそんな質の悪い人間が、何らかの縁で彼女に教えを授けたのだろう。

 そんな誰かからの教えであっても自らの糧とし最適な形で活かすというのは彼女のよい個性と言える。しかし自分は目が曇っていたか。そう言った存在と彼女が切っても切り離せない縁であるとはわかっていたつもりだったが…

 

 気まずそうに眉を下げた俺を気遣ったのか、本当に忘れていたのを思い出したのかは定かではないが、彼女はまるで雰囲気を一転させようとするかのように手を打って音をならし、鞄から分厚い茶封筒を取り出した。

 

 「ツァオと言えば、今日はその件もあって来ていただいたのでしたね。こちらが彼からいただいた資料の現物です。大陸東部の状況をまとめていただきました。信用できるものだと思いますよ。」

 「拝見します。」

 

 彼女が差し出した封筒には黒月貿易公司の印が押してある。そして書類には支社長ツァオ・リーのサインがされた一枚の紙。これは情報が虚偽ではないこと、そして万が一間違っているようなことがあれば彼に責任を取ってもらうことを示す書類が添えられている。

(まぁ虚偽の情報を渡すだなんていう隙を見せるような人だとは思えないが)

 

 「大陸東部の遺跡に起きた異変、ですか…こちらでは確認できていませんが周辺の集落が異常な速度で荒廃してきているという報告は上がっていますから一度状況を確認したいところです。

 しかし点在している集落の詳しい座標や人口の変化まで……ニクス、一体どんな交渉でこの情報を手に入れたんです?」

 「テーブルゲームで勝った時の景品のようなものですよ。」

 「そうですか……」

 

 

 まぁ、何かしらあったのだろう。

 彼は大きなシンジケートで期待を一身に背負うほどのホープであるというし、そう言ったゲームでの駆け引きや交渉事は気晴らしのようなものなのかもしれない。それにしては景品が豪華すぎる気がするが。

 

 「大陸東部に行く前に現地のことが知りたかったので調査をお願いしたのですが、ゲームに勝ったら色を付けると言われまして、それでゲームをしたのです。

 ただ内容を見てみると私一人が扱っていい物にも思えず教会を頼ることになりました。突然のお話になってしまって申し訳ない限りです。」

 

 騎士団とニクスの接触は表向きに禁止されている。古代遺物であるニクスは廃棄されたことになっているからだ。しかし、古代遺物が絡むと思われる異変の情報が彼女から寄せられ、無視するわけにもいかず俺が休暇のついでにジェイに会いに行くという名目のもと彼女と会見をするに至った、というのが一連の経緯である。

 

 「本来我々はこうあるべきでしょう。今回の一件を機によい協力関係に落ちつけたらと思っています。」

 

 上層部は当然のことながら適切に処理をして廃棄したという総長の主張を信じておらず、早期の回収ないし調査を要求している。彼女の生活を保障したい騎士団と古代遺物として利用したい上層部、この二つの間に対立が起きるなんて言う未来は避けたい。

 彼女のペンネームが枢機卿にバレてしまえば終わったも同然、という危ない綱渡りももうそろそろ終えたいところだ。俺としては是非とも情報提供者として彼女の立場を安定させたかった。

 

 「ではよろしくお願いしますね。」

 「ええ。今回は列車と車を乗り継いでの移動になります。長期になるかもしれませんが焦らず行きましょう。」

 

 出発は来週。集合はクロスベル駅のプラットホーム。それまで彼女はできうる限りの仕事をこなし、俺は物資の調達といった準備をする。

 彼女に軽く挨拶をして俺は宿屋の部屋を出た。

 

 

 扉を閉じて、その少年に話しかける。

 思春期に差し掛かる年頃にしてはあまりに痩せた体躯。身丈に合わせてもなお布の余った服。特徴のある猫背。壁に体重の殆どをかけていて、彼が随分前からここにいたことを示していた。

 

 「もういいのか、ジェイ。」

 「来週、アイツ行くんでしょ。じゃあ僕がどうこう言ってもしょうがないし。」

 

 彼は割と最初の方からこの廊下に立っていた。それを言うか言わないか迷ったのだが、ニクスがあまりにも動じていなかったのでこれはもう俺がどうこう言わなくても大丈夫だと感じ取ってしまったのである。

 

 ジェイが廊下の壁に背中を預けて、ただ佇んでいる。

 たったそれだけの事なのに、俺の心は不思議と透明になっていくような気がした。まるでまぶしい光に満たされたときのような。そう、これは、きっと誇らしいという思いだ。

 

 「……何さ。人の事ジロジロと見て。なんか言いたいことでもあるわけ?」

 「いや、ないな。」

 「あっそ。」

 

 

 「だが、聞きたいことならある。」

 「は?」

 

 ああ、彼は素直じゃない。生意気で、同年代ではありえないほど勤勉で、多くのことを知っているのに、人との関わり方をあまりにも知らない。

 けれどそれは、彼が生きていく中で自然とつかんでいくだろう。俺やニクスや、他の誰かの背中を見つめながら、いつしか体得していくだろう。

 

 「ジェイは今、幸せか?」

 「……はぁ。神父のくせに馬鹿だよね。僕が不幸なわけないのにさ。」

 

 やせこけた頬、薄い皮。ひょろりと長い首。薄い体はあれから肉がついたかどうかよくわからないが顔の色は明らかに健康的になったように思う。これから少しずつ体も成長していくことだろう。

 彼が、これからも生きていってくれる。俺がジェイとの出会いを誇りに思うように、ジェイも俺やニクスとの出会いを誇ってくれるだろう。これほどに嬉しいことはない。

 

 「それは何よりだ。ニクスと仲良くな。」

 「はいはい。」

 

 そうして宿を出ていく俺の背中から、どこまでもまっすぐな視線はそらされることがなかった。まるで俺の魂までも見つめるかのように、俺の在り方に問いを投げつけるかのように。

 

 

 

***

 

 

 「………ただいま。」

 「お帰りなさい。」

 

 私は、やはり愚かであるのだろう。ジェイが私のことを大切に思ってくれていると知りながら、それでも生き方を曲げることはできない。私にできることと言えば、腹をくくって怒られる程度のものかもしれない。

 

 「ジェイ、秘密にしていたことはごめんなさい。あなたにはきちんとお話をするべきだったと反省しています。」

 「……あのさ、」

 

 うつむいていた彼が、どこか気まずそうに目線をそらした。こうしているのを見ると本当にまだ彼が子どもなのだとよくわかる。

 

 「あんたはさ、僕だけじゃなくていろんな人を助けるべきなんだとは思ってる。だからあんたが東に行くのはいいことだと思ってるよ。……でもさ、」

 

 そう言って、彼は口をつぐませた。

 

 ああ、ああ。

 きっと勘違いではないだろう。

 ジェイが私との一時の別れを惜しんでくれているのだろう。

 それがきっと長いものになるであろうことを、私たちはどことなく察していた。

 

 彼をおいていくのは私なのに、私が彼を一人にしてしまうのに、彼を悲しませている原因であるというのに。

 私はどうして喜んでいるのだろう。

 ただ反省し誠意を示すべきだというのに、私はどうして嬉しいだなんて思っているのか?

 

 わからない。私は私の心がわからない。

 けれど、ああ。私はあなたを抱きしめたい。

 

 あなたを、他の誰でもなくあなたを大切に思っているのです。

 

 「ジェイ、ありがとう。本当に、私はあなたに出会えて誇らしい。あの日あなたのことを見つけられてよかった。ああ、どうして……どうしてこんな時に、私は…」

 「―――-そうなっているんだから、そういうものなんじゃない?」

 

 

 言葉が何も出てこない。

 私は言葉にならぬものを言葉にするべく筆を執ってきたというのに、今この時心に満ちていく何かは、私の語彙のすべてでも表現できなかった。

 

 幸福。誇り。慈愛。祈り。希望?

 全てであってすべてを超える何かが私の吐息にまであふれてしまう。

 今日この時。春の光が差し込む部屋で、愛おしい子どもがここに生きている。

 そのことがどれだけ喜ばしいか。

 

 「……ありがとう。きっと私は愚かで、どうしようもなくて、馬鹿なのでしょうけど。私、そんなことどうでもよくなるくらい、ジェイのことが大好きです。」

 「ん、僕もあんたがなんであれ別にどうでもいいよ。」

 

 ジェイがそう言ってくれるのを聞いて、私はどうしようもなくなってとにかく笑った。笑わないと今にも何かこぼれ出てしまいそうで、精いっぱい口端を釣り上げることしかできなかった。

 

 「意外だ。あんたがそんな顔するなんて。」

 

 下手な笑顔だね、とそう貶されてしまったけれど、ジェイはなんだか楽しそうだった。きっと私の笑顔は歪んでいたであろうに、ジェイはそれを厭うでもなく、叱咤するでもなくただ優しい笑顔で受け入れてくれた。

 

 私は、本当の意味でまだ愛を知らないのかもしれない。けれど私が今ジェイを思う気持ちが愛ではないというのなら、一体何が愛だというのか。

 善と悪を知る子ども。苦しみと悲しみを知る子ども。貧しくても、飢えていても、生きることを諦めないでいてくれた子ども。私が彼と出会えたのは、きっと奇跡だったのだ。

 

 

 ―――ふと、この世界に何人ジェイのような子どもがいるだろうかと思った。

 こうやってかわいらしく笑えるのに、汚いどこかに打ち捨てられて、死に直面しながら懸命に生きている人は、いったい何人いるのだろうかと。

 

 私はこの命ある限りできうる限りの命を救いたいけれど、私の限りある腕と手では全員を助けることはできない。処置が間に合わずに死んでいった人がいた。また明日と言って夜の寒さに凍えて死んだ人がいた。

 

 私が助けたこの子どもも、いずれそんな場面に出会う。

 助けたいのに助けられなくて、気持ちだけでは何もできないことを知る日がきっと来る。

 そんな時、きっと彼は嘆くだろう。悲しむだろう。自分を見つめ、思い悩む日が来るだろう。医者になるとはそういうことだ。

 

 だからどうか覚えていて。

 私があなたを愛していること。これが本当は愛ではなかったとしても、それでも私は今あなたを愛している。どうかあなたの未来が健やかで、幸多く、希望に満ちたものであれと願っている。

 

 「ジェイ、あなたは優しい子。私を助けてくれてありがとう。あなたは賢い子。私を受け容れてくれてありがとう。」

 

 辛くなった時、思い出してほしい。

 

 あなたを愛する人がいること。

 あなたを支えたい誰かがいること。

 あなたをまっすぐに見つめる人がいること。

 

 「大丈夫。私たち、一人じゃありません。寂しくなったら本を開いて、そして空を見上げて。

 沢山の物語が私たちの心を結び付けてくれます。私と、あなたと、そしてこれから……」

 

 

 言葉にならない。

 

 何を言えばいいのか、わからない。

 伝えたいことが沢山あるのに、口からは何の言葉も出ない。

 

 

 春の日差し。

 長い影。

 外から聞こえる商人と子どもの大きな声。

 

 あなたの鼓動。髪の流れ。薄い皮膚に塗りこめられた傷薬の匂い。

 

 部屋には沈黙が幕のように下りてきていた。私はただその場に直立しているジェイにすがるように彼の体に腕を回していたけれど、もう何かを言おうという気持ちもなく、ただ浅く息をして彼のほんの少しだけ肉のついた顔を眺めていた。

 

 しばらくそうしていると、私の背中に、何か温かいものが添えられた。

 

 

 見なくても、それが何であるかは明白で。つい嬉しくなって私は子どもの体に巻き付けた腕の力を強くした。

 誰かが漫画の中でするように、ぎゅっと。そんな音なんてしないけれど、まるで私の心とジェイの心が一緒にぬくもっていくようで、ああ。

 

 

 

 あたたかい。

 今日は、クロスベルで一番、あたたかい日。

 

 

 

 




クロスベル編、これにて完結です。
暫く特に読まなくてもいい幕間を書いていく予定です。


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幕間 王への諫言
第一夜 箱庭


幕間、はじまりはじまり

別に読んでも読まなくてもあんまり本編には関係しません。


 

 何もないどこか。

 ただ灰色の水面が広がり、ただ灰色の空が見える。

 

 見渡す限り何もなく、言うなれば無であり有である場所。

 

 覚えのあるここは、俺の心象風景とでもいうべきだろうか。心の中、意識の奥。とにかくそんな感じのどこかである。詳しいことはわからないが瞑想をした時や深く集中しているときに俺はここに立っている。

 

 ここに俺以外の存在がいるとすれば、それは俺が相対するべきであると思っている誰かに他ならない。

 

 

 

 はず、なのだが。

 

 

 

 「もし、そこの方。もしやこの空間の主の方ですか?ああ何と言うことでしょう。まさか精神空間に出てきてしまうだなんて……」

 

 

 紺色のよくわからない意匠の礼服っぽい何かを着た細身の男性が、俺の前に立っている。声からして男であろう。身に付けているのは東方風とも違う独特な衣服だ。白の衣服に紺色の上着を重ね、黄色の房飾りをやたらめったら付けている。

 植物で編まれた冠のようなものを被り、顔の前に白い布を垂らしていて、怪しいことこの上なかった。男が身じろぎをするたびに上着についた房飾りが揺れる。しゃらり、しゃらりと糸同士がこすれ合う音が嫌に響いていた。

 なんというか、全体的に華美だ。どういう構造の衣服かはわからないがそういう印象を受ける。男性の細い手や首の筋肉のなさを見るに、あまり活動的な人ではないのだろう。指のところにタコがあるから、学者か何かか。

 

 

 「あなたのご想像の通り私は学者のようなものです。道に迷っていたところこちらに迷い込んできてしまいまして…いやはや驚かせてしまいましたね。申し訳ない。」

 

 

 はっはっは、と空々しく笑う男性。長めのふわふわしたくせ毛を肩に寄せると彼のゆったりとした袖から骨骨しく生白い前腕があらわになる。不健康なまでに細いのに肌は日焼けをしているのか手だけが不自然に褐色になっていた。

 

 

 「えっと、あなたは誰ですか?ここは迷子になって来れるような場所ではないのですが。」

 

 何しろ俺の心の中である。ここに繋がる道があるならばそれは俺の意識の中にしかないだろう。

 

 「異郷の勇壮なる剣士よ、あなたに名乗りたいというのはやまやまなのですが私はすでに名前を失ってしまっています。ですので私のことはどうぞ軍師とお呼びになってください。」

 

 「軍師?」

 

 「ええ。生前は外道と呼ばれることも多かったのでそう呼んでいただいても結構ですが、まぁ、お好きになさい。」

 

 低く、落ち着いた声が響く。

 時の流れという概念のないこの空間で、俺はただ何を言えばいいのかもわからずにただその男の目があるであろう場所をただ見つめる。けれどそこにはただのっぺりとした白い布しか見えない。

 

 不気味だった。

 よくわからないものが、いつの間にか自分の精神の奥深くに入り込んでいる。こんなに背筋の寒くなることもないだろう。

 

 それにこの男、確かに切れ者の風格を感じる。手段を選ばないような、搦め手がとてもうまそうな、そういった声だ。

 

 

 「そう警戒しなくても宜しい。確かに私がここを出ようとしたその時はあなたを何らかの形で打ち倒す必要があるでしょうが、あなたのような人間に対して私は非常に相性が悪い。勝負を仕掛ける気など毛頭ありません。」

 

 「……では、俺の質問にいくつか答えていただけないでしょうか?」

 

 

 鷹揚に頷く男性。

 白い布の奥は決して俺には見えないが、きっと笑っている、のだと思う。

 

 

 「あなたはどこから来たのですか?」

 

 「私は地獄から参りました。」

 

 「それは比喩ですか?」

 

 「比喩であっても、そのままの意味であってもあなたにとって重要ではありませんよ。

 しかしそこは信じられないほど醜悪で、汚泥が炎にかぶさり、水は毒で濁り、大気に死体の匂いが満ちた場所であったことは事実です。」

 

 疑わしい。

 総じて詐欺師だとか口のよく回る人間はそう言った誇張表現とか、詩的な表現を好む。聞き手を煙に巻けるからだ。

 

 「では、あなたはどうしてここにたどり着いたのですか?」

 

 「ふむ……難しい問いです。私にもその理由はわかりませんが推測するにここは精神世界ですね?だとすれば、繋がってしまったのでしょう。」

 

 「繋がった、とは?」

 

 「現実世界でいう縁のようなものです。察するにあなたは精神が非常に発達していて、自分でない存在を度々招き入れていたのでしょう。他の人はそういったことを普通出来ませんが、あなたは誰かを自分の心の中に招くことに長けていた。

 そして私は軍師として時に他人の心を篭絡し、絡めとっていましたから、言わば他人の精神を侵すことが得意だったわけです。

 精神という概念に受動的なあなたと能動的な私がいて、そして誰かがある時に私たちを仲立ちしてしまった。

 それで道がつながり、こうして邂逅に至るというのが私の仮説です。」

 

 

 なるほど。確かに言われてみればこの空間に立ったことがあるのは俺だけではない。どこまでを俺の精神空間とカウントすればいいかはわからないが、単純にここを俺の精神だと考えればカシウス師兄やミリアムまでもこの空間に立ったことがある。確かに自分ではない誰かを受け容れていることになるだろう。

 そして軍師を名乗る男はここが精神空間であることを即座に見抜いた。男はこれまでにも他の精神空間にも訪れたことがあるということだ。

 

 

 「それじゃあ……その仲立ちした誰かに心当たりはありませんか?」

 

 「それは名前を失った私ではなくあなたこそ知ることだと思いますよ。」

 

 

 そう言って男は顔の白い布を持ち上げた。

 隠されていた顔が明らかになる。

 

 

 「……ッ!」

 

 「よくご覧なさい。心当たりが、おありでしょう?」

 

 男の顔はこれ以上なく特徴的だった。

 瞳は赤く、白目は黒い。

 頬まで割けた口からは鋭い牙が覗いていて、唇をなめる舌は蛇のように長い。

 そして何より額に角が生えていたのだ。

 

 小さい角が額の中央から右に向かって3本、いや4本か。まるで聖典に伝えられた悪魔か何かのような禍々しさ。今にも俺の耳に甘言をもたらしそうな口は穏やかな微笑みを形作っていた。

 

 あの微笑み。どこまでも対称に細まる目。垂れる目尻と緩やかに持ち上がった口角は顔の造形の恐ろしさにもかかわらずどこか柔らかな印象すら与える。

 

 俺はこの微笑みを知っている。

 目の前の男が浮かべているのは。達観するような、慈しむような、それでいてどこか遠い存在に感じてしまうあの人の微笑みに他ならなかった。

 

 

 瞬間。

 

 反射に等しいほどの速度で己の手が腰の武具に添えられる。自覚する前に行われるほど魂に刻み込まれた行動だ。しかし男は俺に警戒されることをわかっていたようで瓢箪のような形をした団扇を手にもって悠然と立っている。

 

 

 「あなたは……」

 

 「ええ、ええ。実に素直な方ですねぇ、あなた。ふふふ、私のこの悍ましい顔を見て誰を思い浮かべたのです?あなたの世界にはこんな悪魔のような風貌の誰かがいらっしゃるのですか?

 ああ、それはそれは……苦労なさっているでしょうね…。」

 

 くつくつと笑う男。日焼けした細い指が鋭い顎に添えられた。優美な所作はしかし彼の表情によって恐ろしい印象に変わる。

 彼を外道と呼んだ誰かの気持ちもわかってしまう。彼は一歩も動いてないというのに、決して戦う力を持たない存在だというのにその舌鋒だけで俺にこうして刀を抜かせようとしている。

 

 

 「申し上げたように、私はもう名前を失いこうして精神体で彷徨うくらいの事しかできません。ただ昔軍師であった。いつかの日にどこかで誰かと乱世を駆け抜けた。それだけの存在です。

 あなたがそこまで私を恐ろしく思うのならば、その剣で私を切ってみればよろしい。あなたが本当に神の奇蹟にすら立ち向かわんとする人間ならば、たかが亡霊如き剣の輝きだけで霧散させるでしょう。」

 

 

 「……いや、やめておこう。」

 

 

 「おや、よろしいので?」

 

 男は意外そうに眼を見開く。同時に猫のような瞳孔がこれでもかと細まり、まっすぐな視線は俺の考えを見据えているようだった。

 彼のような知将と呼ばれるであろう人間からすれば(そういえば彼らって人間なのか?)俺の考えていることなど容易く見抜けるだろうに、そういう演技なのか何なのか。

 

 読めない。

 先を読んだところで無駄なあがきだとすら思える。

 彼の言葉の癖を読み取るのを優先したほうがまだ実りがあるだろう。

 

 

 「その顔を見て聞きたいことが増えたよ。」

 

 

 マクバーンは記憶を完全には取り戻していない。彼の故郷に関しての情報は彼の旧知であるあの女性に頼るしかなかった。

 しかし一人から集めた情報では真偽を確認しようがない。精査するためには客観的な視点を持つ誰かの言葉が必要なのである。マクバーンの生い立ちや能力について、何かしらの手掛かりが欲しい。

 なんとなくではあるがあの男とは今後もどこかで衝突することになる、気がする。

 

 

 「はぁ、昔話ですか。私が得意なのは算術であって寝物語ではないのですがね。まぁ、よいでしょう。私もあなたに何か既視感のようなものを感じずにはいられませんから。」

 

 いかにも面倒ですという素振りで団扇を弄ぶ男はしかし本気で煩わしいと思っているようではないようだった。

 

 「ありがとう。故郷の話を中心に聞かせてくれると嬉しい。」

 

 

 

 ぴたりと、彼が団扇を弄ぶ手を止めた。

 二度三度瞬きをした後に、口をつぐんで目を伏せる。

 これは地雷を踏んでしまっただろうか。

 

 

 「そ、その。言いたくないことがあれば無理に話す必要はないんだ。別に何か他の話でも十分にうれしいから…」

 

 取り繕うつもりでそう言うと、彼はしかし痛まし気に虚空を見つめた。

 あの裏のありそうな微笑みでもなく、何かを企んでいそうな笑顔でもなく、俺たちとは異なる色彩を持つ瞳にはどこか悲しみすら含んでいて、本当に誰かを気遣っている表情だった。

 

 

 「……いいえ、よいのです。ただそういうことかと合点がいっただけですから、お気になさらず。あの男は、本当に数奇な運命をたどる……」

 

 きゅっと眉間にしわを寄せてぼそぼそとつぶやいた声はここが現実であったなら音にかき消されて聞こえなかったであろうが、何もないこの空間にはよく響く。彼のほう、と吐き出された吐息の重たさまでも俺の耳に伝わってくるようだった。

 

 「え……」

 

 「せめて私が生きて帰ることができれば……いいえ、無駄な仮定です。

 

 ―――ええ、ええ。そうなったのですから、こうなった。成程、理解いたしました。」

 

 

 一人で勝手に何かを理解した彼はばっと顔を上げた。先ほどまでの呟きの重々しさはどこにもなく、むしろ晴れやかな笑顔だ。

 

 

 「では、少し長くなる話です。椅子か敷物か、ございませんか?」

 

 この男、いっそふてぶてしいまである。

 そんなものがないことは見てわかるだろうに。

 

 「あるわけがないだろう。見ての通りここには何もないんだ。」

 

 俺がそういうと男はこれ見よがしに呆れた顔を見せつけてから顔の下半分を団扇で隠す。この所作から見るに、どうも男は俺を挑発したいようだ。

 

 「ははぁ、あなたは随分と不器用な男のようだ。空間を保つ力に長けている癖にその空間の在り方を変えることはできない。ということは、あなた察しはいいくせに頑固で変に自分のやり方を押し通そうとする男でしょう。」

 

 ああ、七面倒な男と出会ってしまいました。まったく因果なことですとぼやく男。

 そうまで言われるとあからさますぎて相手をする気力もそがれるというものだ。

 

 

 「はぁ、しょうがないですねぇ……」

 

 

 そうして男が手にしていた団扇を軽く振ると、そこから風の流れが生まれた。

 水に波紋を作り、波が立ち、そのために俺が立っている足場も不安定になる。

 

 「!?」

 

 この水面のような足場は決して揺らがない。なぜか安定していて、いくら走っても、踏みしめても、いつだってしっかりとしていた。

 そう思っていたのに、今この足場は何か根底のところから揺らいでいる。

 

 

 「あんた、何をしたんだ!」

 

 「言ったでしょう。私は他者の精神に対して能動的に働きかけることに長けていたと。そう警戒せずとも構造までは変えません。少しあなたの精神に新しい側面を増やして差し上げるというだけの事です。」

 

 「そんなことを俺の許可なく……くっ、」

 

 波がどんどん大きくなっていく。水が増えたり減ったり、俺の体に覆いかぶさってきたかと思えば水面がばねの様に跳ねて俺を打ち上げる。

 波は男を中心に同心円状に広がっているようで、その男は涼しい顔をしてただ立っていた。

 

 体が宙を舞って、頭から水面に打ち付けられそうになる。

 こうして思考を編む瞬間にも揺らいだ水面は刻々と近づいてきて、俺は思わず腹を折り曲げて頭を腕で守った。

 

 ――――ぶつかる……!

 

 

 

 

 とぷん、

 

 

 俺が水の中に落ちたにしては軽すぎる音。

 まるで小石が池に落ちたように、水面のほうが俺を呑み込んだみたいに、俺は水の中に吸い込まれた。

 冷たくもない。温かくもない。ただ膜のような何かを通り抜けたあと空気と同じ何かに包まれている。息苦しさもない。水圧も一切感じない。

 

 

 ただ俺は頭を下にしてゆっくりと下降している。

 下に落ちているはずなのにどんどん光が近づいてくる。

 

 

 どちらが上か。どちらが空か。

 心象風景のなかでは体の感覚も無いに等しくもはや上下の概念などない。

 

 

 落ちているのか、上っているのか。そもそも俺は動いているのか、止まっているのか。

 

 なにも、わからなかった。

 

 

 考えていることが段々と有耶無耶になってきて、眠たくなって、瞼が下りて。何かに導かれるままに俺はどんどん光に近付いていく。

 夏の夜明けのような真っ青な光。さわやかで、すっきりとするその光が瞼の裏にまで差し込んでくる。目を閉じているのに明るい。体のすべてが、包まれていくようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 音が聞こえる。

 

 ぴち、ぴちぴちゅ。 ほー、ほー。

   とん。とんとん。   たたたた……

 

 

 

 囁くような音。人の声ではない何か。命の生み出す生きる音。

 植物のざわめき。風の揺らめき。

 

 重い瞼は閉じたまま、すぅ、と息を吸うと何か甘いにおいがした。熟したリンゴよりももっと甘くて、ハチミツよりももっと儚い。花の香り。鼻腔をなでて、どこかに消えて、甘やかな安らぎだけを残していく。

 

 その感覚は、自分が今どこかにいることを示していた。

 

 重たい瞼を開く。

 ぼーっとする頭。まるで長い時間眠りについていたようだ。

 活動をやめていた神経までもが徐々に起きだして、皮膚の感覚が戻っていく。

 

 

 俺は、布が敷かれた柔らかな椅子に体を包みこまれるように腰かけていた。

 

 「――――ここは……」

 

 「おや、ようやくお目覚めですか。」

 

 

 落ち着いた男の声。

 そうだ。

 男が俺の精神空間を歪ませて、作り替えて、ここまで連れてきた?

 

 「ッ!あなたは……!」

 

 立ち上がり腰に手をやるが、そこにあるべき武装がないことに気付く。

 更には靴も脱いでいて、俺は靴下で真っ白な板張りの床に立っていた。

 

 「は?え?」

 

 いったいどうなっている?靴を脱ぐなんて寝る時じゃないんだからあり得ない。というか床がとても清潔だ。靴で踏み荒らした跡がない。踏みしめても砂利を踏んだような感覚は無く、床はどこまでもつるつるとしていた。

 

 戸惑う俺に、同じようなつくりの椅子に腰かけた男が右を指さして何かを示す。

 

 「言いたいこともまぁ分かりますが、まずは外をご覧なさい。」

 

 

 言われるがままに男が指し示した方を向いた。

 

 「な、……」

 

 何だここは。

 

 そんなありふれた驚きの言葉さえ出ないほど、その風景は美しかった。

 

 開け放たれたガラス戸。同じく板張りの廊下につながっているが、その廊下に壁はなく、外に面している。外郭?回廊?どう表現するのが正しいのだろう。東方風の家屋と構造は似ているが、やはり少し意匠が違う。柵も何もないし、こんな色の材木は見たことがない。

 ただ俺がこの部屋にいるだけで、外の風景が目に入ってくるのだ。

 

 真ん前に見えるのは庭だろう。石造りの塀を背景に数々の植物が何らかの規則で美しく配列されていた。

 美しい花の数々と背の高い広葉樹。平面的に見ればみっちりと詰まっているようで、高低差が生む三次元的な余白が調和を生んでいる。

 

 空は高く、白い月と輝く太陽がある。つるりとした質感の幹を持つ高木の葉が、そよ風に軟らかく揺れている。

 日差しは夏のギラギラと強い物なのに、計算されているのか部屋の中にまで差し込んでくることはない。木々が作り出す影の中でちらちらとゆれる木の葉、光を受けて明るく輝く花びら。

 

 

 美しい庭園だ。そう思った。

 

 

 「美しいでしょう?」

 

 「ええ、はい……とても。言葉が出ないくらい。」

 

 男に向き直ると、彼は書物を手に持っている。

 

 「できうる範囲で故郷を再現しました。あなたの状態にも影響はされますが、今回はうまくいったと言えるでしょう。初の試みでしたし、元はあなたの精神ですからあなたにとって解釈がしやすいように改変されているところも多々ありますがね。」

 

 成程、それで屋敷の構造が東方の家屋とどこか似ているのだ。

 異郷といえば真っ先に師父の故郷である共和国が浮かぶ。修行を通じて何度もその文化に触れることがあったから近くて遠い物としてうまく組み込まれているのかもしれない。

 

 「ここは、あなたの家ですか?」

 

 「いいえ。私の友人の屋敷です。あなたの様に武の道に生きていた人でしたから、どことなく理解できるものがあるかと思い選びました。屋敷の構造は少し異なりますが、庭の美しさはそっくりそのままです。」

 

 確かに、庭を眺めてみても俺が知っている植物はない。

 あんなに弦の長い花は知らないし、あんなに大きな実を付ける木も知らない。

 まさに異界の美しさとでもいうべきだろうか。

 

 

 男の背後には、飾り棚があった。

 棚にはいくつかの飾りと、絵が飾られている。

 何より目に付くのは、その側面に立てかけられているあまりに長い槍だ。

 

 およそ4アージュはあるのではないかというような三叉槍。白銀に輝く三つ又の穂と濁ったエスメラスのような色の柄。

 美しく、よく手入れされた槍だった。

 

 どう考えても常人に扱えるようなものではないが、手入れが為されているということは誰かが使っている、ということだ。

 すなわちこの家の持ち主。武に生きていたというその人が。

 

 

 「昔々、非常に勇壮な男がいました。男は幼いころから怪力で名を知られ、山の岩をすべて持ち上げ、時には大木すら引き抜いたそうです。体が育ち始めたころに槍を取り、集落に迷い込んできた猛獣たちを撃退したとか。

 この槍は、彼が集落を出るときに母親から授かったものです。母親は愛する息子が武器を盗まれて困らないように、彼にしか持ち運べない槍を授けたと言われています。」

 

 「さすがに誇張入ってますよね?」

 

 男はただ微笑むばかり。

 まさか本当にそんな巨大な槍を振り回した男がいたというのか。

 いやまさか。長い槍は物理学から重心が前になってしまうため持ち上げるのに大変な労力を使い、威力を出すことが難しい。安定した姿勢を保つために結局短く持つしかなくなるので槍はあまり長くする必要がないのだ。

 

 「信じるか信じないかはあなた次第ということにいたしましょう。まぁ、折角ですしその槍使いの男の話でもしましょうか。」

 

 

 男は語り始めた。

 友だという槍使いの物語。勇壮なる戦士の昔話を。

 

 

 

***

 

 

 昔々、男がいました。

 男は背が高く、力が生まれつき強かった。

 そして何より、凛々しく美しい顔をしていました。

 

 集落で彼を頼りにしない者はなく、その男はいつも純粋でした。

 彼の無邪気な笑顔。元気なふるまい。裏表のない性格。

 それらは大人も子供も惹きつけるに足る魅力でありました。

 学はありませんでしたが、誰もそんなことを気に留めはしませんでした。

 男は身も心も美しかった。そのあり方に見惚れないものなどいなかった。

 

 彼の笑顔を輝きの象徴に喩えた芸術家がいました。

 彼の闘いを勝利の象徴に喩えた聖職者がいました。

 彼の怪力はいずれ栄光をもたらすだろうと、誰もがそう思っていたのです。

 

 そうして男は美しく育ち、その長い腕で自由自在にあらゆる武器をふるいました。

 中でも槍の扱いに長け、十三の時にはすでに空を飛ぶ鳥さえ落とす技を身に付けていました。

 

 そんな彼に転機が訪れたのは十五の夏でした。

 男が澄んでいた地方を治める領主が男を軍に引き入れに来たのです。

 

 男は拒みました。

 三つ隣の家の娘と婚姻を結ぶために自分は集落に残りたいと思っていたのです。

 しかし領主は彼を言いくるめ、軍に無理やり入隊させました。

 男は学がなく、そしてあまりに純粋であったために領主に騙されてしまったのでした。

 

 

 ひどい労働が待っていました。

 眠る暇もなく、休む時もなく。

 郷里に手紙を出すこともできず、ただ意味のない遠征を繰り返す日々。

 そうして男は何年もの間、軍で使いつぶされていきました。

 

 その軍は勇名を轟かせて行きました。

 しかしもう三つ隣の家の娘は他の男と婚姻を結んでいることでしょう。

 両親は自分が死んだと思っているかもしれません。

 

 男は真面目で、誰かを疑うことを知らず、自分はいつか解放されるものだと信じて疑っていませんでした。

 そんなわけはないのです。

 勇壮な栄光をもたらす輝かしい男を、誰もが軍に閉じ込めたいと思っていた。

 あの手この手で彼の退役を遅らせようとしました。

 

 皆恐れていたのです。

 男が去ってしまえば、自分たちは勝てなくなる。

 男がいなくなれば、栄光がなかったものになる。

 

 民衆に腰抜けと蔑まれるかもしれない。

 女たちも笑いかけてくれなくなるかもしれない。

 男は確かに強かった。けれど男の軍にいた者たちは、あまりに弱かった。

 

 

 けれど、男にもいつか限界がやってきました。

 

 疲れた。

 郷里に戻りたいと我がままは言わないから、せめて自由になりたい。

 青空の下、風よりも早く駆け抜けたい。

 夜空の下、誰かと語り合いたい。

 

 そんな当たり前の欲求が、男の心の奥底からむくむくと湧き上がってきたのです。

 

 

 自分はもう十分に軍に尽くした。

 最初の約束の従軍期間はとうに過ぎた。

 ならば自分が自由であっても、誰も責めないだろう。

 

 

 そうして男は雨の降る寒い夜に飛び出しました。

 男を止めた者はどうなったのでしょう。

 男を追った者はどうなったのでしょう。

 

 男はいくつかの秘密を胸に秘めながらただ駆け抜けました。

 どこか自由になれるところまで。

 自分が自分であれるところまで。

 

 山を越え谷を越え、いくつかの里を過ぎ去った後で、彼は一本の桃の木が植わった丘にたどり着きました。

 小高い丘。大きな木。彼は走り通しで疲れてしまったために、そこで一休みをすることにしたのです。

 

 

 

***

 

 

 一本の桃の木。丘。

 

 その単語を聞いた青年は何かピンときた様子で私の語りを遮るようにして言葉を発した。

 

 「ああ、槍使いは丘で旅人と学者と出会って桃を育てたっていう話か?」

 

 「……はぁ、成程。あなたって歴史物語が全部現実だと思ってます?」

 

 そう言うことか。納得した。

 青年が聖なる焔の名残をその身に宿していたことから、我が王が私と青年の精神空間を繋ぐ縁となったのだと思っていた。

 青年によると彼はどうやら故郷のことを誰かに話せる状況ではないらしいから、おそらく記憶喪失か何かだろうというところまでは予測がついたのだがまさか同じ世界に()()までいるとは思わなんだ。

 

 旅人と学者と槍使いが桃を育てた?そんなことがあるわけがないだろう。

 そもそも普通に考えて桃の種を植えて一年で実が生るはずもない。

 そんなことを誰かに吹聴するとすれば()()しかありえない。

 

 人を疑うことを知らなさすぎることに呆れて、明らかな嘘を聞かせてやったのだがまさかいまだに信じているとは。()()の能力があれば真偽を確かめることは容易いはずであるというのに相変わらず判断基準のバグった人工知能だ。

 

 奇跡のオーパーツとまで言われて一時は民衆の信仰を集めたとは思えないポンコツである。

 

 

 「えっあれフィクションなのか?」

 

 「当たり前でしょう。大の男が一年も野宿するとでも?」

 

 じっとりと目線をぶつけてやれば青年はうっと言葉を詰まらせた。

 本当にわかりやすい青年だ。やたら面倒見のいい王とやたら顔のいい友を足して二で割ったようなこの感じ。きっと何人もの女を泣かせてきたに違いない。

 

 おそらくそんな青年だからこそ王はちょっかいをかけてしまうのだろう。

 本当にあの王も変わらないという他ない。

 

 「……まぁ、今日はあなたがよく寝ていたこともあって外の世界でもう夜が明けるころでしょう。早いところ現実世界に戻りなさい。続きが聞きたければまた来た時に話して差し上げます。」

 

 「えっと、帰り方もここにくる方法もわからないんだが……」

 

 まったく、本当に手のかかる。

 もう成人を過ぎたであろう男であるというのにどうして私がこうして面倒を見なくてはならないのか。

 この青年の精神構造がもう少しやわであったなら乗っ取ることも現実世界に侵食することも簡単にできたであろうがこの青年は変なところで頑固だ。

 精神の外枠が強すぎる。

 

 しょうがないとあきらめて青年の額に人差し指を当てる。

 青年はびくりと身を震わせたがやがて逆らいようのない波が来たのかしてゆっくり瞼を閉じていった。

 

 精神と現実の境界にまで一気に落ちていく青年の意識に語り掛ける。

 悪魔の甘言のように。鳥の歌声の様に。

 

 「来た時と同じように、眠りのような感覚に身を任せなさい。埋没して、全ての神経をいったん眠らせればあなたの精神の裏とでもいうべきここと現実を行き来することができるでしょう。」

 

 

 

 徐々に青年の体が透けていく。

 亡霊のようにぼんやりとして、そしていつしか彼はこの屋敷から完全に消えていた。

 

 

 

 

 一人になった客間。

 あるのは私のための椅子と、友のための椅子。

 

 昔はここに、王のための椅子もあった。

 三人で語り合うために眺めの良く風通しもよいこの部屋にわざわざ気に入りの椅子を運び込んだのも、懐かしい思い出だ。

 夜となく昼となく、夢をぶつけ合った。

 

 傍から見れば不良と、外道と、馬鹿の三羽烏だったかもしれない。

 激動の世界にしか居場所を見出せないような自分たちだったのかもしれない。

 次に来る時代を目にする前に死んでしまった自分と友。王を一人残して悪かったとは思っている。王の心を慰めるなんていうのはあの人工知能にはあまりに重たい課題だっただろう。

 

 

 「けれど何も、忘れなくたっていいじゃありませんか。」

 

 王よ、我が盟友よ。

 あなたはあんなにもこの国と民衆を愛していたというのに。たかが機械でしかないあの人工知能にすら話しかけるくらいにすべてを愛していたくせに。

 すべてが終わってしまったとたんに忘れるだなんて、そんなこと。

 

 「―――本当に、因果な人ですね……」

 

 

 太陽、白い月、そしてスズラン。

 私たちのすべてがここにある。一人の男でしかなかった私たちは、いつしか出会って三人になり、気付けば天下の覇者になっていた。

 駆け上がるのも、転げ落ちるのも、あまりに早かった。

 私は生前の罪が多すぎて、地獄に落ちた。あの男は善行を積み重ねすぎて天国に召し上げられた。そして善と悪の入り混じっていたあなたは今は異なる世界で別人として生きている。

 

 三人でもっと冒険がしたかった。もっと語り合いたかった。幾千の昼でも幾万の夜でも足りない。私たちはもっと、もっとお互いを知ることができたはずだった。

 

 もう二度と叶わないと知っているからこそ、こんな中途半端な場所に迷い出てきてしまったからこそそんな未練ばかりが浮かんでくる。

 

 

 「世は押し並べて 是非に及ばず」

 

 

 ただ意味もなくつぶやいてみても答える声はない。鳥の鳴き声と木々のざわめきが私の息を吸い込んで、木漏れ日が私の日に焼けた手を照らすだけ。

 

 私は目を閉じた。

 あまりにあたたかい日の光がとても幻とは思えず、瞼の裏にまで染み込む白金の光にただ包まれていた。

 

 

 胸の奥で冷たい秋の風が吹く。

 

 ああ、友よ。

 君は今、何を思い、何に生きているのだろう。

 

 この秋風に乗せて、どうか私に知らせてはくれないか。

 

 



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第二夜 洞窟

Q.本編に関係ない幕間だからってオリキャラばっかり出すのやめなよ……

A.反省してます…



 

 

 突然現れた紺色の礼服の男。

 軍師だと名乗った彼との邂逅は個人的に夢か何かだと思いたかったのだが、日を改めてもこうして男が我が物顔で居座っているところを見ると否定しようのない現実であることを受け容れざるを得なかった。

 

 男はまたも俺の精神世界を勝手に作り替えているようで、男は俺に背を向けて荒野のがけっぷちに立っていた。

 どことも知れぬ荒野も、男にとっては思い出深い場所であるのかして、歩み寄ってもただ黙っている。

 

 遠くから、何かくぐもった音が聞こえた。

 楽器の音だろうか。

 

 「そんなところに立って、危ないですよ。」

 

 声をかけると、男は振り向く。もうあの不気味な顔布は着用しておらず、左右で非対称に生えた角が目を引いた。

 優しい笑顔を浮かべている悪魔のような外見の男は、こちらをちらりと一瞥したかと思うと、またふいと前に向き直ってしまった。目線をやや下に下げてじっと何かを見ているが、よほど彼にとって気になる者でもあるのだろうか。

 

 「何かあるんですか?」

 

 男の隣にまで行って自分も少し下を見下ろしてみる。

 崖の淵までくると楽器の音が大きくなった気がする。

 何かの音楽を奏でているわけでもなく、ただ音が鳴らされているようだ。誰が演奏しているのだろう?

 

 自分たちがいるところは相当な高さの崖の上であるらしく、男が立っている場所の隣にまで来てようやく下が見えた。

 

 少し足がすくみそうになるほどの高所から男の目線をたどって見えたのは、川だった。山と山の間に流れる、細くて浅い川。上流のほうであるのかして岸の岩は角が鋭くて大きい。

 

 「これは……」

 

 しかし普通の川とは大きく異なるところがある。

 

 

 水が()()のだ。

 

 

 どろどろと、暗い色の赤い水が流れていく。飛沫が岩を汚し、濁流が枯れ枝を流し去っていく。

 

 「この近くで、大きな戦争がありました。当時の戦争は非常に原始的で、剣や槍を持った兵士たちが相手方と戦うようなものでした。

 画期的な兵器もなく、一人が一人殺すことにすら苦労する時代です。ですが、その時代のとある軍に一騎当千の戦士がいたのです。その戦士は異様に強かった。

 彼が通った後の地面には血で濡れない場所などなかったと言われています。」

 

 

 男が抑揚のない声で語る間も、血の河は流れていく。高所から見下ろしているので匂いはしないが、今にもあの鉄の匂いが漂ってきてもおかしくはないように見えた。

 

 

 「彼はあまりにも不利益を生み過ぎていた。多くの人間が彼を疎んでいた。だから私は盟友たちと協力してその戦士を殺そうとしました。何人もの同志を集め、確実に、そして絶対にその戦士を殺せるように策を練って、万全の準備を整えてから私はその戦士に戦争を仕掛けました。

 その戦いで犠牲になった兵士たちの血が水に溶け、こんな川ができたというわけです。」

 

 

 どぉん、どぉんと腹の底に響くような太鼓の音。

 音程の定まらない笛の音。

 そしていくつもの声がまとまって、もはや何を言っているかもわからないような叫び声。

 

 勝鬨だ。戦争に勝って、誰かが喜んでいるのだ。

 

 

 

 「……なぜ俺にこれを見せたんです?」

 

 「私にとって一番の転機だからですよ。この戦争がすべてを変えた。多くの犠牲を生んで、私たちもいろんなものを失いました。しかしこの戦争での勝利が、私たちの行く先を定めたと言っても過言ではありません。」

 

 おそらくはマクバーンもその盟友の中に含まれているのだろう。もしかすると重要な役割についていたかもしれない。

 

 「私たちは、梟雄と呼ばれたその戦士を打ち倒すと約束していました。強大な相手を殺すために力を合わせようと誓ったのです。彼を殺し、平穏を手繰り寄せると心に決めていた。

 この戦争に勝つまで、それこそいろんなことがありました。

 金もなく、武器もなく、同志もいないたった三人の男たちが当時一番強いとされた男を倒すために、いくつもの困難を乗り越えてきた。」

 

 叫び声が止む。

 草木のない山のどこかで勝利を喜び合っていた一団が動き始めたのか、地面をうつ音が入れ替わるように響き始めた。

 

 血の河の流れが段々と緩やかになっていく。

 雲が流れて影が差し、空気が冷めていく。

 

 勝利に浮き立ち、兵士たちの熱気で乾いた荒野が段々と湿っていくようだった。

 

 

 「しかし何も変わらなかった。」

 

 

 頬をつたう水滴。

 雨が、降り始めた。

 

 ぽつりぽつりと空から垂れるような水が、やがて量を増して、ざぁざぁと音を立てる滝になっていく。

 川の水量は増えていくばかり。血の赤と、泥水の茶色が混ざって汚くなった水がものすごい速さで押し流されていった。

 

 

 「何人もの兵士が死んでその家族が泣き、捕虜や奴隷も増えて、民衆は戦争で失った金を取り戻すための課税に苦しみました。結局のところ一つの戦争に勝って一人の男がいなくなっても争いの火種は消えなかった。」

 

 

 雷の音が聞こえる。

 雷電が灰色の雲の中でくすぶり、今にも枯れた大地を叩き割ろうと企んでいる。

 

 軍団の音は雨音にかき消されてしまっていた。

 

 

 「盟友たちは困り果てた。彼さえ殺せばすべてがどうにかなると思っていたのに、どうにもならない。困窮するものは依然として多く、太平はいまだ遠い。」

 

 

 目の前が真っ白に光る。

 女神の怒りを表したかのような轟音が空気を引き裂いて、大地が震えた。

 

 男は天の怒りにも動じず、ただ静かに川を見つめている。

 どこまでも平静を保ち、ただ底知れぬ微笑みを浮かべている。

 

 

 「だから私は、彼らを更なる争いの道に引きずり込んだのです。」

 

 「……どういうことですか?」

 

 「すべてを変えるには国の根底から変えるしかない。そう二人の耳に囁きました。政治を、経済を、今よりよりよい物にするためには改革を起こすしかない。そう私見を伝えれば、彼らはすぐさま剣を取りました。

 

 勿論、他の方法もありました。しかし私はどうしようもなく乱世に毒されてしまっていた。

 もっと二人と一緒に戦争がしたかった。この魂を灰になるまで燃やして、自分の策のすべてを試して、苦しんで、勝って、殺して、最期には剣戟が響き渡る戦場のド真ん中でゴミの様に死にたかった。」

 

 

 微笑む彼の目が開く。

 聡明な印象を与える薄い瞼の奥に、黒と赤の眼球が収まっている。

 虹彩も、瞳孔も、煌々と燃える炎のようだ。薪が燃えて、崩れ落ちるような音すら聞こえてくる錯覚に陥りかける。

 

 この男は、冷たい微笑みの奥で、消えることのない炎を宿していたのだ。

 それを誰にも知られないように、ひたすらに冷たさを装っていたのだ。

 

 

 「……。」

 

 「盟友たちは本当に心優しかった。情に厚く、時に義憤に駆られて悪漢に立ち向かうような、そんな士道の体現者たちでした。大切な誰かのためならば、どんな強大な敵にも立ち向かえる心を持った二人はまるで勇者のように清い心を持っていましたが、多くの争いと薄汚い謀に触れる中で、私の心には邪なものが混じってしまった。

 ひねくれた私は、闘いの中で生まれる刺激的な蜜を愛するようになってしまった。」

 

 「……。」

 

 「ここならばずっと戦っていられる。この二人の傍にいれば、決して長閑で退屈な日々に戻らなくていい。そう確信しました。

 我々に知性ある限り、争いはなくならない。それを知っていた私は虚ろな心を満足させるために、そして義に生きる盟友たちは顔も知らない民衆のために。決して終わることのない闘いの道を、本当の意味で歩き始めたのです。」

 

 

 知性ある限り争いはなくならない。

 それを聞いて、そうなのかもしれないと思った。

 

 なくならない戦争。形を変えて対立する国と国。大きなシステムの不和が生んだ歪みに巻き取られるようにして人々は時代に動かされていく。

 多くの人が平和を望む心とは裏腹に、国家はどこかで戦わなければ均衡が保てないのかもしれない。それが水面下になるか、目に見える形になるか、経済的か、物理的か。ただそれだけの違いなのかもしれない。

 

 だが、今の話を聞いて、思わないことがないでもない。

 

 

 「……それだけ戦い続けて、疲れなかったのか?」

 

 

 人は、ずっと怒っていることはできない。

 ずっと悲しんでいることも、ずっと戦っていることもできない。

 

 どこかで疲れてしまうから、いつかは剣を手放して休まなければならない。

 世の中だって同じで、ずっと戦争ばかりしていれば民衆も軍隊も疲弊して擦り切れてしまう。心から生死の境に立ちたいと願っているこの男の心が満たされ続けるような社会は、きっとどこにもないはずだ。

 

 しかし男は、笑みを一層深くした。

 

 「あなたが思っているよりも、そして私が思っていたよりも、彼らは強かったのです。私たちは勝ち続け、瞬く間にいろんな勢力を吸収していった。

 私の予想を大きく上回る速さで、各地の平定は成し遂げられてしまった。信じられますか?わずか数年で本当に国ができてしまったんですよ?

 民衆が疲れ果てる前に、戦争嫌いの槍使いが嫌になる前に、私が死ぬ前に。

 

 旅人は王になってしまった。彼はまるで物語の英雄の様に尊敬されました。

 民衆が彼を称え、彼を慕う兵士たちが喜びました。面倒見の良く心優しい彼がいれば、将来は安泰だと皆が思ったことでしょう。」

 

 

 「ちょ、ちょっと待ってくれ。それだけ速いスピードで各地を吸収したって……内部での反対とかはなかったのか?」

 

 彼らと同じように強い国を知っている。とある敏腕の宰相が急速に周辺地域を併合することで国力を高めていった黒い渦のような国。呪いに蝕まれて、内部に閉じ込められていたその病を大陸全土にまき散らそうとしていた国を。

 その国は併合した地域の周辺地域の反感を無理やり押し込めていたから、常に爆発寸前の火薬庫みたいだった。いつ導火線に火が点いてしまうのかと誰もが緊張していた。

 

 

 「そう思うでしょう?私も途中からは外部との戦いだけでなく内乱に備えるようになりました。

 平定した地域に内偵を放ち、いつ反乱がおきてもいいように毎晩考えていました。けれどその策は日の目を見なかった。

 

 ―――なぜだと思いますか?」

 

 

 「え……奇跡的に各地で争いがおこらなかった、とか?」

 

 

 「そんなわけがないでしょう。」

 

 

 俺は自信がないながらも答えをひねり出したというのに男は俺のそんな思考をまるごと一蹴した。その声音は、男にしては珍しく苛立っているようだった。

 

 

 「―――存在したのですよ。私の盟友以外にも、よくわからん能力で民衆の混乱を収めようとするような慈悲の化身みたいな馬鹿が……。」

 

 超能力とかオカルトとか、そういうのはあの男でもう十分だったというのに、とぼやく男にとってその存在は本当に予想外だったようで、不必要な力が表情筋に込められて眉間にしわが寄ってしまっている。

 

 

 彼のような人間をも振り回してしまう誰かについて、俺は心当たりがあった。

 

 

 「それってもしかして……」

 

 

 「……ご想像の通りです。私は平定した土地が嫌に静かであることが気になった。内乱の備えでもしているのかと疑いましたがそんなこともない。あり得ないことに、本当に平和だったのです。

 調査してみればその原因がある沿岸地域の洞窟に引きこもっている神官だというのです。その時ばかりは、冗談も程々にしろと思いましたよ……」

 

 「なんでだ?別に不自然なところはないだろう?」

 

 

 戦争ばかりで混乱していた地域で、聖職者が慈善活動をしていたと考えれば、不自然なところはない。彼女も故郷では神官として働いていたと話していた。どこにも矛盾はない。

 

 

 「……もしかして貴方、神を信じてますか?」

 

 「……そう聞くってことは、あんたは信じていないのか?」

 

 「私たちの世界では、宗教というものはほとんど形骸化して久しい概念でした。

 敬虔に神を信じていたのはほんの一握りだけで、他の者たちは困った時にのみ神に祈るというようなスタンスだったわけです。

 信仰なんて古臭い、という者すらいました。」

 

 

 信じられない。

 神を信じない?

 信仰が、世界から失われる?

 

 

 「信じられなくてもそれが事実です。自分の生も、死でさえも自分で切り開く。運命には逆らってなんぼ、みたいな考えが主流だったのです。

 

 その神官も宗教関係者ということで異端視されていたそうですが、的確な助言ばかりするというので周囲からも徐々に信用されるようになったと聞いています。盟友たちはそんな噂を聞いてすぐにその神官を政務官として勢力に引き入れるべく洞窟に赴いたそうです。」

 

 「あんたは知らなかったのか?」

 

 「知っていたら止めていましたよ。視察から戻ったら他の二人はよくわからない洞窟に入り浸っていて、政治についてよくわからない神官から意見をもらっていたものですから……はぁ……。」

 

 男は当時のことを思い起こしているのか重たいため息を吐いた。

 心優しく善意を行動に移す彼女は、平和を退屈だと言い切る男にしてみれば気に食わない存在だったのかもしれない。

 話を聞いているとそれだけではないようにも思えるが。

 

 

 「友人が取られて妬いたのか?」

 

 「………。」

 

 図星のようだ。

 退屈は嫌だ、戦場で死にたい、などと物騒なことを言う割に可愛いところもあるというか、彼の中で二人の友人というのはかけがえのない存在だったということだろうか。

 

 「はは、なんだか安心したよ。」

 

 「……やかましい男ですね。」

 

 「そう言わないでくれ。あんたみたいな人間がさ、戦うこと以外にも楽しさを見出せたならそれっていいことだろう?戦争がなくなっても、楽しくいられるってことじゃないか。」

 

 この男は、自分とは根本から違うのだろうと思っていた。

 戦争を愛し、闘争に生き、自分を死に近付けることで快楽を得るようなそういう男なのだと思っていた。

 けれど友人が自分以外の誰かを頼るようになって嫉妬するだなんて、やっぱり俺たちと変わらない部分もあるということだ。

 

 自分は誰ともわかり合うことができないという顔をしているが案外俗っぽいというか、親しみが持てるというか。

 

 「……ま、そういった考えもあるかもしれませんね。」

 

 「?」

 

 「こちらの話です。せっかくですし、今日はアレの話でもしましょうか。」

 

 

 遠くを見つめていた男が踵を返して、どこかに向かって歩き始める。その後ろをついていくと、俺たちが足を動かすのを待っていたと言わんばかりに雲間から太陽が顔を出した。

 濡れた髪を絞りながら、ぬかるんだ地面を踏みしめる。一歩ずつ荒野を進むと、大きなトンネルが前方に見えた。

 

 大きな黒い虚。

 その中はただ暗い。明かりが一個もないためか、どれくらいの長さなのか、そもそもまっすぐなのか曲がっているのかすらわからない。

 

 荒野とトンネルの境は、まるでそこが天地の境界線とでもいうのか、きっちりと別れていた。荒野は明るく日に照らされているのに、トンネルの中は一切の光がない闇。太陽の光すらも拒絶しているかのようだった。

 

 「この中です。」

 

 空気の流れのない闇の中に、平然と歩み入る男。

 彼が足を進めると、すぐにその姿は暗闇に飲み込まれてしまった。

 

 

 「お、おい!?待ってくれ!」

 

 

 叫んで引き留めても、反応がない。

 声が返ってこない。

 姿もとっくに見えなくなった。

 

 (ああ……くそ……)

 

 こうなったら入るしかない。

 一体この中に何があるのか、それくらい教えてくれてもいいだろう!

 

 ぺらぺらとよく喋るくせに大事なことはちっとも言わないから困る。

 

 

 

 

 ―――ああ、そういう所は、彼女とよく似ているかもしれない。

 

 

 

***

 

 

 

 ああ、遅かったですね。

 迷う場所もなかったでしょう?何か珍しい物でもありましたか?

 

 

 ……え?はぁ、それはすみません。

 何分慣れた場所でしたし、あなたにとっても自分の精神空間なのですから、その気になれば歪めることもできたでしょうに。

 

 その気にならないほど美しい場所であるというのは、確かにそうですけれどね。

 

 

 ―――ここは『神殿』と呼ばれた場所です。

 どんな神を祀っていたのか、どんな宗教の施設であるかは定かでないですが、『神官』と呼ばれ慕われる存在がいたのでそう呼ばれていました。

 

 珊瑚が水の中で白く光を放ち、まるで水そのものが光っているように見えるでしょう。『神官』はいつもここにいたのです。

 この水の中でいつも揺蕩っていました。

 

 ここには『神官』以外にも、いくつか現地民が住んでいました。おそらくは『神官』の補助だったのでしょう。種族も話す言語も違ったので意思疎通を試みたことはありませんでしたが、最初私の友人たちがここを訪れた際には相当暴れたそうです。

 

 現地民には彼らが『神殿』を荒らしに来た盗賊にでも見えたのかもしれません。

 二人とも根はやさしい男でしたが見た目はまるっきりチンピラでしたから無理もないのですけれどね。

 

 二人と現地民がにらみ合う中で、その対立を仲裁したのが『神官』でした。『神官』はいくつもの言語を操り、両者を宥めたそうです。

 

 二人は『神官』に対して政務官にならないかと話を持ちかけました。

 我々三人の中にまともな政治ができる者がいなかったため、彼らにとっては喉から手が出るほど欲しい人材だったのです。現地民からも信頼され、洞窟の中に引きこもっているというのになぜか外の知識を持っている。

 

 怪しくはありましたが、有能でした。

 

 私は二人から手紙で話を聞き、急いで視察を切り上げてその洞窟に向かいました。よくわからないけど有能だから引き入れたい、と急に言われたものですから、当時は慌てたものでした。

 

 

 

 そうして私がこの洞窟の中にたどり着いた時に見たものは、二人の友人の語彙の範囲だとか、私の知識だとか、そう言ったものを軽く超えたものでした。

 

 今ここには『神官』がいないのでうまく説明ができませんが、当時の私からすればそれは『わからないもの』でした。人智を超越した何か。この世の理に沿っているとは到底思えないモノ。

 もはや廃れた神話の中の存在とでも考えた方が納得のいく非現実的な物体。どう見積もっても無機物なそれが『神官』と呼ばれ、まるで生き物のように扱われていた。

 理解の範疇を超えていて、信じたくもありませんでしたが……私が見たものは現実でした。『神官』は無機物だった。生物ですらなかったのです。

 

 

 

 

 信じられないでしょうけど、困ったことに本当の事なのですよ。

 本当に、ただの機械みたいなそれは意志があるかのように喋っていたのです。

 

 

 

 え?信じるんですか?

 ……そういう人を知っている?そっちの世界どうなってるんですか?

 

 まぁ理解が早いのは助かりますが……。

 

 

 とにかく、『神官』には体がなかった。外に出たいという意志があっても動ける状態ではありませんでした。

 誰かの頼みを聞くように設計されていたというのが一番近いでしょうか。民衆を助けるようにプログラムされていた。

 

 

 私は『神官』を道具として、あるいは兵器として活用することを進言しましたが、それは通りませんでした。意志がある以上は生き物であると旅人が言い、体がないならば与えればいいと槍使いが言ったのです。

 

 無茶苦茶だと思いますよね?

 そんなこと、できるはずがないと思いました。

 

 でもできてしまったのです。

 信じられないことに、『神官』の本体を別の機械に接続したらまるで生き物のように動くようになってしまった。国で一番の職人に頼んだとはいえ、あの日は開いた口がふさがりませんでした。

 それこそ動く人形の様になったというべきでしょうか。

 

 機械の体を得たその『神官』は生き物のように仮初の体で政務に励みました。必要な知識を私が教え、生き物としての体の動かし方を槍使いが教え、旅人は外の様子を教えました。

 

 『神官』が持っていた知識は少し歪で、活用しきれていない部分があったのでそのようになったのですが、そんなことをしていたからかすっかり我々懐かれてしまいまして。

 私たちもなんだかんだと『神殿』に入り浸るようになりました。

 

 

 天下を平定するまであと少し。

 あと3つか4つの地域に出征すれば、星の光の届くところすべてが私たちの国になる、という頃でした。

 

 もうすぐ、もうすぐ平和が来る。

 戦争が終わる。

 戦乱の中でぽっかりとした心を持て余していた私もなんだかんだと満足してきて、全てが終わったらこのまま三人で悠々と暮らすのも悪くないかと思うほどでした。

 

 

 ……もともと行き場のない三人でした。

 帰る場所も迎えてくれる家族もありませんでした。

 

 けれど私たちはいくつもの戦いを生き抜いて友情を得た。

 互いの能力を信じあい、困難を乗り越え、不可能と言われたことを成し遂げてきた。

 何を信じればいいかわからない世界で、信じることができる存在を見つけたのです。

 

 信仰を持たない私にとって、二人の盟友は何よりも貴いものでした。

 

 

 兄貴風を吹かせる異能使いの風来坊と、乱世に揉まれてひねくれた私と、顔のいいくせに頭の悪い活発な戦士。

 まるで兄弟のようでした。私は、きっと次世代の誰かに襷を渡すその日を超えても、三人で過ごせると信じて疑っていなかった。

 

 

 子どものように、年の離れた弟妹のように政務官を構って、からかって、笑うのも楽しかった。

 

 この私が。

 三人の覇道を妨げる者は全て薙ぎ倒そうと誰より意気込んでいた私が。

 

 いつの間にか、安息を喜ぶ気持ちすら持ってしまっていたのです。

 滑稽でしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ま、そうやって油断したせいで私はあっさり死んでしまったのですがね!

 



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第三夜 戦場

 

 

 

 

 「――――――――――」

 

 

 

 

 ある日、あの男は桃の木の下で言った。

 その言葉を私は今でも覚えている。

 

 男の言葉に、私はこう返した。

 

 「本当に、できると思っているんですか?」

 

 「やってみねぇとわからんだろうが。」

 

 「はへー、すっげぇなぁ。俺そんなこと考えたこともねぇべ。」

 

 「お前はもう少し賢く生きたらどうです。算術もできないだなんて、郷里で困らなかったのですか?」

 

 「んなこと言ってもよ、俺が困ってたら皆助けてくれるって!そんで俺も誰かが困ってたら助ける!そーいうもんじゃねーの?」

 

 「ま、世間ってのはそういうもんだな。オメーの言うとおりだ。」

 

 「はぁ……まったくこれだから顔のいい男は……」

 

 

 まったく。

 全く持って馬鹿な男たちだった。

 

 大きすぎる野望。理屈で言えば叶うはずのない大望。

 男はそんな理想を馬鹿正直に信じていたのだ。

 

 そしてこの男なら、それを叶えられるかもしれないと思ってしまった私は、この時国一番の愚か者だった。

 

 

 「オメーらこれからどうすんだ。行く当てあんのか?」

 

 「ねーんだなこれが!郷里に帰ってみたけど石投げられちったわ~」

 

 「……奇遇ですね。私も、特に行く当てがないんですよ。」

 

 

 嘘だった。

 

 このとき私は国の最高学府に入学する試験に受かっていた。親兄弟は私が学者の道を歩む権利を得たことをまるで自分の事のように喜んだ。

 

 

 が、しかし。

 私にとってこのまま大学に入学するなんて展開はつまらないものでしかなかった。まるで子供がマッチに火をつけて遊ぶように。虫の巣に熱湯を流し込むように。

 ただその方が楽しそうだからという理由で、私は男たちについていくことにした。

 

 

 「どうしようもねぇ奴等だ。つっても俺も行く当てなんざないが……とにかく金もないし、義勇兵にでもなって食い扶持稼ぐとすっか!」

 

 「応!槍働きなら任せろってんだ!」

 

 「はぁ、しょうがないですね……」

 

 

 私よりも年上の旅人と、私よりも年下の元軍人。そして本の虫だった私。

 誰が見たところで共通点の見いだせないような、そんな三人だった。桃の木の下で偶然出会って、木陰で涼んでいる間に若者らしく世間話をしていれば、なぜか友人になっていた。

 

 今思っても、何の脈絡もない出会いだった。

 

 私たちは、三人ともが自分以外の二人の光に惹かれていた。

 だから理由なんてなんだってよかった。

 私たちはこの二人が自分に足りないものを与えてくれるのではないかと勝手に期待して、たったそれだけの理由で友人になった。

 自分の求めているものが何かもわからないのに。

 それを二人が持っているかもわからないのに。

 

 

 

 「おい!大丈夫か!?」

 

 「げほ、がっ、あ……すいません、う、動けな、くて…」

 

 「ちっとは気張れや!」

 

 初めての戦場は、散々だった。

 団結も何もない即席の軍団。ただ簡素な具足と錆びた武器を与えられ、矢の飛び交う草原に放り出された私は、ただ怯えていた。

 

 足を何度ももつれさせて敵の投石を避けることすらまともにできない私を、二人は何度も助けてくれた。

 そう私ばかりに構っていれば、自分たちの安全すら危ういものになるだろうに。彼らは私を先導しながら、ちらちらと後ろを気遣ってくれていた。

 

 途切れる呼吸を整えることも叶わず、私はただ新しい友人たちを追いかけるので精一杯だった。私はこの初陣で剣を鞘から抜かなかったほどだ。

 

 

 ああ、忘れない。

 忘れないとも。

 私はすべての戦場を覚えている。

 命を懸けて戦う兵士たちのまばゆい光をすべて、覚えている、

 

 

 充満する血の匂い。

 反射で込みあがってくる胃液。

 砂の混じった風。

 耳を劈く雄叫び。

 死体。

 前を行く背中。

 

 男が槍を振り上げる。

 飛沫が上がる。

 どれだけ多くの血を浴びても、その男の槍の冴えは鈍らない。

 

 顔にかかる赤の水滴。

 叫び声。

 

 足音。

 

 風の滞る戦場で、ただ男たちは命を叫んでいる。

 蝋燭のように魂を燃やして、血を油にして、荒ぶる熱を鈍い色の刃に乗せて。

 

 今、ここに生きているのだと。誰もが叫んでいた。

 

 私はこの日、命がこんなにも輝くことを知った。

 

 ああ、男が剣を振り上げる。肉の抵抗も、摩擦も切り捨てるように一閃。

 ただ障害を排除ためだけの無駄が削ぎ落された動き。

 

 屍が転がって、自分の息すらも埋もれていきそうなこの砂嵐の中で、二人は誰よりまばゆい。立ちはだかる敵すべてを切り捨てて、自分こそがこの戦場を生き抜いてやると。そう体で、剣で、槍で、語っているかのようだ。

 

 なんて強い。

 なんて儚い。

 

 

 どこかで誰かが吼えた。

 けれどその残響は、友が振るう剣の唸りにかき消されていった。

 

 

 

 

 

 

 

 「……戦場では、すみません。役立たずで。」

 

 「はっはっは!おめーさんが戦い慣れしてないってのは皆わかってんよ!むしろその見た目で強かったらこえーって!」

 

 「あなたね……いやその通りなんですが…」

 

 「ま、気にすんなってことだ。生き残ってなんぼだからな、そこの男前を盾にしてるくらいでちょうどいいんだよ。」

 

 「まーかせとけって!」

 

 

 野営地。

 昼間の喧騒が嘘のようだった。

 音と言えば火にくべた薪が燃える音と、疲れ果てた義勇兵が語り合う声くらいなもので、昼間のあの叫び声を思えば皆死人のように静かだ。

 

 けれど野営地に墓場の不気味さと冷たさはなく、むしろ暖かい空気に包まれていた。

 

 今日を生き残ることができた。郷里でもない場所で死なずに済んだ。兵士たちはそれを喜び合い、星の光の下でゆっくりと語らう。

 私の二人の友も、そう。

 

 ぎらぎらとした眩しさは鳴りを潜め、まるで別人のように静かな目で酒瓶の口を濡らす友。赤みを帯びた顔。少しフラフラとした動き。へにゃりと情けない笑顔を浮かべて、幼児よりも稚い。

 

 「飲まねーの?」

 

 「下戸ですから。」

 

 「ふーん……」

 

 真ん丸の月を眺めながら、男たちは今日を振り返り、明日を想起している。ただ指示されるまま動く駒の兵隊が、焚火を囲んで愛した女たちの話で盛り上がっている。

 

 

 「考えこんじまって、どうした?」

 

 「―――生きているなぁと、そう思っていたんですよ。」

 

 「そりゃぁそうよ!学者先生ってば変なこという~

 生きてなかったら俺ら何なの、って!あ、もしかしてテツガクってやつ?」

 

 「……子守歌代わりに本当の哲学について教えてあげましょうか?」

 

 「げぇっ勘弁して~俺そういうの苦手なんよ。星物語くらいしか無理」

 

 「ガキか?」

 

 

 

 生きている。

 今までどこにいても、どんな本を読んでも得られなかった生の実感。

 音を聞いて、光を見出して。私は今、人生で最も『生きている』。

 

 

 「星物語と言えば、最近の学説ですけど…月にはウサギがいるそうですよ。」

 

 「えっマジで!?」

 

 「蟹もいるらしいですよ。」

 

 「じゃあ月って海あんのか!」

 

 「いやさすがにないだろ……」

 

 

 男たちの顔を照らす炎がゆらゆらと揺れる。

 そのあたたかな光を吸い込むように、私たちは力を蓄えていく。

 

 星の光と、月の明かりと、火花の輝き。

 それらをいとおしんで、明日も生きて夜を迎えるのだと誓う。

 

 (―――私は、闘いが好きなのかもしれない)

 

 戦場なんて恐ろしいと思っていた。兵士なんて冗談じゃないと思っていた。

 だが悪くない。むしろ好ましい。

 

 命を削るような戦いとその狭間においてのみ得られる充足を、私は生まれて初めて知ったのだった。

 

 のめりこんでいく。

 どこまでも。深く、深く、巻き取られるように。沈み込むように。

 

 (―――もっと)

 

 もっと、この充足を得たい。

 もっと、『生きていたい』。

 

 もっと、この二人と、     。

 

 

 

 

 

 

 

 「閣下、報告いたします。拠点の設営に関しては各集落で許可をいただきました。物資の搬入に関しても滞りなく。現在交渉役を派遣して敵の補給線を寸断すべく工作を進めております。」

 

 「いや、ご苦労。報告書も確かに受理した。

 本当に君が入隊してくれて助かったよ。些か血の気の多い男ばかりでね、こういったことにまで手が回らなかったんだ。」

 

 「ははは、現場の兵士あってこその私です。こうして事を進められているのも彼らのおかげです。」

 

 「いやはや、謙虚だねぇ…。

 しかし君、兵舎住まいのままでいいのかい?狙えば首都勤務も夢じゃないだろう。」

 

 「自分にはあの環境が合っているものですから……」

 

 「そうかい?辛くなったらすぐに言うんだよ。ああ、それと私の友人が君と会いたがっているんだ。今度紹介させてくれ。」

 

 「承知いたしました。それでは自分は失礼します。」

 

 

 広いくせに締め切っているせいで煙たい部屋からそそくさと退出する。

 いやに古臭い扉を閉めて、安い建材を踏みしめる。いつ来てもここはかび臭い。

 

 廊下をまっすぐに進んで曲がり角を右折すると、待ち構えていたかのように大きな二つの体が現れる。

 泥水を吸い込んだ衣服をまとう大男二人。彼らは体の薄い自分の前に立ちはだかった。

 

 傍から見れば、カツアゲか何かに思われるかもしれない。

 

 

 「よぉ、どうだった。」

 

 「相変わらずゴミみたいですよ。中央に来ないか、と。」

 

 手短に報告をすれば私の横を歩く二人は大声で笑った。

 私もおかしくてたまらない。話していて笑わなかった私を誉めてほしいくらいだ。

 

 「さすがお偉方は目が節穴ってやつよ!スリルジャンキーに後方勤務なんて務まるわけがねーわな!」

 

 「ええ、本当に。まだまだあなた方の勇姿を目に納めないと…死んでも死に切れませんよねぇ……」

 

 「いやー俺やっぱり学者先生のことわからんわ。何で頭よくって弱っちいくせにそんな勇気あんの?」

 

 「俺らとつるんでるくらいだ、この男も阿呆なんだろうよ。」

 

 「聞き捨てなりませんねぇ」

 

 

 私たちは決して戦場から離れようとしなかった。

 全員が部下を持つようになっても、私に参謀本部への誘いがかかっても、三人で馬鹿みたいに戦場を駆け回った。

 

 目が回るほど眩しくて、汚くて、悪臭の漂う地獄のような昼。

 星と月と火の支配する中で静かに酒をすする極楽のような夜。

 何度も死の寸前に立って、何度も生の実感を得る。そんな波乱に満ちた生活がたまらなく愛おしかった。

 

 それは私が本当にそういった刺激を求めていたからなのか、それとも二人の盟友と一緒だったからなのか、わからない。

 そんなことがどうでもよくなるくらいに、私たちは全力で今日を生きていた。

 

 

 「しかしもうすぐ宣戦布告だな。ようやくというべきかね。」

 

 「本当、もう軍属何年目?って感じ。いやーこれが終わったら田舎で麦育てるわ!」

 

 「俺も家買うか。給金溜まってるしなぁ……」

 

 だから二人がそんなことを言って、私の頭の中は真っ白になった。

 最強と言われた軍隊をどうやって切り崩そうか、会話の途中ですらも考えを止めていなかったのに、全ての回路が停止してしまった。

 

 「――――――」

 

 「…どうした?」

 「どったん?」

 

 

 「―――いえ、何でも。副官が心配になっただけです。」

 

 そう、絞り出すのが限界だった。

 

 「あー工作中?まぁだいじょーぶっしょ~」

 「お前が育てたんだから信じてやれよ。」

 

 そう言ってまた金の使い方に、時間の使い方に関する話に花を咲かせる二人。

 彼らは、彼らは私が必死になって今という時間軸でもがいている間に、未来を見ていた。

 

 今日を生きることで精一杯な私と違って、明日を見据えていた。

 

 

 その事実を認識して、私はようやく気付いた。

 

 私は今まで、二人の背中を追ってしか来なかったこと。

 友、そう呼ばれて舞い上がっていたが本当は並び立ってすらいなかったこと。

 対等だと思っていた関係が、自分の中で崩れていく気がした。

 

 二人が、どこか遠くに行ってしまいそうだった。

 

 私の知らない女を娶り、私の知らない場所で子どもを育てる二人。

 私の知らない仕事について、私の知らない誰かと時間を過ごす二人。

 

 あの日本当は行く場所のあった私と違い、本当にどこにも行く当てのなかった二人が、その時見失っていた目的地を見つけようとしている。

 未来を捨てた私を置いて行こうとしている。

 

 

 それを、どうして許せるだろう。

 今更一人になって、今更別れを告げられて、どうして耐えられるだろう。

 

 

 私たちは、ずっと『生きていられる』。

 誰も未来の保障されていない炎天下の戦場で、私たちだけは静かな夜にたどり着くためのチケットを持っている。

 

 その、はずだった。

 

 

 戦場が、必要だ。

 私たちは戦いの中で生きてきた。

 血の流れる荒野で友情を見出してきた。

 

 ならば私たちは、これからも戦場で生きるしかないだろう。

 

 「今回も無事に終わるといーなー。」

 

 終わるな。

 

 「たまにはぐうたら過ごしてみたいもんだ。」

 

 そんな日など来なくていい。

 

 

 乱世なんて、いつまでも続けばいい。

 私はもうそこでしか『生きられない』。

 

 

 

 

 見ているか。

 見ているか、異郷の剣士よ。

 

 私の心は毀れている。

 神に救えるはずもない、友にしか縛れぬ執念が、私を駆り立てる。

 

 私は悪魔と契約を交わしてでも、誰に恨まれても、この二人を失いたくはなかった。

 たったそれだけの理由で、幼子のような我儘で、私はいくつもの策を弄した。

 

 

 「はあ~~~、勝った勝った!大勝利!」

 

 「長かった、な。まぁこれでしばらくは落ち着くだろうよ。」

 

 「……本当に?本当に、終わったんでしょうか。」

 

 

 例えば生前に罪を犯した者が迷い込む地獄というものがあったとして、そこに行くことになっても構わないと思っていました。

 彼らが次に口を開いて、別れを告げられることの方がずっとずっとつらかった。

 

 

 「え、え、どういうこと?おっさんぶっ倒したじゃん。これで終わりっしょ?」

 

 「まだ、各地では混乱が収まっていません。いくつもの地域で戦乱の爪痕が残っているのです。これから重税や、不景気が民衆を襲うでしょう。けれども既存の政治体制でこれを立て直すことはできません。」

 

 「……言い出すってことは、何か策があるのか?」

 

 

 

 「改革です。腐敗した基盤を覆して、新しい国を作ればいい。

 ――――私たちになら、可能です。」

 

 

 戸惑っていた男たちの瞳に、決意が満ち溢れていく。

 彼らにも心当たりはあったのだ。汚職、収賄、予算の着服、犯罪者との密通。そう言ったことがありふれていた。

 地方の領主が自警団を立ち上げなければいけないほどに、資産家が武装集団を所有しなければならないほどに、この国の治安は悪かった。

 

 誰もが何らかの形で戦わなければ、生きていけなかった。

 

 

 男たちが視線を交わす。私はもとより、二人も、選ぶ答えなんて決まっていたようなものだった。

 

 正義感の強い彼らがそんな状況を看過できるはずがないのだ。わかっていた。

 

 「ああ、それもそうだな。まだまだ理想の国には程遠い。」

 「さっすが学者先生~。もうちっと一緒に頑張んべ!」

 

 引き返せない。

 もう悪魔の手は離せない。

 

 けれどそれでいい。

 泥沼でいい。

 終わることのない戦いだとしても彼らとともに過ごせるのなら、それだけでいい。

 

 

 

 滑稽だろう?

 愚かだろう?

 

 だがそういうものだ。人を惹きつける善性は、時に誰かを狂わせる。

 悪魔すら恐れぬ強さを、与えてしまう。

 

 ああ、これがよいことなのか、悪いことなのか。

 私にはもうわからない。激動の渦に溺れて息すらもできない私には、判断するほどの理性なんて一片たりとも存在しない。

 

 

 私の罪を裁くことができるものがいるとすれば。

 それは人の心を持たない怪物だろうよ。

 

 

 

 







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第四夜 回帰

 

 

 薄暗い洞窟の最奥。

 非現実的にすら見えるぼんやりとした青白い光が満ちる不思議な祭壇で、俺と男は真っ白な珊瑚でできた階段に腰を下ろしていた。

 

 この珊瑚は彼が生きていたころはもう少しいろんな色があったらしい。彼が死んで以降に色の変化があったということか。

 

 アレはよくこうして水に体をつけていたと、そう言って男は豪奢な礼服が濡れることもいとわずに足を水に浸していた。

 

 

 生前の行いを語る中で、男は何度も自身の盟友たちを称賛した。

 いかに彼らが勇敢であったか。

 その声に一体どれだけの兵士が勇気づけられたか。

 彼らの剣と槍が、何度窮地を切り開いてきたか。

 

 男は本当に、二人の友人のことをよく観察していて、そしてそれをすべて覚えているようだった。

 今あの魔人の隣に、お調子者の槍使いと、皮肉屋の策士がいないことが不自然にすら感じられるほど、男が語る友人の姿は現実味を帯びていた。

 

 

 「……後悔しているか?」

 

 「はい?そんなわけないでしょう。私は満足して死にましたよ。生前の予想通り地獄に落とされましたけど、あれだけ人を殺しておいて天国に行く方がおかしいです。

 友人たちのことを振り回して、自分の横にいてもらえるように色々と企んで、ええ。楽しかったです。」

 

 

 男はこう言っては何だが、俺から見れば随分利己的だった。

 しかしこれ以上なく人生を楽しんで、戦場でくじけることもなく、友人を愛してそして満足したまま死んだ。

 男に曰く、何度地獄の業火で焼かれても、彼らとの日々を思い出すとちっとも痛くないのだとか。そこまでまっすぐに友人を思えるなんて、逆にすごいんじゃないかと思う。

 

 

 「申し訳ないとか、思わないのか?」

 

 「二人はあなたほど甘くも優しくもありませんでした。

 嫌いな男のことは嫌いと言いましたし、気に食わないやつは周りから排除していた。私が二人にそうされなかったということは、二人もそれでいいと思っていたということです。」

 

 

 三人は、三人ともがまっすぐだった。

 どこまでも自分が正しいと信じていたし、どこまでも互いを信じていた。

 一片の迷いなく覇道を突き進む彼らは、きっと同じ時代を駆け抜けた人々にとって眩しかっただろう。

 

 

 「死ぬとき、どうだった?」

 

 「死ぬなら戦場がいいとずっと思っていましたけれど、それが間違いだということには気付きました。

 死に場所は二人の傍がいい、というのが実際でしたよ。二人が泣くのか、怒るのか、確かめてから死にたかったとは思いましたけど、すぐに諦めました。」

 

 

 闘争を愛し、友人を慕い、何人もの兵士を巻き込んでまで戦争と革命を企てたという男だが、不思議と憎めないなと思った。

 だって彼は本当に、心の底から友情に生きていたから。この男に手段を選ばない冷酷さはあるが、同朋を傷つけるような非道さはない。

 

 

 「……ドライなんだな。」

 

 「終わったことは終わったことです。過去を必死に漁って理屈や意義を見出そうとするのも、ただ自分を傷つけるだけですよ。自分の過去なんて、誰にとっても見れたものじゃありません。」

 

 

 ゆったりと、男が微笑んでいる。

 

 友人への執着に身を焦がし、待ち受ける破滅を知りながらも闘争の道を選んだ男とは思えないほどに、安らかな微笑みだった。

 その瞳に戦場を見つめていた時の炎はもうない。

 

 

 「盟友たちのことを思うと色々感じずにはいられませんが、私はただあの二人と並び立ちたかっただけなのです。私の死後、故郷がどうなったかは知りませんが、まぁ皆きっとよくやったでしょうよ。故郷はいい国でした。」

 

 

 故郷の虚像を眺めて目を細める彼は、マクバーンのことを、今の彼のことをどう思っているのだろう。

 この男が、いつまでこの場所にいるのかわからない。せめていなくなる前に、聞きたいことだけは聞いておくべきだろうと思った。

 

 

 「王になった旅人は、どんな奴だった?」

 

 「面倒見のいい男でした。気が滅入った者や、親のいない兵士に声をかけずにはいられないような、そういう世話好きのどこにでもいるような気のいい男でしたよ。

 集団を率いる才能はありましたが決して国を治める才能には恵まれてはいませんでした。彼が為政者として優れていた点があるとすれば、故郷を深く愛していたことでしょう。」

 

 

 

 「……もしもの話、なんだが。」

 

 「はい。」

 

 「大事な友人が、記憶喪失になったらどうする?」

 

 

 男はゆっくりと目を閉じて、顔を上に向ける。

 細い首に珊瑚の白い光が当たる。

 幻想的な風景には似合わない禍々しい顔の男が、どこかすがすがしい表情で俺を見た。

 

 

 「そうなってみないと何とも言えませんが…一度は友誼を結んだ相手ですから。様子を見ると思いますよ。しばらく放置して、その男が全く新しい人間として生きることを選んだら、その時はもう一度友人になりに行くでしょうね。

 私として、その別人を好きになれるかどうか、確かめると思います。

 記憶を失う前の男との思い出は墓にでも埋めましょう。」

 

 「……。」

 

 

 男にとっては、記憶を失ったマクバーンという男はあの日に誓いを交わし、数々の戦場を共に過ごした友人ではない。気が合うかもしれない男、くらいの認識なのだろうか。

 マクバーンが、あれだけ必死になって記憶を取り戻そうとしている中で、この男は彼に対して、しかしお前はあの日の友ではないと非情な現実を叩きつけるというのだ。

 

 

 「私たちにとって大切なのは現在という瞬間でした。未来を夢見ることも、過去を懐かしむことも、今この時にしかできない。今日を生きていなければ明日をつかむこともできず、昨日を語ることも許されない。

 ―――もしあなたの知人の中に、過去に囚われて現在を見ようとしない誰かがいるのならば、こう問いかけるといいでしょう。」

 

 

 『あなたは今、どんな未来を描いているのか?』

 

 

 「……参考にするよ。」

 

 「現在に立ち戻りなさい。ただ空想の世界に飛び立つのではなく、思い出を美化するのでもなく、今の自分に何ができるのか。今の自分は何がしたいのか。その二つだけで、人の行く先はおのずと決まるものです。」

 

 

 男はその不可思議な色の瞳で、俺を見透かしている。

 俺の心臓の裏の辺りにほんの少しだけ残る、清い炎の残り滓を、まるでどうしようもないと呆れるかのように見つめている。

 

 彼は何のために俺に過去を語ったのか。

 本当は誰に伝えたいのか。

 

 それは聞くまでもなく明らかなことだった。

 

 

 

 「―――もうそろそろ、私も地獄に戻ろうと思います。空間から追い出さずにいて下さったお礼に、私の生前における最後の思い出をお見せしましょう。」

 

 「戦場か?」

 

 男はゆるりと首を横に振る。そして右手を掲げて、にっこりと笑った。

 

 「ご覧なさい。これこそは、私たちが最も愛し敬う王の誕生の時。そして今もなお私の心に焼き付く栄光の瞬間。

 ああ我が友よ、永遠なれ!戦士の魂は不屈なり!」

 

 

 唐突に立ち上がった異形の男が、爪の長い指をすり合わせる。

 狭い洞窟に、指のなる音が響き渡って、残響が脳髄を揺らす。

 

 ぐらぐら、ぐらぐらと、いつまでも音が響き渡る。

 波に揺れるような感覚。渦にからめとられるような抗い難さ。

 

 ぼやける視界の奥で一人佇む男が、微笑んでいるような、気がした。

 

 

 

***

 

 

 

 雑踏。

 喧噪。

 

 前が見えないほど、足を踏み出せないほどの人混みの中にいる。

 俺はいくつもの質量に囲まれて、ちっとも身動きが取れない。上背は平均以上あるはずなのにこちらの世界ではそもそも平均が違うのかして、周りにいるのは自分よりもはるかに大きな生き物たちだ。

 

 

 (……すごくぶにょぶにょする……)

 

 左にいるのは軟体魔獣か?なんというか多様すぎないか異世界。あの男も言語がいくつかあったと言っていたし、そういう所でも差があったのかもしれない。

 

 (とにかく、落ち着けるところに出よう……)

 

 いくつもの声。

 何かの祭りか、催事なのかして人々(?)は歓声をあげている。息遣いが場の気温を上げて、空が見える野外のはずだというのに、空気がこもっていた。

 

 人垣をかき分け、通じているかわからないような言葉で謝りながらどうにか壁らしきものにたどり着いた。

 煉瓦のような建材でできた壁の上に何人か立っていて、彼らは高所からどこか遠くを見つめているようだった。

 

 (高いが……何とかなるか。)

 

 幸いなことに身軽だ。

 引っ掛かりそうな装備もない。

 建材と建材の隙間に指をかけて、足場を探しながらよじ登っていく。建材の欠片がパラパラと下に落ちる中、ただひたすらに上を目指した。

 

 

 【dro, are/31 minnn ? 】

 

 何だか上の方から聞き取れないような周波数の音が聞こえる。たとえるなら蝙蝠の鳴き声とかそんな感じだ。

 何だろう、と思っていると腕が掴まれてものすごい勢いで引き上げられる。

 

 「うわっ…!」

 

 【vxx? Hit king/mea iortt… 34ji ki !】

 

 どうやら聞こえていたのは何かの言語であったらしい。

 俺の腕を引っ張って、壁の上に引き上げてくれた魔獣のような何か(生き物?だろうか。二足歩行ではある。)が先ほど聞き取れなかった蝙蝠の鳴き声のような音を発している。

 

 「えっと、ありがとう、ございます。」

 

 伝わるはずがないとは思うものの、とりあえず言ってみる。ジェスチャーが同じかどうかもわからないが頭も下げる。

 マクバーンってこんな国を治めてたのか。素直に尊敬する。

 

 【?? Ivv ctyu…】

 

 伝わってないようだ。そんな気はしていた。しかしこの謎の生物にとっては見た目の違う生き物がいることや言語が通じない存在がいることは茶飯事であるらしく、彼(彼女かもしれない)は俺から目をそらしてとある一点を見た。

 

 周りの生き物たちも、じっとそこを見ている。

 舞台のような、見晴らし台のようなその場所に、誰かがやってくるのをじっと待っているようだった。

 

 

 やがて、舞台にほど近いところにいる群衆がわっと沸き立つ。

 その興奮が伝播するように、音の波が広がっていく。

 

 いくつもの言語といろんな高さの声が混ざって、誰が何を言っているのかなんてわからない。ただこの広場にいるすべての生物が、舞台に向かって叫んでいるということだけしか、わからなかった。

 

 しびれるような音。

 ここにいるすべての生物が、その舞台に立つ誰かを待っている。

 そして叫び声で広場のすべてが満たされて、ようやくその人はそこに現れた。

 

 

 ヒト型に近い体。暗い色の手足。威圧感のある甲冑を身に付け、手に杖のようなものを持っている。長い角と大きな手足。頭には植物で編まれた冠。帯のような布を肩にかけている、

 鬣のような毛髪を風になびかせながら、その誰かはゆっくりと舞台に立った。

 

 

 マクバーンだ。

 あの時の姿とは似ているようで少し異なるが、あれはマクバーンだとわかる。

 

 たった今、王が誕生しようとしている。

 民衆の声を一身に浴びて、一人の兵士が王になる。

 

 異能を持つ戦士が、木の杖を掲げた。

 

 そして彼の異能によって、そこに火がともされる。

 

 その炎は突然に、唐突に。何の種火もなくゼロから生まれてきた。

 まるで太陽の熱が地上に落ちてきたかのような奇跡。

 陽炎が揺らめいて、熱が生まれて、それに煽られた群衆が叫ぶ。

 鼓膜を破るほどの音。何を意味しているのか、さっぱり分からないけれど。

 

 

 (あんたは…こんなにたくさんの人に、支えられていたんだな)

 

 

 この幻想のような過去の中で、彼は愛されている。

 嘘か本当かもわからない、あの男の思い出の中であの男は確かに王であり続ける。

 あの軍師にとって、あいつはこんなにも偉大で、輝かしい男だったのか。

 

 松明が一層高く掲げられる。

 言葉はいらない。

 

 繁栄を喜ぶ気持ちと、新たな王を迎える心を共有する生き物たちは、皆喜んでいる。

 熱狂の渦。叫び声。命の熱。

 

 新しい王が象徴的な炎を天に掲げている間、皆が叫んでいた。

 

 

 カリスマすら感じる若い男は、その叫び声を浴びて、一体何を思ったのだろう。

 

 国の成立と滅亡を経て、その男は何を失い、何を得たのだろう。

 

 

 もう、誰にもわからない。

 

 

 

***

 

 

 

 

 狭間。

 

 地獄と世界の間。その空間には何も存在しない。「無」という概念ですら、ありはしない。ひどく曖昧で、ふわついている。ひどく不安にさせられるような、狂ってしまいそうな、そんな空間。

 

 自分は果てしない旅を経て、ようやくこの場所にたどり着いたはずだった。遺してきた友人たちが気になって、彼らがどんな国を作ったのか見たくなって、あらゆる手を尽くしてきた。

 亡霊になってしまってもいいから、一瞬でもいいから、悠久の時とあらゆる苦痛を超越してあの故郷に戻ってやろうと思っていた。

 だというのに、自分は今わざわざ地獄に戻ろうとしている。あの暑苦しい痛みの場所に。罪人の終着点に、わざわざ出向こうとしている。この狭間にたどり着くためだけにどれだけの労力を要したのか忘れたわけではないというのに、私は自分の野望を諦めようとしている。

 

 「……けれど、わかってしまったものはしょうがないですよね」

 

 自分はわかってしまった。

 どこにも自分の居場所などないのだと。強いて言うなれば、地獄が自分の行きつく果てだったのだと、ようやく気付いた。

 

 

 私は死んだ。

 盟友たちを残して、国の行く末を見ないまま。

 戦場でゴミの様に死んだのだ。

 

 もう、生き返れなんてしない。

 もう、戻れない。

 どんな形でも私は彼らと会えない。

 

 その受け入れがたい事実がじわりじわりと空虚な胸に広がって、あれだけ満たされなかった心が瞬く間に苦しくなっていく。

 歪んで、よじれて、どんなに果てのない怒りや欲望さえ呑み込んできたこの私の心を満たすのが、よりにもよって孤独であったとは。

 

 

 あれは自分にとって最後の戦場になるはずだった。

 友らのもとに舞い戻ったならば、新しい時代を目にできるはずだった。

 戦場にしか居場所を見出せなかった私は彼が引き寄せる新しい国で自分がどうなってしまうかがわからなくて、ひたすらに不安に思っていた。

 

 けれどだからこそ私はその国を見ようと心に決めていたのに。

 

 きっと彼らと共になら、それまで見ることすらできなかった何かが得られるだろうからと思っていたのに。

 

 

 「……ああ、どうして私は死んでしまったのでしょう」

 

 後悔なんてない。

 私はあの時代ではあの様にしか生きられなかった。だから思うままに生きた。出来ることはすべてした。あの状況において自分の死はどうやっても避けられないものだった。

 

 わかっている。

 理屈ではわかっているというのに。

 

 

 

 自分はどうしてこんなに、寂しいのだろう。

 

 もうあの時に戻れない。

 

 当たり前の事実が、どうしてこんなに苦しいのだろう。

 

 

 

 

 ああ、地獄の炎が揺らめいている。それは罪ある者の体と心を焼く業火。そして決して消えることのない劫火。異能の焔でもなく、希望の光でもなく。ただ何もない場所において最初に生まれるという、たったそれだけの火。

 

 懐かしいほどの輝きと熱が。

 狂おしいほどに魂を掻きむしる火の粉が。

 

 その腕が私の体をからめとっていく。

 

 

 熱い。痛い。幾たび身を晒しても慣れることのない苦痛が私の存在全てに降りかかってくる。こんなことで罪は消えはしない。私の行いはなくならない。

 けれど誰が定めたのか、私はなぜかこんな炎に焼かれている。

 

 辛い。助けてほしい。

 せめて彼らの声が聞こえたなら。彼らの瞳の輝きを思い出せたなら。

 そんな空想を思い描いてみるものの、地獄の業火は私の記憶さえも焼き払っていく。

 

 もうすぐ思い出せなくなってしまう。

 私の記憶の中で永遠に生きると思っていた彼らの虚像すら、失われて行ってしまう。

 なんという無常。なんていう非情。

 

 

 けれど抗っても結果は変わらない。

 そういう、ものなのだ。

 

 気に入らないことだが、時に自分の手ではどうしようもないことが世界にはあるものだ。

 

 

 「ええ、ええ。生きるとは、そういうことなのでしょう」

 

 

 あの男も。王になってしまった友も、そんな苦難に襲われているのだろう。しょうがないことだ。どうしようもない私たちは、どうしたってそういうものにぶち当たってしまう。

 

 けれど、けれど彼だけは。今を生きることのできる彼にはせめて。

 星の光の導きのあらんことを。未来への意志と明日を拓く叡智からなる命の輝きが、彼にとっての希望となりますように。

 

 

 友の行きついた世界が、せめてそんな光のある場所であればいいと思う。

 

 

 

 

***

 

 

 ニクスさんからの連絡がなくなった。

 大陸東部の辺境地域に向かうと聞いていた以上、それなりに警戒はしていた。護衛と連絡を助けてくれる誰かを同行させるように言いつけていたし、危険な場所にはいかないようにお願いした。

 彼女に同行しているガイウスを経由してロジーヌからリーヴスに状況が伝達できるという体制も整えたのに、連絡そのものが途絶してしまったのだ。

 

 騎士団に問い合わせたりもしたが、『生きてはいる』と返されるばかりで要領を得ない。彼らはおそらく何かをしているが、それを頑なに教えようとしないのだ。

 ニクスさんを平気だと思っているという話もあったし、ガイウスの職場であるとはいえすべてが信頼できる場所というわけでもなさそうだった。

 

 ついに自分では手に負えない範囲のことにまで発展してしまったというべきか、いつかこんな日が来るような気がしていた。

 彼女はとんでもない巻き込まれ体質だが、それでもやはり自分にとっては一般人の中の一人だ。人間でないにせよ命が無いにせよ、守られるべき持たない者なのだ。

 他の一般人に対してそう思うのと同じように、こまっているのなら出来うる限りのことをして手助けをしたいと思っている。

 

 だから正直、こういう時に頼ることのできる相手がいるというのは非常に心強い。

 

 

 

 分厚い青いファイルの、その真ん中のページに挟みこんだ一枚の紙きれ。よく見ると右端にコーヒーの染みがついているそれを、丁寧に取り出した。

 どこかのお節介焼きな魔人が置いて行った、一枚のチケット。まるで彼の将来の歪な真面目さを語るようなその紙に一縷の希望を見出して、俺はマッチの種火を近づけた。

 

 紙が焦げて炭になる匂いが街道に漂う。まるで狼煙のように細い煙が天高くまでのぼり、その小さな紙きれはすぐに燃え尽きてしまった。

 

 街道を舗装する石の上に積もったほんの少しの燃えカスと灰に、一滴の水を垂らす。

 

 ぴちょん

 

 そんな音を立てるほどにまだ熱を持つ灰から煙が上がると、その煙が不思議と赤みを帯びて、陣を描いていく。

 地面に一つ。空中に複数。幾何学的な模様と光があたりに広がって、そして完全に燃え尽きたと思っていた灰から再び炎が溢れ出た。

 

 目の前に熱の壁が生じる。

 赤い光。顔を焦がすような風。息苦しいまでの存在感。

 ただの登場演出にしては派手なそれが落ち着くと、その男が灰を踏みしめていた。

 

 

 

 「なんだ、また燃やすものがあんのか?」

 

 

 ニヒルに笑いながら俺を見据える奇抜な外見の青年。彼は色のついたレンズの奥からまっすぐに俺を見つめている。

 

 その瞳に、あの軍師が思い描いていたような野心の焔はない。

 何かを失ってしまったどこかの誰かの様に、何かを探し求める男の顔をしていた。

 

 

 「―――ああ、手伝ってほしいことがある。」

 

 

 彼は本当は、恐ろしい魔人ではないのかもしれない。

 ゼムリアにとっての災いなんていう大層なものではなくて、誰かと笑いあい、共に困難を乗り越えることを求めたただの人であったのかもしれない。

 

 俺はマクバーンの何かを諦めたような目を見て、そんなことを思った。

 

 

 

 





幕間はこれで終わりとなります。
次回から最終章です。



そういえば執筆するたびに思うのですがレーヴェといいクロウといい、深淵さんは故郷をなくした男性と縁が深いですね。
そういうちょっと擦れた寂しさのある男性が好きなんでしょうか…


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最終章
37 異邦人の説得


更新遅れまして申し訳ない…


 

 

 「ーーーハァ、またかよ……」

 

 目の前の奇抜な男はうんざりとそう呟いた。明らかにやる気のなさそうな態度と不遜な物言いにいつもなら呆れかえるところだが、今回は無理もないかと思っていた。

 この男を呼び出したのは自分だが、我ながら申し訳ないという気持ちもあるのだ。

 

 「悪いが、俺たちでは手の打ちようがないんだ。」

 

 「アレは厄ネタだからほっとけっつったろうがよ……」

 

 「俺たちが放っておけるような性格じゃないってことはもう十分にわかってるだろう?」

 

 そう言うとマクバーンはサングラスの奥の瞳を伏せてため息を吐く。ゴキリと首をならして、俺に向き直った。

 おせっかいだとか、お人よしだとか、そういったことは何度も言われてきた。自分では当然のことだと思っているしそもそもそれが本当か嘘かなんてことは重要でなくて、大切なのは友人に無事でいてほしいと思うこと。そして自分に何ができるかを考えること。

 そう開き直ってしまえば、他の誰かが何と言うかなんていうことは案外気にならなくものだと最近気づくことができた。

 

 「ったく、すっかり可愛げもなくなっちまってよ。」

 

 マクバーンはつまらなさそうにそう言うが、俺もいい歳になってきたのでそろそろ子どもの様にからかって遊ぶのはよしてほしいと思う。それともそうやって軽口をたたくことこそが、彼にとっての激励なのだろうか?

 自分本位で周囲を振り回すようなことばかりしていたように思える男も、思い返してみれば色んなことのきっかけになっていたような気もしないでもないでもなくはない。良い奴とも言い切れないが、悪人とも言い切ることも出来ない。マクバーンは総合してみるとそんな男だった。

 

 「マクバーンってさ、結構わかりにくいよな。」

 

 「……説教か?」

 

 「別にそういうのじゃないんだ。ただほら、最終的には手伝ってくれるだろう?」

 

 彼のことを悪人とは言い切れない理由。本来は災害たる存在であるマクバーンからどこか優しさのようなものを感じてしまう理由は、きっとそういう所にあるんだと思う。恐ろしい力があるのに非情ではなくて、反社会的であるのに人道に寄り添おうとする。異質なのに、異物になり切らないところ。対立しているのに、分かり合えそうな余地を見出してしまいそうになるところ。

 それは一般に、人間味と呼ばれるであろうものだ。

 

 「ハン、勘違いしてんじゃねぇよ。ただのけじめだ。」

 

 やれやれと肩をすくめる男は、仕草だけ見ればどこかに居そうな青年のようだ。奇抜な見た目をしているが面倒見のいい不良と言われれば、確かに、そうも見える。

 今一度観察してみるとむしろこの男が王族であることの方が信じられないくらいだった。自分の知っている貴人というのは、もう少し雰囲気があるというか、こんなにオラついていない。

 

 「んだよ?」

 

 じっと向けられる視線はさすがに見とがめられてしまった。

 それにしてもただの興味本位で観察しているのに本気で怒らない辺り、この男も昔に比べ丸くなったというべきか。昔は問答無用、みたいな雰囲気があって、もっと棘がついていた気がする。

 

 「いや、何でもない。ニクスさんのことだけど、ガイウスと一緒に遺跡調査に行くとは聞いていたんだが一週間前から一切連絡が取れなくてな。さすがに心配になったんだ。」

 

 教会の案件に手を触れてしまったため大陸東部へはガイウスに同行してもらうというニクスさんの報告を受け、ガイウスが一緒なら大丈夫だろうと安心していたというのに、まさかガイウスごと行方不明になるとは思っていなかった。当たれる所は当たってみた。教会や騎士団だけでなく、少し無理をして現地での情報も取り寄せてみたのだが、やはり足取りはつかめない。ガイウスが騎士団に定期連絡をして、それきり二人の行方はわからなくなってしまっていた。

 

 「……遺跡調査、か。」

 

 「心当たりがあるのか?」

 

 「どこにあるかはわからんが、何があるかは想像がつく。」

 

 「え、どういうことだ?」

 

 「あいつを見つけてから特にだが、不自然には思っていた。もう何が起きてもおかしくない、ってところまで来ていたってわけだ。」

 

 やってられん、とぼやくマクバーンは勝手に自己完結してしまっている。一体なんだというんだ。頼むから俺にもわかるように状況を説明してくれ。

 

 「俺にもわかるように説明してくれないか?」

 

 内心の戸惑いをそのままマクバーンにぶつけると、彼はだらりと組んでいた足をほどいて靴の底で遊ぶように床を叩いた。顔の前で手を合わせたり、ぼーっと俺のいるあたりを眺めてみたりして、とにかく何か迷っているようなそぶりを見せる。

 

 「なにか思い当たるものはあるんだろ?」

 

 訳が分からず問いかけると、彼は一瞬目を伏せて、そしてようやく俺をまっすぐに見た。

 彼の目は、いつもとどこかが違った。以前とどのように違うのかをうまく言えはしないが今の彼の瞳はまるで炎のような揺らめく熱を秘めていた。

 

 「遺跡ってのはおそらく、ゼムリアの遺跡じゃねぇ。俺たちに縁のある場所だろうな。

 ―――ああ、あり得ないとはわかってた。()()()()()()()()()()()()とは薄々思っていたさ。だが、まさか本当にありやがるとは……」

「ま、待ってくれ!ゼムリアのものじゃないって、それって…」

 ≪外の理≫。ゼムリア以外から来たモノ。世界の法則から外れたもの。

 それは時に災厄であり、覆しようのない力の概念である。まるでゼムリアに属する存在では上回れない事が定められているような、異物。

 

 「遺跡自体は無害だろうが、結局は遺跡も入れ物に過ぎないだろう。何が入ってるかわからないビックリ箱ってとこだな。」

 「つまりニクスさんは遺跡の中に何があるのかを確かめに行ったってことか?」

 

 「あるいはもう既に中に何があるかを分かった上で向かったかもしれん。」

 「……一応聞くが、その中身について心当たりはないのか?」

 

 「さすがに俺にはわからん。だがアタリをつけることくらいは出来んだろ。」

 

 そう言ったマクバーンは頭を掻きむしった。説明が面倒なのだろう。

 

 「まず当たり前の前提だが、何かがどこかに移動するためには、その何かが存在する必要がある。ないものは動くこともできない。俺やニクスがやってきたのも、塩の杭が突然現れたのも、どこかにあったからだ。」

 

 幼体や不完全な状態ではなく完成形で何かが突然現れた、ということはそれがゼムリアで生まれたのではなく、別の場所で生まれたものが移動してやってきたことに等しい、と彼は語る。

 外の理は、恐らく超自然的な方法でゼムリアに突然やってきた。まるで異なる時空間を渡ったかのようにどう考えてもあり得ないプロセスで。理屈や常識を超越した説明しようもないことが、彼らには起こったのだ。

 

 「つまり、ゼムリアに移動してきたものは、移動する瞬間に元の場所に存在したものだ…って伝わってるか?」

 「な、何とか……」

 

 例えばマクバーンが故郷からゼムリアにやってきたケースで考えれば、マクバーンはその時故郷で生きていたので移動することができた。もしも死んでいたならば移動してきたところでこうして生きてはいない。

 元の場所に存在するからこそ、別の場所に移動することができる。ということだろう。

 

 「移動してる途中で物質が変化する可能性もある。俺みたいに移動した途端に何かと混じっちまう可能性もあるだろう。だが、そもそも移動という現象が起こるためにはそれが存在していないといけない。」

 「なんとなくはわかるが、それがどうして重要なんだ?」

 

 存在するものしか移動ができない。移動が起きたということは元の場所に存在したということ。それはわかる。だがそれがなぜゼムリアにやってきた異物を限定できる手掛かりになるのだろう。

 

 「そりゃあ、俺がいた場所がすでに存在しないからだ。」

 

 

 「え?」

 「正確に言うと、俺に移動現象が起こったときにもう殆どのものが存在していなかったというべきか…」

 

 

 マクバーンは異邦人とでもいうべき存在だ。ゼムリアで生まれ育ったのではなく、故郷からゼムリアに『移動』したときにゼムリアの人間と混ざってしまった。

 そしてマクバーンの故郷は彼の言葉からもう失われていると推測されている。今の発言も合わせると、彼は世界が崩壊しかけた時に移動現象に巻き込まれた、ということになる。

 

 「殆どのものって、具体的に言うと生き物とかか?」

 「動物、植物、無機物、建築物、果てには山だとか川だとかそういうものも形をなくしていたはずだ。最後の方には世界全体が荒れ果ててた、ような気がする。」

 

 そういえばこの男、記憶喪失だったか。珍しく具体的な発言をするので忘れていたが彼の記憶は完全ではないのだ。別の事なら思い出せるだろうか。

 

 「何でそんなことになったのかはわかるか?」

 「あー……確かそれに関して調べてたはずだ。各地で水が枯れ始めたんでアイツの観測が出来なくなって、あちこち見て回った……。」

 

 マクバーンは眉間に指をあてて思案していたが、そうしているうちに記憶の果てに至ったのか、あるところで諦めて姿勢を楽にした。

 

 「ワリー、思い出せねぇわ。ま、とにかく移動現象が起きた時、あの場所に存在していたものなんて限られてたってことだ。」

 「まぁ、思い出せないものはしょうがないか。だが限られてたってことならそこから予想できないのか。」

 

 

 「言える事といえば概念や存在として強固で、とんでもなく格が高いってくらいだろ。世界の破壊の引き金に匹敵する強度あるいは質量であり幾千年と続いた歴史と同等の神秘ないし奇跡とも考えられる。」

 

 「……つまり分かりやすく言うと?」

 

 男は大事な結論のフェーズでまたも解釈に困るような言葉を使った。ただ単語の羅列からして不穏だ。心臓の裏を撫でられるような不安感が湧いてくる。発言をかみ砕くように要求すると、男は実に簡潔な言葉で答えた。

 

 

 「頑張れば一つの世界を壊せるくらいヤバい存在ってことだ。」

 

 「……それ凄くまずい状況じゃないか?」

 

 それはすでにゼムリアに来てしまっている。いつ大陸に災いをもたらすかわからないような爆発寸前の火種だ。いくらこの世界の人々が対抗できない存在であるとしてもそんな場所にニクスさんが何の報告や相談もなく向かっただなんて、眩暈がしそうだった。

 

 「ヤバいことにはヤバいが、ヤバいだけで無害な物だってあるだろ。世界を壊せるってのはあくまで潜在能力の話だ。」

 

 それはそうかもしれないが、実際調査に向かったであろう二人とは連絡が取れていない。彼らはもしかしたら今まさに危険な状態にあるかもしれないし、その脅威が大陸全土に波及する可能性だって否定できないだろう。

 実態の分からないものがいつの間にか存在していた。それだけで人の恐怖を駆り立てるには十分だ。

 

 「……ぞっとしない話だ。どうにかできないのか?」

 

 ゼムリアの存在で対抗できないようなものだとすれば戦車や飛行艇を配置して警戒態勢を作っても意味があるかどうか。周辺の人に避難を呼びかけることしか出来ることがない。遺跡は人里離れた砂漠地帯にあると言うからまだ混乱も避けられるかもしれないが出来ることがあるならばやっておくに越したことはない。

 マクバーンは暫く考えたのちに答えを出した。

 

 

 

 「方法はある。が、手段はどこにもない。」

 「は?」

  何を言っているんだこの男は。あるならある、ないならない。その二つしか答えなはいだろうにあるのにないとは結局どちらだというのか。世界が明日にも甚大な被害を受けるかもしれないという話の流れでこちらは戦々恐々としているのに、余り頓智のようなことを言って戸惑わせるのはやめてほしい。そんな抗議の気持ちを込めた視線を向けるとマクバーンはさすがに説明の必要を感じたのか口端をもごつかせた。

 

 「あーほら、あれだ。なんつーの?その遺跡にヤバいもんがあったとして。それをどうにかするためには同じくらい強い道具を使わないといけないってのはわかるか?」

 「……強い魔獣には強い武器、ってことか?」

 「そうだ。奇蹟には奇跡。異能には魔法。同じくらい希少なものだからこそ対抗できる。世界に一つしかないようなものには、同じくらい貴重なものじゃねぇと話にならんってことだ。」

 

 また話が段々と複雑になってきた。遺跡の中にある未知の存在が考えられる限り最悪のものだったとするならば、それはゼムリアの世界に存在しないほど貴重なものでないといけない、ということなのだろうか?

 

 「それに対する兵器として一番強いのが俺たちの故郷で唯一無二だったものってことだ。ここまで言えばわかるだろ。」

 

 「……。」

 

 

 わからない。そもそも俺は彼の故郷についてろくに知らないのだからわかるはずもないのだが、無茶ぶりをするものだ。

 

 俺は目の前でふんぞり返る男を指さした。

 炎の異能を持つ魔人。異界の王と彼は呼ばれていた。王というくらいなのだからそれは唯一無二だろう。その立場にある者はいつだってその時代にたった一人だ。

 

 

 「ちげーよ。」

 

 「じゃあ何なんだ。」

 

 マクバーンでないとするならば。

 

 

 ……薄々は分かっていた。が、どこかで違っていてほしいとも思っていたのかもしれない。そんな気持ちから、俺はマクバーンに尋ねたのかもしれない。俺は俺が知っているその存在が、自分たちと同じようにありふれた人間であることを心のどこかで期待していたのだろう。

 

 「―――わかってるくせに聞くんじゃぁねえよ。

 言ってしまえば世界に二つとないほどに希少なものであればいい。誰にもできないことのできる何とも違う構造を持つものならばそれでいい。」

 

 希少性という条件さえ満たせばいい。他の条件は前提条件に含まれない。

 マクバーンに対抗する程の魔法を習得したエマが決して剣の達人ではないように。逆にどんな剣の達人でも至宝に対抗できないときがあるように。それは問題ではない。

 

 そういうものなのだ。

 

 「強くなくてもいい、ってことだな?」

 

 だから彼女は自分が遺跡に行く意義があると考えた。誰に相談する理由もなく、付き添いすら必要だとは思っていなかった。

 誰かを傷つけられないとか、護身術も使えないとか、そんなことはどうでもよかったのだ。彼女が元居た世界でもこの世界でも特異な存在であったということ。それこそが必要なことで、他はおまけでしかない。

 

 

 「そういうこった。何度も言うが、ほっとけ。アレが何とかできると踏んだんなら過程がどうであれ最終的には何とかなる。」

 

 

 マクバーンがそのように言うのは、彼女を信頼しているからなのだろう。彼女がどんな能力を持っているか。彼女がどんな存在であるか。それを知っていて、この世界の誰よりも信じているからなのだろう。

 確かにそうかもしれない。彼女はそういったことが可能なのかもしれない。たとえ彼女が最も良い結果を必ず持ってくるとしても。彼女を信じるマクバーンを信じるにしても。

 

 

 「なあ、マクバーン……」

 

 「んぁ?」

 

 「―――アンタ、ニクスのことが心配じゃないの!?」

 

 

 バタンと扉が立てる音と、少女の叫び声と、どちらが先だっただろう。明け放たれた扉。廊下につながる部屋の入口に、少女が二人立っていた。

 俺も彼も、気配からいることは分かっていた。だがいても問題ないだろうということで放っていた。マクバーンは二人が聞いたところでどうにもならないだろうと思っていたから。俺は二人が知るべきことだろうと思ったから。

 

 なぜなら二人は、彼女の友人であるのだから。

 

 「私はニクスの事凄く心配だった!これまで手紙が来てたのに突然来なくなって、通信もつながらないし、誰も行先を知らないなんてぞっとした!

 ニクスがどんなふうに生きてきたかとか、どうして時々いなくなるのかとか、知らないこともいっぱいあるけど、それでもあの子が優しいってことは知ってる!私たちと違うところがあったとしても友達だって心から思ってる!」

 

 ユウナは、ずかずかと部屋に踏み入り、呆然としている様子のマクバーンの胸ぐらをつかんだ。強い力でぐっと引き寄せ、ぐらぐらと揺さぶる。

 

 「アンタは?アンタはどうしてそんなに他人事だと思えるの?過程がどうあれって言うけど、大変な目にあうかもしれない。怪我をするかもしれない。今元気にしているのかすらもわからない!

 同じ故郷で同じ時間を過ごしたんでしょ?私たちの知らないニクスを知ってるんでしょ?過去の事は大事だと思ってるくせに!思い出したい記憶だって求めてるくせに!どうしてそこまで投げやりになれるのよ!」

 

 「……過去は過去だ。知るのが早かろうが遅かろうが今更変わらねぇ。なくなったものは戻ってこない。それに記憶も半分戻ってる。今更急ぐ必要だってない。」

 

 マクバーンの目は、冷めていた。

 先ほどまで火花すら散るような、そんな目をしていたというのに。ユウナを見た途端にまるで異なる動物でも見ているかのような目をした。

 けれどユウナはそんなことを気にはしない。まっすぐで、素直で、いつだって人の心に直接触れてしまうような、そういう所があった。

 

 「早くても遅くても変わらない?急ぐ必要がない?じゃあニクスが死んでしまっても後悔しないわけ?」

 

 「するかよ。俺がどんな世界に身を置いているのか忘れたのか?」

 

 「嘘よ!絶対するに決まってる!故郷がもうないって知ったときあんなに悲しそうにしたくせに、ニクスが死んで悲しまないはずがない!」

 

 「………」

 

 マクバーンは沈黙した。ゆっくりと口を閉じて、そして二、三回瞬きをした。

 少しだけユウナから目線をそらして何事かを考えるようにぐっと口を結んだあと、確かな決意を秘めた視線でユウナを貫いた。

 

 「何よ。言い返せるなら言い返してみなさいよ。」

 

 「悲しむことと、後悔することは違う。知っている存在が死ねば、それを悲しむこともあるかもしれねえ。だがあの時ああすればよかっただなんてことは”俺”は思わない。」

 

 「……意味わかんない。」

 

 「”俺”と縁のあった全てのことは、もう終わった。そもそも全部がなくなって、もう変えようのない過去になった。アルバムの写真みたいなもんだ。俺が過去を思い出せるなら、写真があろうとなかろうと問題じゃない。

 俺はこの世界で必ず全てを思い出してみせる。俺が見たもの、感じたもの、信じたこと。家族、友人、故郷の風景と音のすべてに至るまで。それは誰も知らない。俺の記憶の中にしかない。」

 

 わかるか?とニヒルに笑うマクバーンが問いかける。

 ユウナには答えようもない。わからないからだ。マクバーンの決意も、信念も、諦観も、自分のすべてを失った人間にしか共感できないことだった。

 

 沈黙が部屋を支配して、数秒。まるで五倍ほどに引き延ばされたかのような時間だった。マクバーンは荒々しい手つきでユウナの拘束を外すと、どこかへふらりと立ち去ろうとした。

 

 「―――ちょっと、どこ行くのよ!」

 

 「手伝いはしただろ。あとは勝手にしろ。」

 

 「どうせなら捜索まで手伝ってほしいものです。」

 

 「うるせぇな……」

 

 ぼやきながら部屋を出ていこうとする背中を見て、俺はふと最近見た夢のことを思い出した。現実離れした余りにも酔狂な夢。非日常の連続。自分の精神とかけ離れたなにか。嵐のようにやってきて、通り雨の様にいなくなったもの。

 

 異質な何かが教えてくれた言葉。

 

 「マクバーン!アンタ未来のことは考えないのか!?」

 

 ぴたりと、足が止まった。

 

 突然現れたその存在は過去に囚われて現在を見ようとしない誰かがいるのなら、未来に目を向けさせろと。そう教えてくれた。未来とは過去を見ているばかりでは描けない絵であり現在に立ち返らないと考えることすらできない概念。未来について考えれば、自ずと現在について考えるようになる、らしい。

 

 俺にはこの言葉の本質はまだ理解できない。連なった時間の流れの後ろを見るか前を見るか、そういう話なのだろうけれどもまだピンとこない。

 でもマクバーンは違うはずだ。彼の過去に存在した彼にとって大切な誰かの言葉なら、きっと心に届くはずだ。

 

 「……シュバルツァー。何が言いたい?」

 

 部屋を出ていこうとしていたマクバーンが振り返った。その顔を見れば、俺が誰からこの言葉を聞いたのかわかっているのだと知れた。

 

 「―――『今日を生きていなければ明日をつかむこともできず、昨日を語ることも許されない。』って、受け売りなんだが。マクバーンはこの言葉の意味わかるか?俺にはまだよくわかっていないんだ。」

 

 「教官わかってないんですか?」

 

 ユウナとアルティナが白い目で見つめてくる。けれどこの言葉の真意はきっとマクバーンやニクスさんにしかわからないことなのだろう。俺の夢の中に訪れた空想のような何かは、彼らの過去の一部だと名乗っていたから。

 

 「『空想の世界ではなく、美化された思い出でもなく。現在こそが未来を定める。今自分に何ができるのか、今の自分は何がしたいのか。ただその二つを現在と呼ぶ。』……そういう話か?」

 

 「あ、ああそうだ。そう言っていたと思う。」

 

 マクバーンは深くため息を吐いた。

 

 

 「……それこそ簡単な話だ。『たとえ何に反しても、やりたいことをやれ』。たったそれだけのことを、ひねくれた奴が言うとそうなる。」

 

 「まぁ、それは確かにって感じよね。」

 「というか当たり前の事では?誰だってやりたいことをしたいです。」

 「ははは…まぁいろいろ事情がある時もあるからな……」

 

 好き勝手に意見を述べる俺たちを、マクバーンはまるで遠いものを見るようにぼうっと見ていた。その眼差しは冷たくはなく、また炎のような熱を秘めたものでもなかった。

 懐かしむでもなく、強く求めるでもなく、そこにある事実を受け容れるような。そんな視線だった。

 

 そしていつものぶっきらぼうな口調で言った。

 

 「―――ああ、そうだな。そのありがたい教えに従って、この俺がお前たちが今したいことを手伝ってやるよ。」

 

 ありがたがれよ、と恩を売るように言う彼の口は緩い微笑みを形作っており、その笑顔はまるで彼がいつも背負っていたような何かがやっと降りたかのように柔らかかった。

 そうして彼はどこかに行った。不可思議な力で転移するのではなく、自分の足で、外へと出ていった。

 

 

 「…素直じゃないです。」

 

 「探しに行きたいって言えばいいのに。男ってこれだから…」

 

 「こらこら。今俺たちが出来ることと言えば彼に協力してもらうことくらいだ。しっかり連れてきてくれることを期待しよう。」

 

 これがリーヴスを離れられない俺たちが今打てる最善手。誰よりも異質で、俺たちに不可能なことを可能にできる存在。彼ならきっと困難にも対処できるだろう。というか彼でどうしようもならないなら多分俺たちにもどうにもできない。

 不安に思っていた心も、マクバーンほどの実力者が対処に当たっているとなると不思議と和らいでいった。

 

 「早くニクスと会いたいな~…」

 

 「ええ。会って話がしたいです。」

 

 二人の和やかな声。きっと彼女たちはまた一緒に食事をしたり、物語について感想を言いあったり、そんなとりとめのない日常を思い描いているのだろう。

 手紙に書ききれなかったことを、沢山共有したい。記憶からあふれかえりそうな日々の出来事を彼女にも知ってほしい。そんな当たり前のちいさな願い事が二人の頭を満たしていた。

 

 

 「二人とも、これからのことについて考えるのはやるべきことをやった後だ。昨日指示したとおりに手配してくれ。」

 

 『はい!』

 

 やるべきことはまだまだ多い。頭に描く将来への期待を現実に叶えるために。平穏を取り戻した先にある平和をつかみ取るために。

 俺たちは前に踏み出さなければならない。

 

 

 



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