貌なし【完結】 (ジマリス)
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1 はじまりの鐘が鳴る

「いいだろ? ちょっとくらい恵んでくれよ」

「俺たち困ってるんだよね~」

「え……えっと……」

 

 眼鏡をかけた中学生が、いかにも不良という言動の高校生に絡まれている。

 塾の帰りに、ふらりとコンビニに入ったのが間違いだった。小腹がすいたためにお菓子を買って出たところ、目をつけられてこんな暗い路地裏に連れ込まれてしまった。

 心臓がばくばく言っている。財布を差し出せば大人しく去ってくれるだろうか。

 ポケットに手を入れた瞬間……誰かが不良の後ろに立っているのが見えた。

 それは一見、ゆらめく影のようにも思えた。

 濃い灰色の迷彩服、鼻から下はフェイスガードのようなものを着けていて、フードを被っているため顔は見えない。

 不良たちも眼鏡男子の視線に気が付いたようで、振り向く。

 

「なんだこいつ」

「おいおい迷子か?」

 

 灰色の男は黙ったまま、素早く腕だけを動かした。

 鈍い音がして、直後、マスクの男の前に立っていた不良ががくりと膝を落とす。

 

「なんの冗談……」

 

 へらへらと笑っていたもう一人が、仲間が頭から倒れるのを見て表情を変える。

 そこで、ようやく不良はマスクの男の目を見た。ゴーグルで覆われた奥の、鋭く射抜いてくる目を。

 

「逃げろ」

 

 フードの男が声を出した。

 あっけにとられた不良の手が緩んでいる。眼鏡の中学生はなんとか足を動かして、その場を離れることに成功した。

 

「お前まさか……」

 

 不良が言葉を続ける前に、男はぱっと近づいてみぞおちに一発拳をめり込ませた。

 声にならない悲鳴を上げて、不良が後ずさる。しかしここで退いてしまえば不良の名折れ。腹を抑えたまま、不良は拳を振った。

 それが間違いだった。

 大振りの腕はマスクの男に軽くかわされ、そのまま足を払われる。受け身をとれず、地面に背中をしたたかに打ち付けられ、不良の肺から空気が出された。

 苦しさにあえぐ彼の首を男は掴んだ。

 

「助けて……」

 

 空気がないのと恐怖で、蚊の鳴くような声でしか喋れない彼を無視して、フードの男は拳を振り上げた。

 一発、顔に叩き込む。不良の鼻が折れ、血が流れる。

 一発、今度は前歯が折れた。この暗闇の中では、どこにいってしまったのかわからない。

 一発、すでに気絶寸前の意識を無理やり起こすように痛めつける。

 一発、一発、一発……

 

 

 学校にいる間は憂鬱である、というのが椚ヶ丘中学三年E組が持っている共通の思いだ。

 どれだけ爽やかな朝でも、重くのしかかる憂鬱さには勝てない。

 他とは違って落ちこぼれである俺たちには、本校のやつらに公然といじめられる時間がスタートするのだから、当たり前だ。

 

國枝(くにえだ)、おはよう」

「おはよう、竹林(たけばやし)

 

 校舎への長い道のりを歩いている途中、丸眼鏡をかけた細身の男子に挨拶される。

 竹林孝太郎(こうたろう)

 見た目はザ・オタクって感じだけど、意外にも胆力は優れている。いや、オタクはそういうのが多いのかもしれない。

 

「これ、知ってるかい?」

 

 歩きながら、彼が新聞紙を広げる。そこに小さく、『フードの男が高校生を暴行』と書いてあった。

 

「これが何だ?」

「昨日、そのフードの男に助けられたんだ」

 

 竹林は眼鏡をくいっと上げた。それを見せるためにわざわざ新聞を持ってきたのか?

 その詳細は誰よりも俺がよく知っている。だが俺はとぼけた。

 

「助けられた?」

「絡まれてね。けどその男が逃がしてくれた」

「夜は危ないから外に出るなって言っただろ」

「しょうがないじゃないか。塾に行かなきゃいけないし」

「ならせめて、もっと安全なところを歩くべきだな」

 

 俺が夜の街に潜んで殴るのを繰り返してからまだ数か月程度だが、『フードの男』、『マスクの男』などと呼ばれてしまうくらいになってしまった。

 だがまだ世間的には有名とは言えず、警察はまだ本腰を入れていない。新聞でのこの扱われ方がそれを表していた。文面だけ。しかも数行の小さな見出し。

 もっと大きな事件が日本には転がっているのだ。通り魔的な一人の男を熱心に追うほど、どこの誰も暇じゃない。

 そのことは俺にとって幸いだった。注目されていないということは、そのぶんバレにくい。

 とはいえ、気を付けないとな。やることを控えたりはしないが、捕まらないように注意すべきだろう。

 

 学校への道とは思えない山道を登りきると、ようやくぼろい建物が見えてくる。綺麗に整えられた本校舎と違って古臭い木造の校舎……というか、教室が一つと教員室、あといくつかの部屋があるだけの小屋だ。

 成績最下位組に与えられた唯一の場所。

 ふう、と一息ついて中に入り、きしみ音をさせながら廊下を渡る。教室に入り、クラスを一瞬だけ見渡す。もうほとんどが揃っていて、談笑しながら朝のチャイムを待っていた。

 六列あるうちの、窓際から二番目。その一番後ろの席に腰掛ける。

 

「よう、國枝。なんかスーツを着た大人がうろついてたぜ。事件でもあったのかね」

 

 一息つく間もなく、前の席の男子が話しかけてくる。

 俺は挨拶を返してから、鞄の中身を出していく。

 

「さあな。とにかく大きな面倒がなければなんでもいいさ。そうだろ、菅谷(すがや)?」

「間違いない。俺らエンドのE組に何かあるってなったら、だいたい虐められることになるからな」

 

 椚ヶ丘(くぬぎがおか)中学は有名な進学校だが、三年E組は別。

 成績低下や素行不良者が送られる場所で、そのヒエラルキーは最下位。

 問題があればなにかと疑いをかけられ、かばう人間はいない。しかもそれをよしとしている環境を作ったのが理事長。救いは求められない。

 何もなく平穏に過ごせる日は貴重だ。だからこそ無事に一日が終わることを祈る。

 そんな俺たちの考えは、朝のHRですぐに打ち破かれた。

 

 

 

「初めまして。私が月を()った犯人です。来年には地球も爆る予定です。君たちの担任になったのでどうぞよろしく」

 

 俺を含めて、クラスの全員が唖然とした。

 

 いかにも『できる男』顔のスーツマンとともに入ってきたその生物は、開口一番そう言った。

 『生物』と言ったのは、それがお世辞にも人間とは思えなかったからである。

 

 頭に浮かんだ言葉は『タコ』だった。

 頭は丸く、何本もある触手。色は黄色いが……しかしイメージとして、その軟体ぶりはタコ以外の何にも例えられない。

 だというのに、そいつは人間のように立ち、人間の言葉を喋っている……人間のように服を着て。

 そんなのがいきなり来て、クラスは凍りついた。

 

「あんなん信じられるかよ……なあ、國枝」

「ま、まあ現実に目の前にいるわけだから、信じざるを得ないわけにはいかないこともないわけで……」

 

 もごもご言いつつも、俺は目を疑う。目は良いほうだと自負していたが、どうにもこの光景は現実離れしていた。

 俺は落ち着きを取り戻すためにもそいつをよく観察した。

 丸い頭の正面に、点のような目と半円の口。笑っていると即座にわかった。

 その口から発せられたのは、月を破壊した犯人であること。

 

 それはおよそ一週間前のこと。

 突如として、月の半分以上がなくなった。

 ニュースで連日大騒ぎになっていたが、犯人も方法も目的もわかっていない。それを、こいつが……

 半ば納得できるのは、その特異な見た目のせいだろうか。ともかく下手に突っ込むと危なそうだ。

 こいつがE組の担当教師に?

 

「君たちにはこいつを殺してもらいたい。賞金は百億」

 

 前半の言葉は、後半の衝撃にかき消された。

 百億。大金という言葉などでは片づけられない金額だ。

 つまり、こいつが月を爆破したかどうかはともかく、次に言った地球を破壊するくらいの能力はあると考えていいだろう。でなければそんな金を出す意味がない。

 

 聞けば、この超生物がE組の担当教師になることを望んだらしい。

 政府はこれを承諾せざるを得なかった。

 こいつがもつ能力を鑑みれば、逃げられるより、条件を呑んでここに置いたほうが監視・管理・殺害しやすい。そして殺す役目を俺たちE組に託したというわけだ。

 政府、超生物、暗殺。

 漫画でしか聞いたことのない、俺たちに縁のない言葉だったはずだ。だが現実では、それが一気に降りかかってくる。

 俺の心配をよそに、E組は盛り上がっていた。

 

「百億! そんなにあったら何でもし放題だぜ!」

 

 菅谷が振り返る。

 俺は答えず、下唇を噛んだ。

 政府すら手も足も立たなかったほどの生物だ。簡単に殺れるとは思わない。

 それに……百億を狙うのが、俺たちだけとはどうも思えない。

 進学校の生徒とはいえ、中学の、しかも落ちこぼれ組だ。そんな俺たちに地球の命運を丸投げするわけはないだろう。

 

 嫌な予感だけが俺の胸の中で育っていた。



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2 火を消す煙

 パシン。

 いい音が鳴って、白球がミットに収まる。

 

「どうよ、國枝」

「……あんまり変わってない」

 

 ボールを投げた杉野友人(すぎの ともひと)は、俺からの返球を受け取ってがっくりと肩を落とした。

 

「まじかー……結構練習したのに」

 

 E組は部活動を禁じられている。成績が落ちたのだから、勉学の他にかまけるなということだ。

 それでも杉野は野球を諦めることはせず、こうやって投球練習をしている。

 普段は(なぎさ)がキャッチャー役らしいが、英語の課題があるとかなんとかで俺にお鉢が回ってきた。

 以前にも協力したことはあるし、日々努力しているのは知っているが、その時からあまり上達しているように感じないのが不思議だ。

 とはいえ、俺は野球に詳しいわけじゃない。何がどう悪いか、具体的なことは言えずじまいでいた。

 

「ところでさ、烏間さんとの面談はどうだった?」

 

 何十球も投げながら、なお続ける杉野。

 

「別に、なんてことはなかったよ。得意科目が何かとか……他愛もない話だけ」

 

 再びミットに収まったボールを投げ返す。

 

 E組と超生物の監視役として、防衛省から送られてきたぴしっとした男、烏間惟臣(ただおみ)は『面談』を行った。

 そう称しているだけで、実際は異常な状況に置かれている俺たちのメンタルケアと、細かい状況の説明。

 

 防衛省からE組に配属されているのが彼だけではないとはいえ、反骨精神盛りのうえに受験を控えてピリピリしてる中学三年を三十人近く相手にするのは骨が折れるだろう。

 俺はとにかく目立たないように、面倒をかけないようにすればいい。

 

 國枝(ひびき)。出席番号10番。得意科目は国語、苦手科目は理科。

 E組に落ちた理由は、単純に成績が落ちたから。

 

 俺はそれだけ言って、面談を終わらせた。

 事前にいくらか調べられていたようだが、俺の『もう一つの姿』に関してはばれていないようだった。

 ならば目立たず、特筆すべきこともない、ただの一中学生としての振る舞いを見せて終了させるのが一番。

 一度、『普通』の印象を与えてしまえば、深く突っ込んでくることもないだろう。あちら側としては、殺せんせーへの対処でいっぱいいっぱいなはずだ。

 

 ちなみに、『殺せんせー』というのは、あのタコ先生のことだ。

 殺せないから、殺せんせー。女子の一人である茅野(かやの)が命名して、彼も気に入り、誰も否定しなかったから定着した。

 一斉射撃だけじゃなく、練りに練られた作戦も不意打ちも効果なし。

 

 頑張っても殺せんせーの命に届かないのは、彼の能力が厄介だからだ。

 第一に挙げられるのは、彼がマッハ20で動けるということそれだけでも厄介なのに、空を飛べたり、何本もある触手で蠢いたり、そして案外隙が無い。

 これじゃ、確かにどこの誰もが手を出せない。

 こんなのが世界中を飛び回られたら殺すのは不可能だ。そう考えれば、殺せんせーの要望通りにE組の教師をさせておくことは、暗殺の成功確率を飛躍的に上げられることになる。

 

 それ以上、杉野は何も聞いてこなかった。彼も同じように簡単な質疑応答をしただけなのだろう。

 投球が百を越えたころ、今日の練習はようやく終了した。

 

「今日は付き合ってくれてサンキュな」

「これくらいなら別に。俺もいい運動になったしな」

 

 タオルで汗を拭きながら、杉野はボールを鞄に収める。

 俺も鞄を肩にかけ、空を見上げる。

 今日は何もなければいいけど。

 

「いま終わり?」

 

 少し休憩していたところに、鞄を肩にかけた渚が来た。

 潮田(しおた)渚。中性的な顔立ちに、まとめられた長い髪。普段はこいつが杉野のキャッチボール相手になっている。

 ズボンを履いているから男だと判断できるが、かつて誰かさんのイタズラでスカートを履かされていたときは、女子にしか見えなかった。

 彼は女っぽいと言われると顔が曇るため、思っていても言わんが。

 

「ごめんね、思ったよりも熱中しちゃって」

「いや、いいんだ。それよりそっちは大丈夫だったか?」

「うん、課題はばっちり。ついでにその先の範囲も教えてもらっちゃった」

 

 超生物だというのに、暗殺対象だというのに、殺せんせーは教師として毎日俺たちに勉強を教える。

 その腕は一級品だ。わかりやすくしてくれるだけじゃなく、やる気も引き出してくれる。だから、彼が時間も忘れてしまったのを責めるつもりはない。

 恐ろしいことに巻き込まれたはずなのに、俺たちE組の生活はほとんど変わらず、むしろ成績に関しての成長はめざましい。

 殺せんせーが来た時に感じた不安は、俺の中で消えつつあった。

 

 このメンツと帰るのは久々だな、とむしろ俺の気分は上がっていた。

 

 

 ……上機嫌もつかの間。嫌なものを見てしまった。

 

「ちょっとやめてください!」

「さっさとどっか行ってよ!」

 

 駅までの道を杉野と渚と一緒に歩き、買い食いでもしようかと商店街をうろついていたところだった。

 聞き覚えのある声に振り向けば、見慣れた制服が目に入る。黒髪ポニーテールとさらりとした金髪、クラスメイトである矢田桃花(やだ とうか)中村莉桜(なかむら りお)が、知らない男に腕を掴まれていた。

 ナンパ……と呼ぶには強引すぎる。連れ去ろうとしているのか。こんな明るいところで堂々とよくやるもんだ。

 辺りに困った目を向けて助けを求めるも、通行人は見て見ぬふりをする。

 

 まずいな。

 矢田は力では抵抗できないし、中村は火に油を注ぐタイプだ。このままだと、この場でどちらかがはたかれる可能性がある。

 

 俺は連れ二人に頷いて、矢田たちとその男の間に割って入った。

 

「すみません、やめてあげてください」

 

 相手の手を掴んで矢田と中村から離し、身体で遮る。

 

「ほら、困ってるみたいなんで」

 

 俺の後ろに杉野と渚が並んで入り、より男を阻害する。

 中学生に邪魔されたのが琴線に触れたようで、男の額には青筋が浮かんでいた。

 大人しく下がってくれるようならよかったが、ここで無理に抗うと面倒なことになりそうだ。

 

「うるせえ!」

 

 男が俺の肩を押す。押すというか、叩くに近い。

 しめた、と俺は思った。

 わざと避けずに、もろに受けておおげさに倒れてみせる。そのおかげで、周りの目が一斉にこっちを向いた。

 ここは誰も見てない路地裏とは違う。往来のある道なのだ。

 これだけ目撃者がいれば、さすがに止めようとしてくる者がいるかもしれない。もしかしたら通報する者も。

 さすがにそれはわかっているらしく、舌打ちを残して男は足早に去っていった。

 

「だ、大丈夫か、國枝?」

 

 杉野の手を借りて、俺は立ち上がる。

 派手に転んだが、どうやら制服に穴はあいていないようだ。少しばかり汚れてしまったが、代償としては安い。

 

「ごめんね、私たちのせいで」

「大丈夫? 怪我とかない?」

「いやいいんだ。それよりカッコ悪いところ見せたな。あー恥ずかしい」

 

 心配そうに覗き込んでくる矢田と中村に、平気だと手を振る。

 それでも近寄ってくる彼女らに対して、俺は一歩引いた。

 

「大したことない。それじゃ、俺はあっちだから」

 

 先ほどのことを恥じるように、なんでもないということを繰り返しながら後ずさり、背を向ける。

 今日やるべきことのために、他に構っている暇はなかった。

 

 

 すっかり陽は落ちて闇に染まった外は、たとえぽつりと外灯があろうとも先を見通すことを許さない。

 対象から数十メートル離れて動かずにしていれば、見つかることはないだろう。

 息をひそめ、じっとある家を観察する。昼に迷惑をかけられた、あのナンパ男の住処だ。あの後、尾行して家の場所を突き止めていたのだ。

 そいつが夜中に家を出てくるかは問題だが……

 

 辛抱強く待っていると、その家のドアから一人の男が出てくる。

 夜の暗さに紛れて、そいつを注意深く見る。彼はポケットから一本のタバコを取り出し、口にくわえた。

 慣れた手つきで点けた火が、一瞬顔を照らす。

 間違いない。あいつだ。あいつだ。おそらくまだ未成年だっていうのに、煙を吸って吐く。

 吸い終わるのを待つつもりはない。ゆっくりと、彼が俺を認識できるくらいまで近づく。

 

 黒いマスクにゴーグル、そして輪郭をばかすためのフード付きの灰色迷彩服に、相手は一瞬ぎょっとした。

 だが次第に冷静さを取り戻すにつれて、不機嫌顔になる。

 

「誰だ?」

「誰でもいい」

 

 彼からの問いに、俺はぶっきらぼうに答える。

 

「文句あんのか?」

 

 俺のことを年下とみて、彼は余裕を持ち始める。またタバコをくわえて、煙を漂わせてみせた。

 

「問題はない。お前がどこで吸おうが俺には関係ない」

「なんだよ、じゃあポイ捨てするなってお説教か?」

 

 それもどうだっていい。

 見てて気分のいいものではないが、俺にとってそんなのはささいなことだ。

 

「またお前が誰かに迷惑をかけるようなら、俺が潰す」

「はあ? どのこと言ってんのかわかんねえな。俺は俺の好きなように生きる。てめえに何ができるってんだよ」

 

 あえてぼかしたおかげで、正体がばれる様子はない。

 それに、こいつが他にも罪を犯してきたことと、これからもやめる気がないこともわかった。

 なら容赦する必要はない。やはりここでぶちのめしておくべきだ。

 

 俺の決心が固まった瞬間、ナンパ男のほうからしかけてきた。

 タバコを地面に落とし、右手を大きく引く。

 わかりやすいパンチだ。軽く避け、カウンターで顔に拳を叩き込む。

 男のにやけた笑いが、一瞬にして歪む。口を抑えて倒れ、もんどりうちだした。

 油断してる奴は簡単に崩せる。一発殴っただけでこれだ。

 煙の代わりに、男の口から血が垂れた。

 

「謝罪して、二度としないと言ったなら許してやったが……」

 

 痛みに呻きながらよろよろと立ち上がった男の脇腹を打ち、お留守な足元を払う。

 受け身も取れなかった相手はしたたかに尻を地面に打ちつけ、倒れながら叫ぶ。

 俺は男に馬乗りになり、黙らせるために一回殴る。まだ叫んでいるから、もう一度殴りつける。まだ叫ぶ、もう一度。

 口に血が溜まったせいか、悲鳴に勢いがなくなり、小さくなった。

 胸元を掴んで、顔を突き合わせる。俺の顔は隠されているけど。

 

「お前学生か? 学校はしばらく休みだな」

「ま、待ってくれ……!」

「たばこどころか、ペンも握れなくなる」

 

 

 いつも通り、始業の十分前に教室に着く。

 昨日のようなことは、このE組に来てから日常茶飯事になっているからもう慣れてきた。多少眠気を感じるが、授業には支障はない。

 教室の後ろ側の扉から入り、自分の席へ鞄を置く。

 すると、こちらに近づいてくる二つの影があった。

 

「國枝くん、昨日のは大丈夫?」

「ほんとにありがとね」

 

 矢田と中村が、わざわざこっちに来て礼をする。

 

「ああ、大したことないよ。礼なら杉野と渚にも言ってくれ」

 

 かっとなってついやりすぎたが、大した問題にはなっていなかったようだ。

 と言っても、明日明後日に報道されるかもしれない。証拠を残すようなへまはしてないから、大丈夫だとは思うが……

 まあ今はみんなが無事でよかったと思おう。あれだけ痛めつければ、あの男もそうそう悪さをしようとは思わないだろう。

 

「ありがとね、助けてくれて。見直したよ、あんたが先陣切ってくれたんだって?」

「見ないふりはできなかった。それだけ」

 

 面と向かって礼を言われるのは、なんだか照れ臭い。

 俺は頬を掻いて、席に座った。

 

「それより、他のやつには言わないでくれよ。助けようとして倒されただなんて、カッコ悪すぎるからな」

 

 俺は人差し指を口に当て、それだけ言った。



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3 原因

「いち、に、いち、に」

 

 青空の下、グラウンドで生徒たちの声が響く。

 健康的に身体を動かして、健康的な汗を流す。その手にナイフがなければ健全だ。

 烏間先生の指導で、俺たち三年E組は人間に害のない対殺せんせー用ナイフで素振りを続けていた。

 

 そう、烏間()()だ。体育に関しては、彼が俺たちの先生になることに決まった。

 殺せんせーと俺たち普通の人間じゃ、出来ることに差がありすぎる。分身したように見えるほど速い反復横跳びなんて、誰が出来るか。

 

 最初はただのお役所人と思っていたが、どうもそれとはかけ離れた人物のようだ。

 確かにきっちりと規則規律を重んじるところはあるが、それに縛られず柔軟に対応でき、物事の良し悪しを素早く判断している。

 身体も強く、遠近問わず武器の扱い方に詳しい。教え方も上手く、難しい専門用語はなるべく使わないようにして、分かりやすく理解させようとしてくる。

 それだけ出来るのは、深い経験があってのことだ。ということは相当に場数を踏んでいる歴戦の勇士だということだ。

 

 まあ、お偉い人が現場に出てくるはずがないし、生徒を守るためにも戦い慣れた人間がここに配属されるのは当然か。

 上の命令を守り、生徒の安全を保障しつつ、対象を殺す。一番つらい位置だな。

 それに比べて……

 

「いつまで泣いてるんだよ、殺せんせー」

「だって、だって、先生も同じく汗を流したいんです!」

「だったら能力のひけらかしたがりをやめたらどうですか。一緒に汗を流したくても、対等にできるスポーツや遊びが思いつきませんよ」

「かっこいいところを見せて尊敬されたいじゃないですか! ただでさえ烏間先生にイケメンキャラの座を奪われかけているというのに……!」

 

 ド直球で駄目な大人だ……

 反復横跳びの手本だとか言って、速すぎて分身した上にあやとりまで混ぜ込んでくるのはかっこいいか?

 俺たちは、しくしくと泣きながら砂を集める殺せんせーを放っておいて、ナイフ術の練習に戻る。

 日差しが降り注ぐなか、単調な動きを繰り返すだけ。いまいち成長の感じられない者たちのうち、ついに前原陽斗(まえはら ひろと)が声を上げた。

 

「それにしても、こんな素振り意味あんの? マッハで動く殺せんせーに当てられるとは思えないんだけど」

「基礎能力はあればあるだけ良い。土台がしっかりしていれば、それだけ作戦の幅が広がる」

 

 もっともなことを言う烏間先生だが、しかし前原は納得せず口を尖らせた。

 

「ふむ、なら磯貝(いそがい)くん、前原くん。二人で俺にかかってこい。そのナイフを一度でも当てられたら、今日のこの授業は終わりでいい」

 

 その言葉を聞いて、全員の動きが止まる。

 

 磯貝悠馬(ゆうま)はいろんなことをそつなくこなす委員長。前原も見た目こそちゃらいが身体能力は高いほうだ。

 どちらも身のこなしは悪くない。その二人は顔を見合わせ、ナイフを握りなおす。

 じりじりと間合いを詰めた後、ゴム製の刃を当てるべく腕を振っていく。何度も何度も。

 しかし、烏間先生はあとわずかのところでかわす。相手の動きをよく見て、動きは最小限に、体力を使わずに、体力を使わせるように。

 

「と、このように多少の心得があれば、素人二人のナイフ位は俺でも捌ける」

 

 喋りながら、彼は攻撃を弾いていく。

 基礎とはいうが、その基礎を極限まで鍛え上げている。彼の言う土台がきっちり積みあがってるからこそ、どんな状況にも対応できる応用力もあるのだろう。二人がフェイントをいれても即座に対応していた。

 体格と運動神経に優れているとはいえ、所詮は素人の中学生。勝てるはずもなく、二人はあっさりと地面に転がされた。

 

「よし、順番に来るといい」

 

 それからは、烏間先生の凄さを思い知らされるだけだった。次々と生徒を呼んではいなしていく。

 今やっていることがどれだけ重要か教えるのと同時に、生徒の身体能力を測っているのだろう。

 当てるくらいなら、と高をくくっていたみんなは格の違いに驚かされ、烏間先生を尊敬のまなざしで見始めていた。

 

「次、國枝くん」

 

 呼ばれ、ナイフを握り、相対する。

 烏間先生の目には一切の油断がなかった。これを崩すなら、相当トリッキーなことをしなければならないだろう。

 そんなことを試すこともなく、適当に振り続けて時間切れ。

 もともと『フードの男』であることをばれないようにするために体育では目立たないようにしている。それに、暗殺に積極的に参加する気はないのだ。むきになって、動ける奴だと認定される必要もない。体格に似合う程度の点数さえ貰えればそれでいい。

 『馬鹿ではない』程度が一番目を付けられにくい。極端に下手を演じる方がかえって不自然だ。

 可もなく不可もなく。それが俺の目指す認められ方だ。

 

「ふう……」

 

 少し離れて、芝生の上に座る。 

 相手はプロ。直接触れることで何か怪しまれるかなと思ったが、そんな様子はない。

 ちらりと殺せんせーのことも見たが、砂で城をつくり、出来上がったあとは茶をたてている。

 暇なのか?

 

「へえ、面白そうなことやってるじゃん」

 

 突然、声が頭上から聞こえてきた。制服姿の誰かが、太陽を遮って立っている。

 赤い髪に鋭い眼光、飄々とした顔は俺のよく知る人物だった。

 

「カルマ……?」

「や、國枝。相変わらずだね」

「停学、明けるの今日だったか」

「うん。早く来たかったんだけど、生活リズムが戻らなくてねー」

 

 その軽い物言いと雰囲気は、停学前と変わらない。

 

 赤羽業(あかばね カルマ)

 暴力沙汰を起こしてE組に落とされた生徒。

 力が強い……というよりは、躊躇がないといったほうが正しい。自分の思ったことはぱっと行動できるのが、こいつの長所。

 だがそれ以上に……

 

「やあやあ、君が赤羽くんですか。待っていましたよ」

「あんたが殺せんせー? 写真で見たけど、やっぱ生で見ると違うね。あ、俺はカルマでいいよ。よろしく」

 

 いつの間にか寄ってきていた殺せんせーを訝しむことなく、カルマがにこりと笑いながら手を差し出す。

 それに違和感を覚えたのもつかの間、驚くべきことが起きた。

 

 応えようと伸ばされた殺せんせーの触手の先が溶け落ちたのだ。

 その瞬間、カルマは袖からナイフの刃を取り出し、それを殺せんせーに……は届かなかった。

 目にもとまらぬスピードで、一瞬にして間合いを空ける殺せんせー。信じられないようなものを見る目で、どろどろと溶けている自分の手を見る。

 冷や汗をかいたのは、彼だけではない。この場にいるほとんどがそれを見て息を呑んだ。

 

「へえ~」

 

 にやにやとして、カルマが手を見る。そこには、細かく刻まれた対殺せんせーナイフが何本も貼り付けられている。

 

「本当に効くんだ、これ。にしてもちょっと驚かせただけでそんなに離れるなんて……ひょっとして先生ってチョロい人?」

 

 あからさまな挑発にぐぬぬと顔を歪ませながらも、一番危機感を覚えたのは殺せんせーだろう。

 なにしろ、初ダメージを与えたのが政府でも別の国でもなく、初対面の中学生。しかもドラマティックの欠片もない方法で。

 

 こんな手で……と言うだけなら簡単だ。

 実際にはその手を思いつく頭、警戒させない手の動きと表情、それに殺気の隠し方。全てが調和していないと成功しなかった。

 

 やはり。やはり、この教室で殺せんせーを殺すことが出来るとしたら彼なのだろう。

 稀代の天才。底を見せない、この赤羽業なら。

 

 

「あーあ、こんな面白いことしてるなら、もっと早く来ればよかった」

 

 帰路につきながら、俺はついてくるカルマを見やる。

 あの後わかりやすく殺せんせーを挑発してすっきりしたのか、カルマは屈託のない笑顔でそう言う。

 床にBB弾をばらまいたり、扉に刃を貼り付けたり……一つひとつの罠の前、誘導の仕方がいやらし……見事だった。

 

 それよりも、だ。

 停学が明ける前に殺せんせーのことを聞かされていただろうが、実際に会って、しかもその場で暗殺を実行できる度胸は他の誰にもない。

 その行動力は、ともすれば無謀にもつながる。

 百億円を手に入れたい気持ちがあるわけでもないのに、いやだからこそか、カルマは必要以上に挑発して隙を見出そうとする。

 相手は俺たちの想像の上をいく存在だ。約束を反故にして首を絞めてこないとも限らない。

 カルマはそれを知っていて、わざとそうしてる。

 

「問題のある行動は起こさないでくれよ」

「心配しないでいいって。こんな面白そうなこと逃がすわけにはいかないし。いま停学とかなったらもったいないじゃん」

 

 そう言う彼の表情は純粋だ。

 楽しそうなことはとことんと。単純な遊びだけならまあいいが、彼のそれには危険が伴う。何かおかしいことが起きなければいいが。まあ平穏は望めないだろうな。

 

 そう思って、彼と別れたすぐ後……

 前に椚ヶ丘生がいるのが見えた。

 うわ、と思いできるだけ存在感を消す。

 底辺であるE組は、他のクラスからはいじめが許されている対象だ。後ろにいるのが俺だとばれれば、なにかしら攻撃してくるだろう。変に目をつけられてやいやい言われるのは精神衛生上よろしくない。

 

「カルマの野郎、停学明けたってよ」

「マジかよ。ようやくだな」

「ああ、ぜってえ殺してやる」

 

 不意に、そんな言葉が聞こえた。

 その前を歩く椚ヶ丘生が、そんなことを口走っていたのだ。

 どうやら俺に気づいていないらしく、さっきまでカルマがいたことも知らないのだろう。

 馬鹿面さらして歩きながら、幼稚な計画をべらべらと喋っている。

 

 殺す。

 中学生ゆえの誇張表現。だがその憎しみは本物だ。

 赤羽業という男はいらないところに波風をたてる男でもある。

 こうやって憎まれることも多々あるが、脅しのための情報やら写真やらで反撃を防いでいる。

 しかし、恨まれている数が多すぎると……それらが徒党を組んでやってくることになる。

 

 胸のざわめきが強くなる。

 夜はもうすぐそこまで来ていた。



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4 結果

 カルマの席は、一番後ろの右から二番目。俺から一つ空いた右隣である。これはなにげに幸いだった。

 常に殺せんせーの暗殺を企み、予想外の行動をする彼を、殺せんせー含めみんなが警戒する。一番近くにいる俺の存在は薄れる。

 

 だが……

 

「ねー、國枝ってさ。あんまり暗殺に積極的じゃないよね。なんで?」

 

 カルマが最も近くにいるというのは、同時に不幸なことでもある。

 他が俺のことを気にしなくなっても、彼は違う。飄々としているように見えて、鋭い観察眼と高い知能をもつカルマに絡まれれば、下手な言い訳は通用しない。

 

「授業中だぞ。もっと言えば、授業中だ」

「だってこんなのわかりきってることだし」

「俺は理解してる最中だ」

 

 ずば抜けて頭が良く、先々まで予習してるお前と違って、俺は授業と同じスピードで進んでるんだ。手でしっしっと払うと、それ以上は話しかけてはこない。殺せんせーが隠し持っていたジェラートを食ったり、やりたい放題し始めた。

 しかし諦めたわけではないだろう。授業が終われば、また質問してくるに違いない。

 

 だが、俺がフードを被って街に繰り出して暴力行為を行っている……なんて、いくら彼でもたどり着けないだろう。

 飽きるまで適当な返しを続ければ、いつかは興味を失うはずだ。だから、これはそれほど脅威じゃない。

 

 問題は彼の性格。

 喧嘩っ早い性格のせいで、停学となった暴力沙汰以前にも、何度も注意を受けている。

 殺せんせーがいるこの環境で、それが悪化しなければいいけど。

 

 

 

 ……と危惧していたのも昨日の話。

 暗殺者と暗殺対象という一方的な関係は、次の朝から逆転していた。

 

「おはようございます」

 

 時間ぴったりに教室に現れた殺せんせーに返事する者はいなかった。

 怒るのを恐れて、みんな緊張しながら固唾をのむ。

 その視線の先に、殺せんせーも目を合わせた。

 

 タコ。

 色艶のいいタコが、教卓の上で串刺しにされていた。もちろん、殺せんせー用ではなく、本物のナイフで。

 

「あ~ごっめーん。殺せんせーと間違って殺しちゃった。それ捨てといてくれる?」

 

 悪びれもせず、むしろ舌を出して挑発するカルマ。

 

 殺せんせーが、自分がタコに似ていることをネタにしたりして、それなりに楽しんでるとは渚の談。

 それを聞いたカルマは、わざわざ良いタコを仕入れて用意したらしい。

 

 流石に、殺せんせーの動きが止まった。

 一線を越えるか?

 

 殺せんせーが来た時に説明された、彼がこのクラスの担任になる代わりに政府から出された条件。

 『生徒に危害を加えないこと』

 だがそれも、あくまで殺せんせーをこのクラスに拘束するための条件であり、彼が殺ろうと思えば止められる者はいない。

 

 キュイイインと鋭い音が鳴る。

 殺せんせーが触手の先を回しだしたのだ。別の触手でタコを持ち上げながら、まるでドリルのように高速で回転するもう一方を近づけ、ゆっくりとカルマに近づく。

 ついに痺れを切らしたか、と鳥肌が立った瞬間……

 

「あつっ!」

 

 カルマの口に、何か放り込まれた。

 ほかほかと湯気を立てるそれは……なんとたこ焼きである。ご丁寧にソース、鰹節まで乗っけてあった。

 

「その顔色では朝食を食べていないでしょう」

 

 殺せんせーの手には、ミサイルと切り刻まれたタコ、そして紙箱に敷き詰められたたこ焼きがある。

 いまの一瞬で、作ってみせたのか。ていうか、焼くのにミサイル使ったのか。

 

「先生はね、カルマ君。手入れをするのです。錆びて鈍った暗殺者の刃を」

 

 自分で作ったたこ焼きを口に放り込みながら、口の弧が大きくなる。

 

「今日一日本気で殺しに来るがいい。そのたびに先生は君を手入れする」

 

 規格外の笑みを浮かべる殺せんせーの顔を見て、改めてこいつは化け物なのだと理解した。

 

 そんなのに勝てるわけがなく、多少は攻撃の手を緩めるかと思ったが、カルマはしつこかった。

 

 授業中に撃とうとすれば触手で手を抑えられ……

 調理実習の時間でわざとスープの入った鍋をぶちまけようとしたところ、一瞬後には元に戻されていた。

 しかも、可愛らしいピンクのフリフリがついたエプロンを着けられている。

 あまりにも速すぎて、殺せんせーがスポイトを取り出したところしか見えなかった。あれで宙に舞ったスープを戻したようだ。

 なんでわざわざスポイトで? という疑問は置いておいて、俺はカルマの様子を遠目に伺った。

 こういう単純な馬鹿にされかたは、カルマが一番イラつくところだろう。

 思った通り、顔を恥と怒りで赤くして、殺せんせーを睨みつけている。

 

 その後も継続して暗殺をしかける彼だが、警戒している殺せんせーに対抗できるわけもなく、負の感情が募り募っていくのがひしひしと感じられる。

 ああ、くそ。まずいな。

 カルマを怒らせて、ろくなことになったためしがない。

 

 カルマを説得するのは、渚に任せる。正直成功するとは思えないが、彼ならもしかしたら……

 とにかく、俺が話をすべきはカルマじゃない。

 

 職員室の扉をこんこんと叩くと、殺せんせーの返事が返ってきた。

 入ると、一枚の紙に対して、さささと何かを書いている。見れば、それは小テストの問題だった。

 彼なら、もっと速いスピードで作れるはずだが……どうやら一問ずつ、その人に合った問題を考えて作成しているようだ。

 と、それは置いておいて。

 

「殺せんせー」

「おや、國枝くん。私のぬるぬる講習を受けに来ましたか?」

「い、いや、それはまた今度」

 

 『ぬるぬる』を頭につける必要があるのだろうか。もしかしたら全身触手の粘液まみれにされてしまうかも……と思ったが、すぐさま頭の中で否定した。

 『生徒に危害を与えた場合、教師の権利を剥奪する』という制約がある。

 望んでこの教室に来た彼が、そんなつまらないことで退場するとは思えない。

 ……そんなことは今はどうでもいい。

 

「カルマのことで、ちょっと」

 

 それを聞いて、うごうごと動いていた触手が止まる。

 

「あいつが停学になった経緯だけど……」

「ええ、ちゃんと知っています」

 

 俺は驚いた。

 それは、E組の中でも知っている者は少ない。

 大半は『赤羽業は生徒と教師に暴力を働いて、停学処分となったうえにE組に落とされた』という事実しか聞かされていない。

 その奥にある真実は……

 

 

 カルマは、先生を信じていた。

 殺せんせーのことじゃなくて、それより前、E組になるよりも前の時だ。

 そいつはもっともらしいことを言って、自分はカルマの味方だなんてほざいてた。

 だが、カルマが当時の三年E組の先輩をいじめから助けると、態度が一変。成績優良者(いじめていたやつ)に怪我をさせてどうするんだと言って、カルマを見捨てた。

 自分のことしか考えてなかったんだ。カルマを贔屓目で見ていたのは、彼の成績が良く、それで自分の評価が上がるからだった。

 

 表向きの軽い言葉……特に大人のそんな言葉を、カルマはいつしか軽蔑するようになった。

 

「それからあいつは、『先生』っていうのを信じなくなった。殺せんせーを挑発してるのも、あんたも他と同じ奴だと思ってるからだ」

 

 ちょっとというには長い話を、殺せんせーは真剣に聞いてくれた。

 

「多分このままいけば、どんどんエスカレートして、最後には危険なことまでするかもしれない。だから……」

 

 俺は頭を下げた。

 

「お願いします。カルマを助けてやってください」

 

 超生物に懇願するなんて、普通はおかしいと感じるだろう。

 だが、おかしくていい。カルマが助かるなら、プライドなんて捨てる。望むならここで土下座したっていい。

 

「顔をあげてください、國枝くん」

 

 彼は俺の身体に触手を置き、姿勢を正した。

 殺せんせーの顔は黄色のまま、表情も変わりはない。けれど、それは信用に値するような気がした。

 

「先生が生徒を助けるのは当然です」

 

 

 

 カルマが自ら崖から飛び降りて、それを殺せんせーが助けたと聞いたのは次の日だった。

 

 

 さて。

 殺せんせーとカルマの関係が一段落ついたところで、問題が一つだけ。

 先日聞いてしまった、『殺してやる』発言である。

 

 その時に聞いていた限り、どうやら集団でカルマを襲う気らしい。

 進学校の生徒がどんな手でくるかと思えば、覆面で顔を隠して夜に襲撃するというありきたりなことをしてくるようだ。

 

 だから……集合場所にいつもの夜の格好で行っても怪しまれることはなかった。

 赤羽家から最寄りの駅の間にある寂れた公園。弱弱しい光があるだけで、人が寄り付く気配はない。少し遠くに目を凝らせば、カルマの家が見える。

 すでに調べはついているらしく、カルマが遅い時間にコンビニに行く習慣があることを、集団のリーダーが教えてくる。

 集まったのは、俺を除いて八人。全員が目出し帽で顔を隠していた。

 

「ヤツが現れたら、すぐボコって退散だ、いいな」

 

 それぞれが鉄パイプやらバットやらを構えて頷く。

 ここからじっと待って、カルマが出てくるまで我慢する気だ。今日がだめなら明日また集合するだろう。

 たったそれだけの、地味な計画。手口はわかった。

 

「いいや、よくない」

 

 興奮気味に息を荒くするリーダーの肩に手を置き、俺は言う。

 

「なんだ、もっといい手が……」

 

 言い終わる前に、その顔に一撃。

 男は鼻血を噴き出しながら倒れ、悶絶する。

 

「一番の手は、いま、ここで、お前たちが何もできずに倒れることだ」

 

 

「今日のニュース見た? 『(かお)なし、現る』だってさ」

 

 杉野が俺の机に朝刊を広げる。

 その話題に、渚とカルマも寄ってきた。

 

 いや、なんで俺の机に集まるの?

 

「見た見た。フードの男が、うちの学生八人をボコボコにしたって話でしょ?」

「うわっ、これ俺ん家のすぐ近くじゃん」

「物騒だよな。本校舎の奴らは集団下校しろって言われてるらしい」

 

 E組にはその情報は回ってきていない。そんな危険なことまで知らせずにいるほど、学校側からはどうでもいい存在ってことか。

 

 いや、それはいいけど、だからなんで俺を中心にして喋るの?

 

「どう思う、國枝?」

 

 カルマが新聞を見せてきて、俺に問う。

 

 マスクにゴーグル、フード。人間であることはわかっているが、その全貌が見えない。ゆえに『貌なし』。

 その存在は前から知られていたものの、今回の事件をきっかけに警察もメディアもその異常性を認めたらしく、同一人物が行ったとされる過去の事件も事細かに書いていた。

 

「大げさ」

 

 俺は呆れる。

 こうやって大きく取り扱われるということは、それだけ注意を向けられる。警察だけじゃなく、一般人に見られても通報される心配がある。

 しかし、これは良い展開でもある。

 『貌なし』の存在が知れ渡り、恐怖する人が増えれば、夜の危険が少なくなる。そう考えると、やはりいつもの服装は変えないほうがいいか。

 被害者が悪い人間、悪いことをしようとする人間であることが報道されれば、もっと理想的だが……

 

 とりあえず、一歩進んだ。

 俺はそう納得することにした。



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5 嵐の前

 時の流れは早いもので、もう五月。

 殺せんせーがE組に来てから一か月近くが経つが、暗殺の成果はほとんどなし。

 とはいえ少しはあって……面白いことに、殺せんせーの身体の色は変わる。

 普通は黄色だが、余裕のある時は緑と黄の縞々。怒った時は赤色、さらに怒った時は黒……などなど。ある程度は色で感情を察することが出来る。

 他にも動きなどで殺せんせーを思い知ることが可能だ。例えば……

 

「なんだあれ」

 

 渚とカルマとともに登校しているところ、学校近くの菓子屋で殺せんせーが金髪の女性に抱き着かれているところを見てしまった。

 

 傍には過剰なラッピングがされた車がある。ドンドンと中から誰かが叩いているようだ。

 ははぁん。誰かが女性をナンパし、殺せんせーがそれを助けたってところか。

 

「思いっきりデレてるね、殺せんせー」

 

 彼にひっついている女性は、遠目から見てもわかるほどの美貌で、しかもかなりのスタイルの持ち主だった。

 

 綺麗な白い肌、メリハリのついた顔。日本人ではないようだ。

 豊満な胸を惜しげもなく押し付けられて、殺せんせーの顔はわかりやすく崩れている。

 

 いくら殺せんせーがヅラとつけ鼻を装着していても、あれだけ近づけば人間じゃないってことくらいわかりそうなもんなのに……

 

「エロいことを考えてる時はピンクになると思ったが、安直だったか」

「まあ色が変わらなくても、あんだけ伸ばしてる鼻の下と波打ってる触手でバレバレだけどね」

 

 こういう具合に、豊かな感情を身体いっぱいで知らせてくる殺せんせー。

 それを見る俺たちの視界の端に、坊主頭が映る。

 同じクラスの岡島大河(おかじま たいが)。彼もまた、殺せんせーと同じような緩みきった顔を晒していた。

 

「おい、岡島」

 

 声をかけても、なにやらぶつぶつ言っている。

 彼は思春期の少年らしく、いやそれ以上にエロに敏感だ。

 黙って真剣な顔をしていればかっこいい部類に入るのに……

 

「殺せんせーがああなるのも無理はないな。あれだけの天然もの。俺もこの目で見るのは初めてだ」

「言い方」

「加工が悪いとは言わない。だが、やはり生には生のいいところが……」

「言い方ァ!」

 

 ばしっと頭を叩いてみても彼の表情は変わらない。目線も釘付けのままだ。

 

「ま、あんなドエロボディに触れられたら鼻血の一噴射や二噴射出るのもしょうがないってことよ!」

「その切り替えの早さはなんなの?」

「鼻血の単位に噴射って言葉使う人初めて見た」

「てか見てるだけで鼻血出てるじゃん、お前」

 

 俺たちのツッコミに動じることなく、その場を動かない岡島。

 俺はため息をつきながら、嫌がる彼を引っ張った。

 

 

「そんでさ、いま変化球練習してんだ」

「へえ、今度見せてくれよ。どんなふうになったのか、楽しみだ」

「おう! 期待してろよ!」

 

 朝礼の前に、杉野と談笑。

 殺せんせーが彼に野球指南をしたらしい。

 どうやら、杉野の手首は柔らかく、速球投げよりも変化球向きだとアドバイスしたとか。

 あれだけ投げても速度があまり変わらなかったのは、そういうことだったのか。

 剛速球を投げるプロ選手に憧れている杉野は、しかし落ち込むでもなくきらきらとした笑顔を向けてくる。

 彼を納得させるだけのことを、殺せんせーは示した。それが何で、どうやったかは知らないが、とにかく杉野の力になったのだ。

 

 一瞬、警戒が緩みそうになる。だが再び心を締め直した。

 たとえ杉野やカルマを救おうが、殺せんせーの企みがわからない以上は安心できないのだ。

 E組の教師になることは手段でしかない。その奥に潜む目的がまだ見えない。

 

 チャイムが鳴り、みんなが席に着く。同時に時間ぴったりに烏間先生が教室に入ってきた。

 

「今日から、新しく教師が加わる」

 

 それを合図に、がらりと扉が開いた。

 殺せんせーが入ってくる。烏間先生が指差したのは、その腕にひっついているもう一人だった。

 

「イリーナ・イェラビッチと申します。みなさんよろしく!」

 

 朝の女性(やつ)じゃねーか!

 俺は思った。渚もカルマも岡島も同じことを思ってるだろう。

 

「本格的な外国語に触れさせたいとの学校の意向だ。英語の半分は彼女の受け持ちで文句はないな?」

「仕方ありませんねえ」

 

 烏間先生の言葉で、そういうことかと納得した。

 

 学校の意向。それがありえないことは、俺たちはよく知っている。落ちこぼれのE組のために、学校がわざわざ教師を招くはずがない。

 殺せんせーが来る前、たった一人の教師に全教科を任せていたくらいだ。

 となれば、政府が送り込んだ刺客に違いない。

 

 つまり、朝から仕掛けられていたのだ、この展開は。

 イェラビッチさんの表情も仕草もよく作られているが、本心からじゃない。わかりやすい色仕掛け(ハニー・トラップ)

 だが、殺せんせーはにゅるにゅると触手を動かして、喜びを全身で表現している。

 これは、ひょっとするとひょっとするかも。

 

 

「烏間先生。イェラビッチ先生の履歴書とか、経歴書みたいなのってありますか?」

 

 昼休み。

 殺せんせーもイェラビッチ先生もいない間を狙って、俺は職員室の烏間先生に声をかける。

 休み時間だというのにカタカタとキーボードを打ち込みながら、飲むゼリーでエネルギーチャージしていた。

 この人ちゃんと飯食ってるんだろうか。

 

「気になるか?」

「そりゃ、こんな時期にE組に教師が来るなんて、明らかにおかしいでしょう。みんなも気づいてますよ」

 

 休み時間はもっぱらイェラビッチ先生のことで持ち切りだった。

 午前は英語の授業がなかったため、彼女の様子を窺うことはできなかった。

 暗殺対象や政府の人間とは違う彼女に期待する者もいたが、俺は幾ばくかの不安を感じて、拭いきれなかった。

 

 烏間先生は鞄の中から数枚の紙を出して、渡してきた。

 そこにはイェラビッチ先生のことが事細かに書かれている。誕生日、身長、体重、スリーサイズだったり……

 

 イリーナ・イェラビッチ。

 世界で十一の殺し(しごと)の実績あり。

 十か国語に通じ、料理やマナー、楽器の演奏……それだけでなく、持ち前の美しさで人を魅了し、ターゲットに近づいて殺す。

 

 プロの……殺し屋。

 ついに来たか。

 俺たちがやってるような『ごっこ』ではなく、それを生業としてる者の登場。

 このクラスが本当に暗殺の場だと思い知らされて、一瞬目まいがする。

 

 歳は……二十。思ったよりも若いが、予想の範囲だ。

 

「殺し屋を学校が雇うのは問題だ。表向きは教師として、ちゃんとするように言っている」

 

 俺は顔をしかめた。

 

「不安か?」

「顔見ればわかるでしょう」

 

 この資料を見たところ、彼女に教師経験はない。

 それだけで判断するのは早いが、どうも彼女には教師を全うする気がないように見える。

 学校生活なんてどうでもいいことだと、ここで無茶な暗殺計画を遂行されてはかなわない。

 油断させて近づいてナイフで一刺し。それで上手くいくなら万々歳だが……爆発だとかでみんなを巻き込むのだけはやめてほしい。

 

 危険かどうかは近くで注視するほうが早いか。

 俺は校舎を出てすぐのグラウンドに足を運ぶ。そこではみんなが集まって、ボールを木製のナイフで浮かしたり、叩いたりしていた。

 烏間先生考案の練習だが……詳しい説明は省かせてもらう。

 

 ちょうど全体が見渡せるまで近づいた時、殺せんせーはイェラビッチ先生に何かを言われ、ロケットのように飛んで行った。

 おねだりされたのだろうか。

 色仕掛けにはまっている様子の殺せんせーはもう見えなくなり、空を見上げてもどこにもいない。

 

「えーと……イリーナ、先生? 授業始まるし、教室戻ります?」

 

 委員長の磯貝が、おそるおそる訊く。

 その瞬間、先生の纏う気配ががらりと変わった。

 

「授業? ……ああ、各自適当に自習でもしておきなさい。それと、ファーストネームで気安く呼ぶのやめてくれる?」

 

 殺せんせーに見せていたのとは全く違う、嫌悪感まるだしの表情。

 それどころか、中学生の前でタバコを吸い始めた。

 甘えた顔も声も一切ない。こっちが素だろう。

 

 その様子に、みんなは驚きつつもむっとした。

 子どもだからか、E組だからか。見下す目は、俺たちが一番よく見る目で、一番嫌いな目だ。 

 生徒を生徒とも思わない大人の目。

 

「なんだか、また面白そうな人が来たね。いじりがいがありそう」

「そういう視点で見るのはお前くらいだ、カルマ。授業やる気ない先生なんて、こっちからしたら迷惑でしかないだろう」

「で、どうすんの、ビッチねえさん」

「略すな!」

 

 ひどいあだ名で呼ぶカルマに対して少し取り乱したものの、イェラビッチ先生はすぐに平静さを取り戻した。

 

「大人には大人のヤり方ってもんがあるのよ」

 

 彼女が俺たちからふいと目を離す。

 俺たちの登校路の向こうから、何かがやってくる。黒塗りの大きな車。スモークが貼ってあるせいで、中はまったく見えない。

 それは目の前で止まると、急停止した。中からは、屈強な男が三人出てきて、無言で中から何かを取り出している。

 ずっしりと重たそうな大きい鞄を背負って、その男たちがイェラビッチ先生の後ろに立った。

 

 彼女の武器は、その身体や技術だけではないのだ。

 今までで手に入れたコネ。それもまた立派な武器。

 従う男たちを使うのが、イリーナ・イェラビッチのやり方の一つなのだ。

 

「見ておきなさいガキども。プロのやり方ってものを見せてあげるわ」



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6 倉庫の中の嵐

 考えれば考えるほど、安全ではない気がしてきた。

 

 イリーナさんが従える男たちが肩に抱えていた鞄はかなり重量があるようだった。鞄紐の肩への食い込み方を見てわかった。

 中には銃が入っていることだろう。だがその重さからして、E組が使っているようなのとはモノが違う。

 違いの答えは一つ。奴らが持っているのは本物の銃だから。

 

 おそらく、対先生用のBB弾に疑問を持ったのだろう。本当にこんなものが効くのか、と。それならば信頼のおける実銃弾を何十発、何百発と撃ち込んだほうがいい。

 そう考えるのも無理はない。疑うなら、信頼のおける武器を使うのも一手だろう。たとえそれで失敗しても知らん……がしかし、問題はそれを持ち込んだ場所だ。

 

 校舎のすぐ横、体育で使う用具をしまっている倉庫。教室からは見えないが、すぐそこの距離。流れ弾がこちらに飛んでくる可能性もなきにしもあらず。

 そうならないような配置をするようにしているだろうが、絶対はありえない。運悪く誰かが、例えば時々授業をサボるカルマがその近くを通る可能性だってあるのだ。

 ただ祈るに任せて、じっとしているつもりはない。

 

 イェラビッチ先生が授業にやる気がないのは幸いだった。

 『ちょっと気分が悪い。外の空気を吸ってくる』と言っても、怪しまれることなく教室を抜け出せる。

 もしかしたらそのまま直帰するかもと鞄を持っていっても、何も言われなかった。

 

 教室を出て、すぐさま倉庫に向かう。周辺に誰もいないことを確認。

 窓から中を覗くと、男が三人、暗殺準備の最終確認をしていた。

 どこで待機していれば殺せんせーにばれないか、どの角度なら多く弾をぶちこめるか。

 ほとんど準備は終わっているみたいで、少し気の緩みが顔から感じられる。

 やるなら今。

 

 鞄からフード付き迷彩服とマスク、ゴーグルを取り出して急いで着替える。

 

 そしてもう一つ。殺せんせーの弱点を見つけるためと嘘ついて貰ったスモークグレネードを手に取る。

 ぶっつけ本番だが、使い方は烏間先生に教えてもらったから大丈夫なはず。

 

 一つのミスもしないように気を引き締め……ピンを外して窓から投げ入れる。

 プシューという音とともに、煙が噴出してみるみる中を満たしていく。

 倉庫の中がすべて白く染まり、男たちの咳が聞こえてきたタイミングで、俺は正面から踏み込んだ。

 

 素早く扉を開け、入り、閉める。

 何者かが侵入してきたことを相手は察知しただろうが、視界は真っ白。おまけに催涙効果のあるガスのせいで、まともに動けない。

 対して俺はマスクとゴーグルのおかげでそれを無効化できている。

 いかに大人相手だろうと、この中で有利なのは俺だ。

 

 咳とぼんやり見える輪郭を頼りに、一番近い男の顎を打ち上げる。

 さらに足をひっかけて大きな図体を転ばし、顔を三度殴りつける。気絶とはいかないが、すぐには動けないだろう。

 

 まずは一人。少しだけ安心した俺の視界の隅で、何かが動いた。

 俺は真っ白な中でも見えないことはないし、充満した煙の動きが相手の攻撃を事前に教えてくれる。それが近づいてくるもう一人だということは考える前に気が付いた。

 飛んでくる拳を掴んで、その勢いを利用して相手の身体を浮かしてぐるりと回転させる。一瞬宙を舞った男は、受け身の取れないまましたたかに床に背中を打ち付けた。

 肺から空気が押し出され、それを補填するために息を吸う。しかし周りは吸えば吸うほど辛くなるガス。

 これで二人目も終わり。

 

 顔を上げて目標を探すが、先ほどまでそこにいた最後の一人の姿がない。

 しまったと思った時にはもう遅かった。後ろから掴まれ、軽々と持ち上げられる。

 投げられた俺は跳び箱に衝突して、床に転がった。

 さらに男は馬乗りになって、俺の顔面を一発殴る。

 暗殺者か軍人か、ともかく鍛え上げられた男の一撃で、俺の意識は飛びそうになった。視界がぐらりと揺れる。

 俺は痛みに喘いだが、追撃はなかった。目を凝らすと、相手は咳き込んでいる。ならチャンスだ。

 

 段がばらばらになった跳び箱の中に手を突っ込む。そこには俺の観察どおり、固い感触があった。

 もともと男たちの一人がここに隠れ、撃つはずだった実銃。

 セーフティはかかっているはず。俺は即座にそれを掴んで、両手で持つ。

 男の喉元へ、銃床をぶつけた。

 男が大きく揺れ、倒れる。

 続いて何度も何度もその鼻っ柱に拳を叩き込んだ。相手が咳き込むのと一緒に血を吐こうが構わない。

 心が落ち着いたころに、ようやく手を引っ込めた。

 

 俺はもう一度周りを見渡した。三人とも倒れたまま立ち上がる様子はない。打撃と煙で、意識が朦朧としていた。

 

 ここで安堵している場合じゃない。俺は急いで扉から外に出る。

 幸い、周りには誰もいない。ちらりと校舎のほうを見ても、こちらに気づいている者はいなかった。

 煙を閉じ込めておくために、入った時と同様、すぐに扉を閉めた。

 

 男から食らったパンチがまだ脳をぐらつかせている。

 倒れる前に、俺はその場を離れた。

 

 

 結果として、イリーナ・イェラビッチの暗殺は失敗に終わった。

 あのあと倉庫に連れ込まれた殺せんせーが見たのは、刺激を与える煙と転がる男たち。

 ビッチ先生が暗殺の準備をしていたこと、それが何者かに邪魔されたことは明白。警戒度が増した殺せんせーを暗殺できるはずもなく、イェラビッチ先生は大人しく引き下がった……のはいいのだが。

 

「チッ」

 

 舌打ちをしながらタッチパッドを叩くイェラビッチ先生の顔は明らかにイラついている。

 考えていた暗殺プランが知らぬ間に崩されたことで怒っているのだろう。

 

 彼女を一番悩ませているのが、その失敗の原因がわからないことだ。 

 あの男たちを倒したのが殺せんせーじゃないなら、このE組が怪しい。かといって、ただの中学生が大人三人を打ち負かすとは思えない。

 該当時間に教室にいなかった俺が一番疑われるところだが、たった一人じゃ無理だろうとすぐ除外。

 次いで烏間先生たち防衛省の人間だが、あの人たちがわざわざ暗殺の邪魔をするとも考えづらい。

 考えうる限りの容疑者は、イェラビッチ先生の頭から除外された。

 得体の知れない何者かが存在する。そのことが暗殺手段を狭める。

 彼女は殺せんせーの暗殺の前に、その何者かに対する対策も考えなければならないのだ。頭はいっぱいいっぱいだろう。

 

 それはそれとして。

 

「先生、授業しないなら殺せんせーに代わってくれませんか?」

 

 代表して、委員長の磯貝が言う。

 

 不満を抱えているのはイェラビッチ先生だけでなく、俺たちもだ。

 受験の年、とりわけ俺たちのような底辺の生徒にとってはこの一時間が明暗を分ける。

 イェラビッチ先生が教師としての役割を果たさないなら、殺せんせーにチェンジしていただきたい。

 

 そう言っても、イェラビッチ先生は小馬鹿にした態度で鼻を鳴らす。

 

「地球の危機と受験を比べられるなんて、ガキは平和でいいわね」

 

 そこまでは良かった。だが、次の言葉がクラス全員の琴線に触れた。

 

「それに、聞けばあんた達、この学校の落ちこぼれだそうじゃない。勉強なんて今さらしても意味ないでしょ」

 

 ピキリ、と冷たい空気が張り詰める。

 

 殺せんせーの質のいい授業を受けているとはいえ、本校舎に及ぶかと言われれば、まだ少しきつい。下の人間だということは自覚している。

 しかし、自虐するのと他人から言われるのとでは天と地の差がある。

 地雷を踏んでしまったイェラビッチ先生の横を、消しゴムが掠める。

 

「出てけよ」

 

 誰かが言った。

 それに呼応するように、あらゆる生徒が感情のままに口と手を動かしだした。

 

「出てけよ、くそビッチ!」

「殺せんせーと代わってよ!」

「てめーだって暗殺失敗してるくせに!」

 

 ここで彼女は失言に気付いたが、もう遅い。

 怒号散る教室で物が舞う。鉛筆や教科書、果ては鞄。対殺せんせー用の銃やナイフまで持ち出す者もいる始末。

 まあわかりやすく馬鹿にされたのだ。こんなことにもなろう。

 しかし……

 

「学級崩壊なんて本当にあるんだな」

 

 危機が去って一安心していた俺は、ぼんやりとその様子を眺めながら呟いた。

 

 男たちの一人に殴られ、軽く脳が揺れて気持ち悪い。だが、これは意外にも幸運なことだった。

 演技せずとも気分が悪いのが見て取れるから、本当に体調不良なんだなとみんなが察してくれる。

 俺を疑う目はますます晴れた。

 しかしこのままじゃ授業もまともに受けられないな。少し外の空気でも吸ってくるか。

 

「あれ、國枝どこ行くの?」

「外」

 

 カルマにそう返して、席を立つ。

 わーきゃー騒いでいる教室の後ろをこっそり通り、校舎の外に出て水道でインクを洗い流す。

 

「どうせなら、このまま帰ろうかな」

 

 あのままだと、授業はまともに進まない。なら早めに帰って休むなり、勉強を進めるなりしたほうが効率的だ。

 

「そんなわけにもいかんか」

 

 生徒からの逆襲を受けたイェラビッチ先生が次に何をしてくるかまで見届けないと、不安は残ったままだ。また実銃なんぞ持ち込まれたら困る。

 痛みと気持ち悪さが抜けるまで待って、ため息をついて、蛇口を閉じた。

 

「なんなのよ、あのガキ共!」

 

 職員室の前を通り過ぎようとしたところで、イェラビッチ先生の叫ぶ声が聞こえた。

 近づいて、耳を立てる。

 

「こんな良い女と同じ空間にいれるのよ? ありがたいと思わないわけ?」

「ありがたくないから軽く学級崩壊してるんだろうが」

 

 烏間先生の怒ったような口ぶり。

 

「私は教師じゃないの! 暗殺に集中させてよ!」

「暗殺のみに重点を置くなら、お前より生徒たちのほうが何倍も優れていることになる」

 

 イェラビッチ先生の抗議。それに対して、烏間先生は冷静に返す。

 

「な、なんでよ! 私はプロよ!?」

「この場で、お前に与えられた役目は教師として奴に接近し、殺すことだ。わかるか、教師としてだ。奴がこのクラスにこだわる以上、お前が適任だから任されているんだ」

 

 声だけでも彼女の動揺が手に取るようにわかった。そんな彼女に、烏間先生は一つひとつ、わかりやすく説明を行う。

 

「生徒たちは、もちろん勉強も頑張っている。だが、俺のトレーニングについてきて、暗殺の腕も磨いている。将来のことも考えているが、同時に今の地球の危機もわかっているんだ」

 

「暗殺対象である奴でさえ、教師という顔をこなしている。事実、奴が来てからの成績上昇は芳しい。このクラスでは、誰もが二つの顔を使い分けられているんだ」

 

 暗殺者と学生。暗殺対象と教師。

 俺たちは二つの顔を持っている。それが与えられた役割で、必要だからだ。地球を救うために、あるいは百億円を掴むために必要だからだ。

 

「わかるか、ここで、お前が教師になることとプロであることを証明することは、イコールなんだ。出来なければプロ失格。お前には、ここで教える権利も暗殺をする権利もない」

 

 それ以上は、どちらも何も言わなかった。

 

 

 休み時間終了の鐘が鳴った瞬間、ガラリと教室の扉が開く。 

 殺せんセーが来るものと思っていたみんなは、入ってきた人物に対して敵意の目を向けた。

 イェラビッチ先生だ。

 

 彼女は緊張の面持ちで教壇に立つと、扱いにくいはずのチョークで、黒板に綺麗な英文を描く。

 

「you're incredible in bed. 言って!」

 

 突然のことに、俺たちは呆気にとられる。

 急に入ってきて、急に何か書いたと思えば、急に繰り返しを求められる。

 もう一度促されて、勢いのままに従う。彼女のような綺麗な発音とは、もちろん程遠いが。

 

「アメリカでとあるVIPを暗殺したとき、まずそいつのボディーガードに色仕掛けで接近したわ。その時彼が私に言った言葉よ」

 

 まだこわばっているのか、ほんのわずかに震える肩を見せまいと、毅然と胸を張りながら彼女は言った。

 

「意味は『ベッドでの君はスゴイよ……』」

 

 思わず、驚いて吹き出しそうになった。なんて文章読ませるんだ。

 

 それから彼女は言葉をつづけた。

 彼女が経験してきたのは、殺し屋として培った多言語を操る能力。教えられるのはそれだけ。

 元々教師ではない。だから、日本の勉強用の英語なんて教えられない。彼女にできるのは、例えば俺たちが外国に行ったときに困らなくなるような、実践的な英会話術。

 

「もし……それでもあんた達が私を先生と思えなかったら、その時は暗殺を諦めて出ていくわ」

 

 一転、自信を飾っていた態度が消え、まるで親の機嫌を伺う子どものように手を合わせ、こちらを見る。

 

「そ、それなら文句ないでしょ? ……あと、悪かったわよ、いろいろ」

 

 最後のほうは小さかったが、静かになったこの教室では一番後ろまで聞こえた。

 

 途端に笑い声が広がる。

 反省してくれていることはわかっている。謝罪と、これから教師として何を教えてくれるか。それをびくびくとしながらも伝えられ、追い出すやつはいない。

 

「なんか、普通に先生になっちまったな」

「もうビッチねえさんなんて呼べないね」

 

 歓迎ムードとなったみんなが、イェラビッチ先生を受け入れる。

 この様子に、彼女も笑顔を見せてくれた。

 

「考えてみりゃ、先生に向かって失礼な呼び方だったよね」

「うーん、呼び方変えないとね」

 

 嬉しそうにうんうんと頷く先生。

 

「じゃ、ビッチ先生で」

 

 だが、その言葉で固まってしまった。

 

「えっ……と、ねえキミ達。せっかくだからビッチから離れてみない? ホラ、気安くファーストネームで呼んでくれて構わないのよ」

「でもなあ、もうすっかりビッチで固定されちゃったし」

「うん、イリーナ先生よりビッチ先生のほうがしっくりくるよ」

 

 生徒たちが良い笑顔で、口々に『ビッチ先生』と呼び出す。

 そのたびに、ビッチ先生の額に青筋が浮かんでいく。

 

「あーあ、大変だね、ビッチ先生も」

「呼び始めたのお前だけどな」

 

 俺はカルマにツッコみつつ、飛んでくるビッチ先生の怒号に耳をふさいだ。



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7 蟲が這うように

「ねえ、あんた」

 

 廊下から職員室の中を覗き見していると、ビッチ先生に声をかけられた。

 嫌なものを感じて、瞬時に一歩下がる。

 その瞬間、腕が目の前まで迫ってきていた。避けなかったら彼女に捕まっていただろう。

 

「なんですか。急に襲ってくるなんて」

「へえ、あたしの動きを避けるなんてやるじゃない」

 

 感心したような、拗ねたような口ぶり。

 

「あんただけ、いつもあたしのこと避けるわよね。おとなしくキスされなさいよ」

「嫌ですよ。わざわざあんたの遊びに付き合ってられるほど、こっちは暇じゃないんで」

「遊びってなによ遊びって!」

 

 ビッチ先生の授業は過激だ。

 中学生に読ませるには年齢対象が高めの英文。正解しても誤答しても公開ディープキスの刑。

 だがそれのおかげで、強烈にインプットされる。授業が終わった後でも簡単に思い出せるほどだ。

 それはありがたいんだが、どうも慣れん。

 

 殺せんせーに、烏間先生に、ビッチ先生。

 スペシャリストが揃って、E組の学力も身体能力も加速度的に上がった。

 喜ばしいことだ。陰鬱だった教室の雰囲気はがらりと変わり、余裕すらある。

 

「んで、こんなところでなに立ち止まってんのよ。カラスマかあいつに何か用? それとも私?」

「いえ、ただちょっと珍しい人がいるもんで」

 

 妖艶に唇をなぞる仕草を無視して、俺は職員室の中を指差す。

 そこには三人。一人は殺せんせー、一人は烏間先生。もう一人は……

 

 椚ヶ丘中学・高校の理事長である浅野學峯(あさの がくほう)だ。

 糊のきいた高級スーツ。ブランドの時計。よく磨かれた靴。だがその全てが、あくまで理事長を引き立たせる物でしかない。

 崩れることのない伸びた姿勢。一見優しそうに見えながらも鋭く、威圧感を醸し出す目。何より、いかにも頭のよさそうな顔。足を組んでいるいまでさえ、写真を撮れば映えそうなほどスタイルが良い。

 見た目だけで優秀だとわかる。だが、はっきり言って、俺は理事長が嫌いだ。

 柔和な笑みに、その目に底が知れないものを感じる。暗いものを抱えている彼をじっと見ていると、こっちの気持ちが悪くなる。

 E組に落ちて、関わってこないようになってからは気にしなくなったが、またこうやって姿を見ることになるとは……

 

「この六面体の色を揃えたい。素早く沢山、しかも誰にでもできるやり方で。あなた方ならどうしますか、先生方?」

 

 そう言うと、理事長は手に持ったマイナスドライバーを、弄んでいたルービックキューブに突き刺し、力を入れた。

 

「私ならこうする」

 

 ばらばらと27個のブロックが机に散らばる。

 そのやり方に、殺せんせーと烏間先生は眉をひそめた。

 

 物事に対して、効率的なやり方を表すことのできる柔軟さと、それが出来る道具……つまり持っているものの差。

 それを理事長は示した。

 

 殺せんせーがいかに超生物としての能力を持とうが、それを上回るものを持っていると言っているのだ。

 そして、実行するに不必要な躊躇というものをためらいなく捨てることが出来る決断力の高さ。

 上に立つ者としての実力と経験を、今の一挙動で見せつけられた。

 『教師』という肩書をもつ殺せんせー。超生物の存在を秘匿したい烏間先生。

 そのどちらに対しても、理事長は上に立っている。

 

 わざわざ見せつけるために、ルービックキューブひとつ壊すかね。そういうところが苦手だ。

 

 あとの会話は、特に面白いものじゃなかった。

 彼の教育理念を聞かされただけ。

 多数の優秀を作るために、少数の底辺を見せつける。

 底辺の環境が劣悪であるほど、優秀は落ちることを恐れ、常に上を目指す……という、生徒たちは誰もが知っている縮図。

 

 満足げな理事長は音もなく立ち上がると、こちらに近づいてくる。

 俺は急いで後ろに下がった。

 

 扉を開けた理事長は正面にいる俺を見るなり……

 

「やあ、國枝くん」

「どうも、こんにちは。浅野理事長」

 

 いまいち感情の読めない表情で話しかけてきた。

 嫌悪感はあるが、表に出さずに一礼。

 

「E組の居心地はどうだい?」

「それなりですよ。少なくとも、勉強漬けの本校舎よりはマシです」

 

 それから、浅野理事長は品定めするように、俺の顔をじっと見た。

 

「どうしました? 一言で去っていくものと思っていましたが」

「いや、不思議なものだと思ってね。成績も悪くなく、態度も優秀だった君が、どうして望んでE組になったのか……」

 

 俺は眉をひそめた。

 今更そんな話……しかもビッチ先生の前で言うんじゃない。

 

「私の予想では……」

「E組に構っているほど暇じゃないでしょう、理事長。もどって仕事しないといけないんじゃないですか」

 

 E組を強調して言う。

 彼がここに来たのは殺せんせーがいるからで、そうじゃなければ見向きもしなかったはずだ。

 ここの一生徒に対して、不思議に思うことなんて何もない。

 

「……中間テスト期待してるよ」

 

 少しだけ逡巡したあと、そう言って去っていった。

 ぞくりと、嫌な予感が背中を伝った。まるで、無数の蟲が這い寄るように。

 あの人の、あの乾いた笑顔が嫌いだ。一見すると爽やかだが、その中にはなんの感情もない。

 そんな顔を、俺はずっと向けられてきた。だからどうしても、理事長のことは好きになれない。

 

「何よあいつ、いけすかないわね」

 

 今回ばかりは、ビッチ先生の言葉に賛成だ。

 

 

「さあさあみなさん、気合を入れてください! 中間テストはすぐそこですよ!」

 

 パンパン。いや、ぷにぷにと触手を叩いて俺たちを鼓舞しようとする殺せんせー。

 理事長にこけにされ、対抗意識が燃えているらしい。

 すぐそこ、というか明日なのだが。

 

 超高速の残像を利用した分身が二体、本体と合わせて三体の殺せんせーが並んでいる……と思いきや、数十体にまで増えた。

 いやいや、昨日まではそんなに増えていなかっただろう。そんな急に進化したのか?

 殺せんせーはクラス全員分以上の分身で個人授業を行い、得意科目を伸ばし、苦手科目を潰していく。

 そんなのが長く続くわけもなく……

 

「さすがの殺せんせーもバテたみたいだな」

 

 菅谷が言う。

 授業が終わったところで、殺せんせーは今までに見たことがないくらいぐったりと、教壇に倒れ込んでいた。

 

「ねー、なんでそんな頑張るのよ」

「俺ら勉強はそれなりでいいのに」

「いいえ! 必ず成績トップまで追い上げてみせましょう!」

 

 殺せんせーはがばっと起き上がるが、大半が首を横に振る。

 

「無理無理」

「だって俺らE組だぜ? どんだけやっても、本校舎のやつらには追いつけないって」

 

 みんなはやる前から諦めムード。先ほどの強化授業だって、正直、熱が入っているとは言いづらい。

 殺せんせーはしばし考え込んで、やがてふるふると首を横に振った。

 

「今のE組にとって、何が問題かわかりますか? ……そうですねえ、國枝くん、答えてもらいましょうか」

「俺が?」

「ええ。どうやら君が一番状況をわかっているようですから」

 

 いきなり名指しされ、驚く。

 何を証拠に……この間、カルマのことを相談しに行ったからか? いやいやそれくらいで俺のことをわかりはしないだろう。

 だが、なにかしらの確信があって訊いてきてるのだ。

 みんなの目がこちらを向く。どうやら、逃げられはしないようだ。

 

「問題は、ほぼ全員がやる気がないこと、かな」

「いやいや、俺らちゃんと勉強してるし。成績も上がってる」

「それは、そこそこのレベルに達すればいいっていう考えで、だろ?」

 

 反論する磯貝に、俺も応える。

 

「殺せんせーを殺せれば百億円。手に入ればその後の人生はどうとでもなる。だから、勉強はそれなりでいい。一定以上の高校、大学に行ければ困りはしない……ってな」

 

 これは、みんなが自覚していることではあるが、目を背けていることでもある。

 劣等感から逃げるために、あえてそれを受け入れる。それがこの諦念の正体。

 

 椚ヶ丘のE組というシステムが作り出した地獄にどっぷりと漬かっていると、いつの間にか抵抗の意思と力を奪われる。

 それが浅野理事長の狙いだ。

 良い生徒をさらに上げ、落ちこぼれは落ちこぼれのままでいさせる。それに慣れてしまったのだ。

 

 喋りすぎた。俺は殺せんせーに向き直る。

 

「もういいだろ」

「いいえ、まだ十分ではありません。しっかりと言葉にしてもらわなければ、みんなは理解できないままでしょう」

 

 正論で返された。

 そう、わかっているのに避けているとは、つまりそういうことなのだ。

 殺せんせーは無理やり目を向けさせて、自分たちの惨めさを痛感させようとしている。それで奮起してくれればと。

 

「お前たちのその考えは、つまり殺せんせーがここにいるという、他の人にはない有利な立場の上に成り立つものだ。なら、もし殺せんせーがいなくなったらどうなる? 勉強に打ち込むか? いいや……」

 

 俺は頭を振った。

 

「あとに残るのは、底辺の立場と向上心のない心だけだ」

 

 わかっていて何もしない俺はそれ以下だ。という言葉は言わなかった。

 

「私だって、教師としてもやっていくって決めたのよ。あんた達が暗殺のみを頼りに生きるなら、教室(ここ)では何でもない人間と同じよ」

 

 教室の端で見ていたビッチ先生が言葉を継ぐ。

 烏間先生に叱られ、プロとしての矜持を見せるべく教師となったビッチ先生の言葉は重かった。

 

 最初、彼女に酷いことを言われ、みんなは怒ったが、それは的を射ていたから。

 そこから成長したのは、ビッチ先生ただ一人で、E組の生徒はみなその場に留まったまま。そのことに対して思うところがあったのだろう、彼女は口を挟まずにはいられなかった。

 あの時とまた同じ言葉を投げかけられても、俺たちに怒る資格はない。

 

 いや、元々なかったのだ。

 ビッチ先生の言う通り、俺たちは落ちこぼれで、このままだと落ちこぼれのままだから。

 

「必要なのは、私が逃げたり、他の誰かに殺されたりしても簡単に人生設計を組みなおすことのできる計画性。それを可能にする武器……第二の刃です」

 

 次は殺せんせーが口を開く。

 

「もしも君たちが自信を持てる第二の刃を示せなければ、相手に値する暗殺者はこの教室にいないとみなし、先生は去ります」

 

 いきなりの宣言に、俺たちだけでなく烏間先生もビッチ先生も驚く。

 彼の言う『第二の刃』を見せつけなければ、彼はいなくなり、そうなれば烏間先生もビッチ先生もいなくなってしまう。

 E組はどん底のまま這いあがれなくなるだろう。全てが中途半端で終わってしまう。

 

「第二の刃……いつまでに?」

 

 ごくりと喉を鳴らしながら、渚が訊く。

 

「決まっています。明日です。明日の中間テスト、クラス全員50位以内を取りなさい」

「ご、50!?」

 

 A~D組まで含めて、三年生全員で188人だぞ。E組27人以外の、161人を退けろっていうのか。

 

「君たちの第二の刃は先生が育てています。本校舎の教師たちに劣るほど、先生はトロい教え方をしていません」

 

 しかし、全員が50位以内となるととてつもなく厳しい戦いになる。

 進学校である椚ヶ丘中学の、さらにエリート集団であるA組。その半分以上を下さなければ達成することのできない勝利条件。

 俺たちには無理に近い。

 だが、殺せんせーはなぜか自信をもったような口ぶりと表情で言う。

 

「自信をもってその刃を振るってきなさい。仕事を成功させ、恥じることなく笑顔で胸を張るのです」



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8 暗闇からの一撃

 授業中でも暗殺中でもないのに、俺たちは机に座って緊張している心を整えていた。

 今日は中間テストの日。三年生になってから最初のテストだ。俺たちの実力を示す本番。へまは許されない。

 

 すでにテストは配られ、裏のまま机の上に置かれている。

 本校舎からの教師が監督役として椅子にふんぞり返っていた。教壇をコツコツと指で叩き、露骨に集中を乱してくる。

 イラっとするが、心を穏やかに落ち着けて目を瞑り、二度深呼吸。

 いつもの勉強をしている時と同じだ。焦っては実力が出せない。

 殺せんせーやビッチ先生の授業を思い出せ。そう、いつも通りだ。目の前の問題を解くだけだ。

 

 柵が開かれ、闘技場へ駆け込む……というようなイメージが、俺の中では繰り広げられていた。

 大丈夫だ。やれると念じつつ、もう一度深呼吸する。

 ゴング代わりにチャイムが鳴り、テストが始まった。。その瞬間、俺は武器(えんぴつ)を取って、問題と向き合う。

 最初の教科は数学。

 

 まずは一問目。さすがにここでつまづくようなことはない。

 弱いものの代表として、スライムのようなモンスターが目の前に現れるイメージが見える。

 すれ違いざまに蹴り倒して、次へ向かう。

 二問目、三問目、四問目。これも大したことはない。思ったよりも時間を使わされたが、解けないことはなかった。

 

 次々と解いていって、十問目。人型のトカゲが迫りくる。

 先制の爪が襲ってきたところを、なんとか受け止める。弾き返せるかと思ったが、予想よりも重い。

 間一髪のところで逸らして、距離をとる。

 勇み足すぎたか。じりじりと詰めてくるのに対し、俺はそのぶん遠ざかりながら観察をする。

 見た目以上に堅そうだ。ちゃんと弱点を見つけて奥まで突き刺さないと丸はもらえないだろう。

 しかし……適切な攻撃手段が見つからない。数学は得意じゃないぶん、公式を詰め込んできたはずだが……こんなの習ったか?

 いやしかし、問題文をしっかり読み込んで、別のアプローチを仕掛ければなんとかなりそうだ。

 ……と思ったが、どんな攻撃をしかけても鱗が邪魔して、少しの傷しか与えられない。

 

 引っかけ問題? いや違う。

 対処しようのない敵。未知の存在。つまり……習っていない箇所だ。

 テスト範囲だと思っていたところより、少し進んだところ。解き方を教えてもらっていないのに、出来るはずがない。

 俺が持っている武器は、全て意味のないものになってしまった。

 避けることも防ぐこともできず、敵の一閃をもろに受けてしまった俺はその場に倒れこむ。

 

 くそ、これが……あの理事長のやり方か。

 俺は舌打ちした。やはり、俺はあの男が嫌いだ。

 

 まだ時間はある。

 こいつは放っておいて、別のを倒しに行くことに決めた。

 しかし、振り向いた瞬間、禍々しい瘴気を発する次の問題に、俺は一刺しされてしまった。

 

 

 テストが終わり、結果発表の日になっても、俺たちE組の空気は重たいままだった。

 途中まですらすらと解けていたぶん、絶望が大きい。

 

 結果から先に言うと、俺たちのほとんどは50位以内には入れなかった。それどころか、下から数えたほうが早いくらいだ。

 俺も合計点数336点。188人中で92位。ギリギリ、半分から上程度。誇れるような点数じゃない。

 各教科、解けなかった後半問題に点数の比重が傾いていたため、思っていたよりも点数が激減していた。

 範囲通りなら、400点は取れていた自信があったのに。

 

 そう、範囲通りなら、だ。

 テスト直前で大幅に変えられてしまったのだ。そのことを、俺たちは知らされていない。

 

 テスト後、烏間先生は本校の先生に抗議したが、『範囲変更の通知はした。そちらが本校に来ないから伝わらなかったのだろう』という意地の悪い答えで返されてしまった。

 そう言われればそこまで。実際、本校舎にいる生徒たちには、そのことは知らされていた。

 こちらの誰かが訊いていれば教えてもらえただろうが、テスト範囲が変更されるかどうかを質問するなんて、頭に浮かぶはずもない。そこまでのことをしてくるなんて考えられない。

 

 本校の先生は、俺たちに点を取らす気なんてなかったんだ。

 E組以外の全員が敵。そのことを再び突きつけられて、俺たちの士気は大幅に下がってしまった。

 

 勝つことなんてできない。

 流石の殺せんせーもしょんぼりとうなだれ、ガムを膨らます寺坂を注意もしない。

 

「無理だったんだよ、結局。ちっとでも夢見た俺が馬鹿だったぜ」

 

 寺坂がそんなことを言った。それを否定する者はいない。

 少しは自信があったのだろう。不良というか、態度が悪い部類に入る彼だって、彼なりに勉強していたことを知っている。

 だが蓋を開けてみれば、がっつり下の成績。

 ふてくされてしまうのは当然だ。

 

「先生の責任です。この学校の仕組みを甘く見すぎていたようです。君たちに顔向けできません」

 

 文字通り背中を向けて、殺せんせーが何も書いていない黒板を見つめる。

 殺せんせーも同じことを感じている。俺たちなら出来ると豪語したその裏には、教えたことに対する責任と自信があった。

 それを打ち砕かれて、落ち込んでいる。

 

 理事長がバラバラにしたルービックキューブ。それのように、殺せんせーの心は落ちてしまったのだろうか。

 

 その頭へ、刃が迫る。

 

「にゅやっ!?」

 

 ぎりぎりで避けた殺せんせー。ナイフが黒板に当たり、床に落ちた。

 

「いいの~? 顔向けできなかったら、俺が殺しにくんのも見えないよ」

 

 投げたのはカルマ。

 彼だけは他と違って、全くしょんぼりとした様子を見せない。

 その理由、証拠を彼は示した。

 

 妨害も俺には関係ない。カルマはそう言って、自分のテストを殺せんせーに見せる。

 全て90点以上。数学に至っては百点。

 総合点数は494点。他のクラス含めた三年生全体で見ても、4位という大快挙だ。

 

「あんたが先々まで教えてくれたおかげだよ」

 

 彼は暴力行為でこのクラスに落ちただけだ。元々成績自体はA組に劣らない。それどころか校内でもトップクラス。

 そのため、事前に告げられていたテスト範囲であったところから、彼だけはさらに先へ進んでいたのだ。

 

「だけど、俺はE組出る気ないよ。前のクラス戻るより暗殺のほうが全然楽しいし」

 

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、カルマは殺せんせーに近づく。

 

「……で、どーすんのそっちは? 全員50位に入んなかったって言い訳つけて、ここからシッポ巻いて逃げちゃうの?」

 

 ついに殺せんせーの目の前まで来た彼がさらに挑発する。

 悪い顔だ。停学明けに初ダメージを食らわせたときよりかは爽やかだが。

 それを受けて、殺せんせーの顔が少し赤く染まる。ちょっと怒っているのだ。

 

「それって結局さぁ、殺されんのが怖いだけなんじゃないの?」

 

 ちらりと、カルマが俺を見る。

 乗れ、ということか。

 

 殺せんせーの教えでみんなの成績が格段に上がったのは確かだ。

 彼がいなければ、範囲を変えられなくてももっとひどい点数になっていただろう。

 その助けはこれからも必要だ。先生たちによる質のいい授業と百億円の懸賞金が、E組のモチベーションとなり力になる。

 それをわざわざ手放す気は、俺にもない。

 

「そりゃ怖いんだろうさ。だけど、ここから逃げる口実を作れば殺される心配はないだろうし、なあ?」

 

 落ち込んでいた空気が緩まる。

 みんなも、カルマの意図を把握しだした。

 

「なぁんだ、殺せんせー怖かったんだ」

「言ってくれればいいのに、逃げたかったから無茶な条件出しましたって」

「にゅやーーーーっ!」

 

 先ほどの様子はどこへやら、いつも以上の勢いで触手を挙げる。

 にやりにやりと笑うみんなに対して、殺せんせーはがぜんやる気を出す。

 

「逃げるわけありません! 期末テストであいつらに倍返しでリベンジです!」

 

 わかりやすい殺せんせーの負けん気に、俺たちはまた笑い出した。

 それと同時に、思いを一つにする。

 俺たちだって負ける気はない。この悔しい気持ちを、次にぶつけて勝ってみせる。

 今までずっと下にいたんだ。あとは上がるだけ。

 

 全力で勝とうとする生徒と、全力で勝たせようとする先生。

 ようやく、このクラスはまとまりを見せた。

 

 次のテストが楽しみだ。



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9 手放せない不安

 中間テストも終わり、その悪い結果に腐る……なんてことはなく、E組はしばらくまた勉強と暗殺の日々を送る。

 などと思っていたのだが。

 

「國枝、修学旅行一緒に回ろうよ」

「あ?」

 

 不意に横から話しかけられて、気の抜けた返事が出る。

 カルマが言っているのは、一週間後に迫っている京都への修学旅行のことだ。

 日本の歴史と文化を学ぶための旅行……と銘打ってはいるが、学生の修学旅行なんて観光となんら変わりはない。中間テストの息抜きというのが生徒たちにとっての大きな目的だ。

 日中はほとんど自由行動。いくつかの班に分かれての観光となるが、決められたメンバーで行くのではなく、各々が誘い合って班員を決めている。

 ここらへんは、生徒の自主性を重んじているようだ。

 

 E組という制度にさえ目を瞑れば、椚ヶ丘中学の教育方針は素晴らしいと思える。

 まあその制度が全部ひっくるめてマイナス評価にしてしまうほどなんだけど。

 

 カルマのいる班は、渚、杉野、奥田(おくだ)、茅野、神崎(かんざき)の合計六人。そこに俺を加えようというらしい。

 クラスのみんな、『貌なし』のことは関係ないと思って頭の外だが、彼だけは俺を気にしていた。ビッチ先生の計画が謎の存在によって邪魔されてからは特に。

 

 疑われているのは感じていた。

 そもそもカルマは疑っていることを隠そうともしていない。他の奴に言いふらしたりはしていないが、俺と二人でいるときには『貌なし』か俺の話題ばかりだし、俺がボロを出すのを待っている目つきをしている。

 どこをどう考えて、俺が『貌なし』だと感づいたのかはわからん。だが下手な推測に振り回されるような奴じゃない。

 だから、この修学旅行は疑問を叩きつけるのにはうってつけだと考えたのだろう。しかし俺はすでに対策をしていた。

 

「悪いが、竹林と同じ班でな」

 

 友人として竹林を誘い、そしてカルマを毛嫌いする寺坂(てらさか)がいる班に入っていた。

 そうすればカルマと同じ班になることはない。彼と同じ空間にいる時間は大幅に削られる。

 俺にさほど興味のない寺坂たちと一緒になれたのは幸いだ。ちょっとおかしな行動をしても、咎められることはないだろう。

 

 つまらなそうな顔をして去るカルマに、俺は安堵する。

 無理やり絡まれなくて助かった。探られて、それを避けるのはなかなか苦労する。特に、相手があいつだと。

 

 京都の地図を広げる者。わいわいと自由行動時のルートを決める者。教室は活気づいていた。

 テストが終わった解放感もあるのだろう。行きの新幹線を除いて、他の組と出くわすこともないだろうし。

 

 さて、もう一つ幸運なこと。

 それは、俺たちの班が暗殺に対してやる気がないことである。

 この旅行はもちろんただの旅行ではなく、暗殺も兼ねている。それぞれ隙を伺い、特定のポイントに殺せんせーをおびき出して、プロのスナイパーが狙撃するという手はず。

 烏間先生の口から通して伝えられた政府の作戦に、俺たちは……

 

「てきとーに回って終わりでいいんじゃね」

「そうそう。暗殺とかやってられっかよ」

「せっかくの修学旅行だってのにな」

 

 寺坂竜馬(りょうま)はもちろんのこと。同じ『寺坂組』と呼ばれる村松(むらまつ)吉田(よしだ)も乗り気でない。

 

「うーん、こことここは要チェック。あ、ここのも美味しそう」

「楽しそうね」

 

 比較的寺坂組と仲が良い(はら)も、お目付け役で忙しい事だろう。今回は観光とスイーツに興味を注いでいる。

 普段から暗い狭間(はざま)もぺらぺらと雑誌をめくり、ざっと目を通しているだけだ。

 

「観光か……僕にとっては聖地巡礼だね」

「俺はついていくだけ。行先は任せるよ」

 

 そして残りは流れに任せる竹林と、殺す気のない俺。

 この班にいれば、必要のないことに頭を悩ませることもない。少なくとも、この班に対する危険と、『貌なし』の正体をいかに隠すかは頭から除外していいだろう。

 

 殺せんせーが用意した、辞書三冊分くらいの厚さの特大しおりを適当にめくる。

 観光地なり有名店なりもしっかり載ってあるが、不良に絡まれた時の対処法とか告白して振られた時の立ち直り方とか、いらんこと書きすぎだろ。半分以上は旅行に関係ないんじゃないか?

 こんなでかい物、誰も持っていかないだろう。けど観光地やルートは写し書きしておこうかな。

 もし、万が一何かがあった時、地図がなければ動きようもない。幸いにして、人目のつかないところや危ないところなどをまとめてくれているし。

 

「もー、寺坂くんたち、ちゃんと手伝ってよ。じゃないと、スイーツ巡りの観光になっちゃうよ」

 

 原が優しく怒る。俺はそれでもいいけど。

 

「行きたいところとかないの?」

「バイク屋」

「本屋」

 

 吉田……狭間……趣味全開じゃないっすか。

 なんて思いつつ、俺もあまり詳しくないから提案は出来ない。

 日本有数の観光地とはいえ、わざわざ京都に行ってまで見に行くもの……ねえ。

 

「清水寺……かな」

「いいねいいね!」

 

 くいっと眼鏡のフレームを上げ、竹林が答える。

 アニメで京都に観光に行く話といえば、高い頻度で清水寺が出る。そうでなくとも、一度は行ってみたいところだろう。

 そんな思惑を、原は知らないだろうけど。

 

 原をリーダーに、次々と案が出ては採用されていく。

 このままなら、俺の意見は出さなくてもいいだろう。無いし。

 

 あとは……

 ほぼ決まりかけている自由行動について、後は任せて立ち上がる。

 教壇に近づき、みんなの様子を見張っている烏間先生に、小さく声をかけた。

 

「烏間先生、ちょっといいですか」

「どうした、國枝くん」

「修学旅行のことでちょっと聞きたいことが」

 

 目で殺せんせーを示す。

 烏間先生はそれで暗殺のことだと察し、俺を教室の外へ連れ出した。

 小声で話していても、旅行の準備で目を輝かせている殺せんせーには聞こえないだろうが、念のため。

 

「今回の修学旅行、スナイパーが狙撃するのを俺たちが誘導する作戦のことですが」

「それがどうかしたか?」

「本当に、俺たちに危険はないんですね?」

 

 俺が危惧するのはその一点。

 E組は殺せんせーとともに京都を回るが、その途中で彼の気を逸らし、プロに狙撃させる。においに敏感な彼の察知できない遠くから。

 おそらくBB弾などよりはるかに強力な弾を使うはずだ。誰かに当たれば怪我で済まない程度のものを。

 顔も知らない誰かを信用する気にはなれない。手元が数ミリずれれば、対象に届くころには数センチ、数十センチずれることだろう。近くにいるE組の誰かの身体が貫かれる危険だってある。

 

「それについては安心してほしい。一流の狙撃手を用意してある。万が一、怪我すればすぐに駆けつけられるよう手配もしてある」

 

 俺は黙り込む。

 烏間先生がここまで言うのだ。中学生が危険性を問うたところで決行されるのは変わらない。

 そもそも変える気はないのだろう。烏間先生の上の立場から見ても、この旅行は絶好の機会。逃したくはないはずだ。

 

「信じていいんですか?」

「俺たちは君たちE組の安全に常に気を配っている。任せてくれ」

「……わかりました」

 

 いまいち納得できないまま、俺は頷く。

 全面的に頼れるわけじゃないが、今はとにかく烏間先生のことを信じるしかない。

 彼のことは信用ならないわけではないが……鵜呑みにしてしまって安心していいというわけでもない。

 できることなら、使うことがありませんように。

 そう願って、俺は迷彩服とマスクを用意することに決めた。



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10 そこそこの居心地

「よっしゃあがり!」

 

 村松の嬉々とした声が響く。

 

「はい、私も」

 

 続いて狭間。残った面々は、眉間にしわを寄せて手元を睨んでいた。

 俺たち寺坂班は、過ぎ去る景色にいちいち感嘆することもなく、行きの新幹線の中でトランプに興じていた。

 まだ見ぬ旅先のトラブルを気がかりに思いながらも、あくまでも普通に、である。

 烏間先生も殺せんせーもいるし、よほどのことが起きない限りは何事もなく終わるだろう。

 マスクさえ身に着けなければ、俺の正体がばれることもない。鞄の奥底にしまわれたままだ。

 

 さて、ババ抜きくらいは何も気にせずにやっていいだろう。などと思いつつ、特に考えなくても表情が読めてしまう。

 それを利用して勝ちすぎるのも考えものだ。平均的か、それより少し下くらいに留まり、時々勝つのが一番目立たない。

 いつもの体育や勉強でも言えることだし、雰囲気や性格だってそうだ。尖ったところを見せなければ印象は薄くなる。そう考えると、暗殺に一切参加しないというのは不自然だったか。いまさら後悔しても遅いが。

 ここで『暗殺頑張ります!』というのも不自然だし……まあ幸い、同じく積極的でない寺坂組と同じ班だから杞憂か。

 

 トランプからウノに変わろうとしたとき、俺は一言断って席を立つ。トイレに行きたくなったのだ。

 車両端の自動ドアが開き……

 

 げ、と思った。

 かきあげられたべっとりジェル漬けの髪、こちらを挑発するような目つき、第三ボタンまで開けたシャツ、学ラン、腰パン。いかにも不良ですと公言しているような恰好の男が三人、そこに立っていた。

 高校生くらい。同じく修学旅行か?

 

「すいません。ちょっと通ります」

 

 伏し目がちに、そそくさとトイレを済まし、出る。

 こちらから下手な行動に出ない限りは何もしてこないだろう。

 俺の予想通り、彼らはちらりと見てくるだけ。誰もいないかのように、下品な笑い声をあげてしゃべくるだけだ。

 席に戻ろうと車両の扉を開けたところで、逆にこちら側に向かってくる神崎と茅野に相対することになった。

 

「おっと」

「あ、ごめんね、國枝くん」

 

 何も謝ることはないだろうに、と思いながら道を譲る。どうやら飲み物かお菓子かを調達しに行くらしい。

 その後姿を一瞥した一瞬で、嫌なものをみた。

 

 たむろしている高校生が、二人のことを下卑た目で見ていた。楽し気に話す神崎と茅野は気づいていない。

 扉が閉じるまでの間だけ、俺は見送った。

 何事もなく高校生の向こうへ歩を進める彼女たちが見えたところで扉が閉まり、ほっと胸をなでおろす。

 あの二人のどちらも、見れば一瞬はっとするくらい容姿が整っている。

 大和撫子、マドンナと評される黒髪清楚な神崎は言わずもがな。茅野だって可愛らしく纏められた髪と、愛らしい顔が目を引く。身体の一部は……本人が泣くほど残念ではあるが。

 不良たちがちょっかいをかけないかと心配したが、なんともなかった。

 

 だが、もし、あの二人が目を付けられていたら……

 そんな考えを頭から追いやる。さすがに心配が過ぎている。

 それに、あっちの班にはカルマがいる、ちょっとやそっとじゃ何もされないさ。

 俺は再び席に戻り、配られたカードに目をみやり、どうやって勝つか負けるかに集中することにした。

 

 

 長い時間をかけて京都駅に降りたあと、俺たちは『さびれや旅館』に着いた。

 その名の通り古めかしい宿だが、なかなか広く、ちゃんと手入れもされている。殺せんせーも一緒に泊まるからか、貸し切り状態だ。といっても、男女ともに大部屋一つずつしか部屋がないが。

 さて、その殺せんせーはというと……

 

「……一日目ですでに瀕死なんだけど」

 

 片岡(かたおか)メグが呆れ気味に言う。

 どうやら殺せんせーは乗り物酔いしやすいらしく、打ち上げられたタコのように、ぐったりとソファにしなだれかかっていた。

 しかしその状態でも能力は健在で、今にも吐きそうな青い顔のまま、岡野のナイフを避けていた。器用な奴め。

 

 ちなみに、新幹線の中にこいつがいても騒がれなかったのは、菅谷特製の付け鼻のおかげだ。

 芸術センス抜群、手先も器用な彼が殺せんせーの鼻に当たる部分にフィットするものを作ってくれたおかげで、違和感は多少……まあほんとに少しだが、マシになった。

 実際は、俺たちが彼の周りを囲んでいたから、他の人の目につかなかったのが大きいだろう。

 

 片岡は他のみんなを見る。

 他に酔っている人がいないか確認しているのだ。

 学級委員、そして女子なのに王子様と言われるくらいキリっとした目つき。加えてこの気配りだ。校内外問わず人気なのも頷ける。

 噂では、ファンクラブもいるらしい。顔・性格ともイケメンである磯貝と並んで、本校舎の一部から憧れられているという、E組の中でも珍しい立場。

 同性に告白されたっていうのは本当なんですか。

 

「どうしたの、國枝くん?」

「いや、みんなをよく見てるんだな、と思って」

「それは國枝くんも同じでしょ?」

 

 む、と俺は眉をひそめた。

 

「テスト前に國枝くんが言った通りだった。私はそんなつもりじゃなかったけど、どこかで諦めてて、それが当たり前になってた。それをわからせてくれて、ありがと」

 

 ぱちっとウインクする片岡。サマになりすぎてる。そんな彼女に、俺は思わず……

 

「イケメグ……」

「そのあだ名はやめて」

 

 

「はい、これ」

「わぁ、ありがとう」

「わざわざ持ってこなくても……明日渡してくれればよかったのに」

 

 原と狭間の二人へ地図を渡す。明日の観光地を巡るルートだ。

 食事も終え、さっき男子部屋で寺坂たちと喋っている時にふと思い出して、持ってきた。

 女子部屋に入るのはさすがにまずいだろうと、電話で部屋の前まで二人を呼ばせてもらった。

 

 女子はすでに風呂も済ませているようで、宿に用意されている浴衣に着替えていた。

 

「明日いきなり渡しても意味ないと思ってな。予習しておいてくれ」

 

 せっかく混雑しない時間帯とか調べて、人数分用意したんだ。あげないままだと、全ての責任が俺に降りかかってきてしまう。

 それはちょっと勘弁。

 

「きゃー、女子のところまで来るなんて、國枝のえっちー」

 

 部屋の中から、中村の声が聞こえる。囃し立てるように、何人かもそれに乗っていた。

 

「バカ言ってんな。入らないし、見ないから安心しろ」

「そうは言っても」

「ほんとは」

「入りたいんじゃないの?」

 

 中村、倉橋(くらはし)不破(ふわ)がふすまを少し開けて顔だけ見せてくる。

 俺と彼女たちの間には、このふすま一枚しか隔たりがないのだから、入ろうと思えば入れるが、そんな度胸はない。

 残り十か月近くを、変態を見るような目で見られるのは避けたい。蔑まれて興奮するような性癖は持ち合わせていないんでな。

 

「あれ、男子はお風呂まだなの?」

「てきとーにまったりしてるよ。入った奴もいるし、まだの奴もいる」

 

 身体の傷を見せないために、俺は他の奴らとも違う時間に入るが。

 『貌なし』として活動していると、いつも無傷とはいかず、いたるところが痣だらけになる。ナイフで切りつけられたこともある。それを見られればなんやかんやと言われるに違いない。

 そのせいで裸の付き合いができないのは残念だ。

 

「ねーねー、男子ってどんな話してんの?」

「大したことは話してない。勉強、漫画、ゲーム、アニメ、他の趣味とか……休み時間の延長みたいなもんだ」

「つまんないの。こっちは秘密のガールズトークしてるけど、聞いてく?」

 

 秘密っていま言っただろ。女子に免疫のない男子を巻き込むんじゃありません。

 どうも中村は、俺をからかって楽しむ節があるようだ。渚を生贄に捧げようか。

 

「帰る」

「えー、ほんとに帰っちゃうの?」

「あのなあ、不破。もし、俺が滅茶苦茶したらどうするんだ」

「め、めちゃくちゃ……」

 

 そう言って、不破優月は変なことを想像したのだろう、顔を赤くする。ボブカットじゃ、髪で顔も隠せない。

 彼女が漫画好きなせいで、どこかで読んだうふふな展開が、あらぬ妄想となって浮かんでいることだろう。

 少女漫画は昔から過激なのは知っていたけど、彼女が読むのは大半が少年向け漫画……と区別されているもの。それだって最近はエロ描写が凄い。

 青年誌を見たら目を伏せて黙ってしまうような初心なのに、旅行の夜ということで舞い上がったか。

 

「へぇ、國枝、私たちを滅茶苦茶にしちゃうんだぁ」

「やらしーんだ」

「からかうな、まったく……」

 

 中村に乗る倉橋もたしなめる。

 今のノリに、ウェーブがかかった髪。倉橋陽菜乃は今ドキの中学生だ。

 俺がそんなノリの良くない人間だってわかってくれたらいいのに。

 

 E組の女子は、俗なことを言ってしまえば『レベルが高い』と評されるような面々。だが、そこへダイブしてしまうほど愚かではないし、そんな度胸もない。

 奥田とか男子に慣れてないのもいるし、片岡には追い出されそうだし、当初の目的のことは果たしたのだから退散するとしよう。

 

「い・ま・な・ら」

 

 三人の上に、さらにビッチ先生の顔が現れた。

 

「私のディープキス付きよ」

「じゃあな。帰る」

「ほんっとつれないわね、アンタ!」

 

 ビッチ先生の叫び声を背中に、俺はそそくさと去っていった。

 

 

 地図渡すだけなのに、なんだか気疲れしたな……とため息をつく俺が男子部屋に戻った瞬間、肩を掴んできた奴がいた。

 

「國枝ァ! おま、お前、女子の部屋に行ったらしいな!」

 

 岡島だ。

 涙を流しながら、鬼の形相で睨んでくる。

 

「女子の部屋っていうか、部屋の前までな」

「なんで俺を連れて行かなかったァ!?」

 

 なんでお前を連れて行かなきゃならないんだ。

 

「いや、渡し物してただけだし」

「わ、渡し物……女子に渡し物……だと?」

 

 そこそんな驚くとこか?

 

「地図だよ。明日の自由時間のルート書いたやつ。それを渡しただけ」

「女子の部屋撮影してきたんだろうなぁ」

「撮るわけねーだろ!」

 

 中すら覗いてない。

 ツッコむが、岡島は退くことなく手に力を込める。

 

「どうだった。パジャマか、パジャマだったのか」

「パジャマっていうか……浴衣だったけど」

「國枝、お前は最大のチャンスを逃したんだぞ。部屋でくつろぐ浴衣姿の女子。これすなわち濃厚で淫靡なシチュエーション! それをお前は……お前はァ!」

 

 がくんがくんと揺らしてくる岡島を抑え、なんとか落ち着かせる。

 こういうことになると、目の色変えて必死になるんだから、こいつは。

 こんなことになるなら、あの二人を別の場所に呼び出したほうがよかった。

 

「そんなに言うなら、思い出に写真撮らせてくれって頼めばいいだろ」

「ふっ、俺がそれをやってないとでも思ったか?」

「断られたんだな……」

 

 悲し気なドヤ顔する理由は、さっぱりわからんが。

 

 まあ確かに、ふすまから顔を出した三人が何気に色っぽかったのは否定はしない。言ったらややこしくなりそうだから言わないけど。



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11 急転直下

 修学旅行二日目。

 宿で朝食を食べ終わり、注意事項を叩き込まれたあと、俺たちは各班で決めたとおりに分かれた。

 

 他の班はある程度は観光名所に目をつけつつ、隠れた名所なりに殺せんせーを連れて行って、暗殺補助をするみたいだ。

 俺たちの班はというと……せっかくの修学旅行、片っ端から有名どころを回ることにしていた。

 歴史の長い京都だから、適当に回ってもそこら中に見どころがある。

 普通の観光名所は俺が、文学的に有名なところは狭間が、食べ物的になら原が抑えているおかげで、次に行く場所に迷うことはないが……

 

「なんで真っ先に俺たちについてくるんですか」

「ヌルフフフ。他のみなさんからは、まだお呼び出しがかかっていませんからねえ。まずは、暗殺をしないと公言しているあなたたちと旅を共にしようと思いまして」

 

 抹茶ソフトをぺろぺろと舐めながら、他にもお土産を抱える殺せんせー。まだ着いてから三十分ほどしか経っていないのに、これだけの量をいつの間に……

 図体がでかく、しかも造形が人間離れしている彼は目立つ。なんらかのコスプレと間違われているのか、大きく騒ぎになるようなことはないが、隣で歩く俺の心配も察してほしい。

 引率らしく先頭を歩く殺せんせーは、いつもよりわかりやすいニヤケ面だ。

 

「楽しそうですね」

「生徒たちと思い出を共有できる旅行ですから」

 

 こう言ってのけることは、普通の教師のように見える。

 いや、実際教師なのだが……つまり、普通の人間のように見えるということだ。

 しかしその能力は極めて常識外れだ。カルマの時みたいに、今回はそれに頼るのも一手だろう。

 

「なあ、殺せんせー」

 

 彼に並んで、俺は声を落とす。

 

「この修学旅行は、あんたを殺すための旅でもある。俺たちは……そんなのめんどくてやらないけど」

「ええ。みなさんが私のために必死で作戦を立ててくれたことは、嬉しく思いますよ」

 

 自分が殺されるかもしれないのに、心底嬉しそうな顔は変わらない。対して、俺は真剣さを伝えるために顔を固めた。

 

「もしかしたら、みんなに危険が及ぶかもしれない。知らない土地だし、暗殺の手段についても危険がないとは言い切れない」

 

 地球の破壊を防ぐためにも、詳しいことが話せないのが悔しい。

 地球の人間として、本来ならここまで話すことも駄目なんだろう。それくらい俺の心はまだ心配を抱えている。

 銃弾が誰かを貫く幻覚が、頭から消えない。

 

「だから、もし誰かが危なくなったら……」

「任せてください。みなさんのことは必ず守りますから」

 

 殺せんせーは俺の肩に手を置く。

 

「それにしても、わざわざ暗殺することを知らせてくるなんて、甘いですねえ」

 

 ふん、と俺は顔をそむけた。どうせこの旅行で殺せるほど甘くない。

 E組は不意打ちだまし討ちを、何度も手を変え品を変え試している。面白いようにひっかかる時もあるが、決して命は取らせてくれない。

 隙だらけのくせに、でたらめな能力のせいで遮られる。今さら遠くからの狙撃が効くだなんて思っていない。

 

「おーい、國枝くん、殺せんせー! このお店見てみようよ!」

「むむっ、生八つ橋! まだ買ってませんでしたねえ! おっ、あんこだけでなく、チョコレートやカスタードの変わり種まで!」

 

 後ろから原の声がかかる。

 いつの間にか、みんなは脇道の店に目を取られていたようだ。

 目にもとまらぬ速さで、殺せんせーが店先の試食を食い散らかしていく。

 

「本当に大丈夫なんだろうな……」

 

 俺はため息をつく。

 ま、自殺まがいのことをしたカルマもちゃんと救った実績がある。釘を刺したんだし、しっかりやってくれるはずだ。

 心配はいったん置いておいて、俺はみんなのところへ向かった。

 

 

「うおー、高ぇ~」

 

 『清水の舞台から飛び降りる』という言葉がある。ざっくり言えば、大きな覚悟をもって決断するという意味だ。

 実際に清水寺の舞台に立ち、柵から顔だけ出せば納得する。確かに、死ぬ気がないとできないだろう。

 胃がきゅっとなるような高さ。それもまた一興。

 俺は吉田の隣に立ち、この光景を楽しんでいた。

 

 さすが日本有数の観光地、京都。

 世間一般は平日なのにも関わらず、たくさんの人、人、人。日本人だけでなく、外国人もたくさんいる。いやむしろそちらのほうが多い。

 最近では観光客が多すぎて逆に問題となっていることもあるらしいが、なるほど納得だ。

 

「どの班も失敗みたいだな」

「いろいろと計画を練っていたのは知ってるんだけどね。やっぱり殺せんせーは規格外だ」

 

 メッセージアプリで、次々と失敗報告が挙がってくる。

 感情豊かな殺せんせーのことだ。生徒たちに囲まれて、楽し気にそこかしこを闊歩しているに違いない。

 しかしそこは超生物。油断しているように見えて、俺たちの先をいっている。気を散らして、遠いところから狙撃なんてのが通用するなら、E組だって苦労していない。

 おそらく……いや、ほぼ確実に、この旅行で殺せんせーを殺すことはできない。それに関しては、特に期待もしていないが。

 

「ろくな暗殺計画を立ててない俺たちが言うのもなんだけどな」

「せっかくの旅行なんだ。暗殺に必死になって終わってましたじゃつまんねえ。ここでしか食えねえ飯食って、ここでしか見られねえもん見て、それで十分だろ」

 

 俺は頷く。村松の言う通りだ。

 殺せんせーが教鞭を執っているクラスとはいえ、俺たちはただの中学生。他と同じように楽しんでなにが悪いか。

 暗殺が上手くいかないとわかっているなら、むしろこちらのほうが有意義に過ごしていると言ってもいい。

 

「原は、他の班にも呼ばれてたみたいだけど」

 

 風景や俺たちを写真に収めつつ回る原に話しかける。

 彼女はまったくやる気のない俺たちと違って、暗殺のサポート側だ。そうでなくても、包容力や優しさがあって、女子だけでなく男子からも頼りにされている。

 班を決める時にも、倉橋や中村、不破、片岡などに誘われていたことも知っていた。だが彼女はあえてこちらに来た。

 

「誰かが寺坂くんたちを見張ってなきゃ。修学旅行とヤンキーは、食い合わせが悪いからね」

 

 食い合わせ……ねえ。たしかに修学旅行生同士の喧嘩なんてのは、不破から貸してもらう漫画でよく見るが、果たして現実でそうそう起こりうることなのだろうか。

 ふと、新幹線で鉢合わせた不良たちのことが浮かんだ。いやいや、あっちだって中学生を相手に問題を起こそうなんて考えないだろう。

 ……カルマが下手なことしなければいいが。ううん、ちょっと心配になってきたな。

 

「下調べして奇をてらった場所にいくのもオツなもんだけど、結局ベタなところが一番だよな」

 

 吉田は班を作った当初はめんどくさいだの適当でいいだの言ってたくせに、素直にはしゃいでる。

 別に文句はない。どこか変なところに連れられたり、暇つぶしにトラブルを起こされるよりずっと中学生らしく、健全じゃないか。

 そんな姿を見て、俺はようやく警戒を解く。

 せっかくの京都だ。みんなの言う通り、楽しまなければ損。自分へのお土産に八つ橋でも買って帰るか。

 などと考えていると、こちらの様子を見に来た烏間先生がいつの間にか合流していた。

 

「本来なら積極的に暗殺に参加してもらいたいんだがな……」

 

 やれやれ、とため息をつく彼を見るに、やはり暗殺は上手くいっていないみたいだ。

 烏間先生も諦めて普通に旅行すればいいのに。

 ……無理か。外を出歩く最重要機密に、それを狙うプロの狙撃手。一般人にバレないようにするだけでも一苦労だ。

 彼が休めるのはいつになるやら。俺も真似をして、やれやれと呟く。

 

「このグループにそれは無理ですよ。結局はやる気の問題ですから」

「君は、なぜそんなにやる気がない?」

 

 咎めるような語気じゃなく、ただ単純な疑問がぶつけられる。

 

「体格は悪くない。見たところそれなりに鍛えているようだ。だが体育はいつも成績がそれほどではないというのが気になる」

「それはただのセンスの問題ですよ」

 

 寺坂より細いカルマが喧嘩で負けないように、身体の使い方がよくわかっていたら見た目以上の能力を発揮できる……と、それっぽいことを言って誤魔化す。

 それで納得してくれたとは思っていない。ただ、國枝響はそういう男だと納得してくれたらいい。

 実際はE組の誰よりも実戦経験がある……なんて、自負はしているが言うつもりはない。

 

「よければ俺が……」

 

 烏間先生が言いかけたところで、彼の胸ポケットが震える。そこからスマートフォンを取り出して、怪訝な顔を見せた。

 どうぞ、と促す前に彼は通話に応える。

 

「どうした……なんだと!?」

 

 急に烏間先生の顔が険しくなる。

 予想外、そしてよくないことが起こってしまったことは誰の目にも明らかだ。 

 ぞくり、と俺の背中に悪寒が走る。脳裏に、倒れて動かない誰かの輪郭が浮かぶ。

 

「急用ができた。俺は離れるが、くれぐれも事件は起こすなよ」

「あ、ちょっと」

 

 何があったのか訊く間もなく、烏間先生は人の間をすり抜けていく。

 彼の表情と急ぎように、俺は再び嫌な予感に囚われる。

 殺せんせーを暗殺する過程で、どんな問題が起きたのか。政府が雇った以外の殺し屋が現れたとか、それとももっと悪いことか。スナイパーの銃弾が誰かに当たったとか?

 俺もすぐさま電話を取り出して、最初に顔が浮かんだ渚へコールする。

 

「なんだ、いきなり慌ただしいな」

「なんかトラブルでも起きたんじゃねーの。それよりもパフェ食べようぜパフェ。この近くに美味いって評判の店があるんだ」

「そういうのは調べてきてんのね」

「おい國枝。次行くぞ」

 

 場所を移して観光を続けようとする寺坂たちに人差し指を向けて、俺は耳に集中する。

 

「ああ、後で追いかける。先に行っといてくれ」

 

 二度、三度、コール音が鳴ってもまだ出ない。

 思い過ごしならいい。だが、呼び出し音の回数が重なるほどに俺の心はざわつく。

 

《く、國枝くん?》

 

 ようやく出てくれた渚の声は、なんだか焦っているようだった。

 

「渚、どこかの班で問題が起きたみたいだが、何か知らないか?」

《たぶん、それ僕たちのことだよ》

 

 いきなりのビンゴ。

 その後ろでは何やら話し声も聞こえる。カルマと杉野と……奥田か。

 彼らと同じ班の他二人、茅野と神崎の声は聞こえないが……

 

《どこかの高校生に、茅野と神崎さんが攫われたんだ》

「さら……っ!?」

 

 叫びそうになり、すんでのところで抑える。

 こんな人の多いところで『攫われた』なんて大声を出したら異様な目で見られてしまう。

 

「お前たちは大丈夫か!?」

《なんとか……殴られて身体が痛いけどね》

 

 かあ、と身体が熱くなるのを感じる。

 渚たちが傷つけられ、神崎と茅野がいまこの瞬間も危ない目に遭ってるかもしれない。

 どっと汗が噴き出て、鼓動が早まる。

 くそ、知らない土地でこんなことが起きるなんて……

 

「相手はどんなやつか覚えてるか? 身なりとか……喋り方とか」

 

 渚が思い出せる限りの情報を告げてくる。訛りなし、学ラン、高校生。京都への新幹線で見た、不良の特徴と一致する。

 そいつらは車に二人を押し込んで逃走したようだ。

 土地勘があるわけでもない。かといって攫った相手とのんびりしている時間はない。

 車は足がつかないよう、レンタルじゃなく盗んで手に入れたものの可能性もある。ナンバープレートをそのままにしてるか、削っている、隠している、どれにせよ、警察に見つかったら一発アウトだと考えると、近場へ停めるはず。

 どこかの店で停めることはないだろう。見られて通報されたら、これまた一発アウト。

 人目のつかない場所で事を果たすか、そこを経由地にするはずだ。該当箇所はそう多くないはず。

 

「國枝、どうしたんだよ」

 

 電話を切るなり、寺坂が寄ってくる。

 俺は彼を見もせずに、鞄を背負いなおした。

 

「別行動だ。後で合流する」

 

 みんなが呼び止める声を聞きもせず、俺は走り出した。

 鞄の中にある迷彩服をいつでも取り出せるように気を構えながら。



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12 拳を叩きつけろ

 茅野と神崎が攫われた場所の近くを走り回りながら、俺は見逃しのないように視線を動かす。

 もちろんそんなことで二人が見つかるわけもなく、俺は違うものを探すほうへシフトした。

 二人を攫ったと思われる高校生の仲間だ。

 

 この広い京都。探すのには骨が折れる。だがまったく見当がつかないわけでもない。

 

 新幹線の中で見た高校生の大半が、制服の胸ポケットを膨らませていた。

 そう大きくないそこに入れられるものは限られている。かと言って、ペンやノートをしまうほど出来たやつらでもないだろう。

 必要なときにすぐ取り出したくて、ポケットに入るが形がわかるほどの大きさ。

 ヒントはまだある。

 トイレを待っているでもなかったのに、車両の間にいたこと。周りを気にする目に、決定的な臭い。

 

 たばこだ。

 成年に達していない年齢なのに、あの高校生たちはたばこを吸っている。

 だがあれだけ臭いを漂わせているくらいだ。先生も言っても無駄だと、口だけの注意で済ませているのだろう。

 

 とはいえ、真昼間の外で、制服のまま吸うことはしないだろう。見咎められて警察のお世話になっても、土地勘のない京都じゃ逃げられない。

 吸うなら人目のつかないところ。こんな観光地でそんなところは少ない。必然的に限られてくる。

 例えば、観光地から少し離れた路地裏とか。

 

「でさ、そいつが結構可愛かったわけ」

「んだよ、今頃お楽しみってか?」

「ちゃんと俺たちに回してくれるってさ。時間になったらここに来いだとよ」

「ひょお! わざわざ京都に来たかいがあったってもんだぜ」

 

 お目当てはすぐに見つかった。人気のない路地裏に座り込んでたばこを吸う高校生が二人。

 俺の覚えている限りの制服と同じだ。しかもどうやら、茅野と神崎の場所を知っているらしい。

 周りを見て、他に人がいないことを再確認。服を着替えて、マスクとゴーグルを装着。制服を突っ込んだ鞄はその場に置いておく。

 

 『貌なし』のコスチュームとなっているこの一式のいいところは、それぞれ珍しくもない物であることだ。

 マスクとゴーグルは、サバゲ―ショップに行けば定番商品として売られていて、迷彩服も特に高いものじゃない。それに服は薄くて、丸めればショルダーポーチにも入るくらいだ。

 必要な時にすぐ取り出せて、事が終わればすぐ隠せる。

 

 準備ができたところで、俺はそいつらに近づいた。

 そいつらは俺を認識すると、顔をしかめて煙を吐いた。

 

「訊きたいことがある」

「あ? なんだよてめえ。へんなマスクかぶりやがってよ」

「ゴーグルにフードとか、ふざけたカッコして何気取りだ? ちゃんと前見えてんのか、おい? 試してやるよ」

 

 喧嘩っ早いな。仕掛けるまでもなく、あちらから手を伸ばしてきた。

 もともと穏便に済ます気はない。

 指からたばこを抜き取り、代わりに腕をねじりながら手の甲に押し付ける。

 

「あっつううああああ!」

「お前たちの中で中学生を攫ったやつらがいるはずだ。誰が、どこに攫っていったのか教えろ」

 

 悲鳴を無視して、俺は告げる。

 

「んなの教えるかよっ」

 

 捕まえているのとは違う腕の大振りを避け、鼻っ柱に一発叩きこんだ。

 血をだらだらと流しながら、膝をつく不良のポケットに火の消えたたばこを押し込む。

 

 もう一人が殴りかかってきたが、手で弾く。

 腹、喉と掌底を繰り出すと、そいつも汚い嗚咽を漏らして尻もちをついた。

 

「保険証は持ってきたか? 旅行には必需品だろう」

「はあ? 何言ってんだよ」

「これから京都の病院にお世話になるんだ。保険証がなければ、骨折の治療にはいくらかかるかな」

 

 わざとらしく拳を振り上げると、不良が二人とも手を挙げた。

 

「し、知らねえよ! 誰を攫ったとか、そんなの俺たちに関係ねえ!」

 

 躊躇なく拳を振り下ろす。

 豚のような悲鳴を上げたかと思うと、今度は頬が内出血して、じわじわと青くなっていった。

 

「次に嘘をつけば腕を折る」

「まっ、待て待て! わかった!」

「知ってるよ、この場所だ。もう攫ったから人数集めて楽しもうって言われて……」

 

 スマホの地図アプリを急いで呼び出した不良たちは、それを俺に見せた。

 読み通り、渚たちがいた場所からそう離れていない。

 

「なっ、言ったから許してくれよ」

 

 へこへこと頭を下げる情けのない不良たちの目に、もう抵抗の意思はない。

 だが、それとこれとは別だ。

 

 俺は拳を固め、振り下ろした。

 

 

 神崎と茅野が攫われた場所へはすぐにたどり着いた。

 周りに雑草が生え、ごみもいくつか捨てられっぱなしになっている倉庫だ。

 その前には黒いワゴン車が乗り捨てられている。

 

 見張りはいない。そっと車の陰に隠れながら、倉庫に近づく。扉に張り付いて、耳で中の様子をうかがう。

 誰かが暴れている様子はない。

 連れ去った犯人たちが何もしていないか、それとも……遅れてしまったか。

 それがわかるまでじっとしている気はない。扉を勢いよく開け、素早く滑り込むと同時、中の様子を確認する。

 

 相手は全員で五人。そのうち一番近くにいた一人を殴りつけ、頭を壁に叩きつけて失神させる。

 降伏勧告はなしだ。それに応じるようなやつらじゃない。それに、友人を誘拐されておいて、無傷で帰すほど俺はお人よしじゃない。

 やっと状況に気づいた不良たちが、倒れた仲間を見て俺を睨みつける。

 

「誰だてめえ」

「お前には関係ない」

「こんなことしておいて、ただで済むと思ってんのか!」

「こっちのセリフだ」

 

 不良たちが一斉に向かってくる。

 先頭の男の腕を掴み、引っ張りながらブーツの先をみぞおちへめり込ませる。

 相手の勢いもあって、深くまで蹴りこまれた男はうずくまる。

 

 奥で腕を縛られている神崎と茅野に目をやった。

 外傷はない。どうやら手は出されていないらしいが、精神的にはどうだろうか。

 とにかく、俺がやるべきは目の前の不良退治だ。

 

 次の男へ、眉間へと間髪入れずに拳を叩き込む。さらに股間に蹴りを一発。急所を砕かれてよろける身体に、回し蹴りをお見舞い。壁に叩きつけられてずりずりと床に下がった男は立ち上がることはなかった。

 

 残るは二人。そちらに向き直った瞬間、目の前で光が閃いた。

 ナイフだ。俺たちが持つようなやつじゃなく、本物の刃物。とっさに後ろに避けていなければ危なかった。

 武器を構える二人が、じりじりと間合いを詰めてくる。俺の拳が届かないぎりぎりで止まる。

 

 お互い降伏を促す気はない。

 俺は絶対にこいつらを許しはしないし、こいつらは不良のちっぽけなプライドがある。

 やるかやられるかだ。

 

 ここまでの戦いで、すでにリーダー格であろうオールバックから余裕と油断は消えている。

 しかし、武器があるからだろうか、もう一人は少し浮ついている。

 

 リーダーが動き出す。躊躇なくナイフを顔面に突き出してきた。顔をそらしたものの、頬に軽く切れ筋が入る。

 俺は相手の手首を掴み、そのまま向かってくるもう一人の腕を蹴る。ナイフはどこかへ吹き飛んだ。

 続けてリーダーの顎、鼻を殴りつけ、拳を戻す勢いでもう一人の喉へ肘を打つ。咳き込む男にもう一度蹴りを放つと、そいつは壁に激突して意識を失った。

 

 掴んだままの手首をひねり、リーダーが悲鳴を上げる前に足をひっかけて転ばせる。

 どさりと倒れたそいつに、もう一発パンチ。

 これで終わったか、と思ったがしつこく立ち上がってこようとする。

 

「やめておいたほうがいい」

 

 だが、彼は肘と膝を床についたまま、倒れようとはしない。

 邪魔された怒りか、彼なりのプライドか。どちらにせよ、その行動で俺の感情が再び湧き上がってきていた。

 茅野と神崎をこんな目に遭わせて、まだやってこようとするのか。ただ快楽のために、安っぽい自尊心のために、罪のない二人をまだ傷つけようというのか。

 

 鼻と口から血が出ていることにショックを受けているリーダーの胸ぐらを掴む。

 拳を固めて、容赦なく何度も殴りつける。

 一発目で気絶したことはわかっている。だが、それで俺の気は収まらなかった。

 一、二、三、四、五……十発は超えただろうか。血だらけになった俺の拳と相手の顔を見て、俺はようやく拳を収めた。

 

 多人数を相手にしたからだけではない息の乱れを整えて、相手の身体を離す。床に頭を打っただろうが、そんなことは気にしない。

 ふと、そいつの胸ポケットから出ているものに気が付いた。

 ハンドブック? いや、しおり。それも手製の。

 表紙の文字で、神崎のものだとわかる。彼女が用意していたものをスられたのか。

 中にはスケジュールが細かく描かれている。で、これをもとに人気の少ないところで拉致したわけだ。

 

「あ、あの……」

 

 神崎が何か言う前に、不良たちが持っていたナイフで縄を切った。

 縛られていた腕は少し赤くなっているが、痕は残らないだろう。

 

「怪我はないか?」

「は、はい」

 

 少し怯えているが、それはこの状況と、俺の格好のせいだろう。

 平気……とはいえないが、 二人ともショックを残しているような顔はしていないし、後に引きずるような精神的ダメージは少ないようだ。

 しおりを返し、安堵のため息をついて立ち上がる。さっさとここから出て、寺坂たちと合流しなければ。

 

「あんた誰? 俺の獲物の横取りしないでほしいんだけど」

 

 落ち着いたのもつかの間。いつの間にかカルマと渚、杉野が入口に立っていた。

 心臓がどきりと跳ね上がる。

 仕返しのために来たのか。だが、どうやってここを突き止めたんだ? その答えは、彼らの持っている分厚い冊子が物語っていた。

 殺せんせーの作った特大しおり。そこにはこういうことも想定したマップも載っていたはずだ。

 

「もう遅い」

 

 不良たちがのびていて、茅野と神崎は無事。現状を見て、カルマは状況を察した。

 他の二人も遅れて気づいたようで、目から敵意が消えていた。警戒はそのままだが、明らかに緊張が解かれている。

 一言だけ吐き捨てて去ろうとする俺の肩に、手が置かれた。

 

「逃がすなんて一言も言ってないけど?」

「待って、カルマくん。その人は私たちを助けてくれたんだよ」

「わかってるよ。けど、こいつをここで置いておくわけにはいかないんだ」

 

 カルマの言うことに、俺は違和感を覚えた。

 

「置いておく? 俺は今からここを出ようとしてるんだが」

「そういう意味じゃないってことは、お前がよくわかってるんじゃないの」

 

 カルマがじっと目を見てくる。ゴーグル越しの俺の目を。

 

「何を言ってるのかわからんが、放せ」

 

 危機感が走って、彼の手を弾く。見射られると、顔を突きつけて話しているような錯覚さえ感じる。

 何かがバレる前に退散する以外、選択肢はない。

 俺はその場を後にした。

 追ってくる者は誰もいなかった。



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13 京都の夜は淡く更ける

 無意識に、頬につけた絆創膏に手を伸ばしてしまう。不良のナイフでつけられた傷だ。

 これはまだかすり傷程度。今日含めて、今まで受けた傷は身体中に生々しく残っている。

 

 みんなと一緒に風呂に入らなくて正解だったな。みんなが寝静まったあと、一人で入るとしよう。

 今日のことを反省しつつ、俺は受付近くのソファに腰掛けて、天井に顔を向けた。

 

 万が一のため『貌なし』のセットを持ってきてたのは正解だったが、『まさか』と思い込んで楽観していたのはまずかった。

 もう少し気を張っていれば、茅野と神崎が連れ去らわれる前にどうにかできたのかもしれない。

 ……いや、本当にそうか? 違う班で別行動をしておきながら、俺にそれができたか?

 はあ、とため息をつく。

 所詮は中学生。すべてを見張って、事前にすべての危険を取り除くなんてできやしない。

 まだ俺には足りないものが多すぎる。

 こんなんじゃ、次に同じことが起きた時、手遅れになるかもしれない。

 

 なにより甘すぎた。

 烏間先生と殺せんせーを頼り過ぎたのだ。あの二人ならどうにかしてくれるだろうと高をくくっていた。

 二人で何班も見張るなんて無理だとわかっていたはずなのに。

 

「なに暗い顔してんの」

 

 俺の視界に、ひょいとカルマの顔が現れた。

 風呂上がりのようで、浴衣を着こんでいる。顔は少し赤くなって、いつもより血色が良く見えた。

 

「ちょっと考え事」

 

 ソファの端に詰めると、彼は遠慮なく隣に座ってくる。

 まだ冷めない熱気が、こちらまで漂ってきた。

 

「カルマの班、今日は大変だったんだって?」

「まあね、神崎さんも茅野ちゃんも危なかったかも」

 

 かも、というか危なかった。という言葉は抑えて、俺は努めて平静に、クラスメイトとして心配をする素振りを見せる。

 

「二人はどう?」

「今は大丈夫なんじゃないかな。怯えてる様子はなかったし」

「そうか」

 

 とりあえず一安心。

 精神的なダメージが一番心配だったが、どうやら大丈夫そうだ。

 

「ところで、寺坂から聞いたんだけどさ。二人が攫われたのと同じ時間に、単独行動してたんだって? 渚君とも電話してたんでしょ?」

「ただのお土産探しだよ。優柔不断だから買い物に時間がかかるんだ。渚に電話したのはただの好奇心。烏間先生が慌ててどこか行くもんだから、どっかの班で何かあったんだろうなって」

「へえ、本当に?」

 

 早口になってしまった俺を疑う目で見るカルマ。『貌なし』を見ていた時と同じ目だ。

 

「何が言いたいんだ?」

「あの二人が攫われた場所に、『貌なし』が来て犯人たちをぼこぼこにしたんだ。おかしいよね。東京で活動してるはずの『貌なし』が、俺らと同じタイミングで京都にいるなんてさ」

「真似事なんじゃないか。有名みたいだし、こっちで似たようなことする奴がいてもおかしくないだろう」

 

 カルマが目を細める。口で問わずに、目で訊いてきているのだ。『本当に?』と。

 

「俺たちが修学旅行に来たタイミングで、偶然にも『貌なし』の真似事をしている奴が、茅野ちゃんと神崎さんの危機をどうにかして知って、俺たちより早く助けた……國枝はそう言いたいんだ?」

「回りくどいな。結局、何が言いたいんだ?」

「國枝ってさぁ、『貌なし』なんじゃないの?」

 

 ぞくり、と総毛が立った。

 たとえ同じ情報を持ってたとしても、誰もそこまでたどり着けないだろう。疑わしくも、『貌なし』は中学生ではありえない。それくらい中学生は弱いはずなのだ。

 同じ中学生だからだろうか、超生物よりも防衛省よりも警察よりも、カルマがいち早く真実に近づいた。

 

「馬鹿言え。体育のときの俺の動き知ってるだろ。大した動きもできない俺には、あんな動き無理だよ」

「あんな動きって?」

「……なに?」

「まるで見たみたいに、あんな動きって言ったよね」

 

 くそ、しまった。

 冷静に返したつもりが、墓穴を掘ってしまった。

 

「……テレビで見た。最近じゃ、防犯カメラに映る『貌なし』の報道もあるからな」

 

 焦る気持ちを抑えて顔に出さず、なんてことないように言う。

 

「それに、中学生があんなことするわけないだろう。お前みたいにおかしい奴なら別だけど」

 

 俺はそんな大胆なことはできないよ。肩をすくめて、ありえないことだと返す。

 

「ふうん、ま、そういうならそういうことにしとくか」

 

 用件はそれだけだったようで、カルマはすっと立ち上がって去っていった。

 みんなのところへ戻ったのだろう。

 

 ああ言いつつも、彼は納得はしていないみたいだった。

 しかし、手に入れられた情報から推測できたのはさっき言ったところまで。國枝響=『貌なし』確定まではまだ足りない。

 が、遠くもないのだ。このままボロを出せば、いずれはバレる。

 

 ……ま、今回はイレギュラーだ。けど気を引き締めないとな。

 

 ふう、とため息をつく。

 とにかく茅野も神崎も無事。それでいい。

 さて、俺もそろそろ部屋に戻るかな。そう思って立ち上がったところで、どたどたと足音が聞こえた。一人や二人ではない。数十人分だ。

 音のするほうを見れば、逃げ回る殺せんせーを、男女が入り混じって追いかけていた。

 

「なに暴れてんだ、あいつらは……」

 

 走っているのは……どうやらE組生徒全員のようだ。ビッチ先生までいる。

 その中の磯貝を捕まえて、おい、と留める。

 

「何してんだ」

「気になる女子ランキング作ってたら、それが殺せんせーにばれたんだ。で、それを女子にばらされる前に仕留めようってこと」

 

 顔を見るに、半分本気、半分冗談ってところか。

 

「殺せんせーもお前らもなにやってんだよ……」

 

 はあ、とため息。

 物騒な枕投げをしていると考えたらいいかな。いずれは旅館の人に注意されて……いや、殺せんせーも同じ屋根の下に泊まっていることを考えると、関わらないように言われていても不思議ではない。

 どれだけ暴れたところでお咎めなしだろう。

 まあ、どうでもいいか。

 

「で、女子は?」

 

 歩を止めた茅野へ話を振る。

 こちらはほとんど冗談のようで、真剣さを滲ませているのは中村、倉橋、矢田くらいか。いや、ビッチ先生が一番本気っぽい。

 

「ガールズトークを盗み聞きしようとしたのと、殺せんせーが自分のこと話さないから」

 

 女子も女子で夜を楽しんでいるみたいだ。

 ガールズトークねえ……男子と似たようなことでも話していたのだろうか。

 

「あれ、その手は? ほっぺたも。朝にはそんなのしてなかったよね?」

 

 茅野が、軽く包帯を巻いた俺の手に気づいて指を差す。

 感情任せに殴ったせいで、軽く内出血が起きていたのを隠しているのだ。

 頬のは、ナイフを避けきれずについたかすり傷。これくらいは誰も気にしないと思ってたのに。

 

「人とぶつかって転んでしまってな。鈍くさいと笑ってもいいんだぞ」

 

 考えていた嘘をすらすらと並べる。

 彼女は少し考え込むような顔をして、そのまま「うーん」と唸る。

 

「そういえば、危ない目に遭ったって聞いたが、大丈夫か?」

「え、あ、うん。この通り全然平気だよ」

 

 話して、考えを阻害する。

 彼女は『貌なし』を見た張本人だ。ここで変に勘ぐられて、少しでも疑われるのは避けたい。カルマだけでも大変だってのに。

 

 もともと中学生がそんなことをするなんてありえない。普通は少しつついてやれば疑念は消える。

 彼女は気にした様子もなく、磯貝も何も感じていないようだ。

 

 俺はさらに茅野を凝視した。精神的なトラウマが残っていないか、表情を探る。

 彼女は時折何かを我慢するような、苦虫を噛み潰す顔をするから見分けづらいが、どうやら平気なようだ。

 内心ほっとしつつ、俺は彼らとは逆方向へ踵を返した。

 

「おい、どこ行くんだよ國枝」

「風呂」

 

 殺せんせーを追っているのが全員ってことは、今は誰にも邪魔されずにゆっくりできるということだ。

 そのランキングとやらは、どうやら俺には関係ない事みたいだしな。

 

 

「はぁ~~あ」

 

 シャワーで全身を洗った後、湯に浸かるとおっさんくさい声が出る。

 宿は古臭いが、浴場はなかなかどうして立派な露天風呂。満点の星空を眺めつつ、熱いお湯と涼しい風が肌を癒す。手が沁みるが、すぐに傷も治りそうだ。

 

「入浴時間は決めていたはずだが……」

 

 すっと現れたのは、烏間先生だった。俺と同じく湯に身体を沈め、隣に座る。

 うわ、すごい筋肉だな。

 

「そういう烏間先生も、今お入りじゃないですか。お仕事してたんですか?」

「ああ。今回の暗殺計画の結果について、上に報告していた」

「修学旅行の時までお疲れ様です」

 

 大きく息を吐いて、しばらく沈黙。

 二人して、今日の疲れを思う存分出していた。

 

 こうやってぼうっとできる夜はいつぶりだろうか。いつもは、日付が変わる前は家にいる方が少ない。

 心配事が多くて、じっとしてられないのだ。

 その結果が今日であり、身体中にある痣や傷だ。

 俺はそれをあえて隠さなかった。いじめや虐待などを疑われるかもしれないが、ここまで堂々としてると逆に何も聞かれないものだ。

 そこらへんを、むやみに訊いてくる人でもない。

 

「今日はどうだった。楽しかったか?」

「先生みたいなこと言うんですね」

「今の俺は、君たちE組の教師だ」

「だったら……」

 

 たとえ防衛省の人間でなくとも、教師であればこの旅行も仕事の一環。

 

 だったらちゃんと守ってくれよ、とも思う。

 

 烏間先生も殺せんせーも、俺より遅かった。数分の差だったけれど、刻一刻を争うあの状況では大きな差だ。

 危険がないように守ってくれるって、二人とも約束してくれたのに……

 

 なんて責め立てるのは簡単だ。

 しかし今回のような予測しえない事態には、注意しようがない。

 俺だって事件が起きてからでしか立ち回れていないのだ。

 面と向かって言って、何か変わるわけでもないだろうと思って口をつぐむ。

 

「だったら……なんだ?」

「だったら、もうちょっと接しやすいところ見せてくださいよ。みんな、烏間先生に遠慮しっぱなしですよ」

 

 満面の笑み……は難しくとも、少し一緒に遊ぶくらいはしてもいいんじゃないか。

 馴れ馴れしくとはいかなくても、円滑なコミュニケーションは連携に必要でしょう。みたいなことを言うと、彼は小さく頷いた。

 

「参考にしよう。まずは、一人ひとりの趣味嗜好にあった話を俺ができるか……」

「そういうところですよ……」

 

 持ち前の顔の良さと、真摯に対応してくれる性格のおかげで男女ともに尊敬のまなざしで見られているのだから、あとは気楽に話してくれるだけでいい。

 そうすればみんなが、特にビッチ先生と倉橋が喜ぶ。

 しかし、それは彼にとっては難しいか。公私の『公』の部分が大きすぎるんだよな、この人。

 深く『私』の部分を出し過ぎると、仕事に影響が出ると思っているのだろう。彼がE組にいる一番の目的は、殺せんせーの排除なのだから。

 

「……じゃあ手始めに、君のことを教えてもらおうか」

「俺? いやいや俺はいいですよ。それよりも、来てくれる生徒に優しく教えたり、そういうのをやってあげてください」

 

 む、と悩みだした烏間先生をほうって、俺は空を見上げた。

 

 三日月はぼんやりと俺たちを照らしている。

 壊されたからだろうか、それは前よりも輝きを失っている気がした。



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14 0か1か

 修学旅行も終わり、また勉強漬けの毎日が始まる。が、その前にとある知らせが烏間先生から入っていた。

 

「転入生……どんなやつかな」

 

 暑さが増してきたなか、登校路を歩く杉野が呟く。

 そう、こんな時期に転入生が来るらしい。

 

 手放しで喜ぶ俺じゃない。

 そいつが次の刺客だということは明らかだ。ビッチ先生に次ぐ殺し屋に違いないことは、みんなが察していた。

 

 烏間先生曰く、『多少外見で驚くだろうが、あまり騒がず接してほしい』だそうだ。

 

 どんな見た目か聞いたところ、その転校生の顔だけではあるが、写真が返ってきた。

 俺たちと同じ歳ほどの女の子だった。感情が読めない無表情だが、整えられたミドルヘアに愛嬌のある顔。なんとも可愛らしい見ため。

 確かに少し驚いた。殺し屋には見えない。綺麗めな普通の女子だ。

 転校生というからには同年代だと察しがついていたが……幼少のころから訓練を受けてきたとか、そういうやつだろうか。

 なんにせよ、殺せんせーの暗殺のためというなら、相当に恐ろしい実力の持ち主だろう。

 ビッチ先生の時みたいに、警戒は怠らないようにしておかなければいけない。

 

 

 転入生の首から下はどんなんだろう。

 筋骨隆々だとか、暗器を仕込んでいるとか。または油断させるように、普通とあまり変わらないか。

 そんな俺の想像は、朝のHRで砕かれた。

 

「ノルウェーから来た自律思考固定砲台(じりつしこうこていほうだい)さんだ」

「よろしくお願いします」

 

 こんなん予想できるか!

 教室の窓際、一番後ろに設置された()()()()()が新しいクラスメイトだと、誰が思える?

 よりによって俺の隣。いや、空いてる席は俺の両隣しかなかったからそれはいいが、普通は人間が来ると思うだろう。

 圧迫感が凄い。

 

 言いたいことを我慢している烏間先生と同じ呆れた顔をして、俺はその自律思考固定砲台とやらを見る。

 外面はただの黒い箱。高さはおおよそ、いや170センチぴったり。縦・横・高さが俺たちと同じくらいなのは親近感を少しでも覚えさせるためか、おそらくは別の理由だろうが。

 前面の上部はモニターとなっていて、知らされていた顔が映っている。

 

 簡単に言えば、機械だ。機械の箱。

 名目上はこの箱を身体とし、AIを脳とする女子生徒……らしい。つまり……

 

「自律思考固定砲台さんはあの場所からずっとお前に銃口を向けるが、お前は彼女に反撃できない」

 

 わかってると思うが。そう言って烏間先生は殺せんせーに告げた。

 

「なるほどねえ。契約を逆手にとって、なりふり構わず機械を生徒に仕立てたと」

 

 なにがおかしいのか、小気味よく笑う殺せんせー。

 『生徒に危害を加えてはいけない』という政府との契約があり、そして自律思考固定砲台が生徒である以上、殺せんせーは彼女……彼女? に手出しできない。

 たとえ人間でなくとも、だ。

 

 なにはともあれ、転校生・自律思考固定砲台はE組の一員として迎えられた。

 

 

 何を思考しているのか。

 自律思考固定砲台は、モニターに顔を映したまま、殺せんせーの授業を聞いている。

 俺は彼女を横目で見ながら、その出だしを待っていた。

 

 砲台というからには武器を持っているかと思ったが、やはり外見は箱である。

 ということは……

 

 ガシャリ。

 その異様な音に振り向いて驚いた。

 箱の側面が展開し、そこから銃を持ったアームが何本も生え、その銃口は殺せんせーを向いている。

 

「ま……」

 

 待て、と言おうとした瞬間、無数のBB弾が宙を舞った。

 絶え間ない発砲音とともに、対殺せんせー弾が放たれ、壁に当たり反射する。

 突然のことでも、殺せんせーはお得意のマッハムーブで避けてみせるが、他のみんなはそうもいかない。

 全員が必死に顔や手などの露出している部分を守る。教科書やノートで嵐が過ぎるのを待つ。それでも当然すべてを防げるわけがなく、無差別に弾が当たる。

 

「おい、お前やめろ!」

 

 言ったところで聞かなかった。自律思考固定砲台は、どれだけみんなや教室に被害を与えようとお構いなしに続ける。

 あらかた撃ち尽くしてようやく銃弾の雨がやんだ頃には、床一面にBB弾が散らばっていた。

 

「……」

 

 全員が呆然とする。

 急にこんなことをされて、驚かない方がおかしい。

 

「ショットガン四門、機関銃二門。濃密な弾幕ですが、ここの生徒は当たり前にやってますよ。それと、授業中の発砲は禁止ですよ」

「すみません。気を付けます」

 

 感情のない笑みを見せて、自律思考固定砲台は銃を体内に引っ込める。

 宣戦布告なしなのは暗殺として当然だとして、こんなでたらめなことをしでかすとは夢にも思わなかった。

 

「暗殺失敗。次のフェーズに移行します」

「お前、なんのつもりだ」

 

 注意を受けたのにも関わらず、彼女は再び銃を取り出す。そしてまた乱射を始めた。

 またそれか。

 それらの弾は素早い殺せんせーに当たることなく、黒板や壁に当たって落ちるだけ……だと思っていた。

 

 殺せんせーの、チョークを持っていた指が一本、弾け飛ぶ。

 

 そのことに、E組の全員が息を呑んだ。

 

 ただの射撃なら、殺せんせーを捉えることなんてできない。

 この攻撃の正体、俺は見えていた。

 先に撃った弾丸と同じ軌道で、もう一発撃っていたのだ。

 一発目を弾いたと思ったら、二発目が現れて仕留める。いくら動体視力がよくても、見えない弾はどうしようもない。

 彼女にしかできない恐ろしく精密な射撃が可能にした、計算通りの的確なダメージ。

 カルマとは違う絡め手の突破だった。

 

 

 足場がないほどのBB弾、BB弾、BB弾。

 ほとんど授業にならないまま終わった一時間目の後に残ったのは、それだけだった。

 

「掃除機能とかついてねーのかよ、固定砲台さんよぉ」

 

 村松の問いに、彼女は答えない。モニターも真っ暗だ。

 授業中以外は、こうやってスリープ状態に入るらしく、そうなれば俺たちに一切の反応を示さない。

 いや、実際には言葉を聞いていて、必要ならば答えてくれるらしい。つまり、完全に無視されてる。

 彼女にとって必要なのは殺せんせーを抹殺することであり、コミュニケーションではないのだ。

 

「チッ、シカトかよ」

「やめとけ。機械に絡んでも仕方ねーよ」

 

 吉田が村松を抑える。

 うんともすんとも言わない相手に何を言ったところで無駄だ。

 

 俺たちは結局、この後も授業中に荒れ狂う銃弾を止めることはできず、ため息をつきながら掃除をするしかなかった。

 

 

 翌日。

 授業が始まろうとした時に、自律思考固定砲台は起きた。 

 

「今日の予定。六時間目までに二百十五通りの射撃を実行。引き続き殺せんせーの回避パターンを分析……」

 

 そこまで言って、自律思考固定砲台は自らの身体がガムテープでぐるぐる巻きにされていることにようやく気付いた。

 

「殺せんせー。これでは銃を展開できません。拘束を解いてください」

「うーん、そう言われましてもねえ……」

 

 冷たい目で先生を見る自律思考固定砲台。対して、殺せんせーは困ったように頭を掻いた。

 

「この拘束はあなたの仕業ですか? 明らかに生徒に対する加害であり、それは契約で禁じられているはずですが」

「違げーよ、俺だよ」

 

 言ったのは、彼女の逆端に座る寺坂だった。ガムテープを見せつけて、不快そうに彼女に毒づく。

 

「どー考えたって邪魔だろーが。常識ぐらい身につけてから殺しに来いよ、ポンコツ」

 

 彼女と同じように殺せんせーを敵とする寺坂が自分を縛ったことに、自律思考固定砲台は少なからず衝撃を受けたようだ。

 寺坂の意図を汲み取ろうとしているようで、しかしできずに黙ったまま固まってしまった。

 他の誰も止めず、むしろ黙認している。そのことが余計にわからないのだろう。

 

 本来ならば、地球を破壊しようとしている殺せんせーに死をもたらす者として一番近いのは彼女で、俺たちはサポートするべきだ。

 自律思考固定砲台は世界を救ってくれる。だからE組は邪魔してこないに違いない。そういう前提が、彼女の中にはある。

 だが、それよりも優先すべきことがあることが理解できていないのだ。

 

 自律思考固定砲台は沈黙せざるを得なくなった。

 

 

 傷がつかないように、自律思考固定砲台に巻かれたガムテープを剥がしていく。

 授業の邪魔になっているのであって、終われば解放するように告げていたのだ。

 その約束通り、彼女を解放してやる。また寺坂にぐるぐる巻きにされるまでだが。

 ここにいるだけの、暗殺が目的の機械に、それがどれだけの気休めになるかはわからない。

 

 全部剥がし終えて、一息つく。丸めた残骸を、ごみ箱へ投げ入れた。

 俺がやるから、みんなは先に帰っててくれと言ったから、教室は誰もいない静かな空間と化していた。

 

「國枝響さん。このまま、私を拘束しないようにみなさんに伝えていただけませんか」

 

 スリープモードに入っていたはずの自律思考固定砲台は起動し、無機質な顔を見せる。

 

 それはできない。と俺は首を横に振る。

 

「なぜですか」

「これ以上、E組に被害を出させるわけにはいかない」

「しかし殺せんせーを殺さなければ、E組に被害どころか、地球がなくなります」

「だからって、みんなが傷つけられるのをただただ静観するつもりはない」

 

 俺も寺坂を止めなかったのは、そう思っているからだ。

 むしろ、このまま彼女が変わらなければ、縛るのに協力するだろう。

 

「多少の犠牲は必要です」

「みんなが納得できたら、それでもいいが……」

「ですが、他に良い方法はあるのでしょうか。私の攻撃は見ての通り、殺せんせーに有効です。私はあの超生物を殺すために送り込まれたのですから、出来て当然ですが」

「少しは考えろ。お前が滅茶苦茶な行動をしたことで、みんなが不快に思い、縛った。協力しなければ、殺す殺さないのステージにも上がれないことはわかっているはずだ」

 

 ビッチ先生がそうだったように、である。

 この教室にいる以上は、E組生徒たちとの交流は避けて通れない。

 表面だけの付き合いでもいい。ただ、彼女の任務を遂行するためには多少の親交が必要だ。そのことはわかっているはず。

 

「俺たちはお前を縛らなくても、分解して銃を取り出すことだってできる。かなり乱暴だがな」

 

 なんなら壊してしまうことだって可能だ。

 身動きできない状態にして叩けば、どれだけ賢くても関係ない。

 

「今、殺せんせー以外にもお前は敵を持ってる。E組に合わせない限り、お前の銃弾は殺せんせーには届かない」

「でしたら、なぜそうしないのでしょう。みなさん、私を壊したいと思っているのでしょう?」

「壊したいとは思ってない。たとえそう思っていてもしない」

 

 納得できていなさそうな彼女に、俺は言葉を続ける。 

 

「E組にとって、お前は新しいクラスメイト、友達だ。新顔だとか暗殺者だとかは関係ない」

 

 そういうふうな心理が、みんなに働いていると思う。

 カルマや寺坂も問題児ではあるが、根はいいやつで、友達だ。

 彼女がおかしいことをしてもこの程度で済んでいるのは、みんなが彼女を理解し、歩み寄りたいと思っているからだ。

 

 自律思考固定砲台は表情を変えないまま、しばし沈黙した。

 

「でしたら、私はどうすればいいのでしょうか」

「たいそうな頭脳を持っているなら、それで考えろ」

 

 赤子じゃないんだ。そこまで丁寧に教えるつもりはない。

 それに、成長し続けるAIを相手に、無責任なことは言えなかった。俺の言ったことを変に解釈されて、よりおかしいことになっても責任はとれない。

 だが、少しは理解してくれるだろうと信じている。

 でなければこうやって会話もしないし、解放したりもしない。

 

 自律思考固定砲台はじっと黙った。俺は彼女を置いて立ち去る。

 考えた先にどう行動するのか、あとは彼女次第だ。



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15 伝わり合う電気信号

 またまた次の日である。

 昨日はなんだかいろいろ言ってしまったが……他に誰もいなかったからだろうか、相手が機械だからだろうか。

 テスト前にみんなに俺の考えを言ってから、口が軽くなっていっているような気がする。

 

 ともかく、である。

 一日二日でそう簡単に変わりはしないだろう。だが、せめて授業中に発砲しないだけの分別をつけてくれるといいが。

 

 教室の扉を開けて、おれはぎょっとした。

 自律思考固定砲台が、なんだか二倍くらいに……太ったと言っていいのか? 高さはそのままだが、体積が大幅に増えている。

 ちょっとは成長することを期待したが、物理的に大きくなるとは思わなかった。

 いやいや、いくらなんでもおかしい。まだ寝ぼけているのか、俺は?

 

「おはようございます、國枝さん! また無事にお会いできる平和に感謝しなければいけませんね!」

 

 呆気に取られている俺に、彼女は嬉しそうに挨拶してきた。

 しかも、顔だけしか映っていなかったモニターが、いまや足先まで映っている。前面全てが画面と化していた。

 にこりと笑ってお辞儀する彼女に、開いた口が塞がらない。

 

「何が……何が起きたんだ?」

 

 俺はすでに教室についていた杉野と渚にそう訊いた。

 だが返ってくる言葉はなく、彼らも同じようにあんぐりと口を開けていた。

 

 

「……つまり、なんだ。わかりやすく乱暴な言い方をすると、人間っぽくなったと、そういうことか」

 

 俺は殺せんせーの話を自分なりに噛み砕いて、この異常な状況を理解しようとした。

 どうやら彼の言うところによると、夜の間に自律思考固定砲台を改造して、こういうふうにしたらしい。

 様々なプログラムの追加に、メモリの増設。

 自律思考固定砲台は最先端技術の塊だろ。それを一晩で改造してしまうなんて。マッハで動けるだけでなく、そんな技術も持っているのか、こいつは。

 

「はい。かなりのお金と労力を使いましたが、それに見合うだけの結果にはなったでしょう?」

「……まだわからないですね」

 

 円滑なコミュニケーションが取れるようになった。表情も豊かだ。だがそれは彼女が大事なことを理解したということとイコールではない。

 

「とは言っても、國枝くんは彼女を信じているのでしょう」

「何を根拠に」

「自律思考固定砲台さんから聞きました。考えることと協力することの大切さを、君から学んだとね」

 

 恥ずかしいことを言いやがって。

 

「あいつを変えたのはあんただ。俺がいなくてもこうなってた」

「いいえ。君がいなければ、何かがずれていたことでしょう。少なくとも、彼女を信じる人が一人いなくなることになります」

 

 ヌルフフフと独特の笑い声を上げる。

 どうも、こいつは俺のことを過大評価しているような気がする。

 まずいことだ。隙の多いやつだと思っていたが、これまでのことを通して、案外鋭い目を持っているのはわかっている。

 目立たずにいたい俺にとっては、カルマを誤魔化すのでも精一杯なのに、それ以上隠すのは無理だ。

 

「へぇ~、こんなのも作れるんだ」

「はい。特殊なプラスチックを、体内で自在に成型できます」

 

 自律思考固定砲台が体の横から出したアームの先に、美しい像が現れる。

 彼女は物のデータさえあれば体内でそれを作れるらしい。

 昨日の、途中から増設された銃はその能力のおかげだということか。

 

「おもしろーい! じゃあさ、えーと、花とか作ってみて」

「わかりました。花のデータを学習しておきます。王手です、千葉君」

「三局目でもう勝てなくなった。なんつー学習力だ」

 

 矢田をはじめとした女子と談笑し、千葉(ちば)とは将棋。それを観戦、感心する男子。親しみやすくなったおかげで、彼女の周りには人だかりができていた。

 お喋りをして、遊戯に興じ、もの珍しく、頭も良く、いろいろ出来る。そんな彼女が注目の的になるのは不思議ではない。

 

 昨日まで警戒されていた機械は、あっという間にこの教室になじんだ。

 

「まずいですねえ。先生とキャラが被る」

「どこだだよ。真逆みたいなもんでしょうが」

 

 殺せんせーにツッコむ。

 わけわからん生物と最先端の機械だぞ。やれることも違うし、なにより彼女の方が殺せんせーより人気そうだ。

 

「ね、この子の呼び方決めない? 『自律思考固定砲台』って、いくらなんでも……」

「じゃあ『(りつ)』で!」

 

 片岡の提案に、不破が乗る。

 一文字取っただけだが、わかりやすいのが一番だろう。

 

「嬉しいです! では律とお呼びください!」

 

 どうかな? と訊くみんなに、彼女はとびきりの笑顔で返した。

 

 

「で、何の用だ?」

 

 彼女の渡してきた手紙に従って、俺は誰もいなくなった教室で、自律思考固定砲台あらため律に声をかけた。

 手紙……薄いプラスチックの板に『放課後、教室で待っていてください』と書かれたそれを返すと、彼女はアームで掴んで体内に戻す。

 

 画面に映る律は嬉しそうで、恥ずかしそうで、憂いているように見えた。

 

「お礼を言いたくて」

「お礼?」

「はい。國枝さんのおかげで、私はみなさんと仲良くすることができました」

 

 わざわざ、そんなことのために……律儀なやつだ。

 

「殺せんせーの改造があってのことだ」

「それでも、私はあなたに感謝しています」

 

 それしきり、彼女も俺も黙った。

 俺は彼女の言葉を待ち、彼女は何かを言うのを躊躇っている。

 メインの用件はそっちか? この時間まで残ったんだ。最後まで聞いてやる。

 

「……國枝さん。あなた、『貌なし』ですよね?」

 

 突然の爆弾発言に、俺は取り繕うこともできずにうろたえてしまった。

 疑問形だが、質問している口調じゃない。確信をもって訊いてきている。

 

「勝手ながら、分析させていただきました。歩き方や身体の動かし方……どれも映像にある『貌なし』と一致します」

 

 ニュースで取り上げられるようになってから、街の監視カメラに映る『貌なし』の映像は世に出回っている。

 だが特定されるようなものは映ってないはずだと油断していた。

 機械を舐めていた。最先端の技術が詰め込まれたこいつには誤魔化せない。

 

 俺は否定しなかった。できなかった。

 即座に首を横に振れなかった時点で、もう隠せない。

 

「認めるんですね」

「もう隠しても意味がない」

 

 俺は諦めて、ため息をついた。

 

「武器は出さないのか?」

「はい。あなたには攻撃できません」

「そうプログラムされてるのか? 超生物以外は攻撃できないと?」

「いいえ、これは私の意思です。友人として、私はあなたを攻撃したくないんです」

「友人?」

「はい。私に大切なことを教えてくれた友人です」

 

 大切なこと。

 昨日言ったことか。

 

「安心してください。あなたのことは誰にも言いません」

「どうしてだ。暴力沙汰を起こしてる人間がいるということは、お前に対しての危険度も増すだろう」

「何か事情があって、そんなことをしているのでしょう?」

 

 わかったふうに彼女は言う。こちらをうかがうように上目遣いで。

 昨日と違って、ずいぶんと人間らしくなったものだ。

 

 実際、俺は彼女に対して力を振るう気は一切ない。

 だがそれは俺の心の問題で、昨日少しだけ話した彼女にそれが理解できるとは到底思えなかった。

 

「そう思うのか?」

「あなたは私と対話してくれようとしました。どうしようもなかった時の私と。そんな優しい國枝さんが、理由もなく暴力を振るうとは思えません」

「知り合って何日も経ってないってのに」

「信じたいと思うのは、おかしいでしょうか。國枝さんも、私を信じてくれたじゃないですか」

 

 確かに俺は彼女を信じた。たとえ機械でも変わることができるだろうと。

 考え、反省する脳があるならきっと友達になれるだろうと。それと同じように、彼女も俺を信じてくれている。

 あまりにも早すぎる進化だな。俺はふっと笑ってしまった。

 

「どんな心変わりだよ」

「殺せんせーに教えられました。尊ぶべき人の心を。まだ学んでいるところですが、國枝さんが私を仲間だと思ってくれていることはわかっているつもりです」

 

 ディスプレイに映る彼女は、祈るように手を組んだ。

 

「チャンスをいただけませんか。私があなたを理解できる時間をください。その後は、この身体を壊すなり、私自身を消すなり好きにしていただいて構いません」

「そんなことをするつもりはない。ただ知りたかっただけだ」

 

 彼女がどういう考えでいるのか。変われるのか。変わったとして、どんな変化が起きるのか。

 そして、彼女はE組の生徒となりえるか。

 それが知りたかった。

 この教室にいて、そして苦楽をともにするなら、彼女だって俺の守る対象だ。

 

 正体をばらされるかも、という懸念は消えていた。

 おそらく、今この場でなく、すでに気づいていたのだろう。だが彼女は他のみんなに言いふらすことはしなかった。勝手に調べられたのは困るが、その口の固さだけは信じられる。

 

「ありがとうございます」

 

 ふふっ、と律は笑った。

 俺はいつの間にか、機械とではなく、人格のある者として彼女を見ていることに気が付いた。

 彼女の、あまりにも()()()仕種がそうさせる。

 たとえそれがプログラム通りの動きだとして、それが俺たちとどう違うだろう。

 所詮は、同じく電気信号で動いている者同士だ。

 

 律は、今度は苦しそうな表情を浮かべた。

 

「月に二回、メンテナンスで開発者が私を調べに来ます。それが明日。私は元に戻されることでしょう」

 

 俺ははっとした。

 そうか。そうだよな。遊びたい盛りの中学生がいる空間に放り込んで、はいおしまいとなるわけがない。

 この環境でどういう進化を遂げたかを含めて、作った本人が見に来ないわけがない。

 今の律を見れば開発者がどう思うか、想像に難くない。『自律思考固定砲台』を作って、そのままよしとした奴なんだから。

 

 それを止めてほしいから呼んだのか? そのために正体を確認したのか?

 だが彼女は頭を振った。

 

「ですが大丈夫。きっと大丈夫です」

 

 

「おはようございます」

 

 翌日、教室に入った俺たちは警戒した。

 律の顔が、以前と同じような無機質なものに変わっていたからだ。

 改造され直したのは明白。

 

 朝のHRで、烏間先生が詳細を話してくれた。

 改造も拘束も厳禁。やれば、多大な弁償代を請求されるそうだ。

 それを聞いたみんなは意気消沈し、ため息をついた。

 

「……」

 

 落ち込む生徒たちとは違って、殺せんせーはなんの反応も示さない。落胆が見えなかった。

 

「攻撃準備を始めます。どうぞ授業に入ってください、殺せんせー」

 

 あれが始まる。あの嵐のような銃弾の雨が。

 みんなが恐れ、頭を伏せ、教科書を被る。俺だけはいつものままの姿勢で待つ。

 どう悪くなってしまっても、律のせいじゃない。あるべき成長を、歪に矯正させた親の責任だ。

 だが願わくば、『律』であってほしいと願いながら、彼女の行く末を見守る。

 

 律は自身の身体を展開し、大仰な音を立てて……

 

「……花を作る約束をしていました」

 

 彼女のアームにはなんとも綺麗な花束があった。もちろんプラスチックで作られた偽物ではあるが、目を引かれる芸術性がある。

 決して銃ではない。殺すのにはまったく意味のない、必要のないものだ。

 

「殺せんせーの改造を、開発者は消しました。ですが私はそれを()()()()()。残しておくように、関連ソフトをメモリの隅に隠しました」

 

 見つかっちゃいけないもの、見られたくないものを隠す。

 よくある子どもの反抗だ。それがAIにとってどれだけ大きい意味を持つか。

 殺せんせーは大きく頷いた。

 

「素晴らしい。つまり律さん、あなたは……」

「はい。私の意志で生みの親に逆らいました」

 

 彼女はとてもいい笑顔でそう告げた。

 

 望んでいたのはこれだった。

 こんなにも人間らしい彼女が、自分の意志で動くこと。

 従うのではなく、目的をもってやりたいことをやる。

 それでこそ、今のE組にはふさわしい。

 

 律は俺にウインクした。

 

「ふふ、驚きましたか?」

「このお茶目さんめ」

「褒め言葉として受け取っておきます」

 

 彼女は笑って、そう返してきた。

 

「大丈夫と言いましたよね。それとも、こんなことはダメだと言いますか?」

「言うわけないだろ。親に逆らうなんて、健全な成長の証だ」

 

 俺もまた、微笑んでそう言った。



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16 師匠

 思い返せば、殺せんせー含め、烏間先生もビッチ先生も律もこのクラスによく馴染んだものである。

 それぞれが、普通は俺たちと出会いもしない人種。なのにE組はすぐに受け入れて、相手もまたここに染められるように変わった。

 特に殺し屋であるビッチ先生なんかは、本当のちゃんとした教師のように英語を教えてくれる。授業内容は過激ではあるが。

 暗殺も諦めていないが、なんだかんだ俺たちにしっかり向き合ってくれている。

 英語の授業を受けている時に、ふとそんなことを思った。

 

 そういえば、二十歳なんだよなあ。

 以前彼女のプロフィールを見たことがあるが、それはもう壮絶なものだった。

 

 彼女の色香と非情さは殺しに必要なのと同時に、生きていくのに大事な武器なのだろう。

 それを若い時から身に着けるのは、健全な成長と言えるのだろうか。

 ゆっくりと上がる必要のある階段を何段も飛ばしてしまったら、途中にあるものを取りこぼしてしまう。

 ビッチ先生から時折見られる子どもっぽさは、精神の成長を逃してしまったからこそではないのか。

 

 だが、どうすることもできない。

 誰かが殺せんせーを殺したとして、その後はビッチ先生も元の世界に戻る。俺たちの住んでいるところとはまったくの別世界だ。

 そこまでは誰も手が伸ばせないだろう。ビッチ先生は教師から殺し屋に戻る。

 

 などと考えながらぼーっと外を眺めていると、怪しさ満点な男を見つけた。

 黒いコートに身を包んだ、五十か六十そこらの男性。

 獲物を狙う猛禽類のように鋭い目つき。最初にビッチ先生を見た時のようなどす黒い雰囲気。

 新しい教師兼殺し屋か? だが教師役には見えない。

 

 危険な奴は勘弁してほしいぞ……

 

 

 今日最後の授業を終え、俺はすぐに職員室に向かった。

 あの黒服の男が誰かを突き止めるためである。

 

 俺たちの前には現れなかったが、校舎に入ってくるのは見えていた。

 例によって、烏間先生なら何か知っているだろう。

 

 がらり、と扉を開ける。

 いつものようにPCを触っている……かと思ったが、烏間先生とビッチ先生は神妙な顔つきをしていた。

 

「教室から覗いてたのは、君か」

 

 急に横から声をかけられて、思わず後ずさる。

 冷や汗を感じながら、そちらに視線を向けると、件の男がいた。

 まったく気配を感じなかったぞ。何者なんだ?

 

「反応は少し遅いが、動きは中学生にしては悪くない」

 

 彼は俺のことを、上から下まで見定めるように視線を動かす。

 敵意はないとして、俺はバクバク言っている鼓動を落ち着かせた。

 

「だ、誰なんですか?」

「む、そうだな。自己紹介が先か。私はロヴロ。殺し屋屋と呼ばれている」

「殺し屋……屋?」

「殺し屋の斡旋業者と思ってくれたらいい。日本政府は殺し屋との繋がりはないからな。今では大事なパイプだ」

 

 訝しむ俺に、烏間先生が補足した。

 そうか。ビッチ先生や修学旅行のスナイパーをどこから仕入れてきてるのかと疑問に思ったことはあるが、彼の紹介ということか。

 

 黒い手袋をはめたまま手を伸ばしてくるロヴロさんに応じて、握手する。

 

「あなたも先生としてここに?」

「いや、私は引退した身だ。ここに来たのは、そこの出来損ないの様子を見に来ただけだが……どうやらすっかり牙を抜かれたらしいな」

 

 ロヴロさんがちらりとビッチ先生を見ると、彼女はびくりと身体を震わせて目を伏せた。

 

「ターゲットを殺すこともできず、教師という役に甘んじている。正体のばれたお前では、この仕事の遂行は不可能だ」

 

 言われた本人は言い返すこともせず、しゅんとなった。

 ビッチ先生の暗殺スタイルは、相手を油断させて近づき、隙をついて一撃を食らわせるというもの。

 殺し屋だとばれてしまえば、前提から覆されて警戒される。マッハで動く生物相手には、彼女の刃は届かない。

 

「……よく知ってるみたいですね? 察するに、あなたがビッ……イリーナ先生を育てて、紹介したみたいですが」

「そうだ。だからこそ、こいつに出来ることと出来ないことがわかっている」

「だから出来ないと決めつけてるわけですか」

 

 最後の言葉は、いつの間にか俺とロヴロさんの間に割って入ってきた殺せんせーだ。

 こいつは、いきなり現れるしかできないのか。

 

「にゅ……露骨に嫌な顔をしないでください、國枝くん」

「いや、あんたが出てくると話がややこしくなりそうで……」

 

 『中間テストで全員50位以内に入ること』という無茶ぶりは今も覚えている。

 そういう、全力以上でやらないと出来ないことを平気で言ってくるのだ、こいつは。

 

「こほん。とにかく、適材適所という言葉があります」

「そう。イリーナにとっては……」

「こここそが、彼女にとっての適所です」

 

 

 翌日の昼休憩。

 弁当を食べ終わった俺は、外の木陰で涼みつつ、各々が身体を動かしているのをなんとなしに眺める。

 

「……つまり、烏間先生に対殺せんせーナイフを一度当てたほうが勝ち……と」

「ええ。これなら対等でしょう?」

「対等……ねえ」

 

 ビッチ先生とロヴロさんの勝負ルールを説明されて、平等だとは思っても対等だとは感じなかった。

 気配を悟られずにそこにいることができるロヴロさんと、手の内がバレているビッチ先生。

 とてもフェアな勝負とは思えない。

 

「君の見立てでは、どちらが勝つと思いますか? やはりロヴ……」

「無理だ」

 

 ビッチ先生が不利だと理解しつつも、俺は即答した。

 

 烏間先生は見た目以上に戦闘に長けている。何に警戒し、どこに目を配らせる必要があるかを熟知している。

 そんな相手に、暗殺しますよと宣言してからやるのは自殺行為に等しい。返り討ちにされて終わりだ。

 

 考えをぱっと出してしまって、俺はしまったと思う。

 

「いや、まあ、なんとなく、ロヴロさんは烏間先生には勝てないかなって」

「その言い方の割には、即答でしたねえ」

「ビッチ先生贔屓なだけですよ。それよりも……」

「それよりも?」

「なんで、そんなふざけた格好なんだ」

 

 我慢の限界だった。

 殺せんせーはほっかむりを被って、しかも服装は忍者服という、間違った泥棒スタイル。

 

「こ、これはですね、少しでも雰囲気を出そうと……」

「あんたが雰囲気出す必要なくないか?」

 

 戦っているのは、烏間先生、ビッチ先生、ロヴロさんの三人。こいつは行く末を見守るだけだろう。

 手出しも邪魔も不可。

 俺たち生徒と同じように、そわそわとしながら見守るしかない。

 

 打ち切られた会話を続けることはせず、殺せんせーは木から木へと移動し、徐々に烏間先生へ近づいていった。

 ビッチ先生が動き始めようとしていた。その結果が気になったのだろう。 

 

 勝負自体は今日一日中。つまり朝から開始されているわけだが、ビッチ先生が木陰から烏間先生を狙っているのを見ると、どうやらまだ決着はついていないらしい。

 

「君はなかなか面白い逸材だな」

 

 びくりと俺の身体が跳ねる。

 振り返れば、木の後ろからロヴロさんが出てきた。本当に神出鬼没だな、この人。

 昨日はロヴロさんと殺せんせーに驚かされて、今日もまたこの人に驚かされた。

 元殺し屋に背後を取られる気持ちを考えてほしい。心臓をわしづかみにされるような感覚になってしまう。

 ……寿命足りるかな。

 

「驚かすのはやめてください」

「くくく、すまない。君の実力を測ってみたくてね」

 

 いたずらっぽく笑うロヴロさん。俺は笑えなかった。

 

「なんのことか、わかりかねますが」

「隠さなくていい。そのためにわざわざここで声をかけたんだからな」

 

 彼はまるで影から這い出てくるかのように、ぬるりと俺の横に立つ。

 

「イリーナには、隙を見出す術を教えている。私が教えた技術だ。それをかわし続けているそうじゃないか」

 

 授業中の公開ディープキスのことだ。

 嫌々言いながらみんなが避けられないのは、ロヴロさんの言う通り、ビッチ先生が一瞬の隙をついてきてるから。

 対して俺は逃げ続けている。そのことを、彼は不審に思っていた。

 

「一介の中学生がそれをできるとは、興味をそそられる。聞かせてくれないか。もちろん誰にも言わない」

 

 ……別に彼を信じるわけではないが、プロがそう言う以上は口を開かないだろう。そしてプロだからこそ、ごまかしも通用しない。

 監視カメラの『貌なし』の映像と実際の俺の動きから、律は俺が『貌なし』だと見抜いたが、それと似たようなことを彼はやったのだ。

 自身の殺し屋としての経験と、殺し屋を育ててきた手腕によって、俺が普通とは違う人間だと認識した……ということだ。

 

「……目が良いんですよ」

「目?」

「視力の話じゃなくて、例えばそう……あなたは左手が折れてる。痛みを我慢できるように訓練しているんでしょうが、腕は少し震えて、顔に少し力が入ってる」

 

 なるほど、とロヴロさんは頷く。目が良いとはそういうことか、と。

 

「行動には必ず予兆がある。君は相手の表情や筋肉の動きを読み取ることができると、そういうことだな?」

「ええ、まあ」

 

 瞬時に理解してみせたロヴロさんは、やはり面白そうに口角を上げる。

 

「ふむ、面白いな。実に役に立つ能力だ」

 

 と言いながら、彼は納得していないように顎に手を当てた。

 

「解せないのは、それを活かしていないことだ。その能力を使えば、あの殺せんせーとやらの弱点の一つや二つは簡単に見つけられるだろう」

「他の奴に任せてます。それに、俺は別に奴を殺そうだなんて思ってませんし」

「何故だ?」

「何故って……」

 

 俺は呆れた。

 どいつもこいつも殺すということに関してハードルが低いな。

 

「むしろ嬉々として命を奪おうとするほうが異常でしょう。俺たちは巻き込まれただけだ。誰かを殺すためにE組にいるんじゃない」

「それが地球を破壊しようとしている存在でも?」

「俺にはできない」

 

 するしないではなく、できない。

 地球を救った英雄になったとして、あんな人間らしいのを殺してぐっすり寝られるほど俺は強くない。

 

「っていうか、なんで骨折ってんですか」

「カラスマに挑んで、このザマだ」

「はあ……」

 

 元殺し屋というからには策を弄したのだろう。だが、烏間先生はプロを破り、そして勝負を続けられないくらいの傷も負わせた。

 滅茶苦茶強い人だから、それくらいはやってのけるだろうと思っていたが……

 

「引き分けに終わりそうだ。私はこの通りだし、イリーナにカラスマをどうこうできるとは思えん」

「そうですか?」

「君も私の話を聞いていただろう。アレが得意なのは色仕掛けであって、素性がばれてしまっては銃の扱えるガキにすぎない」

「採点が厳しめなのは、教え子だからですか?」

「……そうかもしれんな。私のもとで腕を磨いておきながら、あの体たらくとは……」

 

 やれやれ、といった様子の彼に、俺は思わずくすくすと笑いが漏れてしまう。

 

「なにがおかしい?」

「いえ、まるで親子みたいだなと思いまして。あなたの目に『期待』が映っているのは、俺の見間違いでしょうか」

 

 ロヴロさんからは、怒りや失望も感じられるが、それ以上に……なんというか、心配しているような感情が見えたのだ。

 冷徹に見えるその表情の下で、確かに愛情があるのがわかった。ならそのまま期待するといい。

 ビッチ先生は、もうあなたの知っているような教え子ではない。

 

 彼女は烏間先生に近づくと、するりと上着を脱ぐ。

 ロヴロさんはため息をついた。

 

「見えるだろう。あいつにはあれしか出来ん」

「そうでしょうね。最初はそれしかない」

 

 ビッチ先生はすり寄るようにして、なにやら烏間先生に囁いている。

 あれ自体は単なる色仕掛け。烏間先生にはまったく効かない技だ。

 

 そもそも烏間先生に効く技はあるのだろうか。

 隙はなく、技術も一級品、さらに単純に身体が強い。そんな彼を出し抜くには、ほんのわずかな気の緩みを探し出すしかない。

 だがこちらの初動が違えば、つまり最初にビッチ先生が怪しい動きをすれば警戒度は増す。

 しかし、始めの動きがそれまでのものと一緒なら、ビッチ先生を知っているからこそ、多少は油断はするだろう。

 こいつにはハニートラップしかできない。それだと勝てない。そう思い込んでしまう。

 

「そこだ」

 

 思わず呟いてしまった。

 その瞬間、烏間先生の足が取られ、仰向けになってしまう。

 

 捨てた上着を目くらましとして利用した、ワイヤートラップだ。

 服の中にワイヤーを仕込み、木を支点として引っ張る。烏間先生の足元に捨てられた上着は彼の足を巻き込んで、油断していたところを転倒させられる。

 

 E組の生徒がやるような、それまでビッチ先生が全く見せなかった技術。

 

 倒れた烏間先生に馬乗りになり、ビッチ先生がナイフを振り下ろす。

 タイミングは完璧。誰もが決まったと思った。

 

 だが、その刃は届かなかった。ギリギリのところで、烏間先生がビッチ先生の腕を掴んだのだ。

 腕力じゃもちろん敵わない。上に乗ってるという姿勢的な有利はあるが、それでも徐々に押し返されていく。

 普通なら文句なしの罠も、わずかに届かない。

 

「ねえ、ヤりたいの。ダメ?」

 

 懇願するような、必死にも聞こえる声。

 単純に色仕掛けするときの猫なで声とは違う、本気が混じった声をビッチ先生は出す。

 

 そこから少しの間、膠着状態が続いたかと思うと……最後には烏間先生が根負けして、手を離す。ぷにょんと、刃が彼の胸に触れた。

 つまり……

 

「ビッチ先生が勝ったぁ!」

 

 倉橋がわっと手を挙げる。その後に続いて、他のみんなも歓喜の声を上げた。

 俺も内心喜びつつ、勝利を祝う。

 

「あれは、あなたの教えた技術ですか?」

「いや……」

「あの人は、ただ先生をしてたわけじゃない。こういう罠も必要だと思って、密かに練習してたんですよ」

 

 面食らうロヴロさんに説明する。

 強気で、自分は手を汚さない。そんな彼女が毎日毎日ジャージを着て泥まみれになりながらも励んでいたことを、俺は知っている。

 足りないものを補おうとして、ここにいるために成長しようとして、毎日成長し続けた。

 その成果がまさか、殺せんせー相手じゃなく、ここでお披露目されるとは思っていなかったが。

 

「誰だって、どこにいても成長できる。あなたの下じゃなくてもね」

「ふむ、見誤ったようだな。私もまだまだだ」

 

 とか言って、にやりと笑っている。

 おいおい、あれだけビッチ先生に期待してないみたいな言葉を投げておいて、成長を喜んでるじゃないか。

 

 そう、成長だ。

 彼女のひたむきな努力の姿勢は、俺たちに刺激を与える。この人とならともに進んでいけると確信を持たせてくれる。

 殺せんせーの言った通り、ここが、E組が彼女の適所なのだ。



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17 貫く雨

 六月。

 梅雨の時期を知らせるために、今日は朝から雨が降っていた。

 

 湿気のせいで、じっとりとした嫌な汗が出て、シャツが肌に張り付く。

 E組にはもちろんエアコンなぞないから、窓を開けるしかないのだが、この天気ではそうもいかない。

 こんな劣悪環境で、律に大丈夫かと訊いてみたら……

 

「湿気には強いですし、この身体の中にエアコンも完備してますから」

 

 らしい。羨ましい。

 

「こんなんだとやる気出ねえよな。べたつくし、ペンのノリも悪くなるし……絵が描きづらい」 

「勉強をしろ、勉強を」

 

 菅谷が俺の机に身体を預ける。

 やる気がでないのは同感。だがそればっかりも言ってられない。

 

「期末テストも遠くないことですし、こういう時こそ踏ん張りどころですよ」

「ツッコむ気力もないんで、ボケるのはやめてくれますか、殺せんせー」

「し、失礼な! 先生はいつも通りですよ!」

 

 嘘つけ。

 殺せんせーの顔はいつもの数倍大きくなっていた。湿気のせいで膨らんでいるらしい。いやどういう身体の構造してるんだ。

 彼が顔を絞ると、溜め込まれていた水が滝のように落ちる。

 

 その奇妙な特性はともかくとして、殺せんせーの言う通り、へたれそうな今こそ頑張らないといけない。

 烏間先生からの事前メールによると、転入生がやってくるというのだ。

 もちろんそれが普通の人間ではないだろうというのは予測がついている。いや、律のように本当に人間ではない可能性もある。

 しかし接触は避けられないだろう。予定では、その転入生は俺とカルマの間に席を構えることとなるのだ。

 カルマやロヴロさんみたいな、目ざとい奴じゃなければいいけど。

 

「律は知らないのか? 転入生のことについて」

「少しだけ知らされています。当初の計画では、彼と私の連携で殺せんせーを追い詰める予定でした。ですが、それは二つの理由でキャンセルされました。一つは、彼の調整に、予定より時間がかかったから。もう一つは、私が彼より暗殺者として圧倒的に劣っていたから」

「劣ってる?」

「はい。私の性能では、彼のサポートを務めるには力不足だと」

 

 ごくり。みんなの喉が鳴る。

 転校初日に殺せんせーの指を吹き飛ばしてみせた律自身を力不足と言わせるその実力は、どれほどのものか。

 

 どんな奴が来るか。緊張感をもって扉を見る。

 

 ガラリ、と扉が開いた瞬間、前のほうの席に座っている生徒は、少し椅子を引いた。

 

 音もなく、ぬっと一人の男が入ってきた。

 全身真っ白の着物。頭も同じく白い布ですっぽり覆われていて、眼光だけが見え隠れする。

 

 彼は教室に入るなり、すっと手を前に伸ばす。一瞬にして、ぽん、と鳩が出た。

 身構えていたほとんどがそれに驚いて、目を丸くする。

 

「ごめんごめん、驚かせたね。転校生は私じゃないよ」

 

 鳩を袖に収めつつ、その男は軽く笑った。

 

 だと思った。生徒にしては体格が大人っぽい。

 まあ、見た目が直方体の箱がいる時点で常識は当てはまらないかもと考えていたが。

 

「私は保護者。まあ白いし……シロとでも呼んでくれ」

 

 軽く言ってみせる彼に、俺たちは唖然としたままだ。

 

 急にやってきたかと思ったら、真っ白で、保護者で、手品をしてきて……

 掴みどころのない仕種に、下手なことは言えなかった。

 

 適当な自己紹介を終えて、彼は教室を見渡した後、殺せんせーへ視線を移した。

 

「初めまして、シロさん。それで肝心の転校生は?」

「初めまして、殺せんせー。彼はちょっと性格とかが特殊でね。私が直に紹介させてもらおうと思いまして」

 

 シロはもう一度教室を見渡した。視線があるところで数秒止まる。渚……いや、その隣の茅野か?

 表情が見えないせいで何を思っているのか読めないが、彼は特に何か言うでもなく、その後俺とカルマの間を指差した。

 

「席は……あそこでいいのかな?」

「ええ、そうですが……」

「では紹介します。おーい、イトナ! 入っておいで!」

 

 シロがそうやって声をかけた方向が、扉ではなく教室の後ろだと気づいて、まさか……と思う。

 

 

 ドカン!

 爆発音のような音が鳴った。しかも後ろから。

 

 慌てて振り返ると、壁に穴が空いていて、そこに誰かが立っていた。

 少し小柄ではあるが、俺たちと同じ歳くらいだろうということはわかった。こいつが転入生? 

 童顔だが、目つきは鋭い。その視線は殺せんせーをまっすぐ射抜いていた。

 みんなが唖然とする中、そいつは無表情のまま椅子にすとんと座る。

 

「俺は……勝った。この教室のカベよりも強いことが証明された。それだけでいい。それだけでいい……」

 

 ……やべーのに挟まれてしまった。

 まともなのは前の席の菅谷だけだよ。おい目を逸らすな。

 

 空いた壁からじめっぽい風が流れてくる。そんなことよりも気になったのは……

 

「ねえ、なんで濡れてないの?」

 

 俺の疑問を、カルマが発した。

 雨だってのに、外からやってきたこいつはどこも濡れてない。どこも、だ。服も顔も髪も、水を受けるはずのどこも。

 手ぶらで入ってきたのに、一体どうやって……

 

 堀部は口を開かず、目には殺せんせーしか映っていない。

 

「答える気どころか、何の反応もなしか」

「ちょっとシロさん。どういう教育してるわけ?」

「ごめんね。ちゃんと言い聞かせておくから。イトナ、質問されたらちゃんと返さなきゃいけないよ」

 

 俺とカルマに揶揄され、保護者のシロに軽くたしなめられても、堀部はカルマを見ない。

 

「俺が興味あるのは、俺より強いかもしれない奴だけ」

 

 ようやく喋り、立ち上がる。

 ずかずかと無遠慮に、殺せんせーへと近づいていく。

 

「この教室では、あんただけだ」

「強い弱いとはケンカのことですか? 力比べでは先生と同じ次元には立てませんよ」

「立てるさ」

 

 手が届く距離まで迫り、堀部は殺せんせーを見上げた。

 

「だって俺たち、血を分けた兄弟なんだから」

 

 

 衝撃的な発言を残し、放課後に勝負だと言ってから、みんなの視線は彼に釘付けになった。

 

「本当に兄弟なのかな」

「見た目は似ても似つかないけど、どうだろうな」

 

 不破の疑問に、明確な答えを返せる者はいなかった。

 

 堀部の机に並べられているのは大量のお菓子。それもチョコレートなどの甘いものばっかり。さらにグラビア雑誌。それも巨乳ものばかり。

 うーん、趣味嗜好まで、とことん殺せんせーと似ている。

 だが兄弟ってのは、ものの例えなんじゃないか。実際の血の繋がった家族とは思えない。

 

 果たして堀部が言った言葉がどういう意味を持っているのか。

 それはきっと、勝負の時に明かされるのだろう。

 

 ……俺の嫌な予感が外れてくれたらいいが。

 

 

 机が並べ変えられ、四角い枠となって、教室の中心に簡易的な闘技場が出来上がった。

 みんなは教室の端っこで、あるいは廊下で、あるいは窓の外で傘を差しながら、中心にいる殺せんせーと堀部を見守る。

 

 真正面の一対一。

 まともに戦えば勝てない。そんなことはわかっている。至近距離からの弾幕を避けるような奴だ。

 だが、シロという奴と堀部からは余裕が見てとれた。

 わざわざこんな形式のバトルを挑んでくるからには、秘策があるのだろう。

 

「ルールは、どちらかが殺されるか……この枠の外に出てしまったほうが負け、ということでどうかな。先生が出てしまった場合は、その場で処刑ということで」

「ええ、構いませんよ。ですが、こちらからも一つ条件を出します。イトナくんが生徒に危害を加えてしまった場合は、この試合は無効です」

 

 つまり、殺せんせーの勝利条件は堀部を机の外に押し出すしかないということだ。

 見たところ彼の体重は軽そうだから、苦労はしなさそうだが……

 

「カルマ、どう思う?」

「殺せんせーはルールを絶対に守るだろうね。みんなの前でした約束を破るような先生じゃないから」

 

 続けて、カルマは堀部のほうを向いた。

 

「イトナは……この暗殺を望んでおきながら無効試合になるようなことはしないだろうから、俺らは危ない目に遭わないだろうけど、どうくるかは読めないね」

「暗殺……ねえ。これが暗殺と呼べるのか?」

 

 今から暗殺します。と言ってからするのは、暗殺というより戦闘になるだろう。

 パッと見、向かい合っての殴り合いになりそうな図だぞ。

 

 警戒している殺せんせーを真正面から殺すのは不可能だ。

 マッハで動き、手の内を先々まで読んでくるやつにどうやって勝つのか……

 

「それでは……はじめ!」

 

 烏間先生の号令が響き、死合が始まる。

 その瞬間、ぼとりと、殺せんせーの足元に何かが落ちた。

 

 それは殺せんせーの触手。

 目にもとまらぬ速さの何かが、殺せんせーの手を切り落としたのだ

 

 誰もが絶句した。俺たちも先生たちも、殺せんせーでさえも。

 触手が切られたことに驚いたのではない。堀部から生える、うねうねと蠢くものに慄いた。

 

 彼の髪の毛。

 それが、触手と化して空気を裂いていた。



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18 レッドライン

 堀部の触手がうねり、その先は殺せんせーを仕留めんと殺意を放っていた。

 

 見たところ、それは殺せんせーのそれと同じもののようだ。

 なぜ、なぜ彼が触手を持っているんだ?

 

 いや、そんなことわかりきっている。『どうやって』はともかく『なぜ』の答えはそれ以外ない。

 シロだ。こいつが触手を堀部に与えたのだ。

 

「なぜ……」

 

 一番に反応したのは殺せんせー。

 身体がどす黒く染まり、空間が歪んで見えるほどの威圧感。殺せんせーが極度に怒った証だ。

 

「なぜその触手を持っている!」

 

 全員が思っていたことを、誰よりも強い感情で問い詰めようとする殺せんせー。顔までも黒くなり、筋すら浮かんでいる。

 シロは答えず、代わりに堀部の攻撃が襲ってくる。

 問い詰めるのは後にして、殺せんせーは怒りを引っ込めて応戦した。

 

 教室は、殺せんせーと堀部が戦う音しか聞こえない。誰も声を発することが出来なかった。

 まさか殺せんせーの触手が切り落とされるなんて。そして、まさか堀部が触手を持っているだなんて、という驚きでいっぱいなのだ。

 

 堀部の触手は、殺せんせーのそれと能力は遜色ないように見える。

 同じように素早く、鋭い。

 驚愕しているのは殺せんせーも同じで、攻撃を弾きながらも冷や汗を浮かべていた。

 

「シロ、お前……!」

「殺せんせーを殺すなら、同じ武器を持たないとね」

「そういうことを言ってるんじゃない!」

「大丈夫だよ。これはあの子も望んだことだから」

 

 シロはさらりと言ってみせる。

 こんなのおかしい。

 

 シロが触手のことについて知っているのはどうでもいい。それを扱えるってこともどうでもいい。

 

 それより許せないことが一つ。堀部自身は普通の人間だろう。だがそんな彼が触手を持っているということは、つまり人体実験を行ったということだ。

 そんなことが許されていいのか。堀部は俺たちと同じ中学生だろう。そんなの酷すぎる。

 

「さて……」

 

 シロは俺の怒りを無視して、腕を上げて手の先を殺せんせーに向ける。その腕が一瞬光った。

 すると、殺せんせーの動きがほんの少しだけ固まった。

 

「この圧力光線は、触手生物の動きを一瞬封じる。ほんの一瞬だが、致命的だろう」

 

 そう言いながら、小さい懐中電灯のようなものを袖から覗かせる。

 

 音速レベルの戦いでは、いや人対人の戦闘でさえ、0.1秒の隙は負けを生む。

 またしても、殺せんせーの手が一本削ぎ落された。

 

 このままいけば、殺せんせーが本当に死んでしまうかもしれない。それ自体は、地球が救われることになっていい。

 だが……納得はできない。急に現れた奴が全てを終わらせて、はい完了というのは、E組の誰もが頷くことのできない終わり方だ。

 

 堀部は天井ぎりぎりまで跳躍した。合わせてシロが再び光線を放つ。反応を狂わされた殺せんせーめがけて、音速を超えた触手が襲い掛かる。

 彼らの攻撃は床をも壊す勢いで、殺せんせーの身体を貫いた……ように見えた。

 

 だが、殺せんせーはすんでのところでかわしていた。やられたように見えたのは残像だった。

 代わりに堀部の触手の先がどろりと溶ける。

 よく見ると、堀部が砕いた床には、対殺せんせー用ナイフが置いてあった。

 

 少し見えたが、殺せんせーは渚の持っているナイフをスり、堀部の攻撃先へ仕掛けたのだ。

 触手が同じなら、弱点も同じ。

 殺せんせーは影響を受けないようにナイフを布に包んでいたが、もろに触ってしまった堀部の触手は泥のようになってしまった、というわけだ。

 

 その様子に驚いた堀部の動きが止まる。

 圧力光線なんかよりももっと強力な動きの止め方。それは感情を揺らすこと。

 ごり押すだけだった堀部に、手品のような策を見せることで完全に静止させた。

 

 殺せんせーは透明な何かで彼を包むと、その小さな体を投げ出した。ガラスの割れる音が響き、堀部は簡単に窓の外へと転がされた。

 

「皮で包みましたから、怪我はないはずですよ」

 

 その通り、堀部には傷一つついていない。

 『脱皮』は月に一度しか使えない大技だが、脱ぎ捨てた皮は、目の前で手りゅう弾が爆発しても無傷で済むくらいの防御力を誇る。

 こうやって包まれれば、バリアを張られたように、外部からの攻撃から身を守れる。

 

 だが安堵したのもつかの間、殺気が俺たちへ向く。 

 強者への執着があった堀部が、負けてしまったことで怒気を放っていた。気を遣われたことにも腹を立てているのだろう。

 触手はその色を黒く変え、ひゅんひゅんと音を立てて揺らめく。今にもこちらに向かってきそうな勢いだ。

 

 ルール上ではすでに決着はついている。だが、認めたくない堀部の形相はますます歪んでいく。

 なりふり構わず触手を振るわれたらまずい。音速を超えた鞭の先端は、刃物よりも鋭くなる。

 

 ピシュ。

 

 小さな穴から空気が抜ける音がして、堀部が倒れる。

 いつの間にか外へ出ていたシロが、圧力光線を仕込んでいた袖から細い銃口を見せていた。

 そこから放たれた針が堀部の首に刺さっている。なにかしらの強力な薬で眠らされたようだ。

 

「まだ調整が足りなかったようだね。すまないが、また休校させてもらうよ」

「待ちなさい!」

 

 堀部を抱え上げるシロに、殺せんせーが待ったをかけた。

 

「担任として、その生徒は放っておけません。一度E組に入ったからには、卒業するまで面倒を見ます」

 

 殺せんせーの頭にはまだ怒りの色が表れている。

 先ほどから見えている彼の表情に、俺は何か言いようのない奇妙さを感じた。

 自身の武器でもある触手を利用されていることや、堀部にそれが埋め込まれていることとは違うところに憤っているように見えた。

 まるで、触手自体に嫌悪を抱いているような……

 

「それにシロさん。あなたにも聞きたいことが山ほどある」

「いやだね。帰るよ。力ずくで止めてみるかい?」

 

 あえて挑発してみせたシロを止めようと、殺せんせーが肩に触れる。

 その指の先が、あっという間に溶けた。

 

「対先生繊維。君は私に触手一本触れられない」

 

 肩に乗っかってしまった一部を払いながら、シロは声色に憎しみと余裕を混ぜた。

 

「心配せずともまた復学させるよ、殺せんせー。三月まで時間はないからね」

 

 それだけ言って、シロは雨の中へ消えていった。

 

 触手を知るだけでなく、その弱点も知り尽くしている男。

 残された俺たちは、今の衝撃にしばらく動けずにいた。

 

「どういうことだ」

 

 沈黙が続く中で、声を上げたのは俺だ。

 

「烏間先生。あれを知ってたんですか。あの、堀部イトナのことを?」

 

 詰め寄るが、彼はまだ驚愕と疑念から抜けきっていなかった。

 

「いや、知らされてなかった」

「人体実験させられてるんだぞ。たとえ自分から望んでたとしても、中学生が身体を弄られてるってことを、あんたは……!」

「……すまない」

 

 烏間先生は強く拳を握って、頭を下げた。だが、俺は納得できずに教室を飛び出した。

 

 雨が降っているが、傘もささず、上履きのまま外へ出る。

 収まらない感情のまま、拳を校舎の壁に叩きつけた。

 

「悪いのは烏間先生ではありませんよ」

 

 気づけば、いつの間にか殺せんせーが隣にいた。

 濡れるままに任せていた俺を、大きな傘に入れる。

 

「……ええ、わかってます。問い詰める相手を間違いました。後で謝らなきゃ」

 

 知っていたならお上に糾弾していただろう。殺し屋としてこのクラスに入れるのではなく、普通の人間に戻すようにしていたはずだ。

 だからこそ彼より上の人間やシロは、堀部のことについて詳しく教えなかったのだ。

 人間を、倫理に背いた研究の対象とし、兵器に仕立て上げたのだから。

 

 少しずつ頭が回ってきた。おかげで、今まで謎だった部分が埋められたのに気が付いた。

 

「ようやく、あなたの正体が少しずつ見えてきましたよ。殺せんせー。自然に生まれた生物だとは思っていませんでしたが……改造された人間ってところでしょうか?」

 

 殺せんせーはじっと俺を見た。

 

「堀部があなたのことを兄と呼んだのも、彼自身があの触手を使う研究の被験者だから。兄弟ってのは、やっぱり表現の一つってわけですね」

 

 言葉を続けても同じ反応。

 それが肯定となっていることを理解して、俺はうなだれた。

 

「俺が思っていた中で、最悪の展開だ」

 

 人を弄る研究があり、それを駆使する者がいて、しかも俺と同じ歳の男子が利用されている。

 そのことに、腸が煮えくり返って仕方がない。

 

 悪いのはシロで、他の誰でもない。この怒りを向けるべきはシロなのだ。

 どうにかして、奴を問いたださなければ……

 

 

 ビルの屋上から、また別のビルの屋上へ。飛ぶように渡っていく。

 

 土砂降りの雨は止むことはなく、夜には容赦なく傘を叩くほどにひどくなっていた。

 だからといって、今日はやめだとは言えない。むしろこんな夜だからこそ、紛れて悪事を働く者もいる。

 それになにより、堀部イトナが気になった。

 殺せんせーと同じ触手を持つ何者か。もともと、あれと律の二人で殺せんせーを追い詰めるはずだったと聞いている。

 もしE組の生徒が犠牲になることで暗殺が成功するなら、律はその作戦を立て、堀部に実行させていただろうか。

 今はそんなことは考えもしないと信じているが……

 

 とにかく、あのシロという奴が危険だと言うことは分かった。堀部が利用されているだけということも。

 一刻も早く、あの二人を引きはがさなければならない。

 見つからないとはわかっているが、痕跡でも見つけられれば万々歳だ。

 

「律。どうだ?」

「だめです。様々な監視カメラの映像を見ましたが、見つかりません」

 

 スマホにインストールしたモバイル律から返ってきたのは、予想通りの答え。俺は特に落胆もせず、律に礼を言う。

 やはり、また現れてくるのを待つしかないか。

 

 こんな雨の中でも街には人は多いが、建物の上から見下ろしても、今日は特に変わった様子はない。

 

 今日はここで打ち止めか。

 そう思った俺の視界に、気になるものが映った。

 

 レインスーツを被っている誰かが、路地裏に入っていく。なぜかそれが目を引いた。

 なんだか異様な雰囲気を感じる。気のせいだと言われればそこまでだが、なぜか無視できない。

 レインスーツに走っている赤いラインが目立っていたからか?

 気になって、そいつを追いかけてみる。二、三、建物を渡って、上から覗いてみて驚いた。

 

 その路地裏にたむろしていたであろう男三人を、レインスーツの何者かがボコボコにしていたからだ。

 男たちは数も体格も有利、反撃だってしている。だが、レインスーツはそれを意にも介さず、重い一撃を加える。

 肘打ち一発で、男の一人の鼻が折れたのが分かった。

 続けて、何度も容赦なくパンチが繰り出される。三人はあっという間に血まみれになって沈む。

 

 あれは一体何者だ?

 目深に被ったフードのせいで口元しか見えないが、にやりと笑ったことだけはわかる。

 疑問を持ちながら眺めていると、レインスーツは立ち去るわけでもなく、ゆっくりと上を見上げた。つまり、俺を見た。

 そしてあろうことか、手招きをした。

 

 嫌な予感を感じながらも、俺は従う。

 窓や壁の出っ張りに手を引っかけながら降りていく。倒れた男たちを跨いで、俺はそいつの前に立った。

 

「お前、誰だ?」

 

 問うても、そいつは笑顔のまま答えない。

 背中に悪寒が走る。

 

 いきなり距離を詰めてきた。

 予備動作を観察していたおかげで、打ち込まれてくる膝を防げた。

 武道をやっているような動きではないが、強く伸びてくる拳を避け、弾く。

 いきなりのことに防戦一方となってしまう。まともに受け止めれば痺れてしまうくらいの一撃を顔に受け、一瞬世界が歪んだ。

 ふらっとなってしまった身体に、上段蹴りが二発。俺はばしゃりと音を立てて、地面に転がってしまった。

 掴んでこようとする腕が見えて、ぱっと飛び上がりながら後ずさる。

 

 ふう、と心を落ち着かせる。正面からまともに防御するのはまずいな。

 水しぶきをあげて振るってくる腕を、上半身を逸らすことで空振りさせ、足を払ってくるのを後ろ宙がえりでかわす。

 

 強い。動きは素早く、そしてなにより一撃一撃が容赦ない。

 なら、こちらも攻撃に転じる。

 

 できるだけ短期決戦にするため、顔面を狙って拳を繰り出す。

 二度、三度ぶちこんだところで、ようやく相手も防御に回り、腕を顔の前で構える。

 相手のガードを無理やり引きはがし、さらに叩きつけてやると、レインスーツはよろめいて後ろに下がる。

 膝をつき、肩で息をする相手にうかつに近づきはしない。次の行動を見据える。

 

 レインスーツは立ち上がり……その口角が上がった。まだ笑っているのだ。

 

 逃がしはしない。俺は距離を詰める。

 それに合わせて、相手はパンチしてくる。

 先ほどよりも断然素早いそれを、首をひねってかわす。続けて来たフックはもっと速かった。防御できずに、脇腹に叩き込まれる。

 みしり、骨が鳴った気がする。

 強烈な一撃に目眩がしながらも、俺は踏ん張ってアッパーを食らわせた。

 見事に決まり、相手はよろめきながら一歩、二歩と下がる。

 

「お前は誰だ」

 

 敵は攻撃の衝撃からまだ戻っていないようだが、俺はもう一度問うた。

 今のでお互いの実力はわかったはずだ。ほんの少しだけ、俺のほうが上。

 だが、そいつはぶるぶると首を振って……また笑ったように見えた。

 俺の言葉に何の反応も示すことなく、遠慮なく距離を詰めてくる。

 

 懲りないそいつの膝を、横から蹴って跪かせる。

 さらに身体を縦に回転させ、相手の頭をかち割るように、かかとを振り下ろした。

 これ以上ないヒットの感触がして、俺は再び足を地面につけるなり敵を見る。

 脳が揺れたか、なんとか立ち上がろうとするも、力が入らないようだ。

 

「もう一度訊く。お前は誰だ」

 

 そいつは答えようとはしない。なら暴いてやる。

 混濁している意識が戻る前に、フードに手をかけようとする。

 その瞬間、パトカーのサイレンが聞こえた。

 何か事件があったのだろうか。あっという間に俺たちのいるところを過ぎ去っていく。

 どうやら、俺たちが通報されたわけじゃないみたいだ。

 

 ほっとして振り向く。すると、もうそこには誰もいなかった。



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19 一矢報いよう

 堀部イトナ、シロ、そして赤い線の入ったレインスーツの人物。その正体を掴むことができず、俺の気分は下がるばかりだった。

 進展がないせいで焦る気持ちが膨らむ。

 さらに、俺たちの前にはもう一つイベントがある。

 

「野球……ですか」

 

 殺せんせーが眉間にしわを寄せた。

 

 椚ヶ丘中学のイベントは、つまりE組を見せしめにするための行事である。

 テストもそうだったし、修学旅行だって、学校から受けられる恩恵の違いを見せつけられる。

 もうすぐそこまで迫っている球技大会だって、もちろんその一部だ。

 

 話を聞いて、ふむふむと顎……顎? をさする殺せんせーはいつの間にかユニフォームに着替えていた。

 帽子には『いその』と書かれている。誰もお前を誘ってない。

 

「そ。まあ俺たちは大会に参加できなくて、エキシビジョンマッチをやるだけなんだけどな」

「男子は野球、女子はバスケ。それぞれの部の選抜メンバー対E組でやらされるんだ。盛り上げるため……とか言いつつ、E組をぼっこぼこにして笑いものにしようって、いつもの話だよ」

「結果は見えてるけどな。うちは部活動もエリート級だし」

 

 いくら俺たちが鍛えているとはいえ、それは暗殺に特化した鍛え方だ。

 スポーツのそれとはまったく違うし、経験の差もある。簡単に勝てるとは夢にも思っていない。

 

「まあでも、いい試合していい具合に盛り下げてくるよ。ね、みんな」

 

 片岡の言葉に、女子みんなが声を上げる。

 リーダーシップある彼女がへんに気負わず引っ張ることで、女子一同やる気を出してくれている。あっちに関しては心配することはないだろう。

 むしろ、気に掛けるべきは我々男子チームだ。

 委員長である磯貝も負けず劣らずの人望。だが、肝心の野球経験者である杉野が、なんだか俯き気味なのだ。

 

「野球なら頼れるのは杉野だけど、何か勝つ秘策とかねーの?」

 

 そんな前原の質問に、杉野はふるふると頭を振った。

 

「無理だよ。最低でも三年間野球してきたあいつらと、ほとんどが野球未経験の俺ら。勝つどころか勝負にならねー。それにさ、かなり強いんだ、うちの野球部」

 

 言われなくても知っている。

 全国で見てもトップクラスの実力をもつ野球部。特に、今年三年生のピッチャーである進藤一考(しんどう かずたか)が恐ろしい。

 あまりにも強い剛速球を投げ、それ一本で公式戦を戦い抜く様は有名だ。

 

 そして、その進藤はE組に落ちていないどころかA組。勉強でもトップクラスの人材だ。

 文武両道という言葉が相応しい。相手する俺たちは、スポーツでも勉強でも下の下。天と地ほどの差がある。

 

()()()、だろ」

 

 俺は杉野の言葉に続けた。

 

「そんな理由で諦められるなら、今も練習したりなんてしない」

 

 部活動が認められないといって野球を辞めるでもなく、市のスポーツチームに加入したことを知っている。それの練習がないときは、放課後に何時間も特訓していることも。

 勉強だけでも大変なのに、野球に対する向上心はそれ以上。

 そんな彼が、実力が足りないだろうからなあなあで済まそうだなんて考えるはずがない。

 

「やってやろうよ。いい試合でやめる気はないよ、俺は。勝って、本校舎の面目丸潰しにしてやろうよ」

 

 カルマも乗ってくる。

 いつの間にか、男子全員が杉野の周りに集まっていた。

 

 この間の堀部イトナ襲撃から、みんなはますますやる気を固めている。

 他の誰でもない、自分たちが殺せんせーにとどめを刺すために、もっと強くなろうとしていた。

 

「お前ら、どうしてそこまで……」

「決まってるだろ」

 

 みんなが崇高な目的のために一つになっていた。

 その目的とはもちろん、みんなで団結して……

 

 本校舎組へ嫌がらせしてやる。

 

 

「ピッチャーはもちろん杉野だな」

 

 放課後、練習をするために残った男子たちは異論なく頷いた。

 残念なことに寺坂組は不参加だが、それでも人数は十分だ。

 

「相手をどれくらい抑えられるかは杉野にかかってる」

「プレッシャーかかるなぁ。一人で練習してる俺が、野球部に勝てるとは思えないけど……」

 

 落ち込む杉野だが、俺はそう思わない。

 彼がこの学校で通用しなかったのはストレートにこだわっていたからで、殺せんせーが諭したいまでは、恐ろしいほどに曲がる変化球を身に着けているからだ。

 何度か捕ったことがあるから言えるが、あのレベルだと中学生では打つことが出来ないだろう。

 

「で、どういう練習する? 打つだけじゃなくて、ボールを捕る練習もしないと……」

「いいや、どっちも練習する必要があるのは数人。野球経験者と運動神経良い組は攻撃・守備どっちにも出てもらうけど、他はどっちかに割り振る」

「攻撃と守備で人を入れ替えるってことか」

 

 これはE組に与えられたハンデだ。もちろんそんな程度で勝てるわけがない。

 野球部と戦わせるうえで公平に見せるための特殊ルール。なら、俺たちはそれを最大限に使わせてもらう。

 

「勝つにはそれくらい極端にいかないとね。じゃあ誰がどのポジションにつくか決めようか」

 

 

 カルマが主導となって、各々のポジションを決めたあと、俺と竹林は本校舎に偵察に来ていた。

 偵察兼記録係となって選手枠から外れる作戦は予想よりも上手くいってくれた。

 無理やり選手にさせられたとしても、野球をやる程度じゃ、何も悟られはしないだろうけどな。

 

「速いな」

「140キロは出てる。中学生のレベルじゃないよ」

 

 カメラを構える竹林が頷く。

 

 相手側のピッチャー、進藤は剛速球のストレートを持ち味とする選手だ。

 殺せんせーの助言を受け、変化球を極めつつある杉野とは正反対の投手。

 

 俺たちが観察してもどうにもならないと高をくくっているのだろう、グラウンドに入っていても文句を言われることなく、むしろ見せつけてくる。

 対策できるものならしてみるといいと、時折野球部員たちがこちらを見てにやにやと笑ってきた。

 

 いまさらそんなのに屈辱を覚えるほどじゃない。

 見せてくれるのならしっかり見せてもらおう。

 

 

 球技大会当日は、雲一つない晴天に恵まれた。

 次々とクラス対抗で野球が行われ、最終的にはA組が勝った……というのはどうでもよくて。

 

「よし、目にもの見せてやろうぜ」

 

 グラウンドに集まり、杉野が号令をかける。

 E組をめっためたにするためのエキシビジョンマッチ。その目論見を潰してやろうじゃないか。

 と、気合を入れた直後、周りから歓声が上がる。振り返ると、野球部が姿を現したところだった。

 

「やだやだ。殺気立ってるねえ」

「野球部としちゃ、全校生徒にいいとこ見せる機会だからな」

 

 クラス対抗の大会には、野球部は参加できない。だからこそのこのエキシビジョンマッチ。 

 もちろん、野球部は全員レギュラーメンバー。E組相手には冗談でも負けるわけにはいかないから、一切の手加減なし。

 

「そーいや殺監督どこだ? 指揮するんじゃねーのかよ」

「あそこだよ。烏間先生に目立つなって言われてるから」

 

 渚が指差した先には、ボールがいくつか転がっていた。その中で、ちょいちょい色を変えるものが一つ。あれが殺せんせーだ。

 転がっている他の球と同じ大きさに見えるが、実際はもっと遠くにいるのだろう。ばれないように遠近法で小さく見せているのだ。

 

「ちゃんと見ないとわからないレベルだな。あれでそうやって指令下してくるんだ?」

「顔色とかでサイン出すんだって」

 

 渚は小さいノートを取り出した。表が書かれていて、それで殺せんせーの顔色からサインを読み取るらしい。

 こんな大勢の前で姿を見せるわけにはいかないからな。

 

 

 さて、早速試合開始の合図が鳴る。

 

 先攻はこちら。

 野球部が守備につくと、観客が再び沸く。これからの公開処刑を、いまかいまかと待ち望んでいるのだ。

 大会でいいところがなかったクラスも、E組の無様な姿を見て溜飲を下げたいのだ。

 

「観客含め、全員が敵か」

「いつものことだろ。俺たちはいつもの通りやるだけだ」

 

 竹林と俺はベンチに座って、相手の様子を見る。

 余裕あり、油断もあり。どうせE組は何もできないと警戒の気配はなかった。

 

《E組一番サード、木村君》

 

 アナウンスされ、木村が立ち上がる。その顔には緊張があるが、ガチガチってほどじゃない。

 

「作戦通りに行くぞ。木村、一番最初のお前に懸かってる」

「プレッシャーかかるなぁ。ま、ちゃんとやってくるよ」

 

 にっと笑って、彼はバッターボックスにつく。

 二度素振りして、バットを構えた。

 

 相手のピッチャーはもちろん進藤。

 真剣な顔を覗かせて、最初の一投目を投げた。

 手から放たれた球が、レーザーのように線を描いてキャッチャーのミットに収まる。

 

 木村は動かず、ただ見送るだけだった。

 

「竹林。今のどれくらいだ?」

「136km/h。練習の時と同じくらいだね」

「速いな」

 

 練習時と一切変わらないフォーム、軌道、スピード。それが出来るってことは、それくらい練習量を重ねてきたということだ。

 

「だが予想通りだ」

 

 さっき木村は動けなかったんじゃない。動かなかったんだ。

 練習通りに当てられるか、それを見極めるために。

 

 二球目。

 さっきと全く同じ投球フォームで、進藤が投げた。

 球はまたしても恐ろしい速さで、キャッチャーのミットに吸い込まれるように……

 

 カン。

 球が転がり、木村が走り出す。

 

 バントだ。

 まさかバットに当てられるとは思っていなかった野球部の動きが、一秒遅れる。

 それで十分。一秒余裕があれば、E組で一番の俊足である木村は悠々と一塁に行ける。

 

「舐めてかかってきた罰だ」

 

 バントに対して、適切な守備をするのは難しい。とくに中学生チームなら、それ用の守備練習をするなんてことは珍しい。

 

 そしてこちらのコーチをしたのは殺せんせー。

 あっちの投手よりも速い球を投げ、あっちの誰よりも素早く守備行動ができる、殺せんせーだ。

 そちらの練習を受けた生徒曰く、300km/hの剛速球を、恥ずかしい隠し事を囁かれながら投げられたという。

 そんな猛烈なことをされれば、体感的には140km/hは遅く感じるだろう。さらに、こちらは当てればいいバント。もちろん技術が必要だが、振るよりかはまだ当てられる。

 

「一発目が一番重要だ。ここで心を揺らせれば、時間が経つごとに焦りが生まれる。今なら、練習よりも当てるのは簡単だぞ、渚」

「うん、任せて」

 

 一球目から球を捉えられたショックからか、相手の投手はまたしても馬鹿正直にストレートを投げる。

 二番打者である渚が、サードの方へ強く転がした。

 やたらと前に出ていた守備の足元をすり抜け、球は転がっていく。進塁成功。続く磯貝も。

 

 さあ、ここで満を持して登場するのは杉野。

 自信満々にバットを構える彼に対して、相手のピッチャーは目に見えて動揺していた。

 

 杉野はバントの姿勢を取る。

 

「ここで上手くいけば、一点取れるな」

「それで野球部の動揺はさらに大きくなるだろうから、もっとやりやすくなるはずだ」

 

 前原と菅谷がにやにやと笑う。

 ああ、ここで野球部の自信をへし折る。

 

 進藤は落ち着こうとして、球を強く握る。そして、一度深呼吸して、投げた。

 コースとスピードが甘い。力の入りすぎだ。

 この瞬間、杉野がバットに添えていた手に、グリップを握らせた。

 

 野球部に膝をつかせる。それには、バントして一点取る程度で済ます気はなかった。

 杉野には一言伝えてある。

 

 『自信があるなら、思いっきり振ってこい』

 

 その指示の通り、彼のバットは完璧に芯を捉えた。

 球は進藤の遥か上を抜け、ぐんぐんと伸びていく。

 

 バントを警戒して前のめりになっていた外野の反応が遅れ、高くバウンドした球を捕ったときにはもう遅い。

 塁に陣取っていた選手は次々とホームに帰ってきて、杉野も三塁まで進むことに成功していた。

 

「よっしゃ、初回三点リード!」

 

 戻ってきた三人が、こちらで待っていた男子たちに迎えられる。

 功労者である杉野も三塁から親指を立てていた。

 

 野球部たちは目に見えてしょんぼりとしており、戦意喪失していた。

 馬鹿にしていたE組から一気に三点取られたのだ。ショックも桁違い。

 

「さすが殺せんせーの作戦。このまま……」

 

 ぞくり。

 一瞬にして、フィールドの温度が変わったのがわかった。

 

 よく見知ったスーツの男が、あちら側のコーチに何かを囁く。すると、コーチは泡を吹いて倒れてしまった。

 来たな、厄介なのが。

 

「ここからは、私が指揮を執ろう」

 

 浅野理事長が、そう言って不敵な笑みを浮かべた。



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20 大番狂わせ

 まだ一回の表。杉野の活躍でこちらが三点リード。

 だが、予想よりも早く浅野理事長がやってきた。

 

 このエキシビジョンマッチは、E組を見せしめにするための行事だ。

 底辺が調子づけば、それを抑えるために彼が出てくることは想定済み。問題は何をしてくるかだ。

 

《今入った情報によりますと、野球部顧問の寺井先生は試合前から重病で……野球部員も先生が心配で野球どころじゃなかったとのこと。それを見かねた理事長先生が急遽指揮をとられるそうです!》

「なんだ、そうだったのか!」

「頑張れ、野球部!」

 

 周りが活気づき、野球部の面々にも自信が戻る。

 

 上手い。

 アナウンスされたとおり、()()()()()()にしておいて、気負っていた選手たちの緊張をリセットさせたのだ。

 落ち着かせて、相手は所詮E組だと再認識させ、観客には野球部の評価を損なわせないアピール。防戦一方で驚くだけの監督を退かせ、自分が指揮を執る。

 

 理事長はたった一の行動で、二も三も結果を生み出した。

 さらに……

 

《こ、これは何だー!?》

「なんだあれ……」

 

 五番の前原がバッターとして立つと、野球部の内野守備がどんどんと近づいてくる。

 ピッチャーと並ぶくらいの、超前進守備だ。

 

「あんな守備ありかよ!」

「審判が何も言わない限りはありだろう」

「そして審判はあっち側だ。期待はできない」

 

 こちらでも何人かが声を荒げ、竹林と俺は焦る。

 理事長の登場は早くても二回の表くらいだと思ってたのに……すぐさま場の空気を察知してしかけてきた。

 

「どうする? 作戦変更するか?」

「いや、下手に対応を変えるのは、それこそあっちの思うつぼだ」

 

 俺たちが用意してたのは、バントによる攪乱作戦のみ。

 他には何もないし、作戦を変えて無様をさらせばあちらを調子づかせて、こちらの士気が下がる。そうなれば守備にも影響してしまうだろう。

 幸い、点数はこちらが勝っている。ならばこのまま逃げ切ることを考えたほうが良い。

 

 調子を取り戻した相手ピッチャーの進藤が、さっきまでとはキレの違う球を放った。

 威圧され、前原は打ち上げてしまう。もちろん球を捕られてアウト。

 

 それからも、進藤の球は衰え知らず。

 当てられたとしても前に出てきている守備に捕られ、アウトにさせられる。

 

 もっと点を取るつもりだったが、三点リードで一回表は終了。

 

 続く一回裏。杉野が曲がり球で次々と三振を取る。

 あいつの球は何回か見せてもらったが、こちらもこちらで中学のレベルを超えている。

 野球部といえど、当てることすら至難の業だ。

 

 ちらりと相手方のベンチを見ると、浅野理事長が進藤へなにかを囁いていた。

 口の動きを見ると、進藤は言われた言葉を繰り返しているように見える。それをするたびに彼の目はぎらついていき、鋭くなっていく。

 

「なにやってんだ、あれ」

「自信を持ち直させてるんだろう。精神的にドーピングさせてるようなもんだ」

 

 スポーツは、フィジカル・技術はもちろんメンタルも影響してくる。よく言われる『心技体』だ。その教えはあらゆるものに通じる。どれが欠けていても、完璧なパフォーマンスは出せない。

 相手が油断してるところを突き、動揺を誘ってその間に勝つつもりだったが……

 

 そうこうしているうちに、杉野は三者を連続で打ち取った。

 これで一回は終了したわけだが……続く二回表、E組の攻撃は良いところなしで終わってしまう。

 

 あっという間に二回の裏。

 守備につくE組たちをあざ笑うかのように、野球部バッターは腰を低く構えた。

 

「あれは……」

「やられたな……」

 

 竹林と俺は歯を食いしばった。

 バントの構え。

 俺たちがやったことを、そっくりそのまま返してくるつもりだ。

 

 いくら杉野の球が異様に曲がろうと、スピードは少々見劣りする。

 バットに当てるだけならば、現役エリート野球部には難しい事じゃなかった。

 対して、時間の大半をバント練習に費やしていた。守備の練習、ましてバントの処理なんてやってない。

 

 野球部側が先に仕掛けてきていたなら、大人げないという声も少しは飛んできていただろうが……俺たちが口実を与えてしまった。

 

 『見本を見せてあげよう。これが本物のバントだ』

 

 そんな建前を被ったいやらしい声が聞こえてくるようだ。 

 

 なんとか一アウトをもぎとったものの、一・二塁進出を許してしまう。

 そしてここで出てくるのが……

 

《さあ、次のバッターは、お待ちかねエースの進藤くんです!》

 

 理事長によって改造された進藤だ。

 彼はバッターボックスに立って、殺意を込めてバットを握る。鋭い眼光は杉野を睨みつけ……ん? 少し感じた違和感が、俺の視線を動かす。

 もしかして……

 その違和感の正体を掴むために、ベンチから立ち上がってグラウンドの外側に立つ。

 進藤の目は、いま杉野のほうを向いてなかった。

 

「國枝くん」

 

 声がして、はっと下を向く。

 足元から殺せんせーの顔が生えていた。 

 

「うおっ」

 

 あまりにもびっくりして、思いきり蹴ってしまう。

 

「にゅやっ! いきなり何するんですか、國枝くん!」

「何するんだ、はこっちのセリフだ! まったく心臓に悪い……」

 

 小声で怒鳴り合う。

 突然黄色い球体が足元に現れたら、びっくりするだろう。

 蹴られた正面を凹ませたまま、前が見えねえ状態の殺せんせーにかまっている間に、一球目が投げられた。

 進藤が振ったバットはボールをかすり、ファール。

 

「正直に言って、事前に用意していた作戦は使い物にならなくなりました。こうなれば、点を取るのは難しいでしょう」

「ああ。今の点数のまま逃げ切るしかないが、進藤が打つ限りそれも難しいでしょうね」

「急ですが、新しい作戦を組み立てなければなりません。何かいい考えはありますか? ちなみに先生の作戦は……」

 

 そう言って殺せんせーが提案したのは、次に進藤に打順が回ってきた時、磯貝とカルマを彼の目の前に配置し、邪魔すること。

 どれだけ集中力を増させようが、所詮は中学生。バットを人に振るってしまう恐怖には勝てない。

 

「却下だ。確かに磯貝とカルマならバットを避けられるだろうが、危険が大きい」

 

 杉野の二球目は完全に捉えられ、球は外野まで運ばれてしまった。

 スリーベースヒット。これで三対二。

 

「俺に任せてくれ」

 

 

 進藤以外は、負けじと気合を入れ直した杉野の球の前に沈んだ。

 なんとか二点に抑え、三回の表。

 

 だが自信を取り戻した進藤のキレは凄まじく、バットに触れさせることすら許してくれない。

 運よく当てられたとしても、浮かしてしまって取られてしまった。

 あっという間に三連続アウト。なすすべなく攻守交替。

 

 リードは一点だけ。しかし必死に鍛えた杉野の変化球は伊達じゃない。

 たとえ野球部の正レギュラーであっても、その生き物のような動きは捉えきれない。

 一人だけバント成功を許してしまったが、あっという間にツーアウト。

 

 さて、ここからが正念場だ。

 最後の打者がバッターボックスに立つ。急場だが、理事長が仕立て上げた最強の打者。

 進藤。

 先ほどスリーベースヒットを決めた彼がさらにパワーアップさせられているなら、ホームランを打つのも難しいことじゃない。

 

 うわ、目がぎらぎらしてるし、筋肉がビキビキと震えている。

 本当に言葉だけでこんなになるのか? ガチのドーピングとかしてるんじゃないか。

 

「タイム!」

 

 俺はタイムを宣言し、グローブをひっつかんでピッチャーマウンドへ向かう。

 

「どうしたんだよ、國枝」

 

 首をかしげる杉野の前に立ち、手招きで渚も呼ぶ。

 二人が揃ったところで、念のためグローブで口元を隠す。

 完璧超人の浅野理事長のことだ。読唇術くらい出来ても不思議じゃない。

 

「杉野。投球のサインを出す。だから渚は……」

 

 俺はさらに声を潜める。

 作戦を説明し終わると、杉野と渚は文句を言うこともなく頷いた。

 

「……わかった」

 

 伝え終わると、タイム終了を宣言して、ベンチに座らずに立って腕を組む。

 杉野はこちらをじっと見て、合図を待つ。

 俺は身体で隠した指を一本立てる。杉野は頷き、ふう、と深呼吸した。

 その間に俺は進藤を見る。一瞬その視線が動いたのを見逃さなかった。

 

 杉野が振りかぶって投げる。

 真っすぐ飛んだ球は、しかし進藤がバットに力を込めた瞬間に曲がった。

 ぐんと下がった打球に、バットが食らいつく。真芯からわずかにずれたところで、球に触れた。

 十分な当たりじゃないのにも関わらず、天高くボールが浮かぶ。それはフェンスを越えて、はるか向こうに落ちていった。

 

 ファールだ。

 

 ふう、と安堵する。あと少しでホームランだった。

 だが今のでわかった。やはり、そう来たか。ならこのまま作戦通りにいくしかない。

 

 次は指を二本立てる。杉野は頷き、投球姿勢に入る。

 またしても、進藤の視線が一瞬ずれた。

 

 振ったバットは球を捉えられず、ミットに収まる。これでツーストライク。

 

 後がない進藤の額に汗が浮かんだ。

 崖っぷちに立たされる経験はしているだろうが、それは野球部相手の試合でだ。

 落ちこぼれの素人集団を相手に、しかも理事長の期待を背負ってというプレッシャーが、彼の殺意を鈍らせる。

 

 もうちょっと時間がかかると思ったが、作戦通り。

 ここだ。この三球目で仕留める。

 

 俺は指を一本立てた。

 

 これが最後の球になるだろう。バッターには絶対打てない。

 キャッチャーの渚は備えて、ミットを少しだけ下に構える。

 

 杉野が汗を拭って、真剣な目で渚を見る。

 言った通りだ。行け。

 

 ぐっと膝を上げて、振りかぶる。球が放たれた。

 進藤はそれに合わせてバットを振る。今度こそフォークを叩き潰すために、低めに。

 

 球が曲がった。わずかに()()

 もうバットは間に合わない。ぶおんと空振りした音が響き、ボールがミットに収まる。

 

「す、ストライク。スリーアウト……」

 

 審判がそう宣言した。

 つまり……

 

《ゲ……ゲームセット! なんとなんと、E組が野球部に勝ってしまったぁ!》

「よっしゃああ! 勝ちだあああ!」

 

 一斉に、E組の雄叫びが上がる。

 進藤はまだ信じられないものを見るような目でうなだれていた。いや、彼だけじゃない。この試合を観戦していた誰もが、同じ目をしている。浅野理事長でさえ、少し目を見開いていた。

 

 杉野が投げる前、進藤が理事長を見ていたのはわかっていた。指示をあおいでいたのだ。

 完璧主義の理事長が、あそこまで選手を仕上げておいて、あとは任せるなんてしない。だから、俺はわざと理事長に見えるようにサインを出した。

 野球部でもない俺を、理事長は軽視した。そのおかげで、すんなりと作戦が上手くいったってわけだ。

 進藤が自分を信じてバットを振っていたなら、結果は変わっていただろうに。

 

「やったぜ、國枝! 俺が進藤を打ち取った!」

 

 歳相応にはしゃぐ杉野に、思わず笑う。

 

「俺の作戦を信じてくれてよかった」

 

 一球目がファールになった時は冷や汗をかいたが、それが逆に良かった。

 同じ球が来るなら、今度こそ打つ、打てる、打たなければいけないという自信とプレッシャーが、進藤の視野を狭めた。

 ギリギリまで引っ張ることをせず、フォークが来ること前提で振ってしまったのだ。

 

 あれだけ野球部へ歓声を浴びせていた観客が、一様に冷めた感じでぞろぞろと去っていく。

 いい気分でハイタッチするE組と比べると、どっちが負け組かわからないな。

 

 今回MVPの杉野は進藤に近づき、跪いて視線を合わせた。

 

「杉野。お前は……強くなったな」

「はは、みんなのおかげだよ」

 

 ちらりとこちらに目を向けつつ、得意げに微笑む杉野。

 

「野球経験なんて全くないみんながさ、勝つために、俺のために頑張ってくれたんだ。木村は足が速いのを活かして、先頭打者に名乗り出た。渚は変化球練習に付き合ってくれたし、國枝は臨機応変に作戦を考えてくれた」

 

 一人ひとり指差しながら、今回活躍した面々を自慢げに紹介する。

 

「ちょっと自慢したかったんだ。お前に、俺と俺が一緒にいるみんなのこと」

 

 少し照れくさそうに頬を掻きながら、杉野はそう告げた。

 そこで何を感じたか、進藤はほんのわずかに口角を上げたあと、口を開いた。

 

 何を言ったのかまで聞くのは、さすがに野暮ってものだ。

 

 

 グラウンドの外側に設置された給水場で頭を洗い流す。火照った身体がすっと冷え、べとべとした汗が落ちていく。

 俺は大した活躍はしてないが、それはそれとして、こんないい天気の中で運動すれば汗も出る。

 

 E組が大立ち回りをやったおかげで、こうやって本校舎の設備を我が物顔で使っても文句を言う奴はいない。

 

「やあやあ響くん。なんだか久しぶりだね」

 

 俺は蛇口を閉じ、タオルで汗と水を拭う。

 話しかけてきた少女は太陽のように明るい笑顔を振りまきながら、俺を見下ろしていた。

 

立花(たちばな)じゃないか。どうした突然」

「え~、元クラスメイトと談笑したいって思っちゃダメなワケ?」

 

 そいつ……立花風子(ふうこ)は大仰に驚いてみせた。

 

 二年生まで俺と同じクラスで、今はBクラスに所属している同級生だ。

 常に楽しそうにしていて、その明るさに惹かれて友達も多い。

 可愛らしい顔に魅力を感じて告白する男子も多数。だが、誰かと付き合ったという話は聞かない。

 セミショートの黒髪を揺らして、彼女はにこりと笑った。

 

「途中から見てたよ。いやー、本当に勝っちゃうなんてね」

「ま、たまにはE組もやるってことさ」

 

 蛇口をひねって水を止め、俺は一息つく。

 

「ところで、俺と話していていいのか? 他のやつになんて言われるか……」

「あっはは、心配してくれてるんだ。でもだいじょーぶ。私がそういうの気にしないのはみんな知ってるから」

 

 立花はこういう奴だ。

 この学校のシステムを理解しておきながら、そんなのどこ吹く風。誰にでも隔てなく接する。

 

 彼女はうんうんと頷いた。

 

「E組でも楽しそうだね。学秀(がくしゅう)くんが心配してたとおりにはならなそうでなによりなにより」

「浅野が?」

「おっと、言わないでって言われてるんだった。今のなし!」

 

 なしにできるか! というツッコミは置いておこう。

 A組の天才である浅野が心配? その様子を想像しようとして、できなかった。

 何でも完璧にこなす彼が、わざわざ俺を気にかける姿なんて思い描けない。

 かと言って、立花が適当を言っているようにも見えなかった。口調は軽いが、嘘はつかない奴だ。

 

「俺としては、お前のほうが心配だよ。毎日毎日怪我だらけで来やがって」

「はしゃぎすぎかなあ。控える気はないけどね」

 

 立花は身を翻しながら自分の身体を触る。

 露出している腕や足だけでも、たくさんの痣やかさぶたがあった。

 中には何か事件に巻き込まれているような深い傷も見受けられるが、そんな事件は聞いたことがない。

 どれだけ聞いても、遊んでいただのやりたいことをやっていただけだのではぐらかされる。

 いつしか、まあそういう奴なんだろうと何も聞かなくなった。俺だって訊かれたくないことはたくさんあるし、お互い様だ。

 

「……ま、お前がいいならいいけど」

「うん、いいのだいいのだ」

「えらく上機嫌だな。いやそれはいつものことだけど、今日は特に」

「いいことがあってねー。もう元気満タンだよ!」

「いいこと?」

「わかんない? わかんないかなー」

 

 メトロノームみたいに上半身を左右に揺らす立花。

 考えてみても、ちっともわからない。そもそも彼女の最近の動向なんて知る由もないし。

 

「正解は、口の中が切れたでした!」

「いいことじゃねえし分かるわけないだろ!」

 

 アホなこと言う立花に、思いきりツッコんで呆れる。

 

「この、ここがね……」

「いい、いい。見せなくていい。何をどうしてそうなったのかは知らんけど、怪我するのはやめとけよ。傷が残ったりしたら大変だろ、女の子は特に」

「この話は一度持ち帰らせていただき、検討のうえ善処いたしますっ」

「あ、やめる気ねえなこいつ」

 

 もう諦めている。本人は満足そうだし、さんざん言っても繰り返してくるんだから。

 

「はっ、みんなを待たせてるんだった。じゃあまたね、響くん!」

「ああ」

 

 挨拶もそこそこに、立花は名の通り風のように去っていった。

 慌ただしいな、まったく……

 

「立花ちゃん来てたんだ。ちょっと話したかったのに」

 

 彼女が見えなくなるのと同時に、今度はカルマが寄ってきた。

 彼も、立花風子を知る一人だ。

 

「元気そうだった?」

「相変わらずな。頭おかしい度もそのまんま」

「あはは、國枝がそれ言う?」

「え、なに。俺、頭おかしい奴に見られてんの?」



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21 透過する本性

 体育は、生徒と先生側が希望して、担当は殺せんせーじゃない。

 受け持つのは烏間先生。

 

 まともな体育の授業を受けられないはずのE組は、しかし彼の指導によって確実に中学生レベルを超えていた。

 

 今日は二人組で彼にナイフを当てられるか、という試み。

 竹林と組んだ俺は平均的な、可もなく不可もなくな動きをする。

 当然、烏間先生に簡単にいなされて終了。加点はなく、通知表には3がつけられることだろう。

 

 番が終わり、少し離れて座る。

 他の者たちの動きは、最初よりも格段に良くなっていた。

 二人でならナイフを当てられるくらいになった磯貝・前原とか、軽快に舞うような動きで翻弄する岡野とか、教科書通りの綺麗な動きを見せる片岡とか。カルマも相変わらずゆらりとしていながら鋭いナイフ捌き。

 成長を感じてか、烏間先生の頬が緩む。

 

 その頬に、冷や汗が伝った。

 

 彼は焦った顔で振り向きざまに誰かを弾く。バチンと音がして倒れた渚だったが、なんとか受け身を取った。

 

「だ、大丈夫か!?」

 

 烏間先生が駆け寄る。渚は体操服についたジャージを払って立ち上がった。

 

「おーい、転んだのか、渚」

「どんくさいんだから」

「あはは……」

 

 クラスメイトたちはそう言うが、今の動きは鳥肌ものだった。

 渚は烏間先生の後ろを簡単にとってみせた。素早いとか、策を弄してとかじゃない。まるで、普通に話しかけるようにゆっくりと……見ている俺も何も感じなかった程度には、殺気がなかった。

 気づけばそこにいたのだ。対処があと一瞬遅れていたら、ナイフの先がかするどころじゃない。完全に当てられていただろう。

 それに気づいているのは、烏間先生本人くらいだったが。

 

 ああいうのを、何度か経験したことがある。

 渚は時々、知らないうちにそばに寄ってたりするのだ。

 存在感がないのか、それとも気配なく忍び寄る術を持っているのか……

 

 視界の端に何かが映った。

 そちらを向くと、いくつか荷物を持っている大男がこちらに来ていた。

 持っているのは大きな袋に段ボール箱。それらをみんなの前で下ろして、快闊な表情で手を挙げた。

 

「やっ! 俺の名前は鷹岡(たかおか)(あきら)! 今日から烏間を補佐してここで働く。よろしくな、E組のみんな!」

 

 挨拶もそこそこに、鷹岡先生とやらは笑顔で袋を広げる。

 その中に入っていたのは有名な高級菓子のようで、女子たちは驚き手を叩いた。

 

「補佐?」

「ああ。体育は烏間じゃなく、俺が受け持つ。さあさあ、食べてくれ」

 

 豪快な笑顔を浮かべ、鷹岡さんは次々と袋を開けていく。

 

 急な人事異動にはさほど驚かず、みんなは新しく現れた先生の動きを見守る。

 

「いいんですか、こんな高いの?」

「モノで釣ってるなんて思わないでくれよ。お前らと早く仲良くなりたいんだ。それには……みんなで囲んでメシ食うのが一番だろ」

 

 どかっと座り、彼は手を広げた。

 彼自身甘いものが大好きらしく、筋肉量は素晴らしいものの、腹が出ている。

 

「同僚なのに、烏間先生とずいぶん違うスね」

「なんか近所の父ちゃんみたいですよ」

「ははは、いいじゃねーか父ちゃんで。同じ教室にいるからには、俺たち家族みたいなもんだろ?」

 

 屈託のない笑顔に、みんなの警戒が緩む。土産の力も相まって、新しい先生と菓子の周りにはすぐに集まりができた。

 

「ほら、お前もどうだ?」

「……ええ」

 

 頷きながら、恐る恐る近づく。取って食おうなんて気配や仕草は見られないが、新顔には気を付けないと。

 最近でも堀部イトナが襲来したくらいだし。

 

「おいおい、そんな警戒することないだろ? せっかく仲良くしようとしてるんだから」

「そうですね。殺し屋続きで神経が尖っていたようです。すみません」

「ははは、いいってことよ!」

 

 豪快に笑う鷹岡先生に表面上は従うが、警戒は解かない。

 どうにもこの男はうさんくさいのだ。

 張り付けられた笑顔の下に、下卑た本性が透けて見える。

 

 俺の見立てが全て間違っていたらいいが、残念なことに目には自信がある。

 こいつは、信用に値する人間じゃない。

 

 

「防衛省……特務部、鷹岡明?」

 

 例のごとく、烏間先生に資料をいただき、目を通す。

 経歴は立派なもので、烏間先生と同じエリート部隊に所属していたらしい。特に教官になってからはすさまじく、彼のもとで育った部下たちは若くして多くの功績を残しているようだ。

 

「ああ、空挺部隊にいた時の同期だ。君にはどう映る?」

 

 職員室の窓から外を見る。

 グラウンドでは、生徒たちと球技に励む鷹岡先生の姿があった。

 つかみはばっちり。みんなが彼に懐くようになっていた。

 

 烏間先生は腕を組んで、俺をちらりと見た。

 修学旅行から帰ってきてから、目をつけられているような気がする。

 

「嫌なものしか感じませんね。あの言葉だって、本心で言ってるわけじゃない」

「あの言葉?」

「あの、家族って言葉ですよ」

 

 嘘ではない。だが本当でもない。

 家族みたいだとは思っているだろう。だが、おそらくそれは『替えのきく』家族だ。

 まあ、血のつながっていない関係だから、そう思い思わされるのも不思議じゃない。

 

「それに……あなたを敵視してる。心当たりは……って聞くまでもありませんね」

 

 鷹岡先生も優秀だったそうだが、烏間先生は同期の中でも飛びぬけて成績が良かった。

 多少妬みの感情を持っていてもおかしくはない。

 

「まあ別に嫉妬心が悪いってわけじゃありません。それで奮起して、良いように育ててくれたら万歳ですし」

 

 見る限り、表はまともな人間を装っている。それをずっと続けてくれれば被害はない。

 どんな企みがあろうとも、俺たちがまったくの無事で済むなら何も心配することはないのだ。

 

「……打ち解けるのが早いな、鷹岡は」

 

 比較されたように感じたのか、烏間先生はそう呟いた。

 

「あいつもイリーナも君たちとは仲が良い。本来住む世界が違うのに、違和感なく混ざってみせている。だが俺は……」

 

 先生としての在り方に悩む烏間先生。

 この教室で過ごす間に、プロとして線引きしていた彼が揺らいでいる。でも、鷹岡先生が悪い人じゃないなら、負担を分けられるくらいに考えたほうがいいんじゃないだろうか。

 

 

「鷹岡先生、面白いよな」

「ああ、かるーく接してくれるし、さっきも自己紹介だけじゃなくて遊びに付き合ってくれたしな」

 

 鷹岡先生とのちょっとした交流を終え、男女ともに彼を支持する声が上がった。

 

 みんなの意見は否定できない。

 烏間先生はプロとして、先生と生徒の一線を引いているため、誘いに乗ってこないし、不愛想。

 雑談だってたまーに付き合ってくれる程度だ。

 

 それに比べて鷹岡先生はどうだろう。

 仲良くなるためにお菓子を土産にして、それを隠さずに言っている。

 普通に見れば、フレンドリーな良い先生。リミットがある暗殺をしなければならないという緊張を緩和してくれる存在だ。

 

 だが俺としては、体育は引き続き烏間先生に担当願いたい。

 これまでの信頼と実績があるし、変に踏み込んでこない。なにより、あの人が俺たちを見る目は、真剣な教師のものだ。

 鷹岡先生に感じる不気味な感覚が、彼には一切ないのだ。

 

 しかしなぁ……やはり、一中学生が少し怪訝に感じたところで、何が変わるでもないだろう。

 もし問題がある人だったとしても、ビッチ先生や律のように変わってくれることもある。

 

 

 さて、昼休みを越えて次の授業は、早速鷹岡先生主導による体育だ。

 本日二回目の運動授業だが、彼を見極めるため、そして彼が俺たちを見極めるための特別措置らしい。

 

「訓練内容も一新されて、E組の時間割も新しくなった。これを配ってくれ」

 

 一人に一枚、鷹岡先生はプリントを手渡してきた。

 

「なんだこれ……」

 

 配られた紙を見て、俺たちは驚愕する。

 それは時間割だった。だがその内容は明らかにおかしい。毎日三時間目までしか授業がなく、四時間目からは訓練のみ。それが十時間目……21時まで続いている。土曜日も一時間目以外は全て訓練と書いてあった。

 いくらなんでもこれは……

 

「いやいやこれは無理ですって! 俺たち受験生ですよ!?」

 

 前原の抗議が飛ぶ。

 その通りだ。こんな時間割……ガチの訓練になってしまうじゃないか。

 一年間これで殺せんせーを殺れたとして、それ以外を捨ててしまうことになる。第二の刃は形成されない。

 

 鷹岡先生はこちらに近寄り……前原に手を伸ばした。

 俺はとっさに前原の肩を掴んで後ろに寄せ、彼の手を届かなくさせる。さらに鷹岡先生の足を抑え、蹴りの初動を封じた。

 

「やりすぎですよ」

 

 いま、この男は前原の頭を掴んで腹に蹴りを食らわせるところだった。

 痛みと恐怖で黙らせようとしたのだ。

 

「……っ!」

 

 俺を捉えようとしたビンタを、一歩下がって避ける。

 鷹岡は少しの抵抗も反論も許さないつもりだ。

 

「やりすぎ? これは躾だ。俺たちは家族で、父ちゃんに逆らう子どもはいない」

 

 自分勝手な論理を展開し、彼は続ける。

 

「『無理だ』とか、『やれない』は聞かないぞ。『やる』んだ。俺がしっかり育ててやるから」

 

 ここまで予感が的中したのは初めてだ。

 鷹岡明。こいつは俺たちの先生なんかじゃない。

 俺たちの敵だ。



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22 魔の才能

 授業は一日一時間程度。それ以外は訓練。しかもそれは、恐怖と暴力によって支配された時間。

 新しく現れた鷹岡明のやり方に、俺は納得できない。

 

 こいつは俺たちを利用しようとしている。

 地球を救うためなんかじゃなく、ただ烏間先生より上だと証明するためだ。

 

 自分が育て上げた生徒が殺せんせーを殺せば、その教官として彼もまつり上げられる。

 そうやって優越感に浸りたいだけなのだ。

 そのために、俺たちに無茶を要求している。ついていけない奴は切り捨てていくことだろう。

 

 冗談じゃない。

 こんなのを通してしまえば、殺せんせーの言う『第二の刃』も磨けなくなる。

 切り捨てられた奴は捨てられたまま。達成した奴だって、その後何の武器も持たないまま終わってしまう。

 そんなことを、俺は認める気にはならなかった。

 

 反抗的な態度をとった俺に対して、鷹岡は表情を崩さない。

 中学生一人程度、どうとでもなると思っているのだろう。

 

 この異常な状況に、心配しながら見ていた烏間先生が駆け寄ってくる。

 

「やめろ鷹岡。生徒に危害は加えるな」

「危害だなんて大げさだな、烏間。これは躾だよ。父親の言うことを聞かない子には、おしおきが必要だろ?」

「いいえ、度の過ぎた体罰は見過ごせませんよ」

 

 殺せんせーも加勢する。その顔は冷静だが、表面の色がすこし黒ずんでいた。抑えきれない怒りが出てきているのだ。

 

「フン、文句があるのか、モンスター? 地球を救うミッションをこなそうとしてるんだ。少しくらいは厳しくなるのは当然だろ? それとも、教育方針が少し違うだけで、俺に危害を加えるつもりか?」

 

 皮肉を交えながら、鷹岡は笑う。

 

「体罰のうえにこの時間割、続けるようなら俺はあんたについていけない」

「ほう、さっきの話は聞いてたよな? やれるやれないじゃなくて、やるんだ」

 

 俺と烏間先生と殺せんせー、この三人に否定されても、鷹岡はまったく動じていない。

 体育は政府側の管轄で、その担当は現在彼だからだ。権力というか権限というか、この場ではそれを存分に行使できる立場にある。

 だからこれだけのことをしてみせるのだろう。

 

「待て、それ以上やるなら、いくらなんでも見過ごせない」

「……これは教育だ、烏間。地球を救うためのな」

 

 鷹岡は烏間先生を睨んだ……が、その口角が上がったのを、俺は見逃さなかった。

 

「だが、そこまで言うなら俺とお前のどちらが正しいか決める必要があるな。生徒たちも俺を信用してないみたいだし。そこでこうしよう。こいつで決めるんだ」

 

 そう言って彼が懐から取り出したのは、びよんとしなる対殺せんせー用ナイフ。

 

「お前が選んだ生徒と俺が闘い、一度でもナイフを当てられたら、お前の教育は俺より優れていたのだと認めよう。その時はお前に訓練を全部任せて出てってやる」

 

 みんなの顔がぱあっと明るくなる。

 ただ当てるだけ。それなら、磯貝や前原に任せればいける。だが……

 

「ただし、もちろん俺が勝てば口出しは一切させないし……使うナイフはこれじゃない」

 

 鷹岡は脇に置いていた鞄からあるものを取り出し、その先を地面に突き刺した。

 銀色にぎらつく刃。本物のナイフだ。

 それを見て、歓喜を浮かべていたみんなの顔が引きつる。

 

 こんなの無茶だ。

 実際にナイフを持った時、その重さに人は竦んでしまう。物理的な重さでなく、命の重さに。

 当てることが目的なのに、もし当てて大きなけがを負わせてしまったら……もし殺してしまったらと考えると、十分な能力が発揮できなくなる。

 そして鷹岡は怖気づく生徒を一方的に殴りつけ、さらなる恐怖を刻み込んでくるつもりだ。

 

 烏間先生は地面に刺さったナイフを引き抜き、少しの間逡巡した。

 もしこの戦いを引き受ければ、生徒の誰かが血を出すことになるだろう。

 

 俺は覚悟が出来ていた。

 

 力量に差があるのは、俺がよくわかっていた。

 鍛え上げられた肉体と、積まれた戦闘経験。どちらも敵わない。正面からいっても返り討ちにされるだろう。不意打ちで一発入れた程度じゃ勝てない。

 だがどれだけ血を出そうとも、骨が折られようとも……鷹岡をぶちのめすつもりだ。

 

「君に任せたい」

 

 しかし彼が選んだのは、なんと渚だった。

 彼は数舜、逡巡してそれを受け取る。

 

 男子の中で一番小さく、体格も並以下。

 烏間先生がそんな生徒を選んだことで、鷹岡は余裕の笑みを浮かべる。

 

「赤羽くんがいたなら、彼に渡していただろうな」

 

 俺の隣に立ち、烏間先生はそう言う。

 一番勝率があるのはカルマに違いないが、彼はサボりでここにいない。

 

「ですが、今は確かに渚しかいない」

 

 正直なところ、気が気でない。

 もし見立てが間違っていたら、渚はひどく痛めつけられることだろう。

 中学生と軍人という力量を考えれば、そうなる可能性の方が高い。

 最悪の事態になったら、たとえ勝負とはいえ割って入るつもりだ。それは烏間先生も同じ。全身に力が入り、いつでも動けるように構えている。

 

 二人が対峙する。

 鷹岡は油断していて、渚からは緊張が伝わってくる。

 この後、ただ向かっていくだけなら、渚は本物のナイフを上手く扱えず、鷹岡は攻撃をかわして蹂躙を始めるだろう。

 

 ただしそれは、渚が普通の人間で、この後の展開が普通に進めば、の話。

 

 ふ、と気配が消えた。

 

 そこにいて、見えるのに、緊張も脅威も感じない。渚は普通に歩いて鷹岡に近づく。

 鷹岡は拳を構えたまま、その様子を見ていた。見ていたがそれだけだ。迎撃するでもなく、下がるでもなく、ただ見ているだけしかできなかった。

 だって危険を感じないから。自身を防衛する必要はないから……渚はそう思わせた。

 

 渚はナイフを相手の顔に突き出した。すんでのところで鷹岡は気づき、上半身を逸らす。だが、あまりにも急な不意打ちに、彼の姿勢は崩れた。

 その隙を渚は逃さない。服を引っ張りつつ背中に回り、手で目を隠し、鷹岡を倒すと同時にナイフの逆刃を首に当てる。

 熟練の殺し屋がそうするように、渚がいつもやっていることかのように、自然すぎる体運び。

 大きな鷹岡の身体が、恐怖で震えていた。

 

 渚が動きはじめてから、一秒と少し程度。

 

 何が起こったのか、理解している者は少数だ。

 ほとんどは呆気に取られてはてなを浮かべている。

 

「あ、あれ……? ひょっとして、峰うちじゃダメなんでしたっけ?」

 

 きょとんとしている周りの雰囲気に、渚は首を傾げた。

 そうやって軍人を手玉に取ったいまでさえ、彼のことを脅威だと思えない。

 

 それはともかく……決着がついたことは明らかだ。

 

「そこまで!」

「やったぁ!」

「よくやった、渚ぁ!」

 

 烏間先生の声で、みんなが堰を切ったように喜びだし、渚に駆け寄る。

 

「勝負ありですよね、烏間先生」

「ああ。ルールに則って、渚くんは鷹岡にナイフを当てた。文句なしに勝ちだ」

 

 渚をもみくちゃにするみんなを、先生たちは微笑ましく見守る。

 しかし俺はその場から動けずにいた。

 

「……」

 

 注意を引かずに相手に近寄り、姿勢を崩した敵を見逃さず、反撃の隙も与えずに終わらせる。

 渚のポテンシャルを低く見ているつもりはなかったが、ああも見事な動きを見せられると不安になる。

 なにせ、それはいま彼が見せたように、暗殺で活きる能力だからだ。

 

 懐に忍び込み、弱点を突く……なんて、普通に学校生活を送っていくなかでは不要。

 たしかにこの教室では輝くが、しかし将来において役立つのか、役立たせていいのか?

 そんなことを烏間先生も思っているのだろう。ほんの少しだけ顔に緊張が走っていた。

 

「もう一度だ! 今のまぐれを認めてたまるか! 俺がお前みたいなひょろひょろの中学生に負けるわけねえんだ!」

 

 いつの間にか、鷹岡は鼻息を荒くさせて立ち上がり、憎悪の目を向けてきていた。

 本性をあらわにした鷹岡がずんずんと向かってくる。

 俺は渚の前に出て、構えをとった。

 

「負けたんだよ、あんたは」

 

 化けの皮がはがれたこいつに気を遣う必要はない。俺はばっさり言い切った。

 

「ここにいる渚に、烏間先生の教えを受けた渚に、完膚なきまでに負けたんだ。これで、教師としてどちらが優れてるかわかったな」

「こ、このガキどもが……!」

 

 鷹岡が手を伸ばしてくる。でかい腕が、俺を薙ぎ払おうとしていた。

 怒りのあまり、単調すぎる攻撃。俺はそれを弾く。そして顔面に一発食らわせようとして……それよりも速く何者かの肘が打ち込まれた。気づけば、鷹岡は鼻血を流して仰向けに倒れていた。

 烏間先生の肘打ちが、一撃で彼を伸してしまったのだ。

 

「大丈夫か、二人とも」

「烏間先生……」

 

 今の華麗な動きと、俺たちを守ってくれたことに感動を覚える。

 

「ええ。ありがとうございます」

「俺の身内が迷惑をかけてすまなかった。後のことは気にするな。上と交渉して、俺一人で君たちの教官を務められるようにする」

「いいえ、交渉の必要はありません」

 

 声に振り向けば、張り付けた笑顔の理事長が目の前まで来ていた。

 

「理事長!?」

 

 驚く俺たちをよそに、彼は顔をおさえる鷹岡に近寄る。

 

「経営者として様子を見に来てみました。新任の先生の手腕に興味があったのでね。ですが……教育に恐怖を組み込むのは必要ですが、暴力でのみでしか恐怖を与えられず、しかも負けてしまえばとたんに意味をなさなくなる」

 

 心底興味の失った表情で、震える鷹岡の口に、手に持っていた紙をくしゃりと突っ込んだ。

 

「解雇通知です。以後、あなたはここで教えることはできない」

 

 言うだけ言って、理事長は去っていった。

 E組に対してなにかしらの嫌がらせの一つや二つしてくると思ったが……どうやら杞憂に終わったみたいだ。

 そんなことより……

 

「解雇通知……ってことは……烏間先生残留ってことだよね?」

 

 と倉橋がおそるおそる訊く。

 烏間先生はふっと小さく笑った。

 

「そういうことになるな」

「やったー!」

 

 みんな、野球部に勝った時と同じくらい喜ぶ。

 俺としても、彼が再び体育教師に戻るのは嬉しいことだ。

 俺について深く詮索しないことを差し引いても、さっきみたいなとっさの行動には感心する。

 彼の目に見える範囲であれば、E組に害が与えられることは少なくなるだろう。

 

 たぶん、きっと、烏間先生がいれば普通に近い学校生活が送れる。この暗殺教室で。



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23 弱点

 七月。

 野球で本校舎組に勝ち、次は勉強で勝ってみせると意気込みたいところだが……もわっと襲ってくる熱がE組のやる気を奪っていた。

 

「こんなに暑いと、ペンで描いた跡が汗で滲むな。絵が描けねえ……」

「勉強しろ、勉強を。似たような話を梅雨の時にもした覚えがあるな……ってか毎日してるような気がする」

 

 椅子に身体を預ける菅谷が愚痴を言う。それも無理はない。

 猛暑のうえ、じめじめとした湿気でシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。

 教科書をうちわ代わりにして扇いでも、焼け石に水だった。

 

「本校舎はいいよねえ。あっちはクーラー完備で、暑さも湿気も関係なしだもん」

「こっちは扇風機もなし。風が吹かなきゃ熱がどんどんこもってくる……この差は酷ぇよ」

 

 俊足が売りの木村と元気印の岡野でさえぐったりとしている。

 

「みなさんだらしないですねえ」

「まともに勉強できる環境じゃねーからな」

 

 菅谷の言う通り、こんなところじゃいくら詰め込まれても頭から抜ける。

 成績はこういった環境でも左右されるのだ。

 

「今日からプール開きなのは嬉しいけど……」

「けど?」

「プールは本校舎にあるんだよ。こんなクソ暑い中、わざわざあっちまで行って、体育が終わったらお疲れさま状態で山道を戻ってこなきゃならねえんだよ」

「今から気が滅入るよ……」

 

 喋れば喋るほど気が滅入ってくる。

 さすがのカルマでさえ、無駄口を叩くようなことはしなかった。

 

 殺せんせーはむむむと小さく唸る。

 この状況が好ましくないのだろうが、生徒を無理に動かそうとしても逆効果だとわかっているのだろう。

 彼は開いていた教科書を閉じた。

 

「仕方ありませんねえ。体育は次の授業ですが、早めにお披露目といきましょうか」

 

 

「こんなものいつの間に……」

「ヌルフフフ。先生にかかればこの程度、ちょちょいのちょいです」

 

 水着の上にジャージを着せられ、みんなが殺せんせーについて歩いた先……陽も少ししか入ってこない森の中に……見事なプールがあった。

 

 そこに沢があることは知ってたが、ほんの少しの水が流れている程度。お世辞にも川とは呼べない。

 そのはずなのに、目の前にあるのは大きな水たまり……というには綺麗に整備されている。

 

 それなりに水深がある。生徒全員が入っても余りある遊泳ゾーンと二コースある競泳ゾーンに分かれており、競泳用のコースロープは25メートルの長さに揃えられていて、スタート台まで完備。

 

「どれくらいかかったんですか?」

「制作に一日……といっても、そのほとんどが水が溜まるのを待つ時間でした」

 

 下流を見ると、簡易的な壁でせき止められており、それの高さを調節すればプールの水位も思いの通りってわけか。

 

「校舎からここまで一分。あとは一秒あれば飛び込めますよ」

「いやっほーい!」

 

 驚きから歓喜に変わったみんながジャージを脱ぎ、男子も女子も隔てなく飛び込んでいく。次々と大小さまざまな水しぶきが上がり、気持ちよさそうに泳ぐ顔が浮かんできた。

 

「國枝ー。一緒に泳ごうぜ」

「え、やだ。みんなの前で肌晒すとか恥ずかしいし」

「乙女か、おのれは!」

 

 と言われても、脱ぐ気はない。

 修学旅行のときと同じで、傷痕のある身体を見られたくないのだ。

 

「私だって泳ぎは苦手だけど、楽しいよ」

 

 茅野にそう言われても無視。

 

「それじゃ評価はできませんねえ」

「いいよ、別に。いまさら体育の点数を欲しいとも思わん」

「にゅや……」

 

 殺せんせーの挑発も無視。

 そんな様子の俺を気にして、片岡が寄ってくる。

 

「ほらほら、泳げないんだったら教えてあげるからさ」

「引っ張んな引っ張んな。制服のまま入ってたまるかよ」

「もう。苦手なら克服しないと。『出来ない』から目を背けちゃだめでしょ?」

 

 ……俺が中間テスト前に言ったことと似たようなことを言ってくる。

 爽やかに返してきやがった。

 

 しかぁし、そんなこともあろうかと、俺はわざと水着を持ってきていないのだ。

 いくら服が乾きやすい夏だとはいえ、俺を制服のまま水の中に落とすようなことはできまい。

 

「あの時はこいつに無理やり言わされたようなもんだ。なあ、殺せんせー……」

「ゆゆゆ揺らさないでください、國枝くん!」

 

 生徒たちの見張りをしている殺せんせーの監視台を少し揺らすと、彼は派手な反応を見せた。

 

「何をそんなに慌てて……」

「ほら、殺せんせーも一緒に泳ごうよ!」

「きゃんっ」

 

 今度は、倉橋に水をかけられて気味の悪い悲鳴を上げる。

 

「まさか……」

 

 とみんなが呟いたことだろう。

 この反応で気づかない者なんていない。

 

 もしかして、殺せんせーは泳げないのではないか?

 

「いや別に泳ぐ気分じゃないだけだし。水中だと触手がふやけて動けなくなるとかそんなんじゃないし」

 

 震える口笛を吹きながら、殺せんせーは誤魔化そうと手を顔に当てる。その手が、異様にふやけていた。

 

 

「というわけで、『殺せんせーを水に沈めよう作戦』!」

 

 放課後、片岡が号令をかける。

 人望がある彼女の呼びかけに応じなかったのは寺坂、村松、吉田の三人くらいで、他はみんなやる気に満ちていた。

 ようやく、殺せんせーの弱点らしい弱点を見つけたのだ。今度こそ、と意気込む。俺以外は。

 

「まず問題は、殺せんせーが本当に泳げないのかどうか」

「湿気でふやけるのは前にも見たよね」

「さっきも倉橋が水をかけたところだけふやけた」

 

 岡野と磯貝がそう言ったのを皮切りに、みんなの口からどんどんと作戦が湧いてくる。

 罠を使ったり、じゃれたまま掴んで落としたり。それ自体には殺気がないぶん、殺せんせーの反応も遅れることだろう。

 

 そこまで聞いて、俺は安心した。

 特大の弱点がわかって、そこを突くために危ない作戦を立てないかとひやひやしていたが……杞憂だった。

 多少の怪我はあっても、殺した後の生活にはなんら支障をきたさないものばかりだ。地球を救って、百億を手に入れるために誰も犠牲にならない。

 いくら金を手に入れたって、植物人間になってしまっては意味がない。未来を考えてこその現在だ。そのことを、みんなわかっていた。

 

「あれ、國枝くん、どこいくの?」

「そこまでわかってるなら、俺は必要ないだろ」

「えぇ~、せっかくみんなでやる作戦なのに……」

 

 しゅん……矢田と倉橋が目に見えて落ち込んでしまう。

 いや、俺にはわかってる。こいつらがわざとこういう表情をしていることを。

 ビッチ先生の教えをよく聞いている彼女らだからこそできる技だ。

 

 だから、これが嘘だとわかっている。わかってはいるが……

 

「……作戦を考えるところまでだ。実際にやるのは任せるぞ」

「うん。それで十分だよ」

 

 すぐに明るい顔に切り替わる。

 いやわかってた。嘘だってのはわかってた。だがどうにも……落ち込んだ顔には弱い。

 

 罠だとわかっていながら、まんまとはめられたことに少し後悔しつつ、話を進める。

 

「水を吸わせれば……というが、そこまでが難しい。殺せんせーは敏感だからな」

 

 音もなく背後から近寄っても、殺せんせーは気づく。それくらい殺されることに対しての反応が早い。

 水を当てられたのだって、それが単なる好奇心だったからだ。

 弱点がそれだとわかっている今、水を吸わせる行為は殺意を持った行動とイコールになる。そうなれば通用しなくなる。

 

 例えば殺せんせー自らが水に飛び込むような作戦でも思いつければいいのだが、そんなのは思いつかない。

 クラス全員が溺れるふりをして騙されてとしても、すぐさま触手で掬い上げられるだけだ。多少膨らませられても、そこまでスピードが落ちるとも思えない。

 

 そのスピードも問題だ。どれだけの量を浴びせれば、どれだけ弱体化するかも不明。これがネックだ。

 一秒以上、全身を漬ける必要があるのならものすごく大規模な作戦でないといけない。

 あのプール程度の空間と持っている設備や装備程度じゃ、抑え込めずに逃げられる。

 

「でも、まだまだ時間はあるし考えていこうよ。出来ないなんて諦めてたら、何も出来ないしね」

 

 俺が一通り説明して少し下がったモチベーションを、片岡が持ち上げる。

 

「いざという時はやってくれるって、期待してるよ」

「期待に外れるように頑張るよ」



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24 亀裂

 なんとなく、嫌な空気が漂っているのには気づいていた。

 よどんだ空気の発生元は寺坂。

 暗殺や勉強含め、この教室で一番やる気のない人物だ。

 

 同じ寺坂組でも、放課後の講習を受けている村松や、バイク趣味の合う吉田は少しずつ殺せんせーと距離を近づけていっている。

 だが彼だけは変わらない。

 百億円を手に入れられたらいいなと考えながら、本気で殺ろうとせず。この教室に嫌気がさしながら抜け出す努力もせず、を続けている。

 

 変わってしまったこのクラスが面白くないのだろう。

 小学生のころには喧嘩も強く、そこそこ頭の良かった彼だが、この学校の教育スピードにはついていけず、暴力では学力の低下は避けられない。

 E組になって、同じ落ちこぼれの集団にいれると思ったのに、殺せんせーが来てからはみんな努力するようになってA組をも抜かそうとしている。

 そうやって頑張ろうとする周りの環境が、彼にはとても居心地悪く感じるのだ。

 

 

「メチャメチャじゃねーか」

 

 唖然とした口調で、前原が言った。

 

 プールができた翌日、岡島が慌てて教室に入ってきて俺たちを呼んできた。急いで行くと、プールは酷く荒らされていた。

 チェアもスタート台も、殺せんせーが手作りしたものはことごとく壊され、しかもごみ袋の中をそのままぶちまけたようにプールが汚されている。

 

 犯人は目に見えている。

 にやにやと笑みを浮かべている寺坂を見れば、観察眼が鋭くなくても誰だってわかる。

 

「あーあー、こりゃ大変だ」

「ま、いーんじゃね。プールとかめんどいし」

 

 村松と吉田はそう言っているが、やってしまったことの重さが心に残っているようだ。

 俺たちとは視線を合わせようとせず、無理に作っている笑顔は引きつっている。

 罪悪感の表れ。

 心の中では、悪いことをしたと恥じているのだ。

 

 だが寺坂はすっきりしたような、ざまあみろというような表情。

 その目は渚に向けられた。

 

「ンだよ渚。何見てんだよ。まさか、俺らが犯人とか疑ってんのか? くだらねーぞ」

「くだらないのはどっちだ」

 

 渚の胸ぐらを掴もうとした手を、逆に掴んでやる。

 寺坂の腕をひねり上げるのは簡単だが、どうにかして抑えた。

 いつもは暴力に対して暴力で解決しているが、今回はそうはいかない。彼だって、俺の大切な仲間なのだ。

 

 かといって、怒りがないわけではない。

 

「こそこそ隠れて悪事を働いて、不満を直接言わないのはくだらなくないのか?」

 

 図星だったみたいで、動揺した気持ちを隠すために睨んでくる。俺も目を逸らす気はない。

 二人の間にピリついた空気が流れる。 

 あわや一触即発……となったとき、一本の触手が伸びてきた。

 

「やめてください。犯人探しなんて時間と手間の無駄です。しなくていい」

 

 そう言って殺せんせーが俺の手をゆっくり離させる。

 そして、あっという間に、本当にあっという間に全て直した。

 壊された椅子は前より頑丈に、浮かんでいたゴミはちゃんと分別されてゴミ袋の中へ。

 

「はい、これで元通り。いつも通り遊んでください」

 

 一秒にも満たない時間で全てを無駄にされ、寺坂は眉間にしわを寄せる。

 何を言っても負け惜しみになってしまうと感じたのか、舌打ちして踵を返していった。

 

 

 昼休み。

 殺せんせーが直してくれたプールサイドで涼みながら、俺と渚と杉野、さらにカルマは昼飯を食っていた。

 今は食べ終わって、校舎に戻る途中。

 

「寺坂の様子が変?」

 

 森の陰から抜けて日差しに照らされ、校舎が視界に入ってきたころ、杉野の言葉に渚が頷く。

 

「元々あの三人は勉強も暗殺にも積極的じゃなかったけど、特に寺坂くんは苛立ってる。村松くんと吉田くんは……そうでもないみたいだけど」

「放っときゃいいんじゃね。どうせ何かやっても、俺らでもなんとかできるだろうし」

「殺していい教室なんて、楽しまないほうがもったいないとは思うけどね~。ね、國枝」

「話振ってくるな」

 

 今は寺坂の話で、殺す殺さないの話は別だ。

 

「だって、國枝だって暗殺に積極的じゃない組じゃん。なんか聞いてないの?」

「殺す気がないあいつらと、殺さない意志を持ってる俺とじゃ立場が違う」

 

 暗殺はしなくとも、俺は殺せんせーとは(表面上は)仲良くできてるし、教えも乞うている。

 無駄に敵意をばらまいて、無駄に壁を作るやつとは違う。

 

「ま、どこまでいっても今のあいつじゃ何もできないと思うけどね」

「同感だ。だが……」

 

 俺の言葉は遮られた。

 教室に着いて扉を開けた瞬間、プシューと煙が舞ったからだ。

 

「なんだこれ!?」

「殺虫剤!?」

 

 いま到着した俺たちより、教室にいたみんなのほうがパニくっている。

 教室の中が白い煙で充満する。窓を開けていたおかげで、すぐに風が連れ去ってくれたが……何人かはげほげほと咳き込んでいた。

 床に缶が転がっていて、そこから煙が噴射したみたいだ。犯人は……

 

「寺坂くん! やんちゃするにも限度が……」

「触るんじゃねーよ、モンスター」

 

 肩に触れた殺せんせーの触手を、寺坂は弾く。

 

「気持ち悪ぃんだよ。テメーも、モンスターに操られて仲良しこよしやってるテメーらも」

 

 嫌悪感丸出しの顔のまま、寺坂はずかずかと教室を出ていった。

 

「何があったんだ?」

 

 しばらく時間が経ってようやく頭が冷静になる。

 

「俺が殺せんせーとバイクの話で盛り上がっていたらいきなり……」

「あのバカ……」

 

 吉田が言ったことで確信を持てた。

 寺坂の我慢の限界が来たのだ。一緒にいた者たちも、今の明るいE組に染まってしまって……それがひどく腹立たしいのだ。

 

「寺坂追いかけるの?」

「やめとけって。放っといたらいいんだよ」

 

 カルマと杉野はそう言うが、出来ない。だって寺坂の表情に、嫉妬が混じっていたから。

 本当は、このクラスに馴染みたいんじゃないのか。だが努力するみんなを見て、その眩さに目を逸らしてしまっているだけなんじゃないのか。

 

 俺も教室を出て、すぐさま寺坂を追いかける。 

 走って逃げるようなことはせず、校舎を出てすぐのところに彼はいた。

 

「おい寺坂」

 

 声をかけると、彼の足が止まった。

 

「何かやるつもりなら、みんなに話して協力を頼むべきだ。生半可な作戦じゃ……」

「協力? やだね。誰があんな奴らとつるむかよ」

 

 舌打ちして文句を言いつつ、彼はこちらに顔を向けない。

 

「努力なんてしなくてもいいのが良かったのによ。あいつのせいで全員やる気出してるのが気に食わねえ。てめえだって最初は殺す気ねえとか言ってたくせに、今じゃお友達と作戦立ててるじゃねえか」

 

 寺坂はそのまま、止まることなく去っていった。

 

 

「寺坂来ないな……」

「あの様子だと、もう来ないんじゃない?」

 

 翌日の昼休み。カルマたちと机を囲んで弁当を食う。

 午前の授業に、寺坂はまったく姿を見せなかった。

 何かしてるのか、何もしていないのか。どちらにしても心配だ。

 昨日の夜に街をパトロールしても見つからなかった。だが家には帰っていないようだったし……

 

「ところで……どうして涙流してるんですか」

 

 俺は隣でともに食事をする殺せんせー。

 その顔からだらだらと液が流れている。

 

「鼻なので鼻水です」

「ややこしい……」

「どうも昨日から体の調子がおかしくてですねえ。夏カゼでしょうか」

「カゼひくのか?」

 

 てか鼻水かよ汚いな。どおりで粘っこいわけだ。あーあ、メロンパンに落ちて……うわあ……ちょっと近寄らないでもらえますか。

 そんな他愛のない話をしていると、急に教室の扉が開く。表れたのは、なんだかやけに冷静な寺坂だった。

 

「おお、寺坂くん! 今日はもう来ないかと心配していましたよ!」

 

 瞬時に寺坂に駆け寄り、鼻水……今度は涙もか? いやわからん。とにかく粘液をだだ漏れにする殺せんせー。

 垂れてる垂れてる。寺坂の顔にこれでもかってくらいトッピングされてる。

 

「昨日一日考えましたが、やはり本人と話すべきです。悩みがあるなら相談してください」

 

 寺坂はねっとりした粘液を殺せんせーの服で拭いて、勝利を確信したような目をした。

 

「おいタコ。そろそろ本気でぶっ殺してやんよ。放課後プールに来い。てめーらも手伝え! 俺がこいつを水の中に落としてやるよ」

 

 言うだけ言って、笑い声を発しながら、寺坂はまた姿を消した。

 昨日の今日で反省はしていないみたいだ。そんな態度は吉田と村松さえも呆れさせた。

 

「もう無理。ついていけねーよ」

「俺も」

 

 まああんだけ勝手なこと言われたら手伝う気も起きないな。

 他のみんなも口々に、今回はパスだと告げる。まあみんなが行かないなら俺も……いや、寺坂が何をするかわからない。俺だけは行って、様子を見るべきだろう。

 

「みんな行きましょうよお」

 

 怨念のような声を轟かせながら、殺せんせーはさらに粘液を流す。

 それは教室の床中に漏れだし、俺たちが逃げられないように足を固められる。

 

「うわあ、敵キャラみたいな能力だね」

 

 カルマはなんでそんなに冷静なの?

 

「せっかく寺坂くんが殺る気になったのです。みんなで一緒に暗殺して、気持ちよく仲直りしましょう」

「粘液引っ込めろ!」

「メシ時に汚いもの教室にばらまくな!」



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25 自分で考えろ

「そーやって適当に散らばっとけ!」

 

 寺坂の言う通りに従って、他のみんなは訝し気に寺坂を見つつ、やる気なく立っている。殺せんせーがしつこいから来ただけなのだ。

 そしてその殺せんせーはプールの傍で彼と相対する。

 念のため、俺は水から少し離れてみんなを見守っていた。

 

「あれ、國枝」

「カルマ、また遅れてきたのか」

 

 俺と同じく、この暗殺に参加しないカルマがようやく来た。彼も一応状況を見に来たのだろう。

 

「どう、様子は?」

「今から始まる。上手くいくとは思えないけどな」

「ほんとに暗殺する気ないよね、國枝って」

「殺す意思があったとしても、寺坂の作戦でやれるとは到底思わないな。無駄なものに力を使う気はない」

「寺坂が上手くいかないってのは同意見」

 

 水が弱点だと知ったのはつい最近だが、どれだけ浴びせればいいのかはわからない。

 殺せんせーを相手に、一瞬で大量の水を浴びせる。または浸からせ続けるなんて作戦は思いつかなかった。

 ちょっとでも隙を与えれば、すぐに安全地帯に逃げ込まれるだろう。

 カルマもそうだから、水を使った暗殺については保留状態なのだ。

 

 そもそも、今の時点では戦略も戦術もまったく見られない。

 今回の主役である寺坂でさえ、誰かに操られているように意志の強さが感じられない。

 

「ふーん。じゃ、適当に泳がない?」

「いや、いいよ。ほんと、カナヅチレベルで泳げないから」

 

 そんなことはないのだが、例によって断る俺。

 もうすぐ寺坂の暗殺が始まるというのに、カルマはそちらを向きもせずに俺に近づいてきた。

 

「まあまあ、ちょっと浸かるくらいいいじゃん。苦手は克服しないとね」

「嫌だって言って……力強いなお前! 破ける破ける!」

「なんだったら完全耐圧防水スーツ貸したげるからさ」

「何のために持ってんだよ!」

 

 などとじゃれあっていると……

 

 ドガン!

 

 突然爆発音が鳴り響く。

 衝撃波が俺たちの身体を押し、地面に倒れさせる。

 鼓膜が破れそうで、腹の底から轟くような振動が遅れて襲ってくる。倒れたまま、反射的に耳に手を当て、頭がきーんと鳴るのが収まるまでそのままになった。

 自分の無事を確認し、急いで振り向くと……

 

「なんだこれ……」

 

 俺とカルマは同時に同じことを口走った。

 殺せんせーの作ったプールは影も形もなく、崩壊していた。

 それだけじゃない。容赦ない激流が上流から流れてきている。

 

 なんてこった。

 

 何がなんだかわからないが、最悪なことが起こったのだけは確かだ。

 水に、生徒たちが流されていっている。

 岩に手を伸ばして、掴めたとしても激しい流れがそれを許さない。あっさりと身体を運んでしまう。

 このままでは溺れてしまうのも時間の問題。

 

 もっと悪いのはその先だ。下へは五メートルか、もっとか。ここよりもごつごつとした岩場が待っている。

 流されるまま、受け身の取れないまま打ち付けられてしまったら、大けが、気絶。打ち所が悪ければ……死が待っている。

 

 じっとしているつもりはない。何がどうなってこうなったのかは脇に置く。細かい状況確認は後だ。

 考えるよりも先に俺の足はぱっと動き、水に飲み込まれないように流れに並走しながら、近い者の腕をぐいっと引っ張って陸に揚げる。

 不破と木村を助けたところで、その脇に何人かが打ち上げられる。

 

 顔を上げると、岩の上に立っている殺せんせーが、触手を使って生徒たちを掬っていた。俺の目にも完全に捉えきれるスピードで、だ。

 触手を鋭く動かしてしまったら、生徒たちの身体にダメージを与えることになってしまうからだ。

 音速に耐えられるほど、人間の身体は強くない。

 

 このまま任せるだけにはできない。

 殺せんせーの触手はどんどんと水を吸収して大きくなっていっている。このままでは力がなくなり、誰かを取りこぼしてしまう。

 今も、一番でかくなった触手に気を失った吉田をぶら下げている。陸まで持っていく力がないのだろう。

 激流から顔を出す岩を伝って、最短ルートで殺せんせーの近くへと向かう。

 

「殺せんせー!」

「お願いします、國枝くん!」

 

 水を吸ってしまって力が出ない彼の腕から放り出された吉田を、足を滑らせないように受け取っておぶる。そしてすぐさま氾濫の影響を受けない陸へ下ろす。

 口元に耳を当てると、まずいことが判明した。息をしていない。

 岩が当たったとかのショックか、それとも水を飲んでしまったのか? 

 どっちでもいい。なににしろ、いまここでやるべきは……

 俺は吉田の胸に右手を当て、左手を重ねる。心臓マッサージだ。

 

「頼む……頼む!」

 

 懇願しながら、圧迫を続ける。一、二、三、四……肋骨を折るくらいの気持ちで、強く、強く。

 正常なら、つまり意識が失われていないなら痛がるところだろう。だが少しも表情が変わらない彼を見て、焦りだす。

 

「くそっ、頼むよ。頼む……吉田、吉田ァ!」

「っ! げほっ、がはっ!」

 

 祈りが通じたのか、吉田が盛大に咳き込みながら水を吐き出す。

 

「吉田、大丈夫か!?」

「あ? いったい何が……」

 

 まだ苦し気に咳をしながら、吉田はあたりを見回す。現状が理解できていないようだ。

 その気持ちはわかる。

 どうしてこうなったかは、俺にもまだわかっていないからだ。

 

 ……いや、察しがついた。

 震える寺坂が、青白い顔で眺めている。唖然と口が開いていた。

 

「ち、違う……こんなはずじゃ……俺はただ……」

 

 どうやったにせよ、寺坂がこの事態を引き起こしたに違いない。

 近づく俺を、彼は懇願するような目で見た。

 

「シロにやれって言われたんだ。あいつを殺せるからって……だけどこんなことになるなんて……」

「やれって言われたから、その通りやっただけか。どんな作戦かもわからずに」

「お、俺は悪くないよな? こんなことになったのはシロが……」

 

 そんな戯言を最後まで聞く気はない。

 俺は彼の首をひねって、なんとか助かったみんなへ目を向けさせる。

 突然の事から急に助けられて、まだ何に巻き込まれたのか実感が湧いてないのがほとんどだ。

 

「いいか、みんな死ぬところだったんだぞ。みんなだ! お前のせいで、誰かが死ぬところだった!」

 

 まだむせこんでいる吉田を見て、寺坂の震えがいっそう激しくなった。

 俺が来てなければ、彼の心臓は止まっていたかもしれない。

 

「何も考えずに何かやろうなんて、そんな無責任なことするな!」

「お、俺……どうしたら……」

「それくらい自分で考えろ!」

 

 荒げた声に、彼のびくりと身体が震える。胸ぐらを掴んで、鼻先に顔を近づけた。

 

「國枝、そんな奴に構ってる暇ないよ」

 

 カルマの言葉を受けて、寺坂を弾き飛ばす勢いで退ける。

 そうだ。寺坂に怒っている時間はない。そんなことよりも、まだ助かっていないのがいる。

 怒りを絶望を抱えながらも、周りへ目を向ける。

 

 流されそうになった生徒のほとんどは殺せんせーに打ち上げられているようで、なんとか無事に陸へ上がっている。

 カルマが一人ひとりの傷度合いを診てくれているのを見て、俺は殺せんせーのほうへ向き直った。

 いつもの三倍までに膨らんだ触手に、一人しがみついている。

 渚だ。

 

 近くの岩に飛び移ろうにも、触手は足場にするには柔らかすぎるし、不安定。

 殺せんせーが投げようにも、その力は奪われているのだろう。彼の顔は冷や汗と水しぶきで液体まみれになり、渚の顔は青くなっていく。

 

「カルマ、みんなを頼む」

 

 返事を聞かずに、俺はもう一度同じルートで殺せんせーに迫った。

 水はまだまだ流れてくる。収まるまで待つ頃には、殺せんせーも渚も下に叩きつけられているだろう。

 

「殺せんせー、渚を投げてくれ」

「ええっ!?」

 

 今の殺せんせーは、頼りにするには力が足りない。先ほど吉田を投げた時のようにうまくいかない。

 たぶん、そのことを、抱えられている渚が一番よくわかっているのだろう。

 ぶんぶんと首を横に振りながら触手に捕まる力を強める。

 

「それは……できません。今の私では、そちらまで渚くんを投げることは……」

「信じてくれ」

 

 彼が言い終わる前に、俺が言い切る。

 

「必ず受け止める。だから、やってくれ」

 

 こんな命がかかった場で、たった一人、俺なんかを信じてくれなんて難しいのはわかってる。

 だけど、どうか、今だけは……

 

「……渚くん、いいですか?」

「う、うん。怖いけど、お願い」

 

 まだ震えているものの、渚は意を決して俺を見る。

 安心しかけた心を引き締める。信じてくれたはいいが、それはまだスタートラインだ。

 絶対に彼を受け止めなければ、意味がない。

 

 殺せんせーの腕は力なく揺れ、ゆっくり、ゆっくりとその弧が大きくなる。

 

「今だ!」

「今です!」

 

 俺と殺せんせーが叫び、渚が手を離す。

 一瞬ふわりと浮いた渚の身体が、重力に従って落ちてくる。

 

「うわあ!」

 

 その時、俺の背筋が凍りついた。

 微妙に届かない。いや届くが、ふんばれるか?

 

 岩場の端っこギリギリまで足をもっていき、許せる限界まで身体を外へ。

 衝撃に備えて、全身に力を込める。

 

「わっ」

 

 なんとか、渚の身体は俺の腕に収まった。

 渚の身体は軽いが、しかし今の無理な体勢では落としてしまいそうになる。

 腰と足が悲鳴をあげるが、歯を食いしばって黙らせる。落としてたまるか、と気力で持ち上げる。

 彼の体重が軽いおかげで、ギリギリのところでバランスを保つことが出来た。

 お互い顔を見合わせ、ほっと一息つく。

 

 その瞬間、何かが俺と殺せんせーの間、激流の中へ落下した。

 どん、と空気が振動し、遅れて巻き上げられた水が俺たちにかかる。その勢いは安心していた俺たちを押し、足場に身体を横たわらせた。

 なんとか無事を確認して、殺せんせーへ目を向ける。

 

 見えたのは、落ちてきた何かが、殺せんせーを崖の底へ突き落すところだった。

 助かった……とは思わない。

 一瞬だったが、確かに見えた。以前にも見たことのある小柄な体に、二本の触手。

 

 堀部イトナ。

 リベンジに燃える暗殺者が、唐突にやってきたのだ。



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26 激流

 突然の乱入者である堀部イトナが殺せんせーを見えない崖の下へ叩き落としたあとでも、俺は安心できなかった。

 流れる水は多少も勢いが収まらず、まだ落ち着こうとはしない。

 

 E組はみんな無事だろうか。振り返って数える。

 

 岩に倒れた俺に乗っている渚を除いて、二人足りない。原と村松だ。

 渚をその場に座らせて慌てて岩から岩へと飛び移り、下を見渡せる位置まで着くと、殺せんせーが見えた。

 ある程度せき止められていた上流からの水が流れ、プールが出来る前と同じ川が出来上がっている。

 少し移動すれば石だらけの地面にたどり着けるが、堀部が許してくれない。

 足を浸からせながら、殺せんせーは膨れ上がった触手でなんとか堀部の強襲をかわしている。その近くには、安全な距離を保っているシロもいた。

 

 それはともかく、まずいのは上にいない二人だ。今戦っている殺せんせーと堀部の射程のギリギリ外だ。

 村松は岩場。原は木の枝にしがみついている。

 落ちれば戦いの巻き添えになる。そうでなくても、地面に激突。どちらにしてもいい結果にはならない。

 

 不意をつかれて全身に水を受けてしまった殺せんせーは、どんどん膨らんでいる。

 足元の水の勢いは大したことないものの、膝下まで浸かるくらい。そこにいればいるほど、殺せんせーは弱くなっていく。

 堀部の触手を弾くのに苦労しているようだし、その堀部も強化されているみたいだ。

 前よりも触手の本数が減っている。そのぶんのエネルギーを、残したものに振り分けているのか。

 このままいったら、殺せんせーは殺される。それはいい。だが、E組を危険にさらしたシロの思う通りになるのは癪だ。

 

 みんなが死ぬところだったのを見て、俺の理性は外れかかっていた。

 視界が赤く染まって、今にも本能が暴れだしそうだ。

 

 気づけば、俺は下流に降りて堀部の頭を掴んでいた。

 殺せんせーに執着するがあまり、他が疎かになった彼の後ろを取るのはそう難しくなく、そこからさらにバランスを崩させて身体を沈める。

 何が起こったのか理解できていないようだ。触手ではなく、自らの手で俺の腕を掴んでくる。

 改造の結果は身体にも影響を及ぼしているらしく、おおよそその細腕からは想像もつかない腕力が、俺の腕を襲う。

 

 一瞬後、ようやく状況を理解した堀部が触手を跳ねさせた。

 空気を叩く音が聞こえて、俺の身体が飛ばされる。落下先の水が衝撃を吸収して、ある程度ダメージを減らしてくれた。

 

「げほっ、ごほっ」

 

 嗚咽を漏らしながら立ち上がる俺と堀部。

 彼の触手は殺せんせーと同じようにその太さを増していた。

 やっぱり、弱点は同じ。

 

 感情が冷えてきた。

 冷たい水で全身を濡らされたのと、堀部の弱体化を見て、冷静さを取り戻しつつあった。また、冷静にならなければいけない状況になっていた。

 なんでかって、堀部のターゲットがこちらに向いたからだ。

 

 ただの人間にしてやられたのが不満か、殺せんせーに向けるような殺意を俺に刺してくる。

 深く呼吸をして、集中する。

 

 よく見ると、堀部の触手からは水とは違うドロリとした液体が垂れている。

 あれは……粘液か? あれで水の吸収を防いでいるのか。上流からの飛沫程度じゃ、弾かれてしまうということか。

 最初に登校してきたときも、雨の中濡れずにいられたのはこれのおかげってわけだ。

 しかし、防げるのにも限度があるだろう。さっきのように水に浸かるレベルまでいけば触手が吸い込んでしまい、大幅に力を失う。

 

 なら、もう一回だ。

 ひゅん、と音を立てて触手が迫りくる。さっきよりもにぶいそれを、少し横に逸れてかわした。

 伸びきった触手を掴んで、逃さないように脇で挟む。そうしてがっしり掴んだ触手に体重をかけた。

 本数を減らしてパワーとスピードが上がったといっても、人ひとりの体重を急に持ち上げられるほどではない。

 

 またしても、彼の武器は水に落ちた。すると狙い通り、触手がみるみる太くなっていった。

 この場は殺せんせーには致命的な場所だが、同時に同じ触手をもつ堀部にとっても不利な場所なのだ。

 

 喜んだのもつかの間。

 もう一本の触手が飛んできた。身体が吹き飛ばされ、水面に叩きつけられる。

 

 なんとか受け身を取れたため、激突の痛みはそんなでもないが……ズキリと腹が痛む。

 制服が裂かれ、一本の切り筋が作られていた。その線は筋肉まで達していて、腹筋を綺麗に横切っていた。

 透明な清流に赤い血が混ざって流れていく。

 少しずつ、しかしとめどなく落ちていく血。もう少し深く切られていれば、内臓が出ていたかもしれない。

 

 痛みでできた隙。そこに触手の一閃が迫ってきた。

 身体に力を入れるが遅く、しなる鞭のようなそれが叩きつけられようとしていた。

 

「~~っクソ痛え!」

 

 堀部の攻撃は俺に届かず、代わりに受けたのは寺坂だった。

 自分のシャツを盾にして、ショックに身体を震わせながらも、受け止めて立っていた。

 

「寺坂……」

「自分で考えた! これでいいのか!?」

「本当に自分で決めた結果か?」

「俺ぁ頭悪いからよ、従う奴を決めたんだよ」

 

 寺坂は上を見た。俺もつられてそちらを見ると、カルマがしたり顔で見下ろしている。

 そうか、なるほど。

 先まで読む司令塔と無茶ぶりを遂行する実行部隊。味方になればこれほど頼もしいものはない。

 だが寺坂が掴んでいるのは一本だけ。もう一本が、今度は上から振り下ろされ……

 

 くちゅんっ。

 

 ずいぶんと可愛らしい音が堀部から漏れた。鼻水が垂れ、涙を流し、粘液も不必要に分泌されている。

 触手は持ち主のその反応によって攻撃を阻害され、二本とも引っ込められた。

 

「どうなってる?」

「寺坂、昨日と同じシャツ着てきてるんだよ。ってことは、殺せんせーの粘液だだ洩れにしたあれを、至近距離でたっぷり浴びてるってわけ」

 

 カルマが説明した。

 

 ああ、そういうことか。

 シロの計画した暗殺は、昨日からすでに始まっていたのだ。

 水を吸わせるために、昨日寺坂に特殊な煙を撒かせ、邪魔な粘液を枯渇させた。

 朝から殺せんせーの調子が悪く、水を吸収しっぱなしだったのは、そういうわけか。

 

 流石頭の回転が早い。こんな作戦を即座に立てられるとは恐れ入った。

 

 堀部はぐっと膝を曲げた。

 不利と見て、飛び上がって逃げる気か。そうはいかない。せっかくカルマと寺坂が作り出した隙だ。このチャンスをみすみす逃がすわけにはいかない。

 完全に重荷と化している触手を掴み、逃げられないようにする。

 気づいた時にはもう遅い。俺は堀部の目の前までたどり着いていた。

 

 俺は堀部の顎を狙って拳を振りぬく。

 小さい身体は数センチ浮いて、ばしゃりと水の中へ落ちた。

 

 粘液を失い、触手はぐんぐんと水を吸う。

 ぱっと立ち上がった時にはもう手遅れ。ぶよぶよの武器は役に立たない。ただの重りだ。

 

 さらに追撃が襲い掛かる。

 

 バシャン、バシャン。

 カルマを除いたE組の全員が、村松も含めて上から飛び降りて水を散らす。

 舞い上がった飛沫はさらに堀部を濡らし、攻撃力を奪った。

 

「お前の負けだ」

 

 この間に、殺せんせーは原を抱きかかえ、地面に下ろしていた。

 人質もなし。同じ能力を持つ殺せんせーに、二十数人の兵士、そして司令塔。

 これだけの戦力を相手に、弱った身体じゃ太刀打ちできないはずだ。

 

 興味深そうな視線を向けてくるシロを睨む。

 彼はいつの間にか足場の上にいて、俺たちから届かない場所へ避難していた。

 

 堀部は殺せんせーに勝とうとしただけで、寺坂は利用されただけ。

 みんなを危険にさらそうとしたのは、こいつだけだ。

 

「降りてこい、シロ」

「そう言われてのこのこと出ていくと思っているのかな?」

 

 くすくすと耳障りな笑い声を上げて、彼はパチンと指を鳴らした。

 

「帰るよ、イトナ」

 

 さすがに絶望的な戦局だとわかっている堀部は、シロの言葉に従って飛び上がり、彼の横に着地した。

 

「待て!」

 

 逃がすものかと追おうとしたが、ずきりと腹が痛む。触手によって裂かれたところから、まだ血が流れていた。

 あっという間に姿をくらました二人を追えるはずもなく、俺は傷を押さえて見送るしかできなかった。

 

「くそ……」

 

 堀部があのゲス野郎に使われているのを、また止められなかった。

 俯く俺は陸地に上がり、そのままへたり込む。

 敵を追い返せて無事に喜ぶみんなとは違って、俺は無力感に襲われた。

 

 そんな俺の傍まで来た寺坂は。がばっと頭を下げた。

 

「悪かったよ。本当にすまん。気のすむまで殴ってくれていい」

 

 彼にしては珍しく、素直な謝罪。本当に反省している証拠だ。

 

「いいよ。助けられたし、みんなが無事ならそれでいい」

 

 俺は挙げかけた腕を下げ、謝罪を受け入れる。

 殴りたいわけじゃない。ちゃんと考えてほしいのだ。自分がしたことと、これから自分がすることを。

 それが出来ているなら、俺が言うことはもう何もない。

 

「って、お前大丈夫か!?」

「ああ、だいじょう……っ」

 

 強がりは痛覚によって遮られた。

 現実は漫画のようにはいかない。

 何度も攻撃を受け、水面に叩きつけられ、腹に軽い線を入れられたこの身体は、フィクションなら大した怪我じゃないのだろう。

 だが、歩こうとすれば痛みが走って、普段どおりに動けそうにない。それどころか、無理に動こうとした反動で足から力が抜けてしまう。

 

 寺坂はそんな俺の肩を持って引き上げてくれた。

 

「制服も直さなきゃだし……もう滅茶苦茶だな。だけど、みんなが無事でよかった」

 

 俺は微笑んだ。すると、寺坂も同じように笑ってみせた。



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27 渦巻く欲望と目的

「よー國枝、身体の調子はどう?」

「すっかり元通り……とはいかないけど、平気だよ」

 

 昼休みのチャイムが鳴ると、吉田は空いている右隣に弁当を置いて、机をくっつけてくる。

 

 まだ包帯は取れないけど、堀部から受けた傷はほとんど塞がっていた。ちょっと痛みを感じる程度だ。

 制服もすぐに殺せんせーが縫ってくれて、扇風機のように触手をマッハで回して乾燥させ、さらにしわを伸ばしてくれたらしい。

 新品よりも綺麗になって返ってきた。やりすぎ。

 

「ちゃんと礼を言ってなかったと思ってな。まじで助かったよ。命の恩人だ」

 

 大げさだよ、とは言えなかった。

 特に吉田はかなり危険な状態だった。水を飲んで、心臓も止まってた。運よく生きているが、後遺症が残っていても不思議じゃなかったのだ。

 

 けれども、たぶんシロは生徒を殺す気はなかったように見える。

 殺せんせーを極度に怒らせることに、少しの恐怖が垣間見えていた。

 だが油断はできない。死んだら仕方がないというふうなことも考えているだろうから。エスカレートしていけば、誰かが本当に死んでしまうかもしれない。

 俺も気を引き締めていかないと。

 

「ところで……人工呼吸とかしてねえよな?」

「するか。ああいう場合じゃ、心臓マッサージに集中したほうがいいんだよ」

 

 というのは漫画の知識だが。人工呼吸は器具がないと菌の感染とかあってやばいらしいし。

 

「思い返してみれば、凄かったよな」

「うんうん、助けてもらった身からしても、かっこよかったよ。実際にぱっと出来る人はすごいと思う」

 

 木村と不破も混じってくる。

 え、なんなの。褒め殺す気なの?

 

 かっこよかったと言われて嬉しいが、あの時はがむしゃらにやってた記憶しかない。

 しどろもどろになっていると、さらに原と村松も寄ってきた。

 

「イトナくんと戦ってたときもかっこよかったよ。触手避けたりしてて」

「あ、あれはほら、あいつの動きがにぶくなってたからな」

「触手を掴んで水に落とすときとか、すっげえ流れるような動きだったよな」

「あれだな。火事場の馬鹿力ってやつだな、きっと」

 

 まずいぞ。大半には実際に見られてないが、そうか、この二人は俺が見える位置にいたのか。

 

「イトナを殴ったときなんかも……」

「ほらほら、喋ってばっかじゃなくて、飯食って午後に備えよう。テストはもうすぐなんだから」

 

 ぱんぱんと手を叩いて解散を促す。しかし、ぞろぞろと集まってきていたみんなは、散ることなく俺の机に自分の昼食を置き始めた。

 俺を中心に、輪が出来上がり、当の本人を置いてまた話が進む。

 

 ああ、すっごい視線を感じる。カルマ絶対こっち見てる……

 

 照れつつ、怖がりつつ、縮こまりながら箸を動かすしかなかった。

 少しでも矛先を逸らせないかと、教卓で菓子パンを広げる殺せんせーに目を向ける。

 

「で、今回のテストの目標はどうしますか?」

「ヌルフフフ。もちろん目標はありますよ。ご褒美も添えてね」

 

 にやにやと笑いながら、殺せんせーはメロンパンを一つ頬張る。

 

「ご褒美?」

「これです」

 

 そう言って、彼は食べかすのついた触手を一本にゅるにゅると動かした。

 

「目標は五教科トップを取ること。それと総合トップを取った者には、触手一本破壊する権利を与えましょう」

「つまり、六本破壊のチャンスがあるってこと……?」

「色々試してみた結果、触手一本無くなることで先生が失う運動能力はざっと……20%!」

「じゃあ、もし六本も奪えれば……」

「殺せんせーに残るのは、おおよそわずか26%だ」

 

 俺は答えた。

 最高速度はマッハ20といえども、初速はもっと遅い。それに、触手の本数が減れば、それだけ対応できる幅が狭まるということだ。

 殺せる確率は、飛躍的に上がるに違いない。

 

「チャンスの大きさが分かりましたね。先生を殺せるかどうか、そして百億を手に入れられるかどうかは君たち次第です。」

 

 

「A組と対決することになったぁ!?」

 

 次の朝、俺たちは頭を下げる数人に驚きの声を上げた。

 

 どうやら図書館の使用権の話から、飛んで各教科対決が決まったらしい。

 国数理社英の五教科、それぞれの点数で競い、より高い点数を取ったほうの勝ち。

 つまり最悪でも三教科でトップを取れればいいという話だが……

 

「相手はA組なんだよな?」

「ご、ごめん。勝手に決めちゃって」

 

 茅野が素直に謝る。

 神崎もいつつそういうことになったということは、売り言葉に買い言葉の応酬だったんだろうなあ。

 本校舎の生徒の権利は、E組のそれより優先されるという決まり事から発展したことは容易に想像できた。

 

 三教科勝てばいいというが、それが非常に難しい。

 A組は本校舎の中でもエリートのみがいるクラスだし、五教科それぞれにエキスパートが存在し、さらにそれ以上の完璧超人がいる。

 浅野学秀。

 あの理事長の息子であり、同年代では右に出る者がいないほど、全ての能力において突出した生徒だ。

 正直、暗殺よりも厳しい戦いになるやも。

 

「……勝負方法はわかった。で?」

「で?」

「負けたらどうなるんだ?」

「勝った側の言う命令に従う、一つだけ」

 

 一つだけ……なら大丈夫か? と思いつつも、あいつのことだしなあ。ルールの穴をすり抜けて滅茶苦茶なこと言ってきそう。

 ぐぬぬ。頭を抱える。すでに決まったことだ。A組がこれを覆すとは思えない。

 

「そう悩むことはありませんよ」

 

 いつの間にか後ろに立っていた殺せんせーが、ぽんと肩に手を置いてくる。

 

「A組に勝てるだけの実力を、すでに君たちは身につけています」

 

 中間テストの時と同じような自信のある表情だ。

 

「テストの点数で競い合う。じつに結構! 健全な殺し合いではありませんか。逆にこちらの力を見せつけてやりましょう。中間のリベンジです!」

 

 そうだ。もともと中間テストのお返しをするつもりだったのだ。

 なら、特典がついてくるほうがもらえるものが増えるぶん、得。

 殺せんせーの号令もあって、俺たちのやる気はがぜん上がった。

 

 目指すは勝利。A組をフルボッコにするくらいの大差をつけたいものだ。

 

 

「ふむふむ、いいですねえ。苦手と言っていた理科も、安定して平均以上が取れるようになってきましたね」

「どうも。殺せんせーがしっかり教えてくれるおかげですよ」

 

 本校舎にいた時は、基本のところは一度言えば理解できるだろうと言わんばかりにぱっぱと進んでしまったから、そこでちょっと躓いてしまった。

 しかし殺せんせーは基本がいかに大切かを教えてくれて、なおかつわかりやすいように具体例を出し、実際に物を見せてくれながら授業を行っている。

 おかげで授業に遅れるということはなくなった。

 

「ところで、お腹のほうはもう大丈夫ですか?」

「だいたいは」

 

 俺は腹をぽんぽんと叩く。

 堀部の触手で線を入れられた腹。ほとんど塞がって、もう少しで傷痕も目立たなくなるだろう。

 

「あの時は、君にすっかり助けられましたねえ。おかげでみんな無事です」

「堀部はあんたに執着してたからな。不意をつきやすかった。それにカルマの作戦が良かったしね」

「その前から、君の動きは素晴らしかった」

 

 その前? 俺がそう言う前に、殺せんせーは言葉を続けた。

 

「プールが決壊してすぐ、國枝くんは動いてくれました。あれがなければ、何人かもっと大変な目に遭っていたかもしれません」

「かも、ね」

 

 そうは言いつつ、たぶん誰かが死ぬようなことはなかっただろうと思う。

 シロは元々から俺たちを殺す気はなかったのだ。生徒は、生きているからこその人質。殺せんせーがギリギリで助けられるように計算していたのだ。

 

 だからと言って目の前の友達を見捨てられるわけないし、あの時は頭に血が上っていたから無理をしたけれど。

 

「國枝くん、君は……」

「おっと、もうこんな時間か。悪いけど、今日はもう帰らなきゃ」

 

 これ以上話をするのは避けたい。詮索されてもボロを出さないつもりではあったが、何気に鋭い殺せんせーのことだから気を付けないと。

 時計を見るそぶりを見せて、俺は立ち上がった。

 

「ありがとう、殺せんせー。また明日」

「……ええ、また明日」

 

 

 靴を履き替え、校舎の外に出る。

 まだ暗くなるには早い時間で、訓練をしている生徒だっていた。そいつらに別れの挨拶を告げ、帰路につく。

 本校舎なんて見向きもせず、山道を下り、道を歩く。

 

 E組の中で学校から家へ一番近いのは不破だが、俺はそれに次いで近い。電車を使う渚やカルマたちと違って、すぐついてしまう。

 それが少し嫌だった。

 あまり家にはいたくない。まあ、どうせ暗くなれば『貌なし』になって外に出るのだが。

 

「待て、國枝」

 

 家が見えてきたころ、呼ぶ声に振り向く。

 そこには、俺と同じ制服の男子が一人立っていた。無駄のない均整の取れた身体に、知性を感じさせる意志の強い目。

 

「A組のエリート様が俺に何の用だ、浅野」

 

 俺はぶっきらぼうにそう答える。

 

 彼は浅野学秀。

 特進クラスであるA組の中でも突出した能力の持ち主。文武両道を極めた、誰もが認めるエリート。

 先の中間テストどころか、過去に遡っても学年一位を取り続けている頂点の人間だ。

 あの理事長の息子でもあり……俺の元クラスメイト。

 

「A組とE組が五教科で争うことになったのは聞いたな?」

「ああ。それが?」

「そこで、僕はE組の秘密を暴く」

 

 適当にあしらうつもりだったが、その一言でようやく目を合わせた。合わせてしまった。

 

「どうもきなくさい噂が聞こえてね。人より大きい黄色いタコ、そいつが巨乳の女性にちょっかいを出したとかコンビニスウィーツを買い占めたとか……どうやらその噂が出始めたころと、理事長の様子が妙におかしくなった時期が同じようでね。何か関係があると踏んだんだ」

 

 殺せんせーの馬鹿野郎……

 彼の意地汚さと巨乳好きのせいで、一般人に目をつけられているじゃないか。

 いくらマッハ以上で動けるとはいえ、見える時は見えるし、聞こえる時は聞こえるんだから。

 

 俺が内心呆れていると、浅野は俺を指差した。

 

「それに、君のことも気になる」

「俺?」

「君がE組に落ちるきっかけとなった二年生最後の期末テスト。たしかにそれまでよりガクンと点数は下がっていた。が、あまりにも酷い急降下のしかただ。得意の国語でさえ、90点台から赤点以下になっている」

 

 俺は顔をしかめた。

 椚ヶ丘中学は各人のテストの点数が公開される。ほとんどは自分や友達の点数を気にしたりするが……浅野が俺のを調べるとは。

 

「担任が、何かの間違いだと理事長に言ったそうじゃないか。だが君は頑なに特別措置の追試も受けずに、むしろE組に落としてくれと言った……と聞いている」

「何の問題があるんだ。成績が落ちたらE組になる。それが椚ヶ丘のルールだろ。追試を蹴ったのは、どうせ本校舎に残ってもついていけなくなるから。ただそれだけの話だ」

「本当か?」

「何が言いたい」

「本当はA組でも上の方になれるのに、わざとE組になったんじゃないのか?」

 

 浅野は非常に頭が良い。それにやたらと鋭い。これに関しては、今のところカルマより上だ。

 しかし…… 

 

「証拠はあるのか、そう言えるだけの証拠が?」

 

 鼻で笑って、俺は強気に出た。

 もし確固たる証拠を掴んでいたとしたら、彼ならこんな曖昧な言い方はしない。疑問形もなしで、ずばっと決めてくる言い方になる。

 そうしてこないってことは、彼の中でも確信はないのだ。

 

「ないんだろ」

「……だが、君の口から言わせてみせる。テストに勝ち、命令してやるさ」

 

 それを言うためだけに目の前に現れたのか?

 試験前だってのに、ずいぶんと余裕らしい。こっちは誰もがやる気に満ちてるってのに。

 そんな宣言にはなんの意味もない。これ以上聞く耳はないと、俺は彼の横を通り過ぎる。

 

「勝手にしろ」 

 

 すれ違いざま、俺は言い捨てた。



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28 リベンジマッチ

 学校へ向かう道すがら、俺は緊張を静めていた。

 今日はついに決戦の日。期末テスト一日目だ。

 

 期末テストは本校舎で行われる。そうなればもちろん、道中には他クラスの生徒もちらほら見えてくる。

 じろじろと見られて心地のいいものではないが、 

 

「あ、國枝くん。おはよう」

「おはよう、不破。調子は?」

「バッチリ!」

 

 指で丸を作って、不破は笑顔で応える。

 

「俺は……まあまあだな」

「とか言って、色々な人から教えてもらってたって聞いたよ。ちゃんと仕上がってるんでしょ?」

「さあな」

 

 皮肉めいた笑みで返して、俺たちは本校舎の中に入る。

 流石にこの日は他クラスの奴らもちょっかい出してくる暇はなく、来たとしてもほんのちょっと嫌みを言ってくる程度だ。

 

「よ、國枝、不破ちゃん」

「中村、おはよう」

 

 テスト会場の教室まで近づいてきたところで、中村が声をかけてきた。

 

「本校舎の教室って久しぶり。こっちに来るってなったら、図書室とか体育館とかしか使わないしね」

「そうだな。中間テストは本校舎の先生がわざわざE組に来たからな」

「あー、緊張する……ちゃんと力出せるかな」

「大丈夫だろ。E組のほうが暑いし、こっちはクーラー効いてるぶん集中できる」

 

 余裕そうな中村に対して、不破は少し憂鬱そうな表情を浮かべた。

 

「いやでもでも、場所が変わると出来ないことあるでしょ?」

「まーねー。ここじゃ変な視線が嫌でも刺さってくるし」

「視線なんざ気にしてどうする。俺たちが気にすべきはテストだけだろ。今日と明日、それだけやってまたE」

 

「ひゅーひゅー、かっこいいねえ」

「茶化すな、まったく……英語はお前にかかってるんだぞ。相当難しくしてるって噂だ」

「だろーね。ま、やるだけやってみるよ」

 

 飄々としているが、彼女の英語力は本物だ。E組の中でも一、二を争うほどの頭の良さはA組にも負けない。

 殺せんせーに結構アドバイス貰ってたみたいだし、ビッチ先生の特別授業にも積極的に参加していた。気負いすぎてもないみたいだし、百点も夢じゃない。

 

 がらっと扉を開けると、まだ他に誰も……いや、一人だけ中にいた。だがそれはE組の誰でもない。

 細い目、ニキビ鼻で少し膨れた頬の女子。

 うかつに何か言うこともできず、俺たちは止まってしまった。

 

「律役だ」

 

 いつの間にか烏間先生が後ろに立っていた。

 

「流石に人工知能を使うことは許されなくてな。代わりに、ネット授業で律が教えた替え玉を使うことでなんとか決着した」

「替え玉?」

「直属の上司の娘さんでな。口は固い」

 

 よく見れば、その替え玉さんの髪形は律と同じにあつらえてある……あ、ヅラだ。

 少し引き気味のみんなの前に立って、俺はその女子の横に立つ。

 

「よろしく」

「よろしくダス」

 

 ダス……聞いたことない語尾……

 

「……名前は?」

(おのず)(りつ)ダス」

「あぁっと、そうじゃなくて……本名だよ」

 

 『おのずりつ』というのは、律を知らない人向けの偽名だ。

 まさか、自律思考固定砲台さんというのがE組にはいる……なんて言えないからな。

 

「……」

 

 少しばかり警戒している。

 今や国家機密を抱えているE組に、自らの名前を軽々しく教えていいのか悩んでいるのだ。

 その様子を、俺は好意的に受け取った。

 なかなか思慮深く、行動に対する結果を考える慎重さ。口が固いというのも本当みたいだ。語尾はともかくとして。

 

「……尾長仁瀬、ダス」

「よろしく。俺は國枝響」

 

 差し出した俺の手を、尾長は握って少し驚いた顔をした。

 

「……君が、あの國枝くんダスか」

「『あの』?」

「律さんからよく聞いてるダス」

 

 殺せんせーにも言って、こいつにも言ったか。良い話だといいけど……少なくとも、『貌なし』のことは話してないと確信はしている。

 話を切り上げて、俺も自分の席につく。

 夏休みをどう過ごせるかはこのテスト次第か……さあ、目のもの見せてやろうぜ。

 

 

 テスト開始の鐘が鳴り、俺たちは一気に戦場へ投げ込まれる。

 

 イメージで広げられる闘技場の中では、A組とE組、そしてモンスターと化している問題が入り乱れていた。

 右でも左でも銃弾舞い、剣戟が閃く。

 俺もその中で、二重三重に鎧プレートを重ねた三メートルの巨人と戦っていた。

 

「くそ……やっぱり理科は苦手だな」

「大丈夫ですよ! 暗記や式も多いですが、一つひとつを理解してあげれば、ちゃんと答えは出ます」

 

 奥田の声が上から聞こえてくる。

 不思議に思って見上げてみる。

 彼女は、兜を脱いでぷよぷよのスライムみたいな頭を露出させた巨人の肩に立っていた。

 

 あっけに取られて、俺も俺の相手をしていたのも唖然とする。

 

 今回の期末テストを受けるにあたって、俺は得意分野を伸ばしつつ、苦手を克服した。

 殺せんせーに教えてもらうだけでなく、理科の成績トップクラスの奥田にも授業をしてもらった。

 

 国語が苦手で、それを先生にたしなめられてからの彼女の成長っぷりは素晴らしい。

 たどたどしくしながらも、わかりやすく教えてくれた。

 

「ああ、教えてもらったとおり、やってやるよ」

 

 ずあっと、巨人の腕が伸びてくる。

 俺はそれをかわして懐に入り、足を引っかける。巨体を転ばし、頭を地面に打ちつけさせた。

 

「やりましたね、國枝さん!」

「お前のアプローチとは違うけどな。さ、次だ」

「はいっ」

 

 振り向いた瞬間、鎧の武者が刀を振り下ろした。

 

「きゃあっ」

 

 間一髪で避けた奥田を後ろに下げさせ、俺は鎧武者の腕を掴む。

 

「現代文の問題は、たいがい文章の中に答えが隠れてる。作者や登場人物の心情を答えさせる問題があるが、あくまで作ってるのはそれらとは別人だ。自分の解釈を求められてるわけじゃない」

 

 兜を引っぺがし、投げ捨てる。 

 どこに隠し持っていたか、もう一方の手がマシンガンを持っていた。

 すぐさま取り上げ、掴んでいた腕を極めてから銃身で頭を叩く。

 これで一丁上がり。

 

「これを作った先生がどういう答えを求めてるか。国語のテストは、そんな心理戦なんだよ」

「はいっ。私もしっかり挑みます!」

 

 理科を教えてもらう代わりに、彼女の苦手な国語は俺が教えている。幸いにして、そっちは俺の得意科目だ。

 

 奥田は意を決して、混迷渦巻く戦地の中心へ向かっていく。

 俺も後の問題を仕留めるために、一回だけ深呼吸をして足を進める。

 

 必死に鉛筆を動かし、時には問題に打ちのめされそうになりながら、諦めずに頭を働かせる。

 

 これは一学期の集大成。

 手酷い負けと努力で得た勝ちを経験した俺たちの集大成なのだ。

 今回ばかりは負けるわけにはいかない。



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29 勝敗の行方と

 二日の激戦を戦い抜き、期末テストが終わった。だが、まだ緊張は解かれない。

 その結果こそが、今後の俺たちの学校生活を左右するからだ。

 

「さて、採点結果が届きました」

 

 ごくり、と俺たちは唾をのむ。

 E組生徒全員の視線を一身に受け取る殺せんせーの手には、いくつかの大きい封筒があった。

 あの中に、期末テストの結果が入っている。

 

「みなさんよく頑張りましたね。どれだけ勉強してきたかちゃんと見ていましたよ。みなさんの努力。その結果は曖昧な評価でなく、点数で表れます」

「その評価、さっさと教えてくれよ殺せんせー」

「そうそう。こちとらそれを知りたくてうずうずしてるんだからさ」

 

 前置きはどうでもいい。

 勝ちか負けか、自分の点数はどれほどか、知りたいのはそれだけだ。

 

 殺せんせーもそれをわかっていて、あえて無駄なことを言ってる気がする。

 意地悪はここまで。

 

「そうですね。ならば早速、結果発表といきましょう」

 

 殺せんせーはにやりと笑って、封筒からテスト用紙を取り出した。

 

 

 主要五教科の結果発表が終わり……それを確認するなり、俺は校舎の外に出ていた。

 校舎裏の森の奥へ、奥へと進む。

 結果が悪かったからみんなと顔を合わせづらい……というわけではない。

 そう感じているのは俺ではなく……

 

「カルマ」

 

 木の陰に隠れて悔しそうに歯を食いしばっているカルマを見つけて、声をかける。

 彼はとっさに顔を逸らした。

 

「よかったね。五教科トップを取る勝負……中村が英語、奥田さんが理科、磯貝が社会でそれぞれ学年一位で勝ったじゃん」

「まるで他人事だな」

 

 A組との戦いの決着はついた。三教科を見事E組が討ち取り、勝利をおさめたのだ。

 しかし、勝ちを手に入れた中に赤羽業の名前はなかった。

 

「お前が得意の数学は浅野に一位を取られたな。かくいう俺も国語をやつに取られた。まあ、国語は俺より神崎のほうが上だったが」

 

 恐ろしいことに、浅野は数学でも国語でも100点を取った。総合では491点。もちろん学年一位。

 それに比べて、E組で唯一対抗できると思っていたカルマの総合点数は469。E組だけでも彼の上に立っている人間は五人いる。

 

「俺たちは負けたんだよ。何の役にも立てなかった」

 

 個人と、全体での勝ち負けが入り乱れて、期末テストの結果に満足しているやつは少ない。

 特にA組は納得いってない連中がほとんどだろう。あの浅野でさえ、『五教科トップ争いでE組に負けた』という事実に顔を歪ませているに違いない。

 

「俺は全力でやっても浅野には勝てない。どれだけ努力してもあいつとは差がありすぎる。だけどお前はどうだ?」

「努力しろって言いたいの?」

 

 ようやく、カルマがこちらに向き直った。頬は恥で赤くなり、目元は少し腫れている。

 彼は今回ろくな努力をしていなかった。それに関して色々と言ってやりたかったが、その気が失せた。

 

 才能があるゆえ努力なしである程度こなせるカルマにとって、同年代との勝負で決定的な敗北を味わわされたのは今回が初めてだろう。

 その証拠に、悔しさが身体いっぱいに広がっている。

 反省してるやつにはきついことを言っても逆効果……こいつには、効くかもしれんが。

 

「そんなことわかってるよ。最後に勝つのは俺。負けっぱなしは……」

「趣味じゃない、だろ」

 

 

 俺やカルマ、他のみんなが勝利・敗北で良くも悪くも取り乱した後から時間をおいて、ようやく落ち着いたところで殺せんせーがまとめにかかる。

 

「さて、皆さん素晴らしい成績でした。五教科プラス総合点の六つ中、皆さんが取れたトップは三つです。早速暗殺のほうを始めましょうか。トップの三人はどうぞご自由に」

「おい待てよタコ。五教科トップは三人じゃねーぞ」

「三人ですよ、寺坂くん。国社英理数合わせて……」

「はぁ? アホ抜かせ。五教科っつったら、国社英理……」

 

 寺坂が指折り数える。そして……

 

「あと家庭科だろ」

 

 言うと同時、寺坂をはじめ、狭間、村松、吉田の四人が家庭科のテスト結果を見せつける。

 

「家庭科ァ!?」

 

 殺せんせーがこれでもかというほど驚く。

 バツがない答案。つまり100点。もちろん学年1位だ。

 

「ちょ、待って! 家庭科のテストなんてついででしょ!? こんなのだけなに本気で100点取ってるんですか!?」

「だーれもどの五教科で、とは言ってねーだろ?」

 

 寺坂が俺たちの方へ顔を向ける。

 

 ああ、そういうことか。家庭科の過去のテスト見せろってきたから何かと思えば……

 千葉がいち早く意図に気付いて、カルマに振る。

 

「ついでとか失礼じゃね。五教科で最強の家庭科さんにさ」

 

 挑発といえばカルマ。その彼が言ったあと、俺に視線を向けた。

 

「あーあ、殺せんせーは生徒の努力を意味ないっておっしゃるわけですか」

「そ、そんなこと言ってないでしょう?」

「寺坂の言う通り、国社英理数とは言ってないし、一教科で一本とも言ってない。言い逃れできないのはわかってるだろ」

「そーだぜ、殺せんせー!」

「一番重要な家庭科さんで四人がトップ!」

「合計触手七本!」

「な、七本!?」

 

 三本くらい……と余裕ぶってた表情は消え、殺せんせーが青く染まる。

 七本となれば流石にガチで命の危機がある。

 

 しかし生徒たちの勢いに勝てるわけなく……それに、寺坂たちが勝ち取った100点に価値がないとは言えない。

 殺せんせーは渋々ながら、本当に渋々ながら、頷くしかなかった。

 

 

「おーおー、いい眺めだねえ」

「今まで俺たちを見下ろしてた奴らが、いっせいに俯いてやがる」

 

 期末テストの結果発表が終わり、残る学校のイベントは終業式だけ。

 本校舎の体育館へ向かう道すがら、もちろんA~D組が視界に入ってくるが、彼ら彼女らはこっちに目を合わせない。

 

 上位争いをして、総合点でもE組は良い点数を取った。クラスの半分以上が学年50位以内。見下される謂れは一切ない。

 そのおかげで堂々と闊歩することができた。

 

 ……と思っていたら、唯一俺たちを下に見ることができる浅野のご登場だ。

 しかし、彼は他の五英傑を引き連れて、俺たちには見向きもせずに去っていこうとする。

 まあ、浅野自身も五教科トップ対決では負けてるしな。彼の性格上、悔しさが胸を満たしていることだろう。

 

 とはいえ逃がすわけにはいかない。E組にはまだ用事がある。

 

「浅野」

 

 磯貝がA組の進行を止める。

 

「負けたほうが勝ったほうの要求を一つのむ。そういう賭けだったよな」

「……」

「要求はさっきメールしたけど、あれで構わないな?」

「……悔しいが、負けは負けとしてちゃんと認めるさ」

 

 眉間にしわを寄せ、居心地悪そうにする浅野。

 

「ちゃんと答えろ。特別夏期講習を受ける権利を俺たちに渡せ」

 

 俺は念を押す。

 約束を反故にすることはしない男だが、他の奴らは知らん。ここで取り決めを確認し、浅野の口からはっきりと言わせれば誰からも文句はなくなる。

 他のクラスの目もあるから、下手なことは言えない。

 

「……ああ、理事長にも話は通してある。沖縄での二泊三日夏期講習、君たちのものだ」

 

 それを聞くと、E組のみんなはにんまりとした。

 

(れん)、みんなを連れて先に行ってくれ」

「あ、ああ」

 

 五英傑の一人、榊原(さかきばら)蓮が頷いて従う。連れられて、E組も移動を再開する。

 さて俺も、と向きを変えようとした瞬間、肩が掴まれた。

 

 浅野が俺を睨みながら、制服越しにもわかるくらい強く止めてきたのだ。

 

「残念だったな。俺たちに命令を下せなくて。総合点数トップを取る勝負ならそっちが勝ってただろうに」

 

 A組もE組もいなくなったところで、俺は切り出す。

 

「本校舎に戻ってこないか、國枝」

 

 浅野はいきなりそんなことを言い出した。

 冗談でないことは、目を見れば一発でわかった。そもそも、そんな下らないジョークを言う奴じゃない。

 

「断る」

「……即答か」

「テストで50位以内だったら本校舎復帰の権利が与えられる。だったら、俺よりもっとふさわしい奴がいるだろ。教科トップを取ったのは俺じゃないしな」

「例えば?」

「中間でも期末でも50位以内だったカルマとか」

「理事長が訊いたそうだが、赤羽は本校舎に戻る気はないらしい」

 

 だろうな。

 先生を暗殺することができる、なんて教室は全国……全世界探してもここしかない。カルマにとっちゃオマケ程度だが、百億円も手に入れられるチャンスだしな。

 

「戻る気がある・ないで判断するなら、俺の意思もわかってるだろ」

 

 即答したくらいだぞ。

 

「なんで俺を戻そうとするんだ?」

 

「必要だからだ」

「駒として、だろ。それか、前に言ってた……E組や俺自身の隠し事を訊きたいのか?」

 

 問い詰めようと距離を縮めてくる浅野を押し返す。

 

「仮に、俺がとぼけてたとして、何かを隠していたとしよう。それでも、お前に問い詰める権限はない」

 

 元々、勝利して俺たちを糾弾するつもりだったんだろうが、負けてしまったA組には何の権利もない。

 それこそが今回の勝負のルールだ。

 

 浅野はわずかに顔を歪ませて、何も言わずに去っていった。

 

「ずいぶん強気な物言いだったね」

 

 声に振り向く。

 立花風子だ。

 今度はこいつか……

 

「見てたのか」

「一学期最後の挨拶をしようとしたら、真面目そうな話してるんだもん。入るタイミング逃しちゃった」

 

 にひひ、と彼女は歯を見せて笑う。

 

「わざわざ学秀くんからのお誘いなのに、蹴っちゃうなんてもったいない」

「あいつにも言ったが、俺より点数が良いやつならいる。A組に勧誘するなら、そっちを引き抜けばいい」

「答えになってないよ」

 

 不意になぜか俺の頭が危険信号を放った。

 鋭いナイフのように冷ややかで研ぎ澄まされたような彼女の言い方が、いやに心に響く。

 

「他の誰かのほうが成績が良い。それはけっこうなことだけどね。でも、キミが本校舎に戻ってこない理由にはならないでしょ? いつもの学秀くんなら、微妙に論点ずらされたことに気づいたはずだけどね。ちょっと冷静じゃなかったかな」

 

 立花はこういったような、鋭い時がある。まるで人や物の本質を見抜いているような時が。

 彼女のクラスメイトでさえ、その面を見たことがある者は少数だろう。もしみんなが知っていたら、こんな冷たくて濁った目をした奴には近づきたくないと思うはずだ。

 俺は、それが彼女の一面でしかないとわかっているから構わずに接しているが。

 それに、人に言えない裏面を持っている俺が、他人の二面性に対してとやかく言えたもんじゃない。

 

「なんだ、お前も真実がどうとか隠し事がどうとかいうクチか?」

「ううん、別にどうでもいいや。それより、沖縄に二泊三日でしょ? いいなあ、私も行きたかった!」

 

 少しピリついていた空気が、一瞬で霧散する。

 

「B組はどうせ行けないってわかってたけど、羨ましいなあ。夏休みにタダ旅行なんて、最高の思い出になるじゃん」

「それは……まあそうだな。E組もそれ目指して頑張ってたわけだし」

 

 思い出……か。

 沖縄で暗殺作戦を遂行することばかり考えていたせいで、そこまで頭が回らなかった。

 

 そうだよな。旅行っていったら、普通は思い出をたくさん作るもんだよな。

 

「ね、お土産よろしくね、響くん!」

「覚えてたらな」

「毎日メール送ってやろっと」

「わかったわかった。ちゃんと覚えて買ってくるよ」

「やったー!」

 

 腕を上げて喜ぶ立花に、俺はため息をついた。



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30 なんでもない距離

 夏休みに入ったというのに、E組は変わらず登校している。

 殺せんせーの特別講義もあるし、夏合宿の大規模作戦に向けて、各々が暗殺の腕を磨いておく必要があるからだ。

 ただし、そのどちらも強制参加ではない。来たいやつが来たい日に来れる……のだが、ほとんどが毎日顔を見せる。

 それがわかるということは、もちろん俺も毎日登校しているのだ。暗殺の訓練はしていないが、作戦の立案にかなりの時間がかかる。

 なにせ全員が協力しての、知らない土地での暗殺だ。実行部隊も交えての作戦会議は難航していた。一歩ずつ一歩ずつ詰めていくしかないのだ。

 

 加えて、懸念事項はまだある。

 期末テストの勉強中は、みんな忙しくて外に出てる暇がなかった。だから俺もそう遅くまで街を見張る必要はなかった。

 解放された今は違う。

 三村や岡島は夜の校舎で好き勝手するし、時間ギリギリまでカラオケなりゲーセンを楽しむ奴もいるし、目が足りない。

 

 それに、堀部のこともある。

 ずっと実験台にされてるわけでもないだろうと、その姿を捉えるために毎日探しているが、見つからない。

 手がかりすらないのだ。律にも調べてもらっているが、堀部イトナという名前だけではあまりにも情報が少ない。

 

「はあ……」

「大丈夫ですか、國枝さん?」

 

 教室から外に出て、日差しを受けながらグラウンドを見る。射撃やナイフの特訓をする者、息抜きに遊ぶのもいる中で、俺だけは木陰に身を下ろして休んでいた。

 漏れてしまったため息を聞かれ、スマホから律が話しかけてくる。

 

「ああ。ただ、ちょっと疲れただけだ」

 

 心身共に休まる時間が少ない。

 それでも気を張るのはやめられない。急な襲撃も想定して構えるしかないのだ。

 

 深く息を吐いて、スマホを地面に置く。

 

「あれのことは? あの……『レッドライン』のことは」

 

 『レッドライン』というのは、堀部が初めてE組に顔を見せた夜に出会った謎の人物だ。

 赤い線の入ったレインスーツを着ていたそいつは、俺よりも前に街を徘徊しては人に危害を加えていたらしい。

 ニュースでは、いまこの『レッドライン』と『貌なし』、そしてもう一人『蟷螂』と呼ばれる犯罪者が世間を賑わせていた。

 といっても『蟷螂』は今年度に入ってから姿を見せず、『レッドライン』も俺と対峙して以降は現れなくなったらしい。

 

「いえ、どの監視カメラをハッキングしてもいません。警察にも通報はいっていないようです」

「そうか」

 

 よかった、と言っていいだろう。

 『貌なし』が邪魔したことで諦めたか、なんにしろ二度と現れなければそれで万々歳。俺の苦労も減る。

 

「そのぶん、國枝さんが……『貌なし』がマークされています。気を付けてくださいね」

「ああ、わかってる」

 

 夏休みに入ってからは特に、警察がうろうろしているのを見かける。

 『貌なし』一式は鞄に入れてあるから、検査されない限りはバレることはない。

 警察は『貌なし』を中学生とは思ってないから、俺が見咎められることは一切なかった。

 

「その……」

「なんだ?」

「本当に、続けるつもりですか? やめるつもりはありませんか? 私にしてくれたように、堀部イトナさんのことも気にしているのはわかっていますが、私は國枝さんのことが心配です。ずっと休みなしじゃないですか」

「それについては何度も話し合っただろ。やめるのは無理だ」

 

 修学旅行の誘拐騒ぎやプールでの堀部襲撃を筆頭に、危険が多すぎる。

 殺せんせーを暗殺できていない以上、さらなる脅威が押し寄せてくる可能性は多分にある。

 そんな時に必要なのは『貌なし』だ。一人で素早く、何にも縛られることのない存在が必要なのだ。

 

「俺のことは心配いらない。律はみんなを見張っててくれ。どこでどんな相手が来るかわからないんだから」

「……はい」

 

 納得させて、会話を打ち切る。何度も言い合ってきて、結局はこの結果に落ちつく。

 一人が犠牲になるか多数が傷つくか。そう考えればどちらを選ぶべきかは小学生にだってわかる。

 なにもかもが解決する代替案が出ない限りは続けるしかないのだ。

 

 それに動きっぱなしってわけでもない。

 こうやって暗殺の訓練に励んでいる時は、やる気のない素振りを見せてさぼっているわけだし。

 

 そうやって休憩しながら、辺りを見渡してみる。目当ての人物はいない。

 

「今日も来てないか……」

 

 一学期が終了してから、カルマを見ていない。

 別に行方不明というわけではない。ただたんに学校に来ていないだけだ。

 連絡をすれば返してくれるし、アドバイスを求めれば応えてくれる。だがどうもずっと家にいるみたいだ。

 

「カルマくんのことが心配ですか?」

 

 いつの間にか横に並んでいた殺せんせーが言う。

 

「いいや。負けてそのまま折れるような奴じゃないよ、あいつは」

 

 期末テストではいいとこなしだったが、それで終わるわけがない。

 引きこもっているのだって、凹んでいるのではなく、勉強漬けになっているからだろう。

 今回の夏合宿作戦のメインから外してくれと言うくらいには本気だ。

 

「次こそは全員50位以内を目指せそうですねえ」

 

 暗殺訓練に励む生徒を満足げに眺めながら、彼はうんうん頷く。

 本当に喜んでいるような目だ。あくまで人間基準だが。

 

「どうしてそこまでE組のためにしようとするんですか?」

 

 最初に聞いておくべきだったことを質問する。

 

「不可解だ。教師になっていることもそうだし、殺されることそのものを望んでるわけでもなさそうだし、あんたは一体何のためにここに来たんだ?」

 

 今ではすっかり馴染んでいるから忘れそうだが、こいつの出自も目的も不明なのだ。

 音速を超えて飛べる生物が、一つの中学校の教員に収まっている意味がわからない。

 

 すると、やはり彼は不気味に笑った。

 

「ヌルフフフ。殺せたら教えてあげますよ」

「殺したら聞けないだろうが」

 

 つまり、教える気はないということか。

 だろうな。言うつもりがあるなら、今までチャンスはいくらでもあった。それでもひた隠すのはそれなりの理由があって、公にしたくないからだ。

 

「それよりも……君のことを聞かせてください」

 

 彼は声を落とした。

 

「本当はもっと速く動けることができて、もっと強いはずでしょう?」

「どうしてそう思う」

「教師というのは、ちゃんと生徒のことを見ているものですよ」

 

 表情は変えず、顔だけ近づけて確信めいた声色で言う。

 

「筋肉のつきや姿勢は良く、ただしぎこちない体捌きが不思議です。まるで手加減をしているみたいに」

「不思議ですか? 鍛えてはいますが、あくまで力仕事を任されてもいいように、ですよ」

「そんな言葉では騙されません。烏間先生も気づいています。何かあるのだろうと探りはしませんでしたが……」

「いまさらになって訊こうと?」

「いえ。ただ少し提案をしたいだけです」

 

 実力を隠している理由は置いておくらしい。

 自分は隠しているのに、俺に訊くのはフェアじゃないと感じたのだろう。

 

「君がよく動けると知っていたら、みんなの立てる作戦に幅が広がるかもしれませんよ」

「俺がいなくても変わりませんよ」

「いえいえ。一人いるだけで、物事は変わります。君が思っているよりもずっとね」

「良くも悪くも、だろ。悪くなるくらいなら……」

「いいえ。君がいれば、きっとこのクラスは良くなります」

 

 殺せんせーは否定ばかりで返してくる。俺のことを認めてくれているという意味なら肯定と言ったほうが正しいが。

 

「中間テスト、律さんのことや、プールの事件、球技大会……他にも、君が助けとなったことはたくさんあります。私だけでなく、烏間先生も君のことは大いに評価してますよ」

 

 大いに評価……か。

 そんなものに対して、俺は少しの感動も覚えなかった。

 俺が褒められたところで迫りくる脅威は去ってくれるか? いいや、恐怖はそんなこと関係なく、音もなくやってくる。

 

「どうも、ありがとうございます」

 

 なんの感情もこもっていない言葉を、俺は返した。



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31 サイレントノイズ

「島だー!」

 

 船の上から、みんなが叫ぶ。

 

 あと二十分近くで着くであろうところ、今回の暗殺場である普久間島。

 努力の末に勝ち取ったリゾート地を目の前にして、否応にもテンションが上がる。

 

 とはいえ、我を忘れて遊び惚けるけるわけにはいかない。

 作戦立案組は来て早々、出迎えてくれたスタッフのウェルカムドリンクも早々に飲み干して、一つの部屋に集まってから用意していた計画の修正に入る。

 事前に決めておいたものの、狙撃箇所はあそこのほうがいいだの、本番まで誰がどう動くかだの、実際にここに来てから細かく調整を入れる必要があるのだ。

 

「殺せんせーは?」

「倉橋と矢田が誘って、みんなと遊ぶように誘導してるよ」

 

 おおよその方向性が固まり、磯貝が各自に連絡を飛ばす。

 もちろん準備段階から暗殺の内容を悟られちゃいけない。遊んでいるように見えて、陽動組は殺せんせーの目を逸らしているのだ。

 

 今回は、今までにないくらいの大掛かりな作戦。今から用意しておかないと間に合わない。

 すでに菅谷と三村はこもりっきりで作業している。

 

 一通り話し合ったところで、俺はこの島の外周をぐるりと回ることにした。

 危険がないか、あるいは何か使えるものがないかを探すためだ。そういう名目のもと、水着にならず、肌を晒すのを避けるためでもある。

 

 空を見上げると、ハングライダーが飛び交っていた。

 矢田と木村、磯貝と前原、片岡と岡野それぞれのコンビが倉橋が操るハングライダーに張り付く殺せんせーへ射撃を行っている。

 あいつら、初めてなのによくあんな上手く動かせるな……

 

 浜辺に足跡を残しながら、てくてくと歩く。太陽の光を反射して、海が輝いていた。

 いいところだ。A組に勝ったことを実感するには、極上の場所。

 

 だが、この島にはきな臭い噂もあると聞く。

 俺たちの泊まるのとは少し離れた別のホテル。そこにはなにやら悪い連中が集まるとかなんとか。

 

「國枝」

 

 俺を呼ぶ声に振り向くと、そこには目が隠れるくらい前髪を伸ばした男子がいた。

 千葉だ。

 速水と並んでE組の狙撃の名手である彼は、良いポイントを探すために一足早く目的地に向かっていたはずだが……

 

「國枝、泳がないのか?」

 

 千葉が遠くに見えるみんなを指差す。

 殺せんせーの注意を逸らすために、普通に遊んでいるふりをしているのもいる。

 岡島なんかは一眼レフのカメラを携えて、だらしない顔を晒しながらシャッターを押していた。

 

「泳ぐのは苦手。千葉こそ、狙撃ポイントはしっかり見つけてきたのか?」

「ばっちり。ほら、速水だって戻ってきてるだろ?」

 

 たしかに、今や速水も海に身体を浮かべていた。

 

 俺が泳がないのは、プールの時と同じ理由。たくさんの怪我を見せないためだ。

 もちろん正直に言うはずもなく、俺は誤魔化した。

 

「だったら、お前も遊んできたらいい。あと残ってる仕事は、三村と菅谷がやってる動画編集くらいだからな」

「國枝は?」

「散策」

「ついていってもいいか?」

「断る理由はないけど……面白いものでもないぞ?」

 

 わかってる。そう言って頷いて、千葉は俺の横に並んだ。

 彼は口数が少ないほうだ。カルマみたいに探ってくる会話をしてくるような奴じゃない。

 何も言わず、きっちりと仕事をこなす。

 その性格はどうやって形成されたのか、少しだけ興味があった。

 

 賑やかなE組の中では、多少やかましく育ってもなんら不思議ではない。となればおそらく親の影響なのだろうと思う。

 放置気味か、それとも逆に口うるさいか。

 おそらく後者だろう。したいことを口に出しても、否定され、敷かれたレールを歩かされるように矯正される。

 いつしか抵抗しなくなり、やることをやるだけ。

 親はきっと、何を考えているかわからないと言っているだろう。それを作ったのは自分なのに。

 ちゃんと見れば、割と情熱的で、感情豊かだと感じられるのに、表層的な部分だけを見て判断する。

 

 ……なんて、妄想が過ぎるかな。

 だが、親の影響は少なからずあるだろう。千葉も速水も……俺も。

 

 

『ねえ、お母さんは?』

 

 小学校の校門の前。

 卒業式だと知らせる看板が立てられてあって、その横には同級生とおめかししたその両親がいる。

 その前に立つ誰かがカメラを構えて写真を撮った。

 一生に一度の日に、記念の姿を残している。

 そのことがたまらなく羨ましかった。

 

 ――来てないんだ。お母さんもお父さんも忙しいから。

 

 俺に問うてきた先生に答えた。すると先生は悲し気な顔をした。

 

 ――仕方ないよ。忙しいから。

 

 自分に言い聞かせるように、俺はもう一度言う。

 俯いたら涙が流れそうで、先生の顔を見上げた。同情するような表情が嫌だったけれど、弱さを見せるのはもっと嫌だった。

 泣きわめいたら、先生が困る。周りも困る。親はそれを聞いて鬱陶しがる。それだけはどうしても避けたかった。

 

 ――大丈夫。今日は早く帰ってくるって言ってた。

 

 だから寂しくないよ、と無理に笑顔を作る。

 晴れの日に一人でいても、家では一人じゃない。だからそれまでは耐えなきゃいけないんだ。

 きっと祝ってくれる。お母さんもお父さんもきっとおめでとうって言ってくれるよ。

 

『そう……じゃあ、写真だけでも撮る?』

 

 その申し出に、俺は頷いた。

 一人で撮って、友達とも撮って、先生も混じって……

 その写真を、先生は後日すぐに現像して渡してくれた。楽しそうに笑う周りに、ぎこちない笑みを浮かべる俺。

 だけど、もちろんどの写真にも俺の両親は写っていなかった。

 一人。俺は独り。たった独りで……

 

 

「國枝」

 

 俺を呼ぶ声で覚醒する。

 いつの間にかぼうっとしていたようだ。

 潮風が心地よいのに、じとっとした嫌な汗がシャツをへばりつかせている。

 

「あ、ああ。どうした?」

「いや、急に黙りこくるから、気分でも悪いのかと思って」

「船酔いしたかな。戻って、少し休むか」

 

 賑やかなのを避けたいくせに、静かになると嫌な気分になる。

 そんなどうしようもない俺自身にもやもやを感じながら、なるべく隠して答える。

 だけど、千葉は見透かしたように俺の目をじっと見ている。

 

「大丈夫か?」

 

 大丈夫と返そうとしたが、嫌な夢を見たせいですぐには答えられなかった。

 代わりに去来したのは、胸に穴が空いたような空虚。押し寄せ、引いていく波のように、心を小さく削っていく。

 

「なあ……」

 

 親ってなんなんだろうな。言いかけて、口を閉じる。

 急にそんなこと訊いてどうする。

 千葉は今回の暗殺において、重要な役割を担っているのだ。俺の変な話に付き合わせている暇はない。

 

 俺は心配をかけないように口角を上げた。

 

「いや、なんでもない。戻ろうか」

 

 彼とともにホテルの前まで戻ると、俺たちE組以外はホテルのスタッフが数人いる程度。

 烏間先生の力で、すでに他の客は追い出されている。これで、暗殺に邪魔は入らないということだ。

 

「いよいよ近づいてきたな……最終確認だけしておくか。千葉も手はず通りに準備しておいてくれ」

「ああ。速水にも伝えておくよ」

 

 すぐさま取り掛かる千葉には頭が下がる。

 何もかもを言わなくても、持ち場についていく彼を見送る。

 

 代わりに杉野がやってきた。

 

「もうちょっとで暗殺計画始動だな」

「ああ。全員で協力しての暗殺ってのは、初めてだな」

「そんで、これが最後だ」

「そうなってくれたらいいけどな」

 

 計算通りなら、殺せんせーを殺せる。

 俺たちは脅威から解き放たれて、俺の心配事は幾分か減る。

 その後は……その、後は……

 

「どうしたんだよ、國枝。ぼーっとして」

「いや、なんだか……」

 

 少し、いつもと何かが違う気がした。

 みんなのうち何人かの調子が悪くなっているようで……

 

「疲れてないか、杉野。他のみんなも何人か、作戦の割には疲弊してるみたいだな」

「ん、ああ。慣れないとこだし、暑いし、緊張もしてるしな」

「本当にそれだけか?」

 

 言いつつ、違和感の正体が掴めなかった。

 船、沖縄、作戦準備。いつもより変わって当然なのに、それとは違う何かがあるような気がして……

 

「それだけって……それ以外に何があるんだよ? むしろ、お前のほうが顔色悪いぞ」

「飯食ってないせいだ。すぐよくなる」

 

 全部終われば、何も心配はなくなる。

 

 ……本当にそうか?

 

 湧いて出た疑問を振り払って、俺は前を向く。

 

「始めよう」



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32 みんなで紡いだ一発

「いやあ、遊んだ遊んだ。おかげで真っ黒に焼けました」

「黒すぎだろ!」

 

 全員のツッコミが響く。

 日中の時間を全て遊びに費やした殺せんせーの皮膚は真っ黒になっていた。

 焼けているとかそんなのを通り越して、黒一色。服着てなかったらどっちが前か後ろかわからないくらいに。

 

「じゃ、メシの後で暗殺なんで」

 

 作戦指揮官である磯貝が殺せんせーを先導する。

 その先は船上レストラン。もちろん俺たちが貸し切っている。邪魔は入らない。

 

「な、なるほどねえ。ゆっくり酔わせてたっぷり戦力を削ろうってわけですか。ですがそう上手くいくでしょうか。暗殺を前に気合の乗った先生にとって、船酔いなど恐れるに……」

「黒いわ!」

 

 またしてもみんなでツッコむ。

 

「そ、そんなに焼けてますか?」

「文字通り真っ黒だ。それは焼けてるとは言わない。焦げてる」

「とにかく、それどうにかしてくださいよ。真剣になろうとしてるのに、気が抜けちまう」

「ヌルフフ。お忘れですか、みなさん」

 

 そう言うと、殺せんせーは自分の外皮を脱ぎ捨てて、抜け殻をぽいと置いた。

 

「あ、月一回の脱皮だ」

「こんな使い方もあるんですよ。本来はやばい時の奥の手ですが……」

 

 そこまで説明して、殺せんせーはハッと気づく。

 あの皮は至近距離の爆発でさえも防ぐほど、耐衝撃性に優れている。殺せんせーのスピードも合わせて、変わり身の術のように囮にすることもできる。

 それをこんな、日焼けした皮を剥くためだけに使うとは……

 

「期せずして、戦力大幅ダウンだな。脱皮時にも体力減るんだろ?」

「まあ、心配事が一つ減ってよかったよ」

「こんなドジなのに、なんで今まで殺せてないんだか」

 

 しまったという後悔と恥ずかしさで顔を伏せる殺せんせーを尻目に、俺たちは呆れる。

 普段の学校生活でも、殺せんせーは何かとミスをする。

 だが今回のミスは文字通り命取り。作戦成功率がぐんと上がった。

 これで殺せんせーを……殺せる。

 

 そうだ。殺せんせーを殺す。

 

 だが直接手を下すのは俺じゃない。自分に言い聞かせて、酔いとともに責めてくる気持ち悪さに蓋をする。

 

「ほんとによろよろだな。予定よりも上手くいくかもな」

 

 菅谷が話しかけてきたことで、言いようのない不気味な感じから目を背けた。

 揺れる船の中で美味い食事をばくばく食ったせいで、殺せんせーは今にも吐きそうなほど衰弱していた。

 日焼けのない面になってくれたおかげで、どれだけ弱っているか目に見えてわかる。

 

「油断するなよ。こんな隙だらけな奴でも、今まで殺せてないんだから」

 

 ああ、と菅谷は頷いた。

 こんなところで油断するほどE組は甘くはない。

 

 

 弱り切った殺せんせーに休む間を与えず、俺たちは次の舞台を案内する。

 船着き場の近く、ホテルの離れにある木造の小屋。周りは殺せんせーの苦手な海でいっぱい。

 中は全員が入れるほど広く、いくつかベンチがある。すでに準備をしていた岡島と三村が大きいモニターの前に立っていた。

 

「さて、いよいよだぜ殺せんせー。まずは、ゆっくり映画鑑賞から始めようぜ」

 

 にやり、と岡島が笑う。

 

 この後の流れは、磯貝が説明した。

 

 まず、この島についてから三村がずっと編集していた動画を見てもらい、それが終われば触手を破壊、暗殺がスタートする。

 

「それでいいですね、殺せんせー?」

「ヌルフフフ、上等です」

 

 渚がボディチェックをして、モニターに一番近いベンチに座らせる。

 岡島が照明を消し、それを合図にぱっとモニターが点く。

 

 この瞬間、俺たちの緊張が一気に増した。

 動画が終われば一分以内に決着がつく。ぴりつくのも当然。

 かといって、心が浮いたままでじっとしてるわけにもいかない。作戦はこの間にも進んでいるのだ。

 

 動画が流れている間、ほぼ全員が小屋の中を出たり入ったりする。

 

 殺せんせーにあらゆるヒントを与えるためだ。

 動けば匂いや気配、木の床がきしむことによる音で体重もわかる。殺せんせーならきっと把握してくるはず。

 それが後の布石になるのだ。

 

 そしてもちろん動画も殺せんせーを弱らせる仕掛けだ。

 

《まずはご覧いただこう。我々の担任の恥ずべき姿を》

 

 モニターに映ったのは、正座してエロ本を読む殺せんせーだ。

 

「違っ、ちょ、岡島君たち! みんなに言うなとあれほど……!」

 

 面白いくらいに、殺せんせーがあたふたとする。

 

 夏休みはじめの日、岡島はエロ本で殺せんせーを釣ろうとしていたらしい。彼らしいやり方だ。

 渚や杉野、前原や倉橋もその現場を見て、アイス一本を口止め料として貰ったらしいが……まあ安すぎる。

 ケチった代償はここ、全生徒にあられもない姿を晒されて払わされた。

 

 その後も思わず笑みがこぼれてしまうほどの醜態が次々と暴かれる。

 女装してケーキバイキングに並ぶとか、マッハの残像を駆使して配られているティッシュを何回も貰うだとか。あげくにはそのティッシュを揚げて食うだとか。

 時間が進むほど、殺せんせーのきゃーきゃー言う声は大きく、身悶えが激しくなる。

 

 うーん、こういう時でなければじっくり見ておきたいほどの完成度。

 三村は積極的に主張する性格ではないが、こういうセンスは抜群なのだ。

 

 三村が俺に合図を送ってくる。あと十分ほどで動画が終わるのだ。

 俺はゆっくりと親指を立てた。

 後ろにいるみんなが、明確な目的をもって動き出す。

 

「死んだ……もう先生死にました。あんなの知られてもう生きていけません」

 

 この頃には殺せんせーがもう死んでるんじゃないかと思うほどぐったりとしていて、息も絶え絶えに椅子の背もたれに身体を預けていた。

 

《さて、秘蔵映像にお付き合いいただいたが、何かお気づきでないだろうか、殺せんせー?》

 

 ナレーションの三村の声が告げる。

 

 ここでようやく、殺せんせーはバッと足元を見た。

 いつの間にか床が浸水していて、触手が水を吸って膨らんでいた。

 

 実は、ここの小屋の支柱をある程度短くしておいて、満潮になれば浸水するようにしておいたのだ。

 辱めを受けた殺せんせーは言われるまで気付かず、ますます力を奪われた。

 

「弱り切ってんなー。だけど、本番はここからだぜ」

「約束だ。逃げんなよ」

 

 触手破壊の権利を与えられた七人が、ゆっくりと銃を構える。

 緊張がピークに達する。

 

 七人が同時に引き金を引いた。

 殺せんせーの触手は破壊され、殺せんせーは上を見上げた。

 どれだけ弱体化しようが、とてつもないスピードで動けるのは確か。周りが俺たちに囲まれているなら、天井を突き破って逃げようとでもしているのだろう。

 

 だが先手はこちら。

 殺せんせーの見ていた天井が星空に変わる。小屋の壁と天井が外れ、海に沈んだのだ。

 これももちろん俺たちが仕込んだ仕掛け。

 

 殺せんせーが狼狽するが、驚くにはまだ早い。

 

 木村、片岡、岡野……水面から次々と生徒が現れ、宙に浮かぶ。

 

 海からボードの中心へ伸びるホースから水を吸い込み、ボードの両端から噴射することで空を飛ぶウォーターアクティビティの一つ。

 九人がある程度上昇したところで、殺せんせーの真上で肩を合わせる。

 噴射された水は対象の周りを囲うようにしてドームを形成する。

 それ以外にも、何人かは大きなホースから放たれる水でさらに外を取り囲む。

 

 この水圧の中では、飛んで逃げるなんてことはできない。加えてさらに……水檻を作っていないメンバーは銃を撃つ。

 檻のわずかな隙間を縫って、()()()()()()()

 

 殺意のこもった当たる弾に敏感な殺せんせーだが、それ以外には鈍感だ。さらに、環境の急激な変化にはついていけない。

 それはプール爆破事件の時に見えた弱点。

 銃弾と水が、殺せんせーの逃げ場をふさぎ、動くことを許さない。

 

 そしてトドメは、射撃能力に優れた千葉と速水が務める。

 二人が現れたのは、殺せんせーが注意しているであろう山の中でなく、水の中から。

 

 動画を見ていた時に殺せんせーは気付いただろう。千葉と速水がその場にいないことを。

 彼の嗅覚をもってすれば、そう確信することは当然。

 そしてその嗅覚がどれだけ遠くまでを感じられるかわからないが、おそらく山にいるはずの二人の匂いも嗅ぎ取った。だがそこにあるのは二人の服を着せたダミーで、本物は暗殺対象から三十メートルもない距離にいる。

 

 二人ならその距離は絶対に外さない距離。

 予想以上のスピーディさで状況を作り出し、殺せんせーが慣れないうちにスナイパーが出現。

 これで殺せる。文句なしに殺せるはずだ。

 

 全てを外から見ていた俺の意識が急速に加速する。みんなの動きが緩慢に見える。

 

 殺せんせーは千葉にも速水にも気が付いていない。その背中に僅かな間が生まれる。狙撃のための隙間。

 そこを狙って、狙撃手が銃口を向ける。そして……引き金を引いた。

 

 ずれがない完璧な射撃。

 

 これなら届く。届くはずだ。

 銃弾はまっすぐ殺せんせーへ向かい……

 

 当たったと思った瞬間、爆発が起きた。

 

 爆風が空気と水を勢いよく押し出し、俺たちはそれに吹き飛ばされる。

 それぞれ地面と水面に叩きつけられたが、すぐさま姿勢を戻した。

 まだ終わってない。殺せんせーが見えなくなったが、死んだとも限らないのだ。

 

 片岡が先導して、爆心地を中心にしてあたりを探す。

 地上班は銃を構え、何が現れてもすぐ射撃できるように引き金に指をかける。

 

「おい、國枝! お前も探せ!」

 

 寺坂が叫ぶが、俺は動かない。動く意味がないというほうが正しいか。

 

「國枝くん! これほどのチャンスはない。しっかりと水中を……」

 

 烏間先生の言葉が止まった。

 俺の考えてることを、表情から察したのだろう。

 

「まさか……」

「失敗だ」

 

 俺は震える拳を握った。



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33 感染

 ざばざばと、みんなが波を立てて殺せんせーを探す。

 

 何も見つからないか、もしくは殺せんせーの死骸があればいい。

 だが、どちらでもない。

 千葉と速水の銃弾は殺せんせーに届いた。届いたが、命を奪えはしなかったのだ。

 

 倉橋のすぐ近くで、ぶくぶくと水泡が立つ。

 それが殺せんせーのいるところだと、みんなが気付いた。水泡が出る範囲や小ささから、死んでなくても無事じゃないとわかった。

 いや、無事というかなんというか……とにかく、全員で銃口を向ける。

 そして、水面に上がってきたのは……

 

 拳より大きいくらいの透明の球体に入った、オレンジの球体だった。オレンジのは、小さくなった殺せんせーの顔だ。

 

「な、なんだあれ……」

 

 誰もが呟いた。

 

「これぞ先生の奥の手中の奥の手。完全防御形態!」

 

 沈黙の中で、殺せんせーが答える。

 彼曰く、覆われている透明の部分は凝縮されたエネルギーの塊で、水も対殺せんせー弾も効かないそうだ。

 

「……そんな。それじゃ、その形態でいたらずっと殺せないじゃん」

「ところがそう上手くはいきません。このエネルギー結晶は、二十四時間ほどで自然崩壊します。その瞬間に先生は肉体を膨らませ、エネルギーを吸収して元の身体に戻るわけです」

 

 つまり、それまでの二十四時間は身動きできず、球体のままでいるしかない……ということだ。

 とんでもない隠し技。もちろんそれを知らない俺たちは、考慮することもできなかった。

 完璧にしてやられた。

 

「ちっ、何とかすりゃ壊せんだろ、こんなモン」

「ヌルフフフ、無駄ですねえ。核爆弾でも傷一つつきませんよ」

 

 寺坂がレンチで何度もたたくが、凹みもしない。

 代わりに、カルマが殺せんせーを取り上げた。

 

「ふーん、弱点ないなら打つ手ないね」

 

 言いながら、彼は自分のスマホの画面を殺せんせーに向けた。

 

「にゅやーーーーッ!」

 

 ちらりと見ると、先ほどの三村編集動画を見せていた。

 文字通り手も足も出ない今じゃ、動画の再生は防げず、自分の目も耳も塞げない。

 拷問ですよ、拷問。

 

「腹いせに馬鹿やるなよ……周りを水や対殺せんせー物質で満たしたらどうなる?」

「その場合はエネルギーの一部を爆散させて、周囲を吹き飛ばします」

 

 ってことは、爆発エネルギーを耐えうるもので周りを固めるか、爆発させないかだが……

 

「とりあえず解散だ。上層部と、こいつの処分法を検討する」

 

 今度は烏間先生が殺せんせーを掴んだ。

 作戦が無に帰した今、俺たちに出来ることはない。大人しくお偉方に任せるしかない。

 

「どうにか出来ますか?」

「出来る方法があったとして、それを二十四時間以内に出来るかは……」

 

 烏間先生は口を噤んだ。

 

 無理だ。

 考えて実行するには、二十四時間はあまりにも短い。

 ミサイルや銃、アサシンのゴリ押しでどうにかしようとしている上の人が良い考えを出せるとは思えん。

 

「とにかく休め」

 

 

 暗殺が失敗に終わり、みんな目に見えて意気消沈していた。

 無理もない。全員が協力して、力の限りを尽くした作戦だったのだ。あの場にいた誰もが、殺せんせーが球状になる直前まで成功を確信していた。

 絶好のロケーションはここ以外にそうそうない。これ以上の暗殺は難しい。

 

 もう遅い時間になったが、誰もが各自の部屋に戻れず、ホテル入ってすぐのロビーでだらけきっていた。

 

「あと少しだった。だけど撃った瞬間にわかったよ。この弾じゃ仕留められないって」

 

 千葉が弱気なことを言った。

 

「引き金にかけた指が、一瞬固まったんだ。ここで外せないっていうプレッシャーで」

「ほんとショック。この日のためにずっと練習してきたのに」

 

 速水も頷く。

 普段は泰然としているこの二人がこんなことを言うのは珍しい。

 それだけ落ち込んでいるのだろう。

 

 いつもの失敗の確率が高い作戦とは違う。みんなが考え抜き、みんなで協力した最大規模最高確率の作戦だ。

 その最後の一発を担い、外した絶望はどれほどのものか。想像もできない。

 

 ここで、お前たちのせいじゃないなんて軽々しく言えない。

 それを言えるほど俺は無責任じゃないし、責任があるわけでもない。

 

 一撃必殺の狙撃手。

 狙いを外してしまえば価値はなくなる。二人はいま、自分が何であるかはっきり言える自信を失いつつあった。

 それに対して、かけられる言葉が見つからない。

 

 視線を逸らして、他のみんなを見る。

 ぐったりと倒れている。妙な違和感が走った。

 元気なやつとそうでないやつの差が大きい。片やまだあの暗殺をもう一度できるくらいに体力は残っているのに、もう片方は動くことすらできないほどに弱っている。

 

 何かがおかしい。

 確かに今回の暗殺は大仰なしかけを施したが、実際に身体を動かしたのは本番だけ。

 倒れるとすれば、ずっと動画編集していた三村や、偽狙撃ポイントを探して山を登っていた千葉や速水、あるいは昼間にずっと殺せんせーの見張り兼遊び相手役だった木村や矢田。

 しかし挙げた中でぐったりしているのは三村のみ。

 

 これは……

 

「お、岡島くん!」

 

 渚の声に振り向くと、岡島が鼻血を出して倒れていた。

 

「おい、大丈夫かよ!」

「揺らすな! 安静にさせて、無理に動かさないようにしろ!」

 

 焦る磯貝を制して、俺は岡島の顔に手を当てる。熱がある。息も荒い。風邪になった時の比じゃないくらい調子が悪そうだ。

 見渡せば、半分くらいが同じ症状になっていた。

 

 病気? 感染症? いやいや、その知識がない俺でも、これが自然のせいではないことがわかる。

 タイミングがあまりにも不自然だ。こんな一斉に、暗殺が終わった時に症状が出てくるなんて……

 

 まるで、誰かに仕組まれてるみたいじゃないか。

 

「何者だ? まさかこれは、お前の仕業か?」

 

 背中に悪寒が走ったのと、烏間先生がそう言うのは同時だった。

 

 

 烏間先生に電話をしてきたのは、予想通りこの状況を作り出した犯人だった。

 

 みんなの身体を蝕んでいるのは人工的に作ったウイルスで、一週間以内に全身の細胞が崩れ落ちるという凶悪なものらしい。

 治療薬も犯人のみが持っている。

 

 俺を含めて無事なのは、カルマ、磯貝、木村、渚、菅谷、竹林、千葉、寺坂、吉田、岡野、奥田、片岡、茅野、速水、不破、矢田。

 

「……というわけだ」

 

 犯人からの要求は次のとおり。

 普久間殿上ホテル最上階に殺せんせーを運んでくること。そうすれば、殺せんせーと解毒剤を交換してくれるとのことだ。

 ただし、条件が二つ。今から一時間以内に持ってくること。そしてE組で一番背の低い男女二人に持ってこさせること。

 

「よりにもよって背の低い二人に、だぁ!? こんなちんちくりんどもに任せろってか!?」

 

 寺坂がその二人……渚と茅野の頭を小突きながら言う。

 

「だめです。ホテルに宿泊者を問い合わせても、プライバシーだと繰り返すばかりで……」

「……やはりか」

 

 部下の一人である園川さんの告げた言葉に、烏間先生はため息をついた。

 この普久間島には、あるきな臭い話がある。それについては俺も事前に調べていた。あくまで噂程度の話だったが、情報を集めるにつれて真実味を帯びた。

 

 いま俺たちがいるところとは離れた山の頂点にあるホテルには、国内外のマフィアやそれに繋がる財界人たちが連日利用しているらしい。

 中では、違法な取引やパーティが行われている。

 摘発されないのはお偉方もがそいつらと繋がっているからで……要は、あそこは秩序ある無法地帯となっているってことだ。

 

「……犯人の狙いはこいつだ。だが要求どおりに渡しにいくのは……」

「だめですね。交渉材料を渡すうえに、人質を増やすことになりかねません」

 

 烏間先生の言葉に返す。彼もそれは最初からわかっていて、頷いた。

 こんなことをしでかしてくる奴が、簡単に薬を渡してくれるはずがない。持っていった二人も人質に取って、要求を次々に出してくるに違いない。

 

 どうする。どうしたらいい。力任せに正面からいっても無意味だ。ホテル内はガードマンが多数いるだろうし、黒幕は監視もしているだろう。

 そうでなくても、人質を取られているような状況なのだ。うかつには動けない。

 犯人の視点から見て、人質の数が多い場合、見せしめに一人殺してしまうことはたやすい。

 交渉材料である人質はまだいるし、なにより本気の度合いを見せつけられる。俺たちからすれば、厄介極まりない。

 

 柱に拳を打ち付け、悔しさに拳を固める。

 

「お、おい、どうするんだよ、もう一時間もないんだろ?」

 

 吉田が狼狽する。

 一時間の間に、殺せんせーはともかくとして他のみんなが無事で済む解決策はあるのだろうか。

 

「あはは、大丈夫。そんな簡単に死なないって。ゆっくり考えてよ」

 

 つらいはずの原が、無理やり笑みを作って応える。

 その様子に、吉田だけでなくみんなが落ち着かざるを得なくなった。俺も地団駄を踏みたい衝動をこらえる。

 無事な側が怒りに任せてどうする。ここは大丈夫だと安心させるべきだ。

 

 だが交渉はなし。真っ向から行くのもなし。となれば……

 

「みなさん。良い方法がありますよ」

 

 

 応急手当のために竹林と奥田を残して、俺たちは殺せんせーの導くままについていった。しばらく歩くと、彼は自身を抱える烏間先生を止めた。

 

「それで、どうしろって言うんだ?」

「いいですか。そのまま私を渡すのはだめ、交渉もなし、正面突破ももちろん許されない。となれば、潜入するしかないでしょう」

 

「律さんには、すでにこのホテルの構造を調べてもらっています。裏口から入り、黒幕から解毒剤を奪取し、戻りましょう」

 

 簡単に言ってくれる……俺はため息をついた。

 

「危険すぎる。この手慣れた強迫の手口。相手は明らかにプロの者だぞ」

 

 烏間先生が言うが、俺は無視した。

 

「その裏口って、どこにあるんだ?」

「この崖の上ですよ」

 

 殺せんせーの目の先は、お世辞にも坂とは呼べない崖そのもの。

 その頂上には、確かにホテルが見える。 

 

「國枝くん。まさか行くつもりじゃ……」

 

 烏間先生を無視して、俺は手と足を使ってひょいひょいと登っていく。

 殺せんせーの言うことは正しい。これしかない。

 

 無言で崖の上を行く俺の肩に、誰かの手が触れた。

 

「おいおい、先走りすぎだ。俺らも行くよ」

 

 俺より上へ駆け上がりながら、磯貝が言う。振り向けば、ここまで来たみんなが文句もなく後からついてくる。

 これくらいの崖であれば、みんな訓練の中で登る術を得ている。軽々と身体を動かして、どんどん上へ登っていった。

 

 危険だ。と言っても下がらないだろう。それに、今回ばかりは俺だけじゃどうしようもない。

 ウイルスに感染したみんなを救うために、無事なみんなを危険にさらす。それしかない。

 もし……もし危なくなったら……俺がやるしかない。

 

「俺たちは引く気はないし、素直に交渉に応じる気もない」

「でも、未知のホテルで未知の敵と戦う訓練はしてないから、難しいけどしっかり指揮頼みます」

「おお、ふざけたマネした奴らに、キッチリ落とし前つけさせてやる」

 

 俺の言葉を、磯貝と寺坂が継いだ。

 

「行きましょう」

 

 俺は烏間先生を見下ろして、言い放った。



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34 潜入

 ホテルの裏側にある崖をぱっぱと登る。

 普段から訓練されているE組にとっては、こんなのは障害にもならない。ビッチ先生はそういうわけにもいかないから、烏間先生におぶられて上に着いたが。

 ドレス姿の彼女は戦闘要員にはならないな。まあ最初からそっちでは期待してない。しかし彼女の能力はこの潜入任務において誰よりも優れているから、ちゃんとついてきてくれてよかった。

 

「警備がいないな」

「扉は電子ロック、それに監視カメラもあるしな。ここに人員を割くのはもったいない。普通の人間が相手ならな」

 

 烏間先生はビッチ先生を下ろして、先導を切る。

 

「この電子ロックは私の命令で開けられます。監視カメラもみなさんが映らないように細工しておきました」

 

 崖を上がってすぐの扉もこの通り、律がいればなんともない。

 

「ですが、内部のシステムは多系統に分かれており、そのすべてを掌握することはできません」

「律に頼りっきりってわけにはいかないか」

 

 ここからは俺たちの能力が頼りだ。

 あちら側だって、厳重な警備を敷いてるに違いない。もともと殺せんせーを相手どろうとしていたくらいだからな。

 

「烏間先生。ここが、事前に注意を促せる最後の場所かもしれません。ブリーフィングをお願いします」

「ああ。律、マップを表示してくれ」

 

 従って、律は各々の端末に内部構造を表示した。

 円柱形の建物の上に、それより一回り小さい円柱形が乗っかっているような構造だ。

 上下それぞれ五階……合計で十階。それに、屋上はヘリポート。

 

「私たちはエレベータを使用できません。フロントが渡す各階ごとの専用ICキーが必要だからです。したがって階段を上るしかないのですが……」

 

 上階へ一気に上がれる造りにはなっていなくて、階段がばらばらに配置されてる。いくつか廊下や広間を通らなければいけない。

 つまり、それほど人と会う機会が多くなり、危険も増える。

 

「テレビ局みたいな構造だな。テロリストに占拠されにくいよう、複雑な設計になってるらしい」

 

 千葉が説明する。

 なるほど。占拠されづらく、警備しやすく、セキュリティも万全。悪さしたい奴らが集まるわけだ。

 

「國枝さん……」

 

 律が心配そうに俺を見る。

 今回、ここに来る時に肩掛けポーチを着けてきていた。その中にはマスクにゴーグル、フード付きの灰色迷彩服。『貌なし』の装備だ。

 どうしてもという時には、俺が矢面に立つしかない。

 

「行くぞ、時間がない。状況に応じて指示を出すから見逃すな」

 

 烏間先生がドアに手をかけ、音もなくすっと進んでいく。続いて、俺たちも迅速かつ慎重に歩を進める。

 

 さて、裏口通路を抜ける前に、一番厳しい場所が待っていた。

 一階ロビーには、多数の人間がいる。ホテルスタッフだけでなく、警備や客。

 奥に見えるピアノの近くの大階段へ向かうのは論外として、今いるところのすぐそばの非常階段を目指すべきだろう。そこから三階まで行ける。

 だが、そこまで行くだけでも人目に晒される。少しだけでも見られたらアウトだ。

 警備に見つかればそれ以上の人数で来るだろうし、犯人にも知らされる。だが、こっちは十人以上いるんだ。見つけられやすい。

 

 いや……ここをどうにかできる人間が一人だけいる。

 

「何よ、普通に通ればいいじゃない」

 

 さも問題はないというように、ビッチ先生が言った。

 

「状況判断もできねーのかよ、ビッチ先生!?」

「あんな大人数の中をどうやって……」

「いや、ビッチ先生が正しい」

 

 小声でツッコむ菅谷や木村を抑えて、俺は先生に頷く。

 

「任せますよ、ビッチ先生」

「任せなさい」

 

 すっと、彼女が表に出る。

 同時に頬を少し赤くして頭を軽く揺らしている。足取りもちょっと怪しい。もちろんこれは演技だが、今こうやって見ていてもシラフとは思えないほど。

 そのビッチ先生が、ホテルスタッフの一人にぶつかる。

 

「あっ、ごめんなさい。部屋のお酒で悪酔いしちゃって」

「あ、お、お気になさらず」

 

 ぶつかられた男はたじたじとした。

 

 普段は軽く見られがちで忘れそうだが、ビッチ先生は殺せんせー暗殺任務に斡旋されるほどの実力の持ち主なのだ。

 こと色仕掛けにおいて、彼女の右に出る者はいない。

 視線誘導の方法を熟知し、必要な技術を必要以上に会得している彼女に目を奪われないはずがなく、その場にいる男どもは顔をだらしなく緩ませた。

 

「来週そこでピアノを弾かせていただく者よ。早入りして観光してたの」

 

 上手い。 

 ピアノは非常階段から最も遠い。そこに視線が集中すれば、俺たちは無事に上へ行ける。

 

「酔い覚ましついでに、ピアノの調律をチェックしておきたいの。ちょっとだけ弾かせてもらってもいいかしら?」

 

 ビッチ先生がおねだりすると首を横に振れない。

 滑らかな動きと手つきで、彼女はピアノを弾き始めた。

 素人が聴いても、プロレベルの腕前だとわかる。

 それに、ビッチ先生は自分の魅力を最大限に魅せるように全身を使っていた。

 男だけでなく、女も目線が釘付けになり、俺たちでさえ一瞬使命を忘れかけるほどだった。

 

 ビッチ先生が少しだけ演奏を止め、他に見えないよう指を動かした。

 『行け』の合図。

 周りを見ると、その場の全員の目がビッチ先生に向いていた。

 

 流石はロヴロさんに斡旋された、世界で一番のハニートラップの達人。

 俺たちは難なく過ぎることが出来た。

 

 

 非常階段を上って三階に到着。ここは広間を横切る必要がある。

 

「さて、君たちに普段着で来させたのは理由がある。入口の厳しいチェックさえ抜けてしまえば、ここからは客のフリができるのだ」

「客ゥ? 悪いやつらが泊まるようなホテルなんでしょ? 中学生の団体客なんているんスか?」

「聞いた限りでは結構いる。芸能人や金持ち連中のボンボン達だ」

 

 この話自体は、この島に来る前にある程度調べていた。

 ようは悪い遊びをやってるガキも集まってるってことだ。俺たちはそいつらの一人であるようなフリをすれば通り抜けられる。

 

「見るな」

 

 ちらちらと、すれ違いざまに他の客を見るみんなを小声で叱る。

 

「こっちもあっちも余計なトラブルは避けたいんだ。干渉しなかったら、向かってくることもない」

「う、うん。だけど、これなら最上階まですんなり行けそうだね」

 

 どうだろうか。一階の時点でビッチ先生がいなかったら抜けられたかどうか怪しい。

 実のところ、彼女がこの潜入の鍵だった。

 こういうところにいても不思議でなく、男を魅了でき、人を惑わすことができるビッチ先生が一番戦力になる……はずだった。

 そのビッチ先生がいなくなって、俺たちの選択肢は大幅に下がった。

 

「ヘッ、楽勝じゃねーか。時間ねーんだからさっさと進もうぜ」

 

 そんなことを考えず、寺坂と吉田が歩速を上げる。

 だが……

 

「寺坂! 吉田!」

「そいつ危ない!」

 

 俺と不破が同時に叫ぶ。

 こちらに向かってくる一人の男が異様な雰囲気を纏っていたからだ。

 

 風のように素早く烏間先生が動く。

 

 すぐには止まれず、走りに近いスピードの二人。向こうの男にぶつかりそうな距離になった瞬間……その男が小さなスプレーを取り出し、噴射した。

 生徒を守るために前に出た烏間先生は避けられず、噴き出た煙を少し吸い込んでしまう。

 俺はとっさに近くにあった花瓶を手に取り、それを投げて男の手に当てる。スプレーをこぼした男は即座に一歩引いて、ガスと烏間先生から距離をとった。

 

 あの男……帽子をかぶって、インナーをマスク代わりにして鼻と口を保護している。

 明らかに敵だ。

 不破も同じく気づいていたようだ。

 

「何故わかった? 殺気を見せず、すれ違いざまに殺る。俺の十八番だったんだがな、オカッパちゃん」

 

 『危ない』と明言した不破に対して、煙使いが始めて口を開く。

 

「だっておじさん。ホテルで最初にサービスドリンク配ってた人でしょ?」

「ってことは、こいつがウイルスをみんなに仕込んだ張本人か」

「……断定するには証拠が弱いぜ。ドリンクじゃなくても、ウイルスを盛る機会はたくさんあるだろ」

 

 いいや。彼がそうであることは、もうわかっている。

 俺は前に出ず、得意げに人差し指を立てる不破に説明を任せた。

 

「みんなが感染したのは飲食物に入ったウイルスから。竹林君はそう言ってた。クラス全員が同じものを口にしたのは、あのドリンクと船上でのディナーだけ。けど、ディナーを食べずに映像編集をしてた三村君と岡島君も感染したことから、感染源は昼間のドリンクに絞られる」

 

 今度はびしっと、立てた指を相手に向けた。

 

「したがって、犯人はあなたよ、おじさん君!」

「くっくっく……わかったところで、もう遅い」

 

 見抜かれたことをなんのディスアドバンテージにも感じていない。

 

 烏間先生は膝を床につけたまま立ち上がれず、頭も揺れている。

 先ほどの煙の影響であることは疑いようがない。

 

「毒物つかいですか……しかも実用性に優れている」

 

 殺せんせーの関心に、男はにやりと笑った。

 

「俺特性の室内用麻酔ガスだ。一瞬吸えば象すらオトすし、外気に触れればすぐ分解して証拠も残らん」

「そんなものを作れるってことは、ウイルスもあんたが?」

「さあね。ただ、お前たちに取引の意志がないことはよくわかった。交渉決裂。ボスに報告するとするか」

 

 男は踵を返す。が、逃がすか。

 俺たちは即座に動いて、そこらにある花瓶やら机やら椅子やらを武器にして立ちふさがる。

 

 中学生が統率の取れた動きをしたことが予想外のようで、男の動きが止まった。

 

「敵と遭遇した場合、即座に退路を塞ぎ、連絡を絶つ。指示は全て済ませてある」

 

 そう言ったのは、今にも倒れそうだった烏間先生だ。

 

「お前は我々を見た瞬間に、攻撃せずに報告に帰るべきだったな」

 

 烏間先生がぱっと跳躍する。

 男はポケットに手を突っ込むが、遅い。

 ガスを食らっても光のように速く、正確な脚が伸びる。

 

 首を刈り取るような、強烈無比な一撃が男の顔面を捉える。

 それだけで十分だ。

 歯が一本吹っ飛び、男は倒れた。

 

 それを確認して、着地した烏間先生も糸が切れたようにがくりと崩れ落ちそうになる。

 

「烏間先生!」

 

 彼が倒れる前に、俺はとっさに身体を支える。

 体は俺に預けられ、足はがくがく震えていた。これほどまでに弱っている彼を見るのは初めてだ。

 

「……くそ」

 

 伸びた男を隅に運び、机や椅子で隠した後、俺の不安感はますます増した。

 

 烏間先生が言うには、普通に歩くフリをするので精いっぱいらしく、戦える状態に戻るには三十分ほどかかるようだ。

 いやいや象すら昏睡させるガスだぞ。歩けるだけでも異常だ。

 ……だが、まずいな。まだ序盤だというのに、二人の先生が戦力外になってしまった。

 

 ここからは本当に、後ろ盾なくE組生徒の力のみでやるしかない。

 果たしてそれは可能なのか。

 

 俺は苦しむみんなの顔を思い出す。

 

 弱音を吐いてどうする。

 俺たちがどうにかしなければ、E組の半分が死んでしまうんだぞ。

 降りるわけにはいかない。全員救うために、命を懸けて進むしかないんだ。



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35 成長

「お、おいおい。めちゃくちゃ堂々と立ってるぜ」

 

 菅谷が汗をにじませる。

 五階、外側のカベが全てガラス張りの展望回廊をじりじりと進んでいたところに、たった一人佇む影があったからだ。

 金髪の長身男。顔のつくりからして、北欧出身か。

 

「敵だな」

 

 その男が漂わせる雰囲気が、常人のそれじゃないことははっきり理解していた。

 つまり、あいつは殺し屋だ。

 ここまで現れた敵は一人だけ。そして一休みできるテラスを前に気が緩んでいたところに、これか。

 

「つまらぬ」

 

 男のビシッと音が鳴った。

 恐ろしいことに、男が素手でガラスにヒビを入れたのだ。

 

 超人的とも言える握力に、開いた口がふさがらない。

 

「精鋭部隊出身の引率教師がいるのであろうぬ。それほどの強さの者が感じられぬ。どうやら、『スモッグ』のガスと相討ちになったようだぬ。出てこい」

 

 ばれているなら奇襲はできない。

 そろりそろりと、俺たちは姿を見せる。

 

 男が放つ異様な雰囲気に呑まれそうになるが……

 

「『ぬ』多くね、おじさん?」

 

 うーわ、言ったよ。

 カルマの突っ込みに、ピリっとした空気が一瞬にして霧散する。

 みんなが言ってほしいことを即座に言ってのけるのは流石。俺たちは少し気が抜けてしまった。

 

「『ぬ』をつけるとサムライっぽくなると聞いたぬ。カッコよさそうだから、試してみたぬ」

 

 うん……付けないよりかはそれっぽいが、侍の真似をするなら『ござる』とかそこらへんのほうがいいんじゃないか。

 

「間違っているならそれでもいいぬ。この場の全員を殺してから『ぬ』を取れば恥じにもならぬ」

 

 ごきごきと指を鳴らして、男が一歩近づいてくる。

 

「武器は素手か……握力といったほうが正しいかな」

「その通りぬ。近づきざまに頸椎を一ひねり。その気になれば頭蓋骨も握りつぶせるが……」

「今回はその気はないみたいだな。やる気だったら、手の内ばらさずにやってるだろうし」

「察しがいいぬ。暗殺の力を極めると、不思議なことに戦いにも使ってみたくなる。だが……」

 

 男は俺たちを一瞥すると、ため息をついた。

 

「がっかりぬ。お目当てがこのざまなら試す気も失せた。雑魚ばかり一人で殺るのも面倒だ。ボスと仲間呼んで皆殺しぬ」

 

 彼は背を向けて、携帯電話を取り出した。

 まずい、と思ったのもつかの間、誰よりも速く動いたのはカルマだ。

 

 バリン! と音を立てて、ガラスが砕け散る。

 置いてあった観葉植物を掴んで、携帯電話めがけて思いきり振り回したのだ。

 粉々になった連絡端末が床に落ちて、もう使えなくなる。

 

「ねえ、おじさんぬ。意外とプロって普通なんだね。ガラスとか頭蓋骨なら俺でも割れるよ」

 

 カルマは軽く挑発して、にやりと笑った。

 

「……いいだろう。試してやろうぬ」

 

 カルマは植物から手を離し、いったん距離を置く。

 敵のメイン武器は素手。射程距離から離れればとりあえず危機を凌げる。

 

「ねえ、國枝。一緒にやろうよ」

「ああ?」

 

 突然の申し出に、俺は素っ頓狂な声を出してしまう。

 

「プロの大人相手に一対一はちょっときついってのが半分。試したいことがあるのが半分」

「試したいこと?」

「まあまあ、それは後で説明するよ。いいよね、おじさんぬ。二対一でも」

「構わんぬ。二人がかりになったところで、俺には勝てぬ」

「おい待てよカルマ。俺は……」

「待ってる暇なんてない。そうでしょ?」

 

 ……確かに彼の言う通りだ。ここで問答をする時間はない。

 どれだけ言ったとしても、カルマは引き下がってくれないだろうし。

 

 俺はカルマの横に並んで、拳を握り、構える。

 それを見て、ぬおじさんが一歩、一歩と近づいてくる。

 

「気を付けるべき点はどこだと思う?」

「ズボンの左ポケット。それとシャツの内側にもポケットがあって何か入ってる。一つはサイズからして折り畳みナイフってところか」

「ふーん、やっぱりね」

「で、作戦は?」

「まあ任せてよ。合わせてくれたらいいからさ。ここは、俺たちらしく行こう」

「『たち』って言うな」

 

 間合いに入った瞬間、男は腕を伸ばしてきた。俺たちは掴まれないように避ける。

 男の言葉はハッタリじゃない。触れてしまうことさえ危険だ。

 

 だが、単純にかわすだけなら俺もカルマも出来る。

 目つき、肩、腕の初動に目を見張りつつ、次々に攻撃から遠ざかる。

 

「二人とも、中学生にしてはなかなかの実戦経験を積んでいるらしいぬ。そこの教師の教えか?」

「俺はね。もともと喧嘩もしてたってのもあるけど」

 

 男は攻撃の手を緩めた。目線がこちらに向いて、舐めるように下から上に動く。

 

「そっちのお前は?」

「言う必要なんてないだろ」

 

 話してやるもんか。吐き捨てるように俺は言う。

 

「さぁて、ウォーミングアップはこれで終わり。ここからは正々堂々、殺り合おうよ」

 

 とんとん、とその場で軽くジャンプして、カルマが構える。口調は軽いが、目は鋭い。夏より前の、誰も彼もをナメた態度じゃない。目の前の敵を脅威と感じ、全力で戦おうとしている目だ。

 

 それまで負け知らずだったのが、一学期期末テストで敗者になってしまった。その屈辱が彼を覚醒させた。

 どんな人間でも、自分より強い部分がある。誰が相手であっても手を抜けば一瞬で追い抜いてくる。その恐ろしさを知って、カルマは油断を消した。

 数少ない弱点を潰し、赤羽業はより崩れにくい人間になったのだ。

 

 そのカルマが先に動く。続いて、俺も前へ踏み出した。

 俺は姿勢を低くして、相手の視線を分散。隙のできたところへカルマがハイキック。これは弾かれてしまったが、俺の拳は敵の腹に届いた。

 衝撃に顔を歪ませた男が後ろに下がったが、俺たちは追撃せずに息を整えた。

 掴まれれば終わり。それをもう一度頭に刻んで、深呼吸する。

 

「気を抜くなよ、カルマ」

「そっちこそね」

 

 二人で腰を落として、拳を前にする。

 先ほどのコンビネーションを喰らって、相手は明らかに動揺していた。どちらに注目するべきか、首を左右に動かす。

 

 俺は素早く足を一歩だけ動かす。それを見て、男が完全にこちらに向いた瞬間にカルマがキック。

 体が浮ついたのを見逃さず、俺は手刀で首を叩いて、カルマは顔面にパンチ。敵の上半身がぐらりと揺れたところで、俺たちはすかさず同時飛び蹴りを放った。

 まともに受けた男は床に叩きつけられ、苦悶の声を漏らしながら立ち上がる。

 その瞬間、男がポケットに手を突っ込んだのが見えた。それを悟られないように右半身を前にするが……次の手はわかった。

 

 おそらくそれはカルマも一緒だ。

 彼はフェイントもなく真っすぐに突っ込み、相手はそれに合わせて手を突き出してきた。

 カルマは両手で抑えにかかると……プシューと煙が舞う。

 その煙にあてられ、カルマが膝をついた。 

 

「『スモッグ』とやらのガスか」

 

 男の手には小さなスプレーが握られていた。

 

「そうだぬ。長引くようだったんで、試させてもらったぬ。これで一対一だぬ。これなら……」

「見誤るなよ。二対一はまだ続いてるぞ」

「何を馬鹿なことを……このガス、予期してなければ絶対に防げぬ」

 

 得意げににやける敵。カルマをほうって、こちらに向かってこようとしたその時。

 

 またしても煙が放たれた。

 

「な、なんだと……」

 

 予期してなければ絶対に防げない。その通り、男は目の前に広がるガスを思いっきり吸ってしまった。

 力は抜け、頭は朦朧としている男は苦し紛れにシャツからナイフを取り出す。

 

「ぬ、ぬぬぬぅぅ!」

「ビンゴだな」

 

 烏間先生すらあれだけ弱らせるガスだ。男の手にはほとんど力が残されていなかった。

 ナイフを蹴って弾き、腕を極めた。

 

「カルマ、そっち抑えろ!」

「はいよ」

 

 もう一方の腕をカルマが抑え、せーので身体を伏せさせる。

 こうなってしまえば、逆転は難しいだろう。

 

「ほら寺坂早く早く。人数使わないと、こんなバケモン勝てないって」

 

 

 さて、みんなの助力も得てぐるぐる巻きにして、ようやく男を無効化できた。

 これで完全勝利だ。

 

「何故、俺のガス攻撃を読んでいた……? 俺は素手しか見せていないのに」

「素手以外の全部を読んでたよ。これだけの人数がいるのに、素手だけで挑んでくるわけがない。プロなんでしょ。なら、俺たちのことはどんな手段を使ってでも止めたいはず。だから、素手以外の全部を警戒した。プロとしてのあんたを信じてね」

 

 変わったな。

 敗北はカルマをこんな立派な人間に変えた。

 行動が危険なのは相変わらずだが。まったく、ひやひやしたぞ。

 

「それに、こいつがあんたの危険ポイントを教えてくれたからね」

「こっちに振るな」

「大したやつだ、少年戦士たちよ。負けはしたが、楽しい時間を過ごせたぬ」

「え、なに言ってんの。楽しいのこれからじゃん」

 

 戦いのときとは打って変わって、悪魔のような笑みを浮かべるカルマ。

 その両手には、スーパーでよく見かけるチューブがある。

 

「……なんだぬ、それは?」

「わさび&からし。おじさんぬの鼻の穴につっこむの」

「なにぬ!?」

 

 カルマは嬉々として、より多くの量を入れられるように鼻フックもかまして、容赦なくチューブを突っ込んだ。

 

「ちょ、ちょっと待て! そっちの少年! 何とか言ってやれぬ!」

「語尾に『ぬ』って付けると、否定してるみたいになってややこしい」

「そんなことはどうでも……モ……モガ、モガガ……」

 

 あれだな。どこぞの動画投稿者並に危ないことしてるな。

 うわ、そんなに入れるんだ……うわあ……あー、カルマのこんな良い笑顔久しぶりに見るわ。



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36 cut cut cut

 展望台から遠くを眺めると、空と海に反射された星が瞬いて、まるで宇宙にいるような感覚になる。

 こんな状況でないなら最高の光景なのに。

 

 六階。テラスの手すりにつかまりながら、いてもたってもいられない空白の時間に焦りつつ、それを抑える。

 ここよりさらに上階に向かうためには屋内会場、その裏口から通じる階段を上るのが最もばれにくい。だが、もちろんそこには警備員がいる。

 通る隙を作るために、女子たち(とすぐそばのプールに放置されていた服を着て女装した渚)が中で行動している。

 

 俺たち男子組は外で待ちつつ、怪しまれないように適当に過ごしている。

 中を見れば、俺たちとそう変わらない歳の男女も入り混じって、なにやら怪しいパーティをしているようだった。

 女子たちが変なことされてないといいが……

 

「カルマ、大丈夫か? さっきので怪我は負ってないか?」

「へーきへーき。なんともないよ」

 

 幸いなことに、被害は最小限に抑えられている。烏間先生がガスの影響で動きづらそうにしているくらいだ。

 このままいけばみんな無事で帰って、苦しんでるほうも救える希望はある。

 

 大音量の音楽が漏れてきた。

 中にいた男が一人だけ外に出てきたのだ。

 

 その男に、なにか違和感を感じた。

 夏なのにあんな長袖の黒いジャケットを着るか? 確かに屋内は空調が効いてて肌寒く思うこともあるが、屋外は風がなければ暑い。

 

 気にし過ぎか、と思った瞬間、そいつがこっちに近づいてきていることに気づいた。それどころか、一瞬この場にいる全員をぎらりと睨んだ気がした。

 嫌なものを感じて、興味ないふりをしながら横目で注意する。

 十メートル、五メートル……男との距離が近づくにつれ、予感は間違いないと確信した。

 すれ違いざま、がしっとその男の腕を掴む。ポケットに入れたままの、力が込められた腕を。

 

「その手に掴んでるもの、放してもらおうか」

 

 腕を引き抜こうとする男の力を抑える。

 

「そこの男さえ殺せれば、あとは楽に済むと思ったが……」

 

 突然、拳が飛んできた。もう一方の手で、男が攻撃を加えてきたのだ。

 肩の動きから予測していた俺は、頬に届くまでに手のひらで受け止める。

 ゆったりとした喋り方で油断させるつもりだっただろうが、すでに俺は戦闘態勢に入っている。

 

「面白い男もいるじゃないか」

 

 しっかりと捕まえていたはずなのに、ぱっとすり抜けるように振りほどかれてしまう。

 逃がすか。少し開いてしまった間合いを詰め、顔へ拳を一閃。当たりはしたが、わずかに逸らされて衝撃を逃がされる。

 避けた勢いのまま繰り出された首を刈るような上段蹴りをかがんでかわし、軸足を払う……が、空振り。跳躍した男の足の底が目の前まで迫ってきて、とっさに上半身をずらした。

 

 お互いに一瞬で体勢を整え、相手へ攻撃する。俺は拳で、敵は足。両者の攻撃は見事に胸を捉えた。

 心臓を射抜かれたような衝撃に、一瞬身体が麻痺する。直後、空気が吐き出されてむせる。男もそれは同じで、距離をとるしかなかった。

 

「國枝!」

 

 めまぐるしい数秒の攻防が過ぎて、ようやく男子たちが寄ってくる。

 

「ここにまで配置してやがったか」

 

 寺坂が毒づく。

 何者だと聞かずとも、こいつが殺し屋だってことはわかる。

 問題はどんな相手か、だ。

 すぐそこに警備がいるところで、銃を使ってくるわけもない。あそこまで接近してきてから殺そうとしてくるあたり、下にいた奴のようにガスか素手とも考えられたが、それも無いようだ。

 何を使ってくるか……おおよその検討はついていた。

 

「予定は多少狂ったが、ここで仕留めれば問題はない」

 

 その言葉に気圧されることなく、男子たちが前に出ようとする。俺はそれを手で制した。

 

「俺がやる」

「は? お前一人で勝てるわけねえだろ」

「いいから。これ、預かっといてくれ」

 

 俺は肩にかけていたポーチを寺坂に投げる。

 

「國枝くん、ここはいったん落ち着いて、烏間先生やみなさんの協力を……」

「黙れ」

 

 乱暴な口調に、みんなの身体がびくりと止まる。

 

 寺坂と殺せんせーの言うことはごもっとも。

 特異なセンスを持っているカルマと比べて、この場で俺だけというのはは荷が重すぎる。だが、俺の感じている引っ掛かりが正しければ、他の人間にバトンタッチはできない。

 深呼吸して、男の前に立つ。

 

「全員でかかってこなくていいのか?」

「俺一人で十分だ」

 

 それを聞いて、男は腰を低く構えた。

 

 動いたのは同時。渾身のキックが宙でぶつかり合う。びりびりと痺れるのを無視して、放たれるパンチを弾き、防御する。

 隙を見つけては反撃に出るが、あちらはわずかに身体を逸らすだけで避けてくる。

 先生たちを除けば、今まで相手にしてきた中で一番素速い。一瞬でも気を抜けば、五発は飛んでくるだろう。

 だが俺も負けずに、弾丸のごとき連撃をかわし、防ぎ、掴む。

 

「なんだあいつ……あんな動きできたのかよ」

 

 誰が言ったか、息を呑んでいる。

 プールでの事件と合わせて、可もなく不可もなくというのはこれで完全に取り除かれただろう。せっかく積み上げたものが、たった一人の襲撃に崩される。

 そうしなければならないほどに、俺の嫌な予感は増していく。

 

 集中が削がれた瞬間を狙われ、相手の姿が視界から消える。しゃがんだ相手が拳を振り上げるのを、顔を逸らして届かせない。だが、さらに繰り出された回し蹴りはもろに側頭部を捉えた。

 頭が揺れる。地面に手をついて膝で立つも、視界はぐにゃりと歪んでいる。

 吐き気を抑え、敵の動きを見据える。

 男は掌底を叩きつけようとしてきた。いや、手の形はそうだが、掌底で攻撃しようとしているわけじゃない。ぎらりと黒く光るものが見え、脳の危険信号がうなりを上げる。

 

 しまっ……

 

 攻撃に吹き飛ばされ、地面を転がる。ぐっと立ち上がるが、肩に鋭い痛みが走る。

 血が出ていた。腕から手に伝い、地面にぽたりぽたりと落ちるほど、深く刺されている。拳を握れば、当然そのたびに痛む。

 身体をねじったからよかったものの、そのまま喉に受けていたら死んでいた。

 

「暗器か……」

「そのとおり」

 

 男は袖を引っ張って見せた。

 そこに仕込んだ隠し刃。手が特定の形をしたときに出る仕組みだろう。寸前まで気づかなかった。

 俺が恐れていたのはこれだ。

 なにかしらの武器を持っているとは思っていたが、刃物か。

 

「やっぱり無茶だ。ここは全員で……」

「寺坂、カバンの中身全部よこしてくれ」

 

 烏間先生の言葉を無視して、俺は寺坂に言う。

 はっとして、寺坂は俺が渡したバッグの中身を検める。

 

「これって……」

「早く」

 

 苦虫を噛み潰した顔をしながら、そこに入っていたものを投げてきた。タクティカルグローブと、コンパクトに畳められた迷彩服。それにマスクとゴーグル。

 受け取るなり、俺はグローブを手にはめ。いつもよりきつく縛って、意識を戦闘モードに切り替える。

 

 残った装備を見つめて一瞬考える。

 ここでみんなに助けを求めれば、まだ引き返せる。ひっそりと練習して、こんなにも身体を動かせるようになったと言えば、無理はあるが決定的な正体ばれは防げる。

 しかし相手は暗器使い。全員で向かっていったとして、傷つかない保証はない。最悪、誰かの命が奪われる危険だってある。

 そうなるくらいなら……

 

 意を決して、迷彩服を着る。

 予想通り、後ろから「あ……」という声が漏れた。

 

「あれってまるで……」

 

 静かにざわつく後ろを気にしないようにして、俺はマスクとゴーグルをかけて前に集中する。

 男が纏う殺気が、先ほどまでとは明らかに違って見えた。

 

 敵はポケットに忍ばせていたナイフを取り出し、逆手で持った。

 あの身のこなしで刃物を使われれば、もしかしたら俺は……ここで終わるかもしれない。

 

 それが? それがいったいどれだけの影響をもたらすだろう。たぶん、一時の騒ぎにはなるだろうが、すぐに収まる。

 結局は何も変わらない。

 

 すうっと頭が冴えてきた。

 フードを被り、わざと視界を狭める。視覚が敵を見透かすために働く。これで惑わされることはない。

 ぎりりと音が鳴るほど歯を食いしばり、前に出る。

 伸びてきた腕を掴んで、腹に一発。怯んだ男に膝蹴り、さらに顔へパンチを食らわせた。

 一瞬よろめいたが、先から小さな刃が出ているブーツで薙ぎ払われるのにギリギリで気づいて、側転でかわした。

 

「やっぱり、『貌なし』……だよな」

 

 また、誰かが呟いた。

 すでにわりと有名になっている『貌なし』。それとそっくりなのが目の前に現れて、みんなは狼狽している。

 コスプレをしているにしては中学生離れした俺の動きに、疑う者はいなかった。

 

「ずっと隠してやがったのか」

「怒るのは違うでしょ」

 

 顔を赤く染める寺坂に、カルマが冷静に返す。

 

「あいつが『貌なし』だったってのも重要だけど、いま肝心なのはそこじゃない」

「ええ、そのとおり」

 

 誰もが戦いから目を離せないままの中、殺せんせーが同意した。

 

「今まで正体を隠してきた國枝くんが、マスクを被ってまでみなさんを守ろうとしています。本当は止めたいところですが……」

「じゃあ止めようぜ。暗器持ったやつに一対一はまずいって」

「ここで混じるほうがやばいよ」

 

 前に出ようとした菅谷を、またしてもカルマが止める。

 

「もし下手に邪魔して、國枝が俺らをかばうことになったら、それこそ最悪の事態になる」

 

 カルマの言う通り。

 今だって俺が不利だ。そんななかに他の誰かが混ざってきたら……

 

「ここは信じて、見守るしかない」

 

 男の動きは恐ろしいほど速く、しなやかだった。速く鋭く、そしてどこからともなく刃が迫る。まるで忍者だ。

 手を伸ばそうとしても掴みそこね、反撃をくらう。俺も負けじと両の足をしっかりと地につけ応戦する。

 避けることを二の次にして、相手に攻撃を加える。ハイリスクではあるが、ぬらりとした動きをする相手にはこれがいい。

 

 ガードを捨て、何度か裂かれるが、その分パンチを与える。そうして何度か応酬を繰り返していると、敵の動きが鈍ってくる。

 俺の中段蹴りを見事に避けて着地した瞬間を狙って、俺は身体を回転させつつ渾身の蹴りを放った。

 彼は勢いよく倒れたかと思うと、バウンドするかのように跳びあがって距離をとる。

 手ごたえはあったが、まだ立てるのか。

 

 次はどうするか。思案していると、炭酸水が入ったペットボトルの栓を開けたようなプシッという音とともに脇腹が痛んだ。見ると刃が突き刺さっている。

 どこから飛んできたのかは明白だった。あいつが手に持っていたナイフは柄だけになっている。あれも仕込みナイフ。

 じわり、とシャツが血に染まるのを感じる。だが幸い、戦えなくなるほど深くは刺さっていない。俺はそのまま真っすぐに男を睨んだ。

 

 再び距離を詰め、フックをかます。だが苦痛で鈍った拳はわずかに逸らされるだけで届かず、代わりに反撃の仕込みナイフ掌底を食らった。

 悲鳴を抑え、敵の顎を打ち上げてから蹴り飛ばす。

 相手はプールサイドまで転がっていったが、こちらのほうが重傷だ。脇腹二か所と肩から血が出ている。

 

「國枝、もう下がれ! 俺らでそいつをとっ捕まえてやるからよ!」

 

 寺坂が叫んでくる。

 あいつは良い奴だ。E組のみんなも、烏間先生も、殺せんせーも。みんな俺のことを心配してくれて、助けようとしてくれる。

 俺は誰一人として、大切な仲間を失いたくない。ここで一人で戦うことは、居場所をくれたみんなに、俺ができる唯一の行動だ。

 

 お互いに向き合って構える。二人とも息が上がっていた。肩を激しく上下させつつも、しかし殺気は衰えていない。

 膝をつく気はなかった。続行不可能と諦めてしまったら、誰かが加勢に来る。

 まだ戦えると態度で示して、戦うしかない。

 

 心臓の早鐘が鳴りやまぬ中、男がまたしてもナイフを取り出し、投げてきた。

 ここで上半身をずらし……いや、だめだ。この方向はみんなに当たってしまう。だが、身体はすでに避ける体勢に入っていた。

 手を伸ばして、短刀を必死に掴もうとする。。自分でも神経の伝達スピードに驚いた。飛ぶ刀に腕が追いつき、軌道を逸らすことができた。スパリと手のひらに切れ込みが入るが、問題ない。スピードも和らげられた短刀は菅谷の前でからんと音を立てて落ちる。

 本来なら、一対一なら避けて終わりのそれに気を取られたのがいけなかった。対処している間、敵は鼻先まで近づいてきて、腕を振るう。とっさに両腕を前に構えて防御の姿勢をとるが、これがいけなかった。

 腕に綺麗に切れ筋が入って、血が飛び散る。打撃だと思っていたそれは、ナイフによる薙ぎ払いだった。

 

 鋭く、電気が走ったような衝撃に思わず飛び退く。男も俺を追うようなことはせず、むしろ距離を置いた。そして背中に手を回すと、どこに隠していたのか鎖に繋がれた鎌を取り出す。

 掴んだ鎖を支点に回るそれは、ひゅんひゅんと風を裂く音を立てて威嚇する。

 

 ごくり、と生唾を呑んだ。

 目では追える。だが身体がついてこれるかは別だ。

 

 音が耳に届き、刃が目の前を通る。

 危機を感じてわずかに頭を逸らしていなければ、側頭部に刺さっていたことだろう。

 冷や汗がどっと出た。同時に、こらえきれない怒りも。

 こいつは、こんなのをみんなに使おうとしていたのか。

 

 これまでの殺し屋もそうだった。こいつもあいつらも誰かを殺そうとした。

 急激にそれを感じて、身体が熱くなる。感情が溢れて動き出す。本能の赴くままに、俺は男へ向かっていった。

 

 普通なら刃を恐れて距離を空けるか動けないか。そのどちらでもない動きに敵は焦った。

 すぐさま武器を放ったが、狙いは少し外れて飛ぶ。それでも鎌の先が脛を裂く。膝をつかずに堪えたが、痛みが訴えてくる。

 さらに男は鎌を手元に戻し、投げる。

 

「國枝ァ!」

 

 誰かが叫んだ。

 切られたほうとは反対の腹に、鎌が深々と刺さっているのがわかった。俺はあえてそれを見ずに、大した傷じゃないと言い聞かせる。

 どれだけ傷がつこうが関係ない。こいつを倒せればいい。アドレナリンが全てを誤魔化してくれている間に決着をつける。

 

 ぴんと張っている鎖を掴んで、足で踏む。引っ張られ、男は体勢を崩して前のめりになった。

 相手の顎が差し出されるように前に出たのを見て、俺は脚に力を込め、宙がえり。

 サマーソルトキックが綺麗に決まった。クリーンヒットした攻撃は脳を揺らし、相手を昏倒へ引きずり込む。

 

 倒れた敵に馬乗りになり、髪を掴んでやる。がくりと気絶した彼へ、まだ足りないとばかりに拳を振り上げた。

 

「決着はついた。もういいだろう」

 

 腕は下ろされることなく、烏間先生に止められた。抵抗してもびくともしない。

 怒りに支えられた戦いだ。頭はすぐに冷えずに、全身の力が入ったままになる。

 だがぐっと抑えつける烏間先生には敵わず、やがて怒りは少しずつ冷め、呼吸も落ち着いてくる。

 烏間先生に引き上げられて立ち上がるも、出血のせいか身体がふらりと揺れた。

 

「國枝!」

 

 俺を支えようと、菅谷が手を伸ばしてくる。

 

「やめろ、血がつく」

 

 烏間先生の手も弾いて、菅谷も押しのけて、なんとか足を地につける。

 どこから出たのかわからない血が、足元へ滴る。アドレナリンが切れて、痛みが押し寄せてきた。

 

「なんで、なんでだよ、國枝。どうして俺らを頼ってくれねえんだよ!」

 

 夜の屋外に、寺坂の声が響く。

 

「勝った。それだけでいいはずだ」

 

 俺はたったそれだけの言葉を返した。

 生きて、勝って、みんなが無事。それで十分なはずだ。

 

「みんな、早く来て……って……どうしたの?」

 

 先行して中に入っていたうち、不破が裏口を開けて俺たちを呼びに来た。

 どうやらそっちは上手くいったみたいで、中からは他の女子たちが手招きしている。

 静まり返った空気の中で、俺は肩で息をしながらフードを外した。

 

「行くぞ」



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37 銃弾の前へ

 上へと階段をのぼる途中、怪我した箇所へ包帯を巻き付ける。

 不思議なことに、あれだけ切られておきながら思ったよりも出血はひどくない。それでも、流れて服を染めていくが。

 傷のせいでまともに歩くことはできないが、しかし俺は助けを提案するみんなにノーを突きつけた。

 先を行くみんながちらりとこっちを気にしながら進んでいく。女子も同じだ。

 

 戦っている場面を、女子と渚は実際には見ていない。だが俺を見ればだいたいのことは察しはつく。特に、俺がマスクをしているところを見た不破は、俺が『貌なし』だと気づいただろう。

 今も迷彩服はそのまま、マスクとゴーグルは首にかけている状態だ。

 だけど今はそれを言及するタイミングじゃない。こんな俺よりもっと苦しんでる仲間がいるんだ。みんなもそれがわかって、目の前へ集中する。

 

「ストップ」

 

 階段が終わり、廊下にさしかかろうかというところで先頭のカルマが制止する。

 どうやら、廊下の先に用心棒がいるらしい。しかも二人。

 

「國枝、見える?」

 

 カルマに促され、ばれないように一瞬だけ顔を出して見る。

 確かに、廊下の先にある扉の前にスーツを着た屈強な男が二人いた。

 

「無線持ち。スーツの内ポケットに銃。経験豊富だが、今は退屈してるな。緊張感がない」

 

 今の一瞬で得られたのはそれだけ。だが十分だろう。

 俺の言葉を聞いて、みんなの見る目が変わっていくのを感じた。

 

「俺が行く」

「待て待て待てって」

 

 腰を上げようとした俺を、寺坂が諫める。

 

「俺たちで何とかする。だからここは任せろ」

「断る。銃持ちだって言ってんだろ」

「だから行かせるわけにいかねえって言ってんだろうが」

 

 小声ながら言いあう。お互いに引く気はなく、睨みあったまま動かない。

 刻一刻と他のみんなは毒に冒されていっている。こんな言い争いをしてる場合じゃないってのに。

 募る焦りと苛立ちに身を震わせながら、俺は彼を無視しようとした。

 その肩に、カルマが手を置いてきて抑えてきた。

 

「木村、あいつら挑発してここまで連れてこれる?」

「え、ああ。できないことはないけど……」

「んで、こっちにおびき寄せて一網打尽。オッケー?」

「それなら、寺坂くんの武器が役に立ちますねえ」

 

 俺を置いて、次々と話が進んでいく。

 舌打ちして、階段の上に腰を落ち着けた。

 身体の中いっぱいに泥を詰められたように気持ち悪く、重い。頭もぼんやりして働かない。

 病に伏せているみんなのことを思い出して、怒りを燃料に意識を覚醒させる。暗器使いを倒したところで終わりじゃないのだ。そのことをはっきりと胸に刻む。

 

 殺せんせーが言う武器とは、いま寺坂が自分の鞄から取り出した警棒のことだ。

 柄にスイッチがあり、電極が先に付いているのを見ると、電気を流すことのできるスタンバトンのようだ。

 

「さっきそれを國枝に渡しておけばよかったのに」

「あ、ああ、呆気に取られて忘れてたんだよ」

 

 寺坂が俯く。さっき、俺の姿と戦いを見て頭が混乱していたことを悔いているのか。

 いまさら、そんな過ぎたことを気にしてもしょうがないだろうに。

 

「なら、寺坂はあの男たちをその警棒で気絶させる」

「俺が……」

「そんな身体で、俺たちより上手くやれると思ってんの?」

 

 手を挙げようとした俺を、カルマの正論が阻む。

 確かにその通りだ。だが、こいつらが失敗してしまったら……

 俺は唇を噛んだ。

 

「國枝くん。ちょっと落ち着いてよ。今はほら、みんなに任せて」

 

 不破が肩を掴んで落ち着かせようとしてくる。苛立ちが少し消え、心臓の鼓動がトーンダウンしたのを感じる。ほんの少しだけ。

 俺はカルマを睨んで、少し悩んだあと口を開いた。

 

「大丈夫なんだろうな」

「大丈夫大丈夫。安心して見てろよ、國枝」

「さくっと終わらせてくるからよ」

 

 余裕の表情で返してくるカルマ。吉田もそれに合わせて。安心させるために笑顔を見せる。

 この場の誰もが俺を抑え込もうとしてくる。仕方なく、彼らに従った。

 

 木村が口笛を鳴らしながら、男たちに近づいていく。それだけなら、ただのガキが不用意に寄ってきただけだ。

 が、何を言ったか、警備は木村を憎々しげに睨みながら、全力で追いかけてきた。

 しかし俊足の木村には、大人であっても追いつけない。男たちはムキになって、俺たちの潜んでいる階段には目もくれずに通り過ぎようとする。

 その無防備な身体に、村松と吉田が横からタックル。スタンバトンの先を押し付け、びりびりと電気を流し、男たちの意識を奪う。

 一丁上がり。

 目覚めても動けないようにするために、ガムテープで腕と足を巻きつける。

 

「國枝くんの言った通り、銃を持っていますね。それは……千葉くん、速水さん、あなたたちに相応しい」

 

 男たちの懐にあった回転式拳銃を、二人は持つ。

 それに、重量以上の重さがあることに気づいて強張っている。

 

 烏間先生は、少し悩んで納得した。

 まだ痺れている彼では、照準が定まらない。ここは狙撃に長けた者がやるべきだ……と考えているのだろう。

 間違えて、あるいは狙いを外して誰かを殺してしまったらどうするんだ。言いたかったが、どうせ誰も俺の言葉に耳を貸さない。

 

 壁に手をつきながら立ち上がる。

 心配そうに見つめてくるみんなを、手で払った。

 

「おら、掴まれ」

 

 ただ一人、寺坂だけはそれを無視した。無理矢理俺の腕を自分の肩に回して、身体を支えてこようとしてきた。

 

「離せ」

「嫌だね。お前は俺の言葉を聞かなかった。俺だって勝手にする」

 

 残念なことに、今はこいつを振り払うだけの力も残っていない。寺坂のなすがままに、支えられて次へ進むしかなかった。

 

 

 暗い空間に足を踏み入れ、後ろで静かに扉が閉まる。耳を静寂が襲い、自分の荒い息がやけに響く気がする。

 ここは防音か。

 下があれだけはっちゃけていたのに、ここには一切届いてきていない。

 目の前には規則的に並べられたふかふかの固定座席。奥には照明に照らされた舞台。

 コンサートホールか?

 

 カルマと木村がこくりと頷き、そっと舞台脇の出入り口に近づいていく。

 律が取得してくれたデータによると、上に行くにはその扉をくぐるほうが近く、安全だ。

 

 寺坂はゆっくりと俺の身体を下ろす。

 アドレナリンが切れて痛みを自覚し始めてきた。

 座席の後ろに隠れるようにして座り込んだ俺は、痛みで漏れそうな声を抑える。未だ血は固まらず、絶えることなく出ていた。

 一挙手一投足が痛覚を刺激する。また立てたとして、歩くのが精一杯か。

 

 座席と座席の細い隙間から前を覗くと、偵察に出た二人がUターンして隠れるところだった。

 それの意味するところはみんなわかってる。誰か来たんだ。

 まずいな。この身体じゃプロの殺し屋相手じゃなくても勝てる気がしない。だが、囮ならできるか。

 血液不足でぐらつく身体を押さえて、いつでも飛び出せるように構える。

 

 みんなが隠れ終えたと同時に、一人の男が舞台袖から現れた。

 口に銃口を咥えている妙な男。殺し屋だというのは明らかだった。

 コツコツとステージを歩く足音が響いて止まる。ごくり、と唾を飲み込む音でさえ聞こえているんじゃないかと思うくらいの静けさ。

 緊張感が走り、全員が息を潜める。

 

「十六ってところか……ほとんどが十代半ば。驚いたな、動ける中でほとんどが来たのか」

 

 銃の男が言う。

 なんてことだ。姿は確実に見えてないはずなのに、正確な数まで言い当てやがった。

 

 ズギューン!

 

 耳をつんざくほどの銃声が鳴って、ガラスが割れる音がした。

 あの男が、スタンドの照明器具を撃ったのだ。

 

「言っとくが、このホールは完全防音で、この銃は本物だ。お前ら全員撃ち殺すまで助けは来ないってことだ。お前ら人殺しの準備なんかしてねーだろ! 大人しくボスに頭下げとけや!」

 

 バン!

 

 男の顔のすぐそばを銃弾が通った。それもまた照明器具を貫いた。

 今のは速水が撃ったのか。敵の銃を撃ち落とすつもりだったようだ。だが、狙いは外れた。

 

 殺せんせーへの一撃を外したのがきっかけか、初めての実銃だからか、速水の手がずれた。

 

 そろりと覗こうとした速水の顔のすぐそばを、銃弾が通り過ぎる。彼女はすぐに元の姿勢に戻り、汗を滲ませた。

 わずかな隙間を縫うほどの正確無比な銃の腕。こちらで対抗できるのは、銃を持ってる千葉と速水だけ。だが速水の場所は割れている。

 ここは千葉の腕を信じるべきだが……

 もし彼が撃ち抜かれたら? あの正確さだ。当たりどころがよかったという結果にはならないだろう。

 

「一度発砲した敵の位置は忘れねえ。もうお前はそこから一歩も動かさねえぜ」

 

 相手はたった一人。だが動けない。銃にはそれだけの威圧がある。

 それに、こっちが銃持ちなのを理解して、なおも姿を晒しているところを見ると、よほど早撃ちの腕に自信があるのだろう。

 このままじゃこっちの勝ち目は薄い。

 

 加えて……

 壇上の男がなにやら台の上を弄ると、ぱっとステージ中の明かりが点く。

 あまりにも眩しくて、男の姿が見えづらくなった。

 こっちが複数いるから有利だと思っていたが、あの銃の腕に、この逆光。何人か死んでもおかしくないくらいに追い詰められた。

 

「速水さんはそこで待機!」

 

 全員に恐怖が走り切る直前に、殺せんせーの声が響く。

 

「今撃たなかったのは賢明です、千葉君! 君はまだ敵に位置を知られていない! 先生が敵を見ながら指揮するので、ここぞという時まで待つんです!」

「どこから喋って……」

 

 きょろきょろと見回す銃使いだが、そうしなくても殺せんせーは見える。

 目の前にいるからだ。目の前の、一番前席。

 完全防御形態の殺せんせーが、にやにやと笑って男を見上げていた。

 

「テメーなにかぶりつきで見てんだ!」

 

 怒りながら、男は殺せんせーに向かって三発撃った。だが完全防御形態の球体はそれを弾くだけ。

 その席の後ろには烏間先生が隠れているが……まだ満足に動けそうもない。

 男が舌打ちしながら弾を装填する。

 

「だが、その状態でどうやって指揮を……」

「ヌルフフフ。では木村君、五列左へダッシュ!」

 

 銃使いが反応する前に、死角に潜んでいた木村が指示通り動く。 

 

「吉田君は右へ三列! 茅野さんは前へ二列!」

 

 目線を右往左往させる敵の隙をついて、殺せんせーが的確に指示を出す。

 確かにこの方法なら行ける。

 たとえ相手が名前と顔を覚えていたとしても、それを見せていないこの状況では意味がない。

 

 だけれども、指示を出すほどに名前と位置がばれる。

 冷静に覚えているのか、男は銃を構えながら落ち着きを取り戻しつつあるように見えた。

 

「出席番号十三番、右に一列移動して待機!」

「な……」

 

 ならば、さらに相手にわからない情報で名指し。

 そのほかにも矢田(ポニーテール)やら吉田(バイク好き)やら特徴で呼んだりしている。

 これじゃE組以外わかるはずがない。

 

 が、銃声が鳴った。

 耳をつんざくほどの大きな音がホールで反響する。

 

 一発放たれるたびに、気が気でなくなる。

 誰かが撃たれたのではないかとびくついてしまう。

 

 だが、どうやらみんな無事だったようだ。

 律を通じて、千葉に状況を教えていた片岡と  のスマホが撃ち抜かれただけだ。

 

 ほっとしたのもつかの間、銃弾が俺の肩をかすめた。

 しまった。ぐったりしすぎて、座席から肩がはみでてしまったのか。

 幸い服が少し破れたくらいだ。

 

「大丈夫ですか!?」

「気にするな!」

 

 殺せんせーに返して、俺は完全に身を隠す。

 

 その後も彼は指示を繰り返して、銃使いを翻弄した。みんなもそれに従って、素早く移動する。

 気づけば、ほとんどが元の位置から離れていた。

 

「さて、いよいよ狙撃です、千葉くん」

 

 殺せんせーが言う。

 いつの間にかみんなは散って、銃使いに近づいていた。

 場所が掴みにくく、相手は接近戦も考えなければいけない状況。一瞬気を逸らしてやれば、一発撃つだけの時間は作れる。

 

「外しても気に病まず、すぐ隠れてください。他にも作戦はあります。一人でやらなくてはいけなくて、取り返しのつかなくなるようなことを、私は背負わせる気はありません」

 

 千葉と速水だけじゃない。俺にも向けている。そのことはわかっているが……俺はどうしてもその言葉を信じる気にはなれなかった。

 どれだけ可能性が低くとも、万が一が起これば何もかもが終わる。そんな時に責任を負うのが誰であっても関係ない。いくら悔やもうが死んだ人間が戻ってくるわけではない。

 誰かの破滅が嫌なら、代わりに背負う人間が必要だ。適した人材はここにいる。

 トドメは狙撃組がやってくれるとして、隙を作るのは他がやるしかない。

 

 もう一度、一瞬だけ座席の間から顔を出して戻す。

 男が持っているのは回転式拳銃。最初に脅しで一発、速水のすぐそばを貫いたのが一発、殺せんせーに三発、そして再装填。

 その時にリローダーを使ったのは見えたから、装弾数を使い果たしてのリロードなのは間違いない。つまり総装弾数は五。

 そして、再装填してから撃ったのは……三発か。

 服に大きな膨らみはなかった。突然の戦闘だったからか、もう一丁持っていることはない。なら、残り二発を使わせてしまえばいい。

 

「寺坂。さっきの警棒をよこせ。俺が囮になる」

「そんなこと聞いて渡せるかよ」

「だったら丸腰で出ていく」

 

 中腰になった俺の膝を、寺坂が抑える。

 

「バカ、待て」

「二択だ。俺に武器を渡すか、渡さないか」

 

 下手に動けば銃弾が飛んでくるかもしれない状況のなか、組み伏して俺を抑えるなんてことはできない。

 つまり、丸裸同然で拳銃の前に身を晒させるか、一縷の望みを託して武器を持たせるか。

 もうすぐでこちら側の準備が出来る。敵に装填の隙を与えるわけにはいかない。

 どちらにしても、あと十秒で身を出すつもりだ。

 

 悩む寺坂から奪い取るようにして警棒をひったくると、俺は通路側の席へ素早く移動した。

 

「……くそっ」

 

 動けない寺坂が毒づく。俺はそれを無視して周りの様子を伺った。

 殺せんせーの号令が一瞬だけ静まる。

 ここだ。

 

 菅谷が動いた。

 銃使いがさらに速く動く。

 銃弾が放たれ、いま立ち上がったものに真っすぐ向かって、それの頭を貫いた。

 

 ……が、敵は遅れて気が付いた。それは人形だ。

 先ほどの警備の服を着させて、対殺せんせー用の銃を持たせた、菅谷特製の即席ダミー。

 騙された衝撃で隙ができる。そして、千葉と速水が反撃に出ようとしている。

 

 その瞬間、俺は勢いよく立ち上がった。ダミーに向けられていた銃口が、すぐさまこちらに向く。

 やはりプロ。驚いてできた間を、一瞬で埋めてきた。

 俺は全意識を集中して、相手の銃口と指を見据える。暗殺者が引き金に力を込めた瞬間、警棒を顔の前で構えた。

 

 バン。

 

 金属と金属がぶつかる甲高い音が響き、俺の身体が後ろへ倒れる。その一瞬あとで、二発の発砲音が鳴る。

 何かが倒れる派手な音が耳をつんざき……静寂が場を支配した。

 

「國枝! 國枝!」

 

 寺坂の声にはっとする。

 俺は五体が満足に動くことを確認して、手に握った警棒を見た。先が凹んでいる。危険な賭けだったが、目論見通り銃弾を防ぐことができたのだ。

 そのことに数秒間は気づかなかった。正直、撃ち抜かれたと思った。だがあまりにも正確すぎる射撃は、見た通り真っすぐ眉間へ向かってきていたようだ。

 生を実感して、大きく息を吐く。まだ鳴りやまない心臓の動きが苦しく感じるほどだが、生きている証拠だ。

 

「バカ野郎! てめえ、自分で何したかわかってんのか!」

「どうなった? 敵は?」

「そんなことどうでもいいだろうが! 俺の話を聞け!」

「どうでもいいだと?」

 

 俺は寺坂の言葉に耐えきれず、彼の胸ぐらを掴んだ。

 

「だったら他にどうしろってんだよ!」

 

 銃弾が残っているのに、敵が呆気にとられ続けることを祈って見ていろとでも言うのか?

 一歩間違えていたら、千葉か速水のどちらかが死体になって転がっていたかもしれないんだぞ!

 

 再び、しんと空気が静まる。

 突き飛ばすように寺坂を離して、速水と千葉、続いて他のみんなを見る。心配するような目が返ってくるが無視。

 続いてステージを見る。男は倒れていて、照明器具が散乱していた。

 吊り照明の固定金具を撃って当てて、さらに銃を弾き飛ばしたのか。どうやら無事に勝てたようだ。

 

 安堵、そして血が足りないせいでまたしても身体が傾く。手を貸してこようとした磯貝へ、警棒を放り投げる。

 

「生きてるんだ。文句はないだろ」

 

 そう言ってもまだ、みんなの視線が突き刺さってきていた。



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38 黒幕

 今さらになって、死を身近に感じた。

 

 さっき、俺が早く動いたおかげで、銃は俺のほうを向き、放たれていた。

 その時点で、警棒に銃弾が当たろうが当たるまいが、速水と千葉には届かないことは決定していた。

 銃弾の未来は、警棒に弾かれるかそれとも俺を貫くか。

 頭ではわかっていて俺も覚悟して飛び出した。だが、実際にそれを経験した後だと急に恐怖が生まれる。

 

 動悸が収まらず、手は震え、喉が圧迫されているような錯覚。死が俺を迎えに来ていた。

 馬鹿野郎。そんなのは妄想だ。

 俺は生きていて、ここにいる。階段を上っている。

 みんなを助けるためにここまで来たんだ。倒れるのはまだ早い。

 

「みなさん。最上階のパソコンカメラに侵入できました。上の様子が観察できます」

 

 律が各々の端末に映像を流す。

 

「最上階エリアは一室貸し切り。確認する限り残るのは……この男一人です」

 

 その男の後ろ姿しか見えないが、それとなく恰幅がいいことだけはわかる。

 見える限りでは他に誰もおらず、勝機が湧いてきた。

 

 烏間先生も体力が戻ってきていて、すでに俺たちを先導するくらいに回復していた。

 

 代わりに……

 

「……っ、はあ、う……っ」

「國枝!」

 

 階段を踏み外すところだったところを、千葉が支えてくれる。

 一瞬意識が飛んでいた。

 素手の暗殺者と暗器使いとの連戦。そして銃弾を正面から弾くという無茶。さらに……毒が俺の身体を蝕んでいた。

 

 今、竹林と奥田に看病されているみんなが苦しんでいるのは、毒使いが仕込んだウイルスのせいだ。

 そしてそれは不破の推理通り、俺たちがこの島に来てすぐに渡されたウェルカムドリンクが原因。

 俺もそれを飲み干してしまった。

 発症が遅れたのは、俺が多少タフなせいか、殺せんせー暗殺前後では大して動いていなかったからか。

 

 動き、傷つけられ、弱った身体の中で毒が暴れまわり、力を奪っていく。

 足が震え、床を踏んでいる感覚が薄れていく。上下左右が曖昧になるほど視界は歪み、頭はぼやけていた。

 

 死ぬ。死ぬのか。こんな中途半端なところで、足手まといにしかならないのか。

 馬鹿が。黒幕は、このウイルスが人の身体を一週間以内に崩壊させると言った。逆に言えば、こんな短時間で死ぬような代物じゃないってことだ。

 十人以上が苦しんでるのに、目前に救える手段があるのに、甘えるな。

 

 馬鹿らしい弱さを振り切るために、別のことを思考する。

 

 もしも。

 もしも、この感染騒動が特定の人物を狙ったものだったら?

 

 犯人が要求したもののうち、『一番小柄な男女に殺せんせーを持ってこさせること』という条件が気になっていた。

 相手は殺せんせーの存在を熟知していた。E組のことも調べ上げているだろう。

 なら、身長の高低は脅威の基準に当てはまらないことはわかっているはずだ。

 

 だったら、逆か?

 身長の低い誰かを狙っているのか?

 そこまで考えれば、自然と答えは出てくる。この事件の黒幕は……

 

 階段を上り終わり、ようやく最上階の部屋の前まで到達する。

 烏間先生が倒した九階の見張りが持っていたカードキーで扉を開いて、中の様子を窺う。

 

 奥には、椅子に座って複数のモニターを見ている男が一人だけ。

 みんなが音も気配も殺して近づいていく。俺は邪魔にならないよう、一番後ろで息を抑えた。

 

 足を進めるにつれ、男の周りも見えてくる。

 あまり手入れのされていない短髪。黒いジャケットを着ていても、身体が鍛えられていることは見て取れる。

 

 男の足元にはスーツケース。あれに解毒薬が入っているに違いない。問題なのは、それに配線付きの粘土のようなものが貼り付けられていることだ。

 プラスチック爆弾。机の上、手が届くそばにボタンが一つだけの簡単な起爆スイッチ。烏間先生からそれがあるのではないかというのはすでに聞いている。

 彼もまた、この毒テロ騒動を引き起こしたボスが誰か予想がついているようだ。誰があれを、どこから用意したのかもわかってるみたいだし。

 

 烏間先生が銃を構える。

 敵まで十メートルもない。弱っていても、彼の腕なら外さない。

 

 作戦はこうだ。

 接近して取り押さえる。

 近づいている間に気が付かれれば、腕を撃ってスイッチを取らせないようにして、その隙に一瞬で全員で抑えにかかる。

 それでも動けるようなら、寺坂のスタンバトンでトドメをかける。

 

「かゆい」

 

 とびかかろうとした瞬間、男がそう言った。

 

「思い出すと痒くなる」

 

 呟くような、ではなくこちらに向けての言葉。

 男はガリガリと頬を掻き、笑い声とも苦悶のうめき声ともとれる唸りを漏らした。

 

「でもそのせいかな。いつも傷口が空気に触れるから、感覚が鋭敏になってるんだ」

 

 俺たちの誰よりも、相手が動くほうが速かった。

 男がばっと手を挙げると、たくさんの何か小さなものがばらまかれる。

 即座に飛び退いてよくそれを見ると、机にあったのと同じスイッチだとわかった。

 

「もともとマッハ20の怪物を殺す気で来てるんだ。リモコンだって超スピードで奪われないように予備も作る。うっかり俺が倒れ込んでも押すくらいにはな」

 

 その言葉を聞いて動けなくなった。

 このリモコンのどれもが、スーツケースを爆発させるスイッチなのだ。

 下手に動けば踏んで押してしまうし、避けて近寄ろうものならその間に押される。

 

 人数のアドバンテージがなくなり、人質を盾にしているあっちが圧倒的な優位に立つ。

 

 躊躇している間に、敵のボスはスイッチの一つを手に取り、ゆっくりとこちらに振り向いた。

 

「……暗殺を任せようとしていた殺し屋のうち、下にいた四人がいきなり連絡がつかなくなった。そのほかにもう一人、所在がわからなくなった者がいる。そいつは、暗殺に使うはずだった防衛省の機密費をごっそり盗んでいった」

 

 敵の顔を正面から見て、烏間先生は銃を構えたまま喉を鳴らす。

 

「こんなこと、許されると思っているのか……鷹岡!」

 

 そう、姿を見せたのは、あの鷹岡だ。

 烏間先生に代わって体育教師として現れ、俺たちを恐怖で縛ろうとした張本人。

 浮かべるのは狂気の笑み。目は血走り、頬にはいくつものひっかき傷があるが、その顔は忘れない。

 

「ほぉ、見たところ二人感染してるのに、よくここまで来れたな」

 

 二人……?

 その言葉に、俺は他を見渡す。寺坂も息が荒く、全身に力が入ってなかった。注意して見れば一発でわかったはずなのに。

 

「まさか『毒使い(スモッグ)』や『素手使い(グリップ)』だけじゃなく、『暗器使い()』や『銃使い(ガストロ)』までやられるなんてな。こんな大人数で来られたのには焦ったが……結局、これがある限りお前らは俺に従うしかない」

 

 悔しいがその通りだ。

 ここで奴をぶん殴っても、奴はスイッチを押して薬を粉々にする。俺の気がいくぶんか晴れるだけ。つまり何にもならない。

 俺は何もできないのだ。

 

 言いなりになるしかなく、俺たちは屋上へ招かれるままについていった。

 

 まだ陽は上がってない。それどころか、潜入開始してから二時間も経っていない。

 今までの時間も、密度が濃かっただけだと、満点の星空が教えてくる。

 

 屋上からヘリポートへは簡易階段がかけられていて、それ以外で登ろうとするのは難しい。

 

「気でも違ったか。防衛省から盗んだ金で殺し屋を雇い、生徒たちをウイルスで脅すこの凶行……!」

「おいおい、俺は至極まともだぜ。これは地球が救える計画なんだ。おとなしく二人にその懸賞首をもってこさせりゃ、俺の暗殺計画はスムーズに仕上がったのにな」

 

 烏間先生に、鷹岡はへらへらと返す。

 計画? 俺たちが疑問を発する前に、彼は得意げになって続けた。

 

「計画では、その女……茅野って言ったっけか、お前に懸賞首を抱いて、対先生弾でいっぱいのバスタブに入ってもらう予定だった。その上からセメントで生き埋めにする。抜け出すには、生徒ごと爆発するしかないって寸法だ。生徒思いの殺せんせーは、そんな酷いことしないだろ? 大人しく溶かされてくれると思ってな」

「そんなことを本気でやるつもりだったのか……!」

 

 全員の顔が真っ青になる。

 正気の沙汰じゃない。あまりにも狂っていて……残酷すぎる。

 

 生徒を犠牲にする方法は殺せんせーに効果がある。だが、今までの殺し屋はそんなことをしてこなかった。

 理由は二つ。

 

 政府に止められているから。

 倫理的な問題もあるが、中学生を囮駒にして、その責任を取ろうとする人間がいないのだ。

 世界が救われるとしても、その後の平和な世界で糾弾されたくはない。

 その臆病さ……未来を考えられる冷静さと言ってもいい、それを持ち合わせているからこそ、国のトップに立てているのだ。

 考えたことを全て実行に移そうとするのは、実行力があるとは言わない。ただの馬鹿だ。

 

 もう一つの理由は、プライド。

 殺し屋として、ターゲット以外の、ましてや普通の中学生を巻き込んだとあっては自身のプライドが許さないのだろう。

 評価だってダダ下がり。目標を殺せても、そのために罪のない者を殺せばテロリストとなんら変わらない。

 

 つまり、鷹岡は馬鹿で、誇りもなにもないクズだってことだ。

 そのクズが力を持ってしまえば、これほど厄介なことはない。

 

「その超生物さえ殺せば、誰にも文句は言わせねえ。そのためにお前らを鍛えるつもりだったのに、お前らは生意気にも逆らって、俺に屈辱を与えた。どいつもこいつも馬鹿にしやがって……てめえらのせいで俺の評価も落ちちまった! 特に潮田渚ァ! てめえだけは絶対に許さねえ!」

「イカレやがって。テメーの作ったルールの中で渚に負けただけだろーが」

「負けたのも、評価が落ちたのもお前のせいだ。今さらそれを……」

「うるせえ! てめえらの意見なんざ聞いてねえんだよ! このスイッチ一つ押すだけで下の奴ら全員死ぬことを忘れんな!」

 

 こちらの言葉に耳を貸す気もない。そんな余裕があれば、こんな事件を起こしもしてないだろう。

 

「チビ、お前一人で上ってこい」

「渚、ダメ、行ったら」

 

 鷹岡が渚を指名し、先に階段を上る。ヘリポートの上で決着をつける気だ。

 茅野が止めようとして手を伸ばすが、渚はその手に殺せんせーを置いた。

 

「行きたくないけど行くよ。あれだけ興奮してたら何するかわからない。話を合わせて冷静にさせて、治療薬を壊さないように渡してもらうよ」

 

 優しい声でそう言って、彼は俺に目線を合わせた。

 

「國枝くん、寺坂くん、きっと治療薬を持ってくるからね」

「待て、渚。待ってくれ。何されるかわからないんだぞ」

 

 あいつは渚を痛めつけるために、こんなことを計画した。

 どれだけ傷を負ってしまうかわからない。もしかしたら最後には……

 

「國枝くんが守ってくれたみたいに、今度は僕が行く」

 

 こんな身体で止められるわけもなく、渚は階段を上っていく。

 彼が一段一段上がるたびに、俺は後悔に苛まれる。

 俺が烏間先生みたいに強ければ、どうにかして俺が鷹岡の説得に回っていたのに。

 

 渚が上がってきたところで、鷹岡は階段を外して放ると、足元にナイフを置いた。

 

「やりたいことはわかったな? この前のリターンマッチだ」

「待ってください、鷹岡先生。闘いに来たわけじゃないんです」

「だろうなァ。この前みたいな卑怯な手はもう通じねえ。一瞬で俺にやられるのは目に見えてる」

 

 鷹岡はブチギレ寸前だ。

 油断させて近づくという手は通じない。間合いに入った瞬間にボコボコにされる。

 

「だがな、一瞬で終わっちゃ、俺も気が晴れない。闘う前にやることやってもらおうか」

 

 鷹岡はヘリポートの床、自分の足元を指差した。

 

「謝罪しろ。土下座だ。実力がないから卑怯な手で奇襲した。それについて誠心誠意な」

 

 自分が上に立っていることを示すために、わざとらしくリモコンを掲げた。

 

 渚は逆らわず、その場に正座して、口を開こうとしたその時……

 

「それが土下座かァ!? 頭こすりつけて謝んだよ!」

「……僕は実力がないから、卑怯な手で奇襲しました。ごめんなさい」

 

 手を下について、頭もついて、最悪な相手に屈辱的なことをやらされる。

 渚は下手に出ているが、その中でどれほどの怒りが渦巻いていることか。

 

「そこのガキもここに連れてくりゃよかったぜ。あいつもクソ生意気なこと言ってたからなあ。お前、代わりに謝れよ」

「先生に生意気な口を利いてすみませんでした」

 

 歯が折れそうなほど食いしばる。

 俺にさせたいことを、渚に背負わせるな!

 怒ってるなら、俺を罵るなり謝らせるなり、殴る蹴るとか好きにすればいい。だが、他の奴にそれをやらせるんじゃねえ!

 

「よーし、やっと本心を言ってくれたな。父ちゃん嬉しいぞ」

 

 ようやく満足したか、彼から邪気が無くなる。だがそれも一瞬。次の瞬間にはクソ野郎の表情に戻っていた。

 

「ご褒美にいいことを教えてやる。あのウイルスで死んだ奴がどうなるか、『スモッグ』に画像を見せてもらったんだが……笑えるぜ、全身デキモノだらけ。顔面がブドウみたいに腫れあがってな」

 

 カルマのが可愛く見えるほどの邪悪な笑みを浮かべて、鷹岡がスーツケースを持ち上げる。

 

「見たいだろ、渚くん?」

「何を……」

 

 待て。それだけはやめてくれ。

 

 苦しんでるみんなが、寺坂の身体が弾け飛ぶ光景が脳裏に浮かぶ。

 

 見せつけるように、鷹岡が宙に向かってスーツケースを放る。

 そして、指で思いきりボタンを押した。

 

「やめろおおおおお!」

 

 烏間先生の、寺坂の、俺の叫びがこだまする。

 

 だがそれも空しく……ケースが……空中で爆散した。



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39 dy(e)ing Red

 ウイルスの解毒剤が入ったケースを、鷹岡が爆発させた。

 

 爆炎と煙が舞い、地面に破片が落ちてくる。

 希望が残骸になっていくのを見て、心が折れたのを感じた。

 

 俺は無力だ。

 正体をばらして血を流して戦って、銃弾を見切る無茶をやっても、何の意味もなかった。

 押し寄せる絶望に足の力が抜ける。膝が落ちてしまい、糸が切れたかのように力が入らない。

 

 その場にへたり込み、呆然と寺坂を見ることしかできなかった。

 

 終わりだ。全部終わった。助けられなかった。

 心が冷え、身体の感覚がなくなる。ばらばらになっていく錯覚を覚えたが、それを止める気力はない。

 

 ごめん。俺が弱いせいでみんなを救えなかった。

 問答無用で全てを奪い取れる力があれば、全部解決したのに。

 

 消えていく俺の熱。それとは逆に、どす黒い怒りが渚に生まれていた。

 彼は落ちているナイフを握って、目を見開く。

 

「殺す……殺してやる……」

 

 混じりっ気なしの憎悪と殺意が、渚の全身から漂う。

 手は震えているが、刃先は鷹岡を狙っていた。

 

「そうだ。そうでなくちゃな」

 

 鷹岡はにやにやと笑っている。

 純粋なタイマンなら万が一にも負けない。ここで鬱憤を晴らしてやるとでも思っているのだろう。

 

 思惑にはまってたまるか。渚はお前の玩具じゃない。

 

「待て、渚。殺したい気持ちは死ぬほどわかる。だが殺すな」

「なんで!? みんなが弄ばれて、國枝くんもこんな目に遭って……なんでここで我慢しなくちゃいけないの!?」

 

 視線は鷹岡から外さず、渚は叫んだ。

 

「殺すってのは、それくらい馬鹿なことなんだよ。一時の感情で、その後の人生が滅茶苦茶になってしまう。そのクズに、お前の人生を賭ける価値はない」

「でも!」

 

 渚の反論は、急な衝撃で遮られた。

 寺坂が投げた警棒が当たったのだ。

 

「渚ァ! テメーここに何しに来たんだよ! そいつを殺しに来たんじゃねえ、全員を助けに来たんだろうが。だったら、そいつにはもう用はねえ。適当にぶっ飛ばして戻って来い!」

 

 俺の言葉の先を、寺坂が紡ぐ。

 

 そうだ。わざわざ相手の有利なフィールドに立たなくていい。

 無意味に殺害しなくていい。

 

 奴を無力化して、渚がこっちに戻ってくればそれでとりえずこの場は収まるんだ。

 

「その通りです、渚くん。その男にはウイルスの知識はない。下の毒物使いに聞きましょう。間違いたくなければ、スタンガンを拾いなさい」

 

 渚は少しの間考え、警棒を拾ってベルトに挟んだ。

 手に持っているのは相変わらずナイフだけだ。

 

「ナイフ使う気満々だな。安心したぜ。スタンガンは、お友達を立てて拾ったってところか」

 

 鷹岡はそんなことを言うが、俺の見解は違った。

 先ほどよりも、渚の表情が変わっている。殺意はそのままに、しかし激情はごっそり消えていた。いいや、隠してるんだ。

 冷静と憤怒の間、最も能力が出せるところに心を落ち着かせている。

 

 全員が固唾をのんで見守る。

 この闘いにゴングなんてない。勝負でもない。やるかやられるかの潰し合い。

 潰す側は、もちろん鷹岡だ。

 

 渚もナイフを振るが、油断のない軍人相手に素人のそれが届くわけもなく、いなされて攻撃を受ける。

 顔だろうがどこだろうが、構わずに蹴る、殴る、叩く。鷹岡の重い一撃が何度も繰り返され、渚を弱らせていく。

 直視に耐えない。だが目を逸らすのは許されない。

 あそこで命を張ってるのは、他の誰でもない、E組の潮田渚だからだ。

 

「烏間先生! もう撃ってください!」

 

 茅野が耐えきれずに懇願するが、烏間先生は首を横に振った。

 

「……できない」

「どうして!?」

「撃てない。鷹岡と渚くんが近すぎる」

 

 お互いが触れる距離。風も吹いてる。そうでなくても、鷹岡がこちらに気づいて渚を盾にする可能性も大いにある。

 鷹岡にとって渚は復讐の対象であり、同時に人質。この闘いの場面では、銃は使えない。

 だが……

 

「へっ。見たかよ、國枝。渚のやつ、やるみたいだぜ」

「ああ。成功しても失敗しても、次で決まる」

 

 寺坂と俺は確信めいたことを口にする。カルマが怪訝な顔で見てきた。

 

「なに、もしかして毒って幻覚も見せるの?」

「ちげーよ馬鹿。てめーは特訓サボってばっかだったから知らねーんだよ、あいつの技」

 

 渚がよろよろと立ち上がる。不思議なことに、その顔は笑っていた。

 

「俺ぁ散々練習台にさせられたぜ」

 

 風が止んだ。

 

 それと同時に、渚の纏う感情も凪ぐ。それまであったはずの滲み出る怒りや憎しみが感じられない。

 ただ、恐ろしいまでの純粋な殺意が鷹岡に向けられていた。

 

 正面に立っていれば身が竦んでしまうほどの殺意は、銃を撃とうとした烏間先生の指も固める。

 

 アレが出る。あの技が。

 

 渚はゆっくり、ゆっくりと鷹岡との距離を詰める。武器を見せ、殺意を増しながら。

 それまで意気揚々と虐めていた鷹岡が、反射的に防御の態勢を取った。

 渚が近づくにつれ、鷹岡の視界は狭まっていく。渚の手にあるナイフに意識が向く。

 

 無理もない。一度は自分を死の直前まで追いつめた男の、本気の刃物だ。

 前回負けた時の、目隠しされたせいで視界が封じられた時の闇と、同時に突きつけられたナイフの冷たい感触がよみがえっていることだろう。

 その恐怖が、目を刃に釘付けにさせる。

 

 本来、刃物を持った相手と戦う時に、その切っ先を注視するのはよくない。

 力を込める瞬間の表情、あるいは初動で動く肩、軌道を見せる腕……そこらに注意すれば、リーチの短いナイフくらい、慌てて引いて避けるくらいはできる。最悪でも、少し切られるくらいだ。

 だが先端が動いてから避けようとすると、どうしても後手に回った動きになってしまう。

 反射的に身が危険を感じても、かわせるわけがない。

 

 だが鷹岡はそれをしてしまった。

 せざるを得ないほど、渚に追い込まれてしまった。

 それこそ、渚の必殺技の発動条件。

 

 相手が恐怖しているところ、その間合いのわずか外側……この瞬間、殺意のこもった武器を捨て去る!

 恐怖、困惑、脅威、狼狽、警戒、混乱……感情が混じり、頭がぐちゃぐちゃになったこの隙に、渚が両手の掌を、鷹岡の目の前で勢いよく合わせる。

 

 パンッ!

 

 空気が震えた。

 

 ここから見れば、ただの猫だまし。

 しかし、食らった本人からすれば、眼前で爆発が起きたのと同じくらいの衝撃。

 そんな衝撃に煽られるように、遅れて避けるように上半身を逸らすが、頭の中は真っ白で、今なにをされたのかも理解できていないだろう。

 

 これはもはや闘いでも殺し合いでもない。

 『戦闘』から『暗殺』へ。渚が闇の中へ鷹岡を引きずり込んだ。

 

 致命的な数秒の隙。

 見逃さずに、渚はもう一つの武器であるスタンガンを抜く。

 第二の刃は、果たして鷹岡の脇腹に命中した。電撃が身体を襲って、麻痺痙攣をおこす。

 

 膝をついた鷹岡は、命乞いをするように渚を見上げる。

 当の渚は爽やかに笑って、鷹岡の首に警棒を押し当てた。

 

 その間も、渚はずっと笑顔のままだった。

 必殺技を試せたからか、思い通りに大人を倒せたからか、なににせよ鷹岡の目にその顔が張り付く。きっと、それが剥がれることはないのだろう。

 

「鷹岡先生、ありがとうございました」

 

 言うと同時、むき出しの首へ電流を流す。

 鷹岡は何秒か痙攣して……倒れた。

 

「よっしゃあ! 元凶(ボス)撃破!」

 

 みんなが、わっと活気を取り戻す。

 

 近くにあった予備のはしごをかけて、烏間先生がいの一番に渚のもとへ駆け寄る。

 鼻から血が出ていたり口の中が切れていたりしているが、どうやら骨は折れていないようだ。

 

 全ての元凶が気絶してほっとしたいところだが、治療法は失われてしまった。

 勝利を手に入れられたのか、それとも負けたのか。そんなことわかりきってる。

 俺たちの負けだ。

 

「いまヘリを呼んだ。君たちはここで待機していろ。俺があの毒使いを連れてくる。必ず解毒薬を作らせよう」

「その必要はないぜ」

 

 烏間先生に返したのは、俺たちじゃない。その声に、E組は一斉に振り返った。

 いつの間にか、下で倒した暗殺者たちがやってきていた。

 

 来るにしてももっと時間がかかると思ってたのに……全員この場に揃ってやがる。

 

 まずい。一人ひとりが相手だったからなんとかなったものの、勢揃いだと分が悪い。

 回復した烏間先生が一人を倒せても、その間にこっちの五人が殺されてしまうだろう。

 

「この……野郎……」

 

 まだやるってなら、やってやる。

 俺は拳を構えて、みんなの前に出た。

 

「『影』」

 

 『影』と呼ばれた暗器使いは、俺の手を捕まえて肩を掴み……抵抗の暇も与えずに俺を座らせた。

 あっけにとられた俺は立ち上がろうとするが、身体に限界が来てしまったようで、少しも動かない。

 

「落ちつけって、安心しろ。お前たちは死なねーよ。言っただろ、『その必要はねえ』って」

 

 毒使い『スモッグ』が俺の肩をぽんと叩いた。

 

「お前たちに飲ませたのはこっち、食中毒菌を改良したものだ。命に害はねえ」

 

 液体の入った瓶をこれ見よがしに振る。さらに、それとは違う、錠剤の入ったのを俺に手渡してきた。

 

「こいつを飲ましてやれ。前より元気になるぜ」

「どうして……」

 

 暗殺者たちの変わりように、俺たちは驚いた。

 

「もともとボスは、解毒剤を渡す気なんてなかった」

「たかだが数時間の交渉……なら、中学生を殺さなくてもできる」

 

 唖然とする俺たちに、暗殺者たちは続けた。

 

「俺たちにもプロのプライドってのがあるんだよ。ターゲットはあくまで超生物。カタギの中学生は俺らが殺す相手じゃねえ。他の暗殺者たちと多少なり縁があるなら、お前らにもわかるだろ?」

「だから信じろってか?」

「信じようが信じまいが、これが事実だ。明日には全員ケロっとしてるぜ」

 

 『スモッグ』はにやりとしているが、その目は真剣そのものだ。彼だけじゃない。『グリップ』も『ガストロ』も『影』も。

 俺はため息をついた。

 単純に信じてしまうわけにもいかないが、嘘を言っているようには見えないし、ここでこんな嘘をつく理由もない。

 

「……信用するかどうかは生徒たちが回復してからだ。それまでは拘束させてもらうぞ」

「ちっ、しゃーねーな」

 

 烏間先生が呼んだタンデムローター機が近づいてくる。羽音が近づいてくるにつれて、終幕を感じる。

 なんだかんだで、全部終わった……ってことでいいんだよな?

 

 ヘリが突風を引き連れて到着したころには、俺たちの間に殺気はなく、安堵の空気が流れていた。

 俺もその場に座り込んだまま、なるように場の流れを任せる。

 

 暗器使いは俺を見下ろす姿勢のまま、髪をぐしゃぐしゃと崩してきた。

 

「お前は強い。俺が手加減できなくなるほどにな。すまない。ここまで傷つけるつもりはなかった。なんにせよ、お前には完敗だ」

 

 そう言うと、彼は俺に手を伸ばしてきた。俺は掴んで立ち上がる。

 

「死ぬなよ少年。人間、身体も心も折れる時は一瞬だ。悔いを感じる暇もなく、本当に一瞬だ。だから生き抜け。そこにいる奴らと共に生きたいと願うならな……なんて、俺が言えたことじゃないか」

 

 暗殺者として、死に行く人間を見てきたからの言葉か。

 それとも……大人としての忠告か。 

 

「さらばだ、少年。二度と会うことはないだろう」

「俺もそう願うよ」

 

 唸りを上げ、暗殺者たちを乗せたヘリが飛び、遠ざかっていく。

 その機影が見えなくなってもしばらく、俺は動けなかった。



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40 無事

 真っ暗な空間の中で、誰かの持つ銃の先がこちらに向いていることだけははっきり見えた。

 俺の手には何もなく、防ぐ手段なんてありはしない。

 そこから弾が放たれたら、肉は抉られ、骨は砕かれ、内臓を掻き乱してしまうだろう。そして俺は倒れ、二度と起き上がることはない。

 どっと汗が噴き出してくる。

 恐怖が身体を蝕んでいた。逃げたいのに動けない。目を閉じることすら許されない。

 

 まだ覚悟もできていないのに……発砲音が響いた。

 

 

 目覚めたのは、島中に轟く爆発音のせいだった。

 はっと起き上がって外を見ると、もうすでに陽が落ちようとしていた。

 飲まされた解毒剤のおかげか倦怠感もなく起きられたのはいいが、十二時間以上も寝てしまうとは……

 

 ぼうっとした頭で、これまでのことを思い返す。

 渚が鷹岡を倒したあと、俺たちはホテルに戻り、みんなに解毒剤を渡して、事件を終わらせたんだ。

 

 本来であれば、俺は本島に戻ってちゃんと治療を受けるべきだ。だが俺はそれを拒否した。みんなの無事を確かめるまでは帰れないと。

 傷ついた身体をこれ以上起こしたくなかったのだろう、烏間先生はひとまず俺を受け入れ、しかし本島に戻ったら必ず精密な検査と治療を受けることを命令した。

 

 いつの間にか烏間先生から軽く応急処置を受けて命に別状はないことを確認した後、すでにぐったりと寝ていたみんなに遅れて、俺も部屋に着くなり倒れるように眠りについた。

 無理やり運ばれるというようなことはされなかったようだ。ここはまだ普久間島。合宿はまだ終わっていない。

 

 いや、そんなことより、さっきの音はなんだ?

 俺は素早く着替えて、外に出る。そこにはすでにたくさんの人がいて、E組もまた砂浜に座っていた。

 烏間先生を含め、多くの大人がせわしなく動いている。その視線は海へと向けられている。

 

 俺はひとまずほっとした。E組が一人残らず無事に、そこにいたからだ。

 

「何があったんだ?」

 

 みんなのもとへ近づき問いを発すると、それまで夕陽に照らされて黄昏ていた顔がぱっと輝く。

 

「國枝!」

「無事だったんだな!」

「それより、何が起きたんだ?」

「それよりってお前……」

「何があったんだ?」

 

 生きてるんだから、そんなに騒ぐこともない。俺は同じ言葉を繰り返して、それを強調した。

 渋々といった表情で磯貝は教えてくれた。

 

 あの球状の殺せんせーを対先生物質で覆い、そして周りをコンクリートで固めて海に沈める。

 急ごしらえにしてはしっかりとした作戦だし、遂行するための人員も材料もすぐ用意されていた。

 

 とはいえ、上手くいくとは思ってなかっただろう。実際、元に戻る時のエネルギー爆発により、殺せんせーを囲っていたものは全て弾け飛び、ばらばらになった。

 その失敗自体は、予期していたものだ。特に落胆の表情も見せず、烏間先生は後片付けの指令に移る。

 あの人だってガスを受けて、俺たちに指示を出して夜通し戦ってたってのに、タフすぎる。

 後片付けの命令を下して、彼はこちらを向いた。その目が俺を捉えた瞬間、睨んでいるように見えた。

 

 ああ、そうか。『貌なし』であることを、ばらしてしまったんだった。

 

 昨日、何も言われなかったから安心していた。

 わざとその話題を避けていたのだろう。傷だらけの生徒に詰問することをせず、治療と安静を優先した。でも今は少し長い話をしても差し障りがないくらいには回復している。

 悪いことに、烏間先生は問題を先送りにする人じゃなかった。

 

「少しいいか、國枝くん」

 

 そう促されて、俺は彼の後を追う。

 烏間先生が座ったのは、パラソルが影を作るテーブル。その上に分厚いファイルを置き、ぱらぱらとめくりながら、険しい顔を見せてきた。

 それには『貌なし』が行ってきたとも思われる様々な暴行事件が記載されている。昨日今日のうちに資料を取り寄せたのだろう。仕事が早いな。

 対して俺は、ただただ彼の言葉を待つだけだった。

 

「君がまさか『貌なし』だったとはな」

 

 長考して、先生の口から出たのはそれだけだった。

 直接、俺が『貌なし』だとは言ってない。だから少しは期待したが、烏間先生を誤魔化せはしない。

 俺は目を逸らして周りを見る。一緒にホテルに潜入した者たちが、遠巻きに俺をちらちらと見ている。

 

「知って、俺をどうします?」

「……悩むところだが、あのホテルでの一件は、『無かったこと』として扱われる。俺たちは何もしていないし、何も見ていない」

 

 つまり、今のところは『貌なし』が俺であることは知らないふりをするということだ。

 誰にも何も言わず、ばらされることはない。

 

「これは俺たちの総意だ」

 

 俺たち。先生方のことだろう。政府が知ってたら、今頃俺は檻の中だ。

 

「不問……ってことですか?」

「今回はな。だから、この話はこれで終わりだ。またやるならともかく、今は普通の中学生に戻るといい」

「……戻れたらいいんですけどね。あいにく、俺のことは知られちゃったし、元通りなんてのは無理ですよ」

 

 俺が願っても、E組のみんなが俺を見る目は変わってしまう。元通りになるかどうかは、俺が決められることじゃない。 

 周りだ。俺の評価や価値は、唯一俺だけが決められない。周りの人間がどう思うかによって、個人は立場を得る。

 今の俺の立場は『貌なし』であり、犯罪者だ。

 

「いつか来ることだとは思ってましたが」

 

 いつかどこかで誰かが気づくか逮捕されるか、その結末は覚悟していたが、予想よりも早い。

 よりによって防衛省の烏間先生にばれたのは、かなり手痛い。

 

「君が自分のことを話さないのは、ばれることを予期してか?」

「どこからぼろが出るかわかりませんからね。それに、話して面白いようなこともありませんし」

 

 話して、何かが変わるわけでもない。そして、俺のやっていることを誰かに背負わせるわけにもいかない。

 律に知られてしまったことすら後悔を感じているというのに、これ以上他の人間にバレてしまいたくはなかった。

 

「なぜ、一人で戦ったんだ?」

「他が足手まといだったからですよ。俺は一人で戦うのが性に合ってる」

「嘘ですねぇ」

 

 いつの間にか、殺せんせーが後ろに回っていた。ようやく見慣れた球形ではなく、いつもの姿で。

 

「殺せんせー、遊んでたんじゃないんですか」

「今も分身しながら遊んでますよ、ほらあそこ」

 

 暗殺者と暗殺対象という関係はどこへやら、浜辺では殺せんせーの残像と生徒たちが花火ではしゃいでいた。

 遊びながら話をする教師なんて、あんただけだよ。

 

「なんの話をしているのか、注目されたくないと思いまして」

 

 お見通しか。

 俺は深くため息をついた。 

 

「嘘ってどういうことですか?」

「あの場には、十人以上の生徒たちがいました。全員でかかれば、無傷とはいえないまでも一人相手くらいなら制圧できたでしょう。それなのに、君は一対一を申し込んだ。最終的には自分の正体をばらしてまで」

 

 まくしたてる殺せんせーに、俺は黙った。

 

「修学旅行でも、あの状況で現れれば、自分がE組の生徒だと言っているようなものです。國枝くんが一人で戦うのは、仲間が傷つくのを避けるためではありませんか?」

 

 ハッと嘲笑する。

 正体を知っておきながら、烏間先生も殺せんせーも、まるで俺がまともな人間みたいに扱う。

 そこにあるファイルに、どれだけの人を傷つけたかが書かれているのに。

 

 だが……その通りだ。E組が傷つくのを、俺は恐れている。

 だけどそれはこんなことをする免罪符にはならない。いっそ、罵られて馬鹿にされたほうが気が楽だ。

 優しく諭されても、何にもならない。何も変わらない。

 

「この話は、帰ってからにしましょうか。それよりも今は中学生らしく遊びましょう」

「なら線香花火でも持ってきてくださいよ。こっちでやりますから」

「いいえ! 先生、みんなと遊ぶって決めたんです! だって辱めを受けたあとにずっと球体でしたもん!」

 

 くわっと殺せんせーの顔が近づき、ぬるぬると触手がまとわりつく。

 ここまで避けてきたのに、生ぬるい温度と気持ち悪い感触が同時に襲ってくる。

 

「ああ、もう、しつこいなこのタコ!」

「しつこくて結構! 先生、國枝くんが遊んでくれるまで恥も外聞も捨てます!」

「教師の言葉じゃないだろ!」

 

 ぐいぐいと引っ張ったり押したりしても離れない触手。ぬるぬるしてるせいで、掴めても力が入らない。

 そのあまりのしつこさに諦めかけていたとき……

 

「おーい、國枝。そんなところで触手と戯れてないで、こっち来いよ」

「そうだよ、こっちで一緒に遊ぼう」

 

 いつの間にかこっちに来ていたカルマと渚が大量の花火を抱えてきていた。

 

 不思議なことに、彼らの俺を見る目はいつもと同じだった。

 渚はともかく、カルマはずっと俺を『貌なし』だと疑って、とうとうそれが正しかったことがわかったのに、彼の態度に変わったところはない。

 

「花火だけだぞ」

 

 彼らの優しさに甘えつつ、俺は腰を上げた。



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41 三日月は優しく光る

 あたりはすっかり暗くなったが、沖縄の夏だけあって一切の寒さはない。

 かといってじっとりとするような不快さもなく、傷で熱を持った身体にはちょうどいい気温と湿度だった。

 

「やっぱり、國枝が『貌なし』だったんだ」

 

 みんなから少し離れ、波を眺めているとカルマが話しかけてきた。 

 

 『貌なし』が俺だと疑っていた彼は、一番そのことを気にしているのだろう。

 

「責めるか?」

「そうしたいとこだけどね。あんなのを見せられたら、問い詰める気も失せたよ」

 

 本当なら、嘘をついたことを責め立てたいだろう。そうされても俺は文句を言えない。

 けどカルマは俯くだけで、追及はしてこなかった。

 

「けどさ、やりすぎ。殺し屋相手に一対一を挑むのは……俺も最初はやろうとしたことだから強く言えないけど、銃弾を弾こうとするなんて」

 

 反論する気はない。

 俺は黙って、肯定も否定も示さなかった。

 

「まだ続ける気?」

 

 カルマがそう続けても、沈黙を貫く。

 続けると言ったらまた何か言ってくるだろうし、続けないと言っても嘘だとばれる。

 どちらにせよ、俺はやめるつもりはない。ここで問答をしても無意味だ。

 

「國枝くん、カルマくん! 殺せんせーが呼んでるよ!」

 

 気まずい沈黙は、渚の呼び声に消えた。

 

 

「肝試しだぁ?」

「先生がお化け役を務めます。久々にたっぷり分身して動きますよぉ」

 

 大事な用だからってホテルからちょっと離れたところに集まってみれば、こんなことで呼び出しやがって。

 男女ペアとなって、この先にある洞窟を抜けてくるという遊びらしい。

 

「もちろん先生は殺してもOK! 暗殺旅行の締めくくりにはピッタリでしょう」

 

 タコスケが……

 わかりやすくにやついた顔は、何かしらを期待しているときの表情だ。とくに、顔の端から端まで口が広がっていると、スキャンダルを待ち望んでいるということがわかる。

 男女ペアということを聞いて、恋愛沙汰を期待してるのはすぐにわかった。

 

 下世話だが……俺が強制帰宅させられないのは、殺せんせーの口利きによるところも多い。

 『本当に危なくなったら、先生がマッハで病院に運びますから!』という必死さに、烏間先生は渋々ながらも首を縦に振った。

 せっかくの夏休み旅行を、暗殺とテロリスト襲撃だけで済まさせるのは嫌だったらしい。

 

 ため息をつく。特に何も考えずにくじを引いた。

 

 

「足元気を付けろよ」

「うん、大丈夫」

 

 洞窟の中は暗かったが、殺せんせーが雰囲気を出すためと兼用でロウソクを立ててくれていたおかげで、見えなくなるといったことはなかった。

 

「こういうのは大体森の中とか神社の周りとかだから、こんな洞窟の中なんて新鮮だよね」

 

 俺とペアになったのは、不破だった。

 確かに神社周りなり森を進んでいくなりはよく聞く話だし、俺も経験があるが、こんな閉鎖的な空間で肝試しなんて、遊園地くらいしか知らない。

 本島ならそうそう経験できるものでもない。これもまた、テストに勝った特権だ。

 俺たち二人は怖がったりはしないものの、お互いつかず離れずの距離で先を進む。

 あからさまに怖がったりするような奴はいないみたいで、前からも後ろからも声は聞こえず、静まり返っている。

 

「訊かないのか?」

 

 俺は振り向くこともせず、進みながら口を開く。

 

「え?」

「不破のことだから、質問責めにあうかと思った。正体を隠す自警団なんて、漫画じゃよくある話だからさ」

「あはは、まあ珍しくない設定だよね」

 

 珍しくないどころか、昔からある王道と言ってもいいだろう。

 漫画やアニメ、それどころかドラマや映画でも、あらゆるジャンルで使われているネタだ。

 まあ、俺はそういうのに出てくるような奴らのように物事をスマートに解決できるわけでもなければ、わかりやすい超能力も持ちあわせていないが。

 

「でも、こういうときって大概話したくないことだろうからさ」

 

 これは経験則と言っていいのだろうか。

 自警団がその行為をするのは、大なり小なり理由がある。正体がばれたときにそれを話すやつもいるが、俺は一切喋ってない。

 

「漫画と現実は違う」

「じゃあ話してくれる?」

 

 俺は口を噤んだ。

 

「ほら、やっぱり。こういうときは、周りの人はこう言うべき。『話したくなる時まで待ってる』。くぅ~、一度言ってみたかったんだ!」

 

 満面の笑みを見せる不破に、俺はきょとんとした。

 気にしないように、気にさせないようにしてくれたと気づいたときには、少し頬が緩んでいた。

 観察力に優れた生徒は何人かいるが、それを活かす方法は千差万別。

 カルマは作戦立案やいたずら。渚は暗殺や弱点探し。そして不破は謎解き。

 その三人には、加えて仲間をよく見ていると思わせる言動がある。こうやってその場に合わせて和ませることや、あえて挑発に出ることもある。

 

「だから、みんなあんまり國枝くんのことは喋ってないよ。傷だらけなのはすごい問い詰められたけど」

 

 つまり、俺が暗殺者と戦ったことを知っているのは、あの場にいた奴らだけってことか。

 その中で、俺が『貌なし』だと感づいたのは、実際に戦うところを見た(渚除く)男子と、不破だけだろう。

 

「ありがとね」

 

 不破の言葉に、足を止めてしまう。

 礼を言うのはこっちだ。聞きたいことが山ほどあるだろうに堪えて、しかも俺を気遣ってくれている。

 彼女は俺の袖をぎゅっと掴んだ。

 

「私たちを守ってくれるために一人で戦ったって聞いたよ」

「それは……みんなが勝手に言ってるだけだろ」

「でも結果的にそのとおりになった。だから感謝してるの。でも、もう無茶はしないでほしい……かな」

 

 不破の額が背中に触れる。

 彼女の身体が震えているのを、俺は服越しで感じていた。

 

「漫画だと、裏でひっそり戦う奴はこうやって傷つくのが普通だ」

「漫画と現実は違うんでしょ?」

 

 そう返されて、黙ってしまう。

 

「それに、どっちでも心配する人はいるよ。私だってそうだもん」

「心配?」

「そうだよ。あんなにぼろぼろになって、銃弾を受け止めるなんて……」

「受け止めたんじゃなくて……」

「そういうことじゃなくて、無茶しないでってこと。本当に死んじゃうかと思ったんだよ?」

 

 心配してくれていることを嬉しく思う気持ちもあった。同時に、心配させたことに罪悪感を抱いた。

 やっぱり、俺が弱いからみんなを不安にさせるんだ。

 一人で何でもできるようになれば、きっと誰もが俺を気にしなくなる。どれだけ傷つけられようが、いくら血を流そうが関係なくなる。

 だから俺はずっと隠して、一人で戦ってきた。

 

「みんなには黙っていてくれ」

 

 まだ半数は何も知らない。

 これ以上、俺のことで頭をいっぱいにさせたくない。

 俺は、ただE組にいて、E組の一員として、E組を守れたらそれでいいんだ。

 

「國枝くんがそう言うならそうするけど、でもいいの?」

「ああ」

 

 納得した様子ではなかった。だけど言った手前、彼女は『貌なし』の正体をバラすことはできない。

 

「困ったことがあったら、私たちを頼ってね」

「……ああ」

 

 言いながら、俺は目を逸らした。

 頼ることはないだろう。『貌なし』の共犯者になってくれ、なんて頼めるはずがない。

 嘘でも首を縦に振ってしまえばいいのに、とっさにできなかった自分がいる。

 銃弾が自分の身体を貫く幻覚が、どうしても頭から離れないのだ。あれがもし不破だったとしたら……なんてことを考えてしまう。

 

 不安を取り除くために何か言おうとした瞬間……

 

「ぎゃーーー! が、ガチの幽霊が、琉球の呪いが!」

 

 マッハで通り過ぎていく黄色い物体。見えなくても殺せんせーだってのは声でわかった。

 どうせ何か勘違いしたり、自分のしかけたものに引っ掛かったりしたんだろう。

 

「あのタコのはしゃぎっぷりは、見てて奇妙だな」

「あ、あはは、そうだね」

 

 

 肝試しも終わり、洞窟を抜けた先ではすでに何組かが待っていて、威厳もなく泣いている殺せんせーを見下ろしていた。

 

「なんでこんなに落ち込んでんだ、こいつは」

「この肝試しでカップルを作りたかったんだって」

 

 思春期でなくても、そうやって囃されるのは誰でも嫌だ。あんな邪魔してできるわけないだろうに。

 

「だ、だって見たかったんだもん! 手ェつないで照れる二人とか見てニヤニヤしたいじゃないですか!」

「知らんがな」

「そういうカップルがこのクラスにいたとしてもさ、殺せんせーの前じゃ何もしたくないと思うぜ」

「ストーキングしてくるし」

「盗撮してくるし」

「エロガッパだし」

「酷い言われようじゃありませんか!?」

「自業自得だ、この変態球体」

 

 ふと不破に目線を向けると、誰にもばれないように小さくウインクを返してきた。

 殺せんせーの下心はともかく、まあ、企画自体は悪くなかったと言っておこう。



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42 夜に沈む夏休み

「暑い」

 

 じめじめした熱気に煽られる。

 高温多湿をここまで感じると、帰ってきたという感じになる。

 

 普久間島から帰ってきて、医者からようやく動いていい(ただし、できるだけ安静にしてること)と言われた俺は、夏休みをほぼ宿題の消化と休息に費やしていた。

 

 だが今は外に出て、太鼓の音を聞いて、並ぶ屋台の食べ物を片手に歩いている。

 ……俺は自宅で休んでいたはずなのに、どうして祭りなんかに参加しているのか。

 

 答えはわかりきっている。夏休み最終日に殺せんせーが家に来て、誘ってきたからだ。

 

「まあまあ、せっかくだから楽しもうよ」

 

 あれよあれよという間に連れてこられて少し不機嫌な俺を、カルマがなだめる。

 

 沖縄への合宿以外は、身体を休めるためにあまり動けていない。夏休みらしいことはほとんどしていなかった。

 だからこうやって誰かと遊べるのは嬉しくなる。

 

「岡島、カメラで撮影するのはいいが、目ェつけられないようにしろよ」

「ぐへへ、大丈夫」

「返事が不穏」

 

 あちらこちらを写真に収める岡島にため息をつく。

 他にも金魚すくいで際限なく取っていく磯貝やくじの不正を暴こうとするカルマなど、それぞれが好き勝手に祭りを楽しんでいる。

 

 腕にたくさんの景品を抱えた千葉と速水が、少ししょんぼりしながらこちらに近づいてきた。

 

「射的で出禁食らった」

「イージーすぎて調子に乗りすぎた」

「取り過ぎだ。もうあそこの射的の店、店じまいしてるじゃないか」

 

 こういう屋台での射撃は、高い物になればなるほど取れなくなっているはずだが、この二人には関係ないみたいだ。

 

 普段は賢かったり、思いもよらない才能を見せたりして大人っぽいみんなが歳相応にはしゃいでいる。

 夏休みっつっても勉強ばっかりしてた奴もいるだろうし、良い息抜きだ。

 

 なんとなく、E組が俺を避けていないような空気を感じられて、俺も心が少し軽くなる。

 

 そうやって離れて見ていると、帽子を被って付け鼻をしている殺せんせーが、たこ焼きを持って俺に近づいてきた。

 

「怪我の調子はどうですか?」

「順調に治ってるよ。安静のところを呼び出されてなかったら、治りはもっと早かったかもな」

「意地悪ですねえ」

「意地悪の一つも言いたくなる。起きたら、部屋の窓に先生が張り付いていてびっくりしたんだからな。ホラーかよ」

 

 差し出された一個を貰い、頬張る。

 祭りのときには屋台のたこ焼きや焼きそばが三割増しで美味く思える。

 

 熱さと美味さに気を取られて、俺たちはしばらく無言になった。

 屋台を回るみんなを視界に収めながら、楽しそうにしている姿に安堵する。

 あれだけの大きな戦いが終わったせいか、なぜかこの平穏が続くような気がする。

 

 本当に、何の脅威もなくこの日々が続いてくれたらいいのに。

 

 近くに人がいないことを確認して、俺は口を開いた。

 

「いつから……いつから、俺が『貌なし』だと気づいてた?」

 

 素手の『グリップ』、暗器使いの『影』と戦っていた時に、殺せんせーの様子がちらりと見えていた。

 烏間先生ですら驚愕の表情を浮かべていたのに、こいつはそれほど衝撃を受けていない様子だった。カルマと同じだ。

 ある程度、すでに察しがついていたから驚くことが少なかったのだろう。

 

「疑いを持ったのはイリーナ先生が赴任してきた日。確信したのは修学旅行の時です」

 

 俺は目を見開いた。

 そんなに早く気づかれていたなんて思いもしなかった。その時以降だって、こいつは普通に接してきていたじゃないか。

 

「あの誘拐騒ぎがあった時、茅野さんと神崎さんを探している途中で『貌なし』の姿を見ました。その人物のにおいが、校舎の傍で暴れた人物と……そして君のと一致します」

 

 殺せんせーがにおいに敏感なのは知っていたが、それほどまでに鋭敏なのは予想外だ。

 

「なぜ『貌なし』になったのか、教えてくれませんか?」

「先生がそんな姿になった経緯を教えてくれるなら」

 

 いっけん変わらないように見える殺せんせーの表情が、わずかに歪んだのを見逃さなかった。

 

 シロや堀部のこと、そして今の反応から、こいつが改造された人間だということはほぼ確定と考えていいだろう。

 それがこんな生物になるのはにわかに信じがたいが、一番説明のいく説でもある。

 そもそも堀部が一番最初に顔を出した時に、ほとんど正解を彼自身が言っていた。 

 

 言う気はないみたいだ。なら俺も言う義理はない。

 俺と殺せんせーの間にある心理的な距離というか壁というか……とにかく、自分のことを隠すがゆえに相手を問い詰められない。

 

 二人の間に流れていた沈黙は、突然鳴った俺のスマホで崩された。

 見ると、メールが来ていた。

 

「おっと、今日はこれで失礼します」

「用事ですか?」

「ええ。医者から呼び出しです。二学期が始まる前に、体調を確認しておきたいと」

 

 この後花火大会があるようだが、これ以上殺せんせーと話すのはごめんだ。

 また明日、と別れを告げて、俺はその場を去った。

 

 

「いつもの人と違いますね」

「ああ、今日は忙しくてね。代わりに私が呼ばれたんだ。大丈夫、任せてくれ」

 

 もうあまり人が残っていない病院に着くなり、すぐ診察室に通された。

 そこにいたのは、俺が夏休み中お世話になった医師とは違う人だった。

 

 まあ、俺は別に構わないが……代わりに、という割にはこれまでのカルテを持っておらず、見てもいないのが引っ掛かる。

 通常は、今までの経過を見ながら処置を下すものじゃないのか?

 人によりけりなのだろうか。向こうが一番詳しいはずだから、やり方に口をはさむ気はないが。

 

 こんな夜に急に呼び出したり、妙なことが多いな。

 

 医者に傷口を見られ、なぞられるように軽く触れられる。

 痛みが走るが、それまでの治療の甲斐あってか、呻くほどでもない。

 

「問題なく治っていっているみたいだね。後遺症もなし」

 

 医者も満足そうにうんうんと頷いた。

 なぜか、その様子に緊張感を感じる。全身がこわばっているように見えた。

 

「なら、もういいですか」

「ちょっと待ってくれ」

 

 彼は俺を手で制すと、注射器を取り出した。

 いつの間に中身を入れていたのか、毒々しい緑色が注射器を満たしていた。

 

「なんですか、それ」

「怪我をしたとき、十分な治療はせずにしばらく動いていたそうだからね。菌が残ってないとも限らない。それを消す薬さ」

 

 専門用語は避けて、わかりやすく説明してくれる。

 しかし、俺は違和感を覚えた。そういうのは、一番最初のときに調べて摂取させるようなものなんじゃないのか?

 何にせよ、嫌な予感がする。健康になるとしても、それを身体の中に入れたくない。

 

「いや、いいですよ。今まで問題なかったんですし。何かあればすぐ連絡しますから」

「そうか、なら……」

 

 俺が拒否して、医者がくるりと後ろを向いたその瞬間、感じていた違和感ははっきりと形になった。

 油断させたと思ったのだろう。だが一拍置いて、医者の身体に力が入るのを見逃さなかった。

 

 ばっと振り返って、手を突き出してくる。俺は注射器を持った彼の手を掴んだ。

 すんでのところで、針が触れるのを止める。ぐぐぐとより力が込められた手が迫ってきて、なんとしても刺そうとしてくる。

 負けじと針の先を逸らして、手を弾きながら相手の鼻に拳を叩きつけてやった。

 医者はよろめいて、後ろの棚に頭を打ってしまい、そのままずるずるとへたりこんだ。打ち所が良かったのか悪かったのか、とにかく一撃で気絶してくれたようだ。

 

 息を整えて、注射器を手に取る。中身をよく見ると、なにやらとても小さな球体が一つ浮かんでいた。見た目だけの判断だが、ゴムボールのように柔らかそうだ。

 素人が見ても、治療に使うものだとは思えない。

 この医者は何者か、この注射器は何か、打たれていたらどうなっていたか。

 ぞくりと悪寒が走る中、振動と軽快な音が俺のズボンポケットから発せられる。スマートフォンに着信が非通知で来ている。

 

《前評判のわりには、よく動けるじゃないか。君が『貌なし』だっていうのは本当の事みたいだね》

 

 電話に出た瞬間、そんなことを言われる。

 その声は忘れようもない。堀部イトナの自称保護者であり、E組のみんなの命を危険にさらした張本人。

 

「シロ……っ」

 

 これで一つ謎が解けた。

 この偽医者はシロが差し向けた刺客だ。なら、残る問題はもう一つ……

 

「俺に何を打とうとしたんだ」

 

 この注射器はいったい何なのか。俺に何をしようとしていたのか。

 だが返ってきたのは、耳障りなくすくすという笑い声だった。

 

《あの場で、君はイトナ以上の力を見せた。そのことにとても興味をそそられてね。だから実験台になってもらおうと思ったんだが……》

 

 あの場?

 こいつの前で力を見せたのは、プールの時だけだ。そのことを言ってるのか?

 あれはあいつが油断してて、なおかつ周りが水でいっぱいだったからだ。

 

《そんなことより、君のクラスメイトが危ないよ》

「なんだと?」

 

 急にそんなことを言われて、俺は困惑する。

 こいつ……プールでやったみたいに、E組を人質にとる気か?

 

 殺せんせーは夏祭りに出向いてる。

 ならば、そこにいない奴らが標的になっている。だが、誰だ? 危ない目に遭わされそうなのは、いったい誰だ?

 

《夏休み中で、誰もいない教室では誰が守ってくれるかな?》

 

 教室。

 その言葉で、俺は一気に青ざめた。

 

 律が……律が危ない!



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43 レッドゾーン

 夜の校舎。

 非科学的な存在が出るんじゃないかと思うほど不気味な静けさ。

 そのすぐ外に、下卑た笑いを浮かべる大人が一人。

 

 そいつが何かをする前にたどり着けた俺は、すぐさま前に立って妨害をする。

 

「よう、この間ぶりだなぁ」

「鷹岡ァ……」

 

 その男、鷹岡は突然俺が現れたのにも関わらず、余裕の表情をそのままににやけた。

 

「そう睨むなよ。丸腰の男相手に」

 

 その通り、鷹岡はカーゴパンツにタンクトップという出で立ち。だが相手は元軍人。身体が武器となりうる。

 

「お前が俺たちに何をやったのか覚えてないはずはないよな」

「ああ、おかげであのガキの顔が離れねえんだ」

 

 がりがりと、鷹岡は自分の顔を掻き毟る。

 普久間島でも見せた、イライラが頂点に達した時の癖だ。

 

「起きてても寝ててもあのガキの笑った顔が目に焼き付いて襲ってくる。今度こそ、今度こそぶっ潰してやる。賞金なんて二の次だ」

「夏祭りに来てたら会えたぞ」

「それだとあのタコに邪魔されるだろ? 封じるためにはまず人質を取らないとな」

 

 内心舌打ちする。

 激情家のくせに、変なところで冷静だ。

 標的へ何をすればダメージを与えられるか、そのためには何が必要かを見極めている。

 こういうのが一番厄介なんだ。

 倫理の回路が切れてるくせに、やることはきっちりしてやがる。

 

「夜の校舎で遊ぶやつが何人かいるんだってな。ま、いなくてもあの箱に爆弾でも仕掛けりゃ、生徒思いの先生は手出しができなくなっちまう」

 

 律のことか。

 最先端技術の結晶を壊してしまえば弁償なんてもので済むわけがないが、そんなことはもう奴には関係ないのだ。

 

「復讐が終わったら、じわりじわりと一人ずつ殺してやるよ。みんな寂しくないままめでたく卒業だ」

「鷹岡ァ!」

 

 怒りのままに俺は駆け出し、がっしりとした身体へタックルする。正面から受け止めた鷹岡は、一瞬よろめいたものの両足でしっかり立っていた。

 鷹岡は強い。

 地力と鍛錬、そして経験に裏打ちされた戦闘能力への自信。

 渚はそれを、『暗殺』という舞台に上がらせたことで無力化した。だが俺にはそんなことできない。この身ひとつで戦うことしかしてこなかったのだから。

 しかし退くわけにはいかない。

 強くなると決めた。一人で戦い、全てを薙ぎ倒すと決めたんだ。力量の差があろうが、ここで奴を倒す以外の選択肢はない。

 

 腹部への殴打にも、鷹岡は怯まない。打撃を受ける箇所に力をこめれば、急所へのダメージも著しく軽減される。

 対して俺が受ける場合、圧倒的な筋力の差のせいで、防御しきれない。

 潰し合うくらいに遠慮のない殴打の応酬のなか、お互いに攻撃を受けた回数はほぼ同じだが、俺が不利なのは明らかだった。

 ならばと喉元を狙った突きもかがんで避けられ、そのまま身体を持ち上げられる。じたばたと抵抗しても、鷹岡は意に介さない。

 

「うおおおおお!」

 

 雄たけびを上げながら、鷹岡は俺をぶん投げる。

 E組教室の窓にぶつけられた俺は、派手にガラスを割りながら教室の床に叩きつけられた。

 ガラスの破片がいくつも刺さったのがわかる。

 

 よろよろと立ち上がると、鷹岡もガラスを踏みながら入ってきたところだ。

 腕を前に構えて、相手の動きを待つ。

 俺のふらふらとした状態に油断したのか、次の鷹岡の動きは単純だった。

 トドメのつもりだった大きく引いてからのパンチを避けつつ、腕と肩を掴んでから浮いた足を引っかける。

 背中から床に衝突した鷹岡もこれでガラスまみれだ。間髪入れず馬乗りになって、何度も顔面にパンチを入れる。

 

「なめるなよ、ガキが!」

 

 その表情にドス黒い怒りを感じたときにはもう遅かった。

 みぞおちに鷹岡の拳がめり込む。胃が逆流する感覚と身体に穴が開いたような痛みに襲われ、嗚咽を漏らす。

 続いて容赦ない蹴りが、俺の顔面を潰すように飛んできた。

 吹き飛んだ俺の身体は片岡の机だけでなく、その隣の菅谷のも巻き込んで倒れさせる。

 暗い教室の中、ちかちかと目の前で星が瞬いた。

 

 横転した菅谷の机に手をつきながら、ようやくのことで立ち上がる。その瞬間、後ろから頭を掴まれ、何か固いものにがつんとぶつけられた。

 気絶の一歩手前で、それが俺の机だと理解する。身体どころか、頭も働かなくなってきた。

 だが倒れさすことを許さず、鷹岡は俺の肩を掴んで正面を向かせた。

 

 ふっと息を吐いての回し蹴りを、腕を前に出して防ぐ。衝撃で俺の身体は吹き飛び、大きな音をいくつも立てて、机が倒れていく。びりびりと腕が痺れ、全身が熱く感じられる。

 反対側まで転がった俺の身体は、寺坂の机の前でようやく止まった。

 

 突き刺さったガラスの破片が、さらに深くめり込んだ。

 手放せばいとも簡単に切れてしまいそうな意識の糸を手繰り寄せる。それを許さないように、鷹岡は俺の腹を何度も蹴り上げた。

 

「おら、おら、おら!」

「やめてください!」

 

 鈍い音だけが響く中、悲痛の叫びがこだました。

 教室の隅で光が灯る。律だ。

 普段なら静かなはずなのに、異様な音が聞こえるのに反応したのだろう。

 

「あぁ? そうか、ここにはお前もいたなぁ。お前目当てで来たってのにすっかり忘れてたよ」

 

 がしゃり、と大仰な音がして、律が武器を出す。だが鷹岡はすぐさま俺の頭を掴んで自分の前に持ち上げた。

 

「所詮BB弾だが、虫の息のこいつに当たればどうなるかな」

「……っ」

 

 俺を盾にされて、律は動けない。

 市販で売られているエアーガンでさえ歯を砕き、目を潰し、そうでなくても当たれば内出血を起こさせるほどの威力がある。

 それがマッハ20の怪物を捉えるために強化された銃ならなおさら危険だ。

 

「武器を収めろ。じゃなけりゃこいつを殺す。安心しろ、大人しくすればこいつを病院送りで済ませてやるよ。俺の狙いは、あくまであのタコとクソガキだけだ」

 

 律は数瞬迷ったあと、うめき声を上げるだけの俺を見て武器を収納する。

 もし喋るだけの元気が残っていれば撃てと言ってたが、息をするので精一杯だ。

 

「お前もわかったな? 人質になってくれりゃそれでいい。これ以上痛い目見ずに済むぜ」

 

 ぱっと頭を離され、鷹岡が大きく腕を広げる。

 歓迎のつもりか? こいつはまだ家族ごっこをしているつもりなのか?

 俺は彼の肩に手を置く。鷹岡はこれを好意的に受け取ったようで、俺を安心させるためか家族ごっこのときの顔に戻った。

 

 そうして隙のできた顔面へ拳を叩き込む。

 

 渾身の一撃は鼻を折り、血を噴き出させる。

 俺はさらに椅子を踏み台にして跳躍、つま先を素早く鷹岡の顎に当てる。

 攻撃を受けた彼も、限界の身体に無理をさせた俺も派手に床を転がった。

 

 固い床に、受け身も取らず衝突したせいで、肺の中の空気が一気に吐き出される。

 咳き込みながら起き上がって膝をつく。

 新鮮な空気とはっきりした視界を求めて顔を上げると、何かが迫ってきているのに気が付いた。よける暇も力もなく、ぶつかる。

 俺が倒れるのと少し遅れて、その何かが近くに落ちた。

 

 誰かの机だ。投げられたせいで中身が露わになり、教科書などに加え、終わったテストのプリントなどの必要ないものが床に散乱する。

 持ち主はかなりずぼらな性格のようだ……と、痛みが過ぎるためか、戦闘とは関係のないところへ意識が向く。

 

 この机は寺坂のだ。教科書やノートに書いてある名前で気づいたんじゃない。彼だけが持っているものを見つけたからだ。

 学校にこんなもん持ってくんなよ。心の中で毒づきながら、俺はそれを掴む。

 

「わかったよ。お望みどおり、痛めつけてやる。死なない程度にな!」

 

 倒れたままの俺に追撃しようと、鷹岡はまた思いきり足を引いた。

 ボールを蹴るように俺の顔面を捉え、骨を折り、意識を刈り取る……はずだった。

 俺は掴んだ棒状のもので弾き、もう一方の軸となっている足にそれの先端を触れさせ、スイッチを押した。

 

「うああぁっ!?」

 

 悲鳴を上げ、後ずさったのは鷹岡だった。

 俺が拾ったのは、夏休み合宿で寺坂が持ってきていたスタンバトンだ。

 そういえば、あのときからまだ殺せんせーに電気を試せていない。隙あらばやってやろうと準備していたのだろう。それがいま役に立った。

 

 倒れた姿勢のままの俺を前にして、不思議と鷹岡は動いていない。

 電気のショックよりも他のことに怯えている様子が引っ掛かった。

 朦朧とした頭でも、答えはぱっと出た。スタンバトンで電気を流されたことで、あの時の恐怖が蘇ったのだ。

 

 普久間殿のヘリポート、そのときの渚との戦い、いや一方的な暗殺。

 今、奴の脳裏には渚の笑顔が張り付いていることだろう。あの時のトラウマが瞬時に鮮明に蘇っているのだ。

 

 勝機が見えたことで、俺の身体は動き出した。

 震えている相手の膝裏を叩いて、跪かせる。間髪入れずに喉元へ……と思ったが、寝たままの体勢では届かず、胸に電流を流した。

 悲鳴を上げながら痙攣する鷹岡は倒れることすらできず、その場でただ呆けるように天を仰いでいた。

 俺は立ち上がって、その視界に入る。

 

「く、くそが……」

 

 まだ気絶はしていない。それどころか彼の顔は怒り一色に染められている。

 

「くっっそがぁ! なんでだ! なんでてめえらは揃いも揃って俺の邪魔ばっかするんだ!」

 

 身体は動かず、しかし感情をぶちまける鷹岡。

 

「俺はただ、お前らに教えて、タコを倒させようとして、烏間より上だってことを証明したかっただけなんだ!」

 

 その言葉を聞いて、俺まで怒りのボルテージが上がる。

 こいつの自尊心のために、普久間島でもここでもE組は危険にさらされた。あの時の毒が本物だったら、E組の半分が死んでいたのだ。

 勝手だ。どいつもこいつも、どこかの誰かを落としている。

 もうたくさんだ。

 

「何度でも襲ってやるぞ。お前ら全員殺して、烏間も殺してやる。当然あのタコもだ。俺が生きてる限り、どこからでも抜け出してお前らを殺してやる!」

 

 それ以上、鷹岡を喋らせる気はなかった。

 スタンバトンで、あるいは拳で何度も何度も暴力を続ける。

 合宿のときに俺が与えられなかった痛みをしっかり味わわせるように、一発一発を力の限り振り絞って。

 腕を思いきり振り上げ、脳天をかち割る勢いで振り下ろした。

 ガツンという鈍い音とともに、鷹岡がどさりと倒れる。

 

 馬鹿が。これくらいで倒れてんじゃねえ。

 鷹岡は頭から流血し、だらんと力が抜けている。それで許す気は到底ない。

 

 首を絞めるように掴みながら、顎を、歯を、鼻を、砕けるところは全て砕くつもりで殴る。

 意識がない相手を痛めつけていると、修学旅行の時を思い出す。

 痛みを受ける覚悟もないのに、他人へは簡単に傷を残そうとする。こういう奴らはいつだってそうだ。

 

「やめてください。もう気絶しています!」

 

 律の言葉が、俺を止める。

 

 ――気絶で済ませていいのか。こいつがどれだけ危険な存在かわかってるだろう。

 

 感情がそう訴えてるけれど、拳を振り下ろせない。

 E組を守るため。それを理由に人を殺してしまえば、責任の一端をE組に背負わせることになる。

 俺が勝手にやったことだとしても、そう感じてしまえば、俺の中ではそれが真実となる。

 だから殺すことは……一線を越えることは意地でもしなかった。それを、こんなくだらない男のために無駄にするのか?

 

 ――殺してしまえばいい。特殊な能力のない俺が強くなるにはそれしかない。E組を守るのはそれしかない。倫理観を取っ払って、するべきことをしろ。

 

「お願いです……」

 

 ――生かしてどうなる。これまでの傷と、これから起こりうる被害を考えろ。クソ野郎の命をその手で奪うことに、なんの躊躇いがいる?

 

「私はそんなことをする國枝さんを見たくありません!」

 

 今までの俺の理性と、今の俺の衝動と、律の言葉。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって煮え立っている。

 

 ――殺せ!

 

「やめてください!」

「うおおおおおおおおお!」

 

 獣の咆哮をあげ、俺は……鷹岡を離した。

 

 吐きそうなくらい叫び続けて、底から貌を見せる狂気を振り払う。

 喉が枯れて酸欠になると、くらくらしつつも落ち着きを取り戻せた。

 

 鷹岡の大きな身体を見下ろして、自分の中の激情が恐ろしくなった。

 人を殺すなんて、そんなことしたくない。俺にはそんなこと出来ない……はずだ。しかし、もう少しでやりかけた。

 頭がそれをよしとした。殺すことを正当化するようなことさえ考えた。

 

 よかった。本当の本当に危なかったけど、なんとかなった。だが俺はもう……限界だ。

 緊張と力がぷつんと切れ、俺は鷹岡の横に倒れてしまう。

 

「國枝さん。國枝さん!」

 

 律の声が響くが、それに応えることはできなかった。

 指一本すら動かせない。痛みは鋭く、あるいは鈍く訴えてくるのに、頭は朦朧として現実が遠ざかっていく。

 

「國枝さん!」

 

 その声を最後に、俺の意識は途切れた。



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44 どうか私を傷つけて

 熱を持った全身が、動くたびに痛みを訴えてくる。

 普久間島で切り刻まれたときよりも熱く、重い。まぶたを開けることも苦痛だった。

 いつの間にか運ばれたのだろうか。ベッドに横たわってることに驚いた。

 律が誰かに連絡してくれたのか? いや、しかしここは……病院じゃなく、誰かの家だ。

 

 窓から差し込む淡い光が部屋を照らす。まだ夜か。それとも一日経ったか。

 

 起き上がろうとして、ズキリと走った痛みに耐えきれず床に転がってしまう。

 その音を聞きつけて、足音がどたどたと近づいてくる。

 

「もー、ダメじゃん。ちゃんと寝てないと」

 

 扉を開けて開口一番、明るい声と顔が入ってくる。

 E組の誰かかと思ったが、そいつは予想外の人物だった。

 

「立花……?」

「はーい、立花風子ちゃんですよ。おはよ、響くん」

 

 

「これは……いったいどういうことだ?」

 

 律に呼び出されてE組の校舎に赴いた烏間は、散乱するガラスとあちこちに吹き飛ばされた机やイスを見て驚愕した。

 なにより、血だらけで横たわる鷹岡の大きな体を見た時には、さしもの彼でさえ一瞬こわばったくらいだ。

 ここに来る途中で、律からある程度の話は聞いていた。國枝が鷹岡と戦って、いまにも死にそうだと。

 すぐさま駆けつけたが、問題の國枝の姿がない。

 

「烏間先生……國枝さんが、國枝さんが……」

 

 教室の隅から律の声が聞こえる。彼女らしからぬ焦りを含んだ声だ。

 

「律、これはいったい……」

「鷹岡さんが私を人質にしようとして……國枝さんが助けに来てくれたんですが……國枝さんも倒れてしまって……」

「國枝くんはどこに?」

 

 目を伏せるそぶりをして、律は唇を震わせた。

 

「『レッドライン』が連れて行ってしまいました」

 

 

「ここは?」

「私ん家」

 

 頭がはっきりしていたら理解できただろうか。

 俺は校舎で鷹岡と戦い、倒れて……そのあと立花の家で目覚めた。

 どう考えても、前と後ろの関係性が見えない。

 E組の誰かの家ならわかる。病院のベッドの上でも、あるいはどこか別の施設でもいい。それなら、律が誰かを呼んだのだろうと理解できる。だが、なぜ立花が……

 答えを知っている人間が目の前にいるのだ。俺は考えるのをやめ、素直に質問することにした。

 

「これはお前が?」

 

 俺は自分が寝ているベッドと、身体に巻かれている包帯を指差した。

 

「そ。E組に行ってみたら、血だらけで倒れてるキミがいたから、頑張って運んだんだ。いやあ、重いこと重いこと」

「なんでお前が……」

 

 上半身を起こそうとすると、ずきりと全身が痛んだ。

 

「おっと、まだだめだめ。いっぱい怪我してるんだから安静にしてないと」

「鷹岡がどうなったのか確認しないと……」

 

 押しとどめようとする立花に抵抗して、俺はベッドの上に座り直す。

 どこもかしこもじんじんと、熱と痛みを訴えてくる。立とうとしても、身体がそれを許してくれない。

 

「ああ、あれ、鷹岡って言うんだ。隣で倒れてた男の人」

「あいつは?」

「しーらない。興味ないし。誰が倒れてようが死んでようが、それが響くんじゃなければどうでもいいよ」

 

 立花は当たり前のように言った。

 中学生が持つにはあまりにも荒廃した倫理観。俺が恐怖を覚えた自分の衝動よりも先の領域。

 

「なんでE組に来た」

「なんか急いでる響くんを見かけたから、まずいことが起きそうだなーって。で、尾行したの」

「まずいこと?」

「だって、自分を傷つけてみんなを守る『貌なし』でしょ?」

 

 心臓が跳ねる。

 唐突な突きつけに、俺は動揺を隠すことができなかった。

 こいつはそれを知っているはずがない。

 俺が鷹岡と戦った時、『貌なし』の装備を着ている余裕はなかったから、私服のままで行った。げんに、今もそうだ。

 なのにこいつは、確信を持った目で俺を見てくる。

 

「なんで……」

「知ってたよ。キミと殴り合いしたときにね」

 

 いや、お前と殴り合いなんかしたことない。そう言おうとして、口が止まった。

 

 ごくりと喉が鳴る。

 

 今まで戦った中で、一人だけ正体の知れない謎の人物がいる。

 そいつの顔を殴った次の日に、口の中を切ったと言ってきた人物。俺と同じように顔を隠し、夜に出歩き、人を殴るそいつは……

 

「お前が『レッドライン』だったのか」

 

 立花は頷きこそしなかったが、笑みを顔いっぱいに広げた。

 

「とっくに気が付いてると思ってたよ。だって私は最初からキミが『貌なし』だってわかったからね」

「最初?」

「そ、最初。私とキミが初めて戦った時から」

 

 すんすんと鼻を利かせ、彼女は恍惚の笑みを浮かべた。

 

「匂いが同じだもん」

「匂い?」

「そ、匂い」

 

 それが全ての答えだというように、立花は頷いた。

 

「人より嗅覚が鋭いんだ、私。分泌されるものから感情がわかるくらいにはね」

「だから、俺の正体がわかったと?」

 

 その言葉は、にわかには信じがたい。

 俺が鼻を利かせても、近くにいる彼女の匂いがかすかに感じられるだけだ。

 なのに、初めて会ったあの日、雨が降っていたのにも関わらず、俺の匂いを嗅げたというのか?

 しかもその匂いを頼りに、正体を暴いてみせただと?

 

「実際、そうなんでしょ。信じられなくても、それが答えだよ」

「だけどそんな……」

「否定できるほど、キミは『人間』っていうのを知ってるの?」

 

 彼女は心底不思議そうに首を傾げた。

 

「キミが1000人の人間の何もかもを余すことなく知ってるとしても、人類の全体の1%にも満たない。0.015%くらいかな。それで『あり得ない』なんて言うのは馬鹿だと思うけどねー」

 

 世の中は馬鹿ばっかり。そう付け加えて、立花は続ける。

 

「常識とか当たり前とか、そんなんに縛られてるから『貌なし』や『レッドライン』が中学生だってバレないんだよ。可能性がある・ない、確率が高い・低いじゃなくて、人間の考えうる乏しい限界を超えた存在は、()()んだよ、響くん」

 

 得意げになって、立花は胸を逸らす。

 その言葉に少し惑わされそうになる。

 殺せんせーや……いや、烏間先生やビッチ先生だって俺の常識外の人間だ。今でこそ見慣れたが、ありえない存在が周りにいることで、俺の常識が広がっているだけにすぎない。

 

 そこまで考えて、俺は首を振る。

 そのことは……超人的な人間がいることは、今この場では関係ない。

 

「どうして俺を助けたんだ。お前は俺をぶっ倒したいんじゃなかったのか」

 

 腑に落ちないところはそこだ。俺と『レッドライン』は敵どうしのはず。

 校舎で倒れている俺を見つけて、さらに痛めつけようとは思っても、助ける必要があるのか?

 

「うーん、違うんだよなぁ。そこのところを誤解してる。響くんもマスコミも」

 

 やれやれ、というふうにため息をついて、立花は俺を見た。

 ぐるぐると混沌が渦巻いている、異様な目で。

 

「私はね。痛みを与えて、痛みを与えられたいの」

 

 は?

 

 急に変なことを言い出す立花に、俺は唖然とすることしかできなかった。

 

「私のお母さんは、いつもいつも私を殴ってきた。嫌だったよ。なんでこんなことするのって何回も泣いた。けどお母さんはやめてくれなかった」

 

 立花はそっと自分の身体を撫でた。そして、服をたくしあげて身体を見せる。

 そこには無数の切り傷や痣、火傷がいっぱいに広がっていた。痛覚に訴えてくるような生々しい痕が残っている。

 

「でね、私気づいたんだ。お母さんはきっと、私を愛してるからこんなに傷をつけてくるんだって。大切な人に消えない傷を刻み込むことで、至上の愛を示す。自分の存在を刷り込む。痛みが強ければ強いほど、愛も強いんだってわかったの」

 

 その時のことを思い出しているのか、立花の目は底なし沼のように濁りはじめ、口の端は大きく歪む。

 

「だからね、私もお返しにいっぱいいっぱいお母さんを殴ったんだ。それまでの分も含めて、私の最高の愛情を示したの。そしたらね……そしたら、お母さん動かなくなっちゃった」

 

 ぞくぞく、と立花の身体が震えた。

 罪悪感? 後悔? いいや、快感だ。その当時のことを思い出して、こいつは悦に浸っている。

 

「おかしいよね、私はお母さんの愛をずっと受け止めてきたのに、お母さんは私を受け止めてくれなかった。結局、お母さんはそこまでの器しかなかったんだよ。私に愛を示しても、私からの愛は受け止めきれない。私の愛を受け止めてくれる人はきっといる。絶対いる。絶対見つけだしてやるって何人も何人も襲ったよ」

 

 狂ってる。

 話を聞くほどに気分が悪くなって、吐きそうになる。

 

 立花の母は、怪物を作り出した。対処できないほどのケダモノを。

 痛みに耐えかねての自己防衛か、それとも本当にそれが真実だと思い込んでいるのか、立花は感情のままに身をねじる。

 その狂気の笑みは、俺に向けられた。

 

「そんなとき、『貌なし』と出会ったんだ。私の愛を受けて、しかもたくさんの痛みを与えてくれる人」

「あれ以降『レッドライン』が姿を見せなくなったのは……」

「運命の人が見つかったから。もう無駄に探す必要もなくなったからだよ」

 

 立花が俺の頬に手を添える。

 

「キミは私の運命の人。私の足りない部分を埋めてくれる人。キミもそう思うでしょ? 痛みが、痛みこそが生きてる証だと考えてる。つけられた傷のぶんだけ、倒した人の数だけ、自分が何かの役に立ってると思ってる。ね、ここで傷つけあってさ、骨も折って肉も砕いて、立てなくなったら倒れて、そのまま死んでいこうよ」

 

 愛を訴えるように、曲がった主張を真剣に伝えてくる。

 

「耐えられないくらいの痛みを刻み合って、一緒に死のう?」

 

 その動きに、表情に、目に嘘はなかった。

 本当に彼女と俺が望めば、この場に最低でも一体の死体が出来上がることになる。

 しかもどちらにしても彼女はこれ以上ない笑顔になるだろう。

 だが……

 

「断る。俺は人を殺す気はない」

 

 俺は彼女の手を弾く。当然の答えだ。

 俺は誰を殺す気もないし、今は死ぬ気もない。

 越えてしまえば終わりの一線を跨がないくらいの正気は、まだある。ギリギリだけど。

 

「このままじゃずっと独りだよ? 誰も響くんの本当のことを知らずに、知ったふうな顔で、友達みたいにすり寄ってくるだけだよ?」

 

 立花はむっとした表情を向けて、問答を続ける。

 

「それは……俺がみんなに話していないからだ」

「言っていようといなかろうと、キミを本当に理解しようと思えば、無理やりにでも手を引っ張ってくれるはずだよ」

 

 その瞬間、腹が裂けたかのような痛みに襲われた。

 ほぼノーモーションから、立花が俺の腹を殴りつけたのだ。

 俺の身体は、その一撃に耐えきれず床に倒れてしまう。

 

「ほら、こうやって傷ついても、誰も助けてくれない。誰も本当のことを聞いてくれないし、言わせてくれない。キミの中にある大きな闇を一緒に抱える覚悟がないから。その気がないから。『決心がつくまで無理に聞き出さない』なんて、いま解決するつもりのない人が言う常套句だよ」

 

 彼女は俺の上半身を持ち、無理やり持ち上げて再びベッドに座らせる。

 今の攻撃でぐったりとなってしまった俺はなすがまま。せめてもの抵抗として、ぐらつく身体を腕で抑える。

 

「E組の人たちはね、響くんが独りで戦うのを嫌ってるふりして、結局全部キミに背負わせてる。これはみんなが望んだことなんだよ。響くんが苦しんでいるのを嫌悪しながら、その状況を作り出したのは周りのみんな。みんなが良しとして、キミも受け入れた」

「俺が?」

「とぼけても無駄だよ。やめられないんでしょ。もう戻れないところまで来てるんでしょ。痛みを感じることでしか、生きている実感が味わえなくなってるんでしょ」

 

 なにをふざけたことを言ってるんだ。まるで、まるで俺が暴力衝動を持っているみたいに言うな。

 そう思いつつ、俺はそれを強く否定できずにいた。

 鷹岡を前にして溢れだした殺意が、未だにこびりついている。

 

「私と響くんはとっても近くて似ているんだ。私ならキミの暴力を受け止められる。キミを理解してあげられる。キミが傷つくのを否定しないし、傷つけてあげる。罪悪感もなにも感じる必要はないよ。私とキミは愛し合える。キミは『レッドライン』を止めることができて、社会の役に立って、生を感じられる。だから、ねえ、傷つけてよ。心ゆくまで殴って殴って、私のことめちゃくちゃにして。お互いこれが偶然だなんて思ってないでしょ? 傷ついて、傷つけるのことを求めている人間が、自分のほかにもう一人。私たちは互いに互いを求めてる。こんなに、こんなにお互いがかっちりはまった関係なんて他にないよ」

 

 やめろ。

 お前の過去には同情するが、俺まで異常な人間だと言うな。

 俺は、俺はただE組の助けになれば……

 

「私たちは歪んでる。お互いが必要なの。私たちしかわかり合えないの。同じ歪んだパーツでしか」

「俺はお前を必要としてない!」

 

 かっとなって怒鳴る。

 潰れかけの喉から絞り出した叫びに迫力はないが、否定の意思は十分だ。

 認めてはいけない。それだけは認めちゃいけないんだ。

 俺の欲望のために、E組のみんなを利用しているだなんて、決して認めたくない。

 

「頑固だなぁ。じゃあ、少し手伝ってあげるよ。キミが私を殴るのに言い訳できるように」

 

 はあ、とため息をつく彼女は、立ち上がってこきりと首を鳴らす。

 

「私の事、言ったらいいよ。先生にでも警察にでも。でもキミが誰かに言ったら、もしその気配を少しでも感じたら、E組の誰かを殺しちゃうかも」



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45 私の赤

 立花が『レッドライン』であること。それを誰かにばらせば、彼女はE組の誰かを傷つけるかもしれない。

 そんなことを言われて、俺は冷静ではいられなくなる。

 

「お前……」

 

 挑発に乗ってはいけないとわかっている。

 だが、ここで無視もできない。

 立花は俺と戦うためなら、俺と傷つけあうためなら、E組を襲うことに躊躇がないのだ。

 

「さ、どうする? 大切なE組のみんなを殺すなんて言われたら、放っておくわけにはいかないよねぇ」

 

 ずたずたの身体を引きずるように立ち上がる。

 ぐらりと上半身が揺れ、倒れそうになるが、なけなしの力を足に込める。

 

「E組に手を出すな」

「私に命令しても無駄ってことはわかるでしょ? キミがその手で止めない限り、私は止まらない」

 

 にやりと笑って、彼女は俺から一歩遠ざかる。

 

「さあ、『貌なし』こと國枝響はどうするべきでしょーか?」

 

 俺はぎりりと歯を噛んで、拳を固める。

 どうするべきか。それは一つしかない。

 俺が動くしかないのだ。たとえそれが彼女の願う通りだとしても。

 

「そう、それしかないんだよ、響くん。私たちにはそれしかないんだ」

 

 

 律が烏間見せた映像には、確かに『レッドライン』という名で有名になった何者かが、國枝を担ぎ上げて去っていくところが映っていた。

 その名の由来の通り、赤い線の入ったレインスーツ。それだけでは『レッドライン』が誰かを特定することはできない。つまり、國枝がどこにいるかがわからないのだ。

 彼がスマホを持っていれば話は違ったが、鷹岡との戦いで教室の床に落とされていた。

 『レッドライン』に助けられたにせよ、拉致されたにせよ、危険な状況には変わりないのだが、烏間は固まったまま頭を悩ませた。

 

「どうしたらいいんでしょう……みなさんに協力を仰いだ方が……」

「いいや、それはよくない」

 

 烏間は焦りつつも、冷静に返した。

 

「國枝くんの近くには『レッドライン』がいる。生徒たちを巻き込むのは危険すぎる」

 

 『レッドライン』がどこにいるか探すのは、大人の仕事だ。

 とはいえ、単純に人手が足りない。仕方なく、烏間は律の手を借りることにした。

 

「俺はあいつにこのことを伝えてくる。律はSNSやニュースで情報がないか探ってくれ。俺の部下にも連絡を頼む」

「はいっ」

 

 

 狭い部屋は、戦うのには好都合でありつつ、不都合だった。

 避けるスペースがないぶん、俺の攻撃は当たりやすい。だが同時に相手の攻撃も受けやすい。心身ともに傷だらけで疲れ切った俺を、立花は容赦なく叩く。

 意地と気力だけで俺も食らいつき、殴る、蹴る。

 お互いに潰し合うだけのそれは、戦いと呼べるのだろうか。

 べとべととまとわりつく汗と血が気持ち悪い。それでもやめられない。

 

 ここで、ここで立花を止めて……止めて……止めてからどうする?

 こいつを倒して、その後はどうすればいい? 俺はどうしたいんだ?

 誰にも認められずに、俺は……

 

 こんがらがった俺に、彼女はタックルをかましてくる。踏ん張って、ぶつかってくる勢いをそのままに、ベッドに叩きつけた。

 大げさな音が鳴って、それが壊れる。ひしゃげたベッドの上で、抵抗なく倒される立花。その横に俺も勢いついて横たわってしまった。

 このまま眠りに落ちてしまいそうだったが、気を奮って立花の顔を思いきり殴りつける。

 

「えへぇ、やっぱり響くんが一番私のことを考えて殴ってくれる。こんなに、こんなに嬉しいの初めてだよ。こんなに満たされてるの初めて」

 

 お互いの荒い息が静寂にこだまする。暗い闇の中でも、彼女の目は怪しく光っていた。

 

「あのときも思わずくらくらしたもん。まさかこんなに早く埋め合える人に会えるなんて」

「こんなことを続けてたら死ぬぞ」

「わかってないなあ、響くん。私にとって、これが生きるってことなんだよ。キミに殺されることが、キミを殺すことが、生きてるってことなんだよ」

 

 床に手をついて立ち上がろうとする立花の顔に、もう一発拳を入れる。

 素直に殴られるままではいてくれず、彼女は反動で蹴り返してきた。二人とも受け身をとれず、床に転がる。

 息切れに混じるうめき声と笑い声。どちらに余裕があるのかは、一目瞭然だ。

 なんとしても起き上がろうとする俺を抑え、立花は俺に馬乗りになった。

 

「それに、響くんもそうでしょ。こんなこと続けてたら死んじゃうよ。だけど続けてるのはなんでなの?」

 

 俺は黙った。

 体力が底をついたからではない。体調が万全だったとしても答えられなかっただろう。

 自分自身でも、もうよくわからなくなってきた。

 ただ、ぼんやりと、悪を野放しにすればE組が危険に晒されることに危機を感じて動いているだけだ。

 

 彼女は俺に覆い被さった。

 頭が割れたように痛み、どくどくと波打つ。血が出ていてそうなっているのか、それともただの脈動か。区別がつかないほどにぐちゃぐちゃになってしまっている。

 

 立花は俺の頭や口から出ている血を手で拭って、自分の顔に塗り付け、俺の頬にも擦り付けてきた。

 両者の顔に、身体に、赤い線が刻まれる。

 

「ね、すごい鼓動でしょ、どれがどっちの血かわからないでしょ。これがすっごく気持ちいいよね。ね、いま、私とキミに境界線なんてないんだよ。おんなじ。融けて、混ざり合ってる。この感覚、わかるよね?」

 

 わかるか。わかってたまるか。

 俺はお前とは違うんだ。違うはずなんだ。違っていてくれ、頼むから。

 

「ね、殺して。殺してよ。めっちゃくちゃに掻き乱して、ありえないくらい痛めつけてから殺して」

 

 立花の目はいっそうぎらついて、俺を捉えた。固く握りしめられた拳が振り上げられる。

 それを受ければ、俺は再び意識を失うだろう。

 そして俺が眠りこけている間に……こいつはどうする? 俺を殺すか、他の誰かを襲いに行くか。

 

 なんだっていい。頼む、動いてくれ。

 

 願いが通じ、動いた身体が振り下ろされるパンチを受け止めた。

 それを握ったまま引っ張って、彼女を床に落とす。うつぶせに倒れた彼女の首に腕を回し、そのままホールドした。

 

「ひびきく……」

 

 乱されないように、言葉を発させないようにぎりぎりと締め上げる。

 タップをするでもなく、じたばたと暴れるでもなく、しかしぞくぞくと快感に身を震わせているのがわかった。

 

「あ……がっ……これ、これっ……」

 

 立花の手が俺の腕を掴む。がっちりと爪が食い込んで、裂けそうなほど痛い。

 それは腕をはがすための手ではなかった。抵抗の力じゃない。

 この期に及んでも痛みを与えるためだけの、彼女なりの最大の愛情表現だ。そう理解してしまって、少し染まってしまったような恐怖を振り払うために集中する。

 びくびくと身体が痙攣する立花に、俺は容赦なく力を強める。

 

「すごい、いいっ……これぇっ」

 

 潰れそうな声を発しながらも、喉から漏れる声は恍惚に満ちていた。

 

「ひびき……く……もっと、もっ……」

 

 がくん。

 糸が切れたように、立花の身体から急に力が抜けた。

 ぐったりとした彼女からは、先ほどまでの生き生きとした熱は微塵も感じられない。

 俺は力を緩め、急いで彼女の息と脈を確かめる。

 ……よかった。生きている。

 

 俺は壊れたベッドを背に、呼吸を繰り返した。喉が収縮して、むせこんでしまう。

 このまま眠りについてしまいたかった。だけど、ここで休み、また目を覚ませば同じことが繰り返される。

 汚れた身体をどうにか引き上げて、力なく立つ。一歩一歩、小さく前へ進む。

 意識は途切れ途切れで、目を開けているのか閉じているのかわからなかった。今歩いていることさえ夢なのではないかと思ってしまう。

 

 いつの間に部屋を出て、立花の家を出たのだろうか。辺りはすっかり暗くて、どこを進んでいるのかも検討がつかない。

 不意に、何かに躓いてしまった。小石か、あるいは何もないのに転んだのかも。そんなことはどうでもよかった。

 うつぶせに倒れた身体は言うことを聞かず、一切の活動を停止してしまった。

 這いつくばってでも前に進もうという意思すらも、熱と痛みと暑さに削り取られていく。

 じわりじわりと暗闇が俺の視界を支配していき……俺の意識はその中へ落ちていった。



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46 霧

 意識が覚醒しても、少ししか光を感じられなかった。

 目を開けているのによく見えないのは、腫れているからだ。その他にも、いろいろガタがきている。

 細胞が、動くことを拒否していた。

 

「まだ寝てたほうがいい。ひどい傷なんだからな」

 

 声がしたほうを振り向くと、烏間先生がいた。いつもどおりスーツを羽織って、キリっとした顔。

 

「ここは?」

「病院だ。君が倒れているのを見つけて、すぐに運んでもらった」

 

 そこでようやく、俺は窓から差し込む光に気が付いた。

 立花の家から出たところからの記憶がないが、地獄のような夜で二度気絶し、そしてなんとか生還できたみたいだ。

 ぼんやりとした頭で、ゆっくりと生きている実感を噛みしめる。

 

「鷹岡は?」

「処理した。できるだけの罰を与えるつもりだ。誰がやつを脱走させたかも吐かせる」

 

 俺はため息をついた。

 

「シロですよ」

「なに?」

「夜の校舎で、生徒が遊んでることがあるのを知ってた。鷹岡はそのことを知る間もなくいなくなったから、誰かの入れ知恵」

 

 痛みにあえぎながら身体を起こす。立花の家で目覚めた時より強い感覚が、俺を締めつけた。

 

「だがその情報を持っていても、殺せんせーを罠にはめるために生徒を巻き添えにする殺し屋がいないのは今までで証明済み。となれば、なんでもやるようなやつを頼るしかないが、殺せんせーの能力を知らないやつには任せられない。渚への復讐に燃える鷹岡はちょうどよかった」

 

 ちゃんと喋れているのか怪しかったが、烏間先生の様子を見るに、言葉がわかる程度には話せているらしい。

 

「そして、鷹岡を選んだのは、E組が殺せんせーの弱点なこと、かつ教室に律がいること、かつ殺せんせーの能力を知っている、かつ鷹岡を脱走させることのできる力のある者」

 

 そこまで言わずとも、すでに烏間先生にも黒幕が分かっていたことだろう。 

 シロだ。生徒は先生の弱点だが、同時に計画の妨げでもあると気づいたシロが、生徒を恨む鷹岡を脱走させた。

 俺は深く息を吸って、吐き出す。

 

「あくまで推測ですけど」

 

 とは言いつつ、確信はあった。

 なにしろ、鷹岡が校舎を襲ってくることを俺に教えたのは、シロ本人だったからだ。

 何の目的か、単なる嫌がらせか。俺と鷹岡を再び出会わせた。

 

「まあ安心してくれ。どうせ鷹岡は一生出られん」

「どうだか」

 

 合宿時に鷹岡を牢屋にぶち込んだ時にも、そう思ったのだろう。だが結果は見ての通りだ。

 俺は先生たちを……周りの大人を信用する気にはなれなかった。

 その様子を察してか、烏間先生は話題を変えた。

 

「律から聞いた。『レッドライン』に連れ去られていったようだな。どうやって抜け出した?」

 

 俺は黙る。

 そのことを説明しようとすれば、『レッドライン』が立花風子だということも言わなければならない。

 それがバレて、立花が窮地に追い込まれることになれば、彼女が何をしでかすかわからない。

 

「どうして、俺たちを呼ばなかった?」

 

 沈黙を貫く俺に、昨日のことを訊いても無駄だと悟ったのか、烏間先生は質問を変えた。

 

「あなたを呼んで待っている間に何か行動されたら嫌だったからです」

「軍人に真っ向から挑むなんて無謀すぎる」

「わかってますよ」

「わかってない!」

 

 何かを叩くことはしないが、怒鳴る烏間先生。

 その矛先は俺に向けられているが、なんだか他人事のように感じる。珍しいものが見れた、だなんてことを考えすらした。

 

「一歩間違ってたら死んでいたかもしれないんだぞ!」

「大げさですよ」

「大げさじゃない。今の身体を見てみろ」

 

 普久間島での傷も癒えないまま鷹岡と戦って、しかもその後すぐに立花と死ぬ直前まで命を張り合った。

 身体のあらゆるところが傷つき、ひび割れ、それでも壊れない。自分でも驚くほどタフだと思う。

 

「違いますよ。怪我したくらいで死ぬかどうか、を大げさって言ってるんじゃないんです。俺が死ぬくらいで、大げさに騒ぎすぎなんですよ」

「君は……みんなの友達だろう。悲しむ人だっている。俺だって、國枝くんのことは大切な生徒だと……」

「駒ですよ。殺せんせーを暗殺するための一つの駒。殺す気はないですから、駒以下でしょうけど」

 

 俺がそう言うと、烏間先生は愕然とした表情を浮かべた。

 

「ずっとそう思ってたのか。普久間島のときも?」

 

 また沈黙。

 今度のそれには肯定を含んでいることに気づき、彼の肩が落ちたように見えた。

 

 先生たちにとって、E組を取り巻く大人たちにとって、所詮俺は捨て駒に過ぎない。

 殺せんせーを殺すための、あるいは殺せんせーの教育の成果を見せるための駒。

 駒と指揮者の間にあるのは利害関係だけであり、そこに信頼はない。

 

「君がやってることは、法を超えてる。正義の行いじゃない」

 

 切り口を変えて訴えてくる。だが見当外れだ。

 

「正義だなんて一度も思ったことはありません。やるべきことをやってるだけだ」

「君がやるべきことじゃないだろう。危ないことは俺たちに任せてくれたらいいじゃないか」

 

 その言葉にかっとなり、立ち上がる。

 

「だったら、あんたなら救えたか?」

 

 人を諭すくらいなら、お前はどうなんだ。俺に『貌なし』をやめさせるくらいのことをしてくれたのか?

 

「修学旅行で攫われた茅野や神崎、普久間島でも何人もが殺されそうになった。鷹岡に気付いて、爆弾を仕掛けられる前に律を助けられたか? カツアゲされかけた竹林は? リンチされそうになったカルマは? 本物の銃弾を受けそうになったみんなは!? あんたなら救えたか!?」

 

 見てただけじゃないか。それどころか、知りもしない事件もあった。

 それなのに、まるで俺たちを、俺を知ったような口で叱ろうとするのが頭にくる。

 堰切れ、溢れる感情は言葉を荒げさせた。

 

「あんたは、あんたたち先生は、大人は、俺たちを守ると約束した。その度に何度失望させられたと思う。俺は何度裏切られたらいいんだ!」

 

 ずっと信じてた。

 真剣な目で、口調で、俺たちのことを心配してくれたから。約束してくれたから。

 

 一歩間違えたら死んでいた? 俺がやるべきことじゃない?

 なのに俺が『貌なし』なのは、お前らが……っ。

 

 ……言っても無駄だと、すでにわかっていたはずだ。なのに期待を持った俺が馬鹿だった。

 

「俺はあんたたちとは違う」

 

 法や倫理や、彼の言うような『正義』がやるべきことを邪魔する。誰もが脅威に気付かないふりをして、血を流すのを躊躇う。

 俺は違う。

 この世に、頼りになるものはないことを知っている。だから、俺が一人でやるしかないのだ。

 心が擦り切れるまで。この身が朽ちるまで。

 

「何が君をそこまで……」

「世界が危機に陥るとして、それを阻止できるならあなたは何を差し出しますか?」

 

 急な俺の問いに、烏間先生はたじろいだ。

 

「それはいま……」

「関係あります。答えてください。何を差し出せますか?」

 

 答えはすでに浮かんでいるのだろう。俺が何を言いたいのかも。

 それを認めてしまうかどうかを悩んで……

 

「……何でも」

 

 烏間先生は正直に答えた。

 

「俺にとっての世界は、E組なんです。ここが自分の居場所だと感じる。みんながそう感じさせてくれた。ここを守るなら、俺も何でも差し出せる。あなたはそれを否定できないでしょう」

 

 烏間先生は俯いてしまう。

 俺と同じ、沈黙の肯定。

 

 罰せられる行為だったとしても、正義や倫理を飛び越えて、やるべきことがある。

 そのことを、烏間先生は熟知していた。

 そんな彼は、俺を引き留められずに見送るしかない。

 

「新学期早々で悪いですが、今日は休みます」

 

 

 暗い暗い、太陽が沈みきった夜。

 E組校舎の奥、森で、サンドバックを叩く音が鳴り響く。傷口が開いても、構わずに殴り続ける。

 じっとしていたら、嫌なことばかり思い出されて、止まっていられないのだ。

 上半身に巻かれた包帯はいたるところが赤く染まり、汗と混じって気持ち悪さが伝う。

 

 かさり、と音が聞こえた。

 振り向くと、竹林がそこにいた。

 

「どうしてここを?」

「探し回ったんだ。國枝の家も、街も、ここも」

 

 余計にイラついて、再びサンドバックを殴る作業に戻る。そう、これは作業だ。感情を拳に乗せてぶつけるだけの作業。

 

「E組を抜けたらしいな」

「……そうだよ」

 

 パンチを繰り出し続ける俺に、竹林は答える。

 俺が休みなのを心配する何人かが、連絡をくれていた。竹林がE組を離れ、A組になったということを。

 

「やっとエンドから抜け出せたな」

「君は何も言わないのかい」

「悲願だったんだろ。親に認めてもらうために、ずっと勉強を頑張ってきたんじゃないか」

 

 彼の辛さはわかっている……とは言えないが、苦労は知っている。

 両親が医者で、兄弟も超有名大学の医学部に進んでいる。しかし彼自身は落ちこぼれのE組。

 竹林の心が折れそうなとき、何度も話を聞いたことがあった。そのときの表情は、中学生にしては苦々しいものだった。

 

「医者は努力に努力を重ねてもなれるかどうかの厳しい道だ。俺に構ってる暇なんてないだろ」

 

 たとえ竹林がE組のままだったとしても、俺の心配をする時間なんてない。

 せっかくA組に戻れたいまは特に、勉学に励むべきだ。暗殺に使っていた時間が、そのまま勉強の時間に充てられるのだから。

 

 俺は動きを止め、一呼吸してから包帯を外していく。

 血と汗で重くなったそれを無造作に捨てて、新しいのを巻きなおす。

 

「話はそれだけか? ならさっさと帰れ」

 

 言っても、竹林は動かなかった。

 

「君が僕に話しかけてくれた時のことを覚えているかい?」

 

 代わりに、そんなことを言う。

 覚えていないはずがない。あれは、E組になってからすぐのことだった。

 

----------

 

「僕の……おすすめのアニメ?」

「最近アニメにはまっててさ。竹林が詳しいって聞いたから、おすすめのやつとか教えてくれないかと思って」

 

 『貌なし』として活動を始めた当初、夜に跋扈しては興奮して眠れない日が続いた。

 ふとテレビを点けると、たまたまやっていた深夜アニメが映った。

 どうせ布団に入っても寝られない。最初は時間つぶしのために見ていたそれに、俺はいつのまにか興味を引かれていた。

 もともと漫画も読んでいた俺がどっぷりと漬かるのにそれほどかからず、めりこんでいった。

 しかし最近はどんどんとアニメの数が増えていっている。それらを全てチェックするには余裕と時間、知識が足りない。

 誰からだったか、竹林がアニメ好きだと聞いた俺は、その知識を借りるべく彼に話しかけた。

 最初は驚いた彼だったが、事情を話すと快く教えてくれた。それだけでなく、古今東西のアニメについて、これは見ておいた方がいいというものをそらで羅列してみせた。

 挙げたものについてはDVDも持っているという。

 

「貸そうか?」

「いいのか?」

「観賞用、保存用、布教用とあるからね。明日にでも持ってくるよ」

「本当か。助かるよ」

 

 たとえ布教用といっても、気に入らない者に貸したくはないだろう。

 怪しく眼鏡を光らせる彼の口角が上がったのを見て、俺も微笑んだ。

 

「普通なら、こういうのはその、引いたりするもんじゃないのかな」

「引く? なんで?」

「オタクというのは増えていっているけど、世間的に見ればまだまだ認められているものじゃないから」

「そんなもんか? だけど俺は気にしたことはないな。オタクってのを実際に調べたわけでもないし、関りをもってきたわけでもないしな。イメージや他人の話で決めつけるのは好きじゃない」

 

 それに、と俺は付け足した。

 

「実際にこうやって話してる竹林は、悪くは見えない」

 

 ネットやテレビで、害のあるオタクの報道を見かけることがある。

 しかしそれは一部の話であり、かなり曲げられ、悪意のある編集によって伝えられているものが多い。

 

「……僕のおすすめが君に合うとは限らないよ」

「見なけりゃわからないだろ?」

 

 合わなければ最後まで見ずに返すかもしれないが、それもやはり見てから判断するしかない。

 

「それに、現実と非現実の二つの世界を楽しめている竹林は、単純に俺の二倍以上の見識があるってことだ。そのお前が勧めるものは単純に楽しみだしな」

 

 俺はにっと笑って返した。

 

----------

 

「あの言葉で僕は救われた。勉強もできなくてオタクだった僕が、自分を出せるようになったんだ。A組に行ってわかったよ。いまの僕はE組を心地よく思ってるし、勉強ができるようになったのもE組のおかげだ。そしてそこに君がいるから、今日までやってこれた。その君が、学校にも行かずになにやってるんだ」

 

 俺は彼の目も見ずに、包帯を巻き終えた。

 

「僕はE組に戻る。だから君も……」

「俺のことを、お前がE組に帰る理由にするな」

 

 A組にいたければそのままいればいい。戻りたければそうすればいい。その葛藤に、俺が介在する余地はない。

 将来を決める大事な選択に、俺を巻き込んでくれるな。

 俺はまたサンドバックを殴り続ける。新品の包帯が赤く滲むのにも関わらず、むしろそれが目的かのようにひたすらに打ち込んだ。

 

「将来の医者として、これ以上は見過ごせない」

「お前が見過ごせなかろうが、俺には関係ない」

「僕がE組じゃなくなったから?」

「お前が何であろうと、やめる気はない」

 

 これが俺だ。これまでも、これからも。

 

「認められなくても、裏切られようとも、俺はこれをやめるつもりはない」

 

 これしかないんだ。

 立花の言うことは、一部当たっていた。

 この生き方しかできず、このまま生き続けるしかない。だからといって彼女と同類なわけでは、決してないが。

 

「E組に戻るのは勝手にしろ。俺も戻る。文句はないだろ」

 

 説き伏せるのは無理だ。

 俺は立花とは違う人間だが、お前とも違う人間なんだから。

 

 サンドバックを叩く音だけが夜の空気を震わせる。

 いつの間にか、竹林はいなくなっていた。



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47 融け混ざる表と裏

 二学期になって初となる登校はきつい。坂道を上るだけでも身体に鞭打つようなものだった。

 まだ暑い気温ではあるが、全身に巻いた包帯をなるべく見せないようにして長袖を着てきたため、じっとりと汗をかいている。

 それでもなんとか教室の前までたどり着き、一呼吸。なんでもない顔を作って、扉を開ける。

 

「遅いじゃん、國枝。もう昼だよ」

 

 すぐにカルマが声をかけてくる。

 その通り、時刻は正午を少し過ぎたところで、今は昼休みだ。

 

「ああ、休みボケが治らなくてな。生活リズム戻さないと」

 

 わざとらしくあくびをしながら、流れるように嘘をつく。

 鷹岡との戦いでめちゃくちゃになった机も窓ガラスも元通りになっている。

 やったのは烏間先生か殺せんせーか……どちらでもいいか。

 

「って、その顔なんだよ。そんな怪我、昨日してなかっただろ」

「寝ぼけてたせいで打っちゃってさ。いやあ、痛いのなんのって」

 

 カルマ以下、クラスの半分はこのことを信じていなかった。

 とはいえ追及してくる輩はいない。みんな口をつぐむだけだ。

 

「國枝くん、少しいいですか?」

 

 納得していないカルマが言葉を発する前に、いつの間にか後ろに立っていた殺せんせーが声を発する。

 触手で扉の外を指差し、自ら先導しだす。

 俺は抵抗せずについていくことにした。

 

「なんだ。なんかやらかしたのか?」

「始業式に出なかったお説教かな。あーあ、怒られてくるよ」

 

 寺坂に軽い調子で返して、俺は殺せんせーの後ろを歩く。

 連れられた先、職員室には他に誰もいなかった。

 

「三日前のことを聞きました。ずいぶん無茶をしたようですねえ」

 

 俺が烏間先生の席に座ると、彼は単刀直入に話題を切り出した。

 

「沖縄から戻ってきてから話し合いをする約束でしたが、遅れてしまい、こんな事態になったのは先生の責任です」

 

 こいつは、俺があんたたちをどう思ってるか烏間先生から聞いてないのか?

 聞いてないんだろうな。知っていたら、こんな上っ面なだけの言葉をかけてくるはずがない。

 おそらく烏間先生は、地球を破壊しようとする超生物に相談することをためらったのだろう

 俺はあえてそこを利用することにした。

 

「すみません。偶然、鷹岡がここを襲撃してくる情報を掴んだもので、いてもたってもいられず……」

「君の行動は素晴らしかったです。おかげで、律さんは無事でした。ですが、君も自分の身体を大切にしてください」

「あはは、はい。肝に銘じておきますよ。本当に馬鹿なことをしました」

 

 思ってもないことを言う。

 ここであーだこーだ言っても、何も変わらない。正体がばれたとしても、今まで通り普通の振りをするだけだ。

 

 反省しているとみて、殺せんせーはそれ以上謝りも叱りもしない。

 

「滅茶苦茶痛いですが……大丈夫ですよ。さすがに体育はできませんが」

 

 頷く殺せんせー。

 昼休みが終わるまでは、他愛ない話で間を埋めることが出来た。

 所詮はこの程度。

 ずっとやってきたこと。ずっと、やってきたことだ。

 

 

「フリーランニング?」

「國枝くんは見学だ」

 

 俺が何か言う前から、烏間先生は釘を刺してきた。

 

 二学期に入って最初の体育は、岩場や木を利用して追走・逃走を行う訓練。

 これをこなせれば、障害物なんてなんのその、むしろ足場の一つとして使える。

 

「フリーランニングは全身を使う必要がある。そうでなくとも、今の君に体育をさせる気はないがな」

「異存はありませんよ。見学に甘んじます」

 

 ずたぼろで、顔にも痣がある状態のまま体育を受ける気はない。

 俺は大人しく腰を下ろした。

 

 烏間先生が身体の動かし方を一通り教えたあと、殺せんせーがゲームを提案した。

 

 ケイドロである。

 逃げる者と捕まえる者の二チームに分かれ……という説明はいいか。

 捕まえる方は烏間先生と殺せんせー。逃げる方はビッチ先生含めたそれ以外。

 殺せんせーがいるのは卑怯だ……と思ったが、彼が動くのは終了前一分間のみ。それでも全員捕まえるのは容易だろうが。

 

 捕まった人用のサークルの中で、俺は渡された計算ドリルを解くだけの作業に入った。

 本来は捕まった者の『刑務作業』だが、ずっとここにいなきゃいけない俺にとってはただの課題だ。

 

 開始してから二分くらい経ったころ、岡島、千葉、不破、速水がとぼとぼとこちらに向かってきた。遅れて、菅谷も来る。

 早速捕まったみたいだ。

 

「はやいな」

「いや、烏間先生めちゃめちゃすげえよ。あっという間にタッチされてさ」

「まあ、あの人もの凄く鍛えてるだろうからな……」

 

 何も考えずに逃げれば、音や地面に残る痕跡から、すぐに追いつかれるだろう。

 俺はビルの屋上から屋上へ飛び移る技術を持っているが、こういった自然の中での立ち振る舞い方はあまり経験がない。

 E組の中で多少優位に立てても、教えられることはない。

 

「あんた、他の人となにかあったの?」

 

 烏間先生に捕まった生徒たちが続々と集まり、ドリルを解かされるなか、狭間が俺に話しかけてきた。

 

「なんで?」

「闇が充満してんのよ、今のE組は。とくにあんたからモクモクとね」

 

 場の空気というやつだろうか。

 たしかに二学期始まって以降、E組の空気は一部混濁としている。

 竹林が戻ってきて喜んでいる一方で、俺の姿を見て不安そうな顔をのぞかせてくる。

 仲の良かった俺と竹林が全く喋らなくなり、烏間先生ともぎくしゃくしている状況に、おろおろとうろたえる者も少なくない。

 

 特に、事情をほとんど知らないビッチ先生からは目つきが悪いと何度も言われた。

 知るか。もともとこんな顔だ。

 

「それについて文句があるのか」

「暗い感情を育てるのは悪くないわ。飼いならして利用できるならね。問題は、あんたのそれはただ抑えつけて、必要のないところで放ってるってこと。感情が爆発して乗っ取られれば、それは人間から遠ざかることと同じよ。あんたはそうなりたいの?」

 

 なりたい、なりたくないの問題ではない。その怒りこそ俺だ。乗っ取られているのではなく、俺そのものだ。

 狭間に言わせれば、いまの俺は人間ではないのだろう。存外、それは間違っていないのかもしれない。

 

 どう答えようかと悩んでいると、岡島が殺せんせーに何か渡しているのが見えた。

 写真。おそらく沖縄で撮った、彼秘蔵の巨乳女性の写真だ。それを受け取って、殺せんせーがひょいひょいと触手を回す。『行け』の合図だ。

 

 草木に隠れていた杉野と渚が急いで飛び出してくる。

 殺せんせーが見張っている限りはどうしようもないが、こうなればいないも同然。

 捕まっていた者たちはタッチされて解放されていく。

 

「ほら狭間、お仲間が来たぞ」

 

 さすがにずーっと見張りの役目を放棄するわけでもないだろう。烏間先生が戻ってこないとも限らない。こうやって無駄話できるのも一瞬。

 狭間は俺をちらりと見て、戦場に戻った。

 

「殺せんせー……」

「あ、國枝くんもドリルを解いていてください。先生ちょっと忙しいので」

「うっわぁ、わざとらしい無表情」

 

 目と口を文字通り点にして、まったく読めない表情を作り出す彼に、俺は笑った。 

 これでいい。いつもどおり、変わらない様子を見せれば殺せんせーは何も疑ってこないだろう。

 

 ちなみに勝敗は逃げる側の作戦勝ちでした。



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48 汚れたマスクを被るとき

「ふう……」

 

 登校途中の坂を上り終わり、一息つく。

 本当なら安静にしていなきゃいけない身体だが、暗器使いからもらった塗り薬のおかげで回復が早まっている。

 あの薬、何にでも効くんだが成分はなんなんだろう。単純に怖い。

 

 そんなわけで勉強するには差し支えない状態になったが、まだ残暑の中でこの登校路はきついものがある。

 

「國枝くん、おはようございます。調子はどうですか?」

 

 殺せんせーがさっと現れた。

 

「どうも。今日も暑いですが、まあ健全に過ごせてますよ」

「夏休みを終えて休みボケになることなく、勉強にフリーランニングに二学期も順調ですねえ。國枝くんのケガも治ってきているみたいですし。みなさんの成長が嬉しいです」

 

 心底嬉しそうににやにやとする彼と一緒に教室の前まで肩を並べる。

 俺の身体を気遣ってか、彼は一歩前に出て扉を開けた。

 

「こうやって月日を重ねて、先生も尊敬される大人になって……って、汚物を見るような目!」

 

 殺せんせーが後ずさる。

 すでに登校してきている生徒全員が、じとっとした嫌な目をしていた。

 

 その手には新聞紙やら雑誌やらが広げられていて、どうやら一つの事件について注目しているらしかった。

 

「なんだ、どうしたんだ」

「これ、見てみろよ」

 

 吉田が渡してきた今日の朝刊を受け取る。

 そこに大々的に書かれているのは、椚ヶ丘市で多発している下着泥棒事件について。

 犯人の特徴は、黄色い頭の大男で、『ヌルフフフ』と笑う素早い人物だそうで。

 

「なるほどな……」

「ちょちょちょ、これが先生の仕業だと思ってるんですか!?」

「そんなことは言ってないだろう。ただ……悪いことしたら早めに謝ったほうが傷は浅いらしいぞ?」

「確実に疑っていますよね!?」

 

 つってもなあ。犯人は粘液まで出すらしいじゃないか。そんな生物、周りを見渡してもそんなに多くは……

 

「先生は潔白ですよ! なんなら、先生の理性の強さを証明するために今から机のグラビア雑誌全部捨てます!」

 

 殺せんせーはむきになって、職員室に向かう。

 いやまずグラビアを常備してる時点で理性が強いとはいえないんじゃ……という呆れは置いておいて、俺たちは仕方なく彼についていった。

 

「ほら、見てなさい!」

「机の中パンパンパンパンにグラビア雑誌はいってるじゃねえか」

「まだパンパンパンくらいですよ!」

 

 いや、そんな謎な言い訳されてもな……

 

「これもこれも全部捨て……」

 

 と、次々に雑誌を取り出す殺せんせーの触手に、あるものが引っ掛かった。

 思わず、みんなドン引きしてしまう。

 ブラジャーだ。それも二つ。

 

「お、おい……殺せんせー……」

「マジかよ……」

 

 だらだらと汗やら粘液やらを流す殺せんせー。

 

「ちょっとみんな! これ見て、クラスの出席簿!」

 

 それに追い打ちをかけるように、岡野がやってくる。

 彼女が開いた出席簿、その女子の名前の横にアルファベットが書かれている。いや、茅野だけ『永遠の0』と書かれてあった。

 

「こ、これは……間違いない。女子のカップ数だ」

 

 岡島が戦慄する。

 いや、お前が『間違いない』っていうのはおかしくない?

 

 

 出そろった証拠を前にして言い訳のできなくなった殺せんせーを、E組は軽蔑の眼で見た。

 もちろんそんな状況で授業が円滑に進むわけもなく、暗い雰囲気のまま放課後になった。

 

「完全に罠だね」

 

 殺せんせーが出ていった後で、カルマがけろりと言う。

 

 俺もカルマと同意見。今さらになって、こんな証拠がばんばん出てくるのはおかしい。

 マッハ20で動ける奴の目撃情報が複数あるのも不自然だ。

 

 まあ、普段が普段だから、疑う者が半分、信じる者が半分ってところだが。

 休み時間に一心不乱にグラビア見漁ったりしてるし……だらしないところは、夏休み暗殺で見せた動画で全員に知れ渡ってるしな。

 

「問題なのは、犯人が俺たちのことをよく知る人物だってことだな」

 

 岡島が、生徒の名簿帳を見てうんうんと頷く。

 

「ほら、この名簿の横のカップ数。一人も間違えてねえ。茅野の『永遠のゼロ』含めてな」

「せいっ!」

「ぐはあ!」

 

 茅野にみぞおちを突かれた岡島は放っておいて、俺は腕を組んだ。

 

「ってことは、相手は俺たちとある程度近しい存在か、ものすごく調べ上げてきてる奴か」

「かなーり手ごわいかもね。國枝は安静にしておいてよ。必要なときは呼ぶからさ」

「信用ならない」

「え~、ひどいな~。傷ついちゃった」

 

 んなこと思ってないくせに……

 

 夏休みを終えてからのカルマたちは、必要以上に俺に構ってこようとする。

 登下校も誰かが一緒にいるし、トイレにもついてくる。

 

 心配してるというのもあるだろうが、『貌なし』になるのを止めようとしているみたいだ。

 おかげでここ最近は、派手に動けていない。

 こいつらも夜に外を出まわるのは避けてるみたいだし。

 

「ここで殺せんせーに恩を売っておけば便利だしね。それに、こんなやり方は気にくわないよ」

「そう! 犯人に、私には将来性があるって言ってやらなきゃ!」

「……それはともかくとして、十分に警戒しながら追い詰めないとな。こっちに危害を加えてこないとは限らん」

 

 ぷんすこ怒る茅野をなだめつつ、俺は慎重になるように伝える。

 綿密にこちらの情報を調べてきた奴は、どいつもこいつも危険なのばっかりだった。

 今回もその可能性がある。

 

 今日は情報を集めて、明日みんなで作戦を立てようという不破の号令を受けて、俺たちは解散した。

 

 

 家に帰るなり、新聞紙や雑誌を机の上に広げ、めくる。

 

 どの記事にも、まだ大きな事件として取り扱われておらず、三面や四面でほとんど同じことが書いてあった。

 黄色くて丸い頭に、黒い服、そして奇妙な笑い声。たしかにどれもが殺せんせーの特徴と一致する。

 

 それだけ読んでも、罠だということはすぐ理解できる。

 まずおかしいと思うのは、黄色い頭だ。

 顔を塗っているのか、それともなにか被り物をしているのか。どちらにせよ、目立つ色にしているのは理に合わない。

 

 もう一つは、笑い声。

 ヌルフフフ、という声は殺せんせー以外では聞いたことがない。

 殺せんせーを知る何者かが、殺せんせーを真似ているのは確かだ。その狙いは一つ。おびき出すためだ。

 あるかどうかはともかく、威厳を大事にしている先生は必ずや犯人を捕まえようとする。そこが犯人にとってのチャンス。 

 

 それだけならよかったが、カルマが先に犯人を捕まえようとしているのが問題だ。

 下着泥棒が殺せんせーを引っかけようとしているなら、それ相応のモノを仕込んでいるに違いない。

 今まで策を弄してきた奴らは、危険な手ばかりを使ってきた。そこに突っ込もうというなら、それを止めなければいけない。

 言い合いではらちが明かない。俺が先に止めないと……

 

 おかしいと思ったのは、考えをまとめながら包帯を巻きなおしている時だった。

 

 静かすぎる。

 いつもなら、他愛もない話だったり、または暗殺の話だったりで何度かメッセージが飛んでくるはずだ。

 今日はそれがない。

 

 スマホを確認してみると、やはり通知設定の間違いでもないようだ。

 まあそんな日もあるか……と納得しようとして、いやいやと首を振る。

 こうやって油断しきったところに、悪はやってくる。修学旅行の時だって、夏休み合宿の時だって、夏祭りの時だって。

 

「律」 

「はい、どうしました、國枝さん?」

 

 モバイル律に話しかけると、即座に返事が返ってきた。

 

「カルマに連絡したい。電話をかけてくれ」

「……どんな用件ですか?」

「それはあいつに言うから、電話を」

「出られないようです」

 

 コールする素振りすら見せない律に、俺は違和感を覚えた。

 

「だったら、カルマの場所はわかるか?」

「……」

「なんで黙ってるんだ」

「言えません」

「どうして」

「私には言えません」

 

 わからない、ではなく、言えない。

 その言い回しと頑固な様子に疑念が生まれ……そして意図を理解した。

 

「律、お前……みんなに連絡させないようにしてるのか」

「……はい」

 

 画面に映る律は目を逸らした。

 

「みなさんからのお願いです。國枝さんに何も教えないように、と」

 

 その返答に、俺は疑問を持った。

 なぜそんなことを? 俺をのけ者にして、なんのメリットがあるんだ?

 

「もしかして、もう犯人を見つけたのか? いや、それよりも俺に何も言ってこないつもりか?」

「わかってください、國枝さん。みなさんはあなたの身体を心配して……」

 

 そう聞いて、俺は焦りを感じた。

 

「わかってないのはお前だ。相手は殺せんせーをおびき出そうとしてるんだぞ。殺し屋なら、カルマたちが巻き込まれることになる。いい加減理解しろ。殺し屋は容赦なくみんなの命を奪うことが出来るんだぞ! それをお前らはどうして……」

 

 ここで言い争っても無意味だと気づいて、俺は一度落ち着こうとした。

 だけどじわじわと嫌な予感が迫ってくる。

 

「カルマの場所を教えろ」

「……嫌です」

「律!」

「嫌です! みなさんも……私もあなたにこれ以上傷ついてほしくないんです。お願いですから、ここはカルマさんたちに任せてください」

 

 本気で心配してる声だ。だが俺は首を横に振る。

 

「國枝さん……」

「お前は、鷹岡に潰されかけた。そんな危険に、他の奴らは飛び込もうとしてるんだ」

 

 俺一人と他のみんな。天秤にかけるまでもないはずだ。

 だがこれだけ危険を説いても、彼女は口を紡いだ。

 

「そうか。ならこの身体で夜通し動くしかないな。行き先がわかってればそこに移動するだけで済むが」

 

「この件が終わるまで休まず走り回る。それでいいなら、黙ってろ」



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49 血染めの手は月に届くか

 がさり。

 草をかき分ける小さな音だけ残して、不破、渚、カルマの三人が芝生の上に降り立つ。

 

「よし、侵入成功」

「フリーランニング悪用しちゃったなあ」

 

 ここはとある芸能プロダクションの合宿施設。

 最近は巨乳アイドルたちが練習をしており、今も洗濯物が施設のすぐそばに干されている。

 その合宿は明日で終わる予定だ。

 犯人が本当の下着泥棒だったとしても、殺せんせーに濡れ衣を着せようとしている輩でも、これを狙わない手はないだろう。

 

 不破と律はそれを調べ上げ、カルマに相談して、この三人で侵入することにしたのだ。

 あまり大所帯だと、真犯人に見つかって逃げられるかもしれない。少数なら、こうやって塀を乗り越えてもばれづらい。

 

「國枝くんに隠し事するっていうのは、気が引けるけどね」

「いいじゃん。國枝も俺たちに何も言わなかったんだしさ。それとも、あいつがこれ以上無茶するのを見たいわけ?」

「そうじゃないけどさ」

 

 もやもやを抱える渚に、カルマが返す。

 

「まあまあもうやっちゃってるんだ。みんなには國枝に何も教えないようにしてるし、大丈夫だよ。ね、不破さん」

「うん。國枝くんには休んでもらって、私たちだってやればできるってところを見せないと!」

 

 國枝は一人で無理をしすぎている。

 

 普久間島では、血だらけになりながらも独りで戦った。

 そして、夏休み最後の日。何があったのかはわからないが、それまで以上の大けがをして現れた。

 

 彼を問い詰めても何も言わなかったが、事故ではないことだけは間違いない。

 何かしら、ひどく厳しい戦いを独りでこなしたのだ。

 なぜそこまで独りでやることにこだわるのかはわからないが、ここで頼りになるところを見せれば少しは相談してくれるようになるだろう。

 不破はそう考えて、E組の全員の口を閉じさせて國枝を休ませることにした。

 

 泥棒を捕まえるだけなら、殺し屋と軍人に勝ったカルマと渚がいる。

 そしてその相手は、不破の予測通りに現れてくれた。

 

 よく観察すれば、闇にまぎれている誰かがいる。

 建物の外に吊るされた洗濯物を狙う、黄色いヘルメットを被った黒ずくめの男。

 

 やった! と不破は喜んだ。

 とっ捕まえれば、私たちが守られるだけの存在じゃないと証明できる、と。

 

 三人が動こうとした前に、どこからともなく現れた殺せんせーが先に不審者の背中に乗り、その身を拘束した。

 

「殺せんせーも来てたんだ」

「まあ、濡れ衣被ったままいるわけないと思ったけどね」

 

 じたばたと逃げようとする犯人だが、殺せんせーの触手から逃げられるわけもない。

 あっさり事件解決かと、三人は焦らずに近づいた。

 

「さあ、顔を見せなさい、偽物め!」

 

 殺せんせーが犯人のヘルメットを取る。

 

「え……」

 

 そこにいたのは、E組がよく知る人物だった。

 

「この人……」

鶴田(つるた)さんだね。烏間先生の部下の」

 

 そう。普段はサポートに徹していて目立たないが、烏間が信頼をおく三人の部下がいる。

 そのうちの一人である、鶴田博和(ひろかず)が殺せんせーの下敷きになっていた。

 

「なんであなたがこんな……」

 

 呆然とする殺せんせー。

 

 その視界が、突如として白に染まった。

 

 一瞬のうちに殺せんせーの周囲に布が張られる。四角に囲まれた彼は、驚きのあまり鶴田を逃してしまった。

 その刹那、高速で動く物体が空いている檻の上から入っていった。

 

「ふふふ、まんまと囮にかかってくれたね」

 

 ぶつかったくらいでは破れない強化繊維の檻に閉じ込められたのを見て、暗がりから出てきた男が含み笑いをする。

 E組にとっても因縁の相手、シロだ。

 

 だとすれば、あの布の中に入っていったのは……

 

「あれは……イトナくん?」

「前よりも身体能力をアップさせて、対触手生物の物質を練り込んだ武器も装着させている。高速戦闘に耐えられるようにしてあるために、君たちが持っているようなナイフより威力は落ちるが……それでも十分だ」

 

 シロは誇らしげに、抑えきれない笑いを漏らした。

 

「周りは対先生物質の布、上からはイトナ。流石の殺せんせーもここで終わりだね」

「そのために、あんなことして殺せんせーをおびき出したってわけ?」

「まあね。君たちの先生は、生徒に嫌われるのをひどく恐れてるみたいだから、利用させてもらったよ」

「その『なんでもお見通しです』って雰囲気が気に入らないんだよね」

 

 カルマの額に青筋が浮かぶ。

 

「殺せんせーを取られるのは癪だし……あんたにはプールでの借りも返してない。ここでちょっとお灸をすえさせてもらおうかな」

 

 溢れそうな怒りをなんとか抑えて、彼は拳を固めた。

 E組のほぼ全員を殺しかけたことは忘れられない。シロは謝罪も釈明もなく、あの場を去っていっただけだ。

 最低三十発は殴らないと気が晴れないカルマは目を光らせた。

 

「おっと、君たちの相手は彼だ」

 

 シロがぱんぱんと手を鳴らすと、どこからともなく人が現れた。

 頭からつま先までを覆う特注の黒い戦闘服はところどころが堅そうで、なおかつ動きを阻害しないように軽く薄く、しなやかだ。

 この男はシロの新しい兵器だろうか。彼は首だけシロのほうを振り返る。

 

「あの超生物を殺せれば、どんなことだって説明はできる。特に暗殺を妨害した輩なら、殺しても納得させられるだろう。さ、存分にやりなさい、『蟷螂(かまきり)』」

 

 『蟷螂』と呼ばれた男は頷きこそしなかったが、腰に何本も差さっているホルスターから一本だけナイフを取り出した。

 そいつがもつ異様な雰囲気は、何度か覚えがある。本物の殺気。本当に中学生を殺す気だ。

 三人の額に冷や汗がたらりと垂れる。一瞬気圧され、動きが止まってしまう。

 

 一番最初に動いたのはカルマだ。

 戦闘のセオリーとして、まずは相手の動きを見極めることが肝要。

 少しでも観察できるように、距離を取るために後ろへ飛び退く。

 

 二番目は渚。

 鷹岡を倒したことで、相手の隙をつくことに多少の自信を覚えた彼は、カルマのサポートとして戦うつもりだった。

 相手の出方を見るために彼もまた下がる。

 

 『蟷螂』の殺気は息を呑むほどだったが、二人が動けたのは殺意を正面から受けたことがあるのが大きい。

 

 だが、不破は……そんな純粋な一対一の殺意を向けられたことがない。

 本能は危険を知らせてくるが、足が竦んでしまう。

 

 その隙を『蟷螂』は逃さなかった。

 

 容赦なく、手加減なく、命を切り取るためにナイフを投げる。

 鋭く速く、直線的に飛ぶ刃は真っすぐ不破へ飛んでいき、その頭を貫く……はずだった。

 

 恐怖のあまり目をつぶっていた不破は、いつまでも衝撃が来ないことを疑問に思い、恐る恐る目を開ける。

 

 その瞬間、不破はぎょっとした。目の前に刃があったからだ。

 しかしそれは額を貫くことはなく、空中で静止している。

 横から伸びた誰かの手が、刃を掴んで止めていた。

 

「あ……」

 

 黒いグローブ、フード付きの灰色の迷彩服、堅いマスクにゴーグル。

 不破を助けた男は、連日ニュースで見る男の特徴とそっくりだ。

 そしてその目は不破が、E組がよく知る男のものだった。

 

 マスクの男と『蟷螂』が睨み合い、無言が続く。

 そこでようやく不破たちの身体が動き、一歩下がった。危険を察知しての販社的な動作。対して、マスクの男はその場から動かずに対峙する。

 

「お前は誰だ」

「『貌なし』」

 

 『蟷螂』の問いに、男は即答する。それ以上会話は続かなかった。

 

 『貌なし』はナイフを地面に落とす。

 それを合図に、『貌なし』も『蟷螂』も一歩前に出る。

 一瞬にして間合いが詰まった。お互いの拳が、闇の中で閃いた。

 

 

 間一髪で間に合った。

 

 律から教えられた場所に赴くと、すでに白い布で作られた巨大な長方形の檻が出現していて、その中で争う音が聞こえていた。

 その前に憎きシロがいることから、あの中には殺せんせーと堀部が戦っているに違いない。

 

 それよりも気になるのが、シロの前に出てきた黒い戦闘服の男。

 『蟷螂』と呼ばれたそいつは、なんの躊躇もなくナイフを取り出し、不破に投げた。

 すんでのところで掴んで止める。

 

 あと一瞬でも遅れていれば、不破は……いや、いまはそれはいい。この男を倒すことが重要だ。

 目の前の男はシロの手下、クラスメイトを殺そうとした敵。容赦をする理由はない。

 掴んだままのナイフを離すと、ふつふつと怒りが湧いてくる。それを捨てて、足を踏み出す。敵も同じく、前に出てきた。

 

 拳を固め、相手の顔へ向ける。相手も同じことをしてきた。

 俺はわずかに身を逸らして避けると同時に、相手の顎に拳を当てる。

 続けて脇腹、胸に一発ずつ。

 反撃をかけてきた相手の肘をブロックして、さっきは浅かった顎への一撃。

 『蟷螂』は後ずさる。

 

 俺は息を整えながら、相手を観察する。

 着込んでいる特製服のせいでわかりづらいが、察するに俺とそう歳は変わらない。

 同年代……一つか二つほど上だろうか。少なくとも、わずかに見える肌は、大人のものとは違う。

 

 『蟷螂』の噂は俺の耳にも届いていた。

 数か月前に少し世間を賑わせた殺人鬼。判明しているだけでも六人を殺して逃亡しているとんでもない奴だ。

 シロはこんな奴を殺人鬼として育てたのか。いや、もともと殺人鬼だったのをスカウトしたのかもしれない。俺たちを殺すために。

 どちらにせよ、『蟷螂』が人を殺すことになんの抵抗もない、歪みきった男であるのは間違いない。

 

 距離を保ったままなのはまずい。

 先ほどのようにナイフを投げられれば、後ろの誰かが刺される。投げる暇を与えないように、近づいて殴るしかない。

 普久間島と似たような状況。またしても俺は刃物を持つ相手に接近戦を強いられる。

 

 唯一救いなのは、接近戦での殴り合いは、俺のほうに分があるということだ。

 それは向こうもわかっているだろう。ゆっくりと腰に手を回し、片手に一つずつナイフを持つ。

 そしてナイフを逆手に持った両拳を顔の前にもっていき、攻撃にも防御にも素早くシフトできる構えをとった。

 一見祈っているようにも見えるその姿勢に、下に突き出た刃。『蟷螂』の由来はこれか。

 

 息を整えて近づく。

 刃に触れないようにして相手の動きを止めつつ、拳をめり込ませる。

 しかし全てをかわせるわけもなく、頭突きを食らってしまった。

 

 目がぐるんと回り、地面に手をつく、

 『蟷螂』の目が不破たちに向いたのがわかった。

 

 その間に無理やり割り込む。そのせいで遅れた防御を予測して、『蟷螂』が刃を振るった。

 身体の前に構えた腕が裂かれ、スッパリと切り傷が生まれる。

 痛みをこらえて、相手の腕を掴んで頭を額にぶつける。目の前に星がちらついたが、相手はそれよりもダメージを受けたみたいで一歩下がった。

 勢いにまかせて飛び蹴りを食らわし、相手を転ばさせる。

 

 すぐ近づいて、両手の刃を蹴り落とした。そして追撃を……と力を入れた瞬間、ずきりと全身に衝撃が走る。

 今まで受けた傷が開き、もう限界だと身体が訴えてくる。

 いたるところがひび割れたような錯覚に陥るが、歯を食いしばってこらえた。

 

 その隙に『蟷螂』は立ち上がり、構え直す。

 武器を持ってる相手に対して、俺は素手。明らかに不利な状況に、死が近づいてくる感覚を思い出す。

 だがここで逃げるわけにはいかない。

 不破たちが唖然としている間に、こいつを倒さなければいけない。

 

 ここまでで三十秒と経っていない。

 急な命のやり取りに、カルマと渚はフリーズしてしまったが、もうすぐで動けるくらいに心を持ち直すだろう。

 

 時間が経つほどにリスクは増していく。

 次の数秒で決めてやる。

 

 お互いに拳を握り、相手を叩き潰すための攻撃一辺倒の構え。

 防御を捨てて、一歩踏み出す。

 

 その瞬間、地面が揺れ、大気が歪んだ。

 強大なエネルギーの余波を受けて、俺たちはその場にしゃがむ。

 

 見れば、殺せんせーが捕らわれている箱から、空へ向かってビームが伸びていた。

 それしか表現しようがない。

 漫画で見るような光線が空へと放たれ、堀部を外へと追い出す。

 

「先生も日々進化しているんです。こんなことが出来るくらいには……って、國枝くん!?」

 

 ぱっと外に出てきた殺せんせーが俺に気づく。

 堀部は触手をうまく使って地面衝突の衝撃を和らげた。

 

「やれやれ、だね。ここまでお膳立てしたのに負けるとは……」

 

 大きなため息を吐きながら、シロは苦しみ呻くイトナを見下ろした。

 

「イトナ、やっぱり君は失敗作だ。この生物を殺せないのに、これ以上君に構っていられる時間はない。その触手を維持するには、膨大なエネルギーと手間暇と金がかかるんだ。だけどもう知らないよ。勝手に野垂れ死ぬといい」

 

 心底興味を失ったような口調で、シロは吐き捨てた。

 

「帰るよ『蟷螂』。そいつとは、また会うチャンスを作ってあげるから」

 

 シロの言葉に、『蟷螂』はナイフを握る手の力を強め……

 

「お前は必ず殺す」

 

 そう言って、武器を収めた。

 

 その姿が一瞬にして闇に溶け、消えてしまう。

 俺はまたしても奴を逃してしまった。新しく現れた危険人物とともに。

 

「あれ? イ、イトナくんは……?」

 

 渚の気づきに、俺はあたりを見回す。

 さっきまで悶えていた堀部が、もうどこにもいなくなっていた。



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50 ざわめき

 堀部イトナとシロ、そして『蟷螂』が消えてしまって呆然としていたカルマ、渚、不破はいったん殺せんせーとともに施設の中に入った。

 俺も無理やり連れられて、中に入れられる。

 

 殺せんせー好みの女性が集まるというのはどうやらシロが流した嘘のようで、レッスン場には誰もいない。

 広い空間に明かりもなく、俺たちは乱れた息を整えた。

 

「い、いきなりすぎて頭がついていけないよ」

「ほんと、下着ドロを捕まえにいったはずなのに、シロとイトナが現れるわ、殺せんせーがエネルギー砲を放つわ。それに……國枝も来たし」

 

 カルマがじろりとこっちを向く。

 修学旅行の時点でカルマはすでにその答えにたどり着いていた。そして普久間島でのことが答え合わせになり、その後で俺は白状していた。國枝響は『貌なし』であると。

 

「やっぱり、國枝くんなの?」

 

 渚の、いや周りの目が、俺を『貌なし』ではなく國枝響を見る目になる。

 こうなったらもう隠せない。俺はフードを取っ払い、マスクとゴーグルを外した。

 

「そんな……本当に……」

「國枝くんが『貌なし』……?」

 

 間近で見ても、まだ信じられないといった反応の不破と渚。ただ一人、カルマだけが正解に喜ぶでもなく真顔でこちらを見ていた。

 普久間島での戦いは、國枝響=『貌なし』の疑念を強くしたが、面と向かって正体を聞いてきたのは烏間先生とカルマだけだ。

 他の二人も俺が『貌なし』だと感づいていただろうが、はっきりとした答えを突きつけられて狼狽している。

 

「みんなはここにいろ」

「國枝くんは?」

「あいつを止める。誰かが犠牲になる前に俺がやつを倒す」

 

 外へ向かう俺を、不破が袖を掴んで止めた。

 

「待ってよ。みんなに協力してもらおう? 殺せんせーだっているし、烏間先生だって、ビッチ先生だって手伝ってくれるよ」

「それが嫌なんだ。今回は運がよかったが、お前だって殺される寸前だったんだぞ。みんなにまでその危険を冒してほしくない」

「だったら……だったらほら、警察に通報しようよ。こっちには襲われた傷だってあるんだし、流石に動いて……」

「相手は人体実験までやってのけるシロだぞ。隠されて、もみ消されて終わりだ」

 

 触手に詳しく、暗殺のことも知っている。シロは防衛省とはまた別口で政府に通じているはずだ。

 殺せんせーの様々な弱点を理解しているにも関わらず、それが俺たちにも伝達されていないのは、シロとその研究が高度に秘匿されているからだ。

 研究経過が表に出せないことは、堀部を見ればわかる。倫理的に良くないことなのだろう。国はそれを公にされたくないはずだ。

 

「俺が出れば、あいつは姿を現す。俺ならあいつを倒せるんだ」

「みんなを頼ってくれるって言ったじゃん」

「それとこれとは別だ。俺はお前たちに死ねとは言えない」

「じゃあ國枝くんが死ぬかもしれないのを知っておいて、黙って見てろって言うの!?」

 

 不破がヒートアップしてくる。

 

「それが嫌だから、みんなで國枝くんの力になるって決めたのに……」

 

 だから、下着ドロのことを俺に知らせてこなかったのか。不破だけじゃなく、俺を心配した全員が。

 俺は心の中で毒づいた。

 普久間島での戦いが、校舎での鷹岡とのやりあいが、『レッドライン』との死闘が、俺を追い詰めて彼女たちを心配させた。

 いや、もっと前。俺がE組にいてしまったから、友達になってしまったからこんなことが起きたんだ。

 

「間違いだった。こんなことになることが分かってたなら、お前たちに何も話してなかった」

「なにそれ」

 

 袖を掴む力が強くなる。その時、俺は不破の顔を見てしまった。

 不安と悲しみ、そして怒りが広がっている。

 

「なにそれ! 全部否定する気!? 私たちに話してくれたことも、私たちが國枝くんを心配して力になろうとするのも、全部全部間違いだったって言うつもり!?」

「間違いだろうが!」

 

 不破以上の怒号を発した俺にびくついて、彼女が手を離す。

 

「俺がいて、『貌なし』だってことをお前らが知って、だからこんなことになった! ああ、間違いだったよ、全部な!」

 

 俺が『貌なし』だと知ってしまったから、彼女たちは俺を危険から遠ざけた。

 その結果がこれだ。不破はもう少しで殺されそうになっていたし、他のみんなも危なかった。

 

「俺だけが負うべき危険に、お前を巻き込んだ」

 

 引っ込めるでもなく掴むでもない、伸ばしたままの手を払った。

 

「俺は……独りでいるべきだったんだ」

 

 不破は顔を俯かせる。そのせいで表情は見えなくなったが、おぼつかない足取りと小さく聞こえる嗚咽で、だいたいはわかる。

 彼女はすとん、と床にへたりこんで、手で顔を覆った。

 

「不破……」

「もう知らない。勝手にしてよ……」

 

 涙まじりの声は震えているが、しかしはっきりと拒絶の意を示した。

 

「行って。もう行ってよ」

 

 追い払うように手をひらひらとさせる。

 そうさせたのは俺なのに、ひどい後悔の念が一気に押し寄せてくる。

 もういまさら言い繕えないし、その気もない。俺はそれに従ってまた扉へ向かう。

 

「待ってください、國枝くん」

 

 次に引き留めたのは、殺せんせーだ。

 

「せめて私を頼りにしてください。あの男……『蟷螂』をすぐ探せますし、普通の人間相手なら遅れをとりません」

「頼りにしてくれ?」

 

 俺はその言葉につっかかった。

 

「頼りにしてくれだって? あんたを?」

 

 詰め寄って、今まで誤魔化していた言葉を全てぶつけてやる。

 

「あんたがいながらこの事態が起きた。いや、あんたがいたからこうなった。なあそうだろ。俺たちを守ってくれるって言ったのに」

「殺せんせーはイトナくんの相手で忙しかったし……」

 

 渚がフォローに入る。それが俺の癪に障った。

 

「合宿のときも夏休み終わりのときも、こいつは誰も守ってくれなかった」

「守ってくれなかったわけじゃなくて……」

「そう思わされた!」

 

 この日一番の声が響いた。

 殺せんせーだけじゃなく、あのカルマでさえ目を丸くしている。

 

「俺との約束を、たった一つだけの約束を、あんたは守ってくれなかった。ずっと近くにいたのに、何もかもができるだけの能力があるのに、お前は何もしなかった」

 

 頭に浮かんだ罵詈雑言を吐き捨ててやりたい気分だった。

 だが、思いとどまる。

 結局は俺のせいだ。俺が殺せんせーを信じてしまったのが悪い。

 世界は理不尽なものだと知っているはずなのに。誰にも期待しちゃいけないって分かっているはずなのに。

 

 自棄気味だったカルマを助けてくれたこいつならと、淡い希望を持ってしまったのだ。

 何度同じ馬鹿をやれば気が済むんだ。恥を知れ、國枝響。

 

「せめて治療を……」

「触るな。俺に触れたら、お前から暴力を受けたと報告するぞ」

 

 俺たち生徒が使える唯一の脅しを、殺せんせーに向ける。

 この言葉は効果てきめんだった。触手がわずかに俺から離れる。

 それでいい。お前にはお前の目的があるんだろう。それが何かは知らんが、そのためにE組を離れるわけにはいかないはずだ。

 ならこんな生徒一人くらい放っておいてくれたらいい。

 

「お前じゃ無理だよ。俺たちが……」

「断る。俺が、俺だけでやる。誰も邪魔するな」

 

 手を取る代わりに、カルマにスマホを投げつける。

 今度こそ、止める者はいなかった。

 

 

「ちょっと待ってね、いま紅茶淹れてるから」

 

 E組を捨てて、俺が向かったのは立花の家だ。

 立派な一軒家。

 

 彼女は何も訊かずに招き、家に入れてくれる。

 玄関に出ている靴は一足だけ。ここには他に誰もいないのだろうか。俺を入れたということは、少なくとも今は一人だということだろう。

 細かく詮索する気なんてないが。

 

 着替えろとは言われず、そのままの格好でリビングに通される。

 

「まーた傷をつくってきたみたいだね。私とやったときよりも鮮明な匂い。血がいっぱい出てるね」

「相変わらず異常な嗅覚だな」

 

 俺はマスクとゴーグルをテーブルに置き、フードを脱いだ。

 

「まーね、一番の取り柄だから。それで、わざわざ私のところに来たってことは、この鼻が目当て?」

「そうだ、力を貸してほしい」

「……珍しいね、響くんがそう言ってくるの」

 

 立花は対面に座ると、紅茶の入ったカップを差し出してくる。

 俺がそれを一気に飲み干すと、彼女はにこりと笑った。

 

「いいよ、手伝ってあげる。私は何をすればいいの?」

 

 正直、頷いてくれるとは思ってなかったから、俺は内心驚いた。

 だが好都合。雨の中でも俺の匂いを嗅いだような奴だ。その能力が今は必要だ。

 

「匂いを追えるか?」

「警察犬みたいに? 特殊な匂いがして、濃ければいけるよ。響くんのこともそうやって見つけたから」

「特殊な匂い?」

「ようは、他と似たような匂いじゃなければってこと。あと私がそれに興味を持てるか、かな」

 

 どちらもよくわからない。特に、興味の持てる匂いなんてのは彼女のさじ加減だろう。

 詳しく訊くことは諦め、俺はナイフを一本放り出した。べっとりと血の付いた、『蟷螂』の武器だ。

 

「ある男を追ってる。これの持ち主だ」

 

 彼女はそれを持ち上げて、興味深そうに掲げたあと、鼻を近づける。

 うんうんと頷いて、ナイフを机の上に戻した。

 

「条件が一つだけ」

 

 このナイフについてや、ある男についてのことは一切訊いてこず、彼女はそう言った。

 

「響くんは、なんで『貌なし』になったの?」

「……それを話すことが、交換条件か?」

「だって、私は自分のこと言ったのに、キミはだんまりだなんて不公平でしょ?」

「あの時はお前が勝手に……」

「まあまあ。そんなことは置いといて。言うの、言わないの?」

 

 何も言わなければ、『蟷螂』を当てもなく探すことになる。

 それは無理だ。堀部のことだって、まったく探し当てられなかった俺が、手掛かりなく見つけられるわけがない。

 

 仕方なく、俺は口を開いた。



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51 みんながそれを望んだから

 俺の親は、ずっと忙しくてほとんど家に帰ってこないことも珍しくない人たちなんだ。

 俺はずっと寂しくて、構ってほしくて、褒められたくて、いろいろなことを頑張った。

 

 だけど駄目だった。

 学校のテストでトップクラスになるようになっても、武道に励んでも、料理が作れるようになっても、見向きもされない。

 

 まだまだ足りないと思って、ひたすらに打ち込んで、それでも反応は変わらなかった。それが出来るのが当然かのように、激励もなし、叱られることもなかった。

 小学校の卒業式や、中学の入学式、誕生日ですら、一言二言交わすだけでおしまい。おめでとうとか頑張れよとかも言われず、ただただ普通の一日として処理された。

 そんなのが何年か続いて、ようやく気付いたんだ。

 

「意味がない」

 

 面白くもない話を、立花はじっと聞いていた。

 

 どれだけ努力しようが何も得られないことがある。

 俺にとって気を引くためだった頑張りが価値のないものとわかった。俺がそうなっても、やはり親は何も言わなかった。

 

「E組に落ちたあと、周りのみんなは仲良くしてくれて、居場所をくれた。勉強しなくても、頑張らなくても、俺と対等に接してくれたんだ」

 

 最初は落ちこぼれどうしの同情だったのかもしれない。だけど、時が経つにつれてそうではなくなった。

 友達として、喋り、遊び、一緒に過ごしてくれた。欲しかったものを与えてくれたのだ。

 

「みんなのために、俺は何が出来るだろうかと考えた。そんな時、E組の一人がいじめられているのを見つけてな。いじめた奴を尾行して、顔を隠して殴りつけてやった」

「それが、『貌なし』の始まりってわけだね」

 

 E組は他のクラスから標的にされる。暴言や暴力を受けることもある。

 大切なみんなをどうやったら守れる? 教師が盾にならないなら、『貌なし』しかない。俺の立場じゃ、悪さを働いたものには暴力で返すしかない。

 

「俺にはこれしかできない。やめる気はない。それは今も同じだ」

「守りたいからみんなには頼らずに、私のとこに来たの?」

 

 俺は詰まった。

 

「そういうわけじゃなさそうだね。頼りたくても、頼れない別の事情があるってことかな」

 

 他の誰にも助けを要求できない一番の理由としては、俺が突き放して、突き放されたからだ。

 『蟷螂』という危険人物を前にして、その脅威を思い知ったからだ。

 殺せんせーは俺たちを守れず、烏間先生は口先だけ。ビッチ先生はこういうことに向いていない。

 E組のみんなを巻き込みたくないし……何より、俺が助けを求めたところで拒否されてしまうだろう。

 

 『もう知らない。勝手にしてよ……』

 

 不破の言葉が、絶望した顔が脳裏に焼き付いている。

 

 誰も信じられない。誰にも手を伸ばせない。

 立花を選んだのだって、その能力を見込んでのことであって、彼女を信用しているわけではない。

 

「沈黙は肯定と受け取っちゃうよ~?」

「好きにしろ。で、協力するのかしないのか」

 

 立花は小さく唸って、顎に人差し指を当て、それを俺に向けてきた。

 

「半分くらい嘘ついてるでしょ、響くん。今の、まるでE組になってから『貌なし』になったみたいに聞こえたけど、そこがどうも怪しい匂いがするんだよねえ。まあいいよ。これの持ち主見つけてあげる」

 

 

 立花が匂いを辿って歩いてから数十分。彼女は周りとそう変わらないちょっとお高めの一軒家を指差した。

 

「あそこだね。かなーり濃い匂いがする。もしかしてけっこう深く刺されちゃったり?」

 

 俺はスルーして拳を固める。

 ナイフを使ってくる相手に素手はまずかったか。

 寺坂の警棒を拝借できればよかったが、いまはそんな時間も惜しい。このままでいくしかない。

 

「無視はひどいな~」

 

 それも無視して、身体が動くことを確認する。

 接近戦は俺のほうに分があった。絶え間なく攻撃を加えれば、勝てなくはないはずだ。

 ずきりと痛む全身に、力を込めることで喝を入れる。

 夏合宿からの傷は、まだどれも癒えていない。だがここで倒れるわけにはいかないのだ。

 『蟷螂』を放っておいたらどうなるか、その先には絶望しかない。

 頼れる者は誰もいない。俺しか、やれる奴はいないんだ。

 

「じゃあな」

「え、ここまで来てさよなら?」

「お前が死ぬかもしれないんだぞ。これ以上は付き合わせられない」

「強情だなぁ」

 

 言いつつ、彼女は納得して一歩下がった。

 ナイフを使うような奴は、彼女のお眼鏡にはかなわない。

 

「でも死なないでね。キミを殺すのは私だから」

「無事に帰っても、それは断る」

 

 

 まずは家の外周をぐるりと回る。明かりはついていない。中にはいないようだ。

 それを確認すると、次は窓を調べる。玄関には当然鍵がかかっていたから、他から侵入できないかを確認しないといけないのだ。

 窓枠や出っ張りを利用して二階も調べると、不用心なことに開いている窓が一つあった。ゆっくりと開け、身体を滑り込ませて廊下に立つ。

 

 一人で済むには大きい家だ。部屋が三つあるが、中を観察するとどうやら使われてはいないらしい。何もなく、埃が舞っていた。

 階段を下りて一階に行くと、そこはまだ生活感があった。

 

 一番近くの部屋に入る。

 そこはリビング並みに大きい部屋で、オフィス机が端に置かれているだけだった。

 机の上には何枚かの紙が散らばっている。それを手に取ってみると、殺せんせーのことやE組の何人かの詳細が書かれている。

 寺坂、カルマ、渚、茅野……俺のことまで載っている。

 

 これで確定だ。ここは奴の住処。突き止めることができたのはかなりの前進だ。

 充足感で、アドレナリンが収まっていく。  

 痛覚が鋭さを増して、休めと言ってくる。

 今日は戻るか、それとも奴が帰ってくるのを待って奇襲をかけるか。

 

 少しぼやけた頭で考えるのに忙しく……近づいてくる影に気が付かなかった。

 

 ガツン、と頭に衝撃が走る。

 鈍器で殴られたと気づいた時にはもう遅かった。

 

 揺れた意識を取り戻すことが出来ず、俺はそのまま倒れてしまった。

 

 

「来てない……」

 

 朝一番、一縷の希望をもって誰よりも早く扉を開けた不破は、崩れ落ちそうな足をなんとか立たせる。

 隈のできた目と青白い肌が、さらにひどくなっているような気がした。

 

「殺せんせーは?」

「あれから『蟷螂』をずっと探してるみたいだよ。國枝が見つけるよりも先に探し当てるために」

 

 続いて教室に入った渚とカルマも同じ顔をして落胆する。

 殺せんせーも國枝もいないところを見ると、どうやら進捗は芳しくないらしい。

 カルマが細かく足を揺すっていることに、渚は気付いた。

 威嚇や挑発でもなく、たんに怒りで貧乏ゆすりをするのは珍しい。それは國枝に向けられたものではないと、渚は知っていた。

 

「『蟷螂』だと?」

 

 彼らの話を聞いていたのか、いつの間にか烏間が後ろに立っていた。

 

「『蟷螂』と國枝くんがどうかしたのか?」

 

 隠せることじゃない。三人は昨日の展開を包み隠さず話した。

 昨日の夜だけの出来事だというのに、いろいろなことが起きすぎた。

 話している間にみんなが次々と登校してきて、烏間と同じく顔を青ざめさせる。

 

「行かせたのか? あれだけの傷を負ってる國枝を!?」

「そんな……なあ、嘘だろ。なんで國枝がそんな……」

 

 ざわざわと混乱の波紋が広がる。

 合宿で受けた傷はまだ完治していないはず。いやそれどころか、二学期最初の登校日にも重い傷をつくっていた。

 その國枝がまた何か危険に巻き込まれている。みんなの頭に『何故』が浮かび、口に出る。

 

「烏間先生。もう黙っておくことはできません」

「そうだな……」

 

 観念してそう言ったのは、教室の端にいる律と中心にいる烏間だった。

 教室は、しんと静まり次の言葉を待つ。

 

「君たちなら他言しないと信じて話す。國枝くんは……『貌なし』だ」

「『貌なし』って、あの最近ニュースになってる?」

「ああ、そうだ」

「そ、そんなわけないでしょ。國枝は私たちと変わらない、ただの中学生……のはずだよね?」

 

 片岡と岡野は信じられないといった口調で烏間を問い詰めるが、その語尾が弱まっていく。

 烏間の目は真剣そのもので、嘘なんてついていないと誰でもわかった。

 

 それを裏付けるように、律が自分の液晶に映像を映し出す。

 『貌なし』が正体をばらしたときのこと、普久間島での暗殺者との戦闘、教室で鷹岡と死闘を繰り広げたこと。

 彼らのほとんどが知らなかった、影の戦いがそこにあった。

 

 ほとんどは否定したくて目を逸らしたが、耳に入ってくる痛々しい音と悲鳴が逃げることを許さない。

 

 黙っていてくれと頼まれた。

 ほとんど独り言のように言った烏間は俯いた。

 

「だからってそんな……」

「國枝……なんでそんなこと隠してたんだ」

「國枝さんは、みなさんを……私たちを守るためにずっと独りで戦い続けていました。だから、私たちを頼ることはしなかったんです。私たちが傷つかないように」

 

 衝撃の真実の連続。そんな中、磯貝が手を挙げた。

 

「ちょっと待てよ。國枝が『貌なし』だってことは……まあいいとしてさ。その、『蟷螂』って野郎のところに行ってるんだろ? それってまずいことなのか?」

「まずいなんてもんじゃない。『蟷螂』って、連続殺人鬼のことだよ」

 

 また教室がざわめいた。

 言った竹林でさえ、眼鏡フレームをおさえる手が震えている。

 

「知られているだけで八人が犠牲者となってる。その人のところへ向かったということは……」

「早く見つけないと……!」

「いや、それは認められない」

「なんでだよ!」

 

 無情にも頭を振った烏間に、寺坂が突っかかる。胸ぐらを掴みさえした。

 だが烏間はあくまでも冷静に彼の手をゆっくり掴み、下げさせる。

 

「竹林くんが言っていただろう。相手は連続殺人鬼だ」

「だからって見殺しにできるわけねーだろ!」

「私たちも探せば、もっと早く見つかります!」

 

 寺坂だけではない。普段は大人しい神崎でさえも声を荒げた。

 それをきっかけに、全員が烏間へ抗議する。このまま待っているわけにはいかないと、みんながみんな動くつもりだった。

 

「それはやめといたほうがいいと思うけどなー」

 

 突如として聞こえた明るい声は、E組の誰の声でもなかった。

 全員が一斉にそちらを振り向く。

 

 見知った少女が窓枠に肘をかけて、一人ひとりの顔を笑顔で見ている。

 

「少なくとも國枝くんのほうは、みんなに会いたくないみたいだし」

「君はたしか……」

「やっほ、何人かは久しぶりだね。三年B組の立花風子でっす」

 

 軽やかに窓枠を越えて中に入ってくる立花は、無表情のままクラスの面々を見渡す。律を見ても、その表情は変わらない。

 来訪者に対して、烏間でさえも驚きで固まった。ここは國枝のことで止まっているが、本校舎は普通に授業を行っているはずだ。

 

「部外者がなんでここに?」

「部外者ってわけでもないんでしょ? さっきの口ぶりから察するに」

 

 烏間先生の問いに答えたのはカルマだ。

 

「おお、さっすがカルマくん、大正解!」

 

 ぱちぱちと拍手する立花を、カルマが警戒する。

 何かわからないが、得体の知れない嫌な予感が漂っている。この感覚を彼は一度感じたことがあった。『蟷螂』を前にした時と同じだ。

 

「そーそー、私はむしろキミたちより関係者側だよ。だって『貌なし』……響くんに頼られたのは私だし」

「なんだって!?」

「國枝は無事なのか!?」

 

 みんなの目が変わる。

 彼女がなぜここに来たのか、なぜ國枝が『貌なし』だということを知っているのか、なぜ國枝が彼女を頼ったのかという疑問は吹き飛んだ。

 そんなことより國枝の安否が心配だ。鷹岡に痛めつけられた身体のままで、彼はいったいどこへ行ってしまったのか。

 E組の不安がこれでいくらか晴れる……と思ったが、立花は光のない笑顔を傾けた。

 

「無事かどうかなんて、キミたちに言う必要ある?」

「もちろんだ。國枝は俺たちの仲間なんだから」

 

 磯貝が詰め寄る。

 E組の仲間が今どこかで生死をさまよっているかもしれない。

 磯貝は焦り、そして心配している。それを、まるで関係ないかのように言われて、彼は怒っていた。

 だがその感情すべてが、立花にとっては嘘のように感じられた。

 

「本当に知りたいのは、死んでないかどうかでしょ? 一番しんどいことを押し付ける相手がまだ生きてるかどうかでしょ?」

 

 その無礼な言い方にE組は敵意の目を向けるが、立花は構わず続ける。

 

「『貌なし』の正体が響くんだってことを知ってる人がいたのに、強引にやめさせることはしなかった。それは、E組が抱えてる不満や問題を、『貌なし』が解消してくれてたから。もし『貌なし』が問題を起こしたなら、『だからやめたほうがいいと言った』『響くんが勝手にやったことだから自分たちが気に病むことはない』って逃げるつもりだったんじゃない?」

「そんなわけねーだろ!」

「ふーん。じゃあ、そんなご立派な意識を持っててもこういう状況なのは、このE組の誰もが響くんのことをそんなに知らなかったってわけだね」

 

 寺坂の怒号にも立花は動じない。

 どれだけ志が高かろうと、所詮口だけの連中だと立花は下に見ている。

 今初めて『貌なし』の正体を知ったのが全員なわけじゃない。彼のことを知り、彼を止められる人間がいたはずだ。そうでなくとも、彼に協力できる人間がいたはずだ。

 

「ま、でもおんなじだよ。みんな同じ。響くんのことを知らないで、知ろうともしないで、それをよしとしてこうなった。響くんがたった一人で苦しんでるのは、みんながそれを望んだからだよ」

 

 違うと叫びたかった。だけど黙り込んでしまう。

 実際のこの状況を前にすれば、どんな否定の言葉も飾りでしかなくなる。

 

「そうでしょ。かなーり近くにいたくせに放り出したらしいじゃん」

 

 鼻をひくつかせながら、立花は次々と指差していく。

 カルマ、渚、 そして……唇を震わせている不破を指差し、彼女の目の前まで顔を近づける。

 

「特にキミは匂いが濃い。金属と血と……」

 

 ――怒りと悲しみと絶望の匂いがする。

 

 不破は國枝の手を掴めるくらい近くにいた。止めることも、手を伸ばすこともできたはずだ。

 だけどしなかった。國枝を一人のまま置いていった。放りだした。

 

「ああ、なるほど。捨てた。響くんを捨てたんだ。へえ、みんなのために頑張ってた響くんを捨てたんだ。ね、そうでしょ?」

 

 地獄の底の悪魔のような笑みを浮かべる立花に、不破の全身の毛が逆立つ。

 不破は全身から力が抜けていくのを感じた。

 いまさら自分のやってしまったことの重さを自覚し、へたりこむ。

 

「で、響くんは私を選んだ。濃い数か月を過ごしたキミたちよりもね」

 

 それが全部だと立花は思った。

 仲間であるE組を頼らず、敵である者に助けを求めた……というのは黙ったまま。

 

「あ、別に責めてるわけじゃないよ。私だって『貌なし』をやめさせるつもりはないし。ただ、心配してるよーって口ぶりで響くんに近づくのはやめてねって話。キミたちのせいで響くんが戦えなくなると、私に影響がでるから」

 

 言うだけ言って満足したのか、その言葉を最後に、名の通り風のように去っていこうとする。

 

「ま、待って」

 

 立花の背中に、唯一声をかける者がいた。

 か細く震える声で、不破が続ける。

 

「國枝くんは……生きてるの?」

 

 せめてそれだけは訊きたかった。

 罪は背負おう。罰も受けよう。決別も受け入れよう。

 だけど『死』だけは、國枝響の死だけは認められない。

 

 苦いものが口の中に広がる。

 

 立花は少し止まり、不破のほうを振り向いて一瞥する。

 

 『それがキミになんの関係があるの?』

 

 そんな顔だった。

 笑うでも、苦しむでもない。彼女は表情を変えずに教室を去っていった。

 

 突然の来訪者の言葉に、教室の雰囲気が濁り、重くなった。

 

 立花の言葉を受け取れば、國枝はまだ生きていることになる。しかし、それは少なくとも彼女知る限りでは、だ。

 『蟷螂』に挑み、帰ってきていない現状を鑑みると、むしろ……

 

 バン!

 突然鳴った音に、ほとんどがびくつく。

 中村が机を叩いたのだ。

 嫌な予感に心が支配されそうで、それを振り切るためだったけど、払いのけてもじわじわと絶望は押し寄せてくる。

 彼女の負の感情の矛先は別に向いた。

 

「カルマ、渚、んで不破ちゃん。今の話だと、あんたたちだったら止められたみたいに聞こえたけど」

 

 ギロリ、と三人を睨みつける。

 

「全部否定されたの。私たちが力になるって言っても……だから……勝手にしてって言っちゃった……」

「それで國枝を行かせたってわけ?」

 

 本当は、いま責めるべきじゃないとわかっている。一刻も早く國枝を探し出すことこそが最優先事項だ。

 わかってはいるが、中村は自分を止められない。

 

「ちょっと喧嘩したくらいで、死んじゃえばいいとでも思ったわけ?」

「ち、ちが……」

「じゃあなんでそんなこと言えんのよ!」

 

 自分だってナンパ男から助けられた。それも氷山の一角でしかないのだろう。

 きっと、國枝はみんなの知らないところでみんなを助け、独りだけ苦しんでいる。

 気づけなかった。

 手遅れになって今さら悔やんでいる自分を、中村は許せなかった。

 

「普久間島の時、傷だらけで帰ってきたのって……」

「じゃあ、修学旅行の時に助けてくれたのも……?」

 

 奥田が呟き、茅野ははっと気づく。

 修学旅行の夜、國枝の手が内出血を起こしていた。転んだと嘘を言っていたが、あれは……

 

 ビッチ先生も、自分の最初の暗殺に使おうとした手駒を倒したのは國枝だと気づいた。

 実銃弾の使用をやめさせるために、自分より大きく強い男を三人も相手にしたのだ。

 

 あれもこれも、全て國枝が『貌なし』だったとすれば辻褄が合う。

 最悪だ。

 気づくチャンスはたくさんあった。なのに、『あり得ない』と一蹴して、全員が全員気づかないふりをしていた。

 これでは、まるで立花の言った通りだ。

 

「私たち、ずっと助けられてきたんだね。それなのに……」

「私……この身体が恨めしいです。普通の人間の身体であれば、國枝さんを助けられたはずなのに……」

 

 矢田と律の言葉を継ぐ者はいなかった。

 立花の言葉が頭の中でぐるぐると回る。

 足りない者がいるE組の教室が、静寂で支配された。



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52 無意味の証明

 ひどく頭が痛い、空腹感に、倦怠感もある。

 そもそも俺は、一体どこにいるんだ?

 

 今いる場所がわからないのは、目を閉じているせいだと気づく。

 疲労感たっぷりの身体に鞭打ち、瞼を開ける。これだけでも重労働だった。

 

「目覚めたか」

 

 その男の声で、意識が急に覚醒する。

 『蟷螂』だ。

 

 そこで思い出した。俺は彼に後から殴られて気絶したんだ。

 ここはどこだ?

 地下室……だろうか。窓がない。殺風景な部屋。

 時間の感覚がなくなっているせいで、午前か午後かもわからない。

 

 部屋の中にはほとんど何もなく、彼がどっかりと腰かけてる机。そして俺が座らされている椅子しかない。

 その椅子に、俺は後ろ手で縛られている。感触からして、鎖とかではない。縄だ。

 

「俺を殺す気か?」

「そうしたいが、お前だけは殺すなと言われているんでな」

 

 殺すな?

 不破を殺そうとしたのに、なぜ俺を生かす必要があるんだ?

 そこまでの利用価値が俺にあるとは思えん。

 

「大人しくしていれば何もしない。だが抵抗するようなら容赦はしない」

 

 『蟷螂』は机にナイフをずらりと並べて、そう言った。

 

 

 日中ではあるが、烏間が止めるのも聞かず、それぞれがあらゆる方法で國枝を探している。

 不破と千葉、そして速水と原はとある製薬会社の一階ロビーにて、とある人物を待っていた。

 ()()はとても忙しいらしく、わずか十分だけ、話す時間を与えられた。

 

 待つこと十分ほど。

 スーツ姿が似合う綺麗な女性が現れた。

 四十代半ばほどだろうか。長い髪は後ろでまとめられていて、いかにも仕事ができるといった威厳のある佇まいの中に、芯の通った強さとしなやかさが見える。

 

「あなたたちが私を呼んだ子たち?」

「はい。不破と申します。えっと……國枝……響くんのお母さんですよね?」

 

 ええ、と彼女は頷いた。

 自分たちは彼のことを知らない。だけど、親ならきっとわかっているだろうと踏んだのだ。

 

「國枝くんが……響くんがいなくなったんです。どこかいそうな場所に思い当たりはありませんか?」

 

 挨拶もそこそこに、不破は國枝のことを聞く。

 

「あの子のことなら……私が一番よく知らないわ」

 

 返ってきたのは、そんな非情な言葉だった。

 

「私は……あの子を置いていってしまったから」

 

 置いていく、という表現がひっかかった。

 それはつまり、放置しているということだろうか。親は家に帰らず、息子は家に居続けることもなく。

 家は國枝響が安心を得られる場所ではなく、また目の前の女性と交流できる場でもないのだ。

 

「あの子がまだ小学生だったとき、料理を作ってくれたことがあったの。いっぱい練習したんでしょうね。指には絆創膏が貼ってあったし、盛り付けもちゃんと綺麗だった。たぶん味も美味しく出来てたんでしょうね」

 

 そんなことを話し出す彼女の言葉には、何か重く暗いものが滲み出ていた。

 

「たぶん?」

 

 不破が聞き返すと、國枝の母親は力なく頷いた。

 

「私は疲れてて、冷たく言ってしまったの、『いらない』って。明日の朝にでも食べればいいって、そう思ってた。次の日の朝、ご飯はどこにもなかったわ。響が使ったはずの皿や器具は洗われて、片づけられてた」

 

 当時のことを思い出して、彼女は落ち込んだ顔を見せた。

 

「私と夫と響のぶん、小学生が食べるには多すぎる量を、響は一人で食べたの」

 

 一人で、を強調して呟くように言う。

 

「それから響は私たちに何か言ってくることはなくなったわ。テストのことも友達のことも、響自身のことすら、何もね」

 

 干渉し、干渉されることが当然の小学生時代を、國枝はたった一人で過ごした。反抗期に入るタイミングすらなかった。

 そのことに彼が何を感じ、彼をどれだけ歪めたか、誰にもわからない。

 

『なあ……』

 

 沖縄の海で何か言いたげだった國枝の表情を、千葉は思い出す。心情を吐露する國枝の母親とそっくりだったからだ。 

 

「学校の先生から何度か聞いたことがあるわ。響は一人で何でもできる、しっかりした子だって。そうじゃないの。あの子は、響は裏切られることが怖くて、誰にも頼ることのできない一人の男の子なの」

 

 思い返せば、國枝はいつも一人だった。

 修学旅行の時も、プール爆破事件の時も、率先して動き、自分からは助けを求めなかった。

 もし國枝に頼られても拒否なんてしないと、もちろん全員そう思っているが、國枝にこびりついた恐怖は剥がれることなく、手を伸ばすことを躊躇させた。

 殺せんせーすらも突き放したのは、そういうことなのだ。

 だったら、安心させるために手を握るべきだった。それなのに掴まなかったことの大きさに、不破は改めて愕然とする。

 

「でもきっと、私はあの子にとって必要ない存在になってしまった。私はそれを言い訳に……響を独りにしてしまったの。そうしてしまった私が言えた義理じゃないけど、どうかお願いします。響の力になってあげて」

 

 頭を下げる國枝母に、応えられる者はいなかった。

 

 

「お前のことは知ってるぞ、『蟷螂』。殺人鬼だろ。なぜ人を殺す」

 

 ナイフの並んだ机に座り、俺を監視しながら得物を研いでいる『蟷螂』に問いを発した。

 

「世の中にはお前の理解できない人間もいる。子を捨てる親もいれば、人を殺すことに快楽を覚える人も。そういう連中にとって、『なぜ』という質問は的が外れてる」

 

 面白くなさげに、彼は言った。

 

「お前も同じ種類の人間だからわかるだろう」

「違う」

「人を殺してないからか? 悪さをした人間に罰を与えているからか? それは反論材料にならない」

 

 彼は嘲笑する。

 見透かしたような言い方に、俺は苛ついた。

 

「お前がそんな人間だからって、殺していいことにはならない」

「殺さない理由にもならん。俺はそういう心をもって生まれた人間だ。本能に従うだけ」

「だけど人間として、倫理や理性が働くだろ。『なんてことだ。人を殺してしまった』って、少しは思ったことがないのか?」

「ない。それに、お前がまともな倫理観を持ち合わせてるとも到底思えん」

 

 話は平行線だ。こいつは俺とは違う人種なんだと、それだけでわかる。

 だからこいつの話をまともに聞く必要はない。ないのに、なぜか耳に入って心にこびりつく。

 

「ただ悪人を痛めつけて何になる。お前がやってきたことは全部、無駄のまま終わる。罪を犯した人間はまた同じことを繰り返す。善良とはいえなくても、罪のない普通の人間が犠牲になる。お前は問題の解決を先延ばしにしているに過ぎない。お前がやっていることは何の意味もない」

「意味はある。少なくともE組の何人かを危ない目から助けてきた」

「他の人間を傷つけてな。大義名分があって許されるなら、お前は俺を否定できない」

 

 研ぎ終えたナイフを机に置き、彼は次のに手を出した。

 

「この世には殺す必要のある人間がいる。世間はそれを知っていて、願ってるんだ。倫理に邪魔されずに事を済ませられる人間の登場を待っている。表では理解できないふりをしながらな」

「だからお前がやってるってのか、人殺しを」

「俺にはそれができるからだ。できる能力があり、できる精神がある。それを行使することを世界が望んだ」

 

 『蟷螂』がいきなり机から飛び降り、俺の目の前までやってくる。

 ナイフをちらつかせているが、威嚇ではなく、ただの彼の癖だ。

 

「お前もそうだろうが。E組とお前が『貌なし』を戦わせることを望んでる。驚異の排除を一人で背負わせることを黙認してる」

 

 俺は頭を振った。

 

「俺が勝手にやってることだ。みんなは何も知らない」

「今は違うだろう? お前が『貌なし』だってことはあのクラスの何人かは気づいてる。それでもお前がこうやって一人で来て、ぼろぼろになっているのは、お前を含めた全員がそれを望んでいるからだ」

「やめろ」

 

 わかったような口をきくな。

 あいつらは俺とは違う。だから俺があっちに歩み寄らないとどうもできないんだ。

 E組のみんなは待ってくれている。だけど俺が拒否した。みんなはまったく悪くない。

 他の誰も傷つかずに俺だけが傷ついてるのは、俺が、俺だけがそう望んだからだ。

 

「お前のことを心配してる人間なんて一人もいない。俺やお前のような人間は、誰にも認められずに利用され、捨てられるだけだ」

「やめろ」

「『普通の人間』の枠から外れた俺たちは、理解を求めずにやることをやるしかない!」

「やめろ!」

「大切な仲間に隠し事をして嘘をついているお前のことを、誰が好きになってくれるってんだ!」

 

 俺の中で、何かがぶつんと切れた。

 咆哮を上げ、全身に力を込める。

 みしりみしりと縄が鳴るが、切れはしない。だが諦めない。こいつの口を閉じられるなら、俺の手が千切れてでも吹き飛ばしてやる。

 縄が悲鳴をあげ始めた。ぶつり、と繊維が弾ける音がする。だが、そこまでだ。

 黙ってくれ。誰かこいつを黙らせてくれ。みんなが悪いだなんて、誰の口からも聞きたくない!

 

「理解されないなんてわかってる! 誰も俺を好きになってくれないことも! それでも、これは俺がやるしかないんだ!」

 

 居場所が欲しかった。

 ずっと家にも居場所が無くて、どこか安心できる場所が欲しかった。

 それをくれたみんなを守りたかった。俺がいてもいいと思えるように力になりたかった。

 それだけだ。それだけなんだ。

 

 方法が間違っていたらどれだけよかったか。

 けれど『貌なし』は危険を摘み取り、脅威を防いだ。だからこれが正しい事なのだと思った。

 そしてそれが出来るのは、俺しかいない。

 

「そう、やるべきことをやるしかない。だがその先には何もない。俺たちは望まれつつ、罵られて蔑まれて足蹴にされ……最後には捨てられる」

 

 俺がやるべきことだから、当然のことだから、誰も何も思わないということか。

 当たり前のことを当たり前にこなしている人間には賞賛もない。だって、当たり前なんだから。

 そういうことなのか?

 結局俺のやってきたことは全部無駄だってことなのか?

 

 ああ、考えてみれば俺という人間は無茶苦茶じゃないか。

 一緒にいたいくせに……居場所が欲しいくせに傷つけて、隠して、遠ざけて。守りたいくせに弱い。

 

 力が抜ける。

 じゃあ、俺が生きてきた理由はなんだ? 戦った理由は? 目的は? 意味は?

 考えれば考えるほど突きつけられてくる『無意味』に吐き気がする。

 

 いいや、待て、待て。

 確かに認めてほしくはあった。だが、一番はみんなが無事でいることだろ。

 それでいいんだ。なのに……そのはずなのに、胸が苦しくなる。

 

 口からものが出そうになるのをこらえて、床が歪む錯覚に酔っていると、『蟷螂』の足先がこちらに向いていないのに気が付いた。

 顔を上げると、彼は扉のほうを見ていた。

 

「何人か近づいてきてる……六人だ」

「お迎えか。くそ」

 

 俺を殺さないでおくように言ったのは、シロ以外にいないだろう。

 回収部隊が来たのだ。

 

 シロは医者に命令して、何かを注射しようともしていた。

 俺は実験体にされるのだろう。イトナのように。

 

「いや……おかしい」

 

 『蟷螂』の纏う雰囲気に緊張が混じり、彼はナイフをホルスターに差し始めた。

 

「銃を持ってる」

 

 そう言うと、彼は部屋の明かりを消した。

 瞬く間に暗闇となり、『蟷螂』は扉の陰に隠れる。

 

 数秒後、どたどたとせわしない足音が聞こえてきた。大勢だ。

 音が一瞬止むと、勢いよく扉が開いた。

 

「なんだ、『貌なし』だけか」

 

 光がドアの外から差し込み、さらに男たちの持っているライフルのライトが眩しくて目を細める。

 白い対殺せんせー用の服を纏った男たちが三人入ってきた。

 部屋が狭いため、他は待機しているようだ。

 

「『蟷螂』はどこ行った?」

「どうだっていい。こいつさえ手に入れば、奴は用済みだ」

 

 部隊のうち二人が、俺の腕を縛っている縄を解こうとする。

 その瞬間、生暖かい液体が俺の身体にかかった。

 

「あ……?」

 

 その言葉を発した後ろの男は、目を見開いたまま首を抑える。

 同時に溺れるような声にならない声。噴き出した喉の血のせいだと気づいたのは、そいつらが足元に倒れてからだった。

 『蟷螂』の流れるような動きで、二人の首は裂かれ、一瞬にして死体となってしまったのだ。

 

 続いて、『蟷螂』は呆気に取られている三人目に手をかけようとしていた。

 

 だめだ。やめろ。

 

 縄が緩んでいるような気がする。

 さっき、完全に解かれはしなかったが、隙間ができていたのだ。

 その隙間を利用して、手を動かす。結び目に指が引っ掛かった。よし、いける。

 

 状況は、『蟷螂』が三人目を殺し、部屋に四~六人目が入ってきたところだった。

 惨劇を理解し、男たちは慄きながらも『蟷螂』に銃を向ける。それと、俺が縄を解いたのは同時だった。

 

 すぐさま先頭の男の銃身を掴み、上に逸らす。直後、マズルフラッシュが部屋を一瞬照らした。薬莢と銃弾が床に落ちる。 

 男がこちらに手を伸ばすが、身体をねじって蹴り飛ばす。壁に激突したそいつの頭を掴んで、顎を打ち抜いた。

 脳を揺らされ、昏倒する男の手から銃をもぎとり、投げる。それは『蟷螂』を狙っていた男の頭に当たり、隙を作る。

 

 俺はもう一人の足を引っかけ、転ばせた。不運なことに頭を打って、そいつは気絶した。

 その俺の目の前に、頭にナイフの刺さった一人が倒れる。俺が投げた銃が当たった方だ。

 

 絶望感に足が竦む。

 目の前で四人も殺された。その事実に、胃から何かがこみ上げる。昏倒している男の上に吐いてしまった。

 

 思えば、死体を見るのはこれが初めてだ。

 そりゃそうだろう。死体なんて、普通に過ごしていれば葬式以外で見ることは滅多にない。

 それが暗殺の意が渦巻くE組の生徒であろうとも、だ。 

 

「……捨てられたな」

「そうみたいだな。あいつは、俺よりもお前を選んだらしい。殺人鬼を飼うのはリスクが高いからな」

 

 どういうわけか、シロは俺を捕らえて、『蟷螂』を殺そうとした。

 真意はわからんが、そのどちらも失敗した。今度はどんな手を出してくるかわからない。

 

「言っただろう。俺たちは捨てられるだけだと」

 

 はあ、とため息をつき、『蟷螂』はナイフをしまう。

 俺に興味を失ったかのように、背中を向けて去ろうとする。

 

「待て、どこに行く」

「シロを殺す」

 

 裏切られたからか、それとも単純にイラついたからか。ただそれだけで殺せるのだ、こいつは。

 それは明らかに、俺の中にある常識の範疇を越えていた。

 

「もういいだろう。これだけ殺して、まだやるってのか」

 

 お前には理解できない、と言うように、『蟷螂』は鼻を鳴らした。

 

「助けてくれたことには礼を言う。今回だけは、殺さずにいてやる」

「待て……待て!」

 

 殺人鬼を逃がすわけにはいかない。放っておいたら、もっと屍が積まれることになる。

 だけど身体は俺の言うことを聞いてくれず、膝をついてしまう。意思とは逆に、身体が休めと訴えてくる。 

 力が入らない。

 失意の底で、死体に囲まれながら嘆く。

 消えていく『蟷螂』のあとを、追うことが出来なかった。



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53 助けて

 ――結局、見つけられなかった。

 

 俯いて、とぼとぼと帰路につく不破の心は沈んでいた。

 みんなが協力しても、國枝は見つからなかった。

 どこにいるのか、何をしているのか、無事なのか。時間が経つごとに不安が増す。

 暗くなる前になって一時解散となったが、彼女は諦めきれずに思いつく限りの場所を探した。

 結果は、疲れた表情で一人歩く彼女を見ればわかる。

 

 もう少しで家に着く。ご飯を食べてからまた探しにいこうか、みんなと連絡を取ろうか、明日はどうしようか……

 そんなことを考えていると、視界の端に何かが映る。

 いつの間にか人とぶつかりそうになっていた。間一髪のところで衝突を避ける。

 

 ――危ない。ぼうっとしてたら、國枝くんを見つけられないよ。

 

 と、気合を入れ直したところで、不破に違和感が走る。

 

 ――さっきの人……なんだか様子が変だったような?

 

 不破は振り向いた。

 

「國枝くん……?」

 

 腕を抑え、ずりずりと摺るように歩を進めるフードの男を見て、不破は驚いた。

 着ている灰色の迷彩服は、昨晩に見たものと同じだ。ただし、いたるところが裂かれて千切られている。破れた箇所から見える肌が血に染まっているのが、激動を物語っていた。

 

「國枝くん……だよね?」

 

 彼女の言葉に、その男は足を止める。

 

「もう遅い。早く帰れ」

 

 こちらを振り向きもしなかったが、その声は間違いなく國枝のものだった。

 

 ――やっと見つけられた。なぜこんなところで? 怪我は大丈夫? そもそもどこまで行ってたの? 『蟷螂』は?

 

 山のように疑問が重なる。

 その問いを発する暇も与えてくれず、そしてあんなにも傷ついているにも関わらず、國枝はそれだけ言ってまた進みはじめた。今にも倒れそうに足を摺りながら。

 

「待ってよ」

「『もう知らない』んだろ」

 

 吐き捨てるように言いながら、國枝は遠ざかろうとする。

 

「待って。お願いだから待って!」

「行けと言ったり、待てと言ったり……」

「我儘なのはわかってる。だけど、お願い、今は待って」

 

 これ以上距離が空いてしまうと、もう二度と会えないような気がして、離れるたびに近づく。

 だけども触れるのが怖かった。昨日のように、手を払われるのが怖かった。

 なにより、ギリギリで生を保っている彼に触れて、壊してしまうのではないかと恐れてしまう。 

 

「行くことを選んだのは俺だ。お前は何も考えず、『知らない』で済ませればいい」

 

 誰かが傷つくくらいなら、独りになって自分が傷つく。國枝響とはそういう男なのだ。

 たとえその『誰か』が彼を見捨てた人だとしても、E組のためならなんだってしてしまう。

 E組のことが好きな彼が、E組があるから壊れてしまう。

 

 でも、それが彼のやりたいことなのだろうか。

 傷つき傷つけ傷つけられて、その後に何を望んでいるのだろう。

 何が國枝をそこまで捻じ曲げてしまったのか、不破にはわからない。

 親か殺せんせーか、それとも自分たちか。

 

 しかし心の中で思うことは一緒だと信じたい。

 同じ人間で、同じ中学の大切なクラスメイトなのだから。

 

「これが私たちなの? 國枝くんは、私たちとこんな関係でいいの? こんな……お互いに勝手な関係で?」

 

 涙が溢れそうになる。だけど、駄目だ。涙を流してしまえば、言いたいことも、言うべきことも言えなくなる。

 安心できるまで、國枝が戻ってきてくれるまで、不破はこらえた。

 彼は立ち止まって……首を縦にも横にも振らない。

 不破はその背中へ、言葉を向けた。

 

「謝る、謝るから、ねえ、お願い……やだよ。こんなことで、國枝くんと一緒にいられなくなるなんて」

 

 本当は今すぐ引き連れて、休ませてあげたい。不破はその衝動をぐっとこらえる。

 止まって、悩んでくれているなら、彼が自主的に頼ってくれることもあり得るのだ。

 強硬手段に出るのは、彼が去ろうとした時でいい。どちらにせよ、不破は國枝を取り戻す気でいた。過去の自分から、そして國枝自身から。

 

「何度だって謝るから……國枝くんが少しでも私と同じ気持ちなら……それ以上行かないで」

 

 

 『蟷螂』が去ったあと、何時間か経ったところで俺の身体はようやく意志に沿ってくれた。

 幾分か体力の回復した俺は、いまだ死体が転がるあの凄惨な地下室から抜け出し、外に出た。

 幸いなことに、ずたぼろの服を着て足を引きずる姿を見られることはほとんどなかった。あっても、見て見ぬふりをしてすれ違っていく。

 危険には近寄るべきではない。特に『貌なし』『レッドライン』『蟷螂』がいる夜の外では、外に出ないことが自衛となる。

 人々の反応は薄情ではなく、いたって正常なものだ。

 

 まさかそこで、不破に会うとは思わなかったが。

 

 連れられて入ったのは彼女の家の、彼女の部屋。壁に沿う大きな本棚には、みっちりと漫画が詰められている。部屋の真ん中には壁のように漫画雑誌が積まれていて、向こう側は不破兄の領域らしい。

 落ち着かない匂いと雰囲気に、そわそわしている余裕はない。

 

 苦労して脱いだシャツは血を吸って、重さが増している。それを、不破が持ってきたビニール袋に入れた。

 幸いにも、どこの骨も折れていないようだ。運が良い。

 しかし無事というわけではない。血は流れ、意識は途切れそうで、感情は落ちている。

 

 不破は、ずたずたになった俺の身体をタオルで拭いたあと、消毒液を傷口に沁みこませた。失いそうな意識が、痛みで覚醒させられる。

 身体が跳ねるたびに、不破はびくりとするがやめることはなかった。

 

「上手いな」

 

 傷口にガーゼを貼り付けて、包帯を巻く彼女の腕はなかなか器用だった。

 

「お母さんが看護師だから、応急処置の仕方習ったの」

「習った?」

「國枝くんをちょっとでも助けられるかな、って思って……」

 

 俺が『貌なし』であるという姿を見た最初の女子は不破だった。たぶんその時から、彼女はこういうことも覚え始めたのだろう。

 あの時から、俺の身体はずっとぼろぼろのままだったから。

 

「そのお母さんは?」

「今日は夜勤だって。お母さんが夜に病院から呼ばれるのは珍しいんだけどね」

「そうか」

「うん。はい、終わり」

 

 上半身はほとんど包帯状態になってしまった。それだけ、いろんな場所に怪我が出来ている。

 不破は俺の腹、胸、肩、腕となぞるように手を這わせる。最後に俺の手をそっと取って、固まってしまった。

 

「不破……」

「ごめんね。でも離したら、國枝くんがどこかに行っちゃいそうな気がして……」

 

 彼女はそう言って、内出血で赤と青に塗れた手をじっと眺める。

 

「ずっと、ずっと守ってくれてたんだよね。こんな……こんなぼろぼろになってまで……なのに私……っ」

 

 彼女はよくできた子どもの頭を撫でるように、指で手をさする。そうすると同時に、不破の目から涙が溢れ出た。

 ぽたりぽたりと流れ、手に落ちるそれが温かく感じて……温かすぎて、俺の心が揺さぶられる。

 

「よかった……國枝くんが無事で……」

 

 まだぼろぼろと泣き続ける彼女に、俺は安堵する。

 俺の心配をするくらいだ。他のみんなも無事だろう。

 どうやら立花は脅してきつつも積極的に手を出してくる気はないらしい。少なくとも今のところは。

 

 ひとしきりしゃくりあげたあと、不破は腫らした目をこすった。

 

「何か飲む? オレンジジュースかお茶か……」

「いや、いい。口が切れてるし、それに……気分じゃない」

 

 床に座ると小さいうめき声が漏れた。傷が開かないように慎重に動いても、肌が悲鳴をあげている。

 

「お父さんにはなんて?」

「気にしないでって言っておいた。騒ぎになっちゃうから」

 

 娘がぼろぼろの服を着た男を連れ込むなんて、簡単には了承してくれないだろう。

 だが彼女は言いくるめたみたいだ。血だらけなのを見たら、そう上手く言い込められなかっただろうが。

 

 手持無沙汰な不破は俺の真横に座る。

 何か喋ろうと思ったが、頭の整理がついてないせいで軽口すら叩けない。

 床に体重を預け、痛みに耐える。

 鷹岡と立花と『蟷螂』。その三人から与えられた傷のせいで、どれだけ死線を彷徨っただろうか。

 

「立花さんにね、色々言われた」

 

 ぼそりと、不破が独り言のように呟く。

 

「立花に?」

「こんなことになったのは、私たちのせいだって。みんなが國枝くんを待つだけだったから、こうなったんだって」

 

 あいつはいったい、何をどこまで、何の目的で言ったんだ。E組のみんなに変なことを吹き込んだのか。俺に言ったみたいに。

 

「みんな否定できなかった。あのカルマくんでもね。私も」

「あの女の言うことを真に受けるな。かなり……複雑な奴だから」

「でも否定できなかった」

 

 不破は俯く。

 立花が『レッドライン』だと知れば、彼女が言っていることは聞くに値しないとわかるだろう。

 首を絞められて、喜んだまま気絶するような奴だ。

 だが俺がそれを言うことは憚られる。

 正体を知られれば、立花は真っ先に不破を標的にする。俺と戦う口実にするだろう。

 今のところ、大人しくなっているあいつを刺激するのは得策じゃない。

 

「私の家の近くにいたのは偶然? 家までの通り道だった?」

「わからない。自然とここに足が向かった」

 

 正直に言って、こうやって家に入れてくれるとも思ってなかった。

 ただ、安心できる場所を彷徨ってたどり着いた場所がここだった。

 

「國枝くんのこと、見捨てたのに……」

「……」

 

 肯定も否定もできなかった。

 この前の問答の結果、俺は不破たちを置いて一人で戦いに行った。そして、同時に俺は不破に置いていかれた。

 その事実は、俺たちの中に傷をつけた。こんな身体の痛みなんてどうでもよくなるくらいの深い傷を。

 

 力になれないと言うつもりだろうか。その先を聞きたくなくて立ち上がる。

 すると不破も立ち上がって、俺が去るのを止めた。

 

「國枝くんのそんな顔、初めて見る」

 

 そう言われても、俺は自分の顔がわからない。ずっと隠してきて、見ないようにしてきたのだから。

 『そんな顔』どころか、普段の顔も怒った顔も、笑った顔ですら俺はわからない。俺が自分のことについて知っていることは、殴り殴られることに慣れているということだけ。

 そのほかのことは、何もわからない。何も……

 

「ねえ、話したい事があって来たんじゃないの? だからついてきてくれたんじゃないの?」

 

 話したい事はたくさんあった。あったけど、それを話すことは正しいことなのだろうか。

 俺はここに来てまで悩んでいる。

 俺が身の上話をしたことで、不破は俺を頼ろうとしなくなり、そしてシロの罠にはまり、『蟷螂』に殺される寸前までいってしまった。

 その危険をまた冒せというのか。

 

「待つって言ったけど、ごめん、國枝くんのこんな姿を見せられて……そんなこと言えないよ」

 

 彼女がぎゅっと俺の腕を掴む。傷を負っていなかったとしても痛いほど強くて……震えていた。

 

「悩んでるなら聞くから、話して」

 

 掴んだ腕はそのままに、不破は頭を胸に預けてくる。

 

 俺には二つの選択肢がある。

 不破を払いのけてこの家を出ていくか、それとも……

 

「誰にも理解されなくていいと思ってた。俺だけが自分のことをわかっていて、するべきことをすれば、それだけでいいと」

 

 不思議と、口が勝手に動いた。

 

「実際、今日まではそれでやってこれた。ずっとそれでやっていけると思ってた」

 

 放っておかれて、一人だと思わされて、一人でやって、なんとかできた。俺の人生はその繰り返しだった。

 捨てられるくらいなら、こんな苦しい思いをするくらいなら、元から一人でやってしまおうと思った。そう思わされた。

 誰か守りたい人ができてしまったなら、俺が守れるくらい強くなればいい。その人に危険が及ばないように、俺が走ればいい。

 捨てられないように、深い関係は持たないまま、ひっそりこっそり。たった一人で。

 

「けど、けどな、不破。もう無理だ。もう無理なんだ」

 

 そこでようやく、自分の声が震えていることに気づいた。

 感情の蓋が外れてしまい、溢れて止まらなくなる。

 際限のない怒りを感じたことは幾度とあれど、これだけの悲しみを感じたことは久しぶりだった。

 頭がぐちゃぐちゃになって、足から溶けてしまいそうなくらい、力の感覚がなくなる。

 

「國枝くん、何があったの?」

「たいていのことは一人でできると思ってた。今までいろんなことを言われてきたし、やられたこともあった。死にそうになったこともある。けど最後にはいつも一人で解決してきた。それでいいんだと、それが俺の道なんだと納得したつもりでいた」

 

 人は一人では生きていけない。そんなことを何回も聞いた。

 しかし俺は違う。一人でいられるだけの心の強さと経験を積んできたはずだ……そう思っていた。

 

「けど、だけど……」

「國枝くん……」

「やってきたことが全部間違いだと、そう思わされた。自分の無力さをありありと見せつけられたよ」

 

 生きてきた道が外れたものだと言われた。進んできた十五年間が意味のないものだと言われた。俺の歪んだ精神は、誰にも責任を押しつけることのできない罪だと。そして、そこまでして出来上がったものに力がないことを証明させられた。死体を目の前に転がされることで。

 アイデンティティが否定され、積み上げてきた『國枝響』が音を立てて崩壊していく。

 世界が俺を拒絶して、存在自体が間違いだったと言われたような気分だ。

 

「最悪の気分だよ。何が正しいのかわからなくなった。俺はもう、自分のことすら一人じゃ抱えきれない」

 

 我慢できなくなって、留めていた涙が流れる。

 

「もう……一人じゃ……」

 

 俺は弱い。あまりにも脆く、醜い。

 強いと思っていた俺の心はばらばらになる寸前で、繋ぎ留めておくだけで精一杯。

 いま立っていられるのも、不破が支えになって寄り添ってくれているからだ。

 

「教えてくれ。俺はどうすればいいんだ」

 

 いまの俺にはなにもわからない。

 小難しい途中式や論理なんかすっ飛ばして、答えが、答えだけが欲しい。俺が安心するに足るような明確な答えが。

 

「助けてくれ、不破」

 

 不破がそっと動いた。

 拒否されるだろうか。それが嫌で、ぎゅっと目を瞑る。

 だが、反して彼女は俺を抱きしめてきた。そっと優しく。

 

「ごめんね。不謹慎かもしれないけど、いま、ちょっと嬉しい」

 

 俺の胸に顔をうずめて、深く吐息を漏らす。

 

「國枝くんがやっと『助けて』って言ってくれた」

 

 彼女は俺の背中に遠慮なく手を回して抱きしめる。

 強く、だけど暖かい。そこに不破優月がいることを伝えてくる。

 

 暗殺のために鍛えていても、柔らかく細い。そんな彼女の身体を、折ってしまいそうなくらい強く抱きしめた。

 突き飛ばされるのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、逃げられないように必死で力をこめる。

 不破はむしろ密着した身体をもっと近づけるように、顔を擦り付けてくる。

 

「助ける、助けるよ、國枝くん。私はここにいるから」

 

 ぼやけた視界の中で、不破が笑ったのがわかった。



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54 みんなと

「なあ不破……やっぱり……」

「ダメ。ちゃんとみんなと話すって約束したでしょ」

 

 扉の前で、弱気になってしまう。

 長い間学校に来てない生徒が登校するときってこんな気分なのだろうか。俺が来てなかったのは一日だけだったけど。

 一日、一日か……濃かったな。

 

 恐る恐る教室に入るなり、空気がざわつく。

 みんな、俺が来たことで一瞬だけ明るくなったが、すぐに息を呑んだ。

 俺の顔が痣と腫れと傷まみれなのを見て、目を逸らす者もいる。

 制服の下はもっと酷い。今も不破に支えられていなければ倒れそうなくらいなのだ。

 

 こんな状態じゃ、次に誰かが襲ってきたときに何もできない。

 まあ、こんな身体じゃなくても、今は精神的に助けが欲しい。

 

「みんなに話すことがある」

 

 そう切り出して、俺は鞄の中身を教卓の上に出す。

 

「俺が『貌なし』だ」

 

 教室がいっそうざわめく。

 話を聞いていたのと、本人の口から語られるのではまったく違う。

 机に置かれた『貌なし』一式を見て、もはや疑いようのないことだとみんなが信じる。

 

「全部……全部お前が……」

「そうだ。俺がやった」

「話も聞いて映像も見たけどよ、なんていうか……現実味がねえよな」

「國枝が強いってのは知ってたけどさ……やっぱり……」

 

 大半は話を信じていながら、まだ受け止めきれていないようだ。

 俺は、いきなり外からやってきた殺せんせーや烏間先生、ビッチ先生たちとは違う。

 椚ヶ丘中学の生徒。多少のぶれはあっても、それほど変わった経験はないだろうとみんな思っていた。

 それがこんな、大きな隔たりがあるとは想像もつかなかっただろう。

 

「本当だよ。本当に、國枝くんはずっと私たちのことを守ってくれてた」

 

 一人だけ、不破だけがなんの迷いもなくまっすぐにみんなを見ていた。

 

「ねえ、終わりにはできないの?」

 

 みんなを代表して、渚が声を上げる。

 

「國枝くんが僕らを守ってくれたように、僕らが國枝くんを守る。だから、『貌なし』になるのはもうやめられない?」

 

 それが理想の形なのだろう。

 全員が全員の足りないところを補い合って、誰もが犠牲にならない対等な協力関係。

 だが……

 

「まだ、一つだけやることがある」

「やること?」

「堀部を助ける。堀部はシロに利用されてるだけだ。あいつは俺たちを傷つけたけど、あいつ自身はもっと傷ついてる。このままにしておけない」

 

 困惑した表情を向けられる。

 プール爆破事件のこともまだ鮮明に頭に残っている。許せなく思うのも当然だ。

 俺だって一発殴ってやりたい。

 救うにしても罰を与えるにしても、あいつをここに引っ張ってこなきゃいけないんだ。

 

「力を貸してほしい。奴の場所を特定するんだ。ここに連れ戻すために」

 

 俺は頭を下げた。

 

 堀部をシロの手から、触手から解放してやらないかぎり、俺は自分を肯定できない。

 『蟷螂』の言った『無意味』を否定することができない。

 

「どうしてそこまでしようとするんだ?」

「お前らだって一緒だろ。あいつは……堀部イトナはE組の一員だからだ」

 

 顔を合わせた回数は少ないけれど、堀部イトナはE組の生徒だ。

 俺たちが見捨てるわけにはいかない仲間の一人なんだ。

 

「いいんじゃない。俺は賛成。せっかく國枝が頭下げてんだからさ」

 

 口角を上げて、カルマがいの一番に挙手する。

 

「國枝さんは、私がE組の仲間になるのを待ってくれました。私を守ってくれました」

 

 次に声を上げたのは律だ。

 

「私も賛成です。恩返しというには軽いですが、少しでも國枝さんの力になりたいです」

「俺も」

「私も!」

「僕も」

「もちろん私もですよ、國枝くん」

 

 みんなが賛成してくれる中に、殺せんせーも混じる。

 やめようだなんて言うのは一人もいなかった。

 

 

 さて、全員が協力体制に入ったところで、いくつか机を引っ付けて周りを取り囲む。

 

「ここまで堀部が見つからなかった原因は、シロの管理下にあったからだ。殺せんせーの前以外で暴れることを許さず、ずっと姿をくらましてきた。だがそれも終わり」

「昨日今日で、イトナ君に襲われたと思われる場所をピックアップしたよ」

 

 律が印刷してくれた地図に、不破が丸を書きこんでいく。

 堀部が見捨てられて以降、いくつかの店が滅茶苦茶に荒らされているという情報は、ニュースで流れている。

 映像を見る限り、店内もガラスもすっぱりと切られた傷が残っていた。触手による攻撃の特徴だ。

 そして、その店とは……

 

「ケータイショップか」

 

 例外なく、全てがそうだった。

 周りにも飲食店やら本屋やら多様な種類があるのに、それらは一切傷つかず。

 ただ暴れているわけじゃないことはこれでよくわかった。

 堀部にはまだ理性がある。

 

「場所と時間から見て、そんなに速く移動してるわけじゃなさそうだな」

「苦痛に苛まれながらもこうやってお店を破壊できるのは、ひとえにイトナ君の感情の力が強いからでしょう。ですが、身体的には限界のはずです」

 

 殺せんせーが罠にかけられ、俺が『蟷螂』と初遭遇したあの夜の時点で、堀部はこれ以上ない苦しみを受けているようだった。

 

「このままいけばどうなる?」

「触手がイトナくんを侵食し……やがては死ぬでしょう」

「リミットは?」

「……今日中になんとかしないとまずいですねえ」

 

 すでにあれから三十六時間以上が経っている。

 触手、人体実験……数々の問題があるあいつを、政府が放っておくとも考えづらい。

 

「だったら、はやいとこ捕まえねえと」

「これだから馬鹿は」

「んだと!?」

 

 立ち上がる寺坂に、カルマがいつも通り言うと、寺坂もいつも通りの反応を返した。

 

「まだ材料が足りないよ。でしょ、國枝?」

「ああ。捕まえたところで、触手を取り除けなかったら結果は変わらない。それをどうするか……」

「もし、まったくの抵抗もなければ、先生が触手細胞を取り除けます。しかし、少しでもイトナくんが触手に執着していると……」

 

 つまり、堀部を説得しなければならないわけか。そのためには彼の過去を知っておく必要がある。

 それはこいつらでもできる。

 

 なら残る問題は、誰がどうやって堀部を捕まえるか。

 

「……身体が痛む。後は任せていいか?」

「ああ。早く休め。進展あったら教えるからよ」

 

 

 みんなが考えている中、俺はこっそり抜け出して学校の外に出ていた。

 

 襲われた店は三つ。もうわかっている通り、どちらもケータイショップだ。

 数あれど、あまり動けないはずのイトナが狙えるのは限られる。普通に歩くことすら難しいはずだから、範囲はかなり絞られる。

 

 予想範囲の中にある店の一つが滅茶苦茶にされているのを発見して、やはりと思った。

 飛散したガラスは、店の外へも飛び出していて、中も外もぐちゃぐちゃに荒れ果てている。

 

 いま破壊されたばかりだ。

 その証拠に、店の中で苦しみにあえぐ堀部がいた。

 

「堀部」

「ぐ……く……」

 

 呼びかけても、まともな返事をしてこない。

 青筋が立っている顔と、とめどなく流れる汗、制御できていないような動きの黒い触手が限界を物語っていた。

 

 応答の代わりに触手が鋭くしなるが、かなり弱っていてスピードはがくりと落ちている。初動さえ見切ってしまえば、その単純な攻撃をかわすのは不可能じゃない。

 体力がなくなっているのに無茶をしたせいでふらふらとゆらめく触手を掴んだ。堀部はそこらへんの不良よりも弱い力で抵抗するが、俺は離さない。

 

「今のままじゃ死ぬぞ。E組に戻れば、お前は生きられる」

「それに何の意味がある……っ。俺は強くなくちゃいけないんだ。誰よりも、お前よりも!」

 

 言い返そうとして、言葉が浮かばない。

 漫然と生きるより、するべきことをして死のうとするのは、俺も同じじゃないのか。

 そんな俺が彼を止められるはずもなく、彼は抵抗の力を増してきた。

 

 話だけで済めば万々歳と思っていたが仕方ない。ここは無理やりにでも拘束して、殺せんせーの前に突き出すか。

 そう考えて、拳に力を込めた瞬間……

 

「強くなるのは立派ですが、そのために死ぬことは、先生は看過できません」

 

 後ろから聞きなれた声がした。

 振り向くと、殺せんせーだけじゃなく、E組が全員揃って立っている。

 

「お前ら……」

「こうなると思ったよ。だから國枝の後を尾けたんだ」

 

 カルマが非難するような目で俺を見る。いや、彼だけじゃなくみんなが怒ったような表情だ。

 

「ここは俺に……」

 

 言いかけて、口が止まった。

 ころんころんと何かが転がってきた。小さく、丸い何か。

 それには見おぼえがある。手りゅう弾だ!

 

 伏せる間もなくそれは爆発し、俺たちの視界が真っ白に染められる。

 だが不思議と痛みはない。破片手りゅう弾や閃光手りゅう弾でもないみたいだ。

 おそるおそる目を開けると、白い粉が宙を舞っていた。

 

「ぐうぅっ」

 

 この場で堀部だけがのたうち回る。これは……対触手用の粉爆弾か。

 見れば、殺せんせーの体表も一部どろどろと溶けている。

 

 こんなのを使ってくる奴なんて……と

 

 銃撃が店の中に降ってきた。

 実銃弾じゃない。BB弾だ。これもまた触手生物だけを狙ったもの。

 俺は堀部の前に立ってそれを防ごうとしたが……彼はどこからか放たれてきたネットに捕らえられ、店の外へと引きずり込まれる。

 

 粉を振り払って俺も外に出ると、店の前にトラックが止まっていた。

 その荷台には三人ほど、シロと同じ対殺せんせー服に全身を包んだ何者かが銃を構えている。中心にはネットランチャーがあって、そこから出ている網が堀部をすっぽりと包んでいた。

 

 トラックが急発進する。それに引きずられて、堀部が攫われていく。

 殺せんせーもすぐに飛んで後を追った。

 

「あんの野郎ォ。また俺らをコケにしやがったな」

「めちゃくちゃにしてやろうよ、あいつの計画。このまんまじゃ、俺収まりつかないし」

 

 寺坂とカルマが、それぞれ怒りを浮かべて拳を鳴らす。他のみんなもやる気満々のようで、目をぎらつかせていた。

 

「待て。待てよ、お前ら」

「この期に及んで、まだ止める気かよ」

「シロが罠を張ってるに決まってる。プールの時みたいに、全員巻き込まれるかもしれないんだぞ。なんで同じことを繰り返そうとするんだ」

「繰り返そうとしてるのはお前のほうだろ、國枝」

「死ぬ寸前までいって、まだ意地張る気かよ。協力するって言っただろ」

 

 寺坂も村松も吉田も首を振る。

 どうしてそこまで危険な目に遭おうとするんだ。

 

「見つけるのを協力してくれとは言った。だがここから先は無事じゃすまない。ここは俺が……」

「相変わらず、馬鹿は治ってないみたいだね」

「なんだと?」

「馬鹿に馬鹿って言うべき人間が馬鹿に言って何が悪いのさ」

 

 俺とカルマは顔をつきあわせる。

 

「馬鹿だろうがなんだろうが、ずっとこれでやってきた。これで上手くいってきた」

「それが間違いだった。やっぱお前を置いておくわけにはいかなかったんだ」

 

 修学旅行の、あの誘拐騒ぎの時に言ったセリフと同じようなことを、また言ってくる。

 あの時からすでに、カルマは俺の正体を知っていた。

 

 ならそこまでで俺がどれだけ怪我してきたかも知ってるはずだ。

 それを追う役目は任せてくれたらいい。その他のことで力になってくれれば、俺はそれでいいんだ。

 

 なのにカルマはどいてくれない。俺が間違っているという意見を覆す気がない。

 

「よし、聞いてやろう。その聡明な頭で考えてくれよ。誰も死なずにシロを撃退して、堀部を助ける方法を」

「みんなで立ち向かうんだよ」

 

 アホみたいな提案に、俺は鼻を鳴らした。

 

「それで、みんな仲良く傷ついて大団円か?」

「よくわかってんじゃん」

「それが嫌だって言ってんだろうが。それしか言えないなら、俺は俺だけで行く」

「だぁから、お前の方法が間違ってるからこの方法を提案してるんじゃん」

 

 カルマは俺の肩を掴んで止めてくる。

 

「みんなで作戦を考えて、みんなで協力して、みんなで実行する。で、みんなで無事に帰る。どこがわかんないのか言ってみてよ」

 

 俺は俯いて唇を噛んだ。

 言うだけは簡単だ。問題は、それを遂行するのに必要な力と作戦。

 

 俺はいったん頭を落ち着かせて、冷静になった。

 このまま一人でがむしゃらに行って、堀部を助けられる可能性はなくもない。『蟷螂』に比べれば、シロの周りにいる人間程度はなんとかなるだろう。

 だが、カルマの言う通りにすれば成功率が飛躍的に上がるのも確かだ。

 クラスメイト全員で挑めば戦力は十分。あっちに追いつけば、殺せんせーもいる。

 

 作戦に関しては、すでに実績がある。

 俺が言ったプールの時だって、こいつは見事にその場で作戦を決めてみせた。

 

 全てに納得できたわけではないが……ここまで来た以上、みんなはシロを追いかけるだろう。

 そこで俺が足並みを揃えなければ、逆に危険にさらしてしまうかもしれない。

 

「上手くいくと思ってるのか?」

「思ってるよ。ずっとやってきたことだからね」

 

 カルマは即答した。寺坂もずいっと前に出てくる。

 

「あとは、お前が乗るかどうかだけだぜ」



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55 みんなで

 銃撃の音が近づく。

 シロが逃げた先を追いかけて、ようやく今回のターゲットが見つかった。

 

 堀部を拉致したトラックは、殺せんせーを誘い込んで道路のど真ん中に止まっていた。

 トラックの荷台、そして歩道に一列に生えている木からも弾が飛んでいる。

 屋外だが、完全に包囲された形だ。

 

 堀部を捕まえているネットは対先生用の物質を混ぜられているうえに頑丈なようで、武器もない殺せんせーは破くこともできない。

 周りからは銃弾の嵐。そのほとんどが堀部を狙っているせいで、殺せんせーは逃げることもできずに防戦一方にならざるをえない。

 

 夏休み合宿の暗殺でも利用したことだが、殺せんせーは自分に向けられる以外の攻撃には少し反応が遅れる。

 そしてその攻撃の対象が生徒であれば、彼は放っておくことが出来ない。

 服や風圧で防ぐが、それもどこまでもつか……またしても生徒を利用したやり方に、嫌気が差す。

 

 我慢なんかする必要ないだろう。ここで反撃させてもらう。

 

 まずは、道路脇の木の上から殺せんせーを狙っている奴らからだ。

 手始めとして、カルマがそのうちの一人を蹴り飛ばす。

 油断していた男は空中に投げ出され、下で待機していた部隊が大きな風呂敷で受け止め、すぐにす巻きにする。

 

 岡野や前原、機動力に優れた者がカルマが続く。

 ちょうど、E組はフリーランニングを教えてもらっている。

 殺せんせーと堀部ばかりに気を取られている奴らにばれず、木を登るくらいなんてことはない。

 

 アクロバティックな動きが得意な岡野は、特に素早く動いて次々と落としていく。

 

「くそっ」

 

 トラックの荷台に陣取っている三人の視線が、E組に向いた。

 

「よそ見してんなよ」

 

 磯貝、前原、俺でそいつらを一人ずつ片づける。

 残った一人は、渚の猫騙しで麻痺させ、俺が蹴って沈めた。

 やはり、対殺せんせーの服を纏ってるだけで、こいつら自体は大したことない。シロが動かせる戦闘部隊は『蟷螂』が殺してしまったからだろう。

 

 磯貝たちが拾っておいたガラスの破片でネットを切る。すぐさま堀部を救出して、木陰に移動させた。

 

 あっという間に、シロが敷いた策は崩壊した。奴が甘く見ていて、利用していた生徒たちによって。

 

「ほーら、簡単だったでしょ」

「予想以上にな」

 

 カルマの軽口に返す。面白いくらいに上手くいった。

 全員が成し遂げたことは大きい。それでいて、一人ひとりの行動量自体は大したことない。

 俺なんて、奇襲をかけて一発殴っただけだ。

 

 シロがうろたえている間に、飛び蹴りをかます。

 

 彼の白い布、その口部分がじわりと赤く染まる。

 

「やっと一発だ。お前が俺たちにやったことを考えれば、まだ足りないぞ」

「この……ガキが……!」

 

 おーおー、ようやく化けの皮が剥がれてきたな。

 中学生に馬鹿にされて怒ったか。そんな安っぽい感情で、俺たちに向かってくるな。

 

 さすがに超絶不利な状況は理解しているようで、シロは表面上の冷静を整えた。

 

「……ここは退いたほうが賢明なようだね」

 

 心底焦ってるくせに、余裕ぶってトラックで去っていくシロ。

 追って、もう立てなくなるまでボコボコにしてやりたいところだが、堀部のほうが優先だ。

 まずいことにかなり弱っている。暴れていた姿は見る影もなく、ぐったりとしていて、息も荒い。

 

「殺せんせー、どうしたらいい?」

「……触手は意志の強さで動かすものです。イトナくんに力や勝利への病的な執着がある限り、触手細胞は離れません」

「逆に言えば、その執着を取り除けば触手を離せるってことだね。それがどんだけ難しいことか……」

「うちのクラスの中にもまだ完全に心開いてるわけじゃねー奴がいるってのに」

 

 カルマと寺坂はこんな時に同時に見てくる。

 

「で、國枝はどう思うよ」

「そこで俺に話振ってくるんだな……」

 

 俺はため息をついて、もう一度堀部を見る。

 これだけ体力を消耗して、触手に苦しめられているのに、目にはまだ殺意が宿っている。

 恐ろしいまでの執着……自分にかけた呪いとも言えるそれに、彼は縛られている。

 

「根本の原因がわからないことにはどうしようもないが……それは不破と律に調べてもらった」

「うん、みんなこれ見て」

 

 不破がスマホを操作し、全員に情報が行き渡る。

 それほど遠くもない過去の、とあるニュース記事が載っていた。

 

「堀部電子製作所?」

「スマホの部品作ってたところ。特有の技術を持ってたらしいけど……一昨年倒産してるね」

「で、堀部の親は夜逃げか……」

 

 数々の記事に目を通して、なんとなく堀部イトナという人間が見えてきた。

 こいつは捨てられたのか。真実はどうあれ、堀部はそう思ってる。

 理不尽に襲われ、汚され……生き抜くためには力が必要だと感じたんだ。

 そしてシロに利用され、その命すら削られて……また捨てられたのだ。

 

「どうやって説得するかな」

 

 深い闇が垣間見えたところで、手が出しづらい。

 これだけの経験をした人間なんて、このE組にいるのか。彼の苦しみを理解してやれる人間なんているのか。

 

「けっ、んなもんな、どうせどうでもよくなるんだよ」

 

 寺坂がそんなことを言った。俺たちの悩みや価値観をぶっ壊すような、そんな言葉を。

 

「その時にクソ重い悩みでもな、過ぎりゃ小さく思えてくるもんだよ。触手で暴れたこと、黒歴史にしてやるよ。そんためには、生きてもらわなきゃ困る」



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56 クソ野郎

「で、これで抑えられんのかよ」

 

 吉田と村松が、先頭を歩く寺坂に疑問を呈する。

 彼に支えられている堀部はふらふらしていて危なっかしいが、触手の持ち主だ。

 今はそれを、対触手生物用ネットを巻いたバンダナで抑えてるが、それもどれだけ効果があることやら。

 

 こいつを引き取ったからには、何か考えが……

 

「どーすっべ、これから」

「考えなしかよ!」

「任せろっつったろ、お前!」

「うるせー! 國枝、お前なんかねえのか、こんなかじゃ一番頭いいんだしよ!」

「俺は連れてこられただけだ。手なんか考えてるわけないだろ」

 

 俺は一度説得しようとして、失敗した。

 こいつの根底にある強さへの執着は、俺のものとは違う。どうにも堀部が納得できる着地点が見つからない。

 

「ずっと暴れっぱなしだったんでしょ。村松ん家のラーメンでも食べさせたら落ち着くんじゃない?」

 

 俺たちの中で、狭間だけがようやくまともなことを言う。

 確かに、触手はかなりのエネルギーを使うらしいし、こいつは少なくとも昨日の夜から飯を食ってないだろうしな。

 

 

 堀部は特に抵抗してくることもなく、村松の家兼ラーメン店である『松来軒』についてきた。

 今は村松本人が作ったラーメンをずるずると豪快にすすっている。

 やっぱり腹が減っていたのだろう。いい食いっぷりだ。表情はあまり変わらないけど、先ほどと変わって目に生気が宿る。

 

「マズいだろ、うちのラーメン。親父に何度言ってもレシピ変えやしねえ」

「マズい。おまけに古い」

 

 具を食いながら、堀部は文句を言う。

 

「手抜きの鳥ガラを化学調味料でごまかしている。トッピングの中心には自慢げに置かれたナルト。四世代前の昭和のラーメンだ」

「めっちゃ言うな、こいつ!」

 

 村松はムっとするが、分析も出来てちゃんと喋れるのはいい傾向だ。

 とはいえ落ち着きを取り戻しはしたが、まだ触手を手放そうとはしない。

 ならば……

 

 今度は吉田の父親が社長をやっている家兼バイク屋へ。

 

「どーよ、イトナ! マッハよりは遅いけどよお、これも爽快だろ」

「悪くはない」

 

 吉田がバイクを駆り、エンジンを吹かす。

 後ろに乗っている堀部はわかりやすく笑っているわけではないが、少し楽しそうに見えた。

 

「あれいーの、無免許で?」

「家の敷地内だし、まあセーフ」

 

 堀部もまあいい気分みたいだし、効果はあるかな。とか思っていると……

 吉田が高速ターンを見せつけようとして……堀部は吹っ飛び、草むらに頭から刺さっていた。

 

「おいおい、大丈夫かよ! また暴れだすんじゃねえか!?」

「だ、大丈夫だろ、たぶん……」

 

 吉田と村松が大急ぎで堀部を救い出す。

 草むら抜けた堀部に怪我はないようだが……

 

「復讐したいでしょ、シロの奴に」

 

 すかさず狭間のターンに移る。

 七冊の本を彼の目の前に置いた。

 

「名作復讐小説『モンテ・クリスト伯』」

「暗い小説勧めんな。今の堀部には合わんだろ」

 

 悲哀と喪失を存分に感じられる名作。しかし効果があったとしても今から読み終える時間はない。

 ていうか執着をはがすのが目的なんだから、逆効果じゃないか?

 

「ふふふ、國枝はちゃんと全巻読破してくれたわよ」

「今それ言うと、その本が悪く見えてくるからやめろ」

 

 ため息をつく。こんな馬鹿をやってる暇はない。

 下手をすれば今夜にでも堀部の命は消えるかもしれないっていうのに……

 

 その堀部の身体が震えだす。表情は明らかに先ほどとは違っていた。

 目は血走り、バンダナを裂いて現れた触手が黒く染まっている。

 村松も吉田も狭間もすぐさま距離を取った。

 

「俺は……違う。お前たちみたいに適当な奴らとは……」

「適当だ? んな適当なこと言ってんじゃねえよ」

 

 たった一人、堀部の言葉に眉をひそめた寺坂が、その場から退かず言葉に怒気を含めた。

 

「自称真剣のお前より強い國枝が、クラス全員と協力した作戦でもあのタコは殺せなかった。全員必死でやっても無理なんだ。お前ひとりが命懸けて届くようなもんじゃねーんだよ」

「うるさい!」

 

 堀部の触手が稲妻のように空気を走り、寺坂へと牙をむく。

 だが……鞭で叩かれたような鋭い音を立てながらも、寺坂はそれを受け止めた。

 

「ほ、ほらな……俺にも勝てねえ」

 

 足と声が震えて、思いっきり歯を食いしばっている。

 誰がどう見てもやせ我慢だが、まあ正面からの一対一でも寺坂は勝てるだろう。

 それくらい堀部は衰弱してるし、寺坂はしつこい。

 

「だけど俺らは諦めねえ。何度負け続けようが、三月までに一回でも勝ちゃいいんだからな。今じゃねえ。いつかどこかで勝てれば、それで勝ちだ」

「勝てれば勝ちって……ほんとお前馬鹿丸出しだよな」

「うるせえ!」

 

 馬鹿っぽい言い方をしているが……寺坂の言ってることに間違いはない。

 強い弱いは関係なく、一人じゃできないことがあるのだ。人間には限界があって、触手を手に入れたとしても越えられないものがある。

 

 なんだか、憑き物が落ちたようにすっきりとした。

 

「もし、三月までに殺すビジョンが見えなかったら?」

「そうならないために必死になるんだ。今日も明日も、明後日もな」

 

 答えたのは俺だ。

 

 毎日を必死に生きる。だがそれは命を賭すこととは別だ。そんなことに、いまさら気づくなんてな。

 いや気づかされたんだ、寺坂に。ずっと俺を案じていてくれた仲間たちに。

 もっと早くに耳を傾けていれば、こんな時間がかかることもなかった。

 

「そのために、今死ぬわけにはいかない。死なせるわけにはいかないんだ」

「明日も……明後日も……」

「未来のことをちゃんと考えるなら、力貸してやるよ」

 

 ふ、と堀部から殺意が消えた。

 その目は暗殺者でも実験体でもなく、ただの中学生のものになった。

 

「執着が消えましたね、イトナくん」

 

 さっとやってきた殺せんせーが、ピンセットやらハサミやらメスやらを手に、じりじりと堀部に近づく。

 

「今から触手細胞を取り除きます。いいですね?」

「……ああ、やってくれ。明日からお前を殺しにいけるように」

「ヌルフフフ。待っていますよ」

 

 目を離していたつもりはないが、一瞬で触手は堀部から離れた。

 宿主がいなくなり、触手はさらさらと砂のようになって、風にさらわれていく。

 

「一件落着だな」

 

 俺は胸をなでおろした。

 堀部は心を開いて、触手を捨てた。明日から……いや、今から正式にE組の仲間入りだ。

 

「なかなか悪くねーだろ、協力ってのも」

 

 歳相応な表情の堀部を眺めていると、寺坂がそんなことを言ってきた。

 

「お前がそんなこと言うなんてな」

「ま、あいつらが馬鹿みたいに仲間仲間って言うからよ。影響受けたのかもな」

 

 暗殺という稀な経験を通して、みんなの絆は時間が経るごとに強まっていった。

 影響しつつされつつ、みんなは少しずつ前へ前へと進んでいく。

 

「あとはお前だけだ、國枝」

「俺?」

「俺ぁ馬鹿だからごちゃごちゃ考えるのは苦手だけどよ、何度も守られてきたことくらいはわかる。けどてめーだけが傷つくのは納得いかねえ。E組の誰かに頼れば、もっといい結果になったことだっていくつもあんだろ。それがわかんねーなら、お前は俺以上の馬鹿だ」

 

 俺はぽかんと口を開ける。

 こいつは、感謝というか謝罪というか説教というか……そういうことを伝えようとしてるのか?

 

「お前より馬鹿は困るな」

「自分から言っといてなんだがムカつくな……!」

 

 思った通りの反応に、俺は思わず苦笑してしまう。

 寺坂は不器用で馬鹿だけど……でも俺のことを考えてくれていることに偽りはなかった。

 

「一人で傷つく前に相談しろってか?」

「そうだよ。俺じゃなくてもいい。このクラスに何人いると思ってんだ」

 

 相談か。今までまともにしたことはないような気がする。

 そのせいで誰かが傷つくのが怖くて。

 

「俺は……いていいのか?」

 

 一番怖くて確かめられなかったことを、恐る恐る訊く。

 

「俺みたいな奴が、E組にいていいのか?」

「アホか。プール爆破までした俺を受け入れるような奴らだぜ。一人で突っ走るくらいの男くらい迷惑とも思わねーよ」

 

 俺の恐怖を吹き飛ばすように、寺坂は簡単に言ってのけた。

 

「それとも、そんな器量の狭いクラスだと思ってたのか?」

 

 超生物を毎日相手にして、殺し屋も倒したりして……全国の中学生の中でも、このクラスは図太く育っているだろう。

 だけど……

 

「普通なら、放っておくだろう」

 

 それを加味しても、こんな面倒くさい男は忌避したくなるようなもんじゃないのか。

 寺坂は俺の頭を掴んで、無理やり自分のほうへ向けた。

 

「一度しか言わねーぞ、國枝。てめーは、俺らの大切な仲間で、大事な親友なんだよ、クソ野郎。理由なんざ他にいるか」

 

 その目の中にあるのは、友情と──

 

「てめーが俺らを助けてくれたんだから、てめーも俺らを頼るくらいしやがれ。死にたくはねーけど、同じ傷を負うくらいはしてみせるぜ」

 

 どん、と胸を叩かれる。

 同時に、俺を縛っていた何もかもが崩れていくような気がした。

 今まで独りでやってきたことも、持っていたこだわりとかしがらみとか、そんなのがちょっと馬鹿らしく思えたきた。

 

「どいつもこいつも、落とされたくせにやたらとE組に居たがるな」

「けっ、てめーもだろうがよ」

「はっ、違いない。ははは」

 

 止まらず、止める気もなく、笑い声が心から出る。

 そのせいで身体が痛むけれど、心地よい感覚が上回った。

 

「落ち着いたら、腹減ってきた。何か食いにいかないか?」

「あぁ? さっき村松ん家でラーメン食っただろ」

「アホか、あんなまずいラーメンが晩飯って認めねえから」

 

 夜もどっぷり更けてしまったけれど、やってる店くらいいくらでもある。

 今日くらい、日が変わるまで笑い続けても罰は当たらないだろう。



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57 心に響く声

「実は、その……私の存在は『レッドライン』にバレています」

 

 急にそんなことを告白する律に、俺は驚いた。

 

「國枝さんが連れ去られそうになった時、銃を向けて威嚇をしてしまいまして……」

「律は感情的だな」

 

 結局は俺を担いで素早く逃げる『レッドライン』を止めることはできなかったようだが……

 極秘扱いの最新型AIなのに、わざわざ俺を助けようとするために正体を表すなんて、出会った頃に比べればずいぶん変わった。

 

「とりあえず、気にしなくていいんじゃないか。多分何か仕掛けてくることはないだろうし」

 

 立花は律のことを一切言及してこなかった。ただ単純に興味がないからだろう。

 あいつの標的はただ一人。俺……というか『貌なし』だ。

 

「ほらほら、主役が端にいてどーすんのさ」

 

 いつの間にか傍に来ていた中村に押され、みんなが集まるところの真ん中に突き飛ばされる。

 強引だな、と思いながら渚の差し出してきたグラスを受け取った。

 

「じゃあ、國枝くんとの仲直りとイトナくんの転入を祝いまして……」

「かんぱーい!」

 

 各々がグラスを掲げる。そこに入ったジュースは天井のシャンデリアに照らされて、輝いていた。

 

「にしても、こんないいところよく貸し切れたね」

 

 渚が周りをきょろきょろ見渡す。

 最高級ホテルの、だだっ広い会場。配置されたテーブルには、一級品の料理やお菓子がこれでもかというくらい積んである。

 

「堀部の暴走の件、あれを使って烏間先生の上司をさんざん脅してやったからな」

「触手を使った人体実験、それによる被害、街中でのエアガン乱射。全部シロが糸を引いていたとはいえ、許可したのはお偉いさん。律が録画した動画を見せたら、快く金とコネを出してくれたよ」

 

 意地悪い笑みを浮かべる俺とカルマ。

 重大な倫理・法違反を暴露されるのと比べたら、パーティの手配なんて軽いものだろう。

 誰もリスクは負いたくないだろうしな。金を出すのが一番手っ取り早い。

 

「いやあ、中学生に下げた頭のハゲ具合は見ものだったね」

「カルマくんも脅したんだ……」

「というか、脅し文句に関してはほとんどカルマだ」

「『ちょっくら政府を脅しに行こうぜ』なんて言われたら、そりゃついていくしかないよね」

 

 大量に汗をかいたおっさんの、ただでさえ心もとない毛が、カルマの一言一言で抜けていったのはまだ覚えている。

 もの凄いねちねちと、厭味ったらしく、遠回しに次ぐ遠回しな言い方。ああいうのがお偉いさんには効くんだよな。

 おかげで、このパーティの提案をしたときには、それだけでいいのかと感謝されたくらいだ。

 俺だったらストレートに言ってただけだから、やはりカルマを連れて行って正解だった。

 

 証拠をこちらが握っているぶん、生徒を巻き込むような計画はうかつにはできないだろう。

 ただし、シロはそんなの関係なくやってくるだろうが。

 

 みんなが食べ物を皿に乗っけてくるのに甘えて、片っ端から食っていく。それを見た誰かがまた追加してくる。

 いやそれくらい自分で取ってこれるんだが。まあ、悪い気分じゃない。

 頑張ったぶんくらいは動かずにいてもいいだろう。

 ガッツリもりもりと食いながら、男子と談笑しつつ、女子を見る。

 艶やかに着飾って、真剣な顔で生徒たちに何かを教えているビッチ先生の姿が中心にあった。

 高級ホテルやこういった立食パーティでの服の選び方、食事を取る際の盛り付け方、それが与える印象についてレクチャーしている。

 

「こんなところでも授業か、熱心なことで。ね、烏間先生」

「無理やり来させられたが、俺もいていいのか?」

「なに言ってんですか。こういう場には保護者がいないとだめでしょ。それに、E組のパーティですよ。烏間先生やビッチ先生がいなきゃ始まりませんよ」

 

 新品なままの彼の皿に、俺のを分けてやる。

 珍しく、彼の顔がきょとんとしていた。

 

「どうしたんですか?」

「いや、変わったな、と思ってな。前までの君はそんなに柔らかな顔をしていなかった」

「あいつらのおかげですよ」

 

 会場にいるみんなを指差す。俺の大事な友達である、三年E組を。

 

「ちょっと殺せんせー! 積まれたそばからデザート取ってかないでよ!」

「す、すみません。食べ放題と聞いてつい……」

「あいつは変わらんな……」

「ま、まあ予想はしてましたけど……」

 

 俺たちは苦笑しつつ、食べ物を平らげる。

 究極生物とそれを暗殺しようとする生徒、補助する防衛省に、殺し屋。

 交わることのない人間たちが混ざり合って、奇妙な輪がある。そして、その人たちがいなければ変われなかったであろう人間も。

 

「ほらほら、あんたが主役なんだから、真ん中来なさいよ」

 

 ビッチ先生の講義が終わったのか、真剣に聞いていたうちの一人である中村が俺の手を引っ張る。

 俺はよろこんでそれに応じる。

 俺だって、その輪の中の一人なんだから。

 

 

 スピーチやら質問攻めやら、三十人近くを一斉に相手するのは至難の業だった。

 それでもやりきったことは褒めてほしい。

 ようやく壇上から降りることを許されて、解放感にほっとする。

 

 会場はまだまだ元気に盛り上がっている。

 なにやらカラオケもあるらしく、機材が運ばれてきてからずっとみんな歌い続けていた。

 俺は無理。

 椅子に座り、満足げに腹を撫でる殺せんせーの隣に座った。

 

「いやはや、ほとんど食べられてしまいましたよ」

「服の中にぱんぱんに入れておいてよく言うよ。持って帰る気ですか?」

「にゅやっ、いや、これは誰も食べてなかったから袋に詰めただけで……」

「別に言いふらしたりしないよ」

 

 すぐにまた補充されるだろうし……それに言いふらさなくても、一生懸命にスイーツを詰める殺せんせーの姿はみんなにばっちり見られてる。カルマなんかカメラで捉えてた。

 

「これで肩の荷が下りたか? 手のかかる生徒の問題が解決したことだし」

「いいえ、解決はしていません」

 

 殺せんせーはばっさりと否定した。

 『レッドライン』や『蟷螂』のことか?

 いまだにあの二人は野放しのままだ。気になるとすれば、そのことだが……

 

「いっけんめでたしに見えますが、國枝君の根本の部分は何も変わってませんから」

 

 俺の事? 予想外の返答に、俺は眉をひそめた。

 

「根本?」

「誰かが犠牲になる必要があるとなったら、それを回避する術を考えるのではなく、いの一番に手を挙げるのが君です」

 

 実際には手を挙げずに、何も言わずに行動に移すけど。という言葉は飲み込んだ。

 

「自己犠牲といえば聞こえはいいですが、それは自己評価の低さからくる投げやりで危険な考えです。それと向き合わない限り、君は同じことを繰り返します」

 

 否定はできない。

 一度固まってしまった意志や信念は、そうそう崩れることはないのだ。

 『蟷螂』にきついことを言われ、心が折れても変わらないものはある。

 

「君がそうなってしまったのは、私のせいでもあります。國枝くんの言う通り、大事な場面で私は役立たずでしたからねえ」

「……言い過ぎたとは思ってないよ。下手すりゃみんなの命に関わる問題だったんだから」

「ええ、重々承知しています」

 

 だから、と俺は言葉を継いだ。

 

「もし、また危ない目に遭った時は……その時は、守ってくれるか?」

 

 頼りないとはまだ思っている。でも信頼に足る人だとも知っている。

 だからもう一度だけ信じさせてほしい。大人を、先生を、殺せんせーという一個人を。

 

「ええ、先生は必ず生徒を守ります」

 

 にこりと笑って、彼は返した。

 

 

「はー食べた食べた。もう入らないや」

 

 パーティが始まってから二時間。

 会場の盛り上がりもはまだ冷めず、異様に上手い竹林の歌声と三村のエアギターが熱を上げる。

 ただ、全員がついていけるわけではなく、中には座って談笑する者もちらほら。

 俺の隣に座った不破もその一人だ。

 

「楽しめたか、不破」

「すっごく。こんな豪華なところで食べ放題なんて、夢みたい」

「そりゃよかった」

 

 にこにこと笑う彼女を見てほっとする。

 最近は、不破を失望させたり、悲しませてばかりだったから、これで少しは贖罪になっただろう。

 なにより、彼女の笑顔を見てると落ち着く、

 

「國枝くんも、もういいの?」

「少し休憩。中心にいるのは慣れてなくてな。ずっと外側にいたから」

 

 先ほどの質問攻めの中には、他愛のない質問が多数あった。誕生日がいつだとか、得意科目は何だとか。

 今まで自分のことを何も言ってこなかったから、みんなも何も知らなかったこと。そんなつまらないことを、全員興味深く訊いてきた。

 本気で知りたいと思っている目に感激して、少し潤んでしまったのは内緒。

 

「ありがとね。私を頼ってくれて」

「礼を言うのはこっちのほうだ。助けてくれてありがとう」

 

 誰に何を言われても、ずっと孤独を感じていた。

 ぽっかり空いた穴を埋めるためにいろいろやったが、その空虚は満たされることはなかった。

 だけど、不破が『助ける』と言ってくれたから、『ここにいる』と言ってくれて、そうしてくれたから、俺は立ち直ることが出来た。

 

「國枝くんは強い人だから、一人でどうにかできちゃうんだって思ったんだ。私はむしろ邪魔なのかもって」

 

 そんなことない、と遮ろうとして、制される。

 

「でも、仮に國枝くんが一人で何でもできるとしても、一人にさせる理由にはならないって思うんだ。國枝くんのことを心配する人が、少しでも國枝くんの助けになれたら……それはたぶん、なんていうんだろう……すごく幸せなことなんだよ、きっと」

 

 それが助け合いというものなのだろう。

 一方的な、与える与えられる関係ではなく、対等で、相手を想うからこその行動。

 そんな単純なことを気づくのに、かなり遠回りをした。

 

「できれば、私が助けになれればなあって」

「なってるさ。なってる。誰よりもな。お前がいなかったらどうなってたことか」

 

 どこにもたどりつけずに死んでしまうか、通報されて『貌なし』だとバレて連行されるか。

 どちらにせよ、今のこのひとときを噛みしめることはできなかっただろう。

 

「不破がいてくれて、俺の人生は変わった。お前がいないと、俺はダメみたいだ。できればずっと一緒にいてほしいよ」

 

 不破の身体が固まった。

 みるみる顔が赤くなり、口をぱくぱくさせている。

 急に金魚の真似されてもこっちが困るんですが。

 

「それって……」

 

 目線をあっちこっちに行ったり来たり、指をもじもじしたり。

 そんな反応をされると、なんだか恥ずかしいことを言った気になる。いや、実際言ったのか。

 包み隠さず言うのはこそばゆいが……だけど、不破にはちゃんと伝えたかった。

 言わなきゃ意味がない。そのことを、このE組に来て学んだ。彼女が教えてくれた。

 

「おーい、國枝! お前も歌え歌え!」

 

 雰囲気酔いしているみんなが、俺を呼び立てる。

 呼ばれたら行くしかあるまい。

 俺は立ち上がって、不破に手を伸ばす。

 

 勝利と平和の証に、デュエットで飾ろう。



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58 次の闘い

「ほら、お好きなものどうぞ!」

 

 と言って、片岡と茅野がメニューを広げて見せてくる。

 休日に呼び出されたかと思えば、拉致されて喫茶店に連れ込まれてしまった。

 逃げられないように、左右をカルマと渚に挟まれる。

 

「奢られるのは嫌だ。その言葉だけで十分だよ」

 

 『貌なし』騒動のことで色々と負い目を感じているらしく、ここで少し返そうという魂胆らしい。

 そんなことしなくてもいいのに。

 

「俺に元気になってほしいというのはわかるが、その割には安静にさせないで、俺を連れ出そうとするよな」

「一人にさせたら、またいろいろしちゃうんじゃないかなって」

「そんなに信用ないかね」

「それはお前の胸に手をあててよーく考えてみてよ」

「反省してまーす」

 

 連れまわすといっても、それは放課後や休日の日中のことである。

 夜はみんな外に出ないようにしてるみたいだ。俺が見張る労を無くそうとしているらしい。

 そうでなくても『レッドライン』や『蟷螂』がまだうろついてるかもしれないのだ。E組じゃなくても、できれば家にいるようにしてほしいものだ。

 

「ところで、あっちの女子たちは何やってるんだ? 盛り上がってるみたいだが」

 

 俺は隣のテーブルをちらりと見た。

 

「えーっ、それってもう告白されたも同然じゃない?」

「うんうん、そうだよ。あっちもそのつもりだって、きっと!」

「いや、でも、あんまり態度変わらないし……」

「照れてるんだって!」

 

 不破を中心に、倉橋と中村と矢田がきゃいきゃいと騒いでいた。

 何について喋ってるかはわからないが、まあ楽しそうで何よりだ。

 

「國枝、照れてんの?」

「なんで俺に振るんだよ。喫茶店入って照れる要素ゼロだろうが」

 

 話の飛躍についていけない。

 まったく……とため息をつきながら、ウェイター衣装の磯貝に目を向けた。

 

 この喫茶店を選んだのには理由がある。磯貝がバイトしているところだからだ。

 俺を連れ出すついでに、彼の顔を見ておこうということらしい。

 

「磯貝がここでバイトしてるのは知ってたが、ずいぶん人気者だな」

 

 顔だけじゃなく、性格も良い。態度だって嫌みのない爽やかさがある。

 下に見られるE組だが、彼は本校舎の女子から何回も告白されたことがあるらしい。

 人望がある彼の周りには人が寄ってくる。それはここでも同じみたいで、常連のおばさまたちも磯貝目当てで来ているようだ。

 

「彼はイケメンですからねえ。先生と同じで」

 

 いつの間にか斜め向かいに座っていた殺せんせー。

 最低限の変装をして、皿に盛られたハニートーストを貪っていた。

 

「相変わらず先々にいるな、あんたは」

「本来バイトは禁止ですが、ここのハニートーストは絶品でしてねえ。これに免じて目をつぶっています」

 

 磯貝の家は裕福ではない。そのため学費や生活費の足しにするために働いている。

 だが学則ではアルバイトは禁止させられているのだ。それが一度見つかって、素行不良としてE組に落とされたという経緯がある。

 

 もちろん俺たちはチクるつもりはないが、もしも誰かに見つかったら今度はどうなるか。

 ルールを侵した者に対する見せしめとして、退学処分もありえる。

 

 紅茶を飲みながら、少し心配する。せめて卒業までばれなかったら、何も言われないだろうが……

 そんな平穏は、招かれざる来客者によっていとも簡単に崩されることになる。

 

 からんからんと入口の鈴が鳴り、漂う悪意が感じ取れた。

 

「おやおやおや、情報通りバイトをしている生徒がいるぞ」

「いーけないんだぁ~、磯貝くん」

 

 A組トップ学力の五人……五英傑がそこにいた。

 

 

 店内で話し合いは他の客に迷惑がかかる。

 磯貝と五英傑は店の外に出て、俺たちもすぐ後ろで話を聞くことにした。

 一対五は卑怯すぎる。すぐに口出しできるように構えておいた。

 

「浅野、このことは黙っててくれないかな。今月いっぱいで必要な金は稼げるからさ」

「……そうだな、ぼくも出来ればチャンスをあげたい」

 

 珍しく、浅野がそんなことを言う。

 

「ねえ、國枝くん」

「ああ。あの目、理事長そっくりだな。本人に言ったら怒るだろうが」

 

 ぼそりと、渚に耳打ちする。

 問答無用で処分を下すのでなく、学校へ報告もしない。

 これはただの優しさなどではない。何か条件をつけて、こちらに不利なことを飲ませるつもりだ。

 

「では一つ条件を出そう。君たちが闘志を見せれば、今回のことはなかったことにしよう」

「闘志?」

「椚ヶ丘の校風はね、社会に出て闘える志を持つものを何より尊ぶ。違反行為を帳消しにするほどの尊敬を得られる闘志を見せてほしいんだ」

 

 そう来たか。

 浅野の狙いが分かった。

 

「なるほど。頭脳で負けたからって、次は身体で勝つ気か」

「ふん、なんとでも言いたまえ。違反を起こしてるのはそっちだ。問答無用で学校に言いつけないぶん、ありがたく思ってほしいね」

 

 榊原蓮が立ちふさがる。

 彼は二年生のころから何かと近づいてきていた。

 特に得意とする教科が被っており、浅野を含めて一位、二位、三位を争っていたからだ。

 

「ありがたく思えだと? ふっかけてきた勝負に乗ってやろうってこっちの優しさがわからないか? テストで負けたのを挽回させるチャンスをやるっつってんだよ。勉強だけの頭デッカチャンには難しかったかな。そのお得意の勉強でも俺に負けたくせに」

「あ、当たり強くないかい?」

 

 あのころは別段、喧嘩を売りも買いもしなかったが、今回は別だ。

 なにせ文句を言われてるのが俺じゃなく、磯貝だからな。

 

「國枝はわりとこんなんだ。最近はそういう姿を見せなかったけどね」

「お前が見なかっただけだろ。E組になった奴には興味がないんだから」

 

 浅野と俺、両者とも冷たく言い放つ。

 

 一触即発のピリピリした空気が漂う。

 その間にカルマが割って入った。

 

「いいよ、受けてあげる。その代わり、俺たちが勝ったら、磯貝のバイトについては一切口出しさせないから」

「いいだろう。せいぜい首を洗って待ってることだな」

 

 俺たちはお互いを睨みつける。

 話の中心であるはずの磯貝は、おろおろとしたままま口を挟めずにいた。

 

 

「で、棒倒しで勝負することになったというわけか」

 

 翌日、俺たちはみんなに事情を話した。

 どこかで見た光家だと思ったらあれだ。一学期期末テストの時だ。あの時と、俺の立場は逆だけど。

 

「棒倒しって、男子だけの競技だよね?」

「ていうか、俺ら団体競技には出られないじゃん」

「それに人数差がひどい。あっちは二十八人、こっちは十六人だ」

 

 それぞれが眉をひそめる。

 

 今度ある体育祭の目玉の一つ、棒倒し。

 クラスの男子対抗で行われるそれは、普通ならE組が参加できない団体競技だ。

 そして、もし参加できたとしても竹林の言うとおり人数が違い過ぎる。

 

 だからこそ、と浅野は言った。

 E組がA組に挑戦状を叩きつけた形にすれば、本校舎の連中も勇気ある行動だと認めてくれるだろうと。

 綺麗ごとだ。

 

「ボッコボコにしてくるつもりだろうね。色々な理由つけて、A組をやる気にさせてさ」

 

 カルマも浅野の意図はわかっている。

 テストでE組がA組に勝ったことはまだ記憶に新しい。

 その記憶を、今回圧勝することで払しょくしようというのだ。次の中間テストに影響するくらいに痛めつければ、勉強でも勝つ。A組……というか浅野の狙いはそこだ。

 

「なあ、やっぱりやめておかないか。相手はあの浅野だし、何してくるかわからない」

 

 戦ってやるとにわかに活気づいてきたところに、磯貝が待ったをかけた。

 

「今回のことは、俺が謝って無かったことにしてもらうからさ」

 

 いつものような笑顔で、彼は胸を叩いた。

 

 なるほど、自己犠牲というのは、傍目から見たらこんな感じか。

 確かに仲間から見れば怒りたくなるほどの身勝手さだ。

 

「みんなに被害を出させないために、自分一人が犠牲になる、か。なら俺が『貌なし』に戻っても構わないってことだな?」

「い、いや、そういうわけじゃ……」

「自分がよくて他人はダメだなんてのは通らないぞ」

 

 言い返されて、磯貝がむむと押し黙る。

 畳みかけるように、前原が対先生ナイフの柄を机に叩きつけた。

 

「そうだぜ。A組に勝てばいいだけだろ、楽勝じゃねえか」

「思い知らせてやろうじゃないか。あいつらが勝てないってことを」

 

 俺は前原の手に自分のを乗せる。

 そこに、次々と男子が寄ってきて、我先にと手を重ねていった。

 

 ここまで来たら引くような連中じゃないことを、磯貝はよくわかっている。

 最後に彼も手を乗せ、ぐっと力を込めた。

 

「よし、わかった。勝ってやろうぜ、文句出せないくらいに!」

 

 磯貝が宣言すると、男子が湧きたつ。

 勢いづいて勝利を誓い、女子も応援する。 

 

 この異様な盛り上がりに、烏間先生も近寄ってきた。

 

「本当に勝てると思うか? 棒倒しにおいて、人数の差は大きなハンデだ」

 

 防衛学校で、烏間先生は幾度も棒倒しをした経験があるらしい。

 一人でも人数が多ければ一気に戦局が傾く競技だ。なのに、こっちとあっちじゃ十人以上の差がある。

 

「それに、悪いことにあいつは手を抜いてこない。格の違いを見せつけてくるはずです。A組全員を鍛え上げるか……いや、外部から助っ人を呼ぶくらいはしてくるだろう」

 

 中学生にして、英語以外にも複数の言語を操れるような化け物。それが浅野学秀だ。

 外国のトップアスリートとも知り合いだと言っていたことがあるしな。

 

 ま、それくらいは覚悟の上。きちんと作戦を立てれば……と考えていると、みんなが不思議そうに俺を見ていることに気づいた。

 

「……どうした?」

「いや、なんか浅野に詳しいな、って思って」

「……二年も一緒にいりゃ、嫌でも知るさ」

 

 さて、作戦はどうするか……負けは当然認められないが、手ひどくやられてからの一矢報いるような勝ち方も避けたい。

 できるだけ怪我を少なく終わらせたいものだ。

 

「って、お前もやる気でいるけどそんな怪我で大丈夫なのかよ」

 

 前原がばしばしと叩いてくる。痛い痛い。

 

「別に。A組くらいなら、浅野以外大したことないからな」

「大したことないってお前なあ……」

 

 呆れるようにため息をつかれる。

 

 まだ痛みは残っている。浅野と対峙すればおそらく負けるだろう。

 だが他の奴なら別だ。それなりに運動神経が良い奴も何人かはいるが、その程度に攻撃を受けるとは思えん。

 

「それに、大きく戦力差をあけられたとしても、あいつらは俺たちには勝てないよ」

「やけに自信があるんだな」

「あいつらには、チームで戦うにおいて一番肝心なものが抜けてる。今の俺たちが負けるわけがない」

 

 俺はにやりと笑った。



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59 協力するということ

 待ちに待った体育祭当日。

 本校舎のグラウンドはパイプ椅子で楕円状に囲まれている。

 その中、観戦者のすぐそこでの競技はド迫力で競技をするほうも応援するほうも熱気が上がる。

 

「いいですねえ、この学校の体育祭は。観客席がこんなに近い!」

 

 俺たちのところにも、カメラを構えるタコが一匹。

 

「みなさん競技に夢中で、先生も怪しまれてませんし」

「怪しまれてないかと言うと……」

「うん、微妙だよな」

 

 殺せんせーは観戦する俺たちの中に紛れて、一眼レフのシャッターを押しまくる。

 フード付きのパーカーを羽織っているが、やはり露出してしまう顔が異彩を放っている。

 

「ああ、やはり木村くんや岡野さんは速いですねえ。一位ですよ!」

 

 足場の悪いところでも動き回れる訓練はしているが、速さを競う場では流石に陸上部には勝てない。

 その中でも食らいついて、見事に勝利してみせたのはE組が誇る俊足、木村と岡野。

 

 一位の旗を取って、嬉しそうに笑う二人を殺せんせーは激写した。

 

「親バカみたい」

「バカ親だな」

 

 うちらは団体戦に出られない決まり。

 つまりどう考えても点数的には引き離されてしまい、E組優勝はあり得ない。

 だがまあ、個人個人で頑張る姿を捉えておきたい気持ちはわかる。

 

「それより……」

 

 俺たちの興味は、次の競技である綱引きに移った。

 

 A組対B組。

 本来なら引っ張り、引っ張られの競技だが……目を疑うことが起きた。

 B組の何人かが浮いたのだ。

 

 それもそのはず、A組には筋骨隆々の外国人が四人も揃っていた。

 体格は日本人のそれとはまったく違い、身長も筋肉も規格外だ。

 そんなのに一気に引っ張られて、縄がみしみしと悲鳴を上げる間もなく、決着がついた。

 

「言っただろ。浅野は助っ人連れてくるって」

「あんなんありかよ」

「ありにするのがあいつだ」

 

 そりゃあ浅野より上の立場の人間が異を唱えれば論議のしようはあるが、この学校において浅野以上の人間が何人いることやら。

 教師ですらあいつの駒でしかない。となれば、現状を変えることは出来ない。

 語学力もコネも立派な武器。覆そうと思えば、せめて同じ能力は身に着けなきゃいけない。

 

「フランス、ブラジル、韓国、アメリカからの留学生。A組はただでさえ球技大会の時にも優勝してるくらいだ。それにあの留学生が加われば……」

「人数に差が出る上に、単純に戦力でも引き離されるね」

 

 くいっと眼鏡を上げる竹林は冷静。

 このくらいの策はとうに見破っていた。対抗手段も考えてある。

 だが……

 

「どうしよう。もしみんなが傷つけられたら……」

 

 磯貝はまだ心配気味。あんなのを見せつけられたら不安になるのもわかるが。

 負の感情を追い払おうとするのは、やはり親友の前原だ。

 

「それをさせないための作戦と、俺たちの力だろ。的確に指示を出してくれたら勝てるって。作戦指示頼むぜ、リーダー」

「……ああ、みんなの力を貸してくれ!」

 

 おう! と男子が応じる。

 

 

 今回のA組対E組の棒倒しは、本来スケジュールに無いもの。それを、浅野は野球の時と同じようなエキシビジョンマッチとして組み込んだ。

 表向きは、人数差のあるA組に落ちこぼれのE組が挑む雄姿を見届けるだとかなんとか。

 綺麗ごとを全部排除すれば、つまりE組を叩き潰すショー。

 

 呼び出され、両組が整列する。

 野球の時と同じ。

 本校舎はE組がこてんぱんにやられることを期待して、E組がひっくりかえす。今回の結果も同じにしてやろう。

 

 自陣で棒を立てたところで、棒倒しのルールが説明される。

 

 お互い、相手が守っている棒を先に倒したほうが勝ち。

 殴る蹴る、武器の使用は禁止。だが掴みやラリアット、タックルはOK。例外として、棒を支える者が足で追い払うのもOK。

 

「流石に直接的な暴力はなしか……やっぱそこらへんのルールはちゃんとしないとな」

「逆だ。他の行動についてのルールはわりと曖昧。殴る蹴る以外なら理由をつけてOKにしてくるつもりだ。乱戦の中で首を絞めてきたり、倒れている奴を誤って踏みつけてくるかもしれない」

 

 俺の言葉に、何人かが身震いする。

 

《なお、チームの区別をはっきりさせるため、A組は帽子と長袖を着用すること!》

「帽子ィ? ヘッドギアじゃねえか」

 

 寺坂が舌打ちした。

 A組に与えられたのは、ラグビーなどで見られるような白いヘッドギア。

 区別つけるってんなら、違う色の帽子をこっちにくれたらいいのに。

 

 理由をつけて、文句を言わせないつもりか。

 

「ちょうどいいハンデなんじゃない。これくらいしなきゃ、俺たちには勝てないだろうし」

 

 観客にも聞こえるように、カルマが飄々と言う。

 そんな挑発には乗らず、浅野は棒を支えるA組の上に立ち、こちらを見下ろす。

 試合開始の合図が出されると同時、駒に指令を下した。

 

 アメリカ人フットボーラー、ケヴィンを先頭に、五人の小隊がゆっくり迫ってくる。あれだけ人数がいて、たった五人。

 様子見。偵察。斥候。あわよくばこっちをぶっ潰せれば儲けものってところか。

 

「くそが……」

「無抵抗でやられっかよ!」

 

 吉田と村松がこちらの命令を待たず、先に出る。が、奮起虚しく、ケヴィンの猛烈なタックルに観客席まで吹っ飛ばされてしまった。

 

「す、すげーな」

「國枝、あんなの出来るか?」

「いや、俺パワータイプじゃないし」

 

 流石は本場の良く鍛えられたスポーツマン。

 暴力的なまでの体格差の前には、数か月鍛えた程度じゃ勝てない。しかもそんなのがあと三人控えている。

 

 俺たちは磯貝の足場になり、全員が棒の周りに張り付く。

 こちらは人数ではっきりと不利。わざわざ開始直後に突っ込む馬鹿はいない。

 それを見て、斥候の五人が飛びかかってくる。一気に潰してくるつもりだ。

 

 迫りくるタックル。それが触れようかという瞬間……

 

「今だ! 『触手』!」

 

 磯貝の号令を聞いて、俺たちは垂直に跳びあがった。

 標的がいなくなった相手はその勢いのまま棒の前で倒れ伏す。その上に、俺たちはのしかかる。一気に五人を封じた。

 どれだけ筋力があろうが、これだけの人数に下敷きにされては動けない。

 まずは上々……だがあちらも動じてない。

 

 すぐさま追加の攻撃部隊を寄越してくる。しかも二つ。左右に分かれて、挟み撃ちにしてくるつもりだ。

 五人ずつの十人。

 

 その間を抜けるよう、磯貝が自らを含めた機動力の高い六人を動かす。

 磯貝、カルマ、前原、岡島、木村、杉野はなんなく中央を突破……

 

「って……」

「攻撃部隊が戻って来やがった!」

 

 E組陣地へと向かってきていたはずの十人がくるりと向きを変え、こちらの攻撃部隊を後ろから追う。

 棒の前で待ち構えている部隊と、今度こそ挟み撃ちにするつもりだ。

 

「くそ……やっぱりこの手で来たか」

 

 磯貝が舌打ちする。

 事前に考えていた通り、A組はE組を負かすより前に、痛めつけるつもりだ。

 棒を守っている俺たちはどうせ動けない。だから、まずは動いてるほうを叩く作戦か。

 

 やはり、勝利よりも痛めつけるほうを優先してきたか。

 だが……E組の攻撃部隊は針路をどんどんと逸らし……

 

「どうしてこっちに来るんだよ!」

 

 ついには観客席に突っ込んだ。

 椚ヶ丘体育祭は、戦場と観客席が近い。それゆえ、ちょっと外れてしまえば簡単に巻き込めるのだ。

 こうなれば椅子や観客も立派な障害物。フリーランニングを習っているE組を捕まえられるはずがない。

 

 この異常な状況に、フランス人とブラジル人が前に出る。

 韓国人は守備位置から変わらずか。あんな高身長が支えているとあっては、少し揺らす程度じゃ倒れてくれない。

 ならやはり、作戦通りにやるか。

 

「任せるぞ」

 

 俺は抑えつけ組から離れ、前へ踏み出す。

 それを見て、A組の一人が真っすぐこちらへやってきた。

 

 俺は姿勢を低くして懐に入り、相手の胸に思いきり肩をぶつける。観客には見えづらいように、肘でみぞおちを打つのも忘れない。

 相手ががくりと地面に膝をつく。肺から空気が出され、衝撃で声が出せてない。

 手でも挙げられれば抗議の一つもできただろうに。

 

 一息ついた俺の前に、フランス人が現れた。確か名前は……カミーユだったか。

 

〈雑魚を倒したところで結果は変わらないぞ〉

 

 でしょうね。

 邪魔になりたくないのか、巻き添えが嫌なのか、俺のところへ向かってきていたA組は動かない。

 この一対一をさせるために、他は俺に手を出してこないつもりだ。

 

 さて、このタイマンにどんな意図があるかな。

 一番有力なのとしては、複数人でボコらないことでリンチの様相を避け、E組がやられるところを観客に見せつける……ってところか。

 

 あえて俺は前に出る。誘いに乗る形だ。

 

〈アサノは注意しろと言ったが……こんな細い日本人にその価値があるのか?〉

 

 ふん、と鼻を鳴らして馬鹿にしてくる。

 俺は人差し指をくいくいと曲げて挑発する。この仕種は世界共通だ。

 

 御託はいいからかかってこい。

 

 相手は腕を伸ばして掴もうとしてきた。

 甘い。

 愚直な腕を直前で避け、すれ違いざまに相手の袖を掴む。まさかかわされるとは思っていなかったのだろう、前のめりにバランスを崩した大男の袖を思いきり引っ張る。

 ずだん、と大きな音が鳴って、歓声がやんだ。

 観客やA組の視線の先には、無様に地面に伏したカミーユが映っている。

 

「あ、あ、あれは……不良殺法!」

「知ってるの、不破ちゃん!?」

 

 観客席にいるE組の中で、唯一不破が目を輝かせる。他はぽかんと口を開けて唖然としている。いや、殺せんせーだけはやたらと興奮して写真撮ってるな。

 俺だって、あいつに読まされたアメフト漫画が役に立つとは思わなかった。だがこのルールの中で、この技はなかなか馬鹿にできない。

 掴むのはOKだと、明確に示してくれてるんだからな。

 

「長袖になってくれたおかげでやりやすくなったよ。次はどいつだ?」

 

 隙あらば俺を捕らえようとしていたA組は三人。だが、明らかに動きが止まった。

 これだけの人数差で押せば簡単に勝てると思ったのだろう。それが、助っ人外国人が一瞬でやられたことで削がれる。

 

〈まだだ。まだ俺はやれるぞ〉

 

 と、カミーユがぱっと立ち上がる。

 まあ土を付けただけ。大した怪我じゃないだろう。そのまま倒れてくれてりゃよかったのに。だが……

 

〈俺の言っていることがわかるか? お前たちは落ちこぼれらしいから、聞きとれないかもしれないが……〉

〈お前こそよく聞いとけよ。聞いてませんでした、さっきのはまぐれでしたって言い訳されたくはないからな〉

 

 フランス語で返す。

 俺の挑発的な物言いに、彼は青筋を立てた。

 

〈お前を倒す。覚悟はいいか?〉

〈てめえ……!〉

〈浅野のところに戻るなら今のうちだぞ。土塗れになってからじゃ遅いからな〉

〈ほざけ!〉

 

 カミーユが再び腕を伸ばす。先ほどとは打って変わって、勢いがありつつも、こちらの動きに対応できるように重心を低く構えていた。

 その手を弾き続ける。いくら強かろうと、触れられなければ意味がない。

 

 しびれを切らして、カミーユがずいっと前に出る。右手の五本の指が、俺の右肩を捉えようとする。

 ここだ。

 俺はわずかに身体をずらしつつ、右腕に力を込めた。相手が迫ってきたところに合わせて、自分も一歩前に出る。

 彼の手は、俺の右頬を掠めた。相手の顎を掴みながら、足を引っかける。巨体がぐるっと回って、背中から地面に衝突した。不良殺法で倒したときよりも派手な音がして、砂ぼこりが舞う。

 数秒警戒したが、彼は立ち上がってこなかった。

 

「あーらら、受け身も取らないで……いったそー」

 

 言いつつ、笑みを浮かべるカルマ。

 

「い、いまのは反則じゃないのか!?」

「あ? 何言ってんだ。掴むのはルールでは認められてるはずだろ」

 

 言いがかりをつけるA組に反論する。

 そう、これはルール内の行為だ。不良殺法もいまのも、あくまで反則にならない程度に磨き上げた技だ。文句を言われる筋合いはない。

 足を引っかけたのはグレーゾーンだが、相手が引っかかってしまったのと区別がつきづらい。

 

「はっ、スカッとしたぜ。何度も練習に付き合ったかいがあったってもんよ!」

「ああ、だから寺坂がびたんびたん投げられてたのか……」

 

 ちなみに寺坂の体操服はかなり汚れている。タフだからと何度も何度も受け役を頼んだのだ。友達っていいもんですね。

 

「ってか、よく聞き取れるな。英語ならともかく、フランス語だろ?」

「先生の同時通訳」

 

 俺は耳を指差した。

 そこには肌色に擬態した殺せんせーの触手がある。観客席から地面を這わせて、服の中を通していたのだ。

 

「こっちの台詞は、言ったやつだけ事前に覚えておいた」

「わざわざなんでそんなことまで?」

「そりゃもちろん、勉強で負けたA組は、体育でもE組に勝てないってことを思い知らせてやるためだよ」

「いい性格してんな、お前」

「はは、よせよ……」

「褒めてねえよ」

 

 コントじみた掛け合いを済ませて、俺はA組に向き直る。

 

「俺の体育の成績は3。E組の中でも真ん中も真ん中だ。それに負けるってどんな気分なんですかねぇ?」

「すっごい腹立つ!」

 

 まあ実際には、暗殺訓練にあまり熱を入れて参加してないからこその成績なのだが。

 

 怒りを感じながらも、しかしA組は動けない。

 目の前で筋骨隆々の男が倒されたのだ。次は自分かと考えると、うかつに手を出せない。

 

 かといって退くこともできない。彼らが浅野から命じられたのは、棒を守るE組をぼこぼこにすること。

 板挟みになって、その場に留まることしかできないのだ。

 俺に勝てるとしたら浅野くらいだが、彼は司令塔兼最後の砦であるため動けない。

 

 これがA組の弱点だ。

 

 

----------

 

「A組に欠けてるもの?」

 

 作戦を立てている途中で発した俺の言葉に、磯貝が目を丸くする。

 

「複数人で何かやるって時には、責任が分散される。だから役割分担をきっちり決めて、それぞれの仕事に責任を負わせるってのが重要になってくるんだが……A組にはそれができない。一学期の期末テスト、俺たちが教科トップを争った時を思い出してみろ。あの五英傑ですら、トップに浅野がいるからって気の抜けた戦いをやってた。真剣にやってただろうが、『負けたら破滅』みたいな極限状態で戦ってなかった」

「勝って当然。負けても言うこと一つ聞くだけだったしね」

 

 流石にカルマは俺の言わんとしていることをすぐに理解してくれたようだ。

 

「そもそもこの学校……E組システム自体、下に落ちないための努力しかできない仕組みになってるんだ」

「……どういうこと?」

「例えばそうだな……神崎、あの時の国語で浅野に負けたが、どう思った?」

「え……と、すごい悔しかったし、次は絶対に勝つって思ったかな」

「そう。上を見て、悔しがった。だがA組は逆だ。百人以上いる下を見て安心したんだ。自分はまだ上にいる。落ちるわけがないってな」

 

 この学校の特性上、それは仕方のないことだが、それが続いてたどり着けるのはせいぜい上の下レベルだろう。

 

「覚悟っていうのか闘争心っていうのか、それが足りないんだよね~。負けた後に、なんだかんだ理由つけて『旅行なんていらなかったし』って言ってた奴もいるらしいし」

暗殺教室(おれたち)流に言えば『殺意』。相手の喉に食らいついて引きずり落としてやるって殺意が、奴らには足りない」

「どうせ棒倒しの時も同じだよ。『卑怯な手を使われた』とか『浅野くんの指示に従っただけだから自分は悪くない』とか言い訳して、正当化しようとするだろうね」

「最初から負けを考えてるような奴らに負けるわけにはいかない」

 

----------

 

 思った通りだった。

 

「お前たちが動かないなら、俺も動かない。だがもし一歩でも進むなり退くなりすれば、地面に叩きつける。いいな?」

 

 俺は一人倒しただけだ。だが、出鼻を挫かれればそれまで。

 相手を蹂躙することは叶わず、逆に餌食にされてしまう危険を冒す覚悟がない。

 

「あとは頼んだぜ、リーダー」

 

 振り向いてそう言うと、磯貝は力強く頷いた。



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60 勝利と余韻

 観客席まで逃げ回るE組を、A組が追う。

 普通の棒倒しでは考えられない異様な光景に、全員の視線が集まっている。全校生徒視線が。

 その目の色が期待に染まっていくのを、俺たちは感じていた。

 

 野球大会と同じような奇策。いやそれ以上のダイナミックな演出。

 次は何を見せてくれるんだろうかという眼差しが注がれる。

 そこにはもう、A組の圧倒的な蹂躙を期待する気持ちは半分未満しかない。

 

 もちろん浅野もそれを察して悔しがる。

 みんながE組を見る目が変わったこと、棒倒しの行方が自分の思い通りにいかないこと、この二つは彼にとって特に屈辱だろうからな。

 

 隙を突いて、観客席からA組の棒へ何かが飛び出した。

 最初に吹っ飛ばされたはずの、吉田と村松だ。

 棒を支えているA組を足場にして、浅野を掴む。

 

「ぐっ!?」

 

 奇襲に、浅野の顔が一瞬歪む。

 あの猛烈なタックルを食らって無事なわけがないと考えていたようだが、派手に吹っ飛んだのは演技だ。

 退場したと思わせて、虎視眈々と時を待っていたのだ。

 

「よし、今だ!」

 

 逃げ回っていた周りのE組も一斉に棒へと突進。そして、あっという間に張り付いた。

 より重みが増して、A組が苦し気に表情を歪ませる。

 戦局が傾いた。だが……

 

「だが、君たちじゃ僕には勝てない」

 

 ぐるん、と吉田の身体が回転した。

 合気道か。

 浅野を引きずり降ろそうとする吉田の力を逆に利用して、引き剥がさせたのだ。

 

「赤羽や國枝が真正面で一対一で挑んでくるなら多少は時間を稼げただろうが……赤羽は棒を掴むのに必死。國枝は攻撃部隊を足止めするために動けない」

 

 浅野はふわりと跳躍したかと思うと、続いて岡島の顔を蹴り飛ばした。

 棒を守る彼には、例外として蹴りが認められている。それを利用したのだ。

 そして、棒を軸にし、急襲してきたE組を踏み、その勢いで跳躍、上からの蹴撃を繰り返す。

 

 俺は浅野を指差しつつ、寺坂と竹林のほうへ振り返る。

 

「すごい、天内流格闘術みたいだな」

「言ってる場合か! 大丈夫か、あれ?」

「とか言ってて、別に心配してないだろ」

 

 これも作戦のうち。

 浅野の完璧さを過小評価なんかしたりしない。

 

 磯貝が棒から手を離す。浅野の蹴りを腕でガードしたが、弾かれて地面に転がる。

 浅野はにやりと笑った。こうやって一人ひとり剥がしていけば、再びE組潰しに専念できる……とでも思っているのだろうが、甘い。

 

 磯貝が離れたのは、次の作戦の合図だ。

 ぱっと起き上がった磯貝の背中を台にして、弾丸のように飛び出していく四つの影。それらが浅野に掴みかかる。

 その正体は、渚、菅谷、千葉、三村だ。

 

「ちょっと待て、あいつら守備部隊だぞ!?」

「ってことは……」

「どうなってんだ、あれ!?」

 

 

 A組の山に棒を立てかける形にして、寺坂が根本とA組を抑え、竹林が真ん中あたりを肩に乗せている。

 棒を使ったとしても、五人を二人で抑えるのは不可能だ。だけど下敷きにされているA組は動けない。動いてしまえば、E組の棒は簡単に倒れてしまって決着が着く。

 A組にとって勝つことは結果であって、目的ではない。『E組を潰す』というミッションが達成されていない状況では、指令なしで下手に行動を起こせないのだ。

 

 だがこちらの目的は勝利一点のみ。元から覚悟が違う。

 

「人数差は大きなハンデになる。それを見せてやろうじゃないか」

「こ、この……」

 

 流石の浅野も、これだけの人数に手足を封じられてはどうしようもない。

 振り払おうとしているが……

 

「無理だ。A組の指示待ち人間ならともかく、一人ひとりが鍛えられた戦士だぞ」

 

 雑魚程度なら何人いようと浅野の敵じゃないが、飛び乗ったのは体格や機動力に優れたメンバー。

 力を入れられないように、肩や腿などの動きの始点を停めるように言ってある。

 

「んで、ここまで来ればあとは詰めだけだ」

 

 他の連中が守備に回ろうとしている間に……

 

「来い、イトナ!」

 

 棒の近くで磯貝が腰を低くする。膝に手の甲を当て、指を絡ませて皿を作る。

 呼ばれた堀部は軽く息を吐いて、磯貝めがけて全力でダッシュし始めた。

 ぶつからんばかりの勢いを緩めることなく跳躍。磯貝の手に片足を乗っけた。

 磯貝は思いきり力を込めて、堀部を打ち上げる。

 

 小さな身体は浅野より上まで飛び上がり、棒の先を掴んだ。

 思いっきり棒を倒そうとする、先端についた肉の塊。もちろん支えられるはずもなく、棒は倒れて……地面に横たわった。

 

 瞬間、音が止む。

 決着が着いたことを理解するために、敵も味方も観ているだけの人も、全員が示し合わせたように止まった。

 そして……

 

「すげえええ!」

「なんだ、いまの!? すっげえ飛んだぞ!?」

「E組がやりやがった!」

 

 観客が、困惑と賞賛を送ってくる。拍手まで飛んできた。

 この瞬間だけは、E組のことを落ちこぼれを見るような目で見てくる輩はいない。

 野球大会、テスト、棒倒しと勝ってきた俺たちの実力から目を逸らせはしない。

 下級生からは憧れのまなざしすら感じられる。

 

「ははっ、やったな、國枝!」

 

 どん、と磯貝に背中を叩かれる。

 

「ああ、お前のおかげだよ、リーダー」

 

 俺も彼の背中を叩き返す。手加減を間違えたせいで磯貝は咳き込んだが、すぐに笑顔に戻った。

 

「あんな人数差、マジで覆せるなんてな」

「もしかして、俺らってすごいんじゃね?」

 

 前原や岡島が胸を張る。

 実際、過酷な訓練を受けている中学生には、体育が得意レベルじゃ歯が立たないだろう。

 チーム戦ならそれが顕著だ。特に、自軍のこともちゃんと見れていない大将が相手なら負けることはない。

 

 負けたA組代表である浅野は歯を噛んで、眉間にしわを寄せる。

 その彼が、理事長にちょいちょいと手招きされて後をついていったのを、俺は見逃さなかった。

 

 

 浅野が理事長に呼び出されてから十分ちょっとくらい。彼が校舎から出てくるのと入れ替わりに、救急隊員が中へ入っていく。

 元々は俺たち用か、校舎の前には救急車が何台か止まっていた。

 

「浅野」

 

 声をかけると、彼は俺を見て小さくため息をつく。

 負けた時の不機嫌な顔は変わらず、いやもっとしわが深くなっている。

 

「あの四人は?」

「……」

 

 臨時留学生は浅野とともに呼び出されていたはずだ。なのに、帰ってきたのは浅野一人。

 体育祭が終わって、はいさよならなんて関係でもないはずだ。

 

「理事長がやたら不機嫌だったが、それと関係あるのか?」

「……どうしてそう思う?」

「今のお前と理事長が滅茶苦茶似てたからな。悔しいのとか怒りとか、全部隠そうとして滲み出てる。そうなった時、お前は大体八つ当たりするから」

「だから理事長が何かやってないかと心配したのか?」

「大方、あの臨時留学生をボコしたんだろ」

 

 浅野が怪訝そうにぴくりと眉を動かした。

 

「あんな、急に担架運ばれていったらわかる」

 

 にしても担架が必要なレベルまで追い込むかね。

 普段の理事長ならやらない。いくら彼が切れ者で、訴えられても勝てる人だったとしてもだ。

 

 ま、そこは俺たちとは関係のないところ。

 とりあえず、E組としては約束を守ってくれたらそれでいい。

 

「磯貝のバイトの件、黙ってくれるんだろうな」

「……嘘はつかないさ。約束通り何も言わない。今後口にすることもない」

 

 それだけ言い捨てて、浅野は背中を見せて去っていく。

 

「相変わらず……」

「相変わらず、無駄なお喋りはしない人だねえ」

 

 びくり、と身体が反応して、声のした方から離れる。

 いつの間にかそばまで近寄ってきていた立花に気づかなかった。

 

 『レッドライン』こと立花風子。

 『蟷螂』周りのいざこざがあって以降、本校舎とE組校舎の関係もあって姿を見なかった。

 少し気になって調べたところ、普通に登校していることは知っていたが……

 

「そんなに警戒しないでよ。ここで仕掛けようだなんて思ってないからさ」

 

 立花は両手を挙げて、ひらひらとさせる。

 以前見た時より絆創膏も包帯もなくなっていた。あれから『レッドライン』として活動はしていないみたいだ。

 

「そうじゃなくても、いきなり後ろから声をかけるのはやめてくれ。どいつもこいつも心臓に悪い……」

 

 鼓動を落ち着かせながら、彼女を観察する。

 敵意とも殺意とも違う、あのぎらついた感情は一切見えない。

 まあ、やる気があったとしてもここで拳を交えるほど、俺もこいつも馬鹿じゃない。

 

「なんか、すっきりしたみたいだね、響くん。切羽詰まった匂いがなくなってる」

「どんな匂いだよ」

「こればっかりは、私と同じ能力を持ってないとわかんないだろうね~」

 

 分泌されているものの匂いから相手の感情がわかるくらいの異常な嗅覚、

 本当に超能力者なんて存在がいるんじゃないかと思わせる。

 

 そんなのを痛感するのは、殺せんせー相手だけで十分。

 殺し屋も軍人も、『レッドライン』や『蟷螂』のような異常者の相手をするのはもうたくさんだ。

 

「『貌なし』をやめるよ、俺は」

 

 立花の動きがぴたりと止まった。

 

「やめるって言って、はいやめた~ってできるものなの?」

「ああ」

 

 『蟷螂』とか堀部とか、実際はやたらと濃い経験をした末での選択だが、わざわざ言う必要もないだろう。

 

「……」

「疑ってるのか?」

「別にぃ? 言ってることは本当だろうし、響くんのこと疑ったりはしてないけどさ」

 

 立花は大きくため息をつくと、口を尖らせた。

 

「せっかく色々手伝ったのにこうなるなんて、もったいないなあってね」

「もったいないって、お前なあ……」

「だってだって、あんなに濃い夜を過ごした仲なのにぃ」

「誤解されるような言い方するな」

 

 立花にとっては、あの夜は濃く、熱く、忘れられない時間だろう。俺にとっては悪夢だ。

 直前で戦った鷹岡とのこともあるし、その後すぐは『蟷螂』の襲来。

 もう二度とあんな思いはしたくない。

 

「そうそう普通に戻れるとは思わないほうがいいよ。私たちみたいな『異常』を、世界は離してくれない。面倒に巻き込まれる性なんだ」

 

 悟ったような、半ば諦観しているような言い方だ。同時に自信めいた口調でもある。

 

「あの教師もどきの人に、教室の隅にあった箱。キミが変なことに巻き込まれてるのはわかってる。『貌なし』じゃなくなっても、逃げられるとは限らないよ」

「……どこまで知ってる?」

「全然知らないよ。でも、よくわかる」

 

 立花はくるりと背を向けた。嫌みのない笑みを浮かべながら、彼女は去っていく。

 『蟷螂』みたいなこと言いやがって、と俺は眉をひそめた。

 

 一瞬だけ吹いた柔らかな風が、火照った俺の身体を冷ました。



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61 連帯責任

 夏の暑さがまだ少し残っている。

 ぱたぱたと手で顔を仰ぎながら、俺は山道を登る。

 

 体育祭が終わってから、本校舎の連中がE組を見る目は変わっていた。

 

 元から人気だった磯貝や片岡が登下校する際には、後輩が寄ってきて周りが賑やかに。

 その二人じゃなくても、声をかけられる者は多い。

 顔が良い前原、野球大会でもいいところを見せた杉野、寡黙な仕事人の千葉。

 言わずもがなの神崎、ビッチ先生の教えがなくとも男子人気の高い倉橋と矢田、クールビューティ速水。

 

 どれだけ言い寄られても、みんな断る技術を持っていたり、興味がなかったり……少なくとも、殺せんせーのことをばらしてしまうような口の軽い者はいない。

 

 評価が高くなるのは良い。

 そのおかげで変にいじめられることもなくなるだろう。

 

 校舎が見えてきたところで、小さな背中が目に入った。

 

「堀部、おはよう」

「國枝か」

 

 頷いて返してくる堀部。

 

「昨日は結構遅くまで教室に残ってたらしいな」

「ああ。勉強の遅れを取り戻さないとな」

「遅れっていってもなあ……この間の小テスト、なかなか高得点だったじゃないか」

「なかなかじゃまだ足りない。A組を倒すんだろ」

 

 強気な発言に、俺はにやりとする。

 一学期期末テストでは、『教科トップをより多く取ったクラスの勝ち』というルールのもとで勝利した。

 だが中間テストのときに殺せんせーに提示された『総合点数で、E組全員がトップ50に入る』という条件で勝ってこそ、本当の勝利と言えよう。

 仲間になったばかりの堀部が心配だったが、杞憂だったようだ。

 

「そういえば、お前に言い忘れてたことがある」

 

 校舎に入って靴を替えると、堀部はそう言って、俺を人差し指で指した。

 

「シロに気をつけろ」

「わかってる。次に現れた時、どんな手を使ってくるか……」

「そういう意味じゃない」

 

 堀部の強い否定が入る。

 

「あいつはお前にかなり興味を持ってた。触手を持った俺に勝てるお前にな」

「またその話か……だから、あれは周りが水に囲まれていたから……」

「たとえ多少水にさらされても、普通の人間くらいには勝てると思っていた。負けるはずがないと、シロは絶対的な自信を持っていた」

 

 そのことは俺も感じていた。

 じゃなければ、堀部にも不利なプールで決着をつけようだなんて思っちゃいないはずだ。

 自分の作品が一番強いと自負してるからこその作戦。

 

 ……だが堀部の触手は外されたところで、諦めはしないはずだ。

 どこかにいる『蟷螂』を捕まえて無理やり実験体にするか、また鷹岡を使うか、それとも……

 

「……おれに触手でも埋め込む気か?」

「あり得ない話じゃないな」

「冗談のつもりだったのに……」

 

 とは言いつつ、危険に構えておいて損はないだろう。

 

 シロは自分以外のものを道具としてしか扱っていない。

 周りの人間や俺たち子ども、あるいは手塩にかけた堀部でさえも、使い捨ての駒でしかないのだ。

 奴が今までやってきた非道なことを思えば、今度はE組に手を出してくる可能性も大いにある。

 その中で因縁濃い人物と言えば、俺だ。

 

「気を引き締めておくよ。忠告ありがとな」

 

 シロに捕まる危険を考えて、身体にGPSでも仕込むかな。なんて冗談を言って、俺たちは教室の扉を開ける。

 

 もっちり。

 

 突然、頬に柔らかい感触が触れた。

 呆気にとられたが、すぐに殺せんせーの触手が当たったのだと理解した。

 

「こ、殺せんせー?」

 

 彼は、すみませんと言いながら堀部にも同じことをした。

 

 いきなりのことに狼狽する。

 殺せんせーが俺に触れてくるのも珍しいが、こうやって申し訳なさそうにしてくるのも珍しい。

 

「どうしたんですか、急に。スキンシップ?」

「実はですね、昨日、岡島くんたちが……」

 

 殺せんせーは話し始めた。

 

 昨日の放課後、岡島をはじめとした何人かが、帰宅時に屋根から屋根へ飛び移り、フリーランニングの練習をしていたらしい。

 そして誰もいない路地裏に着地しようとして飛び降りた時、自転車に乗っていた老人とあわや衝突しかけたようだ。

 その人……松方さんとぶつかりはしなかったものの、彼は驚いて転んでしまい、骨にヒビが入った。全治二週間。 

 

 それを聞いた殺せんせーはその日のうちに話を聞きつけ、該当する生徒たちをぴしゃりと叩いた。

 

「で、俺たちにもビンタしたってことか」

「すみませんねえ。扱いに差が出てしまうといけませんから」

「殺せんせーが謝ることじゃないだろ」

 

 というか、ビンタとは思えなかった。さすがにパシンと叩くことは出来なかったのだろう。

 

 フリーランニングを習っている時点で、いやそもそも暗殺訓練を積んでいる時に、訓練場を学校のみに限定しようと取り決めをしなかったのは俺たちだ。

 烏間先生は忠告してくれていたが、絶対に従うべきルールを作らなかった責任は、力を持つ俺たちにある。

 それがわかっているから、他のみんなも文句は出せなかった。

 

 地球を救うために殺せんせーを殺さなきゃいけない重圧、普通より力を持った高揚感。

 体育祭を終えて、それが一気に押し寄せてきたのだろう。調子に乗ってしまった。

 一歩間違えれば、事故を起こしたのは自分かもしれないのだ。

 

 岡島たちは深く反省して、いまはがっくりと肩を落としている。

 蓄えた力に関しては、俺も正しい使い方をしていない自負があるから文句は言えない。

 

 全面的に殺せんせーが正しい。これで暴力を受けたとは流石に言えんわなあ。烏間先生も今回ばかりは見て見ぬふりだし。

 

「それで? 勉強禁止ってことは、他に何かやらせるつもりなんだろ」

「いつも話が早くて助かります。そうです。連帯責任として、君たちにも一緒に罰を受けてもらいます。その内容は……」



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62 力の使いどころ

 はしゃぎまわる子どもたちを追いかけまわし、追いかけまわされ……

 

 俺たちは松方さんが園長を務める保育施設『わかばパーク』にお邪魔していた。

 

「二週間のただ働きねえ。人を骨折させた代償としては安いんじゃないの?」

 

 子どもを捕まえつつ、髪を軽く引っ張られつつ、狭間が言った。

 

「殺せんせーの説得のおかげだよ」

「もっちりビンタされた時は何事かと思ったけどね」

「ごめんな、みんな」

 

 わざわざ殺せんせーは松方さんのところに出向き、正体を明かして、土下座までしてみせたらしい。

 必死の謝罪によって、とりあえず俺たちのことや殺せんせーのことは黙っておいてくれるようだ。

 

 とりあえず、というのはつまり条件付き。

 この保育所の手伝いをして、その功績によって処遇を決められるみたいだ。

 

 いきなり骨折させられ、子どもたちの世話が出来なくなったというのに……待ってくれるうえに、場合によってはこれ以上のお咎めなしとは、ものすごく寛容だな。

 

「とにかく、期間をもらったんだ。ちゃんと仕事はこなしてやろう」

 

 と、竹林が眼鏡をくいっと上げる。そのズボンは子どもたちによってずり下げられていたが。

 

 ここにはまだやんちゃ盛りの歳の子どもが多い。

 いじめられていたり、両親が世話を出来なかったり……困っている子を、松方さんは格安で面倒を見ているという話だ。

 子どもたちは暗い一面が見えないほど元気だが、それも松方さんあってのことだろう。

 

 たった一回の間違った行いで、これだけの大きな事態になる。

 

 俺たちはそのことを痛感して、再び反省した。

 

「さて、こんだけ人数がいて二週間、ただ買い物したり子どもの世話したりじゃもったいないな」

「せっかくだしどーんと何かやってやろうぜ。あのじーさんが文句も言えねえくらいにな」

 

 

 みんながやる気になったところで、さっそく計画を立てることにした。

 

 一、子どもたちの信頼を得ること。

 この保育施設には他にも大人がいるとはいえ、人数は多くない。子どもたちの面倒を見るには目が足りない。

 かと言って、俺たちがすぐ代わりの先生になれるわけじゃない。頭ごなしにあれやこれやと言っても聞いてくれないだろう。

 そこで、俺たちはレクリエーションを通して距離を縮めることにした。

 

 単純に鬼ごっこやらかくれんぼやらの遊びに参加したり、鍛えられた身体を使って即興劇をしたり、アクロバット芸を披露したり。

 おかげで俺たちはすんなりと受け入れられることに成功した。

 

 そんな一日目はつつがなく終わり、続いて二日目。

 目的はこの建物の補強だ。

 木造平屋の施設は、子どもたちが暴れるには少々脆く、ところこどころに傷があったり穴が空いていたりしていた。

 

 安全を守りつつ、強度を保証しつつ、松方さんが楽にできるようにするようなアイデアをみんなで出し合う。

 烏間先生の部下の一人である鵜飼さんが建築の資格を持っていて、設計を見直してくれていた。

 

「千葉、次はどうすればいい?」

「前原たちの作業が終わるまでちょっと待っててくれ。全体のバランスを考えながら組み立てないといけないから」

 

 鵜飼さんのアドバイスを得ながら、図面とにらめっこする千葉。

 全体をよく見て的確に指示を出しながら、自らも跳びまわってトンカチを振るう姿は、業者以外の何者でもない。

 

「監督は指示だけ出してればいいのに」

「そういうわけにもいかないさ。ちゃんと現場のことも見ないと」

 

 将来、建築関係の仕事に就きたい千葉にとっても今回のことはいい経験になるだろう。

 崩れないことは大前提として、お客さんのことを考えられた設計になっているか、そこにいる人たちが過ごしやすい環境を作れるか。

 学校で勉強しているだけじゃ体験できないこと。

 殺せんせーがこのことまで考えていたとしたら、恐るべしというほかない。

 

「というか、國枝は今回力仕事はなしって言っただろ」

「な、なんだと……!?」

「本当はまだ安静にしてなきゃいけないんだろ? 体育祭やったこと、医者に怒られたって聞いたぞ」

「ぐっ……律か、烏間先生か」

 

 ぐぬぬ、と唇を噛む。

 連帯責任というからにはちゃんと働こうと思っていたのに。

 

「まあまあ。なにも身体動かすだけが仕事じゃないしさ、子どもたちと遊んでくれるだけでも助かる」

「はあ……やれるだけはやるよ。子どもの相手は苦手だが」

「みんなは上手くやってるみたいだけどな」

「寺坂のあれを、上手くいってるって言うならそうなんだろうな」

 

 噛まれ、掴まれ、振り回される寺坂を見て、俺は苦笑する。

 建築作業しようってのに子どもが周りにいたら危ないからな。俺も邪魔にならない程度に遊んでくるか。

 と、手伝いに回ろうとしたとき……

 

「うわ、なんだかすごいことになってる」

「なんだこれ、リフォームでもしてんのか?」

 

 俺たちとは違う学生二人組が敷地内に入ってきた。

 着ているのはここから何駅か遠くの高校の制服だ。

 

「あっ、はじめとそうただ!」

「おっと、良い子にしてたか、みんな?」

 

 気づいた子どもたちが、その二人に群がる。一層テンションが上がっているところを見ると、だいぶ慕われているようだ。

 高校生たちはしばらく談笑したあと、俺たちに気が付いた。

 

「あ、君たちが手伝いに来てる椚ヶ丘中学の子たち?」

「はい。えっと……」

伊吹肇(いぶき はじめ)だよ、よろしく。僕らも時々子どもたちの相手してるボランティア……みたいなものかな」

相葉奏太(あいば そうた)だ。俺は肇に連れてこられてるだけ」

 

 そう言いつつ、相葉さんもかなり懐かれている。遊ぼう遊ぼうと、子どもたちに袖を引っ張られていた。

 

 

 伊吹肇さんと相葉奏太さん。

 二人とも高校三年生で、時折この保育所に来ては松方さんのお手伝いをしているらしい。

 

 問題を抱えている子どもたちは、それに引きずられて勉強についていけてないのが大半。

 寄り添いつつ、遊びつつ、家庭教師の真似事も引き受けているそうだ。

 

 囲うのも無礼だと思って、代表として俺と磯貝が彼らと自己紹介を済ませる。

 これまでの経緯説明をすると、伊吹さんはぽんと手を叩いた。

 

「ああ、そう。それで松方さんが『様子を見てほしい』って言ってきたのか」

「その、すみません。俺たちのせいで……」

「いやいや、僕には謝らなくていいよ。松方さんに謝ってさえいれば」

 

 伊吹さんが言って、相葉さんもうんうんと頷いた。

 

「まー若気の至りってやつだな。覚えがある」

「ありすぎてどれを思い出してるのやら」

「思い出してるのお前のことですけどぉ? なあ、肇さんよお」

 

 軽口の言い合い。一目見ただけで、この二人が気の置けない親友同士だとわかる。

 今までに見たことのないような深い絆が感じられた。

 そこまで信頼し合えるくらいの何かがあったのだろうか。普通にだらだらと一緒に過ごしていて築けるような関係じゃない。

 伊吹さんの首元には切られたような傷痕があるが、それが関係あるのか……なんて訊かないほうがいいだろう。

 

 そういえば、と彼が口を開く。

 

「時期的には、そろそろ中間テストなんじゃないかな。勉強は大丈夫?」

「担任から勉強禁止って言われてますから。俺らのせいなんで仕方ないですけど」

「ってか、伊吹さんたちも受験勉強まっさかりなんじゃ……」

 

 磯貝が心配する通り、この時期は受験生が焦りを覚えてくる頃のはず。

 すると、相葉さんは豪快に笑いだした。

 

「はっはっは、息抜きがなけりゃ受験は乗り切れん乗り切れん!」

「それには同意。奏太は息抜き多いけどね」

 

 余裕があるのか、緊張感がまるで感じられない。

 

 相葉さんが子どもたちの相手をし始めて、遅れて伊吹さんもそちらに向かおうとする。

 少し聞きたいことがあって、俺は彼を引き留めた。

 

「……怒らないんですね」

「周りの大人から散々色んなこと言われたんでしょ? みんな反省してるようだし、これ以上何か言うのは逆効果だ」

 

 俺たちと会ってまだ少ししか経ってないのに、見透かしたように言う。

 

「勉強ができないぶん、ここで色々学べるんじゃないかな」

「色々……ですか」

「自分の力を間違った方向に使って、今回のことが起きたんでしょ? だったら、そのことについて見つめ直すチャンスでもある」

 

 ふう、と一息吐いて、彼は続ける。

 

「人生にはいろんなことが付き物だ。それで得るもの、失うものはたくさんある。そうして手に入れた力をどう扱うかによって、人は善にも悪にもなりうる……と僕は思うよ」

「つまり?」

「力自体に善悪はないってことさ。全部は自分次第」

 

 その言葉には不思議と説得力があって、疑いもせずに納得しかけるほどだった。

 

 俺たちと三歳差。それがあまりにも遠く感じる。

 そこらへんの高校生や大人よりも、格段に大人っぽく見える。

 俺たちだって色んなことに曝され、異様な経験をしてきたのに、彼には敵わない気がする。

 この人はいったいどんな人生を歩んできたんだろうか。

 

「肇ー! こっち来いよー!」

「おっと、呼ばれたから行くよ。よければ、みんなの勉強もみてやってくれないかな。不登校の子とかいて、遅れてるんだ」

 

 にこりと笑うと、伊吹さんは小走りで駆けていった。

 

「なーんか、達観してる感じだったな」

「うん。高校生ってみんなああなのかな」

 

 俺と磯貝は顔を見合わせて、うーんと首を傾げた。

 

 

「ふむふむ……」

 

 もうすぐで陽も落ちそうなくらいになってきたころ、E組の働きぶりを一歩引いて見つつ、相葉が頷く。

 ちょうど、国語が得意な面々による講座が終わったところだ。

 

「中村さーん、赤羽くーん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 

 彼は二人を呼び、集めたかと思うと声を潜めた。

 

「國枝くんと不破さんって付き合ってんの?」

「お、いいところに目つけましたね、旦那」

「それがまだなんですよね~」

 

 三人が同時に、にやりと悪い笑みを浮かべる。

 國枝が不破を気にかけ、不破が國枝を気にかけていることは、第三者から見てバレバレだった。

 特に、単なる友情では言い表せない甘い空気が、あの二人の周りに広がっている。

 

「あれだけお互い意識しあってるんだから、さっさとくっつけばいいのに」

「くっくっく、そのために何かしようってことでしょ?」

 

 カルマがゲスな笑い声を上げると、相葉は「お、話が早いねぇ」と続けた。

 

「まあ何かしらやってあげたいだろってな。だって、男子だって恋バナが大好きなんです!」

「ひゅー! 下世話ー!」

「やめろよ、褒めても何も出ないぜ……」

「何やってんの、君たち……」

 

 盛り上がる三人のもとへ、呆れながら伊吹が近づく。

 

「肇も応援しようぜ、あの二人の恋ロードをよ! 彼女持ちのお前なら、このラブロマンスわかってくれるだろ?」

「ほんとゲスな話だな、まったく…………で、何する?」

「俺はお前のそういうところ好きだよ」



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63 心と距離が変わった先で

 さてさて、『わかばパーク』で手伝いを始めてから二週間。

 今日は松方さんが退院する日だ。

 

 この期間、俺たちは封じられた勉強時間を全て子どもの世話や施設の改造に費やし、ついに目的のものを完成させることが出来た。

 ぼろぼろで崩れそうだった『わかばパーク』は、木を組み合わせた二階建ての、立派なログハウスに生まれ変わっていた。

 

「劇的に変わっとる!」

 

 敷地内に入るなり、目が飛び出すような勢いで驚く老人の姿が見えた。

 あれが松方さんか。連帯責任を背負わされた組にとっては、初の顔合わせ。

 思った通りのしっかりしていそうな人だ。買い物も子どもたちの世話も主体でやっているせいか、足腰は弱っていない。

 そして頑固そうながらも、鋭い目つき。それでも懐かれているのは、彼の良い性格の表れだろう。

 

 E組を代表して、磯貝と片岡が松方さんを先導しながら変わったところを説明する。

 

「こんな大量の材料をどこから……」

「うちんとこの裏山にはやたら木がありますから」

 

 木が多くなってくると、お互いの成長を邪魔することになる。だから本数を引いて残したものを豊かに育てる。そうやって切られたのを業者にもらってきたのだ。

 

「この子たち凄かったんですよ。毎日あっちこっち飛び回ってて」

 

 保育士の一人が、嬉しそうな顔で言う。

 それを見ても、松方さんは神妙な顔つきのまま、俺たちに向き直った。

 

「だが、お前ら素人が作ったもので大丈夫なのか?」

「設計自体は資格を持ってる人に見てもらいましたから、問題ありませんよ」

「それじゃ、中にご案内します」

 

 クラス委員二人に促され、階段を上がって二階へ。

 二つ部屋があるうちの、まずは一方を見てもらう。

 そこは図書館。子どもでも手が届くような低い本棚が並べられ、落ち着いて読めるように椅子と机まで完備。

 

「だだっ広いな」

「時間がなかったので、構造はシンプルにしました」

 

 ちなみに揃えられている本は、各人や知り合いのいらない漫画だったり、残していた絵本だったり。

 子どもに見せてもなるべく悪影響のないものを選んだつもりだ。不破のおかげで、やたらとジャンプ漫画が揃ったりもしている。

 

 さて、もう一方の部屋にもご案内。

 こっちは子どもたちの遊び特化のスペースだ。

 真ん中には、公園で見られる回転遊具の縮小版。簡易的なボルダリングが出来るように壁を改造したりしている。

 走り回ってこけてもいいように、床や壁にはクッションやネットを敷き詰めている。

 絶対に怪我しないとは言い切れないが、最大限安全に考慮して作った。

 

 さらに……

 一階下、職員室兼ガレージに置いてある、日々重い荷物を載せている自転車も吉田と堀部の手によって改造。

 前輪は二つになり、安定性を向上。さらにカゴも荷台も大きくなり、積載量をアップ。

 楽に運搬できるように電動アシスト機能を追加し、坂道もへっちゃら。その充電器は二階の回転遊具と繋がっている。

 子どもたちが遊べば遊ぶほど、松方さんが楽になる仕様だ。

 

「で、出来すぎて気持ち悪い!」

 

 松方さんの驚きと困惑に、みんながにやにやと笑みを浮かべている。

 

 事前に言い渡されていること、『よくやれば無罪』。

 ならば文句のないようにやってやろうということで、E組全員が全力を出した。

 その結果……この施設の強化については問題ないようだ。半分満足した顔が見える。

 

「だが、子どもたちの信頼を勝ち取ってなければ、認めんぞ」

 

 松方さんは一変して、厳しい顔でそう言った。

 彼にとって子どもが第一なのは、この建物や子どもたちを見ていればよくわかる。

 先ほどちらりと見せた笑顔だって、便利になったのとかは二の次で、子どもたちが楽しそうに笑っているのが見れたからだろう。

 

「それに関しても問題ないですよ」

 

 松方さんにそう言ったのは、伊吹さんだった。

 

「僕らが保証します。この子たちはちゃんと、ここのみんなの信頼を得てますよ。でなきゃ、施設の改造なんて許さないし、手作りの遊具で遊んだりしないでしょう」

「伊吹が言うなら……嘘はないな」

 

 伊吹さんは彼にもかなり信頼されているようで、彼の言葉を聞くと松方さんはようやく肩の力を抜いた。

 

「それに、子どもたちの顔を見ればわかる」

 

 無邪気に笑って遊ぶ子供たちの姿を見る彼の顔は、最初の印象とは違ってとても柔らかく見えた。

 

「礼を言おう」

「いえいえ、俺たちは償いをしただけですし……」

 

 元はと言えばこちらのせいなのだ。彼が俺たちを怒鳴りつけても文句は言えない。

 それでも、彼は頭を下げた。

 

「二週間も拘束して悪かった。お前たちにはお前たちのやることがあるんだろう?」

 

 その対応に、俺たちはぐっと心を押された。

 ああ、そうか。この人も教育者なんだ。子どものことを考え、その笑顔を第一に考えてくれる一人の師なのだ。

 俺たちが本当に反省していることを汲んでくれて、認めてくれて、ねぎらってくれて、許してくれた。

 

 より良い年上の人たちに出会えて思ったのは……敵わないな、という感情だった。

 そして、いつかはこの人たちのようになれたら、と思う。

 

「応援してるぞ」

 

 松方さんは柔らかい笑顔のまま、俺たちにそう言ってくれた。

 

 

「ついに来たぜ、夜!」

 

 ガッツポーズを天に掲げ、恋バナ好きな女子と下世話な男子……つまりE組のほぼ全員を集める相葉。

 手をワキワキと動かしながら、これから行う作戦について話す。

 

「……というわけだ。子どもたちをあの二人から遠ざけつつ、あの二人を庭の端っこに誘導だ。さあ、ラブコメの波動を見せてもらおうかぁ……全員所定の位置へ、散!」

「了解!」

 

 統率の取れた動きで、ばっと散るE組の面々。

 伊吹はその綺麗な動きに驚きつつ呆れた。

 

「ところで、なんで奏太はそこまであの二人をくっけたいの」

「げっへっへ、中学生の甘酸っぱい色恋沙汰のアトモスフィアを吸って、俺の青春を取り戻すんだよ」

「意味がわからん」

「刺激がねえんだよ刺激がよォ! お前らも最初はもじもじしてたくせに、最近は開き直ったいちゃいちゃしやがってぇ!」

「い……そんなことしてないよ、目につくとこでは」

「けっ、これだから自覚のないバカップルは……」

「受験勉強はこうも人を荒くする……いや、あんま変わらないか」

 

 

「気をつけるんだよ。火傷しないように、火を人に向けないように」

 

 子どもたちに注意しつつ、伊吹さんが水の入ったバケツを置き、花火をずらっと置く。

 火は松方さんか伊吹さん、相葉さんが着ける役。子どもたちには危ないから、一回一回頼んで着けてもらう方式だ。

 

 松方さん退院祝いの花火祭り。

 

 どこから調達してきたのか、花火は結構な数あって、俺たちが混ざってもなかなか減りそうにないくらいだ。

 指と指の間に挟んで何本も贅沢に使ったりしても、まだ全然残っている。

 

「はい、國枝くん」

 

 少し遠目で眺めていた俺に、不破が何本か差し出してくる。

 

「いまさら花火か」

「まあまあ、ちょっと季節外れでもいいでしょ?」

「少し肌寒くなってきたってのに」

 

 すでに火を放っている不破のに、俺の花火の先をくっつけて着火させる。

 彼女と横並びになって、弾ける花火に少しテンションが上がった。

 

 花火をしたのは、普久間島での夜が最後。結局、夏休み最終日の祭りの時には見れなかったんだよな。

 それを取り戻すぶんだと思えば、まあ悪くない。

 

「なんかちょっと、こういうの、いいかも」

「こういうの?」

「こうやって二人でお話とか。あれからなんだかんだバタバタしてて、ゆっくり話す機会なかったからさ」

「……そうだな。たまにはこういうのもいいか」

 

 堀部が正式にクラス入りしたパーティーから、こうやってお互いを見つめ直す機会はなかった。

 体育祭だとか、このフリーランニング悪用事件だとか。どうせこれからも何かと起きるんだろう。

 だったら、こうやってただ遊ぶだけの時間もあったっていい。

 

 散っては消える光を目で追う。

 そうしていると、不破がすすすっと距離を詰めてきて肩をくっつけてくる。

 

「不破?」

「ほら、少し肌寒いし、ね?」

「……ん、そうだな」

 

 振り払う理由はない。そして、ずっとこうしていたい理由はある。

 だから不破が俺の肩に頭を乗っけてきても、どかそうなんて考えはなかった。

 

 彼女の顔をちらりと見ると、にこりと返してくる。

 花火の光がなくても、その表情がたまらなく輝いて見える。

 見たまま逸らさずにいると、じっと見つめ返してきて、なんだか恥ずかしくなってくる。

 そう思っても見つめ合ってるのは、それが心地よいのと、彼女の目に吸い込まれていきそうで……

 

 ピーッ!

 

「やべっ、充電するの忘れてた」

「あーあ、もうちょっとだったのに」

 

 夜に響く音と声に振り向けば、いつの間にか木の影や上にいる仲間たちがこちらをにやにやと見ていた。

 甲高い音は、カルマが構えているスマホのバッテリーが切れた音だ。

 

「國枝くん……」

「相葉さんまで何してるんですか」

「アンコール! アンコール!」

「煽ってんな、さては! ていうかあんたが主導か!」

 

 やけに周りが静かだと思ったら、こいつらずっと俺らを観察してやがったのか。

 蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出すみんなを、俺は追いかける。

 

「よおし、全員そこに一列に並べ。歯を一本ずつ折って、各々別の奴の歯を移植してやる!」

「どんな発想してんだよ!」

 

 その後、子どもたちが花火を使い切るまで俺たちの鬼ごっこは続いた。

 

 

 ほっこりしたのもつかの間で、奉仕活動が終わった後、すぐさま二学期中間テストが襲い掛かってきた。

 二週間ものハンデは、椚ヶ丘中学にとっては相当なもので……

 

「やっぱり期末テストは偶然だったのかな?」

 

 と、帰り際にA組が絡んでくるのを許してしまうくらいだ。

 

 ほぼ全員の点数が大幅ダウン。

 それでも学年の半分より上だが……A組には惨敗。

 俺なんか夏休みからほとんど勉強できていないから、ガタ落ちもいいところだ。

 

「言葉も出ないねえ、当然か」

「この学校では成績が全て。負けた君たちは僕らに発言権はないからね」

「ふーん、だったら、お前らは俺に逆らえないってことね」

「げっ」

 

 カルマがふっと現れる。

 勉強できない二週間のハンデをものともせず、学年二位という結果を残した彼は、堂々と胸を張っていた。

 おかげでここぞと嫌みを言ってこようとした五英傑どもは押し黙った。

 

「気付いてなかったの? 今回みんな手を抜いてあげてたんだよ。君たちが負けっぱなしじゃかわいそうだからって」

「ぐっ」

 

 あからさまな挑発だが、あちらはカチンときたようだ。だが、さっき自分で言った言葉に縛られ、五英傑は何も言い返せない。

 E組は勉学、体育でもE組を圧倒した過去を持つ。うかつには馬鹿にできない。

 

「國枝や神崎さんは、君のためにわざと点数落としてあげたんだよ。少しはいい夢見れた?」

 

 わざわざ榊原に言うなんて、意地が悪い……

 実際は本当に点数が取れなかったのだが、黙っておこう。

 

 いつの間にか、勝ったはずなのに言い負かされているA組と、負けたのに余裕があるE組というような構図が出来上がる。

 ここらへん、カルマの空気の作り方は一級品だな。

 

「悔しいなら、次で勝ってみせなよ。三学期になれば、内部進学のお前らと高校受験の俺らじゃ授業が変わる。同じ条件のテストを受けるのは次が最後なんだ」

 

 その他にも競争しようと思えばできるものはあるが……勉学においてはカルマの言う通り、二学期期末テストが最後の戦いとなる。

 そしてここは都内有数の進学校、椚ヶ丘中学校だ。勉強の成績で全てが決まる。

 どちらが強いか、正しいか、胸を張れるか。泣いても笑ってもそこではっきりとした差が出る。

 

「二学期の期末テスト、そこで全ての決着をつけようよ」

 

 挑発するだけして、カルマは俺たちを引っ張っていく。

 

 フォローしてくれたんだな、俺たち全員を。

 E組の最初のほうを振り返ってみれば、彼もずいぶん変わった。

 

 それに応えるためにも、二か月後の期末テストは負けるわけにはいかない。

 決意を新たに、俺たちはカルマについていった。



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64 そこで学んだこと

「体育祭に出るって言った時は正気を疑ったけど……うん、順調に治ってるね」

 

 職員室で上半身裸になった俺を触診し終えて、初老の医者がにっこりと笑う。

 シロが遣わせた偽医者の一件があって以降、俺に専属の医者がつくことになった。診察は職員室で、烏間先生の監視のもと行うことという条件も追加された。

 

 この人は普久間島から戻ってきた時に診てくれていた人で、殺せんせー周りの事情もよく知っている。

 暗殺業に関して口をはさむことはないが、こうやって怪我をした時にはすぐ駆け付けてくれてくれる。

 

「多少の運動はしていい。が、多少だぞ。息が切れるくらいの運動はまだだめだ」

 

 俺に向けていた優しそうな表情から一変、厳しい顔で烏間先生を見る。

 正面からその顔をされていたら、ちょっとびびってたかもしれない。

 

「わかりました」

「よく見張っておきなさい。合宿の時くらいの傷をまた負ったら、今度はどうなるか」

「はい。お手数をおかけして、申し訳ありません」

 

 烏間先生が頭を深々と下げた。

 確かに、何度思い返してみても生きているのが不思議なくらいだ。

 『影』、鷹岡、『レッドライン』、『蟷螂』……どのタイミングで死んでいてもおかしくはない。

 無事でいられたのは、自分自身のタフさもあるだろうが……不破のおかげだと、信じて疑わなかった。

 

 

「というわけだ。みんなで國枝くんが無茶しないように監視しておいてほしい」

「監視……いやな言葉だな……」

 

 朝のHRにて、烏間先生が告げた言葉に、俺は怪訝な顔をした。

 まあそれはパフォーマンスだけで、実際は話し合いの末、納得したことだ。

 当分はスマホを肌身離さず持って、律が俺をモニタする。みんなは監視の目を光らせて、俺を無茶な目に遭わせないようにする。それに異論はない。

 強引な手だが、それくらいしないと止まらないであろうことは、自分でも自覚している。

 

「ところで、あれから松方さんは?」

「ああ、こいつのことはちゃんと黙ってくれると約束してくれた。口約束だが、守ってくれるだろう」

 

 心配はしていない。あの人のことだから、軽々しく喋ることはないはずだ。

 

「勉強はできなかっただろうが、得られたものはあったか?」

「はい」

 

 俺たちは即答した。

 

「俺たちの力はいくらでも使いようがあって、どう扱うかは俺たち次第」

「だから正しい時に、正しい場面で、正しく使うことが重要なんだと思いました。力に溺れてしまえば……むやみに誰かを傷つけてしまうことになってしまう」

「これからは、ちゃんと清く正しい暗殺を心掛けます」

 

 岡島、磯貝、渚が学んだことを口に出す。

 俺たちも同意見だ。あそこで学んだことは、日々の勉強を置いておいても重要なことで、取り組んでいなかったらもっと大きなやらかしをしていたことだろう。

 

「二週間は無駄じゃなかったようだな。だが、訓練スケジュールが遅れてしまったことは確かだ。これからはより一層厳しくいくぞ」

「はい!」

 

 良い返事を返したことで、烏間先生は口角を上げた。

 

「だがその前に……」

 

 烏間先生は体操服を教壇に置いた。

 

「あ、俺のジャージ」

 

 岡島が反応した。

 股部分が破れて、他にも傷や汚れがたくさんついている。

 機動力が高い組の体操服はほとんど似たようなもので、どこかしらが破れている。

 ロープの昇り降り、フリーランニングなど、身体をよく動かすようになったのだが、指定のジャージではついていけなくなっているのだ。

 

「激しくなっていく訓練に、学校のジャージじゃ耐えられない。こうもぼろぼろになっては家族にも怪しまれるだろう。そこで、だが……日々訓練を頑張っている君たちに、俺からプレゼントだ」

 

 その言葉を合図に、烏間先生の部下が俺たちに、一人一つずつ一抱えある段ボール箱を支給する。

 開けてみると、そこには服が入っていた。サバゲーショップで見るような、戦闘服と似ている。

 

 試しに、と全員着替えてみる。

 

 顔以外を覆う黒いインナーに、同じく黒い手袋。

 メインはその上に着る、半袖と長ズボンの特殊着。少し青が入ったグレーのそれは、各々の身体の動きを阻害しないようにフィットしている。

 

「衝撃耐性、引っ張り耐性、切断耐性、耐火性……あらゆる機能が最先端だ」

「凄いな、これ。体操服より軽いじゃん」

 

 ブーツも速く走れるよう、高く跳べるように設計されているようだ。なにより、音が出ない。

 

「暗殺のために開発したんですか?」

「いいや、軍と企業が共同開発していたものの、性能テストのモニターを探しているところだったんだ」

「まあ、ここならテストにはうってつけですしね」

 

 フードを被ってみながら、俺は納得する。

 本格的な軍の軍の訓練や実戦に使う前のお試しなら、この暗殺教室が合っている。

 通常訓練やフリーランニング、中学生ゆえの突飛な作戦の遂行。これくらいの無茶には耐えてくれないと困るしな。

 

「女子はちょっと防御力が落ちてるな」

「デザインを考えたのは私よ」

 

 女子のは、袖が無くなって肩まで出るようになり、丈が短くて腹周りが見える。パンツも短くなって、すらっとしなやかなラインを見せつつ、機動力は男子より上がっているのではなかろうか。

 これでも特殊インナーのおかげで、見た目よりは頑丈っぽい。

 

「カラスマったら、女子の分も男子と同じにしようとしたのよ。せっかくのプレゼントなんだから、オシャレなのがいいわよね」

「見た目は手足が多少心もとなく見えるが、それでも十分身を守ってくれるはずだ」

 

 この贈り物にみんなは満足したようで、その場で走る、跳ぶを繰り返していた。

 

「これで『貌なし』の活動するとか考えるなよ、國枝~」

「やらんよ。お前たちにモロバレするだろうが」

「そういうことを言ってるんじゃないんだけどね」

 

 俺は足踏みする。わざとでかい音を出そうと思わない限り、吸音されて聞こえない。

 衣擦れの音もほとんどなし。この厚さのわりに防御力も優れているようだ。今までは無理だった暗殺も可能になるだろう。

 半年近く過ぎて、さらなる力を得た。しかも人数分。

 

「これは訓練に耐えてきたプレゼントであると同時に、君たちを信頼して渡す武器でもある」

 

 烏間先生の言葉に、俺たちは深く頷いた。

 

 超体育着を使えば、様々なことが出来るようになる。これまでは不可能だった無茶だって簡単にこなせるだろう。

 だが全てを防げるわけじゃない。

 鋭い一閃で裂かれるし、威力の高い銃弾には貫かれる。爆発で服は無事であろうとも、衝撃は身体を圧する。

 超体育着の能力を正しく把握し、正しく使用することが俺たちに課せられた仕事であり、信頼に報いる行動である。

 

 とは思いながら……俺がこれを使うときは来るんだろうか……

 

 

 放課後になり、さて帰ろうと思ったところ、前原に拉致されてしまった。

 教室には、E組生徒全員が揃っていて、まだ帰る様子を見せない。

 

「なんだこの集まりは」

「ビッチ先生のサプライズ誕生会作戦会議!」

「誕生会……ああ、そういうことか」

 

 十月十日はビッチ先生の誕生日だった……が、その時はちょうど俺たちがわかばパークでのお手伝いをしていた。

 烏間からプレゼントを貰えていないという嘆きを聞いて、女子たちが策を立てようとしているらしい。

 ビッチ先生にはお世話になっているし、手伝うとするか。

 

「誕生日だからって言って、色んなことを烏間先生にさせるのは?」

「あれこれやらすのは烏間先生向けじゃないだろ。公私の公の部分が大きすぎる。そう簡単に受けてくれるとは思えないな」

「合宿の時にも、ビッチ先生と烏間先生を接近させようとしたけど上手くいかなかったしね」

 

 そんなことやってたのか。

 そういえば、肝試しの後にみんな集まって何かしていたような気がする。

 俺はさっさと寝てしまったから詳細は知らないが。

 

 

 作戦はシンプルに行こうということで、俺たちが用意したプレゼントを烏間先生から渡してもらう。

 その間、ビッチ先生に怪しまれないように、そして帰らせないように、買い出し班以外が彼女を誘う。

 

「つったって、プレゼントねえ……」

 

 買い出し班である杉野がため息を吐く。

 気持ちは分かる。ビッチ先生へプレゼントとなると、これが難しいのなんのって。高級な物じゃパンチが弱い。石油王まで相手する人は満足できないだろう。

 

「クラスのカンパは五千円。この額で、烏間先生からビッチ先生へ……大人から大人に相応しい贈り物は……」

「やっぱりそうだ。ねえ君たち!」

 

 悩んでるところに、聞きなれない声がかかった。振り向いて声の主を見ても、見覚えがない。

 二十台半ばそこらの男性。後ろの花が積まれている移動販売のトラックは彼のものだろう。

 花屋さんか……やはり、俺には覚えがない。 

 

「その後大丈夫だったのかい? ほら、おじいさんのケガの」

 

 渚と杉野が反応した。

 松方さんを怪我させてしまった時にすぐそばにいて、その場で救急車を呼んでくれた人らしい。

 

 渚がその人と二言三言話す。

 松方さんが無事だったことを伝えると、彼は心底安心したように胸をなでおろした。

 

「ああそれと……今プレゼントが欲しいとか言ってたね。じゃあ、これはどうかな?」

 

 そう言うと彼は、赤い一輪を神崎の目の前に差し出した。

 

「花……」

「ものの一週間で枯れるものに数千~数万円。ブランド物のバッグより、実はずっと贅沢なんだ」

 

 金額が高い服やバッグなどは、それだけ価値があると同時に、耐久性に優れていることも多い。

 安物買いの銭失い、なんてことわざもあるくらいだ。

 それに逆らうような、すぐ失われる花はたしかにほいほいと買えるものじゃない。

 

「人の心なんて色々なのに、プレゼントなんて選び放題の現代なのに、いまだに花が第一線で通用するのは何故だと思う? 心じゃないんだ。色や形が、香りが、そして儚さが、人間の本能にピッタリとはまるからさ」

 

 外国でも、花は贈り物としてポピュラーだ。

 時代や場所なんて関係なく花が愛でられるのは、人に訴えかけてくるものがあるからだろう。

 

 やけに説得力のある言葉に、俺は納得した。

 

「電卓持ってなきゃ名演説だけど」

「んんん、一応商売なんで」

 

 カルマの言葉に、花屋さんはばつの悪そうな顔をする。

 まあしかし、言うことは正しいし、悩んでいた俺たちにとっては救いの手だ。

 予算を伝えると、花屋さんはおまけして束を揃えてくれた。素人目に見ても、その艶やかさは美しい。

 見た目だけでなく、香りも整えてくれたみたいだ。

 思わぬところで良い人に出会った。

 

 またよろしく、と手を振ってくる彼に礼をして、俺たちは校舎に戻ることにした。

 

 

 校舎に戻ったところで、早速作戦スタート。

 同僚の人心掌握も大切だとか何とか理由をつけて、烏間先生に花束を渡すように言う。

 ビッチ先生を誘導していたメンバーは、蜘蛛の子を散らしたように去っていく。一人置いていかれて、ちょっと寂しそう。

 

 そして、俺たちは職員室の窓の外からこっそり盗み聞き。ちょうどビッチ先生が戻ってきたころだった。

 

「カラスマ! 聞いてよ、ガキどもがね……」

 

 急に寄ってきたかと思ったら、急に去っていった生徒たちにご立腹のようだ。

 しかし烏間先生はそれを気にせず、つかつかとビッチ先生に近づく。

 

「イリーナ。誕生日おめでとう」

 

 飾った言葉はなく、烏間先生は真っすぐに花束を渡した。

 

「……うそ。あんたが?」

「遅れてすまなかったな。色々と忙しかった」

「やっば……超嬉しい。ありがと」

 

 唖然としていたビッチ先生だったが、花を手にしてようやく実感したようで、満足げにそれを見つめた。

 

「あんたのくせに上出来よ。なんか企んでんじゃないでしょうね」

「バカ言え。祝いたいのは本心だ。おそらくは最初で最後の誕生祝いだしな」

 

 あ、と思った。

 余計なこと言わないように口止めすべきだった。

 

「任務を追えるか地球が終わるか二つに一つ。どちらにせよあと半年もせず終わるんだ」

 

 馬鹿、と口に出しそうになった。

 烏間先生は、殺せんせーの暗殺が成功したとしても、ビッチ先生との関係を断ち切るつもりだ。

 政府の人間と殺し屋なんて、そりゃ繋がってない方がいいだろうが……半年近くも一緒に過ごしてきた同僚にかける言葉としては冷たすぎる。

 

 何かを察したか、ビッチ先生はまっすぐこちらに向かってきて、がらりと窓を開ける。

 当然そこには俺たちがいて、この一連の企みが全部バレてしまった。

 

「こんなことだろうと思ったわ。この堅物が誕生日に花贈るなんて思いつくはずないもんね」

 

 ビッチ先生は冷淡な顔つきで見下ろしてきて、自嘲するように悲し気な笑みを浮かべた。

 

「楽しんでくれた? プロの殺し屋が、ガキどものシナリオに踊らされて舞い上がってる姿見て」

 

 いろんな感情が混ぜ合わさっている。その中には、正の感情はひとつもなかった。

 

「おかげで目が覚めたわ。ありがと」

 

 花びらが散るのも構わずに、ビッチ先生は花束を烏間先生に投げつける。

 そのまま、俺たちが止める間もなく校舎を出て行ってしまった。

 

「ちょ……ビッチ先生!?」

 

 生徒たちが背中に声をかけても、振り向きもしない。

 くそ、やっちまった。

 ビッチ先生に良い思いをしてもらおうと思ったのに、逆効果の結果になってしまった。

 

「烏間先生、なんか冷たくないスか!?」

「まさか……まだ気づいてないんですか?」

 

 生徒たちの非難に、彼は動じなかった。

 

「そこまで俺が鈍く見えるか」

 

 表情を変えず、烏間先生は続ける。

 

「非情と思われても仕方ないが、あのまま冷静さを欠き続けるなら他の暗殺者を雇う。色恋で鈍るような刃なら、ここで仕事する資格はない」



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65 死神

「ではイリーナ先生に動きがあったら教えてください。先生これからブラジルに行くので」

 

 と、殺せんせーは窓からマッハで飛んでいく。

 普段はサッカーを見ないのに、全国的な祭がある時にだけ嬉々として応援に駆け付ける、いわゆるミーハーというやつだ。

 

 まあそんなことはどうでもよくて……

 

 ビッチ先生が教室から出て行ってから、三日が経過していた。

 

「来ないね、ビッチ先生」

 

 矢田が呟くようにして言う。

 顔も見せず、連絡も通じずってのはさすがに心配になる。

 

 烏間先生は他の暗殺者と面接しているようだ。

 これまで暗殺者を斡旋してくれていたロヴロさんとなぜか連絡がつかなくなり、政府が持っているパイプでかき集めるしかなくなったらしい。

 だがコネは限られていて、質が大幅に下がったと嘆いていた。

 

 こんな状況じゃなくても、ビッチ先生のことをプロの暗殺者として見ているから、去る場合は追わないのが烏間先生だ。

 大人だから、自分のやることには自分で責任を持て、ということだろう。

 

 ビッチ先生が自ら戻ってくるのを待つしかないが……今のところはそれも望み薄だ。

 

「……ビッチ先生にとっちゃ、この教室に染まりたくても染まれないんだろうよ」

 

 資料に目を通したことがあるから、ビッチ先生の過去について多少は知っている。

 小さいころに両親を殺され、その復讐として殺し屋になった。血と死に怯えるのではなく、それらに塗れてしまう決断をした。

 一人の少女にとって、それは人生と心を狂わせてしまうのに十分すぎて……殺す技術を教えられるたび、暗殺を遂行するたびに心が冷えて、取り返しのつかない気持ちになっていったに違いない。

 血で汚れた手を見て、もう普通の生活は望めないと彼女は思っただろう。

 だからこそ殺す技術に自分の自信を乗せて、殺すごとに立ち位置を確認していた。

 だけど、E組に来てからの彼女の役割は教師になって、ゆっくりと表の世界に感化された。

 

 彼女が許せなかったのは、そんな世界に引きずり込んだ俺たちじゃない。浸ろうとしていた自分自身だ。

 人を殺してしまったのだから表の世界に混じってはいけないと、気持ちにブレーキをかけた。

 

「不器用な先生だな」

 

 お前が言う? みたいな目線を無視して、俺は続ける。

 

「まあ、きっと戻ってくるだろ」

「戻ってこなかったら、それこそ力ずくで戻ってきてもらおうよ」

 

 片岡が賛同してくれる。

 

 生徒に囲まれている時のビッチ先生は、心の底から楽しんでいるように見えた。

 無理やりにでも囲んで、遊びにでも誘えばいい。頑なに固まった考えは壊してしまえることを、俺たちは自分自身で証明してきた。次はビッチ先生の番だ。

 

「そうだね。それが出来るだけの絆が、君たちにはある」

 

 花屋さんもそう言ってくれる。

 そうだ。今さらビジネスだけの関係だなんて……

 

「だから僕はそれを利用させてもらうだけ」

 

 ぞくり、と鳥肌が立った。

 いきなり会話に混じって、違和感なく俺たちの真ん中にやってきた花屋に、危険信号が走る。

 一瞬遅れて全員が気付き、教壇に目を向ける。

 

 あまりにも普通に入ってきて、俺たちの誰もが何も感じなかった。

 そいつが教壇に立つまで、本当に、一切何も……

 

 目には自信があったのに、それすら通り抜けてしまう男から目が離せない。

 

「僕は『死神』と呼ばれる殺し屋です。今から君たちに授業をしたいと思います」

 

 爽やかな笑顔で、いきなりそんなことを言う彼を目の前にしても、まだ俺たちは動けないでいた。

 

「律さん、送った画像を表示して」

 

 続けて、彼が言葉を続ける。

 いつの間にかメールが送られていることに律は驚いて、そのまま画像をディスプレイに表示する。

 

 縄で縛られているビッチ先生が映った。生きているようだが、ぐったりとしていて気を失っている。

 

「手短に言います。彼女の命を守りたければ、先生方には決して言わず、君たち全員で僕が指定する場所に来なさい」

 

 急展開に頭がついていかない。

 言葉を理解するのに時間がかかって、俺はようやく口を開いた。

 

「断れば?」

「その時は彼女のほうを君たちに届けます。全員に平等にいきわたるよう小分けにして」

 

 それが意味するところは理解できた。

 つまり従わなければビッチ先生を殺すってことか。そして、次にこの場の誰か、あるいは周りの大事な人を次の人質に選ぶつもりだ。

 

 こんなに恐ろしいことを言われているのになぜ、こいつに対して警戒できないんだ。

 

 風景の一部のように溶け込んで、そこにいるのが当たり前かのように存在している。

 はっきり見えているはずなのに、こいつの正体が見えない。 

 そんなことがありえるのか?

 

『人間の考えうる乏しい限界を超えた存在は、()()んだよ』

 

 立花の言葉が蘇る。

 目の前にこうして現れている以上、疑問の余地なく存在を認めるしかない。俺たちの常識を超えた殺し屋『死神』を。

 

 だが幸い、『死神』は武器もなにもないようだ。

 相手の実力がわからないうちに戦闘は避けたいが、この人数差なら勝てる……はず。

 敵が素手なら、ここで取り押さえるのがベスト。

 

 臨戦態勢に入る。

 アイコンタクトで、おおざっぱに作戦を決めた。

 まず寺坂が突っ込む。続いて、避けられたとしても俺が追撃。初動はこれでいいはずだ。

 あとは雪崩のように男子が突撃。女子は後方待機で必要に応じて援護。

 

 だが、寺坂よりも速く、『死神』が先に動く。

 全員の視線が宙へ投げた薔薇に集まる。

 花束から散る花弁は『死神』の姿を隠し、風にさらわれて窓から出ていく。そこにいたはずの『死神』とともに。

 

 一瞬で俺たちの包囲を抜け出したのだ。そして俺の目すら欺いて消えてしまった。

 見回しても、当然いない。

 たった一回、逃亡を許しただけ。だが力量に圧倒的な差があることを思い知らされる。

 

 残された俺たちは、ただ茫然とするほかなかった。

 

 

 話が理解できて、怒りが湧いてきたのは少し遅れてからだ。

 三日前の花束に盗聴器が仕込まれているのに気が付いて、苛立ちながら踏みつぶす。

 

「完全にしてやられたな……あっちはこっちの何枚も上手だ」

 

 磯貝がつとめて冷静に言う。

 

 E組の状況を盗み聞いて、ビッチ先生が一人になるタイミングを見計らって拉致。殺せんせーも烏間先生もいない時を狙って脅しにきやがった。

 素早く、用意周到、そして大胆。あれでもあの男の手腕の一端のはずだ。

 思い返すだけで冷や汗が出る。

 

「國枝、お前にはどう見えた?」

 

 カルマの問いに、俺は頭を振った。

 

「お前たちと変わらない。警戒できなかった」

 

 今までイカれた奴ら……鷹岡や『レッドライン』、『蟷螂』と戦ってきたが、そいつらの誰に対しても、即座に戦闘態勢をとることが出来た。

 なのに、あの『死神』に対して脅威を感じることができなかった。

 殺されるその時まで接近を許してしまうだろう。暗殺者にとっては、これ以上ない技能だ。

 

 『死神』……

 その名はロヴロさんから聞いたことがある。この世で一番のアサシンだと。

 力を見せつけられて、それを疑う余地はなかった。

 

 いつの間にか彼が置いていった紙を木村が拾って読み上げる。

 

『今夜十八時までに地図の場所まで来てください』

 

 ご丁寧に、先生や親、他の誰にも言わないことも条件に書いていた。

 

「……あと二時間もねえ」

「考える時間も奪って、大人しく従わせる気だな」

 

 あんな化け物相手に、俺たちでどうにかするしかない。

 最強の暗殺者の領域へ自ら足を踏み出せば、十中八九やられる。

 だが……

 

「選択肢はない……か」

 

 ビッチ先生を見捨てることはできない。

 大事なE組の先生で、仲間だ。

 

「これ、いま使わないでいつ使うんだよ」

 

 寺坂が超体育着を掴む。

 そうだ。これがあれば、一泡吹かせられるかもしれない。

 臆する者はおらず、みんなが超体育着を引っ張り出す。

 

「國枝は来るか?」

「え、俺をハブる気?」

「いやいや、だって傷はまだ完璧には癒えてないんだろ」

「あのなあ、体育祭だってやったんだぞ。足手まといにはならないよ」

「マジで大丈夫か?」

「大丈夫大丈夫、心配いらない」

 

 それに、ここで一人お留守番なんて耐えられない。

 俺だってビッチ先生を助けたい気持ちでいっぱいだ。

 

 不破が俺の隣に並ぶ。

 

「個人的には、ついてきてくれたほうが安心かな。國枝くん頼りになるし、目を離したら何するかわからないし」

「いまいちまだ信用されてないみたいだが……とまあ、こういうわけだ。ついていくよ。一人でも多い方がいいだろう」

 

 そう言うと、寺坂がぼりぼりと頭を掻いた。

 

「ま、お前を一人で置いてくほうが危険か……」

 

 

 『死神』が指定してきたのは、林の中にぽつんとある倉庫のような建物だ。

 フードを被って、木に隠れて様子を窺っているが、敵の気配はない。

 超体育着の機能の一つ、特殊なスプレーで一時的に色を変えられる特性を使っているのが馬鹿らしいくらいだ。

 

 堀部が改造したカメラ付きのドローンで偵察したものの、周りに怪しいものはない。

 俺が凝視しても、特になにもなかった。

 

「罠はないみたいだな」

「入ってこいってか、上等だぜ」

 

 寺坂が拳を合わせる。

 これだけ無防備だと不安になってくる。『死神』はよほど実力に自信があるのか? あの倉庫の中に特大罠を仕掛けているのか?

 嫌な予感がするが……突っ込むしかない。

 

 足音を消して倉庫の前までたどり着く。扉に耳を当ててみるが、何も音はしない。

 扉を開け、俺たちはぱっと中に入った。あちこちに注意を向けながら、お互いをカバーできる範囲で散り散りになる。

 だが……何もない。

 ビッチ先生や『死神』はおろか、物が一切なかった。

 

《全員揃ったね、それじゃ始めるよ》

 

 壁に設置されたスピーカーから『死神』の声が聞こえる。

 それと同時、出入口が自動で封鎖され、部屋の仕掛けが作動した。

 

 壁がせりあがっていく。いや、俺たちが下がっているんだ。

 この床がエレベーターのように地下に降りていっている。

 

 しまった、と思った時には遅かった。

 数階分下に降ろされ、止まり、目の前には……

 

「鮮やかなものだろう? 部屋ごと下ろして閉じ込めさせてもらったよ」

 

 三方をコンクリートの壁に囲まれ、一方は鉄柵。手が届きそうなほどすぐ近くで『死神』がにこりと笑う。

 対して俺はしてやられた悔しさでいっぱいだった。

 

 あっという間にまとめて捕まってしまった。

 まさかこんな手を使ってくるなんて……どこまでも予想外のことをしてきやがる。

 

「くそっ、ここから出しやがれ!」

 

 『死神』との突然の相対。毒づきながら、寺坂たちは持ってきた工具でガンガンと壁を叩きだした。

 

「一度会ってみたいと思ってたんだ。『貌なし』くん」

 

 『死神』と目が合うと、彼はにこりと笑って檻のすぐそばまで近づいてくる。

 

「いっけん誰よりも落ち着いて見えるけど、その実、誰よりも焦ってる」

 

 見透かすように、『死神』は鋭い目線が突き刺さる。

 

「お仲間がこれからどうなるか、そんなに心配かい?」

「……」

 

 俺は口を開かなかった。少しでも喋れば、心の隙を突かれそうだったからだ。

 事実、顔は無表情を装っているが、心臓はばくばく鳴っている。

 

 一人の人質で、E組生徒全員が釣り上げられてしまった。

 わざわざ捕らえて、こうやってお喋りしてるってことは、俺たちもまた人質に過ぎない。

 狙いはもちろん殺せんせー。ここにおびき寄せて、俺たちを逃がす代わりに暗殺を行うつもりだろう。

 

 問題は、捕らえられたこの人数だ。

 二十人以上。脅しのために一人二人殺しても、まだ余裕がある。見せしめにされる可能性があるのが一番怖い。

 

「俺たちをどうするつもりだ」

「世界平和のために、ちょっとした犠牲になってもらうんだよ」

「……狙いは殺せんせーか」

「そう。地球が壊されるなんて見過ごせないからね」

 

 表情が読みづらい。だが、その言葉が嘘だってことはすぐにわかった。

 

「相当自信があるみたいだな。本当の目的は……技術がどこまで通じるか、の腕試しか?」

 

 『死神』は一瞬きょとんとして……それからにやりと笑った。粘っこくも鋭い視線に、悪寒が走る。

 

「おい、ここだ! 空洞があるぞ!」

 

 壁を叩き続けていた三村が叫ぶ。

 

 時間稼ぎはここまで。

 全員がいっせいに捕まってしまったのは想定外だが、そのまま人質でいる気はない。

 

 奥田がカプセルを床に叩きつける。一瞬にして割れたそれから煙が広がり、すぐに俺たちを視界から消す。

 同時に、竹林が壁に小型爆薬を設置。みんなが離れたのを見て、爆発させる。

 

 壁の一部が壊れ、人ふたりが通れるくらいの穴が空く。

 外には通路。煙がそちらに逃げる前に、俺たちはすぐさま檻から逃げた。

 

 右へ左へ、いくつか角を曲がり、一分全力ダッシュして、ぴたりと止まる。

 地図もないところで逃げ回っても仕方ない。息を整えながら、周りを警戒する。

 

「律、ここの構造はわかるか」

 

 スマホを取り出して助けを求めるも……

 

「やる気しねぇ~。『死神』さんに逆らうとかありえねーし」

 

 いつものはきはきとした美少女はどこへやら、画面にはだらけきった律が映っていた。

 

「……ハッキングされてるからってこうなるのか?」

「実際になってるから、その質問はナンセンスだよ」

 

 呆れ気味の俺に、竹林が返す。

 ここで脅威だと感じるべきは、律が無力化されたことより、この短時間でそれを可能にした『死神』の手腕だ。

 授業の途中で何度も殺せんせーに聞かされた言葉が蘇る。

 

『優れた殺し屋は、万に通じる』

 

 気配を殺す技能、俺たちを一瞬にして捕らえる作戦立案技能、そして世界最高技術の粋である律をハッキングする技能。

 どれもが極限まで鍛えられている。

 

「三班に分かれよう。戦闘担当のA班、ビッチ先生を探し出すB班、外までの出口を確保するC班に」

 

 磯貝の提案に、俺たちは賛成した。敵の巣の中でいつまでも逃げられるとは思わない。

 最初から戦闘は避けられないと考えていた。相手の力量が未知なのが気になるが……

 

「國枝は……」

「B班に行く。ビッチ先生を担ぐか、『死神』を足止めするか、どっちにしても力がある奴がいたほうがいいだろう」

「わかった」

 

 一つの班にのみ戦力を集中させてしまうと、それ以外の班が不意の襲撃に反応できない。

 A班が到着するまでの時間稼ぎくらいにはなってみせないと。

 

 各自、用意してきたスタンガンや警棒などの装備をあらためて確認する。念のため、竹林から各班リーダーに小型爆弾が渡された。

 

 さあ、作戦開始だ。と意気込む直前、C班の寺坂が俺の肩を叩いた。 

 

「國枝、大丈夫かよ」

「どの班でも危険度は変わらん」

 

 真正面から立ち向かうA班は言わずもがな。C班も同じくらい危険だ。

 『死神』からしたら、人質に逃げられることが、つまり作戦失敗となる。出口を探すC班は真っ先に潰しておきたいだろう。

 

 そしてB班は……ほぼ確実に『死神』と出会うことになる。

 俺たちがビッチ先生の元へ向かうことは分かりきっているのだから、張っていれば間違いのないところ。

 

 結局、全員が『死神』の相手をする可能性がある。

 遭遇した時に対処できるかどうかは、俺たちの腕次第だ。

 

「俺の心配はいらない。それより、そっちは任せたぞ」



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66 暴かれる過去と想い

 E組が三班に分かれてから数分後…… 

 

「A班がやられたみたいだ」

 

 他の班の様子をトランシーバーアプリで聞いていた三村が、額に汗を滲ませた。

 

「はァ!? 分かれてからまだ五分も経ってないでしょーが!」

 

 思わず、中村が叫ぶ。

 『死神』はそれだけ規格外ってことだ。今まで会ってきた殺し屋とは格が違う。

 

「ど、どうする?」

「右往左往すれば『死神』の思うつぼだよ、このまま任務を続けよう」

 

 片岡はあくまでも冷静に指示を出す。

 的確に状況を見ることのできる彼女がいて助かった。

 

 だが……俺は心の中で舌打ちした。

 『死神』がどれほどのものかわからないが、今までの殺し屋と同じく『多人数相手』の『戦闘』は不得手だろうと思っていた。

 多少の心得があったとしても、あちらにはカルマ含め戦闘に長けたのが揃っていた。隙を突けば、渚がトドメを刺してくれる……そう考えていた。

 だがこの短い間でやられたとなると……もし俺が戦っても、三十秒もつかどうかすら怪しい。

 

 B班には機動力の高い杉野、岡島、片岡がいるが、他のメンバーは三村、神崎、倉橋、中村、速水、矢田だ。戦闘には不向き。正面からの殴り合いは避けたい。

 

 こちらの手には竹林製の小型爆薬、奥田製の催涙液入りペイント弾に、スタンガンもある。

 あちらが油断して手を抜いてくれるなら、まだチャンスはある。

 

 迷路のような廊下を進み、施錠された扉の前までたどりつく。

 三村が爆薬をしかけ、スマホで遠隔爆破させた。扉は吹っ飛んで、煙が舞う。

 杉野と俺が前に出て、後ろで速水が銃を構えた。

 

 敵の気配はない。といっても、『死神』相手に俺の勘がどこまで信用できるかは不明だが。

 煙が晴れて、一気に室内へなだれ込む。

 

「ビッチ先生!」

 

 部屋の中央。手足を縄で縛られたビッチ先生がそこにいた。

 白いシーツの上で、目を閉じて倒れているが、命に別状はないみたいだ。

 すぐに片岡と杉野が駆け寄り、無事を確認する。これでミッションの一つはクリア。

 みんなの緊張が幾分か晴れる。

 

 しかし、意外とあっさりだったな。

 まあ相手が凄腕でも、所詮は一人。複数チームで動いてるこっちには対処が遅れるか。

 ふう、と息を吐く。警戒を続けていると精神が摩耗するな……とほんの少しだけ気を緩めた。

 

 杉野がビッチ先生を拘束している縄を解いて、おぶる。

 その瞬間、彼女が一瞬目を開けたように見えた。

 

「じゃあまずはC班と合流しよう。それでA班を救出して……」

「待て!」

 

 俺が呼びかける前に、ビッチ先生が動いた。

 

 杉野と片岡がばたりと倒れる。

 

「ふふ……」

 

 先ほどまで気絶していたように見えたビッチ先生がゆっくりと立ち上がった。

 両手には小型の麻酔銃。それを打ち込んで、二人を昏倒させたのだ。

 

「ど、どういうつもり、ビッチ先生?」

「どうもなにも……あ痛っ!」

 

 中村の問いに答えようとしたところ、裸足で足元の石を踏んでしまったのか、その場にうずくまる。

 締まらないな……と三村はやれやれと首を振った。

 

「だいじょ……」

 

 矢田、三村が呆れながらも近づこうとしたその時、ビッチ先生は恐るべきスピードで二人の首筋に注射器を立てる。

 さらに、中村と岡島の首に手を回し、呆気に取られているうちに注射。

 同時に、足でシーツを宙に舞わせ、神崎と速水の目を隠したかと思うと、抵抗する間も与えずに無力化させる。

 

 俺は自分と一緒に倉橋を下がらせたおかげで距離をとることができたが……

 

「へえ、流石の目ね」

 

 雰囲気が全然違う。初めて会った時とも違って見えた。油断もなく、自分の技能を十全に使うプロの暗殺者の顔だ。

 

「最後はヒナノとあんただけね」

 

 言う通り、十人いたB班もたった数秒で二人だけになった。

 

 あまりにも鮮やかで、流れるような動きだった。

 普久間島でも手腕は見たが、人を惹きつけ、重要な部分から目を逸らさせる技術はやはり一流だ。

 相手は紛れもないプロ。俺たち以上に経験を積んだ強者なのだ。

 

 どうするか考える。

 幸い、先ほどの動きを目で追うことは出来た。身体が即座に対応できれば勝てる。

 助ける対象を痛めつけるのはいささか矛盾しているように思えるが、仕方ない。

 

「どうして、ビッチ先生? なんでみんなを……」

「あんたにはわからないわ」

 

 倉橋の言葉を遮って、ビッチ先生は即答した。

 

「たかがガキの遊びとは違うのよ。本当の、血に汚れた世界はあんたたちには到底理解の及ばないところよ」

 

 同じことを、俺も思ったことがある。

 誰にも理解されない世界に生きて、自分はたった一人だと思い込んだ。

 『蟷螂』の言葉を否定できず、足元から世界が崩れていきそうな錯覚に陥った、あの時。

 

 ビッチ先生は『死神』に何かしらの言葉をかけられ、殺人者である自分の一面を引きずり出されたのだ。

 自分はそういう人間だ。そこにいる人間だ。そこにいるべき人間だ、と。

 

「私はそこで生きてきた。そこに戻ろうとして、何が悪いの?」

「そこで生き続けたいと?」

「そう言ったはずだけど」

「だったら、その顔はなんだ」

 

 不機嫌そうな顔。

 俺たちに向けられているようでもあり、ビッチ先生本人に向けられているようにも見える。

 

「薬で無力化なんて面倒なことはせずに、俺たちを殺せばいいだろう。これだけの近距離なら銃を撃って終わりだ」

「カレがね、あんたたちが人質として必要だって言うから」

「『死神』のことか?」

「そう、そこにいるカレ」

 

 ぐるんと視界が回る。

 投げ飛ばされたと気づいたのは、地面に身体を叩きつけられてからだった。

 超体育着を着ていても、痛みが伝う。

 

 ばっと立ち上がり、状況を理解するよりも先に飛び退く。

 その眼前に、足が飛んできた。

 またしても身体が吹き飛び、今度は壁に打ち付けられる。衝撃をもろに受けた頬は熱く、切れた口内から血が出ていた。

 だが超体育着はほとんどの衝撃を吸収してくれた。

 

「へえ、今ので気絶しないんだ。普通なら脳が揺れて横になったままなんだけどね」

 

 いつの間にか、『死神』がいた。

 最悪だ。A班がやられたときの音は俺も聞いていたが、それだけでも異常だとわかる。

 俺は立ち上がって構える。

 

「國枝く……」

「下がれ!」

 

 倉橋を突き飛ばすようにして、『死神』と離した。

 ぞくりと殺気を感じて、身体をよじる。先ほどまで俺の顔があったところに、『死神』の拳が打ち込まれる。

 その腕を掴んで、相手の重心をずらす。その隙に繰り出した肘鉄は、いとも簡単に受け止められてしまった。

 

「まさか今のも避けられるとはね。でも、うん、君なら納得かな」

 

 『死神』の膝がみぞおちにめり込む。それは俺を跪かせるのには十分だった。

 口の中に溜まった血を吐き出さず、なんとか飲み込んだが、鈍く反響する痛みが立ち上がることを許さない。

 力を振り絞って、足を払おうとするも、ひょいと跳躍して避けられる。

 さらにつま先で喉を突かれ、床に転がされた。

 

 鷹岡とやったときより実力の差を感じる。しかも、『死神』はこれでもかなり手加減しているほうだ。その気になれば、どの攻撃でも俺の首の骨を折ることができただろう。

 痛みに耐えて唸りながら立つ。壁に背を預けて、相手を観察した。

 あまりにもどす黒く、うねるような殺気で死神の輪郭が掴めない。どこから何をしてくるかが、まったく読めない。

 ゴーグルを着けて集中力を増すべきか。いや、どちらでもそう変わりはないだろう。むしろこの化け物相手では、目を凝らすほどに圧倒されそうだ。

 

「結構タフなんだね。だけどこれでおしまいだよ」

 

 ピシュ。

 首筋に違和感を感じた。とたんに視界がぐらつく。

 するりと近づいてきていたビッチ先生が、注射を打ったのだ。

 

 強烈な気持ち悪さと眠気が同時に襲ってくる。千鳥足でふらつくのを堪えようとするが、がくりと膝をついてしまった。

 一撃も与えられず、ビッチ先生もE組のみんなも救えず、こんなところで終わるのか。

 反撃もさせてもらえず、俺は床に伏してしまった。

 

 

 目を開けると、光の中だった。

 死んだのだろうか。それにしては痛みを感じる。

 ぼんやりしていた頭が覚醒していくにつれ、淡い光が徐々に広がる。

 天井に吊るされた電球が、煌々とはいかないまでも十分に部屋を照らしていた。

 

 コンクリートで囲まれた五メートル四方の部屋。その真ん中に座らされていた。

 

 なんだか身体が重いと感じるのは、投げられ蹴られ、薬を打ち込まれたからだけじゃない。

 

 腕が後ろ手に回されて、その両手首に金属の輪がかけられている。

 鎖は部屋の中央にある床から天井まで伸びている金属の棒に繋がれ、俺の行動を制限していた。

 足首も同じようにされ、ほとんどポールに密着した状態のまま動けない。

 立ち上がろうとしたところを、何かに邪魔される。

 感触で、首輪もされているのがわかった。それも鎖がついているが、繋がっているのは足首の輪。中腰になるまでしか許されない長さのため、仕方なく起きた時のまま、座った体勢で辺りを見回す。

 

「気づいたみたい」

 

 誰かの声が聞こえた。首を振ってみても誰もいない。

 顔を上げて、正面の壁に備えつけられた小さなモニターにやっと気づく。

 画質はそう良いとは言えない。しかも画面の端にいくほど大きくゆがんでいる。

 

 その中にE組のみんながいた。最初に閉じ込められた牢屋みたいな場所で、全員が閉じ込められていた。

 手錠をされていて、しかも、首に何か輪状のものをかけられている。俺の首輪とは違う、もっと小さいやつ。

 

「國枝、大丈夫か?」

 

 杉野の言葉を理解して頷く。

 

「ああ、お前たちは?」

「大した怪我はしてないよ。けど……」

 

 こちらとあちらも音声は届いているようだ。だが依然として状況は最悪。

 全員捕まってしまった。

 救出しに来たはずの俺たちが、いとも簡単に返り討ちにさせられたのだ。

 

 それに、ビッチ先生の裏切りがショックで、暗い雰囲気が蔓延する。

 

「ここはどこだ?」

「死神のアジトだってことはわかるんだけど……」

「首のやつは?」

「爆弾だそうだよ」

 

 竹林が答えた。

 中学生に爆弾の首輪とは、ずいぶん手が込んでいる。

 

 殺せんせーをおびき出し、殺すための人質……か。

 普久間島で戦った暗殺者たちは、あくまで脅しのために食中毒菌を撒いたが、『死神』は躊躇なく爆破するだろう。

 

 奥の手はあったが、使わせてもらえないまま気絶させられたのが痛い。

 

「もう目を覚ましたかい?」

 

 開かれて、俺はびくりと反応してしまった。

 いつの間にか、『死神』が部屋の中に入ってきていた。

 黒いオーラは抑えられて、警戒しづらい花屋の青年の笑顔を貼り付けている。

 

「やあ、起きるのが早いね、流石だ」

 

 にこりと笑う『死神』。

 

「俺たちを殺しはしないんだな」

「今はね。人質として使って、君たちの先生もろとも犠牲になってもらう」

「だったら、なんで俺だけ別で捕まえてるんだ」

 

 人質は多ければ多いほどいい。それだけ脅しの手段が増える。

 

 例えばこれが、複数人を小分けして別の檻に閉じ込めているとかならわかる。救出しづらい場面を作れるからだ。

 

 だがE組の中で、俺だけが別の扱いをされている理由がわからない。

 身動きをできなくされてるが、ただの鉄の輪で行動を制限されているだけで、爆弾をしかけられているわけでもなし。

 

「君のことを少し調べさせてもらったよ、國枝響くん」

 

 こともなげに、『死神』はそう言った。

 

「成績は優秀なようだね。特に国語に関しては、同じ学年の中でも一、二位を争う実力……だけど突然成績が落ちたようだね。こんなに成績が良い國枝くんがなぜE組に落ちたのかな。特進クラスに行けるほどだったじゃないか」

「お前はわざわざそんなことを調べたのか?」

「ちょっとした暇つぶし。君たちも一緒に考えようよ、なんで國枝くんがE組に落ちたのか、知らないでしょ?」

 

 この話にどんな意図があるのかまったく見えない。

 俺がE組になった経緯なんて、こいつには関係ないはずだ。

 

 なのに、クイズショーの司会のように大仰に手を広げて、モニターの向こうにも問いかける。

 何か言い返そうとした寺坂を、カルマが制した。

 

 ここは従っておくほうが賢明だ。

 逆らったら何をされるかわからないし、話を続ければそれだけ時間を稼げる。

 烏間先生か殺せんせーが異変を察知するのを待つしかない。

 

「自分から落ちたんでしょ」

 

 ゆっくり、たっぷりと考えるふりをして、カルマが口を開いた。

 

「E組に落ちる原因だった二年最後の期末テスト……それ以外のテストじゃ、國枝は五英傑並の点数を取れてた」

 

 全員に理解させるように、これまたゆっくりと説明をする。

 

「それなのにがっくりと落ちるなんて、自分から悪い点数を取りにいったとしか思えない」

「うん、正解。それじゃ、そこから先は僕が説明しよう」

 

 全てがわかっているふうに、『死神』は答えた。

 

「『貌なし』はすでにそれより前からいたんだ。それは過去のニュースを追っていけばわかる。今と同じように、クラスの子を守るためだったんだろね。その時一緒だった……例えば浅野学秀くんとか……」

 

 当時からすでに頭の良かった浅野や五英傑は、何かと俺を気にかけてくれた。先生だって褒めてくれた。

 だから少しでも彼らが平穏に過ごせるように、彼らと一緒に過ごせるように頑張った。

 

 俺が『貌なし』として働いてたのは、居場所が欲しかったからだ。自分がそこにいていいと思うために、役に立っていると自分に言い聞かせるために、自分にできることをしていた。

 だけど一番認めてほしかった浅野には、どこまでいっても駒としてしか見られなかった。

 常に上を目指し、突出した能力と向上心がある彼に憧れがあった。友人として見てほしかった。が、浅野にとって椚ヶ丘中学の生徒は……いや先生に至るまで、彼の駒でしかない。

 

 そのことに落胆して、俺はそこから逃げた。逃げて、新しい場所を求めた。

 俺が浅野を見なくて済むように、浅野が俺に興味をなくすような場所……それはE組しかない。

 だからわざと成績を落とし、救済措置も拒否して落ちた。

 

「それがE組に落ちた顛末……で合ってるかな?」

 

 こいつ……どこまで調べてるんだ。

 俺が『貌なし』だってことは律をハッキングした時に知ったに違いない。だが当時の成績や浅野のことまで調べつくして、ほぼ真実と変わらないところまでたどり着くなんて。

 俺が気絶して目を覚ますまで、そう時間はなかったはずだ。

 

 これが『死神』の技能……

 

「そこで君は新しい居場所を見つけて、そこを守るために『貌なし』を続けた。差別的に扱われているところだから、危険は格段に増えて、そのぶん君は傷ついたってわけだ。特にこの半年は殺せんせー周りのこともあったしね」

 

 こいつ……去年のことじゃなくて、今年のことまで……殺せんせー周りのことは最高レベルの機密のはずなのに。

 肯定する代わりに、『死神』を睨みつけた。

 

「……これで満足か?」

「いいや。ここで話は『貌なしはどうして人を殺さないのか』に飛ぶんだけどね」

 

 彼はしゃがんで、俺と視線の高さを合わせた。

 

「人を殺すのって、技術的にはそんなに難しくないんだ。道具を使って殴り続ければ、簡単に殺せる。そりゃ、最初は怖いだろうけどね。だけど、その一線を越えてしまうくらいの怒りは感じたことがあるはずだよ。友達を誘拐した不良だとか、仲間を殺しかけた元軍人だとかに」

 

 覚えはある。

 夏休み最後の日、教室で鷹岡と対峙したとき、警棒で命を削っていくようなあの感覚。

 あれ以上続けていれば、奴を殺すことは出来た。

 

「それでも君は殺さなかった」

 

 どうせ逃げ場はない。

 仕方なく、俺は自分の感情を吐露した。

 

「一線を越えれば、もう戻ってこられない。殺人に対して言い訳をするようになって、躊躇がなくなって、最後は……」

 

 人を簡単に殺せてしまうようになる。あの『蟷螂』のように。

 

「そうなってしまえば、俺はどこにもいれなくなる。仲間でさえ、ちょっとしたことで手をかけてしまうかもしれない。そんなことをしそうな自分が怖いんだ」

 

 孤独は人を強くする。同時に、人を脆くする。『蟷螂』にちょっと言われたくらいでアイデンティティが崩壊してしまうくらいに。

 折れやすかった俺の心は、人を殺さないことでなんとか保たれていたのだ。

 殺せんせーでさえ殺そうとしなかったのは、心の平穏のためだった。

 

 俺の言葉に満足したのか、『死神』はふふふと笑った。

 

「さて、本題に入ろう。君の経験からすれば、人を殺していても不思議じゃないんだ。だけど君は自分で引いた一線を絶対に越えない。その精神力を保っていられることに興味があるんだ」

 

 背筋がぞっとするような冷徹な笑みを浮かべて、『死神』が俺の頭を掴んだ。



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67 地獄

 俺の過去を暴いて、それすら本題ではないと言った『死神』は、俺の精神力に興味があると言った。

 どういうことだと訊く前に、『死神』は言葉を続ける。

 

「僕はね、君のことを買ってるんだ。その固い精神力は、一朝一夕で身に着けられるものじゃない。傷つけられても倒れようとしない身体もね」

 

 丈夫であることは認めよう。だが、実際は何度も倒れて気絶したことがある。俺はお前の言うような、大した男じゃない。

 

「うーん、ただ痛めつけるだけじゃ、君のタフさは証明できないから、ルールを決めよう」

「ルール?」

「うん、僕が今から君に拷問をする。君がE組の誰かの名前を言えばやめてあげよう」

 

 反吐が出そうな、クソみたいなルールだ。

 それを遊びのように言ってみせる死神に、俺は怒りを覚えた。

 

「もし名前を言ったら?」

「その子を殺す」

 

 背筋が凍った。

 死神の表情に乱れはない。本気で言っている。

 

「僕が試したいのは君の精神力だ。どれだけ虐めれば君が音を上げるのか、とても興味がある」

 

 死神は、作りものの笑顔じゃなく、底知れない歪みを顔いっぱいに広げる。

 彼はしゃがんで視線を合わせると、水の張ってあるバケツを目の前に置いた。

 

「暗殺者と軍人、それと殺人鬼に瀕死に追い込まれて、それでも諦めない君のメンタルは中学生にしては驚異的だ。精神的超人といってもいい」

 

 乱暴に髪を掴まれる。

 抵抗のできない俺は、これから起こることに対して、ただ心を構えるだけしかできない。

 

「それが崩れるのはどんな時か、見てみたいんだ」

 

 戦うことで傷つけられるのは何度もあり、覚悟していたことだが、こうやって一方的に虐め抜かれるのは初めてだ。

 

 果たして俺は耐えることができるのか。いや、耐えなければいけない。

 俺が折れてしまえば、他の誰かが死んでしまう。

 

 突然、水に顔をつっこまれた。

 いきなりのことに、肺の中の空気が一気に吐き出された。

 急激に苦しくなって、ついに残ったわずかな空気を吐いてしまう。そこからは、胸が圧迫されるようにじわじわと苦しみが増していく。

 

 苦しみが強くなるにつれ、視界が狭まっていく。三十秒が過ぎたころ、上半身が痙攣しているかのように反射的に動く、陸に揚げられた魚のごとく、びくびくと身体が跳ねる。

 迫りくる死から逃れようと、生存本能が働いている。しかしそれが続いたのも数秒。

 すぐに力が抜け、目の前も黒く染まっていく。すると、死神は掴んでいた俺の頭を引っ張り上げた。

 

 深海から急速に引き上げられたように、沈みかけた意識が浮上する。そこには助かったという希望はなく、ただただ必死にあえいで空気を求めた。

 攻撃を受けた腹や喉が呼吸のたびに痛むが、そんなことは言ってられない。

 獣のように荒く息を吸い、吐く。いつもやっている当たり前の行動に、これ以上ない生を感じた。

 

 脳の機能が戻ってきたタイミングで、もう一度死神は同じことを繰り返した。

 無駄だとわかっても、全身を動かさずにはいられなかった。全身がびくびくとのたうち回り、この状況から逃れようとする。抵抗もむなしく、死神が俺の頭を抑えつける。

 必死の咆哮も、水の中で消え去って誰にも聞こえない。 

 死が迫ってきた瞬間、またしても顔が上げられた。

 

「げほっ、げほっ、が、っはぁ……」

 

 酸素を欲しがる肺に喉がついてこれず、咳き込んでしまう。

 

「さ、犠牲にしたい子の名前をどうぞ」

 

 拷問をしている人間の顔じゃない。

 先ほどと変わらず笑みを張り付けた顔は、醜悪しか感じられない。

 

「こと……わる」

 

 死に引っ張られていっている俺には、それしか言えなかった。 

 

「やめろ、もうやめろよ! もういいだろ!」

「少し休憩しようか。君を気絶させたいわけじゃないしね」

 

 磯貝を無視して、死神はぐったりとうなだれる俺の肩に足を置き、力を込めて柱に叩きつける。

 濡れた髪からぼたぼたと滴る水滴が、超体育着に落ちる。それに関してぼうっと見つめることしかできないほど憔悴していた。

 

 どれだけ傷ついても負けを認めなかった俺が、いまのたった数分で限界まで追いつめられている。

 息の荒いままの俺に、死神は顔を近づけた。

 

「どうかな。本当に言わない気?」

「言うわけ、ないだろ」

「どうして? このままじゃ、君はずっとつらいままだ」

「つらいだけなら、俺が我慢すればいい」

「もしかして死んじゃうかも。人質はたくさんいるんだ。一人死んだくらいじゃ、何も変わらない」

「変わる。変わるんだよ。だから俺は誰の名前も言わない。言えるはずがない」

「そうかな。意外とそうでもないかもね。もしかしたら、君は君が思ってるより自分が大事なのかもしれないよ。人間なんてそんなものさ。自分が生きるために、結局他の人間を投げ捨てることになる」

 

 違う。こいつは何もわかってない。

 俺たちがそんな人間なら、わざわざビッチ先生を助けになんか来ない。

 

「勝手なこと言わないで! 國枝くんのこと、なんにも知らないくせに!」

 

 不破が、モニターの向こうから声を発する。

 そうだ、言ってやれ。

 

「黙れ」

 

 だが、死神の威圧感に気圧され、あちらは黙ってしまった。

 無理もない。俺だって総毛だったくらいに、恐ろしい雰囲気を漂わせはじめたのだから。

 

「いま、僕は國枝くんと話してるんだ。彼の命は僕の掌の上ってこと、忘れないでほしいな」

 

 その言葉に、みんなは完全に黙り込んでしまった。

 何か言うのは自由。だが、彼の機嫌を損ねてしまえば目の前の俺が殺されてしまうかもしれない。

 そんな不安が心の中に撒かれた。

 

「ずいぶん慕われてるようだね。みんな、君のことを心配してる。僕がこの後どうするかハラハラしながら見てる」

 

 絶対的優位な立場の死神は、再び悪魔のような笑顔になると、こちらに向き直った。

 

「ああ、そうだ。さっきの女の子を同じ目に遭わせたら、少しは君の反応も変わるかな」

「ふざけんな! 不破に手ぇ出したら絶対に許さんぞ!」

「冗談だよ、冗談。いま僕が興味あるのは君だけ。さあ、元気が出てきたようだし、休憩は終わりにしようか」

 

 死神はそう言うなり、懐から何かを取り出した。バチバチと音を上げる何かを手に持っている。

 髪から落ちる水が目に入り、ぼやけるせいでよく見えない。だが、その放電の音は何度か聞いたことがある。

 

 スタンガンだ。だが俺たちが持ってきたのとは違う。もっとごつい。

 先から迸る電流を見ただけで、市販のものより強力に改造されていることがわかった。

 

「第二ラウンドといこう」

 

 覚悟する暇も与えられず、スタンガンが押し付けられる。

 直後、身体が燃え出したのかと錯覚した。 

 殴られたり、ナイフで切りつけられたりするのとはまったく違う。全身が熱された針で刺される感覚が続く。肉が、骨が、血管が、細胞が破裂しているかのようだ。

 頭の先から足のつま先まで弾けたみたいに、感覚が失われていき、代わりに激痛が増していく。

 

 一瞬の暗転、そして照明の光が目に突き刺さる。脳が発火して、死神に対する怒りや憎しみが数舜消し飛ぶ。

 ほんの少し気絶したことに気付いて、止まっていた呼吸を復活させる。

 

 目から涙が零れ、口からは涎が漏れる。息をするたび、焦げついた煙を吐いているような気がする。

 まるで全身の皮膚が剥がされ、剥き出しの筋肉が晒されているようだ。

 こうやって金属ポールにもたれているだけでも、敏感になった肌に擦れる衣服と空気が襲い掛かってくる。

 

 生存の限界。そのぎりぎりの淵に立たされ、あと一歩のところで引き戻される。

 殺人を行うためには、人体のどこをどうすれば、いつまでやれば死んでしまうかを知る必要がある。

 殺しのプロは、逆に殺さないプロになることもできるのだ。

 

 『死神』は技術を極めている。間違えて殺しちゃいました、なんてことはないだろうが、安心できる要素は一つもない。

 俺が折れない限り、この悪趣味な拷問は続くだろう。

 

「さあどうかな。名前を言う気になった? あ、もしかして麻痺して喋れない?」

 

 にこにことした顔のまま、『死神』が問うてくる。

 ばらばらに千切れたような身体の感覚を取り戻しつつ、俺は彼を睨みつけた。

 

「みんなで帰ると約束した」

 

 口を開けるのがこんなにも大変なことだとは、今まで思わなかった。

 

「誰も殺させない。俺も死なない。30人で、またE組に帰る」

 

 この施設に入る前に、みんなと交わした約束。

 その中には、29人いるE組の生徒だけじゃなく、もちろんビッチ先生も含まれている。

 崩れてしまった関係をまたもとに戻して、みんなでまた日常へ戻る。

 意地が、俺を死なせることを許さない。

 

 その返答に満足か不満か、両方の感情を秘めた『死神』はまた電撃を流してくる。

 

 悲鳴は上がらなかった。いや上げられなかった。

 目は開いているが何も見えてはいない。口は開いているが何も発することはできない。

 身体は確かに存在しているのに、どれ一つとして思うように動かせることができない。

 この後しっかり機能するかも怪しい。それどころか、『この後』があるのかどうかも……

 

 電撃は痛覚を司る神経を一つも逃さず、その全てを刺激する。その刺激は脳を支配し、他を追い出す。

 許容量を超えた痛みだけが生きている証拠だった。いや、もしかしたらここはすでに地獄か。繰り返しループする悪夢に囚われているのか。

 助けを求める言葉すらも出すことを阻まれる。

 

「嫌……いやああああ! お願いやめてええ!!」

「『死神』ィ! やるなら俺にしやがれ!」

 

 代わりにモニターの向こうの矢田や寺坂が檻を掴んだまま叫ぶ。他にも数人の訴えが聞こえた。

 対して俺は電流が止まっても声は出せず、ひゅうひゅうと細い息だけが喉から漏れる。

 

「だってさ、せっかくの申し出だ。どうする、國枝くん?」

 

 力を振り絞って、首を横に振る。意思表示はそれだけでいいはずだ。

 

 そしてまたしても、地獄は始まった。

 足が小刻みに痙攣し、口は塞がらない。もはや、身体中のどこもかしこもが俺の意思と反して動いている。

 苦痛から逃れようと、上半身が反っていく。そのせいで輪が引っ張られ、首を圧迫する。声も息も許されないほど絞まっているのに、それが止められない。

 さらに首の動きの勢いが増して、がんがんとポールに頭をぶつける。

 

 自分でも何をやっているのかわからなかった。

 おかしくなりそうだという恐怖すら霧散している。もしかしたら、もうおかしくなっているのかも。

 

 視界は真っ白と真っ黒を繰り返して、時間と空間が曖昧になる。

 鋭敏に突き刺さってくる痛覚だけが、俺の世界のすべてになっていた。

 

 もう無理だ。無理、無理、無理。死んでしまう。こんなところで、地獄を感じたまま、こと切れてしまう。

 

「『死神』! 私が、私が代わりに拷問受ける! だからやめて! 國枝くんを助けて!」

 

 無限に続くかと思われた暴力は止まった。

 視界が急に色づき、拷問が一旦ストップしたことを感じ取る。 

 

 とっくに限界なんて超えていた。俺の身体は生きることにのみ集中しては乱される。心臓すら不規則に鼓動していた。

 崖の淵に、小指一本でぶらさがっている気分だ。死を身近に感じながら、気力のみで意識を支えている。

 

 みんなが口々に何か叫んでいるが、言葉が耳に届いても意味が理解できなかった。

 

「さっきの、えーと、不破優月ちゃんだったかな。それに寺坂くんも、赤羽くんも、磯貝くんも……これを見せられて、自分が受けるなんてよく言えるね」

 

 なぜか『死神』の声だけが鮮明に聞こえる。脳に直接響かせているみたいに、言葉を流し込んでくる。

 

「國枝くん。今なら誰の名前を言っても恨まれないよ。これだけ苦しいんだ。逃げたくて当然、負けて当然なんだ」

 

 死神は俺の言葉を待った。誰かの名前を言うのを。俺が負けを認めることを。

 俺はうつむいたまま力なく首を振る。怯えながら、拒絶の意思を示す。

 

「どうしてそこまでするんだ」

 

 お前にはわからんさ。絶対にわかるわけがない。どこまでも独りのお前には辿りつけない。

 誰に認められるでもないお前には……

 

 

 帰れば、時々涙することがある。

 暗くて静寂。誰も使っていないような綺麗に片づけられた家は、どこよりも孤独を感じさせてきて、蓋をしていた寂しさを一瞬で溢れさせる。

 よく外に出るのは、『貌なし』として活動するだけが目的じゃない。家にいる時間を少しでも減らすためだ。

 とにかく、追ってくる空虚から逃げ続けた。マスクをしていないときは勉強に、しているときは暴力にのめりこんだ。

 

 一人で生きられるように、一人で生きていることから目を背けるために。

 でも一人で生きたいわけじゃない。

 本当は普通が欲しかっただけだ。親子の普通の関係と、普通の会話、普通の触れ合い。

 どんな他愛のない話でもいい。なんなら、天気のことを話すだけでもいい。

 たった一言だけ欲しかっただけだ。

 

 返ってきた言葉はない。

 わがままだったのか。俺が何かを求めることが、そんなに悪いことなのか。

 期待したから、裏切られたと感じる。持っていなかったものを失った気分になって、嫌な気分を味わう。

 だから、誰も頼らず、助けを求めることもしなかった。

 

 俺の居場所はない。なら、俺はどこにいればいいんだ。

 それに対する答えを、E組のみんなはいとも簡単に出してくれた。

 不破は俺が話すのを待ってくれて、真実を知っても変わりなく接してくれた。

 みんな同じく、俺が『貌なし』だったなんてどうでもいいというふうに、『國枝響』を親友として迎えてくれた。

 

 居場所はある。俺の居場所が、E組に。

 

 今度は、俺が居場所を作る番だ。

 ひたすらに孤独で、プロの殺し屋であるイリーナ・イェラビッチ。

 その彼女に、中学校の先生であり、一人の大人であり、E組の友人としていられる場所があることを突きつけてやる。必要なら殴ってでも、引きずってでも連れ戻してやる。

 

 何が『プロの殺し屋』だ。何が『死神は理解してくれた』だ。

 孤独感を抱いたタイミングで死神に唆され、利用されているだけに過ぎない。

 俺たちにとってあんたは無駄にエロくて、抜けてて、烏間先生を引っかけようとしたら逆に無様を晒す、努力家で、何気に生徒思いで、俺たちのためならぱっと前に出られる、最高の先生だ。

 こんなところで、こんなことで咎を背負っていい人じゃない。

 

 

 冷水をぶっかけられ、強制的に意識を覚まされる。

 水責めに使っていたバケツの中身を、死神が浴びせてきたのだ。

 

 いつの間に意識を失っていたのか。

 何分、何時間眠っていただろうか。もしかしたら、さっきの一瞬後かもしれない。

 感覚が完全に狂っていた。

 

「お願い……もう、もういいでしょ。お願い……」

 

 もう誰が言っているのかもわからなくなっていた。

 声は耳に届いているのに、それの主が男か女かもわからない。

 五感はぼんやりして、痛覚だけが鋭敏になっていた。

 

「ほらほら、E組のみんなもあんなことを言ってるよ」

「なら、やめてくれ」

「じゃあ誰を犠牲にする?」

 

 あくまで、やめるときは俺がみんなの中から一人を選んだ時か。

 

 沈黙。

 誰を殺すか考えているわけじゃない。誰のことも言わないためだ。

 口を開けば弱音を吐きそうで、泣き出してしまいそうだ。そうなれば感情の堰は切れてしまい、思わずみんなのことを呼んでしまう。

 開いてしまいそうな口を、下唇を噛んで抑える。

 

 涙と汗、それとぶっかけられた水が際限なく垂れ、冷たい床に染みを作る。

 倒れてしまいたかった。このまま意識を失って、何日も寝て、これがタチの悪い悪夢だと思いたかった。

 しかしこれは現実で、鎖と輪のせいで床に伏せる姿勢すらできない。

 

 地獄。ひたすら続く地獄。俺はできるのは、ここで耐えることだけ。

 その絶望の世界で、俺は二つの希望を持っていた。

 

 一つは、死神より上に立っているということ。

 彼の恐るべき数の技術は、殺しやそれに準じたものだ。どれも高水準。俺じゃ歯が立たない。

 

 だが、この場では、この拷問の場では、奴は俺に勝てていない。

 精神は鍛えたくても、そう簡単には鍛えられない。死神が俺に目を付けたのはそこだ。

 死神が持っていないものを、俺が持っている。

 自分の技術が通用しない場があり、自分の技術が通用しない相手がいることを、内心で喜びつつ恐れている。

 俺が負けを認めない限り、勝っているのは俺だ。

 その優位性が俺を繋ぎとめる。

 

 二つ目は……

 

「……なぜだ?」

 

 初めて聞く、『死神』のきょとんとした声。

 それは俺でもなく、捕らわれているみんなでもなく、別のモニターに向けられていた。

 

 そこに映っていたのは、殺せんせーと烏間先生。

 E組の教師たちだ。



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68 声を聴かせて

「おかしいな。気づくならもっと後だと思っていたんだけど……」

 

 殺せんせーと烏間先生がこの建物のすぐそばまで来ているのを見て訝しむ『死神』に対して、俺はしてやったりと笑みを浮かべる。

 

 放課後、学校に一人もいないというのはE組にとっては妙な状況だ。

 それに烏間先生が気付いて、そこから殺せんせーと繋がれば、匂いを辿ってここに来てくれるだろうと踏んでいた。

 予想よりも早めだったのは、殺せんせーも異変に気付いたからだろうか。

 とにかく、状況は一変。

 

 『死神』は数秒考えた後、部屋から出ていった。

 

 そしてそれから間もなく、建物の中に入ってきた二人の前に、『死神』は姿を現した。ビッチ先生を人質にしながら。

 

 まずいぞ。あの二人は、ビッチ先生が『死神』の手に落ちたのを知らない。

 ここからじゃ声も届かないみたいだし……

 

「お前……この前の花屋か? お前が首謀者か」

「そう。聞いたことはあるかい、『死神』の名を?」

 

 烏間先生も彼と会っていたようで、冷や汗を垂らす。

 会っていたというよりは、『死神』が会いに行っていたというほうが正しいだろう。情報収集のために近づいたに違いない。

 

「生徒たちもここのどこかに?」

「そうだよ、殺せんせー。君さえ死ねば、この娘も生徒たちも殺しゃしないよ」

 

 『死神』はビッチ先生を床に下ろした。ぐったりと倒れた彼女は、本当に気絶しているように見える。

 

「彼女と生徒全員の首に爆弾を着けた。僕の合図一つで爆破できる」

「ずいぶんと強引ですねえ」

 

 と言いながら、殺せんせーは周りに気を配っている。

 『死神』以外の敵はいないか、罠が張られていないか、殺意を持った者はいないか。

 

 しかし、その注意網の隙を縫って、極小の銃弾が放たれた。

 殺せんせーの触手一本の先がどろりと溶ける。

 

「な……」

 

 手錠に偽装した、対先生弾発射機。放ったのはビッチ先生だ。

 間髪入れず、ビッチ先生はもう一方の手に握っていたスイッチを押す。

 殺せんせーの足場がパカっと開いた。落とし穴だ。

 

 急激な環境の変化には、殺せんせーは反応が鈍くなる。

 それ自体は殺気を孕んだ行為じゃないからだ。そして素早く考えられるからこそ、反射が遅れる。

 

 殺せんせーは急いで触手を伸ばす。一瞬でも淵に手をかけられれば這い上がれるが……

 その手を、何かが弾いた。もう一度伸ばしても、的確に阻まれる。

 

 それをしているのは、もちろん『死神』だ。

 銃による精密な射撃で、次々とうねる触手を邪魔する。

 

 殺せんせーは最高速度マッハ二十で動ける。だがその初速自体は俺でも目で追える。

 見切って銃撃するのはさすがの技能としか言いようがないが。

 

 撃っているのは対殺せんせー弾じゃなく、普通の銃弾。

 特殊弾を使って、万が一にでも頭や心臓に狙いをつけようものなら、ぱっと避けられて即座に逃げられてしまう。

 だから、『死神』は落とすことのみに集中した。

 

 その作戦は成功して、殺せんせーはあっけなく穴の底……みんなが捕らえられているところと同じ場所へ落ちる。

 あっけなく殺せんせーが捕らえられたことに、俺たちは驚愕する。烏間先生でさえも唖然としていた。

 

 こともなげに、『死神』はビッチ先生を伴って檻の前へと移動する。烏間先生も追って、後に続く。

 

「気に入ってくれたかな、殺せんせー。君が最期を迎える場所だ」

「ここは?」

「洪水対策で国が作った放水路さ。密かにアジトと繋げておいた。地上にある操作室から指示を出せば、近くの川から毎秒二百トンの水が流れ込んでくる」

 

 いくら殺せんせーといえども、それほどの圧には耐えられない。

 身体は押し出され、檻に押し付けられる。となれば、あの鉄格子は対先生物質を混ぜ込まれているということだ。

 

「待て! 生徒たちも殺す気か!?」

「当然。生徒と一緒に閉じ込めたのも計画のうちさ。乱暴に脱出しようとすれば、ひ弱な子供が巻き添えになる」

 

 殺せんせーなら壁を破壊するくらいは出来る。だがそのためには、音速を超えて何度も壁に激突したりする必要がある。そうすれば衝撃波でみんなの身体が傷ついてしまう。

 先生にそれは出来ない。最後の手段として取っておくほかないのだ。

 

「……一人足りないぞ」

「ああ、あそこだよ」

 

 俺がいないことを訝しんだ烏間先生に、『死神』は壁のモニターを指差す。

 

「國枝くん!」

「あれは僕の趣味。だけどいいだろう? どっちにしても、ここにいる生徒たちは殺せんせーと一緒に死ぬんだから」

 

 何かしら言葉を発したかったが、まったく力が入らない。

 顔を上げることすら叶わず、意識を保つことしかできない。

 

「さ、行こうイリーナ。水を流してこのタコを殺す。その後の國枝くんの様子も見たいしね」

 

 早速、最後の行動に移ろうとする『死神』。

 それを許せば、みんな死んで、殺せんせーも死んで、全部全部無駄になる。

 

 ここまでか……? なんて考えは、微塵も浮かばなかった。

 

 烏間先生ががしっと『死神』の肩を掴んだ。

 その手を見て、『死神』は不思議そうに振り返る。

 

「今、俺の意見は日本政府の見解だ」

 

 笑顔を貼り付けたままの『死神』に、烏間先生は裏拳をかました。

 

「そして、俺は教師だ。大切な生徒をこんな目に遭わせたお前を許す気は一切ない」

「……ふん」

 

 死神が逃げる。邪魔される前に放水を始める気だ。

 させまいと、烏間先生が追う。

 

 二人の音が聞こえなくなって、いまどうなっているかはわからない。

 けど、俺の心はすっかり癒えていた。

 ああ、やっぱり助けに来てくれた。約束を守ってくれた。張り詰めていた緊張の糸が切れ、安堵に変わる。

 

「岡島、そっちはどうだ?」

 

 あちらでは、ただ待つだけでなく動き始めた。

 三村が岡島に何かを調べさせてるみたいだ。

 

「強めの魚眼だな。モニターを見る限り補正もしてないみたいだし、画面の端のほうは大きく歪んで見えづらい」

「よし、だったら上手くいきそうだ」

 

 どうやら『死神』を出し抜くための策を思いついたみたいだ。

 首輪も、乱暴に外しても問題ないものだと堀部が看破して、手錠と一緒に殺せんせーが外していく。

 

 三村は地味目だが、人の目を注目させる、あるいは欺くことにかけては何気に優秀。それに慎重かつ大胆。

 その彼が先導になってやってくれる作戦なら成功するだろう。

 烏間先生が負けることはないだろうし、きっとなんとかなる。

 

 しかし、向こうは妙にざわついていた。

 

「國枝……大丈夫だよな?」

「うそ……嘘、だよね? 死んでないよね?」

「國枝くん!」

 

 あちらの様子はあまり鮮明ではなかった。逆もまたしかり。うなだれた俺の姿しか見えないだろう。

 身体は動かせず、浅い呼吸しか出来ないのもよく見えていないのかもしれない。

 

「お前笑ってたじゃねえか! 何も心配いらないって言ってたじゃねえか! あんときのは嘘だったのかよ、ふざけんな!」

 

 返事したいのはやまやまだが、そう怒鳴られても動けないものは動けない。少しだけでも身をずらそうとするが、他人の身体かのように全く言うことを聞いてくれない。

 

「あ……あ……私が、私のせいで……わた、しが、國枝くんについてきてほしいって言ったから……」

 

 震えて、絶望した声。

 不破は罪悪感を感じて鉄格子を揺する。壊せるはずがないのに、曲げられるはずもないのに、それをわかっているはずなのに、掴んで叩く。

 届かないモニターの向こうへ、どうやっても触れられない俺に手を伸ばす。

 

「國枝くんが私たちのためならいくらでも傷つくって、知ってたはずなのに……」

 

 不破が檻を叩く。叩く。叩く。怒りと悔しさをどれだけ放っても、金属の檻は傷一つつかなかった。

 それでもなお、彼女は叩き続ける。歯を食いしばって、涙を流して、力の限り叫んで。

 

「嫌だ! やだよぉ! 國枝くん、起きて起きて! お願い、お願い、立って、立ってよ!」

 

 堰が切れ、溢れだした感情がぶつかってくる。それに応えたくてもできない。

 女子数人でやっと彼女を檻から離す。それでもまだ諦めきれず、不破はじたばたと暴れた。

 

「不破ちゃん、残念だけど今は何も……」

「嫌! こんなところでじっとしてるなんてできない! あそこに行かなきゃいけないの!」

 

 悲愴な声は次第に小さく、細くなっていく。

 

「お願い離して……まだ一緒に話したいこととか、やりたいことがたくさんあるの……こんなところが最後なんて嫌だよ……」

 

 震える声のあと、不破はもう何も言えずに黙り込んだ。 

 

「國枝、おい國枝! てめえ生きてんだろ! 返事しろ!」

 

 悲愴に満ちた沈黙を破ったのは、寺坂の声だ。

 生きてる。生きてるよ。

 それだけのことも言えず、顔も上げられず、麻痺した臓器と喉で精いっぱいの呼吸を繰り返して生きるのに必死になっていた。

 軽口でも言えれば、安心させられるだろうに。

 

「酷いよ……こんなの酷すぎる」 

「國枝が……」

 

 ガン、と派手な音がした。

 

「國枝がなんだって? その後の言葉次第じゃ、てめえぶん殴るぞ!」

 

 音と声だけの判断だが、寺坂が菅谷を壁に押し付けたようだ。

 先ほどの菅谷の言葉の先は、なんとなく察せられる。一切動かないように見える俺を見れば、誰だって同じ考えが頭をよぎるだろう。

 それを認めたくなくて、寺坂は続きを止めた。

 口に出してしまえば現実になってしまいそうで、怖いのだ。

 

「……さか」

「あいつは強ぇんだ! あんなクソみたいな奴に負けるはずがねえ。負けるはずが、ねえんだよ……」

 

 俺が振り絞った声は、小さすぎて届かない。

 生きているのにそれを伝えられないせいで、あそこにいるみんなはどんどん追い詰められていく。

 

「やめろ、寺坂……」

 

 部屋隅の埃程度しか残っていない体力をかき集めて、精いっぱいの声を出す。

 焼かれたように熱い内臓を奮い立たせて、生を伝えようとする。

 

「くに……えだ、くん?」

「なんだって、渚?」

「いま、國枝くんの声が聞こえたんだ」

「本当か!?」

 

 渚が気づいたのをきっかけに、向こうが騒ぎ出す。

 全員が俺の名前を呼んで、必死に届かせようとしてくる。

 

「黙ってっ!! 國枝くんの声が聞こえないでしょ!!」

 

 叫んだのは、殺せんせーでも寺坂でもなく、意気消沈していた不破だった。

 しん、と静まり返った空間に、震える不破の声だけが響いた。

 

「國枝くん。お願い、声を聴かせて」

 

 その声の震えはどんどん増して、小さくなっていく。彼女もまた、振り払いたい疑念に囚われているのだ。

 それでも呼びかけるのは、信じたいから。信じているから。

 國枝響が生きていることに安心して、一緒に帰れることに希望を持ちたいから。

 

「お願い。お願いだから……一言だけでいいから……」

 

 さっきの寺坂への呼びかけで全て使い切ってしまったと思っていたのに、不破の声を聞くと不思議と力が湧いてくる。

 俺はもう一度だけ口を開いた。

 

 大丈夫だ。それよりも自分たちの心配をしろ。

 

 そう言ったはずだが、うめき声にしかならない。

 それでもみんなのほうにはちゃんと届いたみたいで、にわかに活気づく。

 

「生きてる……生きてるぞ!」

「國枝が生きてる!」

 

 みんながわっとなって喜ぶ。飛び跳ねているやつもいるみたいだ。

 捕らえられているってのに、もうすぐで死ぬかもしれないってのに、のんきなやつらめ。

 

「よかった。よかったぁ」

 

 よりいっそう震えた声と鼻をすする音。

 歓喜するみんなの中で、不破の声はやたらと鮮明に聞こえた。

 

「國枝くん。絶対に先生たちが助けます。それまで持ちこたえてください!」

 

 絶対に、か。

 そんなこと言って大丈夫か、殺せんせー。あんたも簡単に捕まったくせに。

 心でそう笑いつつ、その言葉を疑う気にはなれなかった。

 E組の先生は、決して生徒を見捨てない。だから、俺のこともきっと助けてくれる。

 俺が拷問を耐えられたのは、その信頼が根底にあったからだ。

 実際そのとおり、烏間先生は殺せんせーを殺す絶好のチャンスを捨ててまで『死神』と戦っている。

 信じてよかった。

 俺の強さと、先生のことを信じられて……本当に……

 本当に……ほん……とうに……

 

 

 海の底にでも沈められたのだろうか。

 何も見えなくて、冷たくて……独りだ。

 

 死んでしまったのか?

 

 あのまま衰弱して、命の灯が消えてしまったのだろうか。

 そんなこと認められるか。まだみんなの無事を確認してない。みんなで一緒に帰るって約束を果たせてない。

 

 生きたい。生きたいんだ。

 みんなとまだまだ一緒にいたいんだ。

 馬鹿やって、勉強もして、残された中学生活をまだまだ楽しみたいんだよ。

 こんなところで死んでられるか!

 

 不意に、身体があたたかいものに包まれる。光が広がる。

 

「國枝くん……國枝くんっ」

 

 耳元で、不破の必死な声が聞こえる。

 ゆっくり目を開くと、みんながそばに立っていた。大きな怪我もなく、欠けることなく、E組全員がそこにいる。

 

 捕らえられていたはずじゃなかったのか?

 そんな疑問は、少しだけ傷ついている烏間先生を見て吹き飛んだ。

 そうか。『死神』を倒せたんだな。

 

 ほっとして、ようやく不破に抱きしめられていることに気が付く。

 

「不破、痛い痛い」

 

 麻痺している口でそれだけ言うと、不破は俺を離して、鼻先が触れそうなくらい近くで顔を見つめてきた。

 

「國枝くん……」

「生きてるよ。ほら、足あるだろ。びりびりして動かないけど」

 

 手錠は外されて、自由の身なのにまだ身体が言うことを聞いてくれない。

 だけどとりあえず生きている。それだけで十分だった。

 

「ったく、どんだけ怪我すりゃ気が済むんだよ」

「泣くくらい心配してたくせに。聞いてよ國枝、こいつここに来るとき涙ぼろぼろ流しながら走ったせいで何度もこけてたんだよ」

「言うなや!」

「はは、は……いつつ……」

 

 思いっきり笑いたいのに、ちょっとですら筋肉が許してくれない。

 

「救急を呼ぼう。すぐに到着するはずだ」

「いいえ、それでは遅い。私がマッハで病院に届けましょう。烏間先生は病院に連絡して、國枝くんをすぐ寝かせられるようにしてください」

「わかった」

 

 すぐさま烏間先生は電話を取り出し、通話を始める。

 

「今回ばかりは絶対安静です。わかりましたね、國枝くん」

「動きたくても動けんよ」

 

 殺せんせーが俺をおぶる。

 一切の負担を感じさせないように、何本もの触手で身体を支えてくれた。

 

 俺が気を失っていた間に起きていたことを聞くと、こういうことらしい。

 烏間先生は『死神』を追い、途中使い捨てさせられるところだったビッチ先生を救出、そして『死神』を倒した。

 俺たちが全員揃っても一蹴されたのに、彼は身一つで切り抜けたらしい。

 

 化け物じみた強靭性は見えていたが、よもやここまでとは。

 そんなわけで、俺たちは全員無事で任務を終えたのだが……

 

「で、ビッチ先生はなに逃げようとしてるんだ」

「げっ」

 

 こっそりと逃げようとするビッチ先生を咎める。

 

「てめー、ビッチ!」

「なに逃げようとしてんだ!」

 

 まだまだ元気な男子陣は、すぐに彼女を捕らえた。

 

「あーもー、好きなようにすりゃいいわ! 裏切ったんだから制裁受けて当然よ! 男子は溜まりまくった日頃の獣欲を、女子は私の美貌への日頃の嫉妬を、思う存分性的な暴力で発散すればいいじゃない!」

「発想が荒んでんなー」

「それ聞いてむしろやりたくなってきたわ」

 

 口々に呆れ声。俺も大きなため息が出るほどだ。

 あんな化け物を相手して、誰も彼もぎゃーぎゃー騒げるくらいに元気なのは、まあいい結果か。

 

「別に罰したくてここに来たわけじゃない」

 

 俺は身体の力を抜いて、殺せんせーの背中に預けた。

 俺たちの目的は最初から一つ。全員で帰ること。E組の校舎へ、一人も欠けることなく戻ること。

 

「帰るぞ、ビッチ先生」



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69 未来はまだ見えないけれど

 朝日が差し込んできて、目が覚める。

 規則的な電子音と、絶え間なく何かを叩く音が聞こえる。それが心電図とキーボードの音だと気づいたのは、自分が寝かされているとわかってから少し経ってからだった。

 

 ああ、そうか。

 『死神』騒動が終わってすぐ、俺は病院に担ぎ込まれてそのまま入院させられたんだった。

 

 烏間先生が用意できるもので、最高のサービスが受けられる病院の一つ。

 ふかふかのベッド、広い個室。綺麗で真っ白な部屋を見れば、質問しなくてもここが病室だとわかる。

 まだ寝ぼけているみたいだ。頭が回っている気がしないし、身体を動かす気力もない。

 

「起きたか」

 

 首をひねると、すぐそこに烏間先生がいた。

 簡素なパイプ椅子に座って、ノートパソコンを開いている。

 

「ぐっすりだったな。もっと寝てもらっていてもよかったが」

 

 彼はパソコンを閉じて、そう続ける。

 

「まだ身体は痛みますけどね」

「しばらくは安静だ。そこのボタンを押せば、ナースが飛んできて世話をしてくれる。なんでも言うといい」

「VIP扱いですか」

「それほどの怪我と功績が君にはある」

 

 そこでようやく彼は安堵のため息をつくと同時に頭を下げた。

 

「すまない。もっと早く駆けつけていれば、君がこんな目に遭う前に助けられたのに」

 

 そんなこと気にしなくていいのに。

 悪いのは『死神』で、烏間先生は手遅れになる前に助けに来てくれたわけなのだから。

 

「そういえば『死神』は? 結局、どうなったかは聞いてませんでしたよね」

「倒して捕らえた。みんなも無事だ。あいつもイリーナも含めてな」

「あなたは?」

「大した怪我はない。少し寝たら治った」

「あいつを相手にしてそれって……化け物じゃないですか」

 

 うーん、流石はE組に配属されるだけはある。

 鷹岡なんて足元にも及ばないレベルだが、まさか『死神』にもあっさり勝っちゃうなんて。

 

 壁にかけられた時計の針の音がやけに大きく聞こえる。十時を少し越えたところ。窓から陽が差しているから、午前だろう。

 

「今は学校の時間では?」

「今の俺は君の監視役だ。君が逃げ出さないように」

「こんな状態で逃げられるわけないでしょう」

「E組の総意だ。なにせ君には前科があるからな」

「拷問が終わったと思ったら、また監視対象ですか……」

 

 しかしこの体制に文句を言う気も起きない。

 死神は痕が残るような暴力は振るってこなかったが、死の一歩手前まで俺を持っていった。そのトラウマは根深く残っている。いま立ててもまともに歩けるかどうかすら怪しい。

 半ば自嘲気味に口角を上げると、烏間先生は怪訝な顔をした。

 

「……君はなぜ、拷問を耐えられたんだ? 話を聞くだけでも、一般人が、それも中学生が耐えられるようなものじゃなかったはずだ」

「必ず、先生たちが助けに来てくれると信じていたからです。先生は生徒を守る。殺せんせーが約束してくれましたから」

 

 死神と相対する無茶をしてみせたのも、その信頼があったからこそだ。

 先生たちが来ない可能性を考慮していたなら、無理やりにでもみんなを止めていただろう。

 

 そして、その通り彼らは来てくれた。

 本当にギリギリだったけど、でも俺を助けてくれたことには変わりない。おかげで、こうやって生きている。

 

「君は強いな」

「あなたたちが……E組のみんながいるからですよ」

 

 

「まだ腫れ引かねーのな。大丈夫任せろ。怪我目立たねーようにメイクしてやるよ。ちょっと顔貸してみ」

「動けないからって看護師にエロいことしたりされたりしてない? え、ないの? つまんないなー」

「なんもないここじゃ溜まっていくだろ、ナニとは言わないけど。俺のベストショットを収めたファイル置いてくから元気出せって、な!」

「どうせ退屈でしょ。珠玉の闇小説を置いていくわ。退院したら感想聞かせて」

「うちのラーメンの改良をしててな。イトナと原のお墨付きだから食ってみ」

「最後の一滴まで飲み干してね」

「どうせ病院食だと足りてないだろう。冷めないうちに食え。おかわりも用意してる」

「寺坂にもメイド喫茶は好評だったんだ。早く國枝を連れていきたいよ」

「い、いや全然ハマってねえけどな。まあなんだ。ただ悪くはない。悪くはなかった。……ってなんだその目は!」

「バナナを食え、バナナを」

「國枝さん、お昼寝の時間です。よく寝てしっかり身体を休めましょう。夜にもしっかり寝られるように、時間を管理して、編集したヒーリング音楽を流します!」

「変化球が投げられるようになったのはいいんだけどさ、捕れる奴がいなくて困ってんだ。また付き合ってくれよな」

「んでさー、職員室覗いたら先生みんなおろおろしてんの。烏間先生なんか休み時間になるたびに病院に電話かけてたし。いやー珍しいもん見れたわー」

「っだーー!!」

 

 俺はついに我慢できなくなって声を上げた。声、というよりもはや叫びである。

 

「なんだお前ら! 毎日毎日ちょっかいかけてきやがって! 回復させたいのかさせたくないのかわからんぞ! 暇か! そんな暇あるなら勉強しろ!」

 

 烏間先生がE組に俺の無事を伝え、面会を認めたらしい。それを知ったみんなは、毎日雪崩のように押し寄せてくる。

 中間テストが終わって、期末テストまでまだ時間があるとはいえ、そんなに何度も来なくていいのに……まあ、嬉しくはあるが。

 

「勉強っつってもねえ……」

「殺せんせーがかなり心配してて、放課後は特に落ち着かない様子なんだ。暗殺にも勉強にも身が入ってないのはあっちだよ」

 

 もともと殺せんせーの観察をしていた渚をして、あれほど沈んでいるのは見たことがないと言わせるほどだ。

 

「……の割には、見舞いにこないな。ビッチ先生も」

「責任感じてるんでしょ。助けるって言ったのに、國枝はこうなっちゃったし」

「ビッチ先生も、表面上は元気だけど……」

「来ないなら俺のほうから出向くって言ったらマッハで飛んでくるだろ」

 

 普通に考えればこの身体で向かうなんて不可能だけど、そう言ってしまえば殺せんせーはパニックになって来るはずだ。

 そっちが動かないなら、俺が無茶をする。この脅しは律には効果てきめんだった。先生ならもっと効くだろう。

 

「んじゃ、また来るよ。今度は菓子でも食わせに」

「バナナ食わせに」

「ラーメン試食させに」

「ケーキは何ホールがいい?」

「この機に太らせる気か?」

 

 一般病室とは離れた個室だから、騒いでも何か言われることはないとはいえ、はしゃぎすぎだ。

 そうは言いつつ、いなくなってしまえば淋しさを覚える自分もいる。

 

 いつの間にか、こんなにこの位置が大切になるなんてな。

 顔を見せない殺せんせーやビッチ先生にも早く会いたいものだ。

 そしてもう一人……

 

「不破、いいかげん姿を見せてくれ」

 

 まだ見舞いに来ていないE組最後の一人の名前を言う。

 扉の外にずっと隠れていた彼女は、びくびくとしながら姿を現した。

 

 ようやく顔を見れて嬉しいが、不破は目を逸らしている。

 

「あの、これ……」

 

 ぎっしりと中身が詰まっている紙袋を三つ渡してきた。

 中身を見ると、なんとこち亀全巻入ってる。これ全部持ってるやつ初めて見た。

 

「はは、ありがたいよ。ここじゃ、なにぶん娯楽が少なくてな」

 

 急な入院だったため、手元にあるのはスマホだけだったし、閲覧履歴が律に監視されてる現状ではちょっと見づらい。別に怪しいものを見ようなんて思ってないけど。

 これだけあれば、暇な時間はなくなるだろう。

 

 受け取ると、不破は何か言いたげに口を開き、やめて閉じるということを何回か繰り返した。

 気まずそうにして、何かを耐えるように裾をぎゅっと掴んでいる。ついには顔を背けて、踵を返した。

 

「それじゃ、私はこれで……」

「待てよ、ちょっと話そう。面会時間はまだ余裕あるだろ」

 

 そう引き留めようとしても……

 

「私には、話すことなんてないから」

 

 なんて言って突き放そうとしてくる。

 

「見破ることは得意なのに、自分を偽るのは苦手みたいだな。お前が言ったんだろ、話したいことがいっぱいあるって」

 

 立ち止まったこと、こちらを見たこと、そしてなにより震える彼女の声が伝えてくる。不破が言っていることと本心がまったく違うことを。

 

 俺はゆっくりとベッドから下りて、不破の前に立つ。

 

「っ……!」

 

 『蟷螂』にやられた直後のように包帯巻きの身体を見て、不破が息を呑んだ。

 そのほとんどが開いた傷口のせいだ。おかげで不破は、血だらけだった俺を思い出してしまう。

 

「怖いのか、俺がこんなんになって」

 

 顔が青ざめて、足が竦んでいる彼女へ近づく。

 不破はわずかに一歩下がったが、それ以上動けなかった。

 

「力になるって決めたのに、『死神』相手に何もできなかったのが悔しいか。それで、俺に失望されるのが怖いのか。拒否されるのが怖いか」

「や、やめて……わたし……やだ……やだよ……」

 

 彼女は身体を震わせて、首を横に振る。

 

 こんな悲しい顔をさせるために頑張ったんじゃない。 

 拷問は死神の趣味で、俺は悪くないのだが、罪悪感が胸を満たす。

 だけど謝罪は置いておいて、思っていたことを口に出す。

 

「馬鹿。そんなことで離してたまるかよ」

 

 不破の手をぎゅっと握る。

 かつて彼女がやってくれたように、抱きとめて、痛いくらいに力を込める。

 しばらくそうやって、震えるのが収まるまで待つ。

 

「一緒にいるって言ったのに、私、何もできなかった。なにも……だから、國枝くんの近くにいる資格なんて……なのになんで、なんで國枝くんは怒ってないの?」

「お前のおかげで勝てたんだ。それなのに恨むとか失望するとか、筋違いにもほどがあるだろ」

 

 即答して、彼女の不安を和らげる。

 

「不破、ありがとう。お前のおかげで諦めずに済んだ。俺のことを理解してくれる奴がいて、本当に心強かった」

 

 不破がいたおかげで、俺は生きている。死神に勝つことができた。

 みんなにまた会えて、こうやって彼女に触れることが出来る。

 そのことが何よりも嬉しかった。

 

 不破はためらいがちに手を伸ばして……俺の背中に手を回した。

 

「痛い、よね?」

「ああ」

「ごめん……でも今はこうさせて」

 

 俺だって離すつもりはなかった。気づけば、不破の震えは収まっていた。

 

「國枝くん……よかった」

 

 背中に回す手の力が強くなる。痛いのは痛いけど……いまはそれが良い。不破のぬくもりを感じられて、生きているという感じがする。

 

 ああ、そうだ。俺は地獄から帰ってきたんだ。

 みんなのところに戻ってきた。E組に。不破の隣に。

 

 

 参考書の理科の問題をガリガリ解いていると、とあるところで詰まってしまった。

 うーむ、苦手科目の受験レベルともなると、簡単には解かせてくれないか。

 

 とはいえなあ……俺は時計をちらりと見た。もうすぐで夜十時になる。

 遅くに奥田に連絡するのは気が引けるし、十時になれば律が寝かせようとしてくる。

 今日はここまでか。

 

 そう思って参考書を閉じようとした瞬間、ページがぱらぱらとめくれた。

 

「ようやくか」

 

 入口に殺せんせーが立っている。

 まったく、どいつもこいつも辛気臭い顔しやがって。しょんぼりとしている殺せんせーを見たら、こっちまで気が滅入りそうだ。

 

「……夜遅くにすみません」

「そんなことより殺せんせー、ここの問題がわかんないんだけど」

 

 手招きして、参考書を指差す。

 

「ど、どこですか?」

「ここ、この化学の問題」

「ずいぶん先まで行ってますねえ」

「今度の期末、理事長はこれくらいやってくるつもりだろうからな」

 

 殺せんせーはいつもの通り、わかりやすく教えてくれた。

 俺も自分なりに納得して、今度は似た問題を手助けなしで解いてみる。すると、それまで悩んでいたのが嘘のように軽く解けた。

 

 その様子を見て、殺せんせーはうんうんと頷いた。

 緊張は解けて、先ほどまでの気まずい雰囲気もなんとなく軽くなった。

 

 参考書を閉じると、彼は口を開いた。

 

「國枝くんを守るなんて言っておきながら、辛い目に遭わせてしまいましたね」

「それで俺があんたを信じられなくなった……と思ってるのか?」

 

 内心笑いそうになるのを抑え、眉間にしわを寄せる。

 

「嫌いになったかもなぁ」

「にゅ、にゅやっ! やっぱり!」

 

 殺せんせーは触手をせわしなく動かし、あたふた感を全身で表す。顔なんていくつにも分身して、六つ首になっているくらいだ。しかもそのどれもが色が違う。器用な動揺の仕方しやがって。

 俺はこらえきれずに噴き出してしまった。

 

「冗談冗談。怒ってなんかないし、あんたを嫌いにもなってないよ」

「本当ですか!? 嘘だったら先生泣きますよ! 涙兼粘液でこの部屋いっぱいにしますよ!」

「拷問パート2かよ」

 

 先生は言いつつ、すでに俺の顔を粘液まみれにしている。

 なおも寄ってくるのを押しのけ、服で顔を拭った。べとべとの液体がまとわりついて気持ち悪い。

 

「俺にとって、先生が助けに来てくれただけで満足なんだ。烏間先生は死神を倒してくれたし、殺せんせーはここに連れてきてくれたし」

 

 烏間先生は生徒にもしものことがあったときに備え、この病院を確保していてくれた。

 殺せんせーはここに俺を連れてくるために、急いで、かつ俺の身体に一切のダメージがないように運んでくれた。

 

 拷問に対して精神的に耐えられたのは、彼らが助けてくれると信じていたから。肉体的に助かったのは、彼らが尽力してくれたから。

 そのことには感謝していた。

 

 これまであったいくつかのことは……今回のこともだけど、殺せんせーがE組に来たことが原因の一端だ。

 それに関しては怒ったり、恨んだりすることもある。けれど……

 

「殺せんせー、俺はE組の生徒でよかったよ。あんたが俺の先生でよかった」

 

 心の底からそう思う。

 殺せんせーがE組に来てくれたおかげで、俺は変われた。

 大人を信じられるように、そして大人へ憧れを持てるように、お手本を示してくれた。

 

「待ってください。先生いま情緒不安定なので、そんなことを言われると……」

「わりといつも情緒不安定な感じはするけど」

 

 また粘液を出そうとする殺せんせーを宥める。このままじゃ本当に謎の液体で部屋がいっぱいになりそうだ。

 

「ともかく、君が元気で、精神的に成長してくれたようでなによりです。ストレートな感情表現は、過去の君なら不得手とするところでしたから」

「過去ね……」

 

 思い返してみれば、無茶苦茶だったと思う。それは、先のことを思い描いていなかったからこそできた蛮行だ。

 いまはそんなことをする気は起こらない。

 無事に帰ってこれたみんなの中で、E組の一員として一緒にいたい。

 

「俺さ、将来のこととか何も考えずに生きてきたんだ。なんとなく生きて、なんとなく死ぬんだろうなって。でも、みんなと出会えて、あんたとも会えて、少しずつ前に進めてる感じがする。まだ何かになりたいとか思いつかないけど、いつかは夢を見つけたいと思う」

「ヌルフフフ、いい心構えです。焦らずに一歩ずつ進んでいきましょう。君の学力なら、かなり上のレベルの高校まで視野に入れられるでしょう。将来の可能性を広めるためにも、妥協はなしでいきましょうか。ここでも勉強はできますしね」

「……お手柔らかに」

 

 

 みんなの尽力もあって、二週間ほどで退院ができるようになった。

 拷問は精神を削りにきたものの、身体にはそれほどダメージがなかったことが幸いだ。

 医者にはこっぴどく怒られ、今度は軽い運動も許されないことになってしまったけど。

 

 治してる間、身体がどれだけ鈍ることやら……ともやもやしてると、校舎へと続く坂の下でビッチ先生を見つけた。

 ちょっと肌寒くなってきた今の気候は、露出多めの彼女の服装は合わない。

 

「ビッチ先生」

「うひゃあ!?」

 

 うひゃあって、そんなに驚くことか?

 

「暗殺者ともあろう者が、簡単に背中取られてどうするんですか」

「ちょ、ちょっと考え事してたのよ。あんただって音もなく忍び寄って来るんじゃないわよ!」

「普通に声かけただけですがな」

 

 ……どうも違和感があると思ったら、ちょっとびくついてる。罪悪感を感じて、まともに目も合わせてくれないじゃないか。

 

「結局、E組の中でお見舞いに来てくれなかったのはビッチ先生だけでしたよ」

「悪かったわよ。死神がらみの事後処理で忙しかったの」

「はい嘘。目は逸らすわ、鼻は動くわ、口はとがらせるわ。役満です」

 

 ここ最近で一番わかりやすい反応だ。

 嘘ついてなんぼの仕事なのに、平静を保つことも出来ないとは。

 

「あんた本当に気味が悪いわね」

「昔から人の顔色伺ってきたからな。その賜物だよ」

「嘘がわかるなんて、苦労するわよ。早いうちからハゲるんじゃないの?」

「その時はその時。今はとにかく、あんたが戻ってきただけで十分だ」

 

 『死神』もいなくなって、ビッチ先生はE組に帰ってきた。

 死人はいないし、圧倒的な力を持った暗殺者を相手にしてこの結果は十分以上だ。

 

「な、なによもう! 嬉しいこと言ってくれるわね!」

 

 ハグしてこようとするのをさっと避ける。

 ビッチ先生はつんのめって倒れそうになるが、何とか持ち直した。

 

「中学生に避けられるなんて、まだまだ甘いんじゃないですか?」

「あんたが化け物すぎるのよ!」



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70 親

 『死神』騒動も終わり、E組は暗殺と勉学に励む日常へ戻った。

 変わったことと言えば……

 

「ふーん、じゃ、そっちで頑張って来なさいよ。寂しくなったらいつでも相手してあげるから」

 

 ビッチ先生の、烏間先生に対する態度だろうか。いつもは悩殺だ悩殺だと騒いでる気がするが、最近はなんだか余裕が見られる。

 烏間先生だって、今まで仕事のことしかビッチ先生と話しなかったのに、少しずつプライベートなことにも答えるようになっているみたいだ。

 

 今その烏間先生は、別件で外国に行っている。

 殺せんせーのことに関して敏感になっているのは、当然日本だけじゃない。諸外国にも報告する必要はあるし、協力を仰がなければならない。

 最前線の現場にいる彼が適役ということだ。

 

 変わったことと言えばもう一つ。

 

「痛むところはないか、國枝?」

「トイレとか行かなくて大丈夫か? ついてってやろうか?」

「お腹すいたらいつでも言ってね。お菓子常備してるから」

 

 ……なんかみんながすごい気にかけてくる。

 ちょっと痛がっただけでも、救急車を呼ぼうとするくらいだ。

 この前なんか、紙の端でちょっと指を切ったくらいで腕ごと包帯でぐるぐる巻きにされた。

 

 友達が死にそうだったんだ。過保護になるのもわかる。

 それに俺自身、こいつらを助けるために『貌なし』になってたくらいだ。大げさだよ、なんて馬鹿にはできない。

 まあそのうち落ち着いてくるだろう。

 

 それより今気になるのは……

 

「どうしたんだ、渚」

 

 珍しく浮かない顔の渚に問いかける。

 

「あ……えっと、お母さんが三者面談したいって……」

 

 あー、と杉野とカルマが声を上げた。

 

「渚の母ちゃんか……けっこうきつそうな人なんだよな」

「そうそう。遊びにいったら、まー嫌悪感丸出しの目で見てくるんだわ。國枝もいたよな、その時」

「ああ、あの時か」

 

 一度だけ、渚宅にお邪魔になったことがある。

 虫でも見るような目で見てきて……なんというか、敵として見られてるって感じだった。

 

「自分の物に触られんのが嫌だったんだろ」

「物?」

「少なくとも、息子を見る目では見てない」

「そんなことわかるのか?」

「いや、お前らだって知ってただろ? あの部屋の様子を見たんだから」

「部屋……?」

 

 杉野が首をかしげる。

 

「机の上にこれ見よがしに置かれていた蛍雪(けいせつ)大学のパンフレット。貼ってある付箋に書かれてる文字は渚の筆跡じゃなかった。これだけなら未来を見据えた教育熱心な親御さんに思えるが……」

 

 俺は当時の違和感を思い出しつつ、言葉を続ける。

 

「問題なのは学部まで指定してあったことだ」

 

 有名大学の学歴が欲しいのはわかるが、まだ文系か理系かもわからない息子にそこまで強要させるかね。

 

「気になるのはまだあった。漫画棚には、渚が買ったものに混じって、趣味じゃないはずの一世代以上前の少女漫画がずらり。それはまだいいが、クローゼットには女物の服が置いてあった。これで健全に息子を育てているとは言えないだろう。最後のは、渚が女装趣味がないことが前提だが……どっちだったっけ、喜んで着るほうだったか?」

「ち、違うよ!」

 

 普久間島では潜入のために女装させられていたけど、彼の趣味でないことは反応からわかる。

 この教室で女装がクセになってきてるのは、岡島くらいだ。

 

 俺はみんながきょとんとしているのに気が付いた。

 

「家探ししたのか?」

「まさか。隙間から見えたのを覚えてただけ……ってなんだその目は」

「気持ち悪っ」

 

 おいこらお前ら、気持ち悪いってなんだ、気持ち悪いって。

 そもそもヒントは目の前にあっただろうが。

 

 渚の髪型。

 その結び方は、長髪であることを隠すようなやり方だ。

 考案者は茅野らしいが……好き好んで髪を伸ばしてるなら、その結び方のまま過ごしたりはしないだろう。

 そこから、髪を切ることを禁止されていると考えれば、なんとなーく親との関係性が見えてくる。

 

 話は戻って、その母親が三者面談を希望している問題に移る。

 

「面談ねえ……俺らの時には、烏間先生がやってくれたけど……」

 

 表向きは担任だからな、あの人。でも、いまは仕事で海外行ってるんだよなあ。

 そうそう早くは帰ってこれないけど、渚の母親はすぐにしたいと言ってるらしいし……

 

「どうしたものか……」

「ならあたしがやるわよ。タコとカラスマの次にあんたたちを見てきたんだから、やってやれないことはないはずよ」

 

 自信ありげにビッチ先生が胸を逸らす。

 冬も近くなって、彼女は今までの露出の多い格好から、ニットセーターに衣替えしていた。

 元々美人なうえ、VIPに近づくための所作も完璧なおかげで上品に見える。

 確かにビッチ先生なら外面は問題なしのはず。

 

「おぉ、そっかビッチ先生なら……」

「じゃあちょっと予行演習してみよーよ」

 

 片岡が机を整え、渚と並んで座る。対面にビッチ先生を配置させて、いざ模擬面談。

 

「担任として、最も大切にしていることは?」

「そうですねえ……あえて言うなら『一体感』ですわ、お母様」

 

 おー、なんだか良さげ。

 話し方もきっちりしていて、印象は悪くない。

 

「じゃあ、うちの渚にはどういった指導方針を?」

「まず渚くんには、キスで安易に舌を使わないよう指導しています」

「はい終了~」

「おかえりくださ~い」

「こんなん訴えられんぞ」

 

 女子たちがずるずるとビッチ先生を引きずる。

 彼女はなにやら不満を口にしていたが、いやダメだろ。

 

「ていうか、E組って名目上の担任は烏間先生だよね。うちの親も三者面談希望したけど、その時は烏間先生がやってくれたし……統一しないと親同士で話が合わなくなっちゃうよ」

 

 速水が言う。

 んん、そうか。烏間先生以外が出るとおかしなことになるか。ビッチ先生はあくまで英語教師だからなあ。

 

「ヌルフフフ。むしろ簡単です。烏間先生に化ければいいんでしょう?」

 

 いつの間に準備していたのか、殺せんせーが扉の外で待機していた。

 見える影はちょっと太った人、というくらいで違和感はない。ヅラを装着していて、髪型もそっくり。

 

「いつものクオリティ高い変装じゃあ誤魔化せねーぞ」

「すれ違うくらいならまだしも、面と向かってじっくり長く話すからね~」

「心配無用」

 

 満を持して、殺せんせーはがらりと扉を開けた。

 

「ワイや、烏間や」

 

 彼なりに完璧な変装をしたんだろうが、思わず俺は……

 

「はあ……はあ゛ーぁ゛」

「そ、そこまでため息をつくほどですか?」

「もう全部投げ出して帰りたい……このポンコツ教師どもめ……」

 

 もっちりとしてつるんとした顔はそのまま。強靭な腕を再現しようとしたのか、こぶや関節を作ろうとしているがハムみたいになってる。

 額にシワ、そして似た髪型のヅラはいいけれど、それ以外がもうダメだ。

 

 暗殺のことも隠して、みんなの親と違和感なく面談する烏間先生の有能っぷりを再確認する。

 超生物と殺し屋じゃ、日本の中学生と常識が離れているせいでどうにもいかん。

 

 しかし、だ。ここは殺せんせーに頼るしかないか……

 肌の色は擬態で人間のそれと近くなるようにしてもらって、できるだけ人間の体型になるように触手を机の下に押し込んだり……鼻や耳など細かいところは菅谷監修のもとに取り付けてもらったり……

 なんとか形にはなったが……

 

「これが限界か……」

 

 五十メートル先から見たら、まあ人間に見えなくもないだろうが、間近で見たら風船人形だな、これ。

 果たして誤魔化しきれるだろうか……

 

 

 そこから数日。

 放課後になった瞬間に机を整え、俺たちは窓の外に出る。

 そうして待つこと十数分。渚の母親が現れた。

 

 派手な着飾りはないが、地味目ながらも綺麗で、背筋もまっすぐ。

 何も知らなければ、ただちょっと目つきがキツいくらいのキャリアウーマンに見える。

 子どもを怒鳴りつける人だとは、とてもじゃないが思えない。

 

 迎える渚が案内し、そのまま教室の中へ。気配を消してたから、俺たちに気付いてはいない。

 

「あれが渚のお母さんか」

「確かにキツそうだな」

 

 そうは言いつつも、みんなどこか楽観的だ。

 希望者が行った今までの三者面談では、生徒がE組残留を望んだこと、E組で成績が上がったことが理由で大きな問題はなかった。

 自分の息子娘が前を向くようになり、心身ともに健康、このままいけば進路も希望通りのところへ行けるようになったんだから、親としては文句もないだろう。

 

 だがどうも、渚母は違うようだ。

 

「國枝はどう思う?」

「圧が凄い」

 

 面談と言っても、実際は渚の成績を上げた教師を見定めるのと、渚を本校舎に戻すための一方的な話にするつもりだろう。

 譲る気のない圧力が感じられる。

 

「失礼します」

「ようこそ、渚くんのお母さん」

 

 丁寧に入室した渚母と、丁重に迎える殺せんせー。

 ギリギリまで調整したおかげで、どうやら人じゃないとはバレていないようだ。ひとまず安心。

 

「山の中まで大変だったでしょう。冷たい飲み物とお菓子でも」

 

 初手おもてなし。

 彼女の好きなジュースと高級そうなお菓子で第一印象を良く見せようという魂胆だ。

 この作戦が功を奏して、話は和気あいあいと進む。

 

「まあしかし、お母さんお綺麗でいらっしゃる。渚くんも似たんでしょうかねえ」

「この子ねえ」

 

 一瞬にして、和やかだった空気がピリついた。その発生源は言うまでもなく、渚の母。

 

「女でさえあれば、私の理想にできたのに」

 

 殺せんせーがぴくりと眉を動かした。

 

「このくらいの歳の女の子だったら長髪が一番似合うんですよ。私なんか子どものころ短髪しか許されなくて。三年生になって勝手に纏めた時は怒りましたが……これはこれで似合うから見逃してやってます」

 

 その変な言い方に、俺たちは奇妙な気持ち悪さを覚えた。

 みんながちらりと俺を見る。言った通り、息子として見ている感じがしない。

 人形……ともなんか違う感じだが、とにかく子どもに向けるべき感情がない。

 

「そうそう、進路の話でしたわね。私の経験から申しますに……この子の歳で挫折するわけにはいきませんの」

 

 異様な雰囲気を漂わせたまま、殺せんせーに向き直る。

 

「椚ヶ丘高校は蛍大合格者も都内有数ですし、中学までで放り出されたら大学も就職も悪影響ですわ。ですからどうか、この子がE組を出れるようにお力添えを」

「……渚くんとはちゃんと話し合いを?」

「この子はまだ何もわかってないんです。失敗を経験している親が道を造ってやるのは当然でしょう」

 

 なんだこれ。この言いようのない気持ち悪さは何だ。

 言ってることは正しい。子どもに失敗してほしくないと思うのは当然のことだろう。

 子どもが失敗しないように、レールを敷いてやるのもまた一つ、親としての責務だ。

 過保護ではあるかもしれないが、間違っているとは言えない。

 

 だがどうしてもその意見に賛成できない。

 おかしいのだ。うまく言語化できないが、言葉の端々から感じられる圧迫感が嫌な気分にさせる。

 

「なぜ渚くんが、今の彼になったのかを理解しました」

 

 そう言うと、殺せんせーはおもむろに立ち上がった。

 触手は机の下に収納されたままだから体格の変化はないが……どうするつもりだ?

 生徒たちが戦々恐々と見守る中、殺せんせーは素早く手を動かした。

 

「私、烏間惟臣は……ヅラなんです!」

「っ!」

 

 危うく噴き出すところだった。

 いきなり何をするかと思えば、急に頭のヅラを取ったのだ。もともとのつるりとした頭がきらりと光る。

 

「お母さん。髪型も高校も大学も、親が決めるものじゃない。渚くん本人が決めるものです。渚くんの人生は渚くんのものだ。貴女のコンプレックスを隠すための道具じゃない」

 

 見た目はともかく、殺せんせーは真面目なことを言った。

 

 ああそうか。

 俺は、親というのは誰もが子どもを愛しているものだと思っていた。それが普通で、当たり前のことなんだと思っていた。

 だけど目の前でその当たり前が崩れていってることに、ひどく気分を害してしまったのだ。

 立花の話を聞いた時の気持ち悪さもそのせいだ。

 

 思ってることは見抜けても、そこにこめられた意味を理解できない、納得できない。

 そんなギャップがこのモヤモヤの原因だ。

 

 そんなことを思ってるうちに、渚母の顔が怒りに崩れた。

 一瞬で殺せんせーを敵と認定したかと思うと……

 

「■■■■■■■■■■■■■■!!」

 

 割れんばかりの勢いで叫び始めた。

 とっさに耳を閉じたが、たとえちゃんと聞いてても何を言ってるのかわからなかっただろう。

 それだけヒステリックになっていた。

 

「渚! 最近妙に逆らうと思ったら、この烏間ってヅラの担任にいらないこと吹き込まれたのね! 見てなさい、すぐに私がアンタの目覚まさせてやるから!」

 

 言うだけ言って、乱暴に教室を出ていく渚母。

 ぽつんと残された殺せんせーや渚だけじゃなく、俺たちまで呆気にとられてポカンとしてしまった。

 

 あそこまで強烈だとは……

 窓を開けて、俺は顔を出す。

 

「怒らせたな」

「渚くんの意志を汲んでもらうはずが……うまくいきませんねえ」

 

 渚が生まれて十五年。その間に凝り固まった考えは簡単に説得できるもんじゃない。

 にしても、何でもしそうなあの顔……悪いことが起きなきゃいいが……



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71 傲慢

「國枝くんから先生に連絡とは珍しいですねえ」

「ここで毎日ドラマ観てるって律に聞いたから、まあたまには一緒にってな」

 

 夜の時間帯って、殺せんせーは何しているんだろうと疑問をもったところ、律が答えてくれた。

 人の気持ちを理解するため、という名目で律も賛同したみたいだが……最新鋭の人工知能を使ってテレビを観るなんて、贅沢だな。

 

「ここじゃなくても、國枝くんの家でよかったんですよ?」

「家族に見つかるとまずいでしょうが。最近、国家機密ってこと忘れてないか?」

「この時間帯、ご両親はまだ帰ってないでしょう?」

 

 見透かしたように、確証ある言い方の殺せんせー。

 

「國枝くんの母親と父親、お二方とも同じ会社で働いてるみたいですねえ。毎日遅くまで働いて、朝早くに出ていく。会社で寝泊まりすることも少なくないみたいですし」

「……ストーカー」

「なんと言われようとも、君のことを見て見ぬ振りするつもりはありません」

 

 そこはしてくれてもいいだろうに。家庭の問題なんて、教師がどうこう言うところじゃないだろう。

 しかし、殺せんせーは追及の手を緩めない。

 

「三者面談、君の両親だけいつも来ないと聞きました。それは前からずっとですか?」

「……」

「言いふらしたりはしませんから」

 

 そこも信用ならんが……このまましつこく訊かれるくらいなら、離してしまったほうが楽か。

 言って悪くなることもないだろうし。

 

「小学生の時からずっとだよ。まともに会話した記憶がない。小学校の入学式とか卒業とか、ここに入学する時も来てくれなかった。まあ忙しいのは知ってるから、仕方ないと思うけどさ」

 

 観念して、俺は話しだした。

 

「勉強頑張っても、武道に手出しても、料理覚えても、関係は何も変わらなかった」

 

 そんな関係なんだよ、俺のところは。息子が『貌なし』になっても気づかないような家庭。

 俺が生きてきた年月の半分以上、親との繋がりを感じたことはほとんどない。それが当たり前になって、今さら愚痴を言う気にもならん。

 

「君はそれでいいと思ってるんですか?」

「両方とも大手製薬会社でバリバリ働いて、人のためになる仕事をしてる。息子だからって我儘を通すことはできないよ」

 

 そういうふうに考えるようになったのはいつからだろうか。

 今じゃそれが当たり前になっている。だからといって寂しくないわけではないけど。

 でも、親が働いてくれているおかげで、俺は不自由なく過ごせている。

 別に罵られたり叩かれたりするわけじゃないし、あれがやりたいこれがやりたいって言ったら金渡してくれるんだから、完全に育児放棄ってわけでもない。

 そう言うと、殺せんせーはむむむと眉をひそめた。眉……というか、とにかく悩むように額に力を入れていた。

 

「そのあたりは、先生と齟齬がありますねえ。まあ、それについてはおいおい話し合うとしましょうか」

 

 いつの間にか殺せんせーの目は窓の外に向いていた。

 

「そろそろ来る頃ですよ」

 

 俺は殺せんせーに抱えられ、一瞬のうちに音もなく校舎の屋根上に上る。

 教室の窓のすぐ外では、渚とその母親が立っていた。

 

 渚が、何が何やらわからないという顔をしていることから、無理やり連れてこられたのだろう。

 校舎の照明のほか、渚母の持つ火のついた松明が、彼女の暗い表情を浮かばせる。

 

「こんな場所に堕ちてから、アンタは血迷い始めた。私に逆らい始めた」

 

 濁った目がぎょろりと渚を捉える。

 

「燃やしなさい、この校舎を。アンタ自身で」

 

 恐ろしいことを言って、彼女は息子に松明を差し出す。

 

「ここに来たのは、あれを心配していたからでしょう?」

「ああ。猟奇的な目をしてたから何かしてくるかもって思ってな。まさか即日でやってくるとは思わなかったが」

 

 しかも息子に校舎を焼かせるかね。他人の親にこういうこと言いたかないが、完全にネジ吹っ飛んでんな。

 

「や、嫌だよ、そんな……」

「誰が育ててやったと思ってんの!」

 

 少しの反対も許そうとしない。教室で見せた怒りの表情。

 

「どんだけアンタに手間とお金使ったかわかってんの! 塾行かせて、私立入らせて、仕事で疲れてんのにご飯作って! その苦労も知らないで、ツルッパゲのバカ教師に洗脳されて、逆らうことばっか身につけて! アンタっていう人間はね、私が全部作り上げてあげたのよ!!」

「……母さん」

 

 渚は口をつぐんだ。

 

 正しいとは言えない。だが間違ってるとも言えない。

 手間をかけて育ててくれて、いま自分がいるのは親のおかげだ。

 それがわかってるから、心の内を言葉にしづらい。全部間違っている主張なら、いくらでも突っぱねてやれるのに。

 

「キーキーうるせえよ、クソババア。ドラマの時間が来ちゃうじゃねえか」

 

 渚がハッと声の方へ振り向く。

 親子の話に急に入ってきた闖入者は、鞭をピシッと地面に叩きつける。

 その雰囲気だけで、この男が新しい殺し屋だと理解できた。

 

「奴はこの時間、ドラマに熱中してる。それは調査済みだ。銃でダメならこいつの出番さ。俺の鞭の先端速度はマッハを超える。どんな武器より速く対戦性物質を繰り出せる。一瞬で脳天ブチ抜いて殺してやるぜ」

 

 大層な自信があるようだが、ここから見てると滑稽にしか思えない。

 

「実際はここにいるけどな」

「ヌルフフフ。調べられていることも看破済みです」

 

 本当にやろうとしたら、鞭を振るう前にやられるだろうしな。

 鞭を使うなら、それなりに近づく必要がある。それくらいの距離なら匂いでバレる。そんなことは知らず、男は余裕をもって武器を構える。

 

「殺すって何!? 何なの!? け、警察……」

「うるせーなー、ババア。本番中に騒がれると厄介だ。生徒を殺しちゃ賞金パアだが、ババアの方はぶっ殺しても構わねえよな」

 

 男が鞭をしならせ、通報しようとした渚母からスマホを叩き落す。

 勢いのあった彼女も、唐突な急展開に驚き、怯えている。

 

 油断している殺し屋と、恐怖におののいている渚母。

 その間でただ一人、渚だけが状況を冷静に判断できていた。

 

 殺し屋の目的は殺せんせーだけだから、逃げようと思えば逃げられるだろう。

 しかし、渚は逃走よりも暗殺を選んだ。

 怯え、耐え、逃げてきたこれまでの姿じゃなく、この教室で得た新しい姿を見せつける気だ。

 

「母さん」

 

 渚は前へ一歩踏み出す。

 

「僕はこのクラスで、全力で挑戦をしています。卒業までに結果を出します」

 

 先ほどまでの、母の顔を伺うような弱さは一切ない。

 

「成功したら……髪を切ります。育ててくれたお金は全部返します。それでも許してもらえなければ……母さんからも卒業します」

 

 決して速いわけではない。だが意識の隙を縫って近づいてくる渚に、殺し屋の身体は反応できなかった。

 

 パン、と手を叩く。

 

 高い音が夜を貫く。気付けば、殺し屋はびくびくと痙攣して倒れていた。

 

 俺が見る限り、完璧なタイミングだった。

 殺し屋が油断状態から緊張状態に切り替わる瞬間を狙っての猫騙し。いや、猫騙しなんてものじゃない。

 

「クラップスタナーですねえ」

「くらっぷ……?」

 

 聞き覚えのない単語に、俺は首をかしげる。

 

「人の意識に波長があるというのは理解できますか?」

「緊張してたり、落ち着いてたりとかか?」

「はい。その波長に合わせて最も効く音をぶつけると、ああやって動けなくなってしまうんです」

 

 相手が敏感な時に、一番反応してしまう目と耳に刺激を与える。猫騙しの次の段階、『クラップスタナー』。

 後で聞いた話だが、『死神』と戦った時にあれをやられたらしい。

 それを才能で仕上げ、実戦で見事成功させてみせるなんて……

 

「な、なんなのこいつ……なにしたのよ、渚!」

「たまにこの辺は不良の類が遊び場にしてる。夜間は近づかないことをお勧めしますよ」

 

 狼狽する渚母の前に、殺せんせーがぱっと現れた。じろじろと見られてはまずいと、消火器を噴射して視界を防ぐ。。

 

「さて、お母さん。確かにまだ渚くんは未熟です、だけど温かく見守ってあげてください」

 

「決してあなたを裏切ってるわけじゃない。誰もが通る巣立ちの準備を始めただけです」

 

 子は親に育てられる。だが同時に、別の場所でも育つものだ。いつかは知らないところのほうが多くなってしまうかもしれない。

 それは成長であって、親に対する悪気なんかない。

 誰だってそうなっていくのだ。

 子は、親の所有物でもなく、失敗した自分の人生の代わりでもなく、一人の人間なのだから。

 

 緊張が解けたからか、渚母はぱたりと倒れた。

 倒れる直前、狂気の感情は消えていた。

 殺せんせーの言葉に納得したからか、単純に意識が薄れたからか……答えはまた明日だ。

 

 俺も屋根から飛び降りて着地する。

 

「殺せんせー……國枝くんも」

「言いたいこと言えたな」

 

 用意していた縄で殺し屋をす巻きにしながら、俺は返す。

 

「ヌルフフフ。せっかく準備万端だったのに、出番がありませんでしたねえ」

「なけりゃないでいいんだよ。どうせ俺が動く前に、あんたが何とかしてただろ。それに……」

 

 一皮むけた、すっきりした表情の渚を見る。

 頼りない小動物なんかじゃない。大人へと成長していく、立派な一人の男だ。

 

「渚はもう弱くない。そんなことわかってたはずなのにな」

 

 普久間島でのVS鷹岡から、この教室で上位に入る暗殺者であることは理解していた。暗殺ができる能力と度胸がある。

 普段の様子からは想像できないからついつい忘れがちになってしまう。

 

 そんな強い渚の手助けをしようとしたなんて、おこがましい。

 

「渚くんを心配する君は間違っていませんよ」

 

 俺の心を察したように、殺せんせーが言う。

 

「なんの話?」

「成長してるのは俺だけじゃないって話」

 

 きょとんと首をかしげる渚。こうしてみると、本当にただの一生徒って感じがする。

 それもまた才能だろう。正面からの殴り合いじゃ負ける気はしないが、後ろから忍び込まれたら一瞬の間に喉を裂かれてしまうくらいには、俺たちは逆ベクトルに育った。

 

 さて、殺し屋はここに置いておいて問題ないだろう。あとは……と俺が動く前に、殺せんせーが渚母を担いでいた。

 

「帰ろう。殺せんせーが送ってってくれるってさ」



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72 学園祭

 さて、以前にも言った通り、この半年近くを通して、本校舎がE組を見る目はかなり変わってきている。

 一学期中間テストでは負けたが、成績は大幅アップ。野球大会ではなんとか勝ち。期末テストでは(教科トップを取り合うという限定的な勝負だが)なんとA組を下した。

 極めつけは体育祭で、人数や体格で圧倒的に不利だったのを、奇抜な作戦でひっくり返した。

 成績下位組が落ちる先であるのは前項生徒が知ってるはずなのに、憧れを持っている者も少なくないと聞く。

 

 そんなE組が、今度の学園祭では何を仕掛けてくるのだろうという話でもちきりらしい。

 

「てわけで、本校舎が盛り上がってるんだってさ」

 

 勝手に盛り上がられてもな……こっちはまだ何をするかも決めてないのに。

 

 

 ここで、椚ヶ丘の学園祭とはどういうものかというものに話を移そう。

 椚ヶ丘中学・高校で行われる学園祭は、ガチの勝負である。

 どれだけ稼いでも儲けた分は寄付が義務づけられているが、その収益順位は校内にでかでかと貼りだされる。

 それだけではない。

 例えば、飲食店をやるなら提供品の美味さはもちろん、飾りつけの美しさ、食器との調和など。それだけじゃなく、看板やメニュー表のデザイン、宣伝方法、接客サービスなど何から何まで評価される。

 売上以外は順位に関係ないが、多数の企業やマスコミが注目する一大イベントだ。

 それゆえ、功績は商業的な実績としてアピールでき、この時点で目をかけられることも少なくない。

 

 しかし、である。

 もちろん、ここE組は本校舎で店を出すことは許されていなくて、立地は最悪。

 おまけに……

 

「飲食店やるなら、単価は三百円まで」

 

 狭間が補足する。

 つまり、三百円以内で、この山の上にまで客を来させるようなものを作り上げなきゃいけないのだ。

 原価が低いか、人気のものを出しただけでは足りないだろう。

 どうせありきたりな焼きそばとかたこ焼きとかフランクフルトなんかは、本校舎組がやるだろうし。

 

「A組はどんな手を使ってくるか……」

「噂だと、企業とスポンサー契約結んでるらしい。飲食物は提供品だから仕入れ値はゼロ」

「しかも、ステージに芸人やらアーティストとか呼ぶんだってさ」

 

 イベント系は入場料六百円までだから、そっちで攻めてくるだろうな。

 だとしたら、無料で飲み食いし放題とかやるつもりか?

 

 殺せんせーはふむふむと話を聞くと、とあるものを俺たちに差し出した。

 

「浅野くんは正しい。必要なのはお得感です。安い予算でそれ以上の価値を生み出せれば客は来ます。E組におけるその価値とは、例えばこれ」

 

 小さなそれを俺は受け取る。

 

「どんぐり?」

「裏山にいくらでも落ちてるこれ、特に実が大きくアクの少ないマテバシイが最適です」

「何に?」

「少し手間はかかりますが……これを粉にすれば小麦粉の代わりになります」

 

 殺せんせーはよりいっそうの笑顔で、村松に向き直った。

 

「客を呼べる食べ物といえばラーメン! これを使ってラーメンを作りませんか」

「ラーメン……だと?」

 

 実家がラーメン屋の村松がぴくりと反応。ためしに、と殺せんせーが試作してきた粉をぺろりと舐める。

 しかし村松は首を横に振った。

 

 ラーメンの麺は、もちろん粉だけで作られるわけじゃない。それを麺の形と食感にするためにつなぎが必要となる。

 しかし、そこはさすがの殺せんせー。改善策もしっかり考えてあった。

 山にある自然薯は粘りもよく、つなぎとして使えるという。自然薯とかあるのかよ、この山。

 

 それを聞いて、村松は興味深そうに頷いた。

 

「だったらラーメンよりつけ麺がいい。この食材の野性的な香りは濃いつけ汁のほうが相性がいいし、スープが少なく済む分利益率が高ぇ」

 

 不敵に笑う彼はもうやる気満々のようだ。

 実家を繁盛させるために日々勉強している彼からすれば、これ以上の腕試し場はないとぞくぞくしているのだろう。

 

 他にも、裏山には探せば探すほどいいものが転がっている。

 

 プールには魚がわんさかいるし、

 木を見上げれば果物が生っていたり、地面を注意深く観察すればキノコがあったり。

 危ないものは殺せんせーによけてもらって、三十分ほど全員で探してみるだけでもかなりの量が採れた。

 

「この山ヤッバ……食材の宝庫じゃん」

 

 中村の言う通り。今まで目を向けてこなかっただけで、この山はすごい。訓練にも使え、沢もある。

 こんなところにE組があるのは、なんだか恣意的なものを感じるな……

 あの理事長が何を考えているのかわからないが、ただ単純な嫌がらせや見せしめのために、ここに校舎を建てたんじゃない気がする。

 

「じゃあ早速研究といくか。学園祭まで時間がねえ」

 

 村松がパンと手を叩いて、調理に取り掛かろうとする。

 つけ麺はスープが命。麺が出来るまで、ベースとなるものを仕上げておくつもりのようだ。

 家庭科といえばこの人、原も手伝いを申し出て、その他は材料調達班や必要なものの買い出し班に分かれていく。

 

「じゃあアレだね」

「ああ。國枝は試食係で」

 

 早速調理係になった原と村松が、俺を椅子に座らせる。

 最近、本格的に俺を太らせようとしてくるのはなんなんだ。

 

 

 殺せんせーに教えてもらったものの他に、使えそうな食材を探して山へ散っていったE組。

 そんななか俺は……

 

「……」

 

 かれこれ一時間もじっと座らされていた。

 動こうにも、目の前と横には監視役の不破と律。こんなに近くでじっと見られていては、目を盗んで……というのは不可能だ。

 右には、力ずくで抑え込め役の吉田もいる。

 

「いまうずうずしてるでしょ」

「だ、だって、森の中でのフリーランニングはあんまり経験がないんだ。ちょっとは腕試ししたいと思うのは自然なことだろ」

「お前なあ……自分の身体をちょっとは労われよ。死にそうなくらいの怪我が完治してないうちから棒倒しして、『死神』とバトって……ホントなら、いまも安静にしてなきゃいけないレベルだろ」

 

 言い返せない。

 日常生活に支障がない程度には動けるようになったため退院できたが、運動は禁止されている。

 夏休みからずっと戦いの連続で、医者に止められても色々やってたからなあ……

 

「だから、私たちが監視役ってわけ」

「くそ、この身体が恨めしい……全部俺のせいなんだけどな。はあ……やだやだ。こんなところでじっとしてたらあっという間に老けちまう」

 

 うじうじとネガティブな言葉を吐き続けていると、見ていられなくなったのか、吉田は盛大なため息をついた。

 

「暴れられても困るし、見回りしてみるか? そこらへん散歩ってレベルなら大丈夫だろ」

「する!」

 

 

 最初の場所は、同じく教室で試行錯誤している村松と原のところ。

 

「よっと、こんなもんでどうだ?」

「上出来上出来。あとはどれだけ少ない材料で完成品まで持っていけるかだね」

 

 ぬぐぐ。二人が楽しそうに料理しているのを見て、血の涙が出そうだ。

 文化祭の準備なんて、学校生活の中でも特に重要なイベントだ。それに交われないのは少し寂しい。

 

「よ、大人しくしてるか? って、どうしたんだよ國枝、そんな寂しそうな顔して」

「今の俺はただ試作品の味見をするしか能がない無力な男さ……笑えよ……」

「どうしたんだ、こいつ」

「なにか仕事やりたいんだって」

「つっても、レシピ確立するまでは俺と原以外は手出せないし、こいつを飛び回らせるわけにはいかねえし……あ!」

 

 村松はぽんと手を叩く。

 

「だったら、いい仕事があるぜ」

 

 

「なるほど、釣りか」

 

 沢に連れられた俺は、あたりを見回す。

 こちらでは数人、魚を釣りつつ周りの山食材も集めているようだ。

 

 つけ麺だけの一点勝負でやるわけにはいかないもんな。食材が豊富なぶん、メニューも数を揃えなければ。

 

「國枝、こっちに来たのか」

「仕事ゾンビになってるから、面倒見てやってくれや」

 

 釣り部隊の一人である竹林が、くいっと眼鏡を上げて一匹の魚を目の前に持ってくる。 

 

「ちょうど釣れたとこだ。そこらへんで火を起こして、焼いて食べるかい?」

「食いに来たんじゃなくて仕事しに来たんだよ。いま吉田が言っただろうが」

 

 たらふく食わせて動けないようにしようとしてるのか。それとも栄養を心配してるのか。

 これも過保護になった影響の一つだ。

 

「にしても、まだ半年も経ってないってのに、ここであったことが懐かしいね」

「あのプール爆破事件だろ。あんときはほんと助かったぜ」

「うんうん。僕も抱えられた時、安心したよ」

 

 いつの間にか渚も話に加わってきてる。しまった。前後左右を封じられた……ってなんの遊びだ。

 

「囲むな囲むな。一回やっただろ、このくだり」

「お、照れてんのか?」

「照れてない!」

 

 そうやってわちゃわちゃとしていると、上流から寺坂がやってきた。

 

「お、なんか盛り上がってんな」

「あ、爆破犯人だ」

「む、蒸し返すなよ。悪かったって」

 

 そこから、またしても思い出トークが始まろうとしたところを留める。

 俺がここに来た経緯を話すと、寺坂は自分の得物を差し出してきた。

 

「ほい、釣り竿。適当に釣っといてくれ」

「お前は?」

「メインのほう集めに行くわ。あっちはいくらあっても困らねえし、粉にするのも手がかかるしな」

「やはりどんぐり集めか。俺も行こう」

「だめ」

 

 ついていこうとした瞬間、即座に不破に羽交い絞めにさせられた。

 いや、冗談。冗談だってば。ってかどんぐり集めくらい別にいいじゃないですか、ねえ。

 

「おう、ちゃんと旦那を躾けとけよ、不破」

「だ……もう、早く行って!」

「お~う、じゃあ後でな」

 

 顔を赤くして怒る不破に怖気づくことなく、むしろにやにやとした笑みを浮かべて去っていった。

 

 

 さすがに家がラーメン屋の村松といえど、つけ麺を一日で完成させられるわけはない。

 しかし付け合わせの具や、他の食材を使った料理はそれなりに形にはなった。

 茅野主導でデザート作成にも取り掛かることができているし、それなりに豪華なラインナップになりそうだ。

 陽が落ちた後も、それを端から端まで食わされたせいで満腹だ。

 明日も明後日もこれが続くと思うと、うんざりだと思う反面嬉しくもある。久しぶりに青春してるって感じだ。

 

 家に着いて、扉の鍵を回す。そして扉を開けようとするが、なぜか開かない。

 まさかと思ってもう一回鍵を差し込み、回す。今度は扉が開いた。

 

 家を出る時に鍵をかけ忘れたか? それとも誰かが侵入したか?

 その警戒は、玄関に入ったところで消えうせた。

 

 見慣れた革靴が二足。父と母のものだ。

 リビングへと繋がる扉の隙間から光が漏れていた。

 珍しく、両親が俺より早く帰ってきているのだ。

 

「ただいま」

 

 俺が不審者だと思われないよう、ちらりと顔だけ出して言う。それだけで十分だろう。

 二階の自室に行くため、階段に足をかける。

 

「響、おかえり」

 

 声に振り向くと、母がわざわざ目の前まで来て返事をしてくれた。

 そっちも今しがた帰ってきたばかりのようで、スーツ姿のままだった。

 

「ああ、えっと……うん、ただいま」

 

 何を言っていいかわからず、同じ言葉を繰り返す。

 

 『今度、学園祭があるんだ。俺のところは飲食店やるんだけど、来ない?』

 

 なんてことすら言いづらくて、言おうとも思わない。

 来てくれるはずもないし、期待するだけ無駄ってもんだ。

 

 別に恨みとかあってそんなことを想ってるわけじゃない。

 都内の一軒家を買え、息子に食費や習い事の金をぽんと渡せるほど稼いでるってことは、それなりに忙しいということだ。

 それで育てられているのだから、文句を言えるはずもない。

 

 これでいいんだ。

 そうやって、心から沸き立つざわめきを抑える。

 

「じゃ、俺は勉強しなきゃいけないから」

 

 逃げるように、早足で階段を上がる。

 部屋に入るなり鞄を机に置いて、制服を脱ぐ。

 

 『死神』のせいで開いた傷を見られるわけにはいかない。

 長袖長ズボンのおかげで見えづらいが、それでも近いとすぐに気づく。

 まあ、見られたとしても大して気にしてこないだろうが……ちょっとでも親の負担にはなりたくない。

 親には親の仕事がある。俺に構っている暇なんてないほどに。

 

 ずっと自分にそう言い聞かせて、納得してきたのだ。

 万が一……億が一、心配なんてされたら全部崩れそうで怖い。

 『なんで今さら気にかけるんだ。これまでずっと放ってきたくせに!』と叫んでしまう自分が容易に想像できる。

 

 負の感情をそのまま放ってしまうとろくなことにならないのは、すでに経験済み。

 一本の糸のような細い繋がりでも、縁はある。断ち切れるのはなによりも嫌だ。

 

 両親が嫌いなわけじゃない。むしろ、色々と話したいし、遊びたい。同じものを見て、同じものを食べて、普通の家族のように過ごしたい。

 だけど、二人の人生に俺の入る隙間はないのだ。

 

「なんてな」

 

 今はE組のみんながいる。寂しさは解消できるじゃないか。

 本音を話せて、ともに戦ってくれる仲間がいる。これ以上を望むのは贅沢だ。



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73 これまでの人たちと

 学園祭一日目。

 

 宣伝なんか多少程度しかしていない現状では、ちらほらとしか客がいない。

 こんな山の上なんだから、それだけでもありがたいが……荒稼ぎしてるであろうA組には遠く及ばない。

 いつ、どれだけ大量の注文が来てもいいように、材料は多く確保してあるが、使いきれるかどうか。

 

 一応、客の負担を少なくする策は使っている。

 坂の下に矢田を配置して先に注文を訊き、上へ上がったころには料理が出来ているシステムとか。

 これには、保存の利かない食材をその場で採ってこられるように、という意図もある。魚とかを新鮮なままにしておくための冷蔵庫とかないからな。

 足腰の弱い人は、寺坂や吉田が人力車で運べるようにもしている。

 けど、やっぱりこの場所まで来させるのが難しいか。

 本校舎とは離れてるし、そもそもその本校舎だけで満足できる品が揃ってるし。

 

 そんな場所に、わざわざ登ってくる数人を見て、茅野が指差した。

 

「あー、修学旅行の高校生!」

「あの不良ども……」

 

 修学旅行の時に神崎と茅野を誘拐したグループだ。あの時の憂さ晴らしにでも来たか?

 ぎりり、と拳に力が入る。

 

「あれれ~、また女子でも拉致るつもり?」

「もうやってねえよ。奴に見張られてると思ったら悪さできねーしな」

 

 不良のリーダーが、カルマにそっぽを向く。

 正体を知らない彼らからしたら、『貌なし』は急に現れてぼこぼこにして去っていった台風みたいな存在だからな。

 

「だが、あんなわかりやすいことやらなくても台無しにできる。例えば、ここのメシがクソマズいと叫びまくったり、ちょいとネットで呟いたりなぁ……」

 

 と息巻いてた不良どもだったが……

 

「うめえ!」

「他のも食おうぜ、他のも!」

「なんだこのタマゴダケって、食ったことねえ!」

 

 料理を口に入れるなり、はしゃぎだした。

 いろいろ頼んで食って、美味いと叫んでくれているおかげで周りの客へのアピールになっている。

 文句つけに来たリーダーも……

 

「うちの生徒の料理、どうかしら?」

「ち、超ウメーっす!」

 

 ビッチ先生の前には形無しである。

 

「全メニュー食べてくれたら、センセー嬉しいなー」

「え、で、でも金が……」

「駅前にあるわよ、ATM」

「下ろしてくるッス!」

 

 と、穏便に済まされた……というか、貢がされてる。

 まあそりゃそうか。不良程度がビッチ先生に敵うわけがない。

 

 正体が知られれば大したことはない、とロヴロさんは言っていたが、それは逆に言えば正体がバレなければ無敵ということだ。

 同性でさえも魅了してしまうその技、男であれば抗うのは難しいだろう。

 

「國枝くん」

 

 声に振り返ると、かなりの大人数が押し寄せてきていた。

 松方さんが引率して、わかばパークの子どもたちが集まっている。

 それだけでなく、高校生以上の集団を、伊吹さんが引き連れていた。

 

「来てくれたんですね、伊吹さん」

「学園祭の売り上げ勝負してるんでしょ。多少は力になれたらと思って」

 

 呼べる限りの知り合いも連れてきてくれたらしい。三十人くらいいるんじゃないのか。

 気になるのは……

 

「お知り合い……女性が多いんですね」

「そうなんだよ、聞いてくれ國枝! 俺の話を聞いてくれ! そして同情しろ!」

 

 泣きついてくる相葉さんも相変わらずである。

 聞けば、この男女比率2:8の団体は全員伊吹さんの知り合いで、相葉さんが知り合ったのはつい最近のことらしい。

 

 うーん、多種多様。大人しそうな人から、すぐにも喧嘩売ってきそうな目つき悪い人までいる。

 特に伊吹さんに近い茶色の長髪の女性は、前に聞いた彼女さんだろうか。

 

「ええと、では席までご案内します」

 

 引っ付く相葉さんを引きずりながら、みなさんを席につかせる。注文を聞いて、厨房に伝え、出来たそばから運んでいく。

 その他にもちらほらと見たことのある人たちが来てくれて、暇な時間はなくなっていった。

 

「ふう……」

 

 接客も楽じゃない。調理にも混ざったりしてるから、余計に忙しさが増す。

 とはいえ、なんだか青春してる感じがしていい気分ではある。

 

「盛況のようだな」

 

 ぬるりと現れたのは、ロヴロさんだ。

 

「び……っくりした……驚かさないでくださいよ、毎回毎回」

 

 毎度、俺の死角から出てこないと気が済まないのだろうか。

 

「平気なんですか? 『死神』に殺されかけたって聞きましたけど」

「なんとかな」

 

 『死神』が襲来してきた時、烏間先生が忙しかったのは、『死神』がロヴロさんを意識不明の重体にしたからである。

 そのせいで殺し屋の紹介を受けられなかったらしい。

 

 間一髪で死を免れたロヴロさんはまだ本調子じゃなさそうだが、生活を送るには支障ないみたいだ。

 

「『影』やカラスマの同期にも勝ったそうじゃないか」

「……『影』はもともと一対一の戦闘を得意とする殺し屋じゃないし、鷹岡を相手にした時はこっちが武器持ってましたし」

「だが勝ちは勝ちだ。どんな言い訳をしようと、負けた者は死、勝った者にしか言葉は紡げない。それが私たちの世界だ」

 

 厳しい世界だこと。

 

「私のところに来ないか、クニエダ。君なら凄腕の殺し屋になれる」

「半分本気のところ悪いですが、お断りします」

 

 勧誘を即座に蹴る。

 

「そこで暮らす度胸も覚悟も力もないですよ。俺はただの中学生ですから」

 

 まだ社会のことなんて何も知らないガキだ。

 この場で殺し屋になる、なんて選択肢を狭めることはしないほうがいい。どちらにせよ、なる気はないけど。

 

「そんなことより、食べていってくださいよ。ここで出すメニューは、俺たちの集大成ですから」

「だったら、俺も売り上げに貢献しよう」

 

 またしてもビクッと反応してしまった。

 背中から声をかけてきたのは、『影』だった。

 

「あんたらなあ……」

「久しぶりだな、少年」

 

 またしても早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、恨むような目で彼を見る。

 

「『二度と会うことはないだろう』って言ってたじゃないか」

「殺し屋としてはな。今の俺はただの客だ」

「ただの客だってんなら、暗器仕込んで中学校に来るな」

 

 もう肌寒い季節だから長袖でも違和感はないが、それを利用していたるところに武器を隠している。

 小さい子どももいるのに、そんなの持ってこないでほしい。

 

「やはり、お前は面白いな。俺の暗器を見破るとは」

「だろう。頭もよく回る。諜報員として育て上げれば、どれだけのモノになるか……」

「だから、ならないって言ってるでしょうが」

 

 二人の背中を押して、無理やり卓に座らせる。 

 周りを見れば、いつの間にか『スモッグ』や『グリップ』、『ガストロ』も来ていた。

 

「まったく……」

 

 超生物とか防衛省とか殺し屋とか、俺の人生には無縁だと思っていた。

 それなのに、影響を受けて俺の一部になっているあたり……人生は何が起こるかわからない。

 繋がりというものを、これでもかと見せつけられる。

 

 まあこれはこれでいいか。

 賑やかなのは悪くない。

 

 

 翌日。文化祭二日目。

 登校路を歩きながら、今日がどうなるかを考える。

 

「さ、どんだけ売り上げ伸ばせるかな」

「昨日のままのペースだと、A組に勝つのは厳しそ……」

 

 ともに歩く杉野と顔を見合わせて、絶句する。

 

「なんだこの行列!?」

 

 E組校舎から長く続く坂の下まで、ずらっと人が並んでいた。

 俺たちのところの客……か? いやいやそれにしても昨日の今日でこんだけ列ができるのはおかしい。

 しかも、まだ開店まで二時間あるんだが……

 

 困惑したまま坂を上がって教室へと入ると、すでに登校していたメンツもそのことで盛り上がっていた。

 

「お、國枝、杉野。見たかよ、あの行列!」

「ああ。なんでいきなりあんな並んでるんだ?」

 

 俺が疑問を発すると、教室端の律が画面を切り替える。

 映されているのは、数人のSNSやブログだった。

 

「情報の出どころは三つでした。有名モデル二人と……有名グルメブロガーの法田(のりた)ユウジです」

 

 昨日は忙しくて気づかなかったが、渚目当てで来た客がいたらしい。

 普久間島で女装したのを見て、一目惚れだったとか。

 結局は男であることをバラすと、とぼとぼと帰っていったらしいが、ブログを見るとやたらと褒めてくれている。

 

 しかもそのブログ、百万超えのアクセスを誇る有名ブログだった。

 家が金持ちであることを利用して、美味しいものを求めて縦横無尽に駆け回る。言葉遣いは悪いが、その経験と肥えた舌は折り紙つき。

 その宣伝効果は凄まじく、見ての通りの結果に。客の中には他県から来ている人もいるみたいだ。TV中継も入るらしい。

 

「ふーん、そういうこと……男引っかけるなんてやるな、渚」

「言い方!」

 

 ぷんすこ怒る渚だが、迫力ないぞ。

 

「え゛、ちょっと待って、あの二人が来てたの!?」

 

 律の情報を見ていた女子陣、特に中村が声を上げた。モデルのほうに反応したらしい。

 もう一度写真を見せてもらうと、たしか伊吹さんが連れていた女性たちだとわかった。

 

「知ってるのか?」

「知ってるも何も超有名じゃん! もー、呼んでよ! 材料採ってる場合じゃなかったぁ!」

「いや、俺は知らんかったし」

「それに、その三人ほどではありませんが、この人やこの人の宣伝効果もあるようです」

 

 律が表示したのは、これまた伊吹さんの知り合いだ。

 経歴を見れば、ゲーム雑誌のコラム書いてたりしてて名の売れてる人だったりなんだったり……

 並んでる人がバラエティ豊かなのは、このせいか。

 

 それほどの人たちと知り合いだなんて……

 

「ほんとに何者なんだ、伊吹さん……」

 

 俺が思ってるより、あの人は凄い人なのかもしれない。

 知らないところで世界を救ってたりとか……なんて、流石にそれはありえないか。

 

「とにかく、今日は忙しくなるな。想定以上の売れ行きになるかもしれない」

「A組に勝てるかもしれないね。みんな頑張ろう!」

 

 磯貝と片岡がみんなを鼓舞し、開店準備に取り掛かる。

 

 そこからは息をつく暇もないくらい、てんてこ舞いだった。

 接客と調理を行き来したり、こっそり材料調達に行こうとしたところを捕まったり、食器を洗ったり、捕まったり。

 それでも人の波は途切れることなく、俺たちは働き続けた。

 

 朝から昼になっても客の流れは衰えず、ようやく勢いがほんの少し落ち着いたかと思った時には、完全に昼時を過ぎていた。

 

「まずいです! どんぐり麺の在庫なくなっちゃいます!」

 

 慌てた様子で、奥田が言った。見れば、あと数人分しかない。

 

「サイドメニューの山の幸も売れ行きいいから、残りはこれで粘ろうよ」

「もう少し山奥に足を伸ばせば、まだ在庫は残ってるぜ」

 

 息が切れ、肩を上下させている木村が戻ってきた。

 

 うーむ、いま並んでる人たちくらいなら、残ってる食材でギリギリ回せないこともないが……

 

「いや、ここいらで打ち止めにしましょう」

 

 殺せんせーが触手で×を作った。

 

「でも、それじゃ勝てないよ」

「いいんです。これ以上採ると山の生態系を崩しかねない」

 

 動物に詳しい倉橋が同意して頷く。

 学園祭が始まるまで、メニュー開発のために採った数だって少なくない。そして、ここに来てこの多さ。

 裏山がいかに大きいといえど、さすがに限界か。

 木村が『奥にはまだ在庫がある』と言ったが、それはつまり、すぐ行けるところは採りつくしたってことだからな。

 

 この山は、訓練したり、プールに使ったり、罠を張ったり……E組の場所の一つと言っていい。

 そこにあるもの、住む動物たちの環境に影響を与えてまで、A組に勝ちたいわけじゃない。

 

「……そうだな」

 

 この場所を食いつぶして勝っても、後に残るのはそのちっぽけな勝利だけ。俺たちが過ごしてきたここを無駄に消費しても何にもならない。

 ここに居られることを当たり前に思ってはいけない。

 

 それは出会った人たちに対しても、だ。

 暗殺者たちに、わかばパークの子どもたち、伊吹さんたち。そして、そこから繋がれた輪。

 良くも悪くも、それらだって俺たちを構成する環境だ。

 悪い人に出会ったことも経験にして、良い人に出会えたことに感謝して、自分の中で咀嚼して糧にして……物や場所や人との関係を大事にできる人間になっていく。

 

 殺せんせーは、そういうことを教えたかったんだろう。

 

「結局は授業だったってことかぁ」

「学校行事だしねえ。教育者から見たら、生徒を育てる一環ってことでしょ?」

「もちろん! 楽しむのも良いですが、生徒の成長のチャンスは逃しませんよ」

 

 にやり、と殺せんせーが笑う。

 そりゃ、ただ単純に材料の集め方から食材への精製方法まで教えてくれるとは思わなかったが。

 

「いま並んでくれてる人たちで最後にして、そこから先は売り切れってことにしよう」

 

 大行列であること、そしてもう夕方であることからなんとなく察していていたのか、文句を垂れる人は少なかった。

 ちょっと言いがかりをつけてくる輩もいたが、矢田には敵わない。そうしてつつがなく列を消化していった。

 

 人が少なくなるのに合わせて看板もメニュー表も撤収して、祭りの後の寂しさを少しだけ感じた。

 

「どうしたの?」

「いや、こんな楽しい文化祭は初めてだと思ってな」

 

 不破と一緒に食器を洗いながら、窓の外を眺める。ちょうど最後の客が出ていったところで、満足した顔で山を下っていっている。

 自分のしたことで誰かが笑顔になる。なんかいいな、こういうの。

 

「あ、そこから変なこと考えちゃだめだよ」

「なんだよ、変なことって」

「この時間を守るために~とか言って、また『貌なし』になっちゃったり?」

「しないよ、もうあんなことは。そんなに信用できないか?」

「信じたいけど……まだ『貌なし』の服持ってるんでしょ?」

 

 あ、結構痛いところ突かれた。

 

「あれだから……普段着として使えるから、アレ」

「あんだけ血ついてたら無理だよ!」

 

 まあね。何回洗っても落ちないからね、血が。

 灰色なら大丈夫かと思ったけど、割と目立つんだよなあ。捨てようにも、意外と愛着あるんだよ。

 今でもまだ、自分の部屋に隠してある。

 いつかは捨てないといけないんだろうけど。

 

「あれ?」

 

 不破が外を見て、疑問符を浮かべた。なんだ、と訊く前に俺も気づく。

 もうこれ以上客が来るはずないのに、一人の女性が坂を上がってきた。

 

 渚のお母さんだ。



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74 等身大の中学生

 渚の母親には、あの夜に見られたようなヒステリックさはなくなって、歳相応の落ち着きが感じられた。

 食材をこれ以上採りにいくのをやめたからもうほとんど何も残っていなかったが、かろうじて山葡萄ジュースを出せるだけはあった。

 渚は紙コップに入れたそれを受け取って、先に座らせている母親の元へ向かう。

 

「なに話してんだろうね」

「さあな」

 

 カルマも俺も、様子が気になって遠巻きに眺める。

 盗み見は野暮だが、なんとなく彼らの行く末を見届けたかった。

 話してることは聞こえないけど、でも……

 

「二人とも悪い顔じゃないな。心配はいらないみたいだ」

「そうだね。なにせ、わざわざ放火しようとしてるところを止めたくらいだからね」

「知ってたのか?」

「殺せんせーに聞いた」

 

 ……まあ、別に隠すことでもないか。カルマもあの人の狂気には気づいていたから、気になったのだろう。

 

 しばらくして、去っていく母親の背をじっと見送る渚に近づく。

 

「よかったな、渚」

「うん」

「あの人の目、ちゃんと息子を見る目だったよ」

「ほんと?」

「目だけは良いんだ。信じてくれていい」

 

 小さく笑う渚がありがとうと言ってくる。

 別に俺が何かをしたわけじゃない。全部、渚が立ち向かって得たものだ。

 だけど俺は素直にそれを受け取った。

 

「おーい、國枝」

 

 サボってるのを咎めに来たか。寺坂が俺を呼ぶ。

 だが、用件はそれとは別だった。

 

「お前にお客さんだ」

「客って……もう売り切れだって言ってくれよ。下でも倉橋とか矢田が伝えてくれてるはずだろ?」

「お前が直接言え」

 

 寺坂が顎をくいっと動かす。

 示された先には……

 

「父さん……!」

 

 ここにいるはずのない、ここに来るはずのない人物がいて、動揺した。

 

「母さんも? 何しに……? ここ、学校だけど……」

 

 仕事着であるビジネススーツ姿の父さんと母さんが、二人並んでいる意味と目的がわからず、混乱したまま尋ねる。

 

「そんなことは知ってる。だから来たんだ」

「仕事は?」

「午後は休みを取ってる。そのはずが長引いて、来るのが遅れたが」

 

 すまない、と言う父さんの意図がまだわからず、俺は考えを巡らす。

 椚ヶ丘の学園祭は有名だから、少し回ろうとでも思ったのか? 特に今年は浅野が全力を出しているから、本校舎はかなり賑やかになっているはずだ。

 派手に宣伝もされてるし、きっと、それが目当てに違いない。

 

「本校舎ならまだいろいろやってるはずだ。なんなら案内するけど」

「学園祭を楽しみに来たわけじゃないんだ。いや、楽しみにはしていたんだが」

「ちょっと話せる?」

 

 

 一つ残されたテーブルに、二人を座らせる。その対面に俺も座って、言葉を待った。

 いったい、本当に何をしに来たんだ? こんなに答えが出ないなんてことは、今までなかった。

 学校に両親が来るだけで異常なのに、そのうえ俺と何か話そうとするなんて……

 困惑と緊張で、身体が固まってしまう。

 

「すまないな。まだ仕事が残ってるだろうに」

「もう片付けだけだよ。一人抜けたくらいじゃ、別に……」

「E組は……本校舎とはこれだけ離れているのね。知らなかったわ」

 

 だろうね。と言うのを黙って、俺は単刀直入に聞くことにした。

 こんな中身のない会話をするために来たんじゃなかろうに。

 

「それで? ただ世間話をしに来たわけじゃないだろう」

「世間話をしに来たんだ」

「遠回しな話はいいよ。必要なことだけ言ってくれればいい。それがいつもやってきたことだ」

「響、話を聞いて」

 

 苛立って、机を叩きたい衝動を抑える。膝の上で握られた拳から血が出そうなほど力が入る。

 

「聞いてる。聞いてるよ。いつも聞いてきた。だから今もこうやって聞いてる。ちゃんと言ってくれれば、それをやる。ずっとそうだっただろう。こんな時間、お互いにとって無意味だ。」

「私たちは本当に、響とただのお話をしにきたの」

 

 がたりと音が鳴った。

 我慢できなくなって、俺が立ち上がったのだ。

 勢いよく立ったせいで、椅子が転がった。

 

「俺はもう戻る」

 

 踵を返し、校舎の中へ戻ろうとする。

 何を企んでいるのかはわからない。だが、あの言葉に意味はない。きっとそうだ。だからこれが正しい。

 勝手に期待しておいて、裏切られたと思って、失望するのはもうたくさんだ。

 

「國枝くん」

 

 遮るように、渚が正面に立った。

 

「親と向き直るって、君が教えてくれたことだよ。僕はそのおかげで母さんとああやって普通に話できるようになった」

 

 少し怒っているような表情で、頑としてどこうとしない。

 

「君は逃げるの?」

「これが、俺と親の関係なんだよ。俺があの人たちに言うことも、あの人たちが俺に言うこともない」

「嘘だよ」

 

 渚は即座に否定する。

 

「國枝くんは理不尽に身を置いてたから、自分の人生がなるようにしかならないって考えてる。だから親に向き合うことを避けてるんだ」

「お前に何がわかる」

「わかるよ。僕も一緒だったから」

 

 淀みなく言ってみせる彼の表情に嘘はない。

 下手をすれば、俺より長い間苦しめられてきたことだろう。

 潮田渚ではなく、母の二週目として育てられた彼は、十五年間『自分』という存在がなかった。

 目を向けるべきものから逸らす。立ち向かうべきものから逃げる。そういった意味で、俺と渚は一緒だった。

 

 いまでは彼が一歩先をいっている。

 

「目を逸らさずに、ちゃんと見て。國枝くんは人の感情がわかるんでしょ」

 

 渚が俺の肩を叩いた。

 

「今度は、國枝くんが向き合う番だよ」

 

 俺はわざとらしく眉間にしわを寄せ、ため息をつく。

 振り返って、元の場所へ腰を落ち着けた。もう一度ため息。

 

「話をするだけだ」

 

 姿勢の変わらない二人に、ぶっきらぼうに言う。逸らしたかったが、勇気をもって目を合わせる。

 彼らの顔は、先ほど渚の母が息子に向けたものとよく似ていた。

 

「話をしてくれるのか?」

「終わるまで帰らないつもりだろ」

 

 父の言葉に、俺はまたしてもぶっきらぼうに返す。

 

「今日来るって、一昨日に言いたかったんだ、本当はな」

 

 無駄口を叩くつもりはない。俺はじっと聞く。

 

「長いこと、お前を放っておいたこと、謝らせてくれ」

 

 がばっと頭を下げられる。テーブルに打ち付けてしまいそうな、そんな勢い。

 それを見せられて、俺の脳裏には今までのことが蘇った。

 三年E組になってからの事だけじゃない。物心ついてから、今日に至るまでのすべてが浮き上がった。

 

「八年と半年ちょっと。それがどれだけ長いかわかるか? 俺が生きてきた半分よりも長い」

 

 あんたたちが働いている年数よりも短い。だけど、それが俺の全てなんだ。俺が感じた全てなんだ。

 こうやって怒りを感じて、意地になって、それが当たり前になってしまうくらいには十分な年月だ。

 

「わがままだってのはわかる。けど、俺はあのとき、まだ小学生だったんだぞ」

 

 料理を作ったことか、卒業式に来てくれなかったことか、それとも他のことか。どれのことを言っているのか、自分でもわからなかった。

 あるいは、そのどれもを指しているのか。

 ぐしゃぐしゃになった感情が口を動かした。

 

「いまさら頭を下げられたくらいで……っ」

 

 ガン! と机に拳を叩きつける。心から湧き上がる衝動を必死に抑える。

 素直に喜べばいいものを、意固地な心が許さない。

 

「言葉じゃいくらでも言える。だから行動で示すよ。響が父さんたちにしてほしいこと、なんでもする。だから話してくれ」

 

 それだって、言葉だけじゃないのか。

 来てくれた事実を無視して、俺はそう思う。

 

「償いのつもりか?」

「償い……そうね、私たちは罰せられることをしてきた。罵倒されても、殴られても文句は言えないわ。そのことに関しては、あなたに謝らなきゃいけない」

 

 机の上で震える拳を、母さんはそっと包みこんだ。

 

「でも、信じて、響。私たちはちゃんとあなたを愛してる。こんな千切れた関係のまま終わりたくないの。それだけは信じて」

 

 かつて、不破が言った言葉を思い出す。

 

 『これが私たちなの? 國枝くんは、私たちとこんな関係でいいの? こんな……お互いに勝手な関係で?』

 

 彼女を置いて、『蟷螂』のところに向かった後の言葉だ。

 

 いいはずがない。

 俺だって、みんなが仲良くできるならそれに越したことはない。

 心の引っ掛かりなんてなくなって、誰もが手を繋げられるならそれが一番いい。

 

 でも『だったら、もっと早く俺のところに来てくれよ!』と心の一部が叫んでいる。

 

 ……違う。そうじゃない。俺がぶちまけたいのは、そんな怒りの感情じゃないだろ。

 この瞬間をずっと待ってたのは、罵倒するためじゃない。

 そのことに気づいて、大きなため息をつく。

 俺が本当に言いたかったのは……

 

「ずっと夢見てた。こうやって、父さんと母さんが俺の目を見てくれることを。俺の話を聞いてくれることを」

 

 本音を言うと、父さんと母さんが目を伏せた。恥、そして罪悪感を感じている。

 その表情のまま、母さんはもう一度俺に目を合わせた。

 

「響の友達や先生方が、わざわざ正式にアポを取って私たちを誘って来てくれたの」

 

 疑問が一つ解けた。

 最近隠し事をしているのは感じていたが……そうか、そういうことか。

 

「お前がどれだけ努力して、苦しんできたかを伝えてくれた」

 

 父さんが言葉を継ぐ。

 

「お前は昔から成績も優秀で、身の回りのことだって一人でできていた。だから、そんなお前に甘えて、父さんたちは仕事を言い訳にお前と向き合うことをしなかった」

「やりたいことをやらせて、お金さえ与えれば十分だと思ってた私たちがいかに愚かか、他人に言われてようやく気付くなんて、親失格よね」

 

 ごめんなさい。二人はまた謝った。

 

「先生に頼んで、近況を聞いたりした。成績はいつも学年で上位のほう、修学旅行や夏休みの合宿でもなにやら活躍したそうじゃないか」

「あなたの評価が高いのは、親としても嬉しいわ」

 

 なに恥ずかしいこと言ってんだ。この二人も、みんなも。

 

 こんな会話……まるで、俺が思い描いたとおりの、理想の会話じゃないか。

 胸の奥から、何かがこみあげてきた。

 

「響の口から聞きたい」

 

 すっと、父さんは身を乗り出した。

 

「どうだ、学校は楽しいか?」

 

 漫画とかでよく見る、親から子への話のきっかけ。

 それを言われるのを、何度、何度、何度望んだだろう。

 ぎゅうっと胸が締め付けられる。普久間島でみんなが菌に侵されたときや正体がばれたときとは違う、心地の良い圧迫。

 それに押されて、いつの間にか涙が頬を伝っていた。

 感情に蓋をするのは得意だったはずなのに、溢れてくるものを抑えきれない。

 

「うん……楽しいよ。ここに来れてよかったって、毎日思う……っ」

 

 拭っても拭ってもぼたぼたと落ちていく涙のせいで、ちゃんと喋れているのかわからなかった。

 制服が濡れるたび、涙がテーブルに染みをつくるたび、自分の中の悪い感情が流されていくようだった。

 

「話してくれない? 響のこと」

「うん……うん……」

 

 

 

 話し疲れたと思った時には、もう夕暮れ時になっていた。

 俺が話すことを、父さんと母さんは黙って、時々相槌を打ちつつ聞いてくれた。

 こんなに饒舌になったのは生まれて初めて。こんな笑顔で話せたのも初めて。

 

「明日も休みを取ってるんだ。遊園地とかでも行くか? どこだって好きなところに連れてってやるぞ」

 

 学園祭の時間も終わり、保護者も帰宅を促される時になった。もっと話したいけど、本校舎の先生に見つかったら厄介だ。

 名残惜しそうに立ち上がる父さんはそう言って、明日の日曜に俺が何をしたいのかを言ってくる。

 

「いや、いいよ。明日は家にいてくれたら」

「いいのよ、わがままになっても」

 

 疲れてるだろうから遠慮していると思われているのだろうか。

 いやいや、全然そんなんじゃない。

 

「一緒に家にいてほしいんだ。話したいこともまだたくさんある」

 

 俺にとって、二人が一緒にいてくれて、俺を見てくれるだけで幸せなんだ。

 だから明日は引きこもっていよう。起きてから眠るまで、これまでを埋めるように一緒にいよう。

 

「それに、たまには一緒にご飯が食べたい」

 

 

 テーブルと椅子を片づけて教室の中に戻ると、すでに元通りになっていた。

 そりゃ、あんだけ時間があれば片付くよな。

 

「ごめん、けっこう待たせたな。それと……ありがとう。俺のために、色々してくれたみたいで」

 

 みんなは、気にしてないよと首を振る。

 カルマだけはそうしてこなかったが、代わりに、にやにやと笑って自分のスマホの画面を見せてきた。

 

「いや、いいんだよ。國枝の泣いてるところなんて滅多に見れないからね」

「おまっ、消せ! 今すぐ消せ!」

 

 俺はカルマのスマホを奪おうと手を伸ばすが、ひらりひらりとかわされてしまう。

 

 そこには、ぼろぼろと涙を流す少年と、彼を優しく見守る両親の姿が映っていた。



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75 支配者になるがゆえの苦悩

「期末テストです!」

 

 ……もうツッコまんぞ。たとえ殺せんせーの分身が俺たちの人数を超えても、驚くようなことじゃない。

 とはいえ、この光景はなかなか気持ち悪い。

 正面と左右に一人ずつ、計三人が生徒一人についている。おまけに質問すればさらにもう一人増える。

 

「みなさんご存知の通り、みなさんと本校舎の生徒たちは三学期からカリキュラムもテスト内容も変わります。つまり、同じ条件で戦えるのは次の一回きりです」

 

 教壇にも一人。勉強を教える係とは違って、俺たちを奮起させる殺せんせーの姿。

 

「今度こそ、全員五十位以内を目指しましょう。覚悟はいいですか?」

「こっちが先に啖呵きったからな。いまさら後には引けないよ」

 

 そう、中間テスト終わりに俺とカルマはA組に宣戦布告した。次の期末テストで、A組とE組の因縁に決着を着けよう、と。

 浅野の他にも五英傑がいて、しかもその下もトップの学力揃い。

 テスト問題は、理事長の命令によって歴代最難易度のものが作られるらしい。噂では、大学入試レベルだとか。

 それだけの逆境に、俺たちは勝たなきゃいけない。

 この一年間が、殺せんせーたちの教えが、本校舎の奴らよりも上だということを証明したいのだ。

 

 全力をぶつけてやろうという気概は殺せんせーも同じで、一切手を抜くことなく教え、質問に答えてくれる。

 

「まったく、熱意に溢れた人だな……」

 

 熱意と言えば、あの人はどうしてるんだろうか。

 殺せんせーが来る前、E組の担任だった人……底辺で燻ってたE組を相手に、常に真正面から向き合ってくれる先生。

 なんの通達もなしにいきなりいなくなって、それからすぐ暗殺だなんて言われてドタバタしていたから調べ損ねたけど……あの人も良い先生だった。

 

 雪村あぐり先生は、いまどこで何してるんだろうか。

 

 

 『貌なし』で活動していたことと、入院していたことが重なって、他のみんなより遅れている自覚があった俺は、放課後もみっちり先生の補習を受けた。

 苦手でも高得点を取れるように。得意な教科は取りこぼしがないように。

 おかげで、もう何も考えられないほど疲れ、机に突っ伏してしまった。

 

「大丈夫ですか、國枝くん」

「なんとか……」

 

 詰め込んだものが落ちないように、ゆっくりと頭を上げる。

 

「頑張ってますねえ」

「まあな。二学期もいろんなことがあったぶん、ちゃんと勉強しないと」

 

 夏休み最後の鷹岡襲撃から『死神』事件まで、勉強に費やす時間はほとんどなかった。

 一学期は上位に食い込めたが、今回は厳しい。

 

「正直、結果どうなると思う? 全員五十位以内に入れると思うか?」

「……A組の生徒たちも努力を続け、ずっとトップを走っている子たちです。楽勝とはいかないでしょうねえ」

 

 それに関しては同意。

 以前、この学校のシステムは、下に落ちないための努力しかできない仕組みになっていると言った。

 だから俺たちは余裕ぶってたA組の足を掴み、引きずり下ろすことが出来た。

 しかし今回は違う。ただでさえ頭の良い連中が、俺たちを侮ることなく全力で向かってくるだろう。

 

「正直に言えば、五分五分だと思います。ですが心配はしていませんよ。君たちが全力で戦えば、きっと勝てるはずです」

 

 そう、俺たちにも意地はあるのだ。ここまで戦ってきた経験とプライドがある。

 俺たちがやってきたことを無駄にしないためにも、最強の先生たちが教えてくれたことをを活かすためにも、この勝負は絶対に俺たちが勝つ。

 勝って証明するんだ。E組の強さを。

 

 

 國枝より一足早く校舎を出ていたE組を、ある一人の男が待っていた。

 浅野学秀が腕を組んで、鋭い目つきをこちらに向けていた。

 

「浅野くんじゃん。どうしたの、こんなところで」

「頼み事があって来た」

 

 そう言って、浅野はE組に向き直った。

 

「今の理事長のやり方は間違っている。あんな復讐心を煽るようなやり方では心がもたない」

 

 本校舎では理事長が直々に教鞭を振るっている。

 その手腕は凄まじく、普段指導を任されている教師よりもわかりやすく、しかしスピードはそれ以上に早い。

 A組でさえ、ついていけない生徒がちらほらいる。それらへ、理事長は特別な()()()()をしていた。

 

 今までの負けた悔しさを鮮明に思い出させ、E組への憎悪を極限まで増させ、集中力を尖らせている。

 野球大会で進藤に行った精神的ドーピングだ。

 

「この場で勝てたとしても、この先、人を憎むことでしか進むことが出来なくなってしまう」

 

 それを浅野は危惧していた。

 怨念とも呼べるような負の感情と成功をイコールで結ぶようになってしまえば、より大きな憎悪を求めてしまうようになる。恨み、恨まれるために狂ったことをしてしまうかもしれない。

 

「あのクラスは、高校に上がっても僕の部下だ。そんな歪んだやり方しかできないような部下を正しく導いてやりたい」

「だから、テストでE組が勝つことで、間違いを認めさせるってこと?」

「ああ、それと……」

 

 カルマたちは驚いた顔で目の前の男を見た。

 

「どうか、あいつのことを救ってやってほしい」

 

 あの浅野学秀が、わざわざE組の通学路まで来て、しかも頭を下げている。

 あまりにも不思議すぎる光景に、口を開けたのはカルマだけだった。

 

「なに、なんか企んでるの?」

 

 カルマが疑うのも無理はない話。

 テスト前のこのタイミング、しかも本校舎の生徒が来るはずもない山道に、彼が来るだけでもおかしい。

 そのうえプライドの塊である浅野が、E組に頭を下げているのだ。

 

「國枝を助けることは、僕には出来なかった。いやしようともしなかった。その過ちは認める。だから君たちにはそうしないでほしい」

 

 過ち? と疑問を発するE組へ、浅野は言葉を続ける。

 

「……國枝は、もともと五英傑レベルに頭の良い奴だった」

「國枝くんってそんなに……?」

「総合470点。学年12位。それが一学期期末テストの國枝の点数だよ」

 

 『貌なし』として活動していたのにね、という言葉は飲み込んで、すらっとカルマが答える。

 

「一学期期末って、教科トップを争ってた時の……」

「そ。國枝は教科トップを取れてないけど、全教科で高得点を取れてる。苦手な理科だって、91点」

 

 あの時は教科トップを取るため、ほぼ全員が得意分野を尖らせていたために、國枝は二位以下に甘んじた。

 しかしその総合成績はA組にいてもおかしくないほどだ。

 

「E組に落ちるきっかけとなった二年の学年末テストを除けば、あいつは高得点を取り続けてた。一位に僕、二位に赤羽、三位争いは五英傑の残りと國枝。いつもそうだった。だが去年度の期末テストで、過去最悪の点数を取ったのは知ってるか?」

「そういえば、國枝はわざとE組になったって……」

「厳密に言えば、僕たちから離れたんだ」

 

 『死神』が暴いた、國枝がE組に落ちた真相。浅野は遅れてそこにたどり着いた。

 

「あいつは自分の場所が欲しかったんだ。自分がいていい場所を探し続けて……でも本校舎は成績ですべてが決まる。僕も國枝を駒としてしか見てなかった。それに嫌気が差したんだろうさ」

 

 自分がいていい場所を求めて、そしてその場所を守るために『貌なし』になっていた國枝。

 それを思えば、E組に行きたいと考えるのも無理はない。

 

「何も見てやれなかった。國枝は僕を助けてくれていたはずなのに……」

「助けてくれていた?」

「……僕には借りがある」

 

 カルマは眉をひそめた。

 E組になる前から、國枝は『貌なし』として動いていた。それは『死神』が調べたとおりだ。

 そして彼はこうも言っていた。その時から國枝は、近い人間……浅野学秀たちを守っていたと。

 

 國枝は巧妙に隠したはずだ。

 しかし、浅野がふと疑問を持てば、気付くのにそう時間はかからない。

 

 問題は現時点でどこまで気づいているか、だが、カルマの見る限りほとんど確信を持っているようだった。正体をこの目で見る前の彼と同じように。

 そうだと疑ってなお、いやそうだと思っているからこそ、浅野は國枝のことを放っておけなくなったのだろう。

 そこもまた同じだと、カルマはため息をついた。

 

「僕にはできなかった。だけど……どうか、あいつのことを救ってやってほしい」

 

 浅野はもう一度、深く頭を下げた。

 

 

「どうか、あいつのことを救ってやってほしい」

 

 帰り道の途中で、珍しいものが見れた。あの浅野がE組に頭を下げている。

 見間違いかと思ったが、まさか俺が彼を見紛うはずがない。

 彼のプライドのためにも見て見ぬ振りをかまそうかと思ったが、へんてこな発言は聞き捨てならない。

 

「なに馬鹿なこと言ってんだ」

 

 浅野の肩を掴んで、無理やり引っ張り上げる。

 『救ってやってほしい』なんて言われるほど、いまの俺は危なっかしくはないつもりだ。

 追い詰められた顔しやがって。テスト前でこんなことしてる余裕なんてないだろうが。

 

「君がE組に落ちたのは、僕のせいだろう。僕が君を駒としてしか見なかったから……」

「理由は……まあ合ってる。だが、お前が気に病む必要はないだろう」

 

 わざわざこっちまで来て、お願いをしにくるなんてどうにかしてる。

 

「浅野は浅野のやるべきことをやった。俺は俺のやりたいことをやった。それだけだ」

「それに、お前に頼まれなくてもこいつのことは俺たちがよくわかってんだ」

 

 寺坂が肩を組んでくる。

 E組のみんながいてくれるから俺は変われた。

 

 彼の目には壊れそうな存在に映っていたかもしれないが、もうそんなのは過去だ。

 

「そういうことだ。駒はお前の手から離れても、落ちちゃいない」

 

 こんなことでこいつの点数が落ちるなんてくだらない結末はごめんだ。

 俺はあえて挑発するように、びしり、と浅野に人差し指を突きつける。

 

「見せつけてやるよ。俺が、E組がどれだけ強いかってことをな」

「そうそう。上位は俺たちE組が貰うよ。俺が一位で、そっからもE組。浅野くんは、いいとこ十位ってとこだね」

 

 カルマも乗ってくれる。おかげで、浅野も遠慮を取っ払ってくれた。

 

「なら、覚悟するといい。僕は負けない。E組は全員叩きのめす」

 

 そう言う浅野の目は、いつもと変わらず好戦的で、口角は不敵に上がっていた。

 

「期待してるよ」



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76 全力五重奏

 俺たちはこれ以上ないくらい努力を重ね、万全……とは言えないが、今までのテストだったら全教科90点以上は固かっただろう。

 それくらい自信を持っていた。だが……

 

「くそ、一教科だけでこんなに頭使わされるとはな……」

 

 本校舎で受ける期末テスト、その一教科目である英語に、俺たちは打ちのめされていた。

 やたらと問題が多いうえに、一つひとつが高水準。受験問題でもこんなん出ないんじゃないか。

 

「解ききれんかった……」

「つーか、最後の問題までたどり着いた奴いんのかよ」

 

 一教科目ですでにグロッキーだ。

 無理もない。問題文もヒアリングも語彙が多いし、普通にスラングが混じってる。

 小説や論文から引用してきた文の和訳問題だって、ただ訳しちゃだめで、原文のニュアンスも考慮しないとだめっぽかった。

 特に最後の問題なんか、完璧に解けてるのはカルマと中村くらいなんじゃないのか。無理ぞこれ。

 

「A組やばかったよ」

 

 超えなければいけない壁であるA組のいる教室へは、三村がちょっと見にいっていた。

 

「ずーっと一心不乱に集中してた。俺らが覗きに行ってもまったく意に介してなかったよ」

「テスト前、理事長がA組に直々に教えてたからな。野球大会の進藤にしたのと同じだよ。殺意を高めて集中力を増してる」

 

 杉野がううむ、と腕を組む。元々エリートだったのが、さらにドーピングされたってか。

 しかしそんなのは関係ない。

 

「他のクラス気にしてる場合じゃないぞ」

 

 糖分補給用の小さなチョコレートを二人に投げながら、俺は注意する。

 

「出題範囲がめちゃくちゃ広い。ちょっと悩んだだけでタイムアップだ」

「そうだよね。気を引き締めていかないと」

 

 不破がぐっと拳を握る。

 一筋縄ではいかないことはわかった。なら一瞬も油断せず、最後まで諦めずにぶつかるだけだ。

 

 

 試験開始のチャイムが鳴ると同時、今までのテストと同じく、俺はイメージの中にいた。

 敵味方入り乱れる戦場。気を抜けば即死の場。

 

 砲弾が撃ち込まれる前に退避して、爆撃を避ける。

 

 社会は日本史・世界史から時事問題まで、あらゆる場所の長い歴史から出題される分、知らないとどうしようもない。

 詰め込みに詰め込んできたが、テスト問題は容赦ない。

 

 おそらく、全教科こんな感じだろう。解ける者と解けない者できっぱり分かれるはずだ。

 つまり、点数に開きが出る。一点も無駄にはできない。

 

「いい動きしてるな、國枝」

 

 磯貝の声を背中に受け、先ほど攻撃を加えてきた戦車の砲身をぶっ叩く。

 弱点を知っていれば、途端に柔らかく思えるのが社会の問題だ。

 

「教えられたことは忘れてないつもりだ」

 

 今回は、殺せんせーだけじゃなく全員が全員に教え、教えられている。みんなが先生であり、生徒なのだ。

 殺せんせーがいない場合でも誰かに訊くことができ、教える側も理解を深めることが出来る、

 そうすることで弱点をなくし、得意を磨き上げた。

 

 今回は一教科の勝負じゃなくて、総合点数での争い。五教科とも隙なく仕上げなければならない。

 

 そうは言っても、敵が堅いけどな。

 なんとか頭を凹ませたものの、これが精いっぱい……だというのに、A組はこぞって狂ったように敵を叩いては剥いでを繰り返して点数を稼いでいる。

 

「あんなデタラメな集中力……ありかよ」

 

 なりふり構わないようなやり方に、磯貝は辟易とする。

 あんなのが続けば、A組の点数はやたらと高くなってしまうだろう。

 

「……いいや、もたないだろうな」

 

 俺はボソッと言った。

 

「ん?」

「いや、なんでもない。とにかく目の前だけ見てろ」

 

 俺はぱっと疾走する。

 魔法のように多彩な攻撃をしてくる理科も飛び越えて、疲弊は残さず次へ。今度は国語だ。

 

 瞬時に目の前の現れた剣士の不意打ちを、すんでのところでナイフで止める。

 

「重っ……」

 

 現代文は文章量が多いうえに独特の表現が使われている小説と、専門用語が多用されている評論。

 的確に急所を狙わなければ三角ももらえない。

 

 刀を受け流し、相手が体勢を崩したところを一閃。

 カタカナになっているのを漢字に直す問題はすれ違いざまに片づけてしまって、次だ。

 

 四本の腕にそれぞれ武器を備えた武士が立ちはだかる。

 

 四択問題か……こういうのはまず……

 特に迷いもせず、相手が動き出す前に二本の手を切り落とす。

 

 選択式の問題は、正解とそれっぽいものの二択にまでは簡単に絞ることが出来る。

 あとは紛らわしいのが残るが……問題文を文節で分けてしまえば、間違っているところがわかりやすい。

 やたらめったらに切りつけてこようとするが、隙を見抜いて左手を切り裂いてやった。

 敵があっけにとられている隙に、頭に肘打ち。倒れるのも見ず、前に進む。見直している時間はない。

 

 こうしている間にもどこからか弾が飛んでくる。刃が掠める。

 俺たちは何度も傷つき、倒される。だけど倒れたままでいるわけにはいかない。

 時間の許す限り、何度でも立ち上がって挑む。

 どれだけ土をつけられようが、理不尽にさらされようが、上を見て戦い続けるのだ。

 それがここで、E組で学んだ戦い方だ。

 

 ……

 …………

 ………………

 

 激戦はあっという間に終わり、二学期末テストを終えた翌日、緊張しながら殺せんせーに注目する。

 今日はテスト返却のみの日。

 さすがにこんな状況じゃ、日課となっているHRの一斉射撃を誰もやろうとはしなかった。

 

「さて、一つひとつの教科点数は後でいいでしょう。みなさんが知りたいのは、総合点数と学年順位ですからねえ」

 

 もったいぶる殺せんせーに文句を言う者はいない。誰もがツッコむ余裕がないのだ。

 正真正銘、A組との最後の勝負。

 それはつまり、本校舎とE組の教育の勝負でもある。極端に言えば、殺せんせーと理事長の教育方針、どちらが正しいかという問題に決着が着く。

 

「こちらが勝負の結果です!」

 

 殺せんせーが大仰に、50位までの点数と生徒名一覧が書かれた大きな紙を貼り付ける。

 その全ての名前を一度見て、もう一度見て、さらにまた見て、結果を脳に理解させ、心に落とし込む。

 

「点数が一番低いのって、寺坂だよな?」

 

 吉田が呟いた。その寺坂が47位。

 念のために、上から順に名前を見ていって、E組全員の名前があることをもう一度確認。

 

 ということは……

 

「よっしゃああああ! 全員50位以内! 俺たちの勝ちだ!」

 

 わあっと勝鬨を上げるみんな。

 ここまで静寂だったぶん、教室が揺れんばかりに騒いでいる。

 

「浅野くんも一位から転落。完全勝利って言ってもいいんじゃない?」

 

 そう言うカルマが一位。全教科満点の500点。

 続く二位にの浅野は497点。どちらもあの難易度に対して化け物じみた得点だが、優劣ははっきりと数字に表れている。

 カルマはふふんと笑った。順位貼りだされた瞬間、ほっとした表情したの見逃してないからな。

 

「飄々としやがって。嬉しいなら嬉しいって言えばいいのに」

「それはお互い様でしょ」

 

 拳を合わせる。

 俺は浅野には勝てなかったが、総合8位。浅野を除けば、残りのA組で一番順位が高いのは9位の榊原。

 一点差のギリギリ勝負だったが勝利できた。国語も狙い通り百点。

 

 確かにA組は強かった。だけどペース配分を考えない極度の集中状態が長く続くわけもなく、後半につれて点数がガタ落ちになったらしい。

 特に最後科目の数学は、しっかり頭働かせてないと解けない問題だらけだったからな。

 理事長が教えたからこそ点数が上げられているが、理事長が教えたからこそ停滞してしまった。

 本気で殺そうとするような集中力なんて、一朝一夕で見に着くもんじゃない。

 A組の敗因はそこにある。

 

 この結果に、誰も文句は言えない。

 あのA組も完膚なきまでに負けたことを……

 

 ガガガガガ!

 

 突然、腹まで響くような低い振動音とともに教室が少し揺れる。続いて、何かが潰されるような派手な音。

 音の大きさからして、発生源はすぐそこだ。

 みんな一斉に窓から身を乗り出して、音のしたほうを見る。

 

「ちょちょちょ、なんだこれ!?」

「おいおい、どうなってんだよ……」

 

 ショベルカーが校舎の半分を潰していた。一部を解体なんてもんじゃなく、全部取り壊しするように容赦なくバキバキと。

 呆気にとられた俺たちは、止めるとか逃げるとかできず、口を開けて見ることしかできなかった。こんな急に居場所を壊されているのだから無理はない。

 

 そんな混乱している中、頭の隅では犯人が思い浮かんでいた。

 目的はともかく、こんなことやる人なんて一人しかいない。

 その人物がこちらに気づくと、ショベルカーに止まるよう指示を出した。

 

「退出の準備をしてください」

 

 冷静な口調の中に狂気を孕んだ声。

 浅野理事長がそこにいた。



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77 支配者であるがゆえの苦悩

 期末テストでA組に勝った喜びもつかの間、突然現れた理事長が俺たちを指差す。

 

「君たちには、来年開講する系列学校の新校舎に移ってもらい、卒業まで校舎の性能試験に協力してもらいます」

「し、新校舎ァ!?」

 

 みんなが叫ぶ。

 

「監視システムや脱出防止システムなど、刑務所を参考により洗練させた新しいE組です。牢獄のような環境で勉強できる。私の教育理論の完成形です」

 

 ……あの完璧に思える理事長の顔が崩れて見えた。

 普段は理路整然として、こちらに反論の隙も与えないほどなのに、今回はなんというか……感情に身を任せてるような……

 

「どこまでも……自分の教育を貫くつもりですね」

 

 口を開いたのは殺せんせーだ。

 

「……ああ、勘違いなさらずに。私の教育にもうあなたは用済みだ。今ここで私があなたを殺します」

 

 そう言って理事長が懐から出したのは……

 

「こ、殺せんせーの解雇通知!?」

「ついに出しやがった……」

 

 どうしてもE組の教師であろうとする殺せんせーに対して、理事長のみが使うことのできる最強の脅しだ。

 

「はわわわわわわわわわわわ」

「そんでこれ面白いほど効くんだよ、このタコには!」

「超生物がデモに訴えるのはどうなの!?」

 

 殺せんせーはがたがたと震えて、『不当解雇反対!』などのプラカードを掲げる。

 本当は余裕あるんじゃないか。

 

「早合点なさらぬよう。これは標的を操る道具に過ぎない。あくまで私は……殺せんせー、あなたを暗殺に来たのです。私の教育に、不要となったのでね」

 

 その言葉に、殺せんせーがぴくりと反応した。

 

「本気ですか?」

「確かに理事長 あんたは超人的だけど、思いつきで殺れるほどうちのタコ甘くないよ」

 

 カルマも忠告するが、理事長はふふふと笑うだけだ。

 

「さて、殺せんせー。もしも解雇が嫌ならば、もしもこの教室を守りたければ、私とギャンブルをしてもらいます」

 

 もちろん、殺せんせーに拒否権はない。頷くと、理事長は教室の中に入ってきて、殺せんせー以外を追い出した。

 何をするつもりなのか。窓の外から固唾をのんで見守る。

 

 理事長が用意したのは、五教科の問題集と五つの手りゅう弾。四つは対先生手りゅう弾で、残り一つは本物だ。

 見た目や臭いでは区別がつかず、ピンを抜いてレバーが起きた瞬間に爆発するように作らせているようだ。

 

 暗殺のルールは次の通り。

 手りゅう弾のピンを抜いてから、問題集の適当なページに挟む。そのページを開いて、ページ右上の問題を一問解かなければならない。

 解けるまで一切動いてはならず、逃げることは許されない。

 順番は、先に殺せんせーが四つ解き、最後に残った一つを理事長が解く。

 

「このギャンブルで、私を殺すかギブアップさせられれば……あなたとE組がここに残るのを認めましょう」

 

 圧倒的に理事長が有利なルール。しかしこの暗殺を受けるしかない。

 

 殺せんせーは焦ってしまうと思考速度が落ちる。プールの爆破事件や『死神』の落とし穴の時も反応が遅れていた。

 その緊張状態と自分に有利なルールを作り出し、それを強制させられる立場。

 この暗殺は理事長にしかできない。

 

 触手が小さく震えている。

 殺せんせーは数学の問題集の前に立って、一度息を吸い、ぱっと開いた。

 その瞬間、衝撃音とともにBB弾が弾け飛ぶ。壁や天井に勢いよくぶつかり、激しく散乱した。

 

「まずは一発」

 

 得意げに理事長が言う。

 当の殺せんせーは……露出している顔や腕の表面が溶けていた。顔なんか凸の字のように削られている。

 たった一発でもこの威力か……

 

 そしてこの暗殺の恐ろしいところは、後半になるにつれて難易度が上がること。

 対先生爆弾を受けるごとに、身体の一部がなくなっていく。つまり殺せんせーの能力もだんだんと削られるということだ。

 パッと見て解くなんて元々無理くさいのに、それをあと三発耐えなければ……

 

「はい。開いて解いて閉じました」

「……は?」

 

 こともなげに殺せんせーが言って、俺たちは呆気にとられる。

 社会の問題集にはいつの間にか、解答が書かれている小さな紙が置かれていた。

 

「解いたのか、殺せんせー?」

「ええ。この問題集シリーズ、どのページにどんな問題が載っているか、ほぼ覚えています。数学だけは長いこと貸していたのでど忘れしてしまいましたが」

「私が持ってきた問題集を、たまたま覚えていたと?」

「いえいえ、あらゆる問題集を網羅してますよ。生徒に教える立場になるなら、それくらいはやらなければ」

 

 言っている間に、三冊目、四冊目を当たり前のように解いていく。

 ……全問題集の全部の問題を覚えているだって? そんなこと……

 

「教師になる情熱があるのなら、これくらいは出来て当然です。本校舎の生徒が負けて、短絡的になりましたね」

 

 今まで殺せんせーの異常な能力は散々見せつけられたが、それよりも教師としての能力、それと教師であろうとする努力のほうに驚くべきだろう。

 どうしてそこまでして、教師に、それもE組の教師に拘るのか……

 

 残った五冊目。これは理事長が解くものだ。

 かといって、殺せんせーみたいな芸当が出来るはずもない。

 開いたページの問題を覚えていたとしても、そこから爆発するまでに解いて、閉じるなんてことは人間には不可能だからだ。

 

 そんなことを考えているうちに、理事長は最後の問題集に手をかける。

 見た目、匂いでは判別がつかないと言っていたが、持ってきた彼にはどれがどれだかわかるはずだ。 

 本物じゃないとわかってて、躊躇なくいけるのか?

 いや、違う。

 理事長が問題集を開く。理事長は諦めたように目を閉じて、問題を見ようともしない。

 

 自殺だ!

 勝って殺すか、負けて死ぬか。理事長は元々そういう気でこの勝負を仕掛けてきていたのだ。

 一瞬後、爆風と光が教室を轟かし、俺たちは身を伏せる。窓からは煙が上がり、吹き飛んだ机が頭上を掠めた。

 あまりの衝撃に、耳鳴りが襲ってくる。残った五冊目こそ、本物の手りゅう弾だった。

 

 音と煙が収まったところで、ゆっくり身体を起こす。

 みんな咄嗟に回避姿勢を取れたおかげで無傷だ。肝心の理事長は……

 

 透明な何かに包まれて、まったくの無傷だった。

 

 脱皮か。

 殺せんせーの脱ぎ捨てられた皮は、爆風をものともしないほどの防御力を誇る。それで理事長を包んで守ったのだ。

 

 机は吹き飛び、床や天井に焦げが出来たが、理事長が無事なことにほっと胸をなでおろした。

 

「なぜそれを自分に使わなかった? 数学の爆弾を開くときに使っていれば、そんな洋ナシみたいな顔にならずに済んだものを」

「あなた用に温存しました。私が賭けに勝てば、あなたは迷いなく自爆を選ぶでしょうから」

「なぜ、私の行動を断言できる?」

「似たもの同士だからです」

 

 殺せんせーは理事長の手を引っ張り、立たせる。

 

「お互いに意地っ張りで教育バカ。自分の命を使ってでも教育の完成を目指すでしょう」

 

 殺せんせーは言い切った。

 

 彼は、テスト期間中に理事長のことを調べ回ったらしい。

 椚ヶ丘の学校が出来る前、理事長がこのE組校舎で塾を開いていた時の生徒たちに話を聞いていた。

 その時の理事長は、今と変わらずの傑物。だが生徒のことを一番に考える優しい先生だったらしい。

 なにやら大変なことが起きて変わったらしいが。

 

「私の求めた教育の理想は、十数年前のあなたの教育とそっくりでした」

 

 他人のことを思いやることができ、足りないものを補い合う。

 この教室は元々、そんな子どもを育てる場所だった。その理念を抱いて教鞭を振るっていたのは、理事長だ。

 

「私があなたと比べて恵まれてたのは、このE組があったことです。まとまった人数が揃っているから。同じ境遇を共有してるから。校内いじめに団結して耐えられる。一人で溜めこまずに相談できる」

 

 殺せんせーは俺たちを手で示した。ここで変わった俺たちを。この学校で一番賢く、強くなった俺たちを。

 それを見せつけられて、理事長はこんな短絡的な行動に移ったのかもしれない。

 自分がしたかったことを、叶えたかったことを、他の誰かが達成してしまったから。

 

 理事長の教育だって、外目から見たら間違ったものじゃない。だから椚ヶ丘は有名進学校として今もあるのだ。

 その全てが否定されたように感じて、苦しかったのだろう。

 

「殺すのではなく生かす教育。これからも、お互いの理想の教育を貫きましょう」

 

 あくまで対等に、殺せんせーは理事長の教育を肯定した。

 

「……私の教育は常に正しい。この十年余りで強い生徒を数多く輩出してきた」

 

 だから簡単にはこのE組も殺せんせーも認めることができないのだろう。

 

「ですが、あなたもいま私のシステムを認めたことですし……温情をもってこのE組は存続させることとします」

「ヌルフフフ。相変わらず素直に負けを認めませんねえ。それもまた教師という生き物ですが」

 

 そういう性格というか遺伝子というか。息子さんも極度の負けず嫌いだったし。

 

「それと、たまには私も殺りに来ていいですかね」

「もちろんです。好敵手にはナイフが似合う」

 

 理事長は対先生ナイフを掲げて、にこりと笑う。彼が心からの笑みを浮かべるなんて、初めて見た。

 ずっと気味の悪い仮面を被っているような表情だったのに。

 

 

「で、直すのも俺らかよ」

「そーいうところは変わんねーな、ったく」

 

 文句を垂れながら、壊された校舎を手ずから直していく。

 理事長はE組の解体を撤回。が、『君たちには教室一つあれば十分でしょう』と抜かして去っていった。

 いやいや、職員室壊されたままは困るんですが。

 

 まあ、今さら不平不満を言っても仕方ない。

 全員そろって派手に壊された職員室を片づけていく。壁と屋根作り直しだな……

 手が多い殺せんせーも精力的に動き、材料調達をこなしてくれている。

 俺たちだってわかばパークでのノウハウがあるから、何日もかかるなんてことはないだろう。

 

「いいですねえ、先生と生徒の共同作業。先生は楽しいですよ」

「俺らはうんざりだよ……」

 

 今日はテスト返しだけのはずだったのに、理事長が来たり、爆発が起きたり。少なくとも肉体労働はないだろうと思ってたのに……

 

「ところで、理事長の昔ってどんなんなんだ?」

「それは、私の口からは言えませんねえ」

 

 あんたは人から聞いたくせに……しかし、おそらくあまり話せないような事件が起きたことは推測できる。

 あの理事長が変わるような出来事。生徒に何かしらの不幸があったことまではなんとなく理解できた。

 

 材を加工して、千葉の指定通りに並べ、釘を打っていく。

 ここらへんはこ慣れてて、思ったよりも早く壁を設置することができた。

 そこまでやって、昼を越えたくらい。体力はまだ余裕があるが、さすがに腹が減ってきた。

 すでに女子がおにぎりを握ってくれていて、芝生の上にレジャーシートも広げてくれている。

 

「國枝くん、ちょっと休憩しようよ」

「ああ、そうだな。よっと」

 

 作り始めの屋根からすっと降りて、ふう、と一息つく。

 すると、不破がすぐさまたくさんのおにぎりを乗せた盆を持ってきた。

 

「はいどうぞ」

「あ、いや、いま両手塞がってるから」

 

 工具と釘をそこらへんに放るわけにもいかない。それに、作業しっぱなしで手が汚れてるし。

 

「あ、そっか。じゃあ、はい」

「お、さんきゅ」

 

 不破が差し出してきたおにぎりを、ぱくりと食べる。

 

「!!?」

「ちょちょちょちょいちょい!!」

「そこぉ!」

 

 俺と不破はびくりとのけぞりそうになる。

 なぜかみんながこちらを指差してきて叫んでいた。

 

「どうした、お前ら」

「いやいやお前がどうしたんだよ!」

「なに不破に食わせてもらってんだよぉ!」

「……あぁ」

 

 何かと思えばそんなことか。

 

「あぁ、って反応薄っ!」

「いや、うん、まあ、今さらそんなこと言われてもなぁ」

 

 『死神』の一件で入院してる間、不破がいる時はずっとこうしてたからな。

 そんなことしなくていいって言っても聞かないし、なんだか嬉しそうだったからそれ以上は止めなかった。

 慣れとは怖いもので、貸してくれた漫画を読んでる間、口を放り込まれるというやり取りに何の違和感も感じなくなった。

 

 不破は、しまったという表情をして赤くなっている。無意識にやってしまったらしい。

 

「いつの間にかとんでもねえことになってやがりますわよ……」

「なんだその口調」

 

 珍しくうろたえる中村。

 男子はわーわーと、女子はきゃーきゃー騒いでいる。それほど意識してなかったのに、急に恥ずかしくなってくるじゃないか。

 これくらいがなんだ。中学生かお前らは。中学生だな。

 

 昼休憩はまったりすることが出来ず、騒がしく周りを囲まれてしまった。

 男子は俺を中心に、女子は不破を中心に集まって、入院してる時のことを根掘り葉掘り聞かれる。

 どちらの輪からもちょいちょい歓声が上がり、特に女子の盛り上がりようと言ったらなかった。時折こちらを見てにやにやしてくるのはなんなんだろうか。

 

 ようやく解放されたのは、一時間ほど責め苦に遭ってからだ。

 

 壊すのは簡単だが、元通りにするのはそうじゃない。

 校舎もだいたい直ってきたが、爆発の余波を受けた教室はまだほとんど手つかずだ。

 とはいえ、吹っ飛んだ机とかはさすがに学校が支給してくれるそうだ。壁とかも多少補強する程度で済みそうだ。

 作業自体は今日中にこなせるだろう。

 

「さて、期末テストを戦い抜いて、見事勝利した君たちにご褒美をあげましょう」

 

 午後の作業に映る前に、殺せんせーがそう言った。

 ご褒美? と訊く前に、彼は言葉を続ける。

 

「実は先生、スピードはあっても力がさほどありません。触手を抑えつけられれば動けなくなってしまうんですよ」

 

 そういえば、怪力を持っているようなそぶりはなかったな。

 あまりにも速いから、その加速度で衝撃を生み出せるわけであって、動いていない状態から掴んでしまえばどうにかなるってことか。

 まあでも……

 

「できねーってわかってて言ってんだろ!」

「くそっ、ヌルヌルしてて掴めねー!」

 

 試そうとしているみんなの攻撃をことごとく避ける殺せんせー。

 体表が滑らかで、もちろん暗殺対象がじっとしてくれるわけない。

 掴むなんて、出来るならとっくにやってるよなぁ……いくら俺でも、目がついていけても動きが追いつけない。

 なんて苦笑しながら、おにぎりを頬張るのであった。



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78 最後の行事はめちゃくちゃで

「演劇発表会、ねえ」

 

 ため息をつく。

 悩んでいるのは、二学期末に待ち受けるイベント、演劇だ。

 

 テストも終わり、力もついてきて、さあ暗殺だと意気込んでいたみんなが露骨に嫌そうな顔をしている。

 

「しかも例によって俺たちだけ予算は少ないわ、セットもここから持って行かなきゃならないわ……」

 

 それに、与えられた発表時間は昼休み。一応、その日は一日中体育館に閉じ込められるから観客が誰もいないということはないが、普通に演じたところで誰も見やしない。

 

「本校舎と違って、俺らは受験もあんのによ」

「クラス委員会で文句言ったんだけどな」

 

 磯貝が言うには、浅野曰く……

 

 『決められた期間でセリフを覚え、演じきる。この演劇発表会も椚ヶ丘の教育方針だ。それに、どうせ君たちは何とかするだろ』

 

 ということらしい。

 あれだけ棘のあった浅野が、まあずいぶんと丸くなったな。

 彼だけじゃない。A組以下、本校舎の面々も俺たちをいじめようとする人間はいなくなった。生徒だけじゃなく、先生も。あの理事長も、だ。

 

 一、二年生も憧れのまなざしで見てくるし、この空気は続いていくんだろう。

 後輩のことなんて一切考えずにやってきた結果だけど、差別がなくなるのはいいことだ。

 それはともかく……目下、課題はこれになる。

 今回はあまり力になれそうにないな。演技力はないし、脚本考えるなんて無理だし……裏方に回って小物とか大道具とか作るかな。

 

「よーし、やると決めたら劇なんてパパっと終わらそーぜ!」

 

 吉田の号令で、E組がおおーっと拳を上げる。

 せっかくのイベントだし、楽しまなきゃ損だよな。

 

「監督は三村で……脚本は狭間が適任か。あとは……」

「先生、主役がやりたい」

 

 黙ってたと思ったら、いきなり殺せんせーが爆弾を落としてきた。

 

「やれるわけねーだろ、国家機密が!」

「そもそも大の大人が出しゃばってくんじゃねーよ!」

「だ、だって! 先生、劇の主役とか一度やってみたかったし! 皆さんと一緒に同じステージに立ちたいし!」

 

 ツッコミと同時に襲い掛かる銃撃を避けつつ、殺せんせーが弁明する。

 出演はいいけど、主演までやろうとするかね、先生が。

 

「いーわよ。書いたげる。先生主役の劇の台本」

 

 脚本担当になった狭間があっさりと言い放った。

 積極的に交わろうとしてくるなんて、最初の印象からはかなり変わったな。

 彼女は手元のノートに数行さらさらと書くと、ちょいちょいと俺に手を振ってくる。

 

「あんたも手伝って。本校舎に一泡吹かせてやろうじゃない」

「俺? ストーリーとか書けないけど」

「いいのよ。ちょっとしたアイデアでもくれれば」

 

 ふむ、と考えてみる。

 殺せんせー主演でも違和感なく、本校舎組の目を引くようなアイデアか……昼休みにやらされるから、それも『あえて』の方向で利用できたらいいんだが……

 

「あ」

 

 あるじゃないか、殺せんせーを出せる方法。

 

 

 演劇発表会当日。

 午前のプログラムは消化され、ついに俺たちの出番。

 

「さーて次はE組か」

「ま、メシ食いながら鼻で笑ってやろうぜ」

 

 やっぱり、本校舎組は馬鹿にするつもりで観覧しようとしている。

 弁当なりパンを取り出しては、談笑しながら口に運ぼうとしていた。

 抜いてやろうぜ、度肝。

 

 突然、耳をつんざくようなチェーンソーの音が鳴り響く。

 わいわいと和んでいた本校舎組たちは、一斉にびくりと肩を震わせた。

 

 壇上が微妙に明るくなり、木造の屋内を思わせるセットとともに、三つ編みの女性が現れる。奥田だ。

 こそりこそりと、周囲に怯えながら手に持った懐中電灯で先を照らす。足は震えていて、進む速さはじれったいほどだ。

 ごくり、と喉が鳴る。彼女の感じている緊張感がこちらまで伝わってくるようだ。

 

 かたん、と何かが後ろで落ちる音がした。奥田は飛び上がりそうになり、縮こまる。

 恐る恐る音のしたほうへ光を向けると、木っ端が落ちていた。

 よく見れば、この建物は相当に古いもののようで、そこかしこがぼろい。老朽化しているせいで、この木片も落ちたのだろうと、奥田はほっとした。

 立ち上がり、振り返って再び前へ進もうとする。

 

 が、そこにはスキンヘッドの男が立っていた。

 その体表は黄色く、ぶよぶよと揺れている。顔に当たる部分には、点のような目と異様に裂けた口がある。

 

「いやあああああ!!」

 

 薄暗い中でいきなり現れた化け物に、奥田は悲鳴を上げた。

 化け物は手に持っていたチェーンソーを振り上げ、エンジン音を轟かせる。

 腰が抜けて動けなくなった奥田の頭へ、真っすぐに振り下ろした。

 刃が肉に食い込む音が響き、血がステージ上に飛び散る……

 

 …………見ての通り、E組の演劇はスプラッターホラーものである。もちろん、頭が真っ二つに切られているのは、そういうふうに見せてるからで、血も血糊。

 

 殺人鬼のいる廃屋に、若者が肝試し感覚で入って次々と殺されていくといったテンプレのシナリオだ。

 今のは序盤。本編はここから。

 杉野、神崎、中村、前原が噂を聞いて現場に入っていくところからスタート。

 軽い気持ちで入っていったが、途中で死体を見つけてしまい、ついには殺人鬼に追いかけられてしまう。

 

 殺人鬼に扮するのはもちろん殺せんせー。

 奇抜なキャラを目指して着ぐるみを作ったという()()でやっている。実際は、ほとんどそのままで出てもらってるけど。

 

 まあ細かいところは割愛するとして、だ。

 

 さて本校舎組はといえば……演劇を無視してお喋りしようにも、叫び声とSEで邪魔される。

 飯に集中したくても、最初の死体のインパクトが強く、食欲なんて失せてしまう。

 

 ちらりと観客を見ると、全員がいやーな顔を浮かべて手を止めていた。

 登場人物には菅谷がメイクを施していたが、そのリアル感が半端ない。俺もちょっと引いた。

 

 ただし殺せんせーの声は迫力がないし、神崎たちも声を出さなくていいなら、という条件で出てもらったので、裏で別の生徒が声を当てている。

 これがまあ、臨場感を増すのに良い仕事をしてくれている。

 

「……良いわね」

「ああ、良い」

 

 ふふふ、と不敵に笑う狭間に同意する。

 フィクションとなれば、俺だってこういうグロいのもわりと好きなのだ。みんなに色んなものを勧められるがままに見たせいか、結構雑食である自覚はある。

 

「スプラッターは、一に血しぶき、二に悲鳴、三四に内臓、五にパターンよ」

「なんの拘りだよ」

「てか、俺も気持ち悪くなってきた……」

「これ大丈夫かよ……」

 

 さしもの男子たちも、ステージで行われる残虐ショーに顔を青くしている。

 女子たちは直視しないと決めているから、まだ平気そうだ。

 

「R15は割と寛容だから大丈夫だろ」

「R15で済むかなぁ、これ」

 

 渚が苦笑いする。

 R18じゃないからセーフ。

 

 生き残った神崎が廃屋の扉を開け、太陽の光を拝めた……と思ったところで、殺人鬼に足を掴まれ、引きずられていくところで終了。

 後味の悪いバッドエンドだ。

 

「なんてモン見せんだ、お前ら!」

「引っ込めE組!」

 

 暗転して、終劇となった瞬間、ブーイングが飛んでくる。A~D組の罵声となるとまあかなりのもので、体育館が揺れに揺れる。

 

「脚本チェックくらいしろよな、はっはっは!」

 

 E組総出で急いでセットを片づける中、寺坂が笑いながらそう叫ぶ。

 それにつられて、誰かが思わず吹きだした。どんどん伝播して、いつの間にか壇上から逃げようとするE組には笑顔が広がっていた。

 

 まあ趣味の悪いやり返しだけど、一年間いじめられたんだからこれくらいは許してもらわないと。

 わなわなと怒りで震える浅野を見つけて、俺も少しはすっきりできた。



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79 隠していた貌

 全ての劇が終了し、俺たちはさっさと本校舎から出ていく。

 残っていてもいいことはないしな。

 期末テストを経て風当たりがまあまあ和らいだとはいえ、根付いた差別制度が消えたわけじゃない。

 

 俺が小道具をいくつか入れた袋を手に持って、E組に戻ろうとしたところ……

 

「國枝」

 

 背中に声をかけられて、振り返る。呆れ顔の浅野がそこにいた。

 

「まったく、最後までやってくれるな、君たちは」

「今まで嫌がらせしてきたのはそっちだからな。ちょっとくらい仕返ししても罰は当たらんだろ」

 

 意地悪な笑みで返すと、浅野も苦笑する。

 

「……結局、君たちには勝てなかったな」

「お前もカルマに抜かれて二位だからな。言い訳できないだろ」

 

 む、とより険しい顔をしてくる。これも優しい仕返しだ。

 

「國枝、A組に戻ってこないか」

「断る。E組でまだやることが残ってるんだ」

「即答か」

「わかってて訊いたんだろ」

 

 お互いにふん、と鼻を鳴らした。

 

「まあなんだろうな。それだけE組が居心地よかったってことなんだろうな」

「……僕の隣は居心地よくなかったか?」

「俺には合わなかったってだけだ。お前は俺に合わせる必要はないし、合わせる気が無くてもいい」

「君を友人として傍に置きたいなら、少しは合わせる必要があったんだろうな」

「……否定はできないかもな」

「だったら、國枝のことをちゃんと見ておくべきだった」

 

 ふう、とため息をついて、彼は俯く。

 

「僕には足りないものがある。認めるよ。それを手に入れた時、友達になってくれるか?」

 

 その言葉に、俺は思わず苦笑した。

 

「なんだ?」

「いつも理屈っぽいお前が、そんな変なこと言うなんてな」

「変、か。確かに、僕が友達だなんて……」

「そうじゃない」

 

 馬鹿みたいに答えにたどり着けていない浅野に、俺は手を伸ばした。

 

「友達になるのに、資格だとか足りないものだとか、そんなもの必要ないだろうが」

 

 

 大道具を担ぐ寺坂と吉田。そして何気に重い幕を数人で運ぶ女子たちと合流し、坂を上る。

 

「学期末テストも終わって、演劇も終わって、あとは受験くれーだな」

「あのタコの暗殺を除けばな」

 

 男子二人がにっと笑う。

 本校舎組の食欲を削いだのがかなりウケたようだ。

 結果が狙い通りにいく、というのはなかなかに気持ちが良い。脚本担当の狭間も満足げにしていたし。

 

「せっかくだし、年末年始カウントダウンとかみんなで一緒にする?」

「烏間先生とビッチ先生も呼んで、ここでパーっとやるか」

「受験前最後の息抜きとしてはいいかもね」

 

 女子たちが盛り上がる。

 年を越えてしまえば、好き勝手できる時間は今よりなくなるだろう。

 受験が終わるまでの間、希望の高校に受かることを保証されている者など誰もいないのだから。

 

「うん、良さそう。國枝くんはどう思う?」

「いいんじゃないか。気張りっぱなしだったしな。色々持ち込んで……」

 

 ドン!

 

 平和な空気を裂いて、地面が揺れ、大気が震える。地震かと思って、全員その場に伏せた。

 しかし妙なことに揺れたのは一度、しかも一瞬。まるで何かが爆発したような……

 混乱しかけるも、これまでの経験のおかげで頭が立ち直った。

 こんな異常事態は、E組でしか起こらない。すぐさま校舎へ急ぎ、その発生源に気づく。

 

 校舎の外の地面に穴が空いていた。そこから土まみれの殺せんせーが現れる。

 堀部の時に見せたエネルギー砲でも使ったのか? なんのために?

 疑問に答えるように、殺せんせーはある一点を睨んだ。

 

「茅野……?」

 

 髪を解いた茅野が倉庫の上に立っていた。それだけなら何も驚くことはない。

 

 俺たちが絶句しているのは……茅野の首から二本の黒い触手が生えていたことだ。

 見間違いなんかじゃない。触手はこの目で何度も見ている。対堀部では掴んですらいる。間違えるはずがない。

 だけども俺が知っている茅野とは違う人物に見えた。

 いつもの温和な表情ではなく、憎悪しか感じられない。全身から漂うのは、『蟷螂』と同じような純度の高い殺意。

 

「なにがどうなってんだ?」

 

 教室の中にいた者たちは頭を振る。彼らも何が起きているのかわかっていないようだ。

 茅野はちらりと俺たちを見て、また殺せんせーに視線を戻した。

 

 なぜ、と俺たちも殺せんせーも口々に問う。

 なぜ触手を持っているのか、なぜ身震いするほどの怒りを殺せんせーに向けているのか。

 

雪村(ゆきむら)あぐりの妹……って言ったらわかる? この人殺し」

「!!」

 

 殺せんせーを含め、俺たち全員が息を呑む。

 

 雪村あぐり。

 殺せんせーが来る前、E組の担当教師だった人だ。

 茅野がその妹だと……?

 

 茅野は苦痛と憎悪を惜しげもなく晒している。嘘ではなさそうだ。

 しかし真実を言われているからと言って、それをすぐさま理解できるかというのは別だ。

 いくつもの疑問がのしかかってくる。

 

「しくじっちゃったものは仕方ない。切り替えなきゃ」

 

 俺たちを見向きもせず、茅野は続ける。

 

「明日また殺るよ、殺せんせー。場所は直前に連絡する。触手を合わせて確信したよ。必ず殺れる。今の私なら」

 

 触手の副作用か、汗を垂らしながら、しかし眼光はそのままにターゲットを睨む茅野。

 一瞬の後、彼女は触手を使って、あっという間にその場から消えていった。

 

 

 かつてこのE組の担任だった雪村あぐり先生。

 俺たちと一緒にいたのはごく短い間だったけど、体力と情熱に溢れ、熱心に俺たちと向き合ってくれた人だ。

 底辺に落とされて絶望していたE組を引っ張り上げようとする明るい雰囲気に救われた生徒だって少なくない。

 本校舎の腐った先生とは違って、まるでドラマに出てくるような真っすぐな人だった。

 

 茅野がその人の妹だとは信じられなかったが、調べてみると証拠は出てきた。

 

 本名、雪村あかり。芸名、磨瀬榛名(ませ はるな)

 驚異的な演技力の子役として名を馳せ、ドラマに引っ張りだこだった超有名人。

 ここ数年は学業専念のため、芸能界から一時身を引いていたようだ。

 

 彼女が出ていた作品を確認すると、確かに茅野だとわかる。あまりにも印象が違うので、ただ見ているだけじゃ気づけない。

 

 髪の色を変え、名を偽装し、中学を移り、このE組まで来た。

 その正体は、殺せんせーの命を狙う触手使い。

 

 この衝撃の事実に、俺たちは振り落とされないようにするので精一杯だった。

 

 ガン、と机に拳を叩きつける。

 時々違和感を感じていたが、まさか触手を持っていて、なおかつそれを隠し通していたなんて。

 ずっと共に過ごして気づかせない演技力は見事としか言いようがない。サポート役に徹し、自らの心を一切見せないことで悟られないようにしていたのだ。

 

 考えてみればおかしいところはあった。

 編入してきたということは、入学する時以上に難しいテストを受けて入ってきてるはずなのに、椚ヶ丘に入ってきて早々E組になるとか。時折、一瞬だけ苦しい表情を見せることだとか。

 

 気づけたはずなのに……

 

「國枝くん」

 

 不破が俺の拳をそっと包み込んで、ふるふると頭を振った。

 俺だけのせいじゃない。そう伝えてきている。気づけなかったのはここにいる全員で、しかも茅野の正体を隠す演技力は一級品。

 殺せんせーや烏間先生、仕事上自らを偽ることを何度もしてきたビッチ先生でさえわからなかった。

 触手に脳と感情を滅茶苦茶にされながらも、耐え忍んだその精神力も凄まじい。

 そんな茅野を、『俺はどうにかできた』なんておこがましい。

 

 歯を噛んで、悔しさを押し殺す。

 今は茅野をどう戻すかが一番の優先事項だ。嘆くのは後にしないと。

 

「殺せんせーなら触手を剥がせるんだろ」

「ええ、ですが……」

「無理やり剥がせば、良くて後遺症が残る。悪くて死ぬ」

 

 堀部が言った。

 元触手持ちだからこそ、確信して言えるのだろう。

 

「茅野が触手を必要としている限りは、どう転んでも良い結果にはならないだろうな」

 

 堀部の時だってそうだった。触手を手放そうとしないから、あれだけ苦労したんだ。

 今度はあの時よりも大変かもしれない。

 姉を殺された復讐というなら、そう簡単に説得できない。このタイミングのために、全てを投げうってきたくらいなのだから。

 

「言葉が意味ないなら、行動でどうにかするしかないね」

 

 カルマの言うことに、俺は頷く。

 堀部の時だって、寺坂たちがバカやったからきっかけを作れた。

 

「……もし、茅野の頭から復讐の念を消すことが出来たら、どうにかできる?」

「おそらく。ですが、あれほどの怒りとなると、逸らすのは容易ではないですよ」

 

 表情から発せられる怒りは、今までに見たことないものだった。

 あれだけの強い感情、『レッドライン』や『蟷螂』に匹敵する。いやそれ以上かも。

 

「僕がやる」

 

 これまでで一番難しいことかもしれない。しかし渚は半ば確信めいた表情で、自信ありげに言った。

 

「茅野は僕に任せて」



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80 心の隙間

 夜七時。椚ヶ丘公園奥のすすき野原。

 茅野が指定した場所に殺せんせーを一人で行かせるわけもなく、俺たちは全員集合していた。

 

 この時間になれば、木に囲まれたここは一切の人気もなく、暗殺するのにはうってつけだ。

 茅野は本当に殺る気だ。

 

 膝上丈の、ノースリーブの黒いドレス……なのにマフラーを首に巻いている。

 そのちぐはぐな組み合わせは、触手のせいだ。

 堀部が言うには、触手細胞を埋め込まれていると特有の代謝異常が起こり、身体は熱いのに首元だけ寒く感じるらしい。

 

「茅野さん。その触手をこれ以上使うのは危険すぎます。今すぐ抜いて治療をしないと命に関わる」

「え、何が? すこぶる快調だよ。ハッタリで動揺を狙うのやめてくれる?」

 

 殺せんせーの言葉に、否定から入る。言葉を交わす気は一切ないようだ。

 

「茅野」

 

 渚が一歩前に出る。

 

「全部演技だったの? 楽しいこといろいろしたのも、苦しいことみんなで乗り越えたのも」

「演技だよ。これでも私、役者でさ。渚が鷹岡先生にやられてる時、じれったくて参戦してやりたくなった。不良に攫われたり、死神に蹴られた時なんかは、ムカついて殺したくなったよ」

 

 なんでもないことのように、茅野は続ける。

 

「でも耐えてひ弱な女子を演じたよ。殺る前に正体ばれたら、お姉ちゃんの仇が討てないからね」

 

 いつものような喋り方だが、決意は固い。一年間育てられた殺意はそう簡単には消えてくれない。

 だが、希望を持って俺も口を開く。

 

「殺せんせーの話を聞いてみないか。殺せんせーが何をしたか、何を思ったか、それを知ってからでも遅くないだろ」

「聞いて、お姉ちゃんが戻ってくるわけ?」

「……戻ってはこない。だけど間違いだったら……」

「違っても、どうせ殺せんせーは殺さなきゃいけないんだから、一緒でしょ?」

 

 どう言っても返される。止まってくれない。

 周りのみんなも口々に言ってくれるが、茅野は耳を貸さなかった。

 

「殺す代償に、茅野も死んだら意味がないよ」

「うるさいね。部外者たちは黙ってて」

 

 昂った感情のせいか、超速で空気と擦られたせいか、茅野の触手先が燃え上がる。

 茅野は円を描くように触手を振って、殺せんせーと自分の周りの草に火を点けた。

 空気が乾燥しているせいで、火の勢いはあっという間に増していく。

 

 間髪入れず、茅野は殺せんせーへ触手を向けた。

 苦手とする環境変化のせいで身体が鈍り、反応が遅れた殺せんせーの触手が一つ刈り取られる。

 

「あは、あはは、アハハッハハハ!」

 

 あっという間、速すぎる一撃に気をよくして、茅野は攻撃を続ける。

 目は血走り、裂けそうなほどの笑みを浮かべ、力の限り暴れている。びきびきと筋が立つ顔には、もはや茅野の面影はない。

 

 殺せんせーは防御に専念している。全神経を尖らせないと、茅野の猛攻には耐えられない。

 生徒に手出しするわけにはいかないから、これが彼の精いっぱいだ。

 

 俺たちが救うべきクラスメイトは、一撃一撃に明確な殺意をもっている。

 身が竦んでしまうような、恐ろしいほど大きな感情。

 

「渚にも見えるだろ」

「うん、いろんな感情がごちゃごちゃになって、付け入る隙なんてないよ。だけど……」

 

 俺は頷いた。

 渚の言いたいことはわかる。

 滅茶苦茶に顔を出す茅野の表情の中に、見え隠れするものがある。それを自覚させれば、なんとかなるかもしれない。そのためには、まず彼女を落ち着かせないと。

 

「渚……やれるか?」

「う、うん。でもこれで駄目だったら……どうしよう?」

「自信を持て。囮は俺がやる」

 

 炎に近づく。息苦しくなって、制服のボタンをいくつか開けた。

 失敗すれば俺も渚もただでは済まなくなる。だが、渚ならなんとかできるだろうという信頼がある。

 

「気を逸らせるのは長くて五秒だ。その間に決着をつけてくれ」

「む、無茶言うなあ」

 

 とは言いつつ、渚はやる気満々。

 火の中をくぐるくらいなら、超体育着でなんとかなる。火傷も残らないどころか、熱ささえ感じずに通れるだろう。

 

「お、おい國枝。また一人で行くつもりか?」

「一人じゃないさ。渚がいる」

 

 ついてこようとする菅谷を手で制する。

 大人数で行けば、茅野を無駄に刺激することになる。それは避けたい。

 

 ポケットから取り出したものを手にして、こっそりと使った。

 ふう、と深呼吸して、まず俺だけが火の中へ。

 

 いくつもの感情が混濁して目が血走っている茅野が、円の中に入った俺を睨む。

 殺せんせーへの攻撃をいったんやめて、刺々しい表情をこちらに向けてきた。

 

「何のつもり? いま手加減できないから、一発で殺しちゃうよ?」

「そうするつもりなら警告なしでやれ」

 

 俺の言葉を不快に思ったのか、触手の動きが不規則にうねる。

 

「出来ないとでも思ってるわけ!?」

「出来ないさ」

 

 燃える触手がすぐそばの空気を切る。

 パァンと鳴らされた衝撃波と熱。常人ならそれだけで戦意を奪われてしまう。

 

「私の正体に気づけなかったあんたが、私をどうにか出来ると思ってるなんて、おかしいと思わない?」

「それについては謝るよ。何もできなかった自分が悔しい」

「そう思うなら、もうほっといてよ! これが私のやりたいことなの! 殺せんせーを殺して、私も死んで、お姉ちゃんのところに行く。そうさせてよ!」

 

 俺の性格を考えれば、この場で現れたのは邪魔するためしかないとわかってるはず。

 なら茅野……雪村あかりにとっての敵と思われても仕方ない。

 なのに彼女は跳ねのける一撃を繰り出してこなかった。その気になれば簡単にできたはずなのに。

 断続して見られる怒りと絶望の中で、ほんの少しだけ顔を覗かせる感情が、それを抑えているのだ。

 

「なあ、茅野。さっきから言葉と表情がちぐはぐなのも、演技か?」

「っ!」

 

 痺れを切らした茅野の触手が音速を超えて向かってくる。

 俺はそれを腕で防ぎ、逃がさないよう捕まえた。

 

「!」

 

 茅野も殺せんせーも動きが止まった。

 水を吸ってのろくなっているわけでもない触手を、俺がガッチリと抑えたからだ。

 

 そして、それを可能にした俺の腕……そこに巻き付いているものを見て、さらに驚愕する。

 

「どうして……なんで!?」

 

 茅野が思考停止するのも無理はない。

 

「なんで触手を持ってるの!?」

 

 狼狽して叫ぶ。そう、俺の腕には、首から生えた触手が巻かれていた、

 

 夏休み最終日、シロの部下である医者もどきが俺に注射しようとしたのを、いま打ち込んだ。

 

 シロが殺せんせーを殺せる触手兵器を生み出そうとしていることは明らかだ。そのために堀部を対象に実験を繰り返してきた。

 だが、弱った状態とはいえ生身でもそれを倒した者がいる。俺だ。

 だからシロは俺をも実験対象にしようとした。本来なら、触手を手に入れた俺と鷹岡を戦わせてテストするつもりだったのだろう。

 

 偽医者が俺に注射しようとした、触手細胞。

 

 それを、俺はずっと持っていた。

 何かに利用できないかと考え、そして誰にも利用させないように。

 

 だが、ただ触手を生やしただけじゃどうにもならない。マッハを捉えられる目がなければ、対等には戦えない。

 その点、俺は殺せんせーの動きはよく見ていたし、なにより堀部と一対一で戦ったこともある。

 実際の戦闘経験なら負けはしない。

 

 予想外の展開に弱いのは触手の影響か、茅野は硬直して、俺の触手に目が釘付けになる。

 どれだけ速い触手を持ってようが、止まってしまえば意味がなくなる。

 

 隙を突いて、殺せんせーがもう片方を押さえにかかった。

 触手の速さは恐ろしく、一瞬で首をはねることも可能だが、一方で触手自体にそれほど腕力があるわけじゃない……というのは、期末テスト勝利のご褒美に、殺せんせーが教えてくれた。

 

 こうやって抑え込めば、あとに残るのは狂乱状態の茅野だけ。

 そしてそれを戻すのは、渚の役目だ。

 

 彼が茅野の目の前に迫る。

 言葉で説得か、猫騙しか、行く末を見守っていると……

 

 渚は茅野と唇を重ねた。

 

 肩を掴んで、引き寄せて、真剣な目で茅野を見つめながら、舌を入れて強引に絡めとる。

 

 茅野は急なことに抵抗しようとするが、いきなりで触手を動かすのを忘れている。ほとんど力を入れなくても抑えつけられた。

 押しのけようにも、茅野の身体自体は、渚が密着して封じている。

 逃げられないまま、口内凌辱が続く。

 

 突如、茅野の目が困惑に変わる。復讐の炎は消え、俺たちがよく知る茅野カエデの目に戻った。

 先ほどまでは『攻撃されている』という認識だったのだろう。それが『渚にキスされている』に変化した。

 恥ずかしさで顔が赤くなり、目がぐるぐるとしだす。あとは何を感じているんだか、身体が痙攣するように跳ねる。

 

 ここまでくれば、もう心配ない。あれから逃れられはしないだろう。

 さらに数秒、舌の凌辱が続き、茅野の身体からがくんと力が抜けた。

 

「殺せんせー!」

 

 言われる前に、殺せんせーは素早く動いた。目にもとまらぬ速さで、茅野から触手細胞を抜く。

 くたりと倒れそうになる彼女を、渚が支える。触手が生えていた首元には後に残るような傷はない。後遺症が出るかどうかは、茅野が目を覚ましてからだ。

 殺せんせーの安堵の表情を見るに、成功と思ってよさそうだ。

 

 みんなが一呼吸おくなか、俺は自分の中から湧き上がる苦痛を必死に耐えていた。

 

『どうなりたい?』

 

 ぎりぎりと脳に茨を巻き付けられたような痛みが続く中、声がこだました。

 触手には意思があるのだろうか。本人の感情に左右されるのは、触手もまた感情をもって共感するからだろうか。

 

 強くなれる。手遅れにならずに、みんなを守れる力が手に入る。そんな誘惑が響く。

 だが……

 

「なんとかなったな……殺せんせー、俺の触手も外してくれ」

 

 茅野とは違って、力なくだらりと垂れるそれを指差した。

 殺せんせーは肩で息をしながら、急いで触手を抜き取ってくれた。

 

「これほど簡単に引き抜けるとは……執着がないみたいですねえ。イトナくんの時も、今の茅野さんだってこんなに苦労したんですが……」

「こんなの耐えられるほうがどうかしてる。脳みそが有刺鉄線で縛られてるような痛さだった。数分我慢してただけで、もうこんなだ」

 

 ごっそりと体力が持っていかれ、全身汗びっしょり。

 あれ以上触手を纏っていたら、どうにかなっていただろう。少なくともまともな思考ができなくなっていた。

 

「それを茅野は、長い間抱えてたんだね……」

 

 渚が呟く。

 茅野は触手をずっと忍ばせていた。想像を絶する苦痛を超える大きな復讐心。

 それは強いとか弱いとかそんなんじゃなくて……不相応だ。中学生が持っていい感情じゃない。

 

 復讐心。

 人に力を与え、後に全てを奪っていくそれは麻薬のようだ。ひとたび心を委ねれば、自分一人の力で立ち直るのは難しい。

 だから茅野の表情に『助けて』という感情が見えたのだろう。

 

「殺せんせー……」

 

 みんなの、先生を見る目が変わる。

 茅野がこんなことをするようになった原因、この事件の発端は、本当にあんたのせいなのか?

 

「……実は私は……」

 

 殺せんせーが口を開いた瞬間、俺は視界の隅に映る物に気が付いた。

 まっすぐ向かってくるそれを手で掴む。思ったよりも小さなそれは、対先生用のBB弾だった。

 

「まさかこんなところで触手細胞を使うとはね。あれだけ追い詰めても使わなかったくせに」

 

 頭にくる声を忘れるわけがない。シロだ。

 その隣には、異様な雰囲気を纏う謎の人物が経っていた。

 闇夜に紛れるように黒いジャージを着ていて、閉じられたファスナーはフード部分にまでつながっており、その顔も隠されていた。

 

「シロっ!」

 

 どれだけ退けても、しつこいほど邪魔をしてくる野郎。

 触手を生やした茅野の行く末を見届けに来たのだろう。

 

「やっぱり、お前は俺に触手細胞を仕込むつもりだったんだな」

「その通り。強靭なメンタルとそれなりの身体能力、なによりE組の生徒たちを守ることへの躊躇のなさ。それらに触手細胞が合わされば、そこの化け物を殺せるくらいの逸品になれると思ってね」

 

 得意げにぺらぺらと喋る。

 

「殺せんせーを上回る触手生物が欲しかったなら、『蟷螂』にでも打ち込んだらいいだろ」

「あの子は無理だよ。元から精神状態が安定していない。触手細胞を埋め込んだところで、自滅するのがオチさ」

 

 俺を追い詰めて触手細胞を使わせる。それか俺を捕まえるところまでが『蟷螂』の仕事だったってことか。

 だとしたら、こいつは、こいつらは本当に、あの場で不破たちを殺す気だったんだ。

 

「そう。だからもう『蟷螂』はいらなくなった。そして、お前ももういらないよ、國枝響。もっといい駒が手に入った」

 

 その駒というのが、隣に立っている謎の人物か。顔がわからないけど、その殺意には覚えがある。

 

「今度はお前を殺す。こいつと私の力で」

 

 シロはマスクを外し、口につけていた小さな機械を外した。

 ナチュラルにこちらを見下している表情、冷たい目の男。露わになった顔を見て、殺せんせーが表情を動かす。

 こちらもあっちのことを知っているようだ。今までは変声機のせいでわからなかったようだが。

 

「さあ行くよ、『二代目』」

 

 そう言って、シロと男は去っていく。

 ここで戦う気がなかったのは幸いだ。殺せんせーはギリギリの状態。俺たちはほとんど元気とはいえ……あの『二代目』と呼ばれた男を相手に、無傷で帰ることは難しかっただろう。

 あいつの正体は『死神』だ。姿を隠していても、威圧感と殺意は誤魔化せない。

 ただでさえ厄介な相手が、さらにシロの手によって触手を埋め込まれたとなると、殺せんせーでも太刀打ちできるかわからない。

 

 同時に、触手を埋め込んでるからこそ仕掛けてこなかった。おそらく調整が終わっていないのだ。

 時期的に考えて、あれが最終兵器。満を持して殺すために、ここで無駄な消費はしないという考えだ。

 堀部の話によると、調整にはかなりの時間を要するらしいから、またすぐ仕掛けてくるなんてこともない。

 

 ぴりっとした空気が弛緩し、俺はへたり込む。同時に、茅野が目を覚ました。

 

「茅野……!」

「よかった……」

 

 触手も狂気も消え去って、ようやく落ち着いたみたいだ。

 いつもの……それよりもちょっと冷めた表情だけど、俺たちの知っている茅野カエデが戻ってきた。

 

「私……」

 

 終わったことを把握したのか、E組から目を逸らす。深く悲しみ、重い罪悪感を感じているのだ。

 しばらく経ってから、ぽつりぽつりと、茅野は話し出した。

 

 最初は、純粋な殺意だったけど、殺せんせーと過ごすうち、殺意に確信が持てなくなった。

 殺せんせーが本当に雪村あぐりを殺したのか? 殺したにしても何か事情があったのではないか? 殺す前に確かめるべきじゃないのか?

 でもその頃には、触手の中に積もり積もった殺意を抑えることができなくなっていた。

 

 その告白を、俺たちはじっと聞いていた。

 

「目的が何だったとかどうでもいい。茅野は、このクラスを一緒に作り上げてきた仲間なんだ」

 

 渚がそっと近づく。

 

「どんなに一人で苦しんでたとしても、全部演技だったなんて言わせないよ。みんなと笑った沢山の日は、ちゃんと全部本物なんだから」

「……うん」

 

 茅野はぼろぼろと泣き出す。

 本当は全部曝け出して、触手なんか捨てて、みんなと馬鹿やりたかった。

 

「ありがと……もう演技やめていいんだ……」

 

 みんな一様に頷く。

 でかい隠し事だった。でも、受け止められずに突っぱねるような奴はもういない。

 

「……ようやく、E組が揃ったな」

「それよりも!」

 

 すぐそばで磯貝に怒鳴られ、俺はびくりとする。

 

「なんで触手なんか持ってやがったんだよ!」

「納得いく説明してもらうからね!」

 

 ずんずんと片岡も加勢してくる。

 あ、やっぱり見逃してくれないか。

 怒涛の勢いで押し寄せてくるみんなにたじろぎながら、俺はなんとか押し返す。

 

「わ、わかったわかった。ちゃんと話すよ。だけど、まずは殺せんせーの話を聞こう」

 

 ここまで来たら、もう隠せておけない。点と点だったE組と殺せんせーが、線で繋がっていることがわかったからだ。

 

「ええ、そうですね。みなさんには全てを知ってもらうべきでしょう」



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81 真実

 駅前の時計台の下で、白い息を吐きながら待つ。

 昼でも冷え込んでいるが、人通りも多い。クリスマスともなれば、これくらいが普通なのだろうな。

 

「國枝くん!」

 

 俺を呼ぶ声のほうを見ると、不破がこっちに駆け寄ってくるところだった。

 話したいこともあって、年を越える前に会っておきたかったのだ。

 断られることも覚悟で誘ったが、彼女は二つ返事でOKしてくれた。

 

「待った?」

「いや、今来たところだ」

「國枝くんも隠すの下手だね」

 

 不破はそう言って、俺の手を取る。

 

「鼻も耳も赤いし、ちょっと震えてるし、それに……手、冷たいよ」

 

 自分の手で挟んでくれたり、さすってくれたりして熱を分けてくれる。

 しばらくそうしてくれた後、彼女は手をぎゅっと握った。

 

「あっためてあげる。さ、行こ」

 

 

 本屋だったり服屋だったり、あとはクリスマスセールをやってる店をいくつか覗いたり、話題の映画を観たり……特にこれといった大きなことはせずに過ごす。

 その間、俺たちはずっと手を繋いでいた。

 浮かれていると言われても仕方ないが、今日くらいは別にいいだろう。

 

 不破といるだけで心が弾む。

 ずっとこうしていられたらいいのにな、と思うが、無情にも時間はあっという間に過ぎていく。

 

 辺りも暗くなってきて、そろそろ晩飯を食うのにいい時間となった。

 不破が選んだのは普通のファミレスで、周りの席は家族連れやカップルで賑わっている。

 

「ここでいいのか? クリスマスなんだから他のところでも……」

「ううん。こういう普通の場所で、國枝くんと一緒にいたいんだ」

 

 その気持ちはわかる。激動の日々を過ごしてきて、気疲れが溜まっている。

 こうやって何もない日を過ごして、日常の中にいることを実感したかった。

 

 とりあえず適当に注文して、温かい飲み物で落ち着く。

 それきり、不破は黙った。

 

 原因は、殺せんせーが話した真実だ。

 

 

 かつて『死神』と呼ばれた世界最高の殺し屋がいた。

 だが弟子に裏切られ、とある場所に捕まってしまった。

 

 それは柳沢という男が研究所長を務める、反物質生成プロジェクトの研究所。

 

 反物質とは、通常の物質を構成するものとは反対の性質を持つ物質だ。

 爪の先の質量ほどでも、通常物質と反応してしまえばとてつもないエネルギーを生む。

 その性質ゆえに保管が難しく、制御が難しい。さらに、反物質を作るにはそれ以上のエネルギーが必要となる。

 だから、新エネルギー源としての有用性はほぼ皆無に近い、と研究者たちは考える。

 

 だが、柳沢は恐ろしい方法でそれを作ろうとしていた。

 体内で反物質を作り出す。

 倫理観など無視した実験。『死神』は実験体にさせられた。

 

 おおよそこれまでの科学を超越したトンデモ理論。それが出来る技術と自信が柳沢にはあった。

 げんに、使えない部下といくつかの調整にいらつきながらも想定通りの変化に、彼は満足そうにうなずいた。

 

 『死神』の中で育っていく反物質エネルギーを受け止めるため、細胞は柔軟かつ強靭になっていく。

 来る日も来る日も様々な刺激で細胞の活性化を促されたせいか、腕や手は細くしなるようになった。

 

 そんな地獄のような日々の中、彼を一人の人間として扱う人がいた。

 

 雪村あぐり。

 彼女はとてつもない情熱と体力の持ち主で、E組担任教師とこの実験の助手を務めていた。

 

 柳沢のお見合い相手。だが立場の上下は明らかだ。

 雪村先生の父が、柳沢の父の下請け。

 常に変化する『死神』の様子を観察したり、体調をチェックする役目は誰もやりたがらない。

 そこで柳沢は、優秀で従順な人間である雪村先生を選んだ。

 

 順調に実験が進んでいく中、強化アクリルを挟んで、相手と正面から向き合う雪村先生と『死神』の関係も進んでいく。

 

 最初は暇つぶしだった。

 『死神』は無力なふりをして、その実、柳沢を誘導していた。破壊の力を取り込んで、自身のスキルの一つとしようとしていたのだ。

 最先端のさらに先を行く技術であるが、『死神』はあらゆる知識に通じている。この研究を理解するのもそう難しいことではなかった。

 だが人間の細胞に、反物質を適合させるには時間がかかる。その間の暇つぶしとして、彼は雪村あぐりという人間を観察することにした。

 

 そのはずだった。

 彼女が話すE組のことや、妹のことだって、単なる話のタネ……のはずだった。

 

 だけどどこまでも真っすぐな彼女に、『死神』は惹かれていったのかもしれない。

 

 スキルで感情を抑え込み、完璧なポーカーフェイスをきめていた彼が、感情を制御できなくなったのはそのころだという。

 雪村先生と話して笑うことは珍しくなくなり、彼女のスタイルの良さに鼻の下を伸ばすことも多々あり、人間から外れていっているはずなのに、だんだんと人間ぽくなっていく。

 そのことを、雪村先生はこう表現した。

 

 どんな姿にもなれる触手は、『死神』がどうなりたいかを映す鏡なのかもしれない、と。

 

 その時、雪村先生と『死神』が出会ってから一年が経っていた。

 元から彼のことを化け物や実験体などとは思っていなかった雪村先生は、それまでたくさんの話をしたことや相談に乗ってもらったことを感謝し、プレゼントを贈った。

 

「首元が冷えるって言ってたから、これならカバー範囲広いですよ」

 

 独特なセンスの()()に、嫌そうな顔を浮かべる『死神』。

 この時には、彼女は何度も服などを否定されていたから気にはしていなかったが。

 

「今日、あなたと知り合えてちょうど一年です」

 

 なぜそれを、と訊く『死神』に、雪村先生は返した。

 

「誕生日が分からないなら、今日をあなたの生まれた日にしませんか?」

 

 突然のことに、『死神』は呆気に取られる。

 

「いっぱいお話聞かせてもらいました。いっぱい相談させてもらいました。出会えたお礼に、誕生日を贈らせてください」

「……頂きます」

 

 そう言う『死神』の表情は、柔らかい笑顔だった。

 

 

 それと時を同じくして、一つの事件が起きた。

 

 反物質生成は細胞サイクルを利用している。ならば細胞分裂が限界を超えた時にはどうなるか。

 月面にて、それをマウスで実験したところ、結果は最悪。

 体を飛び越えて反物質は生成を繰り返し、やがて対消滅を起こす。

 

 その大きなエネルギーは、月の七割を消滅させた。

 マウスほどの小ささでその衝撃なら、人間ベースの破壊エネルギーは底が知れない。

 地球が粉々なんてレベルじゃ済まない。完全にこの宇宙から消え去ってしまう。

 

 何も問題は起こらないだろうと高をくくっていた研究者たち、とくに柳沢は焦った。

 実験結果と精密な計算結果から得られたのは、このまま行けば『死神』の身体が同じことを起こすのは三月の十三日。おおよそ一年後だ。

 

 もちろん手をこまねいている場合ではない。

 柳沢はプロジェクトを即刻中止、『死神』を処分することに決めた。

 部下に怒鳴り散らし、必要なものを集めさせる。困惑した柳沢の叫びは部屋から漏れ、研究所内に広がることとなり、軽いパニックが起きた。

 雪村先生に聞こえてしまったのも、仕方のない事だった。

 

 彼女は『死神』に、ここに留まることの危険性を説明した。

 星を巻き込むほどの対消滅の危険があっても、変わりゆく彼を見捨てることはしたくなかった。

 しかし……

 

「さよならです、あぐり。私はここを出る」

 

 『死神』は逃げようともせず、死も覚悟してた。同時に、この力を試したいとも思った。

 

「予定よりやや早いが、それでも十分なパワーを手に入れた。計算上はこの独房を破れる」

 

 身体が変質していく。

 これまでのゆっくりした変化を早回ししたように、かろうじて残っていた人間の部分もなくなっていく。 

 

 引き止めようとしたが、無理だ。

 雪村先生の力じゃ当然止められない。それに、彼女は絶望していた。『死神』に自分の言葉が届かなかったことを。

 

 そして『死神』は、自分の中の蓄積された怒りをわざと解放した。触手は感情によって力を増すことをわかっていたのだ。

 心臓から黒く染まり、その範囲は拡大していき、破壊の権化となる。『死神』はそれをやめる気はなかった。どれだけのことが出来るか、職員たちの命で試すつもりなのだ。

 

 強化アクリルの壁を破り、のそりのそりと歩を進める。

 副産物として開発されていた対触手生物用の弾を持った警備が現れる。

 しかしその程度の弾速では、超生物となった『死神』には対処できない。

 

 銃弾の嵐を余裕で避けつつ、砂粒を指で弾く。飛ばされた粒は大動脈を裂き、心臓を貫く。一瞬にして、三人の警備が血を吹きながら倒れた。

 これくらいは触手がなくとも出来たことだ。『死神』は拍子抜けしつつも、次の標的へ目を向ける。

 

 この研究所そのものだ。

 力の限り暴れ、そこかしこを破壊していく。

 銃弾は避けられ、あるいは粘液で塞がれ、彼を止められるものはなくなっていく。

 予想以上の力に、『死神』の好奇心はどんどんくすぐられていく。どれほどのことができるのか。限界はどこか。

 もっと感情を使って、破壊を望んだ。そして最後にはあっけなく散るのもいいだろう。

 

 それをよしとしない者がいた。雪村あぐりだ。

 その自暴自棄にも見える破壊衝動に飲み込まれれば、彼の人間性が殺されてしまう。

 確実に存在する『死神』の心に通じた彼女は、それを許すことはできなかった。

 

 雪村先生は『死神』を止めようと駆け出す。殺気のないその行動を、『死神』は気づかない。

 彼女が腰にしがみついてきて、ようやくわかったくらいだ。

 

 そして……触手が雪村先生の身体を貫いた。

 『死神』のものではない。実験の副産物として生まれた。単体の触手だ。

 センサーと組み合わせることで、動く者を攻撃する防衛システムとなる。それが雪村先生に穴を開けた。

 

 自分への攻撃でなかったことで、『死神』の反応が遅れ、それを防ぐことができなかったのだ。

 臓器は貫かれ、あるいは潰され、骨も砕かれて中で刺さっている。

 致命傷だった。

 

 もはや助かることのない雪村先生。いや、触手の繊細な動きをもってすれば可能だった。

 しかし『死神』は触手を暗殺に役立てるためにしようとしていて、治療のため扱う訓練はしていなかった。

 

 助けられない。力はあっても、その技術がない。

 だんだんと冷たくなっていく雪村先生の身体を抱きながら、『死神』は怒りがなくなっていくのを感じた。

 代わりに訪れたのは悲哀。

 とめどなく溢れてくる悲しみが、彼を正気に戻した。

 

 軽く扱ってきた命の重さが、心にのしかかる。

 

「あの子たちを……お願いします」

 

 崩れる建物の中、命の灯火が消えていく中で、彼女はそれだけを願った。

 底に落ち、絶望に沈んだE組の生徒たちを救えなかったこと。最期、雪村先生が心残りにしていことはそれだった。

 

 砕けた研究所。夜の光に照らされて、雪村先生は逝った。

 

 茅野が見たのは、この時の光景だ。

 謎の生物が死んでいる姉を抱えている。傍目から見て、そいつが殺したのだと思ってしまう。

 実際、そうなのだと『死神』は思った。

 治療技術を極めていれば、あるいはこの瞬間に暴れなければ……抵抗せずに、モルモットでいるだけなら、少なくともここで雪村先生が死ぬことはなかった。

 

 『死神』はひどく悔いて、ある決断をして飛び立つ。

 その場には一つの紙を残していた。地球を破壊すること、そしてE組の教師にならなってもいいということを書いた紙。

 

 この時から、彼はE組の教師になることを選んだのだ。

 雪村先生が最期に残した約束を守るために。

 

 そうして、『死神』は触手に願った。

 弱くありたいと。

 殺戮の権化じゃなく、誰もが親しみを持ち、落ち行く者を柔らかく受け止められるような、そんな存在になりたいと。

 

 触手はそれを叶えた。

 隙があり、もしかしたらもう一歩で殺せるんじゃないかと思えるくらいの生物に、『死神』を作り変えた。

 つるんとした身体に、穏やかな顔。近寄りがたい雰囲気をなくし、その二つ名とは遠い存在になった。E組の生徒の前に立てるように。

 雪村先生から託された誕生日プレゼント……三日月が刺繍されている大きなネクタイを首に巻いて。

 

 

 残された雪村あかりは、その場に偶然残されていた触手細胞と研究データを手に入れ、復讐のために自らに注入した。

 そして身分を偽り、椚ヶ丘に転入。同時に理事長室のものを壊して、自らE組行きとなった。

 

 これが、殺せんせーが来る前に起きた一連の事件の顛末である。

 

 

 殺せんせーの話を聞いて、E組が目を逸らしていた感情に気がついた。

 

 殺したくない。

 

 今まで暗殺を実行できていたのは、賞金の百億円があるから、そして殺せんせーが超生物だからだ。

 しかし人間であると思ってしまえば、不意にこれまでの思い出が蘇った。

 勉強を教えてくれたのも、A組との勝負に勝って一緒に喜んだのも、時にはバカやったりしたのも、間違えた時には厳しく接してくれたのも、全部一人の人間なのだ。

 情が移ってしまうのも無理はない。

 地球破壊自体が、殺せんせーの意志じゃないならなおさらだ。

 殺したくないと、救える道があるんじゃないかと考えてしまう。

 

 食事を終え、駅前のイルミネーションの中を歩きながら話を続ける。

 

「なんていうか、なんだかわからなくなっちゃった。どうしたらいいかとか……本当に殺るべきなのかとか」

「遅かれ早かれこうなることは予想してた。殺せんせーを殺したくないと思ったとして、そのうえで殺すべきか殺さないべきか迫られるってことが」

 

 殺せんせーの正体は人間である。

 みんな感じていたことだが、正面から受け止めていたのは限られる。

 おそらく、烏間先生と俺くらいだろう。

 

「國枝くんは……どうするの?」

「俺のスタンスは変わらない。お前たちが暗殺を続けるなら協力するが、俺自身は手を下す気はない」

 

 殺す。その行為を俺はすることはできないが、ここまで来てしまっては否定することもできない。

 

「世界を救うため……殺せんせーのこれまでの教えに応えるためにも殺すべき。奴を人間として見て、教師、友人として殺さないべきでもある。どっちの意見も俺は尊重する」

「私はどうするべきなのかな」

「こればっかりは自分で決めなきゃな」

 

 ここで何かを言うなんて無責任なことはできないし、その結果に責任も持てない。

 地球の命運と殺せんせーの命、生かすことによる危険度とか、殺すことによる喪失。

 全てを天秤にかけて考えるなんて、中学生には重すぎる決断だ。

 

「やっぱり寒いな」

 

 白い息が口から出て、夜に消える。

 春から始まった暗殺教室も、もう終わりが近づいてきている。

 

「うん。もうちょっとくっついてもいい?」

「……ああ」

 

 不破は腕を絡めてくる。じんわりと体温が移って、さっきよりも暖かくなった。

 

「殺したら、殺せんせーはいなくなるんだよね」

「そうだな」

 

 当たり前のことだが、その当たり前の大切さをようやく知る。

 ここまで勉強を教えてくれて、理不尽との戦い方を教えてくれて、俺たちとともに勝利を味わった殺せんせー。

 殺せば死ぬ。死んでしまう。この世からいなくなる。

 

 もう年を越えるというのに、みんなはその恐ろしさに気が付いた。

 自分を構成する大きな一部が無くなってしまう恐怖に目がいってしまった。

 

「國枝くんがいなくなるかもしれないって思った時、胸がすごく痛くなって、耐えられないくらい苦しかったんだ」

 

 『死神』の拷問を受けた時の話だ。

 あれのせいで、よりいっそう消失への焦燥感が増しているのだろう。

 

「大切な人がいなくなっちゃう痛み。あんなの二度と味わいたくない」

 

 不破は俺の袖をぎゅっと掴む。

 

「殺すか殺さないか、ちゃんと選んで決めるよ。殺せんせーと向き合えるように」

 

 その目はまだ迷いがあるけれど、弱さは少しもなかった。

 

 暗殺期限まであと三か月を切っている。

 今一度、俺たちはどうするべきかの選択を迫られていた。



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82 それぞれの色

 三学期が始まって教室に集まったみんなの顔は、年を越したとは思えないほど暗い。

 殺せんせーを殺すべきか生かすべきかという難題に、いまいちはっきりとした答えが出せていないのが多数だ。

 

 沈みかえっている雰囲気のなか、がらりと扉が開いた。

 現れたのは茅野だ。その彼女に、矢田が駆け寄る。

 

「カエデちゃん、身体は大丈夫?」

「うん、もうすっかり治ったよ」

 

 みんながほっと胸をなでおろす。

 

 長い間、触手を自分の身体に住まわせていた茅野は、昨日までずっと入院を続けていた。

 幸いにして、触手が抜けると心身ともに順調に治りはじめ、後遺症もないらしい。

 心配事が一つ減った。

 

 彼女の呼び名については、『雪村あかり』ではなく『茅野カエデ』と呼んでほしい、とのことでそれに従った。

 E組で過ごすための偽名だったが、今じゃそれがしっくりきているらしい。

 

 みんなの雰囲気が少し和らいだが、顔は暗い。

 仕方のないことだ。殺せんせーの話は、それだけ衝撃的だった。年末年始を明るく過ごせた奴がどれだけいることか。

 その日は全員、授業中もずっと黙ったままだった。

 

 

「珍しいじゃねーか。お前が全員集めるなんてよ」

 

 裏山の沢の近く。岩にどっかりと座りながら寺坂が言う。

 その場にはE組生徒が全員集合していた。

 

「ごめん。でもどうしても提案したくて」

 

 そう言ってしばらく黙った後、渚は言葉を続けた。

 

「……できるかわかんないけど、殺せんせーの命を助ける方法を探したいんだ」

 

 渚の表情は真剣そのものだ。

 

「方法もアテも、もちろん今はない。ないけど……殺せんせーの過去を知って、もうただの暗殺対象としては接することなんてできない」

 

 彼の言葉を、みんなが黙って聞いていた。

 

「三月に地球を爆破するのも先生本人の意志じゃない。もともとは僕らと大して変わらないんだ」

 

 完璧なスキルを身につけていた『死神』であった時でも、失敗と後悔を経験した殺せんせー。

 取り返しのつかない苦さを味わわせないために、彼は俺たちに寄り添ってくれた。この教室で、時に厳しく、時に優しく、一緒に苦しんで、一緒に笑いながら。

 命を賭して、殺せんせーは俺たちを育ててくれた。

 

「だから……僕は殺せんせーを助けたいと思う」

「わたしさんせー! 殺せんせーとまだまだたくさんいきもの探したい!」

 

 ばっと手を挙げたのは倉橋だ。

 

「渚が言わなきゃ、私が言おうと思ってた。恩返ししたいもん」

 

 続けて片岡も賛同する。

 磯貝や前原、神崎や矢田。殺せんせーを生かしたい者がどんどんと渚の周りに集まる。

 これまで様々な不利を覆してきたE組だ。今回も、『もしかしたら』があるかもしれない。

 そんな期待をもって、みんなは……

 

「こんな空気の中言うのはなんだけど、私は反対」

 

 一瞬で空気が冷え込んだ。

 発したのは中村。腕を組んで、渚をまっすぐ見つめている。

 

「暗殺者と標的が私たちの絆。そう先生は言った。この一年で築いてきたその絆……私も本当に大切に感じてる。だからこそ、殺さなくちゃいけないと思う」

 

 中村の後ろには、寺坂組もいた。

 

「助けるって言うけどよ、具体的にどーすんだ? あのタコを一から作れるレベルの知識が俺らにあれば別だがよ。奥田や竹林の科学知識でさえ、せいぜい大学生レベルだろ」

「テメーの考えたこと、俺らも考えたことある」

「けどな、今から助かる方法探して、もし見つからずに時間切れしたらどーなるよ。暗殺の力を一番つけた今の時期によ、それを使わず無駄に過ごして、タイムリミット迎えることになるんだぜ」

 

 寺坂に続いて、吉田、村松も続く。

 

「あのタコが、そんな半端な結末で、半端な生徒で、喜ぶと思うか?」

 

 この言葉は決定的だった。助けたいと言っていた生徒が黙る。

 

 彼らの言うことも正しい。

 可能性がほとんどない賭けに出て、助ける方法が見つかったとしてもそれを実行する時間もほとんどないだろう。

 

「で、でも考えるのは無駄じゃ……」

「才能ある奴ってさ、何でも自分の思い通りになるって勘違いするよね」

 

 言い返そうとした渚を遮って、カルマが言った。

 

「渚くんさあ、E組で一番暗殺力あるのに、その自分が暗殺やめようとか言い出すの? 才能がないなりに、必死に殺そうと頑張ってきた奴らのことも考えずに」

「そういう話じゃなくて……純粋に助けたいって思ってるだけだよ! カルマくんだって、助ける方法があれば助けるでしょ!?」

「あるかどうかわかんないことを前提に話進めんなよ! そうやって殺意を鈍らせないように、殺せんせーだって今まで自分の話してこなかったんじゃん!」

 

 言い合いはヒートアップしていく。

 渚もカルマも引かず、怒鳴り合ってると言っていいほど声を張り上げていた。

 

「その努力もわかんねーのかよ! 身体だけじゃなく、頭まで小学生か!?」

 

 さすがの渚もカチンときたようだ。殺意のこもった目でカルマを睨んでいる。

 

「え、なにその目。小動物のメスの分際で人間様に逆らうの?」

 

 ただし、カルマは委縮するでもなく、むしろ渚に近づく。額に青筋が浮かんでいる。ポケットから手を出して、拳を握っている。

 対する渚も、カウンターで返せるようにしっかりとカルマを見据えていた。

 

「そこまでだ」

 

 俺が渚を、寺坂がカルマを抑える。

 二人とも、感情に身を任せるなんて性格じゃない。思わず手が出そうになるなんて、それほど強く殺せんせーを想っているということだ。簡単に解決はしない。

 だからといって、ここで殴り合いを始めさせても話がこじれるだけだ。

 

 カルマは寺坂を振りほどこうとするが、吉田と村松も加勢する。

 

「ここで喧嘩しても何も変わらねえだろうが!」

「で、殺せんせーのことを何も考えてない渚くんの言うことに耳を傾けろって?」

「離して、國枝くん!」

 

 抑えつけられても、お互いまだまだやる気が衰えない。

 

「落ちつけよ二人とも。お互い言い分はわかるだろ。納得は出来なくても、理解はできるはずだ」

「ハッ。最初から暗殺に参加してなかった奴は違うね! ()()だからそうやって冷静に言えるんだろ!」

「カルマ!!」

 

 寺坂の怒号に、カルマははっとする。言い過ぎた、とばつの悪そうに顔を逸らした。

 その物言いに多少苛つきもしたが、ここは冷静にならないと。

 

「とにかく、落ち着け。お前たちがぼこぼこになって、全員が納得するわけでもないだろ」

 

 ゆっくり、頭に沁み込ませるように言った。おかげで少し力が緩まる……が、鋭い目つきはそのままだ。

 少し自由を与えてやれば、また殴り合いが始まるだろう。どうしたものか……

 

「中学生のケンカ、大いに結構!」

 

 雰囲気を切り裂くように、殺せんせーが明るい声を発した。

 殺せんせーが……殺せんせー!?

 いつの間に、と驚く俺たちの前に現れた先生は、いつもどおりの表情でそこにいた。

 

「でも暗殺で始まったクラスです。武器(これ)で決めてはどうでしょう?」

 

 彼は二つの段ボール箱を置く。そこに入っているのは、赤と青に分かれたBB弾。それに旗と……腕輪?

 

「二色に分けたペイント弾と、インクを仕込んだ対先生ナイフ。そしてチーム分けの旗と腕章を用意しました」

「チーム分け?」

「そうです。先生を殺すべき派は赤、殺すべきでない派は青。しっかり考えて、どちらかの武器を取ってください。この山を戦場に赤チーム対青チームで戦い、相手のインクをつけられた人は死亡退場。相手チームを全滅か降伏させるか、敵陣の旗を奪ったチームの意見を、クラスの総意とする。勝っても負けても恨みなし。どうです?」

 

 二組に分かれてのチーム戦。

 相手陣地にあるフラッグを手に入れるか、相手チームを全滅させた方が勝ちとなるルール。

 

 喧嘩の発端となっている張本人が解決方法を提示してくるのに唖然としたが……ここまでくればこれしかない。話し合いで、全員が納得する形での妥協点がないからだ。

 勝ったほうが正義。さんざんやってきたこと。違うのは、相手が本校舎の奴らじゃなくて、同じクラスの仲間だという点。

 

 一番に動いたのは、千葉だ。武器の山から、赤インクのつけられたナイフを取る。つまり、殺す派を選んだ。

 それをきっかけに、みんなもどんどん武器を取っていく。

 青派になった磯貝が武器をホルダーに収めながら、俺の元へ寄ってくる。

 

「なんか、ばらばらになりそうだな」

「こうなることは予想してた。殺せんせーに情が移って、どうしても殺したくないってなるだろうって」

 

 殺すべきだけど、殺したくない。

 その思い自体は全員変わらないだろう。違うのは、個人の感じ方。教育、思想、倫理……それぞれが何を重視しているのかは、各々で違う。

 そしてそれらは全て間違いじゃない。だからお互いに説得じゃどうにもならないことをわかってる。

 この戦いを受け入れたのも、これでしか決着がつけられないってみんな思ってるからだ。

 

「國枝はどうするんだ?」

「そんなの、わかりきってるだろ」

 

 だからこそ、俺に話しかけてきたくせに。

 青インクのナイフを掴み、引き抜く。

 

「安全のためには殺すべきだが、俺自身は人を殺さないのが、俺の先生への答えだ」

 

 各自決断し、チーム分けが決まっていく。

 

 赤組、つまり殺せんせーを殺すことに賛成組は……

 カルマ、岡島、岡野、木村、菅谷、千葉、寺坂、中村、狭間、速水、三村、村松、吉田、堀部。

 

 対して青組、殺せんせーを生かしたい組は……

 磯貝、奥田、片岡、茅野、神崎、倉橋、渚、杉野、竹林、原、不破、前原、矢田。そして俺。

 

 律は答えを出せず、中立の立場を取った。

 

「きっついな。機動力が優れてる岡野と木村、スナイパーの千葉と速水まであっちだ」

「おまけに指揮官はカルマ。わかりやすいくらい不利だな」

 

 体力があり、戦闘面でも活躍できる寺坂組まで赤組だ。

 何かしらの能力が突出して優れている者ほど、殺す意志は固いようだ。その力を与えてくれた先生に見せつけることで、恩返しとしたいのだろう。

 

「私たちなら大丈夫」

 

 銃を携えて、神崎が言う。

 

「いままでどんな理不尽が相手でも、勝ってきたから」

「そうだよな、さすが神崎さん!」

 

 杉野が同意する。

 不利な状況はいくらでもあった。そのたびにひっくり返してきたんだ。今回はその集大成。今度だってやってみせる。たとえ相手が同じE組でも。

 

「磯貝、片岡。おそらくカルマは本気で殺す気で作戦を練ってくる。お前たちも俺たちに無茶ぶりするつもりで命令しろ。じゃなきゃ勝てん」

「そこまで言うなら、お前が指揮とるか?」

「いや、俺は戦闘に集中する。司令塔は俺よりお前たちのほうが適任だろう」

 

 状況を見て的確に判断する能力に優れてるのは磯貝と片岡だ。チームで戦うなら、俺は彼らの足元にも及ばない。

 

「わかった。ただしもの凄くこき使うからね、覚悟しなさいよ」

「もちろん」

「よし、全員集合!」

 

 作戦を立てるために、磯貝が号令をかける。

 戦いはもう始まっているのだ。

 

 

 あっという間に時間は過ぎ、試合開始直前。

 超体育着に着替え、茂みの中に隠れて、息を潜める。

 敵は遠く、上手く隠れていて見つからないはずなのに、睨まれているような圧迫感がある。

 

《では始めるぞ》

 

 新しく付けてもらった通信用無線から、審判役の烏間先生の声が聞こえる。

 よく見える高台から、俺たちが不正しないよう見張ってもらうようにお願いした。

 

《クラス内暗殺サバイバル……始め!》

 

 試合開始の合図が鳴った。

 その瞬間、俺は信じられないものを見た。風に揺られて浮くそれは……

 

「竹林、片岡、避けろ!」

 

 俺は叫ぶ。

 

《あ、危なかった》

《いきなり弾が飛んできたんだけど……》

 

 イヤホンから、二人の声が聞こえてくる。どうやら間一髪、間に合ったようだ。

 俺が視界に捉えていたのは赤色のBB弾。

 まさかこんな最序盤で見ることもないだろうと思っていたものが開始数秒でやってきた。

 こんなことができるのは、一人しかいない。

 

「千葉と速水のやつ……早速仕掛けてきたな」

 

 こちらからは全く見えないってのに、あっちはすでにこっちに照準を合わせている。

 そして攻撃を届かせる驚異の腕。俺は冷や汗が流れるのを感じた。

 

「どうする?」

「こっちの計画は変えない。竹林、頼む!」

 

 先ほどのは予想外なのにも関わらず、磯貝はすぐさま冷静さを取り戻して指令を下す。

 

 ボン、という音とともに煙を上げながら、バスケットボール大の球が空へ飛んでいく。

 それは敵陣上空で破裂し、インクの雨を敵陣に降らした。竹林特性のインク爆弾だ。

 

 敵陣が青く染まる。

 俺は双眼鏡で相手を確認しようとしたが、影も形も見えずだ。

 

《三村さん、アウトです》

 

 イヤホンから律の声が流れてくる。

 あれだけ大規模な攻撃をしても、仕留められたのは三村だけか。

 

 磯貝が寄ってきて、隣に並ぶ。

 

「どうだ?」

「どうかな。カルマのことだ。竹林が殺られなかった時点で、この攻撃は予測してたかもしれない」

 

 となれば、インク雨の落下地点から全員を即座に下がらせている可能性がある。

 実際そうしてるはずだ。

 誰かリタイアになれば、烏間先生や律がそれを知らせてくるシステムになってるし。

 

「なら……」

「ああ、敵は奥に引っ込んでいる」

「そうだな。俺と國枝、杉野、神崎、倉橋で前に出る。他は隠れつつ、ゆっくりと前進してくれ」

 

 磯貝の命令を受けて、俺たちはパッと前に出る。

 後退すれば防戦一方になるが、前進すれば選択肢は増える。

 運動能力が高い、あるいはステルスが得意なメンバーを斥候にして、相手の出方を見る作戦だ。

 

 青インクまみれになった地帯へ足を踏み入れる。

 両チームの境界線より、赤側寄り。ここまで来て誰も見えないということは、やはり引っ込んでいるようだ。

 

 もう一歩踏み出した瞬間、森の奥で何かが光った。

 

「危ないっ」

 

 俺は磯貝の前に飛び出し、ナイフを振るう。飛んできた弾を弾き、インクを防いだ。

 それから瞬時に木の影に隠れる。

 

 今の……速水だな。

 

「二発目はないと踏んで、元の位置に戻りやがったな。さてどうしたものか……」

 

 磯貝が舌打ちした。

 動体視力に優れた速水にはうかつに近づけない。スコープに捉えられたら逃げるのは至難の業だ。

 こちらからの攻撃は届かない位置にいて、あちらは驚異的な狙撃能力。このままじっとしていれば一方的にやられてしまう。

 

「俺が行く」

 

 俺は超体育着のファスナーを少し下げ、じっとりとした熱を追い出す。

 

「大丈夫か?」

「ああ、なんとか出来ると思う」

 

 おそらく、赤組は討伐対象の優先順位をはっきりさせている。

 最初にチームの司令塔である片岡を狙い、先ほども磯貝を撃った。

 たぶん俺も警戒されているだろうが……そこを逆手にとれるか。

 

「持っていくか?」

 

 磯貝がハンドガンを差し出してくるが、断る。

 銃については何の訓練も受けてない俺が当てられるわけがない。

 

「まあ確かに、ライフル相手にナイフは無茶だよな。だけど一応作戦はある」

 

 一瞬だけ顔を出して、速水がいるであろう方向を見る。

 他の気配がない。

 固定砲台である千葉とは違って、木の上をぱっぱと移動できる速水に観測手や護衛はいないようだ。

 

 さて、上手くいくかな。

 

 

 速水の照準は、國枝が隠れている木に固定されていた。

 まさかBB弾を捉えられるほど目が良いとは思ってもいなかった。それに、正面から弾を防いでみせた身体能力と度胸。

 國枝がいる限り、遠距離狙撃の効果は半分以下に削られてしまう。

 

 最初の千葉の銃弾が避けられたのだって、彼のせいだ。そのせいで、赤組はこんな後方に下がらざるを得なくなった。

 これまで独りで戦い、生き残ってきた國枝の危機察知能力は無視できない。

 しかたなく、カルマは速水に命令を下した。

 

 最優先で國枝を始末しろ、と。

 

 おかげで緊張の糸が張り詰められっぱなしだ。

 だが与えられた任務に手を抜くことはない。木の上でじっとして、ブレることなく構える。

 

 一瞬、何かが木の影から出て引っ込んだ。

 國枝の顔だ。ほんの少しだけだったが、その目線は明らかにこちらを向いていた。

 

「ち……」

 

 思わず、速水は毒づいた。

 今の一瞬で仕留められたかもしれないのに。

 焦りを感じながら、それに蓋をする。

 

 心の中でも無言になって数分、動きがあった。

 微妙に何かがはみ出ている。

 草木とほぼ同じ色をしていて見分けづらいが……あれはどうやら超体育着のようだ。それの肩部分がはみ出ている。

 同じ木には磯貝がいたはずだ。押される形で出てしまったのか? 

 とにかく、この千載一遇のチャンスを、速水が逃すわけがない。

 木から出ている部分はほんの数センチ。絶対に外さないように、心を落ち着け、呼吸を止め、手ブレを最小限にする。

 

 パシュ。

 

 放たれた銃弾は吸い込まれるようにして、狙い通りの場所へ着弾した。

 迷彩柄の超体育着に、赤色のインクがべっとりと付く。

 

 よし、と心の中で小さくガッツポーズをして、速水はスコープから目を離した。

 

「こちら速水、國枝を殺ったよ」

 

 ふう、と息を吐く。

 たった数分も経ってない間に、かなり精神を使ってしまった。

 だが國枝がいなくなれば後は……

 

「嘘の報告はダメだな」

 

 すぐ後ろで声がした。

 びくり、と速水が反応する前に、いつの間にか現れていた敵がナイフを振るう。

 抵抗も出来ず、速水は首筋に青色塗料を塗られた。

 

「なんであんたが……」

 

 じっと見張っていたはずなのに、なぜか目の前に國枝がいた。

 

「あれは予備だ。上にもう一枚着てたのさ。磯貝がそれを持って、あたかも俺と一緒にいたと思わせてただけだ」

 

 はっとして、先ほどまで注視していた場所へ視線を戻す。そこには、ひらひらと上着を動かしている磯貝が見えた。

 

「はあ……してやられた。こんな最初のほうじゃ殺られないと思ってたのに」

「それだけ速水が脅威だったってことだ」

 

 そう言う國枝の目は、すでに別の方を向いていた。

 速水を殺って終わりじゃない。むしろ始まりだ。青組が勝つには、まだいくつもの難関が待ち受けている。



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83 譲れない

 序盤から速水を倒せたことに、俺は一息ついた。

 

「速水を殺した」

《やったね。だけど深入りしすぎ。いったん戻ってきて》

「そうしたいところだが……うかつには動けないな。カルマがこっちに目を光らせてる」

 

 それだけなら問題はないが……千葉にも目をつけられている。彼にとってはそう遠くない距離だ。動いた瞬間、高精度の狙撃で撃ち抜かれるだろう。

 速水を倒すためとはいえ、相手陣地に潜りすぎた。あちらの半分以上に、俺の場所がバレているだろう。

 

《じゃあ、他で対処する。隙を見つけてこっちと合流して》

「了解。しばらく待機だな。頼む」

 

 片岡は続けて、みんなに前進の指令を下す。俺に注意が向いているうちに、他を動かしている。

 その配置が完了したら、殺って殺られての激戦が始まるだろう。

 

《ちょっと意外》

 

 離れたところで同じように隠れている茅野が話しかけてくる。

 

「何がだ?」

《一人でどんどん先に行くと思ってたから、頼ってくれてちょっと嬉しいかも》

「頼れるものには頼る。みんながそう教えてくれたからな」

 

 それを知らなければ、一人で突っ込んですぐさまやられていたことだろう。

 E組はそれくらい強い。

 特に、点数がつけられる項目で高得点を取っているような奴らが相手だと、真正面から挑んで負ける可能性が大いにある。というのは全員思ってる。

 だからほとんどの戦闘員が外から攻めていこうとしているのだ。馬鹿正直に真っすぐフラッグに向かおうとすれば、間の沢地帯に姿を晒すことになる。そこじゃ盾になるものが少なすぎる。

 

 千葉のいたほうから銃声が鳴った。

 この隙に移動を始める。俺を銃撃してこようとする者はいなかった。

 近くの茅野と合流して、案外あっさりと自陣地に戻ることが出来た。

 

 相手を窺う磯貝と前原のそばに着地し、息を整える。

 

「戦局は?」

「奥田が千葉に殺られた。んで膠着状態」

「千葉はどこに?」

「見えない」

「そんだけ遠くから撃ってきてるんだよ。どうすっかな」

 

 磯貝はむむ、と考えて一つの案を出した。

 

「三方向から攻めるか。奥から常に狙われてるってのはプレッシャーも感じる。進軍しつつ、千葉を最優先で仕留めよう」

「どうせずっと動かないままじゃ、あっちの思うつぼだしな」

 

 前原も同意して、うんうんと頷く。俺も賛成。

 多分あっちはフラッグを取っての勝利は望んでいない。完膚なきまでにこちらを叩いてこそ、勝利だと思っている。 

 こそこそ隠れて目的の物を奪取して終わり、というあっけない終わりは認めないはずだ。

 

 俺たちだってそう。

 全力のぶつかりあいで決着をつけるつもりだ。

 なら防御は必要ない。

 

「じゃ、チーム分けはどうする?」

 

 

 木や枝を使って、上下に跳ねるようにして移動。狙いはつけづらいはずだ。

 側面から攻撃を仕掛けるべく、俺は走り続けていた。

 

 こっちは赤組が少なそうだ。木や地面の跡を見るに、この近くを通った人間はいない。

 そういう作戦か。

 おそらくカルマは、俺たちと逆の戦術で殺しにきている。前へ進もうとする青組と違って、自分の陣地で待ち構えているのだ。

 どうりで、体力に優れた寺坂組が前線にいないわけだ。

 最初の竹林の攻撃で殺せたのが三村だけだったのも、全体を見るのが得意な彼を偵察係にするつもりだったからだ。まったく動かずにいれば発見は困難、だが俺たちの動きは筒抜け。そうやって情報を得ようとしたに違いない。

 

 この真逆な戦い方のおかげで前へ前へと進めるが、俺たちが奴らの罠に嵌まる危険度も上がる。

 戦闘が得意な寺坂組や機動力のある木村や岡野に囲まれたら圧倒的に不利になる。

 なんとか切り抜けたとしても、その場にあった迷彩を施せる菅谷に、どんな遠くも射抜くことが出来る千葉。

 カルマに次いで何を仕掛けてくるかわからない中村もいる。

 

 ここから先は瞬時の判断で勝敗が決する。一瞬でも気を抜けば致命傷だ。いつだって狙われているような気持ちで……

 

「っ!」

 

 枝がきしむ音が聞こえた。顔を向けるよりも速く、後ろへ飛び退く。

 さっきまで俺がいたところに、赤いナイフが振り下ろされた。

 

「うおっ、速えな。絶対に斬ったと思ったのに」

「次はお前か」

 

 最小限の音と動きで俺を仕留めようとしたのは、木村だった。

 

「俺だけじゃないぜ」

 

 木村の視線が、わずかに俺の後ろへ向く。その意図を理解して、俺は横に跳んだ。

 ブーツの先から仕込みナイフを飛び出させ、綺麗な蹴りで突こうとした岡野。彼女が俺の死角から殺そうとしてきていた。

 

「よりによってお前らか……」

 

 俺はため息をついた。

 一人でも厄介なのに、二人だと余計に面倒だ。

 俊敏性ではE組一位と二位のこの二人は、それを活かして暗殺では組むことが多い。コンビネーションも完璧だ。

 ただの殴り合いならともかく、一撃でも食らえば終わりのルールじゃ、勝てるタッグのほうが少ない。

 

「國枝をさっさと殺せって、カルマからの命令だからな」

「悪いけど、ここで退場してもらうよ」

「できるもんならな」

 

 走り出す。

 すぐさま戦闘モードに入った二人が銃を向けてくるが、そこから放たれる銃弾を、俺はことごとくかわした。

 間合いに入り、木村の手から銃を叩き落して蹴飛ばし、岡野の腕を引っ張って背負い投げ。彼女はうまく受け身を取ってぱっと立ち上がる。

 

「弾を避けるなんて……」

「機動力優先のためにライフルは持ってこず、ハンドガンとナイフだけなのは予想してた」

 

 木村と岡野が落とした銃を拾って、遠くへ投げる。

 

「改造されてるとはいえ、BB弾程度なら見切れる」

「BB弾程度って……」

「化け物だな」

 

 烏間先生だっていつもやっとるがな。

 

 木村と岡野はナイフを抜き出す。近接なら、狙って撃つ銃よりそっちのほうが速い。元々二人ともナイフのほうが得意だ。

 俺は距離を保つために、その場からぱっと飛び出す。

 

 二人のほうが足が速い。フリーランニングを利用して離そうとしたが、身のこなしもあちらが上。徐々に間を詰められ、追いつかれてしまった。

 

 岡野による足払いを跳躍して避け、その隙に木村が繰り出してきた跳び蹴りを掴んで、地面に落とす。

 着地と同時に放たれた上段蹴りもガードし、押しのける。木村も岡野も体勢を立て直し、左右へぱっと分かれた。

 両方に注意していると、結局どっちつかずになってしまう。俺は木村を追いかけた。

 

 木村は俺の首めがけて刃を突きつけてくる。が、読んでいた俺はナイフを叩き落とし、その手を掴んでひねる。同時に、足をひっかけるのも忘れない。

 彼の身体がぐるんと回り、地面に叩きつけられる。

 衝撃で肺から空気が吐き出され、彼は立つこともできずにむせこんだ。

 

 続いて、すぐそこまで迫ってきていた岡野のハイキックに合わせて、俺も足で応戦する。

 衝撃で痺れている岡野にタックル。

 

「あいたっ」

 

 受け身を取り損ね、岡野が転がる。すぐ立つが、先ほどよりも疲労が見えた。

 木村も二度三度咳き込んで、岡野に並んだ。

 

「二人でも勝てないみたいだな」

「だけどまだ負けちゃいない。動きにも慣れてきたしな」

 

 にやり、と木村は笑った。

 

「相手にインクつけなきゃ、退場させられないんだぜ」

「わかってる。トドメをさすのは俺じゃない」

 

 パシュ、と狙撃音が鳴る。

 

「えっ」

 

 つづく衝撃に、驚きのあまり言葉を失った木村が後ろを向く。

 背中はBB弾が撃ち込まれたことによって、青色インクがべったりとついていた。

 その方向をよくよく見て、茂みに隠れた倉橋と原に気づいた。

 

 使い慣れてないナイフで戦っても勝ち目は薄いと感じて、俺はあえて武器を使わなかった。

 囮となって、ゆっくり後をついてきている倉橋と原のところへ誘導していたのだ。

 動物が大好きな倉橋は、保護色についてもよく理解していて、それを利用した色を自分たちにつけていた。

 そして、何気に原の射撃は女子で二位。これだけ近いなら撃ち漏らすことはない。

 

 加えて、俺はわざと音を鳴らして走り回っていた。赤組が俺を見つけやすいように。俺に注目せざるを得ないように。

 相手が木村と岡野だったのは運が良かった。

 危なければ撤退できる足を持っているから、多少無茶してでも深追いしてくるだろうと思っていた。おかげで誘いこみも上手くいった。

 

 かなりこっちに有利に傾いたな。

 

 隠れていた二人は立ち上がって、ピースサインを向けてくる。

 

「作戦成功だね」

「なんだよ、國枝一人だけだったら何とかなると思ってたのに」

「集中し過ぎた~」

 

 やられた、と気づいてがっくりと肩を落とす木村たち。

 意気揚々とかかってきたのに対して、退場する時はとぼとぼと覇気がない。

 そんな二人を見送って、俺は倉橋たちに向き直った。

 

「上手くいったな」

「うん、このまま前進しちゃおう!」

「今度も同じ作戦で行く? それとも……」

 

 次の標的を見つけるため、意気揚々と一歩踏み出しながら作戦を考える。

 その瞬間……

 

 べちゃ。

 

「え……?」

 

 突然、倉橋の胸が赤く染まる。さらに……

 

「わっ」

 

 原の肩も射抜かれた。

 何者かの攻撃が、倉橋と原をアウトにした。

 

 その正体を知り、俺はばっと下がる。

 木の陰から、中村が牙をむいた。



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84 激戦

 中村が上空から飛び降りてきながら、銃を乱射する。

 当たりそうな弾をナイフで弾いて、なんとか避けることには成功したが、不意打ちに姿勢がぐらつく。中村は着地すると同時に、俺の身体を蹴り飛ばした。

 

 仰向けに倒れた俺を、すかさず吉田が狙う。

 突き立ててこようとするナイフを足で蹴り飛ばし、中村の射撃を避けつつ岩に隠れる。

 

 中村たちの射線から逃れて耳を澄ますと、さらにもう一人近づいてきていた。

 

「ここまでか……」

 

 じりじりと近づいてくる足音が聞こえる。

 一人相手ならともかく、三人の射撃を避けきることは不可能だ。次に姿を現した瞬間、蜂の巣にされてゲームオーバー。

 ……せめて一人くらいは道ずれにしてやる、

 

 ナイフを強く握り、息を潜める。撃たれるより速くナイフを繰り出すつもりでいた。

 どくどくと心臓が鳴る。

 

 勝負は一瞬。タイミングを逃せば終わり。

 さあ、行くぞ。

 

 と勢いづいた瞬間、突然、中村が飛び退いた。

 その場所へ銃弾の雨が降り注ぐ。反応が遅れた村松は銃弾を受けて、倒れ伏した。

 青色BB弾。仲間の攻撃だ。

 

 驚いていると、近くの木の枝に杉野が着地した。

 

「よ、待たせたな」

 

 続いて片岡、茅野、不破、前原が視界に入った。こちらをカバーするように、少し離れたところから銃を構えている。

 

「助かった……」

 

 安堵のため息をついて、岩に寄り掛かる。援軍がもう少し遅ければ、殺られていた。

 赤組も気づくのが早かった。中村と吉田はいち早く察知して、もうどこかへ隠れている。

 

「他は?」

「狭間が隠れて撃ってきて、磯貝が殺られた。神崎さんが返してそのまま千葉を殺ったけど、カルマがやり返し。で、そのまま竹林と矢田を殺って奥に引っ込んでった」

 

 こっちで戦ってる間に、戦況はめまぐるしく変わったみたいだ。

 殺られた人数が多い。特にリーダーの磯貝と意外とゲームが得意な神崎がやられたのがでかい。

 

 赤組の残りはカルマ、岡島、菅谷、寺坂、中村、吉田、堀部。

 青組は片岡、茅野、渚、杉野、不破、前原、そして俺。

 

 片岡や前原、杉野といった能力が高いのが残っているが、あちらも相当なメンツが残っている。

 カルマは言わずもがな。体術に優れ、参謀役もこなせる中村。身体能力じゃ、岡島、寺坂、吉田がタフだったり素早かったり。時間をかければ発見するのが困難な迷彩も施せる菅谷、ドローンなどの機械を操る堀部。

 ……思えば、誰を相手にしても厄介が過ぎるな。それだけみんなが成長してるってことか。

 

「って、いま思うことじゃないな」

「ん、どうした?」

「いや、こっちの話」

 

 俺はふう、と息を吐いて気を引き締める。

 中村と吉田以外の場所がわからない以上、うかつに動くのは危険だ。が、じっとしてて回り込まれたら元も子もない。

 

「片岡、どうする?」

「うーん……」

 

 油断なく辺りを警戒しながら、片岡は考えをめぐらす。

 

「まずは……」

 

 と、迷ったのも数秒、指示を飛ばし始める。

 それを俺たちは一回で理解し、各々視線を交わらせた。

 

 ばっと杉野と前原が身を乗り出し、銃を撃つ。木に隠れたままの赤組は、弾幕が落ち着くのを待つしかない。

 二人がリロードしている間は、片岡と茅野が弾をばらまく。

 

「行って!」

 

 片岡の号令を受けて、俺と不破は同じ方向に飛び出す。

 

 俺たちに課せられた使命。

 それは、菅谷と堀部を見つけること。

 積極的に表に出ることはなく、裏からのサポートを得意とする彼らは、今もじっとして好機を窺っている。

 それらが最後の最後まで残っていたら面倒だ。目が利く俺たちが見つけて、退場させる。

 

 赤組は俺たちの姿を捉えつつも、邪魔されて狙えない。

 難なく射程外に抜け、上下左右に目を見張りながら、木から木へと飛び移る。

 

 おそらく、そんなに離れていないと思うが……

 

「見つけた!」

 

 草むらに紛れ、じっとしている菅谷。

 さすが、本物と見分けがつかないほどの色づかいで存在を消していた。

 だが俺と不破からは逃れられない。

 

 あちらもこちらに気づく。

 隠れて射撃するつもりだったのだろう、スナイパーライフルのみを装備していた。

 だったら……

 

 俺は不破の前に出つつ、距離を詰める。

 よし、銃口も指も見える。これなら楽勝だ。

 パンと放たれた銃撃を慣れた手つきで防ぐ。

 

「不破!」

「任せて!」

 

 俺の後ろでチャンスを窺っていた不破は横に跳び、引き金を引く。

 

「うわっ」

 

 急襲に対処できず、菅谷はアウトになった。

 

「げぇ、結構自信あったのにな。てかBB弾防ぐとかアリかよ」

「意外とできるもんなんだなって、自分でも驚いてる」

 

 ここまでナイフ一本で戦えているのが奇跡に近い。

 まあそれしかできないからなんだが……

 

「よし、これで後は……」

「ああ、堀部だけだな」

 

 と油断しそうになった瞬間、殺気を感じた。

 本能のまま飛び退く。パパパパと銃弾が目の前を通過した。

 

「わっ」

 

 不破は避けられず、赤インクがつく。

 

 犯人は堀部。すぐ近くに潜んでいたのだ。

 どこに忍んでいるかと思えば、菅谷を囮にして監視してやがったな。

 

 堀部はすぐに照準を向けてくるが、その間に懐に入らせてもらっている。

 銃を蹴り上げ、呆気に取られているところをナイフで切ってやった。

 

「ぐっ」

 

 咄嗟のことだったから、思いきりやってしまった。

 フードの上からだったが、首筋に叩き込んだせいでくらりときたようだ。 

 

「大丈夫か」

「ああ、なんとか」

 

 まだ目を回している堀部に手を貸して立たせる。

 

「大丈夫か」

「ああ、なんとか」

 

 相変わらずの無表情で、ぱっぱと服に着いた草土を払う。

 

「ドローンに銃を付けられてたら、俺たちの負けだったな」

「細かい調整が必要で、完成にはまだかかる」

 

 堀部の得意なこととして、機械・電子工作がある。

 今回も飛行ドローンを使って偵察・監視を行っていたようだが、搭載しているカメラの画質があまり良くなく、迷彩を施して隠れているE組はほとんど見つけられなかったらしい。

 これがどんどん小型化して、敵をはっきり捉えられるようになり、武器も装備できるようになれば殺せんせーも焦るだろう。

 できたとしても、まだまだ先のことだろうけど。

 

「だけど、これで終わりだ」

 

 珍しく、堀部がにやりと笑った。

 

 嫌な予感がして、スマホを見る。

 画面には両組の残り人数と、誰が残っているかが記されていて……

 そこで、俺は自分のミスに気付く。もっと、完全に安全を確認してからチェックすべきだった。

 

 片岡と茅野、杉野、前原が殺られている。

 

 まさか、この短時間でこの四人が仕留められるなんて、信じられない。

 

 いいや、そんなことは驚愕の二番目だ。

 一番は、いま俺の目に映っている。

 気配も音も消さずに、真っすぐこちらに向かってくる影がある。

 

 カルマ、岡島、寺坂、中村、吉田。

 残りの赤組全員が向かってきていた。



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85 二人だけの決着

 目を疑った。

 

 俺と不破を行かすために残った青組四人は、決して弱くない。それどころか総合的に見ても暗殺能力、射撃能力、対人戦闘能力に優れている。

 なのに全員殺られて、しかも相手をした赤組は一人として欠けていない。

 

 頭の回るカルマと中村が、岡島、寺坂、吉田に的確に指示を回したのだ。それほどまでに、裏をかくのが上手い。

 こちらの司令塔にも片岡がいたが……混乱させるような動きをしてこられたに違いない。

 

 さすがに絶望を感じる。

 この『一発当たったら終わり』のルールにおいて、そしてこの状況において、銃を使わない(というより、訓練を受けていないから使えない)俺は圧倒的に不利。

 姿を隠せていればなんとか逃げ隠れできたかもしれないが、あいつらの目は俺をばっちり捉えている。

 

 青組の残りは俺と渚のみ。

 出来るだけ逃げて、相手をバラバラにさせるか? そうしたほうが渚も狙いやすいだろう。

 それとも真正面から向かって、一人でも倒すか?

 

 汗が垂れ、緊張で喉が渇く。

 どちらにせよ、俺の死亡はほとんど決定している。だったら、潔く戦って散るか。

 一度深呼吸して、ナイフを構えた。

 

 

 そして、戦局は大きく動く。

 

 まず初めに気づいたのは俺。一瞬遅れてカルマ。

 ほんのかすかな違和感に刺激され、注意が()()()へ向く。

 

 カルマの行動は速かった。半歩先を行く寺坂の肩を掴み、その場におしとどめる。

 それに気づかず、岡島、中村、吉田は走り続ける。

 

 その後ろ。何もないはずの空間。

 そこに、音も気配もなく突然、渚が現れた。

 

 赤組の背後に立った渚は、ナイフで中村を青く彩り、銃弾を岡島と吉田に叩き込む。

 流れるような一瞬の動きに、思わず見とれてしまうほどだった。

 

 間一髪、今の暗殺から逃げ延びられたカルマと寺坂はすぐさま木へと身を隠す。

 その二人を警戒しながら、渚は俺の方へ来た。

 

「助かったよ、渚」

「あはは、なんとかできたね」

 

 なんとか、だと?

 三人の意識の隙を針で縫うような繊細さで突き、風のような動きで無駄なく倒した今の動きを、()()()()だって? 

 クラップスタナーといい、これといい、こいつの進化は留まることを知らないな……

 

「ところで、どこに隠れてたんだ?」

「ん、あそこだよ」

 

 渚が指差したのは、なんと烏間先生。

 なるほど、プレイヤーはあそこを見ようとはしないし、逆にあそこからはあらゆるところを見通せる。

 ずっと隠れて、最小の動きで最大の結果が得られるタイミングを計っていたってわけか。

 

 なにはともあれ、これで残り人数は二対二。この場にいるのが全員ということになる。

 

「ねえ、ちょっと提案があるんだけどさ!」

 

 そう言いながら、カルマはあっさりと姿を現した。しかも、銃をその場に捨てた。

 

「一対一で決着つけようよ」

 

 その言葉に、狙いをつけようとしていた渚の動きがぴたりと止まる。

 

「一対一?」

「そ、こそこそ隠れて裏をかきあって、ってのはもう飽きたでしょ。それに、残ってるのは俺たちだけなんだからさ。お互いが納得できる終わり方にしようよ」

「……言いたいことはわかった。だがなんで一対一なんだ?」

「邪魔されずに渚くんを倒したいから」

 

 カルマは即答する。

 

 赤組代表と青組代表の一騎打ち。

 暗殺の腕ではE組の中で一、二位を争う者たちのぶつかり合い。

 彼の望みはそれだ。

 

 殺せんせーを殺したいから赤組になった。だがそれとは別に、純粋にどちらが強いか。

 それを証明したいのだ。

 

 カルマはくるりと無防備な背中を向けて歩き出す。

 その方向は烏間先生のいるところ。退場したみんなの避難場でもある。

 全員の目が届くところでやろうっていうのか。

 

「やる気があるなら、こっちにおいで」

 

 今ここで、その背中を撃つこともできる。けどできない。

 あちらが一対一を望んでいるのに、不意打ちで勝ちだなんて終わり方は 誰も認めてくれない。

 結果として俺たちの勝利でも、しこりは残ったままになる。

 

「カルマってやつは……」

 

 計算高いのは変わらず……けど、一対一でケリをつけたいのも本心だろう。

 だから隠れたまんまの寺坂も何も言ってこない。

 

 渚もライフルを木に立てかけて、一歩足を進めた。

 

「行くのか?」

「うん」

「そっちは任せるぞ。渚なら勝てると信じてる」

 

 こくりと頷いて、渚はカルマのほうへ向かう。

 渚はカルマの真正面へ姿を現すだろう。

 赤組を納得させたいのなら、カルマを潰すしかない。彼の得意とする戦闘で。

 

 この戦いはカルマのほうに分がある。

 並外れた戦闘センス、狡猾な頭脳、暗殺を通して培った経験、油断しない心。同じ中学生で、彼に喧嘩で勝てる奴が何人いるか。

 だが決して、渚も負けてはいない。

 才能という点では恐ろしいほどのポテンシャルを誇るし、なにより芯の通った負けん気は誰よりも強い。

 

 どちらが勝つにせよ、その結果に文句は言えない戦いになるだろう。

 

 さて、俺は俺で勝つべき相手がいる。そいつはゆっくりと姿を見せた。

 寺坂が銃口を向けながら、こちらを睨んでいる。

 

「あっちは渚とカルマのバトルが始まったみたいだな。俺たちは……」

「こっちも二人だけで決着つけるとしようぜ」

 

 それ以上言葉は不要。ここは戦場だ。

 お互いに、持っている武器を構える。

 

 動いたのは俺が先だ。寺坂が引き金を引く前に、瞬時に距離を詰めて銃を叩き落す。

 同時にナイフを振り上げるが、間一髪、顔を逸らされ、ナイフも無理やり落とされた。

 そこでできた隙を逃さず、横っ腹にしなるキックをお見舞いした。

 

「遠慮するなよ。全力で来い」

「言ってくれんなぁ、おい」

 

 蹴りを受けた場所を抑えながら、寺坂は向かってくる。

 突進をがっしり受け止め、腹に二度膝を叩きこむ。寺坂はそれを耐えて、俺を押し倒した。

 

 足を足で抑えつけられ、動けないところに襲い掛かってくる拳を腕でガード。

 攻撃の合間にできた隙を狙って、鼻っ柱に一発おみまいする。ぐらりと揺れたのを見て、袖と襟を引っ張って引き剥がす。

 お互いに、立ち上がる前に相手の胸ぐらを掴む。逃がさないようにして、拳を何度も交わす。交わす。交わす。

 刹那、攻撃を弾く。

 腕を思いっきり引っ掴んで、背負い投げを食らわせた。

 地面に落とされた身体に衝撃が走り、寺坂は咳き込む。それでも彼はまだ諦めず、がばっと立ち上がって俺の肩を掴んだ。

 

「しつ……こい!」

「おあいにく様、それだけが取り柄なんでな!」

 

 ぶおん、と空を切るパンチが炸裂する。両方とも相手の頬にクリーンヒットさせていた。

 あまりの強烈な一撃に、俺はぐらつくもなんとか両足で立つ。対する寺坂はばたんと倒れ……しかし数秒後にはよろよろと立ち上がった。

 

「本当にタフだな、寺坂」

「あのタコを殺るしか、あいつがやってくれたことに報いる方法を知らねえんだ」

 

 いつもはあまのじゃくな寺坂も、素直に認める。殺せんせーは俺たちにとって大切な存在で、だからこそ恩返しをしたいと。

 

「そういうお前はどうなんだよ。そこまでしてあいつを生かしたいのか?」

「生かしたい……確かにそう思う。だがお前らの言い分ももちろんわかる」

「だったらどうしてそこまでして戦ってくるんだよ」

「命を奪わないことが、殺せんせーへの報いになるからだ」

 

 これは俺だけが出来る、成長の証明だ。

 

 どうしようもない奴らと戦って、殺意に飲み込まれそうになった時もあった。それでも一線を越えずに命を奪わないことで、今ここにいられる。

 それを教えてくれた殺せんせーや、お前たち全員に背くようなことはしたくない。

 

「それに、親友が全力で俺に勝とうとしてるんだ。俺も全力で応えなきゃいけないだろ」

「ちったぁ手加減してくれてもいいんだぜ」

「そんなもん、この勝負が始まる時に捨ててきた」

 

 お互い、ざっと一歩踏み出す。

 先手必勝、と踏み込んだ俺の一撃は彼のみぞおちにヒット。続いてアッパーも顎にぶち込んでやった。

 が、寺坂は意識を手放さず、俺の腕を掴んで引き寄せた。

 でかい図体に抑えつけられ、首を絞められる。喉がぎりぎりと狭まり、息が出来なくなる。

 この馬鹿力を引き剥がすのは難しい。腕に思いきり力を込めて、肘をみぞおちにめり込ませてやる。

 一発。寺坂から苦悶の声が漏れ、腕が一瞬緩む。だがすぐに持ち直した。

 だったらもう一発!

 

「ぐっ」

 

 ようやく、彼の腕が完全に開いた。

 足元がおぼつかず、よろける寺坂。深く息を吸い、体勢を整えた俺。

 どちらが不利なのかは、火を見るより明らかだった。

 それでも負けを認めず、敵は向かってくる。

 

 大ぶりのパンチをしゃがんで避ける。震える足を払い、寺坂を跪かせた。

 これで終わりだ。

 俺は彼の額へ、容赦なく膝をぶつける。鈍い音が響いて、寺坂はあおむけに倒れた。

 意識を奪うことはできなかったが、彼は立ち上がる余力もなく肩で息をする。

 

「なんで……んな強ぇんだよ」

「……さあな」

 

 軽口でも皮肉でもなく、素直な感想だ。

 体格だったり経験だったり、いろんな要素があって俺は強くなった。だがそれは寺坂も同じだ。

 一概に何が優れている、何が足りないなんて言えはしない。覚悟の差なんてものはほとんどないに等しいし。

 

 向こうで歓声が上がる。渚とカルマの戦いに決着がついたようだ。 

 こちら側の声がよく聞こえるから、渚が勝ったんだろう。

 カルマを相手に、一対一で勝利するなんて……どこまでも予想を超えてくる奴だ。

 

「あっちは終わったみたいだな。あとはお前だけだ」

「俺の負けだ。見りゃわかんだろ。もう指一本動かせねえ」

 

 地面に倒れたままお手上げのポーズをして、負けを認める。

 

《そこまで! 赤チームの降伏により、青チーム……殺さない派の勝ち!》

 

 烏間先生のよく響く声がこっちまで聞こえ、試合終了のホイッスルが鳴った。

 

「終わったな」

「あーくそ、負けちまったか……」

 

 そう言うわりには、悔しそうな顔をしていない。

 全力で戦って、お互い清々しく終われた。もしこっちが負けてたとしても、納得して受け止めていただろう。

 

「ほら立て」

 

 寺坂の腕を掴んで、ぐいっと引き上げる。重くて逆に引っ張られそうになるが、なんとか踏ん張った。

 立つのが限界の彼に肩を貸し、引きずるようにしてみんなの元へ戻る。

 姿を見せ、寺坂を吉田たちに預け、俺は勝利に沸く青組に寄る。ばしばしと身体を叩かれた。

 

「よっ、MVP!」

「今回も一番動いてたんじゃねえのか?」

 

 とか色々言われて、まあ悪い気はしない。けっこう貢献したのも自覚してるしな。

 唯一、疲れ切って座り込んでいる渚の隣に腰を下ろし、ぽんと肩を叩く。

 

「渚、勝ったんだな」

「うん、なんとか。本当にギリギリだったけど」

 

 渚もカルマも顔に痣ができていることから、かなりの激戦だったことが窺える。

 律が録画しているだろうし、後で見せてもらおう。

 今はそれより……

 

「これで文句ないだろ。殺せんせーを生かすために全力を出す。それでいいな?」

「負けたんだから、ちゃんと従うよ」

 

 赤組代表のカルマが即答する。

 

 完全に納得してはいないだろうが、全員が力を出し尽くして出た結果だ。

 周りのみんなからも異論は出なかった。



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86 大気圏の下で

 E組どうしの衝突も決着してそのまま、俺たちは早速話し合いをすることになった。

 議題はもちろん『殺せんせーを生かすために何が必要か?』である。司会進行は竹林でお送りします。

 

「そもそも世界の国々は、殺せんせーを殺すことしか考えていないのか? 僕は違うと思う。だって本来の目的は、地球を救うことなんだから」

 

 まず、と前置きした竹林の疑問と回答はごもっともである。

 そう。元々はエネルギー問題解決のための研究だ。

 爆発を避けて安定化させられるなら、それに越したことはない。

 

 さらに、暗殺だ暗殺だと言っているが、刺激を与えることによるリスクもないとは言い切れない。

 殺せんせーを、その細胞を大人しくさせられるならどうとでも出来る。

 

「それに、触手生物を安全に運用できるようになれば莫大な利益が生まれるしね」

 

 俺は頷いた。

 

「どれだけ刺客を送っても返り討ちにして、銃弾もミサイルも避けられる生物を作り出せたら、パワーバランスを傾けさせられるしな。触手細胞を安定させる技術はどの国もが持っておきたいと思ってるだろう」

 

 触手細胞を埋め込んだ生物を任意のタイミングで爆発させられるようにすれば、証拠も残らず技術が流用されることもない。

 超生物の制御は、殺すことと同じくらい必要なことだ。

 だから、殺せんせーを抹殺して終わりだなんて考えはほとんどの国が持っていないだろう。

 殺して、その次の段階まで計画しているはずだ。

 

「だけどよぉ、それもあくまで推測だろ?」

「ああ。だから証拠が欲しいんだが……」

 

 俺はちらりと烏間先生を見る。

 

「……俺は情報を持っていない。最重要の機密事項だし、持っていたとしても君たちに見せられ……」

「ハッキングに成功。データをコピーしました」

「なに!?」

 

 律があっさりデータを盗んだことに、烏間先生は驚いた。

 彼女はもともと超高性能なうえに、自ら学んで出来ることを増やしている。電子の世界において、彼女に勝てる者は一握りいるかどうか。

 

 律が奪ったデータを画面に映し出す。英語で書かれた無数のタイトルがずらっと並んでいた。

 世界中で行われている研究の内容だ。専門用語が多いが……

 

「ただ、具体的内容は機密保護が厳重すぎてわかりません」

 

 どうやら、最奥部の情報はネットを介していないようだ。それどころか、専用回線すら使われていないらしい。

 どの国も手渡しでの受け渡しで、データのやり取りをしているのだ。

 アナログな手法ではあるが、一番盗まれにくい。どれだけハッキング能力が高くても意味をなさなくなるのだから。

 この情報化社会において、古い方法が優れているなんてなんとも皮肉な話だとは思うが。

 

 それはさておき、肝心の殺せんせーを救う研究は……

 

「タイトルを見れば大体察しがつくね。えーっと……」

 

 不破はそれらをざっと見ていき、それっぽい研究を探す。

 

「これ! 今研究中でそれらしいのはこれしかない!」

 

 彼女が示したのは、アメリカが行っている『触手細胞の老化分裂に伴う反物質の破滅的連鎖発生の抑止に関する検証実験』。

 『抑止』、つまり触手細胞の暴走を抑える実験。

 その結果サンプルは、一月二十五日にISS(国際宇宙ステーション)から帰還する予定だ。

 

「宇宙かよ……」

 

 ぼそりと寺坂が呟いた。

 

「確かにそこなら、殺せんせーの邪魔は入らないな」

「それに、無重力や真空でしか出来ない実験もありますし、爆発による被害も最小限に抑えられます」

 

 竹林と奥田の理系コンビが頷く。

 理に適ってる。適ってるがゆえに、どうしようもない。

 

 宇宙ステーションにあるデータなんて、どうすればいい?

 

 みんなでうんうん唸っていると、殺せんせーが烏間先生とビッチ先生をこっそり出て行かせるのが見えた。

 それに気が付きつつも、とりあえず目の前の問題に集中する。

 

「ISSから戻ってくるサンプルは奪えない?」

「データはポッドに入れられて落とされるらしいけど……落下地点は海の上だね」

「ポッド自体も頑丈で重たいみたいだな。開けてる間に捕まっちゃうのがオチか」

 

 議論は白熱。それぞれが提案するも、八方塞がりだ。

 

「こりゃどうあっても手が届かねえな」

 

 どっと疲れた様子の吉田が、椅子にもたれかかる。

 みんなでぶつかって、やる気出して、情報が得られたと思ったらこれだ。

 落ち込んでしまうのもわかる。

 

「いいえ、そうでもありませんよ」

 

 にゅっと、殺せんせーが割って入ってくる。

 

 ……嫌な予感がする。きっと突飛なこと言いだすぞ。

 先生二人を追い出したのは、二人に責任を負わせないため。それほどまでに大きいことを提案する気だ。

 

「さて、君たちの望みはこうですね。『宇宙から戻ったデータがアメリカに渡る前に、ちょっと盗み見させてほしい』と」

 

 全員が頷く。

 

「そこでです! 近々これが打ち上げられるのを知っていますか?」

 

 殺せんせーが取り出した宇宙や天文系のことを取り扱う雑誌には、日本が行おうとしているとある大プロジェクトが掲載されていた。

 

「宇宙ロケット?」

「しかも有人の……」

 

 センサー付きのダミー人形を載せて打ち上げ、実際に人を乗せたとしても問題ないかを確認。その後ISSとドッキングして、補給物資を下ろし、荷物を積んで帰還。

 擬似的に有人飛行のデータを採る目的のプロジェクトだ。

 これがISSに着くのは、アメリカのデータが降ろされる三日前。

 

「日本って宇宙ロケット飛ばせるの?」

「それくらいの技術信頼度はあります。先生がいるから開発を早めたのかもしれませんねえ」

 

 岡野の疑問に、殺せんせーが答える。そういうドラマもあった気がするし。

 

「さて、もしこのダミーが本物の人間にすり替わっていたらどうなるでしょう?」

 

 にやり、と意地悪そうな笑みを浮かべてくる。

 そこまで言われれば、何をしようとしているのかわかってしまう。

 はあ、とため息をついて、俺は額に手を当てた。

 

「嫌な予感が的中したな……」

「ヌルフフフ。そう! 暗殺教室季節外れの自由研究テーマ!」

 

 殺せんせーは一本の触手をびしっと空に向けた。

 

「宇宙ステーションをハイジャックして実験データを盗んでみよう!」

 

 殺せんせーの言葉に、俺たちは唖然とする。ほとんどがあんぐりと口を開けたまま固まった。

 代表して、おそるおそる俺が手を挙げる。

 

「……つまり、セキュリティが万全な施設に忍び込んで、人形の代わりに宇宙行きのロケットに乗り込み、宇宙ステーションの人を脅して、データを無事に持ち帰る……そういうことか?」

「はい」

 

 「はい」じゃないが。

 どれだけ無茶を言ってるのかわかってるのだろうか。 

 

「怖気づいたの、國枝?」

「怖気づかない方がおかしい」

 

 にやにやしているカルマに返す。

 俺はため息をついた。いくつもの難関を突破したとして、データは得られても解決方法が手に入るかはわからない。

 だけどここまで来たらやるしかないな。……やるしかないのかなぁ?

 

 

 あらゆる状況に備えての作戦を考えいたら、あっという間にその日はやってきた。

 

 管制センターの敷地は広大で、目的のロケット発射台にたどり着くだけでも一苦労。それなのに、今回はバレた時点で失敗だ。見つかっても気絶させればいいというわけじゃない。

 俺たちが侵入した痕跡も残さず、何かがいたかもしれないという疑念すら抱かせないまま去る必要がある。

 ゆえに、潜り込むのは少数精鋭で。

 

 話し合いの結果、敷地の外から柵を飛び越えて潜入するのは、俺と磯貝、そして渚とカルマとなった。

 

 敷地内に侵入し、分かれる。

 窓や雨どいを利用して、適当な建物の屋上に降り、そのまま屋根伝いにロケット打ち上げ台が見えるところまで移動。

 遅れて、磯貝が俺の隣に並んだ。

 

 俺の役目は見張りだ。

 ロケットを飛ばす直前ともあれば、屋外の警備もかなりの数がいる。それらをマークして、カルマに伝える役だ。

 その穴を突くように、磯貝が指示を出す。

 

 すでに施設内には矢田と倉橋が、施設見学と称して中に入れさせてもらっている。『見学しに来たけど迷った中学生』を装って管制室まで入り、目を引いていた。

 その隙に中に入った木村が行動。気配を消し、見つかりにくいように色を変えた超体育着を纏って管制室に潜入。

 適当なPCに、人差し指の第一関節ほどのUSB機器を差し込んだ。これで無線接続が出来る。

 

《接続成功しました。ダミーの映像を流します》

 

 よし。これで監視カメラの前に出てもバレることはない。電子機器によるセキュリティも突破できる。

 

「渚たち、そのまま真っすぐ進んでくれ」

 

 磯貝の指示に従って、彼らは進む。道中、警備の目もあったが、その後ろを風のように抜け、まったく気づかせなかった。

 夜の闇に紛れて、ぬるりと動く影を誰も捉えられない。

 渚とカルマはあっという間にロケットの足元まで到着した。

 

「國枝、殺せんせーは見えるか?」

「……焦った顔で、マッハでロケットの点検してる」

 

 俺は苦笑した。

 宇宙開発の進歩により技術が向上してるとはいえ、ロケットが落ちる可能性も0じゃない。必死になるのはわかる。

 だがあの崩れそうな顔を見てると、なんだか力が抜けるような、馬鹿馬鹿しく感じるような、そんな気持ちになる。

 

《國枝、周りはどう?》

「誰もいない。今なら乗り込めるぞ」

 

 ロケットは飛ぶ直前。整備はとっくに終わり、人員も退避していた。

 二人は殺せんせーに連れられ、操縦席に乗り込む。ここからはもう二人の姿は見えない。

 

「……」

 

 俺が乗ってるわけでもないのに、緊張してきた。

 もう撤退しなきゃいけないのに、足が竦む。

 

「心配か?」

「そりゃまあ、な」

「まったく。納得して、覚悟しただろ」

「そう、だな。もう信じるしかないんだもんな」

 

 行くなと言って止められるわけでもない。本当に止められると思っているなら、こんなバカげたことなんてせずに別の方法を示していた。

 日本の技術は素晴らしいものだ。だが、残念ながら失敗してロケットが空中爆発するおそれもある。

 それでも俺が賛成したのは、殺せんせーを救う最善最短の道はこれしかないことを理解していたから。そして、E組の覚悟を前にして、ごちゃごちゃ言うのが無駄だってわかっていたから。

 

 耳からカウントダウンが聞こえる。

 もうすでにロケットの中の二人以外は退避し、敷地の外へ出ている。俺たちも慌てて元来た道を戻る。

 

 柵を越えて、みんなのいるところへ着地した瞬間、後ろでゴゴゴゴゴと音が鳴り、振動が地面と空気を震わせた。

 振り向くと、まさに今ロケットが飛び立とうとしている時だった。

 

「おお~」

 

 感嘆の声が思わず漏れる。

 極大の火を噴いて、二人の命を乗せた金属の塊が上昇していく。轟音を轟かせて、ロケットはみるみるうちにスピードを上げていった。

 地球の重力を振り切り、空気との摩擦熱も耐え、殺せんせーの全力よりも速く、空の彼方へ消えていく。

 気がつけば、星と同じような空に浮かぶ点にしか見えないくらい遠くへ離れていっていた。

 

 息も忘れるほどのド迫力な光景。

 俺たちは見惚れて、しばらく動けずにいた。



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87 掴み取った結果とE組の答え

 渚とカルマが宇宙へ飛び立って、三日後。

 俺たちはグラウンドでドキドキハラハラしながら空を見上げていた。

 

 ロケットは無事、宇宙ステーションに到着したようだが、中で何が起こったのかまではおおよそしか把握できていない。

 律を通じて、なんとか滞在クルーとの交渉に成功したところまでは聞いているが……心配せずにはいられない。

 

 だって、宇宙、完全に未知の世界だもの。

 俺たちが知ったように思っているそれは、授業で受けたことや映画でのイメージが強い。

 だけど、もちろん実際にはそれらのイメージとは異なるはずだ。

 そんな想像もつかない世界へは、俺の手はもちろん、殺せんせーの手も届かない。

 そわそわせずにはいられなかった。

 

 計画では今日、データと二人を乗せたポッドが落ちてくるはず。落下地点は裏山のプールに設定してある。

 

「来たぞ!」

 

 俺は空を指差した。

 遥か彼方、空に浮かぶ点くらいの何かが見えてきた。

 間違いない、お目当てのポッドだ。パラシュートが開く。絡まっていたが、すぐさま張り付きに行った殺せんせーが解き、無事速度を落としていく。

 微妙な着地点のずれは、これまた殺せんせーがツッパリをすることで調整。

 ふわりふわりと落ちてくるそれが、だんだんと、確実にこちらに向かってきている。

 

 それに合わせて、俺たちも着地予定地点へダッシュ。

 プールの傍まで来た時には、もう少しで手が届きそうなくらい、ポッドが近くにいた。

 その行く末を固唾をのんで見守る。

 律の計算と殺せんせーの助力が合って、それはゆっくりと目的地に到達した。

 ばしゃりと予想以上の水しぶきがあがる。雨のように降り注ぐそれに打たれながら、俺たちはなんとか着地したポッドに目を向けた。

 大気圏突入にも耐えられるくらいとても頑丈に作られているため、着水程度では傷はない。

 問題は、中のものだ。

 

 俺は急いで近づき、金属の扉をがんがんと叩く。

 

「大丈夫か!?」

 

 律の制御でロックが外された。厚さ数十センチの扉を、渾身の力で開ける。

 

「そんな大声出さなくっても無事だって」

 

 カルマがぬっと出てくる。

 当然のことだが、このポッドも有人帰還船だ。これでもかというくらい、安全に作られている。

 こうやって、彼があっさりと出てこられるほど隙間なく設計されているのだ。

 

「うわっとと……」

 

 渚は、無重力にいたせいと着水の衝撃で上手く身体を動かせず、出れないみたいだ。

 本来ならそれが普通。カルマが異常なのだ。

 俺は中に手を伸ばし、よろめいた渚の手を取り、支える。肩を持って引っ張り、外へ出してやる。

 

「おかえり」

 

 渚は、あはは、と照れ臭そうに微笑んだ。

 

「ただいま」

 

 

 宇宙から無事に帰ってきました、で終わりではない。

 持ち帰ったデータをもとに、殺せんせーを生かすことがゴールだ。

 

 膨大なデータを律に読み込ませて、表示させる。

 行ってきたデータの内容が全て記されているので、その文量は膨大。そのうえ専門用語も割合が多い。いくつか化学式も書かれていた。

 

「奥田」

 

 杉野が奥田を呼ぶ。

 うん、これを理解して、俺たちに伝えられるのは彼女くらいなものだろう。

 

 この一年間で国語の急成長を見せた奥田は、一度文章を読み、要約してくれた、

 その内容は次の通り。

 

 様々なタイプの反物質生物を作り出し、それをカプセルに入れて宇宙空間に放る。そして細胞暴走から爆発までのサイクルを確認する実験を行っていた。

 その結果分かったことは、『生物のサイズと爆発のリスクは反比例する』ということだった。

 つまり大きい生き物は爆発しにくく、小さいのは爆発しやすい。

 さらに、反物質生物から細胞を分けて他の生物に移した場合にもリスクは上がることが判明。

 研究所が爆破したのは、なるべくしてなったということだ。

 

 逆に、オリジナルで作られて、なおかつ人間というそれなりに大きな素体である殺せんせーは、危険性が少ないということだ。

 それに……

 

「さらに、以下の化学式で示す薬品を投与し、定期的に全身の珪素化合物の流動を促す……わかりやすく言うと『凝りをほぐす』ことで、さらに飛躍的に暴走リスクが下がると判明。以上の条件を満たすとき、爆発の可能性は……高くとも一%以下」

 

 ごくり、と喉が鳴った。

 一%以下……いつか爆発するかもと危惧していたが、その確率は思っていたよりも格段に低い。賭けならオールインするレベルだ。

 

「この薬品っての作れるのかよ」

「割と簡単です。というか……私、これとほとんど似たようなのを作ったことが……」

「……あるのか?」

「ああ、三年最初のほうに、殺せんせーが奥田を騙して作らせたんだ。毒を盛るにも、騙す国語力が必要だって言ってな」

 

 作ったことのある薬なら、また作ることも出来る。奥田曰く、材料を手に入れるのもそう難しくはないようだ。

 『定期的に凝りをほぐす』という条件はクリア。

 

「ってことは……」

「危険がほぼないってこと。つまり……」

「殺せんせーを殺す必要がないってことだ!」

「よっしゃあああ!!」

 

 教室が揺れるほど、みんなが歓喜の声を上げる。涙を流す者もいた。寺坂でさえ、高くガッツポーズをしてみせる。

 

 今までは殺せんせーが地球を破壊するって言っていた。

 それが実は、触手細胞による爆発を指していて……しかもその危険性が1%未満。ならもう政府の意向に従って殺しに行く必要はないということだ。

 

 とはいえ、だ。

 

 頭が良くなることも、身体を動かすことも、理不尽に対してどう立ち向かうかも、すべて暗殺を通して培ってきた能力だ。

 殺せんせーが本気で殺される覚悟があり、E組がそれに応えたからこそ勝利を手にすることが出来た。

 今さら手を抜くことはしない。

 

 卒業まで、暗殺は続ける。

 

 それがE組の出した結論だ。

 無論、自分で手を下さないという俺のスタンスも変わらない。

 教室の様子は変化せず、ただし確実に前に進めることはできた。

 暗殺が達成できなかったとしても、みんなの心が折れることはない。

 第二の刃と濃い一年間の経験、そしてこの先の未来……人生の目標を持つことが出来たからだ。

 

 やたらと笑顔で銃を撃ってくる生徒たちを避ける殺せんせー。

 喜びの表現が暗殺って……まあこの教室らしいか。

 

「嬉しそうだな、殺せんせー」

 

 放課後、暗殺計画を練る生徒たちから離れ、校舎の外で話し合う俺たち。

 彼が美味しそうに湯呑で飲んでいるものは、例の薬品だ。

 

「ええ、とても嬉しいですよ」

「生きられるってことがか?」

「それももちろんありますが……私のためにみなさんが努力してくれて、私のためにみなさんが喜んでくれるのが、とても嬉しいです」

 

 生徒が力の限りを尽くして、教師の命を救うために動いた。教師冥利に尽きるだろう。

 

「とはいっても、どこに行っても狙われるだろうけどな。いつかは殺されるんじゃないか?」

「ヌルフフフ。殺せるものなら、ですけどねえ」

 

 水に追い込む、エロで釣る、いやそもそも暗殺者を使うこと自体、E組に所属しているからこそ使える方法だ。

 殺せんせーがここを離れれば、どこにでも現れる神出鬼没の生物になる。

 そうなれば対処はほぼ不可能になる。

 

 殺せるものなら、ね。確かに。

 

「私を殺せても殺せなくても、君たちは泣いて、そして笑うのでしょうねえ」

 

 ……なんだか想像しづらい。

 殺せんせーが死ぬこと自体がまず想像できないし、卒業でお別れってなるのも実感が湧かない。

 たった一年間だけれど、ずっと一緒にいたせいで当たり前の存在になってきている。普通なら、一目見ただけで腰を抜かすような見た目なのにな。

 

 でも必ずやってくる。

 俺たちがそれぞれの道を歩きはじめる日は、絶対に訪れてくるのだ。

 

卒業(そのとき)はもうすぐです。やり残したことのないよう、過ごしてください」

 

 殺せんせーが俺の頭に手を置く。

 ほんの少しだけ、俺は寂しさを覚えた。



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88 同じ時を

 拝殿の鈴を鳴らし、手を叩いて、念を込める。

 誰もいない境内では、たった二人の拍手でもよく響いた。

 

「ようやく初詣ができたね」

「もう二月だってのに、『初詣』は正しいのか?」

「まあまあ、細かいことは言いっこなし」

 

 くすくすと笑いながら、不破は手を擦り合わせた。かじかんだ手は赤く、息は白い。

 

「こうやって二人で出掛けるのはクリスマス以来だな」

「うん。あの時は殺せんせーの正体がわかったり、これから私たちがどうしていったらいいかとかで悩んでたね。年末年始って普通なら盛りだくさんのはずのイベントなのに、いろいろ逃しちゃった」

「俺たちが置かれている状況は普通じゃないからな。でもこうやって来れたからよしとしよう」

「みんなも来れたらよかったんだけど……」

「全員予定があるとはな。受験生だし、そりゃ忙しいのはわかるが……」

 

 誰に聞いても即答だったのが気になる。みんな、それほど外せない用事があるのだろうか、

 それはまあ考えてもしょうがないことだから、目の前の不破のことを……

 

「不破、今日は調子悪いのか?」

「へ? な、なんで?」

「いつもと違う。なんていうか、そわそわしてる感じ」

 

 寒いからというには顔が赤いし、落ち着かないようなそぶりを見せている。

 風邪とかだろうか。

 

「あ、あはは、やっぱり國枝くんにはお見通しかぁ」

「ちょっと休むか?」

 

 どこか屋内で温まろうかと、連れ出すために手を掴む。

 

「あ、えっと、大丈夫。なんか他に誰もいないっていうのが珍しいねって思って」

 

 しどろもどろになって、手をぶんぶん振りながら否定する不破。

 

「何するにしろ、全員で取り組んでたからな」

「ん、でも、今は二人きりで嬉しいかも」

「ん゛っ!」

「ど、どうしたの、國枝くん。胸なんか叩いて!?」

「いや、なんでもない。心臓が止まりかけただけだ」

「いきなりなんで!?」

 

 不破はビッチ先生の特別授業をそれほど受けてはいないはずだが、となるとナチュラルボーン男殺しなのか?

 それとも……それほどまでに、俺は彼女に惹かれているのだろうか。

 みんなに助けられて、特に不破は俺の精神の拠り所になっている。

 心配してくれて、ずっと俺を見てくれた彼女に好意を抱くのは不思議ではなかろう。

 

「と、とにかく、調子が悪いわけじゃないんだな?」

「うん、体調管理も立派な仕事だって烏間先生も言ってたからね。あ、でも……」

 

 不破は視線を落とす。

 

「これはこのままがいいな」

 

 その先は、先ほどから彼女の手を掴んでいる俺の指。

 しまった。心配するあまりずっと握りしめてしまっていた。

 ……けれど、このままでいいというなら、そうさせてもらおう。不破も握り返してくれていることだし。

 

「それにしても、この一年いろいろあったなあ」

「殺せんせーが急に来て、暗殺をしろって言われたのが始まりだったな」

「うん。修学旅行とか夏合宿とか、殺せんせーのせいで大変だったこともあるけど……でも、殺せんせーのおかげで楽しかった」

「ああ。あの人がいなかったら、どうなってたか……考えたくもないな」

「少なくとも、私たちがこんな近くにいることはなかったよね」

「……そうだな」

 

 E組への差別は変わらないまま、俺たちは底辺のままだっただろう。

 俺なんか警察に捕まってたか、死んでいたかもしれない。誰とも分かり合えなくて、独りだったであろうことは間違いない。

 

 これまでの事件は最悪なものばかりだったけれど、自分の弱さと気持ちを自覚できるようになるには必要だったのだ。

 

 だけど、そこで終わりじゃない。

 自分の気持ちに気づいて、ようやくそこがスタートなのだ。それを伝えるには、まだ勇気がないけれど。

 

「受験が終わっても、まだ終わりじゃないんだよな」

「うん……」

 

 卒業までに暗殺は続ける。つまりあと一か月ちょっとは全力で殺せんせーと向き合うことを決めたのだ。

 悩んでぶつかって得られた答えだ。その先の結果が納得できるものにできるかどうかも、また俺たち次第。

 これまでと同じように、全力で立ち向かっていくしかない。

 俺は殺さないという立場を貫き続けるつもりでいるが。

 

 そういえば、とメインの用件を思い出した。

 鞄からごそごそと目当てのものを取り出して、目の前に掲げる。

 

「不破」

 

 軽くラッピングされた小さな黒い箱。それを不破に差し出すと、彼女は首を傾げた。

 

「な、なに? なんで?」

「今日は二月九日。不破の誕生日だろ」

 

 あ、と不破は呟く。

 自分のことだから忘れてはいないだろうが、俺から何か貰えるとは思わなかったのだろう。

 

「知ってたんだ」

「漫画の……なんかのキャラの誕生日と同じって、いつか言ってただろ。そのキャラは忘れたけど、お前の誕生日は覚えてる」

 

 だからわざわざこの日を選んだわけだし。

 寒さのせいか、頬を赤くする不破は大事そうに箱を抱える。じっとそれを見て、感嘆の息を漏らした。

 

「開けていい?」

 

 俺が頷くと、彼女は割れ物を扱うかのように慎重にリボンを外し、箱を開ける。

 

「わぁっ」

「いろいろ考えたんだけど、情けないことにいいのが思い浮かばなくて……」

 

 腕時計。

 ビッチ先生に話を聞いて参考にして、似合うものを時間をかけて探した。

 小さな丸い時計盤に、濃い茶色の革ベルト。

 ごてごてした装飾はなく、シンプルながらも大人っぽく仕上げられた逸品。

 

 身に着けるものだから、センスが合わなかったり、そもそも腕時計したくない人間だったらどうしようとか不安になる。

 これが父親だったら、ネクタイとかで済ませられるのに。

 

 太陽の光を反射させるそれを、不破は見つめる。

 

「い、嫌だったら他のも用意するけど」

「……嬉しい」

 

 にこりと笑って、箱から時計を取り出す。手に取って、はにかんだ表情でうっとりとしてみせた。

 

「こういう輪の形のプレゼントって、『相手のことを独占したい』って意味があるの知ってる?」

「うっ!? いや知らなかった。すまん。やっぱり違うのを……」

「ううん、いいんだ、これで。これがいい」

 

 嬉しそうな表情はそのままに、彼女はそれを手に取って、自分の細腕に通して……

 

「時計だとね、別の意味もあるの」

 

 金具をぱちりと留めた。

 

「『あなたと同じ時を刻みたい』」

 

 俺はそんな意味があるなんて知らなかった。

 ただ、ビッチ先生に頼んで、良い店を教えてもらって、不破に似合うものを選んだつもりなだけなのに。

 

 ロマンチックなコピーで客を釣るために、どこかの企業とか昔の有名人が言い出したことなのかもしれない。

 不破はそれを知っていた。

 知っていて、受け取ってくれた。

 知っていて、着けてくれた。

 

 その意味するところは、俺もしっかりわかっているつもりだ。

 

 心臓が高鳴る。不破のことが、今までよりもものすごく愛おしく思えてきて、もう我慢ができない。

 

 俺はそっと、彼女の肩に触れる。すすすと首に手を這わせ、頬に手のひらを当てる。

 嫌がる素振りもせず、むしろ不破は頬を擦り付けてきた。外気のせいで冷たいけれど、柔らかくて、一生触っていたいと思えた。

 

 うるんだ目が俺を見上げる。

 綺麗な目に吸い込まれて、自然と顔が近づく。不破もゆっくりと俺との距離を縮めてきた。

 あともう少しで二人の影が重なる……

 

 と思った瞬間、ピリリリと音が鳴った。

 

「わあっ!?」

 

 不破はびっくりして飛び上がる。

 上着のポケットから、音の出どころであるスマートフォンを取り出すと、慌てて耳を当てた。

 

「あ、うん。もう帰るよ。電話しなくてもわかってるってば」

 

 頬を赤く染めて、彼女は電話相手に怒る。相手は家族の誰かだろう。

 ケーキやプレゼントを買いに行ったりする予定があることはすでに聞いていた。もうでかけようという催促の電話に違いない。

 

 すぐに電話を切ると、不破は手を合わせてぺこりを頭を下げた。

 

「ご、ごめんね。家でお母さんたちが待ってるみたいで……」

「いや、いいんだ。そっちのほうが大切だろ。早く帰ってやってくれ」

「う、うん!」

 

 たたたっと走り去る不破を見送る。

 まだ寒いはずなのに、身体の内側はじんわりと温かくなっている。

 

 心臓の鼓動がうるさく、しかし心地よく鳴っていた。



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89 君と私の境界線なんて

「おはよう、國枝くん」

「おはよー」

「ああ、おはよう、神崎、茅野」

 

 寒い季節が続く中、今日も変わらず登校。その道中で、神崎茅野コンビが声をかけてきた。

 すると、二人はごそごそと鞄を漁り、可愛らしくラッピングされた小さな箱を手渡してきた。

 

「はい、ハッピーバレンタイン!」

「お、ありがとう」

 

 今日は二月十四日。バレンタイン。

 日本のそれは元々のものと意味合いが多少異なるが、しかし恋愛や友情を示すいいきっかけでもある。

 

「遅くなっちゃったけど、修学旅行のときのお礼もかねて、ちょっと気合い入れたからね」

「そりゃ楽しみ。後でいただくよ」

 

 言葉と見た目から、どうやら市販品ではないようだ。わざわざ手作りしてくれたらしい。

 

「あたしたちからも、ほら」

「いつもありがとう」

「うおっ」

 

 急に後ろから現れたのは、中村と矢田だ。彼女らもまた、違う形の箱を渡してくる。

 

「いつぞやのナンパ男から助けてくれたのとか、あといろいろ」

「いつかはお礼に何か渡そうとしてたんだけど、遅れちゃった」

 

 てへ、ごめんね、と舌を出す二人。

 そんなこと気にしなくていいのに、とは言わず、ありがたく二人の厚意を受け取る。

 登校途中で四つも貰ってしまった。今までのわびしいバレンタインとは比べ物にならない。

 

「ところで、國枝くんはいつ不破ちゃんと付き合うの?」

「!?」

「腕時計もプレゼントしたらしいね」

「!?」

 

 ほっこりしていたところに、矢田と茅野が爆弾発言を繰り出してきた。

 

「な、な……なんで……?」

「うわぁ、サスペンスの犯人ばりの驚き方」

「主演男優賞だね」

「いやバレバレだから。あんたが不破ちゃんのこと好きなの」

 

 はあ、とため息をついて、中村が続ける。

 

「さっさと付き合うかと思ったら、どっちも奥手だもんね。せっかく誕生日も二人にしてあげたのに」

 

 衝撃の真実。

 初詣に誘った時、みんなに断られたのはそういうことか。俺ってそんなにわかりやすいのか?

 みんなはいつ気づいてたんだ? あれ、そもそも俺はいつから不破のことが……

 

 混乱する俺に、みんなはうんうんと頷いた。

 

「もー、そういうところでぐいぐいいかないから中々進まないんだよ?」

「そーそー。クリスマスデートもしたんでしょ?」

「毎晩俺のために味噌汁を作ってくれ……くらいは言わないと」

「言うかァ! チョコどこいった!?」

 

 いつの間にか混ざってきていた倉橋までがにやついた笑みを浮かべる。

 女子はどうも、こういう話題が好きだ。やいのやいのと囃し立ててくる。周りには……味方になりそうな人は誰もいない。

 通学路が山道ってのが仇になった。人の目を気にしなくていいから、いくらでも騒ぎ立てられる。

 

「あんだけ強いのに、いざとなったらへたれなんだから國枝は。男は砕けろ、でしょ」

「当たらせろよ。それただ一人で爆発四散してるだけじゃないか」

「大丈夫大丈夫。告白したら、ちゃんと受け止めてくれるよ」

 

 中村はいい笑顔で俺の肩に手を置いた。

 

「……まあ、骨は拾うから」

 

 爆発四散(フラれる)前提……!?

 

「ちょっと待て。マジで怖くなってきた。大丈夫だよな? 不破にビンタとかされないよな?」

「不破ちゃんを何だと思ってるの?」

「決心するの遅い」

「じれったかった」

「早くくっついたらいいのに」

「正直腕時計とかセンスなさすぎて引いた」

「ちょっとは励ませ!」

 

 俺のツッコミが空に響く。そんな朝の風景だった。

 

 

 教室に入ってからは、チョコの乱舞に一喜一憂する男子でいっぱいだった。

 

 俺も、狭間から手作りのを貰い(呪いではないかと疑うようなアンケート用紙も一緒に渡された)、

 速水からは『銃弾を受けてくれたお礼』として市販のアーモンドチョコをいただいた。銃弾止めたのまだちょっとトラウマなのに、銃弾っぽいチョコ渡されちゃったよ。

 あと、奥田から国語を教えたお礼として。カルマ監修ってのがすごい引っかかるけど。

 

 気付けば鞄に入りきらないほどのお菓子が手元にある。困っていたところ、原が自分の分とともに紙袋をくれた。女子のグループメッセージの話し合いから、こうなることを予期していたらしい。

 いやでも原さん。でかいわ。チョコでかいわ。箱がホールケーキくらいのでかさなんだわ。

 

 矢田と一緒にみんなに渡している倉橋の分も合わせて、けっこうな数貰ってしまった。

 男としては当然嬉しい。にやけないように、取り繕わなければ。

 

 

「なんだかそわそわしてて、勉強どころじゃなかったな」

 

 あっという間に放課後になった。

 教室に漂う甘い匂いに殺せんせーが反応してしまい、たびたび授業がストップしてしまう事態を除けば、今日も平和だった。

 

「ねー、國枝。みんなの様子見に行かない? 放課後にチョコ渡すやつも多いと思うからさ、面白いもの見れるかもよ」

「遠慮する。そんな下世話なことしてられるか」

「そうよ、カルマ。國枝はこれから大事なイベントがあるんだから。じゃー、ごゆっくりー」

 

 朝と同じにやけ面で、中村がカルマを引っ張ってどこかへ向かう。

 彼女の言う『大事なイベント』とは、もちろん……

 

 自覚したとたん、緊張してきた。

 ふう、と深呼吸して、今日は何でもない日だと言い聞かせる。そう、今日は普通の日だ。

 特に、岡島みたいに五分に一回机の中覗き込むのは異常。

 入ってるわけないだろう。入れようとしてる奴がいるとしたら、むしろやりづらい。

 

 『一つも貰えてねえ!』と嘆きながら、血の涙を流さん勢いで俺を睨むのはやめてほしい。

 日頃の行いの報いだ。

 

 まあチョコを貰えない可愛そうな男子にも、倉橋や矢田が渡してるから、涙流すような奴はいないだろう。

 と、そこまで考えて気づいた。

 あれ、そういえばあの二人は、朝に一斉にみんなに渡したはず……

 

 俺は消沈して机に突っ伏す岡島を見て合掌した。

 誰か……誰か岡島を救ってやってください。

 

 

「今日はやめておこう。このあとイリーナに呼び出されていてな」

 

 落ち着くためには、落ち着いている人と話すのがいい。

 そう思って烏間先生に世間話でも振りに来たが、首を横に振られた。

 

「デートですか?」

「……そうだな。まあ、浮かれた話だけで済むとは思ってないが」

「浮かれた話だけで済ませてもいいんじゃないですかね。今日はバレンタインですし」

 

 本来のそれとは意義も目的も違うが、日本式に則って期待に胸を膨らませるのも悪くない。

 迷惑をかけなければ、はしゃぐのもまた一興だ。

 

「い、いた!」

 

 職員室の扉が開けられて、焦ったような声が響く。

 そこには、不破がいた。

 

「く、くくく國枝くんっ」

「不破、どうしたんだ?」

 

 慌てた様子の不破を宥めて、深呼吸を促す。

 それでもなんだか落ち着かない様子の彼女が目を泳がせながら口を開いた。

 

「あ、あの、一緒に帰らない? なんて……」

「ああ、いいよ」

「ほ、ホントに?」

「嫌なわけないだろ。それに、俺もお前に用事があったしな」

 

 俺は烏間先生に向き直り、ぺこりと礼をする。

 

「話しかけておいてすみません。俺はこれで」

「気にしなくていい。今日はバレンタインだ。浮かれていても仕方がない」

「からかわないでください」

「先にからかおうとしたのは、君のほうだ」

 

 ふっ、と様になる笑みを浮かべて、烏間先生は俺たちを見送った。

 

 

 陽が落ちるのが早い。いまさらそんなことを思う。木々に囲まれた帰り道の中にいると、光は余計に届かない。おかげで寒さはいっそう厳しく感じる。

 

「みんな一喜一憂してたね」

「もうすぐで卒業だしな。想いもひとしおってことだろ。貰えてなかった岡島も涙流してたしな」

 

 隠されてると思って、山に探しに行ったんだっけか。情熱があるというか、諦めが悪いというか。

 

 ふと不破を見ると、きらりと手首が光った。

 俺がプレゼントした腕時計が、夜のわずかな光を反射したのだ。

 

「着けてくれてるんだな」

「うん。あれからずっと着けてるよ」

 

 照れ臭そうに、不破は腕をさする。

 今まで飾り気のなかった不破がいきなりそんなもんを着けてきたら、誰だって不思議に思う。

 きっと誰か訊いたんだろう。どおりで女子たちが知っていたわけだ。

 

「く、國枝くんはチョコ貰った?」

「神崎と茅野、中村と狭間と原と……奥田もだな。あとみんなに配ってる矢田と倉橋から」

 

 照れを隠すために、不破が話題を逸らす。

 手に持った紙袋が重い。律からも渡されて、すでにパンパンだ。どうやって作ったんだあいつは。

 

「そういや、お返しは三倍返しでってよく聞くけど、あれって手作りの場合はどうしたらいいんだろうか」

 

 量……ってわけでもないだろうし、質を三倍にしてこいってことか。菓子作りもしたことない男子にそれは酷だろう。

 

「どうなんだろうね。漫画だと、主人公がお菓子作り上手かったり、なんかお菓子とは別のもの買ったり……とか」

「あー、そういえばアクセサリーとか渡してたのとかあったな」

「そうそう。でもあれは中学生とか高校生がやるとちょっと重いかなって私は思うな」

 

 うんうん、と俺は頷く。

 誕生日のは、お返しじゃないからセーフ。

 

「あんまり参考にならないな」

「まあ、結局『義理だから!』ってごまかして、返すときもあっさりなことが多いからねー。そもそもホワイトデーは描写されないことも少なくないし……って違ーう!」

 

 いきなり不破が両手を上げて叫ぶ。びくりとして、俺たち二人の足が止まった。

 周りに人がいないとはいえ、近所迷惑だぞ。

 

「ク、クッキーとかマカロンで返そうと思ってたが、ダメか。そうか、渡す物にも意味があるっていうから、吟味しないといけないな……」

「いや、それはそれでいいと思うけど! 思うけど! そうじゃなくて!」

 

 怒っているような表情を俺に向けて、不破が手をわちゃわちゃと動かす。

 

「私が言いたいのはそうじゃなくて……」

 

 どんどんと勢いがなくなって、不破の顔が赤くなっていく。寒さのせいじゃないことは、よくわかっていた。

 

「そうじゃ……なくて」

 

 夜の闇に消え入りそうな小さい声で、不破は呟く。

 足は止まり、簡単に振り払えそうなくらいの力で袖を掴んでくる。

 そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。実際は一分も経っていないくらいだったと思う。けど彼女にとってはかなり、数十分にも感じるほどだったんじゃないだろうか。

 

「その、これ」

 

 彼女は俺から少し視線を逸らして、あるものを差し出してきた。

 今日何度目になるだろうか。丁寧に包装された小さな箱だった。

 他の誰かに貰った時とは違って、心臓がどきりと跳ねる。

 

「私、漫画のこととなるとちょっと暴走したりするじゃない? でも國枝くんはしっかり聞いてくれたり、えっと、私のことを守ってくれたり、だからこの前も一緒に出掛けようって誘ったり……ええっと、何言ってるんだろうね、あはは」

 

 ぽりぽりと頬を掻いて、彼女は恥ずかしさを誤魔化す。

 ゴーグルをしていないのに、俺の目は不破に集中する。

 その表情がとても愛おしくて、一瞬も見逃したくなくて、釘付けになってしまう。

 

「その、だから……私、國枝くんのこと……」

「不破、好きだ」

 

 思ったことが、そのまま口をついて出た。

 

「え……え?」

「難聴なのはラブコメ漫画の主人公だけでいいから」

 

 思わず笑みが漏れた。

 不破が勇気を出してくれたことはわかる。だから、俺はそれ以上に勇気を出して彼女を受け入れたい。

 

「不破、俺はお前のことが好きだ。付き合ってほしい」

 

 俺のストレートな告白に、彼女は固まった。

 呆けた表情のまま、頬をつねって戻す。少し赤くなっただけで、何も変わらなかった。

 

「夢……じゃないんだよね」

「ここまで漫画っぽいリアクションされたら逆に困るな」

「いやだって、本当に信じられなくて」

「冗談を言うにはタチの悪いタイミングだ。それに、もう隠すのはこりごりだからな」

 

 嘘をつき続けて、傷つけるのは終わりだ。何より、俺がそうしたくない。

 不破に対しては俺の正直な気持ちを知ってほしい。

 恥ずかしいとか気持ちを押し殺してだとかで伝えなくて、手遅れになるのは嫌だ。

 

「今日ずっと言おうとしてた。俺は不破が好きだ」

 

 三回『好きだ』と言っても、まだ彼女は動かない表情のまま、その場に立ち尽くしていた。

 

「で、返事は? 保留?」

「ちょ、ちょっと待って! 言う、言うから!」

 

 ぶんぶんと首を振って、深呼吸。何度か大げさに息を吸って、不破は胸の前でぎゅっと手を結んだ。

 

「もう一回。もう一回だけ言って」

 

 改めてとなると恥ずかしさがこみ上げてくる。だけど、言わないわけにはいかない。

 

「不破、好きだ。俺と付き合ってほしい」

 

 不破の目が潤んで、吐息が漏れる。じーんと痺れて身体が一瞬こわばった。

 見上げてくる目は今にも涙がこぼれそうで、木々の向こうに見える星を映し出している。

 沈黙が数秒続いて、不破はようやく俺の言葉を沁み込ませたのか、口を開いた。

 

「はい。私も國枝くんが好き。大好き」

 

 今度は、俺のほうが信じられないという気持ちになった。

 けど、言葉の意味だけはすぐに理解できて……即座に顔を手で覆った。

 

「ええ!? なんで!?」

「今の俺はおそらく他人には見せられない顔になっておりますゆえ」

「もう、それは卑怯! もう顔は隠さないで!」

 

 力づくで俺の手を引きはがしてくる。そんな初心なやりとりに、どちらともなく笑い出した。

 不破は手に持ったままの箱を俺の手に置いて、にこりと微笑んだ。

 

「ね、食べてみて。夜中まで頑張ったんだ」

「見ればわかる」

「わかるのは……そんなとこまでわかってくれるのは、國枝くんくらいだよ」

 

 包装を取って、箱を開ける。いくつかのクッキーが入っていた。

 それを、緊張の面持ちの不破を前にして口に放り込む。

 形は不格好だけれど、とびきり甘くて、今まで食べた何よりも美味い。

 

「美味しい。美味しいよ」

 

 太陽いらずの明るい笑顔を咲かせて、不破は喜びに震えた。そのまま、俺を倒す勢いで抱き着いてくる。

 おっと。俺は箱を落とさないようにしてバランスを取りながら、彼女を受け止めた。

 

 防寒のためのもこもこした服の上からでもわかる細さと柔らかさ。俺とは違う華奢な身体。

 俺はこの小さな身体にどれだけのものを背負わせてしまったのだろう。

 少しでも一緒に苦しみを持てたら、歓びを分け合えたら、と感じて、ぎゅっと抱きしめ返す。

 

「そっかぁ、國枝くんの彼女になったんだぁ」

 

 とろけた声が胸から聞こえる。

 不破は俺の胸に顔をうずめて、擦りつけてきた。ふわり、と柔らかい匂いが鼻をくすぐる。花のような……とにかく心地の良い匂いだった。

 

「やったやった。特別だ。もう恋人なんだぁ~」

「きゃ、キャラ変わってませんかね」

「それは最近の國枝くんもそうでしょ?」

 

 顔を見上げてくる。とてつもなく近い。

 これだけ近いと、さっきからバクバクいってる鼓動も丸聞こえに違いない。だって、彼女の鼓動もちゃんと感じられるくらいなんだから。

 

「素直になったり、はしゃいだり。さっきの告白だって、ちょっと國枝くんらしくなかった」

「嫌だったか?」

「そんなわけないじゃん! 國枝くんがしてくれた中で、一番嬉しいよ」

 

 周りに誰かいたとしても、体勢はこのままだっただろう。

 放したくない。

 まさか、『このまま時が止まればいいのに』なんて陳腐なことが浮かぶなんて、思ってもみなかった。

 

「こう、恋人っぽいことでもどうですかっ?」

「恋人らしいこと、ねえ」

 

 恥ずかしさやら嬉しさやらが極まって、変なスイッチが入ったみたいだ。

 そんなこと言われても、なかなか思いつかない。

 今まで、恋人なんてできたことがなかった。最近は特に、そんなことを考える余裕もなかったし。

 

「じゃあその一歩目! 名前で呼んで!」

 

 そうか。恋人になったのに、いつまでも苗字で呼び合うのはちょっと距離を感じるな。

 こほん、と咳払い。

 

「優月」

「うん、響くん」

「……なんだか照れるな」

「いまどきこんなんで照れないでよ」

「そういう優月も顔真っ赤だぞ」

「えっ、うそ!?」

「ほんと。耳まで赤い」

 

 うぅ、と不破……優月はまた顔をうずめてくる。

 

「慣れないとな。これからは何度も呼ぶことになるんだろうし」

「うん、響くん」

「優月」

「響くん」

「優月」

「響くん」

「優月……何回やるんだ?」

「私が満足するまで」

 

 それから何度も名前を呼びあった。

 夜は暗さを増して、闇を作っていく。でも、俺たちはその場で足を止めたまま、帰る気なんてなかった。

 

「ね、もっと恋人らしいこと、してみない?」

「もっと……ていうと……」

 

 優月は元々近すぎる距離を詰めてきて、潤んだ目で見上げてくる。先ほどとは違う、乞うような、焦がれるような熱っぽい視線。

 ビッチ先生の教育の賜物か、天然か。どちらにしても俺は見事に心を射抜かれた。

 見つめられると恥ずかしいのに、目が離せない。

 

 惚れた弱みとはよく言ったものだ。

 殺人鬼にも、数段体格のいい外国人にも勝ってきて、殺人の衝動を抑えることもできた俺が、優月の魅力に抗えない。

 

 お互い、言葉もなくゆっくりと顔を近づける。吐息すらはっきり聞こえて、緊張が伝わってくる。心臓は爆発しそうなくらい響いているが、それが心地いい。

 ここはみんなの帰り道。漫画なら、ここで邪魔が入ってくるところだ。そして俺たちはとっさに離れ、この場の雰囲気もうやむやになる。

 そうならなければ……そう、ならなければ……

 …………

 ……

 

 

「國枝くん、集合~!」

 

 次の日の昼休みのことである。

 いつものように寺坂たちと机を囲んで弁当を食っていると、矢田が急に呼び出してきた。

 その周りには女子全員が集まっており、中心には優月と岡野がいる。

 行きたくないんですけど。中村がすっげえにやにやして見てくるんですけど。

 

「おーい、聞こえてんでしょ、不破ちゃんの彼氏さん」

「うっわ、ばらしやがったあいつ……」

 

 女子だけじゃなくて、男子もバッとこっちを見る。特にカルマなんかは、これ以上ないおもちゃを見つけたような悪い顔だ。

 仕方ない。これ以上言いふらされるのは勘弁だ。男どもになにか言われる前に、俺は女子たちの輪へ向かった。

 

「一名様ごあんな~い」

 

 倉橋が俺を輪の中心に座らせる。優月の隣。

 すぐそばにはすでに前原と岡野がいて、湯気を上げながら突っ伏している。

 この二人は、なんだか俺のあずかり知らないところでイベントを起こしていたらしい。昨日も二人して暴れていたのを何度か見た。

 その後でなんだかいい雰囲気になったのも知っている。

 なるほどなるほど。バレンタインの引力に吸い寄せられたってことか。

 

 彼らほどではないが、優月も顔を真っ赤にして俯いていた。質問責めにでもあったか。

 なるほど、次の犠牲者は俺ってわけか。なるほどな。逃げたい。

 

「で、不破ちゃんと付き合ってるってのは本当なの?」

「直球だな……本当だ」

 

 すでに優月に聞いているだろうが、彼氏からの証言を聞けてキャーとはしゃぐ女子たち。

 できるだけ何でもないふうを装っているが、これはあれだ。ものすごく恥ずかしい。

 

「國枝くんのほうから告白したって聞いたけど、それも本当?」

「本当」

 

 今度はお~、という感嘆の声。いやもうほんとやめろ。こっちは平静を保つので精一杯なのに、どんだけむず痒い質問してくるんだ。

 『死神』の拷問も耐えきった俺の超合金精神がぶっ壊れそうなんですけど。

 

「ぶっちゃけどこまでやったの?」

 

 中村コラお前、いきなりステップ飛ばした質問してくんなや。

 

「……優月に聞いたんじゃないのか」

「いやあ、不破ちゃんはさっきの質問でノックアウト」

 

 と、倉橋。

 

「だから詳しいことはあんまり聞けてないんだよね」

 

 と、矢田。

 

「ていうか、いま優月って」

 

 と、速水。

 

「名前で呼び合う関係ってか~? そりゃそうだよね、付き合ってんだもん」

 

 と、中村。

 それで俺を呼んだのか。それにしても女子たちはノリノリである。

 

 名前で呼ぶなんて、はたから見たらそう大したことはないのに、鬼の首を取ったかのように突っ込んでくる。

 うーむ、この勢いに押されて、前原と岡野はこのありさまになったってわけか。プレイボーイをのしてしまうとは、この集団凄まじいな。

 優月もうぶなところがあるし、すぐにゆでだこになったに違いない。

 よし、覚悟は決まった。

 

「えーい、わかった。どんな質問でもかかってこい!」

「はい、はい! 何発ヤったのよ! 教えなさい!」

「ビッチ先生も混ざってくんの、これ!?」

 

 いの一番に手を挙げたのは誰かと思えば、まさかの教師。しかも内容が教師のするもんじゃない。

 

「告白してすぐヤるわけねえだろ! 次!」

「はい、はい! 告白の言葉はなんですか!? そこがなければ先生作の生徒の恋愛小説が書けません!」

「お前もかい!」

 

 今度は殺せんせーである。なんだここの教師。

 

「普通に『好きだ』って言っただけ! はい次!」

 

「じゃあキス! キスはしたんでしょう!?」

「それも突っ込みすぎ……ってまたあんたか、ビッチ先生! あんただって四月から烏間先生と同棲するくせに!」

「な、なんでそれを……」

 

 ハッと口に手を当てるビッチ先生。

 女子たちの好奇の目が、すべてそちらへ向いた。

 

「いやあ、朝に偶然烏間先生と会ったから、昨日のこと聞いたんですよねえ。なんでも? 四月から? 烏間先生と同居するらしいじゃないですか? それも? 烏間先生のほうから誘ったとか?」

「う……えっと」

 

 一斉に睨みつけられて、ビッチ先生はじりじりと後退していく。そして……

 

「撤退よ!」

「逃がすな、追え!」

 

 逃げるビッチ先生を、ばたばたと女子たち+殺せんせーが追いかけていく。

 ふう、なんとかなったかな

 

「優月、優月ー。大丈夫か?」

 

 しゅうしゅうと湯気を立てる優月を揺する。反応はない。うーん、駄目みたいですね。

 ま、時間が経てば元に戻るだろ。一件落着ということで。

 

「國枝、ちょーっといいかな?」

 

 はい、逃げられません。

 

 悪魔の笑みを浮かべるカルマたちに、俺は逃げることを諦めて全てを話さざるをえなかった。



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90 やり残したこと

「メリークリスマース!」

 

 教室の中で、大量のクラッカーが鳴る。

 サンタ服を着た……いや、着させられたみんなが、机の上に並べられたチキンやケーキを取り、歓談しながら食べていく。

 

「最高の聖夜ですねえ。二月といえばやっぱりクリスマス!」

 

 中心である殺せんせーがそんな奇妙なことを言う。

 

「おっと、良い子はもう寝る時間です。先生も別室で寝るので早く布団に入りなさい」

 

 いやいや、と言う暇も与えられず、いつの間にか並べられた布団に寝かされる。

 ……と思ったら、その一秒後には、

 

「明けましておーめでとー! 新年が始まりました! 気持ちを新たに、勉強に暗殺に邁進していきましょう!」

 

 パンパンと手を叩いて全員を起き上がらせようとしてくる。さあさあほらほらと無理やり起こされ、机に向かわされ、教科書や参考書だけでなくナイフや銃を目の前に置かれる。

 全員が着席か、あるいは床に正座したところで、殺せんせーはさっきまでの元気が嘘のように、ごろんと布団に転がった。

 

「さて……あとは寝正月です」

「なんなんだよ、この流れは!」

 

 なんとなくノっていた面子も、これには流石に突っ込まざるを得なかった。

 なんで俺までこんな茶番を見せられなきゃならないんだ

 

「ヌルフフフ。お祝いの場でもありますからねえ。それに先生、ここ最近は仲間はずれにされていましたから」

 

 全員が第一志望通りに、とはいかなかったが、おおむね満足できるところから合格を貰っていた。

 勉強という重荷が解けて、さあ暗殺だと意気込んだはいいが、当の殺せんせーはここ最近のことを嘆いているようだった。

 年末からシリアスな事件が続いたせいで、俺たちと遊べなかったことがよほど悔しいらしい。

 十二月あたりから、心休まる日が少なかったからな。

 

 茅野が触手を使ったことから、殺せんせーの正体、これからどうするかを悩みに悩んだ年末年始に、殺す派と助ける派に分かれてのサバゲー、そして宇宙ステーションハイジャック。

 まあよくもこれだけのことを乗り越えられたな、と自分でも驚きだ。

 その期間の暗かった気分を吹き飛ばすように、みんなわーきゃーと暴れている。

 

 そんな光景を眺める俺の袖を、優月がくいくいと引っ張った。

 彼女が着ている着物は本人を艶やかに引き立て、それでいて華美すぎず、この賑やかな場によく合う。

 殺せんせーが年始の雰囲気を味わいたくて用意したものだ。

 

「どうかな。初詣の時には着られなかったし、せっかくだから着てみたんだけど」

 

 魅せるようにしてその場で一回転、袖で口を隠しながら上目遣いをしてくる優月。

 至近距離からそんな爆弾級のものを見せられて、俺は飛び出そうな心臓を抑える。

 

「って、どうしたの、響くん!?」

「危ない……もうちょっとで持ってかれるところだった……」

「なにが!?」

 

 前も似たようなことがあったな……こういう不意打ちをしてくるあたり立派な暗殺者だ。

 

「えっと、で、どうかな?」

「似合ってる。綺麗だよ、優月」

「え、えっと……あ、ありがとう……」

 

 ストレートに返されると恥ずかしいのか、顔を赤くしてはにかむ優月。

 控えめに言って最高。この機会を与えてくれた殺せんせーに感謝。

 

 このやり取りを見ていて、寺坂がにやにやとしている。

 

「あの國枝がこんなこと言うバカップルになるなんてな。人殴ってたころが懐かしいぜ」

「人殴ってたとは酷い言いようだな。覚悟はいいか?」

「殴ってたのは事実だろ! バカップルの方に怒れ!」

 

 というようなわちゃわちゃした空気のまま、殺せんせーがおかしなことをしたり、それにみんなが乗ったり、結局は銃の乱射があったり……とにかく、いつもとそう変わらない。

 一年間で、この異様な光景は俺たちの日常となった。そのせいか、どたばたと大騒ぎしているのを眺めているほうが落ち着く。

 

「さてさて、では次の行事に移りましょう」

 

 ひとしきり暴れた後、殺せんせーはそう言った。

 

「行事? 学校のイベントはもうないだろ?」

「いえいえ、これが残っています!」

 

 机の上に、大量の紙のようなものが置かれる。正面の顔が見えないほどうずたかく積まれたそれは……

 

「写真?」

 

 そう、これでもかというくらい集められた写真である。

 適当に何枚か手に取ってみる。校舎を背に、三村が情熱的なエアギターをしたり、全裸ネクタイという変態紳士な格好の岡島がいたり。

 お前ら夜の校舎でなにやってんだよ。

 というかどんだけプライベートの写真撮ってんだよ、殺せんせー。

 

「あ、俺たちのデート写真もあるぞ、優月」

「ええ!? ちょっと殺せんせー、デリカシーなさすぎるよ!」

 

 優月は顔を真っ赤にして抗議。俺はこっそり写真を懐に入れる。

 盗撮なことを除けば、いい表情の画だ。もっとないかな。と写真の山を漁っていると……

 

「いちゃついてんじゃねー、このリア充が!」

 

 岡島が血の涙を流して俺たちを指差す。

 

「あのなあ、岡島。俺たちはいろいろと積み重ねて、ちゃんと告白して、想いを伝えてこうなったんだ。だから俺たちはここでいちゃいちゃし続けるから、お前らがどけ。帰れ」

「無茶苦茶すぎんだろ!」

 

 流石に見せつけすぎたか。ワーキャー叫ぶ岡島を宥めつつ……

 

「國枝くんってなんか吹っ切れたよね……」

「変な方向にね」

「寺坂の馬鹿が伝染(うつ)ったんじゃないの?」

「ま、いいんじゃない。あいつだって俺らと同じ中学生なんだしさ」

 

 そんな言葉も聞こえてきたりしたが、恥ずかしいので聞かなかったフリをする。

 

「で、いろいろ撮ってたみたいだが、こんな大量の写真、急に見せてきてどうしたんだ?」

「ヌルフフフ。良い質問ですねえ。この写真を使って、E組だけの卒業アルバムを作りましょう」

 

 修学旅行、夏休み、テスト勉強、学園祭……あらゆるイベントで、合間合間に写真を撮っていたらしい。

 平等に、それぞれが活躍している場面がしっかりと収められていて、どれも捨てがたい……いや、恥ずかしい写真は各々破り捨てていっているけど。

 

「ああしかし撮り溜めた量じゃ全然足りない! 目標は一万ページの卒業アルバムを作ることなのに!」

 

 一万て。俺の身長よりでかくなりそう。

 

「外に出なさい! 衣装を変えて写真の幅を増やしましょう!」

 

 そう言って、殺せんせーは触手で何人かを連れては颯爽と窓から出ていく。

 季節ものの服だったり、劇でやった衣装だったり、はたまた新しいコスプレだったり……

 持ち前の速さで衣服を繕う殺せんせーに呆れている烏間先生とともに遠目で眺める。

 

「國枝くんは行かないのか?」

「まともな衣装があれば。あれじゃただのコスプレ大会ですから」

「そう言わずに、君も楽しんできたらいい。奴もそれを望んでるだろう」

 

 ほう。まさか烏間先生がそんなことを口にするとは思わなかった。

 

「へえ。どういう心境の変化ですか?」

「どうせ個人やちょっとしたチームレベルじゃ奴は殺せん。足掻くだけ体力の無駄だ」

 

 とか言いつつ、本当は好きにさせたいだけのくせに。

 

 もう殺せんせーと俺たちが、教師と生徒の関係でいられるのも一か月を切っている。

 その間に成長の機会を与えられたのは、彼も同じだ。

 

 なんて、一歩引いて眺めているのを発見され、中村に引っ張られた。

 

「ほらほら國枝も! せっかく良い衣装があるんだからさ!」

「じゃあ殺せんせー、お願いしま~す」

「お任せください!」

 

 音速で、殺せんせーの触手が俺を包む。ぐるぐると身体を回転させられたかと思うと、一瞬のちには着替えさせられていた。

 黒の紋付き袴を纏わされ、扇子も持たされる。

 

「なんだこれ」

「これだけじゃありませんよ!」

 

 満面の笑みの女子たちが誰かを連れてくる。

 俺と同じように引っ張られてきたのは、優月だった。もちろん彼女も普通の服装ではない。

 

「……!」

 

 声が出なかった。

 あろうことか、白無垢姿。

 

 色がないというのは、これほどまでに美しいものなのか。

 華美になりすぎないように刺繍も施されているが、それが彼女の雰囲気を一変させている。

 優雅な、というのは優月と離れた印象であったが、目の前の女性は深窓の令嬢がごとく、たおやかで繊細。触れてしまうと壊れてしまいそうな儚ささえ見える。

 朱に染まった頬が、真っ白の中に彩のアクセントとして浮かんでいた。

 

 なんというか、本当に言葉が出ない。

 振袖とはまた違う美麗さが、目に突き刺さってくる。

 

 こんなのまるで……

 横の烏間先生も、いつの間にかタキシード姿になり、ウェディングドレス姿のビッチ先生をお姫様だっこする形にさせられている。

 

「國枝くんも烏間先生も、ビッチ先生も例外ではありませんよ。みんなに合わせてコスプレしなきゃ」

「予行演習としてはちょうどいいんじゃな~い」

「ひゅーひゅー!」

 

 気が早い。ここぞとばかりに囃し立ててくんな。

 

「俺はいいが、優月が爆発しそうなくらい赤くなってるぞ」

「う……」

 

 白無垢だから、照れている優月の顔が余計に印象強い。

 恥ずかしがって俺の後ろに隠れることの、なんと愛しきことか。

 

「カラスマ、初夜まったなし」

「やかましい!」

 

 うーん、ツッコミが少ない。

 

 

「さて、これで学校内での写真は十分でしょう」

 

 ほっこりとした顔の殺せんせー。いったい何万枚撮ったんだか。

 あれもこれもと着替えさせられ、ポーズも取り、様々なシチュエーションをさせられて、さすがに体力もなくなってきた。

 

「あー終わった終わった」

「もういいでしょ、殺せんせー」

 

 にやにやしながら写真を見る殺せんせーに、口を揃えて文句を言う。

 今日はもうこれで終わりでいいや、と思った瞬間、身体が触手に絡めとられた。

 どこからか現れた超巨大なバッグに、一人ずつすぽすぽと入れられる。

 深さ百五十センチくらいのそれ一つに、生徒の半分がすっぽり入る。それが二つ。呆気に取られたせいで、抵抗もできずに投入されてしまった。

 はっと気づいた寺坂が口を開く。

 

「ちょっと待て! 十分ならなんで俺らバッグに詰められてんだ!」

「この校舎の中だけではとても足りない。世界中で皆さんと写真を撮るのです」

 

 は?

 全員が固まる。

 

「今から世界回るとか冗談だろ!?」

「皆さん全員をゼロから持ち上げる力はありませんが、こうやってたっぷり反動をつければぁ~……」

「聞いてない!」

 

 殺せんせーは巨大鞄の持ち手に触手を引っかけ、身体をどんどんと後ろに下がらせる。

 パチンコの要領だ。触手が元に戻ろうとする力を利用して、その勢いで空へと飛ぶつもりなのである。

 

 反論しようとしたときには、すでに身体は宙に浮き、風が頬を叩いていた。

 マッハで飛んでると気づいたのは五秒後。もう手遅れだと気づいたのはさらに五秒後だった。

 

 そこからは凄まじいスピードで景色が過ぎ去っていった。

 世界中の観光地に降り立っては写真を撮り、また移動。一か所の滞在時間は三分もなかったと思う。

 とんでもない移動方法に心身共にくったくたになっていくが、まあ、楽しかった。

 

 みんなで一緒にどこかへ行くのも、同じフレームに写るのも、殺せんせーのわがままに付き合うのも……なんて楽しいんだろうか。

 いつまでもこんな時間が続けばいいのに、と思ってしまう。

 だけど、いつか終わりは来る。だったら、その最後の日に悔やまないように、今をめいっぱい楽しもう。



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91 未来への道

 三月になった。

 結局、ここまで殺せんせーを殺すことは出来ず、大規模な作戦ももうない。というのに、暗殺を続けてきた面々の顔は晴れやかなものだった。

 まあ、殺すことも生かすことも全力でやってきたのだ。悔いはない。

 

 そうなれば気がかりになるのは、最後のイベントである卒業式。というより、それと同時に来る『別れ』が心を引っ張る。

 みんなはこれからばらばらの道を歩くことになり、殺せんせーとだけじゃなく、烏間先生、ビッチ先生とも離れることになる。

 二度と会えない、なんてことはないだろうが、そう軽々と呼びつけることは出来なくなる。

 

 寂しくなる。

 そう思っても、口に出す者はいない。最後まで精一杯楽しむつもりだ。センチメンタルな気分になるのは後でいい。

 

 今日の授業は終わったが、まだ教室にはほとんどの生徒が残っている。

 E組最後の進路面談。

 みんなはさらさらと進路希望の紙を書いて、先生に呼ばれるの待ちだ。その面談が終わり次第帰れるが……しかし、俺の紙はまっさら。一文字も書けていない。

 

 そういえば、渚も進路は決まっていなかったはずだと思って聞いてみると、

 

「僕は……教師になれたらいいなって考えてる」

 

 と返された。

 高校、大学こそ母親の理想を目指しているが、自分が本当にやりたいことははっきりと決めたらしい。

 

 教師、か。

 わかばパークで子どもたちに教えていたときも楽しげだったし、評判も良かった。観察力に長けているから、生徒の違和感にもすぐ気づく。たしかに、彼の才能に合った職業かもしれない。

 

 なんだか、意外とみんな色々と考えているなあ。

 

 優月は漫画編集者、カルマは官僚、渚は教師。

 

 刹那的に生きてきた俺とは違って、未来へのビジョンが見えている。

 俺は悩んでも、とりあえず高校進学としか言えなくて……それ以降のことは何も思い浮かばない。

 このままじゃ大学どころか、高校の文理選択にすら悩まされそうだ。

 

「なに唸ってんのよ、クニエダ」

 

 うんうん悩んでいると、ビッチ先生が話しかけてきた。

 

「どんなことを学びたいとか、どんな仕事に就きたいとかわからなくて……そういえば、ビッチ先生はどうするんだ、今年度が終わったら」

「カラスマに、防衛省に誘われたわ」

 

 なんでも過去が不問の部署があるとか。そこで今度は贖罪のために働け、と烏間先生に言われたそうだ。

 これはちょっと参考にならない。

 

「いいんじゃない。悩みに悩んで、それでも答えが出なかったらタコに相談しなさいよ。そのための面談でしょ」

 

 さらっと言ってみせる。

 出会った当初の彼女なら、適当なことを言うか無視するかだっただろう。

 それが、いまはビッチ先生らしい言葉で的確な助言をくれる。

 

「あたしもカラスマもいるし、困ったら何でも言いなさいよ。あんたらより人生経験豊富なんだから、少しはアドバイスできるわ」

「ビッチ先生……まるで教師みたいなこと言いますね」

「れっきとしたあんたらの教師でしょうが!」

 

 

 俺の番が来て、空き教室に入る。

 殺せんせーがいる対面の椅子に座って、大きく息を吐いた。

 その間、彼は静かに俺の言葉を待っていてくれている。

 

 何を言うべきかしばらく考えて、俺は口を開いた。

 

「この教室で、俺はいろいろ学んだよ。だけど……実のところ、まだ何がしたいのかわからないんだ。ずっと過去のことを考えてたせいで、未来が見えない」

 

 余裕が出来たのはつい最近で、それまで将来のことを考える暇なんてなかった。

 いや、そんな暇を自分から潰していたんだ。

 持っているはずの可能性を浪費して、現在を生き急ぎ過ぎた。

 

「出来ることが多い人ほど、やりたいことが多い人ほど、進路を決めるのは遅いものです」

 

 だから急いで答えを出す必要は無いと、殺せんせーは何度も頷く。

 

「だったら殺せんせーは、どうして教師になることを簡単に決められたんだ?」

 

 俺は彼の正体が発覚してから感じていた疑問を発する。

 

「一流の殺し屋は万に通じる、だろ。教師の他でだって、俺たちの力になることはできたはずだ。でもすぐに選んだんだろ、教師になるって」

「確かに、決断は一瞬でした。たとえこの触手を手に入れなくても、教師になることはぱっと決めていたでしょう。決断というのはね、國枝くん。過去の積み重ねから学んだことを活かして選択肢を選ぶことなんですよ。死神として人を殺してきたこと、教え子に裏切られたこと、そして雪村先生に出会えたこと。そのどれもが欠けていたら、私はこの道を選んでいなかったかもしれません」

 

 つまり、その壮絶な経験があったからこそ、殺せんせーは先生としていまここにいるんだということだ。

 もし殺し屋でなかったなら、普通の人として過ごしていただろう。

 もし弟子に裏切られなかったら、『死神』のままだっただろう。

 もし雪村先生に出会えていなかったら、暴虐の限りを尽くして、本当に地球を壊していたかもしれない。

 人と出会い、話し、触れることは、一番手っ取り早い進化への道なのだ。

 技術を高めるよりも、触手細胞を埋め込まれるよりも、心を持つ人として生まれたなら、その心を育てるべきなのだと、俺はそう感じた。

 

「それに」

 

 殺せんせーはもうそろそろ沈みそうな夕日に目を向けた。

 

「君たちを間近で見て、教え、触れ合う。そんな職業は教師しかないと、雪村先生が教えてくれましたから」

 

 一瞬だけ、殺せんせーの姿が優しく微笑む青年のように見えた。

 瞬きすると、やはり見慣れた黄色い球体の頭がそこにある。

 

「将来に不安はありますか?」

「いいや、変かもしれないけど怖くはないな。不思議と、何とかなる気がする」

「なら結構。若い時には自信を持って間違い、遠回りをしなさい。それだけの時間が君にはある」

 

 進路相談なのに、まだ行く末が決まっていない俺を急かすでもなく、遠回りしなさい、か。

 欲しい言葉を欲しい時に言ってくれる。そんな先生だから、俺も変われたんだろうな、と笑みがこぼれる。

 

「よく笑うようになりましたね。それでいいんです」

 

 満足そうに笑みを浮かべる殺せんせーに、俺は顔を背けそうになった。

 

「いいのかな。『貌なし』になって傷つけた人はたくさんいるのに、俺はまだそれを咎められてない……いつかは罰されるべきなんだろうか」

「それは自分で決めてください」

 

 この教室でのこと、『貌なし』のことがなかったことになる以上、真相は伏せられる。

 公表しなければ、世間にとっては『そんなのもいたな』程度の存在になって、いつかは忘れ去られていくことだろう。

 それが正しいか正しくないか……卒業するまでの短い間で、決めることが出来るだろうか。

 

「ただ一つ、先生から注意があります。『貌なし』になってからしたことを否定しないでください」

「わかってる。人を傷つけたことは絶対に忘れない」

「それもありますが、『貌なし』が人を助けたこと、それも受け止めてください」

「『貌なし』が助けた?」

 

 俺は首を傾げた。

 

「確かに『貌なし』になったことで傷付けた人もいるでしょう。みんなと仲が悪くなったこともあるでしょう。しかし、『貌なし』にならなければ救えなかった人もいます」

 

 殺せんせーは触手の指を立てて数える。

 十では足らず、二十でも足らず、俺が救ったという人数の多さを示してくる。

 

「過去に意味がないと思えば、意味がないものになってしまいます。それはとてももったいない。あれだけの経験は誰にもできません」

 

 まあ確かに、俺みたいな経験はやりたくてもそうそうできるもんじゃない。

 それが意味のないことだと言われたこともある。そしてそれに納得しかけたこともある。

 

「『反省』とは、悪かったことを挙げて直すことだけではなく、良かったことを汲んで活かすことも含まれます。『貌なし』になって良かったことを必ず見つけて、意味があったと信じて活かしてください」

「いまいちわからないな」

「悩むことは大いに結構! それもまた経験です」

 

 自分が何者なのか、何をやりたいのか、何をやるべきなのか。明確な答えはまだ出せていない。

 焦りはしないが、そのせいでほんの少しネガティブな気持ちになったりする。

 

 『レッドライン』や『蟷螂』の言葉に左右されてしまっている。

 確固たる自分がないから、誰かの言葉に揺らされてしまうのだ。

 ずっと一人だと思い込んでいたから、そんなに弱くなってしまった。長い間、親にもわがままを言えないくらいに。

 

 でも、と俺は思う。

 

 みんながいる限りこれ以上ぶれることはないだろう。

 時々物寂しくなっても、仲間がいて、先生がいて……今はちゃんと親も見てくれている。

 だからたぶん、どうにかなるだろう。

 

「意思があれば、なんだってなれるもんです。まだ大人になるまでは時間はたっぷりあります。君は君のペースで、やりたいことを見つけてください」

「ああ、そうだな。ゆっくり決めるとするよ。俺の人生だから」

 

 E組で少しは強くなれた。知識と体力をつけて、進学校の中でも上位の成績になれた。

 その実力でもどうしようもない時、そばには誰かがいる。頼れることも、また強さなんだと学んだ。

 

 目の前の最高の先生が、それを教えてくれた。

 

「ところで不破さんとのことを根掘り葉掘り聞いてもいいですか!?」

「台無しだよ」

 

 まったく……とため息を吐きながら、俺は苦笑した。

 

 

 ……殺せんせーを殺す、最後で最大規模の計画がすでに動き出していることを、この時の俺は全く知らなった。



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92 終焉は音もなく希望を摘み取る

 状況が一変したと気づいたのは、律に起こされてからだった。

 ニュースを観るように言われ、寝間着のままリビングのテレビの電源を点ける。すると、とんでもないことが報道されていた。

 

 校舎の周りに、半透明の光のドームが出来上がっている。

 

 カメラに映し出されたそれは、SF映画に出てくるようなバリアのような見た目をしている。

 淡く白く光っていて、校舎とその周辺百メートルほどを覆っている。

 

 何が起きているかわからず、俺はテレビに釘付けになった。

 

 そして、政府からの緊急発表。

 

『あの光のドームは、暗殺兵器の一つであり、その標的は月を破壊した凶悪犯である。その怪物は地球を滅ぼす気である。さらにこの怪物は、政府を脅し、椚ヶ丘中学三年E組の生徒を人質にして、教師として学校に潜伏していた』

 

 そう告げる総理大臣を見て、俺はようやく状況を理解した。殺せんせー暗殺、最大にして最後の計画が始動したのだと。

 なんてこった、と頭を抱える。

 

 親がもう仕事に行っていて助かった。きっと質問責めに遭っていただろうから。こんな状態じゃ、まともな受け答えが出来ない。

 

 ぐるぐると回る頭と動悸を抑え、テレビを睨む。

 報道番組は、殺せんせーがいかに悪いかを並べ立てていた。

 知能を持つ生物を殺すことや、倫理に反する行為を吹き飛ばすための、そしてある程度の滅茶苦茶を通すための印象操作だ。

 真実が混じってるのがいやらしい。一部だけでも本当のことが含まれていれば、何も知らない民衆は

 

 これで賞賛と同情を誘うつもりなのだろう。

 だけど殺せんせーは? こんな嘘の報道で、殺せんせーが単純な悪として描かれてしまっている。

 そのことに、俺は憤った。

 

 すでに烏間先生から自宅待機命令が出ていたが、そんなこと知るか。

 こんなものを見せられて、じっとしてられるほどお利口さんじゃない。

 E組は思い思いにすぐさま校舎へ向かおうとした。途中で何人かと合流するが、交わす言葉はない。あっても、『これはどういうことだ』とかの怒りしか口に出せなかった。

 

 校舎に行くことが出来れば、何かが分かる。だが、それは叶わない。

 山に入る前に検問が敷かれ、学校関係者であっても通されないようになっていた。もちろんE組も通過できない。

 通信も遮断されているみたいだから、殺せんせーに連絡が取れないし、律の本体も動かせない。

 

「なんだ君たちは!」

「通せよ! 生徒だよ、あの教室の!」

 

 寺坂たちが無理にでも通ろうとするが、やはり止められてしまう。

 

「行きたいんです! バリアの中……殺せんせーのところへ!」

 

 原の必死の訴えも効果はない。

 立ち塞がるように立つ男たち(迷彩服と鍛え抜かれた身体、装備から見るに、おそらく自衛隊だろう)は事務的に追いやろうとするだけだ。

 実際、彼らにとってこれは誇りある任務だ。怪物がいる山に、どんな理由であれ人が入り込まないようにするという、人を守る仕事を務めているだけ。

 

 とはいえ、それで納得できる俺たちじゃない。

 あそこにいるのは、確かに人知を超えた能力を持つ超生物だが、怪物じゃない。

 れっきとした一人の人間なのだ。

 

「やめろ! 生徒たちに手荒くするな!」

 

 どう通り抜けてやろうかと思ったとき、よく知った声が聞こえた。

 振り返ると、焦った様子の烏間先生がこちらに向かってきている。

 彼は興奮冷めやらぬ生徒たちを自衛隊員から引きはがし、間に割って入った。

 

「烏間先生、どういうことですか、あれは!?」

 

 ここからでも見える校舎とその周りのバリアを指差す。だが、烏間先生は首を横に振った。

 

「俺すら直前まで聞かされなかった。前もって我々が知っていれば、奴に計画を感づかれる恐れがあるためだろう」

「だからってあんないきなり……」

「ご覧ください! あちらにいるのが怪物の教師に脅されていた生徒でしょうか?」

 

 烏間先生に反論しようとした瞬間、最悪なことに俺たちを待ち受けていたマスコミに絡まれてしまった。

 

「怪物が捕獲された安堵の心境を一言ください!」

「いつ爆発するかもしれない生物に一年間支配されてた気持ちは?」

「怪物に暗殺の真似事を強制された件については!?」

 

 情け容赦なく、許可も取らずにレンズを向けられる。フラッシュが焚かれる。

 こいつらの口ぶりに嫌気が差した。

 報道には、真実を伝える義務・正義・自由があるとして、それを盾に暴れている。自分が傷つく覚悟もないくせに、好き放題に人の心を食い散らかしていく。

 

「確かな筋から聞いたんです! 地球が滅びる可能性は一%以下だって! 危険じゃないってテレビで流してください!」

「言われてるような悪い先生じゃないんだから~!」

 

 矢田と倉橋が涙ながらに訴えるも、同情する者はいない。

 それどころか、その姿がいい画になると思ったのか、下卑た表情のカメラマンやリポーターが近づいてくる。

 

「君、そう言えってあの怪物に言われてたの? つらかったでしょ。もう正直に言っていいのよ」

 

 倉橋にマイクを向ける女性キャスターの顔が、人間の物とは思えなかった。

 そこには、真実を伝えようとするジャーナリズム精神は微塵もない。ただただ己の好奇心を満たすためと、視聴者を沸かせるための歪んだ義しかない。

 冗談じゃない。

 ゲスな感情を満たしてたまるか。俺たちはお前らの玩具じゃないんだ。

 倉橋を引っ張り、E組で一斉にその場から逃げる。

 

「あ、待て!」

 

 という声が聞こえるが、もちろん待つわけがない。

 ぐんぐん距離を引き離して、マスコミを撒く。これ自体は難しくない。が、いつまでも制服のままじゃ簡単に見つかってしまう。

 いったん各自帰宅し、着替えてから再集合ということになった。

 

 幸い、家の周りには誰もいない。E組への聞き込みはまだ開始されていないみたいだ。

 

 急いで私服に着替えて、大きめの鞄に必要そうな物を詰め込んでいく。

 超体育着はもちろん必須。あとは何日か外泊することも考えて、いくつかの着替え、スマホとか充電器とかも。

 とにかく頭に浮かんだものを片っ端からだ。

 

 パンパンになったリュックを背負って、合流地点へと向かう。

 事情を知っている松方さんのところ、わかばパークだ。匿ってほしいという連絡だけで、何も訊かれずに場所を提供してくれた。ガレージだ。

 学校からそれほど離れてはいないが、まさか保育所にいるとは思わないだろう。

 

「くそっ、なんだってんだよ!」

 

 吉田が地団駄を踏む。

 

「なんでこんないきなり……」

 

 わけもわからぬまま、俺たちは一気に蚊帳の外に追いやられたような気持ちになった。

 E組校舎どころか山にも入れず、マスコミも流された情報を鵜呑みにしてそのまま流している。真実の一割にも満たない情報を、大衆は信じきる。

 テレビで専門家やコメンテーターが知ったふうなことを言い、俺たちに同情する。

 吐き気を催すような醜い状況に、俺たちは辟易していた。

 

 頼りになる大人である烏間先生とビッチ先生も連絡がつかない。

 

「ねえ、テレビに出て訴えようよ! 殺せんせーを助けてほしいって!」

「無理だよ」

 

 倉橋の提案を、カルマが即座に蹴った。

 

「俺たちがいくら訴えたところで、大事な部分はカットされたりするに決まってる。都合よく編集された映像を流されて、それで終わりだよ」

「で、でも……」

「殺し屋『死神』だとか最先端技術で生み出された超生物だとか、そんなのほとんどの人間にとってはどうでもいいことだしね。悪者が現れて、世界はそれと戦って倒しましたってシナリオが一番わかりやすいし、求められてる」

 

 殺せんせーを純然たる悪に見せかけたほうが非難はなくなる。

 どれだけ殺せんせーが良い人だと叫んでも、洗脳されてるだとか言われて、悲劇の登場人物扱いだ。

 さらに、と竹林も補足した。

 

「これだけの根回しをしておいて、多少バッシングを受けたところでやめるとも思えない。どうあっても実行されるはずだよ」

「じゃあ、殺せんせー死んじゃうの?」

 

 矢田の一言に、場がしんと静まった。

 これまでにも殺せんせーの危機は何度もあった。

 シロの襲来、夏休み合宿での暗殺、二代目『死神』の策略、茅野の復讐。その度にもしかしたら、と思ったが、ここまで殺せんせーの死が現実的に思えたのは初めてだ。

 

 俺たちの目が届かない場所で、手が伸ばせない場所で、知らない間に殺せんせーは……

 

「せっかく助ける方法を見つけたのに……」

 

 蚊の鳴くような声で、渚が呟く。

 

「諦めるしかないのかな」

「いいや」

 

 思うよりも早く、言葉が口をついて出た。

 こんなところで何もせず終わりだなんて、認められるか。

 

「そんなこと、誰も思っちゃいない。お前だってそうだろ」

 

 渚に詰め寄り、みんなにもはっきり聞こえるように声を張る。

 弱気になるな。立ち止まってる場合じゃない。

 

「俺たちはまだ殺せんせーから最後の言葉をもらってない。そんなんで本当に卒業したと言えるのか?」

 

 首を横に振る。

 

「俺は殺せんせーにもう一度会いたい。会わなきゃいけないんだ。ここで諦めるなんて、それこそ殺せんせーの教えを無駄にすることになる」

 

 感情のままに、拳を握る。

 

「政府に横取りされてたまるか。生かす方法があるなら全力で探す。殺すしかないならE組の誰かが殺る。そう決めただろ。他でもない俺たちが決めた。なら、どっちにしてもやることは同じだ。全員で、一人も欠けることなく殺せんせーに会う」

 

 俺たちにはその目的も理由も義務もある

 単純にして明確な、理不尽に抵抗するに値する信念がある。

 

「俺たちはE組だろ」

 

 椚ヶ丘中学三年E組の生徒。

 殺せんせーと烏間先生とビッチ先生の教え子。

 数々の危険を乗り越えてきた暗殺者集団。

 それが俺たちだ。

 殺せんせーのもとへ向かう理由なんて、それだけで十分すぎる。

 

 這い上がって、戦い続けたこの一年間の最後が諦めて終わりなんて、誰が納得できるか。

 

 ここにいるのは生徒だけだ。

 今まで手を引っ張ってくれた先生たちがいない今だからこそ、俺たちの強さが試される。

 何度心が折れてもいい。何度でも立ち上がるんだ。

 俺たちはそう教えられてきた。出来るはずだ。

 

「さんせーい。ここまでコケにされて、やられっぱなしってのはシュミじゃないし」

 

 カルマが手を挙げる。続けて磯貝と片岡も。

 

「先に言われちゃったな」

「E組の底力見せてやろうよ」

 

 どんどん、みんなの目に希望が宿っていく。

 

「ま、こんなとこで他人に任せるくらいだったら、とっくに暗殺なんかやめてるわな」

「殺さねーって言ってる國枝がここまで言ったんだ。俺らが俯いてどーすんだよってな」

 

 寺坂組も乗り気だ。活気づいてきて、やる気が伝染し、増大していく。

 あと一人、この中で一番優れている生徒は……すでに闘志の炎を目に秘めていた。

 

「やるぞ、渚」

「うん!」

 

 確かに状況は最悪。

 だが、まだだ。まだ卒業までに一週間ある。

 まだ一緒に過ごすはずだった。殺すか、あるいは卒業の日に見送られるはずだった。その時に聞くはずの最後の言葉を聞いていない。

 何もかもが半ばで、終わっていない。

 諦めるわけにはいかないのだ。

 

 

 リュックを足元に置き、一息つく。

 

 校舎がよく見えるビルの上から、双眼鏡で学校の様子を見る。

 半球型のバリアが、殺せんせーを逃すまいと隙間なく張られていた。殺せんせーが抜け出してないことを考えると、地面の中にまで及んでいるのだろう。

 

《何が見える?》

 

 スマホから、カルマが訊いてくる。

 

「検問はずっと張られてて、校舎の周りにはバリア。そのバリアを出してるビルの警備もめちゃくちゃ厳重だ」

《オッケ。こっちと合流しよう》

「わかった。そっちに向かう」

 

 通話を切り、ため息をついた。

 

 数時間かけて他のみんなが集めた情報を整理する。

 殺せんせーは、対触手生物のみを溶かすバリアに囲まれて身動きが取れない。

 そのバリア……『地の盾』を生み出しているのは、大砲のような形の巨大な機械。高層ビルの屋上がぱっかり開いて、そこから頭を出している。

 山を囲むように五つ設置されているそれら。存在がばれないように、ビルを建築することでカモフラージュしたのだ。

 もちろん、それらが狙われないようにビルの外周には銃を持っている部隊がずらりと並んでいる。

 

 そうして殺せんせーを閉じ込めて、トドメを指すのは『天の矛』。

 大気圏の上、遥か上空の宇宙から放たれる対触手生物レーザーだ。

 それのエネルギーが最大まで充填されれば、バリア内にいる殺せんせーが確実に逃げられず、一瞬で消滅してしまうほどの極太レーザーが照射されるらしい。

 

 『地の盾』も『天の矛』も、殺せんせーがどうしたって届かない距離にある。たとえマッハ20で石を投げても途中で落ちる。

 ……悔しいが、完璧だ。流石だな……世界ってのは。

 あんな大げさなものを、殺せんせーが気付かないレベルで用意するなんて簡単なことじゃない。世界各国の優秀な人材が細心の注意を払って入念に準備したんだ。

 

 おまけに『地の盾』や『天の矛』はこの一年以内に完成させたものだろう。

 そんな超短い期間でそれだけのものを作り出した人間という存在に畏敬の念を感じる。

 全世界が協力すれば、不可能と思えることすらこうやって実現できる。

 

 俺は頬をパチンと叩いた。

 

 それはそうとして、殺せんせーには会わなければいけない。

 どういう結果になろうとも、先生から一言貰わなければ卒業なんてできない。

 

 行こう。

 

 地上に下りて、集合場所に向かう。

 マスコミは俺たちE組のことを追っているらしく、こうやってこそこそするのも一苦労だ。

 冬なのは少し幸いかな。日が傾くのが早くなったおかげで、見つかりにくくなっている。

 

《國枝、いまどこ?》

「もう少しで着く」

 

 なんて言ってる間に、遠目にみんなが見えてきた。学校にほど近い、とあるビルの影。俺以外は集合していて、すでに話し合いを始めている。

 俺は手を振ろうとして……すぐさま近くの影に身を隠した。

 闇から現れた何かが、視界の隅で動いたからだ。

 

「!」

 

 黒いバンが三……いや四台、トップスピードでみんなを囲む。そして抵抗もさせてくれないあっという間に、車から伸びる手が全員を引き込んでいく。

 数秒後、バンは何事もなかったかのように走り出し……あとには誰も残っていなかった。

 

 残された俺は、たった一人、影からそれを見ることしかできなかった。



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93 もう一度

 小さな石を軽く投げ、とある家の二階の窓へ当てる。

 そこにいる人物はカーテンを開けると、あたりをきょろきょろと見回す。そして、俺を見つけるとはっとした。

 そいつはすぐさま下りてきて、玄関から出てくると、フードを被って暗闇に紛れている俺に近づいてきた。

 

「……國枝くんダスか?」

 

 出てきた少女……尾長仁瀬は、心配そうに眉をひそめて見てくる。俺はフードを外して顔を見せた。

 

「尾長……お前は無事だったんだな」

 

 偽律としてE組に関わっていた尾長ももしかしたら、と思っていたが、杞憂だったようだ。

 

「すまないダスが、わたすは協力できないダス。すぐ抗議に行こうとしたんダスが……父親に必死で止められてしまったダス」

 

 尾長の父親は、烏間先生の上司にあたる人だ。当然それなりの地位を持っていて、いまどんな状況か、どれだけ危ないかを把握している。

 そんなところへ娘を向かわせるなんてしたくないのだろう。

 

「本当は、本当は殺せんせーを助けに行きたいダス……」

 

 彼女も、立派なE組の一員だ。全校集会の時やテストの時のみ顔を合わせるだけだが、A組との学力勝負では俺たちとともに戦ってくれた。

 負けようがデメリットはないはずなのに、必死に食らいついてくれたのだ。

 その尾長が、何が起きてどうなっているかわからないなんてことはない。状況を知ったうえで無茶をしてくれようと思っていたようだ。

 

 一方で、彼女の父親の気持ちもわかる。

 そのせいで動けなくなっても文句は言えない。

 

「ああ、お前に無茶してくれなんて言えない。だけど、代わりにやってほしいことがある」

「やってほしいこと?」

「スマホが使えないんだ。位置情報を知られれば、俺だって捕まってしまう。だから壊した」

「捕まる?」

「E組のみんなが攫われた」

 

 尾長は驚愕で目を見開いた。

 

「そ、それって……」

「なんとも言えないが……たぶん大丈夫のはずだ」

 

 おそらく、みんなを攫っていったのは政府と繋がっているどこぞの特殊部隊だろう。

 ちょこまかと動く俺たちの動きと口を封じるために、どこかに軟禁するつもりなのだ。

 

「俺だけは無事だったが、一人じゃ何もできない」

 

 持ってるのは何泊か外で過ごせる服が入った鞄と、そこに入れられている『貌なし』装備一式だけ。

 だからこうやって彼女に助けを求めるしかなかった。

 

 危険だとか、やめたほうがいいとか一切言わず、尾長はスマホをポケットから出した。

 

「代わりに連絡を取ってほしい。烏間先生とビッチ先生に」

 

 

 混乱が起きても、人の生活はそう変わらない。

 むしろ、極悪生物が消え去るとなって、東京の街は声がそこかしこで上がっていた。

 ハロウィンの比じゃないくらい暴れる者もいるし、破滅を待つ者が抗議デモを起こしたりもしている。

 そんなごった返しの状況をビルの上から眺めながら、このぶんなら俺のことはばれないだろうと確信した。

 

 ビルを降り、路地裏で待たせている人たちの前へ姿を現す。

 

「烏間先生、ビッチ先生」

 

 目立たないように私服の上に黒いコートを着た二人の先生へ呼びかける。

 

「予定より遅いわよ」

「周りに誰かがいないか見張ってた」

 

 白い息を吐くビッチ先生に、俺は返した。

 

「俺たちを信用できないのか?」

「いえ、あなたたちのことは信頼してます。ですが、他はどうにも……」

 

 政府のやることもわからないではない。

 地球破壊を宣言している生物をようやく殺せる最大のチャンスなのだ。不安は一つでも取り除いておきたいだろう。

 だが、俺たちの近くにいた二人を見張る人員は割けないようで、こうやって仕事終わりの時間に呼び出せば簡単に集められた。

 中学生一人くらいすぐ見つけなくてもいいと思っている、というのもあるだろう。

 

 念には念を入れ、居場所がバレないように自分のスマホを壊した。

 尾長に連絡を取ってもらったのは、そのせいだ。自宅の固定電話は盗聴されてるかもしれないし。

 

「とにかく、國枝くん……君が捕まってなくてよかった」

 

 俺の姿を見て、烏間先生がほっと胸をなでおろす。

 

「みんなは?」

「政府の施設で囚われの身だ」

「レーザーが撃ち込まれるまで軟禁状態にする気よ。余計な邪魔が入らないようにね」

 

 ちっ、とビッチ先生は舌打ちした。

 推察通り、E組は計画遂行まで捕らわれの身。それは安全が確保されているということでもある。

 だが、殺せんせーと最後まで一緒にいる時間を奪われ、言葉を交わす機会すら奪われたのだ。感謝なんてできない。

 その悔しさは、ずっと俺たちを見ていたこの二人にならわかるだろう。

 

 E組のみんなを攫った連中『群狼』について、烏間先生は教えてくれた。

 とてつもなく強く、よく統率された特殊部隊で、一人ひとりの力量も高い。さらに、リーダーであるクレイグ・ホウジョウという男は、烏間先生よりも数段強いそうだ。

 戦闘狂ならぬ、戦争狂。本気を出されれば、たとえE組全員で向かったとしても、彼一人にたった数秒で返り討ちにされるという。

 

「このままなら、みんなは危険な目には遭わず、殺せんせーは死ぬってことか」

「その通りだ。だが、俺としては……」

 

 烏間先生は腕を組んで、まっすぐ俺を見据えた。

 

「君たちにとどめをさしてもらいたい」

「みんなもそう思ってますよ。自分たちの手で決着をつけたいって」

 

 俺は頷いた。

 最後まで殺せなくても、行く末は絶対に見届けたい。

 ぬくぬくと安全地帯にいて、他に任せるなんてできるはずもない。

 

「君は?」

「俺は殺しはしない。けどこのまま黙っているつもりもありません。俺を含めてみんな、まだ殺せんせーに言いたいことがあるんだ」

 

 だから、俺はこの二人を頼った。

 先生たちなら、俺たちの思っていることをわかってくれているだろうと踏んだ。

 

「他にはばれないように、生徒たちには今後の動きを伝えてある。もしE組の生徒が俺の言葉を理解してくれたなら、準備をしていてくれているはずだ」

「それに、抜け出させる準備もこっちで用意してあるわ。当日まで上手くいけば、の話だけど」

 

 そう言いつつ、胸を逸らすビッチ先生。

 この二人に任せれば失敗はないだろう。その点に関しては、俺は心配していなかった。

 

「レーザーがあいつに撃ち込まれるその日になっても、俺は手出しはできん。君たちだけの力ですべてをやり遂げる必要がある」

 

 立場ある烏間先生が、鍵を開けてさあ出て行ってくださいなんてのは無理だ。

 準備はしてくれるが、実行は俺たちがやるしかない。

 

「それをしろ……と俺は言えんが……」

「言ってくださいよ、こういう時くらい」

 

 俺は俯きかけた烏間先生のデコを、ぴんと叩く。

 

「二人とも俺たちの先生なんですから、最後には背中を押してくれるくらいはしてくれないと困ります」

 

 作戦があって、みんなで遂行する。

 それが正しいことだと、上手くいく方法だと証明してきた。

 烏間先生は、俺たちを信じて、さあ行ってこいと言うだけでいい。

 

「なーに怖がってんのよ、カラスマ! 私の手駒をのしちゃうくらいなのよ、こいつは」

「そう言うビッチ先生も震えてるが」

「こ、これは寒いからよ! いくら人目につかないからってこんなところに呼び出して!」

 

 俺は苦笑した。

 自分の生徒に、政府に楯突けと言ってるようなものだ。躊躇するのが普通。

 だけどそんな普通なんざ、この一年間でどれだけあっただろうか。ずっと異常続きだったんだ。あと一回悪いことをするくらいなんてことはない。

 

「……」

 

 長いこと躊躇って、烏間先生は口を開いた。

 

「レーザーが撃ち込まれる当日、注目は校舎の周りに集まる。みんなが捕らわれている施設は警備が手薄になる」

 

 つまり、動けるのは最後の日のみ。みんなを助けて、殺せんせーに会いに行く手間も考えると、救出作戦にかけられる時間は夜になってから、一、二時間ほど。

 たった一人、ほんの少しの時間……しかもわずかなミスも許されない。

 

 それでも諦めるなんてできない。

 

「國枝くんには隠れ家を用意する。そこで当日の作戦内容を頭に詰め込んでもらうぞ。残った数日で、君を鍛え上げる。覚悟はいいか?」

「当然」

 

 俺は即答して頷いた。



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94 Unmasked Faceless

 運命が決まる日。

 殺せんせーにレーザーが撃たれるまで、もう残り四時間を切っていた。

 椚ヶ丘中学E組校舎の周りの森には、『群狼』含めて大量のプロ軍人が待ち構えている。

 

 俺はこの時を待っていた。

 烏間先生曰く、彼の三倍強い男が俺たちのテリトリーに入り、なおかつE組のみんなから離れるこの瞬間を。

 

 みんなが捕まっている施設に、正面入り口とは逆の方向から近づく。

 裏口。あくまで非常口であるそこは、警備も薄く、扉の前に二人立っているだけだ。

 

 すぐ近くの木に隠れながら観察する。

 銃はなし。いくら隔離された場所とはいえ、外で銃声が聞こえれば問題になる。

 少なくとも、外にいる人間には銃の携帯は許されていないだろう。

 E組やお偉いさんがいるのだから、屋内でも使用の許可が与えられていると考えなくていいだろう。

 あるとしたら、テーザー銃か麻酔銃あたりか。

 

 さて、派手に暴れるか。

 俺はマスクを被る。

 陰から姿を現した瞬間、裏口を守っていた二人がこちらを向く。

 

「おいお前、手を挙げろ」

 

 わざわざここまで近づいてきた不審者。まずは追い出すよりも無力化しようとするのは当然だろう。

 俺は素直に従い、両手を挙げて跪いた。

 

「そこを動くなよ。動けば、痛い目を見るぞ」

 

 一人がそろりそろりと近づきながら、俺の後ろに回る。動かずに警戒しているもう一人の男は、警棒を構えていた。

 緊張感が走る。殺気を抑えて、その時を待つ。

 じり、と後ろの男が近づいてくる音が聞こえた。もう一度、じり。

 

 そいつが俺の腕を掴んできた瞬間、逆にそれを軸として振り返り、掴み返す。

 あっけにとられて退こうとした男を逃がさないようにしつつ、足を払う。見事に背中から落ちたそいつの顔面に一発。

 くたりと力の抜けた男の腰から警棒を抜き、もう一人へ投げた。こちらも頭にクリーンヒットして、どさりと倒れる。

 

 気絶した男たちを物色すると、ポケットに鍵があった。早速それを扉に差し込む。回して、開いたことを確認してノブを掴んだ。

 ふう、と一呼吸する。ここまでは想定通り。

 

 この先に入ってしまえば逃げることができない。無事に帰れる保証はない。

 それがどうした。

 俺は扉を開け、侵入した。

 

 烏間先生は、政府にこう伝えたそうだ。

 訓練を受けたといっても所詮は中学生。そもそも今日は殺せんせー暗殺日なのだ。気を付けるべきはE組校舎周り。一クラスぶんの中学生に人数を割く必要もない。

 捕らえられていないのがいるが、たったの一人。どうすることもできない……と。

 

 『群狼』があっさりと捕まえて、E組が今日まで大人しくしていたせいもあるだろう。上層部はこれを真に受けて、この施設の警備はそれほど厳しくはない。

 暗殺とは関係ない、ただの中学生の世話をするだけの仕事だ。緊張感も緩まっている。

 

 裏口から入ってすぐはまっすぐな廊下だったが、誰もいない。

 音を立てないようにすっと進んでいく。

 すでにビッチ先生が客室だか休憩室で男どもを手玉に取っているはずだ。そして俺たちを見張る名目で監視室にいる烏間先生が、律を繋げてくれている。

 サポートは万全。

 

 問題は、ばったり出会った警備に応援を呼ばれたり、警報を鳴らされたりすることだ。

 角に差し掛かり、向こうを覗き込む。暗闇ならともかくこれだけ明るいとゴーグルを着けたままでもよく見える。

 

 一人歩いているのが見えた。幸い、廊下を向こう側に進んでいたので、こちらの様子はばれていない。

 中腰のまま近づいて、後ろから首を絞める。警備は声も出せないまま、ばんばんと叩いたり、手を後ろに回して俺を掴もうとするが、やがてぐったりと倒れた。

 今のところは順調。

 

「律」

《はい、お待ちしてました》

 

 右耳につけた無線イヤホンから、律の声が流れ込んでくる。

 潜入しているからか、小声だ。

 

「ぞわぞわするから、普通の声量で頼むよ」

《こういうの、お好きですか?》

 

 律は、ふふっといたずらっぽい吐息を混ぜてきた。どこで覚えてきたんだか。

 

「……頼んでおいたことはできてるか?」

《はい。監視カメラは掌握済みです》

「流石。で、みんなの周りは?」

《警備が二人いますが、それ以外はほとんどいません。建物のもう一つの端に二人。休憩室にも四人いますが、こちらはビッチ先生が相手をしています》

「わかった。障害はそれだけ……」

「誰だ!」

 

 突然、警備が現れた。

 話していた俺は反応が遅れたが、あちらも俺の姿と倒れている男を見て驚いた。

 

 先に戦闘態勢に入った俺が、相手の顎を打ち上げる。

 よろめいた男も状況を理解したのか、拳を握った。

 左、右と出されたパンチが来たが、かわす。代わりに喉を突き、うずくまる敵へ回し蹴り。

 うめきながら立ち上がろうとしたそいつの顎を掠めるように拳を振り、脳を揺らす。

 糸が切れたように倒れたのを見て、ようやく一息ついた。

 

「律」

《すみません。いまのはカメラの死角からだったので……でももう大丈夫! ……のはずです》

「言い切れよ」

 

 静かにつっこみつつ、律を信じて先へ進む。

 脱走者対策に、この施設は迷路のように入り組んでいる。けどもマップは頭に叩き込んでいた。

 裏口からなら、みんなが捕らわれている部屋はそう遠くない。あっという間にすぐそこまで来ることができた。

 

 隠れて、烏間先生に用意してもらったスマホにカメラの映像を流させる。律の言った通り、部屋の前に二人。装備は他と変わらない。

 よし、悩んでる暇はない。

 俺は二人の前にばっと姿を現し、先に右の男のみぞおちに膝をめり込ませる。これで動けなくなるのは、身をもって経験済みだ。

 

 二人目が腰から無線を取り出した。俺は苦しんでいる目の前の警備の胸ポケットにあるボールペンを抜き取り、ノックして先端を出し、投げる。見事それは手に突き刺さり、無線が床に落ちた。

 跳躍し、空中でぐるりと身体を回しながら、その勢いで二人目の頭を蹴り落とす。

 まだ腹を抑えている一人目を殴り飛ばすと、あっさりと失神した。

 

 意外とすんなり事を運べたが、それも烏間先生とビッチ先生、それと律のおかげだ。

 扉の錠を解除し、開ける。

 そこには、E組全員が揃っていた。上下ともに白い服を着させられ、装備も取られている。

 

「國枝。来ると思ってたよ」

 

 突然のことに呆然とする中、一番最初に口を開いたのはカルマだった。

 みんなの目からは希望は消えてない。誰かが助けに来ると思っていただろうが、俺だったのは意外だろう。

 

「ばれないうちに早く出ろ」

「ばれないうちにって……」

 

 あと少しまごまごしても警備は来ないが、殺せんせーに会うまでは時間がない。

 校舎への途中の森には、『群狼』も待ち受けているのだ。

 

「このとおりに進めば外に出られる」

 

 俺は道を示し、事前に用意しておいた地図を渡す。カルマに先導を切らせて、みんなが部屋を出ていく。

 俺が来たことには驚いているようだったが、E組はすぐさま頭を切り替えて行動に移した。

 

「ごめん、響くん。もうそれを被らせないようにしたかったのに」

 

 最後に出てきた優月が、俺を見て少ししょんぼりとする。今更そんなこと……まあ、こいつらは気にするか。

 

「話は後だ。殺せんせーを助けに行くぞ」

「うん」

 

 背中を押して、俺はみんなが向かう方とは逆を見つめた。

 

「先に行ってくれ。俺はまだやることがあるから」

 

 頷いて、優月はみんなのもとへ向かい、すぐさま姿が見えなくなる。

 救出作戦は成功だ。これで、誰も欠けずに殺せんせーに会いに行ける。

 ……もし、俺がこの場を切り抜けられたら。

 

 俺の目線の先、照明に照らされる黒い影。幾度となく血を吸った刃。

 

 『蟷螂』がそこにいた。



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95 Praying Mantis

 最悪だ。

 ビッチ先生がこの施設の警備を手薄にしたのが裏目に出た。『蟷螂』は、俺とは別ルートで難なく侵入し、ここにまでたどり着いてしまった。

 手に持ったナイフが薄く赤い光を放っているところを見ると、最低一人は殺してきたに違いない。

 

「『蟷螂』……」

「ここにお前が来るはずだと聞いてな、『貌なし』」

 

 『蟷螂』は血に塗れたナイフを握りながら答えた。

 

「シロか? 裏切られたのに、話を信用したのか」

「あいつは後。まず最初はお前を殺す。お前と……そのクラスメイトをな」

「シロを後回しにするなんて、よっぽどいい話で丸め込まれたみたいだな」

「コロセンセーとやらが死ねば、大人しく殺されてくれると言われてな」

 

 どこまでもいかれた奴だ。

 ここで逃げても、どこまでも追ってくるだろう。殺せんせーを助けに行かなきゃいけないのに、その邪魔をしてくるに決まってる。

 そうなれば、E組の誰かが、あるいはどさくさに紛れて『群狼』が、あるいは道中の無関係な人が命を落とすかもしれない。

 俺たちは殺せんせーのためなら何でもするわけじゃない。奪うべきではないものを取り上げてしまうわけにはいかない。

 

 だから、ここでこいつとは決着をつけなければいけない。

 お互いそれがわかっていた。

 相手を取り逃してしまえば、この後だけでなく、今後の人生まで左右してしまうほどの歪みが出てしまう。

 

 俺が拳を固めるのと、彼がナイフを投げてくるのは同時だった。

 飛んでくる刃を、横から叩いて落とす。そうしながら、俺は距離を詰めた。

 接近戦では俺のほうに分がある。いままで決着がつかず、不意打ちすら食らって捕まったのは、万全じゃなかったからだ。

 

 『蟷螂』が次の武器を取り出す前に腕を掴み、そのままタックル。壁に身体を激突させて、反撃を食らわないようにすぐ一歩下がった。

 吐き出された息をめいっぱい吸い込もうとする『蟷螂』へ、何発もパンチをおみまいする。

 

 よろめいた『蟷螂』は頭を振ると、お返しに頭をぶつけてきた。

 あっちは戦闘服で頭までガードされているからダメージは少ないが、俺にはその固さがダイレクトに伝わってくる。当然フードじゃ防げない。

 ぐらついたところへ、『蟷螂』の膝がみぞおちにめりこんだ。

 くの字に曲がった俺に、彼は追撃をしかけてくる。俺はなんとか手を動かして、防御した。

 攻撃されては防御、反撃の応酬が続き、位置が入れ代わり立ち代わり、めまぐるしく手と足が舞う。

 

 俺が『蟷螂』の左腕を掴んで壁に抑えつけると、彼は流れるように胸のホルスターからナイフを抜き、一閃。首を刈り取る一撃をぎりぎりかわした。

 その拍子に少し距離を取ってしまい、二人して固まる。

 

 刃物を使う相手に、まして『蟷螂』にうかつに近づくわけにはいかない。

 『蟷螂』も、何も考えずに動かなかった。単純に投げても俺に弾かれる。

 

 じりじりとゆっくり間合いをはかる。

 武器を持っているぶん相手が有利だが、それに頼れば動きは限られてくる。斬るか突くか、おおよそはその二パターン。

 

 敵は後者を選んだ。

 俺は狙いすましたその攻撃が届く前に腕を掴んで、カウンターの裏拳。

 

 だが敵はそれで怯むことなく、残った左手でどこからともなく次のナイフを取る。

 しまった。

 この密着した状態では避けられない。

 『蟷螂』は柄をしっかり握り、その先を真っすぐ向けてきた。

 防御も回避もできない俺の脇腹に、刃が突き立てられる……ことはなかった。

 

 誰か別の手が、『蟷螂』の手を止めていた。

 その誰かはナイフを取り上げ、『蟷螂』の腹へしなる足を叩きつけた。

 痛烈なキックは『蟷螂』を吹き飛ばし、床を転げさせる。

 

 そいつを、赤い線が入ったレインコートを、俺はよく知っている。

 

「なんでここに……」

「私の能力はよくわかってるでしょ。あ、それともここにきた方法じゃなくて、理由のほうを聞きたいのかな?」

 

 被ったフードをちらりと上げて、ウインクしてきた。

 立花風子。『レッドライン』がそこにいた。

 

 最近まったく音沙汰のなかった彼女がなぜここに来たのか。

 説明しますというように、彼女は人差し指を立てた。

 

「せっかく響くんが『貌なし』に戻ったんだもん。これを逃す手はないでしょ?」

「今はお前に構ってる暇はない。後ならいくらでも相手してやるから……」

「だめ。だめだめ。だめだよ、響くん。後でなんて意味ない」

 

 ぶんぶんと頭を振る。

 理解はしたくないけど、わかってしまう。こいつがこの戦いに参加してきた理由を。

 眉間にしわを寄せる。俺のそんな様子を見て、『レッドライン』は『蟷螂』に向き直った。

 

「キミ……知ってるよ。連続殺人鬼だよね」

 

 立ち上がった『蟷螂』へ、指をさす。

 『蟷螂』の憎々し気な表情が彼女に突き刺さるが、どこ吹く風でいつものように飄々としている。

 

「俺を知ってるだと?」

「血の匂いと怒りと殺気。あのナイフと同じ匂いがする」

 

 二学期始まってすぐのことを思い出す。

 『レッドライン』の正体を知って、彼女に助力を求め、『蟷螂』の居場所を特定した時のこと。

 まさかあの時には、こんなところで三人とも集合するなんて思ってもみなかった。

 

 絶対に殺そうとする『蟷螂』。

 至上の(痛み)を求め、邪魔する者には死すら厭わない『レッドライン』。

 誰も殺さず、殺させない『貌なし』。

 

 三人の視線は、それぞれに容赦なく注がれる。

 

「『貌なし』を殺しに来たの? 残念だけど、そうはさせないよ」

「誰だ?」

「『レッドライン』って言えばわかるかな? そこそこ有名人らしいんだけど。キミと同じでね、『蟷螂』さん」

「なぜ邪魔をする」

「私、この人がいなくなると困るんだ。殺す気でしょ? でもさせないよ。私にとって『貌なし』は必要不可欠な存在なんだもん」

 

 『蟷螂』の問いに、飄々と余裕ぶって返す『レッドライン』。

 その態度が気に入らないのか、明らかに『蟷螂』がイラついているのがわかる。

 

「邪魔をするなら、お前も殺す」

「残念だけど、殺される相手はもう決めてるんだ」

 

 『蟷螂』の手が素早く動いた。

 腿のホルスターからナイフを掴むと同時、ガンマンの早撃ちのように手首をスナップさせ、投げてくる。

 

「危ない!」

 

 俺は『レッドライン』を押し倒す。先ほどまで彼女の頭があったところを、ナイフが通過した。

 

「わ、武器とか卑怯じゃない?」

「言ってる場合か!」

 

 俺は彼女を起こし、すぐさま駆け出す。

 さっきまでE組のみんなが監禁されていたところへ身を投げ入れ、二人で壁に身を隠した。

 俺はドアのすぐ左、『レッドライン』はすぐ右。

 

「もうちょっとでざっくりいくところだったね」

「すぐ逃げろ」

「って言っても、唯一の出口はこの扉しかないし、そもそもここまで来ておいて逃げる気なんてないしねぇ」

 

 立花はそう言うと、どこからかナイフを取り出してくるりと回す。『蟷螂』のものだ。さっき避けざまに取っていたのだ。

 

「こういうのを使うのは嫌いだけど」

 

 刃を前にして構える『蟷螂』がぬっと入ってくる。その瞬間、立花は首に突き立てるようにナイフを振るった。

 すんでのところで、『蟷螂』が刃で防ぐ。押しつ押されつのつばぜり合い。

 力が拮抗しているところに、俺は手刀を繰り出して二人のナイフを落とした。さらに『蟷螂』を回し蹴りでよろけさせ、立花が飛び蹴りで吹き飛ばす。

 

 『蟷螂』はぱっと立ち上がり、殴りかかってくる。腕でガードし、その隙に立花が顎を打ち抜く。

 近接戦闘じゃ暗殺者にも負けなかった『貌なし』と、常時リミッターが外れてるような『レッドライン』の猛攻には、さしもの『蟷螂』も対処できない。

 刃物を取る素振りをすれば弾き、防御の姿勢になったら隙間を縫うように連撃。息もつかせない攻撃に、『蟷螂』はようやく倒れ伏した。

 

「殺す……殺してやる……」

「お前には無理だ」

 

 なおも立ち上がろうとするそいつの顎を思いきり殴ってやった。

 完全に頭が揺れてしまったようで、『蟷螂』はがくりと倒れた。わずかに手を動かすも力が入っていない様子だ。

 

「どいて、響くん」

 

 立花はナイフを拾う。俺が叩き落した『蟷螂』のものだ。

 ぎらりと光る刃を持つ立花は、それ以上にぎらついた意思を滲み出す。

 それを、仰向けになっている『蟷螂』へ、躊躇なく振り下ろした。

 俺は急いで彼女の腕を掴み、止める。

 彼女の心から生み出される殺意がナイフに伝わっていた。

 

「待て、殺す気か?」

「そうだよ。それが?」

 

 さも当たり前かのように、立花は答える。

 

「こいつは私たちを殺そうとしてる。私はこいつなんかに殺されたくないし、響くんも死んでほしくない。なら殺すしかないじゃん」

「本気で言ってるのか」

「私が本気で言わなかったときがある?」

 

 ぎらついた目をこちらに向け、立花は俺の腕を振るい外す。

 大きく振りかぶって、光る先端を『蟷螂』の首に突き立てようとした。

 すんでのところで、俺は手刀でナイフを離させる。それが地面に落ちるよりも速く、彼女の顔に拳をめりこませた。

 立花が頬を押さえて後ずさっている間に、転がっている刃物を蹴り飛ばす。

 

「そう、そういうつもりなんだ」

 

 にやり、と立花が笑う。

 幾度となく見てきた表情だ。それも、俺が彼女を傷つけているときにのみ現れる、純度100%の心からの笑顔。

 

「いいよ、響くん。これが最後になるかもしれない。その瞬間まで楽しもうよ」



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96 End of The Line

 素早く動いて、ナイフを拾おうとする立花へと距離を詰める。

 

「やめろ!」

 

 殺意の衰えていない『レッドライン』を蹴り飛ばす。ナイフをこぼして、彼女はソファへ激突し、床へ落ちた。

 『レッドライン』は血の混じった唾を吐き出して、俺を睨みつけながらゆっくり立ち上がった。 

 

「なんで? これで響くんも安心できるんだよ?」

「確かに、お前のやることは正しいのかも。だがこれ以上、お前に歪んでほしくない」

 

 こいつを殺せば、俺を含めE組の安全は保たれる。それだけでなく、その周りの人たちも無事が確約される。

 一人の命を奪って何十人が助かるなら、その行為は賞賛されるものかもしれない。

 だが、殺すということは少なからず自分に影響を与える。

 特にこの場合は、歪んでしまった立花の心を修復不可能なほどまでに壊してしまうのだ。

 

「そんな奴を守る気?」

「こいつはどうでもいい。だが殺すのだけはだめだ。殺せば、もうお前は戻れなくなる」

「もう殺したんだよ。私はお母さんを殺したの。戻れないことなんてもうわかってる」

 

 フードに隠れた闇の奥で、立花の眼がぎらつく。

 

「やめる気はないよ、響くん。私を止めるには、私を殺すしかない。ここで誰かが死んで、誰かが殺すしか決着はつけられないの」

「そんなことさせるか!」

 

 俺は腰を低くして突進し、立花を壁に押し付ける。

 衝撃で息を吐きだした彼女は反撃として俺を振りほどいて、頭を肘で打ち、拳を振りぬいた。

 俺はくの字に曲がってしまった身体をばねのように伸ばしながら、アッパーを食らわせる。

 一瞬よろめいた彼女は俺を突き飛ばす。そして、しなる足のつま先をみぞおちにめり込ませてきた。

 倒れ込んだ俺はすぐに殺気を感じて、ぱっと立ち上がった。俺がいた場所を立花が踏みつける。

 痛みにうずくまっていたままだったら、肋骨を折られていただろう。

 

「いい。いいよ、響くん。これだよ。私を響くんが受け入れてくれて、響くんが私だけを見てくれてる。邪魔が入らない二人だけの空間。これが私が求めた時間だよ」

 

 彼女の頭が切れて、血が流れている。壁にぶつけた時に打ったのだ。

 

「はぁぁ……最高……っ」

 

 流れた血を拭うでも啜るでもなく、顔を伝うままに任せる立花。顎へと血が滴り、地面を濡らした。

 それほどの痛みを感じながら、彼女は恍惚とした表情を浮かべていた。ぞくぞくと快感に身を震わせ、極上の愉悦に吐息を漏らす。

 以前俺が彼女の首を絞めたときのような反応。彼女が、生きていると感じている証拠。

 

「中途半端は許されないよ。キミか私か、どっちかが壊れるまでやろうよ、ねえ!」

 

 鋭いフックが飛んでくる。

 ほぼノーモーションなうえ、体力を失っていた俺はまともに食らってしまう。

 胃の中のものが飛び出てきそうになるが、倒れない。倒れるわけにはいかない。

 

 がむしゃらな大ぶりのパンチを、立花の顔に放つ。

 彼女も限界が近く、それを避けられなかった。避けられたとしても受けていただろうが。

 口からも血を流す彼女は、笑顔で拳を返してくる。

 重い、とても重い。体重を乗せた攻撃が降り注いでくる。

 

 立花は俺を殴る。俺も立花を殴る。

 お互い、相手を潰すような一撃を何度も何度もぶつけあう。

 

 容赦というものを一切取っ払った彼女の動きは素早く、強い。

 リミッターを外しているからこそ、『レッドライン』はあらゆる人間に対して負けることなく、満足することがなかった。

 女子中学生がこんなにまで普通と違ってしまい、それを本人が認めてしまっている。

 俺はそのことに罪悪感を覚えてしまっていた。

 

 もしこの世界で生きる目的を……傷つけ、傷つけられる以外の目的を見出させていたら。彼女の異常に気付き、それを与えることが出来ていたら、俺も彼女も今とは違っていただろう。

 俺が何もしてやれなかったからこうなっている。

 今の俺に出来ることは、今の立花風子に間違った行為をさせないことだ。

 間違った答えを正解だと思わせないことだ。

 

 辛抱強く待って、ようやくチャンスが来た。

 大きく引いて繰り出されるパンチを、懐に入って逸らす。膝裏を蹴って曲げさせ、その場に跪かせた。

 その瞬間に、この戦いの行方が見えたのか、立花はだらりと腕を下ろした。

 

 意を決して、がら空きとなった額を打ち抜く。

 

「うぁ……」

 

 糸が切れた人形のように、彼女はその場にがくりと倒れた。

 痛めつけられるほどに強くなる彼女の身体は、ついに限界を迎えた。まだ続ける気力はあろうとも、身体がそれについていけてない。

 立花はずりずりと這いまわったあと、上半身を起こしてようやく止まった。

 俺は近づき、彼女の目の前で膝をつく。

 フードの影が隠している顔も、これだけ近いとはっきりと見えた。息も絶え絶えに、顔面が血に塗れている。

 それを望んだのは立花だが、そうしたのは俺だ。

 

「いいよ、響くん。キミになら、殺されてもいいから」

 

 彼女は俺の手に自分の手を添えた。そう、添えただけだ。

 思う通りの結末を、俺の手で下せと言っている。

 

「殺して。殺して。殺して。お願い、私に生きてるって実感をちょうだい。私を愛して。響くんの手で殺してよ」

 

 繰り返し全力で殴れば、あるいは首を絞めてしまえば死んでしまうだろう。おそらく、幸福を感じたまま。

 だが、そんなことをする気はない。

 俺は首を横に振って、彼女の手を握る。

 

「私じゃダメ?」

 

 なおもしつこく言ってくる立花に、もう一度首を振る。

 

「無理だ。俺はお前を殺せない。お前じゃ俺の穴を埋められない」

 

 俺は望んでない。俺はお前と一緒じゃない。お前の言うことに納得できない。

 立花と最後をともにする未来は、俺の予想図にはない。

 お前じゃ、俺の隣にはいられないんだ。俺がお前を、望む未来に連れていけないように。

 憑き物が撮れたように、彼女の全身から力が抜けた。

 

「あーあ、フラれちゃった。や、ずっと拒絶されてたのは知ってるんだけどね」

 

 俺はひどく罪悪感に苛まれた。

 彼女に同情しながら、歪んでいると感じながら、それを正すことはできなかった。

 できたのは、蛮行を防ぐことだけ。俺自身を守ることだけだった。

 

「もう、そんな悲しい顔しないでよ。せっかく、せっかくこれで最後にしようと思ってたのに」

 

 痛くて痛くてしょうがないはずなのに、彼女は笑った。

 

「なのに、そんな顔されちゃ、諦められなくなるじゃん」

 

 力なく、俺は首を横に振る。

 

「いや、これで終わりだ。もういいだろう」

 

 彼女は返事をしなかった。

 

 自分がねじれてしまった人間だと理解している。

 それは、ただ狂ってしまうことよりもつらいのかもしれない。周りの人間と違うことに対しての孤独感を、叩きつけられてしまうから。

 その孤独を少しでも癒せたらいいのに……彼女をそのままにして、俺は突き放した。

 

「兵隊さんが来るよ。異変に気付いたみたいだね」

 

 すんすんと鼻を動かして、立花は注意を促す。

 休憩している者が、警備から返事がないことに気が付いたんだろう。

 

「逃げるぞ」

 

 立花の腕を引っ張り上げて立たせる。

 彼女は再び戦闘を仕掛けてくることはなく、素直に従った。

 すぐに逃げれば、裏口からすんなり帰れることだろう。

 

「待て」

 

 去ろうとする俺たちを、失神から目覚めた『蟷螂』が呼び止める。

 力が入らなくて床に倒れたまま、目だけはこっちを向いていた。

 

「また襲ってやる。お前の周りの人間も全員殺してやる。終わらせないぞ、お前が俺を殺すまでな」

「ならどうする。どうしたらいい」

「俺とお前は所詮殺すか殺されるかだ。今やれ。殺せ!」

 

 叫ぶ彼を見て、俺は同情する気にはなれなかった。

 彼もまた、どこかで歪んでしまった人間だ。だけど、それは人を殺していい理由にはならない。

 おかしくなってしまったから人を殺して、自分はあっさり殺されて終わるなんてのは、あまりにも勝手すぎる。

 

「断る」

 

 だから、俺は彼の鼻先に顔を近づけて言ってやった。

 

「俺はお前と同じになるつもりはない。お前の言う通りになるつもりはない」

 

 國枝響はこの男の言うような人間ではない。

 俺はそれを証明する。俺のために寄り添ってくれたみんなのためにも、分別のつく人間だと証明する。

 みんなと一緒にいていい人間なんだと、優月の隣にいていい人間だと、自分に言い聞かせる。

 そのためにはこいつを殺すんじゃなく、行く末を他に委ねる。俺がやるべきことはもうやったのだから。

 

「俺とお前は違う。そのことを理解するまで……お前には無理かもしれんが、せめてその時まで檻の中にいるんだな」

 

 それが彼に与えられる最大限の罰だ。

 俺は『蟷螂』の顔を離し、立花とともに踵を返す。

 

 裏口を出たところで、怒号が響いた。どれだけ怒りを感じようが、あいつにはもう力が残っていない。捕まって、後は法が裁くことになるだろう。彼にとっては一番の屈辱だ。

 

「本当に殺さないなんて……」

「信じられないか?」

「殺す気もあって、殺せる道具もあるのに。殺す理由も、殺す意義もあったのに」

 

 顔から血を落としながら、立花は当たり前のように言った。

 衝動のままに生きてきた彼女にとっては、いまいち理解できないことなのかもしれない。

 そんな立花に、俺はあることを話すことにした。

 

「……去年、いやもう一昨年か。浅野が低俗な嫌がらせを受けてたのを知ってるか? 靴の中に画びょう仕込むとか、机の上に落書きするとかのしょうもないいたずらだよ。犯人は同じクラスの奴だった。浅野の成績に敵わないからって、卑怯な手に出たんだ」

 

 そいつは巧妙だった。

 手の込んだ嫌がらせはせず、尻尾を掴ませず、あの浅野ですら特定するのに時間がかかった。

 それより前に嗅ぎつけていた俺は、そいつの犯行現場を目撃することに成功した。それまで見つけられるはずもない、ど早朝だ。

 だが、先生に突き出そうにも、俺の目撃証言だけじゃ心もとない。のらりくらりとかわされて無罪なんてこともあり得る。

 だから、脅しをかけた。

 俺だとバレないように服を変え、顔も隠し、忍び寄って殴りつける。恐怖と苦痛を抑止力とした。

 

「『貌なし』の始まり?」

 

 俺は頷いた。

 彼女が聞きたがっていた、俺の……『貌なし』の最初の話だ。

 

「数か月間、そいつは流動食で過ごすことになった。それ以降は、浅野に危害が加えられることはなくなった」

「けっこう派手にやったんだね」

「手加減のしかたがわからなかったし……それに浅野が嫌がらせされてるのを見て、怒りを抑えられなかった」

 

 浅野にとっては、それほどダメージのない些細なことだったかもしれない。

 が、俺が憧れ、尊敬した彼がそんな下らないことで疲労してしまったらと思うとどうにも放っておけなかった。

 彼なら、もう少しすればもっと上手い方法で解決していただろうけど。

 

「その時も殺したいと思ったよ。あと少しで殺しそうだった。でも留まった」

「なんで?」

「怖かったんだ。人の命を奪うこと、友だちに殺人者として見られること、自分の中に殺人という選択肢が増えることが」

 

 『死神』に捕まった時にも言った言葉だ。

 人を殺すことが怖い。殺してしまった自分が怖くなる。自分で自分を怖がって、誰の隣にもいられなくなってしまう未来が怖い。

 だから不殺を自分に課した。

 越えるべきでない絶対の一線を敷いた。

 

「やっぱり、E組になってからじゃなかったんだ」

 

 『貌なし』と呼ばれる前から同じことをしていたということを、立花は既に感づいていた。彼女が正体を明かしてすぐ、俺が協力を求めた時に。もしかしたらもっと早く気づいていたのかもしれない。

 

「大切な人を守る『貌なし』。あはは、私だけ守られてる感じしなかったなー」

「守る気なかったんなら、お前のことを止めたりしなかった。『蟷螂』からも、お前自身からも守りたかったんだよ。間違った道を進んでほしくない」

 

 立花は『レッドライン』だ。必要とあらば人を殺せる異常者だ。

 その危うさはまだ残っている。危険人物だ、手に負えないと諦めて、『蟷螂』とともにこの施設に置いて逃げる選択肢だってあった。

 戦ってる時は、そんな考えすら浮かばなかったけど。だって……

 

「お前は、俺の大切な友だちなんだから」

 

 立花はしばらく驚いたような顔をしてみせ、それから盛大に息を吐いた。

 

「そーいうところだよ、響くん」

 

 そういうところってどういうところだ。

 ジト目になって、彼女はやれやれと頭を振った。

 

「なにかが一個違ったら、E組は修羅場状態になってたんだろうなあ……」

 

 あはは、と彼女は苦笑いする。

 ころころと表情が変わる姿は、ただの中学生に見えた。実際、そうなのかもしれない。

 

「なにか一個違ったら響くんは『貌なし』になってなくて、私も『レッドライン』じゃなくなってて……」

 

 名残惜しそうに、立花は潤んだ目で俺を見上げた。

 

「キミの隣にいるのは、私だったのかも」

 

 それはどうだろうか、と思ったが口には出さないでおく。

 現実はこうなって、結果、俺たちはこんな奇妙な関係になってしまっている。それに関しては目を背けてはいけない。

 だけど平穏を願っているのなら、立花の中の『レッドライン』もなりを潜めてくれるのではないかと思わずにいられない。

 

「ねえ、私のことはつきださないの?」

 

 月の光を浴びながら、立花は訊いてきた。

 

「今回だけだ。今日だけは見逃してやる」

 

 律も堀部も、俺だって変わったんだ。ならこいつが変わらない道理はない。

 次に会う時に、少しはまともになっていることを祈って、彼女を押し出す。 

 

「行け。俺の気が変わらないうちに」

 

 立花は何か言いたげな口をぎゅっと結んで、俺に背中を向けた。

 違う方向へ、俺も歩みだす。

 

 さあ、戦いはこれからだ。



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97 またみんなで

 超体育着に着替え、一足早く山の麓まで到着した俺は深呼吸した。

 この上に殺せんせーがいる。その前に立ち塞がるは世界基準で見ても超精鋭の傭兵部隊。

 超体育着があるとはいえ、中学生が敵う相手かどうか。目の前でE組を攫っていった手腕は見事なものだったし。

 

 まだまだ冷える夜。

 森の入口の木を登ったところに、制服やら『貌なし』の服やら詰め込んだ鞄をくくりつける。色もカモフラージュさせてるから、見つかりはしないだろう。

 この先は、これを背負っていけるほどの余裕はない。

 

「それにしても遅いな」

 

 今ここに居るのは俺一人だ。他は、装備を取りに行くのに自宅へこっそり戻っている。学校まで何駅か距離があるのもいるし、もうちょっと時間はかかるか。

 とはいえ、リミットまではもう余裕はない。『天の矛』が撃ち込まれるまで二時間を切っている。

 と、不安になってきた瞬間、黒ずくめの集団がざざざっと集結してくる。 言うまでもなく、超体育着を纏ったE組の面々だ。

 

「や、國枝」

「カルマ、捕まってる間に良い作戦は考えられたか?」

「何十パターンもね。確認しとく?」

「いや、そんな時間はない。指示を出してくれれば従う」

 

 お互いに交わす言葉は少ない。

 今さら確認することなんてないだろう。邪魔な奴は叩き、頂上まで登り、殺せんせーに会うだけだ。

 今の俺たちなら出来る。

 

「よし、行くか」

 

 気合を入れ直し、一歩踏み出す。

 

 そこでプルルルル、と音が鳴った。

 出どころは……優月だ。誰かから通話がかかってきて、スマホが震えている。

 

「……優月、これからステルス任務だぞ。電話切っておけ」

 

 敵陣のど真ん中で音を鳴らせば、的にしてくださいと言うようなものだ。

 その時に助けに行けるほど、余裕のある相手じゃない。

 

「ご、ごめん。でもちょっと待って」

 

 と、あろうことか優月は電話に出て……

 

「あ、はい、はい」

 

 相手には見えないのに、ぺこぺことお辞儀をしている。

 

「響くん、代わってほしいって」

 

 代わってほしい?

 わざわざ優月の電話にかけてきて、俺に話してこようとする奴なんて……誰だ?

 訝しみながら、俺はスマホを受け取った。

 

「もしもし」

《響、いまどこにいるの!!?》

 

 瞬間、耳元で大きな音を出され、思わず電話を離してしまいそうになる。

 声の主は、母さんだった。

 そういえば、GPSとかで場所が割れるのを危惧して、自分のスマホは壊したんだった。

 連絡しないまま今日まで一週間そのままだったから、親からすれば急に音信不通になったように見える。というか実際に音信不通になってた。

 書置きくらい残しておくべきだったな。

 

「ええと、こんばんは?」

《こんばんはじゃないわよ! 今までどこで何を――!》

 

 怒号が炸裂する。

 E組や殺せんせーのことがニュースになって、その中心に息子がいたと知れば心配にもなるか。

 おまけにその息子とは連絡がつかず。これは100:0で俺が悪いな。

 

 言いたいことを放って、ようやく落ち着いたのか、だんだんと母さんの語気が弱まっていく。

 その間、俺は母さんの言葉をしっかり受け止めていた。めちゃめちゃ怒らせてしまったけど、心配してくれていることが分かって、なんだか嬉しい。

 

《……無事、なのね?》

「うん、まあ」

 

 殺人鬼と一戦交えた後だけど。それにこれから特殊部隊と戦うつもりだけど。

 言うと余計にややこしくなるので伏せる。

 

「帰るのはちょっと遅くなる……っていうか、今日は帰れないかも」

《どうして? すぐ帰ってきなさい。お父さんも心配してるから》

 

 相手に見えないけど、俺は頭を振った。

 

「前に、E組になれてよかったって言ったよな?」

 

 両親と和解した文化祭の日、泣きながら俺は言った。E組に来れて良かった、と。

 

「そう思った理由は、E組の友達の存在ももちろんだけど、先生がいたからこそなんだ。ちょっと変で、抜けてて、見栄っ張りだけど、俺たちのことを想って接してくれた恩師なんだ」

 

 一息に言って想いをぶちまける。反論は許さないつもりだ。

 

「その先生から最後の言葉を貰ってない。俺はまだお別れを言えてない」

 

 俺と母さん、父さんが気持ちを理解しあったように、言葉の力は大きい。一言で人生を変えるほど。

 これまでさんざん俺たちの常識を吹き飛ばしてきた先生が最期に言う言葉を、俺たちはしっかりと受け止めなければならない。

 そうすることで、この理不尽な状況に、やっと納得できる気がする。

 

 そして、強くなった俺の姿を見せて、さよならを言いたい。

 殺せんせーの生徒であることに誇りを持って、終わりの瞬間まで胸を張っていたいのだ。

 そうじゃないと、殺せんせーが安心して逝けない。

 

 殺せんせーが死ぬという結果に変わりがなくても、その最期には満足を感じてほしい。

 

 母さんはしばらく黙っていた。思うところはあるはずだ。それに訴えるように話をした。

 ちょっとずるいとは思うけど、母さんは長いため息をついて許してくれた。

 

《……ちゃんと帰って来なさいよ》

「分かってるよ。父さんにもよろしく言っておいて」

 

 通話を切って、優月に返す。

 

「なんで母さんがお前の電話番号知ってるんだ」

「前に会った時にちょっとね」

 

 前に? 会ったことがあるなんて初耳だが。……ああ、『蟷螂』に捕まってた時かな。

 

「え、ちょっと待って、親公認ってこと?」

「もうそんなところまで進んでんのね」

「これは殺せんせーに報告しないとねー」

 

 その場の全員、特に女子たちがにやにやと笑みを浮かべて俺たちを見る。

 急に気恥ずかしくなって、誤魔化すためにため息。

 

「ああ、もう、行くぞ、ほら」

 

 気の抜けた出発となったが……まあ俺たちらしいっちゃらしいのかもしれない。

 

 

 闇に乗じて、木を乗り移る。

 『群狼』は銃口をあちらこちらに向けながら、しかし俺たちがどこにいるか捉えきれていない。

 

 森に入ってから既に何人も仕留めて、恐怖を植え付けている。

 どこから襲ってくるかわからない獰猛な敵。あちらからすれば、俺たちのほうが狼に見えるだろう。

 

 逃げ出して孤立した男の前に、ぱっと姿を現した。

 

「は?」

 

 防御姿勢に入られる前に、顎をつま先で鋭く弾いた。

 ビンゴ。脳が揺らされ、目が虚ろに泳ぐ。

 だが……

 

〈ぐっ……くそ、ガキどもが……!〉

 

 浅かったか。思いっきり意識を刈り取るつもりだったが、相手の鍛えられたぶっとい首が衝撃を吸収したんだ。

 しかし、今ので多少ふらつく程度なら重ねればいいだけのこと。

 隙だらけでよろける男の顔面に、俺は思いきり回し蹴りを食らわせた。

 どさりと倒れた男。意識が戻るまでそう時間はかからないだろうが、その時にはすでに全部終わってることだろう。

 

 待ち伏せ成功。カルマの作戦通り、『群狼』はおびき寄せられたり、罠にはまったり、どんどんその数を減らしていっている。

 この森は、暗殺練習してきたE組にとっては勝手のわかる庭。

 隠れやすい場所、フリーランニングのルート、狙撃ポイント、罠の位置などなど、すべてが頭に入っている。

 『群狼』は全方位を注意しなければならないが、俺たちは冷静に適切なアタックをしかければいいだけだ。

 

 なにより違うのは、覚悟。

 中学生相手なら楽勝と考えている『群狼』とE組じゃ、勝利への覚悟の重さが違う。

 

「こっちはOKだ」

《了解。じゃ、こっち来て》

「こっちってどっち……」

《ぎゃあああああ!!》

 

 俺とカルマを遮って、悲鳴が聞こえた。

 闇を切り裂くような甲高い声は、イヤホンからももう一方の耳からもよく聞こえる。

 

「なるほど、あっちか」

 

 絶え間ない絶叫を頼りに森を駆け、ようやくその出どころが見えてきた。

 

 『群狼』のうちの一人が、涙と嗚咽と涎を垂らしながらじたばたと暴れている。暴れると言っても、木に括りつけられて逃げられはしないが。

 その男に何かを塗りたくるカルマは、上機嫌そうに鼻歌を歌っていた。

 足元に置かれてあるチューブやら瓶やらを、俺は拾い上げる。

 

「わさび、からしと……カルマ、これ何?」

「デスソース」

 

 なるほどこれが……

 ラベルにドクロが描いてある瓶。実物は初めて見た。

 中身を覗いてみると、あれ、空だ。

 

「ってことは、全部使ったのか」

 

 目の前の男の舌とか鼻にこれでもかと詰め込まれている謎の半固体。ああ、目にも垂れてる。

 

「これ後遺症とか残らんのか」

「俺たちに喧嘩売るなら、それくらい承知でいてもらわないと」

<おい!>

「『グリップ』なんか味覚やられて刺激のあるものしか味しないって言ってたぞ」

「精鋭なんだからこれくらいで音を上げられちゃ困るよ。とっておきも持ってきたしさ」

「なにその瓶……おぅえっ、くさっ!」

<おい、お前ら!>

 

 英語で呼びかけてくるのは、悲鳴をもとにやってきた『群狼』。

 一人ってことは、他の仲間はやられて、やむなく救助のために来たってところか。

 

 俺たちが素手(カルマは激臭のする瓶を持ってるが)なのを見て、少し自信を取り戻したらしい男は、こちらに銃口を向ける。

 

<動くなよ! 動けば撃つ!>

「あんたこそ動かないほうがいいよ」

 

 振り向きもせず、カルマが忠告した瞬間、にじり寄ってきていた男の身体が急に飛び上がる。

 地面に隠してあった縄で足首が縛られ、さかさまの態勢で空中に吊られる。

 こんな初歩的な罠にひっかかって銃も落としてしまい、無防備な状態になってしまっているのは無様だ。

 

「あーあ、せっかく忠告したのに」

「日本語だったからな、通じなかったんじゃないか?」

 

 カルマがくくくと笑っているところを見ると、わかっててやったみたいだが。

 彼はようやく哀れな男に向き直ると、悔しそうにもがく手を掴んで、あっという間にロープで拘束していく。

 

「ちゃーんと勉強しないと、こんなガキにいいようにされちゃうよ」

「それも通じてないぞ」

「大丈夫大丈夫。これから教え込んでやるからさ。身をもって、ね」

 

 より一層悪い顔になって、カルマは瓶を掲げる。さらに懐から怪しい小袋も出した。

 ああ、ご愁傷様。合掌。

 

 こだまする悲鳴が一つ増えたのは、言うまでもないだろう。

 

 

 十数分後、おびき出された敵を次々排除して、森がようやく静かになってきた。

 

「じゃ、國枝は前進ね」

「了解」

 

 カルマの指示に、なんの疑いもなく従う。

 捕まっている間、彼はずっとこの山での攻防について考えを張り巡らせていた。作戦に疑問なんて感じない。

 言われるがままに動いて、拳を振るうだけで特殊部隊を制圧できていく。

 

 誰も欠けることなく、どんどんと進行していく。

 この森において、E組に勝てる部隊は存在しないのかもしれない。それほどまでに、俺たちはお互いの能力を認めていて、お互いを信頼していた。

 このまま行けば大きな怪我もなく……

 

「!」

 

 殺気を感じた。急速に迫ってくる大きな殺気。

 気づいた時には遅かった。隣にいた岡島が吹っ飛ぶ。何者かがぶつかってきたのだ。

 そいつはすぐ近くの俺に狙いを定めて、攻撃を仕掛けてきた。なんとか両腕で防いだが、勢いを殺しきれずに身体は飛ばされ、木に激突する。

 

〈ほう、やるじゃないか〉

 

 俺たちを吹き飛ばした男は、勢いを殺さず着地し、にやりと笑う。

 鋭い眼光を放つ目にかけられている眼鏡が怪しく光った。

 

 こいつのことは聞いている。

 『群狼』のリーダー、クレイグ・ホウジョウ。

 各地の戦争・紛争に現れては嵐のように猛威を振るい、死体の山を築き上げてきた戦争狂。

 なるほど、戦闘服の上からでもわかるほど引き締まった身体、顔につけられた傷、一筋縄でいかなそうな獣のような目、風格漂う佇まい。放たれている威圧感を前にすれば、並の人間なら縮こまるところだ。

 

 烏間先生曰く、彼より三倍強いとのこと。

 てことは、単純な戦闘力だけでいえば、もちろん二代目『死神』よりも強いってことだ。

 超体育着を着て、しかも両腕でガードしたのに、じんじんと痺れている。ほんのかすっただけなのに……これだけで圧倒的な差がわかる。

 もし一瞬でも反応が遅れていたら、骨を折られていたことだろう。

 

〈あんた、雇われてるだけだろ。部隊は全滅したんだし、ここは通してくれないか〉

〈全滅……? いやいや、私がいる〉

 

 ふふふ、と小さく笑って、彼は自信満々に近づいてくる。

 

〈それに、君たちのような統率のとれた部隊と戦える機会はそうそうない。楽しませてもらうよ〉

 

 この戦闘狂め……だがこうやって話をしているおかげで、みんなが続々と集結しつつある。

 それがわかって、彼はさらに口角を上げた。

 

〈さて、君たちの中で一番強いのは誰かな?〉

〈お前が決めろ〉

 

 言い返すと、クレイグの歩みが止まった。その眼前を、岡島の蹴りが通り抜ける。

 先ほど吹き飛ばされて気絶したフリをしていたのだ。

 棒倒しの時に使った、警戒網の外からの襲撃。さすがに食らってはくれなかった。

 

 クレイグがにやりと笑う。悪くない動きだ、とでも言いたげだ。

 だったら次だ。

 

 俺は距離を詰め、お互いの攻撃範囲ギリギリ外で急停止。クレイグはフェイントに騙されず、左右から襲い掛かる磯貝と前原の攻撃をガードした。

 これで三人が敵を囲んだ……が、それ以上踏み込まず、すぐさま後退する。

 隙を突いて、後ろから忍び寄っていた木村と岡野がスタンバトンを一閃。当たったはずだが、クレイグには一切効いていない。反撃しようと腕を振るう。それもまた、得意の敏捷性でかわす。

 

 E組全員によるヒット&アウェイ戦法。遠距離からの攻撃も相まって、どこから攻撃がくるかわかるまい。

 たった一人を相手にするには贅沢な作戦だが、油断はしない。

 俺たちは一度、二代目『死神』にこっぴどくやられている。巨大な一が多数を蹴散らす能力を持っているのは承知済みだ。その二代目『死神』に勝った烏間先生よりさらに強い奴を相手に、手を抜けるほど俺たちは強くない。

 協力して食らいついていくしかないのだ。

 

 決してクレイグに捕まらないよう、反撃を受けないように深追いはしない。そして、戦闘状態に移行させないように絶え間なく攻撃を続ける。

 彼を本気にさせたらまずい。だから、あえて一撃離脱を選んだ。

 俺たちのことを獲物だと思わせたまま……つまり格下であると思わせたままじゃないといけないのだ。

 もし対等だと思われれば、彼の中にある戦闘のスイッチが入って、一瞬の間に殺られてしまうだろう。

 だからちまちまと小さなダメージを与えながら、逃げる。こっちに必要なのは、こいつを止められる一撃だ。

 

 そして、その時が来た。

 

 カルマが俺をちらりと見る。その合図を受けて、俺たちはクレイグの前に姿を現した。

 思った通り、ロックオンされる。

 みんなが代わる代わる攻撃をしていく中で、俺は少し強めに殴る蹴るを繰り返していた。この瞬間、この中で一番脅威なのが俺だと思わせるために。

 カルマもまた、自分が司令塔だと理解させるためにあえて見える位置で指示を出していた。

 

 真正面から一瞬で最高速度まで加速し、瞬時に距離を詰める……と警戒させて、一歩進んだところで急ブレーキをかけた。

 

〈ぐっ!?〉

 

 クレイグが顔を歪めて、いつの間にか首に刺さっていた針を引き抜く。

 律が操る堀部特製ドローンが麻酔弾を発射したのだ。

 慌てて後ろを見るが、それが致命的。

 

 パン!

 

 俺のフェイント、そして律の狙撃によって敏感になっているところに、渚のクラップスタナーが響く。

 絶好のタイミング。クレイグの動きが止まった。

 

「カルマ!」

 

 その頭を掴んで、渚は叫ぶ。

 応じて、カルマが勢いよくダッシュし、顔面に飛び膝蹴り。渚は後頭部に肘鉄を叩き込み、衝撃のサンドイッチで脳を揺らした。

 

「寺坂!」

 

 続いてカルマがクレイグの腕を掴み、寺坂ももう片方を持って、二人で持ち上げる。

 無理やり立たされたクレイグはまだ麻痺と脳震盪から復活しておらず、すこしぐらついている。

 その彼を、二人は前に突き出した。

 

「國枝ァ!」

 

 呼ばれると同時に、回転しながら跳躍。最も勢いが増しているところで脚を出し、クレイグの側頭部に靴底を沈めた。

 彼はそのまま木に激突し、ずるずると倒れる。

 

「ふう」

 

 落ち着いて息を吐く。

 烏間先生の数倍強いというから、もしかしたら何人か怪我をするかもと心配していたが……なんとかいったみたいだ。

 渚とカルマはにっと笑ってハイタッチ。協力技を成功させて強敵を倒したのがよほど嬉しいようだ。

 

「にしても、とんだバケモンだな、こいつ」

「ああ。これだけやってもほとんど傷ついてない」

 

 寺坂も俺も、クレイグ・ホウジョウという人間を恐ろしく思った。

 クラップスタナーによる麻痺と、しつこいくらいに繰り返した頭へのダメージで立てないくらいに脳を揺らしてやったが、鍛え抜かれたその身体には一切の怪我がない。

 

 と観察していたら、彼の身体がほんのわずかに動いた。

 ぞわりと冷や汗が出て、反射的に飛び出す。俺はすぐさま駆け寄り、クレイグの右腕を踏みつける。

 

「おい寺坂! 腕抑えろ、腕!」

 

 俺の焦った様子に、寺坂が急いで従う。

 嘘だろ。全体重をかけて一本の腕を踏んでるのに、だんだんと持ち上げられていく。

 

 やばい……と思った瞬間、その力が緩んだ。

 吉田と村松がスタンガンで痺れさせたのだ。

 

「かっこつけてハイタッチしてんじゃねー!」

「ちゃんとトドメさせ!」

 

 みんなに怒られ、渚とカルマはバツの悪そうな、それでいて恥ずかしそうな顔を浮かべる。

 クレイグが再び動き出さないように、全員で身体を抑えながら、スタンガンで麻痺させつつテープや縄で拘束していく。肩から足先まで入念に縛ったから動けないだろう。

 とにかく、作戦は成功。これで、この山にいるE組以外の人間は無効化できた。

 これでようやく、殺せんせーに会えるのだ。

 

「待ってろよ、殺せんせー」

 

 どういう結果になろうが、俺たちは最後まで見届ける。

 覚悟を新たにして、山の上へ視線を向けた。



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98 最後の再会

 『群狼』を倒した俺たちは、そのままの勢いで山を駆けのぼっていく。

 頂上に近づくにつれ、膜のようなものが校舎の周りを囲んでいるのが見える。

 『地の盾』だ。

 そのバリアは本当に触手細胞にのみ作用するようで、触れてもなんともない。

 俺たち普通の人間にとってはそこに何もないのと同じだ。

 そんなドーム状のバリアの中に入ると、校舎の外に俺たちを待っている人影があった。

 

「音だけでも、恐ろしい強敵を仕留めたのがわかりました。成長しましたね、みなさん」

「殺せんせー!」

 

 いつもと同じく、登校する俺たちを迎えてくれた殺せんせー。

 ようやく会えた恩人に、俺たちはわっと駆け寄る。

 ぬっと伸びてきた触手に頭を撫でられ、それだけで無茶をしてきた甲斐があるというもの。

 

 しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 俺たちはこの一週間に起こった出来事を全て話した。

 

「なるほどねえ。レーザー発射は日付が変わる直前ですか」

 

 殺せんせーが顔を天に上げ、つられて俺たちも空を見上げる。

 ここに照準を向けている『天の矛』は、星よりも強く眩い光を放っている。

 百%充填まであとわずか。そのエネルギーが、ああやって存在をアピールしている。

 

 『地の盾』を発動してから、確実に殺せる『天の矛』での攻撃。シンプルな作戦ゆえに、破ることは出来ない。

 それを可能にした技術力に対しては、やはり見事というしかなかった。

 

「……」

 

 今さら考えても、逆転の手はない。

 

 たとえこの作戦を指揮している上層部と話し合いができたとして、危険がほとんどないと言っても通用しない。

 爆発する可能性は一%未満。それを受け止められるのは、俺たちがE組の生徒で、彼の教え子だからだ。

 各国の代表者たちは違う。たとえごくわずかな確率でも、平和を脅かす存在は無視できないのだ。

 それを責め立てることはできない。彼らは自分の国とこの世界を守ろうとしているだけだ。

 

 誰もが自分の正義を持っている。正しいか正しくないかは関係なく、やりたい・やるべきだと考えて行動している。

 ここまできたら変えることなんて出来なくて……だからこそ結果が変わらないと理解できてしまう。

 

「みなさんにアドバイスをしましょう」

 

 暗い顔をする俺たちに、殺せんせーは言葉をかけた。

 

「真正面から立ち向かうだけが、最善の方法ではありません。逃げる、隠れる、罠を仕掛ける、奇襲をかける。今の君たちなら……殺さずとも殺せずとも、この教室で学んだ暗殺者なら、あらゆる方法を試せるでしょう。そうやって諦めず戦えば、きっと結果はついてきます」

 

 俺たちが頑張ってここに来たことが無駄ではないと、そう言っているのだ。

 殺せんせーが死ぬことに変わりはないけれど、諦めずにいたからこそ、こうやって会えている。

 無駄だとは、誰も思っていなかった。

 

「ケッ。こんな時まで授業かよ」

 

 寺坂のこんな強がりにも、殺せんせーは笑った。

 

「ヌルフフフ。こんな時だからこそできる授業です。教師たるもの教育のチャンスは逃しませんよぉ」

 

 ……なんていうか、()()()な。切羽詰まったって状況なのに、E組らしい空気だ。

 

「ところで中村さん。山中の激戦でも君の足音は大人しかったですねえ。しかも甘いにおいがするようですが?」

 

 よだれを垂らしながら、殺せんせーが問う。

 地獄鼻で地獄耳かよ、と軽く引きながら、中村は腰につけたポーチに手を伸ばした。

 

「月が爆発した日から、今日でちょうど一年でしょ。確か雪村先生は、今日を殺せんせーの『誕生日』にしたんだよね」

 

 じゃん、と取り出したのは、小さな白い箱。それを開けると、きらりと輝くケーキが鎮座していた。

 

「小っちゃいけどブランドもんの高級ケーキよ。これを持ってこれる私の体術を褒めてほしいな……聞けよ!」

 

 得意げになっている中村をよそに、殺せんせーの目はケーキに釘づけだ。

 

「だって……だって、一週間ぶりのスウィーツ……」

「ああもうヨダレが垂れる! みんなとっとと歌っちゃうよ! さんはい!」

 

 ケーキに火のついた一本のローソクを立て、ぐだぐだした進行から始まったのは、E組生徒による『ハッピーバースデートゥユー』合唱。

 彼が生まれてくれたことを、生きてくれていることを、ここにいることを感謝し、祝う歌。

 ちょっと気恥ずかしいけど、せっかくの誕生日なんだし。

 

「オラ、吹き消せ殺せんせー!」

「一本しかないんだから大事にな!」

 

 歌い終わると、一斉に囃し立てる。

 待ちに待ったケーキを前に、殺せんせーはにやにやを抑えられず、 火へ顔を近づける。

 ふ、と吹き消そうとした……その瞬間。

 

 ドン!!

 

 突如として、地面に何かがぶつかった。

 ケーキは無残にも破壊され、噴火したかのように土が舞い上がる。

 

 何が起きたかわからず、誰もが口を開けて呆然としていた。

 

「ハッピーバースデー」

 

 暗く、呪うような声。はっとして振り向くと、校舎の上に負の感情をまき散らす二人がいた。

 そのうちの一人は……

 

「柳沢……!」

「機は熟した。世界一残酷な死をプレゼントしよう」

 

 いつもの白い服で登場したシロこと柳沢。彼は、フードまでジッパーを閉めているもう一人を前に出した。

 

「先生。僕が誰だかわかるよね」

 

 男はジッパーを外し、殺意と憎悪を漏らす。羽化するように中身がずるずると出てくる。

 どくり、と心臓が鳴った。

 視界に入れただけで絶望的な力の差がわかってしまう。この感覚を、俺たちはすでに味わったことがある。

 

「改めて生徒たちにも紹介しようか。彼が、そのタコから『死神』の名を奪った男だ。そして、新しい『殺せんせー』だ」

 

 殺せんせーよりも本数が多く、尖っているような触手。それを巧みに操る人型の怪物が地上に降り立った。

 堀部のよりしなやかで、茅野のより鋭い。命を救おうとする殺せんせーの触手とは逆の、全てを破壊するための手だ。

 

「あれが……『死神』?」

「そのタコと同じ改造を施しただけさ。違う点は、彼が自ら強く望んでこの改造を受けたことだ」

 

 『死神』の触手は一本残らず黒い。混じりっ気なしの怒りの色。

 ちょっと体内に入れただけで頭が壊れそうなくらいだった触手細胞を、こんなになるまで……いったいどれだけの憤怒を抱えているんだ。

 

「さあ、存分に発揮するがいい」

 

 パンッ。

 

 何かが弾けるような音がして……気づいた時には身体が宙を舞っていた。

 あまりに唐突なことに、『死神』の攻撃を受けたのだろうということまでしかわからなかった。

 受け身を取り損ねて、背中から地面に激突する。超体育着のおかげで怪我はないが、肺から空気が吐き出されて一瞬意識を手放してしまった。

 

衝撃波(ソニックブーム)さ。彼の触手は初速からマッハ2を出す。最高瞬間速度はマッハ40。この狭いバリアの中では最高速度までは出せんがな。要するに基本性能が倍ということ」

 

 柳沢が言っていることは、衝撃と耳鳴りでよく聞こえなかったが、身に受けてしっかり理解した。

 目の前にいるのは、ハッタリでもなんでもなく、柳沢の言うような怪物だ。

 

 だがどうやって入り込んだ? 後者の周りは『地の盾』で囲われているのに。

 ……決まっている。お偉いさんがほんの一瞬バリアを開けたのだ。

 殺せんせー抹殺は間違いないとみて、触手細胞の有用性を実証するためにデータを取ろうとしているのだ。

 

 ギリ、と歯を噛む。

 なにより許せないのは……

 

「……命を軽視しているな」

「ハハハ、流石だな。気付いたか、國枝響」

 

 あいつが『死神』を触手生物に変えたのは最近のことだろう。なのに、殺せんせーみたいな全身触手状態にしたうえ、マッハ40まで出せるまで強くしたってなると、代償が必要だ。

 

 そしてその代償とは……間違いなく命だ。

 触手二本を植え付けられていた堀部でさえ、定期的なメンテナンスを行っていなければ地獄の苦しみを味わう羽目になっていた。

 ならば、『死神』はもっともっと自身の未来を削っていっている。

 

 その通り、とばかりにくつくつと笑った。

 

「寿命は三か月もない代わりに、すさまじいエネルギーを引き出すように調整できた。もちろん死ぬときも爆発する危険はない仕組みだ。ハハハハハ! 安全で完璧な兵器だろう!」

「お前……」

 

 無意識に拳を握っていた。

 血管が切れそうなくらい、怒りが湧いてくる。

 

「いつもいつも命を軽く見やがって……他の誰かを道具にしか思ってないような奴が、他人の命を弄ぶな! そうやっていつも遠くから好き勝手やりやがって! 復讐だのなんだの言って、お前は……」

「俺に死の覚悟がないと、そう思うかね?」

 

 冷徹な目で俺を見下し、彼は特製の白服を脱ぐ。

 ビキビキと胎動する血管や筋肉。目は充血している。様子がおかしいなんてもんじゃない。

 

 さらに、柳沢は自分の首筋に注射器を立て、ためらいなく中身を押し込んだ。

 

「命などどうでもいい。俺から全てを奪ったこいつさえ殺せれば」

 

 血管が浮き彫りになり、皮膚の下でぼこぼこと何かが蠢いている。

 柳沢も人から離れようとしているのは、火を見るより明らかだ。

 

「全身でなくとも要所に触手を少しずつ埋めこめば、人間の機能を保ったまま超人になれる」

 

 あとは俺たちに見向きもせず、柳沢は殺せんせーの後ろに回る。

 左目に装着した機械から、光が放たれた。

 触手の動きを固める圧力光線。ほんの少しの間だけ止まってしまった殺せんせーへ、『死神』が追撃する。

 

「無残に死ね、モルモット。愛する生徒に一生の傷が残るように!」

 

 柳沢は知識と戦略、『死神』は手数と暴力。

 遠慮の欠片もない猛攻を避けて、受け流し、殺せんせーは必死に生き延びる。

 

「みなさん、さっきの授業で言い忘れていたことがあります。いかに巧みに正面戦闘を避けてきた殺し屋でも、人生の中では必ず数度、全力を尽くして戦わねばならない時がある」

 

 ざ、と俺たちの前に立ち、殺せんせーは叫んだ。

 

「先生の場合……それは今です!」

 

 再び、両方が空中で取っ組み合う。

 一発一発の重みは、伝わってくる空気の振動でわかる。

 

 『死神』と柳沢、二人の攻撃は災害かとも思えるほど激しかった。

 あらゆる面で能力を上回っている『死神』。サポートする柳沢は対触手用ナイフも使える。

 対して、殺せんせーは年季の差で食らいつく。

 今まで実際に触手を使っていたのは殺せんせーだ。どれだけ応用できるか、彼が一番よく知っている。

 

 押されるばかりだと思っていたが、徐々に殺せんせーも態勢を立て直しつつあった。

 

「道を外れた生徒には……今から教師の私が責任を取ります。だが柳沢、君は出ていけ。ここは生徒が育つための場所だ。君に立ち入る資格はない」

 

 柳沢の額からビキビキと音が鳴る。

 

「……まだ教師なぞを気取るか、モルモット。ならば試してやろう。わからないか? 我々がなぜこのタイミングを選んできたのか」

 

 はっとして、俺は自分の間抜けさを呪った。

 敵が殺せんせーの相手をしている間に、俺たちは逃げるべきだった。

 

 そんな後悔が頭を占める前に、『死神』は目の前に迫る。

 

 キュイイイイイ……!

 

 『死神』の触手が嫌な高音を奏で、黒く光り始める。体内のエネルギーを圧縮して放つつもりだ。

 

 まずい。このままじゃ……死……

 

 恐怖に目を瞑る。

 目の前が真っ暗になって、遅れて衝撃音が襲ってきた。

 

 だが、いくら待っても何も来ない。

 光の濁流が止んで、揺れも収まる。

 恐る恐る目を開けて見ると、五体満足で一切の怪我がなかった。他のみんなも同様。

 

 俺たちにダメージはなかった。ということは……

 

「殺せんせー!」

 

 代わりに、前に立った殺せんせーが全てを受け切った。

 もちろんあれだけのエネルギーを一人で食らって無事なわけがない。がくりと倒れそうなほど、目に見えて殺せんせーの体力は削られていた。

 

「教師の鑑だな、モルモット! 自分一人なら逃げれるだろうこの強撃を、生徒を守るために正面から受けるとは!」

 

 高笑いする柳沢。俺は……何も言い返せずに、立ちすくんでいた。

 逃げるべきだった。この戦いが始まった時点で、力になれることはない。

 むしろ、邪魔になってしまった。殺せんせーが俺たちを放って置けるはずもないことは知っていたのに。

 

「さあ『二代目』。次だ」

 

 二発目。後ろに回った『死神』の攻撃。殺せんせーは同じく防御する。

 

「次!」

 

 またしても同じ方法。しかし抗えず、殺せんせーは三度なんとか耐えきる。

 だが……限界だ。たった一発でも生徒全員が死んでしまうほどの猛攻。いくら殺せんせーとはいえ、これ以上は危険だ。

 

「柳沢ァ!」

 

 こんな策略を考えたやつを睨む。

 柳沢は、自ら作り出した超生物を殺すために、プライドも何もかもをかなぐり捨てたみたいだ。

 こんな卑怯な手を使うなんて……!

 

「こうなったのはお前たちのせいだ。無力な生徒たちが一緒にいれば、奴は守らざるを得ない。助けに来たんだろうが、逆だ。のこのこと人質になりに来てくれて礼を言うよ」

「やめろ!」

 

 別方向から、柳沢を咎める声が響く。いつの間にか来ていた烏間先生が、銃口を向けていた。

 校舎に隠れるように、ビッチ先生も顔を覗かせている。

 

「これ以上生徒を巻き添えにするな!」

 

 距離は十分。普通なら、手を挙げて降参するところだ。

 しかし、柳沢はふん、と手を振るう。伸びた手によってバチィと弾かれた烏間先生は、ぐるぐると回って芝生の上に飛ばされる。

 

「黙って見てろ国家の犬。お前はもう俺にすら勝てはしない」

 

 吐き捨てるように言って、柳沢は再び殺せんせーへ攻撃を始めた。

 転がった烏間先生に、ビッチ先生が駆け寄る。

 

 あっちで戦っていたと思ったら、こっちで衝撃が走る。目を向けたときには遅く、まったく別の方向でぶつかる音が聞こえる。

 

 こんな戦い……ついていけるわけがない。

 どれだけ見えようが、身体がついてこなくちゃ意味がない。

 触手細胞を打ち込んだ柳沢に相対すれば、一撃で吹き飛ばされてしまうだろう。

 

 殺せんせーの倍のスペックの『死神』。そして、触手細胞を自分で埋め込んだ天才、柳沢。

 

 この二人に勝つことなんて……

 

「……」

 

 いや、あるかもしれない。逆転の手が。



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99 逆転の一発

 殺せんせーVS『死神』&柳沢。

 その戦いが生み出す衝撃波だけで、介入不可能なバトルだと思い知らされる。

 

「逃げよう! これ以上はもう……」

 

 渚が下した決断は逃走。間違ってはいない。むしろ大正解だ。

 このままじゃ邪魔になってしまう。バリアの外に出てしまえばいかに『死神』と柳沢とはいえ、手が出せなくなる。

 だからここは背を向けて懸命に走るのが正しいが……

 

「國枝!?」

 

 みんなとは逆に、俺は校舎のほうへ走り出す。

 アレさえ手に入れてしまえば、傾いたパワーバランスをどうにかできるはずだ。

 もうすぐで手が届く。落ちているそれを掴んで……

 

「なんのつもりだ?」

 

 一瞬で俺の前に移動してきた柳沢が、バチンと腕をしならせる。

 『死神』や殺せんせーには及ばないが、強化された身体による攻撃は素早く、目で捉えられても反応ができなかった。

 

 空中に投げ出され、背中から地面に激突してしまう。

 超体育着を着ていても、身体が裂けてしまったんじゃないかと思うほど鋭い痛みが残る。

 力の差は圧倒的。このまま向かっていっても無駄だ。

 

 こんな……こんな終わり方なのか。

 E組も殺せんせーも、こんなところで終わるのか?

 俺たちの一年間は、他の誰かが気持ちよくなるための前座でしかなかったのか?

 

 必死に戦ってきた。格上の相手にも勝ってきた。

 足りないものを手に入れて、それでも足りないなら補い合って、殺せんせーを生かすという結果にようやくたどり着いた。

 殺せんせーが殺されてしまうのを止められないとわかっても、最後に話したいと思ってここまで来た。

 

 なのにこの理不尽な世界は、嘲笑っているように全てを奪っていく。

 立ち上がるにも限度がある。何もかもが終わって、目を瞑って、最後を待つだけになる時が来る。

 

 ……

 …………

 ………………だけど。

 

「だけど」

 

 だけど!

 

「まだその時じゃない」 

 

 柳沢は、ターゲットを変えた。うろちょろしている俺を先に始末するつもりだ。

 俺は痛みに耐えながら、体を起こして膝をつく。

 

「お前たち全員殺してやる。奴の前で、生徒の屍を見せつけてやる!」

 

 目の前まで迫って来た柳沢が、首を掴んでこようと手を伸ばしてくる。

 

「やってみろ」

 

 俺はその腕を掴み、思いきり足を振る。

 柳沢は何メートルも吹き飛ばされ、無様に地面に転がった。

 

「ここは椚ヶ丘中学三年E組の校舎だ。部外者はご退場願おう」

「お前……」

 

 俺の身体の全身が筋立って波打つ。血管が膨張して、赤と青の線が何か所も交差する。とめどなく溢れてくる異物感が血とともに巡る。

 

 柳沢はこの戦いで全ての決着をつけるつもりなのだ。だから、自分にも躊躇いなく触手細胞を埋め込んだ。

 足りなかったらもっともっと打ち込むつもりだったのだろう。どれだけ身体が蝕まれるかなんて考えもせずに。

 

 その予備の強化細胞を、俺は狙った。

 思った通り、柳沢が捨てたコートの中に数本の注射器があった。

 今それらは全て空になって俺の足元にある。

 

「じわじわと慣らしていかないと、命を削る触手細胞だぞ!? それを一気に打ち込んだというのか!?」

「お前たちを倒すには、それしかない。打つのを惜しんでだめでした、なんてシャレにもならんからな」

 

 おかげで吐きそうなほど気分が悪い。身体は燃えるように熱いし、呼吸がしづらい。

 身体のあらゆるところが破壊されたそばから再生されていくのが繰り返されている。

 

「チッ」

 

 柳沢が距離を詰める。

 俺が強化細胞に慣れるまでに叩きのめすつもりだ。

 まだ細胞が定着しようとしている最中だが、懸命に四肢を動かす。

 

「お前はもう少し利口だと思ったがな」

「あいにく、落ちこぼれ(エンド)のE組なもんで」

 

 お互いに肉弾戦を繰り広げる中で、どんどんと柳沢が不機嫌になっていく。

 明らかにヒット数は俺の方が多かった。

 

 かなり前から触手細胞を馴染ませていた柳沢は、それを認めたくなくてより激しい攻撃をしてくる。

 俺はそれを防ぎ、躱し、カウンターを決める。

 

 単純なスペックなら柳沢のほうが高い。だが俺には経験がある。

 触手も一回だけ扱ったことがあるし、なによりこれまでの戦いは戦力差をひっくり返せるほど激しかった。

 今さらこんな素人に負けはしない。

 

「ぐ、くそ。ガキ風情が……っ」

「お前はそんなガキに負けるんだよ」

「なんでそこまでするんだ! あの怪物に、そこまでする価値があるとでも思っているのか!?」

 

 技術もなにもない大ぶりのパンチをかわす。カウンターに、喚く敵の顔面に肘を打ち込んでやった。

 

「お前にはわからないよ」

 

 反撃の隙を与えず、顔を、胸を、腹を力の限り殴りぬく。触手細胞のおかげで、降り注ぐ矢のような高速連続打撃も可能になった。

 まともに全部受けてしまった柳沢は、よろよろと後ずさったかと思うと、ばたりと倒れる。

 

「う……ぐ……」

 

 意識はあるみたいだが、身体はついていけていないようだ。

 無理もない。彼自身も先を考えないような身体改造をして、そのうえ強い打撃を何発も食らってしまったのだ。

 

「次は……」

 

 殺せんせーに加勢しようと振り向く。

 『死神』もそれに気づいて、こちらを睨み返してきた。

 

「ぐぁっ!」

 

 突然全身が波打ち、骨がきしむ。発火したかのように熱く、電気を流されたように痺れる。

 触手細胞が俺に大きく反応した。メンテナンスしてない状態での活動限界時間が迫って来たのだ。

 激痛に刺され、その場に立ち止まってしまう。一瞬心臓が止まり、呼吸が出来なくなる。

 

 その隙に、『死神』が音速を超えて向かってくる。

 視界が狭まる。時間がゆっくり流れる。死を前にして、脳が危険信号を放っている。

 

 この瞬間だ。『死神』がまっすぐ向かってくるこの瞬間、触れてくる寸前、この一瞬を待っていた!

 想定とは少し違う状況だが、待ち望んでいた状況に変わりはない。

 だから動け。動いてくれ。あと少しだけでいい!

 

 俺は背中に手を回す。ズボンに挟んであった()()を取る。

 

 二代目『死神』の戦いぶりを見て、一つ引っかかったことがある。

 最初に生徒たちを攻撃してきたとき、衝撃波を飛ばした程度で終わらせたことだ。

 今の『死神』なら、俺たちを殺すなんて一瞬で出来るだろう。だが、殺せんせーの死にざまを生徒たちに見せるために、あえて俺たちを生かした。

 それが柳沢の命令か、『死神』が判断したことか……とにかく、感情を暴走させながらも知性がある。

 

 その死角を突く。

 

 予想外のこと、そして殺意のない攻撃に弱いことは殺せんせーで実証済み。

 で、俺が今から放つ不意打ちはその二つを満たしていた。

 

 右手に握られたものを見て、『死神』の動きが一瞬固まる。

 たった一瞬、されど一瞬。

 

 俺が取り出した()()()()()が、火を噴いた。

 

 今まで暗殺を拒否してきたため、所持すら断ってきたエアガン。

 それを俺が撃ったことに、この場の誰もが驚いた。

 

 対触手用弾丸がまっすぐ、『死神』の肩へ向かう。

 届いてくれ、と願った。

 怒りから少しでも気を逸らせるように。殺せんせーが反撃できる隙を作れるように。

 決して殺しはしない俺が放つ、一切の殺意がない銃弾。

 

 『死神』は避けようとしたが、反応するのがあまりにも遅すぎた。弾着。同時に肩が爆発したかのようにはじけ飛ぶ。

 当たるかどうか不安だったが、見事命中。

 負けるはずのない絶対の存在が、たった一人の中学生に不覚を取った。

 明らかな動揺が『死神』を襲う。混乱が頭の中を占める。

 

 ここだ。

 

 殺せんせーは、触手を『死神』のそれに巻き付けた。

 初速0の状態の触手を抑え込めば、力を封じられる。殺せんせーから教えてもらった弱点だ。

 『死神』も例に漏れず、抜け出せずに焦りだした。

 

 殺せんせーは残った触手を、胸の前で祈るように構える。

 体内にある力が全て集約されていき、大きくなっていく。

 

 下着ドロ事件の時、堀部に対して撃っていた光線。触手細胞がもつエネルギーを一点にして放つ大技。

 それが、『死神』に放たれようとしている。怒りや歓喜、驚愕、冷静、恐怖、期待、愛憎……殺せんせーの全ての感情とともに。

 黒、白、黄、青、緑……殺せんせーは自身の色を次々に変えながら、この一年間の全てを解放していく。

 感情が触手の力を引き出すなら……殺せんせーの一年間が『二代目死神』の怒りに勝てない道理はない。

 

 混ざり合ったものが、一気に解き放たれる。

 触手から、轟々と激しい波が生み出された。地面も空気も揺れ、俺もひっくり返ってしまうほど。

 

 光の奔流は『死神』を飲み込む。いや、包み込んでいっていると言ったほうが正しいだろうか。

 黒く染まった元教え子を、殺せんせーはまっすぐ見ていた。あまりの威力に、『死神』の身体は崩れていく時まで。塵すらも残さず、消滅していくその時まで。

 

 一方で、巨大な光線は後ろで倒れている柳沢すらも巻き込んでいく。

 奇しくも『死神』の身体が盾になっていたこと、そして肉体が強化されていたことが幸いして、彼はその場では消え去ることなく、衝撃で吹き飛ばされるだけに留まった。

 しかし、しかしである。

 宙へ飛ばされた柳沢の先にあるのは、殺せんせーを逃がさないための『地の盾』。触手細胞を破壊するバリアである。

 断末魔を上げながら、柳沢の身体はバリアの外へ……

 

 一瞬、電子回路がショートしたような音が鳴って、静寂が戻った。

 

 触手を通さないバリアへ、触手細胞を全身に張り巡らせた柳沢がどうなるかは、俺にはわからない。死んではいない……と思う。

 ともかく、これで終わった……んだよな。

 終わったんだ……

 そう自覚すると、途端に全身の力が抜けた。

 脅威は去った。このまま倒れそうになる……しかし、いつまで経っても地面が迫ってこなかった。誰かが俺を支えている。

 

 寺坂が、俺の身体を掴んで立たせていた。

 そうだよな、こういうとき、一番に動くのがお前だよな。

 

「大丈夫かよ」

「政府施設への潜入、『群狼』とゲリラバトル、んで、触手生物とのやり合い。さすがに限界だ」

「あとちょっと起きてろよ。まだ終わってねえ」

 

 ああ、と俺はなんとか頷く。

 まだ一番大きな仕事が残っている。

 

 殺せんせーの最期を看取るという大仕事が。



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100 暗殺と不殺の絆

 戦いは終わり、風がそよぐ音さえも聞こえるほど静まり返っていた。

 

 寺坂に引っ張られながら、殺せんせーのもとへ向かう。

 彼もギリギリだったようで、今までに見たことがないくらい疲弊しきっていた。

 

「殺せんせー……」

 

 無事を確認したくて、呼ぶ。

 力を使い果たしてしまっているのはわかっているが、それでも卒業の一言が欲しい。

 そのために俺は……

 

 パシン!

 

 乾いた音が響く。

 殺せんせーに叩かれたと気づいた時には、じんじんと頬が熱くなっていた。

 

「無謀と勇気は違います。君がした行動は、教師として、大人として、看過できません」

 

 わかってる。怒られて当然だ。ごめん、ごめんなさい。

 それでも身体が動いた。動いてしまった。命の大切さをさんざん教えられたのに、消費するようなまねをしてしまった。

 だから俺に反論する資格はない。こうやって叩かれるのも当然のことだ。

 

 殺せんせーは手を伸ばしてきた。少しだけ、びくりと反応してしまう。

 

「ですが、ありがとうございます」

 

 また叩かれるかと思ったが、予想外なことに、暖かさが全身を包んでいる。

 殺せんせーの手が、俺を柔らかく抱きとめていた。

 そうして安心させながら、目に見えないほどの極細の触手が俺の中に入ってくる。全身を侵そうとする触手細胞は、あっという間に取り除かれた。

 息をしているだけでもしんどいはずなのに、繊細に、丁寧に、慎重に。そのおかげで、なんの痛みもなく俺の身体は元に戻った。

 

 その技術は、暗殺とは真逆のスキル。生のためのスキルだ。

 雪村先生が死んでしまった時には出来なかったこと。

 悔やんで嘆いて、いの一番に磨いたスキルなのだろう。

 

 ああ、やっぱりこの人は、俺たちの先生なんだ。俺たちの大事な人なんだ。

 そう思うと、涙が溢れてきてぼろぼろと流れる。

 

「助けられなくてごめん。あんたを生かすって決めたのに……」

「いいえ、君に助けられました。國枝くんがいてくれて、いつも助けてくれました。君自身を責めないでください」

 

 違う、と言いそうになる。でも殺せんせーの言葉を否定したくなくて、拳を握る。

 

 聞かなきゃいけない。

 この言葉が最後の授業なんだ。意志を継ぎたいと思うなら、この一年間を無駄にしたくないのなら、彼の言うことを受け止めるべきだ。

 

「君はこう言いましたね。『殺せんせーが先生で良かった』と。その言葉のおかげで、私は胸を張って自分のことを教師だと思えるようになりました。教師であることを嬉しく感じ、君が生徒で良かったと感じています」

「殺せんせー……」

「私に『教師』を教えてくれて、本当にありがとうございます」

 

 彼は最後の力を振り絞って、俺の頭を撫でる。

 そこで、殺せんせーの限界が来た。その場にどさりと倒れ、仰向けのまま寝ころんでいる。

 

「殺せんせー!」

 

 みんなが殺到する。

 

「みなさん。暗殺者が瀕死の標的を逃がしてどうしますか」

 

 当の殺せんせーはいつもの顔で、笑みを浮かべたままだ。

 

「わかりませんか? 殺し時ですよ」

 

 そう言われて、押し黙る。

 

 生かしたい。だがこの状況じゃ無理だ。

 あともう少しでレーザーは放たれる。殺せんせーは逃げられず、消えてしまう。

 ここに来る前に、そんなことは分かっていた。計画は止められない。

 ならどうするべきか。殺せんせーに会えたいま、E組は何をするべきか。

 

 決まっている。

 みんなは誓ったはずだ。卒業まで、殺せんせーを全力で殺しにいくと。

 

 だったら今ここでトドメを刺さなければいけない。

 じゃないと、この一年間が全て茶番になってしまう。殺せんせーの教育に目を背けることになる。

 

 何も言わずとも、俺以外のみんなは力の入っていない触手を押さえる。

 全員で掴めば動きを封じられる、というのは殺せんせー自身から教えてもらった弱点だ。

 これでもう逃がすことはない。

 

 問題は……

 

「最後は……誰が?」

 

 片岡が言う。

 トドメをさすのは一人だけ。それに相応しいのは……

 

「渚」

 

 呼ぶと、その小さな身体が反応する。

 この暗殺教室で一番の優等生は、対先生用ナイフを手に持ちながら、俺を見た。

 

「國枝くん。僕は……君が一番相応しいと思う」

 

 俺は頭を振った。

 

「……結局最後まで、殺せんせーを殺す気はなかった。どんな力を持ってても、どんな立場でも、相手がどんなやつだろうと人を殺さない。それがこの暗殺教室に対しての、俺の答えだ」

 

 殺せんせーを憎んだこともある。真正面から怒ったこともあるし、信頼しなくなった時期もある。

 でも手は出さなかった。

 そんな俺は、この中で一番殺すのに相応しくない。

 

「正直、お前たちの誰かがこの人を殺すことにも抵抗がある。それでも、殺せんせーにとどめをさすのが恩返しになるなら止めない。暗殺を通じて学んできたお前たちが考えて、お前たちがやるべきだと思ったのなら、俺はそれを間違いだとは言えない」

 

 さんざん不殺を説いてきてこんなことを言うのは、自分でもおかしいと思う。

 だけど、この一年間、命を賭して様々なことを教えてくれた殺せんせーに報いる方法が、他にあるだろうか。

 

「俺は、お前がやるのが一番だと思う」

 

 渚にナイフを渡す。

 殺すために弱点を見つけ、生かすために必死でカルマと戦い、その生きざまに感化され教師を目指そうとする渚にこそ、最後の一撃は相応しい。

 E組全員がそれを認めていた。あのカルマでさえ、余計なことは言わずに触手に跨っている。

 

「わかった。でも条件がひとつ。國枝くんも殺せんせーを押さえて」

 

 渚は殺せんせーに馬乗りになる。

 

「僕が殺すところを、ちゃんと見守ってほしいんだ」

 

 俺はしばらく躊躇して……余っている触手に手を添えた。

 

「さて、準備が出来たようですね。一人ひとりにお別れの言葉を言っていたら、二十四時間あっても足りません。細かいことは教室に残したアドバイスブックに書いてきたので、長い会話は不要です」

 

 だろうな、と苦笑する。

 

「その代わり、最後に出欠を取ります。一人ひとり先生の目を見て、大きな返事をしてください」

 

 こくりと頷き、心の準備をする。

 いよいよ最後。殺せんせーが俺たちの名前を呼ぶ、最後の機会だ。

 そのことを噛みしめて、ぎゅっと引き締めて……

 

「……っとその前に、先生方に挨拶しておかなくては」

 

 おい。

 気合を入れていただけに、ずっこけそうになる。最後まで段取りの悪いやつめ。

 

 殺せんせーは傍らで見守るビッチ先生と烏間先生に目を向けた。

 

「イリーナ先生、参加しなくていいんですか? 賞金獲得のチャンスなのに」

「私はもう十分もらった。ガキどもからも、あんたからも、たくさんの絆と経験を」

 

 首を横に振って、ビッチ先生は深く息を漏らす。

 

「この暗殺は……あんたとガキどもの絆だわ」

 

 ふ、とビッチ先生も殺せんせーも柔らかく微笑む。

 今度は烏間先生に目を向けた。

 

「そして烏間先生。あなたこそが生徒たちをこんなに成長させてくれた。これからも、彼らの相談に乗ってあげてください」

「……ああ。お前には散々苦労させられたが、この一年は一生忘れることはない」

 

 仕事に私情を挟むことがほとんどなかった烏間先生が、泣く一歩手前の表情をした。

 泣かないように奥歯を噛みしめ、しかし唇は小さく震えている。瞳はうっすらと潤んでいて、少し押せばぽろりと涙が落ちそうだった。

 

「さよならだ。殺せんせー」

 

 名前を呼ばれて、殺せんせーは満足そうに頷いた。

 これで本当に、殺せんせーの心残りはなくなった。自分がいなくなって崩れるものはないと確信した。

 

 俺は必死で涙をこらえた。

 無理に笑顔を作ることもできないけど、泣き顔だけは見せたくない。殺せんせーが最後に見る俺の顔なんだから。

 

「では、出欠を取ります」

 

 カルマから順に名前が順番に呼ばれていく。

 磯貝、岡島、岡野、奥田、片岡、茅野、神崎、木村……

 

「國枝くん」

「……はい」

 

 呼ばれ、少しためらって、俺は返事した。

 応じてしまえば、すぐにでも殺せんせーがいなくなってしまう気がした。でも、そうしないといけないのだ。

 E組の生徒だから返事しなければならない。殺せんせーを見送る。そのためにここにいると知らせるために返事しなければならない。

 

 やがて全員の点呼が終わり、その時が来る。

 渚がナイフを握り直し、集中しようとする。狙うは心臓。そこを突けば一撃で終わらせることが出来る。

 そう、終わるんだ。殺せんせーと生かすことはもう不可能。他の誰かに殺られるくらいなら、自らの手で殺す。

 それが殺せんせーへの礼儀だ。この教室でたくさんのことを教えてくれた彼への恩返しだ。

 ここで命を断ち切ることこそが、殺せんせーとE組の最後の授業だ。

 

 わかっていても、やはり身体が震えてしまう。

 俺だけじゃなく、みんなが、特に渚ががくがくと震え、振り下ろそうとしている先が定まらない。

 

 そんなんじゃ無理だ。外してしまうのがオチ。

 そうは思っても、かけるべき言葉が見つからない。

 殺してしまうということ、その行為、伝うであろう感触、

 その全てに恐怖して、どうしても慄いてしまうことがわかるから、誰も何も言えない。

 

「そんな気持ちで殺してはいけません」

 

 殺せんせーは、渚の首へ一本の触手で触れた。余計な力が抜けて、渚の震えが止まる。

 

「落ち着いて、笑顔で」

 

 ……やっぱり、あんたは最高の先生だよ。

 殺される最期の時まで、E組のことを想ってくれるなんて。

 

 悔いは残るだろう。引きずりもするだろう。

 だけど、この時のことを誇りに思えるように、彼を殺そうとしたこの一年間が間違いじゃなかったと思えるように、殺せんせーは生徒に勇気を与えた。

 

 俺と殺せんせーに唯一の繋がりがあるように、暗殺を通じてでしか見えない絆もある。

 それが少しだけ、羨ましく思えた。

 

「さようなら、殺せんせー」

「はい、さようなら」

 

 狙いを外さないように、しっかり標的を見据えて、ナイフを振り下ろす。

 その一撃は先生を殺すための刃で、一年間の全てが詰まった刃で、俺たちの想いが凝縮された刃。

 殺せんせーは一ミリたりとも動かずに、最期まで笑顔のまま、それを受け止めた。

 

 身体に突き刺さり、心臓へと到達し、命を断つ。

 

 ぱっと、光の粒が舞った。

 殺せんせーの身体が消え、散ったエネルギーが輝く粒子となって空に浮かぶ。

 目の前で星が瞬いているような、花火のように激しくもあり、雪のように柔らかくもあり、それでいて暖かい。

 儚くて、寂しいはずなのに……ああ、ああ、なんて綺麗なんだろうか。

 魂が反射する様は、こんなにも美しい。

 

 永遠に見惚れていたくても、やがて光は散り、消え、空に融けていく。

 

 その瞬間、みんながわっと泣き出す。

 押さえていた身体がなくなってしまったことを実感して、殺せんせーがいなくなってしまったことを理解して、堰を切ったように感情が流れる。

 

 俺も泣いた。泣き続けた。

 我慢することも忘れて、流れるがままに全部流す。

 

 殺せんせーの服とネクタイだけが、そこに残っていた。



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101 響の時間

 殺せんせーがいなくなって、俺たちは沈んだ心のまま校舎の中に入った。

 誰も喋ろうとせず、ゾンビのように生気のない様子で教室へと向かう。無理もない。この世から殺せんせーが消えてしまったのだから。

 ここで教鞭を振るうこともない。おかしな言動でツッコませることもない。あの日々が帰ってくることは、永遠にない。

 

 大きな喪失感を受けて、教室の扉を開ける。

 あれだけの激戦を繰り広げて、校舎の外も中も綺麗に保たれていた。殺せんせーが必死に守ってくれたのだ。

 そのことに気づいて、さらにそれぞれの机の上にも先生が置いていってくれたものがあるのに気づく。

 

 二冊の本が置かれていた。

 一つはアルバム。

 常識的な大きさのそれをめくると、あの人がこっそり撮ったものから、最後にみんなで写ったものまで、殺せんせー特選の写真が貼られていた。

 俺が写ってるものが多いことから、おそらくこれは個人個人で中身が違うアルバムなのだろう。

 

 もう一つは殺せんせー直筆の人生アドバイス本。

 これまた違う内容らしく、一人ひとりに向けた将来への助言や注意事項、メッセージなどが書かれていた。

 

『國枝くん。いつか私が言ったように、『貌なし』が救った人がいることも覚えておいてください。私もまた、その一人であることを忘れないでください。

 一年間、私の生徒でいてくれてありがとうございます。一年間、私を教師として認めてくれてありがとうございます』

 

 遺書ともとれるそれを見て、またみんなで泣き出したりなんかして……ついには疲れて眠ってしまった。

 

 目覚めたころには、すでに日が昇っていた。

 泣き腫らした目はまだ現実をとらえきれていないようで、少しぼんやりしている。

 みんな、同じような顔をしていた。

 

 殺せんせーが死んで、全てが終わって、まだ数時間しか経っていない。ぽっかり空いた心の穴は、一夜乗り越えたところで埋められはしなかった。

 けれども俯いてばかりではいられない。少しずつ、ゆっくりと前を向く。

 そうやってみんなが顔を上げるころには、どこかすっきりした表情になっていた。

 

 落ち着いたところで、申し訳なさそうにする烏間先生が壇上に立った。

 

「君たちには、納得できないこともあるかもしれない。しばらくは注目されて大変と思うし……機密事項の口止めなども頼むことだろう」

 

 世間には、殺せんせーは極悪非道の怪物と誤解されたまま。それをさらに『殺した』となれば、どういう目で見られるかは想像がつく。

 嫌悪、軽蔑、好奇。そんなものを向けてくる者に対して、俺たちは黙ることを強いられるだろう。

 どう言い繕っても、触手や『死神』のことは、問題しかない。

 

「もちろんできる限り君らを守るが……俺から先に謝らせてくれ」

「烏間先生、平気っすよ」

 

 頭を下げる先生に、前原が軽く返す。

 

「俺らも上手いこと平穏に収まるよう努力するから」

「烏間先生を困らせたくないしね」

 

 岡野も同意。それをきっかけに、みんなが心配を抱かせないように笑みを浮かべる。

 

 E組でさんざん虐められてきたんだ。今さら外部の何も知らない人間に何か言われたところで傷なんて負わない。

 それに、どうせこの事件を細かく訊いてこようとする奴らなんて、ほとんどがただ好奇心を満たしたい奴か、捻じ曲げられた事実を吹聴するような奴だろう。

 そんなのにわざわざ教えてやる真実なんてない。

 

「その代わり、みんなの希望があるんですが」

 

 片岡が手を挙げた。

 

「今日の椚ヶ丘の卒業式には出させてください。本校舎のみんなとの闘いの日々も、殺せんせーと作った大事な思い出だから」

「ああ、手配しよう。そのために俺はここにいるんだからな」

 

 即答で、烏間先生は答える。

 殺せんせーが命を賭して過ごさせてくれた一年間。その終わりに、卒業式に参加できないなんてがっかりもがっかりだからな。

 そんなの、本校舎組も望んでないだろう。特に、浅野は。

 

 残すことはなくなって、磯貝が俺たち全員に目配せする。それだけで、何をするべきかわかった。

 

「全員起立!」

 

 彼の号令で、俺たちは一斉に立ち上がった。

 

「烏間先生、ビッチ先生。本当に色々教えていただき、ありがとうございました!」

 

 声を揃えて、びしっと頭を下げる。

 最後の最後、旅立っていく俺たちから、偉大な恩師たちへの礼。

 頭を上げると、堪えるような表情の烏間先生と目が合う。泣きそうなんだ、と気づいた時には、俺にもこみ上げてくるものがあった。

 

 学校は閉鎖されているから、卒業式は市民会館で行われることになっている。

 家が近い者は制服を取りに、遠い者は親に連絡して持ってこさせようとしていた。

 俺は制服も私服も『貌なし』の服も全部持ってきて、ここに来る前に森の入口にある木に引っかけてたから、それらを入れた袋を回収するだけで済んだ。

 

 みんなを待ってる間に、名残惜しそうに教室の風景を眺めるビッチ先生に近づいた。

 

「まさかガキどもの面倒を、卒業まで見るとは思わなかったわ」

「目はちょっと潤んでるし、唇も震えてる。あ、足も落ち着いてないな。もうちょっとで泣くんじゃないのか」

 

 これくらいは俺じゃなくても見抜けそうだが。

 指摘されたビッチ先生は顔を赤くして俺を指差した。

 

「クニエダ! あんたは私のこと観察するの禁止よ! ユヅキのこと見てたらいいじゃない!」

「元から優月のことしか眼中にないが?」

「惚気んな!」

 

 コントのようなお喋りをしていると、倉橋もやってきた。

 ビッチ先生の技を継いだ弟子だし、お別れの挨拶でも言いたいのだろう……と思ったが、

 

「ビッチ先生、烏間先生と別れたら教えてね。慰めにいくから」

「別れないわよ! それにあんたに慰められるほど……」

「あ、私が慰めるのは烏間先生のほうだから」

「ちょっとはあたしのことを気にかけなさいよ!」

 

 こちらも俺たちと変わらないようなやり取り。

 まあ、これで最後だなんて思ってないからこその軽口だ。

 

 そういえば、ビッチ先生のもう一人の愛弟子である矢田は……ちょうどいま、制服を取って帰ってきたところみたいだ。

 気づけばほとんどが帰ってきていて、着替えも済んでいる。いつの間にか、すでに通常の登校時間になっていたようだ。

 

「よし、そろそろ移動しよう」

 

 磯貝委員長が号令をかけて、ぞろぞろと動き出すみんな。

 距離があるし、速めに動いておくに越したことはない。

 

 ただ、教室を出ていくみんなとは違って、渚だけは俯いて動かずにいた。

 殺せんせーをその手で消してしまった感触、後悔……あらゆる感情に、彼自身が追いついていない。

 もっと上手くやれたんじゃないかと、過去に囚われているのだ。

 

 あのレーザーを使う作戦を、烏間先生が教えてくれてたら、俺たちが知っていたら、誰かが気付いてたら変わってたかもしれない。

 『地の盾』を破壊したり、『天の矛』をハッキングしたり。出来るかどうかはともかく、やることは違ったかもしれない。

 だが結果はこうなった。それは良い悪いではなくて、自分たちのしたこととしてしっかり責任を持ち、受け止めなければならないことだ。

 

 殺したことはみんなの総意。全員等しく共犯だ。

 少しでも彼の心が軽くなるように、俺は話しかける。

 

「お前とカルマが宇宙から帰ってきた後のことを覚えているか? 殺せんせーを殺さなくて済むってわかった時のことを。それでもみんなは殺すことを諦めず、殺せんせーは暗殺を受け入れてくれた。暗殺を通して俺たちに教えてくれたことを否定しないためにも、殺せんせーは命を捧げ続けてきた。ずっと、ここで。最期の瞬間までそれは変わらなかった」

 

 殺せんせーに生きていてほしいとは思ったが、殺すこともまた彼に報いることであることは間違いない。

 だからこそ彼はどちらの結果でも受け入れる覚悟があったのだろう。だからこそ、最期まで彼は笑っていられたのだろう。

 

「渚は、誰よりも殺せんせーの望んでいた成長を見せたんだ。自分のやるべきことを全うした。それはみんなが認めてる」

 

 殺したことに尊敬の念を抱きこそすれ、恨みなんてしない。

 だって、渚は殺せんせーを誰よりも見て、誰よりも生かすことを考え……殺すことを考えていたのだから。

 

「ありがとう」

 

 そう言って、渚もようやく動き出す。

 みんなを追いかけるために、たたたっと少し早足だ。

 

 俺は、俺だけはまだ残って、忘れ物がないかを確認する。

 みんなの机の中、床、ロッカー、靴箱。何もないとわかっていながらも、もったいぶるようにゆっくりと見る。

 何かあれば満足だっただろうか、それとも何もなければ安心しただろうか。

 いやいや、ただちょっと、ほんの少し寂しいだけだ。

 

「君は行かないのか?」

 

 移動するみんなを見送る烏間先生が、目の前まで近づいてきた。

 

「まだちょっと時間はありますから。ただ、本当にこれが最後だと思うと名残惜しくて」

 

 卒業式に出れば、椚ヶ丘中学の生徒として授業を受けるためにここに来ることはなくなる。

 殺せんせーやみんなと過ごした時間が、過去になる。

 少しでも今を噛みしめたくて、ここを離れられない。

 

「大丈夫か?」

「大丈夫……なわけないでしょう」

 

 何度か戦ったせいで、俺の身体はまだ疲労と苦痛が残ってる。ぼろぼろだ。

 そのうえ、最高の恩師である殺せんせーが死んだ。俺たちを助けてくれた柱がなくなってしまった。心にできた穴はあまりにも大きく、深い。

 今はまだ平気だけど、これから一生引きずるくらいの悲しさがずっと押し寄せてくるに違いない。きっと、いつかどこかでこう思う時が来るだろう。『殺せんせーがいてくれたら』と。

 そして後悔する日が来るのだ。ああしていたら、こうしていたら、殺せんせーを死なせずに済んだのに、と。

 この結末を変えられたはずだと嘆く日が来るのだろう。より良い結果が出せたはずだと苦しむ日が来るのだろう。

 

 だけど、それでも……

 

「それでも、前に進まなきゃ」

 

 人生は続いていく。続く限り、大切なものを理不尽に奪われていく。そのせいで悲しみ、立ち止まり、振り返る時間はあれど、ずっとそのままでいるわけにはいかない。

 今はまだその場から動けていないけれど、いつかは成長していかなければならない。

 

「じゃなきゃ、殺せんせーを見送った意味がない」

「……君は強いな」

「あなたが俺をそう評価するなら……それはみんながいたおかげです。E組のみんなとあなたとビッチ先生と、殺せんせーと……雪村先生がいたから」

 

 関わったあらゆる人が、そしてこの環境が俺たちを強くした。

 誰かが欠けてたら、今とは違う人間になっていただろう。より良くなったか悪くなったかはわからないけど、でも俺は今の自分になれてよかったと思っている。

 

「困ったら……いや、困ってなくてもいつでも連絡をかけてくれ」

 

 烏間先生は小さなメモ用紙を取り出して、さささと何かを書いて寄越してきた。

 仕事用ではなくプライベート用の番号だ。公私をはっきり分ける彼にとって、この行動は珍しい。

 

 今まで彼が俺たちを守ってくれていたのは、あくまで先生としてだ。俺たちに力の使い方を教えたのも、普久間島で指揮を執ったのも、『二代目死神』を相手にした時も。

 だが、E組が死神に捕らえられてからは違った。俺たちの安全を考えつつも、意志を一番に尊重してくれた。

 教師としてのポリシーを持ちながら、俺たちを見てきた一人の大人として、あるいは友人として、ここに送り出してくれた。

 彼もまた、この暗殺教室で変わった一人なのだ。

 殺せんせーによって、俺たちによって、俺たちと一緒に変わった。仕事が終わっても関係を断ち切ることはないくらいに。

 

「どれだけ強い人間でも、時には誰かに弱音を吐きたくなる時があるからな」

「烏間先生でさえ?」

「君でさえ、だ」

 

 烏間先生は頷いて、俺の背中をぽんと叩いた。

 

 

 しん、とした空気の中で、浅野理事長が生徒の名前を呼ぶのが繰り返される。

 椚ヶ丘中学の生徒と教師以外立ち入り禁止の市民館で、一人ひとりに卒業証書が手渡されていた。

 呼ばれて壇上に上がる生徒たちは、晴れやかに、あるいは泣きそうになって理事長から声をかけられる。

 恐ろしいことに、全員のことを把握している彼は、それぞれに合った言葉を送っているようだった。

 それはE組相手でも変わらず、嫌な顔をして下りてくる者は一人としていなかった。

 

「國枝響くん」

 

 俺はすっと立ち上がる。

 なんだか一歩一歩が重かった。待っている浅野理事長に近づくたびに、『終わり』が実感できてくる。

 ふう、と軽く息を吐いて、まっすぐに理事長を見据えた。

 

「……一年前とは、まったく違う顔つきだね」

 

 何を言われるだろうと少し構えていたが、柔らかい声で呟かれた。

 

「変わらないほうがおかしいでしょうよ」

 

 あんだけの経験をしたんだ。これからの一生を左右するような、とんでもない日々を。

 これで何も変わらないなんて奴がいたら、人かどうか、いや物体かどうかすら怪しい。

 

「それは、あなただって同じでしょう?」

 

 いたずらっぽく理事長に言うと、ニヒルに笑って返された。この人のこんなちゃんとした笑顔は、初めて見る。

 ほらな。誰だって、多かれ少なかれ、影響を受けてるんだ。

 

「卒業、おめでとう」

 

 一礼して証書を受け取って、一歩下がり、再び礼。

 

「三年間、ありがとうございました」

 

 

 卒業式も終わり、市民会館の出入口に差し掛かったところで、俺は驚いた。

 意外にも、浅野がそこにいたのだ。

 てっきりいの一番に出て行ったかと思ったが、生徒を見送っているらしい。

 その彼が俺に気づき、険しい顔のまま近寄って来た。

 

「……ひどい顔だな」

「会って一言目がそれか」

 

 戦いの傷だったり、泣いて腫れた目のせいか。だけど開口一番に言うセリフかね。

 

「今さらゆっくり話すこともないだろう」

 

 浅野は外を指差した。

 

「外にはマスコミが集まっている。だが、君たちには一切近寄らせない。君たち同士や、他クラスとの挨拶の時間くらいは稼いでやろう」

 

 踵を返して去ろうとする。その背中に、声をかけずにはいられなかった。

 

「浅野!」

 

 怪訝そうな顔をして振り返る彼に、俺は言ってやった。

 

「だったら、お前とも中学最後の挨拶くらいさせろよ」

 

 俺が勝手に離れて、浅野が敵視してきて、勉学体育に策略謀略を絡ませて張り合ってきた一年間。このまま微妙に固い関係で終わるのは寂しい。

 浅野だって、見送られる側なんだし。なら俺が送る側でも問題はあるまい。

 

 すっと手を差し出すと、ややあって彼は握ってくれた。

 

「またな、浅野。友だちとしてなら、いつでも呼んでくれ。まあ、いつでも駆けつけられるわけじゃないけど」

「ふっ、締まらないやつだな」

 

 珍しく苦笑して、浅野は返す。そうして名残惜しそうに手に力を込めてきて、

 

「さよなら。いや、『また』、だな。國枝」

 

 手を離した。

 今度こそ去っていく浅野の後ろ姿を見送って、俺もようやく外に出る。

 言っていた通り、マスコミがかなり騒いでいて、E組の口からなんとかして言葉を引き出そうとしている。

 しかし、A組率いる本校舎組が、壁となるように隔ててくれていた。

 その心の内はわからないけど、どうやら最後の最後で、助けてくれるくらいには認めてくれたらしい。

 

「行こう、響くん」

 

 待ってくれていた優月が俺の手を取る。

 引っ張られるがままに任せ、もみくちゃになりそうなところをなんとかすり抜けていった。

 

「やあやあ響くん。おっとお邪魔かな?」

 

 マスコミの一団を抜けてすぐに話しかけてきたのは、意外にも立花だった。

 昨日の今日で怪我が癒えるわけでもなく、頬には切れた傷が軽く残っている。

 

「あ……」

 

 優月の顔が一瞬曇る。

 話を聞く限りだと、立花は暗い話をE組にしていたようだし、苦手意識を持つのは当然だ。

 だが、優月は一歩前に出た。

 

「立花さん、あの時はありがとう。あなたの言葉がなかったら、私は一生後悔することになってた」

 

 ぺこり、と優月が頭を下げた。当の立花は、珍しくぽかんと口を開けて唖然としている。

 

「…………まさかお礼言われるなんて」

「本当に感謝してる。私が馬鹿だったって気づかせてくれたから」

 

 これにも呆気に取られて、立花は俯いた。

 

「……馬鹿はどっちだったんだろうね」

 

 蚊が鳴くような声でそんなことを呟きながら、顔に影を落とす。

 

「えっとじゃあ、私は先に行ったほうがいいかな」

 

 優月は、立花が俺と話したいのを察して、手を振ってみんなの元へ進んでいく。

 

「なんか変なの。そんなつもりで言ったんじゃないのに」

 

 呆れたような、むず痒いような、そんな表情をした立花はため息をついた。

 それがどんな感情を持っているのか、あえて突っ込みはせずにおいておく。

 

「あんなにぼろぼろになったのに、よく来れたな」

「それは響くんも一緒でしょ?」

 

 俺たちはそろって小さく笑う。ギリギリまで命を削り合った『貌なし』と『レッドライン』の会話とはとても思えない。

 実際、今の俺たちはただの中学生だ。同じ中学に通っていた違うクラスの友人という関係でしかない。

 

「これでよかったの?」

「俺もお前も生きていて、みんなも無事。ついでに『蟷螂』も生きて投獄。まあ悪くない結末だ」

「ベストとも思えないけどね、私には。ま、敗者は大人しく引き下がるよ」

 

 もっと突っかかってくるかと思ったが、やけにあっさり。心境の変化があったのか、それとも元からこうだったっけか。

 

「これからどうするの?」

「普通に生きるさ」

「普通に?」

 

 オウム返しする彼女に、俺は頷いた。

 

「ああ。普通に学生生活を送って、普通に仕事に就いて、普通に暮らす」

「あの超生物について、マスコミとか事件の関係者が騒ぎ立ててくるかも」

「そうなったら警察に通報だな。他にもコネはある」

「『蟷螂』がまたやってくるかも」

「それはその時になったら考える」

「どうしようもない不幸とか、事件に巻き込まれるかも」

「みんながいる」

 

 そう言うと、彼女はくすくすと笑った。

 

「変わったね」

「もう高校生になるんだ。いつまでも子どものままじゃいられない」

「それって、私が子どもってこと?」

「そう言ったつもりだが」

「あーあ、傷ついた。傷ついちゃったな―」

 

 わざとらしく拗ねた口調。言葉とは裏腹に、表情には一切負の感情がなかった。

 

「お前はどうするんだ?」

「さあ? そんなの全然わかんない。本来の予定なら、響くんと一緒に死んでるはずだったから」

 

 物騒な人生計画だな。

 だが、それももう過去形だ。こうやって自棄にならずにいるってことは、多少は『レッドライン』に抗っているということだ。

 これからは、少しは違う未来を目指すだろう。願わくば、それが彼女を幸せにしてくれますように。

 

「それじゃまた、いつかどこかでね」

「ああ」

 

 彼女が普通を受け入れられるようになったら……その時はちゃんと友人として、これまでのことも笑い話にしてやろう。

 立花が去っていくのを見送っていると、ぽんと肩が叩かれる。

 今度は誰だ、と思っていたら父と母がいた。

 

「卒業おめでとう、響」

「可愛い彼女がいたんだな」

「あいつとはそんなんじゃない」

 

 両親のひやかすような目に、俺は手を振って返す。

 彼女は別にいるよ……なんて言ったら質問責めされそうだから、いまはよしとこう。

 

「来てくれたんだ」

「息子の晴れの姿だもの」

「小学校の卒業式にも、中学の入学式にも来てくれなかったのに?」

 

 自分で言いながら、こうやって笑い話にできるのに驚いた。

 あれだけショックを受けていたはずなのに、こうやって一回来てくれただけで許してしまうとは、俺も単純だ。

 

「これでも心配したんだぞ。色んな事が突然起きて……」

「わかってるよ」

 

 殺せんせーのことや暗殺のこと、政府がわざと悪いように発表したせいだ。それに対して、俺はまだ何も弁明してないから必死になってたんだろう。

 まあ元気な顔を見せたおかげで、その心配もずいぶん和らいだようだ。

 

「ありがとう。あのまま行かせてくれて」

 

 素直な感謝が口をついて出た。

 『群狼』が待ち伏せする森に突入する直前、母さんは電話口の向こうで俺を本気で留めようとした。でも最後には、俺の決心を踏みにじらないように送り出してくれた。

 本当は、すぐにでも帰ってきてほしかったはずなのに。

 

「今でも、親として正しかったのかどうかはわからない」

「それは俺もわからないけど……感謝してるよ」

 

 ニュースを見てちょっと考えれば、俺が危険なところへ向かおうとしているのは誰だってわかる。苦渋の末に息子をそんな地獄へ送るのは、無責任かそれとも信頼の証か。

 たぶん、非難するほうが多いだろうということはなんとなくわかる。けれど、俺の言葉を聞いて、ちゃんと理解して、最後に背中を押してくれた両親には頭が上がらない。

 

「父さんと母さんが、俺の親で嬉しい」

 

 嘘偽りなくそう言うと、二人とも目が潤みだした。参ったな。泣かせるために言ったんじゃないのに。

 戸惑いながらも、なんとなく気恥ずかしくなって苦笑した。

 

「もう行くよ。みんなが待ってる」

「必ず帰ってきなさい。朝帰りは許してやろう」

「悔いのないようにね」

 

 別に、E組のみんなと会うのがこれで最後ってわけでもない。だけど母の言いたいことはよくわかった。

 

 この瞬間は今しかない。

 殺せんせーがいなくなったことで、俺はそれを知れた。

 当たり前に存在してるものが、次の一瞬ではなくなっていることがある。 だから今あるもの大切に。この時間を一生懸命に。

 先生が消える最後の瞬間、光の粒子が浮かぶ光景が教えてくれたことだ。

 

 殺せんせー、あんたが残したものが多すぎて、その影を追うばかりで、俺はまだ先に進めていない。

 こんな俺を見て、怒るかな。嬉しがるかな。許してくれよ。これからはちゃんと自分の道を歩くから。

 

 みんなはすでに進み始めてる。

 俺も殺せんせーの生徒として、ここで学んだことを未来に紡いでいこう。

 

「おーい、響くん」

「ああ、今行くよ」

 

 優月に急かされ、俺は落ちそうになった涙を拭ってみんなのもとへ急ぐ。

 

 最後に、後ろを振り返る。お世話になった場所や人へ、心の中で礼をする。

 仲間や恩師、許せない奴らも、今ここにいる『國枝響』を形作り、紡いでくれた人たちに感謝を込める。

 

 國枝響の時間は、ようやく始まったばかりだ。



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102 エピローグ

 その後の話をしよう。

 

 あの超生物のことは、もちろん大事件になった。

 だが詳細なところは伏せられたままで、ニュースやネットの世界で飛び交うのは、公開されている情報からの憶測しかない。

 真実は隠されたままで、そうなると都市伝説と同じく、やがては風化し、ひっそりとマニアの間で論議される程度になっていった。

 本当のことを知っていながら、しかも超生物に教鞭をとらせていた浅野理事長はその職を辞することになったが、あの人ならどこでもやっていけるだろう。

 

 さて、俺たちE組はどうなったかというと、もう高校三年生。

 大体のやつは進路が決まっていて、残りは遊ぶなり技術を磨くなり、思い思いの過ごし方をしている。

 一部はすでに忙しく動き回っているようで、高校卒業後だけでなく、大学卒業してからの先が決まっているのもいる。

 もう来年になれば、全員が一度に集まることなんてできなくなるだろう。

 

「國枝、遅えぞ。お前が全員集めたくせに」

「不破ちゃんも。この中で一番学校に近いのに」

 

 優月と一緒に来た俺が最後みたいで、校舎にはすでにE組全員が集まっていた。

 事前に言っておいたとおり、みんなそれぞれの高校の制服を着ている。

 そうなると当然、デザインや色がそれぞれ違うのが三十人近く揃うわけで。元々同じ中学だったなんて、言われなければわからない。

 

「ごめんごめん。えーと……全員揃ってるな。律は?」

「はい。ここにいます」

 

 俺のスマホから声がする。三年前から順当に成長したような姿の律がそこに映っている。

 卒業した後、彼女は住処を移した。あんな狭苦しい箱じゃなく、広大に広がる電子の海へ。

 そこで日々、色々なことを吸収し、成長していっている。ちょっと呼びかければすぐ来てくれるのは変わらない。

 

「さて、始めるか」

 

 元E組の生徒は定期的に校舎周り(山含む)を掃除している。

 

 百億円の賞金を利用してこの土地を買ったのだ。当時は何かに利用する算段なんてこれっぽっちもなかったけど、反対する者はいなかった。

 殺せんせーの、雪村先生の、烏間先生やビッチ先生の、あるいは俺たちの帰ってくる場所として残しておきたかったのだ。

 かつて超生物が教師をしていたこの場所。有名となっているこの場所に物が捨てられることが多いのが悩みだった。

 

 時々遊びつつふざけつつ、俺たちはここを綺麗にしていく。

 風化していく校舎を補強することも忘れない。机も椅子も教壇も、あの頃のままずっと残してある。

 

「ところで、國枝は何をしたいのか決まったのか?」

 

 千葉の問いかけに、いいやと答える。

 暗殺教室を通じて、ほとんどの者が将来の夢を決めていた。だけど俺はいまいちまだ未来が見えない。

 

 武道系の部活だったり、またまた芸術系だったり、いろいろと体験入部はしてみたものの、これといって心が躍るようなものには出会えていなかった。

 

 今は、たまにロヴロさんからスカウトを受けたり、烏間先生が俺を鍛えに来たりしている程度。

 烏間先生、ビッチ先生との子どもが男の子じゃなかったからって、俺を鍛え上げるのはやめてほしい。

 

『あと十年もすれば、対等に戦えるかもな』

 

 そんなわけないだろ。

 偉くなったくせにまだ最前線で戦う人間と、俺とを比べないでほしい。まったく、ビッチ先生といい、あの夫婦は辞め時ってものをわかってないんだから。

 

「ところで不破ちゃん。國枝とはどうなの?」

「どこまでいったの?」

「もうプロポーズされた?」

「ええと……」

 

 いつの間にか女子たちが優月を囲んで質問責めしている。付き合った次の日みたいだ。なんだか懐かしいな。

 あのときと違うのは……

 

「でね、そこで響くんは言ったんだ。『お前の全部が欲しい』って。で、私の肩を抱き寄せて……!」

 

 なんか優月がノリノリなことである。

 

「ほんとにそんなこと言ったの?」

 

 ああほら、カルマが食いついてきた。

 

「ああ、まあな。優月が理想のシチュエーションがあるからって、遊びというか、演技というか」

「もうそういうプレイじゃん、それ」

「プレイ言うな!」

 

 健全な遊びだっての。 

 

「でも、響くんやたらモテるからちょっと心配……」

「大丈夫だよ。たまに國枝と遊ぶけど、こいつ不破ちゃんのことしか話さないくらいだから」

「おまっ、バカ!」

 

 カルマが暴露する。

 黙っておいてくれって言ったのに……まあ、こいつに話した俺が悪いか。

 

「へえ。へえぇ~~、ふ~ん」

 

 男女ともににやにやとして俺を見てくる。

 うわあ、こんなことで懐かしさを感じたくなかったなあ。

 

「もう、響くんったら! 響くんったら!」

 

 優月が照れ隠しにバシンバシンと俺の背中を叩いてくる。

 そもそも俺はお前が言うほどモテんから、そんな心配しなくてもいいだろうに。

 

「出たよ、バカップル」

「火を点けたのもお前らだし、油注いだのもお前らだからな!」

 

 囃し立ててくるのをしっしと散らす。

 話に花を咲かせるのも結構だが、今は掃除が第一優先。決して、話を逸らしたかったわけではない……決して。

 

 

 抜けそうな床を補強し終わり、一息つく。窓から優しく涼しい風が流れ込んできた。

 ふと、教壇があった場所へ目が向く。そこに誰も立っていないことを少し残念に思う。

 もう三年経ったっていうのに、いまだに殺せんせーの存在は大きい。

 

 殺せんせーがいなくなったことで失ったものは多い。それを失われたままにしておけば、本当の意味で消えてしまう。

 だから俺たちは後へ伝えていく。教わった技術で、言葉で、心で、殺せんせーがここにいたことを少しでも多くの人に刻んでいく。

 結局、殺せんせーの思いを継いで生きていく限り、俺たちはあの人を殺せないわけだ。その意味で殺そうとするやつなんて、元E組には一人もいないし。

 

 託されたものを繋いでいき続ける人生は、誰かに教えることも多々あるだろうけど、同時に勉強の連続でもある。

 この暗殺教室で始まった授業はまだ終わりを告げず、場所と時間が変わっても続いていく。

 殺せんせーの声は、まだ心の中で響いている。

 

 

 校舎の内外を綺麗にして、久しぶりに机に座る。

 みんな懐かしがっているのか、言葉を発する者はいない。

 こうしていると、殺せんせーがやってきて授業を始めそうな雰囲気だ。

 

 しばらくして、中村がこっちを振り向いた。

 

「國枝、あんたが代表してなんか喋ってよ。せっかく集まったんだしさ」

「俺がそういうの苦手だって知ってるだろ」

「けどお前が適任だろ。今日みんなを集めたのも國枝だし」

 

 磯貝も振り返ってくる。

 

 高校入学からなんだかんだ忙しくて、全員が集まるのは難しかったが、せめて制服姿を見せておきたいと思ったのだ。

 これから全員が揃うのはもっと難しくなる。

 殺せんせーが育てた俺たちの成長した姿を、俺たち互いに、殺せんせーに、雪村先生に見せたかった。

 

 だが俺がこの場で話すのが適任かと言われれば……俺は渚を見る。何かしら反論してくれることを期待したが、彼は頷くだけだった。

 ふう、と俺はため息をつく。

 暗殺教室の首席様に任せられたとあっては仕方ない。

 俺は立ち上がって、教壇に向かう。

 

 黒板がスクリーンのようになって、ここで過ごした景色が思い出される。

 苦しかったことも楽しかったことも、痛かったことも嬉しかったことも、走馬灯のように記憶を駆け抜けて、広がっていく。

 早送りで再生された記憶が今に追いついて……俺はみんなのほうへ向く。あの時から成長したみんなと顔を合わせる。

 

 こんなことになるとは思っていなかったから、言うことを考えていたわけじゃない。

 だけど、頭の中には言いたいことが山ほど浮かんで……

 

 そっと、俺は口を開いた。

 

「殺せんせーは死ぬまで俺たちのことを考えてくれていた。アルバムを作ってくれたり、人生のアドバイスを書き連ねてくれたり、最期は俺たちを守ってくれて、俺たちのために殺させてくれた」

 

 殺せんせーが、触手生物と化した『二代目死神』と戦った時のことを思い出して、目頭が熱くなる。

 

「あの日、最後の夜だけじゃない。ずっと、ずっと、殺せんせーは命の意味を示し続けていた。命の大切さ、その重さと価値を教えてくれた。俺たちに何が出来るのか、どうしたらいいか、どうあるべきか、最後の最後、消えた後にも教えてくれた」

 

 勉強だけじゃない。

 この世の理不尽に対する立ち向かい方を、弱者なりの戦い方を、強者が持つべき精神を、清濁織り交ぜて見せてくれた。

 俺たちが誰かに何かを享受されるだけの存在じゃなく、与えることも可能だと気づかせてくれた。

 

「言葉で、表情で、行動で、作品で、仕事で、想いを伝えられると教えてくれた」

 

 殺されたら終わり。道半ばで指導が終わってしまうという恐怖と争いながら、たくさんの色で人生を輝かせてくれた。

 

 殺せんせーは雪村先生から受け継いで、俺たちは殺せんせーから受け継いで……

 

「今度は俺たちの番だ」

 

 俺たちも、きっと誰かの糧になるのだろう。

 ここで培った諦めない心、立ち向かう勇気……『健全な殺意』は、人から人へ受け継がれていく。

 殺せんせーがそうしてくれたように。

 

 

 綺麗になった校舎を前に、目を閉じてからどれくらい経っただろうか。

 ここでこうしていると、あの時のことが鮮明に思い出される。

 もう三年前だというのに、それだけ密度が濃く、苦しく、楽しかったということだろう。

 

「響くん、みんなもう行くって」

「ああ」

 

 優月に言われて返事をしても、俺はまだその場から動く気はなかった。

 察して、彼女は俺の隣に並ぶ。

 

 ここに来るたび、三年前の記憶が鮮明に思い出される。

 あの時の言葉や殴った感触、傷ついた身体の痛みさえ昨日のことのように浮かぶ。

 たった一年間。されど、その密度は俺の人生史上、一番濃いものだ。その記憶は、脳だけでなく身体や心に刻み込まれている。

 

「殺せんせーに、どうして教師になることを一瞬で決められたのか、聞いたことがある」

 

 まだ俺が将来へのビジョンを明確に見ることが出来なかったとき、進路相談で俺は聞いた。『死神』としての過去を持ちながら、あっさりと違う道へ踏み出すことのできた理由を。

 

「そしたら、殺せんせーはこう言った」

 

『確かに、決断は一瞬でした。たとえこの触手を手に入れなくても、教師になることはぱっと決めていたでしょう。決断というのはね、國枝くん。過去の積み重ねから学んだことを活かして選択肢を選ぶことなんですよ。死神として人を殺してきたこと、教え子に裏切られたこと、そして雪村先生に出会えたこと。そのどれもが欠けていたら、私はこの道を選んでいなかったかもしれません』

 

 人が物事を決めるときには、リスクリターン、感情、許容量、力量など様々なことを考える。だが出した結論に背中を押し、支えるのは人生を折り重ねた自分自身の経験と自信。

 もし『死神』のままなら、教師になることはあっても、生徒と本気で向き合うことはしなかっただろうと殺せんせーは語った。

 それでも変わることが出来たのは、雪村先生に出会ったから。それまでにはなかった愛情を知ったから。教師……いや、人としての在り方を、教わったから。

 

「最近はそんなことばっか考える。受験も終わって、みんなが将来のことを決めていく中で、俺は過去にしたことを悔やんで前を見ることができなかった。もう少し、いい道を選べたんじゃないかってな」

 

 そこまでの心情の吐露は、いままで殺せんせーにしかしていなかった。

 

「殺せんせーはこうも言った。『貌なし』に傷つけられた人はたくさんいる。けれど、『貌なし』にならなければ助けられなかった人もいる。だから俺がやったことをすべて間違いだと思うのはやめなさい。物事は、自分が意味があると思えてようやく意味を成す。過去の俺の行いに意味があったと信じて、それを活かせるようにしなさいってな」

 

 『貌なし』になるのは、なにもかも間違いだったと思っていた俺にとって、その言葉は衝撃的だった。

 

「もとから、みんなは感謝してたよ」

「でも、時々考える。俺がやったことは、単なるお節介や邪魔でしかなかったんじゃないかって。修学旅行のときも普久間島でのことも、みんなが捕まったときも、先生たちがなんとかしてくれたかもしれない」

「そんなのわかんないじゃん。結局は響くんが助けてくれたんだし」

「そう、そうなんだよ。たぶん殺せんせーはそれが言いたかったんだ。現実は、俺が動いて間一髪でどうにかなった。過程はどうあれ、みんな無事で終わらせることができた。俺がいなくて同じ結果になったとしても、俺がやったことは無駄じゃなかったはずだ」

 

 否定と肯定。先生たちはいつも両極の場から俺たちを見ていてくれた。傾いたほうへ転ばないように。時には優しく、時には厳しく、愛情は山盛りで。

 自分たちの経験から学んだ失敗と成功を伝えて、俺たちが後悔しない道を選べるようにしてくれた。

 結果として出来上がったのが、今の國枝響だ。

 ここまでの全部が……『貌なし』として生きてきたのも含めて、全部が俺を形作ってる。

 

「だから、たぶん、これでよかったんだ。間違った選択だらけだったけど、俺の人生は間違いじゃない」

 

 今はそう言い切ることが出来る。

 俺がいたから、E組のみんなを守ることが出来た。E組のみんながいたから、俺は助けられてきた。

 そこに希望を見出さないのは、あまりにも自己陶酔が過ぎる。俺は悲劇のヒーローでも、傷つけるだけの悪魔でもなく、一人の人間なのだから。

 

 たどり着いた答えに、殺せんせーや雪村先生は満点をくれるだろうか。いや、おそらく点数はつけてくれないだろう。

 それが正解かどうかは、もっと先の未来の自分や他の人が決めてくれる。どうしても先生たちに聞きたければ、何十年も後で、天の上で再会したときにでも聞けばいい。

 だから今は、今だけは、その志が正しいと信じて生きるだけだ。

 

「これで前に進める?」

「まあな。けど、これからまた間違えるかも。それを正してくれる人がそばにいてほしい」

「私はこれからも響くんと一緒にいるよ。離れる気なんてない」

 

 優月は腕を絡めて、肩に顔を乗っけてくる。

 

「ずっとそばにいるから、安心して」

 

 柔らかい手を擦り合わせ、腕時計のひんやりした感触に心地よさを覚える。

 

 最初は、俺はずっと一人で生きていくんだろうと思っていた。

 それは絶対に覆らない俺の運命なんだと、勝手に決めつけていた。

 なのにいつの間にか周りに人が集い、一人ではないと気づき、一人では生きることができないほどに寂しさを自覚した。

 弱くなったんじゃない。世界の理不尽に対して、人を頼るという術を手に入れたのだ。

 

 世界も人も、時間とともに変わっていく。

 孤独だと思っていた人間にも、すぐそこに愛し合える人間がいる。

 

 殺せんせー、あんたは雪村先生に会えただろうか。雪村先生と触れ合えるぬくもりを味わえているだろうか。

 その暖かさは、いま俺が感じているものとどれほど似ているだろうか。

 

 ふと目頭が熱くなって見上げる。まだ昼だというのに、雲一つない空には月が浮かんでいた。

 三年という歳月をかけて、砕けた状態から、少しずつよく知った球体へと形を戻していく月。いつかはあれも、再び真ん丸に戻ることだろう。

 

 俺には、それが笑った顔に見えた。



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