義弟は猫耳と共に (海月 水母)
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1話① 初めましては猫耳と共に

「陽介が兄に、ねぇ…。」

 

 

旧命(ふるみこと) なゆたが隣でそう呟くのを、僕は半分上の空で聞いていた。流れる清流を思わせる、長く綺麗な黒髪を靡かせる彼女の立ち振舞いは、いつだって自信に満ちている。

普段は頼もしく、憧れもするその姿が、今だけは心に気後れを生ませる。彼女と自分を比較して、劣等感に苛まれる。

 

明日、僕には弟ができる。

その知らせは確かに嬉しくもあったが、反面、えもいわれぬ緊張が心を包んでいるのも事実だった。

 

 

 

「どうなんだ、今の気分は?」

 

「…まあ、楽しみ、かな…。」

 

 

 

覗き込むようにこちらを見る彼女の曇りのない瞳に、思わず視線を遠くに逸らした。楽しみも嘘ではないが、それ以上に不安な気持ちが強かった。…でも出来れば、それを表に出したくはない。少しでも弱気を捨て去ることが、兄になる自分には必要な気がしているから。

 

真っ直ぐにこちらを見つめるなゆたの目は常に清廉、だからか、こちらに少しでも後ろめたさや気後れがあるとき、僕は無意識に視線を合わせるのを恐れてしまう。

歯切れの悪い口振りに、案の定彼女は訝しげに眉をひそめる。

 

 

「それにしては浮かない顔だな。視線が遠くの景色を向いている時は、陽介が悩みを抱えてる時。…そうだろう?」

 

「うっ……やっぱり、なゆたにはお見通しかぁ。」

 

「ふふん、幼馴染だからな。」

 

 

 

自慢げに腕組みするなゆたを見て、僕は弱々しく息を吐く。やっぱり、彼女に隠し事はできないな…。

 

 

 

「…正直、マジで悩んでるよ。どんな風に接すればいいのか…距離感とか話し方とか、何もかも分かんなくて。…こんなんで兄としてやってけるのかな、って……。」

 

「…弟といえど、0歳から知ってる訳でもないからな。緊張するな、というのも無茶な話だ。」

 

 

 

そう、弟と言っても新しい命が誕生するとか、そういった話ではない。

母親の再婚相手の連れ子、つまり義弟だ。

会うのは明日が初めてだというのに、同居が始まるのも明日からなのだ。

急な話に思えるが、これに関しては気まずさで会うのをやんわりと避けてきた僕が悪い。

今のところ、義弟の情報は母から伝え聞いたものしかない。

女の子のように可愛い。お人形さんのように可愛い。ちょっと引っ込み思案だけどそこも可愛い。……得られた情報はこの程度、ほぼ何も分からない始末だ。

 

 

 

「たぶんその子の方が緊張してるだろうから、本当は僕がこんな弱気じゃダメなんだけどさ…。はぁ…。」

 

 

気を抜くと、すぐにネガティブな気持ちがため息になってしまう。分かっていても、それを止めるのは難しかった。

だから羨んでしまう。常に堂々として、ため息などつくこともない幼馴染を。

 

 

「なゆたくらい、僕も強ければ……痛っ!?」

 

 

ぽかん、と額にチョップが飛んできた。いつの間にかなゆたは僕の前に踊り出ていたのだ。

 

 

「まったく…気負いすぎだ。…おりゃっ」

 

「痛っ!…なんで二回…?」

 

 

割と強めのチョップに、涙目で額を押さえる僕をよそに、彼女は腕を腰に当て、いつも通りの自信に満ちた風格で僕をまっすぐ見つめてきた。

 

 

「確かにお前は気弱なところがある。小さいことで悩んだり、それが段々ネガティブな思考に陥ったり……。けど、それより大事なものを、陽介は持ってると思うぞ?」

 

 

僕が持ってる、大事なもの…。

釈然とせず首を傾げていると、不意にびしっ、と彼女の人差し指が胸のあたりに突きつけられた。

 

 

「優しさだよ。今だって会ったことのない弟のために、あれこれ悩んでいる。思い悩むのは、それだけ相手を想っている証だ。」

 

「僕の、優しさ…。」

 

 

 

お人好しだ、とよく人には言われる。なゆたもそう言って、よく僕をからかう。それでも、自分も他人も、傷ついたり苦しんだりするのは好きじゃなくて、出来れば皆に笑っていてほしい。そう思うとつい、目の前のどんなことにも、手をさしのべてしまう。昔から、僕はそうだった。

それが長所なのか欠点なのか、自分でも分からなかった。突然にそれを"優しさ"だと肯定されて、何故か恥ずかしさで俯いてしまう。

 

 

 

 

 

「私が強いと、さっき言ってたな。…それだって、お前のお陰だよ。」

 

 

いつもより、ほんの少し柔らかな声で、おもむろに彼女はそう告げてきた。

驚いて顔を上げて見ると、少し紅潮した頬と変わらない真っ直ぐな目で、彼女は笑っていた。

 

 

「こんな変わり者の私でも、好き好んで付き合ってくれる…。そんな陽介(ヤツ)がそばに居るから、私も自分に自信が持てる。…感謝してるよ。」

 

 

男勝りな口調でそう話す彼女とは、小学生以前からの縁だ。これまでを振り返っても、なゆたからこんな風に面と向かって感謝を伝えられるのが珍しくて、僕は呆気にとられてしまう。

 

 

 

「………なゆた?」

 

「………すまん、何か恥ずかしいことまで口走ったな…。ただ励ますだけのつもりだったんだが……。」

 

 

見れば、今度は彼女の方が、頬を赤らめて俯き、ぶつぶつと何事かを呟いていた。今日のなゆたの反応は、何故か一つ一つが新鮮に思える。

気恥ずかしさを紛らわすように咳払いを一つしてから、彼女はこちらに向き直った。

 

 

「…ともかく、気負いすぎても空回りするだけだ。普段通りのお前でいれば、きっとその子も心を開いてくれるさ。」

 

 

にっ、と歯を見せて笑いかけたかと思うと、踵を返して先を歩き出す。

僕も早足で彼女に追い付く。いつも通りの並び、堂々と歩く幼馴染。その姿は今日も頼もしい。

彼女と比較して自分を卑下する気持ちは、どこかに消えていた。

 

 

「陽介なら、大丈夫だ。旧命(ふるみこと)家の血に誓って、私が保証してやる。」

 

 

 

旧命(ふるみこと)

まず他では聞かない珍しいその名は、彼女の苗字であり、彼女の実家の高名な神社の名でもある。荘厳なその名に後押しされるのは、恐縮だが確かな自信に繋がるものでもあった。

 

 

「…なんか、僕も頑張れる気がしてきたよ。…ありがとう、なゆた。」

 

 

 

心の引っ掛かりが取れて、澄んだ空気が胸を吹き抜けるような感覚。心が軽くなった気がして、自然に口元が緩んだ。

それを見て、なゆたも満足そうに頷く。

 

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

木々の蓄えた葉が夜風にさざめく音と、カーテンの開け放たれた窓から差す月明かり。眠りにつくには適していない環境は、自分で意図的に作ったものだ。

眠れない。ベッドに身を預けながらも、その確信があったために目は閉じず、代わりに伸ばした右の手のひらを見ていた。

まだそこに微かに感じる、柔らかさと暖かさを思い出しながら。

 

 

 

 

 

御春(みはる)です、よろしくお願いします…。」

 

 

不安げに両手を胸の前で重ね、俯いたままか細い声で自己紹介をする少年に、僕は二つの理由で呆気にとられていた。

 

一つは、その子があまりにも可愛かったから。

こちらを一瞥してすぐに俯いてしまったので、顔を見れたのは一瞬だったけれど、ぱっちりとした瞳と長い睫毛、桜色の唇、目鼻立ちのどれを取っても、それは完璧と言っていいほどに整っていた。

色白の肌に、ほんのりと淡い朱が乗っているのは、緊張しているせいだろう。それがまた肌の美しさを、ひいては彼自身の魅力を際立たせている。

 

反面、小学生とはいえ男子とは一見しても分からない。緊張を湛えてなお柔和な様子を感じさせるあどけなさは、僕が見てきた男子の中でも、ひょっとしたらほとんどの女子よりも、可愛いと思ってしまっているかもしれない。

 

 

 

「ほらね、言った通りでしょ?すっごく可愛い子だって。」

 

 

嬉しそうに母が耳打ちしてくる。ただ僕はそれに、ああうん、と曖昧な返事をするのがやっとだった。

確かに彼は、御春くんは母の興奮も納得の可愛さだ。けれどそれ以上に、僕の目は彼の、もう一つの"特徴"に釘付けになっていた。

 

僕らの会話に神経質そうにピクピクと反応したり、時折怯えたように垂れ下がったり、まるで猫のような耳と尻尾が、僕の目に写る御春くんにはあったのだ。

 

 

瞬きをし、目を擦り、頬をつねり、それでも見えてしまう、およそ現実離れした光景。

何より、横にいる母も、御春くんの父親も、それに触れるどころか気づくそぶりも見せない。

僕だけにしか見えてない…そう考えたら、尚更この光景は幻覚ではないか、と思えてしまう。

僕が視線を向けすぎたせいか、御春くんが僅かに顔を上げて僕を見てきた。

 

 

「あ、あの……どうかしましたか…?」

 

「えっ!?……ううん、なんでもないよ。」

 

「……そう、ですか…。」

 

 

 

幻覚なのか現実なのか、何も分からなかったため咄嗟にはぐらかしてしまった。

なんでもない、それを聞いた御春くんは、何故だか表情を曇らせた。猫耳と尻尾も、落胆したように垂れてしまう。

…元から緊張を滲ませて明るいとは言えない表情だったけど、そこに少し悲しさが加わった、そんな様に見えた。

 

 

 

「…すまないね、陽介くん。御春はけっこう人見知りなところがあるんだ。」

 

 

御春くんの父親、今日からは僕の父さんでもあるその人は、そう言って御春くんの頭にぽん、ぽんと手を乗せた。

 

御春くんは首を振るって、その手を拒むようなそぶりを見せる。父さんは特に気にするでもなく、大きな掌でその頭を撫でる。この人なりに、御春くんを元気づけようとしているみたいだった。

…それはそうと、間違いなくその手に当たっているはずの、御春くんの猫耳には、まるで気づく様子が無い。

 

 

 

「ふゃっ…! や、やめてよパパ…。」

 

「御春、お前ももう少し、しゃきっとしないとだぞ?」

 

「…わかってるよ。でも……」

 

 

 

 

 

「いいんだよ、御春くんに無理のないペースで。」

 

 

 

気づいたときには、その言葉が出ていた。

驚いたように、御春くんがこちらを少し見上げる。猫耳も、ぴん、と立っていた。

 

 

 

「あんまり気を使ってても疲れちゃうからさ。まずは無理しないで、そのままの御春くんでいてくれればいいんだよ。僕たちは、僕たちのペースで、家族になっていこう?」

 

 

僕の言葉を、御春くんはいつしかこちらを真っ直ぐ向いて聞いてくれていた。

ようやく、正面から御春くんと向き合えた。ぱっちりと開かれ、澄んだ瞳が僕を写している。満面の笑顔、とはいかないが、それでも少しだけ、明るい表情になったように思う。

 

僕は右手を、御春くんに差し出した。

 

「改めて、僕は陽介。よろしくね、御春くん。」

 

「…うん。お兄さん、ありがとう。」

 

 

 

差し出した手に、御春くんの柔らかな手のひらが重ねられる。両親は顔を見合せ、どちらもこんなに嬉しいことはない、と言わんばかりに顔を綻ばせた。

僕が笑いかけると、御春くんも笑ってくれた。控えめだけど、嬉しそうに。

 

 

 

 

 

 

 

右手に残る、御春くんの手の感触。自分より一回り小さなそれを握ったとき、僕の中で、兄としての決意が改めて固まった気がした。

 

 

「ちょっとは、お兄ちゃんらしいことが出来たかな…。」

 

 

御春くんが見せた、控えめだけど確かな笑顔。それが僕たち義兄弟(きょうだい)の、小さくて大きな第一歩だと感じていた。

 

昨日までの緊張が嘘のように、今は幸せと、これからを思っての胸の高鳴りを感じていた。新しい家族の、兄弟のこれからに、ワクワクし始めていた。

一方で、御春くんに見えた猫耳と尻尾のことは、無理矢理忘れようとしていた。きっとあれは、緊張で見えてしまった強めの幻覚なんだろう、と自分でも納得できるか微妙な理由をこじつけて。

 

 

 

「明日は、一緒に何をしようかな…ふふっ…。」

 

 

 

一人幸せそうに明日を想像しながら、いつしか僕は眠りについていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………寝ちゃった、よね。…今なら、大丈夫かな……。」

 

 

 

静かに部屋のドアが開いたことにも、小さな侵入者にも気づくことなく。

 

 

 

 

 



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1話② 眠れない夜は猫耳と共に

 

 

一階のリビングで両親におやすみと告げ、自室のある二階の階段を登りながら、今日一日を振り返る。

互いの挨拶を終え、四人で食事に行き、心機一転の意味も込めて服を買ったりしていた。忙しかったけど、充実した一日だった。

 

新しい父さんは、とてもいい人だ。母さんと話も合うみたいだったし、僕も話していて壁を感じない。少し緊張することはあるけど、すぐに打ち解けられると思えた。

それに、御春くんとも…。

 

 

 

「あっ、お兄さん…。」

 

 

二階に上がり、奥の自室まで着いたところで、後ろから声をかけられた。振り向けば、パジャマ姿の御春くんがいる。前をボタンで留めるタイプの、青と白の花柄の可愛らしいパジャマだ。

手にはタオルを持ち、髪の毛は湿ってぺったりとしていた。

 

 

「御春くん、お風呂上がり?」

 

「はい、お兄さんは先に寝るみたいだったので、おやすみを言いに。」

 

「…ふふっ、ありがとう。」

 

 

少しずつ、御春くんの口数も多くなった。

それに気づいて笑みを溢すと、御春くんは不思議そうに首を傾げていた。

 

ふぁ、とあくびが漏れる。昨日までの緊張から一転して安心したせいか、急に体が疲れを実感し始めた。

明日も日曜日。一日御春くんと過ごせるだろう。

 

 

 

「それじゃおやすみ、御春くん。ちゃんと髪乾かしてね。」

 

「……お兄さん、その…。」

 

 

部屋に入ろうとしたのを、小さな声で呼び止められた。

何かを言いかけた御春くんだったが、しばらく俯いたきり、結局何も語らなかった。

 

 

「…やっぱり、なんでもないです。…おやすみなさい。」

 

 

そう言って、御春くんはまた階段を降りていった。

去り際にも、猫耳と尻尾が見えた気がした。

 

 

 

「ほんとに疲れてるんだな、僕は…。」

 

 

またあくびをして、今度こそ部屋に入っていく。

 

 

 

 

 

 

寝室に入り、しばらくしても何故か頭が冴えて寝られなかった。仕方なくカーテンを開け、月明かりが差し込むのを感じながら今日を振り返っていた。

…けれどそれも、いつの間にか訪れた睡魔が有耶無耶にして、僕は深い眠りの中にいた。

 

 

 

 

 

真っ暗闇を漂っていた意識が、何か途方もない力で引き戻される感覚。それが眠りから覚める感覚だと気づいたのは、耳が小さな音を拾い、瞼の裏で瞳が月明かりを感じはじめたからだ。

 

 

「……めんなさい………も、ちょっとだけ……」

 

 

もぞもぞと、自分以外の何かが動いている音を感じる。

抽象的だったその感覚は、脳の覚醒と共に徐々に鮮明なものに変わっていく。音だけじゃない、仰向けの自分の上に、何か乗っている。首筋を、吐息が撫でてくる。

少しの恐怖心を抱きながら、薄目を開けて周囲を見る。奇妙な感覚の正体は、やはり僕の上にいた。

人の形をしたシルエット、そこに何故かある、猫耳と尻尾…。

 

 

 

「やっぱり…落ち着く。…お兄さんの匂い……。」

 

 

 

カーテンを閉め忘れた窓から差す月明かりが、暗闇にその白い柔肌を浮かび上がらせる。

声の主は、御春くんだった。

 

 

(御春…くん? 何これ……どういうこと…?)

 

 

御春くんが僕の上に、跨がるようにして乗っていた。

その目は潤み、表情は熱にあてられた様に惚けている。

少し荒めの息遣いに混じって聞こえる、鼻にかかった甘い矯声。

パジャマが乱れ、鎖骨の辺りが露わになるほどにはだけているのも意に介さず、御春くんは猫のように丸まって僕の首筋に顔を近づける。

熱を帯びた息がかかるこそばゆさに、思わず声を出してしまう。

 

 

「んぅっ……み、御春くん…?」

 

「ふぁっ!……お、お兄…さん……!?」

 

 

 

飛び上がりそうなほど驚く御春くんの悲鳴が、起き抜けの頭に響く。それによって、目の前の光景が夢ではないのだと確信する。

 

 

「あ、あぁぁ…ごめんなさっ、ぼくっ…その……」

 

 

上体を起こすと、ぺたりとベッドにへたりこんだ御春くんと目が合った。その瞳には、涙が溜まっていた。先ほどまでぴん、と立っていた猫耳も垂れている。

明らかに混乱し、取り乱している。そしてそれは僕も同じだった。

あのおとなしかった御春くんからは想像もつかなかった光景が、今僕の目に映っているのだから…。

 

 

「ごめんなさい…。男同士で、いきなりこんなことして、気持ち悪いですよね……。」

 

 

ほとんど泣きながら、しゃくり上げるような声で謝ってくる。嫌われると、思ってしまっているのだろうか。

 

…状況は、全く分からない。それでも、目の前で泣いている御春くんに、今できることは一つだと思った。

 

 

 

 

ん、と両腕を開き、彼を受け入れる姿勢を取る。

 

 

「………え?」

 

「よく分からないけど…僕の匂い、落ち着くんでしょ? だからいいよ…我慢しなくて。」

 

 

 

 

御春くんは呆気にとられたようにきょとん、としていたが、やがて潤ませた瞳のまま、四つん這いで恐る恐る近づいてきた。鼻の先で僕の匂いを確認するように嗅ぐと、えもいわれぬ表情でそのまま胸に飛び込んできた。

一心に僕の胸の辺りで深呼吸を繰り返されるのは、くすぐったくもあったが、それ以上に御春くんがどこか緊迫しているように見えて、知らず、僕は御春くんを宥めるようにその背中をさすっていた。

 

その姿勢は、ちょうど僕の顔の下に御春くんの頭が…そこから生える猫耳が見える位置だった。この距離でもはっきり見える。

思わず、それに手を伸ばす。

 

 

「これ、やっぱり幻覚じゃなかったんだ…。」

 

「えっ……ふひゃぁんっ!?」

 

 

ふにゅん、とした感触を確かめるように手のひらで撫でると、御春くんはびくん、と身体を震わせ、甘い悲鳴を上げてしまった。

 

 

「あっ、ごめん…思わず…。」

 

 

官能的な悲鳴に鼓動が早くなるのを感じる。弟なのに、その悲鳴は脳裏に一瞬、不埒な感情を芽生えさせる。思わず振り払うように首を振る。

御春くんはそんな事に気づくはずもなく、驚いたように僕を見ていた。

 

 

「…お兄さん、見えるんですか?この猫耳…。」

 

「えっ。…うん、見えるよ。尻尾も。」

 

 

やっぱりこの耳と尻尾は、誰にでも見えるものじゃないんだ…。御春くんの話し振りからそれが読み取れた。

 

ふと、御春くんの肩が震えているのに気がついた。驚いてその顔を覗きこむと、大粒の涙が、ぽろぽろと零れていた。

 

 

「良かった…やっと見える人が…ぐすっ……よかったぁ……」

 

 

 

自分一人にしか見えなかった耳と尻尾。それを見える人がここにもいた、そのための安堵の涙だろうか。

 

涙は止まらず、顔を埋めた僕のパジャマは濡れ続ける。

けれどそんなことは気にも止まらない。僕はぎゅっ、と御春くんを抱く手に力がこもるのを感じた。

 

 

「ごめんね、御春くん。…今の僕は、君のこと何も分かってあげれてないけど……でも、ここに一緒にいることは出来るから。…ここで、いくらでも泣いて大丈夫だから。」

 

「うん、うんっ…。ありがとう、お兄さんっ。」

 

 

僕にだけ見える、御春くんの猫耳と尻尾。

御春くんが、こんなに僕を求める理由。

今は、そのいずれも分からない。

だから不安な夜を越せるまで、僕の胸に抱かれる小さな弟の傍に、ただ寄り添い続けよう。小さな温もりを胸で感じながら、そう思った。

 

 

 

 

 



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2話 微睡みの朝は猫耳と共に

 

 

降り注ぐ朝陽は、寝起きの目には眩しすぎる。顔をしかめるようにしてから、うっすらと瞼を開けた。

結局、カーテンを閉め忘れたまま寝てしまった。そのせいで、朝を告げる光が容赦なくこの部屋を照らしている。

 

 

「んぅ……むにゃ……」

 

 

自分ではない寝息の音がする方へ顔を向ければ、すやすやと眠る御春くんの寝顔があった。あまり広くないベッドのはずなのだが、御春くんは身体が小さい上に器用に丸まって寝ているので、スペースもあまり気にならない。…本当に猫のようだ。

 

御春くんは、穏やかに眠っている。目元に涙の跡はできてしまっているが、昨夜のことが嘘のように落ち着いている。そのことに、まずほっと胸を撫で下ろす。

その寝顔は、起きているときに負けず劣らず可愛らしい。見ているこちらも、思わず顔を綻ばせてしまう。

 

枕元の時計を見る。時間は朝の7時。日曜日でもこの時間に起きるのは、僕の日課になっていた。

一瞬、隣で眠る御春くんも起こそうかと思ったけど、昨日のことが頭を過り、まだ寝かせてあげよう、と思い直した。

 

もぞもぞと掛け布団を退けて上体を起こす。伸びをするために腕を上げようとして、左手の違和感に気がついた。

 

僕のパジャマの袖口を、御春くんが握っている。

寝ているせいか、案外強い力で。

無理に引っ張れば取れるだろうけど、御春くんを起こしてしまうかもしれない…。

迷った末、なるべく気づかれない程度にゆっくりと、袖を引き抜こうと考えた。そのために、まずは袖を掴む御春くんの手に自分の手を重ねる。

 

 

「お兄……ちゃん………」

 

「えっ……!?」

 

 

僕の手が御春くんの手の温もりに触れるのとほぼ同時に、御春くんの寝言が聞こえた。

 

 

(お兄ちゃんって…僕のこと、かな…。)

 

 

普段は聞かないその呼び方は、いつもより距離が近いような感じがして、少し心がくすぐったくなる。

 

やがて御春くんは、またすうすうと寝息を立てはじめた。

それをしばらく見つめてから、僕ももう一度横になった。急ぐ用がある訳じゃない。だからもう少し、このままの時間を過ごしたい。そんな気持ちになっていた。

 

体を、御春くんのそばに寄せてみる。近くで聞こえる気持ち良さそうな寝息は、聞いているこちらまで夢の世界に誘われそうになる。

と、御春くんが僕の腕に抱きつくように密着してきた。

 

 

「わっ!?」

 

 

まだ寝息が聞こえるから、起きた訳ではなさそうなのに、無意識で僕が近づいたのに反応したのだろうか…。

 

 

「…御春くん、あったかい……。」

 

 

高めの体温による抱擁。身体がぽかぽかと暖められ、眠気が再び押し寄せてくる。

いつの間にかまた、眠りの中。温かいな日差しと、二人の寝息が、この部屋を満たしていく。

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

ぞくぞくっ、とこそばゆい感覚が体を走り、何時間か振りに瞼を開く。

相変わらず降り注ぐ太陽光に目をしばたたかせ、ようやく視界がはっきりしてくる。

 

あ、と声が出た。至近距離、鼻と鼻がくっつきそうなほど近くに御春くんの顔があり、その目と僕の目がしっかり合っていた。

どうやら体を横にして、御春くんと向かい合うように寝ていたらしい。御春くんもその近さに驚いたように目を見開き、猫耳もぴん、と立っていた。

 

 

「ふぇっ、お…お兄さん…?」

 

 

御春くんの顔が、みるみるうちに紅く染まっていく。距離の近さが恥ずかしかったのか、そのまま布団を被るように隠れてしまった。

布団の奥から声だけが聞こえてくる。

 

 

「その…昨日の夜はごめんなさい…。たくさん迷惑かけちゃって……。」

 

「気にしないでいいよ。僕が好きでやったことだし。…それに御春くんがいてくれたからか、僕もよく眠れたしね。」

 

 

本当ですか…?と、御春くんは布団から恐る恐る顔を出してくる。猫耳も落ち着かないようにぴょこぴょこと動いている。

 

 

「本当だよ。さっ、そろそろ出ておいで?」

 

 

時計は9時を指している。二時間も二度寝をしたのなんて、いつ振りだろう。

手招きすると、もぞもぞと布団を剥いで四つん這いで近づいてくる。ふとしたときの行動が猫らしくなっているのは、気のせいじゃないみたいだった。

 

 

「…おはようございます、お兄さん。」

 

「おはよ、御春くん。…そろそろ下降りよっか。」

 

 

 

 

 

 

 

 

まだぽやぽやとしている御春くんの手を引き、寝室を出る。裸足が廊下にくっつくような感覚を感じながら、二人で歩き、リビングに続く階段を降りていく。

 

 

「御春くんは、いつから起きてたの?」

 

「今さっきです。なんかくすぐったい感じがして…お兄さんの寝息、だったのかな…。」

 

「あはは、僕もそれで起きたよ。」

 

 

ということは、起きたのはほぼ同時だったのかな…。

 

…御春くんの猫耳と尻尾は、今日も変わらず。朝食を食べたら、それについての話も聞いてあげる、と約束してきた。

 

 

リビングに一歩踏み込むと、食欲をくすぐる香りが鼻をくすぐる。

二人同時に短い歓声を上げ、二人同時にお腹が鳴る。

四人掛けのテーブルには、既に両親が座っていた。

こちらに気づいた母さんが、声をかけてくる。

 

 

「おはよう、二人とも。陽介、御春と一緒に寝てたの?」

 

「うん…色々あってね。」

 

「はっはっはっ、早くもすっかり兄弟だなあ。」

 

 

父さんが嬉しそうに笑う。促されるまま席につくと、母さんが二人分の朝食の準備を始めてくれる。

僕は席を立った母さんの隣の椅子に、御春くんはその向かいに、それぞれ腰を下ろす。

席につくとほぼ同時、御春くんは大きなあくびをした。

 

 

「御春くんって、朝あんまり強くないの?」

 

「うん…かもしれないです。」

 

 

眠たげな声と薄目で応える様子は、半分夢心地といった感じだ。僕が見ていた限り、とても気持ち良さそうに眠っていた。寝不足ということではないだろう。

ふと、父さんが口を開いた。

 

 

「…でも御春、近頃眠れないって言ってたよな?」

 

「えっ、そうだったの?」

 

「ああ、3週間くらい前からだったかな。陽介くんと一緒だったから、安心できたのかな?」

 

「お兄さんと、一緒だったから……。」

 

 

呟くように復唱してから、御春くんの頬がじわじわと赤くなっていく。兄弟とはいえ、朝起きたときに間近に顔があった、という経験は、僕も思い出すと照れてしまうのだから無理もない。

 

 

「まだまだ甘えん坊だなあ、御春は。」

 

 

父さんはそう言って、御春くんの頭に手を伸ばす。それに気づいて、御春くんが怯えたようにびくっ、と震えるのが見えた。

…そういえば昨日も、頭を撫でられるのを嫌がっていた。

 

昨夜のことを思い出す。猫耳に触れてしまった瞬間の、御春くんの悲鳴。…もしかしたら、と考えを巡らせる。

 

 

「あ、あのっ!…父さん…。」

 

「ん、どうした、陽介くん?」

 

 

父さんと、涙目でされるがままに撫でられていた御春くんがこちらを向いた。

 

 

「その……御春くん、あんまり頭撫でないでほしいって。…子ども扱いされてるみたいだからって。」

 

 

咄嗟に出たのは、苦しい言い訳だった。

たぶん御春くんは、猫耳を触られたくないのだと思う。けれど父さんに猫耳は見えていない。止めなくちゃ、その思いだけで口を挟んだけれど、場の空気を悪くしてしまった気がして、罪悪感に苛まれる。

 

 

「…そうだったか…。すまん御春、気づかなかったよ。」

 

「……うん。」

 

「陽介くんも、教えてくれてありがとう。」

 

「………。」

 

 

僕を気遣ってか、優しい笑顔でそう言ってくれる。

出しゃばってしまった、と感じる僕は、俯きぎみにそれを聞いていた。

 

 

「はいはい、朝ごはん出来たよー!…あなたも、子どもが自立してきたくらいでしょげないの!」

 

「いやあ、こうやって親の元を離れていくのかと思うと、しみじみしちゃうよなぁ…。なんちゃって。」

 

 

キッチンから戻ってきた母さんが、僕と御春くんに朝食を出しつつ、さりげなくフォローを入れてくる。父さんもそれに気づいてか、おどけてみせる。

…本当、善い人ばっかりだ。お人好しだけでまた突っ走ってしまった自分への嫌悪感を、朝食と一緒に飲み込んだ。

 

 

 

 

「そうだ、今日はこの後買い物行くけど、二人はどうする?」

 

「…僕はいいや。留守番してるよ。」

 

 

母さんの問いに、食器を片付けながら力なく僕はそう答える。

今日は、静かに家に居たい気分だった。さっきのことに申し訳なさを感じていたのもある。

御春くんの猫耳について話を聞く約束だったけど、それも先送りになってしまいそうだ。間が悪いけど、仕方ない。

 

 

「えっと…ぼくも、家に居ようかな…。」

 

 

えっ、と後ろを振り返ると、洗った食器を拭きながら御春くんがそう答えていた。

 

 

「分かった。いるものあったらメールしてね。」

 

「うん。いってらっしゃい。」

 

 

 

 

 

 

「…良かったの、買い物行かなくて?」

 

 

両親を見送り、リビングに戻る途中で御春くんに尋ねた。後からリビングに入った御春くんは、ドアを閉めてから僕に向き直る。

 

 

「だって……お兄さん、悲しそうだったから。」

 

「えっ…。」

 

 

…気づかれてたんだ。

恥ずかしさと気まずさに居たたまれず、視線を御春くんから逸らすように俯いてしまう。

そんな僕の手を、御春くんが包むように優しく握ってきた。

 

 

「そういうとき一人だと、もっと悲しい気持ちになっちゃうけど、横に誰か居ると全然違うんです。…昨日、お兄さんが居てくれたみたいに。」

 

 

一度言葉を切って、包まれた手から僕の目へ視線が移る。

 

 

「だから…お兄さんの側にいたいな、って思ったんです。」

 

 

 

そう言って、御春くんは微笑んだ。

沈んでいた心が照らされ、暖かくなる、日だまりのような笑顔だった。

少し涙ぐみながら、僕も笑顔を返した。

 

 

「…ありがとう、御春くん。僕が話聞いてあげる約束だったのに、慰められちゃったね。」

 

「あっ……そうでした、話…聞いてもらえますか?」

 

「うん、いいよ。…そこのソファで話そっか。」

 

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

「耳と尻尾が生えたのは、いつ頃から?」

 

「えっと…3週間くらい前から、かなあ…。」

 

 

リビングに備えられた大きな白いソファに、並んで腰を下ろす。視界の横でぴこぴこと動く猫耳は、たまにぴん、と立ったりへにゃっ、と垂れたり、御春くんの感情に合わせてころころ変わる。それもおそらく無意識で。

そんなところも可愛いな、と時折目を細めつつ、話を続ける。

 

 

 

「3週間前…もしかして、眠れなかったって言ってたのはそのせい?」

 

「はい…どうにも落ち着かなくって。」

 

 

3週間前といえば当然、まだ僕が御春くんを知らない頃だ。原因がその辺りにあるのだとすれば、見つけ出すのは一筋縄ではいかないかもしれない。

 

 

「僕以外に、耳と尻尾が見えた人っていたのかな?」

 

「…歩いてるとき、すごくたまに声をかけられました。確かこれまでに三人くらい。」

 

「その人たちには、見えてたんだ…。」

 

「怖くなって、走って逃げちゃいましたけど…。」

 

 

無理もない。好奇心だけで近づいてきた他人なのだから。むしろ正しい行動だ。

僕の他にもごく稀に、"見える"人はいたらしい。とはいえその人たちに共通項があるのかも、今となっては分からない。

 

…似合っているとはいえ、御春くんも猫耳と尻尾には困っているようだし、早くなんとかしてあげたい。そう思って話を聞いていたのだけど…思っていたより、難しい問題かもしれない。

 

 

「この耳と尻尾、すごく敏感というか…ぼくが触られる感覚に慣れてないのもあるんでしょうけど…。」

 

「まあ、元は無かったものだもんね。」

 

「だから触られると、変な気分になっちゃうんです…。気持ちいいような、恥ずかしいような、…上手く言い表せない感じに。」

 

 

話しながら思い出したのか、御春くんは頬を染めてもじもじしている。耳と尻尾は、感度が高くなっているのだろうか。

…もしかすると、性感帯のようになってしまっているのかもしれない。そこまで考えて、自分の頬も熱くなってしまっているのに気づく。そうだとしたら、御春くんにどう説明しよう…。

 

僕の心の葛藤には気づかず、御春くんは静かに僕の方に向き直って言った。

 

 

「だから……さっきは、ありがとうございました。中々父さんに止めてって、言いづらくて…。」

 

「! …ううん。僕ももうちょっと上手い言い訳が言えたらよかったんだけど…。」

 

「でも、ぼくが困ってたの、気づいてくれたんですよね。……嬉しかった、です。」

 

 

御春くんの頬は、さっきよりもちょっぴり赤くなっていた。

朝のモヤモヤした気持ちが、すっと軽くなる感覚…。

隣に座るこの小さく可愛らしい弟は、僕を何度救ってくれるのだろう。

 

 

「…横に誰かが居ると全然違う、か…。」

 

「?」

 

「ありがとね、御春くん。」

 

「なんでお兄さんがお礼を…?」

 

「…ううん、気にしないで。…ふふっ。」

 

 

言葉の真意が分からず首を傾げる御春くんに、僕はふっと笑いかける。

 

難しい問題だとしてもこの子の、御春くんの力になりたい。……頑張らなきゃ。

 

 

「大丈夫。僕がついてるから。」

 

「……はいっ!」

 

 

その瞬間ふと、頭の中で何かが光った気がした。

両親や他の人には見えなくて、僕には見える現象……。

一つだけ、思い当たることがあった。

 

 

 

「もしかしたら、分かるかも…。御春くんの猫耳の正体。」

 

 

 

 

 

 

 

 



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3話 参詣と相談は猫耳と共に

「…御春くん大丈夫? ちょっと休憩しよっか?」

 

「ううん。全然へっちゃらですよ。」

 

 

街全体を見下ろすように聳える、小高い山。

日曜日の昼下がり、僕は御春くんを連れてその山を登っていた。

左右を背の高い林に囲まれた、見上げれば首を痛めそうなほどの石階段。僕と御春くんは並んで、その階段の中腹辺りまで来ていた。時折御春くんの体力を心配するが、今のところは平気そうだ。

 

 

 

 

 

 

 

「お兄さんって、猫さん飼ってたことありますか?」

 

 

突然、御春くんはそう尋ねてきた。

御春くんのペースに合わせてゆっくり進めていた歩が止まる。返す言葉にも一瞬詰まった。

 

 

「…うん、あるよ。去年死んじゃったけどね。」

 

 

刹那に迷った末、隠さず答えることにした。

…けど、もう少し言い方があったかも、と僅かに後悔する。横を見れば御春くんも、聞いたことを申し訳なさそうに俯いてしまっていた。

 

膝を折り、御春くんと目の高さを合わせてから、大丈夫だよと微笑んでみせる。

 

 

「18年、猫の寿命だとすごく長生きしたくらいなんだよ。」

 

「…じゃあ、お兄さんが生まれる前から…?」

 

「うん。僕が生まれる少し前に、親戚の家で生まれた子の一匹を貰ったんだって。…僕が小さい頃から、よく一緒に遊んでたんだ。」

 

 

話していると当時のことが頭に蘇り、目を細めた。

赤ん坊の頃からいつも近くにいて、お互い言葉も分からないはずなのに一緒に遊んでいると心が通じ合っている気がしたり、たまに年上として先輩風を吹かせるようにふてぶてしかったり…。

特別な日も、そうでない日も、一緒に過ごした時間は宝物だ。…向こうがどう思ってたかは、分からないけど。

 

 

 

 

 

「それにしても、なんで分かったの?」

 

 

まだ御春くんには、猫を飼っていた話はしていないはずだった。今は当時の写真も飾っていない。

 

 

「…お兄さんの匂い、すごく落ち着くんです。…なんとなく、同じ匂いがする気がして。だからもしかして、猫さんがいたんじゃないかな、って。」

 

 

匂い……。

そう聞いて思い出されるのは、もちろん昨夜の出来事だ。突然寝室に現れた御春くんはどこか様子が変で、僕の匂いが落ち着くからと積極的に嗅ぎにきていた。

…思い出すだけでも顔が熱くなる。けれどやはり、あの時御春くんの様子がおかしかったのには理由があったのだ。

 

 

「あっ、獣臭いとか、そういうんじゃないですよ!…たぶん今のぼく、普通の人より鼻が効くから、それで気づけたくらいの匂いだし…。」

 

 

言いながら、少しずつ御春くんが近づいてくる。

落ち着くという僕の匂いに吸い寄せられるように距離が詰められ、やがて体重を預けるようにぴったりと左腕に密着した。

 

突然のことに少し驚いたけど、気持ちよさそうに頬擦りしている御春くんが可愛くて、つい何も言わずに見とれてしまっていた。

と、夢から覚めたようにがばっ、と御春くんが顔を上げた。自分で自分の行動に驚いているような表情を浮かべたかと思うと、その表情がみるみるうちに赤くなっていく。

 

 

「あ、うあぁぁ…ごめんなさい…無意識で……。」

 

「ふふっ、大丈夫だよ。」

 

 

そう言って僕が笑いかけても、御春くんは恐縮したように距離をとって小さくなってしまった。そんなに気にすることないのに…。

鼻が効くというのも、猫の匂いにつられるというのも、猫耳や尻尾と同じ影響だろう。…まるで御春くんが猫になったみたい。あるいは、御春くんに猫が()()()()()みたいに。

 

 

 

それにしても、と僕は思う。

どうして御春くんは僕の匂いにだけあれほど反応したんだろう。猫の匂いを感じるというなら、おそらく母さんにだってそれは付いているはずだし…。

少し後ろを歩く御春くんに問いかける。

 

 

「ね、御春くんはなんで昨日、僕の部屋に来たの? 猫の匂いって母さんにも付いてるんじゃないかなって思うけど……何か理由があったの?」

 

「うぇっ!?…そ、それはその……」

 

 

僕の質問に、なぜか御春くんは目を泳がせた。頬が再び赤みを帯びてくる。

 

 

 

…………………(お兄さんが優しかったから…)…………(近くに居たいなっ、て…)

 

 

ごにょごにょと俯きぎみに答えているようだけど、あまり聞き取れない。

自分でも理由を思案して、はたと思い出した。

 

 

「…ああでも、あの子うちだと僕に一番懐いてからかなあ。一緒にいる時間も長かったし、僕に残ってる匂いが一番強いのかもね。」

 

「そ、そうですよ!…あはは……。」

 

 

僕が一人合点している一方で、御春くんはどこか様子がおかしい。

石段を下って御春くんのいる段まで戻り、その顔を覗き込む。

 

 

「御春くん…ちょっと顔赤い?」

 

「ひぁ!?そ、そんなことないですよ…」

 

 

ぶんぶんと首を振って否定するが、その表情は確かに朱色に染まっていた。

 

 

「疲れちゃったのなら、言ってくれていいんだよ?…はい」

 

 

石段もかなり登ってきたし、小学生には辛い勾配だろう。僕は御春くんに手を差し伸べた。

 

 

「繋いでいこう?ペース合わせるからさ。」

 

「う、うん……。」

 

 

御春くんの手を取り、なぜだか少し火照った体温を感じながら、また石段を登っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石階段を登りきった先に待っていたのは、巨大な石造りの鳥居。朱色に塗られているでもなく、地味といえば地味、そんな色合いだ。

鳥居をくぐった先に広がるのは、小石の敷き詰められた境内。真っ直ぐに伸びる参道の先には、これまた飾り気のない拝殿。その横には社務所が配置されている。

 

 

「ここが…?」

 

「そう、旧命(ふるみこと)神社。」

 

 

…小さい頃から何度も来ているけれど、いつも基本的にここは無人。境内に目を引くほど派手なものも無く、厳かな静けさというよりは閑散とした寂しさが常に感じられる。

 

といっても、僕はそんな雰囲気が好きなんだけど。

日常のすぐ側にある非日常、とでも言うべきか。

街の喧騒が嘘のように、ここには木々の葉が揺れる音や、鳥の鳴く声しか響いて来ない。静かに自然に囲まれて時間を過ごせる、オアシスのような場所だ。

 

 

「静かだけど、なんだか落ち着きますね。」

 

「! …だよね。」

 

 

だから、御春くんも同じことを感じてくれていると分かって、思わず笑顔が零れてしまった。

 

 

 

きょろきょろと辺りを見回せば、社務所のあたりに人影が見えた。御春くんを連れて影を追う。

着込んだ紅白の巫女服の上に黒髪をさらりと流し、その人はいそいそと忙しなく仕事をしている…訳でもなく、箒を抱くように抱えて、暇そうに空を眺めていた。

 

 

「なゆた?」

 

「きゃあっ!?………お前か、陽介…。」

 

 

後ろから声をかけたせいか、あまり聞かない悲鳴をなゆたは上げた。ちょっと申し訳ない気持ちになる僕を、少し赤面しながら睨むなゆた。

 

 

「まったく、心臓に悪い…。」

 

「ごめんごめん。突然になっちゃったけど、居てくれて助かったよ。」

 

「まあ、日曜といっても出かける用も無かったしな…。」

 

 

だからこうして手伝いをしてる訳だが、と自分の格好を眺めながらなゆたが言う。

小学生の頃から、なゆたは巫女姿で神社の手伝いをすることが多かった。僕も遊びに来たときに何度か見たことがあったけれど、高校生になってからこの姿のなゆたを見たのは初めてかもしれない。

 

 

「巫女服珍しいね、似合ってるよ。」

 

「ん……そりゃ、どうも…。」

 

 

なゆたはちょっと顔を逸らして、気恥ずかしそうにそう応えた。何の気なしに本心で出た言葉だったが、そういえばなゆたが真っ正面からの褒め言葉に弱かったのを思い出した。

 

普段通りの他愛もない会話を続けてしまいそうになるが、不意に自分がここに来た理由を思い出した。

 

 

「それでこの子が……って、あれ、御春くん?」

 

 

見れば、御春くんは隠れるように僕の後ろに回り込み、顔だけを出してなゆたを窺っていた。

人見知りしちゃってるのかな…。

 

 

「ふふっ、なゆたってば、怖がられてるよ。」

 

「…どうせ、私は仏頂面だよ。」

 

 

なゆたがむぅ、と頬を膨らませる。

仕方ないな…。僕は代わりに、御春くんに説明してあげる。

 

 

「大丈夫だよ、御春くん。このお姉さんは僕の幼馴染だから。」

 

「お兄さんの…?」

 

 

なゆたも腰を屈め、普段より柔和な表情を見せて笑う。

 

 

「旧命 なゆただ。よろしくな、少年。」

 

「ひ、日向 御春です…。」

 

 

まだ少し警戒をしているのが猫耳と尻尾から伺えるけれど、とりあえず僕の後ろからは出てきてくれた。

 

 

「可愛らしい猫耳をしているが、カチューシャか何かか?」

 

「いえ、これはその……って、え…!?」

 

 

 

 

「……見えるんですか、お姉さんも!?」

 

 

御春くんが目を丸くして驚く。

対称的に僕はやっぱり、と呟き苦い表情を浮かべる。

 

 

「? そりゃあ見えているが……どういうことだ?」

 

「実はさ、なゆた……。」

 

 

 

 

僕はなゆたに、これまでの経緯をおおよそ説明した。

僕がここに来た理由、なゆたに会おうとした理由は一つ。僕の推測が正しければ、おそらくなゆたにもこの"耳と尻尾"が見えるだろうと考えたからだ。

 

 

 

 

「…なるほどな。この耳と尻尾が見えるのは、彼と陽介だけだった、と…。」

 

「うん。しかもなゆたにも見えた、ってことは…やっぱり()()なのかな…。」

 

「断定は出来ないが…見たところ可能性は高いだろうな…。」

 

「あの…どういうことですか…?」

 

 

事情を飲み込めていない御春くんが首を傾げる。

一方、僕たちの表情は暗かった。あまり良くない状況であることを確信していたからだ。

 

 

「御春くん、その……」

 

「どの道、私は隠し事が得意でも好きでもない。…あまり信用も出来ないだろうが、聞いてくれ。」

 

 

何を言うべきか纏める前に口を開いた僕を遮るように、なゆたの言葉が割り込んだ。たぶんそれは真実を告げる役を被って、僕らの兄弟仲が少しでもギクシャクしないようにという、なゆたなりの気遣いだったのだと思う。

 

 

 

「君はおそらく取り憑かれている。…猫の霊に。」

 

 

 

 

 



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4話 酩酊は猫耳と共に

なゆたに案内された境内の一部屋に、僕たちは並んで座っている。

そして僕はさっきから、御春くんに疑いの眼を向けられている。

 

 

「お兄さん…本当なんですか、さっきの話って…。」

 

 

…視線が痛い。

疑い半分、不安半分のジト目が刺すようにこちらを見つめてくる。

…もちろん、御春くんの気持ちは痛いほど分かる。誰だって自分に霊が憑いてる、なんて言われたらまず疑うだろうし、同時に不安も感じるものだろう。

 

 

「いきなり言われても信じられないよね…霊が憑いてる、なんて。」

 

「さすがに、すぐには信じられないです…。お兄さんは信じられるんですか?」

 

「うん。なゆたが言ってるなら、たぶん間違いない。」

 

「…信頼してるんですね、なゆたさんのこと。」

 

「付き合い長いからね。信じられる人だってことは、僕が保証するよ。」

 

「……いいなぁ、なゆたさん…。」

 

 

少し頬を膨れさせた御春くんは、そっぽを向くようにして呟いた。

最後の言葉は聞き取れなかったけど、拗ねているように見えたのは気のせいだろうか。

 

 

 

 

 

 

「待たせたな、二人とも。」

 

 

暫くして、なゆたが戻ってきた。巫女服姿はそのままに、お盆に乗せたお茶まで持ってきてくれた。

 

 

「さて…何から話したもんかな。」

 

「あの…ほんとに幽霊の仕業なんですか、これ?」

 

 

これ、と言いながら御春くんは、自分で猫耳の先を弄る。その口調には、御春くんがなゆた自身を疑う気持ちも含まれている気がした。

だがなゆたは特に動じることもなく、少し笑みを浮かべるだけだった。

 

 

「ふふっ、まあ胡散臭いと思われるのも当然だな。君が疑うのはむしろ正しいよ。」

 

 

僕が事情を説明したときとは打って変わり、なゆたの表情には余裕が見える。ということは、何か打開策があるのだろう。

…あとはなゆたに任せてよさそうだ。というか、もう僕に出来ることも特に無いだろう。

所在なく、とりあえずなゆたに出されたお茶に口をつける。色合いからして麦茶かと思ったけれど、それより少し癖のある味だった。

 

 

「どうして分かるんですか、ぼくに霊が憑いてるって?」

 

「一番の理由は、君の耳と尻尾。…それが私と陽介にしか見えていないという事実かな。」

 

「…どういうことですか?」

 

 

なゆたは、自身の瞳を指差した。

ぱっちりと開かれた、綺麗に澄んだ瞳。見つめる御春くんも小さく息を飲んだ。

 

 

「こんな家系だからかな。私は昔から、人より()()()んだ。」

 

「見えるって…お、お化けとか、ですか……?」

 

 

御春くんが身震いし、指先で僕の袖をぎゅっと掴んできた。見れば、不安を浮かべた上目遣いでこちらを見上げる御春くんと目が合った。僕が静かに近づくと、寄り添うように御春くんが腕に密着する。少し、表情の不安が和らいだ。

 

 

「平たく言えばそういうモノだな。ついでに言うと陽介も()()()側だ。」

 

 

御春くんが不思議そうに僕を見る。…自分のことながら、正直僕も同じくらい不思議な気持ちだ。これまでにも、幾度か()()()()()()()()()が見えたことはある。

いわゆる霊感、というのが自分にあるのは間違いないけれど、一応神職のなゆたに比べ、平凡な高校生として生きる自分ではどこか実感のない話、と感じているのが実際のところだった。

 

 

「僕にはなゆたほど強い霊感は無いけどね…。だから耳と尻尾は見えても、御春くんに霊が憑いてるかどうかなんて分からなかったよ。」

 

「…といっても、ここまでの話はあくまで私の主観。…まだ霊の仕業だとは客観的に証明が出来ていない。そこで、君に質問だ。」

 

 

真面目な面持ちでなゆたは御春くんを見つめる。

それを少し恥ずかしそうにしながら、御春くんもなゆたを見る。

 

 

「現状、君の肉体には()()の魂が宿っているが、主導権があるのは無論、"日向 御春"の意志だろう。今も会話が出来ているのはそちらだけだしな。…そのぐらい、君に憑いている霊はかなり弱い。だが…」

 

 

一度言葉を切り、確認するようになゆたが尋ねる。

 

 

「憑依した霊が君の行動に影響を及ぼしている可能性もある。…何か無かったか? 例えば自制が効かない衝動に駆られたり、無意識で妙な行動をしてしまっていたり…。」

 

 

なゆたの言葉に、御春くんは顎に指を当てて考えるポーズを取った。最近の行動を思い出しているのだろう。

…心当たりはある。先ほども御春くんは、無意識で僕の匂いに引き寄せられていた。それに昨夜も……。

 

密着していた腕から感じる御春くんの体温と鼓動が、少し熱く早くなったのに気づく。…僕と同じことを思い出しているようだった。

 

 

「…あうぅ……。」

 

「心当たりがあるみたいだな。……どうした、二人して顔を赤らめて?」

 

「…いやその……あ、あはは…」

 

 

幼馴染といえど、というか幼馴染だからこそ、恥ずかしくて口に出せない。おそらく御春くんも、人に知られたくはないと思うし。

 

 

火照りを鎮めたくて、またお茶に口をつける。

御春くんも、同じ動作をした。そのとき初めてお茶を飲んだようで、驚いたように尻尾がぴんっ、と立った。

 

 

「御春くん…?どうかしたの?」

 

「あっ、いえ……ちょっとこのお茶の味に、びっくりしちゃって…。」

 

 

確かに変わった味がする、僕も一口目には少し面食らったくらいだ。小学生の舌には、ちょっときつい味かもしれない。

 

 

「なゆた…これ、なんてお茶なの?」

 

「ああ、マタタビ茶だよ。…神社の由縁からか、たまに奉納してくれる人がいるんだ。」

 

 

 

…え。

不思議な味への納得と同時、不安が一挙に押し寄せてきた。

 

 

「マタタビって……御春くんが飲んで大丈夫なの?」

 

「マタタビで酔っぱらうというのは、猫の体質だろう?彼には猫の魂が乗り移っているだけだから、そんな効果はないだろう…」

 

「そ、そうだよね……」

 

 

ほっと胸を撫で下ろ………

すよりも、それは早かった。

とても暖かい、むしろ熱いと言えるほどの温もりが、僕の胸に飛び込んできた。

 

 

「わあっ!?」

 

 

のしかかる力に押されるまま、僕の身体は床に押し付けられた。上にいるのは、やはり御春くんだった。

ぽーっと赤に染まった頬は、照れによるものじゃない。何度も御春くんの赤面を見てきたから、すぐに分かった。

 

まさか、と零した、僕となゆたの声が重なる。

目の前には、先ほど二人して否定したはずの現象が起きていたのだから。

 

 

「ふにゃ………おにぃしゃん……」

 

 

間違いなく、御春くんは酔いに当てられていた。

頬以外の肌も紅潮し、呂律も怪しくなっている。

恍惚とした瞳と表情は、僕を見据えて微笑んだ。

 

 

お兄ちゃん(おにぃしゃん)…良い匂いする……んふふ……」

 

 

僕の上でうつ伏せになるように体を重ね、間近で深呼吸を繰り返す。…昨日の夜と同じ、けれどあの時の遠慮さはどこにもない。御春くんの身体は本能か、あるいは欲望のままに動かされている。

 

 

「お、落ち着いて御春くん!?」

 

「もっと近くで…お兄ちゃんとぉ……」

 

 

はだけたシャツも、なゆたが見ていることも意に介さず、火照った顔が接近してくる。鼻と鼻がくっつきそうな近さ。さすがにこちらも慌ててしまう。このままいけば、御春くんの唇と…………。

 

 

「……………むにゃ。」

 

「……はぇ…?」

 

 

突然、御春くんの接近が止まった。

かと思った次の瞬間、糸が切れたように御春くんが倒れ込んでくる。咄嗟に体で受け止め、炬燵のような熱さの御春くんの顔が胸に埋まった。

 

 

「わあぁっ! 御春くん!?」

 

「そんなまさかっ……しっかりしろ、大丈夫か!?」

 

 

あまりのことに動けなかった僕となゆたの身体が、跳ねるように動き出す。

てんやわんやの僕らを他所に、御春くんの小さな寝息が部屋に響いていた。

 

 

 

 

 

 



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5話 すれ違いは猫耳と共に

ーーーーー

ーーー

 

 

縁側に面した、六畳ほどの畳部屋。

布団にくるまれて眠る御春くんの頬は、ほとんど普段の色に戻りつつあった。

突然始まった、酔っぱらってしまった御春くんの介抱もなんとか一段落。一度は慌てたけれど、体を丸めて眠る御春くんの寝姿はとても穏やかで、僕らはほっと胸を撫で下ろしていた。

 

 

「ふう……布団貸してくれてありがとね、なゆた。」

 

 

御春くんの可愛らしい寝顔に目を細めながら、縁側に座るなゆたに礼を告げる。縁側に射し込む橙色の夕陽が、介抱の間に随分と過ぎた時間を示していた。

 

 

「…なゆた?」

 

 

呼びかけに返事がないのを妙に感じ、なゆたの方へ近づく。隣に腰を下ろして見れば、なゆたは膝を抱えるようにして座っていた。

…その頬を、さっきまでの御春くんに負けないくらい赤らめて。

 

 

「その……さっきのことは、他言しない。だから…安心してくれ……。」

 

「…あぁ、うん…。…ありがとう。」

 

「…すまない。こういう事にはあまり慣れてなくて……。どうしても気恥ずかしくなってしまうな…。」

 

 

いつでも堂々としているなゆたにしては珍しく、口調にも態度にもどこか恥じらいがあった。

さっきのこと……たぶん、酔った御春くんが僕を押し倒した、あれのことだと思う。

気まずさと恥ずかしさの入り交じった赤色に、なゆたの顔が染まるのも無理はない。

積極的になった御春くんには、僕もドキドキしてしまうような、上手く言い表せない()()がある。

 

 

 

それにしても、と僕は思う。

 

 

「いくら猫が憑いてるからって、御春くんの身体は人間のままだよ? マタタビで酔うなんてあるのかな…。」

 

「彼の身体にというよりかは……おそらく憑いている猫の意識に引っ張られた形だろうな。マタタビは酔っぱらう、というのを強く意識しすぎて、実際に酔っぱらったような症状が出た、のだと思う。」

 

 

なるほど、と僕が呟くと、抱えた膝に埋めていた顔を少し上げて、なゆたがこちらに向き直る。

 

 

「酔いが回ったのが彼の中にいる猫のせいだとしても、あの時の意識は"日向 御春"のままだったはずだ。……つまり、その…、あの時の行動も彼自身の…。」

 

 

言いながら思い出してしまったらしく、また赤い顔が膝の中へ埋まっていく。

そこまで照れられると、逆にこっちは冷静になれる…苦笑しながら、ちらりと御春くんの方を見る。寝ている間も、たまに猫耳がぴこぴこ動くのが見えた。

 

酔ったときの行動はその人の本当の姿だ、というのはよく聞く話だけど、だとしたらさっきの御春くんは…

 

 

「本当はもっと、甘えたいのかな…。」

 

 

普段は控えめな御春くんが時折見せる、積極的で甘えたがりな一面…。もしかしたら、それが本当の御春くんなんじゃないか。そう思えた。

 

 

 

 

こほん、と咳払いをしてから、なゆたが立ち上がり、御春くんの布団へ近づいていく。つられて僕も立ち上がった。

 

 

「彼には申し訳ないことをしたが……お陰で確証も持てた。」

 

「やっぱり…御春くんの中に霊が?」

 

「だろうな…。あまり放っておくのも良くない。早めに祓ってしまおう。」

 

 

そう言うとなゆたは一度隣の部屋へ行き、何冊かの古書を持って戻ってきた。見るからに古びた、貴重そうな本だ。

 

 

「この神社にも彼のような事例の話と、対処法が伝わっていた。ざっくり読んだだけだが、私でも祓えそうだ。」

 

「…分かった。お願いするよ。」

 

 

…肩の力が、少し抜けた。

良かった。これで御春くんも、普通に戻れるんだと。

…でも結局、ほとんどなゆたに頼りきりになってしまった。なゆたのような力を持たない僕に何か出来る問題ではない。それでも、「僕がついてる」なんて見栄を切って、御春くんもそれを信じてくれたのに、という気持ちは芽生えてしまう。

 

…僕じゃなくても、よかったんじゃないか。

消えていたはずの劣等感が、どこからか湧いてくる。そう思ってしまう自分さえ、嫌だった。

 

 

 

 

 

「祓うって、何の話ですか……?」

 

 

怯えた声が、背後から聞こえた。

なゆたと同時に振り返ると、御春くんが起きていた。

上体を起こし掛け布団を胸の前で握りしめ、不安そうにこちらを見つめている。

慌ててそばに駆け寄り、顔色を見る。

 

 

「御春くん…!もう大丈夫?」

 

「は、はい…。ちょっと記憶がふわふわしてますけど…。」

 

 

顔色は悪くない。寝ていたせいか酔いのせいか、瞳はとろん、としているけれど。

顔を近づけ、前髪をかきあげて御春くんの額に自分の額を合わせる。御春くんから小さく悲鳴が聞こえた気もするけれど、僕は夢中だった。熱はない。本当に大丈夫だと確信してようやく、安堵からその場に座り込んだ。

 

 

「本当によかったよ、御春くん…。」

 

「だな。…私も軽率だった。すまないな。」

 

「いえっ、ぼくこそ、ご迷惑をおかけしました…。……あのっ、それより…!」

 

 

思い出したように、御春くんの瞳に不安が蘇る。

 

 

「祓うって、この子を…ですよね。出来るんですか…?」

 

 

この子、と言って猫耳を指さす。尻尾もつられて体の近くで動いていた。

もちろんだ、と言いながらなゆたも枕元に腰を下ろした。

 

 

「ここは…旧命神社は、猫を神使としているからな。」

 

「しんし…?」

 

「神様の使い、って意味だよ。」

 

「まあほぼ猫を祀っているようなものだな。」

 

 

目をぱちくりしている御春くんに、僕も説明してあげる。

旧命神社は、猫を祀る珍しい神社としてこの辺りでは有名だった。全国を見れば割とあるけどな、となゆたはバッサリ言っていたけれど…。

 

 

「必然、猫にまつわる事象に関して資料も多く保存している。これを使えば…君に憑いている霊も、取り除けるだろうな。」

 

 

だからもう安心していい、となゆたが笑いかける。

僕も、ともあれこれで解決するのだと安堵していた。

 

けれど何故か、なゆたの話を聞いても御春くんの表情は雲っていた。

 

 

 

「どうした?…金の心配ならいいぞ、まるっと陽介にツケといてやる。」

 

「ええぇっ!? …ちょっとは割引いてよ…?」

 

「真に受けるな、冗談だ。…別に金なんか取らないよ。君の不安を取り除くのが第一だ。」

 

 

軽口をたたきながら、御春くんを安心させようと笑顔を向ける。けれど御春くんの視線は伏し目がちなまま。

 

 

「…御春くん?」

 

「……ごめんなさい。それは、出来ないです。」

 

 

御春くんの口から出た、予想もしなかった言葉。僕となゆたは驚きから目を見開き、顔を見合せる。

 

 

「御春くん、それってどういう……」

 

「この子が霊ってことは、一度死んじゃってるってことですよね。」

 

 

僕の質問も遮って、胸を抑え視線を落としたままの御春くんがそう言う。

なゆたは、黙って首肯した。

 

 

「でも、この子は成仏できていない。それには、何か理由があるはずですよね? それさえ分かれば……。」

 

「…確かに、君に憑いたその霊が"こちら側"に留まっている原因を取り払えば、そいつを祓うことは可能だろうな。だが…」

 

 

 

 

 

「私は、反対だ。」

 

 

 

厳しい目で御春くんを見ながら、静かになゆたはそう告げた。

 

 

「今、君の中には魂が二つある状態だ。君自身の、人としての魂と、猫の霊の魂がな。祓うのが遅れれば、それが融合してしまう可能性すら否定できない。…そうなったら何が起こるか、君の意識が残るのかさえ、私には断定できないんだ。祓うなら、早いに越したことはない。」

 

 

御春くんが胸の前で握った布団に、力が加わったように皺が出来る。御春くんは何も答えない。反対されることを分かっていたように。

…言い方は強いが、なゆたは御春くんを心配してくれている。言葉の端から、それが伝わった。

 

 

 

「…でもそれじゃあ、この子の想いは解決しないじゃないですかっ……!」

 

 

意を決したように顔を上げ、少し荒い声を絞り出すように御春くんはそう言い放った。

初めて聞いた、御春くんの怒ったような声。言葉を失ったまま、僕は何も喋れずにいた。

 

 

「ぼくには分かるんです…この子は、そんなに悪い霊じゃないんだ、って。」

 

 

胸の前で固めた手が、いっそう強く握られる。

御春くんは本気で、自分に取り憑いた霊を想っている。

 

 

()()()に何か未練があって、だからこの子はぼくに取り憑いたはずです……。それも果たせていないのに…このまま、消えちゃっていいとは思えません。」

 

「その霊の意志が悪いか悪くないか、それと君自身の危険は関係ない。もう一度言うぞ、悠長に構えていられるほど、時間は無いんだ…!」

 

 

 

相手のことが心配だからこそ、なゆたの語気も強くなる。

唇を噛みしめ涙を浮かべながら、御春くんはそんななゆたを睨んでいた。

 

 

「…もう、いいです…っ。」

 

 

小さく呟いたその言葉を残して、御春くんは突然駆け出した。バタバタと床を蹴り、あっという間に姿が消えてしまった。

 

 

「あっ、おいっ!?」

 

 

呆気にとられ、二人とも立ち尽くしていた。

普通なら、すぐに追いかけるのが正しかったかもしれない。

追いかけて、捕まえて、でもそれで本当に解決するのか…。御春くんの涙を見て僕は、僕たちはそれが分からなくなっていた。

 

やがて、ため息と共になゆたは力なく項垂れた。

唇を噛み、拳を震わせながら…。

 

 

「はぁ……。駄目だな、私は……。」

 

「なゆた…。…でも、御春くんを心配して言ってくれたんでしょ? それは、間違ってないよ。」

 

「だとしても、もっと違う言い方が出来たはずだ……。」

 

 

 

なゆたは僕に向き直り、小さく頭を下げた。

その表情にはいつもの自信の面影が無く、胸が苦しくなる。

 

 

「……すまない陽介。せっかく頼ってくれたのに、こんな結果にしてしまって………。」

 

 

…力になれなくて。

消え入りそうな声で呟いたなゆたの言葉が、胸に痛みを覚えさせる。

 

静かに立ち上がりながら、僕はなゆたに問いかけた。

 

 

「ねえ…さっきなゆたが御春くんに言ってたことって、あとどれくらい時間があると思う…?」

 

「…猫耳が生えたのが三週間ほど前、と言ってたな。……進行具合から考えれば、まだ猶予はあるのかもしれないが……とにかく不確定要素が多すぎる。いつ何が起こるか、私にも分からないのが正直なところだ。」

 

 

苦々しい顔で、なゆたはそう話した。

…分かった。と呟いた後で、僕は今出来る精一杯の笑顔をなゆたに向けた。

 

 

「やっぱり、ここに来て正解だった。…なゆたに相談して、良かったよ。」

 

 

ありがとう。

最後に出た言葉は、心からのお礼。

なゆたは一瞬、潤んだ瞳で僕を見た。すぐに、その瞳ごと顔を抱えた膝に埋めてしまった。

…次に顔を上げたなゆたの瞳は、いつもと変わらず真っ直ぐに僕を見ていた。

 

 

「こちらでも、引き続き調べてみる。…異変があったら、いつでも呼んでくれ。」

 

「うん。…それじゃ、また。」

 

 

なゆたは資料の古書を抱えて、僕は御春くんを追うために、その場で別れて歩き出した。

 

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

境内を走り抜け、石階段を駆け降りて御春くんの後を追う。沈み始めた夕陽が照らす道を、あちこち探しながら走り続ける。

 

 

「いた……。」

 

 

息が上がりはじめた頃、ようやくその姿が見えた。

古いバス停が撤去された跡に残った、錆び付いたベンチの上。膝を抱え小さくなって、御春くんはそこにいた。

 

少し安心して近づく。…けれど、まるで気づいていないかのように、御春くんは無反応だった。

 

 

「御春くん………?」

 

 

間近で声をかけても、じっと一点を見つめたまま動かない。…何故だかその目は、普段の御春くんではないように感じた。

 

 

「…何を見てるの?」

 

 

答えが返ってこないのを承知で、そう聞きながら隣に腰を下ろす。御春くんの視線を追うと、道の端、少し高くなっている石垣の上に、二匹の猫がいた。日だまりの中で、のんびりとじゃれあっている。

 

 

「夫婦の猫かな…可愛いね。」

 

 

二匹の距離感からなんとなく、夫婦のように感じられた。

あれをずっと見てたのかな…。

ちらりと横を、御春くんの横顔を見る。

 

御春くんは、泣いていた。

 

 

「えっ……。」

 

 

無表情で、僕が横に座っていることにすら気づいた様子はない。なのに、その無感情なままの頬に涙が伝っていた。ぽろぽろと零れる涙は、一体何に対して流れているのだろう…。

 

 

「…あ、あれ…お兄さん…?」

 

 

ようやく僕に気づいたらしく、御春くんは小さく驚いた。

けれど僕が応える前に、御春くんは距離を取るように立ち上がってしまう。

僕を見つめるその目には、不信感が垣間見えた。

 

 

「お兄さんは、どっちの味方なんですか…。」

 

 

…こんな目で御春くんに見られたのは初めてだった。

どっちの味方……それは、自分の中でもまだ出ていない答えだった。とにかく御春くんを追いかけることに夢中で飛び出した僕には、まだ()()()()なんて決められていない。そもそもなゆたの主張も御春くんの主張も、間違っているとは言い切れないのに…。

黙ることしか出来ない僕に、御春くんは悲しそうな声で言った。

 

 

「僕は嫌です…この子の想いが遂げられるまでは、絶対に…。」

 

「御春くん……。」

 

 

御春くんを思うのなら、なゆたの主張に従うべきだ。

…けど御春くんの想いを、無下にもできない。

どれだけ言葉を探しても、答えが出せなかった。

 

 

 

鳴き声がして、僕は横を見た。

さっきの番の猫たち、その一匹が石垣から地面に飛び降りたところだった。もう一匹にも促すように鳴くけれど、もう一匹は高低差が恐いのか、中々降りようとしない。

 

考えるより先に、動いていた。

猫たちに近づき、降りれない一匹を優しく抱き抱えて、もう一匹の近くに降ろしてやる。

二匹はまた少しじゃれた後、僕にもじゃれるようにくっついてきた。

つかの間の癒しを感じて、僕は二匹の毛並みに手を埋める。撫でられると気持ちよさそうに鳴き声を上げる。少し、飼っていた猫を思い出した。

 

 

 

 

突然、二匹が狂暴な声を上げた。

驚いて撫でる手が止まる。僕の手を離れた二匹は尻尾を立て、剥き出しの警戒心を同じ方向に向けていた。

 

…その先にいたのは、御春くんだった。

二匹に睨まれた御春くんは、驚きと哀しみの混じった目を見開いて固まっている。

ぴん、と立ち上がり毛の逆立った尻尾。…猫がこうするときの感情を、僕は知っている。

 

 

「怯えてる…。」

 

「…分かるんですね……ぼくの中に()()って…。」

 

 

自嘲するような、御春くんの冷たい声が聞こえた。

 

 

「やっぱりこの子は、ぼくが守らなきゃ……。」

 

 

誰に言うでもない言葉を呟いて、御春くんが一人で歩き出す。

 

 

 

「待って、御春くんっ!」

 

 

反射的に、僕は御春くんの腕を掴んでいた。

なのに、言葉が続かない。

何て言ってあげればいいんだろう。どうしたら御春くんの心は晴れるだろう。

どうして僕は、何もしてあげられないんだろう。お兄さん、なのに。

自分の無力さを痛感していくほどに、掴んだ腕の力が抜けていく。

 

その手が、乱暴に振り払われた。

 

 

「ぁ…………っ!」

 

 

一瞬、御春くんの表情が歪んだ。自分のしたことを、ひどく悔いるように。

その表情を隠すように踵を返して、御春くんは走り出した。

 

御春くんを握っていた、無力な手がまた一瞬伸びる。

それは空を掠めただけで、御春くんには届かない。

 

 

 

 

 

 



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6話 繋がりたい気持ちは猫耳と共に

ーーーーー

ーーー

 

 

 

 

 

「…それで、何か変わったことは?」

 

「…パジャマがなくなってた。」

 

「…は?」

 

「お気に入りのやつだったんだけど、どこを探してもなくって……どこ行っちゃったんだろう…。」

 

「……………目を覚ませ、陽介。」

 

 

上の空にいた僕に、手刀が降り下ろされる。

上の空にいた僕が避けられるはずもなく、眉間になゆたのチョップをもろに食らった。

悲鳴と共に意識が現実に引き戻される。額を押さえ、涙目で見る目の前には、呆れ顔の幼馴染の姿があった。

 

 

「ぁ……ごめん、なゆた。ぼーっとしちゃってた…。」

 

 

呆れられるのも無理はない。

なゆたの質問は、どう考えても昨日の、御春くんに関する質問だった。僕のなくなったパジャマの話など、無関係にも程がある。

 

ため息を吐き出し、止まった歩を進める。

並んで歩くなゆたの、心配そうな視線を感じながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

授業の終わった、放課後の校舎。

生徒のほとんどが所属する部活に励む時間のため、校舎内はがらんとしている。そんな廊下を、僕となゆたは並んで歩いていた。

 

空は厚い雲に覆われ、朝から薄暗いままの一日だった。

天気は、小説の登場人物達の感情を表すのによく描写される、と授業で教わった。

もし僕がそうだとしたら…この澱んだ色の空は、確かに僕の沈んだ気持ちを嫌というほど写しだしていた。

 

 

「…まあ、異常は起きて無いようだな。…どうだ、あれから。」

 

 

廊下に視線を落としたまま、なゆたがぼそっ、と聞いてきた。

 

 

「分かんない…ちゃんと、話せてないから。」

 

 

 

 

あれから一日。

日曜日(あの日)、結局御春くんとは夕飯のときに顔を合わせたきりだった。俯いたまま、出会った頃に戻ったように口数も少なく、両親も心配していた。

トイレやお風呂に行くのを見かけても僕を避けるように足早に去ってしまう。そうこうしている内に、眠る時間になってしまった。

もしかしたら今日も、という思いからベッドに入ってもしばらく起きていたけれど、結局昨夜は御春くんは来なかった。

 

今朝だって、御春くんを見れたのは一瞬だった。

僕よりだいぶ早起きしていたらしく、僕が起きたときには既に御春くんが登校しようと玄関で支度している時だった。

 

 

「今日から新しい学校だけど、気をつけてね。」

 

「はい、お母さん…。」

 

 

バタバタと階段を駆け降りて玄関に滑り込んだのは、母さんと御春くんがそんなやり取りをしている時だった。

突然の事に母さんは驚いていたが、僕は構わず御春くんに向き合った。

季節の割に冷える朝、御春くんも長ズボンとパーカーで肌を覆っている。

その背中には、ランドセル。…御春くんが背負っているのを見るのは初めてだった。

 

この家に越して来るために、御春くんは転校したらしい。今日は月曜日、転校先への初めての登校日だ。

その不安を表情に浮かべていた御春くんは、僕を見ていっそう顔を曇らせた。

 

慌てて御春くんの前に出たものの今何を言うべきなのか、僕の思考は昨日から止まったままだった。

出発まで時間もない。ただ思いつくままに、僕は口を開いた。

 

 

「御春くん……やっぱり一度なゆたのとこに…」

 

 

口をついて出たのは、正直な気持ちであり、僕の焦りでもあった。御春くんの気持ちに反するとしても、心配する心は偽れない。

 

 

「…………行ってきます…。」

 

 

…僕から顔を背け、御春くんは小さくそう呟く。今にも泣き出しそうな横顔が、一瞬だけ見えた。

胸が痛んだ。見えない針で何度も刺されるようだった。

 

母さんに向けたその言葉だけを残して、御春くんは行ってしまった。

なゆたちゃん、どうかしたの?

何も知らない母さんが首を傾げるなか、僕は沈んだ気持ちでリビングに戻るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

「何もかも、振り出しに戻っちゃった感じがするよ…。」

 

 

仲良くなれたと思っていた御春くんとの距離感。

なゆたの激励を受けて取り戻したはずの自信。

昨日まであったそれらがぱっ、と消えてしまったように感じて、空しさが心を覆う。

 

御春くんのことは、ずっと心配だった。なゆたの話を聞いて、すぐにでも霊を祓うべきだと信じて疑わなかった。…けど御春くんは違った。自分に憑いた霊のことを本気で想って、成仏できない原因を探すとまで言い出した。

自分の体も顧みずに。

…こんなとき兄として、どうするべきなんだろう。

僕にはそれが、分からなくなっていた。

 

 

 

 

「霊の未練を遂げさせたい、か…。本当は、それをしてやれるのが一番なんだがな…。」

 

 

遠い目をして、なゆたが呟く。

それが簡単なことではないとなゆたは知っている。もしかしたら御春くんも、分かっているのだろうか。

 

 

「…昨日話したのは、あくまで最悪の場合の話だ。どこの霊かも判明していない以上、祓う以外の方法は得策じゃないと思ったんだ。」

 

 

昇降口へ続く階段を下りながら、なゆたが口を開く。

口ぶりから、悔やむような感情が感じられた。

 

 

「…それでも、彼の気持ちを考えてやれなかったことに、後悔はある…。だから…」

 

 

先を行くなゆたが振り返り、僕を見上げた。

 

 

「せめて陽介は、寄り添っていてやってくれ。」

 

 

僕を見上げるその目には、様々な感情が入り交じっている。少なからず、疲労の色も見えた。

これは悩んだ末の、なゆたの答えなのだろう。

兄として、御春くんの側にいる者として、僕の選択を尊重する、と。

 

 

「僕に……出来るのかな…。」

 

 

出来ることならそうしたい。御春くんに、寄り添ってあげたい。

けれど、と昨日のことが頭を過る。

兄として何も出来なかった自分。かける言葉も見つけられなかった自分。

…僕が御春くんの側にいて、それで御春くんの力になれるのだろうか。

自信の消え失せた僕の心は、後ろ向きな気持ちばかりが生まれ続けていた。

 

 

 

 

 

 

「雨だ………。」

 

 

校舎の玄関まで来て、初めて気がついた。

窓越しでは気づかなかった、糸のように細い雨。それも、徐々に強くなっている。

弱ったな、と言葉が零れた。

 

 

「傘、忘れちゃった…。」

 

「私は持ってきてるぞ。隣、入れてやるよ。」

 

「ごめん、なゆた。…ありがと………」

 

 

 

続くはずの言葉が止まった。

思考が、記憶が、今朝の光景を思い出させる。

どんよりとした曇り空。

見送りのために玄関に立つ母さん。

僕から目を逸らし、家を出ていく御春くん。

…その手に、傘を持っていなかったこと。

 

 

 

「? どうした陽介、ぼけっとして。」

 

「ごめんなゆた、僕先に帰るからっ!」

 

「はっ!?…おい陽介!?」

 

 

なゆたの言葉も待たず、僕の足は雨空の下へと踏み出していた。

途端に全身を雨が襲い、一瞬でずぶ濡れになる。

靴に水が染み、踏み出す度に不快な水音がする。

…けれど、そんなことはどうでもよかった。

今頃、御春くんも雨に濡れているかもしれない。

それに気づいてしまったら、走り出さずにはいられなかった。

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

過去の記憶、自分が小学生だった頃を思い起こしながら、学校へ続く通学路を駆け抜ける。

母さんによれば、御春くんが通うのは僕と同じ小学校らしい。とすれば、通学路も同じはず。

数年前の記憶をなぞるように大通りを渡り、公園を横切り、住宅地に差し掛かる。

視界を遮る雨粒と濡れた髪を乱雑に払って辺りを見回す。…その先に、小さな背中が見えた。

見間違いようのない、耳と尻尾のシルエット。

そこに向かって駆け出しながら、僕はその名前を叫んでいた。

 

 

「御春くん…!」

 

 

しっとりと濡れて垂れ下がった猫耳と尻尾がぴん、と反応し、次いでその首が驚きを以てこちらを振り返る。

 

 

「お兄…さん…。」

 

 

ランドセルを両手で掴み、俯きぎみに歩いていた御春くん。ずっと雨に当たっていたせいで濡れた黒髪が肌に貼り付いている。

やっぱり、傘は持ってなかったみたいだ。

…その割には、急いで帰ろうとしていた様子ではなかった。ずぶ濡れになっているというのに、僕が見た時の足取りは遅く、とぼとぼとしたものだった。

 

一瞬疑問を持ったけれど、すぐにそれどころではない、とここに来た目的を思い出す。御春くんが何を思っているかは分からないが、このまま目の前で濡れさせ続ける訳にはいかない。

 

 

「御春くん…」

 

「は、はい……。」

 

「…走るよ!」

 

「ふぇっ!?ちょ、お兄さ……!」

 

 

言うが早いが御春くんの手を取り、家に向かって走り出す。

夢中だった。少しでも御春くんを守るために出来ることを…頭の中にはそれしか無かった。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

家に着いたときには既に、絞れそうなほど制服が雨水を吸っていた。

ずっしりと重くなったそれを脱ぎ、濡れの少ないワイシャツ姿で浴槽を洗い流し、お湯を溜める。

…十分もすれば入れるようになるだろう。

 

脱衣所に戻ると、下着姿の御春くんがいた。

僕が用意したタオルで体を覆い、濡れた体を拭いている。

その表情が固いのは体が冷えてしまったせいか、それとも僕がいるからなのか…。

御春くんを探すという使命感に追われていた僕も、それを果たした今、言い様のない気まずさに襲われていた。

 

きっと御春くんも、一人になりたいだろう。そう思い、僕は口を開く。

 

 

「もうすぐお風呂入れるから、御春くん先に入っていいよ。…暖まっておいで。」

 

「お兄さんは、どうするんですか…?」

 

「僕は…後でいいよ。体拭いて待ってるから。」

 

「だ、ダメですよっ!お兄さんも早く暖まらないと…!そんなに濡れてるんだから…。」

 

「でも……」

 

 

…今は、あまり僕と一緒に居たくないんじゃないか。

御春くんの気持ちを慮るとそう思えてしまい、どこか気が引けた。

けれど御春くんの気持ちは本物らしかった。心配そうな表情に、徐々に涙が滲んでくる。

 

 

「でももしお兄さんが風邪引いちゃったら……うぅ……」

 

「わ、分かったよ…!僕も入るから、ね?」

 

 

こくこく、と御春くんが首を縦に振る。

泣くほど心配されてしまっては、断ることも出来ない…。

本当に、この子は優しいんだな。

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

体を軽く洗い流し、湯船に肩まで浸かれば、程よい熱が冷えた全身に染み渡る。

体は解れる…けれどやはり、御春くんとの間に流れる空気はどこか張り詰めたもののように感じてしまう。

…また、会話が無くなってしまった。

 

 

視線の先には、膝を抱えるようにして湯船に浸かる御春くんが居る。

二人一緒に入れるくらいには浴槽は広い。…最も御春くんの方は僕と距離を取り、視線も逸らすように流しているけれど。

お互い、気まずい気持ちでいるのが分かる。

 

会話も無く、僕の視線は何とはなしに御春くんの肌に移っていた。

艶のある、白く綺麗な柔肌。男の僕もつい見とれてしまうほどの、無垢な魅力があるように思える。

綺麗だな、とぼんやり見つめていると、そこにふと違和感を感じた。

……御春くんが、震えている。

 

咄嗟に思い出したのは、猫を飼っていた頃の事だった。

世間一般の猫の例に漏れず、彼もお風呂が嫌いだった。

…今の御春くんは、時折猫の習性が表出する。もしかしたら……

 

 

「…お風呂、怖かった?」

 

 

窺うように尋ねると、御春くんは驚いたように顔を上げ、小さく頷いた。

震えを抑えるように、肩に回した両腕に力を込めている。

 

 

「前までは何ともなかったのに…。たぶんこれも、この子が憑いた影響、なんですね…。」

 

 

その恐怖心を想像するのは難しい。…でも、今の御春くんを見る限り生易しものでないことは確かだった。

言ってくれれば、シャワーだけでもよかったのに…。

そう言いかけたとき、御春くんの思い詰めたような表情が目に入った。

…御春くんは、僕に心を閉ざしている。

だからきっと、自分の中の霊のこと、その全てを一人で背負おうとしているんじゃないか。…そんな気がした。

 

 

 

 

「…御春くん。手、出して。」

 

 

言いながら、僕自身も手を伸ばす。

御春くんははじめきょとんとしていたが、躊躇いがちにその手を前に出してきた。

伸ばされた手と手を、指を絡めて繋ぐ。御春くんの微かな震えが伝わってきた。

小さな手のひらを優しく握りかえす。

 

 

「僕もいるから、大丈夫。…安心して。」

 

 

少しだけ、握った手に力が込もる。

触れ合った手のひらから感じていた震えが、少しずつ消えていく。

御春くんの表情はまだ少し固い。…けれどその目に、もう怯えは無かった。

 

 

「…お兄さん…。」

 

「…どうかな、平気そう?」

 

 

無言でだけど、頷いてくれた。

ほっと頬を綻ばせると、御春くんがおずおずと聞いてきた。

 

 

「…もうちょっと、近くに行っていいですか…?」

 

「! …もちろんいいよ。おいで?」

 

 

僕の言葉を聞き、それを待っていたかのように御春くんは、僕の前にちょこんと座り直した。

ちょうど僕の胸に、背中を預けるような形で。

…本当はずっとこうしたかったのかな、と思ってしまう。同時に、それは自分も同じだと気づく。

 

 

「…御春くん。ちょっとだけ、話してていいかな。…聞き流しても、構わないからさ。」

 

 

…御春くんは、何も言わない。

代わりに後ろから見る猫耳が、ぴこぴこと動くのだけが分かった。

 

 

「…まず、朝はごめん。昨日からずっと何を話せばいいか分からなくて、とにかく心配する気持ちだけが先走ってて……御春くんのこと、傷つけちゃったと思う。」

 

 

ごめんね、ともう一度小さく呟く。

一度深呼吸をしてから、自分の思いを吐き出した。

 

 

「…僕はやっぱり、御春くんを守りたい。」

 

 

ぴくっ、と猫耳と尻尾が忙しく動く。

 

 

「でもそれと同じくらい、御春くんが大切に思ってるものも、守りたいんだ。」

 

 

昨日御春くんにどっちの味方か、と問われた時を思い出し、

これじゃ答えになってないな、と苦笑した。

 

 

「全然纏まらないや…。でもこれが、僕の正直な気持ち。御春くんのことが心配なのは変わらない。…だけど、御春くんが悲しいままじゃ、解決したとは思えない。」

 

 

御春くんには、やっぱり笑顔でいてほしい。

昨日から悲しい顔ばかりを見続けたから、その思いは余計に強かった。

 

 

「大したことが出来るかは分からないけど……それでも僕は、御春くんの側で出来ることをしたいんだ。…これでも、お兄さんだから。」

 

 

 

…御春くんから、返事は来ない。

少し寂しく思いながらも、それでも仕方ないと割り切ろうとしたときだった。

お風呂の水面に、雫の滴る音がした。

静かな音を立てて水面を揺らすそれが、御春くんの瞳から零れたものだと気づく。

 

 

「ふっ…うぅ…ごめんなさっ…ごめんなさい……!」

 

「御春くん…?だ、大丈夫?」

 

「ずっと…謝りたかったんです……なゆたさんもお兄さんも、ぼくのこと心配してくれてるって分かってたのに……なのにぼくっ……みんなにひどいこと言って…!」

 

 

口をつぐんでいた御春くんから、涙と共に言葉が溢れ出した。

霊の残した未練を遂げさせてあげたかったこと。

僕たちの話で不安になり、思わず邪険にして逃げ出したこと。

けれど一人でどうすればいいか分からず、とても不安になっていたこと。

…昨夜も今朝も、ずっと僕に謝りたかったこと。

堰を切ったように御春くんが話した全ての思いを、僕は黙って受け止めた。

 

 

聞きながら思う。

僕たちは、不器用だと。

不器用にすれ違って、こうして不器用に仲直りして……

 

そっと、御春くんの背中に触れる。

滑らかな白い肌に手を滑らせ、その背を優しく撫でる。僕が泣いていたとき、よくやってもらった事だ。

 

 

「そんなに謝らないで。…僕もなゆたも、怒ったりなんかしてないから。」

 

「怒ってないんですか…?」

 

「うん。」

 

「嫌いになってないんですか…?」

 

「うん。…なゆたは今日も、御春くんを心配してたよ。僕だってそう。…それに、」

 

 

 

 

「僕は今だって、御春くんが大好きだよ。」

 

 

御春くんの前に腕を回す。

…ちょうど御春くんの小さな体を、抱きしめるようにして。

 

 

「だからもう、無理はしないで。…今度は、僕も頼ってね。」

 

 

ゆっくりと、御春くんが首肯した。

ぽたぽたと、また雫が水面を揺らした。

 

 

 

 

不意に御春くんが、胸の前で交差した僕の腕を取り、ぎゅっと自分の体を抱きしめさせた。

僕の体も引き寄せられ、御春くんの素肌の感触を全身で感じどきり、となる。

 

 

「…少しだけ、こうしてていいですか…?」

 

 

僕の腕に頬を擦り寄せて、御春くんが呟く。

 

 

「…昨日から、ずっと寂しかったから。」

 

 

小さく、そう付け加えた。

 

 

「…いいよ。僕も、寂しかった。」

 

 

僕の言葉に、驚いたように御春くんが振り返った。

目と目が合い、改めて自分たちの距離を実感する。兄弟とはいえ、近すぎるくらいの距離。それも風呂場なので当然裸。…今になって、少しの羞恥心が芽生えてしまう。

御春くんも顔を赤らめ、すぐに前へ向き直ってしまった。…一瞬、嬉しそうに笑って。

 

僕の腕は前で交差し、御春くんの肩に乗っている。

御春くんの体温。素肌で感じるせいか、いつもより暖かく感じる。

少し恥ずかしくもあり、とても嬉しくもある時間。

 

僕たちは、また繋がれた。

 

 

 

 



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7話 織り重なる想いは猫耳と共に

ーーーーー

ーーー

 

 

 

天井を見上げ、雨粒が屋根を叩く音にぼんやりと耳を澄ます。

雨足は学校を出た時より収まったけれど、まだしばらく止む気配はない。

傘を持っていたとはいえ、なゆたは大丈夫だろうか…。御春くんを心配するあまり置いてきぼりにしてしまったことも謝りたい。

 

 

「あとで電話しよう。………ふぁあ…」

 

 

少し瞼が重い。リビングのソファに腰を沈めたまま、眠ってしまいそうだった。

御春くんと仲直りできてほっとしたこと。

お風呂に入って体がリラックスしたこと。

…いろいろ理由は思い付くけど、一番の理由は…

 

膝の上で眠る、御春くんの温もりだろう。

 

 

 

お風呂から上がり、髪を乾かした後、僕と御春くんは並んでソファに座り、話をしていた。

御春くんの体について気づいたこと。今日から始まった新しい学校のこと。…御春くんを助けるためにとにかく情報を、と色々な話を聞いたけれど、正直に言って現状を打開できる何かが得られた訳ではなかった。

 

けれどその時間が、全く無意味だったとは思わない。

自分のことを少しずつ話してくれた御春くんの表情は、昨日よりずっと晴れやかになった。

…たったそれだけの変化。それでも、御春くんの心が少し前を向けるようになったことが嬉しい。

 

 

 

「少しは安心できる場所になれたのかな…なんて。」

 

 

僕の腿を枕にして、いつの間にか眠ってしまった御春くんに視線を落とす。

安心しきったように小さな寝息を立てる姿が愛おしくて、思わずその頭を撫でそうになる。

…けれど猫耳が敏感なことを思い出し、すんでで手を引っ込めた。

 

代わりに御春くんの背中に手を沿わせる。シャツ一枚を隔てて、御春くんの体温が掌に伝わってきた。

猫を撫でる仕草を想起しながら、御春くんの背を優しく撫でていく。

普段から、御春くんは体温が高めなことに気づいた。だから御春くんを膝に乗せた僕まで、眠くなってしまうのか……。

 

 

「う…んん……」

 

 

もぞもぞと、膝の上で動く感覚。

起こしちゃったかな、と下を見ると、御春くんの目が虚ろに開いていた。

一瞬どきりとしたが、御春くんは僕ではなく天井を………というより、目に見えない"何か"を見ている、そんな目をしていた。

 

…同じ目だ、と気づく。

なゆたの家を飛び出した後、夫婦の猫を見て涙を流していたときの目。

御春くんのはずなのに、御春くんじゃないような…。

 

 

「会い…たいよ……また………。」

 

 

うっすらと涙を滲ませ、御春くんの口からそんな声が零れた。

寝言よりもはっきりと、けれどどこか虚ろな声。

何かに語りかけるように、その手を上へ伸ばしながら。

 

 

(…この子が、御春くんに憑いている霊、なのかな。)

 

 

なゆたは、この霊に何か未練があったせいで、成仏出来ないまま御春くんに憑いたのでは、と言っていた。

…誰かに会いたい。その気持ちがこの子の"未練"なのだろうか。

 

やがて虚ろな瞳は閉じられ、伸ばした腕だけがくたっと僕の胸に寄りかかる。

この手を伸ばした先…そこにあるものを僕は、御春くんを助けるための終着(ゴール)として考えてきた。

だけど今は――

 

 

「…助けるから。きみのことも、絶対に。」

 

 

寄りかかる手に自分の手を重ねる。

手のひらにじんわりと伝わる温もりを感じながら、静かに決意を告げる。

…遂げさせてあげたい。御春くんのためにも。この子自身のためにも。

 

 

 

 

 

 

 

がちゃり、とリビングの扉が開いたのは、どのくらい後のことだっただろう。

御春くんの手を握ったまま、うとうとしていた体が物音でびくん、と跳ねるように反応し、それによって目が覚める。

物音の方を向き、思わずあれ、と声が出た。

 

 

「父さん…!」

 

「…ああ、ただいま。起こしちゃったかな…。」

 

 

まさか父さんが居ると思わず、驚きに目を丸くする。

普通に考えて、帰りはもっと遅いはず…と疑問が浮かぶ。

 

 

「お、おかえりなさい。…どうしたの、こんな時間に?」

 

「いや、また直ぐに出発しないとなんだけどな。取引先と会うまで少し時間があったから、一度シャワーでもと思って帰ってきたんだよ。」

 

「そっか……。」

 

 

見れば父さんの服装は、雨の中を帰ってきた割に綺麗だった。僕が起きるまで、シャワーを浴びていたらしい。

 

何か言葉を続けようとしたけれど、思いつくことがなく黙ってしまう。父さんも、何か言葉を探している風に静かに立っていた。

…そういえば、父さんとは日曜日の朝から、二人きりで会話する機会が無かった。

御春くんに慰められたといえ、あの時のことはまだ罪悪感と共に胸に引っかかっていた。

 

………数秒、沈黙の時間が流れた。

 

 

 

 

 

 

 

「…ごめんなさいっ!」

 

「…ありがとう。」

 

 

僕が思いきり頭を下げ、父さんは優しく笑って同時に言葉を投げかけた。

えっ、と互いが顔を見合わせたのは、言うまでもない。

 

 

「ええと、

何か謝られるようなことされたかな…?」

 

「その、この前の朝…

御春くんの頭を撫でてたことで…。」

 

「………ああ!」

 

 

しばし首を捻っていた父さんは、ようやく思い出したように指を立てた。

 

 

「でしゃばったことして、嫌な気持ちにさせてたんじゃないかって……それを、ずっと謝りたくて。」

 

「……はははっ。なんだ、そんなことだったか。」

 

 

予想もしていなかったからっとした笑いを返され、僕は呆気にとられた。

 

 

「いや、むしろ嬉しかったよ。…それだけ、御春が陽介に心を開いたんだって分かったからな。」

 

「…僕に、心を?」

 

 

聞き返した僕に、父さんは目を細めて笑いかける。

どこか、昔を思い出すような表情で。

 

 

「前にも話したことがあったけど……御春は、知っての通り引っ込み思案でね、前の小学校でもあまり友達の輪に馴染めてなかったらしい。」

 

 

いじめられていたとかでは無いんだがね、と付け加え、また父さんは話し出す。

 

 

「――だから、新しく兄が出来ると分かったときはとても不安がっていたよ。…毎日を一緒に過ごす人が新しく出来る訳だからな。もしかしたら嫌われるんじゃないかって、泣きながら相談してきたこともあった。」

 

 

そんなことがあったんだ…。

視線は、自然と膝上の御春くんに向いていた。

僕の側で、安心しきったように眠る御春くん。

父さんもまた、同様に御春くんに視線を落としていた。

 

 

「だから、本当は御春を心配してた。けど陽介は、ちゃんと御春に寄り添ってくれた。御春を心から想ってくれた。……御春が父さんに言いにくいことも相談できるまでになってた。…それが、嬉しかったんだ。」

 

 

ありがとう。

父さんはもう一度、僕にそう言った。

 

御春くんが僕に明かしてくれた、色々なこと。

それは自分で思っていた以上に、御春くんが心を許してくれた証だった。

 

 

「……ん……お兄…ちゃん……。」

 

 

膝の上で、また御春くんが寝返りをうつ。

不安を忘れた、安らかな寝顔。

それを覗いて、父さんと二人笑顔を浮かべる。

 

 

「また、きっと…」

 

「ん?」

 

「きっと…御春くんも、また父さんに撫でてもらいたいって…言うようになると思う。」

 

「そうか…そうなったら、嬉しいなあ。」

 

 

…そうなるためにも、僕に出来ることをしなくちゃ。

もしかしたらという思いで、父さんに向き直る。

 

 

「聞きたいことがあるんだけど…。引っ越して来る前の、御春くんのことで。」

 

「? ああ、構わないよ。」

 

「御春くんの周りに、猫っていなかった?」

 

「………?」

 

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

「今日は置いてっちゃってごめん…。御春くんのこと考えたら、居ても立ってもいられなくて…。」

 

「気にするな。…むしろ、ようやく陽介らしい所が見られて安心したよ。」

 

 

電話口でそう応えるなゆたの口調は、いつもの調子が戻ったみたいだった。

 

 

「傘無しで雨の中に飛び込んでいったときは目を疑ったが、…まあ誰かのことであのくらい無我夢中になれるのが、陽介の良いところだよ。」

 

 

呆れられてるのか褒められてるのか……苦笑いを浮かべている間にもなゆたの声が続く。

 

 

「その様子だと、上手く仲直りできたみたいだな。」

 

「…うん、なゆたが背中を押してくれたお陰だよ。」

 

 

それで、と本題を切り出す。

父さんの話を聞き、出発を見送った後で、()()()確認をするために僕はなゆたに電話をかけていた。

 

 

「御春くんに憑いてる霊の意識、それが出てくる時がたまにある。…そういうのって、何か理由があって出てくるものなのかな。」

 

 

…僅かな沈黙の後、電話口から返答が聞こえてきた。

 

 

「…未練を残した場所や、それに近い状況にあるとき、霊の意識も表出し易い。そうでなくても霊の感情が憑かれた人間に表れることもあるらしい。」

 

 

なゆたの言葉を聞きながら、これまでの様々な瞬間が脳裏を過る。

涙を流していた時。誰かに向けて、手を伸ばしていた時。

…やっぱり、と確信に近いものを感じ呟いた。

一方で、電話越しのなゆたの声には焦りが混じっていた。

 

 

「分かっていると思うが、意識が表出し始めたら黄色信号だ。あまり猶予は……」

 

「分かってる。…だから今から出かけてくる。」

 

「なっ、今から!?」

 

 

外はとうに雨も上がり、雲間から覗く傾きかけの夕日が幻想的に空を彩っている。日暮れと言っていい時間帯だ。

…帰りは遅くなってしまうが、早いに越したことはないと思った。

 

 

「まったく…本当に、陽介らしい。」

 

 

ため息混じりの苦笑が聞こえてくる。

 

 

「悠長にも構えてられないからね。…これで解決するなら、早い方がいいから。」

 

 

言い終わると同時に、御春くんが部屋に入ってきた。

着替え終わっているのを確認して、僕も立ち上がった。

少し不安げな表情で近づいてきた御春くんの手を、しっかりと握る。

 

 

「…気をつけてな。」

 

 

その言葉で締められた通話を切り、電話をポケットに突っ込む。

 

 

「行こっか、御春くん。」

 

 

 

 

 

 

 



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8話 秘めた本音は猫耳と共に

ーーーーー

ーーー

 

 

 

電車を降りると、沈みかけの夕陽が目に入った。

家を出る前より、だいぶ傾いてきた夕陽。

その強い橙色が、目に写る景色を照らし出す。

大きな影を作る山々と、水面が夕陽を反射する水田が広がる、いわゆる"田舎"らしい風景。

来るのは初めてのはずなのに、懐かしさともの悲しさが胸を掠めてゆく。

ここが…。と呟くと、横に立つ御春くんがこくりと頷いた。

 

 

「ちょっとだけ、久しぶりです…。」

 

 

家の最寄り駅からおよそ一時間電車に揺られ、僕達は御春くんが以前に住んでいた町に到着した。

 

 

「…御春くん、疲れてない?」

 

「ありがとうございます…でも、平気ですよ。久しぶりに帰ってこれたし…それに……」

 

 

もじもじと指を弄りながら、御春くんが気恥ずかしげに喋る。

 

 

「さっきその…お兄さんの膝枕で、たくさん眠れたので…。」

 

 

ぽっと頬を染める御春くんは、その時のことを思い出しているようだった。

猫耳と尻尾が、落ち着きなく上下する。

目が覚めて自分が膝枕で寝ていたと知ったときも恥ずかしそうに真っ赤になっていた。

…何はともあれ、疲れていないのならよかった。

 

改めて、駅のホームから見える町を見回す。

…町より村と言った方が正しい気もするけれど、自然の緑が一面に広がる景色は、ただ見ているだけで心が落ち着くものだった。

どことなく、なゆたの神社に居る時と似た気持ちになれる。

 

 

「…いいところだね。」

 

 

同意するように、御春くんが微笑んだ。

行こっか、とその手を引き、僕らは町の中へ繰り出した。

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

田んぼ道を進み、土手を通り、御春くんの住んでいた町を歩き続ける。広がる田畑を眼下に、山と山の間から差す夕陽を受けながら…。

少しずつ目的地に近づいてくると、繋いだ手に込められる力がだんだんと強くなり、それが御春くんの感情を伝えてくる。

 

 

「…怖いよね。」

 

 

手のひらの上、驚いたようにぴくっと動く反応があったかと思うと、心の不安を表すようにまた強く握り返してくる。

小さく柔らかな手だから、痛くはない。けれど御春くんの感じる不安は、痛いほど伝わってくる。

 

(無理もないよな…。)

 

今から向かう先は、父さんに教えてもらった。僕自身、御春くんに憑いた霊の()()はそこにあると、話を聞いてほとんど確信していた。

けれどそれも正しいのか、正しかったとして何が起こるのか、ちゃんと御春くんの中に居る()()()を救えるのか…。

行く手にあるのは、僕には分からないことばかり。

 

それでも…と僕は思う。

振り返り、繋がれた手の先、御春くんの目を見て告げる。

 

 

「僕はそばにいるよ。…ずっと、そばにいる。」

 

 

それでも今、御春くんの隣に居るのは僕だから。

僕に出来るやり方で、御春くんを支えるんだ。

 

 

 

 

 

「…さあ、行こっか。」

 

 

御春くんに手を引き、先に進もうとする。

…けれど、立ち止まったままの御春くんに、それを止められた。

 

「御春くん…?」

 

振り返った先で、俯きぎみの御春くんが目に映る。

表情が読み取れないまま、その口が開かれた。

 

 

 

「…お兄さんは、どうしてこんなに優しくしてくれるんですか……?」

 

 

 

――投げかけられた問いに、僕の体も止まった。

振り返ったまま、手だけは繋がれたまま、傾いてゆく橙色の光の中で向かい合っていた。

……どのくらいそうしていたのだろう。

先に口を開いたのは、御春くんの方だった。

 

 

「ごめんなさい、いきなりこんな質問……意味分からないですよね…。」

 

 

――それは確かに、僕が抱いた正直な気持ちだった。

今の問いかけは、一体どんな意味で……。聞き返すことも出来ず立ち尽くす僕に、御春くんはぽつぽつと喋り出した。

 

 

「お兄さんには、たくさん助けてもらいました。たくさん、優しくしてももらいました。…すごく嬉しかったです。…でもその度に、いいのかな、って思っちゃって…。」

 

「いいのかなって……何が?」

 

「…ぼくには、お兄さんの優しさに見合うだけのことも出来てないから…。ずっと助けられてばっかりで…。だから嬉しいはずなのに、どこか申し訳なくって…。こんなぼくなんかがって、どうしても思っちゃって…。」

 

 

――御春くんのその本音は、初めて知るものだった。

自分は助けられるに足る人間なのか…、その自信が持てないまま、手が差しのべ続けられることに不安を抱いていた。

 

…そんなの、いいに決まってる。

咄嗟に僕はそう思ったし、言葉にも出そうとした。

その言葉を止めたのは、不意に胸を過った懐かしさ…。

…いつだったか、こんなやり取りを僕も―――。

 

 

…………

……

 

『…こんなんで兄としてやってけるのかな、って……』

 

『なゆたくらい、僕も強ければ…』

 

……

…………

 

 

 

「……ああ、そっか…。」

 

 

御春くんの言葉に感じた既視感の正体。

それは誰でもない、僕自身の姿(悩み)

自分に自信を持てなくて、抱いてしまう後ろ向きな気持ち…。

似ているんだ、()()()の僕と。

 

 

 

「…兄弟が出来るって聞いた時さ、…御春くんは不安に思った?」

 

「えっ…?」

 

 

答えの代わりに返ってきた質問に、御春くんが困惑したのも無理はない。…それでも、僕はこのことを話したかった。

兄弟が出来る不安…御春くんがそれを抱いていたと、答えは父さんから聞いていたから、少し意地悪な質問だなと思う。

 

 

「僕は……すごく不安だったよ。」

 

「! …お兄さんも?」

 

 

驚いたようにこちらを見つめる瞳が見開かれる。

僕も同じ不安を抱いていたとは思わなかったらしい。

 

 

「弟になんて、どう接していけばいいのか…どうやって話そうかとか、色々すごく悩んで、らしくないこともしようとしたりしてね。」

 

 

あの自分がほんの数日前というのも、振り返ると嘘のようだと思う。

とにかく未知の世界を不安に思う気持ち。あの頃はそればかりが大きくなって、自分自身を失いかけていた。

 

 

「でもそんなことしなくても、いつも通りでいい、僕の中にある優しさを信じろって、背中を押して貰ってさ。…多分その言葉があったから、御春くんに初めて会ったときも、一歩踏み出せたんだと思う。」

 

 

…あのときも御春くんの手を握ったっけと、思い出しながら今も繋いでいる手に視線をやる。

御春くんも同じように繋いだ手を見ていた。

微笑し、僕は言葉を続ける。

 

 

「それがさっきの質問への答え……の半分かな。」

 

「半分…?」

 

「そう。…背中を押して貰ったのは、きっかけでしかないから。」

 

 

あの言葉は確かに、僕を奮い立たせてくれた。

…なら、その心のまま、頑張ってこれたのは…。

今も、この手を繋げているのは――。

 

 

「……御春くんのおかげだよ。」

 

 

視界の横で、猫耳がぴん、と立ったのが見えた。

驚いたらしい。もう猫耳から感情を読み取るのも慣れたものだ。

 

 

「ぼくのおかげ…?…でもぼく、お兄さんに助けられてばっかりで、何も……。」

 

「…確かに、御春くんを助けたくて、色々やったよね。けど全部が全部上手くいったとは思わない。…がむしゃらだったし、空回りもした。それでも僕のことを、御春くんはずっと信じてくれた。そんな御春くんに、僕の方も支えてもらってたんだよ。」

 

 

言いながら、僕自身そのことにようやく気づけた気がした。

僕は、御春くんに支えられてたんだ。

だから、もっと御春くんの力になりたいと思ったんだ。

 

 

…………

……

 

『こんな変わり者の私でも、好き好んで付き合ってくれる…。そんな陽介(ヤツ)がそばに居るから、私も自分に自信が持てる。…感謝してるよ。』

 

……

…………

 

 

あの時…自信を失いかけていたときに、僕が羨んだ強さも、一人で為し得たものじゃなかった。

今ならなゆたの言葉が、しっかりと解る気がした。

 

 

「こんな時に言うことじゃないかもだけど……

ありがとね。

僕の弟が御春くんで、本当に良かった。」

 

 

繋がれた御春くんの右手に、自分の右手を重ねる。

ちょうど両手の平で御春くんの手を挟むようにして。

手から手へ、暖かさが伝わってゆく。

 

きょとん、としていた御春くんが、静かに重ねた手に頬を擦り寄せた。

もふっとした猫耳と、御春くんの頬の感触が伝わってきた。

 

 

「ぼくも…」

 

 

頬から手のひらに、熱い雫が溢れ伝う。

涙でいっぱいになりながらも、御春くんの表情は晴れやかになっていた。

 

 

「…ぼくも、お兄さんがぼくのお兄さんで…幸せです…。」

 

 

 

 

立ち止まっていた足が、一歩、二歩と前に出る。

陰の中にいた御春くんが、夕陽に照らされてゆく。

こちらに微笑むその笑顔が、いっそう輝いて見える。

御春くんが、隣に立った。

並んで歩けるから、もう手を引く必要はない。

それでも手を繋ぐのは、ただ繋いでいたいから。

 

 

「行こう、御春くん。」

 

「はいっ。」

 

 

――今度こそ、僕らは歩み出した。

 

 

 

 

 



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9話 果たすべき望みは猫耳と共に

ーーーーー

ーーー

 

 

「父さんに聞いたんだ。御春くんの回りに猫はいなかったか、って。…そしたら、ここを教えてくれた。」

 

 

そう言いながら僕は、西日の差す目の前の光景に目を細めた。

橙に染まり僕らの目に写るもの……それは小さな、無人の公園だった。

公園、とは言うものの、あるのはブランコなど錆びた遊具が幾つかとベンチ程度、それらが生け垣に囲われただけの質素な場所だった。

 

 

「野良猫が二匹、ここでよくじゃれてたんだって。オスとメスだったからつがいなのかなって、近所の人も話してて。」

 

 

閑散とした公園に、父さんに聞いた二匹の姿を思い描く。

例えば遊具と遊具の間を、追いかけっこするように並んで走ったり。

例えばベンチの上で、日向ぼっこするように丸まったり。

想像することしか出来ないけど、きっとそんな平穏の日々がここにはあったんだろう。

 

 

「二匹とも人懐っこくて、近所の人達にも可愛がられてた。…でも」

 

 

そこで一度言葉を切り、御春くんの方へ視線を落とす。

御春くんは膝を抱え、公園の入り口にしゃがみ込んでいた。悲しそうな目で見つめる先、道路の隅には、いくつかの花束がそっと手向けられていた。

 

…オスの猫が公園から飛び出したところに、ちょうど車が通りかった。不幸な事故だったけれど、それを悼む人は大勢いてくれたらしい。

 

 

「残されたメスはそのあと姿を消して、ここに来ることも無くなった。…それがちょうど、三週間前の話。」

 

 

父さんから聞いた話は、これが全てだった。

三週間前…。

ちょうど、御春くんに猫耳と尻尾が生えた頃だ。

一匹の猫がこの世を去って、同じ時に御春くんに猫耳と尻尾が生えた。なゆたは、それを猫の霊が憑いたからだと言った。

……断片的だったものが全て、頭の中で合わさってゆく。この真実こそ、僕たちが追っていたものなのだろう。

 

 

 

「知りませんでした…そんなことがあったなんて…。ちょうど引っ越しが決まって、忙しい時だったから。」

 

 

御春くんが呟きながら立ち上がるのを見届け、僕は公園に入る。後ろから軽い足音が付いてくる。

靴が砂を踏む、じゃりじゃりとした音。静かな夕暮れの中では、その音も大きく聞こえるようだった。

 

 

「…でも、なんとなく分かります。この子はずっと、ここを目指してたんだって。」

 

 

そう言って御春くんは、掌を胸に当てる。

とくん、という音が聞こえた気がしたのは、

御春くんの心音を思い出したからだろう。

手を繋いだ時、抱きしめた時、聞こえた優しく暖かい音……。

 

 

「…時間かかっちゃってごめんね。

やっと来れたよ…君が来たかった場所。」

 

 

今はその音の中にいる"霊"に、御春くんは呼びかけていた。

 

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

しばらく僕たちは、公園内をぐるりと周回していた。

その間も公園を訪れる人はなく、ただ静かに時が過ぎ、陽は傾いていく。

時折聞こえる音といえば、遠くから響いてくる子どもたちの笑い声――遊び終えて帰るところなのだろう――くらい。

その静寂に案の定、と思いつつも、少し気持ちが落ち込んだのも事実だった。

 

 

「やっぱり、もうここにはいないのかな…。」

 

「?…お兄さん、何か言いましたか?」

 

 

僕の呟きに、後ろについて歩いていた御春くんがひょこっと顔を覗かせる。聞き耳を立てるように、無意識で猫耳もぴこぴこ動いてしまっている。

思わず笑みを零しながらも、僕は御春くんに説明した。

 

 

「御春くんに憑いてる霊、ここに来る前言ってたんだ。…誰かに"また会いたい"って。」

 

 

無意識の中で、必死に手を伸ばして…。

その相手が誰なのかは、父さんの話を聞いてはっきりした。…きっと、死に別れたというメスの猫。離ればなれになってしまった一つきりの"繋がり"を、この子は懸命に辿っていたのだ。

 

だからきっと、ただここに来ることだけが"この子"の未練じゃないはずだ。会いたい相手に会えること。それを果たさせてあげないと…。けど公園(ここ)に居ないとなると、どこを探せばいいのか……既に陽は沈む直前、思わず途方に暮れそうになってしまう。

 

 

「たぶんもう、ここには…」

 

「来てくれます。……きっと。」

 

 

僕の言葉を、御春くんがしっかりとした口調で遮った。

驚く僕を見つめる御春くんは、ほんの数日前に出会った時より、遥かに大人びて見えた。

御春くんは一度微笑み、不意にその場にしゃがみ込んだ。

僕は驚き、気分でも悪くなったのかと心配して駆け寄るが、そうではないらしい。真剣な眼差しで、御春くんは地面を手でなぞっていた。…よく見れば、拾った木の枝で何かを書いているようだ。

視線はそのままに、御春くんが口を開いた。

 

 

「"会いたい"っていうのは、きっと本心です。…でも、まだ"この子"はその決心がついてない。…そんな気がするんです。」

 

「決心…?」

 

「…だから――お兄さん、お願いします。」

 

 

顔をあげ、僕を見上げる上目遣いで御春くんが言う。

 

 

 

 

「"この子"がもし、立ち止まりそうになっていたら……その時は、背中を押してあげてほしいんです。」

 

 

立ち上がり、僕と目を合わせて御春くんが向かい合う。

僕たちを巻き込んだ、不思議な事件。けれどその中で、本当にこの子は成長した。…強さも、優しさも。

御春くんと向き合い、僕はそう思った。

 

 

 

 

 

その"声"は突然に、公園に響き渡った。

何かを呼ぶようによく通ったその"声"には、哀しさだとか懐かしさだとか、そんな一言では言い表せないほどに沢山の感情が折り重なっていた……ように僕には聞こえた。

本当のところは分からない。僕に()()()()()を聞き分ける力は無いのだから。

 

いつの間にやって来たのだろう…猫は、僕と御春くんの背後にいた。すらりとした姿勢で、静かに佇んでいた。

白の毛並みが美しい。深い青色の瞳には僕らの姿が映っている。

 

隣で御春くんが、小さく息を飲む音がした。

御春くんの瞳は、虹彩が美しい青に変わり、黒目は縦に細くなっている。ぱっちりと開いたそれは、目の前で佇む猫のものとよく似ている…少なくとも、人間の目ではなくなっていた。

その目で御春くんは……いや、御春くんの体を借りた"彼"は、言葉を失ったように佇む猫を見つめている。

…思えばちゃんとした形で"彼"を見るのは、これが初めてのことだ。

 

 

 

「…行っておいで。……()()の会いたかった(ヒト)なんでしょ?」

 

 

御春くんに憑いていた猫の霊。その意識が表出したということは、やっぱりあの白猫こそ、父さんの言ってたメスの猫…なのだろう。

 

けれど"彼"は、何かを躊躇うような表情を浮かべ、白猫から視線を逸らしてしまう。

…決心がついていない。御春くんの言葉は正しいようだ。けど、一体何が……。

 

押し黙ったままの"彼"を見つめていると、別の鳴き声がまた聞こえなくてきた。小さな、しかも複数の鳴き声…。

 

 

「あっ…。」

 

 

その光景に、僕も"彼"も思わず声を上げた。

真っ直ぐに佇む白猫を取り囲むように、子猫が三匹やって来たのだ。

白猫の周りにじゃれつく姿は間違いなく、母に甘える子ども達の姿だった。

白に被さるような黒の毛並み。黒い毛並みは、僕の隣で立ち竦む"この子"から受け継いだものだろうか…。

 

父さんは子猫がいるなんて話してなかった。つまりあの後、メスは独り残されてからこの子たちを産んでいたんだ。

近づくことを躊躇していた"彼"も、その光景に思わず一歩踏み出そうとした。……けれど何かを感じ取ったのか、子猫たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、近くの遊具に隠れてしまう。母猫が鳴いても、そこを動こうとしない。完全に怯えきってしまっている。

 

――こんなことは、前にもあった。他の猫達が御春くんが近づくのを恐れ、拒んでいた……。

御春くんに憑いている霊が元は猫であるせいか、猫同士何か感じ取れるのだろう。

…だとしても残酷だと、思わずにいられない。あの子猫たちはきっと、"彼"の子でもあるのだから……。

 

 

 

「やっぱりこうなるんだ…。…分かってたのに……怖がらせるだけだって…もう来るべきじゃないんだって……分かってたのにっ………」

 

 

御春くんの声で"彼"は自嘲するように言葉を吐いた。声は徐々に震え、言葉に涙が混じる。頬から地面へ、伝ったものが砂を濡らす。

…踏み出そうとした一歩は、いつの間にか後退っていた。

 

 

…御春くんの言葉が頭に蘇った。

分かってる。涙を流すほどの思いを、遂げさせないままには出来ない。

僕はそっと、震える肩に手を添えた。

 

 

「ちゃんと伝えな。きみがここに来たこと、きみが伝えきれてなかったこと。…全部、話してきな。」

 

「でもっ…!この声も言葉も、もう届かないんだよ…!?それなのにどうやって……何て言えばいいんだよっ………!」

 

 

"彼"は俯き、堪えきれない涙の粒を滴らせる。

…確かに今の”彼”では、猫の頃のようなコミュニケーションはとれない。

おまけに霊である以上、近づくだけで他の猫に恐れられる始末だ。

それでも――

 

 

「……下、見てみて。」

 

「え……?」

 

 

僕が指さした先、地面の砂の上を、言われるがまま”彼”は覗く。

膝を抱え視線を落とす。……やがてあっ、と短く声が上がった。

 

 

「これ…まさか…。」

 

「そう。御春くんから、きみへの言葉。」

 

 

意識が"彼"と入れ替わる前、御春くんが書き残していた言葉―――

 

 

 

『つながりはずっと続いてく。だから大丈夫。』

 

 

 

――霊である"彼"への、小さなエール。

 

 

「信じてあげて。きみが行きている間、あの子と育んだものを。」

 

 

無言のまま、じっと文字を見つめていた”彼”は――

やがて立ち上がり、ゆっくりと歩きだした。

近づくにつれ子猫たちがいっそう怯えるなか、ただ一匹動かない白猫の元へと。

一メートルほど距離を空けた所で目線を合わせるようにしゃがみ込み、”彼”は小さく微笑んだ。

 

 

「…久しぶり。」

 

「なんか、不思議な感じだね…。きみってこんなに小さかったかなぁ…」

 

「たぶんきみには、この言葉も分からないんだろうな…今目の前で話してるのが、誰なのかも…。」

 

「気づいてもらえなくて当たり前なんだけどさ。…それでも、きみに忘れられちゃってるみたいで、そんな反応が返ってくるのが怖かった。」

 

「……けど、どうしても会いたかった。きみを見ないで消えてしまったら、いつか本当にきみを忘れてしまそうで…そっちの方が怖かったから。」

 

「だから……また会えてよかった。」

 

 

所々涙混じりに、声を震わせながら、それでも最後に"彼"はまた笑顔を浮かべていた。

 

 

「……これから言うことは、きみに届かなくてもいい。ただ、言いたいだけだから。……ぼくは、きみに出会えて―――っ!」

 

 

…"彼"がそこで言葉に詰まったのは、涙のせいじゃない。ただ驚いて、言葉が出なかったのだ。

その掌にそっと、白猫が頬を擦り寄せていたから。

 

他の猫のように恐れることもなく"彼"に近づき、気持ちよさそうに頬擦りをする。

 

震える手で抱き上げれば、嬉しそうににゃあ、と鳴く。…本当に、恐がる様子は少しもない。

 

 

「っ……!」

 

 

"彼"が乱暴なくらい抱きしめても、"彼"が涙でぐしゃぐしゃの顔を擦り寄せても。ただ嬉しそうに、本当に嬉しそうに……。

 

 

 

ぼくは、きみに出会えて―――

―――幸せだよ。

 

 

 



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10話 猫耳と共に、最後の時間を

ーーーーー

ーーー

 

 

”彼”はその後も、白猫に多くの話をしていた。

陽が沈み、公園を照らす明かりが寂しい街灯のみになる頃まで。

白猫は飽きる素振りも見せず、静かにそれに付き合っていた。言葉が分かる訳ではない。”彼”の姿も以前とは違う。それでも、”彼”が嬉しいと感じていることに、気づいているかのように。

 

……やがてその時間も、終わる時が来た。

 

 

「…じゃあね。あんまり早く、こっち来ちゃダメだよ。」

 

 

()()が過ごす、最後の時間。”彼”は冗談めかしてそう言い、悪戯っぽく笑いかけた。

白猫は一声、真っ直ぐに鳴いた。”彼”に返事をするように、あるいは別れを告げるように。

子どもたちも、親に倣って鳴いた。…それだけで、”彼”は満たされたように目尻を下げた。猫耳も尻尾も、呼応して左右に揺れている。

 

猫たちは列を成して公園を後にし、やがて闇の中へ溶けるようにいなくなった。

それに背を向け、”彼”はベンチに座る僕の前に戻ってくる。夜の闇に、青の猫目が輝いていた。

 

 

「…やりたかったことは、できた?」

 

「うん、おかげさまで。……ねえ、もう少しここに居ていい?」

 

 

後ろで組んでいた手を前に出し、胸の前で指を絡めながら”彼”が聞いてきた。

 

 

「――最後は、この場所がいいんだ。」

 

 

――その目が少しだけ、震えたように見えた。

分かっていても、分かっているからこそ、消えることが怖いのだろう。…僕には、”彼”の胸を侵すその感情を想像することしかできない。でも、だからこそ、その思いを断る理由は一つも無かった。

 

 

「もちろんいいよ。…こっち、座ったら?」

 

 

おいで、と手で招くと、”彼”は素直にベンチに近づき、すとんと腰を下ろした。

……僕の膝の上に。

 

 

「え。」

 

「えっ?……あ、ごめん…つい癖で…。」

 

 

そっか…この子、猫だもんな。

そっと僕の横に座り直した”彼”はちょっと恥ずかしそうで、思わず笑みがこぼれてしまう。

 

 

「落ち着くなら、膝の上でもいいよ…?」

 

「…いいって。話しづらそうだし。」

 

 

赤らめた顔を背けてそう言いながらも、”彼”はどこかそわそわしている。

…普通に腰かけている状態が、落ち着かないらしい。

 

 

「…じゃあ、こうしよっか。」

 

「えっ……わぁっ!?」

 

 

もじもじと忙しい肩をぐい、と引き寄せ、そのまま太ももの上に頭を乗っけさせる。あっという間に膝枕の体勢に引き込まれ、”彼”の猫耳と尻尾が驚いたようにぴん、となった。

 

 

「これなら、落ち着くんじゃないかな?」

 

「落ち着くって、こんな無理矢理…。いいって言ってるのに……。まあ、暖かいけど…。」

 

 

ぶつぶつ言いながらも、頭の位置や体勢を変えるのに余念がない。

収まる場所を見つければ、気持ち良さそうに喉を鳴らす。…ツンデレというか何というか、仕草が猫らしくて微笑ましかった。

うちにいた猫も、こんな風に膝の上に眠りに来てたっけ…。

懐かしさが胸を包む。一年前、我が家にもう一匹家族がいた頃を思い出しながら、掌は無意識に”彼”の――というか御春くんの――体へ…。伸ばした掌を肋骨から脇腹へ、なぞるように滑らせていた。

 

「ひゃぅっ!?」

 

「あっ…!ご、ごめん、思わず…。」

 

 

膝上にいるのが本物の猫だと錯覚し、手癖のままに撫でてしまっていた。…いやまあ、中身は本物なんだけど。

細い悲鳴で我に返り、申し訳なく思いながら手を引っ込める。

…が、それを不満げに見つめる視線が膝の上にはあった。

 

 

「…なんで止めるの。」

 

「え…嫌だったんじゃないの…?」

 

「いきなりされて、びっくりしただけだよ。…嫌なんて言ってないし。」

 

 

そう言って口を尖らせ、暗にまた撫でろと催促してくる。

…おずおずと、掌で御春くんの体のラインをなぞる。…その度に、跳ねるような声で小さく反応がある。

”彼”は気にしてないだろうけど、一応体も声も、今は『御春くん』なのだ。その姿で甘い声や反応をされると、僕の方は何とも言えないムズムズを胸に感じ、頬も熱くなってしまうのだけど…。

 

と、不意に”彼”が口を開いた。

 

 

「この子はさ…本当にきみのことが好きなんだね。」

 

「この子って……御春くん?」

 

 

膝上の猫耳が、肯定するようにぴこぴこと動く。

 

 

「今、すごく穏やかな気持ちが流れてきてる。こうやってきみの近くで、きみに触れてもらえるときが、この子は一番好きみたい。」

 

 

御春くんが、そんな風に…。

正直に嬉しい反面、御春くんの預かり知らない所でその気持ちを聞くことに若干罪悪感も感じてしまう。

 

 

「二人は兄弟なんだっけ。…だからなのかな。」

 

「兄弟って言っても、血は繋がってないんだけどね。義兄弟ってやつだよ。」

 

「ぎきょうだい……ふうん…。」

 

 

分かっているのかいないのか、曖昧な返事が返ってくる。

と、横を向いていた”彼”がごろん、と頭を上にした。必然、見下ろす僕はぱっちりと澄んだ猫目にみつめられる形になる。

どうしたんだろうと思い、”彼”の言葉を待つ。…やがて口を開いた”彼”は、至極純粋な疑問を口にした。

 

 

「人間のことは、よく分からないけどさ…。それって大変じゃない?他人だった人と兄弟になる、なんて。」

 

 

…その言葉はまるで、御春くんに出会う前の僕が喋っているみたいだった。

 

 

「そうだね…。僕も同じこと考えて最初は不安になった。…でも、今はもう大丈夫。」

 

 

御春くんと過ごした時間が、僕に教えてくれた。

出会う前の不安なんて吹き飛ばすくらいの自信と確信を。

 

 

「どんな始まり方でも、人と人は繋がれる。出会いが偶然でも、相手を想う心があれば繋がりは強くなる。…それで――」

 

 

言葉を切って、視線を前に投げる。

きょとんとしていた”彼”も僕の視線を追い、その先にあるものに気づいたらしかった。

…それは、御春くんが”彼”に送った短いメッセージ。刻まれた地面はとうに暗くなって見えないが、”彼”は容易くその言葉を諳んじてみせた。

 

 

「――つながりは、ずっと続いてく。か…」

 

 

僕の言葉を引き継ぎ、でしょ?と言うように首を傾げてみせる。

思えば”彼”と御春くんが交わした言葉は、あの一度きりだった。

…それでも御春くんの言葉は、ちゃんと”彼”の心に刻まれた。

ならきっと、もう大丈夫だ。

 

 

 

 

 

突然、僕の膝がふっと軽くなった。立ち上がり、夜空を見上げる”彼”の佇まいで、言葉が無くとも()()が来たのだと察せられる。

 

 

 

「よかったよ…………出会えたのが君たちで。…本当によかった。」

 

 

目だけが猫目のその表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。

()()()()()()()、なんて表現をこの子に使っていいのか分からないけど。この子自身、憑き物な訳だし。

それでも、いつかのような虚ろな目じゃない。真っ直ぐに澄んだ瞳は、もう震えてもいない。

涙の跡のはっきりと残るその顔で、それでも”彼”の表情は晴れやかだった。

 

 

 

「―――――。」

 

 

 

…最後の一言が、風に乗って耳に届く。

その言葉を告げ、彼は心から、笑った。

 

 

「うん。…御春くんにも、伝えておくよ。」

 

 

僕も笑顔で頷き、そう返した。

誰より頑張ったのは、誰より()に寄り添ったのは、間違いなく御春くんだから。

 

 

 

僕の言葉を聞いて"彼"は頷く。

目を細くして笑うその笑顔は、御春くんのものとは違う。だけどそれを浮かべているのは御春くんで……不思議なギャップにどきりとしながら、ゆっくり目を閉じる”彼”を見守った。

 

 

 

 

 

ふっと糸が切れたように、瞳を閉じた御春くんの身体が傾いた。慌てて手を伸ばし、その身体を抱き止める。

顔を近づければ、すうすうと規則的な寝息が聞こえてくる。…御春くんの魂はちゃんと無事で、そして"彼"の魂も、しっかり()()()()()()のだろう。

 

まだ小さなその身体に自分ではない者の魂を宿して。

不安に押し潰されそうになりながら、自分に憑いた霊を案じ続けて。

この不思議な事件の中で、御春くんはどれだけ頑張っただろう。

…そして、それは”彼”も同じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――お疲れさま。」

 

 

安らかな寝顔に、星が煌めく空に、静かにそう声をかけた。

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

 

 

 

 

肩に寄りかかっていた温もりがもぞもぞと動くのを感じ、微睡みかけていた僕の意識もはっと覚醒する。

 

 

「おはよう、御春くん。」

 

 

呼びかけられ、御春くんは瞼を手で擦りながらとろんとした目で僕を見た。

ぱちぱちとしばたたかれる瞳は白と黒の二色のみ。…青い猫目の面影は無い。

 

 

「…お兄…さん……。ここは……?」

 

 

ゆっくりと首を回して周囲を確認する御春くん。

少しずつ開かれてゆくその目に写るのは、ゴトゴトと揺れる電車内の、他に乗客もいないがらんとした景色。

僕たちは今、僕たちの家を目指して帰っているところ。それに気づいた御春くんの目が大きく見開かれ、慌てたように僕の方へ向き直る。

 

 

「あの子は…?どうなったんですか!」

 

 

…やっぱり、目覚めた御春くんが真っ先に心配したのは、あの霊のことだった。

身を乗り出す御春くんを窘め、僕は指で窓を指した。

つられて窓に視線を投げた御春くんが、小さく息を飲む。

写り込んだ御春くんには、()()()()()()()()()()()()

 

 

「…………っ!」

 

 

…御春くんから、続く言葉は出なかった。

窓から目を離したとき、その口元は堪えるように硬く結ばれていたから。

その口元が、僅かに震える。瞼も何かを堪えるようにぎゅっと閉じ、俯いてしまう。

 

上手く言葉の出せない御春くんに僕は、御春くんが見ていない間のことを話し出す。

黙って耳を傾ける御春くんに、”彼”の行動、”彼”の言葉、一つも取りこぼさず伝えてゆく。

 

 

「……御春くんの言葉、ちゃんと届いてたよ。だから最後も、あの子は笑顔だった。」

 

 

…そして、”彼”が僕らに残した言葉も。

 

 

 

 

『ありがとう。』

 

 

 

 

ーー全てを伝え終えたと同時、御春くんは飛び込むように僕の胸に顔を埋めてきた。

胸の中で、御春くんは声を上げて泣いていた。沢山の、本当にたくさんの感情が形を変えた涙が、僕の胸を濡らす。

御春くんの背に手を回して抱きしめる。溢れ出したその涙を、全部受け止める。

 

 

「お兄さんっ……最後まで、ありがとう…っ…ございましたっ……」

 

「どういたしまして。…でも、最後じゃないよ。これから先、御春くんに何があっても、僕は御春くんの傍にいる。」

 

 

嗚咽混じりの声に、優しく言葉を返し、ぽんぽん、と落ち着かせるために背中をさする。

ーー不意に、その手が止まった。

 

 

「…頭、撫でてもいい…?」

 

 

ーーそれは、僕が兄として一番してあげたかったこと。

 

僕の質問に、御春くんははっと泣きはらした顔を上げた。

ーーゆっくりと、その首が縦に振られるのを待って、右手をそっと御春くんに乗せる。

ふわりとした柔らかな髪触り、掌を通じて感じるほのかな御春くんの温もり。

繊細な髪を梳くように、その流れに手を沿わせる。

 

 

 

「よく頑張ったね。」

 

 

御春くんにしたかったこと。

御春くんに伝えたかった言葉。

時間はかかっちゃったけど…ようやく、全部できたかな。

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

 

 

「御春くんは、何かしてほしいことある?」

 

 

不意にそう聞いたとき、御春くんはふにゃっと呆けた表情で僕の肩に寄りかかっていた。

頭には、まだ僕の手が乗ったまま。時折優しく撫でてあげると、表情がさらにふにゃふにゃになって可愛い。

その顔をぱっ、とこちらに向け、少し困ったように眉根を下げる。

 

 

「してほしいこと、ですか…?でも…なでなでしてもらったし、他にもお兄さんにはいっぱいしてもらってきたのに………」

 

「ご褒美、って言い方は変かもだけど…僕が何かしてあげたいんだ。だから遠慮せず、なんでも言って?」

 

 

…顎に手をあて、しばらくうんうんと考える御春くん。

やがて何かを思いついたようにあっ、と声を出すと、なぜかみるみる頬を赤くしながら伝えてきた。

 

 

「あの…ひ、一つだけ…あります。…ちょっと恥ずかしいけど…。」

 

「ん、なになに、何でもいいよ。」

 

 

僕が顔を傾けると、耳元に御春くんの真っ赤な顔が近づく。

他に乗客もいないのに何故か耳元で、ごにょごにょという御春くんの声が耳をくすぐった。

…………………

…………

……

…聞き終わって、思わず僕は笑ってしまう。

あまりに微笑ましいお願いで、あまりに嬉しいお願いだったから。

 

 

 

「ふふっ、分かった。…でもそれ…僕何もしてないよ?ただ御春くんに()()()()()()だけだし…。」

 

 

だから少しだけ、いいのかな、と思ってしまう。

 

 

「本当は、ずっとこうやって呼んでみたかったんです…でも勇気が出なくて…。全部解決したら、こんな風に甘えられたらなって……だから、お願いしますっ!」

 

 

けれど、顔を真っ赤に染めながらも真剣な目で頼み込む御春くんは本気そのものだったので、こちらも受け入れることにした。…僕にとっても、楽しみではあるし。

 

…本当は、その()()()()は初めてじゃない。

本人は覚えてないようだけど、御春くんは寝言で何度か僕をそう呼んでいたから。

それでもちゃんとした形で()()()()()()のは初めてで、嬉しさとこそばゆい感覚に胸の辺りがそわそわしてしまう。

 

 

「い、いきますね…」

 

 

御春くんは、緊張を解すようにすーはーと呼吸を何度か、胸元に手を当てながら繰り返す。

そしてーーー

満面の笑顔、僕を押し倒す勢いの抱擁とともに、

 

 

 

 

「大好きです、()()()()()!」

 

 

 

 

 

 

 



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最終話 これからも、君と共に

ーーーーー

ーーー

 

 

 

「お茶、淹れてきたぞ。」

 

「ありがとう、なゆた。……うん、美味しい。」

 

カップを両手で持ち、ずずず…とすする。ふう、と一息ついた僕を「年寄りくさいな」と笑いながら、なゆたが隣に腰を下ろした。

カップの中身は、例によってマタタビ茶。この味もいつの間にか癖になっていたようだ。

 

 

古命神社の裏、物置を併設した客間の縁側に、僕らは並んでいた。

ふたりして靴を脱ぎ、縁側から足を投げ出す体勢。ちなみになゆたは今日も巫女服姿だ。

風が木々の葉を揺らし、小鳥のさえずりが遠くから響く。

…やっぱり、ここは落ち着くな。

 

 

 

「…全部、解決したんだな。」

 

 

本題を切り出すなゆたの言葉はそっと、そよ風のように僕に届いた。

湿っぽくならないよう、気を遣ってくれたのだろう。…彼女は、本当に優しい。

 

 

「うん。…ちゃんと、終わらせられたよ。」

 

「まさか本当に、霊の未練を果たしてやれるとはな。雲を掴むような話だと思っていたが…大したもんだよ。」

 

 

なゆたはそう言って、空を見上げた。

風が、優しく吹き抜ける。黒髪と巫女服の裾が揺れ、ふんわりと良い香りが鼻をくすぐった。

 

 

「聞かせてくれないか。…私にも。」

 

 

空の青を写し取ったその目は、天へ召された魂に思いを馳せているようだった。

 

 

 

……………

………

 

 

 

なゆたにも、事の顛末を全て話した。

御春くんに宿った霊との、最後の時間。”彼”が果たした、再会のこと。

話す度に、あの時間が蘇る。…その度に、胸のあたりが小さく震えるような気がした。

静かに話を聞いていたなゆたは、僕の話が終わると一度目を閉じ、また空を見上げながらゆっくり開いた。

全てを飲み込んだ、真っ直ぐな目。…こうして、すぐに全てを受け止められるなゆたの強さは、やっぱりすごいと思う。

 

 

「家族に会いたい。……それが未練の正体、だったのか。」

 

「……………」

 

「…陽介?」

 

 

……そう。あの子が遺した『やりたかったこと』。

それがずっと、僕の心に引っ掛かっていた。

 

 

「なゆた、知ってる?…野良猫のオスは、より多くのメスとの間に子供を作ろうとする、って。」

 

 

それは自分の遺伝子が後世まで続く可能性を、より高めるための()()。だからオスの野良猫は多くの場合、子供が出来ればメスの元を離れていく。

つまり、普通であれば一匹のメスに拘ることはしないはずだ。

 

 

「……けど、あの子は違った。ずっと同じ一匹を、想い続けてた。」

 

 

その事実を目の当たりにした時の驚きは、猫の生態を知っていたからこそ尚更のものだった。

本能よりも深いところで、あの子の"想い"は続いていた。それを思い知ったときの心の震えが、今また思い出すと同時に蘇ってくる。

 

 

「だから…すごいなぁ、って………」

 

 

…自分でも声が、言葉が、震えているのが分かる。油断すれば目尻が緩んで、熱いものが零れそうで……無意識に歯を食いしばり、裾を掴んで耐えていた。

 

とん、となゆたの肩が触れてきたのは、その時だった。

人一人分ほどあったはずの僕となゆたの距離は、いつの間にか肩と肩が触れ合うくらいの近さになっている。…静かに、なゆたが近づいてきたのだと気づいた。

 

 

「陽介、前にも言ってたな、兄になるから強くなりたいって。…だから、今も我慢してるのか?」

 

 

言われてはっ、と気づく。今日まで知らず知らず、涙を耐えていた自分自身に。

側に御春くんが居るようになってから、自分でも気づかないまま、涙を見せないように振る舞っていたことに。

 

 

「お前は確かに、"兄"になった。だからこそ強くあろうとする気持ちは、否定しないさ。…でも、それで私と陽介の間にあるものが変わった訳じゃない。…私の前でくらい、我慢しなくていいんだよ。」

 

 

――それが、私と陽介の”繋がり”だから。

 

なゆたの言葉が、温もりとなって僕を包む。抱きしめるように優しく、柔らかく。

気づけば幼馴染の肩に我が身を預け、目元に湛えた感情の粒を溢れさせていた。

 

僅かな時を共に過ごし、二度目の最期を見届けた”彼”のこと。

思い出すだけでぽろぽろと溢れるこの気持ちは、ただ悲しいというだけでも、単なる感動というだけでもない。

…結局、言い換えることのできないままの感情。けれどなゆたは、それさえも読み取ってくれていた。僕の心を透かしたように、なゆたの言葉が紡がれる。

 

 

「霊と関わるということは、霊を取り巻いた様々な感情と向き合うということだ。複雑で、絡み合って…そういう思いの()()()が、霊をこちらに留まらせる。一筋縄で解けるものじゃないからこそ、私達のような存在がいる。だが…」

 

 

なゆたの言いたいことは分かっている。

本来なら、御春くんに憑いた霊のこともなゆたが解決するべきだったのだと。

だからなゆたは、曲折の果てに彼女の代わりとなった僕が、交錯する感情の渦にいることを慮ってくれているのだろう。

 

 

「大変だったな。お前も、御春くんも…。」

 

「…ありがと、なゆた。………でも、僕はこれで良かった、って思ってるよ。」

 

 

潤んだ瞳のまま、僕はなゆたに笑いかける。

この世界に一つ、確かに存在していた絆。

何かが違えば本当に無関係だったかもしれない、生死も種族も越えて知った絆。

 

繋がりを信じる心が、どれだけの強さと奇跡を起こせるか。

僕達ははそれを見た。そして、言葉では言い表せないくらいの勇気を貰ったから…

 

だから……大変なこともあったけど、全てを総合して僕は"良かった"と言いたい。

…これもお人好しだと、笑われるだろうか。そう思いながらなゆたの方を見る。

 

 

「"良かった"か……ほんと、お前らしいな。陽介。」

 

 

確かになゆたは笑っていた。ただそれはお人好しを笑うようなものではなくて…

僕の気持ちを肯定するような、彼女らしい真っ直ぐな瞳で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、お待たせしました……。」

 

 

おずおずと控えめな声が僕らに呼び掛ける。

振り向いた瞬間なゆたはほう、と満足げに頷く。

対して僕は、思わず息を呑んでいた…目にしたものに、心を奪われてしまったから。

 

 

緊張ぎみに握った手を胸に当て、僅かに頬を染めた御春くんが立っていた。…その身をなゆたと同じ、紅白の巫女服に包んで。

朱色の袴の裾がふわり、と揺れる。少し大きめの白衣は御春くんの掌を覆うくらい、萌え袖のようになっている。

頬には一房、編み込まれた黒髪が垂れており、いつもの御春くんより大人びた印象を受ける。

 

そう、御春くんは神社に来てから、なゆたの提案でこの装束の着付けをしてもらっていたのだ。

衣装も、髪型までがらりと変えてもらった御春くんだけれど、…まだ恥ずかしく、自信もない様子だった。

 

 

「ど、どうですか…?変じゃ…ないかな…。」

 

 

落ち着かない様子で三つ編みを弄り、頬を赤らめている御春くん。

横を見れば、なゆたが視線で僕を促してきた。

小さく頷き、迷うことなく御春くんに返事を返す――

 

 

「とっても似合ってる。…かわいいよ、御春くん。」

 

 

真っ直ぐに御春くんを見つめながらそう答えると、御春くんは一瞬目を見開き…すぐに嬉しさと恥ずかしさの入り混じった、真っ赤な笑顔で笑いかけてきた。

 

 

「ありがとうございます、お兄ちゃんっ!」

 

 

まるで僕の言葉が、何より嬉しいプレゼントであるかのように。

 

お兄ちゃん。

まだ呼ばれ慣れなくて、少しくすぐったい気持ちになってしまうその呼び方。

けれど同時に、以前よりずっと御春くんを近くに感じられる呼び方でもあって…

僕の笑顔まで、朱色に染まってしまう。

お互いの赤らんだ頬が可笑しくて、御春くんと向かい合ったまま笑い合う。

 

 

 

 

 

「それにしても…なゆた、どうして急にこの服を?」

 

 

僕の胸に背をつけ、抱かれるような体勢に自分から入ってきた御春くんを抱えながら、なゆたに質問を投げかけた。

御春くんに巫女服、確かにすごく似合っているけど、まさかそれだけが理由なはずはない。突然の提案、それにどんな意味があったのだろうと、気になっていた。

僕らを微笑ましげに見つめていたなゆたは、そういえば説明がまだだったな、と言い、御春くんに向き直って言った。

 

 

「…御春くん、よければうちの手伝いをしてみないか?」

 

「えっ…えぇっ…!?」

 

 

なゆたの口から飛び出た、突然の提案。御春くんだけでなく、僕まで目が丸くなった。

 

 

「でもぼく、神社のことなんて何も知らないし…」

 

「いや、手伝いといっても簡単なことだけだよ。遊びに来る感覚で、なんなら陽介と一緒に来るんで構わないさ。………。」

 

 

そこまで言ってなゆたは一度言葉を切り、いや、と小さく呟いた。

回りくどい言い方になってしまったな、と詫びるように眉を下げながら、少し真面目なトーンで再び口を開く。

 

 

「前々から考えていたんだ。…私なりに、してあげられることを。」

 

 

少し伏し目がちになりながら、今回は陽介たちにばかり負担をかけさせてしまったから、と呟くなゆた。

けれど再び顔を上げたとき、その目はまたしっかり前を、僕らのことを見ていた。

 

 

「今回のようなことが、二度と起こらないとも限らない。霊のこと、君の体質のこと…知っておくことが君自身のためになると私は思う。…ここに来れば、そういったことも私が教えてやれる。…だから、どうだ?」

 

 

こんなに可愛い巫女さんを手放す手も無いしな、と冗談めかして笑う。

…前々から、というのはきっと、以前に僕らが神社を訪れた後のことだろう。

御春くんとの衝突の後、その意思を尊重した上で自分に何が出来るか、なゆたも悩んでくれていたのだ。

 

ちらりと覗き込んだ、御春くんの視線と目が合う。

…その目は、既にしっかりと答えを持っていた。

にっこりと微笑み、感謝も込めて御春くんが応える。

 

 

「よろしくお願いします、なゆたさん。」

 

「…っ!ああ、こちらこそよろしく頼む!」

 

 

二人の握手を、僕は目を細めて見守った。

 

 

…こんな風に少しずつ、僕らを取り巻く環境も変化して、

その度に少しずつ、僕らは日常をまた歩みだしたんだと実感する。

 

なんてことのない、平凡だけど幸せな毎日。

それはきっと、”あの子”の分まで、僕らが生きるべき毎日なんだと、今は思ってる。

 

 

 

「生きなきゃな…生きている私たちが、しっかりと。」

 

 

帰り際、なゆたもそう言っていた。

それは霊と、”死”というものと常に向き合うなゆたが、常に心に刻んでいる言葉なんだとか。

様々な終わりに向き合うからこそ、その経験を自分たちの続いてゆく明日の糧にする。

それが霊を想うことにも繋がるのだ、と。

 

だから、僕も―――

 

 

 

ーーーーー

ーーー

 

 

古命神社を後にし、僕らは家路に着いた。

母さんと父さんと並んで晩御飯を食べ、御春くんと二人でお風呂に入って…あっという間に夜になった。

ほんの一週間ほど前から始まった四人暮らし。緊張していた頃が懐かしく思えるくらい、今ではこの毎日に安らぎを感じてる。

 

トイレを済ませ、寝室のある二階へ向かう途中、廊下で御春くんと鉢合わせた。

お風呂上りに乾かしてあげた髪をふわりと浮かせ、淡い青色に白の水玉模様のシャツパジャマ姿の御春くん。その表情は、どこか嬉しそうに緩んでいた。

 

 

「御春くん、どうしたの?」

 

 

僕が声をかけると御春くんは両手の指を口の前で合わせ、小さく微笑みながら教えてくれる。

 

 

「さっき、父さんと母さんにおやすみを言いに行ったとき…父さんにまた、頭撫でてもらったんです。」

 

「………!」

 

「ぼくが撫でていいよって言ったときの父さん、驚いてたけど…本当に嬉しそうでした。」

 

「そっか………。」

 

 

御春くんのためとはいえ、そのことで一度ギクシャクさせてしまったのは僕だったから…そのことは、負い目として心の中でずっと感じていた。

…だから、そんな気持ちもこのとき静かに救われたように思えた。

 

 

「…良かった。」

 

 

…気づけばほっ、と肩から力が抜けていた。

御春くんに笑いかける表情も、いつもより緩んでしまう。

嬉しくて、幸せで…今日はもうすぐ終わりそうなのに、御春くんとのこの時間をまだまだ終わらせたくなくて…

 

 

「御春くん、また…一緒に寝よっか。」

 

 

ついそんな、甘えん坊な提案をしてしまう。

兄の僕からこんなこと提案してもいいのかな、とも思ったけど、御春くんはすぐに嬉しそうな表情を浮かべてくれた。

 

 

「お兄ちゃんといっしょ…うんっ、もちろんです!えへへ…」

 

「ふふっ…ありがとう。…今度は、御春くんのお部屋行ってもいいかな?」

 

「ふぇっ!?ぼ、ぼくの…?」

 

「うん。ほら、最初に二人で寝たときは、僕の部屋だったからさ。」

 

 

…あれは、御春くんに憑いてた猫の意識が、半ば暴走してのことだったけど。

いつになく積極的なあの時の御春くんを思い出すと、まだちょっと胸がむずむずして、顔が熱くなる感覚が蘇る…。

…御春くんも思い出してしまったのか、赤くなった頬を俯かせながらごにょごにょと答えてくれた。

 

 

「わ、わかりました……。…いい、ですよ。」

 

 

御春くんに手を引かれ、そのままドアをくぐる。

そういえば初めて入る、御春くんの部屋。

クローゼットや勉強机、ベットの位置なんかは僕の部屋と大体同じ。

あまり飾り気のないシンプルな部屋だけれど、その中で唯一ベッドの上だけは、クマやペンギン、ライオンなんかのぬいぐるみが幾つも飾られた、可愛らしい世界になっていた。

ぬいぐるみの一つに手を伸ばし、それを抱きながら眠る御春くんを想像する。

…想像するだけでも可愛くて、自然と笑みが零れそうだった。

 

と、ぬいぐるみの山の影に、何かが見えた。…なんとなく見覚えのある布の先が。

あっ、と御春くんが息を呑む声が聞こえた気がしたけど、構わず”それ”を引き抜いた。

…出てきたのはやっぱり、だけど首を傾げたくなるものだった。

 

 

「これ…僕が失くしてたパジャマ…?」

 

 

…確か、御春くんと仲違いしてしまった日あたりに失くしてしまい、どこを探しても見つからなかったものだ。

当時はそれどころじゃなかったけど、なゆたにもぼやいた記憶がある。

それがどうしてここに…と思ったけれど、見つかった場所から考えて犯人は一人しかいない。

 

 

「もしかして…御春くんが…?」

 

「うぅぅ…っご、ごめんなさいっ…!」

 

 

「あの日、お兄ちゃんにひどいこと言っちゃったから、顔を合わせづらかったけど……どうしてもお兄ちゃんの匂いが恋しくって…それでその、気づかれないように…。」

 

 

…僕のパジャマを持っていってた、ということだったんだ。

 

 

「ごめんなさい…もっと早くに返さなきゃいけなかったのに…。こんなことばれたら、お兄ちゃんに嫌われちゃうって思ったから…。」

 

 

胸の前で拳を握り、力なく謝る御春くん。…今にも泣き出しそうなくらい、瞳に涙を湛えて。

…ふっ、と小さく息を吐いてから、僕は御春くんに笑いかけた。

 

 

「御春くん、大丈夫だよ。…僕は別に怒ってないし、御春くんを嫌いになんてならないよ。」

 

「ぐすっ……ほんと…ですか…?」

 

「うん、本当。…でも、ちょっと妬いちゃうかな。」

 

「えっ…?……わぁっ!?」

 

 

まだ少ししょんぼりとしていた御春くんの身体を引き寄せ、すとん、と膝の上に抱き寄せる。

細い腰に手を回し、少し力を込めて抱く。

 

 

「今日はさ、本物の僕がそばにいるから…それじゃダメ?」

 

「………!……はいっ。」

 

 

御春くんはそのまま僕の腕を掴み、顔を埋めて小さく呼吸を繰り返す。

息遣いが、規則的にかかる熱っぽい吐息が心地良い。

 

僕の手に自分の手を重ね、御春くんが小さく呟く。

 

 

「あったかい…。ぼく、やっぱり大好きです…お兄ちゃんも、お兄ちゃんの匂いもぜんぶ……。」

 

 

…その言葉が嬉しくて、つい御春くんを抱きしめる手に力が入る。

苦しいですよ、と言いながらも、御春くんは笑ってた。

 

 

 

 

お兄ちゃん、と呼びかけられたのは、しばらく御春くんとくっついていた後だった。

お互いの体温を交換するくらいくっついて、ようやく二人で布団に潜ったところだ。

声の方を見れば、さっきより少し真面目な表情を浮かべた御春くんと目が合う。

ゆっくりと、御春くんが口を開く。

 

 

 

「ぼく、良かったって思ってます。…"あの子"がぼくに憑いたこと。」

 

「大変なこともたくさんあったけど…そのお陰で、お兄ちゃんとも早くに話せたから。普段の、引っ込み思案なぼくだったら、…きっともっと時間掛かっちゃったと思うんです。」

 

「それに…"あの子"のこと、最後まで見届けて……大切な人を大切だって思う気持ちが、ずっと強くなった気がします。父さんも、母さんも、なゆたさんも。……何より、お兄ちゃんのことも。」

 

「それを教えてもらえたから…だから、良かったって…思うんです。」

 

 

 

………御春くんが言葉を紡ぎ終わるまで、僕は黙って聞き続けた。

やがて話し終えた御春くんは、真っ直ぐに向いていた僕への視線を少し逸らした。

 

 

「すみません…もしかしたら、お兄ちゃんとは違う考え方かもしれません。…お兄ちゃん、元は僕に巻き込まれただけですもんね…。」

 

 

そう言いながらも、外した視線は寂しそうで……

 

 

「…御春くん」

 

 

だから…

 

 

「僕も、おんなじ気持ちだよ。…今回のこと、良かったって思ってる。」

 

 

その言葉と一緒に、まためいっぱい御春くんを抱きしめる。

 

 

…僕がなゆたに語ったのと、可笑しなくらいに御春くんは同じ気持ちを抱いていた。

兄弟として、家族として、大切に想う人として…たくさんのことを学ばせてもらったから。

大変なことも、辛かったことも、全て御春くんとの繋がりに変えられたから。

 

 

「お兄ちゃん……」

 

 

胸の中で、小さな声が響く。

抱擁を少し解き、見下ろせば、半分くらい顔を埋めた御春くんが、まだほんの少し不安を浮かべて僕を見上げている。

 

 

「お兄ちゃんは…これからも、ずっと隣にいてくれますか…?」

 

 

…答えを悩む理由なんて無かった。

その願いを抱いていたのは……僕も同じだったから。

 

 

「僕も、御春くんとずーっと一緒にいたい。…ずっと隣に、いさせてくれますか?」

 

 

僕からも、同じ質問。

…すぐにふにゃっとした笑顔が、縦に振られた。

 

今度は、御春くんから僕のことをきゅっ、と抱きしめる。

その柔らかな髪に指を通し、僕も御春くんの頭をぎゅっ、と抱き寄せる。

お互いの暖かさを感じながら、いつしか僕らは微睡みの中にいた

 

 

……………

………

 

 

僕は生きていく。

 

明日も、明後日も、その先もずっと。

 

僕の隣を選んでくれた、小さくて愛おしい温もりと共に。

 

大好きな、御春くん()と共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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