妖狐の陽子と人斬り鴉 (四十九院暁美)
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妖狐の陽子は人が好き

 氷雨(ひさめ)が降りしきる夜。

 ひとりの少女が家路を急いでいる。

 空は分厚い雲が積み重なり、凍える寒さが、雨粒と共にアスファルトの大地に広がっていく。

 夜は寒さにはしんと静まり返り、吐く息さえ鬱々とした白さを持っていた。

 風に吹かれた雨は霏々と流れて、息を切らした少女の肩を濡らす。

 雨の中、傘も差さずに走るその少女は、女月神高等学校(めつきのかみこうとうがっこう)に通う二年生で、料理部に所属する十六歳だ。

 年齢にしては背が低く、濡れそぼちた黒髪が張り付く顔は、年頃の娘らしい幼さを秘めた豊かな線を描き、よく磨いた瑪瑙(めのう)のような唇も美しい。

 瞳は黒々と澄んでいて、実に可愛らしい顔立ちであった。

 閑静な住宅街の四つ辻に行きかかると、不意に彼女が立ち止まる。

 街灯の灯りが、ぼうっと道を照らす。

 雨粒が輝きながら光の中を斜に過ぎ、水溜まりにいくつもの波紋を作っていく。

 その中に、ひとつの奇妙な影法師が映っていた。

 黒を基調とした和装という、奇妙な出で立ちの男は、やはり奇妙なことには刀を佩いていて、まさしく侍というに相応しい格好だった。

 時代錯誤も甚だしいその姿に、少女はある噂を思い出す。

 人斬り鴉。

 述べ十五人を斬り殺し、現代の修羅と恐れられた殺人鬼……一年前に姿を消したはずの辻斬りであった。

 少女が恐怖で、一歩だけ後退る。

 男は静かに、刀を抜く。

 鈴の音にも似た音が響き渡り、雨音をかき消した。

 沈黙。

 耳が痛くなるほどの。

 逃げなければと思った。

 しかし足がすくんで動けない。

 男は刀を上段に構えて今にも振り下ろさんとしているけれど、恐怖で麻痺した脳髄では逃げること叶わず、彼女は目の前にある明確な死の形を、受け入れる以外になかった。 

 

「天誅。怨むならば我が身の不幸を怨め」

 

 くぐもった声が言う。

 瞬間、白刃が雨を裂いた。

 

                    

 

 はたと目が覚める。

 目覚まし時計の音が耳をつんざく中で、加賀美陽子(かがみようこ)は覚醒した。

 悪い夢を見たのだろうか。

 お気に入りの浅葱色(あさぎいろ)をしたパジャマが、寝汗でぐっしょりと湿っている。

 衣服の全てが身体に張り付いて気持ちが悪い。

 自慢の毛並みもへたっているし、これでは学校へ行く前に汗を流さなければならないだろう。

 疳の虫のようにけたたましく鳴る時計を、乱暴な手つきで叩いて止める。

 ベッドからのそりと起き上がり、ピンクのカーテンを開けて、外の日差しを取り込んだ。

 よく晴れた冬の空、その美しい蒼穹が、街を愛おしげに見下ろしている。

 暗澹とした気持ちですら、さっぱりと洗い流すほどに澄んでいて、陽子は少しだけ気分が良くなった気がした。

 なんだか、まだ夢を見ているみたいな気分だった。

 どうもはっきりしない頭のまま自分の部屋を見回してみると、枕元には点けっぱなしにされた小型の蛍光スタンドに、読みかけの漫画が放置されていた。

 少しだけ頭が冴える。

 どうやら昨夜、漫画を読んでいる途中で寝落ちしたらしい。

 夢見が悪かったのもそれが原因だ。

 蛍光スタンドの灯りで眠りが浅くなり、読んでいた漫画の内容に影響されて、変に悪い夢を見てしまったのだろう。

 我知らず、溜め息が出る。

 深い疲れを孕んだ溜め息だった。

 もう寝る前に漫画を読むのはやめようと誓って、陽子は部屋を出て階段を下り、居間に出る。

 早起きの母がテレビを聴き流しながら朝食を作っており、キッチンから漂う匂いが食欲を刺戟した。

 

「おはよ、母さん」

 

「おはよう。さっさと顔洗って、ご飯食べちゃいなさい」

 

「それがさ、ちょっと寝汗かいちゃって。シャワー浴びてからでいい?」

 

「いいけど、あんまりお湯出さないでね。お金だってばかにならないんだから」

 

「わかってる。ちょっとだけ、ね」

 

 いつも家計を気にする母の小言に、少しだけ苦笑いしてから洗面所に入った。

 パジャマを脱ぎ捨てて、バスルームの引き戸を開けると、冷たい空気が全身を撫でた。

 春先の空気に当てられたバスルームは寒くて、踏みしめるタイル張りの床は氷よう。

 プラスチックでできたすのこも、踏むのが戸惑われる。

 アルミサッシには結露が出来ていて、窓は曇りくすんでいる。この寒さは汗で冷えた身体にはこと悪い。

 さっさとしなければ風邪をひいてしまいそうだ。

 大きく身震いをしてから急いで蛇口をひねり、シャワーを何度か身体にかければ、少しだけ寒さが和らいできた。

 ずっと浴びていたいほど湯を浴びるのは気持ち良いが、あまり長く出していると母に怒られてしまう。

 母に文句を言われないうちにさっさとバスルームを出ると、湯冷めしないよう丹念に水気を拭き取って、ドライヤーで髪を乾かす。

 お気に入りのフリルの付いた下着を身に着けて、最後に、土日に選択して干してあった紺のセーラー服に袖を通せば、あとは歯を磨くだけだ。

 時刻はすでに七時ををまわっていた。少し急がないとまずい時間である。

 洗面所を出ると、すでに朝食が用意されていた。

 四人掛けの食卓テーブルには、バタートーストと目玉焼き、それと余り物のウィンナーが数個が、一緒の皿に乗せられている。

 珈琲はないけれど、かわりに牛乳がマグカップになみなみと注がれていた。

 加賀美家では珍しく洋風の朝だった。

 

「あれ、珍しいね」 

 

 指摘すると、母は台所で卵焼きを切り分けながら、

 

「冷凍のウィンナーが余っちゃってね。ちょうど卵もあったし、せっかくだからトーストにしたのよ」

 

「へえ……、これって、あたしの分だけ?」

 

 訊けば、母は振り向かずに「そうよ」とだけ答えた。

 少し得した気分になる。嬉しくなって、ピンと耳が立つ。

 まるでアメリカ人にでもなった気分で、バタートーストにかじりつく。カリカリとしたトーストの触感と、バターの強く豊な味が、口一杯に広がった。

 いつもよりちょっぴり優雅な朝食を終えると、不意にインターホンが鳴った。

 時刻はすでに八時、友人が迎えに来る時間だった。

 

「陽子! おはよー!」

 

 玄関のドアーを開けると、朝から元気な声が頭を揺らした。

 茶色の髪を短く切り揃えたその少女は、名を黛昭亥(まゆづみあきえ)いう。

 クラスメイトであり、同じ料理部に所属する昭亥は、陽子にとって親友、いや、妹と呼ぶに相応しい存在だ。

 

「おはよ、アキちゃん。宿題やってきた?」

 

「やってきたよ、さすがに!」

 

「ホントに? 数学のやつ、やって来たの?」

 

「モチのロン! 兄貴に頼んだウチに抜かりはない!」

 

「アキちゃんって、たまにひっどいズルするよね……。あ、あたしまだ準備終わってないから、ちょっと待ってて」

 

「りょーかい!」

 

 急いで身支度を整えて外へ出ると、厚手のダッフルコートをものともしない寒風がビュウと吹いて、一本結いにした黒髪を揺らした。

 首に巻いた狐色のマフラーも、この寒さにはなすすべもない。

 

「くぅー、さっむ!」

 

「ほんとだね。カイロ持ってくればよかったよ」

 

 最近になって、東京はひどく冷え込んでいる。

 朝方は特に、布団から出るのも億劫になるほど冷え込んでいて、どうにもやる気の出ない日が続いているし、外を歩く時はコートとマフラーがかかせない。

 夜になればアスファルトには霜が降りて、ブーツでも滑ってしまいそうになるから、まったく歩くにも苦労する。

 今年に入ってまだ間もないが、最低気温はすでにマイナスに片足を突っ込み、雪がしんしんと降り積む日も多くなった。

 去年のオリンピックで熱狂の渦に包まれた日本は、その振り返しみたいに、冷え込む日がずいぶんと増えている。

 あんまりにも寒いものだから、早く春になればと思わずにはいられない、なんとも嫌な時期だ。

 

「明日は試験だね」

 

「オエー! やだやだ勉強したくない、身体動かしたいー! ……そういえば今日体育あるじゃん! やったー!」

 

「うえ、あたしそっちの方がやだなあ。今日は何するんだっけ」

 

「バレーボールだったと思う!」

 

「バレーかあ……。苦手なんだよねえ、手とか痛くなるし」

 

「でもさ! スパイク決めた時とかさ、すんごい気持ちいいじゃん!」

 

「アキちゃんは運動得意だからいいよ。あたしはへたっぴだから、全然」

 

「かわりに胸でっかいよな、陽子はさ! まだおっきくなったんじゃない?」

 

「ちょ、やめてよ! 声おっきいって!」

 

 他愛ない話をしながら、いつもと変わらぬ通学路を歩く。

 住宅街を抜けた先にある表の大通りは、騒がしさの中に陰鬱さを秘めた空気で満ちていた。

 ここの大通りの空気は、人並以上に鼻の良い陽子にとって、排気ガスの臭いが実に辛い。

 長いことこの街に住んでいるけれど、どうしても慣れない臭いだ。

 我慢できないほどではないが、車の通りが多い場所には長居したくないと思う。

 並び立つビオフィスビルと、縦横に空を走る真っ黒な電線は、カンと冷えた空気に当てられてか、どこか寒々しい印象を受ける。

 自動車は濛々と排気ガスを吐き出しながら行きかい、それに混じって、路面電車がゴトゴトと走っていた。

 人々もこの寒さには、しかめっ面ばかり。開いたばかりの商店たちも、どこか物鬱気な店構えだ。

 

「あれ、狐がいる! めずらしー!」

 

「え? あ、ホントだね」

 

 街角でぼうっとしている鵺や、空をひらひらと舞う一反木綿、そして二人の目の前を横切った散歩中のお稲荷様も、どこか寒そうにしていた。

 バスに揺られること数分。

 学校に着くと、にわかに熱気が渦を巻いて、二人の頬を撫でた。

 正門は登校して来た生徒たちでごった返していて、二つあるグラウンドからは、朝練をする運動部員たちの気合が入った声が響く。

 二人が通う女月神高等学校は、この地区でもかなり有名な学校だ。

 郊外に建てられたここは、多くの教室と広い校庭を保有するマンモス校で、特に野球やサッカーなどのスポーツに力を入れている。

 声の大きさも、実力も、地区一位だ。

 エントランスホールで靴を履き替え、教室のある二階へ上がると、喧騒は耳を突き破らんばかりに大きくなった。

 この寒さに負けない威勢の良さで、クラスメイト達はおしゃべりに興じている。

 話題はいろいろだが、もっとも口にされるのは、やはり夜な夜な現れる和装の男の噂だった。

 夜の街に現れる和装の男。

 去年の初め頃までその兇刃を振るっていた殺人鬼、人斬り鴉の正体と見られる男は、特に近頃、目撃が相次いでいた。

 出没場所は街の各地で、いかなる目的で現れるのかも不明。

 そもそも和装以外の詳細な人物像さえわかっていない。

 都市伝説めいたその存在は、話好きで噂好きの少年少女たちにとって、実に興味深い話なのである。

 

「みんな好きだよね」

 

「事件まだ解決してないからね! 気になってるんだよ!」

 

「でも、関係あるとは限らないよ。ただの幽霊かも」

 

「それはそれで面白いじゃん! 幽霊が見られるなんてさ!」

 

「……そうでもないよ、幽霊なんて」

 

 しかし陽子にとっては、和装の男の正体、実に惹かれない話だ。

 幽霊なんて特にくだらない。

 どうせ最初のひとりが、たまたまが見えてしまった雑霊の話に、大きな尾ひれが付けた結果なのだろう。

 七十五日もすれば、誰も口にしなくなる。

 人斬り鴉の話にしたってそうだ。

 十人以上を斬り殺しておきながら捕まらないなんて、あまりにもおかしな話である。

 表には出ていないだけで、警察はすでに正体を掴んでいるに違いない。

 だから去年には犯行がパタリと止んだのだ。

 噂話なんて、時間の無駄しかない。

 

「それよりさ」

 

 話題を変えたくて、陽子は思い出したように言う。

 

「今日は部活する? ほら、先輩に卒業祝いでクッキーつくったじゃない、あの時の材料がまだ余ってて。腐らせるのももったいないから、どうかなって」

 

「おおー、いいね! 今日はバイト休みだから、いっぱいクッキー作れるぞ!」

 

 朝だというのに、もう放課後の相談をしている二人は、自分の座席に着くなりどんなクッキーを作ろうかと顔を突き合わせた。

 色気より食い気、花より団子がこの二人の信条である。

 自分の胃袋より大事なモノはないのだ。

 しばらくして先生が教室に入ってくると、朝礼の後にようやく授業が始まった。

 とはいえ、授業の内容は陽子にとって昔に聞いた話ばかりで、耳をそばだてて聞く必要はない。

 暇を持て余すばかりなので、彼女は教科書を隠れ蓑にして小説を読むなどしていた。

 昼休みになると、昭亥と一緒に学食で昼食を摂るのが、陽子の日課だ。

 

「陽子、いっつもきつねうどんだよね!」

 

「お揚げが好きなんだ」

 

 午後になると体育の授業である。

 教室で体操着に着替えて、離れの体育館へ向かう。

 運動が苦手な陽子にとっては、憂鬱な時間でしかなくて、足取りは重たい。

 自慢の毛並みもなんとなくへたってしまう。

 特に加減が難しい球技となれば、やる気はマイナスへ振り切るというもの。

 

「よっし、やるぞー!」

 

「ほんと、運動好きだよね。アキちゃんは」

 

「だってさだってさ! 楽しいじゃん! なんて言うかこう……自由に動けて、ノビノビできるっていうか! 勉強するよりずっと有意義だーって思っちゃうんだよ!」

 

 尻に食い込んだ体操着を直しながら、陽子は肩を落とす。

 対照的に昭亥はまるで幼子みたいにはしゃいでいる。

 家庭の経済的な理由で運動部に所属できないのが、余計に昭亥の運動好きを加速させているらしかった。

 

「まあ、わからなくはないけれどね……痛いのはやだけど」

 

 陽子は運動嫌いだけれど、身体を動かす楽しさはわかるつもりだ。

 ただ、運動に付属する痛みが嫌いなだけで。

 溜め息混じりに、僅か開かれた非常口から外と見れば、はにわかに雨が降り出していた。

 今朝の天気予報では終日晴れと言っていたけれど、どうやら外れてしまったらしい。傘を持ってきていないから、帰りが少しだけ心配になる。

 

「いっくぞー、陽子! ちゃんとボール返してよね!」

 

「アキちゃんこそ、急にスパイク撃ったりしないでよ?」

 

 さしていつもと変わらぬ風景。

 陽子は今朝に見た夢のことを忘れ、ボールを受け止めながら笑った。

 

 

 それからしばらくして、放課後。

 部活を終えた陽子は、家路を急いでいた。

 学校を出るのが、遅くなってしまった。クッキーを作るのに、少し時間をかけ過ぎたのだ。

 お揚げをつまみ食いして、先生に怒られたりしたのがマズかった。

 時刻は既に十九時を回っていて、早く帰らなければ夕食を食べそびれてしまう。

 夜の住宅街は、氷雨が降りしきっていた。

 霏々と流れる雨は陽子の全身を濡らし、身体の芯から底冷えさせる。

 気温も朝に比べてぐっと低くなっているから、さっさと帰らなければ風邪をひいてしまいかねない。

 今日に限って折り畳み傘を持っていかなかったのを、陽子はひどく後悔した。

 しばらく道を行くと、突然、奇妙な錯覚に陥った。

 毎日通っている道のはずなのに、何故だか変に静かで、恐々としている。

 デジャヴと言われるものと似ているが、それにしては、あまりにもおどろおどろしい雰囲気だった。

 予感はついに頭痛にまで発展して、何事かを訴えかけてきたから、陽子は立ち止まって片手で頭を押さえてしまう。

 いったいなんだろう、風邪でも引いてしまったのだろうか。と、痛みを堪えて顔を上げた時、はたと気が付く。

 街灯が照らす四つ辻。

 今朝に見た悪夢の断片が蘇る。

 この後は確か、そう。和装の男が現れて、その兇刃を振るい、そして……。

 はたして予想は当たっていた。

 街灯のか細い明りの下に、ぬっと影法師が姿を現す。

 黒を基調とした和服。

 腰に差した日本刀。

 目深に被った旅笠。

 夢で見た男の姿によく似ていた。

 ひゅっと息が止まった。

 喉奥が引きつって全身が粟立つ。

 腹の底から言い知れぬ感情が沸き立ち、思考が恐怖に染まっていく。

 真っ青になって、目を真ん丸に見開いた。

 濃密な殺気が、陽子の手足に絡みつく。

 腥い血臭が鼻孔を刺戟して、吐き気を誘う。

 数瞬。

 いや数秒。

 数時間かもしれない。

 永遠にも思えるような、耳が痛くなる沈黙の中で、男が刀を抜いた。

 鈴のような音が、雨音を一瞬だけ掻き消した。

 

「────」

 

 冷たい声が言う。

 何と言っているのか、恐怖で麻痺した陽子には聞こえなかった。

 今にも振り下ろさんと構えられた刀の、鈍色の輝きが瞳を射抜き、視界が僅かに歪む。

 自分が立っているのか、倒れているのかさえ、わからなくなる。

 

「ぁ……っ!」

 

 声が出た。

 引きつった喉から、やっと絞り出した掠れ声。

 けれどそのおかげでやっと脳に酸素が回って、全身の感覚が戻る。

 復活した思考が急速に回転する。

 

「ま、待って!」

 

 陽子はとっさに声を上げた。

 ほとんど悲鳴に近い叫びに、男はぴたりと動きを止めた。

 慈悲の心でも見せるというのか。何にせよ、これ幸い、陽子は続けざまに問うた。

 

「貴方は、誰ですか……何が目的なんですか……」

 

 ほとんど出任せではあったけれど、男は冥途の土産のつもりなのか、彼女の問いについと答えた。

 

甘粕弾正嘉平(あまかすだんじょうきへい)、妖狩りを生業としている」

 

「あや、かし……」

 

 一般人には見えないはずの妖、しかし、陽子にはとって身近な存在だ。

 今朝だって何体かの妖を見かけたし、稲荷様ともすれ違った。それに”陽子自身”にも関係がある。

 この侍然とした男、甘粕弾正嘉平は、それらを斬っていると臆面もなく言う。

 

「貴方は、見えるんですか……?」

 

 再び問えば、彼はしかと頷く。

 

「然り」

 

 ごくりと唾を飲み込む。

 彼には見えているのだ。

 

「人に化けたとて無意味である、”狐”」

 

陽子の”耳”や”尻尾”が。



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妖狐の陽子と妖狩り

 切っ先を鼻先に突き付けられて、陽子は尻尾の毛が逆立つのを感じた。

 彼の言う通り、陽子の正体は狐である。

 正確には白狐(びゃっこ)という種類の妖狐で、人に害を加える類の妖ではない。

 おおよそ三百年は生きてきた若輩者だけれど、ちゃんと人としての戸籍もある。

 お役所勤めで知り合いの鬼に作ってもらった戸籍だ。

 今の家族は養子縁組だから、何か後ろ暗いこともしていない。

 いわゆる”善狐(ぜんこ)”と呼ばれる妖狐、その見習いなのだ。

 

「あ、あたし、悪いこと何も……、何もしてません。人のふりをして、生きてきましたけど、でも人を騙したりなんて。そんなこと”してはいけない”んです!」

 

 どれだけ言っても、甘粕弾正嘉平は頑なだ。

 決して相容れぬとして刀を下ろさず、殺気を漲らせて構えている。

 だが陽子は諦めなかった。

 いまだに強い恐怖の感情が心中に渦巻いているけれど、人であるならば、言葉が通じるならば、話し合いで解決できるかもしれない。

 今までもそうだったのだから、この男とも和解できるはずだと、陽子は疑っていなかった。

 

「本当です、悪いことなんて絶対にしません! 信じられないというなら、証明してみせますっ!」

 

「証明。如何にして」

 

 わずか言葉に詰まる。

 雨音がうるさいくらいに頭に響いて、思考を掻き乱す。

 証明するなどと言っても、どうやって無害であることを証明すれば良いのか、そこまで考えが到っていなかった。完全に落ち度である。

 しかし、それで諦めては終わりだ。陽子は人生、いや妖生で最も頭を回して、それから答えた。

 

「……て、手伝いをします! きっと悪い妖を、やっつけているんですよね? なら、役に立てると思います」

 

戯言(ざれごと)を」

 

「噓じゃありません。あたし、いろんな妖術が使えるんです。変化も、狐火も、探知術だって使えます。身を守るための術だって、教えてもらいました。貴方の役に立ちます……、だから見逃してください!」

 

「……そこまで言うか」

 

「言います! あたし、死にたくありませんから!」

 

 ほとんど懇願に近い説得に、甘粕弾正嘉平の態度が少しだけ軟化した。

 興味を引かれた様子でもある。

 おそらく妖にこんなことを言われたのは初めてなのだろう。

 刀は下げないまでも、目に見えて肩の力が抜けている。あともう一押しで説得できそうだ。

 

「もしあたしが悪いやつだったら、斬ってもらって構いません。でも、本当に悪いやつなのかわかるまでは、見逃してください! お願いします!」

 

 陽子はぐっと力を込めた口調で、頭を深々と下げながら叫んだ。

 

 すると、どうだろう。

 

「……いいだろう」

 

 いくらかの沈黙を経てから、彼は刀を下げた。

 街灯の下で俯く彼の表情は、伺い知れないが、この様子からしてひとまず命拾いしたらしい。

 深く長い息を吐いて、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えながら頷く。

 あとのことはまったく考えていなかったから、これからどうなるか少し心配ではあるけれど、命には代えられない。

 甘粕弾正嘉平が、刀を納めて背を向けると、やっと人心地ついて、毛の逆立ちが治まったのを感じた。

 

「言葉に偽りなければ、明日の夜、再びここへ来い」

 

 彼はそう告げると、街灯の下から出て、夜の闇へと消えていく。

 残された陽子は、暫くの間、呆けて立ち尽くすばかりだった。

 土砂降りの雨は、気が付けば雪へと変わっていた。

 水気を多分に含んだ雪は、凍み入る冷気と共に帳を下ろし、住宅街は雪に反射した光で、いぶし銀のように霞んでいる。

 辺りは物音のひとつもなく静まり返って、無気味さだけがこの場を満たしていた。

 陽子は天を仰ぎ、深い溜め息を吐く。

 さっきとは違う、疲れと憂鬱の滲んだ息だった。

 三百年も生きた妖狐が、まったく情けない姿である。

 あの男くらいならば、なんとか追い返すことのできる力があった。

 にもかかわらず、こうも意地汚く許しを乞うなど、まるで野狐(やこ)。非力な妖そのものだ。

 しかし、人間と争うのは陽子の本意ではない。

 善狐として自ら起てた誓いがあり、それを破るわけにはいかないというのもあるが、彼女の自身、人間という存在を心から愛しているから、どうしても争うことはしたくなかった。

 人に紛れて生活しているのだって、大好きな人間に囲まれて過ごしたいと、自分の素直な欲求に従ったがゆえである。

 もちろん生活するにあたって、必要以上の注意を払ってきた。

 耳と尻尾は変化の術で隠し、元来の獸臭さも二日に一回は銭湯に通って消した。

 人外の力も、妖気だってほとんど抑え込んだ。

 役所勤めの鬼の友人に頼み込んで、戸籍と時代にあった家族まで用意して貰っていた。

 だというのに、こんなことになるとは。

 まったく、最悪である。

 再び溜め息を吐いて陽子は歩き出したが、粘ついた恐怖はいまだに身体を包んでいた。

 

「ずぶ濡れじゃない。なにしてたの、まったく」

 

 我が家に着くと、ずぶ濡れの彼女に慌てた母が、真新しいバスタオルを持ってきてくれた。

 ぶつくさと文句を言いながら、髪や顔を拭いてくれる母の手のぬくもりは、陽子を安心させるには充分すぎる。

 油断すると、涙腺が緩んでしまいそうだった。

 

「ごめんね、母さん。傘が無くて、濡れちゃった」

 

「それにしたって、今日は遅かったんじゃない……、何かあったの」

 

 心配した母の言葉に、陽子は強がった顔で、

 

「……ううん、何もなかったよ」

 

「本当に?」

 

「うん。雨宿りしてたら、雪が降ってきて。ちょっとびっくりしちゃった」

 

 母はまだ心配そうだったけれど、追及しても無駄だと悟ったのか、それ以上は何も言わなかった。

 ソファに座る父も、こちらを一瞥して「おかえり」と声をかけるだけに留めていた。

 父は寡黙な仕事人間だが、人の感情を察するのが上手く、欲しい言葉だけをくれる。

 とても良い父だ、陽子にとって自慢の父だ。

 着替えて部屋に上がると、陽子はベッドに倒れこんでしまう。

 疲れた頭に浮かぶのは、やはりあの甘粕弾正嘉平と名乗ったあの男のことだ。

 はたして何者だろう。

 陽子は思い煩った。

 彼は妖狩りを自称していたが、そういう類の人間はすでにいなくなったと思っていた。

 科学が発展した現代では、妖が起こす怪異、すわなち”妖怪”の原理がほとんど解明され、常識となってしまった。

 妖が人々を恐がらせようと何かしても、ほとんどが自然現象の一言で話が終わる。

 いまだに幅を利かせているのは、幽霊くらいのものだ。

 こんな世の中では”怪異”を起こす”甲斐”もない。

 いつしか妖たちは人との共存の形を考え直し、妖怪はしだいになくなっていった。

 そうなれば、妖狩りも当然いなくなる。

 妖怪が消えると共に、彼ら妖狩りも歴史から姿を消したのである。

 しかし彼はどうだろう。

 現代において真に妖狩りを生業にしている人間なぞ、話には聞いたことあれど、ついぞ見たことがない。

 ただのほら話か、事実無根の噂だった。

 ところが彼は、まるで本物みたいな迫力があった。

 あの侍然とした姿、妖からしても無気味な姿だ。

 現代であのような格好をする輩は、物好きな人間か、質の悪い幽霊と相場が決まっている。

 いかなる理由で、彼は妖狩りを自称しているのやら。

 疑問と言えば、もうひとつある。

 以前にあった人斬り事件、人斬り鴉の正体が彼なのか。

 刀を持っていたから人斬りだと陽子は思ったが、よくよく考えてみれば、言葉を信じるなら彼は妖狩りだ。

 斬られたのは人でなく、妖ということになる。

 だが、妖とは死せば遺らぬ異形。常人にとっては姿なき怪異。

 死体が現世に横たわったまま、ましてやその死体が人目につくなど、本来はあり得ないことのなのだ。

 彼の持つ刀に何か秘密があるのかもしれないが、それにしたって、妖が人に見える状態で死ぬなど奇妙を極める。

 はたして彼は人斬り鴉なのか、それとも全く別の存在なのか。気になるところだ。

 また明日の夜に、彼とは出会うことになる。

 その時に、いきなり斬りかかってこなければ、これらのことを訊いてみるのも良いだろう。

 もっとも彼が答えてくれるかはわからないが。

 そこまで考えたところで、眠気がどっと押し寄せてきた。

 恐怖で忘れていた疲れが、身体に戻ってきたようだ。

 瞼を開けているのも辛くなって、数秒も経たぬ間に、陽子は夢の世界へと旅立っていた。

 深々と雪の降り積む夜。

 こうして、二人の奇妙な関係は、始まりを告げた。

 

 

 次の日。

 五教科の試験を終えた陽子は、学食でうどんを啜りながら、イマイチ優れない顔をしていた。

 いつもならばおいしいお揚げも、なんだか味が薄いと感じてしまうほど。

 彼女の精神は落ち込んでいて、見えないはずの耳も尻尾も、しゅんと垂れ下がっている。

 試験の結果も気になるけれど、今一番気になるのは、昨夜に出会った甘粕弾正嘉平だ。

 正直に言ってしまえば、彼と会うのが怖い。 

 人を化かしたり、騙すことができない陽子は、絶対に約束をすっぽかしたりはできない──そも、すっぽかした後を想像するほうがもっと怖い──から、会わなければいけないのだけれど、あんな出会い方をした相手だ。

 会いたいと思うほうが難しいだろう。

 まったく、難儀である。

 泥みたいな黒濁色の憂鬱が、彼女を支配していた。

 

 

「陽子、なんか元気ない?」

 

「え……。あ、ううん。そんなことないよ、ちょっと考え事」

 

 心配する昭亥に首を振るけれど、こうも目に見えて落ち込んでいては疑わしいのか、彼女は引かず、眉尻を下げて言葉を続けた。

 

「噓だね! 陽子がそう言う時、絶対なにか悪いことがあった証拠だもん!」

 

「いっ!? ……そ、それは……」

 

「ひとりで抱え込んでも辛いだけだよ? ほら、話してみなって! ウチ、馬鹿だけど聞くくらいなら出来るからさ!」

 

 そう言われても、陽子が抱えている事情は、一般人においそれと話せる事情ではない。

 どうにかしてうまい言い訳をしようとしたけれど、すんでのところでやめた。

 人を騙すのは、陽子が自らに課した誓いに背く行いだ。

 絶対にしてはいけない。かわりに話題を変えて誤魔化すことにした。

 

「ありがと、アキちゃん。でもね、あたしが心配なのは、今日の試験が何点だったかなんだ」

 

「グワー! 嫌なこと言うなあ、もう! あ、でも回答は全部埋めたから、二割以上はあってるはず!」

 

「二割は赤点だよ……」

 

「ま、まだ決まったワケじゃないしっ! 赤点回避してるしっ! たぶん、おそらく、もしかしたらッ!」 

 

「補習、あたしも手伝うから。頑張ろう?」

 

「確定みたいな言い方するなー!」

 

 大げさなリアクションをする昭亥に、陽子はちょっとだけ元気をもらった。

 ちょっと不自然な話題の逸らし方をしたけれど、昭亥は気にせず話を続けてくれている。

 彼女なりに元気を出してもらおうと、お道化ているのだろう。

 

「ウ、ウチは平均点なんだ……誰が何と言おうとウチは平均点なんだ……!」

 

「あ、あはは……」

 

 もっとも。定期試験の結果に関しては、毎回、本当に擁護できないひどいから、素でやっている可能性もあるけれど。

 とにかく。

 とにかくである。

 昭亥の気遣いは、今の陽子にとってことありがたい。

 鬱々としていた気分も、少しはマシになるというものだ。

 甘粕弾正嘉平と会うのは怖いけれど、それでも、最悪を想像することはやめようと決意できた。

 とりあえず会ってみれば良い。

 ダメならば素直に逃げ出して、外堀が冷めるまでどこぞの森にでも、ひっそり隠れ住めば良いのだ。

 そんな考えが浮かぶぐらいには、楽観的になれた。

 放課後になって、時間が近づいてくると、陽子はいよいよ会う準備をしなくてはいけなくなって、どうしようかと思案していた。

 ベッド下から取り出した白木作りの箱には、陽子にとって命の次に大事な物、鍔のない脇差が眠っていた。

 真っ白で、汚れひとつのない綺麗な絹布にくるまれたそれは、電球の灯りを受けて輝いている。

 鉄拵えの鞘から抜けば、おおきな六つの波紋が美しく煌めいた。

 長さ一尺五寸。

 刀鍛冶、越後の左羽良吉近清之助(さはらよしちかきよのすけ)

 銘を”鴉切六紋(あきりろくもん)”という。

 かつて妖狐の師より授かった宝刀である。

 陽子はそこらの”野良”に負ける妖ではない。

 もちろん、妖斬りの彼にだって、互角か、それよりちょっと下くらいの実力はあるから、戦えなくはないだろう。

 けれど、痛いのも痛くするのも嫌だし、戦い争うのも嫌だ。

 陽子は極めて平和主義的なので、そんなことはしたくない。

 不慮の事態に備えて、せめて防戦用の装備くらいは持って然るべきだが、これを持ち出すのは、野良に対して明らかに過剰と言えた。

 こんな高級なものではなく、無銘の安い刀で充分だろう。

 はてさて、どうしたものか。

 あらゆる可能性を考慮して考えた結果、陽子は鴉切六紋を持ち出すことにした。

 備えあれば患いなし。何に遇うともわからぬのだから、持っておいて損はないと考えたのだ。

 時計を見れば、時刻は既に十九時過ぎ。

 甘粕弾正嘉平と出会ったのは、十九時半頃だったので、そろそろ家を出なければ約束に遅れてしまうだろう。 

 服装を、白いシャツに青のジーパンと、動きやすいものに着替えて、上衣にダッフルコートとマフラー、靴は丈夫な厚底ブーツを履く。

 武器である鴉切六紋は背中に隠し、手にはいつものお風呂セットを持てば、これで準備完了だ。

 

「ちょっと外行ってくるね」

 

「いってらっしゃい。今日も寒いから、湯冷めして風邪ひかないようにね」

 

「うん、いってきます」 

 

 扉を開けて外に出ると、ちらちらと雪が降っていた。

 昨日とは違って、水分は少なめで、柔く軽い雪だ。

 歩く道には雪が薄らと積もっていて、いくつもの足跡が残っている。

 昼の半ばに晴れるかと思われていたけれど、夕方になってまた降り始めたらしい。明日は道路が凍って、歩くのも大変になるだろう。

 お風呂セットを術で小さくしてポケットにしまうと、陽子は重く澱んだ足取りで四つ辻を目指した。



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妖狐の陽子と百鬼夜行

 正直行きたくない。

 行きたくないが、誓いがあるゆえに行かなければならない。

 まったく今日ほど、自身に課した誓いを恨めしく思ったことはなかった。

 雪道をしばらく歩いて、件の四つ辻に足を踏み入れる。

 そこには、先に待っていたのであろう、甘粕弾正嘉平の姿があった。

 電柱に寄りかかっている彼の旅笠や肩には、雪が乗っている。鼻も耳も赤くなっているのを見るに、おそらくはそれなりの時間、外に立っていたようだった。

 まさか律儀に待っていてくれるとは。微塵も思ってなかった陽子は、我知らず、驚いて目を瞠る。対して、彼は何でもない風に「来たか」とだけ言った。

 

「き、来たかじゃないですよ! いつから待っていたんですか?!」

 

「半刻前だ」

 

「半刻って……一時間も!?」

 

 絶句である。

 陽子の言葉を信じてくれていたのすら予想外なのに、この寒空の下で、一時間も待っていてくれたなんて、まったくとんでもない話だ。

 悪い人間ではないのだろうけれど、ここまで律儀だと、当の陽子も困惑する他にない。

 

「か、風邪ひきますよ!? そんな薄っぺらな羽織だけで!」

 

「無用な心配をする」

 

「無用だなんて、そんなこと言わないでください! もう、律儀にあたしを待っていてくれたのは、嬉しいですけれど……でも、それで風邪をひいてしまったら、悲しいじゃないですか!」

 

「妖が悲しむか」

 

「悲しみますよ! あたしのせいで幸せ悪くするるなんて、そんなの嫌ですから!」

 

 小言を浴びせると、甘粕弾正嘉平は”意味がわからぬ”と、眼を瞬かせて陽子を見た。

 微かに感情が窺えるその瞳には、当惑の色が映っている。どう言葉を返せば良いのか、迷っているらしかった。

 

「ほら。あたしのマフラー、貸してあげますから」

 

 肩にかかった雪を払ってから、背伸びして首にマフラーを巻いてやると、彼は何故だか瞳を逸らした。

 初対面の印象だと、妖に対してひどい悪感情を抱いているようだったが、こうまで近づいても鼻っ柱に刀を突き付けたりせず、それどころかマフラーを拒んだりしない。

 善狐として人の善悪を感じ取れる陽子は、そこから彼の隠された善性を読み取った。

 もともとは善人だったのが、何か途方もない理由で墜ちたのか。

 それとも、陽子だけが特別な扱いを受けているのか。

 どちらにせよ。

 甘粕弾正嘉平という人間は、複雑な過去を持っているに相違なかった。

 もっとも、彼のことをよく知らない陽子からすれば、根は優しい人だったのかもしれない、程度の認識でしかないが。

 

「はい、できましたよ」

 

 マフラーを巻き終わると、彼は悲しいような、懺悔しているような、感情がごちゃ混ぜになった複雑な顔で陽子に告げた。

 

「礼は言わぬぞ」

 

「いりません、あたしが好きでやったことですから」

 

「……」

 

 甘粕弾正嘉平は陽子の行いを、理解できないと瞑目したようだ。

 彼の当惑は、至極まっとうなものだ。

 普通ならば、妖が人に対して見返りを求めぬ施しをするなぞ”御伽話でもあるまいに”なんて、うすら寒くなる。しかし何事にも例外というのは存在する。

 

「信じてもらえるかわかりませんけれど、本当に、あたしが好きでやっていることですよ。自称するわけじゃありませんけれど、いわゆる善狐ってやつですからね、人のためになるのが生きがいなんですっ」

 

 この陽子こそは、まさしく例外中の例外であった。そのお人好しは度を越しており、彼女ほど人を好いた妖もこの世にいなかろう。

 

「妖狐に善なぞあるか」

 

「ありますよ。妖狐だけではありません、全ての妖には善と悪が混在しています。人間だって、善い人間と悪い人間がいるでしょう? それと同じです。悪い妖怪ばかりじゃないんです」

 

「人を妖は違う」

 

「違いません。生まれ方が違うだけで、本質は同じ生き物です」

 

 否定されて、陽子はちょっとだけ、ムキになって答えた。

 彼女にとって人間とは、自分たち妖とさして変わりない生き物であり、対話によってわかりあえる存在だ。親愛なる隣人と表現しても良いだろう。

 小難しいのは抜きにして、掛け値なしに好きなのだ、人そのものが。

 

「妖は人の感情から生まれたのですから、違いや差はあれど根っこは同じ……そうでしょう?」

 

 そも、妖とは”自然現象”を具現化したものであり、畏怖や尊敬の対象だった。人々の莫大な感情こそが、妖の根源そのもの。

 そして感情から生まれた妖は、力を得るためにさらなる感情を、糧と欲するようになる。それはさながら、乳吞児の如く。 

 科学技術の進歩によって、今はその原理をほとんど解明されてはいるけれど、一度生まれた妖は決して消えることはない。

 むしろ、科学では解明できない現象が現れたことで、未確認の新たな妖が生まれる一方だ。

 

「妖にとって人間は、生みの親、父や母と同義なんです。もちろん、貴方のこともそう思ってますよ」

 

 もちろん、そんなはずはない。陽子の言い分は的外れこの上ないものだ。

 しかし彼女は本気でそう思っていた。人間とは愛すべき隣人であり、親でもあると。

 

「……狐がよくも嘯いたものだ」

 

「残念ですけど、嘘は吐けないタチなんです」

 

 陽子の話を聞いて、甘粕弾正嘉平はますます当惑の色を強くしたが、一応は言い分を信じたらしい。

 妖のなかでも特に奇特な、いわゆる、逸れ者の類と認識したのだろう。最初に比べて、ほんのわずかにだけれど、警戒が解れていた。

 

「……、話し過ぎた。往くぞ狐」

 

「陽子です、加賀美陽子。ちゃんと名前があるんですよ?」

 

「化け狐なぞ狐で充分だ」

 

「もうっ、失礼な人ですね」

 

 さっさと歩き出した彼を追って、陽子もまた歩き出す。

 彼の歩幅は大きく、そして早い。

 体躯が小さな陽子には、付いて行くのすら一苦労で、歩調を緩めてほしいと頼めど、彼は無視するばかり。

 おかげで隣をせかせか歩く羽目になった彼女は、早々に疲労を蓄積することになった。

 

「あ、あのっ」

 

「何だ」

 

「そういえば、何て呼べばいいんですか?」

 

 見慣れた通学路を行く道中、陽子はふと、思い出したように彼に訊いた。

 

「好きにしろ」

 

 ちらちらと顔を窺う陽子とは対照的に、彼はそっけなく言う。

 

「好きに、ですか? それじゃあ……嘉平さんって呼びますね」

 

「……」

 

 甘粕弾正嘉平、改め、嘉平は興味なさげだ。隣を歩く彼女を一瞥さえしない。

 しかしならが、訊かれれば答えてくれるあたり、邪険に扱う気はないようである。

 ならばと陽子は、続けざま、もういくつか質問を投げかけた。

 

「嘉平さんは、どうして妖を斬っているんですか?」

 

「妖に話すと思うか」

 

「……ですよねえ」

 

「フン」

 

「あとですね、その刀はどこで手に入れたんです? 妖刀の類ですか」

 

「手ずから打った。退魔の念を込めた刀に殺生石の欠片を熔かし含め、遍くを屠り邪を断つ一刀とした」

 

「殺生石!? あれを使ったのですか!? しかも熔かしたと言いましたよね!? なんて酷いことを……」

 

 殺生石。

 それは放つ瘴気はあらゆる生命を絶ち、不死の魂すら現世への帰還を拒む魔石。討伐された玉藻の前の最期の姿である。

 そんなものを刀に溶かし含めたと言われれば、妖狐の陽子は腰を抜かしかけるほど驚くし、なんだか悲しくなるというものだ。

 

「玉藻の前様も泣いていますよ……およよよよ……。それにしても、刀を打っていたとは、貴方は元は刀匠様なんですね。自分が作った刀を自分で振るえるなんて、器用な方です」

 

「くだらぬ」

 

「あとあと、どうしてあたしを見逃したんです?」

 

 訊くと、彼は少しだけ躊躇するそぶりを見せてから。

 

「……。妖といえど、ああも命乞いをされればな」

 

「死にたくないですからね、見逃してくれそうなら全力で命乞いしますよ。ああ、最後にもうひとつ訊かせてください。嘉平さんは、あの鴉なんですか?」

 

「何だと?」

 

 空気が、凍った。

 急速に冷え込んでいく。

 二人の間に横たわる空気が、まるで氷塊の如くに冷え固まり、凍てつくほどに寒々しいものへ変わった。

 ピタリと立ち止まった嘉平は、怒気を孕んだ視線を向けている。突然、実に突然な変化に、陽子は戸惑ってしまう。

 ちょっとした質問だと思っていたのに、まさか特大の地雷だったとは。まったく予想だにしていなかった。

 

「いえ、あの、人斬り鴉っていたじゃないですか。それが、その……、嘉平さんなのかな、って」

 

 しどろもどろに言えば、彼は鯉口を切りながら、脅すように答えた。

 

「忌々しい名を聞かせるな、狐。拾った命、ここで散らすが望みか」

 

「っ……い、いえ」

 

「二度は言わぬぞ」

 

 鯉口を戻してもなお、嘉平は怒気を霧散させずにいる。よほど腹に据えかねたらしい。

 反応からして鴉ではないことは確かだろうけれど、それにしたって、藪を突いて蛇を出したどころの話ではない。これでは羆ヒグマを出したようなものだ。

 まったく戦々恐々である。

 陽子はこれ以上は何も言わないことにして、口を噤んで彼の後ろに付いて行くことにした。

 未だ怒気を消さない嘉平は、黙して何処ぞへ往く。

 辿る道こそ陽子の通学路だけれど、じょじょに妖気の漂う魔の域へと変貌していた。進めば進むほど、夜に生きる異形が群れを成して、闇に蠢いているのがわかる。

 住宅街の端、ちょうど、大通りに出る少し手前くらいのところで、彼が足を止める。

 何かと思って後ろから覗いてみれば、そこにはまさしく、百鬼夜行があった。

 目を瞠るほどの妖の群れが、おそらくは山奥くんだり、やんやと騒ぎながら行進していた。

 先頭は小豆洗い、後ろには送り雀を伴った一目連(いちもくれん)

 さらにつらら女とつるべ落とし、垢なめ、肉吸い、猫又、ぬらりひょん、雷獣、笑い地蔵。

 最後尾のいっとう大きいがしゃどくろは、肩や掌に座敷童とバロウ狐を乗せている。

 これ以外にもまだまだ集まっていて、種類も古今東西を問わない。実に雑多だ。

 

「……ええ?」

 

 まさか通学路に夜行が出るとは、さしもの陽子も驚いて開いた口が塞がらない。

 普段何気なく通ってる道に、妖の大群が現れるなんて、冗談にも程がある。

 

「おん? んじゃあおめえ、みょうちくりんな格好しよって。東京モンっちゅーはこんなが流行っとるか? ハイカラじゃ、ハイカラじゃ」

 

「小豆さん。ありゃハイカラじゃねえ、時代遅れってんだぜ」

 

「あんらあ。ほいじゃお前さん、何か、あん人ったらワシらと同じさね?」

 

 小豆洗いの言葉に一目連が答えると、つらら女がホホホと笑う。

 

「おいおい、あそこの嬢ちゃん、狐っ子じゃねえか」

 

「おんや、ほんとだべ。おお、しかも若か! めんこいべな、めんこいべな、うん。やい鶴瓶の、飴ちゃんさねべか」

 

「飴ちゃんだあ? のど飴ならあっけどよ。ほれ」

 

「あるべや、こりゃ結構だあ。あとでお近づきっちゅんでやっべ」

 

「つーか爺さんよお、若い子見てはしゃぐのは良いけど、あんま迷惑かけんなよ? 昨日ホテルの受付さん口説いて叱られたの、忘れてねえだろうなあ?」

 

 鶴瓶落としとぬらりひょんが、そんな会話をしながら手を振る。

 まるで観光に来たお上りのお爺さんといった風で、なんとも気安い雰囲気だ。陽子が控えめに振り返すと、彼らは嬉しそうにけたけた笑うのだから、毒気を抜かれてしまう。妖とはこんなにも近い存在だっただろうか。

 

「もし、どくろの姐さんや。あすこにおわすは誰かえ?」

 

「人間様、しかも刀を佩いとりますね。珍しいこっちゃ」

 

「あやや、刀とは物騒どすなあ」

 

「そうですねえ」

 

「おばりよん!」

 

 巨人もかくやながしゃどくろと、その肩に乗る座敷童が嘉平を眺める。

 座敷童のほうは首をかしげるだけだが、がしゃどくろは警戒した視線だ。

 バロウ狐だけは関係なしに、陽子におぶさりたいと──おばりよんとは方言で「おぶさりたいの意である──叫んでいる。

 後続の妖たちも二人に気付いたようで、なんだなんだと喚きだしたから、騒ぎが大きくなってしまった。

 普段ならば静謐な路地も、ここまで妖が集まれば相当に喧しい。

 彼らがほとんどの人には認識できない妖だからよかったものの、これが人間ならばとっくに近所迷惑で警察を呼ばれているところである。

 

「ええと……、どうするんです?」

 

「斬る」

 

「はい?」

 

「斬ると言った。全て、斬る」

 

 嘉平が殺気立てて鯉口を切る。

 がしゃどくろが、座敷童とバロウ狐を地面へ下ろす。

 ひとりと一体の間で、静かに、だが確実に、火花が散り始めていた。

 

「いや、いやいやいや!? 待って、待ちましょう!?」

 

 一触即発になりかけていたところ、陽子は彼の前に躍り出た。

 五十はいる妖を全て斬るなど不可能だ、正気の沙汰ではない。

 そもそも夜行の様子からして、田舎住まいの妖が都会へ観光に来ただけに見える。

 それに、これだけの妖がいながら、最近になって怪奇的な事件が起きたという話は聞いていないから、人に悪いことをする妖ではないだろうことは明らかだ。

 

「あの人……じゃなかった。あの妖たち、たぶんですけど、観光に来ただけですよ?」

 

「それがどうした」

 

「悪さなんてしてないじゃないですか。さすがに横暴ではありませんか?」

 

「横暴だと、笑わせる。あれらこそが真に横暴だ。今は害をなさずとも、いずれは害をなす。悪事を繰り返す」

 

「そうだとしても、まずは話し合いましょう? ね? 有無を言わさず斬り合うなんて、野蛮人のすることですよ」

 

「……其処を退け、狐」

 

「もう! いいですか嘉平さん。妖なら誰彼構わず斬ってもいいなんて思ってるみたいですけど、このまま行くと、貴方は道を踏み外してしまいますよ。嘉平さんが何を思って妖を斬るのか、それは訊きません。けれど感情に身を任せ、修羅に堕ちるのはダメです。貴方はそこまで堕ちた人じゃあないでしょう?」

 

 陽子は宥めるように、諭すように説得する。自分を見逃してくれたのだから、この夜行とだって、話し合えばわかり合えると信じていた。

 はたしてその想いが通じたのか、彼は不機嫌そうに、納得いかなそうに、しぶしぶ刀を納めてくれた。

 がしゃどくろの方も警戒は解かないまでも、臨戦態勢ではなくなって、やっと話し合える雰囲気にはなった。

 もうすでにどっと疲れた気がする陽子だったが、彼と夜行はまだ言葉すら交わしていない。

 彼の様子からして、話し合いをさせては紛糾する。自分が仲介する他にない。

 難しいことだが、ここでへたっていては、夜行が皆殺しにされてしまう。

 それに元来、頭の回転は速い方だから、ある程度は穏便に取りなせるだろうと思った。

 彼女は気合を入れ直すと、夜行に向けて言葉を投げた。

 

「あの、皆さんは何をしに気なんですか?」

 

「一言で言えば”観光”ですわ」

 

「やっぱりですか」

 

 代表して答えたのは、がしゃどくろだった。

 よく通る声──骨だけなので声帯はないけれど──で、陽子の問いに公明正大、理路整然とした態度で言葉を返した。

 

「みりゃわかると思いますけど、アタシら、妖相手に”観光ツアー”をやっとりまして。ここにおんのはみんなお上りさんっちゅーわけです。ここにおる妖様は、人里離れた山で静かに暮らしてた田舎モンさかい、そこの人間様が思っとるような、悪い奴らやない。”滝姫観光”の名に懸けてあたしが保障します」

 

 妖向けの観光会社があるなんて驚きだが、考えてみれば、技術の発展した現代ならばそういうこともできなくはない。

 人に化けさえすれば、船や飛行機、タクシーにだって乗れるし、インターネットカフェでパソコンだって使える。時代に順応した妖ならば、そういう商売を思い付いてしかるべきだ。

 

「一応、念押しで訊きますけれど、悪さとかはしないんですよね?」

 

「もちろん。わが社は阿漕な奴らたあ違うさかい、まっとうな会社です。人の姿に化けられて、ある程度は人語を話せて、悪事を働かない。この三つを満たさん限り、申し込みは受けとらん決まりでして。おかげで評判上々、お客様満足度ナンバーワンですわ」

 

 自慢げに彼女が言うと、ピッと自分の肋骨を指さす。

 対して嘉平は、今だ柄から手を離さず問うた。

 

「ならば如何に証明する」

 

「証明言うたら、お客様の声が一番でしょうや」

 

 がしゃどくろに促されて、周りも妖が口々に言う。

 

「んだ、んだ。姐さんの案内ば、楽しかばい」

 

「よおござんす、実によおござんすよ。ホホホ」

 

「美味いもん、たらふく食えたべな」

 

「”すぱげっちい”なる西洋の食、血のように赤いあれは、誠に美味であった」

 

「こったらデカイ建モンも見たでよ。オラァ腰抜かすほど驚いただ」

 

「動物園もおでれえたぞ! 見たことねえ妙な生きもんばっかで、皿から水零すかとおもったわ!」

 

「おばりよん!」

 

「あんさん、そればっか言いはるなあ」

 

 こうまでも絶賛されているのを見るに、がしゃどくろの言葉に嘘偽りはないようだ。

 妖だって旅行したい、そんなささやかな想いを叶えている彼女は、善なる者に違いない。

 周りだって、彼女が信を置いて連れてきたのだから、きっと善い妖なのだろう。

 

「ほら、言ったじゃないですか! 悪い妖じゃないって! ね、ね、嘉平さん!」

 

 陽子が嬉々として言えば、嘉平も理解したようで、不愉快を隠さずに鼻を鳴らして、やっと刀から手を離した。警戒は解いていないけれど、今はそれで充分だ。

 

「おばりよん!」

 

 不意に。

 バロウ狐が目の前に飛び出すと、何やら訴えかけてきた。

 陽子が苦笑して、背を向けてしゃがみ込むと、嬉々としておぶさってはしゃぎ始める。どうもこの子は我慢が効かないタイプらしい。

 空気もどこか弛緩して、穏やかな雰囲気になった。

 その時である。

 

「っ!?」

 

 悪寒が走った。

 夜行の全員が目を見開いて押し黙り、すわ何事かと辺りを見回す。何かの気配がある。そう遠くない場所で、何か良くないことが起こっている気配が。

 

「南無三っ……!」

 

「あ、ちょっ! 待ってください!」

 

 嘉平は弾かれたように走り出し、陽子はわずか遅れて、慌てて彼のあとを追った。

 走る。

 走る。

 走る。

 向かう度に不穏は濃くなり、腥い血の臭いが強くなっていく。悪意と、殺意と、享楽の色が臭い立ち、ねっとりと空気を犯す。

 いの一番に現場へ辿り着いた二人が見たのは、惨殺された男の死体だった。

 降り積もった白い雪と、そばに落ちた鴉の羽根を、大量の血と臓物が汚して、湯気と共に死臭を漂わせていた。

 

「なんて、ことを……」

 

 青褪めながらも、陽子は死体検分する。

 死体はひどい有様だった。

 まず目を引くのは、こぼれ出た臓物だ。腹を横一文字に掻っ捌かれ、腸を悪戯に抉り出されている。

 次に両腕だ。二の腕の中ほどから斬り飛ばされ、断面からは血の滴る肉と赤黒い白い骨が覗く。

 全身を見れば、浅く刀傷を刻まれていた。傷跡が足に集中しているから、自由を奪ったうえで殺したのだろう。

 あまりに異様な惨状に、陽子は押し黙る。

 バロウ狐も、この時ばかりは真面目な顔をして、鼻をひく付かるばかりだ。

 

「鴉」

 

 不意に、嘉平が呟く。憎悪だけが詰まった声で。

 

「鴉……、まさか」

 

 死体の顔を見れば、血濡れた便せんが口に押し込まれている。

 恐る恐る覗き込めば、その便せんのふちには。

 

「鴉の、マーク……!」

 

 人斬り鴉。

 今宵、舞い戻る。



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妖狐の陽子とバロウ狐

「はあ……」

 

 嫌なことになった。

 学校からの帰路。陽子は憂鬱に浸りながら、溜め息を吐いた。

 昨日の夜。

 嘉平と共に夜を歩き、通学路で夜行と遭遇し、そして死体を見つけた夜。陽子は、持っていた携帯電話で警察に連絡して、夜行と嘉平へしばらく隠れるように誘導して、間髪入れずにやって来た警察に事情を説明して……と、とにかく大変な目に遭った。おかげで百年分くらいは体力を使った。

 人斬り鴉の帰還。

 新聞、ラジヲ、テレビ。あらゆるマスメディアがこれを伝えている。政府からも”夜間の外出を控えるように”とのお達しが来たものだから、オリンピックの余韻から一転、日本は蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。

 しかしこの事件。

 はっきり言って、今の陽子にできることはない。

 人が悪意によって殺されていくのは悲しいけれど、妖が手を出せば余計にこじれてしまう。

 それに、連続殺人犯といえど、やっているのは”人間に違いない”と陽子は思っていた。 

 誓いに縛られて久しい彼女は、犯人を捜し出して捕まえることもできなければ、たとえ相対したとしても戦えない。できるのは、被害者の冥福を祈るくらいである。

 薄情に思うかもしれないが、彼女が自身に課した誓いというのは、それほどに重要かつ絶対の力を持っている。破ることは許されない。

 

「どうしたー、陽子? 元気ないぞ?」

 

 隣であんぱんを齧る昭亥は、変わらずにのほほんとしていた。けれど、注意深く声を聴けば、微かな怯えが含まれているのがわかる。

 人斬り鴉。

 かの切り裂きジャックもかくやの勢いで、その名は恐怖の象徴として人々に刻まれている。外国にさえ彼の名は知られ、FBIが人員派遣に乗り出したと言えば、どれほどの事態か理解できるだろう。

 世界の注目を一身に集める猟奇殺人鬼、それが鴉だ。

 

「陽子も怖いのか? 大丈夫だって、夜に出歩いたりしなければ、あんなの遭わないって! な!」

 

 強がった口調で、昭亥は笑った。

 恐いだろうに、落ち込んだ陽子を気にかけて、弱気を見せまいとしているのだ。まったく健気である。

 

「ありがと、アキちゃん。アキちゃんも、無理しないでね」

 

「わ、わかってるって!」

 

「ほんとに? 口に餡子ついてるのも気付かないのに?」

 

「え、どこ? どこに付いてる?」

 

「ほら、じっとしてて」

 

 強がった態度を崩さない昭亥に苦笑して、陽子は彼女の口端に付いた餡子を、指で拭って食べる。

 餡子の仄かな甘味が口に広がり、疲れをほんのちょっぴりだけ、癒してくれた。

 甘さで、ふと思いつく。

 

「ね、久しぶりにさ。お菓子やさん行かない?」

 

「おお、いいね! あのお菓子まだ置いてるかなあ!」

 

 陽子の言うお菓子屋さんとは、学校の近所にある駄菓子屋のことだ。

 小学生がよくたむろしているその駄菓子屋は、女月神高校の近くにあって、なおかつ大通りにほど近い場所にあるので、食い気の多い二人は、そこでよく買い食いをしている。

 最近は試験のために我慢していたから行っていなかったけれど、ちょうどテストも終わったことだし、寄るにはいい頃合いだろう。昨日の出来事を忘れて、羽を伸ばすのにもちょうど良い。

 

「今日はたくさん食べちゃうぞー!」

 

「おー!」

 

 二人は手を握り合うと、足早に駄菓子屋へ向かった。

 古民家を改装して作られた駄菓子屋には、さまざまな菓子が並んでいる。

 目を引くものは多くあれど、特に注目すべきは、店内に設けられた飲食用の広場だ。

 小さいながらも子供ならば十人以上は入れるここには、今時は珍しい薪ストーブが置かれているのだけれど、この上には鉄板が敷かれていて、冬の間だけちょっとした料理ができるようになっている。

 もちろん、ストーブの火力なんてたかが知れているから、大層なことはできない。それでも、ささやかながらお菓子を焼けるこの場所は、子供たちには大人気なのである。陽子と昭亥も例に漏れず、ここがお気に入りだ。

 

「みてみて! マシュマロ焼きー!」

 

「わっ、すごい! 結構溶けるんだね」

 

「そうなんだよー! しかもこれを、きな粉餅につければ……、きなこマシュマロの完成! へへへ、これかなりの発見じゃない?」

 

「かなりどころか、世紀の大発見だよ! さすがアキちゃん!」

 

「へへ、よせやい! おだてたって、陽子の分しか出てこないぞ?」

 

「おばりよん!」

 

「おばりよん! ……おばりよん?」

 

 聞いたことのある言葉が、陽子の耳を打つ。

 はたと声の方を見れば、どこか狐っぽい顔立ちの、小学校高学年くらいの男の子が立っていた。

 昨日のバロウ狐が、人間に化けた姿である。

 

「んー? どうしたボクちゃん、これほしいのかー?」

 

「うん!」

 

「おー、そっかそっか! じゃあ、はい! お姉ちゃんのをあげよう! ……ところでおばりよんってどういう意味?」

 

 ただの子供だと思っているらしい昭亥は、彼に焼きマシュマロを手渡すと、人好きのする笑顔を向けた。

 なんとも心温まる光景だ。幼子が妖でなければ、だが。

 陽子は内心、驚きと焦りを必死に抑え込もうと、躍起になっていた。

 妖は何かに化けた時だけ、人間の目に見えるようになる。

 ならば、その逆も然り。

 つまり、もしも彼の変化が解けてしまえば、昭亥の目の前にマシュマロが浮いているという、とんでもない状態が発生してしまうのだ。それはまずい。とてもまずい。

 そしてもっとまずいことに、彼がここにいるということは、昨夜にあった夜行も近くにいるということで。鉢合わせたらさらに面倒が極まるのは予想が付く。

 昭亥の前で「狐っ子」だとか、「昨日の刀の男はどうした」なんて言われでもしたら、昨日の事件も合わさって、目も当てられない大騒ぎになるだろうことは明白だ。陽子としては、それだけは何としても、何としても避けなければならない。

 

「ぼ、ボクくん、お友達は何処にいるんですか?」

 

「んー、わかんないや」

 

 陽子が引きつった笑顔で問いかければ、バロウ狐は無邪気に答えた。彼は迷子の子供を演じているようだった。

 ひとまず、今すぐに夜行と出会うことはなさそうで、陽子は安心した息を吐く。

 しかし。

 どうしてこのバロウ狐は、こんなところにいるのだろうか。陽子に疑問なのはそこだ。

 あの夜行と離れたのは、確かに、ここからは近い場所ではあった。だが、半日以上も前の話だ。

 あの夜行が一晩もの間、この辺りをうろついていたとは考えにくい。ならばこの子は、いったいどこから来たのやら。まさか本当に迷子なわけでもあるまい。

 そも、今の姿すら変化術によるものだから、人としても妖としても幼子なのか、それさえも怪しい。敵意や害意の類はないようだが、どこか妙な相手だ。

 

「どこから来たか、わかる?」

 

「えっとね。なんかでっかくて、ひろいとこ」

 

「お父さんとか、お母さんは? どこにいるのかな?」

 

「んー、きれいなおへや」

 

「なるほど、全然わからん!」

 

 昭亥の問いに答える彼は、こんな調子で要領を得ない。

 抽象的な言葉から察するに、街の中心にある観光客向けホテルに、あの夜行は泊っているようだ。

 中心部からここまではかなりの距離があるから、何か目的がなければ、わざわざ来ようとは思わないだろう。ならば、このバロウ狐の目的はいかに。

 

「ね、ね。おねえさん」

 

 考えていると、バロウ狐が声をかけてきた。

 表情は無邪気な子供のままだが、その双眸の奥底からは、真剣さが覗いている。何かを伝えんとする者の瞳だ。

 

「なんですか?」

 

「おしっこ行きたい」

 

 彼の言葉の裏には、誰も交えずに話したいという意志が見えた。

 ここが分水領、出るのは正か邪か。

 数瞬の思考、いくらかの可能性を考慮して、陽子は鴉切六紋を隠した鞄を持って、彼の話を聞くことにした。

 

「それじゃあ、おばあちゃんにトイレを貸してもらいましょう」

 

 頷いて彼の手を握ると、昭亥に一言を入れてから、店主のおばあちゃんにお願いしてトイレの使用許可を貰う。

 トイレはこの店の庭にある離れだから、こうして言っておけば誰かが使おうとしても、店主が止めてくれるに違いない。

 都心ならばそこそこ大きいだろう庭を横切り、トイレの裏手、店の方からは見えない場所で陽子はバロウ狐に訊く。

 

「それで、どうしたんですか?」

 

「ぼく、わかるかもしれないんだ」

 

 唐突な言葉に、陽子は首を傾げる。

 彼は先ほどと変わらない、真剣な眼差しで答えた。

 

「昨日、人を殺したやつ」

 

「……どういうことです?」

 

 彼は自身の鼻先を指さして、

 

「ぼくね、特別鼻が良いんだ。一族でも一番なくらい。だから、あそこに残っていた臭いを辿っていけば、きっと犯人を見つけられる」

 

 この提案に、陽子はふむと考えた。 

 所詮は子供の話、胡乱だと片付けるのは容易い。だが彼の瞳に一切のぶれはなく、真実のみを口にしていると、何より雄弁に語っている。

 きっと本当に見つけられる自信があるのだろう。自分には事件を解決に導く力があると、そう信じている瞳だ。

 だが残念なことに、陽子には己に課した誓いがある。

 

「それはすごいですが……その、申し訳ないことに、あたしは誓いを起てていまして。人を捕まえたりはできないんです」

 

 後髪をひかれる思いで断り、昭亥の下へ戻ろうと振り向いた。

 

「妖だよ。やったのは」

 

 いやに声が響いた。

 彼の言葉が波紋のように広がって、空間を支配していた。

 沈黙。

 数秒程度の。

 

「それは、本当ですか?」

 

「うん。人間の臭いじゃなかった」

 

 ついと放たれた問いに、整然と彼は答えた。

 振り向かないまま、陽子は平静ではない頭で思考する。

 もしも。もしも本当に妖の仕業ならば、これは人間の手に余る事態だ。鴉は人々を殺すことで恐怖を植え付け、莫大な量の感情を喰らっている。すでに大きな力を付けていることだろう。早急に捕まえるか、首を刎ねてしまうべきだ。しかし、並の術師や妖では太刀打ちできないかもしれない相手に、たった三百年ほどしか生きていない若輩者の妖狐が戦えるだろうか。義憤に駆られたと言えば聞こえは良いが、わざわざ敵わない相手に向かうのは蛮勇である。人を愛せど救えるのは手の届く範囲だけだ。

 と、ここまで考えてから、彼女は瞑目して首を振った。

 逃げている。平穏の中にいたいからと、安牌を取りに行こうとしている。それは善くない。無辜の人々が殺されているのというのに、自分の周囲には被害が及んでいないからのうのうと解決を待つなど、善狐の風上にも置けない行いだ。臆病者、腑抜け、恥知らずにもほどがある。人が相手ならばいざ知らず、妖が相手ならば戦うべきだ。手が届かなくとも、伸ばすことはできる。ならば、往くべきだ。

 

「……わかりました。貴方の提案、乗らせていただきます」

 

 決意と共に、陽子は目を開いた。

 

「本当に?」

 

「ええ、もちろん。あたし、嘘は吐けないタチなんで」

 

 改めてバロウ狐と向き合い、右手を伸ばす。彼は嬉しそうに、その手を取った。

 

「ありがとう! ぼくは、バロウ狐のミカ。よろしくね、おねえさん!」

 

「あたしは加賀美陽子、陽子で構いませんよ」

 

 狐二匹の同盟が、ここに成った。



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妖狐の陽子と迷い家

 時刻は既に夜半を過ぎ、街が活気を失い始める頃。

 曇天の夜空が、重く垂れ込む。

 人斬り鴉に怯える街は、憂鬱の帳で重苦しい。空の色はネオンの輝きを鈍らせ、人々の顔には恐怖と不安が射す。行き交う自動車のライトは朧げに揺れ、街灯の光が虚ろに道を照らしている。

 人気のない路地裏を歩く陽子は、汚れた空気に顔をしかめた。

 鼻がばかになりそうなひどい臭いは、中心部ゆえか、郊外の大通りとは比べ物にならない。彼女のような獸妖怪にはこと辛く、そうそう慣れるものではなかった。

 そんな中でも、ミカの鼻は件の人斬り鴉の臭いを嗅ぎわけられるようで、言葉通り本当に鼻が良いらしい。一族でも一番と豪語するだけはあるようだ。

 

「嘉平さん。あの、怒ってます……よね?」

 

 背中にミカを乗せた陽子は、隣を歩く嘉平に申し訳なさを滲ませながら訊いた。

 家族に心配をかけたくなくて、正面切って夜に外出するのを憚った彼女は、家族が寝静まったのを確認してから家を出た。

 おかげで昨日よりもずっと、時間にしておおよそ三時間以上、長く嘉平を待たせたことに罪悪感を抱いていた。

 彼は気にした様子もなかったけれど、昨日の今日だというのに、寒空の下で待ちぼうけさせてしまったのを、やはり申し訳なく思っている。

 それに加えて、独断でバロウ狐のミカを連れてきてしまったのも、罪悪感を膨らませた。 

 昼間はほとんど勢いで了承したが、よくよく考えれば、彼に相談してからどうするか決めるべきだった。鴉を捕まえなければ。そう思う気持ちは本物だが、やはり逸ってしまうは良くない。

 彼にはミカを連れてきた事情は説明したけれど、妖嫌いの彼はきっと怒っているだろうと思っていた。

 しかし。予想に反して彼は、

 

「……、くだらぬ」

 

 独り言のように答えるだけで、怒った様子もない。

 それはそれでなんだか妙ではあるけれど、怒っていないのならば良いのだろう。陽子は強張っていた肩を下ろして、安心した笑顔を彼に向ける。

 貸しっぱなしのマフラーをなびかせる嘉平は、彼女を一瞥して鼻を鳴らすと歩調を速めた。

 

「おばりよん!」

 

「黙れ」

 

 ミカのからかった声――彼は元の姿になると、喋られなくなる――に、嘉平はにべもなく言い放つ。

 鴉捜索のためとはいえ、妖に協力を仰ぐのは遺憾なのか、それともミカを信用していないのか。嘉平のミカに対する態度は、真冬の井戸水みたいに冷たかった。

 

「……それで、ミカくん。鴉の臭いはこの先で間違いないですか?」

 

 問いかけに肯定の一鳴きを返す。

 昨日の一件で陽子と嘉平は、まず鴉を捕まえるべきとして目下と定めた。

 木っ端の妖ならば放置したとてさしたる問題にはならないが、あの鴉を逃がせば如何なる被害が出るかわからない。見過ごせない悪党だった。

 煌びやかな大通りから外れ、破落戸がのさばる路地奥へ入ったが、今のところ誰とも遭遇していない。

 本当に鴉がいるのかと、少しばかり心配になってくる。

 破落戸とて人間だ、無為に惨殺されるなんてごめんこうむるに違いない。

 だが、それにしたってこの静けさは無気味である。幽霊のひとつやふたちも、出てきそうなくらいだ。

 

「いやに静かですね」

 

「勘付いたか」

 

「あたしたちに、ですか? あり得るのでしょうか」

 

「周到な輩ならば、あるいは」

 

 誰にも見つからず犯行を一年続けた輩なのだ。この接近に気付いて、逃げおおせているかもしれない。

 今辿っている臭いはただの残り香で、本体は遠く離れた場所にいても、おかしくはないだろう。

 そんな心配が、二人の間を通り抜けた。

 

「ミカくん、臭いはどうですか。遠く離れたり、薄くなったりはしていませんか」

 

「おばりよん!」

 

 彼は前足で道を示す。路地の先に広がる黒々とした暗がりから、臭いは変わらずに漂ってきているようだ。

 

「ふむ。逃げた様子ではない、ですか。なら、急いで行ってみましょう」

 

「逃がすは惜しい、か」

 

 嘉平と陽子は、一瞬だけ視線を交わしてから、東京の闇の中を駆けた。

 ミカに導かれるまま、二人は路地を進んでいく。

 不意に、大きな一軒家の前に出た。

 それは大きく立派な黒い門の家で、開け放たれた門戸からは、非常に立派な構えの邸宅が見える。

 明らかに普通ではない。

 ならば、すなわちこの家は。

 

「迷い家!? どうして、こんなところに……?」

 

「お、おばりよん……」

 

 妖二匹は驚愕で目を瞠った。

 迷い家。マヨヒガとも呼ばれるこの妖は、何者かが戯れで作った選定の場である。

 欲無き者には富と繁栄を、欲深き者には噓と虚無を与えるここは、本来ならば人里離れた山奥にのみ存在している隠れ里だ。

 一説には山の神が旅人のために作ったと言われているが、ことの真偽は文字通り、神のみぞ知る。

 そんな大層なものが、大都会東京のど真ん中に建っているとなれば、二匹が腰を抜かしかねないほど驚くのも当然だった。むしろ腰を抜かさなかっただけマシとまで言える。

 

「面妖な。このような場所にいるものか」

 

「み、ミカくん? 本当にこっちから臭うのですか?」

 

 二人の懐疑を受けて、ミカは自信なさげに首をかしげてしまう。

 鴉の臭いは、ここで間違いないらしい。

 ということは、鴉は迷い家を住処にしているとでもいうのか。

 だが迷い家はその性質上、二度とは会えない家、一夜を過ごすならばともかく常駐するなぞ不可能である。

 いよいよもって無気味を極めた事態に、二人と一匹は、どうしたものかと顔を見合わせた。

 迷い家自体に危険性はないが、この中に鴉がいるかもしれない。

 先ほどのような路地で刃を交えるならまだしも、相手が勝手知ったる場所での剣戟は避けたかった。

 

「困りました……迷い家は結界によって外界と断絶された空間、異世界と言っても過言ではありません。そんな場所に鴉が潜んでいるとなれば、内部構造のわからないこちらは不利も不利、飛車角落ちどころか金銀落ち、寡兵で城攻めするみたいなものです。それに貴重な建築物ですから、傷つけるのは憚られますし……そもそも、なんで東京のど真ん中に現れたのやら……」

 

「面倒だ、斬るか」

 

「ばりよん!?」

 

「ちょっ、嘉平さん!? 聞いてましたか!? 貴重な建築物だって言いましたよね、あたし!」

 

「結界なのだろう。ならばそれを斬り、霧散させてしまえば面倒は減る」

 

「妖だからってなんでも斬ろうとしないでくださいよ! 迷い家はとても貴重なものなんですよ!? 妖界の重要指定文化財なんですから、絶対に絶対にやめてください! わかりましたか?!」

 

「敵前で騒――」

 

「わかりましたかって言ってんでしょうがーッ!?」

 

「わかった」

 

 怒号に押されて、嘉平は渋々引き下がった。

 もし彼がひとりでここに辿り着いていたらと思うと、まったくぞっとしない。

 陽子は特大の溜め息を吐いた。

 ミカは呑気な二人に呆れて、閉口するばかりである。

 

「まったく、もう! あたしが先行して中の様子を見てきますから、嘉平さんはここで待っていてください。くれぐれも、家に傷を付けたりしないこと。いいですね?」

 

「……」

 

「返事は?」

 

「わかった」

 

「よろしい。では行きますよ、ミカくん」

 

「おばりよん!」

 

 不平不満を隠そうともしない嘉平に、きつく言い含めてから、陽子は迷い家の敷居を跨いだ。

 屋敷への道は苔生した石畳が丁寧に敷かれており、道の左右には、冬だというに、よく手入れされて形の整った草木が生い茂っている。

 庭園には紅白の花々が美しく咲き誇り、朱に塗られた小さな橋の架かる池には、睡蓮の花と野生の鴨たちが戯れ、楽土の小池を思わせる風景を作っていた。

 奥を覗けば、厩舎らしき小屋があって、馬や牛、鶏などの家畜の鳴き声が、風に乗って聞こえてきた。

 玄関を開けると、ふわりと漂ってきた白米の香りが、鼻孔をくすぐる。

 家に上がり、奥へ向かう。

 廊下には古今東西の調度品が飾られ、家の”高さ”が察せられた。

 ちらと覗き見る部屋には、いかにも高級な茶器が用意されて、囲炉裏には真新しい炭がくべられていた。

 ひと際奥まった場所にある広い座敷に入ると、朱と黒の膳椀がずらりとへ並んでいて、乗せられた湯気立つ料理と、置かれた漆塗りのおひつがあった。

 上座には金屏風が立て廻され、唐銅火鉢には新しい炭が入れられているけれど、人の気配はどこにもない。

 

「臭いは、どこに」

 

 座敷の中央に陣取って、陽子は注意深く辺りを見回す。

 ミカは難しい表情で鼻をひくつかせていたが、突然、ハッと目を見開いて上を見た。

 ぞわりと。

 死の気配が全身を包む。

 

「っ!」

 

 反射的に後ろへと飛び退くと、同時に、天井から野太刀が生えてきた。

 あとちょっとでも反応が遅れていたら、頭上から串刺しにされていたに違いない。

 たった一太刀、されど一太刀。

 静謐なる迷い家は、すでに死線の張り巡らされた戦場へと、変貌していた。

 背中のミカを気にしながらも、陽子は腰を低く落として変化の一部を解く。

 髪の毛は白く染まり、頭には先っぽが黒く染まった一対の尖り耳が生え、尻からは白く美しい毛並みの尾が垂れる。

 手足の爪は鋭く尖り、瞳には琥珀の輝きを宿す。

 狐と人間が合わさったような姿。

 半妖の状態。

 人の器用さと狐の獸性を扱えるこの姿こそが、陽子にとっての戦闘形態だ。

 

「何者ですかッ」

 

 痺れるような死臭に顔をしかめながら、野太刀の主に問いかける。

 答えとばかりに刃が動く。

 天井を斬り壊しながら、荒々しい太刀筋で疾走する殺意が、陽子たちに襲いかかった。

 膳椀を蹴り飛ばし、障子を吹き飛ばしながら、座敷を飛び出す。

 呼吸が乱れて、浅くなる。

 冷や汗が噴き出し、鼓動が早鐘を打っている。

 齢三百。

 これほどまでの殺意を感じたのは、はたして何年ぶりだろうか。

 嘉平もなかなかの殺意ではあったが、鴉は比較にすらならない強さだ。

 死そのものと言っていいくらいに研磨され、無色彩なまでに澄み渡っている。まるで悪意で作られた殺戮兵器だった。

 陽子は全身が粟立つのを抑えながら、とにかく逃げることに専念した。

 ミカを背負っている状態で、あれに太刀打ちすることは難しい。本来の動きができないのもそうだが、何より、彼を護りながら戦うのは荷が勝ちすぎる。

 出口を目指して走る背を、天井を走る刀が追う。

 速度は同じ、いや、あちらの方がわずかに早い。

 天井を破壊しながらだというのに、なんたる馬鹿力だろう。地の利も向こうにあるから、このままでは出口に辿り着く前に、行き止まりに誘導されて追い付かれるのが先だ。

 一瞬の思考の後。

 陽子は近くの部屋へと飛び込んで、背後の野太刀を躱すと、ミカを下ろして、背中に隠していた鴉切六紋を抜いた。

 

「出口へ! ここは引き受けますから、嘉平さんを!」

 

 彼は有無を言わずに駆けだす。

 同時に戻ってきた白刃が迫る。

 

「させません!」

 

 ミカを狙った軌道に割り込み、左手を鴉切六紋の峰に当てて、両手で受け止めた。

 凄まじい衝撃が全身を襲う。

 両腕が折れそうなほど軋み、悲鳴を上げてた。踏ん張りも効かず、勢いのまま廊下を引きずられて、突き当りの壁に叩きつけられる。

 それでもなお相手の力は衰えない。むしろ増しているのではないかとさえ思えてしまう。

 

「いったい、何が……っ、何が目的なんですか!」

 

 壁と野太刀の万力で潰されそうになりながら、陽子は野太刀の主へと叫ぶ。

 すると、どうだろう。

 

「目的とは、ヒヒヒ、おかしなことを言う小娘だ」

 

 しゃがれた声が、天井が降ってきた。

 男性らしき者の声だった。

 

「貴方はどうして、人を……無辜の人々を、あんなにも惨たらしく殺すんですか」

 

 続けて問えば、おどけた調子で鴉は言う。

 

「はて、何故だろうなあ。拙僧もわからぬ。わからぬが、ヒヒヒ、妖が人を殺すのは道理ではないかね。ええ?」

 

「そんな道理が、あるものですかッ」

 

「おお、そうかそうか。かような道理はないと、小娘はそう言うか。なるほど、温い」

 

 鴉の声から感情が消えた。

 

「妖の誇りを忘れたか、哀れな狐よ。我ら妖は恐れより生まれ、破壊によって力を増す。祖は恐怖、祖は破壊。我ら恐怖と破壊の子なれば、人を殺めること、これ即ち道理なり。なれど狐、汝が言葉、児戯にも及ばぬ。小人ここに極まれり、汝の業かくや救い難し。綺語の愚を其の身に刻み、六道を廻りて我らが祖に詫びよ」

 

「ぐ、くっ……!」

 

 仏教徒めいた言葉が放たれた途端、野太刀に込められた力が強くなる。なにかわからないが逆鱗に触れたらしい。

 

「……っ!」

 

 もはや呻き声のひとつも出せなくなって、ぎりりと鳴る刃と全身の痛みだけが、生きていることを実感させてくれる。

 すでに限界近かった陽子は、声も出せないまま潰される他にどうしようもない。ミカと嘉平の到着だけが頼りだった。

 時間にして数十秒だが、体感では数時間も経った頃。

 よもやこれまでかと思われたその時、刃の鳴る音に混じって足音が聞こえてきた。

 顔をそちらに向ければ、嘉平が刀を抜いたところだった。

 

「疾ッ」

 

 跳躍。

 刺突。

 鬼気迫る勢いで天井へ刀を突き立てた嘉平は、刺さった刀を起点に空中で回転すると、勢いを利用して一気に斬り払う。

 野太刀に込められた力が緩んだ。

 陽子はほとんど倒れ込むようにして脱出すると、なんとか上体だけを起こして脇差を構えた。嘉平も手ごたえを感じていないのか、油断なく天井に刃を構え、すぐに突きを放てるようにしている。

 鴉は、まだ倒れていない。

 

「危ない、危ない。串刺しになるところだったわ」

 

「鴉ッ……!」

 

「ヒヒヒ、人間にしてはできるか」

 

 すらりと野太刀が動き、天井へ消えていく。

 先ほどまでの殺気は消え失せ、どこか白けたような声色で、野太刀の主が言う。

 

「だが惜しいなァ。心頭伴わぬその刃、拙僧には届かなんだ」

 

「戯言を」

 

「事実を言ったまでよ。しかし、今宵は闘争の気分ではないのでな。まずは退かせてもらうかの」

 

「逃がすものかッ」

 

 ギシリと天井が鳴る。

 嘉平の刺突が入るが、空しく板を貫くだけで、鴉には届かない。

 

「縁があればまた会えような。それまで精進しておけ。ヒヒヒ……ソワカ、ソワカ」

 

 それ以降、鴉の声は聞こえなくなった。完全に逃げられたようだった。

 安堵の溜め息を吐いた陽子は、その場にへたり込んでしまう。 

 妖にとって命のやり取りは常だけれど、今回ばかりはさすがに肝が冷えた。嘉平が間に合わなければ、押し斬られていたに違いない。

 

「おばりよん……」

 

 いつの間にやら傍にいたミカが、ひどく心配そうな様子で顔を覗き込む。

 

「大丈夫ですよ、ちょっと疲れちゃっただけです」

 

 力なく笑って頭を撫でてやると、彼はお腹に頬を摺り寄せてきた。

 

「臭いは追えるか」

 

 刀を納めた嘉平の問いに、ミカは静かに首を振ると上を指す。

 今さら天井を指してどうしたというのか。

 少ししてから、はたと気付く。

 天井ではなく、空を指しているのだと。

 

「飛んで行った、ってことですか?」

 

 肯定の一鳴きが耳を打つ。

 

「なるほど、やっぱりですか」

 

 鴉の正体におおよその当りが付いて、陽子は納得したように頷く。片眉を上げる嘉平は、説明しろと視線で訴えていた。

 

「天狗です。天狗の破戒僧」

 

「天狗の破戒僧だと」

 

「おばりよん?」

 

 天狗。

 それは山中に潜む修験者、山神の使い、風神の化身、堕ちた僧侶が転じた妖である。

 一般的には、赤ら顔で鼻が高く、山伏の衣装を身に纏い、一本歯の高下駄を履いた姿で知られている。

 彼らは仏教を修めたにもかかわらず、自らの傲慢によって悟りを開けず、六道からも拒まれて、輪廻を正しく抜け出せなかった者たちだ。

 

「天狗とて元僧侶……いえ。今もまだ仏教徒のつもりなのでしょう。ですから、大多数は仏教の戒律を守って生活しています」

 

 しかしその中でも、邪心を抱いて戒律を破り、魔の底へ堕ちる者がいる。それこそが、先に出会ったあの人斬り鴉。戒のひとつである不殺生戒を破り、殺戮を楽しんでいる外道の魔物だ。

 

「天狗の中でも破戒僧は忌み嫌われています。種族としての名と権限をはく奪された後、天狗の住む山への立ち入りを禁じられるので、実質的に追放扱いですね」

 

「つまりあれは、住処を探していたのか」

 

「どうでしょう……人斬りをしながら住処を探していたのか、住処を探しながら人斬りをしていたのか。去年の犯行を鑑みれば、おそらくは前者ですかね」

 

「修羅に堕ちた天狗、か」

 

「修羅道には入れないんですけれどね。まあ、それは良いんです。あとは、天狗の種族なのですが」

 

「飛ぶならば、鴉天狗か」

 

「でしょうね。なにせ人斬り鴉ですから」

 

 天狗にはいくつかの種類がある。

 天狗の中では新参者であり、まだ鼻の低い木っ端天狗。

 木っ端の中でも人に近しく、狼に変身できる白狼天狗。

 文武に秀で、神通力を操り、鴉の嘴をもつ鴉天狗。

 天狗どもの長であり、広く知られる姿をした大天狗。

 そして、天狗としての名も力もはく奪され、山から放逐された天狗モドキ。

 今回相対したのは、鴉天狗が破戒僧となった天狗モドキだ。戒律を破り破戒僧となった天狗は、妖にとって最も大切な、自身の存在をこの世に留めておくための”名”を奪われた。

 妖は恐れによって成り立つが、”名”という呪がなければ存在は確立されず、消えてゆくのみ。

 ゆえに名のない天狗モドキは、実質的に死に体だった。

 人斬りによって恐れを集め、なんとか生き長らえているだけの死にぞこないだった。

 だが、死に体とて天狗。

 本来なら持ち得た強力な神通力は失われてるが、生粋の武はいまだ健在であり、一筋縄ではいかないだろう。まったくもって厄介なことである。

 

「面倒な」

 

「神通力がないだけマシと考えましょう、おかげで厄介な妖術やら何やらが飛んできませんから。しかしあの天狗、迷い家に住もうだなんてよくも考え……って、うわぁー!? 迷い家がめちゃくちゃじゃないですか!?」

 

 真面目な空気から一転して、陽子が情けない悲鳴を上げた。

 戦場となった迷い家は、見るも無残な姿であった。

 天井板はなくなり、戸は折れ曲がり、壁にはいくつものひび割れが走っている。

 廊下には割れた花瓶や、破れた衝立が散乱しており、部屋は倒れた家具が埋めていて、もはや家というには過言な姿だった。

 

「ああああああ……なんということでしょう……貴重な迷い家が、まるであばら家のように大変身してしまいました……歴史的建造物が、ただのぼろ小屋に……およよ……」

 

「泣くほどか」

 

 迷い家の惨状に、陽子はしくしくと泣きだす。嘉平は呆れかえった様子で瞑目し、ミカはどうしたらいいかわからず、とりあえず彼女の涙を前足で拭き取った。

 鴉が去ってしまった以上、ここに長居する意味はない。夜が明ける前に帰らなければ、怪しまれてしまうだろう。

 

「うぅ……片づけの少しでもしていきたいですが、時間がありません……」

 

「是非もなし」

 

 意気消沈のまま立ち上がろうとした時、スッと、右手が差し出された。ごつごつとしていて、掌はたこが出来て見るも堅そうだった。

 意外なことに、嘉平はまた助けてくれるらしい。

 

「あ、ありがとうごさいます」

 

 外面は冷たいけれど、なんだかんだで優しい。

 手を握ってみれば温かくて、彼の内面を覗いた気持ちになる。少しだけ彼のことを好きになった。

 

「では失礼して……、あれ?」

 

「どうした」

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいね? せーの! むっ、ふっ、んぎ……!」

 

 立ち上がろうと足腰に力を入れても、何故だかうんともすんとも言ってくれない。どれだけ力を入れても腰が浮く気配は微塵もなく、まるで床に縫い付けられたみたいに立ち上がれなかった。

 

「こ、これは、困りましたねえ……あはは……」 

 

 赤らんだ顔で困った風に笑う。

 どうやら腰が抜けてしまったらしい。

 ミカは驚いてひとつ鳴き、嘉平は露骨に溜め息を吐いた。

 

「軟弱者め」

 

「面目ないです……」

 

 叱責されて、うなだれる。

 あんまりにも情けないものだから、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしくて、どんな表情をしたら良いのかわからなかった。

 

「おばりよん?」

 

「今回だけだ、狐」

 

 そんな言葉と共に、ひょいと身体が浮き上がる。

 すわ何事かと顔を上げれば、目の前には嘉平の顔があって。理解が追い付かずに、脳内をクエスチョンマークが駆け抜けていく。

 そうして茫然としたまま迷い家の門をくぐった時、初めて陽子は、自分が嘉平に抱きかかえられていることに気付いた。

 

「えっ、ちょ……えええええええええええええ!?」

 

「黙れ」

 

 急に大声を上げたものだから、嘉平は不快そうにひどく顔を歪めた。

 全身が熱くなって、心臓が早鐘を打つ。

 どういうことだと抗議しようにも、表情が強張って言葉をうまく発せない。

 羞恥と、混乱と、若干の嬉しさで、頭が混乱してどうしたらいいかわからなくなってしまう。

 がっしりとした身体の熱、男らしい手のひらの感触、獸のような雄の臭い。どれもこれもが、初心な陽子には刺激が強すぎた。

 

「あ、あにょ、これはっ、すごいですってぇっ!?」

 

 やっとこさ絞り出した言葉は、変に上擦り、呂律も回らず、自分でも何を言っているのか理解できなかった。

 

「歩けぬのだろう」

 

「しょっ、んなことはありますけど! ありますけどっ! えんりょとかあるでしょ!?」

 

「知らぬ」

 

「しってくだしあ!? お姫様抱っことか初めてされたんですけど!? うら若き乙女に何してくれてるんですか!? お師匠様にもされたことなにのに! 貴重な経験ですね、ヤバイですよ!?」

 

「……駄狐が」

 

 自宅に着くまで、陽子はずっとこんな調子のままだった。

 

 




 夜明け前に家に帰った陽子は、寝る気分になれず、学校へ向かう準備をしていた。
 準備といっても、教科書を手提げかばんに詰め込み、制服に着替えるだけで、何か特別なことは何もない。
 強いて言えば、さっきに末代までの恥を晒していた事実を早急に忘れるくらいか。

「……ん?」

 ころり。
 コートを脱いだ時、何かが転がり落ちた。
 拾ってみれば、それは錆び付いた銭だった。
 大きさは掌より少し小さいくらいだが、ずっしりとした重さがある。
 三百年を生きた陽子でも見たことがない形で、錆びや傷の具合からして相当に古い時代のものらしい。
 こんなものをコートに入れていた覚えはなかった。
 拾った覚えもついぞない。と
 なれば、これは追跡用の呪具だろうか。陽子は眉をしかめる。
 もしそうならば早急に破壊しなければならない。あの天狗モドキに家がばれてしまったら、大変な事態だ。
 幸いにも陰陽術による簡単な鑑定ができるので、まずはこれが何であるか判別をしてみることにした。
 適当なノートに鉛筆で五芒星を描き、中央に銭を置いて封じると、鑑定の文を唱える。

「正邪顕伝、急々如律令」

 指先でそっと銭に触れた。
 じわじわと温かいものが指先から伝わる。
 感覚からして、悪しき呪が施されているわけではない。
 これはむしろ真逆、祝福と退魔の力が宿っているようだ。
 これ自体が厄除けのお守りであり、少し加工すれば退魔術の触媒に使えるだろう。
 拾った記憶もなく、いつの間にかポケットに入っていた。となると、手に入る場所はひとつしかない。

「まさか、ね」

 肩を竦めて、首を振る。
 迷い家からの贈り物なんて、それこそ馬鹿な話だ。あの場所は欲無き者に祝福を与える家、不可抗力とはいえ、家を荒らした陽子に物が贈られるなどありえない。
 しかし物があるのは事実、はたしてありがたく受け取るべきか。
 考えを数巡させた後、銭を両手で拾い上げた。

「ありがたく、いただきます」

 朝陽に照らされたそれは、どこか神々しく輝いて見えた。


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妖狐の陽子と自分の気持ち

「陽子、何か隠してない?」

「へっ?」

 突然。
 あまりにも突然に、陽子の母は言った。
 夕食の席。
 父不在の中。満を持してと切り出されたそれは、的確に陽子の腹の内を突き刺した。

「え、ええと……」

 はてさて、どうするべきか。
 善狐たるは人を化かしてはいけない、騙してはいけない。人を騙せば善狐に相応しくない行いだと稲荷様にお叱りを受け、程度が重ければ野狐に下されてしまう。
 しかしこの状況はどうだ。嘘でなければ通れぬ話題を出され、逃げ場は何処にも見当たらず、沈黙は肯定となる。八方塞がりとはこのことだった。

「ここ最近ずっと早寝じゃない、朝になにかあるの?」

 条件付けが来た。
 時間を朝に限定されているのならば、この問いには嘘偽りなく答えられる。

「朝には、何もないよ……?」

「ふぅん。その割にすっごい目泳いでるけど」

「そっ……そんなに?」

「うん、そんなに。ね、何隠してるの? 言ってみなさいよ。大丈夫、お父さんにばらしたりしないから」

 呆れつつもどこか楽しそうに母が笑う。
 その笑顔は疑っているよりは、からかっていると表現した方が適切かもしれない。
 悪意や出歯亀の類ではなく、子の戯れたい、そんな些細な気持ちでいるのだろう。
 平時ならば微笑ましく思うのだが、残念ながら、今の陽子にとってはひどい足かせだった。 

「うぅん……」

 はてさて、どう答えたものやら。陽子は困り果てて唸ってしまう。
 こういう時は変に答えて嘘だった場合が大変だから、なるべく話を逸らすか、相手が求めているモノに近しい言葉を選ぶ必要がある。
 事実ではあるが全てではない、嘘ではないが真実でもない、都合の良い答えが必要だ。
 ところが相手は、義理とはいえ母親である。
 変なことを言っては心配させてしまうし、下手を打って行動を制限されてしまうかもしれない。
 最悪の場合、妖であることがばれてしまう可能性だってあり得る。安易に話せないのが辛いところだ。まったくこればかりはいつになっても慣れない。

「ひ、人に、会いに……」

「人? ふぅん……なるほどねえ」

 何か納得した顔で頷く。何か大きな勘違いをされたようだった。

「うん、陽子もそういうお年頃だもんね」

 一瞬の沈黙。

「……いっ!?」

 意味に気付いて、頓狂な声を上げた。

「その、ね? 好きな人とか、そういうんじゃないんだよ?」

「あら、お母さん”好きな人”なんてひとっことも言ってないけどな~?」

「だから、そういうんじゃないんだってば! 好きな人とかじゃなくて……!」

 好きな人。自分で言っていて、パッと嘉平の姿が頭に浮かんだ。
 そんなわけがないと頭を振っても、どうしてだか離れずにいるから、陽子はどんどん恥ずかしくなって慌ててしまった。

「あから、違うからね! ホントだからね!?」

「そうやってムキになるところが怪しい」

「むっ、ぐぬぬ……!」

 違うのだ、嘉平はそういう対象ではないのだ。そう自分に言い聞かせて黙り込む。
 人の世界で生きてきたとはいえ、恋愛にはてんで縁遠かった――妖ゆえにその手の話を意図的に避けていた――陽子である。急にそんな話題を出されて、戸惑ってしまった。
 嘉平のことが好きなわけではない。
 ないのだが、正体を知られているし行動を共にしている仲だ。
 そういう情が芽生えてもおかしくはないだろう。
 いや。あるいは自覚していないだけで、既に目覚めているのかもしれない。
 鉄仮面の如くに冷たい態度ばかりだが、寒空の下で半刻も律義に待ってくれていたり、巻いてあげたマフラーも着けてくれていた。
 危ない場面では助けにきてくれたし、恥ずかしながら歩けないところを抱きかかえて運んでくれた。
 陽子からしてみれば充分に善き人である。対象になってもおかしくはない。

「お母さん、応援してるからねっ」

「うー……っ」

 こういう時は何を言っても駄目だ。全てが逆効果になって跳ね返ってしまう。
 悔しさと、恥ずかしさと、いろんなものが入り混じった感情を隠すみたいに、陽子はアサリの味噌汁を啜った。



 相も変わらず夜を歩く二人と一匹は、鴉の臭いを追って街を彷徨っていた。

 空飛ぶ相手の臭いを追うのはほとほと難儀で、とてもではないが追跡できるような臭いの残り方はしていない。

 せいぜいが、この辺りにいた、程度の情報しか得られないから、まったくあてどもなくフラフラする羽目になっている。

 今もそう。

 表通りから離れた袋小路にいるが、さっきまで続いていた臭いはここで途切れてしまっていた。

 

「ミカくん、どうですか」

 

 おぶさる彼は静かに首を振った。

 散発的に残された臭いを辿っては、どことも知れぬ場所で足踏みする。

 空飛ぶ鴉の臭いを追うなんて無茶は、やはり実ることはない。

 幸いにもあの夜以降、鴉は人を殺していない。

 だが、次の犠牲者が出るのも時間の問題である。もどかしくて、苦しいばかりだ。

 あまりんい進展がないものだから、溜め息のひとつでも吐きたくなる。が、それは頑張っている彼に悪いので、かわりに嘉平へ問うた。

 

「どうしましょうか。このまま空を飛ばれては、あの天狗モドキにいつまで経っても追い付けませんよ」

 

 嘉平は無言で空を睨んでから、不愉快と不満を隠そうともせずに鼻を鳴らした。

 

「是非もない」

 

 そっけないが、現状をこの上なく表した返答であった。

 今日も頑張ってくれたミカの頭を撫でてから、陽子は鴉を捕獲するための策を弄する。

 追い詰める手段は、何も追うばかりではない。

 こうまで鮮やかに逃げられては追うのは諦める他にないが、それならそれで別の手段というのがある。

 すなわち罠だ。

 罠と言っても大層なものではない。ちょっとした探知術を仕掛けて、活動範囲や羽休めしそうな場所を割り出す程度のものだ。

 その場で捕まえる術もあるにはあるが、相応の準備が必要になってしまう。設置している間に犠牲者が出たらと思うと、使おうにも使えなかった。

 

「望み薄ですが、やらないよりはマシでしょう」

 

 上衣のポケットから、手のひらサイズに切り揃えた紙の束を取り出し、呪を唱える。

 

「隠者表徴、隠形顕然」

 

 途端に、どこからかピシリと音が鳴って、紙は呪言が綴られた霊符へと姿を変えた。

 

「ミカくん、この辺りで強く臭いの残っている場所に、この霊符を貼ってきてください。できれば、電柱のてっぺんのような、高くて目立たないところへ。お願いします。終わったらここへ戻ってきてくださいね」

 

 あいわかったの意を込めて一鳴き。

 そっと紙束を咥えさせると、彼は背中から飛び降りてどこかへ駆けていった。

 探知の霊符は貼ってある場所を中心にして、半径約百メートルに探知の結界を作る符だ。

 術者が見つけたい物や人が結界内に入ると、霊符を通じて音で報せを出してくれる。

 欠点としては、どこの反応した符が反応したかはわからず、音の大きさでおおよその距離しか判断できない点だ。

 ゆえに、仕掛ける量はそう多くない。

 ある程度は絞っておかねば反応した符がどこかわからなくなってしまう。

 船頭多くして船山に上る、なんて間抜けな状況にはなりたくなかった。

 

「ひとまず、周辺はこれで良いでしょう。あとは郊外の廃工場や廃ビル、それとあたしたちが待ち合わせしている十字路、あの近くにも貼っておきましょうか。犯人は現場に戻るらしいですからね」

 

「くだらぬ俗だ」

 

 嘉平は露骨に眉をしかめる。

 心理学の面から見れば間違いではないのだが、相手は人を斬り、血に酔った妖。

 この説に当てはまるとは到底思えないのだろう。

 陽子だって、本当に戻ってくるとは思っていない。

 しかし可能性が捨てきれない以上、万全を期して仕掛けておくのが得策だ。

 

「嘉平さんにも、探知の霊符を渡しておきますね。探知範囲に鴉が入ると、この符が念話で知らせてくれます。近付くと音が大きくなるので、それを頼りにしてください」

 

「詳細がわからぬとは、不便な」

 

「うっ……! そ、そこは、ほら。アナログゆえの不便といいますか。いや本当は改良を加えるべきなんですけど、あまり使わない術だったもので……」

 

 困ったように笑いながら弁解しながら、嘉平に探知の霊符を手渡した。

 ふと、手と手が触れあい、彼の武骨な手の感触が伝わってくる。

 嫌でも迷い家のことを思い出す。あの時に、自分はこの手と腕の中にいたのだと、自覚してしてしまう。

 今日の夕食で母に言われたのもあってか、急に恥ずかしさが込み上げてきた。

 

「どうした」

 

「ふぇ!? あ、やっ、なんでもにゃあですよ! あははは!」

 

「……?」

 

 しっかりと彼に符を手渡して、誤魔化すように笑った。 

 ちょうど、その時であった。

 

「陰陽術たあ、けったいなモン使うとるなあ。狐っ子」

 

 どこかで聞いた声が響いた。

 すわ何事かと辺りを見回せば、袋小路の入り口にスーツ姿の女性が一人、煙草を燻らせながら立っていた。

 女性は、実に背が高かった。

 百八十センチメートルはあろうかという体躯で、巨人もかくやと迫る勢い。両の手にはバタフライナイフが握られているが、それがまるで、小さなカッターに見えてしまうほどであった。

 

「何者だ」

 

 嘉平が陽子の前に出て、刀に手をかける。

 対して、女性はカラカラと笑っていた。

 

「そらこっちの台詞や。ようもシマぁ荒らしおってからに、落とし前つけてもらわんとなあ。お侍さん?」

 

 言葉からして、彼女はこの辺りを縄張りにしてる妖なのだろう。

 ところが、陽子はついぞ彼女を見たことがなかった。

 自分の住んでいる地区――具体的に言えば、住宅街から街の中心、そして学校まで――にいる妖はおおよそ把握しているつもりだが、かような姿に化ける妖はついぞみた記憶がない。

 彼女の言葉は真っ赤な噓だった。

 増長した新顔だろうか。

 それにしては敵意らしい感情が読み取れず、軽率そうな顔には興味の二文字が浮かんでいる。しかして、武器を持っているにもかかわらず、女性からは闘争の気配が微塵もない。

 いっそ奇妙なほど、彼女の目的が不透明だった。

 

「あの、貴女は誰ですか?」

 

 どうにもわからなくて、陽子は目の前の女性に問う。

 

「当ててみ、正解したら旅行券のプレゼントや」

 

「旅行券……?」

 

 なんだかよくわからない冗談に首を傾げ、さらなる問いを投げようと口を開く。

 しかしそれより早く、嘉平が刀を抜いて肉薄していた。

 袈裟懸けに一振り。

 挨拶ばかりに繰り出された一撃は、弧を描いて空を断つ。

 

「おっと! 物騒な挨拶やさかい、危ないやっちゃなあ自分」

 

 呆れた声色に返す刃を以て答えるが、刀が斬るのは虚のみ。

 二撃。

 たったの二撃なれど、腕が立つならば、わかるだろう。

 彼女の足運びには無駄がなく、荒事に秀でた妖だと。

 

「次は受け止めたるわ」

 

 挑発の言葉。

 鈍色の軌跡。

 金属が打つかりあう音がビルの谷間にこだまし、舞い散った火花が仄かに闇を照らす。

 一合。

 二合。

 三合。

 四合。

 五合。剣戟が止まる。

 仕切り直しに下がったのは嘉平で、その場からほとんど動かなかったのがスーツの女性だった。

 

「なんや気ぃ抜けたポン刀やな、宝の持ち腐れちゃう?」

 

「黙れ」

 

 再び肉薄、今度は平突き。

 受けることは難しく、しかし躱せば横への薙ぎへ派生する剣技のひとつ。

 わざとらしく驚いた顔を見せてから、女性はするりと身体を回して受け流す。

 当然、攻撃は横薙ぎに派生するが、彼女は上体を大きく逸らすことでこれを躱した。

 

「おっとっと、危ない危ない」

 

 お道化た調子で、これ見よがしに肩を竦めて見せる。

 一連の動きからして、彼女は相当に場数を踏んでいる妖なのだろう。

 解せないのは、そんな彼女が何故、あからさまな挑発を仕掛けてくるのか。

 闘争を好むタイプならばもっと獰猛であるはずだが、動きからは理性的かつ凪いだ様子しか見えない。

 正体も、目的も、まったく不可解だった。

 

「嘉平さん、引いてください! 相手が何かわからないんですから、無暗に戦うのは危険です!」

 

「黙っていろ」

 

 彼は制止も聞かずに飛び出して、再び刃を交えた。

 

「あーらら、狐っ子の言うこと聞かんでええの?」 

 

 呆れた顔に言われても、嘉平は止まらずに刀を振るう。

 荒々しい太刀筋がいくつもの弧を描き、少しずつではあるけれど、女性を壁へ追い詰めていく。

 どうも頭に血が上っているらしいが、冷静さは失っていないようだった。

 

「お、お? ははあ、うまいことやるわ」

 

 意図に気付いた彼女はするりと斬撃から抜け出し、また路地の入り口に戻ってしまった。

 

「ダメやなあ、自分。そういうんはバレないようにやるモンやで」

 

 力量の差を見せつけるように、余裕たっぷりにナイフを弄びながら、女性が小馬鹿にして笑う。

 さしもの嘉平も相手が悪いことを察したのか、防御の構えを取ってゆっくりと陽子の元まで下がった。

 

「ふぅん……?」

 

 彼の後退に意味深な視線を投げかけた彼女は、面白そうな、意外そうな、不躾な表情を浮かべる。

 いっそ無気味にすら思えるが、陽子は険しい表情で再び問いを投げた。

 

「なにが目的ですなんですか、貴女は」

 

「せやなあ。簡単に言うと、威力偵察ってとこや」

 

「なるほど、あたしたちの力を測りに来た、と。満足な結果は得られましたか?」

 

「そっちのお侍さんはようわかったわ。言ったろか、気迫が足りん。心が別んとこ向いとるさかい、鈍らブン回しとると変わらん。今のままやと弱っちいな」

 

 少し真面目な声色で嘉平を批判した彼女は、ほんの一瞬、注視していないとわからないくらい僅かに、憂いを帯びた瞳を陽子に向ける。

 言われた嘉平は反応することなく、構えたままだった。

 彼女が何を思っているのかわからないが、防御に徹して攻撃してこないところを見るに、さして悪い妖ではなさそうだった。

 もっとも、信用できるかとうかは別だが。

 

「質問には答えた。次はこっちの番や。狐っ子、アンタはなんでそいつに付いとる」

 

 ナイフの切っ先を向けられて、陽子は目を細める。

 

「鴉を追うためです。彼に協力しているんですよ」

 

 明確な敵対の意思が感じられない以上は、こちらの事情を話してもしまっても良いだろうと判断した。

 この女性が鴉の仲間でないのなら、話したところでさした問題はない。

 

「鴉、ねえ。なるほど、聞いてた通りや」

 

 はたして、その判断は正しかった。

 女性が瞑目して両手のナイフを畳みしまう。ひとまず、これ以上の争いはなさそうだった。 

 しかし”聞いてた通り”とは、いやに気になる言葉である。

 誰かの指示で動いているのだろうが、その誰かはこちらの情報をあらかた知っているようだ。

 よほど情報収集に長けているのか、それとも、どこからか観察されていたのか。どちらにしろ、油断ならない相手に違いない。

 

「にしても、協力ねえ。それ本心で言うとるんか?」

 

「……どういう意味です」

 

 妙な質問をされて、陽子は眉を顰める。

 対して女性は、わざとらしくとぼけた顔で、

 

「いんやあ? 妖狩りにくっ付いて回って、なんも思わんのは変やと思うてなあ?」

 

「思うところはありますよ。ですか約束がある以上、離れるわけにはいかないんです」

 

「約束ぅ? けったいなこと言いよる。何し腐ったか知らんけど、しょーもないことするわ。どうせ妖や、すぐ破るんとちゃうか?」

 

「あたし、嘘は吐けないタチなんです、破ったりなんかしませんよ」

 

「はん、よう言うわ」

 

 露骨に興味を失った女性は、くるりと背を向ける。

 それから彼女は。

 

「アンタ、人に嘘言わんでも、自分には嘘言うタイプやな」

 

「……っ!?」

 

「半端モンが首ツッコむなや。わかったら帰って大人しくしとけ」

 

 去り際に、吐き捨てるみたいに言い残して消えた。

 嘉平が刀を収める。

 散々に言われてしまったからか、機嫌悪そうに腕を組んで瞑目していた。

 陽子は心臓を鷲掴みにされたような、嫌な衝撃を全身に浴びていた。

 心の奥底を見透かされて、あまつさえそれを指摘されて。頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。

 ”嘘を言えない”とは、本来ならば自称する言葉ではない。これはあくまで他人から見た評価であり、自称するならば”嘘を言わない”が適当だ。

 それなのにあえて自称しているのは、つまり自分に対して予防線を張っている証左である。

 たとえ誓いを起てていたとしても変わらない。

 むしろ他人に範囲を限ってまで、嘘を言えないと明確に決めているから悪質だ。

 自分へ嘘を言えてしまう、自分を偽り演じてしまう。

 ありのままをさらけ出すのが怖いから、自分に嘘を言って仮初の自分を演じる。

 そうやって自らを騙せば騙すほどがんじがらめになって、いつの間にか他者を騙すことに繋がっていく。

 陽子はまさに、その一歩手前にいた。偽り続けた自分が、本当の自分になってしまう寸前だった。

 思い返せば、兆候はいくつもあった。

 妖でありながら人間を父母を仰ぎ、善狐を自称しておきながら人と同じ存在だと言い放ち、妖でありながら妖の気安さに毒気を抜かれる。

 本来ならばあり得ないことなのに、妖と人との境界が曖昧になって、別けるべき思考が混合していた。

 あの女性は見抜いていた。奥底を見透かしていたのである。

 

「狐」

 

 無機質な声が、意識を表層へと引き上げる。 

 彼はいつもの仏頂面で、空を見上げていた。

 結局、あの女性は何が目的だったのだろうか。何ひとつとしてわからないが、多大な影響を及ぼしたのは確かだった。

 

「あはは……。まいっちゃいましたね、二人して言われちゃいました」

 

 困ったように笑ってみても、彼は何も反応を寄越さない。

 他に何か言ったほうが良いかとも思ったけれど、そのうち陽子も笑うのを止める。

 

「去れ」

 

「……え?」

 

 間の抜けた声が出た。

 

「お前の善性はわかった」

 

「は、はぁ」

 

 彼は空を見上げたまま告げる。

 彼は加賀美陽子が悪しき存在ではないと理解したのだ。約束は果たされた故に、今が決別の時だった。 

 

「そう、ですか」

 

 ホッとしたような、ガッカリしたような。悲しいような、苦しいような。よくわからない気分になって、陽子は自分の気持ちから目を逸らす。

 きっと、自分の存在が彼には鬱陶しかった。護りながら戦うのは難しいことだから、陽子のような足手まといがいては、戦いに集中できないのだろう。だから、あの女性の言葉を切っ掛けにして別れを告げてきた。

 いつか来る別れが、今日だっただけのこと。

 そう思い込んで、気持ちに蓋をした。

 

「では、お元気で。あたしは、あたしのほうで鴉を探しますから。もしまた出会った時は、挨拶くらいしてくだいね」

 

「……善処する」

 

 二人が見上げた空には、雪がちらついていた。



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妖狐の陽子は気持ちに向き合う

「はあ。どうしましょうか」

 

 次の日の放課後。

 公園のベンチで温くなった缶コーヒーを、両手で握りながら、陽子は悩んでいた。

 嘉平には自分で鴉を探すと言ったが、それらしい当ては少しもない。

 ミカには嘉平に協力するように言い含めてしまったし、頼みの綱である探知の呪符もどれだけ効果があるものやら。

 溜め息を吐きたいくらいに、陽子の手札は少なかった。

 夕暮れに染まる街並みを、ぼうっと眺める。

 頭に浮かぶのは、この前に言われたあの言葉。

 そして嘉平に告げられた別れ。

 自分に嘘を言っている。

 ほとんど会話していないはずの、ぽっと出でしかない謎の女性に指摘されるほど、自分は取り繕っていたのだろうか。

 嘉平は自分のことを、足手まといと思っていたのだろうか。だから、あのタイミングで別れを切り出して来た。そういうことに違いない。

 なんて考えばかりがよぎる。

 実際のところ。

 陽子は上手く自分を”隠していた”し、足手まといにもなっていなかった。

 そう、”隠していた”のだ。

 彼女の中には”自分は妖である”という意識がまず第一にあり、その次に”人間と仲良くしたい”という意識がある。

 己が異物であるとわかっていて、それでもなお、人間と共に生きたいと願っていた。

 しかし同時に、人と共に生きるためには、妖としての自分を見せてはいけない。真に心を許した相手にすら、自分の正体を晒してはならないことを理解していた。

 妖と人とは生き方や成り立ちが違う。

 世にある異類婚姻譚(いるいこんいんたん)は、おおよそ悲恋で終わる話が多い。

 人間とは異なる存在、妖であることがばれて、恋人のもとを去っていく。

 そういう話ばかり。けれど人と妖の関係は、つまりはそういうことだ。

 個人でわかりあえたとしても、社会単位では相容れる存在ではないのだ。

 だから彼女は、細心の注意を払って生きてきた。しかしそれが仇になった。

 本当の自分をひた隠しにして”人間の加賀美陽子”を演じて生きていたが、少しばかり演じ過ぎた。

 人の中で生活し続けた結果、加賀美陽子の仮面が癒着して、本当の自分になってしまう寸前までいた。

 妖の本分を忘れ、人として生きていたいと、無意識のうちに願ってしまった。

 しかしそんな折。

 嘉平に出会ってしまった。

 彼は陽子にとって初めて、妖のまま接しても問題のない人だった。ありのままの自分で付き合えた人間だった。

 出会い方は最悪で、印象も最悪。

 不愛想で口も良くないから、何を考えているのかもよくわからない。

 いつ斬られてしまうのかと内心では恐ろしかった。

 けれど、陽子を必要以上に恐がったり、気味悪がったりせずに、きちんと見てくれていた。

 多少の含みがある視線を寄越すこともあるが、それでも、等身大の陽子に忌避なく接してくれたのだ。

 人とも妖ともつかない生活の中で、偽りの仮面を被り続けていた陽子に、それはあまりに影響が強すぎる関係で。

 心の奥底にしまい込んでいた気持ちが、むくむくと顔を出し始めて、仮面に綻びを作ってしまった。

 結果。

 彼女は言われた通り、人とも妖ともつかない中途半端な気持ちになってしまった。

 たった数日でそんなに心を開くものか。

 そう思うだろうが、妖のままを受け入れてくれるというのは、あまりに重大である。人間に理解するのは不可能なほどだ。

 

「はぁ……」

 

 我知らず、溜め息が出る。

 こういう時に限って、昭亥はバイトでいない。

 彼女がいれば、抱える事情は相談できずとも、気を紛らわすくらいはできただろうに。まったく憂鬱である。 

 気を紛らわすために、飲まずにいた缶コーヒーを開けようと、プルタブに指をかけた。ちょうど、その時。

 

「あら、何してはるの?」

 

 急に声をかけられた。

 顔を上げると、そこには大人の女性がいた。

 臙脂色のコートを着込んだ二十代後半の女性だった。

 

「そないな顔して、かあいらしい顔が台無しやで」

 

「はあ……」

 

 気の抜けた返事をしてしまう。

 京言葉、だろうか。

 ふわりと、線香の香りが鼻をくすぐる。 いつだったか訊いた憶えのある話し方をする彼女は、気が付けば陽子の隣に腰かけていた。

 

「なしたん? 嫌なことでもあった?」

 

 匂やかな笑みを浮かべる彼女は、つらとそんなことを言う。どうやら彼女は、思い悩む陽子を見かねて、助け舟を出しに来たらしい。

 

「そこまで、暗かったですかね」

 

「せやなあ」

 

「あはは……、そうですか。まいりましたね」

 

 困った顔をして、頭を掻く。

 人から見てわかるくらいには落ち込んでいたと知って、なんだか恥ずかしくなってくる。

 そして、それを気にする余裕がない自分に、ほとほと嫌気がさしてくる。

 

「おばちゃんに話してみ? 全部は言わんでええから」

 

「でも、それは」

 

「ちょい話せば、楽になるかもしれへんやろ。それにな、知らん人やから言えることもあるもんやで」

 

「……」

 

 こうまで心配されると、無下にもできない。

 申し訳なくて、情けなくなくて。貝のように縮こまりながら、陽子は女性に、少しずつ言葉を選びつつ自身の胸の内を告白した。

 

「ええと……なんと表現したらいいんでしょう。あたし、みんなに本当の自分を隠して、ずっと過ごしてきたんです。本当の自分は、誰にも、家族にも見せたことがなくて」

 

「うん」

 

「それで、自分を偽っていたんです。けどこの前、その……最悪な形で……赤の他人にばれてしまいまして。その時にひと悶着あって、彼と行動することになったんです。彼はありのままのあたしでいても、何も言いませんでした。肯定も否定もせずに、いてくれたんです。もちろん、いろいろ含むところはあったと思います。けれど、寒い中でずっと待っててくれたり、危ないところを助けたりもしてくれて……」

 

「ええ人やねえ」

 

「はい。性格も口もきつい人でしたけど、善い人でした。でも、今はもうその人とはお別れをしてしまって……自分を見てくれる人が、いなくなってしまって……でもあたしは……」

 

 視線を彷徨わせて、言葉を選んで、呟く。

 

「本当の自分を、見てくれる人が欲しい」

 

 ぽつりと、手に雫が落ちた。

 

「だって、ずるいじゃないですか! さんざんあたしのこと引っ掻き回して、そのくせにすぐいなくなって……こんな抑えの効かない感情押し付けて! そのくせ、すぐにあたしを捨てて! 望んじゃうじゃないですか……ダメなのに、もしかしたらって、思っちゃうじゃないですか……」

 

 気付けば陽子は、叫ぶみたいに吐き出していた。

 ずっと。三百年もの間、ずっとひた隠しにしてきた気持ち。

 心の底にしまった願望。

 無理やり押しとどめていたものを、ひとたび外へ出してしまえば、もう止めることができなかった。

 たとえどれだけ人と仲良くなっても、偽りの自分を演じ続けなければいけない。

 誰も本当の自分を知らず、誰にも本当の自分を教えず。

 人を騙してはいけないと定めておきながら、正体を明かしてはならないという矛盾に苛まれながら、出会いと別れを繰り返す。

 はたしてそれは、どれほどのストレスだったろうか。

 

「本当に、ずるいです……初めてですよ、ここまでむかっ腹が立つ別れ方は……」

 

 どこからか、無邪気な子供たちの声が聞こえる。

 ギリと歯が鳴った。

 何も知らずに自分をさらけ出して、はしゃぎまわれる子供の自由を、今だけは恨めしく思った。

 声が遠のいて聞こえなくなると、それから長い沈黙があって。

 

「恋しいんやね、きっと」

 

 女性は、静かに言った。

 

「……、恋しい……?」

 

 わけがわからなくて、女性の顔を見上げる。

 彼女は慈悲深い顔で目を細め、言い聞かせる口調で答えた。

 

「そう。あんたはその人が恋しいんや。飾らない自分を見ても、なんも言わんといてくれるから、側にいたいって思っとる。嫌ならそんな想わんと、別れてせいせいしたわー、ってなるはずやろ?」

 

「たしかに、そうかもしれませんけど」

 

「恋しゅうて会いたくて。でも別れた手前、会い難い。だからどうしたらええか困っとる。今のあんたはそういうことや」

 

「そう、でしょうか……」 

 

「そうやって、絶対。せやからまず、会ってみるんがええ。普通に会って、普通に話す。難しいかもしれへんけどそれが一番や」

 

「……はい」

 

「”好きな人”と別れて辛いやろけど頑張りや、おばちゃん応援しとるで!」

 

「……はい?」

 

 なんだか聞き捨てならない言葉が聞こえて、陽子ははたと正気に戻った。

 

「私もな、彼にフラれて悲しゅうて、辛い時期があったんやわぁ。でもな、諦めずにアタックしとったら、いつのまにやら縒りが戻って、気が付けばもう旦那さんなんやで」

 

「それはすごいですね。……じゃなくて!」

 

「ん? 何が?」

 

「違いますからね? あたし、恋愛相談してたわけじゃないですからね?」

 

「またまた~」

 

「いや本当ですって! そりゃまあたしかに、憎からず思ってますけど……」

 

 思い出されるのは、迷い家で見た彼の姿。

 助けに来てくれた時のこと。

 そして、彼が抱きかかえてくれた時のこと。

 がっしりとした体躯に、いかにも男らしい手、そして立ち上る雄の臭い。

 ”好きな人”。

 その言葉が脳内に響き渡った。

 

「いや、いやいやいやいや! そんなわけ……そういう恋愛的な関係ではありませんからね!?」

 

 首がもげる勢いで横に振り、全力で否定する。いたたまれない気持ちにもなってきて、思わず声を荒げてしまった。

 

「もう、そんなん言うからに」

 

「本当なんですって!」

 

 いくら弁解しようとも、女性は視線は実に温かい、慈愛とからかいに満ちた目で陽子を見守るばかりである。

 しかしこれは、しようがないことだ。

 お別れしただとか、自分を見てほしいだとか、紛らわしい言葉が多かったから、聞きようによっては、そういう話に聞こえてしまうのも事実。

 どれだけ言っても聞かないから、遂には陽子のほうがぽっきり折れてしまった。

 

「はあ……わかりました、いいですよもうそういうことで!」

 

「あら~」

 

「あら~、じゃないですよ! もう……」

 

 これ見よがしに溜め息を吐く。

 さっきまで悩んでいた自分がバカらしくなって、なんだかどうでもよくなってしまう。楽にはなったが、かわりに酷く疲れてしまった。 

 

「うふふ、でも調子戻ったんとちゃう?」

 

「それは、まあ……そうですね」

 

 すっかり時間が経ってしまった缶コーヒーを開けて、もやもやとした気分ごと、喉奥に流し込む。冷たい上に苦みが強くてマズかったが、気持ちをリセットするには充分な刺戟だった。

 

「ありがとうございます。見ず知らずなのに、話を聞いてくれて」

 

「かまへんよ。元気になったんなら何よりや」

 

 ころころと笑ってから、女性はすっくと立ち上がる。

 それから、真面目な顔で陽子を真っ直ぐ見つめた。

 

「あんたの”本当の自分を見てほしい”っちゅう気持ち、わかるで。誰でもみんな、見せられない、見られたくないモンをひとつやふたつ抱えとる。それを人に見せるのは、そら難しいし、嫌われたらどないしよって恐なるよな」

 

「はい」

 

「けどな、それで尻込みしとったら、一生おんなじとこで止まってまう。本当の自分ちゅうもんは、本当に自分にしかわからん。見てほしい。知ってほしい。そう思うんなら、まずは自分から見せなアカンよ」

 

「自分から、ですか」

 

「そっ。ウチはこんなですーって、堂々と話したらええ。案外みんな、わかってくれるもんやで?」

 

 ニッと白い歯を見せて笑う彼女は、とても頼りがいのある大人のようだった。

 

「そう、ですね。きっと、そうかもしれません」

 

 陽子は妖だから、そう簡単な話ではないのだけれど、彼女の言葉には一理あった。

 抱えるばかりでは誰もわからない。

 一度手放して、それをきちんと見てもらって、初めて理解してもらえる。受動的ではなく、能動的に待つのが大事なのだ。

 

「ありがとうございました」

 

 改めてお礼を言い、深々と頭を下げる。

 ずいぶんと気持ちが楽になった。話を変な風に解釈されたのは遺憾だが、こんなにも親身になって話を聞いてくれたのだ。それにくらべれば些事だろう。

 

「あたし、頑張ってみます。まだちょっと、恐いですけど……本当の自分を見てもらえるために、努力してみようと思います」

 

 力強く宣言すれば、女性は頷いて、最後にそっと陽子の頭を撫でた。

 

「頑張りや。あんたならきっとできる」

 

「はいっ」

 

 ふわりと、線香の香りが遠ざかる。

 少しだけ名残惜しそうに手が離れて、女性がこちらに背を向ける。

 

「あ、せや」

 

 それから、はっと思い出したように手を打つ。

 何事かと首をかしげたら、彼女は、

 

「もう危ないこと、したらあかんで」

 

 さきほどの雰囲気からは想像もできない、ニヒルな笑みを浮かべてそう言った。

 

「へ……?」

 

 あまりに急な変化に付いて行けず、間の抜けた声を出してしまう。

 目を瞬かせて呆気に取られていると、女性は「ほな、またな」と調子を戻して、ゆったりした足取りで去っていった。 

 ミステリアスで意味深な言葉を残していく彼女は、あのスーツの女性と重なる。

 妖気は感じられなかったが、おそらくその正体は妖に違いない。確証はないが確信はあった。

 きっと彼女らは、鴉を追っているのだろう。

 そう考えれば、なるほど、昨日今日の接触は偶然ではなかったのだと気付く。

 部外者にもかかわらず、捜査現場をウロウロする陽子と嘉平は、さぞかし邪魔だったのだろう。

 危険な場所に勝手に入り込んで、いろいろと物色しているのだから、あちらとしては溜まったものではない。

 だからこうして、あの二人はやって来た。無暗に首を突っ込むな、餅は餅屋に任せておけ。そう警告するために。

 しかし今日のようにフォローへやってくるあたり、少しやりすぎたとか思っているのかもしれない。

 この前の夜に出会った女性は、お世辞にも穏便とは言えなかったから、その埋め合わせなのだ。

 

「会っても、いいのかな」

 

 きっと嘉平に会うだけれなば、彼女たちは何もしてこないだろう。こんなにも焚き付けてきたのだから、ちょっと会うだけならば見逃してくれるはずだ。

 嬉しいような、困ったような、息苦しい気持ちで空を見上げる。ひどくこざっぱりとした風が、陽子の胸の内を通り過ぎた。

 どんな物事にもいつか終わりが来るように、いつかは自分の正体もばれるのだろう。

 それならばいっそ、誰かに正体を打ち明けてしまえば楽になる。

 もしかしたら、告白は受け入れてもらえないかもしれない。

 だが所詮は過程の話、かもしれない、と怯えているだけでは前に進めない。変わるならば、まずは自分が変わるべきだ。

 思い立ったが吉日とは言うが、急がば回れとも言う。

 急いてはことを仕損じるとも。何事にも準備が必要だ。

 勢い任せで突っ込んだところで、十全な覚悟と準備がなければ説得力に欠ける。

 どこで、誰に、どうやって告白するのか。まずはそこから決めなければ。

 そう心に決めて、陽子は立ち上がるのだった。



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妖狐の陽子は親友を想う

 次の日、休日の昼下がり。

 陽子と昭亥の二人は、仲良く二人で街を歩いていた。

 なんてことはない。友達と近くの神社で待ち合わせして、ウィンドウショッピングや、食べ歩きに興じて仲を深める行い。人間が等しく行っている付き合いだ。

 人としての自分を感じられるこの時間が、陽子はとても好きだった。

 妖という人ならざる者ではあるけれど、彼女の心はいつだって人の”つもり”だ。たとえ種族や立場が違っても心は人と一緒であり、真に親しき友に寄り添う。妖なんてやめて人間になりたいとさえ思っていたのだから、その寄り添いっぷりは逸脱していると言っても過言ではない。”憑く”にしたって、少々行き過ぎであった。

 そう、憑いている。

 加賀美陽子は、黛昭亥という少女に憑りついているのだ。

 妖狐とは基本的に”憑き物”である。

 誰かに憑りつき、時に幸福を、時に凶事を運ぶ。かつては精神に異常をきたしたものを者を、狐憑きと呼んでいたことからも、妖狐がどのような存在かわかるだろう。 

 凶事を運ぶ妖狐の代表を挙げるのならば、こっくりさんがわかりやすい。

 あれもまた妖狐の一種で、弱い力しか持たない野狐を呼びだして、吉兆を占い教えてくれもらう儀式だ。だが、野狐は善き妖にあらず、みだりに呼び出せば憑かれて呪われて、本当の意味で狐憑きになってしまう。真の意味での妖狐がである。

 そして幸福を運ぶ妖狐を代表する妖狐が、お稲荷様の使いだ。

 厳密には善狐と呼ばれている存在で、陽子はこちらに属している。彼ら彼女らは、宇迦之御霊神(うかのみたま)の使いであり、仙狐と呼ばれる高位の存在へ至るために善を奉ずる。人に憑りつくこともあるが、それは彼らの言葉で”保養”と言い、清き心を持つ者に憑いて返報としての幸を与える行為を指す。在り方としては妖より御使いと表現する方が的確であろうか。善狐は害や不幸を遠ざける守護霊めいた存在なのだ。

 長々と話したが、つまるところ。

 陽子は黛昭亥という少女をこの上なく気に入って、べったりと憑りついているのである。しかも善狐としての本分を忘れて、いっそ清々しいくらいに堂々と友人として接しているから、近所のお稲荷様に叱られたりしているのだが、それは今は関係のない話である。

 だから彼女と遊んでいる最中は、はてしなく上機嫌だった。浮つきすぎて空だって飛べる気がするほどで、余計な考えなんてすっかり頭から抜け落ちてしまった。

 

「あ、そうだ! 新しい服買いたいんだけど、いいところ知ってる? ウチ、服とかあんま知らなくてさ!」

 

 不意に、昭亥が言った。

 

「ほら、ウチの服って母さんのお下がりが多いじゃん? だから、自分の服欲しいなーって思って!」

 

「あー、確かに……」

 

 ピッと自分の服を広げて見せる。

 昭亥のファッションは端的に言って、彼女には似合っていなかった。

 グレーのコートと黒いジーンズは、普段の元気な姿と違ってお淑やか印象を与えるが、竹を割ったような明るい性格の彼女には大人しすぎる。母親が着なくなった服を譲り受けているから仕方ないのだろうけれど、圧倒的に色が足りないというのが感想だった。 

 

「服屋さんかあ。あたしもそんなに知らないんだけど……、行きつけのお店なら知ってるよ?」

 

 通りに面した小さな店だが、手ごろな価格で多くを取り揃えている店だ。陽子が今着ている白いダッフルコートと黄色のスカートもそこで買った。

 

「そこって安い?」

 

「うん、まあ。相場よりは」

 

「よし、じゃあそこ行こう!」

 

 即決即断。

 にっかりと笑って、昭亥は右手を差し出す。そっと手を取れば、力強く握り返してくれた。

 彼女には幼い妹と弟がいるから、きっと妹と一緒に思っているのだろう。服屋に着いても、その手は離れなかった。

 こういう距離を意識しない接し方のせいで、陽子は嬉しくなって贔屓してしまうのだ。なかなかに罪深いコミュ力である。

 

「アキちゃんはどんな服が欲しいの?」

 

「安いやつ!」

 

「えぇ……その回答は女子力なさすぎるよ……」

 

「だってファッションとか、全然わかんないだもん!」

 

「むっ、そんなんじゃだめだよ! 女の子なんだからおしゃれには気を使わないと!」

 

「そんなこと言ったって、ねえ?」

 

「ねえ? じゃいなよ、もう! しょうがないなあ、今日はあたしが選んであげる」

 

「ホント!? やったー! へへ、ありがと陽子!」 

 

 一緒に似合う服を探してあっちこっち回ったり、奇抜な柄の服を見つけて見たり、試着の時以外は片時も手を離れることはなかった。

 たっぷり二時間かけて選んだ服――オレンジの冬用リボンワンピースと、白いマフラー。総額六五八三円――にさっそく着替えた昭亥は、今までにないほど嬉しそうな笑顔を振りまいて、いろんな場所へ陽子を引っ張っていった。

 そうやってあっちこっちに連れ回されて、めいいっぱい遊んだ後、二人は子休止に行きつけの喫茶店に入った。

 通りに面していながら人の入りが少なく、静かで居心地がいい。浮ついた心を落ち着けるにはちょうど良い場所だ。

 

「ふう、ちょっと汗かいちゃったよ」

 

「あはは、ごめんごめん! 嬉しくってさ、ついはしゃいじゃった!」

 

 悪びれた様子もなく、昭亥はカラカラと笑った。

 せっかくの可愛い服が、行儀の悪い座り方でいろいろと台無しである。こういった面をもう少し整えれば、女性としていっそう魅力的になるだろうに。などと思わなくもないが、陽子は彼女のそういう面も含めて好きなので、決して口に出したりはしなかった。

 湯気立つ抹茶ラテを啜って、ほっと一息つく。

 歩き回って汗をかいた体には、この甘さと温かさがこと沁みる。後味もさわやかだからするすると飲めてしまう魔法の飲み物だ。特にこの芳醇でまろやかな匂いは、鼻の良い陽子にとってどんな香より素晴らしい。

 匂いといえば、と思い出す。

 最後に銭湯へ行ったのは、はたしていつだったか。

 鴉と会った日からすでに二週間近くも経っているけれど、毎晩、嘉平とミカとで鴉を探していたから、銭湯に行く時間がなかった。死体と出会った日から数えると、もう三週間以上も前になる。

 土砂降りの雨に濡れたり、頭から埃を被ったり、跳んだり走ったりと、汚れるばかりで、そろそろ身体を清めなければ元来の獸臭さが出てしまう。もし臭いが出てしまったら、考えるだけでなんと恐ろしいことか。

 しかし、どうやって銭湯へ行く時間を捻出するべきか。

 視線を彷徨わせながらつらつら考えていると、はっと名案を思いついた。

 

「ね、アキちゃん。銭湯行かない?」

 

 白シャツの上から羽織ったカーディガンが、彼女の動きに合わせてさらりと揺れた。

 

「銭湯?」

 

 急に言われたものだから、昭亥は気の抜けた声で小首をかしげた。

 時間がないなら今すぐに行けばいい。ちょうど昭亥もいることだし、親友と裸の付き合い、なんていうのも乙だろう。風呂に入れるし、友情も深まる。まさに一石二鳥だった。

 

「うん。ここ最近、広い風呂に入っていないなーって思って。せっかくだし、一緒にどうかなーって」

 

「ふーん……いいね! 背中洗いっこしよっ!」

 

「えへへ、楽しみだね」

 

「にしても、陽子ってほんと銭湯好きだよなあ」

 

「だって、銭湯の広いお風呂好きなんだもん」

 

 家にも風呂はあるのだから、家で入れば良いと思うだろうが、彼女の家の風呂は足を伸ばせないほど狭くて、とてもじゃないが気分になれない。やはり広い風呂でのんびりしたいのが日本人、もとい、日本妖の”さが”というもの。

 

「それに、ほら。体臭とか……ね。あそこは薬湯があるから」

 

「んん? 匂い? 全然、むしろいい匂いだったけど」

 

「今はね……今は……」

 

 脳裏に滲む昔の記憶。

 動物園みたいな臭いだとか。洗ってない犬みたいだとか。言われ放題の避けられ放題だったあの頃。

 

「く、臭くないし……! あたし、そんな臭くないし……っ!」

 

「お、おおう……大丈夫かー?」

 

「ハッ! う、うん、大丈夫! 平気平気!」

 

 過去を思い出して、ちょっと気落ちしてしまった。

 とにかく。

 銭湯に入ってさっぱりとしなければ、陽子の気持ちが収まらない。何もかもを綺麗に洗い流して、溜め込んだ鬱屈やら何やらを発散したくて、全身がウズウズしているのだ。

 

「よおっし、そうと決まれば早速行こっ!」

 

「いこー!」

 

 昭亥の号令で立ち上がった二人は、カフェを出ると意気揚々と銭湯へ向かった。

 行きつけの銭湯は街のはずれ近くにある。

 住宅街から二十分ほど歩いたところにあるこの銭湯は、かなり古い時代から立っている銭湯だ。陽子の記憶では、戦後まもないころにはすでにここに経っていた。

 中に入れば、今はもうめったに見ない番台があり、木造の靴入れがいまだに使われている。

 一部は改装されて、大型テレビや最新のマッサージチェアなどが設置されたものの、基本的な内装はほとんど変わらず、古き良きを残してある。

 懐古的で優しい、昭和の雰囲気そのままだ。

 番台に座る店主のお爺さんに入浴代の四六〇円を渡して、売店でお風呂セットを買ったら女と書かれた暖簾をくぐる。

 ずらと並ぶ鉄製のロッカーに荷物と服を入れて、いざいざと風呂場に足を踏み入れば、華やかな大風呂たちとご対面である。

 

「おお! 結構種類あるなあ!」

 

 昭亥の驚いた声が、流れる水音をかき消すほど響いた。 

 昼間とあって銭湯は実質貸し切り状態だ。大声を出しても、湯船を泳いでも、咎められることはないだろう。

 もっとも、そんなマナーの悪い真似はしないが。

 かけ湯で身体を軽く流してから、二人は中央にある大きな風呂に浸かる。熱めのお湯が全身を包み、身体の芯から温めていくのが心地良くて、陽子はふにゃりとは破顔した。

 

「あああああ……やっぱりお風呂は最高だよねえ……」

 

「完全にオッサンじゃん……」

 

 だらしなく湯船に浮かびながら、壮絶に年寄り臭い声を出してしまう。

 だだっ広い風呂と、人のいない解放感が、彼女の生きた年月を浮き彫りにしていた。

 

「でへへ……今なら液体になれる気がする」

 

 大の字になって湯に身を任せる。ミニタオルで纏めた髪がほどけそうになるのも、女子としてはしたない格好でいるのも気にならない。

 たとえ変化が解けてしまったって、今の陽子にとっては瑣末なことである。

 

「しっかし、いつ見ても”浮いてる”なあ! なに食ったらそんなデカくなるのさ?」

 

「うーん、歳?」

 

「ハハハこやつめ。同い歳の癖にそんなモンぶらさけやがってぃ! 許さんぞ!」

 

「うひぇ、ちょっ、揉まないでよぉ! くすぐったいって!」

 

「見ろよウチのこの無残な姿をよお! ちょっとくらい脂肪分けろよなあ!?」

 

「あげてもすぐ運動で燃焼されちゃいそう」

 

「死んでも燃やさんわい!」

 

 女三人寄れば姦しいというが、二人だけでもまあまあ姦しい。

 人がいたらきっと顰めっ面をしていただろうくらいに、陽子と昭亥は湯船できゃいきゃいとはしゃいでいた。

 そうして楽しく風呂に浸かったあとは、女の子らしくお互いに髪を乾かし合って、締めにはやはり瓶の牛乳を飲むのだけれど、ここでちょっとした問題が起こった。

 問題と言ってもそれは実に下らないもので、しかしありふれた好みの問題だ。

 風呂上りはどの牛乳が一番美味しいか論争である。

 

「牛乳が一番だよ!」

 

「いいや、フルーツ牛乳だね!」

 

「絶対こっちの牛乳のほうがおいしいのに!」

 

「風呂上りならコッチのほうがおいしいよ!」

 

「お風呂上りは普通の牛乳が一番でしょ!」

 

「フルーツ牛乳の特別感には勝てないね!」

 

「むむむ!」

 

「ぐぬぬ!」

 

 こういう意見の相違は、得てして決着がつかない。

 どちらも主張を譲る気はなく認める気がもないから千日手、よほど特別なことがないかぎりは交わることのない話だ。なんとも悲しき人間の性である。

 牛乳を飲み乾すと共に”みんな違ってみんないい”理論によって、無理やり決着をつけた二人は、銭湯を出る時にはもう喧嘩のことなんか忘れて、屈託のない笑顔になっていた。

 外に出ると、冷えた空気が頬を撫でた。

 時刻は既に夕方、日も落ちかけた頃。

 

「ちょっと遅くなっちゃったかな……、遊び過ぎたかも!」

 

 隣を歩く昭亥の笑顔には、どこか暗い影が差していた。

 いつも底抜けに明るくて、頭は良くないけど察しは良くて、可愛らしい顔をした親友が、瞳の奥底で何かを怖がっていた。

 

「そうだね」

 

 相槌を打って、街に目を向ける。

 街は鴉の影響もあって人が少なくなっていた。

 平時ならば、仕事を終えたサラリーマンや、休日で羽を伸ばす学生たちでごった返してるはずなのに、疎らも良いところだ。ネオンの灯りも、差し込む斜陽ですら、泣き腫らした色に見えてしまう。

 都会であるこの街ですらこれなのだから、これが地方だったら、本当にゴーストタウンになっていたことだろう。幸いなんて口が裂けても言えないが、人がいるだけまだ良いほうだ。

 誰もが恐れている。

 夜を恐れている。

 闇を恐れている。

 死を恐れている。

 この街には、恐怖が渦巻いていた。

 

「鴉、か」

 

 恐怖の正体を、ぽつりと呟く。

 

「ねえ、アキちゃん。やっぱり、鴉は怖い?」

 

「鴉? ……あ、人斬り鴉のこと?」

 

「うん。今日は人が少なかったし、みんな怖がってるんだと思って。アキちゃんもそうなの?」

 

 沈黙が二人の間をすり抜ける。

 時間は止まったような気がした。

 

「……うん、怖いよ」

 

 しばらくして。

 不安を隠していた顔が、少しだけ綻びを見せる。

 

「いきなり殺されるのなんて、誰だって嫌だよ。死にたくないもん。でもそれ以上に、もし、もしさ。家族とか、友達とか、そういう大事な人がやられちゃったら。父さんみたいにいなくなって、帰ってこなくなったらって思うと、死ぬよりもっと、ずうっと怖いんだ」

 

 彼女の家庭について、陽子は深く知らない。父が蒸発して母と弟妹の家族四人で暮らしている、そんな程度しか聞いたことがなかった。

 そんな彼女が、感情を吐露するほどに怖がっている。弱音も弱気も言わなかったのに、今日だけは気が緩んだのか、心に溜まった黒い澱みを吐き出した。

 

「ご、ごめんね! ちょっと変な話しちゃった! 失敗失敗!」

 

 バツが悪そうにタハハと笑って頭を掻く。本人は言うつもりがなかったようだった。

 知らずに口に出してしまったということは、それだけ不安が重く圧し掛かっていることに他ならない。

 きっと、吐き出さなければ潰れてしまいそうなほど、心が苦しくてしかたなかったのだろう。

 

「じゃあ、恐いのに会わないように、早く帰らなきゃだね」

 

 ぎゅっと昭亥の手を握って、陽子は歩き始めた。

 慰めや励ましの言葉をかけたりもできたが、彼女はあえてそれをしなかった。そんな程度で取り払えるなら、駄菓子屋の時にお礼を言ってくれたはずだ。

 だからきっと、言葉だけでは意味がない。行動や事実が伴わなければ、真に安心してくれないとわかっていた。

  ゆえに、必ずやあの鴉を討滅せねばならない。親友の恐怖の源たるあの妖を、陽子はますます許せなくなった。もう追いかけるのは難しいから、昨日に出会った女性に期待するほかにないのが、なんとも歯痒い。

 

「今日は、月がよく見えるね」

 

「うん」

 

 普段は見せない弱音を見せてしまったからか、家路は昭亥が何もしゃべらなくて静かだった。

 早く帰らなければと思いながらバスに乗らず、できるだけ長い時間一緒にいたくて。お互いがお互いを、どこか遠い場所へ行ってしまわないよう繋ぎ止めるために、しっかりと手を握って存在を確かめ合いながら。長い道のりを近道なんかせず歩いて帰った。

 住宅街につく頃には、すっかり陽は落ちて暗くなっていた。

 東京の冬空はどんよりと広がり、月明かりは暗夜に隠れている。

 雪がちらちらと舞い落ち、街灯の灯りを受けてちらと輝く。しばしの別れが近づいていた。

 

「なんか、変だね」

 

 悲しそうで嬉しそうな声で昭亥は言う。

 

「明日学校で会えるのに、離れたくないなーって思っちゃった」

 

 陽子もなんだか寂しくなってきて、ちょっとだけ困った風に笑った。

 

「そうだね。でも”待てる”って幸せだと思うんだ」

 

「幸せ? 待つのが?」

 

 いまいちピンとこないと首をかしげる彼女に、かつてに出会った人たちの顔を思い浮かべながら、陽子は少しずつ、考えながらかく語る。

 

「だって。生きてたらまた会えるでしょ? 極端な話だけど、いつになるかわからないし、どれだけ遠くに行っちゃうかもわからない。もしかしたら、もう会えないかもしれないくらい離れちゃったとしても、会いたいって気持ちがあれば、死なない限りいつかはきっと会える。だから、それまで会いたい人の顔とか、声とか、仕草とか。あんなことあったな。こんなことあったな。笑ったり泣いたりしたなって、思い出して、もう一度会えるのを待つの。そしたら、幸せでしょ?」

 

 三百年を生きて、多くの人との出会いと死別を経験した陽子にとって、それがもっとも別れの悲しみを誤魔化せる方法だった。

 たとえどれだけ離れたとしても、思い出は決して消えない。再び会えるその日まで、心の中の宝物は何処にも行ったりはしない。有り余るほどに多くの幸せがあるから、悲しみを覆い隠せるのだ。

 

「陽子は、凄いんだね」

 

 はたして彼女の目には、今の加賀美陽子がどのように映ったのか。

 見開かれた瞳には多くの感情が宿っていて読み取れないが、尊敬と親愛の情だけはしっかり浮かんでいた。

 

「待つのも幸せ、か」

 

 複雑な感情の滲んだ声が、二人の間に漂った。

 気が付けば、陽子の家の前だった。

 

「……ね、陽子。手、貸して」

 

 入り口の前で、彼女が悪戯娘の顔で笑う。

 言われるがままに手を出すと、ひょいと何かを手渡された。

 朱色のそれは、安全祈願のお守りだった。

 

「神社で買っておいたんだ! ほら、ウチっていっつも迷惑かけてばっかりでしょ? だから、その……日頃のお礼ってことで!」

 

 瞠目して、お守りと昭亥の顔を交互に見てしまう。

 本当は自分用に買っていたものなのだろう。彼女はプレゼントなんて滅多に用意しない。渡すにしても何か特別な日だけで、今日のような何でもない日に渡すなんて、そんなことは今までありえなかった。

 先ほどの陽子の話に感化されたのか、それとも単なる気まぐれか。

 それはわからなかったけれど、なんであれ親友からのプレゼントだ。

 

「ありがとう、アキちゃん!」

 

 思わず抱き着いて、全身で喜びを表現する。

 どんな理由があろうと、貰えたら嬉しいのがプレゼント。ましてや、それが親友からともなれば喜びもまた大きい。

 

「わわっ、そんなに喜ぶとは思わなかった!」

 

「だって、プレゼントだよ? アキちゃんからのプレゼント! こんなの嬉しいに決まってるよ! 大事にするね!」

 

 はしゃぐ陽子に、母のような、妹のような、大人びた子供の笑顔で言った。

 

「本当はさ、プレゼントに買ったわけじゃなかったんだ。けど、でも……陽子の話聞いたら、こう……なんて言うのかな、形に残る思い出? そういうのを残したいって思ってさ。だからこれは、思い出の品ってことで!」

 

 寒さでほんのり赤くなった彼女は、どこか誇らしげにはにかんだ。

 思い出の品。

 そういうことならば、こちらもお返しをしなければならないだろう。思い出を貰いっぱなしでは申し訳がない。

 陽子は何かないかと頭の中を探りまわして、そういえばちょうど良い物があったのを思い出した。

 

「じゃあ、あたしからも……はい!」

 

「ん? なにこれ?」

 

 差し出したのは、迷い家からの贈り物である古銭を、厄除けのお守りとして加工したものだ。

 加工といっても些細なもので、呪術の触媒としての機能を持たせただけで、小さなリボンを括りつけている以外に、見た目に大きな変化はない。

 

「昔のお金……みたいなものかな? 見た目は古いけど立派な厄除けのお守りだよ」

 

「へへっ、ありがと! 嬉しいよ!」

 

 照れくさくて、でも心地が良い空気の中で、二人は顔を見合わせる。

 少しの沈黙が通り過ぎて。

 

「ね、アキちゃん。明日、バイト休みだったよね」

 

「うん、休みだよ!」

 

 陽子は遂に、覚悟を決めた。

 

「なら、さ。その……明日の放課後に、また神社で待っててほしいな。大事な話が、あるから」

 

 震えた声で言うと、昭亥はちょっとだけふざけた調子で返した。

 

「なになに、もしかしてウチに告白とか?」

 

「こくはっ……、うん。そんな、ところ」

 

「わお! ウチにも遂に春が来たかー、来ちゃったかー! ……大丈夫だよ、陽子。どんな話かわかんないけど、茶化したりしないからさ。そんな顔しないの!」

 

 慈愛に満ちた手で頭を撫でられた陽子は、少しだけ泣きそうになってしまう。彼女ならばどんな自分でも受け入れてくれる。そう思って、安心してしまった。

 

「んじゃ、また明日な!」

 

 最後に軽く頭をはたいてから、昭亥は離れていく。

 

「うん! またね!」

 

 少しだけ残った名残惜しさを振り切るように、昭亥は駆け足で去っていく。親友の背中が見えなくなるまで、陽子はいつまでも手を振っていた。

 明日はきっと、良い日になると信じて。




 その夜。
 黛昭亥は帰らなかった。


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妖狐の陽子は覚悟する

 茫然としていた。

 朝一番にかかってきた電話。

 昭亥の母親から聞かされた事実は、陽子の心に大きな影を落とし、自分が何をやっているのか認識できないほど、自失の極みに追いやった。

 今朝、親友は迎えに来てくれなかった。

 学校、親友が座っていたはずの席が伽藍洞としていた。

 放課後、親友と歩くはずの帰路は静かで寂しかった。

 途中で警官に言われて、事情聴取にも応じた。その日はどこで何をしていたのか、何かおかしな様子はなかったか、そんな質問をいくつもされた。

 思い出すたび、心が削げ落ちていくような筆舌し難い苦しみがあって、頭が真っ白になってく。生きながらに死んでいくのに似た感覚、生きていた中でもっとも苦しい痛みを味わった。

 別れは何度も味わったはずなのに、どうしてこんなにも苦しくて、辛くて、悲しいのか。”妖狐”にはまだわからなかった。

 帰宅しても心は戻らない。

 喪失感が全身を包み込んで、全てが遠くで起きた出来事に思えてしまう。生涯を預けた半身を失ったような気分だ。彼女の身に何があったのか、何が起こったのか。心配で頭がどうにかなってしまいそうで、それなのに足が動かなくて、陽子は部屋の真ん中で立ち尽くしていた。

 いつまでそうしていただろう。

 不意に湧き出てきた悔しさがあまり、陽子は自分の額を思い切り壁に打ち付けた。

 ゴッ、鈍い音が鳴った。痛みが頭を駆け抜けた。

 腑抜けた気持ちが抜け落ち、全身に活力が戻る。

 思考の歯車が回り始めて、固まっていた心が解けていく。

 痛みは良い気付けとなった。

 喪失から復帰して、多少はマシな気持ちになった陽子は、鴉切六紋を背に隠したまま家を飛び出す。

 彼女を捜し出さねばならない。

 これは妖、おそらくは鴉の仕業だろう。殺さずに連れ去ったのは少しばかり不可解だが、とにかく。最悪の形で見つかってしまう前に、なんとしても彼女を助け出さなければならない。時は刻一刻を争う。座して待っている暇はなかった。

 帰り道で行方不明になったのならば、その間で誰かに攫われたか、何かにまき込まれた可能性が高い。陽子の家から昭亥の家まで、直線距離でおおよそ五百メートル弱の間に何かが起こったのだろう。まずはそこを調べてみようと思った。

 住宅街には多くの警官がいて、昭亥を捜索していた。

 陽子も彼らの中に混じって、何かしらの痕跡、妖にしかわからない手がかりが残っていないか、注意深く観察して道を歩いた。

 何度か警官に危ないと叱責されたけれど、陽子を止めるにはいささか力不足で、少ししたら誰も何も言って来なくなった。

 どれだけ歩いただろう、どれだけ往復しただろう。

 靴擦れで痛む足も気にせず、ひたすらに彼女の痕跡を探した。

 

「……!」

 

 そうして夜も更けた頃、ひとつの手がかりを見つけた。

 黒い羽根、鴉の羽根だ。

 ただの羽根ならば気にも留めないが、ここに落ちていた羽根は明らかに違っていた。血で汚れていたのだ、目に見えてわかるくらいに、血がべっとりと付着した痕があった。間違いなく、人斬り鴉の羽根だった。

 最悪の結末が一瞬だけよぎって、すぐに頭を振る。

 血は既に乾いて固まっており、昨日今日に付いたものではない。ならば、まだ昭亥は無事なはずだ。

 羽根を拾って、握りつぶす。

 同時に。

 懐にしまっておいた符が反応した。発せられた音は大きく、まるで来るのをわかっていたみたいに近くを示している。

 どこかへ誘い込もうとしているのだろうか。ならば好都合、こちらから出向いてやれば良い。

 陽子とて妖の端くれ。たとえ何が待っていようと、相手がその気ならばもっとも原始的な方法、暴力によって親友を奪い返してやろうと決意した。元より相互理解なぞ不可能な相手だ、ためらいもない。

 地べたを踏みしめて、疾と駆ける。

 脇目もふらず、人目も気にせず、音の鳴る方へただ走る。断続的になる音を頼りに住宅街を抜け、郊外の工場エリアに入り、さらにその奥へ。

 追いかけて、追いかけて、追いかけ続けて。

 気が付けば、もはやどこかもわからない、廃工場の一角に辿り着いた。

 工場の裏。いくつかある棟のうちの、一番右端。

 鎖で封鎖された大扉のすぐ横にある、錆びついた鉄のドアに、符が貼り付けられていた。どうやらここに、鴉はいるらしい。

 鴉切六紋を背から抜き取ると、鞘を投げ捨ててドアを蹴破る。

 妖の膂力によってあっけなく吹き飛んだドアは、派手な音を立てて工場内に転がった。

 やがて、無音だけが残った。

 少し見まわしてから踏み入ると、靴音だけがいやに響いて、無気味に暗闇を彩る。

 大きな機械や道具なんてものは運び出されたあとなのだろう、だだっ広くて、薄暗くて埃っぽい伽藍洞な空間だけがあった。

 警戒しつつも奥へと進んでいくと、違和感に気付く。

 いくら歩いても、景色が変わらないのだ。

 工場の見た目からして、もう反対側の出入り口に着いてもおかしくはないのだけれど、いくら歩いても辿り着く様子がない。どうやら鴉の妖術により、この工場の内部は、空間が引き伸ばされているらしかった。

 すなわち、空間拡張。

 厄介な術だ。発動の難易度に反して扱いやすく、熟練者が行使すれば百キロは引き伸ばせる。鴉の技量が如何ほどかは知らないが、最低でも一キロは伸ばされているだろう。小癪な真似をする。

 昭亥の姿も、鴉の姿も、見当たらない。

 いったいどこに隠れ潜んでいるのやら。

 あらゆる死角に意識を向けながら、慎重な足取りで奥に向かう。迷い家の時には上から奇襲されたから、次もどこからか奇襲をしてくると踏んでいた。

 しかし、その警戒はあっけなく裏切られた。

 

「……嘉平さん!?」

 

 棟の中を少し進んだところ、ちょうど入り口からは覗けない奥まった場所に、よく見た侍姿の男がいた。

 

「狐か」

 

 溜め息混じりに言われて、安心した気持ちになる。

 彼もまた、鴉を追ってここへ来たのだろう。ミカがいないのは少し気になるが、もしかしたら、外で待たせているのかもしれない。

 思わぬ再開だ。僥倖である。

 

「あの!」

 

 ほとんど悲鳴に近い声で、陽子は言う。

 

「友達が、昨日からずっと行方不明で……もしかしたら、鴉に捕まったかもしれないんです! この奥にいるかもしれないんです!」

 

 聞くも悲痛な言葉を受けた嘉平は、押し黙って陽子の瞳を見つめた。 

 

「あたしは、あの子を助けたい。まだ話してないこともたくさんある。話したいことがたくさんある! 絶対に死んでほしくない……だからあたしに、力を貸してください!あの子を助けるために! お願いします!」

 

 沈黙が場を包む。

 何も言わず。何も語らず。ただ黙したまま、嘉平の瞳が真っ直ぐに射抜いている。黒々としたその瞳に、この嘆願はどのように見えたのだろうか。ひとつだけ確かなのは、今にも泣きだしそうな顔の陽子が、しかと映っていることだけだった。

 数秒、いや数分だろうか。

 ついと目を逸らした彼は、おもむろに工場の奥へ歩き出す。

 どうしたのかと立ち尽くしていたら、彼は振り向いて。

 

「往くぞ、狐」

 

 それだけ。たった二言だけ、彼は言葉を発した。

 しかし、陽子にはそれで充分だった。

 

「っ! はい!」

 

 頼もしく見える背中に、陽子は凛と返事をした。

 こつ、こつこつ、こつ。

 二人分の足音が響く。

 だだっ広い暗闇の中を進んでいく。

 

「嘉平さんも、鴉を追って?」

 

 問えば彼は懐から何かを取り出す。

 それは羽根だった。真っ黒な羽根、人斬り鴉の羽根だ。陽子と同じように、誘い出されたらしい。

 

「わからぬことをする」

 

 はたして何が目的で、二人をここへ呼び寄せたのか。罠であることは確かだが、わざわざこんな手間をかけてまでするものか。無気味極まる鴉の思考が理解できず、嘉平は眉をしかめる。

 だが、今はそれを議論している時間はない。

 今はとにかく、先を急ぐことが重要だ。

 

「どこにいるんでしょう」

 

「さてな」

 

 もうだいぶ奥へ進んだが、いまだに鴉の姿は見えない。不自然なほど気配もなく、ただ静謐のみが満ちている。奇襲のタイミングを計っているのか、だとしたら相当に用心深い奴だ。いつまで歩かせれば気が済むのやら。

 それから、さらに進むこと数分。

 

「埒が明かぬ、走るぞ」

 

「言われずともですっ」

 

 歩いていては夜が明けてしまう。

 地面を蹴り飛ばし、前へと飛び出す。

 風が如くと二人は駆けた。

 常人ならば三十分はかかるであろう距離を、二人は五分も経たぬ間に通り過ぎていく。

 驚くべきは嘉平の脚力だ。妖たる陽子の脚力は尋常ではなく、その速度は実に五十キロを超えるというに、彼は悠々と隣に並んでいる。おおよそ人の範疇を超えていた。陽子のせいでそれらしい力は出していなかったが、やはりこの妖狩りもまた人外であった。

 健脚を以て往く二人は、グングンと進んだ。

 そうして、どこまでも続いているのでは。なんて思ってしまう距離を過ぎた頃、不意に終わりが見えた。 

 現れたのは別棟と続くはず鉄扉。

 だが、明らかに異様な雰囲気を放っていた。

 扉の前で立ち止まれば、隙間から流れ出る血の臭いが鼻を衝く。微かに聞こえるのは刃物を研ぐ音だけで、あとは自分たちの呼吸音だけ。怖気がするほど無気味で、吐き気がするほど悍ましい雰囲気が、その扉にはあった。

 

「行きますよ、嘉平さん」

 

 ごくりと唾を飲み込んで、陽子は勢いよく扉を蹴り開けた。

 

「やっときたか、ヒヒヒ」

 

 目の前に現れたるは、吹き抜けの大部屋。

 そして人斬り鴉。

 猛禽類の嘴と、巨大な黒い翼、血と誇りに塗れた山伏の服、そして一本歯の下駄。伝承に伝わりし鴉天狗そのままの姿で、それは悠然と野太刀を肩に担いで立っていた。

 

「アキちゃん!」

 

 鴉の後ろ。部屋の最奥には、結界の中で手足を縛られ、床に転がされてる昭亥がいた。

 ぐったりと横たわる彼女の姿に、陽子は全身が粟立つのを感じた。最悪の事態が脳裏をよぎり、そんなはずはないと目を見開いた。

 服は汚れているけれど怪我はなく、ただ気絶しているだけのように見える。無縁が上下しているから、おそらくまだ死んではいないのだろうが、結界の中にいるから何か悪い状態になっているかもしれない。

 

「鴉……ッ!」 

 

 憎しみと怒りで奥歯が鳴る。感情の昂りに合わせて、尖った耳が、白色の尾が、琥珀の瞳が、尖った犬歯が、鋭い爪が、恐ろしい獸のそれへと変化して、人の皮がはがれていく。

 

「抑えろ、狐」

 

 気を抜けばすぐに爆発しそうな感情に、低い声が冷や水を浴びせる。深呼吸と共に、少しだけ平静を取り戻す。

 鴉は下卑た表情で目を細めて、野太刀の切っ先を昭亥に向ける。あからさまな挑発だ、乗るはずもない。

 

「アキちゃんを……その人を離してください」

 

「ヒヒヒ、力づくで来い。拙僧は今、飢えておるのでな」

 

「飢え、ですか」

 

「惰弱な人間を殺すのは、些か飽いた。そろそろ骨のある妖と死合いたいのだ、拙僧は」

 

「ならば望み通りにしてやろう」

 

 嘉平がすらりと刀を抜く。

 鈴の音にも似た音が、両者の間を通り抜けた。

 

「さて、どうだろうな。拙僧が待っているのは、主らよりは骨のある輩がおるやもしれぬぞ」

 

 馬鹿にした態度で鴉が言う。

 他に来るとするならば、あのスーツの女性とコートの女性の二人組だろうか。鴉を追っていたところに接触してきて、首を突っ込むなと忠告してきたのだから、おそらくはそうだ。どれほどかかるかはわからないが、きっとここへも辿り着くだろう。

 鴉の言葉から察するに、昭亥を餌にして陽子と嘉平を釣り、さらにそれを餌にして、あの二人の女性を釣る。そういう魂胆だったのだろうか。

 だとするならば、なんとも回りくどい方法だ。本当に戦いを望むのならば、わざわざこんな回りくどい準備をせずに、あの女性たちがいそうな場所へ直接乗り込めば良い。もっと言えば、そこらの強そうな妖に喧嘩でも吹っ掛ければ、それで足りるだろう。

 にもかかわらず、それをしない。

 口では人殺しには飽いたなどと言っているが、そもそも、鴉はこれまで人間しか殺していないはずだ。加えて、戦いたいなどと嘯きながら人質を取っているところを見るに、この鴉は単に弱者を嬲り殺しにしたいだけにも思える。

 神通力がないゆえに自身の力が及ばぬ相手には挑まず、明らかに狩れる相手だけを選んでは弄ぶ。

 すなわちその正体は、闘争を好いているのではなく、勝利という結果を好いているということ。勝利の愉悦に浸れるならば、過程や方法の一切を度外視する外道の証左に他ならない。

 

「貴方の目的なんぞに興味はありません。戦いたいならば、どうぞおひとりでやっていてください。鏡の中に、きっとちょうど良い相手がいますよ」

 

「ずいぶんと憤っているな、狐。そんなにこの人間が大事か」

 

「ええ、大事ですよ。その子を取り返すために、あたしはここまで来たんですから」

 

 努めて静かな口調で答える。

 人質がいては戦えない。引き合いに出されては、土俵にすら上がれず斃されてしまう。まずはどうにかして、昭亥を救出しなければならなかった。

 人質救出のためには、陽子の陰陽術による結界破りか、退魔刀である嘉平の殺生石の刀で結界を斬り裂く必要がある。

 陰陽術での結界破りは、この上なく確実に結界を破れる。この術は式神を行使する必要があるため、式神を斬られてもすぐに取り返しが効くのも利点だ。斬られたならばまた同じ式を召喚すれば良い。ただし使役している術者、すなわち陽子が斬られてしまったらそこで終わってしまうのが難点か。

 対して。殺生石の刀で斬り裂く方法は、素早く一瞬で終わるため、昭亥を確保できしだい早急に場から離れることができる。しかし、結界に辿り着くには鴉を斃すか誰かに抑えていてもらう必要があった。しかも嘉平の刀を使う関係で、足止めできるのは実質的に陽子だけという制約付きだ。

 そして昭亥を覆う結界がどんな性質かわからない以上、増援を待っている時間はない。即決即断が重要だ。リスクを無視してでもリターンを取る必要があった。

 

「嘉平さん」

 

「黙れ」

 

「まだ何も言ってないじゃないですか……」

 

「友人ならば自分で助けろ」

 

「……任せても、いいんですか」

 

「黙れと言った」

 

 不安げに見上げれば、彼はこちらを見ずに答えた。

 その横顔は、どこか死を覚悟した人の顔をしていて。本当に任せて良いのか、迷いを抱いてしまう。ともすれば本当に死んでしまうのではないかとさえ思えた。

 けれど今は、それが最善だった。

 

「わかりました。必ず、アキちゃんは助け出します」

 

 頷いて、陽子は正面を見据える。

 

「だから、死なないでくださいね」

 

 答えは返ってこなかった。

 作戦が決まれば、あとは実行するのみ。

 嘉平が一歩を踏み出して鴉に肉薄、一太刀を浴びせんとする。風切り音と金切り声が響く。交差した刃は火花を散らして、幾度となく打ち合う。

 

「来て、食岩(はみいわ)悪水(うすい)穿針(うがちばり)

 

 激しさを増す斬り合いを尻目に、陽子が上衣から紙を三枚取り出し、式神を呼びだす呪を唱え、宙へ放った。

 舞い散る紙を依代に、現れたるは三匹の獸たち。

 黒色の岩でできた碧眼の兎、食岩。

 流体とも個体ともつかぬ猿、悪水。

 鋼鉄の翼で飛ぶ乳白色の燕、穿針。

 それぞれ弱いながらも結界破りの力を持つ式である。本当ならばもっと強力な式を呼びたかったのだが、それには多くの妖力を必要とするため、あとのことを考えれば呼びだすのは躊躇われた。

 

「みんな、力を貸して」

 

 真剣な眼差しで見つめれば、式たちは一様に頷く。知能はさほど高くないが、信頼と忠義の心は誰よりも高い。親愛なる主のためならば、死なずの身すら礎とする覚悟があるのが式たる彼らだ。

 結界破りの式に気が付いた鴉は、その目を細めて殺気を飛ばす。絶対の死を予感させる視線に、しかし陽子は、一瞬も怯まずに突撃した。

 人質を助けるならば、近くにいたほうが動きやすい。危険かもしれないが、彼が死を覚悟をして戦っているのだ、こちらも命を懸けずしてどうする。

 

「食岩は変化を、悪水は側面を押さえて、穿針は上から。悪水、くれぐれもアキちゃんを傷つけないように」

 

 冷静に指示を飛ばし、嘉平の横をすり抜ける。立ちはだかる鴉が野太刀を振るうが、すぐさま嘉平が割り込み受け止めた。

 

「小癪ッ」

 

 悪態。鴉が怒号と共に発した。

 背中に突き刺さるものを感じながら、決して足は止めず。嘉平を信じて走り続けた陽子は、ついに部屋の最奥、人ひとりがやっと収まる大きさの結界の前に立った。

 式たちに目配せをして配置につく。悪水が身体を二つに別けて万力みたく側面に取りつくと、穿針が上で杭になって結界のてっぺんに突き刺さる。食岩は身体を槌に変えて、陽子の左手に納まった。

 

「……行きます!」

 

 両足に力を籠め、身体をばねのように縮こませ、そして。

 跳躍。

 月兎もかくやと跳び上がった陽子は、食岩を振りかぶり、呪言と共に渾身の力を以て振り下ろして叫ぶ。

 

「破錠解鎖邪根刈奪妖力退散幻消現戻! 急々如律令ッ!」

 

 轟音。

 爆発のような。

 杭となった穿針に食岩の槌を叩き付けた瞬間、結界が軋みを上げて罅割れた。

 トドメに万力になった悪水が結界を締め上げれば、一秒も経たずして、耳鳴りめいた破壊が大部屋を満たした。

 結界は粉々に砕け散り、淡い煌めきとなって辺りを舞う。

 思いの他、拍子抜けするほど呆気なく、陽子は昭亥に触れた。

 

「アキちゃん、助けに来たよ」

 

 しゃがみこんで、そっと頬を撫でる。

 少し冷たくなっているけれど、確かな生命を感じた。

 

「おのれ、小狐風情がよくもやったなッ」

 

 憎々しげに鴉は叫ぶ。歯牙にもかけていなかった陽子に、こうもあっさり人質を奪還されたのだ。その憤怒はまさに怒髪天を衝く勢いなのだろう。

 

「退け、狐」

 

 鴉と陽子の間に立ち塞がる形で、嘉平が大きく後ろへ下がる。彼女を救出した今、形勢は二人に傾いた。あとは援軍が来るまで防衛に徹するだけで良い。勝敗を決するのも時間の問題だった。

 

「ぐ、ヒ……なんと、なんと愚かなりや……」

 

 片手で顔を覆い、地に膝をつかんとするほど俯いて、鴉が声を絞り出す。それは主要な感情が読み取れないくらいに震えた声で、もはや正気を失ったのではと疑うほど。しまいには野太刀を地面に突き刺して、苦悶ともつかかに呻き声まで出し始めてしまった。

 あれでは冷静な判断もできまい。戦いとは平静を欠いた時点で負けである、油断さえしなければあしらうのも簡単だと思われた。

 だが。

 しかし。

 

「っ!?」

 

 ゾクリと。

 背筋を冷たいものが走る。反射的に立ち上がった。

 その直後。

 陽子と昭亥は結界に包まれた。

 

「これは……ぁ、ぐっ……!?」

 

 全身から力が吸いだされ、式たちが紙切れに戻っていく。身体が麻痺して、重力に潰されそうになる。変化を保つことも、立っていることすらもままならない。四肢が、顔が、人から獸のそれへと変化して、ついには白いだけの狐に戻ってしまった。

 妖気を吸い取るこれは、名取の結界。妖が長く居続ければ、やがて存在そのものすら失う陰陽道由来の結界だった。

 

「何……!?」 

 

 驚きと共に振り向いた嘉平が、突風に吹き飛ばされるのが見えた。天井近くまで打ち上げられ、落葉のように宙を舞った彼は、受け身も取れないまま地面へ叩きつけられてしまう。

 脱げ落ちた旅笠が、鴉の足元に転がっていった。

 いったい何が起こったのか。

 陽子がそれを理解した時。

 鴉は、邪悪に笑った。

 

「苦労したぞ、”名”を得るのは」



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妖狐の陽子は鴉と戦う

 愉悦の声が、頭に響く。

 失念していた。

 何故、工場に空間拡張術がかけられていたのか。

 何故、この場に結界があったのか。

 名も力も失った鴉は、神通力を使えない。にもかかわらず、昭亥は結界に覆われていた。それはつまり、新たな名を得て力を得たということ。

 天狗モドキは”人斬り鴉”の異名を、自身の新たな名として手に入れていたのだ。

 辻斬りによって異名を取り、証拠を残すことで印象を固定し、一年だけ隠れ潜むことで価値を高め、誰もが恐怖を忘れかけた頃に、満を持して再び斬った。姿の見えぬ殺人鬼の帰還は、世界から向けられる恐れと関心を一挙に集めて、そして、”人斬り鴉”の異名は真なる名として形になった。

 全ては、鴉の手の上だった。

 

「……味な真似をする」

 

 ふらりと立ち上がる嘉平が、怒気を爆発させた。  

 あれほどの高所から落とされらというに、怪我のひとつも負っていない彼の瞳は、結界の中でうずくまる陽子と昭亥に向けられていた。助けるべきか、見捨てるべきか、迷っているのだろうか。わからないが、その瞳は確かにこちらを射抜いていた。

 

「……に……げ、て……ッ」

 

 喉奥から絞り出して叫んだ。掠れてほとんど聞こえない、小さな悲鳴を上げて訴えた。

 

「断る」

 

 視線を逸らすことなく、嘉平は凛然と刀を構えた。囁きにすら満たない音だったが、聞こえていたらしい。あまりにも愚かな選択だ。彼我の差を考えれば、自殺に等しい行いだった。

 剣戟が響く。

 人の身でありながら、神通力を取り戻した天狗には決して届かないにもかかわらず、その刃を振るい続ける。剣閃を掻い潜り、せめて一太刀でも浴びせんとしている。

 

「見上げた蛮勇よ」

 

 鴉が嗤い、左腕を振るった。

 突風が吹き荒び、彼の身体を叩きのめす。呻き声のひとつも上げられないまま、彼は地面に転がされてしまう。それでもなお立ち上がり、再び鴉に斬りかかった。

 弄ばれてボロボロになりながら、しかし決して諦めずにいる。こんな妖なぞ放っておけばいいのに、どうして、逃げずに立ち向かう。陽子にはわからなかった。彼の神威がわからなかった。

 やがて。

 

「斬ること能わず。心身伴わぬその刃、しかして無為也。疾くと死に候え」

 

 鴉も相手するのに飽きたのか、ぞんざいに野太刀で薙いだ。振るわれた白刃は一切のブレなく、嘉平を刀ごと引き裂かんと迫った。

 その時、嘉平は。

 

「加賀美陽子」

 

 どこか穏やかな笑みを浮かべて。

 

「嘘は、吐かないのだろう?」

 

 刀を渾身の力をもって放り投げた。

 陽子の瞳には、なにもかもがやけに遅く見えた。

 こちらに飛んできた刀が、結界に突き刺さった。

 横一文字に斬り裂かれて、嘉平の上半身が吹き飛んだ。

 扉が開いて、男女三人組が大部屋に入ってきた。

 嗚呼、息が漏れ出す。声にならない慟哭が、全身を震わせる。目の前が霞んで、黒く染まって、まともに見ていられない。結界の割れる音も聞こえず、何もかもがはるか遠くの世界の出来事に思えた。

 嘉平が犠牲になる必要はなかった。

 鴉は力を取り戻したとはいえ、名を得たばかりではまだ力を十全に震えない。

 しかも驕り高ぶっていたから、逃げる隙はいくらでもあったはずだ。

 結界に囚われた陽子と昭亥もそう、昭亥は鴉にとって人質だから殺されることはないだろう。

 陽子は放置すれば死ぬかもしれないが、妖の命なんてものは人の命よりはよほど軽い。彼にしてみれば無視して良い存在のはずだった。

 それなのに、彼は自らの命を投げうった。はたしてそれが何を意味するのか、陽子のはまだ理解できなかった。

 何故。

 どうして。

 疑問ばかりを浮かべながら、分かたれた嘉平の上半身を見つめる。ぐったりと瞳は閉じて、無心な彼はピクリとも動かない。

 もう彼と話すこともできないのだろうか。失意に沈む中、彼の姿をじっと見つめていた。

 その時、はっと気が付く。

 血が出ていない。

 身体を上下に分かたれたというに、嘉平の身体からは内臓どころか血の一滴も出ていない。まるで、初めから空洞であったように、白色にくすんだ断面が覗くばかりで、何もない。

 人でありながら、人でない。

 幽霊のようで、しかし確かな実態がある。

 すなわち、屍解仙。

 それは人の身でありながら、幽鬼の身となった者を指す。

 寿命では死なず、強靭なる精神の続く限り生き続ける彼らは、身体を持った幽霊とも言える存在だ。

 思えば彼を指して向けられた、心身が伴っていない。心が別の場所に向いている。

 これらの言葉は、肉体が精神に追い付いていないという意味なのだろう。そう思えば、なるほど、納得がいくというものだ。

 彼はまだ死んでいない。

 麻痺していた思考が、急激に動き出す。

 彼は何を伝えようとしていた、どうして逃げずに鴉に立ち向かった。

 チリッ、と火花が散った。

 鴉は随分と嘉平を弄んでいたが、片手で足りるほどしか神通力は使っていなかった本当に力を取り戻しているのなら、もっと大規模な妖術を使って、陽子たちを一気に殺せたはず。

 それをせずにあえて人質を取り、結界に閉じ込めて力を吸い取った。それはつまり、満足な力を得られていないということ。

 今の鴉ならば、勝てるかもしれない。

 一抹の希望を掴みかけて、しかし、陽子の中の冷静な部部が警鐘を鳴らした。

 逃げるべきだ。

 陽子はすでに力の半分以上を失っている。

 立ち向かったところで勝てるはずはなく、無意味に敗北することにしかならないし、昭亥をこのまま放置するわけにもいかない、すぐにでも安全な場所へ運ぶべきだ。

 嘉平の二の舞になっては、それこそ顔向けができないというもの。

 それでも。

 この湧き上がる憤怒をどうしたらいいのか、彼女には見当がつかなかった。

 自分の不甲斐なさが情けなくて、嘉平の無茶が許せなくて。

 奪われたのに、仕返しのひとつもできないまま逃げ出すのが許せなくて。

 気が付けば陽子は立ち上がっていた。

 四肢を人の形に変化して、鴉の喉笛を斬り裂かんと決意した。

 自分が冷静でないことは自覚している。

 だが、抑えきれないのだ。愚かな奴だと誹られようとも、哀れな奴だと蔑まれようとも、あの鴉に一矢報いねば気が済まない。

 今まで生きてきた中で最も強い、理由のわからぬ怒りが、彼女の身と思考を焼いていた。

 転がっていた嘉平の刀を拾い、右手に嘉平の刀を、左手に鴉切六紋を構えた。

 雄叫び。

 そして、蹴り。

 おおよそ怒りに任せた一撃は、油断しきった鴉の腹に突き刺さり、壁を突き破ってなお衰えぬほどの勢いで吹き飛ばす。

 怒りによって増幅した力は、本来以上の力を彼女に与えていた。

 壁に開いた大穴から、月光が差し込む。

 

「ょぅ……こ……?」

 

 背後で、昭亥の声をあげた。

 弱々しいけれど、意識のはっきりとした声だった。

 人とも狐ともつかない奇妙な姿をしかと見られている。彼女はどう思っているのか、少しだけ気になってしまうが、今はそれを気にしている余裕はない。

 

「ごめんね、アキちゃん。行ってくる」

 

 顔を向けないまま、陽子はそれだけを言い残して外へ飛び出した。

 

「な、何故……拙僧が……」

 

 困惑の声と共に血を吐いた鴉が、野太刀を支えに立ち上がる。自分がこれほどまでのダメージを負ったのが、信じられないらしい。

 

「名を取り戻したとはいえ、所詮は急ごしらえ。妖を圧倒するほどの力はないようですね、天狗モドキ」

 

 冷徹に、無慈悲に、陽子が告げる。

 名を取り戻し、力を取り戻したからと、全盛期に戻るはずもない。力とは長い時間をかけて培われ、蓄えられるもの。名を得たばかりなのだから、当然その神通力も弱く、真に強いのは己の極めし武のみだ。 

 

「なかなかに策士でしたが、策に溺れる。見誤りましたね?」

 

「ほざくな、畜生風情が」

 

「弱い人間ばかりを斬ってきたゆえに、自身の力量と相手の力量を測る目を失った。なまじ力を取り戻してしまったから、油断をしてこうなったんですよ」

 

 挑発の言葉を投げると、鴉は野太刀を振り上げる。

 袈裟懸けの一太刀。躱して、鴉切六紋で右翼を斬り裂く。

 黒い羽根が舞い散り、薄く積もった雪の上に翼が落ちた。

 

「これでもう飛べません。自慢の翼もこの通り、迷い家の時みたいに逃げることはできませんよ」

 

 底冷えするほど冷たく言う。

 今度こそ本当に悔しさで顔を歪める鴉を見て、少しばかり溜飲が下がっていく。

 こういう策を弄する相手は、冷静さを奪い考える暇を無くすのが最善だ。挑発を繰り返し、激高させて、思考を限定させる。

 陽子自身そういう類だし、さっきまで鴉にやられていたことだから、どれほど効果的かよくわかっていた。

 

「男らしく戦いなさい」

 

 歯を剥き出しにして鴉が呻く。目を血走らせ、地団駄でも踏みそうなくらいに怒り狂って、今にも飛びかからんとしている。このまま行けば、少なくとも相打ちには持っていけるだろうと思えた。

 しかし。

 

「ヒ、ヒヒヒ……拙僧としたことが、矮小な畜生相手に、本気を出すところだったわ」

 

「本気を出しても勝てないの間違いでは?」

 

 嘲り笑うと、鴉もまた嘲り笑った。

 考えていることはわかる。昭亥を人質にしてなにかしようというのだろう。狡猾なことに、こちらに防ぐ手がないのをわかっている。

 数秒の膠着。

 鴉が昭亥の下へ向かおうと地を蹴ると、陽子も続けて飛び出した。

 

「動くなっ、畜生めが」

 

 先に辿り着いたのは鴉だった。 

 野太刀の切っ先を昭亥に向けて、すぐにでも命を絶てる姿勢にある。やはり腐っても天狗、追随を許さない足の速さであった。

 

「よくもやってくれたが、ヒヒヒ、これで手も出せまい」

 

 勝ち誇った顔に立ち止まる。十メートル前後の距離で、両者は二たっび退治した。

 昭亥は、鴉が見えているのだろうか、さっきよりは明確に怯えた様子で視線を走らせている。鴉の立っている場所と、陽子の立っている場所へ、忙しなく瞳を向けて口をまごつかせていた。

 

「よ、ようこ……?」

 

 震えた声に、陽子はわずか言葉に詰まる。

 最悪な状況で、最悪な場面で、親友にこの姿を見られてしまった。さっきまでの意識も朧気なままならば、気のせいだと誤魔化して先延ばしにできただろうが、まったくままならぬものである。

 

「……その子から離れなさい」

 

 数瞬の沈黙。

 

「友情か、美しい物よな」

 

 鴉が口を開いた。嘲りと侮蔑の混じった視線で陽子を睨み、さもおかしそうに笑い声を上げた。

 

「人と妖に友愛など非ず。人に紛れるための欺瞞、人に近付くための虚栄こそ、人と妖の真なる在り方よ」

 

「な、なんなの……何言ってるの……?」

 

「ヒヒヒ。哀れなり人の子、狐に化かされたことにも気付かぬか」

 

「アキちゃんッ」

 

 唇を噛んだ陽子を見て、鴉は変に笑った。

 

「では、この鴉が懇切丁寧に教えてやろう。小娘、御主はそこな狐に化かされておったのだ。あれは人ではない、醜い、醜い、化け狐。友を騙る人外の化け物よ。汝はあれに関わったゆえ狙われたのだぞ……矮小な狐め、身の程を弁えぬからこうなるのだッ」

 

 唾を飛ばして叫ぶ鴉は、そうしてまた変に笑った。

 哄笑だけが場を満たしていく。鴉の勝ち誇った顔が、二人を舐めるように眺めていた。この期に及んでまだ逃げられると思っているらしい。

 

「アキちゃん。少しだけ、目を瞑ってて」

 

 陽子はただ、優しく笑いかけた。

 巻き込まれただけの昭亥に、これ以上のショックを与えたくはない。妖同士の殺し合い、ただでさえ直視し難い自分の姿が、血で汚れていく様を、見て欲しくなかった。

 けれど。

 

「……ウチ、信じてるから!」

 

 真っ直ぐな言葉で、昭亥は告げた。

 彼女は目を閉じることはなく、静かに、陽子の目をしかと見つめ続けた。揺れる瞳には迷いがあった。恐怖もあった。それでも、絶対に目を逸らすことだけはしない。それは、どんな姿であろうと親友を受け入れる、という決意と覚悟の表れに他ならなかった。

 陽子は身体が軽くなるのを感じた。心が楽になるのを感じた。

 背負っていた重い荷物を下ろしたみたいな解放感が全身を駆け抜けて、何物にも代え難い高揚感が腹の底からせり上がってくる。

 明かしてしまえば、なんと呆気ないものか。正体が露見することを過剰なまでに恐れていた自分が、なんだか馬鹿らしくなってしまった。

 

「信じる? 信じるだと? ヒヒヒ、おいたわしや人の子め。信じたところで無意味よ、畜生風情に何ができる」

 

 確かに言うとおり、人質を取られた状態では手も足も出せない。下手を打てば昭亥が殺されてしまう。

 されどこれは窮地に非ず。陽子にはひとつだけ、根拠なき考えではあるけれど、何故だか絶対の確信があった。

 

「ひとつ、訊かせてください」

 

 唐突に。 

 驚くほど唐突に、陽子は問うた。

 

「貴方は迷い家に、何をしに行ったのですか」

 

「これはまた、妙な問いかけをする。だがそうさなあ、興が乗ったゆえ答えてやろう。あの家を覆う結界術を模倣せんとして向かった。思うたほどではなかったが……ヒヒヒ、畜生小屋を作る程度は苦もなく、造作もない」

 

「迷い家から持ち出したものは、ないと」

 

「あのようなあばら家から何を持ち出せというのだ」

 

 質問の意味がわからず、鴉は嘲りの笑みをさらに深くした。自暴自棄でもなったのだと思ったことだろう。

 しかし、陽子は真面目だった。これ以上にないほど真剣に、正確に、質問の意味とその答えを理解していた。

 

「なるほど」

 

 答えを聞いた陽子は、安心と憐れみの色を顔面に滲ませる。

 そして、右手の刀をすいと振り上げて。

 

「なら、安心して斬れますね」

 

 残忍な笑みを浮かべると、一歩を踏み出した。

 余裕から一変、焦りが鴉の顔を歪ませる。人質がいるこの状況で攻め込むなど、想像もしていなかったに違いない。

 

「愚か者め」

 

 吐き捨てるように呟き、神通力を使って風を起こし陽子を吹き飛ばす。反撃を予想していた陽子は、直前で後ろに下がることで、宙に飛ばされはしたが態勢は崩さずに着地する。 

 

「畜生風情が拙僧に楯突いた報いを受けるが良いッ」

 

 そして怒号と共に、鴉が野太刀を振り下ろした。

 

「うぅッ!」

 

 恐怖から目を背けるように、昭亥は瞳を閉じる。

 あわや首が飛ぶかと思われた、その時だった。

 

「天網恢恢、疎にして漏らさず」

 

 陽子の呟きがこだまして、それと呼応するように、昭亥の上衣が強烈な輝きを放った。

 まるで質量を持ったような強い光は、彼女の全身を包み込むと、鴉の野太刀を受け止め、押し返し、弾き飛ばす。

 お守りだ。お守りが護った。

 昭亥に渡したあのお守りがあることを、陽子は憶えていた。あれは迷い家からの贈り物、退魔のお守りだ。悪意を退け害を断つ効果は、まさしく折り紙付きと言えよう。はたして最高の結果を生み出した。

 声も出せないほどの驚愕によって、鴉は刀を手放した恰好のままピタリと動きを止めてしまう。

 それが鴉の致命だった。

 

「冥途の土産に、教えてあげましょう。鴉切六紋、この脇差の由来を」

 

 無言で放たれた一撃が、鴉の胴に深々と突き刺さり、色の悪い血飛沫が陽子の左腕を濡らす。

 

「お、おのれ……」

 

 弱々しく両肩を掴まれた陽子は、鴉を見上げて獰猛に嗤う。

 そのまま力任せに、ゆっくり、ゆっくりと、腹に捩じりながら押し込む。ついに刃が背まで貫き達する感触が左手に伝わった。

 

「この脇差はですね、師匠が昔に鴉天狗を斬った脇差なんです。六つの波紋が美しい鴉を斬った刀……だから鴉切六紋。元鴉天狗の貴方にピッタリでしょう?」

 

 獸らしい凄惨さで、横一文字に掻っ捌く。臓物と共に噴き出した血が陽子の顔を汚して、悍ましくも妖しい化粧を施した。それは人としての陽子ではなく、妖としての陽子の姿を強調する。

 呻き声しか上げられない鴉が、たたらを踏んで後退る。その顔には驚愕と困惑、憤怒と憎悪が代わる代わる現れては消えていた。

 

「人斬り鴉」

 

 妖らしい熱の籠った息を吐いて、陽子は右手の刀を振りかぶり。

 

「ただ殺すなんて生易しいことはしません」

 

 一転して笑みを消すと、底冷えする冷たさの声で告げる。

 

「無間地獄の果に消えなさい」

 

 躊躇いなく振り下ろされた殺生石の刀は、いとも容易く身体を左右に斬り裂く。哀れ呪詛のひとつも言えず、ボロボロと炭になって鴉は消えていき、最後には静寂だけが残った。

 妖とて死すれば地獄に堕ちる。日本に恐怖を知らしめた人斬り鴉であれば、地獄の底の底、無間地獄へ向かうだろう。悟りを開けぬまま六道をはずれ、転生すらもできぬ鴉は、殺生石の効果によって二度と現世へ戻ることも叶わない。真に永劫の責め苦を受け続けるのだ。

 

「お、終わった……の……?」

 

 怯えて掠れた声の昭亥が言う。

 はたと気が付く。妖から人のそれに戻った陽子は、慌てて刀を放り出すと昭亥に抱きついた。

 

「ああ、アキちゃん! 大丈夫、怪我はない?」

 

「う、うん……」

 

「よかったあ。えへへ、安心したら涙出てきちゃった」

 

 血塗れの手で頬を拭う。寒い思いも、恐い思いもさせてしまったけれど、大きな怪我がなくて何よりだ。安心して腰が抜けてしまいそうになる。

 

「陽子、その、さっきのは……?」

 

 問われて、すんと鼻をすすってから答えた。

 

「ごめんね。ちゃんと説明するから、だから少しだけ待ってて」

 

 名残り惜しくも立ち上がる。陽子にはまだ、やらなければならないことがあった。

 涙を振り払って立ち上がり、真っ直ぐと歩いて行く。たった数歩ほどの距離ではあったけれど、しっかりとした足取りで、悲しみを踏みしめるように歩いて行く。やがて、陽子が辿り着いたのは、消えかかった嘉平の上半身の前だった。

 

「嘉平さん」

 

 しゃがみ込んで、声をかけた。

 

「……狐」

 

 彼は静かに答えた。

 

「あたし、鴉をやっつけましたよ」

「ああ」

「貴方の仇を取りました」

「そうか」

「相変わらずぶっきらぼうですね、でも嫌いじゃないですよ。貴方のそういうところ」

「……ああ」

「むしろ好きです。嘘は吐けない、なんて言いましたけど。母さんに好きなんでしょって訊かれて、思わず否定しちゃってですね……嘘、吐いちゃいました。てへっ!」

「……そうか」

「いや、最初はとっても恐かったんですよ? でも、貴方の優しさに触れていくうちに、自分でも気づかないうちに、好きになっちゃいました」

「……」

「おかしいですよね! たった数週間しか会ってないのに、こんなに好きになっちゃうなんて! でも、仕方ないじゃないですか……妖だってわかってるのに、なんでもない感じで接して、優しくするんですから。知ってますか? そういう人って全然いないんですよ、みんな怖がって逃げちゃうんですから。だから、嘉平さんみたいな人は貴重で……だから……だから仕方ないんです!」

 

 言い聞かせるみたいな口調でまくし立てて、さも困った風に笑う。嘉平は何も言わず、ただ陽子から目をそらさずにいた。

 

「好きだったんですよ?」

 

「……ああ」

 

「すき、だったんです……っ」

 

 溢れ出た涙を乱暴に拭った。これ以上は話したところで未練になってしまう。彼もそれをわかっているのか、最期に、罪を告白するように陽子へ告げた。

 

「お前は妹に似ていた……だが、それだけで傍に置いたわけではない……」

 

「っ、はい」

 

 嘉平の言葉は少なかったが、それだけでも陽子には理解できる。

 彼もまた陽子の優しさに絆されていた。最初は妹に似ているからと接していたが、その妖からぬ性格に感化されてしまったのだ。いつからかはわからないけれど、彼が陽子を仲間と思ってるのは確かだった。

 

「ありがとう、そして、さようなら」

 

 すっくと立ち上がって、背を向ける。

 

「ああ、さらばだ」

 

 そっけなくて、けれど温かな声で、嘉平は言った。その顔にはきっと、ついぞ見せてくれなかった笑みが浮かんでいたのだろう。

 陽子は振り向かずに一歩を踏み出した。

 彼への想いは、ここで終わらせなければならない。妖は出会いと別れを繰り返す生き物だ。いつまでも死者への気持ちを引き摺っていては、そのうちに重さで潰れて生きていられなくなる。だからこそ、ここで終わらせなければならなかった。

 背後で音がした。

 扉が乱暴に開く音。

 何かが崩れていく音。

 誰かの足音、誰かの声。

 陽子は振り向かずに歩いていた。

 大切な親友の下に、帰るために。

 



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妖狐の陽子は振り向かない

「申し訳ない」

 

 スーツの女性、がしゃどくろの樫屋(かしや)は、頭を下げてから開口一番に謝罪を口にした。

 

「はあ」

 

 昭亥が気の抜けた返事をすると、コートの女性である座敷童の敷辺(しきべ)も、申し訳なさを滲ませながら頭を下げる。

 

「本当は、いの一番に辿り着かんといかんかったのに……怖い思いさせしもうたわ……申し訳もない」

 

 さらに続けてもうひとり。

 

「本当に、言い訳のしようもない大失態だ……」

 

 この場で唯一の男性であるバロウ狐の三上(みかみ)も頭を下げた。

 テーブルに頭をぶつけるんじゃないかと思うほど、深々と頭を下げる三人に、陽子と昭亥は困ったように顔を見合わせてしまう。

 鴉との戦闘から一週間後、大事を取って入院していた昭亥が退院した日の、夕暮れのファミレス。窓から差し込む夕刻が眩しい席に、陽子と昭亥はいた。

 対面に座るのは三人は、警視庁捜査第五課妖怪犯罪対策部、通称”マルヨウ”所属の刑事だという。聞いたこともない部署だが、それもそのはず。ここは妖怪を専門に扱っており、世間一般に妖の存在を秘匿するための部署なのである。一般人に存在を秘匿する関係上、この部署も存在が秘匿されているのだから、知りようもなかった。

 

「あの、頭を上げてください。ウチはそんな、怪我してなかったですし」

 

「それでも、や。本来は護るはずの市民に戦わせてしもうた。頭下げな警察の沽券に関わる」

 

「え、ええと……陽子ぉ」

 

 頭を上げない三人に困り果てて、昭亥が助けを求めてきた。陽子も陽子で困っているのだが、二人して困り顔のままでは話が進まない。

 

「そうですね。皆さんがもっと早く鴉を捕まえていたら、皆さんの到着がもっと早ければ。アキちゃんは怖い思いをしなかったし、あたしもあんなことをせずに済んだ。そう思います」

 

 とりあえず謝罪を受け取り、上辺だけの非難の言葉を投げる。

 こういう時は無暗に相手を気遣うより、適当に流して話を進めていくと円滑だ。

 

「しかし、それは結果論です。歴史にもしもはありません、過去を変えることはできません。だから悔いるのはここまでにして、未来の話をしましょう。後ろばかり見ても、意味はありませんからね?」

 

 少しの沈黙の後、三人は頭を上げる。誰もが沈痛な面持ちではあったけれど、さっきよりは随分とマシになっていた。

 

「……せやね、続けてもしゃあないわな」

 

 切り替えるように水を飲んでから、敷辺は話を始めた。

 

「まず、黛さん。今回の件は完全オフレコ、誰にも言うたら駄目です」

 

「は、はいっ」

 

「それと、貴女は妖が見えることも。特にこっちは言うたらあきまへん」

 

「ええと……、わ、わかりました」

 

 困惑の色を強くしつつも、昭亥は頷く。

 黛昭亥は神や妖が見える体質だった。見えるのは特別に力の強い存在や、自分と繋がりの強い存在だけで、それ以外は貧乏しか特筆するべきはない少女である。

 とはいえ、そういう存在が見える時点で希少な才能の持主だ。悪意ある誰かに狙われないとも限らず、あまりおおっぴらに言うのはよろしくなかった。

 

「そして、加賀美さん。貴女には、いくつかお願いしたいことがあります」

 

 視線を向けられて、陽子は自然と姿勢を正した。

 

「ひとつは、マルヨウの活動に協力してほしいっちゅうこと。なんも難しいことありません、この街の治安維持のお手伝いをしてほしいんです。我々は妖なれど人のために動いています。貴女もその点は同じでしょう」

 

「ええ、志は同じです」

 

「ならばこそ、なおのことお願いしたい。嫌なら、断ってもろうても……」

 

「いえ、大丈夫です。喜んでお引き受けします」

 

「……ええんか?」

 

「もちろんですよ。人々を幸せにすることが善狐の務め、断るはずありません」

 

 強がった笑顔で了承すれば、安心したような、後ろめたいような、複雑な表情で樫屋は礼を言った。

 

「ありがとうございます」

 

 それからいつくかの話――それは犯罪被害者給付金の話であったり、殺生石の刀をどうするかの話であったりだ――をしてから、この場はお開きとなった。きっと彼女らも忙しいのだろう、話が終るなり、代金をテーブルに置いて足早に店を出て行ってしまった。

 

「なんだか、大変だったね」

 

 随分とふわっとした感想を漏らして、昭亥は頭を掻いた。彼女自身はそれほど大きな被害にあってないし、事件の最中はほとんど気絶していたから仕方ないだろう。

 

「そうだね」

 

 笑顔で同意すると、彼女は目を逸らして、どこか言い難そうに訊いた。

 

「それで、さ……陽子は、狐? なんだよね」

 

 一瞬だけ、言葉に詰まる。もっと相応しい場所で、もっと相応しい状況で、正体を告白したかった。だが、あんなことがあったのだから致し方ない。

 

「うん、そうだよ」

 

「やっぱり! 陽子は、妖狐の陽子なんだね!」

 

「フフーン!」

 

 得意げに鼻を鳴らして胸を張ると、彼女は安心したと笑って抱き着いてきた。

 不本意な状況での告白ではあったけれど、唯一の救いは、昭亥が拒否しなかったことだ。

 妖が見えることは気付いていたけれど、受け入れてくれるかどうかはわからなくて、拒否されやしないかと怖くて堪らなかった。

 だからこうして受け入れてくれたのは、陽子にとって筆舌にし難い喜びで、何にも代えがたい幸福であった。

 

「ありがとう陽子。あの時、助けてに来てくれて。やっぱり陽子は、ウチの一番の親友だよ」

 

「……こっちこそ。受け入れてくれてありがとう、アキちゃん。アキちゃんだけだよ、あたしの親友は」

 

 顔を見合わせると、照れて笑い合う。

 わかりあうということは、なかなかどうして、耐えがたい幸せの味がする。こんな気持ちになったのは、陽子が生まれて初めてだった。

 

「何も、訊かないからね」

 

 優しく背中を撫でながら、彼女は耳元で囁く。

 やはり彼女は、誰よりも健気であった。

 

           

 

 氷雨が降りしきっている。

 濡れることもいとわず、初めて会った四つ辻に佇む陽子は、街灯の下で瞑目していた。

 嘉平を想うことは今でもある。屍解仙であった彼の過去も気になる。

 だが調べたところで何になるというのか。過去は過去でしかなく、想いを馳せたところで返ってくるはずもない。

 残された者は、ただ思い出を胸に進むしかないのだ。

 暗雲の夜空に、殺生石の刀を向ける。

 そういえば、と気が付く。

 この刀には銘がない。

 せっかく最後に残った思い出の品なのだ、いつまでも殺生石の刀なんて呼ぶのも味気ない。名前がなければこの刀も寂しかろう。きっと相応しい名前があるはずだ。

 雨音の中、しばらく考えて。

 

「……陽狐切、嘉平……」

 

 ぽつりと、銘を呟いた。

 瞳を開くと、白い輝きが双眸を射抜いた。

 それはまるで、喜んでいるような、悲しんでいるような、不思議な輝きだった。



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