ウマ娘 Big Red Story (堤明文)
しおりを挟む

第一話「刹那の強者」

 本作は『ウマ娘プリティーダービー』の二次創作小説ですが、作者の競馬という競技に対する個人的なこだわりにより、本来なら「ウマ娘」と表記すべき部分を「馬」または「サラブレッド」、「トゥインクルシリーズ」を「競馬」と表記させていただきます。それ以外にも原作とは設定や名称が異なる部分が多少あります。
 原作に思い入れのある方には不快な思いをさせてしまうかもしれませんが、どうかご了承下さい。




 

 

 忘れられない記憶がある。

 

 どれだけ時が経とうと色褪せない、黄金のような思い出がある。

 

 十年以上前――まだ故郷にいた頃、両親に連れられて行った競馬場。生まれて初めて、現地で観戦したGⅠレース。

 

 アメリカ合衆国ニューヨーク州、ベルモントパーク競馬場。

 

 アメリカ三冠競走最終戦、ベルモントステークス。

 

 そこで、見た。後に伝説の存在となるサラブレッドの、歴史に残る異次元の走りを目の当たりにした。

 

 大歓声が湧き上がる、最後の直線。

 

 無人の野のような土の走路を、一人の少女が疾走する。

 

 後続は、遥か後方。先頭を行く少女の走りに誰も追いつけず、差は広がるばかり。

 

 風になびく黄金色の髪。風を裂いて躍動する長い四肢。巻き上がる土煙と、大地を揺るがすかのような剛脚の音。

 

 少女の走りは、何もかもが異次元だった。

 

 過去のどんな名馬をも凌駕するほどに、どんな強敵も置き去りにしてしまうほどに、その疾走は速すぎた。

 

 いや、速さだけではない。持久力もまた異次元。スタート直後から先頭を譲らず、殺人的なハイペースで走り続けたというのに、その脚は全く衰えない。それどころか、ゴールに近付けば近付くほど、際限なく加速していく。

 

 他の誰にも真似出来ない走り。

 

 いまだかつて誰も辿り着いたことのない領域の走り。

 

 競馬の常識を覆し、競馬の歴史を塗り替えた、唯一無二の走り。

 

 詰めかけた大観衆の目にそんな走りを焼き付けて、美しい栗毛のサラブレッドは、栄光のゴールを駆け抜けた。

 

 二着につけた差は、驚愕の三十一馬身。

 

 走破タイムは、二分二四秒〇。従来のレコードタイムを二秒以上短縮する、不滅のスーパーレコード。

 

 圧勝や楽勝などといった言葉では到底言い表せない、あまりにも現実離れした、この世のものとは思えない形の勝利。

 

 史上九番目にして、史上最強のアメリカ三冠馬が誕生した瞬間だった。

 

 その瞬間に立ち会った幼き日の自分は、感動に打ち震えながら、大観衆から喝采を受ける少女を見つめていた。

 

 ――いつか、自分もああなりたい。

 

 ――あの人のような、誰よりも強いサラブレッドになりたい。

 

 そんな想いを胸に秘めながら、母国の英雄となった少女の姿を、いつまでも見つめていた。

 

 

 それが、競走馬グラスワンダーの原点。

 

 史上最強のサラブレッドを知り、その走りに魅せられた時から、始まったのだ。

 

 命を賭してただ一つの頂を目指す、茨の道程が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本サラブレッドトレーニングセンター学園。

 

 東京都府中市に建つ、日本最大のサラブレッド育成機関である。

 

 二月も終わり間近となったこの日、各種のコースが設けられた広大な練習場の一角に、学園最強のチーム「リギル」の姿があった。

 

「全員揃っているな?」

 

 リギルの指導者である東条ハナは、目の前に並ぶ教え子達の顔を見回して言った。

 

 シンボリルドルフ。

 

 エアグルーヴ。

 

 ナリタブライアン。

 

 ヒシアマゾン。

 

 マルゼンスキー。

 

 フジキセキ。

 

 タイキシャトル。

 

 テイエムオペラオー。

 

 エルコンドルパサー。

 

 グラスワンダー。

 

 晴れ渡る冬空の下に集った、日本最高クラスの実績と実力を誇る十人のサラブレッド。

 

 彼女達の服装は普段の練習で着るトレーニングウェアではなく、実戦用の服――勝負服と呼ばれる、煌びやかな衣装だった。

 

 この日の練習は普段とは内容が大きく異なるため、例外的に着用が認められたのだ。

 

「前から言っていたように、今日はこのメンバーで模擬レースを行う」

 

 ハナがそう言うと、十人の少女は一様に表情を引き締める。

 

 緊張感のない顔をした者や無駄な軽口を叩く者は、一人もいなかった。

 

「お前達十人を二人ずつに分けて行う、計五回のマッチレースだ。各々の競走能力、競走成績、相性、得手不得手などを踏まえ、組み合わせとレースの条件はこちらで決めさせてもらった。今更だが、異論はないな?」

 

 全員が声を揃え、「はい」と頷く。

 

 異論など出るわけがない。既に組み合わせとレースの条件は知らされており、全員がそれに納得している。

 

 模擬レースとはいえ、手は抜かない。

 

 今日対戦が組まれた相手と全力で戦い、必ずや勝利する。

 

 そう胸に誓い、学園最強のサラブレッド達は勝負服に袖を通したのだ。

 

「なら始めるぞ。まずは第一レースの二人――シンボリルドルフとエアグルーヴ、ゲートに入れ! お前達のレース条件は、芝Aコースの二千メートル。秋の天皇賞と同じだ!」

 

 

 

 

 

 

 十人を五組に分けて戦わせる、異例の模擬レース。

 

 二月の最終週にそれを行うと告げられたのは、年明け早々のことだった。

 

 その時リギルの面々は、誰もが驚きを隠せなかった。彼女達が知る競馬の常識では、到底考えられないことだったからだ。

 

 レースで勝敗を競うという行為は、サラブレッドの身体に多大な負荷をかける。通常の練習とは比べ物にならないほど体力を消耗するし、最悪の場合、レース中に大怪我をして二度と走れない身体になることもある。

 

 そのため練習時間中に実戦同様の模擬レースを行うなどということは、基本的に無い。あまりにもリスクが大きすぎるのだ。

 

 にもかかわらず、反対の声を押し切って、今回の模擬レースは強行された。

 

 間違いなく、何かある。

 

 この模擬レースの裏には、何か特別な事情がある。

 

 海外のビッグレースに挑戦させる者を選ぶためか、国内のビッグレースに優先的に出走させる者を決めるためか――それは分からないが、何か特別な事情があることだけは確かだ。そうでなければ、この時期にこんなレースを行うわけがない。

 

 青い勝負服を身に纏い、自らの出番を待ちながら、グラスワンダーはそう勘繰っていた。

 

 そんな彼女に、赤い勝負服を纏った年上の女性――マルゼンスキーが声をかける。

 

「ようやくこの日が来たわね」

 

 視線を向けると、マルゼンスキーの穏やかな微笑みが目に映った。

 

「何か色々と大人の事情があるみたいだけれど……結局のところは模擬レース。勝ったところで賞金もトロフィーも貰えない練習試合。怪我をするリスクを負ってまで勝敗にこだわるようなレースじゃない」

 

 そう言ってから、どこか楽しげな眼差しを向け、試すように問う。

 

「……けれど当然、負けるつもりはないんでしょう?」

 

「ええ」

 

 迷いのない面持ちで、グラスワンダーは即答した。

 

「負けるつもりはありません。今日の勝負、絶対に勝ちます」

 

 模擬だろうが何だろうが、レースはレース。真剣勝負の場であることに変わりはない。

 

 手抜きの勝負などしないし、負けてもいいなどとは思わない。

 

 本番と同じ気構えをもって臨み、全力で走る。持てる力を一滴残らず振り絞り、勝利を掴み取る。

 

 グラスワンダーの青い瞳は、そんな揺るぎない意思を宿していた。

 

「そう言うと思ったわ。大人しいように見えて、負けず嫌いだものね。あなた」

 

 マルゼンスキーは笑顔のまま、眼差しだけを真剣なものに変える。

 

「でも、気をつけなさい。あなたの今日の相手は、半端な相手じゃないから」

 

「……ええ、分かっています」

 

 栗毛の少女の顔が、僅かに強張る。

 

「彼女の速さも、強さも、痛いほど知ってるつもりです。ずっと近くで見てきましたから」

 

 今日の対戦相手――芝二千四百メートルの第五レースで戦う相手は、強い。

 

 リギルの中でも間違いなく上位に入る実力者。

 

 全身全霊を振り絞って挑んだとしても、勝てるかどうか分からない難敵だ。

 

「でも……だからこそ、手は抜けません。彼女と長く一緒にいて、その強さを間近で見てきたから…………私は、彼女に負けたくない。勝ちたいんです」

 

 真摯な想いと、強固な決意を込めて放たれた言葉。

 

 自らの後輩であり、愛弟子とも言える少女の言葉に、マルゼンスキーは温かな眼差しで応じた。

 

「本当は先輩として、中立な立場でいなきゃいけないのだけれど…………応援してるわ。頑張ってね」

 

「――はい」

 

 

 

 

 

 

 白熱した戦いが順次繰り広げられ、勝敗が決していった。

 

 第一レース。Aコース芝二千メートル。シンボリルドルフ対エアグルーヴ。

 

 直線での長い競り合いの末、シンボリルドルフが半馬身差で勝利。

 

 第二レース。Cコース芝千六百メートル。ナリタブライアン対ヒシアマゾン。

 

 ナリタブライアンが終始ヒシアマゾンを圧倒。五馬身差をつけて貫禄勝ち。

 

 第三レース。Dコースダート二千メートル。マルゼンスキー対フジキセキ。

 

 元祖≪怪物≫マルゼンスキーが格の違いを見せつけ、八馬身差の圧勝。

 

 第四レース。Bコース芝千八百メートル。タイキシャトル対テイエムオペラオー。

 

 先行するタイキシャトルをテイエムオペラオーがゴール手前で交わし、クビ差で勝利。

 

 そして、この日の最終戦。Aコース芝二千四百メートル。左回り。

 

 日本ダービーと同条件で行われる第五レースに出走するのは――

 

「では、次が最後のレースだ。準備はいいな? グラスワンダー、エルコンドルパサー」

 

「「はい」」

 

 ハナが言うと、並び立つ二人の少女は声を重ねて答えた。

 

 すぐ隣にいる対戦相手――赤いマスクで目元を覆った黒鹿毛の少女を、グラスワンダーは横目で一瞥する。

 

 エルコンドルパサー。

 

≪怪鳥≫の異名を持つ、リギルの若き俊英。昨年のJRA賞年度代表馬。

 

 通算成績十一戦八勝。主な勝鞍は、NHKマイルカップ。ジャパンカップ。サンクルー大賞。

 

 GⅠレース三勝、凱旋門賞二着の実績を誇る、学園屈指の強豪選手。

 

 その実力は既に日本最強とも囁かれる、正真正銘の超一流馬だ。

 

 相手にとって不足はない。

 

 いや、これ以上の相手は何処を探してもいない。確信を込めてそう断言出来る。

 

 だからこそ、心が燃える。かつてないほど熱く燃え上がる。

 

 絶対に倒してみせるとグラスワンダーは胸に誓い、スタート地点に置かれたゲート式発馬機へと向かった。

 

 

 

 

 

 

「なーんかピリピリしてね? あいつら。ケンカでもしたのか?」

 

「単に集中してるだけだろ」

 

 ヒシアマゾンの言葉に、ナリタブライアンが応じた。

 

 既にレースを終えた彼女達は、練習場に併設された観覧席に移動している。

 

「普段は親友でも、レースとなれば別。勝負の場に私情や馴れ合いは持ち込まない……そういう奴らだ、あいつらは」

 

 コース上の芝を踏み締め、スタート地点へと向かうグラスワンダーとエルコンドルパサー。

 

 普段は姉妹のように仲が良い二人だが、今は互いに無言。負けられない大一番を迎えたかのような緊張感を纏いながら、静かに歩を進めていた。

 

「ふーん…………で、お前はどう思うよ? ブライアン」

 

「どう、とは?」

 

「あいつら二人の、どっちが勝つかっつー話」

 

「……さあな」

 

 突き放すように言ってから、ナリタブライアンは僅かに目を細める。

 

「スタミナと器用さならエルコンドルが上、パワーと瞬発力ならグラスが上、総合力で比較すれば僅かにエルコンドルが優勢……と見るが、あくまで私の勝手な見立てだ。それが正しいかどうかは分からん」

 

 百戦錬磨の三冠馬の目をもってしても、このレースの結果は見通せない。

 

 それほどまでに、実力が拮抗した二人だ。

 

 グランプリ三連覇の≪怪物≫グラスワンダー。

 

 凱旋門賞二着の≪怪鳥≫エルコンドルパサー。

 

 同年齢で同学年。アメリカ合衆国出身という共通点もあり、デビュー当初から何かと比較されてきた両者だが、どちらが上かという点については未だにファンの間で論争が絶えない。

 

 実績はほぼ互角。グラスワンダーは有馬記念、エルコンドルパサーはジャパンカップと、共にGⅠの中のGⅠと言える大レースを制し、日本を代表するサラブレッドと世間に認められている。

 

 直接対決は過去に一度だけ。一昨年の秋、毎日王冠という重賞レースで激突した。

 

 結果はエルコンドルパサーが二着。グラスワンダーが五着。

 

 エルコンドルパサーが先着した形ではあるが、レースの勝者となったわけではなく、グラスワンダーには骨折による長期休養明けという事情があった。あの一戦だけで格付けが済んだとは、彼女達自身も思っていないだろう。

 

 これから行われる模擬レースこそが、彼女達の格付けを決める重要な一戦なのだ。

 

「まあ何にせよ、すぐに答えは出る。怪物と怪鳥、どちらが上かはな」

 

「っしゃあああっ! タイマンかぁ! 面白くなってきたぜ!」

 

「うるさい黙れ」

 

 

 

 

 

 

 ゲート式発馬機の中。

 

 開始の合図と共に目の前の扉が開くのを待つ、静寂の時間。

 

 グラスワンダーは、すぐ隣に立つ親友の声を聞いた。

 

「グラス」

 

 前方を見据えたまま、一分の隙もない凛とした横顔で、エルコンドルパサーは告げる。

 

「全力で来てください――私の全力で、叩き潰しますから」

 

 闘志を剥き出しにしたその言葉に、グラスワンダーは心底から震えた。

 

 気圧されたのではない。嬉しかったのだ。

 

 エルコンドルパサーが――無二の親友であり、長きに渡り切磋琢磨してきたライバルが、全力で来いと言ってくれている。手抜きのない真剣勝負を求めている。

 

 これほどまでに胸を熱くさせることはない。

 

 心の奥深くから煮え滾る溶岩のような感情が込み上げてきて、思わず頬が弛む。

 

「……ふっ」

 

 淡い笑みを浮かべただけで、返答はしなかった。

 

 自分の気持ちなど、とうの昔に伝わっているだろう。

 

 それに、今更余計な言葉はいらない。闘う意思は、行動で示す。

 

 自分の全身全霊を注ぎ込んだ激走で、親友の想いに応えてみせる。

 

 そう誓い、静かな闘志を極限まで高めた直後。

 

 ガシャンと音を立て、目の前の扉が開いた。

 

 

 

 

 

 

 開け放たれたゲートから、弾丸の如く飛び出す二人。

 

 絶妙なスタートダッシュを披露し、先を行く形となったのは、エルコンドルパサー。

 

 そのまま洗練された無駄のないフォームで人工芝の上を駆け、グラスワンダーに背中を向けながら第一コーナーへ突入する。

 

 コーナーワークにも隙はない。歩幅をあえて狭くしたピッチ走法で内ラチ沿いの経済コースを走り、道中のスタミナの消費を巧みに抑えていた。

 

 その走り――絶妙なスタートダッシュから鮮やかなコーナーワークに至るまでの流れを、三馬身ほど後ろを追走しながら観察して、グラスワンダーは思った。

 

 美しい、と。

 

 エルコンドルパサーのレースは映像で何度も観たが、やはり一緒に走りながら観察すると、伝わってくるものがまるで違う。

 

 エルコンドルパサーは美しい。

 

 同期の誰よりも、チームの誰よりも、学園の誰よりも、そして日本の誰よりも、ターフを駆け抜けている時の彼女は美しい。

 

 長い脚を存分に生かしたダイナミックなストライド走法と、コーナーを無駄なく回るピッチ走法を状況に応じて使い分ける、合理的なフットワーク。

 

 空気抵抗を極限まで抑えつつ、足裏から生じる力を前進する力に効率良く変換する、芸術的な疾走のフォーム。

 

 優れた体内時計に裏打ちされた、コンマ一秒の狂いもないペース配分。

 

 超一流のサラブレッドだけが可能とする、競馬の王道を行く走りだ。

 

 誰もが簡単に出来るようなものではない。

 

 類稀な才能を持って生まれたとしても、それだけではあの境地に辿り着けない。

 

 弛まぬ努力と、強靭な精神――十年以上に渡って肉体を鍛え続け、地道な基礎練習を際限なく繰り返し、過酷な実戦を経験し、己の限界を幾度も乗り越えてきた者でなければ、あれほどの走りは体得出来ない。

 

 エルコンドルパサーの走りは、彼女が歩んできた道程の険しさを物語っている。

 

 日本を飛び出して遠いフランスの地に渡り、世界の頂点を目指して戦った意思が――壮大な夢と鋼の覚悟が、その美しき疾走に表れている。

 

 正直、敵わないと思う。

 

 スタートの上手さ、コーナーワークの上手さ、ポジション取りの上手さ、ペース配分の上手さ、仕掛け所を見極める上手さ、走るフォームの美しさ――そうした部分では、自分はエルコンドルパサーの足元にも及ばない。

 

 決して基礎を疎かにしていたわけではないが、自分は彼女に比べて不器用だ。

 

 あれほど巧みなレース運びは出来ない。あれほど美しくは走れない。競走馬としての完成度で言うなら、自分と彼女の間には天地ほどの差があるだろう。

 

 だが、それでいい。

 

 敵わなくていい。及ばなくていい。天地ほどの差があっても構わない。

 

 元より、レース運びの上手さで張り合う気などさらさらない。

 

 彼女は彼女。自分は自分。

 

 彼女の実力を認め、その在り方に敬意を抱いてはいるが、真似をするつもりはない。

 

 自分には、彼女とは違う目標がある。幼かったあの日から胸に秘めている夢がある。目指し続けている境地がある。

 

 だから、自分は、自分を貫く。

 

 彼女とは違う、自分の走り――不器用で、不格好で、非合理で、稚拙だけれども、決して譲れないものを貫き通した走りで、彼女の走りを超えてみせる。

 

 日本最強の怪鳥を、凌駕してみせる。

 

 世界に挑むために。

 

 夢を叶えるために。

 

 幼き日に憧れた「あの人」の背中に追いつき、追い越すために。

 

 

 ――愚かね。

 

 

「――っ」

 

 不意に、声が聞こえた。

 

 エルコンドルパサーの声ではない。指導者の声でもない。観戦する仲間達の声でもない。

 

 自分自身の内側――記憶の中から蘇った、冷徹な声だ。

 

 レースの中盤。第二コーナーを回って長いバックストレッチに入った直後。

 

 グラスワンダーの瞳に、過去の光景が映し出された。

 

 

 

 

 

 

 三年前の冬だった。

 

 朝日杯を制し、初のGⅠタイトルを獲得した直後。

 

 故郷にいた頃、姉のように慕っていた少女――その時は既にアメリカ屈指のサラブレッドとなっていた少女が、突然日本にやってきた。

 

 そして自分の前に現れ、言い放ったのだ。

 

 全てを否定する言葉を。

 

「愚か、と言ったのよ。あなたの走り方、戦い方、鍛え方、考え方、生き方――その全てが」

 

 幼い頃の優しい面影は、微塵もなかった。

 

 少女は切れ長の両目に剣呑な光を灯し、心底から見下げ果てたと言うかのような面持ちで、こちらを冷たく見据えていた。

 

「誰も言ってくれないなら、私が言ってあげる。あなたは間違えているわ。自分が歩むべき道を、最初の一歩目から」

 

 あまりにも辛辣なその言葉に、当時の自分は反発した。

 

 どうしてそんなことを言うのですかと、かつてないほど感情を剥き出しにして叫んだ。

 

 自分は結果を出した。デビュー戦を勝利で飾り、その後も連勝を続けた。

 

 重賞も獲った。GⅠのタイトルも手にした。JRA賞のジュニアチャンピオンにも間違いなく選出される。

 

 アメリカのGⅠを制したあなたや、偉大なあの人には、まだまだ遠く及ばないけれど――それでも、これ以上ないほどの競走成績で一年目を終えたのだ。

 

 だから、褒めてもらえると思っていた。認めてもらえると思っていた。

 

 再会した時はきっと、自分がこの手で掴んだ勝利を笑顔で祝福してくれるに違いないと、信じていたのに。

 

 どうして、そんな――救いようのない愚か者を見るような目を、こちらに向けるのか。

 

「なら逆に訊くわ。その自慢の走りで、あなたは何を目指すの? いったい何になるつもりで、そんな走り方を続けているの?」

 

 射抜くように放たれた問いに、自分は胸を張って答えた。

 

 誰よりも強くなるためです、と。

 

 世界の誰よりも、強くなりたい。あなたよりも、強くなりたい。

 

 そして、いつの日か、偉大なあの人のようになりたい。

 

 世界中の人々から最強と讃えられる、唯一無二の存在になりたい。

 

 そんな想いを、言葉にして叩きつけた。幼い頃から胸に秘めていた夢を、初めて他人に打ち明けた。

 

 しかし、返ってきたのは、侮蔑を含んだ深い溜息だった。

 

「……現実と妄想の区別がついていない。こうなりたいという願いばかりで、現実の自分を直視していない。だから愚かと言ったのよ」

 

 自分が語った夢は、否定された。

 

 姉のように慕っていた相手に、真っ向から否定されたのだ。

 

「信じ続ければ夢は叶うなんていうのは、子供の戯言。どんな気持ちで何をしようと現実は変わらない。あなたにも、私にも……この世の誰にも、現実を変える力なんてない」

 

 青く澄んだ瞳――競馬の現実を飽きるほど見てきた瞳は、憐憫と諦観を宿しながら告げていた。

 

 お前が語る夢は、子供の戯言。

 

 お前が目指す理想の姿は、空虚な妄想に過ぎないと。

 

「それに気付けなければ、あなたは遠からず圧し潰されるわ。あなたが拒んだ現実に」

 

 

 

 

 

 

 過去を振り切り、グラスワンダーは意識を現在に戻す。

 

 いったい何をやっているのかと、自分自身を強く叱咤した。

 

 今はレースの真っ最中だ。余計なことを考えている場合ではない。あんな下らないことを思い出している場合ではないのだ。

 

 今はただ、走ることだけを考えろ。勝つことだけに集中しろ。そうしなければ、待つのは敗北だけだ。

 

 そう自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えた直後――

 

 前を走っていた筈のエルコンドルパサーが、視界から消えた。

 

「――っ!」

 

 いや、違う。消えたのではない。一瞬消えたと錯覚してしまうほど急激に、彼我の距離が開いたのだ。

 

 三馬身ほどだった差が、既に八馬身――さらに九馬身、十馬身、十一馬身と、瞬く間に差が広がっていく。

 

 それは意表を突く急加速であり、先程までの王道の走りから一転した奇策。

 

 常識破りのロングスパートだった。

 

 

 

 

 

 

「エルコンドルパサーが仕掛けた!?」

 

 レースを観戦していたテイエムオペラオーが叫ぶ。

 

 エルコンドルパサーが披露した「奇策」は、リギルの面々にも衝撃を与えていた。

 

「馬鹿な! 早すぎる……! まだ残り八百メートルはあるぞ!?」

 

 フジキセキが驚愕の表情で言った。

 

 エアグルーヴも、ヒシアマゾンも、タイキシャトルも、ナリタブライアンさえもが、完全に意表を突かれた顔で硬直する。

 

 競馬というものを熟知している彼女らにとって、エルコンドルパサーの行動は、正気を疑うほどの暴挙だった。

 

 そんな中にあって平静を保ち続けているのは、二人。

 

 リギルの最古参マルゼンスキーと、リギルの筆頭シンボリルドルフだけだった。

 

「確かにあれは、普通なら悪手中の悪手。自滅必至の早仕掛け。勝ちを焦ってスタミナを浪費し、ゴール前で力尽きるだけの愚策でしかないわ。けれど――」

 

 全てを理解した顔でマルゼンスキーが言い、シンボリルドルフがその続きを引き継ぐ。

 

「あれで正解だ。エルコンドルパサーは、グラスワンダーに勝つための最善手を選択している」

 

 チームの中でも抜きん出た力を持つ彼女達二人は、エルコンドルパサーの意図を瞬時に察していた。

 

「末脚の爆発力だけならグラスワンダーはリギルの中でも一、二を争う。直線に入ってからの速さ比べでは、流石にエルコンドルパサーでも分が悪い。ならばどうするか……答えは一つだ。直線に入る前にスパートして、大差をつけてしまえばいい」

 

≪皇帝≫の名を持つサラブレッドの目は、一陣の風となって駆ける≪怪鳥≫を見据える。

 

「どれほど強烈な末脚でも、直線だけで詰められる差には限度がある。意表を突く急加速で大きく引き離したまま直線に入ることが出来れば、最後に多少脚が鈍ったとしても逃げ切れるだろう。彼女の立場なら、私もそうする」

 

「並外れた心肺機能が生む息の長い末脚と、最高速を維持したまま内ラチ沿いの最短距離を回れるコーナーワークの技術があって、はじめて成立する奇策…………まさに、あなたやエルみたいな天才にだけ可能な必勝戦法ね」

 

 

 

 

 

 

 一瞬にして数倍に開いた、エルコンドルパサーとの距離。

 

 その事実に驚き、戦慄を覚えながらも、グラスワンダーは笑った。

 

 面白い。やはりレースとは、こうでなくてはいけない。

 

 まさか、残り八百メートルの地点からスパートするとは思わなかったが――なるほど確かに、エルコンドルパサーほど高い能力の持ち主なら、ありえない選択ではない。

 

 彼女は去年、凱旋門賞に挑戦するためフランスに長期滞在し、質の高い訓練を受けながら現地の強豪達と鎬を削った。

 

 その経験によって最も向上した能力――それはスタミナだろう。

 

 競馬というのは、国や地域によってコースの材質や形態が大きく違う。

 

 欧州の競馬場の芝は日本の競馬場のそれとは別種の、深く柔らかい洋芝だ。一歩踏み出すごとに消耗する体力が、日本とはまるで違う。

 

 コース上の高低差も日本より大きく、坂の上り下りで体力を消耗するため、心肺機能に秀でた者でなければ勝てないように出来ている。

 

 そんな環境で鍛錬を重ね、現地の強豪達と互角以上に渡り合ったエルコンドルパサーならば、可能かもしれない。

 

 残り八百メートルからの超ロングスパートを完遂し、最後まで失速せずに走り切ることが、出来たとしても不思議ではない。

 

 しかし、だからといって、慌ててこちらもスパートするのは得策ではない。

 

 加速すれば相手との距離は縮まるが、その分だけスタミナを消耗してしまう。そうなれば当然、最後の直線での末脚は鈍り、結局エルコンドルパサーを捕まえられない。

 

「……やってくれますね、エル」

 

 微笑んだまま呟き、グラスワンダーは少しだけペースを上げた。

 

 あくまで、少しだけだ。エルコンドルパサーとの距離を縮めるのではなく、距離が広がる速度を多少抑える程度に加速しただけ。超ロングスパートに付き合ってはいない。

 

 持久力の限界に挑むような消耗戦では、正直分が悪い。

 

 それに、そんなものは自分の戦い方ではない。

 

 自分が目指す境地ではない。

 

 誰が相手だろうと、何を仕掛けてこようと関係なく、自分の走りを頑なに貫く――それが自分だ。

 

 愚かだとよく言われる。不器用だとも言われる。非合理だとも言われる。

 

 否定はしない。だが、改める気はない。誰に何と言われようが、これだけは決して変えない。曲げない。譲らない。

 

 これを変えてしまったら、自分はもう自分ではない。自分の競技人生には何の意味もない。

 

 だから、貫く。非難と罵倒と嘲笑に晒されようと、貫き通してみせる。

 

 自分は、自分だけの走りで、頂点まで駆け上がってみせる。

 

 追い求める理想の姿に、いつの日か届くために。

 

 

 

 

 

 

「多少ペースを上げたようだが、本気で捕まえに行ってはいない……あくまで自分のレースに徹するつもりか」

 

 グラスワンダーの追走を観察しながら、シンボリルドルフが言った。

 

 マルゼンスキーは苦笑する。

 

「頑固だもの、あの子は。相手の早仕掛けに無理して付き合うレースなんて、死んでもやりたくないんでしょうね」

 

 グラスワンダーと併走トレーニングをすることが多かった彼女は、グラスワンダーの性格を熟知している。

 

「相手が誰だろうと関係ない。距離も展開も馬場状態も気にしない。競馬の基本や常識を全部無視して、いつでもどこでも自分の走りを頑なに貫き通す……そういう子よ、グラスは」

 

 コース上を淡々と走り続ける後輩の姿に、どこか遠くを見るような目を向けながら、マルゼンスキーは語る。

 

 その横顔をちらりと盗み見た後、シンボリルドルフは呟いた。

 

「似ているな」

 

「……? 何が?」

 

「似ていると言ったんだ。昔の君に」

 

 マルゼンスキーの表情に、微細な変化が生じた。

 

 常に穏やかな色を湛えていた瞳に、仄暗い翳が差す。

 

 それは、何かを諦め、何かを失った者だけが見せる、一欠片の哀切を含んだ笑みだった。

 

「……そうね」

 

 

 

 

 

 

 残り六百メートルを示す標識を過ぎても、グラスワンダーは仕掛けなかった。

 

 先を行くエルコンドルパサーとの差は、既に十五馬身以上。

 

 最早絶望的とも言える大差だったが、グラスワンダーに焦りはなかった。

 

 エルコンドルパサーを侮っていたからではない。自分の力を――自らの両脚に宿る無双の剛力を、強く信じていたからだ。

 

 普通なら絶望的な大差でも、自分にとっては違う。

 

 この程度の差なら、まだ届く。最後の長い直線で全力を振り絞れば、必ず届く。自分には、それだけの脚がある。

 

 そう信じて、末脚を溜めることに徹した。

 

 エルコンドルパサーが最終コーナーを回り始めても、まだ仕掛けなかった。

 

 まだだ。まだ早い。堪えろと、自分自身に言い聞かせた。

 

 エルコンドルパサーがコーナーを回り終えて直線走路に突入しても、まだ仕掛けなかった。

 

 まただ。自分はまだコーナーの途中にいる。ここで加速しても外に膨れて距離を損するだけだと考え、逸る心を制した。

 

 そして、その数秒後――自身がコーナーを回り終え、直線走路に突入した瞬間。

 

 遥か前方を行く対戦相手の背中を真っ直ぐに見据えた、その瞬間。

 

≪怪物≫は、溜め続けていた力を解き放った。

 

 脚を、高く振り上げる。

 

 青空に蹴りを叩き込むかのように、異常なほど高く振り上げ、そこから真下に振り下ろす。

 

 全体重と全筋力を込めた脚を、芝が生い茂る走路に叩きつける。

 

 意地を、誇りを、誓いを、信念を、夢を――魂の全てを注ぎ込んだ激烈な蹴撃が、緑の大地に炸裂する。

 

 瞬間、大地が激震し、大気が爆ぜた。

 

 天まで轟く爆音と共に、吹き飛ばされた土と芝が宙を舞う。

 

 サラブレッドの平均値を大きく超えた剛力が生む、絶大なる衝撃。

 

 それを爆発的な推進力へと転化し――栗毛の≪怪物≫は、地を這う雷光となって突き進んだ。

 

 

 

 

 

 

 天まで轟く爆音を聞いた瞬間、ゴールに向かって走り続けていたエルコンドルパサーは表情を強張らせた。

 

 ――来た。

 

 ――グラスが、来た。

 

 心の中でそう呟き、気を引き締める。ここから先が本当の勝負だと、自分自身に言い聞かせて。

 

 何が起きたかは、振り向かずとも分かる。

 

 連続する地響きと、ダイナマイトが爆ぜるような轟音と、背後から伝わってくる灼熱の気配が、全てを物語っている。

 

 グラスワンダーが――遥か後方に置き去りにしてきた対戦相手が、ようやくラストスパートをかけたのだ。

 

 大地を揺るがす桁外れの剛脚で、自分を猛追し始めたのだ。

 

 そしてその気配は、異常すぎる速度で接近している。直線に入った時は十五馬身以上あった筈の大差が、急激に縮められているのが分かる。普通なら脚を緩める余裕さえあるセーフティリードが、既にセーフティリードではなくなっている。

 

 その事実に戦慄を覚えると同時に、何故だか笑いが込み上げてきた。

 

 やはり、グラスワンダーは普通のサラブレッドではない。

 

 あの走りは――グラスワンダーの末脚は、「特別」だ。

 

 高く振り上げた脚を全力で地面に叩きつけ、土煙を巻き上げながら驀進する独特の走法。

 

 極限まで溜め込んだ力を一気に爆発させるかのような、どこまでも力任せの走り。

 

 競馬の基本から逸脱した、異常な型の走り。

 

 シンボリルドルフの基本に忠実な走りとは違う。マルゼンスキーの優雅で軽やかな走りとも違う。欧州型の走法を取り入れた自分の走りとも違う。他の誰の走りとも明確に違う。

 

 誰にも真似出来ない、異端の走り。この世でただ一人、グラスワンダーだけが可能とする、唯一無二の走りだ。

 

 その走りを見た者は皆、超常現象を目撃したように驚き、困惑し、そして必ずこう言った。

 

 その走り方はやめろ、と。

 

 その走り方は理に適っていない、と。

 

 そう――そうなのだ。あの独特の走法は、まさに非合理の極致。全ての競走馬が目指す理想のフォームとは対極にある代物だ。

 

 豪快と言えば聞こえはいいが、その実態は強引なばかりで無駄が多く、脚に強い負担がかかる愚かな走り。

 

 速く走りたいなら、もっと良い方法がある。

 

 脚に余計な負担をかけない、合理的かつ効率的な走り方がある。

 

 多くの者が彼女をそう諭し、その非合理な走りを矯正しようとした。

 

 しかしグラスワンダーは、それを頑として聞き入れなかった。

 

 トレーナーに叱責されようと、チームの仲間に何を言われようと、決して耳を貸さず、自分の走りを貫き通してきた。

 

 そしてその上で、勝ち続けてきた。

 

 デビューから怒涛の四連勝でジュニアチャンピオンに輝いた。翌年には骨折という苦難を乗り越えて暮れの有馬記念を制した。さらに翌年には春秋のグランプリレースで同期のスペシャルウィークと激闘を繰り広げ、勝利を飾った。

 

 非合理な走りだという周囲の評価を、勝利を積み上げることで跳ね除けてきたのだ。

 

 そんな彼女が今、自分に勝負を挑んでいる。

 

 無双の剛力で大地を蹴り砕き、土煙を巻き上げ、轟音を響かせ、地を這う雷光と化して急接近し、自分の勝利を脅かしている。

 

 その事実が、妙に可笑しい。

 

 真剣勝負の最中だというのに、自然と笑みが零れてしまう。

 

 ――相変わらずだね、グラスは。

 

 息を切らして走りながら、心の中で呟く。

 

 グラスワンダーは、いつもそうだ。

 

 普段は大人しくて、温厚で、素直で、絵に描いたような優等生なのに、勝負の場に来るとまるで別人。

 

 他人の忠告なんて聞かないし、何があろうと自分のやり方を決して曲げない。

 

 どんなレースでも、誰が相手でも、どこまでも自分の走りを貫いて勝とうとする。

 

 本当は誰よりも頑固で、誰よりも自分勝手で、誰よりも傲慢。

 

 誰にも負けないと固く誓い、最強の座を本気で目指している。立ちはだかる敵を全て蹴散らし、頂点まで駆け上がるつもりでいる。

 

 自分の走りが、世界の頂点に届くと――強く、強く、誰よりも強く、信じているのだ。

 

 そんな彼女が、愛おしくてたまらない。

 

 様々な感情が綯い交ぜになった不思議な想いが湧き上がってきて、胸を焦がす。

 

 彼女と本気の勝負がしたいと、心底から思う。互いの全力を振り絞った勝負をして、勝利を掴みたいと、切に願う。

 

 だから、遠慮なく振り絞ろう。今この時まで積み上げてきた全てを、この直線で出し尽くそう。

 

 ゴール板まで、残り約四百メートル。

 

 その四百メートルを、先頭のまま駆け抜けてみせる。

 

 

 

 

 

 

「出た……! グラスの叩きつける走法!」

 

「速ぇっ!? 相変わらずイカレた脚してんな、あいつ……!」

 

「だが、ゴールも近いぞ! 届くのか……!?」

 

「差は急速に縮まっているが、エルコンドルパサーのスピードも落ちていない……ギリギリ粘り切るか……? いや、微妙だ……」

 

 コースの外で観戦するリギルの面々が、口々に叫ぶ。

 

 彼女達の視線の先では、レースが佳境を迎えていた。

 

 超ロングスパートで作ったリードを生かして逃げ切りを図るエルコンドルパサー。

 

 溜めに溜めた末脚をついに爆発させ、大地を粉砕しながら猛追するグラスワンダー。

 

 このままエルコンドルパサーがゴールまで粘り切るか。それともグラスワンダーがゴール手前で追い抜くか。

 

 レースを観戦する者達にも、全く予想がつかない状況だった。

 

 それほどの激闘であり、勝利の天秤がどちらに傾くか分からない接戦なのだ。

 

 コース上で死力を振り絞る当人達も、勝利の確信など抱いてはいないだろう。

 

 二人の頭にあるのは、「勝てる」という慢心ではなく、「勝ちたい」という真摯な願い。ゴール板を通過する瞬間までに己の全てを燃やし尽くすという灼熱の意思だけだ。

 

 最早、駆け引きや小細工が介在する余地はない。スピードやスタミナの問題でもない。

 

 ここまで来れば、後は気持ちの勝負。

 

 勝利を渇望する意思を、より激しく燃やした方が――この勝負に懸ける気持ちで上回った方が、勝利を掴む。

 

 レースは既に、そんな局面に突入していた。

 

「……」

 

 そんな中、後輩の走りを見守るマルゼンスキーは、妙な胸騒ぎを覚えていた。

 

 つい先程まで、温かな気持ちで栗毛の少女を応援していたのに。

 

 彼女が全力で走る姿を、彼女がライバルに勝つ瞬間を、この目で見たいと思っていたのに。

 

 今は何故か、そんな気分ちが何処かに吹き飛び――言い知れぬ不安が、彼女の心を覆っていた。

 

 

 

 

 

 

 残り約百メートル。

 

 エルコンドルパサーを猛追し続け、その影を踏むところまで迫ったグラスワンダーは、そこから先の道程の険しさを感じていた。

 

 直線入口では十五馬身以上あった差が、もう僅か。

 

 エルコンドルパサーの背中は、手を伸ばせば触れられそうなほど近くにある。

 

 だが――その僅かな距離が、遠い。差を縮めれば縮めるほど、逆に差が広がっているように錯覚してしまう。

 

 エルコンドルパサーが見せる、驚異的な粘りのせいだ。

 

 いくらスタミナが豊富とはいえ、残り八百メートルの地点からスパートをかけたのだ。余裕を保っていられるわけがない。

 

 心身共にもう限界の筈。心拍数は限界に達し、気を失いそうなほどの苦しみを味わっているに違いない。

 

 されど彼女は、それを全く表に出さない。

 

 大量に発汗しながらも美しいフォームを崩さず、スパートをかけた直後とほとんど変わらない速度を維持したまま、自分の前を走り続けている。肉体が上げる悲鳴を意思の力で捻じ伏せ、ゴールに向かって雄々しく突き進んでいる。

 

 言葉はなくとも、その背中が語っている。

 

 先頭は譲らない、と。

 

 このままゴールまで走り抜く、と。

 

 肺が潰れようと心臓が爆裂しようと走り抜いてみせる、と。

 

 だから――手を伸ばせば届くほどの距離が、地平線のように遠い。彼女の背中に近付くほど、彼女の「強さ」を肌で感じてしまうのだ。

 

 本当に、凄い相手だ。心底からそう思う。

 

 普段はふざけてばかりいて、真面目な顔なんて少しも見せないのに、レースになれば誰よりも真剣。

 

 どんなレースでも、誰が相手でも、決して手は抜かない。いつだって自分の限界に挑戦し、限界を超えた走りで勝利する。

 

 そんな彼女が、眩しくてたまらない。

 

 尊敬のような、感動のような、羨望のような――そのどれでもあるようでいて、その実どれでもないような、言葉にし難い不思議な想いが湧き上がってきて、胸を焦がす。

 

 この少女に勝ちたいと、狂おしいほど激しく想う。

 

 この闘いに勝ちたいと、かつてないほど強く願う。

 

 だから、自分も限界を超えよう。限界を踏破した走りで粘り続ける彼女を、限界を超越した走りで抜き去ろう。

 

 絶望的な大差を力技で縮めた自分の脚も、限界が近い。心臓も、肺も、筋肉も、骨格も、同様に悲鳴に上げている。

 

 もう限界だと、これ以上の力を使うなと、脳髄に訴えてきている。

 

 だが、知らない。そんな悲鳴には耳を貸さない。苦しいから勝つのを諦めるなどという弱い気持ちに、自分を売り渡したりはしない。

 

 限界を超えると決めた。限界を超えた力で勝つと誓った。

 

 ならば、超える。何が何でも超えてみせる。

 

 肉体の限界も、精神の限界も、何もかも全て、この脚で打ち砕いてみせる――ッ!

 

「ハアアアアアアアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

 鬼神の如き形相で咆哮を上げ、グラスワンダーは脚を振り上げた。

 

 高く、高く、今までよりも、さらに高く。

 

 限界を打ち砕く力を求めて。

 

 エルコンドルパサーを凌駕する力を求めて。

 

 世界の頂点へと駆け上がる力を求めて。

 

 遠い理想に追いつく力を求めて。

 

 天高く振り上げた脚に全てを込めて振り下ろし、緑の大地に叩きつけた。

 

 ――それが、夢を終わらせる一歩と知らずに。

 

「――――っ!」

 

 ぞくりと、背筋に悪寒が走る。

 

 喉元に刃を突き付けられたような、こめかみに銃口を押し当てられたような――逃れようのない死を目前にしたかのような圧倒的恐怖が、心を埋め尽くす。

 

 それと同時に、視界が傾く。全力疾走していた身体がバランスを崩し、右方向によれていく。

 

 慌てて体勢を立て直そうとしても、上手く立て直せない。何故か真っ直ぐ走れない。脚が前に向かっていかない。

 

 そしてそのまま、エルコンドルパサーとの距離が開いていく。

 

 渾身の走りで縮めた差が、再び開いていく。

 

 手を伸ばせば届きそうだった背中が、瞬く間に遠ざかっていく。

 

 そんな、どうしようもない絶望の中――グラスワンダーは、声を聞いた。

 

 自分の全てを否定した少女の、酷く冷たい声を聞いた。

 

 

 

 

 

 

「誰よりも強くなりたい?」

 

 三年前の冬。

 

 自分が語った夢を否定した後、あの少女は言っていた。

 

「ええ――そうね。あなたなら、なれるでしょうね。一瞬だけは」

 

 今にして思えば、あの時既に彼女は見抜いていたのだろう。

 

 物理に逆らう非合理な走法の限界を。致命的な欠陥を。

 

「一瞬……そう、一瞬よ。その走りで、あなたが手にする強さは。夜空で弾ける花火のようなもの。ほんの一瞬だけ激しく輝いて、すぐに虚しく消え失せる。後には何も残らない」

 

 勝利を積み上げ、アメリカ競馬界の頂点に立った少女――常勝不敗の王者は、凍てついた目をこちらに向けた。

 

 強さのために命を削る自分の生き方を、根底から否定した。

 

「ブリガディアジェラードを破ったロベルトが、マンノウォーに土をつけたアップセットが、何故最強のサラブレッドと呼ばれないのか…………その理由が、分からないわけではないでしょう?」

 

 勿論、分かっていた。嫌というほど知っていた。

 

 歴史に名を残した王者と残せなかった強者の違いは、理解していた。

 

 自分が後者と同じ道を辿っていることにも、本当は気付いていた。

 

 気付いていながら、気付かないふりを続けていた。

 

 目を背けていたのだ。都合の悪い現実から。

 

「その愚かな走りを変えない限り、あなたはどこまで行ってもただの強者。ほんの一時強かったというだけの存在。王者に土をつけることは出来ても、王者に成り代わることは出来ない。それでは誰も、あなたを最強とは認めない」

 

 王者とは、勝ち続ける者。常に頂点に君臨し、栄冠を掴み続ける者。

 

 たとえ、どれだけの強さを見せても――

 

 絶対的な王者を打ち破ってみせたとしても――

 

 頂点に居続けられない者を、人は王者とは呼ばない。

 

 花火のように儚い強さしか持てない者は、最強の名を背負うに値しない。

 

「一時の強さと引き換えに全てを失い、王座を得られないまま朽ち果てていく刹那の強者。何も残せずにターフを去り、やがて人々から忘れ去られていく、惨めな敗北者…………それがあなたの行き着く果てよ。グラスワンダー」

 

 常勝の王者である彼女は、刹那の強者でしかない自分を侮蔑し、凍てついた眼差しで、呪詛のような予言を告げた。

 

「どんなに強く望んでも、あなたは、あなたが目指したものになれはしない――永遠に」

 

 

 

 

 

 

 ゴールに飛び込む直前、エルコンドルパサーは違和感を覚えた。

 

 すぐ後ろまで迫り、今まさに自分を呑み込もうとしていた火砕流が、突然影も形もなく消え失せたかのような――そんな違和感だった。

 

「え――?」

 

 思わず、当惑の声が洩れる。

 

 背後から猛追してきた対戦相手の気配が、何故か感じられない。

 

 大地を揺るがす剛脚の音が聞こえない。背中を打ち据える風圧が感じられない。灼熱の闘志が伝わってこない。

 

 まるで、急に一人になったような感覚だった。

 

 最大のライバルと見定めた相手と、全力をぶつけ合う死闘を繰り広げていた筈なのに、今は一人。

 

 誰もいない道の上を一人で走っているような孤独感が、エルコンドルパサーを襲った。

 

 そして呆けた顔を晒したまま、彼女の脚は最後の一歩を踏み締め――ゴール板の前を、一着で通過した。

 

 終始先頭を譲らず、死力を尽くして辿り着いたゴール。

 

 約二分半の激闘が幕を下ろした瞬間であり、彼女がレースの勝者となった瞬間。

 

 ついに手にした、明確な勝利。

 

 しかしながらエルコンドルパサーの心に、勝利の喜びは砂粒ほども生じなかった。

 

 これは、違う。何かが違う。極限の苦しみの中で渇望した勝利とは、何かが決定的に違う。

 

 あんなにも熱く激しい勝負をしていたのに――この違和感は、いったい何なのか。

 

 疑問の答えを知ろうとして、彼女は立ち止まり、振り向いた。

 

 そして、見た。

 

 芝生の上で立ち尽くす、対戦相手の姿を。

 

「グラス……」

 

 栗毛の少女は、ゴールに辿り着いていなかった。

 

 ゴール板まで、あと数メートル――ほんの少し前進するだけで辿り着くというのに、何故か走るのを止めている。

 

 これ以上先へは進めないと言うかのように。

 

 どうやっても先へ進めない、深い断崖の前に立ったかのように。

 

≪怪物≫グラスワンダーは、ゴール手前で競走を中止していた。

 

「……グラ……ス……」

 

 呆気に取られた顔のまま呼びかけたエルコンドルパサーは、続く言葉を発することが出来なかった。

 

 ゴール手前で立ち尽くす親友に、何と声をかければいいのか分からない。

 

 彼女の身に何があったのかも分からない。

 

 ただ、荒い息をつきながら俯くその顔は、あまりにも辛そうで――何らかの重大な異変が生じたということだけは、直観的に理解出来た。

 

 予想外な形の幕切れに、リギルのメンバーも騒然となる。

 

 驚きの声、当惑の声、グラスワンダーの身を案じる声が、コースの外から次々に飛んでくる。

 

 そんな混乱の中、指導者である東条ハナは静かな足取りでグラスワンダーに歩み寄り、問いかけた。

 

「歩けるか? グラスワンダー」

 

「……はい」

 

 栗毛の少女は俯いたまま、細い声で答える。

 

 ハナは一瞬痛ましげに目を伏せた後、硬い声で告げた。

 

「なら、来い――話がある」

 

 その宣告が持つ意味を、グラスワンダーは知っていた。

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーと東条ハナの「話し合い」は、二時間近くに及んだ。

 

 寮に帰って体を休めるように言われたため、チームのメンバーは練習場から去っていったが――エルコンドルパサーだけはその場に留まり、グラスワンダーの帰りを待ち続けた。

 

 そして、日が沈み、空が藍色に染まった頃。

 

 勝負服から学園の制服に着替えたエルコンドルパサーとグラスワンダーの二人は、寮への帰り道を並んで歩いていた。

 

「いやー……一時はどうなることかと思いましたケド、大したことなくてよかったデスね。グラス」

 

 隣を歩く栗毛の少女に、エルコンドルパサーは陽気に笑いかける。

 

 彼女の表情と口調は、すっかり日常のそれに戻っていた。

 

 勝負は勝負。日常は日常。レース中は敵同士でも、それ以外の時は親友だ。

 

 辛い練習が終わった後は、肩を並べて雑談を交わしながら帰路につく――それが彼女らの日常だった。

 

 この日は、少しだけ雰囲気が違っていたが。

 

「あっ、でも転びそうになったからノーカンとかはなしデスよ? 今日のレースは問答無用でワタシの勝ちデース。異論は認めませーん」

 

「……ええ」

 

 俯いたまま、グラスワンダーは答える。

 

 蚊の鳴くような声からは、覇気が微塵も感じられなかった。

 

 負けず嫌いな親友が噛みつくように反論してくれることを期待していたエルコンドルパサーは、その返答を聞いて言葉に詰まる。

 

 どうしようかと少し考えた後、今度は苦笑しながらフォローを試みた。

 

「……あ、あー…………で、でも! 最後にバランス崩さなかったら違う結果だったかも、デスね! グラスの末脚、すごかったし……ぶっちゃけ抜かれそうだなーって、最後はちょっと思ってたり……」

 

「そんなこと、ないですよ」

 

 静かに、グラスワンダーは呟いた。

 

「私はエルに負けました……それが全てです」

 

 トレーナーとの長い話し合いを終えてから、彼女はずっとこの調子だった。

 

 普段は物静かながらも社交的で、冗談にも応じてくれるのだが――今は心に余裕がないらしく、何を言われても陰鬱な答えしか返さない。

 

 だから、エルコンドルパサーは察していた。

 

 普段通りの陽気な笑顔で接しながらも、本当は気付いていた。

 

 あの模擬レースの最終盤――ゴールに辿り着く寸前で、親友の身に異変が生じていたのだということを。

 

「あ、あははっ……確かに今日は、ワタシが勝ちましたケド…………あれって、ただの模擬レースデスよ? 本番ではどうなるか――」

 

「……」

 

 励ますように言っても、栗毛の少女は反応を示さない。暗い顔で俯いたまま、淡々と歩を進めるだけ。

 

 無理に作った笑顔の裏で、エルコンドルパサーは事の深刻さを実感した。

 

 グラスワンダーはゴール直前で躓きかけただけで、怪我はしていない――トレーナーはそう言っていたが、それが本当だとはどうしても思えない。

 

 自然の草原ならともかく、整備されたコース上でサラブレッドが躓くなど普通はありえないし、本当に躓きかけて負けただけなら、親友はここまで落ち込みはしない。

 

 今回は負けてしまったけれど、次はこうはいかない。

 

 次こそは最高の走りをして、必ず勝ってみせる。

 

 静かな闘志を滾らせた目をこちらに向けて、そんな風なことを言う筈なのだ。

 

 考えたくはないが――やはり、どこかを痛めたのだろう。

 

 もしかしたら、春のシーズンは全休ということになるのかもしれない。

 

 今年を飛躍の年にすると誓い、尋常ではない熱意で鍛錬に明け暮れていた彼女にとっては、受け入れ難い現実の筈だ。

 

 今下手にレースのことを口にすれば、かえって傷つけることになるかもしれない。

 

 だとすれば、自分はどうするべきだろうか。

 

 ここは気の利いたジョークで無理にでも笑わせてやるべきだろうか。しかし今は残念ながらネタがない。模擬レースで勝つことに専心していたので、余計なことは頭から追い出したままだった。

 

 けれど――まあ別に、大して面白くなくてもいいだろう。いつも通りに接して、いつも通りに言葉を交わして、いつも通りに笑い合う。今は多分、それが一番大事なのだ。

 

 ここは深く考えず、スペシャルウィークが食べ過ぎでまた太ったことでも話題にして――

 

「エルは……」

 

 ぽつりと、エルコンドルパサーの思考を断ち切るように、グラスワンダーは言った。

 

「エルは…………憧れの人って、いますか?」

 

 目を合わせず、下を向いたまま放たれた問い。

 

 エルコンドルパサーはそれに戸惑い、一瞬呆けた顔を見せた後、確認するように問い返した。

 

「……えっと…………サラブレッドの中で……ってこと、デスよね……?」

 

「はい」

 

 グラスワンダーは頷く。

 

 何故そんなことを問うのかと思いつつも、エルコンドルパサーは答えた。

 

「んー……憧れっていうのとは、少し違うかもしれませんケド…………すごいなって思う人は、けっこういますヨ。アメリカのマンノウォーとか、フランスのシーバードとか、イタリアのリボーとか……古いのだとイギリスのエクリプスとか、ハンガリーのキンチェムとか……あっ、オーストラリアのファーラップも忘れちゃいけませんネ。んんー……考えてみるといっぱいいすぎて、どれか一つに絞るのは難しいデス……」

 

 競馬の世界は広く、競馬の歴史は長い。偉大な記録を打ち立てて歴史に名を刻んだ絶対的王者は、世界のどの国にもいる。

 

≪ビッグレッド≫の異名で知られたアメリカの浮沈艦、マンノウォー。

 

 史上最高のメンバーが集った第四十四回凱旋門賞を制したフランスの英雄、シーバード。

 

 圧勝に次ぐ圧勝で生涯不敗を誇ったイタリアの大帝、リボー。

 

 神に等しき存在として語り継がれるイギリスの伝説、エクリプス。

 

 前人未踏の五十四連勝を成し遂げたハンガリーの奇跡、キンチェム。

 

 強大無比な肉体と不撓不屈の精神で一時代を築いたオーストラリアの巨神、ファーラップ。

 

 エルコンドルパサーが名前を挙げた六人は皆、正真正銘の怪物。競馬の世界に身を置く者なら誰もが知っている、名馬の中の名馬だ。

 

 リギルのメンバーでさえ、きっと足元にも及ばない――比較対象にすることさえ許されないほどの、遥かな高みにいる超越者。

 

 その強さに憧れ、多くの者が競馬の世界に足を踏み入れる。

 

 その偉大な背中を追うために、多くの者が過酷な鍛錬を積み重ねる。

 

 そしてほとんどの者が、道半ばで挫折する。どんなに努力しても伝説の名馬に一歩も近付けない現実に打ちのめされ、競馬の世界から去っていく。

 

 競馬の歴史とは、ほんの一握りの勝者と、星の数ほどの敗者から成っているのだ。

 

「……グラスは?」

 

 栗毛の少女に目を向けて、エルコンドルパサーは尋ねた。

 

 こんな話を振ったからには当然、彼女には「憧れの人」がいるのだろうと思って。

 

「グラスの憧れの人は、誰なんデスか?」

 

「…………ビッグレッド」

 

 やや躊躇ってから、グラスワンダーは答えた。

 

「アメリカの……三冠を制した…………二代目の、ビッグレッド」

 

 その言葉を聞いて数秒後、エルコンドルパサーは理解した。

 

 親友の口から出た≪ビッグレッド≫が、誰を指しているのかを。

 

「あー…………セクレタリアト……ネ」

 

 アメリカ競馬史において、≪ビッグレッド≫の異名で呼ばれたサラブレッドは二人いる。

 

 一人目は、先程エルコンドルパサーが名前を挙げたマンノウォー。

 

 二十世紀前半に活躍した名馬で、生涯成績は二十一戦二十勝。圧倒的な強さを見せつけ当時のビッグタイトルを総なめにした、アメリカ競馬史に燦然と輝く金字塔。

 

 規格外の巨体の持ち主で、赤みがかった栗色の髪をしていたことから≪ビッグレッド≫と呼ばれて恐れられた。

 

 そして二人目が、セクレタリアト。

 

 アメリカの三冠競走を完全制覇した史上九番目の三冠馬であり、史上最強の三冠馬として知られる存在だ。

 

 三冠競走の全てでレコードタイムを記録して圧勝。中でも最終戦のベルモントステークスで見せた走りはあまりにも凄まじく、後続に三十一馬身もの大差をつけて勝利した。

 

 マンノウォーをも凌ぐ強さを見せつけ、燃え立つような栗色の髪を風になびかせて疾走する彼女を、人々はいつしか敬意を込めて≪ビッグレッド≫と呼んだ。

 

 最強の称号と化した≪ビッグレッド≫は、世代を超え、マンノウォーからセクレタリアトへと受け継がれたのだ。

 

「確かに凄すぎますよネ、あの人は。なんかもう色々ぶっ飛びすぎデース。初めてベルモントステークスの映像見た時なんか、なんじゃこりゃーって素で叫んじゃいまし……」

 

 エルコンドルパサーの冗談めかした言葉が、途切れた。

 

 隣を歩いていた筈の親友がいなくなっていることに、気付いたからだ。

 

「グラス……?」

 

 立ち止まって振り返ると、そこに栗毛の少女がいた。

 

 何故か急に歩くことをやめ、タイルが張られた道の上に立ち尽くしている。

 

 ゴール寸前で競走を中止した時と、同じように――――先に進む術のない行き止まりに直面したかのように、その場から動けずにいる。

 

 闇色に染まりゆく冬空の下。

 

 栗毛の少女は俯いたまま、秘めていた想いを吐露した。

 

「ビッグレッド…………誰よりも強いビッグレッドに、なりたかったんです」

 

「――っ」

 

 エルコンドルパサーは息を呑み、愕然となった。

 

 言葉の意味を、悟ってしまったからだ。

 

 親友は今、「なりたかった」と口にした。

 

「なりたい」ではなく、「なりたかった」と――遠い過去の思い出を語るように、細い声で呟いたのだ。

 

 栗毛の少女が、顔を上げる。

 

 長い睫毛に縁取られた青い瞳には、涙が溜まっていた。

 

「――――叶わない、夢でしたね」

 

 グラスワンダーは――光輝く未来を失ったサラブレッドは、悲しげに笑った。

 

 非情な現実に屈して。

 

 夢半ばで散る運命を受け容れて。

 

 王座を得られなかった刹那の強者は、前に進むことを諦めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 アラブ首長国連邦の都市、ドバイ。

 

 アラビア半島のペルシア湾沿岸に位置する、中東屈指の大都市。

 

 その中心部に聳える、巨大な摩天楼――ブルジュ・ハリファという名の超高層ビルの一室に、世界各国のマスメディアが集っていた。

 

 世界を驚愕させる発表が、その場でなされていたのだ。

 

「ワ……ワールドカップ……?」

 

 記者の一人が、唖然とした顔で言う。

 

 その視線の先――アラブの民族衣装を身に纏った壮年の男は、微笑みながら応じた。

 

「ええ、競馬のワールドカップを開催致します。九ヶ月後、我が国のメイダン競馬場で」

 

 男は、一国の支配者だった。

 

 アラブ首長国連邦の副大統領兼首相であり、ドバイ首長国の首長。金融業と観光業で潤う都市国家ドバイの頂点に立つ、事実上の「王」だ。

 

 かねてより無類の競馬愛好家として知られ、競馬事業に巨費を投じてきたその男が今、前代未聞の壮大な計画を明らかにしたのだった。

 

「競馬のワールドカップだって……?」

 

「そんなもの、聞いたことないぞ……」

 

 会見の場に詰めかけた各国の記者達は、酷く困惑した様子で囁き合う。

 

 無理もない。唐突な発表だった上に、その内容はあまりに突飛だったのだ。

 

「ワールドカップ」という名のレースは存在するが、他の運動競技と同じような――世間一般の人間が想像するような「ワールドカップ」は、競馬の世界にはない。

 

 いや、なかったのだ。これまでは。

 

「皆さんが驚くのも無理はありません。しかしこれは、ジョークでも少し早めのエイプリルフールでもありません。私は本気です。世界中の優駿が集い、ただ一つの頂点を求めて競い合うワールドカップを、本気で開催するつもりでいます」

 

 砂漠の国の王は、濃い髭を蓄えた口元に不敵な笑みを浮かべ、記者達に言う。

 

 記者の一人から、質問が飛んだ。

 

「その、殿下……失礼ですが……何故急に、そのような……」

 

「急に、ではありません。もう何年も前から構想はありました。準備に専念するあまり、些か発表が遅れてしまいましたが」

 

 そう答えてから、男はその表情を、悪戯を思いついた子供のようなものに変える。

 

「本来なら私が質問に答える立場なのですが、一つだけ質問をさせて下さい」

 

「え……?」

 

「世界史上最強のサラブレッドは誰か――そう問われたら、皆さんは何と答えますか?」

 

 会見の場が静まり返る。

 

 時が凍りついたように、皆が一様に固まる。

 

 男が投げかけた問いに答える者は、一人もいなかった。

 

「レーティング歴代一位のシーバードでしょうか? 十六戦無敗のリボーでしょうか? 黎明の時代の神馬エクリプスでしょうか? 古の女帝キンチェムでしょうか? アメリカの浮沈艦マンノウォーでしょうか? オーストラリアの巨神ファーラップでしょうか? それともドイツのネレイデ? ベルギーのプリンスローズ? トルコのカライエル? 南アフリカのホースチェスナット? ブラジルのファーウェル? ウルグアイのインヴァソール? 永久不滅のレコードタイムを記録したセクレタリアト? ……はてさて、いったい誰なのでしょう?」

 

 名馬の名を羅列されても、誰も答えない。答えられない。

 

 答えを知っている者が、一人もいないからだ。

 

 競馬の世界は広く、競馬の歴史は長く、名馬は数えきれないほどいる。

 

 世界最強は誰か、競馬の歴史の頂点に立つ者は誰か――その答えは、未だ出ていない。

 

「……意地悪な質問になってしまいましたね…………そうです、この問いに答えはありません。私も、皆さんも、世界中の誰も、まだこの問いの答えを知らないのです」

 

 男は目を細める。記者達に向ける眼差しが、鋭い光を帯びる。

 

「だから私は、ワールドカップの開催を決めました。長年抱き続けていた疑問の、明確な答えを得るために」

 

 椅子に座ったまま右手を持ち上げ、指を開く。

 

 静かに伸びる、五本の指。

 

「五人――――ワールドカップに参戦する国は、自国の代表となるサラブレッドを五人選んでいただきたい」

 

 静まり返っていた会見の場に、再びざわめきが起こる。

 

 その混乱ぶりを楽しげに眺めながら、男は言葉を続けた。

 

「大会の仕組みは単純です。各国が選んだ五人を一つのチームとし、参加するチームをA、B、C、Dの四つのグループに分ける。各グループで条件の異なるレースを五回行い、各チームから一人ずつ出走してもらう。そしてレースごとに着順に応じたポイントを与え、全てのレースが終了した後、獲得ポイントの合計が各グループの上位二位までに入ったチームを予選突破とし、本戦出場の権利を与える。本戦では予選を勝ち抜いた八つのチームで再び五回のレースを行い、同様に獲得ポイントの合計で順位を決める。それだけです」

 

 簡単な説明を終え、不敵に笑う。

 

「少し言い方が分かり辛かったかもしれませんが、小難しい話ではありません。要は強いサラブレッドを揃え、一番多くレースに勝ったチームが優勝する。ただそれだけの話です」

 

 砂漠の国の王は椅子から立ち上がり、両手を広げる。

 

 そして自信と稚気と興奮に満ちた表情を湛え、世界に向けて語りかけた。

 

「九ヶ月後――共に目に焼き付けましょう、皆さん。各国が威信をかけて送り出した名馬達が繰り広げる、至高の戦いを。そして知りましょう。競馬の世界の頂点に立つ国が何処なのかを。史上最強のサラブレッドが、何者なのかを」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話「選ばれし五人」

 

 

 一夜明け、日本サラブレッドトレーニングセンター学園の正門前。

 

 東京ドーム十七個分もの敷地面積を誇る広大な学園の出入口に、制服姿のシンボリルドルフが一人佇んでいた。

 

 いや――その表現は正しくない。

 

 少し前までその場にいたのは彼女一人だけだったのだが、現在はもう一人いた。

 

 新興チーム「スピカ」に所属する小柄な少女、トウカイテイオーだ。

 

 シンボリルドルフの姿を見つけて歩み寄ってきた彼女は、そのまま無遠慮に声をかける。

 

「かいちょー、何やってんの? そんなとこで」

 

「人を待っている」

 

 簡潔な答えに、トウカイテイオーは小首を傾げた。

 

「人? 誰かお客さんでも来るの?」

 

「……いいからお前は教室に行け。朝のホームルームに遅れるぞ」

 

「まだ遅れるような時間じゃないよ。ていうか、かいちょーだって学生じゃん」

 

「私は仕事でここにいるんだ。先生方の許可も貰っている」

 

「ふーん……生徒会長としての仕事なんだ?」

 

 重要な情報を聞き出したとばかりに、トウカイテイオーはにやにやと笑う。

 

 自分の失言に気付いて少し苦い顔をしたシンボリルドルフは、やがて仕方なさそうに溜息をついた。

 

「……もうじき、この学園と深い関わりのある方が来られる予定だ。私はその方と顔見知りで、色々と手伝いをしなければいけない立場でもあるから、出迎えるためにここに立っている。これでいいか?」

 

「学園と深い関わりのある人って、誰? ヤクザの親分とか?」

 

「学園も私個人も、そんな輩との関わりは一切無い。いいから早く教室に行け」

 

「教えてくれたっていいじゃん、ケチ」

 

「お前のために言っているんだ」

 

「……? どゆこと?」

 

 トウカイテイオーが頭の上に疑問符を浮かべると、シンボリルドルフは再び深い溜息をついた。

 

 それは彼女が滅多に見せない、愚痴を零すような表情だった。

 

「これからここに来る人は、子供のまま大人になってしまったような人だ。いや……あれと一緒にされては子供が可哀想だな。……とにかく、色々な意味で常識が通じない人だ。控え目に言って頭がおかしい。下手に目を付けられると碌なことにならないから、さっさとここから失せ――」

 

「誰の頭がおかしいのかしら?」

 

 背後からの声と同時に、伸ばされた両腕がシンボリルドルフの胸に触れた。

 

 その手はそのまま、制服越しに胸の膨らみを揉み始める。

 

 押し寄せる不快感に鉄の自制心で耐えながら、シンボリルドルフは言った。

 

「……いらしてたのですか、先生」

 

「ええ、いらしてたわよ。ルナちゃんをびっくりさせようと思って、ちょっと早めに来ちゃった」

 

 突然背後から抱きついてシンボリルドルフの胸を揉み始めたのは、黒いスーツを着た金髪の女だった。

 

 年齢は、二十代後半ほどだろうか。比較的長身のシンボリルドルフより十センチほど背が高く、すらりとした長い脚をしている。

 

 ウェーブがかった金髪の隙間から突き出る長い耳と、スカートに空いた穴から伸びる長い尾を見て、トウカイテイオーはその女が自分達の同族であることを理解した。

 

「かいちょー……誰? そのセクハラおばさん」

 

「私の…………恩師だ」

 

 言いたくなさそうな顔で、シンボリルドルフは言う。

 

 金髪の女は胸を揉みながら、意地悪く笑った。

 

「あーら、随分と長い間があるわねぇ。なんか内なる葛藤的なものを感じる言い方なんだけど? 恩師って言いたくない感がひしひしと伝わってきちゃったんだけど? 先生の気のせいかしらね? ルナちゃん?」

 

「気のせいでしょう。今も昔も、私は先生のことを尊敬していますよ。人格と素行以外の面では」

 

「ふふっ……あらあら、ちょっと身体と胸が大きくなったからって調子こきまくってるみたいねぇ。久々に膝蹴りぶちこみたくなっちゃったわ。顔面に」

 

「今だと犯罪になりますよ、それは。……昔でも十分犯罪でしたが」

 

 シンボリルドルフが冷静に返すと、金髪の女は楽しげな顔のまま胸から手を離し、くるりと身を翻した。

 

「それもそうね。就任早々パワハラで解任ってんじゃ流石に寒すぎるし、解任されちゃったらつまんないしね。じゃ……クソ生意気な誰かさんへの制裁はまた今度ってことで、さくっとお仕事しましょっか」

 

 そう言って、校舎の建つ方向に歩き出す。シンボリルドルフは溜息をつきつつ、その後を追った。

 

「……先日の模擬レースも含め、最近の主要レースの映像はこちらでまとめてあります。ご覧になりますか?」

 

「いいわよ、そんなの」

 

 金髪の女は振り返り、不敵な笑みを見せた。

 

「もう決めたから。ドバイに連れて行く子達は」

 

 

 

 

 

 

 アメリカで生まれ育ったエルコンドルパサーが日本サラブレッドトレーニングセンター学園に転入したのは、三年前の秋だった。

 

 そして美浦寮に住むことになり、ルームメイトとして出会った相手が、同じアメリカ出身のグラスワンダーだった。

 

 初めてグラスワンダーのレースを間近で観戦したのは、その年の冬。

 

 その年デビューした若きサラブレッド達の頂点を決めるGⅠレース、朝日杯だ。

 

 その時覚えた衝撃は、今でも忘れられない。どれだけ時が経とうと色褪せない記憶として、胸の奥に刻まれている。

 

 鈍色の空の下、年の瀬の雰囲気に包まれた中山競馬場。

 

 大歓声が湧き上がる中、短い直線走路を疾走する、青い勝負服を纏った栗毛の少女。

 

 高く振り上げた脚を地面に叩きつける独特の走法。天まで響き渡る轟音。荒々しく舞い上がる土煙。雷と化したかのような神速の末脚。観客席まで伝わってきて、身体の芯を痺れさせる、灼熱の闘志。

 

 グラスワンダーの走りは、何もかもが異次元だった。

 

 今まで見てきたどんなサラブレッドとも違う、世界に一つしかないような特別な輝きが、大地を蹴り砕くその走りにはあった。

 

 だから、その輝きに心を奪われて、栗毛の少女が同世代の強豪達を寄せ付けずにゴールを駆け抜ける瞬間を、目に焼き付けた。

 

 そして、表彰台に上った少女に銀色の優勝カップが手渡される光景を、神聖な儀式を見届けるような心地で見つめた。

 

 近くにいた観客の誰かが、ぼそりと言った。怪物だ――と。

 

 確かにそうだと、心の中で同意した。陳腐な表現だが、あの少女の強さを表す言葉には、それが一番ふさわしいように思えた。

 

 別の誰かが言った。マルゼンスキーの再来だ――と。

 

 チーム・リギルの最古参にして、日本屈指の実力者。かつて同じように圧倒的な強さを見せて朝日杯を制した、日本競馬の生ける伝説。

 

 そんな偉大なサラブレッドに比肩しうるほどの逸材。

 

 いや、もしかしたら、マルゼンスキーの伝説を塗り替える存在になるかもしれない。それほどの可能性を秘めた大器。

 

 口にした誰かは、そう思っていたのだろう。エルコンドルパサーもそれに異論はなかった。

 

 掴み取った勝利を多くのファンに祝福される少女を見つめながら、心のどこかで願った。

 

 いつまでもここにいたい。

 

 この輝かしい時間に、いつまでも浸っていたいと。

 

 それは他の観客達も同じだったらしく、未だレースの最中であるかのような熱気と高揚が、競馬場全体を包んでいた。

 

 きっと、あの時――表彰式を見届けていた誰もが、夢を見ていたのだ。

 

 炎のように熱く、黄金のように眩しい夢を。

 

 あの栗毛の少女は近い将来、途轍もないサラブレッドになる。

 

 過去のどんな名馬をも超える、偉大な存在になる。

 

 数多のビッグタイトルを獲得し、全ての記録を更新し、日本競馬の頂点に君臨する、史上最強の王者になる。

 

 そして、いつか――

 

 きっと、いつか――

 

 海の向こうに旅立って、世界の頂点を獲ってくれる。

 

 先人達が跳ね返されてきた世界の壁を、あの少女は打ち破ってくれる。

 

 あの少女が歩む道の先には、光輝く未来が待っている。

 

 誰もが、そう思っていた。

 

 胸に抱いた夢が、いつの日か現実に変わる――そんなありえないことを、あの時は誰もが信じていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 暖かな朝日が差し込む早朝。

 

 自室のベッドの上で、エルコンドルパサーは目を覚ました。

 

「ん……うっ……」

 

 身をよじりつつ、ゆっくりと瞼を上げる。見慣れた部屋の天井が、眩しい日差しに照らされながら目に映った。

 

 夢を見ていたのか――と、未だぼんやりした頭で思う。

 

 三年前の冬、はじめてグラスワンダーの走りを目にした時の記憶。

 

 大地を揺るがす激走と、祝福に包まれた表彰式の記憶。

 

 それを、眠りの中で見つめ直していたらしい。

 

 過去の出来事がそのまま夢となって現れるなど、はじめての経験だ。昨日の模擬レースの後、帰り道であんなことがあったせいだろうか。

 

 そこまで考えて、はっとした。

 

 そうだ。昨日はあんなことがあった。親友の身に大変なことが起きていたのだ。

 

 暢気に寝ている場合ではない。

 

「グラ――」

 

 跳ねるように上体を起こし、親友の姿を探した。

 

 すると――

 

「あっ……おはようございます。エル」

 

 意外なほど近くに、その姿はあった。

 

 自分の机の前に立って身支度を整えていたらしいグラスワンダーは、エルコンドルパサーが起き上がったことに気付くと、振り返って柔らかな微笑みを見せた。

 

 それは、いつもと何ら変わらない、彼女の自然な表情だった。

 

 昨夜とは一変したその様子を見て、エルコンドルパサーは戸惑う。

 

「グラス……」

 

 反応に困っていると、グラスワンダーはエルコンドルパサーに身体の正面を向け、深々と頭を下げた。

 

「昨日はごめんなさい……みっともないところを見せてしまって」

 

 謝罪の言葉を口にしてから、顔を上げる。

 

 朝日に照らされるその顔は、晴れやかな笑みを湛えていた。

 

「でも、もう大丈夫です。エルが励ましてくれたおかげで、気持ちの整理がつきました」

 

 無二の親友と目を合わせ、全ての悩みを捨て去った表情で、栗毛の少女は告げる。

 

「しばらく練習には出られませんけど、これからもよろしくお願いしますね、エル。いつか必ず復帰して、昨日のリベンジをしてみせますから」

 

 前向きな気持ちから放たれた、再戦と勝利を望む言葉。

 

 一点の曇りもない、澄んだ眼差し。

 

 ベッドの上で呆けていたエルコンドルパサーは、それに心を打たれ――

 

「……ぷっ……ぷふふ……」

 

 こらえきれずに、笑った。

 

「ぷふっ……ぷふふふ……ぷははははははは」

 

「え……?」

 

「ぷふふ……や、やばい……ツ、ツボに……ツボにはまった……死ぬ……」

 

「ちょ、ちょっと……! な、何でそこで笑うんですか……!」

 

「ふふっ……だってー……昨日あれだけヘタレまくってたのに、急にそんな晴れやかな感じでドヤ顔キメられても……ぷふふ……こんなのもう、ギャグの域としか……」

 

 グラスワンダーの顔が、一瞬で真っ赤になる。

 

「な……あ、あれは……あれは仕方ないじゃないですか……! き、昨日はその、色々あって……せ、精神が不安定になってたんですからっ」

 

「あーハイハイ、せいしんがふあんてーになってたなら仕方ないデスネー。ガチ泣きしながらワタシの胸に飛び込んできて、そのまま頭ナデナデしてもらっちゃっても」

 

「わ、わわ忘れてください! そのことは!」

 

「えー? そんな簡単に忘れられないデスヨ? 泣きじゃくるグラスを優しく慰めてあげて、添い寝までしてあげたあの夜のことは」

 

「忘れてくださいってばっ! もうっ!」

 

 赤面しながらそっぽを向くグラスワンダー。

 

 その可愛らしい様子を見て、エルコンドルパサーは意地悪な笑みを安堵の笑みに変えた。

 

 一時はどうなることかと思ったが、心配は無用だったようだ。

 

 本人が言うように、一夜明けて気持ちの整理がついたのだろう。柔らかな笑顔も、からかわれて赤くなる様子も、何もかも普段通りだ。

 

 昨夜は本当に大変だったし、今も問題が全て解決したわけではないけれど――それでも、立ち直ったグラスワンダーなら、きっと乗り越えられる。

 

 挫けずに前を向き、輝く未来を信じて歩んでいける。

 

 そして、いつかまた、自分と一緒に走る日が来る。昨日のような模擬レースではない、本当の大舞台で――

 

 そう思った矢先、エルコンドルパサーは気付いた。

 

 見慣れた部屋の景色から、見慣れた物が消えていることに。

 

「え……?」

 

 部屋の隅。グラスワンダーの机の上に備え付けられた棚。

 

 そこに飾られていた、真鍮製のカップ。

 

 三年前の冬、朝日杯を制した時に授与された、銀色の優勝カップ。

 

 グラスワンダーが他の何よりも大切にしていたそれが、棚の上から忽然と消えていた。

 

 そんな物など、最初から存在しなかったかのように。

 

「グラス……」

 

 エルコンドルパサーは、親友に再び目を向ける。

 

 栗毛の少女はこちらに背を向けていて、表情は覗えない。

 

 一見したところでは、からかわれたせいで拗ねているように見える後ろ姿。

 

 しかし、その向こう側には、本当に拗ねた顔があるのだろうか。

 

 小さな身体が微かに震えているように見えるのは、果たして気のせいなのだろうか。

 

 その答えが、エルコンドルパサーには分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 身支度を整えた二人は、寮を出て校舎へと向かった。

 

 この日の登校風景は、いつもとは少しだけ様子が違っていた。

 

 浮ついた空気――とでも言うべきだろうか。学園祭を間近に控えた時期のような高揚感が、他の生徒達の表情や話し声から伝わってきたのだ。

 

 エルコンドルパサーがそのことに言及すると、隣を歩くグラスワンダーは苦笑を浮かべ、事情を説明した。

 

 その内容に、エルコンドルパサーは驚愕した。

 

「ワ、ワールドカップ……!?」

 

「ええ、昨日の夜報道されたみたいです。九ヶ月後にドバイで競馬のワールドカップが開催されるって」

 

 ドバイは中東の小国だが、競馬の世界では有名だ。

 

 毎年三月末にドバイミーティングと呼ばれる国際招待競走が開催されており、栄誉と高額な賞金を目当てに世界各国から強豪が集う。

 

 その国の首長が「ワールドカップ」の開催を宣言したならば、この学園で話題にならないわけがない。

 

「それも個人で出る普通のレースじゃなくて、団体戦みたいですよ。各国から送り出された五人の代表選手が一つのチームになって、チーム対抗で優勝を争うんだとか……今までにない新しい試みですね」

 

「わー……何だかすごいことになってきましたネ…………って、あっ! もしかして、昨日の模擬レースって……」

 

「多分、それに出るメンバーを選抜するためだったんでしょうね。報道されるより大分前から、学園の方には話が来てたんだと思います。他のチームにも強い人はいますから、昨日のレースで勝った人の全員が選ばれるわけじゃないかもしれませんが……」

 

 そう言ってからグラスワンダーは、親友に笑顔を向けた。

 

「でも、エルならきっと選ばれますよ。去年フランスで大活躍した日本のエースですから」

 

「あ、あはは……そう、かな……」

 

 エルコンドルパサーは苦笑する。

 

 グラスワンダーの笑顔には、どこか普段と違うものが含まれている気がして――褒め言葉を素直に受け取ることが出来なかった。

 

 と、そこで、自分の失言に気付いた。

 

 昨日の模擬レースが日本代表を選抜するために行われたものなら、勝利を掴めなかったグラスワンダーは――

 

 いや、それを抜きにしても、彼女は――

 

「……私も、頑張りますから」

 

 エルコンドルパサーの思考を断ち切るように、栗毛の少女は言った。

 

「今回は……とても出られませんけれど…………それでも、いつか大きな舞台に立てるように頑張りますから……先に行って待っていて下さい。エル」

 

 その顔に微笑みを戻し、前を向く。

 

「エルがワールドカップで大活躍して、世界一のサラブレッドと呼ばれるようになってくれたら……ふふっ、話が早くて助かります。世界一になったエルを倒してみせれば、私が世界一ですから」

 

 冗談めかした明るい言葉。

 

 柔らかな笑顔から零れた、前向きな言葉。

 

 けれど、エルコンドルパサーにはそれが、本心から出た言葉には思えなかった。

 

 親友の顔に浮かぶ笑みが、どこか歪な、出来の悪い仮面のように見えた。

 

 その口から出た言葉が、台本に書かれた台詞を読み上げているように聞こえた。

 

 昨日の模擬レースで競り合った時とは違う。言葉を交わさずとも伝わってきた、あの熱い想いとは違う。

 

 歪な笑顔から放たれた、真実味のない空虚な言葉。

 

 それをそのまま受け止めるのが辛くて、どう応じるべきか迷った矢先――背後から、聞き慣れた声が飛んできた。

 

「あっ、エルちゃんにグラスちゃん」

 

 そう呼びかけながら駆け寄ってきたのは、白い前髪が特徴的なボブカットの少女だった。

 

 同級生のスペシャルウィークだ。

 

 チーム・スピカに所属する黒鹿毛のダービー馬は、無邪気な笑顔で二人の横に並ぶ。

 

「珍しいね、こんな時間に登校するのって。今日は朝練なかったの?」

 

「昨日模擬レースをやりましたから。数日は身体を休めるように言われてるんです」

 

 グラスワンダーが答えると、スペシャルウィークは少し驚いた顔になった。

 

「あっ、そっか。言ってたもんね、チーム内で模擬レースやるって…………えっと……結果はどうだったの?」

 

「エルに負けちゃいました。一昨年の毎日王冠と合わせると二連敗ですね。悔しいです」

 

 苦笑するグラスワンダーに、スペシャルウィークはやや気まずそうな苦笑を返す。

 

「あはは……でもグラスちゃんだって強いから、そのうちリベンジ出来るよ。私なんて、未だにグラスちゃんに勝ったことないし」

 

「ふふっ、そうでしたね……でも有馬記念の時は危なかったですよ? ゴールした瞬間は負けたと思いましたし」

 

「うぅ……それ言わないで……嫌な記憶が蘇るから……」

 

「今でも鮮明に憶えていますよ。大観衆の前で颯爽とウイニングランをするスペちゃんの勇姿は」

 

「やめて! それ言わないで! 今でも恥ずかしくてたまらないんだからっ!」

 

 黒歴史を掘り起こされて絶叫するスペシャルウィーク。その慌てぶりを見てくすくすと笑うグラスワンダー。

 

 傍から見れば、穏やかな日常の一幕。

 

 しかしエルコンドルパサーの目には、グラスワンダーの笑顔が、やはりどこか空々しい――無理に取り繕ったものに見えてならなかった。

 

 そのせいで、二人の会話に入っていけなかった。

 

「むぅ……いいもん。今度一緒のレースになった時は必ず勝って、ちゃんとしたウイニングランしてやるんだから」

 

 何気なく放たれた、スペシャルウィークの言葉。

 

 それを聞いた瞬間、グラスワンダーの表情が固まった。

 

 時が止まったように、凍りついたのだ。

 

「んー……でもグラスちゃんとエルちゃんは規定で天皇賞には出れないから、一緒になるのはまた宝塚記念とかかなぁ……でもトレーナーさんは、今年の宝塚にはゴールドシップさんを出す予定だって言ってるし、私外されちゃうかも……あっ、そうだ! 安田記念なら一緒に走れるね! 私マイルのGⅠって走ったことないんだけど、今から頑張って特訓すれば――」

 

 言葉の途中で、スペシャルウィークは気付いた。

 

 隣を歩く少女の顔から笑みが消え、酷く青褪めていることに。

 

「グラスちゃん……どうしたの?」

 

「……何でも、ないです……何でも……」

 

 口許を手で押さえ、かたかたと小刻みに震えていたグラスワンダーは、ゆっくりと頭を振る。

 

 そして口許から手を離し、一度大きく息を吸い込んで、再び笑顔を作った。

 

 それは、今にも崩れ落ちてしまいそうな――誰の目にも痛々しく映る笑顔だった。

 

「また一緒に走りましょうね、スペちゃん…………また、いつか……」

 

「う、うん……」

 

 戸惑いながら、スペシャルウィークは頷く。

 

 そんな二人のやりとりを見て、エルコンドルパサーは悟った。

 

 やはり、危惧した通りだ。

 

 グラスワンダーの中で、昨日の出来事はまだ終わっていない。彼女の心には、深い傷が刻まれたままなのだ――と。

 

「……」

 

 昨日の模擬レースでグラスワンダーが競走中止に至った理由を、エルコンドルパサーは知らない。本人に訊いても、それだけは答えてくれなかった。

 

 知ることが出来たのは、二時間近くに及んだ「話し合い」の内容だけだ。

 

 レースの後、東条ハナに連れて行かれた先で――グラスワンダーは、引退を勧告されたらしい。

 

 競馬の世界から身を引き、学園を去ることを求められたのだ。

 

 当然、本人はそれを拒んだ。

 

 模擬レースでは最後に躓きかけただけ。怪我はしていない。自分はまだ走れる。次こそは必ず勝ってみせる。

 

 必死にそう主張して、現役を続けさせてもらえるように懇願した。

 

 そんな彼女に、東条ハナは三つの条件を提示した。

 

 一つ目は、向こう三ヶ月間はチームの練習に参加しないこと。

 

 二つ目は、向こう一年間はレースに出走しないこと。

 

 三つ目は、あの「叩きつける走法」を二度と行わないこと。

 

 引退を拒むなら、その三つを遵守しろと告げられた。グラスワンダーが現役を続けるためには、それを受け容れるしかなかったのだ。

 

 決して軽い条件ではない。

 

 特に三つ目は、グラスワンダーにとっては致命的だ。

 

 あの走法は、彼女の戦術の根幹と言うべきもの。使用を禁じられてしまえば、全てが破綻する。

 

 そうなればもう、たとえレースに復帰したとしても、以前のような活躍は望めない。

 

 そのことは、本人が一番よく分かっていたのだろう。三つ目の条件を自らの口で語った時の彼女は、心が壊れる寸前まで追い込まれていた。

 

 一夜明けた今も、傷口はまだ塞がっていない。

 

 むしろ、悪化しているような印象さえ受ける。

 

 無理に取り繕った笑顔の裏で、支えを失った心が罅割れ、取り返しのつかないことになり始めているような――

 

「やっと来たか」

 

 思考を断ち切るように、前方から声。

 

 目を向けると、鼻に白い絆創膏を貼った少女が校舎の入口に立っていた。

 

 リギル所属の生徒会役員、ナリタブライアンだ。

 

「スペシャルウィーク、エルコンドルパサー、それにグラスワンダー。お前ら三人とも、今すぐ三階の理事長室に行け」

 

「え……?」

 

 三人が、揃って当惑の声を零す。

 

 ナリタブライアンは、妙に気怠そうな面持ちで言った。

 

「訳の分からん人がお前達を呼んでいる。大事な話があるんだとさ」

 

 

 

 

 

 

 学園内の練習場。ウッドチップコース。

 

 脚への負担を減らすための木片が敷き詰められた練習用トラックを、学園指定のトレーニングウェアを着た二人のサラブレッドが併走していた。

 

 一人は、銀色の髪を短く切り揃えた少女、セイウンスカイ。

 

 もう一人は、両耳に青い覆いを付けた少女、キングヘイロー。

 

 異なるチームに所属しながらも、時折自主トレーニングを共にする仲の彼女ら二人は、この日も早朝からウッドチップコースで汗を流していた。

 

「そういやキング、聞いた?」

 

「聞いたって、何をよ?」

 

 突然言葉足らずな問いを投げてくるセイウンスカイに、キングヘイローは煩わしそうな顔で問い返す。

 

 セイウンスカイは走りながら上を向き、顎に人差し指を当てた。

 

「んー……何だっけ? ほら、アレだよアレ。えーっと、あの……」

 

「あんたねぇ……」

 

「あっそうだ、ドバンだドバン。今度ほら、中東のドバンって国ですごい大会やるって話」

 

「ドバイでしょ、馬鹿。……それなら聞いてるわよ。向こうの王様みたいなのが主催する競馬のワールドカップを、今年の十一月にやるんですってね」

 

 練習仲間のいい加減な記憶力に呆れつつ、キングヘイローは応じる。

 

 約九ヶ月後に中東のドバイ首長国で開催されることになった、競馬のワールドカップ。

 

 その情報は、既に彼女達の耳にも入っていた。

 

「楽しみだよねー。世界のいろんな国からすごい人達が集まって、一緒に走るんでしょ? 考えるだけでワクワクするよ」

 

「まあ……観客の立場でなら、面白いんでしょうけど……」

 

 キングヘイローは下を向き、複雑な面持ちで呟く。

 

 ワールドカップに興味がないと言えば嘘になる。世界各国の強豪が集うレースが行われるなら、是非ともこの目で見てみたい。

 

 けれど――

 

「……私達には、縁のない話ね」

 

「ん? ワールドカップ出たいの? キング」

 

 独り言のつもりだったのだが、聞こえてしまったらしい。隣を走るセイウンスカイが不思議そうな顔を向けてくる。

 

 キングヘイローは気恥ずかしさと面倒臭さが入り混じったような顔になり、視線を逸らしながら答えた。

 

「出たくても出れないでしょ、私達の実績じゃ」

 

 報道された通りなら、国の代表としてワールドカップに行けるのは、僅か五人。

 

 その五人の中に自分達二人が入れる可能性は、はっきり言って皆無に近い。

 

 理由は単純。実績が足りないからだ。

 

 日本代表に選出されて国の威信と国民の期待を背負わせてもらえるだけの実績を、自分達二人は持っていない。

 

「私達って括り方するのは、ちょっと違う気がするなぁ……私ほら、キングよりは実績あるし」

 

「う、うるさいわね! 知ってるわよっ! ああもう……じゃあ訂正してあげる! GⅠ未勝利の私じゃワールドカップなんて出られないからどうでもいいわ! ほら、これでいい!?」

 

 キングヘイローがむきになって叫ぶと、セイウンスカイはくすりと笑った。

 

「冗談だよ、冗談。選考する立場の人から見れば、私もキングもそんなに違わないよ。去年大きいレースで勝てなかったのは私も一緒だしね」

 

 その横顔にどこか寂しげな陰があるのを見て取って、キングヘイローは怒りを引っ込める。

 

 仕方なく、目を合わさずにぽつりと言った。

 

「……あんたは一応、二冠獲ってるじゃない」

 

「昔の話だよ。そんなのいつまでも通用しない。それに上の世代には、私より実績ある人なんてごろごろいるしね」

 

 競馬とは、厳しい勝負の世界だ。

 

 現役を続ける以上は、結果を出すことが義務となる。

 

 GⅠのタイトルを獲得すれば周囲から称賛されるが、それも一時の話。

 

 すぐに、次も勝てと命じられる。さらにタイトルを積み上げろと要求される。それに応えることが出来なければ、評価は瞬く間に下落していく。

 

 レースで勝てなくなった者に、世間は冷たい。

 

 過去の栄光に縋りついたままでいることを、勝負の世界は許さない。

 

 そんな現実を理解しながらも、一瞬だけ浮かんだ憂いをどこかに吹き飛ばし、セイウンスカイは言った。

 

 晴れ渡った青空のような、どこまでも前向きな笑顔で。

 

「でもさ、可能性はゼロじゃないと思うんだ。もしかしたら選考委員の人がとんでもない物好きかすっごいバカのどっちかで、私とキングを代表に選んじゃうなんてこともあるんじゃないかなぁって」

 

「あるわけないでしょ、そんなこと」

 

 あまりにも楽観的すぎる意見を、キングヘイローは否定する。

 

 いったいどんな脳味噌してるのよこの馬鹿は――と、内心で悪態を吐いた。

 

 選考に関することはまだ何も発表されていないが、ワールドカップ日本代表に選ばれる面子は大体予想がつく。

 

 歴代最多のGⅠ七勝を誇る≪皇帝≫シンボリルドルフ。

 

 デビュー以来公式戦無敗の≪スーパーカー≫マルゼンスキー。

 

 まず鉄板なのはその二人だろう。GⅠ五勝の三冠馬ナリタブライアンや昨秋骨折から復活したサイレンススズカも候補に挙がっているに違いない。ワールドカップに短距離戦が用意されているなら短距離王タイキシャトルは外せないし、長距離戦ならチーム・スピカのメジロマックイーンも捨て難い。

 

 そこに割って入る可能性があるとすれば、昨年国内外で大活躍した同期の三強――スペシャルウィーク、エルコンドルパサー、グラスワンダーくらいだろう。

 

 完全に定員オーバーな状況だ。自分達二人が入る枠など残されていない。

 

 昨年GⅠの舞台では負け続きだったセイウンスカイと、そもそもGⅠを勝ったことがないキングヘイローを選ぶ理由など、何処を探しても存在しない。

 

 もし、シンボリルドルフやマルゼンスキーを差し置いて自分達二人を選ぶ人物がいたとしたら――それは余程どころではない、史上稀に見るレベルの大馬鹿だろう。

 

「くっだらないこと言ってないで、いい加減真面目に走りなさいよ! あんまりチンタラ走ってると置いていくわ――」

 

「そこの二人、止まれ!」

 

 横合いから飛んできた声が、キングヘイローの言葉を遮った。

 

 二人が立ち止まって声の方向に視線を向けると、そこにいたのは一人の上級生。

 

 リギル所属の生徒会副会長、エアグルーヴだった。

 

「エアグルーヴ先輩……」

 

 いったい何だろうかと疑問を抱く二人に、エアグルーヴは歩み寄る。

 

 そして、真剣な顔――を作ることに若干抵抗があるような顔で、用件を告げた。

 

「理事長室……にいるよく分からない人が、お前達二人を呼んでいる。悪いがすぐに向かってくれ」

 

 

 

 

 

 

 セイウンスカイとキングヘイローが制服に着替えて理事長室の前まで来ると、廊下の反対側から歩いてきた三人と鉢合わせになった。

 

「あっ、スペちゃん達だ」

 

「ウンスちゃんに、ヘイローさん……」

 

 セイウンスカイとスペシャルウィークの声が重なる。

 

 どういうわけか、理事長室の分厚い扉の前に、同じクラスの面々――スペシャルウィーク、エルコンドルパサー、グラスワンダー、セイウンスカイ、キングヘイローの五人が集う形になった。

 

「私達、理事長室に呼ばれて……」

 

「あら? それなら私達もよ」

 

 グラスワンダーの言葉に、キングヘイローが応じた。

 

 これはいったいどういうことかと、五人の少女は顔を見合わせる。

 

「……私達、何か悪いことした?」

 

「心当たりがないデース」

 

「というか、こんな所に呼び出されるなんて初めてよ」

 

「理事長にも直接お会いしたことはありませんし……」

 

「ブライアンさんも何も聞いてないみたいだったし、何なんだろ……?」

 

 言葉を交わしても、答えは出ない。

 

 こんな時間にこんな場所に呼び出されるなど、誰にとっても初めての経験だった。

 

「ま、いいや。入ってみれば分かるよ」

 

 そう言って前に進み出たセイウンスカイが、扉を軽くノックすると――

 

「はいはーい! 生徒会の二人が呼んできてくれた子達?」

 

 扉の向こう側から、女の声が飛んできた。

 

 理事長にしては、声が若い。

 

 セイウンスカイが「はい、そうです」と答えると、扉の向こう側にいる女は少し慌てた様子で言った。

 

「ちょっと待って! 今スタンバってる途中だから、まだ入んないで! あと一分……いや三十秒! 三十秒だけそこで待ってて! いいわね?」

 

「あ……は、はい……」

 

 意味不明な指示に、五人は若干引く。

 

 その直後、室内からバタバタと慌ただしい物音が聞こえてきた。大急ぎで何かの準備をしているらしい。

 

 そして、約三十秒後。

 

「はい、いいわよー! 入って入って! あっ、ドアはゆっくり開けないでね。力いっぱい蹴破る感じでもいいから、バーンっと開けちゃって。バーンっと」

 

 理解不能な注文付きで、入室を命じられた。

 

 扉の前に立っていたセイウンスカイは、「いいのかな……?」と言いたげな顔で後ろを振り返る。

 

「まあ……向こうがああ言っていますし……」

 

 苦笑いを浮かべながらグラスワンダーが言い、他の三人も同様の表情で頷く。

 

 それを受けて、セイウンスカイは意を決した。

 

 ドアノブを捻ると同時に腕に力を込め、注文通り勢いよく扉を開き――

 

 直後に、舞い落ちる紙吹雪を目にした。

 

「は……?」

 

 全員の目が点になる。

 

 セイウンスカイが扉を開けた瞬間、くす玉が割れたのだ。

 

 大きな金色のくす玉が、何故か理事長室の天井からぶら下がっていて、扉が開くと同時にそれが二つに割れていた。

 

 そして中に詰まっていた紙吹雪が盛大に舞い落ち、一枚の長い紙が垂れ下がる。

 

 紙には毛筆で「合格!」と書かれていた。

 

「パンパカパーン! おっめでとーっ!」

 

 くす玉の真下――部屋の奥に置かれた執務机の前に、不審者が一人。

 

 理事長とは明らかに違う、黒いスーツを着た金髪のサラブレッドが、満面の笑みを浮かべながら両手を広げていた。

 

 驚く五人を置き去りにして、謎の女は絶叫する。

 

「合格! 合格! 超合格よあなた達! もうめっちゃ合格! これ以上ないくらい合格! 実は色々失格だけど細かいことには目を瞑って合格よ! とにかく合格しまくったのよあなた達は! おめでとーっ!」

 

 この時、五人の心の声は見事に一致した。

 

 ――何? ……っていうか、誰?

 

 急な呼び出しを訝みつつも理事長室に来てみれば、見知らぬ女が一人で勝手に大騒ぎしている。全く意味が分からない。

 

 どう対処したらいいかも分からないので呆けた顔を並べていると、金髪の女は急にぴたりと動きを止め、不満そうに眉根を寄せた。

 

「……何よもー。ぶっちゃけちょっと恥ずかしいのを我慢して盛大に祝ってあげてるのに、その反応の薄さは? ノリを合わせてくれないと私がただの痛いオバサンみたいじゃない」

 

「みたいではなく、それが事実ではないかと」

 

 そう言ったのは、部屋の隅に佇んでいたシンボリルドルフだった。

 

 どういった事情でこの場にいるのか不明だが――本人の心情としてはこの場にいたくないらしく、重い疲労感が滲み出た表情を金髪の女に向けている。

 

 スペシャルウィークが苦笑しながら問いかけた。

 

「あ、あのー……ちょっと、よく分からないんですけど……合格って……?」

 

「合格は合格よ。日本代表を決める選考に合格したってこと」

 

「え?」

 

「ドバイでワールドカップやるのは聞いてるでしょ? そこに代表として送り出すのがあなた達に決定したって話」

 

 五人が、揃って息を呑んだ。

 

 誰もが自分の耳を疑い、次いで目の前にいる女の正気を疑う。

 

 金髪の女の口からさらりと出たのは、それほどまでに信じ難い発言だった。

 

「色んな手続きとかお偉いさんの説得とか、クソめんどくさいことがこれから山ほどあるんだけど……ま、選手のみんなにはどうでもいい話ね。まだ正式じゃないけどとりあえず代表に内定ってことで、思う存分喜んでていいわよ。お嬢ちゃん達」

 

「正式ではないどころか、先生が勝手に決められただけですが……まあ、どうにかしてしまうのでしょうね。先生は」

 

 呆れと諦めが入り混じった声で、シンボリルドルフが言う。

 

 金髪の女に選ばれた五人がワールドカップ日本代表になってしまうことを、止むを得ないこととして受け入れている様子だった。

 

 エルコンドルパサーが遠慮がちに尋ねる。

 

「あのー、会長……そちらの方は……?」

 

「すまん、紹介が遅れたな。この人は私の恩師で、ワールドカップ日本代表の――」

 

「日本代表の監督役に抜擢されたリコよ。見ての通り、あなた達と同じサラブレッド。よろしくね」

 

 教え子の紹介を堂々と遮り、金髪の女は名乗った。

 

「この国の生まれじゃないんだけど、そっちのルナちゃんが小さい頃に指導してあげたりした縁で、この学園とは繋がりが出来ちゃってねー。今回日本代表になる五人もビシバシしごいてくれって、理事長のクリフジ婆さんに頼まれちゃったの。ついでに言うなら、代表の人選も一任されてるわ。で……全校生徒の中から、私の独断と偏見とノリと勢いであなた達五人を選んだってわけよ」

 

「先生の意見を参考にすると理事長は仰いましたが、人選を任せるとまでは…………いえ、いいです。今更何を言っても無駄でしょうから」

 

 シンボリルドルフは溜息をつく。

 

 一方、部屋の入口に立つ五人の顔には、未だ戸惑いが残っていた。

 

 突然日本代表に選ばれたなどと言われても、状況に理解が追いつかない。妙な夢を見ているような気分が、どうしても抜けなかった。

 

 中でも一番戸惑いを――いや、動揺を見せていたのは、グラスワンダーだった。

 

 微かに震える声で、彼女は言う。

 

「……質問……しても……よろしいでしょうか……?」

 

「いいわよ。何でも訊いて」

 

 金髪の女――リコが笑顔で応じると、グラスワンダーはやや躊躇ってから問いを投げた。

 

「……何故、この五人なのですか?」

 

 他の四人の表情が変わる。

 

 グラスワンダーが口にしたそれは、誰もが密かに抱いていた疑問だった。

 

「ルドルフ会長でも、マルゼンスキーさんやブライアンさんでもなく…………どうして、私が……私達五人が、代表に選ばれたのでしょうか……?」

 

「あら? 選んでもらえたのに、嬉しくないの?」

 

「そういうわけじゃ、ありません…………ただ……どうしてなのか、分からなくて……」

 

 グラスワンダーの顔は、死刑を宣告された罪人のように青褪めていた。

 

 それに気付いたエルコンドルパサーは、親友の心情を察して、不安と心配を宿した視線を送る。

 

 つい先程まで、グラスワンダーは諦めていた。

 

 日本代表として世界に行くことも、再び大舞台に立つことも諦めて、自身の中で渦巻く未練や絶望と折り合いをつけようとしていた。

 

 それが、唐突に――降って湧いたように日本代表に選ばれたなどと言われても、そう易々と受け入れられるものではないだろう。

 

 正直に言ってしまえば、エルコンドルパサーにも分からない。

 

 昨日のレースで競走を中止し、指導者から引退勧告までされたグラスワンダーが、何故代表に選ばれることになったのか。

 

 他の面々にしても――失礼なので口には出せないが、これが日本代表と呼ぶにふさわしいベストメンバーとはとても思えない。

 

 上の世代には、もっと優れたサラブレッドがいる。

 

 実績の面でも実力の面でも、遥かに格上と言っていい存在が何人もいる。

 

 だというのに何故、この五人なのか。今目の前にいるリコという名の女は、どういう基準で何を考えて、自分達五人を選んだのか。

 

 それが、不可解でならなかった。

 

「ああ、それね……」

 

 リコは吹き出すように笑い、質問に答えた。

 

「だって、変わらないんだもの。誰を選んでも」

 

「え……?」

 

 予想外の返答に、呆然となるグラスワンダー。

 

 優しげな笑みを悪意の滴る嘲笑に変えて、リコは続けた。

 

「この国のサラブレッドなんて、みんなドングリの背比べ。世界の舞台じゃ通用しない二流三流ばっかり。誰を連れて行ったって結果は大して変わらないでしょうから、私の趣味でテキトーに選んだだけよ」

 

 その発言を境に、場の空気が一変した。

 

 グラスワンダーが、エルコンドルパサーが、スペシャルウィークが、セイウンスカイが、キングヘイローが――日本代表として集められた五人が皆、大きく目を見開き、心臓を剣で突かれたような表情を晒す。

 

 茶番めいた和やかさは消え、酷く張り詰めた空気が室内を包んだ。

 

「思い出作りに行くにしたって、趣味に合わない子と一緒じゃ私もつまらないし? どうせ無様に散るならネタ的な意味で面白い子達を連れてってやろうかなーと思って、あなた達にしたの。それ以外に理由なんてないわ」

 

 リコは目を細め、笑顔のまま皮肉を言う。

 

「よかったわね。仲良し五人組で、ドバイまで修学旅行に行けて」

 

 それが引き金となり、張り詰めていた場の空気が、爆発した。

 

「な――何よその言い草っ!」

 

 火を吐くように怒声を放ったのは、キングヘイローだった。

 

 リコは楽しげに声を弾ませる。

 

「あはっ、怒っちゃった?」

 

「当たり前よ! そんな風に言われて黙ってられるわけないじゃない! 監督だか何だか知らないけど、舐めるのも大概にしなさいよね!」

 

「キ、キング……ちょっと抑えて……」

 

 激昂するキングヘイローをセイウンスカイが宥めようとする。

 

 そんな様子を鼻で笑いながら、リコは腰に手を当てた。

 

「大概にしなさいって言われてもね……みんなのプライドを傷つけないために白々しいリップサービスするなんて、悪いけど柄じゃないし」

 

 挑発的な眼差しを、五人の少女に向ける。

 

「ていうかあなた達、ワールドカップに行って勝てるつもりでいたの? 日本の競馬は世界でもトップレベルだから、真面目に選考やって最強メンバーを送り出せば優勝狙えるとか、まさか本気で思っちゃってたりした? あはは、ないない。優勝なんて逆立ちしても無理。ていうか予選突破も無理でしょ。こんなちっぽけな島国でお山の大将の座を争ってるようなしょぼい連中じゃ、世界の強豪には到底――」

 

「うるさいわね! さっきから何よ、偉そうに!」

 

 怒りが頂点に達したキングヘイローは、セイウンスカイの制止を振りほどき、リコの顔を指差した。

 

「そもそも、あなた何様よ! 私達のこととやかく言えるほど凄いの!? 御大層な実績でもあるわけ!? 悪いけどリコなんて名前、全然聞いたことないんだけど!」

 

 日本国籍でなくとも、現役時代にGⅠをいくつも制した超一流馬であるなら、自然とその名は耳に入ってくる。今はそういう時代だ。

 

 にもかかわらず、キングヘイローが頭に詰め込んでいる情報の中に、リコという名はない。

 

 今まで競馬の世界で生きてきて、そんな名は一度も聞いたことがない。

 

 あえて口には出さなかったが――キングヘイロー以外の四人も、それは同じだった。

 

「あらあら、威勢のいいお嬢ちゃんね」

 

 リコは笑みを深める。

 

「実績ならそれなりにあるんだけど……ま、いいわ。自分がどれだけ凄いかを口で説明するなんて、死ぬほどダサいし」

 

 そう言って首を回し、窓の外に目を向ける。

 

「ちょうど練習場も空いてるみたいだから、勝負しましょうか」

 

「え……?」

 

「だから、勝負よ。こんなところで口喧嘩してないで、勝負して白黒つけましょうって話」

 

 不敵に笑うリコは、当惑するキングヘイローと視線を合わせた。

 

「あなたが勝ったら、土下座でも何でもしてあげる。その代わり私が勝ったら、超有能な名監督の私に以後絶対服従を誓うこと。そういう条件でどうかしら? GⅠ未勝利のキングヘイローちゃん」

 

 神経を逆撫でする言葉を含んだ、露骨な挑発。

 

 それに乗せられたキングヘイローは、小さく息を呑んでから返答した。

 

「い、いいわ。望むところよ」

 

 急遽決まった、二人の勝負。

 

 その成り行きを静観していたシンボリルドルフは、疲れ果てた顔で目を瞑り、深い溜息をついた。

 

 師の思惑と、この先に待っている展開を想像して。

 

「……困った人だな。相変わらず」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話「黄金獣」

 

 

 校舎の裏手――植え込みに囲まれた狭い場所に、大きな黒い石碑が建っている。

 

 普段は誰も寄りつかない場所だが、今は一人の女の姿がそこにあった。

 

 東条ハナ。

 

 学園最強チーム「リギル」の指導者である彼女は、黒い石碑の前に無言で佇んでいた。

 

 凪いだ水面のような瞳の奥に、深い悲哀と葛藤を宿しながら。

 

「良い事でも、悪い事でも……何か特別な事があった後は、必ずその石碑の前に来る…………いつも通りですね」

 

 背後から声をかけられ、ハナは驚いて振り返る。

 

 そこにいたのは、制服姿のマルゼンスキー。

 

 リギル創設時からのメンバーである鹿毛のサラブレッドは、普段通りの穏やかな空気を纏いながら、校舎を背にして立っていた。

 

「お邪魔しちゃ悪いかと思いましたけど、ちょっと二人きりで話がしたかったので」

 

 ハナは僅かに顔をしかめる。

 

 時折この場を訪れる習慣は、誰にも知られていないつもりだったが――長い付き合いの教え子だけは例外だったらしい。

 

 隠し事は出来ないものだと痛感して、小さく溜息をついた。

 

「……話って、何?」

 

「昨日の、模擬レースの後のことです」

 

 淡い笑みを湛えたまま、師と真っ直ぐに目を合わせ、リギルの最古参は言った。

 

「グラスを連れて行って、何か話をされたようですけど……具体的には、どういう話をされたんですか?」

 

 交錯する視線。

 

 互いの心を探り合うように、二人は相手の目をじっと見つめる。

 

「……それを聞いて、どうするの?」

 

「どうするかは、聞いてから考えます。まずは聞かせて下さい。昨日のレースの後、何があったのかを」

 

 その問答の後、二人の間で沈黙が続いた。

 

 世界の全てが凍りつき、時の流れさえ止まったかのような、長い静寂の間だった。

 

 やがて、教え子の真摯な眼差しから目を逸らし、リギルの指導者は事実を口にする。

 

「引退しろと命じたわ」

 

 その声音からは、一切の感情が排されていた。

 

「競走馬を辞めて学園を退学して、競馬の世界から縁を切るように強要した。当然本人はそれに反発したから、激しい言い争いになった。私はあの子の頬を思いきり叩いて、口汚く罵って、あの子が今までやってきたことの全てを否定した。そうして立ち直れなくなる寸前まで追いつめた後、こちらが提示した条件を呑むなら現役続行を許すというのを落としどころにして、話をつけた。……簡単にまとめるなら、そんな流れよ」

 

「……提示した条件というのは?」

 

「三ヶ月間練習に参加してはならない。一年間レースに出走してはならない。あの叩きつける走法を、二度とやってはならない」

 

「…………もう走るな、と言ったも同然ですね」

 

「ええ、そうね。もう二度と全力で走らせないつもりで、その条件を受け入れさせたわ」

 

 他人事のように淡々と語った後、ハナは自虐的に付け加える。

 

「軽蔑してくれていいわよ。外部に知れたら問題になるくらい、乱暴なやり方をしたから」

 

 決して明るみに出来ない話を聞いても、マルゼンスキーは特段驚かなかった。

 

 予想の範囲内だったからだ。

 

 あの状況でグラスワンダーを連れて行ったからには、そうした顛末になっていたに違いないと思っていた。

 

 故に平静を保ったまま、静かに問いかける。

 

「……そこまでした理由を聞いても?」

 

「辞めさせなければいけないと思った。それだけよ」

 

 ハナは即答し、目を細める。

 

「前から思っていたけれど、昨日のレースを見て確信した。グラスの走り方……あの脚を地面に強く叩きつける走法は、無理がありすぎる。このままあれをやらせていたら、遅かれ早かれまた故障する。前は軽度の骨折で済んだけれど、次はどうなるか分からない。だから、そうなる前に競馬を辞めさせるのが最善と判断したまでよ」

 

「……その慰霊碑に、名前を刻ませないために?」

 

 師の背後にある石碑に目を向けて、マルゼンスキーは言う。

 

 ハナは微かな苦渋の色をその顔に浮かべ、やや逡巡してから頷いた。

 

「……ええ」

 

 人気のない校舎裏に建つ、黒い慰霊碑。

 

 その表面には、競馬場で生涯を終えた者達の名が、無数に刻まれていた。

 

 

 

 

 

 

 坂路コース。

 

 広大な練習場の一角に設けられた、長い上り坂のコースである。

 

 くの字に折れ曲がった形をしており、全長は約千メートル。幅員は七メートル。高低差は三十二メートル。敷材にはクッション性の高いウッドチップが使用されている。

 

 リコが「勝負」の舞台として選んだ場所は、そこだった。

 

「じゃ、ここでいいわね? やだって言っても聞かないけど」

 

 黒いスーツから自前の青いトレーニングウェアに着替えたリコは、楽しげな笑顔のまま言う。

 

 キングヘイローは問いを投げた。

 

「ここを先に上りきった方が勝ちってこと?」

 

「そうよー。シンプルでいいでしょ? 坂路追いなら普段の練習でもやってるでしょうし、下は脚に優しいウッドチップだしね」

 

「別に芝コースでも構わないけど……」

 

「あなたがよくても、私が嫌なの。もう年だからねー。周回コースで二千かそこらなんて、とてもじゃないけど走ってらんないし」

 

 そう言いつつ、股関節のストレッチを始めるリコ。

 

 ゆったりと脚を前後に振るその様子は、ラジオ体操に励む老人のようだった。

 

「うわ……だるっ……思ったより鈍ってるわね、こりゃ……色んなとこが固くなっちゃってるし…………ほんともう、若い子が羨ましいわー……」

 

 年寄りじみたことを言いながら身体をほぐす自称監督役に、キングヘイローは難しい顔を向けた。

 

「……一つ聞くけど、あなた何歳よ?」

 

「ヒ・ミ・ツ」

 

「…………じゃあ、引退して何年になるのよ?」

 

「今年でちょうど十年目よ。あっ……これ言っちゃったら年バレるか」

 

 いけないとばかりに口を手で覆うリコに、キングヘイローは物言いたげな眼差しを送った。

 

 つい頭に血が上ってこんな勝負を受けてしまったが、よくよく考えてみれば、これから自分達の監督役になる人物と戦うなどおかしな話だ。

 

 しかも相手は、現役を退いて十年にもなるらしい。

 

 運動競技全般に言えることだが、現役の選手と引退した選手の間には大きな壁がある。たとえ往年の名選手でも、実戦を離れて練習を積まなくなれば瞬く間に劣化する。生物の身体とはそういうものだ。

 

 本人の自信満々な態度からして、現役時代は相当強かったのかもしれないが――所詮は昔の話。十年経った今もその頃と同じ走りが出来るわけがない。

 

 つまり、この勝負の結果は見えている。

 

 自分とて、一時はクラシック候補と呼ばれた身なのだ。とうの昔に実戦を離れた年増女に後れを取るほど弱くはない。

 

 とはいえ、変に遺恨が生じるような結果になっては後々面倒だ。ワールドカップには行きたいし、怪我をさせたりしてしまったら、流石に寝覚めが悪い。

 

 などと考えていると――

 

「なーんかごちゃごちゃ考えてる顔ねぇ」

 

 ストレッチをしていたリコが、舐めるような視線を向けてきた。

 

「こんなオバサンに負けるわけないけど、もし怪我させちゃったりしたら可哀想だなーとか思ってたりする? ひょっとして」

 

「……だったら、どうなのよ?」

 

 キングヘイローが返すと、リコは大きく吹き出し、肩を震わせながら腰を曲げた。

 

 さもおかしそうに、腹を抱えて笑ったのだ。

 

「何がおかしいのよ!?」

 

「だってー……その思考が既に負けフラグ全開なんだもの。いっそ清々しいくらいよねー。ここまで大物感皆無というか、ザコ臭丸出しなのも」

 

 小馬鹿にしたその言い様に、キングヘイローは奥歯を噛む。

 

 そんな様子を楽しげに眺めながら、リコは挑発を続けた。

 

「心配しなくても、坂路もまともに上れないほど老いぼれちゃいないわよ。そりゃ現役時代に比べたら大分衰えちゃってるけどねー……まあでも、十分なんじゃない? お遊びの勝負でド素人を軽く捻るくらいなら」

 

「……っ! 馬鹿にしてくれるじゃない……さっきから……」

 

「そりゃ馬鹿にするわよ。ヘイローちゃんの今までの成績見てもレース映像見ても、すごいと思えるところが一つもないもの」

 

 その発言で、キングヘイローの怒りは沸点を超えた。

 

 煮え滾る眼差しを相手に向け、怒声を正面から叩きつける。

 

「言ったわね! このババア! もう手加減してあげないわよ! 私が勝ったらそこに土下座させて、地面にめり込むまで頭踏みつけてやるんだからっ!」

 

 火を吐くようなその激昂を受け、リコは表情を変質させた。

 

 薄い唇を三日月の形に曲げ、瞳の奥に鋭い光を灯し――牙を剥くように、笑ったのだった。

 

 

 

 

 

 

「何かヘイローさん、また怒鳴ってるみたいですけど……」

 

 坂路のスタート地点を映すモニターを見ながら、スペシャルウィークが言った。

 

 シンボリルドルフがそれに応じる。

 

「あの年増……先生が煽っているんだろう。人の神経を逆撫でするのが半ば趣味になっているような人だからな」

 

 二人の勝負の見届け役となったシンボリルドルフとワールドカップ日本代表の面々は、坂路コースに併設されたスタンドに移動していた。

 

 普段の練習時なら、各チームのトレーナーやスポーツ新聞の記者達が陣取る場所だ。

 

 ガラス張りの大きな窓から坂路コースを見下ろせる構造になっており、壁際に備え付けられた複数のモニターにはコースの各所が映し出されている。

 

 部屋の隅に立つエルコンドルパサーは、無言でモニターを見つめながら、密かに思案していた。

 

 あの金髪の女――リコという名のサラブレッドについて。

 

「……」

 

 キングヘイローは、リコなどという名は聞いたことがないと言っていた。

 

 あの時は自分も同感だったが――落ち着いて考えてみると、何かひっかかる。

 

 以前どこかで、その名を耳にしたような気がする。いや、雑誌か何かで目にしたのだろうか。

 

 詳しいことは全く思い出せないが、その名が記憶の隅にこびりついている気がするのだ。

 

(この国の生まれじゃないって言ってたけど…………じゃあ、どこの……?)

 

 アメリカ、イギリス、フランス、アイルランドといった競馬先進国のサラブレッドなら、有名どころは全て自分の頭に入っている筈だ。ドイツ、イタリア、カナダ、オーストラリアあたりのサラブレッドも、大体は記憶している。

 

 あまり知らないのは、競馬の世界では比較的マイナーな地域――北欧とアフリカと、中南米のサラブレッドだ。

 

 そのあたりの国々にも名馬は勿論いるが、日本にはほとんど情報が入ってこないため、普通に生活していると知る機会が皆無に近い。

 

(名前の感じからすると、南米っぽいけど……ブラジル? ペルー? それとも……)

 

 モニターを見つめながら、そんな考察を続けていると――

 

「ねえ、エルちゃん」

 

 隣にいたセイウンスカイが、不意に話しかけてきた。

 

「どう思う? あのリコって人のこと」

 

 自分と同じようなことを考えていたのだろう。そう思ったエルコンドルパサーは、少し冗談を交えながら答えた。

 

「あー……何て言うか、色々はっちゃけてる人デスネ。ヘイローさんは大分怒ってましたケド、ワタシはああいう人もそんなに嫌じゃ……」

 

「そういうことじゃないよ」

 

 平坦な声で、セイウンスカイは言う。

 

 エルコンドルパサーが横を向くと、真剣な顔がそこにあった。

 

「上手く言えないけど……あの人、何か変だ。歩き方とか、立ち姿とかが、普通じゃない」

 

 いつも暢気で、弛んだ表情ばかりしているセイウンスカイが――この時は珍しく、硬く鋭い眼差しをモニターの画面に注いでいた。

 

「強いよ――きっと」

 

 

 

 

 

 

 突然、リコが奇妙な行動に出た。

 

 ストレッチを終えた途端、くるりと身を翻し、来た道を戻り始めたのだ。

 

「ちょっと……! どこ行くのよ……!?」

 

 訳が分からず、キングヘイローは問いを投げつける。

 

 リコはそれから十数歩進み、キングヘイローとの距離が二十メートルほど開いたところで立ち止まった。

 

 振り返り、楽しげな笑みを見せる。

 

「ここでいいわ」

 

「は?」

 

「私のスタート地点はここ。あなたはそこ。そういう条件で競走しましょうってこと」

 

 信じ難い宣言に、キングヘイローは瞠目する。

 

 次いで、怒りが――先程嘲弄された時以上に激しい怒りが、腹の底から込み上げてきた。

 

「……ふざけてるの?」

 

「ふざけてなんかいないわ。ハンデよ、ハンデ」

 

 対戦相手よりゴールから遠い位置に立ったまま、リコはさらりと言う。

 

「私とヘイローちゃんじゃ力の差がありすぎるからねー。丁度いいハンデつけてあげたのよ。少しは勝負らしくなるように」

 

「それがふざけてるってのよ! そんなハンデ……実戦だったら大出遅れと同じじゃない! それで勝てるとでも思ってんの!?」

 

 競馬のレースとは、コンマ一秒の差が明暗を分ける勝負。ほんの僅かな出遅れや仕掛けの遅れが、時として命取りになる。

 

 リコが「ハンデ」と称して設定した約二十メートルの差は、実戦ならば取り返しのつかない大出遅れ――勝つことが事実上不可能になるほど絶望的な差だ。ふざけているとしか言いようがない。

 

 にもかかわらず本人は、余裕の笑みを保っていた。

 

「勝てると思ってるから言ってんのよ。それとも何? 負けた時に恥ずかしくなるからハンデなしにしてほしい?」

 

「……っ! いいわよもう! 勝手にしなさい! 後で恥ずかしい思いするのはあなただからね!」

 

 投げやりに言い捨てたキングヘイローは、リコから視線を切る。

 

 そんなに自滅したいなら勝手にすればいいと断じて、坂の上――ゴール地点のある方向に身体を向けた。

 

 脚を前後に広げて腰を落とし、スタートの体勢を取る。

 

 勝負の舞台は、走り慣れた練習場の坂路コース。相手は、引退して十年にもなる年増女。しかもありえないほどのハンデ付き。

 

 負ける要素は何一つない。

 

「いつでもいいから、さっさとスタートの合図しなさいよ!」

 

「はいはい、分かってるわよ。……と、その前に、一つだけアドバイスしてあげる」

 

 同じくスタートの体勢を取りつつ、リコは言う。

 

「私を負かしたいなら、最初から死ぬ気で走った方がいいわよ。こっちはラスト二百メートルくらいしか本気出さないつもりだから」

 

「言ってなさいよババア!」

 

 挑発じみたアドバイスに、キングヘイローは強く反発する。

 

 リコは目を瞑り、それまでとは少しだけ意味合いの違う笑みを浮かべた。

 

「せっかく言ってあげたのに、仕方のない子ね。……ま、いいわ」

 

 目を開き、長い上り坂を見上げる。

 

 口許から笑みを消し、身体を深く沈め、勝負の開始を告げる。

 

「じゃ、始めるわよ。よーい――――スタート!」

 

 その声が響き渡ると同時に、キングヘイローは疾走を始めた。

 

 敷き詰められた木片を蹴散らし、急勾配の坂を一直線に駆け上がっていく。

 

 坂路とは心肺機能を鍛えるためのコースであり、最も体力の消耗が激しいコースだ。慣れているからといって易々と駆け上がれるものではなく、すぐさま重い疲労感がキングヘイローの肉体を襲う。

 

 だが、それは対戦相手とて同じこと。既に現役ではない身に、この坂路は相当辛い筈。

 

 そう思い、息を切らしながら後ろを振り返った。

 

 当然ながらリコも走り出していたが、彼我の距離はスタート時より広がっていた。

 

 宣言通り前半は抑えて走る気なのか、それとも単に加速がつかないだけか、その走りは大した速さではない。

 

 率直に言ってしまえば、遅い。

 

 下級条件で燻るサラブレッド同然の、平凡な走りだ。

 

 何を考えているのか知らないし、本当に強いかどうかも定かでない相手だが――最早どうでもいい。

 

 気の抜けた走りをするなら遠慮なく差を広げてやろうと心に決め、キングヘイローは肉体の出力を上げた。

 

 目に映る景色が高速で流れる。顔面を打つ風が激しさを増す。足腰にかかる負荷の増大と引き換えに、その身は急激に加速。しなやかな筋肉を躍動させ、一陣の風となって突き進む。

 

 キングヘイローは、決して弱いサラブレッドではない。

 

 通算成績二十戦五勝。GⅠ勝ちこそないものの重賞三勝の実績があり、獲得賞金においては同期の中でも上位に入る。

 

 一般的な基準で言うなら十分に一流。世間に広く名の知れた実績馬だ。

 

 そんな彼女が全力を絞り出せば、GⅠ級のサラブレッドでも容易には追いつけない速度に達する。

 

 さらに今は、激しく燃え盛る怒りと対抗心が、その走りに一層の力強さを加えていた。

 

(あんな奴には負けない……! 絶対、勝つ……!)

 

 蓄積していく疲労に耐えながら、心の中で叫ぶ。

 

 この勝負は負けられない。絶対に勝たねばならない。何としてでも勝利を掴んで、認めさせねばならないのだ。

 

 あの腹立たしい女に。そして、スタンドで観戦している同期の四人に。

 

 自分の力を。

 

 自分の存在を。

 

 このキングヘイローが、単なる重賞馬で終わる器ではないことを。

 

 

 ――何故、この五人なのですか?

 

 

 理事長室でグラスワンダーが口にした言葉が、脳裏をよぎる。

 

 肌に刺さった棘のように、微かな痛みを生じさせる。

 

 本人がどういうつもりで言ったかは知らない。妙に張り詰めた顔をしていたから、何か思うところがあったのかもしれない。

 

 けれど、あの時、感じてしまった。

 

 本人にそのつもりがなかったにせよ、こう言っているように聞こえてしまったのだ。

 

 

 何故、キングヘイローがここにいるのですか――と。

 

 

「……っ」

 

 デビューから二年以上経って、未だGⅠ勝ちはなし。

 

 勝率も、重賞勝利数も、獲得賞金も、あの場に集められた五人の中で一番下。直接対決でもあの面々に勝てたことはほとんどない。

 

 だから格下と見られても仕方がない。一緒にワールドカップに行く資格がないと思われても仕方がない。

 

 それは分かっている。言われなくても分かっている。

 

 だが、それでもやはり――悔しさが込み上げてきて、拳を握り締めたくなる。

 

(勝つわ……勝ってやるわよ…………勝てばいいんでしょう……!)

 

 勝利を誓い、悔しさを力に変えて走る。

 

 これは、遊びの勝負などではない。自分にとっての始まりだ。

 

 これまでの自分と決別し、新たな一歩を踏み出すための、重要な一戦だ。

 

 この勝負に勝って、自分を散々馬鹿にした女に一泡吹かせる。同期の仲間達にも、自分の力を認めさせる。

 

 自分は格下ではないと――彼女らと肩を並べるに足る存在であると、何としてでも認めさせてみせる。

 

 そう心に決め、キングヘイローは坂を駆け上がり続けた。

 

 

 

 

 

 

「まだ、仕掛ける気配がないね……リコさん」

 

 スペシャルウィークが困惑気味に呟く。

 

 残り約四百メートルの地点を映すモニターには、坂を軽快に駆け上がるキングヘイローと、その遥か後方で追走するリコの姿が映っていた。

 

 両者の距離の隔たりは、既に十馬身以上。勝敗は決したと断じていいほどの大差だ。

 

「最後までこのままということは、流石にないでしょうけれど……いくら何でも、これは……」

 

 画面内のリコを注視しながら、グラスワンダーが言う。

 

 規格外の末脚を武器に数多くのレースを勝ってきた彼女にも、この状況から逆転劇が起こるとは思えなかった。

 

 いくら何でも、差が開きすぎている。ゴールまでの距離はもう僅かしかなく、キングヘイローがスタミナ切れで失速する様子もない。ここからスパートをかけて遥か前方を行く対戦相手を差し切るのは、シンボリルドルフやマルゼンスキー級の能力があったとしても難しい。

 

 いや、不可能ではないか。この絶望的状況をひっくり返せるような末脚の持ち主など、果たしてこの世に存在するのか。

 

 そんな疑問が、彼女の頭の中を埋め尽くしていた。

 

「追いつくようには思えない……けど……」

 

 同意するように言いつつも、セイウンスカイは難しい顔をしていた。

 

 確かに、普通ならこれは、キングヘイローの圧勝だ。ここまで差が開いた状況から逆転を許すなどということは、常識的にはまず考えられない。

 

 だが、何故だろうか。

 

 キングヘイローの遥か後方を走るリコの姿から、不気味な気配を感じてしまうのは。

 

 この大差を、まるで意に介していないように見えてしまうのは。

 

 ――ありえない。

 

 半端ではない実力の持ち主だとは思うが、流石にそれはありえない。仮に差し切れたとしても、かなり際どい勝負になる筈だ。涼しい顔をしたままキングヘイローを追い抜き、何馬身も差をつけて勝つなど、出来るわけが――

 

 そう思っていると、見つめる画面の中で異変が生じた。

 

「なっ……」

 

 大きく見開いた目が、そのまま凍りついたように固まる。

 

 信じ難い光景を目の当たりにして、セイウンスカイは愕然となった。

 

 

 

 

 

 

 ゴール地点まで、残り約三百メートル。

 

 息を乱して走りながら、キングヘイローは勝利を確信していた。

 

「何よ……楽勝じゃない」

 

 後方にいる対戦相手は、口先だけの女だったようだ。未だ仕掛ける気配を見せず、十馬身以上後ろをのろのろと走っている。

 

 仮にここから凄まじい末脚を繰り出したとしても、もう遅い。差は十分過ぎるほど開いているし、ゴールは目前だ。余裕で逃げ切れる。

 

 あまりの歯ごたえのなさに、やや拍子抜けしたが――些末なことだ。勝ち方などどうでもいい。

 

 勝ちさえすれば、それが新たな一歩となる。

 

 これまでの自分と決別し、再び頂点を目指して歩んでいける。自分の本当の競技人生は、今ここから始まる。

 

 そう思い、僅かに気を緩めた矢先――

 

「キング! 後ろ!」

 

 スタンドの方から、セイウンスカイの声が飛んできた。

 

 警告めいたその声の意味が分からず、眉をひそめた直後。自身の背後に現れた何者かの気配を、キングヘイローは察知した。

 

「――っ」

 

 ぞくりと、肌が粟立つ。

 

 反射的に振り返ると、そこに金髪のサラブレッドがいた。

 

 いつの間に、どうやって差を詰めたのか。遥か後方を走っていた筈の対戦相手が、一馬身半ほどの至近距離まで迫っていた。

 

 その顔は、もう笑ってはいない。

 

 刃のように細められた両目が冷たい眼光を放ち、軽蔑の意を露わにしていた。

 

「駄目ね。全然駄目」

 

 息を乱さず、汗もほとんど流さず――たった今走り始めたかのように平然とした姿で、リコは言った。

 

「あれだけヒントあげたのに、何一つ生かせてないなんて……はっきり言って論外。能力がどうこう以前の問題よ。基礎中の基礎からして、全然なってないみたいね」

 

 それは挑発ではなく、彼女の本音。

 

 キングヘイローというサラブレッドに対する、率直な評価。

 

 敵と呼ぶにも値しない弱者に向けて放つ、憐れみを含んだ罵倒だった。

 

「滑稽を通り越して、不憫にさえ思うわ。……何年経っても、GⅠの一つも獲れないわけね」

 

 容赦のない言葉が、心を抉る。

 

 キングヘイローを支えていたもの――辛酸を嘗める度に奮い立つ気力を与えていたものが、軋みを上げながら罅割れていく。

 

 それでも彼女は、動揺をどうにか押し殺し、精一杯の虚勢を張った。

 

「……う、うるさいっ!」

 

 眉を吊り上げ、相手の顔を睨む。

 

「レース中にごちゃごちゃ喋ってんじゃないわよ! 勝負はまだ――」

 

「黙れガキ」

 

 静かに響く、冷徹な声。

 

 声音と口調、そして表情までもが、一瞬にしてがらりと変わった。

 

 不意を打つようなその豹変に、キングヘイローは絶句する。

 

「相手の力量を見抜く目もない。相手を圧倒する脚もない。せっかくくれてやったハンデを生かす頭もない。そんなザマで――」

 

 残り約二百メートル。

 

 開始前に宣言した地点を通過した瞬間、金髪のサラブレッドは上体を屈めた。

 

 低空を飛行する戦闘機のような、極端なまでの前傾姿勢。

 

 構造上の限界まで歩幅を広げて突き進む、ストライド走法の究極形。

 

 それが、幾多の強敵を打ち破り、母国の競馬史に名を刻んだ天馬――アルゼンチンの黄金獣リコが誇る、異端の走法。

 

「オレの前をチンタラ走ってんじゃねえよ。クソザコが」

 

 一閃。

 

 冷徹な罵声の直後、一条の光がキングヘイローの視界を奔り抜けた。

 

 否、光ではない。刹那の内にキングヘイローを抜き去り、桁外れの速さで坂を駆け上がっていくリコの姿だ。

 

 驚愕する間さえない。あまりに非現実的な事象に、理解が全く及ばない。

 

 目に映る対戦相手の姿は、既に遥か前方。五馬身、六馬身、七馬身――と、彼我の距離は急激に開いていく。

 

 常識を粉砕する爆発的瞬発力。光と化したかのような圧倒的最高速。

 

 大地を裂き、風を貫き、サラブレッドの限界を超えた領域へと踏み入る、閃光の疾走。

 

 隔絶した能力差を抜き去られた者の目に焼き付け、黄金の天馬はゴール地点を通過していった。

 

 

 

 

 

 

 その疾走を目の当たりにしたグラスワンダー達は、揃って凍りついていた。

 

 目を見開いたまま、瞬きさえ出来ない。

 

 呼吸を忘れ、驚愕の声さえ発せられない。

 

 何も考えられず、指一本動かせない。

 

 リコが見せた超越的な強さ――閃光の如き末脚は、彼女らの競馬観を根底から覆し、自失状態に陥らせていた。

 

「アルゼンチン四冠というものを、知っているか?」

 

 一人だけ平静を保っていたシンボリルドルフが、四人に問いかけた。

 

 それを受け、自失状態から脱したエルコンドルパサーが、素の口調で答える。

 

「……聞いたこと、あります。確か……クラシック三冠に、古馬混合戦のグランプリレースを加えた体系だって……」

 

 以前どこかで耳にしただけの、うろ覚えと言っていい知識だったが、それは消えることなく頭の隅に残っていた。

 

 シンボリルドルフは頷く。

 

「そう……ポージャ・デ・ポトリロス、ジョッキークラブ大賞、ナシオナル大賞の三冠と、南米の凱旋門賞と呼ばれるカルロスペレグリーニ大賞から成るのが、アルゼンチン四冠。サラブレッドの質・量ともに南米大陸随一を誇る競馬大国、アルゼンチンの競走体系だ」

 

 その説明を聞き、エルコンドルパサーは雷に打たれたような顔になった。

 

 思い出したのだ。

 

 リコという名を、どこで耳にしたのかを。あの金髪のサラブレッドが、何者なのかを。

 

「四つのレースを同一年度の内に完全制覇した者は四冠馬と呼ばれ、歴史的名馬として語り継がれることになる…………が……あまりにも難度が高すぎるため、二百年近い同国の競馬史の中でも、達成出来たサラブレッドは僅か九名しかいない」

 

 シンボリルドルフは、リコの姿を見つめる。

 

 幾多の感情が複雑に入り混じった眼差しを、偉大な師に向ける。

 

「その内の一人が、あの人――――第四代アルゼンチン四冠馬、リコだ」

 

 キングヘイローを一瞬で抜き去り、桁外れの剛脚を披露したリコは、そのままゴール地点を駆け抜けていた。

 

 キングヘイローとの着差は、十馬身以上。圧倒的な大差勝ち。

 

 天と地ほども隔絶した実力差を見せつけた、文句のつけようのない勝利の形が、そこにあった。

 

「私達とは、強さの桁が違う」

 

 日本最強の≪皇帝≫が口にした言葉は、四人に深い衝撃を与えた。

 

 中でも一際動揺していたのは、グラスワンダーだった。

 

 彼女の脳裏に、幼き日に見た光景――セクレタリアトがベルモントステークスを制した瞬間が蘇る。

 

 アメリカ最強のサラブレッドが大観衆の前で披露した、極限の疾走。

 

 サラブレッドという種の最高到達点とさえ思えた、唯一無二の強さ。

 

 それが、たった今目にしたリコの疾走と、想像の中で重なり合う。

 

 アルゼンチン四冠馬リコが、伝説の≪ビッグレッド≫に比肩しうるほどの怪物であることを思い知り、栗毛の少女は震える声で呟いた。

 

「……強すぎる」

 

 

 

 

 

 

 ゴール地点に辿り着いた後、キングヘイローは地面に両膝をつき、四つん這いの姿勢になっていた。

 

 凍りついたその顔は、死人のように蒼白。

 

 心臓が早鐘を打ち、呼吸の乱れが治まらず、手足の震えも止まらない。

 

 かつて味わったことがないほどの敗北感と恐怖が、彼女の精神を崩壊寸前まで打ちのめしていた。

 

「嘘でしょ……何よあれ……」

 

 二十メートルのハンデをもらっていたのに、一時は十馬身以上引き離していたのに、事もなげに追いつかれた。

 

 そんな異常な脚でさえ、まだ本気ではなかった。

 

 最後の二百メートルで目にした、あの末脚――極端なまでの前傾姿勢から繰り出された規格外の剛脚は、超常現象としか思えなかった。

 

 悪夢に等しいあの強さが、信じられない。

 

 あんな怪物がこの世に存在することを、脳が許容出来ない。

 

「あんなの…………勝てるわけ……」

 

 弱音と共に、涙の雫が零れ落ちる。

 

 頭上から声が降ってきたのは、その直後だった。

 

「大体二十人、ってとこかしらね。もっと多いかもしれないけど」

 

 今しがた自分を破った女の、穏やかな声。

 

 驚いて顔を上げると、いつの間にかすぐ傍に立っていたリコと目が合った。

 

「今の私と同レベルの子の人数よ。世界を見渡せば、今くらいの走りが出来るサラブレッドは二十人かそこらはいるってこと。少なくともね」

 

「――っ」

 

「それだけじゃないわ。今みたいなすっとろい走りじゃ絶対に勝てない化物も、十人はいるわよ。確実にね」

 

 比喩ではなく本当に、キングヘイローは眩暈を覚えた。

 

 今のリコと同格の実力者が、少なくとも二十人。

 

 さらに格上の化物が、確実に十人。

 

 それが誇張ではない事実なら、馬鹿げている。そんな埒外の連中を相手取って、勝算など立つわけがない。

 

「世界ってのはそういうもの。常識外れの化物なんて、どこの国にも一人はいる。アメリカやイギリスみたいな競馬大国なら、当たり前のように何人もいる。今年ドバイで開かれるワールドカップには、そいつらがこぞって集まるのよ」

 

 勝負の前とは別人のように真剣な顔で、キングヘイローを見下ろすリコ。

 

 世界を知る四冠馬の鉄塊じみた瞳は、その奥深くに確かな熱を孕んでいた。

 

「さっきはああ言ったけどね……実は結構マジよ、私。思い出作りに行く気なんてさらさらない。目指すのは優勝だけ。代表に選んだみんなを殺す気で鍛えて、世界の化物を真っ向から打ち倒せるようにしたいんだけど…………あなたに、その覚悟はある?」

 

 涙に濡れた少女の顔を射抜くように直視し、覚悟の程を問う。

 

「私のしごきに耐える覚悟はある? 私より強い奴と命懸けでやりあって、勝利をもぎ取る覚悟はある? キングヘイロー」

 

 その問いかけに、キングヘイローは即答出来なかった。

 

 短期間で飛躍的に力をつけ、世界の舞台でリコ以上の強者に挑み、勝利しなければならないという、不可能に等しい試練の道程。

 

 その苦しさと険しさを思えば、軽々しく首を縦に振れるわけがなかった。

 

「ないなら他の子に替えるわ。半端な気持ちのまま頑張らせたって、結果は知れてるから」

 

 重い沈黙が降りた。

 

 日本代表の一人としてドバイの地に行くか、辞退して代表の席を他の誰かに譲るか――その選択を、リコはキングヘイロー自身に委ねたのだ。

 

 キングヘイローの胸の内で、様々な思いが絡み合う。

 

 新たな一歩を踏み出そうとして、逆に成す術もなく敗れた失意。世界にはさらに上がいるという絶望。想像を超えた怪物が集う場所に踏み入らねばならないことへの恐怖。今更ながら理解した、国を背負って世界と戦うということの意味。

 

 一つとして軽くないそれらが、積み重なって重みを増し、罅割れた心を圧迫する。

 

 総身が震え、溢れる涙で視界が歪む。

 

 心身を容赦なく苛む負の感情の塊に、彼女は潰されそうになり――――抗うために、奥歯を噛んだ。

 

 指先で地面を掻き、拳を握る。

 

「…………馬鹿に、しないでよ……」

 

 強い眼差しでリコを睨み、気力を振り絞って言い放つ。

 

「この世界に入った時から……お母様みたいな、強い競走馬になるって決めた時から…………半端な気持ちで走ったことなんて、一度だってないわよ!」

 

 挫折しかけたのは、これが初めてではない。

 

 今までの競走生活でも、幾度となく壁にぶつかり、敗北と屈辱を味わってきた。思うように結果が出ない日々に悩み苦しんできた。

 

 それでも、諦めずに走り続けてきたのは、夢があったからだ。

 

 幼い頃に抱いた夢が――現実の厳しさを知っても捨てられない願いが、胸の奥底に残っていたからだ。

 

「あなたこそ、やるからには半端な真似しないでよね! 死ぬような特訓だって何だってやってやるから、私を…………この私を、世界のどんな奴にだって勝てるようにしてみせなさいよ! クソ監督!」

 

「――うん。いい返事」

 

 決意のこもった啖呵を聞いて、リコは表情を綻ばせた。

 

 自分を見上げる少女の頭に掌を載せ、優しい手つきで髪を撫でる。

 

「よく言ったわヘイローちゃん。流石私が見込んだ子ね」

 

 日溜まりのような笑顔で褒められ、半ば喧嘩を売るつもりで啖呵を切っていたキングヘイローは面食らう。

 

 数秒前までの真剣な雰囲気をどこかに吹き飛ばした監督役は、髪を撫でながらもう片方の手を自身の口許に当て、小さく吹き出した。

 

 意地悪な少女が、年下の友達をからかうように。

 

「負けて泣きべそかき始めちゃった時は、ぶっちゃけダメだこりゃって思ったけどー…………ぷふっ……いい感じに持ち直したみたいだから、見なかったことにしてあげるわ」

 

 と、見なかったことにする気が全くない様子で言う。

 

 キングヘイローの顔が一気に赤くなった。

 

「なっ……う、うるさいわね! 別に泣いてなんかないわよっ!」

 

「えー? 泣いてたじゃない。ていうか、レース中にちょっと凄まれただけでもう泣きそうだったしー…………うふふっ、あの時のヘイローちゃんのビビり顔ったら、割と傑作だったんだけど?」

 

「あ……あれはっ……あれはあんたが、急にチンピラ口調になりやがるから……!」

 

「はいはい、怖かったのよねー。優しいお姉さんが怖いお姉さんになっちゃったから。でももう大丈夫よー。怖がらなくていいのよー。私って優しいお姉さんキャラがデフォだから。たまーにちょっと体育会系のノリになるだけだから」

 

「う、うるさいわね! 怖がってなんかないわよ! ていうかあなた、絶対あっちの方が素でしょ!? 思いっきり本性現してたでしょ!?」

 

「えー? そんなことないわよー。ヘイローちゃんに試練を与えようと思って心を鬼にしてただけよー」

 

「白々しいのよこの年増っ! ていうかいつまで人の頭に手のっけてんのよ!」

 

 赤面したままリコの手を振り払うキングヘイロー。

 

 リコは可笑しそうにくすくすと笑ってから、首だけを後ろに回した。

 

「……とまあ、そんな具合に私とヘイローちゃんの話はついたんだけど、みんなも同じようなノリでドバイに行くってことでいいかしら?」

 

 少し離れた場所で成り行きを見守っていたのは、既にスタンドから出てきていたグラスワンダー達だった。

 

 表情は様々だが、気の抜けた顔をした者は一人もいない。

 

 世界の壁の厚さを、世界と戦うことの意味を――今の観戦を通じて、彼女達も重く受け止めていたのだった。

 

「いいですよ。世界中の強い人と競走したいって気持ちは、私達も同じだし」

 

「わ――私も、みんなと一緒にワールドカップに行きたいです!」

 

 セイウンスカイが微笑みながら言い、緊張した顔のスペシャルウィークがそれに続いた。

 

 エルコンドルパサーも口を開く。

 

「私も……去年の雪辱を果たしたいです」

 

 かつて果敢に挑み、あと一歩及ばなかった世界の頂を、その目は真っ直ぐに見据えているようだった。

 

「もう一度世界に挑めるなら、何だってします」

 

 次々と、自分の気持ちを言葉にする三人。

 

 その一方で、沈黙を保つ者が一人。小柄な栗毛の少女だけは口を閉ざしたまま俯き、酷く思い詰めた表情を浮かべていた。

 

 それに気付きながらも、リコは満面の笑顔でパンと両手を打ち合わせる。

 

「はい。みんなの適度にクサい決意表明が聞けたから、これで決まりね。それじゃあワールドカップに向けての猛特訓開始ってことで、地獄の合宿やるわよー。明日っから」

 

「「「「「――――は?」」」」」

 

 五人の目が点になる。

 

 聞き間違いかと誰もが思ったが、残念ながら聞き間違いでも言い間違いでもなかった。

 

 ワールドカップ日本代表の監督役は今、決定事項を告げるつもりではっきりと、「明日から」と言ったのだ。

 

「場所は北海道の帯広。絶対クソ寒いから防寒着の用意は忘れずにねー。集合時間に遅れたりしたアホの子には問答無用で膝蹴りぶち込む予定だから、そのつもりでいてねー」

 

 あまりにも急すぎるその話には、誰の理解も追いつかなかった。

 

 

 

 

 

 

「昨日……ゴール手前で、グラスは競走を中止したわね」

 

 校舎裏に建つ慰霊碑の前。

 

 遠い目をしながら、ハナは静かに語った。

 

「あれとよく似た状態に陥った子が、一人だけいたわ。十年近く前にね」

 

 それは、リギルが創設されるより前。

 

 彼女がまだ、未熟な新人トレーナーだった頃の話。

 

「私がここのトレーナーになったばかりの頃、指導にあたった生徒の一人よ。……才能は人並みだったけれど、人一倍努力する子だったわ。いつも遅くまで残って練習して、レースでは自分の限界まで…………いえ……限界以上に力を振り絞って、懸命に走る子だった」

 

 懐かしむような口調とは裏腹に、声音は淡々としていた。

 

 気を弛めば溢れ出してしまう何かを、必死に抑え込もうとするように――彼女の声音は、不自然なほど抑揚を欠いていた。

 

「それがある時から、全力で走れなくなった。限界以上の力を出そうとすると急にブレーキがかかったみたいに失速して、まともに走れない状態に陥るようになった。医者に訊いても原因は分からない。骨折でも炎症でも病気でもなかった。なのに何故か、その子の身体は限界以上の力を引き出すことを拒むようになった」

 

 ハナは思い出す。

 

 凡才ながらも努力を重ね、何度敗れても諦めずに走り続けていた少女が、最後に直面した大きな壁を。

 

 その時の悔しさを。共に味わった苦悩を。

 

「それからしばらく経って、本人は言ったわ……多分、これは警鐘なんだろうって」

 

「警鐘?」

 

 怪訝な顔をするマルゼンスキーと目を合わせず、ハナは続きを語る。

 

「能力の上限は人によって決まっている。上限を超えた力を求めれば、耐えきれないほどの負荷が肉体を襲う。その先に待っているのは肉体の崩壊…………腱の断裂や、粉砕骨折。自分がその一歩手前まで来ていることに気付いてしまった生き物としての本能が、警鐘を鳴らしているんだって……自分は無意識の内にそれに従って、ブレーキをかけているんだろうって……あの子は、そう言っていた」

 

 医学的根拠など何もない、一人の少女が立てた仮説。

 

 しかしながら、それが勘違いや妄想の類ではなかったことを、ハナは知っている。

 

「その時は、正直半信半疑だったけれど…………後になって振り返ったら、全部あの子の言った通りだったんだって……心底から思ったわ」

 

 後悔の滲む言葉を聞き、マルゼンスキーは話の結末を察した。

 

 それでもあえて、彼女は問うた。

 

 大切な後輩の今後を左右する問題に、自分なりの答えを得るために。

 

「……どうなったんですか? その子は」

 

「死んだわ」

 

 感情を排した面持ちで、ハナは即答した。

 

「身体が思うように動かなくなってからも、無理をしてレースに出続けて……レース中に骨折。転倒した後、運悪く避けきれなかった後続に踏みつけられて……助からなかった」

 

 競馬の世界では、稀にある事故だ。

 

 サラブレッドの走る速度は、時速約六〇キロメートル。最後の直線の競り合いになれば、それ以上の速度に達する。

 

 当然、脚にかかる負荷は甚大なものであり、レース中に骨折することも珍しくはない。それが転倒に繋がり、他馬との衝突も重なれば、時に命を落とすほどの重傷を負う。実際、世界規模で見れば毎年何件も、そうした死亡事故が起きている。

 

 だからこそ、競馬に関わる者は、肝に銘じておかなければならない。

 

 競馬とは、死と隣り合わせの競技であることを。

 

「あの子の身体が壊れる寸前だと知りながら、レースに出ることを止められなかった……私の過ち」

 

 教え子の死を、自らが背負うべき罪と断じて、ハナは黙祷を捧げるように目を瞑る。

 

 そして再び目を開いた時、黒い瞳の奥には決然とした意思が宿っていた。

 

「……同じ過ちを繰り返してはいけない。絶対に」

 

 もう二度と、教え子を死なせはしない。壊れる寸前の少女を勝負の場に送り出すような愚行は、決して犯さない。

 

 そう胸に誓い、彼女は今もトレーナーを続けている。

 

「……だから、グラスに言ったんですね。あの走法をやめろって」

 

「ええ」

 

 ハナは頷く。グラスワンダーの特異な走法が諸刃の剣だということは、彼女も以前から気付いていた。

 

 本人の強固な意思により、今まで止められずにいたが――昨日の一件で、決心がついた。

 

「現役を続けることは許したけれど、正直もうグラスワンダーをGⅠに出す気はないわ。これから先は、無理をせずに戦えるレース……出走馬のレベルが低いローカル重賞やオープン特別だけを選んで走らせる。それが私の決定よ」

 

 それは、事実上の降格。

 

 競馬の花形である中長距離のGⅠ路線から弾き出され、日の目を見ない裏街道を走らされるということだ。

 

 勝ったところで大した名誉は得られず、賞金も安い。そして、そんなレースにばかり出続けるグラスワンダーを、世間は間違いなく白眼視する。

 

 落ちぶれたグランプリホース、裏街道に逃げた落伍者――と。

 

 本人は、それに耐えられるだろうか。周囲に冷ややかな目で見られながらも、走り続けることが出来るだろうか。

 

 競馬の世界の厳しさを知るマルゼンスキーは、そう思わずにいられなかった。

 

「……ハナさんの考えは、よく分かりました。間違っているとは思いません。けれど……」

 

 グラスワンダーの性格を、マルゼンスキーはよく知っている。

 

 彼女がレースに懸ける想いを、抱いた夢の大きさを、自分のことのように知っている。

 

 彼女の懸命な走りを、間近で見てきたのだから。

 

「もし……それでもまだ、グラスが全力で走りたいと……大舞台で戦いたいと言ったら……?」

 

「許さない」

 

 ハナは即答した。

 

 その瞳の奥には、暗く冷たい――揺るぎない氷の決意が宿っていた。

 

「必ず止めるわ。どんな手を使ってでも」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話「失くした何か(前編)」

 

 

 初めは誰もが夢を抱く。

 

 黄金のように輝く夢を胸の奥に秘めて、競馬の世界に入ってくる。

 

 そして――ほんの一握りの例外を除いた全員が、現実という名の壁に跳ね返され、道半ばで挫折する。

 

 栄冠を掴めず、何者にもなれず、何処にも辿り着けないまま、競馬場を去る日が来るのだ。

 

 誰よりも強い≪ビッグレッド≫になることを夢見ていたグラスワンダーも、母国のサラブレッド育成機関に入学してまもなく、行く手を阻む大きな壁に直面した。

 

 一言で言ってしまえば、同期生達との実力差だ。

 

 当時彼女が在籍していたアメリカ合衆国ケンタッキー州のキーンランド学園は、数多くの名馬を輩出した実績を持つ名門校。全米各地から才能あるサラブレッドが集まる場所であり、生徒全体のレベルは極めて高い。

 

 十人に一人か百人に一人の才能では、凡人も同然。全く通用しない。

 

 千人に一人か万人に一人の才能を持つ逸材でなければ、生き残ることさえ出来ない場所なのだ。

 

 そんな中にあってグラスワンダーは、「落ちこぼれ」の烙印を押される存在だった。

 

 華奢な外見に似合わず筋力があり、悪路や急坂を駆け抜けるのは得意だが、長所と言えるのはそれ一つだけ。

 

 他の能力は軒並み平均以下。レースセンスに長けているわけでもなく、何か際立った特技があるわけでもない。

 

 唯一の武器である並外れた剛力も、主要レースのほとんどが平坦なダートコースで行われるアメリカ競馬においては生かしどころのない能力であり、無用の長物と言うほかなかった。

 

 練習中に記録する時計は、いつも平凡。模擬レースに出走しても、優秀な同期生の後塵を拝してばかり。

 

 お世辞にも優秀とは言えない少女に周囲が向ける目は、当然の如く冷ややかだった。

 

 侮りや嘲り、あるいは憐れみを含んだ心ない言葉を、幾度も浴びせられた。諦めて別の道を探した方がいいと言われたことさえあった。

 

 しかしながら、そんな状況で一人だけ、彼女に期待を寄せる人間がいた。

 

 彼女のトレーナーだった、若い男だ。

 

「今結果が出ないからといって、焦る必要はない」

 

 グラスワンダーが悩みを打ち明けた時、男はそう言った。

 

「君には才能がある。この国の頂点を目指せるだけの非凡な素質がある。今はまだ、その能力を十分に生かす技術が身に付いていないだけだ。同期生達との現時点での差が、このまま永遠に覆らないわけじゃない」

 

 大きな手が、俯く少女の頭を撫でる。苦悩する娘を励ます父親のように、男は優しく微笑んだ。

 

「幼少時は目立たない存在だったサラブレッドが、いつしか大きく成長して、後世に語り継がれるほどの名馬になった…………そんな例は、世界にいくらでもある。君もきっとその一人さ」

 

 嘘偽りのない期待が込められた、温かな言葉。

 

 それは現実に屈しかけていた少女の心に、一筋の光を与えた。

 

「まずは基礎を固めよう。地道に基礎練習を繰り返して、正しい走り方を身に付けるんだ。理論を知り、技術を磨き、無駄のない理想的なフォームで走れるようになれば、君は間違いなく化ける。今君の前を走っている子達を追い抜く日が、必ず来る。……及ばずながら、その日まで協力させてもらうよ。君の首に薔薇のレイがかけられる瞬間を、是非この目で見たいからね」

 

 薔薇のレイ。

 

 アメリカ競馬最高峰のレース――ケンタッキーダービーの優勝馬に贈られる、美しい赤薔薇で飾られた優勝レイ。

 

 あのセクレタリアトも若き日に手にした、輝かしき栄誉。

 

 自らの教え子は将来それに手が届くと、伝説の≪ビッグレッド≫に肩を並べる日が必ず来ると、トレーナーの男は信じてくれていた。

 

 その信頼を支えにして、栗毛の少女は練習に励んだ。

 

 教えられた「正しい走り方」を身に付け、自分と恩師の夢を叶えるために、地道な努力を続けたのだ。

 

 

 

 

 

 

 雲の上に広がる紺碧の空を、一機の飛行機が横切っていた。

 

 東京の羽田空港を発ち、北海道の帯広空港に向かって飛ぶ旅客機だ。

 

 ワールドカップ日本代表の五名に監督役一名とコーチ役二名を加えた計八名は、それに搭乗していた。

 

 北の大地で、ワールドカップに向けての「強化合宿」を行うために。

 

「合宿やるのは、別に構わないけど……メンバーを集めた次の日にいきなり合宿って、いくら何でも急すぎない?」

 

「あはは……聞いた時はワタシも目が飛び出そうでした。おかげで昨日は、大慌てで準備することになっちゃいましたネ」

 

 機内中央部に並ぶ三列シート――その真ん中に座るキングヘイローの言葉に、右側に座るエルコンドルパサーが苦笑で応じた。

 

 左側に座るセイウンスカイは、いつも通りの気楽な様子で言う。

 

「ま、いいじゃん。飛行機の予約はちゃんと取ってくれてたし、先生達やトレーナーさん達とも話はつけててくれたみたいだしさ」

 

「むしろよく話がついたわね…………私達が日本代表ってのも、あいつが勝手に決めただけっぽいのに……」

 

「そこはまあ、あの強引さで押し切ったんじゃない? うちのトレーナーさんなんて、テロリストに無茶な要求された偉い人みたいな顔してたし――――あ、そうそう」

 

 不意に何かを思い出した様子で、セイウンスカイは膝の上に載せていた手提げ鞄の中をまさぐる。ほどなくして取り出されたのは、一冊の競馬雑誌だった。

 

「昨日部屋で荷作りしてたら、こんなのが出てきたんだよ」

 

「おー、サラボレの二月号デスネ」

 

「二年前のやつじゃないそれ。そんなのとっといてたの……っていうか、買ってたの?」

 

「買ったのは私じゃないよ。一昨年の春までルームメイトだった子。その子が部屋を出てく時に置き忘れてったんだけど……ぶっちゃけ届けてあげるのもめんどくさいから、そこら辺に適当に突っ込んどいたらいつの間にかどっかいってた」

 

「何て言うか……あんたらしい流れね」

 

 キングヘイローは呆れ顔で納得する。セイウンスカイは雑誌を広げ、頁をパラパラとめくった。

 

「で、昨日偶然見つかったから暇潰しに読んでみたんだけどさ、面白かったよ。ほら、こことか」

 

 そうして彼女が二人に見せたのは、ゴール板の前を駆け抜ける栗毛の少女の写真が掲載された箇所。

 

 暮れに行われたGⅠレース、朝日杯の結果を伝える頁だった。

 

「怪物グラスワンダー、無敗で戴冠。海の向こうからやってきた天才少女がジュニアチャンピオンに輝く――だってさ」

 

「……そう言えば、すごく騒がれてたわね。あの時は」

 

 微妙な面持ちで、キングヘイローは写真の中のグラスワンダーに視線を落とす。

 

 エルコンドルパサーもまた、口許から笑みを消した。

 

「レースレコードで圧勝だったからねー。無傷の四連勝でGⅠ制覇だったし。私達の世代のナンバーワンはグラスちゃんで間違いないって、あの時はみんな言ってたよ」

 

「…………そうね」

 

「で、ナンバーツー扱いされてたのが三連勝中だったどっかのキング。怪物グラスワンダーに対抗出来るのはあの超良血馬だけだろうって、ほら、ここにも書いてある」

 

「う、うるさいわね! 私のことでしょ、知ってるわよ! 全然対抗出来てなくて悪かったわねっ!」

 

「ほらこの頁にも、誰かさんの自信満々のコメントが載ってるよ。私に敵などいませんわ誰が相手だろうとキングにふさわしい走りで華麗に粉砕し――」

 

「やめろ! そんな頁開くな! 音読するな!」

 

 自身の黒歴史を暴露され、顔を真っ赤にする元ナンバーツー。

 

 その慌てぶりを笑いながら、セイウンスカイはしみじみと言った。

 

「あの時はもう、完全に二強って空気だったよねー。そりゃグラスちゃんが抜けてるって声の方が圧倒的に多かったけど、キング推しの人もそこそこいたし。トレーナーの人達も、来年以降はグラスちゃんとキングの二人が競馬界を引っ張っていくだろうって――」

 

「……現実にはそうならなかったから笑えるって言いたいんでしょう? いちいち嫌味ったらしいのよ、あんたは……」

 

「笑い話にしたいわけじゃないよ」

 

 そう言った時のセイウンスカイの声音は、不思議な優しさを帯びていた。

 

 呆然とした顔で固まる親友に、彼女は澄んだ青い瞳を向ける。

 

「確かに今は、ここに書いてあるのと違った感じになっちゃってるけど……このまま終わる気はないんでしょ? キングは」

 

「――っ」

 

「今日からの合宿で力をつけて、世界の舞台で証明してやろうよ。あの時みんなが言ってたことが、間違いじゃなかったってさ」

 

 柔らかな微笑みから零れた言葉。そこに込められた意味を理解して、キングヘイローは一瞬目を瞠った。

 

 雑誌に書かれているのは、実現しなかった夢の話ではない。

 

 これから実現する話――自分達の力で現実に変えていくべき話だと、隣に座る銀髪の少女は言っているのだ。

 

「……わ、分かってるわよっ、そんなこと……」

 

 込み上げてきた気恥ずかしさを紛らわすように、そっぽを向く。

 

 彼女らしいその反応を見て、セイウンスカイはにっこりと笑った。

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 一方エルコンドルパサーは、セイウンスカイが広げた雑誌から目が離せずにいた。

 

 朝日杯の結果を伝える頁に掲載されていた、勝利の光景――栗毛の少女がゴールを駆け抜ける写真が、彼女の中から一つの記憶を呼び起こす。

 

 スタンドの最前列に立って見届けた、あの表彰式。

 

 表彰台に上った少女に、銀色の優勝カップが手渡された瞬間。

 

 栄光を掴み取り、多くの人々に祝福されたあの時、栗毛の少女は嬉しそうに笑っていた。

 

 長い苦難の道程を越え、ずっと夢見ていた場所に辿り着いたかのように、幸せな笑顔を湛えていたのだ。

 

 両手で抱えた銀色のカップを、愛おしそうに見つめながら。

 

(…………どうして……)

 

 心の中で、疑問を口にする。

 

 あんなにも嬉しそうに受け取って、あんなにも大切にしていた優勝カップが――どうして昨日、寮の部屋から忽然と消えていたのだろう。

 

 どうして本人は、そのことについて何も言わないのだろう。

 

 そんな物は最初から存在しなかったかのように振る舞い続けるのは、どうしてなのだろう。

 

 疑問の答えを探し求めるように、エルコンドルパサーは雑誌から視線を切り、通路を挟んだ先にある窓際の座席に目を向ける。

 

 一昨日指導者から引退を勧告されたばかりのサラブレッドが、そこに座っていた。

 

 世界と戦う力を得るため北海道に旅立つ、ワールドカップ日本代表の一人として。

 

 

 

 

 

 

 飛行機に乗ると思い出す。

 

 故郷を離れ、単身日本に渡った時のことを。

 

 夢を叶えるまで――異国の地で頂点を掴み取るまで、二度と故郷の土は踏まないと誓った、あの時の気持ちを。

 

 薔薇のレイを諦め、誰にも望まれない道を歩み始めた日の、苦い記憶を。

 

「気になることでもあるの?」

 

「え……」

 

 問いかけられ、はっとする。

 

 隣の席に座る年上の女性――マルゼンスキーが、覗き込むようにこちらを見ていた。

 

「何だか少し、難しい顔してるから」

 

「あ……いえ……ちょっと、昔のことを思い出してて……」

 

 そう言って、グラスワンダーは苦笑した。

 

「飛行機に乗ったせいでしょうか……前の学園にいた時のこととか、日本に来た時のこととかが、急に浮かんできちゃったんです」

 

「ふぅん……」

 

 物思いに耽っていた理由を聞き、マルゼンスキーは少し興味を持った顔になる。

 

「そういえば、あまり聞いたことなかったわね。グラスがアメリカの学園にいた頃の話は」

 

「……そうですね。こっちに来てからは、あまり話さないようにしてました」

 

 振り返りたい過去でも、人に話したい過去でもない。

 

 グラスワンダーにとって、アメリカのキーンランド学園に在籍していた数年間は、出来ることなら消し去りたい過去だった。

 

「正直……前の学園には、あまりいい思い出がないんです。下から数えて何番目かって成績の、劣等生でしたから」

 

「グラスが? ……意外ね」

 

「今もそうですけど……不器用でしたから、私。身体の正しい使い方が、なかなか覚えられなくて……」

 

「苦労したのね…………でも、子供の頃の話でしょう? その時はまだ才能が開花してなかっただけよ」

 

 そう言われると、グラスワンダーはやや寂しげな面持ちになった。

 

 言葉にし難い感情が、青い瞳に滲み出る。

 

「…………開花したと、言えるんでしょうか?」

 

 答えを探し求めるように、零れ出た言葉。

 

 それに答える術を、マルゼンスキーは持たなかった。

 

 ややあって、我に返ったグラスワンダーは、取り繕うように笑顔を作る。

 

「あっ……そ、それにしても、意外でした!」

 

「ん?」

 

「その……今回の合宿に、マルゼンスキーさんが同行してくれるなんて思いませんでしたから……」

 

「ああ、そのこと……」

 

 マルゼンスキーは座席の背凭れに寄りかかり、ぼやくように言う。

 

「私もびっくりしたわよ。昨日あのリコって人が突然訪ねてきて、北海道で合宿やるからルドルフと一緒にコーチ役を務めてほしいとか言い出すんだもの。いきなり何言ってるのこの人、って思ったわ」

 

 今朝方グラスワンダー達が集合場所に着いた時、そこには二人の上級生――シンボリルドルフとマルゼンスキーの姿があった。

 

 監督役のリコが、日本代表の五人を指導するコーチ役として、彼女達を抜擢したらしい。

 

 その決定に文句をつける者はいなかったが、正直なところ皆が意外に思っていただろう。

 

 日本サラブレッドトレーニングセンター学園には、専門的な知識と豊富な経験を持つトレーナーが多数いる。そうした者らを差し置いて現役の競走馬を指導者に据えるなど、常識では考えられない。

 

「まあ別に嫌じゃなかったし……こっちとしても都合が良かったから、引き受けちゃったけどね」

 

 含みのある物言いにグラスワンダーが首を傾げると、マルゼンスキーは続きを述べた。

 

「ハナさんに頼まれたのよ。あの監督役があなた達に無茶させすぎないように、なるべく近くで見張っててほしいって」

 

 それを聞いた瞬間、グラスワンダーの顔に緊張が走る。

 

 マルゼンスキーは首を回し、斜め後方の席に座るリコをちらりと見た。

 

「あの人……現役時代は誰もが認める超一流だったけど、指導者としてはどうかって言われてるみたいでね……色んな意味で行き過ぎた指導で問題になったり、教え子だった子に訴えられたりしてるらしいわ。要するに、まともじゃないってことよ」

 

 お世辞にも評判が良いとは言えない監督役に対する不信を、小声で語る。

 

 しかしながらグラスワンダーの胸中を占めたのは、それとは別のことだった。

 

「世界と戦うための特訓だから、ある程度キツいのは仕方ないけれど、怪我させられて引退なんてなったら洒落にならないでしょう? だからその辺を私が――」

 

「先生は……」

 

 目を伏せ、青褪めた顔で呟く。

 

「何か……言ってましたか……? 私が、合宿に参加することに……」

 

 マルゼンスキーの顔から、表情が消えた。

 

 その後に続いたのは、重い空気が漂う数秒の沈黙。

 

 やがて意を決したように、彼女は抑揚のない声音で問いに応じた。

 

「……あなたがハナさんから突き付けられた条件は、私も聞いてる」

 

 細めた目に、隠しきれない葛藤が滲む。

 

「本人もそれを曲げる気はなかったみたいだけど、今回ばかりは仕方がないって言ってたわ。経緯はどうあれ国の代表に選ばれたなら、自分に口出しする権限はない。練習も監督の指示の範囲内でなら行って構わないって。ただ……」

 

 青褪めた顔の少女と目を合わせ、告げる。

 

「三つ目の条件だけは、何があっても守るようにって」

 

 現役続行の許可と引き換えに課せられた条件の三つ目。

 

 切り札たる「叩きつける走法」の使用禁止。

 

 グラスワンダーにとっては、三つの中で最も受け入れ難かった条件。

 

「もしあなたがそれを破るようなら、強引にでも連れて帰れって言われたわ」

 

「…………そう……ですか……」

 

 三つ目の条件を破れば、その時点で合宿は終了。ワールドカップ日本代表の資格を剥奪され、今度こそ強制的に引退させられる。

 

 最早変えようがない自らの苦境を再認識して、グラスワンダーは震えた。

 

 やはり、国の代表に選ばれただけで自由の身になれるほど、現実は甘くなかった。

 

 どんな状況に置かれようとも――たとえ世界の頂点を争う大舞台に立とうとも、あの走法を使うことは、決して許されないのだ。

 

 あの走法は、非合理だから。

 

 競馬の正道から外れた、邪道の走りだから。

 

「……大丈夫よ。そんな深刻にならなくても」

 

 マルゼンスキーは、硬い表情を解いた。

 

「グラスは強いんだから、普通に走っても十分通用するわ。これからの特訓で今まで以上に基礎を固めれば、世界の強豪にだって勝てるようになるわよ」

 

 励ますように言い、悩み苦しむ少女に笑いかける。

 

 その眼差しは、どこまでも優しかった。

 

「だから、ね。一緒に頑張りましょう。グラス達がワールドカップで活躍出来るように、私も出来る限りサポートするから」

 

「……はい。ありがとうございます、先輩」

 

 温かな気遣いに感謝して、グラスワンダーは淡く微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 帯広市。

 

 北海道東部の十勝地方に所在する、同地方の中心都市。

 

 東京二十三区とほぼ同じ面積を持ち、人口は約十七万人。広大な十勝平野を生かした農業が主要産業となっており、畑作や酪農が盛んなことで知られている。

 

 だが、それ以上に――ある特殊な競技の開催地として、全国的に有名な都市であった。

 

「はい到着ー、っと。ここがこれから二週間、みんなに特訓に励んでもらう場所よ」

 

 運転してきた車を駐車場に停めたリコは、地面に降り立ちながら言う。

 

 帯広空港を出てレンタカーのミニバンに乗り込み、移動すること約四十分。一行は帯広市内にある「特訓の場」に到着した。

 

 皆が続々と車を降りる中、スペシャルウィークは微妙にひきつった笑顔をリコに向ける。

 

「あ、あのー……リコさん……ここって……」

 

「帯広競馬場。大分ローカル臭漂ってるけど、これでも歴とした競馬場よ」

 

「いや、競馬場なのは知ってますけど……」

 

 ここが帯広競馬場なのは、見れば分かる。駐車場の入口にそう書いてあったし、小規模ながらスタンドとコースも設置されている。どこからどう見ても、帯広競馬場以外の何物でもない場所だ。

 

 それを理解しているからこそ、リコ以外の全員は表情をひきつらせているのだった。

 

「普段開催日以外は閉まってるんだけど、特別に使わせてもらう許可は取ってあるから安心して。……じゃ、とりあえず、これからお世話になる人達に挨拶しに行きましょっか」

 

「……ちょっとよろしいでしょうか? 監督」

 

 挙手しながらそう言ったのは、マルゼンスキーだった。

 

 頭痛をこらえるような表情をしているコーチ役に、リコはからかうような笑みを向ける。

 

「あら、何かしら? 年齢詐称感たっぷりのマル子ちゃんコーチ」

 

「詐称していませんし、その呼称にも不満はありますが……今はとりあえず質問させて下さい。ここがどういった場所か、監督はご存じですか?」

 

「そりゃもちろん知ってるわよ。私達みたいなウマが一生懸命駆けっこする場所でしょ?」

 

 微妙に悪意が滲むその返答を聞いて、マルゼンスキーの表情はますます険しくなった。

 

「……すごく嫌な予感しかしないので、重ねて質問します。監督が今仰った、これからお世話になる人達というのは――」

 

「おや、ようやく来たみたいねぇ」

 

 問いを掻き消すように、女の声。

 

 それが飛んできた方向に八人は視線を向け――リコとシンボリルドルフを除く全員が、驚愕に目を見開いた。

 

 桁違いの肉体を持つ恐るべき集団が、自分達に近付いてきていたからだ。

 

「その子達が日本代表? ふふ……なぁんだ、思ったより可愛らしいじゃない」

 

「本当ねぇ。細いし小さいし、ちょっと抱き締めただけで折れちゃいそう」

 

「可哀想にねぇ。こんな所に連れてこられちゃって。こんなか弱い子達をいたぶらなきゃいけないなんて、心が痛むわぁ」

 

「でも仕方ないわよねぇ。殺す気でやっていいって言われちゃったんだから。手を抜いちゃったら逆に失礼ってものよねぇ?」

 

「うふふふふ……久々に血が騒ぐわぁ」

 

 にやにやと不吉な笑みを浮かべながらやってきたのは、五人の女だった。

 

 年齢は、全員三十代から四十代。日本代表の五人からすれば、親子ほども年の離れた大人達だ。

 

 長い耳と尾を持つことから、同族であることが見て取れる。

 

 しかし、問題はそんなことではない。

 

 代表の面々が一様に青褪め、絶句し、恐れ慄いている理由は、ただ一つ。

 

 突如として現れた五人の中年女が皆、二メートルをゆうに超す身長の大女だったからだ。

 

「ほらほらみんな、ビビってないで挨拶しなきゃ駄目よー。今日からこの人達にみっちり指導してもらうんだからねー。礼儀正しくしましょうねー」

 

 リコは当然のように言うが、その発言内容は日本代表の五人にとって悪夢に等しいものだった。

 

 油の切れかけたゼンマイ人形のように首を回して、セイウンスカイが問う。

 

「え、えっと……リコさん……? ばんえい馬だよね……? この人達……」

 

「そうよー。大分前に引退した元ばんえい馬の皆さん。日本代表のみんなを強くするための特訓に協力してほしいってお願いしたら、快く引き受けてくれたの。いい人達よねー」

 

「ば――馬鹿じゃないのあんた!?」

 

 キングヘイローが叫ぶ。

 

 彼女でなくとも、声を荒らげて猛抗議したくなるような状況であった。

 

 何しろここに来るまで、一言も聞いていなかったのだ。合宿の地に巨人の軍団が待ち構えているなどという話は。

 

「ワールドカップで勝つための合宿じゃなかったのこれ!? 何でここでばんえい馬なんかが出てくるのよ!?」

 

 馬という生き物には多くの種があり、様々な分類法があるが――体格で分類する場合は、軽種、中間種、重種、在来種、ポニー種の五つに分けられる。

 

 サラブレッドが属するのは軽種。比較的小柄で体重が軽い種だ。身軽なため運動能力が高く、競走や馬術競技を主な活躍の場とすることで知られている。

 

 その対極に位置するかのような存在が、重種。最も身体が大きく、最も屈強な種だ。鈍重なため速さ比べには全く向かないが、筋力と耐久力の面では軽種馬を遥かに凌駕する。

 

 一行の前に現れた五人の大女は、疑いようもなく重種馬だった。

 

 北海道帯広市は、重種馬を用いた特殊な競技――「ばんえい競馬」を主催する、世界で唯一の自治体なのだ。

 

「なんか、とはご挨拶ねえ。お嬢ちゃん。これでもあたしら、ばんえいの中じゃ結構名の知れた方なのよ?」

 

「――っ」

 

 五人の内の一人が、キングヘイローの頭に掌をぽんと置く。

 

 それだけでキングヘイローは硬直し、今にも失禁しそうなほど青褪めた。

 

 自分より一メートル近く巨大な女が相手では、萎縮するなという方が無理な話である。

 

「よしなさいってイレネー。あんまり怖がらせたらオシッコちびっちゃうわよ、その子」

 

「いきなりあたしらを見たからびっくりしてるのよ。ちょっとのことは大目に見てあげなさいな」

 

「そうそう、最初は優しくしてあげてって言われたでしょ。最初はね……うふふ」

 

 仲間をやんわりと窘める大女達。一見優しげなその表情からは、どことなく不気味な陰が滲み出ていた。

 

 日本代表の面々は、借りてきた猫の状態。

 

 目の前に立ち並ぶ大女達の岩山のような巨躯に圧倒され、言葉を発することさえままならなくなっていた。

 

 絶対にありえない仮定だが――もしこの場で五対五の殴り合いなどになれば、万に一つも勝ち目はない。

 

 一方的に蹂躙されて無惨に全滅するまで、おそらく十秒とかからないだろう。

 

 それほどの絶望的戦力差が、軽種馬と重種馬の間にはあるのだ。

 

「……皆、既に察していると思うが…………今回の合宿で行うのは、普通のトレーニングではない」

 

 それまで黙っていたシンボリルドルフが、やや気まずそうな顔で言う。

 

「まずは、力の要る馬場を苦にしない強靭な足腰を培うため、我々より体格面で遥かに優れた重種馬の方々を手本とし――」

 

「はいはい、そんな無理して遠回しに言わなくていいのよー。要はごついおばさん達にばんえい競馬を教えてもらうってだけの話だからねー。ほらみんな、ちゃちゃっと準備しちゃって」

 

 迂遠な説明を封殺し、リコは日本代表の五人に「練習」の準備を促す。

 

 固い決意を胸に北海道の土を踏んだ少女達は、早くも東京に帰りたくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 日本中央競馬会が主催する「中央競馬」と北海道帯広市が主催する「ばんえい競馬」は、全くの別物だ。

 

 単に運営母体が違うだけではない。レースに出走する馬の品種が違う。レース体系も違う。コース形態も違う。開催日も違う。さらに、レースのルールそのものが根本的に違う。

 

 簡単に言ってしまえば、ばんえい競馬とは、重種馬が鉄の橇を曳いて走る競技なのだ。

 

「はぁっ……はぁっ……くぅっ……はぁっ……! や……やっぱり……頭おかしいんじゃないの……!? あいつ……」

 

 砂が敷き詰められた、僅か二百メートルの長さしかない直線コースの半ば付近。

 

 滝のような汗を流しながら、キングヘイローは愚痴を零した。

 

「こんなの、私達がやることじゃないし……私達に出来るわけないし、出来たって仕方ないし…………何をトチ狂ってこんな馬鹿なことさせてんのよ、あのクソ監督は……!」

 

「……まあ、筋力はつくかもしれないけど……いくら何でもキツすぎるよね、これは……」

 

 隣にいるセイウンスカイが、弱々しい声で言った。

 

「激しく同意デース……フランスにもこんな特訓ありませんでしたヨ……」

 

「うぅ……頭がクラクラしてきた……」

 

 エルコンドルパサーとスペシャルウィークも弱音を吐く。吐かずにはいられない。

 

 何故なら現在、彼女らの胴体には特殊な馬具が取り付けられ、巨大な鉄製の橇と繋がった状態にあるからだ。

 

 橇の重さは、約五百キログラム。しかも、プロレスラーより体格の良い大女達――かつてばんえい競馬で名を馳せた重種馬達が、一人ずつその上に乗っている。

 

 そんな軽自動車並の重荷を引き摺って帯広競馬場の直線コース二百メートルを踏破せよというのが、彼女らに与えられた課題だった。

 

 言うまでもなく、狂気の沙汰である。

 

「オラァ! ちんたら歩いてんじゃねえぞクソガキ共! くっちゃべってる暇あったら脚動かせってんだよマヌケ!」

 

「ぶへっ!?」

 

 橇に乗る大女が、手に持つ竹刀でエルコンドルパサーの脳天を殴打。哀れな被害者は女子にあるまじき顔になり、頭を抱えて悶絶した。

 

 次いで、他の大女達の怒鳴り声が響く。

 

「細っこいてめえらのために一番軽い橇使ってやってんだぞボケが! このくれえでへばってちゃ話にならねえんだよクソボケ!」

 

「それとも何だぁ!? こんな軽い橇じゃちょろすぎてやる気になりませんってかぁ!? あんま舐め腐ってんと一トンの橇曳かせんぞゴルァ!」

 

「それが嫌なら死ぬ気で走れやゴミ共! 言っとくがケツでゴールしやがったクソゴミはもっかい最初からやり直させっからな! 覚悟しとけよオラァ!」

 

 日本代表五人が準備を済ませスタート地点に立つまで、表面上は優しげだった重種馬五人は――特訓が始まった途端、お約束のように豹変した。

 

 少しでも気を抜けば情け容赦ない罵声を飛ばすだけでなく、各々が手に持つ竹刀や角材で痛烈な打撃を叩き込んでくるのだ。

 

 そのあまりにも前時代的な厳しさに、エルコンドルパサー達は早くも辟易していた。

 

 ばんえい競馬用の橇を曳くなどという無茶をさせられている上にこれでは、身体がどうにかなってしまいそうだ。

 

「だ、大丈夫……? 今すごい音したけど……」

 

「……大丈夫じゃないデース。魂が飛んでいきかけてマース」

 

 声を潜めて問いかけるスペシャルウィークに、エルコンドルパサーはぐったりしながら返答する。

 

 キングヘイローとセイウンスカイは、同時に溜息をついた。

 

「何でこのおばさん達、こんな昭和のノリなのよ…………世間に知れたら大問題になるんじゃないの? これ」

 

「バレなきゃいいって思ってるんだよ、きっと。バレてもそのまま続行しそうだけど」

 

「……私達がワイドショーのネタになる日も、遠くなさそうね。この分だと」

 

「そういう方向で有名になりたくないなぁ……」

 

 時代錯誤な暴力的指導の被害に遭った、五人の哀れな少女――という風な形で報道される自分達の姿を想像して、二人は微妙な顔になる。

 

 そこで、スタンドからリコの声が飛んできた。

 

「ほらほら、そこのヘタレ四人組ー、くたびれたオッサンみたいにとぼとぼ歩いてる場合じゃないわよー。元ばんえい馬の人達に指導してもらえる機会なんてそうそうないんだからねー。もっと死ぬ気で頑張らなきゃ駄目よー」

 

 元ばんえい馬にばんえい競馬のやり方を教えてほしいなどと頼んだ覚えはない、と全員が思った。

 

「特にエルちゃん、何よそのヘタレっぷりはー? もう一度世界に行くためなら何だってします(キリッ)とか言っちゃってた昨日のカッコいいエルちゃんはどこ行っちゃったのー? エルちゃんは口だけの残念な子だったのー?」

 

「え、えーと……もちろん頑張るつもりなんですケド……ばんえい競馬は、ちょっと予想外だったというか……」

 

「えー、何? こんなとこで重い橇曳くなんて予想外だったから出来ませんってギブアップするのー? 情けない子ねー。そんなんだからいつも汗臭いマスク着けてるって言われちゃうのよー」

 

「言われてません! っていうか汗臭くないデス! ちゃんと毎日洗ってマース!」

 

 悪質な風評被害に憤慨するエルコンドルパサーだったが、既に疲れ果てている他の面々にとってはどうでもいいことだった。

 

「……まあ、エルちゃんのマスクが汗臭いのは置いとくとして」

 

「汗臭くないデス!」

 

「実際問題、これでまともに走るなんて無理だよね? そりゃ、重種馬の人達は出来るんだろうけど……私達と重種馬じゃ、身体の作りが違いすぎるよ」

 

 約一名の抗議を無視して、セイウンスカイは冷静に意見を述べる。

 

 キングヘイローもそれに同意した。

 

「……そうね。さっきも言ったけど、この競技ってそもそも私達がやれるように出来てるものじゃないし……それを練習も無しにいきなりやってみろなんて、無茶が過ぎるわよ。まったく」

 

 ばんえい競馬は、重種馬のための競技。レース中に使用される鉄製の橇は、筋骨たくましい重種馬が曳くことを前提に作られている。重種馬と比べて筋力面で劣る軽種馬が易々と曳ける代物ではない。

 

 要するに、出来なくて当たり前なのだ。サラブレッドの身で歴戦の重種馬と同等の筋力を持つ者など、この世に存在しないのだから。

 

 ――ただ一人の、異常すぎる例外を除いて。

 

「こんな馬鹿げたこと、平気でこなせるのは――――あの子くらいね」

 

 言いながら、キングヘイローは前を向く。

 

 その視線の先に、戦車のような力強さでコース上を突き進む少女の姿があった。

 

 日本競馬の異端者、≪怪物≫グラスワンダーだ。

 

 同じ重さの橇に繋げられた状態のまま、全員横並びでスタートしたというのに、彼女一人だけが遥か先を行っていた。

 

 橇を曳く速さが、他の四人とは違い過ぎたのだ。

 

 大地を粉砕し、競馬場に轟音を響かせ、数々の強敵を真正面から打ち破ってきた≪怪物≫の剛力は、ばんえい競馬の舞台でもいかんなく発揮されていた。

 

「やっぱり……こういうのが一番得意なのは、グラスちゃんだよね……」

 

「……得意とかいうレベルじゃないでしょ、あれ…………いったいどんな身体してるのよ……」

 

≪怪物≫グラスワンダーの最たる武器は、小さな身体にそぐわぬ圧倒的筋力。

 

 純粋な力比べで彼女に敵う者は、日本競馬界に一人もいない。

 

 その揺るぎない事実を再認識し、セイウンスカイとキングヘイローは呆れと感嘆が入り混じった思いを口にした。

 

「……」

 

 違和感を覚えたのは、エルコンドルパサーだけだった。

 

 自分達を置き去りにして前へ前へと進んでいく、小柄な栗毛の少女。

 

 その走りは確かに力強く、呆気に取られるほど凄まじい。

 

 けれど、何か物足りない。

 

 自分がよく知る≪怪物≫の本来の姿とは、どこかが微妙に違っているような――

 

「だからチンタラ歩いてんじゃねえってんだよボケがぁ!」

 

「ぼへっ!?」

 

 殺人的な痛打が、再び脳天に炸裂した。

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーは四人に大差をつけたまま、ゴール板の前を先頭で通過した。

 

 走破時計は、二分二十一秒二。

 

 ばんえい競馬の下級条件戦と遜色ない時計である。

 

「お疲れ。大変だったわね」

 

 立ち止まって息を整えているグラスワンダーに、マルゼンスキーが歩み寄りながら労いの言葉をかける。

 

 その表情は、娘の身を案じる母親に近かった。

 

「……大丈夫? どこか痛まない?」

 

「大丈夫です。……少し疲れましたけど、何ともありません」

 

「ならいいけど……いきなり五百キロの橇曳かせるなんて、思ったより無茶苦茶ね。この合宿」

 

 彼女にしては珍しい愚痴に、グラスワンダーはどう答えたらいいものか迷い、曖昧な苦笑を返す。

 

 そうしていると――

 

「……大したもんだよ。本当に」

 

 指導役として橇に乗っていた大女が、口を開いた。

 

「ケツぶっ叩いてでも走らせろって言われてたけど、そんな必要なかったね。まさかあたしらと大差ない時計で走り切るとは思わなかったよ」

 

 イレネーという名らしい、青毛の重種馬だ。

 

 彼女は落ち着いた表情のまま、深く静かな眼差しをグラスワンダーに向けていた。

 

「流石は――」

 

「上出来よーグラスちゃん! ベリーグッド!」

 

 言葉を遮る大声と共に、上機嫌な様子のリコがやってくる。

 

「この無理ゲーをあっさりクリアするなんて、流石は日本一の筋肉達磨ね! メスゴリラ感満載のパワフルな走りには惚れ惚れしちゃったわー。その有り余る筋肉をあっちのヘタレ共にもちょっと分けてあげてほしいくらいよ」

 

「は、はぁ……」

 

 あまり嬉しくない褒め方をされ、微妙な顔になるグラスワンダー。

 

 リコは笑顔で続けた。

 

「よく頑張ったから、罰ゲームのケツバットは免除してあげる。今日はもう上がっていいわよ。明日に備えてゆっくり休んじゃって」

 

 グラスワンダーは言い知れぬ不安を覚えた。

 

 目の前にある優しげな笑顔が何故か、酷く不気味で禍々しいものに見えてならなかったのだ。

 

 そして残念ながら、その直感は的中した。

 

「イレネーさん」

 

 リコの目は、青毛の重種馬に向けられる。

 

「明日はこの子だけ別メニューでいくから、ちょっと付き合ってあげて」

 

「別にいいけど、何しろってんだい?」

 

「簡単よ。この子と競走してほしいの。ばんえい競馬のルールでね」

 

 グラスワンダーとマルゼンスキーが、同時に目を瞠った。

 

 イレネーは目を細め、真剣な顔になる。

 

「……いいのかい? あたしで」

 

「ええもちろん。どうせなら一番強い人と競走させてあげた方が、いい勉強になるし」

 

「…………練習とはいえ、走るってんなら加減は出来ないよ。あたしは」

 

「そうでなきゃ困るわ。地獄の合宿だもの、これ」

 

 リコが笑顔のまま言うと、イレネーは仕方がなさそうに溜息をつく。

 

 気乗りはしないが了承した、といった様子だった。

 

 そうして話がまとまりかけたところに、マルゼンスキーが割って入る。

 

「ちょっと待って下さい、監督」

 

 彼女は不機嫌を露わにし、鋭い目でリコを睨んだ。

 

「どこからツッコんだらいいのか、正直困ってるんですけど……とりあえず順番に言わせてもらいます。グラスはたった今、実戦同様の模擬レースをさせられたばかりですよ? それなのに明日またやれとか……しかも、元ばんえい馬のイレネーさんと競走しろって…………あなたは正気ですか?」

 

「もちろん正気よ。何もトチ狂っちゃいないわ。パワーで全てを解決する脳筋丸出しのグラスちゃんを、さらに超絶パワーのスーパー脳筋に進化させるために試練を与えてるの。何か問題ある?」

 

 およそ真剣とは思えないふざけた口調で、リコは問い返す。

 

 マルゼンスキーの苛立ちは、さらに高まった。

 

「いくら力があるからって……グラスはサラブレッドですよ? 本職の人とばんえいルールで勝負して勝てるわけないでしょう?」

 

 他の四人に大差をつけてゴールしたグラスワンダーだが、それはあくまで、サラブレッドの中では抜きん出た剛力を持つという話。

 

 根本的に身体の作りが違う重種馬相手に、力の勝負で敵うわけがない。

 

 それを知っているからこそ、相手に指名されたイレネーも渋い顔をしているのだ。

 

「そりゃ勝てないでしょうね。でも、勝ち負けは問題じゃないわ。要は負荷の問題よ」

 

 そう言って、リコは顔を横に向ける。

 

 エルコンドルパサー達四人は未だゴールに辿り着けず、コース上で悪戦苦闘を続けていた。

 

「見ての通り、他の子達とじゃ勝負にならないみたいだし……単走じゃどうしたって負荷が足りなくなっちゃうからね。遥か格上を必死に追い駆けるくらいで丁度よくなるのよ。こういう、ひたすら筋肉を鍛えるトレーニングは」

 

「……言いたいことが上手く伝わっていないようなので、はっきり言います。そんな無茶させてたら強くなる前に身体が壊れるって言ってるんですよ、私は」

 

「その時はその時よ」

 

 マルゼンスキーが呈した苦言に、リコはきっぱりと即答した。

 

 その目には、一片の迷いもない。

 

「もちろん監督として、選手が身体を壊さないように細心の注意は払うけど……壊れるのを怖れて訓練を生温くするなんてのは、本末転倒もいいところ。ワールドカップまで大して時間はないし、世界との差は簡単には埋まらない。壊れることも覚悟の上で鍛えまくらなきゃ届かないわよ、世界の頂には」

 

 無責任とも取れる発言に、マルゼンスキーは反論しようとし――すんでのところで、それを呑み込んだ。

 

 彼女とて分かっている。

 

 この合宿が、世界と戦う力を培うためのものであることを。

 

 世界との間にある絶望的な差は、並大抵の努力では決して埋められないことを。

 

 しかし、それでも、身体を壊しかねないほど過酷な訓練が後輩の身に課せられることは、彼女には受け入れ難かった。

 

「グラスちゃんも、ワールドカップで勝ちたいわよね?」

 

 本人の意思を確かめるように、リコは問いを投げかける。

 

「なりたいんでしょ? 世界最強に」

 

「…………はい」

 

 やや逡巡してから、栗毛の少女は返答した。

 

 リコはふっと笑う。

 

「ならここで頑張らなきゃね。ま……流石に今回は相手が悪すぎるから、勝てとまでは言わないわ。胸を借りるつもりで一生懸命走ってくれればそれでいいわよ」

 

 グラスワンダーはこくりと頷く。

 

 どこか無理をしている様子の少女に、マルゼンスキーは心配そうな目を向けた。

 

「グラス……」

 

「大丈夫。やれます」

 

 額に大粒の汗を浮かべながら、自分自身に言い聞かせるように答える。

 

 苦もなく橇を曳いていたように見える彼女だが、やはり慣れないことをした後だ。見た目ほど余裕があるわけではない。

 

 それでも疲労を押し殺し、決然とした顔で言った。

 

「練習が厳しいのは、覚悟の上です…………私も、世界の頂点を目指してますから」

 

 橇の上に立つ青毛の重種馬を見上げ、怯まずに目を合わせてから、深く頭を下げる。

 

「明日は全力でいきますので、ご指導お願いします。イレネーさん」

 

 その言葉を受け、イレネーは――ばんえい競馬の生ける伝説は、厳めしい面持ちのまま静かに応じた。

 

「ああ――こっちも手は抜かないから、死ぬ気でついてきな」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話「失くした何か(中編)」

 

 

 ケンタッキーダービーを制し、薔薇のレイを手に入れる。

 

 その目標を胸にひたむきな努力を続けたグラスワンダーだったが、それでも彼女は伸び悩んでいた。

 

 トレーナーから教えられた「正しい走り方」が、彼女にはどうしても身に付かなかったのだ。

 

 理論を知っても、上手く実践出来ない。

 

 最も効率的で合理的とされる動作が、何故か身体に馴染まない。

 

 様々な練習法を試したものの目に見える進歩が表れることはなく、月日だけが無為に過ぎていった。

 

「はぁっ……はぁっ……駄目……全然……」

 

 その日もまた、彼女は練習場の隅で息を切らしながら、落胆の声を零していた。

 

 休日返上で自主トレーニングに励んだのだが、やはり成果は無し。

 

 自身の全力疾走を撮影した携帯端末に映るのは、酷くぎこちないフォームで走る劣等生の姿だけ。教本に載っていた理想的なフォームとは、まるで違う。

 

 こんな無様な走りでは、トレーナーはきっと納得してくれないだろう。

 

「もう一度……やらないと……もう一度……」

 

 疲弊した身体を押して、トラックコースのスタート地点へと向かう。

 

 諦めるわけにはいかない。出来るようになるまでやらなければいけない。辛くても、苦しくても、ここでやめるわけにはいかないのだ。

 

 自分には、夢がある。

 

 強くなって恩師との約束を果たし、最高の栄誉を勝ち取る夢がある。

 

 さらに、その先――

 

 幼い頃から抱き続けてきた、≪ビッグレッド≫になるという夢も――

 

「……」

 

 立ち止まり、足元に目を落とす。

 

 僅かな逡巡の後、右脚を高く振り上げる。そしてそのまま、地面に向かって振り下ろした。

 

 地面を踏むというよりも、地面に脚を叩きつけるように。

 

 渾身の力を込めて。強く。深く。

 

 そうすると、懐かしい感覚が込み上げてきた。

 

 身体の奥深くでダイナマイトが爆ぜたかのような、熱く激しい感覚。

 

 心を震わせる、灼熱の衝動。

 

 それを糧にすれば、どんな時でも前に進める。

 

 疲労を忘れ、脚の痛みを気力で捻じ伏せ、地面を蹴り砕きながら、どこまでも前へと。

 

 昔は――学園に入る前は、そんな風に走っていた。

 

 かつてベルモントパーク競馬場で観た≪ビッグレッド≫の走りを、真似していたのだ。

 

 理論も何も知らない子供の、幼稚な真似事だ。本当の≪ビッグレッド≫の走りとは、少しも似ていなかっただろう。

 

 けれど、それが自分の走りだった。

 

 幼心に焼きついた最強馬の疾走を自分なりに再現しようとした結果、自然と出来上がったのがその形だったのだ。

 

 一緒に駆けっこをしていた友達からは、汚い走り方だと馬鹿にされた。

 

 両親からは、怪我をするから止めろと叱られた。

 

 そして学園に入ってからは、真っ先に矯正させられた。

 

 スポーツ科学を修めた指導者達にとって、脚を地面に叩きつけるなどという非合理な走り方は、容認し難い「悪癖」でしかなかったのだ。

 

 誰も認めてはくれなかった。

 

 この走り方を「悪癖」ではなく一つの「型」として認めてくれる者は、一人もいなかった。

 

 皆に嘲笑され、罵倒され、否定され続けてきた。

 

 それでも、時折思う。伸び悩む自分自身を見つめる度、心のどこかで思わずにいられない。

 

 やはり自分には、これが一番合っているのではないかと――

 

「駄目だぞ、それは」

 

 背後から、よく知る男の声。

 

 振り返ると、厳しい面持ちで立つトレーナーの姿がそこにあった。

 

「トレーナーさん……」

 

「気になって見に来てみれば、これだ…………また悪い癖が出かかっていたぞ。脚を地面に叩きつけるような真似はよせと、もう何度も言ってきただろう?」

 

 心底から呆れたと言いたげに、若いトレーナーは教え子の行いを注意する。

 

 指導を始めた頃は決して向けなかった類の眼差しを、その顔に向けて。

 

「は、はい……すみません……つい……」

 

「分かればいいが……君ももうすぐ公式戦に出る齢なんだ。そろそろ自覚を持ってほしいな。悪癖を直して正しい走り方を身に付けるという意思を強く持ってくれなければ、直るものも直らないよ」

 

「はい……」

 

 グラスワンダーは俯く。

 

 敬愛する恩師に「叩きつける走法」を否定されるのは、他のどんなことよりも辛かった。

 

「……練習メニューを見直す必要がありそうだな」

 

 トレーナーは溜息をつき、踵を返して歩き出す。

 

「今日はもう上がりなさい。それ以上やっても成果は出ないだろうし……君のその悪癖は、僕が思っていたより重症のようだからね」

 

 深い失望を含んだ言葉が、胸に突き刺さる。

 

 遠ざかっていく男の背中を直視出来ず、栗毛の少女は俯いたまま唇を噛んだ。

 

 君の首に薔薇のレイがかけられる瞬間を見たい――そう言われた日が、もう遠い昔の出来事のようだ。

 

 近頃のトレーナーは、その夢を口にしなくなっていた。

 

 笑顔を見せてくれる機会も減り、優しい言葉をかけてもくれなくなった。

 

 不出来な教え子を立派に育て上げようという熱意さえ、徐々に薄れている様子だった。

 

 自分はもう、愛想を尽かされかけている――その事実を、グラスワンダーは深く痛感していた。

 

 当然と言えば当然だろう。

 

 トレーナーは父親ではない。大成する見込みのない者にいつまでも甘い顔はしてくれない。

 

 結果を出せなければ見限られる。勝負の世界では当然のこと。

 

 そう自分に言い聞かせてみても、胸に残る痛みは消えなかった。

 

 ――勝ちたい。

 

 無人の練習場に佇みながら、心の中で呟いた。

 

 誰にも負けない強さが欲しい。今の自分が置かれた状況を打破する、輝かしい勝利が欲しい。

 

 レースで勝利を手にすれば、全てが変わる。

 

 同期生達に蔑みの目で見られることもなくなる。

 

 レベルの高い名門校に入学することに難色を示していた両親も、自分を認めてくれる。

 

 トレーナーもきっと、自分を見直してくれる。

 

 いつかのように夢を語り――また一緒に薔薇のレイを目指そうと、優しい笑顔で言ってくれる。

 

 その時は、そう信じていた。

 

 

 

 

 

 

 帯広市内に建つ古びた旅館が、日本代表チームの宿泊場所だった。

 

 合宿初日の午後九時。

 

 食事と入浴を終えた代表選手五人は、自分達に割り当てられた八畳の和室で布団の上に腰を下ろしていた。

 

「あー……疲れたぁ……」

 

 脚を投げ出した姿勢のキングヘイローが、天井を仰ぎながら盛大に溜息をつく。

 

 お嬢様らしからぬ振る舞いだが、今は疲労が溜まりすぎていて、体裁を気にする余裕もないらしい。

 

「何よあれ……何なのよ……何で私達がばんえい競馬なんかさせられなきゃいけないわけ? 一回やっただけで、もう体中にガタがきてるんだけど……」

 

「みんなはまだいいよ。私なんか二回だもん…………お尻バットで叩かれたし」

 

 眉を八の字にして、スペシャルウィークがぼやく。

 

 不運にも昼間の競走で最下位になってしまった彼女は、ケツバットの刑に処せられた挙句、「もう一度最初からやり直し」という悪夢の罰ゲームを課せられたのだ。

 

 そして二回目の途中で、体力が尽きて失神した。

 

 人一倍練習熱心な彼女でさえ、二度とやりたくないと思ってしまうほどの苦行であった。

 

「橇も殺人的に重いけど、乗っかってる人達が重すぎるよね、あれ…………実戦じゃないんだから、わざわざ橇に乗らなくたっていいのに……」

 

「三十秒に一回くらいの頻度で物理攻撃してきますしネー……ワタシなんか頭叩かれすぎて、ガチで脳味噌が零れ出るかと思いましたヨ……」

 

 セイウンスカイとエルコンドルパサーも、うんざりした様子で愚痴を並べる。

 

 五人中四人が激戦地から帰った兵士のような有様になっているせいで、室内の空気は重く淀んだものと化していた。

 

 元気なのは、約一名だけだ。

 

「あ、あはは……今日は大変でしたよね…………で、でも大丈夫ですよ。初日だからちょっと疲れましたけど、人間慣れればどうにかなるものですし……」

 

「……」

「……」

「……」

「……」

 

 グラスワンダーが苦笑しながら言うと、四人の冷たい眼差しが彼女に注がれた。

 

「え……? な、何ですか? その目は……」

 

「うん……嫌味じゃないのは知ってるけどさ……筋肉たっぷりのグラスちゃんが言うと、何かすごく嫌味っぽく聞こえるよね……」

 

「どう見たって慣れとかの産物じゃないでしょ、あなたのその有り余る筋肉は」

 

「いいなその筋肉……ちょっと分けてほしいよ」

 

「脳筋が羨ましいデース」

 

「な……!? み、みんなでそんな筋肉筋肉言わないでくださいっ!」

 

 顔を赤くするグラスワンダー。

 

 天性のものである並外れた筋力は、彼女の大きな武器なのだが――「筋肉たっぷり」だの「有り余る筋肉」だのと筋肉の塊みたいに言われるのは、正直言って嬉しくない。

 

 この連中は、自分を何だと思っているのだろうか。

 

「……まあでも、明日は今日と同じことはやらないみたいだよ」

 

「あら、そうなの?」

 

「うん。さっきリコさんが言ってた。あの橇曳くのを連日やらせると流石に壊れるから、明日は違う特訓するんだって」

 

「私は、明日イレネーさんと競走するように言われましたが……」

 

「グラスちゃんはチームの脳筋枠だから、多少無茶させてもいいんだってさ」

 

「……」

 

 あまり光栄とは思えない扱いに、グラスワンダーは微妙な顔になる。

 

 エルコンドルパサーが肩をすくめた。

 

「でもあの人のことだから、まともなトレーニングは期待しない方がいいデスネー。世界の強豪と渡り合うにはこれが必要なんだーとか言って、きっとまたハチャメチャなことをワタシ達に要求して――」

 

「あ、そういえば……」

 

「ん? どうしましたスぺちゃん?」

 

 何かに気付いた様子のスペシャルウィークに、エルコンドルパサーは怪訝な顔を向ける。

 

 スペシャルウィークは顎に人差し指を当てながら、思ったことを口にした。

 

「今ふと思ったんだけど…………他の国の代表の人達って、もう決まったのかな?」

 

 その疑問を聞き、皆が「あっ」と小さく声を上げた。

 

 九ヶ月後にドバイの地で開かれるワールドカップ――その舞台で対戦することになる他国の代表選手。

 

 世界各国が威信をかけて送り出す、五人の精鋭。

 

 それがどのような顔ぶれになるのかを、彼女達はまだ知らない。

 

「流石にまだじゃない? ……って言いたいけど、うちみたいな例もあるから何とも言えないわね…………まあでも、イギリス、フランス、アメリカあたりなら選ばれる面子は大体想像がつくわよ」

 

「世界的に有名デスからネ。そのあたりの国の名馬は」

 

 キングヘイローの発言に、エルコンドルパサーが同意する。

 

 近代競馬発祥の地イギリス。

 

 数々の歴史的名馬を輩出してきた強国フランス。

 

 競馬の規模と質においても世界随一を誇る超大国アメリカ。

 

 その三国の最高峰に君臨する英傑達の名は、世界に広く知れ渡っている。

 

「まずイギリスだけど、ミルリーフとブリガディアジェラードの二人は確実に出てくるでしょうね。実績、実力共に抜きん出てる二大巨頭だもの。あとは歴戦の古豪ハイペリオンに、欧州最強の追い込み馬と言われるダンシングブレーヴ……全盛期は十五連勝を記録したプリティポリーなんかも候補に挙がってるかもしれないわね」

 

「イギリスならあれもいたじゃん。セントなんとかっていう、ちょっとやばい人」

 

「……セントサイモンは去年逮捕されたわ。今は実刑判決が下って服役中よ。これで二度目だから、もう当分は出てこれないでしょうね」

 

「そっかぁ、残念だなー…………あの人すごく強かったのに」

 

「いくら強くたってレースに出しちゃ駄目でしょう、あんな異常者。ていうかシャバにいちゃいけない奴よ、あれは」

 

 残念がるセイウンスカイに、キングヘイローは吐き捨てるように言う。

 

 グラスワンダーとエルコンドルパサーは何と言っていいか分からずに微妙な顔を並べ、海外競馬に疎いスペシャルウィークだけが首を傾げた。

 

「話を戻すけど、フランスはシーバードを送り出してくるでしょうね、間違いなく。あの伝説の凱旋門賞の優勝馬で、レーティング歴代一位の超名馬……フランス競馬の栄光の象徴。ワールドカップで優勝を狙うなら絶対に欠かせない存在よ」

 

「よく知らないけど、そんなに強いの? シーバードって」

 

「……強いなんてもんじゃないわ。史上最強馬論争なんかになれば、必ず名前が挙がるレベルの化物よ」

 

「へー……」

 

「あとはシーバードに次ぐ実力者のリライアンスに、フランスダービーやパリ大賞典を制してるパントレセレブル、GⅠ八勝のアレフランス…………残る一枠はダラカニか、ミエスクか、ザルカヴァか……分からないけど、そのあたりがフランスの代表メンバーになるでしょうね」

 

「あれ? モンジューさんは?」

 

 昨年のジャパンカップで対戦した相手の名前がないことに、スペシャルウィークは疑問を抱く。

 

 キングヘイローは難しい顔になった。

 

「微妙なとこね……候補に挙がらないことはないと思うけど、多分出てこないと思うわ」

 

「え!? そ、そんな……どうして……?」

 

「どうしても何も……フランスって競馬大国だから、層が厚いのよ。あのモンジューですら代表に選ばれないかもしれないくらいに」

 

「――っ」

 

 絶句するスペシャルウィーク。

 

 告げられた事実は、彼女に少なからぬ衝撃を与えたようだった。

 

「アメリカについては……エルとグラスの方が詳しいわよね?」

 

 アメリカ出身の二人に、キングヘイローは目を向ける。

 

 母国の話とあって興が乗ったのか、エルコンドルパサーが普段の調子を取り戻してそれに応じた。

 

「ハイハーイ、それじゃワタシが説明しますネー。アメリカは世界で一番サラブレッドの数が多い国デース。その分競争が激しいので、トップクラスにいる人達はとんでもなく強いデース。今夜はそんな超絶スーパーホース達の中から、ワタシが独断でピックアップした五人を紹介していきましょう!」

 

「何で急にバラエティ調になるのよ」

 

「まあエルちゃんだし……」

 

「その芸風とったら何も残らないもんね、エルちゃん」

 

「うっ……何かさりげなくグサッとくること言われた気がしますケド、気にせず始めましょう! まずはアメリカ史上最速のサラブレッド、≪暴嵐≫ドクターフェイガー! ダート一マイルの世界レコード保持者デース! 中距離でも十分すぎるほど強いデスが、真価を発揮するのはやはり短距離! 七ハロン以下のレースでは未だ負けたことがないという、ダート短距離界の絶対王者デース!」

 

「あー、フェイガーね……」

 

「聞いたことある……この先絶対に更新されないレコードを叩き出した人だって」

 

「ワールドカップに短距離戦があるなら……出てくるわよね、絶対」

 

「お次は芝路線の帝王、≪聖騎士≫ラウンドテーブル! ボールドルーラー、ギャラントマンと並び称された黄金世代最後の生き残りで、六十六戦四十三勝の大ベテランデース! トップホースの中では最年長の部類デスが、その強さは未だ健在! 芝のレースでは滅法強く、十七戦十五勝と圧倒的な勝率を誇りマース!」

 

「芝のスペシャリストか……ダートが主流のアメリカじゃ珍しいタイプよね」

 

「六十六戦四十三勝……すごい……」

 

「ただ強いだけじゃなくて、相当なタフさがないと叩き出せないよね。そのレベルの成績は」

 

「続いてはアメリカ競馬史上屈指の下克上! 底辺から頂点まで駆け上がったシンデレラホース、≪魔王≫シガー! 当初は連敗街道まっしぐらの凡馬でしたが、デビュー十四戦目に出走した一般競争で突如覚醒! 別馬と化したかのような走りで圧勝を重ね、数々の強敵を打ち破り怒涛の十六連勝を達成! 瞬く間に大レースを総ナメにした大確変野郎デース!」

 

「な、何か……すごい人ばっかりだね、アメリカって……」

 

「そりゃそうよ。世界一の超大国だもの」

 

「色んな意味でスケールが違うよね。うちの国とは」

 

 すっかり調子に乗り、無駄に気合の入った解説を披露するエルコンドルパサー。それに耳を傾けながら、あれこれと意見を述べ合う三人。

 

 そんな光景を、どこか遠くを見るような目でグラスワンダーは見つめていた。

 

 会話に加わらず、一人静かに思う。

 

 ――自分達は競走馬だ。

 

 競馬場で走ることを仕事にして生きている。

 

 その生き方を選んだ理由は、多分各々で違うのだろう。

 

 競馬に懸ける想いの形も、きっと違う。

 

 それでも、競馬の話になれば皆が一つにまとまり、時にふざけて笑い合い、時に真剣な顔で議論する。

 

 生まれた場所も考え方も違う自分達を、競馬という競技だけが繋いでいる。

 

 結局のところ、皆好きなのだ。

 

 競馬場で走ることが。強い相手と競い合うことが。

 

 芝生の上を全力で駆け抜け、先頭でゴールに辿り着くことが。

 

 だから日々の辛い練習に耐え、幾多の困難を乗り越えながら走り続けている。

 

 今もそうだ。

 

 突如発表されたワールドカップ開催に驚き、国の代表に選ばれたことに戸惑い、滅茶苦茶な特訓や理不尽な仕打ちに不平不満を述べたりはしているが――皆の根底にある意思は変わらない。

 

 世界最高峰の舞台に立つ日を夢見て、強敵との対決に胸を躍らせている。

 

 世界を制するという途方もない目標を、皆が本気で目指しているのだ。

 

 それなのに、自分は――

 

「さあそして、四番目に登場するのは現役最強の呼び声高いあの人! デビューから無敗のままアメリカ三冠を完全制覇するという前人未踏の大偉業を成し遂げた、第十代三冠馬!」

 

「何か格闘漫画の選手入場みたいになってきたね……」

 

「脳内麻薬か何かが過剰分泌されてきたんでしょ、きっと」

 

 セイウンスカイとキングヘイローが呆れ顔で言う一方、グラスワンダーは密かに息を呑む。

 

 第十代三冠馬。

 

 耳に入ったその言葉が忌まわしい記憶を掘り起こし、彼女の表情を一変させた。

 

「その疾走は湖面を泳ぐ水鳥の如く優美! 沈着冷静なレース運びは機械の如く正確無比! 競走馬の理想形とも讃えられる完全無欠のレーシングマシン! その名は――」

 

「ほーら、いつまで騒いでるの!」

 

 最高潮に達しかけた熱い語りを、叱声が遮った。

 

 部屋の戸を開け放ち、怒り顔のマルゼンスキーが現れたのだ。

 

「駄目でしょう夜更かししてちゃ。明日も特訓なんだから、みんなもう寝なさい」

 

「あ……スミマセン……」

 

 エルコンドルパサーが素に戻り、申し訳なさそうに縮こまる。

 

 その様子を見てマルゼンスキーは立ち去ろうとしたが、部屋の中に一人だけ顔色が悪い者がいることに気付き、首を傾げた。

 

「ん? どうかしたの? グラス」

 

「いえ……」

 

 青褪めた顔で俯いていたグラスワンダーは、小さく頭を振る。

 

「何でも……ないです……」

 

 そうして、夜の競馬談議は幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 午後十時過ぎ。

 

 消灯からしばらく経ち、皆の寝息が聞こえるようになった頃――エルコンドルパサーは、隣の布団で横になっているグラスワンダーに囁きかけた。

 

「グラス……起きてますか?」

 

「……はい」

 

 やや間を置いてから、小声の返答。

 

 暗い部屋の中、エルコンドルパサーは布団に寝転んだまま苦笑する。

 

「さっきはスミマセン。喋ってるうちについ楽しくなって、悪ノリしすぎちゃいました。はは……」

 

「いえ、私も楽しかったですよ。……たまにはいいですよね、こういうのも。何だか修学旅行の夜みたいで」

 

「あはは……そういえば、このメンバーで一緒に泊まるのって初めてでしたネ」

 

「普段は別々のチームですからね。レースでは敵同士でしたし」

 

「……そう考えると不思議デース。ついこの間までライバルだったワタシ達が一つのチームになって、一緒に世界の舞台を目指してるなんて……」

 

「……」

 

「どうしました? グラス」

 

「いえ……何でも……」

 

 グラスワンダーは言葉を濁す。

 

 どこか思い詰めた様子の親友に、エルコンドルパサーはやや逡巡してから問いかけた。

 

「……さっき、マルゼンスキーさんが来た時…………グラス、顔色悪そうにしてましたよね?」

 

「……っ」

 

「もしかして、ワタシ……調子に乗って、何かまずいこと言っちゃってました……?」

 

「いえ……」

 

 否定してから、どう言うべきか迷う。

 

 エルコンドルパサーが悪いわけではない。これは自分の問題。

 

 三年前のあの日から、癒えずに残り続けている――自分自身の心の傷痕。

 

「そういうわけじゃ、ないんです…………ただ……」

 

 目を細める。

 

 苦い記憶を噛み締めながら、ぽつりと零す。

 

「知り合い……なんです……」

 

「え……」

 

「さっきエルが、アメリカ代表の四番目に挙げてた人……私の知り合いです」

 

「えっ…………えええええええっ!?」

 

「……っ! こ、声が大きいですエル……」

 

「す、すみません…………で、でも……それ、ほんとに……?」

 

「ええ……家が近所で、小さい頃はよく一緒に遊んでました」

 

 無邪気だった子供の頃――姉のように慕っていた少女の顔を思い浮かべ、訥々と語る。

 

「私も彼女も走るのが好きで……二人で競走する度に、勝った負けたで喧嘩になって……大きくなったら同じレースに出て決着をつけようって…………そんな約束をしたこともあります」

 

 口許を綻ばせ、寂しげに笑う。

 

 微かな自嘲と諦めを、細めた目の奥に宿して。

 

「今じゃ、もう…………天と地ほど差がついちゃいましたけど……」

 

 零れ落ちたその言葉に、エルコンドルパサーはどう応じたらいいか分からなかった。

 

 アメリカ競馬界の頂点に君臨するあの名馬が、本当にグラスワンダーの幼馴染なら――残念ながら、格が違うと言わざるをえない。

 

 いや、比較対象にすることさえ許されないだろう。

 

 何せあれは、アメリカの名馬の中でも別格の実力者。

 

 今や伝説的存在となった二人の≪ビッグレッド≫にも匹敵するほどの傑物なのだ。

 

「三年前の冬……その人が日本に来て、私の前で言ったんです。お前の走り方は愚かだ、って」

 

「愚か……?」

 

「非合理で、無駄ばかりで、脚に余計な負担をかけるだけの愚かな走り……徹底した合理主義者のあの人の目には、私の走り方がそう映ったみたいです」

 

 否定しようがない事実を辛辣に突きつけてきたのは、数年ぶりに再会した親友だった。

 

 あの時の胸が締めつけられる思いは、今でも忘れられない。

 

「その愚かな走りで得られる強さは、花火のようなものだって……そんな風にも言われました」

 

 記憶に刻まれた呪いのような宣告を、栗毛の少女は自らの口で紡ぎ出す。

 

「ほんの一瞬だけ激しく輝いて、すぐに虚しく消え失せる。後には何も残らない。……そういう類の強さだって……」

 

「――っ」

 

 エルコンドルパサーの脳裏に、一つの光景が蘇る。

 

 一昨日の模擬レース。

 

 互いに死力を尽くした一対一の勝負が、思わぬ形で終わった瞬間。

 

 たった一人で辿り着いた、空虚なゴール。

 

 振り返った先にあった、ゴール手前で立ち尽くす少女の姿。

 

 深い断崖に行く手を阻まれたかのようだった、悲哀と絶望の表情。

 

 それが、たった今聞いた話と重なって、最悪の想像を形作り――エルコンドルパサーは、否定の言葉を絞り出した。

 

「…………そんなこと……ない……」

 

 拳を握る。

 

 掌に爪が食い込むほど、固く握り締める。

 

「グラスの強さが、消え失せるなんて…………そんなことないから……絶対に……」

 

「……」

 

 願いを込めたその言葉に、グラスワンダーは答えなかった。

 

 二人の少女の想いを包み――合宿一日目の夜は、静かに更けていった。

 

 

 

 

 

 

 合宿二日目。

 

 冷たく乾いた冬風が吹き抜ける中、帯広競馬場の正面スタンド前では、常軌を逸した特訓が行われていた。

 

「ぬおああああああああ――――っ!」

 

「ぎゃふっ!?」

 

 雄叫びを上げながら突進してきた大女の体当たりを受け、真後ろに弾き飛ばされるスペシャルウィーク。

 

 数メートルに及ぶ空中移動を強いられた彼女の身体は、そのまま地面に敷かれた厚いマットの上に落下。大の字になって苦悶の表情を晒した。

 

「ぐっ……うぅ……」

 

 その表情と呻き声が、受けた衝撃の凄まじさを物語る。

 

 いや、身体が数メートルも飛んだ時点で生半可な体当たりでないことは明白だった。

 

 自動車にはねられでもしない限り、人体はそんな風に飛ばない。

 

「はい次、ヘイローちゃん。怪我しないように気を付けてね」

 

「次――じゃないわよ! 殺す気なのあんた!?」

 

 真顔でしれっと言うリコに、キングヘイローは全力で怒声をぶつけた。

 

 帯広競馬場の正面スタンド前はエキサイティングゾーンと呼ばれており、現在彼女らはそこにいる。

 

 グラスワンダーを除いた日本代表チームの選手達が、重種馬の大女達の体当たりを順番に受けるという、意味不明な荒行が行われているのだ。

 

 どうせ今日も非常識なことをやらされるのだろうと半ば諦めていた四人も、これには流石に驚愕し、開いた口が塞がらなくなっていた。

 

 本当に、殺す気としか思えない。

 

「だいたい何よこの特訓は!? 何で私達がその人達の全力ぶちかましを真正面から受けなきゃなんないの!? ねえ!」

 

「別に全力じゃないわよ。みんなが死んじゃわないように九十五パーセントくらいの力に抑えててくれてるってば」

 

「ほとんど全力じゃない! 死ぬわよ! 体重差何キロあると思ってんの!?」

 

「うるさい子ねぇ。地面にマット敷いてあげてんだからいいじゃない」

 

「マットだけ敷きゃいいってもんじゃないわよ!」

 

 その場に集っている「体当たり役」の四人は、昨日橇に乗っていたのと同じ顔ぶれで、全員が身長二メートルを超す大女だ。

 

 それもただの長身ではなく、鋼の筋肉を蓄えた屈強極まりない体躯の持ち主であることが、服の上からでも見て取れる。

 

 一番小柄な者でさえ、体重は百五十キロを下らないだろう。

 

 そんな超重量級の巨人達が、ウマ科の生物特有の爆発的脚力で助走をつけてぶつかってくるのだから、その威力は計り知れない。

 

 怪我防止のためのマットが地面に敷かれているものの、それが気休めにしかならないことは、スペシャルウィークの惨状が証明していた。

 

「もー……しょうがないわねえ…………じゃあクソめんどくさいけど、この特訓の意義ってやつを説明してあげるわよ」

 

 リコは溜息をつき、軽く頭を掻く。

 

 そして僅かに真剣な色を湛えた目で、キングヘイロー達の顔を見据えた。

 

「日本の競馬って、お行儀がいいのよ。良くも悪くもね」

 

「……どういう意味?」

 

「ラフプレーが少ないってこと。今まで私が観た限りじゃ、レース中にポジション争いで身体をぶつけ合う場面はそう多くないわ。他の国と比べるとね」

 

「それは……仕方ないじゃない。あまり危ないことしたら妨害行為で降着になるんだから」

 

「そう。降着になる恐れがあるから反則紛いの危ないことはしない……日本ではそれが普通になってる。でも、他の国だとちょっと事情が違うわよ」

 

 競走体系やコース形態が国によって違うのと同様に、競走馬を取り巻く環境もまた、国によって大きく違う。

 

 現役を退いてから世界各地を渡り歩いてきた女は、それをよく知っている。

 

「降着や失格の基準が日本より緩い国はあるし、他の国がどこも、日本みたいに豊かなわけじゃない」

 

 その発言を受け、キングヘイロー達は揃ってはっとした。

 

 リコが言わんとしていることを、悟ってしまったからだ。

 

「レースに負けて悔しいで済むのは、豊かな先進国だけ。私の故郷もそうだったけど、あまり豊かじゃない途上国の競馬ではレースの結果が生き死にに直結してる。一つでも着順上げて賞金稼がなきゃ生きていけない……そんな環境で育ってきた奴らは、なりふり構わず何でもやってくるわよ。勝つためにね」

 

 実感を込めて語られたのは、競馬の現実だった。

 

 充実した設備と厳格なルールがあり、レースに勝てば高額の賞金が得られる――そんな恵まれた環境の国は、世界的に見れば少数派だ。

 

 世界には未だ、貧しい国が多い。

 

 レースの賞金が日本の十分の一にも満たない国もある。

 

 そうした環境で歯を食いしばりながら生きるサラブレッド達に、綺麗事は通用しない。

 

 勝負の場に立てば、反則紛いの危険な行為も躊躇なく仕掛けてくるだろう。

 

 厳しい勝負の世界で、生き残るために。

 

「良いポジション取るために人を押しのける奴なんて腐るほどいるし、事故を装って自分以外の有力馬を潰そうとしてくる奴だって珍しくない。私も現役時代は何度かやられて、そのせいで競走中止になりかけたりもした。だから今、あなた達に言ってるのよ。そういう悪どい奴を相手にしても対処出来るだけの身体と技術を手に入れなさいって」

 

 リコは首を回し、立ち並ぶ四人の大女に目を向ける。

 

「体当たりを受けるだけの単純な特訓だけど、これに慣れて踏ん張れるようになれば、どんな奴が何を仕掛けてきても耐えられるようになるわ。サラブレッドより遥かに大きい重種馬とぶつかっても倒れない身体を得たってことだからね。説明は以上だけど、何か質問ある?」

 

「…………ないわよ」

 

 苦虫を噛むような顔で、キングヘイローは答える。

 

 エルコンドルパサーとセイウンスカイも、思いは同じだった。

 

「ものすごく強引な理屈に聞こえたけど……これが必要な特訓だってことは分かったわ。文句言わずにやればいいんでしょう、やれば」

 

「そうそう。やればいいのよやれば。あっ、油断してるとマジで死ねるから気を付けてねー」

 

「うるさいわね! 見りゃ分かるわよそんなの!」

 

 文句を言いつつ進み出たキングヘイローは、自身の正面に立つ芦毛の重種馬と向き合った。

 

 表情を引き締め、軽く一礼する。

 

「……お願いします」

 

「あいよ。はじめは軽くいってやるから、そうビビりなさんな」

 

「別に……腰は引けてません」

 

「そうかい? じゃ、遠慮なくいかせてもらうよ」

 

 強がりをからかうように笑いながら、深く身を沈める大女。その挙動を見て、キングヘイローの全身に緊張が走った。

 

 正直、怖くないというのは嘘だ。

 

 自分より遥かに大きい相手の突撃が怖くないわけがない。

 

 それでも、この試練から逃げてはいけないと思い、下腹に力を入れて身構えた。

 

 先程のリコの言葉が、自然と脳裏をよぎる。

 

 ――他の国がどこも、日本みたいに豊かなわけじゃない。

 

 確かにその通りだ。

 

 広い世界には、自分達よりずっと恵まれない環境下で命懸けの競走生活を送るサラブレッドが大勢いる。

 

 自分達五人は、ワールドカップの舞台でそうした猛者達と真っ向からぶつかり合い、勝たねばならないのだ。

 

 弱音を吐いてはいられない。努力を惜しんではいけない。本番までに残された時間を一秒たりとも無駄にせず、やれることは全てやる。

 

 そのくらいの気概をもって臨まなければ、世界の頂点には到底手が届かないだろう。

 

 大丈夫。やれる。

 

 突撃に備えながら、自分にそう言い聞かせる。

 

 鋼の砲弾が飛んでくるわけではない。少しばかり体格が良い中年女が走りながらぶつかってくるだけだ。

 

 その程度なら、きっと耐えられる。

 

 覚悟を決めて守りを固め、歯を食いしばって抗えば――

 

「うおらあああああああああ――っ!」

 

「――っ!?」

 

 甘い見通しは、激烈な衝撃によって粉砕された。

 

 相手の巨躯と接触した瞬間、靴裏が地面から離れる。成す術なく後方に飛ばされた後、受け身もとれずに背中から落下。

 

 数分前のスペシャルウィークと全く同じ姿になり、肺の中の空気を吐き出した。

 

「かはっ――」

 

 信じられない。

 

 たった一度受けただけで、全身が罅割れたかのようだ。

 

 いかに巨躯の持ち主とはいえ、ただの体当たりがここまで凄まじい威力になるものなのか。

 

 ウマ科の中で最大最強の肉体を誇り、ばんえい競馬という過酷な競技を生業とする重種馬の一族――その桁外れの剛力を、キングヘイローは改めて実感した。

 

「力入りすぎ。確かに踏ん張れとは言ったけどね、無駄に力めばいいってもんじゃないのよヘイローちゃん。……ま、いいわ。何度もやってりゃそのうちコツ掴むでしょ。じゃ、次はエルちゃんね」

 

 そう言って、リコは赤いマスクの少女に視線を移す。

 

 名指しされたエルコンドルパサーは一瞬びくっと震え、視線を左右に行き来させた後、わざとらしく腹を抱えてうずくまった。

 

「あたたたたっ!? ワ、ワタシ、急におなかが痛く……」

 

「はいはい、そんな昭和感溢れるカビ臭い手を使わなくていいのよ。嫌がらずにちゃちゃっとやっちゃいましょうね」

 

「い、いえあの、ほんとに痛くて……少し休まないと回復しそうには……」

 

「いいからいいから。さっさと前出なさいって。何ならマットの上で臭い下痢便ぶちまけちゃってもいいわよ。もしそうなったら学園中に言いふらして一生ネタにするだけだから」

 

「それもう人生終了レベルの大惨事じゃないデスかー!? ていうか腹痛とは言いましたケド別に下痢とは――」

 

 エルコンドルパサーが必死に抵抗していると、その横を銀髪の少女がすっと通り抜けた。

 

 セイウンスカイだ。

 

 普段と変わらぬ淡い笑みを浮かべた彼女は、エルコンドルパサーと揉み合っているリコに問う。

 

「私が先にやってもいい? リコさん」

 

「……? 別にいいけど……妙にやる気ね、ウンスちゃん」

 

「見てたら何となくコツが分かったから。多分だけど、上手くやれると思うよ」

 

 自信に満ちた様子で告げ、今しがたキングヘイローを弾き飛ばした重種馬の前に立つ。

 

 そして怯むことなく、相手と目を合わせた。

 

「じゃ、お願いします。手加減なしでいいですよ」

 

「……」

 

 その佇まいから、先の二人との違いを感じ取ったのだろう。

 

 芦毛の大女は何も言わず、真剣な顔で腰を落とした。

 

 正面スタンド前にいる全員が注視する中、丸太のような脚が地面を踏み締め、二メートル超の巨躯を凶器に変えた突撃が繰り出される。

 

 爆発的な加速を得た肉の砲弾が、無防備に立つセイウンスカイに迫る。

 

 少女の華奢な身体が大女の重厚な身体に弾き飛ばされ、宙を舞う――それ以外に考えられない状況は、直後に覆された。

 

 地面に敷かれたマットの上に倒れたのは、銀髪の少女ではなく、突撃を仕掛けた大女だったのだ。

 

「なっ……」

 

 芦毛の大女は、放心した顔で声を洩らす。

 

 他の重種馬達や傍で見ていたキングヘイロー達も、浮かべた表情は同じだった。

 

 突撃を真正面から受けたセイウンスカイが倒れず、逆に突撃を仕掛けた側が倒れる結果となったのだから無理もない。

 

 そんな離れ業をやってのけた当人は、少しだけ得意げな顔になり、すぐ近くで目を丸くしているリコに言った。

 

「どう? 特訓の主旨とは違うかもしれないけど、こういうのもありでしょ?」

 

 確認の意味を込めた問いかけに、リコは答えない。

 

 代わりにキングヘイローが、半ば混乱した様子で言った。

 

「な……何やったのあんた、今……」

 

「流した」

 

「流したって……」

 

「んー……ぎゅーんと来る相手をゆらーっと待ち構えて、ふわっと受けて、しゅるっと回るとか……そんな感じ?」

 

「全然分かんないわよ! もっと理論的に言いなさいよ! 擬音とかなしで!」

 

 要領を得ない説明にキングヘイローが憤慨すると、リコが納得した様子で口を開いた。

 

「なるほど……武道の応用ね」

 

 銀髪の少女の暢気な顔に、鋭い眼差しを向ける。

 

「限界まで脱力した姿勢で受けて体当たりの衝撃を殺し、さらに自分の身体を円運動させて相手の身体を後ろに流した……詳しい理合いは知らないけど、大体そんな感じでしょ? 今ウンスちゃんがやったのは」

 

 柔道や合気道などの武道には、相手の力を受け流す技法がある。

 

 やり方は流派によって様々だが、基本となるのは脱力。全身を強張らせて守りを固めるのではなく、逆に弛緩させて攻撃の威力を殺し、そこから反撃に転じるのだ。

 

 セイウンスカイが芦毛の大女を相手にやってみせたのは、その応用なのだろうが――言うほど簡単なことではない。

 

 確かな身体操作の技術と、タイミングを見極める優れた感覚、そして攻撃を怖れない強固な胆力がなければ不可能と言っていい。

 

 日本のサラブレッドの中でそんな真似が出来るのは、おそらくセイウンスカイだけだろう。

 

「私がみんなにやらせたかったこととは、確かにちょっと違うけど……まあそれも、ありっちゃありよ。要は相手との接触から身を守れればいいんだからね」

 

 一つの手段として認めつつも、リコの表情は厳しかった。

 

 セイウンスカイと目を合わせたまま、核心を突くように言う。

 

「でも……分かってる? 見た目は華麗だけど、実はとってもリスキーなやり方よ。それ」

 

 その指摘に、セイウンスカイは反論しなかった。

 

 彼女自身が、とうの昔に気付いていることだったからだ。

 

「これはあくまで初歩の訓練だから、真正面からぶつかる形にしてるけど……実戦で他馬とぶつかるケースってのはそういうもんじゃない。こっちの死角から相手が迫ってくることがほとんどだし、いつどこでぶつかることになるかも分からない。複数の相手と同時にぶつかることだってある。実戦の場で今みたいな技を完璧にきめるのは、そう簡単じゃないわよ」

 

 どんなに華麗な技だろうと、練習の場でしか使えないなら、それは机上の空論と同じ。

 

 実戦で使えなければ意味がない。

 

「そしてその手の技は、しくじれば悲惨な結果が待ってる。踏ん張りが利かない分、派手に転倒して大怪我…………もしくは、死ぬ場合だってあるわよ。運が悪ければね」

 

 冗談でも、誇張でもない。競馬のレースには常に死の危険が存在し、実際に数えきれないサラブレッドが競馬場で命を落としている。

 

 リコ自身も、身近な者の事故を幾度か目にしてきた。

 

 レース中に転倒することの恐ろしさは、嫌というほど知っている。

 

「だからはっきり言わせてもらうわ。全てを失うようなリスクを冒したくないなら、それはやらない方が身のためよ」

 

 指導者としての立場から放たれた、真剣な忠告。

 

 セイウンスカイはそれを受け止め、しばし考えた後、穏やかな声音で答えた。

 

「……昔、ある人に言われたんだ」

 

 遠い目をして、懐かしむように語る。

 

「レースなんて、所詮一か八か……負けて全てを失うか、勝って全てを手に入れるか…………そのどっちかしかないんだ、って」

 

 彼女は笑っていた。

 

 自らの戦術の危うさ、競馬の恐ろしさ、現実の厳しさ――その全てを理解し、受け入れた上で、穏やかに笑っていた。

 

 澄んだ瞳の奥に、前向きな意思を宿して。

 

「人に言わせれば間違った考えなんだろうけど、私はそれが気に入ってる。だから勝つために必要なことは何だってやるようにしてるんだ。危険を冒さず安全に走ろうなんて、最初から思ってないよ」

 

 二着や三着を小賢しく拾う競馬はしない。

 

 どんなに格の高いレースだろうと、どんなに相手が強かろうと、狙うのは常に一着だけ。

 

 怪我も大敗も怖れず、ただ真っ直ぐに勝利を目指す。

 

 競馬の世界で生きると決めた時から、そう誓って走り続けてきた。

 

 これから先も、その生き方は変わらない。

 

「それが私のポリシーっていうか、譲れないとこなんだけど……ダメかな?」

 

「負けて全てを失うか、勝って全てを手に入れるか……ね…………どこの誰だか知らないけど、考え方が博奕打ちのそれね」

 

 皮肉るように言ってから、リコは頬を緩める。

 

「――いいわ。そういうの嫌いじゃないのよ、私も」

 

 彼女も勝負師だ。

 

 勝利を何より優先するという点では、セイウンスカイと変わらない。

 

 無知故に危険を冒している教え子には忠告するが、全て承知の上で覚悟を持ってやっていることならば、止める気は微塵もなかった。

 

「そこまで言うんだったら、やりたいようにやんなさい。ただし……ヘマこいておっ死んだりしたら、葬式で遺影に抹香ぶっかけてやるわよ。いいわね?」

 

「――はい」

 

 冗談めかした激励に、セイウンスカイは笑顔で頷く。

 

 少し離れた場所に立つマルゼンスキーは口を噤んだまま、二人のやりとりを複雑な面持ちで傍観していた。

 

「そんじゃ次は、そそくさと逃げようとしやがってるエルちゃんに……」

 

「あちらの準備が出来たようですよ。先生」

 

 逃走を図るエルコンドルパサーの首根っこを引っ掴んでいたリコに、横から歩み寄ってきたシンボリルドルフが告げる。

 

 彼女の視線の先には、直線コースのスタート地点に立つ二人の姿があった。

 

 グラスワンダーとイレネー。

 

 リコの指示により、帯広競馬場の二百メートル直線コースで模擬レースを行うことになった二人だ。

 

「いつでもいけるので、開始の合図をしてほしいと言っています」

 

「オッケー。じゃ、こっちは一旦休憩にして、向こうの勝負を観戦しましょうか。――ってこらエルちゃん! 逃げないのっ!」

 

 

 

 

 

 

 ばんえい競馬のゲート式発馬機は中央競馬のそれと違い、コースの端に固定されている。

 

 また、中央競馬がスタート後の位置取りを自由に選べるオープンコースなのに対し、ばんえい競馬は各馬が決められた走路を走るセパレートコースだ。

 

 ゴール判定にも違いがあり、中央競馬では体の一部がゴールラインに達すれば「ゴール」と判定されるが、ばんえい競馬では橇の後端がゴールラインを通過するまで「ゴール」と判定されない。

 

 ありとあらゆる面で、中央競馬の平地競走とは勝手が違う。

 

 そんな未知の領域に挑むためゲートに入ったグラスワンダーは、その直後、すぐ隣に立つ対戦相手の声を聞いた。

 

「勝負の前だけど……一つ忠告してやるよ」

 

 青毛の重種馬――イレネーという名の大女は、前を向いたまま静かに言う。

 

「レース中は力の抜き所に注意しな。いくらあんたが怪力でも、それだけで勝てるほどばんえい競馬は甘くないよ」

 

「……?」

 

 不可解な忠告だった。

 

 全力を振り絞れと言うなら分かる。だが力の抜き所に注意しろとは、いったいどういう意味なのか。

 

 疑問を口にするかどうかを迷う暇は、既になかった。

 

 発走台に上ったリコが赤旗を振り、開始を示す。

 

 直後に固定式のゲートが開き、帯広競馬場の二百メートル直線コースを舞台にした模擬レースが幕を開けた。

 

 全く同時に前へと踏み出し、橇を曳き始める二人。

 

 しかし、すぐに明確な差がついた。僅か数歩でグラスワンダーより前に出たイレネーが、そのまま相手を置き去りにするかのように力強く進んでいったのだ。

 

 早くも後れを取ったグラスワンダーは追いつこうともがくが、どうにもならない。

 

 一歩前に踏み出すごとに、絶大な負荷が彼女の全身を襲う。

 

(重い……!?)

 

 昨日、仲間達と一緒に走った時とはまるで違う。身体の後ろにある橇が重い。あまりにも重すぎて、思うように前進出来ない。

 

 当然と言えば当然の話。

 

 今回の勝負で使われている橇は、昨日の橇とは別物なのだ。

 

 実に一トンもの重さを持つ、ばんえい競馬における最重量の橇。鍛え抜かれた一流の重種馬でも易々とは曳けない代物だ。

 

 日本競馬界随一の筋力を誇るとはいえ――サラブレッドの身でそんな代物を曳くのは、あまりにも過酷だった。

 

 まだレースの最序盤だというのに息は乱れ、額に汗が滲む。

 

 苦鳴を零しながら顔を上げると、一トンの橇など存在しないかのように突き進む対戦相手の背中が目に映った。

 

「くっ……!」

 

 強い。

 

 分かっていたことだが、やはりあの重種馬はとてつもなく強い。

 

 重種馬の中でも大柄な肉体。服の上からでも見て取れる豊富な筋肉。巨躯を支える鉄骨のように強靭な骨格。橇の重さをものともしない精神力。

 

 心身共に破格の猛者だ。

 

 昨日初めてばんえい競馬を体験した自分とでは、格が違いすぎる。

 

「オラどうしたぁ! サラブレッドの日本代表ってのはそんなもんかぁ!?」

 

 後ろを振り向き、イレネーは叫んだ。

 

 レース前とは別人のような形相で、彼女はもがき苦しむグラスワンダーに叱声を飛ばす。

 

「昨日ちっと褒めてやったくれえで勘違いしてんじゃねえぞクソチビが! たかが一トンの橇もまともに曳けねえ雑魚があたしと張り合おうなんざ、百万年早えんだよボケ!」

 

 殺気を孕んだ灼熱の眼差しが、少女を射抜く。

 

「あたしらばんえい馬はな、ガキの頃からここでこの橇曳いて鍛えてんだ! 雪が降ろうが嵐が来ようが関係なくな! お姫様みてえに大事にされながらぬくぬく育ってきたてめえらサラブレッドとは違うんだよ!」

 

 ばんえい競馬の競走馬として生き、数多の辛酸を嘗めてきた女は、軟弱なサラブレッドを罵りながら前進していく。

 

 力の差を見せつけ、積み重ねた鍛錬の差を思い知らせるように。

 

「こんな程度で音を上げるなら相手してやる価値もねえ! さっさと東京に帰んな! 小綺麗な競馬場でアイドルごっこしながらお遊びレースやってる方が、あんたみたいなチビガキにはお似合いだよ!」

 

 サラブレッドの競馬そのものを蔑む言葉が、グラスワンダーの心に火をつけた。

 

 胸の奥から、熱い赫怒の念が湧き上がる。

 

「…………遊びじゃ、ない……」

 

 奥歯を噛む。

 

 青い瞳に闘志を滾らせ、前を行く青毛の重種馬を睨み返す。

 

「私達だって…………遊びで走ってるんじゃない……!」

 

 砂を踏む脚に、力を込める。

 

 怒りと悔しさを力に変え、ばんえい競馬最重量の鉄橇を曳く。

 

 押し寄せる苦痛を燃え盛る意思で焼き尽くし、力強く、前へと踏み出す。

 

「ぐっ……ううっ……うあああっ……!」

 

 分かっている。

 

 イレネーの罵倒が、本心からのものでないことは。

 

 こちらの闘争心を煽って全力を引き出させ、真剣勝負の形で心身を鍛え上げるため、彼女はあえて悪役に徹しているのだろう。

 

 そんなことは、言われなくても分かっている。

 

 だが、それでも――

 

 自分達のレースを「遊び」などと言われては、黙っていられない。

 

 そんな戯言は、絶対に、この世の誰にも言わせはしない。

 

「うっ…………アアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

 雄叫びを上げ、グラスワンダーは走った。

 

 一トンの橇が凄まじい速度で曳かれ、砂煙が舞い上がる。スタートしてから広がる一方だったイレネーとの差が縮まっていく。

 

 激情と共に真の力を解き放った栗毛の≪怪物≫が、ばんえい競馬の王者を猛追する。

 

「……何だ、いい根性してるじゃないか」

 

 背後から迫る対戦相手の姿を見て、イレネーはふっと笑った。

 

 それからすぐに笑みを引っ込め、再び鬼の形相となって叱声を飛ばす。

 

 闘志を燃やして挑んでくる少女と、本気の死闘を演じるために。

 

「遅えんだよ間抜け! 出来るなら最初からやりな! 実戦じゃ相手は待ってくれねえぞ!」

 

「アアアアアアアアアア――ッ!」

 

 先を行く巨躯の王者と、それを追う矮躯の挑戦者。

 

 二人は闘志をぶつけ合いながら、力強い足取りで前進を続けた。

 

 コース上に設けられた一つ目の障害――高さ一メートルの急坂に向かって。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話「失くした何か(後編)」

 

 

 ダグラス・ターナー。四十六歳。アメリカ国籍。

 

 名門キーンランド校に籍を置き、数多くの名馬を育て上げた実績を持つ、アメリカ競馬界屈指の名トレーナーである。

 

 遡ること約十八時間前。その中年男は――空港の出発ロビーで、心底から困り果てていた。

 

 とある事情により、控えめに言っても頭がおかしい問題児共を引き連れて、国外に出向かねばならなかったからだ。

 

「師よ。私のエクスカリバーが悪しき者達に奪われてしまったぞ」

 

「……うん。そりゃ奪われるよね。だってあれ剣だもの。お前真剣腰に佩いたまま飛行機乗ろうとしてたもの。そりゃ職員さん達に取り上げられるよね。常識的に考えて」

 

「どうにかして取り返してくれ。あの聖剣がなければ私は魔物と戦えない」

 

「……うん。どう考えても取り返さなくていいよね。ここファンタジー世界じゃないからね。魔物出てこないからね。聖剣使う機会ないからね絶対」

 

 一人目の問題児――長い褐色の髪を三つ編みに結わえた女は、世界滅亡の危機に敢然と立ち向かう勇者のような面構えで、荷物検査の際に取り上げられた私物(本人曰く「聖剣」)を取り返せなどという無茶な要求をしてきた。

 

 そんな要求には応えられなかったし、応えたくもなかった。

 

 剣と一緒にこいつ自身も没収されちまえばよかったのにと、ターナーは半ば本気で思った。

 

「私の薬も二割ほど没収されてしまったのだが、何がいけなかったのだろうね?」

 

「……うん。何がっていうか全部いけなかったよね。むしろセーフなとこが何一つないからね。お前のあれは。……あと二割じゃ駄目だよね。どこに隠し持ってんだか知らねーけど残り八割も没収されとかなきゃ駄目だよね」

 

「誤解があるようだが、私が開発した薬は麻薬や毒薬の類とは違うよ。ただの筋肉増強剤と骨格強化剤と皮膚角質化剤さ。幾度となく繰り返した人体実験によって効果の程も実証済みだよ。何の問題もない」

 

「……うん。聞けば聞くほど問題しかないよね。どっからどう見てもアウトだよね完全に。ていうかお前シャバ歩いてちゃいけない奴だよね。今すぐ自首してブタ箱行かなきゃ駄目だよねもう」

 

 二人目の問題児――白衣を纏った黒縁眼鏡の女は、どこまで本気なのか分からない薄ら笑いを浮かべたまま、同じく検査の際に取り上げられた自作の薬剤について語り出した。

 

 まるで冗談のような口振りだったが、ターナーは知っていた。

 

 目の前に立つ白衣の悪魔が、薬の調合や投薬実験を無免許の身で行う手遅れな犯罪者であることを。

 

「ねーねー旦那ぁー。何かあっちの野郎共があたしらをエロい目で見てやがんだけどー? ムカつくからちょっとボコってきていい?」

 

「……うん。偉いね。殴りに行く前に確認する分だけ成長したねお前も。答えはノーだけどね。トイレ行っていい? みたいなノリで殴りに行かれても困るからね。ていうかここで暴力沙汰起こされたら俺ら全員アウトだからね。大会出れなくなるからね」

 

「あはははは! 冗談だって冗談。そんなヘマするほどこっちもアホじゃねえっての。つーかマジでボコる気ならいちいち旦那に確認なんか取らねえしな! あはははは!」

 

「……うん。それ聞いて安心したよ。もう飛行機乗らなくていいやお前。お前みたいなガチクズ連れて外国まで行きたくねーわほんと」

 

 三人目の問題児――赤と黒の二色に染められたテンガロンハットを被る長身の女は、酷く物騒なことを言いながら一人で大笑いした。

 

 その下品な笑い声を聞いて、ターナーは死ぬほどうんざりした。

 

 先の二人にはまだ、理性や常識といったものがかろうじてあると言えなくもないのだが、こいつにはない。

 

 いつどこで何をしでかしてもおかしくない真性の馬鹿なので、一緒にいるだけで神経を磨り減らされてしまうのだった。

 

 以上三名。アメリカ競馬界の恥とも言うべき問題児共に囲まれ、不毛な会話をさせられ続ける時間を過ごしたため、ターナーの精神は疲弊しきっていた。最早全てがどうでもよくなっていた。

 

 三人が集まって談笑し始めたのを見計らい、少し離れたところにあるベンチに移動して腰を下ろす。

 

 天井を仰いで深い溜息をついた後、隣で携帯端末をいじっている小柄な短髪の少女に話しかけた。

 

「……なぁ、シガー」

 

「何?」

 

「……ぶっちゃけ聞くが、何であいつら集めたんだ?」

 

「集めたのはボクじゃないよ。シア姉だよ」

 

「そりゃ知ってっけどよ…………何でよりにもよって、あの面子なわけ?」

 

「レースで強いからでしょ」

 

「……うん。知ってるよ。あいつら強いよ。すっげー強い。でもやだ。あいつらすっげーやだ。俺あのアホ三匹の面倒見たくない」

 

「そこは我慢してよ。統率力ゼロでも一応チームの監督でしょ、ターナー先生」

 

「……うん。統率力ゼロでもとか微妙に傷つくよね。時々グサッとくること言うよねお前も」

 

 敬意の欠片も感じられない物言いに、ターナーのやる気はさらに削ぎ落とされた。

 

 師だの先生だのと呼ばれてはいるが、今回引率することになった五人の内四人は、彼の教え子ではない。

 

 長年苦楽を共にしてきた自慢の教え子は、チームのリーダーを務める少女だけ。

 

 その少女を信頼し、「適当に強い奴を集めといてくれ」などと言ってチーム編成を丸投げしたのが、そもそもの間違いだった。

 

 どういうわけかとんでもないキワモノばかりを揃えたチームを作られ、かつてないほどの苦労を背負い込む羽目になってしまった。

 

 やっぱ人選を人任せにしちゃいけねえな、うん――と反省したが、もう遅い。

 

 愛弟子がアメリカ各地から呼び寄せた三馬鹿は、各々の馬鹿さを助長し合うような会話をロビーの真ん中で繰り広げていた。

 

「ところでドクターよ。極東の地にはニンジャと呼ばれる異能者の集団がおり、オニやオロチなどの怪物と日夜戦いを繰り広げていると聞くが……どのあたりに行けば彼らに会えるのだろうか?」

 

「ニンジャがいるのは栃木県の日光市だよ。彼の地にはニンジャの隠れ里があり、門外不出の秘技を受け継ぐニンジャの末裔達が暮らしているという噂さ。帰りに寄ってみるかい?」

 

「日光にはサムライとかもいるって話っスよー。試しに手合わせ願ってみたらどうっスか? センパイ」

 

「ふむ、サムライか……そちらも興味深い。幼少の頃より磨き続けた私の剣技が極東の剣士相手にどこまで通用するか、是非とも知りたいものだ」

 

「ふふ……相変わらず求道者だね、ラウンド先輩は。……全くの偶然だが、剣の道を極めることに余念がないあなたにふさわしい薬がここにあるんだ。ついこの間完成したばかりの新薬さ。これを飲めばあなたの筋力は約八十パーセント上昇すると保証出来るのだが、どうだろう?」

 

「むっ……気持ちは有難いが、薬の力に頼るのは邪道。私はあくまで、母から受け継いだ剣技と聖剣に宿る神々の加護で……」

 

「ゲルマン神話の英雄ジークフリートは邪竜ファーヴニルの血を浴びて不滅の肉体を得たと聞く。真の英雄は邪悪なる力をも取り込んで自らを昇華させるものさ」

 

「むむっ……」

 

「そうそう、覚醒イベントにドーピングは必須っスよー。ドクターの薬を飲めば超絶パワーアップ間違いなしっスよー。ニンジャやサムライなんか目じゃないくらい強くなって無双出来るっスよー」

 

「…………そういうことなら、致し方ない。その新薬とやら、是非とも私に――」

 

「ラウンド先輩、ドクター、パサー」

 

 静かな声が、女達の名を呼ぶ。

 

 三人が振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。

 

 金貨に鎖を通したペンダントを首にかけた、黒鹿毛のサラブレッドだ。

 

「時間になりました。搭乗口に向かいましょう」

 

 淡々と告げた少女は、そのまま身を翻して歩き出し――ふと思い出したように立ち止まり、三つ編みの女に注意した。

 

「……それとラウンド先輩。ドクターが勧める薬は絶対に飲んじゃいけませんよ。高確率で病院送りになりますから」

 

「む……心得た」

 

「やれやれ、あと一歩だったのにね……また別の被験体を探さねばならないか」

 

「ったく、いいとこで邪魔すんなよー。センパイが死ぬとこ見たかったのにさぁ」

 

 三つ編みの女は素直に頷き、白衣の女は肩を竦めて苦笑し、テンガロンハットの女は残念そうに文句を垂れる。

 

 三者三様の反応を見せながら、黒鹿毛の少女の後を追う女達。

 

 その様子を見て、ベンチに座る短髪の少女は感心したように呟いた。

 

「……あんな人達だけど、シア姉の言うことは聞いてくれるんだよね。一応」

 

「……うん。すげーよなあいつ。あのアホ共をしっかりまとめられるんだからよ。そこんとこはマジで感心するわ」

 

 チームを卒なくまとめ上げる愛弟子の手腕を讃えつつも、ターナーは物凄く微妙な気分になっていた。

 

「けど…………俺って一応引率の先生的ポジションなんだが、いる意味なくねえ?」

 

「……言わないでおいてあげたのに」

 

 そんなやりとりの後、残された二人も搭乗口へ――日本への直行便へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 ばんえい競馬の起源は、明治時代の北海道開拓期に遡る。

 

 当時の重種馬は切り出した木材を運び出す作業の担い手として重用されており、そこから自然発生的に力比べで重種馬同士の優劣を決める競技が生まれた。

 

 はじめは綱引きの形だった勝負が、やがて丸太を曳く競走となり、ルールの整備と共に曳く物が丸太から橇へと変わった――という変遷を辿ったが、時代を経た今もその本質は変わっていない。

 

 求められるのは脚の速さではなく、純然たる力。

 

 重い荷物や悪路をものともせずに突き進む剛力の持ち主こそが、ばんえい競馬における「最強馬」の理想形。

 

 そうした理念に照らすなら、帯広競馬場の直線コースに設けられた二つの坂も、栄冠を求める者達の力を試すための試練と言えよう。

 

 スタート地点から三十五メートル先にある一つ目の坂は、高さ一メートル。

 

 普通に走り抜けるなら何の問題にもならない高さだが、重い鉄橇を曳いたまま上るとなれば話は別だ。

 

 平地を進む時とは比べ物にならないほどの力が必要となり、それは甚大な負荷となって曳き手の肉体を苛む。

 

 生まれながらに屈強な肉体を持つ重種馬でさえ、長年に及ぶ訓練で自らを鍛え上げなければ乗り越えられない障害なのだ。

 

 重種馬より体格面で遥かに劣る軽種馬が、一トンの橇と繋げられた状態でこの坂を踏破するなど、事実上不可能と言っていいだろう。

 

 サラブレッドの限界を超えた筋力を誇り、急坂の踏破を何より得意とする異端の競走馬――≪怪物≫グラスワンダーを除いては。

 

「アアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

 雄叫びと共に、坂を上る。

 

 踏み込む脚に渾身の力を込めて重力に抗い、ばんえい競馬最重量の橇を曳き上げる。

 

 気力と筋力を総動員して坂を駆け上がったグラスワンダーは、その勢いのまま一気に坂を駆け下り、平地に戻った時には先行していたイレネーに並んでいた。

 

 その激走にはさしものイレネーも驚き、目を瞠る。

 

 レースを観戦していた他の重種馬達も、口々に驚愕の声を上げる。

 

 闘志に火がついたグラスワンダーの走りはさらに激しさを増し、その力は際限なく上昇。重戦車のように力強い足取りで突き進み――ついには、隣を走るイレネーを追い抜いた。

 

 追い抜かれたイレネーは坂越えで体力を消耗したのか、一旦脚を止めて荒い息をつく。

 

 その間にもグラスワンダーは気力を振り絞って前進を続け、イレネーとの差を広げていく。

 

 追う者と追われる者の立場が逆転し、勝利の天秤がグラスワンダーに傾いた――かに見える状況だった。

 

 

 

 

 

 

「やった! ついに追い抜いた!」

 

「当然デス! グラスがパワー勝負で負けるわけないデース!」

 

 正面スタンド前で観戦していたキングヘイローとエルコンドルパサーが、歓喜の声を上げた。

 

 この勝負はあくまで模擬レース。練習の一環に過ぎない――と頭で分かってはいても、目の前で競り合う二人を見れば血が騒いでしまうのが、競走馬の性というものだ。

 

 当然の如くグラスワンダーの応援に回った彼女達は、イレネーを追い抜く瞬間を見て逆転勝利を期待したが――

 

「駄目だ」

 

「え……?」

 

 横から飛んできた声が、その高揚に水を差した。

 

「あれじゃ駄目だ。すぐに抜き返されるよ」

 

 キングヘイローの隣に立つセイウンスカイは、コース上で競り合う二人に真剣な眼差しを向けていた。

 

「何それ……? どういう……」

 

「……違うんだよ。余力が」

 

 二人の走る姿から、何かを悟ったのか。

 

 強い確信を抱いた口振りで、セイウンスカイは言い切った。

 

「その通り」

 

 背後から声。

 

 キングヘイロー達が振り返ると、イレネーの仲間である重種馬の四人組がそこにいた。

 

 その内の一人――鹿毛の大女が言う。

 

「あのグラスって子……大した怪力の持ち主だね、ありゃ。まさかイレネー相手にあそこまで渡り合えるとは思わなかったよ。ばんえい馬じゃないのが惜しいくらいさ」

 

 グラスワンダーの力を認め、健闘を讃えつつも、その顔には余裕の笑みがあった。

 

 先程「体当たり役」を務めていた芦毛の大女が、橇を曳くグラスワンダーの姿を見ながら言葉を引き継ぐ。

 

「けど、たとえイレネーと互角の力が……いや、イレネーを上回る力があったとしても、あの子はイレネーに勝てない」

 

 彼女達は知っている。

 

 ばんえい競馬という競技の本質を。レースを制する上で欠かせない資質を。

 

「力の抜きどころが重要だからね。あたしらの競馬は」

 

 

 

 

 

 

 絶対に負けない。

 

 何としてでも、必ず勝ってみせる。

 

 自分自身にそう誓い、グラスワンダーは二つ目の坂を目指して突き進んでいた。

 

 一つ目の坂と七十八メートルの間隔を置いて設けられた二つ目の坂は、一つ目の坂より高く、より筋力を必要とする。

 

 だが構うものか。

 

 どれほどの難関だろうと、死力を尽くして踏破してみせる。

 

 所詮訓練の一環に過ぎない勝負だから、負けても構わない――そんな腑抜けた思考は、頭の片隅にもなかった。

 

 彼女にとって、競馬場とは戦場。レースとは真剣勝負。

 

 どんな形であれ、誰が相手であれ、勝てなくてもいいレースなど、この世には一つもないのだ。

 

 だから、この勝負にも必ず勝つ。

 

 相手が桁外れに強いならば、自分はそれより強くなる。

 

 ばんえい競馬の猛者を真っ向から打ち倒して、さらなる強さを手にしてみせる。

 

 そして世界の舞台に進み、最強の座を――

 

「――っ」

 

 突然、視界が揺らいだ。

 

 全身に漲っていた力が消し飛んでいくような感覚に襲われ、グラスワンダーは大きくよろめく。

 

 とても前進し続けていられず、脚を止めて荒い息をついた。

 

「くうっ……はぁっ……はぁっ……!」

 

 彼女は確かに全力だった。

 

 持てる気力と体力を総動員し、ばんえい競馬の猛者に勝とうとしていた。

 

 だが――気力や体力とは、無限に湧き上がってくるものではない。使えば使うほど減少し、やがては底をつく、有限の力でしかないのだ。

 

 そこに対する認識が、彼女には足りていなかった。

 

「だから忠告してやったんだよ。力の抜き所に注意しな、ってさ」

 

 硬く冷たい声が、後方から届く。

 

 つい先程置き去りにした筈の対戦相手――イレネーが、すぐ後ろまで迫ってきていた。

 

「ただ全力を振り絞りゃいいってもんじゃないのさ、ばんえい競馬は。そこんとこをよく覚えときな」

 

 砂煙を巻き上げ、巨躯が突き進む。

 

 ばんえい競馬のあるべき姿を示すかのように、スタート直後と変わらぬ力強い足取りで、青毛の重種馬は前進していく。

 

 体力切れで脚を止めたグラスワンダーに、抗う術はなかった。

 

 僅かな休憩で息を整えていたイレネーは、瞬く間にグラスワンダーに並び、そのままいとも簡単に抜き返したのだった。

 

 

 

 

 

 

「抜き返された……!?」

 

「そんな……どうして……!?」

 

 スペシャルウィークとキングヘイローが声を上げる。

 

 たった今目の前で起きた逆転劇に、彼女達は驚きを隠せなかった。

 

「驚くようなことじゃない。ばんえい競馬じゃよくあることさ。ああいう差し返しはね」

 

 立ち止まって肩を上下させるグラスワンダーを見ながら、鹿毛の大女が言った。

 

「イレネーが煽ったせいもあるだろうけど……勝ちたい気持ちが前面に出すぎたね、あの子は。序盤から全力を振り絞ったせいでガス欠を起こしちまった。言っちゃ悪いが、負ける奴の典型例さ」

 

「あんたらが普段やってる競馬だって、最初から全力でとばしてたら最後までもたないだろ? それと一緒だよ」

 

 芦毛の大女が補足するように言い、サラブレッドの四人組に目を向ける。

 

 その発言を聞いて、エルコンドルパサーは全てを理解した。

 

「さっき、イレネーさんが立ち止まったのは……スタミナ切れじゃなく……」

 

「そう。あえてあそこで立ち止まり、息を整えてたんだよ。最短の時間でゴールに辿り着くためにね」

 

 それは、業界用語で「刻む」と呼ばれる行為。

 

 他馬に抜かれることも承知の上で一旦脚を止め、体力の回復を図る戦術だ。

 

 ばんえい競馬は超重量の鉄橇を曳く過酷極まりない競技であり、スタートからゴールまで休まず走り続けることは、一流の競走馬でも不可能に近い。

 

 完走するためには道中のどこかで適度な休憩を取らねばならず、その巧拙が勝敗を左右する重要な要素となる。

 

 グラスワンダーとイレネーの間にある決定的な差は、まさにそこだった。

 

「ばんえい競馬で強い奴ってのは、単なる怪力馬鹿じゃない。並外れた力を持ちつつ、道中での力の抜き方を心得てる奴だ」

 

 深い敬意を込めた眼差しをイレネーに向け、芦毛の大女は断言する。

 

 他の大女達も、それに同調した。

 

「簡単そうに聞こえるかもしれないけど、案外難しいんだよねぇ。これが」

 

「自分の力を過信すればゴール前で力尽きる結果になり、逆に慎重になりすぎれば実力を発揮しきれないまま終わる……自分の限界を弁えた上で限界ぎりぎりまで力を出し尽くすってのは、相当な場数を踏んでなきゃ出来ない芸当なのさ」

 

 ばんえい競馬の競走馬として生き、帯広競馬場で数々の激闘を繰り広げてきたイレネーには、膨大な経験の蓄積があった。

 

 自己の限界の見極めを――最短でゴールに辿り着くために必要な体力の配分を、彼女は決して誤らない。

 

 いかに怪力を誇るとはいえ、ばんえい競馬について無知に等しいグラスワンダーが敵う相手ではなかったのだ。

 

「とはいえ、まあ…………一度でもイレネーを抜いただけ立派だよ、あのおチビちゃんは。普通なら――」

 

「まだ分からないよ。勝負は」

 

 言葉を被せる形で、セイウンスカイが言った。

 

 落ち着いたその面持ちには、仲間に対する強い信頼がある。

 

「確かに追い込まれた状況だけど、グラスちゃんは誰より負けず嫌いだし……それにまだ、本当の意味で全力を出し切っちゃいない」

 

 彼女に限らず、≪怪物≫グラスワンダーと対戦した経験がある者は、皆知っている。

 

 グラスワンダーが持つ、最強の切り札。

 

 ありとあらゆる常識を蹴り砕き、不可能を可能にする、異端の走法を。

 

「ね? エルちゃん」

 

「……」

 

 同意を求める呼びかけに、エルコンドルパサーは答えなかった。

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーを大きく引き離したイレネーは、二つ目の坂を越え、残り約五十メートルの地点まで到達していた。

 

 勝利を目前にした高揚や安堵といったものは、その顔に微塵も浮かんでいない。

 

 当然だ。元より結果が見えていた勝負。

 

 相手の底力には少々驚かされたものの、結局は体格と経験で勝る自分の独壇場となった。それだけの話に過ぎない。

 

 速さ比べの競走で重種馬が軽種馬に勝てないのと同様に、力比べの競走で軽種馬は重種馬に決して勝てない。

 

 それが自明の理というものだと、始まる前から弁えていたが――

 

「……」

 

 ほんの僅かにだが――落胆に近い感情が、彼女の胸の内にあった。

 

 脚を前に進めながら、束の間だけ思い出す。

 

 三年前の年の瀬。テレビ画面越しに観たレース。

 

 割れんばかりの大歓声と、大地を砕く剛脚の音。急坂を駆け上り、雷光のように突き抜けていった、黄金色のサラブレッド。

 

 あの時目にしたあの脚は、もっと――

 

「――っ」

 

 迫り来る気配を感じ、背筋が粟立った。

 

 砂地を踏む音が聞こえる。橇を曳く音が聞こえる。荒い息遣いが聞こえる。火砕流が押し寄せるような灼熱の気配が、後方から伝わってくる。

 

 振り返り、愕然となった。

 

 小柄な栗毛の少女が坂を越え、自分との距離を詰めてきていたのだ。

 

 燃え立つ激情を、その青い瞳に宿して。

 

「誰が……言った……」

 

 声を放つ。

 

 意地と怒りを声音に滲ませ、勝利への執念を言葉にして解き放つ。

 

「さっきの、あれが……私の全力だと…………誰が言ったッ!」

 

 呼吸を悲惨なほど乱し、疲弊し切った表情を見せながらも、その目はまだ死んでいない。

 

 どこにそんな力が残っていたのか。杭を打つように強い踏み込みで前進し、決死の追い上げを敢行していた。

 

 そして――諦めることを知らないその走りが、イレネーの胸を打った。

 

「は……はは……」

 

 ドクン、と心臓が高鳴る。

 

 口許が知らずの内に笑みを作り、久しく忘れていた感覚が蘇る。

 

 そうだ。これだ。

 

 自分は、こんな勝負がしたかったのだ。

 

 現役を退いて何年も経ち、老いを自覚する齢になった今でも、心のどこかでこんな勝負を望んでいた。

 

 力の差を見せつけられても諦めず、どんなに苦しくても立ち止まらず、身体の奥底に眠る力を一滴残らず絞り尽くして自分に挑んでくる相手を、ずっと待っていたのだ。

 

「ははははははははは――――っ!」

 

 笑声を迸らせ、脚の回転数を上げて加速。

 

 縮まっていた彼我の距離を、再び引き離しにかかる。

 

 これは模擬レースで、自分はあの少女を鍛える立場にある――そんな事情など、最早どうでもいい。

 

 今はただ、純粋に勝負がしたい。

 

 命を燃やすようなあの走りに全身全霊で応え、勝利を掴み取りたい。

 

 そんな想いに衝き動かされ、ばんえい競馬の猛者はかつてないほどの力を己の肉体から絞り出した。

 

「オラどうしたぁ! そんなんじゃまだ足りねえぞ! あたしに勝ちてえなら、死ぬ気で力絞り出せ! 世界のてっぺん獲る奴の走りってもんを見せてみろッ!」

 

「はぁっ……はぁっ……くっ……はぁっ……!」

 

 挑発と激励が入り混じった言葉を浴びながら、決死の激走を続けるグラスワンダー。

 

 彼女に最早、余裕はなかった。

 

 一トンの橇という超重量の重荷を引き摺り、体力が尽きても無理に酷使してきた身体は、既に限界だ。至るところが軋みを上げ、機能不全に陥っている。

 

 それでも、負けられない。負けたくない。

 

 その想いだけで己を奮い立たせ、前を行くイレネーの背中を追いかける。

 

「負けない……誰にも……絶対に……」

 

 苦痛を押しのけ、疲労を捻じ伏せ、前に進む。

 

 限界が何だ。体力切れが何だ。体格や経験の差が何だ。

 

 そんなもの、自分には関係ない。自分の脚が生み出す理外の力に、小賢しい理屈は通じない。

 

 この程度の苦境は何度も跳ね返してきた。いつだって自分は、競馬の常識を蹴り砕いて勝ってきた。

 

 三年前の、あの日も――

 

 日本に渡るきっかけとなった、あの日のレースでも――

 

 絶望の淵で掴み取った力で、運命を切り拓いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 三年前――グラスワンダーが競走年齢に達した年の、四月の末。

 

 キーンランド学園に程近いキーンランド競馬場で、公式戦デビューを目前に控えたサラブレッド達による模擬レースが行われた。

 

 それは一種の修了試験であり、基礎課程を終えた若駒が競走馬として必要最低限の能力を持つか否かを判定するためのものだったが、グラスワンダーにとっては実戦に等しい重みを持つ一戦だった。

 

 戦績に残らない模擬レースとはいえ、そこで記録した時計や着順は、当然ながら評価の対象となるからだ。

 

 競走馬は、出るレースを自分で決められない。

 

 レースを選択し出走登録を済ませるのは、競走馬を管理するトレーナーの仕事。

 

 不甲斐ない走りをして力不足と見なされれば、デビューの時期はそれだけ遅れる。デビュー後の使われ方や大目標に定められるレースにも、少なからず影響する。

 

 ケンタッキーダービーへの挑戦を――薔薇のレイを勝ち取る夢を断念させられてしまうことも、内容次第ではあり得るのだ。

 

 そのため必勝の気構えで臨んだグラスワンダーだったが、気構えだけでどうにかなるほど競馬は甘くなかった。

 

 ダート千四百メートルの条件で行われたレースの終盤。

 

 最終コーナーを回って四番手の位置まで進出したものの、前方で先頭を争う三人をなかなか捉えられない。

 

 走っても、走っても、全てを出し尽くすつもりで懸命に走っても、思うように上がらない自身の速度。

 

 近いようで遠い、同期生達の背中。徐々に迫ってくる、レースの終点。

 

 ――また負けるのか。

 

 そんな思いが脳裏をよぎり、心臓を締めつけた。

 

 誰かの背中を見ながらゴールするのは、もう嫌だった。

 

 勝ちたかった。ただひたすら勝ちたかった。

 

 前を行く同期生達を抜き去り、ゴール板の前を先頭で駆け抜けて、勝利の喜びに打ち震えたかった。

 

 けれど現実は、そうはいかない。

 

 現実の自分は、夢に描いた自分ほど速く走れない。トレーナーに教えられた「正しい走り方」を実践出来ない自分は、ただの不器用な劣等生。高い技術と身体能力を併せ持つ優秀な連中を追い抜く力など、どうやっても捻り出せない。

 

 そんなことは、レースが始まる前から知っていた。

 

 学園の底辺で足掻く自分を、同期生達が陰で嘲笑っていることも。

 

 競馬を辞めて別の道を歩むという選択を、故郷の両親が望んでいることも。

 

 かつて夢を語ってくれたトレーナーが、今ではもう、別の教え子にその夢を託していることも。

 

 だから――

 

「ふざ……けるな……!」

 

 土壇場で、感情が爆発した。

 

 抑えの利かない赫怒の念が胸の内で荒れ狂い、意識を赤く染め上げた。

 

「ふざけるなああああああ――――ッ!」

 

 それは、何に対する怒りだったのか。

 

 自分を蔑む周囲の者達か。結果を出せない自分自身か。

 

 現実の非情さか。抗い難い運命のようなものか。

 

 あるいは、その全てか。

 

 自分でも正体の掴めない激情に衝き動かされ――グラスワンダーは、脚を高く振り上げた。

 

 そして渾身の力を込め、靴裏を地面に叩きつけた瞬間。

 

 身体の奥深くで、巨大な炎が立ち昇った。

 

 それまでの人生で一度も味わったことのない、熱い感覚。

 

 血潮を燃やし、魂を滾らせる、爆炎の如き力の奔流。

 

 激しく迸ったその力に身を任せ、後に異国の地で≪怪物≫と呼ばれる少女は、生涯初の「全力疾走」を敢行した。

 

 踏み出す度に、地面が砕ける。蹴り上げた土が宙を舞う。

 

 爆音じみた足音が響き渡り、競馬場全体が鳴動する。

 

 前を行く三人の背中が急速に近付き、視界の端を流れて消えていく。

 

 それはまさしく、奇跡のような疾走だった。

 

 非現実的なまでの急加速で前を行く三人を抜き去り、観戦していた者達の顔に驚愕の表情を刻みつけて、栗毛の少女はゴール板の前を先頭で駆け抜けた。

 

 競馬の世界に踏み入ってから、初めて勝ち取った一着。

 

 栄光と呼ぶには、あまりにも小さな――けれど眩い輝きを放つ、劇的な勝利。

 

 スタンドにどよめきが広がる中、コース上で立ち止まったグラスワンダーは、吹き抜ける風を浴びながら思い出した。

 

 自分が、何を目指していたのかを。

 

 どこにでもいる「優秀なサラブレッド」ではない。GⅠを一つ二つ獲っただけで満足してしまうような、平凡な一流馬でもない。

 

 もっと強く、もっと気高く、比肩する者がいないほど抜きん出た、絶対の強者。

 

 唯一無二の走りで観る者の心を燃え上がらせ、あらゆる常識を蹴り砕き、運命さえも踏み越えて突き進む最強馬。

 

 幼心に焼きついた、無敵の≪ビッグレッド≫になりたかったのだ。

 

 忘れかけていた原初の想いを取り戻し、栗毛の少女は勝利の喜びに打ち震えた。

 

 

 

 

 

 

「ハアアアアアアアアアアアアア――ッ!」

 

 咆哮と共に、右脚を高く振り上げる。

 

 この絶望的な状況を覆す手段は、もう一つしかない。

 

 自身の切り札――「叩きつける走法」は、身体の奥底に眠る力を限界以上に引き出し、爆発的な加速を得る走法。

 

 一度発動すれば、その力でどんな苦境も覆せる。

 

 故郷を去り、日本の地で再出発した時から、その力だけを頼りに勝ち続けてきた。

 

 この勝負も、必ず勝つ。

 

 勝って自分の強さを証明し、胸を張って世界に行く。世界の舞台でも必ず勝つ。

 

 世界最強の座を、自分が信じる最強の走りで勝ち取ってみせる。

 

 自らの心にそう告げて、振り上げた脚を地面に向かって振り下ろそうとした、その瞬間――

 

「――グラス!」

 

 真横から、鋭い声が飛んできた。

 

 スタンドでレースを観戦していた、マルゼンスキーの声だ。

 

「忘れたの! ハナさんが言ったことを!」

 

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 

 瞳に宿っていた闘志が萎み、表情が凍りつく。

 

 現役続行の許可と引き換えに提示された条件。「叩きつける走法」の使用を今後永久に禁じるという、絶対遵守の命令。

 

 自分の脚に嵌められた、重い鉄の枷。

 

 それを破ってしまえば――今度こそ、全てが終わる。

 

 自分の競走生活が、幼い頃から抱き続けていた夢が、何もかも終わってしまう。

 

「…………っ……くっ……」

 

 どうにもならないその現実に、グラスワンダーは屈した。

 

 意地も誇りも信念も放り捨て、敗北を受け入れるより他に道はなかった。

 

 

 

 

 

 

 決着は、酷く呆気なかった。

 

 グラスワンダーを大きく引き離したまま、イレネーの曳く橇の後端がゴールラインを通過する。

 

 終わってみれば接戦でも死闘でもなかった勝負の、無味乾燥な幕切れ。

 

 そのことに誰よりも打ちのめされたのは、レースの勝者となったイレネー自身だった。

 

 動揺を隠せない面持ちで、彼女は後ろを振り返る。

 

 十数秒前に見た時とは別人のような対戦相手の姿が、視線を向けた先にあった。

 

 下を向いたまま荒い呼吸を繰り返し、今にも倒れてしまいそうなほど弱々しい足取りで進み続けたグラスワンダーは、自分の身体がゴールラインに達したところで立ち止まる。

 

 そして膝に手を置いた姿勢で息を整えてから、口を開いた。

 

「やっぱり……すごく強いですね……イレネーさんは……」

 

 零れ出た細い声には、気迫が一欠片も残っていない。

 

「私なんかじゃ、全然勝負になりませんでした。……完敗です」

 

 少女が顔を上げると、そこには笑顔があった。

 

 無理に貼り付けたような、空々しい満面の笑顔が。

 

「でも、いい勉強になりました。適切なタイミングで一息入れるのが重要だったんですね……それに気付けていたら、もう少し粘れたかもしれないのに…………私ったら全然駄目で、すみません」

 

 闘志の炎が跡形もなく消えた、空洞に等しい青い瞳が、イレネーを見上げる。

 

 笑みを形作る唇が、中身のない言葉を零す。

 

「このレースで学んだことを教訓にして、これからも頑張ります。今日は私なんかの相手をして下さって、本当にありがとうございました」

 

 用意された台詞を読み上げているような、空々しくも痛々しい一連の言葉が、イレネーの胸を締めつけた。

 

 驚愕に凍りついていた顔が、苦渋に満ちた顔に変わる。

 

 違う――と、彼女は内心で呟いた。

 

 自分は、礼を言われたかったわけではない。

 

 格の違いを思い知らせたかったわけでもない。謙虚を装った卑屈な自虐が聞きたかったわけでもない。

 

 ただ、勝負がしたかった。

 

 謙虚でなくていい。傲慢でいい。負けん気が強くて構わない。口汚く罵声を浴びせてきても一向に構わない。

 

 傲慢で、強気で、荒々しくて、誰よりも勝利に飢えた≪怪物≫と、互いの全てを懸けた勝負がしたかっただけだ。

 

 それが何故、このような結末になったのか。

 

「何で……」

 

 失意のあまり、問いが零れる。

 

「あんた……何で……そんな……」

 

 その先は、言葉にならなかった。

 

 いや、あえて言葉にしなかった。口を衝いて出かけた複雑な思いをどうにか堪え、呑み下したイレネーは、栗毛の少女から視線を切る。

 

 鉄の自制心で、未練を断ち切るように。

 

「……いや、いい…………何でもないよ」

 

 寂しげなその表情から、哀惜にも似た感情を読み取ったのか。

 

 グラスワンダーの顔から笑みが消え、瞳の奥に暗い翳が差した。

 

 そうして、やや気まずい空気がその場を包み始めた時――

 

「まだ終わってないわよ」

 

 リコの声が飛んできた。

 

 先程レースのスターターを務めた彼女が、砂地を踏み締めながらグラスワンダー達に歩み寄ってきたのだ。

 

「清々しい感じに終わらせようとしてるとこ悪いんだけど、まだレースは終わってないわよ。グラスちゃん」

 

「え……?」

 

 栗毛の少女の背後にある鉄塊を、リコは指差す。

 

 小さな身体と繋がった橇の後端は、まだゴールラインを通過していない。

 

「始める前に言ったでしょ? ばんえい競馬のルールでは橇の後端がゴールラインを通過するまでゴールにならないんだって。勝ち負けに関係なく、スタートした以上は最後までちゃんと走り切らなきゃ駄目よ」

 

「あ…………す、すみません……」

 

 指摘されて過ちに気付いたグラスワンダーは、慌てて前に踏み出そうとし――思い留まって、足元に目を落とした。

 

 微かに肩を震わせ、呟く。

 

「…………でも……いいんです。もう……」

 

「いいって、何が?」

 

「自分の未熟さは、このレースでよく分かりました。それに……言い訳のしようもない完敗でしたので、悔いは……」

 

 パン、という音と共に、言葉が途切れた。

 

 リコの振るった右手が、グラスワンダーの頬を打ったのだ。

 

 突然の平手打ちに、その場にいたイレネーはおろか、遠くで見ていたエルコンドルパサー達までもが息を呑んだ。

 

「――ふざけてんのか? てめえ」

 

 威迫を帯びた、低い声。

 

 細められた両眼は、刃先のように鋭く険しい。

 

「昨日言ったよな? 胸を借りるつもりで一生懸命走れって。お前が懸命に走った結果がそれか? ゴールにもまともに辿り着けてねえそのザマで、全力を出し切ったって言えんのか?」

 

 怒りを露わにしながら、リコはグラスワンダーの無気力な走りを責め立てる。

 

「ふざけんのも大概にしろよ。そんな腑抜けた走りを観たくてこのレースやらせたわけじゃねえんだよ。オレは」

 

 容赦なくぶつけられる痛罵を、グラスワンダーは黙って受け止めるしかなかった。

 

 反論は出来ないし、したくもない。

 

 最後の最後に勝負を捨て、全力を出し切らないままゴールまでの数十メートルを進んだのは、紛れもない事実なのだから。

 

「ちょっと……! 何やってるんですか!?」

 

 見かねてその場に駆け寄ってきたのは、マルゼンスキーだった。

 

 リコは険しい眼差しで告げる。

 

「今オレはこいつと話してんだよ。引っ込んでろ」

 

「引っ込んでられませんよ! レースに負けたからって、暴力を振るうなんて…………あなたはそれでも指導者ですか!」

 

「負けたこと自体に文句つけてるわけじゃねえよ。負け方が悪すぎて話にならねえって言ってんだ」

 

 睨み合い、言葉をぶつけ合う二人。

 

 皆の視線が集まる中、その場の空気は酷く険悪なものに変わっていった。

 

「全力を尽くして負けたならいいさ。所詮模擬戦だからな。オレもそこまで勝ち負けにこだわっちゃいねえよ。……だが、全力を尽くさずに負けるのは駄目だ。腑抜けた走りで無駄に体力使うくらいなら、そこらで休憩でもしてた方が百倍いい」

 

「グラスは一生懸命走ってたじゃないですか! 重い橇を全力で曳いて、抜き返されてからも必死に差を詰めようとして――」

 

「ああ、そこまでは良かったな。気迫だけなら満点をつけてやってもいい走りだったよ。お前が余計な口出しして、全部台無しにしやがったがな」

 

「――っ」

 

「詳しい事情は知らんが、大体想像はつく。要は全力を出すなって意味だったんだろ。さっきお前がこいつに言ったのは」

 

 全てを見透かした口振りで、リコは言う。

 

 マルゼンスキーは、拳をきつく握り締めた。

 

「……私は、自分の役目を果たしただけよ。あなたにとやかく言われる筋合いはない」

 

「お前の役目? こいつの脚に枷を嵌めて、自由に走れなくするのがそれか?」

 

 痛烈な皮肉は、マルゼンスキーの胸に深々と突き刺さり、少なからぬ動揺をもたらした。

 

 奥歯を強く噛み締め、彼女は言葉を返す。

 

「…………ええ、そうね。あなたに言わせればそうなんでしょうね。でも、その子を守るためには仕方のないことよ。間違ったことをしたとは思ってない」

 

「守ってほしいと、こいつが言ったのか?」

 

 リコは静かに問う。

 

「レースの勝ち負けなんかより身体や命の方が大事だから、どうか守って下さいって、こいつ自身がお前にお願いしたのか?」

 

 返答に窮する相手の顔を見据え、畳みかけるように言葉を連ねる。

 

「違うだろ? お前は頼まれてもねえことを勝手にやってるだけだ。お前の中で勝手にこいつを可哀想な奴にして、勝手に保護者を気取ってやがる。こいつにしてみりゃいい迷惑だ」

 

 言いながら、当のグラスワンダーに目を向ける。

 

 栗毛の少女は二人の口論に口を挟めず、気まずい表情のまま俯いていた。

 

 マルゼンスキーは声を震わせる。

 

「迷惑、ですって……?」

 

「ああ、いい迷惑だ。こいつはお前の子供じゃない。競馬場でどう走ってどう生きていくかは、こいつ自身に決めさせ――」

 

 炸裂する、重い拳撃。

 

 鋭く突き出された拳がリコの左頬を捉え、その身を宙に舞わせた。

 

 いったいどれほどの力で殴られたのか。空中で一回転したリコは、そのまま受け身もとれずに倒れ伏す。

 

 時が止まったかのように、成り行きを見守っていた全員が凍りついた。

 

「好き放題言ってくれるじゃない。何も知らないくせに」

 

 砂地に伏したリコを見下ろし、マルゼンスキーは言い放つ。

 

「いいわね。あなたみたいな、何もかも思い通りになってきた人は。勝利だの栄光だの頂点だのと、子供じみた夢ばかり追っていられて。……考えたこともないでしょう? 諦めて屈して、失っていく人の気持ちなんか」

 

 その声音には、心底からの嫌悪と、殺意に近いほどの憤怒が滲み出ていた。

 

「勝ち負けより命の方が大事? ……ええそうよ。当たり前でしょう? そう思うことの何が悪いの? 大事な後輩を死なせたくないと思って、何がいけないって言うのよ!?」

 

 マルゼンスキーが本気の怒声を放つ姿を、グラスワンダーは初めて見た。

 

 エルコンドルパサー達にとっても、それは同じだったのだろう。皆が一様に絶句し、大きく見開いた目をマルゼンスキーに向けていた。

 

 そんな中、ただ一人――シンボリルドルフだけは冷静な面持ちに戻り、他の面々とは全く別のものを見るように、両眼を鋭く細めていた。

 

 彼女だけが、理解していたのだ。

 

 マルゼンスキーの怒りの理由を。放たれた言葉の意味を。

 

「……それで」

 

 砂地に手をつき、立ち上がるリコ。

 

 口から血を流しながらも、その表情は殴られる前と少しも変わっていなかった。

 

 再びマルゼンスキーと向き合い、彼女は問う。

 

「その結果、大事な後輩が望みを遂げられずに終わっても……お前にとっては本望か?」

 

 挑発や皮肉ではない、強く真摯な意思から放たれた言葉。

 

 心の奥底にあるものを探ろうとするかのような、重い問いかけ。

 

 マルゼンスキーはそれに、敵意を剥き出しにした眼差しで応じた。

 

「その言い方は、傲慢よ」

 

 最早一片たりとも取り繕おうとせず、本音をそのままぶつける。

 

「まるで、自分の言う通りにしてさえいれば明るい未来が待ってるとでも言いたげね。四冠馬だか何だか知らないけれど、思い上がりもほどほどにしたら?」

 

 真正面から衝突し、鬩ぎ合う視線。

 

 互いに譲れないものを胸に、二人のサラブレッドは対立する。

 

 しかしながら、永遠に続くかのようだったその緊張状態も、やがて終わりを迎えた。

 

 リコが小さく息を吐き、表情を緩めたことによって。

 

「……確かにそうね。傲慢な言い方だったわ」

 

 口調を戻し、微笑みを浮かべる。

 

 唐突に普段の顔に戻った彼女は、張り詰めていた空気を解きほぐすように肩を竦めた。

 

「現役の頃は、まあそこそこやる方だったと勝手に自負しちゃいるけど……指導者としてはまだ威張れるほどの実績ないしね、私。マル子ちゃんに信用してもらえなくても、無理ないか」

 

 自嘲気味に言って、今まで口論していた相手に穏やかな目を向ける。

 

「別にマジでキレてたわけじゃないわよ。グラスちゃんがいまいち本調子じゃないみたいだったから、ちょっと体育会系のノリで喝を入れてみようとしただけ。ほらごめんねグラスちゃん。ひっぱたいて悪かったわね」

 

 グラスワンダーの頭を撫でてから、自身の左頬を痛そうにさする。

 

 拳の一撃を受けたその部分は、既に赤く腫れ上がっていた。

 

「にしても…………平手くらいは飛んできそうだなーとは思ったけど、まさかグーでくるとはね……一発で身体がきりもみ回転するとか、いったいどんなパンチ力してんのよ? もー」

 

「……謝らないわよ。その件は」

 

「いいわよ。私もグラスちゃんに手を上げちゃったから、その罰ってことにしとくわ」

 

 口から流れた血をハンカチで拭いつつ、穏やかな声音で言葉を続ける。

 

「これからは体育会系のノリは出来るだけ控えるから、怒らないでコーチ役続けてよ。マル子ちゃん。グラスちゃん達五人をレベルアップさせるためには、マル子ちゃんの力が必要だからさ」

 

「…………身体を壊すようなことをグラス達に強要しないなら、協力します」

 

「ありがと。じゃ、今後ともよろしくね。……あっ、そうそう、イレネーさんもごめんねー。駄目な昼ドラみたいなしょーもない喧嘩見せちゃって」

 

「い、いや……別に、あたしは……」

 

 リコがイレネーの方を向くと、マルゼンスキーは緊張を解いて大きく溜息をつき、グラスワンダーに歩み寄った。

 

 やや腰を落として目線を合わせ、心配そうに声をかける。

 

「……大丈夫? グラス」

 

「大丈夫です。…………すみません……ご迷惑をかけてしまって……」

 

「気にしなくていいのよ。私が勝手に怒ってただけだから」

 

 優しく言ったマルゼンスキーは、直後に気付く。

 

 俯き加減に立つグラスワンダーが、リコに打たれた頬を気にする素振りを見せていることに。

 

「……グラス?」

 

「何でも……ないです…………何でも……」

 

 暗く沈んだ顔。頬に触れたまま、微かに震える指先。

 

 焦点が定かでない瞳は、ここではないどこかを見ているかのようだった。

 

「……私は、平気です…………まだまだ……頑張れますから……」

 

 零れ出る言葉は、やはり空虚。

 

 芯の通った意思が込められているとは思えないほど空々しく、痛々しい。

 

 全力を出すことを禁じられ、レースに敗れ、手酷い叱責を受けた少女が、胸の内で何を思うのか。

 

 それを知ることは、長い付き合いのマルゼンスキーにも出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 全てが変わると思っていた。

 

 自分を取り巻く環境も、他人から向けられる目も、行く先に待つ未来も、勝利を手にすれば劇的に変わるに違いないと信じていた。

 

 だから、あの日――キーンランド競馬場で行われた模擬レースを制した直後は、気分が高揚していた。

 

 敗れた連中の口から洩れる困惑の声や負け惜しみが、耳に心地よかった。

 

 スタンドから届く関係者達のどよめきが、数万人の大歓声のように聞こえた。

 

 たった一勝。戦績に残らず、賞金もトロフィーも貰えない、小さな一勝。

 

 けれども、初めて自分の力でもぎ取ったその勝利は、確かな自信と大きな希望を彼女にもたらした。

 

 今日のこの勝利で、自分は変わった。

 

 追いつめられた状況が、この身に眠っていた力を呼び覚ました。

 

 いや、違う。取り戻すことが出来たのだ。学園に入る前、幼馴染と無邪気に走っていた頃の純真な走りを。他の誰にも真似出来ない、自分だけの走りを。

 

 随分と遠回りをしてしまったが、原点に立ち返ることで、ようやく真の強さを手にした。

 

 この力があれば、もう誰にも負けない。

 

 どんな相手にも、必ず勝てる。遠く霞んでいた薔薇のレイにも、今ならきっと手が届く。

 

 また、希望を抱いて歩んでいけるのだ。

 

 敬愛する恩師と一緒に、輝く未来に向かって。

 

「グラスワンダー」

 

 名を呼ぶ声が聞こえた。

 

 スタンドでレースを観ていた、自分のトレーナーの声だ。

 

 振り返ると、トレーナーは柵を越えてコースに踏み入り、こちらに向かって歩いてきていた。

 

 自分の勝利を祝福しに来てくれたのだろう。

 

 ――おめでとう。よくやった。素晴らしい走りだったね。

 

 そんな言葉をかけながら、頭を優しく撫でてくれるに違いない。

 

 そう思うと立ち止まっていられず、自分からトレーナーに駆け寄っていった。間近に行けば彼の顔が綻び、温かな言葉が紡がれると信じて。

 

 だが――現実は、どこまでも非情だった。

 

「…………え?」

 

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 

 気付いた時には視界が大きく横に滑り、誰もいない方角を向いていた。

 

 耳に残る、パンという音。

 

 頬に残る、微かな痛み。

 

 頬をはたかれたという事実を脳が認識出来たのは、何秒か経ってからだった。

 

 恐る恐る首の向きを戻すと、酷く険しい眼差しをしたトレーナーが、そこにいた。

 

「……何だ? あれは」

 

 平手を振り抜いた姿勢のまま、男は言う。

 

「猪が突進するようなあの醜い走りは何だ? あんな走り方を誰が教えた?」

 

 怒りが滲み出た声で、重ねられる問い。

 

 冷たく見下ろすその顔は、普段とは別人のようだった。

 

 徐々に状況を理解し始めたグラスワンダーは、声を震わせながら答える。

 

「……あ、あれは……あれは、勝つために……夢中で……」

 

「レースに夢中で基本も何もかも忘れてしまったと? 呆れたな。大事な基本をいかなる時も忘れるなと、僕は言い続けてきたのだが……君の心には届いていなかったようだ」

 

 無情な言葉が、心を抉る。

 

 自信を、希望を、高揚を――胸を満たしていた温かなもの全てを、鉄槌のように重い罵倒が打ち砕いていく。

 

「ご、ごめんなさい…………で……でも……私、勝って……レースに、勝って……」

 

「勝てばそれでいいとでも思っているのか? こんな、子供の駆けっこで」

 

「……っ!」

 

「以前言った筈だ。僕が君を指導するのは、上を目指させるためだと。将来一流の競走馬になってもらうために、走りの基礎を教え込んでいるのだと。こんな模擬レースの勝ち負けなど問題ではない。正しい理論を頭に刻みつけ、正しい走り方を実践出来るようになることが、今は何より重要だ」

 

 少女が掴み取った勝利を、トレーナーの男は無価値と断じた。

 

 彼が望んでいたのは教え子が圧勝する姿ではなく、自分の教えを全うする姿だった。

 

 たとえどれほどの強さを見せられようとも、自分が正しいと信じる走り以外のものを認める気など、最初からなかったのだ。

 

「分かったなら、今この場で誓いなさい。もう二度とあんな馬鹿な走りはしない……と」

 

「…………い、嫌……です……」

 

「何?」

 

「あの走りを、捨てるなんて…………私は、嫌です……」

 

 師の命令を、グラスワンダーは拒んだ。

 

 意地と勇気を振り絞って口にしたそれが、師に対する初めての反抗だった。

 

「あれが……あの走りが……私に、力をくれて……生まれ変わったみたいになって……」

 

「錯覚だ」

 

 否定の言葉が、即座に返る。

 

「一着になれたのは、前を行っていた三人が潰し合った末に失速しただけだ。君が速くなったわけじゃない。そんなことも分からないのか?」

 

「そ、そんな…………そんなこと、ないです……あれは……あれは、確かに……」

 

「あの出鱈目な走りのおかげで勝てたと、何故言い切れる? 無意味に脚を酷使するだけの愚行に、どんな利点があると言うんだ?」

 

 詰問され、返答に窮する。

 

 元々、幼き日の憧れが生んだ走りだ。理論的な裏付けなど一切ない。何がどう良いのかは自分でも分からない。

 

 けれど、それでも信じたかった。

 

 人に言わせれば無意味で非合理なあの走りが、自分に力をくれたのだと。

 

「あ……あれは…………あれは、私の……私だけの、走りで……」

 

「自分だけの走りなど、この世にはない」

 

 トレーナーは断言した。

 

「体格や運動能力の差はあれ、身体の構造は皆同じだ。ならば最善とされるべき身体の動かし方も、おのずと一つに絞られる。自分だけに適した特殊な走法があるなどというのは、理論を知らない素人の世迷言でしかない」

 

 侮蔑と失望に彩られた暗い瞳が、少女を射抜く。

 

「そんなことさえ理解出来ないなら…………もう君に教えることはない。二度と僕の前に顔を見せるな」

 

 突き放すように告げ、身を翻して歩き出す。

 

 敬愛する恩師だった男の背中が、あっという間に遠ざかっていく。

 

 無情なその後ろ姿を、グラスワンダーは無言で立ち尽くしたまま見送るしかなかった。

 

 それから、どれだけ経っただろうか。

 

 周囲に誰もいなくなってからもコース内に留まり続けた彼女は、やがて地面に膝をつき、一筋だけ涙を流した。

 

 嗚咽や嘆きは零れなかった。悲しみよりも深い諦めと喪失感が、心を麻痺させていたからだろう。

 

 ――分かっていた。

 

 心のどこかで、本当は分かっていた。

 

 あの走りが、他人に褒めてもらえるようなものではないことを。

 

 嘲笑われ、否定されるだけのものでしかないことを。

 

 それでも、結果を出せば認めてもらえるかもしれないと、淡い希望を抱いていたが――それも儚い夢に過ぎなかった。

 

 勝とうが負けようが、結局は同じ。望んだ通りの未来に辿り着く可能性など、最初から一欠片もなかったのだ。

 

 失意の中で自分にそう言い聞かせ、打たれた頬に手を伸ばした。

 

 まだ微かにひりつくそこに指先を当て、心の中で呟く。

 

 トレーナーが自分を見放すなら、それでいい。

 

 ここに自分の居場所がないというなら、それで構わない。

 

 ケンタッキーダービーは――薔薇のレイは、もういらない。

 

 外国に行こう。

 

 ヨーロッパでも、オセアニアでも、アフリカでも、アジアでも、どこでもいい。海の向こうの遠い国に渡り、そこで一から出直そう。

 

 もう誰にも頼らない。誰にも教えを乞わない。誰の命令も聞きはしない。

 

 自分は、もう二度と、自分を曲げない。

 

 あのトレーナーが否定した「醜い走り」で、死ぬまで走る。

 

 世界中の人々に否定されようとも、自分の走りを貫き通し、勝ち続けてみせる。

 

 そして、いつの日かなってみせる。

 

≪ビッグレッド≫の名を継ぐ者として、人々の記憶に刻まれる存在に。

 

 

 凍てつくような孤独の中で、そう誓った。

 

 ――その誓いさえ捨て去る日が来るとは、夢にも思わなかった。

 

 

 

 

 

 

 スタンド前に立つエルコンドルパサーは、ゴール地点に立つグラスワンダーの姿を見つめ続けていた。

 

 親友が味わった挫折の重さを、自分のことのように感じながら。

 

(グラス……)

 

 正直なところ、レースが始まる前からこの結果は見えていた。

 

 あれだけ固く禁じられた「叩きつける走法」が、こんな模擬レースで使用を許されるわけがない。

 

 ただでさえ分が悪い勝負に、切り札を使わないまま勝てるわけがない。

 

 それでも、密かに願っていた。

 

 親友の底力が奇跡を起こすことを。たとえ勝てなくても、観ていた誰もが納得するようなレースになることを。

 

 レースが終わった後に、彼女が偽りのない笑顔でいられることを。

 

 そんなことがあるわけがないと、知っていたのに。

 

 

 ――叶わない、夢でしたね。

 

 

 三日前の夜。寮への帰り道で聞いた言葉が、頭の中で蘇る。

 

 あの時グラスワンダーが零したあの言葉は、紛れもない本音だったのだろう。

 

 誰よりも強い≪ビッグレッド≫になる夢を、彼女は既に諦めていた。

 

 それなのに外面を懸命に取り繕い、再起をかけてこの合宿に参加し、世界の舞台を目指していたようだが――やはり、現実は甘くなかった。

 

 彼女を待っていたのは、走り方さえ自分の意思で選べない苦境と、それがもたらす不完全燃焼の敗北だけ。

 

 競馬に全てを捧げてきた者にとって、これほど辛いことが他にあるだろうか。

 

「……」

 

 小さな身体が、より一層小さく見えた。

 

 自分が知る≪怪物≫グラスワンダーの面影は、既に微塵も残っていない。

 

 否応なしに、思い知らされる。

 

 今、自分の視線の先にいる小さな少女は、常識を蹴り砕く≪怪物≫でも、共に頂点を目指して競い合うライバルでもない。

 

 既に夢破れ、胸に抱いていた大切な何かも失くしてしまった、空虚な抜け殻なのだと。

 

 受け入れ難いその事実に歯噛みし、拳を握り締めていると――不意に、背後から声が聞こえた。

 

 徐々にこちらに近付いてくる、数人の女の話し声だ。

 

「うわ……ボロ……ってか、狭っ…………何? 日本の競馬場ってこんなショボいの?」

 

「ここは日本の中でもローカルな競馬場だよ、シガー。他のところはもっと広くて綺麗さ。日本の競馬界はドバイの次くらいに裕福だからね」

 

「ってかここ、あたしらが知るような競馬場じゃないっしょ? あー……何だっけ? 何か知らねーけどデケー奴らが橇曳いて競走するやつ」

 

「左様。ここはばんえい馬なる伝説の巨人族の末裔が、互いの命を賭けて戦う闘技場。かの一族は修羅の一族とも呼ばれており、成人するまでの間ここで百の死闘を繰り返さねばならない武の掟があると聞く」

 

「……その知識は色々と違っていますよ。ラウンド先輩」

 

 振り返り、言葉を交わしながら歩いてくる女達の姿を見たエルコンドルパサーは、心臓が止まりかけるほど驚愕した。

 

 遠い海の向こうにいるはずの名馬達が、そこにいたからだ。

 

 

 

 

 

 

「あーそうそう、言い忘れてたけど……」

 

 グラスワンダーとマルゼンスキーに向き直り、リコは言った。

 

 本当に言い忘れていたようには全く見えない、酷く悪辣な笑みを浮かべて。

 

「今回のこれ、実は合同合宿だったりするから」

 

「合同合宿……?」

 

 マルゼンスキーが眉をひそめる。同じく疑問に思って顔を上げたグラスワンダーは、気付いた。

 

 スタンドの方から、数人の話し声が聞こえることに。

 

「ちょうど今、到着したみたいよ。――アメリカ代表の御一行様が」

 

 雷に打たれたような衝撃が、背筋を走り抜けた。

 

 ひきつった顔をスタンドに向け、目に映った光景に息を呑む。

 

 静かな靴音を重ね、悠然とした足取りでこちらに近付いてくる、サラブレッドの一団。

 

 その一人一人の顔と名を――世界に轟く埒外の強さを、グラスワンダーは知っていた。

 

「ふむ……良き場だ。強者が放つ清冽な闘気に満ちている」

 

 凛とした面持ちで辺りを見回す三つ編みの女――ラウンドテーブル。

 

 通算戦績六十六戦四十三勝。

 

 アメリカ競馬史上最高の芝馬として名高い、歴戦の古豪。

 

「同感だね。なかなか活きの良さそうな子達が揃っている。ふふ……本当に、どの子も良い被験体になってくれそうだ」

 

 笑いながら眼鏡のつるを上げる白衣の女――ドクターフェイガー。

 

 通算戦績二十二戦十八勝。

 

 短距離で無類の強さを誇る、ダート一マイルの世界記録保持者。

 

「こんなとこで人体実験しないでねドクター。普通に犯罪だからねそれ。あと何度も言うけど、ドーピングしてレースに出るのは反則だからね。バレたら普通に失格だからね」

 

 半眼で窘める短髪の少女――シガー。

 

 通算戦績三十三戦十九勝。

 

 GⅠレース十一勝を含む十六連勝を達成した、稀代の上がり馬。

 

「おっ、エルコンじゃん! 何? お前も代表に選ばれたわけ? つーか何? あっちのゴツいのがばんえい馬ってやつ? ハハハハハッ! 超デケー」

 

 エルコンドルパサーに話しかけるテンガロンハットの女――バックパサー。

 

 通算戦績三十一戦二十五勝。

 

 完全無欠の肉体を持つと讃えられる、アメリカ競馬界の至宝。

 

 そして――

 

「世間話は後にして、まずは挨拶を済ませましょう」

 

 臣下を従えるように先頭を歩く、黒鹿毛の少女。その怜悧な美貌から、グラスワンダーは視線を外せなくなっていた。

 

 深く透き通った、この世の全てを見通すかのような黒瞳。

 

 一切の無駄を削ぎ落とし、長き研鑽の末に作り上げた、極限の肉体。

 

 冬の日射しを浴びて淡く輝く、金貨のペンダント。

 

 三年前に決別した日と何一つ変わらない、その少女は――

 

「シアトル……姉さん……」

 

 幼き日に競い合った、姉も同然の存在だった。

 

 柵を越えてコース内に踏み入った黒鹿毛の少女は、一瞬だけグラスワンダーと目を合わせたが、すぐに視線を切る。

 

 そしてリコの前で立ち止まり、右手を差し出した。

 

「アメリカ代表のシアトルスルーです。直接お会いするのは初めてですね」

 

「待ってたわよシアちゃん。こりゃまた、どぎついメンバー連れてきたわねー」

 

 気さくに笑って差し出された手を握り返すリコ。

 

 握手が済むと、少女――アメリカ合衆国第十代三冠馬シアトルスルーは、澄ました顔のまま淡々と言った。

 

「人間性には少なからず問題のある人達ですが……考え得る限りで最高の戦力を揃えたつもりです」

 

 その言葉に偽りはない。

 

 彼女の背後に立つ四人は、超大国アメリカが誇る最強の精鋭。桁外れの実力と輝かしい実績を併せ持ち、引退後の殿堂入りは確実視されている、紛うことなき超一流馬だ。

 

 そして、それらを束ねる彼女こそが、アメリカ競馬界の頂点。

 

 無敗のまま三冠を制覇するという前人未踏の大偉業を成し遂げた、無敵の王者。

 

 世界最強の座に限りなく近い、歴代最優の三冠馬。

 

「ラウンドテーブル、ドクターフェイガー、バックパサー、シガー……そして私、シアトルスルーの五名は、これより当合宿に参加させていただきます。未熟なこの身にご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」

 

 感情を排した抑揚のない声音で、三冠馬シアトルスルーはそう言った。

 

 その遥か後方では――

 

「だから俺抜きで話進めんなよー…………いる意味ねーじゃん俺……」

 

 髭面の中年男が、とても寂しそうに呟いていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話「超大国(前編)」

 

 

 アメリカ合衆国。

 

 五十の州、一の特別区、三の自治領、二の自治連邦区及び合衆国領有小離島からなる、連邦共和制国家。

 

 広大な国土と三億を超す人口、そして世界第一位の国内総生産を誇る、紛うことなき超大国。

 

 ヨーロッパからの移民が築いたこの国で競馬が始まったのは、まだイギリスの植民地だった十七世紀前半。以来独自の路線を行きながら発展を遂げ、第一次世界大戦後の国力増大に伴い競馬大国としての地位を確たるものにした。

 

≪ビッグレッド≫の異名で知られた赤き浮沈艦、マンノウォー。

 

 破竹の十六連勝を記録した第八代三冠馬、サイテーション。

 

 観る者全てを戦慄させた灰色の幻影、ネイティヴダンサー。

 

 マンノウォーから≪ビッグレッド≫の名を受け継いだ究極の最強馬、セクレタリアト。

 

 長く濃密な競馬史が生んだ綺羅星の如き英傑達は、競馬発祥の地イギリスの名馬と比べても遜色ないほどの評価を受け、全世界にその名を轟かせる存在となっている。

 

 競走馬の質と量で他国を圧倒し、過酷な生存競争を勝ち抜いてきた破格の名馬を数多く擁する、世界随一の競馬大国――それが、アメリカ合衆国の現在の姿である。

 

 

 

 

 

 

「ほんと、今日はびっくりしたよねー……いきなりアメリカの人達が来るなんて……」

 

 宿泊中の旅館の一階。

 

 風呂場へと続く板張りの廊下を進みながら、スペシャルウィークはそう言った。

 

 隣を歩くセイウンスカイが、苦笑で応じる。

 

「リコさんは言い忘れてたなんて言ってたけど、あれ絶対わざと隠してたよねー。私達の驚く顔が見たいとか、そんな理由で」

 

「……」

 

 言葉を交わす二人のすぐ後ろを、グラスワンダーは俯きながら歩いていた。

 

 二日目の練習を終えて宿に戻った彼女達は、汗まみれになった身体を洗うため風呂場に向かっているのだが、エルコンドルパサーとキングヘイローの姿はそこにない。

 

 合宿中だというのに、何故か二人とも「用事がある」と告げてどこかに行ってしまっていた。

 

「明日はあの人達と……一緒に練習するんだよね? 合同合宿って言ってたし……」

 

「あのノリからしてそうだろうね。何やるんだか知らないけど…………リコさんのことだから、五対五の異種格闘技戦みたいな展開になったりして」

 

「あははは…………ちょっとありそうで、怖い……」

 

 セイウンスカイの冗談に、スペシャルウィークは苦笑を返す。

 

 合宿への参加を表明したアメリカ代表チームだったが、長旅の疲れがあるということで今日の練習には加わらず、身体をほぐすための軽い運動を済ませた後は宿に移動していた。

 

 そのためまだ、日本代表チームの面々とはろくに会話もしていない。

 

 明日以降、あの無駄に濃い連中とどのような形で絡むことになるのかは、依然として不明なままだった。

 

「ま、あれこれ考えてても仕方ないね。とりあえず今日は、お風呂入ってゆっくり――」

 

 言いながら女湯の暖簾をくぐったセイウンスカイは、そこで言葉を詰まらせた。

 

 あまり広くない脱衣場の真ん中に、理解を超越したモノがあったのだ。

 

 それは一言で表すなら、逆立ちした女。

 

 しかしながら、床に両手をついているわけではなく、ぴんと伸ばした右手の人差し指だけで全体重を支えている。

 

 その上指先が触れているのは床ではなく、床の上に置かれた謎の器具――槍の穂先のように鋭い、金属製の円錐だった。

 

 ちなみに、当人は全裸だ。

 

 何故か一糸纏わぬ裸身を堂々と晒したまま、ヨガか何かの苦行としか思えない行為を黙々と続けている。

 

 何から何まで、全く意味が分からない。

 

「……」

「……」

「……」

 

 グラスワンダー、セイウンスカイ、スペシャルウィークの三名は、これまでの人生で一度も浮かべたことがないような表情を揃って浮かべたまま、脱衣場の入口に立ち尽くした。

 

 謎の全裸逆立ちを披露している異常者が何者なのかは、一応分かる。

 

 アメリカ代表チームの一人、ラウンドテーブルという名の三つ編みの女だ。

 

 しかしながら何故、旅館の女湯の脱衣場で、衣服を全て脱ぎ捨てた状態で、超人的ながらも意味不明な行為に没頭し続けているのか――そのあたりのことが、さっぱり分からない。

 

 むしろ、分かってはいけないような気さえしてくる。

 

「日本チームの娘達か」

 

「あ――は、はい!」

 

 話しかけられ、びくっとする三人。

 

 逆立ち状態を平然と維持しながら、ラウンドテーブルは言葉を紡いだ。

 

「貴殿らの噂は聞いている。才気溢れる強者が揃った豊作の世代で、日本競馬史上最強世代に推す声も少なくないとか……機会があれば是非手合わせ願いたいと、私は以前から思っていた」

 

「……」

 

「明日はよろしく頼む。競走馬としてさらなる高みに上るため、全身全霊を尽くして貴殿らと競い合いたい」

 

「…………は、はぁ……」

 

 グラスワンダー達は微妙な顔を並べ、生返事を返す。

 

 目の前の相手が真剣な気持ちで言っているのは分かるし、普通に聞けば好感が持てそうなことを言っている気もするのだが――当人の格好が気になりすぎて、話に集中出来ない。

 

 それに本音を言うと、こんな訳の分からない女とは関わり合いたくない。ここは適当に流して、さっさと風呂に入ってしまおう。

 

 という具合に、三人の思考が一致したところで――

 

「今取り組んでいるこれは修行だ。悪しき魔物共の手から無辜の民を守るため、心技体の全てを極限まで鍛え抜く修行を私は日々欠かさず行っている」

 

(何か語り出した……!?)

 

 行く手を阻むかのように、尋ねてもいないことを語り出されてしまった。

 

 全力で無視したいところだが、そういうわけにもいかない。

 

「何故この鋭利な先端が指に刺さらないのかと貴殿らは不思議に思うだろうが、理屈は簡単だ。普段全身をくまなく包んでいる闘気を指先の一点のみに集中すれば、その部分は鋼をも凌ぐ強度を得る。全体重をかけて乗ったところで皮一枚たりとも傷つくことはない」

 

「……」

 

「だが、闘気の一点集中を長時間続けるには並大抵ではない体力と精神力が必要不可欠。この修行を十五年続けている私でさえ、最高記録は九時間弱といったところだ。目指す剣聖の境地には程遠い」

 

「…………」

 

「ふむ、これも良い機会かもしれんな……どうだ? 貴殿らもやってみないか? 闘気を自在に操る術を身に付ければ貴殿らの競走能力と戦闘能力は飛躍的に向上し――」

 

「「「い、いえ! 結構ですっ!」」」

 

 全くありがたくない申し出を脊髄反射で辞退し、三人は脱衣場の隅に移動する。

 

 そして身を寄せ合いながら、ひそひそと囁き合った。

 

「……何? あの頭おかしい人…………ああいう人なの? あれ……」

 

「……噂は、前から聞いていましたけど…………噂通りの人だったみたいですね……」

 

「……あ、あの人と、一緒に練習しなきゃいけないの……? 私達……」

 

「……ええ……はい…………残念ながら……」

 

 真顔で「闘気」という単語を連発する真性の変人と、残りの十二日間を共に過ごさねばならない。その事実は、三人に戦慄を覚えさせるに十分だった。

 

 アメリカ競馬界の古豪、ラウンドテーブル。

 

 先日エルコンドルパサーが紹介した通り、現役最年長の部類に入るベテランで、とうに引退していてもおかしくない年齢の筈なのだが――残念ながら、そういう風には全く見えない。

 

 競走馬としての格やら何やらとは別の意味で、恐るべき女だった。

 

「大丈夫、ラウンド先輩はそんな怖い人じゃないよ。ちょっと脳細胞が発育不良だけどね」

 

「わっ――」

 

 スペシャルウィークが声を上げる。

 

 いつの間にか背後に立っていた人物に抱きつかれ、心臓が跳ね上がるほど驚いたのだ。

 

「それに、ふふ……私だってこの合宿を楽しみにしていたんだよ。アメリカ競馬は自国だけで完結している面があるからね。他国のサラブレッドとこうして触れ合える機会は、実はそんなに多くないんだ」

 

 アメリカ代表チームの一人、ドクターフェイガー。

 

 短距離戦で無類の強さを誇る快速馬は、楽しげに笑いながらスペシャルウィークと密着していた。

 

 ちなみに、彼女も全裸だ。

 

 薄いレンズの黒縁眼鏡以外、既に何も身に着けていない。

 

「細身で軽量。体高の割に胴長で飛節の角度は深め。キ甲は隆起しているが、まだ成長の余地を残している。絵に描いたようなステイヤー体型だ。……スペシャルウィークだっけ? いいね君。実に私好みの、そそる身体をしている」

 

「な、何ですか……!? ちょ、ちょっとやめ……」

 

「いいじゃないか減るものじゃあるまいし。もう少しだけ堪能させておくれよ。この素晴らしい、惚れ惚れするような好馬体を」

 

 抗議の声を封殺し、全裸の痴女は笑みを深める。

 

 勝手に抱きついたまま体中を執拗に愛撫するその所業は、いかなる観点から見ても犯罪でしかなく、グラスワンダーとセイウンスカイは本気で引いた。

 

「他国まで来て恥ずかしい真似はやめろドクター。……まったく、貴殿には常識というものがないのか?」

 

 とラウンドテーブルが窘めるが、自分のことを棚に上げているせいで説得力は皆無だった。

 

「人聞きが悪いなぁ先輩。私はただ彼女達と親睦を深めようとしているだけだよ。この国の言葉で言うなら、裸の付き合いってやつさ」

 

 嫌がる相手に無理矢理くっついて触りまくることを、裸の付き合いとは普通言わない。

 

 そして間違いなく、親睦は深まらない。

 

「ふふ、見れば見るほど可能性を感じる良い馬体だ。……しかし惜しいな。強豪国のエース級と戦うには、少しばかり馬格が足りない。それに、過剰な筋肉は持久力を削ぐとはいえ、それでももう少しくらいはトモに肉が欲しいところだ。君もそう思うだろう? ん?」

 

「え……え……? あの……」

 

「だが安心してくれ。全くの偶然だが、そんな君にふさわしい薬がここにあるんだ」

 

 いつの間にどこから取り出したのか、ドクターフェイガーの手には注射器が握られていた。

 

 その中に充填された毒々しい色の薬剤を見て、スペシャルウィークの本能は生命の危機を感じ取る。

 

「この薬を体内に注入すれば、君の筋肉と骨格は種の限界を超えた爆発的成長を遂げ、伝説の神馬エクリプスをも遥かに凌駕する究極のサラブレッドの肉体へと変貌するだろう。私が保証する。……少しばかり強めの副作用が出てしまうのが難点だが、大丈夫。君ならきっと耐えられるさ」

 

「い、いりませんいりません! そんなのいらな――」

 

「まあまあそう遠慮しないでくれよ。それっ」

 

「な、なな何勝手に刺し――――ぎゃあああああああああああっ!?」

 

 同意していないのに注射をされたスペシャルウィークは、次の瞬間悲鳴を上げた。

 

 それと共に、メキメキメキメキゴキャボキッ――と、全身の骨が肉を引きちぎりながら折れ曲がっていくような音が、脱衣場に鳴り響く。

 

「おや? また失敗かな? 今度は上手くいくと思ったんだが……」

 

「ぐげおああああああああああああっ!」

 

 不思議そうに小首を傾げるヤブ医者と、汚い悲鳴を迸らせてのたうち回る哀れな被害者。

 

 そんな終末の光景を目にした二人は、筆舌に尽くし難いほど微妙な顔を並べた後――

 

「……お風呂、入ろっか」

 

「……はい」

 

 仲間を見捨てる方向で一致。

 

 服を脱いで籠の中に入れ、タオルを手に風呂場へと向かった。

 

 スペシャルウィークのことがどうでもよかったわけではないが――色々あって疲れていたので、助ける気力が湧かなかったのだ。

 

 そういうわけで終末の光景に背を向けた二人は、風呂場と脱衣場を仕切るガラス戸を開け、風呂場のタイルを踏む。

 

 グラスワンダーが大きく目を見開いたのは、その直後だった。

 

「あ……」

 

 旅館の規模に見合った小さな風呂場の浴槽に、先客が三人。

 

 褐色の癖毛をした長身の女、バックパサー。

 

 小柄な短髪の少女、シガー。

 

 そして、アメリカ代表チームの筆頭格である黒鹿毛の少女、シアトルスルー。

 

 三年前に喧嘩別れした幼馴染が、澄ました顔で湯に浸かっていた。

 

 

 

 

 

 

 失念していた。

 

 同じ宿に泊まっているのだから、いつ顔を合わせてもおかしくないというのに――風呂場で遭遇するかもしれないという想像が、何故か頭から抜け落ちていた。

 

 風呂椅子に座ってシャワーを浴びながら、グラスワンダーは浴槽の中にいる黒鹿毛の少女を盗み見る。

 

 シアトルスルー。

 

 史上十人目のアメリカ三冠馬。アメリカ競馬界の頂点に君臨する、無敵の王者。

 

 幼い頃は姉のように慕い、飽きるほど競い合った相手。

 

 三年前のあの日に喧嘩別れして以来、一度も会っていなかったし、連絡を取り合ったこともなかった。

 

 だから今のこの状況は、はっきり言って物凄く気まずい。

 

 あの少女と向き合いたくないし、会話したくないし、話すことなど何も思いつかない。一秒でも早く風呂場から出ていってほしいと切に願う。

 

 だというのに――

 

「シャワーばかり浴びていないで、湯に浸かったら?」

 

 向こうの方から、平然と話しかけてきた。

 

「これから何日も一緒に過ごすのだし、今更私を避けたって仕方がないわよ」

 

「……っ」

 

 奥歯を噛む。

 

 誰のせいで、こんな気まずい関係になったと思っている――そう内心で毒づきながらも、やむをえずシャワーを止めて立ち上がる。

 

 苛立ちを懸命に押し殺しながら浴槽に向かい、足先を湯に差し込んだ。

 

「……失礼します」

 

 身を沈め、胸の高さまで湯に浸かる。

 

 既にセイウンスカイも浴槽に入っており、狭い空間の中で五人が密集する形になった。

 

 とはいえ、そこに和やかな空気はない。

 

 アメリカ代表の三人は無言で寛ぐだけで、グラスワンダーはそんな三人と目を合わせようとしないため、どこか重苦しい沈黙がその場を包んでいた。

 

 そんな中でセイウンスカイは、黒鹿毛の少女の横顔を静かに見つめていた。

 

(これが、シアトルスルー……)

 

 海外の競馬に大して関心はなくとも、その名は知っていた。競馬の世界に関わる身ならば知らずにはいられない、名馬の中の名馬だからだ。

 

 ケンタッキーダービー。

 

 プリークネスステークス。

 

 ベルモントステークス。

 

 毎年五月から六月にかけて行われるその三競走を全て制覇したサラブレッドが、アメリカ合衆国では「三冠馬」と呼ばれる。

 

 アメリカ競馬のレベルの高さと、約一ヶ月の間に三連戦を強いる過酷な日程故に、達成難度は世界各国の「クラシック三冠」の中でも抜きん出て高い。しかしそれは栄光の重さの裏返しでもあり、達成者は至高の名馬として全世界にその名を轟かせる。

 

 そして、第十代三冠馬シアトルスルーは、歴代三冠馬の中でも特別な輝きを放つ存在。

 

 デビューから三冠を達成するまでの過程において、彼女だけが一度の敗戦も経験していないのだ。

 

 アメリカ競馬史上初となる、無敗の三冠馬。

 

 空前の大記録を打ち立て唯一無二の存在と化した、生ける伝説に他ならない。

 

(何だか……そこまですごい人には見えないけど……)

 

 湯に浸かる少女の肢体を観察しながら、セイウンスカイは首を傾げる。

 

 さほど大柄ではない。いや、どちらかと言えば小柄な方だろうか。

 

 よく鍛えられた一流馬の体つきをしているが、至高の名馬というほどの凄味は感じない。

 

 一流は一流でも、超がつかない並の一流。GⅠのタイトルを一つ獲れるかどうかの器。どこにでもいる普通の名馬。

 

 そんなわけがないと分かっているのに、どうしてもそんな印象を抱いてしまう。

 

 外見から感じる凄味という意味でなら、隣にいる長身の女の方が遥かに――

 

「今日、ばんえい馬の人とレースをしたそうね」

 

 沈黙を破り、シアトルスルーが口を開いた。

 

 話しかけられたグラスワンダーは、俯いたまま表情を強張らせる。

 

「途中までは食い下がったもののやがて敗色濃厚になり、あの走法を使おうとしたところを止められた……と聞いているけれど、それで間違いはない?」

 

「……はい」

 

 グラスワンダーが頷くと、シアトルスルーは小さく溜息をつく。

 

「……相変わらずね。努力の仕方を間違えている」

 

 呆れの中に憐れみを含んだ声で言い、諭すように続ける。

 

「レースとは必勝の気構えで臨むもの……その認識に間違いはないし、私もそのつもりで走り続けている。けれど、練習中の模擬レースまでそこに含めてはいない。練習はあくまで練習。重要なのは勝ち負けではなく、そこで得た経験を本番でどう生かすか……しっかりと先を見据えた上で自身の能力向上に努めることが、何より大切」

 

 深く透き通った黒瞳が、俯く少女を見据える。

 

 この世の全てを――他者の未来や運命さえも、冷徹に見通すかのように。

 

「そこを履き違えたままでいると、また脚を壊すわよ」

 

 静かな忠告が、鋭く深く胸を刺す。

 

 膨れ上がる怒りとも悔しさともつかない感情に、グラスワンダーは震えた。

 

 一昨年の春に骨折したという事実と、これから先また骨折するかもしれないという危惧。

 

 その二つがあるからこそ、彼女は枷を嵌められている。望むままに走れない不自由な立場に身を置かれているのだ。

 

「…………何で……」

 

 細い声で、問いを零す。

 

「何で今……日本に来たんですか……?」

 

「別にあなたに文句を言いに来たわけじゃないわ。もう聞いているでしょう? リコ監督からの合同合宿の誘いに私の先生が応じて、私もそれに賛成した。だから今、ここにいる。それだけよ」

 

 落ち着き払った様子のシアトルスルーは、目を細めながら天井を仰いだ。

 

「またこの国の土を踏むことになるなんて、少し前までは考えもしなかったけれど……これはこれで悪くない。何事も経験が大切。普段と違う環境に身を置き初めて出会う相手と競い合うことで、得られるものもあるかもしれない……そう思ったから、この合同合宿に賛成したのよ。ワールドカップの前にうちのチームとそちらのチームの戦力を比べられる、良い機会でもあるしね」

 

「比べるまでもないでしょ、そんなの」

 

 そう言ったのは、小柄な短髪の少女――シガーだった。

 

 アメリカ代表チームの中で最年少の新鋭は、浴槽の縁に座って脚だけを湯に浸しながら、酷くつまらなそうな顔をしていた。

 

「うちと同じパートⅠの格付けっていったって、結局は無駄に金があるだけの競馬後進国。ちっこい島の中で仲良しこよしのしょぼいレースしてるザコしかいないとこだよ。わざわざ一緒に練習してやる価値があるとは思えないね」

 

 競馬の世界には国際的な格付けというものがあり、競馬を施行する国及び地域を、そのレベルに応じてパートⅠからパートⅢまでの三段階に分けている。

 

 最上位であるパートⅠの国は現在、イギリス、アイルランド、フランス、ドイツ、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、チリ、ペルー、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アラブ首長国連邦、日本、香港の十六ヶ国。

 

 格付けの上では、日本とアメリカは対等の関係。しかしながら、その一事をもって日本競馬とアメリカ競馬に差がないと見るのは早計だ。

 

 競走馬の質と量が、国を代表する名馬の格が、世界の競馬史に与えてきた影響が、日本とアメリカではあまりに違う。

 

「……まあそんな国だから、この人も逃げ込んだんだろうけど?」

 

 冷たい眼差しが、グラスワンダーを見下ろす。

 

「グラスワンダーだっけ? あんたのことは聞いてるよ。元々はうちの国にいたけど、挫折して日本に渡ったんだってね」

 

 遠慮も容赦もなく、シガーは思っていたことをそのまま口にした。

 

 苦悩の末に母国を捨てた少女を、唾棄すべき落伍者と断じて。

 

「よかったね。レベルの低いとこで、トップクラスになれて」

 

「――っ」

 

 これ以上ないほどの侮辱に、心が軋む。

 

 自らの足跡を否定され、誇りにしていたものを貶められて、グラスワンダーは呼吸さえままならなくなるほど動揺した。

 

 その姿を見たセイウンスカイは、険しい顔をシガーへと向ける。

 

「ちょっと…………いくら何でも言い過ぎじゃない? それ」

 

 日本競馬を蔑むだけなら、まだ許容出来た。

 

 しかし、グラスワンダーを――同期のライバルとして競い合ってきた少女を傷つける発言だけは、どうしても許容出来ない。

 

 出来るわけがない。

 

「お友達を馬鹿にされてイラっときた? 安っぽい友情だね。笑えるよ」

 

「君の言動の方が百倍安っぽいと思うけど? 自分を客観的に見れないの?」

 

「……口だけは達者だね。ザコのくせに」

 

「一緒に走ったこともないのに、どうしてザコって決めつけられるのかな?」

 

 挑発的な言葉に、セイウンスカイは毅然とした態度で応じる。

 

 シガーは冷笑を浮かべた。

 

「何? 一緒に走らなきゃ分からない? だったら――」

 

「やめなさい、シガー」

 

 闘争心を剥き出しにするシガーを、シアトルスルーが止めた。

 

「初対面の方に対して失礼よ。あなたも国の代表なら、礼節を弁えなさい」

 

「だってシア姉、こいつら――」

 

「シガー」

 

 静かだが、確かな威圧を孕んだ声。一切の反抗を許さない、氷刃の眼差し。

 

 アメリカ最強馬を怒らせかけていることに気付いたシガーは、自らの感情を鎮めるために目を瞑ってから、溜息と共に立ち上がった。

 

「……分かったよ。じゃ、無礼者は退散するねー。あとはどうぞ、ごゆっくり」

 

 皮肉るように言い捨て、風呂場の出入口へと歩いていく。

 

 その後ろ姿がガラス戸の向こうに消えると、シアトルスルーはセイウンスカイに顔を向けた。

 

「失礼致しました」

 

 頭を下げ、後輩の非礼を詫びる。

 

「私の指導が行き届かず、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。後できつく叱っておきますので、どうかご容赦下さい」

 

「い、いえ……あの……」

 

 アメリカ最強馬に謝罪されると思っていなかったセイウンスカイは、戸惑いを浮かべて口ごもる。

 

 そんな彼女に、それまで黙っていた長身の女が笑いかけた。

 

「ま……そういうこったから悪く思うなよ、白いの。それにまあ、あいつはよその奴に対しては大体あんな感じだからな。いちいち喧嘩買ってやってたらきりがねえんだ、これが」

 

「……あなたも人のことは言えないと思うけれどね、パサー」

 

 顔を上げたシアトルスルーが、呆れた様子で言う。

 

 アメリカ代表チームの一人バックパサーは、浴槽の縁に両肘を置きながら笑みを深めた。

 

「失敬な。あたしは普段はフレンドリーだぞ、こう見えても。イキって喧嘩売るのはレースの時だけって決めてんだよ」

 

「出来ればレースの時も大人しくしててほしいけど……まあいいわ」

 

 シアトルスルーはグラスワンダーに向き直る。

 

 俯いたまま目を合わせようとしない幼馴染に、彼女は先程より幾分か柔らかな声音で語りかけた。

 

「話が逸れたわね。…………とにかく、私は私なりにこの合宿を有意義なものと捉えているし、せっかくの機会だからあなた達日本チームと親睦を深めたいとも思っている。だからそんなに硬くならないでくれるかしら?」

 

「…………よく、言いますね……」

 

 グラスワンダーは呟いた。

 

 闇のように暗く、鉛のように重い、怒りと憎しみが滲む声で。

 

「三年前、あれだけ……人の全てを、否定しておいて……」

 

 三年前の冬。寒空の下で叩きつけられた、否定の言葉。

 

 それは今も癒えない傷痕として、彼女の中に残り続けている。

 

 あの出来事を記憶から消し去り、子供の頃と同じように笑い合うなど、到底出来はしない。

 

「……あの日、私が言ったことを憶えている? グラス」

 

「忘れられるわけ……ないじゃないですか……」

 

 あの時の言葉を、跳ね返したかった。

 

 自分は刹那の強者ではないと――自分の力は花火のように消えてなくなるものではないと、証明してみせたかった。

 

 その想いを胸に、懸命に走り続けてきた。

 

 だというのに、どうしてか、現実はあの時の言葉通りになりつつある。

 

 夢見た無敵の王者にはなれず、頼みにしていた「力」は使用を禁じられ、拭えない喪失感と敗北感を抱えたままの惨めな姿を晒している。

 

 それが、悔しくてたまらない。

 

「なら……」

 

 シアトルスルーの眼差しが、心の芯を打つような力強さを帯びた。

 

「あの時と同じ要求を、今ここでしたとしても……返答は変わらない?」

 

 決裂の日の最後。

 

 情け容赦ない否定を続けた末に、三冠馬シアトルスルーが口にした、一つの要求。

 

 人生の転換を迫る、他の何より重大な発言。

 

 当時のグラスワンダーは、それを拒んだ。そんな要求には死んでも従わないと、強い意思を胸に言い切った。

 

 だが――

 

「あの時と同じ答えを、今も胸を張って返せるの? あなたは」

 

「……っ……それは……」

 

 この時のグラスワンダーは、以前と同じ答えを返せなかった。

 

 見えない何かに歯止めをかけられたように、胸の内にある想いが言葉にならなかったのだ。

 

「…………私は……」

 

 伏せた目に迷いを湛え、返答に窮したまま震えていると――

 

「シア姉ー、ラウンド先輩がオーラ使い果たしてぶっ倒れてるよー。あとドクターに注射された人が心臓止まってるみたいだけど、どうするー?」

 

 脱衣場の方から、シガーの声が届いた。

 

 どうやらあちらには、かなりの惨状が広がっているらしい。

 

「まったく……あの人達は……」

 

 煩わしそうに呟き、シアトルスルーは立ち上がる。

 

 そして問題児二人の不始末を処理するため、足早に風呂場を出ていった。

 

 残されたのは三人。

 

 気ままに寛ぐバックパサーと、震え続けるグラスワンダーと、それを心配そうに見つめるセイウンスカイだった。

 

「グラスちゃん……?」

 

 セイウンスカイの声は、グラスワンダーの耳に入らない。

 

 栗毛の少女は俯いたまま自己の内側に埋没し、煩悶を続けていた。

 

 微かに開いた口から、思考の断片を零しながら。

 

「…………捨てるなんて……そんなこと…………出来るわけ、ないじゃない……」

 

「……」

 

 バックパサーは、それを聞いていた。

 

 奔放に生きるアメリカの天馬は、形のない何かに囚われた少女の嘆きを、無言のまま聞き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 合宿三日目。

 

 この日の早朝、帯広競馬場の正面スタンド前で行われた特訓は、前日と同じ内容だった。

 

 即ち、重種馬の大女達の体当たりを真正面から受け止める特訓である。

 

「ぬおああああああああああ――――っ!」

 

「ぐうっ……!」

 

 大砲の一撃を思わせる、激烈な衝撃。

 

 栃栗毛の大女の猛突進を受けたエルコンドルパサーが、強張った顔で苦鳴を零す。

 

 しかし、その身が宙に浮くことはなく――地面に敷かれたマットの手前まで後退した後、バランスを保てなくなり仰向けに倒れた。

 

 衝撃に耐え切ることは出来なかったが、内容的には格段の進歩を遂げたと評すべきだろう。

 

 前日の練習では、何の抵抗も出来ずに吹き飛ばされるだけだったのだから。

 

「おー……たった一日で随分様になってきたじゃない、エルちゃん」

 

 横で見ていたリコが、感心した様子で言う。チームの仲間達も口々に驚きの声を上げる。

 

 マットの上で上体を起こしたエルコンドルパサーは、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「えへへ……昨日何度も吹っ飛ばされたおかげで、だんだんコツが掴めてきた感じデース」

 

 学習能力の高さ。それは彼女が持つ大きな武器の一つだろう。

 

 セイウンスカイのように華麗な受け流しを披露することは出来ないが、僅かな経験から重種馬の突撃に対処する術を学び取り、不完全ながらも実践してみせた。

 

 慣れればある程度の対処は誰でも出来るようになるとはいえ、ここまで進歩が早い者は稀だ。優れた観察力と思考力に裏打ちされた学習能力を持つ証左と言っていい。

 

 さらに言えば、彼女の強みはそれだけではない。

 

「パワーならグラスちゃんが、レースセンスならウンスちゃんが、チームの中では一番だと思うけど……それでもやっぱり、全部ひっくるめた総合力ではあなたが一番かもね、エルちゃん。ほんと、呑み込みが早くて助かるわ」

 

 グラスワンダーは規格外の剛力を誇るが、器用さに欠ける。

 

 セイウンスカイは類稀なレースセンスを持つが、地力はさほどでもない。

 

 スペシャルウィークはスピードとスタミナの両面で優れるが、非力な面があり力の要る馬場を苦手とする。

 

 他の面々が何らかの欠点を抱える中で、エルコンドルパサーにはこれといった欠点がない。なおかつ、全ての能力が高い水準でまとまっている。

 

 グラスワンダーには及ばないが平均以上の筋力があり、セイウンスカイほどではないがレースセンスにも秀でる。春の天皇賞馬のスペシャルウィークに引けを取らないだけのスタミナもある。ハードトレーニングをものともしない頑丈さと、強固な精神力も具えている。

 

 総合力においてはチーム随一の秀才であり、隙のない強さを持つ万能の名馬。

 

 その認識は、リコを含めた日本側の誰もが共有するものだったが――

 

「しょぼいな」

 

 ここに、異を唱える者が一人。

 

 赤と黒の二色に染められたテンガロンハットを被る女、バックパサーだ。

 

 やる気の欠片もない様子でスタンドの座席に寝転んでいた彼女は、唇の端を吊り上げながら言った。

 

「そいつのこと甘やかしすぎでしょ、監督さん。そんな程度でいちいち褒めちぎってたらアホな勘違いさせちまいますよ。その世間知らずに」

 

 小馬鹿にしているとしか思えないその物言いは、エルコンドルパサーの神経を逆撫でした。

 

 額に青筋を立てながら、彼女は微妙にひきつった笑みをバックパサーに向ける。

 

「わー……態度サイアクな人が何かエラソーに能書き垂れてマース……ぶっちゃけ邪魔臭いんでさっさと国外退去処分になってほしいデース」

 

「お前のために言ってやってんだよ、間抜け。また大舞台で恥かかねえようにな」

 

「――っ」

 

 返ってきた言葉に、エルコンドルパサーは息を呑む。

 

 相手の口から出た「大舞台」が、去年の凱旋門賞を暗に示していることを悟り――煮え滾るような怒りが、腹の底から込み上げてきた。

 

「そ……そんなに言うなら、お手本の一つくらい見せてほしいデスネー。まさかご立派なのは口だけとか、そんなしょぼいオチじゃありませんよネー?」

 

 激発しそうになった感情をどうにか抑え、挑発的な眼差しで言い返す。

 

 バックパサーはそれを、鼻で笑った。

 

「……変わんねえな、お前は。今も昔も、勘違いしたまんまだ」

 

 寝転んでいた座席から起き上がり、背筋を伸ばして立つ。

 

 首を左右に振ってコキコキと鳴らしながら、アメリカ競馬界の至宝は悠々と歩を進めた。

 

「いいよ。こういう泥臭えのはあんま好きじゃねえけど、お望み通り手本を――」

 

「待て」

 

 制止の声。

 

 手本を見せようとしていたバックパサーの目の前を、一人の女が横切った。

 

 アメリカ競馬界屈指の古豪であり、代表チームの最年長者――ラウンドテーブルだ。

 

「久々に血が沸いた。次は私がやらせてもらおう」

 

 宣言と共に栃栗毛の大女の前に立つ彼女は、既に完全武装の状態だった。

 

 細緻な装飾が施された白銀色の板金鎧に身を包み、頭には宝冠のように美しい額当てを付け、腰に巻く革帯からは十字架を思わせる形の長剣を吊るしている。

 

 その姿は、まさに騎士。

 

 中世の絵画から抜け出てきたかのような、眩いばかりに雄々しい騎士道の体現者だ。

 

「遥か古の時代、神々と地上の覇権をかけて争ったという巨人族の末裔……相手にとって不足なし」

 

 長剣を鞘から抜き放ち、両手で柄を握る。

 

 そして日本剣術の「八双の構え」に酷似した姿勢をとり、力強く言い放った。

 

「いざ、尋常に――勝負ッ!」

 

「…………」

 

 想定外の事態に直面した時、人はすぐには反応出来ない。まるで物言わぬ石像と化したかのように、心と身体の両方が硬直してしまう。

 

 今スタンド前に集う面々がまさにその状態で、泰然と剣を構えるラウンドテーブルを除き、誰もが白目を剥いて石化していた。目の前に存在する異常者を現実のものとして受け止めたくないという思いも、強く働いたのかもしれない。

 

 そういうわけで、全てが静止した時間が続いた後――ようやく思考力を取り戻したバックパサーが、覇気の欠片もなくなった顔で言った。

 

「あー……センパイ? やる気十分なとこ悪いんスけど……そういうアレじゃないと思うっスよ。これって」

 

「そういうアレとは何だ? 具体的に言え」

 

「いや、だから……」

 

「私が言うわ」

 

 バックパサーが言い淀むと、その横からシアトルスルーが進み出る。

 

 常に冷静な彼女も、この時ばかりは若干の疲労感を顔に出していた。

 

「ラウンド先輩……大変申し上げにくいのですが、先輩は練習の主旨を正しく理解されていません。今行われているこれは戦闘訓練ではなく、レース中の接触事故に対応する能力を培うための訓練です」

 

「む……そうなのか?」

 

「ええ。ですから剣は必要ありません。鎧も練習の主旨に沿わないので脱いで下さい。今すぐに」

 

「む……しかしこの鎧は、騎士たる者の正装であり我が魂の象徴と呼ぶべきもの。真剣勝負の場に立つ以上、身に着けぬわけには……」

 

「だから勝負じゃありませんよ。皆さんお待ちしていますので、早く脱いで下さい」

 

「つーかセンパイの剣って、空港で取り上げられたんじゃなかったんスか?」

 

「あれはエクスカリバー。今手にしているこれはアロンダイトだ。私が母から受け継いだ聖剣の一振りであり、湖の乙女の加護を受けた伝説の――」

 

「あーはいはい、分かりました。大体分かったからもういいっス。聖剣かっこいいっスね」

 

「話は最後まで聞け。あまりにも強大すぎる力を宿したこの剣は、ただ存在するだけで世界に亀裂を生じさせてしまうため、戦闘時以外は現世とは位相の異なる領域に――って待てシア! 私のアロンダイトをそんな雑に放り捨てるな!」

 

「先輩の聖剣は神々だか精霊だかの加護が宿ってますから、多少雑に扱っても大丈夫ですよ。そんなことより早く鎧脱いで下さい。手伝いますから」

 

 そんな茶番が繰り広げられた末、剣を奪われ鎧も剥ぎ取られたラウンドテーブルが、栃栗毛の大女の前に立つことになった。

 

 やっとまともな姿になったと言えるのだが、本人は不満そうだった。

 

「……では、よろしく頼む」

 

 などと言いつつも、お気に入りの玩具を取り上げられた子供のように頬を膨らませている。

 

 散々待たされた栃栗毛の大女は、うんざりした様子で溜息をついた。

 

「じゃあ、やらせてもらうけど……気ぃ付けなよ。あんまりふざけてると本気で怪我するからね? アメリカのお嬢ちゃん」

 

「心配無用」

 

 ラウンドテーブルは即答した。

 

「頑丈さだけが私の取り柄だ。いかなる攻撃にも耐え抜いてみせるゆえ、全力で来てくれて構わない」

 

 剣を握っていた時とは違い、今の彼女は一切身構えることなく、自然体のまま立っていた。

 

 ともすれば緊張感に欠けると取られかねない、その佇まいは――何故か不気味な圧力めいたものを、栃栗毛の大女に感じさせたのだった。

 

「大丈夫なの? あの人…………これがどういう訓練か、全然分かってないみたいだけど……」

 

 胡乱な目をラウンドテーブルに向けながら、キングヘイローが呟く。

 

 昨日嫌というほどこの訓練を体験した彼女は、重種馬の突撃の凄まじさを思い知っている。

 

 あれは、生半可な覚悟で受け止められるものではない。

 

 十分に気を引き締め、受身の取り方まで考えた上で臨まなければ、今後の競走生活に関わる大怪我をしてもおかしくはないのだ。

 

 そのことを本人に忠告すべきかどうか迷っていると、隣にいたグラスワンダーが口を開いた。

 

「止めた方が……いいかもしれません」

 

「え?」

 

「噂通りなら、あの人は……」

 

 その言葉が終わる前に、栃栗毛の大女が地を蹴った。

 

 分厚い筋肉を纏う巨躯が砲弾と化し、風を切り裂いて一直線に駆ける。

 

 計り知れない衝撃を生む猛突進を、臆することなく正面から迎えるラウンドテーブル。

 

 無防備なその身体に、大女の全体重を乗せた肩がぶつかり――次の瞬間、信じ難い光景がキングヘイローの目に焼き付いた。

 

「なっ……」

 

 ラウンドテーブルが倒れていない。

 

 いや、それどころか、元いた場所から一歩たりとも退がっていない。

 

 自身より遥かに大きな相手と正面からぶつかったというのに、何事もなかったかのように平然と立ち続けている。

 

 あまりにも非現実的なその怪現象は、傍から見ていたキングヘイローだけでなく、当事者である栃栗毛の大女をも驚愕させた。

 

「――言った筈だ。全力で来てくれて構わない、と」

 

 目を見開いて凍りつく相手に、騎士道の体現者は言い放つ。

 

 青い瞳の奥に、静かな怒りを宿して。

 

「私が余所者だからといって、余計な気遣いは止めてもらおう。幼少の頃より鍛え抜いてきたこの身体……手抜きの一撃で揺らぐほど柔ではない」

 

「ぐっ……」

 

 栃栗毛の大女は顔を歪め、呻くように声を洩らした。

 

 挑発的なことを言われて憤ったのではない。ラウンドテーブルの胴体と接触したままの肩から、耐え難い激痛が込み上げてきたのだ。

 

 とても立っていられず、肩を手で押さえながら地面に膝をつく。

 

 大粒の汗が、その額から滴り落ちた。

 

(嘘だろ…………何だよ……こいつの身体……!?)

 

 激しく狼狽しながら、心の中で疑問を繰り返す。

 

 手加減などしていない。相手の要望通り全速力で駆け、全体重を肩に乗せ、マットの向こう側まで吹き飛ばすつもりで体当たりを見舞った。

 

 だというのに全く効いていないばかりか、逆にこちらの肩の方が壊れかけている始末。

 

 何もかもが、常軌を逸している。小さく細く脆いサラブレッドの身体とは到底思えない。

 

 まるで、地中に深く根を張る大木――いや、違う。そんな程度のものではない。

 

 これは、城だ。

 

 幾重も連なる分厚い壁に守られた、堅牢な城塞。

 

 生き物の身体をぶつけた程度では小揺るぎもしない、難攻不落の巨大建造物。

 

「次は全力で来い。でなくば――」

 

「その人は全力で来ていましたよ、ラウンド先輩。別に手は抜かれていません」

 

 横からシアトルスルーが言った。

 

 すると衝撃的な事実を知らされたかのように、ラウンドテーブルは心底から驚いた顔を後輩に向ける。

 

「……そうなのか?」

 

「ええ。先輩が頑丈すぎるだけです」

 

「……そ、それは失礼した…………その……思ったより軽かったから、手を抜かれたものかとばかり……」

 

「あーおばさん、ムカつくだろうけど怒んないでやって。その人単にアホなだけだから。別に悪気とかはねーから。…………ああそれと、その人お嬢ちゃんって齢じゃねーから。若く見えっけどあたしなんかより年上だから」

 

 冷静に指摘するシアトルスルー。申し訳なさそうに縮こまるラウンドテーブル。面倒臭そうに手をひらひらと振りながら言うバックパサー。

 

 そんな三人の様子を、栃栗毛の大女は呆気に取られた顔で見上げるしかなかった。

 

 一方、傍観者の立場で規格外の耐久力を目の当たりにしたキングヘイローは、冷たい汗を流しながら声を震わせていた。

 

「な……何よ……あの化物……」

 

 昨日セイウンスカイが披露した技にも驚かされたが、あれにはまだ理屈があった。

 

 今のこれは、違う。全く違う。

 

 あのラウンドテーブルという女はセイウンスカイと違い、受けた衝撃を殺す技巧を一切使わず、素の耐久力のみで重種馬の猛突進を防ぎ切ったのだ。平然とした面持ちを保ったまま、一歩たりとも後退せずに。

 

 ありえない。そんな真似が出来るわけがない。どう考えても物理法則に反している。

 

 だが、不可能な筈のそれをいとも簡単にやってのけた者が、今目の前にいる。

 

 人の形をした城塞の如き化物が、現実に存在しているのだ。

 

「≪聖騎士≫ラウンドテーブル……かつてボールドルーラー、ギャラントマンの二人と並び称された、黄金世代三強の一角」

 

 グラスワンダーが、謳うように言った。

 

「宿敵だった二人が引退した後も現役を続け、現在までに六十六ものレースを走り抜き、年度代表馬と世界の賞金王に輝いた経歴を誇る古豪…………肉体の頑強さではアメリカ競馬史上最高とも讃えられる、鋼の名馬です」

 

 サラブレッドの脚は、「ガラスの脚」と呼ばれる。

 

 時速約六十キロメートルもの速さで走り続けるには、その骨格はあまりに細く、あまりに脆い。

 

 事実としてほとんどの者が、遅かれ早かれ脚を壊す。

 

 練習中に故障して一度もレースに出走することなく終わる者も、決して珍しくはないのだ。

 

 加えて言えば、レベルが上がれば上がるほどレースは過酷になる。勝つために必要な練習量も増え、必然的に故障のリスクは跳ね上がる。

 

 そのため一流の実績を持つ者は二十戦前後、多くとも三十戦前後で現役を退くのが通例だ。

 

 それ以上走りたいと望んでもそう簡単に走り続けられるものではなく、仮に走り続けられたとしても、全盛期の強さを維持することはまず不可能と言っていい。

 

 だからこそ、異常なのだ。

 

 世界一の競馬大国アメリカで若駒の頃から常に頂点を争い続け、六十六もの死闘に耐え抜き、現役最年長となった今でも衰えを見せない、ラウンドテーブルの頑強さは。

 

 鋼鉄の身体を持つ名馬――そう形容するにふさわしい存在は、彼女以外にいないだろう。

 

「……なぁ、リコ」

 

 重種馬達のまとめ役であるイレネーは、隣に立つリコに問いかけた。

 

「本当に、あんたらと同じ生き物なのか? あれ……」

 

「同じ生き物だけど、タフさに関しては別格中の別格よ。ラウンドちゃんは。あんな真似が出来るような子は世界に五人も――」

 

「いや……」

 

 イレネーは首を振り、柵の向こうにある直線コースの終点を顎で示した。

 

「あの三つ編みも大概だが…………それ以上にやべえのは、あっちのチビだよ」

 

 示された場所に、リコは目を向ける。

 

 鉄橇と繋がった姿のまま地面に座り込む短髪の少女が、そこにいた。

 

「……あれも別格よ。底辺から頂点まで駆け上がった、アメリカ競馬史の奇跡。サイテーションに並ぶ十六連勝の記録は伊達じゃないわ」

 

 

 

 

 

 

 この日、シガーは人生で初となる体験をした。

 

 ばんえい競馬に挑戦し、重種馬の一人と模擬レースを行ったのだ。

 

 きっかけは、彼女が練習への参加を拒んだことだった。

 

 こんな馬鹿げた練習をするなんて聞いていない、意味が分からない、怪我でもしたらどうしてくれるんだ――と、リコを相手に抗議を続けた結果、それを聞いていた芦毛の大女から言われたのだ。

 

「それじゃあ別メニューってことで、ばんえい競馬を体験してみるかい? おチビちゃん」

 

 正直、ばんえい競馬などに全く興味はなかったし、馬鹿馬鹿しいのは一緒なのでやりたくなかった。

 

 ――が、微妙にこちらを見下した様子で「おチビちゃん」などと言ってきた相手の態度が癇に障ったので、その申し出を受け入れた。

 

 相手は最初、ばんえい競馬に慣れさせるため一人で走らせるつもりだったようだが、「そんなのはいい。さっさと勝負しよう」とシガーが不遜に告げたことで、いきなり模擬レースをする運びとなった。

 

 そして現在。レースを終えた彼女は、疲れ切った顔で薄曇りの空を仰いでいた。

 

「あー……ダメだ…………ほんと、ダメすぎ……」

 

 息を切らし、肩を激しく上下させながら、自分自身への愚痴を零す。

 

「絶不調だな、今日は…………何もかもが全然なってない。何やってんだボク……」

 

 模擬レースの内容が、彼女は大いに不満だった。

 

 自己採点するなら、百点満点中二十点といったところ。スタートからゴールまで、何も良いところがなく全てが駄目だったと断言出来る。

 

 どうしてあんな無様なレースをしてしまったのかと、自らの至らなさを恥じるばかりだ。

 

 何せ――

 

「あんなおばさんと、接戦になるなんて……」

 

 涼しい顔で楽勝する予定が、接戦の末の辛勝になってしまったのだから。

 

 辛勝。

 

 そう、彼女は勝ったのだ。

 

 ばんえい競馬を初体験した身でありながら、歴戦の猛者である芦毛の大女を相手に接戦を演じ、最後は僅差で勝利した。

 

 しかしながら本人は、それを誉れとは思わない。

 

 その程度は出来て当たり前だとしか思っておらず、むしろ思い通りに圧倒出来なかったことを恥じてさえいる。

 

 目指す場所が、理想とする境地が――凡百の競走馬とは、最初から違うのだ。

 

「何を嘆く必要がある? 素晴らしい走りだったじゃないか。初めてでそれだけやれれば上出来だよシガー」

 

 勝負を観戦していたドクターフェイガーが歩み寄り、飲料の入ったペットボトルを笑顔で差し出した。

 

 それを受け取って飲みつつ、シガーはつまらなそうに言う。

 

「ダメだよあんなんじゃ……シア姉やパサーだったら、もっと余裕で突き放してる」

 

 首を回し、スタンド前にいる二人の先達の姿を盗み見る。

 

 無敗の三冠馬シアトルスルーと、完全無欠の天馬バックパサー。

 

 十六連勝の記録を作り、GⅠレース十一勝を挙げた現在でもなお、格上と認める――認めざるを得ない二人の歴史的名馬に、シガーはどこか棘のある眼差しを向けた。

 

 倒すと誓った怨敵を、静かに睨みつけるように。

 

「ふふ……相変わらず自分に厳しいね、シガーは。……全くの偶然だが、そんな君にふさわしい薬がここに――」

 

「うん分かった。話の流れは大体分かったからもういいよ。飲み物ありがとね。そのネタ聞き飽きたからもうアメリカに帰っていいよドクター」

 

「そうつれなくするなよ。飽くなき向上心を持つ君を真の最強馬にしてあげたいと、私は心から願っているんだ。この薬を血管に注入すれば君の筋力と持久力は約五倍にまで上昇し――」

 

「芸風それしかないの? 薬のやりすぎで頭イッってるの? それドーピングで失格になるよねって何百万回つっこまれれば理解出来るの? ――ってバカ! 何勝手に注射打とうとしてんだよ!? 死ねヤブ医者っ!」

 

 コースの端で不毛な格闘戦を始める二人。その数メートル後方に、敗者の姿はあった。

 

 今しがたシガーと熱戦を繰り広げた、芦毛の大女だ。

 

 彼女は屈辱に打ち震えながら、自分を破った少女の背中を凝視していた。

 

「何だよ…………あの、馬鹿げた脚は……」

 

 奥歯を噛み締め、呟く。

 

 負ける筈がない勝負だった。

 

 アメリカ屈指の強豪とはいえ、所詮は小柄で華奢なサラブレッド。筋力の差が勝敗に直結するばんえい競馬で、重種馬の自分が後れを取る道理はない。

 

 実際、勝利は目前だった。

 

 些か手こずりはしたものの、セーフティリードを保ったままレースの終盤を迎え、最後は生意気な小娘の鼻っ柱をへし折る形で完勝する――筈だった。

 

 それが、最後の最後にひっくり返された。

 

 この世のものとは思えない、恐怖さえ覚えるほどの剛脚によって。

 

「…………サラブレッドの走り方じゃねえだろ……あれは……」

 

 子供のように小さな後ろ姿が、この時芦毛の大女の目には、雲を衝くような巨獣に見えていた。

 

 

 

 

 

 

「はいはーい! みんな集合ー! そこでガチめのバトルやってる二人もこっち来てー!」

 

 リコが声を上げて全員を集めたのは、そのすぐ後だった。

 

 日本代表チーム五名。アメリカ代表チーム五名。コーチ役を務めるシンボリルドルフとマルゼンスキーに、イレネー達重種馬の面々。ついでにアメリカ側の監督。

 

 合同合宿に関わる者の全員が顔を揃えたその場で、リコは楽しげに切り出した。

 

「今日はここで普通に練習やってもらうつもりだったんだけど……アメリカのみなさんの元気いっぱいな姿見て、気が変わったわ。ちょっと予定を早めて交流戦をやっちゃいましょう」

 

「交流戦……?」

 

 唐突に出てきた単語に、キングヘイローが眉をひそめる。

 

「どういうことよ? このメンバーでレースをしろっていうの……?」

 

「ぶっちゃけるとそうなんだけど、普通に走るだけじゃちょっと芸がないわよねー? せっかく日米の代表選手が揃ったまたとない機会なんだから、もうちょい趣向を凝らしてみようかと思ったわけで……」

 

 そこで、シンボリルドルフがリコに何かを手渡した。

 

 リコは両手を胸の高さまで上げ、たった今受け取った物を皆に見せる。

 

「遊び心溢れる私は、こんなもんを用意しちゃいましたー!」

 

 長さ三十センチほどの棒が二本。色は対照的な赤と青。

 

 陸上競技で使われるバトンだ。

 

 手に持つそれを楽しげに見せつけながら、リコは眼前に立ち並ぶ十名のサラブレッドに向けて言った。

 

「日米対抗戦。五対五のリレー勝負。負けた側は一日限定で、勝った側の言うことを何でも聞く――ってのでどうかしら? 両チームのみなさん」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話「超大国(中編)」

 

 

 帯広の森陸上競技場。

 

 帯広市にある帯広の森運動公園の敷地内に設けられた、全天候型の陸上競技場である。

 

 八レーンからなるトラックはウレタン舗装で、一周四百メートル。そのホームストレート側には観覧席を備えた管理棟が併設されている。

 

 リコが皆を連れて移動した先は、そこだった。

 

「じゃ、みんなにはここで勝負してもらうわねー。走る順番とかはテキトーに決めてくれちゃっていいから」

 

「私達が走るには、少しばかり狭いコースな気がするが……一人あたり何メートルほど走ればいいのかな?」

 

 ドクターフェイガーが質問すると、リコは競技場全体を見渡しながら答えた。

 

「あんまりガチの勝負にしすぎちゃうと故障が怖いから、一人四百メートルってとこにしときましょう。このトラックを一周するごとに次の人に交代、って言えば分かるわね?」

 

「一周四百メートルのトラックを五周……全員合わせて二千メートルの勝負か。いいじゃん。面白そうだ」

 

 バックパサーが乗り気な様子で言う。

 

 他の面々も特に不満はなさそうな様子だったため、後は対抗戦の準備を済ませるだけかと思われたが――

 

「あー……話がまとまりかけてるとこ悪いんだけど……」

 

 一人だけ、全く乗り気でない者がいた。

 

 シガーだ。

 

「ボクは抜けさせてもらうね。さっき走ったばっかでダルいし。こんなお遊びで怪我でもしたらたまんないし」

 

 一方的に告げ、無人の観覧席へと歩いていく。

 

 座って観ているから自分抜きでやっててくれ、ということらしい。

 

 仮にも合宿に参加している身とは思えないその勝手ぶりには、流石のリコも一瞬唖然となった。

 

「待てシガー! そんな勝手が許されると思うか! ……的なテンプレ台詞をキレ気味に言って引き止めてくれる気はないの? アメリカのみなさん?」

 

 と言いつつアメリカ側の面々に視線を向けるが、反応は冷めたものだった。

 

「本人がやりたくねえっつってんだし、まあしょうがねえっしょ」

 

「頑固だからね、あの子は。ああ言い出したら説得するのは骨だよ。薬を使えばどうとでもなるが」

 

「やる気のない者は放っておけばよい。不都合なようなら私が二人分走っても構わん」

 

 バックパサーもドクターフェイガーもラウンドテーブルも、シガーを無理に引き止める気はないらしい。

 

 素行不良な娘に悩まされる母親のような顔で、シアトルスルーが溜息をつく。

 

「……申し訳ありませんが、四対四の対抗戦にしていただけますか? あの不心得者には後できつく言っておきますので」

 

「ま……ここでウダウダやってても仕方ないし、それでいいわ。じゃあ、こっちのチームからも誰か抜けてもらうことになるけど……」

 

「グラスでいいでしょう」

 

 口を挟んだのは、マルゼンスキーだった。

 

 どこか物憂げな顔をした後輩を一瞥してから、彼女は続ける。

 

「彼女も昨日イレネーさんとレースをしたばかりで、まだ疲労が抜けきっていません。ここで無理をさせるのは危険ですよ」

 

 進言の形をとっているが、それは事実上の強要だった。一切の反論を許さない強固な意思が、刺すような眼差しの奥から覗いていた。

 

 マルゼンスキーと目を合わせながら、リコは僅かに表情を険しくし――やがて観念するように、静かに目を瞑る。

 

「確かに、そうね……じゃあグラスちゃん、悪いけど今回は見学に回ってくれる?」

 

「……はい」

 

 グラスワンダーは頷く。その隣に立つエルコンドルパサーは親友の横顔に気遣わしげな視線を向けたが、何も言えなかった。

 

 腕時計で現在時刻を確認した後、リコは全員に告げる。

 

「てなわけでみんな、準備運動とか作戦会議とかをちゃちゃっと済ませちゃって。今から十分後に開始にするから」

 

 

 

 

 

 

 昨日の模擬レースを終えてから、グラスワンダーは口数が減った。

 

 沈んだ表情を見せることが多くなり、話しかけてもろくな反応が返ってこない状態が続いていた。

 

 それをもどかしく感じていたエルコンドルパサーだったが、どうすればいいのかは、彼女にもまだ分からない。

 

 目に見えて消沈している親友に、どんな形で接すればいいのか。

 

 どんな顔で向き合い、何を言い、何をすれば、夢を真っ直ぐに追い駆けていた頃の姿に戻ってくれるのか。

 

 いくら考えてもその答えが見つからず、思考の迷路に嵌まっていると――

 

「エルちゃん。…………エルちゃんってば」

 

 セイウンスカイの呼びかけが聞こえて、はっとした。

 

 見学に回ったグラスワンダーを除くチームの仲間達がこちらを見ていることに気付き、現在の状況を思い出す。

 

「もうすぐ始まるから、走る順番決めようよ」

 

「あ……そ、そうデスネ、スミマセン。ぼーっとしてました」

 

 対抗戦の開始まで、あと五分弱。既に両チームに分かれて話し合う段階に入っている。

 

 グラスワンダーのことは気がかりだが、今は目の前のことに集中しなくては。

 

 そう自分に言い聞かせて意識を切り替えたエルコンドルパサーは、仲間達を鼓舞するために普段通りの笑顔を作った。

 

「じゃあいきなりぶっちゃけますケド――実はこのリレー対決、ワタシ達にめちゃめちゃ有利デース!」

 

「「え?」」

 

 スペシャルウィークとキングヘイローが、揃って目を丸くする。

 

 セイウンスカイだけは心得ている様子で、冷静に応じた。

 

「ま、そうだろうね。有利ってのは言い過ぎかもしれないけど、勝ち目が全くないわけじゃない」

 

「……どういうこと?」

 

「普通に走ったんじゃ、向こうの面子に勝てる気は正直全然しないけど……リレーだからね、これは」

 

「バトンパスがミソデース。あっちの四人は一人で走るとみんな超強いですケド、チームプレーとか細かい芸とかには全然向いてマセーン。その手のことはてんで駄目デース。世界最低レベルって言ってもいいくらいデース」

 

「そ、そんなに酷いの……?」

 

「アメ公なんてそんなもんデース。ひたすら全力疾走して速いタイム叩き出せば勝てるとか思っちゃってる脳筋軍団デース。リレーなんかやらせたら途中でバトン落っことしたり受け渡しが上手くいかなくてグダグダになったりするに決まってマース」

 

「要はバトンパスが下手ってことだね。そこに付け入る隙がある」

 

 エルコンドルパサーの大袈裟な説明を、セイウンスカイが締め括る。

 

 キングヘイローはまだ腑に落ちない様子で、胡乱げに眉をひそめた。

 

「でも……私達だって威張れるほど上手くはないわよ? リレーなんて子供の頃にやったきりだし……」

 

「プロの陸上選手並に上手くやる必要はないデース。むしろ、ゆっくり慎重にパスするくらいが丁度いいデース。慌てなくても向こうは勝手に自滅しマース」

 

「完璧にやることよりミスしないことが重要、ってことね……それなら、まあ……」

 

 一応の納得をしたキングヘイローは、そこで気付く。

 

 隣に立つスペシャルウィークが、離れたところで話し合うアメリカ代表チームをじっと見つめていることに。

 

「どうかしたの? スぺ」

 

「……ドクターフェイガーさんは、何番目に走るのかな?」

 

「フェイガー? あの人なら、多分第一走者になるんじゃない? スタート抜群だし」

 

「なら、私がやる」

 

「え?」

 

「私が第一走者になって、あの人を叩きのめします!」

 

 その決然とした物言いには、キングヘイローだけでなく、エルコンドルパサーとセイウンスカイも面食らった。

 

 いつも走ることに対して積極的なスペシャルウィークだが、こういった形で自己主張するのは珍しい。

 

「やる気なのは結構だけど……リレーの第一走者ってスタートが上手い人がやるものよ? あなたって正直、その辺微妙じゃない? 割とよく出遅れるし……」

 

「今日は出遅れません! 誰もがあっと驚くようなロケットスタートを決めてみせます! それでそのままぶっちぎります!」

 

 かつてないほどの気迫を滾らせ、力強く言い切るスペシャルウィーク。

 

 彼女がドクターフェイガーと対決したがる理由を、セイウンスカイは察した。

 

「あー……スペちゃん、昨日お風呂でやられたからね……」

 

「やられたって……?」

 

「何か変な薬注射されて、心臓止まりかけてた。……ていうか、止まってた」

 

「……え? それもう、普通に犯罪じゃ……」

 

「とにかくっ!」

 

 囁き合うセイウンスカイとキングヘイローを黙らせるように、スペシャルウィークは声を張り上げる。

 

「今回は私がドクターフェイガーさんの相手をさせてもらいます! これだけはもう、誰に何言われたって絶対譲りませんから!」

 

「まあ……スペちゃんがそこまで言うなら、仕方ないデスネー……」

 

 自分が第一走者を務めるつもりだったとは今更言えず、苦笑を浮かべながら了承する他ないエルコンドルパサーだった。

 

 

 

 

 

 

 バックパサーは、エルコンドルパサーを見ていた。

 

 おどけた口調で陽気に振る舞い、冗談を交えながら仲間達を鼓舞している少女の姿に、鉄塊のように硬い眼差しを向けていた。

 

 そして――

 

「おい、シア」

 

 背後にいた三冠馬に、一つの要求をした。

 

「格で言うならお前がアンカーで決まりだろうが、今回はあたしに譲れ」

 

 突然そう告げられたシアトルスルーは、僅かに首を傾げる。

 

 自由気ままで傍若無人に見えるバックパサーだが、本人なりの節度のようなものがあるのか、無理に我を通そうとすることは滅多にない。

 

 それが今は、何故か強い口調で最終走者をやらせろと要求してきた。

 

 いったいどういう心境なのだろうかと疑問に思いつつ、年上の友人の背中をじっと見つめる。

 

 バックパサーとは、今回の代表チームを結成する前からの付き合いだ。しかしながらその性格には、未だ掴みきれない部分が多い。

 

「……別に構わないけれど、遊びはほどほどにね。パサー」

 

 釘を刺すように返答すると、バックパサーは振り返り、笑みを見せる。

 

 次いでその口から放たれた言葉は、奔放に生きる天馬の信条そのものだった。

 

「レースなんてもんは娯楽だろ? 遊ばねえでどうすんだよ」

 

 

 話し合いの結果、以下のような順番に決定した。

 

 日本代表チーム

 第一走者 スペシャルウィーク

 第二走者 セイウンスカイ

 第三走者 キングヘイロー

 第四走者 エルコンドルパサー

 

 アメリカ代表チーム

 第一走者 ドクターフェイガー

 第二走者 ラウンドテーブル

 第三走者 シアトルスルー

 第四走者 バックパサー

 

 

 

 

 

 

 対抗戦に不参加となったグラスワンダーは観覧席の最前列に座り、眼下のトラックを静かに眺めていた。

 

 そこに、青毛の大女が歩み寄る。

 

「隣、いいかい?」

 

「あ……はい」

 

 昨日の模擬レースで対戦した相手――イレネーだ。

 

 これから始まる対抗戦に彼女達重種馬の出る幕はないが、本人が見学を希望したため、代表チームの面々と一緒にこの場に来ていたのだ。

 

 グラスワンダーの隣の座席に腰を下ろし、イレネーは問いかける。

 

「あんたもアメリカの生まれって聞いたけど、あっちの連中とは知り合いなのかい?」

 

「いえ……齢が違いますし、アメリカは広いですから…………面識があったのは、あの黒鹿毛の人だけです」

 

「あのペンダントの奴か…………あれが一番強えんだろ? あっちの連中の中で」

 

「ご存じなんですか? あの人のこと……」

 

「いや、全然。……けど、見てりゃ何となく分かるよ。雰囲気がある」

 

 歴戦の猛者特有の直感めいたものが、鋭敏に働いたのだろう。

 

 無敗の三冠馬シアトルスルーを観察するイレネーの目は、その強さの本質まで見抜いているかのようだった。

 

「ま……雰囲気って点じゃ、あんたも負けてないけどね。種類は違うけどさ」

 

「え?」

 

「昨日のレースの時、すっごい形相であたしを睨んできたじゃないか。野獣みたいにごつい雄叫び上げながら」

 

「あっ――」

 

 グラスワンダーの顔が赤くなる。

 

 昨日の模擬レースにおける自身の言動を思い出し、火の出るような羞恥心が頭の中を染め上げた。

 

 そんな彼女を、イレネーは意地悪な笑みでからかう。

 

「あ、あれは……あれは、その……」

 

「久々だったねえ、あたしに真っ向から喧嘩売ってくる奴なんてのは。あの鬼みたいな形相見た時は、こいつマジであたしを殺す気なんじゃないかと思ったよ」

 

「す、すみません! わ、私、その……レースになると、興奮してしまって……」

 

 慌てて謝罪すると、イレネーは笑みの質を少しだけ変えた。

 

 穏やかで優しげなそれは、言葉では表せない感情をいくつも含んだ、複雑な笑みだった。

 

「いいさ。そういう奴が好きなんだよ。あたしは……あたしらばんえい馬は、みんなね」

 

 どこか遠くを見るような目をして、静かに言葉を紡ぐ。

 

「互いに譲れないもんを懸けて勝負してんだ。良い子やってる必要なんかない。喧嘩上等、罵声浴びせながらぶつかり合って当然だよ。野蛮だの何だのってよく言われっけどさ、あたしらはそれが楽しくってばんえい競馬やってたんだ」

 

 彼女とて競走馬だ。自身の半生を捧げた競技に対する誇りと信念を持っている。

 

 決して恵まれているとは言えない環境で戦いながら、胸に抱き続けてきた想いがある。

 

「だから、さ……ずっと、勝負がしたかったんだ」

 

「え……」

 

「あんたらとの勝負さ。いつもテレビの向こうにいる中央競馬のGⅠ馬と、いっぺんでいいから本気でやりあってみたかったんだ。……笑っちまうだろ? あたしも自分で笑ったよ。んなこと出来るわけねーだろ馬鹿、種族の違いとか競技の違いとか考えろよって、てめえにつっこみ入れながら……それでも何でか、そんな想いが捨てられなくって……ついあんたらの合宿にも顔出しちまった」

 

 イレネーは思い出す。

 

 昨日の模擬レースの終盤、遥か後方から追い上げてきた少女の姿を。

 

 火砕流が押し寄せてくるような、灼熱の闘志を。何があろうと燃え尽きない激情を宿した、強い眼差しを。

 

 あの時確かに覚えた、熱い胸の高鳴りを。

 

 結末は望んでいた形にはならなかったが、それでも――

 

「あんたのおかげで、夢が叶ったよ。――感謝してる」

 

 沁み透るような声音で、イレネーは告げた。

 

 そこに込められた想いの深さを、グラスワンダーは瞠目したまま感じ取る。

 

「イレネーさん……」

 

 名を呟くと同時に、昨日の苦い記憶が蘇り――湧き上がる後悔と罪悪感に、胸を締めつけられた。

 

「…………私は……」

 

 イレネーの気持ちは、素直に嬉しい。感謝を伝えられて嫌なわけがない。

 

 けれど、昨日の自分の走りは、それを受け取るに値するものだっただろうか。本気の勝負がしたかったという真摯な想いに、十分な形で応えられたと言えるだろうか。

 

 そんなわけがない。今思い返してもあれは、恥じ入るしかないくらい無様な走りだった。

 

 ゴールにさえまともに辿り着けなかったあの結末では、たとえ相手が納得してくれたとしても、自分自身が納得出来ない。

 

 本気の勝負がしたかったのは、自分も同じだ。

 

 死力を尽くしてゴールまで駆け抜けたかった。あの勝負に勝ちたかった。

 

 自分の本当の力を、この屈強な重種馬に見せてやりたかった。

 

 なのに――

 

「はははははっ」

 

 頭上から降る、笑い声。

 

 それが聞こえた方を振り仰ぐと、三列後ろの席に座るシガーと目が合った。

 

「そいつを慰めてあげたつもり? 見た目はごついのに優しいんだね、おばさん」

 

 彼女は笑っていた。皮肉を口にしながら、グラスワンダーとイレネーのやりとりを茶番と断じて嘲笑っていた。

 

 だが、剣呑な光を放つ二つの瞳は、全く笑っていない。

 

「だから駄目なんだよ、お前らは。勝負師気取りのくせに、頭の中はお花畑だ。負けて落ち込んでる姿が可哀想だから慰めてあげようって? 温すぎて話にならない」

 

「何ッ」

 

 イレネーの表情に、はっきりと不快の色が滲む。外見に反して温厚な彼女でも、今の発言は聞き捨てならなかった。

 

 席から立ち上がり、傲岸不遜な短髪の少女を睨みつける。

 

「口が悪いのもいい加減にしなよ、チビスケ。あたしは――」

 

「GⅠ馬を間近で観たかったんだろ? おばさん」

 

 機先を制するように、シガーは言った。

 

「だったら大人しく、座って観てなよ。すぐに本物が観られるからさ」

 

 アメリカ屈指の実力者の両眼が、グラスワンダーを――母国の競馬から逃げた落伍者を、冷たく見下ろす。

 

「そいつらみたいな紛い物とは違う、本物のGⅠ馬……本物のサラブレッドの強さが、ね」

 

 

 

 

 

 

 開始一分前。

 

 エルコンドルパサーの耳は、自分に歩み寄る者の靴音を聞いた。

 

「まさか、あの時のガキと並んで走る日が来るとは……分からねえもんだよなぁ、人生ってのは」

 

 振り向いた先にいた長身の女――バックパサーは、笑みを浮かべながらそう言った。

 

 その表情は今の状況を楽しんでいるようであり、久方ぶりに会った後輩を嘲笑っているようでもある。

 

 おそらくその両方なのだろうと、表情を引き締めながらエルコンドルパサーは思った。

 

「どうしたよ? あたしとやり合いたかったんだろ? 望み通りになったんだから、もうちょい嬉しそうにしろよ」

 

「……憶えてたんですね。あの時のこと」

 

 相手の顔を見返し、素の口調で応じる。

 

 バックパサーとは親しいわけではなく、縁というほどの縁もない。しかしながら、これまで一面識もなかった他人同士というわけでもない。

 

 会って、言葉を交わしたことがあるのだ。まだアメリカにいた頃に、一度だけ。

 

 自分にとっては忘れられない出来事だったそれは、相手にとっても同じだったらしい。

 

「そりゃあな。ただでさえイラついてた時にうざったく絡んできたクソチビのことなんざ、忘れられるわけがねえ」

 

「……その意趣返しのつもりですか? さっきから、やたら私に絡んでくるのは」

 

「違えよ、バーカ。確かにあの時はマジギレしたが、今は別にイラついちゃいねえし根に持ってもいねえ。今はあれだ。単にお前とじゃれ合う気分になっただけだよ」

 

 不敵に笑ったまま、バックパサーは目を細める。

 

 値踏みするようなその眼差しに、エルコンドルパサーは言い知れぬ重圧を覚えた。

 

「世界一の競走馬になりたい……だったよな? お前の夢は」

 

「……っ」

 

「今はどうだ? ガキの頃のアホな夢は捨てちまったか? それとも――」

 

「捨てていません」

 

 きっぱりと、エルコンドルパサーは言い切った。

 

 赤いマスクから覗く双眸に、不屈の意思を宿して。

 

「私は今でも、世界一を本気で目指しています。何があっても、その夢だけは絶対に捨てない」

 

 昨年の凱旋門賞では、あと一歩のところで栄冠を逃した。

 

 けれど、まだ挑戦は終わっていない。胸の奥に灯る炎は消えていない。

 

 現役を続ける限り何度でも挑戦し、必ずや世界一の称号を掴み取る――それが彼女にとっての「競馬」であり、生きる道そのものだった。

 

 世界一を諦めるくらいなら、とうに競馬の世界から去っている。

 

「だよな。そうでなきゃ面白くねえ」

 

 そう言って身を翻したバックパサーは、悠然とした足取りで芝生を踏み、トラックのスタートラインへと向かっていく。

 

「気張って走れよ。アメリカ最強でさえないあたしに勝てねえようなら、夢のまた夢だからな。世界一なんてのは」

 

 遠ざかる大きな背中を、エルコンドルパサーは無言で見つめた。

 

 かつて「理想のサラブレッド」と讃えられ、人々の憧憬と羨望を一身に集めた天馬、バックパサー。

 

 その変わり果てた姿に、複雑な思いを抱きながら。

 

「あの人と知り合いなの? エルちゃん」

 

「ええ…………昔、ちょっと……」

 

 すぐ後ろにいたセイウンスカイに問いかけられ、短く答える。

 

 詳細を語る気にはなれなかった。出来ることなら忘れてしまいたいほど、苦い記憶だったから。

 

「……昨日、お風呂であの人と会ったんだけどさ…………体つきを見た瞬間、分かったよ」

 

 セイウンスカイは呟く。

 

 バックパサーの後ろ姿に注ぐ視線に、深い畏怖を滲ませて。

 

「信じられない……今まで見たことないくらいの、化物だ」

 

 

 

 

 

 

 そして、開始の時が来た。

 

 両チームの第一走者――スペシャルウィークとドクターフェイガーが、バトンを手にしてスタートラインに立つ。

 

「フェイガーさん……私は忘れてませんからね、昨日のこと」

 

 隣のレーンでスタートの体勢をとる対戦相手に、スペシャルウィークは言った。

 

「おかげさまで、あの後は地獄を見ました。……ええ、本当に地獄を見ましたよ。まさに生死の境をさまよったって感じです。シアトルスルーさんが応急処置をしてくれなかったら、今頃どうなってたか……」

 

 昨日の臨死体験を思い返しながら、額に青筋を立てる。

 

 今彼女の胸中では、怨念の黒い炎が激しく燃え盛っていた。

 

「何かもう、同じ目に遭わせるくらいのことはしても許されるような気さえしてくるんですけど……私は競走馬なので、恨みとかそういうのはレースで晴らします。今日は私の全力全開の走りであなたのプライドをへし折――」

 

「――黙れ」

 

 言葉を遮る、低い声。

 

 それは、ドクターフェイガーの口から発せられたものだった。

 

「レース前に無駄口を叩くな」

 

 スペシャルウィークの背筋を、鋭い悪寒が走り抜ける。

 

 声に反応して斜め後ろを向いた彼女は、その表情を見てしまった。

 

 硬く冷たい、氷の仮面じみた顔。黒縁眼鏡の奥で凍てついた光を放つ、猛禽の如き両眼。

 

 天を衝く岩峰を思わせる、果てしなく峻厳な気配。雑念を一片残らず削ぎ落とした者だけが見せる、極限の集中。

 

 ほんの数分前までとは、何もかもが別物だ。

 

 超大国アメリカの競馬史に、「最速」の伝説を刻んだ名馬――世界最強の短距離馬の素顔が、そこにあった。

 

「遺恨は一旦脇に置いて、レースに集中しろ。スペシャルウィーク」

 

 スターターの役を務めるシンボリルドルフが、冷静に告げる。

 

「でないと、勝負にならない」

 

「――っ」

 

 その忠告で、スペシャルウィークは悟った。

 

 自分が今、自分より遥か格上の強者に挑もうとしていることを。

 

 シンボリルドルフの言う通り、余計な感情を抱えた状態で走っては、勝負の体をなさないまま突き放されるであろうことを。

 

 脚を開いてスタートの体勢をとりつつ、気を引き締め直す。

 

 今はレースのことだけを考えろと自分自身を叱咤し、前方を真っ直ぐに見据えた。

 

 両者の準備が完了したところで、シンボリルドルフは手にしていたスターターピストルを上空に掲げる。

 

 一拍の間を置いて引き金が引かれ、競技場に乾いた音が鳴り響く。

 

 その直後、嵐が吹き荒れた。

 

「なっ――!?」

 

 スタートしてから一秒も経たない内に、スペシャルウィークは瞠目した。

 

 隣のレーンで開始の号砲を待ち、自分と全く同時に走り出した筈のドクターフェイガーが、既に自分の遥か先にいる。

 

 雄大なフォームのストライド走法でトラックを蹴り、嵐の如き烈風を生み出しながら突き進んでいる。

 

 静から動へと瞬時に転じる、非現実的なまでの瞬発力。

 

 そこからさらに急加速し、敵を置き去りにして独走状態に突入する、異次元の脚力。

 

 格の違いを思い知らせるには十分な、恐るべき走りであったが――そんなものはまだ、ドクターフェイガーの実力の一端に過ぎなかった。

 

(嘘……そんな……)

 

 スペシャルウィークは絶望の淵に落とされた。

 

 彼女自身も絶好のスタートを決め、全力を振り絞りながら走っているにもかかわらず、相手との差が広がる一方だったからだ。

 

(まだ……速くなっていく……!?)

 

 ドクターフェイガーの加速が、止まらない。

 

 一秒ごとに、一歩前に踏み出すごとに、その疾走は凄絶な変貌を遂げていく。

 

 嵐が激しさを増すように、内燃機関が回転数を上げるように、速度の上限など存在しないかのように、際限なく加速を続けていく。

 

 スペシャルウィークの全力疾走など、何の意味もない。

 

 無限の加速力を持つドクターフェイガーの前では、止まっているに等しい。

 

 六馬身、七馬身、八馬身、九馬身と差は広がり、十馬身を超えてもなお広がる。どこまでも広がり続ける。

 

 速い。何の小細工もなく、ただ純粋に速い。

 

 スペシャルウィークがこれまで見てきたどのサラブレッドよりも、桁違いに速い。

 

 ダート一マイルの世界記録保持者ドクターフェイガーの脚は、信じ難いほどに速すぎる。

 

「あっ……はぁっ……はぁっ……」

 

 走り出して数秒後、スペシャルウィークは何も考えられない状態に陥っていた。

 

 四百メートルのトラックを一周するだけの、時間にすれば三十秒足らずの競走が、不思議なほど長く感じた。

 

 超大国の名馬との間にあった、覆しようがない力の差。

 

 それを思い知り、心が砕けてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 観覧席に座るグラスワンダーとイレネーは、ドクターフェイガーの嵐の如き剛脚を目の当たりにして、共に言葉を失っていた。

 

 そんな二人を嘲笑いながら、シガーは言う。

 

「アメリカ競馬界には、永久に更新不可能とされているレコードタイムが、二つある」

 

 ただのレコードタイムとは違う、誰がどんな走りをしても絶対に更新出来ない、永久不滅のスーパーレコード。

 

 それを競馬史に刻めるのは、唯一無二の力を持つ究極の名馬だけ。

 

「一つは、史上最強の三冠馬セクレタリアトがベルモントステークス優勝時に記録した、二分二四秒〇。……そしてもう一つが、ドクターフェイガーがワシントンパークハンデキャップを制した時に記録した、一分三二秒二。今後百年二百年と競馬が続いたとしても決して破られないと言われる、ダート一マイルの世界レコードだ」

 

 その事実が示す通り、ドクターフェイガーはアメリカ競馬史上最速の名馬。

 

 短距離路線の絶対王者であり、競馬が続く限り忘れられることのない世界記録保持者。

 

 純粋な脚の速さという一点に限れば、全盛期のマンノウォーやセクレタリアトでさえ、彼女には遠く及ばない。

 

「坂も何もない平坦なトラック、僅か四百メートルの超短距離戦……この条件で、ドクターに勝てる奴はいないよ。世界のどこにもね」

 

 

 

 

 

 

 スペシャルウィークに記録的な大差をつけてトラックを一周したドクターフェイガーは、第二走者のラウンドテーブルにバトンを渡した。

 

 青いバトンを左手で握り、鋼鉄の騎士が走り出す。

 

 その数秒後にスペシャルウィークから赤いバトンを受け取ったセイウンスカイは、遥か先を行く相手との差を縮めようとしたが――走り出してまもなく、重大な問題に直面した。

 

(コーナーが……きつい……!)

 

 全力疾走しながら突入した、最初のコーナー。そこを上手く曲がれない。レーンに沿って無駄なく進むことが出来ず、どうしても外に膨れてしまう。

 

 走り慣れた競馬場のコーナーとの違いを、彼女は痛感する羽目になった。

 

 走る速度が上がれば上がるほど、コーナーを進む際に発生する遠心力は大きくなり、外に膨れずに走ることが困難になる。外に膨れるというのはその分だけ長い距離を走らねばならなくなるということであり、必然的にゴールに到達するまでの時間も長くなる。

 

 時速六十キロメートルもの速さで走るサラブレッドにとって、陸上競技用のトラックは狭すぎるのだ。一周四百メートルしかないトラックの急すぎるコーナーを無駄なく完璧に曲がるなど、彼女達にはまず無理な芸当と言っていい。

 

 だが――数少ない例外が、ここに一人。

 

 常識を力技で粉砕する鋼の名馬が、易々と不可能を可能にしていた。

 

(頑丈さだけが取り柄だって……? よく言うよ……)

 

 遥か先を行く相手の姿を見ながら、セイウンスカイは戦慄を覚える。

 

(何だよ……あのコーナーワーク……!)

 

 ラウンドテーブルの脚にドクターフェイガーほどの速さはない。されど、長年に渡り独自の鍛錬を積み重ねたその身体には、ドクターフェイガーとは別種の強さが具わっていた。

 

 それが、卓越したコーナーワーク。

 

 彼女は狭いトラックを何ら苦にせず、レーンの内側沿いの最短距離を見事に曲がりきっているのだ。

 

 遠心力などこの世に存在しないかのように、自身の最高速度を維持したままで。

 

(化物め……!)

 

 セイウンスカイは内心で毒づくが、どうにもならない。技術、経験、身体能力の全てで劣る彼女に、ラウンドテーブルの真似は到底出来ない。

 

 両チームの差は縮まるどころか、さらに広がっていった。

 

 

 

 

 

 

「ラウンド先輩をただの痛い女だと思っちゃいけない。伊達にボールドルーラーやギャラントマンとやりあってきてないよ、あの人は」

 

 疾走するラウンドテーブルに目を向け、シガーは語る。

 

「本人は頑丈さだけが取り柄だなんて言ってるけどね……あの人の真価は、こういう小回りのコースで発揮される。普通の奴ならとても曲がりきれないような急カーブでも、あの人は難なく曲がれる。最高速度を維持したまま最短距離を疾走出来る」

 

 直線で無類の強さを誇るドクターフェイガーとは対照的に、ラウンドテーブルは曲線で本領を発揮する。

 

 どのような形態のコースでも問題なく最内を突けるその技能は、最早異能の域だ。

 

 日本代表チームのエルコンドルパサーもコーナーワークを得意とするタイプだが、ラウンドテーブルのそれと比較してしまえば、雲泥の差があると言わざるを得ない。

 

「それを可能にしているのは、並外れた体幹の強さ」

 

 ラウンドテーブルの胴体の中心――鋼の筋肉で構築された体幹を、シガーの目は注視する。

 

「自分より才能に恵まれていたライバル達の背中を追い駆け、誰も真似出来ないようなトレーニングを重ね……狂気に近い執念で練り上げたあの体幹は、もうほとんど鋼鉄の柱だ。どこからどんな力が襲ってきたってびくともしない。時速六十キロの速さが生む遠心力を無視して走りきるなんて出鱈目も、涼しい顔でやってのける」

 

 体幹とは、広義においては胴体の全て、狭義においては腹腔という腹部の内臓が詰まった部位を囲う筋肉の総称。インナーマッスルとも呼ばれるそれらは言わば肉体の要であり、それらが強靭なことは姿勢の制御能力に長けることを意味する。

 

 競馬に限らずあらゆる運動競技において、一流となるためには必要不可欠とされる素養の一つだ。

 

 GⅠ級のサラブレッドは皆、鍛え抜かれた体幹を持っているが、その中にあってもラウンドテーブルの体幹の強さは突出している。

 

「……頭の方さえもう少しまともなら、素直に尊敬出来るんだけどね」

 

 世の不条理を嘆くように、シガーは呟く。

 

 この後に待つ「落ち」を、彼女は半ば確信的に予想していた。

 

 

 

 

 

 

 リレー競技においてバトンパスが行える区間を、テイクオーバーゾーンという。

 

 トラックを一周してきたラウンドテーブルがそこに踏み入りかけたところで、第三走者のシアトルスルーは走り出した。

 

 そのまま、バトンを受け取るため後ろに手を伸ばし――

 

「ハアアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

「は?」

 

 異様な雄叫びを聞いて、珍しく呆けた顔をした。

 

 次の瞬間ラウンドテーブルがとった行動は、果たしてバトンパスと呼んでいいものだったのだろうか。

 

 全力疾走しながら何故かバトンを両手で握り締めた彼女は、そのまま剣を振りかぶるような姿勢になり、全身から純白の闘気を迸らせる。

 

 それがバトンの上端へと集中し、光輝く闘気の刃を形成。邪悪を滅ぼす聖性を帯びたその刀身を、シアトルスルーの胴体めがけて振り下ろした。

 

 当然、そんな必殺剣を受け止められる筈もなく、シアトルスルーは横に跳んで緊急回避。

 

 代わりに落雷のような一撃を受けた地面は、轟音と共に爆裂。ウレタンの破片が飛び散った後に残ったのは、底が見えないほど深い裂け目だった。

 

 シアトルスルーが避けなければどうなっていたかは、最早語るまでもない。

 

「……随分と殺意のこもったバトンパスですね、先輩…………さっき剣と鎧を取り上げたのがそんなにお気に召さなかったのですか?」

 

「い、いや……そういうわけではないのだが……何というか、こう……棒状の物を持つとつい全力で振り下ろしたくなるというか……長年の鍛錬で染み付いた癖というか……」

 

「…………いいですから、とりあえずバトン下さい」

 

 気まずそうに弁明するラウンドテーブルに、シアトルスルーは色々なものを諦めた様子で言った。

 

 そんなグダグダが続いている間に、両チームの立場は逆転。セイウンスカイからバトンを受け取ったキングヘイローが、シアトルスルーを置き去りにして突き進む。

 

「すごいけど……アホだわ、あの人……」

 

 呟きつつ、何とも言えない気分を顔に出す。

 

 ここまでは概ね、開始前にエルコンドルパサーが予見した通りの展開だ。

 

 アメリカならではの大雑把さというよりは、ラウンドテーブル個人の問題な気がするが――ともあれ、盛大にやらかしたことに変わりはない。

 

 おかげで絶望的だった大差がひっくり返り、自分達の勝利が見えてきた。

 

 無論、まだ安心出来るような状況ではない。遥か後方に置き去りにしてきたとはいえ、自分の相手は無敗の三冠馬シアトルスルー。このまま簡単にいくわけがないことは百も承知だ。

 

 凄まじい脚で猛追してくるだろうから、このリードもいつまでもつか分からない。

 

 もしかしたら、追いつかれてしまうかもしれない。

 

 だが、残りの距離はほんの数百メートル。ここから再逆転を許した後に大差をつけられるとまでは考え難い。そんな出鱈目は流石にないと信じたい。

 

 それに、こちら側の最終走者はエルコンドルパサー。

 

 総合力ではチーム随一を誇る、世界の強豪にも引けを取らない日本の怪鳥。

 

 何とかこのまま、少しでもリードした状態で、彼女にバトンを渡せれば――

 

(――え?)

 

 コーナーを曲がり終え、バックストレートに突入した瞬間。信じられない光景を目にして、キングヘイローは呆然となった。

 

 自分の前方に、誰かがいる。

 

 隣のレーン上を、黒鹿毛のサラブレッドが颯爽と駆けている。

 

 数秒後、それが置き去りにしてきた筈のシアトルスルーだと気付き、頭の中で疑問が渦巻く。

 

(何で、前に――!?)

 

 確かに抜かした筈だ。彼我の距離は相当に広がっていた筈だ。

 

 それなのに何故、置き去りにされた事実など最初から存在しなかったかのように、自分の前を平然と走っているのか。

 

 不可解だ。訳が分からない。

 

 いつ抜き返されたのか分からない。気付いた時にはもう、自分の数馬身前にいた。

 

 何故抜き返されたのかも分からない。どこか淡々としたその走りからは、力強さや凄まじさといったものを欠片ほども感じない。

 

 こちらを一瞬で抜き返すほどの速さで走っているようには見えないのに、何故――

 

(――違う!)

 

 そこまで考えて、認識の誤りを悟った。

 

 速くないわけがない。速いのだ。途轍もなく。

 

 相手が桁外れに速いからこそ自分は抜き返され、今も差を広げられ続けているのだ。

 

 にもかかわらず迫力の類を全く感じないのは、端的に言えば自然だから。

 

 トラックを蹴る動きが、流れるような脚運びが、重心の移動が、腕の振りが、呼吸のリズムが――何もかもが自然で一切の無駄がないから、速く走っているように見えないだけなのだ。

 

 その事実に気付いた時、キングヘイローの意識を占めた感情は、驚愕ではなかった。

 

 格の違いを思い知ったが故の絶望でも、これ以上離されてはならないという危機感でもなかった。

 

 彼女が抱いたのは、もっと特別な感情。

 

 一部の隙もなく完成されたものを目にした時、誰もが本能の域で抱く想い。

 

(――綺麗)

 

 美しさに見惚れるという、素朴で純粋な心の動きだ。

 

 シアトルスルーの疾走は美しい。四肢を動かして前に進むというだけの行為が、まるで磨き抜かれた至芸のような印象を見る者に与え、心を奪う。

 

 何の変哲もないごく普通の走りだが、他の競走馬のそれとは、完成度が違うのだ。

 

 凡庸でありながら非凡。誰でも出来るようでいて、その実他の誰にも出来ない、競馬の正道を極めた疾走。

 

 偉大なる三冠馬が見せた力の一端に、キングヘイローは心底から感銘を受け――

 

「ヘイローさん! 呆けてないで、早く!」

 

 エルコンドルパサーの呼びかけで、我に返った。

 

 見ればシアトルスルーは既にバトンパスを終えており、最終走者のバックパサーが走り出している。

 

 今は勝負の真っ最中。しかも残すところはあと一周のみという、重要な局面だった。

 

 エルコンドルパサーの言う通り、呆けている暇はない。

 

 早くバトンを渡さなくては。

 

「くっ……!」

 

 慌てて急加速しテイクオーバーゾーンに踏み入ったキングヘイローは、バトンを持つ手を前に伸ばす。

 

 走り出しながらそれを受け取ったエルコンドルパサーの表情は、苦渋に満ちていた。

 

 相手側に再逆転を許してしまった今、勝利はもう絶望的だ。

 

 あのバックパサーに――アメリカ代表チームの副将格とも言える相手に、遥か後方から追い駆ける形で走り出して敵うわけがない。

 

 けれど、諦めるわけにはいかない。

 

 この勝負には負けたくない。どんな形であれ、あの女には負けたくない。

 

 勝機が皆無に近い苦境だが、自分の力でどうにかしてみせる。

 

 そう思い、前方を力強く見据えたエルコンドルパサーは、次の瞬間凍りついた。

 

「――っ」

 

 数十メートル先に、赤黒のテンガロンハットを被る女が立っている。

 

 走っていない。立っている。

 

 何を思ったのかレーン上で立ち止まり、首だけを後ろに向け、こちらを見ている。

 

 鋭い眼差しに、侮蔑の色を滲ませて。

 

「可哀想だから追いつかせてやるよ。特別サービスだ」

 

 泥を投げつけるように放たれた、挑発の言葉。

 

 それを聞いた時――エルコンドルパサーの中で、何かが弾けた。

 

「舐めるなぁ――ッ!」

 

 怒号を上げ、肉体の出力を全開にして、相手の待つ場所へ敢然と駆けていく。

 

 その激情の熱を肌で感じながら、バックパサーは笑った。

 

 獰猛に。

 

 酷薄に。

 

 悪辣に。

 

 無力な虫ケラを弄ぶように、嗜虐の笑みを浮かべたのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話「超大国(後編)」

 

 

 国や時代を問わず、強く優れた存在が放つ輝きは、多くの人々を惹きつける。

 

 人ならざる生物が主役となる競馬の世界でも、それは同じだ。傑出した能力の持ち主は名馬と讃えられ、競馬を愛する人々から大きな夢を託される。

 

 とはいえ、そうなれる者はごく僅か。宝石のような才能を持って生まれ、不断の努力によってそれを磨き上げた、心身共に申し分ない本物の天才だけ。

 

 その日、ベルモントパーク競馬場で行われたGⅠ競走――第九十八回シャンペンステークスを制した少女は、そんな天才の一人だった。

 

「それでは勝利馬インタビューに移りましょう。優勝おめでとうございます」

 

「ありがとうございます」

 

 アナウンサーにマイクを向けられ、柔らかな笑顔で応じる。

 

 デビューしてまだ半年も経たない身でありながら、その振る舞いは堂に入っており、若さにそぐわない風格さえ漂わせていた。

 

「八月のホープフルステークスに続く二度目のGⅠ制覇となりましたが、今の率直なお気持ちを聞かせて下さい」

 

「以前から目標にしていたレースに勝つことが出来て、ほっとしています。長い間お世話になったトレーナーや応援して下さった方々に、これで少しは恩返し出来たかと」

 

「勝利を確信されたのは、どのあたりでしょうか?」

 

「GⅠレースですし、強い人が揃っていましたから、最後まで気は抜けませんでした。重圧から解放されて勝利の実感が湧いたのは、ゴールを過ぎてしばらく経ってからです」

 

「来年の大目標は、やはりケンタッキーダービーですか?」

 

「トレーナーと相談してからになりますが、おそらくそうなるかと思います」

 

「既にクラシックの大本命という声も上がっていますが、それについてはどうでしょう?」

 

「評価していただけるのは嬉しい限りですが、私自身はまだまだ足りないところばかりだと思っています。もっと練習に励んで課題を一つ一つ克服していかなければ、クラシックの舞台では通用しないかと」

 

 五ヶ月の間休みなく走り続け、十一戦九勝という破格の成績。世代の頂点を決める大レースも制し、翌年のクラシックの最有力候補と目されていた、期待の新星。

 

 それが容姿端麗な上に品行方正、温和な人柄で誰よりも向上心に溢れた努力家となれば、声望を集めない道理はない。

 

 彼女が質問に答え、透き通った美声が場内に響く度、観覧席に詰めかけていた人々は沸き立ち、胸を高鳴らせていた。

 

 多くの者が、夢を見ていたのだ。

 

 自分達の前に現れた美しき天馬が、この先も栄光の階段を上り続け、やがてはアメリカの競馬史を塗り替えるほどの存在へと上り詰める――そんな、英雄譚のように華々しい夢を。

 

「――では最後に、応援して下さったファンの方々に対してメッセージをお願いします」

 

 そう求められると、少女は僅かに顔を上げ、観衆に目を向けた。

 

 日溜まりのような微笑みを湛え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「競馬場に足を運んで下さった皆さん、そしてテレビの前にいる皆さん、応援ありがとうございます。皆さんの温かなお声が、いつも私に力と勇気を与えてくれます。またこうして皆さんの前に立てるよう頑張りますので、今後も私の走りを見守っていただけたら幸いです」

 

 強く、気高く、美しく、穏やかで清廉な令嬢。夢幻の世界からそのまま抜け出てきたかのような、サラブレッドの理想像を体現する天馬。

 

 彼女の名は、バックパサー。

 

 後にアメリカ全土に悪名を轟かせる女の、若き日の姿だった。

 

 

 

 

 

 

「パサーさん! パサーさん!」

 

 表彰式の後、帰り支度のため競馬場内の控室に向かっていたバックパサーは、呼び止められて振り返った。

 

 自身の背後――細長い通路の真ん中に立っていたのは、見知らぬ子供。

 

 何故か赤いマスクを被った、十一、二歳ほどの少女だった。

 

「突然ですけどお願いがあります! ここにサインください! サイン!」

 

 溌剌とした笑顔でそう言って、マスクの少女はサイン用の色紙とペンを差し出す。

 

 バックパサーは眉をひそめた。

 

「ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ。小さなお嬢さん」

 

「はい! 知ってます! でも私どうしてもパサーさんに会いたくって、人生初の潜入ミッションに挑戦しちゃいました! 他の人に見つかる前にトンズラしますから、ここにサインください!」

 

 悪びれもせずに言ってのけられ、さしものバックパサーも若干たじろぐ。

 

 どうやらこの子供は自分のファンで、何が何でも直筆のサインを手に入れたいらしい。

 

 そのために立ち入り禁止の区画まで入り込んでくるとは、随分と大胆な子だ。

 

 小さく溜息をついて周囲を見回し、他に誰もいないことを確認してから、差し出された色紙とペンを受け取った。

 

「……仕方ありませんね。じゃあ、今回だけ特別ですよ」

 

「やった!」

 

 少女が飛び上がって喜ぶ様を見て、苦笑する。

 

 実のところ、この手の子供に寄ってこられたのは、これが初めてではない。

 

 次代の競馬界を担う存在として注目を集めていたバックパサーには、既に老若男女を問わず熱狂的なファンが数多くおり、サインや握手を求められる機会は飽きるほどあった。

 

 よって、対応も慣れたものだ。

 

 すらすらとペンを走らせながら、優しい声音で少女に問う。

 

「あなた、名前は?」

 

「エルコンドルパサーです!」

 

「El Condor Pasa――コンドルは飛んでいく、ですか。良い名前ですね」

 

「はい! パサーさんの名前とそっくりですよね! 何かもう、すごく運命的なアレを感じます!」

 

「言語も綴りも違いますよ、私のパサーとは。それに、私の名前は――」

 

「今日もすごくかっこよかったですね、パサーさん! あの激強メンバー相手に四馬身もちぎっちゃうなんて、シビれました!」

 

「……聞いてませんね」

 

 興奮しているためか、話が今一つ噛み合わない。

 

 まあそれだけ自分を慕ってくれているということだろうと思い、苦笑しながらサインを書き終えた色紙を手渡そうとすると――

 

「――パサーさん、いつまで現役でいてくれますか?」

 

 不意を突くように、そんな問いを投げかけられた。

 

 バックパサーは戸惑う。

 

「いつまで、って……?」

 

 怪訝な顔で問い返すと、マスクの少女――エルコンドルパサーは、溌剌とした笑顔のまま言った。

 

「私、再来年には競走馬の育成機関に入ります。そこで本格的にトレーニングを積んで、レースに出て……それでいつか、パサーさんが目標にするような大レースにも出走してみせます! だから、それまで現役でいてください! お願いします!」

 

「……一緒に走りたいのですか? 私と」

 

「はい! 一緒に走りたいです! それで、パサーさんに勝ちたいです!」

 

 その言葉には、憧れだけでバックパサーに寄り集まる他の子供達とは違う、力強い意思が宿っていた。

 

「世界で一番強いサラブレッドになるのが、私の夢です! そのためにはパサーさんと同じくらい……ううん、パサーさんより強くならなきゃ駄目なんです! だから、パサーさんが現役の内に挑戦して勝たなきゃいけないんです!」

 

「……目標にしていただけるのは嬉しいですが、私が競馬界の頂点というわけじゃありませんよ。国内にも国外にも、私より強い人なんていくらでもいます」

 

「そんなことないです! 今まで色んな人を見てきましたけど、パサーさんが一番です!」

 

 目を輝かせながら言うエルコンドルパサー。

 

 澄み切ったその眼差しを受け、バックパサーは感じずにいられなかった。

 

 傷口を押し広げられるような、耐え難い痛みを。

 

「強くて、綺麗で、優しくて、他の人の何倍も努力してて……本当に、すごい人だって思ってるんです……! 私の理想です!」

 

「……っ」

 

「お父さんも、お母さんも、クラスの友達も……みんな言ってます! パサーさんは特別な人だって。神様から全部の才能を貰って生まれてきたみたいな、理想のサラブレッドだって。だから、私は――」

 

 通路に響く、乾いた音。

 

 それを聞いた瞬間、エルコンドルパサーは言葉を止め、息を呑んだ。

 

「パサーさん……?」

 

 目に映るものが、信じられない。

 

 自分が渡した色紙が――サインをもらって、一生の宝物にするつもりだったそれが、床に叩きつけられている。

 

 目の前に立つ、憧れの人の手によって。

 

「あなたが……」

 

 震える声が、その唇から零れる。

 

 憎悪に塗れた瞳が、幼い顔を抉るように見据える。

 

「あなたみたいな、勝手な人がいるから……私は……」

 

 この時、エルコンドルパサーは見た。

 

 笑顔の仮面を被り、人々の理想像を演じ続けていた少女の、真実の貌を垣間見たのだ。

 

 そしてそれが、幼心に抱いた幻想を終わらせた。

 

「私に挑戦したいなら、勝手にすればいい。……けれど、あなたを待つような真似をする気はありません」

 

 エルコンドルパサーから視線を切り、バックパサーは歩き出す。

 

 長い通路に静かな靴音を響かせながら、最後に冷たく言い放った。

 

「あなたのような子供と違って、私は…………遊びで走っているわけではありませんから」

 

 

 その数ヶ月後、バックパサーは「変貌」した。

 

 破竹の勢いで連勝を続け、幾つもの大レースを制し、現役屈指の強豪という評価を不動のものにしていった彼女だが――暴行事件をはじめとした数々の問題行動を起こし、輝かしい経歴に自ら泥を塗るようになる。

 

 彼女に憧れ、「理想のサラブレッド」と讃える者は、一人もいなくなっていった。

 

 

 

 

 

 

 競技場に鳴り響き、重なり合う足音。

 

 トラックを切り裂く烈風と化し、熱戦を演じる二人。

 

 日本とアメリカを代表する稀代の名馬――エルコンドルパサーとバックパサーが、互いに一歩も譲らぬままホームストレートを駆け抜け、最初のコーナーに突入する。

 

「クハハハハハハハッ!」

 

 バックパサーの口から、笑声が放たれた。

 

 かつての気品に満ちていた姿からは想像もつかない、下品で獰猛な哄笑だ。

 

「四百メートルしかねえってのに、何ちんたらジョギングしてんだぁてめえ! まさかそれが全力だとか、んなクソしょぼいことは言わねえよなぁ!?」

 

「……っ!」

 

 真横から煽られ、エルコンドルパサーの顔に苦渋が滲む。

 

 彼女は力を抑えてなどいない。スタート直後から肉体の出力を全開にし、自身の限界に挑むような激走を続けている。

 

 にもかかわらず平然とついてくるどころか、愉快げに大笑いしてさえいる相手の力量には、心底から震え上がらずにいられなかった。

 

(強い……!)

 

 直線での走力が極めて高い上に、コーナーワークも完璧。

 

 先程ラウンドテーブルが見せたものに勝るとも劣らない動きで最短距離を回りながら、こちらに嘲りの目を向けている。

 

 外見も性格も、以前とは別人のように様変わりしたバックパサー。

 

 しかしながら、誰もが羨むほど圧倒的な競走能力だけは、「理想のサラブレッド」と讃えられていたあの頃のままだ。

 

 その事実が――正直なところ、受け入れ難い。

 

 バックパサーの名を騙る偽者を見ている気分になり、胸の奥の何かが激しく燃え上がる。

 

「どうしたよ! 世界一を目指すってのは口だけかぁ!? 言うだけなら誰でも出来んだよ間抜け! ご大層な夢語んのは実力が伴ってからに――」

 

「調子に――乗るなぁっ!」

 

 バックストレートの半ばを過ぎ、残りの距離が二百メートルとなった瞬間。エルコンドルパサーは上体の前傾を深め、ストライドを伸ばした。

 

 勝負の行方を見守っていた仲間達が瞠目するほどの急加速で約二馬身の差をつけ、第三コーナーに突入。今度はコーナーワークに適したピッチ走法へと即座に切り替え、距離損を最小限に抑えて突き進む。

 

 肉体にかかる重い負荷を意思力で捻じ伏せた、限界以上の激走。それによって得た僅かなリードを維持しながら、激怒を込めて言い放つ。

 

「夢も誇りも何もかも捨てて、二番手みたいな立ち位置で安穏としてるあんたが……偉そうに語るな! あんたみたいに簡単に放り捨てられるほど、私の夢は安くないんだッ!」

 

 人々の憧れの的だった頃のバックパサーは、ただ強いだけではなかった。

 

 遠目に見ても感じる気高さがあった。筋の通った信念があった。飽くなき向上心があった。競馬の世界の頂点を目指す気概があった。

 

 だからこそ多くの人々に愛され、大きな期待をかけられていたのだ。

 

 自分も、彼女の将来に夢を見た。彼女のようになりたいとさえ本気で思い、その背中を追い駆けようとした。

 

 けれど今のバックパサーには、その頃の魅力が一片も残っていない。

 

 何があったのか知らないが、彼女は気高さも信念も向上心も気概も捨て去り、見る影もないほど醜悪な姿に堕ちてしまった。

 

 幻滅するな、という方が無理な話だ。

 

 いや、自分の中に溜まったこの感情は、単なる幻滅や失望より遥かに重い。

 

 今のこいつには負けない、こんな奴には絶対に負けたくないと、魂を燃え上がらせながら強く願う。

 

 その意思を胸に肉体を限界以上に酷使したエルコンドルパサーは、第四コーナーを通過してホームストレートに入ると、再びストライドを大きく伸ばす。

 

 そしてそのまま、最後の力を振り絞ってゴールに駆け込もうとし――

 

「――勝ったつもりか? それで」

 

 声を聞いた。

 

 血が凍りつくような、冷たい声を。

 

「少し気合い入れて走って、何馬身か差をつけたから、それでもう勝てると? 十分頑張ったから、格上の相手にだって勝てる筈だと? 本気で思ってんのか、てめえ」

 

 残り約五十メートル。最早ゴールは目前と言える地点で、バックパサーは突如として走法を変えた。

 

 脚を、高く振り上げる。

 

 曇天に蹴りを叩き込むかのように、異常なほど高く。

 

「そんな甘い考えだから、安っぽい戯言にしか聞こえねえんだよ。てめえの夢は」

 

 全体重と全筋力を込め、真下に向かって振り下ろされる脚。それが地面に触れた瞬間、エルコンドルパサーは聞いた。

 

 大地が激震し、大気が爆ぜる音――天まで轟く爆音を、その耳で聞いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 バックパサー。

 

 通算戦績三十一戦二十五勝。

 

 ホープフルステークス、シャンペンステークス、トラヴァーズステークス、ウッドワードステークス、ジョッキークラブゴールドカップ、メトロポリタンハンデ、サバーバンハンデなど、数々の大レースを制した実績を持つ、アメリカ競馬史上屈指の名馬。

 

 しかしながら、実績以上に眩い輝きを放つのは、その肉体。

 

 彼女の立ち姿を見た者はその美しさに目を奪われ、走る姿を見た者はその凄まじさに驚嘆する。

 

 神の手による芸術作品とさえ思えるほどに、その肉体は非の打ち所がないからだ。

 

 鋼の強さと絹のしなやかさを併せ持つ、硬軟自在の筋肉。

 

 激戦や連戦をものともせずに走り切る、強靭無比な骨格。

 

 底なしの持久力を生み出す、並外れた心肺機能。

 

 大きすぎず小さすぎず、太すぎず細すぎず、重すぎず軽すぎず、競走馬として最適なバランスを寸分の狂いなく成り立たせる、理想的体格。

 

 筋力、持久力、瞬発力、耐久力、柔軟性――それら全てが超一流。全てが規格外。

 

 競馬の神に愛され、全てを与えられて生まれてきたかのような、眩いばかりの才能の塊。

 

 サラブレッドの理想形と呼ぶしかない彼女を、ある専門家はこう評した。

 

「通常のサラブレッドには、およそ百の欠点がある。――しかしながらバックパサーというサラブレッドには、ただの一つの欠点も存在しない」

 

 その見解に異を唱える者は、誰一人とていなかった。

 

 

 

 

 

 

 ウレタン舗装のトラックを砕く、絶大なる衝撃。

 

 それを爆発的な推進力へと転化し、バックパサーは一直線に駆ける。

 

 高く振り上げた脚を地面に叩きつける動作を繰り返し、ダイナマイトが爆発するような音を幾度も響かせ、地を這う雷光となって突き進む。

 

 勝利を手にする寸前だったエルコンドルパサーは、懸命に目指していたゴールラインさえ見失うほど驚愕した。

 

(これは――――!?)

 

 大地を揺るがす衝撃。天まで轟く爆音。火砕流が押し寄せる光景を思わせる、恐るべき灼熱の気配。

 

 間違いない。

 

 これは、グラスワンダーの――

 

「ハアアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

「――っ!」

 

 理解した時には、もう手遅れだった。

 

 いや、事前に察知していたとしても、対処は不可能だっただろう。

 

 圧倒的暴威の剛脚により、ゴール寸前での逆転を果たすバックパサー。そのまま彼女はエルコンドルパサーに一馬身半ほどの差をつけ、ゴールラインを先頭で通過した。

 

 それが、日米対抗戦の決着。

 

 両チームの最終走者が走り終え、勝敗が決した瞬間だった。

 

 立ち止まったバックパサーは、汗ばんだ首にまとわりつく髪をかき上げた後、観覧席に目を向ける。

 

 そして唇を曲げ、視線の先で青褪めた顔を晒している少女に笑いかけた。

 

「大体こんな感じだろ? お前さんの自慢の走りは」

 

 グラスワンダーは何も言えない。

 

 両目を限界まで見開き、驚愕と困惑と恐怖が綯い交ぜになった視線をバックパサーに向けるばかりだった。

 

 当然だろう。自分だけの走法と信じていたものと全く同じものを見せられて、平静でいられるわけがない。

 

「何で……」

 

 肩で息をしながら、エルコンドルパサーが呟く。

 

「何で……その走法を……」

 

「何でそれが出来んのかって? あたしを誰だと思ってんだよ、お前」

 

 バックパサーは振り返り、不遜な笑みを敗者に向ける。

 

「ザコのしょぼい芸なんざ、動画で一回見りゃ簡単に真似出来る。てめえらとは違うんだよ。身体と頭の作りがな」

 

 その発言に衝撃を受けたエルコンドルパサーは、同時に思い出す。

 

 バックパサーというサラブレッドの真価――「ただの一つの欠点も存在しない」と専門家に言わしめた、本当の理由を。

 

 ただ脚が速いだけではない。体格に恵まれているだけでもない。

 

 この女は、全てを持っている。

 

 競馬で勝つために必要な能力を、一つ残らず神から与えられて生まれてきた、正真正銘の天馬なのだ。

 

 故に万能。真なる意味で完全無欠。馬場も距離も関係なくあらゆる条件に適応し、当然のように勝利を積み上げる、究極のオールラウンダー。

 

 自分の目標――だった存在。

 

「――半端だよ、お前は」

 

 表情から笑みを消し、バックパサーは言った。

 

「力も速さも技術も覚悟も……何もかもが、そこらの奴に毛が生えた程度だ。一緒に走ってて怖いと思える部分が一つもねえ」

 

 全ての面で自分に遠く及ばない半端者を見据え、夢の大きさに見合わない力量を咎める。

 

「あたしを本気にさせることさえ出来ねえような実力で、世界一を目指してますってか? 笑わせんな」

 

 エルコンドルパサーは反論出来ない。

 

 終始弄ばれたまま敗北を喫した彼女に、反論を口にする資格はない。

 

 地面に目を落とし、今にも砕けそうなほど奥歯を噛み締めながら、悔しさに耐えるしかなかった。

 

「お前みたいなのは万能とは言わねえ。ただの器用貧乏ってんだよ。間抜け」

 

 初めてだったかもしれない。

 

 レースで勝てないことが、これほどまでに辛く感じたのは。

 

 

 

 

 

 

 観覧席に座るグラスワンダーは、蒼白な顔で固まっていた。

 

 バックパサーが披露した、「叩きつける走法」――それによってもたらされた衝撃は、未だ消えていない。

 

 むしろ、時間が経つほどに精神の奥深くまで浸透し、彼女を支えていたものを揺るがし始めていた。

 

「驚いただろ? 自分だけの技能だと思ってたものが、完璧な形で真似されて」

 

 そんなグラスワンダーを、シガーは嘲笑う。

 

「パサーにとっては造作もないことさ。あの人が完全無欠の競走馬と呼ばれるのは、パワーやスピードに優れてるってだけの話じゃないんだ」

 

 優れた肉体を持つだけなら、どこにでもいる普通の天才。

 

 その才能を十全に生かす技術と頭脳を持ち併せていなければ、完全無欠とは到底言えない。

 

「観察力、記憶力、身体操作に関する理解力……そうした部分も並外れてる。誰のどんな技能でも、大抵は一目見ただけで真似出来るんだよ。本人以上の完成度でね」

 

 戦慄を覚えたグラスワンダーは、バックパサーの姿を凝視した。

 

 シガーの言うことが誇張のない事実なら、エルコンドルパサーを一瞬で抜き去ったあの剛脚さえ、本人にとってはただの真似事――切り札でも何でもなく、ただ遊び半分に披露しただけの芸にすぎない。

 

 遊びを交えず本気で走っていれば、エルコンドルパサーを五馬身以上離して圧勝することも可能だっただろう。

 

 あれだけの強さを見せていながら、実力の半分も出してはいなかったのだ。

 

 それは、他の面々も同じ。

 

 ドクターフェイガーも、ラウンドテーブルも、シアトルスルーも、この対抗戦で見せた力が全てではない。誰もが実力を隠している。

 

 そんな連中の慣らし運転のような走りに、自分の仲間達は完敗したのだ。

 

「……っ」

 

 分かっていた。

 

 日本とアメリカが対等ではないことも、アメリカの名馬が規格外の化物ばかりなことも、まともに戦えば万に一つも勝ち目がないことも、嫌というほど分かっていたつもりだった。

 

 それでもやはり、認識が甘かったと言わざるを得ない。

 

 超大国アメリカの頂点にいる連中は――自分が背を向けた故郷の名馬達は、想像を超えて強すぎる。

 

「勝った側は、負けた側に何でも要求していい……という話だったわね? 確か」

 

 思考を断つ、鋭い声。

 

 はっとして下を向くと、観覧席のすぐ傍まで来ていたシアトルスルーと目が合った。

 

「今夜十時、旅館の裏手にある駐車場に来なさい。話があるから」

 

 敗者の側の一人であるグラスワンダーに、その要求を拒む権利はなかった。

 

 

 

 

 

 

「よう。確かコーチ役だったよな? あんた」

 

 競技場を囲うフェンスの手前に立っていたマルゼンスキーに歩み寄り、気安い調子で声をかけたのは、バックパサーだった。

 

 その顔には、獰猛な笑みが貼り付いている。

 

「暇ならちょいと相手してくれねえか? 走り足りねえんだ」

 

「……私と勝負したいってこと?」

 

「んな大袈裟なもんじゃなくたっていいさ。そこのトラックを一周か二周する程度だっていい。ザコの相手ばっかしてると身体が鈍っちまうから、たまには強え奴とやりてえんだよ」

 

 戦意を剥き出しにした申し出に、マルゼンスキーは小さく溜息をつく。

 

「そういうことなら、うちの監督にお願いした方がいいわよ。あの人なら喜んで相手してくれるでしょうから」

 

「ありゃ駄目だ」

 

 即答したバックパサーは、管理棟の前に立つリコに鋭い眼差しを向ける。

 

「史上四人目のアルゼンチン四冠馬……現役の頃は相当なバケモンだったんだろうが、今じゃその頃の力は半分も残ってねえよ。一瞬のキレは使えても、長い脚が使えなくなっちまってる」

 

 単なる侮りや見下しとは違う。非凡な洞察力を持つ天馬は、リコというサラブレッドの実体を正確に捉えているようだった。

 

 マルゼンスキーに視線を戻し、興味深げに続ける。

 

「その点、あんたは違うだろ? 老けても壊れてもいねえし、今が全盛期真っ只中だ。その気になれば、この国の頂点くらい楽に獲れる力がある」

 

「……随分と評価してくれてるようだけど、買い被りすぎよ。私はそんな大した奴じゃない。あなたほどの実力者と渡り合う力はないわ」

 

「枷を嵌めた状態では――な」

 

 欺瞞を暴くように言われ、マルゼンスキーは硬直した。

 

「あたしも昔は不自由を強いられてたクチだからな。見りゃ分かるんだよ。似たような奴のことは」

 

 誰よりも優れた能力を持ちながら、栄光とは無縁。

 

 無敗であっても頂点ではなく、歴代の王者と同列に扱われることもない、陰の実力者。

 

 そんな立場にマルゼンスキーが甘んじている理由を、バックパサーは見抜いていた。

 

 その脚に嵌められた見えない枷が、天馬の目には見えていた。

 

「お行儀よく走って周りに納得してもらうのも結構だが……いつもそれじゃつまらんだろ? たまには思う存分走ってスカっとしようぜ、なぁ?」

 

 誘惑するように、どこか甘い声音で言葉を重ねる。

 

 マルゼンスキーは表情を引き締め、怒りに近い感情を瞳の奥に灯しながら、返答を口にした。

 

「私は……遊びで走ってるわけじゃない」

 

 その発言は、奇しくも酷似していた。

 

 自由を奪われていた頃のバックパサーが、自身を慕う少女に放った言葉と。

 

「あなたが枷と呼ぶものは、誰かに強制されたものじゃない。私が自分の意思で嵌めたものよ。後悔はしていないし、苦痛も感じていない」

 

 同類と見なされることを拒み、冷徹に告げる。

 

「求められれば練習相手くらいは務めるけれど、そちらの期待に沿うような真似をする気はないわ。気分良くなるためだけに危険を冒すなんて、馬鹿らしいから」

 

「そうかい。そりゃ残念だ」

 

 最初から、相手が誘いに乗るとは思っていなかったのか。バックパサーは笑みを浮かべたまま、納得した様子で引き下がった。

 

 身を翻し、チームの仲間達が集まる方へと歩き出す。

 

「割とマジでやりたかったんだが、そっちがその気になってくれねえなら仕方ない。諦めてザコ共と遊んでるよ」

 

 そして、最後に――自らの意思で不自由を選んだ女に背を向けながら、自由のために多くのものを捨てた女は、独り言を呟くように告げた。

 

 かつてとは真逆の主張に、かつてより何倍も強い意思を乗せて。

 

「てめえが気分良く走れるかどうか……それが一番大事だと思うんだけどな、あたしは」

 

 

 

 

 

 

 道の脇に立つ電柱に、拳を思いきり叩きつける。

 

 激痛が脳髄を駆け巡り、顔をしかめたが、そんな痛みはどうでもいいとしか思えなかった。

 

 胸を圧し潰す敗北の重みの方が、何百倍も耐え難かったから。

 

「ぐっ……!」

 

 午後十時。旅館の外に出たエルコンドルパサーは、近くの路地に一人佇みながら、半日前の敗北を噛み締めていた。

 

 何の意味もない行動だと自覚していたが、そうせずにはいられなかった。

 

 一人になって頭を冷やす時間を作らなければ、感情が爆発してしまいそうだったのだ。

 

「何で……あんな……」

 

 あの決着の瞬間が、脳裏に蘇る。何度も何度も繰り返し蘇り、自分を支えていたものに深い亀裂を入れる。

 

 どうして自分は、あんな無様に負けてしまったのだろう。

 

 いいように弄ばれた挙句、無抵抗に等しい形で抜き返されてしまったのだろう。

 

 世界の頂点を目指して、血反吐を吐くような鍛錬を重ねてきたのに。もう誰にも負けないと、固く誓っていたのに。

 

 そんな自問を重ねたが――いくら考えても、答えは明白だった。

 

 弱いからだ。

 

 実力が足りないからだ。

 

 ありとあらゆる面で、バックパサーに遠く及ばなかったからだ。

 

 相手より劣っていたから負けたという、至極単純な理屈。悔しくて受け入れ難いが、受け入れなければ一歩も前に進めない。

 

「負けない…………今度こそ……絶対に……」

 

 電柱に触れたままの拳を震わせ、奥歯を噛み締める。

 

 今の自分がバックパサーに敵わないなら、今の自分より強くなろう。積み重ねた努力が足りないなら、さらに積み重ねよう。

 

 そして、次に戦う時は勝つ。

 

 神に愛された完全無欠の天馬を、真っ向勝負で打ち破ってみせる。

 

 屈辱と悔恨を呑み下し、敗北の痛みを胸に刻みつけながら、誓いを新たにした時――

 

「悪いわね。こんな夜中に来てもらって」

 

 聞き覚えのある声を、耳が拾った。

 

 反射的に振り返ると、数十メートル先の駐車場に、人影が二つ。

 

 街灯の光に照らされるその姿を見て、エルコンドルパサーは怪訝な顔になる。

 

(シアトルスルーと……グラス……?)

 

 幼馴染の間柄らしい二人の少女が、僅かな距離を置いて向き合っていた。

 

 こんな時間に何をしているのだろうと疑問に思い、エルコンドルパサーは足音を殺してその場に近寄り、様子を窺う。

 

 二人はそれに気付かず、互いに目の前の相手だけを見据えたまま会話を続けた。

 

「……何ですか? 話って」

 

「あなたの今後についての話よ」

 

 静謐な色を湛えた瞳が、栗毛の少女の瞳を覗き込む。

 

「あなたの競走成績は、私も一応把握してる」

 

「……っ」

 

「現在までに十二戦九勝。主な勝鞍は昨年と一昨年の有馬記念、昨年の宝塚記念、そして三年前の朝日杯……立派な成績ね。充分に一流と言えるわ。ワールドカップの日本代表に選ばれたのも頷ける」

 

 幼馴染の実績を讃える言葉を述べてから、黒鹿毛の少女は冷静に続ける。

 

「けれど――最強には、程遠い」

 

 その宣告の重みを、グラスワンダーは苦い顔で受け止めた。

 

 否定したくても、否定出来ない。

 

 小さな島国の中で燻る今の自分が、幼い頃に夢見た「最強」から程遠い存在であることは、言われるまでもなく自覚していた。

 

「同等以上の実績の持ち主は日本国内に何人かいるし、世界では未だ無名に近い。イギリスのミルリーフやフランスのシーバード、オーストラリアのファーラップ……そのレベルの歴史的名馬を相手に頂点を争うだけの資格があるとは、残念ながら言えないわ」

 

「……知ってますよ。そんなこと」

 

 苛立ちを露わにして、グラスワンダーは言い放つ。

 

「だから何だって言うんですか? 資格がないから諦めろって? 人を上から見下ろして好き勝手言うのが、そんなに楽しいですか? そんなに私が――」

 

「今のままでいいの?」

 

 言葉を遮り、シアトルスルーは問う。

 

 意図の読めないその質問に、グラスワンダーは当惑した。

 

「え……?」

 

「あなた自身は、現状に満足しているのか……と訊いたのよ」

 

 澄んだ声音に強い意思を滲ませて、無敗の三冠馬は言葉を紡ぐ。

 

「別に咎めているわけじゃないわ。目標とは自分の意思で決めるもの。そこには上下も貴賤もない。今立っているその場所が、あなたが揺るがぬ信念をもって歩んだ道のゴールなら……これ以上とやかく言う気はない」

 

 幼馴染の顔を真っ直ぐに見据える眼差しは、普段の彼女が他者に向けるそれとは、何かが決定的に違っていた。

 

「けれど、そうでないなら……あなたが本気で、今いる場所より先へ進みたいと思うなら……」

 

 肌を刺す夜風が吹き抜ける、暗闇の中。

 

 迷える少女に道を示すように、シアトルスルーは告げた。

 

「アメリカに帰ってきなさい。グラス」

 

 それは、三年前の冬――否定と非難を続けた末に投げかけた言葉と、全く同じだった。

 

 その時と同じ言葉を、その時より遥かに強い想いを込めて、彼女は再び口にしたのだ。

 

 最強を目指して競い合った幼き日の親友を、輝く未来へ連れていくために。

 

「私が、あなたを生まれ変わらせてあげる」

 

 息を呑む音が、同時に二つ。

 

 偶然にも重なったそれは、当事者たるグラスワンダーと、離れたところで会話を盗み聞いていたエルコンドルパサーが発したものだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話「笑顔の裏側」

 

 

 グラスワンダーとシアトルスルーが駐車場で会う、少し前。

 

 旅館内の喫煙室で煙草を吸っていたリコに、サングラスをかけた大柄な白人が歩み寄った。

 

 アメリカ競馬界屈指の名トレーナーであり、現在はアメリカ代表チームの監督を務める男、ダグラス・ターナーだ。

 

「あんたも人が悪いな」

 

 サングラス越しに鋭い眼差しを向け、ターナーは言う。

 

「今日のリレー勝負……やる前から分かってたんだろ? 結果がああなるってよ」

 

 午前中に市内の競技場で行った、リレー形式の対抗戦。

 

 アメリカ側の完勝で終わり、日本側の面々に深い爪痕を残した出来事。

 

 それについて言及されたリコは、煙草を咥えたまま首を回し――

 

「えーっと……どちら様でしたっけ?」

 

 とぼけた顔で、髭面の中年男に問い返した。

 

 真剣な顔で真剣な話をするつもりだった当人は、果てしなく微妙な顔になる。

 

「……うん。何かそんなリアクションされるんじゃねーかなって気がしてたよ。存在感ないよね俺。こいつ誰だっけって感じだよね。あんたら的にはいてもいなくてもどっちでもいいオッサンだよね。知ってる知ってる」

 

「冗談よ、ターナー先生。さっきまで記憶の片隅にもなかったけど、そのむさい髭面見て思い出したから」

 

「それ冗談になってないよね。ガチで忘れてたってことだよね。あとむさいってわざわざ付けるあたりに悪意を感じるよね」

 

「いいじゃない、細かいことは。で……何? 今日の対抗戦のこと?」

 

 リコは煙草を口から離し、薄く笑いながら紫煙を吐く。

 

「そりゃ負けるのは織り込み済みよ。正直言って、格が違うもの。今のうちの五人と、そっちの五人とじゃ」

 

「……それが分かってるなら、何でやらせたんだ?」

 

「負ける必要があったからよ」

 

 問いに即答し、灰皿の上に灰を落とす。

 

 平坦な声音とは裏腹に、その横顔は真剣だった。

 

「うちの子達は、みんな真面目よ。生半可でない覚悟と向上心を持って、一生懸命練習に取り組んでる。世界の頂点を目指すっていう気持ちに嘘はない」

 

 自分が預かる少女達の顔を思い浮かべ、言葉を続ける。

 

「だけど、まだ足りない。世界の遠さを……頂点を獲るために越えなきゃいけない道の険しさを、はっきりとした形で実感出来ていない。だからそっちの子達と直にやりあうことで、思い知ってもらったのよ。今のままじゃ、ワールドカップに行ったって到底通用しないことをね」

 

 世界との差を正しく認識しなければ、本当の意味で実を結ぶような努力は出来ず、この先も永久に差は縮まらない。

 

 世界各国を渡り歩き、数々の名馬を間近で見てきたリコは、そう考えていた。

 

 その考えを理解しつつも、同じ指導者の立場からターナーは口を出す。

 

「現実を知ることが、良い方向に作用するとは限らんぜ。積み上げてきたもんが全部崩れ落ちて、一歩も前に進めなくなっちまうこともある」

 

「知ってるわよ、そんなの。私がその典型例だもの」

 

 自嘲気味に呟き、遠い目をするリコ。

 

 若き日の忌まわしい記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎり――それを振り切るつもりで、彼女は頬を緩めた。

 

「でも大丈夫。うちの子達は強いから、たった一度の負けくらい平気な顔で乗り越えて、きっと大きく成長してくれるわよ。……私みたいな、しょうもない負け犬と違ってね」

 

 その微笑みには、信頼が表れていた。

 

 世界の頂点を目指す小さな島国の少女達への、揺るぎない信頼が。

 

 普段は不真面目な面ばかり見せているリコという女が、その実誰よりも「本気」であったことを、ターナーは察する。

 

「本気で、あの子らに獲らせる気なんだな……世界一の座を」

 

「当然よ。でなきゃアメリカさんと合同合宿なんて、無謀な真似しないわ」

 

 リコは笑みを深め、不敵な眼差しをターナーに向けた。

 

「今日はボロ負けしたけど、次はこうはいかない。死ぬほど鍛えて見違えるくらい強くなったあの子達が、ワールドカップの舞台でおたくのチームを倒すわ。必ずね」

 

 

 

 

 

 

 午後十時半。

 

 スペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイローの三人は、電灯の消えた部屋の中にいた。

 

 もう寝なければいけない時間だったが、布団の中に入っている者はいない。

 

 皆、エルコンドルパサーとグラスワンダーがどこかに行っていることには気付いていたが、それを口に出さない。

 

 しばらく前から彼女達の間に会話はなく、それぞれが思い思いの場所に座ったまま、暗い顔で俯いていた。

 

 アメリカ代表チームとの対抗戦で味わった、無惨な敗北。

 

 忘れようとしても忘れられないその記憶は、悪夢となって彼女達を苛み続けていた。

 

「……完敗、でしたね……今日は……」

 

 壁際に座るスペシャルウィークが、数時間ぶりに口を開く。

 

 細く弱々しい声の、独白じみた呟きだった。

 

「甘く見てたわけじゃ、ないです……世界には強い人がたくさんいて、簡単にはいかないってことも……アメリカの人達が私達より格上だってことも、知ってたつもりでした……けど……」

 

 レースを振り返り、敗北の痛みを噛み締める。

 

「やっぱり、甘く見てたんですね……あんなに差があるなんて、思いませんでした……」

 

 瞼の裏に焼きついた、ドクターフェイガーの剛脚。

 

 全てを薙ぎ倒す暴風域のような、凄絶極まりない疾走の姿。スタート直後から誰も追いつけない速度に達し、そこから天井知らずに加速を続けていく、異次元の競走能力。

 

 あれほどの強さがこの世に存在するとは、思いもしなかった。

 

「……あれでまだ、全力じゃなかったよ。どの人も」

 

 俯きながら、セイウンスカイが呟く。

 

「本調子じゃなかったとか、練習試合であまり無理をしたくなかったとか……理由は色々あるんだろうけど……結局、舐められてたんだよ。私達なんか、全力を出すまでもない相手だって思われてた。……そして実際、そうだった」

 

 スペシャルウィークに記録的な大差をつけたドクターフェイガー。

 

 コーナーワークの歴然たる差を自分に見せつけたラウンドテーブル。

 

 至芸の如き疾走でキングヘイローを放心させたシアトルスルー。

 

 グラスワンダーの「叩きつける走法」を模倣し、エルコンドルパサーを完膚なきまでに叩きのめしたバックパサー。

 

 圧倒的な能力を示す走りをしながら、アメリカの名馬達はほとんど息も乱さず、涼しい顔をしていた。

 

 その事実が、我慢ならない。

 

「ムカつくよね…………あの人達にじゃなくて、自分自身にさ……」

 

 自分の弱さに腹が立つ。相手の全力を引き出すことさえ出来ず、取るに足らない雑魚と見なされたまま終わった無様さが、許し難い。

 

 時間が経つにつれて膨れ上がる感情に、セイウンスカイは顔を歪めていた。

 

「……で、どうするの? そう簡単に縮まる差じゃないわよ、あれは」

 

 キングヘイローが言った。他の二人と同様、彼女の表情にも暗い翳が落ちている。

 

 いや、絶望の深さでは彼女の方が上かもしれない。

 

 アメリカ競馬界の頂点――無敗の三冠馬シアトルスルーの実力を、誰よりも近くで目にしたのだから。

 

「確かに……ちょっと頑張っただけじゃどうにもならないですよね、あの差は……」

 

 スペシャルウィークは同意する。

 

 自分達とアメリカの名馬達の間にある実力差が、少し練習量を増やした程度で埋まるようなものだとは、到底思えない。

 

 それどころか、たとえ今までの十倍の努力をしても無意味とさえ思えてしまう。

 

 世界の壁は、厚く高い。

 

 頂点へと続く道は、果てしなく険しい。

 

 そんな現実を直視し、忘れてはならない教訓として胸に刻みつけ、彼女は顔を上げた。

 

「――だから、頑張りましょう」

 

「「――は?」」

 

 セイウンスカイとキングヘイローが、同時に呆けた顔をする。

 

 明らかに矛盾したスペシャルウィークの発言に、二人の理解は追いつかない。

 

「今……頑張ってもどうにもならないって言ったじゃない」

 

「ちょっと頑張っただけじゃどうにもならないですよねって言ったんです。いくら頑張っても無駄ですよねって言ったわけじゃありません」

 

 スペシャルウィークはきっぱりと返す。

 

 先程までの苦悩や弱気はその表情に残っておらず、代わりに真っ直ぐな強い意思が、瞳の奥で輝いていた。

 

「ちょっとだけじゃなくて、すごく頑張りましょう。今までよりもっと……何十倍も、何百倍も、気力と体力の限界まで……いいえ、限界を超えるまで頑張り抜きましょう。ワールドカップ本番で、あの人達に勝つために」

 

 左手を胸の高さまで上げ、拳を握る。

 

 頬を緩ませ、絶望の淵から這い上がったような笑みを、仲間達に見せる。

 

「この悔しさを力に変えて……次は勝って、みんなで思いっきり笑えるように」

 

 暗い部屋の中に響いた、決意を伝える言葉。

 

 それを聞いた二人は、しばし目を丸くして固まり――やがて言葉の意味を汲み取ったセイウンスカイは、呆れた様子で苦笑した。

 

「……スペちゃんらしいね」

 

 気合いと根性だけで物事を解決しようとするところも、どんなに打ちのめされてもすぐに立ち直ってしまうところも、実にスペシャルウィークらしい。

 

 具体性の欠片もない精神論を大真面目に言うのだから、本当に呆れてしまう。

 

 けれど――

 

「確かにそうだ。……頑張らないといけないよね。勝って、笑うためにはさ」

 

 自分達は競走馬だ。

 

 出来ることは、競馬場で走ることだけ。

 

 夢も、未来も、栄光も、全てはゴール板の先にしかない。

 

 走っても、走っても、苦しみに耐えて懸命に走り続けても、待つのは敗北と挫折だけかもしれない。

 

 何者にもなれず、何処にも辿り着けないまま、競馬場を去る日が来るのかもしれない。

 

 それでも、諦めてはならない。

 

 苦難の先にある頂点の景色を夢見て、誰よりも強くなってみせると自分自身に誓い、競馬の世界に踏み入ったのだから。

 

 輝く未来に辿り着けるのは、夢を捨てずにレースを走り抜いた者だけなのだから。

 

「じゃ……あれこれ考えるのはやめにして、もう寝よっかな。明日からまたビシバシしごくって言ってたから、疲れを取っとかないとね」

 

「ですね! きっちり休んで、明日から猛特訓始めましょう!」

 

 笑顔で言葉を交わし、布団の中にもぐりこんでいく二人。

 

 その一方、部屋の隅で片膝を抱えるキングヘイローは、口を閉ざしたまま自分自身と向き合っていた。

 

 闇を払う篝火のような情念を、瞳の奥に灯しながら。

 

 

 

 

 

 

 翌日以降も、過酷な練習は続いた。

 

 下半身を鍛えることを目的とした、急勾配の山道でのランニング。

 

 身体の使い方を磨くことを目的とした、反発力を得辛い砂浜でのランニング。

 

 重種馬達の協力を得て行った、全身の筋肉を酷使する綱引き。

 

 実戦を想定しながら繰り返し行った、スタートとポジション取りの練習。

 

 日ごとに場所を変えながら様々な試みがされていき、それぞれの能力に合わせた個別の練習メニューも課されていった。

 

 それに伴い、シンボリルドルフとマルゼンスキーの二人が後輩達に助言を与える場面も増えていった。

 

「キングヘイロー。積極性は認めるが、君のポジションの取り方はやや強引だ。斜行や接触事故に繋がらないように気を付けろ」

 

「スペちゃんはやっぱり、パワーが不足気味ね。特に腹筋の弱さが目立つわ。しばらくはそこを重点的に鍛えていきましょうか」

 

 練習の度にアメリカ側との能力差を痛感させられ、疲労も蓄積していったが、弱音を吐く者はいなかった。

 

 世界に挑む決意を固めた日本代表チームの面々は、以前とは別人のような気迫を見せ、懸命な努力を重ねた。そして徐々にだが確実に、成長の兆しを見せ始めた。

 

 ただ一人――グラスワンダーを除いて。

 

「うーん…………酷いってほど、酷いタイムじゃないけど……良くもないわね」

 

「……すみません」

 

 合宿十日目。一週間前対抗戦の舞台となった競技場で、全員の八百メートルの走破タイムが計られたが、最後に走ったグラスワンダーのタイムは芳しくなかった。

 

 リコはストップウォッチから目を離し、俯く少女の顔を見る。

 

「タイム自体もイマイチだけど、それ以上に……何て言うか、走りに気迫が感じられないわ。イレネーさんと勝負した時は、もっと気迫を前面に出してた筈よ」

 

「……」

 

「もしかして体調悪い? どこか痛むところでもあるの?」

 

「いえ……」

 

 小さく頭を振るグラスワンダーの表情は、薄曇りの空のように冴えなかった。

 

「体調に問題はありません……ただ……」

 

「ただ?」

 

「……いえ…………何でもありません……」

 

 口にしかけた言葉を引っ込めたその様子を見て、リコはしばし思案する。

 

 実のところ、グラスワンダーの不調の原因については大分前から察していたが――指摘してどうにかなる問題とは思えなかった。

 

「……分かったわ。今日はもう練習はいいから、休みなさい。グラスちゃん」

 

「……っ!? そ、そんな……! 私はやれます! 私はまだ――」

 

「何か色々あって心と身体が噛み合ってないみたいだから、今は何やっても無駄よ。ゆっくり休んで立て直した方がいいわ」

 

 グラスワンダーは反論出来ない。

 

 一週間前から不調に陥り、何をやっても上手くいかない日々が続いているのは、否定しようのない事実だった。

 

「誤解しないで」

 

 落ち着いた面持ちで、リコは言う。

 

「駄目だこいつって感じに見放したわけじゃないわ。辛そうだから休ませてあげようって思ったわけでもない。グラスちゃんが調子を取り戻すには休息が必要だと思ったから、そう言ったまでよ」

 

 それから彼女は笑みを零し、声音を明るいものに変えた。

 

「ていうかグラスちゃん、私に対してちょっと余所余所しいわよねー? 何? 前にひっぱたかれたのまだ根に持ってたりする?」

 

「い、いえ……そんなことは……」

 

「あー、その顔は図星でしょー? 実は相当根に持ってるでしょー? 脳内妄想で私をタコ殴りにしながら、調子こいてんじゃねえぞクソババアとか怒鳴りまくったりなんかして」

 

「し、してません! そんなことしてませんから!」

 

「あのくらいでへそ曲げるなんて、メンタル豆腐な現代っ子なんだからもー。そんなんだからゆとり教育の結晶とかゆとり世代の代表とか将来絶対デブるタイプとか言われちゃうのよー」

 

「言われてません! というか、最後の関係ないじゃないですか!」

 

 あまりのしつこさに辟易し、少しむきになるグラスワンダー。

 

 そんな様子を可笑しそうに笑ってから、リコは穏やかな目で告げた。

 

「……とまあ冗談はこのくらいにして、見放してないってのは本当よ。グラスちゃん。調子が今一つだからってあなたを代表メンバーから外す気はないわ」

 

 強い信頼を込めて放たれた言葉。

 

 思い悩む少女にとってそれは、複雑な思いを抱かせるものだった。

 

「今日はしっかり休んで、また明日から頑張りなさい。ワールドカップで私達のチームが勝ち抜くためには、グラスちゃんの力が欠かせないからね」

 

「……はい」

 

 そうして、半日の休養が与えられた。

 

 

 

 

 

 

 ――昔に戻ったみたいだ。

 

 競技場の端に立ち、仲間達が練習に励む光景を眺めながら、グラスワンダーはそう思った。

 

 何をしても上手くいかず、走る度に心が軋む日々。抱いた夢に一歩も近付けないまま月日が過ぎていくだけだった、迷走の時期。

 

 日本に渡って実績を積み、そんな過去とは決別したつもりだった。

 

 しかし自分の現状を見つめると、元いた場所に戻ってきてしまったような気がしてくる。

 

 いや、もしかしたら、最初から何処にも辿り着いていなかったのかもしれない。

 

 故郷から遠く離れた国に逃避し、何かを得たような気分に浸っていただけで、本当は――

 

「練習でのタイムなんて、気にすることないわよ。グラス」

 

 歩み寄りながらそう告げたのは、マルゼンスキーだった。

 

 寂しげに佇む後輩に柔らかな微笑みを向け、彼女は励ましの言葉を続ける。

 

「本番前の追い切りで抜群のタイムを出した子が、本番では全然駄目だった……なんてよくある話だし、その逆もある。まして今は本番まで九ヶ月近くもあるんだから、悲観する必要なんてないわ」

 

「今日だけの不調なら、そう思えましたけど……」

 

 単走で好時計が出せないだけではなく、近頃のグラスワンダーは他のどの練習でも精彩を欠いていた。

 

 山道を登ればすぐに息が上がり、砂浜を走れば途中で転倒し、得意分野の力比べでもラウンドテーブルやバックパサーに後れを取る。

 

 本調子からはかけ離れた状態であり、こんな状態が続けば代表メンバーから外されてもおかしくないと思えてしまうほどだった。

 

 どうにかして復調しようと足掻いてはいるが、どうにもならない。

 

 本当に、どうにもならないのだ。

 

「大丈夫よ」

 

 マルゼンスキーは、笑顔のまま言い切った。

 

「一昨年の有馬の前も、そうだったでしょう? 長期休養が響いて調子がなかなか戻らなくて、周囲からは勝てないだろうって言われてた。……それでもレースでは信じられないような走りを見せて、みんなをあっと驚かせた」

 

 優しい色を湛えた瞳が、栗毛の少女の顔を見つめる。

 

「どんな逆境も必ず乗り越えて、大舞台では無類の強さを発揮する。それが、≪怪物≫グラスワンダーでしょう?」

 

 後輩の走りを傍で見続け、苦難と栄光の繰り返しを知っている彼女だからこそ、口に出来る言葉だった。

 

 その意味を噛み締めながら、グラスワンダーは思う。

 

 自分を一番理解してくれているのは、やはりこの人なのだ。この胸の奥に溜まった悩みを打ち明けられる相手は、この人しかいない――と。

 

「……マルゼンスキーさん」

 

 上目遣いにマルゼンスキーの顔を見つめ、おずおずと言う。

 

「その……相談したいことがあるんですけれど……構いませんか?」

 

 それを聞いたマルゼンスキーは、一瞬虚をつかれたような表情を見せたが、すぐに元の笑顔に戻って応じた。

 

「もちろんよ。遠慮せずに何でも言って」

 

 

 

 

 

 

 一週間前の夜。

 

 シアトルスルーから用件を告げられた際、グラスワンダーは酷く動揺した。

 

「アメリカに、戻れって……本気で言ってるんですか……?」

 

「ええ、本気よ。冗談でこんなこと言ったりしないわ」

 

 迷いなく言い切られ、動揺はさらに深まる。

 

 三年前の冬に会った時も、アメリカに戻るように言われたが――その時に自分が示した拒絶により、その話は終わったものとばかり思っていた。

 

 もう一度同じことを言われる日が来るとは、思っていなかったのだ。

 

「私は……もう三年も日本にいるんですよ? 今更戻るなんて、そんなこと……」

 

「出来るわ。前例はなくても、制度上は不可能じゃない」

 

「……確かに……移籍は禁止されていませんけれど……」

 

 日本のGⅠ馬が、アメリカ合衆国に移籍する――前代未聞の話ではあるが、それは決して不可能なことではない。

 

 世界的に見れば、競走馬の移籍というのは珍しくもないのだ。

 

 欧州で一流になれなかった者が、活路を求めてオーストラリアや香港へ。

 

 南米諸国の活躍馬が、さらなる栄誉と金銭を求めて北米へ。

 

 実力や目的に応じて戦う場所を変えることが、当然のこととして頻繁に行われている。

 

「でも、仮に戻ったとしても……私を受け入れてくれるところは……」

 

「私のところに来ればいい」

 

「私のって……その……ターナー先生のところに……?」

 

「ええ」

 

 問いに頷きを返し、シアトルスルーは淡々と続けた。

 

「既に先生の了承は得ている。あなたにその気さえあれば、いつでも教え子として受け入れてくれるそうよ。そして……先生の元に来るなら、私も助手としてあなたに関われる」

 

 彼女は、ただ無責任にアメリカに戻れと言ったわけではない。

 

 幼馴染を再生させる方法を真剣に考え、自分が全責任を負う覚悟で、輝く未来に至る道を示したのだ。

 

「前に話したわよね? 私は引退後、トレーナーに転身するつもりだって」

 

 黒い瞳が、戸惑う少女を見据える。

 

「そのための勉強は練習の合間に続けてきたから、もういつでも資格を取れる段階に来ている。傲慢な言い方に聞こえるかもしれないけれど……それなりに上手くやれる自信はあるわ。少なくとも、以前あなたを指導していた人よりは」

 

 苦い記憶に触れられ、グラスワンダーの表情が僅かに強張る。

 

 故郷を離れるきっかけとなったトレーナーとの軋轢は、今も彼女の胸に傷を残していた。

 

「つまり……シアトル姉さんが、私のトレーナーになるってことですか……?」

 

「ええ、実質的には……ね」

 

 形式的にはダグラス・ターナーの教え子になる格好だが、実質的にトレーナーの役を担うのはシアトルスルー。

 

 言われるがままアメリカに帰れば、そうした状況になるらしい。

 

 無敗の三冠馬シアトルスルーに直接指導してもらえるなど、他人に言わせれば夢のような話だろう。

 

 しかしグラスワンダーは、それを素直に喜ぶことが出来なかった。

 

「それじゃあ……ワールドカップは、どうすればいいんですか……?」

 

「当然、代表を辞退してもらうわ」

 

「……っ!」

 

「出来ることなら今すぐアメリカに連れて帰りたいくらいよ。流石にそれは無理にしても、十一月のワールドカップが終わるまで待ってはいられない。競走馬として見れば、あなたも決して若くはない齢だもの」

 

 競走馬が最高の力を発揮出来るのは、身体が成熟する前後の数年間だけ。それを過ぎてしまえば、どれほどの名馬も衰えを隠せなくなる。

 

 人間社会の基準では未成年のグラスワンダーも、競馬の世界では既に年長の部類であり、さほど若くはない。

 

 残された時間は、決して長いとは言えないのだ。

 

「だから合宿が終わって東京に戻り次第、移籍の手続きを進めてもらうことになるわ。私のところで再出発する道を、あなたが選ぶのなら」

 

「……随分、唐突で……乱暴な話ですね」

 

「そうね」

 

 皮肉めいた呟きに、シアトルスルーは肯定を示す。

 

「合同合宿に招かれた身でありながら、相手方の代表選手を引き抜こうとする……我ながら、不義理もいいところね。誰に何を言われたって文句は言えないわ」

 

 自分がどれだけ非常識な真似をしているかを、彼女は自覚している。

 

 グラスワンダーが代表の座を辞退すれば、自分が非難の的になることも承知している。

 

 その上で、一片の迷いもなく告げているのだ。

 

 日本を去り、自分の元に来い――と。

 

「けれど、構わない。あなたを連れ戻せるなら、どんな非難も甘んじて受けるつもりよ。頭なんかいくらでも下げるし、私自身が代表から外されることになっても構わない」

 

 幼馴染を見据える瞳に覚悟を込め、無敗の三冠馬となった少女は、揺るがぬ意思を再び口にした。

 

「もう一度言うわ。アメリカに帰ってきなさい、グラス。私の手で、あなたを頂点まで導いてみせるから」

 

 

 

 

 

 

「……シアトルスルーが、そう言ったのね?」

 

「……はい」

 

 グラスワンダーとマルゼンスキーは競技場を出て、公園内の遊歩道にあるベンチに腰を下ろしていた。

 

 周囲に誰もいない中、二人だけの会話は続く。

 

「それで、グラスは何て答えたの?」

 

「すぐには結論を出せないので、少し考えさせて下さいと言いました。そうしたらあの人は、十日だけ待つ……と」

 

 それは、合宿最終日の前日――シアトルスルー達アメリカ代表チームが日本を去る一日前まで、猶予を与えるという意味だった。

 

「十日後の夜にまた同じ場所で会って、その時に返答を伝える……そう約束を交わして、その日は別れました」

 

「……それで、ずっと悩んでたのね」

 

 一週間前の夜の顛末を知り、マルゼンスキーは後輩の胸中を察する。

 

 グラスワンダーは下を向いたまま、嘆くように言った。

 

「こんなの、人に相談することじゃない……自分で考えて、自分で決めなきゃいけないことだって分かってるんです……でも……」

 

 震える声に、不安と迷いが滲み出る。

 

「分からないんです。いくら考えても…………これからどうすればいいのか……どちらを選べばいいのかが……」

 

 アメリカに帰るか、日本に残るか。

 

 決断の時が間近に迫ったそれは、今後の競走生活ばかりか引退後の人生までも左右する、重大な二択だ。

 

 少し前までの自分なら、迷うことなく後者を選んだ。このまま日本に残って走り続け、自分だけの力で頂点を目指すと言い切れた。

 

 けれど今は、それが出来ない。

 

「叩きつける走法」を禁じられ、普通に走っても一線級には通用せず、時間がただ無為に過ぎていくだけの現状を思えば――

 

「いい話だと思うわよ」

 

「え?」

 

「アメリカに帰ってシアトルスルーの指導を受けるっていうのは、あなたにとっていい話だと思ったのよ。私は」

 

 瞠目するグラスワンダーに、マルゼンスキーは微笑みを向けた。

 

「だってそうでしょう? 彼女は無敗で三冠を制した歴史的名馬で、アメリカ競馬界きっての理論派としても知られている。きっとトレーナーになっても大成するだけの能力を持ってるわ。そんな人に指導してもらえれば、あなたは今より数段強くなれるわよ」

 

「で、でも……! それだと、ワールドカップは……」

 

「諦めるしかないわね。残念だけれど」

 

 さほど残念がる様子もなく、さらりと返す。

 

 そして続く言葉は、グラスワンダーをより一層当惑させた。

 

「でもいいじゃない。ワールドカップだけが全てじゃないわ。ブリーダーズカップ、ジョッキークラブゴールドカップ、ウッドワードステークス、アーリントンミリオン……アメリカには、伝統と価値のあるレースがいくつもある。いずれそういうレースを制して、向こうのトップホースになればいいのよ」

 

 事態を前向きに捉えているとも取れる口振りだったが、その端々からグラスワンダーは感じ取った。

 

 自分の一番の理解者だと信じていた女の、無機質な本心を。

 

「あれこれと文句を言う人はいるかもしれないけれど、そんなの気にすることないわ。グラスの人生はグラスのものなんだから、周囲の雑音なんかに惑わされないで、自分にとって一番良いと思える道を選ぶべきよ」

 

 彼女には、想いがなかった。

 

 後輩達の晴れ舞台を見たいという気持ち、コーチ役として自国のチームを支えたいという情熱、世界との戦いに懸ける夢――当事者の一人なら持っていて然るべきそれらの想いが、彼女の発言には全く表れていなかった。

 

 実際、そんなものは微塵もないのだろう。

 

 表面上はどうあれ、心の奥底では冷めているから、躊躇いなく勧められるのだ。

 

 身の丈に合わない夢を諦め、日本を去る道を。

 

「…………もう、出来ないかも……」

 

「うん?」

 

「あの人は、私の走り方を嫌ってましたから……だからアメリカに戻って、あの人の指導を受ける立場になったら……もう二度と、前のような走りは……」

 

「それは、日本にいても同じでしょう?」

 

 あっさりと、マルゼンスキーは言った。

 

「ハナさんの意思は固い。もうこの先何をしても、あなたにあの走法を使わせないって決定を覆させることは出来ないわ」

 

 現実を突きつけるように告げ、それからまた、作り物めいた笑顔を見せる。

 

「だからほら、前にも言ったじゃない。これからは地道に基礎を固めて、あの走法の代わりになる強さを身に付ければいいのよ。大変かもしれないけれど、グラスならきっとそれが出来るわ」

 

「……」

 

 確かに以前にも、似たようなことを言っていた。

 

 この合宿の初日。帯広空港へと向かう飛行機の中だ。

 

 

 ――グラスは強いんだから、普通に走っても十分通用するわ。これからの特訓で今まで以上に基礎を固めれば、世界の強豪にだって勝てるようになるわよ。

 

 

(ああ、そうか……)

 

 今になって、その真意を悟った。

 

 彼女はいつも優しくて、こちらを傷つけるようなことは何も言わないから、今の今まで気付けなかった。

 

(この人も、同じなんだ……)

 

 要は、捨てろと言っていた。

 

 つまらない意地やこだわりは捨てて、普通に走れるようになれと言っていただけだった。

 

 非合理な走りを断固として認めなかった、昔のトレーナーと同様に。

 

 引退させられたくなければ二度と使うなと脅してきた、今のトレーナーと同様に。

 

 破滅の未来を予見した、無敗の三冠馬と同様に。

 

 あの走法を無価値で不要な「悪癖」と見なし、自分の中から取り除こうとする側の一人だったのだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話「踏み出す一歩」

 

 

 バックパサーが、妙なことをしている。

 

 八百メートルの走破タイムを計測した後の休憩時間。その奇行を目撃したシアトルスルーは、タオルで汗を拭いながら首を傾げた。

 

 トラック内の芝生に立つ、テンガロンハットの女――バックパサーが、何故か右脚だけを大きく上下に動かしているのだ。

 

 ゆっくりと右脚を振り上げ、ゆっくりと振り下ろし、芝生を静かに踏み締める。

 

 何度も何度も、それを繰り返す。

 

 一週間前の対抗戦で披露した「真似事」を、スローモーションで再現するかのように、同じ動作を延々と続けていた。

 

 いつになく真剣な眼差しを、自身の脚に注ぎながら。

 

「……何をしているの? パサー」

 

 問いかけても、返答はない。

 

 声も届かないほど集中しているのか。天馬の双眸は真っ直ぐに、上下動を繰り返す右脚だけを見つめ続けていた。

 

「膝関節…………いや、股関節の問題か……」

 

 零れ落ちる独り言。

 

 それまでより一段と高く脚を振り上げ、僅かに顔をしかめながら振り下ろし――それを最後に、バックパサーは奇行を止めた。

 

 目を瞑り、何かを悟った様子で溜息をつく。

 

「…………同じにならねえわけだ」

 

 その声音に若干の悔しさが滲んでいるように感じられたのは、果たして気のせいだっただろうか。

 

 怪訝な顔をするシアトルスルーに、バックパサーはようやく振り向く。

 

 その表情は、普段の彼女が浮かべるものに戻っていた。

 

「んなアホ見るような目で見んなよ。ちっとばかし気になることがあったから、考え込んでただけさ」

 

「……そう」

 

 バックパサーの考えていることが気にならないわけではなかったが、詮索はやめておいた。

 

 代わりに、別のことを問う。

 

「さっき外に走りにいったエルコンドルパサーが、妙な物を装着していたけれど……あれはあなたの仕業?」

 

「その通りだが、よく分かったな」

 

「彼女にあんな真似をさせるのは、あなたくらいだと思ったから」

 

「はははっ、違えねえ」

 

 愉快げに笑った後、バックパサーは悪戯を明かすように言う。

 

「罰ゲームだよ、罰ゲーム。この前のリレー勝負で、勝った側は負けた側に好きに命令していいって決まりがあったろ? ふとそれを思い出してよ。あの勘違い馬鹿にちょっとした罰をくれてやったのさ」

 

「あれはその日の間だけという話だったから、とっくに時効だと思うけど?」

 

「かたいこと言うなよ。別にいいだろ? あの馬鹿だって文句言わなかったしよ」

 

「……まあ、いいけれど…………何であんな重りを付けさせたの?」

 

 つい先程、個人練習のため競技場から出ていったエルコンドルパサー。

 

 その両足首に巻かれていたのは、一目見ただけで正規品ではないと分かる、異様なほど分厚いアンクルウェイトだった。

 

 おそらく、二つ合わせて二十キログラム以上の重量がある代物だろう。

 

 ランニングの際に身に着ける重りとしては、些か度が過ぎている。

 

「下手糞だからな、あいつは」

 

 辛辣な評価が、バックパサーの口から出た。

 

「この国の中じゃ、何でも出来る万能の天才って風に持て囃されてるらしいが……アホ臭え。あたしに言わせりゃまだまだ粗だらけだ。特に、勝負所に来るまでの脚の使い方がなってねえ。無駄な動きで無駄に体力磨り減らしてやがる」

 

 あらゆる面で高水準なエルコンドルパサーの走りを「粗だらけ」と評する者は、世界を見渡しても彼女くらいだろう。

 

 それは本人も承知の上だが、間違ったことを言ったつもりは微塵もない。

 

 常人の視点で見れば非の打ちどころがないほどの完成度であっても、超一流の視点で見れば話にならないほど未熟であることは、嘘偽りのない事実なのだ。

 

「だから重りをくれてやったのさ。クソ重いもん付けて走り辛くなりゃ、身体が少しでも楽をしたがるようになる。楽をするってのは無駄を省くってことだ。そんな状態でしばらくそこら辺を走ってれば、あいつのゴミみてえな走りもちっとは見れるようになる……か、少なくともそのきっかけ程度にはなる。理屈としてはそんなとこだ」

 

 そこまで言って、また笑う。

 

「ま……それでも進歩しねえならしねえで、別に構わねえけどよ」

 

 彼女らしい物言いだったが、シアトルスルーはそこに、単なる侮蔑や見下しとは異質な意思を感じずにいられなかった。

 

 バックパサーは、世間で思われているほど攻撃的な性格ではない。

 

 取るに足らない相手には必要以上に関わろうとせず、話題にさえしないのが彼女だ。誰彼構わず喧嘩を売るほど野蛮ではなく、弱者をいたぶることに快楽を見出すような嗜好も持っていない。

 

 にもかかわらずエルコンドルパサーに対しては、一貫して辛辣な態度を取り続けている。

 

 深く観察して欠点を見抜き、それを克服するための道具を与えるという、らしくない真似までしている。

 

 何の理由もない気まぐれとは、到底思えない。

 

「……気に入ってるのね。あの子のこと」

 

 静かに放たれた言葉に、バックパサーは答えなかった。

 

 

 

 

 

 

 川沿いの細い道を、赤いマスクの少女が走る。

 

 息を切らし、黒鹿毛の髪を振り乱しながら、長距離走のペースで冬枯れの景色の中を進んでいく。

 

 持ち味のスタミナをさらに強化するため、帯広市内を毎日長時間ランニングする――それが、リコがエルコンドルパサーに課した個人練習だった。

 

 ただでさえ肉体を酷使するそれに、今日はバックパサーから与えられた拷問器具のような代物の重さが加わっている。

 

 中に大量の鉄玉が詰まった、特注品のアンクルウェイト。重量は一つ十二キログラム。二つ合わせて二十四キログラム。半端な者が装着すればまともに走れないどころか、身体を壊しかねない代物だ。

 

 頑強な肉体を持つエルコンドルパサーでも、そんな物を装着して走るのは楽ではない。

 

 一歩踏み出すごとに地面に吸い寄せられるような感覚を覚え、普段のランニングとは比べ物にならない速さで体力を消耗していた。

 

 しかしながら、それは肉体面の話。

 

 アンクルウェイトの重さも、瞬く間に蓄積していく疲労も、今の彼女はさほど気にしていなかった。

 

 重大な問題が頭の中を占めていたせいで、他の全てが些事としか思えなかったのだ。

 

(……あと、三日)

 

 繰り返し脳裏に浮かぶのは、一週間前の出来事。

 

 偶然立ち聞きしてしまった、グラスワンダーとシアトルスルーの会話。

 

(あと三日で……あの話の、返答の日……)

 

 三日後の夜、グラスワンダーはシアトルスルーに告げねばならない。

 

 アメリカに帰る道と日本に残る道の、どちらを選ぶのかを。

 

 アメリカに帰れば、ワールドカップには出られない。今の仲間達と同じレースを走ることも、おそらくは二度とない。

 

 その代わり、申し分のない環境に身を置ける。無敗の三冠馬シアトルスルーから指導を受け、自分の走りを一から作り直せる。シアトルスルーの手腕とグラスワンダーの才能が上手く噛み合えば、きっと明るい未来が拓けるだろう。

 

 日本に残れば、ワールドカップには出られる。今の仲間達とも別れずに済む。

 

 だが間違いなく、ワールドカップは参加するだけで終わる。「叩きつける走法」を使えない今の彼女が世界の舞台で通用するとは、残念ながら全く思えない。

 

 いや、多分このままでは、日本のレースでも良い結果は出せないだろう。敗北を重ねて落ちぶれていく姿が目に見える。

 

 だから、どちらが正解かと問われれば、間違いなく前者なのだ。

 

 シアトルスルーに従った方が今後の競技人生で成功を得られる可能性が高いのは、どう考えても疑いようがない。

 

 けれど――そんなのは、嫌だ。

 

 アメリカに帰ってほしくない。日本に残ってほしい。一緒にワールドカップに行って、世界の頂点を目指したい。

 

 それが、自分の正直な気持ちだ。

 

 どれほど理屈を並べられても変えられない、心の奥底からの想いなのだ。

 

 引き止められるなら引き止めたいが――果たして、それが許されるだろうか。

 

 グラスワンダーの人生は、グラスワンダーのもの。

 

 もし本人が再起を目指してアメリカに帰る道を選ぶなら、ただの友人に過ぎない自分に口出しする資格はない。

 

 感情だけで下手に引き止めた結果、親友の未来を奪うことになってしまったら、責任の取りようがない。

 

 そんな理性の訴えが足枷となり、エルコンドルパサーは何も出来ずにいた。

 

 過酷な鍛錬を一人黙々と続けているのも、ある種の現実逃避なのかもしれない。

 

(何で……こんなことになったんだろう……)

 

 息を切らして走りながら、現状を恨めしく思う。

 

 少し前までは、こんなことで思い悩む必要はなかった。

 

 苦しいことは山程あったが、それでも毎日が楽しかった。余計なことに気を取られず、目標を真っ直ぐに見据えたまま走っていられた。

 

 自分とグラスワンダーは、単なるチームメイトではない。

 

 同じような夢を追う似た者同士で、同じような想いを抱えて競い合うライバルだった。

 

 物静かな見た目に反して我が強く、実は誰よりも頑固で、何があろうと自分の競馬を決して曲げない、小さな栗毛の少女。

 

 誰にも真似出来ない走りで頂点を目指す、常識破りの競走馬。

 

 そんな眩しい存在に、自分は――

 

 

 

 

 

 

 四ヶ月ほど前。

 

 レースも練習もない、久々に訪れた休日でのことだった。

 

 息抜きを兼ねて街に日用品を買いに出かけたエルコンドルパサーだったが、途中で財布を所持していないことに気付き、やむなく寮の部屋に引き返した。

 

 予定外の往復をする羽目になったため、テンションは底の方まで下がっていた。

 

「はーい、お財布忘れたマヌケが颯爽と戻ってきましたヨー。時間を無駄にした感が半端ないデース。ていうかグラスも、やっぱり一緒に行きませ……」

 

 投げやりに言いつつ部屋のドアを開けたエルコンドルパサーは、直後に硬直した。

 

 部屋の真ん中に、グラスワンダーが立っている。

 

 それはいい。グラスワンダーとの相部屋なのだから、いて当然だ。

 

 ただ、格好がおかしい。普段着でも学園の制服でもトレーニングウェアでもなく、レース用の服――勝負服と呼ばれる煌びやかな衣装を、何故か着用している。

 

 その上、見慣れない物まであった。スタンドタイプの大きな姿見鏡だ。

 

 いつの間にどこから調達してきたのか不明なそれが、床の上に堂々と佇立しており、青い勝負服を着た少女の姿を映しているのだった。

 

 当人が何をしているのかは、深く観察するまでもなく明らかだった。

 

 鏡の前で、ポーズをとっているのだ。

 

 身体の向きを変え、姿勢を変え、表情を変え、とにかく色々な部分を細々と変えながら、鏡に映る自分の姿を堪能している。

 

 その手で大事そうに抱えているのは、いつも机の上の棚に置かれている銀色のカップ。

 

 どうやら当人の脳内では、表彰式で優勝カップを受け取り万雷の拍手を浴びる自分の姿――という風な光景が広がっているらしい。

 

 恐ろしいほどの痛さだった。

 

 見なかったことにしてやろうかとも一瞬思ったが、放っておくといつまでもやっていそうなので声をかけた。

 

「あのー……何をされてるんデスか? グラスワンダーさん……」

 

「ファッ!?」

 

 間抜けな声を上げ、びくっとする約一名。

 

 秘密の行為を見られてしまった残念な少女は、顔面を真っ青にして振り返った。

 

「エ、エル……買い物に行ったんじゃ……」

 

「財布忘れて戻ってきましたー」

 

「いつから……そこに……」

 

「フッ……とか言って優雅に髪をかき上げながら、過去最高のドヤ顔をキメてるあたりから」

 

「――っ」

 

 その後のグラスワンダーの行動は、驚くほど迅速だった。

 

 銀色のカップを床に置き、部屋の窓を開け、窓際の箪笥に足をかけて身を乗り出す。そして大空に向かって飛び立とうとしたところで、意図を察したエルコンドルパサーが後ろから組みついた。

 

「わ、わーっ!? ちょ、ちょっとグラス、早まらないで!」

 

「は、離して! もう死にます! 死なせて下さい!」

 

「死ぬには微妙な高さだからここ! 多分中途半端に怪我するだけだから! 今よりもっと残念なことになるから!」

 

 そんな具合の揉み合いがしばらく続いた後、自殺紛いの愚行をどうにか思い留まらせたエルコンドルパサーは、大汗をかきながら床にへたり込んだ。

 

 深い溜息をつき、胸を撫で下ろす。

 

 本当に、危ないところだった。自分の反応があと一瞬でも遅ければ、色々な意味で大惨事になっていたに違いない。

 

 何故か勝負服を着た少女が白昼堂々自室の窓から飛び降りる――などという怪事件を生み出さなくてよかったと、心底から思う。

 

「ほ、ほらグラス……落ち着きましょうよ、ね? その……さっき見たことは、誰にも言わないようにしますから……」

 

「……本当に、言わないでいてくれますか?」

 

「え、ええ……」

 

「……絶対、言わないって約束ですよ?」

 

「は、はい……」

 

「誰かに言うようだったら……もう、消すしか……」

 

「わー……不穏なワードがこっそり飛び出してマース……」

 

 すぐ隣で体育座りをしながら睨みつけてくるグラスワンダーを、苦笑しながら宥めるしかないエルコンドルパサーだった。

 

 いつの間にやら自分が悪いかのような雰囲気にされているのは少々納得がいかないが、それを口にすると余計にこじれそうなのでやめておく。

 

 どうにかしてこの気まずさを解消しようと思い、床に置かれたままの銀色のカップに目を向けた。

 

「朝日杯の時の優勝カップ……デスよね? それ……」

 

「……そうですけど、それが何か? 邪魔臭いからどっかにしまっとけよって言いたいんですか?」

 

「もー、機嫌直して下さいってばー。何かキャラ変わってきてますヨー」

 

 あまりの面倒臭さにうんざりしつつ、前々から気になっていたことを口にする。

 

「いやほら……他のレースの優勝カップもあるのに、それだけやたら大事にしてるなー、とか思ったりして……」

 

 グラスワンダーは朝日杯の他に、春秋のグランプリも制している。レースの格で言うならそちらの方が高い。

 

 だが彼女自身は朝日杯の優勝カップに強い思い入れがあるらしく、いつも机の上の棚に飾り、埃が積もらないようこまめに磨いていた。先程鏡の前で抱えていたのも、グランプリではなく朝日杯のカップだった。

 

 疑問に思わずにいられない。

 

 最高の栄誉とは程遠いレースの優勝カップを、どうしてそこまで大事にしているのかと。

 

「特別、ですから……これは」

 

 グラスワンダーは呟き、僅かに表情を変える。

 

「昔……まだアメリカにいた頃に……薔薇のレイを一緒に掴み取ろうって、トレーナーだった人に言われたことがあります」

 

「薔薇のレイって……ケンタッキーダービー……?」

 

「ええ……」

 

 頷くその横顔は、遠く過ぎ去った日々を懐かしんでいるようでありながら、胸を刺す痛みをこらえているようでもあった。

 

「色々あって、私はその人と仲違いして……薔薇のレイを掴み取ることは出来ませんでした。でも……」

 

 銀色のカップを持ち上げる。

 

 日の光を浴びて輝く勝利の証に、深く澄んだ眼差しを注ぐ。

 

「この国に来て……これを手に入れた」

 

 過去を振り切るために故郷を離れ、遠い異国の地で一人戦い続けた少女は、万感の思いを込めてそう言った。

 

「到底釣り合うものじゃないって、人は言うんでしょうけれど……私にとっては、薔薇のレイに負けないくらい価値あるものなんです。日本に来て、一生懸命走って……初めて自分の力で手に入れた、自分自身に誇れる勝利の証ですから」

 

 エルコンドルパサーは悟った。

 

 朝日杯の優勝カップという存在がグラスワンダーの中で持つ、価値と重みを。

 

 レースの格など関係ない。他人の尺度で測れるような話ではない。理屈を抜きにしてその存在は、彼女にとって「勝利」の象徴なのだろう。

 

 誰が何と言おうとも、彼女は信じている。

 

 世界中の人間に否定されようとも、きっと信じ抜く。

 

 幾多の困難を乗り越え、自分の走りを貫き通した末に得た栄冠には、薔薇のレイにも劣らない輝きがあるのだと。

 

 だからこそ、≪怪物≫グラスワンダーは強い。

 

 自分の力を信じ、折れない意思を胸に抱き、分厚い壁を蹴り砕くような脚で未来に向かって駆けていくから――その疾走は、眩しく見える。

 

 誰もが憧れる伝説の名馬にさえ、決して負けないくらいに。

 

「……何ですか、その目は? また気色悪い自分語りしてるなーこのナルシスト、とか言いたげですね」

 

「わー……せっかくいい感じのこと考えてたのに台無しデース……」

 

 

 

 

 

 

 あの時の横顔は、今も鮮明に思い出せる。

 

 胸の内にある想いを語りながら、グラスワンダーは笑っていた。

 

 異国の地で掴み取った小さなカップに、優しい目を向けて。

 

(あのカップは……どこに……?)

 

 十一日前の朝、棚の上から消えているのを確認して以来、あのカップを一度も見ていない。

 

 そしてグラスワンダーは、あのカップの行方について一言も口にしていない。

 

 むしろ、意図的に言及を避けているような――存在自体を忘れ去ろうとしているような節さえあった。

 

 その理由は、何となく分かる。

 

 分かってしまうから、訊きたくても訊けなかった。

 

 あんなに大切にしていた朝日杯のカップを、何処に隠したのかと。

 

(机の中……には入りそうもないし……他に隠す場所なんて……)

 

 今更在処が判明したところで、どうにもならない。現実は何も変わらない。

 

 そう頭で分かっていても、考えずにはいられなかった。

 

 あの小さなカップが持つ意味と、そこに込められた想いの深さを、知っているから。

 

 ――いや、それだけではない。

 

 あれは、自分にとっても大切な物なのだ。

 

 何処かに隠したままにはしてほしくないし、初めからこの世に存在しなかったようにされるのは嫌だ。

 

 三年前の冬。栗色の髪の≪怪物≫が、世代の頂点を決めるレースを制した日。

 

 歓喜の渦に包まれた表彰式の中で、自分は――

 

「おら情けねえぞ! ちったぁ根性見せろやボケがぁ!」

 

 耳朶を打つ、激しい怒鳴り声。

 

 驚いて立ち止まったエルコンドルパサーは、直後に気付く。

 

 自分が走っていた道路のすぐ隣――土手の下に広がる河川敷に、五人の女の姿があることに。

 

 顔を確認せずとも、一目で分かった。五人全員が並外れた巨躯の持ち主なので、見間違えようがない。

 

 河川敷に集っているのは、自分達の特訓に協力してくれていた重種馬の面々だ。

 

「てめえ何だその体たらくは! そんなんだからアメリカのチビなんかに負けんだよマヌケッ!」

 

「うっせえな! あたしゃお前より四つ上だぞ! 齢考えろよ齢! つーかあのチビ、マジで強かったんだよ!」

 

「ヨウさん! あんたもへばってる場合じゃねえぞ! 昔はその倍くらい平気でこなしてただろうが!」

 

「誰もへばっちゃいねえよ! お前みてえなだらしねえ中年太りと一緒にすんな! 今でもこのくらい……どうってこたぁねえ!」

 

 彼女達が何をしているのかは、誤解の余地がないほど明らかだった。

 

 身体を鍛えているのだ。

 

 腕立て伏せをする者、スクワットをする者、特大のタイヤを曳いて走り回る者――やっていることは各々で違うが、己の肉体に負荷をかけているという点では同じだった。

 

 その光景に、エルコンドルパサーは立ち止まったまま呆然と見入る。

 

 五人の重種馬がこんな場所で特訓をしているなど全く聞いていなかったし、想像もしていなかった。

 

「おーし! 五分だけ休憩にすんぞ! それが終わったら――」

 

 声を張り上げたリーダー格のイレネーが、はっとした顔で言葉を切る。

 

 そのまま土手の上を見上げ、そこにいたエルコンドルパサーと目が合うと、彼女は気恥ずかしそうに苦笑した。

 

「……見られちまったか」

 

 

 

 

 

 

 何やら見てはいけないものを見てしまったようだが、向こうに気付かれた以上は黙って立ち去るわけにもいかない。

 

 そう思ったエルコンドルパサーは、土手を下って休憩中の五人に歩み寄った。

 

「ランニングの最中かい? 邪魔しちまったね」

 

 水分補給をしながら、イレネーが言う。

 

 長時間に渡って激しい運動をしていたことが、その身を伝う汗の量から覗えた。

 

「小っ恥ずかしいから見られたくなかったんだけどさ……まさかあんたが、こんなとこ通りかかるとは思わなかったよ」

 

「いつもやってるんですか……? こういうこと……」

 

「あんたらの合宿が始まるちょっと前からだよ。今度のワールドカップに出る子達を連れてくるから特訓に協力してほしいって、リコの奴に頼まれてから……年甲斐もなくやる気に火がついちまってね。あたしら自身も鍛え直すかってことで、暇がある時に集まってアホみてえな特訓するようになったのさ」

 

 その言い方がおかしかったのか、他の四人は吹き出すように笑った。

 

「アホみたいって言うなよ。これでも真面目に鍛えてんだぜ、こっちは」

 

「つーか言い出しっぺはお前じゃねえかよ。何アホらしいことに仕方なく付き合ってるみたいなツラして気取ってんだ、アホ」

 

 ほんの一分前まで罵声をぶつけ合いながら身体を苛め抜いていた彼女達だが、今その表情は晴れやかで、疲労を感じさせないほど生き生きとしていた。

 

 イレネーの説明に付け足すように、芦毛の大女が口を開く。

 

「まあ正直……引退してから全然鍛えてなかったし、もう若いなんて言えない齢だからね。ちっとはこういうことやっとかないと身体が動かないのさ」

 

 その発言は、エルコンドルパサーに気付かせた。

 

 自分達より遥かに屈強に見えた五人の重種馬が、見えないところで積み重ねていた苦労を。

 

「……つっても、あと三日で御役御免なんだけどね」

 

「馬鹿。三日しかないじゃなくって、三日もあるって考えろよ」

 

「そうそう。とっくの昔に競馬辞めてたあたしらが、これから世界を目指そうって子達と関われるんだ。一日だって十分すぎるくらいさ」

 

 時に指導者として、時に対戦相手として、合宿初日から惜しみない協力をしてくれていた五人。

 

 自分達とは親子ほども年齢が離れた、ばんえい競馬の猛者達。

 

 楽しそうに談笑するその姿を見ながら、エルコンドルパサーは思う。

 

 自分達が、強くなるために必死だったのと同様に――

 

 いや、ある意味ではそれ以上に――

 

 彼女達は、無理をしていたのだ。

 

 考えてみれば、当然だろう。いかに屈強な重種馬とはいえ、彼女達五人はもう衰えを隠せない年齢だ。

 

 若く体力に溢れた自分達の相手を務めるのは、楽ではなかったに違いない。

 

 それに、彼女達は立派な大人だ。

 

 各々に仕事があり、家庭があり、生活がある。時間をいくらでも使えるほど暇なわけがない。

 

 にもかかわらず無理に時間を作り、何日も特訓に付き合ってくれていたのだ。全盛期の強さを少しでも取り戻すために、己を鍛え直しながら。

 

 半端な気持ちでは到底出来ないことだ。

 

 彼女達の笑顔の裏側には、どれほどの苦痛と苦労が隠されているのだろうか。

 

「……どうして」

 

 胸の内で生じた疑問を、五人に投げかける。

 

「どうして……そこまでしてくれるんですか……? 私達のために……」

 

 会話がぴたりと止まった。

 

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔を並べ、呼吸さえ止めて固まる五人。驚きと戸惑いを含んだ五つの眼差しが、赤いマスクの少女へと注がれる。

 

 それから数秒後、一人の顔が綻び――

 

「……ぷっ」

 

 おかしそうに、笑い声を上げた。

 

「くくく……くははははっ!」

 

「ぷははははははははっ!」

 

「あははははははははっ!」

 

「ひゃははははははははっ!」

 

 他の四人も、何故か連鎖的に笑い出す。

 

 思いがけないその反応に、エルコンドルパサーは面食らった。

 

「え……?」

 

 自分は何か、おかしなことを言っただろうか。

 

 彼女達が無理をしてまで特訓に付き合ってくれる理由が気になったから、それをそのまま伝えただけなのだが。

 

「いや、悪い悪い……真面目な話なのに笑って悪かった。……けど何だか、言われてみたらおかしくってさ……」

 

 栃栗毛の大女がそう言うと、他の面々は同感だと言いたげな顔になり、自身の気持ちを素直に明かした。

 

「あんたらのためっちゃ、あんたらのためだけど……何つーかな…………あたしら自身に、あんまりそういう意識はなかったんだ」

 

「リコに頼まれたから嫌々やってるわけじゃないよ。義務やら責任やらいう堅っ苦しい話でもない。あたしらが好きでやってんのさ。今のこれは」

 

「そりゃかったるくないっつったら嘘になるし、色々大変だけどね……それ以上に、楽しくてたまらないんだよ。若い頃に戻ったみたいにね」

 

 決して楽ではない役目を、誰もが前向きに捉えている様子だった。

 

 その言葉に嘘がないことは、表情を見れば分かる。

 

 本当に、少女の頃に戻ったかのような――若々しい活力に満ちた表情が、とうの昔に現役を退いた重種馬達の顔に浮かんでいた。

 

「昔は……」

 

 イレネーが、微笑んだまま呟く。

 

「若い頃は、大っ嫌いだったんだ。あんたらの……中央の競馬がさ」

 

「え……」

 

「ちっこくって、細くって……ちっとばかし脚が速えだけのクソチビのくせに、世間からちやほやされて、高い金貰いやがってってね…………今思えばダセえ話だけど、妬いてたんだよ。あんた達、中央のエリートに」

 

 若き日の屈折した感情を明かしながら、ばんえい競馬の猛者は当時を振り返る。

 

「だから暇さえありゃ、みんなでぐちぐち言ってたよ。あいつらばっか優遇されてんのはおかしい、世の中間違ってる、同じような生き物なのに何であたしらはとか……そんな、くっだらねえことをね」

 

 ばんえい競馬と中央競馬の違いは、競技の内容だけではない。

 

 世間からの注目度、レースで得られる賞金の額、引退後の待遇――ありとあらゆる面で、両者の間には雲泥の差がある。

 

 今も昔も、ばんえい競馬の競走馬が置かれた状況は厳しく、イレネー達のような活躍馬でさえ実績に見合うだけのものを得られていないのが実情だ。

 

 そのことに不満を募らせていたという当時の彼女達の心情は、エルコンドルパサーにも十分に察せられた。

 

「だけど、何でかな……きっかけなんて忘れちまったけどさ、いつからかテレビで競馬中継を観るようになったんだよ。つっても最初は文句ばっかでね。何でそこで差せねえんだよクソとか、中央の奴らは根性足りねえなぁとか、馬鹿面並べて好き放題言ってたよ」

 

 自嘲しつつ、懐古の思いを声に乗せる。

 

「でも……ずっと観てる内に、それが変わった。気が付いたら文句言うのも忘れてレースに見入っちまってたよ。金賭けてるわけでもねえのに、馬鹿みてえに興奮してさ……挙句の果てには、次は誰が勝つかだのどっちの方が強えかだので揉めて、死ぬほど馬鹿馬鹿しい喧嘩までしちまった」

 

 劇的な転機があったわけではない。

 

 週末が来る度テレビの前に座り込み、年若いサラブレッド達が競馬場で走る姿を画面越しに観続けた。言ってしまえばただそれだけのこと。

 

 ただそれだけのことが、彼女達の価値観を変えた。

 

「そんなことがあって、ようやく分かったんだ。……あたしらは、こいつらの走りに夢中になっちまったんだなって」

 

 大嫌いだった筈のものに、いつしか魅せられていた。

 

 怒りも妬みも忘れ去り、代わりに熱い感情が滾ってやまないほど、ターフの上で繰り広げられる戦いを凝視していた。

 

 それを自覚した時の不思議な感慨は、数年を経た今も忘れられない。

 

「それからはひねくれた見方すんのはやめて、それぞれで気に入った子を見つけてったりしたけど……あたしが一番衝撃を受けたのは、あいつの走りを目の当たりにした時だったね」

 

「あいつ……?」

 

「≪怪物≫グラスワンダー」

 

 イレネーの口は、静かにその名を紡いだ。

 

「初めてちゃんと観たのは、朝日杯ってレースの時でさ……正直言って、それまで自分の中にあった何かがぶっ壊されたような気分だったよ。こんな走りがこの世にあるのかって思って、画面から目が離せなくなった」

 

 かつてテレビ画面越しに観た光景を思い返しながら、その瞬間に胸の内を満たしていた想いを言葉にする。

 

「無茶苦茶で、出鱈目だけど……信じられないくらい強くて……かっこよかった」

 

 エルコンドルパサーは目を瞠り、隣に立つイレネーの顔を仰ぎ見た。

 

 優しい声音で紡がれた言葉と、遥か遠くにある眩しいものを追うような眼差しから、全てを理解する。

 

 三年前の冬、海の彼方からやってきた少女が大観衆の前で見せつけた、大地を蹴り砕く灼熱の剛脚。

 

 それを忘れられないでいたのは、自分一人だけではなかった。

 

 この女もまた、あの走りに強く惹かれ、脳裏に深く刻みつけていたのだ。

 

 どれだけ時が経とうと色褪せない、黄金色の記憶として。

 

「……何かあって、思うように走れなくなってんだろ? あいつ」

 

 少し間を置いてから、イレネーはこの場にいない少女の事情に踏み込んだ。

 

「下手に口出しちゃいけない問題かと思ったけど……やっぱり、そうも言ってらんないね。このままだと、あの子はきっと駄目になる」

 

 未来を見通したかのように断言し、エルコンドルパサーと視線を合わせる。

 

 迷いを振り払った真摯な意思が、その瞳の奥にあった。

 

「押してやってくれないかい? あのちっこい背中を」

 

「え……」

 

「事情を知らないあたしから見ても、今のあの子には何かが欠けてるんだって分かる。それがどういうものかは、上手く言葉に出来ないけどさ……でも、胸の中にそれがないから、今は前に進めずにいるんだ」

 

≪怪物≫グラスワンダーの無二の親友を見据え、自らの願いを託すつもりで告げる。

 

「だから、あんたの手で背中を押してやってほしいんだ。あの子がもう一度前に進んで、失くしちまった何かを取り戻せるように。……多分本人も、心の底ではそれを望んでると思うからさ」

 

 今のグラスワンダーに欠けているもの。かつては持っていたのに、何処かで失くしてしまった大切な何か。

 

 その正体が、エルコンドルパサーには分かる気がした。

 

 ――そう、分かっていた。本当は、ずっと前から分かっていたのだ。

 

 今のグラスワンダーに何が必要なのかも。彼女が何を望んでいるのかも。自分が何をするべきなのかも。

 

 どうして迷っていたのだろうと心底から思い、自分自身の愚かさに呆れ返る。

 

 一歩も前に進めていなかったのは、自分も同じだ。

 

 あれこれと余計なことばかり考えて、真に重要なことから目を逸らしていた。親友の気持ちと自分の気持ちに、本気で向き合っていなかった。

 

 もう終わりにしよう。

 

 いつまでも同じ場所で足踏みしていてはいけない。覚悟を決め、勇気を振り絞り、自分達は踏み出さなければいけないのだ。

 

 過酷な道程の先にある、輝く未来に向かって。

 

「……行ってきます。グラスのところに」

 

 胸に決意を抱き、身を翻す。

 

 そして、一歩――足踏みしていた日々から脱するため、一歩前へと踏み出した。

 

「ワールドカップ、観ていて下さい。イレネーさん」

 

 進むべき道を示してくれた恩人に、背を向けたまま告げる。

 

「必ず、優勝しますから。――私達、五人の力で」

 

 多くを語らずとも、それだけで十分だった。

 

 短い宣言の中に込められた意思を汲み取り、イレネーはにやりと笑う。

 

「言われなくてもそのつもりさ。あたしが多分、世界の誰よりも観たがってんだ。あんた達が世界一になる瞬間をね」

 

 エルコンドルパサーは地面を蹴り、土手を全力で駆け上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 晴れていた空を厚い雲が覆い始めた、午後三時。

 

 マルゼンスキーとの話し合いを終えたグラスワンダーは、一人で旅館に戻っていた。

 

 階段を上って二階の廊下を横切り、突き当たりにある客室の戸を開ける。まだ皆が練習に励んでいる時間なため、室内には誰もいなかった。

 

 半日の休養を与えられた時は正直戸惑ったが、結果的には助かったと思う。

 

 誰にも見られずに、過去との決別を済ませることが出来るのだから。

 

 奇妙な安堵を覚えたまま部屋の奥へと歩を進め、壁際に置いていた自分の荷物の前で膝を折る。

 

 そしてチャックを開け、中に手を差し込み、長方形の紙箱を取り出した。

 

「何で、持ってきたんだろ…………こんなの……」

 

 自嘲気味に呟き、力なく笑う。僅かに躊躇してから箱を開けると、小さな銀色のカップが白日の下に現れた。

 

 三年前、朝日杯を制した時に授与された優勝カップ。

 

 他の何よりも大切にしていた、かけがえのない宝物。

 

 薔薇のレイにも負けない輝きを持つと信じた、誇らしい思い出の品。

 

 それを今、両手で抱え上げ――悲しみと諦めを湛えた目で見つめる。

 

 長年連れ添った伴侶に、永遠の別れを告げるように。

 

「さようなら……今日までの、愚かな私……」

 

 グラスワンダーは、現実を受け入れた。

 

 故郷に帰ってやり直すため、これまでの自分を葬り去ることを決めたのだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話「憧れの人」

 

 

「必ず止めるわ。どんな手を使ってでも」

 

 十一日前。校舎裏に建つ慰霊碑の前で、東条ハナはそう言った。

 

 グラスワンダーの名を慰霊碑には刻ませない。かつて教え子を失った時と同じ過ちは繰り返さない。

 

 そう胸に誓いながら、冷徹に言い放ったのだ。

 

「そうですか。なら……」

 

 師と向き合っていたマルゼンスキーは、その言葉を重く受け止め、熟考の末に一つの提案をした。

 

「その役目、私に任せてもらえませんか?」

 

「……どういう意味?」

 

 ハナは眉をひそめる。マルゼンスキーは表情を和らげ、普段と何ら変わらない微笑みを浮かべた。

 

「要は、グラスに諦めさせればいいんでしょう? もう一度大舞台に立つことも、頂点を目指すことも諦めて……競走生活の終わりを素直に受け入れられるようになれば、それで文句はないんですよね?」

 

「それは……そうだけれど…………どうするつもり?」

 

「大したことはしません。ただ出来るだけグラスの傍にいて、あの子を支える役として振舞うだけです。そして、この先……壁にぶつかって思い悩む時が来たら、そっと導いてあげればいい。壁になんてぶつからなくても歩いていける道に」

 

 何の障害もなく歩める道――安易な代わりに平坦で、どこまで行っても何も得られず、何者にもなれない虚無の未来。

 

 自らの手で後輩をそこに導くと、マルゼンスキーは言った。

 

「私これでも、あの子のことは気に入ってるんです。事故死なんてさせたくないのは勿論ですけど、それと同じくらい、辛い思いもさせたくないと思っています。遠からず終わりが訪れるなら……その終わり方は、あの子自身が納得出来るものであってほしい」

 

 夢を諦めることの辛さを、彼女は知っていた。

 

 だからこそ、自分とよく似た後輩が歩む競技人生の果てには、苦痛のない結末があることを願ったのだ。

 

「私が寄り添うことで、与えてみせます。あの子の心に傷を残さない……優しい終わりを」

 

 

 

 

 

 

 競技場に戻ったマルゼンスキーは、後輩達が各々の練習に励む光景を眺めながら、密かに思い返していた。

 

 十一日前の校舎裏での会話から、今日に至るまでの日々を。

 

(あの時考えていたのとは、少し違う流れになったけれど……)

 

 大切な後輩の顔を思い浮かべ、内心で呟く。

 

(概ね予定通り……と言っていいかしらね。乱暴な手を使わずに、あの走法を捨てさせることが出来たんだもの……)

 

 シアトルスルーとの関係とアメリカへの帰国の話を聞いた時は、流石に驚いた。

 

 だが、同時に思った。好都合だ、と。

 

 元々、後輩を引退に追いやること自体が目的だったわけではない。事故死の危険が伴う走法を二度と使わないことを本人が受け入れられるようになれば、それでよかったのだ。

 

 シアトルスルーが指導者になってくれるなら、その点は心配ない。

 

 合理性を何より重んじる無敗の三冠馬は、非合理な走法などに頼らない本当の強さをグラスワンダーに与えてくれるだろう。

 

 そう思ったから、背中を押した。相談に乗り、アメリカに帰ることを勧めた。

 

 本人は大分戸惑った様子だったが、最後には神妙な面持ちで首を縦に振ってくれた。

 

 全ては上手くいった。

 

 自分は、自分のやるべきことをやり遂げたのだ。

 

「マルゼンスキー」

 

 名を呼びながら近寄ってきたのは、シンボリルドルフだった。

 

「先程グラスワンダーと話し込んでいたようだが……何かあったのか?」

 

「個人的な話よ。ちょっとした相談に乗ってただけ」

 

 まだ語るべき時ではないと考え、答えをはぐらかす。

 

 グラスワンダーの帰国が正式に決まるまでの間は、無用な騒ぎを起こしたくなかった。

 

「私の口からはこれ以上話せないわ。どうしても内容が知りたかったら、本人に訊いて」

 

「……そうか」

 

 シンボルドルフは腑に落ちない様子だったが、それ以上の詮索はしなかった。

 

 代わりに、全く別のことを口にする。

 

「話は変わるが、バックパサーを見なかったか?」

 

「……? 見てないけど、どうかしたの?」

 

「少し前から姿が見えないらしい。……彼女はそういうことも時々あるから気にしなくていいと、向こうの監督は言っていたが」

 

 勝手に練習を抜け出したということだろうか。

 

 奔放な人物だとは聞いていたが、そこまで非常識な振る舞いをするとは――と驚く一方で、マルゼンスキーは妙な胸騒ぎを覚えた。

 

 何か、自分にとって好ましくないことが起きるかもしれない。

 

 根拠はないが、そんな気がしてならなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 息を切らしながら客室の戸を開け、中に踏み入ったエルコンドルパサーは、直後に愕然となった。

 

 グラスワンダーの姿が、室内にない。

 

 イレネー達と別れた後、代表チームの仲間達がいる競技場に一旦戻り、グラスワンダーが一人で宿に戻ったと聞いて急いで後を追ったのだが――どういうわけか、寝泊りしている部屋の中まで来ても彼女と会うことは出来なかった。

 

(ここにはいない…………なら、どこに……?)

 

 民宿と大差ない小さな旅館だ。この部屋以外にグラスワンダーがいそうな場所は、建物内にない。

 

 気付かない内に彼女を追い越し、先に着いてしまったのだろうか。

 

 いや、その可能性は低い。競技場を出た時間を考えれば、彼女の方が先に着いていて当然の筈だ。

 

 どこかで寄り道でもしているのか、それとも――

 

「あいつなら、ついさっき出てったぜ」

 

 背後から声。驚いて振り返ると、部屋の入口にバックパサーが立っていた。

 

 何故ここにいるのかと疑問に思うエルコンドルパサーだったが、続けて放たれた言葉がその疑問を吹き飛ばす。

 

「最近調子が出ねえのを気にしてたのか、シアの奴に何か言われたのか……知らねえが、相当まいってたらしいな。死ぬほど冴えねえ面したまま宿の外に出てったぜ。ちっこい銀色のカップ持ってな」

 

 銀色のカップ。

 

 この状況でグラスワンダーが手にしていたとなれば、心当たりは一つしかない。

 

 親友の内面にあった苦悩と、それに衝き動かされた末に取る行動が容易に想像出来てしまい、胸がざわついた。

 

「まあ多分、何かつまんねえことする気なんだろうよ。あの手のクソ真面目な奴は下手に思い詰めると――」

 

「うるさいっ!」

 

 冷やかすような口振りに憤り、エルコンドルパサーは声を荒らげた。

 

 敵意を露わにした眼差しで、バックパサーを睨む。

 

「何も知らないあんたが……グラスのことを、好き勝手に言うな!」

 

 交わる視線。

 

 向けられた敵意を静かに受け止め、バックパサーは呟く。

 

「……んな場合じゃねえだろうが、今は」

 

「え……?」

 

「ついさっき、って言ったろ? あいつが出てってからまだそんなに経っちゃいねえよ。のっそり歩いてやがったしな。急いで捜せば、多分まだ間に合う」

 

 鋭く細められた両眼が、エルコンドルパサーを睨み返す。

 

「こんなとこであたしに噛みついてねえで、さっさと行けよ」

 

 その表情は、真剣だった。

 

 軽薄な嘲りなど一片も含まれていない。余分なものを全て削ぎ落とし、揺るぎない意思だけを残した鋼の表情が、奔放に生きる女の顔に刻まれていた。

 

 硬く澄んだ声音で、彼女は繰り返す。

 

「行け」

 

「――っ」

 

 エルコンドルパサーは動いた。

 

 バックパサーの脇を通り、短い廊下を瞬時に駆け抜け、階段を駆け下り玄関へと向かう。

 

 悔しいが、バックパサーの言う通りだった。

 

 今は口論している場合ではない。一秒でも早く、どこかに行ってしまったグラスワンダーを見つけなければいけないのだ。

 

 大切な何かを、失くしたままで終わらせないために。

 

 

 

 

 

 

 セクレタリアト。

 

 アメリカ競馬史上九人目の三冠馬。

 

 偉大なるマンノウォーから最強の称号を受け継いだ、第二の≪ビッグレッド≫。

 

 競馬の常識を根底から覆すようなその強さは、海を越えて世界中に知れ渡り、生きながらにして伝説となった。

 

 多くの人々の記憶に刻まれた名馬であり、誰もが認める最強馬。その背中を追いかけて競馬の世界に踏み入った者は数知れず、誰もその背中に追いつけないが故に、不滅の伝説として輝き続ける。

 

 そんな存在に、憧れた。

 

 燃え立つ炎のような髪色の少女が後続を引き離し、栄光のゴールを駆け抜ける瞬間を目にした時から――あの姿が、自分の中の理想像となった。

 

 いつか彼女のようになりたいと思い、寝る間も惜しんで身体を鍛えた。

 

 彼女のように速く走りたいと願い、記憶を頼りにその走りを真似した。

 

 憧れの≪ビッグレッド≫の背中に追いつく未来の自分を夢見て、希望に胸を膨らませた。

 

 けれど、本当は気付いていた。

 

 壮大な夢を描く一方で、心のどこかに潜む冷静な自分は、現実を知っていた。

 

 ――なれるわけがない。

 

 人々から≪ビッグレッド≫と呼ばれる存在になれたのは、歴史上二人だけ。優れた資質を持つ天才は他にも大勢いたが、その誰もが最強馬の域には届かなかった。

 

 数千人や数万人に一人、などという次元の話ではない。

 

 世界規模で見ても数十年に一人しか現れないような、奇跡に等しい才能を持って生まれた者だけが、≪ビッグレッド≫の名を継ぐ資格を得られるのだ。

 

 自分がそれである可能性は、限りなくゼロに近い。いや、ゼロと断定しても何ら問題ない。

 

 いくら幼い子供でも、そんな簡単な理屈さえ分からないほど無知ではなかった。

 

 だから――最初から、口先だけの絵空事だったのかもしれない。

 

 誰よりも強い≪ビッグレッド≫になりたいという、愚かな夢は。

 

 

 

 

 

 

 雨が降ってきた。

 

 鈍色の空の下。徐々に濡れていく街の中を、グラスワンダーは静かな足取りで進む。

 

 その手に銀色のカップを携えたまま、「事」をなすのにふさわしい場所を求めて。

 

「戻らないと……早く……」

 

 自分自身に向け、細い声で呟く。

 

「早く……終わらせて……戻らないと……」

 

 今はまだ小雨だが、これから雨脚が強まりそうだ。早く宿に戻らないと風邪をひきかねないし、自分が宿にいないことが皆に知れたら心配をかけてしまう。

 

 だからさっさと目的を遂げるため、歩みを速めなければいけないと思うのだが――自分のものではないかのように重い脚は、なかなか前に進んでくれなかった。

 

 自分自身の愚かさに、つくづく呆れ返る。

 

 過去の栄光を捨てる決意を固めたつもりだったのに、この有様だ。本心では捨てたくなくてたまらないのだろう。

 

 海を渡った先で勝ち取った、小さな栄光。

 

 自分にとってそれは、誇らしい勝利の証であり、薔薇のレイにも等しいものだったから。

 

「こんな…………こんな物……」

 

 手に持つカップに目を落とし、奥歯を噛む。

 

 こんな物を合宿に持ち込んでしまった理由は、自分でもよく分からない。

 

 衝動的、と言うべきだろうか。何故だかそうしなければいけないような気がして、衣類などと一緒に荷物の中に詰め込んでしまったのだ。

 

 もう二度と、このカップを手に取らない――そう決めたばかりだったのに。

 

「……」

 

 あの模擬レースの後、このカップを見るのが嫌になり、棚の上に飾るのをやめて見えないところに隠した。

 

 いつか寮を出ていく日まで、そのままにしておくつもりだった。

 

 それがどういうわけか、ワールドカップの日本代表に選ばれて北海道へ合宿に行くことになり、戸惑いながら荷物を用意している内に、このカップを手に取ってしまったのだ。

 

 傍から見れば、訳が分からない行動だろう。自分でも訳が分からないし、論理的な説明など全く出来ない。

 

 それでもあえて、自分なりの理屈を探すならば――

 

(お守り……だったのかな……)

 

 このカップには、不思議な何かが宿っている。それが挫折しかけた自分を立ち上がらせ、再び前に進む力を与え、明るい未来へと導いてくれる。

 

 そんな信仰心めいた考えが、頭の片隅にあったのかもしれない。

 

 だとすれば、本当に愚かしい。恥ずかしくなるほど夢想的で、自嘲する気力さえ湧いてこない。

 

 これは、ただの物体だ。杯の形をした金属の塊でしかなく、不思議な何かなど宿っていない。持ち主の運命を変える力などありはしない。

 

 その証拠に、自分は一歩も前に進めなかった。

 

 懸命に努力しても、血反吐を吐くような思いで走り続けても、ただ時間が無為に流れ去っていくばかりで、砂粒ほどの成果も得られなかった。

 

 こんな物があろうがなかろうが、何も変わりはしないのだ。

 

(……終わらせないと、いけない)

 

 降り注ぐ雨粒に打たれながら、カップを握る手に力を込める。

 

 自分は薔薇のレイを得られなかった。その挫折から目を逸らすため、異国の地で得た小さなカップを代替品にして、自分を慰めていた。

 

 結局のところ、それだけの話なのだろう。

 

 甘い妄想の中に逃避する日々は、もう終わらせなければならない。これからは現実と向き合い、地に足をつけて生きていかなければならないのだ。

 

 幼い頃に見た「憧れの人」の背中は、自分の手が届くような場所にはないのだから。

 

(私は…………≪ビッグレッド≫じゃない……)

 

 鏡を見れば分かることだ。

 

 自分はグラスワンダー。世界的には無名に近い、小さな島国の競走馬。

 

 顔立ちや体格はおろか、身に纏う気配さえも、アメリカ競馬史に燦然と輝く最強馬とは少しも似ていない。

 

 それを認めたくなくて、いつか必ず≪ビッグレッド≫のようになるのだと一人で意地を張り続けてきたが――正直に言って、もう疲れた。

 

 終わらせてしまおう。今、ここで。

 

 最早変えられない結論を頭の中で復唱し、グラスワンダーは立ち止まった。

 

 当て所なく歩き続けた末に行き着いた場所は、川に架かった橋の下。川岸から突き出た太い橋脚の手前だった。

 

 総身に緊張が走り、鼓動が早まる。

 

 目の前に立つコンクリートの柱に自分の腕力で思いきりカップを叩きつければ、どうなるかは明白だ。きっと無惨に潰れ、醜く無価値なガラクタに成り果てるだろう。

 

 それが、新たな道へと踏み出すために必要な行為。

 

 長い苦悩の果てに導き出した、愚かな夢の終わらせ方だった。

 

「……っ……くっ……」

 

 呻きつつ、右腕を振り上げる。小さなカップが異様に重く感じられ、頭上に持っていくまでに何秒もかかった。

 

 記憶が蘇る。

 

 初めてこのカップを手にした時は、嬉しかった。

 

 子供の頃から目の前に立ち塞がっていた分厚い壁を打ち破り、その先に広がる世界に踏み入ったような気がして、目の端に涙が浮かんだ。

 

 あの時の気持ちは、何年経っても忘れられない。

 

 忘れられるわけがない。

 

「……っ」

 

 考えるなと、自らに命じる。

 

 思い出に浸ってはいけない。このカップは、今ここで叩き潰さなければならない。

 

 下らないこだわりを捨て、故郷に戻って一からやり直すために、過去の自分を葬らなくてはならないのだ。

 

 だから、余計なことは考えるな。

 

 心を殺し、未練を断ち切り、この腕を振り下ろせ。

 

「――――あああああっ!」

 

 吼えるように叫び、右腕を振り下ろそうとした瞬間。

 

 後ろから伸びた誰かの手に、手首を掴まれた。

 

 驚いて振り返り、息を呑む。

 

 いつの間にか背後に立ち、こちらの手首を掴んで止めていたのは、赤いマスクの少女。

 

 長い月日を共に過ごしてきた、無二の親友だった。

 

「……間に合った」

 

 雨に濡れた姿で肩を上下させながら、エルコンドルパサーはそう言った。

 

 

 

 

 

 

「エル……」

 

 グラスワンダーは、親友の名を呼ぶ。

 

 突然のことで頭の中が真っ白になり、続く言葉が上手く出てこなかった。

 

「捜しましたよ…………結構、本気で……あちこち走り回って……」

 

 エルコンドルパサーの疲弊した顔が、微かに綻ぶ。

 

「でも……よかった…………間に合って……」

 

 取り返しのつかない行為を寸前で阻止出来たという安堵の思いが、その顔に表れていた。

 

 グラスワンダーには分からない。

 

 何故エルコンドルパサーが今ここにいるのかも。何故自分の邪魔をするのかも。

 

 何もかもが分からず、夢でも見ているのかと疑うほど困惑した。

 

「どうして……エルが、ここに……?」

 

「……聞いたんです。あの夜の……シアトルスルーとの会話を……」

 

 声を震わせながらの問いに、エルコンドルパサーは真剣な顔に戻って答える。

 

「盗み聞きするつもりは、なかったんですけど……ごめんなさい。あの時、たまたま私もあの近くにいて……話、聞いちゃいました……」

 

 告げられた事実に衝撃を受け、グラスワンダーの心臓が跳ね上がる。

 

 あの夜のやりとりを誰かに聞かれていたとは、今まで思ってもみなかった。

 

「…………それで……何しに来たんですか……?」

 

 両眼を鋭く尖らせ、親友を睨む。

 

「何のつもりで……今、私の手を……」

 

「……壊すつもりなんでしょう? それ」

 

 言葉を被せてから、エルコンドルパサーは強い眼差しをグラスワンダーに向け、自身の全てをぶつけるように言い放った。

 

「やめて」

 

 雨の中、決意を込めた声が響く。

 

「考え直して、グラス。このカップを……グラスの誇りだったものを、壊したりしないで」

 

 グラスワンダーは驚き、瞠目する。

 

 考え直せと言われたこと自体にではなく、その発言から感じ取れた意思の強さに。

 

 エルコンドルパサーとは長い間同じ部屋で暮らし、多くの言葉を交わしてきたが――これほどまでに決然と物を言われたのは、初めてのことだった。

 

 どうしたらいいか分からず、目を逸らす。

 

 そして十秒以上押し黙った後、苦い顔で呟いた。

 

「……関係ないでしょう」

 

 絞り出した声に、苛立ちと反発が滲む。

 

「これは……私の物です。どう扱ったって、私の勝手でしょう? エルには、何も関係ない」

 

「関係なくない」

 

 手首を掴んだまま、エルコンドルパサーは即答する。

 

「グラスの走りを、ずっとこの目で見てきた。グラスがこれをどれだけ大切にしてきたか……私は知ってる。薔薇のレイにも負けない価値があるって言った時のことを憶えてる」

 

 共に過ごした日々を振り返りながら、いつしか胸の内に生じていた譲れない想いを、言葉にして伝える。

 

「私にとっても、これは大切な物。壊させなんかしない。絶対に」

 

「……っ」

 

 その時グラスワンダーが覚えた感情は、何と呼ぶべきものだったのか。

 

 答えは本人にも分からない。

 

 ただ一つ言えるのは、それが受け入れ難いものだったことだ。

 

 受け入れてしまえば、決心が揺らぐ。悩み抜いた末に選んだ筈の道を、胸を張って歩めなくなってしまう。

 

 それだけは、嫌だ。

 

 ここまで来て今更、そんな馬鹿なことがあっていいわけがない。

 

「……手を、離して」

 

「離さない」

 

「いいから――離してよっ!」

 

 強引に振りほどこうとして、気付いた。

 

 こちらの手首を掴む腕に込められた力が、思っていたより何十倍も強かったことに。

 

「ぐっ……!」

 

 信じられない。

 

 筋力なら自分の方が数段上の筈だ。エルコンドルパサーがどれだけ力を込めようとも、その気になれば苦もなく振りほどける筈だ。

 

 だというのに、振りほどけない。鉄の拘束具によって固定されたかのように、カップを握る右腕が全く動かせない。

 

 それが、どうしてなのか――理解出来ない。

 

「いらないなら…………壊すくらいなら、私が貰う」

 

 肉体と精神に宿る力の全てを腕一本に注ぎ込み、グラスワンダーの剛力に抗いながら、エルコンドルパサーは言う。

 

「私が持って帰って、大切に保管する。絶対に……誰にも、このカップを傷つけさせない」

 

 誓いを立てるように、心の奥底から出た言葉をぶつける。

 

「グラス自身がこれの価値を否定しても、私は否定しない。これが特別な物だってことを……グラスが自分自身に誇れた勝利の証だってことを、死んでも忘れない」

 

 過去を捨て去ろうとする者と、それを阻止しようとする者。

 

 相反する二つの意思が衝突し、鬩ぎ合う。

 

 そしてその衝突は、既に傷だらけだったグラスワンダーの内面を瓦解させ、最も深いところに溜まっていたものを溢れ出させた。

 

 溶岩のように煮え滾る、黒い感情を。

 

「お前らが……」

 

 俯いていた顔を上げ、血走った目を親友に向ける。

 

「お前らが、間違いだって言うから……私がやってきたことは、最初から何もかも間違いだから……素直にそれを認めて、つまらない意地は捨てろって言うから……みんなで口を揃えて、馬鹿な夢は諦めろって言うから……! だから諦めることにしたんだ! お前らの言う通りにしてやったんだ! 悪いかッ!?」

 

 誰も認めてはくれなかった。

 

≪ビッグレッド≫への憧れが生んだ自分の走りは、周囲にいた者の全てから「悪癖」と見なされ、否定され続けてきた。

 

 嘲笑や罵倒が耳に入る度、心が軋んだ。

 

 走り続ける限りついて回る、辛辣な声の一つ一つに、自分を支えていたものを削り取られてきた。

 

 結果を出せばそれが変わると信じた時期もあったが、無駄だった。

 

 何も変わらなかった。

 

 あの模擬レースで一着になった後も、異国の地でGⅠのタイトルを手にした後も、自分の運命は何一つ変わらなかったのだ。

 

「今まで通りに続けるのも駄目! 何もかも捨てて一からやり直すのも駄目! ――じゃあどうすればいい!? どうしたら納得してくれるの!? 私が何をどうしたら、好き勝手にごちゃごちゃ言うのをやめてくれるの!? ねえ!?」

 

 空いていた左手でエルコンドルパサーの胸倉を掴み、自分の前に引き寄せながら怒声を浴びせる。

 

「答えてよッ! 答えろよッ! エル――」

 

「――うるさいッ!」

 

 エルコンドルパサーは叫んだ。

 

 激昂するグラスワンダーに怯むことなく、真正面から全力で睨み返す。

 

「諦めろだの捨てろだの、間違いだの……そんな下らないこと言ってた人達と、私を……この私を…………一緒にするなぁッ!」

 

 その声が響き渡った瞬間、グラスワンダーの視界が反転した。

 

 内臓が地面に向かって引っ張られるような感覚に襲われ、次いで強い衝撃が背中を打つ。

 

 突然組みついてきたエルコンドルパサーに、背中から投げ落とされた――と理解するより先に、大きく開いた口から苦鳴が洩れた。

 

「かはっ――」

 

「……」

 

 地面に仰向けになったグラスワンダーを、エルコンドルパサーは複雑な面持ちで見下ろす。

 

 それから彼女は、グラスワンダーの手から零れ落ちた銀色のカップを拾い上げ、その表面についた泥を指先で拭った。

 

「私は、言ってない」

 

 昂った気持ちを落ち着かせ、静かに告げる。

 

「今までの走りを変えろだなんて、一言も言ってない。……言うもんか。絶対に」

 

 誰が何と言おうとも、グラスワンダーの走りを否定しない。

 

 幾度も傷つき、悩み苦しみ、痛みに耐えながら懸命に歩んできたその道程を、無価値だなどとは思わない。

 

 自分自身と真剣に向き合った末に、そう誓った。

 

 だから――今、ここにいる。

 

「……アメリカに帰った方が、成功する見込みは高いのかもしれない。今までの走りを捨てて、シアトルスルーの言う通りにしていれば……アメリカの歴史に残る名馬にだってなれるのかもしれない」

 

 ありえるかもしれない未来を語り、栄光の階段を駆け上がる親友の姿を想像し――しかし揺るぎない決意で、それを拒む。

 

「でも、嫌だ」

 

 手にしたカップを、固く握り締める。

 

「大きなレースをいくつも勝って、大勢の人に讃えられても……たとえ世界一の名馬になっても…………そんなグラスは、嫌だ。グラスが自分の走りを捨てた姿なんて、私は見たくない」

 

 理屈でも何でもない、子供じみた我儘。

 

 けれど、それ故に純粋な、どこまでも貫くと決めた強い想い。

 

 エルコンドルパサーが言葉にして伝えたのは、そんな想いだった。

 

 仰向けに倒れたままのグラスワンダーは、震える指先で地面を掻き、拳を握る。

 

 その目の端に、涙が滲んだ。

 

「……私の…………私の、走りなんて……」

 

 古傷が疼くように、苦い記憶の数々が蘇る。

 

「みんなに嘲笑われて、何の意味もない悪癖だって言われるような……醜い走りで……」

 

 七日前の対抗戦。

 

 決着間際にバックパサーが見せた走りが、悪夢となって脳を蝕む。

 

「才能のある……本当にすごい人には、簡単に真似されるような……」

 

「――違う!」

 

 否定の言葉を、エルコンドルパサーは力強く放った。

 

「あの時あいつがやったのは、違う! 見た目は似てても、グラスの走りと同じなんかじゃない! 本物のあれは……グラスの本当の走りは、あんなものじゃない!」

 

 あの走法は唯一無二。

 

 世界でただ一人、グラスワンダーという競走馬だけが持つ、特別な力。

 

 たとえ動作を完璧に模倣しても、本質までは模倣出来ない。同じものには決してならない。

 

 己の全てを懸けて貫き通してきた走りが、薄っぺらな才能などに負けるわけがない。

 

「私は知ってる。大地を蹴り砕く脚を……想像を超える勢いで迫ってくる、あの火砕流みたいな脚を……! 三年前のあの日から、ずっとこの目で見てきた!」

 

 暗い水底の色に染まった少女の瞳を、炎のような信頼を宿した瞳が覗き込む。

 

「だから分かる。誰が何て言ったって、信じられるよ。……私が知ってる本物は、あんな偽物とは違うんだって」

 

 グラスワンダーは呆然とした顔になり、自身の真上にある親友の顔を見つめた。

 

 初めてだった。

 

 非合理な悪癖と蔑まれてきた走りを、自分以外の誰かに肯定されたのも。

 

 どんな天才にも真似出来ない唯一無二のものだと、嘘偽りのない信頼を込めて言い切られたのも。

 

 競馬の世界で孤独な戦いを続けてきた中で、初めての経験だった。

 

 エルコンドルパサーは身を屈め、地面に片膝をつく。そして吐息がかかるほど顔を近付け、記憶を辿りながら言葉を紡いだ。

 

「あの模擬レースの日……私に訊いたよね? 憧れの人はいますか、って」

 

 十二日前の夜。寮への帰り道で投げかけられた、一つの問い。

 

 あの時は戸惑いもあり、真剣に答えられなかった。

 

 シーバードやリボーなど、誰もが知っている名馬を挙げて、大勢いるから一人に絞れないなどと言ってしまった。

 

 今にして思えば、それが最初の過ちだったのかもしれない。

 

 自分の本当の気持ちと向き合えなかったことが、今日まで続いたすれ違いの一因になったのだとしたら――その過ちは、正さなければならない。

 

「今、言うよ。……あの時言えなかった、本当の答えを」

 

 それから僅かな間を置き、エルコンドルパサーは発声した。

 

 ほんの数十センチ先にいる、憧れの人の名を。

 

「≪怪物≫グラスワンダー」

 

 栗毛の少女が、息を呑む。

 

 長い月日を共に過ごし、頂点を目指して競い合ってきた親友の口から出た、他の誰でもない自分の名。

 

 夢も誓いも捨て去り、全てを諦めかけていた心に、それが深く沁み透る。

 

「誰にも真似出来ない走りをして、誰よりも眩しい強さを見せてくれる、私の憧れ」

 

 燃え立つ炎のような、明るい栗毛。

 

 伝説の最強馬と同じ色の髪を持って生まれた少女を、エルコンドルパサーは見つめる。

 

 三年前のあの日、表彰式に立ち会った時と同じ気持ちで。

 

「世界の誰よりも強いって信じてる、私のビッグレッド」

 

 光輝く夢を見せてくれる、憧れの人。

 

 唯一無二の力であらゆる障害を蹴り砕き、運命さえも踏み越えて突き進む絶対の強者。

 

 エルコンドルパサーの瞳に映るグラスワンダーは、そんな存在に他ならない。

 

「私は、グラスの走りが好き。グラスが競馬場で思いっきり走る姿をまた見たい。いつまでも傍で見ていたい」

 

 一滴の水が、グラスワンダーの頬を打つ。

 

 それは雨ではなく、間近にいる少女の右目から零れた滴だった。

 

「だから……諦めないで。今まで通り自分の走りを貫いて、一緒に世界に挑もうよ。グラス」

 

 言葉は、そこで終わった。

 

 伝えたいことを残さず言い切ったエルコンドルパサーは、目元を拭い、返答を待つように口を閉じる。

 

 グラスワンダーは仰向けに倒れたまま、胸に響いた親友の言葉を噛み締めた。

 

 自分の走り。

 

 誰にも真似出来ない、自分だけの強さ。

 

 薔薇のレイにも負けないと信じ続けた、小さな銀色のカップの価値。

 

 繰り返し訴えかけられたことの意味を考え、模索する。親友にこれほど強い想いを打ち明けられた自分が、これから先どうするべきかを。

 

 いや、違う。彼女はこの時、初めて自分自身の心と素直に向き合い、問いかけた。

 

 現実を受け入れるふりをしていた表面上の自分ではなく、心の奥底で捨てられないものを抱え続ける本当の自分が、どんな未来に辿り着きたいのかを。

 

 そして、長い沈黙の後――

 

「……ビッグレッド」

 

 願いを一つ、呟いた。

 

「誰よりも強いビッグレッドに、なりたいんです」

 

 細く掠れた声だったが、確かに言った。

 

「なりたかった」ではなく、「なりたい」と――遠い過去の思い出ではなく、今も歩み続けている道の先にある目標として、それを口にした。

 

 覚悟を決め、勇気を振り絞り、未来へと向かう一歩を踏み出したのだ。

 

「今度こそ、必ずなりますから……見ていてくれますか?」

 

 全身の緊張を解き、自分を信じ抜いてくれた相手に笑いかける。

 

「私の……すぐ傍で」

 

 上手く笑えたかどうかは分からない。笑顔を作り損ねて、酷く不細工な顔を見せてしまったかもしれない。

 

 それでも、想いは伝わったのだろう。

 

 エルコンドルパサーは顔を綻ばせ、安堵の息をつきながら頷いた。

 

 濡れた瞳を、雲間から射す光のように輝かせて。

 

「――うん」

 

 

 

 

 

 

 その一部始終を見ていた者が、一人。

 

 降りしきる雨の中、バックパサーは傘も差さずに佇みながら、橋の下で繰り広げられる二人のやりとりを静観していた。

 

 そして、栗毛の少女が願いを呟き、赤いマスクの少女が頷きを返した時――その唇が、淡い笑みを形作った。

 

 嘲笑でも、苦笑でもない。

 

 彼女が人知れず浮かべたそれは、何かを乗り越えて前へと踏み出した二人を祝福する、穏やかな微笑みだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三話「朝日」

 

 

「二週間、か……なかなか有意義な日々だったが、あっという間だったね」

 

 帯広空港のターミナルビル。

 

 大きなスーツケースを片手で引きながら、ドクターフェイガーはそう言った。

 

「出来ればもう一週間ほどいたかったなぁ。試してみたい新薬がまだまだたくさんあったのに帰らなきゃいけないなんて、残念でならないよ」

 

「……今更だけど、そういう薬は自分の身体で試しなよドクター。そのままぽっくり逝ってくれてもいいからさ」

 

 隣を歩くシガーが呆れ顔で言うと、白衣の犯罪者は肩を竦める。

 

「冗談じゃない。私にはアメリカの競馬界と医学界の発展に寄与するという重大な使命があるんだ。命を粗末にはしてられないよ」

 

「競馬界はともかく、医学界の方はドクターを求めてないと思うよ。ていうか医師免許持ってないでしょ、あんた」

 

「医師たる者に不可欠なのは免許や資格などではないよ、シガー。飽くなき探究心と清廉な志。苦しむ人々を救うためならどのような労苦も厭わない精神の在り方こそが、何より大事なんだ」

 

「かっこよさげに言っても駄目だよね。ヤブの犯罪者だって事実は一ミリも動かないよね。あとドクターから清廉な志とか一ミクロンも感じられないからね。苦しむ人を増やすことしかしてないからねどう見ても」

 

 三月十三日。

 

 北海道帯広市で行われた二週間の合同合宿は、この日をもって終了した。

 

 海を渡って母国に帰らねばならないアメリカ代表チームは、日本代表チームより一足先に宿を発ち、現在は搭乗手続きを済ませるため空港のターミナル内を進んでいる。

 

 日本で過ごした日々の感想は各々で違ったが、良くも悪くも個人主義な彼女達はそれで揉めることもなく、今日もそれなりに和やかだった。

 

「医学の発展に犠牲はつきものなのだよ。……とまあ、それはそれとして……」

 

 ドクターフェイガーの視線は、シガーの隣を歩く三つ編みの女に移る。

 

「昨日の昼頃、むこうの芦毛の子と何やら話し込んでいたようだが……あれは何だったんだい? 先輩」

 

「別に大したことではない」

 

 投げかけられた問いに、ラウンドテーブルは答えた。

 

「日本を去る前に教授してほしいことがあると言われたので、それに応えていただけの話だ」

 

「へぇ……ラウンド先輩に教えを乞うとは、なかなか奇特な子だ。知り合いの精神科医を紹介してあげたいね」

 

「同感。控えめに言って正気じゃないよね」

 

「貴殿らは私を何だと思っているのだ?」

 

 何だと思っていると訊かれれば、阿呆だと思っているとしか答えようがないが――それは口に出さず、ドクターフェイガーは質問を続けた。

 

「で、具体的には何を教えてあげたんだい? 剣に闘気を纏わせて斬りかかる技かな?」

 

「それも教授しようとしたが、残念ながら断られてしまった。彼女に教えた……というより助言を与えたのは、もっと基礎的なことだ」

 

 ラウンドテーブルは歴戦の古豪。

 

 競馬に関する知識と経験において、彼女の右に出る者はいない。

 

「一言で表すなら……無駄なく負ける方法、だな」

 

「……?」

 

 いつにも増して意味不明な発言に、ドクターフェイガーとシガーは揃って首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 アメリカ代表チームを結成する前から師弟関係にあった二人――ターナーとシアトルスルーは、ドクターフェイガー達の数メートル後ろを並んで歩いていた。

 

「一応聞くが……どうだったよ? 今回の合宿は」

 

「悪くはなかったと思います。他では味わえない貴重な体験の連続でしたね。……重種馬の突進を真正面から受けろと言われた時は、流石に少々戸惑いましたが」

 

「……うん。あれはねえわと俺も思ったね。特にお前はああいうの向きじゃねえからマジで心配しちまったね。練習にかこつけてお前らを潰す作戦じゃねえかと疑ったりもしたからね正直」

 

「怪我をしないよう適度に力を抜いていましたから、ご心配には及びません。それに……」

 

 真剣な眼差しを僅かに覗かせ、シアトルスルーは続けた。

 

「決して無益ではありませんでした。二週間の合同練習を通じて、日本代表の人達の能力と特徴は概ね把握出来ましたから」

 

「敵を知るいい機会だった、ってことか。……お前を脅かすほどの奴はいなかったと思うが、知る必要あったかね?」

 

「何が起こるか分からないのが競馬ですから。対戦相手の情報は可能な限り頭に入れておくべきです」

 

「本当、隙がねえな。お前は」

 

 そこが一番良いとこだけどよ――と、ターナーは内心で付け加える。

 

 競馬大国アメリカの頂点に立つ王者でありながら、シアトルスルーの言動には驕りや緩みが一切ない。

 

 格下と侮った相手に足をすくわれるような愚を、彼女は決して犯さないのだ。

 

 だからこそ、誰よりも強い。

 

 いかなる相手にも付け入る隙を見せない三冠馬は、これから先も輝かしい勝利を積み重ね、世界最強の座へと上り詰めるだろう。

 

 ターナーは、そう信じている。

 

「しかしまあ、何つうか……残念だったな。幼馴染のことは」

 

 話題を変えると、平静を保っていたシアトルスルーの表情が、僅かな強張りを帯びた。

 

「あの嬢ちゃん、傍から見ても迷ってる感じだったからよ。俺はてっきり――」

 

「終わったことです」

 

 未練を断つように、シアトルスルーは言い切った。

 

「あの子は私と真剣に向き合い、自らの考えを告げました。それは私が望んでいたものとは違いましたが……是非はどうあれ、本気で悩み抜いた末の結論なら文句を言う気にはなれません。本人の意思を尊重するしかないと思っています」

 

「……お前がそう言うなら、いいんだけどよ」

 

 その呟きを最後に、ターナーは口を閉ざす。

 

 シアトルスルーは前を向いたまま、昨夜の幼馴染とのやりとりを思い返した。

 

 

 

 

 

 

「断る……?」

 

「はい。アメリカへの帰国の件、お断りさせていただきます」

 

 昨夜十時。旅館の裏手で二度目の話し合いをした際、グラスワンダーはそう言った。

 

 シアトルスルーにとってそれは、意外な返答だった。

 

「……理由を、聞かせてもらえる?」

 

 彼女が置かれた状況。引退までに残された年月。ワールドカップにおける日本代表チームの勝算の低さ。

 

 それらの事情を踏まえれば、母国アメリカに帰る道を選ぶ見込みは高かった。

 

 実際、ここ数日の陰鬱な様子を見れば、彼女の心がそちらに傾いていることは明白だった。

 

 故に理解し難く、問わずにはいられなかった。

 

 自分の誘いを蹴り小さな島国に残る道を選んだ、その理由を。

 

「思い出した……いえ、思い出させてもらったからです。自分自身の原点を」

 

「原点?」

 

「ビッグレッド」

 

 澄んだ声が、一つの名を紡いだ。

 

「誰よりも強いビッグレッドになりたい。それが子供の頃、この胸に抱いた最初の夢です」

 

 その夢をシアトルスルーが聞くのは、これで二度目。

 

 けれど一度目の時とは、言葉に込められた重みが違っていた。

 

「それを叶えるためなら、私は命を懸けられる。逆に言えば、そのためにしか命を懸けられない。全てを振り絞った走りが出来ない」

 

 青い瞳が、シアトルスルーを見据える。

 

 同じ場所から走り出し、異なる道を進んでいった幼馴染に、鋼の決意で別れを告げる。

 

「だから……どんなに優れた手腕があっても、私の夢を否定するあなたとは一緒にやっていけない。それが理由です」

 

 それから続いた沈黙は、数十秒に及んだ。

 

 静かに視線を交えたまま、交わることのない意思を瞳に宿す二人。

 

 やがて、諦めの滲む面持ちで溜息をつき、シアトルスルーは呟いた。

 

「……あくまで、自分の走りにこだわるのね」

 

 花火のように儚い強さしか持てない、愚かな走り。

 

 かつて彼女は、グラスワンダーの走法を冷静に分析した上で、そう断じた。

 

 二年以上の時を経た今も、その見解は変わらない。

 

「あなたは、セクレタリアトじゃない」

 

 現実を教えるため、感情を排した声で告げる。

 

「あの人とは体格も才能の質も違う。憧れを募らせて形だけ真似たところで、あの人のようにはなれないわ。絶対に」

 

 最強馬セクレタリアトに憧れ、その走りを真似ようとした者など、世界を見渡せば数えきれないほどいるだろう。

 

 にもかかわらず、セクレタリアトの後を継ぐ第三の≪ビッグレッド≫は現れていない。

 

 当然だ。≪ビッグレッド≫は最強の中の最強。奇跡のような才能を持って生まれ、人智を超えた強さを見せ続けた者だけがそう呼ばれるのであり、なりたいという想いだけでなれるようなものではない。

 

 その現実を受け入れられなかった者は、時間と才能を空費するだけで競走生活を終える。

 

 シアトルスルーがグラスワンダーの生き方を否定し、正しい道に立ち返らせようとしたのは、そうした末路から救い出すために他ならない。

 

「三冠馬になれる。競馬界の頂点に立てる」

 

 独り言のように呟いた後、グラスワンダーは問いかける。

 

「競走馬になる前の……まだ何者でもなかった頃のあなたに、そう言ってくれた人が一人でもいましたか?」

 

 それに対する返答は、シアトルスルーの口から出てこなかった。

 

 一瞬の硬直を見せたその顔を、鋭い眼差しが射抜く。

 

「周囲の冷たい声に屈さず、夢を諦めず、自分の可能性を信じて走り続けたからこそ今がある。……違いますか? シアトル姉さん」

 

 無敗の三冠馬。競馬界に君臨する絶対王者。

 

 シアトルスルーとて、最初からそのような栄光を背負っていたわけではない。

 

 命を懸けて戦い、勝ち取ってきたのだ。幼き日に抱いた夢を支えにして、過酷な現実に立ち向かい、誰もが無理だと言ったことを成し遂げてきた。

 

 他の名馬達も同じだろう。競馬の歴史に名を刻んだ者は、一人の例外もなく茨の道を越えてきた筈だ。

 

 だからこそ、多くの者が憧れる。

 

 遥か遠くにある名馬の背中を目指し、その隣に並ぶ日を夢見て走り出す。

 

「私も同じです。自分の可能性に蓋をしたままで終わる道なんて選ばない。あの日のベルモントパークで抱いた最初の夢は、死んでも捨てない」

 

 幼馴染としてではなく、最強の座を争う相手として無敗の三冠馬と向き合い、真正面から言い放つ。

 

「私の夢が空虚な絵空事でないことを、これから先の私の走りで、必ず証明してみせる」

 

 その瞳に映るのは、シアトルスルーの姿だけではなかった。

 

 世界各国の名だたる強豪。世界の頂への険しい道程。自身に課せられた制約。行き詰まった現状。

 

 有形無形を問わず、立ちはだかる数多の障害を一つ残らず視界に収め、その全てに臆さず挑む闘志を燃やしていた。

 

「アメリカの頂点に立つあなたに、世界の強大な名馬達に、自分自身の運命に――この二本の脚で、全てに勝ってみせる」

 

 

 

 

 

 

 いったい何があったというのか。

 

 あの時のグラスワンダーは、それ以前とは明らかに違っていた。

 

 ばらばらに散らばっていた破片が寄り集まり、元の形より強固になって蘇ったような――そんなありえない現象を見たような気分にさせられたのだ。

 

 そのことについて考えを巡らせたシアトルスルーは、ふとあることを思い出し、意識を過去から現在へと戻した。

 

 数メートル先を歩く仲間達。その内の一人に、目の焦点を合わせる。

 

「そういやパサー、聞いた? 誘拐事件の後行方不明になってたシャーガーが最近見つかったって話」

 

「聞いてねえけど、何度目だよそのガセネタ。もう飽きたっての、その手のやつは」

 

「いやでも、今回はマジっぽいよ。ほらこの記事に写真載ってるし、夏のキングジョージでの復帰を目指してリハビリ中って書いてある」

 

「あー……確かに本人に似ちゃいるが……また他人の空似ってオチじゃねえの? つーか本人だったとしても、現役復帰は無理だろ流石に。何年競馬から離れてたんだよって話だ」

 

「分かんないよ? 常識じゃ測れないとこかるからね、あの人。案外あっさり復帰して、ワールドカップにも出てくるかも」

 

「何? お前シャーガーとやりてえの?」

 

「全盛期に近い状態で出てきてくれるなら、ね。蹴散らし甲斐がある相手だと思うよ。パサーはどうなの?」

 

「あんまやり合いたかねえな。ああいうやたらぶっちぎるタイプはちと苦手だ。勝てねえとは言わねえけどよ」

 

 シガーと親しげに雑談するバックパサー。その後ろ姿を見据えたまま、真剣な面持ちで呼びかける。

 

「パサー」

 

 赤黒のテンガロンハットを被った頭が回り、背後を向く。

 

 シアトルスルーとバックパサーの視線が、静かに交わった。

 

 

 

 

 

 

 帯広競馬場の駐車場。

 

 二週間前重種馬の五人組に迎えられたその場所で、日本代表チームの面々は別れの挨拶を済ませていた。

 

「二週間もこの子達の練習に付き合ってくれてありがとね、皆さん。おかげでいい経験が積めたわ」

 

 リコがそう言うと、立ち並ぶ重種馬達は笑顔で応じた。

 

「礼を言うのはこっちだよ。短い間だったけど、楽しくてたまらなかったからさ」

 

「もうちっと若けりゃいくらだって付き合えるんだけどね。……ま、しゃあないわな。ワールドカップ楽しみにしてるよ」

 

「応援してっからさ、アメリカなんかに負けんじゃないよ。絶対優勝しな」

 

 仲間達が別れの言葉を口にする中、イレネーはグラスワンダーに目を向ける。

 

 彼女は気付いていた。栗毛の少女が纏う気配から、陰鬱な翳りが消えていることに。

 

 柄にもないお節介まで焼いてしまったが、もう心配はなさそうだ――と、内心で胸を撫で下ろす。

 

 あの後、赤いマスクの少女との間で何があったかは知らない。

 

 けれど様子を見る限り、何か一つ大きな壁を越えたのは確かだろう。世界の頂点を目指す仲間達の中に違和感なく溶け込み、自信と覇気に溢れた表情を見せている。

 

 あの子が立ち直ってくれたなら、もう思い残すことはない。安心してこの合宿の日々を終えられる。

 

 寂しさを覚えないと言えば嘘になってしまうが、致し方ないことだ。

 

 元々、束の間の夢みたいなもの。とうの昔に競馬場から去っていた自分達が、親子ほども年の離れた少女達の練習相手として呼び集められていただけ。役目を終えたなら元の日常に帰るだけだ。

 

 ここはいい大人として、湿っぽい空気は作らず綺麗に別れるとしよう。

 

 そう思い、何か気の利いた台詞を口にしようとした矢先。

 

 視線の先にいた少女が、すっと前に進み出てきた。

 

「最後に、一つ……イレネーさんにお願いがあります」

 

 イレネーの顔を見上げ、どこか楽しげな笑みを浮かべながら、グラスワンダーは言った。

 

 その場の全員を呆然とさせる、あまりにも突飛な願いを。

 

「私と勝負して下さい。今、ここで」

 

「え……?」

 

 頭の中が真っ白になり、かつてないほどの間抜け面を晒すイレネー。同様に、言葉を失って固まる他の面々。

 

 そんな周囲の反応に構わず、グラスワンダーは一方的に話を続けた。

 

「この合宿の間、イレネーさんには本当にお世話になりました。でも私は、まだそのご恩に報いていません。イレネーさんの気持ちに応えられていません」

 

 イレネーの黒い瞳を、闘志を秘めた青い瞳が覗き込む。

 

「あの対抗戦の時、言ってましたよね? 中央のGⅠ馬と本気の勝負をするのが夢だった、って」

 

「――っ」

 

「叶えさせて下さい。イレネーさんの夢を。――今度こそ、完全な形で」

 

 イレネーの夢。

 

 アメリカ代表チームとの対抗戦の日、競技場の観覧席で打ち明けた想い。

 

 テレビ画面越しに観るだけの存在だった中央競馬の強豪と、互いに死力を尽くした勝負がしてみたいという、決して叶わない望み。

 

 それを今から叶えると、栗毛の少女は言った。

 

 世話になった恩返しとして、もう一度だけ相手をさせてほしいと、自らの意思を表明したのだ。

 

「――っていうのは、実は建前です」

 

「は?」

 

 意表を突く発言に、イレネーは再度呆然となる。

 

 グラスワンダーは肩を竦め、普段あまり見せないおどけた表情を見せた。

 

「ちょっと気取ってそれっぽい理屈を並べましたけど、要はただリベンジがしたいだけです。負けっぱなしのまま東京に帰るのは、正直気分が悪いですから」

 

 そんなことを言いながらも、瞳の奥にある輝きは変わらなかった。

 

 強く、激しく、狂おしいほど熱く、再戦を望む意思を滾らせ続けていた。

 

 あるいはそれが、イレネーが初めて直視した、≪怪物≫グラスワンダーの本当の眼差しだったのかもしれない。

 

「誰にも負けたくないんです。世界の頂点を、本気で目指してますから」

 

 臆面もなく放たれたその言葉は、どんな綺麗事より何万倍も強く、イレネーの胸を打った。

 

 いや、火をつけたと言うべきだろうか。

 

「は……ははは……あははははっ……」

 

 笑う。間抜けに開いていた口から、妙な笑いが溢れ出てくる。

 

「……ったく……帰り際になって、急に言うんじゃねえよ。……これが最後だと思って、いい大人の顔して見送ろうとしてたってのにさ……」

 

 本当にまいった。

 

 一仕事終えたような清々しい気分に浸ったまま、帯広を去る少女達を穏やかに見送るつもりだったのに――これではとても、そんなお行儀の良い真似は出来そうにない。

 

 血が滾る。体中を流れる競走馬の血が、戦いを求めて熱く滾る。

 

 もう抑えられない。

 

 自分の中の最強馬だった≪怪物≫から、こんなにも真っ直ぐな挑戦をされて、胸の高鳴りを抑えられるわけがない。

 

「――いいよ。やろう」

 

 挑戦を受け入れ、不敵に笑う。

 

 意地の張り合いが何より好きだった若い頃に戻り、猛々しく言い放つ。

 

「言っとくが、この前の勝負だけであたしの力を知った気になってんじゃねえぞ! ばんえい競馬の本当の恐ろしさを思い知らせてやっから、覚悟しな!」

 

「望むところです」

 

 そうして、二度目の対決が幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

「あの対抗戦の時……どうして、グラスの真似をしたの?」

 

 振り返ったバックパサーに、シアトルスルーはそう問いかけた。

 

「あんなことをしなくても、あなたならエルコンドルパサーを降すくらい簡単に出来た筈よ」

 

 十一日前の対抗戦の際、バックパサーはグラスワンダーの「叩きつける走法」を模倣した走りでエルコンドルパサーに完勝した。

 

 それを見た時から、シアトルスルーは密かに疑問を抱いていた。

 

 地力だけで圧倒出来る相手との勝負で、あんな真似事をする必要があったのかと。

 

「ああ、あれか……」

 

 バックパサーは笑う。

 

「ノリだよノリ。単に面白えかと思ってやっただけさ。あたしのやることにいちいち深い意味があるかよ」

 

 彼女の普段の言動を踏まえれば、不自然ではないように聞こえる返答。

 

 しかしシアトルスルーは、それで納得しなかった。

 

「意味があると思うから、訊いているのよ」

 

 思い返せば、あの対抗戦が始まる前からバックパサーの様子はおかしかった。

 

 エルコンドルパサーへの度重なる挑発も、リレーの最終走者を買って出たことも、長い付き合いの身からすれば違和感を覚える振る舞いだった。

 

 まるで、全てがあの真似事を披露するための布石だったような――そんな風にさえ思えてしまうのだ。

 

「何か、伝えたかったことでもあるの? あの子達に」

 

 核心を突くように問うと、バックパサーの顔から笑みが消えた。

 

「別に」

 

 首を回し、再び前を向く。

 

「前も言ったろ? ごちゃごちゃ考えながら走るのはもうやめたんだよ。かったりいから」

 

 確かにそれは、以前から何度も口にしてきたことだった。

 

 人々の理想像であった自分を、バックパサーは捨て去った。周囲の目を気にするのをやめ、自分の生き方を貫くと決めたのだ。

 

 誰かと同じように。

 

「まあ……それでもあえて、理由みてえなのを取って付けるなら……」

 

 背を向けたまま、抑揚のない声で言う。

 

「ワールドカップであいつらと勝負したら面白そうだ、って思ったくらいだ。他は何もねえよ」

 

「……だから挑発して、その気にさせたと?」

 

 その問いには答えず、もう語ることはないとばかりにバックパサーは歩を進めていく。

 

 シアトルスルーは溜息をついた。

 

 今ので本心が聞けたとは思わない――が、これでも一応、それなりに長い付き合いだ。

 

 あの時何を考えていたかは、大体察しがついた。

 

「そうね…………ええ、そういう人だったわね。あなたは」

 

 バックパサーを代表チームに入れたのは、もしかしたら失敗だったのかもしれない。

 

 良くも悪くも奔放な彼女をグラスワンダー達と引き合わせたらどうなるかを、全く想定していなかった。

 

 そう悔やみ、己の不明を恥じた後、シアトルスルーは立ち止まった。

 

 胸元のペンダントに右手を伸ばし、吊り下げられた金貨を掌に載せ、視線を落とす。

 

 光を浴びて煌めく金貨は、どこか太陽に似ていた。

 

 

 

 

 

 

≪怪物≫グラスワンダー。

 

 海の彼方からやってきた、規格外の競走馬。

 

 大地を蹴り砕き土煙を巻き上げるその走りは、日本の競馬界に衝撃を与え、多くの者を魅了した。

 

 イレネーもその一人だ。

 

 三年前の冬、中山競馬場の坂を駆け上がる姿を目にした時から、彼女の中でグラスワンダーは忘れられない存在となった。

 

 あの栗毛の怪物を、間近で見たい。

 

 自分が見てきた中で一番強く惹きつけられた競走馬と、互いの全力を絞り尽くした勝負がしたい。

 

 決して叶わないと知りながら、そんな願いを胸に抱いた。最強と信じる相手に自分の全てをぶつける瞬間を、密かに夢見ながら生きてきた。

 

 そしてこの日、その夢は叶えられた。

 

 彼女の心に一片の悔いも残さないほど、完全な形で。

 

「はぁっ、はぁっ……ぐぅっ……はぁっ……」

 

 帯広競馬場の直線コースの端。

 

 レースを終えたイレネーは、橇と繋がったまま砂地の上に座り込み、荒い呼吸を繰り返していた。

 

「何だよ……ちくしょう……ふざけやがって……」

 

 悪態をつきながら、顔を上げる。

 

 その視線の先には、自分より先にゴール板の前を通過した少女の姿があった。

 

「この前と、全然違うじゃねえかよ…………バケモンが……!」

 

 今しがた決着した勝負――グラスワンダーとの一対一の模擬レースに、イレネーは持てる力の全てを注いだ。

 

 筋力や持久力だけでなく、知識や経験、精神力に至るまで、現役時代に培ったものを一滴残らず絞り尽くし、勝利だけを求めて二百メートルの直線を駆け抜けた。その一戦で彼女が見せた実力は、全盛期のそれをも超えていたかもしれない。

 

 にもかかわらず、彼女は勝利を得られなかった。

 

 自身とは比較にならないほど小さな身体の、重種馬でさえない栗毛の少女に、スタートからゴールまで圧倒され続けたのだ。

 

 スタンドで観戦していた者達にとっても、それは信じ難い光景だったのだろう。

 

 イレネーの仲間達も、日本代表チームの面々も、シンボリルドルフもマルゼンスキーもリコも、皆一様に言葉を失い、グラスワンダーの異常な強さに見入っていた。

 

 例外は、ただ一人。

 

 エルコンドルパサーだけは口許に淡い笑みを浮かべ、再戦に勝利した親友の姿を穏やかに見つめていた。

 

 驚くべきことなど何もない、当然の結果を目にしたように。

 

「ばんえい競馬の模擬戦は、これで二度目……前回のレースで橇の重さには慣れましたし、途中で息を入れることの重要さも学びました」

 

 座り込んでいるイレネーに顔を向け、グラスワンダーは言う。

 

 疲弊した様子ではあるものの、その表情は晴れ晴れとしていた。

 

「そして何より、失くしていたものを取り戻せましたから……あの時とは違います」

 

 不調に陥り、無気力な走りを続けていた頃の面影は、最早そこにない。

 

 東の空から射す朝日に照らされ、栗色の髪をほのかに煌めかせるその姿は、名画の中に描かれた人物のように美しかった。

 

 不思議な感慨を覚えると同時に、イレネーは悟る。

 

 そうだ。これだ。

 

 自分は、このグラスワンダーに――記憶の中で黄金色に輝き続けていた最強のサラブレッドに、ずっと逢いたかったのだ。

 

「それだけで、こんなに変わっちまうかよ…………本当、馬鹿げてるよ……あんたは」

 

 相手の顔を見上げたまま、頬を緩める。

 

 全身全霊を賭けた戦いに敗れたばかりだというのに、何故か悔しさはなく、青空のように澄み切った気持ちが胸の内を満たしていた。

 

 こんなにも心地良い敗北は、生まれて初めてかもしれない。

 

「行くんだろ? ワールドカップ」

 

「はい。みんなと一緒に、世界に挑みます」

 

「あのペンダントの奴ともやりあって……勝つ気かい?」

 

「ええ、もちろん」

 

 世界各国の名馬が集い、最強の座を巡って争う舞台。

 

 目の前の少女がそれに挑むことを、イレネーは無謀と思わない。競馬の常識を覆す≪怪物≫の底知れない強さは、今しがた身をもって味わったばかりだ。

 

 砂粒ほどの疑いも抱かず、心の底から信じられる。

 

 自分の全てを打ち破ったあの両脚には、夢を現実に変える力が宿っているのだと。

 

「世界の奴らに見せつけてやりな。あんたの走りを」

 

 朝日の眩しさに目を細めながら、娘の旅立ちを見送る母親のような心境で告げる。

 

「あんたなら、きっとなれるよ。……みんなの記憶に残る、一番強い競走馬に」

 

 グラスワンダーは微笑み、頷く。

 

 曇りが晴れた空色の瞳に、太陽の輝きを灯して。

 

「――はい」

 

 

 

 

 

 

 細い鎖が通された、一枚の金貨。

 

 シアトルスルーがいついかなる時も首にかけているそれは、実のところ借り物だ。

 

 競走馬になる前――まだ何者でもなく、何も持たなかった頃。一度だけ会った相手から渡された、大切な品。

 

 それが彼女の道標となり、運命を変えた。

 

「選ばなかった未来は、いつだって輝いて見える」

 

 掌に載せた金貨を見つめながら、詩を詠むように呟く。

 

「その輝きに負けたくないから、私は走る。自分の意思で選んだ未来の価値を、何があっても信じ抜けるように」

 

 記憶を辿り、束の間だけ過去に戻る。

 

 自分にとっての出発点であり、終着点。生涯をかけて追い駆け続ける存在。

 

 あの時目の前に立っていた最強の競走馬は、暗闇を消し去る太陽のように眩しく見えた。

 

「……あなたの言葉でしたね。ビッグレッド」

 

 目を瞑り、記憶の中にいる相手との対話を終えた後、無敗の三冠馬は再び歩き出した。

 

 幼馴染が選んだ道とは違う、自分の道を進むために。

 

 

 

 

 

 

「何でばんえい馬相手にばんえい競馬で勝てるのよ……マジ引くわー……」

 

「最初にやれって言ったのはリコさんじゃないですか……」

 

「やれって言っただけで、勝てとまでは言ってないわよ。ていうか勝てると思ってやらせてたわけじゃないし」

 

 東京の羽田空港に向かう飛行機の中。

 

 グラスワンダーとリコの二人は窓際の座席に並んで座りながら、そんな会話をしていた。

 

「まあ、勝てるならそれに越したことないけどさ……あんな超絶パワーを隠し持ってるなら最初から出しなさいよね、もう……」

 

「すみません……ちょっと不調が続いてて……」

 

「色々あって気分が乗らなかったから力が出なかったってんでしょ? 真面目なふりして相当な気分屋よね、グラスちゃんは」

 

「うっ……」

 

「今回は海のように広い心で許容してあげてたけど、次にクソうざいヘタレ方したら鉄製の棘の上に指一本で逆立ちする練習とかさせるからね。ガチで」

 

「その練習はあの……全力で拒否したいので……そうならないよう頑張ります……」

 

 どこかの残念な女と同じ奇行を強要されてはたまらない。

 

 不調に陥るのはこれで最後にしようと、内心で固く誓うグラスワンダーだった。

 

 合宿が終わった今、ワールドカップ本番まで残された時間は八ヶ月弱。もう一日たりとも無駄には出来ない。

 

「それにしても……」

 

 グラスワンダーの横顔を、リコはじっと見つめる。

 

「単に調子が戻ったってだけじゃなくて……何かこう、雰囲気みたいなのが変わった気がするわね。……何かあったの?」

 

 興味深げに問われ、グラスワンダーは四日前の出来事を思い返す。

 

 どう答えるべきかをしばし考えた後、彼女が口にしたのは――

 

「秘密です」

 

 そんな、冗談めかした返答だった。

 

「あの日私達の間にあったことは、この胸の中だけにしまっておきたいので」

 

「何そのエロい言い回し」

 

「……どこをどう聞いたらそういう解釈になるんですか?」

 

 呆れながら半開きの目を向けると、リコはおかしそうに笑った。

 

「黙秘しておきたいならそこは別にいいけどね……分かってるでしょうけど、本当に大変なのはこれからよ。グラスちゃん」

 

 声音の中に、真剣な響きが混じる。

 

「まだあなたの目の前には、大きな問題が立ち塞がってる。それをどうにかしない限り、とても世界と戦うどころじゃないわね」

 

 その言葉の意味を、グラスワンダーは即座に理解した。

 

 自らの両脚に嵌められた、制約という名の重い枷。それを外して自由の身にならなければ、世界の頂点は到底目指せない。

 

「……ええ、分かっています。でも、心配しないで下さい」

 

 立ち塞がる壁を蹴り砕くつもりで、決意を明かす。

 

「解決策はもう考えてあります。後はそれを実行に移すだけ……」

 

 枷を外すにはどうすればいいか。

 

 自分が何を示し、何を成し遂げれば、二度と「叩きつける走法」を使わせないという師の決定を覆せるか。

 

 あの雨の日から今日まで、そのことだけを懸命に考え続け、ついに答えを見出した。

 

 もう迷わない。

 

 どんな困難にも真正面から立ち向かい、自分自身の走りを取り戻してみせる。

 

「必ずやり遂げて、胸を張って世界に挑めるようにしますから……傍で見ていて下さい。監督」

 

 強い自負と覚悟が紡ぐ、誓いの言葉。

 

 それを聞いたリコは、安心した様子で頬を緩め――

 

「てな具合に、何やかんや色々あった後に一皮剥けた気分で調子こきまくってるグラスちゃんなのでした……と」

 

 遠慮なく小馬鹿にした。

 

 グラスワンダーはむっとして言い返す。

 

「茶化さないでほしいんですけど?」

 

「茶化してないわよー。見たままを言ってるだけ」

 

「……前言を撤回してもいいですか? 傍で見ていてくれなくて結構ですので、ご自分の国に帰って下さい」

 

 そんな彼女達を乗せたまま、飛行機は大空を横切っていった。

 

 

 

 

 

 

 同時刻。

 

 東京都府中市、全日本サラブレッドトレーニングセンター学園。

 

 練習場の芝コースで行われた「勝負」を見届けたチーム・リギルの面々は、酷く青褪めた顔を並べていた。

 

「マジかよ……」

 

「芝二千メートルのマッチレースで……エアグルーヴが負けた……」

 

「それも……五馬身差とは……」

 

 彼女らの視線の先には、勝負が決着した後の光景があった。

 

 疲弊しきった様子で芝生の上に膝をつき、項垂れる敗者。

 

 息を乱しながらも落ち着き払った様子で佇み、晴れ渡った空を見上げる勝者。

 

 そんな対照的な二人の姿が、周回コースのゴール地点にあったのだ。

 

「悔しいが……完敗だ」

 

 敗北を喫したエアグルーヴは、地面を見つめて呟く。

 

「最後まで、お前の影さえ踏めなかった……まさかお前が、ここまで強くなっていたとは……」

 

 長らく疎遠になっていた知り合いから、今朝になり突然勝負を申し込まれた。

 

 戸惑いを覚えつつもその挑戦を受け入れ、練習場の芝コースで二千メートルのマッチレースを行い――終始圧倒されたまま敗れた。

 

 信じ難いことだった。

 

 相手の少女は名の知れた実力者だが、ここまで桁外れの強さではなかった筈だ。ほんの少し前までは。

 

「故障明けとはとても思えない。いったいどんなトレーニングを……」

 

「話にならないよ。こんな走りじゃ」

 

 敗者の言葉を遮り、勝者は言った。

 

「スタート直後の出脚が遅い。道中のペース管理が甘い。スパートしてから最高速に達するまでが長い。……まだまだ課題だらけだ。うんざりするくらいにね」

 

 学園屈指の強豪に完勝しておきながら、驕りも喜びも一切見せず、自身の走りを冷淡に酷評する。

 

 その厳しさは、ある種の異常性をエアグルーヴに感じさせた。

 

「もう一段階…………いや……全ての能力をもう二段階は上げておかないと、とても通用しないよ。世界のトップクラスには」

 

「……海外にでも行くのか?」

 

「行くよ。今年の十一月」

 

 空を見上げたまま、少女は答える。

 

 薄い唇が紡ぐ澄んだ声音に、鉄塊のような決意を乗せて。

 

「ドバイで開催されるワールドカップに出て、世界の頂点を獲る」

 

 エアグルーヴは耳を疑った。

 

 いや、相手の正気を疑ったと言うべきだろうか。

 

 何かの冗談かと一瞬思ったが、目の前に立つ少女にふざけた様子は微塵もなく――発言の意図が読み取れずに困惑した。

 

「い、いや……しかし、あれは……」

 

「もうメンバーは決まってる、って言いたいんだろ? 知ってるよ」

 

 少女は平然と返し、振り返る。

 

 明るい栗毛が風に舞い、苛烈な光を溜めた双眸が露わとなる。

 

「今度のワールドカップに送り出す代表メンバー五人は、内々で既に決まっている。私が入れる枠なんて用意されていない。だから……」

 

 後に伝説となる最強世代、最後の一人。

 

 前年の最優秀短距離馬エアジハードは、静かに決意を口にした。

 

 行く手を阻む分厚い壁を、自らの脚で蹴り砕くかのように。

 

「奪い取るんだよ。実力でね」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四話「小さな世界の一歩先」

 

 

 上には上がいる。

 

 勝負の世界に生きる者なら、誰もが遅かれ早かれ思い知ることだろう。

 

 どれだけ優れた才能を持って生まれ、不断の努力でそれを磨き上げようとも、いつかは自分を遥かに上回る相手と出会う。

 

 無惨に敗れ、誇りと自信を粉微塵に砕かれる日がやって来る。

 

 例外がいるとすれば、それは最強の存在となる宿命を背負って生まれてきた、この世に二人といない真の天才だけだろう。

 

 若き日のリコは、自分がその「例外」だと信じていた。

 

 本人だけでなく周囲にいた者達も、そう信じて疑わなかった。

 

 勝利と栄光に彩られた輝かしい日々が、いつまでも続くと思っていたのだ。

 

「しっかし、この前のあいつは傑作でしたよねぇ。レース前あんだけ粋がってたくせに、リコさんにちぎられた途端泣きそうな面しやがってよ。ハハハハッ、思い出す度に笑っちまうわ」

 

「ハハハッ、まあそう言ってやんなよ。あの馬鹿もあれで、身の程ってもんがよーく分かったろ。てめえとリコさんじゃ才能の桁が違うってことにな」

 

「でもやっぱ、リコさんの強さは別次元っスよね。今じゃ年上のGⅠ馬達だってまるで相手にならねえんだもん」

 

「当たり前じゃん、リコは四冠馬なんだから。リコより強い奴なんてこの国にはいないってば。ね? リコ」

 

「この国どころか、大陸中見渡してもいないっしょ。アルゼンチンで最強ってことは、南米で最強ってことなんだからさ」

 

 その日、リコは数人の取り巻きを従えて街中を練り歩きながら、自身に向けられる讃辞をいつものように聞いていた。

 

 喩えるなら、光に群がる蛾だろうか。彼女が競走馬として栄光の階段を上る内、その威を借りようとする者やおこぼれにあずかろうとする者が、次々と寄り集まるようになっていた。

 

 そんな連中を卑しい奴らだと見下してはいたが、正直なところ悪い気はしなかった。

 

 ポージャ・デ・ポトリロス。

 

 ジョッキークラブ大賞。

 

 ナシオナル大賞。

 

 カルロスペレグリーニ大賞。

 

 アルゼンチン四冠と呼ばれるそれらを完全制覇した、史上四人目の四冠馬。

 

 そんな存在にまで上り詰めた自分に一生懸命尻尾を振るのも、自力で栄冠を掴めない連中の立場からすれば無理からぬことだろう。こちらを気分良くさせてくれるなら、それなりに可愛がってやってもいい。

 

 そう思い、ろくにトレーニングもせず仲間達と遊び歩く日々を送るようになっていた。

 

 彼女自身、知らずの内に溺れていたのだ。心地良さと引き換えに魂を腐らせる、堕落という名の毒の海に。

 

 しかし、幸か不幸か――そんな日々も、終わりを迎えた。

 

「――ねえ、待って」

 

 背後から声。

 

 立ち止まって振り返ると、そこにいたのは一人の少女だった。

 

 いや、幼女と呼ぶべきだろうか。まだ十歳にもなっていないと思しい、小さく華奢な身体の子供だ。

 

 黒い髪を腰まで届くほど伸ばしており、顔の上半分は前髪に隠れてよく見えない。

 

 服装はみすぼらしく、肌も薄汚れている。貧民街に行けば飽きるほど見かける浮浪児と大差ない外見だった。

 

 その子供は何故か、その外見にそぐわない立派なスーツケースを自身の脇に置いたまま、夜の街の路上に佇んでいた。

 

「何? このガキ」

 

「知り合いか?」

 

「いや……」

 

 リコの仲間達は顔を見合わせる。

 

 黒髪の子供は長い前髪に隠れた目をリコに向け、幼い声音で語りかけた。

 

「あなた、リコさんでしょう? 一番強い競走馬の」

 

「……だったら何だ? サインでもほしいのか?」

 

「私と、勝負して」

 

「あ?」

 

「今から私とマッチレースをしてほしいの。あなたが普段練習で使うコースで」

 

 思いがけない要求に耳を疑ったリコは、やがてつまらなそうに吐き捨てた。

 

「何を言うかと思えば……下らねえ」

 

 いくら子供とはいえ、頭が足りないにも程がある。

 

 天下の四冠馬が見ず知らずのガキの相手をするなどと、本気で思ったのだろうか。

 

「何でこのオレが、ガキの遊びに付き合ってやらなきゃいけねえんだ? アホらしすぎて笑えもしねえよ」

 

 冷たく言い放ち、仲間達に目配せする。

 

 その意を汲んだ仲間の一人が、子供を見下ろしながら近寄っていった。

 

「おいガキ、とっとと失せろ。リコさんはお前みてえなのに構ってるほど暇じゃ――」

 

 子供が突然、スーツケースを開けた。

 

 露わになったその中身を見て、リコ達は全員言葉を失う。

 

 それは、大量の札束だった。国内で流通する通貨の中で最も価値が高い紙幣の束が、大きなスーツケースの中に隙間なく詰め込まれていたのだ。

 

 浮浪児のようにみすぼらしい子供と、目が眩むような大金。

 

 そのありえない取り合わせは、場の空気を凍りつかせるのに十分だった。

 

「賭け金は、これでいい?」

 

「賭け金……だと……?」

 

「あなたが私に勝てたら、このお金をあげる」

 

 当惑するリコとは対照的に、不気味なほど平静な面持ちを保ったまま、得体の知れない子供は語る。

 

「その代わり、私が勝ったら……」

 

 夜風が吹き、長い前髪が舞い上がった。

 

 その時初めて相手の顔を直視したリコは、怖気を覚えて息を呑む。

 

 幼い造形にもかかわらず、子供のそれとは全く思えない、凍てついた鋼のように硬質な顔立ち。

 

 顔面を斜めに走る、一筋の深い傷痕。

 

 そして、赤々と輝く両眼。

 

 地獄へと続く穴のような、底知れぬ闇を孕んだ血色の瞳が、哀れな獲物を冷酷に見据えていた。

 

「あなたの全てを、私が貰う」

 

 

 

 上には上がいる。

 

 どんな強者もいつかは、自分を遥かに上回る怪物と出会い、無惨に敗れ去る。

 

 アルゼンチン四冠馬リコも、その例外ではなかった。

 

 非情な現実を思い知る日が来るのが、他人より少しばかり遅かっただけなのだ。

 

 

 

 

 

 

 学園の敷地内に建つ、教職員用の寮の一室。

 

 日の出前に目を覚ましたリコはベッドの上で上体を起こし、小さく溜息をついた。

 

 ああ、またか――と、疲労を覚えながら内心で呟く。

 

 日本代表チームの監督に就任し、意識が現役時代に近付いたせいだろうか。近頃は見る頻度が減っていた「悪夢」を、久しぶりに見た。

 

 脳のどこかから掘り起こされる、あの日の記憶。

 

 夢という形で繰り返し襲ってくる、恐怖と絶望に塗れた過去。

 

 どうやっても、自分はそれから逃れられないらしい。死んで灰になるまでは。

 

「は……はは……あははっ……」

 

 長い年月が経った今も、過去に怯えながら生きているのだから滑稽だ。

 

 滑稽すぎて、もう笑うしかない。

 

 十年前――四冠を制して母国の頂点に立った頃は、自分が最強だと信じていた。

 

 競馬場で速さ比べをすれば、どんな相手にも必ず勝てる。広い世界を見渡しても、自分に敵う者など一人もいない。

 

 選ばれし者として生を享け、約束された勝利の道を止まることなく突き進む、唯一無二の最強馬。

 

 それが自分なのだと、思い上がった心で信じ続けていた。

 

 あの日の夜、全てを奪い取られるまでは。

 

「はは……ダッサ……」

 

 思い返す度に自分を殴り飛ばしたくなるが、そんな自傷行為をしたところでどうにもならない。

 

 過去には戻れない。行けるのは未来だけ。

 

 どんなに滑稽でも、徒労に終わる可能性が高くても、未来に向かって歩んでいくしかないのだ。

 

 あの血色の瞳と――自分の心に巣食う絶望の影と、再び向き合うために。

 

 

 

 

 

 

 北海道での合宿を終え、東京の学園に戻った翌日。

 

 セイウンスカイとキングヘイローの二人は朝の練習に向かうため、ジャージ姿で学園内の並木道を歩いていた。

 

「久しぶり、ってほどでもないけどさ。こうしてここ歩いてると、日常に戻ってきたって感じしない?」

 

「そうね……あっちで色々とハードな経験したせいか、家に帰ったみたいな安心感があるわ」

 

 言い回しは若干異なるが、二人とも気持ちはほぼ同じだった。

 

 僅か二週間とはいえ、アメリカ代表チームとの合同合宿は肉体的にも精神的にも過酷なものであり、非日常的な体験の連続だったからだ。

 

 それが終わって我が家とも言うべき学園に戻れば、気が安らぐのも無理はない。

 

「けど、安心してばかりもいられないわね。ワールドカップまでそんなに時間はないんだから、気を引き締めていかなきゃ」

 

「あれ? いつになく真面目じゃん、キング」

 

「いつになく、って失礼ね。私はいつだって真面目よ。あんたと一緒にしないで」

 

「えー? 私だって真面目だよ? 昨日の夜もちゃんと自主トレしたし」

 

「……あれ自主トレだったの? ゴムボールで遊んでたんじゃなくて?」

 

 柔らかいゴムボールを壁に向かって投げつけ、跳ね返ってきたところを掴み取るという奇行にセイウンスカイが没頭する姿を、昨夜キングヘイローは目撃していた。

 

 その時は、また妙な暇潰しをしているなとしか思わなかったが。

 

「遊びじゃないよ。反射神経を鍛えるためのトレーニング。ラウンド先輩直伝のね」

 

「ラウンドって……アメリカの……?」

 

「うん。あの剣と鎧の人」

 

 キングヘイローの脳裏に、白銀の甲冑を着込んだまま聖剣(?)を構えるラウンドテーブルの姿が浮かんだ。

 

「貴殿は正確な判断力を持っているが、判断を下すまでにやや時間がかかるのが難点だ。反射神経を鍛える訓練を通じて思考の速度を向上させ、不測の事態に素早く対処出来るようにした方がいい……とか言われてさ。じゃあどんなトレーニングしたらいいのって訊いたら、これを使えって感じでゴムボールくれた」

 

「あんた達、妙に気が合ってたみたいだけど……何であんな人のアドバイス真に受けちゃうのよ……」

 

「いやあの人、ああ見えて案外まとも……でもないけど……競馬に関しちゃわりと真面目だったりするよ? 伊達に六十六戦も走ってないっていうか、流石ベテランだなって感心する部分も――」

 

 その時だった。

 

「えーっ!? あの話ってほんとだったの!?」

 

 誰かの大声が耳に届き、セイウンスカイは言葉を止める。

 

 何だろうと思い声がした方に視線を向けると、十数メートルほど離れたところにあるベンチに三人の少女が座っていた。

 

「だからそう言ってんじゃん。最近あいつら見なかったでしょ? 詳しくは知らないけど、どっか遠く行って合宿やってたみたいよ」

 

「あー、確かに見なかったよね。……じゃあやっぱ決まりなんだ。ワールドカップに行かせるのは、あの五人ってことで」

 

 髪の短い少女、髪の長い少女、浅黒い肌の少女の三人組だ。いずれも名前は知らないが、顔に見覚えはあった。

 

 そしてその会話内容から、セイウンスカイとキングヘイローは察する。

 

 日本代表としてワールドカップに送り出される五人――つまり自分達のことが話題に上っているのだと。

 

「まあ、決まっちゃったもんはしょうがないけどさ……ぶっちゃけ頭おかしいよね。あの人選」

 

「ほんと。最初聞いた時、絶対デマだと思ったもん」

 

「そりゃみんな思ってたよ。ルドルフ会長もマルゼン先輩もブライアン先輩もいないっていう、意味不明なスカスカメンバーだったからね」

 

 唇を歪め、笑い合う三人。

 

 それは明らかに、悪意を含んだ笑いだった。

 

「つってもまあ……エル、グラ、スペあたりは結構実績あるから入ってもおかしくはないし、セイウンスカイだって腐っても二冠馬だけどさ……アレだけはないよねー? どう考えたって」

 

「ああ……アレね」

 

「そう。あの強豪気取りの、勘違いお嬢様」

 

 そのやりとりを聞いた瞬間、キングヘイローは凍りついた。

 

「クラシックの頃は三強の一角とか言われてたけど、結局無冠でしょ? その後もろくに勝ってないし、GⅠじゃ良くても二着止まり。それでも未だに世代トップクラスの一人みたいに扱われてたりするんだから、笑っちゃうよね」

 

「評論家のおっさん共がやたら持ち上げるからねー。偉大な母の血がそろそろ目覚める筈だ、とか言ってさ。――ハッ! 寝言ほざいてんじゃねえよ。あいつのどこをどう見たら、そんなご大層な才能がありそうに思えるわけ?」

 

「いいよねー、良血のお嬢様は。結果出さなくたって周りが勝手に持ち上げてくれるんだから。……まあそれも、今年の春くらいまでじゃない? いい加減みんな気付く頃でしょ? 親に似てんのは見た目だけで、中身は月とスッポンだってことにさ」

 

 偉大な名馬の娘として注目を集めながら、期待されたほどの実績を残せていない少女。

 

 その不甲斐なさを嘲りながら、三人は笑う。卑しい笑い声が重なり合う。

 

「だいたいさぁ、あいつがクラシック候補って騒がれたのだって過大評価気味だったじゃん。親の七光りがなけりゃ、あんなの――」

 

「――っ!? ね、ねえ、ちょっと……!」

 

 陰口を続けようとした浅黒い肌の少女を、髪の短い少女が止めた。今更ながら、すぐ近くに話題の当人がいたことに気付いたのだ。

 

 キングヘイローと目が合った浅黒い肌の少女は、息を呑み、気まずそうに顔を歪める。

 

 だが、それも一瞬のこと。彼女はすぐに開き直ったのか、悪意に満ちた笑みを再び浮かべた。

 

「あっ、そんなとこにいたんだ? 全然気付かなかったわぁ」

 

 挑発するかのように、毒が滴る声を浴びせる。

 

「もしかして聞こえちゃってた? ごめんねー。ワールドカップの話が盛り上がって、つい悪ノリしちゃったの」

 

「ちょ、ちょっとねえ、やめなよ……!」

 

「もう行こうってばっ……!」

 

 他の二人はそこまで開き直れないらしく、喧嘩になる前にその場を離れようとする。

 

 そうして仲間達に連れて行かれながら、浅黒い肌の少女はキングヘイローに言った。

 

「ワールドカップ頑張ってねー、お嬢様。期待してるよ。偉大なお母様の血が大舞台で目覚めるのをさ」

 

 皮肉以外の何物でもない言葉を残して、その背中は遠ざかっていった。

 

 セイウンスカイはキングヘイローが激昂したに違いないと思い、宥めるための言葉をかけようとする。

 

「キング……」

 

「舐められたものね、私も……」

 

 予想に反して、その声音は落ち着いていた。

 

 溜まったものを吐き出すように大きく溜息をついてから、キングヘイローは三人が消えた方向を見やる。

 

「二勝クラスか三勝クラスの子達でしょう? あれ」

 

「う、うん……」

 

「雑魚の戯言よ。いちいち気にしちゃいられないわ、あんなの」

 

 静かに言い切り、練習場に向かって歩き出す。

 

「さっさと行きましょう。私達は世界に挑まなきゃいけないんだから、のんびりしてられないわ」

 

 目標だけを見据え、真っ直ぐに進んでいく後ろ姿。

 

 それがどこか無理をしているように、セイウンスカイには見えた。

 

 

 

 

 

 

「はーい、それじゃあ今日の特訓一発目! ストライド強化大作戦を始めるわよー!」

 

「あれ? 私達二人だけ……?」

 

 いつも以上のハイテンションで練習開始を告げるリコに、セイウンスカイとキングヘイローは困惑気味の顔を向けた。

 

 現在練習場で顔を揃えているのが、自分達二人とリコの三人だけだからだ。

 

 他のメンバーの姿がどこにも見えない。

 

「今日からしばらくの間、他の三人には学園の外で個別練習やってもらうことになったの。で、あなた達二人にはここで一緒に練習してもらおうって話」

 

「……何で他はみんな個別で、私達だけ二人一緒なのよ?」

 

「色々考えてのことよ。まあざっくり言うと、相性的な問題であなた達は一緒にしといた方がいいかなって思ったってこと。別に嫌じゃないでしょ?」

 

「まあ、文句はないけど……」

 

 今一つ腑に落ちない顔で、キングヘイローは呟く。

 

 リコは首を回し、自らの手で地面に並べたものを指し示した。

 

「てなわけで、ちゃちゃっと始めるわよー。もう見た感じで察しはついてるだろうけど、そこに並べてあるロープを跨ぎながら走るってのが今日の特訓ね」

 

 練習場の芝生の上には、二本の直線を描く形で何十本ものロープが平行に置かれていた。

 

 ロープ同士の間隔は、通常のサラブレッドの歩幅より少し長い程度だろうか。端から端までの距離は二百メートルほどもあり、高さのないハードルが延々と並んでいるようにも見えた。

 

 セイウンスカイは微妙な顔で、リコに尋ねる。

 

「これって、もしかして……障害の練習?」

 

「そうよ。そのまんまってわけでもないけど、応用形みたいなものね。障害競走の真似事であなた達の足腰を鍛えようって話」

 

「何で今更障害なのよ? 私達は平地の競走馬だし、ワールドカップでやるのも平地のレースでしょう?」

 

 キングヘイローは怪訝な顔で問う。

 

 障害競走とは、競馬の形態の一つ。コース上に設置された障害物を飛越しながらゴールを目指す競技で、細部は異なるものの世界各地で行われている。

 

 日本では平地競走に比べ障害競走の地位は低く、平地で実績を持つ者が障害に転向することはまずない。

 

 キングヘイローも、自分が障害の練習をする日が来るとは思ってもみなかった。

 

「あら、知らない? 障害のトレーニングって結構足腰の強化に繋がるって言われてるのよ」

 

 そう言って、リコはロープの列に歩み寄った。

 

 一本、また一本と、ゆっくりとした足取りでロープを跨ぎ、直線を進んでいく。

 

「コース上に設置された障害物を越えるには、当然だけどジャンプしないといけない。一定以上の速度を維持したまま地面を強く蹴って高く跳び続ける脚力が必要になるの。そしてその脚力は、平地競走で自分の身体を前に進める力にも転用出来る。身体の使い方が上手くなればね」

 

 十数メートルほど進んだところで立ち止まり、二人に向き直る。

 

「要はストライドの強化よ。脚力を鍛えて一歩ごとに進める距離を伸ばせば、無理に脚の回転数を上げなくても速く走れるってこと。その能力を培うための第一歩が、この障害ごっこってわけね」

 

「……そういえば、パーマーなんかも障害練習のおかげで強くなれたって言われてるよね」

 

 障害への転向を試みた者が平地に戻って活躍したという例も、僅かだが存在する。

 

 その代表格が、メジロパーマー。現役屈指の逃げ馬であり、宝塚記念と有馬記念の両グランプリを制した名馬だ。

 

 一時期平地で伸び悩んだ彼女は活路を求めて障害転向を試みたものの、飛越の才能には恵まれておらず転向を断念。しかしそのために積んだ練習は無駄ではなく、平地に戻った後生まれ変わったように活躍する一因となった――と、一部では囁かれている。

 

「ま……適性ってのもあるから、誰でも障害練習すれば強くなれるってわけでもないでしょうけどね。あなた達にはこれが向いてると思ったのよ。ぶっちゃけ二人とも、脚力って面ではイマイチだし」

 

「……そうね」

 

 キングヘイローは納得し、目を伏せて頷く。

 

 確かに自分達二人は、グラスワンダーやエルコンドルパサーに比べ脚力で劣る。最後の直線だけで十数人をまとめて抜き去るような剛脚は持っていない。

 

 それでは到底、ワールドカップの舞台では通用しないだろう。

 

 二人揃ってチームの足手まといになりたくなければ、これからの練習で足腰を徹底的に鍛え上げるしかないのだ。

 

「理屈は分かったわ。とりあえず、あのロープを踏まないように走ればいいのね?」

 

「最初はゆっくりでいいわよ。転んで怪我しちゃまずいから、まずは身体を慣らすことから始めて」

 

 そんなやりとりを経て、キングヘイローとセイウンスカイの「障害練習」は始まった。

 

 

 

 

 

 

「だからゆっくりでいいって言ったじゃない、ヘイローちゃん! 速く走ることよりしっかり跳ぶことを意識しなさいってば!」

 

 朝焼けの空の下、リコの叱声が響き渡る。

 

 練習を開始してまもなく、キングヘイローはその難しさを痛感することになっていた。

 

 地面に等間隔で並ぶロープを避けきれない。約二百メートルの直線を走りきるまでに、どうしても何箇所かで踏んでしまう。

 

 ロープを跨ぐという単純な動作の繰り返しでも、走りながらそれを行うとなれば決して容易ではなかった。

 

「ほら、また踏んじゃってるわよ! それがロープじゃなくて本物の障害だったら大怪我することになるんだから、全部完璧に越えられるようになりなさい! スピードを追及するのはそれからよ!」

 

「くっ……!」

 

 キングヘイローとて理解している。

 

 今求められているのは、速さではなく正確性。これはまだ練習の第一段階で、完璧にこなせるようにならなければ次の段階に移れないのだから、速度を落として慎重に進んだ方が賢明だと。

 

 そうしたことは言われるまでもなく分かっているのだが、どうしても焦りが出る。無理に速く走ろうとした結果、足元への注意が疎かになり、失敗を重ねてしまう。

 

 その原因は、すぐ隣にあった。

 

(何で……)

 

 走りながら、斜め前方に目を向ける。

 

 軽快な動きでロープの列を越えていく少女の背中を、様々な感情が絡み合った目で見据える。

 

(何でこいつは……こんなに上手いのよ……!?)

 

 同じ日に同じ練習を始めたというのに、セイウンスカイとの間には既に明確な差が生じていた。

 

 同時に走り出しても、直線の端に到達する早さが違う。

 

 ロープを跨ぐ動きの滑らかさが違う。ロープを踏む頻度が違う。

 

 その事実がキングヘイローを打ちのめし、彼女の心に焦りと悔しさをもたらしていた。

 

(違うっていうの……? 身体の使い方が……根本的なセンスが……)

 

 筋力や瞬発力にそこまでの差はない筈だ。というよりその点に関してなら、自分の方が僅かに上回っている気さえする。

 

 今のこの差は、おそらくはセンスの差。物事の要点を感覚的に捉え、実践する能力の差だ。

 

 思えば、合宿の時もそうだった。

 

 重種馬の体当たりをまともに受け、無様に宙を舞っていた自分とは対照的に、彼女は絶妙な身のこなしで受け流すという離れ業を披露していた。

 

 身体能力はほぼ同等でも、それを活かす頭脳と技術に雲泥の差がある。

 

 さらに言ってしまえば、競走馬としての格が――持って生まれた才能が、根本的に違うのだ。

 

(……そういえば、そうだったわね…………ずっと前から……)

 

 自分は、セイウンスカイとは違う。

 

 グラスワンダーとも違う。エルコンドルパサーとも違う。スペシャルウィークとも違う。

 

 華やかなキャリアを持つ彼女達とは比べるのもおこがましい、無冠の二流馬。

 

 周囲の期待を裏切り続け、ついには誰からも見向きもされなくなった凡才。

 

 それが何故か、ワールドカップの日本代表に選ばれ、世界の頂点を獲るという目標を与えられたから――他の四人と肩を並べたような気分になっていただけだった。

 

 そんなものは、錯覚でしかなかったのに。

 

 

 

 

 

 

「はーい、それじゃ一旦休憩にしなさい。水分補給が終わったら今度はロープの間隔を――」

 

 言葉の途中で、リコは固まった。

 

 休憩と聞いてセイウンスカイが動きを止めたのに対し、キングヘイローは止まらずに走り続けていたからだ。

 

「ちょっとヘイローちゃん! 休憩って言ってるでしょう!」

 

 声を張り上げても、キングヘイローは止まらない。

 

 直線の端に辿り着くと素早く反転し、再びロープの列に挑んでいく。

 

 とうに体力を使い果たし、脚に痛みも出始めているというのに、彼女は休むことを拒んで走り続けた。

 

 休んでいる場合ではない。そんな暇があるなら少しでも練習しろと、自分を叱咤し続けて。

 

「はぁっ……はぁっ……ぐぅっ……はぁっ……!」

 

 才能に差があるなら、その差を埋めなければならない。

 

 セイウンスカイが休んでいる間も走り続け、何倍も何十倍も練習を積んで、後れをとらないだけの実力をつけねばならない。

 

 そのくらいのことが出来なければ、世界の頂点は到底目指せない。

 

 キングヘイローを衝き動かすのは、そんな切迫した思いだった。

 

「うぅ……ぐぅっ……!」

 

 一番になれると思っていた。

 

 子供の頃は、いつか一番強い競走馬になれると思っていた。

 

 母グッバイヘイローはアメリカ合衆国の競走馬で、生涯成績は二十四戦十一勝。GⅠレースを七つも制した名馬だった。

 

 その娘として生まれた自分は、子供の頃から世間の注目を集めていた。

 

 母と重ねられることも多く、非凡な才能を受け継いでいるなどと言われたことも一度や二度ではなかった。

 

 実際、同年代の子供達と脚の速さを競えば、いつも勝つのは自分だった。

 

 努力は必要なかった。敗北の悔しさを味わうこともなかった。母から貰った身体は他の子供のそれより遥かに優れていて、ゴールの先には勝利の喜びだけが待っていた。

 

 だから、何の疑いもなく信じていた。

 

 この先もずっと、当たり前のように勝ち続けられると。子供同士の駆けっことは違う、皆が誇りと人生を懸けて戦う本物のレースでも、自分は一番になれると。

 

 けれど、現実は甘くなかった。

 

 華々しくデビューして順調に勝ち続けられたのは、最初の内だけ。すぐに壁にぶつかった。

 

 無双の剛力を誇り、爆発的な末脚で全てを置き去りにする怪物、グラスワンダー。

 

 距離も馬場も問わず、あらゆる条件に適応する万能の天才、エルコンドルパサー。

 

 瞬発力と持久力を併せ持ち、中長距離で無類の強さを見せる王者、スペシャルウィーク。

 

 レースセンスに優れ、変幻自在の走りで他馬を翻弄する逃亡者、セイウンスカイ。

 

 同じ年に生まれた競走馬の中には自分より優れた者が何人もいて、自分が掴み取りたかった栄冠は全て、その連中に奪い取られていった。

 

 何度挑んでも勝てない。

 

 苦しみを堪えて必死に追い駆けても、決して追いつけない。

 

 同じレースを走る度に格の違いを見せつけてくるライバル達は、自分にとっては分厚く高い壁も同然だった。

 

 そして敗北を重ねる内に、自分に期待を寄せる者は数を減らし、失望の声が耳に届くようになった。

 

 悔しいが、それが現実というものなのだろう。

 

 数人のライバルしかいない小さな世界の中では一番でも、そこから一歩踏み出して広い世界の中に混ざれば、何の取り柄もない凡人に成り下がる。

 

 競馬に限らず、どこの世界にも掃いて捨てるほど転がっている話。自分もその中の一部だったというだけのことだ。

 

 自分は、一番になれる器ではなかった。

 

 この身に宿っていた才能は、小さな世界の外では通用しないちっぽけなものだった。

 

 否定したくても出来ないのだから、もう認めるしかない。

 

 それでも――

 

 それでもまだ、自分は――

 

「――っ!」

 

 雑念に囚われたせいだろう。

 

 ロープに爪先をぶつけたキングヘイローは姿勢のバランスを崩し、そのまま転倒した。

 

「ヘイローちゃん!」

 

「キング!」

 

 リコとセイウンスカイが駆け寄る。

 

 キングヘイローは苦痛に顔を歪めながら、呻きを噛み殺して上体を起こした。

 

「ちょっと転んだだけよ……このくらい……」

 

「いいから、脚見せてみなさい!」

 

 険しい顔で怒鳴られ、渋々脚を伸ばす。

 

 それに触れて一通り調べた後、リコは安堵の息をついた。

 

「……骨折や捻挫はしてないみたいね。倒れ方が良かったのか、打撲もないみたい」

 

「だから言ったじゃ……」

 

「だから言ったじゃない――じゃないわよ! 怪我したらどうするつもりだったの!?」

 

 キングヘイローは言葉に詰まり、リコから目を逸らす。

 

 後先考えず無理をしすぎたという自覚はあったが、それを素直に認めるには抵抗があった。

 

 認めてしまえば、自分がより一層無様に思えてしまうからだ。

 

「何よ……怪我しそうなこといつも平気でさせてるのは、あなたじゃない……」

 

「……確かに私も、あなた達に結構な無茶させてるけど……それでも限度ってものは弁えてるつもりよ。怪我する前に止めるのも私の仕事」

 

 一度激発した感情を鎮めながら、リコは諭すように続けた。

 

「だから、私が休憩って言ったら大人しく休みなさい。それに従えないようなら代表チームから外すわよ。いいわね?」

 

「……分かったわよ」

 

 消え入りそうな声で返答するキングヘイロー。

 

 地面に置かれたその手がきつく拳を握り締めるのを、傍らに立つセイウンスカイは見逃さなかった。

 

「キング……」

 

 その心情を慮り、何か言葉をかけようとした時。

 

 突然、誰かが地面を蹴った。

 

「――っ」

 

 風を裂く音が耳朶を打つ。力強い足音が練習場に響く。

 

 振り返った先にあったのは、先程まで自分達が走っていた直線を走り抜ける少女の姿。

 

 それが誰かを確認するより先に、セイウンスカイはその走りの見事さに目を奪われ、驚愕の表情を浮かべた。

 

(速い……! いや、それより……)

 

 自分やキングヘイローのそれとは比較にならない、隼の飛翔を思わせるほどに凄まじい速さ。

 

 だが、真に驚くべき点はそこではない。

 

(ロープを……一本も、踏んでいない……!?)

 

 直線上に並ぶ何十本ものロープを、少女の脚は一本たりとも踏んでいなかった。

 

 尋常ではない速度を維持したまま機械のように正確なストライドで進み、これ以上ないほど完璧な形でロープの列を越えていったのだ。

 

 圧倒的な脚力と、磨き抜かれた身体操作能力。その二つを併せ持っていなければ不可能な離れ業だった。

 

「世界一を目指す人達の特訓にしては、手緩いね」

 

 直線の端で立ち止まった少女――明るい栗毛のサラブレッドは、セイウンスカイ達に冷淡な目を向ける。

 

「せめてこのくらいの速さで走り抜けられるようじゃなきゃ、話にならないと思うけど?」

 

 彼女の名は、エアジハード。

 

 最強世代の一翼を担う、遅れてきた大器だった。

 

 

 

 

 

 

「ジハード……」

 

「どうして……あなたが、ここに……?」

 

 セイウンスカイとキングヘイローが、戸惑いながら口を開く。

 

 そんな二人の声を無視し、エアジハードは静かな足取りで「交渉」の相手に歩み寄った。

 

「なかなか良い走りだったけど、今のはどういうつもりかしら?」

 

「不快に思われたなら申し訳ありませんが、私の実力の一端を披露させていただきました。先にそうした方が、話に聞く耳を持っていただけると思ったので」

 

 リコの正面に立ち、問いに淡々と答える。

 

 桁外れの速さで直線を走り抜けた後だというのに、その呼吸はほとんど乱れていない。

 

「……何か、言いたいことがあるみたいね」

 

「ええ。前置きは抜きにして、率直に言います」

 

 毅然とした面持ちを保ったまま、エアジハードは告げた。

 

「あなたが指揮するワールドカップ日本代表チームに、私を入れて下さい。現メンバーの誰かの代わりに」

 

 臆面もなく放たれた要求に、現代表メンバーの二人は絶句する。

 

 一方、リコはさして驚きもせず、目の前に立つ少女の顔を冷静に見据えた。

 

「私の自己紹介は必要でしょうか?」

 

「必要ないわ。あなたのことは私も知ってる」

 

 日本代表チームのメンバーを選定する過程で、リコは日本国内の強豪の情報を全て頭に入れていた。

 

 当然その中には、エアジハードの情報も含まれている。

 

「去年のJRA賞最優秀短距離馬、エアジハード。通算戦績十二戦七勝。主な勝鞍は安田記念、マイルチャンピオンシップ、富士ステークス。一昨年の秋頃から徐々に頭角を現し、去年の安田記念でうちのグラスちゃんを破ってマイル王の座についた、最強世代最後の大物……でいいわよね?」

 

「ええ」

 

「年末に予定してた香港遠征を脚部不安で取りやめたって聞いたけど、そっちはもう大丈夫なの?」

 

「幸い軽度でしたので、すぐに完治しました。今は何の問題もなく走れます」

 

 エアジハードが生真面目な返答を続けると、リコは表情を和らげた。

 

「なるほど……それで代表の座が欲しくなって、私に直談判しに来たってわけだ。やっぱり、自分が選ばれなかったのは納得いかなかった?」

 

「いいえ」

 

「……?」

 

「去年までの私は心身ともに未熟でした。勝負の最中に脆さや詰めの甘さを露呈することが度々あり、そのせいで勝てるレースをいくつも取りこぼしていた。代表に選んでいただけなかったのも当然かと納得はしています」

 

 そう語った後、エアジハードの声音が変質した。

 

「ですが……私はもう、甘さを捨てた」

 

 鋼が音と化したかのような、重く硬質な声。

 

 積み重ねてきた鍛錬の凄絶さを物語る声が、覇気に満ちた言葉を紡ぐ。

 

「世界一の競走馬になるため、自分の限界を踏み越えた。肉体も精神も技術も戦術も、全て一から鍛え直した上でここに来た」

 

 鋭い双眸の奥に宿るのは、己の力量への絶対的自信。

 

「今の私なら、シンボリルドルフにだって勝てる」

 

 それは明らかに、本気の発言だった。

 

 彼女は日本最強の≪皇帝≫と実際に戦うことを想定した上で、一片の迷いもなく言い切ったのだ。

 

 勝てる――と。

 

「ですからお願いします。私を日本代表チームに入れて下さい。国の威信を背負って戦うことを許していただけるなら、必ずや私の力でチームを優勝に導いてみせます」

 

「……優勝に導いてみせます、か…………大きく出たわね」

 

 相手の言葉を吟味するように、リコは呟く。

 

 それから彼女はパンと両手を打ち鳴らし、その顔に満面の笑みを浮かべた。

 

「うん、合格! いいわねあなた! すっごくいいわ!」

 

 何故か気を良くした様子で、弾んだ声を出す。

 

 何を言われようと自分の要求を押し通すつもりでいたエアジハードも、その急変ぶりには若干戸惑った。

 

「その自信とクソ度胸、物事を力技で解決しようとする強引さ、無駄にキリッとした生意気そうな面構え! どれを取っても私好みね! 惚れ惚れしちゃうわ!」

 

「……」

 

「実を言うとねー、あなたみたいな子はいずれ出てくると思ってたし、むしろ出てきてほしいなーって思ってたりしたのよ。自分が入れる枠がないなら力ずくで手に入れるんだって感じの脳筋キャラ、私大好きだし。ぶっちゃけ私自身もそれ系だしね」

 

「では……」

 

「まあちょっと待って。まだ話は途中だから、最後まで聞いて」

 

 手をひらひらと振って制し、楽しげに続ける。

 

「あなたの熱意はよく分かったし、私個人としてもあなたを代表チームに入れてあげたいって気持ちは結構ある。でもそれだけで今いる子の誰かを御役御免にするってのは、ちょっとアレでしょう? だから……」

 

 笑顔のまま、眼差しだけを鋭くする。

 

「勝負で決めましょう。後腐れなく、一遍だけの真剣勝負で」

 

 セイウンスカイが目を見開く。キングヘイローが呆然となる。

 

 エアジハードは平静な面持ちに戻り、言質を取ろうとするように問いかけた。

 

「私と現代表メンバーの誰かがレースをして、私が勝てたら代表に迎え入れる……ということでしょうか?」

 

「そうよ。分かりやすくていいでしょう?」

 

「異論はありません。というより正直、こちらからそれを申し出るつもりでいました」

 

「だと思ったわ。それじゃあ……」

 

 リコは首を回し、地面に座り込んだままでいた少女に目を向ける。

 

「ヘイローちゃん、悪いけどこの子と勝負してあげて」

 

 突然の指名に、キングヘイローの心臓が跳ね上がった。

 

 その驚愕を代弁するように、セイウンスカイが問いかける。

 

「何でキングを……?」

 

「被っちゃってるからよ。この子達の適性が」

 

 答えつつ、リコはエアジハードに向き直る。

 

「ワールドカップの予選と本戦の仕組みは、もう聞いてるわよね?」

 

「参加国を四つのグループに分け、各グループ内で条件の異なる五つのレースを行い、着順に応じたポイントを与えることで予選通過チームを決める。本戦も同様の方式で行い、獲得ポイントの合計で優勝チームを決める……と聞きました」

 

「そう。そしてその五つのレースの中には、当然短距離戦も含まれてる。私はヘイローちゃんをそれに出すつもりで代表チームに入れた。けれど去年最優秀短距離馬に輝いたあなたがチームに入ってくるなら、話は変わってくる」

 

 その眼差しは、どこまでも真剣だった。

 

「中距離や長距離、ダートのレースでも上の着順がとれなきゃ優勝は狙えないから、短距離向きの子が二人はいらない。ワールドカップの舞台に連れて行ってあげられるのは、どちらか一人だけ。それを公平に直接対決で決めようってこと」

 

「それで構いませんが、私と彼女が行うレースの条件は?」

 

「高松宮記念」

 

 唐突に出たレース名に、全員が一瞬放心する。

 

 その反応を楽しむように、日本代表チームの監督役は話を続けた。

 

「毎年三月末に中京競馬場で行われる、春のスプリント王決定戦。知ってるでしょう?」

 

 それは、日本の競馬関係者なら誰もが知るレース。

 

 中央競馬のスプリント路線の頂点とも言うべき、GⅠの格付けがされた大レースだ。

 

 現役競走馬のエアジハードが知らないわけがない。

 

「……高松宮記念を、私達の対決の舞台にしろと?」

 

「ええ、そうよ。実を言うとね、私は元々ヘイローちゃんをそのレースに出すつもりでいたの。特訓の成果を試す場として丁度いいと思ってね。そこにあなたも出てきてくれるなら、話が早くて助かるんだけど?」

 

「……分かりました。高松宮記念でキングヘイローを倒せば、私の代表入りを認めていただけるのですね?」

 

「そりゃもちろん。……あーでも、ヘイローちゃんには勝てたけど一着にはなれませんでした、なんてのはやめてね。そんなしょっぱいオチ見せられたら二人とも代表の資格なしってことにして、他の子を入れるから」

 

「ご心配なく。私が必ず、先頭でゴールしますから」

 

 平然と断言して、エアジハードは身を翻す。

 

「では失礼します。お忙しい中話を聞いていただき、ありがとうございました」

 

 戦う相手のキングヘイローには一瞥も与えることなく、彼女は静かな足取りで練習場から去っていった。

 

 その背中が見えなくなったところで、ようやくキングヘイローは立ち上がる。

 

「……随分と、勝手に話を進めてくれたわね。こっちはほとんど何も言ってないのに……」

 

「あら、勝つ自信ないの?」

 

「去年三回同じレースを走って、三回とも先着された相手よ。エアジハードは。……あの子の強さは、嫌になるくらい知ってるわ」

 

 安田記念。秋の天皇賞。マイルチャンピオンシップ。

 

 キングヘイローは過去三度に渡ってエアジハードと対戦し、その全てでエアジハードの後塵を拝してきた。

 

 キングヘイローにとってエアジハードは、セイウンスカイ達と同じ存在。

 

 何度挑んでも跳ね返される、分厚く高い壁だった。

 

「そうね。それは私も知ってる。しかもあの子、その時よりさらに強くなってるわよ」

 

 顔から笑みを消し、リコは冷静に言った。

 

「何があったか知らないけど……本気で世界一を目指す気になって、死ぬほど自分を鍛え抜いたんでしょうね。言うだけのことはあるわ」

 

 先程エアジハードが披露した疾走は、リコの目から見ても相当なレベルのものだった。

 

 本人が言うように、その強さは既に≪皇帝≫シンボリルドルフさえも上回っているかもしれない。

 

 少なくとも、日本代表を務めるに足る実力者であることは確かだろう。

 

「みたいね…………でも、関係ない」

 

 キングヘイローは言った。

 

 自分の中にある弱気や劣等感を消し飛ばし、魂の奥底から力を絞り出すように。

 

「ワールドカップに出てくる人達の中には、あいつより強いのだっているんでしょう? なら同じよ。ここであいつに勝てないようなら、世界に挑んだって勝てやしない」

 

 顔を上げ、前を向く。

 

 自分はもう、小さな世界の中で自惚れていた子供ではない。厳しい勝負の世界の中で生きる、一人の競走馬だ。

 

 レースに勝つことが、簡単ではないと知っている。

 

 自分より遥かに優れた者が、数えきれないほどいると知っている。

 

 それでも、勝負からは逃げない。逃げたくない。

 

 夢を抱いて、決意を固めて、辛さと悔しさを噛み締めて――分厚い壁が連なる広大な世界に、自分の意思で踏み出したのだから。

 

「あいつに勝つことでしか、道が拓けないなら――勝つわ。私の全てを振り絞って」

 

「……」

 

 決然と告げるキングヘイローの横顔を、リコは無言で盗み見る。

 

 その眼差しは、普段の彼女のそれとは何かが微妙に違っており、どこか遠くにある手の届かないものを見つめているようでもあった。

 

「……リコさん、どうかした?」

 

「別に。ヘイローちゃんはいつだってヘイローちゃんなんだなー……って思っただけよ」

 

「……?」

 

 よく分からない返答をされ、首を傾げるセイウンスカイ。

 

 リコは楽しげな笑顔に戻り、キングヘイローに向けて言った。

 

「それじゃあちょっと予定を早めて、特訓を第二段階に移すわよ」

 

 地面に並ぶロープを越えていくなどというのは、初歩中の初歩。怪我をさせないための足慣らし。

 

 特訓の本番は、次の段階からだ。

 

「生半可なことやってたらあのジハードちゃんには敵わないでしょうから、相応の地獄を味わってもらうことになるけど……覚悟はいいわね? ヘイローちゃん」

 

「当たり前よ!」

 

 覚悟を問う言葉に、キングヘイローは力強く応じた。

 

 

 

 

 

 

 それから約二週間後。三月第四週の日曜日。

 

 高松宮記念の舞台となる、愛知県豊明市の中京競馬場。

 

 その一角――多くの人々で賑わうパドック付近に、スマートフォンを耳に当てて通話している少女の姿があった。

 

「はいもしもしー……え? 今? 今はもう現地に着いちゃってますよー……はい、中京競馬場ってとこのパドック近くです。もうすぐメインレースの出走馬が出てくるとこですねー。観客の人多すぎてびっくりです」

 

 競馬場におけるパドックとは、レースが始まる前に出走馬の様子を見るための下見所だ。

 

 GⅠレースの直前ともなれば周囲を埋め尽くすほどの観客が詰めかけ、満員電車のような状態となる。

 

 通話中の少女もその中にいたが、風景に溶け込めているとは言い難かった。

 

 耳を出すための穴が空いた黒いニット帽で頭髪を隠し、黒いサングラスで目を隠し、黒いマスクで口を隠し、黒い革手袋で両手を隠し――とにかく色々な物で全身を覆い隠した、怪しさ満載の姿だったからだ。

 

 強盗団の一員と言われても何ら違和感のない格好だろう。

 

 事実彼女は、周囲にいる人々からかなり不審な目で見られていた。本人は全く気にしていなかったが。

 

「これから始まる高松宮記念ってレースは、日本に二つあるスプリントGⅠの一つで……え? キャンディさん? あー……キャンディさんならどっか行っちゃいました。そこで待ってて下さいねって言ったのに、お手洗いから戻ったら忽然と消えてやがりましたね、はい。まったく、困ったアホです」

 

 やれやれといった具合に肩を竦め、少女は溜息をつく。

 

 通話の相手に連れが行方不明になった件について追及されると、マスクの下で唇を尖らせた。

 

「えー、だってしょうがないじゃないですかぁ……あの人スマホ持ってないですし、ここだだっ広い上に人多すぎで捜すのめんどいですしー……あーはいはい、ほっぽっといちゃ駄目なんですね。分かりましたよもー。どうにかしてあのアホとっ捕まえて帰りますからー……はい、じゃあもうすぐ始まるんで切りますねー。失礼しまーす」

 

 適当に通話を切り上げ、スマートフォンを上着のポケットにしまう。

 

 そして再び、やれやれといった具合に肩を竦めた。

 

「はぁ……まったく……言うこと聞かないアホとクソうざい姑みたいなのに振り回されながら、今日も一生懸命偵察に励んでる私……めっちゃ健気じゃないですか? 何かもう、人気投票とかやったらガチで一位狙えそうなくらいの健気さですよね? きっと世界には私のファンが百億人はいます」

 

 そんな戯言を誰にともなく言いつつ、肩にかけていたバッグから双眼鏡を取り出し、サングラスを外す。

 

「ま、それはそれとして……このレースはちゃんと観とかなきゃいけませんねー」

 

 定刻を迎え、続々とパドック内に姿を現す高松宮記念の出走馬。

 

 少女が双眼鏡のレンズ越しに注視したのは、その内の一人。五番人気に支持されている七枠十三番。

 

 緑の勝負服に身を包んだキングヘイローだった。

 

「あのリコ先輩の教え子が、どんな風に仕上がってるのか……」

 

 偉大な先達であり、かつては師と仰いだ四冠馬――その顔を思い浮かべながら、南米の大国から来た少女は声を弾ませた。

 

「お手並み拝見ってことで、偵察開始です」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五話「レース」

 

 

 高松宮記念。

 

 毎年三月末に中京競馬場で行われる、芝千二百メートルのGⅠ競走。

 

 その前身は、昭和四十三年に創設された中京大賞典。砂二千メートルの中距離重賞だったそれが、昭和四十六年に皇族の高松宮宣仁親王より優勝杯を下賜されたのを機に、翌年から高松宮杯に改称。夏の中京開催の名物競走となり、昭和五十九年のグレード制導入時にはGⅡに格付けされた。

 

 そして平成八年、中央競馬の競走体系の改革に伴い、大幅に距離短縮された上でGⅠに格上げとなる。その後は名称と施行時期を現在のものに改められ、春の短距離王決定戦として定着した。

 

 中央競馬の短距離路線――特に千二百メートルを主戦場とする者達にとっては、秋のスプリンターズステークスと並ぶ最重要タイトルである。

 

 

 

 

 

 

 レース発走の約三十分前。

 

 休日を利用して中京競馬場を訪れていたエアグルーヴは、スタンドの一角で知り合いの姿を見かけ、声をかけた。

 

「お久しぶりです。伊藤先生」

 

「……おお、グルーヴ君か。しばらくぶりだね」

 

 座席に腰を下ろしたままターフビジョンを見つめていた白髪頭の男は、隣に立ったエアグルーヴへと視線を移す。

 

 男の名は、伊藤徳正。

 

 定年退職を来年に控えた、エアジハードのトレーナーである。

 

「今日の出走馬の中に、君のチームの子はいないようだが……ジハードを見に来てくれたのかね?」

 

「ええ。近頃は疎遠になっていましたが、彼女は妹のようなものなので」

 

 苦笑気味に答えるエアグルーヴ。

 

 彼女とエアジハードは同じ家系の出身で、幼い頃は姉妹のように育った仲だった。

 

「そういえば君は、この間ジハードと模擬戦をしたのだったね?」

 

「……ええ。恥ずかしながら、完敗しました」

 

 二週間前の敗戦を思い返し、エアグルーヴは神妙な顔になる。

 

「正直、彼女の成長には驚かされました。元々実力者ではありましたが、この数ヶ月の間にあそこまで伸びていたとは……」

 

「誰よりも練習を積んできたからね、あの子は。その努力がようやく実を結び始めたようだ」

 

 そう言いつつ、伊藤はターフビジョンに視線を戻す。

 

 静謐な気配を纏ってパドックに佇むエアジハードの姿が、そこに映し出されていた。

 

「だがそれ以上に、精神面での成長を感じるよ。心の軸が定まり、脆さや危うさが抜け落ちたことで、GⅠ馬らしい盤石の強さを見せるようになった……などと言ってしまうと、親馬鹿のように聞こえるかもしれんがね」

 

「いえ……私もそう思います。今のジハードは、昔とは違う」

 

 かつてのエアジハードには、時折見せる年相応の脆さと、レースぶりを感情に左右されがちな危うさがあった。

 

 しかし今は、それがない。

 

 トレーナーの伊藤が盤石と形容するほどに、その精神は完成の域に近付いている。

 

「あの強固な精神……高い理想と目標を掲げ、そのための努力を惜しまない姿勢は……私と競い合っていた頃とは別人のようです」

 

「……何か、言っていたのかね? あの子は君に」

 

「ええ……」

 

 頷き、エアグルーヴは思い返す。

 

 自分を打ち負かした従妹と、テーブルを挟んで会話した時のことを。

 

 

 

 

 

 

 二週間前。昼時で賑わう学園の食堂。

 

 隅のテーブルで食事を摂っていたエアジハードの向かい側に、エアグルーヴは自分のトレーを置いた。

 

 そのまま椅子に腰を下ろしつつ、静かに語りかける。

「昨日の今日で、もう監督と話をつけてしまうとは……近頃のお前は行動的だな」

 

「……聞いてたの?」

 

「どうやって代表の枠を獲る気なのかが気になったからな。悪いが盗み聞きさせてもらった」

 

「そう……」

 

 淡々と応じつつ、エアジハードは箸を置く。

 

 そして椀に注いでいた茶を一口啜り、冷静な目をエアグルーヴに向けた。

 

「……で、何か用? 何か文句をつけたそうな顔してるけど?」

 

「別に、文句を言いたいわけじゃないが……」

 

 エアグルーヴは難しい顔になり、食事に手をつけないままテーブルに目を落とす。

 

「本当に良かったのか? あの条件で」

 

「私とキングヘイローが高松宮記念で勝負して、勝った方が日本代表になる……ってやつのこと?」

 

「ああ……」

 

 エアグルーヴとて実力主義者だ。

 

 日本代表となる者をレースの結果で決めるということ自体には、何の文句もない。勝負の世界である以上、結果を出した者が権利を得るのは当然だと思っている。

 

 ただしそれは、勝負の条件が公平だった場合の話。

 

「最優秀短距離馬とはいっても、お前はスプリンターではなくマイラーだ。しかも中距離寄りのな。高松宮記念の千二百メートルが十全の力を発揮出来る舞台とは思えない」

 

 競馬用語における「スプリント」とは千四百メートル以下の距離を指し、「マイル」とは千六百メートルを指す。

 

 前者を得意とする者はスプリンター、後者を得意とする者はマイラーと呼ばれる。

 

 日本では短距離馬という言葉で一括りにされがちだが、スプリンターとマイラーの間には適性面で大きな隔たりがあるのが実情だ。

 

 ほんの数百メートルの距離の違いで、競馬のレースは全くの別物に変わる。

 

「絶対に負けられない勝負なら、もっと自分に合った条件のレースに――」

 

「ブリガディアジェラード」

 

 唐突に、エアジハードは一つの名を口にした。

 

「ミルリーフと並ぶ英国競馬界の双璧。≪ザ・ブリガディア≫の異名で知られる稀代の名馬だ。知ってるだろ?」

 

「あ、ああ……」

 

 急な話題の転換に戸惑いながらも、エアグルーヴは頷く。

 

 近代競馬発祥の地である、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国。

 

 日本では「イギリス」や「英国」などと呼ばれているその大国の頂点に立つ競走馬が、ブリガディアジェラード。

 

 マイルから二千メートルまでの距離で無類の強さを誇り、十八戦十七勝という圧倒的実績を積み上げた歴史的名馬だ。

 

 その名は海を越え、世界中に轟いている。

 

「彼女は十七のレースで勝利を収めてるけど……その中のベストレースって言えるのって、どれだと思う?」

 

「……ミルリーフを破った二千ギニーか……あるいは、十馬身差で勝ったグッドウッドマイルか……」

 

「私は、キングジョージだと思ってる」

 

 キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークス。

 

 毎年七月にアスコット競馬場で行われる、英国競馬界の中長距離王者決定戦。

 

 芝の十二ハロン――約二千四百メートルを舞台にしたそのレースは、ブリガディアジェラードが走ったレースの中で最も距離が長い。

 

「マイルから十ハロンを得意とするジェラードにとって、十二ハロンのキングジョージは明らかに距離が長いレースだった。レース前からそれを不安視する声はあったし、実際その不安は的中した。慣れない長距離戦に彼女は苦しみ、かつてないほど追いつめられていた」

 

 異国の名馬のレースを我がことのように思い返し、エアジハードは語る。

 

「けれど、彼女は勝った。最後の直線で二度もよろめき、肉体も精神も限界を迎えながら……それでも勝利をもぎ取った。私はあのレースにこそ、≪ザ・ブリガディア≫の強さの本質が表れていたと思う」

 

 己の限界を踏み越えて走り抜き、勝利を掴む強さ。

 

 それこそが並の一流馬と歴史に残る名馬を隔てる、決定的な差に他ならない。

 

「距離が向いてないだとか、コースの形や状態がどうだとか、そんなつまらないことを言い訳にはしない。真の強者は走るべきレースから逃げず、戦うべき相手に背を向けない。いつどこで誰が相手だろうと、勝つべき時は必ず勝つ」

 

 誇り高き走りをもって、最強馬たる者のあるべき姿を体現したブリガディアジェラード。

 

 その生き様に敬意を抱きながら、迷いなく断言する。

 

「私もそうなる。――なってみせる」

 

 凛とした声音から滲むのは、遥かな高みを目指す覚悟だった。

 

 レースの距離など関係ない。千メートルでも三千メートルでもいい。どこの競馬場が舞台で誰が相手だろうと構わない。

 

 多少の不利など実力で跳ね除け、世界に挑む資格を必ずや掴み取る。

 

 そんな意思を感じ取ったエアグルーヴは、気圧されたように固まったまま、掠れた声で問いかけた。

 

「あの軍神に……ブリガディアジェラードになりたいのか? お前は……」

 

「なりたいんじゃない。勝ちたいんだよ」

 

 訂正を求めるように言い、エアジハードは僅かに眼差しを鋭くする。

 

「日本代表になってワールドカップに行けば、ジェラードともきっと戦える。私の全てをあの人にぶつけて、真っ向から打ち破ることが出来る」

 

 自身が英国最強馬に挑み、勝利する瞬間。

 

 彼女はそれを、いずれ実現する未来像として見据えていた。

 

「それが私の最終目標……命を懸けて走り抜くレースのゴールだ」

 

 

 

 

 

 

「ブリガディアジェラードのような競走馬になると……ワールドカップの舞台でブリガディアジェラードに勝つのが目標だと……そう言っていました」

 

「大英帝国の軍神≪ザ・ブリガディア≫を目標に定める、か……ふふ……実にあの子らしい」

 

 伊藤は肩を震わせ、可笑しそうに笑った。

 

「途方もない目標だがね。無理だとは言わんよ。飽くなき向上心で自らを磨き続け、誰もが驚くような成長を遂げてきたのが彼女だ。流石に現時点では敵わんだろうが、このまま秋まで順調に成長し続ければ……そう思わせてくれるだけのものは、確かにある」

 

 笑いながらも、その目は真剣だった。

 

 老齢のトレーナーが愛弟子に寄せる期待と信頼を推し量り、エアグルーヴは穏やかに微笑む。

 

「先生のご指導の賜物ですよ」

 

 どれほどの才能の持ち主も、一人では強くなれない。

 

 名馬の華々しい活躍の裏には常に、それを支える人間達の苦労がある。

 

「あのジハードがここまでになるとは、正直私も想像していませんでした。我の強い彼女と先生が辛抱強く付き合い、様々な形で支えて下さったからこそ――」

 

「何もしとらんよ。私は」

 

 表情と声音を冷静なものに変え、伊藤は言う。

 

 それを謙遜と受け取りかけたエアグルーヴだったが、続く言葉には耳を疑った。

 

「練習場所も練習内容も出走するレースも、全てジハードの意思に任せている。私はただそれを黙認しているだけだ。……もう二年も前からね」

 

「え……?」

 

「私の言うことなど聞いてはくれんのだよ。あの子は」

 

 ターフビジョンを見つめる老人の横顔は、一抹の寂しさを帯びていた。

 

「誰にも頼らず、自分の力だけで強くなる。……それがあの子の決意であり、ここまでの強さを得た理由なのだからな」

 

 

 

 

 

 

 競馬場のスタンドには一般客用の席とは別に、関係者以外立入禁止の区画に設けられた関係者専用の席がある。

 

 関係者ではないのにその場に不法侵入した少女――サングラスやらマスクやらニット帽やらで顔を隠した不審者は、敵の本拠地に忍び込んだ工作員のような足取りで歩を進め、目当ての人物が座る席の後ろで立ち止まった。

 

 マスクの下でにやりと笑い、懐から黒光りする拳銃を取り出す。そしてその銃口を相手の後頭部に押し当て、引き金に指をかけた。

 

「動くな」

 

 自身の絶対的優位を確信しながら、どすの利いた声を放つ。

 

「そのまま両手を上げて、ゆっくりとこちらを向け。従わなければ撃――ぶへっ!?」

 

 言うのを楽しみにしていた台詞を言い終える前に、相手の繰り出した裏拳が炸裂。

 

 殺人的な威力の一撃を顔面に受けた不審者は、鼻血を盛大に噴き出しながら仰向けに倒れた。

 

 力が抜けたその手から、モデルガンが零れ落ちる。

 

「そ、そんな……ちょっとしたドッキリのつもりだったのに、そんなガチめの一撃をお見舞いしてくるなんて……ごふっ……」

 

「ああ何だ、あんただったの? 何か変なのが寄ってきたのを感じたから、考えるより先に手が出てたわ」

 

 席に座ったまま振り返り、リコは冷めた声で言う。

 

 拳を叩き込んだ相手が知り合いだと判明しても、別にどうとも思っていない様子だった。

 

「……しれっと言ってますけど、これ……下手したら死んでる威力な気が……」

 

「死んでないんだからいいじゃない。ていうか、人に後ろから銃口向けてくるような奴は死なせちゃっても別にいいかなって思ったりするし」

 

「モデルガンですってばー……リコさんがビビッておしっこ漏らすとこが見たかっただけなんですよー……」

 

「はいはい、そりゃ悪かったわね。今ので昇天してくれなかったのが残念だわ」

 

 戯言を適当にあしらい、溜息交じりに尋ねる。

 

「――で、何であんたがここにいるのよ? フォルリ」

 

 名を呼ばれると全身黒ずくめの不審者は起き上がり、サングラスの上にある眉を八の字にした。

 

「あの、リコさん……今更ですけど、ちょっと反応薄くありません……? フォ、フォルリ!? な、何故貴様がここに!? ……って感じの衝撃的な再会シーンを期待してたんですけど……」

 

「普通は驚くとこかもしれないけどね。何かあんたの場合、いつどこで見かけてもしょうもないもの見たような脱力感しか覚えないのよ。そろそろどっかから湧いて出てくる頃じゃないかと思ってたし」

 

「ひ、ひどい……人をそんなゴキブリみたいに……」

 

「ていうか何よその格好。競走馬辞めて銀行強盗に転職したの?」

 

「あっ、これですか? これはもちろん、変装です!」

 

 意味もなく親指をビシっと立て、少女――フォルリは力強く宣言する。

 

 リコは死ぬほど面白くない漫才を見せられた直後のような顔で、割とどうでもよさそうに問いを重ねた。

 

「それが変装として成立してるかってのは、まあ置いとくとして……何であんたが変装する必要があんのよ?」

 

「えー? 分かりません? 有名税ってやつを回避するための策ですよー」

 

 何故そんなことも分からないのか、この馬鹿は――とでも言いたげな様子で、フォルリは大仰に肩を竦める。

 

「自分で言うのも何ですけどぉ、私って競馬界のアイドルっていうか、結構なビッグネームじゃないですかぁ。そんな私が素のままでそこら辺歩いてたら一般人のモブ共がワーワーキャーキャー騒ぎながら寄ってきて、色々とクソめんどくさいことになりますからぁ、出来るだけ目立たない格好で行動することにしたんですよー。任務遂行のためなら可憐な美少女フェイスを隠すことさえ厭わない私。まさにプロフェッショナルの鑑と言え――」

 

「誰も知らないわよ。あんたのこと」

 

「――え?」

 

「ここはアルゼンチンじゃなくて日本だから、誰もあんたのことなんて知りゃしないわ。顔隠す必要ゼロよ」

 

 冷静に告げられると、フォルリは受け入れ難い真実に直面したかのように狼狽した。

 

「い、いや、そんな……じょ、冗談ですよね……?」

 

「そう思うなら、そこら辺の観客つかまえて私はアルゼンチンのフォルリですって名乗ってみれば? 何言ってんのこいつって顔されるから。絶対」

 

「い、いやでも……うちの国って一応、国際パートⅠ……」

 

「パートⅠって言ってもピンキリだからね。割とキリの方って思われがちなのよ、うちは。こっちにはろくに情報入ってきてないから」

 

 残念ながら事実である。アルゼンチンの競馬は、日本の競馬ファンにとって馴染みが薄い。

 

 アルゼンチンに競馬があること自体を知らない者も多い。

 

「そういうわけであんたの知名度なんてゼロだから、その強盗コスプレやめてくれない? 見てるこっちが恥ずかしくなってくるんだけど?」

 

「そ、そんな……アルゼンチンの至宝たるこの私の名が轟いてないなんて……何ていう悲劇的惨状……」

 

 がっくりと肩を落としてから数秒後、フォルリは乱暴な手つきでサングラスとマスクを外し、ニット帽を脱ぎ捨てた。

 

 金糸のように艶やかな栗毛がはらりと落ち、実年齢より大分幼く見える童顔が露わになる。

 

「やっぱジャップってクソですよね! 救い難い無知蒙昧なイエローモンキー共です! アメ公の舎弟みたいなポジションから永遠に抜け出せない劣等民族です! そんなんだからキモオタとニートとロリコンとペドばかり量産するんです! ゴミにも程があります!」

 

 何故か日本人に対する憎悪を燃やし、人目もはばからず差別発言を連発する後輩の姿を見て、リコは思った。

 

 いいから鼻血拭けよ、と。

 

 

 

 

 

 

 大観衆が詰めかけた、スタンド前の立ち見エリア。

 

 その最前列――ゴール板を正面に臨む位置に、セイウンスカイ、グラスワンダー、スペシャルウィークの三人は立っていた。

 

 高松宮記念の発走時刻が近付き、周囲の熱気が徐々に高まっていく中、セイウンスカイがおもむろに口を開く。

 

「ねえ、グラスちゃんにスペちゃん……今日は私達、キングの応援に来たんだよね?」

 

「ええ……」

 

「うん……」

 

「エルちゃんは練習の都合で来れないみたいだから、私達三人でここに集まって応援しようって……そういう話だったよね?」

 

「はい……」

 

「そうだね……」

 

 現状を確認するような問いかけに、グラスワンダーとスペシャルウィークは微妙な顔で応じる。

 

 彼女達三人がそんなやりとりをしているのには、相応の理由があった。

 

 高松宮記念に出走するキングヘイローを応援するためやってきたこの場所で、想定外の事態に直面していたのだ。

 

「じゃあさ……」

 

 セイウンスカイは、首を横に向ける。

 

「さっきから私達と一緒にいる、その見慣れない人は……誰?」

 

 そこにいたのは、非常に目立つ風貌の少女だった。

 

 ロックシンガーが着るステージ衣装のような――とでも言うべきだろうか。肌の露出度が高い黒ずくめの服を着ており、乱雑に伸びた髪は不気味な紫色に染められている。

 

 その少女が何者かという問いに対して、グラスワンダーとスペシャルウィークは答える術を持たなかった。

 

 細長い耳と尾を見る限り、どうやら自分達の同族のようだが――知り合いでは全くない。

 

 本当に、どこの誰だか分からないのだ。

 

 中京競馬場の敷地内に踏み入ったあたりから既に、無言のまま背後霊のようについてきていた。

 

 最初はたまたま同じ方向に進んでいるだけかと思ったが、いつまで経っても離れていかず、ついには今日の観戦位置と定めた場所までついてこられてしまった。今も当然のように、自分達のすぐ隣に立っている。

 

 はっきり言ってしまえば、薄気味悪かった。

 

 キングヘイローの応援に意識を傾けたいのに、その存在が気になって今一つ集中出来ない。

 

 そういうわけで三人が微妙な顔を並べていると、少女の方もそれに気付いたらしく、小首を傾げながら口を開いた。

 

「何の話してるの?」

 

「いや、あなたの話だけど……」

 

「……? わたしの何が、そんなに気になるの?」

 

「いや、何がっていうか……存在自体が……」

 

 割と直球な疑問を、セイウンスカイは口にする。

 

 少女はようやく合点がいったのか、「何だそんなことか……」とでも言いたげな顔で疑問に答えた。

 

「わたしは、ただの迷子」

 

「ま、迷子……?」

 

「うん。フォルリとはぐれた」

 

「フォルリ……?」

 

「一緒に来た子。ちっちゃいけどわたしより年上。明るいふりして実は陰険。時々ゴミを見る目でわたしを見てる」

 

「……」

 

「でもフォルリがいないと国に帰れないから、今すごく困ってる」

 

「……」

 

「だから、あなた達と一緒にいることにした」

 

「いやいやいや……あの、全然意味分からないんだけど? 論理が飛躍しすぎっていうか、迷子なことと私達と一緒にいることが一ミリも繋がってないよね……?」

 

 訳が分からない女だと思っていたが、事情を聞いても全く訳が分からなかった。

 

 フォルリという名の知り合いとはぐれたことだけは理解出来たが、その後の結論が意味不明だ。話の前後に繋がりがなさすぎる。

 

「すごく丁寧に説明したのに……分かってもらえなくて悲しい」

 

「説明になってないくらい雑だった気がするんだけど……」

 

「あなた達と一緒にいれば神様か何かがわたしとフォルリを引き合わせてくれるって、わたしの第六感的な何かが言ってる。要約するとそういう話」

 

「…………うん、分かった。色々分からないんだけど、もう分かったことにしとくよ。頑張ってね」

 

 意思疎通が困難な相手であることを悟ったセイウンスカイは、面倒臭くなって会話を打ち切った。

 

 一方グラスワンダーは、ふと疑問を抱く。

 

(あれ……? この人……)

 

 派手な外見とは裏腹に、どこか茫洋とした雰囲気を纏った少女。

 

 その姿が、記憶にある何かと重なり合う気がした。

 

(前に、どこかで見たような……)

 

 しかし、詳細を思い出すことは出来ず――そのまま高松宮記念の発走時刻が近付いていった。

 

 

 

 

 

 

「で……結局あんたは何しに来たのよ?」

 

 リコが投げかけたその問いに、フォルリはハンカチで鼻血を拭きながら答えた。

 

「そんなの決まってるじゃないですかぁ。栄えあるアルゼンチン代表偵察部隊の隊長に就任したんで、記念すべき初任務として偵察に来たんですよー。副隊長のキャンディさんと一緒に」

 

「……キャンディって、あの馬鹿のことよね?」

 

「ええ。あのクソ馬鹿のことです」

 

 当然のように肯定されると、リコは何とも言い難い微妙な表情になった。

 

「偵察部隊だか何だか知らないけど、何であんなのを連れに選んじゃうのよ?」

 

「他に適任者がいなかったっていう、至ってシンプルな理由です」

 

「まあ……そうね。あんた陽キャのふりしたぼっちだし。割とガチでみんなから嫌われてるし」

 

「ひどっ!? 私ぼっちなんかじゃないですよー! 友達たくさんいますよー! 人望ありまくりですよー! 今回はたまたま、日本に偵察に行くって言ったらついてきてくれる人がキャンディさんしかいなかっただけですー!」

 

「はいはい。で、その唯一のお友達は今どこにいんのよ?」

 

「分かりません」

 

「は?」

 

「ちょっと目を離した隙にどっか行っちゃいました。今どこで何してやがんのか一切不明です」

 

 元々戯言に付き合う気分ではなかったリコだが、その返答で完全にやる気を失った。

 

 小さく溜息をついてから、パドックを映したターフビジョンに視線を戻す。

 

「……何でもいいけど…………もうすぐレース始まるから、ちょっと静かにしててくれる?」

 

 レース発走の約二十分前。

 

 十八名の出走馬がパドックに佇む時間も終わりを迎え、番号順に地下馬道へと姿を消し始めていた。

 

 大一番に臨む自らの教え子――緑の勝負服に身を包んだキングヘイローの様子を、リコは静かに見守る。

 

 勝敗への関心とは別種の感情を、その眼差しに込めて。

 

「グッバイヘイローの娘さんらしいですね。あの緑の子」

 

 外したサングラスの代わりに大きな丸眼鏡をかけながら、フォルリは言う。

 

 その声音は、先程までとは明らかに違っていた。

 

「リコさんが自ら選んだ代表メンバーの一人が、あの子って聞きましたけど?」

 

「……そうよ。あの子が、うちのチームの短距離担当」

 

 リコが前を向いたまま答えると、フォルリは笑った。

 

「いいんですか? あんなので」

 

 彼女が浮かべたその表情は、嘲りと蔑みを色濃く含む、冷ややかな笑みだった。

 

「これまでの競走成績見てもパッとしませんし……さっきパドックでじっくり観察してみましたけど、正直イマイチでしたね」

 

 キングヘイローの全てを見抜いたような口振りで、大国アルゼンチンの名馬は語る。

 

「身体の作りも身体の使い方も積み重ねた鍛錬の程度も、全て平凡。私の敏感な強者センサーにビビッとくるものが一つもありませんでした。期待外れです」

 

 辛辣な評価を、リコは真剣な面持ちで聞いた。

 

 競走馬の能力や性質について語る時、フォルリの言葉には嘘がない。

 

 このふざけた少女が深い知識と確かな眼力の持ち主であることを、リコは知っている。

 

「どうせ短距離担当にするなら、あの十八番の子の方がよかったんじゃありません?」

 

「エアジハードね。あんたの目からは、あっちの方が良く見える?」

 

「ええ。比べようもないくらいに」

 

 一番人気を背負う、八枠十八番。

 

 カナリア色の勝負服に身を包んだエアジハードは、静かな気迫を滲ませながら歩を進めていた。

 

「しなやかで無駄のない歩様……正中線が空の頂まで真っ直ぐに伸びるような、美しい立ち姿……このレースの出走馬の中では、明らかに頭一つ抜けています」

 

 

 

 

 

 

「どう思う? グラスちゃん」

 

 隣に立つセイウンスカイにそう尋ねられ、グラスワンダーは首を傾げた。

 

「どうって……?」

 

「このレースのこと。……正直な話さ、キングはジハードに勝てると思う?」

 

 グラスワンダーはキングヘイローと三度、エアジハードと二度、レースで対戦した経験を持つ。

 

 それに基づく意見を求められたことには、すぐに理解が及んだ。

 

 正直に答えるのは、心情的に難しかったが。

 

「……スプリント戦への適性という面では、ヘイローさんに分があります」

 

 ターフビジョンに映るキングヘイローの姿を注視しながら、慎重に言葉を選んで語る。

 

「あくまで私の中での印象ですが……ジハードさんは中距離寄りのマイラーで、ハイペースの消耗戦よりミドルペースの決め手勝負で強みを発揮するタイプです。距離が短い分ハイペースになりがちなスプリント戦が向いているとは思えません」

 

 距離や馬場を問わないオールラウンダーというのは、そうそういるものではない。

 

 多くの競走馬には得手不得手があり、不得手な条件のレースでは格下相手に遅れをとることも珍しくはないのだ。

 

 そうした観点から言えば、今回のエアジハードは大きな不安要素を抱えている。

 

「対するヘイローさんは去年のスプリンターズステークスで三着に入った実績があり、この距離では一線級と互角にやれることを証明済みです。ヘイローさんの勝ち気な性格と合っているのでしょうか……もしかしたらマイルや中距離よりこちらの方が向いているのではとさえ、個人的には思えました」

 

 中京競馬場の千二百メートルを舞台に戦うなら、状況を味方につけるのは高いスプリント適性を持つキングヘイローの方だろう。

 

 それは気休めなどではなく、両者の性質を知るグラスワンダーの正直な見解だった。

 

「ですが……」

 

 僅かに表情を曇らせ、目を逸らせない事実を告げる。

 

「慣れや適性といった要素を除いた、純粋な競走能力……スピードやスタミナの絶対値では、ジハードさんの方が数段上です」

 

 結局のところ、最後にものを言うのは実力。

 

 適性面の有利を生かしてキングヘイローが勝利する光景が、グラスワンダーにはどうしても想像出来なかった。

 

 多少上手に立ち回った程度では覆せないだけの差が、両者の間にはあるのだ。

 

「ま……そうだよね」

 

 淡々とした様子で、セイウンスカイはグラスワンダーの意見を肯定した。

 

「確かに地力じゃジハードのが上だよ。現状だとキングは、色々な面でジハードに比べて劣ってる」

 

 GⅠ未勝利のキングヘイローに対し、エアジハードはGⅠ二勝。

 

 ここまでの対戦成績は、エアジハードの三戦全勝。

 

 実績からも直接対決の結果からも、エアジハードがキングヘイローより格上であることは明らかだ。誰に意見を求めたところで、きっとグラスワンダーと同じようなことを言うだけだろう。

 

 それを理解し、否定しようがない事実として受け入れた上で、セイウンスカイは言葉を続けた。

 

「でも……全てで劣るわけじゃない。キングがジハードに優ってる部分だってある」

 

 ある意味では本人以上に、彼女はキングヘイローという競走馬を理解していた。

 

 そして、信じていた。

 

 キングヘイローが今日まで努力を重ね、血反吐を吐くような思いで作り上げた「強さ」は、エアジハードのそれにも決して負けはしないと。

 

「だから、心配いらない」

 

 隣に並ぶ仲間達に顔を向け、淡く微笑む。

 

「キングはこのレースを勝って、表彰台に上がるよ。必ずね」

 

 

 

 

 

 

 パドックを出て、本馬場へと続く地下馬道を一列に進む、高松宮記念の出走馬十八名。

 

 その列の後ろから六番目に位置するキングヘイローは、静かな足取りで靴音を響かせながら、自分自身の中にある不安や緊張と向き合っていた。

 

 今日のレース、当然ながら敵はエアジハードだけではない。

 

 去年のスプリンターズステークスの覇者、八枠十六番ブラックホーク。

 

 フランスでGⅠアベイ・ド・ロンシャン賞を制した実績を持つ、三枠五番アグネスワールド。

 

 前哨戦のシルクロードステークスを快勝して勢いに乗る、二枠三番ブロードアピール。

 

 いずれも、日本競馬の短距離路線では屈指の強豪だ。他の面々も実績馬ばかりで、簡単に勝てるような相手は一人もいない。

 

 そんな連中と戦うことに不安を全く覚えないと言えば、酷く滑稽な虚勢になってしまうだろう。

 

 レースが始まるのが怖い。ゲートのある場所に行きたくない。

 

 出来ることなら、今すぐこの場から逃げ出してしまいたい。

 

 そうした弱音を吐き続ける自分が心のどこかにいるというのが、正直なところだ。

 

 我ながら情けないと思い、溜息が出る。しかし一方で、そんなものかもしれないと納得してしまう自分もいた。

 

 勝負から逃げたいと思う気持ちや、負けるのが怖いと思う気持ちは、きっと誰の心の中にもあるものだ。どれだけの強さを持ったとしても、弱い心を完全に消し去ることは出来ない。

 

 大切なのは弱さを捨てることではなく、抱えること。

 

 自分自身の本音と向き合い、競馬場に背を向けたい衝動に駆られながら、歯を食いしばって前に進む強さを持つこと。

 

 それが出来る者だけが、名馬と呼ばれる存在になれるのだろう。

 

「十一度目……か……」

 

 誰にともなく呟く。

 

 GⅠレースに挑むのは、これで十一度目。同期のライバル達が順調にタイトルを重ねていく中で、十度も敗戦を重ねてきたのだ。

 

 華々しいなどとは、お世辞にも言えない戦績だろう。

 

 格下の連中に陰口を叩かれ、物笑いの種にされてしまうのも無理はない。

 

 観客席にいる人々も、テレビやスマートフォンの画面越しに競馬を観ている人々も、もう自分のような凡才には何も期待していないのかもしれない。

 

 けれど――

 

「関係ないわね。そんなこと」

 

 決然と言い放ち、顔を上げた。

 

 何度目の挑戦だろうがこれまでの戦績がどうだろうが、そんなことは関係ない。周囲の目や世間の評価なども、気にする必要は一切ない。

 

 今の自分がやるべきことは、たった一つだけ。

 

「今日、ここで勝てばいい。――ただそれだけなんだから」

 

 千二百メートルを全力で走り、ゴール板の前を先頭で通過する。

 

 それだけでいい。

 

 ただそれだけで、道は拓ける。

 

 今度こそ本当の意味で、世界の頂点を目指すチームの一員になれる。

 

 胸に抱えた弱さに克ち、気力を漲らせた瞬間。キングヘイローの脚は長い地下馬道を抜け、大観衆の視線が集まる本馬場に踏み入った。

 

『GⅠの称号よ今度こそ! 七枠十三番はキングヘイロー!』

 

 入場アナウンスが響き渡り、歓声が湧く。

 

 駆け足に移って正面スタンド前を横切りながら、彼女は束の間だけ思い返した。

 

 今日のレースを勝つために乗り越えてきた、短くも過酷な日々を。

 

 

 

 

 

 

 キングヘイローとセイウンスカイに課された「障害練習」は、第二段階に入ってから別物のように難度が上がった。

 

 地面に並べられていたロープは陸上競技用のハードルに変わり、より正確な飛越が必要になった。走る回数は日を追うごとに増やされていき、慣れないハードル走の繰り返しは二人の身体に重い疲労を蓄積させていった。

 

 それをやり遂げた後に移行された第三段階は、最早障害レースそのものだった。練習場の一角にある障害馬専用のコースを借り、短い距離ではあるが本物の障害物を用いた模擬戦が行われたのだ。

 

 そして、練習開始から七日目の夕刻。

 

「はいお疲れ様。今日はここまででいいわよ」

 

 リコがそう言った時、キングヘイローとセイウンスカイの二人は既に体力を使い果たし、地面に座り込んだまま立ち上がれない状態になっていた。

 

「なかなか飛越が様になってきたじゃない、ヘイローちゃん。タイムも縮まってきたし、この調子なら本番でも良い結果が出せそうね」

 

 優しい声音で、着実な進歩を見せ始めた教え子を褒めるリコ。

 

 しかしその言葉には、続きがあった。

 

「――って、言ってあげたいとこなんだけどね。ほんとは」

 

 キングヘイローを見下ろす目から、一切の感情が排される。

 

「ただGⅠを獲るってだけならまだしも、あのジハードちゃんに真っ向勝負で勝つ気なら……これでもまだ足りないってのが、正直なところよ」

 

 それを聞いて青褪めたのは、キングヘイローではなくセイウンスカイの方だった。

 

 リコが言わんとしていることの危険性を悟った彼女は、半ば反射的に口を開く。

 

「リコさん、これ以上は……」

 

「分かってる。……私だって元競走馬よ。今のあなた達がどれだけきつい状態かは、十分理解してるつもり」

 

 肉体を強化するための練習も、度を越せば肉体を痛めつけるだけの行為に変わる。

 

 今の二人が――特にキングヘイローがその一歩か二歩手前の状態にあることは、リコも承知の上だった。

 

 これ以上無理をさせれば、無事でいられる保証はない。

 

「だから強制はしない。これから私がする問いへの答えは、あなたの意思で決めていいわよ。ヘイローちゃん」

 

 下を向きながら荒い呼吸を繰り返し、体中の水分が出尽くしそうなほどの汗を垂らすキングヘイロー。

 

 その姿を見つめ、静かに問う。

 

「まだ、やれる?」

 

 それは、背中を鞭打つに等しい言葉だった。

 

 既に限界近くまで追い込まれているキングヘイローに、立ち上がって再び走ることを求めているのだ。

 

 身体のどこかを壊し、二度と走れなくなる危険を知りながら。

 

「無理と判断したなら、そう言ってくれていいわ。別に責めたりしないから」

 

 問いに対する答えを、キングヘイローはすぐには返さなかった。

 

 彼女自身、答えを見つけられないでいたのか。無言で俯いたまま苦痛と苦悩に苛まれた姿を晒し続けた。

 

 その口がようやく開いたのは、何十秒も経った後だ。

 

「前に……」

 

 掠れた声で、囁くように言う。

 

「前にあなたと勝負して、負けた時……私に言ったわよね? 今の自分じゃどうやっても勝てない化物が、十人はいるって……」

 

「……ええ、言ったわ」

 

「合宿に来た、あのシアトルスルーも……その中の一人……?」

 

「そうよ」

 

「あんなのが……他にまだ、九人もいるのね……?」

 

「ええ」

 

「じゃあ……」

 

 地面を見つめる瞳に、絶望の影が差す。

 

「その十人より……あのシアトルスルーより強い人もいるの? 世界には……」

 

「……いるわ」

 

 やや躊躇う様子を見せてから、リコは答えた。

 

 短いがはっきりとした返答を聞き、キングヘイローは世界の広さを再認識する。

 

「そう……」

 

 馬鹿げた話だと、つくづく思う。

 

 全盛期より衰えた現在のリコでさえ、自分にしてみれば別次元の存在だ。どんな条件で何百回戦っても勝てる気がしない。

 

 そんなリコがどうやっても敵わない者が十人もいて、その十人より格上の者までいるらしい。

 

 信じ難いことだが、きっと事実なのだろう。

 

 世界は広く、上には上がいる。分厚い壁の向こう側には、さらに分厚い壁が当然のように立ちはだかっている。

 

 その全てを乗り越えなければ、一番にはなれない。

 

 世界の頂点という場所は、まるで宇宙の果てのように遠い。

 

 何をどう考えても、無理だ。自分のような凡才の――小さな島国の中でも一番になれない程度の脚で辿り着ける場所ではない。

 

「だったら……」

 

 膝に力を込め、苦痛を堪えて立ち上がる。

 

「…………もっと、頑張らなきゃね」

 

 地面を踏み締め、障害コースのスタート地点に向かって歩き出す。

 

 もう一度走るために。

 

 練習を続け、少しでも強くなるために。

 

「キング……」

 

 セイウンスカイは呆然とした面持ちで、遠ざかっていく背中を見つめる。

 

 静かに歩を進めながら、キングヘイローは呟いた。

 

「いくら頑張ったって、無駄かもしれない」

 

 常に胸中にあった、不安と迷い。

 

 それを口に出したのは、初めてのことだった。

 

「正直、そう思う時はあるわ。もう何十回も、何百回も……数えきれないくらい、そんな風に思ってる。何年経ってもGⅠの一つも獲れない私が、世界一を決めるような舞台で通用するわけないってね」

 

 挑まなければならない敵は、あまりにも強い。

 

 世界の頂点へと続く道は、悪夢のように険しい。

 

 その事実に圧し潰されそうになり、何もかも放り出して楽になりたいと願う自分がいる。

 

 いくら強がってみせても、本当の自分はいつだって弱音を吐いている。

 

「私はあなた達みたいな天才じゃないし……切れる脚はないし、スタミナもパワーもないし、頭も足りない。それは自分でも分かってる。けど……」

 

 レースに出る度、自分の非才を痛感してきた。

 

 敗北の悔しさを何度も味わい、子供の頃に抱いた夢が愚かな妄想でしかなかったことを思い知らされた。

 

 一番強い競走馬――自分がそんなものになれる器でないことは、もうどうやっても否定出来ない。

 

「それでも……」

 

 痛む脚を、前に進める。

 

 心の奥底の弱音に抗い、歩き続ける。

 

 現実を知り、自信と意地を砕かれた後も残った一欠片の何かを、短い言葉に変える。

 

「私は、まだ……諦めてないから」

 

 彼女が走り続ける理由は、突き詰めればそれだけだった。

 

 信念などという大仰なものではなく、責務や使命感の類でもなく、もっと純粋で真っ直ぐな気持ち。

 

 レースに勝つことを――子供の頃に抱いた夢を諦めたくないという、どんな弱音も打ち砕く不屈の意思だ。

 

 諦めないから、勝負から逃げない。

 

 諦めないから、何度挫けても立ち上がる。

 

 自分より遥かに強い相手にも、歯を食いしばって挑み続ける。

 

 ただそれだけの話であり、彼女にとっては当然のこと。今までやってきたことをこれからも続けると表明しただけ。

 

 しかしそれが、リコの胸を深く衝いた。

 

「――昔々のお話です」

 

 奇妙な言葉が耳に届き、キングヘイローの歩みが止まる。

 

 何かと思い振り返った先にあったのは、どこか寂しげに笑うリコの姿だった。

 

「地球の裏側のとある国に、調子こいた馬鹿がいました。他人より脚が速いことだけが自慢だったそいつは、金と名声が欲しくて競馬の世界に入り、順調に勝ち続けていました。相手が弱かっただけなのかもしれませんし、運が良かっただけなのかもしれませんが……そいつはアホなので自分が超すごい大天才だからだと都合良く解釈しました。そうしている内に同じくらいアホな取り巻き共に囲まれて無敵だ最強だと持て囃されちゃったもんで、そいつの勘違いはもう止まりません。自分こそが世界史上最強の競走馬だとかマジで思っちゃってる始末でした」

 

 自らの教え子と目を合わせ、アルゼンチンの四冠馬は語る。

 

 ふざけたような語り口にもかかわらず、その眼差しは真剣だった。

 

「でも……その勘違いも永遠には続きませんでした。他の多くの奴らと同じように、現実を知る時ってのがそいつにも訪れたのです」

 

 自嘲の笑みを深め、絶望の記憶を明かす。

 

「ある日のことです。トレーニングをサボって街中を遊び歩いてたそいつは、見ず知らずのガキんちょに突然勝負を挑まれました。最初は相手にしないつもりでいましたが……まあ色々あって勝負を受けることにしたそいつは、ダメな悪役のテンプレをなぞるかのような恥ずかしい負けっぷりを披露してしまいました。自分より十歳以上も年下のガキんちょに何十馬身差かも分からないほどぶっちぎられて、頭の中が真っ白になるくらいの惨敗を喫してしまったのです。敗北を受け入れられなくて勝負の後にそのガキんちょをボコろうとした結果、逆にボコり返されるというダメすぎるオチまでつきました」

 

 栄光の日々を終わらせた、一人の幼子。

 

 上には上がいるという現実を突きつけてきた、血色の瞳の怪物。

 

「そう……調子こいてた馬鹿を完膚なきまでに叩き潰したそのガキんちょこそが、真の怪物だったのです。自分を世界最強だと思っちゃってた恥ずかしいアホは、本当の最強の前では話にならないクソザコでした。そのことを思い知らされた時、そいつのレースは終わったのです」

 

 己の弱さへの呆れと、もう戻れない過去への悔恨が、その声音には滲んでいた。

 

「元々そいつには、夢とか信念なんてものはこれっぽっちもありませんでした。あったのは、アホどもに持ち上げられてる内に出来上がってたつまんないプライドだけ。それが砕かれた後はもう何も残ってなくて、一歩も前に進めなくなりました。自分を倒したガキんちょに再戦を申し込む勇気も持てず、競走馬を続ける気力も湧かず、何もかも放り出して一人寂しく競馬場を去っていきましたとさ。おしまいおしまい……っと」

 

 話を締め括り、肩を竦める。

 

「まあそんなのが、今あなたの前にいるおばさんの昔話。アホらしすぎて声も出ないでしょ?」

 

 明かされた過去に、キングヘイローはどう反応したらいいのか分からない。

 

 リコは目を瞑った。

 

「自分より遥かに強い奴がいるっていう現実が受け入れられなくて、その現実に抗うことも出来なかった。胸の内に何もないまま、どこも目指さずに走り出してたから、どこにも辿り着けずに終わった。これはそんなしょうもない奴の、しょうもない話」

 

 目を開け、前を見る。

 

 諦めずに走り続ける少女を――かつての自分になかったものを持っている競走馬を、真っ直ぐに見据える。

 

「あなたは違うわ」

 

 澄んだ声音で紡がれた言葉が、キングヘイローの胸に響いた。

 

「私に負けてもシアトルスルーの強さを目の当たりにしても、走り続けることをやめなかった。今だってそう。苦しさや悔しさに耐え抜いて、弱音を吐きそうになる自分に打ち克って、懸命に前に進もうとしてる。だから……」

 

 寂しげだった自嘲の笑みが、優しい微笑みに変わる。

 

「あなたのレースは続いてる。まだゴールじゃない」

 

 敗北と挫折を経験した女は、誰よりも強く信じていた。

 

 自身の弱さを乗り越え、何度でも立ち上がれる者だけが、輝く未来に辿り着けることを。

 

「先頭を走ってた奴が失速して馬群に沈むこともある。一番後ろを走ってた奴が他の全員を抜き去ることだってある。……終わってみるまで分からないものよ? レースって」

 

 

 

 

 

 

 レース発走の約五分前。

 

 返し馬と呼ばれるウォーミングアップを終えた出走馬達が、バックストレッチに置かれたスターティングゲート前に集い、ゲート入りを待つ時間。

 

 キングヘイローは、自身の最大の敵に歩み寄った。

 

「ジハード」

 

 名を呼ばれたエアジハードは、首から上だけを僅かに動かす。

 

 格上の相手の冷徹な眼差しを静かに受け止め、キングヘイローは言った。

 

「今日ここで私を倒して、日本代表になるつもりなのよね? あなた」

 

「……そう言った筈だよ。二週間前にね」

 

 感情を見せず、平坦な声音で応じるエアジハード。

 

 その内面に踏み込むように、鋭く問う。

 

「なりたいの? 世界一に」

 

「……」

 

「世界中の名馬が集まるレースで、勝利を手にして……世界で一番強い競走馬になるつもりなの?」

 

「当然だろ」

 

 目を細めてから放たれた返答には、強い情念が滲んでいた。

 

「元々私は、そのつもりで今日までやってきた。それはこれからも変わらない。君には悪いけど、日本代表の座は私が貰う。日本最強の短距離馬としてドバイに行き、世界各国の名馬を倒す」

 

 キングヘイローから視線を切り、背を向けて歩き出す。

 

「誰よりも強くなって、競馬の世界の頂点に立ってみせるよ。必ずね」

 

 遠ざかっていく後ろ姿を見据えながら、キングヘイローは思った。

 

 本気で言っている――と。

 

 エアジハードの言葉には一片の偽りもない。彼女が世界一になるための努力を重ねてきたのは事実であり、だからこそ今の強さがある。

 

 高い志と強固な精神を原動力とするその走りに、自分は三度に渡って敗れてきた。能力だけではなく内に秘めたものでも、自分と彼女の間には大きな差があったのだ。

 

 けれど、今日は違う。

 

「私もよ」

 

 そう言った瞬間、エアジハードが立ち止まった。

 

 これから戦う相手――同じ夢を追う少女の背中に、本心からの言葉をぶつける。

 

「この世界に入る前から、私も目指し続けてる。世界の誰よりも強い競走馬を」

 

 鼻で笑われるかもしれない。呆れられるかもしれない。

 

 未だGⅠ馬にもなれていない凡才が「世界一」を口にしているのだから、身の程知らずの戯言にしか聞こえないだろう。

 

 だが、それで構わない。

 

 相手にどう思われようが、今この時だけは、胸を張って言うべきだと思った。

 

 諦めるのが大嫌いな自分自身を、どこまでも貫くために。

 

「だからこのレース……あなたには譲らない。私が勝って、世界に挑む資格を掴む」

 

 唇の端を吊り上げ、笑う。

 

 積み重ねてきた過去を胸に抱き、譲れないものを背負った現在を踏み締め、目指すべき未来を真っ直ぐに見据えて。

 

 誇りと自信を胸に、不敵な笑みで宣言した。

 

「キングにふさわしい走りを、見せてあげるわ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六話「孤独な道」

 

 

 学園の中庭に置かれたベンチに、浅黒い肌の少女は腰を下ろしていた。

 

 手に持つスマートフォンの画面には、ファンファーレが鳴り響く中京競馬場の光景が映し出されており、彼女はそれをつまらなそうに見つめていた。

 

 そこに、髪の長い少女がやってくる。

 

「あれ? 高松宮記念観てんの?」

 

 浅黒い肌の少女は友人を一瞥した後、画面に視線を戻して答える。

 

「今日は練習なくて暇だからね。どっか出かける気分でもないから、これでも観てよっかって思っただけ」

 

「ふーん……」

 

 画面を覗き込みつつ、髪の長い少女は微かな疑問を覚えた。

 

 浅黒い肌の少女とはそれなりに長い付き合いだが、競馬中継を視聴している姿を見たのはこれが初めてだった。

 

 元々、競馬に夢や熱意を抱いているタイプではないのだ。

 

 競走は仕事と割り切っていて、GⅠだろうが何だろうが、自分と関わりのないレースにはほとんど興味を示さない。そんな性格の持ち主だ。

 

 それに――

 

「このレースって、あいつも出てるんじゃなかったっけ?」

 

「あいつ?」

 

「キングヘイロー」

 

 その名を告げられると、浅黒い肌の少女は一瞬固まった。

 

 二週間前、彼女はキングヘイローと揉め事を起こしかけたばかりだ。

 

「ああ……出てるよ。それが?」

 

「あんた嫌いじゃん。あいつのこと」

 

「……別に、あれのために観てるわけじゃねーし」

 

 吐き捨てるように呟き、眉間に皺を寄せる。

 

「てかさ、あんな鈍足が勝負に絡んでくるわけないじゃん。どうせまたレースが終わる頃に後ろからちょっとだけ伸びてきて、掲示板に入るのがやっとって感じでしょ? で……予想屋のおっさん達にいい走りだったとか褒められて終わり、と……アホらし」

 

 画面の向こうでは、既に各馬のゲート入りが始まっていた。

 

 静かな足取りで四番の枠に収まるキングヘイローに、浅黒い肌の少女は冷めた眼差しを向ける。

 

「勝てなきゃ意味ねーんだよ。親がすごかったってだけで、いつまであんなのを甘やかすんだっての。まったく」

 

「……」

 

 キングヘイローを露骨に嫌悪する友人を、髪の長い少女はどこか物言いたげな顔で見つめた。

 

 

 

 

 

 

 高松宮記念のスタート地点。

 

 奇数番の八人の後に偶数番の九人、そして最後に大外十八番のエアジハードという順でゲート入りは進み、十八人全員がそれぞれの枠の中に収まった。

 

『高松宮記念、GⅠ。芝の千二百メートル。今年は十八人で争われます。マイネルマックスが収まって、最後にエアジハードです。十八人のゲートイン完了です』

 

 係員がゲートから離れると同時に、発走台の上のスターターがスイッチを入れる。

 

 ゲートの前扉が一斉に開き、十八人が放たれた矢のように飛び出した。

 

『スタートしました!』

 

 芝を蹴り上げ、バックストレッチを駆け抜ける十八人。

 

 勢いに任せて前に出る者と抑えて後ろにつける者に分かれ、瞬く間に隊列が出来上がる。

 

『十八人、綺麗なスタートを切りました! まず先行争いに入ります! アグネスワールド! しかしこれを制してシンボリスウォード! あるいはメジロダーリング! ダイタクヤマト四番手につけました! その後ろ、ブラックホークは五番手がっちりとキープ!』

 

 アナウンサーが各馬の位置取りを正確に伝えていく。

 

 目立って出遅れた者はおらず、大逃げのような奇策に出た者もいない。

 

 全員が無難にスタートを決め、出足の速い順に並ぶ形になった、波乱のない幕開けだった。

 

『あとは六番手集団に内からタイキダイヤ! あるいはマイネルラヴ! その内からディヴァインライト! あるいはトロットスターです! あとはトキオパーフェクト! その後方にキングヘイロー! 後ろから六人目くらい!』

 

 キングヘイローがいるのは、中団を形成するグループのすぐ後ろ。

 

 中団と後方の境目辺りの位置だった。

 

『ブロードアピールが後ろから五人目! そのあとマイネルマックスとスピードスター、タイガーチャンプ、ストーミーサンデーの順です!』

 

 一拍置き、アナウンサーは声に力を込める。

 

『そして最後方! ここにいました! 一番人気エアジハード!』

 

 大外枠からスタートしたエアジハードの位置は、隊列の最後方。

 

 前を行く十七人を射程圏に収めつつ、静かに脚を溜める戦法をとっていた。

 

 

 

 

 

 

(想定よりやや縦長気味……だが、慌てるほどの誤差でもない)

 

 先頭までの距離を目測し、エアジハードは内心で呟く。

 

 僅かな誤差はあるものの、レースは彼女が思い描いていた通りの展開になっていた。

 

 自身の位置取りも問題ない。今日は他の十七人を後ろから見る形でレースを進めると、もう随分前から決めていた。

 

 従って、後は直線を迎えるまで脚を溜めるだけ。

 

 この程度の差なら、先頭集団が多少粘ったところで容易く差し切れる。

 

 そう思い、自身の勝利を揺るぎないものと信じながらも、彼女は言葉にし難い違和感を覚え始めていた。

 

(……何だ? この感覚は……)

 

 何の問題もなく、想定通りに進んでいるレース。

 

 目を引く奇策に出た者など一人もいない、平凡な展開。

 

 けれど、何かがおかしい。どこかで何かが、通常のレースのそれとは微妙に違っている気がする。

 

 そしてその違和感は、少し前を走るキングヘイローを原因としたものに思えてならない。

 

(気のせいか……いや……)

 

 緑の勝負服を身に纏い、中団と後方の境目ほどの位置を淡々と走る対戦相手の背中に、視線を注ぐ。

 

 確信に近い疑念を、その眼差しに込めて。

 

(奴が、何かをしている……?)

 

 しかし彼女の洞察力をもってしても、違和感の正体をすぐに見破ることは出来なかった。

 

 

 

 

 

 

「ヘイローさん、いつもよりちょっと後ろかな……」

 

 キングヘイローの位置取りを見て、スペシャルウィークが不安げに呟く。

 

 グラスワンダーもそれに同調した。

 

「出遅れたわけではなさそうですが……ポジション争いでやや後手を踏んだのかもしれません。スプリント戦は開始数秒で勝負が決まると言われるくらい、スタート直後の争いが熾烈ですから」

 

 ほんの僅かな位置取りの違いが、競馬のレースでは勝敗を分かつ要因となる。

 

 自分にとっての理想の位置を他人に奪われてしまえば、その分を挽回するのは難しい。

 

 決着までの時間が短いスプリント戦ではなおさらだ。

 

「問題ないよ。作戦通りだ」

 

 薄い笑みを浮かべ、セイウンスカイが言う。

 

 グラスワンダーとスペシャルウィークは首を傾げた。

 

「作戦?」

 

「今日はあれくらいの位置で勝負するって決めてたんだよ。いつもより後ろに寄ったあの位置取りには、ちゃんと意味がある」

 

 彼女は全てを知っていた――というより、キングヘイローに今日の「作戦」を授けたのは、他ならぬ彼女だった。

 

「あれは――」

 

「ペースの操作」

 

 説明を先取りするように呟いたのは、グラスワンダーでもスペシャルウィークでもない。

 

 茫洋とした雰囲気を纏う、ロックシンガーのような出で立ちの少女だった。

 

「あの緑の子……周りの子達の意識を自分に向けさせながら、少しずつペースを落としてる」

 

 僅かに細められたその両眼が、キングヘイローの走りを注視する。

 

「自分以外の十七人の内、十六人をあえて無視して、一番後ろにいるあの黄色い服の子に勝つためのレースをしてる。……そうでしょ?」

 

「う……うん……」

 

 若干戸惑いながら、セイウンスカイは頷く。

 

 何もかも今言われた通りだが――まさかレースが始まって三十秒も経たない内に、作戦の意図まで見抜く者がいるとは思っていなかった。

 

 何故か自分達と一緒にいる、名も知らない少女。

 

 一切の感情を見せないその横顔に、未知の生き物を見るような目を向けた。

 

(この人……)

 

 

 

 

 

 

 前を走っていた一人が、ちらりと後方を確認する。

 

 その挙動に合わせて、キングヘイローは少し――本当にほんの少しだけ、走る速度を落とした。

 

 それに引き摺られるように、後方を確認した一人が自身の速度を落とすと、すぐに連鎖反応めいたことが起こった。

 

 その周囲にいた数人も速度を落とし、さらにそれを見た数人も同様に速度を落としたことで、レース全体のペースが遅くなったのだ。

 

 だがその事実に気付いた者は、この時点では一人もいなかった。

 

 不自然なスローペースを意図して作り出した、キングヘイロー自身を除いて。

 

(ここまでは、作戦通り)

 

 内心でそう呟き、キングヘイローは微かに笑う。

 

 事前に想定していた通りに事は運んでいた。我ながら上出来だと感心しつつ、妙な感慨に一瞬だけ浸る。

 

(まったく、おかしなものね……)

 

 緩急を巧みに使い分け、他人の目を欺き、レース全体を支配する狡猾な戦術。

 

 自分が今披露しているこれは、自分本来の走りではない。

 

(さんざんあいつに騙されて、苦い思いをさせられてきた私が……今はあいつの真似をしてるんだから……)

 

 変幻自在の脚を武器とする逃亡者、セイウンスカイ。

 

 何度もレースで対戦してきたライバルであり、長い時間を共に過ごしてきた腐れ縁の相手。

 

 その走りをこうして真似する日が来るとは、少し前までは思ってもみなかった。

 

 

 

 

 

 

「頼みがあるの」

 

 三日前の日没間際。練習を終えて寮へと帰る途中、キングヘイローはセイウンスカイと向き合い、そう言った。

 

 その真剣な眼差しを見て、セイウンスカイは怪訝な顔をする。

 

「どしたのキング? そんな改まって」

 

「……高松宮記念まで、あと三日。短い間だったけど、私なりにやれることはやってきたつもりよ」

 

 自身の現状認識を、キングヘイローは静かに語る。

 

「身体が壊れる一歩手前まで自分を追い込んだし、一分一秒も無駄にせず練習に打ち込んできたと思ってる。以前より力をつけたって実感もある。でも……」

 

 苦い感情が、声音に滲む。

 

「まだ、足りない。あいつ……エアジハードに勝つには、これで足りてるとは思えない」

 

 障害練習の初日に目撃した、エアジハードの疾走。

 

 その時受けた衝撃は、拭えない恐怖となって記憶に刻まれていた。

 

 純粋な速さ比べで今の自分に勝ち目があるとは、残念ながら思えない。

 

「だから、こんなこと言いたくはないんだけど……あんたの力を……いえ、知恵を借りたいの」

 

 苦い顔で溜息をつき、キングヘイローは目を瞑る。

 

 本当に、こんなことは言いたくなかった。

 

 借りを作るようで癪だったし、情けないと呆れられるかもしれなかったから。

 

「はっきり言ってあんたは色々と雑だし、私生活ではもう最低なくらいズボラだし、いい加減で不真面目で、たまに本気で蹴り入れたくなるくらいテキトーな奴だけど……」

 

「……」

 

「でも、正直……敵わないって思ってる」

 

「……」

 

「相手の実力を見抜く目とか、レースの展開を読む力とか、周囲の目を欺く奇策とか……そういった面で私はあんたに到底敵わないし、他の誰も敵わないんじゃないかとも思う」

 

 目の前に立つ、腐れ縁の相手。

 

 知略に長けた芦毛の二冠馬を見据え、確信を込めて告げる。

 

「私の知る限り、一番レースが上手い競走馬はあなたよ。セイウンスカイ」

 

 つまらない意地を捨て、勝利を掴むために懇願する。

 

「だからお願い。教えて。もしあなたが今、私と同じ立場で、能力も適性も何もかも私と同じだったなら……あのエアジハードを相手に、どう戦うのかを」

 

 セイウンスカイは目を瞑り、しばしの間沈思した。

 

 それは十数秒程度のことだったが、返答を待つキングヘイローには、その何十倍も長い時間に感じられた。

 

 やがて考えがまとまったのか、閉じていた瞼がゆっくりと開く。

 

「後ろから行く」

 

 その一言から、説明は始まった。

 

「まずはっきり言っておくと、キングの脚は逃げには向いてない。テンからすごいスピードでとばせるってタイプじゃないし、スタミナにも難がある。私と同じようなレースをしようとしたら、直線半ばくらいで馬群に沈むことになるよ。ダービーの時と同じようにね」

 

 惨敗したレースの記憶を掘り起こされ、キングヘイローは奥歯を噛む。

 

 だが、文句や反論は口にしなかった。

 

 セイウンスカイが真剣であることは、その表情を見れば分かる。

 

 こちらの求めに真剣に応じようとしているからこそ、彼女はあえて辛辣な言葉を使っているのだ。

 

「だから道中は後ろから。それもいつもより少し後ろの、中団と後方の境目あたりが理想かな。ペースが遅かったら前目につけようなんて考えは最初から捨てて、後ろで出来るだけ脚を溜めてからの直線勝負って決めた方がいい。きっとキングは、そういう風に割り切った方が力を出せるタイプだから」

 

 キングヘイローの性格も考慮した上で後方待機策を勧め、セイウンスカイは言葉を続ける。

 

「で……その後ろの位置で、ちょっとだけ細工をする」

 

「細工?」

 

「無難にスタートして普通に走って、自分を含めた全員の位置取りが大体決まったあたりで、少しずつ走るペースを落とすんだよ。みんなにバレないようにさりげなく、本当に少しずつね」

 

「それって……まさか……」

 

「そう。レース全体のペースを落とすための作戦だよ」

 

 芦毛の二冠馬の眼差しは、冷徹な策士のそれと化していた。

 

「極端なハイペースや極端なスローペースは、走り慣れた人なら体感で分かるものだけど……もうちょっと微妙なレベルになると案外分からないものなんだよね。少なくとも、コンマ一秒や二秒の違いまで正確に把握出来てる人はまずいない。GⅠをいくつも獲るような強豪であってもね」

 

 レースを走る者の多くが抱える、不正確な体内時計という欠陥。

 

 レースを支配する術に長けた二冠馬は、それを誰よりも熟知していた。

 

「だからどんな人も、レース中は他人を気にしてる。周りと比べて自分のペースはどうか……後続を離しすぎていないか、先頭に離されすぎていないか……そんなことを考えながら走ってるってのが実情だよ。その習性みたいなのを利用して、意図的にスローペースを作り出そうってこと」

 

「言いたいことは、大体分かってきたけど……二つ疑問があるわ」

 

「何?」

 

「その作戦だと、私自身も後方に位置取ることになるのよね? それなのにわざわざレースをスローにする意味は……?」

 

 コース形態や馬場状態にもよるが――基本的に、ハイペースのレースでは後ろにいる者が有利になり、スローペースのレースでは前にいる者が有利になる。

 

 ハイペースでは前にいる者の消耗が激しいのに対し、スローペースでは消耗が少ないまま最後の直線を迎えられるからだ。

 

 セイウンスカイの目論見通りスローペースを作れたとしても、自身が後方にいたのではその利を得られない。

 

「簡単だよ。一番厄介な相手のエアジハードは、キングよりもっと後ろにいるから」

 

「……どうして、そう言い切れるの?」

 

「強いから」

 

 全てを見通した様子で、セイウンスカイは言った。

 

「今のジハードは去年より数段強くなってる。高松宮記念に出てくるGⅠ馬達と比べても格上だろうし、きっと本人もそれは自覚してる。そういう人がレース中に一番恐れるものって、何だと思う?」

 

「…………アクシデント、とか?」

 

「そう。勝負所で身体をぶつけられたり進路を塞がれたりして、実力を発揮しきれないまま終わること。それが一番怖い。だからそれを回避するために、多分ジハードは最後方あたりでレースを進める。道中は一番後ろを走って、コーナーでは誰もいない大外を回って、直線を迎えたら自慢の末脚で全員をごぼう抜きにする……抜けた実力がないと出来ない大味な競馬だけど、それがあるならリスクを最小に抑えられる安全策だ。今のジハードの実力や立場からして、その戦法を選ぶんじゃないかと私は見てる」

 

「だからペースを落とせってことね……スローになれば後ろにいる私は不利になるけど、私より後ろいるあいつはそれ以上の不利を受けるから……」

 

 キングヘイローが納得して言うと、セイウンスカイは小さく頷く。

 

「全体で見れば不利を受ける側でも、ジハードとの比較で見ればほんの僅かにだけど有利になる。これはそういう話だよ。僅かな差だからって無意味だと思っちゃいけない。ほんの僅かなペースや位置取りの違いがゴール前でのハナやアタマの差になって、勝者と敗者を分ける。それが競馬だ」

 

 どこか台本を読むように説いた後、ふっと笑う。

 

「――なんて、師匠の受け売りだけどね」

 

「師匠?」

 

「何でもないよ。それより、もう一つの疑問は?」

 

「…………すごく、根本的な疑問なんだけど……その……あなたの言う通りに動いたとしても……そんな都合よくスローペースになるとは思えないのよね。私は、そこまで注目される存在じゃないから……」

 

 誰か一人が速度を落としたことで、他の何人かもそれにつられて速度を落とし、レース全体がスローペースになる――そういうことは、確かにあるのだろう。

 

 しかしそれは、その「誰か」が周囲から注目される存在だった場合の話。

 

 GⅠ実績のない自分がその条件に当て嵌まるとは、キングヘイローには思えなかった。

 

「そうだね。確かにそれはその通り。この手の作戦を成功させるには、自分が周りに注目されるような存在でなきゃいけない。まあキングの動向を気にしてる人も二、三人はいるかもしれないけど、それだけじゃちょっと弱いね」

 

 セイウンスカイは唇を曲げ、少し意地悪な笑みを浮かべた。

 

「だから、目立って」

 

「は?」

 

「頭を丸坊主にしてくるとかダサい金ピカの勝負服着てくるとかレース前に大声で勝利宣言するとか、とにかく何でもいいから目立つように振舞って。馬鹿っぽくなってもいいから周りに注目されるようにして」

 

「……」

 

「言っとくけど真面目な話だよ。今日のこいつはいつもと違うぞ、何か仕掛けてくるだろうからよく見てなきゃいけないぞ……って思わせるのがこの作戦の肝だからね。恥ずかしがってちゃいけない。手段を選ばず、出来ることは何でもやらないと」

 

「真面目な話の割に、ちょっと楽しそうな顔に見えるけど……気のせい?」

 

「気のせい気のせい」

 

「まあ、いいけど…………善処するわ。今さら体面なんて気にしてられないしね」

 

 渋々了承したキングヘイローは、セイウンスカイの顔をもう一度見た。

 

「それにしても……」

 

「ん?」

 

「いえ、何でもないわ。……あなたを信じて言われた通りにやってみるから、ちゃんと観ててよね。レース」

 

 

 

 

 

 

 バックストレッチを通過した十八人は、先頭から順にコーナーを回っていった。

 

『各馬三コーナーに入って六百を切りました! メジロダーリングとアグネスワールド、二番手から前に並んでいった! そのあとはシンボリスウォード三番手! そしてブラックホーク! ブラックホークは五番手の外を回っています! タイキダイヤがその内!』

 

 勝負所を迎え、各馬の位置取りがめまぐるしく入れ替わる。

 

 その流れに合わせ、キングヘイローも馬群の外を回りながら進出していった。

 

 セイウンスカイの教えに従い、ペースを操作するのはここまで。

 

 ここから先は、純粋な力勝負。過酷な日々を乗り越えてきた自らの脚を信じ、ゴールまで駆け抜けるだけだ。

 

『第四コーナーから直線! キングヘイローが中団グループ! 今度はアグネスワールド先頭か!? アグネスワールドが先頭だ! アグネスワールド先頭!』

 

 最終コーナーを過ぎてホームストレッチに入ったところで、それまで好位につけていた三番人気のアグネスワールドが先頭に躍り出た。

 

 しかし簡単には行かせないと、後続馬も懸命に脚を伸ばす。

 

『あと二番手、内からディヴァインライト突っ込んできた! ディヴァインライト突っ込んでくる! そしてダイタクヤマト! 外からはブラックホーク! ブラックホーク!』

 

 馬場の内側を通って追い上げるディヴァインライト。

 

 しぶとく食い下がるダイタクヤマト。

 

 外から徐々に差を詰めるブラックホーク。

 

 余力を残していた者とそうでない者の違いが明確になり、優勝争いに絡む者が数名に絞られたかに見えた、その瞬間。

 

 キングヘイローは、溜めていた力を解き放った。

 

 上体を沈め、地面を強く踏み締めて、芝を蹴散らしながら疾走する。

 

『キングヘイローも追い込んできた! キングヘイロー追い込んでくる!』

 

 外目を通るブラックホークのさらに外から、猛然と突き進むキングヘイロー。

 

 その勢いは凄まじく、前方で先頭争いを繰り広げていたブラックホーク、アグネスワールド、ディヴァインライトらを一瞬にして抜き去った。

 

『外からキングヘイロー! キングヘイロー! キングヘイロー先頭だ!』

 

 五番人気のGⅠ未勝利馬が名だたるGⅠ馬達を凌ぐ剛脚を見せたことに、スタンドは騒然となる。

 

 だがその事実に誰よりも驚いたのは、当の本人だった。

 

 必勝の気構えで勝負に臨んではいたものの、こうもあっさりと先頭を奪えるとは思っていなかったからだ。

 

 軽い混乱と奇妙な感慨が、刹那の間脳内を駆け巡る。

 

(強くなってたの……? 私は……自分で思ってた以上に……)

 

 日本代表に選ばれてからの一ヶ月は、本当に地獄だった。

 

 ばんえい競馬だの障害競走だのと、常識では考えられないことを色々とやらされたし、身体が壊れる寸前まで何度も追い込まれた。

 

 何でこんな馬鹿馬鹿しいことを――と不満を抱いたことも、一度や二度ではない。

 

 しかしながらそれらの経験は、着実に自分の血肉と化し、知らずの内に競走能力を一段階上まで引き上げてくれていたらしい。

 

 今なら信じられる。

 

 この一ヶ月間の努力で培った、自分自身の強さを。

 

(少しは感謝しないといけないのかもね……あのクソ監督に……)

 

 そう思うと何故かおかしくなり、少しだけ顔が綻んだ。

 

 

 

 

 

 

「やった! ヘイローさんが先頭だ!」

 

 スペシャルウィークが歓喜の表情で叫ぶ。

 

 隣に立つグラスワンダーの声も、僅かに高揚を帯びた。

 

「他の人達とは明らかに脚色が違います。これなら……!」

 

 脚色とは競馬用語で、走りの勢いや様子を表す言葉だ。

 

 競馬を見慣れた者なら、直線に向いた時の各馬の脚色を見れば、そのレースの勝者が誰になるかは大方予想がつく。

 

 キングヘイローが今見せているそれは、明らかに勝者となる者のそれだった。

 

 このまま何事もなく進めば、彼女の勝利は揺るがないだろう。

 

 と、誰もが思いそうなところだったが――

 

「――喜ぶのは、まだ早い」

 

 冷静に呟いたのは、ロックシンガーのような出で立ちの少女だった。

 

 先程までの茫洋とした雰囲気は既になく、鋭く研ぎ澄まされた硬質な眼差しが、キングヘイローの勝利を脅かす存在を見据えていた。

 

「まだ一人、敵が残ってる」

 

「――っ」

 

 言われて、グラスワンダーは思い出す。

 

 そして同時に、目撃する。

 

 馬場の真ん中付近を走るキングヘイローの、さらに外――外埒に近い大外から脚を伸ばす、カナリア色の名馬の疾走を。

 

「あれを倒さないと、このレースの勝者にはなれない」

 

 動かし難い事実を告げるように、少女はそう断言した。

 

 

 

 

 

 

 ぞくり、と――キングヘイローの肌が粟立つ。

 

 それは、覚えのある感覚。

 

 一ヶ月前、坂路でリコと対戦した際にも味わった怖気。

 

 遥か格上の強者の接近に対して、自らの本能が打ち鳴らす警鐘だった。

 

「キングにふさわしい走りを見せる、か……」

 

 背後から投げかけられる、冷静な声。

 

 顔面を蒼白にして振り返ると、二馬身ほど後ろにエアジハードの姿があった。

 

「何を見せる気なのかと警戒してみれば……下らない。この期に及んでセイウンスカイの真似事とは、呆れ果てたよ。キングヘイロー」

 

 その表情には、微塵の焦りも浮かんではいない。

 

 敵の術中に嵌ったことによる動揺も、大外を回って追い上げてきたことによる疲労も見えない。

 

 平時と変わらない無表情を保ったまま、小細工を弄した格下に軽蔑の眼差しを向けていた。

 

「他人の猿真似で私に勝てると? その程度の脚で世界の頂点が狙えると?」

 

 静かに問いながらも、その脚は加速する。

 

 吐息がかかるほどの至近距離まで、一瞬にして差を詰める。

 

「本当にそう思っていたなら、君に世界は遠すぎる。今すぐそこをどけ」

 

 真横に並び、決然と言い放つ。

 

「頂点を争う場所には、私が行く」

 

 その身に宿る力を完全解放し、さらなる急加速。

 

 戦慄に凍りつくキングヘイローを抜き去り、単独の先頭に躍り出る。

 

 隼が翼を広げて降下する姿に酷似したそれは、レースを観ていた誰もが瞠目するような、美しくも苛烈な激走だった。

 

 鋭く踏み込み、力強く蹴り上げ、芝の上を駆け抜ける。

 

 抜きん出た実力を大観衆の目に焼き付けながら、瞬く間に後続との差を広げていく。

 

『さらに外からエアジハード! エアジハードだエアジハードだ! エアジハードがここで先頭!』

 

 大本命が先頭に躍り出たことで、アナウンサーは興奮気味にその名を連呼する。

 

 スタンドでは、エアジハード絡みの馬券を握り締めていた者達が歓喜の声を上げる。

 

 既に勝者が確定したかのような、その状況の中――沸き立つ場内とは対照的に、エアジハード自身は冷静だった。

 

 勝利を目前にした高揚など、彼女の内面には微塵もない。負けられないレースを取りこぼさずに済んだという安堵もない。

 

 全ては当然のこと。

 

 いつも通りの走りをした後に、当然の結果がついてくるだけの話。

 

 自分は、後ろにいる連中とは違う。小さな島国の中でドングリの背比べを繰り返すだけの競走馬で終わるつもりはない。

 

 外の広い世界に踏み出し、そこで頂点を獲ることを夢見てきた。

 

 誰よりも強くなるために、誰よりも厳しい練習を積んできた。

 

 自分の夢が、自分一人だけの夢だと知った時から、誰にも頼らずに走り続けてきたのだ。

 

 

 

 

 

 

『目指せ! 日本一!』

 

 そう書かれた貼り紙が、彼女のチームの部室にはあった。

 

 誰が貼ったものかは知らない。彼女がチームに入った時にはもう壁に貼られていて、チームの先輩達は誰もそのことについて言及しなかったからだ。

 

 おそらく今いる先輩の誰か――あるいは既に引退した先輩の誰かが、夢と決意を込めて貼り付けたものだろう。

 

 そう信じ、当時のエアジハードは胸を熱くしていた。

 

 彼女が所属したチームは、言ってしまえば弱小だった。

 

 GⅠ馬や重賞馬はおろか、オープン馬さえ一人もいない。古馬になっても条件戦で燻り続けるような者だけが集まった、冴えない無名馬の集団だったのだ。

 

 そんな中にあっても、希望を捨てずに頑張り続ける者はいる。

 

 才能の壁を努力で乗り越え、大きな夢を掴もうとしている立派な先輩がいる。

 

 貼り紙の文言から伝わってくるその事実は、彼女に勇気と希望を与え、やがてある行動に踏み切らせた。

 

 二年以上が経った今も、その日のことは鮮明に憶えている。

 

「あの、先輩……実は私、考えてきたんです」

 

 ある日の夕刻。練習が終わり、皆が部室で帰り支度をしている中、エアジハードは年上の少女に向かってそう切り出した。

 

 着替えの最中だったその少女は、怪訝そうに眉をひそめる。

 

「考えてきたって……何をよ?」

 

「みんなで強くなる方法、です」

 

 やや照れながらもはっきりと答え、自分の鞄から取り出した分厚い紙の束を、部屋の中心に置かれた机の上に載せる。

 

 会話の相手だった少女だけでなく、その場にいた全員がそれに注目した。

 

「聞いて下さい、皆さん。これは私が考えた、今後一年間の特別練習メニューです!」

 

 突然のことに皆が呆気に取られ、言葉を失う。

 

 決意を実行に移したエアジハードは、熱い高揚感を胸に言葉を続けた。

 

「失礼を承知で言わせてもらいますが……私達のチームの現状は、決して良いものではありません。私自身を含めた全員が伸び悩んでいるというのが、否定しようのない事実だと思います。だからここは、みんなで協力して成績を上げる方法を模索するべきだと思うんです」

 

 反発を招きかねない発言だという自覚はあったが、それでも言わねばならなかった。

 

 みんなで強くなるための道程は、自分達の弱さを直視することから始まるからだ。

 

「その第一歩として、私はこれを作りました。ここには皆さん一人一人の特徴と、これから重点的に鍛えるべき部位、克服すべき課題……そしてそのために必要な練習の内容と量について記してあります。私なりに皆さんをよく観察して、色々と勉強した上で作成しましたから、そんなに非科学的なことは書いてないはずです」

 

「……ずいぶん分厚いね、それ」

 

「はい、A4用紙で二百枚あります」

 

「……で、そこに書いてある通りに自主トレしろって話?」

 

「ここに書いてある通りじゃなくてもいいんです。これはあくまで私が勝手に考えたもので、原案の一つに過ぎませんから。これからみんなで話し合って詳細を煮詰めていく作業は必要だと思ってます」

 

 チームの一人一人を深く観察し、スポーツ科学や人体生理学の本を読み漁り、膨大な時間をかけて作成した力作だった。

 

 だが無論のこと、これで完璧だなどと思い上がってはいない。

 

 所詮は素人が作ったものだ。粗など探せばいくらでもあるだろうし、修正すべき箇所も一つや二つでは済まないだろう。一人一人の意見を聞いて細部を改めていく作業は、どうしても必要になる。

 

 けれど、方向性としては間違っていない筈だ。

 

 未熟で粗だらけな計画でも、全員で知恵を出し合えばきっと形になる。力を合わせて前に進んでいくための、大事な最初の一歩になる。

 

 そして、みんなで一緒に強くなり、あの貼り紙に書かれていたことを現実にすればいいのだ。

 

「例えばクイン先輩は渋った馬場が苦手ですから、雨が降っても滑りにくいピッチ走法を身につけるべきだと思うんです。走り方と練習の仕方はこの十七頁に図入りで説明してあります。ルーラー先輩はダートの短距離が主戦場ですから、中山みたいな小回りコースへの対策としてコーナーワークを重点的に磨くべきだと思いました。それについてはこの六十四頁に各競馬場の特徴も含めて記載しています。ロー先輩は障害に転向したばかりですから……」

 

「あんたさ」

 

 机の向こう側にいた一人が、探るような眼差しで尋ねた。

 

「引退までに重賞の一つくらい獲りたいとか……そういうこと考えてたりするの?」

 

 その佇まいにどこか不穏なものを感じつつも、エアジハードは正直に答える。

 

「重賞、っていうより……目標はGⅠです。GⅠレースをいくつも勝って、一番強い競走馬になるのが私の夢です」

 

 子供の頃から抱き続ける夢だった。

 

 成長するにつれその難しさを理解していったが、それでも諦めることは出来なかった。

 

 果てしなく遠い夢でも、諦めずに走り続ければきっと叶う。

 

 そう自らに言い聞かせ、人一倍練習に励んできた。

 

「だからそのために、先輩達と切磋琢磨して――」

 

「ぷっ……くくっ……」

 

 失笑。

 

 嘲りを含んだそれは、最初に話しかけた少女の口から零れたものだった。

 

「何あんた、うちじゃ珍しいくらいの真面目ちゃんだなって思ってたら……そういうキャラだったの? ウケるわ」

 

「え……?」

 

「やる気満々なのは結構だけどさ、そういうノリに付き合ってくれる奴はここにいないよ。つーか、あたしら見てて分からない?」

 

 皮肉げに唇を歪め、年上の少女は言う。

 

「見ての通り底辺だよ。さっきあんたが言ったように、みんな揃って伸び悩んでる万年条件馬の集まり。今さら真面目に頑張って強くなろうとか、そんな根性ある奴がいるわけないじゃん」

 

「――っ」

 

 放たれたその言葉は、エアジハードの胸に突き刺さった。

 

 見れば他の面々も同様に、呆れと嘲りが入り混じった陰湿な笑みを浮かべていた。

 

 エアジハードの提案を受け入れるような空気は、そこになかった。

 

「……うちの練習ってさ、ぶっちゃけテキトーでしょ?」

 

 机の向こう側にいた一人――先程エアジハードに志を問うた少女が、再び口を開く。

 

 その少女だけは笑っていなかったが、視線は誰よりも冷たかった。

 

「時間短いし、やってること温いし、伊藤の爺さんだってそんなにうるさいこと言わないしさ」

 

「……」

 

「それって、何でだと思う?」

 

「…………そ、それは……」

 

 エアジハードは口ごもる。

 

 問いかけに対する答えを、彼女は知っていた。しかしそれを口に出すことは憚られた。

 

 口に出せば、自分の中で何かが罅割れてしまいそうだったから。

 

「期待されてないから。いくら頑張らせたってオープンにも上がれやしない駄馬の集まりだって思われてるからよ。あの爺さんにさ」

 

 冷めた目をした少女は、はっきりと言った。

 

 そして溜まっていたものを吐き出すように、小さく溜息をつく。

 

「ま、否定はしないけどね。あたしらだって、今さら重賞だのGⅠだのなんて夢見る気ないし」

 

「で……でも、先輩……!」

 

 僅かに語気を強め、エアジハードは反論を試みる。

 

「GⅠや重賞は、確かに厳しいかもしれませんけど……効率を考えて、今までと違う練習をすれば……一つか二つは勝ち鞍を増やせて、上のクラスに行けるんじゃ……」

 

「やだよ。上なんか行きたくない」

 

「え……?」

 

「上のクラス行ったら、当然相手も強くなるでしょ? そしたら掲示板に入るのも難しくなっちゃうじゃん。あたしらは下でのんびりしながら稼ぎたいの。無理して上に行ってただ働きみたいなレースさせられるなんて、アホみたいなことしたくないわ」

 

 競馬のレースにおいて本賞と呼ばれる高額な賞金を得られるのは、電光掲示板に表示される五着以内に入った者だけ。

 

 六着以下にも支払われる出走手当や出走奨励金といったものはあるが、それらは本賞に比べ少額であり、競走馬を続ける労力に見合ったものではない。

 

 故に下級条件では、あえて他人に勝ちを譲る行為が後を絶たない。

 

 上のクラスで通用する能力がないため、収入減に繋がる昇級を避け、自分のレベルに合ったクラスにいつまでも留まり続けるのだ。

 

 冷めた目の少女が語ったのは、そんな現実の一端だった。

 

 誰もが栄光の階段を駆け上がれるわけではなく、誰もが頂点を目指しているわけでもない。

 

 自分の可能性を信じられず、今いる場所から一歩も先に進もうとしない者の方が、現実には多い。

 

「そういうわけだから、あんたの特別メニューってやつ、あたしらはパス。……ま、あんた一人で勝手にやる分には文句言わないよ。頑張ってね」

 

 会話はそれで終わった。

 

 冷めた目の少女が部屋を出ていくと、他の面々もその後に続く。

 

 一人また一人とドアの向こうに消えていき、部屋にはエアジハードだけが残される。

 

 机の上の紙束――大きな夢を掴むために書き綴った練習計画を手に取ってくれた者は、結局一人もいなかった。

 

 それから、どれだけの時間が経っただろうか。

 

 自失に近い状態で立ち尽くしていたエアジハードは、ふと顔を上げ、部屋の隅に目を向けた。

 

 彼女の行動の発端となった貼り紙は、変わらずそこにあった。

 

『目指せ! 日本一!』

 

 かつてそれを書き、壁に貼り付けたのは、果たして誰だったのか。

 

 とうの昔に学園を去った、顔も名前も知らない誰かだろうか。それとも、今のチームにいる誰かなのだろうか。

 

 分からない。

 

 答えを知る機会はないだろうし、もう知りたいとも思えない。

 

 チームメイト達の素顔を見たこの時、彼女がそれまで抱いていた幻想は跡形もなく崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

 その数日後、エアジハードはトレーナーの伊藤に直談判した。

 

「先生……私を、皐月賞に出走させて下さい」

 

 突然の申し出に、伊藤は眉をひそめる。

 

 そして教え子の顔を見やりながら、やや言いにくそうに言った。

 

「そう言われてもな……賞金が足らんだろう?」

 

 皐月賞は、中央競馬クラシック三冠の一冠目。

 

 伝統と格式ある大レースであり、競走馬にとっては一生に一度の晴れ舞台だ。

 

 それだけに十八ある出走枠を出走申し込みの数が下回ることはほとんどなく、一定以上の賞金を稼ぐか、三つのトライアルレースのいずれかで上位入線して優先出走権を得なければ、出走はまず叶わない。

 

 この時のエアジハードは、どちらの条件も満たしていなかった。

 

「皐月賞まではまだ間があります。オープンを勝つか重賞で二着以内に入れば、まだ出走の目は……」

 

「この前スプリングステークスを走ったばかりじゃないか。いくら何でも無謀だ。それで仮に勝てたとしても、疲れが残って本番ではまともに走れんだろう?」

 

「どうにかします! 疲れなんて気力で捻じ伏せてみせます! 私は……」

 

 脳裏を掠める、年上の少女達の顔。

 

 それを振り払うように、エアジハードは声を張り上げる。

 

「私は、先輩達とは……あんな人達とは違います! どんなに厳しい練習でも耐えられます! 誰よりも強くなって、必ず栄冠を掴んでみせます! だから……」

 

「ジハード」

 

 静かに、伊藤は教え子の名を呼んだ。

 

「こんなことを言いたくはないが……はっきり言おう。今の君の実力は、クラシックでは通用しない」

 

 胸を突く言葉だった。

 

 青褪めた顔で固まるエアジハードに、伊藤は厳しさを滲ませた声音で告げる。

 

「スペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイロー……今世代の三強と呼ばれている子達は、君より何歩も先を行っている。今すぐにその差を埋めることは出来ない。君がどんなに無理をしようともね」

 

「そんなの……やってみなければ……」

 

「やらなくても分かるよ。今の君では、絶対に勝てない」

 

 絞り出した反論は、即座に切り捨てられた。

 

「誤解しないでもらいたいが、一生勝てないと言っているわけではない。君がその熱意を忘れずに努力し続ければ、彼女達との力関係が逆転する日も来るだろう。今がその時ではないと言っているだけだ」

 

 地道な努力の大切さを伊藤は説いたが、それはエアジハードの心に響かなかった。

 

 力不足を指摘された悔しさに打ち震え、拳を握る。

 

 そして思い出す。数日前、冷めた目の少女に言われたことを。

 

 自分達のチームに怠惰が許されている理由――沼底に溜まった泥のような集団を作り上げた、根本的な原因を。

 

「君はまだ若い。焦ることはないよジハード。自分を信じて一つ一つ積み重ねていけば、いつかは……」

 

「いつか……?」

 

 細い声を零し、顔を上げる。

 

 師の顔に向けたその眼差しは、仇敵を睨むように鋭かった。

 

「いつかって…………いつですか?」

 

 空気が凍る。

 

 言葉を失う伊藤に、反抗の意思を叩きつける。

 

「本当にそんな日が来ると……私が彼女達に勝って、栄冠を掴む日が来ると……先生は、信じてくれているんですか?」

 

 信じているなら、何故厳しく鍛えようとしないのか。

 

 怠惰な日々を送る教え子達と真剣に向き合わず、放置したままでいるのは何故なのか。

 

 一生に一度の晴れ舞台に挑みたいと願う自分の気持ちを、どうして汲んでくれないのか。どうして背中を押してくれないのか。

 

 そんな怒りと不信感が、この時溢れ出した。

 

「どうせ無理だから……私なんかがいくら頑張ったって、GⅠなんか勝てるわけないと思ってるから……適当に言いくるめて、諦めさせようとしてるだけじゃないんですか?」

 

「ジハード……私は……」

 

 伊藤は何か言おうとしたが、エアジハードはもう聞く耳を持たなかった。

 

 身を翻し、冷たく言い放つ。

 

「もう結構です。あなたと話すことはありません」

 

 同じ場所を目指してくれないなら、従う理由はない。この枯れた老人と心中する道など選ばない。

 

 凍てついた心でそう断じ、背を向けたまま歩き出す。

 

「誰も私についてきてくれないなら……誰も信じてくれないなら…………私は、誰の手も借りない。一人で強くなってみせる」

 

 誰もいない場所――自らが考案した練習法を実践出来る場所へと向かいながら、固めた決意を言葉にした。

 

「私一人の力で、頂点まで駆け上がってみせる」

 

 その日から、彼女の戦いが始まった。

 

 誰にも頼らず一人だけで走り続ける、孤独な戦いが。

 

 

 

 

 

 

 みんなで強くなろうとした。

 

 同じ境遇の仲間達と手を取り合い、支え合い、心を一つにして高みを目指そうとした。

 

 けれどそんなものは、自分一人だけが抱いていた幻想だった。

 

 強くなろうとしていたのは自分だけ。栄冠を掴む日を夢見ていたのも自分だけ。

 

 仲間だと思っていた連中は、負け犬根性が染みついた腑抜けばかりだった。

 

 ならばいい。落胆はしたが、引き摺るつもりはない。底辺で燻り続けるような駄馬共に何かを期待した自分が愚かだった。

 

 自分は、自分一人で前に進む。

 

 誰もついてきてくれなくても、誰も背中を押してくれなくても、決して立ち止まらない。諦めない。

 

 胸に抱いた夢とこの二本の脚だけで、頂点まで辿り着いてみせる。

 

 孤独な長い道程を、最後まで駆け抜けてみせる。

 

『エアジハードだエアジハードだ! これは強い! 十七人を従えてエアジハードが先頭!』

 

 緑のターフを、一陣の風が貫く。

 

 独自の鍛錬を積み重ね、長い雌伏の日々を経て生まれ変わった肉体が、高みを目指す意思を燃料に変えて駆動する。

 

 地を踏むごとに差を広げる、雄大なストライド。驚異の脚力。

 

 大外枠も適性外の距離も全く問題にせず、小賢しい策略など歯牙にもかけない、絶対的な強者の姿。

 

 他の十七人との格の違いは、最早誰の目にも明らかだった。

 

「いつか、か……」

 

 エアジハードは呟く。

 

 スタンドにいる名ばかりの師と、同じ場所を目指す仲間にならなかった少女達の顔を、脳裏に浮かべて。

 

「刮目して見ろ。あなた達が信じなかった……永遠に来ないと思っていたいつかとやらが、今この時だ」

 

 

 

 

 

 

「ああ……」

 

 言葉にならない絶望の声を、スペシャルウィークが零す。

 

 グラスワンダーも同様に、その表情を苦いものに変えていた。

 

「凄まじい脚です。安田記念で私に競り勝った時より、さらに速い……」

 

 昨年の安田記念で彼女はエアジハードと対戦し、僅差で敗れている。

 

 その時に体験した末脚も恐るべきものだったが、たった今目の当たりにしている末脚の切れはそれ以上だった。

 

 最優秀短距離馬の名は伊達ではないと、改めて実感する。

 

 今の自分がこのレースに出走していたとしても、果たしてあれに勝てたかどうか――

 

「でも、まだ勝負は……」

 

「無理。もう勝てない」

 

 先程から度々口を挟んでいた少女が、希望を否定する。

 

 その黒瞳は僅かな感情も覗かせず、直線を必死に駆ける競走馬達を冷静に眺めていた。

 

「もう完全に、あの黄色い子が勝つ形になってる。ああなったら逆転は出来ない。逆転するだけの力と時間が、他の子達には残されてない」

 

「……っ」

 

 グラスワンダーは反論出来ない。

 

 悔しいが、名も知らない少女の言う通りだった。

 

 エアジハードは後続を完全に引き離し、独走態勢に入っている。ここから誰かに抜き返される姿など想像し難い上に、ゴールはもう目前だ。

 

 逆転に必要な距離と時間が、絶望的に足りない。仮にキングヘイローがもう一伸びしたところで、間に合うとは思えないのだ。

 

 ここまでだろうか――と、内心で呟く。

 

 元々このレースの出走馬の中では、エアジハードの力が抜けていた。それが順当に表面化し、彼女の圧勝でレースが終わるというだけの話。

 

 キングヘイローも頑張ってはいたが、地力に差がありすぎたのだ。

 

 決意や執念だけで勝てるほど、競馬は甘くない。

 

「あなた達が応援してる子は、よくて二着まで。ここからあの黄色い子を抜くのは――」

 

「違う」

 

 熱を内に宿したような、力強い声。

 

 それは、セイウンスカイの口から放たれたものだった。

 

「まだ終わりじゃない。まだ何も決まってない。……まだ、ゴールじゃない」

 

 スペシャルウィークでもグラスワンダーでも名も知らない少女でもなく、その視線はただ真っ直ぐに、緑の勝負服だけを追い続けていた。

 

 勝負の最中にある親友を、誰よりも信じ抜いていた。

 

「そうだろ? キング」

 

 

 

 

 

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

 呼吸を激しく乱しながら、キングヘイローは下を向いていた。

 

 彼女の現在位置はエアジハードに次ぐ二番手だが、前を行くエアジハードとの間には既に二馬身余りの差がある。

 

 ゴールまでの残りの距離を考えれば、絶望的な差だ。勝負は決まったと諦めたところで無理はない。

 

 事実、激戦の最中にもかかわらず、彼女のすぐ後ろには諦めの空気が漂いつつあった。

 

 スプリント路線の王者だった者も、海外で揉まれてきた者も、GⅠのタイトルを欲していた者も――誰もが皆、戦う意思を失っていた。

 

 自身の力が及ばなかったことを悟り、このレースがエアジハードの勝利で終わることを受け入れつつあったのだ。

 

 そんな状況の中、ぽつりと呟く。

 

「強いわね、ジハード……本当に……」

 

 本当に、心底からそう思う。

 

 スローペースに落とし込まれた上、最も距離を損する大外を回りながら、全馬を一瞬にして抜き去る剛脚。隼の滑空を連想させる強襲劇。

 

 驚異的であり、総身が震えるほど圧巻だった。

 

 以前シンボリルドルフにも勝てると豪語したのも、この強さなら頷ける。

 

「あのグラスに勝っただけある……スタミナも、パワーも、瞬発力も……私なんかとは桁が違うわ……」

 

 壊れる寸前まで身体を鍛え抜き、セイウンスカイから知恵を借り、必勝を期して臨んだ上でこの有様だ。

 

 自分と彼女の間に大きな実力差があることは、最早否定しようがない。

 

「でも……」

 

 顔を上げる。

 

 前を行くカナリア色の背中を、炎を宿した瞳で見据える。

 

 そして、力の限り吼える。

 

「想定通りよ! あなたがこれだけ強いって知ってたから……あなたが私を抜き去るって信じてたから……私は、下手な小細工までしてこの展開に持っていったのよ!」

 

 これまでの全ては、勝利のための布石。

 

 心理の隙を突き、絶望的な実力差を覆すために打った大博打。

 

 それが見事に嵌まり、あらゆる全てが事前に思い描いていた通りに進み――ついに今、唯一無二の勝機が訪れた。

 

 彼女が先頭に立ち、場内の誰もが勝負は決まったと思い込むこの瞬間を、ずっと待ち続けていたのだ。

 

「さあ、覚悟しなさい。エアジハード」

 

 打ち砕くべき分厚い壁――栄光のゴールに向かって突き進む格上の強者に、照準を合わせる。

 

 これまでも、そうしてきたように。

 

 これからも、そうしていくように。

 

 不屈の魂を燃え上がらせ、挑戦状を叩きつけた。

 

「ここからが、本当の勝負よ」

 

 ゴールまで、残り約二百メートル。

 

 最後の攻防が、今始まる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七話「始まりの自分」

 

 

 あれは、いつのことだっただろうか。

 

 何年前かも思い出せないくらい昔。物心ついたばかりの幼い頃。

 

 母と二人でどこかに出かけた際の道中――いや、帰り道だったかもしれない。

 

 時刻も場所もろくに憶えていないあやふやな記憶だが、その時交わした言葉だけは、何故か今でもはっきりと憶えている。

 

「それでね、みんなでかけっこしたらわたしが一ばんだったんだよ。ゴールしたあとうしろみたら、ほかの子たちがすっごくうしろにいたの。びっくりしちゃった!」

 

「あら、すごいじゃない」

 

「うん、みんなもすごいっていってくれたよ! でねでね、それみてた大人の人もわたしにいったの。キングはすごいって。さいのうがあるから、大きくなったらおかあさまみたいになれるって」

 

「褒めてもらえたのね。ふふ……でも、あんまり調子に乗っちゃダメよ? ほんとのレースで一番になれるくらい強い競走馬になるには、もっともっと色んなことを頑張らなきゃいけないんだから」

 

「わかってるよー。わたし、いつもがんばってるもん! れんしゅうちゃんとやってるもん!」

 

「でも、嫌いなピーマンは残してたわよね?」

 

「うっ……」

 

「いつも言ってるでしょう? 好き嫌いせずに何でも食べなさいって。色んなもの食べて強い身体を作らないとレースで負けちゃうんだから」

 

「……っ……が、がんばるっ……! こんどから……」

 

「ふふ」

 

 母は楽しそうに笑っていた。

 

 手をつないで道を歩きながら交わした、他愛のない親子の会話だった。そこまでは。

 

「ねえ、おかあさま」

 

「ん?」

 

「大人のレースにでる人を、きょうそうばっていうんだよね?」

 

「ええ、そうよ」

 

「おかあさまも、きょうそうばだったんでしょ?」

 

「ええ」

 

「やっぱり、一ばんつよかったの?」

 

 そう問いかけた瞬間、母は微かに息を呑んだ。

 

「みんないってたよ。おかあさまはすっごくつよくて、大きなレースをたくさんかったんだって。つよくてかっこよくて、みんなのあこがれだったんだって」

 

 難しいことは何も分かっていなかったが、母が人々から敬われる存在であることだけは漠然と知っていた。

 

 そのため子供ならではの単純さで、自分の母は世界で一番強いのだと思い込んでいた。

 

 世界の広さを、その時はまだ知らなかったのだ。

 

「……何だか、痛いところ突かれちゃったわね」

 

 ぽつりと呟き、母は自嘲気味に笑った。

 

「ええもちろん、一番強かったわよ……って言いたいところだけど、違うわ。私は一番じゃなかった。私よりずっと強い人がいて、その人に何度も負けちゃったの」

 

「そ、そうなの……?」

 

「ええ。苦い思い出ってやつね」

 

 多くの人々に褒め讃えられている母より、遥かに強い誰か。

 

 その誰かが競馬の世界で一番強い存在なのかと一瞬思ったが、そうではなかった。

 

「その人より、もっと強い人もいた」

 

「え?」

 

「その人よりもっと強い人も、その人よりもっと強い人も、その人よりもっと強い人も、当たり前のようにいたわ。それよりさらに強い人だって、多分……ううん、きっといたと思う」

 

「え……え……?」

 

 まるで言葉遊びのような言い回しと、その言葉が持つ信じ難い意味に、幼い自分は困惑した。

 

 そんなこちらの顔を見下ろしながら、母は寂しげに言った。

 

「そういうものなのよ、競馬の世界って。一生懸命頑張って強くなっても、敵わない相手は大勢いる。上を見たらきりがないの」

 

 その表情を見て、悟った。

 

 母が現役時代に積み重ねた努力の重さ。そして、それが実らなかった絶望の深さを。

 

 一番強い競走馬になることを、本気で夢見た。

 

 どんなに辛い思いをしてでも一番になりたいと、強く深く願い続けた。

 

 夢を叶えるために努力して、普通の人達の何倍も何十倍も努力して、自分みたいな子供には想像もつかないくらい努力して、辛くても苦しくても一生懸命走り続けて――

 

 それでも、一番にはなれなかった。

 

 勝てなかった相手がいた。越えられなかった壁があった。辿り着けなかった場所があった。

 

 そんな挫折の末に、この人は競馬場を去ったのだと。

 

「だからね……正直ちょっと、疲れちゃったわ」

 

 母の口から弱音のような言葉が出たのは、後にも先にもこの時だけだった。

 

 そのせいで、長い年月が過ぎた今でも記憶に残り続けているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 中京競馬場のスタンド内にある、関係者用の席。

 

 アルゼンチンから来た丸眼鏡の少女――フォルリは、そこで高松宮記念を観戦していた。

 

「本当に良い競走馬ですね。あの栗毛の子は」

 

 直線半ばで先頭に立ち、そのまま独走態勢に入ったエアジハードの姿を見据えながら、自身の見解を述べる。

 

「本質的には末脚の持続力で勝負するタイプなのでしょうが、瞬発力の方も十分に一級品。おそらくは、大腿部の速筋を鍛えるトレーニングを重点的に行ってきたのでしょうね。鋭さと力強さを併せ持ったあの末脚からは、並大抵ではない努力が覗えます」

 

 レースが始まる前から、彼女はエアジハードを高く評価していた。

 

 GⅠ二勝の実績だけでなく、体つきから覗える身体能力も佇まいから漂う威風も、他の十七人とは明らかに別格。

 

 世界の大舞台でも通用するレベルの競走馬は、このレースの出走馬の中ではエアジハード一人だけ。

 

 その評価は、レースが大詰めを迎えた今も何ら変わらない。

 

「ですが……」

 

 丸眼鏡の奥に潜む両眼が、鋭さを増す。

 

 エアジハードの後方を走る者に視線を移し、冷めた声音で呟く。

 

「罠に嵌りましたね。非力な鼠が、この一戦を勝つためだけに練り上げてきた……狡猾な罠に」

 

 レースを見守る数多の観客の中で、彼女だけは気付いていた。

 

 力なき者が、万に一つの勝機を掴むために仕掛けた奇策――心理の隙を突く罠の正体に。

 

 

 

 

 

 

 競馬場のコースの脇には、ゴールまでの残りの距離を示すハロン棒という標識が、二百メートル間隔で設置されている。

 

 最後のハロン棒の前を通過した瞬間、エアジハードの耳は二つの音を拾った。

 

 自分ではない誰かの脚が、地面を力強く蹴る音。

 

 後方から急速に迫ってくる、誰かの荒い息遣い。

 

 何かを考える間もなく、反射的に後方を確認し――視界に飛び込んできた相手の姿に、彼女は目を疑った。

 

「なっ――」

 

 キングヘイロー。

 

 ほんの数秒前に追い抜き、置き去りにした相手。

 

 取るに足らない実力しか持たず、こちらの末脚に成す術なく屈したはずの格下が、息を吹き返したように差を詰めてきていた。

 

 充血した双眸に、紅蓮の闘志を漲らせて。

 

「何驚いてるのよ……言ったでしょう?」

 

 振り返ったエアジハードに視線をぶつけ、キングヘイローは言い放つ。

 

「この勝負は譲らない…………キングにふさわしい走りを見せるってね!」

 

 そして、さらに伸びる。

 

 迸る気迫を走力に変え、機銃掃射のように激烈な足音をターフに響かせ、前を行くエアジハードを猛追する。

 

 一時は二馬身余りあった二人の差が、瞬く間に詰まっていく。

 

『キングヘイローだ! 何とここでキングヘイロー! キングヘイローが再び伸びてきた!』

 

 実況の声が上擦る。

 

 スタンドは騒然となり、観客の多くが驚愕の声を上げる。

 

 予期せぬ事態に動揺を隠せなかったのは、当事者たるエアジハードも同じだった。

 

(こいつ……)

 

 不意を突くように強襲してきたキングヘイロー。

 

 その弾けるような脚と覚悟を抱いた眼差しを見て、怖気と共に確信する。

 

(最初から……これを狙って……!)

 

 追い詰められた鼠が、最後の足掻きで力を振り絞ったのではない。

 

 レースが始まる前から、この局面で勝負をかけるつもりだったのだ。

 

 直線半ばでこちらに先頭を譲ったのも、ここまで独走を許していたのも、全て予定通り。

 

 最後の最後――ゴール寸前での逆転劇を演じるための布石。

 

 計算し尽くされた緻密な戦略に、自分は見事に絡めとられていた。

 

「くっ……!」

 

 焦りに顔を歪めたエアジハードは再び差を広げようとするが、キングヘイローの猛追がそれを許さない。

 

 キングヘイローにとって今この瞬間は、二度とない好機。

 

 持てる力の全てを注ぎ込むと誓って臨んだ、人生最大の正念場だった。

 

 

 

 

 

 

「さっき話した作戦だけど……あれ全部、実はただの前フリ」

 

 セイウンスカイがそう言った時、キングヘイローはぽかんと口を開けて固まった。

 

 今更何を言うのか。自分の指示通りにすれば全て上手くいくといった風に作戦を説明したのは、他ならぬこいつではないか――と。

 

「ちょっと不利を受けさせた程度で負かせるほど、今のジハードは甘くない。作戦が最高に上手くいったとしても、きっと最後は地力の違いで捻じ伏せられるよ。一度先頭に立たれるのはどうやっても避けられないね」

 

「……だったらどうして、わざとスローペースを作れなんて言ったのよ?」

 

「理由は二つ。一つは、ジハードを油断させること」

 

「油断……?」

 

「ジハードだって馬鹿じゃないから、レースの後半になれば流石に気付く。ああスローペースを作って自分を嵌める気だったのか、大した作戦じゃなかったな……ってさ。そこで多分、思考が止まる。正攻法じゃ勝てないから小細工に頼ったんだなってキングを見下して、それ以上の何かがあるとは考えなくなる。それは致命的なくらい大きな、心の隙だ」

 

 競走馬の心理を読む力に長けた二冠馬は、自らの策が持つ効果を淡々と語る。

 

「もう一つの理由は、道中の体力の消耗を抑えること。本当の勝負所は最後の最後に来るから、その時まで脚を残しとかなきゃいけない」

 

「まさか……あなたが考えてることって……」

 

 キングヘイローは寒気を覚えた。

 

 セイウンスカイの表情が、獲物を狙う捕食者の様相を帯びる。

 

「直線で一度ジハードを先頭に立たせて、ゴール寸前で二の脚を使って差し返す。……それが、本当の狙いだよ」

 

 二の脚。

 

 最後の直線で末脚を使い果たしたと思われた競走馬が、土壇場でさらなる加速を見せる事象を指す言葉。

 

 競馬史において数々の逆転劇を生み出してきた、最後の最後まで勝負を諦めない者だけが持つ底力だ。

 

「無茶な話に聞こえるかもしれないけど……私が思いつく限り、キングがジハードに勝てる方法はこれしかない。私を信じてくれるなら、この作戦に賭けてほしい」

 

 真摯に訴えられ、キングヘイローは一瞬言葉に詰まる。

 

 彼女は想像を巡らせ、たった今告げられた策が実行可能か否かを考察してから、探るように問いかけた。

 

「七分か八分くらいの力を使った末脚で先頭に立った私を、ジハードが追い抜く。そして独走態勢に入って気が緩んだところを、残りの力を振り絞った二の脚で差し返す……そういう流れを想定しているわけね?」

 

「そう。特訓で力をつけた今のキングなら、それが出来ると思う」

 

「……ジハードが油断したからって、終いの脚が甘くなるとは限らないんじゃない? 最後まで緩めずに着差を広げようとしてくるかも……」

 

「それはない」

 

 断言した後、セイウンスカイは理解を促すように続けた。

 

「思い出して。去年ジハードが、香港のレースに出られなかった理由を」

 

「……っ! そうか……脚の怪我……!」

 

 キングヘイローは思い出す。

 

 去年の十二月、エアジハードは香港のシャティン競馬場で行われるGⅠ競走、香港カップに招待されていた。

 

 しかし現地入りして数日後に脚部不安を発症し、帰国を余儀なくされていたのだ。

 

「かなり軽度だったみたいだし、もう走りに影響はないんだろうけど……それでもその手の怪我には、常に再発の危険がつきまとう。だからそうならないために、今は出来るだけ脚に負担をかけずに勝ちたいってのが本音なはず」

 

 エアジハードの抱えた事情から、セイウンスカイは既にその本心を見抜いていた。

 

「それに今のジハードは、キングから代表の座を奪って十一月のワールドカップに出ることを目標にしてる。万が一にもこんなところで怪我なんかしていられない。直線半ばで先頭に立って後続との差がある程度ついたら、リスクを抑えるために脚を緩めるよ。ほぼ間違いなくね」

 

 目を細め、冷徹に告げる。

 

「その瞬間を狙い撃って、仕留める」

 

 無防備な標的を一撃で屠る、暗殺のような奇襲戦法。

 

 セイウンスカイがキングヘイローに求めるのは、そうしたレース運びだった。

 

「キングが仕掛ければ当然ジハードも反応するだろうけど、勝利を確信して一度脚を緩めた状態から再加速するのは、そう簡単じゃない。どうしたって時間がかかる。慌てて立て直そうとするジハードと、その一瞬に全力を注いだキングの勝負なら……勝ち目はあるよ。十分に」

 

 想定通りに事が運べばキングヘイローに勝利をもたらせると、セイウンスカイは自らの策に自信を持っていた。

 

 しかし――

 

「仕掛け所を間違えなければ……の話だけどね」

 

「え?」

 

「この作戦で一番重要なのはタイミングだよ、キング。仕掛けるのが遅すぎちゃ間に合わないけど、早すぎてもいけない」

 

 自らの策を成功させることの難しさも、彼女は十分承知していた。

 

「ジハードが減速する前に仕掛けても意味ないし、減速した後でも立て直す時間が十分あったら結局また逆転される。早すぎず遅すぎずの適切なタイミングを見極めた上で仕掛けないと、今言った作戦は成功しない」

 

「確かに、そうね…………それで、その適切なタイミングっていうのの目安はどんな感じなの?」

 

「目安?」

 

「いやほら……あるでしょ? 残り何百メートルくらいとか、ジハードとの差が何馬身くらいとか、そういうの……」

 

 タイミングが重要と力説するからには、きっと何がしかの目安――好機を見極めるための判断基準のようなものがあるのだろう。

 

 そう思って尋ねたのだが、返答は意外なものだった。

 

「ごめん。そこは自分で考えて」

 

「は?」

 

「私とキングじゃ感覚が微妙に違うし、その時の状況にもよるから……ここで下手に残りの距離がどうこうって言うと、それに囚われすぎて失敗しそうな気がする。変な先入観を持たずにキングが自分で判断した方が上手くいくと思うんだ」

 

「それは……そうかもしれないけど……」

 

 キングヘイローは不安げな顔になる。

 

 負けられない大一番の緊迫した局面で、寸分の狂いも許されないタイミングを自分が正確に見極められるとは、とても思えなかった。

 

「大丈夫だよ。キングには経験がある」

 

 セイウンスカイは微笑む。

 

「デビューしてからずっと、大きな怪我もなく走り続けてきた。クラシックに出てグランプリを走って、マイルにもスプリントにもダートにも挑戦して、色んな舞台で色んな強豪と競い合ってきた。その豊富な経験が、キングの頭の中には蓄積されてる。キングは私達の世代の誰よりも、競馬を深く知っている」

 

 キングヘイローが歩んできた、長い挑戦の道程。

 

 敗戦を重ね、幾度も挫折しかけながら、それでも確かに培ってきたもの。

 

 その価値を認め、勝利を手繰り寄せる切り札になると信じた上で、セイウンスカイは言い切った。

 

「だから心配いらない。迷わずに自分を信じれば、きっと間違えないよ。キングの頭と身体に刻みつけられた経験は、正しい仕掛け所を必ず教えてくれるから」

 

 

 

 

 

 

(言われた通りに出来た…………かどうかは知らないけど……これでもう、後戻りは出来ない)

 

 内心でそう呟き、キングヘイローはエアジハードの背中を見据える。

 

 慎重にタイミングを見計らって仕掛けたつもりだが、これが最適なタイミングだったかどうかは分からない。

 

 筆記試験の答案などと違って、正解はどこにも書かれていないからだ。

 

 早すぎたかもしれないし、遅すぎたかもしれない。もしかしたら、気付かない内にどこかで致命的な過ちを犯していたのかもしれない。

 

 だが――

 

(後はただ、信じるだけ……自分の判断とこの二本の脚を信じて、ゴールまで全力で走り抜くだけ……!)

 

 雑念を振り払い、キングヘイローは駆けた。

 

 この期に及んで些末なことを気にしてはいられない。不安や迷いを抱いたままで勝てるような相手ではない。

 

 どの道、すぐに結果は出る。自分の判断の正否は、ほんの数秒後に分かる。

 

 今の自分に出来るのは、その数秒後を目指して――この身が栄光のゴールに辿り着くことを信じて、残りの距離を全力で走り抜くことだけだ。

 

 自らをそう激励し、今まで温存していた力を解き放った。

 

 抜かれることを承知で仕掛けた最初の末脚とは違う、本当の意味での全力疾走。

 

 気力と体力を一滴も残さず注ぎ込み、体中の筋肉を千切れ飛ぶ寸前まで駆動させた、渾身の二の脚。

 

 それは心身共に隙が生じていたエアジハードとの距離を瞬く間に詰め、その隣に並びかけるまで肉薄していく。

 

 追い詰められたエアジハードの形相に、色濃い戦慄が浮かぶ。

 

 ゴールまで、残り約百メートル。

 

 レースは最早、どちらが勝者となるか分からない大接戦と化していた。

 

 

 

 

 

 

「まずい……!」

 

 観覧席にいたエアグルーヴが叫ぶ。

 

 キングヘイローが二の脚を繰り出す様を見て、彼女は自らの従妹の危機を悟った。

 

「完全に意表を突かれた……! これでは……」

 

 差し返される――と言いかけた時。

 

「苦しい状況だね」

 

 隣に座っていた伊藤が口を開く。

 

 教え子が格下に足をすくわれかけている状況下でも、その面持ちは冷静だった。

 

「今のジハードは敵の術中に嵌った形だ。勝利を目前にした心の隙を突かれ、不利な形勢に追い込まれてしまった。いかに実力があろうと、ああなってしまえば立て直すのは難しい」

 

 語りつつ、二人の少女がゴール前で競り合う光景を注視する。

 

「だが、それが競馬だ。あの子が勝利を求めて走るように……相手もまた、強い決意と勝利への執念を胸に、己の全てを懸けて挑んでくる。そう簡単に勝たせてはくれんよ」

 

 不退転の覚悟を持つ相手の恐ろしさ。レースを制することの難しさ。

 

 長く競馬の世界で生きてきた老人は、そうしたことを誰よりも深く知っていた。

 

「だからこそ、勝利には価値がある」

 

 眉間に皺を寄せ、厳格な信念と煮え滾る熱意が同居した眼差しを、ターフ上で苦戦を強いられている教え子に向ける。

 

「打ち砕け。ジハード」

 

 鉄槌のように重い声が、その口から放たれた。

 

「相手の力を、意志を、全て受け止めた上で凌駕しろ。鍛え抜いたその脚で苦境を乗り越え、自らが最強であることをこの場で示せ」

 

 彼は信じていた。

 

 自らに反発した教え子が、この二年間に培ってきた強さを。

 

 エアジハードという名の競走馬が、世界に羽ばたくべき器であることを。

 

「君なら必ず、それが出来る」

 

 

 

 

 

 

 エアジハードは激怒した。

 

 自分を追い詰めた相手にではなく、自分自身の未熟さに対して。

 

 何故この展開を事前に想定しなかったのか。一瞬とはいえ、何故これしきのことで動揺してしまったのか。

 

 相手が思っていたより手強かった。

 

 先頭に立って脚を緩めた直後を狙われ、急激に差を詰められた。

 

 ただそれだけのことだ。

 

 緩んでいたなら引き締めればいい。崩れていたなら立て直せばいい。相手が全身全霊を賭した走りで迫ってきたなら、それを凌駕する力で粉砕してやればいい。

 

 歴史に名を残した者達は皆、そうやって勝ち続けてきた筈だ。

 

 ならば、自分も同じ道を往く。偉大な先人達と同じように、今日まで鍛え抜いてきた脚でこの窮地を乗り越える。

 

 そして、辿り着くのだ。

 

 夢見た場所に――あの≪ザ・ブリガディア≫と戦える、最高峰の舞台に。

 

「ハ――アアアアアアアアアアアアッ!」

 

 形振り構わず、強引に再加速。

 

 燃え上がった闘志を血流の如く全身に巡らせ、大地を蹴り、風を突き破る。

 

 彼女が土壇場で見せたそれは、直線半ばで先頭に立った時以上の剛脚。

 

 遥かな高みを目指し、弛まぬ努力を積んできた者だけがその身に宿す、理屈を超えた底力だった。

 

『しかしエアジハードだ! エアジハードが粘る! キングヘイローに先頭を譲らない!』

 

「ぐっ……!」

 

 熱戦の模様が実況され、キングヘイローの表情が苦々しく歪む。

 

 半馬身から一馬身。一馬身から一馬身半。

 

 横並びになる一歩手前まで詰まっていた差が再び開き、全てを賭した奇策が水泡に帰そうとしていた。

 

 

 

 

 

 

「危ういところでしたが、どうにか立て直しましたね」

 

 フォルリは微笑む。

 

 めまぐるしく形勢が変わる勝負も、彼女にとっては予想の範疇だった。

 

「鍛えた肉体は裏切らない。勝負が大詰めの時ほど、積み重ねてきた鍛錬の成果が如実に表れるものです」

 

 一度は追い詰められながらも心身を立て直し、再びキングヘイローを突き放したエアジハードの走りを、強者のあるべき姿として讃える。

 

 次いでその視線は、彼女の基準では強者と呼べない者へと移る。

 

「策、戦略、詐術……そうしたものを否定する気はありませんけれど、それだけで勝てるほど競馬は甘いものじゃありませんよ。鼠は所詮鼠。力のない者がいくら策を弄したところで、見苦しい悪足掻きに過ぎません」

 

 フォルリは力の信奉者だ。

 

 有象無象の弱者が淘汰され、一握りの強者だけが生き残る――そうした生存競争こそが競馬の本質だと捉えており、競馬とはそうでなければならないとさえ思っている。

 

 そんな彼女にとって、キングヘイローのような存在は見る価値もない「鼠」でしかなかった。

 

「一生懸命勝つための方法を考えてきたみたいですけど、残念でしたね。敗因は単純。実力不足です。そもそも、力で勝てないから小細工に縋るっていう性根自体が――」

 

「黙ってろ」

 

 嘲弄の言葉を遮る、鋭い声。

 

 それは、フォルリの隣に座るリコの口から放たれたものだった。

 

「何もかもお前の言う通りだが、まだレースは終わってねえよ。黙って観てろ」

 

 その視線は、ただ一点にだけ注がれていた。

 

 ターフの上で戦い続ける自らの教え子を、一瞬たりとも目を逸らさずに見守り続けていた。

 

「あれが鼠かどうか……答えはすぐに出る」

 

 

 

 

 

 

「ぐっ……うぅっ……!」

 

 懸命に追いすがりながら、キングヘイローは苦悶の声を洩らす。

 

 あと一歩というところまで相手を追い詰めてからの形勢逆転。それは彼女の精神に重い負荷をかけ、闘志を大きく削ぎ落とした。

 

 強い――と、今さらながらに思う。

 

 おそらくだが、自分が仕掛け所を間違えたわけではないだろう。エアジハードに並びかけた瞬間は、会心の一撃を見舞ったような手応えが確かにあった。

 

 にもかかわらず逆転を許してしまったのは、相手の底力が尋常ではなかったからだ。

 

 修正力、とでも表現すべきだろうか。不意を突かれて敗北必至の形勢に陥りながら、精神と肉体を即座に万全の状態に戻し、形勢を覆すほどの走りを見せる勝負強さ。それこそが、エアジハードという競走馬の最も恐るべき点だった。

 

 以前、どこかで聞いたことがある。

 

 どんな分野においても、真に優れた者とは過ちを犯さない者ではなく、過ちを引き摺らない者を指すのだと。

 

 その言葉の意味が今、骨身に沁みて理解出来た。

 

(感心してる場合じゃない……けど……もう……)

 

 ゴールはほんの数十メートル先。万策尽き、気力も体力も枯渇寸前。

 

 この絶望的な状況をどうにか出来るようなものが、この身には何一つとて残されていない。

 

 ――勝てない。

 

 そんな思いが、脳裏をよぎった。

 

 弱い自分。どれだけ闘志を燃やしても消し去れない自らの本心が、疲れ果てた声で弱音を繰り返す。

 

 自分は頑張った。十分すぎるくらい頑張り抜いてきた。

 

 これ以上は無理だ。これ以上の力を捻り出そうとしたら、本当に身体が壊れてしまう。

 

 仕方がない。これだけやって駄目だったなら、もう観念するしかない。

 

 そもそも、別に勝たなくてもいいではないか。

 

 これは、ただのレースだ。生死をかけた殺し合いではない。勝利を逃しても少し悔しい思いをするだけで、何も失わない。

 

 敗北など、飽きるほど経験してきた。ここでまた、その経験が一つ増えるだけ。大したことではない。

 

 だから、もういいだろう。

 

 ここまで頑張り抜いてきた自分を許して、この苦しいレースを終えてもいいだろう。

 

 一番になる夢を諦めて、敗北を受け入れる。ただそれだけで、楽になれるのだから。

 

(なんて……)

 

 ふと自分を客観視して、呆れ返る。

 

 表情を変える余裕はなかったが、内心で苦笑した。

 

(そんな風に、本気で思えたら……楽なのにね)

 

 後ろ向きな気持ちはあった。

 

 この相手には勝てないという弱音も、こんな苦しい思いをしてまで走りたくないという弱音も、偽らざる本心として確かにあった。

 

 けれど、最も深いところ――心の核と呼ぶべき部分に響いた「声」は、そうした弱音ではなかった。

 

 小さな子供の声。

 

 幼く無邪気で、真っ直ぐな声。

 

 何故だか力強く聞こえるそれが、遠い記憶の彼方から届き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 母から競馬の世界の果てしなさを教えられた、あの日。

 

 子供だった自分は、母に問いかけた。

 

「おかあさまは……一ばんになりたかったの?」

 

「ええ」

 

「一ばんになれなくて、いやだったの?」

 

「ええ……そうね、少しだけ……」

 

 どこか寂しさが滲む声で、母は答えた。穏やかに微笑むその顔が、消えない痛みに苛まれ続けているように思えてならなかった。

 

 だからなのだろう。

 

 その辛そうな顔を見上げたまま、あの日の自分は言ったのだ。

 

「じゃあ…………わたしが、一ばんになる」

 

「え……?」

 

「いっぱいれんしゅうして、おかあさまよりつよい人たちよりつよくなって……おかあさまがなりたかった一ばんつよい人に、わたしがなる」

 

 呆気に取られた様子の母に、無邪気な笑顔を向けた。

 

「それならもう、いやじゃないでしょ?」

 

「え……ええ、そうね…………でも……すごく大変よ? それ」

 

 母は苦笑しながら身を屈め、こちらと目の高さを合わせた。

 

「世界で一番強くなるためには、世界で一番頑張らなきゃいけないの。いろんなトレーニングをしなきゃいけないし、辛くても苦しくても走り続けなきゃいけない。普通の人なら途中で諦めちゃうくらい大変なことだけど……出来る?」

 

「へいきだよ。わたし、はしるの大すきだもん」

 

「大好きでも、大変なのよ? 走るのが嫌いになっちゃうくらい」

 

「ならないよ。きらいになんて」

 

 きっぱりと答えてから、母の顔をじっと見た。

 

 そして自分の中にあった素直な気持ちを、そのまま言葉にして伝えた。

 

「だってわたし、おかあさまのこと大すきだもの」

 

「え?」

 

「おかあさまよりつよい人がたくさんいても、わたしの一ばんはおかあさまだから。おかあさまみたいにつよくなって、みんなのまえでかっこよくはしりたいから……だから、あきらめないよ。一ばんになるまで、がんばる」

 

 母は目を丸くして、しばしの間固まった。

 

 遠い昔に失くした大切なものを、思いがけない場所で見つけたような――そんな驚きを映した顔だった。

 

 やがて、その心の中で何かが片付いたのか。母は元の穏やかな笑顔に戻り、澄んだ声音で問いかけた。

 

「そう……だったら、約束してくれる? 今のその気持ちを、大きくなっても忘れないでいてくれるって」

 

「うん!」

 

 迷いはなかった。

 

 自分の言葉を嘘にはしないと幼いなりに強く思って、大きく頷いた。

 

 そんな娘の頭を、母の手はそっと撫でた。

 

「楽しみにしてるわ。……私が見た夢の続きを、あなたが見せてくれる日を」

 

 

 

 

 

 

 世界で一番強くなる。

 

 あの日、母とそう約束した。

 

 何も知らない子供だった頃の、愚かな約束。

 

 深く考えもせず幼稚な目標を口にして、母に苦笑されただけの、些末な記憶。

 

 けれど、それが自分の始まりだった。

 

 自分が歩む長い道程は、自分より遥かに強い相手に挑み続ける過酷なレースは、確かにあの日、あの瞬間から始まったのだ。

 

 だから――

 

「づぅっ……ああああああああああッ!」

 

 絶望を拒み、前に進む。

 

 胸の奥から絞り出した力で身体を動かし、走り続ける。

 

 身体の節々が上げる悲鳴に耐え、今にも破裂しそうな心肺にさらなる負荷をかけ、前を行く相手に再び挑みかかる。

 

「はぁっ……はぁっ……ぜぇっ……はぁっ……!」

 

 勝たなくてもいい理由など、探せばいくらだってある。

 

 これはただのレースで、競馬という興業の一部だ。負けたら命を奪われるような戦いではなく、命を懸けるようなことでもない。どんな形で終わろうが、今日も明日も明後日も当然のように生きていられる。

 

 だから無理をしなくていい。勝者になれなくてもいい。

 

 死ぬほど辛い思いをしてまで走る必要はない。どれだけ頑張っても勝てないなら、諦めて楽になってしまえばいい。

 

 いつもそう思う。

 

 毎晩眠る前に思う。毎朝目覚めた後に思う。

 

 練習に向かう度に思う。身体が痛む度に思う。疲労で動けなくなる度に思う。

 

 このターフを走る度に思う。一歩前に踏み出す度に思う。

 

 けれど、その度に――記憶の奥底にいる始まりの自分が、幼い声を振り絞り訴えかけてくる。

 

 前を向け、と。

 

 走れ、と。

 

 諦めずにもう一度立ち向かえ、と。

 

 その声は、どうしたって無視出来ない。聞こえなかったふりをして立ち止まるなんて出来はしない。

 

 他の誰でもない、自分自身の声なのだから。

 

 あの日抱いた無垢な夢を、自分は今でも、忘れたくないと願っているから。

 

『内から再びキングヘイロー! キングヘイローがもう一度伸びる! エアジハードと馬体が並ぶ!』

 

「何……だと……!?」

 

 実況が何かを叫び、隣を走る相手も何かを言った。

 

 既に意識は半ば朦朧としており、誰の発言も聞き取れないばかりか、今どこで誰と競り合っているのかさえ分からなくなっていた。

 

 それでも、胸の奥の何かが反応したのか。

 

 荒い呼吸を繰り返す口から、自然と言葉が溢れ出した。

 

「何度でも……何度だって、言ってやるわ……」

 

 今にも暗転しそうな視界の中、前を見据える。

 

 ゴールの先にある未来を目指し、始まりの瞬間から積み上げてきた全てを燃やし尽くす。

 

「この勝負は譲らない……私が勝って、世界に行く……!」

 

 

 

 

 

 

「――っ」

 

 その時エアジハードが覚えた感情は、何と呼ぶべきものだったのか。

 

 ゴール寸前で再び追い込まれたことによる焦りではなかった。

 

 理解を超えた底力に対する恐怖でもなかった。

 

 自身の勝利を阻もうとする相手への苛立ちでもなかった。

 

 焦りでも恐怖でも苛立ちでもなく、エアジハード自身にも正体の掴めない不思議な感情が、何故かその身を縛った。

 

 相手から視線を切り、前だけを見据えて真っ直ぐ走らねばならないと分かっているのに、何故かそれが出来なかったのだ。

 

 隣を走る少女。

 

 気力も体力も限界を迎えながら、それを踏み越えて走り続ける競走馬。

 

 何度突き放しても、どれだけ力の差を見せつけても、諦めずに戦いを挑んでくる難敵。

 

 同じ場所を目指し、全てを懸けて競い合う相手。

 

 どうしてだろうか。

 

 もう長い間、そんな存在を心の何処かで探し求めていたように思えてしまった。

 

 そして、短くも濃密な時間が過ぎ去り――

 

『キングヘイローか!? エアジハードか!? ――今、二人並んでゴール! これは分からない!』

 

 死闘を繰り広げた二人は、横並びのままゴール板の前を通過した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十八話「未来に続く道」

 

 

 どうせ無理だろうと思っていた。

 

 多少見せ場を作れたとしても、結局はいつもと同じ。前にいる何人かを差し切れずに四着か五着あたりでレースを終えるのだろうと思っていた。

 

 何度も何度も、本当に飽きるくらい何度も、そんな光景を見てきたからだ。

 

 だから、直線を迎えてキングヘイローが先頭に躍り出た時――スマートフォンの画面越しに観戦していた浅黒い肌の少女は、驚愕に目を見開いた。

 

 直後にエアジハードが迫ってきた時は、まるで自分が追い詰められたかのように心臓が跳ね上がり、呼吸が止まった。

 

 最後のハロン棒を通過してからキングヘイローが二の脚を繰り出した時は、その激走から目が離せなくなっていた。

 

 そして、最後の最後。態勢を立て直したエアジハードに突き放され、やはり駄目かと思いかけた時。

 

 消えかけた火が再び激しく燃え上がるように、死力を振り絞りながらもう一度伸びる姿を目にして、理屈を超えた感情が湧き上がった。

 

 スマートフォンを持つ手に、力を込める。

 

 奥歯を噛み、画面に映るキングヘイローの走りを凝視して、唇を動かす。

 

「い……け……」

 

 掠れた声の、微かな呟き。

 

 誰の耳にも届かない、独り言も同然の言葉。

 

 けれどそれは、確かに彼女の――競馬の世界に夢を抱かなくなっていた少女の口から零れ落ちたものだった。

 

「いけ……いけよ…………勝てよ……!」

 

 キングヘイローとエアジハードの二人がゴール板の前を同時に駆け抜けたのは、その直後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 たったの千二百メートル。

 

 しかしながら、心臓が止まりかねないほどの苦しみに耐え、五体を極限まで酷使し続けなければ踏破出来ない、この世で最も過酷な千二百メートル。

 

 そんな激戦に身を投じていた競走馬達が、次々とゴール板の前を通過する中――最初にレースを終えた二人はすぐさま脚を止め、地面に膝をついていた。

 

 何もかもを出し尽くした後だったため、それ以上一歩も動けなかったのだ。

 

「ぜぇっ……はぁっ……はぁっ……」

 

 項垂れた姿勢で肩を上下させるエアジハード。

 

 十数秒かけてどうにか呼吸を整えた彼女は、ターフビジョンの隣にある着順掲示板に目を向ける。

 

 一着と二着の馬番号はまだ表示されておらず、通常なら着差が表示される部分には「写真」の二文字。

 

 同時入線のため決着が写真判定に委ねられたことを、それは物語っていた。

 

「……」

 

 不思議だった。

 

 勝利を掴む寸前で差を詰められた悔恨。写真判定の結果を待つ間の焦燥。

 

 そうした類の感情――このような状況に置かれた者なら誰もが抱くであろう思いが、何故か胸の内に生じなかった。

 

 その不思議さに戸惑う気持ちさえ、どういうわけか希薄だった。

 

 代わりに胸を満たす、澄み切った空のように静穏な感情が何と呼ぶべきものなのかは、本人にも分からない。

 

 分からないまま首を回し、今度はすぐ傍にいる少女を見た。

 

 案の定、と言うべきか。限界を超えた激走の反動に苦しんでいるキングヘイローの姿が、そこにあった。

 

(こいつは……)

 

 四つん這いになったまま動けず、汗塗れの身体を痙攣させ続ける対戦相手。

 

 その壮絶な姿を見つめ、心から思う。

 

(本当に……全てを出し尽くしたんだな……)

 

 全力でぶつかり合ったからこそ分かる。

 

 勝利を目指す意思という一点において、この相手は自分の上をいっていたのだと。

 

 比喩や誇張ではなく、本当に文字通りの意味で、己の全てを捧げた走り。

 

 一歩間違えれば二度と走れない身体になってもおかしくない、破滅と隣り合わせの無謀な奮闘。

 

 それを愚かと嘲笑う者はいるだろう。自殺行為と非難する者もいるだろう。

 

 けれど――命懸けでゴールへと向かうその真っ直ぐな意思が、最後の最後でもう一伸びする力を生み、敗北必至の状況を覆した。

 

 それだけは、この世の誰にも否定出来ない事実なのだ。

 

「……大丈夫か?」

 

「え……?」

 

 小声の問いかけに、キングヘイローは反応した。

 

 疲労を色濃く滲ませた顔が、エアジハードを見上げる。

 

「何か言った……? 今……」

 

「その……大丈夫か? 脚……」

 

 言葉の意味がすぐには伝わらなかったのか。

 

 それとも、ほんの数十秒前まで戦っていた相手に気遣われたのが、よほど意外だったのか。

 

 キングヘイローはしばしの間呆然とした後、微かに苦笑した。

 

「……は……はは……正直、ちょっときついわね……力、入らなくて……立てるかどうかも、分かんないくらい……」

 

 自らの脚に手を伸ばし、そっと触れる。

 

 かけがえのない戦友を労るように。

 

「でも……折れたりはしてない……と思う……私、脚だけは頑丈だから……」

 

 穏やかな声音でそう言ってから、やや不安げな顔になる。

 

「それより、どうなったの……? レース……」

 

「私達が同時に入線して、写真判定になった。まだ結果は出ていない」

 

「そう……」

 

 二人以上の競走馬が同時に入線した場合、その瞬間に撮影される写真を用いた決勝審判委員による判定が行われる。

 

 そして到達順位が確定した後、それが掲示板に表示される仕組みだ。

 

「とっくに……あなたの勝ちで決まったのかと思ったわ……最後、よく憶えてないから……」

 

 負けを覚悟した様子で、キングヘイローは力なく笑う。

 

 その横顔を見つめたまま、エアジハードは気になっていたことを口にした。

 

「あの作戦は、君が考えたの?」

 

「え……? あ、ああ……はは……まさか……どうやったらあなたに勝てるのか分からないから……セイウンスカイに相談して、知恵を借りただけよ……私は、あいつに言われた通りにやっただけ……」

 

「……だろうね。君、ああいう作戦が思いつきそうなタイプに見えないし」

 

「何よ、酷い言い種ね…………まあ、否定出来ないんだけど……」

 

 道中のペースを操作されたと気付いた時から、キングヘイローらしからぬ戦い方だとは思っていた。

 

 作戦自体が借り物だったと聞いても、別段驚きはしない。

 

「でも……ゴールまで走り抜いたのは、君の脚だ」

 

 立ち上がり、呟く。

 

 仮に今日の相手が、キングヘイローではなくセイウンスカイだったとしても――

 

 いや、他の誰であったとしても、自分は勝っていた。それだけの走りをしてみせたという自負はある。

 

 にもかかわらずこのような結果になったのは、相手がキングヘイローだったからと認めるしかない。

 

 最後の最後で、この少女は他の誰にも真似出来ない走りをした。

 

 不覚にも、自分はそれに目を奪われてしまったのだ。

 

 忘れかけていたものを思い出させるような、眩しい光を放つ疾走だったから。

 

 そのことを胸に刻み、一度目を瞑って深呼吸した後、地面に膝をついたままの少女に右手を差し出した。

 

「え……?」

 

 エアジハードの白い手を見つめ、キングヘイローは目を丸くする。

 

「ほら、立って」

 

「あ……ありがと……」

 

 戸惑いつつも差し出された手を取り、どうにか立ち上がる。

 

 目の高さが同じになったところで、エアジハードは言った。

 

「偉そうなことを言える立場じゃないけど……一応言っておく。世界を甘く見ない方がいい」

 

 真剣な眼差しは、対等と認めた相手に向けるそれだった。

 

「アメリカのドクターフェイガー、イギリスのブリガディアジェラード、香港のサイレントウィットネス……短距離戦に出てきそうな面子だけでも、今日の私より格上の名馬はごろごろいる。普通に競走したら何をどうやっても絶対に勝てないような化物ばかりだ。正直な話、この狭い日本で一番を争ってる私達とはレベルそのものが違う」

 

 世界との絶望的な差は、キングヘイローも合宿の時に痛感したことだった。

 

 壁を一つ越えた先には、さらなる壁が待っている。上を目指せば目指すほど、立ちはだかる壁は厚く高くなる。

 

 かつて母が言ったように、世界で一番頑張れるほどの覚悟を持った者でなければ辿り着けない場所なのだろう。

 

 広大な世界の頂にある、最強の座は。

 

「けど、何でかな…………そんな連中が相手でも、君ならどうにかしてしまいそうな気がするよ。少しだけね」

 

 小声で言い添えると、エアジハードは内埒の向こうにある掲示板を再び見上げる。

 

 つられて同じ方を向いたキングヘイローは、大きく目を見開いた。

 

「まあ、とりあえず……」

 

 割れんばかりの大歓声が、スタンドから湧き上がる。

 

「ウイニングランは勝者の義務だ。ゆっくりでもいいから、やっておきなよ」

 

「あ……」

 

 写真判定が終わり、着順掲示板には一着から五着までの馬番号が縦一列に表示されていた。

 

 一着の場所に灯る数字は、十三。

 

 他の誰でもない、キングヘイローの馬番号だった。

 

 

 

 

 

 

 悲喜こもごもの叫びが湧くスタンド。

 

 その一角で、伊藤は席に座ったまま沈黙していた。

 

 着順掲示板に一着と表示された「十三」の数字を、静かに見つめ続けていた。

 

 その横顔を盗み見るエアグルーヴが、どう声をかけたものかと迷っていると――老齢のトレーナーは何かを受け入れた様子で、おもむろに口を開く。

 

「一生懸命頑張れば、いつか必ず報われる。死ぬ気で走れば、必ず勝てる」

 

 そう呟いた後、寂しげに目を細める。

 

「世界がそんな風に優しく出来ているなら……きっと、誰もが頑張れるのだろうね」

 

 長い人生の中で経験してきた、幾多の出来事。

 

 老人の横顔には、その爪痕が深く刻みつけられているようだった。

 

「始めは誰もが夢を見るものさ。ダービーを獲りたいだとか、日本一になりたいだとか……そんな大きな夢を胸に抱きながら、この世界に入ってくる」

 

 教え子達の顔を思い浮かべるような口振りで、言葉を続ける。

 

「そしてほとんどの子が、すぐにそれを口にしなくなる。非情な現実に打ちのめされ、自身の限界を悟って……ね。悲しいことではあるが、致し方ないことだ。レースで勝者になれるのは一人だけ。他は全員敗者となり、無名のまま競走生活を終える。努力に見合うだけの成果を誰もが得ることは出来ない。競馬とは、そういうものなのだから」

 

「先生……」

 

 寂しげに語るその姿を、エアグルーヴは複雑な面持ちで見つめる。

 

 伊藤の視線は掲示板を離れ、ターフの上に佇む少女へと移った。

 

「だからこそ、尊いのかもしれんね」

 

「え?」

 

「現実の厳しさを知っても、どれだけ苦しくても立ち止まらず……懸命に走り続ける子達の強さは」

 

 自らの教え子を打ち破った相手。

 

 不屈の闘志でゴールまで走り抜き、栄冠を掴んだ競走馬。

 

 その強さに敬意を表すため、伊藤は両の掌を打ち合わせた。

 

「強い相手だったよ。想像以上に」

 

 喧噪の中、静かな拍手を勝者に贈る。

 

「悔しい気持ちはあるが……今はただ、彼女の勝利を讃えよう」

 

 その言葉を聞き、しわだらけの手が繰り返す拍手に目を向けながら、エアグルーヴは密かに考えた。

 

 たった今語られたことの意味――伊藤という老人が胸の内に秘めていた、教え子達への想いを。

 

「……」

 

 かつての伊藤徳正は、競馬界で最も厳しいトレーナーとして知られていた。

 

 教え子達に情け容赦のないハードトレーニングを課し、生活面でも自由を認めず徹底的な管理下に置こうとする、昔気質の男だった。

 

 その指導によって才能を開花させる者もいたが、そうなれずに挫折していった者はその何倍もおり、批判も数多く集まった。

 

 ――あまりにも厳しすぎる。あれでは教え子達を潰すだけだ。

 

 ――多くの才能の芽を伊藤は摘み取った。伊藤の下でなければ一流になれた者はきっと大勢いる筈だ。

 

 そんな声が年々増えていき、伊藤の指導を受けようとする者は減少の一途を辿り、やがて伊藤は方針を大きく転換した。

 

 ハードトレーニングを課すことを止め、練習以外で干渉することもなくなり、半ば放任に近い形で教え子達を育成するようになった。

 

 それにより厳しすぎるという批判は収まったが、代わりに別の批判が生じた。

 

 ――伊藤は枯れた。もうあの男は、教え子をまともに育てる気がない。

 

 いつしかそう囁かれるようになり、トレーナーとしての伊藤の名声は地に落ちた。

 

 どうするべきだったのか。

 

 何が正しく、何が間違っていたのか。

 

 何を目指してどのように接すれば、教え子達を光輝く未来に導けたのか。

 

 それは誰にも分からない。伊藤自身にもきっと分からない。

 

 永遠に答えが出ない問いなのかもしれない。

 

「さて……こうしてはいられんな。もう行かねば」

 

 伊藤は拍手を止め、席から立ち上がる。

 

 その面持ちが何故か、娘に会いに行く父親のそれのように、エアグルーヴには見えた。

 

「まだ、やるべきことが残っている。トレーナーとしての、最後の仕事がね」

 

 

 

 

 

 

 フォルリは人差し指を顎に当て、難しい顔をしていた。

 

「最後……ほんの僅かにですが、栗毛の子の脚が鈍りましたね」

 

 ゴールの寸前――エアジハードとキングヘイローの馬体が並んだ瞬間を思い返しながら、不可解に映った事象を考察する。

 

「体力が尽きたか、相手の決死の抵抗に怯んだか……それとも……」

 

 答えを探すように呟いた後、ふっと笑う。

 

「ま、考えても仕方のないことですね。どんな形であれ負けは負け。勝ちは勝ちです。今日のところはあの緑の子の奮闘を讃えておきましょうか」

 

 そんなことを白々しく言いながら、隣にいるリコに皮肉な笑みを向けた。

 

「教え子さんのGⅠ初制覇、おめでとうございます。感動的なレースでしたよ。涙が出ちゃいました」

 

「はいはい、見事に予想が外れちゃったもんで嫌味を言わなきゃ気が済まないのね。まったくメンタル小物なんだから」

 

「むっ……! ち、違いますー! 普通におめでとうございますって言ってるだけですー! ていうか予想してませんから! あの栗毛の子の方が強そうに見えるって言っただけで、別に絶対勝つなんて断言してませんから! ノーカンです!」

 

「何今さら予防線張ってたみたいなこと主張してんのよ。めっちゃドヤ顔でジハードちゃん推してたじゃない。私には勝者を見抜く目があるんですよって言いたげなアホ面晒してたじゃない」

 

「ア、アホ面って何ですか! アホ面って! ……だ、だって仕方ないじゃないですか! レースには色々と不確定要素というか、勝負のあやみたいなのだってありますから、一番強いのが必ず勝つってもんじゃないですし!」

 

「じゃあ偉そうに能書き垂れるのやめたら? あんたの的外れな解説を聞きたいなんて思ってる奴地球上にいないし」

 

「うぐっ……」

 

 辛辣に返され、口ごもるフォルリ。

 

 彼女は物凄く不服そうな顔をしばらく続けた後、拗ねたように唇を尖らせた。

 

「はいはい分かりましたよー。私の目が節穴でしたよー。ちっとも予想が当たらないのに何故かテレビに出続けてるおじさん達と同レベルの無能ぶりでしたよー。それに比べてリコさんはすごいですねー。最初から全てお見通しだみたいな面したままそこでふんぞり返ってて。いかにも出来る人っぽいオーラ漂わせながら強キャラ感満載で」

 

 皮肉交じりというより皮肉でしかない言い種だったが、それから彼女が見せた表情は少しばかり真剣だった。

 

「で……正味な話、リコさんにとって予想通りなんですか? この結果は」

 

「五分五分ってとこね。こうなるかもしれないとは思ったし、こうならないかもしれないとも思った。レースは所詮水ものだしね。どうなるかなんて、終わってみるまで分かりゃしないわ」

 

「ふぅん……五分五分、ねぇ……」

 

 未だ勝利の実感が湧かない様子で立ち尽くしているキングヘイローを、興味深げに見下ろす。

 

「リコさんが選んだ代表メンバー……あの緑の子以外の子達も、世間じゃ結構言われてるみたいですね。ワールドカップに送り出す五人がこれでいいのか、って」

 

「……」

 

「それでもあえてそのメンバーで行くことにしたのは、何か光るものを感じたとか潜在能力を見抜いたとか、そういう理由ですか?」

 

「まさか」

 

 フォルリの問いかけに、リコは否定を返す。

 

「悪いけど、私の目だって実は結構な節穴よ。目の前にいる子達がすごい潜在能力を秘めてるかどうかなんて、そんなもんいくら見たって分かりゃしないわ。漫画に出てくる名監督みたいにピキーンってなったりしないから。全然」

 

 視線をキングヘイローに向けたまま、静かに続ける。

 

「それに……ちょっとばかりすごい才能なんて、あったところで大して意味はない」

 

 確信を込めて口にした言葉には、彼女自身の挫折の経験と、そこから学び得たものが表れていた。

 

「パワーやスタミナに優れていてもレースセンスが並外れていても、広い世界を見渡せば必ず上はいる。自分より遥かに強い相手と出会って打ちのめされる日は、いつか必ずやってくる」

 

 上には上がいる。どれほどの才能を持って生まれても、どれほどの努力を積んできても、越えられない壁にぶつかる時は必ず訪れる。

 

 問題は、その時にどちらの道を選ぶか。

 

「そこで立ち止まって走れなくなる子か、立ち止まることを拒んで走り続けられる子か……その違いくらいなら、私の目だって見分けられるわ」

 

 自らの目で選び抜き、世界と戦う資格を与えた五人。

 

 その一人一人が胸に宿す強さを、リコは信じていた。

 

「別に無敗でも最強でもない。敗戦なんて何度も経験してきたし、世界の壁の厚さも思い知った。……それでもあの子達は、諦めずに走り続けてる。ほとんどの子達が途中で放り捨てていく夢や目標を、どんなに傷ついても捨てずに抱え続けてる。そういう子達だから代表に選んだ。理由を言葉にすればそれだけよ」

 

 世界との絶望的な差を覆す術があるとすれば、それは半端な才能や小細工によるものではない。

 

 どれほど強大な敵にも立ち向かう意思――絶望に抗い前へと踏み出す強さこそが、勝利を手繰り寄せる力となる。

 

 そう信じるが故の人選だった。

 

 万人に理解されるものではないだろうし、批判も山ほどあることは承知している。それでもリコは、その信条を曲げる気はなかった。

 

 自身の全てを捧げ、小さな島国の少女達を世界の頂点に導くと誓い、監督の任に就いたのだから。

 

「力しか信じないあんたには、納得いかない話でしょうけどね。フォルリ」

 

 隣に目を向ける。

 

 南米の大国から来た、小柄な栗毛の少女。

 

 柔和で可憐なその童顔の裏側に、腐汁のようにおぞましい本性が潜んでいることを、リコは知っている。

 

「……やだなぁリコさん。人をそんな、バトル漫画に出てくるダメな悪役みたいに言わないで下さいよぉ」

 

 フォルリは笑う。

 

 薄い唇を三日月の形に歪め、妖しく微笑む。

 

「教え子さん達の育ち具合を観察しに来たってのは、別に嘘じゃないんですよ? それにこう見えて、今は結構満足してるんです。リコさんの人選の正しさをあの緑の子が証明してくれてよかったなぁって」

 

 そう言って身を翻し、リコの傍を離れる。

 

 もうこの場に用はないとばかりに歩を進め、フロアの出口へと向かっていく。

 

「でも……」

 

 鈴の音のような声が、僅かに変質する。

 

「夢だとか目標だとか、諦めずに走り続ける意思だとか……」

 

 出口の近くで立ち止まり、振り返る。

 

 そこで彼女が見せたのは、虚飾を剥ぎ取った素顔だった。

 

「そんなチンケなもので打ち倒せるほど、生温い相手じゃありませんよ。――私達、アルゼンチン代表は」

 

 口角を吊り上げ、歯を剥き出しにした醜悪な凶相。

 

 凄絶なまでの獣性を孕み、毒針のような殺気を撒き散らす双眸。

 

 道化を装いながら己以外の全てを嘲笑い、情も敬意もなく気の赴くまま蹂躙し続ける、傲岸不遜な悪鬼の貌。

 

「殺す気で鍛え上げてきて下さいね。この島国のゴミ虫ちゃん達を。あんまり簡単に捻り潰せるようだと、面白くありませんから」

 

 冷酷に告げ、少女の姿をした悪鬼は去っていった。

 

 

 

 

 

 

 ウイニングラン。

 

 レースの勝者となった者がスタンドの前を駆け抜け、自身の勝利と応援してくれた観客達への感謝を示す行為。

 

 激戦の後の放心状態から抜けたキングヘイローが行うそれを、立ち見エリアの最前列で見届けていたセイウンスカイは、すぐ隣からパチパチという拍手の音を聞いた。

 

 拍手の主は、名も知らない奇人。

 

 ここに来た時から何故か自分達と一緒にいた、ロックシンガーのような出で立ちの少女だった。

 

「すごい逆転。びっくりした」

 

 先程までと変わらない無表情のまま、少女は言う。

 

「絶対勝てないと思って見てたけど、こういうことってあるんだね。奇跡っていうの? 何かそんなの見た気分」

 

 疲れ果てた身体をどうにか動かし、大歓声を浴びながらターフを駆ける勝者の姿を、その目はじっと見つめていた。

 

「ううん……奇跡じゃない、か……」

 

 前言を撤回し、拍手を止める。

 

「偶然とか幸運とかじゃなくて……あの緑の子が最後まで諦めないで頑張ったから、勝てないレースが勝てるレースに変わった。そんな感じだと思う」

 

 首を回し、セイウンスカイに目を向ける。

 

 その真っ直ぐな視線に、セイウンスカイは若干戸惑った。

 

「な、何……?」

 

「あなたの言う通りだったね」

 

「え……?」

 

「言ってたでしょ? まだ終わりじゃない、まだゴールじゃないって」

 

「あ……」

 

 言われて思い出す。

 

 この少女がキングヘイローの敗北を断言した時、確かにそう言い返していた。

 

「あの言葉の意味が分かった。……強かったね。あなたの友達」

 

 感情の読めない平坦な声だったが、それは紛れもない讃辞だった。

 

 キングヘイローが苦闘の末に掴み取った勝利と、セイウンスカイが最後まで貫き通した信頼を讃えるため、彼女は言葉を紡いだのだ。

 

 セイウンスカイは驚いた顔になり、相手の澄ました顔を見つめ返す。

 

 その直後だった。

 

「あっ、いたいた! キャンディさーん!」

 

 場の空気を打ち破るような、大声の呼びかけ。

 

 見ると、人混みを掻き分けながら近寄ってくる小柄な少女がいた。

 

「あ、フォルリだ」

 

「あ、フォルリだ――じゃないですよもー! 勝手にどっか行きやがったと思ったら何そんなとこで油売ってやがるんですかぁー!」

 

「……? 油は売ってないよ? ていうか持ってない」

 

「はいはい、いつも通り話が通じないキャンディさんですねー! もうどうでもいいですから、とっとと帰りますよー! 今度消えやがったらマジで置いてきますからねー!」

 

「うん。今行く」

 

 どうやら、はぐれていた知り合いに発見してもらえたらしい。

 

 怒った様子で来た道を戻っていく小柄な少女に、ロックシンガーのような少女はのんびりとした足取りでついていこうとする。

 

 その背中に、セイウンスカイは声をかけた。

 

「あ……待って」

 

 少女が歩みを止め、振り返る。

 

 呼び止めたことに明確な理由はなかったが――何かに衝き動かされるように、自然と口から問いが出た。

 

「えっと……その……君、名前は……?」

 

「キャンディライド」

 

 少女はさらりと答える。

 

 そして再び歩き出しながら、最後に言った。

 

「多分だけど、近いうちにまた会うと思う」

 

「え……?」

 

 人混みの奥にその姿が埋まり、視界から消える。

 

 残されたセイウンスカイは白昼夢でも見たような気分で、キャンディライドという名の奇人が去っていった方を呆然と見つめていた。

 

 いったい何者だったのか、あの少女は。

 

 そんな疑問が頭の中で渦巻いていると――

 

「ちょっと!」

 

 背後から声。

 

 振り返ると、ウイニングランをしていた筈のキングヘイローが埒の向こうで立ち止まり、こちらを睨みつけていた。

 

「何明後日の方向見てぼーっとしてんのよ! 人がせっかく勝ってウイニングランしてるってのに!」

 

 どうやら、自分の晴れ姿をきちんと見ていなかったことが不満らしい。

 

 精魂尽き果てているだろうに口だけは元気だなと呆れつつ、セイウンスカイは表情を緩める。

 

 そして気持ちを切り替え、少し悪戯っぽく言った。

 

「えー……いいじゃん別に。そんなの見てなくたって」

 

「はぁ!?」

 

「だってほら、これが最後のウイニングランってわけでもないんだしさ」

 

「――っ」

 

 不意を突かれたように、キングヘイローは息を呑む。

 

 それから彼女は視線を逸らし、ほんの少しだけ頬を赤らめながら呟いた。

 

「ま、まあ…………分かってるなら、いいんだけどね……」

 

「ふふ」

 

 分かりやすい反応を見て、セイウンスカイは笑った。

 

 

 

 

 

 

 ウイニングランが終わってからも、浅黒い肌の少女はスマートフォンの画面に目を落としていた。

 

 中庭のベンチに座ったまま、何も言わず、身動き一つせず。

 

 ただ静かに、画面の向こうで人々に祝福されるキングヘイローを見つめ続けていた。

 

「……勝っちゃったね。あいつ」

 

 隣に立つ髪の長い少女は、ぽつりと言う。

 

 細められたその目には、昔を懐かしむ思いが滲んでいた。

 

「もう二年も前だっけ……あたしらの世代のクラシックが始まる頃、あんた言ってたよね。今年のダービーはキングヘイローが勝つって。上手く言えないけど器の大きさみたいなのを感じるから、そう遠くない内に一番強くなるんじゃないかって」

 

 日々の出来事の中に埋もれていた、些末な記憶。

 

 髪の長い少女自身、今の今まで忘れていたこと。

 

 苦闘の末に栄冠を掴んだキングヘイローの姿を見て、ふとそれが蘇った。

 

「あんた、本当は……」

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 吐き捨てるように呟き、浅黒い肌の少女は立ち上がる。

 

「ああ言ってたかもね、そんなアホなことも。……どっちにしろ忘れたよ、昔のことなんて」

 

 スマートフォンをスカートのポケットにしまい、静かな足取りで歩いていく。

 

 その背中に、髪の長い少女は問いかけた。

 

「どこ行くの?」

 

「練習」

 

 返ってきた短い答えに、目を丸くする。

 

 浅黒い肌の少女は背を向けたまま、感情を押し殺したような声で言った。

 

「だらだらしてんのも飽きたから、ちょっと自主トレでもしようかって気分になっただけ。悪い?」

 

 その時、彼女がどんな顔をしていたかは分からない。

 

 けれどその言葉に込められた思いが、髪の長い少女には少しだけ分かる気がした。

 

 妙な安堵とおかしさを覚えつつ、淡く微笑む。

 

「そっか……じゃあ、あたしも付き合わせてもらおっかな」

 

「……勝手にすれば」

 

 素っ気なく応じる声は、隠しきれない気恥ずかしさを帯びていた。

 

 

 

 

 

 

 レース後の検量を終え、控室へと続く通路を俯きながら進んでいたエアジハードは、ふと顔を上げて立ち止まった。

 

 老いた男が一人、道を塞ぐように立っていたからだ。

 

 伊藤徳正。二年前に関係が決裂して以来、彼女にとっては名ばかりのトレーナーと化していた男だった。

 

「先生……」

 

 呟きが洩れたが、さほど驚きはなかった。

 

 何となく、そろそろ自分の前に現れるのではないかという予感はあったのだ。

 

 とはいえ、やはり気まずい。レースに敗れて帰ってきた今、胸を張って会えるような相手ではない。

 

 正直なところ、どんな顔をして何を言えばいいのかも分からないが――かといって、逃げるわけにはいかないだろう。

 

 覚悟を決めて、しっかりと向き合わねばならない。前に進むために。

 

「私は……」

 

「これから……」

 

 言葉が重なる。

 

 エアジハードが機先を制されたように固まると、伊藤は静かに言い直した。

 

「これから私が語ることは、独り言のようなものだ。自分の理想ばかりを教え子達に押し付け、多くの才能の芽を摘み取ってきた男の戯言だ。聞く価値がないと判断したなら聞き流してくれて構わない」

 

 自虐の滲む前置きをしてから、エアジハードの顔を見据える。

 

 そして一呼吸置き、厳かに告げた。

 

「自信……それは強さの源となる大事なものだが、時として大きな陥穽にもなる」

 

 事の本質に切り込むようなその声は、人気のない通路に響き渡った。

 

「贔屓目ではなく客観的な事実として、今日のレースに出走した十八人の中で最も優れた競走馬は君だった。実績でも実力でも、今日まで積み重ねてきた鍛錬の密度という面でも、君が一番であったことは疑いようのない事実だろう。にもかかわらず後れをとる結果となってしまったのは、君の中にある自信が僅かな隙を生んでいたからだ」

 

 エアジハードの表情が、僅かに苦渋の色を帯びる。

 

 今回のレースの主たる敗因がどこにあるのかは、指摘されるまでもなく自覚していた。

 

「過信というほどではない。強き者が自らの勝利を信じるのは当然のことだ。しかしながら過酷な鍛錬を経て培った強さと、それによってもたらされた栄光は、いつしか君の中で勝利の重みを薄れさせていた。勝利とは苦難の末に掴み取るものではなく、必ず手に入ると約束されたものとなっていた。……それが今回、勝負の明暗を分けた」

 

 何度力の差を見せつけられても諦めず、果敢に戦いを挑んできたキングヘイロー。

 

 最後の刹那に目を奪われたあの走りが、脳裏に蘇る。

 

「勝利の重みを知り、競馬の厳しさを噛み締めながら、それでもゴールを目指して走り抜く意思……今回勝者となった子は、その一点においてのみ君を上回っていた。下らない精神論に聞こえるかもしれないが、私にはそう思えたよ」

 

 その見解を否定する術をエアジハードは持たず、否定する気にもなれなかった。

 

 勝者となるにふさわしい者に勝利の女神は微笑んだ。

 

 言ってしまえばそれだけのこと。何も不思議なことはなく、見方によっては順当な結果とさえ言える。

 

 悔恨の念は胸の内に重く堆積しているが、それを忘れずに教訓とすることがレースに敗れた者の務めだろう。敗北から学ばない者に勝利は訪れない。

 

 自らをそう律し、気持ちに区切りをつけようとした時だった。

 

「だが……同時に、君の走りにも胸を打たれた」

 

 意外な言葉が耳に届く。

 

 伊藤がこちらに向ける眼差しは、穏やかなものに変わっていた。

 

「もし君の強さが、上っ面だけの浅薄なものだったなら……私の元を離れ、独りで走り続けたこの二年間が、無価値な迷走の日々だったなら……最初にキングヘイローに詰め寄られた時点で勝負は決まっていただろう。あそこで崩れたまま終わらず、気力を燃やしてもう一度伸びた姿に、私は君の本当の強さを見た」

 

 そう語った後、伊藤は視線を横に移す。

 

 彼の目が見据えたのは、エアジハードの背後に立つ者達。

 

「そして……そう思ったのは、私だけではないようだ」

 

 言葉の意味に気付いたエアジハードは、後ろを振り返り、目を瞠った。

 

 いつの間にかそこにいたのは、四人の少女。

 

 二年前のあの日、自分が語った夢を嘲笑いながら去っていき――それ以来ろくに顔を合わせてもいなかったチームメイト達だった。

 

「先……輩……」

 

 目に映る光景が信じられず、呆然と立ち尽くす。

 

 四人の少女は皆一様に気まずそうな表情を浮かべ、どこか遠慮がちな視線をエアジハードに投げかけていた。

 

 ややあって、一人が口を開く。

 

「……観てたよ。レース」

 

 あの日の問答で、エアジハードに目標を問うた少女だった。

 

 かつてその瞳は、荒涼とした諦めの色に染まっていたが、今は違った。

 

「強かったね、あんた…………あたしらと一緒にやってた頃とは別人みたいだ」

 

「あ……」

 

 苦笑交じりに紡がれた言葉が、意識の隅まで沁み透る。

 

 長い間抱え続けてきたものが溶け消え、空白となった場所を別のものが埋めていくように感じた。

 

 硬直したまま動かない背中に、伊藤は言う。

 

「私が連れてきたのではない。皆、自分の意思でこの場に足を運んだんだよ」

 

 教え子達一人一人の顔を順に見て、その思いを代弁する。

 

「夢を笑われても、誰も傍に寄り添ってくれなくても……自分を信じて走り続け、見違えるほど強くなった君の姿を見るためにね」

 

 エアジハードの孤独な戦い。強い決意と大きな夢を抱き、何があろうと挫けずに乗り越えてきた長い道程。

 

 その果てに得たものが、この光景だった。

 

 無名の存在から世代を代表する名馬にまで成長を遂げ、努力が実を結ぶことを証明してきたからこそ、かつては出来なかったことを実現させた。

 

 競馬の世界に夢を見なくなっていた少女達の心を動かし、競馬場に集めた。

 

 そして今、二年の時を経てエアジハードと向き合った少女は、ぽつりと問う。

 

「……まだ、あるの? あれ」

 

「え……」

 

「ほら……あの日、見せてくれたやつ」

 

「あ……」

 

 二年前のあの日、机の上に置いた紙の束。

 

 みんなで一緒に強くなりたい――そんな願いを込めて書き綴った、大きな夢への第一歩となる練習計画。

 

「今更遅いんだろうし、こんなこと言ったら怒られるかもしれないけどさ……」

 

 それから続いた言葉は、彼女なりの勇気を振り絞ったものだったのかもしれない。

 

「あたしも……強くなれる?」

 

「先輩……」

 

「あんたみたいに頑張れば、あたしでも……あたし達なんかでも……今より少しくらいは、強くなれるかな?」

 

 胸を衝く何かが、その問いの内にはあった。

 

 エアジハードの目尻に小さな雫が浮かび、頬を伝って床へと落ちる。

 

 探し求めていたものを見つけたように顔を綻ばせ、孤独な戦いを終えた少女は、微かに震える声で返答した。

 

「遅くなんか……ないです。絶対に」

 

 道は続いている。

 

 何度躓こうと立ち止まろうと、前に進む意思がある限り、自分達のレースは終わらない。

 

「私だって、強くなれた……そしてこれから、今よりもっと……強くなっていくんですから」

 

 

 

 

 

 

 アルゼンチンから来た二人の少女――フォルリとキャンディライドは、中京競馬場の構内を並んで歩いていた。

 

「で……どうでしたキャンディさん? 日本のレースを観た感想は」

 

「みんな速かった。すごく頑張ってた。観てて楽しかった」

 

「はい、小学生の作文レベルの感想ありがとうございまーす。キャンディさんに訊いた私がお馬鹿さんでしたねー」

 

「真面目に言ってるのに……」

 

 素直な感想に皮肉を返され、キャンディライドは不服そうな声を洩らす。

 

 それから彼女は大事なことを思い出したような顔になり、隣を歩くフォルリの顔を見た。

 

「そう言えば……私がレース観てる間、フォルリはどこ行ってたの?」

 

「わー……まるで私が勝手にどっか行ってたアホの子みたいな言い種ですねー……キャンディさんじゃなかったら顔面に膝蹴りぶち込んでるとこですよぉー」

 

 勝手に雲隠れしていやがったクソ馬鹿はお前だろう――という内心を朗らかな笑顔に反映させつつ、フォルリは問いに答えた。

 

「ま、ざっくり言うと顔見せてきたんですよ。何をトチ狂ったんだか今は日本代表の監督なんかやっちゃってるおばさんに」

 

「それって、リコさん?」

 

「他に誰がいます?」

 

 皮肉げに返してから、大仰に肩を竦める。

 

「どうせ監督やるんだったらアルゼンチンでやればいいのに。こんなクソザコしかいない弱小国でお山の大将みたいなポジションに収まるなんて。あの年増にはつくづくがっかりさせられます」

 

「……昔は、リコさんが最強って言ってたのに」

 

「ええ、言ってましたよー。純真無垢なロリっ娘時代はマジでそう思っちゃってました」

 

 酷薄に笑い、どこか楽しげに続ける。

 

「でもアレですよ。もっと強い人を見つけちゃったんで、あんな負け犬はポイってことで。目標でも何でもなくなりました。私って自分に正直ですから、乗り換えるのに抵抗とかないんですよねー」

 

「あの傷の人、ね……」

 

 キャンディライドの表情が、僅かに曇る。

 

 フォルリが言及した、全盛期のリコを凌駕する競走馬――それが誰なのかを、彼女は知っていた。

 

「私、あの人嫌い…………ううん……嫌いじゃないけど、ちょっと怖い。あの人が近くにいると、息を吸うのが苦しくなる」

 

「えー、そうですかぁ? あの人とってもいい人ですよー。あんな聖人他にいないってくらい」

 

「いい人なのは知ってる。でも、怖い」

 

「ふふ」

 

 キャンディライドが抱く苦手意識を微笑ましく思いながら、フォルリは瞳の奥に鋭利な光を灯す。

 

「そう思う気持ちも、まあ分からなくはないですけど……我慢して下さいね。十一月のワールドカップが終わるまでは」

 

 彼女達はアルゼンチン代表。

 

 南米大陸随一の競馬大国が擁する精鋭であり、夢想の類ではなく現実的な目標として、世界の頂点を狙っている。

 

「私達のチームが頂点を獲るためには、絶対に必要ですから。あの人の、全てを呑み込むような脚が」

 

 信仰にも等しい思いが乗った言葉を、キャンディライドは泥沼に踏み入るような気分で聞いた。

 

「……あの人、ワールドカップに出てくれるの?」

 

「今度グリーヴさんが交渉に行く予定ですけど、断られることはまずないでしょう。だってあの人――」

 

 フォルリは言葉を切り、目を見開く。

 

 多くの人々が行き交う視界の中、自分のすぐ傍を通り過ぎていった二人組に意識を向け、振り返って後ろ姿を凝視する。

 

 それから数秒後、彼女が口許に刻んだ笑みは、それまでとは種類の違うものだった。

 

「く……ふふ……ふふふ……」

 

「どうしたの?」

 

「いえね……こんな僻地の競馬場で、面白い人達を見かけることもあるんだなぁって」

 

「……?」

 

 フォルリが何を言っているのか分からず、キャンディライドは首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 女が二人、肩を並べて歩いていた。

 

 その片方――長い褐色の髪を螺旋状に巻いた女が、おもむろに口を開く。

 

「いいレースだったわね。なかなか」

 

 雑踏の中に響く、透き通った美声。

 

 その口許が湛えるのは、気品漂う麗しい微笑み。

 

「実力では明らかに劣っていたにもかかわらず、練り込まれた戦略と不屈の闘志で勝利を手繰り寄せた。特に最後の、三の脚とでも呼ぶべき伸びには感嘆したわ」

 

 上機嫌に語る彼女は、一言で表すなら貴婦人だった。

 

 金糸の刺繍が施された白いロングドレスを身に纏い、造花をあしらった帽子を被り、ドレスと同じ色の瀟洒な日傘を差している。

 

 絵画の世界から抜け出てきたかのように浮世離れした姿だが、絶世の美女と評しても差し支えないその美貌故か、違和感の類は欠片もない。

 

 むしろ、貴婦人めいた装いでいることが至極当然であるかのような――そんな独特の印象さえ見る者に与える女だった。

 

「限界を迎えた身体を気力で動かして、もう一伸びする……言葉にすればそれだけのことだけれど、実際にそれが出来る者はそういない。意思の力という点だけに限って見れば、あの緑の勝負服の子は世界の一流どころに比肩すると評してもいいでしょうね」

 

 そう結論付けてから、連れに目を向ける。

 

「……というのが私の感想なのだけれど、あなたはどうかしら? ジェラード」

 

 巻き毛の女の隣を歩く、もう一人の女。

 

 その人物は前を向いたまま、冷めた表情で応じた。

 

「下らん」

 

 鋭く響く、抜き身の刀のような声。

 

「見るに堪えん児戯だった。それ以外に語ることはない」

 

 短く切り揃えた頭髪。凍えた光を放つ碧眼。整った造形ながら、見る者に魅了ではなく畏怖をもたらす硬質な顔立ち。

 

 その身に纏うのは、英国陸軍の制服。肩に付けた階級章が示す位は、佐官の最高位たる上級大佐。

 

 巻き毛の女とはあらゆる面で対照的な、張り詰めた空気を自然体のまま帯びる軍人だった。

 

「相変わらず辛辣ね。色々と足りない子が勝つために最善を尽くしたんだから、そこだけでも褒めてあげればいいのに」

 

「雑魚にしては上出来だったと褒めろと? それこそ下らん」

 

 外見に違わず、軍装の女の性分は冷厳そのもの。

 

 単に死力を尽くしたというだけで称賛を口にするほど、彼女の基準は甘くない。

 

「弱者に温情を与えて人格者を気取る趣味はない。貴様のような愚物と違い、私は見たまま感じたままを語るだけだ。故にゴミはゴミとしか言わん」

 

「面倒な性分ねぇ。もう少し柔らかくなった方が人生楽しいわよ?」

 

「生憎、人生に快楽など求めてはいない」

 

 貴婦人と軍人。存在自体が相反するかのような二人の女に、周囲を行き交う人々は驚愕の眼差しを向けていた。

 

 服装が奇抜だからではない。

 

 遠い異国――近代競馬発祥の地イギリスからやってきたこの両者が、競馬の世界では知らぬ者のいない、名馬の中の名馬だからだ。

 

「で……こんな下らん児戯を見せるために私をこんな所まで連れ出したのか? 貴様は」

 

「まさか。今日のこれは余興みたいなものよ。本命はこっち」

 

 そう言って、巻き毛の女は自身のスマートフォンを軍装の女の前にかざした。

 

 その画面に映っていたのは、小柄な栗毛の少女と赤いマスクの少女の顔写真。

 

「この子達と遊んであげてって頼まれちゃってね。私一人でもよかったのだけれど、せっかくだから引きこもり気味のあなたも一緒に連れてってあげようと思ったのよ。私って優しいでしょう?」

 

「迷惑以外の何物でもないな。どれだけ私に無駄な時間を使わせれば気が済むんだ?」

 

「そんなこと言って。本当は大好きな私と一緒にいられて嬉しいくせに」

 

「寝言は寝て言え」

 

 王冠を戴く絢爛なる華、ミルリーフ。

 

 最速を体現する無謬の軍神、ブリガディアジェラード。

 

 同年に生まれた宿敵同士であり、英国競馬界の王座を二分する二人の英傑。

 

 近代競馬の母国が世界に誇る、無敵の双璧。

 

「そんなわけで次は東京に行くわよ。のんびり観光を楽しみながら、ね」

 

「下らん」

 

 真逆の在り方をしながら同等の力を持つ両者は、次なる目的地へと向かっていった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十九話「双璧」

 

 

 高松宮記念から二日後の早朝。

 

 学園の広大な敷地の一角――校舎裏に建つ大きな黒い慰霊碑の前に、マルゼンスキーは一人佇んでいた。

 

 約一ヶ月前、東条ハナと二人きりで会い、言葉を交わした場所だ。

 

 そこで今、彼女はあの日の師に成り代わったかのように、どこか寂しげな面持ちで眼前の慰霊碑を見つめていた。

 

 仄暗い影を帯びた感情を、瞳の奥に抱えながら。

 

「こんな所にいたのか」

 

 背後から歩み寄り、そう声をかけたのはシンボリルドルフだった。

 

 人気のない場所で佇むマルゼンスキーに訝しげな目を向けつつ、言葉を続ける。

 

「もうすぐ代表チームの練習が始まるぞ。行かなくていいのか?」

 

「ええ、そうね……」

 

 マルゼンスキーは溜息をつく。

 

「ちょっと考え事をするつもりで立ち寄ったのだけれど、もうそんな時間か……ごめんなさい、すぐ行くわ」

 

 北海道での合宿から帰った後も、彼女達二人は日本代表チームのコーチ役を続けていた。

 

 現在はリコの意向により、個別の練習に励むスペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイローの三人に日替わりで付き添い、様々な形で技術指導を行っている。

 

 十一月のワールドカップが終わるまで、チームの裏方として後輩達を支え続ける――格好だった。表向きは。

 

「ねえ、ルドルフ」

 

 ぽつりと、マルゼンスキーは言った。

 

「私って、実は結構酷い奴よね?」

 

「……どういう意味だ?」

 

「言葉通りよ。性格が悪い奴ってこと」

 

 シンボリルドルフに背を向けたまま、マルゼンスキーは淡々と続けた。

 

「一緒に頑張りましょうだとか、全力でサポートするだとか……聞こえのいい言葉を並べておきながら、本当にそうする気なんて欠片もなかった。外面だけ綺麗に取り繕って、それっぽく振る舞ってただけ」

 

 合宿初日から現在に至るまでの、自身の言動。それを振り返りながら、嘘偽りのない本音を吐露する。

 

「今だってそう。特訓に協力はしてるけど、ワールドカップに興味なんてない。あの子達が世界の強豪相手に勝てるとも思ってない。……いえ、それどころか……無駄なことはやめちゃえばいいのにとさえ思ってる」

 

 シンボリルドルフにとってそれは、以前から薄々察していたことだった。

 

 穏やかで人当たりが良く、後輩達の面倒を見ることも厭わないマルゼンスキーだが、一つだけ欠けているものがある。

 

 熱意だ。後輩達と共に世界の頂点を目指すという熱い意思が、彼女の胸中には火種ほども存在していない。

 

 この先に待つ世界との戦いに、夢や希望を抱いていないのだ。

 

「そんな本音が透けて見えたから……かもしれないわね。あの子が、日本に留まる決断をしたのは」

 

「グラスか……」

 

 シンボリルドルフは呟く。

 

 グラスワンダーがシアトルスルーから帰国の誘いを受けたことと、それを拒んで日本に留まる道を選んだことは、彼女も既に聞き及んでいた。

 

「あれは彼女なりに考え抜いた末の結論だろう。君がどうこうという問題ではないと思うが?」

 

「そうかもね。でも、私の思い描いた通りに出来なかったのは事実よ」

 

 傷つかなくても歩いていける道に、後輩を導こうとした。

 

 しかし、その試みは頓挫した。他ならぬ後輩自身が、傷つきながら未来を目指す道を選んだことによって。

 

 それを自らの不徳が招いたことと、マルゼンスキーは考えている。

 

「結局私なんてそんなもの。何もかも中途半端で、後輩の心一つ思い通りに出来やしない」

 

 自虐的に呟いた後、僅かに表情を変える。

 

 細められたその目は、殺意に近い感情を孕んでいた。

 

「けど、いいわ。それならそれで」

 

 眼前にある石の塊。

 

 競馬の現実の一面を物語る慰霊碑を、目に焼きつける。

 

 そこに名を刻まれた者達の生涯に思いを馳せ、後輩が歩む道の先にあるものを考えた上で、決意を口にした。

 

「もう決めたから。これから自分がやることは」

 

 

 

 

 

 

 練習場の芝コースで、グラスワンダーは日課となった個人練習に励んでいた。

 

 現在その場にいるのは彼女一人だけだが、もし部外者がその練習の様子を見たなら、あの少女はいったい何をやっているのかと疑問を覚えたに違いない。

 

 左脚を地面から離し右脚一本で身体を支え、その姿勢のまま地面を蹴ってゆっくりと前に進んでいる。

 

 それだけでも奇妙だが、さらに奇妙なのは大きなリュックサックを通常とは逆の形で身に着けていることだった。要するに、袋の部分が胴体の前に来る形で着けているのだ。

 

 ただでさえ不安定な片脚立ちのまま、重い荷物により身体の重心が前に寄った状態で前進し続ける――傍から見れば意味不明な行為だろう。少なくとも、学園内でこのような真似をしている者は彼女以外にいない。

 

 しかしながら、奇行を続ける当人の表情は真剣そのものだった。

 

「二百九十七、二百九十八、二百九十九……三百」

 

 一歩進むごとに数えていた歩数が三百に達したところで、左脚を地面に下ろして立ち止まる。

 

 そして数十秒かけて呼吸を整えた後、今度は逆に右脚を地面から離した姿勢になり、左脚一本による前進を始めた。

 

「一、二、三、四……」

 

 一見しただけでは滑稽とも取られかねない奇行は、実のところ重大な意味を持つ必要不可欠な特訓であった。

 

 合宿を終え東京に帰った翌日から、彼女はこの特訓を毎日欠かさず行っている。

 

 この特訓をやり遂げた先に、自らが目指す未来があると信じて。

 

「へぇ……なかなか様になってきたじゃない」

 

 感心したような声とともに、リコがその場にやってきた。

 

 二週間余りで明確な進歩を見せ始めた教え子に、日本代表チームの監督役は上機嫌な顔を向ける。

 

「初日にすっ転びまくってた時はどうなることやらと思ったけど、やれば出来るようになるものね。思ったより早く進歩してくれて何よりだわ」

 

「お世辞は……言ってくれなくていいですよ……」

 

 片脚による前進を続けながら、グラスワンダーは苦笑した。

 

 既にその額には、大粒の汗が浮かんでいる。

 

「まだまだ全然駄目で、転んでばかりですし……私が不器用なのは、私が一番よく知ってますから……」

 

「お世辞じゃないってば」

 

 リコは笑い、肩を竦める。

 

「確かにグラスちゃんはもう清々しいくらいの脳筋で、ゲームで例えるならパワーだけSSSランクで他は全部DとかEって感じの能力値で、有り余るパワー以外は何一つ褒めるところがないクソゴミと言っても過言じゃないくらいの筋肉達磨だけど……」

 

「……」

 

 あまりにもあけすけな物言いをされ、果てしなく微妙な顔になるグラスワンダー。

 

 その反応を楽しみながら、リコは続けた。

 

「でもまあ、これに関しちゃ割と呑み込みがいい方だと思うわよ。多分だけどね」

 

 ふざけた言動をとることはあっても、無意味な世辞や心にもない嘘は決して口にしない。

 

 教え子を褒めるのは、褒めるに値すると本心から思った時だけ。

 

 それがリコの方針であり、彼女なりの誠意の表し方だった。

 

「てなわけで、そろそろ次の段階にいっちゃおうかしらね」

 

「次の段階……?」

 

「どうにかこうにか片脚だけで進めるようにはなったから、次はその状態で人と競走してみようってこと。もちろん相手の方は、両脚を使える状態でね」

 

「え……さ、流石にそれは……」

 

 グラスワンダーは当惑し、口ごもる。

 

 特訓に慣れて進歩してきたとはいえ、それはまだかろうじて前に進み続けられるといった程度の話だ。

 

 両脚を使って走る相手と競走するなど、無理に決まっている。

 

「別に全力疾走する相手に勝てなんて無茶言ってるわけじゃないわよ。軽いジョギング程度の速さで走る相手に置いてかれないようついてってみなさいってだけ」

 

「まあ、それなら……」

 

 かなり難しいが、頑張れば出来なくもないかもしれない。

 

 いや、頑張っても無理な気はするが――やれと言われた以上はやってみるしかない。

 

 自らをそう納得させ、グラスワンダーは渋々頷く。

 

「でも、相手っていうのは……」

 

「私だよ」

 

 横合いから声が聞こえ、反射的にそちらを向く。

 

 そして大きく目を見開き、驚きの声を洩らした。

 

「ジハードさん……」

 

 エアジハード。

 

 先日高松宮記念のタイトルと日本代表の座をかけてキングヘイローと争っていた、前年の最優秀短距離馬。

 

 それが今、視線を向けた先に立っていた。

 

「彼女の方から申し出てくれたのよ。自分で良ければ、あなた達代表チームの練習に力を貸すって」

 

 リコがそう言うと、エアジハードは澄ました顔で説明を引き継ぐ。

 

「レースの直後だからトレーニングは控えるようにって言われたけど、何もしないでいるのもあれだからね。ジョギング程度でいいなら付き合うよ」

 

 素っ気ない物言いだったが、不思議と冷たい印象はなかった。

 

 むしろ、どこか無理をして素っ気ない態度を装っているように感じられたのは、果たして気のせいなのだろうか。

 

「私が練習相手じゃ、何か不満?」

 

 問われたグラスワンダーは、呆然とした顔で一瞬固まる。

 

 しかしすぐに状況を呑み込み、柔らかな笑みをその口許に湛えた。

 

「いえ……ありがとうございます。ジハードさん」

 

「別に、礼を言われるようなことじゃない」

 

 そんなやりとりを経て、奇妙な取り合わせによる奇妙な併走は始まった。

 

 

 

 

 

 

 東京都府中市内の道を、一台の車が進んでいた。

 

 長い車体を艶やかな漆黒に塗装された、外国製の高級車だ。

 

 その内部――前後の座席が向かい合う形で配置されたリビングルームのような空間に、二人の女がいた。

 

 ミルリーフとブリガディアジェラード。

 

 とある事情により日本を訪れていた、英国競馬界の双璧である。

 

「ほんの三日足らずの間だったけれど、楽しかったわねー。日本全国ぶらり旅」

 

 本革の座席に身を沈めながら、ミルリーフは満面の笑みで言った。

 

 いつも上機嫌な様子で微笑んでいる彼女だが、これ以上ないほど濃密な日本観光を満喫した後とあって、この日は特に機嫌が良かった。

 

「特に京都が印象深かったわ。清水寺に三十三間堂に鹿苑寺金閣。千年以上前から栄えてる街の名所だけあって、どこも素敵だったわねー。私ってほら、旅先で異国情緒みたいなのに触れるのが好きだから、趣ある建物を眺めてるとそれだけで優雅な気分に浸れちゃうのよ」

 

 そんな調子で自分語りをしつつ、京都の土産屋で買った扇子を開き、ぱたぱたと顔を扇ぐ。

 

「それにほら、この扇子っていうのもなかなかエキゾチックで素敵じゃない? こういう小物の一つ一つにもその国の文化や気候風土なんかが表れるからいいのよねー。こうやって昔の日本人の真似をしてみると、ちょっとだけ心が豊かになった気がするわ」

 

 英国競馬界が誇る中長距離の王者、ミルリーフ。

 

 ダービーステークスを始めとした数々の栄冠を保持する彼女は、誰もが認める世界屈指の競走馬だが、競馬だけが生き甲斐で競馬にしか関心がないというような気質の持ち主ではない。

 

 テニスやクリケットなどのスポーツに興じることもあれば、流行りの映画を観に行ったりクラシック音楽を聴きに行ったりすることもある。今回のように、用事のついでに観光旅行を楽しむこともある。

 

 多趣味かつ自由奔放な性分であり、人生を楽しむ主義なのだ。生家が大富豪でその気になれば大抵のことは思い通りに出来るため、遊ぶと決めた時は徹底的に遊ぶ。

 

 それ故に、現在斜向かいに座っている同乗者とは、出会った頃から一度たりとも意見が一致しない。

 

「っていう具合に、私としては今回のバカンスを十二分に満喫したところなのだけれど……そんな気分をちっとも共有してくれないへそ曲がりさんが約一名、と」

 

 投げかける言葉に少しばかりの棘を含め、同乗者に目を向ける。

 

 英国競馬界が誇る短距離路線の王者、ブリガディアジェラード。

 

 あらゆる意味でミルリーフとは真逆の気質を持つ軍服姿の麗人は、頬杖をついた姿勢で車窓の外に目を向けたまま、いつも通り冷淡に応じた。

 

「物見遊山なら一人で楽しめ。私を強制的に同行させるな」

 

「強制的なんて、人聞きが悪いわねぇ。ちょっと人を使って寝ていたあなたをうちの飛行機に運び入れただけじゃない」

 

「世間ではそれを拉致と言う。万国共通で犯罪とされる事案だ。理解出来たなら今すぐ私を帰国させろ。理解出来る知能がないなら己の愚劣さを悔いながら死ね」

 

「あらあら……ただで楽しい観光旅行を堪能させてあげたつもりだったのに、随分嫌われちゃったわねぇ」

 

「安心しろ。貴様のことは最初から見下げ果てている。これより下はないというほどにな」

 

「はいはい、素直じゃないんだから」

 

 悪態を涼しげに受け流し、開いていた扇子を閉じてから、ミルリーフは眼差しを少しだけ鋭くする。

 

「でもジェラード、あなたがツンツンしてるのはいつものことだけれど……何だか今日のあなた、いつもより機嫌が悪そうに見えるわよ?」

 

 ミルリーフとブリガディアジェラードの付き合いは長い。

 

 思想信条の類から些細な癖に至るまで、互いのことは家族以上に知り抜いている。

 

「子供の頃からそうよね? 本当に気に食わないことがある時、誰とも目を合わさずに窓の外を見てるのは」

 

「……」

 

 図星だったのか、無表情だった顔に僅かな苦々しさが滲む。

 

 ミルリーフはくすりと笑った。

 

「清水の舞台からあなたを突き落とそうとしたのを、まだ根に持ってるのかしら?」

 

「違う」

 

「イナゴとか納豆みたいな上級者向けの日本食ばかり食べさせたのを、まだ根に持ってるのかしら?」

 

「違う」

 

「あなたに可愛らしいメイド服を着せた時の写真をSNSに上げたのを、まだ根に持ってるのかしら?」

 

「それはそれで貴様を始末する理由の一つだが、今考えていることは違う」

 

 表面上は常に不機嫌そうにしているブリガディアジェラードだが、それが自然体なだけであって常に機嫌が悪いわけではない。

 

 彼女の実態は不機嫌というより無関心に近く、事物のほとんどを冷めた目で見ているため、特段の怒りや敵意を覚えることは基本的にないのだ。

 

 そう、基本的には。

 

 稀にだが、自身の価値観や美意識にそぐわない事物を見た時は、本当に不機嫌になることもある。

 

「ただ度し難かっただけだ。先日見た、この国の競馬の様相がな」

 

 彼女は競馬の求道者。

 

 競馬に関しては他の誰よりも厳格であり、独自の信念と哲学を持っている。

 

「そう? あれはあれで良いと思ったけれどね。設備も制度も整ってるようだし、コースは走りやすそうだし、それに……ふふっ……お客さん達もすごく活気があって、何だかアイドルに声援送ってるみたいだったし」

 

「それだ」

 

 ミルリーフと視線を合わせ、ブリガディアジェラードは言った。

 

「貴様が今挙げた事柄……それら全てが、この国の競走馬を駄目にしている」

 

 日本競馬が競走馬達に提供する、あらゆる面で恵まれた環境。

 

 それこそが日本競馬の弱さの根源なのだと、大英帝国の軍神は断じた。

 

「貴様も知っているだろう? 百年以上前……我が国が世界の盟主だった時代の競馬は、今より遥かに厳しいものだった」

 

 冷厳な意思を声音に滲ませ、自らの体験談の如く語る。

 

「監獄に等しい劣悪な生活環境、故障の危険を顧みない過酷な鍛錬、時として数日にも及ぶ汽車での長距離輸送、一日の間も置かずに行われる文字通りの連闘……現代では非常識かつ非人道的とされるそれらが、当然のものとして罷り通っていた。馬場についても同じだ。当時の馬場は整地がほとんどされていないため走り辛く、地面の窪みに脚をとられての転倒など珍しくもなかった。今のこの国の馬場とは真逆と言えるな」

 

「私達競走馬には人権さえなかった時代の話よ。あまり美化して語るのもどうかと思うけれど?」

 

「確かに美化すべきものではない。何もかもが未熟で粗雑だった時代の話だ。……だが、それ故に育まれていた強さもある」

 

 逆境に身を置いた者だけが得られる強さを、苛烈な人生を歩んできたブリガディアジェラードは知っている。

 

「弱さを許さず甘えを許さず怠惰を許さず、死ねばそれまでと断じて無慈悲に走らせ続ける環境だったからこそ、弱者は淘汰され真の強者だけが残った。その最たる例が三冠馬グラディアトゥールや不敗の女帝キンチェム。長き時を経た今も我々競走馬の間で伝説として語り継がれる名馬達だ」

 

「厳しさを失った現代競馬では、かつてのような傑物が現れることはないと……そう言いたいのかしら?」

 

「少なくともこの国ではな。こんな生温い環境では、たとえ才ある者がいても惰弱に堕ちる」

 

 ブリガディアジェラードは弱さを嫌い、弱者を蔑視する。

 

 競走馬として生きる能力や覚悟の足りない者達と、そうした者達を育む土壌を、彼女の価値観は決して許容しない。

 

「高額な賞金と手厚い保護で弱者も走り続けられるようにし、故障を怖れた軽い練習と過剰なほど走りやすい馬場で勝負の世界に生きる者の心身を腐らせる。腐っているという点では客共も同じだ。先ほど貴様はアイドルと例えたが、まさにその通りだよ。レースの価値も意義も一切理解せず、ただ好みの雌を愛でることしか頭にない豚ばかりが目につく。そんな連中に取り囲まれているから、自らの力で這い上がろうとする気概も得られない。全てが軽薄で、醜悪だ」

 

 鉄の価値観を持つ強者は、日本競馬を根底から否定し、拒絶する。

 

「弱者を切り捨てない先進的な社会……などと言えば聞こえはいいのだろうが、私に言わせればここは惰弱の温床だ。吐き気を催すほどのな」

 

「あなたは弱い子が嫌いみたいだけど、弱い子を保護してあげることだって必要なのよ。競馬というシステムを維持するためにはね」

 

「そんな理屈は知っている。知った上で言っているのだ。ゴミを甘やかすここの空気は性に合わんとな」

 

「ふふ……」

 

 ミルリーフは笑う。

 

 幼少の頃から変わらない好敵手の在り方に、奇妙な可笑しさを覚えて。

 

「実にあなたらしい意見ね。まあ私としても、一部共感出来るところはある……と言っておくわ」

 

 ブリガディアジェラードの意見を全肯定はしないが、全否定もしない。

 

 それが、良くも悪くも柔軟な考えを持つ彼女の答えだった。

 

「でもいいじゃない。あなた好みの古風な強さは、一握りの優れた者だけが持つべきもの。そこらの誰も彼もが持っていたら価値がなくなるわ」

 

 言いながら、外の景色に目を向ける。

 

 車の進行方向に、目的地である学園の正門が見え始めていた。

 

「それに、たまの息抜きだと思えば案外楽しいものよ。こういう所で、それなりに頑張ってる子達と適度に遊んであげるのも……ね」

 

「下らん」

 

 いつも通り、ブリガディアジェラードは無関心な顔で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーとエアジハードの二人は、併走の形で練習場の芝コースを周回していた。

 

「はぁっ……はぁっ……くぅっ……はぁっ……!」

 

「どうしたグラス、ペースが落ちてるぞ」

 

「だ、大丈夫です……まだまだ……」

 

 エアジハードの叱声に応じ、グラスワンダーは懸命に速度を上げようとする。しかし気力はあっても身体がついてこず、ふらつくばかりで速度は一向に上がらない。

 

 リコの指示通りエアジハードとの併走トレーニングを始めたグラスワンダーだったが、やはりと言うべきか、ついていくだけで精一杯な状態となっていた。

 

 軽いジョギング程度の速度に抑えているとはいえ、両脚を使って進む相手に片脚だけでついていくのは容易なことではない。体力の消耗も激しく、たった数百メートル進んだだけでその何十倍もの距離を走り続けたかのように疲弊していた。

 

 一人で黙々と練習していた時とは、あらゆる意味で大違いだった。

 

「くっ……!」

 

 上体が前方に傾き、バランスを崩して倒れそうになる。

 

 それに気付いたエアジハードは立ち止まり、グラスワンダーの肩を掴んで支えた。

 

「大丈夫か?」

 

「ええ……すみません」

 

「……これ以上やったら怪我をしかねないな。少し休もう」

 

「……そう……ですね……そうします」

 

 エアジハードの提案に従い、グラスワンダーは疲弊した身体を支えられながら芝コースの外埒近くまで移動する。

 

 そして地面に腰を下ろし、深く息をついた。

 

「ほら、水分補給もしておきなよ」

 

「あ……ありがとうございます」

 

 エアジハードが持ってきてくれた水筒を受け取り、中の飲料で喉を潤す。

 

 それから思い出したように重りにしていたリュックサックを下ろし、自身の脇に置いた。

 

 どすんという重い音が、地面に響く。

 

「さっきから気になってたんだけど、何が入ってるの? それ」

 

「私もリコさんから渡されただけなので、中は見てませんが……砂みたいなものだと思います」

 

「……何キロくらいあるの?」

 

「大した重さじゃないですよ。ええと、確か……六十キロって言ってました」

 

「ろ――六十!?」

 

 信じ難い発言を聞き、エアジハードは頓狂な声を上げる。

 

 六十キログラムといえば、成人男性の平均体重に近い重さだ。

 

 それが本当なら目の前の少女は、大人一人を抱えたまま片脚で自分と競走していたことになる。

 

「この前の合宿の時なんて、一トンの橇を曳かされましたから。それに比べれば大分楽です」

 

「そ、橇って……何それ……?」

 

「そういう特訓をしたんです。元ばんえい馬の人とばんえいの形式で戦うっていう……あれは本当に、重すぎて身体が千切れるかと思いました」

 

「……」

 

 エアジハードは異星人と会話しているような気分になった。

 

 グラスワンダーの話はあらゆる意味で想像の斜め上をいきすぎていて、何にどう反応したらいいのか分からない。

 

「前から思ってたけど……いったいどういう身体の作りしてるのさ? 君は」

 

「どうって……普通だと思いますけど……?」

 

「いや、どこからどう見ても普通じゃないからね。絶対」

 

 呆れた顔で溜息をつきつつ、気を取り直して話を続ける。

 

「……まあそれは置いとくとして、今やってるこれはどこをどう鍛えるためのトレーニングなの? まだ聞いてなかったんだけど」

 

 強さを求めて様々な練習法を試してきたエアジハードも、このような真似はしたことがない。

 

 六十キログラムもの重りを付けながら片脚で進み続ける姿が、彼女の目には酷く奇異に映っていた。

 

「筋力トレーニングも兼ねてるそうですけど、一番の目的はバランス感覚を磨くことですね」

 

「バランス……?」

 

「それが一番重要なんです。私が、今よりもっと強くなるためには」

 

 静かにそう呟き、グラスワンダーは水筒を地面に置く。

 

 その横顔は、少しだけ真剣なものとなっていた。

 

「私なりに色々考えて、決めたんです。一つに絞るって」

 

「……? どういう意味?」

 

「完璧なスタートダッシュや巧みなコーナーワークを身に付けたりだとか、レースセンスを磨いたりだとか……そんなに色々と覚えられるほど私は器用じゃありませんし、正直なところ私自身、そういう風な強さは求めていませんから……欲張らずにやることを絞って、たった一つの武器だけを徹底的に磨き上げたいと思ったんです」

 

 先を見据えた目で語り、声音に力を込める。

 

「徹底的に時間をかけて、気力と体力の全てを注ぎ込んで……誰にも負けない武器に仕上がったと、私自身が納得出来るまで」

 

「それって……まさか……」

 

「ええ……叩きつける走法と呼ばれている、私独自の走りです」

 

 頷きを返し、異端の競走馬は自らの願いを口にした。

 

「私は私の走りを、世界に通用する武器にしたい。自分自身の意思で選び取った走りで世界に挑み、勝ちたい」

 

 それが、苦悩の果てに得た答え。

 

 夢の成就のために選んだ道筋であり、どんな障害が立ちはだかろうとも貫き通すと誓った信念だった。

 

「合宿の後リコさんにそう打ち明けたら、この特訓を勧められました。私の叩きつける走法を強化するために必要不可欠なのは、バランス感覚の向上だって言われて」

 

「しかし……」

 

 エアジハードは複雑な面持ちになり、やや言い辛そうに言う。

 

「噂で聞いたんだが、君のあの走りは……」

 

「ええ、禁止されています」

 

 相手の言わんとしていることを読み取り、グラスワンダーは機先を制するように答えた。

 

「元々私の走りは先生に良く思われていませんでしたけれど……エルとの模擬戦で転倒しかけたのをきっかけに、二度とするなと厳命されました。それに違反すれば、先生は強引にでも私を引退させる気のようです」

 

「だったら……」

 

「大丈夫です。手は打ちましたから」

 

「手……?」

 

 怪訝な顔をするエアジハードに、グラスワンダーは落ち着いた声音で告げた。

 

「この間直談判しに行って、どうにか取り付けました。次のレースの結果次第で私にかけた制約を解除する約束を」

 

 

 

 

 

 

 合宿から帰った翌日。

 

 自身の未来をかけた「交渉」のため、グラスワンダーは東条ハナの元を訪れた。

 

「何かしら? 話って」

 

 椅子に座って事務仕事をしていたハナは、ノートパソコンのキーを打ちながら問う。

 

 その横顔に真っ直ぐな視線を向け、グラスワンダーは言った。

 

「もうお察しかと思いますが、先生が先日私に課した制約のことです」

 

 エルコンドルパサーとの模擬戦で競走中止になった後、ハナはグラスワンダーに三つの制約を課した。

 

 その内の二つはグラスワンダーが日本代表に選ばれたことで事実上解消されたが、最後の一つだけは未だ残っている。

 

 叩きつける走法の使用禁止。

 

 何より重い枷となっているそれを外さない限り、本当の意味で自由の身にはなれない。

 

「……つまり、あれを全てなかったことにしろってこと?」

 

「はい」

 

「はっきり言うのね……あなた今、自分がどれだけ厚かましいことを言ってるか分かってる?」

 

 ハナはノートパソコンから目を離し、凍てついた視線を教え子に向ける。

 

「私はこれでも結構な譲歩をしてきたのよ。あなたの現役続行を許し、ワールドカップに出場することもそのための練習に参加することも認めた。もう十分すぎるくらいあなたの好きにさせてきたつもりよ」

 

 その視線が突きつける意思は、グラスワンダーがこれまで相対してきた誰のものより非情だった。

 

「だから、これ以上の譲歩はない。あの危険な走法の使用まで許す気はないわ。あなたが何を言おうともね」

 

 普通なら、話はそこで終わっていただろう。

 

 ハナの意思は極めて固く、交渉に応じる気はおろか、教え子の言い分を聞く気さえ最初から一片もなかったのだから。

 

 しかし、グラスワンダーは引かなかった。

 

 どれだけ突き放されても引いてはならない時がある。今がその時だと肚を括り、閉じた扉を蹴り破るつもりで言葉を紡ぐ。

 

「世界を獲れるとしても、ですか?」

 

 鉄面のようだったハナの表情が、微細に動く。

 

 その反応を見て取りながら、グラスワンダーは問いを繰り返した。

 

「私があの走法を使って走れば、日本を世界の頂点に導ける。そう言ったとしても、認めるわけにはいきませんか?」

 

 決然とした物言いから、普段とは違う何かを感じ取ったのか。ハナは眉間に皺を寄せ、探るような目でグラスワンダーと視線を合わせた。

 

 だが、それも僅かな時間だけ。

 

 すぐに元の冷めた表情に戻り、ノートパソコンの画面に視線を戻す。

 

「……無理よ」

 

 冷徹な思考が導く、非情な断定。

 

「もう知ってるでしょう? 十一月のワールドカップには、世界各国の超一流馬達が続々と出場を表明している。それぞれの国の三冠馬や二冠馬に、凱旋門やキングジョージといった大レースの覇者……無敗の戦績の持ち主だって何人もいるし、両手で数えきれないくらいGⅠを勝ってる化物だっている。どこに目を向けてもあなたより格上の猛者ばかりよ」

 

 事実を羅列し、結論を述べる。

 

「そんな連中を相手にあなたが勝てる可能性なんて、万に一つもないわ」

 

「だから?」

 

 険しい声による、挑発的な返し。

 

 それが教え子の口から放たれたものだと気付くのに、ハナは数秒を要した。

 

「戦う気概を捨てろと言うんですか? 相手が強ければ挑戦もせずに諦めて、何も得られない道を選ぶんですか? 先生は」

 

 静かな激情を溜めた瞳が、師に真っ向から挑みかかる。

 

「失礼を承知で、はっきり言います。そんな弱腰だからいつまで経っても欧米に舐められ続けてるんですよ。日本の競馬は」

 

「――っ」

 

 あまりに礼を欠いた暴言はハナの逆鱗に触れたが、彼女の口から叱声が飛ぶことはなかった。

 

 再びグラスワンダーと目を合わせた瞬間、気付いてしまったからだ。

 

 単なる反抗ではない。目の前の少女はたとえ殴り飛ばされても引かない覚悟を胸に抱いて、こちらに戦いを挑んでいるのだと。

 

「私は、勝てないなんて思わない」

 

 誰に否定されても曲げない意思が、言葉となって放たれる。

 

「相手が三冠馬でも凱旋門賞馬でも無敗の王者でも、私なら勝てる。自分の走りを死ぬ気で貫き通せれば、どんな相手にだって必ず勝てる。そう信じています」

 

 ハナは何も言い返せなかった。

 

 聞く価値のない戯言として聞き流すことが出来ず、愚かな妄想と蔑んで笑い飛ばすことも出来なかった。

 

 グラスワンダーが叩きつけてくる言葉には、理屈を超えた何かがあったから。

 

「私の言葉が信用出来ないなら、証明する機会を下さい」

 

「機会……?」

 

「レースです。時期も条件もグレードも、何だって構いませんから、私をレースに出走させて下さい」

 

 戦いの場を求め、事実を告げるように宣言する。

 

「そこで証明してみせます。私のこの脚が、世界の頂点に届くものだってことを」

 

 競走馬とは、競馬場で走る者。

 

 競走馬にとっての戦いとはレースであり、力を証明する術はレースで勝つ以外にない。

 

 そうした観点で言うなら、グラスワンダーの主張には理がないわけではない。非常に強引なやり方ではあるが、最低限の筋は通していると言えるだろう。

 

 しかしながらそれは、ハナにとっては受け入れ難い要求だった。

 

「今さら……」

 

 苦々しく歪んだ顔から、掠れた声が洩れる。

 

「今さら日本のレースを勝ったところで、何の証明になるっていうの? そんな程度じゃ世界には――」

 

「十馬身」

 

 反論を予想していたグラスワンダーは、遠慮なく言葉を被せた。

 

「十馬身差という条件を付け加えるなら、どうですか?」

 

「は……?」

 

「ただ勝つのではなく、二着に十馬身以上の差をつけて圧勝してみせます。それが出来たら、私の要求を呑んで下さい」

 

 言われたことをすぐには理解出来ず、ハナは呆けた顔を晒す。

 

 その顔を鋭く見据えたまま、続く言葉は放たれた。

 

「それが出来なければ、私は二度とレースに出ません。競馬を辞めます」

 

 それは、賭け金のようなものだった。

 

 賭け事の道理に従い、当然の義務として背負うと誓った重いリスク。

 

 勝負を成立させるためテーブルに載せた、自らの進退。

 

 その決断を勇敢と取るか無謀と取るかは受け手次第かもしれないが――長年競馬に関わってきたハナにしてみれば、自殺に等しい愚行だった。

 

「……本気で言ってるの? それ」

 

「ええ」

 

「たとえ一着になれても……十馬身以上の差をつけられなければ、競馬を辞めると?」

 

「はい。十馬身差以上で勝てなければ、私の負けです」

 

「……馬鹿げてる」

 

 呆れと苛立ちを声に滲ませ、吐き捨てる。

 

「地方競馬や未勝利戦じゃあるまいし……分かってるの? 現代の競馬でGⅠ級の強豪を相手に十馬身以上の差で勝つことが、どれだけ難しいかを」

 

 着順掲示板に数字で表示される着差は九馬身まで。着差が十馬身以上開いた場合は「大差」と表示される。

 

 従って競馬における「大差勝ち」とは、十馬身以上の差をつけての勝利を意味する言葉だ。

 

 条件戦などの低レベルなレースに能力の高い者が出走した場合なら、時として大差勝ちが生じることもあるが、出走馬の能力が拮抗する重賞以上のレースでは極めて稀だ。まずありえないと言っても差し支えない。

 

 グラスワンダーが自ら設定した勝利条件は、実現不可能に近いほど困難なものだった。

 

「分かってますよ。自分がどれだけ無茶なことを言っているかは」

 

 平然とした面持ちを崩さず、即座に言い返す。

 

「でも、それくらいしないと認めてくれないでしょう?」

 

 ハナは奥歯を噛む。

 

 腹立たしいが、グラスワンダーの言う通りだった。

 

 これ以上の譲歩は絶対にしないと決めていた彼女が、その意思を僅かでも曲げるなら、それはこの条件以外にない。

 

 大舞台で強敵を相手に大差勝ちするほどの力量を示せなければ、世界に挑む資格があるとは認められない。

 

「そちらとしても悪い話ではないはずです。こんな無茶な条件なら私の敗北は必至。先生にとって目障りな存在でしかない私は、ほぼ間違いなく次のレースを最後に競馬場から去ることになる」

 

 相手の立場になったかのように語り、栗毛の少女は決断を迫る。

 

「だらだらと惨めに現役を続けさせるよりは、さっさと引導を渡してしまった方がいい……そう思いませんか?」

 

 深く重い沈黙が、部屋全体を包んだ。

 

 ハナは目を瞑り、自身の内に埋没しながら思考を整理する。

 

 教え子が仕掛けてきた「勝負」と、そこに込められた覚悟。賭け金として差し出された未来。

 

 日本競馬の海外挑戦の歴史と、叶わなかった数多の夢。心が枯れるほど痛感してきた壁の厚さ。

 

 昔日の記憶と、目に焼きついた死の光景。二度と犯してはならない過ち。

 

 それら全てを受け止め、自問自答を繰り返し――やがて彼女は、意を決した。

 

「もう一度だけ、訊く」

 

 瞑目したまま、厳粛に問う。

 

「本当にいいのね? その条件で」

 

「はい。どんな結果になっても、後悔はしません」

 

 最終確認を済ませると、ハナは瞼を上げ、グラスワンダーの顔を見据えた。

 

「分かったわ。あなたを出走させるレースは、決まり次第伝える」

 

 競走馬は競馬場で走る者。トレーナーはその戦いを支える者。

 

 両者の間の問題を解決する手段は、最初からレース以外になかったのかもしれない。

 

「レースが終わるまでは好きにしなさい。あなたがどこでどんな走りをしていようが、私は一切関知しないから」

 

 寛大な処置は、ハナが教え子に与えた最後の慈悲だった。

 

 

 

 

 

 

「十馬身って……」

 

 事の次第を聞いたエアジハードは、呆気に取られた顔で言った。

 

「馬鹿げてる……そんなことが出来るわけがない」

 

 奇しくもそれは、ハナと同じ感想だった。

 

 つまりは、誰もが抱く当然の感想なのだ。中央競馬のレースでGⅠ級の強豪を相手に十馬身差をつけて勝つなど、常識に照らし合わせれば夢物語と言うしかない。

 

「しかも、出るレースまで向こうに決めさせるなら……少なくとも君に有利な条件にはならないぞ……それでいいのか?」

 

「ええ、構いません。どんな条件のレースでも受けて立つって、決めましたから」

 

「……何か、勝算でもあるのか?」

 

「全く何もないわけじゃありませんけど……」

 

 やや曖昧な返答をした後、グラスワンダーは危機感の滲む声音で続ける。

 

「正直、厳しい戦いになると思ってます。簡単に成し遂げられることだとは私自身も思っていません」

 

 自身の力を出し切れば圧勝は間違いないと信じきれるほど、グラスワンダーは傲慢でも無知でもない。

 

 競馬の厳しさ、勝負の難しさ、譲れないものをかけて競い合う相手の手強さは、これまでの競走生活で十分に思い知っている。

 

「でも、いいんです。それで」

 

 不安を蹴り飛ばすように言い、立ち上がる。

 

「簡単に出来ることじゃ意味がない。胸を張って世界に挑むために……私は、力と覚悟を示さないといけませんから」

 

 静かな足取りで数歩進み、吹き抜ける風を全身で受け止めてから、ゆっくりと振り向く。

 

 その顔には、少しだけ悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

 

「それに……このくらいの無茶が出来るようでないと、世界の頂点は獲れない。そう思いませんか?」

 

 問いかけられたエアジハードは、しばしの間グラスワンダーと視線を合わせた後、瞑想に耽るように瞼を下ろす。

 

 そして小さく溜息をつき、感じたことをそのまま口にした。

 

「何ていうか……思ってたよりずっと大胆なんだね、君は」

 

 もう少し大人しい性格だと思っていたし、トレーナー相手に喧嘩を売るようなタイプではないと思っていた。

 

 けれど、実際の姿はまるで違っていたようだ。

 

 驚くほど向こう見ずで非常識。全てを失いかねない大博打にも平然と踏み切り、自らが信じた道を迷うことなく突き進む競走馬。

 

 それが≪怪物≫グラスワンダーなのだと、今さらながら認識を改める。

 

「けど嫌いじゃないよ、そういうのは。私が君の立場でも同じようなことをしてたかもしれない」

 

 僅かに頬を緩める。

 

 その淡い笑みには、それまでにない親しみが滲んでいた。

 

「流石に十馬身ってのは、見得の切りすぎだと思うけどね」

 

「きりのいい数字の方が、インパクトがあっていいでしょう?」

 

「ふっ……確かに」

 

 冗談めかした返しに、エアジハードは笑う。グラスワンダーも笑う。

 

 二人の忍び笑いがその場を包み、空気を穏やかなものに変えた。

 

 そうやって笑い合った後、グラスワンダーはどこか気恥ずかしそうな面持ちになり、ぽつりと呟く。

 

「……一人だったら、出来なかったかもしれません」

 

 それは嘘偽りのない、彼女の本音だった。

 

「自分にそんなことが出来るのかとか、出来なかったらどうしようとか……そんな後ろ向きな気持ちに囚われて、行動に移れなかったんじゃないかと思います」

 

 不安や恐怖は、誰の心の中にもある。グラスワンダーの中にも当然ある。

 

 どれだけの強さを得ても、どれだけの決意を固めても、そうした気持ちを完全に取り除くことは出来ない。

 

 競馬を続ける限り、心にのしかかる重荷からは逃れられない。

 

「でも、一人じゃありませんから」

 

 淡く微笑み、静かに述懐する。

 

「私の走りが好きだって、いつまでも傍で見ていたいって……そう言ってくれた人がいるんです」

 

 あの雨の日、橋の下で交わした言葉。

 

 その記憶を辿りながら、深い感謝を込めて言う。

 

「だから私は、勇気を出せる。自分を信じて前に進み続けられるんです」

 

 一度は捨てかけた夢を、親友が繋ぎ止めてくれた。

 

 自分を信じる気持ちを思い出させ、未来へと踏み出す勇気を与えてくれた。

 

 今ここで練習に打ち込んでいられるのは、自分が孤独でないことを教えてくれた存在がいたからに他ならない。

 

「それに、約束しましたから」

 

「約束?」

 

「ええ……大事な物を、取り返さないといけなくなったんです」

 

 意味が分からず、エアジハードは首を傾げる。

 

 グラスワンダーは苦笑気味に続けた。

 

「人に言わせればどうでもいいことかもしれませんけど、私にとっては大事なことなんです。だから……」

 

 そこではっと息を呑み、グラスワンダーは顔を上げた。

 

 何事かと思いその視線を追ったエアジハードは、次の瞬間に絶句する。

 

 コースの外埒の向こう側――芝が生い茂る斜面の上に、この場にいる筈のない人物の姿があった。

 

「ここで練習してるって聞いたのだけれど、休憩中だったかしら? 丁度良かったわね」

 

 長い褐色の髪を螺旋状に巻き、白いロングドレスを身に纏う、貴婦人めいた外見の女。

 

 それが誰なのかを、二人は瞬時に悟った。

 

 初めて対面する相手だったが、その顔と名はずっと前から知っていた。

 

 競馬の世界に身を置いていれば知らずにはいられない、史上屈指の名馬だからだ。

 

「はじめまして、日本の≪怪物≫さん。私が今日の対戦相手よ」

 

 英国競馬界の帝王ミルリーフは、優雅な微笑みを湛えながらそう告げた。

 

 

 

 

 

 

 同時刻。

 

 学園内の別の場所に、一人の少女が姿を現した。

 

「フッフッフッ……お待たせしましたネ、皆さん」

 

 エルコンドルパサーである。

 

 約二週間ぶりに練習場の土を踏んだ彼女は、いつもよりテンションが高めだった。

 

「エルコンドルパサー、二週間ちょいの秘密特訓からただ今戻りました! 昭和のノリ全開の猛特訓を気合いと根性で乗り越え、全競馬ファンが度肝を抜く超絶パワーアップを遂げてカムバックデース!」

 

 合宿を終えて東京に帰った翌日から、彼女はリコに指示された個別練習のため再び学園を離れていた。

 

 それが一段落したので、一皮剥けたような気分になって戻ってきたのだ。

 

「いやもう、この二週間はマジモンの地獄でしたネ。何度も魂が昇天しかけたっていうか、具体的に言うと三十六回くらい、あれ? これマジで死ぬんじゃないワタシ? って思っちゃいましたネ。今ここで息をしてるのが軽く奇跡な気がしてマース。――しかし! そんな人権無視の前時代的猛特訓の甲斐もあり、ワタシエルコンドルパサーは全ステータスを爆上げすることに成功しました! 最新のメカとかを使って今のワタシの競走能力を測ろうとしたら計測不能で派手にぶっ壊れるんじゃないかってくらいの――」

 

 景気良く垂れ流されていた妄言が、そこで止まった。ある重大な事実に気付いてしまったからだ。

 

 断っておくと、彼女は人気のない場所で空気に向かって話しかけていたわけではない。

 

 彼女の現在位置はダートコースの内埒付近であり、ほんの数メートル先にはリコとキングヘイローとセイウンスカイの三人がいる。

 

 しかし――

 

「GⅠ勝った嬉しさで馬鹿っぽく大はしゃぎしてるかと思ったら、案外冷静なのね。ヘイローちゃん」

 

「あなた、私を何だと思ってるのよ? そりゃちょっとは浮かれたけど、いつまでも気を抜いてられないわ。目標はまだ先だしね」

 

「とか言ってるけど、ちょっとどころじゃなく浮かれまくってたよキングは。昨日なんて一日中にやにやしながらエゴサーチしてて――」

 

「そこ、うるさい! 余計なことは言わなくていいのよ! ……で、今日は何をやればいいの? また障害練習の続き?」

 

「いえ、レースの後だし下半身を酷使するようなのはやめときましょう。とりあえず今日は上半身を重点に――」

 

 そんな会話が三人の間で繰り広げられていた。

 

 誰もこちらの話など聞いていないばかりか、存在を認識すらしていない様子だった。

 

 先程の長台詞が空気に話しかけているのと何ら変わらない愚行だったことを悟り、エルコンドルパサーは虚無の表情になった。

 

「あ、エルちゃんだ。久々に見た」

 

「あら……何かウザそうなのが騒いでるなと思ったら、そんなとこにいたのね」

 

「そういや最近見てなかったわね。ところで今日の練習って――」

 

 ようやく存在を認識されたようだが、さほど関心は向けられなかった。三人揃ってどうでもよさそうな反応を見せただけだった。

 

 あまりの世知辛さに、エルコンドルパサーは泣いた。

 

「あ、何か知らないけどエルちゃんが拗ねてる」

 

「何だか知らないけど、ほっとけば? どうせ三分くらいで立ち直るでしょ」

 

 背中を向けて体育座りをしてみせても、反応はひたすら冷たかった。アホに構っている暇はないとでも言いたげな様子だった。

 

 とはいえコース内で座り込まれるのは嫌だったのか、リコが面倒臭そうな顔をしながら歩み寄る。

 

「はいはいエルちゃん、クソウザい感じにいじけるならコースの外に行きましょうね。ぶっちゃけそこにいられると邪魔臭いから」

 

「ううっ……いいんデス、いいんデス……どうせワタシなんて根っからのウザキャラなんデス……みんな友達面しながら本当はワタシのことウザがってるんデス……あいつのマスク汗臭いよねーとか、そんな感じに陰で悪口言いまくってて……」

 

「確かにその通りだけど、別にエルちゃんの存在を忘れてたわけじゃないわよ。あなた用の練習相手だってちゃんと用意してるから」

 

「…………今、その通りって……」

 

「いいのよ細かいことは。んなことより、ほら、あっち見て」

 

 リコが指差した方向に、エルコンドルパサーは涙の溜まった目を向ける。

 

 そして大きく目を見開き、絶句した。

 

「茶番は終わったか?」

 

 心臓を突く刃のような、鋭く冷たい声。砂を踏み締める軍靴の音。

 

 離れたところから悠然とした足取りで近寄ってくる、英国陸軍の制服に身を包んだ長身の女。

 

 その姿を目にして衝撃を受けたのは、セイウンスカイとキングヘイローも同じだった。

 

 本来ならこんな場所にいる筈がない、世界屈指の名馬がいたのだ。

 

「終わったなら立て。二十分やる。その間に準備を済ませ、好きなコースを選び、開始位置につけ」

 

「ブリガディア……ジェラード……」

 

 愕然としながら呟くエルコンドルパサー。

 

 その様子を見て悪戯心が満たされたのか、リコは楽しげに笑った。

 

「そうよー。そこのジェラードちゃんが、あなたの今日の練習相手。ちょっと強めの相手だけど、秘密特訓の成果を見せるには丁度いいでしょう?」

 

 台詞の後半は、無論のこと冗談である。

 

 練習相手にしては強め、などという生温い話ではない。

 

 近代競馬の母国が誇る双璧の片割れ。無謬の頭脳と極限の肉体で常勝伝説を築き上げた、誉れ高き≪ザ・ブリガディア≫。

 

 競馬の世界の頂点に位置する、最上級の名馬の一人だ。

 

「聞こえなかったか? さっさと勝負の準備を済ませろと言ったんだ。グズグズするな、間抜け」

 

 僅か数秒の動揺さえ許さず、ブリガディアジェラードは高圧的に告げる。

 

 エルコンドルパサーは唇の端を曲げ、冷や汗をかきながら苦笑した。

 

「ワーオ……帰ってきて早々、どぎついのが現れやがったデース……」

 

 

 

 

 

 

 ミルリーフが目の前にいる。

 

 英国競馬界が誇る双璧の片割れが、瀟洒な日傘を差しながら斜面の上に佇み、柔らかな微笑みをこちらに向けている。

 

 その事実が信じられず、エアジハードは言葉を失っていた。

 

 普段は冷静な彼女が動揺を隠しきれないほど、それはありえないことだったのだ。

 

「あら? よく見たら、一昨日のレースで見た子もいるのね」

 

 ミルリーフの視線が、グラスワンダーからエアジハードへと移る。

 

「ええと、何だっけ……ああそうそう、エアジハードさんよね? もしよかったら、あなたも一緒にどう?」

 

「え……?」

 

「私これから、そっちの子の練習相手を務めることになってるの。あなたもなかなか強いから、その気があるなら一緒に相手してあげてもいいわよ」

 

「なっ――」

 

 耳を疑うような発言を聞き、エアジハードの混乱はさらに深まる。

 

 一方グラスワンダーは既に落ち着きを取り戻した様子で、真剣な眼差しを来訪者に向けた。

 

「……強い人を外国から呼ぶと聞いていましたけど、あなたのことだったんですね」

 

 元々、リコの伝手で練習相手を用意してもらう予定ではあった。

 

 それが英国最強馬ミルリーフになるとは、流石に夢にも思わなかったが。

 

「お会い出来て光栄です。私は――」

 

「グラスワンダーさんでしょう? 大体のことはリコさんから聞いてるわ。腕試しの相手を探してるんですってね」

 

 自己紹介は無用とばかりにそう言い、ミルリーフはグラスワンダーに視線を戻す。

 

「私でよければいくらでも相手してあげる……ってわけには流石にいかないんだけれど、まあとりあえず……」

 

 白い手袋に包まれた右手を上げ、人差し指をぴんと立てる。

 

「一回だけ、あなたが望む条件で勝負してあげるわ」

 

 英国最強馬への挑戦権。

 

 計り知れない価値があるその権利を一回限りで与えると、他ならぬ本人が口にした。

 

 それがどれだけ常軌を逸したことかは、最早語るまでもない。

 

「今ここで、私とマッチレースをしてくれる……と受け取っていいんですね?」

 

「ええそうよ。条件は何でもいいわ。ターフでもダートでもポリトラックでも、千メートルでも三千メートルでも。私こう見えて器用だから、どんな条件でも不足のない相手になってみせるわよ。……ああでも、パン食い競走で勝負とかはやめてね? 私そういう美しくないことはしない主義だから」

 

 冗談交じりの返しで茶目っ気を見せるミルリーフに、エアジハードは苦い顔で複雑な感情が乗った視線を向ける。

 

 戸惑いつつも状況を呑み込み始めた彼女の中に、この時一つの理解が生じた。

 

 ほんの数メートル先に佇む、世界有数の実力者――その親しげな態度の裏側にあるものへの理解が。

 

(見下している……完全に……)

 

 柔らかな笑みや気前のいい発言は、余裕の表れ。自分達を対等の相手と見ていない証。

 

 例えるなら、大人が子供の遊びに付き合うようなもの。意地と誇りをかけて真剣に競い合う気などなく、優しく手加減しながら戯れようとしているに過ぎない。

 

 だが、それを傲慢と断じられるだろうか。侮られていることに憤る資格が、自分達二人にあるだろうか。

 

 世界の誰もが言うに違いない。下に見られて当然だと。

 

 近代競馬の母国イギリスに君臨する王者と日本のGⅠ馬に過ぎないお前達とでは、競走馬としての格が違い過ぎるのだと。

 

 悔しいが、その事実を否定することは出来ない。

 

「ああそうだ! 今思いついたのだけど、こういうのはどうかしら? あなたとそっちのエアジハードさんが組んで、二対一で私と競走するの。片方が半分の距離を走り終えたらもう片方に交代するって感じで。それなら結構競った勝負に――」

 

「いいえ」

 

 ミルリーフの提案を、グラスワンダーは拒んだ。

 

「申し訳ありませんが、ここは私一人でいかせてもらいます。ハンデも手加減もなしの一対一で、私と勝負して下さい」

 

 譲れないものをかける強い意思が、その横顔には表れていた。

 

 エアジハードは声を抑え、確認するように問う。

 

「グラス……分かっているのか? 奴は――」

 

「ミルリーフ」

 

 百も承知とばかりに、グラスワンダーは相手の名を口にする。

 

「軍神ブリガディアジェラードと並ぶ英国競馬界の双璧。通算戦績十四戦十二勝。主な勝鞍はダービーステークス、キングジョージ、凱旋門賞。比類なき剛力と無尽蔵のスタミナを併せ持つ、王道路線の絶対王者。……控えめに言っても、私なんかとは競走馬としての格が五つは違う相手ですね」

 

 国は違えど、実績の面ではあのシアトルスルーとほぼ同等。

 

 全世界にその名を轟かせる歴史的名馬であり、世界最強の座を狙うに足る格の持ち主。

 

 グラスワンダーの現在の立ち位置からすれば、遥か雲の上の存在と言っても過言ではない。

 

「でも……格や実績なんて、今は関係ありません」

 

 萎縮する必要などないと言外に告げ、鋭利な光を双眸に灯す。

 

 子供同然の格下と戯れる気でいる相手を真っ直ぐに見返し、続く言葉を毅然と言い放った。

 

 鋼の決意と、確信に等しい自信を込めて。

 

「勝ちますから」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十話「新たなる力」

 

 

 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国。

 

 グレートブリテン島をはじめとした多くの島々から成り、日本においては「イギリス」や「英国」と呼称される、立憲君主制国家。

 

 言わずと知れた、競馬の母国である。

 

 馬を使った競走は紀元前から世界各地で行われていたと考えられるが、常設の競技用施設を舞台に明確なルールに則って行う競走競技――所謂「近代競馬」は、十六世紀にこの国で誕生した。

 

 当初は貴族社会の遊戯であったものが王室の保護奨励の下で発展を続け、やがて産業の性格を帯びて国外にまで伝播。英国競馬を模倣した競技が各国で施行されるようになり、今日の競馬に繋がる道筋が作られていった。

 

 故に英国競馬とは近代競馬の源流に他ならず、二十一世紀の現在でも競馬界の盟主的地位を保持しており、競馬に関わる者達にとっては憧憬の対象であり続けている。

 

 ミルリーフとブリガディアジェラードは、そんな英国競馬が擁する二大巨頭。

 

 数十年に一人と目されるほどの逸材が同年に二人生まれ、共に傑出した実績を残して国家の威信を背負うにふさわしい名馬となったのは、長い英国競馬の歴史においても前例のないことだった。

 

 

 

 

 

 

「へぇ……こういう設備もあるのね」

 

 急勾配の長い坂道を見上げ、ミルリーフは呟く。

 

 彼女がグラスワンダーに案内されたのは、練習場の一角にある坂路コース。

 

 普段は多くの競走馬が利用するそこは、約一ヶ月前キングヘイローがリコに挑んだ場所でもあった。

 

「この地点からスタートして、先に坂の頂上まで駆け上がった方の勝ち……という条件でお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

「ええ、それは構わないわ。けど……」

 

 提案を了承しつつ、隣に立つグラスワンダーの顔を見る。

 

「本当にいいのかしら? 私との勝負の舞台が、このコースで」

 

「ええ、坂路は得意ですから」

 

 グラスワンダーが冷静に応じると、ミルリーフは吹き出した。

 

 無知な小娘が犯した過ちを、憐れみながら嘲笑うように。

 

「そう……自分が一番得意なコースを選んだってわけね。ふふっ……」

 

 余人が聞けば呆れ返るほどの愚行だろうが、そうした愚かさがミルリーフは嫌いではなかった。

 

 人生を楽しむのが彼女の基本方針であり、一口に「楽しむ」と言っても方法は色々とある。

 

 強敵との白熱した戦いは勿論好きだが、それと同じくらい、勘違いした愚か者を蹂躙するのも好きなのだ。

 

 自信に満ちていた顔が絶望に染まる様を見ると、最高に笑えるから。

 

「そちらこそ、いいんですか?」

 

「ん?」

 

「その格好のままで」

 

 覗き込むような視線を白いドレスに注ぎ、グラスワンダーは問う。

 

 ミルリーフの湛える笑みが、僅かに変質した。

 

「別に問題ないわ。ちょっと坂を上るくらいなら、大して汗もかかないでしょうしね」

 

 問いの真意を悟りながらも、あえてとぼけた答えを返す。

 

 次いで一度周囲を見回し、自分達二人の勝負を見届けようとする者が幾人も現れ始めたのを確認してから、楽しげに続けた。

 

「さて……ギャラリーも集まってきたことだし、そろそろ始めましょうか」

 

「ええ」

 

≪怪物≫グラスワンダーと英国最強馬ミルリーフのマッチレースは、こうして始まった。

 

 

 

 

 

 

 坂路コースに併設されたスタンド。

 

 エアジハードはそこで、壁際に備え付けられたモニターの一つを見ていた。

 

「よりにもよって、坂路でミルリーフに挑むとは……」

 

 画面に映る栗毛の少女に視線を注ぎ、苦い顔で呟く。

 

「正気か……? グラス……」

 

 坂路をマッチレースの舞台にするというグラスワンダーの選択が、正気の沙汰とは思えなかった。

 

 芝やダートのコースで戦うなら分かる。相手の格を考えれば分の悪い勝負だが、それでもいくらかは勝ち目があるかもしれない。

 

 だが、坂路だけは駄目だ。あのコースで戦えば、万に一つも勝機はない。

 

 何故なら、ミルリーフは――

 

「うおっ、マジでやんのかよ」

 

「そのようだな。あそこにいるのがミルリーフか」

 

 背後から聞こえた声が、思考を断ち切る。

 

 振り返った先にいたのは、チーム・リギル所属のヒシアマゾンとナリタブライアン。その後ろからも続々と見知った顔の生徒達が現れ、モニターに映る二人の姿を見て驚きの声を上げていた。

 

 どうやら、グラスワンダーがミルリーフと対決するという話を聞きつけ、観戦に来たらしい。

 

 さほど広くないスタンド内は、あっという間に野次馬で一杯になった。

 

「あの縦ロールがイギリスから来たってやつ? よく知らねーけど、スゲーやつなのか?」

 

「知らないのはお前くらいだ。競馬の世界にいる者なら誰もが知っている。そういうレベルの名馬だ」

 

 ヒシアマゾンの暢気な問いに、ナリタブライアンが真剣な顔で答える。

 

「ダービーステークス、キングジョージ、凱旋門賞。いくらお前でも、それらの名前くらいは知っているだろう? 欧州競馬の最高峰に位置し、どれか一つでも勝てれば歴史に名を残せるような三つの大レースを……史上初めて三つとも制覇した競走馬が、あのミルリーフだ」

 

「あー……何かそれ知ってる。確かアレだろ? 欧州三冠ってやつ」

 

「それは日本人が勝手にそう呼んでいるだけのものだ。向こうの競馬にそういう概念はない。だが――」

 

 知識の誤りを指摘しつつ、ナリタブライアンはモニターの向こうにいる英国最強馬に畏敬の眼差しを送る。

 

「下手な三冠馬などより遥かに格上の存在だ。……酷な言い方になるが、グラスワンダーが敵うような相手じゃない」

 

 非情な断言だったが、それは誰にも否定しようがない事実であった。

 

 二人の会話を聞いていたエアジハードも、心の中で思わずにはいられなかった。

 

 この絶望的な勝負を、グラスワンダーはどう乗り切るつもりなのか――と。

 

 

 

 

 

 

 近くにいた見物人の一人を呼び、開始の合図を任せた。

 

 発声による合図とともに二人が走り出し、全長約千メートルの坂路を舞台にしたマッチレースが開始される。

 

 序盤は互いに様子見。無理せず行き脚を抑えた二人は、横並びのまま坂を駆け上がる形になる――と見物人の多くが予想していたが、実際は違った。

 

 横並びだったのはスタート直後の一瞬だけ。すぐに片方が前に出て、二人は縦に並ぶ形になる。

 

 先行したのはグラスワンダー。

 

 絶好のスタートを決めた流れに乗って持ち前の脚力を発揮し、急勾配の走路をものともせず驀進。ミルリーフとの差を瞬く間に広げていく。

 

 後方に控える「差し」の競馬を基本戦術とする彼女にしては珍しい、積極果敢な先行策だった。

 

「グラスが行った!?」

 

「いきなり!? 何で……!?」

 

「凄い脚だが……あのまま逃げ切る気か……!?」

 

 予想外の展開を目にした見物人達が、口々に声を上げる。

 

 スタンド内のナリタブライアンとヒシアマゾンも少なからず驚いていたが、その意見は比較的冷静だった。

 

「普段とは違う戦法に出たか……さて、吉と出るか凶と出るか」

 

「いいんじゃね? 距離短えし急なコーナーもねえんだしさ。それに、坂路はあいつの庭みたいなもんだろ?」

 

「確かに、な……」

 

 同じ走るという行為でも、平坦な直線を駆け抜けるのと急坂を駆け上がるのとでは、求められる能力が大きく違う。

 

 急坂を踏破する上で最重要な能力は、軽快なスピードではなく重厚なパワー。地球の重力に抗いながら進み続ける足腰の力だ。

 

 その点のみに限った話なら、グラスワンダーの右に出る者は日本国内にいない。

 

 並外れた剛力こそ競走馬グラスワンダーが持つ最大の長所であり、≪怪物≫たる所以そのもの。力の優劣が勝敗に直結する坂路において、彼女は紛れもなく最強の競走馬だった。

 

 そう――

 

 日本馬同士の戦いであったならば。

 

「ふっ……くくっ……ふふふふふ……」

 

 ミルリーフは笑う。

 

 開始早々相手に先を行かれ、今も急速に差を広げられている状況にありながら、可笑しそうに嗤笑する。

 

 水を得た魚のように走る対戦相手を、酷く滑稽な道化と見なして。

 

「流石に、坂路が得意って言うだけはあるわね……ええ本当に、力強くていい走りよ」

 

 揶揄や皮肉ではない。

 

 彼女はこの時、グラスワンダーが見せた剛脚に感心し、その実力を認めていた。

 

「努力も相当積んだのでしょうけれど……ここでそれだけ走れるのは才能ね。≪怪物≫の異名は伊達じゃない。日本に居させておくのが勿体ないくらいだわ」

 

 確かに認めていた。

 

 嘘偽りなく本心から褒めており、評価していた。

 

 虫ケラにしては上等な部類だと。

 

「でも残念。私も大得意なのよ、坂を駆け上がるのは」

 

 残酷に告げた直後、その疾走は急激な変貌を遂げた。

 

 天賦の才を長年の鍛錬で研ぎ上げ、一種の兵器と化した肉体――そこに宿る力の一部が解き放たれ、四肢の回転数がそれまでとは別次元の域へと跳ね上がる。

 

 グラスワンダーの脚とは比較にならない、真正の剛脚が生む爆発的加速。

 

 大地を蹂躙しながら驀進する、絶大なる暴威の顕現。

 

 筆舌に尽くし難い理外の伸び脚は、先行していた対戦相手を刹那の内に捉え、いとも容易く抜き去った。のみならずさらなる加速を続け、格の違いを見せつけるかのように彼我の距離を広げていく。

 

 僅か数秒で、両者の位置は完全に入れ替わる形となった。

 

「選択を間違えたわね。平坦なコースでの競走なら、もう少し競った勝負になったかもしれないのに」

 

 後ろを振り向きながら、ミルリーフはそう言い放った。

 

 

 

 

 

 

「う……嘘だろ……何だよあれ……!?」

 

 悪夢の如き強さを目にして、ヒシアマゾンは驚愕の声を上げた。

 

「加速してやがるぞ! 上り坂で……!」

 

 急坂を駆け上がりながら、平地を駆け抜ける時と同等以上の速度を出す――そのようなことは物理的に不可能だ。

 

 どれだけ脚力に優れた競走馬でも、急坂では平地より速度を落とすのが必定。坂の巧者とは減速の幅が通常より小さい者を指す言葉に過ぎず、坂で加速が出来る者という意味ではない。

 

 しかし今、彼女達が視線を集めるモニターの向こうでは、その常識が覆されていた。

 

 後ろを振り向く余裕さえ見せ、嬉々として加速し続けるミルリーフ。

 

 急坂が生む負荷を歯牙にもかけないその姿は、実際とは逆に、重力を味方につけて坂を駆け下っているかのようだ。

 

「……当たり前だ」

 

 奥歯を噛み締め、エアジハードは言う。

 

 世界屈指の名馬への畏怖を、硬い声音に滲ませながら。

 

「平地競走では世界一過酷なコースと言われる、イギリスのエプソムダウンズ競馬場……そこで行われたダービーの覇者だぞ、あのミルリーフは」

 

 日本の競馬場の人工的なコースと違い、イギリスの競馬場の多くは自然の地形を利用したコースを持っている。

 

 そのためコース内の起伏が激しいという特徴があり、生半可な体力では無事に完走することさえままならない。

 

 首都ロンドンの南方に位置し、同国のダービーの舞台となるエプソムダウンズ競馬場は、その最たる例だろう。

 

 日本で最も高低差のある中山競馬場の芝コースが、高低差約五メートル。

 

 対してエプソムダウンズ競馬場のコースは、高低差約四十二メートル。

 

 これはオフィスビルの十数階分に相当する差であり、競馬場のコースとしては世界最大の数値。

 

 時計で比較した場合、距離が同じにもかかわらず日英のダービーでは平均走破時計が約十秒違う点からも、いかに過酷な舞台であるかが窺い知れる。

 

 そこで無類の強さを誇った絶対王者が、今グラスワンダーと対戦している巻き毛の女だ。

 

「私達とは鍛え方が根本的に違う。坂に強いイギリス馬の中でも、奴は別格中の別格なんだ」

 

 幼少時から英才教育を受け、世界一過酷な競馬場に適応した身体を作り上げてきたのだろう。

 

 筋肉の質も身体の使い方も、日本の競走馬のそれとは全くの別物だ。

 

 グラスワンダーも並外れた剛力の持ち主だが、ミルリーフはその遥か上をいく。

 

 言うなれば、完全なる上位互換。

 

 同種の競走馬であるが故に、共に走れば誤魔化しようがないほど優劣が浮き彫りになる。筋力が物を言う勝負でグラスワンダーがミルリーフに勝てる道理はない。

 

(君だって、そんなことは分かっていただろう……? なのに何故、こんな無茶な勝負を挑んだ……?)

 

 モニターに映るグラスワンダーの姿を見つめ、内心で問う。

 

 既に五馬身以上の差をつけられていながら、その走りはどこか惰性的だった。

 

 ミルリーフへの対抗心を燃やしている気配が感じられず、これ以上差を広げられまいと足掻いているようにも見えない。

 

 それなりの速度を維持してはいるものの、ただそれだけの気迫に欠けた走りだった。

 

 想像以上の実力差を思い知らされ、戦意を失ってしまったのか。

 

 それとも――

 

 

 

 

 

 

「もうすぐ頂上に着いちゃうけど、いいのかしら?」

 

 残り三百メートルほどの地点で、ミルリーフはそう言った。

 

 彼女の圧倒的優位は変わっておらず、既に対戦相手との差は七馬身ほどにまで広がっていた。

 

「聞いてるわよ。日本の≪怪物≫グラスワンダーは、他に類を見ない特別な走りをする競走馬だって」

 

 遥か後方を淡々と追走するグラスワンダー。

 

 未だ通常の走りを続けているその両脚に、英国最強馬は粘り着くような視線を投げかける。

 

「使ってみなさいよ、それを」

 

 放たれる、挑発の言葉。

 

 未知の走法への興味を抱きながらも、己の勝利は微塵も疑わず、切り札の使用を相手に促す。

 

 相手の全力を真っ向から叩き潰し、完全なる勝利を収めるために。

 

「もうそれしか手はないでしょう? このまま千切られて負けるのをよしとするタマなんかじゃないでしょう? さっさと切り札を使って、この私に肉薄してみせなさいよ! さあ!」

 

 熱く昂った声が、遥か前方から浴びせられる。ゴール地点である坂の頂上が、一秒ごとに近付いてくる。

 

 そんな状況にあっても、グラスワンダーは冷静だった。

 

 彼女の内面に焦りや動揺はなく、このままでは敗北必至だという危機感さえもなかった。

 

 相手の声を雑音として聞き流し、残りの距離と自身の体力を冷静に測りながら、ラストスパートをかけるべき瞬間を待ち続けていた。

 

 この時彼女の青い瞳に映っていたのは、先を行くミルリーフの背中ではない。

 

 さらに先を行く者。

 

 彼女にだけ見える、赤い幻影。

 

 いつの日か追い抜かねばならない、無二の親友の背中だった。

 

 

 

 

 

 

 十九日前。

 

 新たな一歩を踏み出すきっかけとなった、あの雨の日。

 

 互いに本音をぶつけ合った後、グラスワンダーとエルコンドルパサーの二人は橋の下で雨宿りをしていた。

 

「一つ、気になることがあるのですが」

 

「あう?」

 

「何で私さっき、あんな豪快な背負い投げをきめられたんでしょう?」

 

「……」

 

「思い返しても意味が分からないというか、投げる必要がどこにあったのかと疑問なのですが」

 

「…………まあ、ノリで……」

 

「正直かなり効いてるんですけど? まだ背中痛いんですけど?」

 

「いやー……ハハ……ついカッとなってぶん投げちゃったというか、あそこで一発ぶちかませと競馬の神様がワタシに囁きかけてる気がして……」

 

「随分と無駄に武闘派なんですね、エルの脳内の神様は。……おかげで、色々と吹っ切れられましたけど」

 

 呆れと妙な納得が入り交じった溜息をつき、グラスワンダーはエルコンドルパサーの右手に視線を落とす。

 

 小さな銀色のカップが、その手に握られていた。

 

「じゃあ、エル……それを……」

 

 親友が守り抜いてくれた大切な物を受け取るため、やや遠慮がちに手を伸ばした。

 

 しかし――

 

「……え?」

 

 くるり、と身を翻され、伸ばした手は何も掴めずに終わる。

 

 快くカップを手渡してもらえるとばかり思っていたグラスワンダーは、謎の回避行動に面食らった。

 

「あの……カップを……」

 

 立ち位置を変えてもう一度手を伸ばすが、またもや背中を向けられてしまう。

 

 そればかりか、赤ん坊を抱くように両手でがっちりとカップを抑えられ、絶対に渡さないという意思表示をされる有様だった。

 

 意味が分からなかった。

 

 この期に及んで何をトチ狂っているのか、この赤マスクは。

 

「ちょっと、エル……」

 

「駄目デス」

 

「は?」

 

「今のグラスにこれを受け取る資格はないデース。だから返してあげません」

 

「資格って……」

 

 困惑を深めるグラスワンダーに、エルコンドルパサーは棘のある視線を向けた。

 

「だってグラスったら、ついさっきまでこんなのいらないんだ壊すんだーって喚き散らしてたんデスよ? そんなヘタレ全開のバカチンにこれを受け取る資格、あると思います?」

 

「うっ……」

 

 痛いところを突かれた。

 

 大切な物だったカップをつい先程叩き壊そうとしたのは、紛れもない事実だったからだ。

 

「このカップちゃんだって、グラスみたいな愛情ゼロのクソ駄馬より心優しい天使なワタシに持っててもらいたいって言ってますよー。ネー?」

 

「た、確かにそうかもしれませんけど……じゃあ、私はどうすれば……」

 

「えー? そんなの決まってるじゃないデスかぁ」

 

 エルコンドルパサーの表情が、とっておきの悪戯を披露する時のそれに変わる。

 

「返してもらえないなら、力ずくでぶんどっちゃえばいいんデスよ」

 

「え?」

 

「だーかーらーっ、ワタシと勝負して勝てたら返してあげるって言ってるんデスよ。鈍いデスネー、グラスは」

 

 一瞬目を丸くしたグラスワンダーは、相手の真意を悟って息を呑んだ。

 

 競走馬が「勝負」と口にすれば、意味するところは一つしかない。

 

「エル……」

 

「これから最強の≪ビッグレッド≫を目指してくってのに、ワタシを華麗にスルーなんてのは無しデスよ? ていうかラスボス的ポジションに居座るつもりなんで、きっちり相手してくれなきゃ困ります」

 

 楽しそうに言ってから、エルコンドルパサーは穏やかに笑う。

 

 そして少しだけ真剣な眼差しを覗かせ、大切な物を預かったまま続けた。

 

「だから、約束して。いつかあの日のレースの続きをしてくれるって」

 

 二月の末、学園の練習場で行った模擬レース。

 

 ゴール寸前での競走中止により、明確な決着がつかずに終わった勝負。

 

 そのやり直しを、エルコンドルパサーは求めていた。

 

≪怪物≫グラスワンダーの強さを誰よりも知っているから、あの勝負を曖昧な形で終わらせたくないと願ったのだ。

 

「……ええ、そうですね。続きをやりましょう。いつか、また」

 

 かけがえのない好敵手の想いを汲み取り、グラスワンダーは笑顔で頷く。

 

 降りしきる雨の中、小さな銀色のカップは淡く輝いて見えた。

 

「必ず取り返してみせますから、その日まで預かっていて下さい。私の大切な……勝利の証を」

 

 

 

 

 

 

 刹那の追憶を終え、意識を現実に戻す。

 

 夢想の中にある赤い幻影から、ミルリーフの背中へと視線を移す。

 

「私には、大切な物があります」

 

 銀色のカップの輝きと重みを思い浮かべ、口を開く。

 

「あなたが手にしてきた栄冠に比べれば、取るに足らないくらいちっぽけな物……けれど私にとっては、他の何よりも大切な物なんです」

 

 生まれて初めて、自分自身の力で掴み取った栄冠。

 

 薔薇のレイにも負けない光を宿すと信じる、小さな銀色の優勝カップ。

 

 自分自身に誇れる勝利の証だったそれが、今は手元にない。

 

「それを私から取り上げた人は、本当に意地が悪くて、返してほしかったら自分に勝ってみせろなんて言うんですよ……負ける気なんか欠片もない顔で、楽しそうに笑いながら」

 

 頬を緩め、束の間だけ穏やかな目になる。

 

 親友の子供じみたやり方に苦笑し、それが物語る無垢な想いに感謝して。

 

「私はその人に勝たないといけない。いつの日か全てをぶつけて打ち破り、約束を果たさないといけないんです」

 

 遠くない未来、もう一度戦う。

 

 己の全てを懸けて挑み、必ず勝つ。

 

 伝説の最強馬――≪ビッグレッド≫の名を継ぐに足る強さを示し、何より大切な物をこの手に取り戻す。

 

 それが、競走馬グラスワンダーが走り続ける最大の理由。

 

「だから……」

 

 笑みを消す。

 

 噴火寸前の火口の如き闘志を、双眸に灯す。

 

 前方にいる世界屈指の名馬を鋭く見据え、慢心を咎めるつもりで言い放つ。

 

「負けてられないんですよ。こんなところで、あなた程度の相手に」

 

 ゴールまで、残り約二百メートル。勝負の最終盤にさしかかったその場所で、異端の競走馬は自らの力を解き放った。

 

 脚を、高く振り上げる。

 

 競馬の常識を逸脱するほど、異様に高く。

 

 空の頂を蹴り上げるかのように、限界まで高く。

 

 そして、意地と誇りと誓いと信念と、夢見た未来に向かう意思を込め、その脚を大地に振り下ろした瞬間。

 

 雷鳴に等しい轟音が、学園中に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 時刻は、数分前に遡る。

 

 グラスワンダー達の勝負が開始されるより少し前、練習場の芝コースではもう一つの勝負が行われていた。

 

 エルコンドルパサーとブリガディアジェラード。

 

 日本の怪鳥と大英帝国の軍神――日英両国が誇る最強馬同士のマッチレースである。

 

 勝負の舞台は、左回りの芝千六百メートル。好きなコースと距離を選べと言われた後、エルコンドルパサーが迷うことなく選んだのがそれだった。

 

 既にスタートは切られ、二人は横並びの形で長いバックストレッチを進んでいる。

 

 序盤から剛脚の比べ合いが披露されたもう一つの勝負とは対照的に、二人とも平均ペースを維持したまま牽制し合うように淡々と併走する、静かな立ち上がりの勝負だった。

 

 その時点では。

 

「何ていうか……すごくつまんなそうな顔して走ってますネー、ジェラードさん」

 

 自身の外側を走る対戦相手の横顔に、エルコンドルパサーは目を向ける。

 

 現れた時から硬質な無表情を続けているブリガディアジェラードだが、エルコンドルパサーにはそれが、真剣さではなく不機嫌さの表れに思えてならなかった。

 

「ひょっとして、芝がお気に召さない感じデスか? 芝っていってもイギリスのとじゃ全然違いますからネー……アハハハハハ……」

 

 気まずい空気を少しでも紛らわそうと、ぎこちなく笑う。

 

 当然のように反応はなく、より一層気まずさは増すばかり。

 

 何だか知らないが不興を買っているようだと思いつつも、半ばやけくそ気味に喋り続けた。

 

「あー、でも……でもデスよ、ワールドカップの予行練習としては丁度いいと思いません? 確かドバイの芝って日本とヨーロッパの中間みたいな感じなんデスよね? だったら今の内に軽い芝に慣れておくのも――」

 

「下らん」

 

 ブリガディアジェラードは口を開いた。

 

 淡々とした走りを続けたまま、拒絶と侮蔑を露わにする。

 

「まるで遊びに興じているような軽薄さだな。意地も気迫も感じられん。貴様のような間抜け面が代表を任されている時点で、この国の程度が知れる」

 

 彼女は大英帝国の軍神。

 

 近代競馬の母国の威信を背負う、誇り高き競走馬。

 

 極めて厳格な価値観の持ち主であり、強さを求め強者を敬う一方、芯のない軟弱者をゴミと呼び蔑視する。

 

 勝負の最中に相手の顔色を窺うような真似は、彼女が最も嫌うことだった。

 

「多少は骨のある相手なら、まともに勝負してやってもよかったが……貴様は論外だ。ゴミの戯れに付き合うほど私は暇ではない」

 

 バックストレッチの終わり付近で、横並びの形が崩れる。

 

 清流のように穏やかだったレースは、そこから激流へと転じた。

 

「先に行くぞ。ゴミはゴミらしく無様にもがいていろ。間抜け」

 

 宣告と共に、急加速。様子見の走りをやめたブリガディアジェラードは、低空を裂く一発の徹甲弾となり、エルコンドルパサーを置き去りにした。

 

 その勢いのままコーナーに突入。速度を緩めず差を広げながら、巧みなコーナーワークで内埒沿いを突き進んでいく。

 

 走るペースを上げた、という程度の話ではない。

 

 それは、紛れもないスパートだった。

 

 バックストレッチの終わり間際で仕掛けた、あまりにも早すぎる全力の行使。通常なら自殺行為にしかならない悪手であり、軍神の名にそぐわない雑な競馬だ。

 

 されどその暴挙こそが、彼女の意思表示だった。

 

 早仕掛けで結構。ゴミを相手に駆け引きをする必要はなく、真剣に戦ってやる価値もない。隣にいられるだけで不快なので、さっさと突き放して身の程を思い知らせる。二度と視界に入れる気はない。

 

 烈風を纏って駆ける後ろ姿は、そんな意思を冷酷に物語っていた。

 

「間抜けって……ハハ……言い方キツいデスネー、ジェラードさん……」

 

 俯き加減になりながら、エルコンドルパサーは苦笑する。

 

 笑うしかない気分だった。

 

「何でかそれ言われちゃうんですよネー、ワタシって……いつも超真面目に頑張ってるのに、間抜け間抜けって……」

 

 一人の女の顔を思い出す。

 

 人々から理想の競走馬と讃えられながら、その名誉を捨て去る道を選んだ女。

 

 競馬の世界に踏み入る前は、遥か先に立つ目標だった存在。

 

 あの女にも、同じ言葉で何度も罵られた。

 

「最近みんな当たりがキツめっていうか、ワタシの対戦相手ってちょっと態度がアレな人ばっかじゃありません? わりとガチめのイジメっぽくて泣いちゃいそうになりますよネー……ハハハハハ……」

 

 苦笑が途切れる。

 

 俯き加減だった顔を上げ、前を見る。

 

 孤高の在り方を貫くかのように独走する英国最強馬の背中を、視線で射抜く。

 

 静かな怒りと、燃え立つ闘志を込めて。

 

「――舐めるな」

 

 瞬時に戦闘態勢へと移り、反撃を開始。

 

 熾烈な特訓を経て進化した肉体を駆動させ、力強く地を蹴り猛追。

 

 弾雨の激しさと狙撃の正確さを併せ持つ、極限の域まで磨き抜いたピッチ走法でコーナーを回り、急激に差を詰める。

 

 ブリガディアジェラードがそれに気付き、反射的に振り向いた時、既にエルコンドルパサーは手を伸ばせば触れられるほどの距離にまで迫っていた。

 

 そして、二人が再び並んだ瞬間――

 

「邪魔」

 

「――っ」

 

 肩と肩がぶつかった。

 

 不意の衝撃に体勢を崩され、ブリガディアジェラードは進路を外埒側に逸らす。

 

 その間にもエルコンドルパサーは驚異的な加速を続け、今度は逆にブリガディアジェラードを置き去りにした。

 

 差が四馬身ほどに広がったところで後方を確認し、皮肉な笑みを浮かべる。

 

「あれー? ちょっと接触しただけでそんなによろめいちゃうなんて、思ったよりヤワなんデスネー。≪ザ・ブリガディア≫さん」

 

 全く笑っていない二つの目が、凍えた光を放つ。

 

「それとも今やってるこれを、遊びか何かだと勘違いしてました?」

 

 先の侮辱に対する、痛烈な意趣返し。

 

 遥か格上の相手を堂々と挑発してのけたエルコンドルパサーは、視線を前方に戻して告げた。

 

「だとしたら、そんな覚悟の足りない人に用はないんで……先に行かせてもらいますよ!」

 

 猛々しく気炎を吐き、コーナーを抜けてホームストレッチに突入。

 

 走法をピッチからストライドに変換し、長い直線を切り裂くように駆けていく。

 

 逆転を許した格好のブリガディアジェラードは、崩れていた体勢を立て直しつつ、エルコンドルパサーの後ろ姿を見据える。

 

 その表情は、奇妙なほど落ち着いていた。

 

 妨害じみた真似をされたことに対する怒りはなく、むしろどこか納得した様子で、自身に喧嘩を売った相手に興味深げな視線を注いでいた。

 

 既に理解していたのだ。

 

 今しがたの蛮行の意味と、それが物語る相手の精神性を。

 

「なるほど、な……」

 

 追い抜きざまに肩をぶつけてきたのは、意図的なものと見て間違いない。

 

 こちらの走行妨害を目的とした、反則紛いのラフプレイ――だが、明確な反則とは一線を画している。

 

 競馬のレースにおいて身体の接触は少なからず生じることであり、よほど悪質でなければ不問とされる場合も多い。

 

 客観的な視点では先の行為が故意か否かは判別困難なため、おそらく審議にはなっても降着処分にまでは至らないだろう。

 

 そうした一線を見極めた上で、エルコンドルパサーは仕掛けたのだ。

 

 遊びではないのだから、お行儀の良い駆けっこをするつもりなど毛頭ない。

 

 正攻法から危険を承知の蛮行まで、あらゆる手を使って勝ちを獲りにいく。

 

 元より真剣勝負とはそういうもの。脚の速さを比べ合うことだけが競馬ではない。

 

 単純な走力だけではなく、身に付けた技術、戦術、知性、経験を総動員して勝利を目指すのが競馬であり、綺麗事をかなぐり捨てて死力を尽くすのがレースだ。卑劣な小細工などという寝惚けた非難は言わせない。

 

 ゴールに向かって真っ直ぐに駆ける姿は、そんな競走馬としての信念を示していた。

 

 ブリガディアジェラードの両眼が鋭く尖り、殺気を帯びる。

 

 今戦っている相手が取るに足らないゴミではなく、全力をもって叩き潰さねばならない難敵だと認識して。

 

「――面白い」

 

 

 

 

 

 

 坂路コースでの勝負は、多くの者の予想を裏切る形で終わっていた。

 

「な……」

 

 モニター越しに見える決着の光景が信じられず、エアジハードは呟く。

 

 その声は、微かに震えていた。

 

「現実……か……? これは……」

 

 細かな違いはあれど、スタンド内にいた誰もが似たようなことを口にし、動揺を露わにしていた。

 

 無理もないだろう。

 

 先にゴールに到達したのは、≪怪物≫グラスワンダー。

 

 日本競馬界の異端者が英国最強の王者ミルリーフを破るという番狂わせが、坂路の頂上地点で演じられたばかりだったのだ。

 

 当事者であるミルリーフ自身も、その結果をまだ受け入れられずにいた。

 

 彼女はゴールと定めていた場所の数十メートル手前で立ち尽くし、呆然とした顔を晒していた。

 

 勝負の最中に故障したわけでも、体力が尽きて進めなくなったわけでもない。

 

 ゴールまで走り切ることさえ忘れてしまうほど、ゴール寸前でグラスワンダーに差し返された事実が衝撃的だったからだ。

 

 誇張ではなく本当に、彼女はこの時、何も考えられない状態に陥っていた。

 

 一言も喋らず微動だにせず、大きく見開いた目で坂の頂上に立つ勝者の背中を凝視するばかりだった。

 

 そんな凍りついた時間を解いたのは、激しい地響き。

 

 栗毛の少女が突如として行った、誰にも理解出来ない蛮行だった。

 

「――っ」

 

 ミルリーフは顔を強張らせ、息を呑む。

 

 僅かにだが思考を再開した頭で彼女は現状を認識して、敗北を喫した時とは別種の混乱を覚えた。

 

 グラスワンダーの右脚の下にある地面が、数秒前とは形を変えている。

 

 クレーターのように陥没し、土砂を派手に四散させている。

 

 あの右脚が、地面を踏んだせいだ。

 

 いや、踏んだというより、靴裏を叩きつけたというべきか。

 

 レース中と同様、異様に高く振り上げた脚を地面に向かって振り下ろし、全身全霊の力を地面に炸裂させたのだ。

 

 それだけでも不可解だったが、さらに不可解だったのは声だ。

 

 耳に届く、グラスワンダーの声。

 

 荒い息遣いを伴う、言葉の体をなさない呻き声。

 

 背を向けていたため表情は見て取れなかったが、殺伐とした感情が滲むその声は、レースの勝者が零すものとは思えなかった。

 

 激怒している。明らかに。

 

 何かがどうしようもないほど気に食わず、湧き上がる怒りを野蛮な方法で発散している。

 

 誰もが瞠目するほどの脚を繰り出し、勝負に完勝しておきながら、いったい何が気に食わないというのか。

 

「グラスちゃん」

 

 リコがその場に現れる。

 

 彼女はグラスワンダーに歩み寄りつつ、真剣な顔で注意した。

 

「納得いかない気持ちは分かるけど、そういうのはやめなさい。脚を痛めるわよ」

 

「……すみません」

 

 小声で応じたグラスワンダーは、一度深呼吸してからリコの方を向く。

 

「少し……感情を抑えられませんでした……あまりにも、酷い走りをしてしまったもので……」

 

「そんなに酷くはなかったわよ。そりゃまだまだ修正は必要だけどね。初めてにしては及第点の出来だったから、自信持ちなさいってば」

 

「……はい」

 

 二人のやりとりを聞き、ミルリーフはようやく気付く。

 

 今しがたの蛮行の意味と、激怒の理由を。

 

 要は、満足出来なかったということなのだろう。

 

 確かに勝負には勝ったが、それは彼女が目指していた勝ち方ではなかった。もっと強烈な脚を繰り出し、もっと差をつけて勝つつもりだったから、勝っても満足出来なかった。

 

 それどころか自分の未熟さに憤り、勝負に惨敗した後のように反省している始末。

 

 今まで様々な相手と対戦してきたが、こんな相手は初めて見た。

 

「……ああ、そう……もしかして……坂路が得意って、そういうこと……?」

 

 勝負を始める前のやりとりを思い出す。

 

 あの時、グラスワンダーは坂路コースを舞台に選んだ理由を、「坂路は得意ですから」と言っていた。

 

 自身の得意条件だから選んだという意味だと解釈していたが――違う。

 

 あの少女は、こちらが坂路を何よりも得意としていることを知っていたから、あえて坂路での勝負を求めたのだ。

 

 相手の土俵で完勝し、自身の力を見せつけるために。

 

「最初から……勝つ気でいたのね。この私に」

 

 英国最強馬の胸を借りるなどという謙虚な気持ちは微塵もなく、最初から本気で打ち倒すつもりでいた。

 

 自身が高みに登るための踏み台にするつもりでいたのだ。

 

 今目の前にいる、あらゆる意味で常識外れの≪怪物≫は。

 

「ええ、分かるわ……負けるつもりで勝負する奴なんていないものね。やる以上勝つ気でいるのは当然。別に非難するようなことじゃないし、傲慢とも言えない。それは分かるわ……ええ、すごくよく分かる」

 

 長い独り言を呟いてから、顔を上げる。

 

 数十メートル先に立つ栗毛の少女を、鋭い眼差しで睨む。

 

「でも、正直――ムカつくわね」

 

 手のひらで踊らされていたことは受け入れ難く、こちらを勝って当然の相手と見下していたことは許し難い。

 

 勝った後はこちらを見ようともせず、勝ち方に納得がいかないなどという戯けた理由で苛立っていることは、どうあっても看過出来ない。

 

 それが、肚の底から湧き上がる正直な気持ちだった。

 

 故に彼女は前へと踏み出し、グラスワンダーとの距離を詰める。

 

「おめでとう。あなたの勝ちよ、グラスワンダー」

 

 その顔に最早、普段の柔和な微笑みはない。

 

 確固たる矜持を胸に抱く、勝負の世界に生きる者としての素顔が表れていた。

 

「つまらない言い訳はしないわ。今の勝負はあなたの勝ちで、私の負け。そこはちゃんと認めてあげる。だから……」

 

 右手を持ち上げ、自身の襟元に指をかける。

 

 そしてその剛力をもって、着ていたドレスを一瞬で引き裂いた。

 

「その代わり、もう一度よ」

 

 ドレスがするりと滑り落ち、隠されていた物が露わとなる。

 

 日射しを浴びて銀灰色に輝くそれは、胴体と四肢を鎧のように覆う金属群だった。

 

 黒いベルトで身体の各所に固定されており、四肢の関節部には太い発条が複数取り付けられている。

 

 装着者の身を守るためではなく、行動を制限するために設計されたと思しき、重厚な板金の集合体。

 

 あまりに異様なその装着物は、成り行きを見守っていた者達の多くに衝撃を与えた。

 

「おい……何の冗談だよ……あれは……」

 

 スタンドにいたヒシアマゾンが、声音に当惑を滲ませる。

 

 隣に立つナリタブライアンは、険しい顔で呟いた。

 

「拘束具……」

 

 ベルトと板金と発条で形作られた特注品。高比重金属の重量と発条の弾性で自由を奪う、拷問器具に近い拘束具。

 

 清楚なドレスの下に潜んでいた物の正体が、それだった。

 

「人生を楽しむのが私の主義だから、休みたい時は休むし遊びたい時は遊ぶ。でもだからといって、鍛錬を疎かにする気は微塵もないわ」

 

 語りつつ、ミルリーフの手は拘束具のベルトを外していく。

 

「これはそのための物。いつどこで何をやっていてもこの身体を鍛え続けられるように作らせた、私専用の拘束具」

 

 次々と落下する銀灰色の板金が、重い音を響かせて地面にめり込む。

 

 その事象が示す通り、通常のトレーニング用品とは重量の桁が違う。

 

 彼女以外の競走馬が装着すれば身動き一つとれなくなり、確実に身体を破壊される、危険極まりない代物だった。

 

「これの重さと締め付けに慣れて、大抵のことは付けたままでもこなせるようになったのがいけなかったのね。つい外さずにレースをするなんて、舐めたことまでしちゃったわ。反省しないとね」

 

 全ての拘束具が外され、不自由を強いられていた身体が自由を取り戻す。

 

「でもこれで、私を縛る物は何もない。正真正銘の全力が出せる」

 

 慢心しながら嬉々として走っていた時とは、既に何もかもが別物だった。

 

 破り捨てたドレスの代わりに英国競馬界の王者にふさわしい威風を纏い、ミルリーフは今一度要求を口にする。

 

「今ここで、もう一度私と勝負しなさい。世界最強の脚がどんなものかを、あなたに教えてあげるから」

 

 二人の視線が重なる。ミルリーフの圧し潰すような闘志を、グラスワンダーは覚悟を決めた面持ちで受け止める。

 

 要求を拒んだところで非難される謂れはなかったが、その選択は彼女の誇りが許さなかった。

 

「望むとこ――」

 

「よせ」

 

 横合いから飛んできた声が、返答を遮る。

 

 声の主は、ブリガディアジェラード。

 

 ミルリーフと共に来日し、模擬戦の相手役を務めるため学園を訪れていた、もう一人の英国最強馬だった。

 

「一度だけの勝負と事前に決めていただろう? 結果に納得がいかないからといって相手に再戦を要求するな。見苦しい」

 

 靴音を鳴らして歩み寄りつつ、厳しい口調で制止の言葉を投げかける。

 

 ミルリーフは眉根を寄せ、苛立ちを露わにした顔を軍服姿の同期に向けた。

 

「何よジェラード、横から口を挟まないでくれな――」

 

 そこで、はっとした。

 

 遥か格下と侮っていたグラスワンダーに、自分は不覚をとった。

 

 ならばもしや、別の場所でエルコンドルパサーと対戦していた彼女も――

 

「ちょっと待って。まさか、あなたも負けたとかいうんじゃ……」

 

「勝った」

 

 素っ気なく、ブリガディアジェラードは即答した。

 

「どこぞの愚か者と一緒にするな。力を出し惜しんだ挙句に足をすくわれるような醜態は晒していない」

 

「……」

 

 辛辣な物言いを苦い顔で聞いたミルリーフだが、すぐに気付いた。

 

 ブリガディアジェラードの呼吸が僅かに乱れており、表情からも疲労の色が見て取れることに。

 

「ジェラード、あなた……」

 

 苛立ちを忘れ、目を疑う。

 

 ブリガディアジェラードとて生身の競走馬だ。レースをすれば少なからず消耗する。

 

 しかしながら鉄の克己心を持つ彼女は、滅多なことではそれを表に出さない。

 

 その冷徹な顔に疲れが滲むのは、強敵との激戦を終えた時だけだ。

 

「本気でやったの……? あのエルコンドルパサーって子と……」

 

 ブリガディアジェラードは即答せず、一瞬だけ沈黙した。

 

 目を瞑り、数分前に芝コースで繰り広げた戦いを思い返しながら、ゆっくりと答えを口にする。

 

「貴様と一緒にされては困るが……」

 

 続く言葉はミルリーフを絶句させるほど、普段の彼女からはかけ離れたものだった。

 

「認識に誤りがあったことは認めよう。ゴミと侮ったまま容易に降せる相手ではなかった」

 

 

 

 

 

 

 壁は厚かった。

 

 一歩も動けないほど消耗したエルコンドルパサーは、芝コースの直線上で仰向けに倒れたまま、そう痛感した。

 

 会心のレースをしたつもりだった。事実、接戦には持ち込めていた。

 

 直線半ばで相手に差し返されたものの、そこから差を広げられることはなく、半馬身から一馬身ほどの差を行き来しながらゴール前まで競り合いを演じた。英国最強馬の本気の走りに食らいつくことは出来ていたのだ。

 

 しかしながら、最後の一押しが足りなかった。僅かな差を詰められないでいる内にゴールがやってきてしまい、自分の負けでレースは終わった。

 

 もっと早い段階でロングスパートを仕掛け、差を広げておくべきだったか。

 

 もしくはスタート直後からハイペースで進み、相手に脚を使わせておくべきだったか。

 

 いやそれとも、ぎりぎりまで脚を溜めてゴール寸前で抜き去る戦法の方が――

 

「やあ、惜しかったね」

 

 頭の中で反省会をしていると、不意に声が聞こえた。

 

 いつの間にかすぐ傍に立っていた女に顔を向け、エルコンドルパサーは苦笑する。

 

「何だ……見てたんですか……」

 

「そりゃ見てたさ。この二週間で君がどれだけ伸びたのか、気になるとこだったからね」

 

 芝の上で大の字になったままの「教え子」に、女は優しげな微笑みを向ける。

 

 その小脇には、大きなスケッチブックが抱えられていた。

 

「まあ、悪くない走りだったと思うよ。少なくとも特訓で学んだことは活かせていたし、相手を苦しめることも出来ていた。もう少し下のランクの相手ならあれで十分だったんだろうけど……まあそこは、流石は英国最強の≪ザ・ブリガディア≫と言うべきかな。表面上は驕っているようでも芯のところは冷静で、隙がない。そう簡単に番狂わせが起こせるような相手じゃなかったね」

 

 女はスケッチブックを開き、その中の一ページに目を落とす。

 

 今しがた描かれたばかりのラフスケッチ――直線で激しく競り合う二人の名馬の姿が、そこにあった。

 

「でも、掴んだだろ? 次やればいけるっていう、確かな手応えを」

 

「……ええ」

 

 荒い呼吸を繰り返しながら、エルコンドルパサーは頷いた。

 

「今日は完敗でしたけど……ワールドカップまで、あと七ヶ月とちょっと……それだけあれば、私はもっと強くなれる……」

 

 苦笑を不敵な笑みに変え、自分を見下ろす女と視線を交える。

 

「必ず、超えてみせますよ。ブリガディアジェラードも、バックパサーも……あなたも」

 

 迷いなく口にした宣言。

 

 先を行く者達を無限の成長力で追い抜き、世界で一番強い競走馬になるという意思表示。

 

 それを受け、スケッチブックを持つ女は笑みを深めた。

 

 二週間だけ稽古をつけた少女が自分の前に立ちはだかる時を、遠足の日を待つ子供のような気分で思い描いて。

 

「楽しみだ」

 

 

 

 

 

 

「どの道、今日のこれは奴らの練習に付き合っただけの話だ。勝ったところで大した意味はない」

 

 そう結論付け、ブリガディアジェラードはミルリーフに告げた。

 

「つまらん模擬戦の勝ち負けにこだわるなど愚の骨頂だ。帰るぞ」

 

 模擬戦はあくまで模擬戦。栄誉や賞金をかけて争う実戦とは違う。

 

 無益な戦いの結果に囚われる必要はなく、当初の予定を変えてまで勝敗を覆す行為に意味はない。

 

 それがブリガディアジェラードの考えだったが、ミルリーフは違った。

 

「……関係ないわ。意味だの意義だの、そんなかったるいこと考えながら私は競走馬やってるわけじゃないし」

 

 忠告を拒み、再びグラスワンダーと視線を交える。

 

「このままだと気分が悪いから、白黒きっちりつけて気分良く帰る。それだけよ」

 

 彼女にとって何より大事なのは、実利の類ではなく自らの誇り。それが傷ついたままでは収まりがつかない。

 

 故に今度こそ本気で走り、自分に勝った気でいる相手に格の違いを思い知らせる。

 

 彼女が再戦に臨む理由は、それで十分だった。

 

 だが――

 

「ミル」

 

 ブリガディアジェラードが、名を呼ぶ。

 

 普段の声とは、少しだけ違う響きの声だった。

 

「あまり無理をするなと、医者に言われているだろう?」

 

 ミルリーフの表情が強張る。大きく見開いた目の奥に、心臓を鷲掴みにされたかのような動揺が走る。

 

 今しがた外した拘束具は、鍛錬のためだけに作られた物ではない。

 

 もう一つの、より切実な理由――不自由を甘受せねばならなくなった事情が、彼女の過去には存在する。

 

「……そう……だったわね……」

 

 どこか寂しげに呟き、小さく溜息をつく。

 

「私としたことが、つい熱くなっちゃってたわ。……駄目ね。せっかく苦労して身体を戻したってのに」

 

 自らの浅慮を反省し、ミルリーフは昂っていた気持ちを鎮めた。

 

 それから何とも言い難い微妙な面持ちになり、やや不満げな視線をブリガディアジェラードに向ける。

 

「けどジェラード、どうせ止めるならもっと早くしてよね。もうドレス破いちゃったじゃない」

 

「知るか、貴様が勝手に破いたんだろう。というより何故破く必要がある? 普通に脱げばいいだけの話だろうが」

 

「そ……そこはほら、見栄えの問題よ! ここでのそのそ服脱いでたらちょっと間抜けっぽいっていうか、格好がつかないじゃない!」

 

「安心しろ。貴様の格好など最初からついていない」

 

 顔を赤くして語気を強めるミルリーフと、面倒臭そうにあしらうブリガディアジェラード。

 

 子供じみた言い合いを繰り広げる二人の姿は、英国競馬界を背負って立つ双璧にはとても見えない有様だった。

 

 そんな状況がしばし続き、妙にだらけた空気がその場を包み始めた頃。

 

 ひとしきり言いたいことを言ったミルリーフは、気分を切り替えてグラスワンダーと向き合った。

 

「グラスワンダー」

 

 名を呼び、真剣に問う。

 

「あなた、距離は十二ハロンもいけるのよね?」

 

「ええ、それより長い距離の勝鞍もありますから」

 

「なら丁度いいわ。今日の続きは、ワールドカップでやりましょう」

 

 そう告げた時の彼女の顔は、対等の相手と認めた者にだけ見せる顔だった。

 

「ワールドカップで行われるレースの条件はまだ発表されていないけれど……きっと予選でも本戦でも、芝の十二ハロン戦はあるでしょうね。多くの国で主要レースの施行条件になっているんだから、ないわけがないわ」

 

 一ハロンは二百メートル。十二ハロンは二千四百メートル。

 

 十二ハロンはダービーや凱旋門賞をはじめとした数々の大レースの施行距離であり、クラシックディスタンスとも呼ばれる競馬の花形だ。

 

 近年では古い価値観となりつつあるものの、芝の十二ハロンで勝ち続けられる者を王道路線の王者と見る向きは未だ根強い。

 

「うちのチームの十二ハロン担当は、この私。予選でも本戦でも、芝の十二ハロン戦なら必ず私が出て、一着をとる」

 

 強い自負を込めて宣言し、栗毛の少女を睨む。

 

「だからあなたもそれに出なさい。今度は本気で、叩き潰してあげるから」

 

 尊大な物言いであり、敵意を剥き出しにした一方的な要求だったが、グラスワンダーにとってそれは不快なものではなかった。

 

 優しげな笑顔の裏で軽く扱われていた時より、ずっと好ましく感じられた。

 

 相手が向けてくる敵意や執着は、自分の走りが確かな爪痕を残した証だったから。

 

「ええ、承知しました。続きはワールドカップでやりましょう」

 

 淡く微笑み、再戦を約束する。

 

「クジ運次第ですけれど、出来れば本戦の方で当たりたいですね」

 

「……そうね。楽しみにしてるわ」

 

 言葉の意味を汲み取り、ミルリーフは憮然とした顔のまま同意する。

 

 そして地面に散らばっていた拘束具を拾い集め、ブリガディアジェラードと肩を並べてその場から去っていった。

 

 二人の背中が見えなくなった後、リコはグラスワンダーに言う。

 

「グラスちゃん、分かってると思うけど……」

 

「ええ」

 

 グラスワンダーは神妙に頷く。

 

「あのまま続けていたら負けていました。今の私の走法では、本気のあの人に勝てません」

 

 ミルリーフが拘束具を付けていることは、最初から見抜いていた。

 

 だから必ず勝つと宣言し、実際に勝った。自らの肉体を抑え込んだ状態のミルリーフになら負ける気は微塵もしなかった。

 

 だが、ハンデなしの本番となれば、話は違う。

 

 先ほどの模擬戦で見せた力など、おそらく全力の半分でさえないだろう。彼女が拘束具を取り外した際に見せた威圧は、それまでとは完全に別物だった。

 

 正直な感想として、強さの底が見えない。

 

「でもそれは、あくまで現時点の話。さらに練習を積んで、動作の精度を上げて、あの人の全力を打ち破れる武器に仕上げてみせます。本番までには」

 

 課題は多い。乗り越えなくてはならない壁、解決しなくてはならない問題が、思いつく限りでも山ほどある。

 

 だが、弱音は吐いていられない。壁を一つ一つ着実に越え、全ての問題と逃げずに向き合い続けなければ、世界の頂点には辿り着けない。

 

 覚悟を決め、前に進んでいくしかないのだ。

 

 たとえそれが、どれほど過酷な道程だったとしても。

 

「うん……まあ、それはそうなんだけれどね……今言いたいのはそれじゃないっていうか……ミルちゃんと熱い約束を交わした後で申し訳ないんだけど、その場のノリと勢いだけで出るレース決めないでほしいなーとか思ったりして……」

 

「そうですね、軽率でした。すみません。十二ハロンのレースには私が出ます」

 

「……あれ? 台詞の前後が繋がってない気がするんだけど、気のせい? 何か今、決定事項を一方的に告げられた気がするんだけど……」

 

「もう約束しましたので、十二ハロンのレースには私が出ます」

 

「いや、うん……向こうもその気だったしすごく熱い約束なのは分かるんだけど……十二ハロンはエルちゃんとスペちゃんも守備範囲だから、グラスちゃんを出すかどうかはその時の状況によるっていうか……ぶっちゃけそれ決める権限は私にある気がするんだけど……」

 

「私が出ます」

 

「うん……何か最近グラスちゃん、話が通じない系の子になってきてない? この先も全部その調子で押し切られそうな気がして、おばさんすごく嫌なんだけど……」

 

 あまり楽しくない未来を想像して、果てしなく微妙な気分になるリコだった。

 

 

 

 

 

 

 スタンド内では、未だどよめきが続いていた。

 

 グラスワンダーがミルリーフを破った事実もさることながら、その決め手となった末脚が、誰の目にも衝撃的なものとして映っていたのだ。

 

「凄え脚だったけど……」

 

 皆の心情を代弁するように、ヒシアマゾンが疑問を零す。

 

「何か……違わなかったか……? いつもの、あいつの走りと……」

 

「確かに違う……が、全くの別物というわけでもなさそうだ」

 

 戦慄が滲む硬い表情で、ナリタブライアンは見解を述べた。

 

「走りの原型を残したまま、より実戦的な形に作り変えたもの……そんな印象を受けた」

 

 傍に立つエアジハードも、口には出さなかったが同意見だった。

 

 レースの最終盤にグラスワンダーが見せたのは、「叩きつける走法」だ。あの脚を異様に高く振り上げる動作は、確かに「叩きつける走法」のそれだった。

 

 だが、そこから先が違った。具体的にどう違うのかは分からなかったが、どこかで何かが決定的に違ったのだ。

 

 そして、それが結果に表れた。

 

 力を制限した状態だったとはいえ、相手は英国最強馬ミルリーフ。従来のままの「叩きつける走法」であったならば到底勝つことは出来なかっただろう。

 

『私なりに色々考えて、決めたんです。一つに絞るって』

 

 休憩中に聞いた言葉が、ふと脳裏をよぎった。

 

 そうだ。確かに言っていた。欲張らずにやることを絞り、たった一つの武器だけを徹底的に磨き上げると、他ならぬグラスワンダー自身が言っていたのだ。

 

 その成果が、あの奇跡のような末脚だというのか。

 

 世界と戦えるほど強大な武器を、彼女は手にしつつあるというのか。

 

「十馬身差で勝つ、か……」

 

 噛み締めるように呟く。

 

 無謀としか思えなかった話が、少しだけ現実味を帯びてきたように感じられた。

 

「本当に、やってのけてしまうのかもしれないな……彼女なら……」

 

 

 

 

 

 

 それから四日後。

 

 グラスワンダーは東条ハナに呼び出され、チーム・リギルの部室を訪れた。

 

「あなたを出走させるレースが決まったわ」

 

 パイプ椅子に腰かけるハナは、グラスワンダーと視線を合わせ、宣戦布告するような声音で告げた。

 

「宝塚記念……うちのチームの代表として、六月末の宝塚記念に出走してもらう。それでいいわね?」

 

 それは、グラスワンダーが昨年制したGⅠレース。

 

 阪神競馬場の芝二千二百メートルを舞台として行われる、春競馬のグランプリ。

 

 自身に不向きなレースへの出走を覚悟していたグラスワンダーにとっては、少々意外な選択だった。

 

「……いいんですか? 宝塚で? 梅雨の時期の阪神二千二百は、私が一番得意な条件ですよ」

 

「でしょうね。けど、簡単に勝てるなんて思わない方がいいわよ」

 

 冷静に応じつつ、ハナは目を細める。

 

 そしてその視線を、部屋の入口に向けた。

 

「もう一人、うちのチームから出走させるから」

 

 扉が開く音を聞き、グラスワンダーは後ろを振り向く。

 

 そこにいたのは、見知った顔の女。

 

 同じチームに所属する仲間であり、偉大な先達であり、これまで多くの言葉を交わしながら多くのことを学んできた相手。

 

 日本競馬が誇る、もう一人の≪怪物≫――マルゼンスキーだった。

 

「六月の宝塚には、私も出る」

 

 普段とは明らかに違う、仇敵を睨むような眼差しを後輩に向け、マルゼンスキーは宣言した。

 

「この意味が分かるわよね? グラス」

 

 問いに、グラスワンダーは答えない。

 

 眉一つ動かさず、全てを在るがまま受け入れたかのような無表情を保ちながら、相手の顔を見返すのみだった。

 

 そんな彼女に、ハナは言う。

 

「あなたが、あくまで世界の頂点を目指す気なら……自分の走りをどこまでも貫きたいと願うなら……宝塚記念でマルゼンスキーを相手に、十馬身差で勝ってみせなさい」

 

 夢物語に等しいほど非現実的な、最大級の無理難題。

 

 平然とそれを口にするハナの表情には、既に慈悲の欠片もなかった。

 

「それが、あなたが自由を勝ち取る条件よ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十一話「枷」

 

 

 あの光景を憶えている。

 

 三年前の冬、≪怪物≫グラスワンダーが朝日杯を制した日。

 

 レースの熱狂が残る中で行われた、夢と希望に満ち溢れた表彰式。

 

 表彰台に立つ栗毛の少女に、勝者の証である銀色のカップが手渡されていた。

 

 それを見守る観衆の多くは、目を輝かせながら手を叩いていた。元々グラスワンダーを応援していた人々は勿論、レース前は他馬の勝利を願っていた人々の中にさえ、心からの拍手を送る者が数多くいた。

 

 それほどまでに、衝撃的なレースだったのだ。

 

 大地を蹴り砕き地響きを鳴らす走りに、多くの者が瞠目した。

 

 地を這う雷光のような桁外れの速さに、多くの者が惹きつけられた。

 

 他馬を置き去りにして突き抜ける鮮烈な強さに、誰もが夢を見ずにはいられなかった。

 

 だからその後に行われた表彰式は、熱気を帯びた祝福の声に包まれていた。レースで得た感動と勝者への称賛、そして未来の展望を語る声が、場内の至る所から上がっていた。

 

 スタンドの一角にいた自分の耳にも、多くの声が届いた。

 

 観衆の中の誰かが言っていた。「怪物だ」と。

 

 それは確かにそうだろう。あの少女はまさしく≪怪物≫だ。デビュー間もないこの時期にあれだけの強さなら、同世代に敵はいまい。純粋な競走能力という面でなら、上の世代を含めても日本で一番かもしれない。そう思えるだけの資質は十分にある。

 

 別の誰かが言っていた。「マルゼンスキーの再来だ」と。

 

 きっと褒め言葉のつもりで言ったのだろう。マルゼンスキーと同じくらい強くて、マルゼンスキーと同じように無敗のまま勝ち続けると信じて、その名を使ったに違いない。

 

 けれど自分には、その言葉が呪いのように感じられた。

 

 マルゼンスキーの再来――そうまさに、あの少女はこの自分の生き写しだ。存在を構成するあらゆる要素が、悲しいほど似通ってしまっている。

 

 だからこそ、あの時確信した。

 

 観衆の多くが幸せそうに語る眩しい夢は、残念ながら現実にならない。

 

 あの少女は自分と同じ。ただ他人より速く走れるだけの、どうしようもない脆さを抱えた欠陥品。

 

 強く激しく輝いた後に消え失せていく、刹那の強者に過ぎないのだから。

 

 

 

 

 

 

 部室でのやりとりを終えたマルゼンスキーは、帰宅のため学園の正門に向かっていた。

 

 しかし校舎の前を通り過ぎたところで、その歩みが止まる。

 

 今は一番会いたくない人物――日本代表チームの監督役を務めるリコが、進路上に立っていたからだ。

 

「思い通りに事が運ばないなら実力行使なんて、マル子ちゃんらしくないわね」

 

 どこか呆れたような表情で、リコは言う。

 

 グラスワンダーとの一戦の件を承知していることは、その様子から明らかだった。

 

「そんなに目障りなのかしら? 今のグラスちゃんの姿が」

 

「私は、私のなすべきことをしているだけですよ」

 

 最早取り繕う必要はないと判断し、マルゼンスキーは冷淡に応じる。

 

「それに今回の場合、いつどこで誰が相手でも十馬身差で勝ってみせると豪語したのはグラス自身。なら私が同じレースに出走を決めたからって、文句を言われる筋合いはないと思いますが?」

 

「そりゃそうね。誰がどのレースに出るかなんて自由。私も別に、そのことであなたを責める気はないわ」

 

 平然と言いながら、リコは目を細める。

 

 確かに責めてはいないが、その視線は刃先のように鋭かった。

 

「で……上手いことグラスちゃんを引退に追い込んだ後は、あなたが代表チームに入って代わりを務めてくれるの?」

 

「馬鹿言わないで」

 

 口調を変え、マルゼンスキーはリコを睨み返した。

 

「そんなもの、頼まれたって願い下げよ。私だって暇じゃないの。あなた達の下らないお遊びにこれ以上付き合う気なんかない」

 

 拒絶の意思を露わにして、再び歩き出す。

 

 リコの脇を通りながら、冷めた声音で言葉を浴びせた。

 

「頭数が足りないなら、ルドルフかブライアンでも入れればいいじゃない。どうせ誰を連れて行ったって、結果は変わらないんだから」

 

 意図したわけではなかったが、それはリコがグラスワンダー達との初対面時に口にした挑発と同じだった。

 

 妙な因果を感じて、リコは小さく溜息をつく。

 

 そして僅かに間を置いた後、遠ざかっていくマルゼンスキーの背中に視線を戻した。

 

「……一つ忠告しておくけど、あまり甘く見ない方がいいわよ。今のグラスちゃんを」

 

 本人の意思を代弁するように、決然と告げる。

 

「もう合宿の時の、脆くて弱々しかったあの子じゃない。自分自身と真摯に向き合い続けて、自分だけの強さを手にした」

 

 指導者の視点からグラスワンダーの苦悩と再起の道程を見てきたリコは、その強さを深く知り、全幅の信頼を置いていた。

 

「今はもう、あなたより強いわよ。確実にね」

 

「私より?」

 

 再び立ち止まったマルゼンスキーは、背中越しに問いを投げる。

 

「それは、どの私のことを言ってるのかしら?」

 

 反吐が出るほど嫌いなことが、マルゼンスキーには一つだけある。

 

 何も知らない他人が、自分のことを知ったような口で語ることだ。

 

「朝日杯を大差で勝った時の私? それとも、短距離ステークスでレコードを叩き出した時の私?」

 

 振り返り、横顔を見せる。

 

 静かな激情を孕んだ凶眼が、リコを踏み潰すように睥睨する。

 

「あなたこそ、私を甘く見ない方がいい」

 

 現役屈指の名馬。日本競馬界の古豪。歴代三冠馬に匹敵する実力者。

 

 そうした評価は所詮、マルゼンスキーという競走馬の表層に過ぎない。無知な大衆がレースを観ただけで知った気になり、口々に浅い見識を語っているだけだ。

 

 真実は世に知られていない。

 

 マルゼンスキーの本来の姿を目にした者は、あまりに少ない。

 

「はっきり言って私、今までに一度もないから。レースで本気を出したことなんて」

 

 現実味を欠いたその宣言は、嘘偽りのない事実だった。

 

 

 

 

 

 

 六月下旬、宝塚記念当日。

 

 阪神競馬場のパドックに集った十一人の出走馬の姿が、テレビ画面に映し出されていた。

 

『最後に八枠十一番は、≪怪物≫グラスワンダー。現在単勝一番人気。馬体重はマイナス六キロです』

 

 パドック内を周回する最後の一人にカメラが向く。

 

 青い勝負服に身を包むグラスワンダー。その落ち着いた表情と静かな歩みに衆目が集まる。

 

 今回の出走馬の中では実績最上位で、前年の優勝馬でもあるため、現在は彼女が一番人気に支持されていた。

 

『去年の有馬記念以来の出走となりますが、このあたりはどうでしょう?』

 

『問題ないと思いますよ。少し間隔は開きましたが、馬体はきっちり仕上げてきています』

 

『馬体重はマイナス六キロとなっていますが……』

 

『少し減ってはいますが、有馬記念の時がやや太め残りでしたからね。適正体重に戻してきたと見るべきでしょう。歩様もしっかりしていますし、状態は良いと思いますよ』

 

 実況役と解説役がグラスワンダーの状態について語った後、画面はパドック全体を見渡す視点に移る。

 

 厚い雲に覆われた空からは、ぽつぽつと雨が降り始めていた。

 

『ここまでで出走馬十一人を見てきましたが、注目馬はどういったところでしょう?』

 

『やはりグラスワンダーですね。去年の秋から今年の春にかけては不調が囁かれていましたが、今日の出来を見る限りでは良い時の状態に戻っているようです。連覇の可能性は高いと思いますよ』

 

『グラスワンダーは一昨年の有馬記念に始まり、昨年の宝塚記念、有馬記念とグランプリレースを立て続けに勝っていますからね。今日勝てばグランプリ四連覇となりますので、前人未踏の偉業達成に期待したいところです。それでは続いて――』

 

 カメラが横へと流れ、深紅の勝負服を纏う女を捉える。

 

 一枠一番、マルゼンスキー。

 

 久方ぶりに大舞台に姿を現した名馬は、静謐な気配を伴いながら歩を進めていた。

 

『現在差のない二番人気のマルゼンスキーを、もう一度見てみましょう。落ち着いて周回しているように見えますが、どうでしょうか?』

 

『ええ、流石はベテランといった感じですね。いつも通り落ち着いています。……ですがちょっと、これまでとは違った印象を受けますね』

 

『と言いますと?』

 

『うーん……』

 

 少し間を置いてから、解説役は慎重に言葉を選んで続けた。

 

『確かに落ち着いているのですが、何かこう……静かな気迫めいたものが全身から滲み出ているように感じられます。普段はどちらかと言うとおっとりしたタイプですから、パドックでこういう雰囲気を見せるのは珍しいなと』

 

『久々の大舞台というのが影響しているのでしょうか? マルゼンスキーのGⅠ出走は朝日杯以来となりますが……』

 

『んー……そういう気負いとはちょっと違う気がしますね。ともあれ、こちらも状態は良さそうです。久々のレースですが、実力通りの走りを期待していいと思います』

 

『なるほど。ではこの二人以外に注目馬を挙げるとすればどの馬でしょうか?』

 

『個人的には三番のステイゴールドが――』

 

 その後ほどなくしてパドックでの注目馬解説は終わり、画面はスタジオでの勝ち馬予想に移っていった。

 

 

 

 

 

 

 学園の食堂には備え付けのテレビがあるため、昼時ではないにもかかわらず多くの生徒達が集まっていた。

 

「うわやばっ、井坂さんの本命グラスちゃんだよ……また変なデータ持ち出してごちゃごちゃ言ってる……」

 

「逆神だからね、あの人も……ていうかブシテレビの中継ってあれよね。どうでもいいおじさん芸人達のあてにならない勝ち馬予想ばっかり。そんなのいいから出走馬の姿を映してよっていつも思うわ」

 

「あはは……でも、そういうのが好きって人もいるし……」

 

 テーブルを囲んで座り、テレビ画面に映る芸能人達の勝ち馬予想を見ながら、セイウンスカイ、キングヘイロー、スペシャルウィークの三人がそれぞれの感想を述べる。

 

 一見穏やかな光景ではあるが、当人達の心中はそこまで穏やかだったわけではない。

 

「けどまさか……グラスちゃんとマルゼンさんが同じレースを走ることになるなんて……」

 

 スペシャルウィークが不安そうに呟くと、キングヘイローとセイウンスカイも真剣な顔になる。

 

「……あの人なりに考えがあってのことでしょう? 同じレースに出ちゃいけないって決まりがあったわけでもないし、今更どうこう言ったって仕方ないわ」

 

「そうだね。こうなったらもうマルゼンさんと戦うしかないよ。私達はグラスちゃんが勝つのを信じて、ここで見守るしかない」

 

 グラスワンダーとマルゼンスキーの対決。その戦いの意味を重く受け止めている点では、三人とも同じだった。

 

 そんな三人から少し離れたところに、エルコンドルパサーは立っていた。

 

 無言のままテレビ画面を注視していたその背中に、一人の少女が歩み寄る。

 

「よかったの? 現地に応援に行かなくて」

 

 エアジハードだった。

 

 問いかけられたエルコンドルパサーは首を回し、小さく笑う。

 

「グラスが自分で言ったんデスよ。私の応援なんかに来なくていいですから、みんなは自分の特訓に集中してて下さい……って」

 

「必ず勝ってみせるから、心配しなくていい……ってことかな?」

 

「そんな感じデスね。グラスの中じゃもう、今日のレースで圧勝するのは決定事項になってるっぽいデース」

 

 おどけた様子でエルコンドルパサーが言うと、エアジハードは少しだけ真剣な顔になった。

 

「ただ勝つだけなら、今のグラスなら十分可能だろうけど……」

 

 テレビ画面の向こうでは、既に本馬場入場が始まっていた。

 

 先頭で姿を現し、軽やかに返し馬に移ったのは、二番人気を背負うマルゼンスキー。

 

 その美しくも雄々しい姿に、スタンドから熱い歓声が上がる。

 

「問題は例の条件だ。このメンバーを……というよりあのマルゼンスキーを相手に、十馬身差で勝つなんて芸当が果たして可能なのか……」

 

 今日の宝塚記念は、ただ勝てばいいというものではない。

 

 三ヶ月前に東条ハナと交わした約束――「十馬身以上の差で勝利しなければならない」という条件がある。

 

 先頭でゴール出来てもそれを達成出来なければ、グラスワンダーにとっては負けと同じだ。

 

「無理デスね。普通に考えたら」

 

 さらりと、エルコンドルパサーは言った。

 

「マルゼンさんはそんなに甘い相手じゃないデスし、他の人達だって今まで一線級でやってきたベテランばっかりデス。GⅠの舞台でそんなメンバーを相手に十馬身差で勝つなんて、夢物語もいいとこデース」

 

 宝塚記念のような古馬王道路線のGⅠは、数あるGⅠの中でも出走馬の平均レベルが高い。

 

 今年は例年に比べやや小粒な顔ぶれと言われるが、それでもグラスワンダー以外の十名の内九名が重賞勝ち以上の実績を持つ一流馬だ。決して甘いメンバーではない。

 

 そして最大の敵であるマルゼンスキーは、紛れもない超一流。

 

 デビューから現在まで無敗の連勝を続けており、その実力は≪皇帝≫シンボリルドルフに比肩するとも言われる、日本競馬界屈指の名馬。

 

 ただでさえ勝つのが難しい相手に十馬身以上の大差をつけて勝つなど、正気の沙汰とは思えない夢物語だろう。

 

「でも、グラスは普通じゃないデスから」

 

 エルコンドルパサーの顔に、信頼に満ちた笑みが浮かぶ。

 

「気分が乗ってない時は超低品質なアメリカ産馬肉デスけど、今回はかつてないくらい乗ってますからネー。きっと二十馬身くらいの超大差で爆勝してくれますよ。有り余る馬力と筋肉とパワーとマッスルを全開にして」

 

 最後のは全部同じような意味だろうと内心で呟き、エアジハードは頬を緩めた。

 

 画面の向こうで返し馬に入った栗毛の少女を、穏やかな目で見つめる。

 

「ああ見えて気分屋だからね、彼女……けど確かに、乗ってる時は信じられないくらい強い」

 

 三ヶ月前、坂路でミルリーフを破った末脚。

 

 エアジハードの瞼には、それが今も鮮明に焼きついていた。

 

「見せてもらうとしようか。あの新走法が、どこまで完成に近付いたのかを」

 

 

 

 

 

 

 阪神競馬場で行われる対決に注目していたのは、日本の競走馬だけではなかった。

 

 アメリカ合衆国、ニューヨーク市クイーンズ区。

 

 同地の競馬場の近くに建つ宿舎の一階。コの字型にソファが並ぶ共用スペース。

 

 黒縁眼鏡をかけた白衣の女がソファに腰かけ、手に持つスマートフォンの画面に目を落としていた。

 

 アメリカ代表チームの一人、ドクターフェイガーだ。

 

「少し雨が降っているが……さて、天候を味方につけるのはどっちかな……」

 

 配信される映像を視聴しながら呟いていると、その背後からラフな格好をした長身の女が歩み寄ってきた。

 

 バックパサーだ。

 

「ようドクター、何観てんだ?」

 

「宝塚記念っていう日本のレースだよ。知ってるかい?」

 

「知ってるよ。向こうの春のグランプリだろ? ……で、合宿の時にいた奴が二人出るんだったか?」

 

「何だ、全部知ってるんじゃないか」

 

 ドクターフェイガーは薄く笑い、自身のスマートフォンをバックパサーが見やすい位置まで持ち上げた。

 

「それじゃあせっかくだし、一緒に観戦しようか。向こうじゃ世紀の一戦なんて銘打たれてるレースだから、観て損はないだろうしね」

 

「新旧≪怪物≫対決、か……死ぬほどクソだせえキャッチコピーだが、暇潰しの娯楽には丁度いいわな」

 

 バックパサーはソファの背凭れに両肘を載せ、画面を覗き込む。

 

 既に本馬場入場は終わり、出走馬全員がスターティングゲートの後ろに集まっていた。

 

 あと五分ほどで、日本の春競馬を締め括るレースは始まる。

 

「一応訊くが、どう思うよドクター? お前さんの予想としては」

 

「難しい質問だね」

 

 黒縁眼鏡のつるを指先で上げ、ドクターフェイガーは言う。

 

「予想屋の真似事は好きでも得意でもないけれど……あえて言うならグラスワンダーが有利、かな? 前年の覇者でコース適性の高さは証明済み。合宿の時は不調だったようだが、最近は調子を戻してきていると聞く。大外枠だが十一人立てなら気にするほどじゃないだろうし、特にイレ込んでいる様子もない。レース中に大きな不利でも受けない限り連覇は濃厚……と見るのが妥当と思える」

 

 そこで一旦言葉を切り、画面に映る深紅の競走馬を注視する。

 

「ただ……対抗馬と目されている、このマルゼンスキー……彼女は正直、未知数な存在だ。どう評価したらいいものか分からない」

 

 もう一人の≪怪物≫、マルゼンスキー。

 

 アメリカ競馬史上最速の脚を持つ名馬に「未知数」と言わせるほど、その存在は競馬界において異彩を放っていた。

 

「軽く経歴を調べてみたが、なかなか興味深い存在だね。彼女」

 

 眼鏡の奥の瞳が、僅かに真剣な色を帯びる。

 

「デビューから連勝街道を歩み続け、未だ無敗。安定感もさることながら勝ち方も尋常ではなく、後続を七馬身以上千切ったことが六度もある。その驚異的な強さから≪怪物≫と呼ばれており、日本最強馬に推す声も少なくない。が……」

 

 自身が目にした雑多な情報を、ドクターフェイガーは思い返す。

 

 日本最強馬にマルゼンスキーを推す声が多い一方、その強さに懐疑的な声も決して少なくはなかった。

 

「GⅠ勝ちは朝日杯のみ。出走回数が少ないため勝利数や獲得賞金も少なく、最強クラスの一角と呼べるほどの実績は持っていない。いつでも日本の頂点に立てると言われ続けながら、実際にそうなったことは一度もない。不思議な競走馬だ」

 

 競走馬の評価は実績で決まる。GⅠや重賞の勝利数、獲得賞金、JRA賞の受賞歴といったものがそれだ。

 

 無敗であろうが勝ち方が鮮烈であろうが、大レースを制した実績が乏しい者を大衆は最強馬と認めない。高い能力を持つだけでは一介の「強者」でしかなく、皆が理想像として求める「王者」たりえない。

 

 マルゼンスキーが日の当たる王道路線を走り続け、栄冠を掴み続けることで実力を証明していれば、評価は今と違っていただろう。

 

 しかし現実は、そうはならなかった。

 

「不思議、ね……あんたも人が悪いな、ドクター」

 

 バックパサーは僅かに眉根を寄せた。

 

「んなことの理由なんて、とっくに想像がついてんだろ?」

 

「まあね」

 

 ドクターフェイガーは即答する。

 

「頂点に立てるのに立たない。光輝く王者を目指さず、日陰の実力者に甘んじる。そういう子は稀にいるよ。そしてその理由は、大抵一つに絞られる」

 

 遥か遠い異国にいる、王者になれなかった不遇の強者。

 

 その身体の一点に目を向け、呟く。

 

「アキレウスの踵……といったところかな? 喩えるなら」

 

「どっかのセンパイみたいな物言いだな」

 

 詩的な表現に呆れつつも、この上なく適切な喩えだと思うバックパサーだった。

 

 

 

 

 

 

 小雨が降る曇天の下、返し馬を終えスタート地点に集った十一人の競走馬は、大観衆の注目を浴びながらゲート入りの時を待っていた。

 

 GⅠ特有の重々しい空気が漂う中、マルゼンスキーは因縁を清算すべき相手に目を向ける。

 

「グラス」

 

 名を呼ばれ、振り返るグラスワンダー。

 

 視線が重なり合って数秒後、マルゼンスキーは言葉を続けた。

 

「……多分あなたの目には、今の私が裏切り者みたいに映ってるんでしょうね。あなたを支える立場を捨てて敵に回ったんだから、その自覚はあるわ」

 

 口調も声音も落ち着いていたが、その眼差しは冷酷な威圧を帯びていた。

 

「でも、謝罪はしない。躊躇いも後悔もしない。こうして戦う以上は持てる力の全てを注いで、あなたの勝利を阻む」

 

 この戦いに敗れれば、グラスワンダーは未来を失う。

 

 何も得られず、何処にも辿り着けないまま、失意の内に競馬場を去ることになる。

 

 それを知りながらも、マルゼンスキーの心に迷いはなかった。

 

「終わらせるわ。あなたの競馬を、今日ここで」

 

 非情な宣告を、グラスワンダーは冷静な面持ちのまま受け止める。

 

 迷いを捨てたマルゼンスキーと同様、彼女も既に覚悟を決めていた。

 

「……予感はありました」

 

 紡がれる、負の感情を排した声。

 

「薄々ですけれど……あの合宿の時から、いずれこうなるような気はしていました。だから今日ここでマルゼンスキーさんと戦うことに対して、不満や文句は一切ありません。いつも通り、私は私のレースをするだけです」

 

「私ごときは眼中にないって言いたいの?」

 

「軽く見るつもりはありません。ただ……」

 

 胸に抱く清冽な闘志を、視線に込めて相手にぶつける。

 

「雑念に囚われず自分の競馬に徹すれば、おのずと結果はついてくる。今はそう信じています」

 

「大した自信ね」

 

 皮肉るように返したマルゼンスキーは、思考を読む口振りで呟く。

 

「これから世界の頂点を目指すんだから、ここで躓くわけにはいかない。こんな程度の相手には涼しい顔で勝って、自分の強さを証明しなきゃいけない……そんなところなんでしょうね、きっと」

 

 グラスワンダーは肯定も否定もしない。ただ静かに、退かない覚悟を示すように相手の顔を見返すのみだった。

 

 その緊迫した空気を察知し、他の出走馬達も対峙する二人に視線を集めていく。

 

「世界の頂点、世界一、世界最強、無敵の王者、至高の競走馬……」

 

 マルゼンスキーの口が、同じ意味の言葉を羅列する。

 

「煌びやかで良い言葉ね。ええ、本当に……そんな称号を自分だけのものにしたいから、あなたも他の子達も必死に走り続けてるんでしょうね」

 

 呆れを滲ませて語った後、その表情が険しさを増す。

 

 次いで放たれる、鋭い声。

 

「でも、それが何なの?」

 

 ある意味でそれは、競馬の本質を突く問いだった。

 

「誰よりも速く走れるから、何? 他の子達よりコンマ一秒か二秒先にゴールしたから、いったい何だっていうの? 下らない駆けっこに勝ったくらいで、何か特別な存在にでもなったような気分に浸れるの?」

 

 眼前に立つ後輩。同じレースを走る競走馬達。スタンドで熱狂する観客達。様々な形で競馬に関わる人々。

 

 その全てに冷めた目を向け、マルゼンスキーは今まで隠していた本音を零した。

 

 侮蔑と、嫌悪を込めて。

 

「馬鹿馬鹿しい。競馬なんかに夢中になる奴らは、子供じみた馬鹿ばっかり」

 

 成り行きを見守っていた何人かが、一様に息を呑んだ。

 

 競馬を否定し、競馬に情熱を持つ全ての者を蔑む暴言――それがマルゼンスキーの口から放たれたことが、信じられなかったのだ。

 

 そんな周囲の反応を毛ほども気にせず、マルゼンスキーはグラスワンダーただ一人だけに視線を注ぎ、冷酷に問う。

 

「私はそう思うのだけれど、あなたはどう? こんな駆けっこに命を懸けるなんて馬鹿らしいって、一度でも思ったことはない? グラスワンダー」

 

 雨が降るターフの上。日本中の競馬ファンが注目するグランプリの発走直前。

 

 二人の競走馬は真正面から向かい合い、相反する意志をぶつけ合う。

 

 決して譲れないものを、自らの支えにして。

 

「……無意味です。今ここで、何を言っても」

 

 ぽつりと、グラスワンダーは言った。

 

「どんなに綺麗でもっともらしいことを言ったって、あなたの心には……いえ、ここにいる誰の心にも、本当の意味では響きません」

 

 前へと踏み出す。

 

 濡れた芝を静かに踏み締め、スターティングゲートに向かう。

 

「だから、走りで示します」

 

 マルゼンスキーの脇を通り、告げる。

 

「あなたの問いに対する答えは、言葉ではなく私自身の走りで示します。自分が選んだ生き方を貫いて、先へ進むために」

 

 宣誓じみたその言葉を、マルゼンスキーは戦場で敵と剣を交えるような面持ちで聞いた。

 

 振り返り、遠ざかっていく後輩の背中に眼光を飛ばす。

 

 その瞳の奥に棲むのは、氷点下の殺意。

 

「……なら、こっちも教えてあげる」

 

 己の生き様を走りで示すというなら、応じる方法はただ一つ。

 

 覆せない力の差を見せつけ、愚かな夢と希望を断つだけだ。

 

「あなたの選んだ生き方が、どれだけ空虚で無意味なものか……競馬の現実が、どれだけ非情なものかをね」

 

 

 

 

 

 

 阪神競馬場スタンド内の指定席。

 

 二人掛けの座席が等間隔に並ぶその場所に、ミルリーフとブリガディアジェラードの姿があった。

 

 競馬界では知らぬ者のいない二人に周囲の観客達は驚愕と困惑の視線を集めていたが、当人達はそんな些事を気に留めてはいない。

 

 当然のように並んで座り、宝塚記念の発走時刻を待っていた。

 

「レースを観戦するのはいいとして、わざわざ現地まで来る必要はあったのか?」

 

「間近で見届けたくなったのよ。あの子のレースぶりを」

 

 ブリガディアジェラードが投げかけた問いに、ミルリーフは憮然とした顔で答える。

 

 席に腰を下ろした時からその視線は、グラスワンダーただ一人だけに注がれていた。

 

「見届けてどうする? 終わった後に世間話でもしに行くのか?」

 

「別にどうもしないわ。ただ、この目で見たものを頭に入れておくだけよ。ワールドカップでやりあう時のためにね」

 

「あの模擬戦で後れを取ったのがよほど気に食わんらしいな。面倒な奴だ」

 

「面倒で結構。これが私よ。借りがある相手を放置していられるほど人間が出来ちゃいないの」

 

 人が変わったというわけでもないが、三月の一件以来、ミルリーフの言動には若干の変化が生じた。

 

 自分を破った相手――グラスワンダーのことになると、不機嫌さと真剣さが入り交じった硬い表情を見せ、棘のある物言いをするようになったのだ。

 

 その変化の良し悪しについては、長い付き合いのブリガディアジェラードにも判断がつかなかったが。

 

「……まあいい。このレースの行方には、私も少しばかり興味がある」

 

 あの模擬戦を境に認識を改めたという点では、彼女も同じだった。

 

 曲がりなりにもミルリーフを破ったグラスワンダーの力を侮ってはいない。自分達の障害になりかねない強敵と認め、その動向を注視している。

 

 そして、気になる者がもう一人。

 

「あの赤い勝負服の女……マルゼンスキーだったか? 奴はワールドカップの日本代表に入っていないらしいが、それは何故だ?」

 

「さあ? 実績が足りないからじゃない? 無敗でパフォーマンスもすごいらしいけど、大したレース勝ってないもの」

 

 さほど興味がなさそうに、ミルリーフは言う。

 

 彼女の中で宝塚記念は既に、グラスワンダーの勝ち方を見るだけのレースとなっていた。

 

「どこの国にもいるわよ、そういうの。格の低いレースで圧勝を続けて、無敵だの最強だのと持て囃されるけど、上のレースに出たら全然通用しないっていう子。あれもその部類だと思われてるんじゃないかしら?」

 

「相手に恵まれたおかげで過大評価されただけ……と陰口を叩かれる手合いか」

 

 呟きつつ、ブリガディアジェラードは直線の端のスタート地点を見下ろす。

 

 最内の一番枠に収まっていくマルゼンスキーの姿からは、どこか不気味な気配を感じずにいられなかった。

 

「そうは見えんがな」

 

 

 

 

 

 

 スターティングゲートの中。

 

 収まった一番枠でスタートの時を待ちながら、マルゼンスキーは神経を研ぎ澄ませる。

 

『最後に十一番のグラスワンダーが収まりまして、全十一人のゲートイン完了です』

 

 実況の声など、今の彼女には聞こえない。スタンドから溢れる歓声も耳に届かない。

 

 この時彼女の意識を占めたのは、目の前にあるゲートの扉と、遠い過去の記憶。

 

 全てを諦めるきっかけとなった、幼き日の事故。

 

 親友の前で語った夢。何も考えず無邪気に駆けていた子供時代。骨が折れる音。ターフに倒れる自分。駆け寄る人々。運び込まれた病院。医師から告げられた言葉。病室を訪れた母の顔。

 

 一連の記憶が走馬灯のように蘇り、幾多の思いが去来する。

 

『今年もあなたの夢、私の夢が走ります。春競馬の総決算、グランプリ宝塚記念――』

 

 自身の欠陥を知り、運命を受け入れた時から、マルゼンスキーは枷を嵌めていた。

 

 ミルリーフの拘束具のような、目に見える枷ではない。本人の意識の中だけにある、けれど確かな拘束力を持った重い枷。

 

 それが今日まで自由を奪い、実力を半減させていた。重い枷を嵌めた不自由な身で競馬を続けていたのだ。

 

 その生き方を後悔したことはない。間違いだったなどとは露ほども思わない。

 

 だが、もういい。

 

 もう枷を嵌めておく必要はない。自分を無理に抑えなくていい。

 

 今日のこのレースが、最後のレースで構わない。

 

 死地に赴く心境で誓約を解き、長年に渡り嵌め続けていた枷を捨て去り――

 

 無敵の力を持って生まれた≪怪物≫は、真実の姿を取り戻す。

 

『――スタートしました!』

 

 ゲートが開き、十一人が一斉に走り出す。

 

 そのまま先行勢による熾烈な先頭争いが繰り広げられるかと思われた矢先、それは起こった。

 

 最内の枠から出た一人が、深紅の一閃となって内埒沿いを突き抜けたのだ。

 

『え……あ……なっ……!?』

 

 実況アナウンサーが言葉にならない声を洩らす。

 

 レース模様を伝えるという職務を忘れて硬直してしまうほど、それは衝撃的な光景だった。

 

 スタート直後先頭に躍り出たのは、一枠一番のマルゼンスキー。

 

 桁外れの出脚を披露した彼女は、その勢いのまま多段式ロケットのような加速を続け、後続の十人を瞬く間に引き離す。

 

 尋常な速度ではなく、尋常なレース展開でもなかった。

 

 七馬身八馬身九馬身と一秒ごとに差は開き、十馬身を超えてもなお止まらない。天井知らずに脚の回転数を上げ続け、完全なる独走状態に突入する。

 

 その光景に驚愕したのは、実況アナウンサーだけではなかった。

 

 スタンドは大事故が発生したかのようなどよめきに包まれ、テレビ中継を観ていた人々も総じて我が目を疑った。

 

 ドクターフェイガー、バックパサー、ミルリーフ、ブリガディアジェラードといった世界屈指の名馬達でさえ、大きく目を見開いて絶句していた。

 

 マルゼンスキーの大逃げから始まった宝塚記念は、誰も目撃したことのない異形のレースだった。

 

 

 

 

 

 

「な……あ……っ」

 

 テレビ画面を凝視しながら、エアジハードは言葉にならない声を洩らした。

 

 彼女だけではない。その場にいた生徒達のほぼ全員が同様に言葉を失い、青褪めた顔を並べていた。

 

 それほどまでに信じ難いレース展開が、画面の向こうの阪神競馬場で繰り広げられていたのだ。

 

「な、何だ……? 何なんだ、あれは……!?」

 

 ようやく絞り出した声は、発音が不明瞭なほど震えていた。

 

 信じられない。理解が出来ない。

 

 スタート直後にマルゼンスキーが繰り出した脚が、それによって広がっていく後続との差が、あまりにも常軌を逸したレース模様が、現実のものとは到底思えない。

 

 エアジハードの目に映っているのは、競馬を深く知る者ほど容易には受け入れられない異常事態だった。

 

「外したんだ。枷を」

 

 答えを告げるように声をかけてきたのは、背後から歩み寄ってきたシンボリルドルフだった。

 

 エアジハードは振り返り、青褪めた顔のまま問う。

 

「枷……?」

 

「マルゼンスキーが常日頃から嵌めていた、心理の足枷だ」

 

 語りつつ、シンボリルドルフはテレビ画面を静かに見据える。

 

「実体はなくとも拘束具の役を果たしていたそれを外し、持てる力の全てをこのレースで使い切ると決めた。自分本来の姿に立ち返ったんだ」

 

 画面の向こうでは、さらなる独壇場が演じられていく。

 

 既にありえないほどの大差をつけておきながら、マルゼンスキーのペースは落ちるどころか上昇の一途を辿り、他の十人を置き去りにしたまま最初のコーナーに突入する。

 

 その逃亡劇を阻止しようとする者は、後方集団の中に一人もいない。

 

 阻止したくても出来ないのだ。遥か先を行くマルゼンスキーのあまりに速すぎる脚によって、彼女達の競馬が根底から崩されているが故に。

 

「あの状態のマルゼンスキーは、紛れもなく……」

 

 ただ一人だけ別世界を駆けるかのような≪怪物≫の姿を目に焼き付け、シンボリルドルフは言葉を続けた。

 

 惜別に近い、胸を軋ませる感情を込めて。

 

「日本競馬史上最強だ」

 

 雨の宝塚記念。

 

 競馬の歴史を塗り替える死闘が、かつてない混迷の中で幕を開けた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。