どうしようもなく、俺のホワイトデーはまちがっている。 (サンダーソード)
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母親というものは、息子の心を慮るべきである。
深夜のキッチンにオーブンレンジが鳴り響き、中身の焼き上がりを告げる。
「ん……焼けたか」
オーブンを開き、角皿を取り出す。シートにへばりついたクッキーを一枚剥がし、口の中に放り込む。
咀嚼すると焼きたての香ばしい香りがサクサクとした歯ざわりと共に口の中に広がっていく。
うむ、んまい。
流石に雪ノ下の作ったクッキーとは比べるべくもないが、出来たて補正もあいまって中々に後引く出来だ。
完成したクッキーを丁寧にこそぎ落とし、用意した二つの袋に大切に詰め込み、小町の指示で見繕ってきたリボンで括る。
「っし……」
本日は三月十四日。
全国的に、ホワイトデーと呼ばれる返礼の日である。
× × ×
準備を終わらせあまり眠れぬ夜を過ごし少々早めの朝を迎えると、珍しく母ちゃんがキッチンに立っていた。
「あれ、仕事は?」
「開口一番それかいあんた……。今日は午後からなのよ」
午後から仕事があるのに休みもせず朝飯作ってくれてるのか……。ほんともう、身体大事にしてくれよ。この先臑が齧れなくなったらどうするんだ。
「ん……おはよう」
「はい、おはよう。できたから席着きな」
朝食が机の上に並べられる。向かい合っていただきますしてさあ実食。……小町といい母ちゃんといい、分かっててプチトマトを用意するのはやめてくれてもいいと思う。
プチトマトをよけたサラダをもむもむと食んでいると、母ちゃんがじっと俺の目を見ていることに気づく。
「……何?」
「今日は折角の三月十四日なんだけどさ。八幡あんた浮いた話の一つもないわけ?」
その言葉で、先月の記憶が鮮明に蘇る。『ただのお礼』と称されたあの黄金より重いクッキーに対してわざわざホワイトデーを選んで返すのは自意識過剰ではないかとか、昨夜用意した焼き菓子の出来が悪くないと思えたのは出来たて補正や深夜テンションのせいではないかとか、逡巡や躊躇が視線を揺らす。
その揺らめきに何を見透かされたのか、母ちゃんの目が驚きで見開かれる。母ちゃんという生き物は息子のデリケートな部分を土足で踏み荒らすのを断じてやめるべきだと思います。
「へえ……やるじゃない。八幡、目を閉じて喋らなきゃ結構いい男だもんね」
「……や、別に、なんもねえし」
いや無理だから。母ちゃんにこの辺の微妙な関係性全部吐露できる男子高校生なんてこの世に存在するの?
「一応確認するけど、相手小町じゃないわよね? インモラルも度を過ぎると父ちゃんにしばき倒されるわよ?」
「母ちゃん俺たちをなんだと思ってんだよ……」
そりゃまあ小町は天使だし小町が好きなのは俺だし小町は一生結婚しないけど、妹だぞ?
「あんたの溺愛も大概だけど、小町の兄離れできなさも並じゃないからねえ……」
はあ、と嘆息。ただ少しだけとても仲のいいごく一般的な千葉の兄妹だぞ俺たち。全くもって杞憂もいいとこだ。
「で、ちゃんとお返しは用意したの? 貰ったんでしょ?」
「……だから、別に、なんもねえし」
反射的に、ついっと目を逸らしてしまう。動作が不自然にならないよう視線の先にあった醤油差しを手にとって、朝食を見れば醤油を使うべきものがなく、結果としてすこぶる不自然な動作となっていた。
言葉もなく醤油差しを戻すと、一連の無様をどう捉えたのか母ちゃんはため息をまた一つ。
「あんたまさか何も用意してないの? もー、しょうがないね。母ちゃんたちの部屋に仕事関係からの贈呈品積んでるから、適当なの選んで持ってきなさいな」
「だから……」
無意味な反抗を言い募りかけるが、はたと止まって思い直す。一応、一応は、まあ礼儀の上でも必要なことであるし返礼の品も用意はしたものの、俺如きの作ったクッキーなんぞよりは高級店の商品の方が間違いなく旨い。手作りクッキーを貰ったからと手作りクッキーを作って返すのは単なる俺の自己満足ではなかろうか。あの二人のそれと俺のこれは正しく月とすっぽん。天地の差がある。
返礼の上で大切なのは送る側の自己満足ではなく、貰う側の偽りない満足だ。
……となれば、ここは言葉に甘えるべきかもしれない。最終的にどうするにせよ、モノがなければそもそも選択肢が発生しえない。いや本来は自前で用意するべきだったのかもしれないがぶっちゃけこんなの初めてだから勝手も分からんわ。
「……菓子折、いくつか貰ってく」
「ん」
満足そうに笑う母ちゃんの目が見てられん。大急ぎで朝食をかっ込んで母ちゃんの部屋に行き、積んでる箱の包装紙をひっちゃぶいて菓子がプリントされてるのを幾つか選んで丁寧に鞄に仕舞い込む。そして全く急ぐ時間でもないのに慌ただしく行ってきますと言い捨てて学校に向かった。
背中に投げられる呆れたような行ってらっしゃいが、冬の気配の残る気温を感じさせてはくれなかった。
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彼女らは、引き返す彼の手を取り繋ぎ止める。
その日の放課後。少々のごめん嘘、多大な緊張を孕みながら、奉仕部の扉をからりと開ける。
「…………うす」
「あ、ヒッキー来た! ゆきのん、ヒッキー来たよ!」
「見れば分かるわ。……少し待ってて。紅茶を淹れるから」
朝に昇降口で偶然由比ヶ浜に会ってからこっち、お互いに今日が何の日か認識しつつもそれに触れようとはせず、かつお互いにそれを分かっているんだろうというくすぐったい停滞の中、どうやってあいつらに切り出そうかと考えていたら光陰矢のごとし。受けた授業の記憶も薄く、ただ時間だけが過ぎ去っていた。さすがは百代の過客。
自然と止まっていた足を動かして、とりあえずは自分の席まで辿り着く。期待を隠しきれず目を輝かせてる由比ヶ浜と、いつも通りに振る舞っているようで本すら出していない雪ノ下。
軽く咳払いをするも、そもそも二人の意識がこっちに向いている状態なので意味がないことに気づき、それを誤魔化すために咳払いをしてつまりは恥を上塗る。
ああもう、なるようになれだ。
「……なあ、ちょっといいか」
「うんっ!」
「あら、それはどちらに言っているのかしら?」
「……雪ノ下、由比ヶ浜、二人にだ」
「いいわよ。何かしら?」
「……あー、その、先月、あれで、あれが、あれじゃん? で、今日が、その、あれだから」
「いや、ヒッキー何言ってんのかわかんないから」
「あなた、国語学年三位と自慢していたでしょう。今更指示語の使い方の指導が必要?」
むぐ、と詰まる。自分が喋った内容を頭の中で反芻するが、あまりの酷さに愕然とする。おい、俺こんなに日本語不自由だったか。ああ、不自由なのはコミュ力か。納得した。
深呼吸を一つ挟んで、喋るべき一文を頭の中で組み立てる。
「…………その、先月、の、お返し、を、持ってきたんだが」
「……うあ、どうしよ、思ってたよりずっと嬉しい」
「……由比ヶ浜さん、表情が緩みすぎよ」
「ゆきのんだって嬉しいくせに」
「…………」
すまし顔のまま、ぷいとばかりにそっぽを向く。その頬に赤みが差しているのが見て取れて、緊張がいや増す。
放課後まで悩み続けたが、結局手作りのクッキーと母ちゃんから譲り受けた既製品のどちらを渡すべきかの解は出なかった。
だから、二人に選んでもらうことにした。
なんとも形容しがたい、されど暖かな二人の視線に晒されながら、歪に膨らんだ鞄から化粧箱と袋を取り出し提示する。
「……その、な。一応、作って、は来たんだが……。上手く出来てるかも分かんねえし、もしそれなりに上手く出来てても、やっぱ既製品のが旨いだろうし、まあ、でも、念のため、両方持ってきはしたんだが……」
頭の中真っ白になりながらの拙い説明。最初は気力で二人の目に向けていた視線も言葉が下るに従って下がっていく。最後には長机で湯気を立てる湯飲みのパンさんと目を合わせながら両手を突き出し、一言。
「どっちが……」
「手作りの!!」
言おうとしたらその途中でがたっと音が鳴り、由比ヶ浜が食い気味に声を張り上げる。
言葉尻を奪われて視線を戻すと、椅子を蹴立てて左手を長机に前傾で、喜怒哀の入り交じる複雑な表情を浮かべていた。そのらしからぬ気色に胸が高鳴る。
「手作りのに、決まってるじゃん。ヒッキー、言ってたよね? 頑張ったことが伝われば男心は、ヒッキーの心は揺れるって。あたしも、そうだよ」
真剣な彼女の前に、頭に浮かんだいつもの愚かな混ぜっ返しも立ち消える。
「ヒッキーがあたしたちのために頑張って作ってくれたのに、すごく嬉しいのに、なんでそういうこと言うのかなあ……」
「由比ヶ浜さん」
「ゆきのん……」
雪ノ下が由比ヶ浜の手を取って軽く引く。由比ヶ浜は悲哀の感情を強めた顔で俺を見ながらも、それに従って席に着く。
「……そうね、比企谷くん。由比ヶ浜さんの作ったクッキーは、市販の物よりよく出来ていたと、そう思う?」
「…………」
苦い顔をしている自覚はある。その一言で、雪ノ下の言いたいことは大体分かった。だがやはり、由比ヶ浜の手作りと俺のそれの価値は天地だ。
「……では、私の作ったクッキーは、どう?」
すぐに売りに出せるくらいには出来もいいし、そんなことは俺も由比ヶ浜もよく分かっている。だが、ここで答えればそれはそのまま由比ヶ浜との対比になってしまう。たとえ見透かされていたとしても、答えたい問いではなかった。
「……それなら、あなたにとって由比ヶ浜さんの作ったクッキーは市販のものや私のそれより価値のないものだったの?」
「……そんなわけ、ねえだろ」
それでも、これだけは否定しなければならなかった。由比ヶ浜がずっとしてきたという彼女なりの努力は、雪ノ下の払ってきた努力に勝るとも劣らないと俺は思う。市販のそれなど比較にもなりはしない。あれこそが、きっと……。
首を振って、益体もない考えを払う。
「お前らの作ったクッキー、正直、俺なんかにゃ勿体ないくらいだ。でも、それと俺のとでは話が」
「違わないよ」
静かな声で、由比ヶ浜が遮る。
「ヒッキーがお返しにって作ってくれたの、すごく嬉しいよ。でも、ゆきのんのならともかく、あたしのクッキーなんかとじゃ釣り合ってないかもしれないって考えちゃったりもするもん」
「なんか、じゃねえよ。お前のは……」
「だから、きっと変わらないんだよ。あたし、嬉しいもん。ヒッキーがあたしたちのこと考えて、あたしたちのために頑張って、あたしたちに返してくれようとしたのが、たまらなく嬉しい」
「…………」
もう、何も返せる言葉はなかった。由比ヶ浜も言うべきことは出し尽くしたのか、俺の顔を見るばかりで続く台詞は出てこない。
「……もう、分かったでしょう」
雪ノ下が俺に、俺に向けたとは思えないほどに仁愛の篭もった視線を投げて、その沈黙を破った。
「比企谷くんがどう思っていたとしても、少なくともこの部室において……この三人の中において、あなたの価値は、確かにあるのよ。……認めなさい」
その言葉に、胸の中でつっかえていた何かがへし折れ、温かなものがこみ上げてくる。声を上げればみっともなく震えてしまいそうで、目を逸らしたまま化粧箱を引っ込めて、代わりに両手に一つずつ持った袋を突き出すのが精一杯だ。
雪ノ下にも由比ヶ浜にも、もう憂いの感情は見えなかった。
二人は楚々として立ち上がり、示し合わせたわけでもなかろうに俺の前に並ぶ。そして照れ笑う由比ヶ浜と淑やかに微笑む雪ノ下は、袋を持った俺の手ごとその両手で包み込んだ。
驚愕と困惑と、それを向こうに感じる嬉しさとで声も出ない。
「……ありがと、ヒッキー」
「ありがとう、比企谷くん」
どんな花より美しく微笑む彼女たちに心の臓が踊り、また一つ大きな勘違いを積み重ねそうになってしまう。決して、決してまちがえたくはないのだ。たとえこの先の人生で永遠にまちがい続けることになろうとも、この二人とのことは。
目を閉じて深く息を吐く。
由比ヶ浜が諫めてくれたのは彼女の優しさであり、口にした内容は俺の台詞を引用しただけであり、一般論。雪ノ下が諭してくれたのは努力に対する公平性であり、認めてくれたのは……ああ、認めてくれたんだよな。二人にとって、価値はあると。
吐息が震える。駄目だ、深く考えると目の奥が熱くなる。そう、手作りを選んでくれたのは彼女たちの優しさで、受け取るのに俺の手を握って、今も温かく包み込んでくれているのは……いるのは……。
もう、何も思いつかなかった。目を開けて彼女たちを見る。
二人は、俺の答えを待ってくれていた。もう一度、やっぱり二度深呼吸をして、告げる。
「…………由比ヶ浜。雪ノ下。ホワイトデー、の、お返しだ。受け取って、ほしい。……それと、いつも……ありがとう」
待て、待って。今最後なんか俺いらんこと付け加えなかったか。二人ともなんか驚いてるし。待って。誰かバイツァ・ダスト持ってきて。時間戻して。
「うんっ! あたしも、いつもありがとう!」
「ええ……。こちらこそ、ね」
嬉しそうに、あるいは照れながら、まるで宝物のようにクッキーを受け取ってくれる。待って。ちょっと待って。顔熱い。あっつい。頭茹だってる気がするんだけど。ねえ。
あのガハマさん、大切そうにクッキーの袋抱きしめるのやめない? 雪ノ下も両手で捧げ持って、まるでそれしか目に入ってないみたいなんだけど。
これ以上二人を見てると茹だった頭でとんでもないことかろくでもないこととか考えそうだったので、あちらこちらに視線を彷徨わせて気を紛らわす。ふらつく目線は長机に放り出した化粧箱に止まり、そういえばクッキーの袋を両手に持ったときに出しっ放しにしてたなと思い出した。
化粧箱を手にとって鞄に仕舞おうとして、このお菓子の出所つまりマイマザーが頭に浮かんだ。
……あっ。
これ持って帰ったら絶対家叩き出されるわ。渡すまで帰ってくるなって。さりとて事情の説明なんぞ出来るはずもなく。むしろそれが出来るなら朝あんなことになってねえ。
改めて雪ノ下と由比ヶ浜を見る。二人ともまだ余韻を噛み締めているようで、ほころんだ笑顔のままクッキーの袋に意識を注いでいる。
……まあ、うん。拙い手作りに喜んでくれたのに水を差すなんて出来るわけもないし。少し待つくらいどうってこともないよね?
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誰だって、初めてのことは緊張する。
そんな経験のなかった者は好きな寿司ネタでも挙げてなさい。
邪魔しないように音を立てずに席に着き、まだ鞄に入っていた化粧箱も長机に取り出して積み重ねておく。全部で四箱あった。教科書とか殆ど入らなかったのも納得だな。どのみち授業内容も頭に入ってなかったから結果オーライだろう。いや何一つ良くはないが。
短いようで長いようなくすぐったい時間が過ぎ、どちらともなく二人は俺に視線を向けてくる。
「ヒッキー、これ、食べてもいいかな」
「まあ……食べてもらうために渡したんだしな……。飾られても困る」
「そうね。なら、紅茶を淹れ直しましょうか」
雪ノ下がクッキーの袋を机に置いて、電気ケトルに足を向ける。
「なあ……ちょっといいか」
「? 何かしら」
「ヒッキー?」
柔らかな視線がそこはかとなくくすぐったい。出しておいた化粧箱をぽんと叩き、二人の意識をそちらに逸らす。
「その……当然そっちのクッキーはプレゼントするんだが、よかったら、こっちのも食ってくれないか。普段由比ヶ浜が雑談のお供にお菓子食ってるだろ? それに供するってのでもいい」
「いいの?」
「ああ、もちろんだ」
「……でも、どうして急に? 最初は選んでくれという話だったのに」
雪ノ下の自然な疑問が的確に急所を突いてくる。ぐぅと唸って怯む俺。
「……言わなきゃ駄目か?」
「言えない理由でもあるのかしら?」
「ダメじゃないけど……気になるね?」
「ぐぬぅ……」
雪ノ下は微笑みながら追撃し、由比ヶ浜は雪ノ下の様子を窺いつつも興味をちらつかせてくる。
まああんな醜態見せた後にやっぱりどっちも食ってくれ、ってのはなぁ……。さすがに説明責任果たす必要あるか。最初っから両方渡しとけって話になるし。
「……これ、今朝急遽母ちゃんに持たされたお菓子なんだよ。……で、その、手作りクッキーを用意してたことは言ってない。つまり、これを持って帰ったらお返しが渡せなかったと見做されて今からでも行ってこいと叩き出されるか……別に用意してたものを、その、仔細に説明する羽目にだな……」
話の後半になるにつれ、二人の間に苦笑と呆れの気配が色濃くなってくる。しかし馬鹿にするようなものではなく、親愛の気配を感じるのは二人の優しさか。
「じゃあ、それも貰っちゃおっかな。……でも、最初に食べるのだけは、やっぱりヒッキーが作ってくれたクッキーにする」
「私も……そうしましょうか。残りは大切に持って帰らせてもらうわね」
二人の話を聞き流してるポーズ取りながらも実際は意識の大半をそっちに持って行かれつつ、聞いてませんアピールを込めて化粧箱のシュリンクを引き裂いていく。多分効いてないし見透かされてる。開けると中身はチョコレートが敷き詰められていた。
そうだな、四箱あるし俺も食べるか。席離れてるから机の真ん中に置いてもお互い取りづらいし、もう一箱開けよう。
「ん」
「ありがと、ヒッキー。あ、チョコレートだね」
長机の上を一箱滑らせて、由比ヶ浜に受け取らせる。その間に雪ノ下が紅茶の準備を終わらせた。
「じゃ、ヒッキー……。開けるね?」
由比ヶ浜が両手でクッキーの袋を捧げ持ち、改めての宣言をする。
「お、おう……。もう二人にあげたもんだから所有権はお前らにあるし、好きにすりゃいいけどいや上手くできたかは保証外だからな? それはちゃんと理解して」
「ヒッキー緊張してる?」
「むぐ……」
アホの子のくせに、過程も何もなく直感だけでズバリ図星言い当てられて閉口する。アホの子だからか? 大体人の話を遮っちゃダメってママに教わらなかったの? なお俺は教わった覚えはない。
「……初めてなんだよ、こういうの」
「へ……へへ、そっか……初めてなんだ、あたしたち……」
「そう……。初めて、なのね……」
初めて初めて連呼するのやめて! そういうのと無縁の人生だったって聞こえちゃうから! まちがってないんだけど!
かすかな擦過音を立てて、リボンを解く。中身は俺からは見えないが、中身を見る二人の表情は見えるのだ。花開く笑顔が眩しすぎて、つい目を逸らす。
「ヒッキー、上手だね。……っていうかもしかしてあたしのより……」
「さすがにそれはねえだろ」
「……ゆきのん? どかな」
だが、判断を投げられた雪ノ下は惑ったように視線を彷徨わせ、空いた間を埋めるように紅茶で唇を湿らせた。
「……明白な差があるわけもでなし、優劣を付けたい気分にはなれないわね」
「らしくねえな?」
「いいじゃない。こんな日なのだから。大体、それをあなたが言うの?」
「んぐ……」
つい先程の、雪ノ下と由比ヶ浜のクッキーの価値判断を保留した前科を掘り返されてぐうの音も出なくなる。綺麗に投げ返されたブーメランに、俺も紅茶で唇を湿らせることにした。
俺とやりとりしてる雪ノ下に先んじて、由比ヶ浜が一足先にクッキーをつまみ取る。
が、食べるでもなく何でかじーっと見つめてる。あ、あれ……? 何か変な失敗してた……? 袋に詰める前に一つ一つ矯めつ眇めつ問題なしを確認したはずなんだが……。
内心脂汗かいてると、由比ヶ浜はふっと笑って、
「ゆきのん、あーん」
雪ノ下の口元にゆらゆらさせながらその手を突き出した。
「ゆ、由比ヶ浜さん?」
「あーん」
にこにこ笑いながら雪ノ下に突き出す由比ヶ浜。退く気配はない。
雪ノ下はちらちらとこっちを窺いながらも、由比ヶ浜の圧力に勝てるわけもなく、
「あ……あー……」
うろたえて迷って陥落した。頬を染めながら目を閉じ小さく口を開く。
由比ヶ浜は嬉しそうにその口にクッキーを運んで、恥じらう雪ノ下に食べさせる。
「ど? おいしい?」
「……ええ、そうね」
その和らいだ表情からは、無理している様子は見られない。よかった……これで不味かったらマジでどうしようかと。
「じゃ、ゆきのん、あたしにもちょうだい!」
そう言って由比ヶ浜も艶やかな唇を開き、
「あー」
とか言いながら餌待ち状態の雛になる。まあこうなった由比ヶ浜に勝てるわけもなく、結果はさっきの焼き直し。
雪ノ下は小さく溜息を吐いて、自らの袋からクッキーを一欠片つまみ上げる。
「あ、あーん」
なんて頬を染めつつ由比ヶ浜の口元に持っていく雪ノ下に、由比ヶ浜は大層ご満悦な様子。勢い余って白魚のような指先まで僅かに唇で食んでしまい、雪ノ下は肩を揺らして僅かに驚く。
由比ヶ浜はそんなことなど気にも留めず、満面の笑顔でクッキーを堪能してくれているようだ。……そこまで喜んでくれるのは冥利に尽きるってもんだが、この子のパーソナルスペースマジで狭すぎない?
「ヒッキー! すごくおいしいよ! ありがとう!」
「……おう。そりゃ、よかった」
真っ向から喜色満面でお礼言われてどう答えていいか迷ってしまい、結局何も面白くない当たり障りのない返答になってしまった。
……そんなものでも嬉しそうに受け取ってくれるから困るんだが。
「じゃ、残りは持って帰るね」
「そうね。後はこちらのチョコレートをいただきましょう」
二人は解いたリボンを結びなおし、丁寧に鞄の中に仕舞い込む。むず痒くなるその所作を意識しないように、俺は一足先にチョコレートに手を伸ばした。
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間が悪く、一色いろははその光景を目撃する。
茶菓子をお供に、雑談は花開く。我ながらどういうテンションなのか、珍しく俺も積極的に参加してて、二人とも嬉しそうに頬を染めてくれたのが可愛らしくて仕方なかった。
チョコレートの消費はハイペースで進み、最後の一箱も先刻開封済み。三人の腹の中に順次収まっていく。これで母ちゃんになんぞ問い詰められることもなかろう。
しかしあれだな。持ってきた経緯が経緯とはいえ、憎からず想っている相手が贈ったものを美味しそうに食べてくれるのはいいものだ。
「それでさー、あれ? 今、なんの話してたっけ?」
「ふふふ、由比ヶ浜さんどうしちゃったの? 先々週、由比ヶ浜さんのところにお邪魔したときの話じゃない」
「違うよー、その話はさっきしてたやつじゃん。えーっと、なんだっけ? あは、まあいっか。ってゆーか、ずいぶんあったかくなってきたよねー」
「そうね。もう、暦の上でも春だもの」
「ああ、チャリで通学してると、桜の開花も始まってたりするな」
「わぁ、ヒッキー、その顔すっごくいいよ! なんか優しくて、えーっと、優しい感じする!」
「顔……? どんなんだか自分じゃ分かんねーけど」
ぺたぺた触ってみるけどそれで分かりゃ世話ねーわな。
「そうね……。目つきが柔らかくなっているのかしら。いつもそうしていれば誤解されることも減るでしょうに」
「別に知りもしねえ誰ぞにどう思われたって痛くも痒くもねーしなぁ。そんなことのために自分を曲げて迎合するつもりはねえよ。……つーかそうするも何も今変わってんのも自覚ねえんだけど俺」
「出た、ひねくれ。あ、じゃあじゃあ、誰になら変に思われたくないの?」
「そりゃ、お前らだろ」
「へっ?」
「え?」
「ん?」
なんか二人が固まった。なんか変なこと言ったか? あれ、今何の話してたっけ。
止まった時間の間を埋めるのに、またチョコレートに手が伸びる。
「う、うー……。な、なんか暑いね、今日はよく晴れてるし」
「そ、そうね。もう、春だもの」
「確かに、今日は随分あったかいな」
頭に熱が篭もって、少しぼーっとした感じがする。少しでも冷まそうと、襟ぐりをぱたぱたと引っ張って空気を送り込む。
由比ヶ浜もぱたぱたやっててちょっと無防備に過ぎるぞ男の前でそういう真似するなマジで。見える、谷間見えちゃうから。お前教室でそんな真似したら飢えた獣の前に肉差し出すようなもんだぞ。
雪ノ下もそういう真似こそしないが、いつもの抜けるような白い肌は赤みがかっているし、細長く吐き出す息は身体の熱を少しでも追い出そうとしているように見える。
「うぅん、あたしガマンできないや」
由比ヶ浜はそう言ってはぁっと息を吐き出し、上着を脱ぐ。白いワイシャツは彼女の汗でか心なしかしっとりとしていて、尋常じゃなく色っぽい。
「ふぅ、すずしー」
由比ヶ浜は脱いだブレザーを椅子にかけ、気持ちよさそうに掌で顔を扇ぐ。
「由比ヶ浜さん、はしたないわよ。……でも、私も正直耐えかねるのよね、この暑さは」
そう言って雪ノ下も由比ヶ浜に続く。由比ヶ浜とは違った恥じらいながらの静かな挙措に目を奪われるっつーか、服を脱ぐと言うその異性の目に触れさせるべからざる動作が興奮をかき立てる。
「確かに一枚脱ぐだけでも違うわね」
涼しくなって雪ノ下も楽になったのか、自然な笑顔が零れる。服を脱ぐ二人に目を奪われてたことを誤魔化すように、チョコレートに手を伸ばす。
興奮して上がった体温は末端にまで回っているようだ。やや苦みのあるチョコレートを口に放り込みつつ、融けて指先に付着した分もぺろりと舐め取る。
ほんと、今日は暑い日だ。
「俺もそうするかね」
女子二人が先に脱いだ後のことだし、今更不作法だとかで咎められたりもしねえだろ。ささっとボタンを外し、ブレザーをがばっと脱ぐ。途端に感ぜられる涼しい空気。この際だ、ワイシャツもボタン一つ二つ外しとくか。
ああ、確かにこりゃ楽だわ。
「ん? どうかしたか?」
「えっ!? いやいやなんでも!」
「別に、何もないわ」
なんか二人がこっち注視してた気がしたが気のせいだったか。視線の先はチョコレートだったようで、そのままつまんで口に放り込む。
しかし、あれだな。親の贈呈品の山から適当に選んできたものとは言え、こうやって美味しそうに消費してくれるのは嬉しいもんだ。手作りの方は尚のこと喜んでくれてたし。
空回りしても止めてくれるし、クズみたいな予防線張っても踏み越えてくれるし。俺なんぞには分不相応な、言ってしまえば奇跡みたいな話だ。
「や、やー、でもさ、なんだかんだでこのチョコレートも美味しいよねー」
「そうね。比企谷くんから貰ったものだと思うと、尚のこと美味しく感じるわね」
「そうそう! 美味しいだけじゃなくて嬉しい! だからもっと美味しい! だよね!」
「由比ヶ浜さんの作ったクッキーもきっと同じよ。少なくとも、私はそう思うわ」
「ゆきのん……大好き!」
「あら……。由比ヶ浜さん、甘えん坊ね」
「いいもーん。へへ、なんか今日のゆきのん優しいな」
「別にそんなことはないと思うけれど……」
などと言いつつ、雪ノ下の右手は由比ヶ浜の背中をなでさすっている。君たち暑くて脱いだんじゃなかったの? はぁ眼福。
改めて思うけどこいつらほんと可愛いんだよな。
雪ノ下はまさに高嶺の花って言葉がよく似合う、白皙の佳人。男子から告白されまくって女子から排斥され続けてたっつってたけど、そりゃそうだろうなって納得しかねえわ。
由比ヶ浜は雪ノ下とはまたタイプの違った、柔らかな美少女。優しいし可愛いし人当たりすげぇいいからから当たり前にモテまくるみてえだし。……なんか考えてたら苛ついてきた。
でもそうなんだよな。この二人、こんなに素敵な女の子なんだから。好いてくる男なんて掃いて捨てるほどいるんだよな。
俺たちだって、永遠にこのままではいられない。折しも今日はホワイトデー、つまり三月も半ばになる。あと一年すれば、三人揃って卒業だ。
俺が相当努力して、由比ヶ浜が無茶苦茶努力して、奇跡と偶然で同じ大学に進学できたとしても、それだって期限付きのモラトリアム。
何より、俺がそれを望んでも二人がそうであるとは限らない。いつか二人に相応しい男が現れる日が来るかも知れない。……いや、これも欺瞞だな。来ないはずがないだろう。こんなに素敵な女の子なんだから。
そうなったとき、俺に言えることなどあるものか。そんな資格はない。そんな権利はない。何様のつもりだ。ああ、でも、クソ。どう考えたって、言祝ぐことなんて出来そうにない。苛立ちで頭がおかしくなりそうだ。
「ヒッキー……?」
雪ノ下と睦み合ってた由比ヶ浜の、驚きに呆けるような声が耳朶に届く。
「……あぁ?」
呼ばれて視線を向けたが、二人の姿が暈けて見えない。なんだこれ?
「どうして……泣いてるの?」
「え……?」
気遣う優しいその言葉に、反射的に瞬く。涙が零れて視界が晴れ、ようやくのこと自分が泣いていたのだと理解する。次の涙が視界を曇らせる前に見えたのは、突然の涙に驚きながらも、俺を心配する二人の顔だった。
「あ……なんだろう……」
そうして気付けば、涙が筋となって頬を流れる感覚は誤魔化しようもない。その原因である心の痛みも。
強い虚脱感。身体がうまく動かせない。下手くそなマリオネットのようなぎこちなさ。
「普段は考えないようにしてるのに……由比ヶ浜が、雪ノ下が可愛い、なんて分かりきってるのに」
何を言ってるんだろう俺は。自分が制御できていない。こんなこと口に出すつもりはないのに。
それでも、言葉が止まらない。暴れる感情に振り回されてズキリと痛む胸を、のろのろと抑える。
「ここが痛いんだ……なあ……俺はどうしたらいいんだ……?」
視界が波打つ。頬の線は支流を巻き込み太い筋となる。溢れる涙の合間に垣間見えた二人の顔は、紅潮しているように見えた。
俺の無様を見て、雪ノ下が息を呑む音が。由比ヶ浜が熱っぽい吐息を零す音が。俺たちしかいない部室に響く。
由比ヶ浜が短くない時間をかけて肺の中身を全て呼気に変えた後、重なっていた雪ノ下から離れてそっと立ち上がったのが滲んだ視界に映る。
「由比ヶ浜さん……?」
雪ノ下の言葉も聞こえていないのか、ふらつくようにゆっくりこちらに歩いてくる。
近付いてきた由比ヶ浜は俺に覆い被さるように正面から抱きつき、至近から小さく呟いた。
「後で……許してもらえるまで謝るから……ごめん、ヒッキー」
言うや否や、由比ヶ浜が残り僅かな距離を埋めて。
俺と由比ヶ浜は、口付けた。
由比ヶ浜の舌が、俺の唇の間に割って入ってくる。
舌で舌を嬲られ、歯肉をつつかれ、歯列をなぞられ、口内を思うさま蹂躙される。
初めてのキスは、甘く苦いチョコレートの味だった。
「ごめん……ヒッキー、ごめん……」
激しいディープキスの間の息継ぎに、由比ヶ浜は幾度も謝ってくる。
涙の合間に見えた由比ヶ浜の表情は、まるで色に融けているかのようだった。
どうしてだ? 俺の不安を取り除いてくれているのに。何を謝ることがあるんだろう。
だが、俺の身体は糸が切れたように動かない。由比ヶ浜の献身を受けるがままのガラクタに成り下がっている。せめて、ありがとうと伝えたかったのに。
「やだ……」
ふと、泣き濡れる迷子のような、不安に押し潰されそうな声が聞こえた。
由比ヶ浜の肩越しに見えたのは、震えながらも立ち上がり、一人凍えるように自らの肩を撫でさする雪ノ下。
彼女は不確かな足取りで俺たちに近付いてくる。
「やだ……私だけおいてかないで……なんでもするからっ……!」
幼子が縋り付くように、雪ノ下は由比ヶ浜を後ろから抱きしめた。その衝撃で、口付ける俺と由比ヶ浜の歯が擦れ合う。
由比ヶ浜は少し怒ったような表情で俺から離れる。自らを抱きしめる雪ノ下の手に手を重ねて振り向き、
「ゆきのんを! あたしたちが置いてくわけないじゃん!」
俺の目の前で、激しく唇を貪った。
「ああ……ううう……」
雪ノ下は幾度となく唇を吸われ、不安を力ずくでぶち壊され、安堵からか虚脱しへたり込む。
俺も、何かをしてやりたいのに。なんで身体がうまく動かないのか。
それでもどうにか不格好に雪ノ下の方に手を差し出す。と、由比ヶ浜が目敏くその手を掴んで、再度キスの嵐を降らせてきた。またも俺はされるがまま。
雪ノ下は満たされた表情で、由比ヶ浜の脚に縋り付いていた。
ならまぁ……いいか。雪ノ下が満ち足りているのなら。
× × ×
リノリウムの床をきゅっと鳴らして、わたしは奉仕部までの道を軽やかに歩く。
今日は楽しいホワイトデー。思わず鼻歌の一つも漏れてしまいそうだ。
生徒会は早仕舞いしてきた。副会長と書記ちゃんはあからさまにあからさまだし、会計が義理チョコのお返しに何倍ものキャンディーを贈ってきたので社交辞令と共に受け取った。お菓子に罪はないですしね。
後でサッカー部にも顔を出さないと。安い投資が何倍にも跳ね上がって帰ってくるのは快感だ。葉山先輩はどう出るかなぁ。まあ、そっちは後でいいか。
先輩はお返しくれるかな? 結衣先輩と雪乃先輩と、ちゃんとうまくやってるかな? あの人たちどっか頭壊れてるからちょっと不安も残るけど。でもやっぱりうまくやっててほしい。そしてあわよくばわたしも混ぜてほしい。先輩がまかり間違ってこっちに来るならまあそれはそれで仕方ないですよね。
「~♪」
とりあえず先輩たちがまったりしてるようなら、仕事があるんですって引っこ抜いていきましょう。結衣先輩も雪乃先輩も止めてくるでしょうけど、先輩に面倒くさい選択肢押しつけるのもそれはそれで楽しいですし。せっかく生徒会室開けたんだから有効活用しないとね。
幾つものシールが貼られたプレートが見えてきた。あの暖かい空間が待ち遠しい。
「やばいですー、やばいですー」
いつもの文句を言いながらからりと扉を開け、わたしは奉仕部に飛び込み。
「せんぱい、やばいです、やばなんっっっですかこのド修羅場ぁ!?」
一瞬で考えてたこと諸々が吹っ飛んだ。
結衣先輩が泣きながら座ってる先輩に真っ正面から抱きついてディープなキスを雨あられに降らせてますし、雪乃先輩はそんな結衣先輩の足下に縋り付いてるのになんでか満足そうですし、え、止めようとしてるんじゃないの? 先輩は先輩で呆然としたままされるがままで、何? わたしがやっても無抵抗なんですか?
え、何これ!? 何がどうなってこうなってるの!? わけ分かんないってレベルじゃないですよ!?
ちょっと誰か……だとダメだ、三人とも上着も脱いでておっ始める前にしか見えないです。こんなもん余人に見せたら最悪停学になりますよ。
誰か……誰か……あ、平塚先生!
職員室? ああもう電話番号聞いとけばよかった。
どうしよう、部室の鍵どこにあるかも分かんないから閉められないし、かと言って他の人に平塚先生呼んでもらったらその人までここに来ちゃうかもしれないし……
ああもう、なんでわたしが一番顔を青くさせてるんですかぁ! 先輩、これすっごく高く付きますからね!
わたしは脱兎のごとく職員室まで走る羽目に陥った。
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どうしようもなく、彼と彼女らはお互いに合わせる顔がない。
「うわあああああああっ!」
朝。昨日の記憶があたしのほっぺたを燃え上がらせる。布団を頭から被って、枕に顔を押し付けて、熱さのカタマリを吐き出すみたいに叫び声を上げる。
ヒッキーがポロポロ泣いて助けを求めるようにあたしたちを見る姿が、あたしの心と理性を溶かしてしまった。
止めらんなく、なってしまった。
あ、あ、あ、あんな、あんな、ヒッキーを食べるみたいな……キス、を……うわあああああっ!
「~~~~~~っ!!」
声にならない声を上げながら、布団の中でゴロゴロ転がる。多分髪もぐしゃぐしゃだし、パジャマも少しはだけてる。とてもヒッキーには見せられない格好。
しかもヒッキーだけじゃなくて、ゆきのんにまでいっぱいちゅーして……。
ゆきのんもかわいかったし、ヒッキーもなんていうか、守ってあげたく……ってそうじゃない!
あとで許してもらえるまで謝るって、なに!? 何をどうやって謝るの!?
泣いてるときにキスしてごめんって、ヒッキーのこと好きでごめんっていうの!?
「あああああああああっ!」
ムリ! ムリだって! っていうかあたし、あんなえろっちくないし! あれは……あれは……えっと……。
ヒッキーが……愛しすぎて……うあああああああああああっ!!
またゴロゴロ転がって、布団が身体に絡みつく。火がついたみたく顔が熱い。心臓がバクバクいってる。
……しょーじき言うと、おなかの下の方も、締め付けるみたいに熱く……。
ひょっとして、半泣きで熱っぽくて息が荒い今のあたしって、もしかするとえっちっぽく見えるんじゃ……。
ない! そんなわけないから! あたしえろくないし! ぜんぜんやらしくないし!
「ううう……ああ……」
でも、今のあたしがえっちくないとしても、昨日のあたしはどうしようもなくえろっちかった。多分。きっと。……もしかしたら違うといいけど。
そしてそれは、ヒッキーとゆきのんからもそう見えたかもしれないってことで。いやでもひょっとしたらやらしく見えなかったかもしれないし……。
昨日の帰りだって、平塚先生にヒッキーから引きはがされるときもなんか恥ずかしいこといってだだこねたような覚えがあるし……。でもあれは離されようとするときヒッキーが切なそうな目をしてたからだし! だからノーカン!
……でも、平塚先生に乗せられた車の中でもずっとキスしてたし、あたしの家についたときも二人と離れたくないってワガママいってたような……。
「ぅぅ……」
こんな……こんなの……。ヒッキーにも……ゆきのんにも……。
× × ×
目を覚ます。
静かに目を開けて、視線だけをゆっくり動かし現状を確認する。
制服を着たままベッドに入り、手には由比ヶ浜さんが贈ってくれた猫の手ミトンを嵌め、腕の中には比企谷くんが取ってくれたパンさんのぬいぐるみ。
髪を赤いシュシュで括り、猫足ルームソックス。
流石に眼鏡を掛けたまま寝るほどには分別を失っていなかったらしいことにかすかな満足感を感じてから。
「~~~~~~っ!」
その僅かな高揚感ごと、自尊心が一瞬で地の底に叩きつけられた。
「ふふ……ふふふ……」
あれが、あんな、幼子のように、捨てないでくれと二人に縋りついたのが、私?
無様に、なんでもするからと、置いていかないでと、泣きながら哀れみを乞うたのが、私?
「…………」
言葉もない。
浅ましくも自らの不安を喧伝し、由比ヶ浜さんに……その、口づけ……をもらって、安堵と承認欲求を満たされて泣き腫らす。
胸が痛いと涙を流す比企谷くんを助けることも出来ず、自分の畏れを救ってもらおうとする。奉仕部部長の肩書きが泣くというもの。
自己嫌悪と羞恥が極まって死にたくなる。
……ああ、比企谷くんがトラウマで目を腐らせているのって、こんな気分なのかしらね……。
昨日の精神性をまだ引きずっているのか、こんな些細でどうしようもない彼らとの共通点を見出してほんの少し気分が上向く。
そして持ち上がった分だけの勢いをつけて、更に深く底の底まで叩きつけられる。
そんな些細でどうしようもない共通点に縋るほどにお前は脆く貪婪なのだと、自らの理性が突き付けてくる。
鬱屈した倦怠感と捨て鉢な虚脱感で身体が鉛のように重く、金縛りにあったかのようにピクリとも動かない。ただ自責の感情だけが嫌悪と羞恥を食らって肥え太る。
そう、それに、由比ヶ浜さんが帰るときにも彼女が離れる寂しさに耐えきれず、泣き出して比企谷くんに縋り付き……由比ヶ浜さんを真似て……私から……キスを……。
「嘘……よね……?」
ざぁっ、と。血の気が引いた音が耳の奥で反響した。
キスを……私から……ねだる、なんて……。
比企谷くんまでもが帰る段になって私の幼児退行は極まり、相当な恥を口から吐き散らしたような記憶もある。
学校に行きたくないと、ここまで切実に思ったのは初めてだ。一体、あの二人に……。
× × ×
「……………………」
瞼を薄く開く。
夢を、見ていた。
幸せな、夢を。
「……………………ぐぅ」
いやごめん無理。とても自分を誤魔化せない。夢ってことにまかりませんか? 駄目ですよね知ってた。あれだ、なんだ、取り敢えず事実確認だ。事実だけを追うんだ。じゃないと死にたくなるから。
中身も確認せずに持って行ったお菓子が強い度数のウィスキーボンボンで、それを何も知らない二人にこっちからお願いまでして食わせた挙げ句、自分もボロ泣きして甘えて縋って、由比ヶ浜に……。
待って。待とう。落ち着け。ステイ。冷静に考えよう。だから無理だっつってんだろサル! ここまでだけで何回死にたくなったと思ってんだ!!
まず未成年の女子を酒に酔わせて、って時点で絞首刑。しかもその後……うおお……なんでこの人女の子の前で泣いてるの? それはね、クソぼっちのくせに心が弱いからだよ?
しかも助けてくれって懇願して、由比ヶ浜に……キスを……あんな……。
触覚がざらついた指の感触を覚えてようやく、自分が思わず指が唇をなぞっていたことに気付く。無意識に反芻する自分の気持ち悪さにまた一つ死にたいを積み重ね、同時に帰りの車の中、もう一人の女の子の唇の官能がフラッシュバックする。
由比ヶ浜が車から降りるときにどうしようもない寂寥が膨れ上がり、そして由比ヶ浜もそうであると無批判に思い込み、由比ヶ浜からねだられるままに俺から……キスを……して……。
雪ノ下も俺に倣い、由比ヶ浜と一つの影に繋がって。それで雪ノ下の箍も外れたのか、残る帰り道の途上、俺にもキスを求めてくるようになって。俺も……それに……応えて……。
「はははははははははは……」
大丈夫? 息してる? してないかもしれない。虫の息ですね手遅れです。俺は虫けらか……。
一夜の思い出で人間ここまで変われるんだね。死にたい。
まず部室でいろはすに発見されたでしょ? 次に車で平塚先生に送られたでしょ? 帰るとき小町が俺を引き取ったでしょ? 絶対小町から母ちゃんに話通ってるでしょ?
駄目だどう見ても絶望しかない。って言うか学校でアルコール摂取して不純異性交遊って停学でもおかしくないやつだよね? 俺の愚行で二人の経歴に瑕が付くとか考えただけでも申し訳なさで言葉も出ない。
平塚先生に全力土下座で俺一人の責任であると理解してもらって、どんな対価でも呑む前提でいろはすに黙っていてくれるよう懇願もとい交渉して、小町の質問攻めと母ちゃんの生暖かい目はどうにかいなして。
…………その辺の諸々をクリアしても、学校に行ったらあの二人とは自然と出会ってしまうわけで。
頼む誰か教えてくれ。由比ヶ浜に。雪ノ下に。俺は。
× × ×
『どんな顔して会えばいいの……』
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