「ん?」
ある日、
「なんでこんなものがここに?」
それは、机の上に無造作に置かれた女性物のリボンだった。提督は男性であるし、もちろん女装が趣味なわけでもない。なのになぜ?
コツコツと革靴の音を立てて机に近づいてリボンを取り上げる。
しげしげと眺め回すとどうやら裁縫の質も、生地もよいものらしく、高そうだ。ちょっと窓に向けて透かしてみると花の、細かな、そして美しい刺繍が入っている。
「むー……」
それをじっと見上げながら、声を上げる陽炎。
提督にホの字の艦娘、というのは、多いわけではないが、一定数いる。それはただ単に艦娘たちのいるところに来れるような男性が少ない、というか実質女子校みたいになっているせいだからじゃないかと薄々陽炎は思っているのだが。さておいて、意外なことに、彼女らに対し提督は全く応えようとはしない。
つまり、提督が誰か特定の艦娘を特別扱いするようなことは、めったにないのだ。例えば誕生日や異動、武功を上げたりすれば話は別だが、色恋でそうすることはない、はずである。
「それにしても……ねえ?」
贈り物をするにしても、リボン……。
「なんというか、こういうとき青葉さんなら『青葉、見ちゃいました!』とか言うのかしら……」
ラブ臭がするわね……などと考えながら、リボンを机に戻す。
もとあったときのように、なにごともなかったように。
「あの提督が、ねえ?」
陽炎自身、提督に対しては特段の感情は持っていない、と思っている。もちろんそれは色恋での話であって、仕事上の上司と部下としては別である。陽炎は提督の尊敬に足るほどの思慮深さというものを一度魅せつけられたことがある。もちろん、それを台無しにするほどの日頃の怠惰な生活を見ているのだが。
「あんなん見て好きになるんだからみんな物好きよねえ……」
誰もいないのをいいことに机に体重をかける。浅く腰掛けると、こちこちと壁に掛けてある振り子時計の音が静かな昼前の提督の私室に響く。
陽炎は別に遊びにここに来たわけではない。担当の艦娘が私用でおらず、掃除当番を代わったのだ。
ちなみに、その報酬は間宮の最中だ。あんこもこしあん、つぶあん、くりあんと三種類それぞれ二つずつもらえるらしい。
さておき、部屋の主である提督だが、つい十分ほど前までここにいたが、服を着替えてすでに駅に向かっている。これから半日の出張に出るからだ。 帰ってくるのは明日の朝だ。
こういうときもしかしたら提督ラブ勢は服でも匂っちゃうのかしら、なんて思いながら、陽の光に舞う掃除中の部屋のほこりを眺める。ここは艦娘の寮なんかとは遠くはなれていて、近辺には掃除時間であっても人は少ない。時折、裏の焼却炉に用のある艦娘が通りがかるくらいだ。
ふと開きっぱなしにしてあるクローゼットの中の白いシャツが目に飛び込んできた。
男性の匂い、というのはどんなものだったろうか。父親の匂いを思い出し、そういえばタバコだったなと顔をしかめる。それと同時に、体温と手の大きさを思い出す。半ズボンの父に抱きかかえられて、ざらざらとした頬をなでた感触を思い出す。
ファザコンなのかしら。
まさか。
鼻で笑う。
空を仰いで、額に手を当てる。熱はない。
腰を浮かしてクローゼットに近づく。
周囲がぼやけるように視野が狭まる。
その手は、夢遊病のように、いや、実のところ自分の意志であることは確かにわかっているが、それを認めたくない。そして、認めたくないからごまかしていることもわかっている、クローゼットの中に。
冷え冷えとした白いシャツを、袖口からたどり、ハンガーをラックから外す。
ふと触れたラックの冷たさが、自分のやっていることへの背徳感と羞恥心を沸き立たせる。
ハンガーの首を持って、目の前にシャツを広げる。
「むー……」
頬が紅潮する。
あ、と思った瞬間にはシャツの首元に顔を近づけていた。
やってしまった。
匂いが、視覚に遅れてやってくる。そして、恥ずかしさも。
体温はさすがにもうない。けれど、汗の匂いがする。
それと、気づくか気づかないか程度の香水の匂い。
なんでこんなことをしているんだろうか、自問しても答えはない。
ただ、やってしまった。
猛烈な恥ずかしさだけがある。
そう思っていた瞬間には安らぎに満ちた心であることに自ら気づく。
どうしてだろうか。別に好きでもなんでもないはず。
これは、なんてことのない遊びだ。
横須賀鎮守府に来て、数ヶ月経った今でも、あの提督に対する評価は、態度は変わっていない。
私が、あの人を好きになるなんて、ありえない。
ホントに?
陽炎は自らの心臓が音を立てたことに驚いた。
最初の頃とくらべて、ホントに同じ?
違う、と陽炎は思った。全然違う、と。
思い出したくもない。よくよく考えなくても、彼のことを好きになる原因はいくらでもあった。彼のお陰で今の仲間に会えたし、その仲間たちも、そして自分自身も何度も助けてもらった。
そのくせ、彼はそれを全く見せようとしない。
ただのカッコつけだ。そう笑った。
本当は情けない人なのに。
彼は、当然だと笑った。俺はそのためにいる。カッコワルイ提督には戦争はできんよ。
吊り橋効果、ストックホルム症候群、なんだっていい。それでもいい。
だからどうした?
好きになってしまったことは、変えられないのだから。
と、そこまで頭が飛んだところで、扉が開く。
びくん、と飛び跳ねたところ後ろから声がかかる。
「かげ、ろう?」
そこには、駅に行ったはずの提督がいた。
「ししししししれい!?」
「指令、ですけど……、陽炎、なにしているんだ……?」と、そこまで言ってから提督は区切り、「俺の、シャツを抱えて……」と問う。
「え、えっと。あの、うーん」しどろもどろになってもごもごと口を開いては閉じ、開いては閉じ。その間にも抱きかかえたシャツはくしゃくしゃになっていく。
「み、見てたんです、か?」
「えーと、俺のシャツに顔をうずめている、の、を、かな?」
陽炎は崩れ落ちて、シャツが床に付くのにも構わず手を床につく。
重い溜息をついて、そう、言い訳を考えよう。いち、に、の、さん。起き上がればいつもの陽炎さん。頼れる駆逐隊
ため息じゃなくて深呼吸を一回。大きく吸って。吐いて。
目線を上げて、立ち上がる。提督はこちらをじっと見つめている。
シャツを軽く手で払う。
大丈夫。大丈夫。もう平常心。
証拠に、シャツを払う手の動きだってよどみない。
全くもって心配いらない。
「陽炎、」
「ひゃい!?」
ダメでした。
内心飛び上がるような感覚を覚えながら、提督の方を見る。
「陽炎、えーと、ひとまず。俺は忘れ物を取りに来て、車を待たせている。……見なかったことにするぞ」
陽炎は提督の言葉に頷いた。シャツは未だに抱いたままだ。
提督も頷き返すと、机に近づいて、引き出しの中から取り出した書類を持っていたかばんに入れる。ふたりとも無言のまま、提督はかばんを閉じる。
気遣わしげな目線を陽炎にやりながら部屋の入口のほうにくると、陽炎のほうに向いて、こういった。
「じゃあ……留守を頼む」
「は、はい……」
提督がドアを閉じる。
陽炎は、今度こそ恥も外聞もなく床にへたり込み、呆然としている。
「……帰ってきたら、帰って来ちゃったら、どういう顔をすればいいのかしら……」
手を頬に当てると、熱くて、手の冷たさが際立つ。
陽炎は自分がなぜ自分が彼のことを好きでないと思っていたか、その理由を考えていた。
たぶん裏切りたくなかったんだろう。提督を好きになるなんて、駆逐隊のみんなにどう言えばいいんだ?
「私も女の子だったのねえ……」
艦娘であるし、提督なんてと思っていたし、なにより今は戦時なのだ。戦時だからといって恋愛をしてはいけないというわけではないが、いつ死ぬとも知れない陽炎と好き合うような人が、
「いやんなっちゃうわ……」
本当に、駆逐隊の仲間になんと言えばいいんだろうか……。
その日の夕食後の談話室。
陽炎、
そんな中、陽炎は自分が持つ心情を正直に、いや、馬鹿正直に吐露した。
それなりの勇気を出した告白に対する反応は、淡白なものだった。
「ん? ああ、なんだ? 自覚してなかったのかい?」
あっさりと、皐月はそう答えた。
「は?」
呆れたような顔をして皐月が筋力トレーニング用のダンベルを上げ下ろししながら言う。
「いや、よく抑えこんで普通に応対しているもんだなあ、すごいなあと思ってたんだけど……」
長月が皐月の言を継ぐ。「まさか自覚していなかったとはな……」
「え、うそ、どういうことよそれ」対する陽炎は慌てたように説明を求める。
「いやあ……」
皐月は鼻の頭をかいて、「みんな知ってたよ? 陽炎が提督のこと好きなんだろうな―って。けどわざわざ確かめようなんてしないし、ねえ?」
うむうむと長月が頷く。
「それに、提督ラブ勢がおるだろ? それを考えるとなあ……」
「怖いもんねえ。金剛さんとかにバレたら……」
「想像したくもないな……。そのこともあって陽炎は隠しているものだと思っていたのだが」
「まさか、だな」
「ホント。潮もそう思うでしょ?」
話をふられた潮は、口に含んでいたお茶をこくりと飲み干すして、答えた。
「そうですねえ。薄々はそうなんじゃないかなあって思ってはいました」
ふわりと優しく笑いかける潮だが、今の陽炎にとっては意地悪な笑みにしか見えなかった。
「例えばですね」嬉々として潮は陽炎以外の皆に向かって聞く。「提督の私室の場所って知ってますか?」
「ふむ? 知らないな」と長月。
「しらなーい」と言いながら皐月が大仰に手を顔の前で振る。
黙ったままだった霰は陽炎と潮の視線を受けて、「しらない……」
最後に、こちらも不思議と黙ったままだった曙にお鉢が回る。
「……なによ」
じろりと睨めつけてくる。
「提督の私室のこと知ってる?」と陽炎は聞く。
曙はふんとそっぽを向いて、言った。
「ふん、知ってるわよ」
「そっかー、知らないかー」
陽炎はため息をついて、自分だけが提督の私室を知っているのか、その時点で全然違うのか、と思った。
だから、その次の瞬間に潮が発した、息を漏らしたような驚きの声に陽炎もびっくりしてしまった。
「え?」
信じられないような言葉を聞いたふうな潮に対して、曙が苛ついたようにまた叫んだ。
「だから、知ってるって言っているじゃない!」
その途端、各々が各々の最大級の驚嘆の感情を表す動作をしていたに違いない。
ごとり、と皐月が落としたダンベルが机に落ちる。傷がつかないといいけど。
潮は口に手を当てて目を見開いている。
長月も同じような顔をしている。こちらは大きく開いた口を抑えてもいないけれど。
霰はいつもの無表情に近い顔を崩壊させて、普通に驚いた顔をしているものだから、逆に面白くなってしまった。
そんな現実逃避はさておいて、曙に視線を戻す。
「ふん、知ってるわよ。知っててわるい?」
「いや、別にわるいとかじゃなくってね。曙ちゃん……」
潮がとりなすが、曙はそれを無視して言葉をつなげる。
「提督の部屋はね、この建物から出て、裏の山に近い建物に入って、そこから渡り廊下を通って行くのよ。知ってるわよ。なんども行ったしね!」
確かに、大体そのような経路だ。やけになっているのか知らないか、ひどく大雑把なものだが、間違ってはいない。
「陽炎、それは本当なのか?」
長月が聞いてくるのに、陽炎は頷く。
提督の部屋は一番近い建物からの出入口が焼却炉の近くのドアで、それは建物の裏なのだ。寮から一番近くて、行きやすい経路は、渡り廊下を使うことだ。
曙は不機嫌そうな顔で、そして面倒くさそうな声を隠そうともせずにこちらを見てきた。
「言っとくけどね。陽炎。私は提督の部屋は知って入るけど、そういうんじゃないからね」
陽炎は呆然とした顔のまま顔を縦にふる。
それを了解の意だと取ったのか、曙は話を続ける。
「…………あんまりいいたくないんだけどね。実は昔、あのクソ提督のことをはっ倒して、気絶させちゃったことがあるのよ」
苦虫を噛み潰したような顔をして曙が吐き捨てる。
「……ええっと。提督さんは大丈夫、だったんだよね」
おずおずと聞く潮に対して、曙は腕組をする。
「当然よ。あのクソ提督がそれくらいでどうにかなると思ってんの?」
「あ、あはは……」
「あのクソ提督のことだから、次の日には何事もなかったかのように歩いてたわ」
「うーん」と皐月が口をはさむ。「司令官が変な人だっていうのは僕も知っているんだけどさ、それと司令官の部屋がどうつながるの?」
「別に大した話じゃないわ。はっ倒したあと、見つかるとまずいから隠すために調べたってだけよ」
「調べた?」
「提督ラブ勢に聞いた」
「ああ……なるほど」と皐月。
皆が納得する。実のところ、提督ラブ勢のバイタリティにはみな、感嘆すると同時に、出来れば近づきたくはないという思いも抱いてはいるのだが、よくそんなことを直接聞いたものだ。
「まあ、そのせいで一時期勘違いもされたんだけどね。今回もそういうのはよしてよね」
曙が心底うるさがっているように言うものだから、陽炎は可笑しくなってしまった。
「分かった分かった」
「……その言い方、なんかむかつくわね」
「どう言えっていうのよ!」
「笑っているのが悪いのよ!」
「別にそんなのいいじゃない。曙が可愛かったんだもん」
「んなっ」
曙と陽炎の会話を潮がおろおろとしながら見守り、長月、皐月は苦笑しながら眺めている。霰は今では無表情だが、その目は優しい。
「あ、あんたねえ……」
「だってそうじゃない、ねえ潮?」
「ええ、曙ちゃんは、すっごく可愛い女の子です!」
「うぅ……。陽炎、あんたねえ……」
陽炎は曙をにやにやと眺めている。
曙は負け惜しみに陽炎に向かってこういった。
「ふん! あんたが提督に『可愛いよ』って言われたらどうするのかしらね!」
「えっ?」
陽炎は言われて想像する。
その中の提督と陽炎はなぜか
薄暗い部屋の中、陽炎はスカートを脱ぎ、シャツをはだけて、ベッドの上に座り込んでいる。髪を結わえているリボンを、ゆっくりとほどくと、提督が思わずといったようにつぶやく。
『可愛いよ、陽炎……』
と、そこまで想像、というか妄想した陽炎ははっとなって現実に戻ってくる。
すると、そこには陽炎を見つめる五対の目。
「な、なによ」
「陽炎……。意外と、妄想逞しいのだな。印象が変わったよ……」
「そーそー」
「陽炎さん……」
「え、え? ええ?」
顔を真赤にしながら、陽炎はなぜそんなことを言われるのかわからないという顔をする。
そこに、霰がトドメを指す。
「……声に、出てた」
陽炎は霰のいうことを理解した瞬間、机に突っ伏した。
穴があれば入りたい。そこが砲火飛び交う鉄底海峡であっても、今この場から逃げられるならば喜んで行こう。
「…………不潔ね」
曙がボソリとつぶやいた言葉が、陽炎を叩きのめしたのだった。
もうやめて、私の体力はもうないのよ。そう叫びたいところだった。
頬が熱い。
「しかし、いいことなのではないか?」
ふと、長月が仕切りなおした。陽炎は突っ伏したまま話を聞くことにした。
「どういうこと?」と皐月。
「なに、陽炎はこっちに来てからずっと気を張っていただろう? 私達が不甲斐ないせいで最初は迷惑をかけ通しだったし、輸送船団の件で、どこぞの駆逐艦娘が協力的になった後だって、嚮導艦としての責務があった」
「うっ」と曙。「わ、わるかったわね。あの件は……」
「あっ、いや! 決して、そういう意味があったわけではないのだ! ……すまない、曙」
「ふ、ふん。わかってるわよ……」
あの事件を思い出しているのか、皆一様に沈黙する。
「あ、あの、それで……?」
その沈黙の中で口火を切ったのが潮だった。
「おお、そうだ。えっと、だな。つまり、陽炎は頑張ってきたのだから、ちょっとくらい色恋沙汰に手を出したところで、誰も文句は言わないし、どころか、いいことだと思うのだ」
皐月が元気よくそれに答える。「うーん、そうだねえ。僕達のために頑張ってきてくれたのはすっごくありがたいけど、今はもう少しわがままを言って欲しいって気もするな」
そこで陽炎は顔をあげる。
「直接僕達に関わることじゃないから、どうこうできるってわけでもないけど、できることなら手伝うよ!」
「うむ。そうだな」
「わ、私も手伝います!」
「……私も」
陽炎は、その言葉だけを聞くとなんとも頼もしいものだと感涙したくなるのに、と思いながら、薄ら笑みを浮かべる長月と皐月に向かって真意を問う。
「……で、本音は?」
2人は口をそろえて、「提督ラブ勢トトカルチョのため!」
「あんたらねえ……」大声を上げそうになるのをかろうじて抑える。
「ちなみに今現在の本命は
「はあっ!?」ずっと視界の端でちびちびとお茶を飲んで、話にも入ってこなかった曙が烈火の如く皐月に噛み付く。
「なんであたしが入ってんのよ!?」
「いやー、なんでだろうねー」頭をかきながら皐月が
「いやあ、わからんなあ」長月が手を腰に当ててふんぞり返っている。
その2人が向き合って、「ねー」と言い合う。
「……そのトトカルチョ作ったバカを教えなさい……」
「ふっ、それはできんな」
「そんなことしたら、親の総取りになっちゃうじゃん」
「いや、あの。そもそもそんなことするのが悪いのでは……」
開き直った2人への潮のツッコミもスルーされる。曙はピリピリとした雰囲気を隠そうともしない。
「あんたら……。次の演習を覚えておきなさい、ボッコボコにしてやるわ……」
「望むところだ。なあ皐月?」
「うんうん。ここのところ
ニヤリと嫌な笑みを交わし合う三人。
やはりおろおろとその三人の間で目線をそわそわと行き来させる潮。
我関せずとお茶を飲む霰。
そして、陽炎は、次の演習が怖いなあと話題が自らのことから離れたのをいいことに傍観することにしたのだった。
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「は? 休暇、ですか?」
突然執務室にまで基地内の放送で呼び出されて、陽炎は背筋を正して立っている。
呼び出されたときは、挙動不審にうろうろとしていたが、曙にすぐそばに秘書艦の愛宕さんがいるんじゃないの、と言われて気づいたときにはどっと力が抜けた。それでも力の入った体は、逆に姿勢を良くしているかもしれない。
目の前の執務机の向かいに腰掛けている提督が頷く。「うむ」
「陽炎ちゃん、ここのところ休暇全然使ってないでしょう? たまってるのよ?」と愛宕。相変わらず胸が大きい。頬杖をつくのになぜ胸が使えるんだ?
「はあ」
「はあ、じゃないわ。陽炎ちゃん」
「陽炎、君はワーカーホリックなのかね?」
「いえ、そういうつもりは……」ゆるゆると首を振る。
「いくら食堂や運動での体調管理がしっかりしているといっても、疲れは溜まるものよ? しっかり休むのも、艦娘としての仕事なの」
「そうだ。休めるのに休まないというのは俺には理解できん。俺なぞ、もう二月近く休暇らしい休暇がないというのに……」
「提督なんですから、我慢して下さい」
「我慢しろというのならそれ相応の対価をくれないかな? 例えば膝枕とか……」
「お断りしますわ、提督」
そんな漫才を繰り広げている2人を見て、なんで私はこんな人を好きになったのかとイライラとしてきた。
ひとまず、このイラツキをどうにかする前に話を聞くのが先だ。
「それで、私はどうしたらよいのでしょう?」
こちらを向いた提督は真面目くさった顔で言い放った。
「うむ。つまりだ、休め。せめて一日くらいはだらけろ、ということだ」
「……提督のようにだらけるのではなく、陽炎ちゃんなら、休みを有意義に使うことは造作ないと思うけれど」かぶせるように提督がひどい、と泣き言を言う。「せめて二三日は休みをとってもらわないと、私達が怒られてしまうのよ」
「はあ。なるほど」
「そうなのだ。艦娘たちを働かせ過ぎだ、と怒られるのは、この俺なのだよ。だから俺のためだと思って休みを取ってくれないか?」
一瞬、もちろんですと喜色を押し出してしまいそうになるがそれをぐっと抑えて、頷く。
なんと安い女なのか。私は。
本当にそんなことが嬉しいのだなあ、と自分に呆れる。
「提督のために休むなんて、疲れがとれなさそうで嫌だわぁ……」
「そんな馬鹿な!?」
そんなことを考えているうちに、また漫才を始めた2人に陽炎はまたむかつきを覚える。
「だって、なんだかすごく自堕落に過ごしてしまいそうで……」
「いいじゃないかグータラ極楽生活」
「そんなことをする余裕がおありなんですか? 提督」
「……ないです」
「では、仕事をしましょうか」と愛宕は笑みを浮かべながら提督のほうから視線を陽炎に移す。
「陽炎ちゃん、休暇の申請の方法はわかるわね?」
陽炎は、はい、と答える。
「よろしい。行ってもいいわ」
はっ、と答えて敬礼をする。踵を返して部屋の外に出るころには、2人はまた楽しそうに会話し初めている。
ドアを閉めて、向こう側に思いを馳せて、ため息。
目をつむり、開ける。
歩き出すと、部屋の中から漏れ聞こえる声と革靴の音がひびきあう。
これが色恋フィルターというやつか、と自らの感情を転がしながら、鎮守府の廊下を歩いて行く。
自分がこんな感情をもつことになるとは、思ってもみなかった。
ふと、あのリボンのことを思い出す。
誰かにあげたのだろうか……。
それは愛宕だろうか?
金剛だろうか?
もしかして……、曙?
……誰にだろうか……。
持て余した提督への苛々は、部屋に戻ってルームメイトの皐月が驚くくらいに枕に八つ当たりをしても、晴れなかった。
「明日、街に出るんだったわよね?」
数日後、例によって何故か愛宕が見守るせいで妙な緊張感のある演習の後、片付けのために、がらがらと愛宕と陽炎が荷台を運んでいる。何か話すべきだろうか、何を話すべきだろうかと考えていると、唐突に愛宕が話をふる。
「ええ、明日です。けど問題があって……」
「あら? なにかしら」
「私、転属して以来忙しくって、ここの街に出たことがなくって……」
「なるほど」そう言うと、愛宕は首をかしげる。「誰か誘わなかったの? 私は曙ちゃんか、誰かを誘ったのだと思っていたのだけど」
「いえ、誘いはしたんですけど」
「けど?」
「なんだかみんな運悪く休暇を使い切っちゃったあとらしくて……」
「ふうん…………」
愛宕はそうこぼしたきり、黙ってしまう。
「……愛宕さん?」
「陽炎ちゃん」
「はい」
愛宕は顔をあげる。見ると、決心をしたような顔つきだった。
「提督のおもりを、お願いできないかしら?」
「はい?」
「明日、提督が近くの学校で講演をするのだけど、それに付いて行って欲しいの」
「えっと……」
陽炎は面食らったものの、なぜ愛宕がついていかないのかを聞く。
「愛宕さんは……?」
「私は、できれば明日早いうちにやってしまいたいことがあるのだけれど、講演についていくとなると、ちょっとむずかしいの。別に大したことじゃないわ。ただ、提督が講演している間、横に立っていればいいだけ」
「そう、なんですか?」
「そうよ」
なんとも変な話だ。数日前には休暇をとれと言っておきながら、その日になったら仕事を入れてくれという発言の正気を疑ったが、愛宕はこういう冗談は言わないはずだ、と思った。秘書艦である以上、どれだけふわふわとした言動であっても、きちんとすべきときはきちんとする、はずだ。
「あ、もちろん、明日のぶんの休暇も、外出許可も別の日に動かせるようにしておくわ。誰かと合わせて行けるようにできるわよ?」
ふむ、とかんがえる。ここまで条件を掲示されると、なかなか悪くない話かもしれない。
今度こそ、みんなと休みを合わせて街に出てみたいし……。
そう思っていると、愛宕が荷台から手を離して、陽炎に向かって拝むような仕草をする。
「お姉ちゃんを助けると思って、お願い!」
愛宕が手を離したせいでずれた荷台の進路を戻して、なんだかおかしなことになったな、と思いながら陽炎は了承したことを愛宕に伝えるのだった。
前の手紙同様に今度の手紙にもそう書くことを心に決めた陽炎だった。
翌日。
講演は終わったが、つつがなくとはいいがたいものだった。特に、陽炎にとっては。
大学の一室で行われたその講演……市民講座は、やはり大学生の参加も多く、そして、講演の内容から男性が多いこともあって、陽炎の神経を削るものだった。提督の横に立っていたこともあって、視線を多く浴びるし、講演の途中、話の流れで紹介されたときなど冷や汗が出た。
立っているだけって言ったのに!
それに加えて講演の後、質疑応答の中でなぜか陽炎のスリーサイズや年齢、彼氏の有無を聞く輩が現れて、しっちゃかめっちゃかになった。ぐるぐると翻弄された後、提督と陽炎は大学の用意した部屋でお茶を飲んで休憩していた。
ふかふかとしたソファに体を預けている。提督がすぐそばにいるけれど、取り繕う気力もない。いや、実のところそこまで疲れているわけではないが、そんな気分だったのだ。
「陽炎」
「は、はい」起立しそうになるが、それを提督が抑える。向かいに座っている彼は陽炎のほうにねぎらいの言葉をかけた。
「いやあ、助かったよ陽炎」
いえ、と答える。
「うん、助かったのは確かだからね。食事でもおごろう。おすすめのカレー屋があるんだよ」
店の人がまあ変人でね、と彼は続ける。
「なんだかインド人のような顔をして、胡散臭い日本語をしゃべる人なんだけど、味は確かだよ」
にこにこと提督は陽炎に話す。
「ちょうどここから近いし、大学の人への挨拶が終わったら行こうか」
そう言ったところで、部屋の扉が開き、彼に講演を依頼した大学の教授が現れた。がっちりとした体格の、退役軍人の老教授だ。チェック柄のシャツを着て、サスペンダーでクリーム色のズボンを吊るしている。彼は私には目もくれず、提督に向かって話しかけた。とたんに提督は教授に振り返ると、講演の内容について楽しそうに話し始める。
陽炎はかやの外となり、お茶を飲んで暇を紛らわすことにした。
窓の外を眺めながらぼーっとしていると、秘書艦の話が会話に出てきたので、様子をうかがう。
「おや、以前来た秘書の方は……?」
「ああ、愛宕ですか?」
そう、そのような名前だった、と老教授。
「今日はちょっと鎮守府の方で用事がありましてね。代わりに、彼女に来てもらったんです」
陽炎は、さすがに挨拶くらいはしよう、と顔を向けると、2人ともが陽炎を見ていて、たじろいでしまう。
「あ、その、えっと、陽炎型駆逐艦一番艦『陽炎』、です」
「なるほど、陽炎型か……」
老教授はあごひげをしゃくると、感慨深げに言った。
「ふーむ……。秘書艦は愛宕さん、でしたかな? それとは、まあ、いまのところ比べるべくもないが、なんとも将来が期待できそうな……」
目線がどこを向いているのか、その意味を考える事しばし。
ばっと両腕で体を抱きしめる。
「教授、愛宕と違って陽炎はそういうの免疫ないんですから」
「おや、そうなのかね? 君のことだから、大丈夫かと思っていたんだが」と言って、笑った。
「大丈夫ってどういうことですか……。陽炎、すまんな」
提督は申し訳なさ気に目を伏せる。
「陽炎さん、この男に騙されてはいけませんぞ。この男はさっきみたいなことを言っておいて、外堀を埋めていく男ですからな」
「教授!」
はっはっはっと笑う教授を提督が慌てたように部屋の外に追いやる。2人が一緒に部屋の外に出ても陽炎はじっと体を抱きすくめている。
がちゃりと提督が部屋に戻ってきた。
蔑むような目で提督を見ると、提督が笑いながら言い訳をする。
「いやあ、あの人には困ったものだ」
そう言いながら彼は陽炎のわきを通って、机のほうに戻り、冷めてしまったお茶をすする。
「陽炎? 座らないのか?」
陽炎は答えない。唇がわなないている。
こんなに体が冷えきっているのに、湧き出てくるこの激情はなんだ?
深海棲艦を前にして沈みかけていた曙を見た時のような体の熱さ。
その様子に気づいたか、提督が声の調子を抑える。
「ん? あ、いや、さっきのことか、さっきのことは……本当になんでもないんだよ」
ははっ、と彼は笑い、目線をそらす。
「…………なんで私、だったんですか」
「え?」
ふと、口をついて出た言葉は意味がわからなかった。
ただ発せられる言葉の後ろには理由が上乗せされていく。そうしなければ、いけないかのように。
「なんで愛宕さんの代わりに私を選んだんですか。提督のことを好きな娘はたくさんいるのに」
「あー……」
彼は困ったような顔をする。
「うーん………………」
とためにためて、まる一分くらい経ったころ。
陽炎のお腹がくう、と鳴る。
さっきとは別の理由で顔が真っ赤になった陽炎に対して、提督が提案する。
「……ひとまず、お腹空いたし、ご飯にするか」
陽炎は無言で首を何度も縦に振るのだった。
「陽炎には悪いんだが……」
提督はカレーをスプーンで口に運びながら言う。
「俺は艦娘を好きになることはない」
彼のその言葉は明らかに衝撃的であったが、予想されていたことでもあった。
「そう、ですか」
「その理由は情けないもんだけどな」
彼は自嘲して笑う。
え、と陽炎は声を上げる。
半ば機械的に食べていたカレー。スプーンの動きを止める。
「俺はさ、艦娘の誰かを好きになったところで、責任を持てないからな」
「責任……?」その時、陽炎は怖気の走るようなことを思いついてしまった。
「まさか、誰かを孕ま……」
提督は陽炎の言葉にむせながら、「そんなわけあるか!」
水を慌てて飲んで、息をついた提督にわずかな罪悪感を覚えながら陽炎は曖昧に笑った。
「で、ですよねー。びっくりしたー」
「たくっ……」
口の周りを備え付けの紙でふくと、彼は気を取り直して、話を続けようとする。
「責任というのは……艦娘が、お前達が、死んじまったときのことだよ」
陽炎は黙っている。
「俺は、男としてお前らに希望を見せ続けることはできない。みんなのために、軍のために、そして、国のために希望を見せることしかできない。愛国心があるわけじゃない。けど、俺の一番は女じゃない。仲間なんだ。誰か一人の女のためじゃなくて、鎮守府にいるみんなが、一番なんだよ」
彼は一旦そこで口を閉じて、カレーをよそう。
「だから、みんなのために一人の、愛する女を捨てることだって辞さない。それでしかみんなを救えないなら、俺は歯を食いしばり、そして、泣きながら、そして喜んで捨てるだろう。けどよ、それで捨てられる女にとっちゃいい迷惑だよな。だから、俺はお前たちを好きにはならない。絶対にだ」
「…………私は、捨てられても、みんなのためなら」ぼそりと、陽炎は言う。
「……かんべんしてくれ…………」
バンザイをして、彼は呻く。
「好きな女を捨てるなんて、できるとしてもやりたくない。だからだよ。話は終わりだ。飯を食うぞ」
彼は言いたいだけ言って、そのままよそったカレーを口に運ぶ。
陽炎は彼をじっと見つめている。
というより、睨んでいる。
「…………提督、それじゃあ、あのリボンは誰にあげたんですか?」
ぴたりと提督がスプーンを止める。
「……見たのか?」
陽炎は肯定の意を示す。
「あれは…………別に、なんでもない。気の迷いだ。何か意図があって買ったにしても、もう忘れたよ。たぶん、買った時の俺は狂っていたか、なにかだろう。捨てたよ、あれは」
「捨てた……」
「ああ、捨てたさ。捨てたんだよ」
提督はそれ以上何も言わず、ただ、時間が過ぎていく。
「提督……」
呼ばれた声に提督が顔を向けると、そこには怒りでか、肩を震わせる陽炎の姿があった。
「こんの…………馬鹿提督!!」
大声を挙げた陽炎は机に手をついて勢い良く立ち上がる。
「んなっ」
「あなたがそんな人だって、知ったら幻滅するとでも思っていたんですか!? 私達がそんなに薄っぺらいものだと!? いや、それならまだいい、私達を馬鹿にするのはどうでもいい。けれど、あなたがあなた自身を貶めるのは許さない! 私達の信頼を馬鹿にするな!」
かちゃん、とスプーンが落ちる。
「私達は普通の女の子じゃない! 『戦う』女の子だ! 大洋を駆け巡り、息を凝らし水平線を見つめ、影を探し、深海棲艦を屠り、そして、陸へと上り、戦いを誇る。私達は誇りに思う。戦うことを! 戦い、そして生きることを!」
「陽炎……」
「なんのために戦うか、皆のために戦うんです。私は自らの仲間のために、そして、あなたのために戦います」
「……俺はそんな大層なやつじゃない……」
「いいえ」
「聞け、陽炎!」
陽炎は口をつむぐ。提督は下を向いていて顔は見えない。
「情けないと罵られても、臆病者と誹られても、軟弱だと蔑まれても、俺は、そんなに強い人間じゃないんだ……。惚れた女が俺のために死ぬなんて、そんな悲しいことを許せるようなやつじゃない。俺は、俺は、いつも思う。お前らが出撃するときに帽子を振りながら思う。歯を食いしばり、涙がでないように目を見開き、暁の水平線を見つめるお前たちの目が曇らないことを祈る。そして、それしかできない、思うことしか、祈ることしかできない俺を、許してくれと。代われるものならば代わりたい。そうでなくても共に戦うこともできない俺は、ただまんじりともせずのうのうと陸の上で待つしかないんだ……。俺は、いままで奇跡的にもフネを沈めたことはない。だが、その幸運はいつまでもは通じないんだよ! それを、知っているんだ。俺は。…………加えて、お前は駆逐艦娘だ。船団を護るために自らを放り投げるその姿が、羨ましく、そして、途方もなく不安になる。陽炎のように消えるんじゃないかと……」
「提督……?」
提督は顔を上げる。両手を顔に当てていて、隙間から目が見える。
静かに落涙している。
冴え冴えと、冷え冷えとした目が、陽炎を捉えた。
「……あのリボンは、陽炎、お前のためのものだ。捨ててもいない」
「えっ?」
「今日の夜、
提督は、ただそう言うと、カレーにスプーンを差し込み、何事もなかったように食べ始める。
陽炎はその様子をじっと見つめて、ふと周りの目線がこちらに向いていることに気づく。きつく周りを見ると、目線がそらされる。陽炎は疲れきったように椅子に座り込み、提督をちらちらと眺めながら、カレーをたべることにした。
怯えたような店員にスプーンをもらって、カレーとご飯をすくう。
冷え冷えとしたそれは、味がしなかった。
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3
夜、海の近くにあるこの港には、ざわざわとした海の音と、うごめいている街の音が聴こえる。
陽炎は、その音を聞くのが好きだった。
夜の音は、真っ黒な月の出ない夜でも、まん丸とした月の夜でも、同じように聴こえる。
海の上には敵がいるに違いない。アイツラはどこで寝るのだろう?
目を凝らしてみても敵の姿はどこにもない。
街の中に生きる人達の姿を想像し、敵の姿とオーバーラップする。
居酒屋を飛び出す殴りあう男たち、囃し立てる女、仲裁に入ろうとして殴られる店主、殴られ、吹き飛ぶ瞬間の笑った顔がアイツラの顔と重なる。ネオンの光がまるで砲火のように光り輝いて、血に濡れた頬を拭いながら立ち上がる店主の顔はゆがんでいる。女はくるくると周りながら踊っている。片手に酒瓶を持ち、皆で飲み交わしながら。笑いながら、彼らはただ店ののれんに享楽を投げかけながら街に消えていく。後にはただ一人、鼻から血を流し続ける男が、拭った右手をエプロンの内側に入れて、
どうして深海棲艦と人間は殺しあっているんだろう?
艦娘として生きているうちに忘れていったその疑問。
薄れていく普通の女の子としての、普通の人間としての感覚。
たくさん、たくさん、たくさん殺してきた。
化物どもを殺してきた。
水底は死体でいっぱいだ。
陽炎の後ろには死者の列ができている。
それはとても暗い
死臭が漂う。木片が飛び散る。砲塔が破裂する。水面に叩きつけられる。
訓練の合間に、海に横たわると、ふと思い出す。
この前に殺したあれ、なんか言ってたなあ。
何かを伝えようと震える口らしきもの。
私は、無感情に連装砲を向けて頭を撃ち抜く。
はじけ飛んだ肉が、血が、薄れていく。
自壊していく。
艤装がすべて剥がれて、中から真白な、人間の肌が見える。
顔を覆っていた醜悪な化物がずるり、と落ちる。
その途端に見えたもの。
それは無二の親友、不知火の、額を
ばっ、と体を起こした陽炎は、荒い息をする。
鎮守府に帰ってきた陽炎は、疲れきってしまい、部屋に戻るとすぐに眠りに落ちていたのだった。
ベッドのカーテンを開ける。二段ベッドの上から狭苦しい部屋の中央に降りると、窓を開ける。涼しい夜風がほてった体を撫でる。悪寒が止まらない。
さあっと木々を風が震わせる。
机に置かれた鏡を見ると、土気色をした顔がある。
ふっと笑うと、壁にかけられた時計を見る。二一四五。
リボンを取って、顔を洗いに部屋を出る。
洗面所に向かう。鎮守府は静かだ。
まだみんな談話室にいるのだろう。
そのまま建物を出て提督の部屋に向かう。
廊下の、鏡のようになったガラスで、髪の毛を整える。タイがよれていたので、これも結び直す。
ふぅ、と息をついて、歩き出す。
部屋の前に立って、深呼吸を数回。
意を決してノックをする。
「提督、陽炎です」
入れ、という言葉を受けて、陽炎は扉を開けて部屋に入り、まず敬礼をする。
提督はこちらを向いている。服装はラフな、ただの白いシャツだ。
「いや、いい。今はプライベートだ」
「はぁ……」
生返事をして陽炎は体を休める。そう言われても困る。
提督は立ち上がり、壁に置かれた戸棚を開けてごそごそとなにやらグラスと瓶を取り出す。
どうやら酒のようだ。
「飲むか?」
陽炎は
彼は嬉しそうに頷くと、控えめながらも、ダイアモンドのように光を乱反射する細工があるそのグラスに、琥珀色の液体を注ぐ。
「ウイスキーだ。飲兵衛の軽空母連中からかっぱら……もとい。没収したんだ」
飲んだことがないわけではない。なんだかんだと飲みたがるような奴はどこにでもいて、それに流される場というのも存在する。自分自身、そこまで強いと思っているわけではないから、よくよく抑えて飲むようにせねばなるまい。不知火のような醜態……痴態を晒すのは御免だ。
提督からグラスを受け取ると、一口飲み、腔内で揺らす。強いアルコホルが鼻の奥をつつきまわし、ほんの少しだけえづきそうになる。ぐっとこらえて飲み干すと、とたんに喉が、
勧められて、木製の椅子に座る。机を間に挟んで、陽炎は右手にグラスを持っている。窓から月のひかりが差し込んで棚の近くに立つ彼の横顔に影を作る。
そういえば、不知火は酒が嫌いだった。ずいぶん昔、醜態を晒したとき以来、彼女は酒をどんなに進められても飲まなくなった。
あのときは大変だった。絡み酒、というのだろうか。いつぞやの忘年会、羽目を外したどこかの馬鹿が
その一瞬後に不知火が吐かなければ、だが。
途端に狂宴は地獄絵図へと変化し、陽炎は、不知火のみならず、それに感化されて吐きまくる馬鹿どもを介抱する側に回らざるをえなかった。陽炎は、ひと通り終わった後に、
そんな
「さて……」
提督は椅子に座り直すとそう言って、グラスを傾ける。
「何から話すか……」
深く座った彼は、陽炎とは違いやはり飲み慣れている様子でグラスを置く。
身を乗り出して両手を顎の下で組むと、彼は話しだした。
「深海棲艦について、陽炎はどれだけ知っている?」
「は?」
深海棲艦?
「俺達人類の敵、深海棲艦について、陽炎はどれくらい知っているか? 奴らの目的、総数、生息地、行動範囲、速度、大きさ、生命か否か、武装の性能、装甲の強度、機動性、艦隊運動の
「……それは」
「誰も奴らがどこから来るかも、何のために俺たちを目の敵にするのか、あるいはそもそも本当に俺達の敵なのか、ただたんに他に目的があって、それに邪魔だから俺たちと戦うのか、俺達を皆殺しにすることが目的なのか、どこで活動に必要なエネルギーを補給しているのか、奴らが放つ砲弾の出処は、死んだときに奴らが崩壊していくのはなぜか、やつらは生きているのか、知能を持っているのか、ただの機械なのか、誰かに指示されているのか、本能に付き従う下等生物なのか…………わからないことばかりだ。だが、わかっていることが一つだけある。そして……、艦娘には知らされていない事実」
提督は、重々しく言葉を切った。
陽炎は息を飲む。
「…………薄々は気づいているかもしれない。けれど、これを伝えることで、たぶんお前らは俺に失望してくれる。そう思うから、俺は伝える。お前たちに対する絶対的な裏切りだからだ」
彼はグラスを大きく傾けて、残っていた酒を飲み干した。
たん、とグラスを机に力強く置くと、大きな音が響く。
「艦娘が沈んだ後、何になるか、知っているか?」
陽炎ははっと目を見開いて、黙っている。
「そうだ。深海棲艦だ。お前らは死んだ後、そのまま安らかに眠ることはできない。深海棲艦となりかつての仲間達に牙をむかねばならない」
「けど! それは噂だと、根も葉もない信憑性のない流言だと」
「それもまた、軍令部が出した真実をもみ消すための噂だ。このことを知っているのは艦娘に関わるような高級軍人の、そのまた一部くらいだ。なぜそうなるのかは誰もわかっていない。ただ、わかっているのはそういうことがあったという事実だけだ。艦娘の一部に識別票が付けられているのは知っているな?」
「はい」
ドクドクと血液が流れる音がうるさい。
「あれはその実験の一貫だ。提督の作為、軍令部の無作為によって選ばれた艦娘に付けられたその識別票は、ただ単なる提督のお気に入りを表すだけじゃない。あれは、その艦娘が死んだ後にどうなったかを追跡し、探るためのものでもある。……あれを付けた艦娘、戦艦だった娘がいたらしい。彼女は彼女の提督のために戦い、国のために戦い、民のために戦い、そして、死んだ。けれど、彼女の
悲劇だ、と陽炎は思った。途方も無い悲劇だ。そして、喜劇でもあると思った。神様やあるいは仏様というのがいたとして、どこまでそれは無慈悲で、冷徹で、そして、愛も憎もない無関心を人に向けているのだろうと想像した。艦娘が、ただの人間ではないということは知っていた。知っていたし、深海棲艦に変化するという噂を聞いたときに、嫌な想像をしたことだってある。
不知火を殺すか、不知火に殺されるか。あるいは提督に殺されるか、提督の愛する艦娘を殺すか。
あれこれ考えてみたところで、陽炎自身がどうしたいのかは全く見えてこなかった。どうしようもないのだろう、と嘆き、涙を流しかけることもあった。しかし、艦娘であるという性質に
そして、陽炎は、彼の先ほどいったことが全く的はずれであると思った。
ゆっくりと顔を上げたあと、陽炎は立ち上がると提督の机に近づいて、グラスを静かに置いた。
「提督、私はあなたに裏切られたとは、ちっとも思わないです。あなたは何も言わなかった。嘘をつくこともなく、だますこともなく、ただ何も言わなかった。そうしなければならなかったからそうした。そのことを理解できないわけではありません。ですが……」
陽炎が口を閉じたのを不審に思ってか、提督が呼びかける。
「陽炎……?」
その瞬間陽炎が、バンッと大きな音を立てながら机を両手で叩く。
振動で書類が吹き飛ぶ。ひらひらと床に撒き散らされた。
「ですが! 提督!? 感情的には全くもって気に食わないのよ! なんで言ってくれないのよ! いや、言ってくれるはずがないってわかってる! 提督はそういう人だから、そう、そのとおりよ! けれどね、私たちはそんな柔い女じゃないわ。絶望してしまわないか、なんて心配はおせっかいよ! 提督、これだけは言っておくわ。私達を、艦娘を、いや、『女の子を舐めるな』!」
一息に言い放つと、陽炎は大きく肩を上下させながら、ふぅふぅと息をつく。
提督はあっけにとられたように陽炎を見つめている。
そう思っていると、じわりじわりと彼は笑い出した。
「はっ、ははっ……」
「……なによ! なにかおかしいかしら!?」
しだいに大笑いになっていく提督にうろたえる。提督はひとしきり笑いこけると、目尻の涙を指でぬぐう。
「陽炎」
「な、なに?」
「ありがとう」
にっこりと、つきものがとれたような提督の笑顔と、その言葉に陽炎は顔を赤くする。
かろうじて、こくこくとうなづく。
笑いを抑えながら、提督は立ち上がるともう一度瓶を持ってきて自分のと陽炎のグラスに酒を注いだ。
「馬鹿な話だ。女のほうが強いっていうのは本当なんだな」
「と、当然よ」
陽炎、と提督がグラスを持ちながら呼ぶ。陽炎もグラスを持ち、グラスをぶつからせる。
きん、と、高く透き通った音が部屋に反響する。
酒がゆれているのを口に運ぶ。ちびりちびりと飲んでいる陽炎を、やはり笑顔で提督がじっと眺めている。
それが恥ずかしくって、顔をそむけながら聞いた。「……どうしたのよ」
「いや、なに。陽炎」
提督の頬が少し赤いような気がするが、アルコホルのせいだろうか。
「好きだよ」
聞いた途端、酒を吹き出した。
「うぉっ!? 陽炎、大丈夫か?」
運良く吹き出した方向は机の上じゃなくてよかったが、むせた陽炎は体を丸めて咳をする。
その背中を提督がさする。
背中を大きな手が撫で擦っている。
咳がひと通り収まっても、陽炎は背筋を正さずに、擦られるままにしている。
アルコホルの熱とは違う熱を、あったかさを、心地よさを、背中に感じる。
なんともないようにしている陽炎が起きないのを見て、提督が、陽炎? と呼びかけた。
陽炎はよし、と気合を入れて、机の上に置かれたグラスを取り、一気に飲み干す。
けっこうな量の酒が一気に頭を焼き付かせる。
「お、おい、一気飲み!?」
陽炎はそれに答えず、いや、答えられない。
好きだ。好きだ。好きだ。それだけが頭の中で発動機の音を響かせながら飛び回っている。迎撃する側すらもその言葉に魅了されている。頭のタガが外れている。好きだ好きだ好きだ。好きだと言われた。そのことが、さっきの言葉の抑揚、調子が、またよみがえる。笑顔が見える。
ふと、陽炎は彼の首に勢い良く抱きついていた。
ほてった顔を、彼の横顔に合わせて、囁いた。
大好き。
途端、狼狽する彼がバランスを崩し、倒れこむ。
胸を押し当て、彼の体を感じる。倒れこんだ彼の両足の間に体を入れる。
膝立ちになった陽炎が、提督を見つめる。
後ろに手をやって座り込んでいる提督が、陽炎を見つめる。
月光が陽炎の横顔を照らしている。
とろん、と酒に酔った顔をして、濡れた瞳をした陽炎は、ゆっくりと顔を彼に近づけてゆく。
両手を提督の肩について膝を曲げていくと、彼が陽炎の両手にを手をそっと添えて、彼も膝立ちになる。
提督は勢いを殺された陽炎の手を、自らの手で握り、指を絡ませる。
その動作が、とてもゆっくりなので、陽炎はなぜか恥ずかしく思って、顔を赤らめて、そっぽを向いた。
「陽炎」
そう呼ばれて、顔を向けると、真面目な顔で提督が陽炎を見つめている。
「……いつもそんな顔してればカッコイイのに」
「……悪かったな」
提督は憮然として眉をしかめるが、すぐに笑みに変わる。
陽炎も、くすりと笑った。
「……いいですよ」
陽炎は、ただ、それから先のことを誰にも語りはしない。
一つだけ陽炎が言えることは、とても幸せな気分だった、ということだけだ。
後日、提督は結局陽炎にこう話した。
あの葛藤はどうなったのか、という顛末だ。
「まあ、なんとかなるさ」
「はあ?」
「俺は刹那の快楽に生きる!」
あっけらかんといいのけた提督に陽炎は青筋を立てる。
「…………艦娘の握力って、知ってる?」
陽炎は青筋を立てて、白手袋をはめた右手を握りしめる。ギチギチと手袋が悲鳴を上げる。
「待て待て待て! 考えた末の結論なんだから待ってくれ!」
「……ほう。言い訳を聞きましょうか」
「考えても仕方ないって、諦めることにしたのさ。それに、俺が失敗しなきゃいいんだろ? そうすりゃお前が深海棲艦になることもないし、みんなも幸せ俺も幸せだ」
「………………あのねぇ」
眉間にしわを寄せて、指を頭に当てて、陽炎は嘆息する。
「それに、だ」
「ん?」
「好きな気持に嘘は付けんだろう」
陽炎は満面の笑みの提督に悪態を付くように言い返すことしかできない。
「……ええ、そうですね! ふん!」
提督を意地でも見るまいと腕組をしながら顔をそらす陽炎だった。
もちろん、何も解決していないことは明らかで、刹那の快楽に生きる、未来への不安はそこに堆積しているが、提督はそれを見つめた上でそう言っているのだろう。そのことがわかっている陽炎は、なにもいうことはない。ただ、陽炎も前を見つめて、そして、絶望しながらも、毎日に希望を持って生きるのみだ。ただ単に、絶望を前に尻込みしているのは、やる前に負けを決めるのはいやだ、そういうことだ。そう心に決めたのだ。
今日の絶望と明日の希望。
今日の希望と明日の絶望。
それは背反であり、排反ではない。矛盾であり、恒真である。
ごたまぜになったそれが途方もなく愛おしい。
ただ、日々を漫然とではなく、ぴんと張った帆が潮風に吹かれるように、昨日を追い抜き、今日を捉えて、明日を目指す。
それが、生きるということなのだと思う。
ふと、提督が陽炎を呼んだ。
「陽炎」
「ん、なあに?」
「これからも、よろしく頼む」
提督の言葉に、陽炎はにやりと笑うと、こう答えた。
「やっと会えた! 『私の提督!』 よろしくねっ!」
彼女のいたずら気な笑顔はまさしく春の陽炎を思わせる暖かなものだった。
そして、陽炎の髪は真新しい、刺繍の美しいリボンでくくられていたということを記して、筆を置くことにする。
陽炎さん可愛い。
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