風の聖痕 新たなる人生 (ネコ)
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1話
その庭では、複数の子供たちに囲まれ、全身の至るところに火傷や擦り傷を負い、倒れ伏す子供がいた。子供の年齢はまだ幼く、見た限りでは小学生くらいだろう。誰が見ても、その火傷の状態は重症。満足に動くことすらできずにいるのは明白だった。
囲んでいる子供たちは、下は小学生にも満たない子供から、上は小学生高学年まで幅広い。その囲む子供たちの顔は、この場に似つかわしくない笑みを溢れさせ、それどころか笑い合って負傷した子供を見下している。まるで、それが当然であるかのように。その場にいる誰一人として、倒れ伏す子供を助けようとも、助けを呼びに行くこともしなかった。
子供が動かなくなったことを、ひとりの子供が倒れ伏す子供を蹴りあげながら確認すると、つまらなさそうな表情へと変わる。
「今日はもう終わりかよ」
「まあ、まだいつもよりもった方じゃないか?」
「まだ、練習したいのにー」
子供たちは、動かなくなった子供に対して、口々に批判する。この火傷を負わせたのは、他ならぬこの子供たちであった。
この場にいる者たちは、炎術師……火炎を操る才を持つ一族だったのだ。
その才に差はあれど、古く、昔から代々受け継がれ、今でも多少衰えてはいるが、基本的に炎の加護は健在で、この一族の者である限り炎で火傷を負うことは無いと言っていいだろう。
但し例外はいる。倒れ伏す子供も同じ一族ではあったが、何故か炎の加護が受け継がれることはなかったのだ。そのため、同じ一族の子供たちからは、『一族の面汚し』や『恥さらし』など、自分たちの親が口にしていることを、意味も分からずに言葉にされ続けていた。
この日も、子供たちの炎術の練習という名目で的にされ続けていたのだった。この場には子供たちしかいない。詰まるところ、この暴挙を止める者などいなかったのである。来る日も来る日も同じことが続けば、身体の傷もそうだが、心にも傷を負う。しかも、大人たちは極一部を除き、自分の親すらそれを止めようとはしなかった。その日、その子供の心は、この時をもって折れてしまった。
時を同じくして、人生をやり直したいと願う男が、飛び降り自殺を図る。その男は、人が良いことを利用され、莫大な借金を背負わされていた。
友達の男に、頼れるのはお前しかいないと、泣いてせがまれ、連帯保証人に署名したが最後。その友達だった男は署名して数日後、すぐに蒸発し、借金だけが男に残された。
他にも名前は記載されていたが、それは男を騙すためのもので、実質払うことになるのは男だけだったのだ。
男は優秀だった。色々なことをそつなくこなし、頭もよかった。しかし、それを鼻にもかけることはなく、周りへの面倒見もよかった。そのため、自然と頼られることが多く、男は真摯にそれに応えてきた。今回の借金の話もそうだった。同じ大学を出た同期。会社は違うが、年に何度か会ったりもしていた。それを、いとも容易く裏切ってきたのだ。
男は最初気付かなかった。その話が来るまでは……。
家に、強面の男たちが押し寄せ、借用書を突きつけてきたのだ。その借用書に見覚えのあった男は、すぐにその借金をした張本人へと電話をかけたが、繋がらない。そして、借用書を持った男たちから返済を求められたのだ。その額は金利がおかしいくらいに高く設定されており、元の金額などあっさりと越えて膨れ上がり、男ひとりではどうしようもない程にまでなっていた。
男は法手続の元、諦めて破産手続きをしようとしたが、それを認めるような相手ではなかった。毎日のように付きまとい、会社にまで押し掛けてくる。
日に日に男の精神は崩壊し始め、周りの人間全てが、自分を追い込むための敵に見え始めていた。そして、とうとう行動に移してしまう。
包丁を持ち、何時ものように近付いてきた男を刺したのだ。それまでの恨みを晴らすかのように、それは何度も……何度も刺した。気が付いたときには、男を含めて周囲は血まみれになっていた。
今の人生に絶望した男は、そのまま近くのビルへと登り、なんの躊躇いもなく飛び降りた。次の人生では誰も信じないと、そう思いながら───
気が付いたとき、そこは和室の一室だった。身体は痛みを訴えているが、まともに身体を動かすことは叶わない。それでも無理に首を動かして部屋を確認する。
部屋は殺風景なもので、家具などはなく、ただ布団のみが敷かれているだけだった。布団の横には盆の上に水差しが置かれ、その隣にコップが置かれている。
(助かってしまったのか? あの高さで? 病院では無さそうだが……)
そこで男は違和感に気付く。身体の感覚はある。痛みはあるが、手足の指先まで、感じることができる。しかし、あの高さから落ちて、五体満足でいられるなどおかしかった。それに加えて、異様に小さく感じるのだ───自分の身体の感覚が……。違和感を覚えない方がおかしかった。
動かない痛む身体をもどかしく感じながら、それでも身動ぎしていると、部屋に誰かが入って来た。男は、その入ってきた者へと視線を向ける。入ってきたのは、和服に身を包んだ見知らぬ男だった。
男は布団に寝ている男へ目を向ける。その目は冷たく、蔑むような、見下しているようだった。いるよう……というより、実際そうだったのだろう。
「またか……情けないな」
男は心底失望したかのように、表情は一切変えずに言ってきた。
なぜそのようなことを言われなければならないのか、分からずに黙っていると、しばらく沈黙が部屋を包む。
布団に入ったまま、動くこともなければ、何も話さない男へ、部屋へと入ってきた男は独り言のように話していく。
「明日からは、私自ら鍛えてやる。ありがたく思え。
そのような体たらくでは、神凪一族として恥ずべきことだからな」
男は言い終えると、もう言うことはないとばかりに、速やかに部屋を出ていってしまった。
残されたのは、部屋の中央に敷かれた布団から出ることもできない男のみ。
男は先程の男の言葉を含めて考えていた。見たことのない場所。見たことのない男。聞いたこともない言葉。そして、身体の違和感。それらを結びつける。これは、もしかして本当に新しい人生なのではないかと。
神凪と言う名は珍しいが、全くないということはない。しかし、男は知らないことだが、それは表の社会の話のことで、裏の社会でのその名は、危険という認識で広がっていた。
神凪一族は、炎を操り、対象としたものを燃やし尽くす。それは、物や人を問わず、霊体ですらその対象にすることができた。それ故に、恐れられると同時に、霊体の祓いに関しては、神凪一族に頼っていたのだ。そのため、その筋では名門として名が通っていた。
それらの事を男が知ることになるのは、まだ少し先のことになる。
医者の腕がいいためか、それとも元々の身体の回復力がいいためか……翌日には多少動けるまでになっていた。その動けるようになった身体を男は確かめる。身体中に未だ包帯を巻かれてはいたが、その身体は、男のよく知っている自分の身体ではなく、他人───それも子供の身体だった。
男は現実が信じられずに、何度も身体を動かしては、自分の身体を見回していた。いきなり知らない身体になったのだ。無理もない。
食事に関しては、こちらについても、知らない女が持ってきた。その女は前に入ってきた男同様、冷たい表情のまま何も話すことなく、食事だけを置いて部屋を出ていく。まるで、話すことはないと言わんばかりに。
その日の夕方から、入ってきた男の、去り際に言った言葉が現実となる。
「ついてこい」
鍛えてやるという、その言葉の意味することが分からずに、男───子供は問答無用で連れていかれた。部屋に入ってきて早々に言われた「ついてこい」……その言葉には、抗うことすら許さないという意思が込められていた。
連れていかれたのは、広い道場のような場所だった。その中央に来たと同時に、いきなり子供の視界は反転する。
「甘すぎる。いつも油断などせず常に周囲を警戒しろ」
子供の視界が反転した理由は、男が足払いをかけたからだった。子供は見知らぬ場所に意識を奪われていたため、全く反応すらできなかった。仮に男へ意識が向いていたとしても、対応できたかは甚だ怪しいものだったが……。
「いつまで寝ているつもりだ。早く立て」
子供は未だに、フラフラする身体を起こし立ち上がると、またすぐに男から足払いを受ける。男は腕を組んで立ったまま、子供を見下ろし、また言い放つ。
「次だ。早く立て」
それが幾度となく続けられた。何度か一撃目は避けるものの、続く二撃目で必ず転ばされる。どうやっているのか分からないが、痛みは、道場の畳にぶつかる際のものだけだった。
男の足払いは、子供の足を引っ掛けるだけのものだったのだ。それでも、それが続けば身体的に大丈夫でも、精神的に嫌になるだろう。しかし、子供は諦めなかった。逆にその表情には笑みが浮かび始めている。子供に痛めつけられて喜ぶような趣味はない。喜んだのは、新しい身体と生にたいしてだったのだ。他者に触れ合うことで、この時、やっと生を実感できたのだった。
これを喜ばずして何を喜ぶというのか……子供は、何度も挑戦していく。男は、途中から無気力だったような子供が、急に生き生きとし出し、あまつさえその顔に笑みを浮かべているのだ。不審に思い眉をひそめるが、挑戦する姿を見て何も言わず、そのまま続けていく。
どれほどの時が経ったのか。窓から差し込んでいた夕日は消え去り、外の景色は黒で塗りつぶされ全く見えない。そのような時刻の中で、道場内では、子供が転ばされ、倒される音だけが響き渡っていた。
それも、男の言葉で終わりを迎える。
「今日はここまでだ。明日に備えておけ」
そう言って去っていく男を後目に、子供は畳の上に大の字になってしばらく天井を見上げ、手を顔に当てて笑った。
「あっはっはっはっは!!」
その声は、子供以外に誰もいない道場内を駆け巡る。それは、新しい生にたいする産声だった。
次の日からは、包帯も取れたところで、学園……聖凌学園というところへと車で送られた。時間的には昼前くらいだろうか。この時、初めて自分が居た場所を客観的に見たことで、立派な屋敷に住んでいるということに気が付く。前日は、辺りを気にする余裕があまりなかったため、そこまで真剣に見ていなかったのだ。車で送られていく中から、外の景色を見ていく。全く見覚えのない景色を。
聖凌学園まで送られたのはいいものの、教室も分からなければ、学年も分からない。それ以前の問題として、名前すらも分からないのだ。降ろされる際に鞄を渡され、迎えに来るから待っているよう言われたので、帰りの心配はいらないだろうが、念のために車の中で帰り道を覚えていた。家から小学校までの道のりは然程遠くはないが、それは大人だったらと言う話で、今の体格を考えれば遠いと言えるだろう。
鞄を背負い建物の中へと入っていく。いつまでも校門近くで立っていても進展しないからだ。案内板を頼りに多少戸惑いながらも職員室へとまずは向かっていく。向かう途中で、この年の子供であれば、ノートなどの持ち物に名前を書いているのではないか、という考えに至り、鞄の中を漁る。そこには、綺麗な字で学年も書いてあれば組も書いてあり、最後には名前も書いてあった。
(かんなぎ……かずま? それが俺の名前か?)
平仮名で書かれた名前を見て、男は今の身体の元の人物の事を考えた。どのような人物だったのか、生活態度はどうだったのか、成績はどうかなどを考え……どうでもいいかと思い直す。新しい人生なのだ、前の人格など気にしたところで仕方がない。
考えを止めたところで、ノートや教科書を鞄の中に仕舞い込み、再び職員室へと向かう。もうその顔に迷いなどは無かった。
職員室にたどり着き、ノックをして扉を開ける。そこには、数人の先生と思わしき人物が、机に座った状態で扉を開けて入ってきた生徒───和麻へと、顔を上げて視線を向けてくる。
「遅れました。三年B組の先生は居られますか?」
「池山先生なら授業中だよ。遅れたのはいいから、君も早く教室に向かいなさい」
「分かりました。失礼します」
深々とお辞儀をして職員室を後にする。
職員室とは別の棟にその教室はあった。教室に入ると、それまで授業を受けていた生徒たちの顔が、示し合わせたかのように一斉に和麻へと向く。その中を何でもないことのように、先生の元へ行き、遅れたことを詫びた。
「家の事情により遅れました」
「ああ。聞いているから席に座りなさい」
既に担任の先生には連絡がいっているようで、それ以上何も言われることなく、着席するよう促される。
教室を見渡すと、空いている席はひとつしかなく、そこへ向かって和麻は歩きだした。特に、周囲の生徒から、奇異の視線を向けられることもなく、授業は再開される。
授業は簡単なものだった。それはそうだろう、外見こそ子供だが、中身は既に社会人なのだ。しかも、頭も悪くはなく逆に良かった。そのため、授業の内容などよりも、授業から脱線した話の方へと興味が向くのは仕方がないことだろう。
授業終了後、昼ということで給食の時間となる。勝手が分からず、周囲を観察していると、大人たちが教室へと入ってきて、配膳をし始める。そこへ、子供たちが並んで、配膳された給食を持っていくという流れだった。
その流れに乗り、給食を受け取って、自席で食べる。他の子供たちは、仲の良い友達と一緒に食べたり、ひとりで食べたりと、特に統率はない。
元からそうなのか、和麻に話し掛けてくる相手はいなかった。和麻としても、自分から話し掛けることはせず、逆に遠ざけたかったので、ありがたいと思ったくらいだった。
早々に食事を終えてからは図書室へと向かう。今の授業の内容など、受けていても、ためになることなどない。それならば、他の事に使った方が身のためだ。
図書室に入ったが、中には誰もいない。受付にもだ。おそらくは、昼食のため席を外しているのだろう。受付のところにプレートが置いてあり、そこには、『本の貸出は職員室まで来ること!』と漢字の上にひらがなで書いてある。
読む本については決めてあった。語学の本についてだ。言葉が通じるので、同じ日本だとは思うが、言い回しなど、違いがあっては困る。結局、その考えは、杞憂に終わる。見たことのある辞書などが置いてあったからだ。
休憩の時間もほどよく過ぎた頃、生徒が入ってくる。特に気にすることもなく、他にどの本から読むべきか考え、語学繋がりで、中国語から学ぶことにする。英語については、前世で既に覚えていた。それならば……と、人口の多いところから覚えることにしたのだ。
昼休みも半ばが過ぎた頃に、この図書室の担当者と思わしき人物が、受付に戻ってくる。
その人物に言って本を借りた。その本の題名を見て、訝しむような表情をされるが、特に何も言われることはなく、手続きを終えた。その後は、昼休みの時間が終わる手前まで、図書室にて借りた本を読み、教室へと戻っていく。
授業中は、借りた本を読み時間を潰す。一応配慮として、授業中の教科書などをカモフラージュに出して、教師からは見えないようにしていた。しかし、何処にでも気になる生徒はいるようで、先生へと告げ口される。
「先生! 和麻君が関係ない本を読んでます!」
「神凪……なんの本を読んでいるんだ?
今は算数の時間なんだ。成績が良いからと言って、授業を真面目に受けていないと将来困ったことになるぞ」
先生は、困ったような表情をすると、和麻の手元を見て、授業とは関係のない本ということを確認してから、諭すようにして言ってきた。しかし、和麻にとってその言葉には、なんの説得力もない。
ある程度、優等生で通そうかとも考えていたが、周りにこういった輩がいるのであれば話は別だ。同じクラスだからといって、特段仲良くなる気もないし、将来的にも関わる気もなかった。それならば、関わり合いにならないように仕向ければ良いという結論に至る。それは先生にも言えることだった。
「既に知っていることを学ぶことに、なんの意味があるんでしょうか?」
このような回答がくるとは思わなかったのだろう。先生は和麻を見たまま固まった。しかし、それならと、黒板に新しく問題書き込んでくる。
「それならば、この問題をやってみなさい」
その問題は明らかに初等部レベルの問題ではなく、中等部レベルの問題だった。先生としても、絶対に解けないだろうと思い、出題したのだろう。そして、勉強しなければいけないと、諭すつもりだったのだろう。しかし、その考えは、和麻がその場で、正解を即答したことにより無駄に終わる。
和麻は何事もなかったかのように、再び読書を再開した。今度は隠す気もなく堂々と見始める。告げ口をした生徒は、それまでニヤニヤとしていたが、和麻が何事もなかったかのように対応したことで、驚愕した表情へと変わる。
和麻以外、自分の予想したことを覆された瞬間だった。ある者は怒られる事を期待し、ある者は可哀想に……などと思われていたのだ。
先生は、もう何も言うまいと、黒板に書いた問題を消して授業を進める。これで、次々に問題のレベルを上げていっても良かったのだが、そうはしなかった。もし、出題した結果、全て解かれたり、あまつさえ、自分よりも優秀だった場合、先生としての威厳に関わるからだ。先程出題した中等部の問題を即答したのだ、高等部の問題が解けてもおかしくはない。それに加えて相手は神凪だ。寄付金を相当額、毎年学園へと入金している。その事は学園の先生であれば周知の事実だった。そのため、余計なトラブルは避けたい相手でもあり、和麻は見逃されることとなる。
それからの授業は、静かなものだった。特に何事もなく進んでいく授業。その授業が終わると、隣に座って告げ口してきた生徒が話し掛けてくる。話し掛けるというより、文句を言いにだが。
「勉強が出来るからって言い気になるなよ!」
その後も、しつこいくらいに和麻へと話し掛けるのだが相手にされず、横を向いて独り言を言っている姿に対し、逆に周囲の生徒から失笑が漏れる。ひとりで空回りしているのだから、周りから見れば、ひとりで喚き散らしているだけにしか見えなかった。その事に気付き、顔を真っ赤にして、不貞腐れたように話しを打ち切り、机に向かって顔を隠すように俯く。それ以降、隣の生徒から話し掛けてくることはなかった。
午後からの休み時間はすぐに終わり、次の授業が始まる。そこでも、和麻は借りた本を読み進めていった。
一日の授業が終わり、教室を後にする。校門にて本を読んでいると、数人、和麻を横目に見ながら通りすぎる。数分後、送ってもらった時と同じナンバーの車が迎えに来た。和麻はその車に乗り込み家路につく。車の中では特に会話もなく、和麻は借りた本を読んでいた。その様子を見て、運転手の男が不機嫌になっていたことに和麻は気付いていたが、理由が分からず、家に着くまでそのまま本を読み進めていく。
家に帰って食事を摂ってからは、すぐに昨日と同じ訓練の時間だった。休む時間などない。ただ、ただ、同じことを繰り返していく。その日も、夜が更けるまで訓練は続けられた。
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2話
いつも、自分を鍛えていたのが誰なのか。和麻は薄々と気が付いていた。それでも、普通はここまでやるものなのかと、疑問を持っていたために、確信には至っていなかった。
神凪厳馬。神凪宗家の中でも二番目の強さを誇っている。いや、現在では宗主の足が悪いため、実際の戦闘となれば一番だろう。
その事を聞かされたのは、神凪の宗主自らの呼び出しを受けたことから端を発する。始めに、目の前に座るように促された後に黙していると、宗家、分家などの説明を、何も言わなくとも、ひとりで勝手に話し始めてきたのだ。和麻にとっては、聞きたいことを勝手に言ってくれる上に、自分自身が余計な事を言わないで良いため非常に楽であった。
「時に、厳馬……父親とはうまくやっておるか?」
急な話題転換に、和麻は瞬き、宗主……神凪重悟を改めて見つめる。今までの話は、ただの前置きで、重吾としての本題はここからだったのだ。和麻としては、前置きにこそ聞きたいことが山ほどあったのだが……。
いきなり、神凪の宗家、分家の話から始まり、生業へと繋がって、自分の父親の性格や強さなどを説明されて、最初は何が言いたいのか不明であったが、ここに繋げたかったのだと知る。しかし、内容が内容だけに、そう簡単にはその話の内容を信じることはできないでいた。それでも、相手の目は真剣そのもので、嘘を言っている気配はない。それ以前に、このような子供を、一族の長がわざわざ呼び出してまで騙す理由が見つからなかった。
「うまく……と言うのがどう言うことか分かりませんが、稽古はつけていただいています」
「そうか」
和麻の言葉に、ホッとひと安心しながら重悟は続ける。心配だったのだ。和麻は一族の中で初めて炎の精霊の加護を持たずに産まれた子だったため、周囲の子供、果ては大人まで、和麻に対し、厳しいを通り越して虐待をしていたのだから。もし、親までそうなのでは……と、一族の長であると同時に、親友の子供としても心配していた。
「いつもどのようなことをしているのだ?」
それは何気ない質問だった。会話を繋げるためのほんの些細な質問。
「ひたすらに、父上の攻撃を避ける訓練です」
「……それだけか?」
「はい」
「…………」
それを聞いた重悟は黙り込んでしまった。それは訓練と呼べるのか。そのようなことが頭の中を駆け巡る。そして、それをなんの表情も崩さずに言い切る和麻をじっと見つめた。
特に今の訓練になんの不満もない和麻は、自分を見つめてくるだけで、何も言わない重悟の事を、逆に不審に思ってしまう。
生業の話で、霊体を祓う仕事をしていると自分で言っておいて、この訓練内容に不満があるようだったからだ。
和麻に炎を自在に操ると言う感覚はないし、操れない。理由は不明と言うことで、その説明も受けた。通常であれば、邪なものは、神凪の炎で浄化することが出来る。しかし、自分にはそれが出来ない。祓うことが出来ないのだ。それならば、足手まといにならないよう、避けることへ重点を置いた訓練に、疑問など挟もうなどとは思わなかった。
「辛かったらいつでも言うのだぞ。無理をする必要はないのだからな」
「御心使い感謝します」
心から言っているであろう重悟に、深々とお辞儀をする。そして、先ほどの説明であったことが本当の事かを確認するために、失礼に当たることを知りながらも尋ねた。
「もしよろしければ、先程言われました神炎を御見せ願えますか?」
「それは構わんが、お主の……いや。よかろう」
重悟は自分の父親に見せて貰えと言おうとしたのだろう。しかし、先程の訓練内容を聞いた後では、厳馬に見せてもらうのは、逆に危険であると判断し、途中で言葉を飲み込み、自ら見せることを了承する。未だに見たことのないであろう神炎を。
重悟が集中し出すと、次第に和麻の周囲……というよりも部屋自体が暑くなってくる。この状態であれば、炎の精霊の声が聞こえるとのことだが、和麻には全く何も聞こえない。聞こえはしないが、炎が目の前で具現化し、それが金の炎から紫の炎へと変化していく様に、和麻は一時魅了されていた。実際に見るまで話半分なところもあったのだ。それがこうして見せられれば、前置きで話された内容を肯定せざるを得ない。
部屋の熱はその炎が吸収してしまったかのように納まり、宙を螺旋を描きながらはしる。それは、初めて見る者には幻想的な光景だろう。和麻が魅入ったことからもそれは窺える。
「これが神炎と呼ばれる炎だ。
精霊の声が聞こえる……ということはないか?」
「……残念ながら精霊の声は聞こえません。御手数をお掛けして申し訳ありませんでした」
「要らぬことを聞いたな……。
なに、遠慮することはない。この程度で良ければいつでも見せるぞ」
重悟が空中を見据えると、宙に浮かび動いていた炎が一瞬にして消え失せた。それは本当に一瞬のことで、まるで何もなかったかのように思わせる。重悟は和麻が炎に魅入ったことに顔を満足したように綻ばせた。
「長らく引き留めて悪かったな。もう、戻ってよい」
「こちらこそ、貴重な御時間を割いていただきありがとうございます」
座して礼を述べてから立ち上がり、再び礼をして部屋を出て行く。それを重悟は黙って見送っていった。
和麻が去った部屋に居たのは、重悟だけではなかった。もう一人いたのである。そのもう一人へと重悟は声を掛けた。
「周防」
「ここに」
重悟の呼びかけに応じて、何も無かった空間に突如としてスーツ姿の男が現れる。重悟はそれが当然であるかのようにして、その現れた男へと話し掛けた。
「どうも以前と違うように見えるのだが……気のせいだろうか」
「不審な点がいくつかあります」
「何だ?」
重悟は周防と呼んだ男へと顔を向けて続きを促す。気に掛けていた子供が、変わったように見えるのだ。気になるのは仕方ないだろう。
「まず一点目。炎に対する嫌悪感が無いように見受けられます。炎によって火傷が絶えなかった日がないほどだったにも関わらず、です。
そして二点目。まるで神凪の事を何も知らないかのようでした。更に言えば、炎術師という言葉自体も、知らなかったように見受けられます」
「……記憶が無い……ということか?」
考えたくはない可能性を口に出す。否定して欲しいという思いが込められていた。
「厳馬様が訓練を施す切欠ですが、火傷と打ち身による重傷を負っています。
もしかすると、それが原因かもしれません」
「あの者たちは……」
否定ではなく肯定的な言葉に、重悟は右手で顔を押さえて、分家の者たちのことを嘆く。
神凪の一族は炎術師として誇り……プライドを持っている。そのような中で例外が発生したのだ。それが分家なら未だしも、宗家の者が炎術師としての才が無い。分家の者にとって、それは汚点でしかなかった。その炎術が使えない一人のせいで、自分たちまで貶められると考えるようになってしまったのだ。それが子にまで浸透するのに、そう時間も掛からなかった。
そして、大人が直接手を下すことは、親が厳馬であることなどからなかったが、子供は違った。練習と言っては炎を当て、それを見て笑い合う。炎の加護があるため、子供たちには炎による火傷や、それに伴う痛みは分からない。ただ、火達磨になって転げまわる和麻を見て笑っているだけだった。
重悟としても、親に注意を促すが、親は恐縮しながらも、「子供のすることです」と言って受け流してしまう。和麻と同年代の子供に対して処罰もし難く、見かけては注意するようにしてはいるが、全く効果は無かった。それは、和麻の親である厳馬が、黙認してしまっていることが、一番の原因ではあるのだが……。
「そして三点目。学園に関してです。
成績優秀で模範的な生徒だったのですが……」
「まさか……学園で何かあったと申すのか?」
重悟は驚きの言葉と共に確認する。先ほどの口の聞き方や対応などは、以前とそう変わりはないように重悟には見えたからだ。
「成績は優秀です。しかし、授業中の態度は、あからさまに変わっておりました……。まるで別人です」
数日、周防は和麻の観察をしていた。理由はもちろん、重悟に頼まれたからだ。以前の状態をそれほど知らないため、他の者から事情を追求するなどして、情報収集の結果を説明していく。
「見たところ、なにか悪霊に取り憑かれたわけでもない……やはり、記憶喪失の件が濃いようだな……」
「どこまで失っているか分かりませんが……調べますか?」
「いや、様子を見るだけに留めておけ。
厳馬がおるのだ。そこまで、こちらが手を出すこともあるまい」
子供の状態くらいは、親である厳馬の方がよく理解しているという考えのもと、話は進められる。記憶喪失などではなく、全くの別人だということを、その能力ゆえにあり得ないことと断定してしまったがために、それ以上調べようとはしなかった。
ある程度厳馬の攻撃を避ける事ができるようになった頃。神凪の生業である祓いの仕事に、同行することとなった。
移動の最中、厳馬は何も語らず、また、和麻も何も話さない。車中は重苦しい空気に満ちていた。一番居心地が悪かったのは、運転手だろう。厳馬は明らかに話し掛けるなといった気配を醸し出しており、かといって、厳馬を差し置いて、その息子である和麻に話し掛けるというのも難しかったし、話し掛ける気もなかった。
和麻は、到着するまで、終始窓の外の景色を眺め、地図を頭の中に入れていく。
仕事の現場にたどり着いてみると、そこには男が待ち構えており、和麻たちに気が付くと慌ただしく駆け寄ってきた。
「お待ち申し上げておりました」
男は焦っているのか、ハンカチ片手に顔に浮き出た汗を拭き取りながら、厳馬へと話し掛ける。その顔には何故か、恐怖の感情が客観的に見て分かるほど浮かんでいる。
祓う相手が怖いのか、それとも神凪が怖いのか。恐らくは後者だろう。対応は運転手が行い、その内容から推察できた。
「この度は、神凪宗家の方、それも厳馬様直々に祓われる。失礼のないように」
「それはもちろんでございます!」
恐縮する相手に満足したのか、運転手である分家の者は案内をするよう促す。そうしてついて行った先には、豪華な一軒家が存在していた。家と言うよりも屋敷だろう。塀が屋敷を取り囲み、その高さも軽く二メートル以上はある。案内していた男は、恐る恐るといった感じで、門を開けて後ろに下がる。案内はここまでしかできないことを言わずとも表していた。
「この先におります。敷地内からは出ないようなので、範囲としては、この門からとなります。御注意ください」
「余計な心配などしなくともよい。
お前は帰って沙汰を待て」
案内役の男の心配など不愉快だと言わんばかりに、分家の者は高圧的に言い放つ。案内役の男は、頭を何度も下げ謝りながら、もと来た道を急いで戻っていった。
「それでは、私はここにて厳馬様をお待ちしております」
分家の者が言ったその言葉には、自分は何もしないと明言している他にも、和麻を意図的に無視する類いのものだったが、厳馬はその言葉に特に反応などせず、和麻へ先に行くよう促した。
「和麻。中へ入れ」
「───? 分かりました」
厳馬自ら祓うのではないのかと、疑問に思いながらも、和麻はなんの躊躇もなく門を潜り中へと入っていく。未だに霊体を祓う場に居合わせたこともなく、その危険度についても全く知らないのだから無理もない。
それは唐突に感じ、反射的に避けた。
自分の身に何が起こったのか……と、避けた先から元の場所を見てみる。元居たその場所には、門を潜ったときには無かった物───細い木の破片が地面に突き刺さっている。避けたのは正解だったのだ。もし、あの場にそのままいたのであれば、木の破片が身体に刺さっていたことだろう。
(危なかった……)
和麻は冷や汗を掻きながら、木の破片が飛来してきたと思わしき方向へと顔を向ける。そこには、無数の物体が宙に浮かんでいた。それは、木に限らず石や砂、果ては人の身体まで浮かんでいる。その浮かんでいる人の顔に生気はなく、ところどころが腐敗しているところから、死んでいるのが分かった。おそらくは、ここに足を踏み入れて死んだものの姿なのだろう。
それらが次々と飛来し、和麻は懸命に避ける。避ける事ができたのは、厳馬の訓練の賜物だった。
それまで、楽観的に考えていたことを和麻は後悔し、すぐにこの場へ入る前の案内役の男の言葉を思い出す。
敷地内からは出ないという言葉が本当であれば、潜った門を戻ることで、この危機からは逃れることができるのではないか。そう思い扉の方を向いた。しかし、その考えを嘲笑うかのように、門は目の前で完全に閉まってしまう。
但し、残されたのは和麻一人ではなかった。父親───厳馬がいたのである。宗主からの話や、先ほどの分家の対応……いつもの訓練で実力があるのは分かる。しかも、その顔には微塵も怯えたような表情など浮かべていなかった。それを見て和麻は落ち着きを取り戻す。この場には、神凪一族最強と言われる厳馬がいるのだから。
再び、浮かんでいる物体へと目をやると、今度は一斉に浮かべた物を飛ばし始めた。今度は避けられないように一気に、だ。その攻撃には避ける隙間などない。
被害を最小限にするために、頭を腕で庇い、身体を縮めて当たっても致命傷の少ない方へと避けて耐えるが、その攻撃で受けた傷は、そう何度も受けられるようなものではなかった。
(痛い!! 父親は何をやってるんだ!?)
痛む身体を立たせながら厳馬の方を窺うと、そこには入った時と同様に、無傷で、いつものように腕を組む厳馬の姿があった。その周囲には、金色の炎が薄すらと膜を張るようにして佇んでいるのが見える。
何故なにもしないのか……そのような考えが表情に出ていたのだろう。厳馬から突拍子もない事を伝えられる。
「この場に憑いている悪霊を滅してみせろ。
ここで見ていてやる」
「───は?」
何度も言わないとばかりに、厳馬は口を閉ざしてしまい、微動だにしない。この時ばかりは、さすがに痛みを忘れて、口を出さずにはいられなかった。
「倒す手段が無いのでそれは無理です!!」
それでも厳馬は、何も言わず、動こうともしない。常日頃の立ち居振舞いから、行動を起こさないことは明白だった。しかも、出入り口を塞ぐ形で立っているため、門から外に出ることも叶わない。
取り敢えず、次の攻撃が始まる前に移動するべく、今いる位置と周囲を確認する。場所は屋敷の庭で、石像や樹木などが少々ある。樹木は細く、和麻を庇えるような面積は無い。となると、目指す目標は石像の影。その石像はなかなか大きく、和麻が隠れるには十分な大きさだった。
敵の攻撃には物を浮かせるまでに時間が掛かるようで、ゆっくりと石などが浮かんでいく。それに加えて、重量のある物は浮かせることができないようだった。これは、石像を動かせないことからも分かる。しかし、一度浮かせてしまえば、厳馬の攻撃ほどではないが、その物体を飛ばす速度は浮かべるのに比べて早い。
和麻は石像で攻撃を避けた後、すぐに屋敷の周りを走り始めた。門から出す気はないだろう。しかし、他の場所ならばどうか……。
屋敷を一周するが、登れそうな場所も、裏口らしき場所も見当たらず、ただ一周するだけで終わってしまう。
ただ、無駄にはならなかった。この場所に憑いている悪霊が、和麻へと狙いを定めたのか姿を表したのである。
薄い霧状の悪霊に対して動揺はしたが、既に物が独りでに浮遊する状態を見ていたことと、重吾に神炎を見せてもらっていたことから、固まったのは数瞬ですんだ。
逃げられないのなら───と、石を拾い投げつけるが、悪霊の霧状の身体を素通りしてしまう。
そして、それを嘲笑うかのように悪霊は和麻へと近付いてきた。和麻は悪霊から逃れるために、再び走り出すが、その速度は和麻より少し遅い程度。悪霊に体力があるのか分からないが、先に和麻の体力が切れるのは明白だった。しかし、和麻は諦めずに走り続ける。
悪霊が和麻しか気にしないように、ギリギリのラインを保ちながら目標へと然り気無さを装いながら走って行く。
捕まるまであと少し───そう見えたところで、一気に横へ飛びすさった。悪霊はそのまま突き進み、和麻が目標としていた場所に当たって燃え尽きる。
和麻が利用したのは厳馬であった。厳馬が動かないのをいいことに、悪霊の意識を和麻へと集中させて、わざとギリギリのところで追わせ、厳馬に当たる寸前で避けたのである。
和麻には、それ以外に、死ぬことを除き、この場を切り抜ける手段がなかった。
(やっと……終わった……)
荒々しく息を吐く和麻を、いつもの冷めた目で見た厳馬は、何も言わずに門を開けて外へと出ていった。
置いていかれては堪らないと、和麻は疲れた身体に鞭打って後に続く。外では厳馬が、分家の者に終わった旨を告げていた。
「終わった。後の手続きをしておけ」
恭しく頭を下げる分家を余所に、厳馬は車に向けて歩き出す。分家の男は慌てて車へと先回りし、扉を開けて厳馬が車に乗り込んだことを確認すると、扉を閉めて電話を掛け始める。
先ほどの案内役の男に連絡するためだろう。その合間に車へと乗り込みひと息つく。この日は訓練もなく一日を終えた。
悪霊の一件から明くる日。和麻は気を練るやり方について簡単に厳馬から教わっていた。
厳馬のできるのが当たり前という言い方に、言い返したくなるところを我慢してやり方を教わる。余計なことを言って、折角の機会を台無しにしたくはなかった。
気を習得するのに、結局は長い期間を要した。元々、やり方も分からなければ、その存在もあやふやなものだったのだ。それをいきなり覚えろというのには無理がある。
習得できたのも、組手を交えた実践形式で、身体に対して直に気を宿した拳を叩き込まれる……という訓練を延々と繰り返した結果だった。ある意味、自分の命が掛かっていたのだ。覚えなければ、死……とまでは言わないまでも、簡単に吹き飛ばされ意識を失ってしまう。軽い拳にも関わらず、だ。
意識を失っては水を掛けられて起こされ、組手という一方的な攻撃を受けては意識を失う。最終的に時間になると終わるが、気を習得するまでそれは延々と続いたのだ。通常の神経であれば耐えられない。
習得してからは、それを交えた組手が行われる。それまでと違うのは、今までゆったりとした動きだったのに対して、その速度が徐々に上がってきたことだろう。最終的には、足払いを避けていた時の速度まで達していた。それで速度の限界ではないのだろうが、ある程度の満足を得たのか、神凪の屋敷で執り行われる訓練自体はそこで終わりを迎える。
但し、訓練が終わったわけではなく、内容が本番に近い実践へと変わっただけだが……。
弱い悪霊や妖魔であれば、気を用いた戦闘により、時間を掛けることで辛うじて倒すことができた。気が有るのと無いのとでは雲泥の差である。もし、始めの祓いの仕事の時に使えていれば、恐らく一人で滅することも可能だっただろう。
(もしかして、以前のやつなら使えていたのか?)
もし、を考え出せば限はないが、そう言うことであれば、あの時の厳馬の言葉も頷ける。
「気とはそのままの意味。気の持ちようで全てが変わるといっても過言ではない。それは精霊術を用いる上でも一緒だ」
気合いだけでなんとかなるのであれば苦労はしないと、その時の自分は思っていた。今ならば違う。もっと使えるようになるような……ためになる話を聞かせろと叫びたいところだ。
結局は感覚的に覚えるしかないため、厳馬の言っていることも間違いではないのだが……。
そして訓練自体も文句があった。わざわざこのような危険なやり方で覚える必要もない。近道ではあったが……。
そうして日々実践にて和麻の戦い方は磨かれていく。気は有限であるため、周囲のもので利用できるものは何でも利用する。そうすることで徐々に鍛えられていった。神凪の炎が使えぬままに……。
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3話
年も明けてしばらく経つと、屋敷内の者たちが少しざわめき立っているのが分かった。忙しなく屋敷内を移動していく者もいる。そして、その理由は嫌でも和麻の耳に入ってきた。
「厳馬様の御子様が産まれた。
今度は、膨大な炎の精霊が祝っていたぞ」
「これで、厳馬様も安心できるというものだな」
「出来損ないが跡継ぎなど、たまったものではなかっただろう」
「深雪様も大層喜ばれておられた。
誰かの時とはえらい違いだ」
分家の者たちは、和麻に聞こえるようにして、わざと近くで話しをしていく。酷いときなどは、いつもは無視するなどしているにも関わらず、わざと話し掛けてきて、面と向かって、『出来損ない様ご機嫌いかがかな?』などと言ってくるのだ。無視されていた方が、煩わしくなくてよかっただろう。
(弟か……この様子では、俺に関係なさそうだな)
分家からの情報(勝手に話し掛けてくる)を元に、新しく産まれる子供が男であることを知る。しかし、この様子では、その子供と会うことはほぼないと言っていいだろう。
だいぶ後で知ったことだが、包帯に巻かれていた時に食事を持ってきた女性が、和麻の母親───深雪であった。その後も、数回会ったが、会話などはほぼなく、聖凌学園からの家庭訪問で知ったくらいだ。分家と同じような対応をしていたため、母親とは思ってもみなかったのである。これには、父親であると聞いたときの厳馬以上に、驚きを隠せなかった。
実際には母親も、周囲からの反応により、性格も段々と酷く……分家寄りの考え方へとなってしまっていた。神凪家としては、同情や憐憫などの言葉は、侮辱に近いものであり、その事に苛まされて、心が病み始めたのだ。それを心が防止するために、深雪は和麻を他人の子供として考えるようになったのである。
そのような母親から、才ある子供が産まれたのだ。今度は紛れもなく神凪の炎を受け継いだ子供が。出来損ないなどと言われている子供に会わせようなどと思うはずもない。
しかし、同じ屋根の下に住む者同士、ずっと部屋に閉じ籠っているわけもなく、当然として出会うことはあった。その時、母親は、明らかな嫌悪感を表すと共に、近付いた際には、見向きもせずに通りすぎていく。和麻もそれを知ってか、軽く会釈をしながら通りすぎていった。
それを見て何人が親子と思うか……他人だと言った方がしっくりとくるだろう。
産まれた子供の名前は既に決まっていた。神凪煉。名前は煉獄の煉だ。意味としては、新しく熱して良質なものへと変えるというもの。詰まるところ、和麻の存在を無かったものとして、新しく産まれた子供が全てであると言っているに等しかった。
和麻が少しだけ見たところでは、顔は厳馬には似なかったようで、母親に似たのだろうことが分かる程の女顔であった。その見えたこと自体も偶々に過ぎなかったが……。
新しく煉が産まれた事で変わったこと。周囲の風当たりが更に酷くなったことだろう。大人たちもそうだが、特に子供たちの方が酷かった。大人たちは無視して通りすぎれば、舌打ちなどをしつつも、それ以上はついてこなかったが、子供たちは違う。ところ構わずついてくるのだ。
そして、この時になって初めて、気が付いた時に、火傷や打撲を負っていた原因が分かった。
無視していると、炎を顕現させて和麻に向けて放ってきたのである。熱気を感じて、間一髪で避けたからいいものの、直接当たっていれば、大火傷を負っていただろう。しかし、それだけで終わるはずもなかった。
「避けるなんて生意気なんだよ!」
「下手だなー。俺が手本を見せてやるよ」
「次は俺の番だからな」
子供たちは次々に言い合うと、炎を和麻に向けて放ち始めた。こちらに関しても、ところ構わずである。この考えなしの行動に和麻は飽きれ、その行動を誘導していく。
そして、炎を避け続けてることで、期待した状態へともっていった。屋敷に炎による放火をしたのである。炎は近くにいた分家の者によって鎮火されたが、それにより放火した子供たちが咎めを受けることはなかった。逆にしっかり狙えと言われるほどだ。
(この調子では、誰に言ったところで無駄だな)
宗主であれば、多少話しは通じるだろうが、根本的に変わりようがない。分家の考え方が変わらない限りは……。
屋敷に火を着けてからというもの、狙ってくる場所は限られてくる。それは、学園からの帰りで家に入る瞬間だったり、ひとりで訓練を言い渡されたときなどだ。
道場だけは、しっかりと補強されているようで、子供たちの出した炎が燃え移ることはない。そのことを知ってか、訓練時にはしつこく見張る者まで出てきていた。
厳馬がいない時を見計らっているのである。そして、その時はきた。
(とうとう来たか)
ニヤニヤと笑いながら、数人の分家の子供たちが道場内に入ってくる。視線は入った時から、皆和麻のみしか見ていない。その目的は明らかだった。
「おい、和麻遊ぼうぜ」
「久し振りに的当てな」
一方的に言ってきた言葉に、和麻の返答は素っ気ないものだった。
「断る。
遊びだったらお前たちだけでやればいい」
断られるとは思っていなかったのだろう。子供たちは、和麻が言った言葉を理解できずに固まってしまう。
その間にも和麻は、分家の子供たちになど見向きもせずに、厳馬から与えられた訓練内容の消化を行う。お前たちになど構っていられないと言わんばかりに。
子供たちの中で一番歳上の子供が正気に戻り、和麻の言った言葉に対して顔を真っ赤に染める。子供たちにとって、和麻に侮られるということは、親に顔見せできないほど恥ずかしいことだった。
「お前の意見なんてどうでもいいんだよ!!」
「そ、そうだ! そうだ!」
「生意気だぞ! 出来損ないの癖に!」
一人が強気に出たことで、それに続くように他の者も口を揃えて言い始める。一人ではなかなか行動しないが、集団になると強気になる者たちに対して、和麻は冷たい視線を投げ掛ける。
その視線が気に障ったのか、他の者も怒りを露にし、周囲へと炎を顕現させ始めた。
「泣いて謝れ!」
炎は子供たちの意思に従い真っ直ぐ和麻目掛けて飛んでいく。それが子供の数よりもやや多く飛んでくるが、和麻は余裕をもって、何でもないことのように回避した。実際厳馬との訓練を考えれば、その炎の速度は緩やかなもので、避けることなど容易い。
避けられた炎はそのまま直進し、壁に当たって飛散していく。何も燃やすことなく。
避けられるとは思っていなかったのか、呆然としている子供たちの間を、素早く駆け抜け道場を出る。相手にもされなかったことに、道場から出た子供たちは、罵詈雑言を並べていたが、和麻は気にも止めない。元々気にしてないのだから当然だが。
ただ、和麻が逃げた、という噂はすぐに広まり、悪口のひとつとして言われるようになった。
噂というものは意外と馬鹿にできない。そのことを思い知らされたのは、厳馬からの呼び出しで、呼び出された内容を実際に行うことになってからだった。
「次の日曜、試合を行う」
「組手ではなく試合ですか?」
厳馬はなんの脈絡もなく、突如として簡潔に和麻へ言い放ってきた。そして、これ以上の用件はないとばかりに一言。
「部屋に戻れ」
「……分かりました」
疑問に答える気がないことは、分かってはいたため、返事をして立ち上がり、小さく溜め息を吐いてから厳馬の部屋を後にする。この神凪家のほとんどの者がそうだが、あまりにも偏った考え方の持ち主が多すぎた。
神凪家の者は血筋を気にし過ぎて、それ以外にはあまり目を向けようとはしない。その考えが通じるのは、限定される。いつまでも高圧的な態度を取り続けていれば、何らかしらの敵意や恨みをかうことになるだろう。その事にまで頭の回らない、あまりにも短慮な思考回路に和麻は呆れていた。
翌週。明日の試合を目前に控えても、変わらず和麻は訓練を課せられていた。厳馬に、休みを与えるという選択肢はない。また、和麻としても休む気など毛頭なかった。
噂が立ってからというもの、和麻に直接手を出してくる者はいない。その事を不思議に思いつつも、夕暮れ近く、暗くなるまで訓練を行い、時間になったところで部屋へと戻るために道場を後にする。
(道場が遠いのがネックだな)
この時、決して和麻は油断はしていなかった。常に周囲を警戒しろ。その言葉は住んでいる屋敷内でも言えること。むしろ、屋敷内こそ注意すべき場所だった。ただ、かなり綿密に立てられたそれは、予測していても回避できたかは分からない。
廊下を曲がると、炎が目前へと迫っていたのだ。身を捩って避けるが、それで体勢が崩れたところを、何者かに棒状の物で殴りつけられる。
(っ!? 誰だ!?)
その後は、和麻が体勢を崩してそのまま倒れたのをいいことに、一方的に攻撃を加えていった。相手は何も言わず、ただ滅多打ちにしてきた。
和麻も、ただやられていた訳ではない。攻撃してきた相手の位置から素早く離れ、反撃をするため、身体を起こしたところへ、他の廊下を誰かが通りかかる。
「そこに誰かいるのか?」
その言葉で相手が一瞬固まった気配が伝わる。和麻はその隙をついて、渾身の気の籠った一撃を相手に与えた。薄暗く顔は見えなかったが、体格は完全に和麻よりも大きいことは分かる。そんな相手に確かな手応えを与えると、唸り声を出しながら、その場を逃げ去っていった。
その足音の後、炎による灯りが照らされ、和麻のいる廊下は一気に明るくなる。その先に居たのは、和麻が見たことのない相手だった。宗家の顔については見知っているため、必然的に分家の者ということになる。その者は、和麻の状態を見て慌てたように近付いてきた。
「大変じゃないか! 頭から血が出ているぞ!?」
頭から額へと伝わる血を見て相手は血相を変える。その事に和麻は不審に思い、咄嗟に距離をとった。この屋敷内で信じられるのは基本的に己のみ。見ず知らずの相手……しかも分家の者を迂闊に接近させる気はなかった。
「何をしている! 早く手当てをせねば!」
「近付くな」
和麻からの拒絶の意思はハッキリと相手を捉えて立ち止めさせる。それは、大きな声を出したわけではなかったが、有無を言わせぬ迫力があった。
「部屋に戻りますので失礼します」
相手が固まっている合間に、言いたいことだけ伝えてその場を去る。相手の男は追っては来なかったが、その時に和麻の後方から、声だけが後を追ってきた。
「これだけは覚えておいてくれ!
ここの者全てが、君に悪意を持っている訳ではない!」
(白々しい)
その言葉は、今の和麻には何の引き留めにもならず、素通りしていく。既に宗主以外の宗家にも言えることだが、分家の者の言葉は、全て信じるに値していなかった。
痛む身体に鞭打ちながら部屋へと戻り、簡易的にではあるが治療を施す。襲われて怪我を理由にしようと、試合は行われるだろう。厳馬とはそういう男だった。少しでも身体を癒すため、この日は早めの就寝をすることになる。明日の試合に備えて……。
試合当日。午前中に行われる試合場所である道場に向かう。昨日受けた傷は痛むものの、動くことにそこまでの支障はない。
道場内入ると、壁の周囲に、いつも言い掛かりをつけてくる子供たちと、大人数名が待ち構えていた。子供たちはいつも通りの嘲笑を。大人たちは侮蔑の表情をして、少し身体を引きずっている和麻を迎え入れる。そんな大人(体格的に)の一人だけは、明らかに苦笑いで時々脇腹を押さえているのが見受けられた。その様子から、昨日の襲撃者が誰であったのかが分かる。そして、この試合の相手も。
(自分の親族のためなら闇討ちすらするとはね)
襲撃者の親族であろう子供が、和麻が入ってきたところで、ニヤニヤと笑みを浮かべながら、道場の真ん中へと歩いてきたのだ。これで、この試合の相手が誰であるのか理解させられた。
しばらくすると、昨日廊下で出会った男と、厳馬が道場へと入ってくる。厳馬の表情はいつもと変わりなく無愛想で、その後ろを付き従うようにして分家の男が入ってくる。その男は道場に入ってくるなり、和麻を見て心配そうな顔をしている。
「揃っているな。
大神、始めろ」
厳馬はそれだけ言うと、分家とは反対側の壁の方───和麻のいる方へと寄っていく。そして、和麻に対して顎を動かし、道場の中央へ行くよう促した。
和麻はそれに頷き、道場の中央へと足を進める。少し身体を引きずるような格好をしながら。
相手の子供と対面する位置まで来たところで、両者の間に厳馬と一緒に入ってきた男が立つ。そして懐から出した紙を拡げて読み始めた。
「これより、神凪和麻と久我透の試合を執り行う。
降参若しくは戦闘不能によって決着をつけるものとする。
立会人は私、大神雅人が執り仕切る。両者共に以降、この試合の遺恨を残さぬようにすること。これを破りし者は、宗主の名において裁定を下す」
降参を口に出したとき、あからさまに雅人は和麻へと視線を向けた。他の者はそれを聞いて、失笑を漏らす。和麻が降参すると思っているのだろう。
(あの噂が原因でこの試合が組まれたのか)
長々と注意事項を聞き流し、和麻は相手を観察する。透と呼ばれた子供は、明らかに和麻よりも体格は大きく、その顔は愉悦で歪んでいた。
堂々と和麻を痛め付けることができると確信している顔だった。
そして、試合は開始される。
それは一瞬の出来事だった。
笑みを浮かべていた周囲の顔は強張って固まり、動きを見せない。試合の立会人である雅人ですら、固まってしまっていた。
止めるものがない以上、動きを止めることはない。その道場内で一人だけが動き続けている。相手が倒れそうになれば蹴り上げ、棒立ちになったところへ執拗に攻撃を加えていく。そこに手加減という言葉は微塵も存在しない。
相手が倒れてから、やっと周囲の時間が動き出す。立会人の雅人が両者の間に入り、手を止めさせようとするが、その時には既に終わっていた。和麻は元の位置に戻り、倒れた相手を見下したような目で見つめる。その目は父親である厳馬に酷似していた。
「この勝負、神凪和麻の勝利とする!」
分家の者は、誰もが和麻が負けると思ったのだろう。透の勝利は揺るぎないと思ったのだろう。
事前に負傷を負っていたことは、雅人から厳馬と分家の者へ伝えられていた。負傷した者を試合に出すわけにはいかないと、説得していたのである。結局、厳馬が試合をやめるはずがなく、分家の方はそれを聞いて、尚更やめる気はなかった。しかし、蓋を開けてみれば結果は真逆。和麻の完勝だった。身体能力に歴然とした差が有りすぎたのだ。
(いつも、避けられてるのに……こいつらには学習能力がないのか?)
分家の者は唖然とし、厳馬は当然の結果と捉えているのか、その表情は入って来たときと変わりはない。しかし、和麻は元の位置に戻る際に見ていた。厳馬の口許が微かに吊り上がるのを。
「透!!」
倒れた相手───透は、雅人に介抱されていたが、すぐさま脇腹を押さえていた男に、それを奪うようにして連れていかれる。その様子を周りの者は黙って見送ることしかできなかった。
和麻がやったことは、自分が酷い負傷をしていると相手に思わせることで油断させ、先手必勝の一撃を透の顔に向けて放っただけである。
後は意識が飛んだところへ追撃を繰り出しただけだった。
利用できるものは何でも利用する。それは、己自信も含まれる。道場に来て、見回したときに襲撃者が誰なのかを察したことで、実行に移した。試合の開始が言い渡される前から、和麻の中では始まっていたのである。頭への負傷は想定外であったが、他の場所については、常日頃より厳馬に打たれているのだ。少しの間、棒で打たれた程度では、和麻の動きを阻害するには至らない。
その場に居たものに、再び雅人は宗主の言葉を申し伝えるが、それをまともに聞き入れている者はいなかった。
雅人の口上が終わったところで、厳馬は道場を出ていき、和麻もそれに続く。厳馬にとって、この結果の分かりきっていた試合は、茶番に等しかった。
日頃より鍛えているにも関わらず、逃げ出したという噂は、到底許されるものではない。それに加えて、子供たちの力量については、ある程度察していたのだ。いつまでも、その噂を聞かされて良い気がするわけがない。そのため、一族の集会の場で、逃げられないよう言いくるめて試合を行わせたのである。これに、喜んで食いついてきた分家を、厳馬は、愚か者を見る目で見つめていた。
早い話が、あの試合の場で、和麻が負けることなどあり得ないと、厳馬だけが思っていたのだ。
部屋へと戻る傍ら、別れ際に厳馬は和麻へと言伝てる。
「今日の訓練はこれで終わりだ」
それだけ言うと、厳馬は自室の方へと歩いていく。一切和麻を見ようともせずに。
(結局訓練だったのか……)
他のことは何も言わないが、いつもの態度を見ている和麻には、ゆっくり休めと言っているように、その言葉は聞こえた。
試合が終わり、周囲の和麻への対応は変わった。いや、元に戻ったと言っていいだろう。無視という形に。
子供たちについても、率先して和麻にちょっかいをかけていた者が、試合の場であっさりとやられてしまったのである。次は自分の番では……と、和麻を避けていた。
和麻の側から試合を申し込まれては、逃げるに逃げられない。これは、いつも馬鹿にしていた相手から自分たちが逃げ出したことになるからだ。
正式な場で逃げ出したとあれば、神凪家としての居場所などなくなってしまう。自分も同じ目に遇うのではないか……その事に子供たちは怯えていた。
(集団じゃないと何もできないのか、あいつらは)
和麻としては、結果として無視されるという平和がきたことに内心呆れると同時に喜んでいた。常日頃から煩わしく思っていたのだ。それがなくなったとなれば、喜ばずにはいられない。但し、更に厳馬の訓練が厳しくなったのには、正直参っていた。今までは、慣れたこともあり、少し余裕を残して終わっていたものが、体力の限界近くまで疲労させられるのである。
祓いの仕事に関しても、徐々に強いものへと変わっていった。時には勝てない相手に挑まされるのである。少し上程度なら未だしも、完全に格上相手を……。
あらゆる手段を用いても、圧倒的な力の前には無力である。結局最後には、気絶するか、動けなくなるまで相手をさせられ、気が付くと自室……という経験を積まされた。それは和麻が中等部に入るまで続いた。
何故そこから、訓練が減ったのか。理由は単純だった。弟である煉の方の訓練へと移ったのである。
(三歳から訓練とはね……)
この年齢から始めるのは、神凪としても早い。しかし、始めねばならない理由もあった。母親である深雪の存在である。新しく産まれた子よりも、和麻に割く時間の方が圧倒的に多いのだ。母親にとってはその時間こそが愛情の差だと考えた。そのために不満を覚えないはずがなかったのである。
厳馬が子供と戯れる―――。そんな姿が思い浮かぶはずもなく、また、厳馬自身も子供と一緒に遊ぶ……といったことはしなかった。できないといった方がいいだろう。厳馬は幼少期から、自分の力を高めることに時間を費やしてきたのだ。子供をあやしたり、遊んだりといったことが、できようはずもなかった。それが神凪という家系。
それ故に、子供との触れ合いが、訓練になってしまっているというのが実状である。それでも、深雪としては、煉に時間を使うことで満足したのだろう。一時期は、和麻を親の仇のように見ていたが、今では他人に接する、最初に近い形に納まっていた。
元々和麻も深雪を母親とは思っておらず、現状に対して特に不満もない。むしろ、学費や毎月の小遣いが貰えるだけ、ありがたいと思っていたくらいだ。
少しだけ、和麻の元にゆっくりとした時間が流れ始めた。
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4話
中等部になり、厳馬が煉に付きっきりになったことで、和麻の自由な時間が増えた。だからといって、和麻に遊んで過ごすという選択肢はない。学園では変わらずに自ら学び、家に戻ってからは自己訓練に没頭する。そんな生活を続けていた。
聖凌学園は初等部から高等部まであり、余程の事がない限りは、そのまま上へと上がっていく。それは、寄付金の額で融通が利くほどのものだ。成績優秀か、それとも金銭か、どちらかがあれば大抵は通用する。
そのような学園が外から見れば、どのように見えるのか。金持ちの御坊っちゃんや御嬢ちゃんが通うところに見えるだろう。実際にも、入学している半数以上の者が、金持ちの家の出だった。
その為、犯罪などで狙われることも度々あった。基本的に学園の近くでの防犯体制は、寄付された金額が莫大なことから、それを惜しげもなく使っているため高い。
しかし、離れるとどうか……。送迎されているうちはいいが、成長するにしたがい、友達もできて、一緒に町へ遊びに行きたくなるものである。そんな中、学園の制服を着たまま、町中の方に行けばどうなるか。しかも、夕暮れ時に。
「彼女たち!いま暇? 暇なら一緒に遊ばない?」
「お断りそうします。離して!」
「そう言うなって。絶対面白いからさ」
「だから、断るって言ってるでしょ!」
女生徒二人は、最初男二人に絡まれていた。その人数は、時間が経つにつれて徐々に増えていき、今では六人にまでその数を増やしている。
女生徒の一人は強気に断っては、もう一人の気弱そうな女生徒の手を取り、先に進もうとしていたが、抜いては先に回りこまれ、しつこく付き纏われていた。そして、時間が経つにつれて馴れ馴れしさが上がっていき、ついには腕まで捕まれ、合流してきた男たちに囲まれてしまったのである。
周囲を通る人は見て見ぬ振りをしていく。触らぬ神に祟りなし。自分に余計な火の粉が掛からぬように、無視していた。
ただ、無視して通りすぎる人の先に、その女生徒の見知った顔が何食わぬ顔で通って来るのが見えた。同じクラスであるにも関わらず、一切他者を寄せ付けようとしない相手。神凪和麻である。他の通行人とは違い、わざわざ離れて通ることはなく、堂々と女生徒たちの方へと向かってき来ている。
女生徒はその行動から助けに来てくれたと、顔を綻ばせて手を上げたところで───和麻はその集団の横を通りすぎていった。
和麻にとって、その女生徒を含めてのナンパ集団は、わざわざ避けて通る程のものでもなく、通行の邪魔程度の認識しかなかった。そのため家路につくのに、必要最低限の道を通っているに過ぎない。
まさか、素通りされると思っていなかった女生徒は、思わず叫んでしまう。
「待ちなさい! 和麻!」
特別親しくもない相手、しかも、全く交流のない相手から、苗字ならまだしも、名前をいきなり呼ばれたらどう思うか。和麻は一瞬立ち止まり、面倒臭そうに振り返った。
振り返った先にいるナンパ集団と女生徒を見比べ、面識がないことを確認し、再び歩みを進めようとしたところで、無理矢理抜け出してきた女生徒に肩を掴まれる。
「待ちなさいって言ってるでしょ! 彼女のピンチなのよ!(ちょっと、同じクラスのよしみでしょ! 口裏を合わせてよ)」
和麻は掴んできた手を払い除けながら、女生徒の小声で言ってきた言葉に呆れていると、それを聞いていた男たちが動き出した。
「おいおい、こんなかわいい彼女を黙って見過ごすようなやつとは縁を切れよ」
「そうそう。俺が新しい彼氏になってあげるからさあ」
「そんな子供より俺たちの方が良いって」
「彼氏君は帰っていいよ」
男たちは再度囲み出す。今度は和麻ごと。学園の制服を着ているのと、夕暮れ時で分かりにくいが、和麻の肉体は鍛え抜かれている。ナンパ集団に比べると背は低いが、それでも標準以上はあった。しかし、そんな和麻を見て、男たちは、和麻が弱そうだと思ってしまったのだ。
しかも、声も掛けずに通りすぎようとした相手。意気地の無い奴として、侮らない方がおかしかった。
和麻としては、気にもしていなかったところへ、急に声を掛けられたので、振り向いただけだ。それ以上でも以下でもない。
助けるつもりは毛頭ない。なかった。そう……なかったのだ。相手が勝手に誤解して攻撃を仕掛けてくるまでは。
早く帰れと言ってる割りに、男たちはヘラヘラと笑いながら、囲むのをやめようとはしない。逆に閉じ込めて、女生徒の前で恥を晒させようとし、それが手を出すといった行動に繋がった。
女生徒だけを標的にするのであれば、和麻も無視して行ってしまっただろう。しかし、それをせずに軽くではあるが、蹴りを和麻に対して放ってきたのだ。和麻がすんなりその蹴りを受けるはずもなく、蹴りを放ってきた男の軸足を逆に払う。そして転んだのを確認し、その隙間から抜け出ると同時に、倒れた男の腹へと、力を込めた足を踏み出す。
転んだ男が悶絶しているところを、無視して帰ろうとしたところで、他の男たちが動揺しながらも動き出した。
「お前何してんだよ!!」
「ちょっと待てや!!」
男たちは女生徒から、和麻へとその標的を変える。今度は和麻だけを囲む形に。
「邪魔」
呟くように言われたひと言に、男たちは顔を怒りに染めて、問答無用とばかりに殴りかかる。その男たちの動きは、和麻から見れば遅すぎた。それに加えて、男たちの動きには連係など考慮されてない。当然隙間が空くことになる。その隙間へと和麻は身体を滑り込ませ、一人転ばしては頭を蹴り飛ばし、確実に意識を断つ。そこに手加減はしているものの、容赦の欠片などなかった。
六人の内、四人が路面に倒れたところで、残りの一人から声が上がる。その声は震えていた。
「お、お前! ……こっち向け!」
「離しなさいよ!」
和麻はその声の方を見向きもせずに、残ったもう一人を路面へと倒しにかかる。その姿に焦ったのか、男は更に大きな声で、和麻へと叫んだ。
「止まれ!!
この女がどうなってもいいのか!?」
「痛い! 痛いって言ってるでしょ!!」
五人目を倒し終えたところで、振り向いた先には、和麻に話し掛けてきた女生徒と、その腕を後ろで掴み、盾のようにして立ち、和麻を見て怯えた表情をしている男がいた。それを見て、もう一人の女生徒は青い顔をして震えている。
その男には、最初の威勢などどこにもなく、声も震えたままだ。
「わ、わかってんだろうな……どうなるか!?」
自分でも状況が理解できていないのか、あやふやな言葉を発する。その言葉に対して振り向いた和麻は、何も言わず、ただ黙したまま男に近付いていった。
「それ以上近付くな!!」
「───っ!?」
更に掴まれた腕を、強引に捻られた女生徒は、悲鳴にならない声を上げる。しかし、和麻が立ち止まることはなく男へ近付いていき……そこから一気に男の真横へと移動して、その横腹へと拳を突き入れる。
「余計な手間をかけさせるな」
腹を押さえて踞る男に、和麻は言い捨てると、その場から立ち去っていく。
解放された女生徒は、顔を青くして震える女生徒の腕を掴み、急いでその場から逃げ出すように走り去っていった。残ったのは、気絶して倒れる者と痛みに苦しんで踞る者だけ。
その数分後。通行人により、事前に通報を受けていた警察によって、男たちは連行されることになる。
全速力でその場から立ち去った女生徒たちは、自宅近くまで来たところで立ち止まり、後ろを……来るはずのないナンパ男たちが、追ってきていないかを確認していた。
「危なかったわね」
元気な女生徒は捩られた方の腕を揉みながら話し掛ける。その言葉に、もう一人は未だ呼吸が整わず、膝に手を突いて荒い呼吸を繰り返していた。そこに会話をする余裕はなく、言葉を聞き取るだけで精一杯といった様子だ。
「……柚葉大丈夫?」
「……うん」
額には大量の汗を掻き、息は未だに整っていなかったが、相手を心配させまいと、返事をする。しかし、どう見ても大丈夫ではないその様子は、逆に相手を不安にさせてしまっていた。
「しっかり深呼吸してね。はい、吸ってー、吐いてー」
しばらく深呼吸を続けて落ち着いたところで、元気な方の女生徒は再び話し掛けた。
「それにしても、ビックリした。
たまたま同じクラスのやつがいたから巻き込んだけど、……あんなに強いとは思わなかったわ」
「……そうだね。
───沙希ちゃんは彼のこと知ってる?」
元気な方の女生徒───藤野沙希にとっては、今回の事は想定外だった。同じ学園で、同じクラス。成績優秀で、運動にも優れていたことを知ってはいたが、喧嘩が強いとは思っていなかったのである。沙希の方が一方的に見知っていたため、上手く理由をつけて男たちから離れようとしただけだった。
もう一人の女生徒───平井柚葉は、同じクラスではあったが、内気な性格が災いし、幼馴染みである沙希以外に友達ができていなかった。それに加えて部活にも入っていない。結果、他者に対して怖がるようになり、自ら関わろうとはしなかったため、和麻についてもあまり知らなかった。
そんな柚葉を見かねて、お節介焼きな沙希が、何人か友達を紹介してはいたが、沙希を含めて誰もが金持ちの家の出だった。柚葉は、沙希とは家が近いだけで、普通の一般家庭である。そんな中に内気な性格では、会話に入っていくことすら難しい。そのため、クラス内でも和麻とは逆の意味で浮いていた。
「柚葉が興味を持つなんて珍しい。
もしかして……あれだったりしてー」
からかい半分の沙希の言葉に、柚葉は過剰反応してしまう。
「そんなことないよ!
ひと目惚れなんてするわけないよ!」
「私は惚れてるなんて、ひと言も言ってないけどねー」
過剰反応してしまったことと、自分の発言の迂闊さに気付き、何もなかったことにするため、柚葉は家に向かって早足で進み始める。その顔は真っ赤にして俯いていた。
沙希はニヤニヤと笑いながらその後を追いかけていき、追い付くと横に並んで一緒に進む。
「ごめん、ごめん。
ねえ、機嫌直してよ」
「…………」
いつもの気軽な声に、柚葉は幾分落ち着きを取り戻し、進む速度を落として歩く。しかし、その顔は未だに真っ赤なままだった。
「まだ怒ってる?」
顔を覗きこむようにして窺う沙希に、努めて平静な声で返す。
「怒ってないよ」
「ほんとに?」
「うん」
柚葉の言葉に安堵の吐息を出したところで、再び話題を元に戻した。その顔には、何か良いことを考え付いたような笑みが浮かんでいる。
「一応助けてもらったんだし、お礼は必要だよね」
「えっ?」
「えってなによ、えって。なんかおかしいこと言った?」
「ううん。おかしくはない……けど……」
柚葉は立ち止まってしまう。頭の中では、お礼を言う場面が再生されているが、到底上手くいくとは考えておらず、逆に失敗する映像が流れる。そんな心配を余所に、沙希は柚葉を見て不審に思いながらも話しを続ける。
「明日の朝一で言うわよ!」
「でも、心の準備が……」
「そんなのは今日の内に準備しときなさい! こういうことは早めにするのがいいの!」
「う……うん」
強引に話しを進めていく沙希に圧倒されて、柚葉は思わず頷いてしまう。それを見て満足そうに頷き返し、沙希は柚葉の手をとって、家へと再び歩み始める。
「ちゃんとお礼の言葉考えとくのよ。いい?」
「ありがとうだけじゃだめなの?」
在り来たりな言葉を投げ掛けるが、沙希からの返答は却下だった。
「それだとインパクトに欠けるから、もっと良い言葉を選びなさい」
「インパクトって……」
「考えてくるのよ? じゃあねー」
「あっ……」
家に着くと、沙希は別れ際に再度念押しして家へと入っていく。それを見て、柚葉は不安そうな顔をして、足取り重く家へと帰っていった。
ナンパ男たちを撃退した翌日。朝早くに学園へ来ていた沙希と柚葉の二人は、和麻が登校するのを、今か今かと待ち構えていた。
「変なところないかな?」
「大丈夫だって」
そわそわと落ち着きなく、教室の扉を見る柚葉に沙希は言って聞かせる。それでも、不安は取り除かれないのか、様子が変わることはない。
結局、朝のホームルームが始まる手前で、和麻が来てしまったため、お礼を述べる時間がなく。その後の休み時間も、体育や実習などの移動で、まともに接触する時間を取ることができなかった。
昼休みに、言おうと構えるが、和麻は早々に教室から居なくなり、何処かへと行ってしまう。
これには、さすがの沙希も頭を悩ませ、柚葉は落ち込んでしまっていた。何処に行ってしまったのか分からないのである。
そして、昼食を柚葉と一緒に取りながら、沙希はある手段を使うことを提案した。
「こうなったら、手紙作戦に変更するしかないね」
「手紙?」
作戦の内容に思わず聞き返す。
「昨日考えてきたものを書くに決まってるじゃない」
「えっ!?」
「さあ、書いて。今すぐ書いて。私も作るから」
有無も言わさず、沙希は弁当箱を素早く片付けて、自席に戻って紙を取り出し記入し始める。それを見て、柚葉は諦めたように、同じく弁当箱を片付けて、こそこそと、周りから見られないように手紙を書き始めた。
途中、ふと視線を感じて柚葉が顔を上げると、既に書き終わったのか、沙希が柚葉の手元を覗きこんでいた。具体的には手紙の内容を。
柚葉は急いで紙を手で覆い隠し、沙希に問いを投げ掛ける。
「もう書き終わったの?」
「そんなのすぐよ、すぐ。
それよりも、結構長く書いてるみたいだけど。どんなこと書いてるの?」
「見ちゃダメ」
「あー……。わかった。見ないから早く書いちゃって」
柚葉の頑なな態度と、壁に掛けられた時計を見て答える。昼休みの時間は、終わりへと近付いていた。
結局は、残りの昼休み時間中に手紙は完成しなかった。そのため柚葉は、午後の授業を使い書き終えることになる。
和麻は昼休みの時間が終わるギリギリになって教室へと戻ってきた。その手には、本が数冊抱えられている。その本を見て、図書室に行っていたのが分かり、沙希は悔しがる。よく考えれば、授業中よく図書室の本を読んでいたのである。
手紙は、午後からの最後の短い休憩時間に渡すことにして、授業を受けた。
柚葉と和麻の席は一番後方にある。柚葉は、横をチラチラと忙しなく見ていたため、当然の如く目立っていた。いつも、大人しく目立たない生徒が余所見をしているのだから尚更だった。
「平井、余所見をするな。授業は真面目に聞け……神凪、お前もだ」
「はい……」
「…………」
先生は、柚葉を注意するついでに和麻を注意した。先生の言葉に、柚葉は小さく縮こまって返事をする。和麻の方はと言えば、先生の言葉など、どこ吹く風と気にも止めず、図書室から借りた本で、違う勉強をしていた。
先生は、和麻に対して話しても無駄と分かっている。しかし、注意したにも関わらず、完全に無視されることに少し苛立ち、声を大きくして発言した。
「ここはテストに出すからな!」
ハッキリと和麻に向けて言っても、和麻は相手にもしていない。それを見て、諦めたように先生は授業を再開する。この光景は初めてではなかった。度々注意を受けるが、全く気にしない和麻に、今では偶にしか注意をしなくなったのである。
テストに関して和麻は、教科書に記載されていることは、ほぼ完璧に答えを書いてくる。しかし、特殊な問題……先生の体験談等についての解答欄は、完全に真っ白だった。書く必要など感じないとばかりに。
授業についてこれないなら未だしも、授業以上のことをしているのを知っているため、咎めにくい。神凪なので余計に、だ。
授業が終わり、柚葉と沙希の二人は揃って和麻に向けて歩き出し近付いたところで……柚葉はすぐに沙希の後ろへと隠れてしまった。
「神凪君。今いい?」
「…………」
沙希の問いに、和麻はちらりとその顔を見てから……無視して本を読み続ける。和麻にしてみれば、余計なトラブルに捲き込んできた相手の話など、聞く気にもならなかった。
「怒ってる?」
何も反応しない和麻に、再度確認を込めて話し掛けるが、反応はない。溜め息を漏らしながらも沙希は謝罪の言葉を口にする。
「昨日はごめんね。こっちも結構必死だったのよ。あいつらしつこくてさ。
……中にもう一人の子の言いたいこと書いたやつ入ってるから読んでおいて」
そう言って沙希は、手作り感が溢れる、手紙の入った封筒を和麻の席へと置いた。その言葉に、柚葉は驚いた表情で沙希を見つめる。
沙希は自分の手紙など、書いていなかったのである。書いていたのは宛名などだけで、それを元に封筒作りをしていたのだった。
そんなことは露知らず、柚葉は沙希に、書いた手紙を渡したのである。
「それじゃ」
言いたいことを言い終えた沙希は、自分の席に戻っていく。柚葉は、しばらくその場で狼狽えていたが、休み時間が無いことから、柚葉も慌てたように自分の席に戻っていった。
その手紙のやり取りを見た他の生徒が、沙希へと興味津々といった様子で質問しているが、次の授業の時間がきたことから、各自の席へと渋々戻っていく。
最後の授業が終わると、和麻は席を立ち、封の開かれていない封筒を、教室に置かれたシュレッダーへと入れて帰っていった。
それを見た沙希は怒り、周囲に集まってきていた他の生徒を掻き分けて、柚葉の元に向かう。
「追うわよ柚葉!」
「…………」
手紙をシュレッダーにかけられたショックで、呆然と鞄を持ち立ち尽くしていた柚葉を、沙希は強引に連れて、和麻の後を追いかけていく。
校門を出たところで、和麻に沙希たちは追いついた。
「神凪君! さっきのは酷いんじゃない!? いくらなんでも、シュレッダーはないでしょ!」
「さっきの謝罪はやはり嘘か」
「なんでそうなるのよ!」
やっと口を開いてみれば、第一声が非難する言葉だった。それに沙希は、噛みつくようにして言い返す。
「昨日お前は俺に何をした?
面倒に捲き込むのは酷くないのか?
お前のやった事と、俺のやった事、どっちが酷いと思う?」
「だから、謝ってるんじゃないの!」
「謝ってなんでも済めば、世の中、平和だろうな」
和麻の皮肉に、沙希は一瞬押し黙った。そして、柚葉をチラリと見て和麻に問い掛ける。
「……どうしたら謝った事になるの?」
「俺に関わるな。それと、面倒に捲き込むな」
「それだと、こっちが納得できないから」
「……なんで、お前が納得する必要があるんだ?」
和麻は、沙希の理解できない言葉に眉をひそめ、沙希へと顔を向けて質問する。
「何がいいかなー。ねえ、柚葉は何が良いと思う?」
「おい、聞け」
「えっと……」
一人で話しを勝手に進める沙希に、和麻は話し掛けるが、止まらない。柚葉は、急に振られた話題についていけず、また、和麻が怒ったような表情をしているため、戸惑っていた。
「そうだ!
それなら、デートっていうのはどう?
うん。我ながら良い考え」
「いらん」
「いつにしようか?
やっぱり早い方がいいよね……じゃあ明後日の日曜十時に決定ー」
「…………」
決定事項を伝えてくる沙希を、和麻は無視して歩みを進める。何を言っても無駄であると分かったからだ。
「待ち合わせ場所どこにしようか?
それ以前にどこに行くか決めないと。
まあ、楽しみにしててよ」
先行する和麻に、確認もせず話しを続ける。柚葉は、和麻と沙希を交互に見るだけで、何も言えず黙ったままだった。
一方的な話し合いは、和麻と別れるまで続き、その間、沙希一人だけで話し続けていた。あとの二人は黙ったままである。
和麻と別れて二人になり、しばらく歩いたところで、沙希は柚葉に話し掛けた。
「さてと、デートコース考えないとね」
「神凪君、嫌がってたよ……」
「あんなのは照れ隠しに決まってるって。
今までデートなんてしたことないから、つい拒否しちゃったのよ」
「でも……」
「いつまでもうじうじしない!
決まったことはもう覆らないよ!」
何か言いたそうな柚葉の言葉を遮り、態度を改めるように言い聞かせ、無理矢理納得させる。その目は拒否を許さなかった。
言い出したら聞かない沙希に、柚葉は諦めたように溜め息を漏らす。幼馴染みなだけはあり、こういった時の頑固な性格をよく理解していた。
「分かったから落ち着いて……」
「分かってくれた?
それなら、場所は今日の内に考えておいて。明日聞くから」
「……うん。それと、今更言いにくいんだけど……」
「何?」
言いづらそうに柚葉は沙希に答える。
「沙希ちゃん、鞄を忘れてるよ」
「えっ? ……ああ!?」
自分の手に何も持っていない事を確認し、声を上げ、次いで柚葉の手元を見る。そこには、鞄がしっかりと握りしめられていた。
「柚葉狡い……」
「気付いたのは、ほんのさっきだよ」
家は目前まで迫っており、今から歩いて戻る気にもなれず、沙希は車で学園へと戻ることになったのだった。
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5話
和麻は、自分の周囲を騒がしくする沙希に、少しずつ苛立ちを感じ始めていた。
人の意見を汲み取ろうともせず、それ以前に話しを聞かない。そして、極めつけは、謝罪の押し売りである。いらないと完全に否定したにも関わらず、謝罪の内容を勝手に決めて、その内容について話しを進めていく。和麻の事などお構いなしに。
そして、それは翌日になっても続いていた。
朝は何時も通り、時間ギリギリに学園へと着いたので、話し掛けられることはなく、和麻は安心……油断していた。相手の行動力を甘く見ていたのである。
その後の、授業の合間の休憩時間全て、もう一人の女生徒───柚葉を連れて、沙希は和麻に話し掛けてきた。
その行動が周りの目を引かない筈もなく、また、昨日の事情を授業が始まる前……和麻が登校する前に、他の生徒に話しをしていたため、和麻の周囲へと、その話しの続きを聞こうと、自然に生徒が寄って来たのだ。
どのような説明をしたのか。周囲の和麻への対応も変わり、一緒になって話し掛けてくる。それでも、いつもと変わらず、和麻は無視し続けていた。
(その内飽きるだろう)
和麻の考えを嘲笑うかのようにそれは続く。土曜日なので午前中までの授業を終えて、早々に図書室へと移動した和麻を追って来たのである。そればかりか、和麻の座る対面へと座りこみ、話し掛けてくるのだ。図書室で、選んだ本の内容を、静かに読んで確認しようとしていた和麻にとっては、かなりの迷惑行為だった。
(謝罪という名目で嫌がらせをしているのか?)
同じく図書室にいた他の者も、よい顔をするわけがなく、一人騒がしくしている沙希と、同席している者へ、非難を含む視線を向けてくる。
流石の和麻も、沙希の行動には、いい加減しつこく感じていたため、再び重い口を開いた。
「明日はショッピングモールの噴水のところで待ち合わせね」
「……もう一度だけ言うが、俺は行かない」
「遠慮しなくていいから。
はい、これ、私の連絡先」
話しの噛み合わない相手に和麻は、冷めた視線を投げ掛ける。しかし、沙希はその視線に全く気付かず、電話番号の書かれた紙を和麻に渡して、自らの隣に、置物の様にして固まって動かない柚葉を見ながら話していた。沙希は柚葉を気にしていたのである。
柚葉は、近くに沙希以外誰もいない(と思っている)場所。対面に異性。しかも、それが惚れている意中の相手ということで、緊張していたのである。今回は沙希という壁もなく、向かい合う形であるため、柚葉の中では、和麻と二人きりでいる感覚に陥っていた。そして、その思考は妄想の世界へと旅立ってしまう。
「(ほら、柚葉も何か言って! 柚葉がメインなんだから!)」
沙希は和麻と柚葉との間にも話しを繋げようと、固まってしまった柚葉を見て、少し慌てたように小声で話し掛けながら揺さぶるが、反応はない。
「(ちょっと! 柚葉! しっかりして!)」
その言葉に、大人しくて臆病な性格の、ましてや妄想の世界へと旅立った柚葉が応えられる筈もない。
そんな小さな応援を沙希がしている間に、和麻は帰り支度を済ませて席を立ち、借りようとしていた本を棚に戻していく。そして、ここにもう用はないとばかりに、そのまま図書室の出入り口に向けて歩き出した。
図書室の担当の先生が来るのを、本を読みながら待とうとしていたのを変更したのである。
「神凪君! 待ってるからね!!」
そんな和麻に向けて後ろから声が掛けられる。沙希は、席に座ったまま固まって動かない柚葉を、立ち上がらせようと悪戦苦闘していて追いかけることができなかったのだ。
そんな二人を置いて、聞こえてきた声に碌な返事もせず、また、立ち止まらずに和麻は家へと帰っていく。
図書室に残された二人は、しばらくその場に大人しく座り込んでいた。それにより、図書室に静寂が戻ってくる。
沙希は柚葉の硬直が解けるのを、その顔を見ながら待っていた。真っ赤に染まったその顔を。
柚葉の意識が現実世界に戻ってきたところで、沙希は呆れと共に話し掛ける。
「あれ? 神凪君は?」
「先に帰っちゃったわよ」
先ほどまで和麻が座っていた場所を見て呟き、キョロキョロと辺りを見回す。そこには当然和麻の姿はない。
「そうなんだ……」
肩を落として落ち込む柚葉。そこには、後悔も含まれていた。
ひと言も話し掛けることができず、目を合わせることすらできない。そんな自分に。
その想いを汲み取った沙希は、柚葉を元気付けようと励ます。
「明日! 明日が本番だから! まだ大丈夫よ!
今日のは予行演習だからね!」
「ありがとう……明日だね。
……でも、神凪君来てくれるかな?」
「来なかったら男じゃない! その時は変な噂をばら撒いてやる!!」
沙希は拳を握りしめて、和麻の出ていった出入り口を見ながら熱く語る。
「それはやりすぎなんじゃ……」
「それくらいが丁度良いのよ!
むしろ、それくらいしても罰は当たらないわ!」
柚葉を説得するその言葉には、謝罪をするという目的が、すっかりと抜け落ちていた。
そんな大声を上げていれば、当然の事が起こる。
「あなたたち、図書室では静かに。
できなければ退出しなさい」
昼食を終えて戻ってきていた先生に咎められる。他の生徒たちも同様に、思いを同じくして沙希たちを見つめていた。
沙希は「あははは……」と誤魔化すようにして、ひきつったような笑みを浮かべながら、恐縮している柚葉を連れて、図書室を後にした。
注意した先生は、自分の指定席にゆっくりと座りこむ。図書室の主が戻ったことで、再びその場には静寂が戻ってきた。
日曜日当日。
沙希と柚葉の二人は、予定時刻の十数分前に噴水前へ到着していた。その噴水の周りには、二人と同じような待ち人が多数いる。カップルだったり、友達だったりとバラバラだ。
二人は、土曜日の午後からの時間を、デートに着ていく服選びに費やしていた。その結果、劇的に変化したことがある。それは、柚葉のことだ。大人しく、目立たぬようにしていたため気付き難いが、身嗜みをキチンと整えれば、十分に美少女と言える。
その事を沙希は知っており、何度も言って聞かせているが、それでも、なかなか服装や髪型などを変えない柚葉をもどかしく感じていた。
今回の事は良い機会だと、柚葉を自宅へと連れ帰り、着せ替え人形のようにして、メイドたちと共に弄り回していたのである。
メイドたちも嬉々として、その着せ替えに参加したのは言うまでもない。そうして、いつもの姿とはかけ離れた美少女の姿が出来上がった。
時間が近付くにつれて、沙希の表情は険しいものへと。柚葉は不安そうな表情へと、次第に変わっていく。
「まさか、ほんとに来ない気じゃない?
神凪のやつ……」
「でも、まだ時間まではもう少しあるし……」
「男なら時間の前には来とくもんでしょ。
待たせるなんて論外」
腕に嵌めた時計を見る。既に決められた時刻……十時まで後五分を切っていた。未だ、噴水の近くに人混みが多いので見難いが、それらしい姿は見えない。
他の待ち人が立ち去っては、新しく増える中、二人は過ぎた予定の時間を、受け入れられずに、呆然としてしばらく過ごしていた。
そんな場所に長時間いれば、当然のように狙ってくる者がいる。見た目も着飾っているので、尚更だ。
「こうなったら意地でもここで待ってやる!」
「何かあったのかもしれないし……」
「それなら連絡くらい寄越すでしょ!?」
「連絡できない状態かもしれないよ?」
沙希は我慢できないとばかりに、携帯を取り出して電話を掛ける。しかし、そこは人の多い場所。周りの声などの雑音が煩く、受話音が聞き取り辛い。
「ちょっと電話してくるから、ここで待ってて」
「あっ……」
携帯を耳に押さえつけながら走り去る沙希を、呼び止めようとするが、その前に人混みに消えてしまう。
柚葉は残された事に不安を覚え、その場で下を向いて、黙って立ち尽くしていた。
和麻の携帯など知るよしもない沙希は、和麻の自宅へと電話を掛けていたが、電話に出た相手から、居ないことを伝えられる。
「神凪君……和麻君いますか?」
「……いません。用事はそれだけですか?」
「えっ? はい……」
返事を聞くと同時に、電話をきられる。実際にはいるのだが、いないことにされていたのだ。電話に出た相手───母親である深雪によって……。それを勘違いして沙希は受け取ってしまった。
(あいつは何処に行ってるのよ……。まさか、場所が分からないとか、そんなおちじゃないでしょうね?)
困惑しながら、元の場所に戻ってみると、そこには待っているはずの柚葉の姿がない。トイレかと、しばらくその場で待っていたが、柚葉がその場に戻ってくることはなかった。
虫の知らせ。そういったものを信じていたわけではない。しかし、変な胸騒ぎを和麻は感じていた。今までそのようなことを感じたことはない。それが、突如として現れた。和麻は自身の事ながら訳が分からず混乱する。
その囁きに似た、意思に導かれるようにして家を出た。具体的な目的もなく、ただ歩く。しかし、その足取りはしっかりとしたものだった。
誘われる方向は、和麻が行ったこともない場所へと続いていく。その方向に向かうにしたがい、徐々に周囲が、和麻を囃し立てるように、急かすように、圧迫感を与えてきた。
(なんだこれは?)
未知の感覚に戸惑いながら足を早める。風は追い風。その歩みを止めさせぬように吹いてくる。
そうして、たどり着いたところは、学生が行くような場所ではないホテル街。そのひとつのホテルの前ではじめて和麻は足を止めた。
(なんでこんなところに来てしまったんだ……自分の勘も信用できないな……)
来た道を戻ろうと踵を返したところで、突然ホテルの自動扉が開く。そちらへと目をやるが、誰もいない。この時点で和麻は、通常の警戒体勢から戦闘体勢へと身体を移していく。
見えない超上現象。それは、神凪の仕事で十分に経験していた。この場には、自分を保護できる存在はいない。少しの油断が命に関わる。そのような認識のもと、ホテルの前で周囲を警戒していると、突風が和麻へと襲いかかってきた。
和麻は両腕で顔を庇いながら、その腕の隙間から、風の吹いてくる場所を見ようとするが、とても目を開けていられるような風ではない。
風は三方向から同時に、和麻をある方向へと押し流すようにして吹き荒れる。和麻は風を避けるべく、誘導されるように、そのホテルの中へと移動させられてしまった。
ホテルの中に入ると風は止み、開きっぱなしだった自動扉は独りでに閉まる。
(妖魔か、悪霊か……家を出るんじゃなかったな)
自身の迂闊さに後悔しながら、ホテル内を注意深く見回す。ホテル内には何も不審な点は無い。それらを確認ししつつ、外の様子を窺う。外も、来たときと同じく誰もおらず、不審な点も見当たらなかった。
何も起きないことで帰ろうと、再び自動扉に向かったところで、微かに声が聞こえてくる。
「……ットで……な……これで……」
和麻は再び辺りを見回すが、当然誰もいない。不思議に思い、首を傾げていると、再びその声は聞こえてきた。今度は明瞭にハッキリと。
「しっかりと映像撮っとけよ。約束通り撮影会なんだからな」
「当然だろ。それより誰からやるよ」
「俺が一番に話し掛けたから俺でいいだろ?」
「じゃんけんで決めようぜ」
「あの……」
その声はあたかも、すぐ近くで話されているように聞こえてきた。一瞬幻聴かと自分を疑い……妖魔の仕業かと思い直す。
(何故こんな声を聞かせる? 俺に対する精神攻撃のつもりなのか?)
敵の意図が分からずに身構えていると、再び声が聞こえてきた。今度は一人だけの声が。その声には何処か聞き覚えがあるような感じを和麻は覚える。
「誰か……」
そして、次の言葉で確信に至った。
「沙希……助けて……」
沙希という言葉とその声から、最近沙希と一緒に和麻の元へ来ていた女生徒であると分かる。
(意味が分からないな……妖魔が人質を取るなんて聞いたことないし、かと言って有り得ない訳じゃない。まあ、俺には関係ないな)
自動扉に向かい外に出ようとしたところで、外からまたしても突風が、逃がさないようにと、和麻目掛けて吹いてくる。
一時、ホテル内へと避難し、どうしたものかと考えていると、声の内容はどんどん先へと進んでいく。
「それじゃあ、まずはこの水着に着替えようか」
「その前に、そのままで撮影だろ」
「元の状態を撮っとかないとね」
「それもそうだな」
「止めてください……」
声と共にカメラのシャッター音まで聞こえてくる。
(この内容に意味があるのか?)
その声と音に意識を向けると、今まで味わったことのない高揚感に包まれ始める。まるで、世界の全てを見聞きすることができるような、そのような感覚をしばらく受けていた。
和麻の脳裏に、先ほどの声のする部屋と思わしき場所の映像が浮かび上がる。和麻はその映像には見向きもせずに、その語りかけてくる存在にこそ注意を向けていた。
その存在とは、風の精霊。精霊の存在を知ってはいたが、見るのは初めてである。しかし、それが風の精霊であることを和麻は無意識で理解していた。
(これが精霊か……しかも風とはね。道理で火の精霊の声が聞こえないわけだ)
和麻へと、常に語りかけていたのは、風の精霊だったのである。ここにきて初めて、火の精霊の声が聞こえなかったことに納得した。
風の精霊は、和麻へ部屋に向かうよう囁いてくる。
このような昼間からラブホテルを使用する者は少ない。空き部屋のパネルを見ると、借りられているのは一室だけだった。
先ほどのやり取りはどんどん進んでいる。
「別段助ける義務も義理も無い相手なんだが?」
風の精霊へ和麻は語りかけるが、それに異を唱えるかのように、風の精霊が集まりだす。
「分かったよ……。
俺も術者に成れたことだし、色々と試したいからな」
和麻は該当する部屋の前へと移動していく。頭の中では、未だに映像が流れていた。服を男たちに剥ぎ取られ、下着姿になり、無理矢理ベットに押さえつけられる柚葉の姿が。
部屋にロックなど無いかのように、和麻は入っていく。扉を開ける音は、和麻の操る風によって、他に聞こえないように完全に遮断されていた。
部屋へと侵入を果たした和麻は、未だに気付かない男たち三人組に呆れる。そして、気付かないうちに、男たちの背後へと回り込み、首筋へと手刀を叩き込んでいく。柚葉に夢中になっていた男たちは、呆気なく全員気絶させられた。
(音も遮断できるし、動きも遥かに滑らかになってる)
先ほどの感触を思い出しながら、自分の身体を見ていると、視線を感じてそちらを見る。そこには、涙を浮かべて座り込む柚葉がいた。
「……怖かった」
呟くように小さい声で言ってくる柚葉に、和麻は何も言わない。ただ、じっとその姿を見ていた。
「怖かったよ!」
立ち上がって和麻に抱きつき、声高に言いたいことを再度強調する。余程怖かったのか、その身体はしばらく震えたままだった。
ただ、和麻は場違いなことを考えていたが……。
(これが役得ってやつか。それにしても、こいつって着痩せしてたんだな)
和麻は自身の胸に押し付けられたモノを感じ取っていた。
そうとは知らず、柚葉は自分の格好に気付くこともなく、泣きながら和麻に抱きつき続ける。
落ち着くまで待つ傍ら、和麻は風で建物の構造を把握していく。
やることは決まっていた。証拠隠滅。
こんな場所に入ったことも問題だが、部屋への乱入は更に問題だ。都合がよかったのは、ホテルの従業員はいたが、昼に近い時間帯であるため、食事を摂っていたことだろう。
そんな従業員の、周囲の酸素を少し減らして意識を奪い、部屋の監視カメラを含めて、ホテル内の監視カメラを破壊していく。その後に、記録媒体諸とも部屋を鈍器で殴ったように見せ掛けて風の礫で破壊した。
そこまでしてやっと和麻は安堵の溜め息を漏らす。その溜め息を、柚葉は自分の事だと思い込み、泣き腫らした顔を不安そうにして上げ、和麻を見つめた。
「どうかしたか?」
いつまでも見つめてくる柚葉に、訊いてみるが返答はない。ただ、和麻の顔色を窺うように、黙して見ているだけだった。
「俺に襲ってもらいたいのか?」
「…………っ!?」
和麻の視線は、柚葉の顔ではなく更に下。身体を見ていた。柚葉は視線を追って、自分の状態に気付き、慌ててベットの上のシーツで身体を隠す。
今の和麻に、シーツを使って隠したところで無駄なのだが、それを和麻本人が言うことはない。
「早く着替えろ」
和麻は柚葉から、身体ごと後ろを向き、見ないことをアピールする。それを確認してから、シーツを纏ったまま柚葉は移動をしていく。沙希から借りた服へと。
その服は所々が無理矢理に脱がされたせいか、破けていたり、伸びきっていたりと酷い状態だった。それらを見て、再び涙を浮かべながら着込んでいく。
「うっ…………うっ…………」
衣擦れの音と、嗚咽が和麻の耳には聞こえてきていた。
しばらく経って着替え終わったところで、和麻は勝手に柚葉へと向き直る。そこに遠慮など何処にもない。
「でっ?
なんでこんなところにいたんだ?」
新しく風の精霊を操る力―――風術師に目覚めたこともあり、和麻の心には少し余裕が生まれていた。助けることになった少女の話しを聞く程度には、だが。
「……それは……ここに神凪君がいるって……聞いたから……」
「なんで、そんな嘘を信じる……」
和麻は呆れて、まともに何も言えなかった。
よく考えれば誰だって分かることだ。見知らぬ人についていくなど有り得ない。それが例え、待っている相手の名前を出されたとしてもだ。
そんな考えを知ってか知らずか、柚葉は話しを続ける。
「それなら……神凪君はなんでここにいるの?」
「偶々だ。
……お前が数人の男と一緒につれていかれてるのを見かけたから、後を追ってきたんだよ」
少し考える素振りを見せて、白々しく嘘をつく。普通であれば、わざわざこんなところまで、追ってくる必要性がない。それ以前に声を掛けるなりして助けるだろう。そのようなことなど分かりそうなものだが、返答は和麻の予想を越えていた。
「追いかけてきてくれたんだ……ありがとう」
自分で言った言葉にも関わらず、信じられずに和麻は、柚葉を唖然として見つめる。信じるとは思っていなかったから当然だ。
「……信じ過ぎると、今回みたいな目に会う。今度から気を付けろよ」
以前の自分と、重ねて見えてしまう。人を信じて。騙されて。追い詰められて。そんな姿を。
和麻の声からは、いつものような刺々しさはなく、諭すような優しいものへと変わっていた。
他者との接触を嫌っていた和麻の声が、優しいものへと変わった事に、目を見開いて柚葉は驚きを露にする。
「帰るぞ」
そんな事はお構いなしとばかりに、和麻は次の行動を言葉にした。この様なところに、いつまでもいる気は更々ない。
「でも……」
柚葉は自分の服を見ながら、帰ることに躊躇いを示す。最初の頃の服の面影はあるが、見た目としては酷いものだった。
「そう言えば、こいつらの処遇を考えていなかったな」
和麻は、柚葉のその姿を見て、思い付いたように呟く。男たちの脱ぎ散らかした服から財布を取り出し、中身を取って一人の男の上着のポケットに入れる。その上着を柚葉に羽織らせて、そのまま手を掴み部屋を出て、外に向けて歩いていった。
これから行われる、刑の執行を見られないようにするために……。
柚葉にとって、ぼろぼろの服の上に、上着を羽織っただけというのは、十分に恥ずかしいものだった。それに加えて、意中の相手、更に言えば助けてくれた相手に、手を握られているという行為に、顔は真っ赤に染まってしまう。
ホテル街から出たところで、和麻は急に立ち止まった。手を引かれるまま、前を見ずに歩いていた柚葉は、そのまま止まることもできずに、和麻にぶつかってしまう。
どうしたのかと、和麻の顔色を窺おうとしたところで、和麻の方から声が掛けられた。
「お前、今携帯持ってるか?」
突然の質問に、携帯の存在を思い出し、ポケットの中に手を入れて探すが、入っているのは財布だけ。ポーチの中にも入っていない。
落とした場所の心当たりなどひとつしかなく、先ほどまで真っ赤だった顔色が徐々に変わっていく。
「無いみたいだな……」
「…………」
その後しばらく和麻は独り言を呟いていたが、柚葉へと振り向いた時には、その手に携帯が四種類、指で挟むようにして持たれていた。まるで魔法のように。
「どれだ?」
「これです……」
躊躇いながら、その中のひとつを指差す。和麻は指差された携帯を柚葉に手渡し、柚葉が携帯の着信履歴などで意識が逸れている隙に、他の携帯を宙へと投げて、一瞬にして粉々にしていまう。
柚葉の着信履歴は、沙希からのもので埋め尽くされていた。それを見た柚葉は、一緒に来ていた相手を思い出し、慌てて電話をかける。
「もしもし………………うん。ごめんね、心配かけて…………えっと今は……」
電話の相手に、自分の居場所を言おうとして、周囲の目立つ建物が全てホテルであることに気付き、説明の言葉につまる。
「どちらにしても、家に帰らないといけないだろうが」
電話の相手と和麻の言葉に、混乱しながらも、一生懸命答えようとして、そのまま答えてしまう。
「今は、周りにホテルが……」
「帰るぞ」
「あっ、待って神凪君。えっと、取り敢えず大丈夫だから心配しないで、今から家に帰るね。詳しいことはそこで話すから」
和麻から離れないようにと、電話を早々にきる。このような場所に置いていかれては、動くに動けない。
結局、和麻が近くを通ったタクシーを拾ってそれに乗り込み、柚葉は家へと送り届けられた。
そのタクシーの運転手からバックミラー越しに、奇異の目で見つめられながら。
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6話
風術師として、力を手に入れた和麻は、柚葉を送り届けた後、ひたすらにその力を習熟するため、部屋で訓練に埋没していた。それは、今まで出来なかったことを、取り戻すかのような勢いで行われる。
ただ、ただ、面白い……と。
勉強や訓練は、それほど日常から逸脱しない。妖魔や悪霊退治をしてはいたが、その現象をどこか他人事のように見ていたのである。気を練ることで倒せるようになってからも、その見方が変わることはなかった。
しかし、今はどうか───
風の精霊との意思の疎通を円滑にしていき、その風へ自分の意思を乗せる。そうすることで、風を自在に操り、色々なことが出来るようになった。
和麻自身が、日常から逸脱した事で……。出来ることが増えたことで……。余計に訓練へと熱中していく。
そしてそれは喜びへと変わる。その喜びは、計り知れないほど大きなものだった。
世界の見方が変わったのだから、それは至極当然のことかもしれないが───
そのような気分で、翌日学園へと向かう。その表情には、ほとんど変化は無かったが、口角が少し上がっている。そして、足取りはスキップしそうなほど軽く見えた。
周囲の死角は完全に消え去り、自らを客観的に見ることもできる。これは、神凪家として仕事をしているうちは、必須と言ってもいい力だ。仕事以外でも、十分に役に立つことは分かっている。和麻の機嫌が良いのも頷けるものだった。
教室へ入り、自分の席へ向かうと、女生徒が一斉に和麻へと顔を向けて、視線で後を追ってきた。その視線を向けてくる先は、ある生徒の席周辺に偏っている。その生徒とは沙希であった。
「(やっぱり男は狼なのよ。
あれって、何て言うの……むっつりってやつになるのかな?)」
「(そんな風に今まで見せなかっただけなんだ……意外~。
硬派だと思ってたのに……)」
「(結局ホテルで何してたの? する事っていったらアレしかないだろうけど! そこのところを詳しく!)」
「(あそこ付近、昨日事件があったみたいだよ)」
「(私もそこまで詳しく聞いてないけど、ホテルに入ったのは間違いないみたい)」
教室内に限らず、こそこそと話し合う声は、本来聞こえない距離にあるはずだが、和麻にはハッキリと聞こえてきた。
話しの内容から、昨日の件であることが和麻には理解できたが、いつも通り無視して自分の席へと座り、本を鞄から取り出して、机の上に広げて読み始める。
授業開始ギリギリの登校をしているため、周囲でヒソヒソ話しをするのみで、朝に話し掛けられる事はなかったが、休み時間は別だった。先週に引き続き、生徒たちが寄ってきたのである。それも、先週より増えて……。自分の席に座っている生徒も、話しの内容に興味があるのか、聞き耳を立てているのがよく分かる。和麻の周囲以外が、一気に静まり返るのだ。分からないはずがない。
(小さな声まで拾ってくるのは少し問題だな)
風の拾ってくる声を小さく絞り、周囲の声を聞き流しながら、そのような感想を抱く。機嫌が良いため、特に邪険にはせず、いつもの如く対応する。
周囲の話題は、和麻の事で独占状態だった。実際は和麻だけではなく柚葉もなのだが、何も話さない───それ以前に休んでいる。そんな柚葉の代わりに、沙希が代弁していたのである。話しの内容を大きく膨らませて……そうすると、その内容を再度確認するため、質問は自然と和麻に集中することになった。
さすがに、学園の一日の授業が終わる頃。和麻の機嫌は、登校時と比べると、かなり下がることになる。
二日目からは、柚葉も沙希と一緒に登校し囲まれていたが、あちらは沙希によって話しが進んでいくため、余り話さずに済み、矛先が柚葉に向くことは少なかった。
数日は、和麻や柚葉の周囲に集まっていた生徒たちも、すぐに違う話題へとシフトしていく。柚葉はともかく、和麻の方に至っては無視し続け、相手にもしないのだから当然だろう。寧ろ、二日目からは、露骨にイヤホンを耳に着けているのだから、噂の内容について、聞く気も、話す気も無いことは、誰が見ても明らかだった。
それでも、何も言わず、何も聞かずに、ずっとついてくる生徒はいる───柚葉だ。
月曜、初日こそ休んだが、火曜日からの昼休みの時間と、学園が終わってからの帰宅に、和麻の後ろをついてくるのである。沙希に命令されて嫌々なのかと言えばそうではなく、その顔は満更でもない様子。
静かにしているのならば、特に文句はないと、和麻はそのままの状態にしていた。一緒に沙希が居なかったのもあるが、月曜日に学園へ来ていなかったため、一応気にはなっていたのである。
ただ、その光景が、周りから見ると、どう見えるか……。
噂の二人が一緒にいる───その事で、噂に信憑性が増していく。更に噂は拡がっていき、先生の耳へと入るまで、そう時間は掛からなかった。そして、それは要らぬ誤解を先生へ植え付けることになる。
『あーテステス……。一年B組神凪と、同じく平井は、昼休みになったら、生活指導室まで来るように。以上』
面倒臭そうな口調で放送された内容に、和麻は一瞬眉を潜め、周囲も再び俄に騒ぎ出す。噂が収まってきたところへ、再び火種を投下されたのだ。和麻にしてみれば、迷惑極まりない。
(今度はこっちか)
和麻は忌々しげに思いつつ、スピーカーへと視線を向ける。
柚葉は、自分の名前を呼ばれたことに驚きを隠せず、不安そうな顔を和麻へと向けた。しかし、和麻の横顔は至って平然としている。
(よかった……。ひとりじゃない)
その事に、柚葉はひと安心し、次の授業の準備へと取り掛かった。
時間は待ってはくれない。時は経ち、昼休みになる。
和麻は何時も通りに、授業が終わると早々に教室を出ていった。同じくして、弁当を持った柚葉が後に続いていく。その行き先は何時もの場所。図書室である。
図書室についた和麻は、新しく借りる本を選んでいた。先ほどの放送など聞いていないかのように……。
柚葉は躊躇いながらも、和麻の後をついてくる。その顔は、何故、放送で呼ばれた場所へ行かないのかと、物語っていた。
選んだ本を手に持ち、近くの席へと座り、読んでいる途中で、和麻は不機嫌そうな顔へと変化する。そして、どこか諦めたかのように溜め息をついた。
(どうせ、いつかは来ることだし、今言っておくのもいいだろう)
それを見て、柚葉は首を傾げる。それから、本の題名を見ようと、身体を傾けたところで、図書室の扉が開き、誰かが入ってきた。
その人物はスラッとした体型で、スーツをビシッと着こなしている。髪型は見事なほどの七三分けになっており、顔には銀縁眼鏡を掛けていた。その表情はピクリとも動きそうにないほど、元の───無表情なまま固まっている。
聖凌学園で生活指導を担当している教師だった。名前は山南忠憲。学園内でも笑わず、融通の効かない……よく言えば真面目な教師として有名な男だった。
先ほど和麻が眉を潜めたのは、本の内容のせいではなく、遠くから山南が来ていたためである。
山南は図書室内を見回し、ある一点で顔を止めると、その方向へと一直線に歩いていく。そして、目的の場所までたどり着くと、小さく、しかし、確実に相手へ聞こえるように話し掛けた。
「何故、指導室に来ない?」
「何故行く必要が?」
このやり取りについては、これが初めてではなかった。初等部の頃───人格が変わってから、度々呼び出しを受けていたのである。普段の授業態度に問題があるのだから当然だった。
しかし、和麻は決して呼び出しには応じない。結果、先生の方から出向くということになっていた。これまでは、授業時間に他の勉強をしていただけ(それでも十分に問題だが)だったため、定期的な呼び出しはあったが、今回は違う。
学園の規則でも禁止されている、不純異性交遊の項目に引っ掛かった。ただ付き合っているだけならば、特に問題にはならなかっただろう。しかし噂では、二人でホテルに行ったことになっているのだ。そうなれば話しは変わる。
今までは、先生の話しをしっかりと聞くように説得するだけだった。それが───
「噂は本当か?」
「噂とは?」
噂の言及に対して、和麻は平然と問い返す。山南はここで初めて苦々しい顔になる。これだけ、広範囲に噂が広まっているのにも関わらず、和麻は素知らぬ振りをしているのだ。和麻が知らないわけがなかった。それを聞き返してくる和麻に、山南は表情を変えたのだ。
「神凪……お前と平井が不純異性交遊をした件だ」
「した覚えはない」
和麻を見て、少し躊躇い柚葉の名前を出すが、和麻に即答されてしまう。その回答を聞いて、山南のその視線は、和麻から柚葉へと移動していく。和麻に聞くだけ無駄だったと言わんばかりに。
その視線に堪えきれず、柚葉は和麻の影に隠れるようにして、下を向き縮こまる。その様子を見て、山南は和麻の対面の席へと移動し直して座った。
これまで、和麻が他者と一緒にいたところなど、ほとんど見たことがない。よくて、運動会などの催し物の時だけだ。近付いても無視し、誰とも仲良くしようとはしない和麻を、山南は気に掛けていた。
その和麻に、突然彼女ができた上、その先までも一気に進んでしまったと聞いては、生活指導の担当としても、事の真偽を確かめるために動かなければならなかった。
山南は噂を聞いたとき、良かったと思う反面、規則違反をしたのであれば、それなりの処罰をしなければならないと、思考を巡らせる。そして、呼び出しを行い、生活指導室で待っていたのだが……予想通り来なかった。そのため、こうして自らいつも居るであろう図書室へと足を運んだのである。
「平井に心当たりはあるか?」
「……ありません」
和麻の時と変わらず、同じ口調で訊ねる。しかし、柚葉にとってそれは、威圧的なものであり、更に言えば成人男性であることから、ホテルの件がフラッシュバックし、まともに目を合わすことさえ難しかった。
その様子を見て、山南は溜め息をつきそうになるのを堪えて、再び視線を和麻に戻す。
「つまり、噂は嘘だということか?」
「不純異性交遊ということなら、嘘だな……っと、それでは」
図書室の担当の先生が戻ってきた事を、わざとらしく確認し、話しを終わらせて席を立つ。それに続くようにして、柚葉も席を立った。
「待て! まだ話し……は……」
言いかけたところで、和麻の先にいる人物から、凄まじい睨みを利かされ、話しかけようとした途中で押し黙る。図書室で、大声を出した者は誰であろうと、締め出す。山南と同じく、図書室の担当の先生は堅物な人物だった。
借りた本を小脇に抱え、その足で学食へと向かう。学食の販売機の前で立ち止まり、少し迷ったあとに、食券を購入。その後ろには、柚葉は当然のこととして、山南もついてきていた。
カウンターでランチセットと食券を交換し、他の生徒が全くいない席に向けて歩いていき、ランチセットをテーブルの上に置いてから腰を下ろす。それに並ぶようにして柚葉も隣の席についた。
山南は、食券を変えた後に目標を見失ったのか、しばらく立ち止まっていたが、諦めたように、立っていた近くの席へと座り食べ始める。
その様子をビクビクしながら見ていた柚葉は、不思議そうに首を傾げて見つめた。
山南が、和麻から視線を切った際に、和麻が風の結界で二人を覆い、見えないようにしたのである。
その後も、普段通りに授業へ参加し、帰宅する。その間、柚葉との間に会話はない。別れ際に柚葉が「ありがとう」と言うくらいだろう。沙希が居ないのは部活に入っているためだ。別れた後、柚葉は一人になってしまうが、こっそりと和麻の風に守られている。
それらは、日々、和麻の風術師としての技量と応用が、上がっていることを感じさせるものだった。
厳馬と最後に訓練をしたのはいつだったか……。
今は中等部二年の中頃。それは、いつもの如く突然に、厳馬より呼び出されて言い渡された。
「明日、夕方より訓練を再開する」
「急ですね、父上」
厳馬は言い終えると、用件は終わりとばかりに口を閉ざす。その事に和麻も慣れたもので、ひと声掛ける。そして、返事がないのを一応確かめてから立ち上がり部屋を後にした。
(急にどうしたんだ? ……ちょっと調べるか)
風の精霊に働きかけて、屋敷中の情報を集める。風の精霊たちは、分かっているのか、いないのか……無節操に色々な声を運んできた。
「居なくなるまでもうすぐか……長かったの」
「最初からこうしていれば良かったものを……。宗主はなぜこうも期間を先延ばしにしてきたのか」
「継承の儀を何故あやつは受けずに、息子に受けさせるのだ?」
「炎術師ではない者を推薦する理由が分からんな」
「しかも風牙衆より使えぬ者をな」
「やはり、息子に継がせたいのだろうよ」
「この機を逃せば、次はないからの。 宗主も分かって言ったのであれば、酷なものよ」
風の精霊が運んできたのは、主に屋敷の長老たちからの声がほとんどであった。それもそのはずで、長老たちは、集会に参加して意見を述べること以外、やることがないのである。そのため、長老たちの間で暇潰しに何でも会話に盛り込んでおり、いつでも話題に餓えていた。そこへ、話題の種が撒かれたのだ。会話をしないわけがない。
会話の中の言葉から、和麻は自分の事を話していると認識し、更に情報を集めようとするが、後のものは、ほとんどが誹謗中傷ばかりで、聞くに値しないものばかりだった。
余分な情報を削ぎ落として、意味のある言葉へと繋げていく。それは───
『来年』『春』『炎雷覇』『綾乃』『継承の儀』
大まかに五つの単語で構成された紙を見る。
(『来年』の『春』に『炎雷覇』をかけて『綾乃』と『継承の儀』を行うってところか? ……負けたら出ていくことになってるとはね……一応これでも未成年なんだが)
半ば愚痴のように、集められた情報に対して思いを抱く。厳馬の事。負けた場合、確実に家から追い出されるだろうことが、容易に想像できた。そのための訓練の再開なのだろう。
相手は、現宗主である重悟の一人娘───綾乃。
未だ十にも満たない少女である。炎術師としては、厳馬に次ぐ神凪家ナンバー3。炎術師の才能も有り、容姿も良く、頭も良い。天が幾つも与えて産まれた……恵まれた者の典型、と言っても差し支えない相手だった。
次の日。
以前と同じように訓練は始まる。
道場内へ入る前に、警戒心を高めてから、足を踏み入れる。その和麻の姿からは、油断など微塵も感じられない。
ただ和麻にとって、今までの自主訓練が、どの程度厳馬へと通じるのか……この始めの訓練は、その確認の意味合いが強かった。
和麻の警戒心の高さや、その身の熟なしに、和麻が今まで遊んでいなかったことが分かり、厳馬は軽く満足し目を細める。そして、和麻が目の前まで歩いて来たところで、おもむろに拳を和麻の胸へと真っ直ぐに突き出した。
その拳は、軽く身体を斜に構えることで難なく避けられる。これは挨拶だと言わんばかりに、厳馬は拳をゆっくりと戻していき……戻しきると同時に、今度次々と、突きだけではなく蹴りまで放ち始める。それは、フック気味に死角から顎を狙いつつ、そちらに意識がいったところに足払いをかけるなど、フェイントを混ぜていき、多種多様な攻撃を仕掛けていく。
しかし、その全ての攻撃を、予期していたかのように和麻は避け、時には逆に、厳馬へと攻撃してきた。中等部に入ってからは、訓練をみていなかったとはいえ、厳馬にとって、その動きは劇的な変わりようだった。
たったの二年。然れど二年。二年という月日で強くなった和麻に、厳馬は笑みを浮かべそうになる。それを堪えて、更に攻撃の手は激しくなっていった。
気の練り込みは、未だに満足と言えるものではなかったが、その動きには目を見張るものがある。厳馬の手加減なしの攻撃を、避けるのだから大したものだった。
反撃の拳や蹴りについても、及第点はあげられる程度にはなっている。これで厳馬の目的は、炎術師として、和麻を目覚めさせる事に狙いを絞り込まれていった。
そのため、訓練は専ら精神的なものへと移行する。
平日は道場内で、座禅を組ませて、厳馬が和麻の周囲を炎の精霊で埋め尽くしていく。それらは熱量を僅かに持たせていたため、軽いサウナのような状態だった。
休日は遠出をし、火山の噴火口まで登って、しばらく道場内と同じように、炎の精霊を集めていく。
厳馬は内容について何も語らず、和麻についても、厳馬に対して何も聞かない。厳馬はやっていることの意味くらいは、分かるだろうと思っていた。
対して和麻は、精神的な訓練であることは理解していたものの、それが、炎術師の才を開花させるためだとは、ついぞ知るよしもない。綾乃の炎に耐えるためだと思っていたくらいだ。それに加えて、厳馬に聞いたところで、まともに返答が来たためしがないのだ。聞くだけ無駄と、和麻は割りきっていた。
訓練の合間も、和麻は情報収集を欠かさない。対戦相手の力量が、どの程度のものなのか。闘う際の癖やその戦闘スタイル。好き嫌いまで調べていく。
そこまでやるのかと……そこには遠慮などなく、相手が少女だろうと、油断など微塵もない。負けてしまえば、出ていかなければならないのだ。多少なりとも真剣にはなる。
しかし、その思いは途中から焦燥へと変わった。
見てしまったのだ。綾乃が妖魔と闘うところを。
それは、闘いと呼べるものではなかった。金の炎が具現化し、宙に舞ったかと思えば、次の瞬間には全てが終わっていたのである。そこに妖魔のいた痕跡すら残さず、綺麗さっぱりと浄化されていた。痕跡といえば、炎が通り過ぎた焦げ跡くらいだろう。
それからは、どうするべきか、どのように闘うべきかを模索、検討していく。己を高めることは勿論だが、相手への干渉が、どの程度まで出来るのかも含めて行われる。バレないようにこっそりと。
そして、それは春まで続けられた。
厳馬と和麻。二人の思惑がずれたままに……。
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7話
その日の空は雲ひとつなく晴れ渡り、空気は澄みきっていた。そのような日の正午。
太陽が真上に差し掛かろうという時。和麻は父親である厳馬と共に、継承の儀が行われる場所へと向かっていた。
そこは、神凪家の敷地内の一画にある。特に周りを遮る障害物はない。ただ、継承の儀が行われるであろう場所の四方に、大きな松明がひとつずつ設置されている。
そこを区切りとして、線が引かれていた。線の長さはほんの二十メートル。その枠の中に引かれた短い線は、二人が闘うに際して、それぞれが立つ位置であることが窺える。格闘技でも一瞬で詰めることのできるような距離……約十メートルだ。術者としての対決でも、もちろんのことながら、必殺足り得る距離である。
区画の四方には、分家の代表者たち四人が、胡坐をかいて座して待っていた。その顔は、和麻がその場に来ると、含み笑いへと変わり、笑いを堪えようと、下を向く者までいる。
「ここで待て」
厳馬は、和麻にその場で待つように言うと、ひとり、奥へと向かっていく。そこには、前宗主である頼道が既に待っていた。その顔には、分家とは違い嫌そうな顔がハッキリと見てとれる。ただの茶番とは分かってはいるが、自分の息子から、万が一にも、和麻へと炎雷覇が渡った時の事を考えているのだろう。ハッキリと厳馬へ睨みを飛ばすが、厳馬の反応が全くないことに軽く舌打ちし、また顔を正面に戻し今度は和麻を睨みつける。和麻は厳馬と同じように、その視線をものともせずに受け流していた。
少し待つと、宗主である重悟と、その娘である綾乃がゆっくりとした足取りで歩いてきた。重悟は少し不安そうに。綾乃は自信満々といった様子で、和麻の方へと近付いてくる。
綾乃は、和麻の隣で立ち止まると、落ち着きなく……そして遠慮なく、ジロジロと和麻を横目に見始める。それはまるで、品定めをしているかのように、和麻には感じられた。
(油断してくれるといいが)
和麻は真っ直ぐ……隣を振り向きもせずに、じっと、これから儀式が行われるであろう場所を見つめていた。
宗主は綾乃を待たせると、歩く速度は変えずに儀式の場の中へと入っていく。少し引きずるように歩くその姿は、足を怪我した際の後遺症が、未だに残ったままであることが察せられた。
「二人ともこちらへ」
重悟に呼ばれて、和麻と綾乃の二人は、ゆっくりと重悟の元へ歩き出す。二人とも、その顔に不安の色はない。
二人は、重悟の前にたどり着いたところで足を止め、重吾へと視線を移す。重悟は二人を見て頷いた。
「これより、この場にて継承の儀を行う。
双方共に炎雷覇を継ぐに相応しき力を見せよ。ただし、この儀式の場から出ることは許さぬ。
場とは移動後に周囲を囲むようにしてできる炎による壁のことだ。出た時点で、決闘から逃げたものとし敗けとする。
……私がこの場から離れた後に、二人はそれぞれの位置へと移動せよ」
重悟は、力の宿った言葉を厳かに言い放った。それに応えるように、周囲の炎の精霊が騒ぎ集まってくる。その莫大な炎の精霊は、重悟の周りを巡ってから、儀式の場の隅々へと漂い始めた。
重悟は、宗主として用意された席へと歩いていく。その際、通る場所にいた火の精霊を、一部引き連れて移動していった。炎の精霊は、重悟の意思に惹かれるようにして、その後ろをついていく。炎術師の誰もが、この儀式の場において、炎の精霊を一番に操れる者が誰であるのかを、強制的に理解させられた瞬間だった。
重悟が儀式の場から出ると同時に、和麻と綾乃の二人は、それぞれに背を向けて、自らの立つ位置へと移動する。ゆっくりと……一切振り返らずに……それは示し合わせたかのように行われた。そして、たどり着くと、そこで初めてお互いに振り返る。その時には既に綾乃は炎をその身に纏っていた。そして、それに合わせるようにして、分家の者たちによる炎の壁が出来上がる。その壁は向こうが透けて見えるほど薄く、また、高かった。人の身でその壁を超えることは無理だろう。
(最初から炎を纏っているか……油断は無さそうだな)
和麻は圧倒的不利な中においても、その顔に微塵も焦りを見せず、ただ事実を受け止める。速攻による決着は難しい。しかし、相手の年齢は十に満たない。その精神は、実戦を見ていた和麻からすれば、未熟もいいところだった。
言葉による合図もなく、継承の儀は始まる。しかし、代わりの合図はあった。それは、炎の精霊による松明の爆発によるものだ。壁ができた後に、四隅の松明が弾け飛んだのだ。その火の粉は、炎の精霊により、儀式の場の地面へと撒き散らされ、二人を包む周辺の空気も熱くなり始める。
最初に動いたのは綾乃。その炎は金。それは、綾乃の周囲に渦巻いていた炎から和麻へと放たれた。目標など特につけていない。ただ、目の前の人物を燃やす。それだけを意識した、攻撃と言えるかもあやふやなものだった。
和麻はその炎に当たったと見せかけて、ギリギリまで引き付けてから避ける。そして、油断しているであろう綾乃に、一足飛びで向かっていった。
二人の距離は、ほんの十メートルもない。厳馬と共に鍛えてきた和麻にとっては、一瞬に過ぎない距離だったが、さすがは宗家の娘か。和麻に金の炎を放った直後には、再び炎の精霊を呼び寄せて、己の周囲に纏っていたのである。
その姿から、綾乃は和麻に対して、特に油断も慢心もしていない事がよく分かる。ただ、一撃で終わらなかったことに、多少の驚きを表情に出してはいたが。
(誰かの入れ知恵か?)
綾乃からの攻撃を、避けた直後にできるであろう隙を狙っての速攻を諦めて、一旦距離をとり、宗家と分家の者たちを風で視る。その者たちは、一部を除き、侮蔑の視線を和麻に向けていた。端から見れば、和麻が綾乃から逃げたように見えるのだ。それは敵前逃亡に等しく、神凪家としては恥ずべき行為。
和麻にしてみれば、最終的に勝てばいい。それだけを考えて引いたに過ぎない。必勝意外にあり得ない。負けることなど許されないのだから。
重悟は、心配そうな顔を綾乃へと向けていた。二人の体格差は、年齢が六歳も違うのだ。それだけでも十分な驚異になる。
この日のために、訓練は受けさせてきた。普通の訓練であれば、空いた時間を使って見ることが出来るが、実戦は違う。宗主自らが動くわけにもいかず、かといって才能がない自らの父親である頼道や、綾乃の対戦相手……和麻の父親である厳馬に頼るわけにもいかない。そうなると、外へまともに出られぬ身としては、分家から選ぶことになる。
重悟は、周りから何も言われないが極度な親馬鹿だ。宗主としての威厳は、最低限度弁えてはいたが、通常それ以外の場では、表情は変わらずとも、綾乃を第一優先として動いている。初めての子供なのだ。可愛くない訳がなかった。そして、それは宗主としての肩書きすら利用するまでに至っている。
当然の結果として、綾乃の護衛に任されたのは、分家の中でも有識者であり、高い実力を持っている大神雅人になった。不服を申し出る者も少しはいたが、それは長老たちのみ。他の者は、不満はあっても、それを決して口に出したりはできない。そういった歴然とした格付けが神凪にはあった。
そうやって綾乃を、少しでも宗家を継ぐに相応しい、力ある者へと鍛えていった。
今回は、厳馬の息子との勝負。綾乃に出来うる限りの力は注いだつもりだった。これで、和麻に負けるのであれば……どちらが炎雷覇を継ごうとも問題はない。重吾が心配するのは、二人ともに大怪我をしないかどうか。その一点のみに集約される。
重吾は願う。大過なく継承の儀を競うこの闘いが終わることを。
厳馬は、いつもの厳格な表情を変えることなく、和麻と綾乃を見つめている。しかし、厳馬も、重悟と同じく内心では心配していた。心配というよりも、不安と言った方がいいだろう。
これまで延々と、炎術師に目覚めさせるために訓練してきた。しかし、その訓練の中で、一度たりとも炎の精霊を操ったことなどない。それどころか、炎の精霊の声が聞こえたこともないようだった。
時には妖魔との闘いで、死の縁にまで追いやったこともあった。また、ある時には、何も燃やさぬ金の炎で、和麻の身体を包み込んだりもした。
それらの訓練が、実を結ぶことを願いながら毎日行ってきたのだ。継承の儀。その当日になった今となっても、その想いに諦めはない。……ないが、不安であるのも否めなかった。
力のない者は厳馬にとって許せる存在ではなかった。炎雷覇を継ぐとなれば尚更だ。今の宗主、重悟が継ぐまでその父親である頼道が炎雷覇を所持していた。所持していただけで、満足に扱えもしない。ただ、神凪家の均衡を保つためだけに引き継いだのだ。これほど勿体ないことはなかった。炎雷覇は炎術の才があってこそ意味あるもの。才なき者には無用の長物。だからこそ、厳馬は和麻を鍛え、炎術に目覚めさせようと躍起になっていたのだった。
厳馬は願う。和麻が炎の才に目覚めることを。
綾乃は自らの炎を避け続ける和麻に呆れていた。
幼い頃から父親の指示の元、厳しい訓練を行ってきた。もちろん嫌々ではなく、自主的にだ。そして、実戦も数多く経験してきた。その綾乃から見てみれば、逃げ惑うように見える和麻に、そう感じるのも仕方ないのかもしれない。
しかし、大神雅人より、誰が相手であろうとも油断をしてはいけないと、常に口を酸っぱくして言われ続けてきた。例え相手に、炎を操る才がなくとも油断はしない。油断はしないが、結果の分かりきったこの勝負。炎雷覇を継承する者が誰なのか……それが既に分かっている。今、行っているのは作業に過ぎない。
綾乃は願う。早く継承の儀が終わることを。
三人それぞれの考えとは別に、継承の儀を巡る争いは、一種の膠着状態になっていた。炎が巻き起こり、それらが全て和麻を襲う。和麻は、それを全て見切り、避けれるものは避け、無理なものは風で流れを変えていく。
それの繰り返し。
傍目には、和麻が押されているように見えるが、内面は違う。和麻の表情に変わりはない。しかし、綾乃は違った。同じことが、ずっと繰り返されることに、我慢の限界が来ていたのだ。
そして、均衡は崩れる。
「ああ! もう! 何で当たらないのよ!!」
それまで、最初の場所から動かずにいた綾乃が、大声をあげながら、和麻へと真っ直ぐに突き進んでいった。その行動に迷いはない。なぜ当たらないのかと、イライラしながら和麻へと突進する。
そして、和麻の左右に炎で新しく壁を作り、避けられないようにしてから、炎を纏ったまま、綾乃は和麻へと殴りかかった。ただ真っ直ぐに……。その炎は、綾乃の気持ちを表すかのように、激しく燃え盛っている。
それは、和麻のボディへと、捩り込むようにして入っていき───和麻をすり抜けた。突進の勢いがついていたため、綾乃はたたらを踏むようにして、和麻がいた場所を通り過ぎ、慌てて立ち止まろうとするが、その行動は遅すぎた。
綾乃の背後から、風のひと押し。
この風により、綾乃は継承の儀の場所から押し出されてしまう。
元々、自分の力を相手へと全て叩き込める心算だったのだ。それが叩き込むどころか、掠りもせず通り抜けた。避ける隙間など作ったはずも無い。それほどまでに、炎の壁は厚く、長く、高く展開していた。
しかし結果はどうか……。綾乃の居る場所は、継承の儀を行う場所の外。驚きのあまり、綾乃は振り返って、継承の儀を行う場の中央に、悠然と立つ人物を見つめてしまう。
周囲も、何が起こったのか正確に把握できずに、呆然した表情で、何も言えずに和麻を見つめていた。それに伴い、和麻を───継承の儀の場を囲っていた炎の壁が消えていく。
(これで勝ちだな)
和麻は額の汗を拭い、綾乃を見た後に重悟と厳馬へ顔を向ける。勝負が終わったことを確認するために。
そこに、和麻の望んでいた顔と声はなかった。和麻の視線の先にあるのは、重悟と厳馬の苦渋に満ちた顔。重悟に関しては分かる。綾乃が敗れたからだ。これまで、訓練を課してきたのに負けたのだから。
しかし、厳馬はなぜか……勝ち方に問題があったのか……と、疑問に思ったが、そうでないことが、重悟からの言葉で分かる。
「和麻……確認したいことがある」
「なんでしょう?」
「お主は風術が使えるのか?」
「ええ。
……それが何か?」
和麻の答えに、重悟の顔が更に歪むのを見て、一瞬不思議に思いながらも、和麻は問い返した。
「風術師に炎雷覇を継がせることはできぬ。
───この勝負は……綾乃の不戦勝とする」
「勝負には勝ったはずですが、それすらも認めないと?」
「これは勝負以前の問題なのだ……。
炎術師ではなき者が、継承の儀を行うこと自体があり得ぬこと。
……すまぬ……」
苦々しげな表情で、重悟は和麻へと頭を下げた。周囲は、重悟の言葉で現実に戻り、口々に罵り出す。
「言葉を慎め!!」
「風術師だったなどと!
……恥じ知らずが!!」
「宗家でありながら、下術に手を出すなどあってはならぬことだぞ!」
「風術師の分際で、継承の儀に参加した罪は重い!!」
今までの鬱憤を晴らすかのようにざわめき立てる。そこに厳馬の息子だからという遠慮など最早なかった。
それらの言葉を聞くにつれて、和麻の目は冷めていく。
「その風術師……下術に負けたのは誰かお忘れですか?
負けた相手はどう言われるのでしょう?
そう言えば、風術すらなかった相手に負けた人もいましたが……その人はどうなるんでしょうか」
和麻の嫌味に、それまで捲し立てていた者たちは言葉を飲み込む。しかし、止まったのは一瞬のこと。再び和麻に対して批判し始めた。
「それは……お前が卑怯な手を使ったからではないか!!」
「そ……そうだ! そうだ!」
分家に交ざり元宗主である頼道も、一緒になって囃し立てる。厳馬は目を閉じて、何も言わず黙していた。綾乃はどうしていいのか分からず、父親である重悟を不安そうに見つめる。そして重悟は―――拳を握り締めて息を吸い込み、分家たちの言葉を遮った。
「静まれ!!」
気合いの入った一喝により、一気にその場に静寂が訪れる。重悟の周囲には炎の精霊が、重悟の想いに応えるようにして大量に集まってきた。
雰囲気からも、重悟が怒っているのが分かる。そして、その場の視線は、全て重悟へと注がれていく。
「予定通り、綾乃への継承の儀を執り行う」
その言葉を合図にして、それまで動かずにいた厳馬が動いた。その表情には、特に変化はない……ないが、行動は違った。
「継承の儀に関係無き者が、そこへ立ち入るな」
厳馬の言葉に従って、蒼炎が和麻を追いたてる。さすがに、蒼炎に対して何かができると、和麻は思ってはおらず、素直に継承の儀の場を出ていく。
厳馬は何も言わずに、和麻へ視線を送るとその場を後にした。その視線には言外に、ついてくるように……と、語っているのが和麻には分かり、その後に続く。そうして和麻も、何も言わずに、その場を去っていった。
「……綾乃……ここへ」
後ろで元気のない重悟の声の少し後。再び継承の儀が行われる場所に、炎の壁ができたのが分かった。
継承の儀は、形は違えど、その場にいた厳馬以外の願いが、叶う形となって終わりを迎える。
和麻は厳馬の後をついていき、厳馬の部屋へと入っていく。厳馬は何も言わずに、座布団の上に胡座をかくと、腕を組み、目を閉じて黙りこんだ。
厳馬が、何を伝えたいのか分からず、和麻は部屋に入ったままの状態で立ち尽くす。そして、その沈黙の時間は、和麻に考えることを強要してくる。
なぜ、風術師がいけないのか。
なぜ、勝ったのに不戦敗にさせられたのか。
なぜ、厳馬は何も言わないのか。
なぜを言い出せば限りがない。
厳馬が、急に和麻を鍛え始めたことに対して、自分で情報を集めた上で、何も言わずに従った。継承の儀の作法など、何も教えられなかったため、綾乃に合わせて、あの場では動いた。そして、途中から幻影を見せることで、綾乃の後ろに回り込み、綾乃の隙……若しくは炎が途切れるのを待ち、我慢できずに飛び出したことで、できた隙をついて勝った。そう。勝負には勝ったのだ。
そうして、勝った結果が先程の内容になる。しかし、出てきた言葉は、称賛などとはほど遠いものばかり。それどころか、逆に貶すもの。そして、風術師には炎雷覇を継ぐ事ができないという言葉。和麻が納得できないものばかりだ。
しばらく立ったままで考え事を続けていると、厳馬が口を開いた。
「いつからだ?」
その言葉は、静かに、ゆっくりと和麻を問い質す。特に感情は込められていない。感情が感じられないと言った方がいいだろう。
「いつから風術師に目覚めていた?」
和麻が沈黙していたため、再び言葉を改めて問い質してきた。
「……約半年ほど前からです」
厳馬の問いに、和麻は考え事をやめて、視線を厳馬へと向けて答える。
和麻の答えた内容で、厳馬は初めて失望を露にした。それもそうだろう。今まで、炎術師として鍛えてきたのだ。特にこの半年は念入りに……それまでやってきた以上に……徹底的に……。それが無駄だったと分かった。理解させられた。今まで一体、なんのためにやってきたのかと……。
そして、最後に風を使って、綾乃を押し出すまで気付かなかった自分自身を、厳馬は恥じた。
「……そうか……」
「それが何か?」
答えは返ってこないだろうと思いながらも、和麻は訊ねた。事前に集めた情報では、負けた場合出ていくことになっている。これは、負けたことになるのか、和麻には微妙なところだ。
「これ以降、炎術師としての訓練は行わなくともよい」
「───?
分かりました」
予想通りと言うべきか、厳馬は和麻の問いに答えていない。何時も通り自分の意思を伝えるのみ。
和麻は、厳馬の言っている意味が分かってはいなかったが、厳馬の言葉を受け入れた。和麻としては、炎術師としての訓練を行ってきたことなどない。そのため、厳馬の言葉を理解できなかったのだった。
「炎術師ではなき者が、ここにいるはずもない」
「それは、どういう事でしょうか?」
想定していた内容が、次第に現実味を帯びてくる。
「今より、私の息子は煉のみ。以後私に話しかけるな。
……それと、後一年後にはこの屋敷から去れ」
「……なるほど」
ここに至って、和麻は理解した。継承の儀の勝負は、負けたことになったのだと。一年後に去れと言うのは、厳馬にとっては温情だろう。和麻が中等部というのもあるかもしれないが……。
これで和麻は、学園から帰ってからの訓練をせずともよくなった。これからは、一年後に備えて、ひとりで生きていくための手段を考えなければならない。
中身は既に一度社会人を経験している。それに加えて、風術師としての力もある。手段さえ選ばなければ、金を稼ぐ方法はいくらでもあった。しかし、何がいいか……。出来ることが多すぎるのも問題になってくる。
和麻は、納得の言葉を口から出して、静かに厳馬の部屋を後にした。
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8話
周囲は春と言うこともあり、桜が咲き乱れ、鶯が鳴いている。空は昨日に引き続き晴天に恵まれ、雲ひとつ漂っていない。そのような陽気な中を、内心不機嫌な状態で和麻は歩いていた。
宗主からの呼び出しは、厳馬から期限を言い渡された翌日───昼までだった授業が終わり、帰宅してすぐにあった。昨日の今日で何の用かと、和麻は宗主の元へ向かう。
「呼び出しに応じて参りました。
和麻です」
「入るといい」
「失礼します」
和麻の畏まった言い方に、重悟は気軽な声で返す。それでも、和麻の対応が変わることはなく、他人行儀な作法で部屋へと入ってくる。
その様子に、重悟は寂しそうな表情をするが、それも一瞬の事。和麻に座るよう促し、座ったことを確認してから話しを始めた。
「昨日はすまなかった。ああすることしかできなかったのだ。
それでも、分家の者は納得しまいが……。
事前に説明できなかったこと……すまなく思う」
昨日に引き続き、再び謝罪の言葉を口に出して、深々と頭を下げた。そこからは、心底後悔しているのが伝わってくる。
宗主として、他の者が見たならば恐れ多いと、本来であれば、恐縮してしまうような行動を平然ととったことで、重悟の誠意は十分に伝わる。しかし、和麻の言い方が変わることはなかった。
「終わったことですので、気にしておりません」
「そうか……」
全く気にしてない旨を告げられ、重悟は下げていた頭を上げる。この話題をこれ以上話すことはないと、続けて言おうとしていた言葉を飲み込み、和麻の言葉に相槌を打つと、少しずつ話題を変えていった。
「あの後、厳馬に何か言われたか?」
「はい。今後のことについて少々」
「…………」
言われた内容をぼかした上で、平然と応答する和麻に、重悟は唖然としてしまう。和麻が言われた内容について、重悟はある程度予想がついていた。石頭の頑固者。厳馬であれば、あの集会の場で交わされた内容を、実行に移したのだろう。
和麻のこれからのことを考えて、重悟はある提案を和麻へ行う。それは、分家はともかく、厳馬が聞けば、絶対に反対するようなことだった。
「今後の事なのだが───
その前に……神凪に風牙衆というのがあるのを知っておるか?」
「───ある? 外の組織ではなく? あの者たちは神凪の一部だったのですか?」
重悟の言葉に、和麻は軽く驚く。綾乃との対戦のため、綾乃と関係ない情報は省いてきた。今では、綾乃が次にどういった行動をとるかなどの、思考すら読めるようになってきている。しかし、その分、他のことに関しての知識は少なかった。
「……そうだ。まずは、風牙衆のことについて説明しておこうか……」
そこからしばらく、重悟は風牙衆の成り立ちから話始める。
「神凪と風牙。炎術師と風術師。遥か昔のことだが、このふたつは長い間争っていたそうだ。
勝ったのは言うまでもなく神凪。そして神凪は、争った結果ボロボロになり、力のなくなった風牙を哀れに思い、神凪の傘下として組み込んだ」
重悟は一旦言葉を区切り、和麻を見る。和麻の表情には、先ほどのような変化はない。
「そうして、出来たのが風牙衆だ。
……そこから風牙衆には、神凪の仕事の事前調査など、風術を使ったことを主にやってもらっている」
少し言いにくそうに重悟は語る。苦虫を噛み潰したような言い方に、和麻は眉を潜めるが、それもほんの一瞬の事だった。すぐさま表情を元に戻す。
「……これが、今に繋がっているわけだ。そして、ここからが本題になる。
……今後のことだが、お主も風術師であれば、風牙衆に入ってみぬか? 無理強いはせぬし、試しに入ってみるのもよい」
「……それについてはお断りします」
「そうか……」
断られたことに、重悟はガックリと肩を落とした。
神凪と風牙衆の関係は、悪い方へと向かっていた。最初の方こそ、ただ、本当に滅びそうになっていた相手の手をとっただけ、だったのだ。しかし、その考えは時間と共に、次第に薄れていった。
そして、考えが薄れていくだけならばよかったが、時代が変われば人も変わる。
昔は、強くなければ生き残ることさえ難しかった。それほどの戦いをしてきた。己を磨き、破邪の力を持って妖魔を討ち滅ぼしていった。
しかし、それがいつまでも続くはずもなく、周囲の妖魔たちは、滅ぼされるか、封印されるかしていき、ほとんどいなくなってしまったのだ。
残されたのは、炎術師としての絶大な力。その力は、それまで妖魔たちに向けられていたからこそ、問題視されなかったが、向ける相手がいなければどうか……。いつ自分に向けられるのかと、周りが勝手に思い込み、神凪へと揉み手を擦って近付いていく。そうして段々と、持ち上げられることが当然だという、傲慢な考え方へと神凪の者たちは勘違いし変わっていった。
中にはそうでない者もいたが、そういった者たちはこぞって、自らの力を高めることしか頭になかった。
神凪の考え方を諌められるものなどいない。長い歴史の中で、神凪全体の意識は歪められ、それは風牙衆へも波及していく。
力こそが正義なのだと思うようになった神凪は、炎術よりも弱い風術を馬鹿にし始めたのだ。
最初は些細なことだった。何時もと同じように、依頼のあった妖魔を退治する際に、風牙の者がひとり失敗し、窮地に追い込まれたのだ。その風牙の者だけでは、相手を倒すことは叶わない。殺られそうな場面へと、颯爽と駆けつけた神凪の者が、妖魔を瞬きの合間に倒してしまった。
そして、それを酒の肴として、宴会の席で話題に出した。出した話題は徐々に膨らんでいき───風牙衆の者が失敗した───風牙衆の者だけでは敵を倒せない───風牙衆は弱い───風術は弱い……と、認識がズレていく。
弱いから庇護しているのだ。庇護されているのだから、なにをされても文句は言えまいと、思考はエスカレートしていき、今では奴隷の如く思っている者までいる。
そのような考えを宗主となった重悟は嘆き、変えたいと思った。しかし、長い間蓄積されてきた考え方や意識は、そう簡単に変わるものではない。
だからこそ、神凪である和麻が、風牙衆に入ることで、意識の改革をしようと思ったのだ。
その願いは和麻へと届かなかったが……。
和麻には、風牙衆に入らなければならない理由は特になかった。逆に、入ったことで何かあるのでは?───と、重悟を疑い始める。
「では、個人的に仕事の依頼などをしても構わぬか?」
こちらならばどうかと、重悟は和麻を窺う。
「……内容によります」
言い渡された期限までに、お金を稼ごうと考えていた和麻にとって、重悟の言葉は渡りに綱だったが、内容を聞かないうちから、判断をすることはできなかった。
「綾乃と共に妖魔を祓う仕事だ。
基本的にお主が戦うことはない……戦うのは綾乃のみ。お主にはサポートを任せたい」
「サポートと言っても色々とあります。具体的にどのようなことでしょう?」
「綾乃が動きやすいように、場を形成することだ。
……まだあれは幼いからな」
「…………」
重悟の答えに、和麻は目を閉じて考え始めた。重悟の答えは曖昧なものだ。しかし、言いたいことは伝わってくる。
妖魔を祓うことに関して、先程の話から、調査や探査は風牙衆がやってきたことが分かる。それを和麻に割り振ろうという内容だ。
「……相手と報酬次第で考えます」
「そうか!」
和麻の熟考して出した答えに、重悟は嬉しそうな表情を見せる。
「では……周防!」
重悟の呼び声に、突如としてスーツ姿の男が現れた。その現れ方に、和麻は目を見開き驚く。風術師として、周囲の警戒は常にしてきた。そして、探知には自信を持っていた。それにも関わらず、感知できなかったのだ。驚愕しない方がおかしいだろう。
「段取りをつけてくれ」
「分かりました」
周防は、現れた時と同じように消えていく。それを和麻は警戒して見ていたが、どうやって消えたのか、知ることはできなかった。
数日後に連絡手段として、携帯電話を渡された和麻は、その週の土曜日の夜間───綾乃と共に仕事の場に向かっていた。その運転手には周防が、初仕事ということもあり、保険として大神雅人も一緒についていく。
「眠い」
「我慢しろ」
綾乃の呟きに、和麻は即答する。その和麻の言葉で、車の中だというのに、精霊たちがざわめき始める。
原因は綾乃だった。不機嫌そうな表情を隠そうともせずに愚痴を漏らし続ける。
「眠たいものは眠たいの!
大人には分からないかもしれないけどー。
それに明日のこともあるから早く帰りたい……」
言った傍から、欠伸をし、頭を前後左右にふらふらと不規則に振り始める。それを呆れたように見ながら、窓を少し開けて風を入れ換える。
まだ、春に入ったばかりな上に、深夜と言うこともあって、風は冷たい。その風に当てられて、綾乃は強制的に目覚めさせられる。
「寒いっ!! 閉めてよ!」
「着くまで頭を冷やしていろ」
綾乃の言葉を無視して、和麻はこの先にいる敵について、目を閉じて意識を集中していく。
冷たい反応しか返さない和麻を睨み付けて、綾乃は和麻が開けた窓を閉めようと手を伸ばす。しかし、尽く和麻の無意識の対応によって、その手は打ち落とされていった。
その後も攻防は少し続いたが、綾乃が腰を浮かしていたことと、道の舗装がなくなった箇所に車が入ったことが重なり、綾乃は和麻の膝の上に身体を預ける形になる。
初等部とはいえ女の子である。少し年上の異性───しかも膝の上に乗ったとあらば、恥ずかしいという思いを抱くには十分だった。乗ってしまった直後は、思考が混乱して身体は固まっていたが、意識を取り戻してからは、急いでその状態から逃れようと暴れだす。
その暴れるという行為に和麻の無意識は反応し、暴れる綾乃の首筋へと手刀を叩き込んだ。それにより、綾乃は完全に意識を失い、そのまま和麻の膝の上で倒れこむ。
それを前の座席に座って、黙ってルームミラーで見ていた雅人は、綾乃の我が儘を簡単にあしらってしまう和麻に感心していた。
現地の状況を把握して戻ってきたところで、和麻は膝の上に乗る違和感に気付く。車内は薄暗く見通しは悪いが、和麻には関係なかった。車内の空間を把握し、それを頭の中に、映像として映し出す。
そして、その違和感の正体を突き止めたところで、深く溜め息を漏らした。
「あと一キロほど進んだところで停まってください。そこからは車では行けないので歩きになります」
「分かりました」
周防の返事に頷いて、和麻は綾乃をそのままに、先の事について話を進めていく。
「時間としては───
往復を考えて三十分ほどで戻ります」
「三十分とは……難しくはないか?
弱いとは言え、今回は範囲が広いのだぞ?」
「問題ありません。敵は既に捕捉してあります」
雅人の心配そうな言葉に対して、簡潔に答えを返す。必要以上に口を出すなと言わんばかりだ。
実際、和麻は綾乃の意見に賛成だった。主に早く帰るという点はだが……。
前金として数万円を既に和麻は貰っている。失敗した場合は、後金無し。通常の術者に頼むよりも遥かに安いが、初めての依頼であり、和麻としても文句はなかった。むしろ、移動手段についても、用意がされていることに驚いたほどだ。
ここに来るまでの過程で、和麻がしたことなど、ないに等しい。和麻は綾乃と一緒に行くだけが依頼内容のようなものだった。
そのような内容の依頼に、文句などでるはずもない。
綾乃のサポートとして、もうすぐ到着することもあり、敵の前で眠気などにより、余計な苦戦をされては困ると、目を覚まさせるつもりで和麻は窓を開けたのだが、敵情視察から意識を戻してみれば、綾乃は膝の上で寝ている始末。それほど眠かったのかと、和麻は意識を切り替えて、綾乃を寝かせることにしたのだった。
途中から舗装の途切れた山道を進んでいく。辺りに街灯などの灯りはもちろんない。
「ここで停まってください。
……おい、ついたぞ」
車は停まり、それに伴ってエンジンも停止される。車から出ていた音が消えたことで、和麻たちの近辺は静寂に包まれていった。
到着したことで、スースーと、静かな寝息を立てている綾乃を、多少乱暴に揺すり起こそうとするが、綾乃はなかなか起きない。起きる気配がない。
「行ってきます」
再び溜め息を漏らし、和麻は車のドアを開けると、綾乃を風で包み、小脇に抱えるようにして走り出した。
「待て!」
雅人の必死な制止の言葉を振りきって、和麻は山の中へと綾乃と共に消えていく。
雅人は焦って後を追うが、炎による視界は、木々に阻まれて奥まで見えない。それに加えて、和麻の身体能力は既に雅人を越えていたのだ。そこに風術が合わされば、追い付けるはずもなかった。それでも、責任感から雅人は、和麻たちの後を追い続ける。
車には周防がひとり待つことになった。
和麻は一直線に、今日の相手に向かって走っていく。今日の相手は熊だった。熊に悪霊が取り憑き、山に入った者を襲っているのだ。今回はその除霊になる。
元が熊だけあって、縄張りが山みっつほどあるらしく、そのせいで、対象の活動範囲が広範囲になっていた。
最初は何も知らずに、地元の猟友会に頼んでみたが、銃に怯えるどころか、逆に襲ってきた。そして、極めつけは、銃で撃たれたにも関わらず、死ぬことがない───と言うことだった。
ここまでくれば、異常だと言うことが誰でも分かる。それが、回り回って神凪へと、依頼として入ってきていた。
本当であれば、神凪を雇うのには、高額な金額がかかるし、その辺の雑霊などは相手にしない。しかし、この半年ほど前からは、綾乃の実践経験を積ませることを目的に、雑霊であろうとも、普通に比べれば、かなり安い金額で仕事を引き受けていた。かなり安いと言っても、数十万はするのだが……。
熊の全長は、三メートルに達しているかのように見受けられた。それほどまでに、熊と相対した時、和麻には感じられた。
熊が、和麻たちに気付き、唸り声を上げ始める。それと同時に綾乃も目を覚ました。
「うーん……。なーに?」
「さっさと起きろ。仕事の時間だ」
熊の殺気で、寝惚けながらも目覚めた綾乃を手離す。それまで、風の力で浮かんでいた綾乃は、浮力が消えたことで、四つ這いに近い形で地面へと落とされた。
寝惚けていた綾乃は、それで少しは目が覚めたのか、自分の回りを明かるくして立ち上がり、目を擦りながら和麻に対して不機嫌そうに抗議し始める。
「んんー? ……何で私の部屋にあんたがいるのよ」
「いつまでも寝惚けてないであっちを見ろ、来てるぞ」
「あっち?」
綾乃が、和麻の指差す方に目を向けると、低い唸り声を出しながら、走ってきている熊が見えた。
綾乃は現状が理解できずに、目を見開いて呆然と立ち尽くしていた。
夢なのではないのか……綾乃はそんなことを考えながら、迫り来る熊を見つめる。見つめたからといって、熊の速度が緩むことはない。
刻一刻と熊は綾乃へと近付いていく。
後少し、というところまで来た段階で、このまま何もせずに、立っているつもりなのか―――そんな不安が和麻を襲ってくる。
そうしたことから、再び和麻から綾乃へと声が掛けられた。
「いつまでそうしてるつもりだ。早く焼いてしまえ」
綾乃は、呆然と立っていたせいだろう。和麻の指示に無意識に従い、大量の炎を顕現させると、それを全て熊へと向ける。
熊は急遽現れた炎に驚いて立ち止まると、すぐに野生の本能で、その炎が危険だと感じ取ったのか、一目散に逃げの体勢に入る。
しかし、熊は綾乃に近付きすぎていた。炎の速度は熊が走るよりも早く、逃げたと言えるほどの距離も行かずに、熊を包み込んでしまう。熊はその場で雄叫びを上げると、動かなくなった。
そうして、炎が燃やした跡には、熊だった物の残骸が残り、それも風でゆっくりと倒れていく。
確実に滅ぼしたことを確認し、和麻は綾乃へ向けて歩いていった。
「帰るぞ」
「───生き物……殺しちゃった」
今まで妖魔や悪霊など、実体を持たないものを相手にしてきたせいだろう。初めて実体を持つものを相手にし、あまつさえそれを焼いてしまったのだ。綾乃はその事にショックを受けているようだった。
「……あの熊は死んでいた。気にするな」
事実を言ったに過ぎないが、綾乃は泣きそうになりながら、助けを求めるようにして、上目遣いに和麻を見上げる。
和麻はそのようなことに囚われず、綾乃の手を掴み、引きずるようにして、元来た道を戻っていくが、あまりの歩く速度の鈍さに、和麻は綾乃の背に手を回し、お姫様抱っこで進み直す。綾乃は事態を把握できずにボーッとしたままだった。
しばらく進むと、前方に明るい光が照らし始める。
「心配したぞ、お前たち。どこにも怪我はないか?」
明かりの中心に居たのは雅人だった。
雅人は途方に暮れた顔をしていたが、和麻たちを見つけると、ホッとひと安心してから、心配そうに声をかけてきた。
「特に外傷はありません。依頼も完了しました」
「そうか……よかった」
和麻は気にした様子を見せずに、簡潔に答えると、再び歩みを続ける。雅人も、今度こそ見失わないようにと、その後ろにピッタリと付き従った。
そこからは、和麻の最初に言った通り、三十分で車まで戻り、家路につくことになる。その間綾乃は、和麻に寄り添うようにして、服を握り離さなかった。
継承の儀から半月ほど経った頃。初めて母親である深雪に呼び出しを受けた。
(この家の奴等は自分から赴こうとか思わないのか?)
内心愚痴を漏らしながら、和麻は深雪の部屋へ入る。部屋の中は、特に豪華な飾り付けがしてあるわけでもなく、一般的な和風の一室だった。家具などの調度品は高いだろうが、それも必要最低限しかない。その中で、深雪は待っていた。
「呼ばれましたか?」
「あなたは、いつまでここにいるつもりなのです?」
「───?」
深雪の言葉の意味が分からず、和麻は眉をしかめる。厳馬から聞いているのではないのか……と、考えて、厳馬が、わざわざそのようなことを話すとは想像ができず、知らないのは無理もないと考え直した。
「来年の春。その手前までですが、それがどうかしましたか?」
「神凪では無き者が、この屋敷に居ても言い道理はありません。
ここに一千万あります。
あの人がなんと言ったか存じませんが、ここから早急に出ていきなさい」
深雪の言葉はお願いではなく、命令だった。顔も見たくないと、それ以降の話を打ち切り、お茶を啜る。そして、嫌なものでも見るような視線を和麻へと向けてきた。
「分かりました」
一千万あることを確認してから風呂敷で包み直し、部屋を後にする。特にこの屋敷に未練もなければ、思い入れもない。出ていくに当たって問題はなかった。
部屋へと戻った和麻は、携帯を取り出し電話を掛ける。
「もしもし、今お時間宜しいですか?」
『構いません』
「この辺りで、安い賃貸のアパートを紹介していただきたいのです。
今日中に」
『……分かりました。折り返し電話します』
「よろしくお願いします」
電話を掛け終えて、和麻は部屋の整理に取り掛かる。特に大きな荷物はない。敢えて言うならば、服が嵩張るくらいだろう。
十分ほどで、折り返しの電話が掛かってきた。
『幾つか見繕いました。案内しますので、玄関までお越しください』
「ありがとうございます。今から向かいます」
電話を切って、すぐさま玄関へと向かう。そこには、既に、周防が車を回して待っていた。
和麻は軽く会釈をし、車に乗り込む。周防もそれに倣い、軽く会釈をしてから運転席に乗り込んだ。
車の中でこれから行く先の資料を渡される。それに軽く目を通してから、和麻は幾つかの資料を抜き取っていき、周防に手渡していく。
「今渡したところでお願いします」
「分かりました」
手渡された資料を一瞥し、周防は車を出した。
始めに向かったのは、神凪邸から程よく離れた場所にあるアパートだった。立地条件もよく、近くに駅あり、スーパーありと揃ってはいるが、値段もそれなりになる。
実際の地理感覚を頭に叩き込み、部屋を軽く見せてもらった後、次の場所に向かう。
そこは、駅からも遠く、近くにスーパーなどの買い物をする場所もないが、静かなところだった。学園からも少し離れてしまうが、うるさくない分丁度よいと、和麻はすぐに決めてしまう。
「ここのアパートにしたいと思います。管理会社と契約をしたいのですが……」
「こちらで、手続きをしておきます。金額は紙面通りで構いませんか?」
「いえ、私も立ち会います。交渉もこちらで行いますので、紹介まででお願いします」
「分かりました」
和麻の言い方に対して、特に嫌な顔も見せずに、周防は、隣に立っていた管理人に目配せしてから頷く。
「それでは、一階の管理人室へ」
管理人の案内のもと、一階へと向かう。和麻の決めた部屋は、三階の端の部屋。
ひとりで住むには広いが、月五万と、土地のことを考えれば、それなりに安い。
本来保証人などがいるところを、事前に数年分支払うことでなしにしてもらい、契約を結ぶ。お金は現金をその場で支払い、代わりに鍵を受け取る。
周防は何も言わずに、和麻のすることを見届けていた。
神凪邸へと戻る途中も、周防は特に何も和麻に聞かなかった。和麻からも特に話すこともなく、黙りこんだままである。
その代わり、神凪邸へ着いてから、ひとつだけ訊ねてきた。
「引っ越しの手配を致しましょうか?」
「必要ありません。そのような大きな荷物はありませんので」
「失礼しました」
「こちらこそ、急に無理を言って申し訳ありません。
今日はありがとうございました」
和麻は、礼を述べると屋敷の中へと入っていった。それを確認してから、周防は車を移動させる。
その日、神凪邸に住む者がひとり減った。
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9話
引っ越しを行ったことで、変わったことがある。それは、和麻が特に意図したものではなかったが、平日に学園に行ったことで知ることとなった。
学園からの帰宅中、いつものように柚葉と帰っていると、柚葉が困惑した声を出す。
「あれ……? こっちは……」
和麻は気にした様子もなく、いつも別れる場所で、いつもとは違う方向に向かう。そのことに対して柚葉は声を上げたのだった。
その方向は、柚葉がいつも帰る道。困惑しながらも、柚葉は和麻の後をついていく。途中で、あるアパートにたどり着くまでは。
「えっと……。またね」
「ああ」
和麻は振り向きもせずに短く返事をすると、アパートの一室に向けて歩いていく。それを柚葉は、和麻が部屋に入るまで黙って見ていた。
部屋の中には、段ボール箱が数箱転がっている。他にも、日用雑貨的な物が袋に詰められたまま置かれていた。それらを見渡してから和麻は制服を着替える。
日用品や必要最低限の家電は購入してある。後は、食料関係くらいだろう。しかし、そこに問題があった。和麻は料理をしたことがない。今までする必要がなかったのだ。だがこれからは、そうは言っていられない。
残り数百万。毎日外食などをしていては、あっという間にお金などなくなってしまう。和麻はしばらく悩んでいたが―――悩んでいても仕方がないと割り切り、部屋の片付けを始めた。
学費に関しては、周防から和麻へと、既に卒業までの分が支払われていることの連絡を受けていた。これには、和麻もホッとしたものである。高等部を卒業するまでの金額を考えると、余計な出費がなかったとしても、今の所持金では心許ない。
部屋の中で立ち尽くしたまま、少しの葛藤があったものの、和麻は買い物をしに商店街へと向かった。
商店街へと向かったものの、和麻が作れそうな料理と言えば、カレーやシチューなどの簡単な物しかない。しかし、それすらも、遥か昔に調理実習で作ったくらいだ。今、通っている聖凌学園では、調理実習など無い。それだけに、この通常生活において必須とも言える事柄は和麻を悩ませるには十分だった。
商店街に到着した和麻は、必要な食材を買い集める。玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、豚肉、カレーのルー。覚えている限りの材料を集める。
(こんなものだったはず)
食材を買い終えたところで、柚葉に出会った。柚葉も買い物を終えたところのようで、和麻を見つけるなり近付いてきたが、和麻は気にすることもなく、買った食材を持って店を出る。
帰路が一緒なため、二人は買い物袋を提げたまま歩いていく。柚葉はいつも通り、和麻の一歩後ろをついてきていた。
いつもと違うのは、柚葉が話しかけてきたことだろう。意を決したように、真剣な表情で声を出す。それは、少し大きな声となって和麻の元へ届いた。
「か……神凪君!」
「……なんだ?」
「神凪君もお料理してるの?」
「いや」
素っ気ない和麻の返答に、なんとか話題を作ろうと柚葉は考えるが、なかなか次の言葉は出てこない。
しかしこの時、和麻の方は柚葉の言葉の内容が気になっていた。
(神凪君『も』と言ったか? ということは、普段から料理をしていると言うことだな……)
ここで、和麻の方から柚葉へと声を掛けられる。
「いつも自分で飯を作ってるのか?」
まさか、和麻の方から声を掛けてくるとは思わなかったのだろう。柚葉は何も言えずに、驚きで固まってしまい、その場に立ち止まってしまった。
和麻は何か不審なことでも言ったのかと、柚葉へと振り向き、自分の言った言葉を思い浮かべながら内心で首を傾げる。内容的にも、特に変なことを聞いた訳ではないので尚更だった。
再起動を果たした柚葉は、慌てて和麻へと返答する。
「はい! 作ってます!」
「大きな声を出さなくても聞こえている」
「ごめんなさい……」
柚葉は、しょんぼりと項垂れ、肩を落とし、自身の迂闊な行動に気落ちしてしまう。それに対して、特に気にした様子のない和麻は話を先に進める。
「それは、昼の弁当も、か?」
「うん。私の家は、両親が共働きだから……。
聖凌学園は、普通の子が行くにはレベルが高いよね……」
柚葉は、辛そうに答える。昔の自分の発言を───何も知らない頃の自分の発言を後悔していた。
聖凌学園は、年間で一括してお金を払う仕組みになっていた。その金額は、他の学校や学園と違い、多額なものとなっている。その為、お金持ちの家の者が多いが、それ以外となると、何かに秀でた者がほとんどだ。
それは、勉強でも構わないし、運動でもいい。何かひとつでも他の者より圧倒的に秀でていれば、特待生として格安で入学することができる。
しかし、それ以外の者が入学するとなればどうなるか―――それも、一般家庭の者であれば、この学園への入学は大変なものとなる。さらに付け加えると、問題を起こせば即退学の可能性もあるのだ。一般家庭であれば、お金で解決など簡単に出来はしない。
柚葉は勉強の方で入学していた。幼い頃に、幼馴染みである沙希と離れたくないが為に、両親に泣きついて聖凌学園に入ったのだ。聖凌学園に入るため必死に勉強し、見事に合格を果たした。それに対して両親は喜び誉めてくれたが、そのせいで生活環境が変わってしまう。
専業主婦として家にいた母親は、父親同様に、朝早くから夜遅くまで働きに出てしまった。家に残されたのは柚葉だけである。
あの頃はお金のことなど気にもしていなかった。しかし今は違う。両親が昼間、家にいないのは自分のせいであると理解していた。それでも、今更他の学校に転校したいなどと、弱気な柚葉には言えないし、言えるわけもなかった
その為、親に迷惑をかけないようにと勉強を頑張り、留年などしないのはもちろんのことながら、家事については基本的に柚葉がやっていた。その事もあり、部活には入らずに、家に帰って家事をした後は、勉強に勤しんでいるのが現状である。
元気のない声で、愚痴のようなものを漏らす柚葉に相槌など打たず、和麻は話を続ける。
「昼の弁当の原価はいくらで作っている?」
「えっ? げんか?」
和麻の聞きたいことが理解できずに、柚葉は聞き返した。
「―――弁当代は一日あたりいくらくらいだ?」
「えっと……」
しばらく考え込み、悩みながらも、多分と前置きして答えを出す。
「二百円もかかってないくらいだと思う」
その答えに、今度は和麻が黙りこんだ。
聖凌学園の一食の値段は、一番安いもので五百円。大概の物は、千円を越えている。その代わりに、その金額以上の料理は出てきていた。
今までの和麻の小遣いの大半は、この昼食代に消えていったと言ってもいいくらいだ。
和麻は考えていたことを提案する。ダメで元々の話だ。断られたとしても問題はない。その時は、当初の予定通り、自分で作るのみ。
「二百円で、弁当をもうひとつ作る気はないか?」
この言葉は、柚葉にとって予想外だった。和麻自ら、声を掛けてきた以上に驚きを隠せずにいる。
「無理か?」
「そんなことないです!」
黙り込んでしまった柚葉を見て、諦めたように聞き返してきた言葉に、柚葉は即座に反応して了承する。そして、また大きな声を出してしまったことを恥ずかしがりながら謝った。
「何度もごめんなさい……」
「いや、いい。
それよりも、明日にでも弁当箱と金を渡すから、明後日以降から頼む」
和麻はそう言うと、止めていた歩みを再開させる。柚葉もおいていかれまいと、和麻の後ろを嬉しそうについていった。
和麻としては、ここで話は終わったつもりだったのだが、しばらくして、今度は柚葉から話題を振ってくる。
「神凪君は、ご両親から買い物してくるように言われたの?」
柚葉の何気ない質問。ちょっとした疑問から、会話を繋げようとしただけの些細なものだったが、和麻からの言葉で更に疑問を持ってしまう。
「そんなことは言われたことがないな。これは、俺が作るために買ってきたものだ」
和麻は手に持った袋を目の前まで上げて見せる。
「さっきは、料理をしてないって……?」
「今までしてなかっただけだ。これからは、独り暮らしなんでな。そうも言ってられない。
昼の弁当を頼んだのは、そこまでのことができる自信がないからだ」
「そうなんだ……。
神凪君は何でもできると思ってた」
柚葉は感慨深そうに言うと、何かを考えついたのか、ハッとして顔を和麻に向けて、それを和麻に伝える。
「お邪魔じゃなければ、夕飯も作るよ?」
「……手間賃など出せないが、それでもいいのか?」
「うん。私がしたいだけだから」
和麻は酔狂な者でも見るかのように、柚葉を横目に見つめ、自分に損がないことを、再度内心で確認していた。そして、柚葉の表情を見て、自分の得にならないことを、喜んでやろうとする柚葉に、和麻は若干呆れてしまう。
「……ギブアンドテイクだ。金以外で要望はあるか?」
「?」
和麻としては、余程の事がない限り、他者に借りを作りたくはなかった。それに加えて、未だに警戒心のない柚葉に呆れたこともあり、多少の融通をきかせることにしたのだ。
黙ってしまい、なかなか要望を言おうとしない柚葉に、先ほどの言葉から和麻は考える。
(学園のレベルが高いと言っていたな……と言うことは、あのレベルの授業についていくのがやっとなのか? それなら、勉強を見てやるか。家庭教師をしたことはないが、分からないところだけを教えればいいだろう。その間に、俺は自分の事をやればいいだけだ。いつもやってることの場所が変わるだけで、特に問題はないな)
和麻は結論を出すと、進行の足を止めずに、柚葉へ向き直った。柚葉としては、学園へ支払う金額が高いと言う意味で言ったのだが、和麻は違う意味で捉えてしまう。
「勉強を見る、でいいな?」
「えっ?」
「聞いてなかったのか?」
少し不機嫌そうな声音で言う和麻に、柚葉は慌てて肯定する。
「いいです!」
買い物袋持っていたため、動かせない両手に代わり、頭を上下に激しく動かす。
そう答えた直後、柚葉は落ち込んだように顔を下に向けて、表情を暗くする。
「それで、いつから夕食は作れるんだ?」
柚葉の表情が、暗くなったことを察しながらも、和麻は声音を元に戻し、柚葉の持っている買い物袋へと視線を向けて再度訊ねる。
「今から行けます!」
柚葉は持っていた買い物袋を、和麻に見えないように背後へと持ち直し、普段とは違い元気よく答えた。
柚葉は、和麻の弁当を作れることに浮かれており、和麻の事まで意識が回っていなかった。
(これだと、奥さんみたいだよ~。お弁当の中身はどうした方がいいかな?)
あれこれと弁当のおかずに思考を割いていたが、途中であることに気付く。
(あれ? でも、何で神凪君は食材買ってるんだろう? ご両親に頼まれたのかな?)
今ならば聞ける……と、勇気を振り絞り和麻へと訊ねる。そうして返ってきた言葉を、柚葉は意外に感じていた。
和麻は何でもできると思っていたのだ。文武両道。知識もあり、運動もできる。そして、何事にも自信をもって行動している姿に、柚葉は一緒に行動を共にすることで、憧れさえ感じるようになっていた。
本来であれば、クラスの人気者になってもおかしくはないが、和麻は基本的に他者を寄せ付けない。柚葉が近くにいて、何も言われないのが不思議なほどだった。それを柚葉は、和麻の邪魔をしないからだと考えていたし、実際にその考えは合っている訳だが……。
そこで、もっと親しくなりたいと思っている柚葉としては、和麻の夕食作りをすることで少しでも―――と提案したのである。
それは、柚葉の思いとは別にして、和麻に受け入れられた。ただの善意だけではなく、ちょっとした下心もあった発言だったのだが、更に家庭教師までしてもらえると聞いて、柚葉は少し自己嫌悪に陥ってしまう。
(これだと、私だけが得してるよ……。でも、せっかくの機会をなくしたくないし……。せめて、精一杯作ろう!)
いつから作れるのかを訊ねてくる和麻に、柚葉は気合いを入れて答えたのだった。
和麻のアパートに到着し、早速料理を作り始める。
材料は、和麻の買ってきたカレーの具材。それらを手際よく、馴れた手つきで皮を剥き切っていく。その間に、和麻は鍛練を始めた。鍛練と言っても、身体を動かすわけではなく、精霊術師としてのものだ。
あぐらをかいた状態で目を閉じ、意識を外側へと向けて、己自信を客観的に見る。その見る範囲を徐々に拡げていき、動きの全てを把握していく。アパートに住む、全ての住人の動きを把握するまで、そう時間はかからなかった。
続いて、各人の行動の予測を行おうとしたところで、柚葉から声が掛けられる。
「あの……。カレーできたよ」
「……分かった」
立ち上がった和麻は、匂いの発生源に向けて歩いていき、中身を確認する。
煮込まれた鍋の中には、独りで食べるには数日かかりそうな量のカレーができていた。和麻は、若干眉をひそめながら、それを見つめる。確認していた限りでは、特に不審な物を、柚葉はこの鍋の中に入れていない。和麻が気にしたのは、柚葉自身が買った物の中から、材料を取り出して追加したことだ。
できたものを確認した和麻は、溜め息を吐いて忠告する。
「前にも言ったと思うが、自分が損することを進んでやるな」
柚葉は驚いた表情をするが、手と首を忙しなく振って、その言葉を否定する。
「そんなことないよ! 私の方が得してばかりで……」
「得?」
「あっ……なんでもないから! それじゃ帰るね」
和麻が不審に感じたことで、それを誤魔化すように、柚葉は帰り支度を始める。
「送ろう」
「家は近いから大丈夫だよ。今日もありがとう」
礼を述べて、すぐに柚葉はアパートを後にした。
今日の依頼は、普通の実体のない悪霊の除霊だった。
あの初めての日以来、綾乃はあまり元気がなかったが、徐々に、元の元気の良さを取り戻していった。
特に、和麻と一緒に依頼を行う日は機嫌が良い。いつもと比較すれば、とても分かりやすかった。
「ねえねえ、和麻」
「……何だ?」
和麻は気怠そうに返事をする。
「私に体術教えてよー」
「断る」
即答だった。しかし、このやり取りは初めてのことではない。
「何でダメなのよ! ケチ!」
「ケチで結構だ」
和麻の素っ気ない態度を気にせず、更に身体を寄せてお願いする。
「ちょっとだけだから。少しだけでいいから!」
どこぞの詐欺師のような謳い文句で、綾乃は諦め悪く、尚も言い寄ってくる。
車の中なので、移動できる空間は無いに等しい。そこへ、身体を寄せてこられては、逃げようがなかった。
和麻には逃げる気など無かったが。
「煩いぞ」
顔を寄せてきたところへ、その額に軽くでこぴんをする。綾乃は、額を押さえて不機嫌そうな顔をするが、それも一瞬のこと。文句を言いながらも、すぐに機嫌は戻る。
「でこぴんするなんて酷い。傷物にされたからには、私の言うこと聞いてよ」
「これまでに、お前に攻撃を仕掛けてきた悪霊にでも言っておけ」
和麻は綾乃を相手にせず、腕を軽く組み、目を閉じていつもと同じように、先に敵の位置を把握するため意識を飛ばす。
綾乃は、それを見計らったかのように、和麻に接近すると、和麻に身体を預けて目を閉じる。
さすがに何度も攻撃を受ければ人は学習する。
攻撃の意図もなく、ただ身体を預けただけならば、和麻から攻撃をしてくることはなかった。
ここにくるまで、色々とあった。
当初、弱味を握られてしまったと思い込んだ綾乃は、それを忘れさせようと、実力行使で和麻に迫るも、簡単に返り討ちにあい、仕舞いには父親に怒られるという、ダブルで痛い目にあっていた。
他にも手を変え、品を変えて攻撃をするが、一向に当たるどころかかすることさえない。車の中であるにも関わらず……だ。攻撃が当たる前に、その攻撃の軌道をそらされてしまうのである。それならば―――と、恐る恐る指でつつこうとして、その指を逆に掴まれてしまい、捻り上げられるなど手痛い反撃にあっていた。
それらの事から、体術に関して和麻は、自分よりも遥か高みにいることを綾乃はようやく察した。
そこからは掌を返したように、お願いという形で、和麻に体術を見てもらおうとしていたが、これまで叶った試しはない。
綾乃も、和麻と同じく、基本的に人を頼らない。そんな綾乃が、和麻に甘えたようなことを言うのは、ある理由があった。
綾乃の好きなタイプは、自分の父親───重悟のような人物である。
和麻は重悟に似ていた。純粋に強いだけではなく、揺るぎない精神性まで持っているのだ。綾乃が惹かれないはずがなかった。
今では、このようにして、隣で座っていても攻撃をされたりはしない。多少邪険にされることはあるが、拒否まではされていなかった。その事に安堵しながらも、仕事の場に着くまで、綾乃は安心して眠りに落ちていく。
運転手の周防は、それを微笑ましげに見ていた。
戻ってきた和麻は、またか……と、溜め息混じりに首を下に向ける。
夜間に行う除霊の場合、高確率で綾乃は寝てしまう。それも、和麻に身を寄せて。
こんな状態であっても、仕事となればしっかりと動くようにはなった。起こせば寝惚けることなく意識をハッキリとさせるのである。
最初の頃から比べれば雲泥の差だ。和麻への対応にしても、同様に変わった。
精神的に弱気な状態では、除霊に手間取ってしまい、依頼遂行の妨げになる。そんな綾乃を変えてしまおうと行動に移した。しばらくの間、生き物を殺したことを引きずっていた綾乃を、和麻はスパルタ気味な仕事のやり方で、無理矢理戦闘に持ち込み、そのような事を考える余裕さえなくしてしまい、殺らなければ殺られる───という意思を刷り込んだのである。
これにより、引きずることはなくなったが、代わりに和麻を標的として狙ってくるようになった。
刷り込みに成功したのだが、そこには、自分の不利となる者への対応も含まれており、それまでの弱かった自分を知る者───和麻に、制裁を加えようと攻撃してきたのである。
完全にやり過ぎてしまった感はあるが、弱気なままになってしまうよりはマシだと思い直し、適当にあしらって対応していた。
その内に、攻撃をしても無駄と悟ったのか、体術を教えろと執拗に言ってきていた。それを思えば、寝ていてもらう方が、和麻にとって遥かにマシだった。
その日も、恙無く除霊は終わり、帰宅することになる。
図書館の片隅で、その勉強会は行われていた。これは、来週から始まる期末試験に向けた勉強会だ。勉強会と言っても、その机にいるのは、和麻と柚葉の二人だけであるが……。
二人は黙々と勉強していた。
和麻の方はシャーペン片手に、ノートを見もせずにメモを取っては、もう片方の手で器用に本を読んでいる。
もうひとりの柚葉の方は、教科書を机に広げて、ぶつぶつと口の中で唱えながらノートに書き取りしていく。
時折、柚葉が悩んで書く手を止めると、それをずっと見ていたかのように、和麻の手が柚葉のノートに、悩んでいる箇所を書き込んでいく。
始めの頃は、何故悩んでいる場所が分かるのか……と、驚いたものだったが、今では普通に分かるのだと、柚葉は納得してしまっていた。
勉強会の時間は二時間程度。勉強会が行われるのは、定期的にあるテストの一週間前と、臨時に行われるテストの前日に開かれていた。
臨時に行われるテストの前日に、勉強会が開かれることに関して、最初は偶然で柚葉は片付けていたが、何度も続けば、それは必然に変わる。柚葉はそれすらも、神凪君だから……と言う言葉で納得してしまっていた。
勉強を行う場所は、休みの日であれば図書館。平日であれば、お互いの家など様々だ。
和麻の態度は、どこにいても変わることはない。初めて異性を部屋に入れた時、柚葉は恥ずかしさのあまり、しばらくは、まともに勉強に身が入らず、上の空だった。しかし、その状態を和麻に叱られたことで、それ以降、浮わついた気分に浸ることはなくなっていた。そのお陰なのか、柚葉の成績は、学年上位の位置をキープしている。
「今日のところはこれで終わりだな」
和麻は、館内の壁に掛けられた時計へ目線を向けながら、柚葉へと声を掛けた。
柚葉もそれにつられて、和麻の見ている時計へと視線を向ける。時間は午後の四時前。そろそろ買い物をする時間である。
柚葉は、広げていた勉強道具を片付けて、鞄の中へと仕舞い込む。片付け終わった二人は、図書館を出たその足で、そのまま買い物へと向かった。
その二人を追う視線も一緒に───
和麻は内心不機嫌だった。理由は単純なもので、尾行者がいるからである。
あれで本当に尾行をする気があるのかと疑いたくなる。そんな鬱々とした気持ちでいた。尾行は定期的に行われ、それが伝えられる言葉まで把握できている。つまり、相手がどこの者かも分かっているのである。
和麻という存在がどのような者かも分かっているにも関わらず、このお粗末な尾行者を配置するその人物に、呆れて何も言えない。
風術師である和麻に、何故尾行をつけたのかは、その報告を聞くことで知ることができた。
しかし、だからといって、尾行されて愉快な気分になるわけもなく、かといって、一方的に始末するのも、後々面倒になることは間違いない。
割りのいい仕事をもらっている手前、ある程度は我慢するべき……と堪えていた。仕事を依頼する相手の事を調べるのは当然だからだ。
今のところ特に目立った被害はない。あったら、相手が誰であろうとも関係ないが……。
それにしても……と和麻は思う。
(何故、今日はあんたの娘も尾行をしているんだ? 隠れる気が全く感じられないんだが……)
小さく溜め息を漏らして、和麻は全力で無視することにした。
その日を終えて、場所はある部屋の中。上座に座る者に対して報告が成されていた。
「報告は以上か?」
「……これは報告しにくいのですが……」
「よい。遠慮せず何でも言ってくれ」
風牙衆の言いにくそうな言葉に、重悟は親しみやすく、声をかける。
「……更に本日は、お嬢様があの者を尾行をしておりました」
「───何?」
重悟は、俄には信じがたい言葉に、声音を低くして思わず聞き返してしまう。
風牙衆の者は、その声に畏縮してしまい、低頭して謝罪してしまう。
「申し訳ありませぬ!」
「……あー。よい、気にするな」
自分の意思に従って、集まった炎の精霊たちを散らしていき、ばつの悪そうな顔をしながら風牙衆の者をフォローする。
「それで、何かあったのか?」
重悟は、気になる点を問いかける。今までの報告は、和麻に関することのみ。これからは、綾乃の事について報告を受けねばならない。
「特にはありません。尾行したのも、図書館から出たところを目撃してからですので、買い物をしてから家に入るまでの間と、三十分程度の時間です」
「ふむ……」
重悟は、その報告を受けて考え込んでしまう。
(これは、依頼をもう少し増やすべきか……)
愛娘が、和麻を気にしているのは分かっていた。それは、日々の会話の端々から伝わってくる。重悟としても、和麻は息子のようなものだ。その二人が仲良くする分には問題はない。しかし、これに第三者が入ってくると、また難しくなってくる。恋愛関係となれば尚更だ。
報告で、和麻と一緒にいる平井と言う女生徒は、付き合っている訳ではないのは分かっている。分かってはいるが、外から見るとどうか……。果たして付き合っていないと見えるのか───と問われれば、大多数が付き合っていると見るだろう。
綾乃を応援するためにも、重悟は決意を新たに、風牙衆の者を下がらせて周防を呼ぶのだった。
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10話
依頼件数の増加。これに関して和麻は特に文句などない。報酬にしても、初期の頃とは違い、飛躍的にアップしていた。
何故、依頼件数が増えたのか。理由は不明だが、風牙衆が報告した日───正確には、綾乃が和麻たちを尾行した日から、重悟が増やしたことは分かっている。
そのため、依頼に文句などない───ないのだが、和麻は、今のこの状況にうんざりしつつあった。
太陽が斜め上から照らしている頃。和麻は、こっそりと迫りくる魔の手を、小さな風の刃で切り刻んで追い払っていたのである。
現在の場所は、人混みの多い電車の中。
魔の手は、和麻を狙ってきている訳ではない。一緒に行動を共にする、連れ目掛けて向かってきていたのだ。
その連れは、いつもの制服を着ておらず、私服を着ていた。初めての乗り物に多少興奮しているのか、自分が魔の手に狙われていることなど露知らず、悠長に窓の外の景色を眺めている。
その近くの床や、周囲の人たちの服には、切り刻んだことで飛び散った血が、ところ構わず色々なところに、少量ではあるが付着していた。満員電車であるため、その様なところに気付く者は傷ついた者以外いない。気付いたとしても、電車を降りた後だ。
綾乃を覆う形で立っている和麻にも、血痕がついていてもおかしくはないが、和麻は薄く風の衣を纏っているため血痕が付着することはない。綾乃にしても同様だ。
しかし、何人目になるのか……和麻の我慢も限界に近付いてきていた。それでも、魔の手は懲りずにやって来る。切り刻んだ魔の手(痴漢)とは別の魔の手(痴漢)が……。
『今回の依頼は、一般交通機関を使い、現地に向かっていただきます』
携帯電話から聞こえてきた言葉は、初めての内容だった。今まで、車で送り迎えをしてもらっていただけに、何故なのか和麻は理由が知りたくなる。
「理由をお聞きしてもよろしいですか?」
『簡単なことです。
綾乃さまも、もうすぐ中等部に入ろうかというのに、一般的な交通機関を使った経験がほとんどありません。
今後、ひとりで妖魔退治を行うことを考えれば、必要なことです』
言われてみれば、確かに必要なことだろう。しかし、何故それを妖魔退治の時にさせるのか。そう疑問に思うと、それが分かっていたかのように、周防の言葉は続く。
『今回は、電車で行くには丁度よい距離と機会です。
朝から行けば、夕方には戻ることができるでしょう』
「道理で報酬が多いわけですね」
提示された報酬の額は、いつもの二割増しと、目に見えて分かるほど増えていた。
『はい。移動にかかる経費を含んでいますので……。
それに付け加えて、あらゆる魔の手から綾乃さまを守っていただきます』
「───? これでも、妖魔からの攻撃は、ほぼ完璧に防いでいる積もりですが?」
周防からの言葉の意味を、この時の和麻は理解することができなかった。予測できなかったと言った方がいいだろう。
この業界で生活する者に、魔の手と言われて思い浮かぶのは、妖魔や悪霊である。その事から、問い質す意味を込めて返事をしたが、返ってきた言葉は簡潔極まりなかった。
『それならば、安心して任せられます。
―――引き受けていただけますか?』
「…………」
どことなく嫌な予感がしたが、敵わない敵と遭遇した場合は、逃げても問題ないと、初期の契約のままである。そこに『綾乃を連れて』という文言が増えてはいるが、戦闘に関しては聞き分けが良いため、撤退することになっても文句は出ないだろう。
何かが引っ掛かる。しかし、その何かが分からない。和麻がしばらく悩んでいるところへ、再び周防から声が届く。
『どうかされましたか?
いつもと同じように、敵を倒していただくだけなのですが?』
いつもと同じように───この言葉で、何を迷っていたのかと、頭を左右に振りかぶり迷いを振り切る。
「……分かりました。引き受けます」
『では、集合する場所や時間については、折り返し電話いたします。
それでは失礼いたしました』
「こちらこそ、依頼をありがとうございます」
電話を切った後になって和麻は思う。
(本当に受けてよかったのか? 依頼の内容におかしなところはない。いつもと違うのは、車の送迎がないところだ。違和感を持つとしたら、ここしかないだろう。しかし、何に対して俺は警戒したんだ?)
理由が分からずに、そのまま当日を迎えることになる。
駅前の目立つオブジェを目印に、朝の七時集合となった。今の時間は六時半を過ぎて、四十分になろうかというところ。些か早い気もするが、和麻は約束を守らない者を信用しない。それは、己自身にも適用される。そのため、多少の裕度を持って、待ち合わせ場所に来ていた。
朝の七時前だと言うのに、駅には人が溢れかえっており、人の出入りが激しい。その様子を俯瞰しながら、和麻は静かに綾乃を待つ。
時間にして五分前に、車に乗って綾乃は現れた。その格好はいつもの制服姿ではなく、私服姿で現れたのである。しかも、化粧まではしていないが、明らかにお洒落を意識した格好だった。
周囲の視線を引きながら、手提げ鞄を持って和麻の前まで歩いてくると、恥じらうようにしてモジモジと立ち尽くす。
大抵の者は、その姿に見惚れること間違いないだろう。女でも思わず、抱き締めたくなるような雰囲気を醸し出していた。
「お父様がこれを着ていけって。
……こう見えて凄い力を持ってるんだって!」
和麻は、その姿を見て固まってしまう。車から降りた時に視認できていたが、認めたくはなかった。
固まって何も言わない和麻に、業を煮やした綾乃は声をかける。
「何か言ったらどうなのよ!!」
その言葉で硬直から戻った和麻は、改めて綾乃を見ると、綾乃の要望に応えて、思ったことを伝えた。
「……お前は何をしにこの場所に来たんだ?」
「し……仕事をするために決まっているでしょ!」
綾乃は和麻に向けて噛みつくように言い返すが、その声が少々大きかったため、周囲の注目を浴びてしまう。
小さな子に何を言わせているんだと、一部の者が不審者を見る目付きで和麻たちを見ていく。
それでも、それは一時のことで、周囲の人の動きは再び流れ出した。
「早く行きましょう!」
自分の行動が恥ずかしくなったのか、和麻の手を引っ張って駅の中へと向かう。しかし、駅に入って直ぐに綾乃は立ち止まってしまった。
「…………」
溢れかえることでできる人の波を、綾乃は物珍しげに見つめる。
学園とは違い、忙しなく動くその波は、まるで一種の生き物のようであった。立ち止まって動こうとしない綾乃を、今度は和麻が引っ張っていく。
「これを持て」
和麻が綾乃に手渡したのは、一枚の小さな紙切れ。事前に購入しておいた切符である。それを貰い受けた綾乃は不思議そうに和麻を見返す。
「これは何?」
「切符だ。今から電車に乗るために必要になる。
あそこに見える改札口で通すんだ」
そう言って視線を向けていた先にある改札口へと向かい、真似をするように伝えると、和麻は先に切符を通して改札口を越えていく。
それを真似て綾乃も同じように通り抜けていった。
「へえ。面白い機械」
通り抜けた後に、進もうとしたところでブザーが鳴り響く。
何事かと見てみれば、綾乃の切符が改札口に入ったままになっており、そこを通ろうとしていた人が困ったようにして、その場に立ち尽くしていた。
「あの人は何をしてるの?」
改札口を通り抜けて、和麻の元に歩いてきた綾乃が訊ねてきた。
「お前が切符を取り忘れているせいで、迷惑をかけてるんだよ」
「えっ?」
心外だと言わんばかりの表情をする綾乃を放置して、和麻は風の精霊を呼び寄せると、切符を自分のもとに運び、素早く掴み取る。
駅員が改札口へと駆けつけるが、その時には原因が取り除かれた後であり、駅員は不思議そうな顔をして改札口の中を点検していた。
駅のホームは、我先にと電車に乗るものが多く、混雑を極めていた。電車はひっきりなしに行き交い、人の乗り降りも頻繁にある。
そのような中をはぐれずに進むことが、面倒な作業と感じた和麻は、綾乃の手を掴むと、該当の電車の中へと入っていく。
「なに?」
「黙って遅れずについてこい」
いきなり掴まれ、電車内へと連れ込まれていくことで驚く綾乃を無視し、和麻は電車に乗り込む。入った電車は満員なだけあって、かなり窮屈な状態だった。
「狭い」
電車が駅を発ってすぐに、綾乃は思ったことを口に出した。その想いは、その電車に乗る者ほとんどが抱くものとかわりない。
綾乃は、窮屈な状態に眉根を寄せて、不機嫌さを表していたが、それも次第に変わっていく。それというのも、最後付近に乗り込んでいたため、ドアの窓から外の景色がよく見えたからだ。いつもとは違う視点。それに対して綾乃は興味深そうに、窓から外の景色を眺めていた。
(脳天気なことだ)
そんな警戒心を解いている綾乃に向けて、近くの男が手を伸ばしてくる。事、ここに至って、ようやく和麻は嫌な予感の内容を把握した。
(魔の手と言えば―――痴漢か!!)
このような狭い場所で、綾乃に暴れられては面倒になる……と、和麻はその迫り来る魔の手を、風の刃で切りつけていく。
切りつけられた男は、痛がりながら離れていくが、代わりに違う魔の手が近付くだけだった。
そんなことをどれほど続けたことか。さすがの和麻の忍耐にも限界が来る。開いたドアから電車を降りると、綾乃へと魔の手を伸ばした者たちへ制裁を加え始めた。
発車した電車の中で、服や身体中を切り刻まれて、全裸になった男たちが急に出現したことで、電車内は悲鳴や怒号が飛び交ったが、その声が和麻のもとに届くことはなかった。その男たちの背中には「痴漢」の2文字が入っていたことは余談である。
「何で降りちゃったの?」
然も不思議そうに問いかける綾乃に、げんなりとしながら和麻は答えた。
「犯罪者が多かったからだ」
「───?」
綾乃は和麻の言葉に納得できないのか、首を傾げて困惑したような表情をする。
(あんな密閉空間で、俺がいるときにやってしまったら後々面倒だからな)
和麻は溜め息を漏らしながら、改札口へと向かっていった。
「和麻? ここは、目的の駅じゃないよ?」
駅の名前を読み取った綾乃が呼び止める。しかし、その呼び声に反応を示さず、和麻は歩みを進めた。
降りる駅は、後ふたつほど先ではあったが、さすがに我慢できなかったのである。自分の事だけであれば、ここまでイライラを募らせることはなかった。
戦闘ですら、ある程度の自由がある。しかし、あの空間にはほとんどそれがなかった。それに加えて、この事態を予測できなかった、自分自身に怒りがわいてくる。
「ねえ。 聞いてるの?」
「ああ。とりあえず、電車は移動手段にあまり向いてないな」
和麻は、綾乃を引き連れて駅の外に出ていく。駅を出たところで、縦列駐車している一番先頭のタクシーへと乗り込んだ。
(こいつといるときに、指定席のない一般交通機関は使えないな)
和麻は、タクシーの運転手へ行き先を告げると、後部座席に深く座り、通常の警戒体制に切り替えた。
深く溜め息を吐く和麻に、綾乃は物問いたげな表情をするが、疲れたような和麻を見て、何も言わずに横で大人しく座っていた。それでも、気にはなるのか、風景を見ては、時折和麻を確認するように視線を向ける。
そうやって、漸く到着した一軒家の前で、タクシーを止めた和麻は、待機してもらうように運転手へ伝えると、綾乃を連れて建物の中に入っていった。
その建物には、薄い妖気が漂っていた。それは、綾乃には感知できないほど微弱なものであったが、和麻には十分に感知できる。
一軒家の中は綺麗に片付いており、人が長期間居なかったにも関わらず、家具はもちろんのことながら、床にも埃は溜まっていなかった。
玄関から、廊下を抜けてリビングに入る。リビングは広く、他と同様に埃ひとつなく片付いていた。
「綺麗なところだね」
綾乃の言葉に反応せずに、和麻は部屋のカーテンを開き、外の光をリビングに入れる。それまで、薄暗かった室内は、太陽の光が射し込むことで、一気に明るい空間へと変わった。
そして、そのまま窓を開放し外の空気を招き寄せる。部屋は、風の精霊が入ってきたことで、空気の入れ換えが行われていく。それまで漂っていた薄い妖気は追い出され、代わりに外の空気が部屋を満たした。
その光景に満足し、和麻はその位置から動かず、目線だけを入ってきた扉へ向ける。
「土足のまま入るのは気が引けるなぁ」
綾乃は自分の足元を見て呟くと、周囲に注意しながら、リビング内を見回していく。
しばらくすると、階段から何かを掃くような音が、二階から一階に向けて響いてくる。和麻は早く来ないかと待ちわび、綾乃はその音に気付き身構えた。
音は階段から廊下の方へと移り、次第にリビングへ近付いてくる。綾乃は一旦和麻の近くへ移動し、和麻と同じように、警戒した視線を部屋の扉に向けた。
そして、扉がゆっくりと開かれていく。
そこから現れたのは、一見するとただの箒だった。それが、床を掃きながら部屋を綺麗にしていく。その光景を見ていた綾乃は和麻に問いかけた。
「あれって倒さないといけないの? 家の中を掃除しているだけに見えるんだけど……」
「依頼だ。視界も確保したし、周囲に風の結界も張った。お前が負ける要素はない」
綾乃は動き回る箒を指差して不満の言葉発する。和麻はその言葉をあっさりと切り捨てて、存外に早くやれと含んだ言い方をした。綾乃はその言葉に少しムッとしたのか、和麻を睨むが、その程度で和麻の表情を変えることはできない。寧ろ、手の遅い綾乃を和麻は睨み付けた。
綾乃はすぐさま和麻から目を逸らし、八つ当たりとばかりに箒を睨み付ける。
その意思に呼ばれるようにして、炎の精霊が綾乃のもとへ集まってきた。箒の方も異変を感じたのか、逃げるようにして扉の方へ向かう。しかし、扉は開かず、逆に風の結界によってリビング中央へと弾き飛ばされた。
ヨロヨロと起き上がる箒を見て、和麻から綾乃へ一言。
「やれ」
綾乃は頷く。それと同時に集中力を増したことで、威力を増した炎が箒へ襲いかかる。
箒は木製だったためか───はたまた、妖魔が取り憑いていたためか───盛大に燃えると、最後にはただの灰となって宙を漂う。
炎による家への焦げ跡や損害などは見当たらない。それらは全て、和麻が風で防いでいた。
漂っていた灰は、和麻に見られると、散々になって、家の外へと飛んでいってしまった。
「終わり?」
呆気ないほど早く終わったことに、綾乃が不安そうな声で和麻へと訊ねてくる。
「終わりだ。さっさと帰るぞ」
実際には、家の中の妖気を取り除く作業が残ってはいた。しかし、それについてはさほど時間はかからない。
和麻は、外で待たせているタクシーに、綾乃を連れて乗り込むと、運転手に行き先を告げてから、会話が漏れないように、風で車内に壁を作り、携帯を取り出して終わったことを報告する。
「除霊は終わりました」
『お疲れさまです。
それにしても、早かったですね。これほど早く終わらせられるのであれば、今後も、交通機関を使用した方がいいかもしれません』
「……今後は現地集合でおねがいします」
周防の言葉に嫌なものを感じた和麻は、先手を打つべく、先に言っておく。
『そうですか……』
和麻の話し方からなにかを察したのか、周防は話題を変える。
『それは、今後変えていきましょう。
話は変わりますが、一緒に仕事を行うのであれば、連携をとるためにも、日頃から一緒に行動を取るべきだと思いませんか?』
交通機関の使用に関して、明確な答えがなされないまま、次の話題に移ったことに、和麻は納得できなかったが、その時には依頼を断ればいいかと思い直し、周防の言葉に答える。
「相手にもよりますが、綾乃に関しては、そうは思いません。あの日のために、行動パターンや戦闘傾向は既に把握しています。こちらが求めるものは、更なる能力・技術の向上と、それを支える身体能力と精神力だけです。他は求めていません」
淡々とした和麻の返答にも、周防は同じように淡々と返す。
『それでは、その求めるものを実現させるためにも、綾乃様を鍛えていただけませんか?
もちろん依頼として考えていただいて構いません』
周防の言葉に和麻は考え込んでしまった。
綾乃は、和麻に誉めてもらうため、朝から気合いを入れて準備をしていた。
以前に親友に相談したところ、まずは見た目から……と言われ、服が欲しいと父親である重悟に話すと、その数週間後に、いくつかの服をプレゼントされた。
どうやって調べたのか不明だったが、何れの服も身体のサイズにぴったりと合っており、どこから見ても清楚なお嬢様にしか見えない。
今日は、その服を着て待ち合わせ場所に向かったが、和麻の反応は芳しくなく、逆に呆れたような反応を示されてしまった。
あまりのことに気が動転し、何かを口走ってしまい、恥ずかしさのあまり駅へと駆け込んでしまう。
(今日の朝からやり直したい……)
綾乃は知らないことが多すぎた。
電車という乗り物については知っている。テレビでもよく映っているし、町中にも線路が横断しているのだ。しかし、実際に利用したことなどない。
綾乃なりに調べ、仕事の場所への道順も覚えた。覚えただけで、役には立たなかったが……。
結局、不機嫌そうな和麻に連れられて、折角乗った電車も途中下車し、いつも通り車で向かったことで、眺めていた景色も中断させられる。
不満に思い和麻に訊ねてみれば、犯罪者が多いと言う内容には、訳が分からなかった。電車とは、囚人を乗せて走っているのかと一瞬本気で疑ってしまう。
(学園で聞いてみよう)
物知りな親友に聞いてみることにして、タクシーを降りた綾乃は、和麻についていき、除霊を行う建物の中に入っていく。
建物内は綺麗に片付けられており、土足で入るのを躊躇わせるほどだった。
(床に足跡着いちゃった)
綺麗に床が磨かれていたため、足跡が余計に目立ってしまう。気が引ける想いを、つい口に出してしまうと、和麻から呆れるような───朝の時のような気配が伝わってくる。
綾乃は内心失敗したと思い、気にしないように違うことを考えた。
(結婚したら、こういった家に住むことになるのかな?)
将来の事を思い浮かべながら、綾乃は視線だけを動かし、部屋の中を見回していく。
数分経った頃。綾乃の元に音が聞こえてきた。綾乃はすかさず戦闘体勢に入ると、すぐに和麻の元に移動して、音のする方を見るが、未だに姿は見えない。
警戒心を保ったまま横目に和麻を見ると、入ってきた時と同様に、部屋の扉を見たままだった。
綾乃も視線を扉へと戻し、音が近付くのを待つ。
音は次第に近付いてきて───そっと部屋の扉が開くのが見えた。
それは、箒だった。
和麻と綾乃が着けた足跡を綺麗に掃いていく。そうすると、まるで磨いたかのような、綺麗な床へと変わっていった。
箒は綾乃たちの一定範囲には近付かず、他の場所を掃除し始める。
(勝手に掃除してくれるなんて便利)
人に危害を加えるわけでもない。そんな箒を倒す必要があるのか───そんな疑問を和麻にぶつけると、即答されてしまった。
これは依頼なのだ。神凪を信用した……失敗させるわけにはいかなかった。
倒すために、箒へ視点を合わせて集中力を高めていく。箒がその様に気付いて逃げ出そうとするが、弾かれたように目の前まで飛んできた。
その後すぐに出た和麻からの言葉に反応し、綾乃は手を箒に向けて伸ばす。それに応えて炎の精霊たちは箒へと向かっていった。
綾乃はせめて苦しまないようにと、一瞬で箒を燃やし尽くす。
いつも通りとは言え、余りにも早く終わったことに不安を覚えた綾乃は、和麻に終わったことを確認し、肯定の言葉が返ってきたことにホッとする。
そして、タクシーの中に戻ったところで、和麻が周防に報告を始めた。
一般人───全く知らない相手の前で、仕事の事を報告するというのはどうなのか───と、和麻に問いたくなったが、タクシーの運転手の顔は変わらない。まるでこちらの声が聞こえないかのように。
和麻が何かしているのだろうと、電話の相手の声に綾乃は集中する。そして、その内容に驚いた。
(いつも一緒!?)
その言葉を聞いた瞬間、心臓が破裂するような勢いで動き出す。しかし、その言葉に続く和麻の言葉で、それはすぐに無くなり、逆に綾乃を落ち込ませた。
(やっぱり駄目なのかな……)
親友のアドバイスに従い、見た目も着飾ってみたが効果はない。移動に関しても、迷惑をかけまいと移動経路を調べたが、それもタクシーを使ったことで用をなさなくなった。妖魔退治にしても、いつもなら言わないことを言ってしまい、和麻の機嫌を損ねる始末だ。綾乃を落ち込ませるに十分だった。
しかし、その後の和麻の言葉で、それらの想いは消し飛ぶ。
綾乃の鍛練は和麻にとって必須ではない。
必須ではないが、これからもこの仕事を続けるのであれば、必要なことだろう。
綾乃は何故か、理由は不明だが、表情を暗くして俯いている。このような弱気な状態で仕事に来られても、和麻が迷惑なだけで、誰も得はしない。寧ろマイナスだった。
そのことから、和麻は結論を出す。
「分かりました。俺なりのやり方でやってもいいんですね?」
言ったことに責任を持ってもらうためにも、言質を取っておく。
『……はい。
好きなように鍛えてくれて構いません』
一瞬の間が空いた後に、周防が答える。まるで誰かに確認をとっているかのようだった。
「では、綾乃はこちらの好きにさせてもらいます」
「えっ?」
『戻りましたら、新しい契約を結ぶと言うことで、よろしくお願いします』
綾乃の困惑した声を無視して話は進んでいく。
綾乃には、和麻が最後に放った言葉が、頭の中をこだましていた。
顔を真っ赤にして、先程までとは違う意味で、綾乃は俯いてしまう。
話を終えた和麻は、途中から明らかに様子の変わった綾乃を不審に思いながらも、静かなのをいいことに、そのまま綾乃を放置した。
駅についたことで、二人はタクシーから降りる。
太陽は真上付近に差し掛かり、時計の針も、昼であることを告げていた。
「そろそろ時間だし(昼飯でも)食べるか……おい? 聞いてるのか?」
「……た……食べちゃうの?」
躊躇いがちに再度聞き返してくる綾乃に、和麻は言い返す。
「当たり前だろうが、それともお前は嫌なのか?」
「こっちにも心の準備っていうものが……」
挙動不審に、辺りを気にし始める綾乃を、胡散臭そうに和麻は見始める。
(今後のことを考えると、やはりしっかり鍛えるべきだな。こんな状態では足手まといだ)
和麻は意思のハッキリとしない綾乃の手を掴み、飲食店へ向けて歩いていく。
飲食店はすぐに見つかった。その通りには幾つもの飲食店が立ち並んでいる。しかし、和麻たちも隠れていたわけではないが、その通りを歩いていた者たちに見つかってしまった。
「可愛い子連れてるね~」
「兄妹か何かかな~?」
「この辺詳しいから俺たちが色々教えてやるよ」
三人組のチンピラ崩れは、和麻たちの前に立ちはだかり、それぞれ思ったことを口にする。
そんな事など気にも止めずに和麻は訊ねた。
「それならば丁度いい。ここらでうまい店を知りたい」
和麻の言葉をどう捉えたのか……男たちは顔を見合わせ、下卑た笑みを浮かべると、和麻の問いに答えた。
「こんな表通りにはないな。裏通りに行かねえと」
「それにしても、こんな可愛い子をね~」
「俺らが案内してやるよ」
男たちは乗り気なようで、和麻たちの前を先導するように歩き出そうとする。しかし、ひとり怒りに震える者がいた。
それに気付いた和麻は、綾乃から手を離し、辺りの空気密度を変えて、外から見えないように隠蔽する。
怒りに震えていた綾乃は何も言わずに、男たちを強襲した。後ろから男たちの膝の後ろを蹴りつけ、膝をついたところで頭にハイキックをお見舞いする。
それが一瞬にして三回。あっという間の出来事だった。顔を真っ赤にして、男たちを見据える綾乃へ和麻は声をかける。
「折角聞けると思ったんだが……」
「こいつらに何を聞く気だったのよ!」
「うまい店と言ったはずだが? それともお前は、不味い飯でも食べたいのか?」
綾乃の怒りが分からず、問い返す。
和麻の言葉に綾乃は何かを想い至ったのか、少し押し黙ると、焦ったように言い訳を始めた。
「そんなわけないわよ。うん。こんなやつらが美味しい店なんて知ってるわけないじゃない! これは和麻の不手際なんだから!」
「こういう奴こそ、うまい店を知ってると思うんだが、な」
周囲へと目配せし、男たちを路地裏へと風で運ぶ。そうしてから、周囲の隠蔽を解き、再び歩き出した。
結局は、近場の飲食店に入り食事を摂り、駅へと戻る。戻る傍ら、綾乃がガッカリとした表情で歩いていたが、和麻は一切気にせずに歩いていく。
帰りの電車では、座席に座ることができ、来たときほどに神経質にならずに済んだのは、和麻にとってよかったと言っていいだろう。もし、満員のような状態であれば、今度こそ痴漢たちは、凄惨な死を送ったかもしれない。
家にたどり着く頃には、綾乃の機嫌は直っていた。そんな綾乃へ、周防が出迎えの言葉と共に重悟の元へ向かうよう伝えられる。
「おかえりなさいませ。綾乃様。和麻様。
綾乃様は重悟様の元へ向かってください」
「分かったわ」
綾乃は軽く頷くと、足早に屋敷の中へ入っていく。
その綾乃を見送ってから、周防は和麻へ向き直り、電話の内容について話をすべく、離れへと和麻を案内した。
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11話
日曜の朝。外は晴天に恵まれ、秋に近い季節が少し冷たい風を運んできている。
最近は何かと忙しく、和麻は夏休みを返上して、神凪からの依頼である綾乃の訓練を行っていた。
訓練はその辺りで行うような生易しいものではない。生き残るためには、常に警戒が必要となるサバイバルだった。
和麻が綾乃の訓練を行うにあたり、神凪に条件として提示したのが、無人島を用意すること。それに加えて、その無人島に、数週間生きるだけの食糧が自生していることだった。
そうして用意された島に、和麻と綾乃を残し送り届けた船は引き返していく。
取り残された綾乃は暫しの間、肩に掛けたポーチの紐を握り締め、茫然と遠退いていく船を見送る。
そんな綾乃の様子など気にも止めずに、和麻は荷物の中身をチェックし終えると、島の奥へと進んでいった。
「待って!!」
それに気付き慌てて綾乃は和麻の後を追う。
綾乃は和麻に置いていかれぬよう必死についていくのだった。
数日前に、綾乃は父親から呼び出しを受けて、あることを告げられた。
「綾乃」
「何ですか?」
「夏休みに家に居てばかりでは暇であろう。丁度いい機会であるし、南の島に行ってみぬか?」
「南の島!?」
綾乃は、行ったことのない場所に想いを馳せて喜び、ふたつ返事で重悟の言葉に頷く。
「もちろんいくいく!!」
重悟は、これで全てうまくいくと言わんばかりに、綾乃の返事に満足すると、準備をさせるために続きを話し出す。
「出立は明後日になる。期間は一ヶ月。それなりの準備をしていきなさい。足りなければ買い揃えるので言うように……。
―――それと、和麻も一緒だ」
「えっ?」
重悟の最後の言葉に立ち上がった綾乃は凍りつき、重悟を見据える。
重悟は、表情を崩さずに言い終えると、夏だと言うのに湯気の立ち上る熱いお茶を啜り始めた。
「じゅ……準備しなくちゃ!」
綾乃は固まった状態から復活し、慌てたようにして重悟の部屋を後にする。
部屋から遠ざかる気配に、重悟は我慢していた顔の緩みが解け、これからのことに頬を綻ばせていた。
見知らぬ土地に見知らぬ食べ物。綾乃はそれらの未知なるものに興味を抱きながら準備をしていく。
足りぬものは何でも言いなさいと言われたが、着替え以外で、何を持っていけばいいのかよく分からない。そこで、綾乃はよく海外に行く親友に、持っていくものを訊ねることにした。
「もしもし、綾乃だけど今大丈夫?」
『もっちろ~ん。いつでもどこでも大丈夫だよ~』
子機から聞こえてくる能天気な声に、綾乃は頼もしさを感じると共に不安も覚える。
以前、聞いて実行した内容───服装について、あまりよい結果が得られていない。そのことが不安に感じる要因にあげられる。
しかし、海外旅行に関して綾乃は無知に等しい。海外旅行の準備など、経験者───それも同い年の子に聞いた方が確実だった。
「今度南の島に行くんだけど、何を持っていけばいいかな?」
『南の島って言っても色々あるよ~。場所によって持っていく物も少し変わってくるし……。
具体的にはどこに、どれくらいの期間行くの?』
「そう言えば行く場所聞いてない……」
『綾乃ちゃん、詰めが甘いよ~』
少し呆れたような声で笑いながら話す相手に、綾乃は少しムッとするが、聞いている手前強く言うことはできずに話を先へと進める。
「一般的に持っていくものだけ教えて。数日後に一ヶ月くらい行くことになったから」
『ん~。ちょっと長いね……。
そう言えば、聞いてなかったけど、誰と行くの?
綾乃ちゃんのお父さんって確か足が悪かったよね?』
旅行の話を聞いて不思議に思ったのか、綾乃の親友が問い返してくる。
「えーっと……それは……」
『あー分かった! この前話してた人でしょ!! 綾乃ちゃんも大人の階段を登るときが来たんだね!!』
「そうだけど……大人の階段って?」
綾乃はあまり知られたくはなかったのか、話題を疑問へとすり替える。
『それはひと月も一緒に過ごせば、嫌でも分かるから!』
「そうなんだ」
『そうそう』
綾乃はいいように疑問をかわされたことに納得できずにいたが、次の言葉で慌てて紙と書くものを用意し始めた。
『今から言うものをメモしていって。
―――準備はいい?』
「いいよ」
綾乃は机の上でシャーペン片手に、親友から言われたものをメモ帳に書き写していく。
そして、ひと通り書き終えたところで、使用法の分からない物について説明を求めた。
「このゴム? は、何に使うの?」
『それは相手の人に聞けば分かるよ! 聞くときは、相手の耳元で「これの使い方を教えて」って囁くように言うのが大事だから!
それは、綾乃ちゃん宛に送っておくから、コッソリ旅行鞄の中に入れておいてね』
普段の綾乃であれば、断ったであろう。しかし、物がどういうものか分からない上に、聞けば分かると言う言葉で、実際に物を見て判断しようと、反対の言葉を呑み込む。
「後は何がいるの?」
『暇を潰せるような物を持っていくくらいかな?
多分最初の一週間くらいでひと通り回ってしまうと思うから、後が暇になるかも』
「なるほど」
綾乃は、親友の言葉に相槌を打ちながら、足りないものを他のメモ帳に書き写していく。
普段使わないような物が多く、足りないものが多々あった。それらをひとつにまとめ終えると、別れの挨拶もそこそこに、通話を切る。
「教えてくれてありがとう。またね」
『帰ってきたら、いろんな体験談教えてね』
「いろんなところに行けたら行ってみる」
『……絶対だよ? じゃあまたね~』
ツーツーという通話の切れた子機を置いて、綾乃は重悟の部屋に向かった。
必要なものとして、色々書き込んだ紙を持って。
旅行鞄に積めたものを、綾乃は後悔しながら取り出していた。
父親の言ったことは間違ってはいない。
(住んでいる場所より)南国の(無人)島。和麻と一緒(に1ヶ月鍛錬を行う)。
内容を知っていれば、このような準備はしなかった。まだナイフでも持ってきた方がいいだろう。綾乃は役に立ちそうにない中身を眺めながら、和麻に言われたことを頭の中で復唱していた。
「今からここでサバイバルとお前の鍛錬を行う」
「───えっ?」
「この島が無人島と言うのは、船に乗る前に聞いた通りだ。最初の一週間はひと通り教える。次の一週間は自分でやってみろ、残り二週間は鍛錬をメインとした生活してもらう」
「ちょっと待って!」
話を続けようとした和麻を慌てて止める。綾乃には、和麻の言っている意味が分からなかった。
そもそも、南の島と聞いて、飛行機で行くと思っていたところが、船になっていたところから、綾乃は理解できていなかった。その後の、船に乗る前の説明で、無人島生活を和麻、ふたりっきりと聞いて心踊らされたが、船に揺られて冷静になるに従い、誰の助けもなく生活できるのかと、不安が押し寄せる。
旅行鞄の中には、キャンプ用品などほとんどない。いいところで、蚊取り線香くらいだろう。
太陽のもと水着姿を見せつけようと考えていたが、そんな時間があるかも怪しい。一番大事な食べるものがない。持ってきていないのだ。最悪、食べ物を見つけるだけで一日が終わるかもしれない。
そういった不安が綾乃を襲っていた。
「サバイバルのやり方なんて知らないし、道具も持ってない」
「…………」
和麻は、開かれた旅行鞄に目を落とし、綾乃の言葉が嘘でないことを確認すると、ポケットから1本のナイフを取り出し柄の部分を綾乃に向ける。
「用途毎に種類を変えた方がいいんだが、あったところで宝の持ち腐れだろう。
取り敢えず、今回はこれを使え」
綾乃は差し出されたナイフを恐々と受け取り、ひと通り見回してから、和麻へ問いかけるように見つめ返す。
「早速だ。自分の食べるものを見つけてこい」
「和麻はどうするの?」
綾乃の心配など、和麻には通じない。まるでつき離すような言葉が返ってくる。
「人の心配より自分の心配をしたらどうだ? 見つからなければ、飯は無しだぞ」
和麻の言葉に、綾乃は分かっていたことながら、改めて言われたことで驚愕する。
「何が食べられるかも分からないんだけど……」
「お前は一体今まで何をしてきたんだ?」
和麻は幼い頃から、厳馬に色々なことを叩き込まれていた。それはひとりで生き抜く術に他ならない。同じとまでは言わないが、神凪の一族であれば、それなりの鍛錬をしているものと考えていた和麻の当ては外れる。
あの時和麻の見ていた半年間の内容が、綾乃の行ってきた鍛錬の全てに等しかった。
つきたくもない溜息を漏らし、和麻は綾乃へと命じる。
「この島中を駆け回って食べられるものをとってこい。日が暮れる前には、ここに戻ってくることが条件だ」
依頼の内容である、和麻の求めるレベルまで鍛えられるかは不明だったが、手始めに最低でも自分の事は自分でできるように仕向けていく。
普通であれば、無人島には山菜や魚しかないため、いきなり食料を採ってこいと言われても難しいだろう。しかし、この島は以前人が住んでいた。すなわち、野生化した野菜や果物の木が生っているということだ。
この島を駆けずり回ればいずれ見つけることができるようになっている。
今回は、わざと人が住んでいた場所の反対側に上陸したので、時間はかかるかもしれないが……。
「さっさと行って来い」
不満を隠そうともしない綾乃に、和麻は問答無用とばかりに風で追い立てる。
「わわわ!? ちょっと! すぐにいくから!」
風に追い立てられながら走り去る綾乃を見送り、和麻は空を見上げる。
(鳥でも捕っておくか)
和麻は空を飛ぶ鳥を視界に収めながら、その瞳に力を込めた。
風に追い立てられた綾乃は、否応なく走らされる事になる。
「もう! しつこい!」
和麻から離れるに従い、弱まっていく風に対抗するため、綾乃は己の周囲に炎を展開した。すると、今まで煽っていたのが嘘のように、風は霧散し消えていく。
炎は綾乃に応えるようにして燃え盛り、それは下の草地へと移っていく。
「あっ……」
その炎の広がりようはいっそ見事と言う他なかったかもしれない。緑の草原が綾乃を中心に、黒一色へと変貌していったのだ。綾乃は突然の事に見ていることしかできず、呆然と立っているだけだった。
広範囲に広がっていったところで、綾乃はハッとし、炎へと手を伸ばして意思を伝える。
その甲斐あって山林火災の被害にはあわなかったが、食料を見つけようと思っていた綾乃にとって、精神的なダメージは大きい。
自らの炎で、探すべき食料を燃やしてしまったかもしれないのだから。
炎の扱いには注意しようと決意し、綾乃は違う場所へと移動していく。
(食べられる物があるのは、あそこだけとは限らないし……あそこには何もなかった! うん! そうに違いないわ!)
綾乃は意識の切り替えを素早く行い、移動速度を徐々に上げて木々の合間を縫っていく。
途中で、食べられるかどうか分からない物を、泣く泣く肩から掛けたポーチの中に入れて、辿り着いた先には潰れた民家が幾つか視界に入った。
(家……? でも潰れているし……昔は人が住んでいたのかな?)
恐る恐る民家へと近付き、中を見てみるが、ところどころに穴が開いている上に、いつ崩れてもおかしくないほど壁や柱が傾いていた。
それらを見て回る内にある場所を綾乃は発見する。
(見つけた!!)
それは実際に見たことがあり、食べたことがある物だった。
ポーチの中に入れていた草を取り出し、代わりにキュウリやナスなどを詰めていく。
それらを手に取り、意気揚々と和麻の居る場所へと戻っていった。
日が暮れるにはまだまだ、時間的余裕があるなかで戻ってきた綾乃は、首や羽のあった部分から、血を流す大きな鳥を見て顔をげんなりとさせる。
自分に対して敵意や害意を持つ者には、生き物であろうと容赦はしない。それは和麻と共に行ってきた依頼で、嫌というほど思い知らされた結果、根づいてしまった反射のようなものだ。しかし、だからといって、生き物を殺すことに抵抗が無いわけではない。それは他者が行っていても一緒だ。
食卓を飾る肉を見ても抵抗は無いが、その過程を見ることは、今の綾乃には精神的に辛いものがあった。
綾乃は極力見ないように、和麻の傍へ移動すると野菜を採ってきたことを告げる。
「野菜採って来たよ」
「……綺麗に泥をとっておけ」
和麻は、綾乃の持ってきた野菜を見て不審に思いながら言い放つ。それもそのはずで、本来キュウリやナスに泥はつかない。泥がついていた原因は、それの前段階で取っていた草だった。根っこごと引き抜いて入れていた為、ポーチ内が泥だらけになっていたのだ。それを和麻は知らなかったため不審に思う。
「わかった。……川はどこにあるの?」
少し困ったように、綾乃は和麻へと訊ねた。野菜を洗うための川を探すが、辺りには見当たらない。民家のある辺りに川が流れていたが、そこまで戻っていては、本当に日が暮れてしまう。
「何を言っている。炎で泥だけを燃やしてしまえばいいだろうが。
最悪皮まで焼いても構わん」
「えっ?」
父親である重悟に、そのような技術があることを綾乃は知っている。しかし、それは長い経験と修行の賜物だという認識だった。和麻の言葉は、それを打ち砕きすぐにモノにしろと言う理不尽なものでしかない。
「驚いている暇があるならさっさとしろ。それも鍛錬の一環だからな」
和麻は鳥を解体し終えると、マッチで火を熾し大きな鍋に水を入れて炊き始めた。
泥を落とせという指示以外何もないことを悟った綾乃は、まず自分の手に着いた泥を炎で焼き尽くすために、掌を見つめる。それは一点に集中していたためか、それとも才能ゆえか―――出現した炎は、綾乃の意思とは異なり、大きなものとなった。
「まずい!」
またやってしまった……と、綾乃は慌てて炎を収めようとするが後の祭り。綾乃の着ていた服は一般的な店で販売しているものだった為、一瞬にして燃えてしまい、消し炭となってしまった。
残ったのは下着姿の綾乃のみ。
「キャーーー!!」
和麻は、そんな綾乃を後目に、テントを組み立てていた。
綾乃は、手で身体を隠しながら急いで旅行鞄の元に走り寄ると、服を慌てたようにして取り出し、着始める。
(騒がしい奴だ)
着終えた綾乃は、涙ぐみながら和麻をしばらく見つめ、全く見てもいないことを確認すると、複雑な表情をして再び野菜の置いてある方へと歩いていった。
テントを組み立て終えた和麻は、沸騰したお湯の中に、風で羽や内臓を取って小さく切断した鳥肉を幾つか放り込む。そして、密かに取っておいた野菜を刻んで、鳥肉の入った鍋の中に入れていく。それを持ってきていた調味料で味付けしながら、石の上に座って調理していた。
その間、風で周囲の状況を確認することも忘れない。
一方、綾乃の方はと言うと、野菜の泥落としに悪戦苦闘していた。
まず第一に、自分の服を焼かない火力にすること。次に、野菜の表面をなぞるように野菜を焼くこと。
そのふたつだけだというのに、綾乃は失敗を重ねていた。
普段意識せずに使っていたこともあり、炎のコントロールがうまくいっていなかった。火力がうまくいったと思った矢先には、野菜が一瞬で焼けてしまう。
それでも諦めずに、次の野菜へと手を伸ばしていくが、来るべくして、その時は来てしまう。
元々それほど大きなポーチではないのだ。野菜が沢山入るわけもなく、全て食べられない物へと変化してしまった。
泣きそうな顔をして、綾乃は和麻を見る。和麻はある程度予想をしていたのか、綾乃に来るように言ってきた。
「暗くなる前に飯にするぞ」
「……うん」
和麻の言葉に救われたような表情をして、和麻に駆け寄る。
また、野菜を取ってこい……と、言われないかと悩んでいたのだ。
準備をしていた和麻の道具を借りて、鍋をつつく。既に和麻は食べ終えたのか、皿や箸を綾乃に手渡すと、持ってきていたリュックに近づいていった。
(和麻の使った箸……。ご飯を食べるだけだから! 他に目的なんかないから!)
自分自身に言い訳をして、躊躇いながら、鍋をつつくのをやめた綾乃は、箸で鍋から皿に乗せ、口へと運ぶ。
(あんまり美味しくない……)
味はともかく、綾乃がモグモグと口に料理を頬張っていると、和麻がリュックを整理し終えて立ち上がるのが見えた。
嫌な予感がした綾乃は、食事の手を止めて和麻に問いかける。
「和麻どこにいくの?」
「そのテントはくれてやる。
明日は朝日と共に訓練開始だ」
そう言い終えると、和麻はさっさと歩き去っていく。
このままではまずいと、綾乃は和麻を引き留めた。
「待って! 最初の一週間くらいは一緒にいて!」
綾乃の切なる願いに対して、和麻も思うところがあったのか、立ち止まり振り返った。
「確かに、最初の一週間は教える手筈だったな」
和麻は面倒そうに言うと、踵を返して綾乃の元まで戻ってきた。
綾乃はひと安心すると、旅行鞄を開けて散らばった服を戻していく。その際に一枚の封筒が入っているのを見つけた。
(そう言えば、和麻に訊けば分かるんだっけ?)
和麻はテントの外に荷を下ろすと、その場に寝床を敷いて横になっていた。
そんな和麻に、綾乃は近付き封筒の中にある物を取り出して訊ねる。
「ねえ。和麻。これって何に使うの?」
「ん?」
和麻は綾乃の持っている物を見て、眉を顰めると数瞬考え込み答えを返す。
「それは簡易な水筒になる。破れやすいが、1リットルくらいは入るはずだ」
「へえー。これって水筒だったんだ」
綾乃は和麻の答えに満足すると、それを封筒の中に直して旅行鞄の中へと戻していく。
簡単に信じ込んでしまった綾乃に、和麻は溜息を吐くのだった。
それから一週間。この無人島で生活する術を綾乃は教わった。未だに山菜に慣れず、集落まで野菜を採りに向かってはいるが、綾乃にとってそれほど苦にはなっていない。
しかし、その間にも炎のコントロールを行う訓練は続けられていた。
食料探しをする手間がほとんどかからないのだから、必然的に訓練に割かれる時間は大きくなる。
今日も、石の上に積み重ねられた木材だけを燃やす訓練を行っている。
「取り敢えず、この訓練の成否に関わらず、次の段階に移るぞ」
「もうちょっと待って! もう少しでできそうだから!」
綾乃がムキになるのも仕方が無かった。完全にできていなければ、綾乃もここまで拘ることはなかったかもしれないが、何度か成功はしているのだ。そのコツを掴もうと、今も必死に集中して対象を木材へと固定させている。
「その言葉は何度目だ? どちらにしてもこちらは予定通り進める」
しかし、和麻の返答は厳しいものだった。和麻の認識としては、偶々成功させたに過ぎない。偶然は必然ではないのだ。早い話が、0か100でしかない。
「絶対成功させて見せるんだから!」
綾乃のやる気に呼応して、炎は木材を載せた石ごと焼き尽くしてしまう。
「ああ……」
力なく、失敗してしまった後を確認して、綾乃はまた、木材を近くの石の上に置きにいくのだった。
結局完全に習得するには至らないまま、次の過程へと進んでいく。
この週から和麻は、予告通り出て行ってしまった。一言を残して。
「生活する上で信じられるのは自分のみだ。他の者を信用するな。例え俺でもだ」
そう言い残して消えていく。
テントの中は綾乃の持ち物のみ。
それまで和麻と一緒に寝ていた綾乃は、残念そうにその後を見送り、次の日に備えた。
しかし、生活リズムはほとんど変わることはない。変わったとすれば、綾乃が取ってきた食材を和麻の置いていった調味料を基に、自分自身で調理することできるようになったことだろう。
この頃には、綾乃も狩りができるようになっていた。炎を操り、鳥を仕留め、ナイフを棒に括り付けて槍として使い、魚を取る。他に関しては自生している野菜で十分だった。
それらを終えた後に、和麻との模擬戦である。
これが綾乃にとっては、この島に来て初めてかなりの疲労を感じさせるものだった。
ひたすら和麻は綾乃を攻め立てていく。余裕のない綾乃は、それをただ受けるだけで精一杯だった。
そして、疲労で身体が動かなくなるまでやってからその日は終えるのである。
それが一週間も続けば身体は次第に慣れてきていた。
今では炎雷覇片手に和麻と闘っている。闘っていると言えば聞こえはいいが、実際には和麻が綾乃に攻撃する機会ができる程度に力を抑えているだけだった。
綾乃は炎雷覇を構えて和麻に襲い掛かるも、簡単に躱された上に、その際にできた隙を突かれて、風の一撃を受けてしまう。
それならば―――と、炎によりフェイントを仕掛けていっても、その炎は風で進路を変えられて在らぬ方向へと突き進んでいく。それならばまだいいが、他の時には、その炎を目眩ましに使われて、痛い目にあっていた。
そのため、基本的には、炎雷覇と己の肉体のみで和麻に対抗している。
一度も勝てた例はないが……。
その日も夕暮れに差し掛かり、訓練が終わると、和麻はいつも通り姿を消してしまった。
綾乃はドラム缶の周りに炎を通して、水を温めると、服を脱いでドラム缶へと身を浸す。
(大分この生活にも慣れて来たなあ……)
この島には、綾乃と和麻しかいない。他は鳥や獣などだ。
恥ずかしいという考えも、この無人島で生活していると次第に薄れていっていた。
綾乃は空を見上げながら、今までできたことを復習するべく、炎で辺りを明るくし、近くに燃えるものを探すと、それに火を着ける。
その場に炎が現れると、その炎に包まれた物は燃え尽き灰も残さずに消滅する。
そして、消え去った後には燃えた痕跡など残さない、以前の状態のままだった。
(バッチリね。残り一週間頑張ろう!)
その結果に満足し、綾乃はドラム缶から上がると、テント内へと入っていった。
残りの一週間。普通に生活している間も油断などできない状況だった。野菜を採りに行っている最中でも、攻撃を仕掛けられるのだ。ある時には、枝が飛んできたり、上空ばかりに気をやっていれば、足元に落とし穴が設置されていたりと、移動するだけでも油断できない。
それは寝ている間にも適用される。
寝ているテントにイノシシが突進してきたり―――と、心休まる時が無かった。それでも、戦う者の末裔か。綾乃はその状況にも対応していく。
二日目には、周囲の状況をよく観察し、罠に掛かることはなくなった。
三日目には、夜間の襲撃にも対応できるようになった。近づく者全てを焼き尽くす炎を、テント前に張り巡らせるといったことをできるようになったのだ。
全て、和麻の思惑通り順調にいっていた。
最後にあれさえなければ。
綾乃は、毛布に包まれて集落内のある一軒家で寝ている。
ここにきて、綾乃は風邪を引いて寝込んでいた。
環境が変わり、食事も変わり、日々神経を張り巡らせる生活。
普通の者であれば、直ぐには順応できず、身体を壊していただろう。今まで鍛えてきていたといっても、綾乃は初等部である。十歳を超えたばかり。よくここまでもった方だと言えるだろう。
和麻は、綾乃の横でその看病をしつつ、風で部屋の中の空気を入れ替えていた。
(まさか、ここにきて倒れるとはな……)
船が来るまで残り二日。残りの計画を破棄して、和麻は綾乃の世話をすることになった。
船が来る頃には綾乃の容態もよくなっていた。ただ、和麻として誤算があったとすれば、それまで以上に綾乃が和麻に懐いてしまったことだろう。
再度和麻は突き放すように伝える。
「誰も信用するなと言ったはずだ」
「私が誰を信用するかは私が決めること。
それで裏切られても、それは私の見る目が無かっただけだから気にしないで」
綾乃は一切に気にせずに、和麻にピタリと身を寄せて離れぬまま、神凪邸へと戻ってきた。
「それじゃ。またね」
返事を聞かぬまま、綾乃は屋敷の門を潜り中へと入っていく。
和麻はタクシーの運転手に行先を告げて帰っていった。
和麻の生活は、神凪を出たからと言ってそう大きくは変わらなかった。
和麻から見て変わったことと言えば、住む場所と食事を作る人が変わったくらいの感覚しかない。普段の生活が変わるはずもなく、いつも通りの生活を送っていた。
送っているつもりだった―――と言った方がいいだろう。
和麻は目の前の状況に、今日何度目になるのか分からない溜め息を漏らす。
「あんたは和麻の何なの?」
「えっと。私はその……」
綾乃の言葉に気圧されて、柚葉は躊躇いながら視線で和麻に助けを求める。
しかし、同じ説明を何度もする気がないのか、煩い中で呆れながらも和麻は読書をしていた。
綾乃が訪れた際に一度説明をしたが、それで綾乃は納得せずに、今度は柚葉へ訊ね始めたのだ。無駄なことを嫌った和麻は、そんな綾乃を無視して本の続きを読み始めたのである。
「はっきり言いなさいよ!」
「それは……神凪君の言った通りで……」
「そんな嘘が罷り通ると思ったら大間違い! 次に私を騙そうと「煩いぞ」いっ!?」
綾乃が全てを言い終える前に、和麻は綾乃に素早く近づくと、足払いをかけて転ばせる。いい加減静かに過ごしたかった。
綾乃は持ち前の反射神経で、その足払いに対応すると、無様にこけたりなどせず、手をついて受け身をして一旦距離をとる。
「酷いよ和麻」
「酷いのはお前の頭の中だ。それ以前に何をしに来た」
和麻は綾乃の後ろにある荷物に視線を向けて訊ねる。
「もちろんここに住むために来たの」
「住まわせる気など無い。帰れ」
「一ケ月一緒に暮らしたんだから、今更恥ずかしがらなくても大丈夫!」
「一ケ月も……一緒に……」
綾乃の言葉に柚葉はショックを受けたようにして、顔を変化させる。
しかし、和麻の対応が変わることはない。
「同じことを何度も言う気は無い」
「───えっ!?」
言葉途中で、和麻は綾乃に向けて手を突き出すと、綾乃の周囲に風が巻き起こり、荷物と一緒に宙に浮き始める。そして、手を一閃させた直後、綾乃は荷物と共に飛んで行ってしまった。
その光景を一瞥し、振り返ると、真剣な表情で和麻を見つめる柚葉と目が合う。
「神凪君……さっきの話は……本当なの?」
「何の話だ?」
「えっと……一ケ月一緒に……その……何でもない!」
柚葉は迷いを振り切って、エプロンを外すと、足早に準備を始めた。
「ご飯の準備はできたから、あとは食べる時に温め直して食べて。……お邪魔しました」
柚葉は慌てたように、和麻の家を後にした。
和麻は静かになった空間に満足し、読書の続きへと戻っていく。
風によって飛ばされた綾乃は神凪邸まで戻らされていた。
(まさかあんな奴が先に和麻の家にいたなんて……)
綾乃は自室へと戻り、子機に手をやると友人の番号を押し始める。
「もしもし。…………綾乃だけど今いい?」
『いつでも準備は万端だよ~』
「聞きたいことがあって」
『綾乃ちゃんが聞きたいことと言えば、ズバリ恋人さんのことだね! 応援するから、南国のことも詳しく教えて!』
和麻の家を後にした柚葉も、綾乃と同様自分の家に戻ってから、友人に携帯から電話を掛ける。
(うう……あんなに可愛い子が来るなんて思ってもみなかったよ……。あれって絶対神凪君のこと好きだよね……神凪君は彼女のことをどう思ってるんだろう?)
不安を払拭するためにも、他の人の声が聞きたい柚葉は、早く出てくれることを願っていた。
『もしもし? どうかしたの?』
「相談があって……」
『何々? 柚葉の事だから、あいつ絡みでしょ? 詳しくじっくり聞くよ!』
2人はそれぞれの相手からアドバイスを貰うのだった。
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12話
重悟は事態を非常に重く見ていた。
今は内密の話をすべく、周防のみが部屋の中におり、重悟の対面に座っている。
周防の顔はいつもと変わりなく平然としていたが、重悟は違う。いつにもまして難しい顔をしていた。
「何かよい案はないか?」
「よい案と申されましても、現状で鑑みるに、綾乃様の実力は上がっております。
それは、同行した雅人様からも報告が上がっているはずです。
その点から言わせていただけるならば、改善の必要性はあまりないかと」
すらすらと答えるが、その答えは重悟の求めるものではなかった。その証拠に、重悟の顔は未だに晴れない。
「しかしだな。この前のように、いきなり家出などされてはかなわん。
……次期宗主としての自覚を持った行動をして貰いたいのだ」
重悟は難しい顔をしたまま話す。周防はしばらく重悟を見つめたまま黙してしまった。
このような状況になったのも、綾乃が夏休みの訓練を行って帰ってきてからすぐのことである。
綾乃は家に帰ってから、重悟に録な挨拶もせず、再び旅行鞄に必要なものを詰め始めたのだ。
日常生活に必要なものを……。
なかなか帰りの挨拶をしに来ない綾乃に困惑しながらも、重悟は綾乃を呼びに使いを出す。
そうして部屋へ訪れた綾乃の雰囲気は以前とは比べ物にならないほど変わっていた。
「呼びましたか? お父様」
いっそ別人では───と、重悟が疑ってしまうほどに。
それは仕方ないのかもしれない。和麻との訓練で培われたものは、そう簡単に変わるものではないのだから。
綾乃は、父親である重悟の前であっても警戒心を解かない。視線は重悟の方へと向いてはいるが、周囲の状況に即応できるよう座ることなく、立ったまま対応している。
以前であれば、真っ先に重悟のもとを訪れ、何をしたのか、何を見たのか、どう思ったのかなどを話してくれたものである。
立ったままというのも有り得なかった。そして、重悟を見る目付きも。
口ではお父様と言ってはいるが、完全に他人へと向けるような視線。言い方を変えれば、まるで敵へ向ける視線に近いと言えるだろう。
「まあ座りなさい。……南の島はどうであった?」
綾乃は警戒を解かないまま、重悟の対面にゆっくりと座る。
「お父様のお陰で、とても有意義な生活を送ることができました」
綾乃は淡々と話すとそのまま黙してしまった。
重悟は続きがあるものと思い、耳傾けていたが、黙したまま話は終わりとばかりに、それ以上話が続くことはない。これでは寂しいと、会話を続けるべく話題を振っていく。
「どのようなことをしたのだ?」
「どのようなこと……?」
綾乃は何かを思い出したのか、拳を握りしめ、蔑んだような視線を重悟へ向ける。
「お父様の『依頼通り』のことをしたに過ぎません。
他に何かあると思ってるの?」
それまで我慢していたのか、綾乃の意思に反応して俄に辺りの温度が上がり始める。
周りの状況とは裏腹に、重悟は綾乃の言葉に冷や汗をかきながら、会話を続けるのが怖くなり話しを変えた。
「では、どの程度実力が上がったのか見せてもらおう。
―――二日後に依頼が入っている。それに参加するように」
「分かりました。
―――そういえば、い・ら・い・の・せ・い・で貰えなかったお小遣いをいただけますか?」
綾乃は重悟の言葉に頷くと、思い出したように小遣いを要求した。ある部分を強調して。
「―――そう言えば、二ヶ月分渡していなかったな。一時間後に取りに来なさい」
「分かりました」
綾乃は返事をすると、重悟の部屋を後にする。
残った重悟は、変わり果てた綾乃の纏う雰囲気と性格に頭を悩ませた。何故ここまで変わったのかと。
そして、妖魔退治の依頼をこなしたその翌日に、綾乃が家を出たという情報が重悟の元に届いたことで、更に頭を悩ませるのだった。
重悟はこれからのことを真剣に考え込んだまま動かない。
綾乃が重悟の言うことを聞かないようなことはたまにあった。それは一時的なもので、そう長続きはしない、その場かぎりのものだ。しかし、今回は違う。
どのような訓練を施せばああなるのか。まるで、厳馬、いや―――和麻のような雰囲気である。
誰も信じず、常に周囲は敵であるという考え方。
唯一の救いは───和麻のことだけは、そう思ってはいないところだろう。
この時重悟は、訓練のせいと考えていたが、理由はそれだけではなかった。
綾乃は重悟の言った言葉に対して怒っていたのだ。南の島でのバカンスを楽しみにしていた綾乃にとって、それはひどい裏切り行為であった。信用を失うに足る理由があったのである。それに加えて、必要な情報を渡さない重悟を綾乃は信じていなかった。
どうしたものかと、親友であり幼馴染みである厳馬に聞いても、まともな返答は期待できない。かといって他にまともな内容を返せるものは少なかった。
和麻の名を出せば、よくない顔をするものがほとんどなのである。
選択肢は最初から残されていなかった。
「お言葉ですが、私が思うに……」
唐突に話始めた周防に重悟は顔を上げた。そして、何か良い案が浮かんだのかと、期待の視線を向ける。
「綾乃様は反抗期に入ったのだと思われます」
「反抗期……?」
「はい。この年齢で言えば、いささか早いかもしれませんが、世間一般の子供であればなるものです」
「そうか! あれが反抗期というやつなのか!」
何故今まで気づかなかったのかと、重悟は胡座をかいた脚をバシっと叩き、綾乃の態度に納得する。
そう考えることで、重悟の中では全ての辻褄があった。
南の島で、和麻との生活を送ることに不満があるはずもない。その証拠に、綾乃が家出した先は和麻のもとである。欲を言えば、綾乃が和麻を家に連れ戻すことが一番良かったが、流石にそこまでは求めない。ゆくゆくはそうなるとして……。
そのような考えに至った重悟は、周防を下がらせる。そして、満足した表情で仕事に精を出すのだった。
夏休みが終わり、いつもの生活が和麻に戻ってきていた。綾乃はあれ以来学園があるためか、和麻の家に姿を見せない。その代わりに、必要以上に柚葉がついてくるようになった。
今までは、学園内と下校の際だけだったのだが、それが登校にまで及んできたのだ。だからと言って、柚葉から何か話してくるわけではない。ただ、大人しくついてくるだけだった。
それだけだったのならば、和麻としても鬱陶しく感じただろうが、朝食を作っているため特に何も言わない。朝食を食べて、そのまま学園に行くだけ。そのため、わざわざ別行動する必要性を和麻は感じてはいなかった。
周りからは冷やかしの言葉が上がっていたが、和麻は気にした風もなく無視し続け、柚葉は恥ずかしさのあまり、顔を伏せたままというのが日常的になりつつあった。
それも、当事者の片方である和麻が反応しないことから、次第に薄れていったが。
柚葉としては、この日常に幸せを感じていた。友人からは未だにからかわれてはいるが、好きな人と共に過ごす日々。朝は早くから昼の弁当を作り、その後、和麻の家に行って朝食を作り、一緒に朝食を摂ってそのまま夕食を作り家に帰る。次のメニューを考え、食生活にも気を使う。料理の腕は上がり、栄養面に関しても徐々に詳しくなっていく。
柚葉の気持ちとしては、新婚生活をしている気分だった。敢えて不満を上げるとすれば、土日だけは食事を作る必要はないと、和麻に断られたことだろう。
友人からは、『胃袋を掴めば心も掴める』とアドバイスを貰っているだけに、土日も作りたかったのだが……。それは、和麻の都合───アルバイトが入っているということで納得している。
何故か、突如訪れた美少女と行動を共にしていることは分かってはいたが、それについて文句など言えるはずもない。
それでも、平日は一緒にいられる。それだけで、柚葉は満足感を得ていた。
綾乃は焦っていた。夏休みの終わり頃。南の島から帰ってきて早々に和麻のもとへ押し掛けたのだが、そこには見知らぬ女が居座っていたのだ。綾乃が料理を出来ないことをいいことに、エプロンをつけて良い香りを漂わせ、和麻を誘惑する。年上だけあって、かなりの手練れ。
友人に調べてもらったところ、名前は「平井柚葉」。和麻と同じクラスであり、学園内では和麻の恋人と噂される人物。強敵だった。
綾乃は同じ聖陵学園とは言え、初等部と高等部では学ぶ場所が違いすぎる。しかも、お金があるためか、完全に分けて設備があるのだ。運動部用の競技場もあり、授業が被ったとしても、施設がいくつもあるため、一緒に授業を受けることなどない。
土日は和麻と共に家の仕事をこなし、平日は、学園が終わってから、和麻から学んだことを復習して技を錆び付かせないようにしていた。
それというのも───
『綾乃ちゃんの行ってた南の島って、私が思ってたのと、ちょ~っと違うかな……』
「やっぱり……?」
気まずそうに答える相手に、綾乃も自分の感覚が正しいことを再確認する。
『でも、一緒にいられたんだよね? 最後は看病してくれたみたいだし、すごく進展してると思うよー』
「そうなのかな……」
『元気ないけど、どうかしたの?』
綾乃の言葉の暗さに気付いた友人は訊ねた。いつもの自信に満ちた声ではなかったからだ。
「由香里のアドバイスどおり、和麻の家に行ったけど追い返されたの」
『突然行ってもやっぱりだめだったみたいだね。でも、綾乃ちゃんでだめとなると、かなりハードルが高くなっちゃうからー……今はそんなことを考えてもいないってことなのかな?』
由香里と呼ばれた友人は自分の考えを述べる。しかし、その内容に綾乃は納得することはできなかった。何故なら───
「でも、家の中に知らない女の人がいた」
『───ん~それってもしかして、和麻さんの同級生の人かも』
「知ってるの!?」
綾乃の突然の大声に驚くこともなく、由香里は冷静に対応する。
『知ってるよー。和麻さんって結構有名人だから、その人の噂も色々聞けたよ』
「どんな噂!?」
『恋人同士って言う噂が出てて、それが先生たちの耳にも入ってるみたい』
「…………」
綾乃はその言葉を聞いて、落ち込み受話器を落とす。『……綾乃ちゃん? 綾乃ちゃ~ん。最後まで私の話を聞いて~』
しばらく呆然自失で立ち尽くしていた綾乃は、電話から聞こえる声で、我を取り戻した。
「ごめん。もう一回言って」
先程聞いたのは幻聴に違いないと、綾乃は再び由香里に聞き直した。
『えーっと。結論から言うと、ただの同級生だよ』
由香里は、自分で得た情報から推測でしかないことを、確定事項として綾乃に伝える。由香里は、流石に二度も受話器の落とす音を聞きたくはなかった。
「じゃあ、何で和麻の家の中にいたの?
ただの同級生が……?」
『それは、食事を作るためみたい』
「食事?」
『そうそう。和麻さんって料理が出来ないみたいだから、賄いさんとして、その女の人を雇ってるみたいだよ』
ここで、綾乃は無人島での食生活を思い出していた。確かに和麻の料理は、食材に調味料をかけただけのシンプルなものだったし、お世辞にも美味しいと言えるものではなかった。しかし、だからと言って、綾乃の料理が上手いかと聞かれても、綾乃自身としても首を縦に振ることはないだろう。
島では、料理の才能がないことを恨めしく感じていたのである。
「理由はわかったけど、それって私の状況がよくなったことにはならないんじゃ……私、料理が得意な訳じゃないし……」
『でも、土日は家のお仕事を手伝ってるんだよね? 和麻さんと一緒に』
「確かにそうだけど」
『それなら、綾乃ちゃんは別方向で和麻さんに興味を持ってもらうべきだよ!
何度も押し掛けたら逆効果になりそうだし……ここは、南の島での特訓を完璧なものにして、見直してもらうのが良いと思う!』
由香里は自信を持って答えると、それに勇気付けられたのか、綾乃も自信を持ち始める。
「南の島での特訓……」
『気にならなかったら、そもそも特訓すらしてもらえないはずだから、僅かなりともその気はあるはずだよ!』
由香里の励ましに、綾乃は完全にやる気になった。
「ありがとう! やってみるね!」
『うんうん。また南の島での詳しい話を、学園で教えてねー』
「分かった! それじゃ、またね!」
『はーい』
綾乃は電話を切ると、着替えをし、島での特訓を無駄にしないよう、集中するのだった。
将来の進むべき道。それは個人で幾通りもあり、生きていく上で、選択肢が突き付けられる。子供の頃からしていなければ、到底無理なこともあるし、コネがなければそもそも無理なものもある。
今現在、その選択肢を増やすために、勉学を励んでいる和麻だが、それを将来に生かせるかと問われると、疑問に感じてしまう。それに加えて、将来何になりたいかというビジョンが浮かび上がってこないのだ。
まともに人を信用できない。だからと言って、人との関わりなく生活するには厳しいものがある。
それならば、山奥にでも引き籠って生活すれば良いかもしれないが、和麻にそのようなことをする気はない。
学園を卒業した後のことを考えながら、和麻が過ごしていると、携帯が鳴り響いた。
相手は周防。いつも神凪の依頼をしてくる相手である。お金はいくらあって困るものではない。和麻はその携帯に出た。
初等部では高学年になると、一週間ほど修学旅行に行くことになっている。和麻の場合は、厳馬により修学旅行に行くことはなく、全て鍛練に当てられてはいたが……。
それはともかく、修学旅行に国外となると、警備がかなり厳重なものとなる。学園としても、大富豪の子供を預かる身として、万全の体制をしいてはいるが、それで親が納得するかと言われると否だった。
そのため、各家からは護衛がつくことになっており、行ける店や、見ることのできる場所も限られてくる。
それでも、伝統行事として続けられるものとなっていた。
携帯から伝えられる内容を聞いて、和麻はそんな行事があったことを思い出す。
『そのような訳で、一週間ほどですが、綾乃様の護衛をしていただきたいのですがよろしいですか?』
「それは、平日もと言うことですね?
こちらも学園に通っているので、おいそれと休むわけにはいきません」
学園での出席に対して、特にこだわりはないが、簡単に休もうとは思わない。和麻の中では、新しい仕事が入ったからと、前の仕事をボイコットするのと一緒だった。
『学園の方には、こちらから伝えておきます。
それと、依頼料についても、相応のものを考えています』
和麻は少し思案した。和麻が行ったことはないが、国外である。今まで身に付けてきたものが、どの程度通用するのかを確認しておきたい。学園については、周防の方で連絡をつけるという。
和麻としては、この周防だけは頼りになる人物として認識していた。それに個人的な借りもある。内容としても、毎年恒例の行事の一環。他人の旅行に、無料でついていけるのだ。しかも、他国。平日に学園を休むことについては、周防の方で話を通すのだ、ここまでくると和麻に断る理由はなかった。
「分かりました。
内容を確認したいので、書類を回してもらえますか?」
『詳細については、後ほど書類を届けます。
その際に質問には応じますので、なんなりとお聞きください』
「よろしくお願いします」
通話を切り、和麻は語学の復習を行う。テレビなどで見聞きしてはいるが、実際に話したことはない。そのような機会はなかった。これは良い機会になったと和麻は本を開く。それは、中国語だった。
綾乃の重悟への対応が変わることはなかった。それに対して寂しい想いをしながら、我慢をしていた重悟は、周防へと愚痴を漏らしていた。
「この反抗期というのは、いつまで続くのだ?
最近はまともに顔も見ていないのだが……」
「───各々違うようです。 長ければ、そのまま……ということもあるかと」
「何!?」
重悟は周防の言葉に驚くと、両目を見開き周防を凝視した。そういった仕種に慣れているのか、周防の態度が変わることはない。
「一般的な話としてですが、父親は娘からは疎まれやすいかと存じます。綾乃さまについては、物心つく前に母親を失っておりますので、今までは、頼れる存在として重悟様を慕っておられましたが、今は和麻様がおられます。反抗期と親離れが同時に来ているのかもしれません」
普段とかわりなく話す周防の言葉に、重悟は真剣に一言漏らさず聞き取ろうと、耳を傾ける。
そうして、聞き終わったところで、その内容を信じることが出来ずにいた。
「あの綾乃がそのようなことになるとは……。いや、反抗期は終わるはずだ。仲の良い親子などざらにおる。親離れをしても、仲が悪くなるわけではない」
小声でぶつぶつと話し出す重悟を、周防は黙って見ているのみだった。
そして、重悟は思い立ったように、綾乃を呼ぶよう伝えた。
しばらくすると、重悟のもとに綾乃が姿を現す。鍛錬をしていた為だろう。その姿は、普段の制服姿や私服ではなく、練習着を着ていた。白の半着に赤の武道袴。かなりの鍛錬をしていたのか、うっすらと半着が汗で湿っているのが分かる。
綾乃は静かに座ると、重悟を見つめてくる。
「───むっ? 鍛錬をしていたのか?」
「その通りです。話はそれだけですか?」
立ち上がろうとする気配を察した重悟は、機先を制して用件にはいる。
「まあ、待ちなさい。もうすぐ、修学旅行があるだろう? その事について話がある」
修学旅行に関してとなれば、綾乃も聞かないわけにはいかなかった。
最近の重悟の対応は、以前まで綾乃の見えていた、尊敬する人物の像から離れたものになっていた。
人を喜ばせておいて落とすやり方。
重悟の趣味と思われる服のプレゼント。
浄化の依頼の増加。
などなど。
全てが全て嫌なわけではなかったが、余りにも露骨すぎる重悟の対応に、綾乃は和麻からの訓練も合わさって、完全に理想の男性像から重悟を除外していた。
まるで、媚を売っているように見えるのだ。凛々しく、周囲を従え、想いに揺らぎなく己を律する。そのような姿が、今の重悟からは見えてこなかった。
「話は手短にお願いします」
「修学旅行に護衛を連れていくことが出来るのだが、誰か連れていきたいものはおるか?」
重悟は、答えの分かっていることを、再確認の意味を込めて綾乃に確認する。しかし、綾乃から返ってきた答えは、予想に反するものだった。
「護衛は不要です」
「そうか不要か……!? し、しかしだな。修学旅行の行き先は国外。我々を疎ましく思っている者も少なからずおる。そのような所に行かせることを考えると、護衛は必要なのだ」
重悟の言葉に、憤りを綾乃は感じていた。そんなに娘が信用できないのかと。実力を見せろと言われ見せた。相手が余りにも弱かったために、未だ全力を見せたわけではないが、その辺りの者に負けることなど有り得ない。
(こんなことで護衛なんてつけていたら、和麻に愛想をつかされちゃう)
最悪かなわなければ逃げれば良い。その為に、体力作りも行っている。しかも、学園がある程度の警備体制とほぼ隙間のないスケジュールを組んでいるのだ。危険など無いに等しかった。
「私の意思は伝えました。鍛練に戻ります」
「……分かった。時間をとってすまなかったな」
「───いえ」
綾乃は音もなく静かに立ち上がり、重悟の部屋を後にした。
部屋に残った重悟は、既に手配を済ませた護衛の件をどうするべきか悩んでいた。愛娘に拒否されてしまったのだ。もしこれで、護衛をつけていたことがばれてしまえば、更なる拒絶を受けるかもしれない。
しかし、相手が相手である。つけても問題はないように思われるのだが……。
困ったときの相談役となった周防を呼ぶ。その直後、何処からともなく姿を現した周防は、重悟に勧められ、対面に座った。
「護衛の件なのだが、綾乃に拒否されてしまった」
「それでは、和麻様の方には、私から連絡しておきます」
「連絡の内容だが、綾乃に悟られぬよう護衛をするよう伝えてくれぬか?」
「依頼を中止されるのではないのですか?」
重悟の言葉に、周防は再度問いただす。話の流れからいけば、護衛を外すということのはずだからだ。
「きっと恥ずかしがっておるのだろう。それに、何かと和麻がいれば心強いのは間違いないからな」
「───ではそのように伝えます」
周防は現れた時と同様に静かにその場から消え去った。
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13話
修学旅行の当日。和麻は神凪家の近くまで来ていた。
既に綾乃は学園へと登校した後である。それなのになぜここに来ているかというと、正式な契約を結ぶため、それから必要な物を受けとるためだった。
未だに和麻は学生の身分。しかも親が存命している中で、和麻にパスポートなどを準備することは難しい。その準備を周防が代行してくれたのだった。それに加えて、中国での必要経費や、所持品なども準備も合わせて行ってもらっている。
いつもであれば、それらは和麻の家に送られ、契約なども外の喫茶店などで済ませることが多い。しかし今日に限っては、神凪の家に来てもらいたいとの事だった。
物が多いためだろうと和麻は思いながら、神凪邸を見上げて携帯に手を伸ばす。
数コールもしないうちに相手は出た。
「近くまで来ましたが、どこにいけばいいですか?」
『裏口でお待ちください』
周防の指示に従い、神凪邸の裏手に回ってみると、小さな子供が壁を背にして立っているのが見える。
それを不審に思いながらも、和麻が裏口へ近付くと、その子供は顔を綻ばせて近付いてきた。
「兄さまですか?」
見覚えのない子供に問いかけられた和麻は、面倒そうに答える。
「知らん」
その答えにショックを受けたのか、子供は顔を下に向けて落ち込むも、すぐに顔を跳ね上げると和麻の周りを回り始めた。
そして、再度訊いてくる。
「兄さまですよね?」
「…………」
流石に付き合いきれなくなったのか、和麻は子供の相手などせず、無視して裏口横の壁に、背をつけて目を瞑り黙りこんだ。
それでも、その子供はめげずに話し掛けてくる。
「僕です。煉です」
身振り手振りで必死に伝えようとする子供の名乗りで、和麻は瞑っていた目を開け、煉と名乗った子供を観察した。
確かに、和麻には弟がいた。産まれてから数度顔を少し見た程度の弟が。しかし、目の前の子供は弟というよりも、妹と言った方が間違いないだろう。多少深雪の面影はあるので、深雪の子供で間違いではないだろうが、和麻には俄に信じることはできなかった。
「俺に妹はいない」
「───? 僕は弟ですよ?」
和麻の言葉に疑問を覚えたのか、煉は訂正する。しかし、和麻の目からは煉が女の子にしか見えなかった。しばらくじっと観察していると、煉が期待の眼差しで和麻を見つめて質問してくる。
「兄さまが風術師というのは本当ですか?」
「……それがどうかしたのか?」
「綾乃姉さまに勝ったと聞きました! 風よりも火の方が強いと聞いていたのに凄いです!」
純粋に和麻のことを、尊敬する眼差しで見つめてくる煉に対して、和麻は溜め息混じりに訂正しておく。
「誰に聞いたのか知らないが、精霊に強弱などない。全ては術者次第だ」
「兄さまは凄い術者ということですね!」
あながち間違いではないのだが、余計な期待を持たれては迷惑だと、和麻が更に訂正しようとしたところで、裏口の扉が開き、周防が姿を現した。
「お待たせしました。こちらがこの度用意したものです」
和麻はサッと中身を開けて確認すると、再び鞄を閉じる。
「確かに。───パスポートなどは?」
「こちらです」
パスポートとお金、それに護衛の証であるIDカードの入った封筒を受け取り、中身を確認すると、和麻は持ってきていた鞄に無造作に入れていく。
「携帯については、国外でも使用できるように変更してありますので、気にせずそのままお使いください」
「兄さまは、どこかに行ってしまうんですか? 帰ってきたんじゃないんですか?」
「帰る気などない。
―――それでは行ってきます」
和麻の言葉に涙を浮かべ始めた煉を置いて、和麻は空気密度を変えて周囲から見えないようにすると、空へと飛び立ち、空港へと向かっていった。
「なんで、兄さまは帰ってこないの?」
煉は涙を堪えながらに周防へ訊ねるが、周防は真実を話すことはできない。少し困ったように考え、手短に答えた。
「和麻様は独り立ちされたのです。煉様もゆくゆくは、自分のことは全て自分で出来るようにならなければなりません」
「兄さまは大人になったということ?」
「そうです。
―――外の日射しも強くなって参りましたし、屋敷へと戻りましょう。厳馬様に許可された時間はそうありません」
周防は煉の背中をゆっくりと押して、屋敷の中へと連れていく。煉は和麻の言葉を思い出し、これから行われる訓練に身を引き締めるのだった。
煉は幼少の頃から、父である厳馬の手で厳しく育てられてきた。産まれたときから、膨大な精霊を従えている姿に、周囲の期待は大きく、母親である深雪もそのひとりである。
そんな煉もすくすくと育ち、術師としての技量も上がっていった。周囲はさらに誉め称え、深雪は和麻の時にはなかった、それを見聞きすることでご機嫌だった。しかし、変わらないのは厳馬である。煉が上手くできたからといって誉めるわけでもなく、逆にできて当たり前と言わんばかりであった。
煉は周りと同じよう厳馬にも誉めてもらおうと更に頑張るが、厳馬の態度が変わることはない。
そうしたことが続き、不安になった煉は母親に訊ねた。
「どうして父さまは誉めてくれないの?」
「誉めているわよ。恥ずかしいから口で言わないだけなの」
深雪は笑顔で煉に接するが、その顔は少しだけひきつったようなものになっていた。子供は大人の態度に敏感だ。それを煉が見逃すことはない。しかし、面と向かって問うようなことはしなかった。
母親では、このことについては教えてくれないと分かったのである。
そこで煉は、学園へと送り迎えしてくれる際に、一緒に行っている綾乃に話を聞くことにした。
「姉さま」
「何?」
最近溜め息の多い綾乃に訊ねるのには抵抗があった。しかし、煉は勇気を出して訊ねる。
「訓練で、周りの人たちは誉めてくれるけど、父さまは誉めてくれないんです。どうしたら誉めてくれますか?」
綾乃は厳馬に訓練をしてもらったことがなく、ましてや厳馬が笑ったところなど見たことがなかった。そのため、少し考え込んで出した結論が───
「あの人が誉めるなんてことなかなか想像が難しいけど……多分和麻の方が強いからじゃない? 煉が和麻を越えたら多分誉めてくれると思うわ」
「和麻? 誰ですか?」
「えっ?」
煉の言葉が信じられずに、まじまじと煉を見つめるが、煉に嘘を言っている気配はない。
綾乃は少し怒りながら説明する。
「煉は訓練もいいけど、自分の兄のことくらい知っておきなさいよ。いい? 和麻と言う人はね───」
そこから、学園に到着するまで、綾乃による和麻の紹介がされた。それは綾乃視点からの情報が多分に含まれており、美化されていたのはいうまでもない。
幼い煉はそれをまともに受け取り、自分の兄が凄い人だという認識になるまで時間はかからなかった。
「なぜ兄さまは、神凪にいないんですか?」
「えーっと。それは……」
言いにくそうにする綾乃に、周防が助け船を寄越す。
「和麻さまは少し家を出られているのです」
「そうそう! そうなのよ!」
「じゃあ戻ってくるんですね! 会ってみたいです!」
嬉しそうに話す煉に、綾乃はばつが悪そうに口を閉ざして顔を背けるのだった。
和麻は空港へと辿り着く前に、簡易の変装としてサングラスを掛けていた。依頼の契約内容に、綾乃に見つからないことも含められていたため、最悪のことを想定して装着していたのである。
風で綾乃の位置を把握はしているが、その交遊関係まで知っているわけではない。どこから情報が漏れるか分からないための措置だった。
旅客機はクラスごとに別れており、真ん中を生徒たち、その前後の座席に、護衛が座るような配置になっている。護衛として、すぐに向かえるよう、極力生徒たちの席に近いところの競争率が激しかったが、和麻には関係なく、一番前の端の席に着くことができた。
そこまでしなければ、まともに護衛することもできないのかと、和麻は思ったが、関係ないと割り切りサングラスを外して、アイマスクを装着し、早々に座席へと体を預ける。
和麻にとって、アイマスクをつけていようといまいと、問題なく飛行機内の状況が手に取るように分かった。それは、不審な動きをする者がいればすぐ分かるほどに把握できる。
その為、機内の至るところに仕掛けられていく怪しい機械。それを仕掛ける怪しい人物。
和麻は、その怪しい人物の周囲の空気密度を変えることで、一時的に低酸素状態にして気絶させる。
後は、護衛たちが持っている武器だけだった。しかし、飛行場のボディーチェックなど、あってないような杜撰なものだと言わざるを得ないだろう。ボディーガードの大半が武器を所持しているのだから。
綾乃は同じクラスの生徒と話をしていた。
「綾乃ちゃんのおうちからは、護衛の人は来てないの?」
「いらないって言ってきた」
「いた方が便利だと思うよー」
「便利って……。
ただの修学旅行に護衛なんていらないでしょ。由香里は護衛に何させるつもりなのよ?」
不穏なことを言い始める由香里に対し、綾乃は眉をしかめて問い質すが、由香里は何事もないように澄まし顔で言葉を返した。
「買い出しに行ってもらったり~。夜間に無断外出したり~。後は……色々かな?」
「ひとつは護衛がすることじゃないし、もうひとつは禁止されてるから」
由香里の言葉に、綾乃は飽きれ気味に言うと、それまで静かだった女性徒が、話題を変えてくる。
「そんなことよりだ。私としては、南の島とやらで、何があったのか詳しく知りたいんだが?」
「七瀬ちゃんの言うとおりだよ! なんだかんだ言って、あれから全然聞く機会なかった! 今日こそ詳しく教えてもらうからね!」
由香里は思い出したかのように、七瀬の話に身を乗り出して乗ってきた。
ふたりに挟まれる形で綾乃は座っているため逃げ場はなく、両方から突き刺さる視線に、綾乃は戸惑いを隠せずにいた。
「特別なことは無かったから!
あの時話したことが全部だから!」
「そんなこと言って誤魔化されたりしないからね!」
「そうだ、そうだ」
尚も言い寄る由香里と、やる気無さそうに棒読みで相槌を打つ七瀬。目的地まで数時間あり、逃れようがない。
「じゃあ、何を聞きたいのか言ってみてよ。もう全部答えてるから、これ以上話すこともないし!」
開き直ることで力強く答えた綾乃に、由香里は待ってましたとばかりに、顔を笑顔に染める。
「それじゃあね~。お風呂はどうしたの? 無人島なんだから、お風呂場なんて都合のいいもの無かったよね? 夏だったけど……まさか近くにあった川の水浴びだけで済ましたわけじゃないだろうしー。気になるな~」
由香里の質問に、綾乃は当時のことを思い出して顔を真っ赤にする。確かにあそこは無人島で、和麻と綾乃しかいなかった。
他に人が居なかったとは言え、ドラム缶風呂である。人目を気にせず入っていたが、和麻に見られていなかったかと問われれば、疑問になるところだ。
そんな状態を見てとった由香里は、自分の想像に近いことが起こっていたことに、内心でほくそ笑み、次々に質問していく。
「食べるものはどうしたの?」
今度は答えられそうな質問に、綾乃は安堵し、精神状態を落ち着けてから答える。
「それは前にも言った通り、狩りとか、野菜が自生してたから、それを料理して食べてたわよ」
「料理は、綾乃ちゃんが作ってたの?」
「私も和麻も料理は上手くないから、交代でやったわね」
綾乃は、和麻より僅かに料理の腕は上であったが、それでも上と言うだけで、決して美味しいというわけではない。良くて、普通よりも少し不味い程度だった。それでも、和麻よりは上だったのだから、和麻の料理の腕は無いに等しいと言えるだろう。
「つまり、共働きの夫婦みたいにふたりで料理してたんだね。夫婦生活、初めての共同作業!」
「夫婦!?」
由香里のあまりにも突拍子もない言い方に綾乃は驚き、声を大にして立ち上がる。その姿が目立たないはずもなく、何事かと回りの生徒だけではなく、護衛たちも立ち上がり綾乃たちの方を見やった。
さすがに注目を浴びたことを恥じて、素早く座り込み由香里を睨むが、由香里はどこ吹く風とばかりに綾乃の睨みを受け流す。
「今のは綾乃が悪い」
「でも! いきなり由香里が……」
始めの言葉が大きいことに気付き、小声で七瀬に問い返すが、七瀬は素知らぬ顔で、窓の外へと視線を向けた。
由香里は七瀬からの援護もあり、更に調子づいた。
「それはそうと綾乃ちゃん。渡したゴムは使ってくれた?」
含み笑いすら見せず、言い放つ由香里に、今度は何を言ってくるのかと身構えながら、慎重に言葉を選んで返答する。
「……使ったけど、それがどうしたの?」
「───えっ?」
まさか、普通に返答が返ってくるとは思わず、今度は由香里が固まってしまう。その由香里の状態に、綾乃は首を傾げた。
その微妙な沈黙に気付き、七瀬が二人の方を見ると、そこには、顔を真っ赤にした由香里と、難しい顔をして由香里を見つめる綾乃がいた。
何があったのか訊ねてみるかと、七瀬が口を開こうとしたところでそれは起こる。
『この機体は我々がハイジャックさせてもらった。お前たちは全員人質となってもらう』
その言葉は、スピーカーから出てきた。声は合成したもので、男か女かも分からない。
その声に、ふざけるなと、立ち上がり騒ぎ立てる生徒もいたが、その声の主がそれに反応することはなかった。実際には反応していたが、乗客には聞こえなかったと言った方がいいだろう。
続く声がないことを不審に思ったのか、護衛の男たちが立ち上がり、それぞれの主のもとへと向かい始めたところで、その護衛たちは全員倒れることになる。
そして、今度は男の声が伝えられた。
『面倒だから動くな。動いたものは、ハイジャック犯の仲間と見なす』
それは、スピーカーからではなく、耳元で囁かれるように聴こえてくる。
その声に反応したのは綾乃だった。その声は、和麻の声とは似ていない。しかし、その言い方や間の空け方。本当に面倒臭そうな意思。それらは和麻に酷似していたのである。
まさかと言う思いから綾乃は立ち上がり、護衛たちの席へと近付いていく。
「綾乃ちゃん! 危ないよ!」
「綾乃! 行くな!」
由香里や七瀬の制止の声を無視して、綾乃は歩みを進める。
綾乃はサッと顔を見回していき、往復して戻った。そこには、綾乃の見知った人物は居なかったのである。
綾乃は席に戻ると、考え込み始めた。
この飛行機は、聖陵学園で貸しきりにしてある。関係者以外が乗っていることなど有り得ない。そのため、たまたま和麻が乗っているということもない。乗っているとしたら、それは護衛として、だった。綾乃は重悟に護衛は必要ないと伝えたのである。それを無視して連れてきたとなると……。
しかし、探した結果、和麻は居なかった。どこか別の場所にいるのでは―――と考え込み沈黙する。
綾乃が無事戻ってきたことに、周りがホッとしたところで、今度は護衛の一部が立ち上がった。
「動くな! これより、お前たちは人質になっ……」
銃を構えて、立ち上がった数名は、人質───と男が口走った瞬間に、先に立ち上がった護衛と同じく倒れてしまう。
綾乃の移動で、先程の警告はハッタリだったと思い込み、警告を無視して立ち上がった者たちの末路だった。
「怪しい……」
「どうかしたの? 綾乃ちゃん」
「私のところの護衛がいるかもしれない」
「護衛?」
由香里は、綾乃の家が何をしているのかまでは知らない。勝手に倒れていく男たちを見て、不思議に思っているくらいだった。
「綾乃ちゃんのところの護衛がいくらすごくても、ハイジャック犯全員を倒すなんて───」
由香里が言葉を続けようとしたところで、再度声が届く。
『面倒だ。機長と生徒以外は全員寝てろ』
その声を合図に、護衛やスチュワーデスたちは意識を失い倒れこむ。周囲は何があったのか、どうやったのか分からずに、口を閉ざして見守っていた。
「どうやったのか、綾乃ちゃん分かる?」
「分からないけど、こんなことできる人に心当たりはあるかな」
「さっき言ってた護衛の人?」
「うん。和麻ならこれくらい簡単にできると思う」
綾乃の言葉に、信じられないという顔で、由香里と七瀬は見るが、綾乃は考えが纏まったのか、再び立ち上がり、今度は違う場所も探し始めた。
スピーカーからは、ハイジャック犯の声がずっと出ていた。どこかにカメラが仕掛けられているのか、綾乃の行動に怒りを覚えて、必死に警告を発しているのだが、全くもって繋がらない。業を煮やして、護衛に扮した仲間に、警告するよう伝えたが、それらは全て倒れてしまい動かなくなった。
そうして、再び喚き散らしていたのである。しかし、それがずっと続くわけもなく、その声の主に和麻の声が届く。
『俺の邪魔をするな』
機内の狭い部屋に、いくつも並んだ画面を前に、男の首は一瞬で跳ね飛び、その部屋は静かになった。
ひと仕事終えたところで、再び捜索を始めた綾乃に、和麻は呆れたように溜め息を漏らした。
(少しは大人しくしようとは思わないのか?)
綾乃の行動に、どうしたものかと和麻は頭を悩ませる。
依頼の内容には、綾乃に見つからないよう行動することが書かれている。そのため、警告する際の声を変えたし、綾乃へ風術で攻撃するとばれる恐れがあるためそれもできなかった。
(まあいい。最終的に綾乃さえ無事ならいいんだ。他は放っておくとしよう)
和麻は、気絶させた者たちを、考えていた通りに放置し、ほとんどが気絶したまま中国の空港へと着陸することになる。
軽く身体に衝撃を与えて無理矢理護衛たちを起こした和麻は、悠々と最初に飛行機から空港内へと進む。
その際に、ハイジャック犯と思わしき者には、身体全体に振動波を与えて、まともに行動できないよう調整済みである。
その後、護衛以外は───生徒たちの行動は、教師と現地の案内人により、スムーズに事は運んだ。始めに観光名所を巡り食事にし、ホテルに入る。
ハイジャック犯の対応には有名学校だけあって慣れたものであった。
護衛たちは、その前後を固める形で待機していたが、和麻の攻撃により身体の状態が思わしくないのか、立っているのがやっとの者もいる。
一日目の予定を消化し終わり、ホテルに戻った後に行われたこと───それは、護衛たちによる見廻りの提案であった。
護衛と言っても、数十人いるところもあれば、数人のところもある。多いところはその提案には乗らず、独自に警備体制を敷き、少ないところは手を取り合い、連携して護衛に当たった。
「あんたはひとりなのか? 先程の話は聞こえただろう? 我々と一緒にやらないか?」
護衛のまとめ役と思わしき人物が和麻に声を掛けてくるが、和麻の返答は決まっていた。
「必要ない」
「しかしだな。ひとりだとなにもできないぞ」
それでも、粘ろうとする護衛に、和麻は辛辣だった。
「飛行機内で寝ていたやつらに何ができるというんだ? 俺には俺のやり方がある」
皮肉を交えて言いたいことだけ言い終えると、和麻は黙ってしまう。そこまで言われれば、護衛の方としてもこれ以上言うことはない。和麻を少し睨み付けながらその場を去った。
(護衛たちの説明会があると聞いたから来てみれば、ただの寄り合いか……無駄だったな)
和麻は用意された部屋へと向かい、他の護衛の視線がある中を黙って出ていった。
観光名所を巡り終えて戻ってきた生徒たちは、国外に慣れた者たちでも、多少なりともテンションが上がっていた。それはそうだろう。いつもであれば、同年代、ましてや同じ学園の者と行くことなどない。話し相手がいるだけでも、楽しみがあるというものだった。
「綾乃ちゃん。和麻さんのことについて教えてよ~」
「そうだな。私も聞いておきたい」
風呂上がりに綾乃の部屋へと集まった面子に対して、綾乃はどうしようかと頭を悩ませる。術師のことを簡単に話すわけにはいかず、かといってそれを混ぜずに話すとなると難しい。
綾乃が悩む姿で、話しにくいと悟ったのか、由香里が質問してきた。
「見た目はどんな人?」
「それなら……」
綾乃は大事そうに仕舞ってあるケースから、写真を取り出す。
大きくなってからの写真などなかった。一緒に撮ろうとせがんでも相手にしてもらえず、隠し撮りしようとしても、撮影した瞬間に、そのカメラは壊れてしまうのである。唯一あったのは、重悟が昔に撮影した子供の頃の写真だった。
綾乃は、周防に頼み和麻の写真を手に入れたのである。
「和麻……さん? くん? もっと大人かと思ったら、私たちと同じくらいに見えるね。
綾乃ちゃんのことだから、もっとしっかりしてそうな人を好きになると思ったのに」
「私は歳上と聞いていたんだが? 違うのか?」
「和麻の写真……これしかないの……全然撮らしてくれなくて……」
断られたことを思い出し落ち込む綾乃から、写真を借りて、由香里と七瀬はよくよく観察し始める。
「確か、学園のアルバムに少し載ってたような……」
由香里は、綾乃の持ってきた写真を見ながら呟くと、その言葉に綾乃が食いついてくる。
「学園のアルバム!! そうよ。叔父様が撮ってなくても、学園なら撮ってるかも!!」
綾乃は一筋の光明を見つけたように、元気を取り戻した。それを無視して二人は会話を続ける。
「格好良くなりそうな感じだね」
「モテそうではあるな。目付きは悪いが……」
「そこがいいんだよ~。七瀬ちゃんは分かってなーい」
「あまり分かりたくはないな」
二人の言葉を聞いて、綾乃はにわかに焦り出す。
「和麻はダメ! 他の人にして!」
綾乃は素早く由香里から写真を奪い返すと、鞄の中に隠してしまう。
「独占欲強いと、男の人の中には嫌がる人もいるかもしれないよー」
「そうだな。自分に当てはめて考えてみるといい。
現在恋人でもなんでもない男から、しつこく言い寄られたらどう思う? 私は嫌だな」
「それは、端的過ぎるような……」
七瀬の言葉に、綾乃はショックを受けたように固まる。自分の行動は、和麻から見れば鬱陶しいものだったのではないかと考えてしまったのだ。
確かに、和麻の言葉にはそういった内容のものもあった。由香里は恥ずかしがっているだけだといっていたが、それが七瀬の言う通り本心だったなら……。
でも……だって……そう言えば……などと、ブツブツ話し出す綾乃を見て、由香里は七瀬に注意する。
「七瀬ちゃんやりすぎだよ。綾乃ちゃんが自分の世界に入っちゃったじゃない」
「すまない。まさか、ここまでとは思ってなくて、な」
「仕方ないな~」
由香里は綾乃に聞こえるように提案する。
「綾乃ちゃんの護衛兼恋人さん探しをしよう~!」
「恋人!?」
ちゃっかり聞こえていたのか、綾乃はすぐさま反応し、七瀬はやる気無さそうに拍手をする。
「飛行機内で言ってたでしょ。護衛さんに和麻さんを探してもらうんだよ」
「しかし、何人もいるんじゃないのか?
どうやって探す気だ?」
由香里は少し考え込むと、綾乃に確認し始める。
「綾乃ちゃんのところの護衛はいないはずだったんだよね?」
「一応断ったけど、お父様のことだから何人かつけてるかも」
「でも、飛行機内であんなことできる人は和麻さんしかいないんだよね?」
再度確認の意味を込めて訊ねるが、綾乃の答えは予想を超えていた。
「正確には何人かいるけど、それができる人は、わざわざ修学旅行の護衛には来ないと思う。
来るとしたら和麻くらいなんだけど、飛行機内にはどこにもいなかったのよね……」
「と言うことは~。護衛の人には、全員に身分証としてIDカードが渡されてるから、誰が来てるか分かるはずだよ。先生に聞いてみれば分かると思う」
その手があったかと、綾乃は目を見張り、由香里を見つめていると、横から異論が出てくる。
「しかし、護衛については秘密にされることも多いから、教えてくれないんじゃないか?」
「そこは私に任せて!」
言い知れぬ不安を抱えながら七瀬は由香里を見る。綾乃は頼りになる親友を頼もしく思うのだった。
善は急げとばかりに、綾乃たち3人は部屋を出て先生の部屋へと向かう。
部屋を出たそこには、由香里と七瀬の護衛が数人ついていた。綾乃たちはそれらを無視して先生のもとへと向かう。
護衛たちは、静かにその後をついてきていた。それをいないものとして、由香里は綾乃たちに小声で話しかける。
「先生には私が聞くから二人は合わせてね」
「分かったわ」
「ほどほどにな」
ホテル内には、これでもかと言うほど護衛で溢れていた。エレベーターはもちろんのこと、非常階段からトイレに至るまで配置されている。
その中を多少うんざりしながら綾乃は進んでいた。
該当の部屋まできたところで、由香里が部屋をノックし、中にいるであろう先生を呼び出す。
ノックしてから程なくして先生は姿を現した。
「先生こんばんは~」
「どうしたんだ? もう寝る時間に近いぞ」
時刻としては夜の8時を回ったところであり、9時に寝るよう言い渡されているため、先生の言う通りそれほど時間がない。
「先生に教えて欲しいことがあって来ました」
「用件は手短にな」
少し面倒臭そうに話す先生へ、変わらず由香里は訊ねる。
「神凪さんのところの、護衛の人のことを教えてください」
「───護衛については、おいそれと教えることはできない。聞くなら手配されたおうちの方に確認しなさい」
少しの間を置き、先生は答えるが、それで由香里は引き下がらない。
「家に確認しても、ここで確認しても一緒だと思います」
「一応秘匿扱いなんだ。言うわけにはいかないんだよ」
先生は困ったように、頭を掻きながら答える。
「綾乃ちゃんに何人護衛がいるかだけでも教えてください。私の友達の安全が保証されてないと不安なんです」
真剣な表情で由香里は先生に詰め寄り、それに倣って綾乃たちも先生を見つめる。その後ろに立つ護衛の存在もあり、先生は溜め息を漏らすと、観念したように答えた。
「分かったよ……少し待ってなさい」
部屋へと一旦戻っていった先生は、一枚の紙を持って部屋から出てきた。
「えーっと神凪さんだったね……神凪さんのところからは───ひとりだな……」
少し信じられないように、何度も見直す先生に、由香里は素早く行動に移す。
「あっ!? こら!!」
「助けて~」
紙を奪い取った由香里は、自分の護衛の後ろに隠れると、奪った紙に素早く目を通す。
護衛たちは困ったように、立ち尽くし、かといって先生を近付けさせるわけにもいかず困り果てていたが、それも長くは続かなかった。
必要な情報を手に入れた由香里は、先生へ紙を返すと、申し訳なさそうに謝る。
「ごめんなさい。先生がひとりだなんて言うから、信じられずに自分で確認したくて……本当に心配なんです。ごめんなさい」
由香里の言葉に、先生も怒る気になれず、簡単な注意をする。
「確かに、神凪さんのところの護衛がひとりとは俄に信じられない。だからといって、先程の行為はよくない。以後注意するように」
先生からの説教は時間も遅いことから、すぐに終わり3人は解放された。
そうして、部屋へと戻った由香里は綾乃へと先程見た内容を答える。
「それでどうだったの?」
「護衛についてだけど……」
「うん」
由香里は言いにくそうに、綾乃を見ると口を開いた。
「和麻さんじゃなかったよ」
「───えっ?」
綾乃は由香里の言葉が信じられずに、どう言うことなのかと由香里に問い掛ける。
「なんて書いてあったの?」
「綾乃ちゃんの護衛の人は、風巻流也って人。聞き覚えはない?」
「風巻……流也?」
どこかで聞いた事があったかと、人差し指を顎に当てながら考え込むこと暫し。綾乃はやっとのことで思い出すことができた。
「思い出した! 風巻って家で雇ってる人が確かそんな名前だった!」
名前を思い出したことで、スッキリした表情になったが、今日の出来事に繋げたところでその顔は疑問に変わる。
「でも、風牙衆の人たちが今日みたいなことできるとは思えないし……」
綾乃は風牙衆の実力については、ある程度把握していた。それは、重悟から幾度となく聞かされていたからだ。重悟は分家たちとは違い、風牙衆を大事にしている。なぜそのようにしているのか綾乃には分からなかった。綾乃としては、依頼を出す側と受ける側の違いでしか認識していなかったからだ。
「今日、飛行機の中にその風巻って人いた?」
「直接話したこともないくらい面識がないから、いたとしても分からないと思う」
綾乃は自分の記憶にないことを伝えると、由香里と七瀬はガッカリしたように声をあげる。
「自分のところの護衛くらいは知っておいた方がいいと思うよ?」
「綾乃に期待したのがいけなかったな」
「何よ二人して……。大体、私は護衛はいらないって言ってたの! それを勝手にお父様がつけただけなんだから!」
綾乃の言い分に、今度はふたりとも呆れ返る。
「それはないよー。一人娘が国外に出るんだから、最低でも十人くらいは護衛をつけると思うよ?」
「由香里のは言いすぎだが、私も同じだな。
いくらなんでも、護衛をいらないというのはないだろう」
ふたりから言葉で責められ、狼狽える綾乃に、更にふたりは口撃する。
「大体綾乃ちゃんは───」
「そもそも綾乃の考えはだな───」
「もう許してーーー!!」
流石にいつまでも続く責めに堪えきれず、綾乃は悲鳴をあげるのだった。
部屋で休みながらも、和麻はホテル内の監視を行っていた。
飛行機内では、明らかに金持ちと分かってのハイジャック犯がいたからである。あの飛行機に乗れるのは、学園から渡されたIDカードを持つ者のみ。それ以外は近づくことすらできない。しかし、事実としてあの犯人たちは乗ってきた。しかも、護衛の中に仲間を忍ばせて……である。
そう考えると、計画的な犯行であり、他にも仲間がいる可能性が非常に高い。一番いいのは、護衛を全て尋問にかけることだが、流石に手間だと言わざるを得ない。
しかし、一週間もの間不眠不休で神経を張るのは、できないことはないが、流石の和麻でもきつい。
そんなことを考えながらも、和麻はホテル内に意識を向ける。和麻としても、ただ漠然と護衛だけをするために来たのではない。この地の生の声を聞くために来たのだ。その目的を達成するために、護衛たちだけではなく、従業員たちの声もかき集めていく。
『金持ちが泊まってるんだ。チップは期待できるな』
『泊まっているのは学生だけか』
『料理をこんなに残しやがって』
『このホテルを貸し切りとは……金持ちのすることは凄いな』
リスニングを行うだけでも、十分に和麻がここへ来た目的を果たすことができている。和麻も、口の端を吊り上げて、今の状況に満足しながら作業を続けていると、気になる声を拾った。
『今度こそ、こいつらを人質に金を……』
その声は男の声であり、内容から考えると、飛行機内で犯行に及ぼうとした者たちの仲間であることは、間違い無さそうである。
和麻は、他に仲間がいるかもしれないと、その声の主を泳がせておく。
その男は相当にイラついているようで、掛けていた電話を乱暴に切ると、愚痴をぶつぶつと呟きながら移動していく。
男は、このホテルの従業員の格好をしていた。
上下白の制服に帽子を被り、人のいるところでは笑顔で対応する。ここだけをみるならば、なんらおかしいところはないが、先程の電話の内容を聞いた後では、意味をなさない。
(頭を直接見ることができればいいんだが……)
和麻はゆっくりと立ち上がり、静かに部屋の外へと出ていった。
周防から渡された資料には、綾乃につける護衛の名前がきちんと記されていた。その護衛たちは、学園の者たちとは同行せず、独自に護衛に当たっている。
乗り物や宿泊先に人数制限があるので、それは当然のことだった。和麻は、神凪家の出してきている護衛に会うため、歩を進める。
鍵の開いたままとなっている部屋へと、挨拶も録にせず入り、中にいる人物に向けて話し掛ける。
「しばらく俺のいる場所と入れ替えだ」
「……分かりました。宗主様からも、貴方を補佐するように言い遣っています。1週間ほどですが、好きに使ってください」
「連絡は風でやり取りを行う。それ以外は独自判断になる。……いけ」
和麻は護衛の者と交代して独自に動き出す。色々と怪しい動きをするものたちを調べるために───
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14話
その少女は賑やかな繁華街の裏路地を走っていた。
このような汚い裏路地に似合わないその姿は、大量の汗を顔に浮かべ、疲労が色濃く見える。しかし、その走る足を一切止めることはなかった。
(いつまでもしつこい! 諦めることをしらないの!?)
少女は自分の不運を棚上げし、相手に対して罵倒の声を心の中であげながら走り続ける。
その後方では、数人の男たちが少女をしっかりと追ってきていた。少女は、その男たちを横目で確認しながら、走りすぎる際に、通路の脇に積み上げられた物を倒していく。
倒された物に足をとられながらも、男たちの追跡が止まることはない。裏路地を一旦出ようとするが、なかなかその道が見つからず、見つかったところで、出口付近に怪しい男が立っており近づくことができない。
(なんでこんなことになったんだろ……ただライバル店の調査に来ただけなのに……)
ここにきて、流石に疲れがピークにきたのか、とうとう少女の足の動きが鈍くなり始めていた。
それは、本日の夕暮れ時の出来事。
閑古鳥の鳴いている飯店の客席のひとつで、男が少女に怒られていた。
「最近の売上ごっそりお客さんごと持ってかれてるよ!
ここらで何とかしないと!」
「そう言ってもな。向こうはサポンサー? がついてるんやろ? 個人経営には厳しいわ」
「スポンサーよ! ス・ポ・ン・サ・ー! それと、何弱気になってるの! いい? ここで諦めたら、終わりなの。人生終了なの。生きていけないのよ! 私たちの取れる手段は限られてる。じっと待ってるだけじゃ、事態は悪化するだけ」
「そうは言うてもな……」
きっぱりと言いきる少女に、男は気後れしてしまい、内容を濁す。
男の態度にイライラがたまりに溜まってしまったのか、少女は勝手に提案し始める。
「もういい! 私がその店の偵察に行ってくるから。お父さんはここで待ってて」
「あっ! こら、翠鈴! ───行ってしもうたか……誰に似たんだか……」
男は溜め息を吐きながら奥の厨房へと足を運んでいった。
翠鈴という名の少女は、帽子にサングラスと、変装グッズに身を包み、件のライバル店の調査に赴いていた。
(なかなか大きいところね。開店前なのに、この行列……言うほど美味しいのかしら?)
時間になり、開店する頃には、行列は数十人にまで膨れ上がっていた。そのなかを翠鈴は先頭の方で店に入る。
店の中は綺麗に磨かれ、染みや壊れた箇所などは見当たらない。
カウンターに座り、帽子を取ってメニューを見る。メニューの中身を見ても、特におかしいところはない。敢えて言うならば、一番右下の会員限定メニューが、別にありそうだと言うところだろう。
それを証拠に一部の客は、店員にカードのようなものを見せて、店の奥へと入っていっている。
ついていきたい欲求をはね除け、翠鈴はメニューを戻すと、店員を呼び止めて注文した。
「この店で上から美味しいものを3つ。値段は問わない」
店員は驚いた表情をするが、それも一瞬のこと。すぐに表情を消して確認する。
「では、このメニュー表の中から3つ選ばせていただきますがよろしいですか?」
店員の態度を不審に思った翠鈴は、違う可能性に思い至り、その言葉を否定する。
「そんなわけないでしょう? 私が言ってるのは、この店に置いてるもの全ての中からよ」
翠鈴の言葉に、今度こそ驚きを隠せない店員は少しの間、呆然と立ち尽くしてしまった。
(やっぱり、お得意様には裏メニューがあるのね! それがどれほど美味しいのか食べてあげようじゃないの!)
翠鈴は、未だに見つめてくる店員にわざとらしく咳払いをする。それで、自分の職責を思い出したのか、店員は再び確認してきた。
「お客さまはどなたのご紹介でしょうか?」
これには、翠鈴も少し躊躇ったが、ここまで来て引き下がるつもりはない。
嘘も方便と、この辺りの元締めの名前を出す。
その名前を聞いた店員は、どこか複雑そうな表情で翠鈴を見ると、席の移動を求めてきた。
(これで、裏メニューとやらが食べられるわけね)
階段を上がり、違う建物へと移動したところで、翠鈴は不審に感じ始める。態々厨房から遠退けば、その分料理が冷めて美味しさは落ちてしまう。そんなことをする理由がいまいちわからなかった。
部屋へと案内されて待つように言い含められるが、翠鈴は大人しく待つような性格ではない。
部屋の外に誰もいないことを確認すると、こっそり抜け出して、違う部屋を覗き始めたのだった。
(さて───他の人はどんなものを食べてるのかしら?)
ドアをゆっくりと開けた瞬間、ある種の臭いと共に、声が聞こえてくる。
その声を聞いた瞬間、翠鈴はここがどういった場所なのかを理解してしまった。
(何て店なの!)
この界隈では、この手の商売は禁止されている。その事に怒りを覚え、それとは別に、この話が広まれば、この店を合法的に潰すことも───と翠鈴が考えていたところで、見つかってしまった。
「そこで何をしている」
翠鈴はすぐに自室へと入り込むと、ロックをして窓へと駆け寄る。そして、窓を開けてゆっくりと手をかけると、極力地面までの距離を短くして飛び降りた。
「いった~……」
足の痺れを満足に取る暇もなく、上部の部屋───翠鈴のいた部屋から音が聞こえてきた。
翠鈴は痺れる足を引きずりながらその場を離れていく。
近くでバシュッ!バシュッ!という音と共に、地面の土や物が飛散していく。その音の正体に気付いた翠鈴は顔を青くしながら、痺れの取れた足で、本格的に走り出した。
店の連絡は早いもので、通りへの通路には、男たちが既に待機していた。翠鈴はそれを見るたびに、更に路地の奥へと走り込むことになる。
ただの少女である翠鈴がいつまでも逃げられるはずもなく、とうとう袋小路に追い詰められることになった。
「あまり手間をかけさせるな」
「…………」
男の声に対して、満足に返すことのできない翠鈴は、睨みつけることで、男たちを威嚇するが、それは全く効果がなかった。
「死にたくなければ、大人しくすることだ」
銃を構えた男たちに囲まれ、翠鈴への包囲網は徐々に狭まっていくのだった。
和麻は、現在の状況を引き継ぐと、外へ食事をしに出掛けた。引き継いだからと言って、完全に外れるわけではない。念のためにホテルの状況は確認している。
和麻はガイドブックに従い、店に向かって歩いていく。
時間は遅く、町の光も少ない。それでも、向かうのには単純な理由があった。それは、うまいと評判の店に興味はあったことだ。
和麻はただそれだけのために暗くなった町中を歩いているのである。
目的の店の前に辿り着き、和麻は建物を見上げる。建物は大きく、光を大量に放出して、周囲を明るく照らしていた。
(裏手が騒がしいな……)
風の感知では、少女がひとり追っ手から逃げている最中であった。
場所は店の裏手から始まり、今では奥の方へと進んでいる。それというのも、表通りへの通路には、明らかに追っ手の仲間、若しくはそれに準じた人がいるため、その方向には近付けず、避けているためだった。
少女はどこにそんな体力があるのかと言いたくなるほど、縦横無尽に逃げ回り、時には隠れてやり過ごし、時には物を倒しながら突き進んでいく。
(子供ひとりに何をしてるんだ?)
いきなり怪しくなってきた店に対して、眉をしかめながらも、和麻は店の中に入っていく。
店の中は外観と同じように、建てられたばかりなのか、内装は綺麗に整えられ、置かれた物は新品同様に光輝いている。
一瞬本当に飯店かと疑ってはいたが、案内されてカウンターについたところで意識を切り替える。
そこには確かにメニュー表が存在し、他の客は美味しそうに食事を続けている。
和麻は、他の客が食べているものを参考にするため、並べられた料理や、頼むオーダーなどの情報を集めていく。
その時に和麻は気付いた。一部の客に限ったことだが、一度カウンター席に座ったあと、店員へ注文すると、店員に連れられて店の奥へと案内されるのである。
入っていく客の年齢層はバラバラで、敢えて言うならば、性別が男というくらいだろう。それらの客の行く先へと視覚を伸ばして視たところで、理由を察する。
和麻としては、その内容に完全に興味がないとは言えなかったが、然りとて食事以上かと問われれば、否であった。
(まあいい。相手がどんな奴だろうが、飯がうまければ文句はない)
和麻は頼まれた料理の統計を取り、多いものと人気のメニューを注文して、それの到着を待つのだった。
翠鈴が目覚めた先は、明るい部屋の中だった。
手足が縛られ吊るされたような状態で放置されており、その拘束から抜け出すことはできない。
翠鈴は、しばらくその状態から抜け出そうともがいていたが、無理だとわかると諦めたように、手足を動かすのをやめた。
(頭痛い……あいつら、絶対酷い目にあわせてやるんだから!)
軽く男たちへの復讐を考えていたところで、自分のいる部屋へと近付いてくる足音を耳にして、その思考を中断する。
その足音の主は、扉の前に着くと、ゆっくり扉を開けて入ってきた。
その人物は、翠鈴が拘束されている姿を見てニヤリと笑うと、何も言わずに近付いていく。
「んー!! んーー!!(来るな!! あっちに行けーー!!)」
ガムテープで口を塞がれているため、声が出せず必死に身体を動かそうとするが、それが意味あるものになることはなかった。
翠鈴は少しずつ近付いてくる男へ睨み付けることで近づけさせないように牽制していたが、そのようなものは効果がなかった。
男は翠鈴に近付き、舐めるような視線を向け、足の方からゆっくりと触りだす。
その動作に我慢できなかったが、翠鈴が逃れるすべはない。
ゆっくりと這い上がってくる手が太股に入ったところで、その手が止まった。
止まった理由は、足音が近付いてきていたからだ。その足音の主は、余程慌てているのか、走ってきている。
「おい! さっきの話の方がもう来られる。急いで移動だ」
「もうなのか? 話では、後数時間はあるはずだっただろ」
「上の考えなんて俺に聞くな」
「これからお楽しみだってのに……」
「それよりも、ここは危険だから一旦退く。まだ死にたくはないだろ?」
「もちろんだ」
男は名残惜しそうに翠鈴を見ると、それを振り切って部屋を出ていってしまった。
翠鈴はひと先ずの危機が去ったことに安堵して、先程の男たちの話を思い出す。
(さっきのやつの話だと、ここにいたら危険なんじゃ……)
そう思考した後に、急激な眠気に襲われて、翠鈴は夢の中へと旅立ってしまった。
和麻は注文した料理に満足していた。ガイドブックに載るだけあって、味の方は上々。和麻としてもここに来た甲斐があったと口許に笑みが浮かぶ。
しかし、その幸福な一時もすぐに終わりを迎えた。
和麻が放っていた風の精霊が、危険を訴え始めたのである。
何事かと、辺りを見渡してみるが、特に大きな変化はない。和麻を狙うものなど見当たらなかった。それでも、警戒情報が次々と精霊たちから寄せられる。
内容を理解しようとするが、精霊たちの伝える内容が、人の声などではないため、漠然とし過ぎておりなかなか理解ができない。
その内容へと和麻が集中したところで、異変は起きた。
何かが建物を包んだかと思うと、一瞬にして食事をしていた者たちが昏倒する。和麻はと言えば、カウンターに身体を預けて、意識を繋ぎ止めるだけで精一杯だった。
そんな和麻に興味を持ったのか、声をかけてくるものがいた。
「ふむ。この結界内で意識があるとは興味深い。……あれの被検体に良さそうだ」
「だ……れだ……」
「話す力もあると……有力だな。光栄に思うがいい。お前は選ばれたのだから」
「ふざけ……るな……」
あやふやな意識の中、和麻の意思に従い風が和麻へ話し掛ける男へと攻撃するが、そこには何時もの鋭さはない。風の刃は男の近くまで行くと、何かの壁に当たったかのように霧散してしまった。
「何やら力を持っているようだな。噂に聞く精霊術士といったところか? まさに、実験にはうってつけだ」
和麻はその声を聞いたのを最後に、意識を失ってしまった。
男はしばらく店内を歩き回っていたが、和麻以上の者がいないと分かると、店内の中央の地面に、大掛かりな魔方陣を描き始めた。
その魔方陣の出来映えを確認し呪文を唱えると、昏倒していた者たちが、魔方陣と共にうっすらと消えていくのが分かる。
店内に残ったのは、魔方陣を描いた男のみとなった。
男は、その光景に満足すると、自身も一緒にうっすらと消えていく。
店内は、従業員が戻るまで、静かに時を刻んでいた。
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15話
真っ白な部屋の中。
存在しているのは、男を除き、男が寝かされているベッドと扉がひとつ。
特に明かりをとっているわけでもないのに、部屋の中は明るく、今が何日───寧ろ何時なのかさえ分からない。
目を覚ました男は、顔に片手を当ててゆっくりと気怠そうに上半身を起こし、混濁した意識を振り払うべく頭を振って自身のことを考え始めた。
(ここはどこだ? 俺は一体何をしていた……? それ以前に俺は誰だ?)
自分の身に起こった出来事に混乱しながらひとつひとつ状況を確認していく。
(この場所に見覚えはない。まずは分かるところからいくか……名前は神凪和麻。生まれは日本の……思い出せないな。他は───自分の事を思い出せないか……。取り敢えず、今がどういう状況か確認する必要がありそうだ)
多少の混乱はあったが、それだけで冷静さを欠くことなく和麻は自分の身を確認し、次いで周囲の確認を行う。
着ている服に見覚えはなく、ポケットには何もない。続いて見た部屋の中には特に目につくような物はなく、現状を動かす術と言えば扉しかなかった。
動くべきか……誰かを待つべきか……。
待っているのは消極的だと判断し、意を決して扉へ向かうべく腰を上げようとしたところで───先にその扉が開いた。
開いた扉の先には西洋人と思わしき男が立っている。
その男は和麻が起きているのを確認すると、和麻に向けて当然のように言い放った。
「ついてこい」
有無を言わせぬ意思を込められたその言葉に反感を覚えたが、男が扉を開けたまま背を向けて遠ざかっていったことに、このままでは何も進展しないと、諦めてついていく。
和麻が男に近付いたところであることに気付く。男は足を動かすことなく進んでいるのであった。
そのことを不思議に思いながらも、始めに男のことについて質問する。
「あんたは誰だ?」
男は少し眉を動かし、和麻を見てから独り言を漏らした。
「知的好奇心は残ったままか……。知っているのも一興かもしれん」
男は独り言を呟く。
「アーウィン・レスザール」
「───?」
いきなり何を言っているのかと、不審げに和麻は男を見やった。
「お前が聞きたかったことだろう?」
そこで、先程言った言葉が、男の名前であると知る。
「……ここはどこだ?」
急ではあったが、会話が成立したことで、その流れを断ち切るまいと次の質問に入った。
「知ったところであまり意味はないが……暇潰しにはいいかもしれん。
ここは、私が作り出した虚数空間。私の意のままになる空間……と言った方がいいか」
「虚数空間?」
聞きなれない言葉に疑問を挟むが、それに対する答えは最初と変わることがなかった。
「先程も言ったが、知ったところで意味はない。ここはどこにでも存在し、どこにも存在しないのだからな」
アーウィンの言っていることを理解できないままに、たどり着いた先には、ひとつの扉があった。
独りでに開いた扉の中にアーウィンが入っていくと、それまで真っ暗だった空間が、急に光を取り戻していく。
扉を抜けた先は、回りを山々に囲まれた場所だった。特徴と言えば、山頂部分を水平に切り取ったような場所で、広さとしては軽く数百人は入るくらいだろう。そして、その地面には大掛かりな模様───魔方陣が描かれていた。魔方陣には、円の中に様々な記号を組み合わせて出来ていたが、その記号の何れも和麻の記憶にはない。
「その中央に立て」
アーウィンは魔方陣の中央を見ながら、和麻に指示してきた。
「何故だ?」
その言葉に対して、純粋な疑問を男にぶつける。しかし、返ってきた言葉は、答えになってはいなかった。
「これからの実験に必要なためにある程度の自我を残したが……。まあいい、結果次第では今後の課題としよう」
アーウィンはひとり納得し、腕を振るうと、和麻の意思を無視して身体は動き、魔方陣の中央へと移動していく。それに対して和麻は何も抵抗できなかった。
次にアーウィンは何もない空間から次々と、魔方陣の描かれた場所へと扉を呼び出す。その扉はゆっくりと開くと、ぞろぞろと意識を失った者たちが魔方陣を囲むようにして歩きだした。
その光景を確認したアーウィンは呪文を唱え始める。
和麻はどこか他人事のようにそれを見ていると、和麻を中心とした模様が光り出し、それが周囲にいた人に当たると、その人たちは足元の光へと吸い込まれていく。意識を失っているため、誰もその事に対してパニックに陥ることなく、静かにそれは起こった。
周りの者たちが沈んでいく様を和麻が見つめていると、ひとりの少女が和麻のすぐ近くを沈んでいく。
和麻には、特に思うところはなかった。ただ何となく手を伸ばしただけだ。沈み行くその少女に触れたとき、少女は今までの挙動が嘘のように、慌てて和麻の手を掴むと、沈んでいく自分の身体をこれ以上沈ませないように必死にしがみつく。
「やっと動けると思ったら、一体何がどうなってるのよ!?」
少女が何故叫んでいるのか分からず、和麻はその少女を眺めた。そして、その少女の顔を見たときに、微かに記憶が刺激されるのを感じる。
それがいつのことだったのか思い出そうとしたが、状況がそれを許さなかった。
周囲の人が地面へと吸い込まれてすぐに、アーウィンの声がその場に響き渡る。
「想定内だな……。時、場、魂は揃った。神よ、その姿を我の前に現せ」
呪文を唱えていたアーウィンがそう締め括ると、それまで小規模だった魔方陣が爆発的に拡がっていく。
いつまでも拡がっていくと思われたそれは、ひとりの子供の足元にて止まった。
男はそれにいぶかしみ、その子供の方を向いて少し不機嫌そうに声をかける。
「先程まで誰もいなかったはずだが……どこから来た?」
まるで射殺すかのような視線を向けるが、その子供はどこ吹く風とばかりに、気にした様子もなくその問いに答えた。
「ほんのちょっと近くからだよ」
「……道士とかいう輩か」
「まあそうとも言えるかな?」
自分のことを多少なりとも知っていることに目を見張りながらも、どこか馬鹿にしたように疑問符をあげる。
「なにゆえ儀式の邪魔をする?」
その答えに対して何ら思うことはないのか、自らの儀式を邪魔されたことに対してのみ、不機嫌さを露にして問いかけた。
「君が行おうとしていることは制御できないし、僕の修行に丁度いいらしい。
後は僕がここに近かったから……かな?」
まるで買い物でも頼まれたかのように、ついでのように答えた子供に対して、男は自然な動作で身に付けていた宝石に触る。
その瞬間、それまで外へ拡がろうとしていた魔方陣の勢いは止まり、横の広がりから上空へ向けて光が立ち上ぼり始めた。
その光は誰の侵入も許さないと言わんばかりに、遥か上空まで───視認できる範囲では途切れることなく上に昇っていく。
そこを通ろうとした鳥は見えない壁にぶつかり───一切動くことなく落ちていき、地面に落ちたときにはその命は尽きていた。
「規模は小さくなるが仕方あるまい」
小声で男が何事か呟き始めるのを見て、子供は唇をつり上げて徐に光の立ち昇る魔方陣内へと足を一歩踏み出す。
足が光に当たろうとしたときには、その場にはその子供はおらず、いつの間にかアーウィンの背後へと回り込み手に持った短めの棒を振っていた。
その棒は、詠唱をしていたアーウィンを、刃物でもないのに意図も容易く切り裂き真っ二つにしてしまう。
「無駄だ。ここまで来れば止めようもない」
アーウィンは身体を真っぷたつにされてもなお、言葉を発する。そのアーウィンの言葉が正しいことは、その場の現象が示していた。
男の詠唱が止まっているにも関わらず、光は止まることを知らずに輝きを増していく。それを見て満足するように、切り裂かれた男はその場から薄くなり消えていった。
「あれで止まらないとはね。困ったことになったかな? これを止めることも修行の一貫だとしたら、これがあるとはいえ相当難しい……」
子供は言葉とは裏腹に愉快そうに、手に持った棒を構えると、それを両手に構えて中心に立つ和麻たちを見やった。
「丁度いい人材もいることだし、方向性を変えるとしよう。この宝具があればいけるだろうし」
集まってきた光は和麻たちの上空へと集まりだし、そこから、感じたこともないような異様な力が顕現し始める。
それを感じ取ったのは、儀式を邪魔した子供だけではなく、和麻も同様に感じ取っていた。
「この上空の力はなんだ?」
上空の光を凝視したまま、和麻は不思議に思ったことをそのまま子供に訊ねる。
「後で知れるよ」
「さっきから何話してるのよ! さっさと今の状況を説明した上で、謝罪と慰謝料を寄越して家にかえしなさい!」
和麻に必死に抱きつきながら、それまで誰ともなく悪態をついていた少女は、子供へと顔を向けて一気に捲し立てる。
「もしかして、僕に言ってるのかな? もしそうだとしたら見当違いも甚だしいんだけど?」
「あんたもさっきのやつの同類でしょ!! その変な棒で男を消したの見たんだから!」
「現状を認識できてない低俗はこれだから困るなあ。そっちの子と違って仙骨も無さそうだし……。
良いことを思い付いた。そうしよう!」
子供は、自分の考えに満足したのか、未だに文句を言い続ける少女を無視して、棒を構え直すと、目を閉じて集中し始めた。
和麻が消えた翌日。
和麻と交代で見ていた風牙衆は本来であれば、交代する時間になっても和麻は現れず、また、和麻への連絡もとれないことを不審に感じていた。
「何か連絡はあったか?」
「いや……何もない」
それぞれが押し黙り、部屋の中を不気味な静寂が支配する。
それでも何か話さねば先に進まないと、ひとりが自分の考えを口に出す。
「このままではまずいぞ。神凪を勘当されたとは言え、宗主のお気に入りなのだ」
「しかし、小娘とは言え、宗家を倒すような実力者だぞ? 何かあるとは考えにくい。それよりも、何処かでサボっているのではないか?」
「今までの経緯から言うと、それこそあり得ぬ。
あやつの実績を見れば明らかだ」
「では一体?」
「一応報告は上げておいたほうがいいだろう」
平穏かつ簡単だった依頼がキナ臭い方向へと進むことに、風牙衆の面々は渋い顔をするのだった。
重悟は自室にて、風牙衆からの報告を静かに聞いていた。
「……報告はそれですべてか?」
聞き終わった話の内容に顔をしかめながら、周防へと視線を向けるが、周防は携帯を耳から離して顔を左右に振り、和麻へと連絡がとれないことが証明されただけだった。
「追加の指示を出す。無理のない範囲で和麻の捜索を行うことだ。決して深追いはするでないぞ」
風牙衆との電話を切った重悟は、深い溜め息を漏らしどうしたものかと思案を始めた。
和麻の性格から考えるならば、依頼の放棄など有り得ない。他の者の生命の危機であったとしても、それを見捨ててでもやり遂げる。そう言う男だ。しかし、そうなると原因は限られてくる。和麻の身に何かが起こったと言うことだ。誰かとやりあったとしても、多少の怪我などものともせずに遂行するだろう。そうなると───
重悟が思案している間に、周防はパソコンを持ち出して重悟の前にある画面が映ったものを見せてきた。
それは地図が描かれており、線のようなものが引かれている。それを見て、重悟は内容を悟り周防に詳細の説明を求めた。
「最後にいたのは何処だ?」
「最後に訪れたのは中華街のこの店です。この店は、よく雑誌などにも載っている有名な店で、料理がうまいとの評判ですが、裏には大きな組織が絡んでいるようです」
「大きな組織?」
「調べる時間があまりありませんでしたので、詳細は分かりませんが、まず間違いないかと」
それを聞いて重悟は腕を組み、目を閉じた。
大きなことに巻き込まれてなければ良いと考えていた。しかし、それが叶いそうに無いことが、周防の言葉で分かってしまった。
和麻ほどの術者を、連絡の取れないような状況にさせる相手。私怨の類いではないことは分かる。それでは何が目的か───
重悟が悩んでいる間にも時は無情に過ぎ去っていく。
「よし! 周防。特殊資料整理室へ依頼し、風牙衆と情報共有するよう伝えよ」
「分かりました」
すぐさま携帯のボタンを押して特殊資料整理室へと繋げる。
特殊資料整理室とは、警察庁の中でただひとつある、妖魔などの事件を取り扱っている部署である。しかし、現状では妖魔を祓えるほどの実力者もほとんどおらず、妖魔の存在を認めていない上層部が多いため、窓際部署としての名が広がっている。
何故そのような部署が存続しているかと言うと、神凪等の有力な士族との繋がりがあったからである。
妖魔を認めてはいないが、その繋がりのある影響力とそれに付随する情報収集を認めている。寧ろ、そちらを上層部は重要視していた。
そのような事から、外部からは仲裁役や情報提供として買われているのである。
「特殊資料整理室への依頼は完了しました。情報についてはどこまで提供いたしましょう?」
「その辺りのことは周防に任せる。それよりも、この事を厳馬に伝えておくべきかどうかが悩ましいところだな……」
腕を組んだまま、目下の懸念を上げる。
厳馬に和麻のことを話したとしても、他人事のように対応するだろう。しかし、勘当したとは言え、実の息子であることには変わりはない。内心では心配しているはずである。心配していると重悟は思いたかった。
「情報はある程度共有しておいたほうが宜しいかと」
重悟は少し悩んだが、周防の言葉で決心する。
「厳馬を呼んでくれ」
「分かりました」
周防は静かに部屋を後にした。
綾乃の修学旅行も終わり、日常が戻ってきた。
しかし足りない物───いや、いない者がいた。それはもちろん和麻の事だ。
綾乃は幾度となく和麻に会おうと、マンションを訪れたが当の本人はおらず、中にいる気配もない。
釈然としないままに、一旦帰り電話してみるも───繋がらない。そのような日々が何度も続き、不安と共に嫌な予感が大きくなっていることを綾乃は感じていた。
このまま和麻が遠くに行ってしまうのではないかと───
そして意を決したように綾乃は不安になる気持ちを抑え込み、拳を握りしめると、ある場所へ向けて歩みを進める。
そして着いた部屋の前で深呼吸をひとつ。ゆっくりと行った後に部屋へと入っていく。
「失礼します。───お父様」
綾乃と同じように感じていた者がもう一人。
柚葉もまた、和麻がいないことを不安に感じていた。和麻の空いた席を見て柚葉は小さく溜め息を漏らす。
仕事でしばらく休む話しを聞いてはいた。しかし、これほど長く不在が続くとは思っていなかったのだ。不安になるのも仕方がないことだった。
これまで、こういったことはない。日々をただ平凡に───漠然と過ごしていく。そのようなことを望み、それは叶っていた。出会いは決して良い印象を持てるものではなかったが───それでも話す切欠にはなったし、こうした付き合いがいつまでも続くものだと思っていた。
それが途切れたことでこの締め付けるような思いと共に、不安が占めているのだと思うと、それが段々と大きくなっていき、何か和麻の身にあったのではないかと、嫌な予想に駆られてしまう。
「あいつ、いつまで休むか聞いてる?」
和麻の席を見ていた柚葉に声を掛けてきたのは、いつも相談に乗ってくれている紗希。その紗希へと柚葉が視線を向けると、紗希は和麻の席へと視線を向けて訊ねてきていた。
紗希が柚葉の方を心配そうに見た時に、柚葉は頭を横に振ることで答える。
「全く! こんなかわいい柚葉を放って何してるのよ! 和麻の奴!」
怒りを露にする紗希を柚葉は困ったように宥めるのだった。
望んだ儀式は失敗に終わったが、結果的に違う事象を観測できたことで、最初こそ不満気だったアーウィンも最後には満足していた。
当初の予定では、人の身体を依りしろとして肉体を与えることで、神を擬似的に降臨させ、その肉体に束縛し使役するというものであった。
もし失敗したとしても、儀式を行った土地一帯が、山を含めて消滅するくらいの認識しかない。
それよりも、人の身に神とまではいかないが、視た限りでは、神を呼ぶための魔方陣をかなり上位の精霊の呼び出しへとランク下げ、その呼び出した精霊を、生け贄とするはずだった少年に封印したことに対して、興味を持っていた。
「余ったエネルギーで受け皿の器を広げるとは……ムダの一切ない素晴らしい方法だ。
次回の参考にさせてもらおう」
空中に浮かぶ映像を、手を軽く振ることで消し去り、アーウィンは次の儀式会場へと向かいながら、新しい計画へと思考を割くのだった。
綾乃は一心不乱に妖魔退治に明け暮れていた。
その姿は何処か鬼気迫るものがあり、宗家の者と言えど、簡単には近付くこと―――ましてや話しかけることさえできないところまできていた。
一時期は単身で中国へ渡ろうとしたのだが、そこはなんの権力も───さらに言えば、お金もない女子中学生である。いくら頭が良いからと言って語学が堪能な訳でもない。英語が多少話せるくらいで、中国語ができるわけではないのだ。冷静になってみれば、色々と無理が出ることなどわかりきったことだろう。
説明を受けたときには、頭に血が上り、怒りのままに父親の部屋で力を解放してしまっていた。
重悟の綾乃に対する負い目が油断となったこともあるが、綾乃が神炎に目覚めていたこと、そして重悟の説明により、綾乃の怒りと言う炎の精霊を従えるための感情が最高潮にまで達したことで、重悟すら静めることのできない莫大な精霊を召喚したことにより、重悟の部屋は消え失せた。
重悟としては、その精霊の矛先を真上に向けることで、他に影響を及ぼさないようにするのが精一杯だったのである。
この時の重悟の焦りは計り知れないものがあったのだが……。
そのことにより、小遣いの減額及び土日には遊ぶ暇が無いほどの依頼をこなさなければならないようになってしまっていた。
怒りはあるが、それを向ける先はなく。妖魔に八つ当たりしている次第だった。
綾乃は自分の無力さを、この時ほど鮮明に感じたことはなかった。
和麻に教わったことで強くはなった。しかし、強くなったからと言って、和麻のことを探すことに役立つわけではない。
今は風牙衆からの報告を待つしかない身に綾乃は歯噛みしつつも、和麻からの教えを形骸化させぬよう日々の鍛練と妖魔退治に明け暮れていたのだった。
次いで内心の葛藤が酷かったのは厳馬だろう。
その当時のやり取りとしては呆気ないものであった。
「厳馬に伝えねばならぬことがある」
「宗主自らの呼び出しとは珍しい」
重悟の深刻そうな表情をしているのを見て、厳馬は軽く返事をする。
この時の厳馬の考えとしては、重悟が深刻な表情をする原因として、一族のことか───それとも、かなり強力な妖魔が現れたかのどちらかだと認識していた。そして、恐らく一族───それも綾乃関係の事であろうと当たりをつけていたのだ。
その理由としては、深刻な問題であるのだろうが、重悟が焦っているように見えなかったからである。急いでいるのであれば、一族者に召集をかけるはずだからだ。それをしないと言うことは、緊急ではないが重要度の高い事となる。手強い敵であるならば厳馬が向かえば良いだけで、ほぼ解決すると言っていい。───となれば、一族の問題となる。
しかし、一族の問題で悩むことはあっても、深刻な表情をすることはない。それほどの事が起きていれば、厳馬の耳に入ってきていてもおかしくないからだ。それに、この表情を厳馬は以前見たことがあった。
継承の儀の時である。あの時も重悟は同様の表情をしていた。
だからこそ、おおよその要因に行き着いたことで、重悟の精神を少しでも軽くするべく、これから聞かされることなど何でもないことのように厳馬は振る舞っているのである。
「単刀直入に言う。───和麻の身に何かが起きた。実際に何が起きたのか不明だが、誘拐された可能性が高い。和麻に渡した携帯にも反応がないのだ」
まさか、自分の息子の事とは思わずに暫し押し黙るが、それも少しの間だった。
「───和馬とは勘当した間柄。今の私には関係ありませぬ」
「しかし、実の息子であることにはかわりあるまい。今、風牙衆に探させてはいるのだが、全く手がかりはない状態だ───」
厳馬の返事をある程度の予想していたのか、それでも厳馬に伝えておこうと、重悟は続きを話し出す。
「私の息子だからと言う理由から捜索するのであればお止めいただきたい。
それに、あやつが何処に行こうとあやつの勝手です。
話しがそれだけならば戻らせていただく」
重悟の話しを遮る形で厳馬は答えると、立ち上がり扉へと歩き出した。
「話しは最後まで聞いて行け!」
「私の息子は煉のみ。更に言えば一族の者ではない者のことで悩むなど無駄なこと」
厳馬は振り替えることなく言葉を放つと、そのまま部屋を後にする。
静かな部屋の中に、重悟の溜め息を吐く音だけが残った。
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16話
「もう無理!」
ひとりの少女が声高に、自分の状態を叫ぶ。
「そんな声が出せるうちはまだまだ行けると暗に言いたいのかな?」
少女の言葉に返事をしたのは、少女よりも更に見た目が幼い子供だった。
その言葉を聞いて、そんなことになっては堪らないと、少女は拒絶の言葉を放つ。
「聞こえなかったの!? も・う・ム・リって言ったのよ!!」
少女は地面へと仰向けに倒れた体勢のまま、腹に力を込めて、子供を睨みながら答える。
「一応なりとも君は僕の弟子なんだから、師にはそれなりの敬意を払うべきだと思うんだけどね」
「私は家に帰りたいだけなの!! こんな変人どもがするような事をしたい訳じゃない!!」
「変人とはいい得て妙だね。
確かに僕は人から変わったと言える。つまり変人と言うことか……。
まあ、遅いか早いかの差でしかないのだから、君も変人の仲間入りだ」
子供は少女の言葉に頷きながら、腕を組んで考え込む仕草をする。少女───翠鈴が課せられているのは山頂付近にて立っておくだけというものだった。それだけ聞けば簡単なように思えるが、実際はそうではない。
翠鈴の立っている場所は、翠鈴の師───李朧月の作成した陣が置かれているのである。この陣はその場にいるだけで、精神力をじわじわと削っていくというものだった。勿論それに伴うメリットもあるのだが、翠鈴には伝えられていない。
更に、翠鈴が愚痴を言うのも仕方がない程の時間が本来は経過している。翠鈴の感覚では1日が、実際には5日経過しているのである。本当の時間の経過を知れば、今以上の愚痴を言うのは目に見えていた。
「変人なわけないでしょ! そんなことよりも、早く私を家に帰しなさい!」
「君が着いてきたいと泣いて頼んできたと記憶してるんだが……違ったかな?」
翠鈴の行動も仕方のないものだった。身体の自由を取り戻したと思ったら、知らない場所な上に周囲は見るからに山の中。その上、山を降りるための道もないのだ。その場にいる者に頼るのは仕方がないだろう。
「あんなところに置いていかれたら死ぬしかないじゃない!! 普通は連れていくものでしょ!!」
「さて、時間稼ぎには付き合ってあげたし、続きをやろうか」
「鬼! 悪魔!」
休憩するための時間稼ぎがばれてしまったことで、翠鈴は泣く泣くゆっくりと立ち上がる。以前立ち上がらなかった時には、何処から持ってきたのか、あろうことか虫をけしかけてきたのだ。数匹なら問題なかったかもしれないが、それが床を多い尽くすほどおり、自分に向かってくる光景を見てしまい、それが翠鈴のトラウマとなってしまっていた。
それ以来、休憩時間が一定以上経過したり、朧月に対する悪口が度を越すと虫を寄越すという、翠鈴にとっては暴挙に等しい行為を平然としてくるため、必死にならざるをえなかった。
「全く……少しは和麻を見倣ったらどうだい」
「才能あるやつと一緒にしないでよ! あんた言ったじゃない───私には才能が無いって……」
朧月の言葉に、翠鈴は少し声を落として言い返す。
この場に来て早々。翠鈴は朧月から「あっちの子と違って才能がない」と、真正面から言われたのである。例え今の状態が心から望んだ事ではないとしても、才能が無いと言われるのはいい気分ではない。更に言えば、ある程度の事を修めれば、自由にしていいと言われているので尚更だった。
翠鈴から見て、師である朧月は、翠鈴を家に帰す気はないと言える。それに、言い渡された条件も達成する見込みが低く、いつになれば達成できるかの目処も立っていなかった。
そんな翠鈴にも望みはある。
それは一緒にこの場へと連れて来られた和麻だった。
和麻は元の素養が高かったのか、教えられたことを瞬く間に吸収し、今の環境に順応してしまったのである。これならば、自分が修得するよりも和麻が習得して自由を得たときに連れていってもらえばいい───そう考えた翠鈴は、時間稼ぎと和麻との仲を進展させることに力を注ぐようになってきた。
しかし、そういった考えが朧月にばれていないはずはなく、強制的に修行をさせられているのである。
「その辺は安心していい。才能のあるなしなど関係なく修められることを証明してあげるよ。
まあ、成長に差が出るのは仕方ないけどね」
朧月は少し離れた場所に、自然体で目を瞑り立ち尽くす和麻を見た。
和麻は既に初歩的なことは修めており、今は竜脈の扱い方を模索中だった。
この異常な成長速度には、連れてきていた朧月自身驚いている。これも単に記憶が少なく、余計な感情に振り回されていないからだろう。
そう遠くない未来に、自分と同格にまで来ることのできそうな和麻に対して、朧月は笑みを浮かべた。
「男が男を見てニヤリと笑うのはどうかと思うわ」
「では、君を見て笑わせてもらおうか」
翠鈴は、周囲の空間が軋み始めたのを聴いてから、自分の失言に気が付いた。しかし、気が付いたところでそれはどうしようもなく攻め寄せてくる。
「い───いや~~~~!!」
空間のずれた隙間から溢れてくる虫を見て翠鈴は叫ぶのだった。
「酷い目に遭った……」
簡素なベッドの上で気絶から目が覚めた翠鈴は、傍らに置いてあるもうひとつのベッドにて眠る和麻を見る。
翠鈴が聞いたところ、和麻の記憶はほとんど無いと言っていい。あるとすれば自分の名前のみ。それ以外はすべて失ったのだ。ある意味自分より酷い目に遭っている───翠鈴は和麻の境遇を思い、そっと和麻に寄り添うようにして、慰めるように手を和麻の胸に置いたところで───自らの家族の事を思い出す。
(───お父さん)
和麻にしがみつくようにして、翠鈴はそのまま寝てしまった。
和麻はこの時起きてはいたが、動かずに翠鈴の好きなようにさせていた。
先ず、何故この場に和麻がいるのかと言えば、朧月に頼まれたからである。
今の和麻は何処でも修行ができるレベルにまで達していた。それは立っていようと寝転がっていようと関係ない。それならば、翠鈴のやる気を上げようと、朧月は飴を施すことにしたのである。
その為和麻に、「この娘が起きたら好きにさせること。また、起きてることを悟らせずに修行は続ける。───出来るよね?」と言ってきたのである。和麻としては、師からの指示であれば従う他無い。
そのような経緯からこの場にいたのである。
翠鈴が泣き止み、寝てしまったのを確認してから和麻は溜め息をひとつ吐くと、翠鈴を抱き上げて自分のベッドに移動させる。
そこで、微かに記憶が刺激されるのを和麻は感じた。
あれはいつの頃だったか───無人島で───少女と過ごした記憶。
病気で弱った少女を介護した時の記憶が断片的に思い出される。
あの時も、このように抱き上げて連れていったような───
もっと思い出そうとするが、それ以上思い出すこともできず、和麻は思い出した記憶を振り替える。
(この娘ならば、俺のことを知っている)
その記憶の中の少女が、自分の事を知っているということを、直感的に間違いないと和麻は確信するのだった。
時は瞬く間に流れていく。
一緒に始めた和麻と翠鈴の差は、始めた段階でも開いていたが、今では更に開いていた。
それでも、翠鈴とてそのままではない。あの地味な修行の成果がやっと実を結び、強制的に仙骨を手に入れていたのだ。本人は変化したことに気が付いてはいないが、見るものが見れば即座に分かるほどの変化である。
それに加えて、初歩的な術も少しは使えるようになっていた。そのため、残りの課題を弟子である和麻に丸投げした朧月は自身のことをやり始めたのである。
本来は丸投げする予定ではなかった。その予定を狂わせる存在───朧月の師である霞雷汎が、和麻たちの元に現れたからである。
時系列としては、雷汎が朧月の前に現れて、何かを言いつけた事で、朧月はそれに掛かりきりになったことにより、和麻が翠鈴を見ることになったのである。
「和麻~私を家に連れて帰ってよ~」
「俺はまだここでの修行を修めていない。
だから、修めるまではここにいるつもりだ。それに、朧師がそれを認めるはずもない」
「ちょっとだけでいいから! お願い!」
翠鈴は両手を併せて和麻を拝む。しかし、和麻の意思は固く揺るがない。
「それはできないと先程も言ったはずだ。出たければ早く修めることをお勧めする」
「それがいつになるか分からないから言ってるんでしょ!」
先程まで泣きそうな顔は何処へ行ったのか、表情を怒り顔に変えて和麻に抗議し始める。
それでも、和麻はそんな事は無視して、師からの頼まれごとをやってしまうことにした。
「先ずは、瞬歩の練習だ」
「ちょっと───人の話聞いてる?」
「自らの内功を高める。そして、身体全体に行き渡らせてから───」
「聞いてよ!」
和麻の講釈を遮った事に、和麻は眉根を寄せる。
「早く帰りたくはないのか? 翠鈴のやっていることは理解に苦しむんだが……」
和麻は翠鈴の行動を不審に思ってしまう。それもそうだろう。早く帰りたいと自分で言っているのにも関わらず、その帰る方法から目を背け、あまつさえ逆のことをしているのだ。本当は帰りたくないのではないかと疑っても仕方がない。
「勿論帰りたい───けどね、そもそも才能が無いと覚えられないのに、どうしろっていうのよ……」
この時翠鈴は勘違いをしていた。才能が無ければ覚えられないのではなく、覚えるまでにとてつもない時間が掛かってしまうだけだ。そして、それは今の翠鈴には当てはまらない。何故なら、その遥かなる年月を朧月により強制的に経過させられていたのである。
しかし、それを周囲の者が伝えていないため、翠鈴が知るよしもなかった。
「朧師は無駄なことはあまり好きではない。
結果が分かっていることには手を出さないのは間違いない」
「もしかして、慰めてるつもり?」
「そんなつもりはない。ただ事実を述べてるだけだ」
「───ありがとう」
その声は小さく耳を澄まさねば聞こえないほどだったが、和麻の耳には十分な声量として届いていた。
「理解が得られたところで、続きを行う。出来なければ虫を使ってもいいとの許可を貰ってるから頑張れ」
「やっぱり和麻も朧の同類よ! 人でなし!!」
その言葉に和麻は満更でもない様子で、改めて翠鈴を見てひと言。
「そんなに誉めても手を抜くわけにはいかない」
「嫌味くらい理解したらどうなのよーー!!」
まだまだ翠鈴の修行は始まったばかりだった。
そうやって、翠鈴の相手をするうちに、和麻の記憶が何度も刺激されていく。
(前にもこうやって、記憶の中の女の子の世話をしていた……)
疲れて動けなくなると、翠鈴は自身の運搬を要求し、和麻に甘えてくるのである。
これが打算等であれば、和麻もそれ相応の対応をするのだが、そうではないことがわかってしまうだけに扱いに困っていた。
流石に朧月も和麻に任せっ放しではなく、様子を窺っていたために、和麻の状態についても理解していた。そして、ある決断を下す。
翠鈴が寝静まった深夜に、和麻は声を掛けられた。
「和麻いるかい? いるのであれば、僕の部屋に来てくれるかな」
声だけを和麻の元へ届けてきた朧月の言葉に従い、和麻は朧月の部屋へと向かう。
朧月の部屋に着くと中から招く声が上がる。
「遠慮せずに入るといい」
「失礼します」
部屋に入って椅子に腰かけるでもなく立ち尽くす和麻に、朧月は溜め息を漏らしながら話し掛けた。
「もうちょっと気楽にしてくれたらいいんだよ? 君の家でもあるのだから」
「特にそのような意識はありません」
「───まあいいから、座りなよ」
和麻は勧められた椅子に座り、朧月を見つめる。朧月も、和麻が座ったことを確認して、注いでいたお茶を和麻の目の前へと置く。
「高級茶らしいよ」
「俺に茶など分かりません。───要件をお聞かせください」
「そんなに急ぐこともないだろう。ゆとりは大事なことだと思うよ」
和麻の急いた物言いを気にした様子もなく、朧月は返した。
「こちらにも、やりたいことは色々とあります」
「それは、自分の記憶に関わることかい?」
朧月の言葉に和麻は目を見開き反応してしまう。今まで、そのような話題を挙げた覚えもなければ、気付かせるような行動をした覚えもなかったからだ。
「そんなに驚くほどの事でもないだろう。まがりなりにも、僕は君の師匠なんだよ?」
朧月はさも当然のように言い放ち、和麻の反応に満足すると続きを話し出した。
「本題はね、君もある程度まで修めていることだし、今後更なる高みへと昇るのならば、憂いを晴らしておくべきだと思うんだ」
「つまり、自分の記憶を探してこいと仰せですか?」
「その方が君のためになると言う話しさ。───先程も言ったけど、僕たちには時間は十分にあるんだ。記憶を探し終えてからまた始めるといい」
和麻は考え込み、朧月はその様子を見て脈あり───と話しを続ける。
「翠鈴の事なら僕が見ておくから安心して行くとよい。それから、これを君に渡しておこう」
「───これは?」
「記憶を探すのに重宝する宝具だよ。僕の師匠の物よりも品質の点では落ちるが、使えるはずだよ」
「そこまでしていただけるのでしたら、ありがたく使わせていただきます」
和麻が受け取ったのを確認してから、朧月は具体的な話しをし始めた。
「君は記憶を探すに当たって身分を証明する物はもっているかい?」
「持ってはいませんが、移動だけであれば問題ないかと」
予想通りの答えに朧月は溜め息を漏らすと、封筒をひとつ取り出して和麻の前に差し出す。
「そう言うと思って用意しておいたよ」
和麻が封筒の中には、幾つかの書類と紙幣が入っていた。その書類には、八神和麻と記載されているのに和麻は目を止める。それに気付いた朧月は、苦笑しながら訳を述べる。
「それは、僕の師匠に頼んだんだけど───どうやら師匠は、自分の昔の苗字を元に作ってしまったようでね。すまないがそれを使って移動はするといい。
ホテルなどに泊まるのにも最近は身分証が必要だからね」
「重々ありがとうございます。十分です」
「うんうん。───それで、いつ頃行くんだい?」
「───今から向かいます」
「───起きると煩そうだからね……」
和麻の内心を読み取った朧月は、和麻の言葉に同意するのだった。
和麻は数分もしないうちに、朧達のいる場所から一番近くの町まで来ていた。実際には数百キロあるのだが、その距離さえ今の和麻にはそれほど苦にもならない。
和麻は町の中で、最寄りの空港を調べてから町を出る。
周囲はまだ深夜の帳が下りたままではあったが、和麻にはそれほど関係はなかった。おおよその方向と距離を掴むと、竜脈に乗って移動を開始した。
移動は瞬時に行われ、瞬く間に目的地の近くまで移動を果たす。
(竜脈で海を越えることができれば楽なんだが、そこまでの技量はないからな……。今日はあそこの町で休むとしよう)
縮地による移動で空港から最寄りの町の中に入り、大きめのホテルを探す。町の規模は空港が近いだけあって賑わっており大きなホテルは幾つも存在していた。その中からひとつを選択して和麻は入っていく。
「神凪からの依頼とは言え、この件名の処理の仕方をそろそろ考えた方がいいと思うのですが……」
ある一室にて、軽薄そうな男が女へと話し掛ける。
「それを此方から打診することは有り得ないわね。私達がすることは、最善を尽くすだけ。
まあ、この件名のせいで少し違う部署に頭が上がらなくはなったけど、そもそもこちらにはこれ以上失うものなど無いから問題ないわ。成功した場合の得るものの方が大きいわけだし」
「身も蓋もないですね……。
ここまでして見つからないってことは、バラされてるのは確実じゃないですか?」
男は事務処理をしている女の前に立ち、机の上に置いてある書類を手に取る。
「それを判断するための材料はまだないわね」
「まだ……なんですね」
女の言葉を聞き漏らさず、言いたいことを把握する。
女の方も、男の意見に同意したいところだった。行方不明となった神凪和麻は、風術師としては一流と言っていい技量の持ち主なのだ。ただの風術師が神凪宗家に敵う筈がない。宗家に勝るような実力者が音信不通になるような事象と言えば、男の言ったことが起こっていると思っても間違いではないだろう。
そこへ女の携帯の着信音が鳴り響いた。その着信音の選択にたいして男が眉をあげる。
「流石にその音楽のチョイスはどうかと思いますよ」
「黙って!」
女の携帯の着信音はただの緊急時のサイレン音だった。確かに、通常時にそのような音が鳴れば、視線を集める上に顰蹙ものだろう。場所的にも……。
しかし、女の方はそんなことはお構いなしに、携帯に出ると耳を澄ませて聞き漏らさないように、メモを取り続ける。
男も、そのメモを見て次第に驚愕の表情に変わっていった。
「ご協力感謝します。───ええ、後はこちらで行いますので───はい。本当にありがとうございました」
女は携帯を切って溜め息を吐くと、続けて送られてきたメールを確認してから、男に向き直り指示を出す。
「ここの情報をすぐに掴んで頂戴! それと……空港と一応港の記録の監視!」
「噂をすればなんとやらですね。まさか、見付かるとは……」
「無駄口を叩かない!」
女は、男に怒鳴り付け部屋を急いで出ていく。
残された男も緊急性を理解しており、自分の机に座り直すと手元のパソコンをいじり出すのだった。
「その話しは間違いないか?」
『はい。間違いありません。件の少年は中国にて発見され、現在空港にて日本行きのチケットを手に入れております』
重悟は半ば信じられない気持ちでその報告を聞いていた。和麻の行方が分からなくなったあの後に、風牙衆を向かわせ近隣の町や主な組織について調べたのだが、ほとんど役に立つ情報が得られなかったのだ。その後に来る情報も、似たような者を見たと言うだけで、実際に見てみれば全くの別人だった。
しかし、今回特殊資料整理室からの情報は『かもしれない』───というものではなく断定情報。重悟としても期待せざるをえない。
『但し、名前が違っています。今の名前は八神……八神和麻です』
「───何?」
『こちらとしても、まだ接触すらしていない状態なので詳しいことは聞けていません』
「待て……それならば、なぜそれが和麻だと言い切れるのだ?」
ここで、重悟は糠喜びであったかもしれない可能性に思い至る。功を焦った特殊資料整理室が確認もせずに報告してきたのではないかと。
『その確認については、こちらでも済んでおります。どうやら、神凪から八神の養子と言う形になっているようです。理由は不明ですが……』
「そうか……。しかし、先ずは本人かどうかを確認させていただく」
『はい。そうおっしゃると思いまして、私は既に到着予定の空港へと向かっています』
「分かった。こちらからも迎えを出そう」
その後数言伝えた後に必要なことを聞き取ると、すぐに電話を切って後ろを振り返る。
「周防。厳馬を……いや雅人を呼んでおいてくれ」
「綾乃様はどうされますか?」
重悟は周防の言葉に頭を抱える。和麻がいなくなってからと言うもの、綾乃の扱いに重悟は苦心していた。綾乃は炎雷覇の後継者であるのだが、それを煉に譲ると言って聞かないのである。その目的は明らかだった。炎雷覇を持っていれば、いずれ当主を継がざるをえない。そうなれば、拠点からそう簡単に離れるわけにもいかず、和麻を探しに行くことも出来ない。その為の継承。まるで価値が無いもののように扱うその姿に何度頭を悩ませたか分からない。
一度、死闘に近いところまで行ったこともあったが、厳馬の介入により、なんとか冷静になるまで抑えたこともあったが、今回の事でそれが起こらないとも限らないのだ。
父の威厳以前に、最悪逆に勘当されかねない。神凪の神炎使いが離反など考えたくもないところだった。娘なら尚更である。
「真偽のほどが定かではないことを言った上で、同行に関しては、綾乃様御自身に判断していただく───というのはいかがでしょう?」
「───そうだな」
娘の育成方針をどこで間違えたのかと考えながら、重悟は周防の言葉に頷くのだった。
綾乃は周防の言葉を最後まで聞いたところで、逸る気持ちを抑えつつ、肝心なことを問い質す。
「その話しの信憑性はどれくらいあるの?」
綾乃の聞きたいことはそれがすべてだった。以前も風牙衆の情報を聞いてからすぐに向かったが、全くの別人だった。それによりキレた綾乃によって大惨事になり掛けたのである。
その事から周防も、綾乃の質問に対して絶対とは口が裂けても言えない。
「信憑性としては、半々程度に考えていただければいいかと……。補足として、今回の情報源は特殊資料整理室です」
特殊資料整理室と聞いて、綾乃は疑問に思ったのか、眉を僅かに上げた。
その表情を見て、周防は更に補足をする。
「重悟様は、風牙衆以外にも依頼をしておりました。特殊資料整理室とは、警察の内部にある部署のひとつです」
「警察ね……。同行するわ」
迷ったのは数瞬。結局行かないという選択肢はない。問題は気の持ちようだけ。
「では今から向かいますので、ご準備ください」
綾乃は軽く頷くと、きびすを返して足早に部屋へと戻っていった。
和麻の確認として、神凪からは3人が空港へと訪れた。綾乃、雅人、周防の3人である。
周防先導の元、たどり着いた先には、スーツをきっちりと着こなした女と、スーツをきちんと着ているにも関わらず、何処かだらしなく見えてしまう男が立っていた。
「お待たせしました」
「いえ。こちらこそ、連絡が急になり申し訳ありません。何分確認作業に時間を取られまして……」
謝罪の姿勢から上半身を起こすと、女の方はケースから名刺を取りだして、綾乃の前へと進み出る。
「私は特殊資料整理室の室長代理。橘霧香と申します。以後よろしくお願い致します」
綾乃は丁寧に出された名刺を受け取り、そのまま横にいる周防へ手渡して、霧香を見つめる。
そのかなり失礼な行為にも関わらず、霧香は笑顔を絶やさずに微笑み返す。そして、雅人へと名刺を渡そうと移動した所で、綾乃がその間に割り込んだ。
「いつ到着するの」
綾乃の意思に従い、周囲が暑くなり始める前に雅人は軽く手を上げて霧香に目配せし、綾乃の問いに答えるよう霧香に頷いてみせる。
霧香は雅人の意図を理解して軽く頷くと、腕時計にて時間を確認してから改めて綾乃に向き直った。
「後30分ほどで到着する便に乗っています。あのゲートから来る予定です」
霧香は該当の設備の方向を指差しながら綾乃に説明する。綾乃はそれを見て番号を確認すると、もう自分の話は終わりとばかりに、掲示板の方へと飛行機の機体番号を確認するために歩き出した。
それを見て残った面々は溜息を吐く。
「申し訳ない、霧香殿。綾乃嬢はこの件に関して余裕が無くてね。居なくなった当初からかなり心配していた上に、自分で探そうとするくらいだったんだよ」
綾乃の代わりに謝罪する雅人に、霧香は微笑みながら対応する。
「待ち人がやっと現れるのです。そのようになっても仕方ありませんわ」
霧香は綾乃へと視線を向けながら、気にしていませんと言外に伝えるのだった。
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17話
空港へと一機の飛行機が到着する。その飛行機を空港の窓から無事に着陸するのを確認した綾乃は、ゲートの前に移動すると、和麻が出てくるのを今か今かと高鳴る胸を抑えながら柵の最前列で待機していた。
続々と出てくる人の波を見て、綾乃の心臓は次第に早鐘を打ち始める。待っているこの数分が、綾乃には何時間にも感じられるほどだった。
それは唐突に現れる。見た目は最後に見たあの時から変わっていない。そう───外見的に一切の変化が見れなかった。変わったところと言えば、着ている服と雰囲気だろう。
どこか刺々しかった印象は無くなり、どこか周囲と一体となっているような、自然な立ち居振る舞いをしていた。
綾乃は和麻へと駆け寄るのも忘れて、微かに眼元に涙を浮かべながら和麻がゲートを潜り出てくるのを待つ。
しかし、その時を綾乃は図らずも見失ってしまった。見間違いかと目を擦り再度ゲートを見るがゲートを潜っていたはずの和麻の姿が無い。
まさか、今まで見たものはすべて幻だったのかと、慌ててゲートへ向かおうと足を一歩進めたところで綾乃は肩を掴まれた。
「───!?」
反射的に飛び退り、肩を掴んだ相手を確認する。確かに和麻を確認するために周辺への意識は薄くなってはいたが、気付かないほど意識を低下させていたつもりは無かった。それなのに……と相手を確認した所で、その相手に思わず抱きついてしまう。
「和麻!! おかえりなさい!!」
綾乃は、和麻を離すまいと抱きつきながら顔も見ずに話し掛ける。雰囲気が変わっていても、それは和麻に間違いなかった。
しかし、次の瞬間。綾乃の勘が危険を知らせるのと同時に和麻からすぐさま離れた。
自分の身体が意思とは別に動いたことに戸惑いながら、綾乃は信じられない気持ちで自身と和麻を交互に見た。微かに感じる違和感に、綾乃は和麻を注意深く見ると、その違和感の原因にたどり着く。
「和麻……その手袋は何?」
違和感の正体は、和麻の右手に装着された黒い手袋だった。抱きつく前にそのようなものを着けてはいなかった。しかし、今は着けている。それはなぜか───。
綾乃が考え付く前に和麻から返答があった。
「これは、相手の記憶を見探るものだ。脳に直接触れることで、相手が忘れていることすら探ることができる」
和麻は何でもないことのように答えるが、綾乃はなぜそれを使うのかと、少しずつ嫌な予感が膨れ上がっていく。
「何故それを私に使おうとしたの?」
「お前が俺のことを知っていそうだったからな……。
人と言うのは、案外物忘れが酷い。忘れていることが多々ある。だから、これで確実に真実が知りたい。俺の失われた過去のために」
「えっ?」
綾乃や近くに居た周防達も含めて、和麻の言葉に唖然としてしまう。まさかと言う思いもあったが、納得できる部分もある。記憶があれば、それこそ連絡を取るはずだ。それが無いと言うことは、このような状態になっていてもおかしくはない。
しばらくの間、なんとも言えない空気が漂った。
「ここが、俺が育った場所か……」
「何か思い出した?」
「───見たことがあるような気はするな」
和麻は綾乃たちに連れられて神凪邸へと来ていた。行きなり謎の道具で、何かしようとしてきたことに対して綾乃は非難することなく、記憶がないことに対して逆に心配する。
雅人と周防は、本人という確信が未だ持てないためか、何時でも対応できるように一定の距離を取って和麻に接していた。
霧香たちは言わずとも更に一定の距離を空けてついてきている。
門を抜けて、玄関の向けて歩いている途中。和麻は立ち止まると、ある方向に顔を向けて見つめる。綾乃達も、和麻が立ち止まったことで同じく止まった。
「何か気になるところでもあった?」
「ああ」
歩いていた方向を変えて、和麻は見つめていた方向へと歩き出す。何となく懐かしく感じながら着いてみると、そこは道場だった。
和麻は無意識に土足のまま道場へと入っていくと、入った瞬間に和麻へ向けて凄まじい蹴りが放たれた。
和麻は何事もなかったかのように避けると、道場内部を見回す。しかし、襲撃者の攻撃はそれだけではなかった。腹部を狙った蹴りを避けられた次の瞬間には、その蹴りの反動を利用して肘打ちへと変化させる。
和麻はそれすらも分かっていたのか、肘の位置に手を向ける。肘打ちの速度は、ただそこに置いただけの手に防げるようなものではなかった。
しかし、肘が当たった瞬間。和麻は僅かに上げていた足を床に下ろす。それと同時に、道場内で足を下ろしただけでは出るはずのない音が響きわたる。
そう、和麻の下ろした足元の床板は見事に割れていたのだった。術者の踏み込みにも耐える床板が───
ひと通り見渡した後に和麻は攻撃してきた者を見る。
「何をしに戻ってきた」
「───俺の敵か?」
「どうやら寝惚けているようだな。礼儀すら守れんとは」
「───」
攻撃してきた相手───厳馬との噛み合わない会話に、これ以上の会話を危険と感じたのか、外部から声が掛けられる。
「和麻様。ここは土足禁止です。それと、先ずは神凪家の当主に会っていただきたい」
和麻は先程のことなどどうでもよくなったのか、道場を出ようとしたところで、そこで修練していた子供から声を掛けられる。
「兄さま?」
和麻はその言葉には答えず、道場を出る際に、声を掛けてきた子供を横目に見ていった。
聞き取りは、宗主と和麻の二人のみ。重悟の部屋にて行われた。
ただし聞き取りといっても、交互に質問しそれに回答していくと言ったものだ。
和麻としては、面倒な作業であったが、相手が素直に答えているため、強行手段には出ていない。ひと通り聞いてはみたが、和麻の記憶が刺激されることはなく、あまり有益な情報が得られないと分かると、沈黙し考え込む。
「和麻の経歴については、こちらで準備する。一時間もあればある程度揃うだろう。
他に必要なものはあるか?」
「今すぐというものは特にない」
和麻は、重悟の心配など気にも止めずに答える。
「今後どうするのだ?」
「もらった資料を元に色々と巡るつもりだ。
取り敢えずは屋敷内を見せてもらう」
和麻は立ち上がると、まだ話しを続けようとする重悟を目で制して部屋を後にする。
部屋を出た先には綾乃と煉が待っており、和麻が出てきたのを確認して近付いてきた。
「どこに行くの?」
「兄さまは記憶喪失なのですか?」
「お前が俺の弟か……」
二人からの質問を無視して和麻は近付いてきた煉を見ると、一言呟く。
「本当に弟か?」
「───? 勿論ですよ」
和麻の言わんとしていることが理解できなかった煉は、和麻の呟きに不思議がりながら肯定する。
「───まあいい。それでお前が綾乃だな」
こちらは特に聞くまでもなく、断定情報として和麻は口に出す。
綾乃は、自分のことを少しでも覚えていたのかと、嬉しそうにするが、記憶が戻ったのではないと、認識を改める。
「少しは思い出せそう?」
「どことなく見たことのある場所……その程度の認識だ。
特に思い出すようことはないな。
それよりも、この屋敷を案内してくれ」
「任せて!」
綾乃は和麻を引き連屋敷の中を案内していく。しかし、その姿を見て、不満に思う者がほとんどであることに綾乃や煉は気付かない。
ひと通り案内したところで、煉が口を開く。
「そうだ兄さま! 母さまに会ってみてはいかがですか? 何か思い出すかもしれませんよ!」
名案とばかりに煉は提案する。煉にとっての母親は、とても優しく、慈愛に満ちたものだった。その愛情は当然和麻にも注がれているものと思ったのだが、それが間違いであると知っていた綾乃は複雑な顔をする。
和麻が思い出すかもしれないが、嫌な思い出として記憶が戻ったのでは、神凪から遠ざかるかもしれない───そのような思いが頭をよぎったのだった。
膠着した空気は、そこへやって来た周防により払拭される。
「和麻さま。書類が出来ましたのでお渡しします」
和麻は周防から封筒を受け取ると、中の書類に目を通す。そこには、生まれから不明になるまでの経歴が載っていた。それを見て和麻は周防に訊ねる。
「ここに記載されている住所に行きたいんだが」
「車は表に準備してありますので何時でも出立することはできます」
「では案内してくれ。お前たち案内してくれたこと礼を言う。ありがとう」
和麻から礼を言われると思っても見なかった綾乃は、和麻たちが去っていく方向を、呆気に取られたように見つめた。
案内された部屋に到着し、準備されていた合鍵にて中に入ると、誰かが使用しているのか、床に埃などが溜まっておらず、綺麗に掃除されていた。
それを見て怪訝に思いつつも、和麻は近くの部屋の中に入る。そこは服が少し散らかったままになっている部屋だった。和麻はその服を避けて移動し、その部屋にある衣装ケースや棚を確認していく。そこには、和麻の考えを覆すものが揃っていた。
「確認したいんだが、俺は妻帯者ではない───間違いないか?」
「間違いありません。ちなみに、置いてある品につきましては、綾乃お嬢様と柚葉様、お二方の物がほとんどです。和麻様の物については、あちらの部屋にまとめてあります」
和麻は廊下から部屋に入ろうとしない周防の言葉に、顔をしかめて、頭痛がするのか頭に手をやる。
「俺は独り暮らしだと書いてあっだが、この状況はどう言うことだ?」
「それは、心配したお二方が、和麻さまが何時でも帰って来られるようにと、それぞれこの部屋を綺麗にしていたのですが……いつの間にか住むようになった次第でございます。補足しておきますと、ここの維持費についてもお二方にて立て替えてあります」
勝手に暮らしていることに対して文句のひとつも言いたくなるところだったが、周防の言葉でそれを飲み込む。今後ここに住むかはともかく、自分がいない間維持をしていたことには変わりないのだから。
周防は鍵を和麻に手渡すと、携帯を同じく取り出し続けて手渡す。
「連絡につきましては、この携帯にてお願いします。使い方は分かりますか?」
「───ああ。問題ない」
和麻は渡された携帯を少しいじりながら、周防へと返事をすると、携帯をしまいこむ。
「では、これにて失礼いたします」
「色々と助かった」
「これが仕事ですので」
周防は軽く頭を垂れると、すぐに踵を返して出ていく。和麻はそれを見送り、これからどうするべきかと悩んだところで、何者かが近づいてくるのがわかった。
和麻は大人しくその場にて待っていると、勢いよく扉が開き、見知った人物が入ってくる。
「そこの部屋は入っちゃダメーーー!!」
和麻がある部屋の扉の前にいることを見た綾乃は、素早く和麻と扉の間に割って入り両手を広げる。
「ここは俺の家のはずたが?」
「えっと……その……そう! ここは私の家でもあるの!」
綾乃の言葉に、周防が去る前に話していた内容を思い出す。
「そう言えば、立て替えているんだったな」
「うんうん」
「そういうことなら、居ても不思議ではない……か」
綾乃は和麻の言葉に我が意を得たりとばかりに首を縦に激しく振った。
「もうすぐ夕方だ。時間もあることだし、話を聞きたい」
「立ってるのもなんだし、リビングで話すね」
綾乃は和麻の手を引きながら部屋から離すようにリビングへと向かい、ソファーへと腰を下ろす。
「何故わざわざ俺の隣に座る? 向かいのソファーが空いてるだろう?」
「私と和麻は(依頼に行く車の中では)いつもこんな感じだったの! 昔と同じようにしてた方が思い出しやすいと思うし……」
綾乃は和麻の腕に抱きつきつつ、少し目をそらしながら答える。それを見て和麻は真偽のほどを疑ったが、実害はなさそうだと判断し、指を立てひと言呟いてから綾乃へと身体を向けた。
綾乃は、抱きついていたところを剥がされたために、多少の不機嫌さを露に、頬を膨らませる。
「気になっていたことではあるんだが、俺とお前の関係はなんだ?」
「───!? それは……えっと……和麻と私は───」
綾乃がその先を紡ぐ前に、誰かが家の鍵を開ける音が響く。
「誰か来たようだな。ここの立て替えは、二人だったと聞いている。鍵を持っているのはそいつか?」
和麻は立ち上がり、玄関へと向かいながら綾乃へ問いかける。
「───多分」
綾乃はせっかくの機会が流されたことで、先程よりも更に不機嫌そうな顔になっていた。
「────」
玄関を開けたまま、和麻を見て呆然と立ち尽くす人物の資料を頭の中から引き出し、和麻はその名を口に出す。
「柚葉か……」
「か……」
「か?」
「かず───」
「あー!! 和麻あんたどこいってたのよ!! どれだけ心配したと思ってるわけ!?」
柚葉が声に出そうとしたところで、一緒に帰ってきたであろう人物が声高に言い放つ。
「全く、次から次へと……」
資料に載ってなかった人物の登場に、和麻は思ったままを言うが、その内容が癇に触ったのか、一気に和麻へ詰め寄り捲し立ててくる。
「あんたがどれだけ柚葉たちを心配させたと思ってるのよ! いい? 3年よ! さ・ん・ね・ん!! 少しでも悪いと思ってるわけ!? その言い方だと全く思ってもないわよね!? 恋人なら連絡のひとつもやったらどうなの!!」
「ちょっと待て」
「なによ! 言い訳は男らしくないわよ!?」
言い立てる女性───紗希の言葉を遮り、和麻は不思議そうに声を出した。
「結局のところ、お前は誰なんだ?」
「──────はっ?」
和麻の言葉に沙希は一瞬我を忘れて黙ってしまい、聞き返してしまう。
「聞いてなかったのか?」
「和麻待って。和麻が説明するとややこしくなりそうだから私が説明する。
二人ともまずは私の話を聞いて」
綾乃は和麻の前に立ち、柚葉と沙希に諭すように話し掛けた。ふたり───特に沙希は和麻の言葉から立ち直れずに黙したままだった。
「単刀直入に言うと、和麻は記憶喪失なの。」
いきなりの話に柚葉と沙希はついていけず、何も言えないまま綾乃に視線で先を促す。
「行方不明だったのは記憶を失っていたから。今も少しは覚えてるけど、断片的なことばかりみたいなの。
これから、和麻の記憶が戻るよう行動しようとしてるところ。だから、今の和麻へ何を言っても伝わらないということだけ覚えておいて」
綾乃の言葉を受けて、柚葉は心配気に、沙希は不審そうに和麻へと視線を向ける。
綾乃の言葉に和麻はもの申したい気持ちではあったが、状況をこれ以上ややこしくしても仕方がないと、口を閉ざす。
「それで? 具体的にこれからどうするの?」
沙希の言葉に、綾乃は頷く。
「もちろん一緒に生活するのよ。その内思い出すかもしれないし……こればかりは、和麻次第かな?」
綾乃は和麻に振り返ると、確認の意味を込めて和麻に問いかける。
和麻としても、記憶が戻るのであればと、特に迷うことなく答えた。
「それで構わない」
和麻の言葉に綾乃は満足そうに頷くのだった。
柚葉の両親が、男がいる場所へ嫁に行く前の娘を住まわせるはずもなかったが、既に大学生であったことと、同棲相手が男だけではなく、綾乃もいること、更に言えば、身元がはっきりしており、和麻が記憶喪失ということが後押しされて、一緒に住むことが許された。
隠れて付き合われて何かが起きるよりも、自分達の把握できる場所で行動された方がいいというものだ。父親は最後まで反対だったが、柚葉だけではなく、母親まで賛成に回られては打つ手がなかった。反対したことで家出をしてしまえば一緒である。
そうして、3人の共同生活が始まった。
平日は、綾乃と柚葉は学生のため昼間はおらず、和麻ひとりで行動し、土日は二人揃って和麻の道案内を行う。そこへ沙希が加わったり、綾乃の友達が加わったりもしたが、あまり変わることはなかった。
そういった生活が2ヶ月ほど経過したところで、綾乃へと神凪から連絡が入る。
「分かりました」
携帯を切り、溜め息を吐いて綾乃は和麻に向き直ると用件を伝える。
「和麻。神凪家の生業は聞いてる?」
「ああ、一応聞いてる。俺も携わっていたようだしな」
「和麻も一緒に来てほしいの。もしかしたら、そこで何か思い出すかもしれないし……。明日なんだけど……」
綾乃は柚葉に対して、申し訳なさそうにしながら、和麻へと伝える。
「構わない」
「私のことは気にしないで。そういった方面は、私には分からないから」
柚葉は、身振り手振りで慌てたように綾乃へと返事をした。
「ごめんね。明後日は私が大人しくしてるから」
綾乃と柚葉の取引に、和麻は我関せずと、明日の準備をするために部屋へと戻っていった。
翌日。どんよりと曇った空を見上げて、綾乃は眉をしかめながら、和麻と共に車へと乗り込む。
「あんまり、よい天気じゃないわね……」
綾乃の呟きに、和麻は不思議そうに問い返す。
「天候に左右されるのか?」
未だに神凪の力を見たことのない和麻は、その程度の力しかないのかと思ってしまう。
「雨が降りそうだからね……。感知があまり得意じゃないから、精密な力の操作ができなくて……。
───でも、気にしないで! 力の強弱にはほとんど影響ないし、和麻は私が守るから!」
綾乃は、和麻が戦闘に関して不安があると思い、断言するように力強く答える。
和麻はそんな綾乃を少し冷めた目で見るが、当の綾乃は和麻の反応に首を傾げてしまうのだった。
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18話
依頼のあった場所に到着し、いざ除霊となった段階で、綾乃は早々に和麻へと身を寄せ始めた。その表情には特に変化は見られない。
「何故、俺にくっついてくる? 悪霊と戦うんじゃなかったのか?」
「和麻を守らないといけないんだから、近くにいるのは当然よ!」
綾乃は力強く言い切ると、近付くだけではなく、まるで和麻が逃げないように、和麻の腕に自分の腕を絡ませた。
「この程度の敵であれば、そのような心配も無いんだが……」
和麻の呟きを聞き漏らさずに、綾乃は素早く和麻へと顔を向ける。
「もう見つけたの!?」
それなりの広さがある霊園に、いつもの捜索時間が頭を過り、綾乃は驚きながら和麻に問いかけた。
「この程度ならすぐにわかるだろう? ただ空間の歪みを感じればいいだけだからな。
───もしかして、炎術師というのは戦うことだけしかできないのか?」
和麻の何となく……といった質問に、綾乃はばつが悪そうにそっぽを向くと、話題を本筋へと戻し始める。
「そんなことより、今は除霊を優先すべきよ! その歪みの元に案内して!」
「───まあ、いいがな」
和麻はそれ以上、話しを掘り下げることなく綾乃を引き連れて歪みの元へと案内する。
そこは、近付いただけで異様と分かった。もしこの場に、一般人がいたとしても感じることができるほどの雰囲気をその場は醸し出している。
綾乃は和麻から離れて、躊躇いなく近付いていく。和麻はお手並み拝見とばかりに、その場で腕を組んで観察する。
綾乃はまっすぐに近付いていくが、ここは依頼があった場所である。何も起こらないということはなかった。綾乃がある距離まで近付いた瞬間。突如として綾乃の足元周辺の地面から、囲むようにして槍のような物が数本飛び出してくる。
綾乃はそれを避けることなくうっすらと身に纏っていた金の炎を周囲に拡大して顕現させることで、自身の身に届く前に全てを焼き尽くす。
周囲に散らばった炎が晴れると、そこには焼けた後など全く感じさせることのない風景が広がっていた。
油断すること無くその進む先には、これでもかと言うほど怪しい物があった。この場には相応しく話だけ聞けば違和感はない。
黒い墓石。標記はない。他に周囲との違いと言えば、その大きさにあった。軽く他の高さはそれほどでもないが、横幅がとてつもなく広いのだ。
綾乃は少し迷ってから、纏っていた炎をその墓石へと飛ばしていく。その薄い炎は、墓石を通り抜けると、途中で上へと上がっていき、再び綾乃の元に戻ってきた。
それを幾度も繰り返す綾乃を見て和麻がひと言。
「時間がかかりそうだな」
「墓石ごと燃やしていいならすぐ終わるのに……」
悔しそうに呟く綾乃に、和麻は冷たく言い放つ。
「依頼の内容を守るかどうはお前次第だ。おれとしては、見ているだけだからな」
「えーっと……手伝って……て言うのはダメ?」
綾乃は可愛らしく和麻を誘惑するように上目遣いで訊ねる。
綾乃が早々に諦めたのには理由があった。綾乃は昔と違い完璧に炎を制御している。それも、自身の望んだものだけを燃やす炎を、だ。そのため墓石には、その炎が通った跡が残る。しかし、その跡も数秒後には元に戻ってしまうのだ。今の綾乃では、その炎を操る量がその墓石すべてを覆い尽くすことができない。
だからこその協力依頼。和麻の協力があればすぐに終わるという確信の元に放たれた言葉だった。
「なぜそこまで俺に懐いているかが不明だな……」
和麻はそんな綾乃の態度に呟く。ここまで懐かれると言うことは、綾乃とはそれなりの関係だったのだろう。手伝う範囲を考えていると、上空から雨がわずかに降り始める。
和麻は袖の中から盤を取り出すと、周囲を再度確認してから、何も無いところへと歩いて行き、棒を4本立てると同様にして問題となる墓石の周囲にも棒を立てる。
綾乃の目には和麻が何をしているのか分からなかった。準備を終えたのか、和麻は綾乃の隣に移動してくると何食わぬ顔で言う。
「全力を出せれば、あの程度の範囲は問題ないんだな?」
和麻は墓石を見て訊ねると、綾乃はそれに対して頷いた。
「もちろんよ!」
綾乃の返事を確認し、和麻が手を振る。それまで禍々しい気を放っていた墓石は色を失っていった。その代わりと言うべきか───和麻の準備した場所───空間が黒く塗りつぶされていく。
綾乃は目を見開いてそれを見ていた。
空間が黒く塗りつぶされたにも関わらず、そこからは禍々しい気は感じない。
「ここまでお膳立てしたんだ。できないとは言わないだろうな」
和麻の言葉にハッと意識を戻し、改めてその場所を燃やすべく集中する。
炎は綾乃の意思に従い顕現すると、真っ黒な空間を焼き尽くすべく覆いつくした。
それを見て、綾乃は和麻を振り返り満足気に話す。
「ありがとう! さすが和麻ね!」
綾乃の言葉に見向きもせずに、和麻はその場所───綾乃の炎が覆い尽くした場所を見たままだった。
何か手違いでもあったのかと、綾乃は和麻の視線の先を見ると、そこには未だに健在な黒い空間が存在していた。
「なっ!」
綾乃はその事に驚愕し、信じられずに見つめてしまう。いつまで経っても分かりそうにないと、そんな綾乃に和麻は声をかけた。
「あれはあそこに見えるだけでその場からは隔離してある。燃やすならその存在───力へ炎を集約させるべきだな。その場を焼くだけなら誰でもできる」
和麻に言われたことの内容に唖然とするが、失敗してしまった事実から顔を背けること無く、今一度綾乃は対象を見据えた。
先程の炎はただ焼き尽くすだけの炎。しかし今度の炎は空間を越えた先に届かせなければならない。
難易度的には、任意の対象のみを燃やすのと変わりはないが、それでは範囲が足りなかった。
これ以上の手助けはあまりよくないと感じ取った綾乃は、日頃使うことのない物を取り出す。
「炎雷覇を使う機会ないと思ったんだけどなあ……。油断大敵ってことね」
腰から抜き放つように取り出し、目標へ向けて構える。
「言ってても仕方ないか……。ある物は何でも利用しないとね───はぁぁあああああ」
綾乃の集中力が増しているのが分かる。炎雷覇は更なる炎を纏い始めるとその輝きも一緒に増し始めた。
「これなら問題ないでしょう!」
黄金色をしたそれは輝きを増すごとに色が変わっていき、紅色へと変わっていく。その炎は今までの炎とは存在そのものの格が違った。それは見たものを魅了する力がある。それほどの力と美しさを兼ね備えていた。
「いけ! 神炎、紅!」
神炎の通った後。目標は完全に消え失せていた。それはいっそ清々しいほどに何も残ってはいなかった。空間ごと燃やし尽くされたのは明らかなほどに……。
今度こそ完全な消滅を確認した綾乃は、褒めてもらおうと和麻へと振り返る。しかし、そこには苦悩する和麻の姿があった。
(神炎……炎雷覇……四隅の陣?)
和麻の中でいくつもの光景がよぎっていく。そして振り向いた綾乃と視線が交わった時にそれは爆発した。
「─────────継承の儀」
和麻はその場で膝を付き顔を抑えたまま蹲った。綾乃は和麻へと心配そうに近付いていく。
「和麻……大丈夫?」
綾乃が和麻へと手を近付けようとしたところで、膨大───では生ぬるいほどの精霊が集い始めた。
その精霊の量に綾乃は絶句する。
先ほどまでの自分の神炎が弱弱しく感じるほどの力だった。しかも殺意を含んだ……。
その殺意が自分に向いていないと分かるだけの認識は持ち合わせていたが、それでも、その余波だけで並みの者であれば、気絶していてもおかしくは無い。術者であれば、その精霊の量を感じただけで身動き取れなくなるほどだった。
「──────あいつか。そうだ。俺はこうならないために力を磨いてきた。それにも関わらず……。しかし、強くなったことには感謝しよう。礼をしなければな……」
和麻の呟きが所々聞こえたため、自意識があることを確認した綾乃は再度問い質す。
「えっと……。和麻よね? 大丈夫?」
そこで初めて綾乃の存在に気付いた和麻は立ち上がり綾乃を見る。
「大丈夫だ。感謝している」
想ったことを口に出しながら、集った精霊たちにも礼を述べる。精霊たち───風の精霊は、和麻が記憶を取り戻したことに喜びを露わにして、和麻と綾乃を包むように吹き荒れた。
和麻の呼びかけで集っていた莫大な力は消え去った。あれだけの力を意志の力で従えたことに、綾乃は驚きを隠せなかったが、それよりも和麻の態度に違和感を感じる。
「本当に和麻?」
「ああ。本当だ。それよりも───」
和麻は言葉の途中に、頭を左右へ振って余計な思考を振り払うと改めて言い直す。
「強くなったな」
和麻のその言葉は綾乃の待ち望んだ言葉だった。
和麻が記憶を取り戻した。
この事は、すぐに神凪家の者たちに知れ渡った。
思い出したことに対して一番不安だったのは、一番心配していた綾乃だった。
昔の記憶を取り戻したことで、周囲の者を寄せ付けない考えに戻ったのでは……と考えたのだ。
和麻の過去を知れば、そうなっても仕方がない。しかし、そうならないで欲しいという望み。
その後どうなったかというと……
「…………」
除霊の仕事から戻ると、綾乃の部屋へ一直線に入っていき、机に向けてカチカチとマウスを操作してパソコンを睨み付けていた。
しかし、それもすぐに終わると部屋の主───綾乃へと向き直る。そこには、心配して様子を見ている柚葉の姿もあった。
「俺はやることがあるから中国に戻るが───どうする?」
抽象的な言い方ではあったが、柚葉と綾乃の2人は和麻の言葉に反応する。
そして、すぐに返事をしたのは綾乃だった。
「私はついていくから! 今度はお父様も関係ない。私の意思でついていく!」
綾乃は今度は離さないようにと、和麻の腕に抱きついて離れようとしない。そんな綾乃を見て溜め息を吐くと、続けて柚葉を見る。
柚葉は迷った末に、和麻に確認を取った。
「───和麻は日本に戻ってくるの?」
柚葉にとって、綾乃のように簡単に日本を離れる決断などできるものではない。ただでさえ両親を心配させた上に、無理をして住まわせてもらっているのだ。ここで和麻が日本に戻る気がないのであれば、恐らくはこの場所を引き払うことになる。そうなれば、折半している家賃が全額かかることになり、今の生活形態では払っていくことは厳しいだろう。その他にも問題は多々出てくる。そのための確認だった。
「戻ってくるかもしれないし、戻らないかもしれない。それははっきりいって分からない」
それを聞いて柚葉は下を向いて落ち込む。それは聞きたい言葉ではなかった。寧ろ曖昧で、待たせる者に少しの期待を持たせる悪魔的な言葉だ。
それを感じ取ったのか、和麻は慰めるようにして柚葉に言い含める。
「何らかの形で礼はする」
柚葉はどこか諦めたように苦笑いを返す。
和麻の勘違いがここまで来るといっそ清々しい。和麻は柚葉の事を考えてはいても、想ってくれていないのがよくわかる言葉だった。
「私のことは気にしないで、やりたいことをやって来て。───なんたって和麻の人生だしね」
「───分かった」
和麻は未だに抱きついたままの綾乃へと視線を改めて向ける。
「で? お前はいつまで引っ付いているつもりだ?」
「これで晴れて私が和麻の彼女になったんだから、堪能しとかないと」
「誰が誰の彼女だ」
既成事実のように語る綾乃を、和麻は引き剥がしにかかる。記憶を取り戻してからも、何故綾乃がここまでなつくのかがよく分からなかった。
離れながら不満そうにするが、和麻はそれに取り合わず、幾つかの物を持つと玄関に向けて歩き出した。
「まさか、もう行くの!?」
綾乃は和麻の行動に慌て始める。なんの準備も終えていないのだから当然だろう。
その言葉に、柚葉も同様に慌て始める。
「少し買い物に行ってくるだけだ。今日中には戻る」
「絶対だからね! 嘘ついたら世界の果てまで追いかけてやるんだから!」
そのあまりの内容に、このまま行ってしまおうかと本気で悩みながら、和麻は家を出た。
和麻が家を出てすぐに、綾乃は部屋へと戻り旅支度を始める。その様子を羨ましそうに見ながら、柚葉も準備を始めた。
準備の途中、綾乃は柚葉へと声を掛ける。
「柚葉はなんでついていかないの? あんなに心配していた人と会えたのに」
「───そんなに簡単に決められる事じゃないし、これ以上親に迷惑かけられないの。
寧ろ、綾乃ちゃんが簡単に決めたことに驚いたよ。親とかに相談しなくてもいいの?」
あの場では言えなかったことを柚葉は改めて聞いた。
「もう後悔するのはイヤ。特に私が知らない間に起こったことが原因なら尚更かな」
「将来のことは考えないの?」
「なんとかなるわ!!」
綾乃の考えに唖然として、柚葉は開いた口が閉じれずにしばらく固まってしまう。そんな柚葉へ綾乃は更に続けた。
「ちゃんと考えてるわよ! 和麻の奥さんになるんだから!」
「それは考えてるって言わないよ!」
あまりの内容に、声を大にして反論してしまう。具体性もあったものではない。将来の事を全く考えてないことが分かった柚葉は、綾乃の説得を始めた。
「今からでも遅くないから考え直した方がいいよ。まだ高等部に上がったばかりだよね? 将来の事を考えるには少し早いと思う」
柚葉の説得も虚しく、綾乃は首を左右に振る。
「先の事より今が大事だから」
綾乃の決心が固いことを知った柚葉は、肩を落としてそれ以上説得することを諦めた。
その柚葉の仕草の意味が分からず、何故そんなに柚葉が落ち込んでいるのかと、綾乃は悩むのだった。
ほんの数時間ほど経ってから、和麻が買い物袋を幾つかぶら下げて戻ってきた。その袋の中には、日常生活に必要そうな物を含め様々な物が入っている。
購入した理由が分からないからか、綾乃と柚葉は向かい合い、目で訊ねあう。しかし、両方とも分からないため、首を横に振るだけだった。
「そんなものどうするの?」
分からなければ訊ねる。といった考えに至った綾乃は、早速とばかりに、荷物を置いてテレビを見ながら寛いでいる和麻に聞いた。
「和麻。この荷物は何?」
「それは、向こうで使う物だ」
「?」
和麻はテレビに向けていた顔を綾乃に向ける。
「知ってるか? ここが如何に恵まれてるかを……もしついてくるなら、相応の覚悟はしておけ」
感慨深く語りだす和麻に、想像しかできない柚葉は息を飲み込む。
もうひとりはそのような言い方に屈することなく、逆に何でもないことのように言い返した。
「悪ければ良くしたらいいじゃない」
ポジティブな考えから離れようとしない綾乃に、それ以上言うことはないと和麻は話を切る。それを見て納得したのだと考えた綾乃は、和麻の隣に座ると一緒にテレビを見始めた。
柚葉はそんな2人を見て複雑そうな表情をすると、台所へと移動していく。豪華な夕食を作るために。
「綾乃様はもうここには居られないそうだ」
「それはどこからの情報だ?」
「飛行機に乗り込むところまで確認したそうだから間違いないだろう」
和麻が記憶を取り戻して数日後。和麻は綾乃を連れて海外へと旅立ってしまっていた。
綾乃がついていくと言うことが知らされていなかったために、当日───飛行機に乗り込む時に揉め事が色々と発生した。しかし、結局は綾乃の強引な行動、厳馬の不在、連絡の遅れ等から間に合いはしなかったのだが……
「対象が1人になってしまったからには、あの計画を早めるべきだろう。しかし、残ったのがあちらで助かったと言ったところか」
「そうだな。気を付けるべきはあの男だけだろうからな……。計画を実行するには、時間稼ぎできるものを用意しなければならんだろう」
そこに集まっていた十数名の者たちの話し合いは進んでいく。関係のない発言を誰もしようとはせず、それを認めるような空気でもなかった。
皆がどうすればいいのかを考え始めたことで、その場に静寂が訪れる。
しかし、すぐにその静寂を破った者が居た。
「それならば儂に考えがある」
そのひと言にその場にいたものは発言者に顔を向ける。どのような案なのか聞き漏らすまいとその表情は真剣そのものだった。
「して、どのようなものなのだ?」
「それは、召喚術よ。生贄を用意することで、強力なものを呼び出し使役する。
このような日が訪れることを考えて今まで調べておった」
召喚術───と聞いて周囲の者たちは首を傾げた。そんなもので、時間稼ぎができるのかと不安になったのだ。今から行うことは復讐と言うよりも反逆に近い。その反逆する相手の事は、今まで色々なことに耐えてきた者たちであるからこそ知っていた。生半可なものでは太刀打ちできないことを。
「そんなものが役に立つのか? むしろ我々で工作した方がよほど足止めにはなると思うが……」
みんなの不安を代弁して訊ねる男に、その者は言い返す。
「何も問題は無い。次の機会にどれほどのものか見せてやろうではないか」
その者は口の端を釣り上げて暗い笑みを顔に張り付けていた。
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19話
綾乃の出奔に慌てたのは、肉親である重悟だけではない。
宗家、分家と双方から苦情が相次いだ。
それもそうだろう。綾乃は、炎雷覇を継いでいるのだから、これは神凪全体の話しと言っても過言ではない。
今も会議の場では、その事に言及するものが後を絶たない。
「やはり、綾乃さまに着いていくのは、一人だけでは不安だ。あと数人はつけるべきだろう」
「それ以前の問題だ。さっさと神凪へ連れ戻さねば、最悪失ってしまうかも知れぬのだぞ」
「しかし、今いる場所が分からぬとはどういうことだ? 定期的に連絡があるようだが……」
「宗主はどう責任を取られるつもりか、お聞かせ願いたい」
その場に集った者たちは、抑えられていた不満をこれでもか、と爆発させる。
重悟はその事に対して何か言うわけでもなく、ただ静かに聞いていたが、同じ話が何度も蒸し返され始めた頃に口を開いた。
「では聞くが、誰を向かわせるのだ?」
重悟の言葉に、それまで自分たちの言いたいことを言っていた分家の者たちは黙ってしまう。
これまで何度も話し合ってきた。
綾乃の同行に誰が出せるかと聞いたところ、分家の者たちは誰も進みでなかったのである。唯一雅人だけが名乗り出たことで、すぐに和麻たちの後を追ってもらった。その後に、依頼を終えて戻ってきた厳馬も自ら名乗り出たが、神凪の最高戦力を簡単に送り込むことは出来なかったのである。息子である煉のこともあるが、炎雷覇を奪われたなら未だしも、置手紙に、『和麻と共に修行に出る』と書かれていたのだ。綾乃のあまりの考え無しの行動に頭痛を堪えるしかなかった。
会議の場では、風牙衆の名前も出てきた。しかし、それを良しとはしなかったのは、他でもない分家の者たちだ。
和麻と共に、中国で依頼を行ったときのことを持ち出してくるのである。
「やつらは、中国でやつを追って失敗しているではないか。そのようなやつらに任せたとて、再び失敗するのは目に見えておる」
「捜索などならさておき、護衛ということであれば全くの徒労に終わろう。大神がついているのだからな。連れ戻すにしても、それなりの者を連れて行かねば」
話し合いは一向に進展せず、何度もループを繰り返す。違う話題になろうとも、結局は戻ってくる有様だった。それでも、問題を解決しなければ先に進むことは出来ない。
この日も分家代表や長老たちをみやりながら、重悟は幾度目になるかわからない溜め息をつくのだった。
早朝から携帯の音が鳴り響く。
部屋の中には男が一人。男はその音に目を覚まし、眠そうにしながらもすぐさま携帯を手に取る。そして、画面に載った名前を見ると慌てて通話ボタンを押した。
「どうかされましたか?」
その名前は、男にとって絶対的なもの。ここにいる理由でもある。
会話相手の必死な問いかけに、「残念ながら……」と言いにくそうに答えた。
「こちらは、あれから特に───ええ、流石に命懸けな事は少なくなっています」
和麻たちが日本を出て、約一年が経とうとしていた。
当初着いていくことに拒否感を全面に出していた綾乃も、最初ほどはいやがってはいない。諦めたというのが正しいかもしれないが……。肝心の和麻はと言うと、どちらでもいいといった感じだった。それ故に、男───雅人が随行できたと言える。
中国に渡ってからは、人のいない山中に入り込み、和麻の知り合いらしい人に会ってから、何やら怪しげな物を貰い、今度はヨーロッパへと移動。その後は、色々な組織などとやりあいつつ移動しながら過ごす日々で、満足に休む暇もなかった。
むしろ和麻に隠れる気が無いため、余計に群がってきたのだ。あれだけの敵を雅人だけで相手をしろと言われたら、1日も耐えることができないのは間違いない。
嬉々として戦闘に参加する綾乃を何度止めようとしたことか……。
今までのことが頭によぎったことで、口を閉ざした雅人の苦労を感じ取ったのだろう。電話の相手は労りの言葉を掛けてから、藁でもすがるかのように本題を願い出る。
「分かりました。聞いてみましょう。実の弟の事ですから、手助けくらいはしてくれるでしょう」
少しの希望を抱かせる内容を告げると、相手も満足したのか、それで通話は終わった。
しかし、男のやることはこれからが始まり。
「急がねばな……」
男は呟くと、忙しい日になりそうだと考え、朝日を浴びながら身支度をするのだった。
空港にその飛行機が着陸したときに出迎えはなかった。一応の連絡はされてはいたが、そこに人を回せるほどの余裕がなかったのである。
「やはり、大事になっているようだ」
その事から、男───大神雅人は推測した。連絡した相手は神凪宗主である。通常であれば、一族の者を誰か寄越してもおかしくはない。
「ここに戻ってくるのも久し振りだな」
緊張感の無い声で話す和麻に、雅人は何か言いそうになるが、それを堪えて先を急がせる。
「すまないが、事態がどこまで進んでいるのか確認するためにも、一度神凪に行ってもらいたい」
「分かっている」
無愛想に答えるが、それに慣れているのか大神は特に何も言うことはなく、続いてあるいてくる綾乃へと目を向ける。
綾乃は久し振りの日本の光景に、顔を至るところに向けていた。
「お嬢。はしたないですよ」
「はしたなくて結構」
雅人の言葉など取り合わずに、綾乃は素っ気なく答える。その様子に、雅人は溜め息を漏らした。これまで何度注意してきたことか。
一向に直る兆しのない態度に、雅人は頭痛を堪えていた。
神凪家は所々に戦闘を行った跡があった。門の左右には門番が神経を張り巡らせて見張っている。
そこへ、雅人率いる和麻たちが来たことで、さらに緊張感は高まり警戒されたが、雅人の取り成しにより敷地内へと入ることができた。もしこれが和麻だけであれば、神凪の者たちから問答無用で攻撃を受けただろう。
門を潜り屋敷を見れば、外ほどではないにしろ、所々が焼け焦げたりしている。そのような中を珍しそうに進んでいった。
屋敷に入る前に和麻を待っていたのは、歓迎の言葉───などではなく罵声だった。
「お前があの子を隠したんでしょう!? 言え!! 煉を何処に隠した!!」
それは、いきなり和麻へと走り寄ってきたところを、雅人により止められた深雪が、開口一番に話した言葉だった。
その様子は見るからに錯乱しており、着の身着のままとはまさにこの事だろう。寝間着に裸足と、どれだけ必死なのかが十分に伝わるものだった。
「こんなものが血縁者と言うのは恥以外の何者でもないな……まあ、今の俺にはどうでもいいことだが」
「貴様!!」
和麻が出来損ないというイメージが抜けてないのだろう。その認識が取れない深雪は、和麻の言葉に更に逆上し、掴みかかろうとするが、それすらも雅人に阻まれる。
近くにいる他の者──分家の者は、その光景を見て見ぬふりをしているが、雅人はそれどころではなかった。
和麻の考え方は、この旅で嫌というほど理解させられたのである。自身に牙を剥くものには、誰であろうとも容赦はしない。それが恐らくは実の母親だろうともだ。
良くて半殺し。最悪は───
「深雪殿すまない」
余計な思考を振り切って現実へと戻った雅人は、深雪を気絶させると、抱き直して和麻に顔を向ける。
「すまないが、ふたりで宗主の元に行ってもらえるか?」
「別にあんたがいてもいなくても気にしない。このままここに永住してくれ」
「それがいいよ叔父さま! 煉を見つけたら炎雷覇は渡すつもりだし、ついてくる必要性は無くなるわ!」
そう簡単に放っておくことのできない事を簡単に言ってしまうふたりに、今は何も言うまいと溜め息を漏らしつつ、深雪を安静にできる部屋へと歩き出した。
第一印象は苦労人。そう言えるほどの人相へと重悟は変わっていた。目の下には隈ができ、食事を満足に摂っていないのか、頬が痩せこけている。
そのような状態であっても、目だけは生気をみなぎらせて机の上の書類と格闘していた。
和麻たちが入ってきたことに気づいたのか、顔を上げると何かを思い出したかのように、歓迎の言葉と謝罪の言葉を言い出した。
「遠いところを良く戻ってきてくれた、礼を言う。
それとすまなかった。戻ってくるのは今日だったのだな」
「別に気にしている訳じゃない。寧ろ余計な者を連れてこられるよりも遥かにマシだ」
和麻の気軽な返事にホッとしながらも、重悟の視線はその横に並び立つ娘へと注がれていた。
久しぶりに会った娘の姿は、更に美しく成長しているように重悟の目には見えている。それは、親だからという贔屓目ではない。実際に見た目だけではなく動きにも表れていたのだから。
綾乃の方はと言うと、重悟を見て思ったことは───
(老けたな~)
と、そのひと言に尽きる。久しぶりに会った親だというのにも関わらず、声を掛けるわけでもなく、和麻とのやり取りを眺めているだけだった。
「話を聞いているとは思うが、煉が行方不明になった」
その言葉を聞いても、和麻はなんでもないことのように続きを促す。重悟はそんな和麻を見てから続きを話しだす。
「しかし、先ほど入った情報によって、大よそのあたりはついた。場所は京都だ」
「京都?」
そこで初めて綾乃が口を出す。
現在地から京都までは、新幹線を使えば数時間で行ける距離である。しかし、あの煉が行くには疑問の残る場所だった。
煉の知り合いがいる訳でもなく、行ったことのある場所とは思えない。もしかしたら、修学旅行などで京都に行ったのかもしれないが、その思いだけでもう一度行こうと思うか───それもひとりで……
そこまでの単純な考えをしているとは、考えにくかったための言葉だったのである
「京都には何があるんだ?」
「京都には我らのご先祖様たちが総がかりで神を封じた地だと伝えられている」
「神だと?」
いきなり出てきた神という大物に、和麻は重悟の最初の発言には突っ込まずに思わず聞き返してしまっていた。綾乃は話の内容が突飛もないため、口を開けてポカンとしている。
神と言ってもピンからキリまで多種多様。しかし、昔の神凪に神炎使いは少なかったが、その前段階。黄金の───浄化の炎を顕現している者が多かったはずである。それを総がかりで封じたとなれば、その神の力も知れるというものだった。
「以前、風牙衆との争いについては話したな?」
「まさか、その時のか……。と言うことは、今風牙衆はどうしてるんだ?」
「各地へ散ってしまって全てを見つけることは難しいだろうな。かなり前から計画していたようだ」
内容をある程度把握した和麻は、不機嫌そうに眉根を寄せると考え込む。逆に内容についていまひとつ理解できなかった綾乃は、改めて重悟に訊ねた。
「なんとなく今回の事は風牙衆が計画したってのは分かるんだけど、煉をどうやって連れて行ったの? はっきり言ってあの人たち煉よりも遥かに弱いと思うんだけど」
「方法については分からん。しかし、連れて行ったのは間違いなかろう。煉の捜索をするために、風牙衆全員で行うことを提案してきた時に気付くべきだったがな……。少々遅かった」
「遅かった? まだその神は復活してないんでしょ? だったらまだ間に合うじゃない」
綾乃は弱気な発言をして沈んだ表情を浮かべる重吾を見ながら問い返した。
「風牙衆の者が、神凪の者を襲っているのだ。既に被害が出ておる」
「風牙衆に偉そうに言ってた割りには、神凪の実力ってなかったんだね」
綾乃の辛辣な言葉に一瞬口を閉ざすが、流石にその言葉を容認するわけにはいかず、反論する。
「そうではない。一般的な力であれば、神凪の術者が遅れをとることはない。ただ、風牙衆の者たちは妖気を纏っているのだ。風牙衆の実力にその力を加えて、初めて越えることになる。
救いは、その絶対数が少ないところだな」
ひと息に言い終えると、重悟は乗り出していた身を戻し、温くなったお茶で口を潤した。
「神凪の力は破邪の力ってよく言ってたけど、妖気を払うことも出来ないんだ……」
重悟の説明は綾乃を失望させるだけであり、綾乃の声のトーンも次第に落ちていく。
それを察した重悟は、これ以上言っても更に評価が下がるだけだとして、言及はしなかった。
「大体の事情は分かった。一応乞われて来たわけだが、特にすることはないと思っていいんだな?」
「すまぬが、先程も言った通り風牙衆を追ってもらいたい。恐らくあちらの主戦力も京都に向かっておるはずだ」
重悟の言葉に和麻は暫し考えて返答する。
「───そうだな。綾乃はここにいろ。俺が京都に向かう」
「ええ~~~!! 私も行きたい!!」
駄々をこねる綾乃に向き直ると、どうでもいいことのように言い返す。
「ついて来たければ勝手にすればいい。ただし、俺の移動速度についてこれれば……の話だが」
和麻の言いように、綾乃は頬を膨らませて抗議するが、それが実ることはない。
「これが、その場所になる」
重悟から渡された紙を見て和麻は握り潰すと、その紙は散り塵になり畳へと落ちていく。
「この件で依頼に対する貸し借りなしだ」
和麻の呟きを重悟は取り合わずに、本題のみを進めた。
「頼んだぞ」
「依頼は遂行するさ───どんな形であれな」
その言葉を発すると、次の瞬間。始めからそこにはいなかったかの如く、和麻は消え去る。
後に残ったふたりは、その場を見て溜め息を吐くのだった。
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20話
そこは、周囲一帯が焼け野原と化していた。
生えていたであろう、草木は塵となり風に巻き上げられて、上空へと及んでいる。
これだけの惨状だ、遠くからも分かったのだろう。報道用のヘリがこちらに向かって飛んできていた。
「ものの見事に地形が変わってるな」
和麻は呟き、懐から羅盤を取り出す。目的の場所について、大まかには聞いてきたが、詳細な場所については地図すらなく、口伝でしか伝えられていない。知っているのは、当主である重悟と厳馬のみ。そのため、和麻は先に出発した厳馬を探すことにしたのである。
羅盤にて準備をしている最中に爆音が響いてくる。
そちらへ和麻が顔向けると、煙が盛大に上空へと向かって舞い上がっていた。
「あれだけ分かりやすければこれも必要ないか……」
羅盤を再び懐に仕舞い込む。
和麻は煙の吹き上がる場所を視認すると、次の瞬間にはその場に和麻の姿はなかった。
その場の戦闘は、拮抗していた。
風と炎。純粋に同質量の威力だけであれば、炎の方が強い。
しかし、決着が着く気配はなかった。
衰え知らずとはよく言ったもので、厳馬に疲れは見受けられない。そして、それは相対する敵に関しても同様だった。寧ろ、人という枠組みからはみ出し、人外となった敵にしてみれば、この展開は有利と言えるだろう。今のところ厳馬に疲労の色は見えないが、神炎を使える術者と言えど、あくまでも人なのだから。
その存在に、最初に気付いたのは人外の方だ。
妖気にまみれた風を集めると、その存在がいる方向へ攻撃を行う。
その攻撃が自身に向けて放ったものではないことに気付いた厳馬は眉をひそめ、その先を見て顔をしかめた。
攻撃先にいたのは厳馬のよく知る人物である和麻だった。先程まで離れていた位置にいた和麻は、数瞬後には厳馬たちの元へ辿り着いていたのである。
人外の者が放つ妖気を纏った薄黒い風は、幾つにも分かれると、それぞれが周囲の風を取り込み更に大きくなっていく。
和麻はそれを見ても何食わぬ顔で、ふたりのいる方に向けて歩を進める。
集って大きさを増した風が、和麻へと全方位から襲いかかった。
それでも和麻の歩みは止まらない。風は歩みを止めなかった和麻へ、襲いかかると共に逃げ場のない球形の牢獄へと閉じ込める。
妖気の乗った風は、中にいる者を喰い尽くす勢いで荒れ狂うと、役目を終えたとばかりに消え去った。その後には、人が存在した痕跡など塵も残っていない。
和麻の存在が消えたからといって、厳馬に動揺はない。寧ろ、その時間を自らの集中力を上げるための時間に当てていた。精霊は有限であり、すぐに行使出来るものではない。しかし、時間を掛ければそれも可能となる。
和麻の存在が消えたことで、人外の者と厳馬との睨み合いが再び始まったが、和麻が消えて数秒後に変化が訪れる。
まさに爆音と言っても差し支えない轟音と共に、土埃が厳馬の前に突如として舞ったのである。
厳馬は周囲への警戒を解かずに、身構えたまま視界が確保されるのを待つ。
土埃は強風により一気に晴れ、視界が開けたところにいるのは、人外の者を踏み潰し、その身体を地面へと足で縫い止め、不機嫌そうに見下ろしている和麻だった。
「こんなやつに時間を掛けるとは、腕が鈍ってるんじゃないか?」
「貴様に言われる筋合いはない」
和麻の言葉に気を悪くしたのか、厳馬はそれまでの集中により溜めた力を解放し、和麻を囲むようにして炎を出すと、逃げ出す隙間を埋めるように包み込む。
包み込んだ先は、先ほどまで戦っていた相手も含めて燃え上がると消滅し、その場に何も残さない。
厳馬がひと息ついたところで、その顔が引き締まる。
肝心の和麻が、悠々と何食わぬ顔で厳馬の隣に現れ、何事もなかったかのように言い放ったからだ。
「さっさと元凶を絶ちに行くぞ」
「貴様の指図は受けん……それよりも、なぜここにいる?」
その言葉はどのようにも捉えることができた。
国外に居たことを言っているのか───神凪ではない無関係な者として言っているのか───それとも、一緒に燃え尽きていないことを言っているのか……
「そんなことより早く封印している場所とやらへ行かないと面倒なことになると思うが?」
「貴様の目的が知れん以上連れていくわけにはいかん」
厳馬は油断無く、厳しい表情のまま和麻を睨み付ける。
厳馬は和麻に対して警戒心を露にしていた。先程の攻撃は、確実に葬ったと思ったにも関わらず何事も無かったかのように、話し掛けてきたからだけではない。警戒心を解かない理由は、和麻の力の底が全くといってよいほど見えないからだった。
敵味方が不確かな状況。封印解除の阻止。先程まで足留めされ切迫した状況下で、人外の者と共に葬り去るという判断を下さざるを得なかった。そして、実行に移した。
しかし、その攻撃で死ぬどころか無傷。そのような相手をどうするべきか……厳馬は目の前の男の扱いに迷っていた。
和麻が出発したあとに、神凪本邸では予想通りというべきか、風牙衆による襲撃があった。
襲撃事態は簡単に退けることが出来ているが、風牙衆は妖魔を使役し、物量による波状攻撃を仕掛けてきている。そのため、防衛を務めるものたちに休む暇はない。
そんな中にあって綾乃はストレス発散とばかりに、襲いかかってくる妖魔を消滅させ、風牙衆は全身を火だるまにすることで戦闘力を奪っていった。
「こんなに弱いのに、何故向かってくるのか不思議ね。
あなたたちもそう思わない?」
綾乃は、近くにいた神凪の術者に問い掛けるが返事はない。むしろ返事が出来る状態ではなかった。
術者たちの表情は青ざめており、口を半開きにして尻餅を付き綾乃のことを畏怖を込めて見つめている。
綾乃の周囲には、朱金の炎が自己主張するように輝き満ちていた。それは神炎と呼ばれ、神凪ではそれを持つ者は力あるものとして尊ばれ、それなりの立場を得ることが出来る。
それだけならば、新たな神炎使いが現れたとして、歓迎されこそすれ、術者たちに畏怖の眼差しを向けられることはなかっただろう。
綾乃が畏怖される理由。それはその戦い方にあった。
綾乃は周囲の炎の精霊を根こそぎ制御下に置き、自らの力を更に高めていたのである。
そのような中で他の炎術師が炎の精霊を扱うには、綾乃と同程度の技量───意思力が必要になる。
そのような者が神凪に何人いるか……。
綾乃の近くにいた術者たちは、綾乃の近くにいるが故に安全ではあるが、それ故に、普段共にいる炎の精霊が全く命令を聞かない状態───早い話が無防備に近い状態になってしまっているのである。
今まで自分の力を誇示してきた者が、その力を使えなくなったとき、その原因である相手をどうみるか───
それが今の現状だった。
綾乃としては、何故他の術者が座り込んでいるのか分かっていなかったが……
戦闘とも言えない一方的な殲滅がひと区切りついたところに雅人がやってきた。
雅人は周囲の状況を見て事情を察したのか、綾乃へと声をかける。
「お嬢。そろそろ手加減というものを覚えてください」
「何を言ってるのよ。そういうことは周りを見てから言ってよね。ちゃんと手加減してるわ。家屋にはひと欠片たりとも傷付けてないし」
そう言って綾乃は自信満々に胸を張り家屋へと目を向ける。そこに術者たちへの配慮などない。
迎撃に参加したからには、戦うものとしての覚悟を持つのが普通であると考えていたし、神凪の術者は一般人ではないのだ。それこそ余計なお世話だろうと綾乃は思っていた。
「そう言うことではなく……。いえ、やめておきましょう」
「言いたいことははっきり言ったらどうなの」
綾乃は両手を腰に当てて雅人を睨み付ける。
雅人には、他の術者たちの気持ちがよくわかった。綾乃が神炎の扱いに目覚めてから数ヶ月は、自分も炎術が使えない状態に陥ったのだ。原因はすぐに分かったため、更なる修行に明け暮れ、やっとの思いで制御できるようになったのは良い思い出になっている。
しかし、雅人のように、欠点───とはいかないまでも弱点となるものを克服しようという者は神凪には少ない。どちらかというと、神凪は短所を無視して長所を伸ばす。力こそ全てだった。
今の状況は、その思想が招いた結果でもある。
「それよりも、当主がお呼びです」
「こんな時に何の用事かしら?」
「それはご自分でご確認ください」
最初に決めた配置をずらしてまで必要なことかと疑問に思い訊ねるが、明確な答えは返ってこない。
「分かったわ。ありがとう。ここは任せるわね」
綾乃は礼を述べると、重悟のいる場所へ去っていく。
残されたのは、精神的にボロボロになった神凪の術者たちと、肉体的にボロボロな風牙衆。それを見て雅人は思案に暮れるのだった。
綾乃が重悟の元に辿り着くと、そこには地面へ倒れ伏す風牙衆がいた。見た目に傷はなく、胸が上下に動いていることから生きているのはわかる。
そしてその重悟の近くには、若い女が二人。
一人は重悟と話をしているため背中を向けており顔は見えない。もう一人は僅かに苦しそうに胸を押さえながらも、話している女の隣に立ち話に耳を傾けていた。
胸を押さえている女を見て綾乃は顔を綻ばせる。
「あっ! お久し振りー。元気……じゃなさそうね」
「問題ないわよ。これくらい」
強気に返しているが、その体は妖気に包まれており、少しずつ身体を蝕んでいた。しかし、よく見ればその蝕むほどの妖気を押さえ込んでおり、蝕む進行速度も緩慢なものへと向かっているのがわかる。
綾乃は重悟がいながら放置している事を考慮して、遠慮気味に柚葉へと声を掛けた。
「柚葉は何しに来たの? 結構危ないと思うんだけど……祓おうか?」
「要らないわ。……もう少しだから」
柚葉の言葉通り、数分もせずに柚葉は妖気を制御下に置くと、息を整えて綾乃を見た。
「久し振りね、綾乃ちゃん。いろんな場所で貴女たちの噂を聞くけど、そちらこそ大丈夫なの?」
「私たちは大丈夫! 自分の身くらいは自分で守れるから!」
柚葉は元気に答える綾乃に、苦笑いしながら周囲へと目をやる。
「ところで……和麻は居ないの? 一緒に帰ってきてるって聞いたんだけど……」
「それよ! 全く和麻ったら私が遅いからって理由で置いていったのよ!」
「それはどういう───」
「そこまでにしてもらおうか」
綾乃たちの会話を遮ったのは重悟だ。
風牙衆の反乱については、他所に漏れても今更だが、神凪の先祖が封印した神についての情報を渡すわけにはいかない。
重悟は綾乃の傍に行くと、柚葉を含めて聞かせるように話を始める。
「お互い知り合いのようだが、まずは自己紹介といこう。こちらは警視庁特殊資料整理室の───」
「特殊資料整理室にて室長をさせていただいています。橘霧香と言います。よろしくお願いしますね」
霧香は片手を出し、綾乃に握手を求める。
「ええ……」
綾乃はその手を握ること無く、その視線は霧香の胸へと突き刺さっていた。
自然と自分の胸と比較する。
相手との戦力差は現時点では歴然。それだけで致命的とは言えないが、どちらを選ぶかと問われた時の、世の男の反応は……
「えーっと……」
綾乃が凝視して反応しないことに、霧香は差し出した手をどうしたものかと、困ったような表情で重悟へと視線を向ける。
重悟は溜め息を漏らし、次いで息を吸い込む。
「綾乃!」
重悟の一括により、綾乃はハッとなり霧香へと挨拶を返した。
「胸だけが全てじゃないから」
(神凪綾乃です。よろしく)
咄嗟のためか、実際にしようとした挨拶と内心とがひっくり返る。
「───個性的なお嬢さんですね」
「綾乃ちゃん……口調と表情が合ってないよ……。───私は同じく特殊資料整理室に勤務している平井と言います。階級は巡査です。よろしくお願いします」
霧香はそんな綾乃を見て無難な返答をすると、柚葉が挨拶をしてから重悟へと目配せした。
重悟はその視線を受け、頷くと説明を始める。
「こちらの特殊資料整理室の方には、この辺り一帯に結界を張ってもらった。風牙衆では破るのに時間がかかるだろう。
これからのことだが、現状を把握した後───風牙衆の殲滅に当たる」
言い辛そうに話す重悟に対して、綾乃は特に何の感慨も湧かないため、話し半分で聞き流していた。
「ここを襲撃してきた風牙衆には、これから尋問し仲間の居場所を吐かせる」
「そんな簡単に吐くかしら。こういうことは、和麻がいればすぐなのに……」
「自分で出来ることを和麻にばかり頼っているのではあるまいな?」
「効率の問題よ。和麻だったら数分の作業で済むんだけど、私だったら最悪情報を得る前に潰しちゃうわ。
他の人はそれよりも早く出来るの?」
「───先ほども言ったように、効率ではないのだ。やはり、教育は必要だな……」
小声で今後のことを決めた重悟は、脱線した話の流れを戻す。
「我々のすることは、ここの守りと風牙衆の殲滅の2つだ」
「分かりやすくて良いわね」
綾乃は重悟の話を聞いてやる気を見せたところで、霧香が話に加わる。
「先程の話に戻りますが、厳馬殿はどちらにいらっしゃるのでしょう?」
「厳馬は既に派遣した。和麻もその後を追わせている」
和麻の事についても先じて言い含める。
しかし、それが切っ掛けとなって柚葉に疑問が生まれる。
「失礼ですが……」
言いにくいのか、恐縮するようにおずおずと片手を上げて柚葉が発言の許可を求めた。
「何かな? 本件に関わることであれば遠慮無く言ってくれて構わん」
「確か記憶では、お二人の仲はそれほどではなかったと思うのですが……お二人を組ませて大丈夫なのでしょうか?」
「「…………」」
それを聞いて重悟と綾乃は黙ってしまう。
重悟は厳馬の性格をよく知っている。そして、綾乃は和麻の性格をよく知っている。
二人はそれぞれが、この状況下でどのような対応を取るのか大体の想像ができた。
「このままでは、出会った場の数キロ四方が更地になるな……」
「そこがもし町中だったら……」
青醒めた親子の発言を聞いて、霧香と柚葉も流石にそこまでは……といった思いはあったが、内容が内容だけに他人事ではすまない。
「すぐに連絡を!」
戦力的には問題ないかもしれないが、その関係性だけはどうにもならない。
重悟は厳馬へ。
綾乃は和麻へ連絡をする。
「間に合ってくれればいいけど……」
和麻が厳馬と全く進展のない、沈黙の見つめ合いにしびれを切らし始めた頃。
二人の懐から同時に携帯の音が流れ出る。
「携帯が鳴っているようだが?」
「そちらも同じだろう」
厳馬の警戒に、和麻は溜め息を漏らして携帯に出る。
それを見届けてから、厳馬も和麻から視線を外さずに携帯に出た。
『和麻!』
「なんだ? 騒々しい」
『おじさまは無事!?』
綾乃は和麻の実力を知っているが故に、和麻が負ける事など有り得ないという思いから、厳馬の心配をするが、和麻には綾乃の思いなど分かりようもない。
「意味が分からないが……お前の言うおじさまとやらは目の前で置物のように突っ立ってるな」
『───遅かったみたい……。お仕事中ごめんなさい』
綾乃からの通話が切れ、和麻は改めて厳馬を見る。
厳馬は通話しており、こちらへの警戒心以外に不審なところはない。
しかし、先程の電話内容から察するに、目の前の厳馬は、厳馬であって厳馬ではない可能性が出てきた。
和麻の中で利用価値のあるもの、という位置付けから障害物、という位置付けに変わるのにそれほど時間はかからない。
しかし、代わって厳馬の方は、重悟からの電話により警戒心を解きつつあった。
しかし、その電話が終わる前に和麻から風による一撃が入る。
風による一撃を厳馬は回避したはいいが、完全とはいかずに携帯を真っ二つにされてしまった。
「何のつもりだ? 目的は一緒のはずではないのか?」
「お前に言う必要性を感じないな」
その言葉を境に二人は動く。
和麻は厳馬の背後へ瞬時に回り込むと同時に蹴りを放ち、厳馬はそれを見越したかのように自らを神炎で包み込んだ。
和麻は蹴り足の軌道を変えて大地を踏みしめ拳を突き出す。
神炎で防いでいる以上、その炎に触れればただではすまない。しかも、和麻の拳は厳馬に届くような距離ではなかった。
「っ!?」
厳馬は呻き声を上げると、胸を押さえて和麻から距離をとる。
「貴様……」
「仕留めるつもりだったが……しかし、ある程度の距離感は掴んだ」
和麻がしたことは浸透勁の一種だった。通常とは違い空間を介在し、厳馬へ攻撃を通すという離れ業をやってのけたが……。
和麻の行動に厳馬は焦りを見せる。和麻の攻撃は、厳馬に軽く触れる程度であり、特にダメージは受けていない。しかし、それは肉体的に───というだけであり、精神的なダメージは計り知れないものがあった。
しかも、先程までは説得される側だったが、今ではその関係が逆転している。
宗主から双方協力する旨は伝えられているはずだったが、それが意味を成していない。
厳馬は先程の事象を踏まえた対策を高速で組み立てていく。
厳馬が行うことは、戦闘を早期に終わらせて風牙衆の企みを阻止すること。その他の検討は必要ない。
厳馬が戦闘のために切り替え、次の行動を起こそうとしたところで、再び和麻の携帯が鳴る。
「何だ? もう少しで終わるところなんだが」
『うぅ……おじさまと戦わずに共闘してほしいんだけど……まだ間に合う?』
綾乃は、何か痛みを堪えるような声を出すが、和麻はそのことには触れない。
「内容については確り伝えてもらわないと困るんだがな」
『ごめんなさい……』
苛立ちを含んだ声に、綾乃は弱々しく謝った。
「まあいい。用件は……早い話が俺の目の前にいるやつを使えってことだな?」
『取り敢えず敵じゃないってことを言いたかったの。二人が戦ったら、最悪その周辺が荒れ地になっちゃうから』
「懸念は理解した。切るぞ」
和麻は携帯を切って仕舞うと、厳馬に向き直る。
「さて、お互いの実力がある程度分かったことだし急ぐぞ」
「馬鹿者が……」
今までの事は単なる運動であったと嘯く和麻に、厳馬は苦虫を噛み潰したように悪態をついた。
厳馬の案内により和麻たちが向かった先。
人が容易に立ち入らない鍾乳洞の奥。
祠のある部屋では、数人の風牙衆がすでに神を復活させるための準備を終えて儀式を執り行っていた。
風牙衆は、その筆頭である兵衛が煉の傍らに立ち、その他の者は、煉たちを取り囲むようにして座して、侵入者が入ってくることが出来ないように結界を張っている。
取り囲まれている煉は、なんの束縛も受けていないにも関わらず、呆然と何をするでもなく、ただそこに立っていた。
その目は虚ろで、全くと言っていいほど意志を感じることができない。
「我ら風の神よ! 風の神の眷属たる我ら風牙衆が、その束縛を討ち破り現世への招来を願わん! これより、神を捉えし三昧真火。それを作りし末裔により解放せん!」
兵衛は文言をひと通り言い終えると、横に立つ煉へ指示を出す。
「さあ、行くのだ! 進みて祠の戸を開けよ!」
兵衛の言葉に従い、煉は真っ直ぐに祠へと向かう。
祠に煉が近付くと、突如として炎が溢れだし行く手を阻む。
これが三昧真火。
触れたもの全てを焼き払う炎。
しかし、煉がその炎に近付いていくが、焼かれるような事はなかった。
煉が祠に手を伸ばそうとしたところで、風牙衆の1人が声を上げる。
「何者かがここに近付いています! 入り口に張った結界の1つが破られました!」
その声に合わせるように轟音が響き渡り、祠のある洞窟が揺れる。
洞窟内の祠へ辿り着くまでに、幾重にも結界を施してはいるが、相手は神凪である。結界など足止めにはならないだろう。しかし、どれほどまで近付いてきたかという鈴の役割くらいにはなる。
「何をしている! 早く戸を開けよ!」
その轟音と揺れのせいだろう、煉がたたらを踏んで止まっているのを目にした兵衛は、煉を急かすように大声を出す。
追跡者が来たとしても、封印さえ解いてしまえば目的は達せられる。封印が解かれた後など容易に想像できる兵衛としては、是が非でも解かせたい。
だからこその叫びだった。
「もうすぐ。もうすぐなのだ……」
風牙衆の悲願まであとわずか。
祠へ近付けない身のもどかしさを感じながら、兵衛は煉を凝視する。
「炎術師という輩は、やはり隠密に向かないな」
その存在に誰が気付くことができたか。
その声に兵衛が振り向くと、祠を祀る部屋の入り口に和麻が佇んでいた。
「お前達は何をしている! 入り口に立っている奴を殺せ!」
「無駄だ」
和麻の言葉を肯定するかのように、座していた風牙衆の首はゆっくりと前へ傾く。
そして、次の瞬間には地面へとその首が転がり、頭のない首からは血が吹き出した。
その光景に呆気に取られるかと思われたが、兵衛は焦るだけで、パニックを起こすことはない。
「こうなれば致し方ない……むっ!? 貴様は早く戸を開けんか!!」
兵衛の声を全て聞き入れてしまう弊害か。
煉は兵衛の命令に沿って、和麻へ炎を繰り出した。
流石は神凪の直系と言うべきだろう。意思が希薄であろうとも、その炎に翳りは無く、黄金の炎が顕現し和麻へと一直線に向かう。
「煉か……言葉は分かるか?」
和麻は煉から放たれた炎を虫でも払うように、手で炎の横を叩き軌道を逸らすと煉へ問いかける。逸らされた炎は和麻の脇を通り、その奥にある壁を溶かした。
煉の反応が無いと見るや、和麻は意思を込めた風を煉に飛ばす。
ここが洞窟内であると思えないほどの風の精霊が、煉へ向けて殺到するが、意思ある壁があるかのように、三昧神火がその行く手を遮った。
「はっはっはっ! 無駄よ! その程度の攻撃が効くはずもない! ぐはっ!?」
「お前への攻撃は通るようだな」
和麻は兵衛へ一瞬にして詰め寄り、蹴り飛ばす。兵衛は壁に背中から衝突するが、意識ははっきりしており、片膝を地に着きながらも顔を上げて和麻を見据えた。
「儂を殺せば奴の手綱を握るものが居なくなるぞ!」
兵衛の言った通りなのだろう。煉は和麻を見て反応するどころか兵衛の言葉しか聞こえていないようで、再び祠へと近付いていく。
「お前は止める気があるのか?」
「それこそ愚問よ。我らが悲願の成就! 止めるなど有り得ぬ!」
その言葉を聞き終えた和麻は、周囲の空気密度を操作する。
三昧真火で攻撃が遮られようとも、生物───人である限り呼吸をせねば動くことはできない。
しかし、その行為も意味のある事ではなかった。
煉の周囲は既に別空間になっているようで、この世の理が通じない。変化があったとすれば、兵衛があらゆる箇所から血を出して気絶していることくらいだろう。
「三昧神火がこれほど厄介とは……。あの野郎何処で道草食ってやがる……。
───居たな」
和麻は空気密度を元に戻し、懐から札を数枚取り出すと地面へ撒いた。
撒かれた札は自らの意思があるように動き、五芒星の形を取る。
その中央へ小さな香炉を置くと、五芒星は光り輝き、香炉からは大量の黒い煙が立ち上った。
その煙は五芒星から出ることはなく、その場に留まる。その煙に向かって和麻は声を掛けた。
「さっさとその煙の中に入れ。間に合わなくなるぞ」
「和麻か」
煙の中から聞こえてきた声は厳馬の声。
その上半身が見えてきたところで、和麻は身を乗り出し、片手で厳馬の胸元を掴むと、煉へ向けて投げた。
一瞬厳馬は抵抗したが、和麻とその視線の先を見て判断を先送りにする。
既に煉は祠の戸に手を取り、戸に施された封印を解いたところだった。
「こういうことは先に言え。馬鹿者が……」
「間に合わなかったら責任を取れ」
厳馬は煉へと手を伸ばし掴もうとするが、その努力が実ることはなかった。嘲笑うかのように、僅かに開かれた隙間から莫大な力の奔流が流れ出す。
厳馬は神炎を纏い煉を掴むと、出てくるなといわんばかりに足で祠の戸を蹴りつけ、その反動で距離をとった。
祠からの圧力は強く、その程度で閉じることはないが、三昧真火の圧力も相当なものなのか、封印を解いただけでは簡単に出てくることはない。そのため、戸が開く速度は微々たるものだ。
「少々分の悪い流れになったな」
独り言を漏らしながら、和麻は準備を進める。
厳馬は一旦煉を入り口へ放ると、再び戸に向けて駆け出した。
和麻は札を部屋の至るところに撒き散らしながら、もう片方の手で折り畳まれた宝具である大きな扇子を開く。
「気休めだな……」
札は三昧真火のある空間との境界線を明示し、そこに壁を作るものだった。
その境界に向けて和麻は力を込め、両手で扇子を振るう。扇子からは放たれた風は、その境界を戸の方へ押し込む。和麻はそれを休むこと無く続けた。
三昧真火のある空間自体へ圧力を掛けることで、戸を押し戻そうとしているのだ。
厳馬の方は、神炎を纏い両手で戸を押していた。
二人の力を合わせることで、少しずつではあるが閉まっていく。
既に封印は解かれているため、ただ戸を閉じるだけでは駄目なのだが、それでも次の事を考える時間稼ぎにはなる。
「さっさと目を覚ませ!」
額に汗を滴ながら、壁際にて気絶している兵衛の脇腹を蹴りあげた。
「くっ!」
和麻は蹴った衝撃で目を覚ました兵を射殺すように見る。
「中の奴の制御方法を吐け」
「吐けと……言われて……吐く奴など……居らぬわ」
予想通りと言うべきか、肋骨が折れたのだろう兵衛の返答に、和麻は顔をしかめながら、厳馬へと叫ぶ。
「暫くの間支援が途切れるが我慢しろ!」
「何を……くっ……」
言うと同時に和麻は扇子を腰に下げ、黒い手袋を取り出して右手に装着した。
もがき苦しむ兵衛に近付き首を押さえると、手袋を着けた手で兵衛の頭を触った。
「あ……がが……」
手袋を着けた手はゆっくりと兵衛の頭の中に沈んでいく。
和麻は目を閉じ、手をゆっくりと動かしていく。
「制御と言っても、煉の制御か……神の制御方くらい調べていると思ったのは楽観過ぎたな」
苦々しげに顔を歪めて手を一気に引き抜き、手袋を外すと、再び扇子を手に取ったところで、その動きが固まる。
「やはり保たないか……」
そこには、両手で必死に戸が開くのを抑える厳馬の姿があった。しかし、抑えることが出来ず、徐々に開いている。そればかりか開く速度が少しずつ上がっていた。
「今更閉じた所でどうにもならん! 一旦出るぞ!」
和麻は封印することに見切りをつけると、煉を抱えて移動した。
洞窟を抜けて外に出ると、明るかった空は既に暗くなっていた。
少々離れた位置に煉を放り、再び洞窟の近くまで来て準備をしながら、息を整える。
「こんな姿を見られたら、何を言われるか分からないな」
和麻を鍛えた師に今の姿を見られたならば、修練が足りないと言って更なる修業を課すだろう事が目に見えている。
相手が神とはいえ、今のところ何も出来ていないに等しい。
「過去の俺とは違う。何も出来ないと思うなよ」
和麻は過去を振り払うように呟いた。
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21話
和麻たちが戦っている頃。
綾乃と柚葉は、霧香が風牙衆から得た情報を元に、風牙衆の捜索と殲滅に向けて動いていた。
「以外に早く口を割ったわね」
「室長の尋問に耐えれる人はなかなかいないと思う」
風牙衆の拠点は幾つかあるようで、綾乃たちはその中から比較的に近い場所に向かった。
何時もは運転を任せている周防も、風牙衆が居ないため、風牙衆が行っていた教務を引き受けており、その業務の量に忙殺されていいただった。
「一応罠の可能性も心に留めておいてね。簡単に吐くってことは知られても問題ないと判断したのかもしれないし」
「罠なんて正面から潰すから問題なし!」
綾乃の返答に溜め息が漏れそうになるのを堪え、無駄と分かりつつも注意を促す。
「油断してると痛い目に会うよ、日頃から注意しないと」
「油断はしないわ。相手が誰であれ全力全開! まあ、町を燃やしたりはしない程度には加減するけどね」
「ほんとに加減はしてね……」
柚葉は綾乃の性格が変わっていないことに安堵すると共に、綾乃の考え方が幼い事に危機感を募らせる。
二人が到着した先には廃工場があり、如何にもな怪しさを醸し出していた。
「余裕があったらでいいんだけど……」
「なに?」
「妖魔がいたら、浄化を待ってほしいの」
「?」
柚葉の提案に、綾乃は理由が分からないため首を傾げる。妖魔は明確な敵であり慈悲を掛けるべき存在ではない。それにも関わらず、倒すのを待つ理由とは何か。
その答えは柚葉の次の言葉でわかった。
「綾乃ちゃんに会ったとき、妖気を纏ってたと思うんだけど、私って妖魔を取り込める体質みたいで……。取り込んだ分の何%か───微々たるものなんだけど、自分の力に出来るみたいで、室長からは積極的に妖魔退治に関わるようにって言われてるから……お願いします」
頭を下げる柚葉に綾乃は手を振り気軽に答えた。
「別にいいわよ。そんなに手間じゃないでしょうし」
「ありがとう綾乃ちゃん」
「ただ、滅してしまったら諦めてね」
綾乃の方は勿論だが、柚葉にも緊張の色は見られない。
それほどまでに炎術士の神凪───いや、綾乃に信頼を寄せていた。
この世界に足を踏み入れると、よく出てくる名前は神凪である。それは、日本という国内だけには収まらず、世界各地でも囁かれている。特に戦闘という面において、他者の追随を許さず、ライバルと成り得るのは同門の者だけというのも、一部を除き共通の認識だった。
柚葉が警察。その中の部署である特殊資料室に配属になってから日は浅いが、その手の話には事欠かなかった。特に室長である霧香から、対応を気を付けるよう念入りに、それも洗脳に近いような説明を受けたほどである。
その甲斐もあって、柚葉の知識も相応のものとなっていた。
廃工場の中は静寂に満ちている。
床には廃材が散乱し、歩く度に足音が鳴る。しかし音を出しているのは柚葉のみ。普通であれば多少の音を出すものだが、綾乃の歩き方故か音は最小限に絞られ、人の耳では全くと言って良いほど聞こえない。
それ以外の音は、時折柚葉が周囲に呼び掛ける声だけで、それが虚しく廃工場内をこだましていた。
その行動も、綾乃が廃工場の半ば辺りまで進んだところで終わりを告げる。
綾乃は急に立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返った。
「?」
柚葉も後ろを振り返るがそこには何もなく、通ってきた通路だけがある。
「やっとお出ましね」
綾乃の言葉と同時に、床から黒い靄が吹き出してきた。靄は綾乃たちを閉じ込めるように周りに拡がっていき、逃がさないように囲み始める。
そのような中にあっても、綾乃の態度が変わることはない。綾乃は、黒い靄を見て腰が引けている柚葉に声を掛けた。
「そいつを取り込まないの?」
綾乃の言葉で、柚葉はやるべき事を思い出し、自分の不甲斐なさに赤面しながら、懐から呪符を取り出す。
「ごめんなさい。少し時間を貰うね」
呪符を取り出した柚葉は、そこに刻まれた呪言を読む。呪言は柚葉の霊気に呼応して柚葉に貼り付いた。
それまで囲むように拡がっていた靄は、柚葉に向けて急速に集まりだし、呪符を通して柚葉に吸い込まれていく。最初の余裕の表情は次第に無くなり、その顔からは焦燥感が生まれ始めたことで、綾乃は異常事態に気付いた。
「手を出すわよ」
一言添えて金の炎が周囲を焼き払う。それにより、靄は一瞬にして消え去り、ついでのように足元にあった瓦礫や壁の一部が無くなっていた。
柚葉は荒い息を吐いてその場に崩れ落ち、呪符から手を離す。その顔からは、大量の汗が滴り落ちていた。
「結局どうだったの?」
「私の……キャパシティを……越えてた……みたいで……」
柚葉は大きく深呼吸すると、息を整えて続きを話す。
「ごめんなさい。今のだとほんの数%も取り込めなかったみたい」
「ん~。結構時間が掛かるみたいだし、今度にしない? 潰さないといけないところはまだまだあるんだし、取り敢えず敵の頭を潰してからってことで」
「そうね。足止めしてしまってごめんなさい」
「いいって。それよりも、そのすぐに謝る癖を直した方がいいと思うわよ」
綾乃は気を取り直して先へ進む。
先程のものがここの主力だったのか、漂っていた怪しげな空気は霧散し、清々しいまでの清浄な空気に変わっていた。
外に出た綾乃は、振り向いて廃工場を見る。一応念のため内部を確認したが、人の姿は確認できなかった。もう遠慮することはない。
綾乃は片手を上げて周囲の炎の精霊を集め始める。
炎は集まるに従い、金色の炎に赤い色を帯びていく。そして次第に肥大していくそれは、小型の太陽を思わせるものにまで拡大する。
近くに立っている柚葉に熱さは感じられない。しかし、その力は感じることが出来た。
綾乃は掲げていた手を真っ直ぐに廃工場目掛けて振り下ろす。力の行使はそれだけで済んだ。
炎は真っ直ぐに廃工場へ向かうと、何も存在しないように壁を消滅させて先に進んでいく。ぽっかりと空いた穴から見える光景は、柚葉には信じられないものだった。しかし、それだけで終わるはずがなく、一気に中央まで進んだ炎の塊は、突如として爆発し進んでいたときと同様に跡形もなく、廃工場のあった土地を更地に変える。
柚葉は霧香の言っていたことが誇張でも何でもないことを、この時に初めて実感したのだった。
「さてと、掃除も終わったし次に行きましょ」
「ええーっと……。今のは一体?」
「? ただの神炎だけど? それよりも先を急ぐ! 早くしないと次々に移動されちゃうわ」
綾乃は柚葉の態度を不思議に思いながらも、柚葉の手を取り強引に道路へと向かった。
柚葉は唖然としながらも、自分のすべき事を思い出し、手を携帯に伸ばしてボタンを押す。
「室長ですか? ───はい。終わりました……。次へ向かうので、この地の処理をお願いします。───いえ、あの、全てです。全て……。はい。分かりました。失礼します」
「報告いるの?」
「綾乃ちゃん」
柚葉はがっしりと綾乃の両腕を掴み目を見る。
「な、なに?」
その突然の行為と迫力に綾乃は驚き、一歩後ずさる。
「手加減はとても大事なの。それと一般常識も。人前で恥ずかしい思いはしたくないでしょう?」
何故、このようなことを言い始めたのか。綾乃は理解できないまま、柚葉を落ち着かせるためにただ頷く。
「分かった! 分かったから落ち着いて!」
「本当ね?」
「本当に本当だってば!」
柚葉は綾乃の目を見て頷き、先頭を切って歩き出す。
綾乃は胸を撫で下ろしながら、その後に続いた。
その後も綾乃たちは、最初の廃工場の後も転々と拠点潰しを行っているが、全く成果は上がっていない。
流石は元神凪の情報収集役と言うべきだろう。
向かったところは全て偽の拠点か既に移動した後であり、そこには様々な罠が張られていた。
「あーもう! 一体幾つ目よ!」
「リストの半分は回ったから落ち着いて」
張られた罠は力押しで軽々と突き破っている。しかし、成果の全く上がらない行動に、綾乃は苛つき、次第に炎の威力が上がってきていた。それは関係のない物にまで、被害の手が及び始めていることを示す。
辛うじて柚葉がブレーキを掛けることで、今のところ甚大な被害は出ていないが、柚葉が居なければ、拠点と思わしき場所は、中にいる人の確認がされないまま、根刮ぎ燃やし尽くされてしまっていただろう。
残る場所は、それぞれが神凪の本宅からは遠い位置にあり、効率よく回っているとは言え、移動に時間が掛かることは否めない。
いつも移動を人任せにしてきた代償がここで出てきていた。
「私にも仙術の才があれば……」
他の術師が聞けば、妬みや謗りを受けること間違いなしの発言をするが、ここにいるのは柚葉のみ。そのような事を思う事もなく、軽く受け流して先導していった。
永遠に続く暗闇。
何処まで進もうと途切れることはなく、変化もない。ただただ闇のみがあった。
その闇に封じられたものは、自分の力では封印を解くことが叶わないことを悟り、異変が起こるまでの間、意識を閉ざし体を休めるための休眠に入る。
封印される前。戦いに次ぐ戦いで、その者───古き神は疲弊していた。傷を負った訳ではない。ただ、力───神力を消耗しただけだ。自らを追い込み封印までされてしまうとは思っても見なかったが、あの場で術者数十人の生け贄による封印をされずに戦い続けていれば、数日もしないうちに存在が消滅していただろう。
神力は神にとって生命力そのもの。無くなれば当然消滅に至る。消滅ギリギリまで消耗させられた古き神は、封印から出ることも叶わずに休眠に入ったのだった。
しかし、それも今日までのこと。突如として光の線が闇の中に走る。
それは寝ていたものを起こすのに十分な異変であった。
古き神は目を醒まし、光に向けて突き進む。
封印の外を目指して……。
和麻の準備は滞りなく進んでいるが、完全とは言い難い。しかし、相手が待ってくれるということはなかった。
封印から解き放たれた神が真っ先に向かったのは、和麻───ではなく、煉を抱えた厳馬たちの方だった。和麻が敵であったとしても、同じ判断を下すであろう事は間違いない。しかし、だからと言って和麻がそれを防ぐということはしなかった。
厳馬の方に向かうのをこれ幸いと、準備を進めていく。
対して厳馬は相手───幽体のような塊が近付くことで受けるプレッシャーに冷や汗をかいていた。
抱いている腕の中の煉に意識はない。そもそも、起きていたとして正常な判断力があるとは思えなかった。神凪の後継者として育ててきただけに、ここで切り捨てる訳にはいかない。対応できるだけの実力をつけることができなかった自分にこそ問題があると厳馬は考え、煉を寝かせて立ち上がると、プレッシャーを弾き飛ばすように神炎を纏う。
(来るならばこい。神凪の───神凪厳馬の力を見せてくれる!)
煉を拐われた事に対する自らの不甲斐無さ。
まんまと封印を解かれた力の無さ。
余計なことを考えたことによる行動の遅さ。
それら全てが怒りへと換わり、厳馬の纏う神炎は更なる輝きを増す。そして、近付いてきた神へと、その神炎を振るった。
それが通常の妖魔であれば、何が起こったのか分からぬままに消滅しただろう。そう通常であれば、だ。
相手は神。例え神炎といえども滅することは出来なかった。それどころか、当てることすら出来ていない。
辛うじて肉眼で認識出来るほどの早さで迫ってきていた神は、厳馬が神炎を放った途端に、更に速度を上げて悠々と回避したのである。
しかし、一度回避されたからといって、それだけで厳馬の攻撃が終わるはずもなく、回避した先にその攻撃の矛先を向けていく。
その厳馬の攻撃は数秒で終わりを迎えた。
それと言うのも、神が厳馬たちの周囲を何度か周回し終えると、強烈な神気を纏った風を厳馬に向かって放ったのである。厳馬はその圧力に圧され膝を屈した。そして、それ以上負けるわけにはいかないとばかりに、神を睨み付ける。
戦意が失われていないことを察したのだろう。攻撃は更に激しさを増し、神炎を纏っているはずの厳馬に切り傷を負わせ始める。
風は止まることを知らず、厳馬を文字通り風にて削り始めた。
神が攻撃を始めてほんの数秒後。そこには血塗れで倒れる厳馬の姿があった。
そんな厳馬の姿を見て興味を無くしたように、再度風をぶつけて転がすと、結果も見ずに神は離れていく。
全身の裂傷に加えて出血多量。常人では即死してもおかしくはない状態にありながらも、厳馬は辛うじて生きていた。それどころか、意識を失ってすらいなかったのである。体は動かなくとも、その瞳に宿る意思に陰りはない。そのボロボロの体でありながら、厳馬の元へ炎の精霊が集まってきていた。
言い訳ではないが、先程の戦いとも呼べないやりとりでは、神は勿論の事、厳馬も全力を出していなかった。それというのも、煉が傍にいたためだ。意識的には気にせずに神と相対していたのだが、無意識的に煉を庇っていたのである。そのような状態では、全力など程遠い。
厳馬は煉の無事を確認し、体力を回復するため、じっとその場に留まることにしたのだった。
次に神が向かったのは、和麻の元である。
(満足に時間稼ぎも出来ないか……)
心の中で頼りにならない厳馬に悪態をつきながら、あと少しで終わる準備に、和麻は予定を変更せざるを得なくなり、顔をしかめる。それでも、手と口は動き続け陣を素早く組み直すと、近付く神を真正面に捉えた。
神の速度は初期の状態に戻っており、速度を維持して和麻に近付いてくる。その態度を和麻は馬鹿にしたりせず、表情を引き締める。相手が油断しているときこそ、最大の好機。心を閉ざし、内心を読まれないよう注意を払う。
先程の、神と厳馬とのやりとりを和麻は認識していた。急激な速度の変化は風による移動である事が分かり、それに伴って風にまつわる神であると言うことも理解している。
厳馬は最低限の役割は果たせているが、和麻の評価からすれば、もっと粘れたはずであった。
神は和麻の周囲に張った結界に当たり動きを止めるが、それは一瞬の事。すぐに結界を破壊すると、和麻の周囲を時計回りに周回し出す。
その行動は、本来ならば初手の攻撃を受けるはずだった和麻にとって願ってもないことだった。
一周して目の前に戻ったところへ、和麻は陣を発動させると、辺り一帯を別の次元へと引き離す。
流石の神も、周囲一帯と共に引きずり込まれては対応が遅れてしまう。神はその陣から離れることも出来ずに、別の空間へと飲み込まれてしまった。
和麻たちの消えた後には、切り抜かれたように円の空白地帯ができている。
全てが消滅したかのように、気配すらも残さずに───
僅かな時間が引き伸ばされた世界の中で、和麻と神の戦いは幕を開けた。
仙人に至ることは、即ち1個の世界を持つことに等しい。
和麻は、まだまだ先達に比べることすら烏滸がましいが、それでも仙人の見習いを名乗るくらいの実力はある。
今回和麻は、道具の力を借りることで新たな世界を造りだし、そこへ神を閉じ込めたのだった。
この世界の本来の機能としては、この世界に限り全てが和麻の思いのままなのだが、それをするには時間が足りない上に相手の力が膨大すぎる。しかし、戦う場としては和麻が有利なのは間違いない。
周囲の力は全て和麻に味方し、神へと敵対する。
そのような中で戦えばどうなるかなど分かりきったことだった。
体感時間としては長くとも、普通の人からしてみれば、一呼吸といった程度。それでも、その短い時間で勝敗は決まったようなもの。力量差を双方ともに把握したのである。
勝ちが決まった和麻は、地面以外何もない空間で同じ手順を繰り返す。和麻がミスをしない限り負けることのない消耗戦へと戦況は移っていた。
消耗戦と言っても、見た目には何ら変わることはない。
ただ、全ての事象をねじ曲げるような力のぶつかり合いがあるだけだ。
(なかなかしぶといな)
和麻の感想はそれだけだ。
消滅したくはない相手にとって、抗うのは当然の事と言えた。それを冷静に観察しながら、和麻は相手の力を削っていく。
しかし、敵も伊達に神と呼ばれた存在ではない。
消耗戦が不利と分かっていながらも続けていたのは、準備を整えるためだ。
従える属性は風。
四属性の中で最速であり、その感知能力もずば抜けて高い。
相対するものが、自らと同じ空間にいる以上、必ず外へ出るための場所、或いは物が用意されている。それを探っていたのだ。しかし、その場所が分かったことで、神は相対する敵を出し抜く手段が無くなったことを知った。
何故なら、この空間からの脱出手段は和麻の中にあったからである。
神として一番畏れるもの。
存在の消滅。
それが実感として伴ってきていた。
実質、自らを閉じ込めた相手が近くに居ないことを確認し、閉じ込めた者に対して、軽く意趣返しをしていただけなのだが、これでは過去と変わらない。
決断は一瞬で下された。
それまでの消耗戦を止めて、一気に和麻へと向かう。
最後の悪足掻きに、和麻は予定通りに対応しようとして違和感に気付いた。
それまでの敵対的な意思が完全に消滅してしまったのである。それだけならば、なんとかなったのかもしれない。しかしながら、それだけではなかった。
向かってきた相手は、和麻に防がれる寸前で霧散霧消してしまう。これは和麻を悩ませるに十分な行為だ。
空間内を確認しても、神の意思や力を感じない。
完全に消滅したかと言えば、そうではないと勘が告げている。
かなりの時間悩んだ末。和麻は空間を解除して現実へと戻ることに決めた。解除して復活したところで、楽に倒せる自信があり、尚且つ神をこの空間から出す気など毛頭なかったからである。
和麻は精神を集中させ、現実への扉を開く。
その扉を潜り抜けた先で、和麻の意識は霞んでいった。
誤字報告ありがとうございます。
能力(やる気)が著しく低下しており、元々低い文章力まで低下しており、ひとつ書き上げるだけで膨大な時間が必要になっています。
待っていただいた方、お待たせしてすいません。
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22話
綾乃たちは、リストの最後に記載された場所を見て立ち止まる。
その表情は、二人して有り得ないと物語っていた。
それというのも───
「ここじゃ無いわね」
「そうだね……ここは重要な場所みたいだから、一応入れてたのかな?」
その場所には、人が住むには小さく、小屋と言っても差し支えない程の建物が鎮座していたからだった。
風牙衆は、少なく見積もっても未だ数十人はいたはずであり、決して目の前にある小さな小屋に入りきる人数ではない。
しかし、居ないことが分かっていても、確認はしなければならない。そのため、柚葉はその小屋に向けて声を掛けた。
「中にいる方は大人しく出てきてください。出て来ない場合は、相応の対応を取らせていただきます。また、出てくる際には両手を上げ───」
「もういいでしょ」
綾乃は柚葉が言い終える前に、一瞬で小屋を燃やし尽くす。止める間もないとはこの事で、あまりの一瞬の出来事に、柚葉は注意することも忘れ、呼び掛けている体勢のまま口を開けて固まってしまう。
低い確率であろうとも、一般人がいる可能性があるのだ。簡単に決断すべきことではない。
しかし、止めるにはあまりにも時間が無さすぎた。
呆気に取られた状態で、柚葉は燃え尽きる様を見ていると、これまでとは違う現象が起きる。
燃えた小屋の後からは、今まで感じることの無かった妖気が一気に溢れだし、周辺一帯へと拡がり始めたのだ。
これに驚いたのは柚葉ではなく綾乃だった。小屋の中を含めて完全に燃やしたにも関わらず、その場所から妖気が溢れてくるなど、自分の技量に自信があっただけに、到底信じられるものではない。
「えっ? なんで……」
「綾乃ちゃん! 拡がらないように囲って! 早く!」
柚葉は焦りを含んだ声で素早く指示を出すと同時に、自らも対応すべく動く。柚葉が言ったことを綾乃が出来ないとは全く思っていない。ただ、綾乃の驚きの表情から、行動に移すために少しの時間が必要と判断しただけだ。
綾乃たちを避け、逃げるように拡がっていく妖気を、柚葉は懸命に防ごうとするが、妖気の全体物量からして防げるのは微々たる量に過ぎない。焼け石に水であり、柚葉の体力的に言っても、何時までも続くものでもなかった。
柚葉は顔に大量の汗を滴らせ、逃がさぬように妖気を次々に取り込んでいくと同時に、取り込んだ妖気をそのまま攻撃に転化していく。
すぐに自分の力に還元することはできないが、そのまま流用することは出来る。
ほんの数秒のことではあるが、綾乃は我に返ると神炎を見える範囲の妖気に向けて振るった。
今度は念入りにとばかりに、炎は消えることなく存在し続け、全ての存在を消滅させる。それは妖気ばかりではなく、その場にある物質も含めてという念の入れようだった。
「最初からこうやってれば良かったわね。でも、どうしてあんな妖気が出てきたのかしら?」
綾乃は首を傾げて、小屋の後に向かう。そこには、辛うじて原型を留めていた石があった。
「あ~。これは失敗したかも。まさか、社があるなんて……」
その石を見て、何故燃やし尽くしたはずの場所から妖魔が出てきたのかを察した。
本来神炎で燃やせぬものなどはない。しかし、耐えることができるものはある。
そのひとつが要石などの特殊な石だ。要石は、悪しきものを封じる際によく用いられ、綾乃のような例は別として、一般的にはその封印を解くことは難しい。
しかし、綾乃は力業とはいえ解いてしまった。
その封印を解けばどうなるか───
取り敢えずは近くにいる柚葉へと相談することに決め振り返ると、そこには先程まで立っていたはずの柚葉が倒れていた。
慌てて近付き、胸に手を当て口に顔を近付けて呼吸を確かめる。
胸の鼓動と、微かな息遣いにホッと胸を撫で下ろし、綾乃はどうしたものかと、そのまま座り込む。
祠を壊した影響で飛び出した妖魔は、既にいない。
全てを浄化できたわけではなく、最初の数秒で力のある妖魔には逃げられていた。
全体の半分以上を浄化出来たとはいえ、かなりの失態だと言えるだろう。
無かったことにするためには、妖魔を討たねばならない。だからと言って柚葉を置いていくわけにもいかず、綾乃は途方に暮れるのだった。
「取り敢えず、電話かなぁ……」
携帯をポケットから取り出し、電話を掛ける。
電話は数コールも待たずして繋がった。
溜め息が出そうになるのをグッと堪えて話しを切り出す。
「リストに上がった箇所は全部回ったけど、風牙衆は一人たりとも居なかったわよ?」
『ご苦労だった。───ところで、何故綾乃が電話をしてくるのだ?』
「───柚葉は体調が悪いみたいで寝てるわ」
横に寝かせている柚葉を見直し、少し間を開けて綾乃は答える。
内容的に嘘は言っていない。しかし、分かるものには分かってしまうようで───
『では、戻ってきてから詳細を聞くとしよう。因みに、最後に向かった場所にある祠は無事であろうな?』
詳細───の部分を強調した後に、もしかして、という疑惑。それを払拭するため問い質した言葉。
それは、端的に望んでいたものとは真逆の答えで返される。
「何もないわよ?」
『───なに?』
重悟は信じられない思いから再度問い返すが、答えが変わることはない。
「綺麗さっぱり何もないから」
『──────』
しばらく重悟からの返答はなかった。
綾乃は、携帯からの沈黙に対して気まずそうに答えを待つ。
携帯の向こう側で何か話し合っているのではと、神経を尖らせ携帯に耳を押し当てたところで、大声が帰ってきた。
『この……バカもんがあああ!!!』
「きゃあ!!」
あまりの大きな怒声に、思わず持っていた携帯を取り落とし、落としてもなお漏れ聞こえてくる説教に綾乃は頬をひくつかせる。
どれ程の時間携帯と睨み合いを続けていたか……。ようやく静かになった携帯に恐る恐る耳を近付ける。
『すぐに戻ってこい』
「はい!」
滅多に怒ることの無かった重悟の怒鳴り声に、綾乃は否定の言葉を出せず、すぐさま返事をすると、携帯の電源を切った。
「あんなに怒るなんて……。結構やばかったのかしら?」
ひとり呟き、気を失ったままの柚葉を見て、綾乃はため息を漏らすのだった。
和麻の前では、走馬灯のように過去の景色が流れていた。
流れる景色の内容は、前世の子供の頃から始まり、現在の転生に至るまで。それを和麻は、目を反らすことなく、感情の窺えない表情にて眺めている。まるで他人事のような、と言うよりも完全に他人事と割り切っていた。
「人の記憶を覗き見て楽しいか?」
和麻は唐突に、虚空へ向けて言葉を発した。
和麻の周囲には誰もおらず、返答は無いように思われるが、何処からともなく返事が戻ってくる。
『同一化のためだ』
「そんなことは俺に関係ないな」
返ってきた言葉に対して、即答で拒否を返すが、相手も聞く気はないようで何も答えない。
和麻は相手の返答を待つつもりはなく、自分のいる空間を認識し、自らの意思を具現化した。
具現化と言っても何か物が出来たわけではない。ただ、元いた平野へ戻るための空間を繋いだにすぎない。
和麻は激しく響く警鐘を無視すると、その空間の裂け目とも言うべき場所を潜り抜けた。
和麻が意識を失ったのは僅かに数瞬のこと。
体の調子を確かめるように瞑想する。
空間を移動する際の警鐘は、ただ鳴っていたわけではなく、和麻に対して十分な違和感を感じさせるものだった。
和麻は違和感の正体を確かめるように、ゆっくりと目を開けると、力を解放した。
和麻が違和感を感じるほどのもの。それは目で見える形として現れる。
和麻の意図した範囲を越えて竜巻が発生し、周囲にあったものを根こそぎ空高くへ舞い上げてしまったのだった。
和麻は自らが行ったことに、軽く驚き次いで眉間に皺を寄せる。
「微風のつもりだったが……。このままでは制御に難有りだな……」
自分の置かれた状態を確認した和麻は、依頼を終えるために周囲の情報を集めるべく、知覚範囲を広げたところで片眉を上げて、問題のある場所を見やった。
そこには、気を失ったままの煉とその横に倒れた厳馬がいた。それだけであれば問題はなかったのだが、その近くには死んだと思っていた兵衛がいたのである。
足取りは重く遅いが、その身体のほとんどはスライムのような不定形な塊と化しており、時おり距離を確認するためだろう、その塊から覗かせる顔で分かるくらいで、通常であれば分からないほどのものへと成り果てている。しかし、方向は確実に厳馬たちに向かっており、その距離も十数メートルにまで近付いていた。
(世話が焼ける……)
和麻との距離は数百メートルほど離れているが問題はない。
兵衛に向けて手を伸ばし、一直線に風の刃を飛ばそうと周囲の風の精霊に意思を伝えようとしたところでその手が震える。
自分の意思よりも遥かに膨大な量の風の精霊が集まってきたからだ。
制御をしようにも、意思が追い付かないほどの集まりに、流石の和麻も、伸ばした手を顔に当て、頭痛を堪える。
和麻の意図したものではなかったが、和麻がいつも通りに周囲へと放った意思力は、和麻の力が強大になったことにより、精霊たちへの影響力も遥かに増えたのだった。
和麻の強靭な意思力により、精霊たちを従わせようとするが、止まることを知らずに集まってくる精霊たちに、和麻の意識は割かれてしまう。
そのため、厳馬たちへ向かう兵衛の対処など出来ようはずもなかった。
その様なことなど露知らず、兵衛は真っ直ぐに厳馬たちへ向けて進む。
その間に、障害と言えるものは何もない。
兵衛は、厳馬の元に辿り着くと、その身体に覆い被さり、包み込み始める。
その身体を以て、厳馬を吸収するためだ。
しかしその兵衛の行動も、一瞬後には終わりを告げた。
突如として発生した炎に飲み込まれ、燃え尽きてしまったからだ。
炎の跡からは、衣服をところどころ溶かされた厳馬が身体を起こし、自分の身体を見て溜め息を吐くと同時に、膨大な力に気付き顔を向ける。
「これは……」
おもわず漏れ出た言葉は、信じられないという思いが込められていた。
つい先程相対した神が再び何かをしようとしているのかと、厳馬は厳しい視線を力を感じる方に向けながら身構える。
多少なりとも練っていた力は、見覚えの無い敵に浪費してしまった。
今感じている力の差に、厳馬は思わず歯噛みするが、その想いを力に変えて、僅かに回復した残り少ない体力を振り絞って立ち上がる。
勝てる可能性は低いかもしれない。
しかし、神凪の直系として生を受けた以上、逃げることは許されない。
厳馬はゆっくりと歩み始めた。
厳馬がその場所に着いてみれば、神の姿など何処にもなく、膨大な力が集結したその中央には、見覚えのある姿があった。
膝を着き、顔の半分を手で覆っているが間違えようもない。和麻本人である。
しかしながら、感じる力は封印されていた神のものでもあり厳馬は戸惑いを覚えたが、確認せねばと更に近づいていく。
近づく間にも、火の精霊を呼び寄せ見に纏っていった。
風の特性は速さ。
火の特性は攻撃力。
その早さの部分を補えれば、厳馬にも勝算はある。
「和麻。状況を説明しろ」
「…………」
暴風が吹き荒れた痕跡の残る地で、厳馬は和麻に問い掛けるが和麻は答えない。
「説明できないのであれば、お前は敵に捕らわれたものと判断する」
「…………」
それでもなお、和麻は答えない。その間にも、和麻の周囲には風の精霊が集まってきていた。
厳馬は敵対行動を続けるつもりであると判断し、その力を和麻に向けて振るう。
「苦しまずに一瞬で終えてやる。私の全力だ」
厳馬の放った神炎は、和麻を今度こそ逃がさず完全に包み込む。
しかし、和麻を包む風も和麻の意思に関係なく、炎の精霊に対して対抗し始めた。
その量は軽々と厳馬の炎を退けると、邪魔だとばかりに厳馬を弾き飛ばす。
厳馬には、その風に対抗するだけの力はなく、なされるがままに飛ばされ、そのまま意識を失った。
その後、風はゆっくりと縮小していき、和麻の中に収まっていく。
「はぁ……」
和麻は余計な手間を取らせた根源に悪態を吐きたくなるが、既にそのような存在はいない。
溜め息を漏らし、和麻は厳馬たちの状況を確認するべく視野を広げた。
ほんの少し前までいたはずの人物はおらず、そこに倒れているのは煉のみであり、厳馬の姿は見えない。
どこに行ったのかと、更に広域を視たところで、和麻は厳馬を見つけた。
(灯台元暗しとは言ったものだが……何故こんなところで寝てるんだ?)
和麻から少し離れたところで倒れている厳馬を怪訝な表情で確認した和麻は、取り敢えず携帯を取り出し連絡を取る。
「……こっちは終わった。……ああ、一応五体満足ではあるな。───これは過去の清算だ。それ以上でも以下でもない。───休憩するくらいの時間だったらな」
和麻は厳馬の元に歩くと、その身体を脇に抱えて再び歩き出す。
厳馬はそれなりに大柄な人物であるが、和麻は全く重さを感じさせることなく、荷物のように抱えている。
次の行き先は煉の元。
神との争いにより荒れ果てた地面ではあったが、移動にはそれほどの時間が掛かることはなかった。
神凪邸においても、これ以上の襲撃は無かったことから、結界の再構築が始まっていた。
「───そうか。よくやってくれた。礼を言う」
重悟の顔には疲れの色が見えていたが、連絡を受けた内容に、顔を綻ばせている。
「すまぬが、迎えにいかせる故、待っていてはもらえぬか? ───ありがとう」
重悟は携帯の通話を切ると、それまで保っていた緊張を少し緩める。
霧香は会話の内容を聞くような野暮な真似はしなかったが、重悟の雰囲気の変化からおおよその事を把握していた。
「無事解決……とみてよろしいですか?」
「うむ。霧香殿には世話になったな」
「私は職務を遂行したにすぎません」
「そう言ってもらえると助かるが、そうもいかぬ。
手に終えぬ事があれば相談に乗ろう」
「ありがとうございます」
霧香は表面上、いつもと変わらぬ微笑を浮かべていたが、内心では小躍りしたいほどの興奮状態になっていた。
(協力なパイプをゲット!! これで少しは上の奴等も大人しくなるってものよ!)
霧香の事はさておき、重悟は空を見上げる。
(これで、長年の因縁を断ち切ることは出来た。風牙衆がいなくなってしまったことは残念ではあるが、けじめはつけねばなるまい)
今回の出来事で損壊した敷地内を見渡しながら、重悟は今後のことに思いを馳せるのだった。
風牙衆の謀反から数日後。
神凪邸では宴会が繰り広げられていた。
その席には怪我で動けない者を除き、今回の事件の関係者が集まっている。怪我で動けない者の中には、厳馬や煉もいたが、宴会の席でそれを持ち出すものはいない。
ほとんどのものは手に酒を持ち、今回の出来事を振り返っていた。
「風牙衆ごときが我々に歯向かうとどうなるかよくわかるものだったな!」
「ハッハッハ! 言ってやるな! 羽虫のごときか弱い存在なのだ。そのような知能もあるまいて」
「我々神凪に祝福を!!」
「「「祝福を!!」」」
席のあちらこちらであげられる乾杯の発生とは打って変わり、確実に浮いている空間があった。
「和麻~。お酒ばかり飲まないで、こっちも美味しいよ~。はい、あーん」
「和麻。おかわりはいかが?」
その浮いている席は上座にあり、他とは違ってそれほどの喧騒はない。
上座の中央に重悟。その横から順に綾乃、和麻、柚葉。反対側には雅人に霧香と並んでいる。
この配置も最初は違ったが、宴会が始まってから相当な時間が経っており、席を移動したためになったものだ。
「雅人様の事は噂で聞き及んでいますわ。物凄くお強いとか」
「私などまだまだですよ。旅をして知りましたが、私は井の中の蛙であると思い知らされました。
世の中は広い。純粋な力が無くとも軽くあしらわれるのですから……」
「それでも、私からすれば遥か高みにいらっしゃいますわ」
「そこまで持ち上げられると照れますな」
酒が入って気分が良いのか、雅人は頭を掻きながら赤い顔を下に向ける。
そんな照れる雅人へ、霧香はもたれ掛かるようにして酒を注ぐ。
「良い飲みっぷりですわね。どうぞ」
ぐいぐいと自分をアピールする霧香の姿に触発され、綾乃と柚葉の行動も段々と度が越え始める。
「和麻には私が飲ませてあげる」
「和麻とはこうするのも久し振りだね」
綾乃は和麻の手を抱えるようにして和麻の口へ御猪口を運び、柚葉は反対側の腕を抱えるようにして和麻の手を自分の手と重ね合わせる。
「柚葉……。一度身を引いたからには、遠慮と言うものが大事だと思うの」
「綾乃ちゃん知ってる? 早い者勝ちって言葉。それに進展がなかったら脈が無いってことだと思うよ?」
睨み合う二人の間には火花の幻想が見えるほどであったが、和麻は気にした様子もなく酒を飲む。
かなりの量を飲んでいるにも関わらず、和麻に酔った雰囲気は感じられない。
「和麻はこれからどうするのだ?」
和麻の両隣の意識が反れたのを見計らい、重悟は和麻に声を掛けた。
「幾つかやり残しがあるからそれを片付ける」
「やり残しか……。差し支えなければ聞いても構わんか?」
「ただの人探しだ」
「人探しか……」
重悟は僅かに寂しそうな表情で和麻を見る。
和麻を自分の息子のように思っている重悟にとって、昔は頼られたが、今では全く頼られない事に寂しさを覚えたのだった。
そんな意識もすぐに取り払い、重悟は自分の娘に視線を向ける。
数年ぶりにあった綾乃は、神凪にいた頃が遠い昔であったかのように成長していた。
姿は身長が少し伸びて丸みを僅かに帯びた程度だが、見方を変えれば、膨大な精霊を従えているのがわかる。
無意識でそれほどの力を有するその姿は、まさしく神凪にとって正しい姿である。それこそを目指すために日々鍛えていると言ってもよい。
しかし、気掛かりなことに、綾乃には常識的なことが欠落している節が多々あった。
被害を度外視した行動。
自分を基準とした考え方。
こうなった分岐点は、何処だったのか……。
重悟は後悔よりも、今の最善を尽くすことを決意する。
「綾乃」
「何?」
睨み合う視線を外し、綾乃は重悟を見た。
「お前には来週より学校に通ってもらう」
「えっ?」
思いもしなかった言葉に、綾乃は呆ける。
そんな綾乃へ重悟は再度、通告する。
「此度の件でお前に常識が足りないことがよくわかった。お前には学校にて常識を学んでもらう」
「何で今更なのよ! この年になって学校なんて行きたくない!」
「ふむ。では、今回お前が壊した物の弁償と、解き放った妖魔の始末をつけてもらおう」
「何でそうなるのよ! 大体、あんなに簡単に消滅するような物作る方が間違ってるでしょ!」
「普通の物であれば構わなかったが、最後の社に関しては値段などつけようもない。それに加えて妖魔を見逃し、同行した者に負担を掛ける。それではただの我が儘な子供にすぎん」
「私だってちゃんと頑張ったんだから!」
「結果の伴わぬ頑張りなどに意味はない。寧ろ悪化させているとさえ言える」
「うう……。和麻……」
聞きたくないと耳を塞ぎ、和麻の腕で顔を塞ぐ。
完全に閉じ籠ってしまった綾乃に重悟は大きな溜め息を吐いた。
「和麻に後で話がある」
「話……ね」
我関せずと、柚葉に注がれた酒を飲んでいた和麻は、重悟の言葉を反芻する。
重悟の視線から、誰が絡んだ件か和麻は察する。
「内容については後で話す。それより、和麻からも何とか言ってもらえると助かるんだが……」
「俺の干渉するような事じゃないな。お互いの意思次第だ」
「…………」
重悟はお猪口に手を伸ばし、横手に控える者へ注がせると、それまでの事を忘れるように一気に口の中へ流し込んだ。
描写が書ききれてないけど許してください。
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23話
綾乃の通う聖凌学園は都内でも有名な学校の1つに上げられる。
通う生徒の大半は、資産家や有名人な親を持つ者がほとんどで、そうでなければ頭脳明晰な少年少女、若しくはトップアスリートになれるような特待生だ。
学校内での安全は、そんな親たちやスポンサーからの寄付で賄われている。
その裏の事情としては、寄付の額により融通を利かせることが出来る利点があることだった。それも、他者を害さない範囲においてなのだから相当な範囲が含まれる。
神凪は邸宅から近いこともあり、昔からこの聖凌学園に寄付を続けてきた。そのため、余程の事がない限り留年や停学処分などはない。
綾乃はそんな聖凌学園に通っていた生徒の一人であり、1年少々居なくとも、未だに席は設けられていた。
「綾乃ちゃ~ん。久し振り~。元気してた~?」
「久し振りだな綾乃」
聖凌学園に着いて職員室に向かう途中、顔見知りの二人を見て綾乃は顔を綻ばせる。
二人というのは初等部からの付き合いがある篠宮由香里と久遠七瀬。
二人は少し身長が伸びた程度で、中等部の頃から比べてそれほど劇的には変わっていない。
「私は元気よ。二人こそ元気そうで何よりね」
「綾乃ちゃんが居なくなってから、学園が平和すぎてつまらなかったけどね」
「そうだぞ。綾乃がいなかったせいで変な虫が寄ってくるし大変だった」
「それって私のせい? 私はトラブルメーカーでも虫除けでも無いんだけど」
綾乃は半眼で二人を見るが、二人は気にした様子もなく笑顔のままで綾乃に接する。
「それはそうと、どうして綾乃ちゃん登校することになったの? てっきり駆け落ちしてそのままゴールインすると思ってたんだけど?」
「私も次に顔を見せるときには子供が居てもおかしくないと思ってたんだが……」
二人はそれまでの笑顔を引っ込めて、真剣な表情で綾乃のお腹を見る。
1年前よりも一回り大きくなっているように見えるが、成長したからだと考えると不自然な部分は見当たらない。
「んー。私もそうしたかったんだけど、中々ガードが固くて……難航してるのよね。しかも、ライバルが増えてるし、更には復活するし……」
「綾乃ちゃんで駄目だとすると、かなりの難易度ね」
「それ以前に未だ高校生だからじゃないか?」
それからも昔の事を引き出しながら会話を続けていたが、職員室にいた先生に呼ばれ会話を打ち切る。
「それじゃ私行ってくるから」
「またね~」
「またな」
職員室に入っていく姿を見送り、二人は教室に戻っていく。
「それにしてもあまり変わってないようで安心したな」
「そうかな~。昔はもっといじり甲斐があったと思うんだけど、なんか落ち着いてる風に見えるのよね~」
「由香里にとってはそうかもしれないが、本人の成長という意味では良かったんだろうな」
「でも、常識を学びに来たってどう言うことかな?」
「それは本人に聞けばいいさ。これから学園生活なんだ。聞く機会もたくさんあるだろう」
「それもそうだね」
二人はこれから起こる、様々な事象の数々をこの時は予想だにしていなかった。
綾乃が学園に大人しく通う事になったのは、重悟がそれなりの対応をしたからだ。
その内容とは、綾乃の解き放った妖魔の滅殺を和麻に依頼したことである。
自分の想定以上の力を手にいれた和麻にとって、慣らし運転の場所と金を払うと言っているに等しく、しかも期間などはあってないようなもの。月に一度は報告のために神凪邸を訪れなければならないが、それは些細なことだった。
一度和麻が姿を隠してしまえば、綾乃に会うことは難しい。それならばと和麻と共に再び出ていけば良いという考えだったが、それも断念せざるを得なかった。
重悟と和麻の間で何らかのやり取りがあったことは綾乃にも分かるものの、ついていこうとしている和麻本人に「ある程度の常識は学んでおけ」と言われたのだから、綾乃としては当然の如く拒否する権利はない。
それを月に一度ではあるが、重悟は綾乃と和麻が会うことが出来るように取り計らったのである。
綾乃に不満は残るものの、会えなくなるよりは良いと、渋々受け入れたのだった。
両者にとってメリットのある話であったため、交渉はすんなり通った。
綾乃が高等部卒業後でも想いが変わらなければ、ついていっても干渉しないとの言質を重悟から得て、綾乃は意気込んで学園に向かったのである。
「それにしても、何で私が通う事になったのを知ってるの?」
「蛇の道は蛇に聞けって言葉があるの。この程度の情報ならすぐよ」
「先週には噂が上がってたくらいだからな。最初は転校生かと思っていた」
途中で入ってきたためか、授業間の休み時間はそのほとんどが中等部からの知り合いによる質問攻責めで過ぎ去った。
今は昼休みであり、同じような状況が続いては堪らないと、特に仲の良かった由香里たちと共に校舎の屋上へ逃れ昼食をとっているところである。
「それにしても、綾乃ちゃん結構食べるんだね……」
「少々食べ過ぎじゃないか?」
綾乃の膝の上には普通の弁当箱が置かれており、手には箸とご飯の敷き詰められた別の弁当箱が握られていた。
「これくらい食べないと、力が入らないのよね。すぐにエネルギーを消費しちゃうし」
「羨ましい! その栄養は何処にいってるの!? ここ!? ここなの!?」
「ちょっと由香里!」
綾乃の四分の一にも満たない弁当箱を座っていた場所に置き、由香里は綾乃の後ろに回ると、後ろから綾乃の胸を鷲掴みにする。
それでも綾乃は、持っていた弁当や箸を落とすこと無くゆっくりと横に置き直すと、胸を揉むことに夢中になっている由香里の手を巧みに操り、逆に由香里の胸を揉み始める。
「全く、由香里の方が大きいでしょ! ほら手に溢れるし、C……いえ、Dくらいはあるんじゃないの?」
まさか自分がやられるとは思っても見なかったのだろう、由香里は顔を真っ赤にしながら綾乃の為すがままにされていた。
「綾乃ちゃんにメチャクチャにされた……。責任取ってもらわなくちゃ……」
「おあいこよ。私はまだBくらいしか無いし……」
女座りでわざとらしく泣き真似をする由香里を軽く流し、綾乃は自分の胸を触る。
スタイルは良いのだが、胸だけはなかなか思ったように成長しない。見た目として、1年前よりも膨らんでいることは間違いないが、親友との対比に深い溜め息しか出なかった。
「七瀬ちゃんだけど、実は隠れ巨乳なんだよ」
由香里の口から、二人にとって聞き捨てならない言葉が発せられた。
綾乃は自分の胸から七瀬の胸に。
七瀬は無責任なことを宣う由香里に。
由香里は、楽しそうに笑いながら七瀬に。
七瀬へ二人が徐々に近付いていく。
「まあ、待て。落ち着くんだ。人の魅力はそれぞれなんだから気にする必要はない。人は中身が大事なんだ」
「中身で判断できなかったら、外見で選ぶかも~」
「由香里!」
「ちょっと身体検査させてもらうわ。親友として」
「嘘だよな? 目が笑ってないんだが……」
にじり寄る二人に、七瀬は身の危険を感じて立ち上がる。
七瀬は陸上部に所属しており、運動能力はかなり高く、同じ学年で並ぶものは全国的に見てもそうはいない。
由香里は平均的な能力しか有していないため、逃げることは簡単に出来る。問題は綾乃のみ。
七瀬は弁当を置き去りにして綾乃から距離をとるようにスタートダッシュを決めた。しかし、七瀬の進んだ先には、何故か笑みを浮かべる綾乃が両手を広げで待ち構えていた。
「七瀬の方から来てくれるなんて」
「!!」
屋上は立ち入り禁止の札が日頃から掛かっているため、3人以外この場には誰もいない。
逃げることのできない空間で、七瀬の健闘虚しく、綾乃の魔の手に落ちた。
京都の都心部にあるホテルの一室。
和麻はベッドに胡座をかき、床に置いてある羅針盤に少しの変化も見逃すことがないよう集中していた。
羅針盤には水がはってあり、静かに鎮座している。
その羅針盤にはってあった水が僅かに揺れた。
室内に風などはなく、ましてや地震などが起きたわけでもない。
波紋の広がりが起きた場所を見て、和麻は羅針盤を手に取ると、中に入れていた水を洗面所に流し、部屋を出ていった。
「いってらっしゃい」
部屋を出ていく和麻の背に声が掛けられる。
声を掛けたのは柚葉。
なぜ柚葉がここにいるかと言うと、妖魔探しのサポートのためだった。
和麻が現在手掛けているのは、風牙衆の残党を捜索中に解き放たれた妖魔探しである。
解き放たれた妖魔の位置を羅針盤で探っていたのだった。
本来の目的である人探しは、探し相手がうまく隠れているためか、和麻の技量を持ってしても場所を特定することは難しかった。
そのため、比較的簡単な部類に入る妖魔探しに着手したのである。
どれ程の規模のものがいたのか、封印時の記録がほとんどないために定かではなかったが、綾乃と柚葉の証言から、多くとも百は越えないことがわかっており、力にしても綾乃には遠く及ばない。
そのため、神凪のとった行動とは、同じ程度力量ある妖魔を百体滅することにしたのだった。
特に京都に重点を置いて行うこととし、和麻に依頼したのである。
もちろん神凪においても、神凪における各家系から人を出して同様に事へ当たっていた。
しかし、人がいたとしても、そう簡単に妖魔が見つかるはずもなく、依頼が長期間になることは明白であり、期日も特に設けなかったのである。
そのため、神凪は妖魔の発見や情報提供を資料調査室に依頼を出し、逐次情報交換するなどして、少しでも効率化を図ろうとしていた。
その情報連絡員として間に入ったのが柚葉であり、連絡係を一任され、その居を京都のホテルへ一時的に構えていたのである。
和麻が部屋にいる理由としては、ホテル代が掛からないことを説明し、一緒に住まないか提案した結果と言える。
この事を綾乃が知るのは少し先の事。
和麻を廻る競争は、本人の意思を無視して激化していた。
綾乃の学園生活は順調───とは言い難かった。
不在だった1年という期間は、学生にとって非常に大きいものであり、学力に差が出るには十分過ぎた。
雑学的なことは生活する上で吸収していったが、根本的な考え方などは、足りない部分が多く、放課後の時間は綾乃の家で家庭教師をお願いしているような状態になっている。
「その式から求められるグラフはこんな感じね。分からないことある?」
「うーん。グラフについては分かるんだけど、これが一体なんの役に立つのか分からないわ」
「結局は、活用できる職業につかないと意味ないからね~。学生の間はいろんな知識を詰め込んで将来の選択肢を増やしてるんじゃないかな~」
「私は和麻のお嫁に行くんだから、花嫁修行だけやりたいわね」
「積極的なのは良いけど、教養や知識は大事だと思うの。子供が出来た時に教えてあげれるくらいにならなくちゃ。子供のためにも、その時になって見たこともないなんて言ってられないよ?」
「それもそうね。子供が何をしたいかなんてその時にならないとわからないし」
「そうそう。じゃあ次の問題にいってみよ~」
由香里は綾乃の意識をうまくコントロールしつつ、勉強を進めていく。
気分転換に他の科目の雑学知識を語ったり、綾乃の恋愛状況を語ったりと、脱線をしつつも進めていった。
「それで、綾乃ちゃんは和麻さんとヤれたの?」
「まだね」
由香里の直接的な物言いに、綾乃は恥ずかしがる素振りも見せずに即答する。
由香里は昔を懐かしみながら、情報を引き出しにかかった。
「じゃあどこまでいったの?」
「世界一周はしたわよ?」
世界史の問題を解きながら綾乃は答えるが、それは由香里の欲しい回答とは離れすぎていた。由香里はそうじゃないと否定を込めて顔を左右に振り再度問い質す。
「そうじゃなくて、キスとかのABCの話よ」
「少なくとも裸の付き合いはあるわ」
「えっ!?」
予想だにしていなかった答えに、由香里の思考は一時的にフリーズする。
最初の答えと相反しているようだが、興味津々にその辺の事を更に詳しく聞くべく、由香里は身を乗り出した。
遠くで大きな音がしたが、そんな些細なことはこの場では気にならない。
「ど、ど、どういう事!?」
「落ち着きなさいよ、由香里」
「落ち着いてられないわよ! あっさり言うことじゃないよね!?」
「一緒の風呂に入っただけよ」
「はあ~……。混浴かあ……。ギリギリセーフなのかなぁ……?」
「そんなことより、ここの問題なんだけど習ってないわよ?」
「それはね、もう少し先の内容で、さっき雑談混じりに話した内容だよ」
「そう言えば数学の時に話してたわね」
「そうそう。───ちょっとトイレに言ってくるね」
「水分の取りすぎじゃない?」
「そうかも~」
由香里は本日三度目のトイレのため部屋を出る。
部屋を出てからトイレまでは入り組んでいるとは言え、三度目ともなれば馴れたもので迷うことなどない。
由香里はトイレの手前の通路を折り曲がり、すぐ脇の部屋をノックした。
「入れ」
「しつれいしま~す」
入った先の和室には一人の男が座っており、片耳にイヤホンを付けてテーブルに置かれたパソコンを除き見ていた。
「これが次の内容だ。今回の報酬も入っている」
「───なるほど。りょ~かいです」
由香里は封筒の中身を確認すると、そっとポケットに入れる。
「次も期待しているぞ」
「分かりました~」
あろうことか、由香里は綾乃に内緒で情報を収集していたのである。
男は満足そうに頷くと、再びパソコンに向き直った。
「ところで、綾乃のお父さんがなぜこんなことをしてるの?」
「お父さんではない。コードネームJだ!」
「Jさんはなぜこんなことをしたの?」
男は必死になって名前を変えたが、名前が変わったところで由香里の対応は変わらない。
「うむ。ある男に頼まれてな。綾乃が居なくなった一年間の出来事について調べているのだ」
「本人に聞いた方が早いと思うんですけど?」
「その男は嫌われたようでな。口をきいてもらえないようなのだ。神凪に関わる者に対しては似たような反応であるため、今回君に依頼した」
「なるほど……綾乃ちゃんって意外に頑固だから長引くかもしれないですね」
「むっ!?」
「そろそろ怪しまれるかもしれないので戻りま~す。またね~」
「ちょっと───」
男が制止の声をあげる前に由香里は素早く退出した。
由香里の言葉は、男の不安を煽るには十分であり、大いに悩ませることになる。
また、由香里はこの事から親子間の仲違いを仲裁する役を別途請け負うのだが、それはまた別の話だった。
月に一度の和麻との再開の場。
重悟へ報告を終えた和麻は、この日を楽しみにしていた綾乃を連れて色々な場所を巡っていた。
綾乃は和麻の腕に抱き着き、客観的に見てカップルにしか見えない。
都心と言っても治安が良いわけではなく、寧ろ人通りの少ない場所にいけば悪いとさえ言えるなかを、全く気にせずに闊歩するカップルがいたらどうなるかなど自明の理。
予想通りの事象が発生していた。
「おうおう、てめぇら。ここが誰の縄張りかわかってんだろうな? ここを通りたけっ!? ───うしろか! ちょっと待てや!」
数人で取り囲もうとしていた男たちを、和麻はすり抜けるようにして進んでいく。
啖呵を切った男は、いつの間にか通り過ぎていた和麻たちを一瞬見失ったが、すぐに何処にいるかを把握し慌てて囲み直す。
「綾乃の知り合いか?」
「───あんたたち3秒あげるから退きなさい」
綾乃にとって、和麻と一緒にいる限られた時間を浪費するような者は、消滅させるに値する、という考え方あることを考慮すると、かなり優しい対応だったが、そんなことが男たちに通じるはずもなく、ニヤニヤとした笑みを浮かべてその包囲を狭めていった。
その行為は、和麻たちの歩みを数秒止める程度の結果しかもたらさず、和麻たちの歩いた後には男たちの姿など影も形もなかった。
風牙衆の謀反事件にて亡くなった者たちの供養を含め、一区切りがついた重悟は、熱いお茶の入った湯飲みを両手で持ち、自室にて寛いでいた。
「よい天気だ……」
季節は秋。
部屋の窓から覗き見える、元の美しく復元した庭を見て重悟は呟く。
決して消えることのない傷は出来たものの、その風景は一時的に傷の事を忘れさせてくれるほどの魅力があった。この庭は今の神凪を象徴するものと言ってもいいだろう。
一時的に見る影もなかったが、今はこうして元の姿に戻っている。
それに、時間は掛かったが、厳馬の息子である煉も意識を取り戻し、今では普通に生活出来るほどにまで回復していた。
今日も綾乃と共に軽く訓練をしているところだ。
人の求める時間とは無情なもので、すぐに終わりを迎える。
重悟は束の間の平和を味わっていたが、その景色は数秒後に消え去ったのだ。
重悟の目の前で庭は爆発し、立ち上る砂煙で視界は妨げられた。
「な、な、な……」
重悟の疲労した脳ではまともな言葉を発せず、ただ呆然とその景色を見ることしかできない。
数分後、砂煙の晴れたそこは、荒れ果て、無惨にも残骸が散らばる庭とも呼べない何かに変わり果てていた。
何かの見間違いかと、重悟は信じられずに部屋を出る。
現実を直視したくない想いのためか、元々の怪我のためか、その足取りは鈍い。
断頭台に登るような気持ちで、部屋の戸をゆっくりと開ける。先程の映像が夢であるように、と。
しかし、現実は厳しいものだった。
部屋の中から見た光景そのままの庭が目の前にある。
少し違うのは分家の者たちが音を聴いて駆け寄ったのだろう。状況を確認するためだろう、数人があちこちに散らばっている。
「何があったというのだ……」
重悟も原因を探るべく、地面の抉れ方から推測して原因の調査を始めるが、すぐに犯人を突き止めることができた。
数十メートルほど離れた先。
煉と綾乃がおり、綾乃は見たこともないような大きな紅蓮の炎で出来た剣を降り下ろしたのだ。
天高く延びた剣は、地面に深い亀裂を作り、そこで調査していた分家の者を巻き込んで再び砂煙を巻き上げる。
重悟は立ち上る砂煙を全て燃やし尽くし、視界を確保すると、分家の者たちの安否を確認し、綾乃を呼びつける。
「綾乃!!」
大声で、しかも怒りを纏っていたためだろう。最近では口をきくこともなくなった綾乃は渋々といった感じで、煉と共に重悟の元にやってくる。
「何よ」
僅かに恐れを抱きながらも、綾乃の口調は挑発的なものだった。
「お前は一体何をしていたのだ?」
例え挑発的な態度だろうとも、正確に状況を分析するためには、聞き取りが大事。
重悟は怒りを強靭な意思力で抑え込んでいた。
「煉に剣の振り方と技を見せてただけよ。敷地の外の人に迷惑は掛けてないわ」
そっぽを向いて言ってのける綾乃に対して、重悟の顔に青筋が入る。
そんな重悟から漏れ出る怒りのオーラに煉は完全に恐れを抱き、重悟と目を合わせまいと、綾乃の後ろに隠れてしまっていた。
「人に迷惑を掛けるなと何度言ったら分かるのだ! そもそも、この前も校舎の一部を破壊するわ、一般人相手に怪我をさせるわ、全く反省しとらんではないか!!」
「あれは更衣室に仕掛けられたカメラを消滅させるのに必要だったし、体育の授業で先生と呼ばれた者が全力でこいって言ったのよ? 非は相手にあるわ!」
「お前は一体学校で何を学んどるのだ! 常識を学べと言っとるだろうが!」
「そもそも常識ってなによ! 何で他人の決めたことに従わないといけないのか分かんないわよ!」
二人の言い争いはヒートアップし、厳馬が煉を連れていってもなかなか終わることがなかった。
「父様」
「どうしたのだ?」
「なんで重悟おじさんと綾乃姉様は喧嘩してるの?」
「───あれが二人にとってのコミュニケーションなのだ。だが、煉は真似をしなくともよい。今日からは一般常識を教えよう」
厳馬は、二度同じ間違いを繰り返さぬよう、煉の教育方針を変えるのだった。
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24話
綾乃の逃した妖魔たちに対する対応も、風牙衆の事件から数ヵ月で終わりを迎えようとしていた。
それは神凪だけの力ではなく、外部からの協力があったからではあるのだが、当初見積もっていた年単位の活動を数ヵ月で終わらせたことは、流石と言えるだろう。
ただ、ほぼ無償で行われた行為であったため、神凪の資産は風牙衆の後始末も含めると、今回の件で3割近くも目減りしたと言える。
そんな神凪ではあるが、対外的な風評としてはそれほど変わりはなかった。
何故ならば、身内に裏切られて謀反を起こされたものの、裏切った者を悉く根絶やしにしたという情報が広まったためである。
裏の世界では、強さを基準とした考え方が定着しているため、今回の事象は、神凪の名を改めて広げる機会となっただけだった。
そのため、外から見れば、内部の弱点と言える者がいなくなり、より強固な絆で結ばれたと考えられたのである。
内情はどうあれ、強さと言う点において評価が変わることはなかったと言うことだ。
表の世間的には、犯罪者集団が金持ちを狙った犯行と言うことで落ち着いており、それは色々な箇所に寄付をしていたことからも、そのような認識が広がっていた。
ただし、対外的には沈静化した神凪において、未だに解決されない問題がある。
重悟が悩んでいるそれは、言わずと知れた一人娘である綾乃のことだ。
確かに今の状況は、和麻との仲を取り持とうと頑張った結果であるから、そこだけを見れば娘が和麻に好意を持つことは良いことだといえる。
しかも、和麻と共に行動することで、炎術師として神炎に目覚めたのだから、『神凪』としては良いことづくめ。しかしながら、人としての常識に疎くなってしまったのは問題だろう。
まるで自分と和麻以外は居ても居なくても一緒というような考え方は、何処か人から外れていっているようなものだ。
そのため重悟は、綾乃を再び学校に通わせているのだが、親友たちと接することで少しは意識の改善はされたものの、未だ解決するには至っていない。
(どうするべきか……)
重悟は悩んだ末に、少し前の話を思い出す。
綾乃が愚痴のように漏らしていた言葉。
(これだ!)
天恵のような閃きに、重悟はすぐに行動へ移した。
少しでもより良い未来を見るために……。
重悟が思い立ってから数日後の日曜日。
綾乃、由香里、七瀬の3人は、休みを利用してある場所に来ていた。
3人は目の前の建物を見て立ち止まっている。
「ほら、綾乃ちゃん」
「私には少し敷居が高そうなんだけど……」
由香里がそっと綾乃の背中を押すが、綾乃の身体は地面に根付いているように小揺るぎもしない。
それどころか、僅かに綾乃の足は後退していた。
「和麻さんのためでしょ! そんなことじゃ良いお嫁さんになれないよ!」
「そうだぞ綾乃。何事もチャレンジしてみるべきだ」
「苦手な部類なのよねぇ……」
由香里と七瀬の励ましの声を聞いてネガティブな発言をしたものの、深呼吸をして顔を叩き気合いを入れると、敵を見るかのように建物を睨み付け、しっかりとした足取りで建物の中へ入っていった。
由香里と七瀬はほっとひと息つくと互いに頷きあい、その後に続く。
3人が来ているのは、都内にある料理教室。
ここに来た理由は、由香里の放った言葉が原因と言える。
その言葉とは───
───和麻さんの妻になるなら、手料理のひとつやふたつは作れるようにならないと嫌われるんじゃない?
という何処にでもありふれた言葉だった。
しかし、綾乃にとっては聞きなれない言葉であり、しかも和麻の事を持ち出されては、綾乃としても簡単に拒否することも出来ず、由香里の言葉に説得されるがまま、休日に料理教室へ来ることになったのである。
七瀬の方は例のごとく由香里から話を聞き、面白そうな事になりそうだとついてきていた。
この3名の費用に関しては、勿論のごとく重悟が負担したのは言うまでもないだろう。
ちなみにだが、由香里と七瀬の二人は、料理についてそれなりに出来るため、実質は綾乃の料理の腕を見るついでに、向上させる目的があったのはいうまでもない。
綾乃たちは、カウンターで受付を済ませ、指示された部屋に入った。
部屋には、他にも料理を習いに来た人たちが数人来ており、椅子に座って料理の本へと視線を向けたり、雑談したりしていたが、綾乃たちが入ってきたことで、視線を綾乃たちへ移し黙礼してくる。
綾乃たちも軽くお辞儀を返して、近くの空いているキッチン台に備え付けられている椅子に座った。
「意外と習いに来てる人がいるのね」
「意外でもないと思うよ? 彼氏や旦那さんに美味しいものを食べさせたいって誰でも考えると思うの」
「余裕があればの話だがな」
「ふーん……」
綾乃はどうでも良さそうに聞き流すと、黒板に書かれたお題を見る。
そこに書かれているのは、カレーという文字。
「私の見間違いかしら……。カレーって書いてあるんだけど……」
「大丈夫。私にも見えるから」
「カレーってあのカレーよね?」
「お魚さんのカレイを思い浮かべてたらビックリだよ?」
「流石に綾乃でもそれはないだろう」
「あんたたち……。私をなんだと思ってるのよ……」
綾乃は由香里たちを睨み付けたものの、カレーに付随している、ある単語が気になり問い掛ける。
「ところでキーマカレーって何?」
「ええ!? さっきあれだけ知ってるような口振りだったのに!」
「驚きだな……。それともギャグか何かか?」
由香里はわざとらしく驚いて見せ、七瀬は綾乃の本心を見定めるように見つめる。
「カレーは知ってるわよ。でも、キーマカレーって普通のカレーとどう違うの?」
この綾乃の言葉で、キーマカレー自体を知らないことを察した由香里は、笑顔で綾乃に説明を始めた。
「いい? キーマカレーって言うのは、インド料理の1つで挽き肉カレーって意味なの。でもね、宗教の関係で牛さんや豚さんは使えないから、他のお肉───鳥さんなんかで作るの。とってもスパイシーで美味しいよー」
「鳥の挽き肉カレーかぁ。私は歯応えがある方がいいんだけどなぁ」
綾乃は腕を組み、キーマカレーがどういったものか想像しながら、通常のカレーを思い浮かべる。
思い浮かべたのは、カレーの具材がしっかりと形を残したものであり、特に肉の歯応えがしっかりとしている方に綾乃は魅力を感じた。
そうして、しばらく3人で雑談していると、本日の講師が部屋に入ってきて軽く自己紹介をすると、料理の説明を始める。
「本日行いますのは、前にも書いています通り、キーマカレーとなります。材料については、お手元に配布している紙に記載していますので、各自確認してください」
綾乃は机に配布してある紙を手にとって見た。
そこに記載してある材料は、山羊の肉を筆頭に野菜やスパイスなどが名を連ねている。
現在、綾乃たちのいる調理台の上に置いてあるのは、調理器具と一部の調味料の類いのみだった。
「材料については、各調理台に備え付けてある冷蔵庫や棚に保管してありますので、そこから取り出してください」
その説明を聞いて、由香里が台の脇に備え付けられている冷蔵庫から食材を取り出し、七瀬が棚から野菜を出す。
「これで材料は全部かな?」
「───揃っている」
由香里は確認の意味を込めて問うと、七瀬が紙を見て、数を確認してから答えた。
「あんまり見ないのも入ってるわね」
綾乃はニンニクを手に取りながら呟く。
「材料の確認は済みましたか? ───それでは調理を始めます。先ずは手をよく洗っていただき、野菜の準備から始めましょう」
そうして始まった料理教室。
序盤は意外にもスムーズにいった。
そもそも、最初は野菜を洗うことと、切ることだけなので何かが起こるはずもない。
「普通に野菜のカットは出来るんだね」
「ん? だって切るだけじゃない。どれくらいの大きさにまで切るかも書いてあるし普通でしょ?」
綾乃の前には、細切れにされた野菜たちが、まな板の上で散らばっている。
「これは……普通なのか?」
野菜の皮を剥き終わったもの……。ここまでは七瀬の理解の範疇であったが、その後の行程は理解から外れていた。剥き終わった野菜を綾乃の前に置くだけで、野菜のカットが終わっているのだ。しかも綾乃の手が動いたようには見えず、包丁がまな板を叩く音すら聞こえない。七瀬でなくとも一般人には一種の手品のようなものだろう。
綾乃を注視して見ていても、綾乃の手には包丁が握られているが、その身体はリラックスしているような自然体のままであり、少し動いたように見えるだけだった。
しかしながら、野菜たちはすべて規定の大きさに切られているのだから、七瀬としては綾乃だし出来るだろうで結局は片付けてしまう。
「それにしてもおもしろいね。触ったらバラバラになるなんて、漫画の世界だけだと思ってた」
由香里は七瀬が置いて数秒しか立っていない野菜を掴み、ボウルの上で軽く握るとバラバラになるのを見ながら呟く。
空想上ではよく聞く話だったが、自分の目で見ることになるとは夢にも思っていなかったのだから当然だろう。
そうして、常人には視認不可能な速度で刻まれた野菜たちは、皮を剥かれたままであったが、次々と由香里の手によってボウルに移されていった。
「つまらぬものを斬ってしまった……とか言わないの?」
「? 食べ物よ?」
「由香里……綾乃には伝わらないと思うぞ」
「それもそうね」
野菜を切り終わり、次はフライパンで炒める行為なのだが、ここで綾乃は思わぬ苦戦を強いられることになる。
「綾乃ちゃん! 火力強すぎ!」
「焦げ始めてるぞ!」
「…………」
綾乃に任せていては駄目にしてしまうことが分かった二人は、すぐさまアドバイスを送る。しかしながら、今度は火力が弱くなりすぎ、再び二人からツッコミを受けたことで綾乃の我慢は限界をむかえた。
「普通はコンロでしょ!」
叫ぶと同時にフライパンを手に持つと、炎の精霊に語りかけて食材を直に熱した。
イライラが募っていたためか、綾乃の呼んだ炎の精霊たちは歓喜してフライパンを包み込み、一瞬で中の具材もろともフライパンを消し炭としてしまう。
「フライパンって燃えるんだね」
「普通は燃えないだろ……」
由香里と七瀬の視線を気にせず、綾乃は火力の微調整をモノにするため、次のフライパンと具材を手に取り挑戦を続けた。
流石に1度目の失敗を繰り返すことはなく、具材を炒めることに成功したが、次のステップである調味料を加える段階で再び失敗をする。
「適度って何よ!」
「どうどう」
「私は馬じゃない!」
「ほら、また入れ過ぎだぞ」
「あ!」
そうして、調味料を加えることにも成功し、最後の盛り付けにまで辿り着く。
「長かったね……」
「何度やり直したことか……」
由香里と七瀬は感慨深く出来上がった皿を見て呟く。
「そこまで言うことじゃないでしょ」
綾乃はそんな二人に大袈裟過ぎると、僅かに頬を膨らませながら言った。
その言葉は、感傷に浸っていた二人を現実に引き戻す。
「その言葉は周囲を良く見てから言ってね。綾乃ちゃん」
「そうだぞ。片付けも勿論綾乃にやって貰うからな」
綾乃の周囲には、駄目になった食材や調味料などが散らかっていた。
それを見て綾乃は何でもないことのように請け負う。
「こんなのは簡単よ」
綾乃は周囲の状況を把握すると、寸分の狂いもなく散らかっている物だけを完全に消滅させた。
それは片付けるべきフライパンや調味料にもおよび、確かに綺麗にはなったが、周囲を唖然とさせる。
一番遅れていただけに、周囲からの注目が集まっていたため、余計に目立っていた。
それを見て溜め息を吐くのは綾乃の非常識さを知る二人のみ。
「綾乃ちゃん……。流石にこれは片付けたとは言わないと思うの」
「料理の前に、物の大切さについて学ぶべきだったな」
「来たときと同じくらいには綺麗よ? 寧ろ見える範囲の汚れはすべて消したんだから、これ以上の片付けはないと思うんだけど?」
そんな綾乃の言い分に、二人は深い溜め息を漏らすと、事態の収拾に動き始めた。
後日、この料理教室で作ったものを和麻に振る舞うのだが、和麻は手をつけずに果物のみで済ませてしまい食べなかったのは余談である。
煉は日々の修練を必死に、それこそ身を削って行っていた。
身を削るとはその言葉の通りであり、日に日にその身体からは、余分な脂肪どころか必要であろう筋肉まで落ちてきている。
そのことに本人は気付いていなかったが、修練を見守っていた人物には丸分かりであり、これ以上は見られるものではないと、煉に声を掛けた。
「今日の修練はここまでだ」
「!! まだやれます!」
厳馬は煉の鬼気迫る様子を感じ取り、顔を左右に振ると言い聞かせるように煉の肩へ手を置く。
「今の状態で行っても身に付くまい。それどころか逆効果ですらある。今やるべきことは、己の心と向き合うことだ。───それまでは基礎鍛練のみとする」
「そんな……」
煉は厳馬の言葉にショックを隠せずにいた。
そんな煉へ確認を、自分自身を見つめ直すことを促すように厳馬は問い掛ける。
「何故そんなに強さを求める?」
「…………」
「何のために強さを求める?」
「…………」
煉は黙したまま答えようとはしない。
厳馬の世代であればがむしゃらに鍛練を行ってきた。それを煉に課すことも出来るが、それでは、ある前例の二の舞にならないとも限らない。
強さなど後からいくらでもつけられることを考えれば、今は精神を鍛えることを優先すべき……。
厳馬は煉に考える時間を与えるため、その場に煉を残し道場を後にした。
残された煉は、自分のなかで答えが出せず、然りとて父親が答えてくれるわけもなく、身近な相手───雅人に助言を求めた。
何故雅人になったかと言うと、綾乃に聞けども、精神論や根性論のみであり、全く参考にならなかったからである。その他の人物で話を聞ける人物となると、一族の中で黄金の炎に覚醒しており、その上で神炎を発現させていない───つまるところ神凪の中で一番煉に近い人物と言えるからだった。
「雅人おじさん。少しいいですか?」
「どうかしましたか?」
雅人は、煉の様子を見て少し驚くも、すぐに表情を戻し誰もが安心するような笑みを浮かべる。
「どうやったら……強くなれますか?」
この言葉を聞いて雅人が思い浮かべたのはある人物。
その人物は自らの力により道を切り開いたが、他者を寄せ付けない───寧ろ必要としない精神性まで思考が昇華してしまっている。
しかし、煉が求めることはそうではないのだろうと、先ずは煉の考えを確認することにした。
「どこまでの強さを求めておいでですか?」
「どこまで……」
「今よりもと言うことであれば、手っ取り早く身体作りをお薦めします。神凪として炎の力を上げたいと言うのであれば、厳馬殿の修練を続けた方がよろしいでしょう」
雅人の言葉は煉が求めることに近いようでいて違う。そのため、煉は言葉に詰まりながらも再度不安に思っている事を口にした。
「兄さまや姉さまのように……。神炎は使えないと……。僕は能無しとして……勘当されてしまいます……」
煉の言葉を聞いて成る程と納得する。
(兄の事情を中途半端に聞いたことでの勘違いか……)
煉が考えているような事にはならないと、雅人は断言できる。しかし、その事を伝えても煉が納得しないことは明白だった。
神凪の宗家において、一部を除けば神炎を使えない者の方が現状では少数。しかも、同じくらいの年齢である綾乃は既に神炎使いとして覚醒しているのだから煉が焦るのも無理はない。
雅人は煉の悩みを理解したが、求めている答えを持ち合わせてはいなかった。言うなれば、雅人は術者としては煉と同じ立場なのだ。本来であれば、助言すら烏滸がましい。
だからと言って、自分を頼りに来た者を突き放すことはできなかった。
「神炎使いではない私では、どうすれば神炎を出せるか分かりません」
「……」
「私も神凪である以上、神炎には憧れるし神炎使いになりたいと思っています。そのために調べたことですが、それでも良ければ話しましょう」
「是非お願いします!」
雅人は庭を一望できる縁側へと向かうと、そこへ腰掛け、隣に座るよう煉を誘う。
「神炎を使うには極限の集中力に加えて、自らの意思力が必要と言われています」
「意思力……ですか?」
「ええ。まず、嘆かわしいことではありますが、神凪の者であっても、集中力が無ければ不浄なるものを焼き尽くす金色の炎は出せません。ここまでは、よろしいですね?」
「はい」
煉は言葉を聞き逃すまいと雅人を見つめる。
その辺りの事は厳馬から聞いており、煉は自然と出来ていることではあるが、分家の者たちが金色の炎を出せないことは知っていた。
「次に意思力です。集中し高めた力に対して、自らの意思を乗せることが出来れば……」
「どうやって意思を乗せるんですか!!」
「すいませんが、今の私では集中力を維持することに精一杯で、意思力を込めるところまでは至っていません。ただ、私の考えとしては、自らの考えや想いを乗せる事だと……」
煉は雅人が言い終える前に立ち上がると、礼を言う事もなく駆け出してしまった。
雅人はそんな煉を追いかけるでもなく、独り言のように呟く。
「心配ならば、自ら助言したほうが良いと思いますよ……蒼炎使い殿」
雅人はゆっくりと立ち上がると、その場から去っていく。
廊下の端で様子を窺っていた人物も、雅人が立ち上がると同時にその場を離れていった。
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