不死斬りの刃 (YSHS)
しおりを挟む

不死斬りの刃

 書きたくなったので書いた。


 一九一二年(大正元年)グレゴリオ暦十二月。

 

 ある山の中。シンシンと雪の降りしきる中で、男が二人、刃を交えていた。

 

 一方は、普通程度の体躯の男であった。およそ五尺半ば(一六五センチ前後)ほど。柿色の着物を纏い、襟巻を首に巻いていて、左腕に奇怪な造りの義手を付けた男だった。

 

 対してもう片方は、畳一枚では足らぬほどの巨漢であった。力士のような体型をしている。全身の筋肉を恐ろしいまでに隆起させ、その巨体に見合わぬ動きで、人間の大人くらいはある金砕棒を持って執拗に相手を攻め立てていた。

 

 前者のほうが圧倒的に不利だということは火を見るよりも明らか。通常ならそのはずが、だがこの義手の男は、巨漢からの猛攻を悠然といなしていった。かれこれ長い時間、この二人の対峙は続いていたが、にも拘らず義手の男は、ふっ飛ばされることなく、降り積もった雪の地を、腰を据えて踏みしめていた。

 

(野郎……、一体どんな術を使えや、人間の分際で俺の攻撃をああも弾き続けられるってンだ。それにあの刀……、如何な技量があろうが、ただの名刀って程度じゃとっくに折れてるはずだろうが……、なのに何故刃こぼれ一つ無えってンだ……。どっかからパクってきた国宝か何かだってのか?……)

 

 巨漢は内心毒づいた。声に出さなかったのは、己の矜持――鬼としての矜持故であった。

 

 そう、この巨漢は鬼である。人を喰らう鬼である。人より遥かに強大な膂力を持った、鬼である。

 

 されどこの鬼、追い詰められていた。他でもない、目の前の義手の男によって。義手の男に攻撃を弾かれる度、鬼自身の身体の動きがブレていく。力で勝るはずの鬼が、この場合むしろ体幹を崩されつつあったのだ。

 

 そうしていれば、段々と隙も大きくなっていくし、隙を見せる頻度も高くなっていく。だから、義手の男は、それらを逃さず鬼の身体へその刃を打ち込んでいくのであった。

 

 ただしその刃が鬼を傷付けることはなかった。

 

 その鬼への有効打はおろか、肌に赤筋一つ付かなかった。それもそのはず、鬼は岩よりも頑強な体を持つ。生半な方法で、損傷を与えることは叶わない。

 

(やっぱり、素人ってェわけかい……。そんなナマクラの剣筋で、俺と張り合おうってかい)

 

 その時この鬼の胸中では、安堵があった。加えて、こんな素人相手に押されている自分への――安堵している自分への――忸怩と、それと目の前の男への憎たらしい気持ちによる対抗心も渦巻いていた。

 

 一方で義手の男のほうは、今自分が握っている刀で打ち合ったところで不毛と判断したようだった。しばらく打ち合って、先に鬼のほうが体勢を崩して膝を突いたところで、その隙に後ろへ跳んで距離を取った。

 

 それで男は、背中に負っていたもう一振りの太刀の柄に手を掛けた。鯉口が切られ、それが抜かれる。血のように赤い鞘から鍔が離れ、その刀身を現した。

 

 その刀身は妖しげな赤い光を流し出していた。誰が見ても、ただの刀でないと分かる、如何にもな妖刀であった。

 

 いわんや鬼が、それを解さぬはずがない。鬼は崩れた体勢を立て直し、再び義手の男に襲い掛かろうとしたところで、その妖刀を目にするや二の足を踏んだ。

 

 ――あれに斬られたらまずい。

 

 本能的に感じたのだ。

 

 義手の男は、抜き放ったその妖刀を、背面に回す要領で構えた。左手の義手を刀身に添え、力を溜めるように構えていた。噴き出る赤い気はより強く、濃く刀身に絡み付いた。

 

(まずい……、まずい、まずい、まずい、まずい!……)

 

 最早鬼は、誇りも何もかなぐり捨てて後退の決心を自然としていた。

 

 しかしもう遅かった。

 

 男は太刀を振った。瞬間、鬼は斬られた。明らかに義手の男の間合いの外に立っていたのに、振るわれた太刀が放った、鮮赤と漆黒が入り混じった気が刃となって鬼を斬り付けたのだ。

 

 この一太刀は易々と、今まで傷一つ付かなかったはずの鬼の左腕を切り落とし、並びに胴体を切り裂いた。

 

 ボトボトと左腕の切断面から、ダラダラと胴の傷口から、血が流れいでた。それはもう多量に。常人なら死んでもおかしくない。

 

 それに、

 

「い、痛えッ! ク、クソッ! クソォ! クソォ! 何でだッ、何で治らねえッ!……、何で治らねえンだよオ!」

 

 鬼には、人間にとっての致命傷となる傷を治す再生力と生命力がある。ところがこの傷は、鬼の再生力を以ってしても、どういうわけか治せないのだ。不幸中の幸いか、鬼には失血死というものがないため、斯様に多量の血を流しても、この鬼は一向に死ぬことは無かった。

 

 無論、それは義手の男も見越していたことだ。

 

 すかさず彼は、鬼が泡を喰っている内にその赤い太刀を構え直すと、素早く相手の胸を貫いた。それから間髪入れずに鬼を押し倒すと、胸に突き立てた太刀を乱暴に、内部の心臓や動脈を荒らしつつ引っこ抜き、今度は鬼の喉元に力任せに突き込んだ。

 

「御免……」

 

 唸るような低声で、その一言が鬼に手向けられた。

 

 鬼が力なく、後頭を地に付けたのを見てから、やおら太刀を引き抜いて立ち上がった。刀身を一振りして血を払い、背中の赤鞘の中に納めた。

 

 

THE PUNISHMENT FOR THE EVIL DEMON

 

 

 物言わぬ鬼の死骸に向けて合掌して拝むと、男は背を向けて歩き出した。

 

 顔に降り掛かる雪の粉を手のひらで拭って、顔を腕で庇いながら、空から降ってくる雪を眺める。そうしてぼんやりとしていた彼の背中を、何者かが襲った。

 

 反応して男は素早く抜刀し、防いだ。が、襲い来る相手のあまりの力に耐えきれず、防御が崩れた。そこに抜き手を放たれた。鋭い爪の生えたその手による抜き手は、障子紙を破るが如く容易く男の胸をぶち破った。

 

「ぐぅ……」

 

 短い呻き声を上げて、男は生命活動を停止……死んだのだ。

 

 義手の男を殺したのは、今しがた彼によって殺されたはずの鬼であった。未だその傷は癒えておらず、気息奄々の様を晒しているが、生きていた。

 

「こいつがッ!」

 

 鬼は義手の男の顔を踏みつけた。

 

「この野郎ッ! 野郎ッ! 野郎ッ! よくもッ! やってッ! くれやがったなッ!」

 

 更に幾度も踏み付けた。そうする度に、義手の男の頭からは、頭骨が砕けるような乾いた音が響き、血を散乱させた。

 

 だがしばらく同じことをしていると、やがて彼は息を切らせてきて、疲れから足を踏み外して転んだ。ただでさえ重傷を負っているのに、怒りに任せて力を過剰に出したせいで、普段なら疲れないはずの行動さえ満足に出来ないのだ。

 

 手を突き荒い呼吸を繰り返したのちに鬼は、義手の男の背中に負っていた赤い太刀に目を付けた。

 

「この刀か……、この刀がいけねェんだなッ、アァッ?」

 

 と、忌々しそうにそれに睨みつけると、毟り取ろうとするかのように、手を伸ばした。

 

 伸ばした手が太刀に届くかというところで、不意に鬼は、背筋にゾワリとしたものを感じた。人の気配がする。それもただの人間じゃない、自分たち鬼を狩る者……、それも相当な手練れだ。

 

 呼吸を乱しながら、鬼は辺りへ次々と顔を向けた。正面、右、左と来て、最後に背後を向いて、喉から悔しげな呻き声を出した。

 

 背後の遠く向こうから、男が歩いてきていた。

 

 端正な顔立ちの、若い男だ。詰襟を着用し、その上から左右非対称の色の着流しを羽織っている。身の丈五尺八寸(一七六センチ)程と高く、髪は長い。

 

 その男は刀を抜いていた。鬼を相手に。さも当然のように。

 

 その姿を見て鬼は、悟った。

 

「畜生っ、畜生、畜生、畜生っ……。鬼狩り……『柱』かッ! テメエ、『柱』だなッ、そうだよなァ! クソがッ、折角柱が来たってのに!」

 

 『柱』と鬼は、やって来た男を確かにそう呼んだ。それは『鬼殺隊』という組織に於ける最上級の階級のことである。

 

 鬼を狩る者たち『鬼殺隊』――遥か昔より鬼たちと闘っていた者たちの総称。その中で最高の実力者であり、最高の階級を持つ者たち。即ち、鬼からすれば畏怖にたる存在である。

 

 通常の鬼であれば脅威として映る相手だが、しかしこの鬼にとっては、自らの力と地位を高めるための登竜門であり、待ち望んだ好機であった。

 

 それが生憎と、先ほどの義手の男から受けた傷のせいで、まず勝ち目は無くなっていたのだ。今戦ったところで、まず負ける。

 

 だから、退散するしかない。尻尾を巻いて、逃げるしか道はないのだ。

 

 咄嗟に鬼は、傍にあった義手の男の骸を持ち上げると、鬼殺隊の男に向けて投げ付けた。いとも軽々と、義手の男の死骸が高く宙を飛び、鬼殺隊の男へぶつかりに行った。

 

 それを彼はよけることは出来なかった。身体能力の問題ではない。投げ飛ばされた男の体を傷付けるわけにはいかなかったのである。故に彼は受け止める他なかった。

 

 飛んでくる人間の体を受け止めるのは至難の業だが、この男は難なくやってのけた。それでその死骸を優しく地面に横たえると、瞬時に前を見やった。

 

 そこにはもう鬼は居なかった。代わりに、鬼が遁走した痕跡が残されていた。鬼が逃げたであろう方向にある雪が、広範囲に渡って溶解されていた。雪が溶けた後には、薄い水溜まりや、ぬかるんだ地面。また随所にある木々が、黒く焦げていた。どうやら、非常に高い熱、もしくは炎が過ぎったらしかった。その熱のせいであるために、雪解け水や、木が含んでいた水分が蒸発し、辺り一帯に霧さながらの蒸気を発生させていた。

 

「逃げられたか……」

 

 僅かに男は顔をしかめて言った。

 

 あの鬼は深い傷を負っていたから、滴り落ちた血を追跡されないよう、地面にある雪を溶かして消そうとしたわけだ。その上、発生した熱で作り出された霧を目くらましとして利用し、見事逃げおおせたのだ。

 

 すぐにでも男は鬼を追い掛けたいところであったが、まずは義手の男の安否である。遠くから見たところ彼は死亡で間違いなかったが、万一にも生きていたことを考慮しての判断である。

 

 胸に空いた穴と、そこから溢れだす多量の血液。首に指を当てるも、既に脈は感じられなかった。これは間違いなく即死していた。

 

(気の毒だが、もう死んでしまっている……。しかし、惜しいな。先ほどの鬼、十二鬼月かどうかは判らないが、相当に力があった見た。それをあそこまで追い詰めるとは……)

 

 そこで、鬼殺隊の男は、

 

「もし、首を切り落とさなければならないと知っていたら……」

 

 と声に出して呟いた。

 

 ――詮無きことだ、と彼はかぶりを振った。

 

 ふと彼は、義手の男の持つ、ある物に目に留めた。それは、先刻の鬼が手を伸ばそうとしていた赤い太刀であった。

 

 随分と古い太刀だった。血のような朱塗りの鞘は、至る所の塗装が剥げ掛かっている。鍔は桜の花を模した物だろうか。戦国以降の無骨な打刀と比べ、飾り気のある刀である。

 

(拵えは室町だろうが、刀身が造られたのはおそらく鎌倉……いや平安時代か。国宝指定ものだな。この男、一体何者だ?……)

 

 そう沈思しながら鬼殺隊の男は、その太刀に手を伸ばそうとした。その指が太刀に触れようとした折、突如何かの手が彼の手首を掴んだ。

 

「むっ?」

 

 鬼殺隊の男は驚愕して腕を引いた。彼の手首をつかんでいた手は、それを追わず素直に離した。

 

「これに、触るな……」

 

 そう言ったのは、今まで死んでいたはずの義手の男であった。当然、鬼殺隊の男の手を掴んだのは、義手の男の手である。

 

 義手の男の身体からは、発光する桜の花弁が、同じ色の光と共に立ち昇っていった。鬼殺隊の男の手を掴んだのは、義手の男の手であったらしい。彼は生きていたのだ。

 

「この太刀には、触るな……」

 

 その声音は怒るというよりは、警告じみていた。

 

「生きている、のか?……」

 

 おもむろに身体を起こしていく義手の男を前に、立ち上がって後ずさる鬼殺隊の男。

 

 全体どんなからくりを使ったのか、血に塗れているにも拘わらず、義手の男の身体にはどこも致命傷と思しきものがなかった。本当に、何事も無さげに二本の足で地面を踏みしめて立っていたのである。

 

「……お主」

 

 唐突に義手の男は、鬼殺隊の男に向かって口を開き、

 

「追わぬのか、あれを……」

 

 こう言った。

 

「それより、医者に診てもらえ」

 

 と鬼殺隊の男は肩を貸そうとするも、義手の男はそれを押し退け、

 

「俺はいい。為すべきことを、為すのだ」

 

 それだけを残して、再び雪山の中へと消えていった。

 

 鬼殺隊の男は、追い掛けなかった。無理に追う理由が見つからなくて、憚られたからだ。

 

 何はともあれ、今はあの鬼を追跡せねばならない、それが彼の使命なのだ。あの義手の男も心配ではあれど、雪山の中を平然とうろつくほど気力のある人間の保護より、多くの人間を喰い殺すであろう鬼を追い討つほうが先決である。

 

 鬼殺隊、水柱・冨岡義勇は、件の鬼が通ったらしき、雪の溶けた道に目を向け、追跡を開始した。




 完結の予定はありませんが、一応もう一、二話くらい書こうとは思っています。

 暇だったら。

【追記】
 ユーザー名『ふろうもの』様から、鬼撃破後の演出テキストをいただきましたので、試しに使わせていただきました。
 なお、勝手ながら英語・日本語テキストを一部変更させていただきました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

飼い隻狼

 雪も溶けかかる季節。山奥にある一軒の家。その中で、ゴリゴリと、隻腕の男は気難しい仏頂面で、(ノミ)を片手に木彫をしていた。木材を足で押さえ、おおまかな形に抉っていく。どうやら仏像を彫っているらしい。

 

 左手の義手は、今は外して使っていない。

 

 やがて、外から何やら子供が騒ぐ声が、男の耳に届いた。

 

「おじちゃーん!」

 

 家の中に、どやどやと子供たちが駆け込んできた。

 

「おじちゃんも、兄ちゃんと母ちゃんにお願いしてよ!」

 

「私も一緒に町に行きたい! ね、おじちゃんも一緒だったら、いいでしょ?」

 

 小さな男の子と女の子、竈門花子と茂が、義手の男に縋り付いて懇願してきた。何も返答せずに男は、揺すられながらその子たちを見た。不愛想で、ともすると睨んでいるような厳めしい顔つきだが、子供たちはそれを意に介さず、懇願の眼差しを向け続けていた。

 

「こら! 狼さんに頼ろうとするんじゃないの!」

 

 と、続いて入ってきた女性が、二人を叱りつけた。それに二人は、ビクリと身を竦めて、しおれ返った。その後、『狼』と呼ばれた男に流し目を送った。子ども特有のいじらしい顔つきで、無言で彼に助け舟を求めていた。

 

「ごめんなさいね、狼さん。この子達ったら、炭治郎が駄目ならとばかりにあなたに頼み込んで……」

 

 と申し訳なさそうな顔で言う竈門葵枝に、顔を向けぬまま、構わぬ、と一言だけ男は応えた。

 

「厄介になっている身だ」

 

「厄介だなんてそんな……。むしろお世話になっているのはこっちですよ。ただでさえ、女子供の多い所帯で頼もしいのに、子供たちの面倒を見てくれるばかりか、狩りでお肉を取ってきてくれたり」

 

 遠慮がちに葵枝は微笑んで言った。

 

「肉か……」

 

 ふと、(ノミ)の手が止まった。それで思い立ったように立ち上がり、付近に置いてあった、彼の左手の代わりなる義手を、その二の腕半ばから先の無い左腕に取り付けた。それから身支度を整えたのち、壁に立てかけられていた手製の弓を取って外に出た。

 

「あっ、狼さん、おはようございます!」

 

 外では、木炭を入れた籠を背負った少年が居た。この少年の名は竈門炭治郎と言い、この家の長男である。年の頃は十三ばかりではあるが、仔細あってこの年にしてこの家の大黒柱なのである。

 

「これから狩りですか」

 

「罠も見に行く」

 

「そうですか、いつもご苦労様です」

 

 炭治郎は歯を見せて微笑んだ。

 

「……お主は、この雪の中でも売りに行くのか」

 

「もうすぐお正月ですからね、少しでも炭売って、稼がないと」

 

 そうか、と狼は相槌を打つと、おもむろに懐から、布に包まれた小さな物を取り出して、炭次郎に差し出した。

 

「これを売った銭で、頼みたい物がある。余った銭はお主が持っておけ」

 

「いいですけど……、狼さんのお金なんだから、狼さんが持っておいたほうがいいんじゃないですか」

 

 狼からの注文を聞いて、品を受け預かった炭治郎は、いささか訝しげな顔をしてから、こう言った。

 

「後ほど他に頼みたい品があるやもしれぬ」

 

 淀みなく切り返す狼に、炭治郎は腑に落ちぬ面持ちになったが、ひとまず頼まれ事として了承した。

 

 そうして出発をする炭治郎を見送っていると、

 

「いいんですか」

 

 横から葵枝が尋ねる。

 

「あの小さな包み……、中身はあなたが持っていた昔のお金の内の一枚で、売ったら相当な額になるはず……」

 

 彼女からの問いに、狼はむっつりと黙った。

 

 狼が炭治郎に頼んだのは、食べ物であった。正月のおせちに出るような食べ物である。勿論、それらは狼一人で食べる量ではない。

 

「承ったからには、買ってきてもらう」

 

 と、少ししてから狼は、このように言った。これに葵枝は、思わずクスリと笑った。

 

「狼さんも大分、あの石頭の扱いが板に付いてきましたね」

 

 歩き出す狼の背中に、彼女はそんな言葉を投げて寄越した。

 

 その言葉を背中に受けながらしばらく歩くと、子供のぐずる声が聞こえてきた。見れば少女が、幼子を背負ってあやしているところであった。

 

「狼さん、おはようございます」

 

 少女は、狼に笑顔を向けて挨拶をした。その後すぐに、後ろの子がまたぐずり出して、慌ててあやしに掛かる。

 

 少女の名は竈門禰豆子と言い、炭治郎の一段下の妹で、この家の第二子の長女である。そのためか、こうして下の子たちの面倒をよく見ている。

 

「ごめんなさい、狼さん、六太がなかなか泣き止まなくて……。すみませんが、また、あの笛を吹いてはくれませんか」

 

 すまなそうな顔で上目がちに彼女はお願いをしてきた。

 

「……」

 

 何も言わないまま狼は、義手の中指を掴んで、これをめくった。そうすると掌部からもう一本の指が現れた。

 

 小さな穴が二つほど空いていて、指輪が嵌められた、女性のような細指だ。これに口を当て、息を吹き込んでやると、甲高く、寂しげで悲しげな笛の音が、虚しそうに木霊した。

 

 この笛の音を聞くや、禰豆子に背負われている子供――竈門六太はたちどころに泣き止み、じっと狼の義手にある指笛を見やった。

 

「ありがとうございます。――それにしても、良い笛ですよね。悲しそうな音なのに、何だか綺麗で、つい聴き入っちゃう。どうやって作られているんですか」

 

 しげしげと、禰豆子は狼の指笛を見るが、さっと彼はこれを隠してしまった。この指笛は、人間の女性の指だ。しかも、獣の胃袋の中から出てきたものだから、溶けかかってもいるので、狼とてあまり子供に見せたいものではなかった。幸い禰豆子をはじめとした子供たちも、てっきりこの笛が木か何かで出来ているものと思い込んでいるから、吹いて用が済んだらすぐに仕舞うようにしている。

 

 一瞬禰豆子は鼻白んだ顔をするも、

 

「何はともあれ、これで六太を寝かしつけられます。狼さん、六太を撫でてやってくれませんか」

 

 と微笑み直して話を切り替えた。

 

「何故」

 

「六太も……お父さんが死んで、寂しいんだと思います。狼さんみたいな大人の人に、撫でてもらえば、喜ぶんじゃないかなって……」

 

 遠慮がちに言う禰豆子を見て狼は、禰豆子と、彼女の背中の六太を交互に見やった。

 

 しばらく狼は、逡巡したように黙りこくったのち、やおら六太の頭に手を伸ばすと、不慣れながらも優しく、羽毛が降り立つみたいに穏やかに撫でてやった。六太はくすぐったそうに笑った。

 

 これを見て禰豆子は、何が可笑しかったのか、クスクスと微笑ましそうな顔で笑った。それを怪訝に思って、狼は彼女に流し目を送った。

 

「あ、すみません。でも、いつも気難しい顔をしている狼さんを怖がらない六太を見ていると、狼さんもこの家に馴染んでいるなぁって」

 

 はにかんでから禰豆子は、背中の六太に向けて、良かったねー、狼さん優しいねー、と猫撫で声を掛けてあやしだした。

 

 彼女の柔らかい声を受けながら、背中で揺られていると六太は、次第に顔をとろけさせうつらうつらとしながら目を閉じ、やがて眠り出した。随分とあっさりと眠った。それだけ喚き疲れていたのだろう。

 

「あっ」

 

 と、不意に禰豆子が、狼の背後の空を見て声を上げた。狼が振り向けば、空から何か鳥のようなものが飛んできた。それに向けて狼が腕を差し出してやると、その飛翔体は当然の如くそこにとまった。

 

 それはミミズクであった。ただの梟ではなかった。幻想的な青白い光を纏った、神秘さを感じさせるものであった。

 

 わあ綺麗、と禰豆子が感嘆した。

 

「いつ見ても綺麗ですよね。こんな動物が居るなんて。名前何でしたっけ。たしか……薄井ウン――」

 

「薄井右近左衛門。……義父(ちち)から取った名だ」

 

 狼にしては食い気味に、どうかすると禰豆子の言葉を遮るように、彼はそれに付けられた名を教えた。

 

「そうそう、それそれ! 不思議な梟ですよね。どうやって光っているんだろう。ねえ、もっと見せてもらえませんか」

 

 禰豆子からせがまれて狼は、右近左衛門が乗っている腕を彼女のほうへ下げて見せてやる。顔を寄せて禰豆子はその梟とくとくと、矯めつ眇めつ見る。対する右近左衛門は、自らを食い入るように見てくる目の前の娘っ子を、身構えるみたいに眼に捉え続けていた。

 

 と、その折、

 

「狼さん!」

 

 横合いから、少年の声が掛かった。

 

「あら、竹雄」

 

 禰豆子から名前を呼ばれた、竈門家次男(第三子)の竹雄という名の少年は、姉ちゃん、と反射的に彼女を呼び返した。

 

「これから木を切るの?」

 

「うん。兄ちゃんから、木を少し切っといてって。それでなんだけど――」

 

 禰豆子に応えてから竹雄は狼に向き直って、

 

「狼さん、これから狩りに行くんだよね。ならお願いがあるんだけどさ、連れてってくれない? 狩りのやり方……弓の使い方とかさ、教えてほしいんだ。木を切る仕事をすぐ終わらせるからさ、ね」

 

 と捲し立てるように竹雄は頼み込んできた。

 

「弓か」

 

 狼が聞き返すと、竹雄は、うん、と首肯した。

 

「こら、竹雄。狼さんを困らせちゃ駄目でしょ」

 

「でも……」

 

 禰豆子からたしなめられて、竹雄は一寸ひるんだ。

 

 まだまだ幼い身ではあるものの、それでも竹雄は、炭治郎や禰豆子に次ぐ兄弟として責任を自覚し、自身も何か役に立ちたいと考える年頃である。そのために、弓術といった、狩りに使え、外敵から身を守れる術を欲するのだろう。

 

 チラリと竹雄は、助け舟を求める眼を狼に寄越した。はっきりと言葉に出すわけでもなかった。禰豆子に言われて、流石に竹雄も、これ以上無礼なことを言ううのは憚られているらしい。

 

 しばし狼は考え込んでから、

 

「構わぬ」

 

 了承の返事をした。

 

 エッ、と禰豆子と竹雄の声が重なった。

 

「少しばかりなら、教えよう」

 

「すみません、狼さん。でも、そんな気を遣わなくても……。それに、竹雄にはまだ早いかもしれないですし」

 

「無理はさせぬ」

 

 ただし、と狼は竹雄に向き直り、

 

「約束しろ、一人で狩りをするな」

 

「うんうんうんうん! 分かってる。もし狩りをするなら、狼さんと一緒ってことでしょ」

 

 笑みを溢れさせながら竹雄は何度も頷き、早口で答えた。

 

「ならば、よい。では、仕事を済ませろ。手伝う」

 

 竹雄は、そんないいよ、と遠慮の身振りをするも、構わず狼は木を切る作業を手伝った。

 

 あまり仕事は多くなかったのと、大人手があったことで、作業はすぐに終わった。その後、身支度を整えた竹雄は、狼の後に続いて森の中へ入っていった。

 

 今回の狩りは、弓を使うことはなかった。熊や猪等に遭遇しなかったこともあるが、仕掛けた罠で十分な数の獲物が取れたことで、わざわざ弓で狩りをする必要がなかったためである。

 

 元より、罠を一通り見え終えたら帰るつもりであったが、今日はすぐには帰らなかった。竹雄に弓をはじめとした狩りの術を教えるためだ。

 

 普通なら罠を教えたほうが、よほど安全で、実用にたるのであるが、今教えてやるのは弓である。何故なら、竹雄が納得しないだろうからである。

 

 教えたのは、弓の引き方と、矢の撃ち方の二つであった。

 

「足を前後に開き、重心を後ろに置き、姿勢を低く」

 

 説明しながら狼は、実際に弓を弾く格好を見せてやる。細かい解説はしない、抽象的なものであるが、素人に手ほどきをするならこれでちょうどよいだろう。

 

 その後狼に弓を渡されて、竹雄はそれを引いてみた。この弓は、実際の合戦で用いられていた弓に比べれば遥かに軽く、小ぶりで狼の背丈ほどしかないものであるが、それでも初めて弓を持つ子供からすれば、コツを掴めぬ内は弦を弾くのも骨が折れる。

 

「弦を引く時は腕ばかりに頼らず、胸と、背中も使え」

 

 その助言通りに竹雄は、腕以外の力も使って引いてみる。すると、まだまだ重くはあるものの、嘘みたいに引けるようになった。

 

「弓を持つ手が負けている。持ち手の肩を固めろ」

 

 細かい指摘を受ける度、そこを直す。そうするにつれ、竹雄の弓の構えは、ようよう形になっていく。

 

 教えている立場であるが、狼はその竹雄の様を見て、さる人物の姿を想起した。

 

 葦名弦一郎。

 

 かつて、狼が身を置いた葦名という国の大名・葦名一心の孫の名だ。仔細は省くが、斜陽を迎えた葦名国を守らんとするために、彼は狼と敵対し、幾度にも渡って刃を交えた。

 

 その際に受けた弦一郎の弓術。狼も話には聞いていたが、弦一郎は弓の名手であった。今でも、弓を構えるその姿は明瞭に覚えている。

 

 竹雄の弓を引く姿は、そのまま弦一郎の姿と重なった。

 

「ん、どうしたの、狼さん」

 

 竹雄は、しげしげと自身を見てくる狼に、思わず弦を摘まんでいた手を離し、小首をかしげた。弓は鈍く間抜けな音を立てて元の形に戻った。

 

 何でもない、と狼は抑揚なく言い、

 

「矢をつがえずに、引いた弓を離すな。弓が痛む」

 

 今の竹雄の行いに、一つ注意した。

 

「あっ、ごめんなさい!」

 

 そうして、狼による弓の教授は、また続く。

 

 帰り道での竹雄は、実に上機嫌であった。狼が教えた弓の引き方を、何度も何度も形だけ練習していた。それはさも、狼の教えがあれば大丈夫だと、信頼している風であった。

 

 事実、竹雄の弓の飲み込みは驚嘆に値するものであった。

 

 しかしながら狼の持つ弓術は、専業の射手と比べれば、さして実用に足るものではなかった。いざという時に使えればマシな程度であった。にも拘わらずあれだけの伸びがあったのは、ひとえに竹雄自身の才能によるところが大きいものであった。

 

 またも狼は、一つ思い出した。彼の義父、大忍び梟のことであった。

 

 梟はかつて戦場にて、飢えた狼を、戯れで拾い、忍びとして育てることにした。そのさなかで、己の技の粋を義息子に染み込ませていくのは存外に面白いと感じていたと、あの燃え盛る平田屋敷で狼に語って聞かせた。

 

 今度は狼は、竹雄の未来を見出した。それは、竹雄が今よりずっと背も、弓の腕も伸ばし、然り而して一端の狩人と成ることを。

 

 物思いに耽っていると、いつの間にか家に着いていた。日が暮れるのも、あまりに早いように思えた。ひどく時間が経つのが早い。

 

 このように感じている自分に、狼は驚いていた。心に隙が出来ているのだ。彼も、随分とこの生活に馴染んできたものだ。

 

 その晩、子供たちが寝静まる頃、葵枝と狼は囲炉裏を挟んで向かい合っていた。狼は、今朝と同じように、鑿で木を彫っていて、葵枝はそれをじっと眺めていた。

 

「炭治郎、遅いですね」

 

「先に寝ろ。俺が見ておく」

 

 そういうわけには行きません、と申し訳なさそうな顔で彼女は遠慮した。

 

 もう寝る時間だというのに、炭治郎はまだ帰ってきていない。炭治郎に限って、道に迷って遭難といったことは考え難いが、しかしそれでも安心出来ないのが山の恐ろしいところである。

 

「明後日のお正月に向けて、出来るだけ稼いでおきたいって言ってたし、無理をしていないと良いんだけど……」

 

「……」

 

 でも、と葵枝は狼を見て、

 

「炭治郎も、狼さんが居てくれるおかげで、少し肩の力を抜いてくれているでしょうね」

 

 と言って微笑んだ。

 

「とは言え、いつまでも狼さんに頼りっぱなしでいるわけにはいかないかしら」

 

「俺は構わぬ」

 

「狼さんも、自分自身の幸せを考えなきゃ。例えば、所帯とか。好い人は居ないの? もし、ここを出て所帯を持つなら、出来るなら会いやすい所に住んでくれるのが良いわね。うちの子たちもそうしたいところでしょうし。……ああ、ごめんなさい、私ったらつい……。私に弟が出来たら、きっとこんな感じなのかしらね、ついお節介を焼きたくなっちゃう。お世話になっているのはこっちなのに……」

 

 と、ばつが悪そうに葵枝は困ったように笑った。

 

「それにしても、分からないものですね。まさか、三百年前の戦乱の世を生きた忍びさんと一緒に暮らすことになるなんて夢にも……」

 

 話題を変えるように、葵枝は切り出した。

 

「その、頭の右側の白い痣に白髪……、それに左腕……、ひどく苦労してきたんでしょう」

 

 と、狼の顔の白い痣を指した。

 

 彼女が言うように、狼の顔右側の目元には白い痣があった。それと、髪の毛の右側が、老人のように白く変色していた。

 

 これは竜胤という、神なる竜より賜った不死の力――もとい呪いを受けた影響によるものであって、ある意味で、狼が苦難を受けた証ではある。

 

「それでも、あなたは優しい人。子供たちも、みんなあなたのことを慕っている。特に禰豆子と、竹雄……」

 

 と言って、葵枝は、寝ている禰豆子と竹雄に目を移した。

 

「禰豆子ったら、狼さんがくれたあの、クナイから作った(かんざし)をあんなに大事にねぇ……」

 

 葵枝が言うのは、禰豆子が枕元に置く、クナイであった。柄尻と柄首に輪っかが空いていて、そこに装飾が通されており、また刃と切っ先の部分が潰されていた。

 

 これは『まぼろしクナイ』と呼び、狼の師の一人であるまぼろしお蝶という()()()が投擲に使用していた物を模したものである。

 

 狼がここに来て当初、禰豆子は彼の持ち物から発見して、物欲しそうにしていたので、武器としての牙を潰し、装飾を施してから贈った次第であった。爾来、大層これを気に入り、禰豆子はいつもこの簪を髪に挿すようになったのである。ちょうど、十二月二十八日の事である。

 

「よっぽど嬉しかったんでしょうね。まるで初恋の人にでも貰ったみたい。で、竹雄はそうねぇ、父親……いえ親分とも、それとも兄貴分とも言えるわね……。そうだわ、師匠と言ったところかしら!」

 

 閃いたとばかりに葵枝は結んで、クスクスと笑い出した。

 

「……」

 

 これを受けて狼は、何と反応すればよいか分からず、その厳めしい相好を深め、むっつりと黙りこくった。

 

「うふふ、ごめんなさい、気を悪くしないで。それだけあなたは好ましい人だって受け入れられていると思って」

 

「気にしておらぬ」

 

 言って狼は、一つ、木彫りを終えた。出来上がったそれを手のひらに乗せ、ふう、と一息吹きかけて木屑を払うと、葵枝に差し出した。

 

「これを」

 

「え……」

 

 寄越したのは独楽だった。数は六つ程度。まだ色は塗られていない。

 

 狼はこれらを渡すや否や、おもむろに立ち上がって、

 

「炭治郎を迎えに行く。お主は寝ていろ」

 

 身支度を整えつつそう告げて、風呂敷で包んだ二振りの刀を携え、葵枝の言葉を聞かずに表へ出た。

 

 一九一三年(大正二年)グレゴリオ暦二月四日。明後日は正月(旧暦)だ。




 雨後の筍さながらに乱立される死亡フラグの数々……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

呼吸術の極意

 今回はちょっと色々詰め込み過ぎたかも。読み込み過ぎて、終わったら即身仏になっていたって事にならないようご注意ください。


 炭治郎を迎えにゆき、そのまま一夜を越した狼が、翌朝炭治郎と共に竈門家へ戻る矢先だった。何か不吉な臭いを嗅ぎ付けた炭治郎が、突如として走り出した先にあったのは、竈門家の変わり果てた家族たちの骸であった。

 

 どれもこれも悲惨な死に様であった。室内じゅうに飛び散った血は天井にまで至り、いずれの血が誰から流れた血なのかも分からぬ有様。

 

 玄関先で、もう動かぬ六太に覆いかぶさって倒れこんでいる血塗れの禰豆子。

 

 隅っこのほうで、葵枝が壁にもたれ掛かりながら絶命していた。その背中には、花子の死骸があった。きっと葵枝は、我が子を庇おうという涙ぐましい試みをしたのだろうが、無情にも彼女は我が子諸共貫かれてしまっていた。

 

 竹雄は、狼が狩りに使っていた弓と矢を手に、仰向けになって事切れていた。その背中には茂が下敷きになっており、こちらも同様に手遅れであった。

 

 これらを前にして取り乱す炭治郎を見て、呆然と狼は立ち尽くしていた。が、すぐに持ち直し、そして気付いた。

 

 竈門家の者たちは軒並み息絶えていたが、禰豆子には、虫の息ではあるがまだ息があったようだった。すぐ近くに倒れていたから、分かった。

 

「まだ生きてる!……、まだ生きてます、狼さん!……」

 

 狼が言及するより、先に炭治郎が言ってきた。分かっているとばかりに、すぐさま狼は禰豆子を背負い上げ、走り出した。炭治郎もそれに続いた。

 

 その道中狼はやや足を遅めて走っていた。一般人である炭治郎は、狼の忍びの足について来られないであろうからだ。まだ下手人が近くに居るやもしれぬ中で、気が動転している炭治郎を置いていくわけにはいかなかった。

 

 しばらく走っていると、やがて前方から、人影が見えてきた。

 

 狼は足を止めた。それから、背中に負っていた禰豆子を下ろし、怪訝な顔をする炭治郎に託した。遠目からでは分からぬが、狼の持つ忍びの目には、そのやって来る人物の不審な風体に気が付いたからだ。

 

 風呂敷の中に隠していた刀を取り出し、腰に帯びて柄本を握る。そう警戒しながら、その人物を見た。

 

「お主……」

 

「あの時の……」

 

 驚いていたのは、向こうも同じであった。

 

 鬼殺隊、水柱・冨岡義勇。ふた月程前に、狼が出会った男だった。

 

 義勇は、狼の背後に居る炭治郎の背負う禰豆子に目をとめた。

 

「鬼か」

 

 そう彼に問われ、狼はコクリと首肯した。

 

「そうか……、遅かったか……。俺があの鬼の追跡を、もっと早く断念していれば……」

 

 と、義勇は何やら独り言を呟いた。

 

「どういうことだ」

 

 それを聞きつけた狼は問うた。

 

 いささか動揺したように義勇は狼を見返し、それから少し間を置いて、やおら口を開いた。

 

「お前が二か月程前に取り逃がした鬼だが、結局奴は逃げおおせた。あれほどの傷を負って、血鬼術――妖術みたいなものを使って消耗していたにも拘わらず、遁走にあたって一人も人を喰っていなかった。おそらく痕跡を残さないためだろう」

 

 そう語る彼の口調は、責めるようであった。

 

「そうか……」

 

 狼は、悟った。

 

 もしあの時、鬼に確実にトドメを刺し、この目の前の男、義勇が追いかける必要がなければ……。

 

 ならばせめて、狼が昨晩、竈門家に留まってさえいれば……。

 

 そうしていた時であった。

 

 炭治郎の背中に居た禰豆子が、急に呻きだしたのであった。苦しそうな声であった。重傷を負った人間が呻き出す、それは症状が悪化していることを示す。

 

 まずい状況になった。

 

 禰豆子を見やりながら狼が思案していた隙である。

 

「狼さん前ッ!」

 

 突然炭治郎が叫んだ。

 

 ちょうど義勇の方を向いていた炭治郎は、義勇が抜刀してこちらに走ってきているのが見えたのだ。

 

 間合いに入り義勇は、刀を顔の横で、切っ先を向けるように構え出す。

 

 全集中水の呼吸『漆の型・雫波紋突き』

 

 義勇が扱う剣術の型の中で最速の突きであるそれが狙っていたのは、炭治郎――否、禰豆子であった。端から炭治郎などは狙っていなかった。狙うは禰豆子のみ。

 

 豪雨の落つる雫の如く鋭い突きは、炭治郎の認識を置いてきぼりに、禰豆子の顔を刺し貫き、そうして炭治郎の背中から引き剥がすはずであった。

 

 それが弾かれた。

 

 いつの間にか抜刀していた狼によって、その突きは甲高い音と一緒に上にかち上げられていた。

 

 泡を喰った義勇に出来た隙を突き、狼は肘打ちと掌底を喰らわせた。それから背撃による追い撃ちを仕掛け、義勇を後退させた。

 

 仙峰寺拳法『拝み連拳・破魔の型』

 

 瞬時に立て直した義勇は構えを取り、同じく霞の構え(切っ先を相手に向け頭の高さで構える形)の狼が睨み合う。

 

 たった今、瞬く間に行われた一連の攻防を追い切れなかった炭治郎は上手く状況の把握が出来ず、しかしそれ故に凄まじい駆け引きに激しい緊張感を持っていた。

 

「行け」

 

 と狼から掛かった声に、炭治郎はハッと我に返った。

 

 されど炭治郎は、ここに狼を置いて行ってよいものかと躊躇する。

 

「早く行け。為すべきことを為せ!」

 

 いつになく声を張る狼に、俄かに炭治郎は気が引き締まり、いささかの逡巡をしたのちに、

 

「お医者さんの所で待ってます!」

 

 と禰豆子を連れて駆け出した。

 

 それを義勇は、対峙している狼に意識を置いたまま、目で追ってから再び狼へ目を向けた。

 

「退いてくれ」

 

「出来ぬ」

 

「あの娘は鬼になっている」

 

「それはどの意味でだ」

 

「鬼にされているんだ。人を鬼にする力を持った、鬼によって」

 

 そう告げて義勇は、構えを解いて、敢えて納刀した。

 

「話すのは無駄だ。あの少年を追う」

 

 見ての通り、今義勇は説得に回ろうとしている。

 

 先ほど義勇が繰り出した高速の突き。あれは本来なら、炭治郎が警告を発していた時点で既に遅かったはずだった。

 

 狼が攻撃に気付き、抜刀して対応するより前に、あの突きは禰豆子に届いたはずだった。それを狼は見事に弾いてみせた。その居合の速さもさることながら、彼は義勇が発した殺気をあらかじめ察知したことで、対応を間に合わせたのだ

 

 このことから義勇は、狼を相当な手練れと読んだ。而して、彼と戦うことは無意味、いわんや強硬手段で禰豆子の首を切り落とすなどは愚の骨頂と判断し、説得に回ろうとする次第であった。

 

 尤も、義勇自身の口下手が原因で、問答無用に禰豆子に危害を加えようとしているようにしか見えないのだが……。

 

 その膠着状態となった空気が、遠くから聞こえた炭治郎の叫び声によって打ち破られた。

 

 須臾にして狼と義勇は敵対を解き、走り出した。声を頼りに駆け付けた先には、何と、今まで重傷を負い虫の息だった禰豆子が、実の兄であるはずの炭治郎に、殺意をもって襲い掛かっていた現場であった。

 

 これに愕然となったのか、立ち止まる狼。義勇はそんな彼を追い越して、刀を抜いて禰豆子に突っ込んでいった。

 

 ところが、義勇がそこへ肉薄した時、どこからか不思議な笛の音色が響いてきた。

 

 その笛の音は、谷の中で木霊するかのように幾度も響いた。まるで、子供とはぐれた母鳥の、悲しげな声だ。

 

 それから義勇は瞠目した。何と、その笛を聞くや否や、炭治郎に圧し掛かっていた禰豆子が、頭を抱えて炭治郎から退き、涙を流しながら蹲ったのである。

 

「これは一体どういうことだ……」

 

 義勇は辺りを見回し、笛の音の主を探した。それはすぐそばにいた、ちょうど彼の背後だった。そこには、左手の義手から取り出した、人の指で出来た笛を吹いていた狼が居た。

 

 ――これらのような出来事があってから、もう二年が経つ。

 

 結局義勇は、鬼と化した禰豆子を見逃すことにした。必ずではないが、禰豆子は安全だと判断したためだ。

 

 そして、その禰豆子を元の女の子に戻す方法を探すために、炭治郎は鬼と戦うべく鬼殺隊に入ることを決意した。

 

 それにはまず炭治郎は、鬼と戦う剣術を修める必要があり、これを為すにあたって義勇から紹介された、鱗滝左近次という育手の下で『全集中の呼吸・水の呼吸』の修業をすることとなった。

 

 この鱗滝左近寺という男は鬼殺隊の元水柱であり、炭治郎を鍛錬するにはこれほどの人材はいない。

 

 想像通り、鱗滝の修業は、狼が見た限りでは命の危険があるほどに過酷なものであった。

 

 それを炭治郎は一年も耐え抜いた。その果てに鱗滝から、巨大な岩を斬るという最後の課題を課された。これを越えた先で、最終選別という、鬼殺隊に入隊するための試練に臨み、これを切り抜ければ晴れて炭治郎は鬼殺隊の一員というわけである。

 

 その最後の課題に炭治郎が取り組み、かれこれ一年程。

 

 一九一五年(大正四年)

 

「酒だ」

 

「頂こう」

 

 狼から差し出されたサカズキを、鱗滝は受け取った。

 

 そのサカズキに、狼は徳利から酒を注いでやった。

 

 被っていた天狗の面を取ってから、鱗滝は舐めるように酒を飲んだ。

 

「そうか……、義勇がそんなことを言ったのだな」

 

 天狗面を取った人相は、実に優しげで、如何にも好々爺といったものであった。炭治郎にあれだけ厳しい言葉を投げ掛け、過酷な修業を課した者とは思えぬ。

 

「悪くは思わないでほしい、あの子は少々口下手なだけなのだ。聞くところに拠れば、貴方が追い詰めた鬼はなかなかに手強く、十二鬼月か或いはそれに匹敵するやもしれん」

 

 鱗滝の狼に対する言葉は、炭治郎への厳格さとは対照的に丁寧であった。これは即ち、彼が狼の器を見抜いた上での敬意である。

 

「義勇は、事もあろうにそれを取り逃がした己を恥じたのだろう、故に責めるような口調だったのだろう。決して、貴方を責める意図はなかったはずだ」

 

「そうか」

 

「返杯を」

 

 今度は鱗滝が、狼にサカズキを差し出したので、

 

「ああ」

 

 狼は受け取り、酌を受けた。これをひと呷りし、またサカズキを鱗滝に返した。

 

 狼の義父・梟は下戸で、すぐに赤くなったものらしいが、狼は平気なようだ。

 

「炭治郎は、あの大岩を、斬れるのか」

 

 もう一度サカズキに酒を注ぐ鱗滝に、ふと狼は尋ねた。

 

「おそらく、無理だろう……」

 

 サカズキに口が触れようかというところで、鱗滝はそれを持つ手を下げて、ポツリと言った。

 

「この大きさならきっと無理だろう、とのつもりで選んだ岩だ……。斬れんで当然だ……」

 

「……」

 

 悔い改める口吻の鱗滝に、狼は非難するでも憐れむでもない、知ってか知らずか分からぬ、変わらぬ仏頂面を向け続け、先を促すように黙り込んでいた。

 

「……十五人」

 

 重苦しい沈黙ののち、ゆっくりとひり出すように、鱗滝は言葉を紡いだ。

 

「炭治郎を含め、これまで私が指導してきた子の数だ。その中で最終選別を抜けてきたのは、()()居なかった。私の指導に不備があったのかと、修業に改善を重ね、また最後の課題の岩の大きさも重なっていった。だがそれでも、あの子たちが帰ってくることは、()()無かった……」

 

「俺に水の呼吸の型を――鬼の斬り方を教えたのも、そのためか」

 

「貴方も見たはずだ。私と貴方がたが会った時。あの子は優し過ぎるのだ。普通、鬼に家族を殺され、ましてやこちらを喰らおうとしてきた鬼に憐憫の情を向けるなど……」

 

 炭治郎らが鱗滝と会ったあの日、折しも炭治郎らは二体の鬼に襲われた。

 

 血鬼術も使えぬ、さして手強くもない相手であったが、意外にも狼はこれに手こずった。まだ鬼との戦闘に不慣れで、岩あるいはそれ以上に頑強な鬼の斬り方を知らぬ故である。

 

 どうにか、表皮と比べて幾分か柔らかい目玉を突き潰すことで相手の視覚を封じ、そうして目が再生する間に、狼は背中に携えていた不死殺しの紅き妖刀でその鬼の首を斬り飛ばし、始末した。

 

 少々時間を喰ったためか、始末を終えた狼が炭治郎のもとへ駆けつけた時には、もう一方の鬼は首と胴体が離れ、しかも首のほうは斧によって木の幹に拘束されていた状態にあった。

 

 炭治郎は、これにトドメを刺すという行動が、どうしても出来なかったのだ。

 

「ただでさえ、百年以上も前から、二体三体一組で動く鬼が現れだしたというのに、あれでは到底鬼狩りなど出来ん……」

 

 そう結ぶと鱗滝はそこで、はあ、と魂が抜けるような溜息を吐いた。

 

「これが、年というやつなのかもしれん。近頃、やけに弱気だ。鬼殺隊に入れるということは、死地に行かせることも同義だというのに、今更、子供たちが死ぬのは嫌だとは……。子供たちが死んだと悟るたびに、私自身が独り取り残された心持になって、また身体が死んでいく感覚がする」

 

 訥々と語ってから鱗滝は顔を上げ、そうしていやに改まって狼に向き直り、

 

「炭治郎はきっと、あの課題を断念するだろう、他でもない私のせいで。恨まれるかも分からん。禰豆子を……炭治郎の妹を人間に戻すのを、諦めろと言っているようなものだ。――そこで、恥知らずながら、貴方にお頼み申したいことがある」

 

 そこで鱗滝は、床に手を突いて頭を下げ、

 

「どうか、あの子の……炭治郎の代わりに、戦っていただけないだろうか」

 

 最早、鱗滝は、炭治郎に見せていたような威厳は無かった。矍鑠としているのは変わらずとも、長く生きてきた中で気力が擦り減った、草臥れた老人の面影を覗かせていた。

 

 これに狼は、幻滅するだとか、侮蔑の眼を向けるといったことはしていなかった。勿論、内心だってそんな情を抱いておらず、どちらかと言えば敬意を払っていた。

 

 だが狼は、

 

「断る」

 

 一寸間を置いて、毅然と言った。

 

「俺の歩む道は、炭治郎次第だ」

 

 狼からその言葉を聞き、鱗滝は目を見開いて顔を上げた。

 

「……そうか」

 

 あまり釈然としていないものの、ひとまず鱗滝は受け入れた様子で、身を起こし居直った。

 

「だが、貴方の持つ技なら――『葦名流』なら、或いは如何なる局面さえ切り抜けられるかもしれん。その技も、我々が扱う呼吸術と、何らかの共通する呼吸があるはずで、それを合わせれば、技に更に磨きが掛かるはずだ。呼吸術とは、何も鬼殺隊だけが扱うわけではないからな」

 

 鱗滝が言うように、鬼殺隊以外にも、呼吸法によって身体力の補助を行う技術は存在する。

 

 例えば、狼ら忍びが扱う技術に『忍びの呼吸』という、敵にトドメを刺すことで心体を整え、多少の負傷を和らげる術がある。これは、取り入れた酸素で肉体を活性化し、同時に傷口の血液を固めて止血する行為を、敵を倒す高揚感で強まった血流でひとしお効率化したものである。

 

 その一方で敵方にも、深い呼吸に依って取り入れた酸素を躯幹(体幹)筋に供給することで、崩された体勢を立て直す技術を自然と習得している手練れが居た。

 

 『エマの薬識・嗅ぎ薬』という、薬の匂いと味をよく覚え込み薬効を上昇させるものも、取り入れるのが酸素でなく匂いという違いはあれど、これも呼吸術の一種なのではなかろうか。

 

 このように、目的や方向性が違うものの、やはり呼吸とは生物が初めて現れてから絶え間なく行われてきたものであり、故に呼吸術は鬼殺隊に限られた術ではない。

 

 ついては、鬼殺隊が扱う以外の剣術が、鬼殺隊の剣術と融合する場合がある。

 

「貴方の持つ剣術と、この水の呼吸を合わせた剣術……、私はこれを『雲の呼吸』と呼んでおる」

 

「何だと……」

 

 鱗滝の言葉に、狼は引っ掛かりを覚えた。

 

 その『雲の呼吸』やらが――狼の持つ『葦名流』と『水の呼吸』が合わさった剣術が、さもかねてからあったかのような口振りであったからだ。

 

 そこで鱗滝は、自らの傍らに置いておいた天狗の面を手に取った。

 

「この天狗の面をくださった方と、編み出した流派だ。私が駆け出しの頃からの知り合いだ。その方は水の呼吸の持ち味である足運びによる変幻自在な型を生かし、あらゆる戦法を自らに取り込み、そして自在に変化する、けだし雲の如き型を作り出した」

 

「雲の……呼吸」

 

「編み出した、とは語るものの、生憎と私はその雲の呼吸をとうとう使いこなせなかった。その後、試みに、教え子たちにも教えてみたが、果たして習得に至ったのは僅か一人だけだった。いや、あの子はどちらかと言えば、雲の呼吸を形にした、と言うべきか」

 

 そう結んで鱗滝は最後の酒を呷り、天狗の面を片手に立ち上がった。

 

「炭治郎の様子を見に行くか。根を詰めすぎていなければよいが……」

 

 言い残して家を後にした。

 

 後に残されたのは、狼と、それと、二年前からずっと眠り、ずっと起きない禰豆子であった。

 

 いつ起きるか、その見込みは定まっていない。ひょっとしたら、もう起きないかもしれない。それでも炭治郎は、いつか彼女が起きると信じて、ひたすらに修業に明け暮れていたのだ。

 

 狼は、莫迦みたいにそれを見守っていただけだった。

 

 自然と狼は、背中に携えていた赤の大太刀に触れた。

 

 不死斬り『拝涙』――それがこの刀の名だ。

 

 この太刀には、不死を殺す力がある。が、同時に、抜いた者を一度殺す刀でもある。故に狼は、これを片時も手放したことはない。左腕の義手と、腰の打ち刀『楔丸』は、身から外したことはあるが、この不死斬りだけは、他の者の手に触れることがなきよう、常に背中に括り付けていた。

 

 おもむろに狼は、不死斬りの柄を握り、抜いた。その朱色に塗られた鞘から、禍々しい刀身が覗いた。そこから溢れる赤き妖気を、狼は肌で感じていた。

 

 二、三寸程抜いた辺りで、狼は再び鞘に納めた。鯉口と柄元が打ち鳴らされ、音が響いた。

 

 そのまま狼は、胡坐の形で瞑想に入って、鱗滝と炭治郎を待った。

 

 果たして、鱗滝と炭治郎は帰ってきた。それも、炭治郎が、ついにあの大岩を斬ったのだという成果を持って。

 

「やったんです、狼さん!」

 

「ああ」

 

 嬉々として報せてくる炭治郎の背後で、鱗滝が頷くのを、狼は見た。

 

 その晩の食事は、やけに豪勢であった。川魚焼きや、動物の肉や山菜を味噌で煮込んだ鍋。全ての修業を乗り越えた祝いだと、鱗滝は言った。

 

 相伴した狼は、纏わりつくように味噌の味が絡んだ肉に、驚いた。あまり物事に動じない狼が、驚くほどに、その鍋は美味かったのだ。狼の時代では味噌が貴重だったこともあるが、時代が進んだことで味噌の味も良質なものになったことも、美味に感じられた理由だろう。

 

 美味な食事に、安らかな眠りでつかの間の休息を取った炭治郎は、後日、最終選別に出発することになった。

 

 出発する炭治郎に、狼は御守りを差し出した。

 

「これは、御守り?……」

 

「苦難を抑え、守ってくれる。お主が持っておけ」

 

 この御守りは、かつて狼が仕えていた、竜胤の御子である九郎が、狼と竜胤の契りを交わした際に密かに彼の懐に忍ばせていた物であった。爾来これは、降りかかる艱難辛苦から、狼をずっと守ってきた。

 

「でも、大切な物なんでしょう。俺が持っておくわけには……」

 

「なら、預けておく。いずれ、お主が必要としなくなった折に、返しに来い」

 

「……解りました。これは、いずれ俺が十分強くなるまで、お借りします」

 

 決意した面持ちで、炭治郎はその御守りを受け取った。

 

 こうして狼は、さらなる苦難へ足を踏み入れた。

 

「代わりにってわけじゃないですけど、これを」

 

 と、入れ替わりに炭治郎が懐から取り出してきたのは、クナイの形をした簪であった。

 

「これは……」

 

「二年前、狼さんが禰豆子にくれた、あの簪です。鬼になった禰豆子と揉み合っていた内に、俺の懐に入ってきたみたいで。よければ、狼さんが持っていてくれませんか。出来るなら、狼さんが禰豆子に、改めてあげてやってください。禰豆子も、きっと喜ぶと思うんです」

 

 手のひらにその簪を乗せ、微笑む炭治郎。少しの間、狼はその簪を眺めたのち、黙って受け取った。

 

『幻蝶の簪

 

 まぼろしお蝶が使ったクナイを狼が削り簪にしたもの

 歩くと音が鳴り、まぼろしの蝶々が後を追う

 

 うら若き乙女が着飾るには無骨な代物である

 

 しかし、後を追う蝶々のまぼろしは、霧が霞む山に住む少女にはとても似合うだろう』

 

「……承知した」

 

 受け取ったそれを、優しく握り締めて、狼は了承の返事をした。その際に触れた炭治郎の手の皮は、ひどく分厚かった。それだけ多く、刀を握り、振ったのだろう。

 

 予想していなかったわけではないが、狼はこれを、初めて知った心持であった。

 

 家を離れていく炭治郎の背中を、狼は見送った。まだまだ未熟で、頼りないかもしれない、小さな背中。けど、少しだけ大きく、逞しくなっていた。修業を始めてから二年も経つのだから、当然だ。

 

 でもやはり、狼からすれば、いつの間にか大きくなったという心持であった。

 

 それから狼は、家の中に戻ろうと踵を返した。

 

 そんな折に、

 

 ――こっちだ。

 

 どこからか声が響いてきた。それもまだ若く、少年の声らしかった。

 

 ――こっちだ。

 

 再度同じ声が聞こえてきたので、狼は訝みながらも、声の聞こえてきた方向に足を向けた。山の方からだ。

 

 しばらく歩いていると、やがて、木々に囲まれた開けた場所に出た。中央辺りには、真っ二つにされた巨大な岩があった。巻かれていたであろう注連縄ごと、真ん中から綺麗に両断されていた。

 

「ここだ」

 

 不意に聞こえてきた声に、狼は振り向いた。そこには、少年が居た。

 

 顔右側、口元から頬に渡って大きな傷があり、宍色の髪の毛の、整った顔立ちの少年であった。

 

「いきなりの呼び出し、失礼した」

 

 案の定、先ほどから狼に呼び掛けていた声は彼であった。

 

「俺の名は錆兎(さびと)。鱗滝左近次先生の弟子をしていた」

 

 錆兎と言えば、炭治郎が出発の際に口にしていた、鱗滝の死んだはずの弟子の一人の名前だ。

 

「貴方のことは炭治郎から聞いている。そこで、お頼みしたいことがある」

 

 と言って錆兎は、腰に差していた刀を静かに抜いた。

 

「先生が一目置く貴方と、手合わせを願いたい」

 

 その丁寧な言葉遣いは、鱗滝を彷彿とさせるもので、彼譲りであるもの見受けられた。

 

「勿論、無条件でとは言わない。貴方の修練の相手になる。鱗滝先生以外での水の呼吸と打ち合ってみれば、何かしら見えてくるものもあるはずだ。それと、雲の呼吸についても、何か教えられるかもしれない」

 

 錆兎の『雲の呼吸』という言葉を聞いて、む、と狼は反応した。それを見て手応えを感じたのか、錆兎は、

 

「とは言え、俺も雲の呼吸を上手く扱えるわけじゃない。しかしそれなりに練習はしてきたから、何か得られるだろう」

 

 と、ひとしお声を張って言った。

 

 これを受けて狼は、しばしの間ののち、腰に帯びた刀の鍔に指を掛け鯉口を斬り、ゆっくりと、穏やかな音と共に刀を抜いた。

 

 錆兎は、光栄といった様子で笑みを浮かべ、

 

「感謝する」

 

 正眼に刀を構えた。

 

 いざ――、と口ずさみ、

 

「――参る!」




 幻蝶の簪のテキストは、『笛吹きの人』様のコメントから引用させていただきました。

 あまりにもマジェスティックなテキストだったので、お願いしてみたところ、快く貸していただきました。誠に感謝を申し上げます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

浅草に潜む何者か:前編

 鬼滅の刃の世界にクレイトスさんやゴーストライダーぶち込んでみたいなぁ……。


 ーー泣くがいい、悲しみを口に出さずにいると、いつかいっぱいにあふれて胸が張り裂けてしまうぞ。

 シェイクスピア『マクベス』第四幕第三場

 

 

 東京、浅草。

 

「いいのかい、旦那。あの坊主、追わなくて」

 

 そう狼に言問うのは、うどん屋台の主人である。

 

 彼の言う坊主とは無論、炭治郎のことである。彼は今しがた、何かの『におい』を感じ取って、血相どこかへ行ってしまった。

 

「梟を、付けた」

 

 と言って、うどんのつゆを、狼は啜る。

 

 出汁の風味に包まれた塩の味が、疲れた身体に澄み渡る。柔らかくも噛み応えのある麺は、七味唐辛子が程良い刺激となって、飲み込んだ後にも余韻を残す。

 

「梟ぉ? まあ……、大丈夫ってんなら、それでいいけどよ。脇で寝てるその器量良しの娘っ子を、こんなとこで一人にするわけにゃいけねえしな。アッツアツのうどんのつゆ、間違ってぶっかけんなよ」

 

 主人が示すのは、狼の隣で、彼の柿色の衣を摘まみながら微睡む禰豆子のことである。

 

 つい先日彼女は、二年間の長い眠りから、ようやく覚めた。目覚めた彼女は、不思議と大人しかった。まるで、人の肉を必要としないかのように。鱗滝が推して量るに、彼女は眠ることによって養分を蓄え、人の肉を喰らわずとも生きられるようになったとのことらしい。

 

 ただ、それでも人喰いの気はあるため、鱗滝は彼女に竹の口枷を咥えさせ、それから、人は皆彼女自身の家族にあり、喰うべからず、守るべき者なり、という暗示を掛けたと告げた。

 

 今こうして、禰豆子が寄り添っているのは、それは狼を家族の誰かと見てのことなのだろう。

 

「あんた、その娘とあの坊主の血の繋がった家族ってわけじゃないみたいだな。その左腕からして、傷痍軍人ってとこか? 年からして、十年前の戦争(日露戦争)に行ってたか。この国であんたみたいな眼をしてる奴ってのは、軍人か、渡世人(ヤクザ)くらいのもんだ。それだけに、下衆の勘繰りをする輩も居っから、苦労もしてんだろ」

 

 主人の推測は、最後の部分だけ当たっていた。それは二年前の、竈門家の葬式の時だった。

 

 葬式には、喪主である炭治郎のみが参列し、鬼化した禰豆子と、彼女を見ておく必要のある狼は参列出来なかった。それで、葬式を終えた炭治郎は、実に口惜しげな様子で帰ってきた。

 

 初めは、何があったのかを話したがらなかった炭治郎だったが、しかし、内に沈殿した嫌な気持ちに耐えかねて、とうとう涙ながらに打ち明けた。

 

 ――竈門家を襲撃したのは狼なのではないか。狼は葵枝に迫ったが拒絶されて逆上したのではないか。炭治郎に古銭を売らせて金をやったのは、端から葬式用だったのではないか。

 

 心無い参列者らが、口々に囁いていたらしい。

 

 泣き咽ぶ炭治郎に、慰められる言葉は無かった。

 

 ただ、

 

「気にしておらぬ」

 

 の一言ばかりを掛けたのだった。

 

 このことは、禰豆子には見せられない。

 

 麺を啜り終え、残ったつゆを飲み干すと、狼は二杯目の器に手を付ける。炭治郎の分だったが、今はどこかへ行ってしまったため、伸びない内に始末しようとのことである。

 

「何故、俺が渡世人でないと、思った」

 

「風変わりな奴で子供に優しいのは、傷痍軍人か、立ちん坊――特に家族や夫を失った女――くらいのもんよ。みなみんな、落ちぶれ惨めになると、恵まれない子供が可愛く見えるもんなのさ……。あの坊主もその娘も、親居ないんだろ。あの手の皮の厚さが証拠だ、銭を受け取った時に分かったぜ、親の居る子供の手じゃねえよありゃ。……ま、はぐれもんってこともあるかもしれんがな」

 

 と語って、ガハハと笑ううどん屋の主人。ヤクザの可能性に言及しておきながら、やけに図々しい態度だ。

 

 或いは、こういった商売をしていると、危険な人間とそうでない人間の違いには敏感になるものなのだろうか。

 

 二杯目のうどんを片付けると、狼はもう一杯分の代金を出して、

 

「そろそろ炭治郎が帰ってくる」

 

 飛んできた梟を腕に停まらせ、告げた。炭治郎が帰ってきたのは、その少し後であった。で、帰ってきた彼に、うどん屋の店主はまず最初にうどんを出した。

 

 エッと戸惑う炭治郎に、主人は、

 

「俺のうどんを食わねえってのが気に食わねえ。飯は食える内に食っとけ」

 

 と押し付けた。

 

 困惑して狼を見やるも、狼は腰掛に座ったまま、知らぬとばかりに炭治郎に目を向けなかった。

 

 仕方なしに炭治郎は、急ぎ啜り尽くした。うどんの熱さに舌を火傷しそうになりながら、どうにかつゆまで飲み切り、

 

「ごちそうさまでしたァ! 美味しかったですッ! さ、行きましょう、狼さん!」

 

 主人が圧倒されるような凄まじい食いぶりと勢いで、炭治郎は怒涛のように捲し立てた。それから声を掛けられた狼は、未だぼんやりと眠たげな禰豆子を立たせながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

 屋台に背を向けて炭治郎が歩いた先には、一人の青年が佇んでいた。書生みたいな風体の青年であった。キツネ目で、気難しげな面持ちをしている。

 

「すみません、愈史郎さん、待ってもらって」

 

 例によってへりくだった態度で炭治郎は話しかけるが、

 

「あの方から、お前らを案内しろと仰せつかった。目眩ましの術を使っているからな、場所が分からなければ、如何にお前の嗅覚が鋭敏だろうとも分かるまい」

 

 対して青年――愈史郎は、やけに刺々しく、滔々と言った。

 

 炭治郎に拠れば、

 

「この人――愈史郎さんって言うんですけど――彼と、もう一人女の人が居て、その二人はどちらも鬼みたいなんです。それも、人を襲わないどころか、鬼と敵対していると」 

 

 成程、鬼であるのなら、鬼殺隊の一員である炭治郎にその態度は妥当と言えよう。

 

「お前ら鬼殺隊とは敵対してはいないが、味方とも思っていない。それはともかく、何だ、後ろの鬼の娘は、何故鬼なんて連れている。それもそんな醜女を」

 

「……おい、今何て言った」

 

 突然の兪史郎の禰豆子への暴言に、いつになく炭治郎は低い声で反応した。

 

「お前今禰豆子のこと、醜女と言ったなッ! 禰豆子のどこが醜女なんだ、言ってみろッ! 禰豆子はなあ! 町でも評判の別嬪だったんだぞッ!」

 

「そんなことはどうでもいい。行くぞ」

 

 激昂する炭治郎を他所に、兪史郎は勝手に歩き出した。

 

「狼さんも何か言ってやってくださいよ! 禰豆子は可愛いですよね! ね!」

 

 と、このように、炭治郎は道中ずっと、禰豆子を悪く言われたことを根に持ち続け、しきりに兪史郎に撤回を求めていた。そうしてついには、狼にも絡みだすのであった。

 

 それに兪史郎は、呆れたような嘆息して、

 

「お前、忍び、どうにかしろ」

 

 と、自分で喧嘩を売っておいて、狼に丸投げをした。

 

「……」

 

 我関せずとばかりに狼は黙り込む。

 

 そして炭治郎の絶え間ない禰豆子談義。

 

 斯様な珍道中が繰り広げられていた、その折であった。

 

 じろりと兪史郎が視線を後ろの方へ、むっと狼が喉の奥で声を籠らせ、スンと炭治郎が鼻を動かした。三人が何かに感付いたのは、ほぼ同時であった。

 

「そのまま歩け。人込みを利用して撒く」

 

 ぼそぼそと兪史郎が、背後の炭治郎と狼に囁いた。

 

「撒けそうか」

 

 狼も同様に返す。

 

「相手による。ひと気のある所へ行くぞ、そこで幻術を掛ける」

 

 と告げる兪史郎の後に二人が続いて、一行は再び街中へ入った。

 

 程よく人が居て、入り組んだ地形の場所へ来たところで、兪史郎は目配せをして、幻術の用意をした。そこで、狼が兪史郎の肩を叩いた。

 

「俺が引き受ける」

 

「……何言っているんだ、お前」

 

 と呆れ顔をする兪史郎の目の前で、狼は自分の腕に梟を止まらせ、

 

「この梟を、尾けている者に敢えて見せ、その後幻術で俺以外を隠せ」

 

「で、梟に俺たちが行く場所を覚えさせ、お前は囮になると?」

 

「どういうことなんですか」

 

 炭治郎が混乱気味に訊いた。

 

「向こうが俺とお前を見失い、追跡が困難になれば、代わりに、残ったこの忍びを追いに掛かるというわけだ。こいつは梟を利用して後で合流出来るからな」

 

「そんな!……。そもそも狼さんは隊士じゃない。元々は俺はこの街の鬼について調査しに来たんです。尾けてきている奴が件の鬼なら、ここは俺が――」

 

「その件の鬼とやらは俺とあの御方のことだ、あいつじゃない。それに、あの御方はお前に用がある、お前を連れていくのが優先だ」

 

「でも……」

 

「行け。必ず戻る」

 

 炭治郎にとって、狼からのその言葉はいと頼もしく、それでもって信頼すべきことばであった。けれども、このまま狼に頼りきりでよいものかと、逡巡も禁じ得なかった。

 

 その炭治郎の迷いを知ってか知らずか、有無を言わさず狼は、

 

「俺が幻術を掛ける、そのすぐ後にお主の目眩ましを掛けろ」

 

 と兪史郎に声を掛けた。

 

「二重の目眩ましか。お前の媒介は」

 

「音だ」

 

「分かった。よし掛けろ」

 

 兪史郎からの合図を機に、

 

「承知」

 

 と狼は返すや、懐から取り出した奇妙な鈴を鳴らした。よく響き、耳に染み入るその音色に、たちまち辺りの群衆は不思議そうに耳を澄ませた。

 

 誰かが、あっと虚空を指さした。次に他の誰かが、蝶々(てふてふ)だ、と言った。釣られて見上げた他の人々は、わあ、と感嘆の声を上げた。

 

 俄かに一帯がざわめいた。どこかで花火でも上がったのかというくらいだ。

 

 その後、ふっと彼らは我に返ったように静まり返った。数秒、視線を宙に漂わせたのち、連れと顔を見合わせたり、何だったんだろうという独り言を呟いたりする者も居た。皆一様に狐につままれた様相を呈しつつも、しかし自分以外の人々も自身と同じようなものを見たらしき様子の摩訶不思議な状況に、尚更に小首を傾げた。

 

 後には狼だけが残されていた。喧噪の中、歩き出した。

 

 周囲に気を配りつつ、さてどうやって先方を炙り出すか、と思案する。

 

 一度、敢えて敵の術に掛かるという手もある。向こうは、少なくともこちらを生かしておきたいだろうと踏んでのことだ。かと言って、敵の術の内容によっては、こちらが何も反撃することなくむざむざ炭治郎たちのもとへ案内する羽目になる危険もあるため、これは最後の手段となるだろう。

 

 焦る必要はない。釣りは奏功しているのは確かだ。

 

 引き続き、街中を歩く狼。その最中、唐突に横から煙が吹き掛けられ、むせた。

 

「お、おっと、すまねぇなぁ、ニイさん。ついこいつにムチュウんなっちまってよぉ……、ヒッ、ヒヒヒッ……」

 

 ふかした煙管を片手にした、やせこけた男であった。髪はボサボサで、着物は乱れに乱れ、しかもこれらを気にする様子は一切無い。喋り声の大きさや、抑揚も、それに緩急も。また、身体も傾いているが、これさえも一切気にした様子もない。

 

「ニイさん、ニイさんも、どうだい。オイラといっしょにやれば、きっとよろこぶよ……、ウヒヒヒヒヒヒヒ」

 

 とても話が通じるようには見えない手合いである。無視をする手もあるが、もしこの男が件の追跡者に関係するのなら、完全には見過ごすわけにもいかない。

 

 どうしたものかと、少しの間沈思していたところ、

 

「ちょっとあなた、こっちに……」

 

 不意に横から狼の手首を掴む者が、このように言って彼を引っ張っていく。

 

 女の手だった。妙齢の女だ。

 

「お主、誰だ……」

 

「別に私のことはどうでもよいでしょう、ただのお節介焼きだと思ってちょうだい。それであなた、あんな危ないのに近づいたら駄目よ。あの男、さっき向こうの路地裏で変なことしてたんだから」

 

「変なこと、とは」

 

「何かを抱きしめるみたいに腕を組んで、壁に向かって屈んでいたのよ。勿論、ぶつぶつと何かを言いながらね。ああいうのは、変に刺激すると何しでかすか分かったものじゃないから、関わらないで。あなただけじゃなくて、周りの人にも迷惑になるから」

 

「……すまぬ」

 

「分かれば宜しい。じゃ、行くわね。縁があれば、また会いましょ。袖すり合うも他生の縁」

 

 微笑んで、女は行った。

 

 その背中を見送り、狼は再び足を進めた。

 

 果たして、先ほどの男と、今の女、どちらが件の追跡者、もしくはその手先であろうか。それとも両方だろうか。

 

 分かるのは、仮に今ので敵の術中に入ったのだとしたら、後は出たとこ勝負といったところであろう。

 

「もし」

 

 突然に、誰かに呼ばれて、狼は辺りを見回した。子供のように高い声だ。けれどなかなか見つからない。

 

「もし、そこのお主。ここじゃよ、ここ」

 

 声を頼りに、ようやく見つけた。それは狼の背後の、視線を少し落とした所に居た。子供か、それとも小柄な人間の背丈程の者であった。

 

「む、お主、ちょお顔を見せてはくれんか」

 

 と、一方的に話してきて、『その者』は狼の顔をしげしげと見ていった。

 

「ほほう、似ておる。似ておるのう、お主」

 

「似ているとは、何だ」

 

「昔世話になった者と、よく似ておる。そうじゃなぁ、顔というよりは、器がのう」

 

 そう言って、『その者』は、にっと歯を見せて、悪戯じみた笑みをした。子供らしい無垢な笑みで、それでいて、子供を揶揄う意地の悪い大人の笑みにも似ていた。

 

「お主、名は何というのじゃ」

 

「……」

 

「ふむふむ、ほうほう、名は申さぬと申すか。ふふふ……、申さぬのに申す、ふふふ……」

 

 何が可笑しかったのか、『その者』は、くだらない洒落を垂れ流す子供や親父のように独り笑いを漏らした。

 

「ま、よいよい。ところでお主、ちと儂の頼みを聞いてはくれんか?」

 

「手は空いておらぬ。後にしろ」

 

「なに、断る理由はありゃせん、愚かながら哀れな小娘を一人、斬ってくれればよいのじゃ」

 

 と、さっぱりとした笑みで、そう言ってのけた相手に、俄然狼は眉を顰め、腰に潜ませた刀を握る手を強めた。

 

「そう身構えるでない、悪いようにはせん。そも、お主がこれから斬ろう者じゃろうに。じゃが褒美は取らすぞ。お主が必要とする物、それと、名も無きお主に儂が直々に名を与えたまおう」

 

 悠然と『その者』は狼から放たれる殺気を意に介さず喋り続けた。幼げでありながら、子供に語って聞かせる親さながらの高い声で。

 

「ほれ、あれじゃ、あれ」

 

 ふと、『その者』は狼の背後を指差して、彼は素直に振り向いた。

 

 童女だ。往来の真中で、童女が独り立って、静かに狼を見据えていた。うなじで切り揃えられた髪の毛に、紅をさした唇の、着物を纏った風体の娘であった。

 

 狼と目が合うと、その童女は、にっこりと笑った。頬を持ち上げて、口角が吊り上がり、可愛らしい歯がチラリ。されど眼だけは、とらえた狼を逃がさぬとばかりに見開かれていた。

 

 とみに狼の心の臓が不規則に早まる。呼吸が乱れる。当然血の巡りも悪くなり、而して具合が悪くなる。発汗。そして身体が重い。

 

 咄嗟に懐から、まだら模様の走った紫の、曲がった瓢箪を取り出し中の薬水を飲んだ。途端に身体から、絡みつく怖気に抗う気力が湧き出し、当面の活力を取り戻した。

 

 一息吐いて、呼吸を取り戻す狼に、『その者』は感心の声を吐いた。

 

「ま、これくらいは当然か。ただ、そこで教えてやろう、あ奴は己から生み出される胞子を取り込んだ者を僕として操る術を扱う。カビみたいな物での、適合出来ねば逆に肉体組織が喰われ、悪くば死ぬる。適合しようものなら、徐々に肉体をあ奴の組織に取って代わられ、己を失い手駒にされる。あれが童女に見えたのなら、お主はもう奴の術中じゃ。ぐずぐずしておると、その薬水が底を付くぞ? 急げ、急げ」

 

 と『その者』は、おちゃらけた態度を残しつつも、それまでとは対照的に真剣さを滲ませた面持ちで狼に促した。

 

 それを聞いてか聞かずか、狼は押されるように歩き出した。

 

「あ、そうじゃ!」

 

 後ろで『その者』が声を上げたので、思わず狼は振り返る。

 

「お主、付ける名は、秀郷と藤太、いずれが良いか考えておけ? ほな、良きに計らえ」

 

 とだけ残して、今度こそ『その者』はその場から消え去った。

 

 気を取り直し狼は、踵を返して前に進む。

 

 当てはないが、犬も歩けば棒に当たるように、とにかく今は前に進むのみ。




 うどん屋の豊さんのキャラがなんか濃くなった。出汁変えた?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

浅草に潜む何者か:後編

 当てはないが、犬も歩けば棒に当たるように、とにかく今は前に進むのみ。

 

 と、意気軒昂には居られないのもまた現状。またもや狼の前に、あの不気味な少女が現れるのである。今度は手に包丁を持ち、次の瞬間には既に狼の目鼻の先まで迫るや、一気に彼に包丁を突き立てた。

 

 これを狼は阻もうと、彼女の手首を掴もうとするも、そうしようとする手はすり抜け、包丁はそのまま狼の腹に突き刺さった。

 

 この包丁だけは本物であり、刺された箇所から鈍い痛みがじわりと広がる。気が付けば少女は消え、代わりに見知らぬ男が居て、狼の腹に刺さる包丁の柄を両手で握り締めていた。

 

 直後に男は、その包丁を引き抜いた。いきなり引き抜かれたものだから、その際に刃が内部を引っ掻いて傷口が一層酷くなった。

 

 狼は相手の眼を見た。その眼には、まともに物が映っているようには見えなかった。男自身の内側にある歪んだ何かが、彼の映す世界を穢しているのだろう。

 

 群衆はこの異常にすぐさま気付いた。べっとりと血の付いた包丁を握った、目の焦点の合わない男が息を乱しながら、刺し傷を抱えた男をじっと見つめているこの光景に、彼らは悲鳴まじりに後ずさった。

 

 まず狼は、目の前の危険な男より、自身が一般市民に注目を受けていることに危機を感じて、すぐ身を翻し人込みをかき分けてその場から離れた。

 

「あ、ちょっと、あんた!」

 

 しかし、明らかに重傷を負った狼を放っておけない者もおり、止められてしまう。

 

「平気だ、構うな」

 

「そんなこと言うなって! せめて手当を――あっ、おんやぁ! おいおいおいおい、その白痣! 見たことある顔だあ!」

 

 突然、声を掛けてきたその男が、このように妙なことを口走ったもので、何だと狼もその男を見ると、

 

「お主、穴山か」

 

 この男、穴山は、葦名の頃より狼の知り合いである。

 

 元盗賊で、のちに足を洗い物売りに転身。情報と引き換えに狼から元手となる銭を用立ててもらい、また、客が何を欲しがるかの情報を狼から貰い、商売繁盛を為したのであった。

 

「おらも一緒だよ」

 

 と、穴山に続いて狼の前に姿を見せたのは、いやに童顔の巨漢であった。

 

「小太郎……」

 

 その巨漢の名は小太郎。穴山と同じく、葦名出身の、太郎兵と呼ばれる人間であり、狼とは仙峰寺にて出会った。その時は小太郎は、泣きはらして途方に暮れていたところを、狼によって、力仕事の出来る人手を欲しがっていた穴山の所を紹介され、穴山の世話になった次第であった。

 

「それよりも忍びさん! その怪我、早よう直さなきゃ!」

 

 俄かに慌てだした小太郎に、

 

「案ずるな」

 

 と狼は落ち着き払った風に返し、傷薬が入った瓢箪取り出し、中の薬水を飲んだ。

 

「そんでも傷口は残ってやがる。まずこっちに来てくだせえ、ここで手当てするわけにゃいかねえ」

 

 と穴山は、狼を連れて近くの路地裏に入った。

 

 そこで穴山は、恰もよく持っていた酒と布で、狼の傷口の処置をした。傷はそう深くはなかった。着物の内側に着込んでいた鎖帷子のお陰だ。

 

「お主らも、来ていたとは……」

 

 手当てを受けながら狼は、幽霊でも見る眼で二人を見ていた。

 

「へへ、それはお互い様でさあ」

 

 狼がそんな眼をするのも無理はない。穴山も小太郎も、二人とも、内府による葦名襲撃にて、敵方の赤備えの兵士によって命を落としたからである。

 

 奮闘し力尽きた小太郎の横で、同じく気息奄々に腰を落としていた穴山から、彼の商い手形を一銭で買ったことを、狼は覚えている。

 

「だが、あの時旦那から頂いた一銭。あの一銭のお陰で、ここでも上手くやれたんでさ。戦国時代で流通していた銭ってことで、高く売れやしてねぇ。それを元手に、また商売を始めたってぇわけなんです。っと、はい、これでようし!」

 

 と結んで穴山は手当てを終え、傷口のあった箇所を二、三度軽く叩いた。

 

「いやあ、さっきは驚いたなあ。忍びさん、あん人と何かあったんだか」

 

「見知らぬ男だ。だが心当たりはある……」

 

 狼が答えると穴山は、

 

「ほぉ……」

 

 と顎を撫でて、何やら企んでる顔を見せた。

 

「もしや旦那、その刀とその義手、まだまだお使いですかい」

 

「そうだ」

 

「そうですか、そうですか! それは良ござんすね!」

 

「……何か武具を売ってくれるのか」

 

「流石旦那! 察しが良い。――と言っても、今すぐにというわけじゃ、ありやせんがね。旦那のそのカラクリ義手、そいつを造りそのまんまで、もっと頑丈で新しいもんに作り直せる技師に、ちょいと伝手がありやしてね。で、その材料や道具をあっしが売り、それで作られたカラクリ義手を旦那が買う。どうですかい!」

 

 との穴山からの提案を受け、狼は考え込んだ。確かに、彼が付けている忍義手は、長年こき使ってもまだ十分に動く優れものではある。が、使う側からすれば、いつ動かなくなるかどうか、やはり不安である。それにこの忍義手には、狼と、前使用者である仏師の男によって、忍具を仕込むために増設がされていて、当然そこには歪みや瑕疵があるわけであり、これも壊れる不安要素になりうるのである。

 

「……悪くない」

 

 狼が良い返事をすると、

 

「よし来た!」

 

 と穴山はグッと握った拳を上げた。

 

「では、手筈はこっちで整えときやす。旦那のほうは、新しい義手について、欲しいと思うことを考えておいてくだせえ。……ですが、その前に――」

 

 そこで穴山は、陽気な態度から一変して声を低く落とし、

 

「まずぁ……、旦那を付け狙ってる奴を、始末してやらにゃいけやせんよねぇ……。ということで――、ムジナの旦那ァ! この忍びの旦那の手助け、お願いしやすよぉ!」

 

 手を口元の横に添えて穴山がそう大声を掛けると、どこか近くで、下駄の音が離れていく音がした。

 

「かたじけない」

 

「いいええ、旦那とあっしの仲でしょうよう。それと、今度の情報料は、旦那との取引のための謂わば必要経費ってぇことで、おまけしときやす。そいじゃ、あっしはそこいらで腰を降ろしてやすので、何かあったら声掛けくだせぇ」

 

 と残して、穴山は小太郎を連れて去った。狼もそれとは反対の方へ、足を向けた。

 

 狼はもう一度、曲がり瓢箪から薬水を飲み、戦いへ臨むのであった。

 

 ――これが、大体一時間くらい前の事である。

 

 一方、炭治郎たちは、兪史郎に呼ばれて赴いた先の屋敷で、珠世という女性と相対した。彼女は『鬼』ではあったが、しかし他の鬼と違い、人の肉を喰らわない鬼であると語った。

 

 ある時、鬼としての性が一時的に外れた時分があり、その隙に自らに掛けられた鬼としての『呪い』を外し、現在に至るまで、自分が鬼になるように唆してきた鬼の首魁・鬼舞辻無惨への復讐のため、鬼にまつわる医療を中心に研究を続けてきたのだという。

 

 目下彼女は、鬼を人に戻す薬の研究を行っており、そのために、二年間も人を喰らわずに居られた禰豆子に強い関心を示していた。

 

 また、その薬の研究には、鬼の血、それも十二鬼月といった無惨の血を濃く継いでいる強力な鬼の血が必要であるらしく、彼女は炭治郎に、十二鬼月の血の採取を頼めないかと言ってきた。

 

 その矢先に、この屋敷の中に二体の鬼が襲来した。目が無い代わりに手のひらに目の付いた青年の姿の鬼と、鞠を持った少女の姿の鬼だ。

 

 非常に洗練された連携を取る二人組で、炭治郎はそれに終始翻弄され続け、普通なら致命傷になり得た攻撃を二度も喰らってしまった。

 

 しかし、一体どういう幸いがあったのか、炭治郎は死ぬどころか戦闘を継続させ、その後決死の覚悟で放った一太刀で、辛うじて片割れを倒すことに成功した。

 

 残ったもう片方も、珠世の血鬼術『惑血』という、彼女自身から流れた血の匂いで幻惑することで、相手の鬼の自滅を促し、戦いは終息した。

 

「これは、鬼が来たのか……」

 

 狼が駆け付けたのは、それが終わってすぐのことであった。

 

「あなたが、彼のお連れの方ですか」

 

 珠世からの問いに、無言で首肯し、

 

「追手を探し出すのに手間取った」

 

「十二鬼月でしたか?」

 

 と続け様に出された珠世からの質問に、首を横に振った。

 

「そうですか……。こちらが相手にした二人も、十二鬼月と名乗ってはいましたが、それにしては弱過ぎる。連携については称賛に値するものでしたが、それが無ければ、おそらく実力はもっと下がるはず。あの子がこうして五体満足で生きているのは、流石に奇跡としか言いようがありませんが……」

 

 結んで、珠世は炭治郎の方に顔を向けた。戦いの間、昂った気力で立っていた彼は、事はもう終わったと実感することで、糸が切れたみたいにくずおれていた。

 

「炭治郎」

 

 その炭治郎に、狼は速足で近寄り、そばに屈んだ。

 

「狼さん……、良かった、無事だったんですね……。こっちも、どうにかなりましたよ……」

 

 息も絶え絶えというに、残った気力で炭治郎は微笑んでみせた。

 

「よくぞ、やった」

 

 という労いの言葉を掛けてやり、狼は取り出した傷薬瓢箪を炭治郎の口に当てて飲ませてやる。あまりの不味さにかすかに炭治郎は顔を歪めるも、疲労から表情を保てず、すぐにそれは霧散した。

 

「禰豆子は」

 

「そうだ……、ね、禰豆子は……」

 

 と、思い出したように炭治郎は、この屋敷の壁に寄りかかって倒れている禰豆子に顔を向け、刀を頼りに立ち上がろうとした。狼はその炭治郎の肩に抑えて、無理をするなと押さえた。

 

 炭治郎に代わって狼が立ち上がり、禰豆子のもとへ近づく。近くまで来ると、狼の耳に彼女の寝息が聞こえた。よく見ると、前後に揺れる頭の動きは、寝ている者のそれであった。

 

「禰豆子さんは私の血の匂いに依る術の影響を受けています。私が診ますので、あまり近寄らないほうがよろしいかと」

 

 と、横から珠世が、引き止めるように狼の肩に手を乗せた。

 

「何故だ」

 

「私の血の匂いを通して、相手の判断力を鈍らせる術です。受けた者は、本来口にしてはならぬことも言ってしまう。通常は情報を話させるものなのですが、鬼が相手なら、禁句を口にさせて自滅させることも出来ます。そこの彼女のように……」

 

 このように語りながら、珠世は近くに転がっている女の鬼を指した。

 

 何とも惨たらしいことにその鬼は、両腕と、胸から下が引き裂かれ、肉片となって散らばっていた。辛うじて残った首のほうも、顎と頸部の損壊が激しく、最早、残された部位とも言い難い。

 

 にも拘らず、それはもぞもぞと――死人の痙攣ではない――蠢いていた。

 

 それはどこか、生きているかのように苦悶しているものに見える。

 

「生きて、いるのか……」

 

 狼の問いに、ええ、と珠世は重苦しそうに答えた。

 

「鬼の首魁、鬼舞辻無惨は、部下のことを信用していません。百年と少し前までは、配下が徒党を組んで自身に謀反を起こすことを恐れ、鬼同士には強い同族嫌悪の情を染み込ませていました。自身にまつわることが漏れることも危惧し、鬼は『鬼舞辻無惨』の名を口にすると、このように無残に引き裂かれ、再生も出来ぬまま朝陽に曝されるるのです……」

 

 そう続ける珠世の言葉を背に、狼はその鬼のもとへ歩み寄る。背中に帯びた太刀を包む風呂敷をほどき、朱に塗られた鞘が露わになる。

 

 鬼の傍らで狼は屈み、おもむろに背中のその太刀――不死斬りを抜いた。禍々しい妖気を放つ刀身が、こちらを覗き込む。

 

 珠世と兪史郎はそれを見て、何か恐ろしいモノに睨まれた気がして、息を呑んだ。

 

 その後狼は、鬼に頸のすぐ横に不死斬りの切っ先を突き左手を峰に押し当てると、いささかの間を置いて、それから小さく勢いをつけてそれを引いた。切っ先が地面に擦れる音と、肉が切れる音と共に、鬼の頸が切り裂かれ、その首と胴が切り離された。

 

 そうなってようやく、その鬼は蠢くのをやめ、安らかな弛緩をする。

 

 

THE PUNISHMENT FOR THE EVIL DEMON

 

 

 不死斬りを振って血を払ってから狼は、これを鞘に納め、そして目を瞑り、この女子(おなご)の骸に手を合わせて拝んだ。

 

 そののち、彼女の死骸は灰として崩れ、どこかへ飛び去って行った。

 

 それが消え去り、見えなくなってから、狼は合掌を解いて目を開けた。

 

「鬼にさえ、そのように慈悲を与えなさるのですね……、狼殿」

 

 珠世に呼ばれ、狼は振り向いた。

 

「如何なる悪人とて、死ぬれば仏だ。だが――、人も鬼も、変わらぬ」

 

 このように言う狼に、珠世は一瞬気の抜けたように目を見開き、その後、言葉の真意を推し量ると、途端にもの哀しげな面持ちをした。

 

「さもありましょうね……」

 

 悄然となる珠世の様子を見て、俄かに兪史郎は厳めしい顔で狼を睨み付けた。

 

「止しなさい、この方には悪意はありません」

 

 珠世は、そんな兪史郎を宥めて、再び凛然とした顔つきをして、

 

「まずは、禰豆子さんたちの手当てに取り掛かりましょう。失礼します」

 

 と断って、珠世は禰豆子のもとへ行った。

 

 その間狼は、炭治郎の処置を、自分が出来るだけのことを行った。

 

 二人は大分疲れており、しばしの休息が必要だったため、休むための部屋を宛がわれた。

 

 微睡む二人を見守ったのち、狼はその部屋を後にすると、

 

「ところで、狼殿、あなたに会わせたい方がいらっしゃいます。どうぞ、こちらへ……」

 

 そこへ珠世が声を掛けてきた。

 

 言われるがまま狼は、彼女の後に続いた。

 

 その道すがら珠世は、

 

「あの男、鬼舞辻無惨は、諸行無常を厭い、不変を好みます。だからこそ、陽の光を恐れることのない、完璧な不死を求めています」

 

 唐突に語り出した。

 

「そのためであれば、何にでも、他の誰が犠牲になろうとも、手を出すことでしょう。だから私は、いち早く彼女の保護に踏み切ったのです」

 

「……」

 

 随分と奥の方へ連れてこられたところで、珠世はある部屋の前で止まり、

 

「失礼します」

 

 中に居るであろう者に一声かけて、静かに襖を開けた。

 

「彼を、連れてきましたよ」

 

 と言って珠世は、狼の前から退いた。

 

「お主は……」

 

 部屋の中の人物と相対して、狼は驚愕の色を見せた。

 

「お久しうございますね、……御子の忍び」

 

 彼女は、儚げな微笑で以って、狼を出迎えた。

 

 

 

 

『戦いの記憶・黴胞子の鬼

 

 心中に息づく、戦いの記憶

 

 鬼仏に対座し、戦いの記憶と向き合うことで、

 攻め力を成長できる

 

 黴胞子の鬼、その正体は無邪気な童女ではなく

 老いさらばえた老婆であった』

 

 

『戦いの残滓・黴胞子の鬼

 

 心中に息づく、戦いの記憶

 今はその残滓のみが残り、

 記憶は確かに狼の糧となった

 

 老いぼれ、口減らしに捨てられた老婆

 実母を捨てる息子の身を、それでも案じた

 息子が帰り道に迷わぬよう、枝や小石を

 道標としてこっそりと撒いておいた

 

 皮肉かな

 鬼となり彼女が、その道標を辿って、

 最初に喰らったのは我が子であった』




 ふろうもの様から頂いたトドメ演出のテキストを、今回試しに貼ってみました。また、いくらか私の手を入れています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ただ永く生きるだけ

 この物語が長編だったら結末はこんな感じですよ回。

 原作は現代編来るんだろうし、映画版バイオハザードみたいに開き直って書く。


 一九九一年(平成三年)一月。

 

 女が座っていた。喪服を着ている。妙齢の、綺麗な女だ。

 

 切なげに垂れた明眸と蛾眉、象牙色の滑らかな肌に、初心な娘のような桜色の薄い口唇とは裏腹に、荒波にすら動じぬしたたかさを感じさせる凛とした居住まい。

 

 その対面にまた、もう一人女が居た。

 

 尼僧みたいな着物を着た、女である。まだ瑞々しい、十代程の見かけながら、その長い髪に幾筋もの白い毛髪が混じっている。

 

「禰豆子さん」

 

 尼僧の格好の女――変若の御子は、向かい合った女の名を呼んだ。

 

「本当に、行ってしまうのですね」

 

 御子は、相手の意思を確かめる問いをした。

 

「――はい。決めていたことですから。今日、兄の三回忌に、竈門家からは離れると」

 

 禰豆子は、一切の迷いが見受けられない、至極澄んだ答えを返した。

 

 一九八九年(昭和六十四年)一月四日、竈門炭治郎――死去。享年八十八歳。

 

 昭和を越え、平成を迎えることは、とうとうなかった。ただ、背負った運命の割に、随分な大往生ではあった。孫やひ孫、娘息子と一緒に正月を祝い、遊んだり、ひとしきり笑ったのちに、温かい布団の中で眠るように息を引き取った。

 

 禰豆子は一人、炭治郎の死期を悟っていた。炭治郎が永眠するその晩、彼女はその寝床へ赴き、彼の手を握った。

 

 ――おやすみなさい、お兄ちゃん。

 

 炭治郎の呼吸が止まるのを見て、禰豆子は、彼の額をそっと撫でた。その額に、もうあの痣は無かった。

 

「ご家族には、言いましたか」

 

 物思いに耽る禰豆子に、そっと気を遣うように御子は尋ねた。

 

 禰豆子は、自然と伏せていた顔を持ち上げ、

 

「義姉さんには、あらかじめ伝えておきました」

 

「彼女は、何と」

 

「特に何も。一言、そうですか、と。ただ……、何かを言いたげではありましたが……」

 

 禰豆子の脳裏には、竈門家を出ると彼女が言った時の、義姉の顔が焼き付いていた。優しく気丈に振る舞いながら、その老いて皺が増えた顔にうら寂しさを滲ませていた義姉を前に、躊躇を覚えなかったわけではなかった。若い頃の義姉も、時折寂しそうな顔を見せることはあったけれど、年を取った今とでは、重みは違った。

 

 義姉は、何かを言いそうに口を開きかけるも、咄嗟に口を引き結んで黙りこくった。次いで、今度は別のことを言おうかという風に、もごもごと口を動かしたのち、禰豆子が言っていたように、『そうですか』の一言を紡ぎ出したのであった。

 

 禰豆子が思うに、きっと義姉は、引き止めたかったのだろう。

 

 おそらく最初の閉黙は、行かないでほしいとか、寂しいといったことが出そうになったのだろうが、されど、禰豆子の意思を阻むようで、言うに忍びなかったのだろう。

 

 次に言いかけたことは、大方彼女を慮ることなのだろうが、それも、お為ごかしに禰豆子を引き止めるようなことだと感じて、憚られたはずだ。

 

「……兄は、いえ、私の家族は――それに珠世さんも――最後まで悔いていました。私を、一人の人間として幸せにしてやれなかったと……」

 

 唐突に禰豆子は、声を震わせて、懺悔するように紡ぎ出した。

 

「他の娘が羨ましくないわけではありませんでした。女として、好きな人と子供を作って、子育てに苦心して、たまには喧嘩もして、大きくなっていくのを見守って、門出を祝って、そして最後に自分の老いを自覚して、旦那様と一緒に余生を過ごすことに憧れはあった。でも……、でもその一方で――」

 

 そこで禰豆子は、伏せがちだった目を持ち上げ、前を見据えだし、

 

「この、人の世界がどこへ行き、どこの果てに辿り着くのかを、その道程を見ていきたいんです」

 

「……それは――使命、ですか」

 

 御子からの問いに、いいえ、とやんわりとした否定を返した。

 

「私が、そうしたいだけです。興味……というよりは、見ずに居られない、でしょうか」

 

「……」

 

「鬼舞辻無惨は確かに、人を脅かす諸悪の根源でした。でも人々を害するのは、あのような男ばかりじゃない。長く生きて、しみじみ感じます」

 

 ごく分かり切ったことを言うみたいにそんなことを語る彼女の眼は、全体これまで何を見てきたのか。

 

「そも、鬼舞辻無惨がかのような狂気に囚われたのは、生来のものか、或いは鬼と化したからなのか。いずれでありましょうね」

 

 淡々と御子は、わざわざ聞くまでもないことを、敢えて言問うた。

 

 これに対する禰豆子の答えは、

 

「生きたかったんだと思います」

 

 実に単純なものであった。

 

「狼さんの言っていた通り、人も鬼も変わらない。しばしば人は、同胞さえも脅威になる。その蛮人も、生きたいからこそ、奪う。人々は大義名分を掲げて自らを守ろうとするけれど、本当は、人が存続することは、嫌になるくらい意味が無い」

 

「生きることが億劫になるほど、生き難く、而して生きる意味も無い」

 

 それに合いの手を入れる調子で、御子は言葉を挟んだ。

 

「それでも人は生きたい。意味は無くとも、それでも、生きたい意思だけはある。だからこれからも人々は、たとえ何があろうとも、この混沌の中を生き続けるのでしょう」

 

「……それは、とても気の遠くなるような、途方もない旅路となるでしょう。私に出来るせめてものことは、あなたの無事を祈り、お米を授けるばかりでございます。どうか、お気を付けて」

 

 と結んで、御子は禰豆子に手のひらを出させ布を置くと、そこへ米を流し落とした。パラパラと米が落ち、瞬く間に手のひらに湛えられた。

 

「ありがとうございます。お米ちゃんも、どうか息災に。私と同じで不死なのだから、いつか会えますよね」

 

 米を布で包みながら禰豆子は、親しみを籠めた笑みを御子に贈った。

 

 御子は、ニッコリと笑った。

 

 しばらくお互いに笑顔を向け合うと、禰豆子は立ち上がって、その部屋を後にした。

 

 後ろでまとめた髪の毛に挿してあるクナイ形の簪の、その装飾が、綺麗でささやかな調べを奏でた。その後ろを、光り輝く蝶が釣られるように尾いていった。

 

 その背中を御子は見送った。禰豆子の姿が見えなくなると、その笑みはようよう衰え、ついには郷愁の寂しげな笑みへ変わった。これはどんな気持ちでのことなのかは、本人にも分からない。せいぜい、万感の思いがある、と辛うじて表現出来る程度であろう。

 

 外に出て、禰豆子は連れの者と合流した。顔の右側に白い痣がある、柿色の外套を羽織った壮年の男だ。彼は、やって来た禰豆子の存在を認めると、一瞬目を合わせてからその外套を脱ぎ、傍らに停めてあったトヨタAE86に乗り込んだ。シートベルトを締めて、それから助手席に乗ってきた彼女が同じくシートベルトを締めると、エンジンを掛けた。

 

 車が発進してある程度走ったところで、どこからか電子音が鳴った。どうやらそれは、その壮年の男――狼の懐から鳴っているようだった。これはポケベルの音だ。

 

 運転中で前を見ながら狼は、そこからポケベルを取り出して、禰豆子に渡した。黙って禰豆子は受け取り、そこに映し出されている番号を読み取った。

 

「産屋敷グループか」

 

 狼が訊くと、

 

「ううん、ご苦労さん(5963)ですって」

 

「一心様か」

 

 狼も禰豆子も、わざわざ発信者を見るまでもなく、そのメッセージだけで誰からなのかを悟った。

 

「また、何かやっていたんですか」

 

 と禰豆子が尋ねるも、

 

「……」

 

 これに狼は沈黙で肯定した。

 

 少々呆れた様子で禰豆子は鼻から小さく息を吐いた。

 

「そうですか」

 

 ひとまずこの話題を流して禰豆子は、笑みを浮かべつつ懐から、御子から授かった米の包みを取り出して、

 

「お米ちゃんからの餞別です。後でおはぎにして食べましょっか」

 

「そうか」

 

 と狼は素っ気ない返事をした。

 

「何ですかその返事ー」

 

 禰豆子はむくれた顔をしてみせた。無論、ただからかっているだけだ。彼女とて、狼に愛想が無いことなど分かっている。

 

「おはぎ好きでしたよね」

 

「ああ」

 

「でも狼さん、丁寧に作った物より、ちょっと雑に作った感じのほうが、美味しそうに食べてる気がします。男の料理みたいにって言うか……」

 

「昔、義父がくれた」

 

「へえ……。優しいお父さんだったんですね」

 

 と禰豆子から言われて、狼はそのいつも強張らせている顔から、力が抜けた。

 

 彼女には、そう見えた気がした。

 

「そう言えば、右近左衛門の名前もそうでしたね。狼さんみたいな人が慕っているんだから、きっと立派なお父さんだったんでしょうね」

 

 言って禰豆子は、後部座席から顔を出した発光するミミズクを撫でてやる。右近左衛門と呼ばれたミミズクは、気持ちよさげに目を瞑って禰豆子の撫でる手に自らの顔を擦り付けた。

 

 その後、米の入った包みを持ち上げて、これを見つめた。この米で作るおはぎの味が、実に楽しみなのだ。まだ鬼だった頃には、とても分からないことだったろう。

 

 八十年近く前、鬼だった禰豆子は、同じく鬼でありながら人を襲わない鬼、珠世という女が創った薬で、人の心を完全に取り戻した。

 

 ところが、その薬は不完全であり、故に彼女を完全に人に戻すことはなく、鬼としての凶暴さと食人衝動だけを消した。これに因り、彼女は超人的な力を宿し永遠に若いまま生き続ける、即ち不老不死となった。

 

 かつて鬼舞辻無惨が渇望した、天衣無縫なる生命。それをよりにもよって禰豆子が――別段不老不死なんぞ望まず、争いはむしろ厭うほどであった禰豆子が――体現した。

 

 人と共にありつつ、人を超越した彼女にとって、何かを食べることは蓋し生きることを実感する生き甲斐なのであった。

 

 ふと、窓の外の流れる景色を見た。どこまで走ろうと、映るのは乱立されたビルディングの足元。そこへ、遠い昔、炭治郎に連れられて来た東京の街並みが、ぼんやりと重なる。まだあの時は、もっと落ち着きのあった街並みだった。活気と落ち着きの調和が取れた街だった。

 

 今の街並みも、昔の街並みも、どちらも嫌いではない。でも、その二つの差を知る度、それだけ時間が経ったことを実感させる。自分が『現在』と思っていたあの日々が、夏の木に取り残されたセミの抜け殻さながらに『過去』へ流されていき、言い知れぬセンチメンタル、或いはノスタルジアが燻る。

 

 窓に映る禰豆子の眼から、一筋の涙が流れた。彼女自身がそれに気付くと、今度はそれがひっきりなしに、はらはらと溢れ落ちていった。

 

 それで禰豆子は、嗚咽を漏らしたりといったことはせず、涙が落ち着くまで終始、涙を流し続ける己と向き合っていた。

 

 ――大丈夫。平気。ただ、永く生きるだけ……。

 

 

――And I heard, as it were, the noise of thunder. One of the four beasts saying, "Come and See." And I saw, and behold a white horse.

(四つの聖獣が(まみ)えるや、鳴る神の音声(おんじょう)が轟いた。「来つ見よ」。そして見た。

――見よ、()の白い馬を)

 

 Johnny Cash『The Man Comes Around』 




 余談ですが、狼が乗る車はマーク2かクラウンかカローラかで迷ってました(トヨタ厨)。なお、ドリフトはしません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

因縁の火種:前編

【0】

 

「これを……」

 

 珠世に会わされた少女、変若の御子が差し出してきたのは、二つの書物『永旅経』。

 

「これは……仙峰寺の経典か」

 

「はい。あなたが、届けてくださった物です……」

 

 狼の居た葦名には金剛山・仙峰寺という場所があった。何を血迷ったか、不死の実験のために人の身を使う外道の研究をする、狂気に魅入られた集団だ。

 

 御子に示された所に、狼は目を通す。

 

 まず『蟲賜りの章』では、死ねずの呪い『蟲憑き』というものに触れられていた。それに拠れば、仙峰寺の開祖である仙峰上人は、はるか西方より来訪されし竜より不死の蟲を賜り、爾来その身について煩悶していた。

 

 二つ目『竜の帰郷の章』では、仙峰上人は生き果てたのち、不死とは人の身に余るものであり、在るべき所に帰すべきだと結論し、竜胤の揺り籠となる存在が、竜胤の御子を宿し、竜の帰郷を望む旨がしたためられていた。

 

「これが、私の使命なのでした。彼らはあまりに永過ぎた模索のさなか魔境に陥り、いつしか不死に魅入られ外道に落ちれども、本来私は、このために生まれてきたはずだったのです。されど――」

 

 語ってから御子は、更に話を繋げようとする際、喉から絞り出すような悔恨の声を出し、

 

「私は、あの人たちが、どうしても憎かった……。みんなを死なせ、その屍の上に私を据えた、あの外道たちを!……」

 

 胸の前で両手の拳を握りしめ、彼女は自らの情念を吐露した。

 

「その憎悪ばかりに囚われ、向き合うこととも向き合わず、自らの務めから……私の存在の意味からも、目を背けた。そのために、今度こそ私は、不毛な死の上に鎮座する不浄の象徴となり、而して今度こそみんなの死が無駄なものとなり果ててしまった!……」

 

 このように結んで、以後御子はしおれ返った。

 

 溜まった澱を吐き出そうともがけど、それでも内に残るやりきれない思いからは、解放されていない。

 

 彼女の言うように、死んでいった子供たちについては、まさしく仙峰寺の坊主たちの罪である。されど、生き残った変若の御子の彼女からすれば、自身は、その子供たちの犠牲の上にある命であり、それ故に罪悪感を抱く。

 

 何の罪咎も無いはずの少女には、甚だ重く、理不尽で、辛過ぎる因業なのだ。

 

 とても割り切れるものではない。浅はかな言葉で、救い切れるものではない。

 

 狼はただ一言、

 

「幸せに生きろ」

 

 とだけ掛けた。

 

 唐突な言葉に、御子は俯かせていた顔を上げ、呆然と狼を見上げた。

 

 待てども待てども、彼はそれ以上何も言わなかった。故に御子は、彼の言葉が含蓄することが分からなかった。

 

 それでも、それは彼女の心に染み入り、確実に、雁字搦めになっていた懊悩に幾ばくかのほつれを生んだ。

 

 どの道、当座で彼女を救う道は無い。ついては意味など話すべくもない。いずれ分かることだ。

 

 そこに至って初めて、狼の言葉は実を結ぶであろう。

 

【1】

 

「イィーヤアァーッ! ヤクザアァーッ! 警察は何やってるんだよォーッ! 何のための暴対法*1だよォーッ!」

 

 狼を指差し汚い高音の悲鳴を上げる、タンポポみたいな頭の少年・我妻善逸は先ほどまで、往来の真ん中で涙と鼻水を顔に塗れさせながら若い娘に縋り付き求婚をするという、みっともない姿を晒していた。

 

 見かねた炭治郎が止めに入ると、善逸は狼の姿を認めるや、これまた失礼極まりないことに、いきなりヤクザ呼ばわりをして、それから何か訳の分からないことを言って再び喚き出し、今の叫びであった。

 

 で、そこへ、炭治郎にあてがわれた伝令用の特殊な鳥――鎹烏から、この善逸と一緒に指定場所へ向かい、現地にてもう一人の隊士と合流しろとのお達しが来、それで炭治郎一行は善逸を加えて目的地へ赴いたのであった。

 

 場所は、鬱蒼とした森の中にある、寂しげな一軒家。なかなかに広い屋敷だ。正面から見た限りでは、その奥行きはよく分からない。どこまで続いているか。

 

「血の臭いがする……」

 

 屋敷を前にして、炭治郎がスンと鼻を動かした。

 

「そんな臭いする? それより、変な音聞こえないか。鼓みたいな……」

 

 未だ怯えた顔で善逸が、耳をそばだてた。

 

 狼には、ほんの僅かばかりだが、不穏なモノが感じられた。不穏な音、或いは不吉な臭い。二人ほどではないだろうがそれがあるらしいのは分かる。

 

 炭治郎は鼻がよく利く。それこそ、人の感情すら感じとれるくらいである。

 

 狼が見受けたところ、善逸は、炭治郎とは別に耳が大層良いらしい。それも、人から発する音から、その人物の人格まで。当初、炭治郎や狼に、耳を向けるように顔を傾けていたのは、そのためだろう。

 

 と、そこへ、

 

「おい、何だテメエら」

 

 不意に横から、随分と勝気な青年の声が掛かった。

 

 三人が振り向くと、何とも可愛らしい少女――否、美青年が、腕組みをして立っていた。

 

「えっ、可愛い! 女の子……じゃないのか……、声からして……」

 

 その彼を少女と見紛った善逸は、一瞬、喜色に顔を晴れさせた。が、須臾にして、この美青年が男であることを悟り、一気に落胆の様相を見せた。

 

 当の青年はこれが気に入らなかったのか、

 

「ア?」

 

 と、顔に似合わないドスを聞かせた唸り声を上げ、

 

「んだ、その辛気臭ぇツラはぁ……。そんなに俺がガッカリか? つうか、んな俺がなよなよしてっかコラ! アァ?」

 

 こう恫喝されて、ヒッと善逸は情けない悲鳴を上げて炭治郎の後ろに隠れた。

 

 普通ならこんなにも可愛らしい顔立ちは羨ましがられるものだが、この青年はあまり気に入っていない模様。

 

「その羽織っている女性物の着物……たしか最終選別で居たな。最後に居なかったものだから、てっきり選抜は通れなかったものかと……」

 

 炭治郎は、青年の格好をしげしげと見ながら言った。

 

 青年は上半身には肌着を着ず、代わりに女物の着物を地肌に羽織っていた。一見して気付きにくいが、よく見ると履いているのは隊服のズボンだ。

 

 最終選別でも同じ格好をしていたので、炭治郎も忘れるはずがなかった。

 

 青年の名は嘴平伊之助。炭治郎と善逸とは、同期であり、先刻の伝令にて言及された合流者であった。

 

「あ? んなの聞いてねえし、そもそもこの俺様に助けなんて要らねえ!」

 

「いや伝令は最後まで聞けよ」

 

 善逸がツッコんだ。今しがた伊之助相手に浮足立っていたとは思えない、鮮やかなツッコミだった。

 

「んで、それより、そこのガキどもは何だ」

 

 と伊之助が顔を向けた先には、二人の子供が居た。兄と妹のきょうだいだろうか。二人とも、木の陰に隠れてこちらを窺っていた。

 

 見知らぬ相手を前に、警戒しているらしい。特に、容貌が厳めしい狼には、強い緊張を見せている。

 

「おや、君たち、こんな所で何をしているんだい?」

 

 炭治郎が、優しい声でその子供たちに歩み寄っていった。対して狼は、彼らから視線を外し、関心が無いように見せた。後は炭治郎がどうにかしてくれるだろう。

 

 兄妹の名前は、正一とてる子と言った。本来は、清というもう一人の兄が居たのだが、鬼と遭遇してしまい、連れ去られてしまったのだという。その際鬼は、正一とてる子の二人には目もくれず、清のみを連れて行ったのだそうだ。稀血という、鬼にとって好ましく、また通常の人間を喰うより遥かに多大な力を得ることが出来る血を、清という少年は持っているようだ。

 

「んで、お前らの兄貴をさらったって鬼はこの屋敷ん中ってわけだな。ようし! ならとっとと行くぞオラ! 猪突猛進ッ!」

 

 聞くや否や伊之助は、炭治郎らが制止しようと動くより前に、屋敷の中に突撃したのであった。

 

「行っちゃったよ……」

 

「行っちゃったな……」

 

 いささかの間、二人は呆気に取られていたが、その後気を取り直して炭治郎が、

 

「さて!」

 

 と切り替えるように、この兄妹を日陰まで連れて行くと、背中に負っていた木箱をそばに置き、

 

「君たちはここで待っていて。何かあったら、この木箱の中が、守ってくれるはず」

 

 兄妹に語り掛けるも、二人は怪訝な顔で箱と炭治郎を交互に見やるばかりだった。

 

 木箱に入っているのは禰豆子だ。鬼となり昼間は陽の下を歩けないため、ここに入っている。が、事情を知らない兄妹からすれば、炭治郎が訳の分からないことを言っているようにしか思えないだろう。

 

 炭治郎もそれを分かっているから、手のひらで狼を指して、

 

「この人も一緒に居てくれるし、大丈夫だ。狼さん、すみませんけど、この子たちを見ていてあげてくれませんか」

 

「承知した」

 

 このように、狼も護衛に付くと提案をした。

 

 これに不服を唱えたのが、

 

「エーッ! 待ってくれよぉ、この強そうな人居なかったらヤバイじゃん! 危ないじゃん! なあ炭治郎、考え直せよぉ!」

 

 善逸である。その懇願は、最早命乞いの域に入っているくらい、必死さが伝わってくる。

 

 で、流石の炭治郎も、この善逸の情けなさに業を煮やし、平時にあってならあり得ない厳しい面相を以って、善逸を引き摺っていった。後には、この兄妹と、箱に入った禰豆子と、狼の四人だけが残された。

 

 甚だ気まずい。

 

 大抵の子供にも言えるが、この兄妹が、大の大人に、それもいつも仏頂面な男に話しかけられるほどの気さくさと胆力を持ち合わせているはずがなかった。ただチラチラと狼の様子を、監視するかのように窺うのが精いっぱいだった。

 

 狼のほうも、自身の強面を自覚していればこそ、腰を降ろして目を瞑り、なるたけ兄妹の方に視線を向けないよう努める。

 

 狼も、竈門一家と過ごしていた間、子供の面倒を見たこともあったが、やはり子守が得意になるということはなかったらしい。

 

 と、物思いに耽っていると、ふと狼の耳と鼻に、草木が煤けるきな臭いにおいと、チリチリという音が届いてきた。

 

 その方へ目を向ければ、そこには奇妙な炎が棚引いていた。

 

「これは……」

 

 そう口に出すと、遅れて兄妹のほうも気が付き、

 

「ヒッ」

 

 と息を呑んで後ずさった。動揺のあまり、何かに躓いて、てる子のほうが尻もちをついた。

 

 その燃え盛る音は、直後に、唸るような勢いで強まった。恐ろしい怪物が、大口開けて獲物を飲み込まんとする勢いだ。

 

 これに怯えて、兄妹は脇目も振らず逃げ出した。それを狼が追おうとするも、件の炎が二人に襲い掛かったため、咄嗟に狼は、あらかじめ忍義手に装着していた大きな鉄扇を広げた。

 

 円を描いて広げられる鉄扇が、ひと回りして大きな傘となった。紅蓮の朱雀が描かれた傘の縁からは、回転を追うような鋭い火が走り出でた。襲い来る炎はその火円に吸い寄せられてゆき、傘の回転が収まるに伴って燃焼を殺された。

 

 義手忍具『朱雀の紅蓮傘』

 

 のべつ幕なしに襲い来る炎を危なげなく捌き切って、鉄傘を畳み狼は振り返った。兄妹は無事に炎とは距離を置けた。ところが、その、兄妹が走り向かっている先は、先刻炭治郎たちが入っていった、鬼の居る屋敷の玄関であった。

 

 直感で狼は危機を感じ取り、二人の後を追った。二人は既に屋敷へ足を踏み入れ、薄暗い中へ消えていった。それに狼も続いて飛び込み、彼の手が兄妹の肩を掴もうとする寸前、どこからか鳴り響いた鼓の音と共に、目の前で扉が閉まったのであった。

 

 すぐさま扉を開けるも、その先には何も居なかった。それどころか、全く別の場所に繋がっていた。これは玄関から入ってすぐにあるような部屋ではなかった。

 

 身を翻して狼は、背後にあった玄関の扉を開けたが、またしてもそこには、外ではなく別の部屋があった。まんまと閉じ込められてしまった。無防備にも狼は、禰豆子を一人で外に置いてきてしまった。

 

 こうなればするべきことはただ一つ。闇雲にでも、とにかく屋敷を探し回り、急いで鬼の打倒、もしくは兄妹の捜索に、どこからか脱出して禰豆子の回収。この三つ。

 

 このように定めて、狼は走り出した。いちいち襖や障子を礼儀正しく開けている暇など無いため、体当たりや蹴りで破ったり、楔丸で切り開いていった。

 

 薄暗く、異様に広い屋敷。人を喰らわんとする鬼の潜んでいそうな不気味なこの空間を、牙を剥き出しにした狼が疾走す。

*1
暴対法施行は平成四年




 新要素『現代人感覚インストール』


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

因縁の火種:後編

 不吉なまでの静けさが立ち込める屋敷の廊下を、殺気立った狼が駆け抜ける。

 

 しかしながら、先ほどから定期的に鳴らされる鼓の音が来るたびに、屋敷の部屋の配置は無作為に変わる。どうもこれのせいで、なかなかに目標と遭遇出来ないでいた。そのために狼は、かれこれ長い間、屋敷の中を走り回っていた。

 

 随分長いこと走ったものだが、これといって狼は息を切らす素振りは見せない。

 

 何しろ彼の元居た葦名という国は、切り立った崖が多く立ち並ぶ山の中にあり、そこを彼は、手練れの侍や得体の知れない怪物との死闘を演じながら一日中駆け回っても、疲労困憊で倒れたりはしなかった。

 

 加えて、鬼殺隊の呼吸術。この技術は身体への負担が大きいが、逆にそれを四六時中行えば、更なる身体力の上昇に至る。

 

 『全集中の呼吸・常中』

 

 強靭な肺活量が必要な高等技術だが、忍びとして元より肺活量が備わっていた狼からすれば、とっくに習得していたに等しかった。

 

 と、斯様なことから、ここまで長く屋敷の中を疾走していても、息を乱さないのであった。

 

 ただ、狼にとっては不運、敵にとっては幸運にも、未だ鬼と鉢合わせすることはなかった。

 

 流石にここまで探し回っても見つからないとなると、狼も足を止めて考えざるを得ない。

 

 他に方法はないものかと、沈思しながら歩く狼の肌に、肌が燻るようなただならぬ気配を感じた。

 

 それはすぐ横の襖であった。

 

 襖の節々から、燦爛とした紅い光が漏れていた。

 

 やおらその襖に手を掛けて、開いた。

 

 その先には、巌の如き巨漢が、こちらに背を向けて部屋の中央で鎮座していた。深紅の着流しを纏い、巨大な金砕棒を肩に立て掛けていた。

 

「見てたぜ、テメエのことは。新しい術を身に着けて、前より強くなってるみてェだな」

 

 地響きかという声で、それは口を切った。

 

「惜しいモンだ……。あんな事が無けりゃァ、鬼に誘ってたとこなンだがなァ……」

 

 金砕棒を杖代わりに立ち上がり、着流しを払って上半身を晒し振り向いた。その姿に、狼は見覚えがあった。

 

 あの時の鬼だ。二年前、狼が仕留め損なった奴だ。左腕は、狼の不死斬りに切り落とされたまま、再生されていない。胴に刻み付けられた創も同様。

 

 墨のように黒い肌に入った鮮やかな紅い創と、それと同じくらい紅い唇。振り乱した緑掛かった髪の毛の立ち揺れる様は、揺らめく炎をおもいおこさせる。至る所に巻かれた皮下脂肪と、それでは隠し切れぬ凝縮された筋肉は形容し難く、人に例えるならば腹の出ていない力士と言ったところか。

 

 その威圧感の凄まじさは、常人なら前に立つだけで足が竦み、恐怖に締め付けられるほどであろう。

 

「どうだ、酷ェモンだろォ……、この右目……。テメエのせいで、抉らされたンだよ、――あの御方に」

 

 鬼の右目は、素手で抉ったためか、眼窪が広がっていて、そこに大きな義眼が嵌め込まれていた。しかし義眼が大きすぎる故か、先の部分が飛び出すみたいにはみ出て、ギョロギョロと動いていた。

 

 目を覆いたくなる無残な姿にも拘わらず、奴はクツクツと嗤った。

 

 鬼は持っていた金砕棒を肩に担ぎ、膝を屈折し身をかがませる風に構えを取った。

 

「テメエは、もう俺がこの手で殺らねェと気が済まねェ」

 

 と、鬼は、それまで抑えていたであろう殺気を、それこそ炎が出ているのではないかという幻を見せるほどのものを、一気に噴出した。

 

 これを受けて狼は即座に刀を構えた。

 

 そして始まる睨み合い。随分と長い睨み合いである。得てして、猛者同士の戦いでは、こういった睨み合いが、切り結ぶ時間よりも長くなるもの。言うなれば視線の立ち回り。

 

 さしずめその構図は、怪物の睨み合いを象った一対の像である。

 

 長い膠着ののち、先に切りかかったのは狼であった。最初にしていた霞の構えから、上段の構えに移行して、そこから放った一撃。

 

 葦名流『一文字』

 

 『斬る』その一念に心技体を注いだ一太刀は、単純無骨ながら、何事にも通じるほどに太く強い。

 

 が、鬼はその逞しさを容易く吹き飛ばせる。肩に構えていた金棒を横なぎに振るう。それ一つだけで怒る暴風の如き一撃により、『一文字』は狼の肉体諸共消し飛ばす。

 

 黒煙となって狼は消え失せた。その後には、黒の羽――烏のだろうか――ヒラリヒラリと宙をたゆたっていた。

 

 次の瞬間、その場所から鬼に向かって、火柱が連なった。

 

 これに鬼は面食らった。

 

 だがそうしている刹那の隙に、いつの間にか鬼の背後に居た狼は間髪入れず構えた。

 

 屈みつつ上体を後ろに引き、身体の横で刀の切っ先を相手に向けて構えると、そこからバネに弾かれる要領で、刀を突き出しつつ突貫する。身体ごと飛び出す豪快な突きは鬼の背を捉え、それにとどまらず、狼は相手の体を踏み台に宙へ飛び上がった。

 

 忍び技奥義『大忍び刺し』、或いは葦名無心流秘伝『大忍び落とし』という技と、ほぼ同じ技だ。しかしこれは、狼が鱗滝から教わった全集中水の呼吸、それと錆兎という幽霊の少年から教わった雲の呼吸の技術を練り込み、改良した技である。

 

 鋭きこと、水面に落つ雨雫の如く。疾くも静かなること、梟の如し。

 

 雲の呼吸『時化空・大忍び落とし』

 

 空中へ上がった狼は、そこから鬼のもとへ向かって落下していき、刀を鬼の肩に突き立てた。

 

 深々と突き刺さった刀は、鬼相手では致命傷にはなり得ないだろう。勿論狼の動きはここでは止まらない。

 

 空いているほうの片手で鬼の頭を掴むと、突き立てた刀で中を抉る。そうなれば鬼の体内は血で溢れ、刀に纏わりつく。狼はその血を術で刀に纏わせつつ、鬼から刀を引き抜いて飛び退いた。

 

「野郎、何しやがった……。その刀は……」

 

 鬼は刺された傷口を押さえて忌々しそうに狼を、それと彼の手に握られた血を纏った不気味な刀を見た。

 

 忍殺忍術『血刀の術』

 

 殺した者の血を呪いの刃とし、間合いを伸ばす。不死斬りの介錯を通して狼が見出した術である。これは、殺し過ぎた者に宿る怨嗟を利用して発動することも出来るのだ。

 

 再び構えて振るわれる狼の一太刀。剣先から放たれる、鮮やかな赤とくすんだ赤が綯交ぜになった血の刃は、今度は鬼の反撃を許さない。防御をしようにも、実体の無い刃は妨げられない。

 

 血刃は、鬼の肉体に創と一緒に、呪いの血痕を張り付けた。

 

 通常この術は、不死斬りの力を持たぬ。ところが厄介にもこの血痕からは、線虫のような血の糸が伸び、たった今付けられた傷口を引っ張り、再生を幾らか阻害していた。

 

 殺された怨霊たちが、憎き鬼どもを冥界へ引きずり込もうと執念を張り巡らしていた。

 

 治せなくはない傷だが、立て続けに狼から受ければ損傷も蓄積していき、状況は不利に傾いてゆく。

 

 そこで鬼は、多少の負傷は覚悟で狼に肉薄し、金棒を振るった。

 

 これを狼は弾いた。殺到する衝撃を器用に散らし、攻撃を潜り抜ける要領で、金棒を刀の腹を滑らせるように受け流す。残った衝撃は、一部は狼の体幹が引き受け、残りはそっくり鬼に返した。

 

 減衰していると言えど、自身の力を返されれば、鬼にも著しい負担が掛かる。隙も出来れば、狼はそこへ打ち込んでくる。

 

 以前にも狼と切り結んだことのあるこの鬼は、当然これも見抜いており、さして難なく防ぐ。それで二、三度ほど受けて、今度は不意に狼からの打ち込みを、同じように弾いて見せた。

 

 剣の型を崩された狼へ、対照的に体勢が安定している鬼は逆に打ち返した。

 

 これを狼は弾くか、はたまたよけるのか。どちらにせよ、彼に向っていた流れを変えることは出来たはずだと、鬼は考えている。

 

 狼がとった行動は回避であった。しかし妙な避け方をしていた。どうにも不自然な体勢から、奇妙な動きでの回避を行っているらしかった。この想定外の動きのお陰か、鬼が期待していたほど狼の体勢を崩すには至っていなかったようだった。

 

 数度程その動きを見て鬼が把握したところに拠れば、それは狼の左腕の忍義手にあるようだ。

 

 その義手はなかなかに重いらしく、狼はこの重みを利用することで、自身の重心を誘導したり、動きの軸としてあの緩急の付いた妙な動きを実現していたのである。

 

 忍び技『寄鷹斬り』

 

 無論、鬼相手に回避に徹することもなく、合間を縫って狼は斬撃を重ねた。

 

 それは流れる雲を思わせるゆったりとした剣筋であった。されど、正味では素早い剣筋でもあった。まさに、地上からは緩やかに見えても、空では人の想像より疾く流れる雲に同じ。

 

 そしてこれは、前述の『寄鷹斬り』と、水の呼吸の技術を合わせることで、また一つの完成を迎える。

 

 巴流『浮き舟渡り』――否――雲の呼吸『凌雲・浮き舟渡り』

 

 寄鷹斬りとの併用で繰り出されるこれは、三百年前に狼が、最期に果たし合った相手が使ってきた技である。

 

「ちょこまかと、しゃらくせェなァ……」

 

 歯にヒビが入るくらい強く、鬼は忌々しそうに歯を噛みしめ、狼の動きを追う。防御に回避、ちまちまと攻撃を仕掛けてくるもどかしい戦法を相手にするのは、この鬼には性に合わない。だから苛立つ。

 

 その苛立ち紛れに、金棒を逆手に持ち替えた鬼は、振り上げた金棒の頭で床を突いた。瞬間、この部屋一面の畳が一斉に巻き上がった。

 

 煽りを喰った狼も空中に放り上げられ、併せて天地の感覚が判らぬ間が出来、続け様に鬼から繰り出された殴打への反応が僅かに遅れた。

 

 咄嗟に刀で受けた。刀で受けた衝撃の一部を利用し、空中にも拘わらず自身の身体を後ろに飛ばすことで、その大部分を相殺するのみならず、鬼から離れることが出来た。しかしながら、逃がしきれなかった分の衝撃は、骨肉への多大なる負担となった。

 

 狼は襖を突き破って隣の部屋に放り出され、空中で立て直して着地し、刀を床に突き踏み張った。そこから更に、勢いのまま部屋を横断し、もう一度襖を突き破って今度は廊下に出、そこでようやく止まった。

 

 鬼に仕掛けられた更なる追撃を、狼は防いだ。巨体と膂力からの振るわれる金棒を受け、再び狼の身体が吹き飛ばされた。

 

 しかし今度は相手の動きをしかと見据え、腰を据えて弾いて受け流すことで、肉体への負担は大幅に減らせた。

 

 背後の襖をまた破り、廊下から、向かいの部屋へ入り、その半ば辺りで止まった。

 

 踏み張っていた間にも片時も鬼から目を離さなかった狼の目には、こちらへ突っ込んでくる鬼の姿は確かに見えていた。

 

 すぐさま立ち上がり、刀を構えようとした刹那、どこからともなく響いてきた鼓の音と共に、目の前から鬼は消え失せ、また、破れた襖も元通りに戻っていた。

 

 肩透かしを喰った狼は、しばらくの間構えを解かないままその場に留まった。それからすぐそばに危険がないかを確認し次第、周囲を警戒しながらゆっくりと構えを解いていった。

 

 ふと、狼の耳に、子供の怯える声が聞こえたので、その方へ目を向けたところ、そこには二人の子供、男子と女子が居た。

 

 片方の女子は、見た顔だ。先刻狼と離れてしまった兄妹の妹のほう、てる子であった。もう片方の橙色の羽織の男子は、兄のほうの正一ではなく、おそらくあの兄妹が探していた上の兄、清であろう。二人とも、怯えの名残をとどめた面持ちで、狼のほうを見ていた。

 

 清の手には、鼓が抱えられていた。おそらく、今の鼓の音はそれによるものだったのだろう。

 

 ところが、その鼓は、まもなく消えた。瞬く間に黒々と染まるや、灰のように崩れ、蒸発していった。

 

「あッ、鼓が! そんな!」

 

 俄然二人は慌てふためき出した。自分の命綱がなくなったみたいな狼狽である。

 

 やはり、今しがたの鼓や、この屋敷の部屋の配置を変えていたあの鼓の音は清によるものなのだろう、と狼が合点が行った。

 

 鼓の能力の持ち主は、この屋敷のどこかに居た鬼と言ったところか。清は何かの拍子にその鼓を手にし、鬼から逃げおおせ、それから定期的に鼓を鳴らして身を隠していたわけだ。

 

 で、その鼓も、炭治郎か、はたまた善逸か伊之助がやったのか、鬼が退治されたことで消えたのだろう。

 

「この子供が、お主の兄の清か」

 

 隣の清に縋り付くてる子に、狼は訊いた。出来るだけ怖がらせないように、囁く声でである。

 

「え、あ、あ、う、ん」

 

 おずおずとてる子は、コクコクと小首を縦に振った。

 

「そうか。……立てるか」

 

 刀を納め、やや離れた所で屈み、狼は尋ねた。

 

 清のほうは、うん、と頷いた。

 

「すぐここを出るぞ。お主を狙っていた鬼は、もうおらぬ」

 

 手を差し伸べた。二人はまだ疑念の残る眼差しを向け逡巡したものの、差し当たって信用出来ると判断したのか、こわごわと狼に寄って彼の手を取った。

 

 二人を立ち上がらせ、狼は襖を慎重に開けた。開けた先は廊下で、敵は居ないと確認してから、外に出た。

 

「あっ、狼さん!」

 

 呼ばれて見れば、炭治郎が駆け寄ってきていた。

 

「斬ったか」

 

「はい、どうにか。ああ、その子たちを保護してくれてたんですね、良かった……」

 

 と、ホッと炭治郎は胸をなでおろした。

 

「後の三人は」

 

「善逸と正一君は、最初に分断されました。伊之助とはその後に合流したんですが、鬼と交戦中にはぐれちゃって……」

 

「そうか。ひとまず、外へ出るぞ。この子たちと、禰豆子の安全を確保せねば」

 

「そうですね、早く出ましょう」

 

 炭治郎は賛同して、先導する狼と、続く兄妹の後で歩き出した。

 

 その道すがら、残されたあの鬼を警戒していた狼だが、幸いにも鉢合わせすることなく、すぐに出口へたどり着いた。

 

 玄関の扉を開いて、狼は後続の兄妹と炭治郎に、早く出るよう促した。そうして後ろを警戒しつつ狼も出ようとした折、外に居る炭治郎が、異状を知らせる声を上げた。

 

 おっとり刀で狼が駆け付けたところ、そこでは、何があったのか、禰豆子の入った箱に善逸が覆いかぶさり、それに伊之助が刀を向けていたのであった。また離れたところには、清とてる子の兄弟の一人、正一が涙目でへたり込んでいた。

 

 善逸の顔は、伊之助から殴られたのか腫れあがり、衣服も土や、蹴られた跡で汚れていた。

 

「な、何をするだァーッ!」

 

 問答無用に炭治郎が激昂した。怒りのあまりか、咄嗟に口に出て早口になったからか、噛み気味に叫んだ。

 

 伊之助に飛び掛かり、対する伊之助も喧嘩上等とばかりに殴り返し、たちまち二人は、揉み合いとは掛け離れた、殺し合いじみた争いを演じだした。

 

 狼は、彼らを止めてさっさとここから離れるべきかと考えたが、陽の下なら大丈夫だろうとして、気が済むまでやらせようと思いとどまった。

 

「あ、あの、止めなくていいんですか……」

 

 まごつきながら正一が、狼に尋ねた。

 

「子供の喧嘩に、口を出すこともなかろう」

 

 と狼から返されて、

 

「えぇ……」

 

 正一は困惑した。

 

(この人にとっての喧嘩って、何だろう……)

 

 炭治郎と伊之助の殺し合いを、呆然と清、正一、てる子は眺めた。

 

 二人の喧嘩は、炭治郎の頭突きが伊之助の頭に見事に決まり、昏倒して終わった。

 

 穏やかに解決出来たものだと、狼は納得した。

 

 とりあえず、伊之助をどうしたものかと、倒れている彼に寄ろうとしたところで、狼は背後から殺気を感じ取った。

 

 炭治郎たちに悟られぬよう、静かに後ろへ視線をやれば、背後の屋敷の玄関の奥で、あの鬼が佇んでいたのが分かった。

 

 暗い屋敷に、炭黒い巨大で、輪郭は定まらない。されど、眼窪の白目部分、紅を差したような赤い唇から除く血の滴る歯牙、燃える炎の揺らめきを想起させる緑髪の揺れだけは明瞭に見えた。

 

 日光に遮られ外には出られないようだが、しかしそれが無ければ今にもこの場に居る者を皆殺しにしてやろうという眼を迸らせていた。

 

 無言で狼は視線を前に戻すと、倒れ伏す伊之助の傍らまで来て、彼の身体を担ぎ上げると、

 

「すぐ、離れるぞ」

 

 えっ、とその場に居る者たちは、狼の纏う雰囲気が急に変わったことに戸惑った。

 

「早く、急げ」

 

 狼の有無を言わさぬ急かしに、炭治郎たちは質問や抗議をするといった意思も間もなしに、ただ狼から放たれる異様な空気に押されて、言われるがままにこの場を去るのであった。

 

 狼が速足で歩けば、彼らも何も訊くことなく、同じように足を速める。

 

 道中、善逸の耳に、嫌な声が届いてきた。

 

 恐ろしい笑い声だ。

 

 堪らず善逸は、狼に声を掛けようと彼を見るも、彼もまたその声に気付いているらしかった。

 

 善逸は隣を歩いていた炭治郎と顔を合わせた。どうやら炭治郎も、狼の様子を、そのにおいから察しているみたいだった。

 

 どれだけ歩いたか。もう大分、あの屋敷から離れたものだが、笑い声はまだやまない。

 

 それでも、出来うる限り離れ続けなければならない。

 

 日が差している内に。

 

 どこまでも追いかけてくる、あの哄笑から。




 便利キャラ登場。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

那田蜘蛛山の一家:前編

 だらだら書いてたらいつの間にか半月以上経ってた……。

 書きたいシーンがあるのって柱会議辺りからだから、ちょっとだらけてました。マジすんません。

 次々回くらいから本気出す。


 鼓の屋敷での任務で負傷した炭治郎、善逸、伊之助らはその後鎹烏から、藤の花の家紋が刻まれた、宿のような所での休息を言い渡された。

 

 宿の女将は炭治郎らに食事と着替えを用意してくれたばかりか、負傷した炭治郎らに気を利かせ、医者を呼んでもくれた。三人と、それと同行していた狼も診察されたところ、三人は骨折をはじめとした様々な負傷により重傷と診断された。

 

 ところが狼への所見は、

 

「狼さんが、無傷なんて……。てる子や清たちが言うには、たしか狼さんは凄く危ない鬼と戦っていたらしいのに……」

 

 医者から、手当の必要もないほどの全くの壮健という診断を受けた狼に、炭治郎は、診断の後で女将が用意してくれた布団の中で訝しんだ。

 

 現在瞑想している狼の今の服装を見てみる。

 

 少なくとも浅草の時までの狼の服装と言えば、袴と革足袋を履き、脛には数本の細長い鉄板と一緒に脚絆を巻いていた。上半身に纏った半着の胸元から、着込んでいる鎖帷子が見えた。腕には、同じく細長い鉄板を巻き込んだ手甲を装着し、それらの上から柿色の着流し羽織り、襟巻を巻いていた。

 

 今の狼の服装は、まず羽織っている着流しと襟巻、それと半着が、色褪せやほつれが補修されて小綺麗になっている。加えてそれらには裏打ちが施されて、強度が上がっているようであった。また、一部の衣服が西洋風になっているのも特徴で、例えば上衣に着込んでいた鎖帷子が黒のドレスシャツ(ワイシャツ)に置き換わっており、下も袴でなく茶色のスラックスに、革足袋と脚絆は折り返し長靴(ちょうか)となっていた。

 

 どこで調達し着替えたのかは不明だ。どういった服なのかも分からぬが、おそらくこの服は、炭治郎が着ている隊服のように、軽量ながら強靭な衣服となっているのだろうと推測した。

 

 ただそれでも、強力な鬼と対峙すれば、如何に強靭な衣服と言えども傷は負う。少なくとも、狼が無傷で居られたのは、その衣服のお陰なだけというわけではないだろう。

 

(それだけ、狼さんが強いってことなのかな……。俺はまだまだ未熟だけど、だからってそれに甘えて、いつまでも狼さんに頼ってちゃ駄目だよな。俺も頑張らなきゃ!)

 

 こう納得することにして、ひそかに炭治郎は意気込んだ。

 

 炭治郎の思う通り、狼には強力な鬼相手に無傷で戦うだけの力量はある。が、今回の場合、狼はあの鬼相手に、怪我を負った。

 

 相手の攻撃を受け損ねた時、逃がしきれなかった負担は狼の骨肉に掛かる。これはおよそ、骨にヒビが入ったり、筋肉が断裂したり、内出血をしたりといったことが起こるのは十二分にあり得るほどの負担となり、勿論、それらの損傷のいずれかが狼の身体の中で起きていたのは確かだ。

 

 されど狼は尋常な人間ではない。竜胤という、たとえ死に落ちようとも蘇ることの出来る力、回生の力を、持っている。

 

 この力は、単に蘇生するだけのものではなく、如何なる傷であろうが、病気や毒に侵されようが、しばしの休息さえ取れば回復する能力もある。傷薬等の力を借りれば、戦闘中でも傷を再生させることだって出来る。

 

 と、このような要因から、医者は狼から最近出来た傷は発見出来なかったのである。これに医者は首を捻る。何せ狼の身体には、深々と負ったであろう古い傷口があるのに、過去数年の間に負ったと思わしき傷は、左腕の断面を除いて一つも無かったのだから。

 

 そこで狼は、持ち合わせていた薬類などを、自身には無用だからという口実で炭治郎ら三人に分け与え、そうして三人の傷口は、医者も感心するくらい早く完治したのであった。

 

 完治するや鎹烏から新たな指令を提示された。北北東にある、那田蜘蛛山という山だそうだ。

 

 身支度を整え次第、一行は藤の家紋の家を発って、指定された場所に赴いた。

 

 那田蜘蛛山に着いたのは、夜が更けた頃であった。

 

 狼は地面にある足跡を見た。最近出来たものだ。数が多い、十人以上は居るだろうか。それらは山へ向かって練り歩いていたようだった。那田蜘蛛山がどういった山なのかは分からぬが、通常の用件でこれだけの数の人間が入っていったわけではないだろう。

 

 山の麓の、木々の前に、人が倒れていた。黒い衣服、鬼殺隊の服を着ている。やはり一行が来る前に、既に他の隊士が入っていたようだ。

 

 その隊士は怪我をしており、何か凄まじいものでもみたように怯えた様子で炭治郎らに助けを求めた。その直後に、彼の身体に絡まっていたらしい、目に見難い細い糸がその身を持ち上げ、山の中へ引きずり込んでいったのであった。

 

 これを前にして、善逸が臆病風に吹かれ、その場に蹲り、行きたくないとごねだした。元々、山が近づくにつれて消沈が深まっていたのだが、今の隊士を見てその程度が極まったことで、とうとう耐え切れなくなったのだ。

 

 炭治郎も一言二言、善逸に声を掛けたが、けれど今しがたの隊士の安否が気になり、先行する伊之助の後を追うように山の中へ入っていった。

 

 狼のほうは、炭治郎らと善逸を交互に見やってから、

 

「お、狼さん……。狼さんは、行かないよね?……」

 

「俺は行く。今、共に行かぬのなら、山へ入らず安全な所へ行け。独りで動こうとは思うな」

 

 と、狼は炭治郎たちの後を追って小走りで進み出した。

 

 炭治郎と伊之助たちを見失わないようにしつつ、善逸が踏ん切りがついた時に追ってこられるように、やや遅めに足を動かした。この山での単独行動をさせるわけにはいかない。

 

 とうとう善逸は、置いていく狼の後ろから不平を飛ばしていたものの、狼たちについて行くことはしなかった。

 

「狼さん、善逸は?」

 

「俺の姿が消えたら、山へ入らず、安全な所へ行くよう言った。独りで山に入ろうとはしないだろう。爾後の心配はない」

 

「だといいですけど……」

 

 どこか炭治郎は、不安げだった。

 

「けっ、放っとけあんな弱味噌。心配するだけ無駄だ。ああいうのは勝手に生き延びるんだよ」

 

 と、伊之助が吐き捨てるように言った。

 

「そんなこと言うなって、伊之助。事実善逸は、身を挺して禰豆子を庇ってくれた。卑屈過ぎて自分の実力を分かっていないけど、信じたいもののために身体を張る勇気のある奴だ。――何はともあれ、無事だといいけど」

 

 善逸の身を案ずる炭治郎を横目に狼は、先ほどから感じる異様な空気に意識を配っていた。

 

 なるべく、足音や呼吸音といった己からの音を抑え、耳を澄ます。これだけの集中をし、やはり、と彼は確信をした。

 

「鳥の気配が無い」

 

 ぼそりと発した狼の言葉に、炭治郎と伊之助は、怪訝な顔で一瞬狼を見てから、

 

「言われてみれば……、獣の臭いがしない……」

 

 スンと鼻を動かして炭治郎。

 

「この空気の感触からして、鼠すら居やがらねえ。下手すりゃ、この山全体が鬼どもの領域だ」

 

 おもむろに伊之助は、羽織っていた女物の着物から腕を抜いて脱いで上半身を曝した。着物は、腰に巻いてあった帯に巻き込まれ、伊之助の下半身に纏わる。

 

 次いで伊之助は、視線を前方にある草陰に向けて、

 

「あれを除いてな」

 

 顎でしゃくった。

 

 どうやらそこには人間が一人潜んでいるようだった。その人物へ近づいていく。詰襟を着た男性が、何かを窺うように屈みこんでいた。案の定鬼殺隊士であった。

 

 ちょうど彼は炭治郎たちに背を向けていたので、

 

「あのー」

 

 と、出来るだけ驚かせないように炭治郎は声を掛けた。

 

 そのつもりだったが、ビクリと彼は肩を震わせると、素早く抜刀して炭治郎たちに刀を向けたので、慌てて炭治郎は両手を顔の横まで上げて、敵ではないことを示した。

 

 彼は張り詰めた面相に、びっしょりと冷や汗を滴らせ、脱力するように嘆息した。

 

「応援か」

 

「はい、階級・(みずのと)の竈門炭治郎です。隣のは、同じく癸の觜平伊之助で、後ろの人は……隊士ではないですけど、実力は保証します」

 

「……階級・甲頭(きのえがしら)の村田だ。……やっぱ壬癸(水の位)が来るのか。しかも隊士じゃない部外者まで連れ立って。お頭は何考えてんだ……」

 

 村田と名乗った彼は、苦々しげに頭を掻いてぼやいた。

 

「まあいい、とにかくお前たちは今から俺の指揮に入ってくれ。他に増援が無いなら、これから――」

 

 と村田が指示を出そうとした折である。

 

 突如伊之助が村田を殴り飛ばした。

 

 グッと呻き声と共に村田は地面に転げた。拳が鼻に当たったためか、鼻血も出ていた。

 

「この野郎、何しやがる!」

 

「うっせえ、この弱味噌ッ! 何でこの俺様がテメエみてえな弱味噌の下につかなきゃなんねえんだ! さっさと状況説明しやがれってんだ!」

 

 罵倒しながら伊之助は、地面に背を付けている村田に迫る。

 

「伊之助! 何やってるんだ! やめろって!」

 

 慌てて炭治郎はその伊之助を羽交い絞めにして止めた。

 

「何するんだよ、こいつ!……。俺は『甲頭』だぞ! ああ、畜生っ、痛てぇ……」

 

 鈍い痛みに鼻を押さえて悶える村田に、

 

「甲頭とは、どのような階級なのだ」

 

 構わず狼は尋ねた。

 

「ああ? 一般隊士の中で一番上の『甲』の中から選抜された、小隊単位で人員を管理したり、指示を出したりする役職だよ。元々無かった階級だったけど、お頭――今は『甲頭筆頭』――が『柱』になるのを固辞して作られた階級だ」

 

 村田が続けて語るところに拠ると、現『甲頭筆頭』は、元は実力と実績、人望を見ても疑いようのない、鬼殺隊最高位の『柱』に就くに相応しい人物であった。ところがその人物は、『秘伝の技を会得するまで柱を頂くことは出来ない』と宣言して一般隊士に留まろうとしたとのこと。

 

 どう謙遜しても『柱』としての実力を持つ者を一般隊士のままにしておくわけにもいかなかったが、しかしその人物が固辞している内に『柱』の定員である九名が揃ってしまった。そうして致し方なしに『甲頭』という役職が作られ、のちにその階級に増員されたことで、その人物は『甲頭筆頭』に就任することになったのだそうだ。

 

「秘伝とは、何だ」

 

「分からん。『雲の呼吸』は新興の流派だって聞いたけど、そんなものあるのか」

 

 村田は首を捻って、結んだ。

 

 質問を掛けた狼だが、彼にはその秘伝というものには心当たりがあった。而して、その『雲の呼吸』を扱う『柱』候補だった人物にも。

 

「もう話は終わりだ、そろそろ行かなきゃならない。まず状況を説明するぞ。俺たちは元々十数人で山に入っていたが、内半数が敵の血鬼術に掛かったことで操られ、それにまた半数程がやられほぼ全滅、辛うじて俺だけが残った。術の正体は糸だ。掛かりそうになったら、とりあえず頭上か背中辺りに向けて剣を振れ。それが遅れたら、ちゃんと声を掛けろ。特に、操られている奴が使い物にならなくなった時は気を付けろ。以上」

 

 と結んで村田は立ち上がった。未だに伊之助は食って掛かるが、村田はいちいち相手にするべきではないと判断したのか、それについてはシカトしている。

 

 溜息を吐いたところで村田はふと何かに感付いた様子でピタリと止まった。身じろぎすらせず、耳を動かし、静かに周囲を警戒しだした。

 

 その様子を見て炭治郎、伊之助、狼も周囲に耳をそばだてた。それで聞こえてきたのは、何かが張り詰めた、耳障りな甲高い音であった。

 

「糸の音だ……。この音がした次の時には、同士討ちが始まったんだ……」

 

 と、炭治郎らに目を向けないまま、緊張と怯えの混じった声で村田は告げた。

 

 その音は段々と近づいてきた。音のする方を見ると、うっすらと人影が見えた。

 

 奇妙なことに、それらは生きた人間がするような歩き方はしておらず、まるで滑っているような動きでこちらに近づいてきていた。

 

 それらは鬼殺隊の隊士であった。だが彼らは、生きてはいなかった。誰も彼も、瞳に生気は無く、それどころか首が何にも支えられてないためか、動くためにガクガクと揺れていた。よく見れば、何かに吊られているらしい足や腕などが、折れているのもあった。

 

「こいつぁ……死人を操っているのか」

 

 胸糞悪そうな表情をしながら、低声で伊之助が呟いた。

 

「今言った通り、こいつらは糸で操られている。糸を切れば多少は足止め出来るけど、いずれまた糸を付けられて襲い掛かってくるぞ。そこら辺に居る小さな蜘蛛には気を付けろ、そいつらに取り付かれてしばらくすると皮膚の下に潜るみたいだ。そうなったらまず術から逃れられなくなる。糸を素早く切って、すぐに蜘蛛を払え」

 

 地面に目を配りながら村田はそう指示をした。

 

「うっせえなこのクソッたれ! 糸を切れだの、切っても無駄だの! 何が言いてえんだよ、はっきりしやがれ!」

 

「術者を探すんだよ。こいつらを捌きながら術者を探すのは難しい、だから人手が欲しかった。――来るぞ!」

 

 叫んで村田は伊之助の前に飛び出、ちょうど斬りかかってきた操り人形の攻撃を防いだ。

 

「テメエ何勝手なことしてやがるッ! テメエがやらねえでもどうにか出来たっつーの!」

 

「言ってる場合か! お前さっきから文句しか言わねえじゃねえか! 口ばっかで役に立たないなら余所で叫んでろ!」

 

「ああ? もっぺん言ってみろコラ!」

 

「文句言ってる暇があるなら、時間稼ぎするなり、術者の居場所特定してみろ! 出来るもんならな!」

 

 と更に村田は煽った。

 

 当然、伊之助はこれに黙ってはいない。

 

「おう、おう! やってみせようじゃねえか! 俺の凄さを前に吠え面でもかいてやがれ」

 

 伊之助は、大見えを切るみたいに言い返してから、手に持った刀を地面に刺し、その場で膝を突いて両腕を広げた。そこから目を閉じて、何やら集中しだした。

 

 着物を脱いだことで曝された上体の肌で、この山に流れる空気の動きを感じ取る。

 

 四方八方の内、一方だけ異なる空気の流れがあった。その流れを手繰っていけば、やはりそこには妖しい影が悠然と腰を降ろしていた。

 

 獣の呼吸『漆ノ型・空間識覚』

 

「この方角だッ! がはは! 今すぐ仕留めてやっからなア!」

 

 見つけるや否や、伊之助は村田に指示を仰がず一目散にその方向へ駆け出した。

 

「あッ、待て伊之助! 一人じゃ危険だ!」

 

 炭治郎が止めようとするも、

 

「いやいい行かせろ! どうせ言うことを聞かないだろ。それと、竈門って言ったか、あいつを追って、一緒に術者を仕留めろ!」

 

 との村田が指示を飛ばした。

 

 どうやら彼は、うまうまと伊之助を乗せることが出来たようだ。

 

「俺たち二人でですか!」

 

「仕留めたら、出来るだけあいつを引き止めておけ、すぐに追いつく!」

 

 「それともう一つ!」と、投げつけるみたいに村田は重ねる。

 

「生き延びることを考えろ! お前ら水の位は、当て馬もいいところの捨て駒だ! 同時にそれは、お前らの生きる力を試されている。だから、生き残れ!」

 

「……はい!」

 

 村田からの激励を受けて、決意を新たに炭治郎は、伊之助の後を追った。

 

 そんな彼の背中を、狼は援護した。

 

「ここは俺が引き受ける、あんたも行け! あいつらを死なせたくないんだろ!」

 

 操り人形たちの攻撃を捌きつつ村田は、狼にも離脱を促した。

 

 その言葉を受けて狼は、しばし逡巡したように、黙って操り人形たちの攻撃をいなしていたが、その後思い立ち、それまで相手にしていた操り人形たちの糸を切って無力化をすると、炭治郎たちの後に続いた。

 

 言葉は無かった。別れを前提としなければこそ。




 雲の呼吸を使う柱候補とは一体誰なのか……(すっとぼけ)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

那田蜘蛛山の一家:後編

 便利キャラが早速面目躍如する回。


「忘れるな、炭治郎。迷えば、――」

 

「迷えば、敗れる。その言葉がいつだって血路を開いてくれました。これからも……」

 

 自身の胸に手を置いて炭治郎は、真剣な顔で頷くと、いざ敵へと走り出した。

 

 そんな炭治郎の背中を悠長に見送ってばかりは、狼もいられない。

 

 隙を見せた狼に、操り人形が襲い来た。その刃をいなすと、反撃に操り糸を切る。一時的に術から解放された操り人形は、そこから地面に倒れると、苦しそうに呻いた。それは死んではいなかった、生きていた。

 

 ずるずると擦りながら、腕を伸ばし、

 

「お願い……、殺して……」

 

 痛々しい懇願を狼にして、再度操り糸が身体に絡み付く。

 

 感傷に浸る間もなく次に襲い来る操り人形の攻撃を弾いてその場から飛び退いた。

 

 追撃に来たもう一体の攻撃を防ぐと、それは苦悶の声と共に血反吐を吐いた。見受けたところ、折れた肋骨が内臓に刺さっているのだろう。

 

「お願いだ……、殺してくれ……。もう……助から……な……い……」

 

 これも同様なことを言った。しかも、もう喋るのも辛いだろうに、それを押してまでの懇願であった。

 

 この場合、殺してやるのが情けというものだろう。だが、炭治郎ならどうだろうか。きっと彼なら、彼らを生かそうと躍起になることだろう。なれば狼も、それに倣うのが義理というものだろう。

 

 と、狼は義手に仕込んだ忍具を小ぶりな斧に付け替えて、引き続き攻撃を受け流しながら、相手の様子を窺いだした。何かを狙っているらしかった。

 

 その狙いの瞬間はすぐに訪れた。

 

 相手から来た突きの攻撃を狼は見逃すことなく、その動きに合わせて刃を踏みつけ封じる。そこから間髪入れずに義手に仕込まれた斧を振り上げて、刀の腹に目掛けて体重を付けて叩き落とせば、あえなくその刀は柄本近くからへし折れた。

 

 折れて刀身の短くなった刀では、操り人形となった彼らとて十分な力を発揮は出来なかった。狙い通りと見るや狼は、残りの操り人形たちの刀を同様にへし折った。

 

 多少はましになったとは言え、彼らからの脅威は無くなっておらず、また、彼らはいずれも負傷しており、出来るだけ動きを制限させることが急務だろう。

 

 無論、それも既に手を打った。

 

 その証拠に彼らの動く手足は、何かに阻まれたように、動きが不自由になっていた。彼らの肢体に繋がる糸を辿っていけば、繋がっている操り糸とは別の糸が、操り糸に引っ掛かっているようであった。それらの糸は、そこら中にある木々の枝幹から張り巡らされていた。

 

 これはかつて、まぼろしお蝶が自らの戦術に用いていた忍具の応用だ。戦闘時に張り巡らした鉄線を足場として敵を翻弄し、同時に敵の動きを妨害するのにも使われていた。

 

 蝶々ならぬ、蜘蛛と表すのが相応しい手口。否、蝶のまぼろしを振り撒く蜘蛛か。

 

 良い塩梅に相手の力を削いだところで狼は、未だ振るわれる彼らからの攻撃をくぐり、押さえ込むと、腰にある傷薬瓢箪を彼らの口に押し当て、薬水を流し込んだ。この薬はよく効く。重すぎる傷は治しきれないものの、鎮痛と、身体を活性化させる力があるので、苦しみは取り除ける。

 

 懐の奥深くに潜らせた、葦名の秘薬『神食み』を使おうかとも考えた。

 

 この薬は、最早手の施しようのない患者さえも癒してしまえる力を持つ。葦名の一際古い土地の、小さな神々の宿る草木を練り上げて作り出す代物である。

 

 葦名には蟲憑きという症状があった。変若水という、飲んだ者を不死に近しい強靭な身体に変質させる水の影響を受け異常に生命力を増大させた蟲に取り付かれることで、死ぬような傷を負っても死なぬ身体になる、風土病だ。

 

 言うなれば、この『神食み』という物は、変若水の影響を受けなかった小さな神々――蟲たちが、万能薬として働いていると言ったところである。

 

 それだけに尊く、得難く、使うのは憚られた。

 

 さて、差し当たっての急務は片付いた。後は、炭治郎たちが首尾良く術者を倒すを待つのみ。援護に行くのも良いが、しかし操り人形の彼らを置いて行くとわけにはいかない。例えば、去っていく狼を追うことで場所が変わり、移った場所には糸は張っていないから、完全な拘束は出来ない。その状態で炭治郎たちに接触する愚行は取れない。その他、放置した彼らに他の鬼が何かをしないとも限らない。

 

 よって、ここに留まることにした。

 

「オイ」

 

 殺気を感じたのは、その矢先であった。

 

 咄嗟に狼は前方へ回避行動を取るものの、伸ばされた手に頸を掴まれて投げ飛ばされ、背後の木に打ち付けられた。そこから立て直す間もなく、目と鼻の先まで迫って来たそれに首を掴まれ押し付けられた。

 

 それはあの鬼であった。闇夜に混じる墨色の肌の顔から覗く、左の四白眼と、ギョロギョロと音を立てて動く右目の義眼に、地獄のように真っ赤な口元と、そこから伸びる牙を狼の眼前まで寄せて、

 

「見つけたぞ。手間ァ取らせやがって」

 

 生暖かく息が詰まるような文句を吐き掛けてきた。

 

 直後に鬼は、捕まえていた狼の体を振り回すと、塵芥でも扱うみたいに放り投げた。

 

 狼は投げられる間際、義手に仕込んであった鉤縄をすぐそばにあった木に引っ掛けることで飛ばされることを免れようとしたものの、投げられた勢いがあまりに強すぎたことで、縄の巻き取り部から壊れ、外れてしまった。そのままに狼は背中から木に叩き付けられた。幸い、鉤縄を引っ掛けた時に幾らか勢いが殺されたためか、致命傷は免れた。

 

 歯を食いしばり痛みを堪えて、まず狼は義手の調子を見た。今の煽りを喰って多少ガタツキがあるが、まだ動く。接合部の繋がりに緩みが出たので、固定を直した。

 

「おう、立てオラ。まだ死んじゃいねンだろ、そうなんねェくらいに加減してやったんだからなァ」

 

 鬼は、背中に負っていた金棒を肩に担ぎながら狼の前で屈んでいた。屈んでもなお狼と目線が会うことはなく、只管に見下し切った眼だけで凝視していた。

 

「テメエは二度も俺の顔に泥を塗りやがったんだ、楽にゃ死なせねェ。俺って鬼を、甘く見るんじゃねェぞ、――野良犬」

 

 鬼が言葉を言い終えるか否かの瞬間、狼は義手に仕込んでいた爆竹の火薬を鬼の顔目掛けてばら撒いた。

 

 死肉の臭いを放つその紫煙のような火薬は、ひと時の間を置いて、容赦なく炸裂した。これには、たとえ鬼とて堪らず怯む。破裂した火薬が目に入れば尚更である。

 

 義手忍具『紫煙火花』

 

 無論、この鬼とて相当な修羅場を潜ってきていたはずであり、なればただ泡を喰って悶えるばかりではなく、その場で全方位に向かって金棒を薙いだ。狼がどこから攻めてくるかは分からずとも、暴れ狂う鬼に生身で近づける者は居ない。

 

 数瞬して鬼は持ち直し、辺りを警戒するも、その時はもう狼は姿を消していた。

 

 逃げられたのではないだろう。先ほど狼が無力化した操り人形の生存者はまだ近くにおり、これらを見捨てて狼が遁走するとは、この鬼は考えていない。居るなら近くに潜んでいるはずである。

 

 ――シャン――。

 

 その時、どこからともなく、澄んだ鈴の調べが運ばれてきた。

 

 ――シャン――シャン――。

 

 ちょうどそれは、操り人形の生存者らが居た方とは逆の方向であった。鬼は笑った、裂けてしまいそうなほどに口を引き延ばして。これはまさしく、あの男ならすることだと、確信したから。

 

 その上で鬼は、待ち構える罠の存在を悟りつつ、これを承知でその先に足を踏み入れていった。

 

 シャン……シャン……シャン……。

 

 初めは特定の方向から聞こえてきたこれらの鈴の音も、足を進めていく内に、あらゆる方向から聞こえるようになってくる。一音一音が、それぞれどこから響いてきたのかも分からなくなってくる。そうなれば、そのうちこの場の空間まで曖昧になってきた。

 

「暗い森の中での、鈴の幻術か……」

 

 ボソリ、と、鬼は口の中で、この静かな暗闇の中でも聞こえない声で呟いた。

 

 鬼の頭上から狼が、瑠璃色の光を迸らせた斧を構えて飛び掛かったのは、その時であった。

 

 義手忍具『瑠璃の斧』

 

 脳天目掛けて振り下ろされようとした斧頭を、鬼は難なく金棒で防いだ。斧頭は金棒に当たると、滑るように逸らされ、地面に落とされた。斧頭が地面に喰い込めば、狼に隙が出来る。そこに金棒を振り下ろしてやろうとした。

 

 ところが、その瑠璃の斧頭が地面と衝突した時、一瞬眩い光と共に、空間を透くけたたましい音を破裂させ、それまで一帯に満ちていた幻惑の空気に幕が引かれた。

 

 その引かれた幕が晴れた頃には、金棒を振り下ろした地面には何もおらず、金棒の穂先が地面にめり込んでいたのみである。

 

 ふと鬼は視線を持ち上げ、頭上を飛ぶ発光する梟を見つけた。

 

「ボケが。付け焼刃の幻術が通じるわけねェだろ」

 

 招くように鬼の前を飛び続ける梟を、迷わず鬼は追った。

 

 ついて行って辿り着いた先には、川があり、開けた場所であった。そこに来た時、誘導に当たっていた梟は鬼の周囲を旋回しだした。

 

 来る、と察した鬼は、その場で金棒を構え、腰を据える。

 

 獲物を見定めるが如く梟は、鬼を囲み、当の鬼はそれには目もくれず、自身に来る気配に意識を注ぐ。

 

 梟が鬼の正面にて旋回を止めた。直後、近場の川から水が巻き上がり、梟の身を取り巻く。そうして巨大な鳥を形作ったそれは、鉄砲水さながらに鬼へ向かって弾き出た。

 

 低空で突撃してくるそれを鬼は飛んでよけ、次いで動きを追って身を翻した。案の定、梟はそこで浮いていた。

 

 だが、狼のほうは、振り向いた鬼の背後にて不死斬りを構えていた。

 

 今の水流を纏った梟を礫にして身を隠し、梟の動きに釣られた鬼が身を翻すのを狙っていたのである。

 

 刀身に滲む墨色交じりの赤い妖気を、一層強く噴き出させ、限界まで溜めたこれを斬撃として解き放った。

 

 秘伝『不死斬り』

 

 斜め切り上げで放たれたそれを、鬼は身を低く落としながら横に滑らして潜り抜けた。すぐさま、右手の金棒で地面を突いて更に横へ飛び、追撃の――今度は溜め無しの――いち撃を、皮一枚掠めて回避した。見た目とは裏腹に身軽な動きだ。ただ、その回避のために得物の金棒は手から離した。

 

 それを鬼に回収されないよう、狼は金棒を越えて、鬼に迫った。金棒と鬼の間に狼が居る、つまり取るためには攻撃をかいくぐらなければならないだろう。

 

 鬼はバラ手のまま腕を振り上げた。素手での攻撃か。

 

 否、と狼は、感じ取った殺気から違うと判断した。これは得物で攻撃する殺気だ。

 

 滑り込む要領で狼は身を屈めた。髪を掠めて背後から金棒が、鬼の開いた手に飛んでいった。飛んできた金棒を手に収めてから、鬼は振り上げた腕を振り下ろした。

 

 川の地面に凄まじい力で金棒を叩き付けられて衝撃が生まれ、煽りを喰った砂利がてつはうに等しい威力で飛んでくる。

 

 金棒が地面に叩き付けられる直前に狼は横に跳びながら、腕で顔を、特に目を庇った。鋭く飛来してきた砂利を全身に受けるものの、不思議なことにそれらは狼の衣服を貫通しなかった。大層強靭な生地で出来ているらしい。浅草で狼に頼みごとをしてきた『謎の御方』がくれただけはある。

 

 ちょうど川の中へ立て直した狼は、油断をすることなく刀を構え直した。が、何故か鬼は、追い撃ちの素振りすら見せることなく、地面に金棒を突いて狼を見やるのみ。

 

 しばし怪訝に思いつつ、構えを保持していた狼だが、そのすぐに、周囲の景色が明るいと知って合点が行った。

 

「……時間切れか。まあいい、次は必ずぶっ殺してやる。二度三度逃げおおせたからってェ、安心なンぞするんじゃァねェぞ。こいつは餞別だ」

 

 と言って鬼は、切断された左腕を上に掲げた。そうしたかと思えば、その断面から赫灼を纏った歪な腕を現した。

 

 狼は瞠目した。

 

 その炎の腕は急激に膨張し、圧倒の巨大な炎塊となって、呆気に取られる間もなく狼へ叩き落された。

 

 素早く反応して朱雀の紅蓮傘を展開し、問題なく狼はこれを防いだ。

 

 その激烈な一発が終わってから、狼は紅蓮傘を畳んで立ち上がった。足元の川の水の大半が、今の炎で蒸発して霧を作り、視界が遮られる。しばらくして霧が晴れると、鬼は消え去っていた。狼の佇んでいた川の水は、そのほとんどが蒸発し、川を途切れさせていた。

 

「今のは、怨嗟の炎……」

 

 間違いない、あれは単に炎を操る血鬼術ではない。かつて狼が葦名で対峙した、怨嗟の鬼がその身から溢れさせていた、あの哀れなる炎と同じ感覚がした。

 

 よもや、戦乱の世がとうに過ぎたこの時世で、かの炎と再び相見えるとは。定めとは、かようなことを言うのであろうか。

 

 さりとて、今はそればかり沈思してはいられない。

 

 日が昇ったのなら、炭治郎たちの安否を知らねばならぬ、と、狼は駆け出した。大分移動をしたが、およその方角は覚えており、その方向へ進んでいく。

 

 その道中、狼は人影を見かけた。それらは取り立てて身体に異常を抱えてはいない様子で、何かを背負って歩いていた。日の昇りつつある今、鬼や鬼に操られた人間ではないだろうが、念のために狼は気配を消して様子を探った。

 

 彼らが背負い、担いでいたのは、一人の人間と、それと小さな箱であった。

 

(炭治郎、禰豆子……)

 

 炭治郎と禰豆子を運んでいる、黒装束で顔を隠した彼らは『隠』という、鬼殺隊の現場処理係の者たちである。

 

 一応は味方――と言っていいかもしれないが、しかし妙だと感じ、姿を現すのは待ち、依然気配を殺しながら彼らの言葉に聞き耳を立てた。

 

「また、鬼を庇う隊律違反か……」

 

「可哀想に……。きっとこの中の女の子って、この子のきょうだいか何かなんでしょうね……」

 

「同情の言葉を口にするなよ、罪悪感がひとしおしんどくなるぞ。危険なのはその鬼だけじゃない、鬼を庇うほうだって何しでかすか分かったもんじゃないんだからな」

 

「なら、即刻斬首かしら」

 

「いや、次の柱合会議を兼ねて裁判を執り行うらしい。こんなことは初めてだ。何かあるのか?……」

 

 以上の会話をする彼らを遠く後ろから眺めてから、狼は彼らの残した足跡を見やる。二人分の足跡。片方の足跡には、何やら妙な特徴が見受けられる。

 

 これは狼が浅草で穴山から貰った、追跡用のトリモチである。今の隠の彼らの、炭治郎を担いでいるほうに踏ませることで、その足跡に特徴的な痕跡を残させることで何里でも追跡が出来るという優れ物である。

 

 炭治郎らが連行されるのはきっと厳重に秘匿されている場所であるだろうから、運び役も何度か交代するだろうに、油断は出来ない。

 

 だが、もし炭治郎たちの命の危機というのなら、如何なる手を使ってでも、必ず取り戻す。

 

 たとえ、鬼殺隊を敵に回してでも……。




 次回予告

 鬼である禰豆子を連れていた咎で柱合会議に連れてこられ、妹共々斬首されるやもという瀬戸際に追い詰められた炭治郎。

 それを阻止せんと狼は鬼殺隊を追跡し、件の裁判へ乗り込むッ! 可能ならば説得! さもなくばその場にいる全員を抹殺してでもッ、取り戻すッ!

 さあどうする作者ァ! この回でアニメ分のストーリィは尽きたッ! こっからさきは、ア、原作を買うしかァないぞッ!!

 次回、不死斬りの刃。『作者、ブックオフで立ち読み』

 乞オォォうご期待ィッ!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

敵か味方か、はたまた修羅か:前編

 夢の中で評価平均が緑に突入したので、投稿。


 鬼である禰豆子を連れている咎により捕縛され、柱たちが一堂に会する場、柱合会議の場に連行された炭治郎。目覚めた彼を見下ろしていたのは、当日柱合会議に集まりし九人の男女であった。

 

「仔細を聞くに及ばん! 隊士が鬼を連れるなど言語道断、即刻斬首だ!」

 

 炎のような髪の毛の男、煉獄杏寿郎が開口一番に言い下した。厳格な言葉とは裏腹に、その声と面持ちには、軽蔑の情というよりは精悍さが瀰漫している。

 

 現在、竈門禰豆子及び竈門炭治郎の二名は、隊律違反として裁判に掛けられることとなっており、それまでは独断による断罪は待てと、鬼殺隊の最高管理者――御屋形様と呼ばれる存在から言い渡されているはずであった。が、案の定、鬼殺隊最高位を拝命する剣士たちの鬼殺への熱意は並みならぬもので、柱九名の内四名が、裁判を待たずしての竈門兄妹の始末を主張した。

 

 分けても過激な行動に出たのが、不死川実弥という、身体中を傷跡にまみれさせ、淫らに胸元を開いた隊服の着こなしの男であった。

 

 他の柱が、御屋形様に無断で禰豆子らを処分することに逡巡している中、不死川だけは、禰豆子の入った箱を勝手に持ち出し、炭治郎の目の前で日輪刀をそれに突き刺したのであった。

 

 言うまでもなく激昂した炭治郎が、不死川に向かって突っ込んでいき、これを迎え討とうとした不死川であったが、

 

「止せ! もうすぐ御屋形様がいらっしゃるぞ!」

 

 との叫びに一瞬躊躇し不死川は、その隙を突かれて炭治郎の――鬼ですら堪える威力の――頭突きをまともに受けた。

 

 不死川が手放した箱を炭治郎は素早く確保し、

 

「良い鬼と悪い鬼の区別もつかないなら、柱なんて辞めちまえッ!」

 

 とぶつけた。

 

「アァ?」

 

 その罵声を受けて不死川は、ピクリとねめつけると、刀の切っ先を炭治郎に突きつけ、

 

「ならよォ、教えてくれや! 全体その鬼の何が特別なのかをよォ! 家族が鬼になったのはテメエだけなのか、アァ? 誰だって同じ気持ちだったろうがよォ、この馬鹿がァ!」

 

「家族を鬼にされた人の気持ちが分かるんなら、どうしてそんな簡単に殺すだなんて、ヘラヘラ笑いながら言えるんだッ!」

 

 両者一歩も引かない批判の交換をし、睨み合いへ移る。

 

「どけェ……」

 

 不死川から迫る刃に、

 

「いやだ!」

 

 意地でも炭治郎は退かなかった。

 

 不死川の刃は炭治郎の頸に喰い込み、皮を浅く裂いて血を流させた。刀の切れ味ならば、もう少し刃を進めれば、頸動脈を容易く切り裂ける。禰豆子を守れなくば自身も死ぬ覚悟の炭治郎には、意味も無い事柄ではあるが。

 

 他の柱は各々、緊張、無関心、警戒などまちまちながらも、いずれも事の成り行きを静観していた。

 

 蓋し場は膠着に陥っている。なかなかに動かないが、しかしひどく不安定で、少しでも動きが生まれれば積み木が崩れるが如くたちどころに動き出す。故に、誰もが下手に動けない。

 

 ふと、固唾を飲んで見詰めるしかない彼らは、視線を上に向けた。

 

 梟だ。

 

 雲の散らばる青い空を背景に、これまた青白く発光する梟が飛んでいた。遠く空から、文字通り鷹揚にやって来て、この重苦しい空間へと今にも降り立たんとするように。

 

 幾人かがそれに気付いた。それだけの者しか気づかなかった、と言うべきか。あの、神秘さえ感じさせる梟の飛来が、さほどこの場に居る者たちの関心を引かなかったとは。

 

 梟は、相対する不死川と炭治郎の頭上辺りまで寄ってきた。そうしたところで、突如不死川がその梟へギロリと視線を飛ばした。

 

 その刹那、飛んできた梟は、いつの間にか狼へと入れ替わっていた。さも、梟は端から狼であったとでも主張するかのように。

 

 宙で狼は、横に倒した上体を軸に身を返し、そこから振り上げた足を不死川目掛けて叩き付けた。

 

 仙峯寺拳法奥義『仙峯寺菩薩脚』

 

 突きつけていた刀を引っ込め不死川は、刀と腕を交差させてその脚を防いだ。硬い物同士がぶつかる音を立てて、双方の攻防が交わった。

 

 驚くべきことに、喰らった不死川は膝を屈した。まるで、腕のみならず身体全体を押さえつけられたみたいだ。ただの強烈な蹴りだけでは、少なくとも、柱の位を預かる不死川を押すことは出来ない。

 

 咄嗟に不死川は、腕に交差させていた刀を抜き、狼に向けて振った。斬るつもりはなく、狼を後退させる目的で振ったことで、狙い通り狼は後ろに跳んでそれを避けた。

 

(こいつ……、接した箇所を通して、俺の体幹に力を流したのか。さては、俺自身からの反作用すらも逆流させやがった……)

 

 腰に差した刀の鞘を握り鍔に親指を掛け佇む狼を前に、不死川は緊張を高めた。

 

 苦手な相手だ、と渋面が浮かびそうになる。そもそも不死川は対人戦に向いていない。柱として鬼と渡り合える力と技で、ある程度の戦闘はこなせども、手練れ相手では分が悪い。目下立ち塞がってきている狼は、まさに対人戦を得意とする、相性の悪い相手であった。

 

 故に、下手に動き出せない。

 

 またも訪れた膠着であったが、意外にもそれは須臾にして解けることとなった。

 

「すまぬが、退いてはくれぬか」

 

 先に提案したのは狼のほうであった。この場に居合わせた者らはこれを聞き、拍子抜けする者と、予想していた体で一息吐く者に分かれていた。

 

「……そりゃあ、どういう意味だァ」

 

「今すぐ禰豆子を斬る訳は無いはずだ。御屋形様という御方が来られるまで、一旦退いてくれ」

 

「今にも鯉口切ろうとしてる奴の言うことじゃあねえなァ。どの道そいつは斬る。今ここで斬るって言ったら、どうするってんだ」

 

 と不死川から投げ掛けられて狼は、ただ淡々と――或いは問答無用とばかりに、

 

「斬る」

 

 鯉口を切った。

 

 再来する睨み合い。

 

 一部の柱はめいめい、ここらで事を収めるべきとし、落としどころを探っているところであった。

 

 そこで口下手な柱が、彼なりに事態を落ちつけようと余計な口出しをしようとして、世話係――をやらされている――柱の女に止められた。

 

 この場合、不死川が退くが妥当なのであろうが、されど不死川はこの期に及んで引っ込みが付かないでいる。

 

 だから口下手な柱が、彼なりに宥めようと歩み寄ろうとしたのだが、またもや世話係の柱の女に止められた。

 

 しかし、ただ、一人だけその様を違う様子で見ていた者が居た。この庭の隅で他の柱たちと交わらずに、遠巻きに事の経緯を静観していた者である。

 

 毛先の跳ねた癖毛を肩まで伸ばした、小柄な、女子である。隠たちとは違う。日輪刀を腰に挿し、隊服である詰襟の上に花柄の着物を羽織っている。花をあしらった狐面を被っており、またお面の目元は割れて眼が覗いていた。

 

 手を後ろで組んで塀に背を預けていた彼女は、やおら塀から身を離して、腰の刀を静かに抜きながら、水面を歩くようにしなかやか足取りで近づいて行った。

 

 狼たち含め―― 一触即発の空気の緊張もあるが――誰もそれを気取れなかった。殊に、依然睨み合いを継続させている、不死川と狼の二人は。

 

 なれど、その滞った空気も、いよいよ乱されることになる。

 

 鯉口を切ったきり、ずっと佇んでいた狼であったが、それがいきなり抜刀したかと思えば、その抜きざまに自身の横側に振るった。

 

 振るわれた刀は、折しも狐面の女が狼に向かって振るった刃と斬り結んだ。

 

 狼は刀を振った勢いを利用して身を翻し、更に左腕の義手を振り回し、その重みから生まれた慣性で後転し、後ろへ飛び退いた。棒立ちで臨戦体勢を取っていなかったとは思えない動きだ。

 

 忍び技『寄鷹斬り・逆さ回し』

 

 そこから着地して狼は、間髪入れずに迫ってきた彼女の斬撃を、今度はすれ違うようにいなした。素早く身を翻し、追いかけてきた連撃を弾く。素早いながらも緩急のついたそれらを丁寧に弾いていく。

 

 相当な使い手ではある。が、問題はそこではなかった。

 

(巴流……、否、雲の呼吸)

 

 流れる雲を纏うような剣筋に、加えて、彼女の左腕に嵌められた重量を感じさせる籠手による、寄鷹斬りを織り込んだ足捌き。まさにこれは、狼が使っている型と同じもの、雲の呼吸『凌雲・浮舟渡り』に他ならず。

 

 ならば、と狼は、捌きながら呼吸を整える。刀の握り方を変え、来る瞬間を虎視眈々と見据える。

 

 連撃の切れ目となる一撃を一際大きく弾くと、そこから狼の反撃の火ぶたが切られた。

 

 雲の呼吸秘伝『荒天・渦雲渡り』

 

 浮舟渡りと同じ型ながら、しかしその剣筋から生み出される真空波の無数の刃が殺到する。

 

 一つの斬撃は防げても、己を覆い襲い来るものまでは防げない。細かな刃一つ一つにはさほどの力は無けれども、激しい嵐の雨粒に打たれるみたいに受けていては、徐々に戦いの流れも変わろう。

 

 幾らかの傷を負いつつも、狐面の女はこれをしのぎ切った。狼からの切れ目の一撃を弾き、そこへ威嚇の一撃を重ねた。危なげなく狼は後ろへ下がってそれをよけた。

 

 そうして距離が開いて、残心したまま二人は向き合った。

 

 数秒程そうしたのち、おもむろに彼らは構えの姿勢を解き、刀を鞘に納めた。

 

「なるほど。それが、秘伝の技?」

 

 小首を傾げながら狐面が尋ねると、コクリと狼が首肯した。

 

 へえ、と感嘆し、彼女は被っていた狐面に手を掛け、外した。

 

「真菰さん! どうしてここに……」

 

 と声を上げたのは炭治郎であった。

 

「久しぶり、炭治郎、一年ぶりだね。どうしてって、まあ……甲頭筆頭、だからかな?」

 

 と、真菰と呼ばれた彼女は、顎に指を当てながらふわふわと可愛らしい声で、先ほど狼と命のやり取りに等しい剣戟を演じたとは思えない声で答えた。

 

「甲頭筆頭って……。じゃあまさか、雲の呼吸を扱う柱に近しかった人って、真菰さんだったんですか! 錆兎じゃなくて!」

 

 炭治郎が言うと、

 

「言ってなかったの、狼さん? ……あれ、今、さび――」

 

 キョトンと真菰は首を傾げた。

 

「俺からは教えてはおらぬ」

 

 どうやら炭治郎は、雲の呼吸というものの使い手が真菰であることは知らなかったようであった。てっきり狼は、鱗滝や真菰が既に教えていたと思っていた。

 

「ねえ炭治郎、今、錆兎って――」

 

 と、真菰が、気がかりなことを聞いたらしい様子で、四つん這いになりながら炭治郎に近寄り、問おうとした折、

 

「御屋形様の、御成りです」

 

 鈴を転がしたような声が二人分、異口同音に響いてきて、これを聞くや否や真菰は、素早く炭治郎を屋敷に向かせて頭を下げさせ、それと同じように他の柱、それと隠たちが一斉に居住まいを正し、跪き出した。

 

 狼もまた、やんごとなき御仁がいらっしゃると察して、彼らに倣い跪いた。

 

「よく来てくれたね、私の可愛い子供たち」

 

 襖の奥から、若い男が現れた。傍らに二人の童子を引き連れ、顔の上半分は焼け爛れたような痣で覆われ、目も見えないのかその二人に手を引いてもらいながら、縁側まで足を進めた。

 

「今日は……晴天かな。こうして顔触れが変わることなく、半年に一度の柱合会議集まってくれて、大変うれしいよ」

 

 至極穏やかな声調であった。言葉で表現するは難しくあるが、言うなれば、この御方から発せられる科白は、紡がれた言葉より、声の調子のほうに魅了の力があり、聴くだけで訳もなく安心が染み入り、物が申せるほどであった。

 

 一方、柱たちは、誰も彼もがそわそわとしていた。言わずもがな、彼らはいずれもその御方を敬愛しており、誰が最初に口を開くかで競っているところであった。

 

 ところが、

 

「そしてそこの忍びの御方も、初めまして、私は産屋敷九十七代目当主、産屋敷耀哉。知っての通り、鬼殺隊の最高管理者です。本日はよくぞ参りましたね」

 

 あろうことか、産屋敷耀哉と名乗ったかの御方は狼に話を振ったため、

 

「お初お目に掛かります、産屋敷様。私は薄井と申す者でございます。此度、斯様に厳粛なる場を荒らしたことを、深くお詫び申し上げます」

 

 よりによって、最初に会話したのが狼であったことに、柱一同くわっと目を丸くして、

 

「ってお前言うのかよ!」

 

 口を揃えて吠えた。実際にはめいめい大同小異の科白であったが。

 

「構いませんよ、狼殿。元よりこちらも、その兄妹を斬首すること前提で連行したのですから、殊更にそちらまでついて来てくれるとは思ってはいません」

 

 産屋敷はこれを意に介さず続けた。

 

「寛大なるお言葉、かたじけのうございます」

 

 狼が返すと、ゆっくりと産屋敷は頷いて、

 

「見ての通り、この方は私が招いたに等しい。詳らかなことは追々話すとして――、恐縮だが、まずはそちらの兄妹について話し合いたいんだ。いいかな」

 

「御屋形様がそのようにおっしゃるなら、我々も従いましょう」

 

 と、柱の中で最も大きな体格の、数珠を持っている男、悲鳴嶋行冥が言うと、他の柱も言葉なしに、少なくとも表面では右に同じと言った態度を示した。

 

「ありがとう、行冥。では、彼について話させてもらおう。まず最初に、彼、竈門炭治郎が、竈門禰豆子という鬼を連れていることは、私も容認していた。唐突だが、これを皆にも認めてほしいと思っている」

 

 との旨を産屋敷が口にすると、柱たちの多くが眉をひそめた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

敵か味方か、はたまた修羅か:後編

 すみません、ちょっと他の小説書いたり構想練ってたらめっちゃ時間たってました。

 これ完走できるのかな……。


「恐れながら、御屋形様、それは承服しかねます」

 

 案の定、産屋敷からの禰豆子という鬼の容認の要請は、悲鳴嶋筆頭に一部の柱より反対を唱えられた。

 

「水柱、甲頭筆頭、及び彼らの育手である鱗滝殿の切腹の覚悟については、認めましょう。しかしながら、ここで斬るべき鬼を斬らずにいて、のちに死すべきではない方が死んでしまえば、いたずらに死者の数が増えるのみでしょう! 特に、柱一人と甲頭筆頭の損失は甚大です!」

 

 続き煉獄が反論を重ねた。

 

「それは承知だよ。その上で頼みたいんだ。今までにない特異な鬼……それは単に戦力としてだけでなく、鬼にまつわる肝心なことに切り込める楔ともなるやもしれない」

 

「根拠はおありでしょうか」

 

「無論だよ。証言もある。今から聞いてみようじゃないか」

 

 と産屋敷が召喚したのは、村田であった。那田蜘蛛山で狼らを先行させた、甲頭である。

 

「甲頭・村田、証言のために参上しました」

 

「足労をしてもらってすまないね。恐縮だが、君が禰豆子を見た時の状況を説明してもらえるかな。まずは、君が彼らに合流するところから頼むよ」

 

「はい。まず合流したのは竈門隊士でありました。道中、女の鬼を一体倒してすぐのことです。折しも、下弦の伍との交戦の末に、あと一歩のところで鬼の頸を斬り損ねた瞬間でありました。そこへ加勢に入ったところ、その鬼――竈門禰豆子のものらしき血鬼術での援護を受けました」

 

「禰豆子の状態はどうだった」

 

「いえ、交戦中であったため、状態の確認は出来ませんでした。ただ、彼女の血鬼術は自身の血を燃やすものであり、敵の血鬼術に絡められていたことから、負傷をしていたことは分かりました」

 

 終始村田は淡々と、低く平坦な口調で、それこそ科白を読み上げる調子で証言してみせた。那田蜘蛛山での頼りなさげな声の主とは思えない。

 

「宜しい」

 

 そう産屋敷が話を切り上げさせ、

 

「聞いての通り、禰豆子は身内のみならず、初めて見る人間にも味方することが出来る。仮に彼の見立てが正しければ、負傷で消耗したところから、血鬼術まで行使して人間に味方出来ると言えるだろう」

 

 と自身の見解を語って聞かせた。

 

 だが、

 

「異議あり。信用出来ません。その鬼が、自身の兄を喰らうのを楽しみにとっておいた、それも二年も我慢していたのなら、その程度のことは訳もないでしょう。むしろ自分の楽しみを奪おうとした鬼の排除を優先したのやも……。人に与する鬼の可能性があるのなら、その逆も考えて然り」

 

 伊黒小芭内という、首に白い蛇を巻いた、口元を包帯で覆い隠した左右の瞳の色が異なる小柄な男が、異を唱えた。

 

「君の言うことは尤もだ、小芭内。では、次は、禰豆子を生かしておくべき理由を提示しよう。真菰、お願い出来るかな」

 

 産屋敷から促され、真菰は、はっと返事をして語り出した。

 

「御屋形様のおっしゃる通り、身内である私と水柱様の贔屓を抜きにしても、竈門禰豆子の特異性は無視してよいものではないと存じます。而して、かつてない好機でもあります。途轍もない危険を孕んではおりますが、それを見越しても、彼女を生かしておく価値はございましょう。好機をものにするのなら、須らく時として危険を冒すものである故」

 

 また、と彼女は間に挟み、

 

「狼殿のこともございます。皆様方がご覧になった通り、彼はかなりの手練れ。竈門禰豆子を斬らずに狼殿の協力を得られれば、戦力増強を期待出来るでしょう。裏を返せば、彼との敵対は、我々にとって鬼と並ぶ脅威となるでしょう。確かに彼は人間であり、炭治郎の意に沿って鬼を抹殺対象としてはおりますが、狼殿自身にはそれを目的とする意思は無い。どころか、炭治郎を害するのであれば、人でさえ斬る腹積もりですらございましょう」

 

 と真菰が語る横で、柱たち各々は狼へ目を向けた。

 

 いずれも、先ほどの不死川への奇襲、真菰との立ち合いを目にして、すぐさま真菰の意見に異論を示すことはしなかった。

 

 ただ彼らは、狼の戦力に異議は無くとも、彼が敵に回った時のことについては、いささか疑問である。いくら腕が立つとは言え、たかが一人の男に、柱九名が遅れを取るとは到底思えない。

 

 その中で一人、甚だしい危機感を覚えているのは冨岡義勇であった。一度対峙したということもあるが、何よりも二年前、彼は鬼に殺されたはずの狼が起き上がる姿を間近に目撃した。全体あれが、尸解仙さながらの死んだふりであったのか、はたまた本当に死の淵から蘇ったのかは分からない。

 

 されど、あれをもし柱たちを前に実行されれば、最低一人の命が落ちることは免れない。それは義勇が柱たちに説明したところで変わらぬ。……尤も、口下手な彼では、伝えることもままならないであろうから、同じことであるが。

 

「しかしながら――」

 

 真菰が続けた、

 

「お言葉ながら、これらの根拠では、やはり押し付けとなりましょう。ここは、おのおの方にとっての根拠が、必要と愚考します」

 

「その根拠とは?」

 

 産屋敷が促した。

 

「それは柱の方々がお決めになることです。例えば、風柱様などいかがでしょう」

 

「その理由は?」

 

 と尋ねられて、真菰は目を瞑って一呼吸間を置き、

 

「彼は、家族が鬼になることの恐ろしさを、そしてその家族を守ろうとする人間の恐ろしさを、誰よりも知っているからでございます」

 

 と答えると、とみに、水を打ったような静けさが訪れた。

 

 一聞しても、熟考しても、この言葉の理屈なのかは、解らない。されど皆、この言葉の含蓄を、感覚的に理解したためか、或いは彼女に限ってはいつものことであるからか、取り立てて異議を申し立てる者は居なかった。

 

「ふむ、なるほど。――と、真菰は言っているけれど、実弥はどうするんだい」

 

 解ったような解らなかったような素振りで産屋敷が二、三度小さく頷き、風柱・不死川実弥に話を振った。

 

 ゆくりなく振られ不死川は、当初面食らって言葉に詰まり、その後咳払いをして調子を整えてから、

 

「一つだけ……御座います。おそらくおのおの方も察しているでしょうが……、甚だ無礼な方法でございます。それでも宜しければ……」

 

 低く落ちた声の、辛うじて丁寧さを残した刺々しい口調で、不死川は申し上げた。

 

「構わないよ。恐縮だが、禰豆子を生かすか殺すかの是非の証明を、任せられるかな」

 

 との産屋敷からの指示が出るや、不死川はそれまでの産屋敷の前での慎ましい振る舞いを脱ぎ捨てて、獣さながらの荒々しさを明け透けに、禰豆子の入った箱を引っ掴むや、産屋敷の居る屋内――陽の光の当たらない屋内に、

 

「ご無礼を承知ながら、日陰をお貸しいただけますか」

 

「構わない」

 

 一言断りを入れ、産屋敷からの許しを得てから上がり込んだ。

 

 禰豆子の入った箱を放って踏みつけて、それから己の刀で自らの腕を切り付けた。

 

 動脈を傷つけたわけではないため、致命的なまでな出血ではないが、深く切ったためか痛々しいまでに血が滴る。

 

「オラ、鬼よォ! 飯の時間だッ!」

 

 と言って不死川は刀を箱に突き立てた。乾いた音を立てて切っ先が箱の板を突き破った。それとは対照的に、刀が中を突き抜ける音は、肉を貫く音みたいに鈍かった。一瞬だが苦悶の声もあった。

 

「禰豆子ォ!」

 

 当然炭治郎が黙っているわけはなく、彼は両腕を縛られたまま駆け出さんと地面の上でもがいていた。

 

 それを意に介さず不死川が、箱に空いた穴に自らの傷口をかざし、血を落とす。

 

「おうどうしたァ? 稀血の中の更なる稀血だぞ。遠慮するんじゃねえよォ……。腹、減ってんだろォ?」

 

 煽る不死川の下で、箱の中の禰豆子が、呻きを上げながらもがいていた。

 

 そろそろかといった具合に、不死川が足を退けると、箱が開いて禰豆子が、身体を元の大きさに戻しながら立ち上がって現れた。

 

 血走った眼で、不死川の腕から流れ出る血を凝視していた。口に咥えた竹の猿轡から滾々と迸り出る涎を拭う余裕もないらしかった。今すぐその猿轡を噛み砕いてでも、目の前の御馳走にかぶりつきそうである。

 

「真菰さん! どういうつもりなんですかッ! このままだと禰豆子が――」

 

 と立ち上がって真菰に迫ろうとする炭治郎の背中を、伊黒が肘を叩き込んで制圧した。ただそれだけで炭治郎は身動きはおろか、呼吸すら極端に制限された。疲労に因る抵抗力の減退ではなく、楔を打ち込む具合に、肺を動かすのに必要な筋肉へ肘を打ち込んだことに因るものである。

 

「離してあげていただけますか、蛇柱様」

 

「何故離してやらねばならない。先刻から場をかき乱すばかりだぞ、こいつは」

 

「だからこそですよ。取り乱しているからこそ、落ち着かせてあげなければ」

 

 真菰が言うと、伊黒は不満な眼をするも、鼻白んだ顔を見せてわりかた素直に炭治郎を解放した。

 

 解放された炭治郎は意外にも大人しかった。その目の前に膝を突き、真菰は彼の両肩に手を置いてと間近で目を合わせた。

 

「炭治郎なら、私の心中は匂いで分かるだろうけど、一応口に出すね。禰豆子ちゃんの生き死には、最早炭治郎たちだけじゃなくて、ひいては鬼殺隊全体の問題なの。私も義勇も、そして鱗滝先生も、何かあったらただ割腹して済ませようとしているんじゃなくて、その覚悟をしている。御屋形様だってそう、ただの親切心じゃなくて、一世一代の覚悟のつもりなの。だから炭治郎も、腹を括って、禰豆子ちゃんを信じてあげて……」

 

 そう語る真菰から発せられる匂いを感じ取り、炭治郎はたじろいだ。

 

 これが覚悟の匂いというものか。今までに嗅いだことのない匂いだ。恐ろしい運命を遠くに見据え、腹を括った者の匂い。堅固でいて静謐な、凛然とした。一周回って苛烈で、一周回って慈しい。表現に尽くしがたい匂いであった。

 

 いつの間にか炭治郎の中の激情は下火になり、瞳の中に迷いをたゆたわせて、禰豆子と不死川の対峙を見た。その後やがて、目と歯を食いしばってかぶりを振り、

 

「頑張れェ! 禰豆子ォ!」

 

 と、屋敷の縁側に駆け寄って、そう叫んだ。

 

 その声が聞こえているのかどうかは分からない。禰豆子は変わらず、不死川の稀血を前にケダモノさながらの唸り声を立てている。

 

 必死に抗っている。自身の内に居る鬼を押さえ込み、眼前に垂らされた極上の血肉の香ばしさを拒まんと、息さえ止めている。

 

 やがて禰豆子は不死川に背を向け、自らの鼻を掴むようにつまみ、その場で蹲った。

 

 多くの者が、その結果に驚愕を隠せなかった。不死川の血は稀血で、その中の更に稀な血。普通の鬼なら、匂いを嗅いだだけで前後不覚に陥るほどの濃厚な物である。その誘惑に、ただの理性で打ち勝ったというのである。

 

 ここらが潮時か。

 

 そこへ、いずこからか笛の音が飛んできた。

 

 悲しげな、寂しげな笛の音。それだけに美しく、心に染み渡る音。ひとたび響けば、誰もが、雑念に囚われることなくこの音に傾聴するものだ。

 

 義手忍具『泣き虫』

 

 禰豆子は呆然とその音に耳を預けていた。心さえもそれに惹き込まれていた。そばで稀血が馥郁としているにも拘わらず。

 

 禰豆子が笛の主に視線を向けると、皆がそれを追った。その主は、狼であった。

 

 その彼が、自身の義手に仕込んだ、人の指で出来た笛に口を当てているのを……。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

甲頭の心得

 ここは蝶屋敷。蟲柱(兼水柱・冨岡義勇のお世話係)・胡蝶しのぶの私邸で、また負傷した隊士の治療所、鬼で親を失った子供の孤児院、療養により衰えた身体能力を戻す訓練所なども兼ねている。

 

 重傷を負った炭治郎たちは、現在ここで療養中である。

 

 狼は、隠から渡された通帳を眺めて、微かに口角を上げてから懐に仕舞った。

 

 そんな彼の様子に、寝台で包帯に巻かれて寝かされた炭治郎は意外そうに目を丸くしていた。

 

「どのくらい入ってた?」

 

 後ろから真菰が声を掛けた。

 

「二百圓*1だ」

 

「思ったより少ないね」

 

 拍子抜けした真菰に、

 

「えっ、そんなに貰えたんですか!」

 

 青天の霹靂といった風に驚く炭治郎と善逸。

 

「ゴメンネ……、甲斐性ナシデ……」

 

 伊之助は意気消沈している。

 

 この通帳は、狼のこれまでの協力への謝礼として、産屋敷から頂いた物である。その他、今後藤の家の利用も許され、その上日輪刀の提供までされるらしい。

 

「俺には無用のはずだが、既に用意がされているらしい。鋼鐵塚(はがねづか)殿が勝手に……」

 

「ありゃりゃー」

 

 真菰は苦笑した。語っている当の狼にはあまり表情の変化は見られないが、内心での辟易は想像に難くない。

 

 鋼鐵柄(はがねづか)(ほたる)と言うのは、鬼殺隊の日輪刀を打つ三十七歳の刀工で、炭治郎の日輪刀を打ったのも彼である。良く言えば職人気質、悪く言えば――三十七歳にして――童のように気難しく、偏屈な三十七歳の男(未婚)である。

 

 蛍(三十七)と狼(三十前半)の邂逅は、炭治郎の刀を持ってきてもらった時の事。狼の腰に挿した打刀・楔丸に目を止めた蛍は、その刀身を見せてもらうや、途端にこの刀に強烈な対抗意識を燃やし、あろうことか狼の刀を打つと申し出たのであった。

 

 当然狼はこれを断るも、それ以上の意思で、もとい意地で通そうとしたのが蛍である。随分と長い間、狼の弱々しい拒否と、蛍の押し付けの問答が続いた果てに、何やかんやあって蛍が引き下がったのであった。

 

 本来なら、鬼殺隊の機密である日輪刀の提供は、こうも容易くはなされない。またこの場合、狼が無用としている以上、日輪刀は提供されない運びであった。

 

 それがどういうわけか蛍は、勝手に狼用の日輪刀を打っていたのだという。そしてそれを、先の那田蜘蛛山の戦いで刀を破損した炭治郎に用意した新たな刀と一緒に持ってくるのだそうである。

 

 提供せずに蔵に仕舞っておくにも、蛍があまりに意地を張っているものであったため、泣く子と地頭には叶わぬといった具合に、狼に供される次第であった。

 

「悪い人じゃない……とは思う……らしいんだけどねぇ……。性格が、ねぇ……。それで一体何人の隊士の担当から外されたことやら……。……あっ。ま、まあ! でも! 腕は確かだから! 刀はあるに越したことはないし!」

 

 普段は何事にも寛容な真菰も流石に、蛍の擁護をする口は歯切れが悪かった。

 

「それはさておき、そのお金、当分使わない分はお金以外の形で保管しておくのがいいかも。例えば……株式とか国債とか」

 

「何故だ」

 

「去年、欧州で戦争(第一次世界大戦)が起こって、日本もその発端の国である独逸(ドイツ)に宣戦布告したんだ」

 

「戦か……、銭がよく巡る」

 

 いささか浮かない面持ちで狼が言うと、

 

「そうそう、その通り」

 

 うんうんと真菰が頷いた。

 

「こちらはともかく、向こうでは大分激戦になっているみたいで、工業力のあるうちの国に軍需品を買い求めているんだって。海運とか造船とか買いかも。逆に言えば、それが終わったら一気に景気が悪くなるだろうから(戦後恐慌)、戦争が終わったらさっさと引き上げるのが吉。十年前の戦争でも、終わった後は不景気になったみたいだし」

 

「株式とやらは、如何様にして買うのだ」

 

「私や柱たちは、御屋形様を通して買ったよ、そうじゃないと買えないから。皆、余ったお金を使っているね」

 

「如何程、余るのだ」

 

「私はそんなに残らないかな。衣食住は幾らでもないけど、所有している施設とかの維持費とか、訓練費とか、あと部下のご褒美に……、相撲部屋へのタニマチ*2とか……」

 

「真菰さんも相撲好きなんですね」

 

 タニマチという言葉に反応した炭治郎がそれに触れると、

 

「ま、まあね……、あはは……」

 

 真菰は半笑いで顔を赤らめ、ばつが悪そうに目を逸らし、所在なさげに視線を漂わせた。

 

 これによって話の流れが途絶えて、滞ったこと数秒。

 

「ところで」

 

 ふと狼が話を変えようと声を掛けた。

 

「その左腕のこと……まだ聞いておらんかったな」

 

 と、真菰の左腕に嵌められた籠手を示した。

 

「ああ、これ」

 

 言いつつ真菰はそれを、実にあっさりと外して見せた。

 

「その腕……」

 

 その振る舞いとは裏腹に、現れた左腕は、どうして機能しているのか不思議な程に、ひどく歪んでいた。

 

「九年前だね。藤襲山の最終選別にいたあの、手の鬼にやられたの。あの鬼から、鱗滝さんが今まで教えてきた子たちが全部あの鬼に喰われたことを聞かされて、私は恐怖と怒りに身を侵された。それで上手く動けなくて、左腕を潰された私は、もう一切の戦う意思が潰えて、それで逃げ出したんだ……」

 

 籠手を嵌め直し、真菰は続けた。

 

「鱗滝さんには、言えなかった。言わなきゃって思っても、どうしても言えなかった……。だから私は、錆兎にだけ話して、お願いした。でも――気負わせ過ぎたかな――錆兎も、頑張り過ぎて結局駄目だった。それだけじゃない、義勇も、私が弱かったせいで……。今でも時々、この腕が痛むの。その度にあの時のことを思い出す。治そうと思えば治せたけど、しなかった。やらなくちゃならないことは、ちゃんとやる。そう決めた」

 

「真菰さん……」

 

 気遣わしげな眼をする炭治郎の頭に、真菰は右手を置いた。

 

「炭治郎、本当にありがとうね。それ以上に、後始末をさせちゃってごめんね」

 

「いいえ! 俺も鱗滝さんの弟子! 真菰さんの弟弟子ですから! あの鬼の退治は、俺の務めでもあります!」

 

 大きくかぶりを振って、真菰の煩悶を吹き飛ばさんばかりに威勢よく答えた。あまりに力み過ぎて、傷に響いた痛みに顔をしかめた。

 

 真菰は実に微笑ましそうに相好を崩した。

 

「……何故、その、手の鬼という者の存在を教えなかった」

 

 不意に狼が問うた。

 

「でも、逃げることも大事だって、しっかりと言ったよ。襲撃や血鬼術とかを事前に教えてくる鬼なんて居ないからね」

 

「ヒエェェェ……。か、可愛い顔しているのに、厳しい人だぁ……」

 

 莞爾とした真菰の笑みに、デレデレと鼻を伸ばしつつも善逸がおののいた。気持ちの悪い顔である。炭治郎もまた、目を見開いて固まっていた。

 

「会議の時もか」

 

 続け様に狼が切り込む。

 

「そんなところ、かな? 何たって鬼殺隊はこれから、かつてない賭けに出るんだからね。御屋形様も、私も義勇も鱗滝先生も。柱の人たちも皆、腹を切る覚悟で禰豆子ちゃんを容認しなきゃいけない。それを通すのには、命を賭けるくらいのことじゃなきゃ」

 

「禰豆子が耐えられなくば、どうしていた」

 

 淡々と狼が尋ねた。責める口振りではない。

 

「賭けてから負けを憂慮なんてしちゃ駄目。それじゃあ本当に負けちゃうよ。でも、私は狼さんのあの笛を当てにしていたから、なかなか吹いてくれなくって、ちょっと焦ったけどね」

 

 冷徹なほどに真菰は、口角を上げるだけの微笑で答えてみせた。もともと目元が柔らかいから、どうにか微笑らしい表情として映えるが。

 

 ――錆兎と義勇の最終選別から、真菰は変わってしまった。

 

 以前鱗滝から聞いた言葉が、狼の脳裏を過った。

 

 おっとりと物腰柔らかで、誰にでも分け隔てなく優しい、それが真菰の主な人格。裏腹に、自らの立つ場の苛酷さを知り、自身のみならず、同士にさえ厳格なことを施す。優しい故に厳しい。

 

 温和と苛烈。背反する二つの人格を、さしずめ紙の表裏と同様に垣間見せるのが、今の彼女である。

 

 柱の位を固辞するのも、彼女が己にも厳しいため。葦名流の秘伝を、狼に実際に見せてもらい、実際に受け、そうして『渦雲渡り』を会得してもなお、雲柱を拝命なんぞ頭の片隅にも無い。

 

「何はともあれ、これで心置きなく禰豆子ちゃんと仲良く。私は勿論、他の柱もきっと支援してくれると思うよ。不死川君は……友好的とは言えないけど、少なくとも禰豆子ちゃんを追い出そうとはしないかな。あの試しを実行したのは他でもない、不死川君なんだから、それが通った以上は彼も反故にはしないよ」

 

 真菰の意見に、本当にそうだろうかと炭治郎は一瞬疑念を抱いたが、しかし思い返してみれば、あの不死川という男は、一見して知性のない野獣の如き男でありながら、御屋形様・産屋敷の御前に於いてはしっかりとした敬語を扱える者ではあった。それを考慮すれば、得心の行くかもしれない。

 

 裏を見れば、真菰はその律義さに付け込んで、敢えて不死川にあの試しをやらせたとも言えるが……。

 

 真菰が病室を後にしたのち、炭治郎らのお見舞いに来た村田に話してみると、

 

「悪く思わないでくれ。不死川さんも過激だってこともあるけど、柱の方たちを納得させるにはあれくらいじゃなきゃ効かないんだよ」

 

 やや苦い顔つきで村田は、腕を組みながら語った。

 

「とかく鬼狩りっていうのは、過酷って言葉以外に言い表しようがないくらい過酷だ。甲頭は隊士の統率と管理が主な仕事で、その頭の甲頭筆頭となるともう気が狂う仕事だ。そんな中でお頭が出した結論が、嫌われてでも皆を鍛え上げて、出来るだけ死なないようにするってことだったんだ」

 

 炭治郎の胸に嫌な感覚が落ちた。泥を飲み下したような、けれど吐き出せない気持であった。

 

 最終選別でのあの鬼の言葉。

 

 錆兎の活躍のお陰でその年は彼以外は全員合格だったものの、所詮それは死を先延ばしにしたに過ぎなかった。もしそんな無駄なことをせねば彼は死なずに済んだ、謂わば錆兎の犬死に過ぎなかったと。

 

 そして、その犬死をさせたのが、真菰であったとも。

 

「嫌な仕事だよ、甲頭ってのは。部下を引っ張るために、自分が前に出て鼓舞しきゃならないことも多々だが、任務を遂行するために、部下が死ぬと分かった上で指示も出さなきゃならない。挙句部下からは嫌われるわ、縦しんば好かれても、そいつらを鬼にけしかけなきゃならないわ。少なくとも俺は、そうしておめおめここまで生きながらえてきた。全く割に合わん」

 

 と喋くる村田を見て、ふと炭治郎は那田蜘蛛山の様相を想起した。

 

 操られ、したくもない同士討ちをさせられ、たとえ身体が壊れて悲鳴を上げようと、お構いなしに無理な動きをさせられ、最早殺されるより他ないという土壇場まで追い詰められた人たち。

 

 相手と自らの力量差を見誤ったとはいえ、太刀打ちしようのない鬼相手に挑み、敢え無くサイコロステーキにされた人。

 

 つい先日知り合ったとは言え、それなりに互いに人となりを見たはずの善逸や伊之助も、炭治郎の見ない間に危うく命を落とすところであった。

 

 それを見つめることが、甲頭の務め。

 

「……村田さんは、何のために? 仲間……真菰さんのために?……」

 

 どうにか口を開いて、炭治郎は尋ねた。

 

「甲頭になったことか? いやいや、俺は嫌々なったんだよ、どっかの口下手柱様が勝手にお頭に推薦してくださったお陰でな!」

 

 と、皮肉を含んだ苦笑で言ったものの、

 

「けど――」

 

 と挟んで村田は、

 

「俺が甲頭になれるだけの実力を付けられたのは、それだけの修羅場を潜ったからではあるけど……、そもそもそこから生きて帰ってこられたのは、死にそうになった時はいつもお頭が生きて連れ帰ってくれたからなんだよな……。やめられないのは、事実だよな、この仕事」

 

 しみじみと村田は紡ぎ続ける。

 

「俺程度に何が出来るって話だが……、それでも、部下どもを置いて、一人責任から逃げようって気がして、どうにも辞められないんだよな、この仕事……」

 

 満更でもなさそうに彼は、そう結んだ。

 

 

 

 ――死するとも なほ死するとも 吾が魂よ 永久にとどまり 御国守らせ

 

 『桜花』特別攻撃隊 緒方穣海軍中尉 辞世の句

*1
当時の大卒初任給は三十五圓(参考:http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J077.htm『明治~平成 値段史』)

*2
相撲業界に於ける隠語。無償の後援者のこと指す




 史実での事柄に言及することで我々の世界と地続きなんじゃないかと感じさせる手法すこ。

 当時の証券取引ってどんな感じだったんだろう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

忍義手・改

 どうでもいい余談:真菰の相撲好き設定は、彼女の肩書である『甲頭筆頭』が『前頭筆頭』と似ていたのと、あと最近タニマチを知ったことからほもいつきました。

 巨人! 大鵬! 卵焼き! ×2って感じで。


 ――「なわ」は、「棒」とならんで、もっとも古い人間の道具の一つだった。「棒」は、悪い空間を遠ざけるために、「なわ」は、善い空間を引きよせるために、人類が発明した、最初の友達だった。「なわ」と「棒」は、人間のいるところならば、どこにでもいた。

 

 安倍公房『なわ』

 

【1】

 炭治郎らは療養によってすっかりと回復した。現在彼らは、療養で鈍った身体の機能を回復させるための訓練を行っている。

 

 機能回復訓練は、寝たきり生活で固まった身体をほぐすところから始まり、次に反射神経の回復、三つ目ではいわゆる鬼ごっこで機動力を回復させる、以上の三つから成る。

 

 当初、神崎アオイを筆頭に、寺内きよ、中原すみ、高田なほの四人の少女によって行われていたが、反射訓練と機動訓練とも、流石に炭治郎や善逸、伊之助の相手としては不足であったため、栗花落カナヲという、炭治郎らと同期である少女が引き継ぐこととなった。このカナヲという少女が一番の壁で、炭治郎らと同期の少女であるにも拘わらず、彼女はいとも容易く彼らをあしらってみせたのである。

 

 聞くところに拠れば、カナヲは蟲柱・胡蝶しのぶの継子という、次期柱として擁されている身であるらしい。やはりと言うべきか、次期柱の訓練を受けているだけあってか、頭一つ抜きん出ている。

 

 そのカナヲに追いつくために炭治郎は、訓練のさなかで胡蝶しのぶから教えられた『全集中・常中』を習得しようと躍起になっていた。

 

 屋敷の広い庭を駆け回ったり、立位で全集中の呼吸を長時間続けるといった訓練をする炭治郎だが、なかなかに手こずっているようである。

 

 その様子を見つつ、狼は時折、

 

「呼吸が乱れているぞ。空気を、肺を動かす筋肉に流せ。使わぬ筋肉は眠らせておけ」

 

 と助言をしつつ、つい最近穴山から届けられた新たな忍義手の調子を矯めつ眇めつ見ていた。

 

 造りそのものは、前の義手と変わらない。が、まず使われている素材の質が違う。触り、叩いてみれば分かる通り、強度が以前の物から大幅に向上している。素材の硬度以外にも、部品同士の接合をより簡略化し、接合部を減らすことで脆弱さの縮小させる試みもなされている。

 

 強度の他でも、耐腐食性もあるらしい。穴山が言うには、リン酸塩という物質を金属に付着させて被膜を作るという、西洋の最新の技術が使われているらしい。

 

 尺骨を模した部位に仕込んでいた絡繰り筒も同じだ。こちらは絡繰り筒の機関部を取り外して一部の部品を取り換え、その他は手入れを施してから新たな尺骨部に組み込むことで、中の機構を台無しにするといったことがない、見事な換骨奪胎が為されていた。

 

 何よりも目に付くのが、鉤縄。五色の紐をより合わせた縄と、その先端に付けられた金剛杵(独鈷杵(とっこしょ)*1を模した鉄鉤による鉤縄である。

 

 一見、色鮮やかで忍びには向かぬものであるが、しかしこの縄の表面を覆う半透明の被膜が、暗い場所では光を阻むため、意外に目立たず高い隠密性を持つのである。

 

「三百年か……」

 

 珍しく狼が感慨深く呟いた。

 

 実に長い年月。その流れの中で、技術は日進月歩に研鑽されてゆき、当時の稀代のカラクリ技師の作品をここまで強化するとは。

 

「その鉤縄……羂索(けんじゃく)みたいね」

 

 ふと頭上隣から声を掛けられた。振り向きつつ見上げると、患者服を着て至る所に包帯を巻いた女が、横から忍義手をしげしげと覗いていた。年の頃は二十前後程度の、凛としたすまし顔をして、お面でも被っているかのように動かさない、表情に乏しい女である。

 

「お主は?」

 

「名乗る程の者じゃないわ。ただの土の位(戌己)の一般隊士。あたしが一方的に知っているだけ。あんた、柱に手向かって斬り結んだそうじゃない。しかも風柱様に膝を突かせたとか。すこぶる有名よ。隠たちは噂話が好きだから」

 

「……羂索を知っておるのか」

 

「ん、ああ、そうそう。その義手の鉤縄、羂索みたいね。不動明王が、悪い奴をふん縛って懲らしめたり、懊悩し苦悶する人々を救い上げるために使ったりするあれ。左に付いているのもあるし、右手に刀持てば、まさにお不動さんね。あたしは、あんたをよく知らないけど、あんたがやると様になる。ふふ……」

 

 と、声では愉快そうに笑うが、相変わらず表情の変化は乏しい。

 

「誰に作ってもらったの」

 

「穴山という商人の男に紹介されたカラクリ技師だ。田中久重とやらの弟子を自称していると聞いた」

 

「田中久重って……からくり儀右衛門? 田中……もとい芝浦製作所*2の。へえ、凄いわねぇ、……絶対虚言だろうけど。でも腕は確かだと思うわよ。で……、それで……、義手を付けて動かすって、どんな感覚?」

 

「奇妙な、感覚だ。新たに腕が生えた心地がする」

 

 この感覚が芽生えたのは、忍義手が狼に馴染みだした頃であった。物を掴むと、無いはずの触感が手のひらに伝わり、持ち上げれば、さも生身の左腕が感じているかのように重さを受ける。

 

「へえ……、そうなんだぁ……。それは、あれだね、傷痍軍人が、失ったはずの手足が何故か痛み出すのと似ているわね」

 

 段々と、彼女の言葉がぎこちなくなってきている。これ以上会話が続きようがないのに、無理に会話を続けているものと見える。

 

 だから狼は、

 

「――何があった」

 

 と問うことで水を向けた。

 

「……何かって?」

 

 出し抜けに狼から問われ、女は少し言葉を詰まらせてから切り返した。

 

「浮かぬ顔をしておる。俺に話し掛けたのは、何かあるからであろう」

 

「あー……、分かるのね。いえ、端から相談しようとか思ったんじゃなくて……、まあ、話し掛けたのも、期待半分ということもあったけれど……」

 

 気まずそうに女は、目線をあちらこちらへ移しながら、要領を得ずに言った。

 

「聞くだけ、聞こう」

 

 狼が促すと、逡巡するように女は黙って狼を見つめる。

 

 しばしそうしたのち、やがておもむろに狼の隣に座り込んで、それからためらいがちに口を開き、

 

「……実は、求婚されちゃって」

 

「善逸か」

 

 求婚という言葉を聞き、パッと狼の頭に浮かんだのが善逸だったもので、彼女の言葉を聞くや思わず狼は彼の名前が出た。

 

「善逸? いや誰それ。そうじゃなくて、任務で一緒になる男なんだけど、この間の任務で二人して死にかけたからさ……」

 

 後は言わずもがな。先方の男は、かねてからこの女に懸想をしており、死の淵に立ったことで彼女への想いが一気に膨れ上がったといったところであろう。

 

「断ったのか」

 

「それも出来なかった。受けもしなかったけど」

 

「厭うておるのか」

 

 重ねる狼に、女は小首を振って、

 

「違う」

 

 と言った。

 

「鬼狩りだからか」

 

「うん……」

 

 抱えた膝に顔をうずめ、蚊が鳴くような声で女は返した。

 

 幾ばくかの沈黙ののち、再び口を開いて女は、

 

「あたしも、あいつも、いつ死ぬかも分からない身なんだ……。きっと、どちらかが先に死んで、残されたほうが寂しい思いをする。そんな不安のある結婚なんてまっぴらよ」

 

「鬼狩りでなければ、受けていたのか」

 

 と訊く狼に、

 

「きっとね」

 

 はぐらかす調子で彼女は呟いた。

 

「お互い、天涯孤独なんだから、嫌いじゃなければ受けるでしょうね。鬼狩りを辞めるって手もあるだろうけど、出来るわけがない。……ここにはまだ、仲間が居る」

 

 差し詰め、彼女のその様は、燃え尽きた木材と言ったところであろう。燃え尽きたはずなのに、さればとて、生き様を変えるのをためらっている。

 

「己の生き様を、貫く。命に、代えても……」

 

「……」

 

 狼からの言葉に、彼女は特に返答をしなかった。ただ噛みしめるように、彼女は目を閉じた。しきりに小さく頷き、やがておもむろに開く。

 

「……決めたわ」

 

 唐突に宣言した。

 

「あたしが鬼狩りである限り、あたしは誰とも添い遂げない。そんなものにうつつを抜かせば半端を生み、半端な志は迷いに綻ぶ。そして迷えば……敗れる。あたしみたいなのは特にね……」

 

 彼女は跳ねる調子で立ち上がる。

 

「早速、断ってこなきゃ。ありがとね、あんたのお陰よ」

 

 と、口元だけの笑みで告げられ、狼は返答に困る。助言らしい助言をした覚えはなかった当人としては、どういたしましての一言も憚られる。

 

「お互い、生きていたらまた会いましょう」

 

 かと言って、水を差すのは野暮だろうと思って何も返さず、去りゆくその背を見送るばかりであった。

 

 結局、あの女の名はおろか、階級も、使う呼吸術も分からなかった。そしてこれからも、知ることはないだろう。

 

 それから蝶屋敷の中で彼女を見かけることはなかった。

 

 彼女と会って再び話をすることもないまま、いよいよ炭治郎が全集中・常中を会得し、追随するように善逸と伊之助がそれを会得し、晴れて彼らは現場に復帰するに至った。

 

 これと時を同じくして、先の戦いで刀を損失した炭治郎と伊之助に新たな刀が届いた。

 

 で、それらを持ってきた刀鍛冶の男二人なのだが。

 

「だァかァらァ! 受け取れッつッてんでしょうがアァ!」

 

 ひょっとこ面を被った二人の片割れ、鋼鐵塚(はがねづか)(ほたる)が、利き手に握った業物の包丁――切れ過ぎて却って使い物にならない――を狼に突きつけながら、もう片手に持った真新しい刀を脅迫気味に押し付けんとしていた。

 

「無用と申したはずだ」

 

「テメエの要る要らねえなんざ関係ねえんだよ! 黙って受け取れやこの猿ゥ!」

 

「狼だ」

 

「知ってらァ! んなことォ!」

 

 といった問答を、先ほどから、炭治郎が刀を破損したことへの怨嗟をひとしきり出し終えて間もなく、しているのである。実に面妖な光景だ。そのためか、炭治郎と、鋼鐵塚の連れの鉄穴森(かなもり)鋼蔵(こうぞう)という男は、戸惑っている。ややもすると、失笑をしそうになってすらいた。

 

 新品の刀二振りを、早速石を使って刃を欠けさせ鋸状にしている伊之助の他方で善逸のほうは、炭治郎らに輪を掛けて噴出を堪えているようであった。

 

 低く唸るような声の狼(CV浪川大輔)と、高く擦れたような声の鋼鐵塚蛍(CV浪川大輔)。この、似た声質を鋭敏な耳で聞き取った善逸は、物凄く似ている声同士が、真逆の気で問答をしているのが、同じ人物が一人芝居をしているみたいで、

 

(もう可笑しくて可笑しくて!……)

 

 とうとう善逸は噴き出してしまった。

 

 唐突に気持ちの悪い笑いを噴き出させた善逸に、ギロリと蛍が睨み付け、将に食って掛からんとしたところで、鉄穴森が狼と蛍の間に割って入り、

 

「すみません、狼さん。こんなことを言うのも何ですが、受け取るだけ受け取ってはいただけませんか。そうすれば当面は大人しくなりますので……」

 

 さりげなく善逸を庇う鉄穴森であった。

 

 言われた狼は、相手の意図の把握はともかく、

 

「むう……」

 

 その提案にはいささか困ったように唸った。

 

 基本的に武具はあるに越したことは無いにしても、流石に楔丸と不死斬りに加えて打刀をもう一振りは、余分な荷物に他ならない。

 

 もし、この刀を受け取ろうものなら、置いて行くとか、行った先で消耗品としてさっさと使うという手を打つわけにはいかない。

 

 かと言って、このまま押し問答を続けていても際限がないため、結局狼が折れてその刀を受け取るに至った。

 

 日輪刀は、通称『色変わりの刀』と言われており、一定の技量を持つ者が手にすれば、その者の特性を示す色に変わるのだという。もし、この刀に狼の色を付けてしまえば、最早完全に狼の物となり、蛍の追求はいや増しに酷くなるだろうとのことで、狼は当初、受け取るだけで後は押し入れの肥やしにでもしようかと考えていた。

 

 が、案の定鋼鐵塚蛍は、狼一行が出立する日まで蝶屋敷に居座り、狼の周りをうろついては、文字通り四六時中、日輪刀を抜けと催促……もとい強要をする始末であった。

 

 出立することと相成った日、とうとう狼は根負けして、刀を抜くことにした。

 

 ともすると石頭と形容される意思の強さを持つ狼が、何故ゆえその最後の日で折れたのか。

 

 それは、

 

「俺はなぁ、あん時見せられたあの刀身が忘れられねえんだよ! 口惜しくて忘れられねえんだよ! 造られたなぁ絶対室町辺りだろうに、拵えだってもう何人斬ったかも分らないくらいに血を吸ってるってのに、だのについさっき造られたばかりなのかってくらい、赤ん坊みたいに綺麗なあの刀身に、俺はこの上なく嫉妬しちまったんだよ! 口惜しくて仕方ねえよ! あんな代物が、この世にあるなんてよ! そんな物に張り合って、何が悪いってんだよ!」

 

 と、被っているひょっとこ面の上からでも分かるほどに、滂沱として流れる涙と共に出でた語りに、狼の思う所があったからであろうか。

 

 蝶屋敷の門の前。蛍に、受け取った日輪刀を突きつけるように見せ、やおら狼は抜刀した。

 

 まだ試し斬りすらしておらぬその刀身は、鏡――否、硝子とさえ言えるほどに淀みなく周囲の景色を映し出してみせた。狼は違和感なくこれを握りしめ、天に向かう切っ先まで目を滑らせた。さも、長年使い古した愛刀かというくらい、手に馴染む。

 

 やがて、柄を握る手から何かを吸い取られる感覚がした。すると、その刀身は鍔元からみるみると色に染められていった。

 

「ほほう、見事な瑠璃色ですな。本物の瑠璃と見紛いそうだ」

 

 と、鉄穴森が感嘆を述べた。

 

 その色は空よりも青かった。幻想的で鮮やかながら、この大空の上に広がる恐ろしい闇さえも透かし、されど夜明け前の優しい光明をもいだく、濃い青であった。

 

「これで、満足か」

 

 日輪刀を鞘に納めて狼は、蛍に向き直った。

 

 蛍は今にも慨嘆しそうなくらい、ブルブルと震えてから、

 

「満足……するわけねえだろうがアァ!」

 

 といきなりキレ出した。

 

「いいか! 俺は! そのすんげえ刀よりもすんげえ刀を打つんだよ! お前がその刀より俺の刀を持ちたいって思うまでな! そんなら、その程度で満足なんてするはずねえだろ! ナメんじゃねえ! 見てろよ、今にもっとすんげえ刀拵えてやる、そん時はそれに持ち替えろ。だがな! その刀折ったら承知しねえからな! 覚えてろよなあ!」

 

 このように勝手に捲し立てて、勝手に去っていった。

 

 炭治郎ら残された者たちは、皆一様にポカンとその後姿を眺めていた。

 

 どうやら当分は――ひょっとすると、たとえこの世から鬼が消えようと、あの偏屈な刀鍛冶に付きまとわれる定めにあるらしい。

 

「……」

 

 さしもの狼も、僅かに嘆息する。

 

 

 

『瑠璃色の日輪刀

 

 ある偏屈な刀鍛冶が隻腕の忍に贈った、鬼狩りの刀

 

 眩い瑠璃色の刀身は狼の水の呼吸への適正、

 そして鍛治師の拘りと腕前を感じることが出来る

 

 しかし狼がこの刀を振るうことは無いだろう

 

 艶やかな刃は剣士の手にあってこそ映えるもの

 雅な飾りも、精緻な意匠も、忍には不要なものだ』

 

 

 

「随分と、騒がしい朝ですねぇ……」

 

 と、鈴を鳴らしたような透き通った声で入ってきたのは、蝶の髪飾りで髪の毛を後ろにまとめた、鬼殺隊らしい詰襟の上から、蝶の羽の模様をあしらった羽織を羽織った美しい女であった。

 

「しのぶさぁーん! 見送りに来てくれたんですかぁー!」

 

 鼻下を伸ばした善逸が気の緩み切った声で呼んだように、彼女こそがこの蝶屋敷の主で、炭治郎らの治療と鍛錬を主導した、鬼殺隊最高位の一人、蟲柱こと胡蝶しのぶ。

 

 兼、水柱・冨岡義勇の世話係。

 

「そんなところですね。それと、彼のその日輪刀を、預かりに」

 

 と、彼女は狼の日輪刀を指した。

 

「彼としても、流石に三本も刀を持っていたら負担でしょうし、宜しければ私が預かっておきましょうか。鋼鐵塚さんにはナイショで……」

 

 しのぶは日輪刀に向けていた人差し指を、そのまま口元に持ってきて小首を傾げた。

 

「頼もう」

 

 狼は手のひらに乗せた日輪刀を差し出した。

 

 鷹揚な足取りで狼に近寄るとしのぶは、刀を乗せた狼の手に自らの手を重ねるように乗せ、そうしてズイッと背伸びをして狼の顔に迫った。

 

 ほとんど目と鼻の先まで互いの顔が迫っている。それは、後ろから見れば、接吻しているようにすら見えることであろう。

 

「アーッ!」

 

 真っ先に汚い金切り声を上げたのは言うに及ばず善逸。

 

「え……、あ……」

 

 炭治郎は顔を赤らめて吃驚した。

 

「おん?」

 

 伊之助はあまり興味がなく、炭治郎と善逸の反応に、腕を組んで首を傾げている。

 

 そんな彼らの声にも委細構うことなく、しのぶは穏やかな顔を絶やすことなく、

 

「お互いに生きていたら、またお会いしましょうね。……尤も、あなたが死ぬなんてあり得ないのでしょうけれど」

 

 低く囁く声で、

 

「ね……薄井さん」

 

 結んでしのぶは、莞爾として微笑した。

 

 キラキラと光を捉える大きな瞳が、細められ。引き延ばされた唇から、白い歯が垣間見える。

 

 狼は、いつにも増して渋い顔をした。

 

 それからどれ程だろうか。彼らが、その状態のまま、瞬きもせずに見つめ合っていたのは……。

*1
金剛杵とは仏教で用いられる法具で、独鈷杵はその金剛杵の一つ

*2
のちの東芝の重電部門




 モブ姉貴は、オバミツの結末よっては再登場もあるかも。

 あと(日輪刀の使い所さんは)ないです。

【追記】
 kaijo様が考えてくださった『瑠璃色の日輪刀』のテキストを、本人のご好意で使わせていただきました。ぜひご覧ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

花と蝶と桜と氷

 今更ながら言い訳:今のところ原作時系列準拠でやっているので私自身でも忘れていますけど、このSS、書きたいシーンだけを書く短編集のつもりでやっています。

 ということで、今回あたりから時系列がごっちゃになってきます。あしからず。


【0】

 炭治郎たちが機能回復訓練に取り組む昼下がり、蝶屋敷の廊下を歩く狼は、前方から歩いてきた冨岡義勇の姿を認め、足を止めた。

 

 それに応じてか、義勇も足を止めた。

 

 狼にとって義勇は、取り立てて仲が良いというわけではないが、炭治郎らを除いた鬼殺隊士の中では最初に出会い、それなりに会話をした相手と見ている。

 

 お互い、知人に会ったら挨拶をする柄ではないものの、無視してすれ違う相手でもない故に、こうして鉢合った次第であった。

 

 しばし互いに凝視し合った後、ふと義勇のほうが口を開き、

 

「俺は嫌われていない」

 

 ポツリと言った。

 

「そうか」

 

 相変わらずの素っ気ない態度で、狼は返した。

 

「俺は嫌われていない……」

 

 義勇は俯いて言った。

 

「……また、胡蝶殿に言われたか」

 

 狼はいつもの渋面をややしらけさせて、気遣いがちに尋ねた。

 

「……俺は嫌われていない」

 

 言いづらそうに義勇はボソボソと。

 

「……少なくとも、俺は嫌ってはおらぬ」

 

「俺は嫌われていない」

 

 俯かせていた顔を上げ、義勇は言った。

 

「ああ」

 

 狼が頷くと、合わせて義勇も頷いて、二人はすれ違って別れた。

 

「俺は嫌われていない」

 

 義勇のその言葉が、最後に聞こえた。

 

 その足で狼が赴いたのは、炭治郎たちが機能回復訓練を行っている道場であった。ちょうど、炭治郎たちがカナヲを相手に翻弄されているところであった。

 

「あ……、えっと、あの、狼、さん?……」

 

 こわごわと横合いから声を掛けてきたのは、機能回復訓練の補助を行う少女ら、きよ、すみ、なほの三人であった。

 

「ああ……。邪魔はせぬ、別用だ」

 

 と、狼は一瞥して言った。素っ気ない態度だが、まだ狼に慣れていない彼女らへの、彼なりの配慮であった。問題があるとするなら、その態度が却って彼女らの苦手意識を助長していることであろう。

 

 訓練の邪魔にならないよう道場の端を歩き迂回して、狼は奥の方にある小さな仏像の前に来た。

 

 左手に花瓶を持つ木彫りのその像は、冠を被っているように見えるが、よくよく見てみるとそれは冠ではなく十の顔がその形を取っているという、奇怪な仏像であった。

 

 これは十一面観音と呼ばれている。あらゆる厄を退けるだけでなく、勝利をもたらし、餓鬼や修羅に地獄に落ちてしまわないように守り、死後に地獄へ極楽浄土へ導く存在である。これから再び、鬼を退治に向かう隊士たちを見守るには、適任であろう。

 

 その像の前で狼は跪くと、懐から鈴を取り出してこれを供えて、合掌し拝んだ。

 

「随分と、信心深いのですね、狼さん」

 

 背後から声を掛けたのは、胡蝶しのぶであった。

 

「その守り鈴は、元々私の姉が持っていたものでした。本人は拾った物と言っておりましたけど。でも確かに、その鈴、ただ物ではないみたいですね」

 

 思い出そうとする調子で、しのぶは語った。

 

「狼さんみたいに信心深く仏様にお供えすれば、きっと何か良いことがありますよ」

 

 彼女のその言葉を最後に、狼の視界が暗転し、闇に沈んだ。

 

【1】

 一九一一年(明治四十四年)

 

 狼の目の前に、男が居た。

 

 その男は、女を喰らっていた。

 

「お主、鬼か」

 

 刀に手を添え、男に声を掛けた。

 

「ん?」

 

 男はキョトンと顔をもたげ、狼を見やった。狼からの殺気を受けたにも拘わらず、警戒はおろか意にも介していない様子だ。

 

 細身で如何にも毒の無い、端正な顔立ちの、青年くらいの優男。肌と髪の毛の色素が薄く、それとは対照的に、血を被ったような赤と黒の上衣を着ている。

 

 その虹色の両瞳には、それぞれ『上弦』『弐』と刻み付けられていた。

 

 迷わず鯉口を切り、刀を抜いた。

 

「おいおい、俺はまだ君とやろうとはしてないのに、出会って早々刀を抜くことはないんじゃないのかい! 話し合いの余地はあるだろう。そのほうが君のためだ、違う?」

 

 両手を前に出して、困惑の面持ちで言っている男であったが、抜刀した狼に向ける態度にしてはあまりにも軽かった。

 

「戯けたことを」

 

「嘘じゃないって、本当だって! 俺は上弦の弐・童磨って言うんだ! 確かに今までに数多の人間を喰ってきたけど、俺は男より女のほうが好み。それに、みだりに人殺しはするもんじゃないと思っている。君だってここで死んだら、今まで研鑽してきた技が台無しだぜ? ここはさ、見なかったことにしといたほうが、お互いのために良いと違うかな」

 

「知っておる。なればこそだ」

 

 問答無用とばかりに一蹴して狼は、刀の切っ先を向け、構えた。

 

 童磨と名乗った鬼は、わざとらしい悲しげな表情、もとい鼻白んだ顔で溜息をついた。

 

「あー、そこまで言うなら仕方ない……」

 

 と、彼が取り出したのは、金色の扇子。金属の板を重ねた造りの、所謂鉄扇という物である。

 

 二本ある内の片方を開き、童磨はその扇面に刻まれた蓮の模様を見せるように自らを仰いだ。

 

「死んでもらおっか」

 

 不敵な微笑を浮かべるや、童磨が一瞬の内に狼との間を詰め、その手の鉄扇で一撃見舞った。

 

 どうにか反応した狼がこれを楔丸で防ぐ。だが弾きを仕損じ、防御が押し負けたことで刀身が狼の胴に当たり、斬撃の一部を受け、吹き飛ばされることとなった。

 

 相手の攻撃が楔丸に当たり、かつ、押し負けた際に手首に行った負担で衝撃が幾分か殺され、その一撃で狼が絶命することはなかった。それでも、重い一撃であるには変わりはない。常人であれば、立つことも出来ず、苦痛にのたうち回ることは必至であろう。

 

 だが、熟達の忍びたる狼は、堪え、それどころか地面に手を突いて踏ん張ってみせた。

 

 呼吸術で痛みを抑え、刀を地面に突いて立つ狼を見、童磨は不思議そうに眉をひそめた。

 

「ふむ……、これは妙だな、普通だったらどんな頑丈な刀でもスッパリいくはずなんだけど……。その刀、どこの国宝だい?」

 

 と悠長に尋ねる童磨を無視し、狼は傷薬瓢箪を呷る。

 

「ゆっくり飲みなよ、邪魔はしないからさ」

 

 その言葉に反して、狼は飲むやすぐに構えた。

 

「あ、もういいの? じゃ、次は君から来なよ。ほら、早く早く」

 

 童磨は腰辺りから、片方の鉄扇で手招きをした。

 

 挑発的ではあったが、狼はそれには乗らず、相手の動きから意識を逸らさずに思案を巡らす。そうしてひとときの間ののち、狼は刀を鞘に納めた。童磨はこれには取り立てて訝しまなかった。

 

 じりじりと、足首を左右に捻り、地面に足底を擦りつけながら狼は徐々に肉薄していく。童磨の間合いに注意しつつ、自分の間合いに童磨を納めんとする。

 

 狼の間合いが相手に触れるか触れないかのところで、突如狼は地面を蹴って距離を詰め、その刹那に抜刀した。

 

 葦名流『十文字』

 

 斬り上げからの切り返しの横薙ぎの二撃による、疾く斬ることに意を置いた居合技。間合いを読まれづらい納刀状態から、水の呼吸から取り入れた足運びによる踏み込みと流れるような太刀筋は、以前狼が行使していた時よりもしなやかで、淀みのない流麗な距離と太刀筋を見極め難くなっている。

 

 童磨はこれを容易く捌いた。そこから切り返しの一撃を狼に見舞う。

 

 狼はこれを見越し、今度は損ねることなく弾いた。

 

 その流れからの更なる斬り返し。

 

 重なる切り返し。

 

 只管に甲高い音が鳴り響く、剣戟の応酬。

 

 数度繰り返せば、狼も相手の攻撃をすっかりと見切っていた。而して、あまりにも相手の動きが見え透いていることを、却って訝しんだ。

 

(手加減を、されているな……)

 

 そう考えるのが妥当であった。少なくとも、狼に自身の攻撃を覚えさせておいて後で不意に緩急をつけようというものではないらしかった。

 

 狼の見たところ、童磨の言動の至る所からは、高い実力に裏打ちされた自信、ないしは相手をなめきった余裕が溢れていた。それも単なる自尊心によるものではなく、何の疑いも無しに、自明の理とばかりに。

 

 そんな男が、小賢しく回りくどい真似をするとは思えない。

 

 狼が突きを放つと、ふわりと童磨は軽やかに後ろへ飛びずさった。

 

「ふむ、ふむ……。悪くない。もう少しくらい強くやってもいいかな? それに……」

 

 童磨は目を細めて、扇子で口元を隠しながら、狼の背中にある不死斬りを指差し、

 

「その背中の大太刀……、一体どんな物なのかは分からないけど、ただの骨董品じゃないな。君程度が振るとどんなものか、見ておかなきゃね」

 

 と童磨が笑むと、途端に空気が一変した。

 

 それは文字通り、辺りの空気が瞬く間に凍てついたのである。肌に張り付くような冷気が当たりに立ち込めた。

 

 童磨のほうは、自身が冷気の根源であるとばかりに平然としている。肩や腕、頬や頸に薄く氷霜を纏い、手に持った鉄扇を煽ぐごとに、新鮮な冷気が舞い込んできているのが分かる。

 

 忍具を切り変え、狼は備える。

 

 義手忍具『火吹き筒』

 

 文字通り火を吹く忍具。氷には有効な武器であろう。

 

 狼はそっと懐から、瓶を取り出した。黒く、密閉されているが、中には何か液体あるいは粘液が入っていると思われる。

 

 これを狼は、童磨の足元目掛けて投げた。

 

 童磨はその場から飛び退くも、地面に叩き付けられた瓶が割れ、そこから飛び散った中身が幾らか、履いていた袴や上衣に付着した。

 

(この臭い……)

 

 その液体からは、奇妙な臭いがした。ドロドロと鼻につく、実に不快な臭いが。

 

 その、地面に広がる液体に向かって、狼は火吹き筒から炎を放った。炎がそれに触れると、枯れ葉に火を着けるより容易く、一瞬にして液体に沿って炎が広がった。

 

「焼夷剤か! ハハハハ! どこで手に入れたんだよこんな物! ハハハハ!」

 

 炎は地面のみならず、童磨の衣服に付いた焼夷剤にまで引火する。

 

 この焼夷剤の主成分は油脂――つまり水では落とせず、なかなかに落ちない。

 

 しかし童磨の判断は早かった。火が全身に回らぬうちに、引火した部分を氷で覆ったのである。よく燃える焼夷剤であろうと、燃焼には酸素は必要。密封しておけば、いずれは止まる。

 

 また氷とは表面から内部に熱を伝えることはないため、如何に熱い火を内包しておこうとも、意外にも一瞬で溶けるといったことはない。

 

 が、そのまに狼は不死斬りを構えて、力を溜めきっていた。禍々しい紅い瘴気が刀身から強く溢れ出ているところであった。

 

 そしてここぞ、と振るった。

 

 秘伝『不死斬り』

 

 刀から解放された瘴気が堰切って噴き出し、刃の延長としてぬばたまの墨と茜の光が綯交ぜになった扇を描いた。

 

 振るわれる刹那で、童磨はその刃から発せられる不吉な気配に、その危険を察知し、迷わず身を屈めながらよけた。続け様の一撃も、片足を軸にして反対側に身を移しながら、よけた。

 

 それを確認して狼は素早く不死斬りを納刀し、腰に挿していた楔丸を革製の帯から抜いて、持ち手の親指を鍔に掛けながら、地面と垂直に立てる格好で居合の構えを取った。

 

 葦名流秘伝『竜閃』

 

 少々の間を取り、左足を軸に身を翻しながら抜きざま斬り降ろすと、空を切るはずであった太刀筋から、鋭い斬撃が飛んだ。

 

 童磨もこれを造作なく弾いた。が、一呼吸遅れて重なってきた、地面を走る真空波。一撃目がつぶてとなって、その二撃目には反応が遅れた。

 

 どうにかこれを弾くも、半端に弾くこととなり、幾ばくか身体にそれを受けた。

 

 直後。

 

 二撃目の真空波を追うように迫っていた狼の斬撃を受けた。虚を突かれた童磨も、流石にこれは貰った。

 

 続いての狼からの一太刀を弾いて童磨は、反撃の一撃を繰り出す。二つの扇子による二連撃。

 

 それを狼は、義手忍具『鳳凰の紅蓮傘』で受け流して、それで出来た隙を狙い、畳んだ紅蓮傘と刀を交差させ、振るった。

 

 忍び義手技・派生攻撃『放ち斬り』

 

 紅蓮傘の纏う炎が、交わる楔丸の刀身に乗ることで、これを纏った二太刀が放たれた。それはたとえ防がれようとも、後追いの鋭い炎の斬撃が相手を襲う。

 

 無論。

 

「あ、こんなもの? なら次は俺の番ね」

 

 この程度で劣勢に追い込まれる、上弦の弐ではなかった。

 

 血鬼術『散り蓮華』

 

 童磨が展開した鉄扇を振ると、その軌跡から蓮華を模した氷の像が生まれ、そして瞬く間に散り、氷の花びらの吹雪が舞来た。

 

 狼は後ろに飛びずさり、『荒天・渦雲渡り』を繰り出した。『寄鷹斬り』の技術を駆使して後退しながら、斬撃の嵐で氷の花吹雪に応戦する。

 

 途中、地面に撒かれた火のついた焼夷剤があったため、攻撃を捌きつつそれを刀でさらった。

 

 忍び義手技奥義『纏い斬り』

 

 さらった炎を刀身に乗せたまま一振りすると、それは霧散することなく刀と一体化した。そうして炎を纏い、熱の乗った斬撃で更に応戦すれば、それまでよりよく捌け、若干ながら押し返すことが出来た。僅かながら、しかし十分な距離だ。

 

 義手の忍具を火吹き筒に切り替え、狼は再び構えた。先ほどより幾らか長く火を溜め、この上なく溜まってから一気に放出させた。

 

 義手忍具『火吹き筒・バネ式』

 

 仕込んだバネ絡繰りの力で火の押し出しを強めるばかりか、更に多くの空気を吹き込むことで火力を強めた強化忍具。勢いの強さのあまり、狼の身体が後ろに押し流されるほどである。

 

 こうしてどうにか攻撃を捌き切った狼であったが、彼はその矢先に悪寒を感じた。それは彼の胸に感じる息苦しさと、それと先ほどから肌に当たる細かな氷水であった。

 

(もし、あやつが霞状の氷を辺りに撒いているならば……)

 

 確証はないが、無視出来ない危惧が狼の脳裏に残った。

 

「あれまあ、その様子だと……。そりゃバレちゃうかぁ……」

 

 トホホと、畳んだ鉄扇を口元にやりながら、童磨はわざとらしい落ち込みをした。その後すぐに、

 

「まあいいや! どうせ俺と君とじゃ力量からして不公平だしね。何なら、一つくらい助言をしてやるのが公平というものだ。いきなりだけどさ、さっきの居合術、一寸粗がなかった?」

 

 と、あっさり態度を切り替えて、童磨はそんなことを言った。

 

 童磨の言う通り、狼が放った『十文字』と『竜閃』をはじめとして、狼が扱う技には水の呼吸の技術を取り入れただけでは完成には至らないものがある。水の呼吸の足運びを活用できる『十文字』はともかく、『竜閃』については水の呼吸はあまり意味をなさなかった。

 

 こういったことから、狼と鱗滝それに真菰も、それらの未完成技には雲の呼吸としての名を冠してはいなかった。

 

「そこで俺から提案があるんだ! 例えば君が最初にやった、居合からの二連撃。俺の見立て通りだと、あれは『雷の呼吸』向きの技だね。で、次にやった斬撃を飛ばしたほう、あちらは『風の呼吸』だな。他にも技をみせてもらえればその都度ピッタリな呼吸術を教えてあげるよ。俺は経験豊富で色んな呼吸術を知っているから、役に立つと思うぜ。俺の観察した限りで、呼吸のやり方も教えられたりするかな?」

 

 こともあろうにこの鬼は助言などと、自ら敵に塩を送る真似を進んでするのだと言う。

 

 童磨の言動は、いちいち癇に障るものであったが、されどそれらはいずれも本人からしたら挑発の意図はないものと、狼は見た。

 

 飽くまで童磨は、自身のほうが遥かに上であると確信しているだけである。それが自然であり、故に彼にとって、自身の相手は褒めてやるべき者であり、同情してやるべき者であるのだろう。

 

 された相手が、如何な気持ちかは、知らぬままに。

 

(この男……人の心が無いのか。だが……)

 

 だが事実。童磨が狼より遥かに強く、そして打ち倒すことは叶わない。それは、狼が童磨に付けた傷が、斬ったそばから治っていくことからも分かる。

 

「試してごらんよ。君だって剣士なんだろ。なら、死ぬ前にもう一歩精進したいはずだ。救済してやるなら、心残りは解しておかないとね。夜明けまでそんなにないけど……、でもどうせ居なくなるなら、その前に君の背中の大太刀について知りたいな」

 

(不死斬りに目を付けられたか……。これ以上は……)

 

 現状で童磨を斬ることの出来る唯一の武器、不死斬り。これに目を付けられては、ここで童磨を討つは最早不可能であろう。

 

 最悪、不死斬りの破壊、ないし鹵獲されることは必至。

 

 狼は戦略を捨て、童磨へ斬りかかった。それこそ破れかぶれと言われかねない攻勢で。防御も雑になり、回避の必要があれば大きくよけ、そこへ童磨が遠距離の攻撃を出しては、また狼は逃げざるをえなくなる。こうなっては、場の主導権は童磨のもの。狼は手のひらで踊らされているに等しい。

 

 普通なら何分も持たないであろうが、それでもそれなりに長い時間は持ったのは奇跡のようなものか、はたまた童磨の気まぐれのお陰か。

 

 血鬼術『ちゅる……蔓蓮華』

 

 巴流秘伝『桜舞い』

 

 襲い来る氷の蔓と蓮華の花を、狼はまたもや纏い斬りの炎の刃で斬り落とした。

 

 横に回転しながら、その勢いのままに飛び上がり、舞うように斬りつける。刀身の長さ以上に斬撃は明らかに伸びており、その斬撃にも炎が纏われているため、氷の攻撃には有効であった。

 

「んん、その技だったら『花の呼吸』とかどうだろう。昔からある呼吸だから、それなりに使い手は居るしね」

 

 迫り来る狼を前に、童磨は腕を組んで悠長に思案しながら言うと、そうして両者の距離が詰まりきった時、童磨は鉄扇を狼の胸に向けて突き出した。

 

 それは狼の胸に、鈍い音を立ててめり込んだ。鈍いようで容易く人を貫くその鉄扇は、狼のあばらを貫通して背中に突き出た。

 

「あッ、しまった! そんな! まさか君とあろうものがこれを防げないなんて!」

 

(深手を負えたが……、瞬く間に死ねる程ではないな……)

 

 血反吐を吐きながら狼は斯様な沈思をしていた。そうしながら、手に持った刀で、残された力の限り童磨を突いた。死に体の半端な力と技では童磨の肌を貫くには至らず、逆に狼の身体が後ろに下がり、これに伴って突き刺さっていた鉄扇が抜けた。

 

 数歩程、ふらつく足取りで下がったところで、狼は前のめりに倒れ込んだ。鉄扇が抜けた拍子に、彼の心ノ臓か、もしくは大動脈に傷が付いたためか、彼の身体の下からドロドロと鮮やかな動脈血が広がっていった。

 

 童磨は両手で頭を挟んで、

 

「何てことだ!」

 

 と取り乱した様子で叫んだが、

 

「まあ仕方ない。とりあえずこの大太刀を……」

 

 さっさと切り替えて、狼の背中の不死斬りに手を伸ばそうとした折であった。

 

 花の呼吸『肆ノ型・紅花衣』

 

 倒れ伏した狼に気を取られていたところへ、突如襲い来た、大きな大きな円を描く横なぎの剣筋を、童磨は咄嗟に後ろへ身体を逸らして避けた。重ねられる追撃に、更に後退した。

 

 そうして、狼から離れた童磨と、既に骸と化した狼の間に、女が降り立った。頭の左右に蝶の髪飾りを付けた、髪の長い、物腰柔らかそうな美しい顔立ちの女であった。およそ闘争とは程遠いその端正な顔も、今この場では引き締められ、目の前の鬼を睨み付けていた。

 

「あー、新手が来ちゃったかぁ……。さて如何したものか……。俺としては相手してあげてもいいんだけど、もう時間がねぇ……」

 

 と、困り顔で童磨は、畳んだ鉄扇を軽く握った手を頬に添えて言った。

 

「後ろ髪引かれる思いだけど、彼に免じて引き下がるよ……」

 

 そーれーにー、と童磨は蜜のようにネットリとした緩慢な口吻で、

 

「俺、是非とも君を喰べてみたいしなぁ……。いつかふさわしい場所で、君とは会いたいところだよ。ふふふ、ふふ……、それじゃあね」

 

 そう残して、童磨は夜明け前の薄暗い闇の中へと消えた。

 

 それを見届けた女――胡蝶カナエは、自分が助けられなかった、もう動かない狼の骸へ、悲しげな面持ちで向き直ると、そのそばで屈みこんで手を合わせた。

 

「ごめんなさい……。あともう少し早く駆け付けていれば……」

 

 それまでの戦う者としての精悍な顔つきはたおやかにしおれ、鋭くひそめられていた眉も、今では緩やかな蛾眉を描いていた。

 

 ひとしきり拝んだところでカナエは、事の報告と、それとこの仏を手厚く葬ってやる手配をするために、鎹烏を呼び寄せた。

 

「……待て……」

 

 死んでいたはずの狼が声を上げたのは、その折であった。

 

「死んではおらぬ……」

 

 咳込んで血反吐を吐き散らしながら、狼はすぐ前に立っているカナエの足に手を乗せて告げた。

 

 途端にカナエは、驚愕と喚起に目と口を開き、

 

「生きているのですね、良かった! 貴方、今は喋らず、動かないでください! すぐに手当てをしますから! 少しの辛抱です! だからどうか!……、どうか生きてください!……」

 

 立とうとした狼であったが、カナエの強い押さえつけと、残った傷と疲労から、しばらくはそのまま仰向けに返って、横たわったままでいることにした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

桜の呼吸:前編

 呪術廻戦のエロ夢書いてました、すみません。あと鬼滅夢の嫌われ(勘違い)の構想練ってました。


 舞う花びらの、鮮やかで華麗な太刀筋であった。

 

 ぼんやりと受け待つ者の手には自ずから降り立ち、乱暴に掴み取ろうとする者の手からはひらりと抜け、決して捕らわれることのない。

 

 この上なく、綺麗だった。

 

「危ないっ!」

 

 その叫びで狼は我に返り、迫り来ていた刃を忍び義手で防いだ。間一髪、相手の刀は狼の頸を斬ろうというところで阻まれていた。義手の尺骨部が刀の反りより下辺りとぶつかって、切っ先が狼の頸に触れるか触れないかというところまで来ている。

 

「ごめんなさい! 大丈夫? 怪我とかは……」

 

 刀を持っていた彼女、胡蝶カナエは慌てながら狼に寄って彼の肩に手を置いてその首筋を覗き込む。

 

「大事ない」

 

 と言って狼はそっと押し返した。

 

「でも……」

 

「本人が大丈夫なら、大丈夫なんじゃないの、姉さん」

 

 と横から声を掛けてきたのは、カナエの妹である胡蝶しのぶであった。

 

「そもそもこの人に直接話を聞くなんて意味ないのよ。だって、この前運び込まれた時に、どこが痛いとか訊いてもちっとも答えてくれないんだもの」

 

 素気無いことを言いつつしのぶは、一歩下がった所から狼の首筋をそれとなく覗き込んでいた。

 

「私が声を掛けなかったら、あの剣筋だと頸動脈行っていましたよ、貴方もご存知でしょうけど、切っ先が一番鋭いんですからね。それにしても何をぼんやりしていたんです」

 

 何気なくしのぶはそう尋ねた。それだけに彼女は、次に狼がどう返すか予想もしていなかったために、

 

「すまぬ。綺麗なもので、見惚れておった」

 

 狼に臆面もなく答えられて、しのぶは瞠目した。

 

「やだわ狼さんったら、褒めても何も出ないわよー」

 

 言われた当のカナエのほうは、手招きをするみたいに片手を前に振って切り返した。こういったことは言われ慣れているためだろう、どうかすると、当人ではないしのぶのほうが泡を喰っている様子であった。

 

「花の呼吸……と言ったか。教えていただき、かたじけない」

 

「え、ああ、そっち? いいええ、力になれたなら何よりよ。それで……何か掴めたかしら」

 

「試さぬことには、分からぬ」

 

 そう言って狼は背を向け、この広い庭の中で誰も居ない方に向かって構えた。

 

 一歩二歩と踏み込みつつ狼は一回り。それで付いた勢いのまま、錐もみに回転しながら狼は飛び上がった。

 

 雲の呼吸『暮の叢雲・桜舞い』 

 

 昇るさなか、狼を中心に幾重もの斬撃が発せられ、そして昇り切ると、最後に大きな円を描く一太刀が振られた。舞うような身のこなしで振られる刃の軌跡から、桜の花びらが散るのが幻視される。さながらそれは、つむじ風に巻きあげられた花嵐が、再び儚げに地に降り行く様であった。

 

 わぁ、という声がカナエの口から漏れた。しのぶに至っては、感嘆の声も無いという有様。

 

 まだ人を殺める者の振るう剣の無骨さはあれど、忍びの身軽さに、花の呼吸の絶妙な弛緩による素早さと柔軟さを足した剣の舞は、軽快でありながら力強い。

 

 トッと小さく音を立てて着地した狼に、パチパチとカナエは小気味良い拍手を送った。

 

「凄いじゃない! もう花の呼吸を取り込んだのね!」

 

 カナエの称賛は、どちらかと言えば素晴らしい演舞を見た時のそれであった。

 

「まだ粗があるにしても、こんなに短い間に?……」

 

 と呟くしのぶは、驚愕を通り越して胡乱な眼になっていた。

 

 技を繰り出してみて狼は、動きにはまだ粗があると感じた。

 

「それに、息も上がっているじゃないですか。まだ馴染んでもいないのか、はたまた無理に別の呼吸なんて使おうとするから……」

 

 しのぶの言う通り、水の呼吸に違う呼吸を綯交ぜるのは実に負荷が強かった。『花』は『水』からの派生でありながら、ここまでの負担になるのなら、全く系統の違う呼吸ならば如何様になったやら。長い道のりを走っている最中に呼吸が乱れると苦しい、ましてや呼吸の仕方を変えるとなるとより厳しくなる、と例えれば解りやすいか。

 

 やはり、今のままでは雲の呼吸をより強く昇華させることは叶わないであろう。呼吸の仕方に、改善の余地があるようである。より強靭な肺活力も然り、如何なる呼吸の一部分でも取り込めるだけの、それこそ雲の変幻自在を現したような柔軟な呼吸法を作り出すことが急務である。

 

 さもなくば、あの男と――上弦の弐と渡り合うには、話にならぬ。

 

「修練を続ける」

 

「駄目です! そんな調子で続けていたら持ちませんよ。最悪、肺が破けたり、呼吸に使う筋肉が断裂します」

 

 と、新たな呼吸の研鑽の続きを敢行しようとする狼の衣服を、しのぶは背中から掴んで引き止める。

 

「然したることでもない」

 

 肺が破けようと致命的な負傷をしようと、竜胤の力がある限り問題はない。

 

「駄目と言ったら駄目です! いくら貴方の治癒力が異常だとしても、そんな損耗をみすみす見逃すわけにもいきませんからね! 基礎もなっていない生兵法の技を、無闇に練習したところで身に付くわけもないですから!」

 

 両手を腰に当ててしのぶは、狼の前に立ちはだかる。狼が別の方を向いても、他の所へ行こうとしても、それを追って彼女なりに厳めしい――端正な顔立ち故に迫力が無くむしろ愛らしい――顔で、彼が刀を振るのに邪魔となろう正面に陣取るのである

 

 そこへカナエが横から、顔を覗かせるように、身を傾けて狼としのぶの間に入ってきた。

 

「しのぶの言う通りよ、薄井さん。課題に積極的に取り組むのも良いかもしれないけれど、逆に敢えて温めておけば良い閃きもあるかもしれないわ。それに、薄井さんはいつもせわしい感じがするし、この際ゆっくりと腰を降ろして休息を取ってみるのも良いんじゃないかしら」

 

 一見してしのぶに肩入れし、狼を説得する風ではあるが、穿った見方をすれば狼としのぶを取りなそうとしている節が看取される。

 

「そう言えば薄井さん、あまり食べていないわよね。お腹空いていない?」

 

「……」

 

 とカナエから指摘されて狼は、空腹を自覚して、自身の腹に視線を下げた。それでも何も言わなかったが、否定もしなかった。元々そういった主張をしない性格もあるが、食事などといった、任務などで制限されるものについては、言ったところで解決するでもなく、どころか口に出せば余計に苦悶となるために、殊更に主張をする習慣が無いのである。

 

「あらあら、その様子だとお腹と背中がくっつきそうってところかしら」

 

「……」

 

 狼が何も発さないにも関わらずカナエは勝手に話を進めた。これについても狼はムッツリと何も言い返さなかった。

 

「何か食べましょうか。折角なんだから、薄井さんが美味しいって思える物を食べたいわね! ね、薄井さんの好物って何かしら」

 

「……おはぎだ」

 

「まあ! おはぎ! 良いわねぇ。ちょうど頂き物の小豆があるの!」

 

「……」

 

 これにも狼は、取り立てて引き止める真似はしない。もう修練の続きをしようという気にならず、興ざめした様子で納刀した。

 

「あ、でも……、もち米はあったかしら」

 

 と、顎に指を当てて上を向いて考え込むカナエを見て、はたと狼は、たしか米を持っていたはずだと思い出し、

 

「これは、どうだ」

 

 自分の懐を探って取り出した、巾着に包まれた米を差し出した。

 

「あら、これってお米? わ、綺麗な白、雪みたい。色褪せてる所が無いわ。これ、使っちゃって大丈夫なの?」

 

「よい。頂き物だ」

 

「なら、これ、使わせてもらうわね。あ、薄井さんも一緒に作りましょ。おはぎの作り方くらい、知ってても損は無いと思うわ」

 

 そう言ってカナエは、狼の否応を聞かずに彼の腕を掴んで引っ張った。

 

「えっ、ねえ! 姉さん、私は?」

 

「しのぶは待っててー! とっておきの作ったげるから、楽しみにしててちょうだーい!」

 

 とだけ残してカナエは、しのぶが追いすがるよりも早く、炊事場へと小走りで駆けていった。

 

 着いたそこで狼は、カナエに促されるままに手を清め、殊更に拒否する理由も無かったので、彼女と一緒におはぎ作りに臨む。

 

 忍び義手は、外しておく。左手が使えぬのは不便だが、この義手は、食物を扱うにはあまりに血を吸い過ぎた。

 

 狼が提供した物の半分の量のうるち米を混ぜ米を洗い、少しの塩を入れた水にしばらく浸けてから炊く。これと並行して、餡子を作るためにまず小豆を渋切りし、それから芯が無くなるまで適度に水を足しながら煮詰める。

 

「ここでミソなのは、この煮汁を取っておくの。しばらくすれば沈殿するから、うわずみを捨てて、小豆と一緒にもう一度煮る。そこに砂糖と、あと水飴ね」

 

「そんなに入れるのか……」

 

 ただでさえ狼の居た時代では砂糖が貴重で、しかも葦名という閉鎖的な土地では更に価値が跳ね上がるという物を、そこまで惜しげもなく使われるのは、いくら現代大正の世に慣れてきた彼とて、ゾッとしなかった。

 

「あらあら、甘いのはお嫌い?」

 

「……そうではない」

 

 今昔の感覚の板挟みに戸惑って言葉が出ない狼であった。

 

 カナエは小首を傾げて訝しむも、必要以上に喋らない狼ならきっと話さないと思ったのか、気にせずそれ以上深追いをしなかった。

 

「ところで、何故俺をここに連れてきた」

 

 話が行き詰ったところで、狼はかねてからの疑問を呈した。

 

 うーん、とカナエは一瞬だけ沈思し、

 

「一緒に居たかったから、じゃ駄目かしら」

 

 いささかぎこちない笑みを浮かべながら言った。

 

「……」

 

 無言のまま狼が見つめ返す。これを受けてカナエはその笑みのまま膠着する。

 

 しばしそうした睨めっこをしていると、ようよう彼女は顔を赤らめて、

 

「ご、ごめんなさい! 冗談、冗談! 慣れないことはするものじゃないわねぇ……」

 

 狼から目を背けるように再び釜に顔を向けた。

 

 どうも彼女ははぐらかすのは不得手であるらしい。さもなければ、嫁入り前の身で、慣れてもいないはずの甘言を使うわけもない。

 

「……やっぱり、分かっちゃうかしら」

 

「話の進め方が、唐突だった。……何か、悩み事か」

 

「悩みって言うより……前に薄井さんが言っていたこと、思い出してね」

 

「言っていたこととは」

 

 ここに来て少し経つが、狼としてはそれほどのことを言った覚えはなかった。

 

「薄井さん、自分には人斬りの術しかないって、言ってたでしょ」

 

「ああ」

 

 カナエに花の呼吸の教えを乞うた際に、左様なことを言った気がすると、狼は想起した。

 

 餡子と飯が炊き上がったので、いよいよおはぎを握る。餡子を幾らか取って適当に延ばし、その上に半分潰した飯を乗せ、丸める。片手でやるには少々コツが要るが、出来ないわけではない。

 

「私、薄井さんはそれだけの人じゃないって思うの。あなたからはそぞろに、哀しみさえある優しさを感じるの。そんな人が、自分が人斬りだけが能だなんて思っているのが、一寸腑に落ちなくて……」

 

 狼に顔を向けず、おはぎを握りながらカナエは言った。取り立てて表情を作っているでもなけれど、端正な顔に、生まれ持った垂れ目のせいか、その横顔は愁いを帯びているものに見える。

 

「……」

 

「薄井さんがお米をくれた時、閃いたの。薄井さんも、おはぎの作り方でも学べば、それを自覚するんじゃないかしらって。恰もよく最近、おはぎの作り方を、教えてもらったから」

 

 微笑むカナエの顔は、どこか自信が無さげであった。おはぎを握る手は、妙齢の女らしく細いけれど、それにしても逞しく、傷跡が多く、皮が厚かった。料理などといった女らしいことよりも、刀を振っていた時間のほうが長かったに相違ない。

 

 そんなことは、とても言えないが。

 

「さ、出来た! うん、良い出来ね。早速皆にも食べさせましょう。あっ、しのぶ! ちょうどよかった、おはぎが出来たから、皆を呼んできて!」

 

 カナエは、たまたま近くまで来ていたしのぶを呼び止めて、頼んだ。

 

「あー、はいはい……」

 

 嘆息しながら露骨に呆れを見せつつ、しのぶは言われた通り、この屋敷の皆を呼んできた。

 

 そうして来たのは、この屋敷に住む少女らであった。胡蝶姉妹を除き、八人居た。まずカナエの継子である三人の隊士と、十は行くか行かないかという三人の少女きよ、すみ、なほ。鬼殺隊士志望の神崎アオイに、最近人買いから保護したという栗花落カナヲである。

 

 自らの愛想のアの字もない仏頂面を自覚している狼は、彼女らがこちらをあまり意識しないよう、そっと一歩下がって気配を消そうとした。ところが、カナエによってその腕を掴まれ、引き寄せられた。

 

「今日はねぇ、おはぎ作ったのー! ここに居る薄井さんがくれたお米を使って、一緒に作ったの!」

 

 とカナエが言ったことで狼の存在は彼女らの知るところとなり、果たして彼女らが浮足立ったものと、そこはかとなく狼には見えた。

 

「ほら、ほら、食べてごらんなさい」

 

 というカナエの一言で、おっかなびっくりながら彼女らは各々一つずつおはぎを手に取る。最後に取ったのはカナヲで、彼女はしのぶから、「取って食べなさい」と指示されてようやく動いた。

 

「おいひっ!」

 

 めいめい口にしたところで、誰かが花が開くような声を上げた。

 

 くどいほどに甘い餡子が口の中でしっとりと溶け、半分潰れた米がほろほろと綻び、舌の上で餡子と一緒に泳ぐ。塩と炊いた米の、分からぬ程度のかすかな塩味が、きっと甘さを引き立てているのだ。

 

 狼の時代の塩餡子のおはぎの慎ましい甘さとは比べ物にならない、贅沢な甘さであった。

 

「ね、薄井さん、ほら見て」

 

 狼の肩に手を置きながら、カナエは彼から少女たちに目を移した。見れば、彼女らは喜色を湛えた面持ちで舌鼓を打っている。

 

「皆、狼さんのおはぎで、あんなに笑顔になっているのよ」

 

 染み渡る声で、そっと囁く。

 

 互いに顔を向け合い、楽しげに美味しいよねと言い合う、継子の三人。

 

 幸せそうな顔で顔を綻ばせる、きよ、すみ、なほ。

 

 情緒が判然としないながらも、口元に餡子を付けて旨そうに咀嚼するカナヲに、自らも味わいつつもそんなカナヲの口元を拭ってやるアオイ。

 

 いつもしかめっ面をしているしのぶも、眉間を寄せつつも、小さな口の中に頬張ったおはぎに、頬を桜色に染めて味に夢中になっている。

 

「あなたは、人斬りの力ばかりの人じゃない。こうして、女の子たちを笑顔にする能もあるの。それだけは、忘れないで、心の片隅に留めておいて」

 

 この時では、印象には残れど、狼の心中にしかと残るものでもなく、ただ記憶のどこかで揺蕩う程度であった。

 

 カナエから贈られたこの言葉は、狼の心にいつまでも焼き付くことになる。

 

 それは、のちに彼女が命を落とした時。

 

「あれれー? おかしいなー、たしか君は死んじゃったはずなんだけど。あの手応えは確かにそうだった」

 

 頭から血を被ったような、虹色の瞳を持つ鬼が、口元に折りたたんだ鉄扇を当て、小首を傾げた。

 

「しかし残念だなぁ。折角彼女を救済してやれると思ったんだけど……、気息奄々のその娘に対して、夜明けまでの時間は短い……。とんだ横やりが入ったものだ」

 

 上弦の弐・童磨と対峙する狼の背後で、命に係わる深手を負ったカナエが、咳き込み吐血した。

 

「姉さん! お願い、しっかりして! 大丈夫だから!……、すぐ治すから、だから目を閉じちゃ駄目!……」

 

 彼女の身体を抱え、悲痛なまでに届かぬ哀願をするしのぶ。

 

「おや、その娘――。ふうむ……」

 

 狼の横から顔を出すように、しのぶを見やる童磨が、うんうんと何やら頷いた。

 

 狼がその視線から彼女を庇うように、自らの身体で隠すと、おっと童磨は気が付いたように狼に目を戻し、

 

「ま、今度も仕方ない。ここは引き下がろう。でも……いずれまた、ね」

 

 含みを持たせた科白を残して、童磨は去っていった。これを見届け、念のためしばらく注意を配っていた狼だったが、やがてゆっくりとそれを解き、それからカナエとしのぶに向き直った。

 

 しのぶに抱えられているカナエの傍らで屈む。その時には最早カナエは、今にも事切れるといったところであった。その状態でカナエは、朦朧とするであろう意識の中、緩慢に顔を狼に向け、碌に力も入らないであろうに震える唇を動かした。

 

「ごめ、ん、な、さい。お、ね、がい、ね……」

 

 と残して、彼女は逝った。

 

 これがどんな意味を持つのか。事切れる間際で言ったからか、詳らかには分からない。

 

 その言葉を反芻する内に、かつて言われた言葉が喚起された。その言葉は、さながら燃え盛る炎で局所が焼け残るが如く、心の中に焼き付いたのである。

 

 たとえ、これらの出来事が無かった事になろうとも、起こった事実は絶対に変わらないのと同じで、消えることはない。

 

 デジャヴのように。

 

 

『桜の呼吸

 

 呼吸術「桜の呼吸」を習得する

 花の呼吸を取り入れた葦名流

 一部の技を花の呼吸で強化出来る

 

 この時代に来た当初

 鬼を斬り裂くすべを持たぬ狼に

 誰かが教えてくれたかもしれぬ、

 思ひ出の呼吸

 

 だが、そのもしもは無かった

 故にこの呼称がされることはない

 ただそっと、技の中にのみ根付く』

 

『おはぎ

 

 変若の御子がくれたお米で、

 狼とカナエが拵えた、おはぎ

 一定時間、HPがゆっくりと中回復し、

 加えて体幹が常に回復するようになる

 

 人斬りだけが能だった

 そんな狼でも、少女を

 笑わせるくらいは出来た

 

 昔、義父がくれた、あのおはぎ

 如何な心持で、あれをくれたか

 今になって、分かった』




 どうでもいい余談
 文中で「あたら」という言葉を使った箇所がありましたが、私はあれを「みすみす」と同じ意味の言葉と勘違いしてたので、修正しました。「あたら」とは、何かを惜しんだり勿体無いといったニュアンスの言葉です。皆さんもご注意を。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

桜の呼吸:後編

 今回は将棋ネタが出てきますが、作者は実は将棋についてはよく分かりません。駒の動きは分かりますが、戦略についてはからっきしです。めっちゃいい加減に考えました。将棋好きな人、ごめんなさい。


 ぽつぽつと小ぶりな雲が浮かぶ青い空に、鳥らしきものが飛んでいた。その飛行体は旋回しつつ、こちらへ向かっている。次第に近くになっていくに連れ、その姿が大きくなっていくと、鳥にしては随分と大きな体躯と分かってくる。

 

 狼が腕を水平になるように持ち上げてやると、その大きな鳥は迷わずそこに停まった。それは梟であった。

 

 この梟は、この間、珠世らの所へ使いに出して、只今帰ってきたところであった。以前に狼が街で見つけてきた、血色の良い柿を、彼女らと共に居る変若の御子に、届けさせるためである。実に見事な柿で、よく晴れた日の夕焼けの如く朱々と、矯めつ眇めつどこを見てもくすむ所が無かった。あれだけの物ともなると、己で食うほうが惜しく、むしろ柿を好む者に食べさせてやりたいと思い、珠世らの分も含めて贈った次第であった。

 

 それで、こうして帰ってきた梟の足には、行きの時に持っていた物とは別の包みが提げられていた。中に細かい物が入った手のひらに収まる程の包みが一つと、紙に包まれた粉末状の物が幾つか。それと手紙が一通に、おふだが一枚。

 

 ――此度、いと色付良き柿を贈り賜い、有難く御座候。

 

 という書き出しから始まる手紙の内容は、案の定、狼の贈った柿への礼の旨。また珠世も甚く感謝していたとのことであった。ただし珠世は、柿そのものへというより、狼が自然と彼女らの分の柿を贈ったことで、自分たちが人間扱いされている感じがしたと感激しているらしかった。狼としては、そのようなことは意識していなかったから、あまり実感が湧かないところであるが。

 

 その礼として、お米が沢山実ったとのことで、包みの中に入った米であった。珠世からは、紙に包まれた粉薬。

 

 おふだのほうは兪史郎からだが、こちらは礼ではなく、今後両者の間でやり取りするにあたって梟が彼らのもとへ辿り着くために使う物である。このおふだは、兪史郎の張った幻術と共鳴することにより、使用者を彼らのもとへ導き、かつその先で張られた幻術を透過する、謂わば暗号のようなものが書き込まれている。幻とも生身ともつかぬこの梟なれば、まず両者のやり取りを横取りされる事は無いだろう。

 

 頂いたお米をしげしげと見つめて、ふと思い立つ。

 

 そんな折。

 

「ああ、薄井さん」

 

 背後の蝶屋敷の中の縁の廊下から声を掛けられた。髪を頭の左右で括り、はっきりと開かれた大きな眼の上で、いつも眉を逆立てていてお堅い印象を受ける少女は、神崎アオイである。

 

 ただ今はその眉は幾らか弛み、口角を少し上げた微笑を、狼に向けている。

 

「そのミミズク、帰ってきたのですね。では、こちらでお預かりします」

 

「頼もう」

 

 と、そばに寄った狼は、アオイから差し向けられた腕の横に、梟の乗った腕を差し出す。両者の腕が平行すると、彼の腕に居た梟は、ピョンと小さく飛んで彼女の腕に移った。これについて彼女はほとんど臆したりはしなかった。この梟が賢くておとなしいことを、彼女も知っているからであろう。

 

「胡蝶殿は、居るか」

 

「しのぶ様ですか。只今留守にしております。すぐ帰ってくるとはおっしゃってましたけど、それでも、柱ともなると、いつお帰りになるかは分かりませんね。用向きを訊いても?」

 

「炊事場を使わせてもらいたい。それと、小豆はあるか。うるち米も少し頂きたい」

 

 おもむろに狼は手に持った米の包みを持ち上げた。

 

「ああ」

 

 合点が行った風にアオイは声を出した。

 

「それでしたら、私に言ってくだされば、許可致しますよ。何なら手伝いましょう、ちょうど今手が空いたところですので」

 

 快く、といった態度を前面に出して、アオイは申し出た。

 

「よいのか」

 

「ちょうどいい休憩です。それに薄井さん、料理をする時は義手を外しますよね。なら手はあったほうが宜しいでしょう」

 

 アオイは空いているほうの手をひらりと上げた。

 

「……お言葉に、甘えよう」

 

 殊に逡巡もせずに狼は受けた。

 

「では、この子を置いてきますので、先に行って手を洗っておいてください」

 

「承知した」

 

 言われた通り狼は炊事場へ足を運ぶ。そこで手を清めた。

 

 また、持っていた物は勿論、羽織っていた柿色の着物や襟巻、着込んでいた焦げ茶の半着も置いてきていて、今彼が纏っているのは浅草で会った『彼の御方』から賜った黒いドレスシャツと茶色のスラックスの姿となっている。それ以外に持っている物とすれば、背中に――決して離れぬことがなきよう――括り付けた不死斬りくらいのものであった。

 

 義手で右袖を捲ってから、義手を外した。

 

「お待たせしました」

 

 やがてアオイが来て、早速狼たちは、おはぎ作りに臨む。

 

 迷うほどのことでもない。米を少しの塩と一緒に炊き、あく抜きをした小豆を砂糖と水飴と一緒に煮て餡子を作る。炊き上がった米を半分潰し、出来上がった餡子で包むだけだ。

 

 何か引っかかりがあるとすれば、それはアオイの気後れした様子だろう。先刻から、何か気がかりなことがあるも二の足を踏んでいる、といった様子なのは狼も気付いている。

 

「何か気がかりが、あるのか」

 

「え」

 

 と思わずアオイは訊き返すも、狼はそれ以上は何も言わなかった彼女がはっきりと狼の問を聞いていたのは分かり切ったことであるから、二度は要らないであろう。敢えてそうしないのは、あまり深く切り込むのは宜しくないと見てのことである。

 

 そのいささか不親切な狼の水向けに、アオイは一寸戸惑う。口の内で、あぁ、うぅん、と籠らせたのち、やがて、沈黙に耐えかねたのかこわごわとした様子で口を開く。

 

「う、薄井さんは……戦っていて、怖いとか恐ろしいとか……、考えたことはありますか……」

 

 文字を読み上げるかのような喋り方であった。これはおそらく本題ではないだろう。

 

「……ある」

 

 と、一寸置いて狼は肯定した。

 

「へえ……」

 

「怖気のあまり、心ノ臓が止まったこともあった」

 

「フフ……」

 

 狼の言ったことを冗談とでも思ったか、アオイは小さく笑った。冗談なんてものを言いそうにない狼が唐突に言ったからこそ笑ったのだろう。

 

 尤も、冗談などではなく事実であったが。

 

 かつて葦名に存在した、首の無い巨漢の怨霊やら、面をいくつも付けた怨霊やら。あれらを思い出すも、言ったところで無駄であろうと、そっと心に仕舞う狼であった。

 

「他方、突きや、足狙い、掴みなど、際どいものが来る瞬間は、危ないと感じたものだ。あれもまた恐怖と言えよう」

 

「凄いですね。私なんか、足が竦んで、手が震えて、呼吸も乱れて何も出来なくなるのに。一体、私と、薄井さんたち――カナヲたちとで、どう違うんでしょうね」

 

 と紡ぐアオイの声調は、陰鬱なものではない。声は大きくはきはきと、むしろ明るいとさえ。

 

 落胆した時ほど、このように気丈に振る舞う者も居る。

 

 狼に、彼女の問いに出せる言葉は無い。強いて言うなれば、恐れよりまさる、為すべきことがあったからに尽きる。それが彼自身の答えだ。他にあるとするなら、目の前の脅威を退けんと苦闘する者もおれば、そもそも恐怖の情が弱い者、或いは抑えられる者も存在する。されどそれを言えば、アオイはますます後ろ向きに考えることであろう。

 

「先日の事を、気に病んでおるのか」

 

 それらの考えを省いて、狼はそんなことを訊いた。

 

 先日の事とは、重傷を負い療養していた隊士が暴れた時の事である。過酷な鬼狩りの業に嫌気が差したのか、その隊士は怪我の完治が迫るにつれて浮足立ち、ついには蝶屋敷の者に当たり散らすようになったのであった。これを見かねて止めに入ったアオイであったが、その隊士は言うに事欠いて、

 

 ――鬼にビビッて逃げ出した奴のくせに。それで安全な後方でぬくぬくとしてる奴に、戦う奴の気持ちなんて分かるか。

 

 そこで狼が止めに入った。その隊士は狼に押さえ付けられると、手向かえない相手だと悟ったのか途端におとなしくなり、しかし拠無い激情が余り、ついには慨嘆したのであった。

 

「気付いて、らしたんですね」

 

 元々アオイは鬼殺隊士志望であった。ところが、最終選別を突破するや、彼女は鬼に恐れをなし鬼狩りとしての道を断念し、今こうして蝶屋敷にて看護士の業務を行っている。それなりにこの話は知れ渡っているようで、中には口さがない隊士が、聞こえよがしに嫌味を言うこともあれば、アオイをはじめとした看護士に居丈高に振る舞いもする。

 

「私の言葉はことごとく届かなかったのに、薄井さんはそれをただ一言、叱咤でも脅しでもない、陳腐とすら思える言葉、その貫禄であの方を止められた。普段、偉そうに他の子に指示を飛ばしている身ながら、忸怩たる思いです」

 

 と、語れば語る程彼女のそれは抑揚が無くなっていった。溢れ出る情動を押し殺そうとしているようで、蓋し今の彼女は張り詰めつつある袋。故に、下手な言葉はいたずらに蟠りを増やすばかり。

 

 狼は、生粋の忍びとして、戦う者。ついては戦えぬ者と気持ちを分かつことは出来ぬ。

 

「抜けぬ刀なれど、持つ者には心強い。ここには、お主が必要だ」

 

 気の利いた慰めは言えぬが、気休めくらいは。

 

 困惑した面持ちでアオイは、狼に顔を向けた。その言葉の意図を掴みあぐねている様子である。だがそれでいい。それは自ずから考え至るもの。

 

 アオイはこれからも、闘い続けるのであろう、胸の内の葛藤と。

 

 長く悩むだろう。ひょっとすると、一生悩むかもしれない。その途上、狼の言葉は如何なものとなるか。

 

 さて、おはぎが出来た。

 

「なかなかの出来栄えですね。皆さんにもおすそ分けしますか?」

 

「そうしよう」

 

「では、呼んでまいりますね」

 

 と炊事場から出ようとアオイが踵を返したところで、炊事場出入口の戸が開き、

 

「あら、良い匂いがすると思ったら、おはぎを作ってらっしゃったのですね」

 

「しのぶ様! お帰りになったのですね」

 

「ええ、只今。ところでそのおはぎ、これから皆にも振る舞うのですか」

 

「はい、それで今呼びに行こうと」

 

「なら私が呼んできましょう」

 

「あ、いえ、私が……」

 

 アオイが遠慮するより先に、しのぶはさっさと皆を呼びに行ったのであった。

 

 やがて炊事場に、しのぶを合わせて八人の者がやってきた。きよ、すみ、なほの三人とカナヲ。それと炭治郎、善逸、伊之助である。

 

「これで、皆来たのか」

 

 と、炭治郎らを一瞥して狼は、しのぶに向き直った。

 

「どうされました? ……狼さん」

 

「いや……」

 

 しのぶに問われて、答えあぐねる。

 

 これで全員集まったはずだとは分かる。しかしどうしてか、炭治郎ら三人を見ていると、不思議と顔ぶれが寂しいと思えた。

 

「ん、どうしたんですか、狼さん」

 

 不思議そうな顔で狼を見返した。

 

「いや……旨いか?」

 

 それでこうはぐらかした。

 

「はい! 美味しいです! 狼さんの作ってくれた物を食べるのって、初めてですね!」

 

「そうか」

 

「それにしても狼さん、おはぎ作るの上手なんですね。慣れているんですか」

 

「いや……。だが、知ってはいた。……教えられた」

 

 狼は料理などはしない。敢えて言うなら、味噌を染み込ませた芋がら縄や味噌玉で味噌汁を作った程度の物か。

 

 おはぎは……童の時分に義父が作ってくれて、それとかつての主、竜胤の御子こと九郎に作っていただいたことがある。作り方などは教わってはいなかった。あの味は、もう食えぬ。

 

「でも! 薄井さんのおはぎって、やっぱりとっても美味しいですよね!」

 

「はい! とても優しい味がします!」

 

「薄井さんならではの味付けです!」

 

 きよ、すみ、なほが寄ってきて、口々に狼への賛辞を述べた。

 

「……」

 

 むっつりと狼は返答に困ったように黙した。まるで愛想が無い。にも拘らず彼女らは、それもまた愛嬌とばかりに、くすぐったそうに笑った。

 

 笑われたからか更に狼は黙り込んだ。

 

「ところで、しのぶさん」

 

 善逸が、咀嚼していたおはぎを飲み込んで、口を開いた。

 

「しのぶさんは、食べないんですか? 全く手を付けていないみたいですけど」

 

 と言われしのぶはにっこりと、

 

「いいえ。わたしは遠慮しておきます」

 

 愛想は良い、笑みを浮かべながら告げた。

 

「んなら! 俺がお前の分も食っちまうからな!」

 

 おはぎを飲み込むや伊之助が言った。

 

「ええ、どうぞ」

 

 しのぶがそれに微笑で了承すると、ニッと伊之助は笑っておはぎを取ろうと手を伸ばした。が、事もあろうに伸ばしたのは両手だったもので、

 

「あ! 待ちなさい! 全部食べる気でしょう!」

 

 伊之助が残ったおはぎを根こそぎ食わんとしていると察知したアオイが抗議と共に彼の手を掴んだのを皮切りに、カナヲを除いたワッパらが一斉に止めに掛かった。

 

 一人ながらも食い意地の張った伊之助を止めるのに、隊士数人がかりとて苦心している模様。しかも、そのくんずほぐれつの渦中、何故か、止めに入っていた者たちの間にまで争いが発生し、蓋し大わらわの様相を呈したのであった。

 

「おやおや、お台所で喧嘩はいけませんよ。カナヲ、止めてあげてちょうだい」

 

「はい、師範」

 

 と、指に付いた餡子を小さく出した舌でチロチロと舐めていたカナヲは、しのぶからの要請を受けて、鎮圧に乗り出したのであった。

 

「ところで狼さん、この後、少しお時間はありますか」

 

 あれを尻目にしのぶは狼に向き直る。

 

「どうした」

 

「ほんの少しばかり、暇が出来たもので。そこで狼さん、これ、一局どうですか」

 

 しのぶは人差し指に中指を重ねた手を、刺すように叩く仕草をして、小首を傾げながら微笑を深めた。

 

「指そう」

 

 頷く。

 

 後ろの乱闘が輪を掛けて白熱していくのは、当面は放っておこう。

 

 縁側に場所を移した二人は、早速始める。

 

 その前に、決まり事を確かめる。狼が葦名で嗜んでいた将棋とは、変わっていることもあり得るからである。で、見たところ、『酔象』の駒が無いことを除けば、概ね彼の知っている小将棋と大した変わりはなかった。

 

 そうして対局が始まり、局面が大分進んだ折の事である。

 

「狼さんは、もし、鬼を追い込むためであれば、自身ないしは仲間を捨て駒に出来ますか」

 

 盤面を見つめながら狼が次の一手を考えていると、唐突にしのぶが、同様に盤面を見つめながら切り出した。

 

 狼は一瞥だけして、再び盤面に視線を戻し、

 

「当座では、答えられん」

 

 とだけ言った。そもそも今はそちらに割く思考は無い。

 

「或いは、もしも鬼に追い詰められて、そこで鬼にならないかと勧誘されたら……」

 

 と更にしのぶは重ねた。

 

 これは狼にとって、愚問に近かった。元より、(かばね)を漁って泥水啜って僅かに生きながらえるか、戦い続けてもう少しばかりマシな生活をしたのち討ち死にするかの身。今更己の生を惜しむべくもない。そもそも不死である狼が、命惜しさに鬼となるわけがない。

 

 ついてはこの問いにも困り、黙ったまま狼は駒を進めた。

 

「鬼――おそらく十二鬼月の上弦――に屈し、鬼となった隊士も、過去に何人かおります」

 

 パチリ、と、しのぶが香車を打って語った。

 

「まるで、将棋だな」

 

 間を持たそうとするように狼が、ふと浮かんだ所思をこぼすと、

 

「ふふふ……」

 

 皮肉げにしのぶが吐息だけの笑いを漏らした。

 

「将棋、ですか……。そう言えなくもありません、ですが、甚だしく理不尽かつ不公平な、将棋ですね。何せ、こちらの駒は使われる一方で、向こうの駒がこちらに寝返るなど、未だかつて無かったのですから」

 

 ――彼女を除いて、と、しのぶはすぐ横にある部屋の障子に顔を向けた。その向こうには、禰豆子が中で眠っている箱がある。

 

「私は出来ますよ。捨て駒」

 

 口角を引き延ばし歯を見せて、しのぶは笑んだ。しかしその眼は笑ってはおらず、じっと狼を見据えながら、駒を進めた。

 

 狼の番だ。

 

「王手飛車」

 

 狼の角行が、しのぶの飛車と王将を同時に捉えた。

 

 しのぶの当初の陣形は、居飛車ひねり飛車の、カニ囲い。王将の前に銀将、左右前に金将があり、たとえ飛車が横から来ようとも、金将が一歩下がれば守ることが出来る囲いだが、狼は敢えてそう誘導することで王将の右前を開けた。そうしてしのぶの飛車を誘導し、その飛車と王将をつなぐ斜めの線に自らの角行を割り込ませたのであった。

 

「あら、これは困りましたねぇ……。仕方がありません、飛車は差し上げます」

 

 一切迷う素振りも見せず、しのぶはあっさりと飛車を差し出した。

 

 将棋は得意ではない狼にしては、現状では怪しいまでに上手く行っている。

 

「随分と素直に渡すのだな……」

 

「この局面では、飛車にこだわらず差し出すのが得策と見たんです。ヘボ将棋、飛車ばかりをかわいがり、という格言もありますからね。ご存知ですか」

 

「知らぬ」

 

 その格言は明治の落語家から生まれたものであるから、狼が知らないのは当然である。

 

「飛車って便利な駒ですからねぇ。それだけに、取られるだけで戦意喪失しちゃう方も居るんです」

 

 ――でも鬼殺隊は違う。

 

 おもむろに紡がれたその言葉を節目に、しのぶの雰囲気が、何やら一変した。

 

「私たちにとっての飛車、即ち柱でさえ、必要とあらば捨て駒となる。それにとどまらず、王将でさえ捨て駒になる……、それが鬼殺隊。柱を当てにして、いざ柱が折れた時におたおたされては駄目なんです。ひところはそのような隊士が増えておりましたが、最近では真菰さんのお陰で、頼り甲斐のある隊士が増えましたね」

 

 そう結んでしのぶが駒を進めて、狼の番が回ってきた。彼は盤上を俯瞰し、そして目を見開いた。つい一手程前まで見えていた戦況とは、打って変わって見えたのだ。何手か前にしのぶが打った香車、これによって引かれた壁が、盤面を分断していた。彼女が打ったあの香車は局の中盤、狼がこけおどしで端歩を突いたことで取られた物であった。

 

「言った通りでしょう。私たちはもう、取られる覚悟をしているんです、……さんざんかき乱しておいて、忽然と逃げおおせる飛車とは違って」

 

「……」

 

 その声を聞きながら、狼は盤上を見つめる。自陣には、飛車があった。先刻、しのぶのカニ囲みに穴を空けるのに敵陣に突貫させ、出戻らせた飛車である。

 

「狼さん、この守り鈴を、憶えておいでですか」

 

 しのぶが、顔の横で掲げたのは古びた守り鈴である。

 

「これは、姉が亡くなる前に、彼女から握らされた物でした。生前本人は、貰った物と言っておりましたが。何はともあれ、これは仏様にお供えしておくのが良いでしょう。道場に、観音様の像があります。よければ、お供えしてみてください」

 

 と言って差し出した。

 

 狼は右手を伸ばし、その鈴を受け取ろうとする。その瞬間、鈴を持つしのぶの手が突然狼の手を握り、引き寄せた。その煽りを喰ってつんのめった彼の顔に、彼女はぶつけんとする勢いで顔を突き合わた。

 

「逃げずに、しかと見届けてくださいね、狼さん、いえ――」

 

 満面の笑みで。

 

「薄井さん」




 狼に「まるで将棋だな」を言わせてみたかっただけ。ぶっちゃけこれが無ければ、ここでの狼としのぶ閣下の関係性の発想はありませんでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

隻狼たちの午後

 モンハンライズやって遅れました。すみません。あとバイオ村も。感動のラストでした。

 かわい
 ドナ

 今回はストーカー誕生回です。


 日が墜ち、お天道様の灯の名残がそこかしこに残る、辺りの暗くなった刻限。夜の闇の影から隠れ潜むが如く、明かりのともった街。そこを闊歩する人々。

 

 そんな彼らに紛れながら、静かに歩く狼は、ふと足を止め、前方に佇む人影を凝視した。赤い上衣に、袴を履いていて、頭から血を被ったような出で立ち。髪の毛や肌の色素が薄く、そして虹色の眼の男。

 

「や! 久しぶり!」

 

 上弦の弐・童磨。

 

 黙したまま狼は、腰に差した――刀袋に入れてある――刀に手を掛けた。

 

「うふふ、待ちなよ。こんな往来で大立ち回りを演じる気? 心配せずとも、危害を加えようってわけじゃないさ。さもなきゃ、今こうして君が立っていられるわけがない」

 

 挑発とも取られかねないことを、童磨は宣う。これでも本人には悪気はなく、むしろ善意が入っているくらいである。

 

「何用だ」

 

 刀に手を掛けたまま、狼は唸るような低声で言った。

 

「いやだなー。友達に会いに来たとあれば、わざわざ訊くことでもないだろう。だからさ、ほら、その刀に掛けた手を下ろしなって」

 

 対する童磨は、さも友人と話す調子で、気安く切り返した。

 

「……」

 

 そう容易くは、狼も刀から手を離しはしない。そんなものだから、童磨は眉尻を下げて困った素振りをした。

 

「ううん……、取り付く島もないなぁ……。でもいいの? 気が引けるけど、俺としてはここで斬り結ぶのは別に構わない。けど君はどう。周囲の人を巻き込んででも、あの時の続きをしたいのかい」

 

 このように言われてようやく、狼はゆっくりと、相手から目を離さず慎重に刀から手を離した。

 

「それが良い。さ、行こうか。あ、その前に、ちゃんとその刀袋にそいつは仕舞っておこうか。その家紋、産屋敷家のだろ。それに入れておけば、警官に問い詰められることもないだろうさ」

 

 狼の刀を童磨は指差した。童磨を見据えながら狼は、刀をすっぽりと袋に納め、袋の口を閉ざした。

 

 うんうん、と童磨は頷いて、狼に背を向け小股に歩き出す。胡乱ながら狼も続いた。そうして二人が横並びになったところで、童磨は歩幅を伸ばし足を速めた。

 

「まあ、まずはご飯でも食べようよ。君、お腹空いてる? 俺は空いていない――というか普通の食事はただの舌遊びみたいなものだからね。ここらで良い店があるって聞いたから、そこ行こうよ、おぎょ……奢っちゃうよ」

 

 と、童磨の言う店へ行くこととなった。提案するようではあるが、狼の否応を聞くことなく勝手に決められた。そうして連れていかれた先は、これまた奇怪な――童磨曰く『ハイカラ』な――趣の建物の食事処であった。夜中にも拘らず、昼間より明るい光を窓や扉の隙間から溢れさせており、さては中はもっと眩く、狼は眉間と一緒に眼をすぼめた。

 

 童磨に引っ張られるままに、慣れぬチェアーとやらに腰かけて待っていると出されたのは、案の定見たことのない南蛮料理であった。とろみのある茶色い汁の中に硬めの肉の他、人参や芋などの野菜が入った物である。シチウ(シチュー)と呼ばれているらしい。

 

 匙(スプーン)で一口さらって口に含むと、狼が今までに味わった例しがない、表現しがたい味がした。肉や野菜を煮詰めた出汁が出ているのは分かる。肉から溶け出た脂が舌に纏わりつき、深い味の余韻を残す。その他あるとするならば、まろやかな舌触りの中に甘味がある。あと、渋いような酸っぱいような、微かな味がすると言ったところか。

 

「葡萄の酒を使っているんだってさ。果物だからね、酸味や甘味もあるさ。実の皮も使われた酒だから、渋みはそれだろう。肉の臭いを取るには良い調味料だね。んー、おいし!」

 

 とニコニコと童磨は解説しながら、シチウ(シチュー)を口に運んだ。口では「美味しい」と宣っているが、あまり美味しそうには見えない。水でも飲んでいるかのように、味気ない感動であった。

 

 その後狼は、終始話しかけてくる童磨に時折相槌を打ちつつ、それらを平らげた。鬼、それも十二鬼月の上弦に振る舞われたことに目を瞑れば、肉や野菜を滋養に良さそうな料理は力が付きそうなので、彼としては好ましかった。毒の心配は、そこまでしていなかった。そんな小賢しい真似をするとは思えないからである。

 

 空になった食器を前に、狼は瞑目して合掌した。

 

「ところで、何を企んでおる」

 

「どういたしまして。……やっぱり分かっちゃう? そうそう、今日は他でもない、相談があってね。それも人にしか分からないってことで、こうして友人である君を訪ねた次第なのさ」

 

「……」

 

 と言われた狼は、返答はおろか、表情一つ変えなかった。相変わらずしかめ面のままだ。見ように依っては、冷ややかな顔をしているように見えることであろう。

 

「実は俺さ、好きな人が居てさ。もう四年にもなるかなぁ……」

 

 されど童磨は、目の前のこの愛想の無い男に委細構わず、訊かれてもいないのに勝手に語り出した。

 

「そう、あの時! 僕が救い損ねた娘の下へ駆けつけた、あの蝶みたいな娘! あの娘を見た瞬間、どうにも胸がときめいて仕方がなかったんだ。か弱い身でありながら、負けん気が強くて、自身が弱いことも意に介さずただ只管に、ひたむきに邁進しようとするあの気の強さ。どれを取っても可愛くて仕方がない!」

 

 ――蝶みたいな娘。

 

 その一言を聞くや、狼は眉間に寄せていた皺を尚微かに深め、その一方で童磨は笑みを深めた。

 

 話が滞ったところで、店を出た。その際に、二人の間に言葉は無い。

 

 そののちも、二人は横に並んで歩いていた。会話は無い。が、不思議と緊張が漂っている風には、少なくとも周囲からは見えていない。狼はともかく、童磨はさも楽しそうにニコニコと笑っていた。人相の悪い男と、優男の凸凹の二人組が並んで歩いている様子である。

 

 ただ只管、異議も無く歩く。まるで時間を稼ぐかのよう――否、むしろ事実か。現に狼は、童磨の横で気を張っているところだ。片や童磨は、悠々と構えている。

 

 そんな、薄氷を踏むような道中を破ったのは、まず群衆のざわめきであった。

 

「何か騒ぎでもあったのかな」

 

 次いで童磨が、不思議そうな面持ちで口を切り、その騒ぎのあると思しき場所へ足を向ける。その際、一緒に行こうという風に狼に目配せをした。狼は、これに乗ることにして、後に続いた。

 

 二人が行き着いた先は、とある建物。入口周辺を、群衆が取り囲んでいた。人込みをかき分けて二人が覗くと、どうやら中で男が人質を取って立てこもっているらしい。童磨は鬼の鋭敏な眼で、狼は忍びの眼でよく凝らして見ると、その犯人の男は酔っぱらっているらしい。建物の明かりの中でも判るくらい、顔が赤い。

 

 童磨は手近な人に、

 

「何かあったの?」

 

 と尋ねた。

 

「さあ……。よく分からんが、女に振られてやけになっているみたく見えるが。あいつが居ないこの世になんかとか、どうとか……」

 

「警官は来てる?」

 

「今しがた起こったことだから、しばらく掛かりそうだ。いやはや、女に振られてやけ酒の上、こんな事しでかすとは、哀れというか、滑稽と言うか……」

 

「あらー、それは大変。出来るなら、説得で早いとこどうにかしたいところだねー」

 

 と言って童磨は、群衆を抜け、前に出ていった。

 

「え、あ、おい!」

 

 質問されていた人は引き止めようと手を伸ばすも、意に介すことなく童磨は、立てこもりの男の要る建物へ入っていった。

 

「犯人に告ぐ、外は群衆に取り巻かれ、警察が来るまでの逃げられる道は無い。速やかに人質を放し、得物を捨てて出てきなさい」

 

 男は、近寄ってくる童磨にひどく動揺していた。他の群衆が狼狽えている中、童磨一人だけはまごつく様子も無しに、堂々とこちらへ近づいてくるものだから、騒ぎを起こして注目を貰って幾ばくか気をよくしていた犯人としては、青天の霹靂というものであったからだろう。

 

「それ以上、ち、近づくんじゃねえ! 近づいたらこのオッサン斬り裂くぞぉ!……」

 

 それが気に食わないのか、はたまた自分にとっての異常な事象に恐慌を起こしたのか、男は人質の首に巻いた腕を更に力ませ、反対の手で持っていた凶器の先端を人質の首に微かに突かせた。

 

 男が持っていたのは、割れた陶器らしい。花瓶か、皿かは判らぬが、鋭利なそれは人の肌を斬り裂くのには十分である。

 

「やめなさいって。女なんて広い世間にいっぱい居るじゃないの」

 

 こともあろうに童磨が放ったのは、実にやる気の感じられない、調子はずれな説得の言葉であった。

 

「お前に何が分かるんだよ! 俺にはなぁ……、俺にはあいつしか!……」

 

 誰もが予想出来ていたであろう、童磨のその言葉は火に油を注いでいる。

 

「みんな、そー思ーの。振られた時は特に。あいつしかいないって、俺にはあいつだけだったって。あいつと一緒になれない世の中なんか、ぶち壊して死んでやるって。そーゆー自分を見れば、きっとあいつも、俺という男を振ったことを悔やむだろーって。でも、それは間違いなわけ。そーゆーことは、全然無いわけ。馬鹿な男の、馬鹿な死が! 三面記事を飾り立て! 世間の物笑いの種になる頃! 女は別の男と引っ付いて、子供ーコロコロー生んじゃって。おんぶして買い物なんかに行ったりして、学校なんかに行かせたりして。それで世の中、治まったりするわけ。バカバカしーと、おもーだろー?」

 

 この鬼は一体何をしたいのか。

 

「まあ……、そうなのかもしれないけど……」

 

 何と、男は少しだけ揺れている。そこに留まらず、外で聴いていた群衆の中にも、心当たりがあるっぽい男や女が、ある者は表情が固まり、またある者は苦笑いを漏らすほどであった。まあ、だからどうなんだという話だが。

 

「だったら、もーやめよーよ」

 

「いや何なんだよ! 説得でもしてるつもりかよ! てか説得にもなってねえよ! おちょくりに来ただけなら帰れよ!」

 

「だからさー」

 

「だからさ、じゃねえよ。帰れ! それともお前が新しい女でも紹介してくれんのか?」

 

「俺のそういうのやってないから無理!」

 

 得意げに童磨は胸を張って高らかに告げた。

 

「ざけんな! さっきっから人のこと小馬鹿にしやがってよぉ! 本当帰れッ! 帰らねえと――」

 

 と、男が言おうとした刹那、横合いから伸びてきた絡繰り義手が、突如彼の握っていた陶器を握り砕いた。

 

その義手の主は、人質から男を引き剥がすと、男の首に腕を回し抱え込むようにして投げ飛ばし、そうして地面に仰向けに伏した男のその顔面に拳を叩き込んだ。男は叫び声を上げる間もなく意識を刈り取られた。

 

 『月隠の飴』

 

 葦名・金剛山の仙峯寺の乱波衆という忍び集団が、潜入などに使っていた飴。これを噛み締め『月隠』の構えを取ることで、一時、音と気配を殺し、見つかりにくくしつつ活動出来る。

 

 男に気取られずに肉薄出来たのは、これの賜物であった。

 

 瞬く間に男を制圧した者――狼は、やおら立ち上がる。すると、小さな拍手が聞こえてきて、そこを見た。

 

「いやあ、お見事! 君ならやってくれるって思ってたよ!」

 

 拍手をしていたのは童磨であった。

 

「やっぱり俺たち、相性が良いのかもね!」

 

 と言われて狼は眉間をピクリと動かした。それを気付いていないのか、或いは気付いた上でか、それを気にすることなく童磨は拍手を続けながら狼に近寄る。狼は身体ごと童磨に向き直り、無言で見据えた。

 

 微笑む童磨と、鋭い形相の狼。

 

 手を伸ばさずとも届く間合い。腕を振るには近過ぎるし、刀を抜くにも近過ぎる。

 

 数舜程して、狼が童磨から視線を外しながら彼の横をすれ違ってその場を後にして、その狼に、これまた人を喰ったような笑みで童磨は続いた。

 

 二人は速足気味に歩いて、あの場所を離れていった。しばらく歩いてから、やがて歩む足を緩めると、果たして、遠く後ろには慌ただしそうな喧噪が、二人に追ってくるように聞こえてきた。

 

 そこに来て童磨が、唐突に笑い出した。

 

「ははは! 楽しいねぇ……。子供がお友達と一緒に悪戯をして、一緒に逃げるみたいだ。やったことないけど」

 

 狼はそれにはほとんど反応せず、黙々と歩き続けている。止めようが止めまいが、話が変わるだけで童磨は喋り続けるだろうからである。童磨とまともに話そうなんてするほうが、土台不毛なのだ。

 

「俺たち、前世ではどんな間柄だったんだろうね。或いは因縁かな? いずれにせよ悪くない」

 

「……」

 

「ところで――」

 

 卒然と、童磨が喋り方の調子を変えて切り出す。

 

「件のあの話、考えてくれた?」

 

「胡蝶殿の件か」

 

 殊更にはぐらかす真似はせず狼は答えた。

 

「そう、そう。まあでも、君らの事情を慮れば、無理な話だとは分かるよ……。何せ君らは脆く、弱い……。下手に情報を教えて自らを追い詰めるようなことなんて出来るわけがない。うん、うん、分かっていたことさ……」

 

 内容に目を瞑れば、相手方の事情を憂慮しているように見える。

 

「ま、当座で彼女のことを教えてもらおうとは思わないよ。これだったら教えても問題はなさそうだ、と思えるものでもあったら、教えてほしい。無いなら無いで、別にいいよ。たまにこうして、目的も無しに遊び歩こうよ、友人らしく。何だったら、俺の見聞きしたおもしろいことを教えるよ」

 

 ――ね、どう?

 

 と提案する童磨を、しばし狼は見つめ返した。

 

 この得体の知れない男の、得体の知れない提案には、一体如何様な返事が妥当であったか。

 

 童磨と別れて長く経った帰路の上でさえ、狼には判らなかった。

 

 多分、童磨との決着を以てしても、判らぬままであろう。

 

 それが、狼の見た上弦の弐というものであった。

 

「あら、狼さん、こんばんは」

 

 出し抜けに後ろから声を掛けられて、はたと我に返った狼は、足を止めて振り向いた。声を掛けてきたのは、胡蝶しのぶであった。どうやら彼女もまた、長い用を終えて、こんな遅い刻限に蝶屋敷へ戻る途上であるようだ。

 

「狼さんも、今、お戻りですか?」

 

 今、という言葉をいささか際立たせて、しのぶは尋ねた。

 

「ああ……」

 

「そうですか。どなたかと、お出かけに?」

 

「……友と、共に」

 

 須臾の逡巡を置いて、狼は答えた。

 

「そうですか」

 

 とんとん拍子に相槌を打ってしのぶは、そこからは何も話を切り出さなかった。ただいつものように柔らかな笑顔のまま、狼と並んでゆったりと歩くばかり。

 

 どれ程経っただろうか。

 

「何か……」

 

「む……」

 

「何か、ありました?」

 

「飯を食った。それから、酒で正体をなくした男が暴れておった」

 

「うふふふふ!……。愉快な方も、居るものですねぇ……」

 

 口元に手を当てて、彼女はくすぐったそうに笑った。

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「腹は、減っているか」

 

「そうですねぇ……、一寸だけ」

 

 やや声を小さくして、ためらいがちに彼女は答えた。

 

「そうか」

 

 と言って狼は、手に持っていた包みを持ち上げて、

 

「土産がある。これを食うと良い」

 

「あら、いいんですか?」

 

「ああ。食える内に、食っておけ」

 

「では、お言葉に甘えて、屋敷で頂きましょう。ありがとうございます」

 

「よい」

 

「お返し――というほどでもないのですが、ご一緒にお茶なんて如何です。良い茶葉がありますよ。寝る前の一杯でも……」

 

「……頂こう」




 『狼たちの午後』って誤訳だけど名タイトルだと思いませんか? 僕は思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

無限列車の姦計:前編

 大変お待たせいたしました!

 ようやっと劇場版観られました。一応献血ルームで原作は読んだのですが、やっぱりアニメ映像のほうが捗ります。すみません。


【0】

「良い食いっぷりじゃのう、若いの」

 

 そう声を掛けられ、煉獄杏寿郎は、手にしていた弁当の飯を頬張りながら顔を上げた。見ると、男が一人と、その背後に女が一人佇んで、杏寿郎を見ていた。

 

 白い背広に黒いシャツ、白い中折れ帽を被った男のほうの年は三十か四十の壮年。道行コートに身を包んだ女のほうは、まだ二十代と言ったところであろう。

 

「む! これは失礼! 煩かっただろうか!」

 

 咀嚼していた物をぐっと飲みこんでから、杏寿郎は詫びた。

 

「いやいや、構わん。言葉の通り、良い食いっぷりじゃ。食える内に食っておき、そして戦に備える。それは天下泰平の世だろうと、侍のおらん世になろうと、変わりはせん」

 

 語る男を前に、俄かに杏寿郎は緊張が滲み湧き出るのを感じた。さながらそれは、まだ現役の炎柱だった頃の彼の父親を前にした時、或いはそれ以上のものであった。

 

 列車の天井もしくはそれより大きな体躯に、人中で分かれた口髭、胸元まで伸びた長い顎髭に、左目元から頬に掛けて走る一筋の傷跡。多少のことに動ずる姿が想像出来ぬ威風堂々とした佇まいには、多大な迫力と貫禄を感じさせる。いや、その一言では済まないかもしれぬ。この、鬼殺隊以外で刀を振るう者がほぼおらなんだ世の中で、柱である杏寿郎が肌をざわつかせる者が、只者でないはずがなかった。

 

「……あなたは、何をされている方なのだろうか! 見受けたところ、只者ではないようだ!」

 

 無礼を承知で、単刀直入に尋ねる。しかし、尋ねられた壮年の男のほうは、一瞬面食らったかと思うと、途端にカラカラと笑った。

 

「カカカ! 面白い奴じゃのう。なあに、ただの口うるさいだけのジジイじゃ。だがどういうわけか、儂が口出した奴らは皆、儂を投資家と呼ぶ」

 

「投資家?」

 

「世を見てみると、皆実におもしろいことをやろうとしておるもんだ。そういった者どもから話を聞いていると、ついわしも口が乗ってしまってなぁ。あれこれ話していると、つい熱くなったもんで、そうしてあれやこれやと口を出し、叱咤していたら、いつの間にか懐に銭を入れられとった。それから次に出会った者にも、同じように口出しし、叱咤し、今度はそれらに加えて餞別に金をくれてやったら、代わりに株式を渡されて、その株式の価格が高騰して、また次の奴に会う……。そんなことをしている内に、わしの懐には、使い切れん程の金が入っていてのう。使い切ろうとしても、使い道が思い浮かばなんだ。ついてはこうして、面白い商売を考えとる者に金と助言を出すことを繰り返して居る次第という訳じゃ」

 

「ほう! そのようなことが! いたく感激した! 貴方のような方が居れば、この国も安泰だ!」

 

「カカカ! 儂ではない、儂が見てきた者どもに言え」

 

「では、貴方はこれから、その素晴らしい方の一人とお会いするのだろうか!」

 

「今は、探しているところじゃ。そうじゃのう……。お主、ウイスキイを知っておるか。舶来の酒じゃ」

 

 男は顎髭を撫でて思案してから、唐突に切り出した。

 

「焼けるような強さもさることながら、口から鼻まで満ちる豊かな匂いが堪らんでのう、それをこの国で作れるようにする者がおらんか探しておる。近頃、亜米利加(アメリカ)やらの列強どもが、やけに日本(ひのもと)に突っかかってきよる。いつか、その酒を飲む機会が無くなる日が来るやもしれん。故にこそ、この国で作れるようにしておかねばならん」

 

「左様で! それでは、貴方は今はそのような方をお探しか! 飲み過ぎは宜しくないが、しかれども酒は百薬の長とも言う! 人々の生活も豊かになろう!」

 

 ところで! と卒然に杏寿郎は挟んで、

 

「貴方の名前を、お聞かせ願えるか! 袖擦り合うも他生の縁! 私は、煉獄杏寿郎と申す!」

 

 と杏寿郎が名乗ると、男は僅かに目を見開き、それから、ほう、と漏らし歯を見せて口角を上げた。

 

「煉獄……、そうか、お主は煉獄と言うのだな……。なるほどのう、これは、これは……、立派な名じゃ! よいじゃろう! お主には、是非とも儂の名を覚えてもらおう。よく聴け――」

 

 という口上ののち、少しの間を置いて、男は高らかに名乗る。

 

「儂の名は一心! 葦名一心じゃ!」

 

【1】

「何だこりゃあ! この地の主か!」

 

 その圧倒的な存在を前に、伊之助は大口開けて驚愕していた。

 

 何事にもなびくそぶりも見せぬ堅牢な図体に、鈍く輝くその黒い体表が、巨大な車輪の上に乗っかっている。大砲なんかよりも巨大な円柱を倒した形のその頭頂部から筒らしき物が飛び出ており、中からもくもくと灰色の煙が立ち上っている。更に見れば、その後部にも小さめの吹き出し口があり、その先からは激しく湯気が吹き出した。

 

「いやただの汽車だろ、知らねーのかよ。何だお前、都で育ってそうな綺麗な顔してるくせに、やっぱ野生児か」

 

 呆れた顔で善逸が突っ込んだ。が、伊之助は興奮のあまり聞いておらず、シッと人差し指を口元に持ってきて善逸を制した。

 

「静かにしろ!……。い、今は……眠ってんのか?……。だが油断すんな……。まずは俺が一番に攻め込む。お前らは後に続け!」

 

 で、そんな伊之助をたしなめるのは、炭治郎であった。

 

「待つんだ伊之助! もし守り神だったらどうするんだ! どっちにしろ、いきなり襲い掛かるなんて畏れ多いんじゃないのか」

 

「いやいやいやいやそこじゃねえだろ! お前どこ出身だよ、今時汽車なんて街に出れば見かけるだろ。もういいからお前ら黙ってろよ! そして大人しくしてろよ! さっきっから目立ってんだよ! ねえ狼さぁん、こいつらどうにかしてくださいよぉ……」

 

 と狼に泣き付く善逸であったが、しかし振り向けば、当の狼の様子が何やらおかしかった。片手の平を額に当て、忌まわしい記憶でも思い出す様子で、微かなうめき声をあげていた。

 

 そんなわけない、とかぶりを振りつつも、善逸は嫌な予感が止まらなかった。

 

 これまで見てきた限り、狼は鬼殺隊関係者の中でも一番の常識人だ。まるで戦国時代から現代にやって来たみたいな古風な感性の男であるが、されど自身の感覚の違いを弁えた男でもあった。その狼が、まさかここでボケるとか、もしくは炭治郎と伊之助と同様に頓珍漢なことを言ったりするはずがないのだ。

 

「これは……まさしく、この地の主だ……」

 

「え……」

 

「俺がかつて居た、葦名という地にも、同じものが……」

 

 狼は三百年前のあの時の光景を想起していた。葦名の城へ侵入するために、橋下の谷に降りた時の事である。

 

 どこからか、低い地鳴りと蛇の唸り声のような音と共に、ポッポーという耳をつんざくような甲高い噴射音を立てて、巨大な影が谷のあちらこちらを這った。そこで狼は岩陰に身を潜めながら辺りを窺うと、果たしてそれは姿を現した。その威風堂々たる姿は、色合いこそ違えど、まさに狼が現在前にしているこれ――たしか機関車という物――と同じであった。

 

 異様に明るい青色の地に赤い筋の入った体表、それが主な違いである。しかし最も大きな、そして面妖な違いは、先端正面にある灰色の人の顔であった。本当に人の顔らしく生々しい質感でありながら、仮面さながらに瞳以外は全く表情が動かず、常に目を見開いた微笑を浮かべていた。

 

 さしもの狼も、あの意味不明な存在に唖然とし、それで気が散って上手く忍べず、存在を察知されたことで急襲を受け、谷の地面に転がされたのであった。

 

 薄れゆく意識の中、狼の頭にはある一文字が浮かんだ。

 

 

 

WAROTA

 

 

「駄目だった! 一番まともそうな奴が、一番駄目な奴だった! つーか葦名って一体何なんだ、どういう土地なんだ! 魔境もいいところだろ!」

 

 最早この魔窟に関わることも嫌になったのか、善逸は彼らに背を向けて頭を抱えて叫んだ

 

 そうしていると、やおら伊之助が助走をつけて、列車に突進をしだしたのである。言うに及ばずこれは周囲の注目を集め、やがて警官が現れ、彼らは追われることとなった。

 

 幸い、狼が幻術を駆使することで追手の目を欺くことが出来たので、動く必要もあまりなく、そのお陰か騒ぎはすぐに沈静した。

 

 そうして人の目をかいくぐり、発進しゆく列車に炭治郎一行は乗り込む。先頭を走っていた炭治郎と伊之助は、軽々と列車の後ろに飛び乗り、次いで最後尾を走っていた狼が、義手から飛ばした鉤縄で列車を掴んで飛び乗った。最後に、置いていかれそうになって線路を走って列車に追いすがる善逸を、狼が鉤縄で引き寄せて乗り込ませ、無事全員乗ることが出来た。

 

「まったく、酷い目にあった……」

 

 この数分の間に、善逸の顔は目に見えて疲れが見えていた。恐れや悲しみや喜びなど、いつも何かしらの情動があらわれていたその顔には、今やほとんど表情も動かない。

 

「大丈夫か、善逸。お前も大変だな……」

 

 肩を叩く炭治郎。

 

「炭治郎、何であんな肝心な時にボケるんだよ。いやまあ別に悪いって言いたいわけじゃないよ? たださぁ……、俺一人にあんな数のボケを捌かせるって酷だと思うんだよね」

 

 ていうか、と善逸は溜息と共に言って、

 

「一番吃驚したのは狼さんだよ狼さん。いつも真面目で、ちょっとズレたところもあるけど、弁えてるじゃん? それがさぁ、ここに来てボケだすんだよ。しかも何だよ、予想の斜め上を行ってたけんだけど。ねえ炭治郎、あの人一体全体どこから来たの。葦名って何なの? 機関車を土地の主と断じた上に、実際に見たって、前代未聞なんだけど。何、俺が間違ってたの? 俺の送ってきた人生がおかしかったの?」

 

「狼さんは……判らないや。初め俺たちの家に流れ着いた時、葦名とか言って以来、それっきり何も言わなくてさ」

 

「そんなのを家に居着かせたの?……。人が()過ぎじゃない、竈門家」

 

「匂いを見たところ、少なくとも俺たちを害そうとする輩じゃなさそうだったし、いいかなって。何だか……寂しそうというか、哀しそうというか。何もかも焼け落ちて灰や燃えかすに囲まれた中を、薄着で、裸足で歩いているみたいな……、とにかく放っておけないんだ。母さんも、目を離すとまたどこか寒い所に行ってしまいそうで放っとけないって」

 

 という炭治郎の語りに、善逸は何か思う所があるようで、少し押し黙ってから、おずおずと、

 

「……俺も、似たようなものを感じる。音が聞こえるんだ。甲高くて乾いた風の音が吹く中で、鈴を鳴らしながら、当て所なく歩き続けている音……僧侶みたい、なのかな。街でたまに見かける、軍人が出す音と少し似ているよな」

 

「そうなのか?」

 

 炭治郎も、軍人と思しき人を見かけたことはあるが、匂いを嗅いだことはないので、よく分からない。

 

「もしかしてだけどさ、狼さんって、十年前の戦争に行ってた軍人なんじゃないか。その前の、志那で起きた動乱鎮圧(義和団の乱)にも参加していたかも。葦名っていうのは、大陸のどこかの地名か何かなのかな。聞いたことがあるんだけど、軍人の中には、戦争が終わって帰ってきても、まだ戦場に居る気が抜けない人も居るんだ。炭治郎んとこに転がり込んだ時に葦名って言っていたのも……」

 

 そう言えば、と炭治郎は指を顎に当てて、

 

「まだ家に居た頃もそうだけど、街を歩いていると狼さん、元軍人かとか訊かれることもあったな。でも狼さんは、よく分かっていなかったようだった。ひょっとして狼さん、記憶も混濁していたりとか?……」

 

「あり得るな……。自分の出自さえ分かっていないことも。立ち振る舞いとか、教養とかを見るに、士族の家系だったりして……。で、狼って名前は、所属していた部隊か、そこでの名前だったとか」

 

 なかなかに的を射ているのではないかと二人は思っているが、しかし、狼が士族出身の軍人かと断定するとなると、どうしても首をかしげてしまう。どこがとは言いかねるが、どうしても言い切れない。

 

 二人は再び、どこに違和感があるのかを考察しようと物思いに耽ようとするが、

 

「おい」

 

 不意に後ろから、囁く声で狼からの呼びかけがされて、ビクリと二人は振り向いた。そこに立っていた狼は、いつも通りのしかめっ面で、不愉快なのかそうでないのか相変わらず判らない。

 

「お主らが任務を共にする、煉獄殿を見つけたぞ。飯を食いながら、やかましく騒ぎ立てておる者だ」

 

「え、あ……、はい。そうだな。早く合流しよう。行こう、炭治郎」

 

「あ、ああ。そうだ、早く行こう。柱を待たせちゃ駄目だ」

 

 と、二人はそそくさと歩みを進める。

 

 狼の先導の下で歩く二人は、いささか気まずい気がした。先程まで勝手に狼の出自を詮索していたためなのは言うまでもない。当の狼は、聞いてはおらなんだか、はたまた聞いた上で言及しないのかは判らぬ。

 

 そのまま三人は、途中列車内ではしゃいでいた伊之助を拾い、それから炎柱・煉獄杏寿郎と合流した。

 

 そして炎柱・煉獄杏寿郎は……弁当を食いながら、うまい! だの、わっしょい! だのと、一口食べるごとに声を張り上げて言っていた。そばには堆く積まれた弁当箱の山。完食した物多数、まだ手を付けていない物多数。

 

 給仕の少女らも、それらの空箱を始末するのに一苦労。それを見かねた狼が、袋の中に入れる手伝いをする。

 

「ヒノカミ神楽……、うむ! 知らん!」

 

 ヒノカミ神楽とは、炭治郎が那田蜘蛛山にて下弦の伍と交戦した際に、幼き日の彼の父が踊っていた神楽舞いで使われていた呼吸を土壇場で呼吸術として応用し、相手を追い詰めた技である。鬼殺隊の呼吸術と似通っていたので、鬼殺隊の、柱であれば何か知っているのではと訊いたところ、先の返答であった。

 

「だが! その技が戦いに活かせたのは僥倖だったな! どうだ、溝口少年! 俺の下で鍛えてみないか!」

 

「いえ、竈門です、溝口じゃなくて……。いきなり鍛えると言われても……。あ、ところで、俺たち鎹烏からの伝令で煉獄さんと落ち合うよう聞いたんですけど、そこから先はどうすれば」

 

「む、そうだったな!」

 

 と、杏寿郎は語り始めた。

 

 近頃、この列車で行方不明が相次ぎ、鬼の仕業と見て調査に来た隊士までもが消息不明となる事態が発生し、柱でなくては手に追えぬとして杏寿郎が駆り出されたとなったとのこと。

 

「嘘だろぉ。とんでもねえ鬼が潜んでんじゃん、この列車!……。終わりだぁ……、今度こそ死ぬんだぁ……」

 

 杏寿郎の話を聞き、悲嘆にくれる善逸。

 

 その矢先、列車の扉が開き、制服を着た男が入ってきて、

 

「切符を、拝見いたします……」

 

 そう言って男は、乗客から差し出された紙――切符とやらに、金属製の物で切りこみを入れだした。

 

「あれは何だ」

 

 狼が訊く。

 

「あれは車掌が、我々の買った切符を確認している! 皆も切符を出しておけ!」

 

 取り出した切符を車掌に渡しながら杏寿郎は言ってきた。それに従い炭治郎らも切符を取り出す。善逸も、泣きべそ書きながらも自然な動作で切符を渡す。

 

「おい……」

 

 不意に狼が、唸るような低声で車掌に呼び掛けた。

 

「ひっ!……。は、はい、何でしょう……」

 

 その声に怯えたのか車掌は、まるで隠し事でもしているかのようにビクリと肩を跳ねさせた。

 

「お主、顔色が優れぬようだが、如何したか」

 

 呼び声とは裏腹に、狼は穏やかに尋ねた。

 

「い、いえ……、大事ありません……。少々、休みが欲しいと言ったところでしょう」

 

 狼からの言葉に安心したのか、安堵した様子で車掌は答えた。

 

「……そうか」

 

 そう言って狼は立ち上がった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

無限列車の姦計:中編

 すみません、某キムタクゲー二作に嵌ってたらすっかり執筆忘れてました。

 執筆中はいつもなのですが、このシーンからどうやって次のシーンに繋げようかとか、ここの文章はもっと芸術点高められないかとか考えているとダレてきますよね。で、いつも結局、書き切るために適当に文章仕上げるという……。

 それに、あんた達は今読めてる。ノーカウントだ、ノーカウント。

 な、分かるだろ? 同じ創作家じゃないか。


 走行する列車の中。ほとんどの乗客が眠りこけていた。それだけ聞くと普通の光景に思えることであろうが、彼らはいずれも、血鬼術の効果によって眠らされた次第であった。

 

 数人、彼らと違って起きている者らが居た。鬼ではない。正真正銘の人間ではあった。一つ違うのは、彼らは無辜の人たちではなく、この列車内の状況を作り出した鬼の手先である。

 

 目下為さんとしていることは、炭治郎らの始末。

 

 その手には、縄と、錐の形をした白い物が握られている。

 

 炭治郎らの所まで来て、おのおの彼らは、その縄で自身の手首と、炭治郎らにそれぞれ結び付けた。それから、もう片方に持った錐を見つめ、握り締めた。

 

「この錐で、精神の核を壊す……、皆分かってる?」

 

 三つ編みの少女が、据わった眼で、ねめつけるように他の者を見やりながら言った。彼女が、一番手際よく縄を結び付けていた。手慣れている。おそらくもう何人も手に掛けているのだろう。

 

 他の者たちは、縄を結びながら頷いた。

 

 ところが、

 

「あの……、俺がやる奴、誰なんだ?……。一人、足りないような……」

 

 一人だけ、未だ縄を標的に結び付けることなく、戸惑った様子でキョロキョロと首を動かして言った。それを聞いて三つ編みの少女がうんざりした様子で、深いため息を吐いた。

 

 見て分からないのか、と、彼女は目線を動かすと、不可解なことに気付いた。それは、彼女以外の者も、同様に気付いた。

 

 あらかじめ確認していた標的の内の一人の姿が、無いのである。ここで眠りこけている者たちの中で、それに合致する者が居なかった。

 

 確信したその時。

 

 突如天井を突き破り降りてきた銀色の刃。

 

 彼女の頭を貫かんと迫る。

 

 すんでのところで届きはしなかった。

 

 彼女らは一斉に悲鳴を上げて地面に伏せた。お構いなしに刃は続け様に伸びてくる。硬い物を貫く鈍い音が幾度も幾度も襲い来る。金属がこすれ合う甲高い音が断続的に聞こえてくる。

 

 それは刀であるらしかった。打ち刀程度の刃渡りでは、彼女が立っていたところで届きはしない。さりとて、この、まるで猛獣が自らの縄張りを荒らす不届き者が潜む場所を、己の爪と牙で執拗に引っ掻くかのような猛攻のもとでは、恐ろしくて立つことはおろか頭を上げることもままならなかった。

 

 刀を突き立てられ続け穴ぼこだらけになった列車の天井から次は、絡繰りじみた外観の腕が、穴を押し広げて伸びてきた。

 

 その腕の、尺骨を模した部分には、先端から火が漏れ出す筒が取り付けられていた。

 

 嫌な予感がした次の瞬間、そこから勢いよく火が降り注がれた。これは刃よりも間合いが長くやすやすと届きそうであったが、幸いそれは誰も居ない床をひと舐めしたのみとなった。少しばかり座席に火がついたが、そばに居た者がすぐさま消した。

 

 そうして動けなくなっている間に、すぐ近くの窓が開いた。冷たい疾風が流れ込んできて、顔に叩き付けられたもので、堪らず袖で顔を庇った。

 

 その隙にそこから飛び込んできたのは、柿色の着物を羽織った忍び――狼であった。

 

 制圧は瞬く間であった。今の奇襲で泡を喰い戦意を失った彼らに、狼は拳一つもやることもなく、左腕の忍義手から伸ばした縄で流れるように彼らの身柄を絡め取り、拘束した。

 

 彼らが無力化されたのを確認するや、狼は周囲を警戒した。伏兵が居るやもしれぬ、或いはこの場が鬼の視界の内、それどころか列車全体が鬼の手の内すら考えられる。

 

 しかし現時点で鬼から襲撃を加えられる気配は無かったので、ひとまず索敵を解いて、炭治郎らを起こすことにした。

 

「この縄……」

 

 炭治郎らと、今しがた拘束した彼らの手首に繋がれた縄を見て、

 

「手首のこの縄は何だ」

 

 三つ編みの少女に問う。

 

「……この人たちの夢の世界に入り込むための縄。あの人に渡された……」

 

 大人しく彼女は答えた。

 

 彼女の言葉を真に受けるなら、この縄を下手に扱うわけにはいかなそうである。切ろうものなら、二度と炭治郎らが目覚めないこともありうる。

 

 如何したものか、と思案していると、

 

「むー?」

 

 いつの間にか炭治郎の箱から起き出てきた禰豆子が、狼の袖の下まで来て、彼の衣服を掴みながら背伸びをして顔を覗き込んできていた。

 

「禰豆子」

 

 鬼として人を喰らうことがなきように噛まされた竹の轡のせいか、随分と呑気な、猫の鳴き声みたいな声。

 

「炭治郎が言っておった、お主の炎で、この縄を焼けるか」

 

「むー? む!」

 

 禰豆子は一度小首を傾げてから、とりあえずという具合に張り切った調子で頷くと、自身の手から自らの血を縄に垂らした。すると、縄の血の落とされた所から、紅い火が広がり、燃やした。

 

 この炎の血『爆血』は禰豆子の血鬼術であり、鬼の血肉のみを燃やし、それ以外の物は燃えないという性質がある。つまり、この炎に巻かれて焼き切れたこの縄は――。

 

(やはり、鬼の力を受けておったか)

 

 ふと視線を落とすと、禰豆子が何かを期待するように、再び狼を見上げていた。俄かに狼は、いつも炭治郎がしてやっていることを想起した。

 

 それに従って狼は、禰豆子の頭に、そっと手を乗せてやった。それだけで禰豆子は、心地よさげに目を瞑って、自身の頭を狼の手に擦り付けるみたいに首を動かした。

 

 縄は燃やした。後は炭治郎らを起こすところである。が、どうやらこれだけでは起きないらしい。

 

 三つ編みの少女らに訊いたところで分からぬであろう。知っているのは、眠らせた者の始末と、それに必要な知識くらいのもの。詳らかな原理は知らされてはない。

 

(効くかどうか、分からぬが、試してみるべきか)

 

 狼は懐から、幻術に使う鈴を取り出し、まず炭治郎の耳元で、特殊な鳴らし方、聞かせ方で鳴らした。

 

 果たしてこれが奏功し、炭治郎が目を覚ましたので、同様に煉獄杏寿郎、伊之助を起こした。

 

 善逸は――鬼殺隊から貰った情報に基づき、敢えて起こさなかった。

 

 善逸とは別に、他の乗客も起こさないでおく。この状況の中で起こすのは愚策。

 

「いやはや! 柱とあろう者が、これしきの術中に嵌るとは! 穴があったら入りたい!」

 

 覚醒した杏寿郎に事情を説明するや、起き抜けとは思えない溌溂とした声を張り上げた。

 

「この術を避けるのは至難の業だ。お主らの、柱たちの中に居たあの忍び……あの者であれば、容易く防げたであろう」

 

 と狼が被せた。

 

「ふむ、なるほど! この任務は宇随向きであったか! しかしながら、同じく腕の立つ忍びが居合わせたのは幸いだ! 恩に着る!」

 

 杏寿郎は狼の肩に叩くように手を乗せた。

 

「時に、この者たちだが……」

 

 狼に言われて杏寿郎が、縄で縛り上げられた三つ編みの少女らに目を向けた。その視線を受けて彼女らは、これから自分たちが何をされるのか、ヒッと戦慄の声を上げた。

 

「お主ら、何故鬼に与する」

 

 しめやかに狼が尋ねた。

 

「……」

 

 彼女は口を噤んだまま答えなかった。強情なのではなく、答えたら何をされるものかと、恐ろしくて言えないのである。

 

「褒美か」

 

「……そう。協力すれば、嫌なことなんか忘れて、心地よい夢を見せて――」

 

 彼女が答えようとした矢先、いきなり狼が刀を振った。

 

「痛ァッ!?」

 

 その一太刀が当たったことで彼女の言葉が中断された。

 

「な、な、何すんのぉ!?」

 

「……すまぬ、人差し指が滑った」

 

 抗議をしてくる彼女に、申し訳なさそうな低い声で狼は謝罪をした。

 

 幸いにも、忍びの攻撃は相手の体勢を崩すためのものであるため、一撃くらいでは大した傷にはならなかった。その代わり、少女はすっかりと委縮してしまって、口を噤んでしまった。必要な情報というわけではないものの、後味が悪い。

 

「彼女らの仔細は後で問いただすことにしよう! 今は鬼が先決だ! そのために狼殿、協力を頼めるか!」

 

「承知した。今より指揮下に入る」

 

「感謝する! では、俺は鬼の捜索及び討伐に行く! 狼殿は俺について来てくれ、おそらくまたあの血鬼術を使われるだろう!」

 

「鬼の居所に当たりは」

 

 狼に訊かれて、ふうむと杏寿郎は手を顎に当ててしばし考え込んだ。

 

「それならおそらく、列車の外だと思います。それもここより前の車両に。そこの開いた窓から、強い鬼の臭いが流れ込んできています」

 

 臭いを嗅ぎ付けた炭治郎が鼻を動かしながら、先ほど狼が入ってきた窓や、天井に空いた穴に目を向けた。

 

「いよっしゃあ! ならさっさと片付けんぞ! いくぞテメエら、俺様に続けエ!」

 

 と息巻いて飛び出そうとする伊之助に、

 

「待つんだ伊之助! 煉獄さんの指示を聞いてからだろ!」

 

 炭治郎は組み付いて引き止めた。

 

「君ら三人にはそれぞれ、乗客の保護、及び鬼に与した彼らの監視を頼みたい!」

 

「指示なんか聞いてられっか! 俺様は俺様のやり方でやるんだろうが!」

 

 煉獄からの指示に間髪入れずに伊之助が反発するものの、

 

「これだけの長さの列車内に、それもまだまだ未熟な隊士三人では甚だ厳しいだろうが、生憎と人員が足りないのだ! 可能な限りそちらに鬼の手を伸びさせないようにするから、どうにかやり遂げてくれ!」

 

「ハアァーッ? 何言ってんだこの野郎! この程度の狭さなら俺一人で十分だっつーのッ! 何だったら、鬼の手が伸びてきたら全部切り落としてやるっつーのッ! 返り討ちだゴラァ!」

 

 杏寿郎が気遣いのつもりで発した激励の言葉が癪に障って、一瞬にして翻意して両腰の刀を抜き放った。そのまま暴れるものだから、炭治郎も後ずさった。

 

「その意気や良し! では頼んだぞ! 狼殿、ついて来てくれ!」

 

 列車の窓から屋根に跳び乗った杏寿郎に続き、狼が出た。杏寿郎の先導で二人は列車の先頭に向かって走った。

 

 片や抜刀している杏寿郎に対して、狼はしていない。代わりに忍義手に仕込み傘を用意しておく。

 

 また不死斬りも抜いていない。あれを抜き身にしていては気取られる。こと鬼といった不死斬りを恐れる存在は、あの刀身からの強烈な瘴気を敏感に察知する。以前、浅草で黴の鬼を追跡していた時、早まって抜いた時。乱波の小男・黒傘のムジナの機転が無ければ、取り逃すところであった。

 

「居たぞ!」

 

 向かい風の激しい中で杏寿郎の声が届いた。彼の言ったように、前方に男が一人。炭治郎ら以外の鬼殺隊関係者でも居ない限り、あれが人間であるとはあり得ない。

 

 その男は、やおら振り向くと、自身に向かってくる杏寿郎らに驚くそぶりも見せず、腕を持ち上げその手の甲を向けてきた。その手の甲には、普通であればあるはずのない、口があった。

 

 うっすらと男が笑むのが見えた。

 

「おはよう。そして、おやすみ……」

 

 血鬼術『強制昏倒催眠の囁き』

 

 その瞬間、杏寿郎が足を止め、代わりに後ろを走っていた狼が前に出た。

 

 義手忍具『長火花』

 

 忍義手が列車の屋根にばら撒いた爆竹の炸裂音がかき消した。

 

(やはり、音で来たか)

 

 すかさず狼は肉薄。対して鬼は、もう一度手の甲の口を構える。

 

 それを見て狼は、もう一度爆竹をばら撒き、音の壁を展開する。

 

「甘いね」

 

 鬼が手の甲から発したのは、音の塊だった。催眠するためのものではない、実体のある攻撃である。

 

 発射された音の塊はまっすぐ狼に向かい、――鉄傘によって弾かれた。

 

 鬼がそれを見たと同時に、後ろに控えていた杏寿郎が、傘を構えた狼を抜き去ってきた。

 

 炎の呼吸『壱ノ型・不知火』

 

 向かい風をものともしない脚力で一瞬にして間合いを詰めてからの、袈裟斬り。一手遅れた鬼はなすすべなくこれを受け、首と胴を切り離された。

 

(下弦の壱)

 

 斬った瞬間、杏寿郎は鬼の眼を見た。左目に『下壱』。やはり十二鬼月であったか。

 

 頭を失った胴は力なく倒れ、切り離された首は無情に転がる。残心をしたまま杏寿郎は、それを見る。

 

 ――それから気付いた。

 

「手ごたえが無かった! 肉体も崩れていない! まだ生きているぞ!」

 

 転がっていた鬼の首が、ニヤリと笑った。

 

 突如列車の一部が、肉のように変色し、変化し、鬼の肉体と融合した。

 

「流石、柱なだけはある。そっちの忍びがツブテになることで、本命が構えを取るのを隠すなんてね、お陰で何も出来なかったよ」

 

 首とくっついた肉は、蛇のように伸び上がり、挑発的な動きでゆらゆらと揺れていた。

 

「でも……生憎だけど遅かったね。最早この列車は僕の身体そのもの、車内は僕の腹の中だと思ったほうがいい。乗客二百名余り、全てが、即座に僕の餌であり、人質なのさ」

 

 それだけを言い残して、鬼は姿を列車に埋めた。

 

「車内に戻るぞ!」

 

 迷わず杏寿郎は声を掛け、窓から車内に戻っていき、狼も続く。

 

 中に戻ってみれば、あの鬼の言った通り、列車内の天井、床、壁、座席に至るまで、蠢く肉へと変質し、眠りこけている乗客に絡み付かんとしていた。

 

「どうやら、あの鬼はこの列車と融合していたようだ! 少々時間を掛け過ぎたな!」

 

「これからどうする」

 

 不死斬りの柄に手を掛け、狼は尋ねた。

 

「竈門少年らの所に、一度戻ろう! 編成を変える! 道中、乗客も守らねば!」

 

「承知した」

 

 不死斬りを抜き放った狼は、それを横向きに、背面に回すように構えた。

 

 ――列車と融合したのであれば、好都合。

 

 ――奴はもう、逃げられない。

 

 刀身から溢れる瘴気がいや増しになったところで、一気に横なぎに振るった。

 

 堰切って噴き出す瘴気が、刀身の軌跡の延長線上に更なる刃として走る。

 

 その不吉な斬撃は、座席に身体を預けて眠っている乗客のすぐ上を通り、彼らに絡み付いていた肉塊、及び窓ガラスと壁に斬痕を残した。その傷からは、夥しい量の血が噴き出て、たちまち周辺が血の雨によって赤く染められた。

 

 同時に、さも列車が苦悶し暴れるが如く、激しく揺れた。急に揺れたものだから、杏寿郎も、当の狼でさえも床に膝を突いて踏ん張った。乗客の中には、煽られて通路に投げ出された者も居た。

 

「今の内だ、炭治郎たちのもとへ戻るぞ」

 

「心強い!」

 

 床に倒れた乗客を座席に戻しながら、杏寿郎は頷きつつ言った。

 

 そうして二人は、炭治郎らのもとへ駆け出した。




 ミス訂正
 下弦の鬼の場合、片目に『下壱』のように刻まれていますが、間違って左右の目にそれぞれ『下弦』『一』と入れてました。しかも『壱』のはずが『一』って素で入れてましたw


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

無限列車の姦計:後編

 しばらくさぼりながらダラダラ執筆してたら、なんか祝福の導きが見えたんで、ちょっと狭間の地に遊びに行ってました。すんません。なんかどんどん投稿間隔広がってますが、やりたいネタがまだあるので、続ける気はあります。よろしければお付き合いお願いします。


 鬼と融合し浸食された列車の中を、時折乗客を喰らわんとする肉塊を斬り払いながら、三人の人影が駆け抜ける。伊之助、炭治郎、そして狼。

 

 煉獄杏寿郎の采配により、彼らは列車前側の車両内の乗客が喰われないよう注意しつつ、鬼の頸を捜している。

 

 催眠対策に狼は勿論、抑えに向かわせたほうが有効に動く伊之助と、その手綱を握りつつ上手く立ち回れる炭治郎らによる編成である。

 

 列車後方に残り乗客の保護を受け持つは、広範囲を守れる実力を持つ杏寿郎を筆頭に、鬼のみを焼き人を燃やさない血鬼術『爆血』を操る禰豆子、眠っていることで却って本来の力量を発揮し『雷の呼吸』の機動力を生かせる善逸らの三名。

 

「前だ! とにかく前ェ!」

 

 突如伊之助が声を張り上げた。

 

「さっき主(=列車)が揺れた時に判ったぜ! こいつの造りは蛇と変わらねえ、つまり首は主の頭だッ!」

 

 獣の呼吸『漆ノ型・空間識覚』

 

 那田蜘蛛山でも活躍した、伊之助の鋭敏な肌の感覚による探知法。先刻狼が不死斬りで、列車に同化した鬼を斬り付けたことで鬼がもがいた際、その揺れで伊之助は鬼の首を既に探知していた。

 

「俺様に続けえ!」

 

 雄たけびを上げながら、両手を交差させ二刀を構え――

 

 獣の呼吸『肆ノ牙・切細裂き』

 

 ――上に向けて放った六つの斬撃が、天井をこじ開け、突き破った伊之助が列車の屋根に飛び出した。

 

 その彼の後を、炭治郎と狼は、周囲の肉を切り払ってから追った。

 

 それから列車先頭の機関室に辿り着いた伊之助が、そこの天井を斬り裂いて中に入っていったのが確認された。

 

「怪しいぜ……、こっからビクビクとした震えが伝わってきやがる……。鬼の首はこの下だなぁ!」

 

 その時、自らの危機を察した鬼が放った数多の肉の触手が伊之助に殺到した。咄嗟に二刀の連撃で切り払うも、それすら上回る数の触手を前に、たちまち彼は手足を絡めとられ動きを封じられた。

 

 そこへ、追いついた狼が乱入した。背中の不死斬りの鯉口を切ると、またもあの不吉な紅い瘴気が溢れ落ちる。伊之助を拘束していた鬼は、その気配を敏くに感じ取るや、彼に絡めていた触手を緩め、引っ込めようとした。

 

 その隙に、狼を追い越した炭治郎が駆けつけ――

 

 水の呼吸『陸ノ型・ねじれ渦』

 

 ――周囲の触手を斬り払った。

 

 狼は、再び不死斬りを鞘に戻した。敢えて使わない。そう杏寿郎に指示された。

 

 先ほど不死斬りで列車を斬った時、ひどく鬼がもがいていた。使い過ぎれば列車が倒れ、乗客を危険に曝す恐れがあるため、なるべく控えねばならない。

 

 尤もこの鬼は最早、不死斬りを前にまともには動けない。チラつかせるだけで、事は足りる。

 

「でかした、子分! 頸はこの下だぁ!」

 

 と、伊之助が刀で床を切り裂く。硬い鉄が切れる音と、分厚い肉が切れる鈍い音がして、中が露出する。果たしてそこには、鬼の頸があった。

 

 巨大な人間の頸の骨が、赤黒い肉に包まれて、あった。

 

「よし!」

 

 それを見るや炭治郎は、全集中の呼吸で大きく息を吸い、刀を振り被る。

 

 水の呼吸『捌ノ型・滝壺』

 

 名の通り、落つる激流さながらに振り下ろされる刀の強烈な一撃が、その頸椎の隙間に叩きつけられ、大量の肉片と血しぶきが飛び散る。あまりの量に、標的はどうなったのかが分からないほどである。

 

「手応えがない……」

 

 炭治郎の察する通り、頸には届かなかった。

 

 吹き出す血と飛び散る肉片の勢いが落ち見えたのは、依然として無事な鬼の頸。

 

 その瞬間、炭治郎が付けた斬痕から膨大な量の肉が溢れ出した。咄嗟に狼らは飛び上がり、巻き込まれることはなかった。

 

 肉はたちまち機関室を埋め尽くし、そこに椀状の肉塊を形成した。如何にもここから入ってこいとばかりに上は空いている。

 

 そこへ躊躇なく飛び込んだのは狼であった。

 

 肉の椀は、これを迎えるかのように、内部の壁が一斉に隆起し、そこから夥しい数の眼が現れるや、侵入者にその視線を殺到させた。

 

 この視線から放たれる力は、先ほど鬼が発していた音と同様の催眠効果がある。敵は催眠に秀でた血鬼術の使い手、その手口は音に限るはずもない。

 

 言うに及ばず、それは幻術の心得もある狼も読んでいて然りである。

 

 義手忍具『瑠璃の斧』

 

 展開した斧の刃から発される青白い光が、肉椀の中を照らす。縦横無尽に走る青白い煌めきは、視線に込められた幻術の力を狂わせる。

 

 斧の刃が底に叩きつけられると、玲瓏な、それでいてけたたましい音にまばゆい瑠璃の閃光が肉椀の内を満たし、血鬼術の眼々は最早無力となった。

 

 好機。この肉塊の下に埋もれた頸の骨を断つのなら今。

 

 その時だった。

 

「邪魔をするなァ!」

 

 どこからかこの肉椀に降り立った男が、手に持った錐を構えて狼に向かってきたのである。この男も、鬼に与する者であったか。しかしこれに後れを取る狼ではない。義手の手で相手の錐を持つ手を押さえ、壁に押し付ける。そして右手の刀で男の頸を突こうとしたのである。

 

 が、一瞬狼はこれを躊躇った。

 

 その隙に、男は狼の手を振りほどいて、錐で狼の腹を突いた。今まさに刀で突こうとされていた男に、躊躇は一切無かった。

 

「狼さん!」

 

「狼のオッサン!」

 

 狼の後を追って、同じように飛び降りてきた炭治郎と伊之助。当の狼は、襲ってきた男を押さえつけたまま、

 

「構うな! 頸を斬れ!」

 

 大事ないと言わんばかりに狼は声を張り上げた。その声を聞き、炭治郎と伊之助は気を引き締め、刀を構えた。

 

 これを尻目に狼は男と向き直り、

 

「来い……、死にたくなくば!……」

 

 返答を待たずに狼は、怯える男を引っ掴んで再び列車の屋根まで上った。

 

 押さえていた腹の刺傷を見る。錐は腹の太い血管を突いていて大量の血が出ていたが、狼はこれを呼吸術を駆使して止血していた。更に瓢箪の傷薬を呷り、痛み止めと活力を取り戻す。後は竜胤の力で再生を待てばよい。

 

(それにしても……)

 

 綻びだらけの、催眠術であった。幻術を十分に習得していれば、容易く破れるほどのもの。今までは幻術の心得を持たぬものばかりを狙って力を蓄え、それから強者を狙う魂胆だったのであろう。

 

 肉椀の底から多量の血が吹き上がったのはその時であった。同時に、耳をつんざく断末魔も聞こえた、おそらく鬼のであろう。炭治郎らがやり遂げたに違いない。

 

 だが喜んでばかりもいられなかった。列車と融合している鬼は、頸を斬られた苦悶にのた打ち回る。つまり、列車が路を外れ、今にも倒れそうなばかりか、その煽りを喰って狼は先ほどの男諸共放り出されるところであった。空に放られた拍子に、義手から鍵縄を伸ばして、どうにか堪えられはした。

 

「ここに掴まっておれ」

 

 男にそう声をかけておく。そこから狼は、屈めていた身を起こし、前方に居る炭治郎と伊之助を見る。どうにか踏ん張って、狼に手を振り、無事を知らせる炭治郎が確認出来た。

 

 そこで狼の目に、列車の前方から巨大な赤い炎の塊が、黒煙の尾を引きながら向かってくるのが見えた。

 

 危。

 

 という直感が即座に頭に上った。

 

「伏せろッ!」

 

 鍵縄を列車に引っ掛けて炭治郎の方へ駆けつつ、狼は叫んだ。

 

 義手忍具『神隠し』

 

 義手から飛び出した二枚の赤く八つ手の葉による大うちわを両手に持ち、体を回転させて扇ぐと、狼の周囲に朱い渦風が巻き起こった。これを『纏い斬り』で刀に巻き込んでやり、その刃で炭治郎と伊之助を斬りつけてやると、果たして二人は一瞬消えたのち、忽然と狼の背後に再び現れたのであった。

 

 向かってくる炎の塊は、炭治郎らを巻き込むことなく、身代わりに狼と衝突し、彼の身柄を攫っていった。

 

 列車はその直後に横転した。

 

 狼の身は列車の先頭から大分置いていかれた所で、減速した炎の塊から離れ、線路からずれた地面に投げ出された。それは受け身を取ることなく――しかし刀は握りしめたまま――力なく地面を転がってうつ伏せに倒れて、それから指一本すら動かなかった。体の下からは広がるその血の量は、彼は既に事切れているのであると物語っていた。

 

 ――狼よ、我が血と共に生きてくれ。

 

 また、頭の中にあの言葉が響き渡る。回生をする度に聞こえるあの声が。狼のかつての主、竜胤の御子・九郎の声。

 

 俄かに狼の意識が浮き昇り、血反吐と共に狼は起き上がる。頭が弾けるように重い。骨が軋み、肉が裂けそうであったが、それでも起き上がった。

 

 しかしその首筋を、巨大な手が上から押さえつけた。

 

「やっぱり、生きてやがった――いや、生き返ってやがったってェわけか……」

 

 煮えたぎった湯からの蒸気さながらの熱い息が、その言葉と一緒に狼の耳と頬に吹き付けられた。

 

 そのまま宙へ投げられ、落ちてきたところに拳を叩き込まれる。宙になれている狼は、しっかりとそれを捉えて楔丸の刀身で受けた。骨にまで刻み込まれた技術により、直に喰らわなかったものの、体が吹き飛ばされ、木にぶつかって地面に再び落ちた。その際、刀が手から取り落された。

 

 すぐさま起き上がり、目の前に落ちていた刀に手を伸ばそうとする。

 

 が、狼の伸ばされた手と刀との間に、金棒の頭が鈍い音を立てて落とされた。それと合わせて、襲撃してきた者の足も映った。見上げてみると、またもあの鬼であった。狼がかつて斬り落とした左腕の断面から、生えている、燃え盛る炎によって形作られた歪な腕も、同じであった。

 

「ま、殺れるってンならァ、千度でもすり潰してやりゃァいい……。テメエが俺にトドメェ刺せねえ限り、何度だって行くぜ……」

 

 ニタニタと歯牙をむき出しにして、笑みを浮かべながら鬼は言った。

 

「知ってっか。下弦が再編されるってェ話だ。しかも、要るというなら、血も与えてくださるってな。尤も、俺はもうあの血には耐えられそうに無ェから、遠慮したがな。そンで、最も成果を上げた奴が新たな下弦になるってェわけだ」

 

 あざ笑う調子で鬼は語り続ける。その間に、狼は義手に仕込んだ忍具を、切り替えた。十中八九見えているはずであろうが、鬼は指摘するそぶりも見せない。

 

「あの御方も、なかなかどうして、おもしれェ気まぐれを起こすもンだ。俺の知る限りでは、頭は良くねェわ、すぐ癇癪起こすわ、そンで当たり散らすわ。そのくせ高慢ちきで、油断もする御方だったんだがなァ……。まあ、それでも、一度主と決めたら、たとえどンな唐変木だろうと仕えるのが義理ってモンよ。……テメエには分からねェか?」

 

 唸るような低声に変わり、ギロリと鬼は、はめ込まれたほうの目で狼を見据えた。

 

「俺はなァ……忍びってのが大嫌ェなのよ。利害で主にすり寄っといて、用が済んで背を向けたかと思えば、今度は弓引いてくる、テメエらみてえのがなァ!……」

 

 カッと瞳孔と共に目を見開いて鬼は、地面を突いていた金棒を引き上げ、肩に担ぐ要領で構えた。左腕の炎の義手が添えられ、金棒は血管が走るが如く赤熱した。

 

 狼は、相手からの殺気が強まるのを感じた。

 

 ――来る。

 

「死にさらせェッ!」

 

 狼の頭めがけて、金棒が振るわれた。合わせて狼は、『朱雀の紅蓮傘』を開いた。

 

 開くと同時に回転する傘の縁が、横なぎに振るわれた金棒を――激しい火花を散らしつつ――いなした。

 

 金棒が狼の髪の毛を掠める。

 

 構えた傘の下から、すかさず狼は刀に手を伸ばし引き寄せた。

 

 しっかりと握りしめ、紅蓮傘をたたむのに合わせて身を翻し、ふわりと一回りしてから、たたんだ紅蓮傘と刀を交差させ、鬼の横っ腹に一太刀。

 

 忍び義手技『派生攻撃・放ち斬り』

 

 強烈ではあったが、強靭な身体を持つ鬼相手には、決定打とはなり得なかった。元より狼も、それが通じるとは思ってはおらず、一撃入れるや瞬時にその場から飛びすさった。

 

 小癪な真似を、と言った具合に鬼は、横目で忌々しげにそんな狼を睨みつける。その凄まじい殺気に狼は、笏状にたたんだ傘と刀を構えたまま、宛然と目を据えた。

 

 夜明けまで、あと少し。やはりこの勝負は、まだ終わりそうもない。




 今更ながら、伊之助からファンゴフェイク取ったのめっちゃ後悔してます。取ったファンゴフェイクは葦名の伊之助に被せときました。

 あと厭夢、ごめんよ。

 あと誤字報告で、肉塊という単語が肉会ってなってたのを見て、肉パーティーみたいでワロタ。誤字報告の新たな楽しみ方を知りました。いつも誤字報告ありがとうございます、皆様。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黒き刃

 狼と金棒の鬼が激しい攻防を繰り広げている頃、炭治郎と伊之助は、杏寿郎と合流するも、その矢先に他の鬼に襲撃された。それもただの鬼ではなかった。

 

 上弦の参・猗窩座。万全とは言い難いこの状況では、最悪の相手が出てきた。

 

 炭治郎と伊之助は疲弊が著しく、その上に列車の横転の際に負傷までしていた。狼が『大うちわ・神隠し』で無理やり立ち位置を入れ替えたのがあだになった。それに、上弦の参と相対するには、まだ腕が足らない。それ故に、彼らは杏寿郎から待機命令を出され、猗窩座は彼一人で相手にすることとなった。

 

 が、果たして、上弦の参の鬼としての力量を前に、杏寿郎は満身創痍となっていた。

 

 最初でこそ猗窩座と互角に切り結び、善戦していたものの、いくら杏寿郎が磨き抜かれた技を以って斬りつけようとも、猗窩座はその傷さえ瞬く間に再生させ、頸を斬ろうにもそんな隙を一瞬たりとも晒してくれる相手ではなかった。戦いは長引き、それにつれて杏寿郎の動きは鈍り、そこに打撃を叩き込まれる。ものの二、三発程を――それも掠るように――受けただけで、杏寿郎のあばらは砕け、その破片が肝に食い込み、また左の目玉が潰れた。呼吸術すらままならない。

 

「お前も鬼になれ、杏寿郎!」

 

 猗窩座はそんな杏寿郎に、持ち掛けた。

 

 杏寿郎はこれを拒否し、構えた。

 

 炎の呼吸『玖ノ型・煉獄』

 

 これだけ追い詰められようとも、決して折れない心によって繰り出されるその一撃は、気息奄々の人間によるものとは思えないほど、見事なものであった。猗窩座でさえ、その気骨には歓喜を覚えたほどである。

 

 『破壊殺・滅式』

 

 そして猗窩座は、この技を以って、杏寿郎への敬意を以って迎え撃った。

 

 砲弾のような速さと衝撃を放ち、猗窩座に向かって撃ち込まれる。

 

 双方が激突したその瞬間――。

 

 ――何も起こらなかった。

 

 ただ、金属がぶつかる甲高い音が鳴り響き、むなしく薄い土ぼこりが広がったばかりであった。

 

(あれほどの技同士がぶつかったのが、嘘みたいだ……)

 

 瞠目して炭治郎は、そんな想念を浮かべた。

 

 やがて土ぼこりが晴れ、二人の姿が――否、そこには三人居た。

 

 猗窩座と杏寿郎の間に入り込み、両者の攻撃を、刀と鞘で受け止めていたのであった。杏寿郎の斬撃は、柄の辺りを鞘によって押さえられて止められていた。猗窩座の拳は、その黒い――鋒両刃造(きっさきもろはづくり)の――大太刀の刃を当てがわれることで、猗窩座自身がおのずと止まった形であった。

 

 両者を止めたのは、長身痩躯の男であった。

 

「すまんのう、若き煉獄よ……」

 

 と言ってその――白い背広に中折れ帽の――男は、猗窩座に向けていた刀を振り抜いた。これを察知して猗窩座は大きく飛びのいた。

 

 直後に猗窩座は、自らの手首に激しい痛みを感じ、そこについていた、あの大太刀に付けられたものと思しき傷を見た。それは、鬼であるはずの猗窩座が激しい痛みと、怖気を覚え、しかも猗窩座の再生力を以ってしても一向に治らなかった。

 

 脂汗を――人間相手にはこれまでかいたこともないものを――かいて、猗窩座は乱入者を凝視した。

 

 そんな視線を受けてなお、悠然と男は立ち上がる。

 

「儂としたことが、居眠りをして、あたらお主ほどの若人の命を死なせそうになるとは……。永く生きた先達として、忸怩たる思いじゃ。なれば挽回をせねばならんな」

 

「あなたは……」

 

「貴様は誰だ!……。その刀は一体!……」

 

 男は口角を伸ばして笑み、被っていた帽子をおもむろに取った。

 

「儂か? 儂はただの――通りすがりの、投資家の、道楽爺。今より、この若人に代わり、儂が相手になろう」

 

 手に持った鞘を腰の帯革に挿し、刀を一振り。

 

「葦名一心、推して参る」

 

 名乗り、その切っ先を猗窩座に向けて、一心は構えた。

 

 構えを取ったまま、猗窩座は一歩後ずさった。特にあの大太刀。先ほど受けた傷の異様さもさることながら、見ているだけでも嫌な感じがする。その上、目の前のこの男。今しがた、猗窩座と杏寿郎の渾身の一撃をしめやかに止めてみせたあの技術……、対峙している今まさにこの瞬間に受けている気迫……、そんな使い手が、かのような忌々しい刀を振るうと思うと、背筋がゾッと凍り付く。初めての感覚。

 

 故に猗窩座は、攻めあぐねるばかりか、固まってすらいた。

 

 杏寿郎は、これらの状況を見ながら呆気にとられた。あの上弦の参を、ただ立ち合うだけで、封じ込めている。

 

「少し、失礼します」

 

 不意に、杏寿郎の横に女が屈みこみ、そう声を掛けてきた。

 

「あなたは、葦名殿の……」

 

 一心に付き従っていた、道行コートの妙齢の女であった。

 

「一心様に付いておりました、薬師です。今は喋らぬほうが宜しいでしょう、砕けた肋骨が肝に食い込んでいます。それに、先ほど無理矢理に呼吸をしたために、傷は更に深くなっているはず……、こうして生きていられるのが不思議なほどです。どうか安静に……」

 

 薬師の女は、か細い声で淡々と語り、手当を進める。ここまでの深手だと、ここでは処置は限られるものの、止血に、傷の悪化や痛み止めくらいは出来た。特に彼女が施した薬は、薬のことをあまり知らない杏寿郎でも、何か独特な物であると分かった。

 

「炭治郎! 伊之助! 大丈夫かぁ!」

 

 炭治郎らのほうでは、善逸が、禰豆子の入った箱を背負って駆けつけてきた。

 

「何これ、何これ! なんかヤバそうな鬼居るし、煉獄さんは重傷だし、あのオッサン一体何者! あとあの綺麗なお姉さん何者! それに狼さんは! 狼さんはどこに行ったんだよ!」

 

 狼のことを訊かれた炭治郎は、目を大きく見開いて息を詰まらせた。しばし俯き、それから意を決した面持ちで向き直り、

 

「いや大丈夫だ、狼さんなら生きている! ちょっとやそっとで死ぬわけがない! それより今は煉獄さんからの待機命令はどうなるかだ!」

 

 決意の眼で言った。

 

「そ、そうだ、煉獄さん! あっ、居た! 煉獄さぁん! 俺たちどうすればいいんですかぁ!」

 

「どなたも手出しは無用です! そちらが言っていた狼殿も、私の知るお方であるならば、無事は請け合います」

 

 と、煉獄杏寿郎に代わり、そばにいた薬師の女が、凛と通る声で答えた。

 

 一同は面食らったが、今は確かに自分らが出来ることはないとして、一心と猗窩座の立ち合いに再び目を向けることにした。

 

 両者はまだ膠着状態にあったが、ある時、一心が足を踏み出した。猗窩座はこれに身構えるも、一心の足が一歩地面を踏もうとするかしないかといったところで、瞬間、目にもとまらぬ速さを以って猗窩座の目の前まで一心が迫った。

 

 驚愕しつつも猗窩座はこの一太刀を、刀身の腹に掌底を当てることでいなし、再び距離を取った。そこから拳を構え直し、

 

 破壊殺『空式』

 

 一心に向かいながら、虚空へ拳の連打を放つ。鬼の凄まじい力による拳圧によって打ち出された空気による塊。打ち出されてからほとんど間を置かずに目標へ当たる無数のそれらが、一心に殺到する。

 

 しかし一心は敢えてその中へ飛び込んだ。先頭の一群を、身を捻ってかわし、その捻りを利用して太刀をいち薙ぎ、ふた薙ぎし、残りを斬り散らす。

 

 そしてまた須臾にして猗窩座の目前まで迫った。

 

 猗窩座はもう一度間合いを開こうとするも、読み切っていたとばかりに一心はこれに追随した。猗窩座の足が地面に着く瞬間を見計らって、また一心が一撃。どうにか反応した猗窩座がいなす。

 

 反撃は叶わず、後手後手に回る猗窩座。これでは追い詰められるばかりであるが、さりとて打ち返しを試みようものなら、またもあの嫌な気配のする黒い刃で斬り裂かれる。そうなれば、たとえ傷は浅かったとしても、激痛で動きが鈍った隙に首を断たれる。

 

「す、凄え……」

 

 炭治郎の隣で伊之助が思わずこぼした。

 

(伊之助でも、やっぱりそうなるか)

 

 普段の伊之助であれば、自身より遥かに実力のあるものに対してさえ、対抗心を抱くところであるが、そんな彼でも、あの馬鹿々々しいまでの力には圧倒されていた。

 

「あの人も凄いけど、それよりあの大太刀、匂いが……」

 

 と炭治郎が言うと、

 

「あの刀、なんだか嫌な感じがする……。狼さんの背中の赤い刀と同じ音だ……」

 

「こんだけ離れてんのに、肌がジクジクしやがる!……」

 

 三人とも感じるものは同じであった。

 

 あの上弦の参が攻めに転じられないのは、一心の力量以上に、あの刀によるものが多くを占めている。それだけの物を、柱かそれ以上の手練れが握っているものだから、今の猗窩座は不利としか言いようがない。

 

(ここで、終わる?……。この俺が、何も手も足も出ずに……、怯えたまま……)

 

 猗窩座は、己の中の怯懦を感じた。それを知った時の、忸怩と憤慨。それらの思いが、身体じゅうを血液さながらに巡る感覚まで……。

 

 それらを傍観している心地であった。故にか、冷静でもあった。己の心情を傍から眺めることで、これを受け入れ、何をすべきかといった想念が浮かぶ。

 

 猗窩座の眼に、相手が次の一撃に移るのが見えた。真っ向斬りをしてくるであろう。そのようなことが、一心が刀を振り被るより前に分かった。

 

 敢えて猗窩座はすぐには構えず、一心が振り被ってから構えた。そして振り下ろされたその刃を、両手で作った拳で挟み込んだ。その拳はそれぞれ、ズレた位置に当たる。そうすることで、鋏の要領で刀が折れるというわけである。

 

 が、折れなかった。

 

 猗窩座の力を以って挟み込まれたその刀は、甲高い音を鳴り響かせて、止まるだけにとどまった。

 

「ふむ、流石に止まるか……」

 

 そう言う一心は、刀が折られようとしたことより、斬撃を止められたことに感心をしている風であった。

 

 咄嗟に猗窩座は、刀を横に弾き、裏拳を繰り出す。その際、相手からの斬り返しを防止せんと、もう片方の手を、刀を握る一心の手元に伸ばして押さえんとした。

 

 果たして一心は、それらを避けて、身を翻しながら後ろに下がった。

 

「敵ながら、天晴じゃ! 不死斬りを前にすれば、並の鬼ではまずまともに動けん。動けた者は、お主を含めて三人。お主ほどの者は、あの六つ目の鬼以来じゃ」

 

 『六つ目の鬼』と聞いて、猗窩座は耳を疑った。その特徴を持っていて、かつあの刀を前にしても戦えるであろう鬼とすれば、上弦の壱・黒死牟を置いて他におらぬ。

 

 また、およそ百年前、当時から別格の鬼であった黒死牟が、ただの一太刀受けただけで死にかけた件。たしか相対した剣士の刀も、黒き刃と聞いた。

 

 それに、

 

(何だ……、この、頭の中に流れてくる記憶……)

 

 自分のものではない、別の誰かの記憶が、走馬灯さながらに思考の中に割り込んでくる。

 

 それは今より遥か昔の風景。猗窩座が鬼になるよりも、古い時代。

 

 記憶の主の前に佇むのはまさに、いま猗窩座の目の前に立っているこの男に他ならなかった。白髪は今よりも多く、灰色がかってすらいる。然り而して手に持っているのは、あの黒き刃……。

 

(細胞の記憶……、無惨様のか……)

 

 今すぐ逃げろと、猗窩座の血や骨肉に混じる無惨の細胞が、警鐘を鳴らした。

 

 ――だが逃げない。逃げてなるものか。

 

 猗窩座は意地を張る。

 

「その刀……、一体どうなっている! 何故折れない!」

 

 そのように猗窩座が問い詰めたのは、この場に留まるための理由が欲しかったからなのかもしれない。

 

「これか。なに、さして難しい話でもないじゃろう」

 

 と、切っ先を猗窩座に向けて、一心は語る。

 

「儂の意志の力を、刀が纏っただけじゃ。如何な刀とて、使い手の気合次第で、切れ味も、強度も、如何様に変わるのよ」

 

 さも、単純なことと言わんばかりに語る一心であった。だが、その理屈が分かる者は、誰も居なかった。猗窩座は勿論、炭治郎に、杏寿郎でさえ唖然として、辺りは水を打ったように静まり返っていた。

 

「嘘ォ!? あのオッサン、覇気使ってんのかよ! そんなんアリかよ! いつからここはワノ国になったってんだよ! いつの間に俺たちはジ〇ンプの登場人物になったってんだよォォォ!」

 

「善逸、うるさい! 静かにしていろ! ややこしくなるから訳の分からないことを言うのはやめろ!」

 

「だって炭治郎ぉ!……。俺グランドラインとかヤだよぉ……、イーストブルーに帰りてえよぉ……」

 

 とむずかる善逸を、炭治郎と伊之助は、いつもの妄言だとして無視した。唯一杏寿郎は、善逸の言う『覇気』とやらに関心を示したが、傍らの薬師によって、関わるなという具合に止められた。

 

 そうして再び静かになった折、

 

「時にお主、先刻この若者に――聞き間違いでなければ――鬼になれと言っておったな」

 

 卒然と一心が口を切った。

 

「儂はむしろ、言いたい。お主、人に戻らぬか。お主ほどの者が、何ゆえ鬼となってしまったのか。或いは、お主ほどの者が鬼となるだけの事が、あったのだろう……」

 

「何を知ったようなことを!……」

 

「儂には分からぬだろう。お主が味わった苦しみとよく似た苦しみは、この世にごまんとあろうて、されどお主の苦悩は、お主だけのものじゃ。それでも、お主に言いたい。お主ほどの者が、鬼として生きるな。せめて残りの生を、人として真っ当に過ごしてはみんか。たとえ幾百の殺戮を為せども、それを続けるよりは、有意義だとは思うぞ」

 

「黙れッ!」

 

 叫んで猗窩座は拳を握ろうとした。ところが、何故か力が入らなかった。

 

 戸惑いながら猗窩座は己の手を見た。形作られた拳は、よもや目の前のこの男との戦いを拒むが如く、頼りなかった。あたかも自分の中に他に意思がある心地で、実に気分が悪かった。

 

 そうしていると猗窩座は、自身の全身の肌が焼ける痛みを覚えた。昇りつつある太陽からの光によるものだと、即座に分かった。

 

 すぐさま近くの森へ逃げ込む。戦う者としての矜持からの後ろ髪引かれる思いと、もう戦わなくていいという安堵が同居する心中に苛まれながら、陽の光に追い立てられるままに、暗い道を行った。

 

 残された一心は、

 

「窮寇は追うことなかれ」

 

 追うことなく見届け、やおら刀を鞘に納めた。

 

 それから杏寿郎と薬師に向き直り、

 

「エマよ、そやつの身体はどうじゃ」

 

「酷い傷です。今後も鬼狩りを続けられるかどうか……」

 

 エマと呼ばれた薬師は沈痛な様子で答えた。傍らの杏寿郎が一瞬だけ眉をひそめたのを、一心は見逃さなかった。

 

「誠に、すまぬのう、若いの」

 

 痛ましそうな低声で一心は改めて詫びた。

 

「とんでもない! この傷はこちらの未熟によるもの! むしろ、命があるだけで御の字です!」

 

 流石に傷に触るからかいつもより控えめだが、杏寿郎は溌溂と言った。

 

 満身創痍にしてこれだけの活力に、一心は感心した様子で小さく頷いて笑んだ。

 

「そこの小僧どもも、無事か」

 

 と炭治郎らにも向く。

 

「は、はい! 多少の傷は負いましたが、まだ動ける程度には!」

 

 先に炭治郎が答えた。

 

「何なら今からでもやれるぜ! おいオッサン! ちょっと俺と勝負しろ!」

 

「だからお前は所構わず勝負に持ち込むなっての! 時と状況と体調を考えろ!」

 

 と、何故か闘志をむき出しにする伊之助を、善逸が抑え込む。

 

「カカカ! 元気の良いのう、さながら猪じゃ。それに、手負いにも拘わらず挑みかかる心意気、嫌いではないぞ」

 

「伊之助、今はそんなことをしている場合じゃない。あの、列車の後ろのほうにも、もう一人、きっと酷い怪我を負っていると思うんです。そっちにも手当を――」

 

 言いながら炭治郎が、一心と薬師エマを交互に見やる。

 

 しかし一心は、

 

「ふむ、やはり、あ奴もおったか」

 

 という調子で、慌てる素振りすら見せなかった。エマのほうも同様で、こちらは、どう説明したものかと思案している風であった。

 

 炭治郎は困惑した。

 

「あ奴であれば、案ずることはない。もうじき、ここに参るであろう。――ほれ、あれを見てみよ」

 

 腕を組みながら一心は、顎でしゃくって、列車の後ろの方からやって来る者を示した。

 

 朝日に照らされた、柿色の着物。そのほか、纏っていた衣服には、あちこちに血やほつれが見られる。それだけボロボロになっておきながら、されど足取りに乱れはなく、深手を負った様子もない、ややもすると損傷を受けてすらいないようにも見える。列車の上から吹き飛ばされたのが、ただの記憶違いだったのでのではないかというくらいである。

 

 眼を潤ませながら炭治郎は、痛む脇腹を抑え込んで、狼に駆け寄った。伊之助も、善逸も、それに続いた。

 

 信じていた。あの狼が、死ぬわけがないと。それを確かめることが出来た。本当だったのだ。

 

「生きてて、良かった!……。狼さん!……」

 

 の他に、言葉が思い浮かばないほど、感極まっている。

 

 そんな炭治郎を前に、狼は言葉無しに、肩を叩く。

 

 それから狼は、炭治郎の後ろから腕を組みながら歩いてきた、一心を見た。

 

 一心の存在に、特段狼は驚愕することもなく会釈をし、

 

「久しくご無沙汰しております」

 

 眉間に皺を寄せたまま一心は口を真一文字に結んで、久闊を叙する狼を見据える。

 

 しばらくそうして、睨み合いにも似た顔合わせののち、やがて一心がその口を伸ばし、歯を見せて笑い、

 

「久方ぶりよのう! 隻狼ォ!」

 

 カラカラと声を上げて笑った。




 マイケル・ジャクソンだって覇王色の覇気でファン気絶させてたし、一心様が覇気使っててもおかしくなイン・ザ・ミラアァァァァー!

 ちなみにこの覇気もどきについては、善逸の言及がただのメタギャグであることと、あと却って検索妨害になることを考慮し、タグは付けないでおきます。覇気のパクリには変わりないけど。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

どうあがいても絶望

【前回のあらすじ】
 暴走した列車と作者は何するか分からない。


 産屋敷亭の庭。

 

 うっすらと雲のかかる青い空から、ミミズク右近左衛門が、狼の腕に舞い降りた。足には手紙が括り付けられている。

 

 手紙の内容は、次の通り。

 

『大正四年 ■月■日

 薄井様へ 如月工務店

 

 謹啓

 

 平素は格別の御引き立てを賜り、厚く御礼申し上げます。

 

 さて、此度は弊社と特別契約の御締結賜わり、ここに厚く御礼申し上げます。薄井様方が今御取り組みになっている事柄に縁を持てる事と相成るを、大変喜ばしく思います。我々一同、出来得る限りの支援をさせて頂きます。

 

 また、今度薄井様より提供頂きました、彼の不届き者共の肉から作りました資材を使い、薄井様の御期待を超える物が出来上がった事を確信しております。御利用になられる彼の憐れなる御二方、珠世様並びに愈史郎様も、大変喜ばれておりました。

 

 今後、御依頼されるに当たって、同様の素材を提供されましたならば、今度の依頼に劣らぬ物を御造りすることを、御約束致します。

 

 彼の忌々しき、鬼を騙る不届き者共にふさわしい末路が齎されるを、心より祈念申し上げます。

 

 謹白

 

 追伸 苗字のみを書くのは忍びないと思いまして、若し宜しければ、御尊名をも教えて戴ければと存じます』

 

 これは、珠世たちの新たな拠点を作る上で、『浅草の御方』に紹介された集団からのものである。なかなかに有効な物を作ってはくれるのだそうだが、彼らとやり取りをする際には必ず『あの御方』を間に挟んでするようにと、くれぐれも言われている。さもなくば、無事は保証出来ないとのこと。

 

 また、狼が『浅草の御方』から頂いた(いみな)*1は、教えない。そもそも、他人にむやみに名乗るなとくれぐれも言われている。

 

 言葉には言霊が宿るように、而して、名前にも霊力は宿る。すなわち、名前を知られることは自身の魂を掴まれるも同然であり、このことからかつて人々は自らの諱を他人に教える、もしくは知られることさえ厭ったのである。女が男に名乗るのは求婚と同義になるほどである。

 

 狼の時代でも、武士などは生まれた際に付けられる幼名というものが諱で、元服後に付けられる仮名(けみょう)――弦一郎、雅孝、一心など――が呼び名として使われたものである。

 

 大正現代においては、とうに風習も廃れたのか、華族ですら自らの名前を平然と紹介する。そうして人々の心中からその意識が消えることで、風習の効力が薄まっていくものである。ついては自己紹介は、現代では不吉とはされないのであろう。

 

 とは言え、他人に、特に異性に下の名前で呼ばれることへの抵抗という形で、名残りはあるようであるが。

 

 しかしながら、『浅草の御方』が狼に付けた諱には、付けた御方が御方だけに途方もない霊力が宿っているかも分からぬため、ただの人にすら名乗ってはならないのである。人ならざる者には、尚更。

 

 尤も、

 

「命さえやってもよいほどの者でもおれば、別じゃがのう」

 

 と袖で口元を隠して笑いながら『浅草の御方』は揶揄う調子で仰せられていた。

 

 手紙を折り畳み懐の奥深くに仕舞う。何はともあれ、この手紙は人目に触れてはならぬであろう。何か呪いでも仕込まれていないことを確認してから、焼くなりして処分をする。その後は、珠世らの様子も見に行くとする。

 

 手紙を仕舞うと、狼の肩に止まって覗いていた右近座衛門が飛び上がった。しばらく屋敷の上を飛んだのち、庭の木に降り立った。

 

「人には、見せられぬ物のようじゃな」

 

 一心が歩いてきて、そう声を掛けた。

 

「はい。恐れながら。一心様と言えども……」

 

「よい、よい。お主にも、知られるべきでないことが一つや二つあるじゃろう。それに、知らぬが仏とも言う。この世には、知るべきでないことが、あるものじゃ」

 

 しみじみと一心は語った。

 

「ああ、そうじゃ。隻狼、お主に渡しておく物がある」

 

 そう言って一心が取り出したのは、一丁の短銃であった。三つの砲身が三角型に寄り纏まっており、その尻の部分に蓋付き装填口のある元込め式の鉄砲。

 

 見せるように取り出したそれを、するりと回して銃把から銃身に持ち直して、一心は差し出した。

 

 受け取った狼は、矯めつ眇めつ見たり、装填口を開いて覗き込んだり、引き金に指を掛けて確かめる。

 

「『阿修羅』と儂は呼んでおる」

 

 おもむろに一心が口を切る。

 

「撃ち出された弾丸は、空を進むに際し平たく形を変え、当たった者を大きく吹き飛ばす。初めは、鬼の皮を突き破るための物を考えていたが、突き抜くより押し退けるがよいと、今の形となった。中折れ式のほうが、弾を込めるのに良かったのじゃが……如何せん弾が強すぎるあまり、蝶番の所がすぐひしゃげてしまってのう、畢竟このような形になったのじゃ。重撃の手を持たぬお主には、きっと役立つじゃろう」

 

 一心が語る横で、狼は義手のほうでこれを持ち、構えた。戦場でこれを撃つ姿を思い描く。初めて鉄砲を撃った時の記憶と、今の一心の言葉から考えるに、狼ではこの銃をまともに撃つのは難しいと想像された。

 

「或いは……その左腕の義手であれば、反動を受け流せる仕掛けを、組み込めるやもしれぬな」

 

 後で穴山に頼もう、と懐に仕舞う。造りについては、一部の部品を、形を変えた物に組み替えれば如何様にも変えられるであろう。それと革帯にも銃嚢を加えてもおいたほうが良いか。

 

 そうして思案している折であった。

 

「失礼いたします」

 

 と屋敷の中から声を掛けてきたのは、白い髪の毛の、着物を着た童女であった。二人居て、声を掛けてきたのはその片方である。たしか柱合会議でも、居た。

 

「只今、当主の耀哉がこちらに参ります」

 

 そう言って二人は、揃って頭を下げた。そのすぐ後で、産屋敷耀哉が、その妻君の産屋敷あまねに付き添われてやって来た。その横には、黒髪の童女も居る。

 

 狼はそれに跪こうとして、

 

「跪拝は無用ですよ、狼殿」

 

 屈んだところで、耀哉に止められて、その場で狼は固まった。目が見えていないにも関わらず、何故分かったのか。

 

「狼殿のその礼儀正しさは、当方としても尊重したくありますが、如何せん貴方方お二人に頭を下げさせては、産屋敷家としては忍びないため、恐縮だが、許していただきたい」

 

 言われて狼が、逡巡していると、

 

「隻狼よ、無用な礼儀は、却って僭越じゃぞ」

 

 と一心に諫められたことで、ようやく狼は、ゆっくりと元の立ち姿に戻る。

 

「お初お目にかかります、黒き刃の剣士殿。私は鬼殺隊九十七代目当主・産屋敷耀哉と申します」

 

「儂が、葦名一心。お主が、今代の産屋敷じゃな。会うのは初めてじゃ」

 

 腕を組んでうんうん頷きながら、一心は特段気を遣う様子もなく、親しげに話していた。

 

「ひなき、にちか、ここからは聞かせられない。恐縮だが、少し外してくれるかな」

 

 耀哉が二人の童女に向けて言うと、二人は何も言わず、そっと頭を下げてその場を後にした。後に残されたのは、耀哉と、妻君のあまね、そして黒い髪の少女――否、少年、産屋敷輝利哉の三人である。

 

「お主の娘らか」

 

「ええ。先ほど声を掛けたほうがひなき、もう片方がにちかと言います。それともう二人、くいな、かなたという娘が。そしてこの黒髪のほうが、輝利哉です」

 

 呼ばれた少年は、無言で耀哉に促され、一歩前に出た。

 

「ふむ……、この()の子が、次期当首というわけか」

 

 輝利哉が口を利く前に、一心にそう言われて、輝利哉は瞠目した。男であると分かっているとは思っていなかったらしい。一方で産屋敷夫妻は、さして驚いた素振りはなかった。

 

 確かに、女子の格好をした輝利哉は、男とは思えない相好ではあった。が、先ほどの二人の少女を下がらせて、彼は耀哉の横に残らせたことから、推し量るのは容易い。

 

「産屋敷が総領、輝利哉と申します」

 

 気を取り直し礼をした。

 

「輝利哉、君も、ここでの話は聞いておくべきだ」

 

 父親からの言葉に、輝利哉は黙って頷いた。

 

「鬼殺隊が貴方を認知しだしたのは、およそ二百年以上前からです」

 

 二百年以上前からと聞き、またも輝利哉は驚愕に目を開いた。え……、と声さえ漏らしていた。

 

「貴方は強力な鬼を斃し、隊士の命さえ救っていたと、聞き及んでおります。曾祖父、祖父、そして父から私へ……、連綿とその話は語り継がれております。何より、百年と少し前、当時の風柱・謝花妓夫太郎と共に、当時の上弦の陸を討ち取ったことは、鬼殺隊全体の語り草です。尤も、隊士の間では、黒き刃の剣士については、眉唾物として扱っている模様ではありますが……、私は、実在すると確信しておりました」

 

「カカカ! 随分と、懐かしい名前が出てきおったのう」

 

「そして私の代では、炎柱・煉獄杏寿郎を助けていただいた。誠に、感謝の言葉も出ません」

 

 と言って耀哉は妻君共々、恭しく頭を下げた。これに倣って輝利哉も頭を下げる。

 

「なに、気にするでない。あの、若き煉獄を死なせるのは、惜しいからな。それに、鬼狩りをしている者は、儂だけではないしのう」

 

「と言いますと?」

 

「背に鉄砲を二丁負い、右手に青白い炎を纏った刀、左手に土人形を持ち、(あお)い上衣の、十半ばほどの男じゃ。耳には、何やら奇妙なやかましい調べの流れる耳当てを付けておったな。あと、そうじゃな、手榴弾を、鉄砲を負うための帯に括り付けておった。その刀で斬りつけ、土人形から放たれた炎で、鬼どもを瞬く間に焼き尽くしておった」

 

「そのような方までとは……」

 

「とは言えど、その男には、何やら別の目的があったようでな。鬼殺隊のことを知れば、鬼のことは後回しとして、いずこかへ行きおった。じゃが、手が空けばまた鬼を狩るとも言っておったな」

 

「そうなれば、心強いですね。他にも、同じような方が?」

 

「そう言えば、奇妙な異人の男も見かけたな。桃色の長い髪に、網のような物を着ておった。何やら怯えているようで、儂が近づくと、『俺のそばに近寄るな』と言って勝手に死んだと思いきや、一年後にまた現れおってな。あ奴も同じく不死であろうが、まあ、あの様子では、役に立たぬじゃろうて」

 

 と、微妙なのを紹介されて、何と反応すればいいのか分からぬのか、耀哉および、あまねと輝利哉の三人は、ガハハと笑う一心を他所に、何とも言えない微笑を浮かべながら二の句を継げなかった。

 

 さて、と一心は一言挟み、

 

「本題に入るとするか。今日、ここに来たのは他でもない、お主ら鬼殺隊と共に、腰を据えて鬼退治をしようと、告げに来た」

 

「それは……願ってもいなかったこと。有難い。ただ、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」

 

「何じゃ」

 

「貴方にはこれまででも十分に、鬼殺隊を助けていただいております。それに、貴方にも貴方の活動があると見受けられますが……、なにゆえにこの場で斯様な宣言をなさるご決断をされたのでしょう」

 

 訊かれた一心は、郷愁を帯びた顔つきで空を仰ぐ。

 

「それは、三百年程前……、まだ儂が普通の人間だった時分じゃ。お主らが狩っている鬼どもは、田村主膳が治めていた頃から、葦名に入り込んでおった。まあ、儂や田村や鬼刑部、それに巴からすれば、夜通し打ち続けても壊れぬ、良き稽古台代わりであったがな。で、鬼の首魁、たしか鬼舞辻無惨――であったか、それで合っとるか?」

 

 と一心が狼に顔を向けて尋ねた。

 

「はい」

 

 即座に狼は答えた。

 

「儂が田村を討ち取り、およそ二十年程たった折、彼奴は現れた。鬼になれと言ってきよってな。大方、葦名の不死の力を、儂の権力を通して掌握しようと言ったところであろう。無論、儂は、答える代わりに不死斬りを見舞ってやったまでよ」

 

 一心が鬼舞辻無惨と相対したという情報に、一同は驚きを隠せないでいる。

 

(やはり、葦名にも、おったのか……。ならば、義父上やお蝶殿、仏師殿も……)

 

 狼は、育ての父・梟、忍びの師・まぼろしお蝶、それと自らに忍義手をくれた仏師こと猩々らを思い浮かべた。葦名においては、鬼と呼ばれるほどの存在はいくらでも居たため分からなかったが、思い返してみれば、鬼舞辻無惨の鬼と思しき話は、たまさかにに聞いていた。

 

「癪ではあるが、彼奴は、当時の儂の手に余った。だが、ここで儂が屈すれば、折角取り戻した葦名を、また余所者に喰い荒らされる。それを危ぶみ儂は決死の覚悟で、彼奴から一撃受けるのと引き換えに、一太刀喰らわせてやったのじゃ。確かな手応えはあったが……、それでも仕留め損ない、遁走を許してしまった。さては、奴から受けた鬼の毒は儂の身体を蝕み、年頃の内に弱り切り、そうして内府の侵攻を早めた次第なのじゃ……」

 

「何……」

 

 思わず狼も声を上げた。

 

 初めて狼が鬼と出くわしたのは、およそ二年程前。存在を知ったのも、その時。そのはずだった。ところが一心の話では、それ以前から葦名にも鬼は出没し、しかも鬼舞辻無惨も現れて一心と切り結び、それが原因で一心は衰弱し、結果、葦名の民、ひいては葦名の運命が狂わされた。

 

 その煽りを受けた最たる者が、葦名一心の孫・葦名弦一郎である。彼は優れた武者であり、しかしまだ若かった。もし、一心の命運がもう少しばかりでも伸びていれば、焦燥に駆られることなく物事を学び、葦名の運命も違ったものになっていたかもしれない。

 

「そういうことだったのですね。分かりました、教えてくださり、ありがとうございます。では、貴方の協力の旨を受けるに当たって、我が鬼殺隊の最高階級である柱たちとも、顔合わせをしましょう」

 

 と言って耀哉は、輝利哉に無言で促し、柱たちを呼びに行かせた。しばらくして、柱たちは現れた。まだ傷が癒え切っていない煉獄杏寿郎に、甲頭筆頭の真菰もちゃんと居る。

 

「おう! 若き煉獄よ、調子はどうじゃ」

 

「はい! まだ自由はききませんが、命に別状は無いとのことです!」

 

「そうか、そうか! それは、何よりじゃ。――む、そこの桃色の髪の毛の娘! あのじゃじゃ馬娘か!」

 

 一心から示された桃色の髪の毛の女子、恋柱・甘露寺蜜璃は驚きに目を丸くして、

 

「えっ! おじいちゃん! なんでここに!」

 

 驚きと嬉しさを綯交ぜにした表情を浮かべた。

 

 おじいちゃん、という呼び方に、柱たち一同は怪訝な顔をした。

 

 彼女が言うには、昔彼女の実家にとある企業が、彼女の家で生産している蜂蜜の取引に訪ねてきた時、そこについて来たのが一心で、しばらく遊んでもらっていたそうである。

 

「あんなに思いっきり遊べたのなんて初めてだったの!」

 

 と語る彼女を見て皆、怪訝な顔を更に深めたのであった。

 

 彼女は、生まれつき常人の何倍もの力を出せるという特異体質であり、その彼女が思いっきり遊べたと聞いて、ゾッとしない者は居ない。

 

 それに付き合えるこの一心という男も、大概であるが。

 

 ともあれ、これにより、柱たちは一心の力については疑問を抱くことはなかった。

 

 杏寿郎もかねてから柱たちに、

 

「力に関しては問題無い! 間近で見ていた俺が保証しよう!」

 

 一心について太鼓判を押していた。

 

 ただ、それでもまだ疑念は残っており、

 

「尚更怪しいな。煉獄ほどの手練れが危うくやられそうになる相手を、軽くあしらうような奴を軽率に人間と決めつけるのも早計だ。おまけに、その壮年の成りで、何年間活動しているかも怪しいと来た。以前、人間に擬態した鬼が、別の鬼を退治する振りをして油断させようとしてきた。鬼ではなかろうが、怪しい者は怪しい」

 

 蛇柱・伊黒小芭内が、ネチネチとその猜疑を呈する。

 

「小芭内の言うことは尤もだね。疑うのも無理はない。けれど、この方が鬼とは違うことは、私が請け合うよ。ただ、君の疑問には、仔細あって答えられないんだ。恐縮だが、私を信じてはくれないかい」

 

 小芭内は偏屈な男ではあるが、流石に耀哉相手にはそこまで強くは言わなかった。未だに警戒心が晴れ切らない眼をしているが、耀哉もそれを見咎めることはなく、一心に至っては感心している風であった。

 

 それから一心は、耀哉に向き直り、改まって、

 

「これまで儂は、彼奴等は、憎たらしい鬼どもとして斬っておった。が、一年前に、薬師のエマがここに来て、そして今度は、我が生涯最後の戦友にして最高の敵、隻狼と再び相見えた。その上、今まで知ることのなかった鬼の首魁の名前、鬼舞辻無惨の名を初めて聞いた。儂はこれを、来たる日が来たかのように、感じた。だからここに、宣言しよう」

 

 述懐する一心を、産屋敷ら、柱たち、そして狼らが神妙な面持ちで見据える。

 

 その視線のさなかで一心は、

 

「今より、鬼舞辻無惨、およびその配下の鬼どもは、この葦名一心の斬るべき敵とするッ!」

 

 威風堂々と、声を張って宣った。

 

 

 

『三連大型短銃

 

 大きな銃身が三つ並んだ、短銃

 忍義手に仕込めば、義手忍具となる。

 

 これに撃たれたものは、鬼でさえ、

 堪らず吹き飛ぶという

 

 この三つの銃身にはおのおの、

 阿修羅の三つの顔が、彫られている

 その荒ぶる様を見つめ続けるがよい、

 そして、内なる修羅に、吞まれるな』

 

『阿修羅

 

 三連大型短銃を仕込んだ義手忍具

 形代を消費して、使用する

 

 至近距離で相手に突き付けて撃ち、

 相手を大きく吹き飛ばす

 

 その不条理なまでの荒れ様は、

 己の内なる獰猛さとして見よ

 さもなくば、飽くなき暴力は

 罪無き者らにも、振るわれん』

*1
忌み名とも書く。本名と考えていい。




 【悲報】無惨様、方々のとんでもない所に喧嘩売ってた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【番外編】紅蓮の舞、青ざめた華

 おかしいなあぁ……、当初の予定ではこの話数あたりで終盤に食い込んでもいいはずなのに、中盤にすら至っていない……。

 と言うわけで番外編。本当はラストのエピローグの一つだったけど、モチベのために今の内に投稿。


 柿色の衣を纏った、童が居た。異様な少年だ。

 

 長い髪の毛を後ろで括り、余った前髪が顔に掛かっていて、右側の髪の毛は白い。右目元にも白い痣がある。背中には、風呂敷に包まれた、子供の背には異様に長い物を、紐で胴に掛けてぶら下げている。また、その左腕は、欠損している。

 

 籠を背負って歩く彼を、街並みの人々は、奇異の眼で見ている。

 

「やい、片端*1!」

 

 と、そんな彼に、三人ほどの小僧たちが、居丈高に声を掛けた。少年は立ち止まって、黙って彼らを見た。本来なら無視するところであるが、前に立ち塞がられては、止まる他なかった。

 

「よそからきた野良犬のくせに、なにあたりまえみたいに、歩いてんだよ」

 

 立ち止まった少年を取り囲み、前に立っていた小僧が意地悪く言った。

 

 周囲の大人は、と目には入らない。関わり合いになりたくない風である。どこか苦々しい面持ちで、小僧たちが少年を小突いているのを、見て見ぬ振りするばかりである。

 

 一方の少年は、先ほどから変わらぬ、仏頂面で彼らを見ている。困った顔をしなければ、怯えた顔もしない。

 

 小僧たちはそれが気に入らなかったのか、ますます少年を強く、お互いに押し付け合うように突き飛ばす。それはようようひどくなっていき、そして、

 

「だいたい何だよ、この変な棒は。どっかからかっぱらってきたのかよ、見せてみろよ」

 

 と小僧の一人が、少年の背中の長物を掴み、袋の口を開こうと手を伸ばした。

 

 その折、ギロリと少年が、これまでになく強く睨み、長物を掴む小僧の手を掴んで引っぺがし、捻った。そうして姿勢の崩れた小僧の膝に、蹴りつけてやると、あえなく小僧は膝を押さえて後ろにたたらを踏みながら後ろへ下がり、すっころんだ。

 

「このやろう!」

 

 怒ったもう一人の小僧が後ろから、少年の髪を引っ掴んだ。髪を掴む手を、引っ張られまいと掴み、少年はそこから相手の股間に蹴りをぶつけた。喰らった小僧は、うっと呻いて腰を引き、そこへ少年が肩で体当たりをして転ばせる。

 

 そこへ三人目が、少年の腕を抱え込むように押さえ、加えて最初に転ばされた小僧が反対側を同様に押さえた。

 

 金的を受けて激昂している小僧は、苦悶と憎しみで歪ませた顔のまま、拳を振り上げる。

 

 少年の顔面目掛けて振り下ろされた拳は、果たして背後から掴まれて止められた。

 

「何をしているんだ! 三人で一人を取り囲んで!」

 

 小僧の腕をつかんだまま叱りつけたのは、炭の入った籠を背負った少年であった。赫灼の赤みがかった黒い髪の毛の、額左側に痣がある、十半ばに届かないくらいの年の頃である。

 

「こいつがさきに手をだしてきたんだ!」

 

 小僧の一人が、件の少年を指差して言った。

 

「狼が?」

 

 件の少年――狼を見て、炭売りの少年――竈門炭十郎は、怪訝そうに首をひねった。

 

 次いで、周囲の大人から聞いたところに拠ると、狼の背中の長物を小僧が掴んだ途端、いつになく気色ばんだそうである。

 

「そうなのか、狼?」

 

 狼の前まで歩み寄った炭十郎は、自身より少し低い背丈の少年に、前屈みになって目線を合わせながら問いかけた。

 

 炭十郎の顔を見返しながら、狼は自分の背中の、風呂敷に包まれた長物のほどけかかっていた――先ほど掴まれた時に結びが緩んだらしい――紐を、片手で器用に締め直した。

 

 もう、ほどかせまいとばかりに、きつく。

 

「そんなに、大切な物なのか?」

 

 変わらぬ仏頂面で、炭十郎を見据える。

 

「そうか……。とにかく、触られたくないんだな」

 

 顔を上げ炭十郎は、狼の頭を撫でてやる。

 

「おいおいおい、それだけかよ」

 

 と大人の一人が反発した。

 

「そのガキ、手を上げたんだぞ。その程度で済ませちゃ、きっとまたやるに決まってる! こんな怪しい浮浪児、何でそんな庇うんだよ!」

 

 その男は――顔から見て取れる通り――偏屈で有名な奴であり、普段から猜疑の言葉が絶えないものの、今度ばかりは他の町人たちは、その男の言葉を無視できないでいた。

 

 初めここに狼が訪れた時、彼はその背中の長物――朱塗りの大太刀――の他、一振りの打刀に、複雑な造りの絡繰り義手を持ち、また身体のあちこちに、本人の物か他人の物か分からない血を付けていた。ほとんど喋らないばかりか、時折口にするのは古めかしく、また童にしては小難しい言葉を紡ぐものだから、きっと面倒事を抱えているものと、皆、気味悪がっていた。

 

 炭十郎は、そんな彼らを、哀しそうな面持ちで見て、

 

「むしろこの子は今まで、よく手を上げなかったものだと思うんだ。葵枝から聞いた話だと、いつも相手にしないか、ちょっかい掛けられても逃げるだけだったって聞いた。今回は、この子の背中のソレに触れたのが悪かったんだよ。そもそも、もっと早く止めてやるべきだった」

 

 と述懐した。

 

 それは、押し付ける調子のものではなく、自然と湧き出たかのような語り口で、だからであろうか、炭十郎の言葉に反発を――言い出しの偏屈男でさえ――覚えたものは居なかった。

 

 差し当たってこの場では、小僧三人に重い怪我がないこともあり、厳しく取り沙汰されることもなく、お互い様として手打ちとすることとなった。而して、今後、狼が絡まれた際には素早く仲裁に入り、また背中の長物には触れさせないように他の者に言い含めておくとも折り合った。

 

 場がお開きとなったそのすぐ後。

 

「狼!」

 

 そこへ、少女が小走りでやって来た。

 

葵枝(きえ)

 

 炭十郎にそう呼ばれた少女――葵枝は、如何にも家族を案ずる様子で狼に近寄り、何事もないかと彼を矯めつ眇めつ診る。

 

「どこも怪我は無いわね?」

 

 狼の頬を両手で包んで、尋ねてやると、彼は見つめ返して否定しなかった。

 

「炭十郎が助けてくれたのね、いつもありがとう」

 

 と礼をして葵枝は微笑んだ。陽光さながらの白い肌に、紫水晶のような黒い瞳からの笑みは、流石、町で評判の器量良しと言われるだけはある。

 

 他方、狼のほうは、何やら負い目を感じてでもいるのか、面や眼を下げて顔に陰を作っていた。

 

「どうしたの、狼」

 

 それに気づいた葵枝が、彼の顔を覗き込む。

 

「多分、あの子たちと喧嘩したこと、気にしているんだろう。葵枝は普段から、乱暴は良くないって言ってたし、狼もそれを聞いた上で、今までできる限り、やり返したりしなかったんだろう」

 

 腕を組みながら炭十郎が言うと、

 

「まあ……」

 

 眉を下げて彼女は感嘆した。

 

 本当なの? と、彼女も少し頭を低めて狼と目を合わそうとすると、彼はより一層顔を俯かせる。

 

「良くないことをしちゃったって、思っているのね?」

 

 と問うと、僅かに狼は顔を上げた。張り詰めたようなしかめっ面が、今では緩んだ無気力な表情みたいになっていた。

 

 しばらく葵枝は、狼と向き合いながらの思案ののち、

 

「次は、上手く逃げられるといいわね。今までもできんだから、大丈夫よ」

 

 相好を崩して、狼の頭を撫でた。

 

「何だか、もうすっかり本物の姉弟だな」

 

 安堵の笑みで炭十郎が言った。

 

「ええ。こんな可愛い弟ができるなんて、神様には感謝ね」

 

 葵枝はふわりと笑いながら狼の頭を抱き寄せた。

 

 そうして二人はお互いに笑い合う。一方の狼のほうは、状況をはかりかねた様子でキョロキョロと視線をさまよわせていた。

 

 そのさなか、炭十郎を見ながら笑う葵枝の頬が、紅く染まっていたのを見た。

 

 狼の見てきた限りでは葵枝は近頃、時折ぼんやりと考え込むことがあった。炭十郎と会った後では、なおそうなることが多くなる。

 

 今だって、炭十郎に何かを言いたげで、しかし何と話しかけようか、言いあぐねている。

 

「じゃ、俺はもう行くよ。じゃあな、狼」

 

 と残して去ろうとする炭十郎の袖を、狼は掴んだ。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で振り返る炭十郎。

 

「ちょ、ちょっと、狼!」

 

 慌てて葵枝は離させようとするものの、狼は子供とは思えない力で握っていて、あまり無理に引っ張ったら炭十郎の袖が破けることもあるために、引き剥がせないでいた。

 

「ははは、参ったなぁ……。そうだ、狼、一緒に来てみないか? ちょっと退屈かもしれないけど」

 

 という提案をしてやると、狼は袖を掴む手をより強めた。

 

「ごめんなさいね、炭十郎」

 

「大丈夫だよ。葵枝も一緒にどうだ」

 

「わっ、私っ?」

 

 唐突な誘いに葵枝は目を丸くして自らを指差し、頬を染めながら上擦った声を上げた。

 

「あ、やっぱり忙しい?」

 

「う、ううん! 途中までなら、大丈夫!」

 

「そっか。それじゃ、行こう」

 

 そう言って炭十郎は、狼と並んで歩きだし、それを追って葵枝は二人の横に並んだ。その際、一瞬ながら、葵枝は狼と目が合った。そこはかとなく彼女は、狼に見透かされた気分で、ばつが悪く感じていた。

 

 この日爾来、狼は葵枝と連れ立っている時に炭十郎と会うと、必ずと言ってよいほど炭十郎にくっついて行くようになった。それに伴って葵枝も、炭十郎と一緒に居る時間が増え、而して、一緒に居るのに慣れたためか盛んに炭十郎に近寄るようになり、次第に親密な中になっていった。

 

 ある新年の始まり、狼と葵枝は、炭十郎に呼ばれて彼の住む山の家まで来た。

 

 炭十郎の家、竈門家に伝わる厄払いの神楽を、二人に見せたいとのことである。

 

 場所は、雪の降り積もる山の頂。円状に並んだ松明。火炎を模した模様があしらわれた舞装束に身を包み、柄尻にいくつもの鈴を下げ枝刃に紅い房の付いた木製の七支刀を持った炭十郎が居た。

 

「わざわざ来てもらって、すまないな」

 

「大丈夫。私も見てみたいって、思っていたから」

 

 炭十郎からの言葉に、葵枝ははにかんで返した。

 

「でも、よかったの? 家に代々伝わる神楽なんて、見せてもらって」

 

「別に秘密にしているわけじゃ、ないからな。むしろ皆にも見せたいくらいだけど、こんな雪が積もった夜更けの山の頂で、ひたすら同じような舞を見せるのも厳しいんじゃないか。それにこの神楽は、舞に合わせてする呼吸がどうも癖があるらしくて、真似しようにも真似できないんだそうだ」

 

 そこで炭十郎は、葵枝のそばに居る狼を見て、

 

「狼、大丈夫そうか。お前が見たいそうだって聞いていたけれど……、こんな中でずっと見てるのは大変じゃないか。辛かったらうちに入っていていいからな」

 

 案ずる調子で優しく声を掛けるも、狼はこれといって腰が引けている様子も見せなかった。

 

「そうか……」

 

 とだけ言って炭十郎は、炎と書かれた布作面で顔を覆い、並ぶ松明の円の中央へ歩いて行った。自身の立つ所の雪をよけ、深く息を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返す。それから、舞に至る際の祈りを捧げる仕草をする。

 

 やがて炭十郎は、やおら構え、そしてそれを――ヒノカミ神楽を始めた。

 

 間際、狼の耳に――炭十郎によるものだろうか――独特な呼吸音が聞こえた。

 

 それは如何に言い表そうか。とにかく、美しい舞であるとしか。

 

 火炎の揺らめきを模したのだろうか。悠然でありながら、烈しい。定まらずに揺曳するようでいて、自然の均しさを思わせる規則正しい動き。また、舞の至る所で見られる、振られる七支刀が残す円の軌跡が、日輪の円のように見えて仕方がない。

 

 それらの動きに合わせてなされている、炭十郎のする呼吸。これを聴きながら、狼は神楽に釘付けになっていた。

 

 ようよう狼は、聞こえてくる息の音を頼りに、炭十郎のする呼吸を模倣しだした。

 

「狼?……」

 

 おもむろに立ち上がる狼を、訝しげに葵枝は眺めた。

 

 ついには動きまでも覚えだしたのか、炭十郎の舞にまで合わせ始める。見てから後追いで真似する必要もなく、まさに寸分のズレもなく、合わせてみせていた。

 

 とは言え、狼には左腕がない故か、舞の動き自体には時折ひずみが現れており、さては、使っている呼吸が狼の身体に馴染んでいないからか、次第に舞と呼吸が乱れてゆき、ついには呼吸を荒げて地に手を突いた。

 

「狼!……」

 

 思わず葵枝は、強く声を上げそうになるも、炭十郎の邪魔をしてはならぬとできるだけ抑えて狼に駆け寄った。

 

 彼のこのような姿は珍しい。狼と言えば、暇な時は山の中に入って、斜面や木の間を――それもあの大太刀を背負いながら――駆け、飛び回って、そうしながらもあまり息を乱すことはなかった。そんな彼をここまで疲弊させるなんて、あの呼吸のせいか、はたまた舞のせいか。

 

 どちらにしても、

 

「狼には、まだ早かったのよ。それに、左腕が無くちゃ、踊るのも辛いでしょう。狼の持っていたあの義手も、まだ付けるには大きさが合わないだろうし。もう、うちの中に入ったほうがいいわ」

 

 葵枝が言い聞かせるが、変わらず狼は神楽から目を離さず、今度は、呼吸を形だけでも――やり方を身体に刻み付けようとばかりに――行っていた。最早、葵枝の声が聞こえているかも怪しい。

 

 差し当たり、炭十郎の母親が、狼のことは見ておくから、先に家に入ってるように葵枝に言った。葵枝は、大丈夫かと不安げだったが、流石に寒い中で疲れていたからか、炭十郎の母の言葉に従って竈門家に戻っていった。

 

 結局、狼は神楽が終わるまで、即ち一晩中まんじりともせずに見続け、夜を明かした。

 

 それだけの過酷な一晩を過ごしておきながら、狼は体の熱を冷やして命が危ぶまれるどころか、風邪すら引かずに翌日を何事も無かったかのように――むしろ以前に輪を掛けて逞しく――過ごした。

 

 そんな事があって、何年経ったか。

 

 葵枝は、無事に炭十郎と結ばれて竈門家に嫁入りし、男子と女子を一人ずつの二児を産み、先日には三人目を産んだところであった。その赤子には、まだ名前が付けられていない。

 

 狼も成長し、今ではあの義手もピッタリとその欠けた左腕に嵌って、動かすのに苦労はしていないようである。背中に負った風呂敷に包まれた大太刀も、相変わらず。

 

「ああ、狼、いらっしゃい」

 

 竈門の家の中から、件の赤子を抱いた葵枝が出てきた。

 

 今でも時偶、狼は、竈門家を訪ねる。家を出た姉、義兄、それと甥姪に会うためである。

 

 彼女に抱かれた赤子を、狼は見た。

 

「ええ。元気に生まれたわ」

 

 赤子に顔を寄せ、微笑んだ。狼はそれを眺める。

 

「ああ、心配しなくてもいいのよ。身体の調子は大分良くなったから」

 

 と頼もしい笑顔を、葵枝はしてみせた。

 

「それはそうと、狼。あなたもそろそろ所帯を持ったらどうかしら。それとも、一人の女に決めきれないのかしら」

 

 揶揄う調子で彼女は笑った。

 

 結婚し、子供を産んだからであろうか、元々静かなたちの彼女だが、今では更に落ち着きを持ち、物腰が柔らかくなっていた。

 

 

「まあ、狼には狼のやり方があるのだから、強いることは言わないわ。それに、炭治郎と禰豆子も、もう少し狼叔父さんと一緒に居たいだろうし。それに、この子も……」

 

 再び赤子に視線を落とす。

 

「この子、今日名前を付けるの。お七夜になるから」

 

 お七夜とは、赤子が生まれてから七日目の夜に行われる、無事に七日間生き延びた祝いと、今後健やかに育つを願う行事で、名前はこの時に付けるのである。

 

 昔は赤子の死亡率が高く、七日まではまだ現世の者ではなく神の子とし、無事に迎えた七日目で名前を届け、その地域の人々や産土神に報せたと言う。

 

「そこでなんだけど、狼、この子に名前を付けてあげてくれないかしら」

 

 唐突にそのような申し出をされて、狼は鼻白んだ。

 

「頼まれてくれないか、狼」

 

 そう言いながら出てきたのは、炭十郎であった。あの時の夜――ヒノカミ神楽を舞っていた夜と比べて、少しやつれたように見える。

 

「お前に重荷を背負わせるようで、恐縮だが、それでも頼まれてくれないか。勿論、こっちが大変な時に手を貸せとは言うわけじゃない。名付け親というのは、その子の後ろで見守ってくれる……謂わば守り神みたいなもの。狼みたいに強い人間が、そんな存在になってくれれば、きっとこの子も……勇気を持って生きていけると思うんだ……」

 

 そう語る炭十郎は、どこか儚げにその赤子に視線を降らせていた。

 

「狼、頼めるか」

 

 狼に視線を戻した炭十郎を見据えたのち、やおら狼は、赤子を抱く葵枝に歩み寄った。それから、その赤子を葵枝から受け任される。

 

 己の腕に抱く赤子へ眼を下ろす。静かに目を閉じて、穏やかに眠っているらしく見える。かすかに、か細い息遣いが聞こえる。それと、甘酸っぱい匂いが昇ってきている。

 

 狼は低く囁く声で、

 

「竹雄」

 

 呼び掛けるように、そう名付けた。

 

 それで目が覚めたのやら、ゆっくりと、竹雄と呼ばれた赤子は閉じていた目を開いて、不思議そうに狼を見つめ返した。

 

「竹のように、雄々しく。強く生きよ……、何処までも、真直ぐに……」

 

 その語り掛けを受け取るかのように、竹雄はその小さく短い手を狼の顔に伸ばし、何かを訴えているのか、

 

「あっ……、あっ……、うぅ……」

 

 しきりに声を上げていた。

 

 狼が顔を上げると、竈門夫妻は満足げに狼と竹雄を見つめていた。

 

「狼、お前は強い。お前の中に根付いたヒノカミ神楽を、きっと繋げてくれ」

 

「それと、青い彼岸花の場所もね」

 

 寄り添いながら微笑む竈門夫妻の姿が、狼の頭の中に焼き付いた。

 

 いつだったか、葵枝に連れられていった先に、何者かの墓があった。

 

 随分と古い墓で、すっかり苔生していて、長らく手入れがされていないらしかった。

 

 幾度か連れられてきたが、その周りには、大きな土筆のような物が生えているばかりで、何もなかった。しかし葵枝は、やけにその土筆もどきを気にしていた。

 

 ところが、ある来訪時、そこには華が咲き誇っていた

 

 それは彼岸花だ。青い、一分のくすみもない、見事な青の彼岸花であった。

 

 一瞬、似ているだけで全く別の場所に来たのではないかと思ったほど、そこの景色は一転していた。

 

 ありえないような、しかし美しい景色が、確かにそこに広がっていた。

 

 葵枝が言うには、そこの青い彼岸花は一年の内のどこかで数日間、昼の間だけ華を咲かせるのだそうだ。

 

 彼女はそれらを愛でながら、

 

 ――知ってる? 彼岸花が紅いのって、人の血を吸っているからなんですって。じゃあ、この青いのは、何を吸っているのかしら。

 

 冗談めかして、楽しげに笑っていた。

 

 そこで狼の思考は、今に引き戻された。

 

 目の前では相変わらず竈門夫妻が莞爾として微笑している。

 

「もしたとえ、私が居なくても、代わりにあなたが、あの子たちをあの場所へ導いてあげてちょうだい、……狼」

 

 と、葵枝は結んだ。

 

 腕の中の赤子が、泣き出した。その小さな身から飛び出たとは思えないほどに大きなその鳴き声は、辺り一帯どころか、この山じゅうに響き渡るほどであった。

 

 

 

 

『ヒノカミ神楽

 

 竈門家に代々受け継がれてきた神楽

 

 舞のようであるが、剣術のようでもある

 

 やけに生々しく記憶に残っているが、

 所詮は夢の中で見た、幻に過ぎない

 故に、現実で繰り出すのは、叶わぬ

 もし、会得したくば、本物のそれを

 目にすれば、よいであろう』

 

 

『青い彼岸花

 

 竈門家の家屋付近のどこかにある墓、

 その周辺に群生していた不思議な華

 

 彼岸花は子を残せない

 そんな性質が、似たような存在の

 影響を受けることがある

 

 彼岸花の紅色は、死人の血の紅色

 なればこの華は、何を吸い上げたか

 青ざめた血でも、吸い上げたか』

 

 

【彼岸花の解説】

 彼岸花は子孫を残すための種子が作れない。

 

 彼岸花の遺伝子は『三倍体』と言って、三つの遺伝子が重なり合っている構造をしている。通常、生物は交配の際に、自らの遺伝子を二つに割って交配するのだが、三つの遺伝子が重なっていると上手く二つに割ることが出来ないので、日本の彼岸花は子孫が残せない。

 

 これは日本に彼岸花が持ち込まれる時、選定されて持ち込まれたものがそういう遺伝子であった。そのため、日本の彼岸花は株分けされて増やされた。

*1
差別用語のためルビ無し



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。