オールウェイズ・フォーカス TSした酒クズ先輩に童貞を奪われる話 (ふえるわかめ16グラム)
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TSした酒クズ先輩に童貞を奪われる話

精神的BLを投稿するにはどこがいいのか彷徨い続けて初投稿です。

※3/23 誤字と時系列を修正しました。内容に影響はないはずです。



 大学一年生のとき、僕は一枚の写真に恋をした。

 

 食堂に貼り出された写真サークルの展示のなかで、ひときわ目立つA0判のパネル。なんてことのない、この街の一部を切り取った作品だったが、すべてが完璧だった。目の前に立った瞬間、下腹部に鉛玉を落とされるような衝撃が僕を襲った。

 

 どんなトリミングもレイアウトもしてはいけない。どんな書体も乗せられない。グラフィックデザインを志したばかりの初学者である自分ですら直感で理解した。

 しばらく、パネルの前で惚けていると、ビラを持った上級生らしき男が話しかけてきた。

 

「きみ一年生? この写真すごいでしょ。ウチの二年が撮ったんだよ。おーいセンパイ、こっち来い。お前のファンだぞ」

「マジすか部長! えっへっへ、なんか照れるっすね」

『センパイ』と呼ばれた男は金髪で、耳たぶを貫通するプラスチックでできた紫のピアスをつけ、やんちゃそうで、しかし親しみやすい笑みを浮かべた人だった。

「どうも、情報工学科のセンパイです」

 展示された作品と人間のギャップに、思わず眼鏡のポジションを調整しなおして返事をする。

「あっ、デザ科一年の、女ケ沢です」

「んー、女ケ沢くんか。ニコン使ってんの?」彼はニコニコと人好きのする笑顔のまま、僕の肩にかけたカメラバッグを指差す。

「あ、はい。父のお下がりですけど……」

「よっしゃーじゃあ、きみこれからメコンくんね。部長ォー! この子メコンくんです!」

 彼はガバリと先ほどの上級生の方を向き声高々に宣言した。

 これが僕、女ケ沢誠こと『メコン』と『センパイ』との出会いだった。

 

 

 ****

 

 

「センパイさーん、あーそびーましょー」

 大学三年の五月頭、連休も終わって初夏の様相。僕はセンパイさんのアパートの部屋の呼び鈴を鳴らし、執拗に声をかけている。

 というのも、彼はこの三日間ほど音信不通状態だからだ。学科やサークル室にも顔をださず、メッセージには既読もつかなければSNSの更新もない。もともと破天荒なところがある人なので、やれ「バックパッキングに出かけた」やら「インドに自分探しに出た」やら「謎の組織に拉致られた」などと冗談を言い合っていたが、いよいよ心配になり駆けつけた次第である。よくよく見てみると彼の原チャリは置いたままだし、電気のメーターは動いているので、アパートにいる可能性は高いだろう。野たれ死にしかけているパターンも考えて、いくつか差し入れも買ってきている。もし本気で死にかけてたら滅茶苦茶に恩を売っておこう。そんな、楽観的すぎる心持ちで声をかけ続けていた。

 

「僕車で来てるんで、ラーメンでもいきましょうよー」

 

 駄目押しのベルと声がけをする。

 果たして。軽い足音と解錠の音がすると、ゆっくり、控えめに扉が開く。今日は快晴のため、電気のついていない部屋の中が黒く切り取られたように見える。センパイさんがちゃんと生きていたことに少しだけ安堵した僕は、いつも通りに声をかけようとした。

 

「センパイさん生きてたんす……ね……?」

 

「うおぉーメコンじゃん。どした。まあ入れよ」

 

 僕の予想に反して、隙間から顔を出したのは、見知らぬ女の子だった。

 頭頂部が黒くなった金髪——いわゆるプリン頭——のセミロングに、いかつい拡張したピアス。そしていつもセンパイさんが部屋着にしているオリオンビールのTシャツを着た女の子は、外が眩しいのか眉間に皺をよせ顔をしかめている。

 というか誰? 女の子? あの人の彼女さんか?

 

「えっあっ、あれっ? センパイさんいらっしゃいますか……?」

「ああん? おまえの目の前にいんだろ、寝ぼけてんのか? ンンっ、なんだ、声変だな。体ダル……」

 

 センパイさんの部屋から現れた女の子は、僕が入りやすいように扉を開け放ち、咳払いをしながら部屋に戻って行く。

 

「もしかして、センパイさんの彼女さんですか? あの、なんかすみません……」

 僕は、なぜかいたたまれなくなって、とっさに謝っていた。だってしょうがない。呆気にとられていたせいでよく見えなかったが、彼女、シャツの下ノーブラだった。今の僕絶対にお邪魔虫でしょ。

 

 そんな僕の態度が気に入らなかったのか、彼女は呆れた色の滲む声音で続けた。

 

「だー、メコン、お前どうしたよ。どっからどう見ても愛しのセンパイさんだ……ろ……」

 

 両手を上げてくるりと一回転してアピールする彼女だが、どうやら脱衣所の鏡が目に入ったらしい。わざとらしい大げさな動作で、両頬を引っ張っている。まるで、夢かどうかを確かめているようだった。

 

「あ、あの——」

「なんじゃこりゃあ!!!!」

 

 大きな瞳をひん剥いて、彼女は絶叫した。

 僕はビビった。

 

「うげぇっ! なんだこれ、女になってる!? んんん? メコン、大変だ。おっぱいがついてるぞ!」

「やべえよやべえよ、なんだこの状況……」

 

 自分のことをセンパイさんだと言い張る黒と金二色頭の女の子が、自前の胸を揉みしだきながら眼前に迫る。股間を改めながらズカズカと歩み寄る彼女は、息がかかるくらいの距離で立ち止まり、僕を見上げて言った。

「マジかよマジかよチンコがねえ。どっかに置き忘れたか? まあいいや、ほらメコン、おっぱい揉んでみろ。本物だ」

 

 玄関で立ち惚ける僕の腕を掴んだ女の子は、そのまま僕の手を自らの胸に当てた。

 

「ファッ」

 

 ……そう。僕はどうしようもなく童貞だった。

 

 

 **

 

 

「つまり、センパイさんは三日前、しこたま飲んで寝て、目が覚めたら女の子になっていたと」

「いやー飲みすぎてそれくらいしか覚えてねえな、ワハハ! うわ、めっちゃ通知溜まってんじゃん」

 

 自称センパイさんの彼女は、充電器に繋いだことで復活したスマホの画面を見て笑う。確かに、この笑い方に、ころころと話題が移り変わっていく感じ、センパイさんっぽい。彼女はスマホをアンロックすると、また笑い声をあげる。

 

「おーおーおー、なんか時間が新しくなるとみんな心配してきてるね。あははウケるー」

 

 ん、今、指認証でスマホをアンロックした? このスマホ、どこからどう見てもセンパイさんのだ。サッポロ黒ラベルのラベルをホーム画面に設定している人を僕はあの人以外に知らない。

 

「あの、そのスマホ、全部使えます? アンロックとか、アプリのダウンロードとか」

「ん? 今使ってんじゃん。ホラ。全部うごくよ」

 

 彼女の小さな手の中で、シュパシュパと軽快に動作するスマホを見る限り、どうやらこの端末は持ち主を本人だと認めているらしい。

 

「あの、じゃあ、センパイさんの誕生日、血液型、好きなもの、お気に入りの体位わかりますか」

「メコンもしつこいなあ。十二月十二日生まれのB型、好きなものはおビール様、好きな体位は基本の正常位!!」

「完璧センパイさんじゃないっすか」

「だから言ったべ」

 彼女の、少し拗ねたような甘ったるい声が鼓膜を震わせた。

 

 

 この受け入れがたい現状を無理やり飲み込んだ僕は、ベッドでゴロゴロとくつろぎ始めた彼女を視界に入れないよう心がけながら提案した。

「ところで、センパイさん、この状況どうしますか。病院行った方がいいんじゃないですか?」

「おっいいね。一緒に頭の病院行くか? 頭以外なら何科かな。とりあえず総合病院かな」

 

 センパイさんは基本的にフィーリングで生きているが、まともな時は驚くほどまともだ。確かに、酒飲んで寝たら女になりましたとか頭が悪すぎる。病院から叩き出されてもおかしくない。

 

「そっすね。頭おかしいって言われるのが関の山ですよね」

「いや行ってみないとわからないだろ」

 

 ……そしてなぜか食いついてくる。センパイさん、掌を返しすぎてクルックルですよ。情緒不安定なのかな?

 

「わ、わかりました。僕今日車で来てるんで、病院まで送迎しますよ」

「やりー助かるわ。帰りに泡盛買ってあげよう」

「いらねっす」

 

 しかし、三年間一緒に遊んでいるので、あしらい方は身についている。ここは話題を変えるに限る。この感じだといつも通りふざけてるだけみたいだし。

 

「そういやセンパイさん、ずいぶんと縮みましたね」

「おっそうか? ほんとだ、メコンがでかい」

 僕の身長は一七〇センチちょうどだが、今のセンパイさんは僕の目線より拳三つくらい下にいる。もともと一七五センチあったとは到底思えない。彼女はベッドから立ち上がると僕の横に並び、身長差を確認し始めた。

「だ、だいたい、一六〇センチないくらいですか?」

 身内以外の女性と縁遠い僕は、不意打ち気味にセンパイさんと密着したことによって硬直する。できれば前かがみになりたい。何がとは言わないが、鎮まりたまへ……。これはセンパイさんだぞ……気を確かに持つんだ、僕。

「そんぐらいだな! おもしれー、カメラでっかく感じる」

 

 そんな僕の気も知らず、センパイさんはカメラを手にとってはしゃいでいる。

 現在のセンパイさんの背格好をまとめると、身長は一六〇センチほどで、髪が伸び見事なプリン頭だ。服装は普段からオーバーサイズなオリオンビールのTシャツがさらにオーバーなサイズでワンピースのようになり、下半身はボクサーブリーフだけを履いている。肌は健康的な白さが眩しく、どちらかというと幼い顔つきに、0Gまで拡張した両耳のピアスが倒錯的な雰囲気を醸し出している。

 

 そして、もちろんノーブラだった。

 

「センパイさん、服とか、どうしましょうかね……?」

 なるべく直視しないように、顔をそらして伺う。

「なんだおめー気持ち悪い顔して。しゃーないから元カノの忘れ物でも着るわ」

 

 センパイさんはそう答えると、男の一人暮らしにしてはよく整理整頓されたクローゼットから中型の衣装ケースを取り出す。蓋の部分にはガムテープが貼られ、上から「レガシー」と書かれている。さすがセンパイさん、ケースが埋まるくらい経験があるのか。先ほどの素っ頓狂な悲鳴を思い出し赤面する。

 

「これ全部一人分だよ。あいつ来る度に忘れ物して、いつか返そう返そうって思ってる間に別れちった。洗濯はしてあるし、お泊りセットを拝借しよう」

「なるほど」

 見透かされていたようだ。

 センパイさんは箱に手を突っ込み、しばらくモゾモゾしていると「君に決めた!」と叫び一セットの下着を引っ張り上げた。

 淡いピンク色の、部分部分にレースやリボンがあしらわれた可愛らしい下着だった。

 

「うげー、これ着けるのぉー?」

「こっちみんな」

 なんでこっち見て言うんですか。そんなパンツ広げて見せつけるとかただの痴女でしょいい加減にしなさい。

 しかし、よく他人の下着つけようと思うなぁ。元とはいえ、彼女さんのだからそうでもないのか? 僕にはわからない……。そして、重要なことに気が付いた。

 

「あっ、でもサイズが違うんじゃ……」

「……あ」

 悲しげな顔をして、彼女は自分の胸を揉んだ。

「あぁーなるほどですね」

 

 僕はとりあえず、合掌した。童貞の僕でもわかる。デカイやつだ。

 

「い、いや、まだわかんないじゃん? シュレディンガーのおっぱいだ!」

 言うが早いか、センパイはシャツの裾に手をかけ、一気に脱ぎ去った。

「ウワーッ!」

 僕は急いでトイレに駆け込み叫ぶ。

「着替え! 終わったら呼んでください!」

「おーすまんすまん。いつもの癖で」

 バカじゃないの!? 一瞬だが、しっかりと見えてしまった! クソが! 形のいいお椀型だったのがなんか悔しい。

 彼女に悪気はないのだろうけど、とても心臓に悪い。お陰様で脳裏にセンパイさんのおっぱいが焼き付いてしまった……。そして、自分のクソ童貞ムーブにひとしきり凹んだ頃、トイレの外から声がかかった。

 

「よーし着替えた! もういいぞ!」

 僕は念のため一気に開かず、何段階かに分けて、そろりとドアを開けた。

「思ったより普通っすね」

 センパイさんは無地のTシャツの上に、これもまた忘れ物なのだろう女物のパーカーを羽織り、ワークタイプのハーフパンツを履いていた。

 

「サイズが合わなくてこれしか着れねえんじゃ……」

 いつもニコニコ元気印なセンパイさんが珍しくしょげかえっている。しかし、急に女の子になったのだ、さっきまでの元気さ、呑気さの方がおかしいと思う。

「まあしょうがないんじゃないっすかね。結局、下着どうしたんすか」

「乳首が浮かなきゃいいんだろ。バンソーコー貼っといたわ。下はボクサーのままにしといた」

「バカかな?」

 そんなのダメに決まってるでしょ。本気でやってる人初めて見たわ。いや、直接見たわけじゃないけど、色々言いたいことがあふれている。

「よせやいあんま誉めんなよ。あとは、病院か。保険証、免許証、学生証、健康診断の結果……。ダメだな。信じてもらえる気がしねえ」

「なんもないよりマシっすよ。あとセンパイさん、これどうぞ。お腹空いてません?」

 そうして僕は、今まで忘れていたものを手渡す。コンビニの袋に入ったゼリーのパウチとおにぎり、ミネラルウォーターだ。勝手に色々と話を進めていくものだから、すっかりタイミングを見失っていたのだ。多分だけど、この人普通に何も食べていないはず。ぶっ倒れていたと聞いているし、事実シンクも直近で使った跡が無い。

 

「おー気がきくねぇ、よくできた後輩だぁ! ありがたくいただきます」

 すると彼女は屈託無く笑い、恭しく僕から袋を受け取った。常々思うが、センパイさんはこういう時爽やかで、なんだか少しむず痒い。

 

「車、そこのパーキングに停めてるんで、ちょっと取ってきます。そのあいだ、食べれるものから食べててください」

「了解ー」

 

 なんだか逃げ出すような気持ちで部屋を出てパーキングへ向い、アパートの前に停車してセンパイさんを待つ。少しの間スマホを弄って待っていると、センパイさんが部屋から出て来た。慣れた手つきでドアを施錠すると、いつものように助手席へ収まる。その表情は明るく、この非日常を楽しみ始めているようにも見えた。

 

「おまたせ、メコンくん。車の助手席に女の子を乗せた感想はどうかな、ええ?」

「センパイさんだと思うと、特に、何も。なんだか事実だけが汚された感じっすね」

「ワオ、詩的」

「そんじゃ、行きますか」

 

 

 **

 

 

 病院の自動ドアから吐き出された僕たちは、少し傾き始めた太陽が照らす街を一瞥し、二人して鼻で笑った。

 

「なんか、怒涛の一日でしたねぇ……」

「そうだなぁ……。俺、女になっちゃってたなぁ……」

 

 病院では、なぜか全てが順調に進んだ。採血やレントゲン、様々な検査の結果、性別だけが丸っと変わってしまっただけらしい。しかも心身ともに健康そのものとのお墨付き。

 明日は役所や学校に行って諸々手続きができるとまで言われた。なんだそれ。僕たちの知らない間にそんな性別が奔放な世界になっていたのか? お医者さんも「男女問わず最近稀によくあるんですよー」と笑っていた。絶対嘘だろ。僕の隣ではセンパイさんが「いつのまに人類はオキナワベニハゼに進化したんだよ」とわけのわからないことを呟いている。頭おかしくなりますよ。

 

 まあ、何にせよ、このプリン頭でデカいピアスの空いた女の子がセンパイさん本人であると証明されたわけだ。あとは、この人の身辺を整えなければ。そうと決まれば、もう一踏ん張りといこう。そう僕の中で決心した。

 

「とりあえず、しまむらでも行きますか」

「えっしまむら!? なんで! やだ!」

「この時間から車でいけるとこそこくらいしかないっす。しまむらなら下着も靴も全部揃うじゃないっすか」

「確かにそうか。取り急ぎだしな」

 

 センパイさんは根拠があると一瞬で意見を変えるタイプだ。返す手首が緩すぎる。パーツが劣化したガンプラの手首並みにユルユルだ。

 

「そしたらラーメン行きましょ」

「俺二郎系がいい」

「その体でぇ? 絶対残す」

 

 

 **

 

 

 そうして国道沿いの大型店にたどり着いた僕らだが、センパイさんは土壇場で再び嫌がり出してしまった。何が「なんかやだ! 中学生じゃん!」だ、乳首に絆創膏貼ってる奴に人権は無い。それに今じゃ僕の方が高身長なのだ、首根っこを抑えて手頃な店員さんに突き出した。観念したまえ。

 

「店員さん、この子の下着一式おねがいします」

「ウオーッ! お前この! 裏切り者! こんなの聞いてない!」

「ハーイじゃああちらの方でサイズお測りしますねー」

 

 やっぱりどのお店でもおばちゃん店員は強いんだなーと思いつつ、抵抗むなしく連行されるセンパイさんを眺める。これが普通のお店だったら、多分あの人は変なところに拘って、無駄に時間がかかっただろう。しっかり女の子になっておいで……。

 そうやって別れた後、しばらく服を眺めていると、センパイさんが買い物かごを持ってズカズカ戻って来た。

 

「Cのアンダーが65でした!!」

 なぜか達成感に溢れた顔で宣言する。結構声量が出ていて、周囲のお客さんが胡乱な視線を向けてきた。クッソ恥ずかしい。

「はあ……?」

「なんか言うこと無いのかよ童貞」

「えっなんですか、なんで僕ディスられてるんですか」

「うるへーほら必要なもの買うぞ」

 

 なるべく無難な、着まわしに困らないようなブラウスやカットソー、スキニージーンズを中心に、いくつか服をカゴに放り込んでいく。そこで、ふと思いついたことを聞いてみた。

「センパイさん、スカートは履かないんですか」

「えっお前、俺がスカート履いてるとこ見たいの……?」

 キョトン、といったオノマトペがしっくりくる表情で僕を見上げるセンパイさんと目が合った。するとだんだん、頭の中に男だったセンパイさんが蘇ってくる。

 しまった。これは、失言だった。

「すみません想像しました、やっぱり結構です。あまりのおぞましさに五秒前の僕をぶん殴りたいです」

「なんかよくわからないけどおまえのことぶちころがしたい」

 

 僕の脳裏に、さっきのキョトンとした彼女の顔がこびりついている。よく見れば以前の面影が残る瞳に浮かんだ、失望と悲しみの色。

 すこし、胸がちくりと痛んだ。本来は僕が少し見上げる側だったのに、今じゃ僕が見上げられている。あまりにいつも通りのセンパイさんだったから、いつも通り、デリカシーに欠ける振る舞いをしてしまった。僕は、「この人はエキセントリックだから」と理解を拒んで、胡座をかいていたのか? と自責した。

 

 そんな、しみったれた後悔を抱えたまま、僕たちは買い物を終えた。二人で大きな買い物袋を持って、僕の親から引き受けたお下がりのボロ車まで戻ってきた。

 僕がリアハッチを開け、彼女から袋を受け取りながら切り出した。なんとなくよそよそしくなってしまった空気を変えたかったのかもしれない。

「結構な量になりましたね。車でよかった」

「ほんとなー。出費が痛いわー。でもしまむらめっちゃ安い」

 袋から解放されたセンパイさんが、手を頭の後ろに組んで駐車場の小石を蹴飛ばす。その声音はいつも通りのトーンに聞こえる。——今までとはかけ離れた女の声だが、なんとなく、いつも通りに聞こえた。

 

「思ったより安かったすね」

「なー」

 狭いラゲッジスペースにパンパンの買い物袋を押し込むと、僕たちはそれぞれの座席に乗り込んだ。ペラペラのドアを閉めれば、若干ながら国道の騒音が遠のく。僕の隣で、センパイさんが小さなため息を一つつくと会話を再開した。

「ちょうど晩飯時だな」

「そうっすね。どうします?」

「あの国道沿いの新しいラーメン屋行きたい。メニューに二郎系がある」

「えぇーほんとに食べるのぉ? 残したりしません?」

「いや余裕っしょ! 自信しかない」

「んじゃあ僕普通のでいいや。あ、センパイさん、飯食うときこれで髪結ぶといいっすよ」

 僕はそう言いながら、あらかじめ買っておいたヘアゴムを手渡した。

「おーありがとう! で、どう使うん?」

「あ、そうか。センパイさん、あっち向けます?」

 僕は助手席側の窓の向こうを指差す。

「こう?」

 彼女はくるりと体の向きを変え、僕に背を向けた。僕はいつもの感じで髪の毛を手に取り、頭の後ろで一つ結びにする。就活を音速で終えたセンパイさんは、黒髪に戻したと思ったらすぐに金髪に染め直していた。そのせいか、毛先のダメージがひどいことになっている。

 

「……なんかメコンくん手慣れてない?」

「あー僕すこし離れた妹いて、昔よく髪結んであげてたんすよ。というかセンパイさん、金髪部分ダメージやばすぎでしょ。犬みたい」

「なるほどなるほど。ワン! ワンワン!」

 犬みたいという言葉に反応して、急にはしゃぎ出す。やっぱこの人情緒不安定なのかな。

「ほらポチ、お手!」

 思わず右の手の平を差し出した。

「アァオン!」

 センパイさんが思いっきり僕の手を叩く。狭い車内に、パチンと破裂音が響いた。そしてめっちゃ痛かった。

 すっかり元どおりになった僕たちがしばらく車内でゲラゲラと笑いあっていると、二人の腹の虫がクレームを入れる。僕たちは顔を見やると、ようやくエンジンをかけて食事へと向かった。

 

 

 

「この体マジで全然入ってかねぇ……メコンくんパス……」

「やっぱり全然食えてねえじゃん! だから言ったでしょこのアホ!」

「ひええ、ごめんなひゃい……」

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 今では肩身の狭い喫煙者たちの憩いの場、それは喫煙所。昨今急激に禁煙・分煙がすすみ、喫煙できる場所も少なくなってきた。我らが学び舎も例外ではなく、学内の喫煙所は廃止に次ぐ廃止だ。

 しかし、このキャンパスには一箇所穴場的な喫煙所がある。増改築を繰り返し、迷路のようになった屋外階段の先、教職員用の駐車場の脇にある喫煙所は、有志たちの手によってソファやベンチなどの設備が充実していた。アクセスの悪く、目立ちにくい場所なのでいつも閑散としているが、ゆっくりと喫煙を楽しむにはもってこいの場所だった。一日の講義を終えた僕は、サークルに顔を出す前に一服しようと、その喫煙所を訪れた。

 

 そんな喫煙所で、金髪の女の子が死んだ顔で紫煙をくゆらせていた。雨ざらしの椅子と融合するんではないかという勢いでとろけて、だらしなく開いた口から紫煙がモワモワと漂い出ている。

「センパイさん……。どしたんすか、顔死んでますよ」

「おー、誠くんじゃあないか。ヘイラッシャイ。聞いてくれるかい?」

「まあ、いっすよ」

 僕が声をかけると、待ってましたとばかりに両手を叩いて語り始めた。

「内定先にこのこと話したら、そんなバカなことがあるかって内定取り消しになったんじゃよ……。マジでふっざけんなよ……」

「あちゃー」

 この金髪拡張ピアスの女の子はセンパイさん。僕のサークルの先輩で、写真の天才だ。もともと男性だったが、つい先日なぜか女性になってしまった。原因は酒の飲み過ぎでよくわからないらしい。

「あ。ほらほら、免許証と学生証見てみ。全部写真かえてもらったわ」

「へーこんなことできるんですね。更新とか以外で」

「いや、それがよくわからん……?」

「わからん?」

 この件以来、不思議耐性がついてしまったのか、脳みそが真面目に情報を処理してくれないので、まあそんなもんか、と済ませてしまう。

 

 ——あーセンパイさん、髪染め直してる。

 

 髪の毛のダメージが激しい部分をバッサリ切ったためか、髪型がショートボブになっている。この人がこういう格好をするとすこぶる良く似合うんだ。黒子の位置や整った鼻筋にこれまでの面影を見る。なんだかんだ馴染んでいておもしろい。

 

「なんだよぉ、もしかして惚れちゃった?」

「い、いやあ滅相もない。というかセンパイさん化粧してます?」

「さっきサ室行ったらさ、ベンジーちゃんに襲われちゃって……」

 

 センパイさんは遠い目をする。どこか遠くを眺めるその瞳には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。なお、ベンジーちゃんとは、同じサークルの後輩の女の子である。椎名林檎が好きと自己紹介してきたので、みんなでベンジーと名付けた。こんな具合に、それぞれあだ名がついているため、場合によっては本名を知らない部員が居たりする。おそらく一年生の何人かは僕のフルネームを知らないだろう。

 

「なんか疲れたわー。メコンくんはこれからどうすんの? ウチくる?」

「いや、ちょっとサークルに顔だして来ます。来月の展示会のやつ現像したいんで。終わったら行きます」

「あーそういえばそんな時期か。俺のやつまた選ばれないんだろうなぁ」

 センパイさんは写真の天才だ、それは疑いようもない。シャッターを切れば、路傍の石ですら完璧な作品にしてしまう。ただ、本人曰く、気合いを少しでも入れると全然ダメダメになってしまうらしい。センパイさんは大学から始めたせいで基礎がないんだと自嘲するが、彼が気まぐれで取る写真は全て美しかった。たとえ同じカメラ、同じ設定、同じ場所、構図で撮影しても、なぜか雲泥の差が生まれる。そして、僕は彼の写真に追いつこうとあがき、知識や技術を蓄えるほどに遠ざかる。まさに天賦の才。恨むべきは、クオリティーのブレ幅が酷すぎて、職業カメラマンとしては絶望的だということだった。

 

「いつもの感じで撮れれば無敵なんですけどねー」

「ダメな時は何千枚撮ってもダメなんだよなー。ん、じゃあ俺帰るわ。また後で」

「うっす。お疲れ様です」「おつかれー」

 大学生の挨拶は基本「お疲れ様」である。朝だろうが夜だろうがお疲れ様。疲れてなくてもお疲れ様。乾杯の音頭もお疲れ様である。万能か。

 僕は彼女の去った喫煙所で、吸いかけのたばこをもみ消した。

 

 

 

「お疲れ様でーす。お邪魔しまーす」

「はいはいいらっしゃい」

 なんだかんだ暇があると、こうやってセンパイさんの部屋にお邪魔する。気がつけばそうなっていたし、これからも変わらなさそうだった。ただ、ふと疑問に思うこともある。今まで、どうやってセンパイさんは女の子と付き合っていたんだろう。鉢合わせたことすらないのが謎である。

 

 そして、彼女の根城に足を踏み入れた途端目に飛び込んできたのは、人をダメにするソファでダメになっているセンパイさんだった。

 

「まーた昼間っから酒飲んでるんすか」

「晴れた日に昼間から飲むビールは最高だな!」

 

 僕は大きくため息を吐き、彼女を見据える。

 

「大筋同意っすね!」渾身の笑顔にサムズアップを添えて。

 

 かく言う僕も、だいぶこの人に毒されてしまっている。この前高校の同級生と飲みに行ったら、哀れみの表情で「なんか変わったね」と言われた。余計なお世話である。

「そういやさ、こうなってからコンビニでもなんでもすぐ年齢確認されんの。あと夜中歩いてるとめっちゃ補導されかける」

「マジすか。あ、いや。納得ですね。どう見ても不良少女っすもん。でも、免許証変わったならこれから楽じゃないすか」

 

「と、いうことで」

 いままでだらだらしていたセンパイさんが急にすっくと立ち上がり、右腕を頭上高く振り上げ宣言した。

「イクぞ誠くん! パイセンと行くおビールの旅! 年確なんて怖くないぞ編! はじまりはじまり!」

「イエース! はやくおビールちゃん達に会いたいゼ!」

 

 なにせ明日は土曜日だ。遠慮はいらない。

 僕たちのボルテージはうなぎのぼり、誰にも止められない。止められるもんなら止めてみろ、ビールのもろみにしてやる。

 

「んで、どこ行きます」

「近いしいつものとこでいいだろ」

「ウッス」

 

 

 **

 

 

「イラッシャッセーイ! お客様何名様ですかー?」

「「二人でーす」」

「お二人様ですねー! 奥の小上がりの席どうぞー!」

「「ありしゃーす」」

 

 そういうことで、僕たちは近所にある行きつけの居酒屋にやってきた。なかなか早い時間から営業しているので、いつもお世話になっている。この前は初対面のインド人留学生とアダルトゲームについて語り合った思い出深い場所だ。

 

「あーどっこいしょー」

 掘りごたつの席に着くと、センパイさんが大儀そうに唸り声をあげて着席する。

「……その見た目でその感じ、ヤバイっすね」

「どう? 何かに目覚めそう?」

「いやーキツイっす」

 

「「ガハハ」」

 

 僕らは部屋でビールを一本ずつ飲んできているので、しっかり暖機運転は済んでいる。

 

「すみませーん! 注文お願いしまーす」

「ハーイ只今ー!」

 センパイさんが店員さんに声をかける。彼女が声を張ると意外にアニメ声だ。狙ってやってるのだろうか、だとしたらあざとい。

 ほどなくして店員さんがオーダーを取りにきた。

 

「お伺いしまーす」

「えーと、生ジョッキ二つ、甘エビの唐揚げ一つ、枝豆一つ、あと何かいる?」

「とりあえず以上で」

 二人とも酒が入るとあまり食べられないタイプなので、軽いおつまみだけで様子を見る。僕がいつも通り注文を終えようとすると、店員さんが眉尻を下げながら切り出した。

 

「えーと、お客様、恐れ入りますが年齢の確認できるものはお持ちでしょうか?」

「ホイ来た! 免許証を守備表示で召喚!」

 センパイさんまさかの掛け声で免許証を差し出す。

「……ハイ。ご協力ありがとうございます。少々お待ちください」

 あんなに元気のよかった店員さんから覇気が消えた。なんだか申し訳ないことをしてしまった気がする。

 そんな僕の思いをよそに、彼女は満足そうな顔でラッキーストライクにジッポーで火をつけた。無駄に今のビジュアルにしっくりきている。

 

 薄い桃色のリップを塗った唇とラッキーストライク。なんだか、とても絵になる。

 というか、ぶっちゃけ今のセンパイさん僕の性癖ドンピシャなんだよなあ……。

 色落ちした太めのジーンズにゆったりしたボーリングシャツを着て、古着のベースボールキャップから脱色を重ねた金髪が覗く。得意げにたばこを咥える口元と、拡張したピアスがエロい。

 ……そんな、思いはしても決して口に出せないことを考えていると、センパイさんが深刻そうに眉間にシワを刻んで切り出した。

 

「……もしかして攻撃表示のほうがよかったかな」

「……守備表示で正解だと思いますよ」

「やっぱり?」

「あおり運転は犯罪っすから」

「「ガハハ」」

 

 適当かつくだらないやり取りでひとしきり笑うと、僕もたばこを咥える。そして、火をつけようとして気が付いた。ライターがない気がする。

 完全に忘れてきた確信があるが、一縷の望みをかけて身体中のポケットをまさぐっていると、テーブルの向こうでセンパイさんが身動ぐ気配がした。

 

「火ィかしてやんよ」

「あざっ……す」

 

 僕が顔を上げると、目の前にセンパイさんがいた。

 驚いて固まっていると、僕が咥えているたばこの先端に、彼女のたばこがくっつく。彼女は目で訴える。『吸え』と。

 ハッと我に返ってゆっくり吸い込むと、彼女のラッキーストライクから火種がじわりと僕のたばこへ移っていく。数回息をふかすと、やがてしっかりと燃焼を始めた。

 

「あ、ありがとうございます……」

「これやってみたかったんだよねー! 男同士でやってもムサいしさ、今がチャンスかと思って!」

「たっ確かにそうっすね……へへ……」

「ハーイ生ふたつお待ち! こちら本日のお通しでーす!!」

 先ほどの店員さんにも覇気が戻ったようだ。

 よかったよかった。

 

 

 **

 

 

「だからあ、なんでみんなセンパイさんのすごさが分かんないんすかね! 僕ね、このサークル入ったのセンパイさんの作品にあこがれて入ったんすよ! それなのにほかのみんなぜんっぜんセンパイさんの作品の良さがわかってない。とくにあのデブ、自分がボンボンで機材いいからって調子乗ってんすよ」

「ああー誠くんかわいいねえそうやって褒めてくれるの君だけだよほんとかわいいちゃんだなあ! ほらおビールお飲み」

「もうほんと最高なんすよお。ほんと、最アンド高。僕なんかじゃうんこマンだもん」

「そりゃうんこに失礼だろ」

 

 もう飲み始めて四時間くらい経つ。めちゃくちゃだ。

 

「あーそうだ、センパイさん。僕アイパッド買ったんすよ。そんでライトルーム入れてみました」

「マジでー? どんな感じー?」

 僕は持参のタブレットを彼女に渡した。

 画面を撫でる細い指先を目で追いながら、心地よい酩酊感を覚えた。僕はふと口さみしさを感じ、たばこの箱を手に取るが、中身はもうない。どうやら、センパイさんもすでに吸いきっているらしい。まいったな。もうそろそろお開きかもしれない。いやだなあ、帰りたくねえ。

 

「いや、これ俺には難しそうでむりだな!」

「ぜったい嘘だー。……たばこもないし、お会計しますー?」

「あー、飲み足りねえし、ウチで飲むか!」

「マジっすかー。うーん……オッケーでーす!!」

 

 おけまるでーす。異存ありませーん。

 

「すみませーん、お会計おねがいします! メコンちゃん、これで会計頼むわ。俺ちょっとおトイレ」

 センパイさんが会計の旨を店員さんへ叫ぶと、机に万札を一枚置いて席を立った。

「了解っすーお気をつけてー」

「あぁー世界がまわるぅー」

 ふらふらとお手洗いに向かうセンパイさんの背中を見送ると、店員さんが伝票を持って来た。

「あざーっしたーこちら本日のお会計でーす!」

 

「これで、お願いします」

 万札を渡して、会計を済ます。

「ありゃーす! またお越しくださいませー!」

 

 会計後、バッグやスマホなどの忘れ物がないか確認していると、ずいぶんお手洗いにしては時間がかかっていることに気がついた。

「なんだべ。センパイさん遅いな」

 確かこのお店はお手洗いが個室一つだけで、今のところ出てきた形跡はない。少し心配になり、様子を見に行くことにした。個室のドアを、おぼつかない手でノックする。

「センパイさーん、だいじょうぶっすかー? 生きてますー?」

 するとすぐに、水を流す音が聞こえた。そこからちょっと待つと、ドアが勢いよく開く。その向こうには、拳を突き上げたセンパイさんの姿があった。

 

「なにしてんすか。帰りますよぉ」

「全部出した! まだ飲める!」

 口元をティッシュで拭いながら言う。どうやらゲロってたらしい。

「いいぞ! 古代ローマ人もびっくり!」

 適当なことを言って、お手洗いから引きずり出す。いつの間にか後ろに順番待ちができていたので、会釈しながら店を出た。

 

 

 **

 

 

 僕らはコンビニの冷蔵庫の扉を開けたり閉めたりして、次の獲物を物色している。我ながら迷惑な客だと、頭の隅、ミジンコ程度に残った理性で省みるがもう止められない。

 

「そうして我々おビール探検隊は、メコン川の源流を探るべく南米アマゾンに降り立った……」

「メコン川は東南アジアっすね! なに買いますか、ウオツカいきますか」

「家にウイスキーとズブロッカあるからいっらなーい」

「じゃあおビールにしましょう。IPAが最高っすよね」

「もしかして、ビールって無限……?」

 センパイさんが目を見開き、両手を口元に当てる。親の顔より見た広告、大げさに驚く女性のあのポーズだ。普通に可愛いくてムカつく。

「「ガハハ」」

 タチの悪い酔っ払い二人の夜は続く。

 

 

 **

 

 

「あぁーついたついた。ただいまー」

「ただいまっすー」

 千鳥足でふらふらと歩いたので、思ったより時間がかかった。ようやくセンパイさんの部屋に戻ると、テーブル中央に先ほどの戦利品をそなえて、膝をついて祈りを捧げるポーズをとった。僕らが彼女の部屋にお邪魔する際の、毎度の儀式だ。ルーチンを済ませた僕は色々ダメにするソファにどかりと座り込むと、早速新しいビールに手を伸ばす。センパイさんはベッドの端に腰掛けて、被っていたキャップをフリスビーのように投げ捨てると、僕に負けじと袋から缶を取り出してプルタブを引き起こした。

 

「いえーいかんぱーい」

「かんぱーい」

 

 今日何度目かの乾杯を交わす。しこたま飲んでるはずだが、やっぱり普通のビールに比べるとIPA(インディア・ペール・エール)は一味違う。コンビニでも手に入る青い鬼のラベルの缶を呷れば、強烈な柑橘類の香りにガツンとくる苦味。いくらでも飲めそうだ。

 

「いやあでも、センパイさんが吐くなんてめずらしいっすね。どしたんすか。女の子になったせいすかね」

「いやー、酔っ払いかたね、かわんないけどぉ、お腹たっぷたぷで入んねえの。悔しいわー。なんだか腹いたいし」

「うんこっすか。出せばまだ飲めるっすね!」

 

 ただのバカふたりが、ベロベロになっている。楽しくてしょうがない。

 ベッドに腰掛けたセンパイさんが、三五〇ミリリットルの缶を瞬殺すると、部屋の隅のカラーボックスへフラフラと近づいていく。

 

「ウイスキーに、切り替えていくぅ」

 彼女の手にはウイスキーのボトル——シーバスリーガルのミズナラだ。学生が普段飲みするには少し腰が引ける銘柄だ。

「さっすがセンパイちゃん! 僕にも! くれるんですよね!?」

「モチのロンよ。ああー、あっちいー」

 

 元の位置まで戻ってきた彼女がそう言うと、急にシャツを脱ぎ始めた。

 そういえば、この人は家で酒を飲むとすぐパンイチになる癖があった。

 それを思い出した僕はサッと酔いが引くべきところだが、あいにく昼間から深酒をしている。

 僕にはもう、アルコールの引く場所が残っていなかった。

 

「やったー! おっぱいだ! 神様ありがとう!」

「俺の裸は高くつくぜ! 飲めー!!」

 

 無事ブラとショーツだけになったセンパイさんから、ウイスキーの瓶をそのまま口に突っ込まれる。熱い液体が喉を焼く感覚が襲う。しかし、豊かな香りが後を追いかけてきた。

 なんか微妙にもったいねえ! こういうのはクリアニッカでやれ!

 

 強いアルコール感にむせながら、瓶をもつ彼女の腕を押しのける。しかし、なにかがおかしい。こんなにセンパイさんって押しが弱かったっけ?

 まあいいや、目には目を、歯に歯をだ。ハンムラビ法典にもそう書かれている。僕は瓶を奪い取り、彼女にもお見舞いすることにした。瓶が歯にぶつからない程度の、絶妙な力加減でウイスキーを押し付ける。彼女も結構酔いが回ってるのか、見える範囲の肌色が真っ赤に染まっていた。

 

「うえー! きっつい! ビールビール」

「やっぱチェイサーには、バドワイザーっすよねぇ!」

 お互いすっかり酒クズである。

 軽めのビールはチェイサー。いいね?

 イキった大学生の僕らは積極的に地獄を呼び込む。唸れ肝臓、命を燃やすんだ。

 

 そしてビールを一通り飲みきったセンパイさんは、不敵な笑みを浮かべ、紅白に塗られた缶を握り潰すともう一度ウイスキーを口に含み、ずいっと僕に迫った。とっておきの悪戯を思いついた少女のような、爛々と輝く瞳が迫る。細かいビーズの詰まったソファにもたれかかった僕は、なんとか反応しようにも身動き一つ取れない。

 センパイさんが僕に迫る。

 とても近い。

 すこし、女の子とたばこの混ざった匂いがして。

 

 僕は唇を奪われた。

 

 いや、奪われたというのは気取りすぎているかもしれない。これは大学生の定番、ウイスキーの口移しだ。しかし、喉を焼く熱い液体だけではなく、柔らかく暖かい舌も僕の口内へ侵入してきたのだ。

 その瞬間、僕の頭の後ろの方で火花が散る。彼女の、記憶より随分と細くなった指が僕のシャツごと肩を、二の腕をきゅっと掴む。

「んんっ!?」

 情けないことに、初めての感覚に僕の下半身は反応してしまった。随分と長く感じた口付けのあと、彼女が名残惜しそうに唇を離す。そして口元を腕で拭い、僕の股間へ手を重ねた。

 

「うへー、なにこれ、ビンビンじゃん。まことくん、俺でそういうこと考えてたの?」

 

 はあ? 僕が、あんたに、そういうことを? いったいどの口で言ってんだ? この痴女め。

 煽られた僕は、反射的に彼女の両手首を掴み、そのまま体格差にまかせ、ベッドへ押し倒していた。

 

「せ、センパイさんあんたおかしいっすよ、酔っ払ってんすか!? そんなんじゃ、僕本気にしちゃいますよ!」

 僕とベッドの間に押さえつけられた、ほとんど裸の彼女がいじらしく歯向かう。

「うるせー童貞やろー! やるならやってみろぉ!」

 彼女は、耳の端まで真っ赤にしている。目尻には涙だろうか、何かがきらめいている。

 それを目の当たりにした僕の背筋に、ビリビリとした何かが駆け巡った。

「なっ、このやろ、もう知らねえからなっ!」

「……バーカ」

 そのあとのことは、よく覚えていない。

 

 

 ****

 

 

 ——意識が戻ってきた。

 死ぬほど頭が痛い。まぶた越しに伝わる陽光から、すっかり日が登り始めていることを感じた。

 

 最悪だ。

 

 明らかに飲みすぎた。僕は胃からせり上がって来る不快感に耐えようとするが、耐えれば耐えるほど大きな波が押し寄せる。

 つまらない攻防戦の後、口の中に唾液が溢れ出す。限界だ。僕は驚くほど俊敏に起き上がり、トイレへ駆け込んだ。

 なんとか便器の蓋を開けた瞬間、堰を切ったように嘔吐する。うまく吐けず、鼻からも吐瀉物を吹き出す。……一晩胃の中で熟成された内容物は強烈だ。二度三度嘔吐を繰り返し、涙がにじむ中、もう金輪際二日酔いは勘弁だ、しかし翌日にはもう忘れているんだろう、などと思考を巡らしていると、膝が陶器製の便器に触れた冷たさに驚いた。

 

 まてよ、なんで僕はパンツ一丁なんだ? 僕に裸で寝る習慣はないぞ。

 

 頭がガンガンする。駄目押しの不快感がこみ上げる。ほとんど胃液だけの嘔吐をした頃、昨晩僕らになにがあったかを思い出した。

 震えの止まらない足で洗面所へ向かい、顔をたっぷりの水で洗う。そこらへんのタオルを拝借し、水気を拭き取った。

「いや、まだ勘違いかもしれない」そう鏡の中の僕へ語りかけると、意を決して部屋に戻る。

 

 清潔な朝日が差しこむ部屋、壁際のシングルベッドでは、ショーツ一枚だけを身にまとったセンパイさんが眠っていた。

 そして白いシーツのところどころに、血が滲んでいる。

 開封されたコンドームの袋が忌々しく散らかっている。

 僕は彼女とセックスしてしまった。

 

 

 **

 

 

 僕はキッチンへ引き返すと、食器棚から大型のタンブラーをふたつ取り出す。勝手知ったる他人の家だ。そのふたつをミネラルウォーターで満たすと、再び部屋に戻り、テーブルに置いた。彼女を横目で見やると、まだぐっすりと眠っている。胸が露わになっているため、タオルケットをかけてあげた。

 

 「くっそ頭いてえ……」

 

 僕は口内に残る胃液の苦味を噛みしめるように独りごちると、床に脱ぎ散らした衣類からシャツを拾い上げ、もたもたと頭からかぶった。居酒屋とたばこ、こぼしたウイスキーのにおいがする。……臭え。

 

 閉め切ったカーテンの隙間から、梅雨入り直前の強烈な日差しが差し込んでいる。指先でカーテンの隙間を広げると、燦然と輝く新緑が飛び込んできた。

 彼女は、季節によって見えるものが違うのだ、この部屋からの景色が気に入っているのだと、いつかの僕に語っていた。そんな窓から差しこむ光の筋ははっきりと熱く、触れれば掴んでしまえそうなほどだった。

 僕はそのままソファへ腰をおろし、横になった。ポンコツな僕の頭は昨晩のことを途切れ途切れに再生してきていたが、途方も無い虚無感のような気持ちに押しつぶされ、何も考えられそうになかった。

 

 

 頼りない意識を掴んだり離したりしていると、スマホのアラームが鳴り響いた。九時のアラームだ。特に予定がなければいつもこの時間に起床しているが、いまだに頭痛はひどく、胸中に充満する吐き気は治りきっていない。今朝方汲んだ水を飲むため、上体を起こす。すっかりぬるくなった水を半分ほど飲み込み、右側のベッドを見た。彼女は少し姿勢を変え、左半身を下に、祈るように組み合わせた両手を枕にして眠っている。

 

 なんて綺麗な顔で眠っているんだろうと考えていると、彼女はゆっくりとまぶたを開けた。

 

 目が合った瞬間、彼女はガバリと起き上がり、そのままの勢いでトイレに飛び込んでいった。ああ、限界だったのね。色々と察した僕も、もそりと立ち上がり、センパイさん用のタンブラーを持ってトイレに向かう。水は減っていないので、口をつけていないのだろう。吐くときは水があったほうが楽だ。僕は、彼女になんて謝ろう、どう償おうと回らない頭で考えながらその後を追った。

 

 

「センパイさん、水っす。ここに置いときますね」

 トイレの床にへたり込み、便器に顔を突っ込んだ彼女が軽く左手をあげて返事をする。大丈夫、意識ははっきりとしているようだ。念のために持ってきたパーカーを彼女の肩にかける。死ぬほどゲロを吐くときはだいたい寒気も尋常じゃない。これでもほとんど裸でいるよりマシだろう。

 苦しそうに便器にしがみつく彼女が痛ましく、側にかがんで小さな背中をさする。パーカー越しに伝わる体温はぼんやりとしていていたたまれない。彼女は震える声で僕に礼を言うと、水を飲んでは戻すを繰り返した。

 

「ご、ごめん……ありがと……」

 苦しそうな呼吸と、震える身体。

「大丈夫ですか? 水、足してきますね」

 

 いつか、以前のセンパイさんが酔いつぶれたのを介抱した事がある。その時も、彼は寒い寒いと呻き、震えていた。しかし、自分より背も高く体格の良い成人男性だ。ある程度吐き出したら、あとは放っておいても勝手に回復していた。

 でも今は、僕より小柄な女の子だ。

 ひと時でも目を離したら、取り返しのつかないことになるのではないかと、心がざわざわした。

 

「水持ってきました。具合、どうですか」

 タンブラーいっぱいに水を注いで、彼女の元に戻る。便器に突っ伏したままの上半身と、廊下の方まで投げ出した白くてスラリとした足のコントラストが艶かしい。再び背中をさすり始めると、彼女は蚊の鳴くような声で呻いた。

 

「さむい、さむい、しぬ……」

「寒いですか? もっと服持ってきますか?」

 

 震える背中に熱を伝えようと、手を動かしながら提案すると、彼女は首を横に振って否定した。

 

「おみずちょうだい……」

 彼女は僕の方を見ないで、左手を伸ばして新しい水を求めた。

 僕の胸が締め付けられる。

 そりゃ、そうだ。僕は人として超えてはいけないラインを超えてしまった。泥酔してたからとか、言い訳にもならない。むしろクソッタレ度が加速する。……もしかしたら、今こうやって触られていることすら嫌なのかもしれない。

 かといって、悪寒に震える彼女を見捨てることもできなかった。水を一気に飲み干した彼女は一際大きく震えると、そのほとんどを吐き出した。しかし、それで悪いものが全部出切ったのか、体に熱が戻るのを感じた。

 

「誠くん、ごめんな……」

 彼女が、いつものあだ名ではなく、名前で僕を呼んだ。

「僕の方こそ、本当に、すみませんでした……」

 

 しばらくして、もう大丈夫と告げた彼女の隣に、半分ほど水を注いだタンブラーを置くと、僕は逃げるようにトイレを後にした。

 なんとも言えない、淀んだような空気が満ちた部屋に戻ると、僕は力尽きたようにソファへ倒れ込んだ。頭の奥が、己の鼓動に合わせて痛む。脳ミソか、心臓どちらかを抜き取ってしまいたい気分だ。何も考えたくなくなり、ヤケクソ気味に目を閉じた。

 

 どれくらい経っただろうか、気がつくと部屋の外から、トボトボ、といった感じの足音が戻ってきた。どうやら、戦いを終えたらしい。何かをガサゴソと漁る音がすると、声をかけられた。

「水とパーカー、ありがとう。……風呂入ってくる」

 随分とか弱い声が、思っていたよりも近くから聞こえた。僕は何を言っていいかわからず、「はい」としか返せない。僕は、一体どうしたら良いのだろう。

 ソファにもたれかかった僕の側から、足音が遠ざかっていく。一体どんな風に振る舞えばいいか、見当もつかなかった。

 

 

 **

 

 

 浴室から聞こえる、シャワーの水音が僕を眠りに誘おうとした頃、彼女の声がした。

 

「メコンくーん、ごめーん。クローゼットの下の、黒いビニール袋持って来てー」

 センパイさんにしては随分と申し訳なさそうな声色だ。頭痛に耐え、身を起こしクローゼットの方へ目をやると、確かに黒いビニール袋がそのまま床に放ってあった。

 

「今いきまーす」

 

 ビニール袋を持つ時、中身が見えてしまった。女性用生理用品の諸々である。なるほど。そのまま脱衣所までいくと、バスタオルで前を隠したセンパイが、困り顔で浴室から半身を出していた。シャワーによって体温が戻ったのか、頬やむき出しの肩が紅潮している。僕の胸中に罪悪感と、昨夜の情事が蘇ったが、つとめて平静を装って対応した。

 

「持って来ましたよ、ハイ。大丈夫っすか」

「あー、うん。サンキュ。いや実は、生理きたみたい……。こんなに早くくるもんなんだな、へへへ……。なんか種類いっぱいあるなこれ」

「ええと、メモが入ってますね。あーなるほど、CMでやってる夜用ってこういうことなんすか。それに、ベンジーちゃんのカッコいいサイン付き……」

「ありがたみがマッハ」

「もうベンジーちゃんの妹分になったらいいんじゃないっすかね」

「自尊心もマッハ」

 

 

 再び部屋に戻ると、やはり空気が悪い。センパイさんがあがってくるまでに、換気と軽い片付けをしてしまおう。カーテンを開くと、いよいよ光の洪水だ。アルコール漬けの脳みそには眩しすぎて、頭がガンガンする。そのまま窓を開け、網戸の状態で換気を始めた。吹き込む風は、もうすでに夏の匂い。

 そして、部屋が明るくなると、惨状が明るみに出た。『光のあるところに影ができる』とはよく言ったもので、脱ぎ捨てられ放題の衣服、ゴミ箱から外れたであろうちり紙、テーブルの上に散らかる空き缶、空き瓶の数々。昨日の僕らはウイスキー飲みきったのか。

 軽いめまいを覚えながら、テーブルから片付けを始める。自分たちでやったことだが、散らかりように辟易する。缶と瓶、普通ゴミごとにまとめてゴミ袋へ突っ込んでいった。

 

 一通り片付けが終えたタイミングで、浴室からセンパイさんが戻ってきた。今日はハイネケンの柄のTシャツを着て、下半身にはメッシュ生地のハーフパンツを履いている。

 彼女は片付けられた部屋を見ると、風呂上がりのさっぱりとした顔にバツの悪そうな表情を浮かべた。

 

「うわぁ、ほんと悪い。片付けありがとう……。そうだ、もう着れない服あげるからさ、風呂入ってこいよ。パンツは新品だから! そのシャツとか、めっちゃ酒こぼしたやつっしょ? 全部洗濯しちゃおうぜ!」

 彼女はなんだか、ひどく取り乱したようにまくし立て、僕にもう着れなくなった男物の着替えを押し付けてくる。

「うわー! シーツやっば! これも一緒に洗っちゃうかあ? 血って落ちるかなぁ」

 センパイは僕と目を合わさず、わたわたと動き出す。僕が手渡された服を持ったまま呆然としてると、ついに背中を押され始めた。

「ほらほらさっさといけ! 残りは俺やっとくから!」

 

 

 **

 

 

 僕がシャワーを浴び終え部屋に戻ると、彼女は部屋の隅でパソコンチェアに座り、窓の外を向いてたばこを吸っていた。

「センパイさん、服とシャワー、ありがとうございます」

 光の射す窓辺、紫煙をくゆらす後ろ姿に声をかけると、椅子ごとくるりと回って僕と向き合った。逆光気味の彼女の目元が、少しだけ赤く腫れぼったくなっている。

「ん。具合どうよ」

「なんかシャワー浴びたら良くなってきたっす。僕も吸っていいっすか?」

「ん」

 

 僕が昨晩買ったままだったたばこを開封して隣に並ぶと、彼女は僕にライターを差し出してくれた。

 無骨なシルバーのジッポーだ。

「あざっす」

 手渡されたライターで火をつけると、普段のガスライターでは感じないオイルの匂いが鼻腔を蕩かした。これもまた、馴染み深いセンパイさんのにおいのひとつだ。

 

 無言のまま煙を吸い込み、吐き出す。こういう時、たばこは黙っていても咎められない静かな間を与えてくれる。しばらく無言で、窓の外を眺めた。先に吸っていた彼女が次のたばこを咥えると、火をつける前に口を開く。

 

「メコンさ……昨日のことどれくらい覚えてる?」

「……その、一回目終わったところくらい、ですかね」

 赤面しつつ答える。

「あー、あそこまでか」

 センパイはフッと笑うと、たばこに火をつけた。オイルの匂いがして、蓋を閉じる際の金属音が凛と響く。

「やっぱ、この感じだとあの後も、続いたんすよね」

「そうね。俺も結構記憶ねえけど」

 自分でも驚くほど綺麗さっぱり記憶が抜け落ちているが、片付けたゴミの一部が、その後を物語っていた。ふと椅子の上であぐらをかいた彼女を見やると、大きなピアスの空いた耳が赤熱していた。

 再び沈黙が訪れ、僕らの間に気まずさが満ちる。

 

「センパイさん。本当に、すみませんでした」

 

 僕は彼女に向き直ると、腰から頭を下げた。僕も焦っていたのだろうか、ともすれば失礼なタイミングで不器用な謝罪をぶつけてしまっていた。

 

「あわわわ、やめろやめろ。いいんだ、俺も悪かった。いや……全部俺が悪いんだ」

 僕の肩に柔らかな手が乗る。

 おずおずと顔をあげれば、彼女は俯きがちになって続けた。

「俺さ、急に女になって、マジで訳わかんなくってさ。実は、最初メコンがウチにきた時、目が覚めてからちょっと経ってたんだよ。

 ほんと、訳わかんなかった。滅茶苦茶不安で、頭おかしくなりそうだった。そんな時におまえが来てさ、誠くんなら受け入れてくれるんじゃないか、力になってくれるんじゃないかって、ドアを開けたんだ。……実際超安心したよ。あーいつも通りだ、って」

「そうだったんすか……」

 

 沈痛な声音で、彼女の独白が続く。

 

「だから、その。今まで通り接してくれてるのに、甘えてた。見た目はこんなに変わっちまったけど、おまえは何も変わらずに俺として扱ってくれてさ……。バカみたいに酒飲んでたら、ちょっと悪戯心がな」

「やっぱあれ、悪戯だったんすね」

「悪ぃ。勝手に、冗談としてあしらってくれるって期待してたんだよ。ほんとバカだよ、俺。自分のことしか考えてなかった。普通あんなことされりゃ勃ってもしょうがないよな。ちょっとこの前まで男だったのに忘れてんだ。そんで、チンコ勃ててるのみて、勝手に失望して、あんなこと……」

 

 彼女は、左手で前髪をかき上げ、後悔で顔をくしゃくしゃにしていた。右手の指に挟んだたばこから立ち上る煙だけが唯一、この部屋で動いている。僕がそれに見とれていると、彼女が絞り出すように続けた。

 

「もう、元にはもどれないって……実感した。内定も取り消されたし、誠くんにひどいことしてしまってさ。だから、俺、学校やめて地元帰るよ。今までありがとな。ほんとうにごめん」

 

 え、なんて? 学校やめる? なんでよ。

 ちょっと、まて。展開の速さに耳がキーンとする。というか、地元帰るとか何? いっつも自分だけで全部決めて一人で突っ走って。僕はなんなんだ? 置いてけぼり?

 

 シャワーを浴びて、少しマシになった脳みそが沸騰した。キャパシティーオーバーだった。

 

「バーカ! うんこ! あんぽんたん! ほでなす!! あんた何自分だけうだうだ言って、一人で気持ちよくなってサヨナラかよ、バーカ!! 僕にもちょっと時間くださいよ! あーもうムカつくムカつく! そうだ、原付借ります! テメエ逃げんなよ!?」

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 はじめて誠くんが怒るところを見た。

 彼は、俺に一番懐いてくれた後輩だった。そんな可愛い後輩が激怒しているところを、今日初めて目の当たりにした。いつも穏やかな彼が、黒縁メガネの下、色白な顔を真っ赤にして怒鳴り散らかしている。その怒声を聞いていると、胸が引き裂かれるように痛くなって、勝手に目が潤んだ。

 俺が唖然としていると、彼はズカズカと部屋を後にし、ヘルメットと原付のキーをひったくり玄関から出ていった。

 

 まるで、俺だけが世界から取り残されたみたいだ。

 

 ふと灰皿をみると、吸いかけのたばこが二本、くすぶっている。ゆっくりと立ち上る細い煙が、空気に紛れて消えていった。

「おまえたちも置いてけぼりか」

 俺は鼻で笑うと、二本のたばこをもみ消した。外から、走り去る原付の音が聞こえる。部屋に満ちる静寂が耳に痛い。俺はそっと、椅子の上で膝を抱えた。

 

 こころも、からだも、今まで知ることのなかった痛みを訴えている。

「おなか痛い……」

 レースのカーテンが、遠慮がちに揺れるのを眺め呟いた。

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 僕はあの人の原付でスーパーへ向かっている。

 

「あークッソ腹立つー!! なんなんだよあの人!」

 

「あんな人に憧れて! 俺は!」

 

「俺だってわっけわかんねえっての! バーカバーカ!!」

 

 彼女が使っていたフルフェイスのヘルメットの中で、僕はひとしきり喚き散らかした。

 今まで飄々としていて、自分なんかが追いつくなんて一生できないと思っていた人が、あんなみみっちい泣き言を漏らすとは思っていなかった。

 そんなことを抱え込んでいることに気がつかなかった自分の幼稚さに腹が立った。

 お互いに、今まで通りにやっていけると相手に甘え続けていた結果だった。

 

 ——この感じで原付乗ってると、漫画や映画じゃ大体事故って死ぬパターンだな。

 

 そう思った。

 が、特に何もなくスーパーに着き、買い物を済ませて無事帰還した。人生なんてそんなものなのかもしれない。

 

「ただいま!」

 

 僕は乱暴に帰宅を告げると、そのままキッチンに立った。すると、部屋のドアがゆっくりと開き、困惑した表情のセンパイさんが顔を出した。

 

「お、おかえり……」

「今日は! 二日酔いを吹っ飛ばせ! トマトたっぷりお野菜カレーをつくります!!」

 

 僕はスーパーの袋を両手に掲げ宣言した。

 僕の趣味の一つに料理がある。気が立った時なんかは、大量のカレーでも拵えるに限る。苛立ったままで刃物を扱うのは危ないし、順序立てて仕事をしている間に精神が落ち着くのだ。

 

「わ、やったぜ」

 彼女の目が輝く。

「センパイお腹いたいんでしょ! 寝てろ!」

 僕はついでに買ってきた頭痛生理痛によく効く半分優しさのヤツを投げつけた。

「は、はい……」

 うまい具合に箱をキャッチした彼女はしょんぼりと部屋に戻っていった。いつも振り回されてばかりだったから、なんだか新鮮で面白い。まあ、いつまでもこんなにカリカリしてられないので、さっさと調理の準備に移ろう。

 

 キッチンの収納から小さめの鍋を取り出し、冷凍保存している白米と水適量を火にかけ、温まるのを待つ間に買って来た食材を冷蔵庫にしまっていく。程なくすると、白米が解凍され、ふつふつと煮立ってきた。一度火の通り具合を確認すると、鳥だしと食塩で軽く味をつけ、二人分の器に盛る。そこへ種を抜いた梅干しをひとつずつ添えて、出来上がり。

 まずは腹ごしらえのおかゆだ。お盆なんて気の利いたものはないので、お行儀は悪いがそのままスプーンを器にぶち込み、足で扉を開けた。

 

「お腹減ったっしょ。まずはこれ」

「えっ、カレー!?」

 

 うんうん唸っていた彼女がベッドから飛び上がる。

 

「カレーは夜です」

「夜かぁ」

 

 カレーを期待していたのにおかゆが出てきたのがそんなに嫌なのか、落胆の色を隠さない彼女を見たら、なんだか知らないが肩の力が抜けた。

 

「僕たち昨日の夜から酒しか飲んでないんですから、まずはなんか入れないと」

 彼女を諭してテーブルにつかせる。

「ふええ女子力高ぁい」

「あ、梅干しは僕の実家で漬けたやつなんで、かなりしょっぱいと思います。それでも味薄かったらごま塩あるんで、それで調節して」

 実は長い付き合いの中で、キッチン周りには僕の私物が増えていた。このごま塩だって初めは僕が持参したものだ。出会った頃、この人は米すらあまり炊いていなかったのだ。

 

「ほえー、結婚しよ」

「……それ本気っすか」

「えっいやっ、それは……あれ……? ん? できんのか?」

 

 彼女はいつもの軽口を叩いたつもりだったようだが、どうやら冗談にもならないことに気がつくと、顔を赤くして慌てる。

 

「センパイまだ酒残ってます? ま、どうぞ召し上がってください」

「お、おう」

 

「「いただきます」」

 

 そうやって、遅めの朝食を取り始めた。昨日から散々にいじめ抜いた胃に優しい滋味が広がる。梅干しをほぐしながら食べると、思ってたよりかるく平らげてしまいそうだ。

 

「はぁ……生き返るねこれは」

「簡単なんで、作り方教えますよ。あんた酒飲みなんすから」

「んー、作ってくれないん?」

「センパイ、そういうところっすよ。昨日の今日で、そんなこと言われたら僕どうしたらいいんすか」

 

 僕は手を止め、スプーンを口に運ぶ途中で固まった彼女の間抜け面を眺める。

 

「あ……。ご、ごめん、反省します」

 

 なんだか逆に照れ臭いが、しょうがない。彼女が言った通り、もう元の関係には戻れないのだ。どうやったって今までと同じではいられない。それに、確信めいた予感でしかないが、センパイさんはこれから女性として生きていかなければならないだろう。何かあるたびにこんなでは僕の寝覚めが悪い。

 それでも、できれば、この人が卒業するまでは一緒に遊んでいたいと願う。

 

「あと、センパイ、学校やめないでください。もちろんサークルも。最後にもっかい渾身の作品見せてくださいよ。もう二年くらいまともなの撮れてないじゃないすか」

「うん……わかった。なんとかやってみる」

「あっ、でも、まずは就活っすか?」

「ギャーやめろー! どうすっかなあ……また髪黒染めしなきゃなあ」

 

 彼女は自慢の金髪を弄びながら毒づく。どうやら美容室で良いトリートメントをしてもらったようで、これまでのようなボサボサではなくなっている。自分でもその手触りが気に入ったのか、手入れや髪型にこだわるようになっていた。

 

「そういやセンパイって、金髪になんかこだわりあるんすか? ずっとですよね」

「かっこいいじゃん。それだけだよ」

「シンプルっすねー」

 

 この人はいつもこうだった。さも当然のように、事も無げに言い切る。

 

「そういやさ、なんでさっきから俺呼ぶ時に『さん』抜けてんの?」

「い、いやあ、なんか拍子抜けしちゃって……。あと、なんだかんだ『センパイ』にさん付けって違和感ないすか」

「それは俺も思う。一年の時からややこしいあだ名だなって。でもさ、今じゃ『さん』がついてないとそれはそれで違和感あんのよね。なんか別のない?」

「えー、うーん。じゃあ、仙庭(せんば)さん……?」

 

 僕は首をひねりながら、彼女を名字で呼んでみた。

 

「うん。なんか逆に気持ち悪いな」

「クッソー! でも僕だって、もう慣れてますけどメコンってあだ名酷くないすか? 川っすよ、河川、リバー。なんかすごい魚とかいそうじゃないですか」

「いるぞ、メコンオオナマズ。最大で体重三百キロくらいになる」

 

 彼女は大きさを表現したいのか、両腕を横にグッと広げるが、どう考えても長さは足りていないだろう。そんな子供じみた仕草が面白くて、軽く笑いながら返す。

 

「まーじすか。デカすぎでしょ。こわ」

「じゃあなんだ、誠くんって呼べばいいんか? え? んふふ」

「なんか……すんません……。フフッ」

 

 お互いに笑い出してしまった。次第にふたりの笑い声は大きくなり、息ができないくらいになる。ようやく笑い終わると、なんとか立ち上がって、空いた食器を片付けを始めた。

 

「俺もなんか手伝うよ」

「簡単なものしかないんで大丈夫っす。というかセンパイ、さんは、体平気なんすか?」

「もう好きに呼べって。体の方はまあまあかな。お腹と股間が少し痛い」

「あー、すみませんっした」

 思わずガバリと平身低頭した。

「かまわんよ」

 お互い目を合わせると、またへらへらと笑い合った。問題は解決しきってはいないけれど、僕たちはまだ一緒に笑っていられるのが単純に嬉しかった。

 

 

 ****

 

 

「何コレうっま! カレーうっま!」

「いやはや、怒りに任せて材料買いすぎちゃって、えげつない量になっちゃいましたね。一週間以上持ちそうで……」

「そうだなー。前みたいにおかわりできないから大変だぞこれ」

 

 センパイさんが僕にスプーンの先を向け咎めた。

 お行儀が悪い。

 

「ある程度は持って帰ります……」

「ウチに食べに来ればいいじゃん」

「いや、でも、そういうのもちょっと控えようかなって」

「……俺はまんざらでもないぞ、ガハハ」

「そういうのって自分で言っていんすかね。あー色気がない」

「二日酔いが治ってその夜にビール飲んでる俺らに色気はないな」

「……それもそっすね」

「「ガハハ」」

 

 こうやって、一緒にご飯を食べていると本当に愉快だ。変わらないことだって、もちろんあるんじゃないかと思える瞬間だった。

 

 

 食後、彼女はいつものパソコンチェアに腰掛けて、開け放った窓の向こうを眺めながら、うまそうに目を細めてたばこを吸う。その姿を眺めつつ、僕は食器や調理器具の水気を拭きとり、収納していく。そういや、たばこや酒を覚えたのも、全部センパイに憧れてだったなと、感慨に浸った。

 

 食器を拭いたタオルを所定の場所に戻すと、僕もたばこを咥え窓際に並ぶ。

 

「センパイさん、カレー小分けにして冷蔵庫に入れときましたよ」

「おーありがとうメコンくん」

「結局この感じっすね」

「わかるわー」

 

 コンビニで買った普通の使い捨てライターでたばこに火をつけて、一度大きく煙を吸い込んだ。

 

「僕、センパイさんに憧れてたばこ吸い始めたんすよね」

「えっマジか。ごめんよ、体に悪いのに」

 彼女は気まずそうな顔でこちらを見あげた。

「いいんすよ。かっこいいと思って吸ってるんすから」

「そうかー? でも君俺と一緒じゃないと吸わないじゃん」

「……バレてました?」

「まあね。先輩だからね」

 

 気がつくと僕は、彼女と一緒にいるか、酒の席でしか喫煙しないようになっていた。普段は学校が終わった時くらいしか吸わない。別に気を使っているわけではないが、一人でいるとあまり吸う気にならないのだ。

 

 たばこを吸うタイミングが被ったせいか、短い間が生まれた。そんな無言の僕たちの間を、初夏の少し甘い風が通り抜ける。

 

「結局、センパイさんが僕の一番の憧れだったんですよ。センパイさんみたいになりたかったんです。たばこ吸って、酒飲んでふざけて、最高の一枚撮りたくって。でも、一緒に遊んだり、勉強したりすればするほど、どうしようもなくセンパイさんにはなれなかったんです。当たり前っすけどね」

「うわあ、なんか色々背負わせちゃってんな俺」

「いいんすいいんす、僕が勝手に背追い込んでるだけだったんで。実際、全部忘れちゃいましたよ。先輩としては敬いますけど、もう神様みたいに見るのはやめました」

「それがいいよ。俺なんてそんなに持ち上げるような人間じゃないぜ。天才でもなんでもないしな」

 

 彼女は頭を左右に振りながら否定する。綺麗に染め直した金髪がばらけて、部屋の明かりにきらめいた。

 

「今まで通りでいようなんて、お互いどっかしら限界だったんですかねー」

「かもしれねえなあ」

 

 センパイさん自慢の眺望は、木々の隙間から街の灯りが優しく漏れてくるようで、確かにこれは見続けられるな、と思う。

 

「センパイさんは、どうしてカメラ始めたんすか?」

 

 いままで聞けていなかったことを、なんとなく訪ねてみた。

 

「どうしてねー。うーんと、俺さー、朝が好きなんだよね。特に夏の朝。高三の夏に部活引退して、友達ん家で初めてオールで酒飲んだんだよ」

 

 彼女は最初っから酒かー、と自分にツッコミを入れつつ続ける。

 

「三時すぎたあたりからみんな潰れてたんだけど、妙に目が冴えちゃって。酔っ払ってんだけど眠れない感じ、わかるかな。それに、野郎ばっかりで男くせえから、ベランダに出てみたのよ。そしたらさ、夏の朝って、ぼんやりと青っぽい、まだ太陽が出てない時間が長いんだよね」

 

「あぁ、何と無く分かります」

 

「外に出た最初の一瞬がさ、甘酸っぱいような、ひんやりした空気で滅茶苦茶きもちよかったんだ。

 なんか良いなあって思って、ぼーっと景色を眺めてたの。そしたら、どんどんいろんな音とか色、においがさ、わかってくるんだよね。黒っぽい丘の稜線を削った道路にさ、車のヘッドライトが光って、誰かが確実な速度でどこかに向かって走ってくし、名前も知らない鳥が裏の森で鳴きだすんだよ。住宅街のどこかから、郵便のバイクのエンジン音と、ギアを切り替える音が聞こえてきてさ。交差点にぼんやり赤いテールランプが現れたと思ったらまた角を曲がって見えなくなって。その間にも空気の重さっていうのかな? 匂いとか気配が、だんだん夜明けに向かって力を蓄えてるみたいなんだよ」

 

 身振り手振りを交え語った彼女がたばこを一口吸う。昔話のその場所へ意識を飛ばしているのか、目を細める。

 

「そんで、山の向こうからようやく太陽が顔を出すんだって時に、一気に世界へ色が戻ってくるんだよ、これマジで。全部にブルーを乗算したような景色から、バババってキラキラすんの。コレはやばいと思って、とっさにスマホのカメラで撮ったら一ミリも感じたことが残ってなくてマジで笑った。

 それからかなー。カメラであの時の瞬間を誰かに伝えたいって思ったのは。まあ、どんなに頑張ってもあの時の自分の目で見たものには勝ててないんだけどさー」

 

 センパイさんは、随分と小さくなった背を伸ばしながら言い切った。昔を慈しむように煙を吐き出し、デスクに置いていたビールの缶を一口呷った。

 

 満足げに微笑む彼女の視線の先を改めて追うと、ある一つのことに気が付いた。

 

「あの、僕が一年の時に見た、センパイさんの作品って、ここからの景色ですか?」

「そうだねー。二年に上がる時、何と無く音楽かけてさ、レンズのメンテしてたときだっけな。試しに何か撮ろうかなって思ってたら、目の前の木が芽吹く準備をしててさ、おー春がくるなー、風の匂いも変わってきたなーって思いながら撮ったんだよ」

 

 あまりになんて事のない撮影秘話だったが、全てが腑に落ちた。

 

「やっぱ……センパイさんは天才っすね。僕、その作品見た時、全部わかったんですよ。近所の公園で遊ぶ子供の声とか、まだ冷たい風に混ざる春の匂いとか。ちょっとねむい感じの曇り空だけど、なんか新しいことが始まりそうな感じとか」

「……そっかー。伝わってくれてたんだー。よくわかったねえ。君には伝わったんだなぁ……」

「いやあ……なんだかんだセンパイさんとずっと遊んでたのに、最後の年にようやく気づくなんて、全然ダメダメっすよ……」

 

 なんだか、とてつもなくしんみりしてしまった。青臭い自分語りの応酬に、お互い照れ臭いのか、無心で煙を吸って吐いてを繰り返した。

 

 

「あのさ、誠くんに訊きたいことがあるんだけど」

「なんすか、急に改まって」

 

 センパイさんが、僕のことを名前で呼ぶ。そういえば、女性になってから、僕のことを名前で呼ぶことが増えたような気がするが、どういう風の吹き回しだろう。

 

「俺ってさ、気持ち悪くない? 外側と中身が不釣り合いというか、ちぐはぐというか。正直、自分がよく分かんねえんだよね、いろいろ。それでさあ、こういうの、相談できるのって、誠くんぐらいしかいなくて……」

 

 彼女は、少し疲れたように「意外っしょ?」と笑いながらそう言った。

 

「センパイさんは、センパイさんっすよ……」

 

 悲しいかな、僕はヘタレだ。こんな当たり障りのない言葉なんか欲しくないと、頭では分かっている。分かっているが、そのほかになんて言えばいいのか、想像力が働かなかった。

 そんな僕の回答に思うところがあるのか、チェアの上の彼女が身じろいだ。チェアから足を下ろすと、少しだけ、キャスターを転がして僕に近寄る。

 

「俺、おまえのこと、すげーいい後輩だと思ってる。こんなことになっても助けてくれて、ほんといいヤツだよおまえ。

 実はさ、俺こんな見た目だから軽くヤレるとか、下心丸出しのやつも結構いたんだよ。あとは、急に女になったことで気味悪がって離れてくやつとかさ。俺の四年間の人間関係、ほとんどダメになって、マジ笑えねえ……。そう思うと、やっぱおまえすげえなって。あーダメだ、うまくまとまんない」

 

 今にも泣き出しそうな表情で、彼女は新しいたばこを咥えた。しかし、ライターのヘソが曲がってしまったのか、弱々しい指遣いで何度も火打ち石を擦っている。ようやく火がつくと、大きく息を吸い込んで、僕を見上げて言った。

 

「おまえはどう? 俺といて、なんか嫌なこととかないか?」

 

 僕を見上げる彼女の大きな瞳が、不安げに揺れていた。

 

「僕は……センパイさんと一緒が良いです。嫌なことなんて、一つもありません」

 

 なんとかそれだけ絞り出した。思わず目が泳ぎまくる。この後、何を言ったらいいんだ? 僕は、経験値が足りないんだ。狼狽えまくった挙句、どこかに答えが落ちていないかと、窓の外に視線を戻した。あまりの情けなさに、気が滅入る。そんな、クソダサい僕の視界の隅で、まだ新しいたばこをもみ消したセンパイさんが、すっくと立ち上がるのを感じた。

 

 そのコンマ数秒後、僕の背中へ彼女が物理的に突っ込んできた。

 

「エフッ」

 

 密着したところから彼女の体温を感じる。展開が理解できず、目が回って心臓吐きそう。

 

「ほんとうに、昨日はごめん! ちょっと、順番、間違えたけどさ、お、俺……」

 

 僕の背中越し、彼女のぐずついた声が聞こえる。そして、貰い物のシャツの両袖を掴んだ細い指先が震えているのに、今更気が付いた。

 

「誠くんのこと、好きだ」

 

 背中に、湿り気を感じる。この一言に、どれだけの勇気が詰まっているのだろう。所々しゃくりあげながら、嗚咽まじりの告白は続く。

 

「君の、気持ちを聞かないまま、あんなことして、本当にごめん。こんな……ずるくてアホな俺でよかったら、これからも、一緒にいてほしい……」

 

 あっあっあー。

 

 いやもう、既成事実あるし、僕もさっき『一緒がいい』とか言っちゃったし。逃げたい訳じゃないけど逃げ場がない。いやむしろ最近センパイさんみたいな人と付き合えたら楽しいんだろうなあとか思ったり思わなかったり? 鯔のつまり願ったり叶ったり? 正直この一ヶ月ほど、気が気じゃなかったりした。

 

 だってさー、初日にこの人のおっぱい触っちゃってんだよ僕。いない歴年齢舐めんなよ、死ぬほど拗らせてる上にクソチョロいんだぞ。意識してねえわけねえだろ。あーもういいよ、僕もぶちまけるよ。

 

「あ、あの、センパイさん。あ、いや、ま、真輝さん……」

「……なに?」

「ぼ、僕、金髪ピアスとかちょっとやんちゃっぽい女の子、めっちゃタイプなんですよね実は。ウェへへへ……」

「……知ってた」

「マジすか……。えっと、その。こちらこそ、僕でよかったら、よろしくお願いします」

 

 その途端、彼女の手が袖から離れ、僕の体の前に回された。

 完全に密着した状態になって、僕の心臓がヤバげなリズムを奏で始める。

 ウン! 死にそう!

 

 

 

 ****

 

 

 

「おーい誠くん、起きろー。今日卒業式だろー」

 

 春眠暁をなんたら。あいも変わらず深酒をした翌日、僕のまどろみはめちゃんこ深い。

 起床を促す声にうーんとかああーとか生返事を繰り返していると、だんだん遠慮がなくなってきた。ユッサユッサと肩を揺すられ、色々出ちゃいそうになる。

 

「センパイさーん、もっと優しく……」

「随分と懐かしい呼び方するなあ」

「んん、おはようございます、真輝さん。……今何時すか?」

 

 観念した僕が目をこすりながら起き上がると、パンツスーツをパキッと着こなした真輝さんが、出勤の準備を整えている。

 

「安心しなー、まだ八時だから。あとこれ、ベンジーちゃんに渡して。グレッチのぬいぐるみ。会社の人からもらった」

「グレッチのぬいぐるみ……」

 

 寝ぼけ眼の僕に、赤いギターのぬいぐるみが手渡された。なにこれ、どこで売ってんの。もしかしてハンドメイド……?

 戸惑いつつも、真輝さんを見送るべく僕は寝床から這い出した。ここ数日追いコンや卒業旅行で疲労が溜まった体に、バチクソ快晴の青空が眩しい。

 

「そいじゃ、私もう行くから、あんま飲みすぎんなよ。帰ったらお見舞いしてやるぜ」

 

 学生時代とは打って変わって、落ち着いた茶髪のショートカットに、控えめなピアス。それでも、何か企んでいるような子供っぽい瞳は健在で、僕はそんな彼女のままでいて欲しいと願う。

 僕の学生生活は今日で終わりだけど、この人と一緒なら、これから先もまだまだ楽しいことが待ってるんじゃないかと予感した。

 

「行ってきまーす」

「はあい。行ってらっしゃい。気をつけて」

 玄関から彼女を見送ると、ずいぶんと風も暖かくなってきたことに気が付いた。今日はコートもいらないだろう。

 僕は部屋に戻ると、四年前に見た写真によく似たアングルで切り取られた景色を眺める。少しアイレベルが高いのはここが地上三階だからだろうか。僕はいちど背伸びをすると、古いニコンのカメラで景色をファインダーに収めてみた。

 



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朝起きたらTSしてた俺が後輩の童貞を奪う話

場合によっては蛇足かもしれませんが、TSした側も書かなければならないと憲法にあるので続きです。
おじさんはね、内面はぐちゃぐちゃで依存心がヤバイのにそれを押し殺してる元気印で能天気なTSっ娘が大好きなのさ。



 あー。

 なんだ……。

 

 

 ドチャクソ頭痛い。気持ちわるい。

 つーか、身体中クッソ痛え。あれか、寝落ちしたなこりゃ。

 確か——。

 

 確か、暇すぎてクソ映画耐久レースやりながら酒飲んでたんだよなぁ。映画のクソさが飲めば飲むほど面白くなるから、歯止めが効かなくなって……。

 

 いやしかし、ガチ寝してしまうとは不覚。今何時よ。クッソ起きるのだるいわ。

 悪あがきだけど、できるだけゆっくり目を開けた。

 

 ——めっちゃ晴れてるやん?

 

 カーテンから差し込む光がやばいくらい強い。こんな俺でも、酒飲んで寝落ちして次の日がバッキバキにいい天気だと少しはヘコむ。なんか、この地球上生きとし生けるもの全てに申し訳ない気がして。

 

 俺は基本的に横着マンなので、視線だけを動かして状況を把握しようとした。やっぱり、俺をダメにするソファに埋もれたまま寝落ちしてたみたいだ。身体の痛みは変な姿勢で寝ていたからだろう。横目で壁掛け時計を見やると、ラッキーなことにまだ午前十時を回った程度だった。これが昼過ぎだと精神ダメージにバフが入る。

 

「あぁー喉乾いた……」

 

 おん?

 なんだぁ、今の声。誰の声だよ。

 一人の部屋から聞きなれない女の声がするとか、ただのホラーだろ。ちょっとだけ、ちょっとだけそういうの苦手な俺は、上半身を起こして部屋中をぐるりと勢いよく見渡した。

 

 ——パサリ。

 

 俺の顔に、何かが当たった。

「おわっ!?」

 なんだなんだなんだ!? 俺そういうの苦手って言っただろ! なんだよ、物理と音声で畳み掛けるとか4DXかよ!

 

 ……いや、顔に当たった何かは、自分の髪の毛だった。うん。肩まで届く髪の毛を手で持ち上げれば、ブリーチとカラーを繰り返してズタボロのキューティクルがテメエの髪だと主張している。しかし、解せないことが一つある。

 

 俺、決してロン毛なんかじゃない。

 

「俺の髪ー? マジでぇ……?」

 

 しかも、この声、どうやら俺のらしい。いや、まあ、この部屋俺一人だし。ぶっちゃけ俺の喉から出てる自覚あったし。

 

 これは、笑うしかないね。

 

「はっはっは……ウッソだろぉ?」

 

 妙に力の入らない膝をぶっ叩いて、気合いでよろよろと立ち上がった。すると、目線が以前よりだいぶ低いことに気が付いた。どうやら、理屈はわからないが背も縮んでいるらしい。

 なんとなく状況を理解し始めたせいか、さっきから身体中に、脂汗が噴き出している。普通なら絶対にありえないようなことが起こっているという、行き場のない焦りが胸を塗りつぶしていった。

 そんな俺の精神状態を反映してか、カーテンを締め切った部屋がいつもより暗く感じた。小さい頃、学校で散々怒られた後の、薄暗い廊下を思い出す。

 乾いた喉が痙攣する。

 背が縮んだせいで歩きにくい体をなんとか制御して、埃をかぶった姿見の前にたどり着く。俺は、よくわからない義務感のような気持ちに突き動かされ、鏡を覗き込んだ。

 

 そこには、見知らぬ女が映っていた。

 

 量販店で買った安物の鏡は、無遠慮に事実を俺に突きつける。髪が伸びて、生え際が黒くなった金髪に、拡張したピアス。驚きの形に固まった顔のパーツの輪郭や黒子の位置、ありとあらゆるものにかつての自分を感じる。

 

 この女は、確実に、俺自身だ……。

 

 そう認識した途端、増殖を続けていた不安や不快感といった、負の感情が膨れ上がり、その場にへたり込んでしまった。腰が砕けるって、こんな感じなんだろうか。鏡の中で、女になった俺がぺたりと床に座る。シャツの裾から覗く太ももが、白くまぶしい。

 

 指先が痺れたように、力が入らない。

 

「ウソ、だろ? そんな、女になるって、どういうことだよ……」

 

 あまりに現実離れした現実。何かを考えなければいけないような気がするが、かえって何も考えられない。ゾワゾワ、イガイガする不安だけが満ちて、鼻の奥がツンとする。

 

 

 どうしよう、どうすればいい? これから俺は、どうすればいいんだ?

 大学は、友人は……家族は? こんな俺を、俺だと、仙庭真輝 ( せんばまき)だと理解してくれるだろうか?

 バカじゃないの? 人間は魚じゃない、自由に性別を変えられる訳がない。当たり前のことなのに、俺は、その当たり前じゃないナニかになってしまった……?

 

 

 途方も無い不安に押しつぶされそうになって、喉に酸っぱいものがこみ上げる。心臓が握りつぶされるように痛くて、息ができない。無理に呼吸をしようとするから、喉がびゅうびゅう鳴って、胃液のようなものが逆流するのを感じた。

 

(なんで俺が、なんでこんな、訳わかんねぇ……。どうして、どうしてだ?)

 

 鏡の前、頭を抱えガタガタ震える。そんな、もうこのまま泣き出してしまいそうだというタイミングで、部屋の呼び鈴が鳴った。

 

「ひっ……」

 

 インターフォンのマイクが、外の音をこの部屋に届ける。チープな音質のスピーカーから、聞きなれた声が出力された。

 

『センパイさーん、あーそびーましょー』

 

 この声は、サークルの後輩のメコンの声だ。

 

 彼は一つ年下の後輩で、俺にとてもよく懐いている。それを抜きにしても、驚くほど馬が合いまくるので何かあるとすぐ一緒に遊んでいた。あまりに四六時中遊んでばかりいたせいか、前の彼女から「私より後輩くんの方が好きなんでしょ」とフラれた上に、俺がバイだなんてありもしない疑惑をふっかけられてしまった。確かに、恋人ほったらかして後輩とばかり遊んでたらフラれてもしょうがない。

 でもなあ、ぶっちゃけ話合わなかったし、デートも退屈だった。顔は好みだけど、常に一緒に居たいとは思えなかった。ま、おっぱいはデカかったけどな。

 

 そんな最低なことを考えていると、なんとか冷静さが戻ってきた。

 そうだ、俺は彼の先輩で、彼はこんな俺をとてつもなく慕ってくれている。今まで培ってきた()()や、()()が、俺の心を落ち着かせてくれた——きっと彼なら、俺だとわかってくれるはずだと。なぜだか、根拠のない確信のようなものを抱いていた。

 

 俺は震える手で両頬をパチンと叩くと、気合いを入れて立ち上がった。

 いつもどおり、いつもどおり。

 それを心がければ分かってくれるはずだと、自分に言い聞かせる。

 

 薄暗い廊下。その大した長さはない廊下の先、途方もなく遠く感じるドア。それを開ければ、きっといつもの冴えないメガネ君がいる。俺は藁にもすがる思いでドアを開け放った。

 

 

「うおぉーメコンじゃん。どした。まあ入れよ」

 

 

 まあ、ちょっとテンパっておっぱい揉ませたのは悪かったよ。悪ノリした。

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 やあん。俺、どうしよう。

 内定バイバイしちゃった……。俺もう就活したくないよお……。

 つらみがふかい。

 

 さっきまでノリノリでベンジーちゃんにメイクしてもらってたのに、こんな仕打ちが待ってるなんて聞いてねえ。ただただクソじゃーん。ちゃんと病院も行って裏が取れてるのに内定取り消しとかほんと横暴だ。もう怒りすら湧いてこねえ……。

 

 穴場の喫煙所のベンチにてアイスのようにとろけていく俺。ここ日陰でひんやりしてるからマシだけど、こんなメンタルで梅雨入り直前の夏日の日向に出たら秒で蒸発しそうだ。ああー、死ぬぅ。ダラダラと口から出ていくたばこの煙を眺めてると、なんか魂吐き出してるみたいだと思った。いっそ吐き出させてくれよ。

 

 ……あと一本吸ったら帰ろ。なんか疲れたし、酒飲んで寝よ。めんどくさいことは、全部明日の俺にお任せ。俺ちゃんがんばえー。負けるなぷいきゅあー。

 

 心の中で明日の自分へエールを送り、半分くらい白目を向いていると、すぐ脇の階段を降りてくる足音が聞こえてきた。やっべ油断しすぎた。でももう遅い。そこの階段降りてる途中からここ丸見えなのよね。つまりバチコンみられたわけだ、放心状態の俺を。

 

 そして、半分白目を戻して来訪者を見やると、その人物はメコンこと誠くんだった。去年俺が誕プレであげたタイダイ染めのTシャツに、膝上丈のサファリショーツを合わせて、クタクタのバケットハットを被った真夏のような装いだ。ただ、赤いコンバースのワンスターと、そこから覗く白いクルーソックスが全体をちぐはぐにしてしまっていた。

 

 ああーもう。下半身はいいのになんでそこでド派手なシャツ着ちゃうかなあ。お気に入りなのはわかるけど、普通に無地Tとか着ときなよ。やっぱ俺が見立ててやったほうがいいのかねえ。

 

 ふと、さっきまでのサークル室での出来事が脳裏に蘇った。

 

 

 **

 

 

 金髪ショートボブの俺と、毛先を緑に染めたベンジーちゃんで鏡を覗き込んでいるせいで、色味がやかましい。

 

「センパイさんって、メコンさんのこと好きすぎですよねー」

「おー、あいつめっちゃ良いやつだかんねえ。忠犬感あるよな」

「えぇー、犬扱いっすかぁ? でもセンパイさんも満更じゃないのでは?」

 

 ベンジーちゃん、なんのことかな?

 

「いやいやないない、ただの後輩だって、後輩。なんだったらベンジーちゃん今度俺とデート行く?」

「んふー。そうですねえ、行きますかぁ」

 

 ああーやりにくい。なんていうんだろう、女の勘ってやつなのかね。俺は後天的乙女だからそこらへん未実装なんですよ。仕様外なんですぅ。

 

 俺が女になって以来、サークルの後輩であるベンジーちゃんにレディの嗜みをレクチャーしてもらっていた。女物の服や下着を着ることへの抵抗は特になかったけど、メイクだったり立ち振る舞いだったりを自分だけで身に付けるのは難しい。今もメイクの手ほどきをしてくれてる彼女は、喜び勇んで俺に協力してくれた。

 

 あと、彼女は自称サブカルクソ女なだけあって、急に女になった俺を軽く受け入れてくれた。……のはありがたいが、ただちょっと、恋愛脳というか、そういうのに首を突っ込みたがるきらいがある。すんません恋愛脳の仕様書ってありますか? 俺そういうのよくわかんねえよ。なんでいつも通りに接してるつもりなのにバレバレなん? 

 確かにさあ、少なからず思ってることはあるよ。こんな俺を真っ先に理解して、支えてくれた恩もあるし。……誰とは言わないけど。

 

「——は何色が好きですか? センパイさん?」

「……あ、ごめん、ぼーっとしてた。リップの色だっけ?」

「そうっす。私的には、センパイさん肌白いし、発色いい赤系似合うと思うんですよねえ」

「赤かあ、嫌いじゃないけどちょっとキツくない? もっと淡い色味からじゃだめか?」

 なんか、女性ビギナーがいきなり真っ赤な口紅とか、ハードル高くない? 心構えというか、色々あるじゃん。ねえ。

 

「そうですねえ、といっても私もそんな持ってないんで、これとかどうでしょ」

 そう言って彼女が新しいリップを取り出した。

「ピンク? ピンクかぁ」

「そこまで色きつくないですし、これ一本だけでも結構グロス感あって可愛いですよ。ただ、やっぱりセンパイさんには濃い色の方が似合うと思うんですよねぇー」

 

 ベンジーちゃんが俺の服と顔を交互に見て、納得するように頷いた。

 今日の俺はゆったりサイズのボウリングシャツに、ダメージ加工の入った太めのジーンズを履いている。単位も足りているから、サークルか研究室くらいしか大学に来る必要がないので、基本的に楽でゆるいコーデばかりだった。今日はそこにベースボールキャップを被った、殊更ボーイッシュな感じなので、確かに濃い赤のリップの方が似合うだろうと思う。

 

 でもなぁ、ちょっと、狙いすぎてない?

 いや、ピンクはピンクであざといか?

 

 俺は、この短い間に激変した人間関係を思い出すと、つい憂鬱げなため息をついてしまった。

 

「まあ、今日は好きな色で試してみますか」

 そんな俺の心境を汲んでか、ベンジーちゃんの声音が優しいものになる。

「お、うん。了解」

 

 そんな感じで、一通りメイクのやり方を教わった。こんな風にメモ取りながら何かをするのも久しぶりで、最後らへんは普通に楽しくて自分からいろいろ質問をしたりした。

 

「いや、マジでメイクすると人間変わるよなあ」

「センパイさんめっちゃ可愛いっす! これならメコンさん振り向いてくれますよ!」

「んなー。なぁんでそうなるかなぁ」

「だって今のセンパイさん、メコンさんの理想のタイプじゃないですか」

「んあー、それはたまたまっしょ? つーかそれ、みんな知ってるけど本人隠してるつもりなのウケるよね。彼ヤンキーとかマジで苦手だし」

「ほんとヘタレメガネ君ですよねぇ」

「君入部してきた時彼ビビってたからね、(やから)来たヤバイって」

「男だった時のセンパイさんの方が見た目イカツイのに何言ってんだって感じですよぉ」

「だよなあ」

 

 机に置いた鏡の中、メイクを終えた俺の顔を眺める。こうしてみると、本当に女になってしまったんだなと感慨深い。まあ、顔の出来は悪くはないんじゃないかな、と我ながら思う。そして頭によぎるのは、とある後輩のこと。

 

 彼は、ぶっ倒れていた俺を心配して駆けつけてくれた上に、急に女になったことを信じてくれた。それに、女になったせいで、どうしても避けられなかった人間関係の崩壊に打ちひしがれてる中、彼は努めてこれまでと変わらない態度で接してくれた。正直、心の底から安心した。

 

 そして、俺はクソチョロガールになっていたようだ。

 

 ベンジーちゃんに言われるまでもなく、俺は、メコン——誠くん——のことが気になっていた。……ただ、たぶんこれは良い感情じゃない。たっぷりと依存心も含まれているし、彼以外にいないという逃げのような気持ちもある。

 でも、今の俺が心底安らげる場所は、数少ない。

 大学では好奇の目に晒されて、街をゆけば外面を繕わざるを得ない。

 卑怯極まりないが、彼の誠意に甘えている時が最も心安らいだ。もっと、一緒に過ごしたい。もっと、彼の近くにいたい。もっと、彼を独り占めしたい。気がつけば、そんな自分勝手な願望が俺の心に根を張っていた。

 

 しかし、彼にこの想いを告げることは叶わないとも思っていた。

 

 ——元同性から好意を向けられるなんて、気持ち悪いだろ。

 

 それに、もしも俺が一線を超えたら、彼の努力を裏切ることになる。

 

 そうだとわかっているのに、ベンジーちゃんにメイクをしてもらったり、もうやめようと思っていた金髪を染め直したりしている俺はバカなんだろうか。

 さっきベンジーちゃんと話した通り、誠くんは自身の見た目に反して派手な女性がタイプだ。いつだったか居酒屋でベロベロに酔っ払った誠くんが、その場で仲良くなったインド人へ、エロゲーのギャル・ビッチ系ヒロインについて熱弁をふるっていたことがある。他にも、サークルの飲み会にて性癖を演説調に暴露していたこともある。彼は、酔っ払うと悪い方向で饒舌になるタイプなのだ。そのため、彼の好みの女性像は、サークルメンバーに広く知れ渡っている。

 

 図らずしも彼の好みど真ん中になってしまった俺は、すぐに髪を黒に戻して、ピアスも普通のに——残念ながら拡張した分は元に戻らないけど——するべきだった。でも俺は、また、派手な色に染め直してしまった。

 

(誠くん、赤の方が好きかな……)

 

 そんなことを考えていると、ジーンズのポケットでスマホが震えた。

 

「お、電話だ。……内定先から? ごめん、ちょっち出てくる」

「りょーかいです」

 

 俺はベンジーちゃんに断りを一言入れると、席を立って電話に出た。

 

 

 **

 

 

「センパイさん……。どしたんすか、顔死んでますよ」

「おー、誠くんじゃあないか。ヘイラッシャイ。聞いてくれるかい?」

「まあ、いっすよ」

 

 俺の隣にやってきた誠くんに、これ幸いと先ほどの悲劇を語った。

 いつもと同じような会話と距離感。安心するけど、少しちくりともする。そして、会話の途中、彼が俺を漠然と眺めていることに気が付いた。

 

「なんだよぉ、もしかして惚れちゃった?」

 

 いいんだよ惚れちゃって?

 

「い、いやあ滅相もない。というかセンパイさん化粧してます?」

 

 たっはー、トゲトゲな否定。これは調子乗った罰ですわ……。

 

「さっきサ室行ったらさ、ベンジーちゃんに襲われちゃって……」

 

 わかりやすくいじけて、捻くれた答え方をしてしまった。実際には襲われてなんかいない。俺から彼女に頼んだんだよ。必要な嗜みだっていうのと、ワンチャン君に振り向いてもらえるかもなんて、打算的な考えでさぁ……。

 何故か素直に接することができなくて、俄然酒が飲みたくなってきた。

 

「なんか疲れたわー。メコンくんはこれからどうすんの? ウチくる?」

 俺はいつもの感じを装って、彼を部屋に誘う。宅飲みか、適当なところに飲みに誘う腹積もりだ。

「いや、ちょっとサークルに顔だして来ます。来月の展示会のやつ現像したいんで。終わったら行きます」

「あーそういえばそんな時期か。俺のやつまた選ばれないんだろうなぁ」

 ここ最近カメラどころじゃなくてすっかり失念していた。あちゃー、やってしまったと凹んだのも一瞬、現像が終わったら来てくれるらしい。勝ったな!

 

 

 

 

 彼と別れ一足先に部屋に戻った俺は、わちゃわちゃと部屋の掃除を始めた。

「やべえよ部屋めっちゃ散らかってた!」

 まあ、付け焼刃だってのは、知ってる……。

 女になっただけで家事が上手くなるわけないでしょうが。ただせめて散らかった着替えとか壊滅的なのだけは片付けたい。

 

「ん!? おまえこんなところにいたのか!」

 

 行方不明になっていたと思っていたショーツがビーズソファの下から出て来た。

 んんん! 誠くんサ室行ってて助かったぜ!!

 

 あーやだやだやだ。マジで俺滑稽だわ。二律背反、自分の想いに板挟み。クソかよ、恋する乙女かよ。ちくしょうだいたい合ってんな。クソー、無駄にそわそわする。緊張してんのか、腹痛えし。最近ストレスのせいか多いんだよ腹痛。

 

 しゃーない! 酒飲んでごまかすか!! 百薬の長とか言うしね!!!

 

 

 ****

 

 

 とてもたのしい。

 部屋でビール飲んで、居酒屋でも飲む。今日はしこたま飲むぞ。好きな人と一緒に。たまんねえなオイ! なんかもうとっても上機嫌! サヨナラした内定なんて気にしない! あんなクソ企業こっちから願い下げだい!

 そんな感じで、行きつけの居酒屋の、割とよく通される席に到着。サクッと注文と年確済ませて一服一服。やっぱラッキーはソフトパッケに限る。パッケージの底をデコピンすると、うまい具合に一本飛び出てきた。そのまま野菜ジュースのストローみたいに咥えて抜き出して、愛用のジッポーの石を擦る。

 

 ……あー。タバコうっま。

 

 ほんとタバコって嗜好品だよな。同じ銘柄でも死ぬほど美味いときと死ぬほど不味いときがあんの。さっきの喫煙所で吸ったのとかゲロクソマズだったもんなあ。ま、そんな時のタバコも嫌いじゃないけどさ。

 

「……もしかして攻撃表示のほうがよかったかな」

「守備表示で正解だと思いますよ」

「やっぱり?」

「あおり運転は犯罪っすから」

「「ガハハ」」

 

 うわ、たっのし。

 こんな感じで、ずっと遊んでたいわ。

 叶うはずがないと分かりきった戯言を心の中で転がしていると、向かいの席に座った誠くんがタバコを咥えたままポケットというポケットをまさぐっている。

 お、これはライター忘れたな。言ってくれればすぐ貸すのに。往生際の悪いヤツめ。

 そこで、ふとイタズラというか、好奇心が鎌首をもたげた。アレやってみよう。そう思うと、胸が少し高鳴る。

 テーブル越しに上半身を乗り出して、顔を近づけた。

 シガーキスの構えだ。

 

「火ィかしてやんよ」

 

 俺の声に反応した彼が顔をあげて、レンズの奥、色の薄い鳶色の瞳と目があう。

 

「あざっ……す」

 

 素っ頓狂な返事と間抜け面。くっつきあったタバコの先端。

 

 ——は? 顔ちっか。

 

 ……早く、吸えよ。火をつけろ。早よせえ! ニヤつくぞオラ!

 

 完全に自業自得だけど、焦ってアイコンタクトを出すと、意味を理解した彼がタバコをふかす。やがてしっかりと火種が燃え移ると、俺から身を戻した。

 

「あ、ありがとうございます……」

「これやってみたかったんだよねー! 男同士でやってもムサいしさ、今がチャンスかと思って!」

 

 ヤッベーッ!! 思ったより顔近かったわ! バカ! 俺のバカ! バカチン! 頭おかしくなるかと思ったわ! あー、墓穴墓穴。漫画の真似なんかすんじゃなかった。これやばいわ。胸がキューンてなるわ……。心臓に悪いわ……。

 

「たっ確かにそうっすね……へへ……」

 

「ハーイ生ふたつお待ち! こちら本日のお通しでーす!!」

 先ほどの店員さんがなんか空元気でビールをもってきた。

 うん、ごめんなさい。でも良いもん見れました。

 

 

 **

 

 

「だからあ、なんでみんなセンパイさんのすごさが分かんないんすかね! 僕ね、このサークル入ったのセンパイさんの作品にあこがれて入ったんすよ! それなのにほかのみんなぜんっぜんセンパイさんの作品の良さがわかってない。とくにあのデブ、自分がボンボンで機材いいからって調子乗ってんすよ」

 

 いつも通り、酔っ払って饒舌になった誠くんが、めのまえで管を巻いている。顔をまっかにして、頬杖ついて、すこし恥ずかしいのか、わざと視線をはずして。

 そんなに褒めそやしてくれるとむずむずするが、できればちゃんとこっちを見て言って欲しい。……贅沢かね。

 ま、痘痕も靨。こんな彼も可愛らしい。

 

「ああー誠くんかわいいねえそうやって褒めてくれるの君だけだよほんとかわいいちゃんだなあ! ほらおビールお飲み」

 

 照れ隠しで、空になっていた彼のグラスに瓶ビールを注ぐ。

 ただ、ちょっと今気持ち悪い。端的に言えば吐きそう。

 

「もうほんと最高なんすよお。ほんと、最アンド高。僕なんかじゃうんこマンだもん」

「そりゃうんこに失礼だろ」

 

 あ、今の返事、少し投げやりになってしまったかな。

 

「あーそうだ、センパイさん。僕アイパッド買ったんすよ。そんでライトルーム入れてみました」

 

 全っ然気にしてない感じで、カバンからタブレットを取り出した。うっわーなんかムカつくな、俺の心配かえせ。

 

「マジでー? どんな感じー?」

 とりあえず、興味を持ったフリで手を伸ばすと、彼はそれを手渡してきた。なんだっけ、ライトルームだっけ。いやあ、俺、情報系だけどこういうアプリケーションの操作は得意でもなんでもないんだよなあ。というか、あんま加工とか現像にこだわらないタイプだから、なんとも言えない。そうだ、カメラロールの中身みてやろ。

 俺は勝手にアプリを切り替えると、保存された画像を見ていく。

 あちゃー、見事に街並みとかそういうのばっか。たしか彼、俺がまぐれで撮った作品に影響受けちゃったんだっけ。なんだかなあ、俺より技術も知識もあるんだから、もっと色々試せばいいのに。そんなことを思いながら、画面をスライドさせていく。画面の中で、流れ去っていく画像たち。そんな中、黄色っぽいサムネイルが一枚。ふと気になって、そこで指を止めた。

 画面に広がった写真には、破顔した二人の男が写っている。向こう側が見えるくらいに拡張した耳たぶのピアスと金の短髪が輩臭い男。衝撃でずれたのか、メガネが変な角度になっている黒髪の地味な男。チグハグな二人が、酒で顔を赤くして、肩を組んで写っている。

 いつだったか、サークルの飲み会のあと、ふざけて撮った自撮りだった。

 

「いや、これ俺には難しそうでむりだな!」

 

 懐かしくて、すこし悲しくて。俺は彼にタブレットを押し付けるように返した。

 

「ぜったい嘘だー。……たばこもないし、お会計しますー?」

「あー、飲み足りねえし、ウチで飲むか!」

 

 それでも、まだ誠くんとさよならしたくなくて、咄嗟に飲み直しを提案してしまう。

 

「マジっすかー。うーん……オッケーでーす!!」

「すみませーん、お会計おねがいします! メコンちゃん、これで会計頼むわ。俺ちょっとおトイレ」

 もう、やばいかも。色々頭がぐちゃっとして、吐き気がひどい。なんとか笑顔を繕って、席を立った。

「了解っすーお気をつけてー」

「あぁー世界がまわるぅー」

 

 

 トイレの個室に逃げ込んだ俺は、すぐさま胃の中身を吐き出した。それだけで、飲みすぎた時の気持ち悪さはすぐにマシになった。でも、頭のモヤモヤやぐちゃぐちゃは消えてくれない。俺は、頼むから全部いなくなってくれと何かに願いながら、指を喉に突っ込む。ぞわぞわ寒気のようなものが背骨を貫いて、胃が痙攣する。

 

 とても苦しい。涙がでる。

 

 わからなくなる。自分が、何なのか。

 

 苦しくてしょうがなかった。

 

 

 

 ****

 

 

 

 部屋に帰って、飲み直すと、すごい酔いが回ってきた。

 なんかもう自己嫌悪とかどうでもいい。アルコール万歳。アルコールだけが世界を救う。おれまことくんと飲めればしあわせ。

 

 そうだ、ウイスキー飲ませてあげよう。このまえ、バイト先でおこずかい貰って買ったやつ。いつも千円以下の飲んでるから、奮発したんだ。奮アンド発!

 つーかクソあついな。お? 俺なんで服着てんだ? バカじゃん、あついわけだわぁ。酒をのんだらあつくなる。これ常識ね。

 

「さっすがセンパイちゃん! 僕にも! くれるんですよね!?」

「モチのロンよ。ああー、あっちいー」

 

 あーくそ、ボタンの向き逆なのなれねー。 せや、頭通るし、そのままぬいだろ。こうすりゃタンクトップといっしょにぬげてお得じゃん。真輝ちゃん天才! ジーパンもベルトきっつ。ぬいだろ!

 

「やったー! おっぱいだ! 神様ありがとう!」

 

 そうだぞ! 俺のおっぱい見られるのなんてラッキーなことなんだからな、肝に銘じたまえ。

 んん、コップだすのめんどいし、ラッパ飲みでいいか。ほれほれ飲め飲め!

 

「俺の裸は高くつくぜ! 飲めー!!」

 

 誠くんにウイスキーをシュート! 超、エキサイティン!

 おわ、思ったよりいっぱい飲んだ……。だいじょぶか?

 

 とか心配してたら反撃くらった。うっわ、ちから強い。ぜんぜん反抗できない。瓶を奪われてそのまま俺もラッパ飲み。

 

 ——うわーきっつい!! 焼ける!!

 

「うえー! きっつい! ビールビール」

「やっぱチェイサーには、バドワイザーっすよねぇ!」

 買っててよかった軽いビール! 一気に流し込めば、胃のあたりがカッカとしてくる。がっつり減った瓶が目に入って、ちょっと勿体無かったかなと思った。

 まあいいや。だって、誠くんあんなに楽しそうに笑ってる。なんかウイスキーの蘊蓄みたいなの語ってるし。何いってるかはあんま意味わかんないけど、彼が楽しそうだと俺も楽しい。このままずっと、親友のままでいれればそれでいいのかも。

 

 ……なんか嫌だ。それが一番いいのに、なんかイヤだ。イライラするし、焦れったいし、俺の気持ち、分かってほしいのに知られたくない。やっぱり、ぜんぶぐちゃぐちゃで、わけわかんない。急転直下、モヤモヤがまた胸に満ちた。

 アルコールがあれば全部忘れられると思ったけど、こうやって部屋で飲んだらまるで逆効果だ。自分が溢れ出しそうでたまらない。理性のハードルが、ガンガンに低くなっているきがする。

 ふと、魔が差した。今までと変わらず楽しそうに笑う誠くんなら、ちょっとくらい羽目を外しても受け流してくれるんじゃないか。そんな甘い誘惑が、一瞬で心を奪った。

 

 思いつきで行動するのが俺の悪い癖。俺は飲み干したビールの空き缶を片手で握り潰すと、ウイスキーを口いっぱいに含んだ。口の粘膜を、強い酒精が焼いていくのを感じながら、ソファでくつろぐ誠くんに迫る。

 今から、このウイスキーを口移ししてやろう。実に二年ぶり二度目の口移しだ。それに、今の俺は女だから、彼も役得なはず。彼は一体どんな反応を返すのだろうと想像すると、胸が高鳴る。

 

 俺は彼に馬乗りになると、一思いに彼の唇を奪った。

 

 ほんの、冗談のつもりだった。でも、そんなのただの言い訳だった。

 俺は、自分で思っていた以上に欲張りだったみたいで、頭のどこか、(たが)が外れる音がした。気がつくと俺は、彼にしがみつくようにキスをしていた。普通の、恋人同士がするような、ディープなやつを……。

 頭の奥がピリピリして、腹の底がぐっと熱くなる。なんだかいけないことをしているような気がして、心臓のあたりが痛くなる。そして、実感した。

 

 やっぱり、勘違いでもなんでもない。本気で彼のことが好きなんだって。

 

 お互いの口腔からウイスキーがなくなって、より唇や舌の温もりを強く感じ始めた頃、俺の腰へ硬いものが当たっていることに気が付いた。

 なんだっけ、これ。なんかすげえ心当たりとか、懐かしいような——。

 

 ソレがナニか理解した途端、血の気がマッハで引いていった。

 俺はとんだ思い違いをしていた。

 何が、冗談のつもりだ。彼が普段、どんな思いで俺と接しているか、分かっていたはずなのに。

 異性に免疫がないなりに、これまでと変わらないよう努めて接してくれていた彼の顔に泥を塗ってしまった。彼の気持ちを踏みにじってしまった。

 もう引き返せない。それを理解した瞬間、俺の胸にドロドロとした感情が渦巻き始めた。これはなんだ、彼に対する失望か、それとも自己嫌悪か。もしくは、劣情か。

 俺は口元に残った、唾液とウイスキーの混ざりあったものを腕で拭うと、彼の股間に手を重ねた。

 

「うへー、なにこれ、ビンビンじゃん。まことくん、俺でそういうこと考えてたの?」

 

 熱い怒張を感じながら、彼を煽る。俺は今、どんな顔をしているだろう。背徳感と焦燥感があわさって、手のひらに汗が滲むのを感じた。

 馬乗りにされ、呆然としたままの彼の瞳に、ギラついた焔が灯るのを見た。その瞬間、俺の両手首は彼の大きな手で掴まれ、体格差でゴリ押すようにベッドへ押し倒された。天井の照明によって逆光になった彼が、苛立ちを隠さずに言い放つ。

 

「せ、センパイさんあんたおかしいっすよ、酔っ払ってんすか!? そんなんじゃ、僕本気にしちゃいますよ!」

 

 これで、これできみは本気になってくれるのか? こんな、得体の知れない俺に。既に選択肢を間違ってしまった俺は、今更素直になれなくて彼に噛み付いた。

 

「うるせー童貞やろー! やるならやってみろぉ!」

 

 今度は、彼の中で何かが弾ける音がしたような気がした。俺たちは多分、このまま一線を超える。

 

「なっ、このやろ、もう知らねえからなっ!」

「……バーカ」

 

 

 **

 

 

 誠くんが、俺の股間を(まさぐ)りながら、貪るようなキスをしてくる。勢いだけで下手くそなキスだけど、すごい、しあわせというかなんか、ふわっふわしてきて、何も考えられなくなる。いつのまにか、空いた右手が恋人つなぎになっていて、彼の手の大きさを実感した。

 

 なんだよこれ、俺、どんだけ小さくなってんだよ。誠くん、そんなにガタイよくなかったはずなのに、全然違う。

 大きくて骨ばった手に、思っていたよりも広い背中。そして、小さく、薄くなった俺の身体。そんなふたつの身体が、素っ裸で絡み合ってる。俺たち、本当に異性同士の関係になってしまうんだ。嬉しいのか、悲しいのかよくわからなくて泣きそうになった。

 

 そして、自分の身体のなかで、もっともプライベートな場所から水っぽい音が響いている。正直、自分でもわかるくらい濡れている。それを意識すると急に恥ずかしくなって、顔から火を噴きそうだった。心臓とか、頭とか全部爆発しそう。

 

「センパイさん、めっちゃ可愛い」

 一度口を離した彼が、耳元で呻くように囁いた。

「ふぁあ」

 アホみたいに甘ったるい声が出てしまう。

 

 殺す気かな?

 もういっぱいいっぱいで、気持ちいいとか、わけわかんない。おかしい、自家発電はうまくいったのに。というか、いま何本指入ってんだ? お腹の中が熱くて、指が出入りするたびに電流みたいなのが流れてくる。その動きに合わせ、ふたたび彼に塞がれた口から我慢できない声が漏れる。もう、処女を失うことへの不安よりも、誠くんとはやく一つになりたい気持ちが大きくなって仕方がなかった。

 

 それは彼も同じだったのか、キスをやめると膝立ちになって、俺の足の間に位置取った。

 

「な、なあ、ゴム、そこの棚にあるから、使って……」

 

「ん」

 

「それ、使い方、わかる?」

 

「あー……たぶん」

 

 おぼつかない手つきでコンドームを装着する誠くんをみてると、いきなり緊張してきて、思わず目をつぶって枕に頭を任せた。真っ暗になった世界の中で、彼の荒い息遣いと、布が擦れる音だけが聞こえる。

 

「あっやべ。もう一個……」

 

 ……やきもきすんなあ。

 でも焦って失敗しちゃうところもかわいい。つい笑ってしまいそうになるのを、両手で顔を覆う事で隠した。

 

 ようやく準備が終わったみたいで、彼が俺の足を広げて、恥ずかしい姿勢を取らされる。

 アルコールのせいだろうか、それとも興奮からだろうか、もしくはその両方か。俺の体に触れる手のひらがとても熱かった。

 

 そしてついに、俺の秘部に彼の熱を感じた。あっと、思った途端。

 無遠慮に入り込んできた彼の一部に、文字通り貫かれた。

 

「いっ……たぁ……ぁあっ」

 

 ちょとまってめっちゃ痛いバカじゃないの!? ウッソでしょ、世の中の女の子、みんなこんなことしてんのバカじゃん!? 痛すぎて、変な汗出てきてエッチどころじゃないっての。思わず枕の端を握りしめ、痛みに耐える。

 

「せんぱい……真輝さんの中、めっちゃ熱い……」

 

 誠くんが、エロコンテンツの消費しすぎみたいな台詞をはいて、俺のことを抱きしめた。うなじに、彼のあつい吐息を感じる。裸のままのお腹が、胸が触れ合って、溶け合っていくみたい。

 でも、それもつかの間。

 

「いって、んっ!」

 

 バカバカバカまだ動くなよ! 

 辛抱堪らなくなったのか、ついに前後運動を始めた。全然馴染んでないから、痛くてしょうがない。でも、痛い痛いと泣き喚いて、止めてもらう権利は俺にはない。俺から(けしか)けておいて、今更止められないだろ。

 

 でも、痛いもんは痛いんだからどうしようもない。指なんかとは比較にならないくらいの圧迫感と痛みがひどくて、ちっとも気持ち良さがわからない。ぜってえオナニーの方が百億倍気持ちいい。……でも、こんなので終わるなんて嫌だ。

 

「ま、まことくん、キス、してよ」

 

 息も絶え絶えそう告げると、一瞬彼の動きが止まった。普段は眼鏡の下に隠れた少し頼りない印象の眉の下の、熱っぽい色を湛えた瞳に見とれていると、願い通りに唇を奪われる。

 ああ、これ、好き。まだバリバリに痛いけど脳内物質どちゃどちゃ出まくる。脳汁やばい。しあわせ。アルコールの酩酊も合わさって、身体に力が入らなくなってくる……。

 ぎゅっと抱きしめてくる彼の腕に身を任せていると、もう彼のことが大好きだということしか頭にない。

 

 そんな、独りよがりなしあわせを噛み締めていると、誠くんの動きが大きくなってきた。なるほど、もう保たないみたい。彼が切なげな声音で達しそうだと零すと、ひときわ強く腰を打ち付けてきた。股間からの痛みと、キスからの快楽。ぐちゃぐちゃにまざって、頭が真っ白になった。

 

 

 ふたり、何も言えないまま肩で息をして、抱きしめあった。体の密着したところが汗で滑るけど、全然嫌じゃない。むしろ、一仕事終えた達成感のような清々しさがあった。それに、割と最後の方気持ちよかったし……。

 

 誠くんとひとつになったまま余韻に浸っていると、荒い息がまだ治らない彼が身じろぎした。

 

「ま、誠くん?」

「やっば。全然たりない……」

「ひぇっ」

 

 誠くん、お酒のんでも元気なタイプだった。結局、このあと二回戦目に突入した。

 

 

 **

 

 

 も、もう限界……。

 正直、最初の最後ぐらいしか気持ちよくなかった。

 痛いっていっても、やめてくれなかった。

 パンツだけ履いた誠くん、ソファでさっさと寝ちゃった。

 ヤるだけヤって寝るとか俺でもした事ねえよ……。こいつ意外と図太いところあるなあ。泣くぞ。というか少し泣いた。

 

「いててて」

 

 ひとりになったベッドの上、女の子座りをしようとしたら痛くてやめた。股間壊れそう。

 上半身だけ起こして、浅い寝息をたてる誠くんを眺めていると、ベッドの上にゴミやら何やらが散らかっているのに気が付いた。

 コンドームの袋とか、使った後の本体とか、丸まったティッシュとかが転がり放題。本当ならちゃんと片付けたほうがいいんだろうけど、どうにも全部放っておきたい気分だった。

 ふとテーブルの上を見やれば、散々飲み散らかした空き缶や内容量の減ったウイスキーのボトル。その足元には、小さな水たまりがある。どこかのタイミングでこぼしてしまったらしい。俺はやけくそ気味にボトルを手に取ると、一気に残りの液体を流し込んだ。

 

 

 ****

 

 

 翌朝、やっぱりバチが当たった。こっぴどい二日酔い。目が覚めた時には、もう吐き気が限界だった。ほとんど裸のままトイレに駆け込んだ俺に、誠くんはパーカーや水を用意してくれた。こんなときでも彼は優しくて、俺を放っておかないでいてくれる。そんな彼に比べて俺は——。

 

 さむくて、死にそうで、ひどく惨めだった。

 

 それでも、背中を優しくさすってくれる手の暖かさが嬉しくて、辛い。どこまでも欲深い自分が嫌になる。本当に浅ましい。

 彼が用意してくれた水を飲むと、すぐに全部吐き出した。繰り返す嘔吐に、涙と鼻水が止まらない。

 

「誠くん、ごめんな……」

 俺、君の努力を全部無駄にしてしまった。

「僕の方こそ、本当に、すみませんでした……」

 蚊の鳴くような声の謝罪。それが、俺をじくじくと責める。こんな姿を晒したくなくて、彼に「大丈夫」と告げれば、誠くんは何かを言いたそうにしながら、部屋へ戻っていった。

 

 

 しばらく嘔吐を続けていると、悪いものを全部出し切ったのかようやく寒気が去った。精根尽き果てたような気分で、足場を確かめるようにゆっくりと部屋に戻れば、誠くんがビーズソファに埋もれている。彼は外したメガネを無造作にテーブルに放り、右腕で目元を覆っていた。自分の部屋のはずなのに、どこにも居場所が無いような気持ちになって、逃げるように浴室までやってきた。そして、部屋で俺が入浴の準備をしている間、誠くんは一度も顔をあげなかった。

 

 

 冷え切った体に、熱いシャワーが沁み渡る。身体は素直に熱を取り戻していくが、俺の心は冷え切ったままだった。

 俺は、誠くんに最低な事をしてしまった。彼の意思を無視して暴走してしまった。頭から熱いシャワーをかぶって、目を閉じる。暖かな水が内腿を伝うと、昨晩のことがフラッシュバックする。

 

「俺……ほんとにバカだ」

 

 口に出すと、どうしようもなく悲しくなって、涙があふれた。彼と一緒にいるのが一番安心するなんて思っていながら、自らの手で全部ぶち壊してしまった。もう、絶対に、今までのように接するなんて無理だ。

 

 どうしよう……。不安と後悔、そして今朝から強さを増した腹痛に耐えきれず、しゃがみこんでしまう。自分でも何を考えたらいいのか、どうするべきかわからなくなって、嗚咽が出そうになるのを歯を食いしばって堪えた。

 静かに、涙だけがシャワーの中にとけこんで、排水溝へと旅立っていく。

 

 そうやって、ぼやけた視界のまま、流れていく水を眺めていた時だった。流れの中に、赤い筋が混じるようになった。

 なんだろ、これ。白っぽい浴室の床の上、赤い筋が流れに乗って、排水溝に吸い込まれていく。ぼーっと眺めていると、その赤がどんどん増えていった。どうやら、その筋は俺の後ろから流れてきているようだ。でも、体をひねって後ろを見ても、特になにも見当たらない。そこで俺はようやく気がついた。

 これ、俺の血だ。しゃがんだまま限界まで足の間を覗き込むと、確かに赤い血が滴っている。も、もしかして、昨日のエッチの時に裂けたりしたんだろうか……。

 泣きっ面に蜂って、こういうこと?

 恐る恐る、手で触って確かめてみると、痛いことは痛いが、切り傷のようなものはなさそうだ。じゃあ、昨晩の破瓜の名残? こんなに血出るもんなの? やばい、わからない。少しパニクって、頭を抱えた時。

 

「あ、もしかして」

 

 ふと、ベンジーちゃんの言葉が蘇った。

 

『女になって、そろそろ一月くらい経ちますよね。これ、生理用品です、もしも来たら使ってください。適当に見繕っておきました。あと、あんまり痛みがひどいようだったら、すぐ病院いくんですよ』

 

 あー。

 これ、女の子の日?

 じゃあ、ずっと腹痛が続いていたのも、これのせい?

 

「う、ううぅぅぅううう」

 

 現実を突きつけられて、床にへたり込んだ。フックにかけられたシャワーから降り注ぐお湯が、雨粒のように俺の身体に降り注ぐ。見慣れてきたと思っていた胸の膨らみに、広くなった骨盤、そして質感の違う肌。

 そうか。

 俺、正真正銘の『女』になってしまったんだ。昨晩処女を喪って、それで今日生理か。笑えてくる。もう二度と、あいつと肩を組んだりして、同じように笑えないんだ。

 そうか、そうか。

 男と女だもんな。

 誠くん、ごめんよ。俺やっぱダメな先輩だ。こんな俺といたら、君は絶対に辛くなる。だからもう、一緒にはいられない。

 

 

 恥を忍んで生理用品を持って来てもらい浴室を出れば、彼は部屋の片付けをしていた。それもほとんど終わりかけ。

 ああもう! なんで、いつも通りに優しいんだよ君は! 少し影のある微笑みで「おかえりなさい」なんて言われたら、俺の決心が鈍ってしまいそうになる。また、甘えてしまいそうになる。

 惨めな気持ちを押し殺して、空元気を装い着れなくなった服を押し付け脱衣所へ彼を押し込んだ。

 

「ほらほらさっさといけ! 残りは俺やっとくから!」

 

 彼を部屋から追い出すと、急に部屋がしんとした。お気に入りの大きな窓は開かれて、嫌味なくらいキラキラとした太陽光線と、底抜けに爽やかな風が部屋を満たしている。

 彼がまとめてくれたゴミ袋の口を縛って、部屋の隅に寄せておく。

 ところどころ血とか何かが染みたシーツを外して、丸めて洗濯カゴに入れておく。

 片付いていく部屋に反比例して、俺の胸に悲しみと寂しさが満ちていく。テーブルを布巾で拭いたり、ソファへ消臭スプレーをふりかけたりしていると、勝手に涙がこぼれてきた。

 歯止めの効かない涙が、ぼろぼろと溢れ出して、頬をつたい、足元に落ちていく。ああ、もう、泣いたってしょうがないのになぁ。片付けの手間が増えるじゃん……。

 

 泣きながら後片付けをしたが、ほとんど誠くんがやってくれていたからそれもすぐに終わってしまう。急に手持ち無沙汰になってしまった俺は、窓際のデスク、キャスター付きの椅子に胡座をかいて座った。そして、窓の向こうを眺めれば、そこには誠くんと出会うきっかけになった風景が広がっている。耳をすませば、遠くから飛んでくる雑踏と、背後から聞こえるシャワーの水音がホワイトノイズのようだ。それに耳を傾けていると、自然と涙は引いていった。

 

「はぁ」

 

 ため息ひとつ吐いて、灰皿とタバコ、ジッポーを取り出す。声こそ出さなかったが、たっぷりと泣いたせいで倦怠感を覚えていた。時期に彼も部屋に戻ってくるだろう。そしたら、ちゃんと話をしよう。気分を切り替えるためにも、俺はタバコに火をつけた。

 この一本は、めちゃくちゃに苦い一本だった。

 

 

 **

 

 

「センパイさん、服とシャワー、ありがとうございます」

 光の射す窓辺、紫煙をくゆらしていると、背後から彼の声がした。俺は椅子ごとくるりと回って彼の方を向く。お風呂上がりの、さっぱりとした彼の顔に安心する。

「ん。具合どうよ」

「なんかシャワー浴びたら良くなってきたっす。僕も吸っていいっすか?」

「ん」

 

 彼がタバコを手に俺の隣に並ぶ。確か、使い捨てライターも買っていたはずだけど、忘れているのかパッケージの開封に夢中になっている。なので、彼がタバコを咥えたタイミングで俺のライターを差し出した。

 

「あざっす」

 

 彼は短く礼を述べて、俺のライターで火をつけた。その瞬間、メガネのフレームの脇から覗く瞳が、とても優しいものになるのが見えた。

 

 ——昨日の今日で、どんなことを思ったんだろう。

 

 想像もできないけれど、無言のまま二人して煙をふかした。そうこうしてると、俺のタバコが先になくなる。ちょうどいいタイミングかもしれない。とりあえず咥えた新しいタバコに着火するのをやめ、誠くんへ問いかけた。

 

「メコンさ……昨日のことどれくらい覚えてる?」

「……その、一回目終わったところくらい、ですかね」

 遠くを眺めて答える彼の耳が赤くなる。

「あー、あそこまでか」

 はにかむ横顔が可愛く思えて、小さく笑ってしまった。そんな、相変わらずな思考回路を誤魔化すために、新しいタバコに火をつけた。

 

 今度は、彼からの問いかけ。

「やっぱ、この感じだとあの後も、続いたんすよね」

「そうね。俺も結構記憶ねえけど」

 なんだか、俺だけ全て覚えているのが気恥ずかしくて、顔が熱くなる。だから、とっさに嘘をついた。しれっと視線を外すと、昨晩の情事が頭をかすめた。

 

「センパイさん。本当に、すみませんでした」

 

 視界の外、彼が沈痛な声音で謝罪を述べた。予想外のタイミングだったから、慌てて向き直ると、彼は腰を九十度に折っていた。

 

「あわわわ、やめろやめろ。いいんだ、俺も悪かった。いや……全部俺が悪いんだ」

 なんで君がそこまで気を病むんだと、彼の肩に手を置いた。しかしその瞬間、彼の両肩に力が入るのを感じ、視線を落としてしまった。

 俺は、いたたまれなさに負けて、言い訳のようにまくし立ててしまう。

 

「俺さ、急に女になって、マジで訳わかんなくってさ。実は、最初メコンがウチにきた時、目が覚めてからちょっと経ってたんだよ。

 ほんと、訳わかんなかった。滅茶苦茶不安で、頭おかしくなりそうだった。そんな時におまえが来てさ、誠くんなら受け入れてくれるんじゃないか、力になってくれるんじゃないかって、ドアを開けたんだ。……実際超安心したよ。あーいつも通りだ、って」

「そうだったんすか……」

 

 彼は、身動ぎひとつせずに、俺の無様な言い訳に聴入ってくれているようだった。

 

「だから、その。今まで通り接してくれてるのに、甘えてた。見た目はこんなに変わっちまったけど、おまえは何も変わらずに俺として扱ってくれてさ……。バカみたいに酒飲んでたら、ちょっと悪戯心がな」

「やっぱあれ、悪戯だったんすね」

「悪ぃ。勝手に、冗談としてあしらってくれるって期待してたんだよ。ほんとバカだよ、俺。自分のことしか考えてなかった。普通あんなことされりゃ勃ってもしょうがないよな。ちょっとこの前まで男だったのに忘れてんだ。そんで、チンコ勃ててるのみて、勝手に失望して、あんなこと……」

 

 言葉にしてみると、ひたすらに最悪だった。全部、全部俺が悪かった。俯いていたせいで顔に落ちた前髪をかき上げて、涙をこらえ彼を見やる。

 

「もう、元にはもどれないって……実感した。内定も取り消されたし、誠くんにひどいことしてしまってさ。だから、俺、学校やめて地元帰るよ。今までありがとな。ほんとうにごめん」

 

 俺は、地元に帰ってひっそりと暮らすよ。家族だって、女になった俺を受け入れてくれるかわからないけれど、それならそれで君を傷つけた罰として甘んじて受け入れる。全部俺が悪かったんだ。女になった時点で、どこか消えてしまえばよかったんだ。

 

 そんな時、誠くんの拳が強く握りしめられているのを視界の端に捉えた。

 

「バーカ! うんこ! あんぽんたん! ほでなす!! あんた何自分だけうだうだ言って、一人で気持ちよくなってサヨナラかよ、バーカ!! 僕にもちょっと時間くださいよ! あーもうムカつくムカつく! そうだ、原付借ります! テメエ逃げんなよ!?」

 

 はじめて誠くんが怒るところを見た。

 彼は、俺に一番懐いてくれた後輩だった。そんな可愛い後輩が激怒しているところを、今日初めて目の当たりにした。いつも穏やかな彼が、黒縁メガネの下、色白な顔を真っ赤にして怒鳴り散らかしている。その怒声を聞いていると、胸が引き裂かれるように痛くなって、勝手に目が潤んだ。

 俺が唖然としていると、彼はズカズカと部屋を後にし、ヘルメットと原付のキーをひったくり玄関から出ていった。

 

 まるで、俺だけが世界から取り残されたかのようだ。

 

 ふと灰皿をみると、吸いかけのたばこが二本、くすぶっている。ゆっくりと立ち上る細い煙が、空気に紛れて消えていった。

「おまえたちも置いてけぼりか」

 俺は鼻で笑うと、二本のたばこをもみ消した。外から、走り去る原付の音が聞こえる。部屋に満ちる静寂が耳に痛い。俺はそっと、椅子の上で膝を抱えた。

 

 こころも、からだも、今まで知ることのなかった痛みを訴えている。

「おなか痛い……」

 レースのカーテンが、遠慮がちに揺れるのを眺め呟いた。

 誠くん、俺の原付でどこ行ったんだろう。

 

「バカとかうんことか、小学生かよ……」

 

 激昂した彼の言葉を反芻して、抱えた膝の間で悪態をつく。

 

「逃げ場なんて、ねえよ……」

 

 散々泣いたはずなのに、また涙が頬を伝った。

 こんなに苦しい恋なんて、今までしたことなかった。

 これまでは、適当にいいなと思った子に声をかけて、漠然と付き合ってきた。初めて付き合った子だって、向こうから告白してきたからOKを出して、自然消滅的に別れた。確かに、どの子にも恋心のようなものはあったし、セックスだってした。でも、何かが足りなかった。

 

「どうしたらよかったんだよぉ……」

 

 多分、俺はきっと本当の意味で人を好きになったことがなかったのかもしれない。

 知らなかったんだ、何も。

 一緒にいるだけで楽しくなったり、会えるか会えないかで一喜一憂しちゃうような人がこの世にいるなんて。

 まさか女になって、初めてそう思える人ができるとは、思いもしなかった。

 ただただ愛おしくて、隣に居て欲しくて、頬に、そっと手を添えたくなるような。

 

 その人は、一番近くて、遠い場所にいた。

 

「帰りたいわけないよぉ……ずっと一緒がいいよぉ……」

 

 泣き出しそうな顔でつばを飛ばす彼を思い浮かべる。

 

『バーカ! うんこ! あんぽんたん! ほでなす!!』

『僕にもちょっと時間くださいよ!』

『テメエ逃げんなよ!?』

 

 誠くん、怒ってたなあ。俺、また一人で突っ走っちゃったなあ。彼の言いたい事、聞いてあげれなかったし、ちゃんと話そうと思ったのに、自分の事しか頭になかったなあ。

 頭の中で反省会が始まる。ぷかぷかと、俺のダメなところが浮かんで、消えていく。ぼたぼたと溢れる涙は、さっきから流し放題。この短い時間に、情緒が乱れまくっていた。

 

 俺は無限ループに陥った思考をなんとかしようと思って、目を思いっきり閉じて頭を何度か横に振った。そして、右腕で乱暴に涙を拭うと、深呼吸して瞼を開いた。

 涙で二重三重にブレた部屋、タバコの残り香。

 ぐるりと見渡せば、彼の私物がいくつか置きっ放しになっている。

 無駄にでかいタンブラーだって、彼が勝手に置いていった物だし、泊まるとき用のジャージもそうだ。

 ここ三年くらい、それこそ兄弟みたいに一緒にいた思い出が、鮮明に蘇ってきた。俺は一人っ子で、少し年上の従兄弟がいるくらいだから、本当に弟ができたみたいに思ったこともある。全く料理ができない俺の為に、彼がつまみを作ってそれで宅飲みをしたことなんか、数え切れないほどある。

 この部屋には、どうしようもないくらい彼の気配や思い出が染み込んでいた。

 

「あはは、こりゃ、俺本当にバイだったのかも」

 

 もしかしたら、男のままでも彼のことが好きになることがあったかもしれないと想像すると、なぜだか急に気が楽になった。今の俺は女で、誠くんが好き。そして彼は派手な見た目の女の子が好き。少し乱暴だけど、それでいいじゃないか。

 きっと、誰かを好きになるってことは、大なり小なり苦しいものなんだ。俺は、いままでその痛みや苦しみを大して知らずに、のらりくらりと生きてきたから余計に戸惑ってしまったのかもしれない。それに、培ってきた関係を壊す一歩を踏み出してしまったからには、しっかり決着をつけないと……。

 

 涙も引いて頭が大分スッキリしてきた頃、ふたたびカーテンが遠慮がちに揺れた。ふわりと、動物的な動きでまくれたカーテンの向こうから、バイクのエンジン音が飛び込んできた。

 この音、多分自分の原付のだ。乗るときはヘルメットを被っているし、自分で運転するのとは音の聞こえ方が違うからあまり自信は無いが、なんとなく彼が帰ってきたと思った。そしたら、今度こそちゃんと話し合うんだ。そこで、彼がもう金輪際関わりたく無いといったら、大人しく身を引こう。

 

 

 **

 

 

「ただいま!」

 

 玄関のドアが開く音と、少し苛立ちの残る声音で彼が帰宅を告げた。俺は椅子に座り直して、少し緊張しながら彼が部屋に戻ってくるのを待ったが、どうもガサゴソと物音がするばかりで入ってこない。な、なんだろう、何が起きたんだろう。ちょっと想定外だったから、なんとなくすり足で扉へ向かって、ゆっくりと廊下を覗き込んだ。

 

「お、おかえり……」

 

 そこには、妙なテンションでスーパーの袋を掲げた誠くんがいた。

 

「今日は! 二日酔いを吹っ飛ばせ! トマトたっぷりお野菜カレーをつくります!!」

 

 わぁ、なんか変な方向に吹っ切れているみたい。でもよくわからないが、これからご飯を作ってくれるらしい。個人的に、彼の作るカレーは実家のより手が込んでいて美味いと思う。素直に嬉しい。

 

「わ、やったぜ」

「センパイお腹いたいんでしょ! 寝てろ!」

 俺が素直に反応すると、彼はビニール袋の中から細長い箱を取り出し、そのままの勢いで放り投げてきた。かろうじてそれをキャッチして、パッケージを確認してみると例の鎮痛剤だった。ちゃんと、ピンク色の、生理痛向けのやつ。

 

「は、はい……」

 

 とりあえず何か言える雰囲気じゃなかったので、すごすごと部屋に戻る。扉を後ろ手で閉めて、そのままベッドの縁に腰掛けた。

 正直、あそこまで彼を本気で怒らせたことがないから、今がどんな状態なのかわからないけど、態度ほど怒ってないのかもしれない。ドアの向こうからは、冷蔵庫を開け閉めしたり、なにか金物を取り出したりする音が漏れてくる。最初は少し雑だったその音も、次第に落ち着いた、丁寧なものになっていった。

 

 手元には、彼がわざわざ買ってきてくれた新しい鎮痛剤。

 彼の気遣いが単純に嬉しくて、俺は鎮痛剤の箱を両手で握りしめたままベッドへ横になって身悶えた。

 

「ううぅぅうんん」

 

 胸の奥がじんわりと暖かくなる。これから、彼がどんなふうに話を切り出すかわからないけど、ちゃんと部屋に帰ってきてくれた。彼と同じ部屋にいるだけで、気分が上向いていく自分の単細胞さに呆れるがしょうがない。しょうがないのだ。

 腰全体に広がるような痛みも、なんだか嫌じゃ無いような気すらしてきた。もぞもぞと据わりのいいポジションを探してゴロゴロしていると、部屋のドアが開く音がした。

 

「お腹減ったっしょ。まずはこれ」

 なぜだか呆れの色が滲む声の誠くんが、両手に器を持って立っている。

「えっ、カレー!?」

 予想以上にご飯が出てくるのが早くて、ついメニューの確認をしてしまった。

「カレーは夜です」

「夜かぁ」

 いや、そうか。こんな短時間でカレーができるわけないか。ちょっと早とちりしてしまった。微妙に気恥ずかしくて、頑張って表情を消す。すると、何かが面白かったのか、誠くんは鼻で小さく笑うと手にした器をテーブルに並べて続けた。

「僕たち昨日の夜から酒しか飲んでないんですから、まずはなんか入れないと」

 彼がテーブルに手招きするので、いつもの席につくと、梅干しが乗ったおかゆが湯気を立てている。

「ふええ女子力高ぁい」

「あ、梅干しは僕の実家で漬けたやつなんで、かなりしょっぱいと思います。それでも味薄かったらごま塩あるんで、それで調節して」

 彼が得意げに説明を続ける。ドヤ誠くん可愛い。というか、気づいたら冷蔵庫にあるから勝手に食べてたけど、実家の梅干しですって。妙に美味いと思っていたら、俺胃袋もしっかり掴まれてたんだなあ。

「ほえー、結婚しよ」

「……それ本気っすか」

「えっいやっ、それは……あれ……? ん? できんのか?」

 ヤッバ、つい油断していつもの冗談を言ってしまった。いやいやいやこれ冗談にならねえって、あっ、うわっ、クッソ恥ずかしい……。

「センパイまだ酒残ってます? ま、どうぞ召し上がってください」

「お、おう」

 胡乱げな視線を送ってくる彼を見る限り、特に気にしていないようだった……。すこし残念な感じもあるが、とりあえず勧められるままにスプーンを手に取る。

 

「「いただきます」」

 

 あぁ、なにこれ、こんな美味しいおかゆ初めて食べた。体調は随分とよくなってきてたけど、いろいろ水分とかミネラルとか放出してしまった体にとてつもなく優しい。優しさが素早い、マッハ出てる。ホッとして、じんわりする。

「はぁ……生き返るねこれは」

「簡単なんで、作り方教えますよ。あんた酒飲みなんすから」

 簡単ねえ。どうなんだろう、俺にも作れるのかな。

「んー、作ってくれないん?」

「センパイ、そういうところっすよ。昨日の今日で、そんなこと言われたら僕どうしたらいいんすか」

 あーあーあー、俺のバカ。もっと考えて物を言えよ俺! ついさっき失言したばかりでしょうが。

「あ……。ご、ごめん、反省します」

 

 なんともいえない沈黙が訪れた。思った通りに喋れない情けなさと恥ずかしさで、黙ってスプーンを進める俺と、何も言わず黙々と食べ続ける誠くん。たまにメガネを押し上げて、少し焦ったようにおかゆをかき込んでいく彼を眺めていると、完食したのか器とスプーンを置き、水を一口飲んで大きく息を吐き出した。

 そして彼にしては珍しく、真っ直ぐに俺の目を見て口を開いた。

 

「あと、センパイ、学校やめないでください。もちろんサークルも。最後にもっかい渾身の作品見せてくださいよ。もう二年くらいまともなの撮れてないじゃないすか」

 あぁー、そうかあ、引き止められちゃったかあ。じゃあ、しょうがないかなあ。そもそも、今学校やめるとか確実に親から殺されるし?

 ただ、やっぱり彼は俺の作品にしか興味がないんだろうか。それはそれで、なんだか虚しいな。

「うん……わかった。なんとかやってみる」

「あっ、でも、まずは就活っすか?」

「ギャーやめろー! どうすっかなあ……また髪黒染めしなきゃなあ」

 

 すっかり頭からこぼれ落ちてた、就活とかいうヤツ。ぶっちゃけそれどころじゃなかったけど、もう夏になるし焦らないとマズイ。せっかく美容室でトリートメントとカラーしてもらったのに、黒染めしなくちゃいけないのか? こんなに手触りよくなったのにもったいない……。あー、証明写真撮らなきゃいけないし、どうしよ、果てしなくメンドくさい。

 残酷すぎる目の前の現実に惚けていた俺に、誠くんが世間話といったふうに問いかけてきた。

「そういやセンパイって、金髪になんかこだわりあるんすか? ずっとですよね」

 金髪について? そういや、特に理由はなかったなあ。大学に入ってからすっかりトレードマークみたいになってしまって、変えるタイミングを見失ってたってのもあるけど。

「かっこいいじゃん。それだけだよ」

「シンプルっすねー」

 

 ありゃ、身もふたもない理由だったのに、妙に納得した顔をしてらっしゃる。

 

「そういやさ、なんでさっきから俺呼ぶ時に『さん』抜けてんの?」

「い、いやあ、なんか拍子抜けしちゃって……。あと、なんだかんだ『センパイ』にさん付けって違和感ないすか」

「それは俺も思う。一年の時からややこしいあだ名だなって。でもさ、今じゃ『さん』がついてないとそれはそれで違和感あんのよね。なんか別のない?」

「えー、うーん。じゃあ、仙庭さん……?」

 俺の名字を呼ぶ彼が、首をひねりすぎて梟みたいになっている。

 それが面白くて、あと、少しこそばゆくて、少し戯けて返す。

「うん。なんか逆に気持ち悪いな」

「クッソー! でも僕だって、もう慣れてますけどメコンってあだ名酷くないすか? 川っすよ、河川、リバー。なんかナマズとかいそうじゃないですか」

「いるぞ、メコンオオナマズ。最大で体重三百キロくらいになる」 

 タイの怪魚だぞ。釣り堀があるらしいし、一度でいいから俺も釣ってみたい。両腕を広げてスケール感を表現してみたが、やっぱり全然足りなくて彼に笑われた。

「まーじすか。デカすぎでしょ。こわ」

「じゃあなんだ、誠くんって呼べばいいんか? え? んふふ」

「なんか……すんません……。フフッ」

 やっぱり、彼の笑顔が一番の幸せだった。

 

 

 **

 

 

 誠くんが作ったカレーは、いつも通り素晴らしいクオリティーだった。ただ、いつの間にか置いてあった大鍋いっぱいに作ったせいで、ここしばらくの食事からカレーが消えることはないだろう。そのことに責任やらなにやらを感じたのか、後片付けは任せてくださいと、テキパキと食器洗いやカレーの小分けをしていく誠くんを眺めながら、食後の一服と洒落込んだ。

 なんだか、不思議な気持ちの一服だった。満腹感とほろ酔いで火照った体を、夜のすこしひんやりとした風が冷やしていく。そしてゆっくりと、夜風の香りとタバコを味わう。舌がピリピリする感じが心地よく、たっぷりと時間をかけて煙を吐き出し、甘いタバコの葉の余韻に浸る。

 俺と彼の関係が決定的に変わってしまった後なのに、驚くほど穏やかな気持ちになる一服だった。

 

「センパイさん、カレー小分けにして冷蔵庫に入れときましたよ」

「おーありがとうメコンくん」

 

 誠くんがタバコを咥えながら、隣に並ぶ。そういえば、今日こうやってタバコを吸うのも二回目か。

 そして気がつけば、お互いいつものようにあだ名で呼び合っていた。

 

「結局この感じっすね」

「わかるわー」

 彼は水色の使い捨てライターでタバコに火をつけて、一度大きく煙を吸い込んだ。彼はハイライトメンソールを愛飲している。きっと、彼は今ほどよい清涼感を楽しんでいるんだろう。すると、昼前に並んで一服した時のような、優しい目をした彼が、独り言のようなトーンで言葉を紡ぎ始めた。

 

「僕、センパイさんに憧れてたばこ吸い始めたんすよね」

「えっマジか。ごめんよ、体に悪いのに」

「いいんすよ。かっこいいと思って吸ってるんすから」

「そうかー? でも君俺と一緒じゃないと吸わないじゃん」

 

 彼を見ていると、どうにも普段の喫煙頻度は高くないようだった。喫煙所に誘えばついてくるし、居酒屋なんかでは結構矢継ぎ早に吸ったりもしている。ただ、それも一人でいる時や周りが吸わない人たちだと違うらしかった。

「……バレてました?」

「まあね。先輩だからね」

 彼はすこしだけバツの悪そうな顔をして、タバコを咥えて煙をふかし始めた。

 二人の間に、優しい沈黙が訪れたようだった。立ち上る煙が、夜風にもてあそばれる。俺がそれに見とれていると、再び誠くんの声が降ってきた。

 

「結局、センパイさんが僕の一番の憧れだったんですよ。センパイさんみたいになりたかったんです。たばこ吸って、酒飲んでふざけて、最高の写真撮りたくって。でも、一緒に遊んだり、勉強したりすればするほど、どうしようもなくセンパイさんにはなれなかったんです。当たり前っすけどね」

「うわあ、なんか色々背負わせちゃってんな俺」

「いいんすいいんす、僕が勝手に背追い込んでるだけだったんで。実際、全部忘れちゃいましたよ。先輩としては敬いますけど、もう神様みたいに見るのはやめました」

 誠くんは、肩の荷を下ろしたような顔で、楽しそうに言う。

「それがいいよ。俺なんてそんなに持ち上げるような人間じゃないぜ。天才でもなんでもないしな」

 俺は首を横に振って彼の抱いていた幻想を否定した。どうしてだか彼は俺をとてつもなく持ち上げてくれていたが、俺は、そんなに大層な人間じゃない。どちらかというと、凡人もいいところ、カメラだって趣味というのもおこがましいようなもんだ。たまにまぐれでいい感じのが撮れるけど、狙って撮れたことなんて一度もない。

「今まで通りでいようなんて、お互いどっかしら限界だったんですかねー」

「かもしれねえなあ」

 

 

「センパイさんは、どうしてカメラ始めたんすか——」

 彼の問いかけに、俺はちょっとした昔話をした。夜明けが好きなこと。特に、これから訪れるだろう、夏の夜明けが好きなこと。そして、高校時代に見た景色が、ずっと胸に残っていること。

 俺は、あの時のような瞬間を閉じ込めたくて、シャッターを切ってきた。どこにでもある、見慣れた街並みだったり、平凡な風景が色を変える瞬間。光の粒が、視神経に飛び込んでくるのを感じるような瞬間を、切り取りたかった。万が一にも、似たような感情を抱いてくれるような人がいたらと思ってやってきた。今のところ、全然ダメみたいだけどさ。そんなことを、つらつらと語った。

 

 一通り語り終えたところで、一つ伸びをして、ビールを一口飲む。ここから見る景色だって、気に入っていた。俺みたいな寝るところがあればそれでいいような人間には少し持て余すような部屋だが、窓からの眺めが気に入ってここに決めた経緯がある。

 

 そして誠くんが、言葉を区切り区切り、確かめるように会話を引き継いだ。

「あの、僕が一年の時に見た、センパイさんの作品って、ここからの景色ですか?」

「そうだねー。二年に上がる時、何と無く音楽かけてさ、レンズのメンテしてたときだっけな。試しに何か撮ろうかなって思ってたら、目の前の木が芽吹く準備をしててさ、おー春がくるなー、風の匂いも変わってきたなーって思いながら撮ったんだよ」

 

 なんとなく、全部が気持ちいい日だったのをよく覚えている。冬の間、閉めっぱなしがちだった窓を心置きなく開け、新鮮な空気を味わいながらカメラをいじり、漠然と幸せな満ち足りた気持ちでシャッターを切ったはずだ。

 

 すると彼は、自分に言い聞かせるよう、滔々と言葉を紡ぐ。

「やっぱ……センパイさんは天才っすね。僕、その作品見た時、全部わかったんですよ。近所の公園で遊ぶ子供の声とか、まだ冷たい風に混ざる春の匂いとか。ちょっとねむい感じの曇り空だけど、なんか新しいことが始まりそうな感じとか」

 

 ——その通りだった。

 

 あの日は、薄ぼんやりと曇っていて、近所の公園で遊ぶ子供の笑い声が、まだ肌寒い春の風に乗って部屋に飛び込んできた。ありふれた、厚手のパーカー一枚羽織れば快適な春の一日。

 

 そんな些細なことが、一枚の写真を通して確かに彼へ伝わっていたのだ。

 胸に、暖かな喜びが広がった。

 

 

「……そっかー。伝わってくれてたんだー。よくわかったねえ。君には伝わったんだなぁ……」

「いやあ……なんだかんだセンパイさんとずっと遊んでたのに、最後の年にようやく気づくなんて、全然ダメダメっすよ……」

 俺たち二人、これ以上何も言えなくなってただただタバコを吸った。

 紫煙がくれる、優しい静寂の中。

 俺の中で、打ち明ける覚悟が決まった。

 

「あのさ、誠くんに訊きたいことがあるんだけど」

「なんすか、急に改まって」

 それでも流石に緊張して、声音が硬くなる。

 しかし、意外と声は震えなかった。

「俺ってさ、気持ち悪くない? 外側と中身が不釣り合いというか、ちぐはぐというか。正直、自分がよく分かんねえんだよね、いろいろ。それでさあ、こういうの、相談できるのって、誠くんぐらいしかいなくて……」

 

 自分でも自分のことがわからないなんて、月並みな言葉だ。でも、そうとしか言いようがない。

 

「センパイさんは、センパイさんっすよ……」

 

 絞り出すようにそう言った彼は、少しだけ俯いた影の中、ちいさく唇を噛んでいた。

 いいよ、それでいいよ。君が、俺のために『俺』を『センパイさん』として接してくれていたのはよく分かってる。君だけが、すがたかたちの変わってしまった俺を、俺のままでいさせてくれた。

 でも、もういいんだ。俺、気がついたら中身もどんどん変わっちゃってたから。だから、君も無理して今まで通りのふりをしなくていいよ。

 

「俺、おまえのこと、すげーいい後輩だと思ってる。こんなことになっても助けてくれて、ほんといいヤツだよおまえ。

 実はさ、俺こんな見た目だから軽くヤレるとか、下心丸出しのやつも結構いたんだよ。あとは、急に女になったことで気味悪がって離れてくやつとかさ。俺の四年間の人間関係、ほとんどダメになって、マジ笑えねえ……。そう思うと、やっぱおまえすげえなって。あーダメだ、うまくまとまんない」

 

 彼に思いの丈を伝えようとするけど、うまく言葉が繋がらない。こんなときも言葉に詰まる自分が情けなくて、タバコを一本咥えるが、なかなかライターの火がつかない。一回、二回、三回……。小さく、細くなった右手の親指で石を擦れば、柔らかくなった皮膚に痛みを感じる。

 躍起になって火打石を回すうちに、火花は散るのになかなか燃え移らないライターへ自分を投影していた。泣きそうになりながらもダメ押しで擦ると、ようやく、控えめな火が灯った。

 

 よし。これで、ちゃんと訊ける。安堵と、不安の混ざった煙を吐き出して。

 

「おまえはどう? 俺といて、なんか嫌なこととかないか?」

 

 じっと、彼の瞳を見つめて問いかけた。

 

「僕は……センパイさんと一緒が良いです。嫌なことなんて、一つもありません」

 

 笑いそうになるくらい情けない声で、誠くんはそう言った。合わせた視線は、数秒の間しか保たずにビュンビュンと泳ぎだす。

 しまいには、強張った顔を真っ赤にして、窓の外に視線を逃してしまう。

 

 ——なんだよそれ、ずるいよ。

 

 一緒がいいとか、嫌なことなんてないとか、本当にずるい。どうとでも受け取れる返事なんて、今は欲しくない。でも俺だって、ちゃんと想いを言葉にしていなかったから、お互い様なのかもしれないなぁ。長いこと一緒だったから、今更どう言葉にしていいかわからないんだ。

 そんな俺の思考を置いてけぼりにして、身体が動き出す。まだ長いタバコを押し消して立ち上がると、未だ目を泳がせてそっぽを向いた誠くんを見る。

 

 思い立ったらすぐ行動するのが、俺の悪い癖だろ?

 俺はちょっと八つ当たりみたいな勢いで、彼の背中にしがみついた。

「エフッ」

 誠くんから、情けない音が漏れる。

 

「ほんとうに、昨日はごめん! ちょっと、順番、間違えたけどさ、お、俺……」

 

 今日一日、ガバガバになった涙腺から涙が溢れ出す。生まれて初めて心の底から好きになった人に想いを伝えるのが、こんなに怖いことだとは。それでも、いちばん大切なこと、言わなくちゃ。今すぐにでも折れてしまいそうな弱い心を無理やり鼓舞して、がむしゃらに言葉を続けた。

 

「誠くんのこと、好きだ」

 

 あまりにも短くて、飾り気のないことば。

 これだけのことが言えなくて、俺は……。

 もう、涙も鼻水も、嗚咽もぜんぶ我慢できない。

 

「君の、気持ちを聞かないまま、あんなことして、本当にごめん。こんな……ずるくてアホな俺でよかったら、これからも、一緒にいてほしい……」

 

 俺の言葉を最後まで聞き遂げた彼は、しばらく微動だにしなかった。彼は見事な硬直のあと、何かを言おうとしたり、よくわからない形に手をわきわきさせている。俺は、溢れて止まらない涙もそのままに、だんだん高くなっていく彼の体温を感じていた。

 そして、もう少しだけ、こうしていたいと厚かましくも思ったとき、彼がついに口を開いた。

 

「あ、あの、センパイさん。あ、いや、ま、真輝さん……」

「……なに?」

「ぼ、僕、金髪ピアスとかちょっとやんちゃっぽい女の子、めっちゃタイプなんですよね実は。ウェへへへ……」

 彼は少しテンパってるのか、気持ち悪い笑い方をする。

「……知ってた」

 少しだけ意地悪な口調で告げると、彼が大きくビクついた。ふふ、面白い。

 

 そして、ついに。

 

「マジすか……。えっと、その。こちらこそ、僕でよかったら、よろしくお願いします」

 

 胸を押しつぶす緊張が、ぶわっと霧散した。

 

 さっきまで苦しかった涙が安堵の涙に変わるのを感じて、思わず腕を前に回してしまった。すると、抱きしめた身体が、緊張したのか強張った。

 ああー誠くんの背中大きい……。服は全部あげたやつだから慣れ親しんだ匂いなんだけど、その奥から彼の体臭だろうか、胸がざわざわする匂いがする。

 

 ——可愛いすぎかよ。

 

 俺の思考回路がいよいよヤバイ。それに誠くん、あんまり可愛いって言ったら怒るかな。男の子は自分に向けられる可愛いを褒め言葉として受け取り難いところがあるのは、俺もそうだったからよくわかる。彼もそうなら、その時はどんな反応をするだろう。はにかみながら照れ臭そうにするかもしれない。そういうところ、想像するだけで、胸に暖かいものが満ちていく。

 

「んんんー」

 

 思ったよりも甘えた声が出てしまって、自分でも少し恥ずかしいけど、そういう気分なんだからしょうがない。

 気分だからしょうがないね。

 

「今日さー、泊まってけよ。明日日曜だし」

 

「きょ、今日っすか……?」

 

「んー。その、なんだ。……もうちょっと、一緒にいたい」

 

「ンンーッ!!」

 

 

 素っ頓狂な誠くんのリアクションに笑って、彼の肉の薄い背中に頬をグリグリと押し付けた。

 

 

 ****

 

 

「お、ベンジーちゃんお疲れー」

 

 いつもの喫煙所にて、加熱式タバコをふかすベンジーちゃんと出くわした。

 

「あ、お疲れ様ですぅ……ん!? センパイさんスカート履いてる!?」

 

 そう、ロングなやつだけど、ついにスカートを買ってみたのだ。麻の混じった布地の手触りが涼しげで、値段も手頃だったのでいい買い物をしたと思う。それにちょっとレトロな柄のTシャツをタックインしてみれば、まあ、そんなに悪く無いのでは? という見た目になった。

 それと一応、靴もちょっとだけヒールのあるサボサンダルにしてみた。ほんとにオマケみたいなヒールなので全然歩ける。なんなら就活用の革靴のほうが歩きにくいくらいだ。

 

「うん。いよいよ暑くなってきたし、物は試しだと思って、ね」

 

 彼女の隣に並ぶと、斜めがけにしたサコッシュから加熱式タバコを取り出した。

 

「あら、紙巻もやめたんすか」

「え、ああ。ちょっとね。匂いとかもあるし、こっちの方がいいかなと」

「はえー、センパイさんが……」

 

 顎に手をやってしみじみと唸る彼女を横目に、タバコの準備を進める。

 が、加熱時間がなんともじれったい。

 

「あ、そういえば」

「はい?」

「無事というか、なんというか。俺……じゃない、私、メコンくんと付き合うことになりました。ちょっと遅くなったけど、ご報告」

「ほえー、それはおめでとうございますぅ……」

 

 間抜けな声をあげて、力の篭っていない拍手をするベンジーちゃん。

 あれ、意外と反応が薄いな……。

 しばらく拍手を続けていた彼女だが、だんだんとそのテンポが遅くなってついに止まると、ゆっくりと目を見開いた。

 

「え、あれ。これマジっすか? ラブなやつっすか?」

「センパイ、嘘ツカナイ」

 

 ベンジーちゃん、ようやく意味を理解したのか、小刻みに震えはじめた。

 えっなにこれ、怖……。

 

「うえっ、ヌアッ……じゃ、じゃあ、最近メコンさんの服の雰囲気が変わったのって……」

「男だった時の服、殆どあげたからそれかも」

 

「なんと……なんと……」

 

 とうとう彼女が壊れた。

 

「どうした、大丈夫か」

「すばら……すばらし……オエッ……尊みが……」

 

 あっ、ダメみたいですね。目が完全にキマってる。

 しかし彼女の超回復は見ものだ。無事再起動が終わったのか、口元をぬぐいながら私に詰め寄ってきた。

 

「せ、センパイさん、週末飲みに行きましょ、ね? 私全部出すんで、行きましょ? お酒ですよ、行きますよね?」

「あっはい。行きます、行かせていただきます……」

 

 ようやく準備の整った加熱式タバコの吸い口を咥えて、ベンジーちゃんの猛攻を適当なところで切り上げる。

 紙巻とは違う、なんとも物足りない味わいを残念に思いながら、目を爛々とさせているベンジーちゃんを横目に見る。彼女は「おっひょぉおおお」なんて不気味な声をあげスマホをえらい勢いでシュパシュパしている。すっげ、爆速両手フリック入力だ……。

 

 ——みんないい子だなあ。

 

「ふふ」

 

 私はかたちの変わってしまった幸せを噛み締めながら、小さく笑った。

 

「んー、それじゃあ、肝機能バチバチに仕上げて行くから覚悟しといて」

「えっ……あの、お、お手柔らかにぃ……」

 



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世界はそれを


続いちゃっ……たぁ!
短いの2話で終わります。



「そんじゃあ、メガちゃんよろしく頼むわー」

 

 大学の撮影スタジオにて、金属製の彫刻が半円を描くように立ち並んでいる。その全てが動物モチーフで、細かな装飾や意匠の共通点から、一人の人間の手による連作であることがわかる。

 僕のことを『メガちゃん』と砕けた呼び方をする彼は同じ学科の同期で今橋(いまばし)といい、今日は彼の頼みで作品撮影をしているのだ。

 

 一応、僕が写真部に所属していることは周知のことで、前からこうやって作品の撮影を頼まれる事は何度かあった。

 

「ええと、この鼠から順に撮ってくんだよね?」

 僕が今橋に簡単な段取りを確認すると、ツナギの上半身を脱いだ彼は汗で額に張り付いたロン毛を鬱陶しそうにかきわけながら「それでオナシャス」とヤケクソ気味に答えた。

 夏真っ盛りにツナギを着て、別棟にある金属工房からスタジオへ運ぶのはなかなかに骨が折れる。僕も少し手伝ったので、エアコンが効いた室内でも汗が止まらない。

 

 僕もたまらず腕で額の汗をぬぐい「オーケー」と返事すると、撮影を開始する。

 

 三脚に乗せたカメラのファインダーを覗き込みピントを合わせる。今回の撮影の目的は彼のポートフォリオ用ウェブサイトへの掲載なので、ある程度加工やトリミングが前提だ。事前に彼から絵コンテでイメージを教えてもらっているが、スタジオの使用時間の制限もあるし効率重視でいきたい。

 僕は一度今橋を呼んで、カメラのディスプレイを見せて構図を確認した。

 

「どうよ?」

「いいんでね? 俺カメラ苦手だから任せる」

「うい」

 

 お任せということなのでちゃっちゃとやってしまおう。僕は改めてストロボの接続やライティングの位置を確認すると、カメラのシャッターを切った。

 

 ……これを、鼠から栗鼠に兎、狸と狐、猪や鹿まで繰り返さなければならない。

 

「バシさぁん。集合写真じゃダメ?」

「ダメに決まってんべ。ほれほれ次だ次」

 

 僕の提案は取り付く島もなく否決され、しぶしぶ二人で機材の移動を行う。あんまり室内で撮影する機会がないから機材の多さに辟易する。僕は被写体を足で探すタイプなのだ。ブツ撮りは嫌いじゃないけど、ちょっとだるい。そして、最も苦手なのはポートレートだ。もう明確に『人間』を撮るということを認識させられて萎縮してしまう。自意識過剰なんだろうが、僕なんかがその人の写真を撮るなどおこがましいといった気持ちになる。

 

 僕たちは二人して小さなため息をつき、アセアセとカメラやアンブレラ、ストロボの電源などを移動させていく。

 

「バシさん、ストロボ必要だったかなコレ」

 

「あった方がいいと思って……。(わり)いなメガちゃん……」

 

 

 **

 

 

 全ての撮影を終え、撮影機材を仕舞い、学科事務室へスタジオの鍵を返却して完了。そして最後はスタジオから金属工房まで作品を運び直す。

 

「キッツ……死んじゃう……」

「これで終わりだからがんばれ。せーのでいくぞ」

 

 撮影が終わっているので、僕も問答無用で手伝わされる。しかも今回の作品は今橋のこだわりで全て鉄製だ。

 つまりクソ程重い。

 流石に台車を使って移動させるが、それでも乗せたり降ろしたりは人力で、いちいち愚痴りたくなる。アホじゃないの、この等身大の鹿の彫刻とか。いくら中身空洞でも土台とか合わせたら超重いって。

 

 

 なんとか全ての作品を運び終えた僕たちは、己の汗で濡れ鼠状態のまま一服キメていた。二人してツナギの上半身を脱いで腰で袖を結んでいる。今橋はタオルを頭に巻いた状態で咥えたばこ、右手にはペットボトルのコーラ。もう現場作業員にしか見えない。

 それなら僕はさしずめへばってる新人か。

 夕暮れに差し掛かっているとはいえ、気温が高ければ湿度も高い。僕は首にかけたタオルで汗を拭きながら加熱式たばこをふかす。暑いしクタクタだし超まずい。味をごまかすために奢ってもらったコーラを呷る。

 

「いやあマジであんがと。助かったわぁ」

 コーラを半分くらいまで飲みきった今橋が軽い調子で礼を述べた。

「あー。バイト代、期待してるから」

「メガちゃんって意外とゲンキンよなあ」

「一日働いたんだから当然だろ。ほら、久しぶりに重いもの運んだから手がプルプルしてる」

「ブハハ! マジかよ、もっと鍛えとけって!」

 

 余計なお世話なんだよなあ。確かに僕は眼鏡がトレードマークの一般標準的もやしっ子だけどさ、別に筋肉とか憧れないんだよ。最悪カメラとマウス持てればそれでいいし。

 

「あ。そういやさ、メガちゃん例の先輩と付き合い始めたってマジ?」

「は? 例のって?」

「あぁ? あれだよ、急に女になったっていう、ヤンキーの先輩」

「あ、ああ。センパイさん?」

「メガちゃんのサークル変なあだ名多いよな……。いやまあそれは置いといて、もうヤったん?」

「ンブフゥ!」

 

 グッバイ飲みかけのコーラ。思わぬ問いかけに飲み込む直前だったコーラを噴き出した。

 

「うわ、その反応じゃもうヤったわけだ。なんだよメガちゃんホモかよ。やっベー」

「んん? なんでや」

「だって男だったんだろ? 俺ぜってぇそん時の顔チラついて無理だわぁ」

 

 彼が半笑いのままよくわからないことをのたまう。

 

「いや、センパイさんはちゃんと女の子だぞ?」

「んー。まあまあいいからいいから、俺はメガちゃんが幸せなら何も言わね」

 

 バシさん、君は一体何を言っているんだい。あとその妙に察したような目は何だ。クソ腹立つなオイ。

 僕は死ぬほど冷たい視線を彼に送るが、どうにも効果がないようだった。

 

「そいじゃ、これお駄賃ね、お疲れさん。お幸せになー」

「んお……」

 特に何も言い返せないまま、彼がリュックから取り出した茶封筒を手渡される。

 

 頭に巻いていたタオルを解いた今橋が、残り少なくなったたばこを灰皿に落とすと、ヘラヘラと笑いながら去っていった。

 

 

 **

 

 

 僕は自分のアパートに帰宅すると、少しぬるめのシャワーをたっぷりと浴びた。全身に汗をかいたのもあるし、何よりもモヤモヤとした感情をどうにかしたかったからだ。でも、体こそさっぱりしても気持ちは少しも晴れない。今橋の『俺は受け入れるぜ』みたいな、表面だけリベラルを気取ったような態度が頭の中でリフレインを続けている。

 

 ——ただただやりきれなかった。

 

 一ミリもあの人のことを知らない奴が、一体何様のつもりなのか。僕だけなら、どんな誹りを受けようが構わないが、僕の大切な人が傷つくようなことは許せない。

 

 センパイさんこと真輝さんは、あの人なりに精一杯女性としての振る舞いや意識を持とうと努力している。ここしばらくベンジーちゃんによってスパルタ教育を受けている彼女は化粧も上達してきて、事情を知らなければ産まれながらの女性にしか見えない。まあ、結構やんちゃっぽい見た目なので、それで誤魔化しが効いているところもあるかもしれないけど。

 

 僕はシャワーの水が伝う自分の肉体を眺め、ある日突然この身体が女性になることを想像しようとした。

 

(全然想像できないや)

 

 情けないことに僕の頭に浮かぶのは、二人想いを確かめ合った日の、泣きはらした後の彼女の笑顔だけだった。

 彼女の苦痛や心労が如何程だったのか。僕の残念な頭では想像もつかないが、あの人のあんな顔は、もう二度と見たくないことだけは確かだ。 

 

 

 

 

 浴室から出た僕はあたらしいTシャツとハーフパンツに着替え、とりあえずスマホを手に取った。その画面を表示させると、まだ夕食には少し早い時間だと告げられる。

 

「ふぅ」

 

 僕はなんとなく寂寞感のようなものを覚えて、そのままメッセージアプリを起動した。そして、何度もやりとりを重ねてきたアイコンをタップする。

 すると、ほとんどコール音がなることなく通話が繋がった。

 

『わーお疲れーどしたん?』

 

 少し上ずって、間延びした声。多分、これはもう飲んでる。

 

「お疲れ様です、真輝さん今暇ですか?」

 

『うんうん暇暇。部屋で飲んでるから、誠くんおいでよー』

 

「わかりました。ちょっとつまめるものとか、おかず持ってきますね」

 

『マジ? うわあいやったーお待ちしてるぜー』

 

 僕はすぐに向かうことを告げると、すこし躊躇いつつも通話を切った。

 なにせ今声を聞かなくても、ちょっとすれば本人に会えるのだ。僕の残念な脳みそはすぐにこんがらがった思考を放棄して、心が軽くなる。

 

「確か、アレがあったな……」

 

 わかりやすく浮ついて冷蔵庫を覗き込んで酒のあてになるものを探していると、実家から送られてきたシリーズからうってつけのものを見つけた。

 ——これを持って行ったら彼女はどんな顔をするだろう。

 驚くだろうか、笑うだろうか。それとも、嫌な顔をするだろうか。いろんな表情の真輝さんを想像して、僕はほくそ笑んだ。

 

 

 **

 

 

 ピンポーンと、耳慣れたベルの音に続けて声をかける。

 

「お疲れ様でーす。誠でーす」

 

 すると、言い切るやいなやドタドタとくぐもった足音が聞こえてきて、カタンと解錠の音が響きドアが開く。こりゃ待ち構えてたな。

 

「ん! おつかれ。あがってあがってー」

「はーい。おじゃまシマウマ」

「おじゃまされマウス」

 

 くだらないダジャレに笑う真輝さんは、ギネスビールのTシャツに部屋着のホットパンツというラフな格好で僕を出迎えた。いい感じにアルコールが回っているのか、上機嫌にニヤついている頬から首筋までぼんやりと赤くなっている。残念ながら新しい内定先のインターンと秋に控える内定式のせいで金髪はやめてしまったが、その分耳のピアスが増えている。なんだっけ、耳の上の方を貫く、インダストリアルなんとかというピアス。超好き。

 

「あ、これお土産です。昨晩の残り物とおつまみ」

 

 僕はサンダルを脱ぎながら彼女へ持参したビニール袋を手渡す。

 

「わーいつもわるいね! 何かな何かな?」

「ま、ま、ま。部屋行きましょ。日は暮れてもあっついんすよ外」

「あーごめんごめん。バッチェ冷えてますよーお部屋とビール」

 

 僕が彼女の両肩を軽く押すと、受け取った袋の取っ手を両手で持った真輝さんがケラケラと笑い声をあげて短い廊下を部屋に向かう。あれですな、紐を使わない電車ごっこみたいな感じ。

 

 そんな風にじゃれ合いながら部屋に入ると、確かにエアコンが効いていて涼しい。

 

「これはいけない。早く飲まなきゃおビールに失礼ですねぇ」

「誠くんもそう思うだろう? 全くもって失礼な気温だよなぁ。おかげさまでビールが美味くて堪らない」

「「ガハハー!」」

 

 僕たちの関係はより親密なものになったけど、この感じは本当に変わらない。下地がバカだからね、伸び代も何も無いんだ。しょうがないね。

 ただ、変わったところも少しはある。例えばこの部屋。劇的にファンシーになったりとかフェミニンな感じになったとかそんなことはないけど、確実に女の子の部屋の匂いになっている。あれかな、お互い紙巻たばこやめてちょっと経つからその影響もあるかもしれない。

 

「スゥー……ハァー……」

「君のそういうところ気持ち悪いけどブレなくて好きだよ」

「ザッス!」

 

 彼女は僕のことを笑い飛ばすと、部屋に置いた小型冷蔵庫——リサイクルショップで買ったビール専用機だ——の扉を開けつつ僕に問いかける。

 

「ビール、スーパードライでいい?」

「最アンド高」

「普段飲みにはしないけど、夏だとこの上ねえよなあ。はいよ銀色のヤツ」

「ありがてぇ! ありがてぇ!」

 

 彼女が差し出すビールを受け取り、その冷たさが損なわれるのを恐れるような勢いでプルタブを起こした。心地よい開封の音がして、もうそれだけで胸が踊る。

 

「そんじゃとりあえず、おつかれー」

「お疲れ様っす」

 

 真輝さんが飲みかけの缶を掲げると、そのまま乾杯をした。も、もう我慢できないね、ビールだよビール。遠慮はいらない。喉へ一気に流し込む。

 

 

 

「っはぁぁぁぁああ……染み入るッ……!!」

 

 

 

 一口目を最高のコンディションで存分に堪能して、僕は定位置になったビーズソファへ腰を下ろした。力仕事をして、風呂も入ったし、もう今日やり残したことはない。そんな風に余韻に浸っていると、丸テーブルの向かいの座椅子に座った真輝さんが、なんとも言えない笑みを浮かべて僕を眺めていた。

 

「……真輝さんソレ何本目っすか?」

「んん? これでまだ二本目だよ。それより、早速お土産いただこうかなぁ」

 

 彼女はんふーと笑いながら袋の中身を漁り始めた。

 まず一つ目の、手のひらサイズのタッパーを取り出して眺める。

 

「おー、煮物?」

「角煮作ってみたんですよ」

「は? 優勝」

 

 次に、大きなお弁当箱くらいあるタッパー。

 

「こっちは?」

「実家から腐る程キュウリとナス送られてきたんで、漬けてきました」

「ハイ天才。神を超えた」

 

 そして、袋の隅に落ちていた、一番小さなタッパーを拾い上げる。

 

「これは?」

「開けてみてください」

「んー?」

 

 不透明なタッパーの蓋を迷うことなく開けた真輝さんは、その中身の濃い褐色の物を眺めて一瞬首をひねる。

 

「……うわビビったこれイナゴか!?」

「そうなんすよ、イナゴの佃煮です。食べたことあります?」

「話には聞いたことあるけど食べたことは無いなあ……」

「どうぞ召し上がってください」

「え、えぇ……誠くん食べなよ……」

「せっかく持ってきたのに……」

「うぐぅ」

「大丈夫っすよ! 全然不味くないっすから! ただのおつまみ、ね!」

「うあー」

 

 なんだか予想してたより複雑な表情をした彼女が、わりかし姿の残ったイナゴくんの足をつまんで一匹持ち上げる。恐らくいろいろあって逡巡しているんだろうが、そんなにゲテモノでも無いのでパッといってほしい。だから僕は無言でソレを口に放り込むジェスチャーを繰り返して煽った。

 

「しゃ、しゃあないな。お、男見せるぜ……」

 

 何言ってんのあんた女でしょ。そんなツッコミを飲み込んだと同時に、目をつぶった彼女がイナゴくんを口に放り込んだ。

 

 しばし咀嚼。

 

「……どうっすか?」

「……小エビの佃煮だコレ」

「でしょ? これも貴重なタンパク源です」

「「ガハハ!」」

 

 

 **

 

 

「力入んない! いやマジで! なんで!?」

「貧弱! 誠くん貧弱すぎる! 手! プルプルしてる、ワハハハ!!」

 

 今日の疲れか、ウイスキーのボトル持った手が震えて爆笑。本気で握力死んでて笑えないです。やべえよやべえよ。真輝さんのグラスに注ぐだけなのに両手を使わなきゃいけないし、ダバっといかないように集中すればするほどブレブレになる。こいつぁやべえぞ。

 

「ちょっと真輝さん笑いすぎ!」

「もういいよいいよ、ほら、私に貸せ! はー笑った笑った……」

 

 とうとう瓶を奪われました。彼女はまだまだ酔いも余裕みたいで、しっかりした手元で濃いめのハイボールを作っていく。今もちょっとツボに入ってるのか、クスクスと笑いを引きずっている真輝さんと目があった。情けなさもひとしおである。

 

「はいよ、これ飲んで元気だせ。君の大好きなセンパイさん特製ハイボールだ」

 

 ちょっとわざとらしくしょげ返った僕の目の前に、さっき作っていたハイボールが置かれる。

 

「真輝さんの作るハイボール濃いんだよなあ……」

「あーん? てめえ私の酒が飲めないってのか? メガネのくせに」

「うわすっごい古典的アルハラ。あとメガネは関係ないでしょ」

 

 ツッコミを入れると、彼女は笑いながら差し出したばかりのグラスを回収してちびちびと飲み始めた。

 僕も改めてソファに背中を委ねると自分の分のグラスを呷る。真輝さんのと違って常識的な濃度のハイボールを味わいながら、すこし昔のことを反芻する。まだ男性だった頃の真輝さんは、炭酸の刺激も重要視していたので今ほど濃いハイボールは作らなかった。どうやら、女性になったせいか強すぎる炭酸がダメになってきたらしい。

 僕は、なるほど、そんなこともあるんだなあ程度の感想を抱きながら、幸せそうにキュウリの浅漬けを齧る彼女を眺めた。

 

 ふと彼女の顔に、以前の面影が強くチラついた。今日、今橋の奴にあんなことを言われたせいだろうか。

 でも、だからなんだっていうんだ。たかが、性別がなんだっていうんだ。『今がよければ全て良し』みたいなことは言えないけれど、僕らだって相応の覚悟を持って今こうして付き合っている。いちいち外野の野次に構ってられないんだ。

 

 男だったことがある女の子、今じゃそんな風にしか思えない。そんな子他にいるか? いや、あの時のお医者さんを信じればそれなりにいるのか……? まあいいや。僕は、この人の人となりも全部含めて好きなのだ。尊敬する先輩として、気があう親友、もしくは悪友として。そして、ひとりの女の子として。

 

 そんなことを考えていたせいか、いたずら心が鎌首をもたげた。

 

「真輝さんは、今も正常位好きですか?」

 我ながら唐突すぎる質問である。

「ングッ」

 僕の問いかけによって彼女は口に含んだハイボールを噴き出しそうになり、すんでのところで堪えると酔いで赤くなった頬を更に染めて、なんとも言えない笑顔で答えた。

 

「お、おー。好き、だね」

「その心は?」

「そ、その心ぉ?」

 

 茹蛸状態でコロコロと表情を変えていく彼女を眺めると、何とも言えない満ち足りた気分になる。

 そして彼女は、妙にニヤニヤしながら、もにょもにょと呟くように続けた。

 

「正常位だと、その、ぎゅってしてもらえるから」

 

 

 ほう……。

 

 

「チンコ勃った」

「はあ!? 今!?」

「いやいやいやいや、それはズルいっすよ」

 

 辛抱たまらず、ずずい、と真輝さんへ迫る。

 

「やっ、ちょ、ちょっと、まだお風呂入って——!?」

 

 いいや! 限界だ押すね! 今だッ!

 

 

 

 ——確かにちょっとしょっぱかったかもしれない。

 

 

 

 ****

 

 

 

「……私が卒業したらさ、もっと大きなベッド買おう」

 

 街も眠りについた頃、全部の電気を消した部屋。僕の右隣で横になった熱源が弱音をはいた。

 

「……いいっすね。さすがにシングルに二人は、無理がありますもんね」

 

 彼女の意見に大筋同意であります。これじゃちょっと快適とは言い切れない。

 

「誠くん?」

 

「……はい?」

 

「くっつくなあっついんじゃボケェ! ソファで寝ろ!」

 

「ご無体なぁ」

 

 ベッドから蹴り出された僕は、さめざめと泣くふりをしながらソファに倒れ込んだ。

 しばらく演技を続けていたが、僕を追い出した張本人は特に何も反応せず、ついに寝息を立て始めた。

 

 早く、涼しくなればいいのに。

 



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愛と呼ぶんだぜ

お待たせしましたァ……
あらやだ15年前の曲ですって奥さん
15年前……?



「誠くん……どうしよお……」

 

 クリスマスが終わればすぐさまやってくる年末ムード。真輝さんの部屋に導入された炬燵でくつろいでいると、左隣に座った彼女が死ぬ直前みたいな顔をして何かを訴えてきた。

 

「……どしたんすか」

「年末年始、実家に帰ってこいって言われた……」

「別に、よくないっすか? お盆帰ってなかったですし」

 

 僕は今熱燗飲むのに忙しいんすよ。

 なのでこの人にもちょっと幸せを分けてあげよう。僕は適量注いだお猪口を左へスライドさせた。すると、彼女は水みたいに一瞬で飲みきって口を開く。

 

「うあー……その、な。お、女になったの親に言ってないんだわ……」

「ほーん」

 

 なるほど。だからもだもだとしているわけだ。とりあえずもっと味わって飲んで。これ僕の地元のそこそこいい酒なんだから——。

 

 

「なんですってこのバカチン!?」

「ぎゃふん」

 

 

「あんた女になって軽く半年も経って何言ってんだ!?」

「ちょ、ちょっと、誠くん、落ち着いて……」

 

 はあ? まあ確かに僕が取り乱す必要はないけども。というか自分で蒔いた種が立派に育った状態で今更すぎる。

 

「はぁああ。……でも、自業自得ですよ。自分でここまで引き伸ばしたんだから」

 

 僕はため息を吐きつつあえて真輝さんを突き放した。たまに忘れがちだけど、この人先輩なのだ。子供みたいに唇を嘴にしていじけているところ申し訳ないが、いい大人なので僕が与する理由はない。

 

「あ。でも、なんかそういう書類とかでもう分かってるんじゃないですか?」

 

 そうだ。ここは法治国家日本である。性別が変わった時、諸々と手続きをしていたじゃないか。

 

「あー。成人済みだとね、いろいろ一人で完結しちゃうんだ。つまりこのこと両親は気付いていない可能性が高い。さらに言うと息子が娘になったの知って、電話の一つよこさないとかありえない」

 

 なるほどなるほど。確かに、それもそうかもしれない。だから真輝さんもズルズル引き伸ばしてしまったのか。

 

「うーん自業自得」

 

「返す言葉もないな……」

 

 真輝さんはそれだけ言うともぞもぞと炬燵から這い出て、腹筋に一切力の入っていないようなヘロヘロの声で続けた。

 

「それでだ。君を男と見込んで頼みがある」

 

「……なんすか」

 

 彼女は頭を床に叩きつける勢いで下げた。また少し伸びた髪の毛がぶわっと広がる。

 

「あの、その……一緒にきて」

 

 床を這う、絞り出したような声。

 

「ホエア?」

 

「……実家」

 

「はぁあああああ」

 

 本日のクソデカため息いただきました。

 しかし、この人はこれで遠慮するような人間じゃない。

 

「あと、誠くんの車で行けると嬉しいなあ、なんて」

 

「……厚かましいにもほどがある」

 

「いや、タダとは言わないから! 飯代酒代高速代ガス代、全部私が出すからさ! 時間もここから二時間ちょっとだし……」

 

「……いや、もういいっす。わかりましたよ、行きます行きます……」

 

「う、うわぁい。やったー……」

 

 彼女は頭を下げたまま、五体投地の姿勢に移行する。

 

「なにやってんすか」

 

「土下寝」

 

 僕は何も言わずに、ドンキで買ったスウェットに包まれた尻を(はた)いた。

 

 

 

 ****

 

 

 

 十二月三〇日、年末特有の静かだけどなんか忙しない、ソワソワしたような空気。つられて背筋の伸びるような冷気の満ちる朝、僕は車を取りに自分のアパートに戻ってきていた。

 親のお下がりのオンボロ軽自動車のドアを解錠して乗り込むと、素早くエンジンを始動する。この時期の車内なんて外と大差ない。窓に霜が降りていたりはしていないが、ハンドルはキンキンに冷えているし、シートもなかなかちべたい。

 僕はマウンテンパーカーの襟元に顔を埋めるとスマホを取り出した。このオンボロ車にはカーナビなんて高尚なものは付いていないが、正直今はスマホがあれば不自由しない時代だ。僕は用品店で買ったホルダーにスマホをセットすると、シガーソケットからとった電源と、オーディオに接続する用のコードを接続した。

 

「冷た」

 

 そろそろ出ようと思ってハンドルを握ったら、まだまだ全然冷たいままだ。僕はエアコンのツマミを温度・風量ともにマックスにしてギアをドライブに入れた。

 

 

 

 

「……おまたせ」

 

 眠いのか、今だに踏ん切りがつかないのか釈然としない顔をした真輝さんが助手席に乗り込む。ボルドー色のニット帽(頭頂にはポンポンが付いてるやつ)に、ブランドや色こそ違うけど、僕のとよく似たマウンテンパーカーを着た彼女は、小さなため息を吐くと、「どっせい」の掛け声付きでボストンバッグを後部座席へ放り投げた。

 

「真輝さんお覚悟はいいか」

 

「……ういー」

 

 相変わらず気落ちしている彼女を横目に、僕は再び車を発進させた。

 

「とりあえず高速乗る前にコンビニ行きましょ」

 

「うい」

 

 

 

 歩道を歩く人の多くがキャリーケースを引いていることで、いよいよ年の瀬を迎えたことを実感しつつ車を走らせる。彼らはこのまま電車やバス、もしくは飛行機なんかで故郷へ帰るんだろう。いや、もしかしたら別の土地からこの街へ帰ってきたのかもしれない。

 そんな、取り留めのないことを考えていると、高速に乗る前に寄ろうと思っていたコンビニに到着した。軽食とか、コーヒーを買っておきたい。ちょうど空いていた一台分の駐車場に車を停め、サイドブレーキをギィっと引いて真輝さんに下車を促す。

 

「さぶっ……」

「せっかく車温まってきたのにちょっと勿体無いですよね」

「あぁね」

 

 朝から極端に静かな彼女は、僕の軽口にも気の抜けた返事しか寄越さない。

 ペラペラのドアを閉めれば、安っぽい音が彼女の心境を代弁しているようだった。

 

 

 僕が目当ての缶コーヒーや菓子パンを手に店内をぐるっと回ると、真輝さんは飲料用冷蔵庫の前で何か考え込んでいた。

 

「どしたんすか」

 ちなみに、バッチリお酒コーナーの目の前である。

「誠くん」

「はい」

 

 彼女は命乞いをするような面持ちでビールを指差す。

 

「飲んでいい?」

「……はぁ。いいっすよ、潰れない程度なら」

「やったぜ」

 彼女は、今日初の満面の笑みを浮かべて喜びを表した。……この人、本当に酒さえ飲ませておけばそれだけでいいんじゃないのかな? 僕は細かいことを考えるのをやめた。

 

 そして、いそいそと車に戻るなり彼女は早速一本目のプルタブを起こすやいなや、「誠くん! ありがとうございます!!」と叫んだ。

「うわっこの人音量バグってる!」

 僕は律儀にツッコミつつ、やっぱり結構ナーバスになっているんだなと察した。真輝さんは追い詰められたり弱っていると、突拍子も無いことを叫んだり無駄に元気に振る舞う癖がある。

 

「大丈夫っすよ。なんとかなりますって」

 

 冬の空気のせいか、殊勝にも僕は彼女を慰めるように呟いてギアをリターンに入れた。

 

「……うい」

 

 真輝さんもいつもより勢いが続かない。僕は車道に車を滑り込ませると、気持ち優しめにアクセルを踏み込んだ。

 

 

 

 しばらくたって、僕らは高速道路の上。僕の愛車は快適装備の少ない最低グレードで、スピードを出すとエンジンがかなり頑張っている音をたてる。

 

 流れる景色を眺めながら、缶を口元へ運ぶ真輝さん。

 運転席側の窓を少し開けて、加熱式のたばこをふかす僕。

 

 お互いにちょっと気を張っているのか、会話は少ない。唸りを上げるエンジン音とタイヤが拾うノイズがいつもより大きく聞こえる。

 

 カーステレオからは、真輝さんお気に入りの洋楽のバンドが流れている。確か高校時代に友人から教えてもらったとか。かなりテンポが速くて調子のいい曲ばかりが流れていた。

 外にいれば眩しいだけの冬の太陽も、ウインドウ越しならぼんやりと暖かい。僕は細いハンドルを握った左の親指でリズムを取りつつ真輝さんに話しかけた。

 

「真輝さん」

「んー?」

「どんな感じで説明するとか、決めてるんすか?」

「いや、特に何も」

「……ウッソでしょ」

「もう家に頭から突っ込むしかないなぁ」

「真輝さん降ろしたら僕速攻で帰りますから」

「えぇー、一緒に死のうよ」

「僕が出てきたら余計に話が拗れるでしょうが」

「しどい!」

 

 吹っ切れたように小さく叫んだ真輝さんが、缶の残りを一気に飲みきったのを視界の端に捉えた。パーカーを脱いでゆったりとしたニット姿になった彼女が、大きく伸びをして「まあやるしかないか!」と自分を鼓舞していた。

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 どうしてこうなった……どうしてこうなった!? と踊り出さない僕を誰か褒めて欲しい。

 僕は今、真輝さんのご実家の居間の炬燵で正座をしている。なにせ向かいに彼女のお父さんがいるのだ。痩せ型だけど人の良さそうな白髪混じりの、ジェントルマン的な雰囲気のお父さんが、腕を組んで困惑した表情のまま固まっている。

 

「あったかいお茶どうぞぉ。あとこれ、お口に合えばいいんだけど」

「あっ、スミマセン、おかまいなく……」

 

 真輝さんのお母さんが温かいお茶と羊羹を差し出してくれた。僕はぎくしゃくとお礼を述べて、左に座った真輝さんを横目で窺う。

 久方ぶりの帰省のはずの彼女は黒いスキニーに包まれた片膝を立てて、ここ最近見た中で最も男らしい座り方をしている。なんでやねん。

 ちなみに、家の前に車を停めたタイミングでお父さんが家の外にたばこを吸いに出てきたものだから、悪い方向に吹っ切れた真輝さんにそのまま連行されたわけである。一応家に上がる時には、大学の後輩と紹介された。

 

 そして炬燵の上には診断書やら免許証やらなにやら、真輝さん本人だと証明するものが並べられている。

 

「ううん。本当に、真輝なんだな……?」

「嘘偽りなくお二人の元息子でございます」

 

 慇懃に言い返す真輝さんに対して、眼鏡を外して眉間を揉むお父さん。

 いや、ここまで引っ張った挙句僕を巻き込んでややこしくした張本人がなんで一番態度でかいんだよ。

 

 僕が背中に冷や汗をかきまくっていると、姿が見えなかったお母さんが戻ってきて古びたアルバムを広げた。

 

「もうお父さん。この生意気な感じ、小さい頃の真輝そっくりじゃない、忘れたの?」

 そう言いながら指差す写真には、今と同じ場所、同じ座り方をしている少年時代の真輝さんが写っていた。

 

(おお、意外と女顔だったんだ)

 

 面影を強く感じる写真に素直に感心して現在の本人を見やると、ふてくされた顔を少し赤くして斜め上を見上げていた。

 

 ううん、確かに、と相槌を打つお父さんと和やかなお母さんとを見る限り、なんとかなりそうだと僕は胸をなでおろした。まあ、じゃあ君はなんの為にいるんだという話だけど。

 

「ごめんなさいね、あんまり突然だったからお父さんもお母さんも驚いちゃって。それと、真輝。今まで気が付かなくてごめんね」

 

「え、何が?」

 

「あなたが、そういう体と心の不一致を抱えてたなんて、私たちちっとも気付けなくて……」

 

 そう言って、沈痛な面持ちになる真輝さんのご両親。切り替えが早くて理解もある素晴らしいご両親なのに、なんで真輝さんはこんな酒クズになってしまったんだろう。そしてなんか、話がえらい方向に進んでいるぞ?

 

「んんん? 何に気付かなかったって?」

 

「真輝、ずいぶんと綺麗になったじゃない。その……手術とか、大変だったんじゃない?」

 

「手術? なんのこと?」

 

 あ、これ食い違いが起きてるな。どうやらお母さんはリアリストのようだ。真輝さんのこと、お薬や外科手術で女性になったと勘違いしていらっしゃる。

 

「あ、ごめんね。いくら家族でも、プライベートなことだもんね……」

 

 ポカンとする真輝さんと、勝手に納得して話を進めて行くお母さん。そしてお父さんの方は真剣な顔で虚空を見つめている。あーもうめちゃくちゃだよ……。

 

「真輝さん、真輝さん」

 僕は堪らず、小声で真輝さんに耳打ちした。

「ん?」

「これ勘違いされてますよ。もともと真輝さんの心が女性で、性適合手術を受けたとかそんな感じに」

 

「はあ!?」

 

 真輝さんが完全に理解したのか、素っ頓狂な声をあげた。そしてそれで魂が戻ってきたのか、お父さんがビクリとして我に返る。

 

「いやいや、これ読んだ?」

 真輝さんが広げた診断書をバンバンと叩く。

「なんか今、急に性別が変わるのが稀によくあるらしくて、私はたまたまたそうなっちゃっただけ! 今の今まで女になりたかったとか全然ないから!」

「で、でも真輝、あなた今、自分の事()って。それに洋服もちゃんとしてるし、メイクもしてるじゃない……」

「そ、それは、年相応の身だしなみというか……! ああもうままならないな!」

 

 いや、まあ。ややこしいことこの上ないし、ままならないのもよくわかる。そもそも、僕らやその周りが適応しすぎてるだけなのかもしれない。というか、僕この場にいていいんか? 叶う事ならワープして帰りたい……。

 

「とりあえず、こうなったのは事故みたいなもんだし、今はそれで納得してこうしてんの! 手術とかそういうんじゃないから、わかった!?」

 

 あーん修羅場。どうすんだよどうすんだよ。今なら手汗で溺れられるね。もうほんと呼吸ができなくて死にそう。

 

「え、ええ、じゃあ、真輝は本当に女の子になったっていうの?」

 お母さん大丈夫ですか、顔真っ青ですよ。

「マジマジ超マジ。毎月生理もきてるしおっぱいも本物だから! あと私こちらの誠くんとお付き合いしてます! 紹介が遅くなりましたッ!!」

 真輝さんが手加減なしに核爆弾を投下すると、ハイ、お母さん卒倒してしまいました。

 

「「お母さん!?」」

 

 仙庭父娘がユニゾンで駆け寄る。僕もそうしたかったけど、足が痺れててその場に転んでしまった。

 ……なんだこれ。

 

 

 

 **

 

 

 

 どうしてこうなった、セカンドシーズン。

 

 なんか、流れというかなんというか、そういうのでご飯とお酒をいただいておりますイン仙庭家。というかお父さん、ジェントルな感じだったのにめっちゃ酒飲むし笑い方が真輝さんに若干似てる。さすが親子といったところか。

 ちなみにご両親共々公務員らしく、お父さんは市の農林土木課に勤めていて、お母さんは中学の国語教師らしい。なんでこのお二人から真輝さんが生まれたんだマジで。突然変異かな? まあ、こうやってお話聞くと本当に見た目だけで特にグレてたりしたことはないらしいけど。

 本人はめちゃくちゃに恥ずかしがっていたけれど、昔の話なんかもしてもらった。真輝さんはあまり話したがらないが、彼女は中学高校と卓球部だったと以前聞いたことがある。実際に写真を見せてもらったが、ラケットを持ってはにかんでいる純朴そうな少年と今のピアスバチバチな真輝さんが同一人物とはなかなか思えない。世の中わからないものだ、性別が変わってしまったことは別として。

 

「いやあ誠君、すばらしい飲みっぷりだね! ワハハ!」

「あ、ありがとうございます。いつも真輝さんに鍛えられてまして……あはは……」

 

 グラスに注がれるビールを飲んでお返しで注いで愛想笑いを繰り返すマシーンになった僕の目の前で、お父さんが上機嫌にビールを飲みまくる。そんな僕の左隣では真輝さんとお母さんが近況を話し合っている。

 

 ——この家族、適応能力カンストしてるなあ。

 

 カンストしているというか、表に出さないというか。実際に真輝さんは、努めて不安とかを表に出さないように振舞っていたし、そういうところが親子で似ていてもおかしくない。

 

「あはは、お、お父さんちょっとペース早くないですか? お水とか大丈夫ですか?」

 これが新入生とかだった場合、席から即引き剝がしてる勢いだ。僕は流石に心配になって、水の入ったグラスを差し出した。

 

「おお、ありがとう。……いやはや、正直ねえ、私も理解がほとんど追いついていないんだよ」

 

 一杯の水を飲んだお父さんは、据わった目をして力なく笑う。核爆弾の片割れである僕が言えた立場じゃないけど、頭が追いつかないのもしょうがない。彼はグラスに残っていたビールを一息で飲みきると、あつい息を吐いてテーブルの反対側に視線を送った。

 

 そこでは、真輝さんとお母さんが何かスマホを覗き込んできゃいきゃいやっていた。お昼は卒倒してしまったお母さんだけど、やっぱりこういう切り替えは女性の方が早いらしい。お互い、いい感じに酔っ払っているのか中々に赤裸々な会話が聞こえてくる。

 ……というか確実に真輝さんの肝臓はご両親から受け継いだものだな。この家族グラスの空くペースが尋常じゃない。

 

 僕が愛想笑いを浮かべたまま、矢継ぎ早に注がれるのを避けるためチビチビとビールに口をつけていると、向かいのお父さんがどっしりと低い声で言葉を続けた。

 

「月並みだけど、人生何があるか分からないものだね。一人息子が一人娘になるなんて、思いもしなかったよ」

 

 お父さんはそう静かに呟くと、手にしたままのグラスを傾けるので、僕は何も言わずに新しいビールを注いだ。

 当たり前だけど、ご両親はそれこそ真輝さんが生まれた時から真輝さんを知っているのだ。真輝さんが女性になって帰って来たときの衝撃といったら、僕が受けたものなんか足元にも及ばないと思う。それでも、この方たちはしっかりと彼女のことを受け入れつつある。真輝さんも、すっかり変わってしまった今の自分が受け入れられるか、不安で仕方なかったはずだ。

 

 あとは、時間が全部解決してくれるだろう。僕は、強かな家族の関係を目の当たりにして、胸がじんわりと暖かくなるのを感じた。

 

「だからこういう時は飲むに限るね! どうせ考えても無駄なんだからな! ワハハ!!」

 

 こういうタイミングで暴発するのも遺伝かな?

 

「アッハイ。そうですね……」

 

「誠くん、親父の秘蔵のウイスキー飲もうぜ! なになに、響の二十一年か!」

 

 そこに戦略核な真輝さんが乱入。手には何やら高級そうな瓶。

 

「ちょちょちょっと、真輝、それはやめなさい……」

 

 一気に泣きそうになるお父様。

 

「どうせいつか息子になるんだからいいでしょ! な、誠くん!」

 

 真輝さんが僕の肩を抱くようにバシバシと叩く。

 

「ふええ」

 

 

 

 **

 

 

 

 真輝さんの部屋、高校時代のジャージを貸してもらった僕は、ベッドの隣に敷いてもらった布団にあぐらをかいて彼女のことを眺めている。飲んだら乗るなという事で、一晩泊めてもらう事になったのだ。よくよく思い返せば、僕へ執拗に夕食を進め、飲まそうとしてきたのは他ならぬ真輝さん本人だったような……。

 

「ハメられたかな?」

 

「んー?」

 

 守りたいこの笑顔。まるで「計画通り」と顔に書いてあるみたいだぁ。

 

「女になった衝撃を誠くんで上書きする作戦、大成功」

 

 ちくしょうそんなとこだと思ってたよ。

 

 お風呂を済ませた彼女は、持参したパジャマ代わりのスウェットに着替えて、憑き物の取れたような顔で就寝前のストレッチをしている。

 

「よーしぼちぼち寝るか。電気消すぞー?」

 

 最後に軽い背伸びをした真輝さんが、そのままの流れで照明のリモコンを手に取り言った。

 

「ん。了解です」

「ポチッとな。いやあ今日もお酒いっぱい飲んだので私は幸せですー」

「僕はめっちゃ変な酔い方しそうでしたよ……」

 

 蓄光塗料の緑っぽい薄明かりの中、上機嫌でベッドに潜り込む真輝さん。彼女は僕の苦言には特に反応もせず頭まで掛け布団をかぶると、盛り上がったシルエットが「布団冷てー」と愚痴をこぼした。

 

 なんかすっげえ疲れたなあ。僕は鼻から小さく息を吐く。変に緊張していたのか、ひどく肩が凝っていた。

 

「誠くん」

 

 僕も布団に入ろうとしたとき、真輝さんが僕を呼ぶ声が聞こえた。

 

「はい?」

 

 ベッドの方を向けば、真輝さんは頭まで被った布団の中でいたずらっぽく微笑み、掛け布団を片腕で持ち上げていた。

 暗がりの中で、細めた瞳だけが妙にはっきりと輝いて見える。

 

「今更私一人で寝かせるのかよ」

 

 甘ったるい囁き声が僕の鼓膜を震わす。

 ちょっとそれはずるいと思うんだ僕は。

 

「んんんんんっ」

 

 僕は思いっきり目を閉じて、湧き上がる衝動を理性でフルボッコにした。初めて訪れた彼女の実家で事に及ぶとか流石にね? 僕にも分別くらいある。……メダカ程度くらいは。

 

「あははなんだそれ。変な顔しやがって」

 

 恐る恐る目を開ければ、布団の中、毛布をかき寄せた真輝さんが蠱惑的に微笑んでいる。

 

「い、いいんすか?」

 

 哀れ僕の理性、衝動から一発カウンターを頂戴した。僕も手のひらクルクルですよ。

 

「エッチなことはお預けだけどな。……おいで」

「ふええイケメェン……」

 

 メコンの明日はどっちだ!? 女ケ沢先生の来世にご期待ください! センパイさんそういうところズルイ! なんだかなあ……。

 ま! 行きますけど! 眼鏡キャストオフ!!

 

 ベッドの奥に少し詰めた真輝さんはそのまま僕を招き入れた。まだ冷たい部分の多い布団に、彼女の体温の名残を感じる。

 

「おー誠くん来た来た。なんだまた変な顔して?」

 

 すると頭一つ分低い位置から、揶揄うような声音が響く。

 

「つ、疲れてんすよ、いろいろ……」

 

「うん。今日はありがとな。……君がいて助かったよ、ほんと」

 

 彼女は照れ臭そうにそう呟くと、僕の手に指を絡めてきた。

 

 ——僕の手の中に収まるような、小さくて、細く、それでいて柔らかな手。

 

 小さくなってしまった身体で背負わされた様々な重荷を偲ぶと、どうしようもなくこの温もりが愛おしくてしょうがなくなって、彼女を抱き寄せた。

 

「んへえ」

 

 彼女はくすぐったそうに、しかしどこか満たされたような声をあげて、ころころと笑う。

 息を吸い込むと、慣れない家の匂いと、心の落ち着く香りがした。

 

 

 

 

「誠くんから俺の匂いする……」

 

「もぉーなんで今そういうこと言うかなあ」

 

「ガハハ!」

 

 

 

 

 ****

 

 

 

 

「実家ってやばくないっすか?」

 

「やばいなー」

 

「言い方悪いっすけど何もしなくてもご飯が出てくるんですよ」

 

「出るなー」

 

「あとお風呂が広いんすよ」

 

「家にもよるけど広いなー」

 

「ただ地元めっちゃ寒かったっす」

 

「ほえー」

 

「あんまり雪は降らないんですけど風が強いんすよねぇ」

 

「んふふ」

 

「……どうしたんすか急に」

 

 並んで歩いていた真輝さんが、辛抱たまらないといった感じで笑い出した。なんか僕変なこと言っただろうか。今は特に笑いどころ無かったと思うんですけど。

 

「誠くん寂しかったん? わざわざ駅まで迎えに来てさ、さっきからずっと喋ってる」

 

「あ……いやぁ……まあ」

 

「素直じゃねえなあ」

 

 ボストンバッグを僕に預けて身軽になった真輝さんが、僕の脇腹を肘でグリグリしてくる。

 

「痛い痛い痛い」

 

「この欲しがり屋さんめ、このこのぉ」

 

「よっしゃ荷物捨てたろ!」

 

「ちょ、お前やめろ、やめて!」

 

 僕らはじゃれ合いながらアパートへ歩みを進める。一応まだお正月だから、少しくらい浮かれているのも大目に見て欲しい。

 

「そういやいつもの店いつから営業してたっけ」

 

「さっき前通ったらもう開いてましたよ」

 

 僕がそう言うと、彼女はそれはそれは満足げに頷いて口を開いた。

 

「それじゃ、いっちょ飲み始めといきますか」

 

「あぁーいいっすねえ」

 

 そうと決まればダラダラしてられない。あと、お正月だからね、飲まなきゃ失礼でしょう。何に対して失礼なのかは各々の判断に任せます。やっべテンション上がってきたな。

 

 そんな僕を眺めていた真輝さんが、またクスリと笑った。

 

「どうしたんすか? 早く行きましょうよ」

 

「んー、なんでも。ま、改めまして、今年もよろしくお願いいたします」

 

 彼女は急に僕の前に回り込んで、深々と頭を下げた。

 

「あ、ハイ。こ、こちらこそ、よろしくお願いします……」

 

 僕も善良な日本人のDNAには逆らえず、お辞儀を返さざるを得ない。そして、僕が顔をあげると、彼女は少年みたいな笑顔で手を叩いた。

 

「よっしゃダッシュ!」

 

「うえっちょっ!?」

 

 年が明けたばかりの、まだ新しい陽光に照らされた弾む息は白い。

 少し先をゆく彼女がくるりと振り返えれば、鼻先と頬に朱が差している。

 冷たい空気をたっぷり吸った肺が痛い。

 

「ハリーハリーハリー!」

 

「アッハハハ! ちょっと待ってくださいよ!」

 

 彼女が僕の手を取って急かす。

 手袋越しに伝わる温もりと柔らかさ。

 なんだか無性に嬉しくて、僕たちは自然と駆け出していた。

 




これにておしまいです。
お付き合いいただきましてありがとうございました。

※誤字報告ありがとうございます。修正いたしました。


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