【完結】ニタモノドウシ (ラジラルク)
しおりを挟む

SE@SON ZERO
Prologue : 俺と私の邂逅


原作、時系列、ガン無視です。 


 夢は必ずしも叶うわけではない。

 そのことを知ったのはいつのことだろうか。記憶は定かではないが、この世界に身を投じてすぐに、わりと早い段階でその事実には気が付いていたと思う。

 “努力は必ず報われる”––––、そんなわけがない。努力だけで切実な夢が、欲しいモノが、何もかもを手をにすることができるのなら、誰だって死ぬ気で努力をするはずだから。

 だけど実際はそうじゃなくて、いくら努力をしても、強く願っても、どれだけ頑張っても叶えられない夢だってある。いや、むしろ叶えられる夢より叶わない夢の方がずっと多いのかもしれない。だから大半の人は何処かで自分の可能性に折り合いをつけ、夢を見ることを諦めていく。とてつもない努力の先に、何も叶えることのできなかった世界を見るのが怖いから。

 

 それでも、明日も明後日も、きっとその先も、ずっと果てしない夢を追いかけて走り続けていくのだと思う。

 才能もない、実力だってない、それでも絶対に叶えたいと強く願う夢があるから––––。

 

 

Prologue : 俺と私の邂逅

 

 

 俺は大きな勘違いをしていた。

 空席一つ見当たらないイブ会場で黄色い歓声を一身に浴びて、テレビやラジオの収録など、次から次に仕事の依頼が舞い込んできて、忙しいまでにスケジュールが埋まっていって−−、そんな夢のような日常を掴み取ったのは紛れもなく俺たちの実力なのだと。

 だけどそれはただの勘違いで、俺たちは実力なんて立派なモノであの地位を勝ち取ったわけでもなく、実際は大人に都合よく利用されていただけ。そのことに初めて気が付いたあの日、俺たちは半ば喧嘩別れのような形で961プロを去った。961プロによる765プロへの執拗な嫌がらせは勿論、何より俺たちを駒呼ばわりし、ただの操り人形として利用していたことが心底許せなかったのだ。

 

「一からやり直す。今度は俺たちの力を信じてくれる場所でな」

 

 突発的に961プロを辞めた俺たちを危惧してくれた765プロのプロデューサーに、そう言って俺たちは再出発を誓った。今度は俺たちを駒扱いする大人に利用されるのではなく、純粋に自分たちの実力だけで栄光を勝ち取るのだと、俺たちなら例え事務所に所属していなくても絶対にトップアイドルになれるのだと証明するため。

 だが961プロを出た俺たちを待ち構えていたのは、厳しい現実だった。事務所を介して届いていた仕事のオファーはバッタリと途絶え、空欄が見当たらなかったはずのスケジュール帳は次第に空白が目立つようになると、俺たちはユニットとしての活動が思うようにできなくなってしまった。当然事務所に属さず、仕事もなければ収入は途絶えてしまう。新曲をリリースするにも、イベントを行うにも、ライブをするのにも、何をするのにも莫大なお金が必要で、スポンサーも事務所もない今の俺たちにとって、金銭的な問題はとてつもなく大きな障壁だった。

 この時になって俺たちは嫌というほど痛感させられたのだ。今まで俺たちが実力で勝ち取ったと思っていた日常は、ただのハリボテで儚いモノだったのだと。961プロを辞めた俺たちに対し現実は厳しく、想像以上に無力だった俺たちに残されたモノは殆どなかったのだ。

 

 それからというもの、俺たちは必死に活動資金を工面し、どうにかして細々と活動を続けていた。

 だけど所属事務所も活動資金もない俺たちが抑えれる会場はたかがしれていて、961プロ時代に比べれば活動規模が見劣りしているのは明らか。スケールが大幅に縮小され、表舞台に出る頻度が減れば、次第にファンの関心も離れていく。必死に頑張っているはずなのに、夢は反発するかのように遠のいていくばかり。

 気が付いた頃には、俺たちは961プロに在籍していた頃の世界から随分と遠い場所に流れ着いてしまっていた––––。

 

 

 

「…………良いライブだったよな」

 

 8月の暮れ、すっかり日が暮れたというのに外は鬱陶しいほどに蒸し暑くて、俺はシャツの袖で額の汗を拭う。その拍子に思わず漏れた本音が、俺の両脇を歩いていた2人は足を止めた。慌てて咄嗟に漏れてしまった言葉の奥に潜む真意を隠すように、後ろを振り返る。

 振り返った先、視線に飛び込んできたのは真夏の夜を眩しいまでの灯りを纏ってそびえ建つ、大きなアリーナ会場。つい数分前まで、俺たちも足を運んでいたライブ会場だった。

 

「……そうだな。凄く良いライブだった」

「だね、なんか先越されちゃったって感じ」

 

 脳裏にフラッシュバックする、あのとてつもなく大きなアリーナで大規模なライブを成功させた765プロのアイドルたちの輝く姿。大歓声で揺れるアリーナで、何万ものファンを前にして臆せず歌って踊る姿は、まさにトップアイドルそのものだった。アリーナを満員に埋めるアイドルにまで成長した彼女たちは、俺の記憶の中の姿とはまるで別人のように思えるほどに、強く逞しい姿をしていた。

 そんな変わり果てたライバルたちの姿を客席から眺め、俺は凄まじい劣等感と敗北感を感じていたのだ。

 

(俺らと765プロとで、いつの間にここまでの差が開いてしまったのか)

 

 961プロを辞めて足踏みをしている間に、ライバル視していたはずの765プロのアイドルたちは遥か遠くの世界に行ってしまった。かつて俺たちが夢見ていたはずの世界に先に辿り着いた彼女らの姿を、客席から指をくわえて見下ろすことしかできない自分が不甲斐なくて仕方がなかった。

 唇を噛み締めながら、思わず拳を握り締める。途方もなく遠くに感じられるアリーナまでの距離が俺たちに厳しい現実を突き付けているような気がして、今の俺たちは途方もない距離から、アリーナ会場を眺めることしかできなかった。

 

「……まさかアイツらが先にアリーナライブを成功させるなんて」

 

 先を越されて悔しいと思うチンケなプライドが、言葉になって再び口から漏れてしまう。

 そんな俺を横目に、2人は苦笑いを浮かべていた。

 

「バックダンサーの件だったり、随分と不安はあったようだけどね」

「それでもアレだけのステージを魅せれるんだから、僕は素直に凄いと思うよ」

「あれだけ不安視されてたバックダンサーのエンジェルちゃんたちも、本番は立派なパフォーマンスを魅せてたからね。大したもんだよ」

 

 アリーナライブ前に行われたミニライブ、そのライブで765プロが投入したバックダンサーが転倒するトラブルが発生し、そのことが随分と大げさにゴシップ紙などで取り上げられていた。失敗が許されない765プロ初のアリーナライブで、素人集団に近い経歴のバックダンサーたちを導入するのは極めてリスキーなのではないかと、そんな不安視する声がファンの間でも上がっていたらしい。

 だが765プロはバックダンサー全員をアリーナライブのステージに立たせ、ファンたちの不安を一瞬で蹴散らすほどの圧巻のパフォーマンスを披露して魅せた。これだけリスキーな博打を成功させたプロデューサーの手腕は勿論、何より“先輩”としてバックダンサーたちを牽引するかつてのライバルたちの姿に、俺は未だかつてないほどの“差”を感じさせられた。

 そんな彼女らに比べ、俺たちはどうなのか。そう自問自答してみる。

 必死にバイトして資金を集め、小さなライブをどうにかして開催させようと頭を悩ませる今の俺たちには、彼女らのように周囲の人たちのことを気にするほどの余裕があるだろうか。

 とてもじゃないが今の俺たちにはそんな余裕があるとは到底思えなかった。

 

「……なんつーかさ、アイツら見間違えたよな」

「珍しいな、いつもならもうちょっと憎まれ口叩いているのに」

「にっ、憎まれ口なんて叩いてねぇーし! ただ……、なんか置いていかれちまった気がしてさ」

「うわぁ、すごい弱気発言……。今日はどこまでもらしくないね」

「う、うるせぇよ! ほらっ、さっさと行こうぜ!」

 

 いつまでもここで立ち止まっていたら調子が狂ってしまいそうな気がして、俺は2人の背中を叩くと踵を返した。

 今は知名度も人間としての器も、765プロの連中と比べると劣っているのかもしれない。アリーナまでの距離は気が遠くなるように果てしなくて、足踏みしている俺たちの遥か先を彼女たちは歩いているのかもしれない。

 だけどそれでも最終的に俺たちは765プロを追い抜いて、トップアイドルになってやる。俺たちの実力は本物なのだと、今度こそ俺たちの実力を証明できる世界で、誰にも負けないアイドルになるのだ。

 

「……俺たちジュピターは、こんなところじゃ終われねぇんだ。765プロにも絶対に負けねぇ」

「そうそう、それでこそ俺たちジュピターのリーダーだよ」

「冬馬くんはそうじゃなくっちゃね」

 

 今はまだ遠くに感じられるアリーナを背に、俺たちはゆっくりと歩を進めた。

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 傲慢だった自分が恥ずかしかった。

 私は自分に才能があるとか、実力があるとか、決してそんな勘違いをしていたわけではない。むしろ運動神経も平凡で、あまり突出した能力がない自分はアイドルになるのは限りなく低スペックな方だとさえ思っていた。

 それでも絶対に叶えたい夢があった。

 才能はない、実力もない、スペックだって低い。それでもどうにかして夢を叶えたい。なら努力で補うしかない。できないことあるのなら、できるまでやればいい。それが例えライバルを蹴落とし孤独で歩む道だったとしても、私は進み続ける。夢を叶えるためなら何だってできるとさえ、私は思っていた。

 だからこそ、私は先輩たちの言動を今日のライブが始まる直前までとてもじゃないが理解できなかった。

 

「あのっ、天海さん……」

 

 全プログラムが終了し、ライブの成功を祝杯ムードに酔いしれる楽屋。出演アイドルやスタッフ、関係者たちが各々で喜びのグラスをぶつけ合う中、私は盛り上がる集団から離れ、先輩を楽屋の外に連れ出した。

 

「お疲れ様。どうしたの、何かあった?」

 

 オープニングからアンコールまで全速力で駆け抜けた偉大な先輩はグラスを片手に、疲れているはずなのに嫌な顔せず楽屋の外に付いてきてくれた。

 傲慢でワガママな後輩に対しても、変わらぬ優しい笑顔で気遣う先輩の姿を見ると、散々偉そうに自分の意見ばかりを押し付けてきた自分が酷く幼稚に思えて、自己嫌悪に陥りそうになる。

 そんな羞恥心を無理やり飲み込んで、私は思いっきり頭を下げた。 

 

「え、えっ!? どうしたの急に!?」

「……本当にすみませんでした。今まで散々皆さんの和を乱して迷惑かけて、邪魔ばかりしてしまって。本当に反省しています」

 

 私はずっと天海さんの言動が理解できなかった。

 矢吹さんがバックダンサーを抜けると言い出し、それを何度も引き留めようとする天海先輩の姿を見て苛立ちを覚えたことさえあった。

 

『もう時間がないんです! 今進める人間が進まないと、全部ダメになりますよ!』

『話にならないです。なんであなたがリーダーなんですか』

 

 矢吹さんに構うばかり、全体練習が進まないことに不満を爆発させ、天海さんに対して辛辣な言葉を何度も浴びせてきた。アイドルの世界は勝負の世界、皆が皆お互いをライバル視しているものだとばかり思っていたから、馴れ合いを大事にしようとする天海さんの発言や行動を私は理解できなかったのだ。ライブの成功よりも全員でステージに立つことを優先する天海さんの考えが理解できず、私は内心先輩たちのことを見下してさえいた。こんな生温い空気のままでアリーナライブを成功させようなんて考えが甘すぎる、と。

 だけど、結果として私の考えは誤っていた。765プロ史上初のアリーナライブは大成功、765プロの先輩たちのステージ場での姿は、私たちが普段見ていた姿とはかけ離れたモノだった。歌声もダンスもMCも、全てのパフォーマンスが信じられないほどに完成されていて、これが真のトップアイドルなのかと、控え室のモニターで初めて見た先輩たちの本気の姿を見ていた私は、自分との圧倒的な実力差を痛感させられたのだ。

 ライブ終盤、いよいよ私たちの出番を目前に控え舞台袖に待機していた時、私たちバックダンサー組は想像も絶する緊張感に押し潰されそうになっていた。誰も口にこそしなかったが、ミニライブで先輩たちのステージを台無しにしてしまった時のことが脳裏に浮かんでいたのだと思う。

 今日のここまで完璧に進めてきた先輩たちのアリーナライブを、私たちがまた壊してしまいそうな気にさせて、あの日の失敗が、未だかつてない恐怖心を私たち植えつけていたのだ。

 そんな失敗を恐れていた私たちの手を引き、頼もしい背中で牽引してくれたのは、紛れもなく私が見下していたはずの天海さんたちだった。

 舞台袖でガチガチに緊張する私たちを、アリーナの凄まじい声量に負けそうになる私たちを、リードしてくれた先輩たちの後ろ姿を見て、私は初めて気付かされた。天海さんたちは今まで“馴れ合い”をしていたのではないと。ライブは1人では決して成功させることができない、こうやってチーム全体として結束してこそ初めて成功を収めることができるのだと。そして私の考え方がいかに独り善がりで傲慢だったかも。

 

 ライブが終わって、無事に成功してホッとする気持ちの反面、私の中には悔しい気持ちという感情も芽生えてた。アレだけ天海さんに偉そうな口を叩いていたのに関わらず、本番ではアリーナの雰囲気に圧倒されるばかりで萎縮して緊張し、無意識に先輩たちの背中を求めてしまっていた弱さが、どうしても許せなかったのだ。

 

「……顔、上げなよ」

 

 天海さんの優しい声。

 ゆっくりと顔を上げると、天海さんは暖かくて優しい眼差しで私を見つめていた。今まで何度も失礼な言葉を投げかけ、軽蔑されても無視されてもおかしくないはずの無礼な態度を取ってきたのに、私を見つめる天海さんの眼差しはただただ優しかった。

 

「ありがとう、私たちのライブに協力してくれて。皆がいなかったら、今日のステージはここまで盛り上がらなかったと思う」

「そ、そんなっ……、私たちは」

「また一緒にライブやろうね! 次も皆で一緒にステージ立てるの楽しみにしてるから」

「天海さん……」

「あと、これからは苗字じゃなくて、“春香”って呼んでほしいかな! そっちの方が私的には嬉しいかも」

「え? あっ、はい。今度からそうします……」

「ありがとう志保ちゃん。これからも一緒に頑張っていこうね!」

 

 そう言い残した後、春香さんは私の頭を優しく撫でると、最後まで嫌味のない笑顔を振りまいて楽屋へと戻って行ってしまった。

 取り残された私は、何もその場で立ち尽くすことしかできなかった。

 

「…………私は、間違っていたのかな」

 

 一人取り残された私は、思わずそう口にしてみる。当然誰もその問いに答えてはくれなかった。

 

 

 

   ◎●◎●◎●◎●

 

 

 

「なんや志保、もう帰るん?」

 

 更衣室へ立ち寄った後に、楽屋へと戻ってきた私の名前を真っ先に呼ぶ陽気な関西弁。

 声の主––––、横山奈緒は少し離れたところで衣装姿のまま、私をまじまじと見つめていた。一人だけ先に着替えていた私を見て、私がこの場を去ろうとしているのだと察したのかもしれない。

 

「はい。ちょっとこの後用事があるので」

「そうなんか、残念やなぁ。また改めて打ち上げるするから、予定あけといてな」

「分かりました。日程決まったらまた連絡してください」

 

 嘘だった。この後の用事なんて何もなかった。

 本当は先輩たちの圧巻のパフォーマンスを見て、とてつもない実力差を痛感させられた今、ライブの成功を心底祝う余裕など持ち合わせていなかったのだ。

 今までの自分の傲慢さ、勘違い、全てが悔しくて情けなかった。先輩たちに比べて、私なんか魅力も才能も実力も、何一つ秀でた要素なんかない癖に。トップアイドルに相応しい実力を兼ね備えた先輩たちに対し、偉そうに口答えばかりしていた自分の存在が恥ずかしく仕方がなかった。

 それでも私は春香さんたちに追い付きたいと思ってしまう。いや、追い付くだけではなく、いつか追い越して春香さんたち以上に輝く星になりたいと。これだけの圧倒的な実力差を見せつけられながらも、自分が傲慢だと思っていながらも、それでも私はそう強く願わずにはいられなかった。

 この人たちを超えないと、きっと私が叶えたい夢は叶えられないと気付いたから。

 今のまま立ち止まってなんかいられない。

 もっと速く遠くへ、もっともっと頑張らないと春香さんたちには一生追い付けない。今のままじゃ夢を叶えることなんて絶対にできないのだから。

 

「すみません、用事があるのでお先に失礼します」

「お疲れ様! 気を付けて帰ってね」

「皆さん、今日は本当にありがとうございました。それでは」

 

 私は偉大な先輩たちと共に初ステージを踏んだ同期たちに挨拶を済ませ、足早に楽屋を離れた。

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 ライブ後に近くの牛丼屋で簡単な夜飯を済ませると、俺は早々に北斗と翔太と別れ自分のマンションへと帰ってきた。

 家に着くとシャワーも浴びず、すぐさまジャージに着替えて外へ出る。私服より通気性の良いジャージが少しだけ身体を軽くしてくれているような気がして、俺は近所にある公園に向かって走り出した。アレだけのライブを見せつけられて、想像以上に開いていた実力さを痛感させられて、居ても立っても居られなくなったのだ。

 マンションを出て数分、少しだけ急な階段を登った先に辿り着いた公園。夜の公園は閑散としており、暗闇を照らす街灯が寂しげに佇んでいる。都会の喧騒から抜け出したような高台にあるこの公園は、961プロに在籍していた頃からレッスンや仕事がない日に自主トレでよく走りに来る公園だった。綺麗な芝生が植え付けられており、昼間は家族連れの姿が多く見られるが、夜になると途端に人が減るためいつも貸切状態。アイドルとして少なからずメディアに出ていた俺にとって、余計な心配もせずに自主トレに打ち込める貴重な場所だ。

 

「さて、今日は気が済むまで走り倒すか……、ん?」

 

 ランニングシューズの紐をキュッと強く結び直した時、遠くから一定のリズムで刻まれる足音が聞こえてきて、俺は暗闇に向かって目を細めた。

 視線の先、暗闇の中から出てきたのはイヤホンをしたか細い少女の姿。ほぼダッシュに近いような速度で走る少女は、俺の方には一切目も暮れず、ただひたすらに正面だけを見つめて息を切らしながら俺の前を通り過ぎていく。

 一心不乱に走る女性の眼差しは何処か遠くの世界を見据えているようで、一瞬だけ見えたその瞳からは強い決意や想いが垣間見えた。それはとてつもない強い願いを秘めた瞳だった。それこそ、俺たちと同じように何か果てしない夢を追い求めているような、そんな感覚さえ覚えさせるような。

 少女の姿は、ただただ美しかった。俺は凛とした強さを感じさせる大人びた少女の横顔に見惚れ、暫くの間走り去っていった少女の後ろ姿を呆然と見つめていた。




3/22 大幅に添削


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 呼吸が苦しい。

 次から次に喉の奥から唾が込み上げてくる唾液が邪魔をして、息が切れる。何度も何度も粘り気のある唾液を飲み込んでも、またすぐに込み上げてくる唾が邪魔をして、私の呼吸を乱す。

 酸素が足りず、息苦しい中で何度も脳裏に浮かんできた光景は、数時間前に目が開けられないほどのライトに包まれたアリーナで、先輩たちが私たちに見せてくれた大きくて頼もしい背中だった。手汗でびっしょり濡れて震える私の手を引いてステージを進んでいく先輩たちの背中は、手を伸ばせば届きそうな距離にあったはずなのに、その距離はとてつもなく離れていた。あの瞬間に感じた強烈な敗北感、劣等感、そして先輩の手の暖かさに無意識に安心感を覚えてしまった弱い自分への苛立ち––––。

 ステージに立った僅か数分の間に私の身体中を駆け巡った全ての感情が、何度も何度もフラッシュバックしてくる。

 

(……悔しい)

 

 守られるだけの存在になりたくはなかった。守られるだけの弱い存在のままでは、いつか大切なモノを簡単に失ってしまう。いつまでも弱いままじゃ、自分が大切にしているモノたちを守ることなんて絶対にできない。

 だから私は変わりたいと強く願った。自分の大切なモノたちを守れるような強い存在でありたいと、その一心で私はアイドルの世界に身を投じたはずだった。

 

(それなのに、それなのに、それなのに––––……!)

 

 何万人もの観衆を相手に、あの大きなステージを前に、恐怖心を抱いてしまった。金縛りにあったかのように身体は硬直して、足はガタガタと音を立てて小刻みに震えていたのを覚えている。

 そんな弱い私を、春香さんたちは救ってくれた。だけど、もしあの時に春香さんたちが手を引いてくれなかったら一体どうなっていたのだろうか。きっと私たちは何万人もの人たちの前で、偉大な先輩たちが作り上げたステージで、とてつもない醜態を晒すことになっていたはずだ。十分に起こり得た別の結末を想像すると、ライブが終わった今でも背中が凍りつきそうになる程の恐怖心に誘われる。

 春香さんたちは私たちに手を差し伸べてくれた。その結果としてライブは大成功を収めたのだから、結末としては悪くないものだったのかもしれない。私だって無事にライブが成功して嬉しいという気持ちが当然ある。だけどライブが成功して嬉しい気持ち以上に、春香さんの手を握った瞬間にホッとした弱い自分が、私はどうしても許せなかった。

 

(弱いままじゃ、いつまで経っても変われない––––っ)

 

 あの時の残像と感情を振り切るように、私は脚を前へと進める。だけど私の意思とは裏腹に、まるで錘をつけているように身体が重く、脚が進まない。今日一日ずっと緊張の糸が張り詰められていたせいか、私の身体は想像以上に疲弊していた。

 そんな状態でどれくらい走り続けたのだろうか。何度も呼吸を苦しくさせようとする唾液を飲み込んで、これ以上は無理だと拒絶する脚を無理やりに進め、何周も何周も数え切れないほど公園のトラックを回った後、私の身体は限界点を迎えて立ち止まってしまった。

 前を向くことすら苦しくて、膝に手を付いた私の耳には、バクバクと大きな音を立てて動く心臓の音が聞こえてきた。その音を強引に押さえ込むように、私はシャツの胸の部分をギュッと握りしめる。

 

『君たちには、この夏開催される765プロのアリーナライブにバックダンサーとして帯同してもらうと考えている』

 

 “あの”765プロのバックダンサーとして、アリーナライブに帯同できる––––。それはスクール生の私たちにとって、アイドルとしての今後を左右する大きな分岐点になると言っても過言ではないチャンスだった。

 

––––このチャンスを掴めば、きっと夢に近づくことができる。

 

 そう考えると、誰にも負けたくなかった。他のスクール生たちには勿論、765プロのアイドルたちにだって。誰にも負けなければ、きっと夢への道が切り拓けると信じて、私は死ぬ気でレッスンに励んできた。

 スクールや765プロで行われた全体レッスンだけじゃなく、一日の限られた時間の中で僅かな隙間時間を見つけては、こうして走り込んだりダンスの復習をしたり、これ以上頑張れないと言えるほどに、私は努力してきたつもりだった。

 努力で全てが補えるとは思っていない。だけど、私のような平凡な人間が大きな夢を叶えるには、誰よりも努力をしないといけないと思っていた。夢を叶えるために、ライバルを押し退けてでもトップの世界に辿り着くために、私は努力をする以外の術を知らなかったのだ。

 だが、結局死ぬ気で努力をしたところで、私は春香さんたちの足元にも及ばなかった。

『私が春香さんたちに勝てる要素なんか何一つなかった』

 ライブが終わって私が真っ先に感じたのは、そんな圧倒的なまでの敗北感と劣等感。春香さんたちはオープニングからアンコールまで、アリーナを全速力で駆け抜けていたのに対して私の出番はたったの一曲だけ。それも歌もMCもない、踊るだけのバックダンサーだ。それなのに私は精神的にも肉体的にも春香さんたち以上に疲労を感じ、ライブ後に楽屋で用意されていた軽食は何一つ身体が受け付けなかった。

 誰よりも頑張ってきたはずなのに、技術も体力も、精神的な強さも、春香さんたちと比べると、全てが劣っていた。その結果が悔しくて悔しくて、仕方がない。

 あまりにも非力で不甲斐ない自分が歯痒くて、無性に泣きたくなった。どうしてこんなに私は弱いのだろう。こんなに強くなりたいと願っているのにどうして守られるばかりの存在でしかいられないのだろう。

 酷く呼吸が乱れて、膝が笑っている。俯いたままの私の頬を、汗に紛れて一滴の涙が伝った。

 

「こんなままじゃ、いつまで経っても––……」

 

 夢なんて、叶えられない。

 大切なモノたちを守ることなんてできない。

 誰かに守られるだけの存在が、強くなれるはずなんてない。

 

(もっともっと強くならないと。こんな弱いままじゃ、何も掴めない)

 

 自分の弱さを痛感し、溢れ出る涙を強引に手のひらで拭って顔を上げた瞬間だった。涙で潤んだ視界の先、暗闇の中から一人の少年がただただ呆然と私を見つめていた。

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 少女は脇見もせず、ただひたすらに前だけを見つめ、徹底的に自分を追い込むように走り続けている。その眼差しは真剣そのモノで、とてつもなく強い想いが込められているようだった。

 少し大人びて見えた少女の横顔から推測するに、恐らく歳は俺と同じくらいだと思う。だとすると、近所の高校に通う練習熱心な運動部員––、といったところだろうか。

 あっという間に遠くへ行ってしまった初めて見る少女の姿に様々な思考を巡らせてみたが、どうにもしっくりこなかった。俺の前を走り去って行った時に一瞬だけ垣間見えた少女の瞳は、部活の大会や記録なんかより、ずっと大きくて途方もないようなモノを追い求めている気がしたのだ。

 何があの少女をあそこまで駆り立てているのかは分からない。だけど少女の凛とした姿や異様なまでの気持ちの強さに目を奪われ、俺は公園に来た本来の目的も忘れて暫くの間ずっと少女だけを追い求めていた。

 

 灯りの乏しい公園の周りを一心に走り続けていた少女だったが、心肺機能に見合わない速度で走っていたのか、公園を一周回って再び俺の前を通り過ぎようとする直前に走るのを止め、その場で膝に手を付いて立ち止まってしまった。

 暫く俯いたまま呼吸を整える少女。静かな夜の公園を流れる少しだけ肌寒い風に乗って、彼女の息切れの音が俺の耳へと届く。彼女は酷く息を切らしていて、その様子が長い時間とてつもない負担を身体にかけながら走っていたことを物語っていた。

 

(……一体、何がここまでコイツを真剣にさせてんだよ)

 

 自分を追い込む少女の姿が、普通には到底思えない。少女の追い込み方は一言で言えば異様で、まるで自身の寿命を削っているかのようにさえ思わせるほどだった。

 だからこそ、何故ここまで自分を追い込んでいるのかが純粋に気になった。少女の遠くを見つめる視線は、どんな世界を見つめているのか。ひしひしと伝わってきた彼女の瞳に潜む情熱は、何を求めているのだろうか––。

 

「……あの、なんですか。さっきからジロジロ見て」

 

 少女の推測に夢中になっていた俺の思考回路を強制的に切断したのは、閑静な夜の公園に響く、女の子の冷たくて低い声。

 膝に手を添えて苦しそうな呼吸を整えていたはずの少女は、いつの間にか背中を真っ直ぐに伸ばしながら、片耳のイヤホンを外して睨みつけるようなジト目で俺を見つめていた。

 どうやら今更になって俺の存在に気が付いたらしい。俺は少女のジト目から逃げるように、慌てて視線を宙に向ける。

 

「わりぃ、なんでもねぇ」

「そうですか」

 

 俺の答えに返ってきたのは、まるで興味がないと言わんばかりの落ち着き払った少女の声。抑揚のない少女の声は何の感情も持たないロボットのような声色だった。

 本当に人間だろうか。そんな馬鹿げた疑問が浮かんできて、俺は宙から少女へと視線を戻した。

 灯りに照らされて光沢を放つ汗を含んだ少女の黒髪、綺麗なパーツがバランスよく散りばめられた整った顔立ち、一直線に伸びた綺麗な背筋、そして俺を睨むように見つめる少女の眼差し––––、少女の佇まいは、一言で言えば、ただただ美しかった。

 アイドルという仕事柄、普段から煌びやかな異性と接する機会の多い俺だったが、目の前で俺を見つめる少女の姿は今まで見てきた女性とは一線を画するような美しさに思えたほどだった。

 何がここまで俺を惹き付けるのだろう。正直、翔太や北斗に比べると俺はあまり異性に興味があるわけではなかった。美人な人を見ても美人だと思うだけで、可愛いらしい顔立ちの人を見てもただただ可愛らしいと思うだけ。それ以上でもそれ以下でもなかった。

 だが目の前の少女は、そういった女性たちと“何か”が決定的に違っていた。この少女には言葉では言い表せないような“何か”があって、その“何か”が俺の琴線を激しく刺激しているような気がしていた。

 

「…………だから、なんなんですか。何か私の顔に付いてるんですか?」

 

 少女の低い声が再び俺を我に返らせる。さすがに今度は苛立ちのこもったような不機嫌な声で、さっきより更に鋭いジト目で俺を射竦めるように見つめていた。

 良かった、ちゃんと人間なんだ。少女の感情のこもった声を聴いて、俺は怒られているのに関わらず何故か安心して胸をなで下ろしていた。相手が人間だと分かると、そこまで緊張する必要もない。

 

「だから何もねぇって」

「そうですか。それならあんまりジロジロ見ないでください」

「わ、わりぃ……」

 

 強い口調でハッキリと言い放った少女はそれ以上何も言わずに、外していたイヤホンを耳に戻した。どうやらトレーニングは終わったのか、ランニングシューズの紐を緩めると俺の方––……、公園のある出口へと歩いてきた。俺も公園にやってきた目的を思い出し、少女の方へ向かって歩き始める。

 今度はなるべく少女に視線を向けないようにと平静に努めながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だけど、どうしても我慢できずに俺はすれ違い際に、少女の顔を見てしまった。

 綺麗な黒髪を揺らして俺の側をすれ違った少女の鼻は、多くの涙を流し終えた後のように、赤く染まっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

SE@SON ONE
EpisodeⅠ: 俺と私の再会


今更だけど、ミリマスのSS少なすぎひん?


『志保、よーく聴け。自分の身に起こることには全て意味があるんだ。偶然で無意味なことなんて何もないんだからな』

 

 何度も私に語りかける父の姿。大好きだったゴツゴツした大きな掌で優しく撫でながら見上げる父の姿を、私は今でも覚えていた。

 私の父は8歳の時に突然家族の前から姿を消した。あの日を境に母も一切父の存在に触れなくなったため、家族で父の話をするようなこともない。私が知っている父の姿は、幼い頃に脳裏に焼き付いたいくつかの思い出の中に存在する姿だけだった。

 どうして父は幼い私にあの言葉を伝えたのだろうか。父が居なくなってしまった今となっては、父の目的もその言葉にどんな意味が込められていたのかも、知る術は残されていなかった。

 だけどもし父の言うように全ての出来事に意味があるとするのなら、きっとあの人に出会ったのも、何か意味があるのかもしれない。だとしたら、彼との出会いは私に何をもたらそうとしているのだろうか。

 間接照明の灯りの下、私が握り締めたスマートフォンのディスプレイには一人の男の姿が映っている。少しだけ無愛想な眼をしてマイクを握りしめる男––––、その写真の下に小さく添えられているのは、『天ヶ瀬冬馬』の文字。

 

「……やっぱり、本人なのかな」

 

 公園で出会った男が、もし本当に“あの”天ヶ瀬冬馬で、彼が口にした話が本当だとしたら–––。

 私は大きく息を吐くと、意を決して机の上に置いたままになっていたメモ用紙の切れ端に手を伸ばす。丁寧に折り曲げられたメモ用紙を広げ、そこに書かれていた11桁の番号を、私はスマートフォンに打ち込んだ。

 

 

 

Episode Ⅰ : 俺と私の再会

 

 

 

 夏はまだ終わっていないのだと言わんばかりの、高らかなセミたちの鳴き声。

 夏と云えば8月が一番猛暑だと思われがちだが、実際は9月上旬が最も気温が高くなるようで、夏休みが終わったばかりの今の時期が夏場のピークになるらしい。今朝、何気なく点けていたニュース番組でそんなどうでもいい知識を知ってしまったせいか、今日はいつも以上に日差しが強く感じられた。

 鬱陶しいほどに身体中から湧き出てくる汗をタオルで拭い、私は強烈な紫外線を防ぐように額に手を添える。目を細めて見上げる視界の先には、765プロライブ劇場が私を待ち構えるかのように、そびえ立っていた。

 

 何故アリーナライブを終えた今になって私が劇場にやって来たのか。

 事の発端は、アリーナライブが終わって2週間ほどの時間が経過したある日のことだった。

 

「765プロダクションから、バックダンサーとしてアリーナに参加した7人を正式に受け入れたいとの申し出があった」

 

 突然バックダンサー組を集め、嬉々とした表情でそう告げたスクールの代表者。

 聴けば私たちがアリーナライブに向けて必死にレッスンをしている間、水面下では765プロの次期プロジェクトの準備が着々と進んでいたらしい。

 “39 Project”と題された765プロの新プロジェクトは、今年の春先に完成した765プロの専用劇場施設を拠点に、春香さんら俗に言う“765 ALL STARS”の妹分に当たる、新たなアイドルグループを発足させる内容のものだった。私はアリーナライブのことで頭が一杯だったせいか知らなかったが、既に39人のアイドルの卵を募って夏休みの間にオーディションが何度も開催されていたそうだ。

 765プロの申し出としては、既にアリーナライブを成功させた実績を持つ私たち7人を、39 Projectの一員として正式に迎え入れたいと云った趣旨のものだった。

 

「そそそそんなん、訊くまでもないやないですか!」

「私たちが765プロのアイドルになれるんですかっ!? かっ、可奈ちゃん、どうしようっ!?」

「百合子ちゃん、落ち着いて! でも、もし39プロジェクトに入れたらまた春香さんたちに会えるのかなぁ……」

 

 代表者からの話を聴いたメンバーたちは、各々が悲鳴なような声を上げて興奮している。他のメンバーたちの反応は言うまでもなかった。私だけじゃなく、あの場にいた全員がアリーナライブで躍動する先輩たちの姿に少なからず感化されていたのだから。それに加え、アイドルを真剣に志す者として今や大手アイドル事務所に成り上がった765プロからの誘いは紛れもなくステップアップのチャンス。断る理由なんて何一つなかった。

 思いも寄らない765プロからの申し出に、興奮する6人。その傍ら、おそらくこの場で私独りだけが複雑な想いを抱えていた。

 

「北沢、お前はどうする?」

 

 胸の内を覗き込むかのように目を細めて、そう尋ねたスクールの代表者。

 私はあの日感じた猛烈な劣等感を振り払うように、唾を飲み込んだ。

 

「是非、参加させてください」

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「つまんねぇ」

 

 程よく冷房が効いた自室のベッドの上で、何もない天井をボンヤリと眺めながら口にした。

 せっかく学校も休みの週末。午前中は久しぶり舞い込んできた雑誌のインタビューの仕事があったが、それも昼過ぎには終わってしまった。思ったより早く現場が終わってしまったことで、暇を持て余した俺は家でゲームでもしないかと2人を誘ってみたが、

 

「ごめん、今日は無理なんだよねー。家族でご飯食べ行く予定があって」

「悪いが俺も無理だな、今日は夕方からデートの約束があるんだ」

 

 

 都合が合わなかったらしく、俺の誘いはあっさりと断れてしまった。

 その結果、俺は一人寂しく自宅に帰宅し、こうして暇を持て余しながらボンヤリと天井を眺める週末を過ごしているのである。

 ジュピターとしての活動費を自腹で工面している今、街に出て遊び呆けれるほどの金銭的余裕はない。それならジムに行って自主トレでもしようかとも考えたが、既に昨日ジムに行ってみっちり鍛えてしまったせいで今日は全身筋肉痛。学校やアイドル活動の合間を見つけて稼働していた日雇いのバイトも、今日ばかりは何処も募集していなかった。

 カチッカチッと、静かな部屋に鳴り響く秒針の音。狭い部屋の中の時間は、外の世界より何倍も遅いスピードで流れているように感じられた。

 

「……つまんねえ」

 

 シミひとつない天井を眺めて過ごすのもすっかり飽きて、俺は寝返りを打つとテーブルに置いていたスマートフォンを手繰り寄せた。

 何か面白いことでもないものかと、ニュースサイトを開く。だが俺の期待も虚しく、ニュースサイトにピックアップされていたのは、最近報道されていた有名芸能人の不倫のニュースとか、遠い世界のように思える政治のニュースとか、俺にとってあまり関心のないニュースばかり。相変わらずつまんねぇな、なんてボヤきながら、作業的にサイトをスクロールしている時だった。流れていく画面上に見覚えのある名前が目に付いて、俺は慌ててスクロールされていた画面を止めた。

 

「『今をトキメク765プロが大成功を収めた、アリーナライブ』……」

 

 口に出して読んだニュース記事の隣には、白を基調とする衣装に身を包んだ、かつてのライバルたちの写真。目についたのは、1ヶ月ほど前に俺たちも足を運んだアリーナライブについての記事だった。

 見出しをクリックし、表示された文章に目を通す。所々にライブの写真が散りばめられた記事は、ライブの構成からセットリスト、会場の演出に運営フロー、全てが初めてアリーナライブを行うアイドルグループだとは思えないほど完璧に洗練されていて、懸念材料であったバックダンサーたちも本番では765ALL STARSに見劣りしないパフォーマンスを魅せ、記念すべき765プロ初のアリーナライブに華を添えた––––……などといった、あの日のライブを大絶賛される内容のもだった。

 芸能記者たちの目から見てもあの日のライブは圧巻で、多くの界隈から凄まじい反響を集めたらしい。確かにライブ翌日には大きなニュース番組や新聞などの媒体でライブの様子が取り上げられ、SNSやインターネットでも765プロの名前を見かける機会が爆発的に増えた。ライブが終わって1ヶ月の月日が経過した今でもその余韻は消えることなく、テレビを点ければ連日のように765プロの誰かしらを目にしている気がする。もともとアリーナライブ前から星井美希と如月千早の海外進出や大型専用施設の建設など、765プロの躍進は何かと巷を賑わせていたが、今回の件で更に多くの注目を集めることに間違いなかった。

 記事の最後には、765プロの新たな取り組みとして近々始動する、“39 Project”についても触れられていた。飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進を続ける765ALL STARSの後輩グループとして目が離せない、と。

 

「…………つまんねぇっ」

 

 画面を消して、スマートフォンを枕元に放った。

 アリーナライブを成功させ、猛スピードで爆進する765ALL STARS。961プロを辞めてただでさえ差は開いていたのに、今回のライブでその差が何倍にも広がったのは確かだった。きっと今こうして俺が退屈な時間を過ごしている間にも、彼女らは慌ただしく仕事をこなしていて着実とキャリアを積んでいるのだろう。

 そう考えると、今こうして自室でボンヤリとした時間を過ごしている自分がとてつもなく罪深い人間のように思えて、慌ててベッドから体を起こした。リモコンを操作して冷房の電源を切り、通気性の良いジャージに着替える。

 

(……こんなままじゃダメだ)

 

 今のままだとアイツらに追い付くどころか、近々活動を開始する39 Projectの連中にもあっという間に置いていかれてしまう。もっともっと、誰よりも早い何倍ものスピードで走っていかないと、今の陽の当たらない世界から抜け出すことなんてできるわけがない。

 そう言い聞かせ、玄関でランニングシューズを履くと、筋肉痛の体を引きずって部屋を後にした。

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 私は昔から人付き合いが得意ではなかった。

 正確には好きではないといったが正しいのかもしれない。

 他人はあくまで他人、自分は自分。何をするのにも結局は自分次第で、他人が自分に及ばす影響はさほど大きいモノではない。そういった個人主義が昔から根強く私の中に存在していたのもあり、基本的に他人とは最低限以上のコミュニケーションを取る必要がないとさえ思っていた。

 かと言って人と過ごす時間を否定するつもりもなかった。寧ろ、そういった時間の重要性も十二分に分かっているつもりだった。それを理解した上で、私は個人主義の生き方が性に合っているのだなと思って、人を寄せ付けない生き方を今まで貫いてきた。

 

 そのはずなのに––––。

 

「志保ちゃーん! 見てみて、このおにぎり私が作ったの!」

「ほらほら、たこ焼き持ってきたでー。志保も熱いうちに食べーや」

「志保ー! 特別ドリンク持ってきたよー、にゃははは!!」

 

「……可奈も奈緒さんも恵美さんも、もう少し静かに食べれないんですか? あとこの不気味な色のジュースは結構です」

 

 少しだけ暑さが和らいだ土曜日の昼下がり。劇場の屋上スペースでは、親睦を深める名目で開かれたBBQが大いに盛り上がっていた。

 快晴の空の下、食欲を刺激する匂いを乗せた涼しげな風が吹き抜ける開放的な屋上。まだ顔を合わせて日も浅い39人のアイドル候補生たちの中には初めこそ硬い緊張した空気が流れていたものの、その緊張が解れるのに時間はさほど要さなかった。

 

「えー、絶対美味しいって! 遠慮なんてしなくていんだよ?」

「いや、本当に結構です。ていうか、何を混ぜたらこんな色になるんですか」

「うーん、確かコーラとオレンジジュースとカルピスだったかな?」

「確かって……、覚えてもないのによく美味しいとか言えますよね」

「にゃははは!」

 

 私の言葉に、ケラケラと陽気に笑う恵美さん。その様子につられ、楽しそうに奈緒さんや可奈も笑っている。そんな周囲の様子を見て、私は妙な居心地の良さを感じていたのだ。

 

 偉大な先輩方、765ALL STARに続くアイドルグループとして始動した“39 Project”には、実に個性的な経歴を持つ39人のアイドル候補生が日本中から集められた。

 最年少は10歳で最年長は24歳。一般オーディションを勝ち抜いたメンバーもいれば、スカウトを受け上京してきたメンバーもいて、年齢も経緯もバラバラに集った39人の中には、元子役や読者モデルとしてのキャリアがある者もいれば、元ダンサーやバンドのボーカル経験者など、何かしらの分野で一芸に秀でたメンバーも少なくなかった。

 いくらスタートラインは一緒だと言えども、既に芸能界でのキャリアや知名度を持つ者と普通の学生として過ごしていた者とでは、実力差があるのは明確である。こればかりは致し方ないことだった。

 だけどいざ同じスタートラインに立ったら、前歴なんて言い訳に過ぎない。子役にも読モにも、元ダンサーにもバンドのボーカルにだって、誰にも負けたくなかった。このメンバーたちに負けないくらい強烈な魅力を放つアイドルにならないと、絶対にアリーナライブで痛感した春香さんたちとの差は縮まらないことを知っていたからだ。

 

「……なぁ、志保」

「なんですか?」

 

 得体の知れないドリンクを片手に、嵐のようにやってきた恵美さんが嵐のように去っていった後、奈緒さんに声をかけられた。奈緒さんの持つ紙皿の上では、爪楊枝が刺さったままのたこ焼きから出る湯気が、屋上を駆け抜ける風によってなびいている。

 

「むっちゃ意外やったわ、志保が来たの」

「意外って、どういう意味ですか?」

 

 あかん、せっかくのたこ焼きが冷めてまう。紙皿の上でなびく湯気に気が付いた奈緒さんは、慌ててたこ焼きを口に放り込んだ。

 

「せやからな、こういう場に志保がくるの珍しいなーって言うてんねん」

「……そうですか?」

「そうやろ。だってスクールの時なんか一度も集まりに顔出さへんかったし」

「それは……」

 

 確かに奈緒さんの言う通りだ。

 765プロにやってくる前に在籍していたスクールでは、こういった集まりに足を運んだことなんて一度もなかった。 親睦を深めたところで、アイドルとしての能力が上がる訳ではない。そう思っていたから、時折開催されるアイドル同士の集まりに参加する意味を見出せなかったのだ。

 奈緒さんは集まりがある度に私を誘ってくれていたが、私はその誘いを全て断っていた。だからこそ、今日のBBQに参加した私を見た奈緒さんは不思議に思ったのかも知れない。

 

「……なんか、志保は雰囲気変わったと思うわ」

「別に、私は私のままですよ」

「そうやねんけどな、なんか前より柔らかくなったわ。刺々しさがなくなって」

「刺々しさなんて、もともとありませんから」

「んなわけないやろ。可奈と揉めた時の志保、鬼みたいな形相しとったで」

「……それ以上言うと怒りますよ」

「おーこわっ! 冗談やって、そんな怒らんといてや」

 

 誤魔化すように私に肩を叩き、ニカっと綺麗な歯を見せて笑う奈緒さん。その屈託のない笑みを見てると、とてもじゃないが怒る気にはならなかった。その笑顔につられ、溜息混じり呆れて笑ってしまった。アリーナライブの前から薄々勘付いてはいたが、この人はお調子者に見えて本当に人の事をよく観察していると思う。

 奈緒さんの言う通り、本来私はこういった大人数で過ごす場はあまり好きではなかった。現にプロデューサーからメンバー同士の親睦会を兼ねたBBQ大会を開催すると聞いた時、端的に「面倒臭いな」と思った。そして、そんなことをするくらいなら、一日でも早くレッスンを始めるべきではないのかとも。アイドルとしてブレイクすることを目的に39 Projectにやってきた私にとって、肝心のプロデューサーが率先してアイドル活動に関係のないイベントを企画する意味が本気で理解できなかったのだ。 

 だがいざ参加すると、面倒くさいとか煩わしいといった気持ちは一切浮かんでこなかった。絶対に負けまいと、顔合わせの時にはあれほど周りのメンバーに対抗心を燃やしてライバル視していたはずのに、気が付けばライバルのはずのメンバーたちと打ち解け、居心地の良い時間を楽しめている自分が我ながら不思議で仕方がなかったくらいだ。

 

「……もし私が変わったのなら、それは春香さんの影響なのかな」

 

 アリーナライブで見た、偉大な先輩の背中を思い出す。温かくて優しい手で私を引っ張り、恐怖心を一蹴してくれた先輩の大きな背中は、私に沢山のことを語りかけていたような気がした。

 

「んー? 何か言ったか?」

「いえ、なにも」

 

 リスのようにたこ焼きを口一杯に頬張った奈緒さんに、私の独り言は届かなったらしい。でもそれで良かったのかも知れないと思う。だから私はそれ以上何も口にはしなかった。

 

「そんなことよりさー」

「次はなんですか」

「志保、時間は大丈夫なん? 今日は弟さんのお迎えに行かなあかんー、て言うてたやろ?」

「あっ!」

 

 奈緒さんの言葉に、慌ててスマートフォンの画面を付ける。

 いつの間にか進んでいた時計の針は15時を過ぎていた。ここから保育園までの距離を考えると15時には劇場を出なければと思っていたのに、その時間を既に超えてしまってる。

 慌てて鞄を手に取り、帰り仕度を始める私。その様子を、奈緒さんは楽しそうに笑って見つめていた。

 

「すみませんっ! お先に失礼します!」

「ほーい、気ィつけてなぁ」

「またねー志保ちゃん!」

 

 簡単な挨拶を残して、バタバタと屋上を後にする。背中から聞こえてくるメンバーたちの別れの言葉も今日だけは妙に居心地よく感じられてた。

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 そういやアリーナライブが終わった後もここの公園に来たな、なんて思い返しながらランニングシューズの紐をキツく結ぶ。

 今日は週末なのもあり、公園の利用者も多い。親しげにベンチで肩を並べて話すカップルや、小さな子連れの家族、犬を散歩させている若い女性など、様々な目的でやってきた多くの利用者で公園は賑わっていた。あの夜の閑古鳥が鳴いているような公園の姿とは、とても同じ場所だとは思えないほどだ。

 

(帽子も被ってるし、変装は十分だろ)

 

 しっかりと変装を再確認して、腕時計のストップウォッチ機能を起動させていざ走り出そうとした時だった。

 俺に制止をかけるように転がってきた子供用のゴムボール。サッカーボールの模様が描かれたボールは公園から飛び出す勢いで転がっており、その軌道が視界に入った俺は無意識のうちにボールを止めようと右足を伸ばす。ギリギリのところで俺の右足はボールに届いたようで、勢いを殺されたボールは足元にピタッと収まっていた。

 

「あのっ、すいませんっ!」

 

 遠くから聴こえてきた若い女性の声に振り返ると、数十メートル先から慌てたようにウェーブのかかった黒髪を揺らして少女が俺の元へと駆け寄ってきていた。その後ろには、まだ小さな男の子が少女に遅れまいと付いてきている。どうやら突然転がってきた子供用のボールはこの姉弟のものだったらしい。

 右足に収まったボールを少しだけ引いて、その勢いを利用して上へと軽く蹴り上げた。久しくボールを蹴っていなかったが、未だにサッカー部だった頃に培った技術は残っていたようで、宙に浮いたボールを地面に落とさないようにと、俺はリフティングをしてみる。久しぶりのせいか、ボールを蹴るという単純な行為は無性に楽しくて、駆け寄ってくる姉弟にボールを返すのが名残惜しく感じてしまうほどだった。

 

 勿論、子供相手にそんな大人気ないことをするはずもなく。

 ボールを追う視線の中で少女が近付いてきているのを確認すると、俺はリフティングを止めてボールを手で掴んだ。

 

「ご迷惑をおかけしてすみません」

「いや、俺は別にそんな……」

 

 スラッとした背筋を綺麗に曲げて、礼儀正しく頭を下げる少女。

 何もボールが飛んできたくらいなのだから、そこまで深々と頭を下げなくてもいいだろうに。そう疑問に感じていたが、その理由はすぐに判明した。

 

「ほらっ、りっくんもちゃんとお兄さんにお礼を言いなさい」

 

 少女の隣では、『りっくん』と呼ばれる男の子が、小さな手で少女の手を握っている。これだけ小さな弟の前だから、少女は少し大袈裟でもちゃんとした礼儀作法を見せようとしていたのかもしれない。俺と同世代ほどに見える風貌なのに、かなりしっかりしているんだなと思わず感心してしまった。

 

「ほらっ、もうお姉ちゃんに迷惑かけねぇように、しっかり練習すんだぞ」

 

 なるべく子供と視線を同じにするように、屈んでボールを男の子に返す。視線を同じにすることで、子供に威圧感を与えることなく接することができる––––らしい。以前とあるテレビ番組に出演した際に、子供をわんわん泣かしてしまった俺に北斗が教えてくれたアドバイスだ。

 だが俺からボールを受け取った男の子はうんともすんとも言わず、ボンヤリと俺の視線を見つめ返していた。『りっくん』と呼ばれる男の子は、俺に怯えている様子もなく、かといって泣き出しそうな様子もなく、ただただ不思議そうに大きな目をパチクリさせて俺の顔をまじまじと見つめている。

 

「りっくん、お兄さんにありがとうは?」

「お兄ちゃんは––––」

 

 俺に気遣ってか、弟を急かす姉。だがそんな姉に目もくれず、男の子は予想外の言葉を口にした。

 

「もしかして、天ヶ瀬冬馬?」

 

 

 

「…………え?」

 

 素っ頓狂な声を出して、今度は姉が目をパチクリさせて俺を見つめた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



周防桃子は絶対面倒くさい(褒め言葉


 迂闊だったと、激しく後悔した。

 自分はまだ誰にも知られていない、無名なアイドル候補生。そう思っていたからこそ、まさか私の顔を覚えていた人がいて、こんな写真を撮られてしまうとは想像もしていなかった。

 劇場で開かれたBBQ会の帰りに、りっくんを連れて立ち寄った公園で偶然にも“あの”天ヶ瀬冬馬と出会った日の二日後。学校を終え、劇場に訪れた私を待っていたのは騒然とするメンバーたちと、プロデューサーから聴かされた思いも寄らない事態だった。

 

「志保さん、気が緩んでたんじゃない? 桃子たちはプロなんだからもっとしっかりしないと」

 

 踏み台の上で腰を手を当てて見下ろす周防桃子の厳しい言葉。年下の子に説教されるとは……、なんて情けなく思う気持ちも少しだけあったが、桃子の言葉は正論そのもので、私はただただ肯定することしかできなかった。

 年上にも物怖じせず、ズバズバと誤りを指摘する彼女の強気な性格は、幼い頃から子役として身を置いてきた芸能界という名の修羅場で培われた代物だろう。11歳にして多くの作品に出演した経歴を持つ彼女は、それ故か非常にませた性格をしており、年相応にもとても見えないほどの醒めた性格をしていた。

 その一方、キャリアも経験値も多いだけあってプロ意識は非常に高い。子役として磨かれた演技の実力も確かなモノで、初めて元子役の迫真の演技力を見たレッスンの時から私は彼女の存在に一目置いていた。

 

「桃子の言う通りだわ、軽率だったと思う。迷惑かけてごめんなさい」

「大丈夫よ志保ちゃん。若い頃は誰だってデートの一つや二つ、して当然なんだから」

 

 厳しく叱咤する桃子とは対照的に、楽しそうな笑みを浮かべながらそう口にしたのは百瀬莉緒さんだ。グラマラスなプロモーションが特徴的な莉緒さんは私よりだいぶ歳が離れた23歳。劇場にやってくるまではごくごく普通の社会人として都内で働いていたらしい。

 ちょっと莉緒さん、と不満そうに頬を膨らませる桃子には目もくれず、テーブルに頬杖を付きながら前屈みになって顔をグッと近づけてくる。その瞳は無邪気にキラキラと光っていて、隣で不貞腐れたように莉緒さんを見る桃子より何倍も子供っぽく見えた。

 

「そ・れ・で、デートしてた男の子は志保ちゃんの彼氏なの?」

「……違います。そもそもデートじゃないですって」

「もうっ、ガールズトークに隠し事はなしってお姉さんずっと言ってるじゃない」

「別に隠してるわけじゃ無いですよ。本当に彼氏でもなんでないので」

 

 志保ちゃんはなかなか強情ね、と困ったように唸る。

 同性から見ても魅力的な引き締まったスタイルは勿論、端正に整った顔立ち、肩まで伸びた茶色の髪からさえも色気を感じるような、そんな美人なお姉さん––––、これが初対面の時に莉緒さんに抱いた第一印象だ。

 だけど実際はともかく明るくて人好きな性格でお喋り気質、美意識に強い拘りがあるようで、ヨガやネイルを嗜んでいるが、異性を意識するあまり私服は派手で露出度の高いモノばかり。何より極め付けは究極の酒癖の悪さ。BBQ会に最後まで残っていたメンバーの証言で、お酒が入ると莉緒さんは悪酔いすることが赤裸々に公にされてしまった。

 見た目に相反する人間性から、さしずめ“残念美人”といったところだろうか。これが今の莉緒さんに対する印象である。普通にしていれば美人なのに……と、満場一致でメンバー全員が内心思っているだろうが、その反面歳上らしからぬ親しみ易さもまた、彼女の魅力の一つだった。

 親睦を深めるために開かれたBBQ会も莉緒さんがプロデューサーに提案していたようで、年長者だけあって面倒見もよく周囲への気配りもしっかりとできる。知り合って間もないメンバーたちがすぐに打ち解けれたのも、彼女の人間性のおかげによる部分が大きかった。

 ただ、異性の話題となると莉緒さんは途端に面倒臭くなる。だから私はなるべく簡潔にキッパリと否定していたが、それでも莉緒さんの瞳に映る、興味の炎が弱まることはなかった。

 

「若いって良いわねぇ、青春できて。お姉さん羨ましいわ」

「話聞いてますか? そういうのじゃないんですって」

「そうムキにならないの。若い時に青春するのはとても大事なことだと思うわ。恋が女の子を一番成長させるって言うでしょ?」

「仮にそうだとしても、恋愛なんてアイドル活動する上では足枷になるだけじゃないですか」

「そんなことないわよ。現に劇場のメンバー内にだって彼氏がいる子沢山いるじゃない」

「そうなの!?」

「あら、桃子ちゃん知らなかった? そういう桃子ちゃんには彼氏とかいないのかしら」

「かっ、彼氏なんて桃子にいるわけないじゃない!」

 

(……いつまでこの話続くのかしら)

 

 自分が火種とはいえ、そろそろ興味のない恋愛トークが面倒くさくなってきた頃だった。私たちのいる控え室をノックする音が二度響いた後、スマートフォンを片手にしたスーツ姿のプロデューサーがドアの先から現れた。私たち3人を見て、「莉緒と桃子も一緒だったのか」と年代がバラバラの珍しい組み合わせに少し驚きつつ、プロデューサーはテーブルを挟んだ私の向かい側、莉緒さん座る席の腰に腰を下ろした。

 

「今回の件はもう大丈夫だ。投稿者と直接話をして、削除してもらったから」

 

 プロデューサーが私に向けたスマートフォンには、『このツイートは表示できません』の文字。問題の写真がしっかりと削除されていることを証明する画面だ。

 

「ありがとうございました。あと、ご迷惑とお手数をおかけしてしまってすみませんでした」

「良いって、これくらい気にするなよ」

 

 アイドルのプライベートを守るのも仕事のうちだからな、なんて言いながらプロデューサーは特に私をお咎めることもなく笑っている。恋愛禁止を公言し、アイドルのプライベートを徹底的に管理する事務所も多いと聴く業界だが、765プロでは特に厳しい縛りがあるわけではないらしい。

 

「ただし、今後は気を付けるように。志保はアイドルなんだし、何より一般人の個人情報が特定されてしまうと厄介だからな」

 

 プロデューサーの言う通りだ。SNSが異様に発達してしまったこのご時世では、ネットの炎上がキッカケで一般人の名前や住所などの個人情報が特定されてしまう事件が多発していた。一度特定されると情報はネットの海に残り続け、完全に消し去ることはほぼ不可能に近い。当事者の生活は勿論、周囲の家族や友人たちにまで被害が及ぶ可能性があるため、不用意な炎上は絶対に避けれなばならない。

 ……今回の場合、正確には一般人ではないけど。それは置いといて、自身もアイドルとしての自覚がまだまだ足りなかったのだと、私は兜の緒を引き締める気持ちで反省の意を表す。

 

「……はい、肝に命じておきます」

「分かればよろしい。相手にも一言、謝りの連絡くらい入れとけよ」

 

 私の返事に満足そうな笑みを浮かべると、プロデューサーはこれ以上何も言わず、席を立って部屋から出て行ってしまった。

 その背中を見つめていた莉緒さんは、ドアがバタンと音を立てて閉まったのを確認すると、ザックリと開いた胸元を強調するかのように身を乗り出して、

 

「と・こ・ろ・で、ジュピターの天ヶ瀬冬馬似ってくらいだから、イケメンなんでしょ? ねぇ、写メとか見せてよ」

 

 やっと終わったはずの話題を再度引っ張り出しては、得意気に片目を閉じて両手を合わせる仕草を見せながら、甘い声を出した。その隣でドン引きしている桃子には気付かずに、ドヤ顔混じりのしてやったりの表情で。

 そんな莉緒さんを軽くあしらい、似じゃなくて、本人なんだけどな、と心の中で呟く。勿論、そんなことを実際に口にできないけれど。

 ここにいたらいつまでも埒があかないなと判断した私は、肺の底から深い溜息を吐いて席を立った。

 

 ––––天ヶ瀬冬馬。

 一時期アイドル界を沸かせた3人組ユニット、ジュピターのリーダーを務めていた男性アイドルだ。

 突如アイドル界に姿を現した3人は、爆発的な売れ行きと人気を博したデビュー曲『Alice or Guilty』をキッカケに、王道とも云える男性アイドルグループとして幅広い年齢層の女性の支持を集め、瞬く間にスターダムへと駆け上がることに成功した。それこそ、ジュピターの全盛期はまさに“あの”春香さんたちに匹敵する––––……いや、もしかしたらそれ以上の勢いがあったのではないかと思う。男性アイドルグループに疎い私でも名前や顔を覚えるほどに、彼らの知名度はとてつもなく高かった。

 だが彼らの全盛期も長くは続かなかった。半年ほど前から徐々にメディアへの出演が減り始めたかと思いきや、いつの間にかジュピターは表舞台からパッタリと姿を消してしまっていた。

 

 まさかTwitterにアップされた写真に写りんだ人物が、そんな表舞台から姿を消したはずジュピターの天ヶ瀬冬馬本人だとは、プロデューサーも莉緒さんも桃子も、誰一人として想像もしていないのだろう。

 

「今からレッスンなんで。失礼します」

 

 少し時間は早かったが、私はそう言い残すと、莉緒さんから逃げるようにして控え室を後にした。

 独りで歩くレッスンルームまでの道中、プロデューサーの言葉を思い出し、私は鞄の中から財布を取り出して、財布の中で綺麗に四つ折りにされていた一枚のメモ用紙を広げた。

 

『これ、俺の携帯番号だから! 何かあったらすぐに連絡してくれ!』

 

 私が渡したメモ用紙に慌ててペンを走らせ、半ば強引に押し付けて去って行った彼はそう言ったものの、彼の予想していた事態とは似て異なる結果になってしまったのではないかと思う。彼が考えていたことは私も理解できたし、万が一のことがあったら彼が恐れていることが起こるのだろうと予測もしていた。だが彼は私が765プロのアイドルだと気付いていなかったのと同じように、私たちの写真を撮った本人もまた、帽子を被った男が天ヶ瀬冬馬だとは思ってもいなかったのだろう。

 そんな小さなズレが重なって合って、今回の事件が起こってしまった。天ヶ瀬さんが懸念していた事態ではあるのだろうけど、問題のツイートの文面では肝心の主語が完全に入れ替わってしまっているのだ。

 

「……これ、どう伝えればいいのかしら」

 

 私は妙な困惑を抱え、一人で頭を悩ませたのだった。

 

 

 

  ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「あの」

 

 申し訳なさそうに言葉を紡いだ後に、ウェーブのかかった綺麗な黒髪の少女は小さな声で「すみませんでした」と付け加えた。

 少女の言葉の意図が分からなかったが、すぐに頭上に向けられた視線に気が付き、「別に、気にすんなよ」と返す。それでも少女は申し訳なさそうに眉をハの字にしたまま、俺を見つめていた。

 少女は俺の変装を見破ってしまったことに罪悪感を抱いていた。確かに男女問わずアイドルと様々なメディアに出ている人の中には、プライベートで声を掛けられることを極端に嫌がる人も多い。当の俺もなるべく人目に付かないようにと、この季節には不自然な帽子を被って正体を隠しているつもりだった。

  だけど、そんな事を当然幼い子供が当然知る由もなくて。少女の弟は一瞬で俺の正体を見破ってしまった。もちろん、その行動に悪意はなかったはずだ。

 

「バレちまったもんは仕方ねぇよ。悪気があったわけでもないだろうし」

「それは……、そうですけど」

 

 訊けば弟さんはまだ5歳。さすがに小学生にもなっていない子供に怒るほど、俺も心が狭い人間ではない。寧ろ、若い世代のファンの人たちでさえそんな気遣いができる人の割合が圧倒的に少なくて、変装をしていても街で声をかけられることが多々あるくらいなのだから。

 だからこそ、この少女は若いのに本当にしっかりしているなと思った。真っ先に謝りに来た時に弟の前で見せた立ち振る舞いもだが、俺のようなイレギュラーな人間に対するマナーもしっかりしている。落ち着き払った雰囲気が大人びて見せるが、少女の顔付きが大学生にしては幼すぎて、中学生にしては歳不相応なくらいに大人びて見えて、 おそらく俺と高校生くらいだろうなと思っていた。それでもしっかりし過ぎていると思うが。

 

「……それにしてもお前の弟、よく気が付いたな」

「以前天ヶ瀬さんがバラエティ番組でサッカーしているのを食い入るように見てたことがあって、多分それで覚えてたんだと思います。りっくんはサッカー好きだから」

「なるほど」

 

 そう言えば大人より子供の方が勘が鋭いんだっけ。そんな何処かで聴いたような言葉を思い出し、俺は妙に納得してしまった。

 少女の弟は無邪気な笑顔で俺の正体を暴いた後、公園にやってきていた保育園の友達の姿を見つけたようで、あっさりと俺たちを放って友達の元へと行ってしまった。今では芝生の広場で友達と楽しそうにサッカーボールを蹴り合っている。その様子を、暫く少女と無言のまま眺めていた時だった。

 

 ––––カシャっ。

 

 公園の利用者の声の中に一瞬、スマートフォンのシャッター音が紛れたのを俺の耳は聴き逃さなかった。

 しまったと、我に返る。すぐに周囲を見渡すと、すぐに数メートル離れたところでバタバタと慌てて何かをポケットにしまい、今にも走り去ろうとしている若い男の姿が視界に入った。公園の中で一人不審な動きをしているところから、今のシャッター音はあの男で間違いないはずだ。すぐに捕まえに行こうと思ったが、隣にいた少女の存在に気がつき、俺は逸る気持ちで少女に声をかけた。

 

「おい、お前!」

「な、なんですか急に! 大声出してビックリさせないでくださいよ」

「わ、わりぃ。それよりメモ帳とか持ってねぇか!? あとペンも!」

「ありますけど……。どうしたんですか、いきなり」

 

 不審に思いながらも俺の様子に只事ではないと感じたのか、少女はすぐに鞄の中を開け、中を漁り始めた。少女はどうやらさっきのシャッター音には気付いていなかったらしい。だとすると今の状況も説明しなければいけない。

 この間にもあの男は逃げているのに……。地団駄を踏いながら、俺は少女が貸してくれたメモ用紙に急いでペンを走らせる。

 

「写真を撮られたんだ。俺たちの」

「え? 写真?」

「そう。目的は分からねぇけど、きっと良くないことにつもりだ」

 

 メモ用紙に殴り書きした11桁の番号を最後にもう一度だけ確認し、俺はそのメモ用紙とペンを少女に無理やり押し付けた。

 

「これ、俺の携帯番号だから! 何かあったらすぐに連絡してくれ!」

 

 状況がイマイチ理解できていないのか、少女がボンヤリとしたまま受け取ったのを確認すると、俺はすぐに小さくなってしまっていた男の背中を追いかけて全速力で走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

「もしSNSにアップでもされて、女の子の個人情報が特定されたりでもしたら大変なことになっちゃうからね」

 

 一通りの経緯を聴いた翔太は、その判断は間違ってないよと言わんばかりに何度もなんども深く頷いている。だけど不自然に下を向く翔太が、俺には笑いを堪えているようにしか見えなかった。

 

「デート中にいきなり、『写真を撮られた!』って冬馬から電話が掛かってきたからビックリしたよ」

「そ、それは申し訳ねぇ。パニクってちょっと気が動転しちまってた」

「まぁ、誤解を招くような写真を撮られたら相手にも迷惑かけることになるからな。エンジェルちゃんを気遣おうとする冬馬の気持ちは立派だったと思うよ。だけど––––……」

 

 北斗も我慢できなくなったのか、必死に口元を抑えている。

 顔が熱っぽい。穴があれば入りたい気分だ。

 

「まさかターゲットは相手の方で、冬馬くんの顔にモザイクが掛かるとはね」

「あははははっ!!」

「う、うるせぇ! んなに笑うことねぇだろ!」

 

 俺の部屋は大爆笑の渦に巻き込まれる。

 腹を抱えて笑う北斗と、ベッドの上を笑い転げる翔太。容赦ない二人の反応が死ぬほど恥ずかしくて、俺の身体は未だかつてないほどの羞恥の情に駆られていた。

 

 少女から電話が掛かってきたのは、二日後の月曜日の夜のことだった。

 

『あの、北沢です。この前の土曜日、公園でお会いした』

 

 登録していない携帯番号、電話越しのぶっきらぼうな声で、北沢と名乗る女性がすぐにあの弟を連れた少女だと気が付いた。

 写真を撮られたあの日から、時間を見つけては各種SNSでそれらしき投稿がないかをこまめにチェックしていたが、俺の写真と思われる投稿は見つかっていなかった。そんな時にかかってきた北沢からの電話。思わず彼女の身に何かがあったのではないかと勘繰って背筋が凍りつく。

 だが電話越しから聴こえてきた彼女の言葉は、俺の不安とはまるで見当違いなモノだった。

 

『色々とご迷惑をおかけして、すみませんでした。問題の写真はこちらで対応させていただいたので、もう大丈夫です。天ヶ瀬さんの正体もバレていませんから』

「…………はい?」

 

 思わず変な声が出てしまった。

 なんで北沢が俺に謝っているのか、そもそも対応したとはどういうことなのか、彼女の言葉の殆どの意味が分からなくて、俺の思考がフリーズしてしまった。

 俺の様子が変だと気付いたのか、少し言いにくそうに北沢が話を続ける。

 

『もしかして投稿見てなかったんですか』

「と、投稿って何のことだ?」

『あの時の写真の投稿です。Twitterにアップされていた』

「やっぱりアップされてたのか!?」

『はい、でも大丈夫です。本人と話ができて削除してくださったそうなので』

 

 一応、今からショートメールでスクショ送りますね。

 そう言って、北沢は電話を切った。その数分後、スマートフォンにショートメールが届いたことを報せるベルが鳴ると、すぐさま北沢が送ったスクーリンショットに目を通す。

 そして俺は眼球が飛び出すような衝撃を受けた。

 

“765のバックダンサーが昼間からデートしてる(笑)。ちな男は天ヶ○冬馬似”

 

 俺の名前を一文字だけ隠され、問題の写真には俺の目元だけ黒い線が引かれている。

 投稿者は俺をターゲットにしていたわけではなく、それどころか俺が天ヶ瀬冬馬だと気付かずソックリな一般人だと勘違いしていたらしい。そもそも765のバックダンサーって、もしかして北沢のことを指しているのだろうか––––。

 短いツイート内容にあまりに情報量が多く詰め込まれすぎていて、全く思考回路が追いつかなかった。

 ただ一つだけ明確だったのは、まるで自惚れるかのように自分が標的だと勘違いしていたという事実。そのことに気が付くや、猛烈の俺の身体中は火照ってきて、凄まじい羞恥心に包まれることとなった。

 

「あはははっ、本当に冬馬くん面白いなぁ! こんな話聴いたことないよっ!」

「……お前、笑いすぎだぞ」

「はははっ! 冬馬がモブキャラ扱いとは、ジュピターもまだまだ無名だってことだな!」

 

 よほど二人のツボにハマる話だったのか、高笑いを続ける二人の様子に呆れて肩を落とした。

 本当に相談したいことは、この先の話なのに……。

 そんな俺の心境も知らずに、二人は暫くの間飽きることなく同じ話題で気が狂うほどに笑い転げていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



あ、そうだ(唐突
今日はBlooming Cloverの発売日だゾ


 冷房が効いた店内には、ゆったりとしたBGMが流れている。

 極端に窓が少ないせいか陽の光はあまり差し込まないが、暗いトーンのカラーで統一された内装が薄暗い雰囲気と程よくマッチしていて、上品で落ち着いた空間を作り上げていた。

 まだお客さんが誰もいない店内を見渡し、素直に素敵なお店だと思う反面、中学生の私にとってこんなオシャレなお店は不釣り合いなようにも思え、妙に気持ちがソワソワして落ち着かなかった。

 こんな気分になるのなら早く来るべきじゃなかったなと、少し後悔しながら何度も手鏡で前髪を確認する。鏡に反射して見えたシンプルな掛け時計の針は、待ち合わせの時間の二十分ほど前の位置を指していた。

 

 

 Twitterで私の写真がアップされていたことを知った月曜日の夜。 

 天ヶ瀬さんにどのように今回の事の顛末を伝えようかと頭を悩ませていた私は、ふとある事が気になって、インターネットで“天ヶ瀬冬馬”について調べることにした。人気絶頂期の時に事務所を辞め、その後全く姿を見せなくなったジュピターは今どこで何をしているのか––––、全く公にされていない天ヶ瀬さんたちの“今”が、興味本位に駆られたのだ。

 彼らの情報はすぐに出てきた。検索結果の一番上に表示されていた、大手動画配信サイトに投稿されていた彼らのウェブインタビュー動画。僅か10分にも満たない動画内で、表舞台から姿を消したジュピターの現在が本人たちによって赤裸々に語られていた。

 現在所属事務所はなし、今後事務所に所属する予定もなし、ライブやイベントは小規模ではあるが東京を中心に今でも不定期で開催しているそうだ。

 インディーズで活動しているため当然スポンサーがなく、最年長の伊集院北斗はジュピター結成前にモデルをしていた事務所で、中学生の御手洗翔太は早朝の新聞配達、天ヶ瀬さんは飲食店の厨房とたまに稼働する単発のイベントスタッフ、そんな風に各々がバイトで稼いだお金と、僅かに出るイベントの黒字を資金に、細々と活動をしているのだと語っていた。

 

『961プロの時と比べると、かなり苦労もして大変だと思うんですけど。それでも今後事務所に入るつもりはないのでしょうか。そちらの方が安定すると思うのですが……』

 

 動画の終盤、3人の懐事情の話を聴いたインタビューが少しだけ言いにくそうな表情でそう尋ねた。

 確かにインタビュアーが言うように、ある程度基盤がしっかりしている事務所に所属して活動をするのと、自らで全てを管理するインディーズではかかる手間暇は雲泥の差だ。ジュピターほどの知名度があるなら、所属事務所だってすぐに見つかるはずなのに、敢えて過酷なインディーズ活動に身を置き続ける理由が理解できなかったのだろう。

 そんな疑問を投げ掛けられた3人は、不愉快そうな顔一つ見せずに笑っていた。誰の目にも大変な環境なのは間違い無いのに、苦労を感じさせるどころか、寧ろ活き活きとした表情を浮かべながら。

 

『確かに大変だって思う時は沢山あるけど、それ以上にやり甲斐も手応えも感じてるんだ』

 

 曇りのない眼差しで、天ヶ瀬さんはキッパリと言い切った。

 彼らがどうして人気絶頂期に事務所を辞めたのか、そして何故事務所に属さず茨の道であるインディーズ活動にこだわるのか。その真相は分からなかったが、当の本人たちの表情からは一ミリも迷いが感じられなかった。

 その姿がとても眩しかった。自分たちの選択は間違っていない、と言わんばかりの確固たる強い意志を感じさせる姿はとても魅力的に輝いて、何故か私の胸を無性に激しく打ち続ける。

 そして、

 

『俺たちジュピターは自分たちの実力を100%発揮できる今の場所から、今度こそ自分たちの実力でトップアイドルになれるよう再出発を測ってんだ。絶対に戻ってくるから、それまでファンの皆は待っていてくれ』

 

 インタビュー動画の最後に天ヶ瀬さんが口にした宣誓が、私の胸を貫き、心を震わした。

 誰かの力を借りてではなく、自分の実力を証明してトップになる––––。そう宣言したジュピターの3人に、私がずっと追い求めていた“憧れ”が重なって見えたのだ。

 

 父が姿を消したあの日から、私は誰かに守られるだけではなく、自分の力で生きていけるような強い大人に憧れるようになった。例え身体中が傷だらけになったとしても、それを強さのエビデンスとしてひたむきに走る続けるほどに強くなれれば、自分の大切なものを守れるようになるはずだと。そして誰よりも輝く存在になれば、いつか姿を消した父の目にも私の姿が届くかもしれない––––と、その一心で私はアイドルの世界に身を投じた。

 だけどアリーナライブでの春香さんの背中を見たあの日から、強かったはずの私の想いには迷いが生じていた。私の考えは間違っていたのではないか、そう自問自答を繰り返す毎日。その答えは、春香さんの背中を追うように765プロに入った今でも見つかっていない。

 

「……天ヶ瀬さんなら、正解を知っているのかな」

 

 動画が終わり、真っ暗になった画面に独り言を投げかける。

 真っ暗なスマートフォンの画面には、大きなショッピングモールで迷子になった子供のような、困惑した表情の自分が反射していた。

 そんな弱々しい自分の表情を暫く見つめた後、ふと思い出した父の言葉に背中を押されるようにして、私は天ヶ瀬さんの電話番号を携帯に入力して、発信ボタンに触れた。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 少しだけ重い木製のドアを開けると、すぐに待ち合わせの相手の姿が目に飛び込んできた。綺麗な黒髪を一つに束ねた眼鏡姿の少女は、俺に気が付いていないのか閑散とした店内の奥の席でスマートフォンを熱心に操作している。客が誰一人いないカウンター越しで俺の方を見ながら意味深に笑う中年のマスターに軽く会釈をして、俺は少女の元へ向かった。

 「少しお話ししたいことがあります。近々何処かでお会いできませんか」、北沢から唐突にそんな旨のメッセージが届いたのは、電話がかかってきた月曜日の夜、証拠としてショートメッセージでスクリーンショット送られてきて暫く時間が空いた頃だった。急な誘いに不審に思ったが、俺は彼女の誘いを承諾した。警戒していないわけではなかったが、公園で見た真面目な人間性から、変な下心があるような誘いには思えなかった。

 「今週の土曜日の朝大丈夫か?空いてたらここの店で」、北斗が以前バイトしていた馴染みのある店の住所を送ると、北沢から「分かりました」と素っ気のない返事がきた。それ以降、北沢からのメッセージでスマートフォンが揺れることは一度もなかった。

 

「わりぃ、待ったか?」

「あ、いえ。全然大丈夫です」

 

 北沢はそう言ってスマートフォンを鞄に戻したが、底をつきそうなほど減っている彼女のグラスの水に俺は気付いていた。俺も結構早めに来たつもりだったのに、相変わらず真面目な奴だなと思いつつ、俺も椅子に腰を下ろす。すると北沢は急に落ち着きなく、しきりに周囲を確認するようにキョロキョロし始めた。

 

「心配すんなよ、ここは大丈夫だって。北斗が前バイトしてた店で、俺らもよく利用するとこなんだ」

「あ、そうだったんですね。それなら安心しました」

 

 少しだけホッとしたように、北沢は眼鏡を外す。先日の一件もあって、彼女なりに対策をしてきていたらしい。

 北斗ってのは金髪のキザな奴の方な、と付け加えて、テーブルの隅に立て掛けられていたメニューを掴んで北沢に差し出した。知ってます、と答えた北沢は受け取ったメニューをテーブルの上に広げる。

 俺の目の前で真剣な眼差しでメニューを睨む北沢は、色白で目鼻立ちがキリッとした綺麗な顔をしていた。長いまつ毛の下の瞳は妖精のように美しくて、思わず見る者を取り込んでしまいそうな、そんな不思議な色気が秘められている。

 胸の奥から何かが込み上げてくるようにドキドキした。初めて会った時は何も惹かれるものがなかったのに、“765プロ所属アイドル”という肩書きのせいだろうか。

 

「天ヶ瀬さんもメニュー、見ますか?」

「いや、俺は決まってるから。大丈夫だぜ」

 

 彼女の持つ肩書きを差し引いても、彼女の容姿は整っていた。もし同級生の中に北沢がいたとしたら、男から引く手数多だろうなと、想像を膨らませつつ、俺はカウンターの方へ振り返ってマスターを呼ぶ。俺の「いつのも」というオーダーに呆れたような表情を浮かべるマスターに、北沢はアイスコーヒーを注文した。

 

「……それでもビックリしたぜ。まさか765プロのアイドルだったなんてな」

 

 テーブルから離れていくマスターの背中を眺めつつ、俺はそう口にした。

 月曜日の夜に北沢から電話がかかってきて彼女が765プロ所属アイドルだと初めて知った後、俺は週末に何気なく目を通していた765プロアリーナライブのニュース記事を再度読み直した。記事内に掲載されていたのは天海たち765ALL STARSを被写体にした写真ばかりだったが、数枚だけ彼女ら以外にレンズを向けた写真もあり、その中には確かに北沢の姿が映っている。記事の下にまとめられていたキャストの欄にも、“北沢志保”の名前が組み込まれており、にわかに信じ難かった彼女の話が紛れもない真実なのだと証明していた。

 

「別にアイドルってほどではないです。まだ候補生で、そもそも765プロに入ったのもつい最近の話ですから」

「そうなのか?」

「えぇ、39 Projectに入ったのもアリーナライブが終わってからなので」

「お、お前! 39 Projectのメンバーだったのかよっ!?」

「そうですけど。それがどうかしたんですか?」

「……いや、なんでもねぇ」

 

 乱れた心を隠すように、俺は慌てて水の入ったグラスに手を伸ばした。

 39 Projectのオーディションには、765ALL STARSに憧れる凄まじい数の少女たちの応募が殺到したと聞く。実際にはスカウト組もいるのだろうけど、その高倍率の中から合格を勝ち取った39人は正にエリートと言っても過言ではないほどだった。

 だが当の本人はまるでそんな素振りを見せず、765プロ所属の肩書きに自惚れるわけでもなく、むしろまるで興味がないと言わんばかりのドライな言い方だった。心底不思議な奴だなと思った。39 Projectに選ばれた自分を高慢に思うこともなければ、アイドルになる奴にありがちな強烈な承認欲求も感じられない。これだけ端正な顔立ちをしているのだからそこそこモテるのだろうけど、恋愛ごとや異性にも関心があるように思えない。北沢はそういった若い子たちが異様に気にしているモノにはまるで興味がなさそうな人間に映ったのだ。

 だとしたら北沢は何故アイドルになったのか。そんな疑問が湧いてきたタイミングで、マスターがトレイを持って戻ってきた。ほろ苦い香りがが漂うアイスコーヒーとミルクを北沢の前に、「甘いモノもほどほどにしとけよ」と念を押してアイスが乗せられたメロンクリームソーダを俺に置いて、マスターは踵を返した。北沢は目の前に置かれたアイスコーヒーに手もつけず、呆気にとられた様子で俺のメロンクリームソーダを見つめている。

 

「……なんだ? お前もメロンクリームソーダ飲みたかったのか?」

「ち、違いますよ! ただ、意外なモノを頼むんだなと思いまして」

「意外で悪かったな、美味いんだから仕方ねぇだろ」

「天ヶ瀬さんって、子供っぽいところもあるんですね。ドライなイメージがあったので少し驚きました」

「子供っぽいってか、俺まだ高校生だし」

 

 確かにそうですね、と言って北沢は顔を崩して笑った。ピンと張り詰められていた表情筋が緩んだのと同時に、バリアを解除したかのように北沢の周りに漂っていた堅い空気がほぐれていく。お世辞抜きにも感情が豊かだとはいえない、ぶっきらぼうな北沢の表情は、笑うとすごく幼い顔つきに変化した。

 ミルクをコーヒーの中に染み込ませ、細い指で握ったストローがグラスの中の色を変えていく。そんな何気ない仕草も、北沢がすればものすごく上品な仕草のように見えた。妙に心の中がかき乱されていくような気がして、俺は本題を切り出す。

 

「それで、話ってなんだよ」

 

 俺の言葉に、北沢の幼い顔つきが真顔に戻っていくのがなんとなく分かった。ミルクが浸透して小麦色になったグラスの中を、カラカラと力のない音を立てながらストローで掻き混ぜている。それも飽きたのか、今度は困ったように下を向いて人差し指で頬を撫で始めた。

 沈黙が訪れた店内に何処かで聴いたことのあるような名前の知らないクラシックが曲が響き渡る。暫く流れていたクラシック曲の音が次第に遠くなっていって余韻を残しながら終わり、刹那に訪れた無音の時間だった。ずっと無言のまま言葉を探していた北沢は、ポツリと弱音を吐くように口を開いた。

 

「…………私、天ヶ瀬さんのようになりたいんです」

 

 相変わらず言葉不足な北沢のセリフ。

 一瞬だけ時間の止まった世界の針を急ぎ足で進めるかのように、店内にはポップジャズが流れ始めていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



評価、お気に入り、ありがサンキュー!
今日からフェスだゾ!
志保出てきてくれよ〜なんでもしますから(天井するとは言ってない


 天ヶ瀬さんは豆鉄砲を食らったようにポカンとして「はぁ?」と言い放った。長い前髪の奥に隠された無愛想な目は、少しだけ大きく見開かれていた。

 無意識に目を瞑りそうになる。ここで目を瞑ったら私が今までしてきたことが間違っているのだと完全に受け入れてしまう気がして、無理矢理にでも視線を逸らさないようにと天ヶ瀬さんを見つめた。

 

「だから、天ヶ瀬さんみたいになりたいって言ったんです」

「……俺みたいにって、どういうことだよ」

 

 意味が分からないといった表情の天ヶ瀬さん。全てを話さずに察してほしいといった私の身勝手なワガママは当然通じなかったようで、私は覚悟を決めるようにテーブルの下でギュッと両手を握りしめた。

 

「天ヶ瀬さんたちのインタビューを見させてもらいました。一ヶ月ほど前に動画投稿サイトにアップされていたのを」

 

 怪訝そうな顔をしていた天ヶ瀬さんの目尻がピクリと動く。

 

「今はインディーズで活動されてるって聴きました。バイトもして、何から何まで自分たちでやってるって」

「ま、まぁ。そうだけど……」

 

 それがどうしたんだよ。そう口にした天ヶ瀬さんに、私は話を続ける。

 

「その話を聴いて、凄いなって純粋に思ったんです。誰にも頼らないで、自分の実力だけでトップを目指すって、私も皆さんみたいにそれくらい強くなりたいなって」

「……お前、もしかして765プロを辞めたいって思ってんのか?」

「ち、違いますよ。そういうわけではないんです」

 

 私の伝えたいことがなかなか伝わらなくて、もどかしかった。どのような言葉をかければ天ヶ瀬さんに私の想いが届くのか、必死に頭の中で言葉を探している間に、テーブルが静かに振動した。天ヶ瀬さんは一度だけテーブルの上に置いたスマートフォンに目を向けたが、すぐに視線を私に戻す。手だけをスマートフォンに添えて、バイブを停止させた。

 前髪の奥の瞳は、ずっと私の言葉を待ち続けている。その真っ直ぐで真剣な眼差しの前に、私の胸の中に存在していた大きな隔たりのようなモノが音を立てて崩れ去っていった。大きな隔たりが跡形もなく消え去った胸の中は風通しがよくなったかように、話そうかどうかと躊躇っていたはずの言葉たちが次から次へと猛スピードで駆け抜けていく。

 

「私、ずっと思ってました。トップアイドルになれるのは極一握りだって。だから誰にも負けたくないし、馴れ合いなんて必要ないと思ってたんです。それで先日、765ALL STARSの皆さんのライブにバックダンサーとして参加させてもらえる機会がありました。そのレッスン中にバックダンサーのメンバーの一人が辞めたいって言い出したことがあって」

 

 天ヶ瀬さんは何も言わず、ただ黙って話を聴いていた。口を挟むわけでもなく相槌を打つわけでもない、そんな彼の態度が今は有り難かった。

 

「それで春香さん……、天海春香さんはその子を必死に連れ戻そうとしてたんですけど、そうこうしている間に本番も近づいてきて。その時に一度、天海春香さんと揉めたんです」

 

––––もう時間がないんです! 今進める人間だけでも進まないと、みんなダメになりますよっ!

 

 偉大な先輩に向かって自分が吐き捨てたセリフ。

 自分の主張ばかりが正しいとばかり思っていたあの日の高慢な自分が、鮮明な情景となって脳裏に浮かんできた。ライブが大成功を収めた日から一日たりとも忘れることのないあの時の自分が、常に頭の片隅に居座り続けている。その情景が前に進もうとする私の身体に錘のように絡まって、前に進もうとする足を引き止めていた。皮肉にも、進めないでダメになりそうなのは私自身だった。

 

「私は心底理解できませんでした。辞めたいって本人が言ってるのに、どうして全体レッスンの時間を削ってまで連れ戻そうとするのかって。本気でライブを成功させる気があるのかなって思うくらいに、天海春香さんの言動が理解できなかったんです。だけど実際のライブは……」

 

 スルスルと自分でも不思議なくらいに飛び出していた言葉たちが、初めて途切れた。言葉が見つからないわけではない、この先の言葉を口にしたくないだけだった。口に出してしまったら最後、今までの自分を全て否定してしまうかのような気がして、怖くなったのだ。

 この期に及んでちっぽけなプライドが私の口を閉ざす。口籠もる姿を良い加減見兼ねたのか、それまで静かに私の話を聴いていた初めて天ヶ瀬さんが口を開いた。

 

「……良いライブだったよな」

「えっ?」

 

 見に来てたんですか、と尋ねると、天ヶ瀬さんは途端に恥ずかしそうに視線を泳がせて頬をかきながら、「天海がチケットをくれたんだ」と弁解するように呟いた。二人が知り合いだったことにも驚いたが、私は二人の関係を深くは言及しなかった。私が一番言いたくなかったであろう言葉を、天ヶ瀬さんが代わりに口にしてくれたことで、変に気を遣わせてしまったような気がして申し訳ない気持ちに駆られていたのだ。

 ここまで話したら天ヶ瀬さんも私の言いたいことに気付いているかもしれない。ふとそう思ったが、私は最後まで話をすることにした。口に出して言葉にすることで、私の中で渦巻き続けていたモヤモヤが順々に整理されていくような気がしていたからだ。

 

「……結果として春香さんの考え方は正しかったんだと思います。あの時、ステージで活躍する春香さんたちを見て、そのことにはすぐ気付きました」

 

 アリーナのステージで大成功を収めた要因の一つに、春香さんが最後まで拘り続けた「全員でステージに立つ」というものがあったことは、誰の目にも明らかだった。もし一人消えたのなら、そのスペースを埋めるように立ち位置やダンスを変更すればいい。魅力的なステージを創り上げるのに人の数なんて関係なくて、大事なのはステージに立つ人間の実力なのだと。そんな私の独り善がりな考えは、765ALL STARSの12人と私たち7人のバックダンサーの計19人が立ったステージによって見事なまでに粉砕されてしまった。

 だけど春香さんは私を最後まで否定しなかった。あれだけ無礼な態度と発言を繰り返してきた私を怒ることも軽蔑することもせず、優しい眼差しを崩さずに「次も皆で一緒にステージ立てるの楽しみにしてる」とまで言ってくれた。

 春香さんは優しかった。だけど、その優しさが呪いにのように私に重くのしかかって、苦しめ続けている。優しくされるくらいなら軽蔑されて酷い言葉を投げかけられる方がマシだった。私の考えを否定もしなければ肯定もしない、結局私がしてきたことは誤りだったのかそうじゃなかったのか、答えのない葛藤があの日から私の胸の中で対立を続けていたのだ。

 

「もし春香さんが正しかったのなら、私の考え方は間違っていたのかなって思うようになって。今までしてきたことって何だったんだろうって思っていた頃に、天ヶ瀬さんと知り合ってあの動画を見ました」

 

 何気なく視聴した動画で知った、ジュピターの現在。

 事務所には所属せず、あくまで誰の力も借りずに自分たちの力だけでトップを目指そうとする彼らの生き方は、紛れもなく私が理想だと思い込んでいて、そしてアリーナライブで否定されたはずの生き方と重ねって見えた。

 大変なはずなのに楽しそうに笑いながら、微塵も苦を感じさせないジュピターの3人の姿を見て、彼らの考え方が誤りだとは思えなかった。だとしたら、何故私はそんな生き方が間違いだったと思ってしまったのだろうか。

 春香さんが教えてくれなかった答えを、私は知りたかった。その答えを知らない限り、私はアイドルとしてこれ以上先に進むことができないような気がしていたのだ

 

「天ヶ瀬さんたちのような生き方に、私も凄く憧れていました。誰の手も借りず、自分の力で夢を叶えられるような強い大人になりたいと、ずっと願っていたんです」

「そんな、お前が言うほど大そうなもんじゃねぇよ」

 

 そう否定していたが、天ヶ瀬さんのほっぺは嬉しそうに笑っていた。目元がかすかにふくれて、親しみのこもったような笑みを浮かべて苦笑いしている。

 この人も、自分の選んだ生き方が窮屈で独り善がりだと思ったり、誰かに否定されて迷ったりすることがあるのだろうか。脳裏によぎったインタビュー動画の姿からは、そんな風には思えなかった。いや、それはもしかしたらただの私の願望で、私の迷いを払拭する答えを持っていてほしい、そんな自分勝手な欲求が都合のいいジュピターの姿を求めているだけなのかもしれない。

 

「教えて欲しいです。独りで夢を叶えたいと思うのは傲慢なことなのでしょうか」

「……天海のやつは、なんて?」

 

 意を決して単刀直入に尋ねた質問に返ってきたのは、まるで見当違いの質問だった。特には何も、と答えた私に天ヶ瀬さんは「あいつらしいな」とだけ言って、頬の上にえんぴつで描いたような笑みを浮かべる。

 

「天海が何も言わなかったのは、自分で答えを見つけろってことなんじぇねぇの」

「そ、それは……」

 

 鋭い目は私の胸の中に切り込んでくるようだった。嫌な胸騒ぎが湧き起こる。天ヶ瀬さんはとっくに気付いていた。天海さんが私に何も言わなかった意図にも、その意図に気付いていながらも誰かの答えに縋ろうとしていた卑怯な私にも。

 何も言い返せなかった。天ヶ瀬さんの言葉が紛れもない事実だったからだ。思わず唇を噛み締めて、天ヶ瀬さんの鋭い視線から逃げるように下を向く。

 

「顔、上げろよ」

 

 溜息をつくようにフンと鼻をならしてから、天ヶ瀬さんはやわらかい口調でそう言った。天ヶ瀬さんの声は、あの日ほぼ90度頭を下げた私に声をかけてくれた春香さんと同じようにな優しい声だった。

 

「……答えは見つけてやれねぇけど、アドバイスくらいならできるから」

「アドバイス、ですか?」

「そう。そんな大したアドバイスはできねぇけど」

 

 恥ずかしそうに視線を逸らしながらそう言った後に、天ヶ瀬さんはキッパリと断言した。

 

「残念だけど俺たちジュピターの考えとお前が憧れている生き方は、かけ離れたものだと思うぜ」

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「教えて欲しいです。独りで夢を叶えたいと思うのは傲慢なことなのでしょうか」

 

 俺にその答えを求めた北沢の姿に既視感を覚えて、どこかひどく懐かしい感覚がした。その既視感の正体が過去の自分の姿だと気付くのに、時間はそう要さなかった。

 夢を叶えたいと思う気持ちが強ければ強いほど目に見える結果ばかりに拘りすぎて、見えないモノの大切を見落としまう。目の前の北沢が、かつての傲慢で勘違いばかりしていた自分の姿と重なって映った。

 

––––俺たちは……、俺たちは利用されるために歌ってんじゃねぇんだよ!

 

 961プロを辞めた日に捨て台詞のように吐いた言葉が胸の奥底からグツグツと音を立てながら、熱を持って湧き上がってきた。あの日、誰よりも許せなかったのは俺たちを駒扱いしていた黒井のおっさんではなく、勘違いをして思い上がっていた自分だったのではないかと思う。黒井のおっさんが引いたレールの上を走り続け、手のひらで踊らせていることに気付かずに自分たちの実力で全てを勝ち取ったとばかり思い込んでいた自分が、滑稽で仕方がなかった。

 

「天海のやつは、なんて?」

「え、春香さんですか? 特には何も」

 

 少し戸惑ったように答える北沢を見て、だろうなと思った。

 俺たちは自分の過ちを指摘してくれる人が周りに誰一人としていなかった。気付いた頃にはもう取り返しのつかないところまで来てしまっていて、再出発をするには全てを一からリセットする他なかった。

 だからこそ、北沢は恵まれていると思う。天海のような先輩がいて、39 Projectには様々な経験と考え方を持った沢山の同期もいて、その環境下では自分の考えが正しいのかどうかを考える機会があるはずだ。何も知らずに自分の考えが全てだと思うのと、沢山の意見や友人を参考にして自分の考えを選び取るのとでは、結果が同じでも大きく異なると思う。

 

「天海が何も言わなかったのは、自分で答えを見つけろってことなんじぇねぇの」

「そ、それは……」

 

 北沢は歯切れの悪い言葉を詰まらせて、下を向いた。思っていたとおり、北沢も天海の意図には気付いていたらしい。

 図星を付かれたのか、北沢はそれから暫く口を開かなかった。店内に流れる音楽の合間を縫うように、窓の外からアスファルトの上を走るタイヤの音と鈍いエンジン音が聞こえてくる。北沢の言葉を待っていたが、彼女は何も喋らなかった。次第に俺たち二人の間に漂う沈黙が重くなってきて、喉のずっと奥がつかえるものを感じ始める。

 

「顔上げろよ。……答えは見つけてやれねぇけど、アドバイスくらいならできるから」

 

 結局我慢できなかった俺が、沈黙を破ってしまった。

 俺が不機嫌になってヤケクソにそう言ったのかと思ったのか、北沢の俺を見つめる表情は少しだけ罪悪感を含んでいるように見えた。そうじゃないと思わせようと笑って見せようとしたが、それもすぐに恥ずかしくなって、視線を虚空に向けてしまった。

 

「アドバイス、ですか?」

「そう。そんな大したアドバイスはできねぇけど」

 

 アドバイスといっても何をどう伝えればいいことやら。

 考えなしに口を滑らせてしまった言葉に少しだけ後悔を抱きつつも、俺は彼女が気付いていない決定的な間違いを指摘し、ジュピターの話をゆっくりと始めた。

 

 

 

 

「……珍しいな、冬馬が自分のことを話すなんて」

 

 北沢が店から出て行った後、二人分のホットコーヒーを乗せてトレイを持ったマスターが少しだけ驚いたような顔色で北沢が座っていた席に深く腰を下ろした。自分自身でもらしくないなと思いつつ、マスターからコーヒーを受け取る。湯気が立ち込めるコーヒーカップに一口だけ唇が触れると、舌に熱を持った苦い味がじんわりと広がって行った。

  ジュピターが961プロを辞めた経緯なんて今まで誰にも話してこなかった。誰かが秘密にしようと決めた訳ではなかったが、きっと俺だけじゃなくて北斗や翔太もそうだったはずだ。暗黙の了解ではあったが、あの話は安易に俺たち以外の人に共有してはいけないような、そんな共通認識のようなものがあったのだと思う。

 だからこそ自分でも不思議だった。どうして俺たちと961プロとの確執の話なんてしたのだろうか、北沢にジュピターの経緯を話す姿はまるで自分が自分じゃないような錯覚させ感じさせるものだった。

 

「あの子に惚れ込んでるのか?」

「そういうわけじゃないっすよ。ただ……」

 

 何かを追い求めることに必死になりすぎて、周りにある大切なモノたちに気付けない。例え気付けたとしても、それを“馴れ合い”だと勘違いして切り捨ててしまう。そんな北沢の姿が、過去の俺に重なって見えて放って置けなかったのだと思う。北沢は天海が何も言わなかった意図にも気付いていたようだった。それでも俺に答えを求めに来たのだから、それまでにも彼女なりに答えを探し続けていたのだろう。そんな北沢に俺が出来ることは、似たような考えを持つ人間が経験した実体験だけだった。北沢が求めているであろう答えは、俺たちもまだ分からないのだから。

 期待していた答えじゃなかったはずだが、俺を見てマスターは楽しげに笑っていた。

 

「ちゃんと伝わってたらいいんだけど……」

「大丈夫だろ。帰る時、あの子すごくスッキリした顔してたから」

「だといいっすね」

 

 帰り際に見た北沢の横顔は、迷いが完全に吹っ切れたわけではなさそうだったが答えへの兆しを見つけたような、そんな明るい表情にも見えた。そう感じていたのは俺だけではなかったらしい。

 北沢の思考は間違っていなかった。誰よりも輝きたい、負けたくないと思って周囲をライバル視することだって決して悪いことじゃない。どちらかといえば俺もそういった負けず嫌いな人間側だから、北沢の気持ちも十分に理解しているつもりだった。

 だからこそ、その負けず嫌いのエネルギーを正しいベクトルに向けて欲しかった。過去の俺のように天海たち765プロのアイドルを卑下するのではなく、刺激を貰える良きライバルとして捉えて切磋琢磨し合えるように。幸いにも北沢の所属する39 Projectにはそういった環境があるのだから。

 インディーズ活動を始めて、沢山の苦労をして、961プロにいた頃には気付けなかった大切なことを沢山知ることができた。ファンの皆を喜ばすことができるのは本当に多くの人たちの協力の上で成立するものだと、そんな当たり前のことさえもステージに立って歌うだけだった昔の俺たちが気付ずににいたことも知ることができた。そして、今の環境だからこそ俺たちが抱いていた「自分の実力が証明できる環境でトップを取る」という目標も実現できるのだと確信している。

 そんな俺たちの姿は、北沢が最初に求めていた姿とは少し違っていたのかもしれない。失望させてしまったかなと思う。だけど、少しでも俺たちの話が彼女の求める答えの参考材料になればいいと願う。

 

「今日は本当に有難うございました。あの、迷惑じゃなければまた何かあったら連絡してもいいですか?」

 

 店を出る直前、申し訳さそうにそう口にした北沢の姿を思い出す。全然いいぜ、なんてドライに返したが、俺もまた会えたらいいなと心の底で思っていた。

 

「それじゃ、失礼します」

「気をつけて帰れよ。またな」

「はい、また」

 

 さようならを言わなかった北沢は、微笑みを口角を浮かべながら礼儀正しく会釈をして、踵を返す。俺が彼女の背中を見送る間、北沢が振り返らなければまた会えるような気がしていた。

 北沢はついに一度も振り返らなかった。薄暗い店を出て、目が眩むほどに眩しい日差しの外の世界へ出て行った北沢の背中に向かって、俺は小さな声で「頑張れ」と投げかけた。




NEXT → Episode Ⅱ : 俺と私の共通点


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EpisodeⅡ:俺と私の共通点

あそうだ(唐突
今更だけどTwitter始めたからさぁ、みんなフォローしとけよしとけよ〜


 俺が見上げる空は皆が見ている空よりも何千メートルも高くて、どこまでも続いている。空を仰げばいつも鳥一匹いない水色の広大な世界が見下ろしていて、障害物が何一つない滑走路から俺が飛び立つのを今か今かと待っているようだった。そんな感覚がずっと手のひらの中に存在していた。

 だけどいざ広げてみると手のひらの上には何もなくて、ずっと握りしめていたと思っていた“何か”が錯覚だったのではないかという不安に駆られる。何もない手のひらの上には確かに“何か”があった感触はまだ手元に残っている。俺を待っている大空にだって飛び立てると高揚感に満ちた気持ちだってあるはずなのに。

––––俺はこのまま何も掴みとれずに埋もれて行ってしまうのだろうか。飛び立てる感覚を憶えているのに、指をくわえて大空を見上げることしかできないのだろうか。

 目の前の景色が空虚なモノだと知り、961プロを抜けたあの日から、何度もなんどもそんな感覚に誘われていた。北沢志保と知り合ったのは、インディーズ活動を始めて半年以上が経過した夏の暮れの日のことだった。

 異様なまでの上昇志向と負けず嫌いな性格をした北沢の姿が、過去の思い上がっていた俺の姿と重なって見えた。だからこそ、俺は今まで誰にも話してこなかったジュピターの話をしたのだと思う。

 

「私、天ヶ瀬さんのようになりたいんです」

 

 765プロのアリーナライブでバックダンサーとしてステージに立ち、その後発足された39 Projectの一員として765プロの所属アイドルになった北沢は、俺に憧れを抱いていると言ってくれた。その話を聴いた時、くすぐったい気持ち半分、心地よい気持ち半分が肺の中で満たされていくような感覚がした。俺が手のひらに握っていたはずの感覚は本物なのだと、そんなことを北沢が言ってくれたような気がしていたのだ。

 

 結局北沢が求めていたような答えを俺は教えてあげれなかったと思うけど、それでも俺の経験から何かヒントを感じ取ったのか、話を終えた時には北沢は随分と迷いが吹っ切れた表情をしていた。「さようなら」ではなく「また」と別れの挨拶を済ませ、俺の元を去った北沢の背中に向けて「頑張れ」と送った。その言葉は北沢に向けてというより、自分に言い聞かせるように。

 俺はまだまだこんなところで埋もれていてはいけない。一人残されたテーブルで、ギュッと握りしめて開いた手のひらの中には、確かにあの感覚が残っていた。

 

 

 

Episode Ⅱ : 俺と私の共通点

 

 

 

 

「マジックアームシールド使うなんて汚ねぇぞ!」

「あははは! 禁止カードでもなんでもないのに汚いもクソもないでしょ!」

「ちっ、こんな外道な手使ってまで勝って楽しいかよ!」

「楽しいよ! これで僕の5戦全勝だからね!」

 

 それじゃ約束通りジュースよろしく、と得意げに笑う翔太に舌打ちをして、俺はスマートフォンをベッドに放った。つまらねぇ、と吐き捨てて天井を睨む俺の姿がよっぽど面白いのか、翔太は腹を抱えて笑っている。

 二人ともちょっといいか、スマートフォンのゲームで熱くなる俺たちに目もくれず、メガネをかけてずっとパソコンを触っていた北斗が口を開いたのは、俺がマンションの下にある自動販売機で翔太へのジュースを買って戻ってきた時だった。

 

「ん? どうした、何かあったのか」

「あぁ。ジュピターに仕事のオファーがきたんだ」

「仕事!? やったー!」

 

 俺から受け取ったペットボトルを握りしめたまま、翔太が大袈裟な声を出した。そしてピョンピョンと跳ねるようにベッドから降ると、北斗の後ろからパソコンを覗き込む。

 

「なになに、音楽番組? テレビに出れるの!?」

「残念ながらテレビではないな。ファッション雑誌のインタビューだ」

「ちぇー、久しぶりにテレビで歌いたかったな」

 

 地上波の仕事なんてそうそう回ってくるわけねぇーだろ、と残念そうに溜息をつく翔太に内心思う傍ら、翔太の気持ちも分からなくはなかった。

 俺たちジュピターは芸能人ではなくアイドル、アイドルならステージに立ってパフォーマンスを魅せるのが仕事のはずだ。それなのに届くオファーはファッション雑誌のグラビア撮影やインタビューばかり、時折ラジオ収録があるくらいで、961プロを辞めてインディーズ活動を始めてから地上波での音楽番組に出演したことなんて一度もなかった。公にこそしてないものの、世間は狭い世界で繋がっていて、俺たちと961プロとで確執があったことも業界内では伝わっているのだと思う。大手事務所を喧嘩別れのような形で抜けた俺たちを出演させようとするテレビ番組などあるはずがなかったのだ。

 

「ふんっ、仕事が来るだけ有難いと思えよ」

「まぁ、冬馬くんの言う通りだね。ここ最近は仕事も特になかったし」

 

 むしろこういった小さな仕事でも来るだけ恵まれている方だ。現に九月なんか仕事が月に二日しかなかったのだから。

 夢のない現実を突きつけられ、つまらなそうに頭の後ろで手を組んでいた翔太だったが、パソコンのディスプレイの中に何か見つけたようで、少しだけ目を見開いて画面を凝視している。その様子が少しだけ気になって、俺もベッドから身を起こした。

 

「……今回は他事務所と合同なんだね」

「あぁ、久しぶりに765プロが来るみたいだな」

「は!? 765プロが来んのかよ!」

 

 至って冷静な二人と対照的に、俺はひっくり返った声で叫んだ。そんな俺を見て意地の悪い笑みを浮かべる北斗は、「冬馬が期待してる765プロではないけどな」と付け加えた。

 

「来るのは39 Projectの3人だ。ドラマの番宣も兼ねてと書いてあるから、実質メインはこの3人なんだろう」

 

––––39 Project。

 その名を聴いて、何故か胸の奥にある琴線が震えた気がした。胸がドクンと大きく脈打ったのを合図に、全身に電撃が走るような感覚が駆け巡って、次第にソワソワして落ち着きがなくなっていくのが自分でも手に取るようにわかった。

 

「ドラマの番宣って、アレ? 確かこの前発表があった年末のドラマの」

「『階のスターエレメンツ』、だな」

 

 えーっと確か出演者は……、と独り言を口にしながら目を細めてパソコンに顔を近付ける北斗の側から、俺は待ちきれずに首を伸ばしてディスプレイを覗き見した。クライアントから届いた定型文のようなかしこまったメールの下部分には、小さく“予定”と加えられた共演者の名前が載っている。田中琴葉に春日未来、そして矢吹可奈……。どれも知らない名前だった。この3人が近々始まるドラマに出演していて、そのドラマの主題歌を3人組ユニット、“STAR ELEMENTS”として歌うことも決まっているらしい。

 なんだ、北沢じゃなかったのか。そう思った途端、身体中を駆け巡っていた緊張感が一気に抜けていった気がして、俺はパソコンのディスプレイから目を離した。

 

––––あれ、なんで俺はアイツのことを考えていたんだ。

 

 少しだけ開けた窓から伝ってくる外の生温い空気が後頭部に優しく触れて去っていったのと同時に、39 Project の名が俺の琴線に触れた訳にふと気が付いた。どうして俺は無意識に北沢の名前を探していたのだろう。

 北沢と話をした土曜日から、もう半月ほどの時間が経っていた。その間、北沢から連絡がくることは一度もなく、俺から連絡を送ることもなかった。俺たちは妙なキッカケで知り合った同業者なだけで、それ以上でもそれ以下の関係でもない。そう分かっていたはずなのに、無意識にスマートフォンの通知を何度も確認したり、39 Projectの名を聞いて彼女の姿を思い浮かべたり––––……。

 俺は何を期待していたのだろう。

 STAR ELEMENTSのメンバーについて楽し気に話す二人の側で、俺の脳裏からはずっと北沢の姿が離れずに居座り続けていた。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 天ヶ瀬さんも春香さんと同じだった。私のことを肯定もしなければ否定もしない、私が探している答えを教えてはくれなかった。そのはずなのに、天ヶ瀬さんと会って話をしたあの日から私の胸の中を覆うように漂っていた霧たちが、少しだけ晴れたような気がしていた。

 

 春香さんたちの“本気の姿”を見たアリーナライブの日から、私の中の“何か”が劇的に変わり始めた。人付き合いを極力避けていたいた私が今までは参加しなかったような集まりにも参加するようになり、初顔合わせとなった39 Projectの面々とも我ながら驚くほどにすぐに親睦を深めることもできた。何より、そういった誰かと一緒に過ごす時間に以前ほどの抵抗を感じるどころか、居心地の良さを感じ始めるようになったのが自分の中で一番の変化だった。

 その反面、変わりゆく自分を受け入れようとしない葛藤も私の中に存在していた。春香さんたちとの想像以上の差を痛感して、本気で越えようと思うのならもっともっとストイックに頑張らねばいけないはずなのに、それどころか今まで散々嫌っていた“馴れ合い”に居心地の良さを感じ始めていた自分に矛盾を感じていたのだと思う。

 変わりつつある自分と、そんな自分を受け入れるべきではないと拒む自分。その狭間で揺れ動いていた私に、「私の憧れとジュピターの生き方は違う」と断言した天ヶ瀬さんはこう言った。

 

「北沢の考えは間違ってねぇよ。本気なら誰にだって負けたくないって思うのは当然のことだから」

 

 俺も今だってそうだし、と言って少し苦笑いを浮かべながら。天ヶ瀬さんの瞳は遠くを見つめているようだった。それからポツリポツリと口から零れだすように、天ヶ瀬さんは前に所属していた事務所のことを話してくれた。961プロの社長に都合よく利用されていたことに気が付かず自惚れていたこと、そして真の意味でトップアイドルを目指すために事務所には所属せずインディーズとして活動をすることに決めたこと––––。

 私が想像していたよりもジュピターの3人はずっと多くの苦労をして、活動していたのだと思い知らされた。だからこそ、天ヶ瀬さんの言葉は効力を持っていて、私の胸に響いたのだと思う。

 

「独りじゃ絶対に夢は叶えられないんだ。助けてくれるスタッフたちがいて、支えてくれるファンがいて、切磋琢磨できる仲間がいて……。そのことを理解した上で、独りでも夢を叶えたい、誰にも負けたくないって気持ちで頑張ればいいだけじゃねぇの」

 

 孤独が正しいとか馴れ合いが必要とか、無理に決める必要はねぇよ。

 湖の水面のように静かに話す天ヶ瀬さんの言葉たちが、すっと胸の中に入り込んでいく感覚がした。胸の奥底に到達した彼の言葉が猛烈な光となって、あの日から私の胸の中を覆い続けていた霧たちを消し飛ばしていく。浄化された胸の中は空洞のように広く、身体全体がものすごく軽くなったような気がした。

 

––––負けず嫌いな私も、少しずつ変わり始めた私も、どちらも間違ってなかったんだ。

 

 天ヶ瀬さんにそう諭されたような気がして、私はホッとしたように安堵の溜息をついた。今までどっちが正しくてどっちが間違いだと白黒つけなければとばかり決めつけていたのに、両方の私を受け入れてもいいのだと。そう教えてくれた天ヶ瀬さんはあくまでアドバイスのつもりだったのかもしれないが、私にとってそれはほぼ答えに等しい言葉だった。

 探し求めていたモノが見えてきた気がして、私は席を立った。本当はもう少し天ヶ瀬さんと話をしていたい気持ちもあったのだが、時計の針はランチタイムに近づいていることに気が付いていたのだ。今でこそ私たち以外誰もお客さんがいない店内だが、そろそろ増える頃合いなのかもしれない。そうなると以前のように迷惑をかけてしまうような気がして、名残惜しい気持ちを抱えたまま私はそろそろ店を出ることを天ヶ瀬さんに伝えた。天ヶ瀬さんは引き止める訳でもなく、「そっか」とだけ呟いた。 

––––少し勘違いしてたけど、今でも天ヶ瀬さんの生き方に憧れを抱いています。

 そう伝えたかったけど、こんな歯が浮くような言葉を私が口にして伝えることなんてできるわけがなくて。

 

「今日は本当に有難うございました。あの、迷惑じゃなければまた何かあったら連絡してもいいですか?」

 

 そんな在り来たりな言葉を伝えることしかできなかった。そんな私の内心も知る由もない天ヶ瀬さんが、「全然いいぜ」とだけごく自然に返したのを聴いて、私は店を出た。さようならと言わずに「またな」と言ってくれた天ヶ瀬さんの言葉の通り、また近いうちに何処かで会えるような気がして、私は一度も振り返らずに店を後にした。

 店の外の世界は強烈な日差しに晒されていて、九月も終盤だと言うのに唸るような暑さを感じさせていた。だけど不思議とその日差しも暑さも、今ばかりはちっとも嫌な気にならなかった。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「あら、志保ちゃん。お疲れ様」

 

 十月に入り、東京に吹く風が生暖かく感じ始めた頃。レッスンを受けるため、放課後に劇場に立ち寄った私は控え室で琴葉さんに会った。トレードマークのカチューシャをした琴葉さんは、困った表情で薄い冊子を睨んでいる。その冊子の表紙部分に、チラリと見覚えのある英単語が見えて私は声を掛けた。

 

「それって、今度入るって言ってたインタビューの資料ですか?」

「え? うん、志保ちゃんも知ってたんだ」

「可奈が以前話していて。ファッション雑誌のインタビューなんて緊張するって言ってましたけど」

「あははは、可奈ちゃんらしい」

 

 そう言って笑っていた琴葉さんだったが、その笑顔は少し取り繕ったようにも見えた。琴葉さん自身も緊張しているんだろうなと思いつつも、その本心には触れずに琴葉さんの前に腰を下ろす。琴葉さんの睨んでいたA4冊子の表紙部分には、「STAR ELEMENTS様 インタビューマニュアル」と印刷されていた。

 39 Projectが始動して間もない頃、急遽社内オーディションが開催されたことがあった。年末に放送されるドラマのキャスティング依頼がきて、その人選を兼ねたオーディションだったらしい。クライアントの要望が『今時の若い女の子で、王道な子が3人欲しい』といった超アバウトなオーダーでプロデューサーも困り果てていたそうだが、39 Projectととしても名前を売り出す大きなチャンスだと捉え、プロデューサーが独断と偏見で『今時の若い女の子で、王道な子が3人欲しい』のオーダーに基づいたアイドルをピックアップし、社内オーディションを行った。その結果、琴葉さんと中学二年生の春日未来、そして私と共にアリーナライブにも参加した可奈の3人が選ばれ、“STAR ELEMENTS”という名のユニットを組むことになったそうだ。

 ……ちなみに私は、プロデューサーの中で『今時の若い女の子で、王道な子が3人欲しい』に当てはまらなかったようで、声がかからなかったためオーディションには参加してない。

 

「番宣もするって聞いてるから、最年長だし私がしっかりしないといけないとは思っているんだけどね」

 

 冊子を見つめていた私の本心を汲み取ったのか、琴葉さんは弱音を吐くようにポツリと独り言を口にした。琴葉さんも3人の中では最年長と言えども、つい最近アイドルになったばかりの新人アイドルだ。真面目な性格なのもあるが、不安になるのは仕方がないと思う。

 

「ファッション雑誌のインタビューなんて初めてだから何言えばいいか分からないし、男の人も見る雑誌らしいから尚更不安で」

「え、そうなんですか?」

 

 それは初耳だった。3人のインタビュー記事とドラマの番宣がメインだと聞いていたから、てっきり同性向けのファッション雑誌だとばかり思っていた。驚いた私に「そうなの」、と困り果てた顔をして琴葉さんが同意を求めてくる。

 

「今流行っている若い子たちの私服を私たちがコーデして紹介する形式らしいんだけど、異性のモデルが同じように選んだコーデを評価し合うってコーナーがあって」

「ん? ということは琴葉さんたちだけじゃないってことですか?」

「そう。私たち3人と男性のモデル3人がそれぞれが自己プロデュースで今流行りの服を選んで着て、それを解説しつつ、最後に3人の中で誰が一番センスが良いかってのを男性モデルの意見を元に競い合うみたい」

「うわぁ……」

 

 琴葉さんの話を聞いてSTARS ELEMENTSのオーディションに呼ばれなくてよかったなと、心底思った。コーデした流行りの服を自ら解説して最後に異性のモデルたちからランク付けされるなんて、地獄のような企画だった。恵美さんのように元読モなどの経験があってファッションに詳しい人なら問題ないのだろうけど、そうじゃない人にとっては苦行そのものだろう。

 番宣とインタビューが主な内容だと可奈から聞いていたから、てっきりそれだけだと思っていたが実際は結構面倒な案件だったらしい。目の前の琴葉さんには勿論、この場にいない未来と可奈にも心の中で同情の念を送る。

 

「ちなみになんですけど、男性モデルの方たちは当然初対面なんですよね?」

 

 初対面の人たちのコーデを評価するのって結構大変じゃないですか、そんな意味を込めて尋ねた質問のはずだった。だが琴葉さんから返ってきたのはまるで見当違いに思える言葉。

 

「そうなんだけど、そうでもないようで……」

「どういう意味ですか?」

「……まだ予定だけどね、ジュピターの3人が来るらしい」

 

 そうなんですね……、とサラッと流してしまいそうになった後に、「え!?」と思わず訊き返す。咄嗟に出たせいか、控え室に響くほどボリュームが上がった私の声に、琴葉さんは困惑した表情から一転して驚いたように肩をビクッと震わした。

 




ここまでで書き溜めストック終了でございます


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



新たな評価、お気に入り、しおり、ありがサンキュー!
もっとミリマスとエムマス広まれ(切実な願い
エイプリルフールなので初投稿です。


 今回の案件はそれほど難しいものではなかった。

 何度か仕事を受けたことがある若者向けのファッション雑誌と謳っている月刊誌のインタビュー企画で、今回は東京でも若年層に人気のあるショッピングモールに入っている店舗の中から各々がテーマに沿った私服を選び、それぞれが自身のコーデを解説しつつ最後は異性のキャストに評価してもうといった趣旨のものだ。こういった対決形式の企画はありがちで、俺たちも今までに何度も経験したことがある。だから比較的簡単な案件だと思っていた。あくまで俺たちにとって、ではあるが。

 

「それじゃ、765さんもジュピターさんも今日はよろしく! 時間もあまりないから、早速始めようか」

 

 テキパキした男性ディレクターの元気な声が、朝日が僅かに差し込む人っ子一人いないショッピングモールに響き渡る。今にも口から溢れ出しそうな欠伸を必死にこらえる俺とは対照的に、向かい合うようにして並んだ39 Projectの三人は、心なしか緊張しているかのように揃いも揃って肩肘が張っていた。その様子から三人とも現場慣れしてないのかと思っていたが、ディレクターの言葉に「ひ、ひゃい!」と裏返った声で(しかも噛みながら)返事をした様子を見て、それが確信に変わった。

 

(ねぇ、向こう側は大丈夫かな)

(大丈夫だろ、ただのインタビューなんだし)

 

 心配そうに小声で尋ねてきた翔太に、明らかに大丈夫そうではなさそうだったが適当に返す。

 今回の案件の目的は39 Projectの三人が主演に抜擢されたドラマと、これを機に三人組ユニットとして活動することも決まった“STAR ELEMENTS”の宣伝だと聞かされていた。それなのに何故、ドラマにもSTAR ELEMENTSにも全く無関係な俺たち三人が呼ばれたのか––––……、その理由は至って簡単なもので、若者向け総合ファッション雑誌として読者層の男女比がほぼ均等のこの雑誌で、女性向けの企画だけにしてしまうと男性読者に対する宣伝効果があまり見込めないからだ。俺たちのような男性キャストも入れて男女双方に楽しんでもらえる企画にすれば、より多くの読者にSTAR ELEMENTSの存在をアピールすることができると見積もったのだろう。言うなれば俺たちは39 Projectからやってきた三人の引き立て役なのである。

 当て馬のようなポジションに思うことが何もないと言えば嘘になるが、引き立て役でもしっかりと役目をこなすことで次はメインで企画を作ってもらえるかもしれない。今までにも繋がりのあったクライアントだけに、俺たちは今後の繋がりを大事にする意味もあってこの当て馬の仕事を承諾することにしたのだ。

 簡単な最終確認が終わって、早速服探しの時間が始まった。俺たちはオープン前のショッピングモールを並んで歩いて、目ぼしい店がないかをチェックして回る。その道中で、翔太が周りに誰も人がいないことをキョロキョロと視線で確かめ、口を開いた。

 

「あのカチューシャの人が田中さんでしょ? あとはどっちがどっちだったけ」

「さっき声裏返ってた奴が春日未来じゃなかったか?」

「違うな、声が裏返ってた子猫ちゃんは矢吹可奈ちゃんだよ」

 

 そうだったけ、とボンヤリと呟いた途端に大きな欠伸が喉の奥から込み上げてきた。思わず溢れ出た大きな欠伸を手で隠しつつ、俺は昨晩のことを思い出す。

 昨晩、俺たちは39 Projectからやってくる三人についてのプロフィールを公式サイトで事前にチェックしていた。年末のドラマの主演に抜擢され、主題歌まで担当することになったSTAR ELEMENTSの三人は最年長の田中琴葉が高校三年生、春日未来と矢吹可奈の二人は共に中学二年生で、それぞれアイドルとしての経歴は何一つ掲載されていなかった。恐らく三人ともオーディションを勝ち上がってきたメンバーで、39 Projectに加わる前まで養成所に通っていたり、何かしら別の分野で活躍していたわけでもないのだろう。共演者の必要最低限の情報を調べておくのは少しでも円滑に現場を回すために大切なことだと思って調べていたのだが、三人とも経歴がなさすぎてまるで有益な情報が見当たらなかった。

 

「ったく、大丈夫かよあんな緊張してて」

「あれ、さっきは大丈夫だろって冬馬くん言ってたじゃん」

「そ、それは……っ、ちげーよっ!」

 

 適当に返していたことに翔太は気付いてたらしい。僅か数分前の発言の墓穴を自ら掘ってしまって思わずムキになった俺を見て、小馬鹿にするように少し大げさな声を上げて翔太は笑う。咄嗟に捕まえようと伸ばした俺の手を器用にすり抜けて、当て付のように「僕、ここの店見てくるねー!」とだけ言い残してそそくさと薄暗い店の中に入っていった。

 追いかける気にもなれず翔太の背中を見て小さく舌打ちをすると、再び喉の奥から欠伸が込み上げてきた。あまりにも欠伸が繰り返されるから、もういいやとヤケになり、俺は大きく口を開いて息を吐き出す。その様子を隣で見ていた北斗が口を開いた。

 

「そういう冬馬は大丈夫なのか?」

「ん? 何がだよ」

 

 欠伸と共に溢れてきた涙を拭う俺を、見定めるような視線だった。察しのいい北斗のことだから気付いているのだと勘付いたが、それでも俺はトボけてしらばっくれる。

 

「最近やけに眠そうだけど、ちゃんと睡眠時間は取れているのか?」

「……あぁ、ちゃんと寝てるって。心配すんなよ」

 

 そう言っている側からまた欠伸が込み上げてきて、俺はそれを必死に口の中で押し殺した。

 北斗に言われた通りだった。以前に比べると最近は睡眠時間が減って日中に眠気を感じることが多くなっていたことには俺自身も気が付いていた。

 

––––私、天ヶ瀬さんみたいになりたいんです。

 

 何度もなんども、都合よく頭の中であの日の北沢の言葉が再生される。少し勘違いはしていたようだが、それでもあの時の北沢の瞳には俺に対する憧れの念が込められていたような気がしていた。俺がずっと手のひらで握っていた見えない感覚は本物のだと、真っ直ぐな視線は俺にそう言い聞かせるようで、その北沢の眼差しが妙に心地よかった。

 その反面、期待を裏切るのが怖かった。もし俺の手のひらに握っていた感覚がただの錯覚で、俺が何者でもないことに北沢が気付いたらどう思われるのだろう。憧れの眼差しが幻滅の視線に変わるのを想像すると、途端に脅迫概念のような得体の知れない何かが背後から迫ってくる気がして、俺は何もしない時間に苦痛を感じるようになった。昨晩だってそうだ、北斗と翔太が帰った後、俺は夜中まで自室で身体を鍛え続けていた。たった一晩で明日が劇的に変わるとは思えない。だけど、北沢が憧れた天ヶ瀬冬馬であり続けるには、立ち止まるわけではなく走り続けなければいけない気がしていたのだ。

 

「最低でも七時間は睡眠を取るようにしろよ。俺たちは身体が資本なんだから」

 

 どこまで俺の心境を見透かしているのかは分からなかったが、北斗念を押すような言葉をかけただけだった。その言葉に相槌を打つように俺も頷くと、それ以上北斗は言及しなかった。

 ふとオープン前の不気味なほどな静寂包まれたショッピングモールの天井を見上げてみる。4階建ての建物の天井は大きなガラス張りになっていて、遮られたガラスの向こう側には綺麗な青空が広がっていた。いつもは手を伸ばせば届くような感覚を覚えていた青空が、今日ばかりはとてつもなく遠い距離に感じられる。遠い遠い空の世界を、優雅に羽ばたく鳥と視線が交錯した。あの鳥の瞳には俺の存在はどのように映っているのだろう。そう考えていると、大きなショッピングモールの中からガラス越しに鳥を見上げる自分がひどくちっぽけな存在に思えて、また背後から得体の知れない何かが近付いてくる足音が聞こえてきた気がした。

 こんなとこで燻っていたらダメだ。もっともっと早いスピードであの空に近付いていかないと。俺は肺の底から湧き出てくる焦る気持ちに急かされながら、着実に近付いてくる足音から逃げるように、足を進める。無人のショッピングモールにはセラミックタイルを擦る俺のスニーカーの音だけが響き渡っていた。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 週末だからか、平日に比べて控え室の中にいるメンバーの数も多く、互いの学校や私生活についての話、これから始まるレッスンの話など、各々がそれぞれの話題を語り合って話に華を咲かせていた。それなのに、何故か一定のリズムで刻んでいく掛け時計の音が耳に届いてくる。その秒針の音が私の胸をしつこくノックし続けているような気がして、テーブルの上に広げた台本のセリフが全く頭に入ってこなかった。私の名前を呼ぶ声が聞こえてきたのは、「記憶力は良いはずなのに」、と内心ボヤきながらも何かいつもと調子が違う自分に違和感を覚え始めていた時だった。

 

「志保ちゃん、お疲れ様」

 

 私の名前を呼んだ声の主は、三つ編みを左肩に流した髪型が特徴的な馬場このみさんだった。このみさんはマグカップを持ったまま、興味深そうに私の胸の下の方をジッと見つめている。その視線がテーブルの上に広げられた台本へのモノだと、すぐに気がついた。

 

「今度、演劇のオーディション受けるんだってね」

 

 プロデューサーから聞いちゃった、と付け加えてこのみさんは私の隣に腰を下ろした。私は「そうなんですね」とだけ返し、台本を閉じる。

 

「演劇、興味あったんだ」

「そうですね、挑戦したいなって気持ちはずっとありました」

 

 アイドルになると決めた時に、真っ先に私の脳裏に浮かんだアイドル像はステージで華麗に歌って踊る姿ではなく、舞台の上で何者かに憑依されたように完璧な演技を披露する姿だった。勿論演劇だけに興味があるわけではなく、それこそ春香さんたちのように多岐に渡って様々な仕事ができればと考えていたが、自分じゃない何者かをステージ上で表現する演劇の仕事に私は強く関心を持っていたのだと思う。だからプロデューサーから近々演劇のオーディションが開催されると話を聞かされた時、私は詳細を聞く前に迷うことなく挑戦したいと直談判した。

 たが、実際にオーディションに挑戦するとなって台本を受け取ると思うようなイメージが湧いてこない。簡単な仕事ではないと分かっていながらも、なかなか台本の中の役を掴めない自分に悪戦苦闘を続けていた。

 

「志保ちゃんがオーディションを受ける役はどんな役なの?」

「私の役ですか?」

「そう、どんな子を演じるのかなって思って」

 

 興味津々のこのみさんに困ったなと思った。まさに私が役にイメージを掴めないのはその役の心境を深く理解できていないからで、一言で言えば『私らしくない役』だったのだ。どう説明するべきかと頭を捻らせてみたが、結局イメージを掴めていない私の口で説明するより直接設定を見てもらった方が早いと判断し、台本の表紙裏のページを開いてこのみさんに手渡した。台本を受け取ってまじまじと眺めるこのみさんに、「シズクっていう子です」と補足する。

 

「なになに、片思いの相手に素直な気持ちを伝えれずにモヤモヤする高校二年生……」

「……あの、恥ずかしいので口に出して読むのは止めてもらって良いですか」

「え? あ、ごめんね!」

 

 このみさんは慌てて小さな手のひらで口を隠し、台本を閉じた。閉じられた台本を手元に手繰り寄せ、私は深い溜息をつく。

 私がオーディションを受ける役のシズクは、主人公の同級生に恋心を抱く女の子だった。ずっと主人公の側にいるのに素直な気持ちを伝えることができず、結局主人公はヒロインの女の子と結ばれてしまう。その様子を端から眺めて嫉妬と喪失感で打ちのめされる……といった、典型的な報われない役柄の子だ。

 

「報われない片思いの子ねぇ。志保ちゃんはそういう経験ないの? 今彼氏がいるとか、片思いの相手がいるとか!」

 

 莉緒さんほどではなかったがこのみさんもこの類の話に興味があるのか、子供のように目をキラキラさせて尋ねてきた。二人とも大人なのに子供みたいな話題に食らいつくのだなと、再度溜息を吐く。

 

「ないですね」

「や、やけにキッパリ言うわね……」

 

 面白い話を期待していたこのみさんには申し訳なかったが、私は今まで本当に恋愛という経験をしたことがなかった。誰かを好きになったことも、誰かに好きになってもらったこともない。恋愛に頼るくらいなら一人で生きていける強い女性になりたいと思っていたほどだった。

 だがその経験不足が今仇とあって、私の中でシズクという少女がシンクロしない理由の一つになってしまっている。こればっかりは致し方ない問題だとは思うが、シズクの気持ちを理解できていない私が、オーディションで他者の中から選ばれるほど演劇の世界が甘いとも思えなかった。

 今日はやけに溜息ばかりついてるなと自覚つつ、また無意識に溜息を零した私は気が付けば控え室の端に備え付けられた大きなホワイトボードをボンヤリと見つめていた。今日の私は何処か調子が悪いみたいで、台本を読んでいても不思議なほど集中力が持たなくて、集中が切れる度に視線はスケジュールが書き込まれたホワイトボードを追っている。そしてホワイトボードの今日のスケジュール欄を見て、その度に私の胸の中を掻き乱すような風が吹き抜けていく感覚を覚えていた。

 

(……なんだろう、このモヤモヤは)

 

 空白の多いホワイトボードの、何度も私の視線を引き付ける「琴葉、未来、可奈、雑誌インタビュー(ジュピター)」の文字列。何でもないはずのこの文字列は、私の胸に激しく何かを訴えかけるように何度もなんども視線を引き寄せ続けていた。

 今まで経験したことのないような胸騒ぎで心が妙に落ち着かない。その胸騒ぎの正体に私が気が付いたのは、もう少し後のことだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



田中琴葉が本仮◯ユイカに似てる気がするので初投稿です。


 今回与えられたテーマは『デートに着る男女の勝負服』といった、若者向けファッション雑誌ではTHE王道ともいえるテーマだった。

 テーマが決められたファッション雑誌のコーデ企画といえども、ファッションにおいて最も重要なのは自分にコーデが似合っているかどうかだ。服に着られてもいけないし、自分を見せすぎてもいけない。この匙加減が難しいのだけれども、その一点だけ守って基本的なコーデのポイントを崩さなければ事故る可能性は極めて低くなる。

 極論を言ってしまえば普段から自分が着ているような服の延長線上で考えればいいだけであって、そこまで頭を悩ますほどの難しい問題ではなかった。流行の最先端である東京を拠点に活動をしているのもあり、流行やトレンドは常に弁えている自負もあったし、アイドルとして自分の見せ方も把握しているつもりだった。あとは選んだコーデにそれっぽい理由をくっ付ける、ただそれだけである。

 鏡の前でホトホト困ったと言わんばかりに眉をひそめる人影を見つけたのは、プライベートでも頻繁に利用している店の系列店でのことだった。長く伸びた赤毛の髪と頭上に付けられたカチューシャが特徴的な先客は、全身鏡の前で試行錯誤するかのように次か次へと何着もの服を自分の身体に当てては、納得がいかないのか首を傾げながら外してと、この作業を永遠と繰り返しおこなっている。

 

「……あっ」

 

 視線に気が付いたのか、向こうが先に口を開いた。名前なんだったけ、慌てて記憶の中の引き出しを開いていく。さっき翔太や北斗と三人の名前を確認したはずなのに、眠気で霞んだの頭の引き出しからは目の前の少女の名前がなかなか出てこなかった。

 

「……天ヶ瀬さん、でしたよね」

「え? あ、あぁ。えっ……と」

「田中っていいます。田中琴葉です」

 

 思わず口ごもる俺に、田中琴葉は何一つ嫌味な顔をせず丁寧に名乗ってくれた。俺は「すまねぇ」と謝りの言葉を挟み、二度と忘れないようにとしっかりと脳裏に顔と名前を釘をさすように刻んでおいた。確か田中琴葉がSTAR ELEMENTSの中で最年長の高校三年生だったはずだから、俺より一つ上の年代になるはずだ。そのことも忘れないようにと、付け加えておく。

 

「天ヶ瀬さんはもう決まったんですか?」

 

 チラリと視線を俺の手元に向けながら、田中琴葉はそう訊いてきた。北沢の時もだったが『天ヶ瀬さん』と呼ばれる機会があまりないので、苗字で呼ばれると自分のことじゃないような妙な違和感を覚えてしまう。かと言って下の名前で呼び合うほど親しい仲でもないのだからと、俺も拭えない違和感を無視して慣れない敬語で呼ぶことにした。

 

「ま、まぁ大体は決まったな。田中さんは?」

「私は全然決まらなくて……。サッパリです」

 

 そう答えて苦笑いをした田中さんは視線を逸らす。逸らした視線の先には大量の衣服が山積みになったカゴが二つ並んでいた。控えめな無地のシャツもあれば、そのすぐ下にはド派手な色と自己主張の強いプリントがされたシャツも見え隠れするカゴと、ジーパンやロングスカート、丈が極端に短いショートパンツなどが詰め込まれたカゴ。どちらのカゴの中にも、まるで統一性のない衣服が散乱していた。

 その様子が田中さんが闇雲にコーデを探していたことを物語っていた。

 

「デートに着ていく勝負服なんて言われても、全然イメージ沸かなくて」

「普段着ているようなのでいいんじゃねぇの? 理由なんか幾らでも後付けできるだろ」

「そ、それはそうかもしれないけど! でも、それじゃ少し嫌だなって……」

 

 嫌って、何がだよ。

 そう咄嗟に浮かんだ疑問を口にする前に、田中さんが溜息を吐き出すように弱気な声で話を続ける。

 

「私、アイドルになったんだから何か大きく変わりたいなって思ってたの。今までの地味でつまらない自分じゃなくて、少しでも煌びやかになれたらいいなって思って」

「……変わりたい、か」

 

 ふと変わりつつある自分を否定しようとしていた北沢の姿を思い出した。変わりたいと願う田中さんと、無意識に変わろうとする自分に困惑する北沢、同じ事務所の同じグループなのに、考えていることは正反対らしい。

––––北沢は結局あれからどうなったのだろう。俺のあやふやなアドバイスを聴いて、どのような結論を出したのだろうか。

 あの日から一度も連絡を取っていないから、その後のことは何も分からなかった。「またね」と言い合って、いつかまた何処かで会える気はしていたものの、それが必ず叶う確信もあるわけではない。かと言ってわざわざ北沢を呼び出す口実も持ち合わせていない。大した関係性のない俺たちが偶然にでも再会する確率なんてどれほどのものなのだろうか。そう思うと、途端にあの日見た北沢の背中がセピアに染まっていくような気がして、妙な喪失感が胸の中を覆い尽くしていった。

 

「……天ヶ瀬さん? どうしたんですか?」

「え? あ、いや、なんでも」

 

 心配そうに覗き込む田中さんの声で我に返った。

 睡眠不足のせいか、今日はボンヤリして変な事ばかり考えている気がする。北斗が言うようにしっかりと睡眠時間を確保しなきゃなと胸の中で言い聞かせ、色褪せていく北沢の残像を無理矢理にでも振り払った。

 

「変わりたいんだったら、いつも着ないような服を着ればいいだけじゃねぇか」

「え? で、でも……」

 

 変わりたいと口にしながらも、変わることに抵抗がある様子の田中さんを横目に、俺は床に置かれた二つのカゴの中を物色し始める。隣で呆気にとられたように立ち尽くす田中さんは、ベージュのロングスカートに白のインナー、そして暗めのジージャンと、いかにも清楚系で“優等生”と言わんばかりの組み合わせで、彼女の真面目そうな人柄を忠実に具現化したコーデをしていた。普段の自分から変わりたいのならそれこそ逆を攻めるような、少し派手めな格好をすればいい。俺は気を抜けば不意を突くように脳裏に浮かんでくる北沢の姿を強引に押さえ込むようにカゴの中を漁っては、田中さんに似合うような服を適当にピックアップしていく。

 

「ほれ、こんなんでいいだろ」

 

 俺がカゴの中から選んだ白いのショートパンツと水色の首元が少し開けたシャツを半ば押し付けるように差し出した。田中さんは困惑しながらも、俺から受け取った衣服を身体に当て、鏡ごしに映る自分をマジマジと見つめる。

 

「……こんな系統の服、私が似合うのかなぁ」

「変わりたいんだろ? ならチャレンジしないと始まらねぇよ」

「で、でも」

「似合うと思うぜ。ま、これじゃなくてもいいからさ、思い切って挑戦してみろよ。ファッションは突き抜けるのも大事だから」

「……そう、だよね! ありがとう!」

 

 コーデ企画で判定する俺がアドバイスしていいのか、なんて今更ながら思ったが、俺が選んだ服と一緒に田中さんは試着室の中へと姿を消していってしまった。その足取りは軽く、田中さんの顔からも迷いが吹っ切れたような気がして、悪い気もしない。まぁ、いいか。そう言い聞かせながら、俺も手にしていた服と共に試着室に入った。

 その後、田中さんは俺のチョイスはそのままに、派手めなイヤリングと黒いリボンが付いた帽子を加えた、“真面目な清楚系優等生”とは異なる“今時でアクティブな女の子風”のコーデを完成させた。彼女らしくないコーデではあったが、彼女の真面目さも損なわずにどことなく特別感も醸し出していて、翔太と北斗からも「普段は着ないような服を彼のために着てくれた感が凄く良い」といったよく分からない賛辞のコメントを獲得し、最後に行われたコーデのランク付けでは堂々の一位に輝いていた。

 ちなみに田中さんにファッションの極意を伝授した俺は堂々の最下位。「赤チェックシャツはちょっと……」という申し訳なさそうな春日未来の辛辣コメントに他二人も頷いただけで、それ以外は全く触れられることなく終わってしまった。

 

「冬馬くん、今日の記事が載ったらまたネットでバカにされるね」

「うるせーな、俺が自分で似合うって思うコーデが一番なんだよ」

「それも大事だけど、ジュピターのリーダーとしてもう少しセンスの良い服を来て欲しいとエンジェルちゃんたちも思っていると思うけどな」

 

 インタビューも終わり、STAR ELEMENTSの三人より一足先に解散となった俺たちは、巷で囁かれている“天ヶ瀬冬馬の私服がダサい説”を危惧するクソどうでもいい生産性のない会話をしながらショッピングモールを後にした。二人から完膚なきまでに俺のファッションセンスをダメ出しされた後、最寄りの駅で解散し一人で帰路につく。翔太は明日から修学旅行で、北斗は地元の京都に暫く帰省すると話していたから、暫くはジュピターとしての活動の予定は入っていない。当然バイトや学校はあるけど、一人で過ごす暇な時間が増えるな、なんてボンヤリと考えていた時だった。

 ドッと押し寄せるように壮大な倦怠感と疲労感が身体全体を襲ってきたかと思いきや、突然足元がぐらつき、頭の中にフラッシュのような光が走り視界が揺れ動いた。景色のピントが合わず、朦朧とする意識の中、なんとか身体を支えようと道路端のガードレールへと手を伸ばす。頭をトンカチで叩くような強烈な頭痛と立ちくらみが続いたが、暫く耐え忍ぶようにガードレールを掴んでいると、次第に身体中を襲った異変は過ぎ去っていった。

 

(最近の寝不足がだいぶ身体に堪えてるな……)

 

 暫く仕事もないから、ゆっくりと休むか。

 身体に明らかなに異変を感じ、労わろと思う気持ちがある一方、こんなことで立ち止まっていて夢が叶うのかと不安になる自分もいた。ただでさえ961プロを辞めてゼロからのスタートなのだから、体調不良なんかで立ち止まっている時間などないはずなのにと、北沢と会った日から迫ってくる何者かの足音が俺の不安を煽る。

 ガードレールにもたれかかったまま、僅かに残った頭痛に顔をしかめながらも、ゆっくりと顔を上げて空を見上げてみた。競い合うように空に向かって伸びたビルたちの合間から見える青い広大な世界には、一粒だけ取り残されたように雲が浮かんでいた。小さな雲は今朝見た鳥のように、俺をじっと見下ろしている。

 俺はあとどのくらいの努力と時間を費やせばあの世界に届くのだろう。不自然に一つだけ浮かんでいる雲を掴もうと手を伸ばしてみたが、俺の手は雲には届かなくて、果てしない空までの莫大な距離を痛感させられただけだった。

–––––あれ、こんなに遠かったっけ。

 どれだけ手を伸ばしても、今はまるで届く気がしない。空に向かって伸ばしていた手を下ろし、一度ギュッと握りしめて胸の前で広げてみる。ゆっくりと開かれた俺の手のひらが握っていたのは虚空だけで、ずっと存在していたはずの“何か”は感触すら残さずに抜け落ちてしまっていた。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「それでね、それでね、私も結構大人びたコーデをしてみたんだよー! ほら、これがその時の写真!」

「……確かに可奈らしくないわね。それで、結果はどうだったの?」

「最下位だった!!」

「ダメじゃない」

 

 週末を跨いだ月曜日。放課後、制服姿で立ち寄った劇場で可奈が先日STAR ELEMENTSの三人が行ったファッション雑誌のインタビューの時の模様を事細かに話してくれた。前日までガチガチに緊張していた可奈自身も、結果はどうであれとても楽しかったと充実感に満ちた表情で話していたので、大きなトラブルもなく仕事を終えることができたらしい。まだアイドルとしての経験が少ないメンバーも多いせいか、私と同じように学校帰りに事務所にやってきた制服姿のメンバーたちも次第に可奈の周囲に集まりはじめ、貴重な現場の経験談を食い入るように聞き込んでいた。

 賑やかな控え室にセーラー服姿の琴葉さんとプロデューサーがやってきたのは、かれこれ三十分以上話が盛り上がった頃だった。プロデューサーが琴葉さんと入れ替わりで百合子さんと杏奈を連れて控え室を出て行った後に、興味津々に目を光らせた恵美さんが口を開いた。

 

「ねぇねぇ、琴葉のコーデも見せてよ! 写真とかあるでしょ?」

「可奈から話は聴いたで、なんでも琴葉がダントツ優勝やったって」

 

 便乗するかのように、琴葉さんの周りを沢山のメンバーが取り囲んでいく。中心にいる琴葉さんの顔には恥じらいがかすんでいながらも、カバンから取り出したスマートフォンを操作して自身が選んだコーデを見せてくれた。恵美さんの背中からチラッと見えた画面には、普段のイメージとはかけ離れた服を着た琴葉さんの姿が映っている。足の露出を強調するかのような白いショートパンツに涼しさを感じさせる水色のシャツ、大きめの帽子に星型のイヤリングと、『優等生』と言われるほど真面目な琴葉さんにしてはかなり攻めたチョイスのように思えた。

 だけど凄く似合っている。琴葉さんが身にまとっている衣服は今まであまり見せてこなかった魅力も、もともと持ち合わせていた魅力も、存分に引き出しているような気がして、同性の私が見てもドキドキするような素敵な格好だった。

 

「全然琴葉らしくない格好だけど、いいと思う! すごく似合ってるよ!」

「ほんと、琴葉ちゃんらしくないけどセクシーで魅力的だわ」

 

 私の胸の内を代弁するように、恵美さんと莉緒さんが絶賛の声を上げる。

 そんな様子を見て、スマートフォンをカバンの中に戻しながら琴葉さんは申し訳なさそうにポツリと「実はこれ、私が選んだんじゃないんだよね」と漏らした。可奈もそのことは知らなかったのか、驚いたように目を点にしている。

 

「このコーデ、本当はジュピターの天ヶ瀬さんが選んでくれたの」

「え?」

 

 思いもしていなかった名前が琴葉さんの口から飛び出して、胸が大きく脈を打った。頭の中を何かがすうっと登っていくような感覚が走って、冷たい汗が吹き出てくる。

 

「どんなコーデにしようか悩んでたんだけど、その時にたまたま会って、「似合うと思う」って選んでくれたの。それで結局一位なっちゃったから、なんかズルした気になって……」

 

 そう事情を説明した琴葉さんは、罪悪感に包まれたような顔をしていた。その顔を見て、私の胸がキュッと締め付けられて、心が波立ち騒いで落ち着かなくなっていくのが分かった。

 大きな音を立てて動く心臓の音を隠すように、私は無意識に琴葉さんを囲む群れから距離をとった。動揺を必死に押し殺そうとする私を気にもとめず、メンバーたちは他人のコーデを採用した琴葉さんを誰一人攻めず、むしろ天ヶ瀬さんとの何かを期待するかのように黄色い声を交えながら質問責めを始めている。琴葉さんは自身に向けられた質問のほとんどを否定しているようだったが、その表情は満更でもないようにも見え、真偽のほどは定かではなかった。だけど盛り上がる会話の節々から『天ヶ瀬冬馬』の名前が何度も私の耳に届いてきて、琴葉さんの口から飛び出した言葉が私の聞き間違いではなかったことだけは確かだった。

 

「えーでも、琴葉と天ヶ瀬冬馬ってお似合いだと思うよ! 優等生とチャラ男って感じで!」

 

 にゃははと特徴的な笑い声を交えた恵美さんの言葉が聞こえた時、胸に強烈な拒絶反応が起こって私は周囲に気付かれないように控え室を出た。

 どうしてここまで天ヶ瀬さんの話で気が乱れるのだろう。何度違うことに意識を逸らそうとしても、しつこいほどに頭の中に琴葉さんと天ヶ瀬さんが並んだ情景が浮かんでくる。その度に私の胸は刃物のような突起物で激しくかき乱されて、強烈な痛みを感じた。

 琴葉さんと天ヶ瀬さんの関係性。

 それが気になって仕方がなかった。だけど、その疑問の答えを知るのも怖かった。私が抱えるジレンマの根源にある理由は分からなかったけど、少なからず私が天ヶ瀬さんに抱いたあの“特別感”を他の人に共有されたくないという傲慢な想いがあることには気付いていた。喫茶店で待ち合わせをして初めてちゃんと話をした日、天ヶ瀬さんは神様が印をつけたような特別な存在のように私の瞳には映って、私が憧れた未来へと続く道のずっと先を歩く先駆者のようにも思えたほどだった。私が誰にも打ち解けることのできなかった悩みを天ヶ瀬さんに話せたのも、この特別な人なら私の気持ちを理解してくれると直感で感じていたのだと思う。そんな天ヶ瀬さんに私が一方的に抱いていた共通点や憧れは、日を増すことに宝石のような光り輝いて、その煌めきを私はとても大切にしながら胸の奥にしまい込んでいた。大切だから故に、誰の目にも晒したくなかったのだと思う。

––––私と天ヶ瀬さんの関係なんて大したモノでもないのに。

 たった一度会って話をしたくらいで、自意識過剰なほどに彼への想いを美化している自分が滑稽に思えた。きっと天ヶ瀬さんには私は何でもないタダの同業者としか思われてなくて、それなのに彼との思い出を自分だけモノのように独占しようとして、私は何を自惚れていたのだろう、と。

 途端に理由も分からない悩みに振り回されている自分が馬鹿らしくなって、胸の中のモヤモヤが消え去っていく気がした。天ヶ瀬さんと私はただの同業者、それ以上でもそれ以下でもないのだと、必死に言い聞かせながら。

 今日は特に用事もなかったし、このまま帰ろうかな。そのことを母に伝えようと思ってスマートフォンの電話アプリを開いた時だった。スマートフォンがあの日の発信履歴の画面を表示にしていることに気づき、私は足を止めた。誰もいない静かな劇場の廊下で、私はスマートフォンの画面に表示された11桁の数字を見つめる。その数字たちは、今まで何かと理由をつけて見て見ぬ振りをしていた私に何かを訴えかけるようだった。

 

『それじゃ、失礼します』

『気をつけて帰れよ。またな』

『はい、また』

 

––––また、か。

 あの日、最後に交わした言葉を思い出し、私は気が付いたら人差し指で彼の番号に優しく触れていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



新たな評価、しおり、ありがとナス!
意外と好評価多くてテンション上がっちゃうぅ〜!
田中琴葉のシルエットに最近ハマっているので初投稿です。


 激しく動悸する胸のリズムに合わせるように、一定のリズムで呼び出し音が鳴る。何度目かの呼び出し音が聞こえてきた時に、ふと我に返った。私は天ヶ瀬さんに電話をして、何を確認するつもりなのだろうか。

 琴葉さんと天ヶ瀬さんの関係性を知りたい。だけどそれを知って私はどうするつもりなのか。仮に二人に何かがあったとしても、私には何の関係もないことではないか。

 自分でも自身の行動の意図が分からず、勢いで電話をかけてしまったことを激しく後悔した時だった。呼び出し音が途切れ、スピーカーの向こうからガサガサと生活音が聞こえてきた。繋がった、そう分かった途端、胸が破れそうになるくらいに動悸がさらに速度を上げる。

 

『もしもし』

 

 天ヶ瀬さんの声だった。少し無愛想で素っ気のない、あの日に聴いた声だとすぐに頭が認識する。必死に動悸を押さえ込もうと、一度大きく息を吐いた。あくまで平静を装って、口を開く。

 

「お疲れ様です、北沢です。元気にしてましたか?」

『久しぶりだな。元気だ……って言いたいところだけど、全然元気じゃねぇ』

「え? そうなんですか?」

 

 形式上の挨拶だったはずのに、天ヶ瀬さんの返答は私の予想とは異なるものだった。あくまで電話越しの声だから確信はなかったけど、言われてみれば天ヶ瀬さんの声があの日より少し弱々しく聞こえるような気がする。

 

「具合、悪いんですか?」

『あぁちょっとだけな。昨晩から熱が下がらなくて』

「熱って、どれくらいですか」

『今朝測ったら三十度八度だった。多分今もそれくらい』

「え、結構高熱じゃないですか。病院にはもう行ったんですか?」

『行ってねぇよ。行く気力がなくて』

「それなら親に連れていってもらうとか……」

『俺、親いねぇんだ。お袋は亡くなって、親父は四国に単身赴任してるから』

 

 再び予想外の言葉が飛んできて、血の気が引いていくような感覚が頭に走った。知らなかったとは言え、安易に踏み込んでしまってはいけない彼の秘密に私は土足のまま迷い込んでしまった気がしたのだ。

 だがそんな私とは対照的に天ヶ瀬さんの口調は何処か達観した様子だった。別にどうでもいい事だと言わんばかりに、『だから俺は一人暮らし』と言葉を添えただけで、天ヶ瀬さんは自身の秘密に迷い込んだ私を拒絶もしなければ、同情を誘うような身の上話もしなかった。

 

「……そう、だったんですね」

 

 私は、これ以上土足で彼の秘密に足跡をつけまいと、すぐに話をすり替えることにした。友達やジュピターの他のメンバーたちに助けを求めればいいのではと提案すると、ジュピターの二人はたまたま今日から東京を離れていると話してくれた。アイドルという職業柄、一人暮らしの住所をあまり一般人に晒したくないからと学校の友人たちも呼ばなかったそうだ。

––––それなら、私が行きましょうか。

 気がつけば私はそんな言葉を口走っていた。何を言っているのかと、思わず口に手を当てる。変に勘違いされる前に冗談だと伝えようとしたが、私の喉元まで出かかっていた言葉を遮るように先に天ヶ瀬さんが弱々しく「頼む」と口にしてしまった。

 結局、私から言い出した手前引き返すに引き返せず、また一人暮らしの環境下で寝込む天ヶ瀬さんを放っておくこともできずで、私は簡単な食材を買って彼のアパートにお見舞いに行くことになった。

 

(……本当に、私は何をしているんだろう)

 

 明確な用事も目的もないまま無意識に電話をして、成り行きとはいえ自分の口から飛び出したとは信じられないような言葉をいつの間にか口走って、そして何故か私の胸は何かを期待するように高鳴っている。

 らしくない自分に戸惑いつつも、天ヶ瀬さんの「ドア開けてるから勝手に入っていい」という言いつけ通り、インターフォンも鳴らさずに部屋のドアを開ける。綺麗に並べられたスニーカーの隣にローファーを並べ、暗くて狭い廊下を進む。廊下の先、奥の狭いワンルームの部屋で私が来たことにも気付かずに熟睡する天ヶ瀬さんの姿が目に入った。その瞬間、胸の中で何かが弾けたかのように心拍数が一気に上がって心臓が激しく鼓動し始めた。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 遠くで今にも沈もうとする夕日が空を茜色に彩る夕暮れ時、オレンジ色に染まったリビングの景色を、俺はボンヤリと眺めていた。家具たちの影が伸びた狭いリビングの先には背を向けて台所に立つ母親の姿があって、母は手際よく料理をしながら透き通った優しい声で俺に語りかける。

 

「ねぇ、冬馬。お粥、食べれる?」

「……食べれる」

 

 窓の外で大きな警笛が鳴った。その音に呼応するかのように、電車が大きな線路の上を走り出す音が聞こえてくる。乾ききった口から溢れた俺の弱々しい声は、騒音によってかき消されて綺麗な夕焼け空に舞っていった。聞こえたのか聞こえなかったのか、それは定かではなかったが母は俺に再度同じ問いを投げ掛けることはしなかった。まるで先ほどの質問に対する俺の答えを聴く前から分かりきっていたかのように、母は鼻から腹の奥底まで行き渡り食欲を刺激するような香ばしい匂いと湯気を発するお粥を持ってきてくれた。

 

「あ、お父さんももう少しで帰ってくるそうよ。冬馬の大好きなアイスも買ってきてくれるって」

「ホント!?」

「ふふふ、お粥とアイス食べて早く元気になってね」

「うん、楽勝だぜ!」

 

 お粥をテーブルに置き、シミひとつない頬を緩めた母が笑う。夕日に照らされた母の優しい微笑みが、何故かひどく懐かしく感じられた。

 

「母さん?」

 

 ふと一瞬でも瞬きをすると母が遠い世界に行ってしまいそうな気がして、俺は縛りつけるように母を呼んだ。瞬きもせずにジッと見つめる俺に対し、母は何も言わず俺を優しい瞳で見つめ返し続けている。

 

––––母さん。

 

 気がつけば母の姿は消えてなくなっていた。テーブルの上にはお粥だけが残されていて、寂しげに湯気を立てている。遠くから今度は出発を告げる汽笛が聞こえてきた。慌てて窓から身を乗り出してみると、見たこともないような蒸気機関車がマンションの前に停車していて、真っ黒な蒸気を吐く機関車に乗り込もうとする母の後ろ姿が目に付いた。

 必死に腹の底から声を出して叫ぶ。だけど母に俺の声は届かなかったのか、最後まで一度も振り返らないまま機関車の中に入っていってしまった。

 

––––––––母さんっ!

 

––––––––––––––––母さんっ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「天ヶ瀬さん?」

 

 俺の名前を呼ぶ声がして目を覚ました。モヤがかかったように霞んだ視界は毎日のように見上げていた自室の天井を捉えていて、先ほどまで俺がいたはずの夕暮れ時のリビングではなかった。身体中が汗でびっしょりで汗を染み込んだシャツが気持ち悪い。額から溢れ落ちるように伝っていた汗を拭い、俺は体を起こしてボサボサの髪を掻き上げる。

 ふと気がつくと部屋の入り口の前に立つ人影が目に入った。未だに焦点の合わない目を擦って無理やりピントを合わせる。少し離れた場所から俺を見つめていたのは先ほどまで何度も名前を呼んでいたお袋ではなく、セーラー服姿の北沢だった。

 

「…………北沢?」

「ようやく気が付いたんですね」

 

 お邪魔してます、と礼儀正しく会釈をすると、踵を返して玄関入ってすぐの狭い廊下に隣接された台所に行ってしまった。

 あれ、なんで北沢が俺の部屋にいるんだっけ。

 不思議な光景にそんな疑問を抱き、曖昧な記憶を必死に掘り起こしてみる。ふと枕元に置きっ放しにしていたスマートフォンでのやり取りを見返して、事の顛末をすぐに思い出すことができた。

 

 妙な疲労感を覚えつつなんとかファッション雑誌の現場を終えた日の夜、俺はとうとう発熱してダウンした。凄まじい倦怠感といつまでも続く頭痛が高熱を引き起こし、身動きが取れずに俺は自室のベッドの上で症状が収まるのを待つかのように耐え忍ぶことしかできなかった。誰かに助けを乞うにも、翔太は修学旅行で北海道へ、北斗は実家のある京都へ帰省しており、高校の同級生たちは当然ながら学校がある。そもそも曲がりなりにもアイドルをしているから、本当に信用できる人以外に家の住所を教えたくないという警戒心もあり、俺の交友関係の中で助けを求めれる人の数自体そこまで多くはなかった。

 あぁ、完全に詰んだな。思いも寄らない人から電話がかかってきたのは、下がらない熱に死を覚悟し始めた頃だった。朦朧とする意識の中、枕元で一定のリズムを刻んでスマートフォンが揺れる音。必死に手繰り寄せると画面には思いも寄らない人の名前が表示されていて、とうとう幻覚まで見るようになったかと自分の目を疑いながら通話ボタンを押す。

 

『お疲れ様です、北沢です。元気にしてましたか?』

 

 電話の相手は、先日喫茶店で話をした少女だった。電話越しの声が記憶の中の声より少し低いように聞こえたが、特徴的な抑揚のない落ち着いた声色はあの日の記憶と一致していて、この電話が夢や幻覚ではないことにすぐに気がつくことができた。

 

「久しぶりだな。元気だ……って言いたいところだけど、全然元気じゃねぇ」

『え? そうなんですか?』

 

 北沢は特に深い意味もなく挨拶のような感覚で尋ねたのだろう。予想していた返答と違って驚いたのか、電話越しの声は少しだけトーンが上がっていた。

 それから俺の事情を一通り聴いた北沢は突然家に来ると申し出た。風邪を引いているなら何か少しでも栄養のあるものを摂取するべきだと、そんなグウの音も出ない正論を挟みつつ、自力で食事を用意する気力もなくて一人暮らしで頼れる人がこぞって居ないなら私が行きましょうか、とも。申し訳ない気持ちで最初は断ろうと思ったが、正直丸一日水しか摂取していなかった俺にとってはかなり有難い申し出でもあった。一度会っただけだが北沢は同業者なのもあり、家の住所を教えても変に悪用することはしないだろうと、そんな信用もあって結局俺は彼女の厚意に甘えることにした。

 電話を切った後にショートメッセージで住所と部屋番を送って、玄関の鍵を開けておいた。部屋の前に着いたら勝手に入ってくれと追加で送信したところで、目眩が襲ってきて俺は重い身体を引きずりベッドの上へと倒れこむ。

––––そういえばアイツはなんで電話してきたんだ。

 あの日から今まで連絡が来ることは一度もなかったのに突然電話がきたくらいだから、きっと北沢も何か俺に用事があったのではないか。そんな疑問が薄れゆく意識の中でふと湧いてきたが、その答えを考える間も無く俺の意識は飛んでしまったのだった。

 

「天ヶ瀬さん、具合はどうですか」

 

 台所から北沢の声が聞こえてきて、カチッと音が響いて狭い廊下が真っ暗になる。ドアが開いて、湯気が立ち込めるお皿をトレイに乗せた北沢が部屋に戻ってきた。

 

「……あぁ、少しはマシになったかも」

「良かったです。これ、お粥ですけど食べてください。栄養は取れると思うので」

「わりぃ、助かるぜ」

 

 ミニテーブルの前に北沢が置いてくれたお粥の湯気が、食欲を優しく刺激する。いただきますと乾いた口で一言呟き、スプーンで一口掬って口の中へ運んだ。舌の上にじんわりと熱を持った柔らかい感触が触れて、あっさりとした味が口の中いっぱいに広がっていく。初めて食べたはずなのに、北沢が作ってくれたお粥の味を俺の舌は覚えていた。走馬灯のように走っていく夕暮れ時の部屋の情景。ひどく懐かしく感じたお粥の味が、俺をノスタルジックな世界へと誘っていくようだった。

 先ほどまで自分が居たはずの世界を思い出した。

 この部屋に引っ越す前に家族三人で住んでいた都内の狭い2LDKのマンション。俺が風邪を引いて寝込んだ時、いつもお袋はお粥を作ってくれて、親父は俺の好きだったアイスを買ってきてくれた。もう忘れたと思っていた遠い過去の、懐かしい記憶の夢だった。当時は当たり前だと思っていたけれど、今ではもう当たり前ではなくなってしまった日常だ。

 お袋はもう何年も前に病気で他界してしまった。親父は単身赴任で四国に住んでおり、俺はこうして東京に残って一人暮らしをしている。幸いにも高校生活もアイドル活動も充実していて仲間や友達にも恵まれ、自身の境遇を不憫に思ったことはあまりなかった。だけどもしかしたら心の何処かでは、あの優しい記憶の世界を恋しく思っていたのかもしれない。

 一人暮らしでは食べる機会のないお粥を久しぶりに食べたせいか、とうの昔に忘れ去っていたはずの記憶がフラッシュバックした。だけどこのお粥を作ってくれたのは記憶の中のお袋ではなく、目の前にいるセーラー服姿の北沢だ。不思議な光景だなと思いつつ、スプーンで更にお粥を掬う。

 

「味、どうですか?」

「美味いぜ。なんか元気出てきた」

「そうですか、それなら良かったです」

 

 少しだけ照れ臭そうにはにかんだ後、北沢は何かを思い出したように立ち上がって部屋から出ていった。すぐに戻ってきた北沢の手には、コップとお茶の入ったペットボトルが握られている。見覚えのないペットボトルの柄だった。

 

「それ、もしかして買ってきてくれたのか?」

「はい。天ヶ瀬さんの家になかったらと思いまして」

 

 まるで当然と言わんばかりの口ぶりだが、テーブルの隅に置かれていたビニール袋の中から見え隠れしている栄養ドリンクやゼリーといい、同じ高校生とは思えないほどの気が効きようだった。年の離れた弟がいるだけで、ここまでしっかりするのだろうかと疑問に思うほどだ。

 俺は最後の一滴まで食べ終えた後、棚の上に置いていた財布を取ろうと立ち上がった。ある程度の額が財布の中にあるのをチェックしてから、北沢に値段を確認する。

 

「気遣わせてしまってすまねぇ、全部で幾らだった?」

「あ、いえ、これくらいは別に」

「さすがに申し訳ねぇから払わせてくれよ。北沢だって高校生なんだから金だってそんなに多く持ってるわけじゃねぇだろ」

「…………私、まだ中学生なんですけど」

 

 マジで?

 驚愕する俺を、北沢は少し不機嫌そうに顔をしかめながら睨んでいた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



翼が歌うアイルはあの翼でさえ歌えこなせてない感があるけどそれがまた魅力なのだと気が付いてしまったので初投稿です。


「……ありがとな。お粥、美味かったぜ」

「いえ、これくらは全然」

「本当に誰も頼れるやつ居なかったからさ、北沢がきてくれたお陰で死なずにすんだわ」

「大袈裟すぎです。そんな簡単に死にませんから」

 

 丸一日ぶりに胃袋に食事を入れた後、シンクを綺麗にし終えて部屋に戻ってきた北沢と少しだけ話をした。高校生だと思っていた北沢は十四歳の中学二年生で、俺の家より五駅ほど離れた街に住んでいるらしい。普段から親が仕事で忙しいようで、親の手が回らない時は保育園に迎えや夕飯の支度など、北沢が歳の離れた弟の世話を頻繁にしているのだと語ってくれた。

 

「私、早く一人前のアイドルになって家族を楽にさせてあげたいんです」

 

 何気ないの会話の脈絡からそう口にした時の北沢の表情は真剣そのものだった。端正に整った顔立ちの中に違和感を感じさせる、彼女の獲物を射竦めるライオンのような強い眼差し。この時になって俺は初めて喫茶店で話をした時に感じた、彼女の強烈なまでの上昇志向と何かに執着するような確固たる意志の正体が分かった気がした。

 北沢の家庭環境のことは分からない。両親の稼ぎがそこまで多くないのか、それとも何か別の事情があるのか、そこまでは北沢も話さなかったし踏み込んだ話は本人の口から出てこない限り訊いてはいけない気がしていた。分かるのは、十四歳の中学二年生が一人で背負うにはあまりにも酷なモノということだけだった。

 

「……すげぇな」

 

 北沢の身の上の話を聴いて、言葉が出てこなかった。

 勿論北沢も少なからずアイドルへの憧れや興味があって、家族を楽にさせたいだけでアイドルをやっているわけではないはずだ。だけど彼女の中ではそういった憧れや興味より、家族を助けたいという気持ちの方が圧倒的に多くを占めていて、「夢を叶えたい」なんて半端な思いではなく、「夢を叶えなければいけない」といった強い気持ちで夢を追い続けているのだと思う。

 胸の中で何かがうごめく。尊敬や憧れではない。961プロを抜けた時にも感じた、自分を恥じる羞恥心だ。

 

「全然凄くないです。私なんかより自分たちで活動してる天ヶ瀬さんの方が何倍も凄いと思いますけど」

「……俺なんて、全然凄くねぇよ」

 

 あまりに多くのモノを背負いながらも夢を追う北沢とは、まるで対照的に思い上がっていた自分。

 俺は他の人たちが見ている空よりも遥かに高い空を見上げていて、北沢はそんな高い空の上にいる俺を見上げているものだと思っていた。天ヶ瀬さんのようになりたいんです、と話した北沢は俺を眩しいまでにキラキラした眼差しで見上げている気がして、その視線が心地よかった。だから俺はいくらでも上から偉そうに話した。帰り際に、喫茶店から出て行く北沢の背中に「頑張れ」と声をかけたのも、「俺のとこまで登ってこいよ」の意味合いだったのかもしれない。

 

「俺さ、北沢が言うほど凄い人間じゃねぇんだ」

 

 北沢の羨望を利用して自己顕示欲を満たしていた罪悪感からか、それも込み上げてくる羞恥心から逃げたかったからなのか、俺はとうとうそんな言葉を溢してしまった。時計の進む音だけが響く部屋の中で北沢は言葉を探すわけでもなく、無表情に近い顔で真っ直ぐに俺を見つめて次の言葉を待っていた。俺が何者でもないと知ったら北沢はどんな顔をするのだろうか。その現実を直視したくなかった俺は、ベッドの上に仰向けになり、真っ白な天井に向かって胸の内を語り続ける。

 

「いつも誰かにすげぇって言って欲しいんだよな。誰かに認めて欲しくて、俺が選んだ道が正しいって背中を押して欲しくて」

 

 口にした瞬間、羞恥心と罪悪感が少しだけ胸の中から抜け落ちて気持ちが楽になった気がした。だけど今まで誰にも話したことのなかった弱い自分を言葉にして認めてしまったことで、一瞬の敗北感のような気持ちも芽生えてくる。弱い自分を誰に晒すことも、自分で認めることも、俺は執拗に嫌がっていたのだろう。北沢は相槌を打つわけでもなく、部屋にはひたすらに時計の秒針の音だけが響いている。

 

「北沢が俺みたいになりたいって言ってくれた時も、すげー嬉しかったんだ。だけど、それ以上に大したことがないって思われるのが嫌で怖かった」

 

 自分の口ではないように次から次へと弱音か出てきた。体調が良くない時はネガティヴになりがちだと聴いたことがあったが、その信憑性のない話もあながち間違いではないのかもしれないと思うほどだった。

 

「だから期待を裏切りたくねぇって思って最近頑張りすぎて、体調崩しちまったみたいなんだ。これじゃ元も子もねぇよな」

「そうだったんですね」

 

 そう言った北沢の髪は半分ほど開けていた窓からやってきた風に吹かれて乱れていたが、頬に張り付かせたままで俺を見つめていた。

 窓の外はあっという間に暗くなっていて、東京の籠もった匂いと昼夜問わず行き交う大勢の人たちの騒音が、風に乗って俺の部屋まで届いてくる。どれくらいの間、俺たちは同じ空気を分け合いながら見つめ合っていたのだろうか。沈黙の時間を測るように刻み続けていた秒針の音が一瞬だけ鈍い音を立てて、二十時に到達したのを報せた時だった。北沢が無表情で俺を見つめたまま、口を開いた。

 

「分かりますよ」

 

 分かるとはどう意味なのだろうか。身体を壊すほど追い込んでしまう焦りを分かるのか、自分が何者でもないかもしれないという胸の内に隠していた不安を汲み取っていたのか、どちらかなのか分からなかったが、どちらでもあるような気もする。

 暫く考えて、深追いするのを止めた。その代わりに、少し自虐風な言葉を口にして笑った。今更だが、これ以上かっこ悪い姿を見られたくないと、この期に及んでちっぽけなプライドが現れたのかもしれない。

 

「北沢も気を付けろよ。俺みたいに無茶して倒れねぇように」

「分かりました。気をつけます」

 

 真面目に答えていたが、北沢は目元はかすかにふくれていた。そして、

 

「もし私が同じように倒れた時は、今度は天ヶ瀬さんが看病してくださいね」

 

そう言葉を付け足した。その時の北沢の親しみのこもったその笑みは、俺が初めて見る彼女の表情だった。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 アイドルとして一人前になって家族に楽をさせてあげたい。

 私はアイドルを志した理由を天ヶ瀬さんに打ち明けた。片親のことだとか、アイドルとして有名になれば居なくなった父親が帰ってくるかもしれないだとか、込み入った事情は話さなかったが、私が自ら身の上話をしたのはこれが初めてだと思う。絶対に知られたくないほどの秘密ではなかったが、なるべくなら知られたくない話のはずだった。そのことで変に気を遣われたり同情の眼を向けられるのが嫌だったのだ。夢は叶えたいけどそれは自分の実力で掴み取りたい。勝負の世界で成功するかどうかに、家庭環境やバックグラウンドは関係ないのだから色眼鏡で見られるのを凄く嫌がってた。

 それなのに私が自ら天ヶ瀬さんに話したのは、おそらく偶然ながらも彼の秘密を知ってしまった負い目からだ。私は天ヶ瀬さんの家庭事情を知っているのに天ヶ瀬さんは私の家庭事情を知らない、それがひどく不公平な気がしていた申し訳なくなった。おこがましいのかもしれないが、私の中で特別な憧れの存在だった天ヶ瀬さんとは少しでも対等な関係でいたい、そんな気持ちが憧れの中に紛れていたのだ。

 天ヶ瀬さんが肩を縮めて弱音を吐いたのは、私が身の上話を終えた頃だった。

 

「俺さ、北沢が言うほど凄い人間じゃねぇんだ」

 

 目を逸らすようにベッドの上に寝転がり、天井を見つめる天ヶ瀬さんはそう打ち明けた。それから息を吐き出すようにぽつりぽつりと言葉を溢した。誰かに凄いと認められたい、誰かに自分の生き方が間違っていないと背中を押して欲しいと思っていたこと、そして私があの日喫茶店で天ヶ瀬さんに伝えた言葉が嬉しかった反面、その期待を裏切るの恐怖も抱え込んでいたことも、天ヶ瀬さんは真っ暗な闇の中で手探りしながら言葉を探すように話してくれた。

 

「だから期待を裏切りたくねぇって思って最近頑張りすぎて、体調崩しちまったみたいなんだ。これじゃ元も子もねぇよな」

 

 自分を卑下するように笑いながら口にした天ヶ瀬が寝返りを打って、視線が交錯した。開けられた窓から生温い風が吹く中、私はその瞳を見返すようにジッと見つめていた。

 不思議な感覚がした。私から見たら神様に選ばれたような煌めきを持つ彼が、そんなことを考えていたなんて夢にも思っていなかったのだ。天ヶ瀬さんは私より遥かに遠い空の上を飛んでいて、きっとそこから見下ろす景色は私が見てるのとは全然違っていて、その場所に辿り着いた彼にしか分からない悩みがあるのだと、そうとばかり決め付けていた。

 でも私が勝手に神格化し過ぎていただけで、実際はそうなのかもしれない。選ばれた人間だとばかり思っていた天ヶ瀬さんだって、こうして風邪で倒れこむこともあるし、無茶し過ぎてしまうことだってある。961プロにいた時は傲慢で自分を過信し過ぎていたとも言っていたっけ。それは私たち“一般人”にだって日常的に起こり得る話で、決して特別な存在である天ヶ瀬さんだけの話ではないのだから。

 その事に気が付くと遠い存在に思っていた天ヶ瀬さんが、途端に身近な存在に感じた。

 天ヶ瀬さんも私と同じような事で悩み、同じような不安に怯えて、それでもどうにか夢を叶えようと必死に頑張っている。確かにアイドル業界では天ヶ瀬さんは特別な存在ではないのかもしれない。だけど多くの共通点を持つ天ヶ瀬さんは、やはり私の中で特別な存在のように思えて仕方がなかった。

 

「分かりますよ」

 

 天ヶ瀬さんの気持ちも、悩みも。だからそんなに自分を卑下しないでください。困難な道だと分かっていながらも自分の力を証明してトップを目指そうとするひたむきな強さを持つ貴方は、私にとって特別な存在なんですから。

 そんな想いが伝わればと思いつつも私は胸の内を隠すように、目を細めてボンヤリと私を見つめる天ヶ瀬さんの眼差しを見つめ返した。

 

 

 その後、時計の針がいつの間にか二十時を過ぎていた事に気が付き、私は名残惜しい気持ちを抱えつつも自宅に帰る事にした。帰る間際に「いつか今回のお礼をさせてくれ」と申し出た天ヶ瀬さんと連絡が取りやすいようにとLINEのアカウントを交換し合っていた時だった。ふと何かを思い出したように、天ヶ瀬さんに疑問を投げかけられた。

 

「そういえば今日の電話、なんか用事があったんじゃねぇの?」

「あっ……」

 

 この時になって初めて私が天ヶ瀬さんに電話をした当初の目的を思い出した。琴葉さんとの関係が気になるあまり勢いで電話をかけてしまったことを思い出し、頬が熱を帯びていくのが分かる。今更なんて言えば良いのだろう、思わず二歩ぐらい横に引いてしまった。

 

「あ、いや、それは別に……。大した用事じゃなかったんで大丈夫です」

「ふーん、分かった」

 

 天ヶ瀬さんは特に言及するわけでもなく、あまり興味がなさそうな口ぶりでそう返しただけだった。私は自分のスマートフォンに天ヶ瀬さんのLINEが追加されたのを確認すると、律儀にマンションの下まで見送ると言ってくれた天ヶ瀬さんの提案を断って部屋を出た。夢心地のようなふわふわした感覚のまま、薄暗いエレベーターに入って地上へ下りる。不思議なことにあれほどまでに気になって仕方がなかったはずの琴葉さんとの関係が、マンションから出てきた今は全く気にならなかった。

 マンションを出て歩道に出ると、秋特有のノスタルジックな生暖かい風が吹いた。頬に当たる横風が心地いい。街を照らす街灯を見上げると、真っ暗な夜空の中に浮かぶ半分に欠けた月が目に入った。

––––天ヶ瀬さんは、この月をどんな風に見ているのだろう。

 天ヶ瀬さんの瞳に映る月の姿は分からない。だけどきっと私と同じようなことを考えながら、同じような場所から見上げているのだと思う。

 そのことが妙に嬉しくて、私は軽快な足取りで駅までの道を歩いたのだった。

 




NEXT → Episode Ⅲ : 俺と私のライアー・ルージュ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EpisodeⅢ:俺と私のライアー・ルージュ

お気に入り、評価してくれてるPの皆んな、ありがサンキュー!
もうちょっとムビマスのようなイキリ沢志保を出していきたいなと葛藤しているので初投稿です。


「志保、どうだったか? 手応え、ありそうか」

 

 運転席でハンドルを握るプロデューサーとバックミラー越しに目が逢った時、まるでタイミングを見計らっていたかのようにプロデューサーはそう尋ねてきた。バックミラーに映るプロデューサーは私を確認するとすぐに視線をフロントガラスの先へと戻し、私の言葉を待ち続けるように黙り込む。表情や態度ではなく、言葉で表せと、そんなことを私に言っているかのようだった。

 手応えなんて、一々訊かなくても雰囲気で分からないのかな。プロデューサーの言葉に少しだけ苛立ちを覚えた私は、大げさな溜息を吐いて移り変わっていく外の景色に視線を向ける。

 週末だけあって幾多のブランド店が並ぶ通りは若くてオシャレな人混みで溢れかえっていた。強めに巻いた髪を揺らしながら高いヒールを履きならす女性は歩いているだけなのに惚れ惚れするような雰囲気があって、すらっと伸びた綺麗な足を魅せるかのように短いスカートを履いた女性は、壁に背を預けながらスマートフォンを弄っているだけで、まるで雑誌の表紙を飾るモデルのような優雅さを醸し出している。

 そんな中、ふと窓ガラスに半透明に映る自分の顔が目についた。通りを歩く人たちとは対照的な、窓ガラスに反射しているのはふてくされて拗ねるような顔。大人とは程遠い子供の顔だ。

 

「……いえ、まったく」

 

 平静を装っているつもりなのに、私の口から出た言葉は何処か子供染みて聞こえてしまうのはどうしてだろう。視界に入るキラキラした若い女性たちとは程遠い、窓ガラスに反射する自分を見る度に自己嫌悪になって、無意識にまた溜息が口からこぼれた。

 

「そっか。まぁ、初めてだからな。また次頑張れば良いさ」

 

 プロデューサーは私に反省点や改善点を求めるわけでもなく、中身の薄っぺらい励ましの言葉をかけただけだった。ふてくされている態度の私を見て気遣っているのだろうか。プロデューサーまでもが私を子供扱いしているような気がして、心が重苦しくなり苛立ちが湧きかえる。

 だけどきっとプロデューサーだけでなく、世間一般から見ても私はまだまだ子供なのだろう。中学生の私はプロデューサーのように車の運転もできないし、莉緒さんたちのようにお酒も飲めない。メイクだって覚えたてでぎこちなく、きっと窓の外の若者たちのようなオシャレをしても必死に背伸びをする子供にしか見えないはずだ。それでも、

 

––––早く大人になりたい。

 

できないことが多い子供より、できることが遥かに多い大人に早くなりたい。アイドルとしても一人の人間としても、早く一人前になって誰に助けられることなく自立したい。

 その一心で、窓の外の大人たちを羨望の眼差しで見つめていた。

 

 

 

Episode Ⅲ : 俺と私のライアー・ルージュ

 

 

 

 やっと暑さが和らいだかと思いきや、途端に朝晩の気温がガクッと下がり始めた十月の末。私は初めて演劇のオーディションに挑戦した。十月上旬にオーディションへの参加が決まったこともあり、割と早い段階で台本も届いて、それなりの時間を要して準備をしてきたつもりだった。以前から舞台で何者かを演じる仕事に興味を抱いてのもあって、初めてのオーディションではあるが絶対に役を射止めてやると、気合も準備も十分なはずだったが、結果は落選。

 自分でも全くと言って良いほど手応えがなかったせいか、その報せを聞いても「やっぱりな」と思うだけで、自分でも不思議なほど悔しいという気持ちは湧いてこなかった。落選理由は直接教えてもらったりしたわけではなかったが、誰に聞かずとも薄々自分で勘付いてはいた。台本だってもうセリフを覚えるほど読み返したし、オーディションを受ける役の劇中でのポジションも完璧に把握していた。初めてのオーディションだからって緊張していたわけでもない。だけどそんなことよりもっともっと大事な要素が私の演技の中では欠落していたのだと思う。私は演じる役の気持ちを、おそらく微塵も理解できていなかったのだ。

 

「……演劇ってのはな、簡単な話、役者の人生経験がモノを言うんだと俺は思うんだよ」

 

 オーディションを受けた日、プロデューサーの運転する車で劇場へ戻る道中にプロデューサーは唐突にそう口にした。プロデューサーは二十代後半と、この業界ではまだまだ若い部類に入る(らしい)プロデューサーではあったが、劇場に来るまでは違う事務所で一からアイドルを手掛けていたこともあり、年齢の割に経験値は豊富な人だと聞いていた。だからそれなりにこの業界に身を置き続けてきた人間として、私のようなアイドルの卵を何人も見てきたのだと思う。

 そんな長年の経験で培われたプロデューサーの持論を否定するわけではない。もちろん、年齢を言い訳にするわけでもない。だけどその言い分を認めてしまうと、平凡な十四年間の人生経験しか持たない私に演劇は無理だということになってしまうのではないかと、そんな気がしていた。

 だからなのか、プロデューサーの言い分は理解できていたはずなのに、私は思わず開き直ったような口ぶりで言い返してしまった。

 

「それは分かっています。だけど、十四歳で経験できることって限られてるじゃないですが」

「まぁまぁ、それは分かってるよ。仕方のないことだ」

 

 まるで私の口撃を予測していたように「そう怒るなよ」、なんて言いながらプロデューサーは軽くあしらう。視線もずっとフロントガラスの先に向いているだけで、ちっとも私の方を見向きもしていない。私が内心では理解していることを分かっているからなのかもしれないが、それでも妙に子供扱いされている気がして、静かに揺れる車の座席がすごく居心地悪く感じられた。

 

「俺が言いたいことはな、今しかできないことを今のうちに経験しとけよってことだよ」

「……それ、どういう意味ですか?」

 

 私がそう問いかけると、車は緩やかにスピードを落として静止した。車の外から馴染みのあるメロディが聞こえてきて、私とプロデューサーを乗せた車の前を大勢の人たちが横切っていく。

 

「何気のない日常、誰もが経験するようなこと、そんな些細なことでも全てが貴重な人生経験になるんだよ。人生に無駄なことなんて何一つないんだからな」

 

 聞き覚えのある話だ。確か小説家などの物書きの人たちにとっては人生経験ほど価値のあるモノはないとまで言われているそうで、想像で紡がれた作品は実体験を基に作られた作品には絶対勝てないのだと、そんなことを以前百合子さんが話していた気がする。

 だとすると、十四年の拙い人生経験しか持たない私の演技はどれだけ薄っぺらいものだったのだろうか。どれだけ台本を暗記し役の立ち位置を理解していたとしても、それは周りを取り繕う張りぼてなだけで、結局私自身が乏しい経験しか持ち合わせていないのであれば、何者かを完璧に演じることは土台無理な話ではなかったのだろうか。

 悔しいけどプロデューサーの言う通りだと思った。私のように狭い世界しか知らない子供が持つ人生経験なんて、大人からすればたかが知れてるのだから。

 信号機から流れるメロディのリズムが変わり、通行人たちが足早に車の前を横切っていくようになった。その光景を眺めながら、私はやっぱり早く大人になりたいなと思う。私も早くあの人たちのように大人になれたら、もっと広い世界を知ってもっと多くの見聞を手に入れれるのに、と。

 

「だからさ」

 

 メロディが完全に止まって、最後の一人が駆け込むように慌てて横断歩道を渡っていく姿を見送った時だった。プロデューサーは初めて私の方を振り返った。信号が変わるまでのほんの一瞬の時間だったが、プロデューサーの瞳は私を真っ直ぐに射抜いていた。それはまるで、私の心の内までも見透かしているような眼差しだった。

 

「……早く大人になりたいなんて背伸びしないで、今の時間を大事にしろよ。嫌でもいつかは大人になれるんだから」

 

 そう言い終えて、プロデューサーはアクセルを踏んだ。私たちを乗せた車は、煌びやかな大人たちが賑わう通りから離れるように、再びゆっくりと走り出した。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「でも珍しいよね、冬馬くんが女の子家に連れ込むって」

「お前さぁ、俺の話聴いてたか?」

「うん、ちゃんと聞いてたよ。体調悪くて、それを口実に家に呼んだんでしょ?」

「だからちげーって言ってんだろ!」

 

 俺の必死の弁解もまるで聴いてもらえず、翔太は北斗が買ってきた八つ橋を囓りながら楽しそうに笑っている。その様子から何度弁解したところで翔太は俺の話をさらさら信じる気がないのだと悟り、無駄な労力を使った抵抗を止めることにした。

 北沢が俺の部屋にやってきた一週間後、すっかり体調も回復した俺の元へ東京に帰ってきていた翔太と北斗が各々の行き先でのお土産を片手に遊びに来てくれたのだが、持ってきたお土産を冷蔵庫に入れようとした際、二人は冷蔵庫に入れたままになっていた北沢の差し入れの余りを見つけてしまった。冷蔵庫の中には明らかに普段俺が買わないようなモノがある––––、誰かの出入りがあったことを察した妙に勘が鋭い二人の問いに対し、俺も何も考えずに馬鹿正直に話してしまったのが命取りとなってしまった。

 その結果がこの惨状である。女が俺の部屋にやってきた、たったそれだけのことで翔太はベッドの上を飛び跳ねながら興奮し、北斗は奇声を発しながら笑い転げていた。女絡みの話になると途端に偏差値が下がって究極に面倒臭くなる二人を見て、話してしまったことをひどく後悔したが後の祭りである。すぐさまうんざりするような尋問が幕を開けた。

 

「冬馬が全く女っ気がないから、そっちの趣味なんだとばかり思ってたよ」

「んなわけねぇだろ。てか、北斗はなんでそんな嬉しそうな顔してんだ」

「そりゃあ男好きより女好きの方が健全だからに決まってるからだろ?」

「ねぇねぇ、それより相手はどこの子? 学校の同級生とか?」

「絶対言わねぇから」

「どうせ、39 Projectの田中さんでしょ。僕、二人が仲良さげに服選んでるの見ちゃったんだよね」

「なっ……」

「なるほど、確かにこの前親しげに話してたからな。なんだ、そういうことだったのか」

「田中さん良い人そうだよねー! 見るからに真面目そうだし、奥手な冬馬くんとお似合いだと思うよ!」

「おい、勝手に決めんじゃねーよ! そもそも田中さんとは一切連絡先交換してねぇし」

「田中さん“とは”って、なら誰と連絡先交換したんだ?」

「そ、それは……」

「あー!! 僕分かったかも!! あの子だ、前Twitterで晒されてた!!」

「な、なっ、なっ……!」

「……北沢志保ちゃん、か。おいおい、彼女は確かまだ中学生だろ?」 

「冬馬くん、年下が好きだったんだ。意外だなぁ」

「ち、違うって言ってんだろ! お前らが期待してるような関係じゃねぇから!」

「それならどんな関係なのさ」

「そ、それは……」

 

 翔太の質問に、言葉を詰まらせた。

 俺と北沢の関係を表すのに適しているのはどんな言葉なのだろう。同業者、トップアイドルを目指すライバル……、友達(多分これは違う)、いくつかそれっぽい言葉たちが頭に思い浮かんできたが、どれもイマイチピンとこなかった。関係性がイマイチ掴めない俺たちだが、一つだけハッキリしているのは、互いに恋愛感情を抱いていないという点だけだった。

 俺自身も北沢を異性として意識しているわけではないし、恐らく北沢も俺に好意を持っているわけではないと思う。北沢のプライベートは詳しくは知らないけど、彼女の瞳はいつも果てしなく遠い場所にある夢だけを捉えていて、恋愛のような一時の浮ついた感情には全く目もくれていないように映っていた。俺を喫茶店に呼び出しのも北沢が相談をしたかっただけで、家に看病に来てくれたのもきっと同業者として俺の身を案じてていただけ。北沢がそれ以上の関係を求めているとは到底思えなかった。

 

「……自分でも分からねぇ。でもマジで彼女とかではねぇから」

「ふーん」

 

 納得したのかしてないのか、翔太はつまらなさそうな返事をしてベッドの上で横になった。ようやく地獄のような尋問も終わったようで、これ以上二人は北沢を詮索するような質問はしてこなかった。

 諦めた様子で退屈そうにする二人を見て安堵のため息を尽きつつ、二人には気付かれないようにと北沢の姿を思い浮かべる。家族を楽にさせてあげたいと話した北沢は一言で表せば“大人”で、目の前の俺のベッドでゴロゴロと転がりまわっている落ち着きのない翔太ととても同じ世代だとは思えないほどだった。

 どこか達観したかのように歳不相応に大人びていて子供の面影を全く感じさせない、夢だけを一心不乱に追い求めている清々しいまでの彼女の姿が俺は好きだった。でもその“好き”は決して北沢に向けてではなく、同じ夢を追う人間として切磋琢磨し合えるような、そんな北沢との関係性が俺は好きだったのだと思う。それは北沢自身にも言えることで、彼女が憧れているのはアイドルとしての天ヶ瀬冬馬であり、俺自身に興味や関心があるのではないと。

 そう言い聞かせて、俺はまぶたに浮かぶ北沢の姿を静かに消したのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



Twitterで毎日投稿を宣言したその日に挫折したので初投稿です。


 レッスンを終えて更衣室に戻ると、ロッカーに入れたままにしていたスマートフォンがメールの受信通知を画面に表示して私を待っていた。普段はあまり見かけない通知に少しだけ気を引かれたが、すぐにそのメールの内容に大まかな見当がついたため、私はスマートフォンの画面を消した。緊急性もないメールのチェックは汗で重くなったレッスン着から着替えた後でも良いだろうと、私は暗くなったスマートフォンに目もくれずハンガーにかけていたセーラー服へと手を伸ばす。

 

「そういえば、この前のオーディションはどうだったの?」

 

 明るい蛍光灯に照らされた更衣室に突拍子もないこのみさんの声が響いて、私は一瞬セーラー服を握っていた手を止めた。隣のロッカーの前で私を見上げながら首を傾げているこのみさんの様子が、まるで早くメールを確認しなさいよ、と私を急かしているように映った。勿論、そんなつもりはないのだろうけど、何気ないこのみさんの視線が妙に居心地悪く感じられて、私はセーラー服を片手に再びスマートフォンに手を伸ばした。

 画面のロックを解除してメールアプリを開く。未読のマークが付いたメールの差出人は私の予想通り、先日オーディションを受けた劇団の代表者だった。そしてメールの内容もまた、なんの捻りもないほどに私の予想通りだ。

 

「ダメでした。丁度今、落選のメールも届いたところです」

「え? あ、そっか、残念ね……」

 

 このみさんの先ほどの問いはオーディションの合否ではなく私の手応えを訊いたつもりだったらしい。その意図を私が汲み取れず、手応えを通り越して結果から話してしまったせいなのか、このみさんは伏し目がちにそう言った。だけど、私もそんな些細なことであからさまに機嫌を悪くするほど子供でもない。別に気にしてませんから、と言葉を付け足して、スマートフォンをロッカーの中に戻した。

 ……いや、プロデューサーに車の中で同じようなことを訊かれた時はムッとしていたかもしれないけど。

 

「ま、次頑張れば良いじゃない! 志保ちゃんまだ若いんだから。いや〜、お姉さんは羨ましいわ」

 

 このみさんが歯切れの悪い言葉を口にしたと同時に、更衣室のドアが控え目な鈍い音を立てて開かれた。更衣室に入ってきたのは茶髪のギブソンタックが特徴的な歌織さんだ。歌織さんはボイトレ組だったのか、レッスン着は乾いたままで、すぐに私たちに気が付くとニコッと笑って控え目な会釈をする。それに釣られて、私も無意識に頭を下げた。

 このみさんの一つ下の二十三歳の歌織さんは、見た目はさることながら言動や立ち振る舞いも、全てに品があるエレガントな大人の女性だった。こうした何気ない仕草でも画になるのは、正直ズルイと思う。大人の品格漂う歌織さんを見た後だとロッカーのミラーに映った自分の顔がいつも以上に子供染みて見えて、気が滅入ってしまうのが手に取るように分かる。誰にでも平等に優しくて大人の余裕があって、スタイルも良いし元音楽講師だけに歌唱力も抜群に高い、歌織さんは私が持っていないモノを全て持ち合わせている大人だった。そんな私の理想を具現化したような歌織さんを前にすると、どうしても劣等感を感じてしまうのだ。

 

「……若いって、そんなに良いことなんでしょうか」

 

 歌織さんに対する劣等感がまるで胸の内から押し出したかのように、留めておいたはずの言葉が口から飛び出した。ロッカーに備え付けられた小さなミラーの中の幼い私は、不安げな顔で私を見つめている。

 

「何言ってるのよ、若いに越したことはないでしょ。ね、歌織ちゃん?」

「え? ま、まぁ、確かに若い方ができることは多いですし」

 

 このみさんも歌織さんも、まるで使い古された回答しか言ってくれなかった。「子供は大人に比べて自由だ」、今まで何億何千回も聴かされてきた話だ。でも何億何千回言われても理解できなかったし、おそらくこの先何兆回言われても私は理解できないのだろうと思う。そんな漠然とした意見が欲しいわけじゃない。もっと具体的な、今の制限だらけの狭い世界に価値を見出せるような話を私は求めていた。

 私はそうは思えません、そう言って二人の意見を全否定すると、二人の大人は着替える動作を止めて、少し驚いたように私を見つめていた。

 

「子供の時って何もできないじゃないですか。私は早く二人のように大人になりたいです。自立して誰の手も借りずに生きていけるような、そんな立派な大人に」

 

 語尾に熱がこもっているのが、自分でも分かった。こんなことを熱く語って恥ずかしいという感情が少しだけ胸の底から沸いてきているのを感じたが、私はそれを無理やり底へと押し返す。ここで尻込みしていたら私の気持ちを二人に分かってもらえない、この二人に私の切実な気持ちが伝わってほしい、そんな純粋な想いがあったのだ。二人は様子を伺うように私を眺めていた。

 

「志保ちゃんはどうしてそんなに早く大人になりたいの?」

 

 まさに素朴な疑問、といった問いかけだ。

 歌織さんにそう尋ねられて、真っ先に思い浮かんだのは家族の姿だった。狭い団地の部屋で忙しそうに家事に仕事に追われる母の姿、そんな母の様子を幼いながらも何かを察しているかのように心配そうに見つめるりっくん––––。何度もなんども、自分の無力さを痛感させられたシーンだ。

 

「誰の力を借りずとも、生きていけるようになりたいんです。せめて自分のことは自分でできるような、そんな大人に」

「……なるほどねぇ」

 

 いつの間にか私服に着替え終えたこのみさんは、私の話を聴くと小柄な腕を組みながら目を閉じて、ロッカーに背中を預けていた。真剣に悩んでいるのか、難しい顔をして考え込むように唸っている。そんなこのみさんの様子を少し離れたところから微笑ましい笑顔で見守っていた歌織さんが、先に口を開いて沈黙を破った。

 

「これは私の考え方なんだけどね、子供の時間って大人になるために必要な寄り道だと思うの」

「寄り道、ですか?」

「そう。えっと……、どう例えれば良いのかしら」

 

 少しだけ困ったように綺麗な眉をハの字にして思考を巡らせた後、例えばの話ね、と切り出して優しい声で説明を始めてくれた。

 

「東京から大阪へ旅行に行くことになったとして、移動手段はどんな方法があると思う?」

「大阪ですか? 一般的だと飛行機ですよね。あとは新幹線とか、バスもあるかもしれませんし」

「そうね、後は普通列車とかフェリーもあるし、ヒッチハイクや自転車、その気になれば歩いてでも行けるし、幾らでも方法はあるでしょ?」

「そうですね……」

 

 だけど、それと大人になることがどう関係あるんですか。そう言おうとした私を遮るように、歌織さんが話を続ける。

 

「一番早いのは多分飛行機かしら。逆に車や徒歩、自転車なんかは当然その何倍の時間がかかるわよね」

「まぁ、そうなりますよね」

「でも飛行機じゃない方法の何倍の時間が掛かる中で大阪へ向かうとして、その道中で素敵な出会いや発見もあるかもしれないわ。美味しいお店が見つかったとか、運命の人と出会ったりとか、穴場のスポットが見つかったりとか」

「……確かに」

「それは飛行機のような便利な乗り物で向かうと絶対に出会えない経験だと思うの」

 

 時間という名の下、子供が大人になるまでの時間は皆平等に与えられている。どんなに急いだって早く大人になれるわけでもないし、どれだけ望んだっていつまでも子供のままいられるわけじゃない。だからこそ、早まらない時計の針を急かすような無駄なことはやめて、今の時間を大切にするほうが得策だと、歌織さんが言いたいことはそういうことだろうか。

 なんとなくではあるが歌織さんの言いたいことが見えてきた気がする。さすが元音楽講師だな、と思わず感心してしまうほどに的確な例えを用いた、分かり易い説明だった。

 

「沢山時間をかけて寄り道をした方が充実した旅行になるように、きっと沢山寄り道をして大人になった人の方が、経験も見聞も豊富になるんじゃないかしら」

「そうね、歌織ちゃんの言う通りだわ。学生の時の友達との付き合いも、退屈な授業も、どんなに何気ない時間でも大人になれば全部が貴重な経験になるんだから」

「そうね。あとは––––……、恋愛も、かな」

  

 歌織さんらしくない発言を聴いて、私は呆気にとられた。このみさんの言葉にそう加えた歌織さんは、長い長い時間を遡るような瞳で私を見つめている。まるで過去の自分を重ねるように私を見つめる歌織さんの優しい瞳は、今までに見たことのない色を宿していた。

 その瞳に導かれるように、ふと一つの記憶が蘇ってくる。確かあの話をしていたのは亜利沙さんだっただろうか、細かい記憶は定かではなかったがまだ39 Projectが始動して間もない頃、控え室で歌織さんの噂を小耳に挟んだことがあった。アイドルにスカウトされるまで、神奈川に近い田舎町で音楽講師として働いていた歌織さんには、高校生の頃から付き合っていた彼氏がいたそうだ。だけど歌織さんはアイドルになる道を選択したと同時に、長年連れ添った彼氏とはキッパリと別れて、単身上京してきた。アイドル活動をしていく上で足枷になると思ったのか、それとも何か別の理由があったのか、そもそも亜利沙さんが話していた情報も何処まで信憑性がある話なのかも分からない。だけど歌織さんはきっと歌織さんなりに多くのこと考え抜いて、葛藤をして、二十三歳からアイドルになる道を選んだのだと、亜利沙さんの話を聴いた時に私はそんなことをボンヤリと考えていたことは覚えていた。

 

「心配しなくても、嫌でもいつかは大人になる日が来るわよ。だけどそれまでに多くの寄り道をしておかないと、中身がなーんにもなくてつまらない、セクシーとは程遠い大人になっちゃうわよ」

 

 歌織さんだけじゃなくて、そう言って笑うこのみさんも、きっと劇場の皆もそうなのかもしれない。各々の人生の中で人並みの経験を沢山してきて、その度に悩んで苦しんで、時には悲しい思いもしながらも多くの決断を迫られて自分で答えを見つけて、幾多の選択を繰り返してきた結果が今の自分を形作っているのだろう。

 それは、誰かに助けられるばかりの何もできない無力な子供のままでいたくない、そのためには誰の手も借りずに、己の力だけで夢を叶える強さを手に入れるしかないのだと自分に言い聞かせて歩んできた私の生き方とはまるで真逆の生き様だった。私は夢を叶えるために必要のないことは全て切り捨てて生きてきた。誰かと共に過ごす時間を“馴れ合い”だと吐き捨て、人付き合いを避けて背伸びばかりをして、そんな私はもしかしたら皆に比べて人並みの経験が不足していたのではないかと思う。

 恋愛だったり友人関係だったり、そんな何気ない日常は決して世界的に大きなトピックではないはずだ。失恋したからといって世界が終わるわけではないし、友達と喧嘩したからといって夜が明けなくなるわけではない。それらの経験は決して特異なことではなく、世界中にごまんとあるありふれた話だと思う。だけどそういった経験は時にターニングポイントにもなりえる可能性を秘めていて、本人にとっては人生を大きく変える宝石のような価値のあるものになるのかもしれない。

 その宝石になり得る原石に目を背けて、自分の力で夢を勝ち取るため孤独を選んで沢山のものを切り捨てて、それで誰の力も借りず、一人で大切なモノを守れるほどの立派な大人になることはできるのだろうか––––。歌織さんの言う誰もが通るはずの寄り道を無視してきた私が、果たして人生という名の長い旅路を充実させることはできるのだろうか。自問自答し、自分の選んだ生き方に自信が持てない理由に私は薄々勘付いていた。時折ではあったが、年相応のことで悩み葛藤する同世代の子たちを無意識に羨む私が胸の奥底に潜んでいたことに気付いていたのだから。

 

「大人ってのはね、志保ちゃんが思っている以上に大人じゃないのよ。莉緒ちゃんはすぐ酔い潰れて誰かに介抱されるし、歌織ちゃんは寝ぼけて薄着のまま外に出ようとするし……」

「そ、それは言わないでくださいっ!」

 

 少しだけ話が脱線して、大人の二人が子供みたいな無邪気な笑顔で戯れ合う矛盾した光景を見ていた時だった。ロッカーの中から全体を揺らすような鈍い音が聞こえてきた。慌てて扉を開くとロッカーの中ではスマートフォンが揺れ、ロッカー全体に震動を伝えている。鈍い音をたてて震えるスマートフォンの画面にはプロデューサーの文字。私はすぐに手に取ると、通話ボタンを押して耳に当てた。

 

『あーもしもし。志保、まだ劇場いるか?』

「お疲れ様ですプロデューサー。今、着替えてて帰ろうと思っていたところです」

『そっか、なら丁度良かった。この後少し時間あるか?』

「ありますけど……。どうしたんですか、急に」

 

 今日はもう何も予定が入っていなかったはずなのにと、不審に思う私の疑問に、プロデューサーは電話越しで誇らしげに鼻を鳴らした。まるで私の問いを待っていたかのような、晴れ晴れとした調子の声で思いもよらぬ言葉を告げた。

 

『ならすぐ事務室に来てくれ。志保のソロ曲が上がってきたんだ』

「えっ!?」

 

 ドクンと、大きな音を立てて心臓が脈を打つ。驚きのあまり息をつくことも忘れ、私はスマートフォンを耳に当てたまま呆然としていた。

 

『ライアー・ルージュ、志保にピッタリの曲だぞ。次の定期公演でお披露目するつもりだ』

 

 

 




歌織さんの過去は、何処かで掘り下げれたら。
見たければ見せてやるよ(震え声


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



以前爆死したジュリアの期間限定SSR(小さなオーケストラ)を取り返すべく、課金する覚悟ができたので初投稿です。


 

 

 久しぶりに見た北沢の顔は、少しだけ迷っているように見えた。綺麗な色をした瞳は彼女の中で揺れ動く何かを反映するかのようにボヤけていて、普段の凛々しいまでの真っ直ぐな眼差しは影を潜めている。執着心を感じるほどに夢に真っ直ぐな北沢らしくないなと思いつつ、厨房の小窓から彼女の顔色を伺うように盗み見していた。

––––ピピピッ。

 背後で苛立ちを募らせるように、しつこく鳴り続けるタイマーの音で我に返る。ボンヤリと北沢を眺めることに夢中に鳴っていた俺は、やっちまったと内心焦りながら慌ててコンロの火を消した。湯気が立ち込める中、箸で一本だけパスタを捕まえて味見してみる。思っていた以上に麺の感触はしっかりとしていてギリ大丈夫だと安堵の溜息を吐くと、パスタを既に仕上げておいたクリームソースが乗ったフライパンに注ぎ込んだ。ここから先はもう何度もやってきた反復作業だ。

 

 体調もすっかり良くなり、看病をしてくれたお礼に是非飯でもご馳走させてほしいと、そうLINEを送ると北沢は遠慮しがちではあったが俺の誘いを承諾してくれた。ただ、以前Twitterにアップされた一件もあっただけに、迂闊に人目の付く店に二人で入るとまた面倒ごとを巻き起こしかねない。かと言って家に呼ぶのも気が引けた(北斗曰く、一人暮らしの部屋に彼女でもない女を連れ込むのは下心を持つ人間がすることらしい)ため、どうしようかと悩みに悩んだ結果、俺が普段バイトしている飲食店で落ち合うこととなった。この店は夫婦で営んでいる個人経営の店で、ランチタイムとディナータイムの合間は店を閉めている。その時間帯であれば、人目を気にせずランチをすることも可能だし普段から常連や店長の知り合いが来たら営業時間外でも提供していたりと、個人経営なだけあって何かと都合よく融通が効く店でもあった。今回も店長は俺の事情を聞くと、

 

「別に問題ないけど、彼女との食事に夢中になっても火と戸締りだけは気をつけろよ」

「かっ、彼女じゃねぇって!」

「そうかそうか、はっはっはっは!」

 

 そう言って嫌な顔一つせず承諾してくれた。

 話半分でからかいながら、今日もランチの営業が終わると店長は「賄い(冬馬二人分)、給料天引き」とホワイトボードにしっかりと書き記し、そそくさと帰って行ってしまった。暫く一人の時間が続き、その後北沢が半信半疑の表情を浮かべながらやってきた。

 粉チーズをパスタの上に降って、パセリを添える。これで完成だ。いつもより少しだけ気合いを入れて作った二人分のカルボナーラを持って、俺は北沢の待つ狭いフロアへと向かった。

 

「わりぃ、待たせたな」

「あ、いえ、全然大丈夫です。それよりお代、やっぱり払わせてください」

 

 スマートフォンを眺めて待っていた北沢の視線がチラリとレジ横のホワイトボードへと移る。その視線の動きが意味するが、すぐに理解できた。

 

「気にすんなよ、この前のお礼なんだから」

「それでも申し訳ないです。幾らでしたか?」

「だから大丈夫だって、ここ従業員は割引で食えるから」

 

 まぁ、嘘だけど。

 

「ならその割り引かれた値段を払わせてください。さすがに作ってもらって代金まで払ってもらうのは申し訳ないです」

「いいってば。北沢も高校生なんだから手持ちすくねーだろ?」

「…………私、まだ中学生だって言いましたよね? もしかしてわざと言ってませんか?」

「さっ、早く食べようぜ。冷めちまったら美味しくねぇから」

「……もうっ」

 

 俺の冗談に北沢は呆れたような顔つきで口角を上げて苦笑いをする。ようやく折れたのか、それ以上は何も言わなかった。

 いただきます、と口にして礼儀正しく胸の前で手を合わせた後、今にも折れそうな白いか細い手で上品にフォークを駆使し、パスタを巻き込んでいく。フォークに絡みついたパスタが赤色の唇の奥に入り込むと、北沢は見張るようにして目を見開いた。料理人として、この一瞬が一番嬉しい瞬間だ。

 

「……こんな美味しいカルボナーラ初めて食べました。これ本当に天ヶ瀬さんが作ったんですか?」

「当たり前だ。そもそも、今この店に俺ら以外誰もいねーだろ」

「確かに。驚きました、天ヶ瀬さんって料理得意だったんですね」

 

 ランチタイムを終えて俺たちだけになった狭い店内に、淡々とした抑揚のない北沢の声が響く。普段のような落ち着いたトーンの声ではあったが、声とは裏腹にその表情は心底仰天しているような顔つきだった。基本的に無表情でバリエーションが乏しい北沢の表情の中で、この驚愕の顔はわりとレアなんじゃないかと思う。

 

「料理は好きだぜ。家でもよく自炊してるし」

「そうなんですか? 少し意外でした、あんまり料理のイメージはなかったので」

「それ、よく言われるな。それより北沢も結構料理とかすんだろ? この前のお粥もだいぶ手慣れてた感じがしたけど」

「料理って言っても母の手伝いくらいですよ。あのお粥は弟が寝込んだ時にいつも作ってるモノだったんです」

「そっか、料理するのは好きなのか?」

「はい、どちらかと言われれば。あまり本格的な料理は作れませんけど」

「へぇ……。あ、そういや今度、カレーをルーから作ろうと思ってんだけど良かったら……」

 

 そう言いかけた時、古びた木製の窓の外から大きなクラクションの音が鳴り響いた。まるで今から口に出そうとしていた言葉を慌てて遮るような、そんなクラクションの音によって俺は反射的に口を閉ざす。話が盛り上がってつい変なセリフを口走りそうになっていた俺に冷水を浴びせるように、北斗の言葉が記憶の片隅から湧き出てきた。

––––世間一般的に、一人暮らしの部屋に彼女でもない女を連れ込むのは下心を持つ人間がすることだぞ。

 北沢は彼女でも何でもない。友達とも言えるかどうかすら曖昧であやふやな関係だ。それなのに俺は一体何を意識して、期待しているのだろう。何か得体の知れない、大きな勘違いをしているような気がした。

 変に思われたくない、その一心で俺は喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んで、心の中で踏み潰した。俺の心境を知る由もない北沢は、目の前でパスタを絡ませたフォークを持つ手を止めたまま、不思議そうに俺を見つめて未だに次の言葉を待っている。

 

「わりぃ、なんでもねぇ。それより最近調子はどうだ?」

 

 強引に話をすり替えた。突然話の矛先を向けられ、俺を見つめる綺麗な瞳には若干戸惑いの色が浮かぶ。その刹那、北沢の表情からは曇りが垣間見えた気がした。

 北沢は突発的に投げつけられた質問には答えなかった。俺から視線を逸らすと、一呼吸つくようにフォークに巻かれたままのパスタを口の中へ運び、無言のまま食している。沈黙漂う店内には、まるでハムスターが回し車を走るかのように厨房の換気扇が回る音だけが広がっていた。

––––あれ、もしかして聞いちゃいけない質問だったのか。

 そんな心配を抱き始めた時、パスタを食べ終えて水を口に含んだ北沢が、ようやく重そうな口を開いた。

 

「調子って、それはアイドル活動のことですよね」

「え? ま、まぁそんなつもりだったけど」

 

 確認をするかのように俺にそう尋ねた後、北沢の表情が再び曇る。陰りを含んだその表情は、俺がつい数分前に厨房の小窓から眺めていた一人の時の北沢の顔だった。必死に言葉を探そうとする彼女の瞳はやはり揺れていて、迷いを隠す胸の内を表しているようだった。

 

「……最近、ソロ曲を貰いました。今度の定例ライブでソロで立たせてデビューさせてくれるそうです」

「え?」

 

 北沢の重い口から飛び出してきたのは、どんな話が出てくるのかと身構えてた俺の予想を良い意味で裏切る朗報だった。

 それは全然良いことなんじゃねぇの。39 Projectが始動して間もないのに、もうソロ曲をもらってデビューステージを用意してくれて、アイドルとしては絶好調じゃないか。

 それなのに、北沢の顔は全く嬉しそうな色を含んでいない。それどころかどうしてこんな不安げな顔をしているのだろうか。

 

「……おめでとう、良かったじゃねぇか」

 

 アイドルとしての一歩を踏み出そうとする北沢に、祝福の言葉を掛けるのがベストだと思っていた。が、北沢は歯切れの悪い口調で「ありがとうございます」と言っただけで、その顔に浮かぶ不安色は一向に拭われる気配がない。

 しばしの沈黙。言葉を待ったが北沢は俯き加減で視線を合わそうとしてくれなかった。嬉しいはずの報告を嬉しくなさそうな顔で話す矛盾した光景に、俺はとうとう我慢できずに疑問を呈した。

 

「どうしたんだよ、さっきから浮かない顔して」

「いや、その……」

「嬉しくないのか? アイドルとしてやっと一歩踏み出せるんだぞ?」

「う、嬉しくないわけではないですけど……」

 

 次の瞬間、俺はそのセリフを言わせてしまったことを激しく後悔することとなった。

 

「…………私にはとてもじゃないけど歌いこなせる気がしなくて」

 

 絞り出されたような声は微かに震えていた。微力な秋風にでも吹かれたらすぐにでもかき消せれてしまいそうな、そんな弱々しい声だった。

 誰かに頼ることを嫌い、団結することを馴れ合いだと吐き捨て、一人でも夢を叶えれる強さが欲しいと話していた北沢が、負けず嫌いでプライドが高い人間だということには薄々勘付いていた。そんな人間が他人に弱音を吐くことを許せるのだろうか。それは北沢自身が自分を取り繕ってきた鎧を自ら脱ぎ捨てる行為に等しいのではないのだろうか。夢を叶えること以外眼中にないような北沢の姿が過去の自分と重ねって見えた俺にとって、それは聞くまでもない愚問だった。

 ひたむきの夢を追う勢いが消え失せた北沢の瞳を見て俺は察した。俺は多分、北沢自身が一番口に出したくなかったであろう言葉を言わせてしまったのだと。

 

「……何かあったのか?」

 

 プライドの高い北沢が弱音を吐くくらいなのだから、余程何か上手くいっていないことがあるのだろう。彼女が被っていた強がりの仮面を剥がしてしまったことへの罪償いのつもりなのか、頭で考えるよりも先に口から言葉が出た。

 北沢の迷いを含んだ眼差しをキャッチャーミットでしっかりと受け止めて、彼女目掛けてボール返す。今度は北沢が俺を見上げているのだと高慢な勘違いをするのではなくて、同じ夢を追うライバルとしてフラットな目線で相談に乗れればという想いを込めて。

 そして、

 

「先日、舞台のオーディションを受けたんですよね」

 

 北沢はゆっくりと話し始めた。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 プロデューサーから貰った私の記念すべき初ソロ曲は、“ライアー・ルージュ”という名の、素直になれない自分の恋心を隠して本心をルージュで隠す……という心境を謳った片思いがテーマの楽曲で、偶然にも、私が先日落選の印を押された舞台の役とマッチするかのような歌詞だった。

 この曲を私は歌いこなせるのだろうか。初めてデモを聴いた時に浮かんだのは期待よりも不安だった。歌うことも誰かを演じることも、結局はその真髄を理解しなければ人の心に届くことのない、中身のない上部だけのパフォーマンスになってしまうことを私は知っていた。そして、それはプロとして恥ずべきパフォーマンスだということも。

 一目聴いた時点で嫌な予感はしていたが、案の定レコーディングは難航を極めた。音程を外しているわけでもないし、曲調もバッチリ掴んでいる手応えがある、だけど舞台のオーディションの時と同様に私は未経験がゆえに肝心の『片思いをする感覚』がまるで理解できていなかったのだ。

 

「デビュー曲だからって、変に気負いすぎんなよ。ありのままの志保で歌えばいいだけだから」

 

 何度録っても気持ちが抜けたような曲にしかならず、悪戦苦闘する私にプロデューサーはそんな無責任な声がけしかしてくなかった。ありのままでと言われてもこれがありのままで歌った結果だし、何より先月の定例ライブ第一弾でステージに立った同期らを見ていると、気負いするなという方が無理な話だと思う。39 Project始動後、初めて劇場で行われた定例ライブでは私と同世代の三人がそれぞれデビュー曲を貰い、ソロでステージに立った。春日未来の“未来飛行”、伊吹翼の“恋のレッスン初級編”、そして最上静香の“Precious Grain”––––。どれもつい先日アイドルになったばかりだとは思えないほどのクオリティだった。

 デビュー第一弾が大成功で終わった以上、必然的に後続するデビュー組に期待がかかる。今回第二弾として初ステージを踏む私と琴葉さん、麗花さんの三人の間には誰も口にこそしなかったが、気を抜けばすぐにでも押し潰されてしまいそうなほどに重苦しいプレッシャーが蔓延していた。

 私としてステージに立つからには誰にも負けたくない。同時期にデビューする琴葉さんと麗花さんにはもちろん、先にデビューした三人にも。そう思っているのにレコーディングは全くと言っていいほど上手く進まず、定例ライブが近づくにつれ私は焦りを覚えていた。

 

「……片思い、か」

 

 天ヶ瀬さんは少しだけ角度をつけるように深く椅子に腰を下ろして、私の舞台のオーディションを落ちた話からライアー・ルージュがやってきたところまでの一連の話を聴いていた。話が終わると真っ黒なエプロンのポケットに手を突っ込んだまま、私の悩みの根源を独り言のようにボヤく。真剣な表情を浮かべる天ヶ瀬さんもまた、その正体分からずに掴み所を探しているような感じがした。

 

「北沢は今まで誰かを好きになったこととか、恋愛をしたことってねぇの」

「ありません」

「即答過ぎんだろ……」

 

 即座に否定され、「ま、北沢らしいな」なんて言葉と共に困ったように目の前で溜息をつかれた。その態度が私を子供扱いしているような気がして、思わずムッとした私は可愛気もなく聞き返してしまう。

 

「そういう天ヶ瀬さんはあるんですか。誰かを好きなったり付き合ったりしたことが」

「……あのなぁ、俺高校生だぜ? さすがに高校生にでもなれば少なからず恋愛経験くらいあるだろ」

「へ?」

「なんだよ、その意外そうな顔は」

 

 今度は天ヶ瀬さんの伸びた前髪の奥に潜む目が、不機嫌そうに細くなった。当たり前だろと言わんばかりの回答に、私は呆気にとられたままだ。

 

「付き合ったことあるんですか?」

「あるってば、そんな多くはねぇけど」

 

 意外だった。天ヶ瀬さんも私と同じように、恋愛事を億劫に感じているのだとばかり思っていたからだ。

 天ヶ瀬さんはどんな人を好きになって、どんな人と付き合っていたのだろう。そんなイメージも付かないような疑問がふと浮かび上がってきた。

 天ヶ瀬さんはアイドルだけに顔も良いし、無愛想に見えて優しいところもあるし、勝手なイメージではあるがいつもクラスの輪の中心にいるような人間に思えた。きっと男女問わず友達が多くて、いつも大勢の人たちが天ヶ瀬さんの周りを囲んでいて、人付き合いが乏しい私とは正反対のようなスクールカースト上位に入る人間なのだろう。

 そんなクラスの人気者が好きになるのは私のような人間ではなく、きっと自身と同じようなスクールカースト上位層の人なんじゃないかと思う。熱血なところもあるみたいだし例えるなら千早さんのような何かにストイックに頑張っている女の子とか、天ヶ瀬さんのように男女問わず友達が多くて一緒にいるだけで楽しくなれそうな恵美さんみたいな明るい今時の女の子とか––––、いや、もしかしたら意外に真面目な学級委員のような優等生が好きなのかもしれない。そう思った瞬間、真っ先に思い浮かんだのは琴葉さんだった。そして何故か今まで連想してきた中で、天ヶ瀬さんの隣にいて一番違和感がなかったのは琴葉さんのような気がしていた。

 肺より更に深い奥底から糸で急激に引っ張られるように、胸がキュッと締め付けられるような感覚が走った。それは、私が今までに経験したことのないような未知の感覚だった。もちろん、その感情が何を意味しているのか、この時の私が知るはずもなく。

 

「天ヶ瀬さんって、どういう人が好みなんですか」

「はぁ? なんだよ急に」

「なんだか誰かとお付き合いしている姿が想像できなくて」

 

 私の知らない天ヶ瀬さんの過去の恋人へ、思いを馳せる。きっとかつて好意を寄せられた人は私の知らないような天ヶ瀬さんの一面を沢山知っているのだと思う。そう考えると途端に名前も姿も知らないかつての恋人が異様に羨ましくなって、深淵でグツグツと静かに音を立てて浮かび上がってきた黒い炎が、肺の底から私の胸を引っ張り続けていた糸に引火し始めていく。

 そしてその炎が胸まで届いた時、私は自分でも信じられないようなとんでもない発言をしてしまった。

 

「……きっと天ヶ瀬さんが付き合う女の子って、琴葉さんのような人なんでしょうね」

 

 

 




更新が途絶えたら爆死したと思ってください。
それじゃ、俺iTunesカード買ってくるから……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



評価、お気に入り、感想、いつもありがサンキュー!
水着まかべーとチア桃子によって4%の現実を突きつけられたので初投稿です。


 私––––北沢志保という人間はわりと冷静沈着で、後先考えて行動できる人間だと思っていた。間違っても一時の感情に身を任せ、思い付いたことをそのまま口に出すような、そんな幼稚で無責任な言動をするような人間ではなかった。感情に支配された突発的な言動が、いかに建設的ではないかを理解していたからだ。

 だからこそ、自分の口から漏れた言葉に耳を疑った。まさか自分が頭で考えるより先に口を動かすなんて今まで記憶になかったし、そんな感情に支配される自分が想像できなかったからだ。まるで自分が自分じゃないような、そんな不気味な違和感が胸の中をグルグルと渦巻いていた。

 

「……なんで、田中さんが出てくんだよ」

 

 なんでだろう、理由があるなら私が教えて欲しいくらいだ。天ヶ瀬さんは困ったように目を細めながら、必死に私の胸の内を探ろうとしているようだった。私を見つめる彼の視線の背後の窓からは、灰色の雲たちが淀んだ空が見える。私たち二人だけの小さな世界にも曇天模様の空模様から雨の匂いが漂ってきて、息を吸うと鼻を通って胸の中にじんわりと広がっていくのが分かった。

 

「天ヶ瀬さんと琴葉さん、何だかお似合いな気がして」

 

 まるで私ではない何者かが憑依しているかのように、また勝手に口が動く。

 何者かに憑依された今の私はどんな顔をしているのだろう。天ヶ瀬さんの瞳に映る自分を確認するかのように、少しだけ無愛想で近寄りがたい雰囲気が漂う目をジッと覗いてみた。彼の瞳に映る私がどうか醜い女の子の姿ではありませんようにと、そう願いながら。

 

「何バカなこと言ってんだ、田中さんは関係ねぇよ」

 

 私の発言の意図が分からずに困惑する天ヶ瀬さんの様子から、きっといつものような可愛気のない無表情なのだと容易に想像がついた。

 琴葉さんの様子からも天ヶ瀬さんの今のリアクションからも、二人の間に自分が思うようなことがないことくらい理解はしている。それでも私の胸のずっと奥底、深淵でグツグツと音を立てる正体不明の炎は消える気配が一向にない。私の胸を締め付ける糸を這うように、深淵から伝ってくる炎が真っ黒な感情を運び続けている。真っ黒な感情の正体も、炎を鎮火する術も、何一つ解決策が分からなかった私は、為す術もなくひたすらに洗脳されることしできなかった。

 

「そうですか」

 

 吐き捨てるとは、まさにこういう言い方のことを指すのだろう。何の解決にもならない、相手を困らせるだけのような言葉を口にした直後、私は無意識に椅子から腰を上げて、目の前で更に訳が分からず呆然とする天ヶ瀬さんを尻目に、椅子にかけておいたカバンを肩にかけていた。そして意識的に天ヶ瀬さんから視線を逸らし、席を離れた。私の足が向かったのは、曇天の空が待つドアの向こう側の世界だ。

 

「お、おいっ、北沢! ちょっと待てよ!」

「すみません、用事を思い出したので今日はもう帰ります」

「用事って……、絶対嘘だろ! どうしちまったんだよ、急に」

「だから用事だって言ってるじゃないですか。ご馳走様でした、お先に失礼します」

 

 何度も背後から私の名を呼ぶ天ヶ瀬さんの声に、私は一度も振り返らずに店を出た。こういった拒絶の仕方が幼いやり方だというのは分かっている。でも今、どうしてこんなに胸の中に黒い感情が広がっていくのか、どうして私じゃない誰かが突然口を借りてあんなことを口走ったのか、それらを天ヶ瀬さんにちゃんと説明できる気がしなかったし、何よりその感情自体を説明する行為に激しい抵抗を感じていた。私が抱えている感情の正体を天ヶ瀬さんにだけは知られてはいけないのだと、深淵の底に居座る主が必死にそう私に告げていたのだ。深淵の主に逆らうことすらできず、ただただ思いのままに操られる私は逃げるようにして店を出た。

 突き動かされるように店を出ると、手のひらに一滴の雫が落ちてきて弾けた。その拍子に喫茶店で天ヶ瀬さんと話をしたあの日、私が先に店を出た時の感触が手のひらに蘇ってくる。心の重りが取れたような開放感、私が見上げたまだ暑さの残る空は、今飛び立とうとする私を迎え入れるように青く澄み渡っていて、何処までも登っていけそうなほどに高く、私を見下ろしていた。今はあの時と正反対だ。青空をかき消すかのように曇天が広がっていて、灰色の雲たちはポツポツと涙を溢している。空が溢した涙を染み込ませたかのように、私の気持ちはとても重かった。

 

 帰路の途中、いよいよ雨が酷くなってきて私はビニール傘を買おうとコンビニに立ち寄った際、トイレの鏡で自分の顔を確認してみた。どんな醜い顔をしているのかと思っていたが、トイレの少しだけ汚れた鏡に映し出しているのは、可愛げがなくて、愛想のない顔をした、いつもの北沢志保の顔だった。誰かに憑依されて操られているような感覚を確かに覚えていたはずなのに、鏡の中の私はいつもと何も変わらないの私。強いて言えば、唇が少し赤くなっていることくらいしか変化が見当たらない。

 

「……そういえば、口紅」

 

 私らしくない、赤く染まった唇に指を添える。中学生の私が買える口紅なんてたかが知れているけれど、それでも口紅をすることで少しでも大人になれたらなと、そんな背伸びをする気持ちで、家を出る前に自分の唇を慣れない手つきで紅に染めていたことを思い出した。

 だけど結局口紅を塗ったくらいで大人になんてなれるはずもなく、天ヶ瀬さんも気付いていないのか特に変わった反応も見せなかった。多分そこまで私のことを見ていなかったのだろうなと、そう思うと途端に紅色に染まった唇がひどく滑稽に見えて、私は洗面所の蛇口を捻った。勢いよく溢れてきた水を手のひらに貯め、紅色の唇に強引に浴びせる。

 

––––もしかしたら私は憑依されていたのではなく、あの黒い感情や深淵に潜んでいた主の正体は、誰でもない私自身だったのではないのだろうか。

 

 そんなを不安を口紅と一緒に流し落とせればと、その一心で私は何度もなんども唇を拭った。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 天ヶ瀬さんに会えれば前のように心の霧が晴れてるのではないかと、そんな根拠のない期待を抱いていた私だったが結果は最悪だった。前に進むどころか、更に状況が悪化した気さえする。身勝手な話ではあるがこんな気持ちになるくらいなら会わなければ良かったと、そんな後悔を抱くほどに。

 だがそんな私の心境とは裏腹に、翌日訪れた劇場ではなんとも摩訶不思議な現象が起こった。

 

「……ど、どうした。志保、今日は様子が変じゃないか」

「信じられない。金曜日までの北沢さんとはまるで別人だわ」

 

 レコーディングスタジオで私のライアー・ルージュを聴いたプロデューサーとボーカルのトレーナーは、二人揃ってあんぐりと口を開け、私が唄ったライアー・ルージュを絶賛したのだ。

 

 

 

 ★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「……冬馬さぁ、もう一度確認させてくれ」

「なっ、なんだよ」

「コレは冬馬が“知り合いから譲り受けたチケット”、だったんだよな?」

「そうだって、初めからそう言ってんじゃねぇか」

「ならどうしてチケット購入者の名前が天ヶ瀬冬馬になってるんだ?」

「そそそそ、それはチケットくれたやつが俺と同姓同名だったからで……」

「天ヶ瀬冬馬さんが取った765プロ劇場の定例ライブのチケットを、天ヶ瀬冬馬が譲り受けたってことだな」

「…………そうだよ、なんか文句あんのよ。文句あるならチケット返してもらうぞ」

「ホントに!? なら僕と北斗くんはライブ行かないでこのまま帰るね!」

「お、おいっ! ここまできて何言い出すんだよ! バカっ、マジで帰んなよっ!」

 

 本気で帰ろうとする翔太の肩を慌てて捕まえて引き止める。捕まった翔太は面倒臭そうな顔をしつつも俺を見て口角を上げており、その光景を見守っていた北斗は溜息混じりに「どうしようもないな」なんてボヤきながら苦笑いをしていた。

 北沢と最後に会ってからあっという間に数週間が経過し、東京の街は煌びやかなイルミネーションによって覆われるようになった。吐く息が白くなり、時折駆け抜ける風が肌を切り裂くように寒くなって、見上げた先の空では毎日のように多くの灰色の雲たちが渋滞を起こしている。冬模様の空が陽が指す時間をめっきり減らしてしまったが、曇り空の下を行き交う人たちは対照的に、日に日に街中に増えていく緑と赤のカラーに心を踊らせ、賑わい始めているようだった。

 北沢とはあの日以来、妙に気まずくて一度も連絡を取っていない。毎日のようにあの日をことを思い出しては何が原因で北沢が不機嫌になったのかを考えてみるも、思い当たる節も、ここまで時間が空いてしまった今になって掛ける言葉も、未だに見つけれずにいた。

 

「……アイツ、どうしちまったんだよ」

 

 あの日突然背中を向けて立ち去った彼女の背中を思い出して、ふと俺の口から溢れた言葉は、周囲の人混みの騒音に掻き消された。拡声器を通して響き渡るスタッフの声が重なったのもあって、幸い隣の北斗と翔太にも聞こえていないようだった。

 思い返せばあの日の北沢はずっと様子が変だった。ふとした時に見せる彼女の横顔は何処か不安げで、夢に向かって真っ直ぐで綺麗な瞳は胸の中の迷いを表すように揺れてボヤけていて––––、なにより初めて貰ったソロ曲を初ステージで歌いこなせる気がしないと、そんな弱音を口にした北沢の表情が印象的で、気掛かりだった。

 あれからどうなったのだろうか。北沢は自分なりの答えを見つけて、迷いを振り切ることができたのだろうか。直接連絡して確認するのが単純かつ効率的な方法だと頭では理解していたが、何度LINEを開いて北沢宛の文章を打っても、最後の送信ボタンを押すことを躊躇ってしまい、結局あの日から今日まで一度も北沢にLINEを送ることはなかった。憶測ではあったが、俺が何度も打っては消したようなメッセージを、北沢が求めているとは到底思えなかったのだ。俺に背中を向けて足早に立ち去ったあの日、色々なモノを背負ってしまった彼女の小さな背中は、優しい言葉や励ましいの言葉を拒絶しているような、そんな風に俺の瞳には映っていたのだから。

 それでもどうしても北沢のことが気になった俺は、こうして彼女がデビューをすると話していた定例ライブのチケットを購入し、765プロの劇場まで足を運ぶことにした。勿論、一人でライブに参加するのはおろか、北沢が目当てだなんて口が裂けても言えるはずもなく、あくまで偶然を装って北斗と翔太も連れてきて、ではあるが。

 

「初めてきたけど、なんかこじんまりとした感じだね」

「お前なぁ、そういうことは言うなって。何処で誰に聞かれてるか分からねーんだから」

 

 決して多いとは言えない人混みを抜け、辿り着いたのは劇場のキャパ数が千人にも満たないであろう小さなホールだった。翔太の言う通りまさに“こじんまり”としたホールは開演十分前なのに関わらず人の数もまばらで、チラホラと空席も多く目に付く。夏に観に行った天海たちのアリーナライブが記憶に新しいだけに、どうしてもイマイチ盛り上がりに欠けているといった印象が拭えなかった。

 

「39 Projectはまだ始まったばかりだから仕方ないさ。いくら765ASの妹区分といえども、知名度も人気もまだまだからな」

 

 765 ALL STARSに続くアイドルグループとして世間の注目を浴びていた39 Projectだが、当然その中身はまだまだ知名度のない新人アイドルたちの集団で、実態は北斗の言うように厳しいようだ。恐らく今日のライブを見に来ている人たちの中で、熱心なファンや固定のアイドルの追っかけは極少数で、大半はアイドルが自ら声をかけて集めた友達や知り合いたちなのだと思う。若い中高生たち以外のお客さんたちは皆、これから始まるライブを楽しみに待つというより、今からステージに出てくる商品を品定めをする鑑定士のような眼差しで開演を待っているようだった。

 

「ま、お客さん集めるのは本当に大変だもんねー。ビラ配りなんかもうしたくないよ」

「へっ、そんな翔太に朗報だぜ。来月のライブ前にまた街頭でビラ配りすることになったから、気合い入れとけよ」

「えぇ、なんでぇ!? 僕そんなの聴いてないよ!」

「聴いてねぇって、お前がこの前俺ん家でミーティングしてる時に寝てたんじゃねぇか!」

「おいおい、二人ともあまり大きい声を出すなよ––––」

 

 誰かにバレるかもしれないだろう。そう、北斗は警鐘を鳴らしたかったのだと思う。だけど悲しい哉、北斗がその言葉を口にする前に危惧していた事態が起こってしまった。通路を挟んだ向かい側の席に座っていたキャップ帽にサングラスを掛けた女性がまじまじと俺たちの方を向いていて、何か確信を得たかのように立ち上がるとコツコツとブーツのヒールが床を叩く音と共に向かってきたのだ。

 サングラスの奥で俺たちを見つめてるであろう視線から逃げるように咄嗟に俯いた時、ヒールの音が止んだ。チラリと見えた女性のブーツは俺の隣の席の前で足を止めている。

 

「やっぱり北斗じゃん! 何してんの、こんなところで?」

「チャオ、恵美ちゃん。久しぶりだね」

 

 砕けた口調で話す北斗の声につられ、顔を上げた。親しげに北斗に話しかけた女性のキャップ帽のツバの先、サングラスをズラした僅かな隙間から覗く大きな瞳と視線が交錯する。少しだけ驚いたように俺を見つめる恵美と呼ばれる女性の視線に気が付いた北斗が、簡単な紹介をしてくれた。

 

「紹介するよ、友人の所恵美ちゃんだ。何度かモデルの仕事で一緒になったことがあって、今は39 Projectのメンバーとしてアイドルをしているんだ」

「にゃはは、アイドルって言ってもまだまだ無名なんだけどね。二人のことはよく聴いているから知ってるよ。ま、よろしくねっ!」

 

 どうやら北斗のモデル関係の友人だったらしい。本人はまだアイドルとしてデビューはしていないそうだが、今日はデビューする三人の応援で来ていたのだと話していた。

 周囲に気遣ってか、俺と翔太の紹介を省いてくれた所は人懐っこい屈託のない笑顔で笑っている。だけどその笑顔が、俺にはどうにも何か企んでいるような笑みにしか見えなかった。

 

「それで、どうして北斗たちが劇場に来てんの?」

「冬馬から急に誘われたんだ。チケット買ったから三人で行こうって」

「お、おいっ!」

「ふぅ〜ん、なるほどなるほど……」

 

 所は北斗の馬鹿正直な説明を聴いて、納得したような口ぶりで頷いていた。だけど所の微かに緩んだ口元と俺に向ける狐のような目は、明らかに何かを隠しているような雰囲気が漂っている。アレは本心を見抜いている顔だ。そのうえで、敢えて見て見ぬ振りをしているような気がした。

 勘や察しが良い奴だったら面倒くせぇな、なんて心の中で毒を吐いて、なるべく面倒毎にならないようにと、俺は顔を横に逸らす。所は追及するつもりはないのか、北斗と暫く親しげに他愛もない会話を繰り広げているだけで、それ以上俺たちが劇場に来た理由に触れることはなかった。

 この時の俺の直感は確かに当たっていた。だけどたった一つ、俺も所も重大な勘違いをしてしまった。そして面倒見がよくて世話好きな所の性格も災いし、その勘違いが後にとんでもない事態を引き起こすことになる。もちろん、この時の俺はそのことを知る由もない。

 

「それじゃ、今日は楽しんでってねー!」

 

 少し癖のある女性の開演のアナウンスが入ったタイミングで、所は目深にキャップ帽をかぶり直して去って行ってしまった。

 同時に会場全体を照らしていた灯りが緩やかに弱まり始め、あっという間に灯りが消え去り厚い漆黒に染まっていく。一面が真っ暗になると会場全体には緊張感が張り詰め、期待と不安が混じったような歓声があちこちから挙がった。

 

(いよいよ、か……)

 

 どうか、北沢が大きな失敗なくアイドルとしての一歩を踏み出せますように。

 祈るような気持ちで、俺は闇の中で輝くペンライトたちを見つめていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



北沢志保のATフィールド全壊!
投稿者レベルMAXに上げて戦ってやるぜ!な勢いで初投稿です。

一応規則通りNexToneに申請済みだけど、しくじってたら消されるかも。その時は許してクレメンス。


 天ヶ瀬さんの夢を見た。

 立っているのが精一杯なほどの強い風が駆け抜けていく、だだっ広い滑走路で私は蒼一色に染まった空を呆然と見上げていて、私が見上げる視線の先では天ヶ瀬さんが私を見下ろしているのだ。空に浮かぶ天ヶ瀬さんの顔はボヤけていてハッキリと見えないが、優しい声で「早く来いよ」と言いながら、何度も私を呼びながら手を差し伸べていた。

 天ヶ瀬さんの手を握ろうと、私は必死に腕を伸ばす。だけどどんなに手を伸ばしてもジャンプしてみても全然天ヶ瀬さんが差し出してくれた手には擦りもしなくて、次第に優しかったはずの私を呼ぶ声色は季節が反転するかのように、冷たくなっていく。それでもどうにか手を握りたくて、必死に身体中の力を使ってジャンプをすると、その途端にまるで私の努力をあざ笑うかのような冷気を帯びた強風に拐われ、バランスを崩して倒れてしまった。そして転倒した私を見て、空の上の天ヶ瀬さんはこう言うのだ。

––––これだから、子供は嫌なんだよ。

 聞き間違いかと思って空を見上げると、今度はハッキリと天ヶ瀬さんの顔が認識できて、呆れたように私を見下ろしている。伸びた前髪の奥の垂れ目は、私を軽蔑するように見つめていた。

––––もういいよ、お前。

 冷たい口調でそう言い残し、痺れを切らした天ヶ瀬さんは背中を向けて飛び立ってしまった。私は滑走路で倒れつつ、次第に遠のいていく彼の背中を見て、私には彼のような翼がないんだなと、そんなことを考えていた気がする。何者でもない、ただの凡人である私は彼のようにはなれないのだと、猛スピードで滑走路を吹き抜ける冷たい横風がそう教えているような気がしていた。

 

 

 

「志保ちゃん、大丈夫?」

 

 今朝見ていた夢の幻影が、ピシャリと音を立てて消えた。いつになく物が溢れ、少しだけ落ち着きのない雰囲気が漂う楽屋で、赤と黒を基調とするチェック柄の衣装を着た見慣れない私が鏡に映っていた。綺麗に引かれたアイラインも、私が買った安物とは全然色合い違う口紅を塗った赤い唇、鏡に映る私はメイクさんにフルメイクを施されていつになく冴えているように見えた。だけどその強気なフルメイクに不釣り合いな、自分の弱々しい自信なさげな目。そんな私の目を、私の背後に立つ金髪の綺麗な艶のある髪の主––––莉緒さんは鏡ごしに見つめていた。

 

「……大丈夫です。心配いりませんから」

 

 わざとらしく咳払いをして、私は立ち上がる。莉緒さんへの回答というより、私自身に言い聞かせるような口ぶりだった。鏡に反射していた莉緒さんの姿が動いて、大きなフレームから消えた。莉緒さんは私の隣で、まるで今この場から離れようとしている私の心境を読み取り、そしてその退路を遮るかの如く、その場に釘付けにされた杭のように突っ立ている。

 

「大丈夫じゃないわ。大丈夫そうには全然見えない」

 

 咎めるような鋭い目つき。莉緒さんの語尾の強まった言葉に反射的に身が硬くなる。私たち二人だけが取り残された楽屋にはシンと静まり返っていて、だけど此処からそう離れていないライブホールから溢れ出た勢の人たちの熱気や緊張感がひしひしと伝わってきて、私たちの間に流れる静寂はまるで嵐の前の静けさのようだった。

 

「そんな風に、見えますか」

「えぇ。ステージで事故るんじゃないかって不安になるほどに」

 

 普段はあまり見せないような莉緒さんの真剣な表情に、私は何を話せばいいのか分からず、思わずそう訊き返した。莉緒さんがたたみかけるようにそう言った時に、ライブホールに響く美咲さんのアナウンスが微かに聴こえてくる。公演中の注意事項、会場内の案内などを落ち着いた声で話す事務員の美咲さんが最後に、「もう間もなく開演です」と言い残して、会場が少しだけ湧き上がった。

 その歓声が莉緒さんの耳にも届いていたのか、急かすような目つきで私に語りかける。

 

「志保ちゃんが何を抱えているのか、何かを隠しているのか、私に相談して。もう時間がないわ、このままステージに上がったらとんでもないことになるわよ」

 

 脅しでも何でもない、私を心底懸念する莉緒さんの言葉は私へ向けられたものではなかった。電撃を浴びせるように、莉緒さんの言葉が私の胸の奥底で何かを過剰に反応させる。それは紛れもなく、私の胸の奥底の深淵に潜んでいて、天ヶ瀬さんと会ったあの日、私に憑依した“何者”かだった。莉緒さんは気付いていたのかもしれない、私の中に私じゃない、もっと醜い何者かが居座っていることに。

 

「……本当に大した話じゃないんですけど」

「大した話じゃなくてもいいわ。ちゃんと聴いてあげるから」

 

 そう言ってくれた莉緒さんの目は、いつものような優しくて余裕のある大人の目に戻っていた。これはもう言い逃れできそうにないかもしれないなと思う。もしかしたらライブ前の独特な非日常感が少しだけ私を狂わせているのかもしれない。そういうことにしておこう。

 人に促されて相談事をするなんて私らしくないな、と思いつつも、私は莉緒さんに天ヶ瀬さんのことを全て打ち明けたのだった。

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 莉緒さんの軽快なMCから始まって、トップバッターの琴葉さんがステージ上で『朝焼けのクレッシェンド』を歌っている。その様子を、舞台袖から私はマイクを握りしめて見守っていた。

 トップバッター故か、琴葉さんには多少の硬さが見受けられたが、その硬さも徐々に解れてきているようで、曲が中盤に差し掛かる頃にはリハーサル時となんら変わりない自信満々な彼女の歌声がライブホールに響いていた。あと数分もすれば『朝焼けのクレッシェンド』は終わり、いよいよ私の番になる。激しく脈打つ胸の鼓動に感化されるように、マイクを握る手は汗でびっしょりになっていた。

 

「よっ、志保。どうだ、大丈夫そうか」

「プロデューサー……」

 

 私の胸の音が聴こえていないのか、ひょっこりと現れたプロデューサーの声にはまるで緊張感が感じられなかった。

 

「本番前で集中したいので、話しかけないでくれますか」

「わるいわるい、そう怒るなって」

 

 プロデューサーは口ではそう言っているものの、口調も軽くてまるで悪そびれる様子はない。温度差のあるプロデューサーの態度に若干の苛立ちを感じている間に、琴葉さんのステージは終わってしまった。大歓声が反響する中に、何度もなんども礼儀正しくお礼を言う琴葉さんの声が紛れている。

 

「……志保、緊張はあるだろうけど大丈夫。リハーサルであれだけ見間違えるように歌えたんだから、自信を持って行ってこい」

「もっとないんですか、こう具体的なアドバイスとか」

「ないな。最初は心配だったけど、志保はもうしっかり自分の曲にできたから。あとはその自分だけの曲を披露するだけだ」

 

 最後の最後までプロデューサーは無責任な言葉しか言わなかった。結局プロデューサーは何も私のことを分かっていないようで、私は何も言い返さずに黙って背中を向けた。

 途中で見間違えるように変貌し、無事にライアー・ルージュを自分の曲にできたとプロデューサーは口にしていたが、私にはとてもそうには思えなかった。どうして今まで掴み所が分からずに苦戦していたライアー・ルージュを急に私があんな風に歌えるようになったのか、その自身の変化が自分でも分からずに、未だに納得できるような理由が見つかっていなかったのだ。理由も分からない前進は成功とは呼べない。説明が付かないあやふやなモノに頼ってステージに立っても、醜態を晒すだけにしか思えなかった。

 だけど不思議なことに、プロデューサーと似たことを莉緒さんにも口にしていた。本番前の楽屋で半ば強制的に胸の内を晒け出させられた時、莉緒さんは私の話を聴いてアドバイスをするどころか、唐突に謝罪の言葉を口にしたのだ。

 

「無理やり吐かせた私が言うのもアレだけど、なんだか余計な心配だったみたいね。ごめんね、志保ちゃん。今のままステージに立って問題ないと思うわ」

 

 莉緒さんの言葉の意味が分からなかった。

 私は何も分かっていない、自分の気持ちにもライアー・ルージュを歌えるようになった自身の変化にも。そのことを詰め寄ると、莉緒さんは得意げにウインクをして、

「もうとっくに志保ちゃんは自分が抱えている気持ちの正体に気付いているわ。今はまだ分からなくても、ステージ上でライアー・ルージュを歌えば、絶対に見えてくるものだから」

そう述べた。その時の莉緒さんの顔が確信に満ちていて、とてもでまかせを言っているようには思えなかったため、私はそれ以上しつこく訊かなかった。ステージ上で見つかるその正体は莉緒さんや誰かに教えてもらうのではなく、自分の目で確かめるべきなのだと、そんなことを諭されているような気がしていたのだ。

 

「田中さん、捌けました! 北沢さん、スタンバイお願いします」

 

 ステージを舞台袖から覗き込んでいたスタッフの言葉が耳に届いて、無意識に縮もうとする背筋をピンと伸ばす。汗でべっとりとした手のひらでマイクを強く握りしめ直し、息が詰まりそうなほどに圧迫された肺を軽くするために大きく息を吐き出した。

––––莉緒さんが言うように、ステージに立ってライアー・ルージュを歌えば本当に何かが見えてくるのかな。

 

 確証はないけれど、そう信じるしかない。

 小さく小刻みに震える足を少し大きく伸びして、ステージへの一歩を踏み出す。どうかこのステージが、天ヶ瀬さんの待つ空へ飛び立つ一歩になるようにと願いながら、光が溢れるステージへの滑走路を私は震える足で歩み始めた。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「初めまして、北沢志保です。今日はご来場まことにありがとうございます」

 

 ステージでの第一声は、自分が思っていた以上に落ち着いた声だった。バックダンサーといえども何万人ものお客さんが詰め込まれたアリーナの空間を経験しただけあって、前回ほどの緊張感はなかったのかもしれない。だけど今回は私一人のステージで、春香さんのように私の手を引いてくれる人も、背中を見せてくるような人もいない。純粋な自分の実力だけを信じて、ステージを成功させなければいけないのだ。兜の緒をしめるように私はゆっくりとホールに向かって頭を下げる。観客席からは様子見といったちぐはくな拍手が巻き起こり、顔を上げると同時にまばらな拍手はすぐに止んだ。私は特別面白いMCができるわけでも、お客さんたちの興味を引くような特技もあるわけではないのだから、自分の歌で、パフォーマンスで評価されるしか道がないことを自ずと理解していた。目の前にいるお客さんの大半は初めて私を見る人たちばかりなのだろう。その人たちの記憶の片隅に少しでも私の姿を焼き付けようと、ギュッと拳を握りしめた。

 

「それでは聴いてください。ライアー・ルージュ」

 

 機械音のようなライアールージュのイントロが流れ始め、小さなライブホールが息を飲むように静まり返る。照明が暗転して、真っ暗になった観客席に光り始める白色のサイリウムたち。39 Project発足時に私に振り当てられた、イメージカラーだ。左右に揺れ動く、綺麗な白色のサイリウムは漆黒の夜空を彩る星たちのように儚い光を発していて、思わずその場で立ち尽くして見惚れてしまうような、そんな圧巻の光景だった。

 白色のサイリウムが創り出した幻想的な夜空に引き寄せられるように、感覚が遠のいていく。マイクを握りしめて口を開こうとした瞬間に、私は生まれて初めて経験するような不思議な感覚に誘われた。まるで幽体離脱をしたかのように意識が身体から離れ、ライブホールの上空から俯瞰してステージにたった独りで立つ私を見下ろしていたのだ。意識が抜けて空になったはずのステージ上の私は、特に代わり映えのない様子で踊っている。そして、紅色の染まった唇に近づけたマイクに向かって口を開いた。

 

“こんなの嫌よ、見つめられたら

コントロールできない鼓動が痛い”

 

 この数週間で何度もなんども練習を重ねてきたライアー・ルージュの歌詞を口ずさむ私。ステージ上で歌う抜け殻の私の様子は何か変だった。リハーサルでは一度もしなかったような胸を押さえつけるような仕草、それはまるで何かを訴えかけているかのような表情––––。あの時と同じだ、まるで私が私じゃないような、そんな感覚が激しく胸を打ち続けている。

 

“強気の奥の素顔はきっと

誰にも見せたりなんかしない……はずだったの”

 

 何者かが私のガードを破壊して不可侵領域に立ち入るような感覚。だけど不思議なほど、その感覚は悪いような気がしない。寧ろ胸の中の氷を暖かい陽の光が溶かしていくような、そんな心地良さすら感じられていた。

 

“一瞬で奪われちゃったのかな…

他の人とどこか違う人”

 

 あぁ、そうか。そういうことだったか。

 岩のように硬くなっていた氷が溶けて消え去り、初めて私は全てのことを知ることができた。

 莉緒さんが楽屋で言っていた言葉の意味もようやく分かった気がする。あの日私に憑依していた深淵の主、そして今ステージで歌っている私、それらは同一人物で紛れもなく私が目を背けてきた自身の感情の塊だったのだ。そして私が見て見ぬ振りをしてきた感情は、神様が印をつけたような特別な存在であり、空よりも遠い場所を目指して一目散に駆けていく“あの人”を強く求めていた。

 まるで暗闇の道を照らす灯りのようなきらめきを持っていて、いつも私の少し先の道を歩く憧れの存在。あの人を想う優しくて温かい感情が深淵の闇を掻き消して、全てが弾けたようにステージ上の私は想いを歌に乗せて爆発させる。

 

“ウソでかくさなくちゃ、想いがバレちゃう…

大人びたフリをしたって、大人に通じないの?”

 

 必死に背伸びをして、大人のフリをして。そうじゃないと私は私を守れる気がしなかった。家族のためにアイドルになって、誰よりも強くならなければという一心で、私は私に嘘を重ねてきた。周囲の人間にも私自身にも。そうすることで、自分を正当化し、自我を守れるのだとばかり思い込んでいたのだ。

だけど––––、

 

“振り向いて欲しくて勇気を出しても

はじめて引いたルージュにも気付いてくれないのに”

 

 本当は誰かに気付いてほしかったのかもしれない。嘘で塗り固められた私ばかりではなくて、胸の奥底の真っ暗な深淵の中に隠した本当の弱い私を。

 だけど振り向いて欲しい、本当の私を見て欲しい、そう願っているはずなのに、大人でなければならないとばかり言い聞かせて、私は彼の前でも深淵の底を見せるようなことはしなかった。嘘で塗り固めすぎてしまった私の偽りの姿とのギャップに幻滅されるのが怖かったからだ。

 

––––自分の本心に正直になれず、大人のふりをして偽ることでしか自我を保てないような子供のままだったから、きっと初めて引いた口紅も気付いてくれなかったのかな。

 

 あの日、コンビニの汚れたトイレで口紅を洗い落とした私を思い出す。大人びたつもりだったけど、彼への気持ちに気が付かず、弱い自分を否定して背伸びし続けていた私は誰よりも子供だったのだと。きっと自分で自分を苦しめて、彼を困らせて、だけどもしあの時に私が隠していた本当の気持ちに気付いていたのなら、彼は私の紅色の唇に気付いて、口紅の裏に隠した私の姿を見てくれたかもしれないのに、と。

 少しだけ沸き立つ後悔。どうしてあの時、もっと素直になれなかったのだろう。そんな想いが、堰を切ったようにライアー・ルージュの歌詞を借りて、溢れ出てきた。

 

“どうしてなのよ、「見つめて」なんて

言いたい、言えない、隣にいたい

強気の裏の本音がこんな

誰かを求めてたなんて……ありえないわ”

 

 深淵の底の私は、いつか彼が見つけてくれることを願っていた。嘘の私ではなくて、本当の私を見て、そして隣で支えて欲しいのだと。

 だけどその感情を、嘘の私は必死に隠そうとしていた。大人になるために、家族を楽にさせてあげるために、夢を叶えるために、そんな誰かの優しさに縋ろうとするのは有り得ないのだと––––、いや、もしかしたらそれは建前だったのかもしれない。ちょっと醒めた大人のふりをしていたのは、誰かを失うことや傷付くことが怖かったからではないのだろうか。

 

“嫉妬することだって知らなかった

他の人となんて話さないで”

 

 あの日、彼を困らせたのは紛れもなく傷付くのを恐れた私の嫉妬心だった。 

 彼に過去の想い人がいたことを知って、誰かをこんなに羨むようなことなんて経験してこなかった私は、その気持ちの正体に気が付くこともできず、結局いつものように強がりな嘘を重ねて、彼を拒絶することで、どうにか平静を装おうとしていたのだと思う。

 今になって私は生まれて初めて嫉妬の意味を知って、あの時胸を焦がしていた炎の正体が気が付くことができた。すると、ずっと胸に居座っていた残火が完全に消え去っていって、途端に胸の内が軽くなって風通しがよくなったような気がした。私の背中を押すように胸から込み上げてくる風に身を任せ、素直になれなかった幼い私の心境も、密かに抱えていた願いも、全てをライアー・ルージュに重ねて言葉にしていく。

 

“ウソをついてなくちゃ、素直になれない

側にいるイイワケだって、気付かれたくないよ

だけど届いて欲しい、うらはらな願い

薄めに引いたルージュでね、言葉を染めてるのに”

 

 嘘ばかりで本心を見せず、それでも彼に本当の私の姿を見て欲しい。隠し続けてきた本当の気持ちが届いて欲しい。

 そう願う自分はどれほど傲慢で我儘だっただろうか。薄めに引いた口紅にも気付いてもらえず、当然深淵の私にも気付いてもらえず。でもそれは仕方のないことだったのかもしれない。だって誰よりも私自身が、彼に抱いている気持ちをずっと直視せず、無視してきていたのだから。

 

“ずっと一人でも大丈夫だったはずの心が求めてる人”

 

 独りで夢を叶えるのが真の強さだと思い込み、自分で生きていける大人になりたい一心で周りの人間たちを全て敵視して、孤独を選んで、それが自分の生き方だと決めつけて。

 だけどいつの間にかそんな脆い鎧は脱げ落ちてしまって、私は彼を求めるようになっていた。彼が持つ大空へ羽ばたく翼が私も欲しい、誰よりも私を理解してくれている彼の隣で一緒に遠くの世界へ飛んでいきたい––––。そんな胸を埋め尽くす彼への想いたちが、私にようやく真実を教えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

––––私は、天ヶ瀬さんのことが好きなんだ。

 

 

“小さなクセだって覚えているのに

まっすぐ見つめる瞳をイメージできないの

ウソもホントウはね、つきたいわけじゃない

大人びたメイクをしたって、想いはかくせないよ”

 

 あぁ、こんな素直な気持ちになれるのなら、今日のライブに招待すれば良かったな。

 いつも愛想も可愛気もないことばっか口にして、本心も見せないで困らせてばかりで。深淵の私が大事に温めていた想いを伝える方法を私は知らなくて、嘘を重ねて大人のフリをして、だけど彼への想いは隠せなくなるほどに日に日に強くなっていって。

 

“まっすぐ見つめたら、ちゃんと届くかな”

 

 もし次会える機会があれば、今度は彼の前ではちゃんと隠さずにありのままの私を曝け出せればいいなと思う。大人のふりをした私じゃなくて、嘘で固められた私じゃなくて、私の本当の素直な笑顔を。

 真っ直ぐに見つめることができたなら、私のこの気持ちも彼に届くかもしれないと、そんな淡い期待を抱いて、私は最後のフレーズに彼への想いを乗せて高らかに歌い上げた。

 

「はじめて引いたルージュより、素直な笑顔みせたい……」

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 徐々に弱まっていく音に反比例して、爆発するかのように沸き立つライブホール。そんな大歓声たちが、たった今生まれた“北沢志保”というアイドルを盛大に讃え、受け入れているようだった。

 

「す、すげぇ……」

 

 トップバッターだった田中さんの時から一変した会場の空気に圧倒され、思わず唾を飲み込む。信じられないほど、圧巻のステージだった。飛び跳ねることも、周囲の人たちにつられてコールや手拍子を入れることもせず、俺はただただステージで感情を爆発させたかのように歌い上げた北沢の姿をずっと立ち尽くして見つめることしかできなかった。

 デビューステージだけあって、技術的な荒さは多く見受けられた。ダンスの手先が伸びていない場面も多かったし、メロディより少し足早に歌ってしまっている場面だって何箇所もあって、それは天海たち765ALL STARSに比べるとどうしても見劣りしてしまうパフォーマンスで、アイドルのライブとしては精々及第点といったところなのかもしれない。だけどそんな要所要所の荒さをカバーするほどの、北沢の迫真の熱量とパフォーマンスは目を見張るものがあった。まるで自分を歌に投影し、全ての歌詞にシンクロして見せたような北沢の姿は、とても数週間前に歌いこなせる自信がないと弱音を吐いていた一人の少女の面影を完全に消し去っていた。

 技術的な問題は短い間で爆発的に成長することはありえない。だとしたら考えられるのは、北沢の内面的な成長だろう。

 

(一体この数週間で北沢にどんな心境の変化があったんだ)

 

 どれだけ考えても、まるで想像が付かなかった。今の俺が分かるのは、北沢はデビューステージで多くの人の気持ちを掴むようなパフォーマンスを見せたことと、もしかしたら俺が今まで北沢に抱いていたイメージは少々間違っていたかもしれないという二点だけだった。

––––俺が思っている以上に北沢は弱い存在なのかもしれない。

 家族のためにアイドルになって、弟の世話や家事もやって、それでいてストイックで夢に一直線で。そんな北沢は、迷いのない凛とした強い人間だと思っていた。きっと俺なんかよりも何倍も強くて、どんな困難や逆境にも一人で立ち向かえるのだと。

 だけどライアー・ルージュを歌っていた彼女の姿は違った。ステージに立って、俺をも含む多くの人の気持ちを掴んだ北沢志保は、俺が勝手なイメージを抱いていた決して強い女性ではなく、素直な気持ちを伝えれないあまり、嘘で自身を塗り固めた中学生のか弱い女の子の姿にしか見えなかったのだ。

 

 その後のことはあまり記憶にない。北沢の後にもう一人新たな新人アイドルがステージに立って、そのアイドルはそこそこ歌が上手かった印象はあったが、北沢のステージが衝撃的すぎてあまり頭に入ってこなかった。最後にサプライズで765 ALL STARSの水瀬伊織と高槻やよいが登場して会場を沸かせ、定例ライブは幕を閉じた。

 

「あれ、冬馬くん何処行くの? 出口はこっちだよ」

「わりぃ、トイレ行ってくるから先出ててくれ」

「はーい。早くこないと置いて行っちゃうからね」

 

 ライブが終わり会場から締め出された時に、俺は咄嗟に適当な嘘をついて北斗と翔太から離れた。二人の姿が人混みに消えて行ったのを確認すると俺はトイレとは真逆の方向へ、会場から溢れてくる人たちを掻き分けながら向かう。目当てのブースが目に入って、俺はニット帽を深くかぶり直してスタッフに声をかけた。

 

「あの、その“アクリルキーホルダー”を一つ頼む。ええっと、それ、北沢志保のやつ」

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 夢心地のような、そんな気持ちだった。

 楽屋に戻り、張り詰めていた緊張の糸が解れたように力が抜けると、私は力なく椅子に腰を下ろした。自分のステージが終わって、最後の挨拶も無事に終わり、それでも未だに身体がステージ上での興奮を覚えていて、足元がふわふわしている感覚がする。アドレナリンがまた続いているのか、妙に気持ちが落ち着かなかった。

 

(結局、莉緒さんの言う通りだったなぁ)

 

 一時間ほど前にここで話したことを思い出す。ステージに立ってライアー・ルージュを歌えばおのずと見えなかったものが見えてくると、一見無責任に思えた莉緒さんの言葉だったが、まさにその通りだった。あのステージで私の全てを曝け出して、そして初めて私は天ヶ瀬さんに想いを寄せていることに気が付いた。自分が誰かを好きになるなんて、といった照れ臭い気持ちの反面、ライブが終わってホッと一息つく気持ちと胸の中のモヤモヤが全て解消されたような開放感も相まって、清々しいほどに爽快な気持ちがあった。

 私はペットボトルの水を一飲みすると、鞄からスマートフォンを取り出してLINEを開いた。最後のやりとりが何週間も前になるため、トーク画面の下に下がってしまっていた天ヶ瀬さんとのトーク履歴を引っ張り出す。素直な気持ちが分かった今なら、あの日の失礼な態度をちゃんと謝ることができるかもしれない。そう思って天ヶ瀬に送る文面を考え始めようとした時、その思考を断ち切るように勢いよく楽屋のドアが開かれた。

 

「みんなぁ、お疲れ様! すっっっごい良かったよっ!」

 

 興奮気味な元気な声と同時に勢いよく開けられた楽屋のドアの先から現れたのは、四角い箱を持った恵美さんだ。当日のスタッフとしても名前が入っていなかった恵美さんの登場に、琴葉さんは嬉しそうに椅子を蹴って立ち上がる。

 

「恵美、来てくれてたの!?」

「もっちろん! 琴葉も麗花も志保も、三人ともお疲れ様! これ、差し入れだよ!」

「わぁ、恵美ちゃんありがとう〜」

 

 手に持っていた四角い箱をテーブルに置くと、少し大袈裟に琴葉さんを抱擁する恵美さん。映画の感動的な再会シーンのように抱き合う二人を微笑ましく見守りながら、麗花さんは早速恵美さんが持ってきた差し入れるの箱を開けようとしている。

 これから片付けもあるだろうし、天ヶ瀬さんのへのLINEはまた後で解散した時にでもゆっくりと考えて送ろうかな、そう思ってスマートフォンを鞄に戻した。そして箱の中から三切れのケーキを取り出し、優しく手招きする麗花さんの隣に腰を下ろす。

 

「琴葉、ビッグニュースだよ! ビッグニュース!」

「……ビッグニュース、って?」

 

 にゃはは、と恵美さんは意味深に笑って、琴葉さんの肩を叩いている。麗花さんからどのケーキにする、と訊かれ、視線を二人から綺麗な三切れのケーキに向けた時だった。

 

「冬馬が来てたんだよ! 琴葉のライブを見に!」

 

 恵美さんの口から飛び出したとんでもない発言に、思わず視線を戻した。頰に手を当てて照れ臭そうに耳まで真っ赤に染める琴葉さんに、恵美さんはからかうような口調で「良かったね〜琴葉!」と茶化している。

 その二人のやりとりに、私の胸は激しく揺さぶられていた。

 




NEXT → Episode Ⅳ : 俺と私の想いの行方


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EpisodeⅣ:俺と私の想いの行方

前回でエネルギー使い果たした感が否めませんが、あまとう回に入ることだし、ここで少し頭を冷やして今後も全力全開スターライ○ブレイカーな勢いで頑張っていくつもりなので初投稿です。


「……思ってたより広いな」

「だねっ! なんか久しぶりな気がするよ、こんなおっきいとこで歌えるの」

 

 そんなに言うほどかよ。精々キャパ千人にも満たない会場だぞ。

 内心でそう毒吐いて、隣で口々に興奮気味の言葉を発する二人と妙な温度差を感じつつ、俺は二人の様子を少し冷めたような目で見つめていた。俺たち三人が立っている無人のステージにはバックバンドを入れれるほどのスペースはなく、ステージから比較的距離が近いホールには席が一つも用意されていない。当然スタンド席やバルコニー席はなく、全て立ち見席のみだ。今のインディーズ活動をしている俺たちにとっては此処が如何に贅沢な会場なのかと理解はしているつもりだが、どうしても961プロに在籍していた頃にライブを行っていた大きな会場と比べると、二人が言うような“広い会場”だとは到底思えなかった。

 そんなことを無意識に思い、冷めた目でステージから見下ろす自分に嫌気が差す。仕事や会場の大小は関係ない、俺たちは与えられた環境で全力のパフォーマンスを出して、そしてファンを喜ばせるだけだ。961プロを脱退した時に三人で誓い合ったその信念を思い出し、余計な考えを俺は無理やりかなぐり捨てた。

 

「……まぁ、悪くはねぇな」

 

 それでも尚、自分たちの現在地を未だに受け入れきれていないようで、そんな曖昧な言葉を二人に添えて、複雑な気持ちのままステージに腰を下ろした。ステージに尻が付く直前、ズボンの後ろポケットに入れていたスマートフォンが落ちて、大袈裟な音を立ててステージに直撃する。スマートフォンがステージを叩く音がうるさいほどに会場内に木霊する音を聴いて、今回の会場は最近のに比べたら大きいんだなと考えを改めさせられた。“精々キャパ千人にも満たない会場”、と内心吐き捨てたはずなのに、今まではそれより遥かに狭い会場でライブをしていたのだと気付いた途端に大きな会場に思えて、虚しい気持ちでステージの上のスマートフォンをポケットに押し込む。

 

「チケットの売れ行きはどうなってんだ?」

「ちょっと厳しいな、時期も時期だから。前売りで完売はまず難しいだろう」

「えー、せっかくだから満員がいいなぁ」

 

 満員、か。 

 まるで他人事のように頭の後ろで手を組む翔太の言葉に、俺は一週間前に訪れた765プロ劇場のライブホールを思い出す。あの日、立ち見ではなく全席に椅子が配置された劇場のライブホールにはチラホラと空席が目立っていて、集客はおそらく七、八割ほどだったと思う。あそこも確かキャパは千人弱と聞いていたから、サイズ的には此処とあまり大差ないはずだ。

 両手を付いて、ゆっくりと立ち上がる。真っ暗なホールの闇の中を凝らして見つめるように、目を細めた。

 あの日、北沢はどんな景色を見ていたのだろう。

 そして、ステージから見た光景に何を思ったのだろう。

 何度もなんども、ステージに立つ北沢の姿が頭の中で再生される。あの日、彼女は自身を囲っていた結界を消し去り、ステージ上で自身の全てを曝け出しているかのようだった。俺がずっと見ていたはずの“強い北沢志保”はそこにはいなくて、ステージに君臨していたのは我儘で、強がりで、ウソつきで、だけど誰よりも愛されたいと願う一人の少女。その姿を目にして、俺は自身が抱いていた彼女へのイメージに疑問を抱くようになった。前に進むことを望んでいるのに、進むことができずに嘘を重ねていく、そんな矛盾した想いを詰め込んだライアー・ルージュに完璧なまでに自分を投影していた弱さを隠した北沢が、彼女の本来の姿ではなかったのかと。

 ライブ後も結局俺は北沢に連絡をしなかった。そして、北沢からもLINEや電話が来ることはなかった。北沢がライアー・ルージュを歌いこなせる自信がないと弱音を吐いたあの日以来、俺たちの間に漂う妙な気まずさは平行線を辿ったままだ。

 だからどちらが本来の北沢の姿なのか、真偽は定かではない。彼女にどんな心境の変化があったのかも、分からないままだ。だが、粗削りな部分は多く見受けられたステージだったとしてもまるで“何か”が降臨したようなあの日の迫真の姿は、見る者の心を打つ、とても美しい姿だった。見る者の胸に直に訴えかけるような北沢の迫真のステージを見て俺は直に感じた。きっとこのままじゃ北沢は俺をあっという間に通り越して遠い世界に行ってしまうのだと。田中さんよりも北沢の後ステージに立った北上というアイドルよりも、あの日会場に詰め掛けたファンの心を誰よりも掴み、一番沸かせたのは紛れもなく北沢に思えたのだから。

 アイツが憧れだと言ってくれた天ヶ瀬冬馬であり続けたい、そのためにも俺は彼女に負けないくらいの速さで空より遥か遠い場所を目指さなければいけない。961プロ時代に垣間見た、頂点の世界に一日でも早く辿り着くために。

 なら今、俺がいる環境でやるべきことをやるだけだ。そう言い聞かせるように、俺は大きく息を吐く。

 

「満員にしたいんだろ? ならさっさとビラを配りに行こうぜ」

 

 俺は翔太の肩を思いっきり叩き、あの日の北沢の残像を消した。

 

 

 

Episode Ⅳ : 俺と私の想いの行方

 

 

 

 ライブ会場の下見を終えた俺たちは、新宿駅から数駅分離れた駅の大きな交差点の前で何百枚ものチラシが入った紙袋を抱えていた。数日ぶりに顔を出した陽は既に落ち初めており、高層ビルたちが伸ばした黒い影の中の世界は少しだけ肌寒くなって、何枚も着込んだはずの服の層を突き破って身体を芯から冷やしていく。至る所に装飾されたイルミネーションがライトを灯し出して、凍てついた寒さに包まれた街に少しだけ温もりを与えているような気がした。

 

「道路使用許可は七時までしか取ってないから、それまでには配り終えよう」

 

 北斗の言葉が白い息となって、大勢の人たちが足早に過ぎ去っていく交差点に舞った。交差点を渡った先にあるビルに埋め込まれたデジタル時計はもうすぐ五時に到達しようとしている。陽が完全に暮れて暗くなれば、一日のうちで最も冷える時間帯の始まりだ。冬の寒気にノーガードで晒された頬が刃物に刺されたようにキリキリとして、ほっぺたの血管が痛む。俺は手袋の奥で震える手を必死に動かし、紙袋に詰め込まれたチラシの束を手に掴んだ。

 

「よしっ、凍死する前にさっさと終わらせようぜ」

「さすが熱血! こんなに寒いのに気合い入ってるね、冬馬くん」

 

 鼻を赤めらせて、からかうようにニカッと笑う翔太に俺は手に持っていたチラシの束を押し付ける。

 

「ほらっ、翔太もちゃんと配れよ。北斗も……ってアレ、アイツは何処行った?」

「北斗くんなら、ほら。早速あっちでナンパしてるよ」

「チャオ、エンジェルちゃん。なんだかすごく寒そうにしてるね。今度さ、俺たちライブするから温まりに来てくれないか?」

「……ったく」

 

 相変わらずやりたい放題だなと溜息をつくと、翔太は「それでいつも配れてんだからいいじゃん」と歯茎を見せて楽しげに笑い、受け取ったチラシの束を持って駆けて行ってしまった。

 その場で一人残された俺は、凍えそうになりながらふと顔を上げた。俺の視界の先、競い合うように伸びた高層ビルの先には大きな世界が開けていて、空を包む冬特有の澄んだ空気のレンズ越しに見える景色は、赤と黒の綺麗なグラデーションを背景に自己主張の強い星々が輝いていた。寒い冬は好きではないが、こうして澄んだ空気のレンズ越しに見える冬の世界は好きだった。曇り空が続く冬時期に時折見せる青空はいつになく綺麗な蒼く透き通って映って、灰色の空の合間から射す光は、俺たちがまだ手に入れることができていない宝物の在処を教えているかのようで、それらはそう遠くない未来で訪れるであろう温かい春への期待を膨らませてくれる。年々寒さは厳しくなっていく一方の東京の冬だが、その寒さを乗り越えれば春に何かが待っているような気になって、俺はいつも未来への漠然とした期待を抱くような眼差しで冬空を眺めていた。

 冬空にいずれ訪れる春への希望を抱くたびに、頭にチラつくのは俺はあの日の全てを拒んだ自分自身だ。961プロの汚いやり方も、その事実に気付かないまま歩んできた俺たちの道も、全てを否定して、掛けられた魔法を自ら解いてしまったあの瞬間は、春への期待と裏表一体のように存在していて、迫ってくるように胸の奥底から浮かんでくるのだ。

 ビルの隙間を縫うようにして吹く風が頬にぶつかって、俺は身震いした。

 

 ––––俺たちは……、俺たちは利用されるために歌ってんじゃねぇんだよ!

 

 あの日、俺が吐き捨てた言葉がしつこいくらいに胸の中で反響する。あの日から、俺たちはずっと厳しい冬空を眺めたままだ。春がいつ来るのか、果たして本当にやってくるのか、それすらも分からないまま果てのない暗闇の中を歩き続けている。あの時の判断は間違いだったとは思わない。だけど、春を待つ時間が長くなればなるほど、不確かな今日が重なっていくほど、今自分たちが歩いている道が本当に正しい方向へ向かっているのかと不安が募っていく。そして迷いが生じる度に、傲慢だったあの頃の自分が眩しく見えてしまうのだ。

 そんなことを考える機会がここ最近で増えたのは、きっと北沢の所為だと思う。あの殻を破ったような彼女のデビューステージを見て、胸の中の何かが感化されたのは間違いなかった。彼女の成功を祝う気持ちが半分、そして残りの半分は焦りだ。短期間で自身を変えてみせた北沢と、961プロを抜けて随分と時間が経った今でもなお、インディーズで先の見えない活動を続けている俺たち。北沢の変貌ぶりを見せられた今、俺たちは961プロを抜けたあの日からずっとその場で足踏みをしているだけにしか思えなかった。その不安が、俺に嫌な焦りをジワジワと感じさせ始める。

 

「やっほ、あまとうじゃん! こんなとこで何突っ立てんの?」

 

 交差点に広がる喧騒の中から妙な名前で俺を呼ぶ声が聞こえて、レンズ越しに見える空の世界から意識を戻した。次から次に俺を目にも留めずに横を通り過ぎる人混みの中で、唯一足を止めている女性のロングブーツが目に入る。見覚えのあるロングブーツだった。下から辿っていくように視線を縫い付けていくと、腰まで伸びた栗色の髪をした同年代ほどの少女が、少し大げさに伸びたまつ毛の下の、気の強そうなつり目で俺を見つめていた。ロングブーツ同様に、やっぱり見覚えのある顔だ。

 

「お前、この前の……! 確か北斗の友達の、ええっと……」

「所恵美だって、ちゃんと自己紹介したじゃん」

「わ、わりぃ……」

 

 なんか前もこういうのあったような気がするな、と思いつつ、適当に悪そびれて謝る。所は少しだけ芝居じみたように頬を膨らませて見せたが、すぐに頬に貯めた空気を抜いて、特に俺を咎めることもなく愛嬌のある笑窪を寄せながら笑っていた。基本的に無表情の北沢と違ってなんか表情がコロコロ変わる忙しい奴だなと思いつつ、適当に田中さんの記憶が入っていた頭の引き出しに所のこともぶち込んでおいた。北斗から歳は俺と同じか一つ下だと聞いていたから、特に敬語で話す必要もないだろう。むしろ相手は初対面の時からタメ語だった気もするし。

 

「それで、あまとうは何してんの?」

「あまとうって呼ぶなっ! 今度ライブするからビラ配りしてんだよ」

「え、ライブすんの? いつ?」

「十二月の二週目の日曜日。気になるなら、これやるよ」

 

 握ったままでまだ一枚も配っていなかったビラを、所に差し出す。それを受け取って黙々と目を通す所の視線が下から上に戻ったのを確認して口を開いた。今度は俺の番だ。

 

「そういうお前は何してたんだよ。一人寂しく散歩か?」

「もうっ、んなわけないじゃん。仕事だよ、し・ご・と!」

「へぇ、仕事ねぇ」

 

 腰に両手を当て得意げなポーズを取る様子を前に、俺は相槌を打つように適当に返した。悪気はなかったが俺の返事にムッとしたのか、「信じてないでしょ」と尖った瞳を向ける所に、「信じてる信じてる」と空返事をする。

 

「でも仕事ってのに、お前一人なのか?」

「いいや、違うよ。ええっとね、静香と紬でしょ、あとジュリアと––––」

「恵美っ! 一人で勝手に行くなって、逸れたらどうすんだよ」

 

 横断歩道の信号機が点滅し始め、メロディが歩行者を急かすように急ぎ足になった時だった。

 俺の疑問に丁寧に指折り数えながら聞き覚えのない名前ばかり口にしていた所の名を呼ぶ男の人の声が喧騒の中から聞こえてきた。綺麗な栗色の長髪が揺れて、所は背中を向ける。その仕草に釣られて、俺も彼女が振り返った先に目をやった。

 

「あ、プロデューサー! ごめんごめん、知り合い見つけちゃったからつい」

 

 首の後ろに手を回しながら所が口にした言葉で、彼女を呼ぶ声の主が765プロのプロデューサーなのだと判断できた。信号が赤に変わり、車がゆっくりと行き交い始めた交差点を背景に立つ、真っ黒なコートに黒いマフラーを首元に結んだスーツ姿の男が目に入る。如何にもビジネスマンといった雰囲気を醸し出す男の両脇を、私服姿の中高生の女の子たちが囲むようにして歩いている不自然な様子から、この男が765プロのプロデューサーなのだとすぐに気が付いた。

 

「ったく、週末で人多いんだから気を付けろよー。えっと、恵美の友達さん、かな? 初めまして」

「あぁ、どうも」

 

 プロデューサーは俺に気がつくや、すぐに口調を柔らかくして小さく会釈をした。こういう時はどうすればいいのかと戸惑いつつも、俺も無難に頭を下げる。所を呼び止めたプロデューサーは、俺が知っていた765ALL STARSのプロデューサーと外見を見た限りでは殆ど年齢が変わらないように思えた。

 

「アタシの友達ってよりは、同業者って方がピンとくるかもね!」

「お、おいっ! お前何余計なこと……」

「ああぁぁぁ! アンタ、もしかしてジュピターの!」

 

 プロデューサーの隣にいたパンクロッカーのような格好をした赤髪の少女が、興奮混じりに人差し指を向ける。所の余計な一言と、赤髪の少女の反応でプロデューサーの俺を見る目がガラッと変わった気がした。その背後では信号機の色が変わり、先ほどと同じメロディが影が伸びた東京の街に響き渡る。大きな道路を挟んだ向かい側から、大きな人の波がゆっくりと俺たちを読み込むように押し寄せてくるのが見えた。自身の背後から大きな波が迫ってきているのに気付きもしていないのか、プロデューサーは熱心に俺の顔から足の先まで舐め回すように観察している。プロデューサーの視線は一通り俺の身体中を回った後、腰を僅かに逸れた辺りで止まった。

 

「……驚いた、本物の天ヶ瀬冬馬じゃないか」

「なんだよ、ホンモノって」

 

 押し寄せてきていた人の波は、同じく俺たちの方から反対の岸を目指して進んでいた人の波と衝突して、大きな交差点のど真ん中で弾けた。正面衝突をして弾けた波は大きな海を彷徨う静かな波になって、黙々と鳴り続けるメロディの下で入れ乱れ合っている。

 

「すまない。以前ウチのアイドルが天ヶ瀬くんとソックリな男といるところを写真に撮られてしまってね。その写真の風貌が本当に似てたから、つい疑ってしまったんだ」

 

 聞き覚えのある話だった。ていうか、多分その俺にソックリな男ってのは俺自身のことだと思う。その事実を知らないプロデューサーの視線が逸れて、また俺の腰の隣で止まった。肌寒い風が俺たちの間を駆け巡っていく。突風に晒されて、思わずチラシを握る力が強くなった時に、初めてプロデューサーの視線の意味に気が付いた。

 

「しかし、天ヶ瀬くんが恵美の知り合いだったとはね。もしかしたら志保の相手もソックリさんじゃなくてホンモノだったり……」

「プロデューサー、あなたって人はどうしていつも私たちを放って行かれるのですか? だから普段から無神経で不躾な方だと言われるのではないでしょうか」

 

 冗談混じりの言葉が真実に近付こうとした時、ゆっくりと俺たちの岸へ流れ着いた波の中から聞こえてくる、かなり辛辣な言葉がプロデューサーの口を遮った。決して茶化しているわけではなく、悲痛な心の叫びにも聞こえた声で何かを思い出したかのように、プロデューサーは慌てて振り返る。横断歩道の手前、点字ブロックの上には艶のある白い髪が特徴的な、日本人形のように小さな顔をした少女が軽蔑するような目を向けながら立っていた。その隣ではキャメル色のダッフルコートを着た少女が、「点字ブロックの上に立ったら邪魔になりますよ」と、遠回しに伝えているかのように白い髪の少女の背中を優しく押す。

 ダッフルコートを着た少女のマフラーから溢れ出るウェーブのかかった光沢のような黒髪が、微かに残った夕焼けに照らされてキラキラと光った。沢山の光の粒を含んだ髪を短くて強い風がさらう。少女が乱れた前髪を正そうと額に手を伸ばした時、ふと視線が交錯した。信号が再び切り替わって、赤になると同時にメロディが止まる。横断歩道を急いで渡る人々の足音も、青になる瞬間を待つ車の音も、一定の音量で気だるけに流れていた信号機のメロディも、一瞬だけ時間が止まったかのように全ての音が消えて、世界に静寂が訪れた。その刹那に、ドクンと心臓が脈を打つ音が聞こえた気がした。

 

「き、北沢?」

「天ヶ瀬さん……」

 

 驚いたようにお互いが互いの名前を呼び合った瞬間、北沢の背後で長蛇の列を作っていた車の群れが、静止した時計の針を進めるようにアスファルトを擦る音だけを残して走り出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



部屋掃除していたら埃かぶったプラチナスターズが出てきたので初投稿です。


 お互いの名前を呼び合ったのと同時に、背後で車がゆっくりと走り出す音が聞こえてきた。重そうな身体を動かす乾いたエンジンの音、足を止める私を追い越す車たちから溢れ出たそよ風が、排気ガスの匂いを鼻に運んでくる。生まれて十四年、東京で毎日のように嗅いできた匂いだけど、今でも何処か居心地を悪く感じてしまう、好きになれない匂いだ。

 呆然と私を見つめる天ヶ瀬さんの上半身だけが綺麗に切り取られたように、ビルの隙間から射す夕陽に照らされている。ライアー・ルージュに私の本心を気付かされて以来、改めて会った天ヶ瀬さんは今までより何倍も眩しい光を纏っているように見えた。逆光を受けて立つ天ヶ瀬さんだったが、額に手を添えるわけでもなく、ただ目を細めて私を見つめている。久しぶりに見た天ヶ瀬さんの髪は伸びていて、黒いニット帽からはみ出した前髪は鼻の付け根に差し掛かろうとしていた。伸びた前髪の奥に潜む、私を見つめる天ヶ瀬さんの瞳に私の胸はぎゅうと縮む。好きだと認識してしまったせいだろうか、前みたいに自然に応対することができず、無意識に身体が硬直していくのが分かった。

 

「あれ、あまとうも志保も知り合いだったの?」

 

 恵美さんは私たちの顔を交互に見て、互いに確認を取るかのようにそう尋ねた。天ヶ瀬さんがどう答えるのか、少しだけ期待して天ヶ瀬さんの顔を伺ってみたが、彼はバツの悪そうな顔で逃げるように目線を泳がせているだけで自ら口を開く気配はなかった。淡い期待を捻り潰されたように、私たちはつくづく曖昧な関係なんだなと痛感させられる。天ヶ瀬さんにとって私はただ友達なのか、同業者のライバルか、はたまた都合の良い暇潰しの相手なのか––––。恵美さんの問いに言葉を詰まらせる彼の様子から、天ヶ瀬さんの中での私の立ち位置は不透明なままのような気がした。

 ––––ただの友達です。

 そんな無難な言葉が喉元まで出かかった時、天ヶ瀬さんの視線が一瞬だけ、チラリとプロデューサーへ向けられたのに気が付いた。あぁ、そうか、プロデューサーの存在を気にしていたのか。天ヶ瀬さんの意図を汲み取って、私は喉元で止まったままの言葉を慌てて飲み込んだ。

 Twitterの一件は結局天ヶ瀬さんのソックリさんで解決されたままで、プロデューサーはあの写真の人物が天ヶ瀬さん本人だということに未だ気付いていない。ここで私たちが知り合いだと分かると、あの写真の真相にも気が付かれてしまうと思ったのだろう。別に知られたところで特別都合が悪くなるようなことはないのだろうけど、面倒事を避けたいのなら知られないに越したことはない。もし天ヶ瀬さんがそう思っているのなら、私もその考え方には賛成だった。

 

「いえ、別に知り合いってほどでは」

 

 なるべくいつものようにと、当たり前のことを無駄に言い聞かせすぎたせいか、私の口から溢れた言葉はひどく素気ないように聞こえた。天ヶ瀬さんも同意を示すように、小さく首を縦に振る。私たち二人の様子を交互に見比べる恵美さんも、あまり興味がなさそうに「ふーん」と返して、この話題が終わろうとした時だった。

 

「冬馬くーん! 僕が持ってた分のビラ、配り終わったよ!」

 

 遠くの人混みの中から聞こえてくる元気な男の子の声。まだ声変わりをする前のような高い声で天ヶ瀬さんを呼んだのは、四方から流れてくる人の波を掻き分けて向かってくる、私とそこまで背丈が変わらない華奢な体型のな男の子だった。長い髪をオールバックにするかのようにカチューシャでまとめた男の子と、ふと視線が交わる。男の子はほんの一瞬だけ足を止めて遠目に私を確認すると、すぐさま天ヶ瀬さんの元ではなく私と紬さんの方へと大きく舵を切って方向転換をし、軽い身のこなしで行き交う人々の間をひょいひょいと縫い潜って私の前で立ち止まった。私の隣に立つ紬さんにはまるで目もくれず、私の顔をジッと見つめている。男の子の後ろで、必死の形相で私たちの元へと向かってくる天ヶ瀬さんの姿が目に入った。

 

「ねぇ、もしかして北沢志保ちゃんでしょ?」

「え?」

「やっぱりそうだ!」

 

 突然名前を呼ばれ、動揺する私の反応を見て、確信めいたように男の子はニッと口角を上げて笑う。あぁ、この笑い方、そうだ。確か天ヶ瀬さんと同じジュピターの––––……。

 

「おいっ、翔太! てめぇ、何してんだよっ!」

「いてっ! もー、冬馬くん何するの。まだ僕、何も言ってないよ!」

「まだって、やっぱり何か変なこと言うつもりだったんじゃねぇか!」

 

 名前を思い出す前に、天ヶ瀬さんが男の子の名前を口に出した。

 御手洗翔太くん、だったかな。私が天ヶ瀬さんたちに興味を抱くキッカケとなったYouTubeのインタビュー動画の記憶が断片的に思い浮かんできて、目の前でヘッドロックを掛けられて苦しそうにしている男の子と照らし合わせていく。間違いない、こんな風貌だった気がする。記憶が正しければ御手洗翔太くんは私と同じ歳か、一つ下だったはずだ。

 そんな私の心の内を読んでいるのか、天ヶ瀬さんの腕に包まれて苦しそうにしながらも何処か楽しげな笑みをした御手洗翔太くんは、身を乗り出して更に口を開いた。

 

「志保ちゃん、中二でしょ? 僕もおんなじなんだ! よろしくねっ」

「え? あ、えぇっと……。よろしくお願いします」

「うん、よろしく」

 

 まるで当然のことのように、さらっと下の名前で呼ばれてドキッとする。なにがよろしくなのか、私でもよく分からない言葉が咄嗟に出てしまったが、御手洗翔太くんはそんな私を気にもせずに愛想の良いニコニコした顔で「僕のことは翔太って呼んでよ」と言った。

 人懐っこいというか、妙に人との距離を詰めるのが上手い人だなと思った。くっきりとした二重まぶたが特徴的な顔はいつもニコニコしており、嫌味のない笑顔は翔太くんのフレンドリーな性格をそのまんま表しているようで、やけに馴れ馴れしい口調で話しかけられても不思議と嫌な気はしない。きっと年上年下誰にでも隔たりなく同じように接することができて、多くの人に気に入られることのできる人間なんだなと思う。同じ39Projectに所属する同級生の翼と同じ、俗に言う『コミュ力オバケ』という人種だろうか。少しだけ威圧感があって近寄り難い雰囲気の天ヶ瀬さんとは、まるで対照的な人種のような気がした。

 

「志保ちゃんのこと、冬馬くんから聴いてたんだ」

「え? 私のこと?」

「そう。この前のライブだってね––––……」

「ああああぁぁぁぁ、ちょっと待てっ!」

 

 天ヶ瀬さんが私の話を?

 翔太くんの言葉の続きが気になったが、天ヶ瀬さんは発狂に近い声を上げて、慌てて翔太くんが言いかけた言葉の蓋を閉じてしまった。まるで引き出しの奥にしまい込んだ自分だけの宝物を必死に隠す子供のように、取り乱れた様子で翔太くんの口を塞ぐ天ヶ瀬さんの様子が、更に私の好奇心を掻き立てる。天ヶ瀬さんは翔太くんにどんな私の話をしていたのだろうか。マフラーに包まれた顔が火照って、胸の鼓動が早くなっていくのが分かった。

 暫く二人はギャーギャーと子供のように奇声をあげながら戯れ合った後、側を通り過ぎて行く名前も知らない人々のこの上ないほど迷惑そうな視線が飛んでいたのに気が付いて、二人は離れて大人くしなった。先ほど言いかけたの言葉の続きが知りたくて密かに翔太くんを応援していたのだが、解放された彼は閉ざされた言葉の続きを言うつもりはないらしい。いたずらっ子のような顔で私の隣の紬さんに小さく会釈すると、天ヶ瀬さんが手に握りしめていたチラシの束をそのまま奪い取って、やってきた道を辿るように踵を返して人混みの中へ飛び込んで行ってしまった。

 

「なんか、悪かったな。翔太が迷惑かけて」

「いえ、別に迷惑なんか……」

 

 人混みの中へ消えて行った翔太くんの背中を見送った天ヶ瀬さんは、独り言のように呟いた。私の隣で、天ヶ瀬さんをきょとんとした様子で眺める紬さんの様子が視野に入り込む。紬さんが慌てて私の視線に気が付いた時、私は逃げるように天ヶ瀬さんに目を向けて口を開いた。

 

「でも」

 

 そう付け足して、少しだけ遠くを見つめる。背後で色褪せた信号機が聞き慣れたメロディを口ずさみ始めた。天ヶ瀬さんが神様に印を付けられた特別な存在だということにまだ気付いていない周囲の人たちが、止めていた足を動かす。遠くからゆっくりと、私たちを飲み込もうとする大勢の人たちの足音が聞こえてきた。

 

「多分、気付かれちゃいましたね」

「……あぁ、本当にすまねぇ」

 

 私の視線が捉えた人物を天ヶ瀬さんも見つめ、再び謝罪の言葉を口にした。私の考えていたことが瞬時に伝わって、やっぱり天ヶ瀬さんも同じことを危惧していたようだ。

 少し離れたところで恵美さんと並んで立つプロデューサーは、ボンヤリとした目で私たちを眺めていた。後で詮索されるのだろうなと煩わしく思う反面、不思議と私と天ヶ瀬さんが言葉を交えなくても示し合わせたように同じことを考えていたことを嬉しく思う気持ちの方が強かった。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 三度ほど単調な呼び出し音が鳴った後、音は途切れた。ガサガサとマイク元で何かが触れる音が聞こえてきた後に、相変わらず抑揚のない声がスマートフォンのスピーカーを伝って俺の耳へ届く。久しぶりの電話のせいか妙に緊張して、俺は唾を飲み込んだ。

 

『もしもし?』

「……あーもしもし。今、大丈夫だったか」

 

 ぶっきらぼうな北沢の声を確認した後、呼吸を整えるように少しだけ間を置いて訊くと、「大丈夫ですよ」とだけ返事がきた。チラリと枕元に置いたデジタル時計を確認する。夜の二十二時ピッタリ、わざわざ余裕がありそうな時間を狙って電話をかけたが、俺の予想は的中だったらしい。

 

「今日は翔太がなんか色々迷惑かけてすまなかったな。あの後、大丈夫だった?」

『全然大丈夫です。プロデューサーも変に誤解せず理解してくれてましたから』

「え、そうなのか?」

『はい。前任の先輩プロデューサーから、天ヶ瀬さんたちの話を少し聴いていたそうです。ちょっと突っ掛かってくるところはあるけれど、根は良い人たちだって」

「そうだったのか……」

 

 765プロでプロデューサーとして勤めている人間は、今日の男を除いて俺の知る限り二人しかいない。そして俺と面識があるということだから恐らく秋月ではない、赤羽根の方だろう。赤羽根は765ALL STARS全般を管理していたメガネをした若い男のプロデューサーだ。三十代前後の風貌で少し危なっかしい雰囲気はあったが、それでも仕事ができる人間だったようで、天海たちのアリーナライブの仕事を持ってきたのは彼だと聴いていた。

 だけど前任って言うことは、あの赤羽根は765を辞めたということだろうか。北沢の言う“前任”の意味が少し引っかかったが、北沢に電話をかけた当初の目的を思い出し、一旦赤羽根の消息は頭の片隅に片付けておくことにした。

 

「……北沢。俺、北沢に謝らないといけねぇことがあって」

『謝らないといけないこと、ですか?』

 

 本題を切り出すと、北沢は驚いたように復唱しながら語尾を上げた。スマートフォンを耳に添えながら、俺はベッドから腰を上げて窓際へ向かう。カーテンを捲った窓の先では、僅かに欠けた月が薄い雲に覆われながらも眩いまでの光を放っていた。

 

「俺さ、実はこの前の定例ライブ行ってたんだ。北沢がステージに立ったあの日のライブに」

『……あぁ、そのことですか』

 

 黙ってにライブを見に来たことを怒るだろうか、もしかしたら招待もされていないのにチケットをわざわざ買ってまで観に来たことにドン引きするかもしれない。

 そんな心配を抱えて口に出した告白だったが、北沢の反応は俺の予想していたパターンのどれにも当てはまらなかった。まるでどうでも良いことのように、ドライな反応を伺わせる北沢の声。驚いているわけでも、怒っているわけでもなく、その声色には少しだけ苛立ちが含まれているように聞こえた。もしかして俺が来ていたことに気が付いていたのだろうか。「知ってたのか?」と訊くと、歯切れの悪い口調で北沢は「まぁ」とだけ曖昧な返事を返した。

 ここから先、この話題を掘り下げる言葉が見つからず暫しの沈黙が流れた。夜空を照らしていた月はゆっくりと流れてきた分厚い雲に覆われ、行方不明になっている。消えた月の在りかを探していると、痺れを切らしたように北沢が口を開いた。

 

『……琴葉さんを観に来てたんですよね?』

「は!?」

 

 思いも寄らない名前が飛び出してきて、俺は思わずスマートフォンを落っことしてしまうそうになった。 

 

「なんで俺が田中さんを観に行く必要があんだよ」

『え、違うんですか?』

「ちげーよ、んなわけねぇだろ」

 

 だって俺が本当に観たかったのは––––。

 そう言いかけて、俺は黙り込んだ。分厚い月がようやく過ぎ去って、再び綺麗な月が顔を出した。耳に当てたスマートフォンの奥で、ガラガラと引き戸がガラスを揺らしながら動く音が聞こえる。ピシャリと何か壁にぶつかるような音が聞こえた後、スピーカーからは風が走る音が寒さとともに伝わってきた。

 

「今、外にいんの?」

『はい。ちょうど今風呂を上がったばかりで身体が火照っていたので』

 

 僅かに聞こえていた生活音が消え、急に静かになった電話越しの世界に北沢の綺麗な声が響く。北沢も同じようにこの月を眺めてるのかな、なんて性に合わないことを考えながら俺はボンヤリと月を眺めていた。

 

「そっか」

 

 もう北沢の声には先ほど俺が感じたような苛立ちは含まれていなかった。どうやら俺のただの勘違いだったらしい。

 

「ライブ、すげー良かった。全然歌いこなせないって言ってたのに、ビックリしたぜ」

『そ、そうですか? ありがとうございます』

「悪かったな、勝手に観に来たりして」

『いえ、むしろ嬉しかったです。あと先日はすみません、急に帰ったりして』

「気にすんなよ、用事があったんだろ?」

『……本当に失礼な態度とってしまって、すみませんでした』

 

 北沢は用事があったのだと肯定はせず、ただひたすらに謝っていた。何かが胸の奥で突っ掛かっていた気がしたが、俺はそれをしつこく追求するような無粋な真似はしなかった。あの日から妙に空いてしまっていた俺たちの距離感が再び正しい位置に戻されたような気がして、今はそれだけで満足していたのだ。

 同じ夢を追うライバルとして、これからも刺激を貰える関係でありたい。俺の中の特別なポジションに北沢が戻ってきてくれて、今はその距離感が妙に心地よかった。

 

「今度、俺たちもライブするんだ。すげー小さな箱だけど」

『知ってます。今日はそのビラを配ってたんですよね』

「そうそう。良かったら次のライブ、見に来いよ。この前楽しませてもらったお礼、させてくれ」

『え? 良いんですか?』

「あぁ、招待枠でチケット確保しとくからさ」

『ふふふっ、ありがとうございます。楽しみにしておきますね』

 

 それから俺たちは暫く他愛もない会話を続けて、電話を切った。電話を切った後、妙にやる気に満ち溢れた指でペンを握り、手帳に「招待券(北沢)」と記して、俺は布団に入った。北沢がライブに来てくれる、そう考えるとソワソワしてなかなか眠りにつけなかった。北沢は俺たちのライブを見てどう思ってくれるのだろうか。

(やっぱり天ヶ瀬さんは凄いって思わせてぇよな)

 そのためにも絶対に成功させないと。北沢が自身の殻を破って前に進んでいるんだから、俺も負けてられない。そんなことばかりを考えながら、その日は浅い眠りについた。

 

 後から振り返れば、もう既にこの時点で何かがズレてきている予兆はあった。田中さんを目当てに俺がライブに来ていたのだと北沢が勘違いしていた辺りから、俺も何かがかけ違えてあるような感覚を覚えていたはずだった。だけど俺はその感覚を偶然だと片付けて、俺たちの間に生じていた僅かなズレを突き詰めようとはしなかった。それが後に引き起こす事態をこの時は思いもよらず、ただただ楽観視して適当に流してしまっていた。

 洋服のボタンを掛け合わせていくのと同じように、物事は最初にたった一つでもボタンを掛け間違えてしまうと、そこから先は全部がズレていってしまう。そして大体気がつくのは最後のボタンと穴の数が合わなくなった時だ。取り返しのつかないところまで行ってしまって、初めて最初に生じていたズレに気がつくことになる。そのことを、後に俺は痛いほど思い知らされることとなった。

 

 

 次の日。

 俺が電話をした時間帯とほぼ同時刻に、北沢から電話が掛かってきた。

 

『すみません、昨日のチケットの件なんですけど、キャンセルしてもらえませんか』

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



ゆっくり流れる雲の先に沢山の夢を描いているので初投稿です。


 プロデューサーに連れられて回った作曲家への挨拶回りの帰り、偶然駅まで天ヶ瀬さんと鉢合わせをした。急な出来事で驚いたけど、きっと私は今までと同じように平然を装って彼と話ができたと思う。私たちの反応からプロデューサーにはTwitterの一件の真実も知られてしまったけれども、最後に会った日に私が見せた醜い嫉妬のせいで離れてしまっていた私たちの距離が元の距離感に戻った気がして、そのことが私は嬉しくて仕方がなかった。

 その日の夜、天ヶ瀬さんから電話が掛かってきて、僅かな時間でも二人きりで話もできて。天ヶ瀬さんの声を聴きながら月を眺めていた時間は、本当に心安らぐ時間だった。琴葉さんのこともどうやら恵美さんの早とちりだったようで、昨日の一日は私たちの間に漂っていた妙な気まずさは勿論、色んなモヤモヤが一度に解消された一日となって、天ヶ瀬さんのライブを観に行く約束をして電話を切った後は久しぶりにぐっすりと眠りにつけた気がする。

 ここまでが昨日までの話だ。そして今日、放課後に心なしかステップを踏むような軽い足取りで劇場に向かうと、39Projectの中で唯一私の胸の内を知る莉緒さんに会った。莉緒さんの手にはマグカップが握られており、その隣では真っ黒な液体が入ったポッドを持つ美也さんが、いつもの如く愛らしい猫のようにニコニコと笑みを浮かべている。

 

「あー、この豆堪らない! 昨日のより苦味があって美味しいわ」

「それは良かったです〜」

 

 珈琲の飲み比べでもしていたらしい。その様子から二人が近々、喫茶店を舞台にした映画のオーディションを受けると話していたことを思い出した。なんでも喫茶店を営む三姉妹の物語で、莉緒さんはお店に通う男役に挑戦するとか聞いた気がする。大人の余裕があって端正な顔立ちをした莉緒さんが演じる男役はどんな風になるのかと、密かに私は興味を抱いていた。

 先に私の存在に気が付いた美也さんに、「志保ちゃんも良かったら一杯どうですか?」と訊かれた。マグカップが綺麗な唇に触れるたびに極上の霜降り肉を頬張るかのように頬を緩める莉緒さんの顔がチラリと視界に入って、頷きながら「お願いします」と返事をする。部屋の隅にある簡易キッチンの水切り籠に逆さに置かれていたマグカップを持ってきて、私も二人の前に腰を下ろした。

 

「志保ちゃん、最近調子はどう?」

「調子……、ですか?」

 

 私が座るとすぐさま目の前の莉緒さんから質問が飛んできた。あまりにも漠然としすぎた質問に、思わず首が傾く。莉緒さんは宝箱を前にした子供のような眼差しで両肘をテーブルにつきながら私の口が開くのを今か今かと待ち望んでいる。

 その視線から目を逸らした私は美也さんから珈琲が入ったマグカップを受け取って、軽く唇に含んでみた。真っ黒な珈琲が舌に触れた途端、じわりと熱が広がると、間髪置かずに独特の苦味が舌から口全体に広がっていく。莉緒さんはこれの何処が美味しいと思っているのだろうか、私には到底理解できそうにない味だ。

 

「もうっ、勿体ぶらないでよ」

 

 マグカップが私の口元から離れたタイミングを見計らったように、莉緒さんが我慢できずに先に口を開いた。

 

「隠し事はなしよ。私、聞いちゃったんだから」

 

 その口調と笑みに、嫌な予感を感じて背筋が凍る。

 大抵、莉緒さんがこういう風な少し芝居かかった口調で話す時は、決まって面倒極まりない事態が起こる。私と同じ予感を察したのか、美也さんもどさくさ紛れにポッドを持って席を立とうとしていた。莉緒さんの目が一瞬だけ隣で腰を上げた美也さんに向けられたタイミングで私も席を立とうとしたが、すぐに金縛りに合うような眼光に晒され、私の逃亡は叶わなかった。

 

「……聞いたって、なんの話ですか」

 

 これは言い逃れできそうにないな。

 無事逃亡に成功した美也さんが、新たな止まり木を見つけたのを恨めしそうに眺めながら、私はぼやいた。美也さんが見つけた新たな止まり木では、琴葉さんとエレナさんが興味深そうに珈琲の入ったポッドの中を覗いている。

 

「昨日、会ったんでしょ。例の彼と」

「その話、誰から聴きました?」

「プロデューサーくん。親しげに話してたって、驚いてたわ」

 

 プロデューサーが?

 恵美さんや紬さんではない、予想外の人物の名前が出てきて私の心内では小さな波が立つ。莉緒さんは慌てて「大丈夫。プロデューサーは多分気付いていないから」と言葉を付け足したが、その“気付いていない”が何を指していることなのか、またしても漠然とした言葉で掴めなかった。

 どうか私が天ヶ瀬さんに抱いている想いは気付かれていませんようにと、密かに祈る私に莉緒さんは話を続ける。

 

「会うのはライブ前以来だったんでしょ? 少しは話せた?」

「はい一応は。前の件も謝れました」

「そう、ならよかったじゃない。それで、デートの約束とかは?」

「そんなのないですよ。でもこの前のライブに来ててくれたみたいで、凄く良かったと言われました」

「えー!? やるじゃない! 大きな前進よ!」

 

 莉緒さんの声が控え室に一段と浮いて聞こえる。遠くの席で琴葉さんとエレナさんがチラリを私たちに視線を向けているのが分かった。興奮すると莉緒さんは声が大きくなりがちなのだ。

 

「もういいじゃないですか。それより莉緒さんは三姉妹カフェの準備の方は進んでいるんですか?」

「あ、それは大丈夫。バッチリだから。それより話の続きなんだけど……」

 

 話の矛先を変えようと試みるも、あっさりと切り返されてしまった。

 それからは暫く、根こそぎ天ヶ瀬さんとの話を掘り返され、その度に莉緒さんはまるで中学校の同級生たちが昼休みにお弁当を広げて他クラスの誰がカッコいいとか、運動部の誰々が好きとか、そんな恋愛話に華を咲かせるように、過度なリアクションを取っては目を輝かせて楽しげに私の話を聴いていた。普段は恋バナで一喜一憂する同級生たちを冷めた眼差しで見つめていたのに、目の前で無邪気に笑う莉緒さんを見ても不思議と嫌な気はしなかった。

 莉緒さんと暫く話をして、私はふと気が付いた。もしかしたら私が今まで同級生たちに向けていた眼差しは嫉妬だったのではないのだろうかと。大人になることばかりに捉われて背伸びばかりして、人並みの経験が乏しかった私は、本当は周囲の同級生たちと同じように日常の些細なことで一喜一憂したかったのかもしれない。

 天ヶ瀬さんと出会って、ライアー・ルージュの私の本当の気持ちを気付かされて、少しずつではあるが確実に、私の気持ちに変化が生じ始めている。それはまるで険しい冬が残した岩と化した氷が春先の暖かい陽に照らされてジワジワと溶けていくような、胸の内に深く染み込んでいく心地よい温もりを含んでいるようだった。

 

 ––––独りじゃ絶対に夢は叶えられないんだ。助けてくれるスタッフたちがいて、支えてくれるファンがいて、切磋琢磨できる仲間がいて……。そのことを理解した上で、独りでも夢を叶えたい、誰にも負けたくないって気持ちで頑張ればいいだけじゃねぇの。

 

 あの時の、天ヶ瀬さんが私にくれた言葉を私は一文一句忘れずに覚えていた。言葉だけじゃない、あの時の喫茶店のゆったりとした時間が流れる雰囲気や、窓から薄暗い店内に射さる夏の日差しも、店を出て仰いだ空の蒼さも、全ての情景が一ミリも風化せずに私の記憶に刻み込まれている。笑うことをやめ、独り善がりで強がり続け、でもそれが間違いだったと気付かされて、長い旅の途中でもうこれ以上は先に進めないと迷子になっていた私を大きく変えたあの日の出来事は、日を追うごとに砂埃を落とすかのように磨かれていって、綺麗な側面が顔を覗かせるキラキラと光る宝石のように輝きを増し続けていくのだ。

 きっとこのキラキラとした記憶はずっと私の胸の中に残り続けるのだと思う。五年後も十年後も、アイドルとしてどうなっているのかすらも見えない遠い未来でも、あの時の出来事だけは色褪せることのない宝石として輝き続けて、胸の奥のポケットから私に勇気を与え続けてくれるのだろう。

 遠い先の未来のことなんて何も分からない。だけど、そのことだけは私は確信を持つことができた。

 

 

 恵美さんが控え室にやってきたのは、街灯の灯りが一層輝きを放つほど空が真っ暗になった頃だった。今日一日のレッスン全てを消化し、皆が帰り仕度を済ませていた時に駆け込むように控え室にやってきた恵美さんは普段はあまり見かけない制服姿だった。学校帰りにそのまま直接やって来たようで、首元には外の寒さを凌ぐために巻かれたマフラーがそのままになっている。

 

「こんな時間にどうしたの、メグミ? 今日はレッスン入ってなかったでしょ?」

 

 暖房が効いて暖かい控え室でコートを着るか、外に出てから着るかでずっとブツブツと独り言をぼやきながら悩んでいたエレナさんが、コートを片手に尋ねた。恵美さんらしくオシャレに着崩したブレザーの合間に見える素肌に、うっすらと汗が滲んでいるのが見える。

 

「ちょっと緊急で皆に伝えたいことがあってねぇ、学校帰りにそのまま来ちゃった」

「キンキュウ?」

「そそそ」

 

 手で首元を仰ぎながら、いつものように「にゃはは」と得意げに笑うと、恵美さんは数え切れないほどのストラップが付いたスマートフォンを取り出した。器用に手袋を外して、爪先に自己主張の強いネイルが飾られた細い指でスマートフォンの画面をタッチしていく。そしてすぐに目当ての画面を見つけたのか、画面に触れていた人差指を離すと、少しだけスマートフォンを細める目に近付けて恵美さんが画面を読み上げるような口調で控え室にいる私たちに言った。

 

「えー、今月二週目の日曜日! の、十六時から。暇な人誰かいないかな」

「その日、何かあるの?」

「琴葉、そんなに焦らないで。あ、言っとくけど琴葉は強制参加だから」

「えぇ!? ちょっと、どうして……」

「あー、ワタシはこの日無理だヨ。学校の友達と用事あって」

 

 予定が合わないと分かり、途端に興味がなくなったのかエレナさんは片手に持っていたコートに袖を通し始めた。そんなエレナさんを少しだけ残念そうに見つつ、恵美さんは「そっかぁ、他は誰かいない? あと一人なんだけど」と他のメンバーの反応を確認するかのようにキョロキョロと視線を動かす。周囲を彷徨っていた恵美さんの目が私の前で止まった時に、ふと思い出した。確か二週目の日曜日は天ヶ瀬さんのライブに行く約束をした日だ。

 

「ちょっと恵美さん。予定が何なのかちゃんと言わないと誰も何も言えないでしょ」

 

 私も予定があるので無理です、と言い掛けた矢先、桃子が先に口を開いた。全くもって正論な桃子の意見に、恵美さんは嫌な顔一つせず口元を緩める。

 

「そこまで言うならしょうがないなぁ」

 

 ここまで出し惜しみをするくらいだから、決して悪い話ではないのだろう。どちらにせよ、エレナさん同様参加できない私には無縁の話ではあるが。

 

「なんとぉ〜! なんとぉ〜!!」

「……それ、美咲ちゃんの真似?」

「そういうのいいから、早く言って」

「恵美さん、早くはやく〜」

 

 ゴールデンタイムに放送されるドキュメンタリー番組よろしく、恵美さんが青羽さんの口真似をして余計な引っ張りを入れる。

 面倒臭そうに莉緒さんに指摘された挙句、ストレートな物言いの桃子と普段のんびり屋な美也さんにまで急かされたのが余程ショックだったのか、恵美さんはしょんぼりと肩を落とすと声のトーンまでガクッと落として言った。

 

「その日開催されるジュピターのライブのチケットを三枚もらったんだけど、誰かあと一人一緒に行きませんか〜」

 

 え、ジュピターのライブ?

 不貞腐れたようなカタコト口調でさらっととんでもない言葉を口にした恵美さん。他人事だと思って適当に聞き流しそうになっていた私は、慌てて顔を上げる。隣で私を見つめる莉緒さんと目が逢った。私は慌てて首を横に振る。知らない、どうして恵美さんがジュピターのライブをチケットを手に入れてるのかなんて、私は何も聞いてもいない。その意思表示で、何度もなんども首を横に動かした。

 それと同時に、恵美さんが先ほど、「言っとくけど琴葉は強制参加だから」と口にしていたことも思い出した。この前のライブ後も、天ヶ瀬さんが琴葉さんを目当てにライブに来ていたと恵美さんは話していたが、その話を当の本人は否定していた。

 一連の出来事が走馬灯のように駆け巡って行って、私は確信した。間違いない、恵美さんは何か大きな勘違いをしている。そしてその勘違いに気が付かないまま、琴葉さんと天ヶ瀬さんをくっ付けようとしていることにも。

 嫌な汗が吹き出てくるのを感じる。これは嫉妬なんかじゃなくて、何かとてつもなく大きな大切なモノを失ってしまうのではないかという恐怖心だ。

 

「はいはーい!!」

 

 突然、隣の莉緒さんが右手を大きく天井に伸ばして、声を張り上げた。部屋中の視線が一斉に莉緒さんに集まる。その視線を一身に浴びる莉緒さんは、唐突にその視線たちを私へ全てぶん投げるとんでもない荒技を魅せた。

 

「恵美ちゃん、志保ちゃんがジュピターのライブに行きたいってよ!」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



真青眼の究極竜は3回攻撃が可能!(3日連続投稿するとは言ってない)
昨晩、ニコ動で「野獣先輩周防桃子説」という地獄のような動画を見てしまって、さすがの自分でも結構堪えたので初投稿です。もう許せるぞ、オイ!


 

『すみません、昨日のチケットの件なんですけど、キャンセルしてもらえませんか』

 

 挨拶もそこそこに、北沢は開口一番にそう告げた。

 電話越しに冷や水を浴びせられたのは、今度のライブで着る衣装も決まり(過去の使い回しだが)、念のために一度チェックをしておこうと、俺は沢山のモノの下敷きになった衣装の発掘作業に一人精を出していた時だった。昨晩の電話での北沢とのやり取りを思い出しつつ、二週間後に控えたライブに心踊らせ、やっとこさクローゼットの奥深くから衣装を掘り起こした俺の努力を否定するかのような北沢の言葉を耳に挟み、俺はまるで地平線の先まで永遠と続く砂漠のど真ん中に独り放り出されたかのごとく、発掘された衣装を片手に呆然としていた。

 

「まじで?」

 

 思わず俺の口が溢した言葉は、少しだけ未練がましく聞こえた。すぐさまマズイと思った。これじゃあまるで俺が北沢がライブに来るのを物凄く楽しみにしていたようではないか。咄嗟に溢れ出た本音を隠すように、慌ててフォローの言葉を探す。

 

『はい。実は成り行きで別口からチケットが手に入ってしまって。さすがに二枚貰っても余らせてしまうので』

「え?」

『え?』

 

 何かが噛み合っていないような、お互いが素っ頓狂な声を出して暫くの沈黙。

 別口でチケットが手に入った?

 北沢の言葉の意味が汲み取れず、俺は衣装を無造作に積まれた衣服の山の頂点に放ると、肩と耳に挟んでいたスマートフォンを右手に持ち直した。少しだけ熱を持ったスマートフォンからは淡々とした北沢の声が聴こえてくる。

 

『恵美さんが招待チケットを三枚手に入れたようで、私もそのうちの一枚を貰って一緒に行くことになったんですよね』

「……めぐみさん?」

『あれ、知り合いじゃなかったんですか? 所恵美さん、昨日も私たちと一緒にいましたけど』

「あー、所のことか。アイツ、確かそんな名前だったな」

 

 そういやアイツに昨日、ビラあげたんだっけ。招待チケット、ということは、多分所に手配したのは北斗だろう。俺も北沢に招待チケットを手配することをまだ二人には伝えていなかったから、知らない間に偶然重なってしまったらしい。でも結果が同じで過程が変わっただけだから、俺としては特に大きな問題はなかった。むしろ北沢のことを考えると、一人で来るより事務所の友達と来た方がライブ敷居も下がるのかもしれない。一人で来ても楽しいかもしれないが、やはりライブは仲の良い友達と一緒に参加した方が何倍も盛り上がって楽しめるに決まっている。コミュ力フルバーストの所と、どちらかと言えば独りでいるイメージの強い北沢の組み合わせは全く予想できないけど。

 どちらにせよ、面倒な手間が省けて良かった。北沢が来れなくなったしまったのではないかと一瞬危惧したが、事情を知って「それなら良かった」と安堵の溜息をつく。すぐさま北沢から「良かったって、何がですか?」と突っ込まれ、俺はまた本音が知らぬ間に漏れていたことに気が付き、慌てて口に手をかざした。

 

「それより、三枚ってことはもう一人来るんだろ?」

『あ、はい。私と恵美さんと、あと琴葉さんで行くことになっています』

「琴葉って、田中さんのことか」

『……そう、ですね』

 

 北沢の声が、一瞬だけ曇った。

 クローゼットを閉めて、ベランダに出る。暑いほどに室内の暖房を効かせていたせいか、外の肌寒い冷気が妙に心地よく感じられた。朝からずっと空を覆っていた灰色の雲たちは夜になった今もなお居座り続けていて、昨日のような綺麗な月は姿を見せずに隠れている。時折僅かに覗くその雲たちの隙間からは、漆黒のカーテンに貼り付けられた星たちが、俺たちに自身の存在価値を訴えかけるように必死な光を放っていた。

 

『あの、琴葉さんのことなんですけど』

 

 重そうな口調で、そう話を切り出した。

 そんな電話越しの北沢の姿がふと脳裏に浮かんだ。俺の頭に浮かんだ北沢の虚像は、くっきりとした二重まぶたの上の綺麗に整えられた眉がハの字になっていて、いつもの冷静沈着な表情に微かな綻びが生じた顔だ。

 北沢志保という人間はあまり感情を表に出すようなことをしない、表情のバリエーションが乏しい人間である。そのイメージが強い所為か、驚いたり笑ったり困ったり、そんなふとした時に見せる頬の筋肉が緩んだ彼女の表情は、普段の北沢志保の顔よりもぐっと幼い顔つきに見えるのだ。でもきっとこれが彼女の素の顔なのだと思う。多くの物を背負って、誰の力も借りずに夢を叶えれる大人になりたいと願っても、北沢はまだ中学二年生。なんならイタズラ好きで子供っぽい翔太と同じ年なのだから。北沢と接する度に、俺はそんな彼女の強がりの仮面の裏に潜む等身大の素顔を見る機会が多くなっていた。

 

「田中さんがどうした」

『……その、なんだか少し勘違いをしているみたいで』

「勘違い?」

『はい。えっと、正確には琴葉さんではなくて恵美さんが……』

 

 妙に歯切れの悪い口調に聞こえる。珍しいなと思った。いつも要点だけを端的に掻い摘んで、割とズバズバと物事を言うタイプだと思っていた北沢が、今ばかりは慎重に言葉を選んでいるような気がしたのだ。

 

『何て言うべきか……、その、天ヶ瀬さんに対してなんですけど––––』

『あーっ! お姉ちゃんまた電話してる! ズルイズルいっ、僕も冬馬くんとお話ししたいっ!』

 

 たじたじするような北沢の声は、その背後から聴こえてきた小さな子供のような叫び声に遮られた。ガチャリと、スマートフォンが何かの上に置かれる音が聞こえると、遠くから「りっくんはもう寝なきゃいけない時間でしょ」と、人前では絶対に聞かせないような優しい北沢の声が聞こえてくる。暫くしてスリッパが床を擦る足音が近づいてきて、昨日も聴いた引き戸が鈍い音を立てながらレールの上を走る音が耳に届いた。

 

『すみません、弟が起きちゃったみたいで……』

「あぁ、この前公園で会った弟か」

『そうです。あれ以来、「ずっと天ヶ瀬さんに会いたい会いたい」って、聞かないんですよ』

 

 困ったように北沢は言った。なんだか恥ずかしくなった俺は、人差し指で頬をポリポリと掻いて、「そっか」と返した。

 そう言えば俺の変装を最初に見破ったのも北沢の弟だったっけ。初めて北沢と出会ったあの日のことを思い出し、少しだけ懐かしい気持ちになる。あれはまだ空には大きな入道雲が流れていた、暑い日のことだった。

 

「りっくん、だったよな。またいつか時間が合えば会いに行ってやるよ」

『え? いいですよ、わざわざ来てもらうなんて、さすがに申し訳ないです』

「気にすんなよ。俺も久しぶりにサッカーしてぇし」

『……ありがとうございます。天ヶ瀬さんのこと、好きみたいなので。りっくん、喜ぶと思います』

 

 北沢が発した“好き”というワードに、ドキリと大きな音を立てて鼓動が脈を打った。冬空の下を吹く風に晒されて、ひんやりとした頬が熱を帯びていく。北沢本人ではなく、ただ彼女の弟が俺のことを好きだと言っていることには気が付いていたけれど、何を期待していたのか、俺の顔が赤くなっていくのを感じた。

 電話越しだから北沢に今の赤くなった顔を見られる心配はないのに、それでも恥ずかしくて俺は慌てて違う話題を探した。

 

「そ、そういえばさ」

 

 苦し紛れに思いついた話題を振ったが、

 

「田中さんが、どうしたって」

『あぁ、それならやっぱりいいです。忘れてください』

「お、おう……」

 

あっさりと片付けられてしまった。

 その時の北沢の口調が若干駆け足になっているような気がしたが、俺は特に問い詰めるわけでもなく、そのまま逃げるように適当な言い訳をくっつけて電話を切った。

 電話を切って一人になると、少しの間だけ月の見えない空をぼーっと眺めながら熱を持った頭を冷やして、部屋に戻った。部屋はクローゼットの発掘作業の際に掘り返されたモノたちが散乱してままになっており、玄関へ続くドアを封鎖するように埋め尽くしている。面倒だけど片付けて寝るかと、そう思ってクローゼットを再び開けた時、散乱したモノたちの中からオレンジ色の箱が目に飛び込んできた。有名ブランドのロゴがプリントされたオレンジの箱を見てひどく懐かしい気持ちになった俺は、綺麗なままになっている箱の蓋をそっと開いた。

 

「……懐かしいな、これ」

 

 箱の中から顔を覗かせたのは、一度も使われなかったサッカーのスパイクだった。

 アイドルになる前、サッカー部で毎日のようにボールを追っかけていた時になけなしのお小遣いを叩いて買ったスパイクで、当時履いていたスパイクを履き潰したら次に履こうと決めていたモノだった。だけどその“次”が来ることはなく、お気に入りの赤色のカラーリングがされたナイキのスパイクは、アイドルになりサッカー部を辞めてしまったせいで結局一度も使われることのないまま、タグも外されずにこうしてクローゼットの中で眠っていることさえも忘れ去られてしまっていた。

 新品のサッカースパイク特有の、独特な匂いが鼻にツンとくる。その匂いが俺をノスタルジックな感傷に浸らせ、サッカーに情熱を注いでいたあの日常が今よりとても遠く離れた追憶の彼方にあることに気付かされた。サッカー部を辞めてアイドルになることを選んだ日から今日まで、たった一年半くらいの時間しか経っていない。だけど、その短期間の中で俺の世界は目紛しく変わっていって、いつの間にか俺は後戻りできない場所にまでやってきてしまったのだと痛感させられる。

 今俺たちが過ごしている日常は偶然なんかじゃなくて、紛れもなく過去の俺たちが選びとってきた選択の先にある必然だ。サッカーを辞めてアイドルになる道を選んだのも、961プロを抜けてインディーズで活動することを選んだのも、全て俺たちが選んできた道である。そんな幾多の選択の先に訪れた、果てのない暗闇を彷徨い続け、不確かな毎日を重ね続ける今の俺たちは、これからどのような選択を強いられて、何処に向かっていくのだろうか。そんな不安が、ふと頭をよぎった。頑張っているはずなのに夢は遠退いていくばかり、誰一人としてそんな弱音は吐かなかったが、きっとこの感覚を北斗と翔太も感じているはずだ。現実問題、俺たちジュピターは961プロを抜けてから今日まで、表舞台から遠ざかっていく一方なのだから。

 答えを探すように、俺は窓の外に視線を移す。だけど俺たちジュピターの行き先を照らすような月明かりは、雲に覆われて一寸の光さえも見せてくれなかった。

 

「……ここから先は、俺たちが掴み取っていくしかねぇんだろうな」

 

 分かりきっていた答えを、言葉に出してみる。

 例え先が見えなくて不安だったとしても、いつの日か今のような不確かな今日も未来への希望を描く鍵になると祈って、歩き続けるしかない。無理なことなのかもしれないけど、やるしかないのだと、そう言い聞かせて、俺は月の見えない夜空をカーテンで遮った。

 

 

 

 そんな真っ暗で先の見えない不安な夜を何度もなんども飛び越えて、俺たちはライブ当日を迎えた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



限定琴葉に心揺さぶられましたが、通帳の残高が課金を辛うじて止めてくれたので初投稿です。


 天ヶ瀬さんのライブ当日は、空が久しぶりに青い一面を見せた日だった。クリスマス直前で、どこもかしこも緑と赤の装飾が目立つ街に不釣り合いな、雲ひとつない青ざめた快晴の空。時折吹く風はあいかわらず厳しくて身を切り裂くような寒さがするけれど、その風も今日ばかりは天から熱を持って東京の街を照らす陽の光が少しだけ緩和してくれている気がして、普段ほど憂鬱な気持ちにはならなかった。口から溢れた白い息が、北風に拐われて人混みの中へと消えていく。宙に舞っては風に煽られて消えていく白い吐息が日に日に純白になっている気がして、東京に初雪が降る日もそう遠くはないのかもしれないと思った。

 

「人、多いねぇ」

 

 ニット帽を被り、薄いマフラーを首元にグルグルに巻きつけた恵美さんが、華奢な足を子鹿のようにガタガタと震えさせながら呟いた。寒いのならもっと防寒着を着れば良いのに、と思うけれど、莉緒さん曰く冬のオシャレは我慢が大事らしい。元読モの肩書きを持ち、常に流行を追い求める恵美さんもきっと莉緒さんと同じマインドなのだろうと勝手に自己解釈して、厳しい東京の寒さの中で無防備に晒されている恵美さんの綺麗な足へ密かにエールを送るだけで私は何も言わなかった。その隣で「そうだね」と相槌を打つ琴葉さんは、恵美さんとは対照的に、可愛らしいファーがフード周りに付いたダウンコートにタイトなジーンズと、素肌を徹底的に隠すような防寒対策をしている。

 まさに“今時のギャル”といった感じのおちゃらけた性格の恵美さんと、今日はこの場にいないが底抜けの明るさを持つエレナさん、そして優等生で委員長気質の琴葉さん。高校生トリオの三人はプライベートでも非常仲が良く、劇場内外でも一緒にいることが多い。その三人の関係の中、今日はエレナさんに代わって私がいることが妙に違和感を生んでいるような気がしていた。

 

「志保は寒くないの?」

「私は……、そうですね。着込んで来たのであまり寒くないです」

 

 勿論、恵美さんも琴葉さんも、私がエレナさんじゃないからといって変に気を遣ったり、ましてや除け者にするようなことはしない。こうして適度な頻度で話題を振ってくれたり、エレナさんと同等の態度で接してくれる。それが二人にとってなんら特別なことではないことも、理解はできていた。

 ––––でも。

 恵美さんが、琴葉さんと天ヶ瀬さんをくっ付けようとしている。そしてきっと、琴葉さんもまた天ヶ瀬さんのことを悪くは思っていないのだと思う。そのことに気が付いてしまった私は、言葉では言い表せないような居心地の悪さを抱えたまま、二人とともに会場の開演を待つ列の中に身を投じていた。

 

「でも意外だったなぁ、志保ちゃんが一緒に来てくれるって言ったの」

 

 琴葉さんの口から、白い息と一緒に溢れた何気ない一言で思わずドキッとする。当然、二人は私が恵美さんの思惑に勘付いていることも、私が天ヶ瀬さんに想いを寄せていることにも、気が付いていない。

 突然のジャブを受けて、私は慌てて交わすように視線を下げる。今日のライブに来る前、莉緒さんが選んでくれた真新しいブーツのつま先が、少しだけ汚れているのが目に入った。

 

「それ、アタシも思った! ねぇねぇ、志保は誰が好きなの? あ、もしかして同じ歳の翔太?」

「べっ、別にそう言うわけでは……」

「翔太くん、弟って感じするけど女の子に優しそうだもんね」

 

 私が勝手に恵美さんも莉緒さんと同じマインドで我慢しながらオシャレをしているのだと自己解釈したように、二人もまた勝手に私が翔太くん狙いでやってきたのだと自己解釈してしまった。「私は天ヶ瀬さんが好きなんです。だから琴葉さんには負けません」、なんて少女漫画に出てくる気の強いライバルのようなセリフが言えるはずもなく、私はいつものように冷めた大人のフリをしながら、つま先が汚れた新品のブーツで小さな小石を軽く蹴るくらいしかできなかった。

 実際問題、天ヶ瀬さんは琴葉さんに好意を寄せているような様子は今の所は見受けられない。琴葉さん自身も、恵美さんの思惑に気付いているのかどうかも、また本当に天ヶ瀬さんに恋心を寄せているのかすらも不明だ。だけどもし仮に琴葉さんが私のように天ヶ瀬さんを想っていて、その想いを伝えたとしたら、天ヶ瀬さんは一体どんな返事をするのだろう。

 嫌な想像が頭をよぎる。私はおでこに手を当てて、青い空を見上げた。

 

「冬馬さぁ、なんか最近またカッコよくなったよねぇ」

「分かるー! 大人の色気が出てきたってか、ちょっと子供っぽさ抜けたよね!」

 

 私たちの後ろに並んでいる人たちの会話が、肌寒い風と一緒に流れてきた。私たち三人の後ろでは大学生のような風貌の二人組が“冬馬”と書かれた大きな団扇を握りしめて、甲高い声のトーンで興奮混じりで話をしている。二人とも綺麗な化粧をしていて、明るい色の髪も少し風に吹かれたくらいじゃ取れないほど強めに巻かれており、ザックリと開いた胸元には大きな膨らみが見え隠れしていて、だけど決して下品な感じをさせないようしっかりと今の流行も抑えていて、自己主張の強い露出と流行のバランスが絶妙だった。

 琴葉さんも私から見れば十分魅力的な女性だけど、後ろの女性たちは琴葉さんよりも更に大人びて見えて、きっとそれは天ヶ瀬さんの綺麗な瞳にも同じ風に写っているのだろうなと思う。だとすれば私は––––、綺麗な眼差しで一直線に物事を映し出す彼の瞳に映る私は、どんな姿なのだろう。私の真上からは今の季節に不釣り合いなギラギラとした太陽が、私の胸の内を全てを明るみに出すかのように照らしていた。

 答えなんて分かりきっている。琴葉さんや恵美さん、後ろの二人組に比べて中学生の制服に様々なモノを縛られている今の私は容姿も思考も、何もかもが子供染みていた。天ヶ瀬さんのようにこの青く澄み切った空を飛び立つ術も知らない、それでも彼と共にこの滑走路から飛び立ちたいと願う、絵空事を抱く子供なのだ。

 万が一琴葉さんが想いを伝え、それを天ヶ瀬さんが拒絶したとして、それで私の何が変わるのだろう。私の胸の中で渦巻き続けている懸念が、実はとても見当違いなことだったのではないのかという気がしてくる。だって天ヶ瀬さんが彼の周囲にごまんと居る魅力的な女性ではなく、自分よりも四つも歳下の子供な私を選ぶなんて、とてもじゃないが考えられなかったのだから。

 

「あ、そろそろ開演するみたい!」

 

 寒さのせいか、鼻が赤くなった恵美さんが元気な声で叫んだ。ゆっくりと私の前にズラッと並ぶ女性たちばかりの列が、会場内に向けて動き出す。期待と興奮が入り混じって、浮足立つ列の中でおそらくただ一人、私だけが少し歪んだ面持ちで歩を進めた。

 この感情の正体に、私はもう気付いている。これは紛れもなく、ライアー・ルージュが教えてくれた“嫉妬”だ。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 立ち見席で椅子が一つもない薄暗い会場には、私や琴葉さんが数週前に経験したライブとは似て異なる世界が広がっていた。

 ジュピターの存在を世に知らしめるキッカケとなった“Alice or Guilty”のイントロが流れると会場は黄色い歓声の爆音に包まれ、ステージ上にジュピターの三人が登場するとすぐさま歓声はメーターを振り切って、鼓膜が破れんばかりのボリュームの境地へと一瞬で到達する。激しく左右に揺れ動く緑色のペンライト、所々から湧き上がる甲高い声、アイドルのライブというジャンルでは一括りにできるのかもしれないけど、ファンの反応や会場の雰囲気はまるで私たちが体験してきた世界とは全てが異なっているようにさえ感じた。

 それもそうだなと思う。ジュピターは既にある程度の知名度があるグループで、今日会場にやってきているファンたちは皆、当然彼らを一目見たくてやってきている。私たちのライブ会場にいたような、席を埋めるために招待された友人や興味本位でやってきたモノ好きなアイドル好きのような人種は、ここには殆どいないのだろう。皆、ジュピターが好きで、ジュピターが見たいが為にお金を払ってやってきた、れっきとしたファンたちなのだから。

 当然ながら私たちが立った定例ライブとの温度差は明らかだった。それこそ会場の大小の差はあれど、私たちが会場の雰囲気を気にする余裕すらもなかった先輩たちのアリーナライブの時も、こんな感じだったのだろうなと思う。

 

(凄い、やっぱり凄い)

 

 数曲を終えて、最初のMCで翔太くんに揶揄われて慌てふためく天ヶ瀬さんを遠目に眺めながら、私はペンライトのかわりにスカートの裾をギュッと握りしめる。アリーナライブで何もできずに、春香さんの背中を見つめていた時のような、圧倒的な実力差を私は痛感させられていた。

 だけどあの時とは違う。今の私はただ劣等感を感じているわけではない。ステージ上で楽しげに話す天ヶ瀬さんも、真剣な眼差しで踊る天ヶ瀬さんも、全ての仕草がキラキラと輝いていて、それこそ幼少期に憧れた、冒険の国で果敢に戦う絵本の中の主人公のような彼の姿に、私は羨望の眼差しを向けているのだ。

 天ヶ瀬さんと知り合って、色んな話をして、私と彼には多くの共通点があることを知った。片親のことも、病気の時に見せた強気の裏に隠した弱気の一面も、そして独り善がりで夢を叶えようとしていた傲慢だった過去も、彼は私の生き写しのように思えて、彼のことを知れば知るほどに私の中で天ヶ瀬冬馬が特別な存在になっていった。

 天ヶ瀬さんのようになりたい、だけどなれない。私は彼の知る大空を優雅に舞う術を知らない。だだっ広い滑走路から天ヶ瀬さんを見上げ続け、時には理想と現実のギャップに不機嫌になって、失礼な態度もとって、それでも彼は太陽のような眼差しで空から私を見下ろして、「すげぇな」と言ってくれる。そんな優しい彼に私は物凄いスピードで惹かれていって、知らぬ間に小さな胸の中だけでは抑えきれないほどの感情を抱くようになった。

 ––––誰よりも輝いていて、神様がしるしを与えた天ヶ瀬さんは、いつかもっともっと大きな空へ飛び立つ。その背中を追っていけば、私もいつか彼の待つ広大な空へ辿り着けるんだ。

 共通点の多い天ヶ瀬さんに自分を重ねて、いつしかそんなことを考え、願うようになった。

 それは誰の手も借りたくない、一人で夢を叶えれる強い大人になりたい、そんな傲慢なことばかりを考え、人と距離を取っていた頃の私からは想像もできない変化だった。きっと過去の私なら、こんな考え方や思考を否定するだろう。誰かの力を借りないと叶えられない夢は、自分の力だけで勝ち取ったものではないと、一蹴するはずだ。

 だけど不思議なほどに、天ヶ瀬さんに出会って少しずつ、でも確実に変化した今の私はそんな自分に嫌な気が全くしなかった。

 

「……やっぱり、好きだな」

 

 聞こえるはずもない本音が口から溢れる。すぐに周囲の歓声に私の天ヶ瀬さんへの想いはかき消されたけど、その瞬間、ステージ上の天ヶ瀬さんと一瞬だけ視線が交錯したような気がした。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「ねぇ、せっかくだから楽屋に顔出して行こうよ」

 

 一時間ほどでライブは終了し、真っ暗だった会場に眩しい灯りが付き、退場のアナウンスが流れてから暫く経った頃、恵美さんが突然そんなことを言い出した。恵美さんはボンヤリと誰もいなくなったステージを眺めている。満員だった狭い会場は既に半分以上の人が退場していて、数も疎らになっていた。

 

「わ、私たちが楽屋に通してもらえるわけないよ」

「もー、やってみないと分かんないじゃん。一応招待券持ってんだからさ、ダメ元で行けば通してもらえるかもよ」

 

 否定的な琴葉さんに、恵美さんはポケットから半券をひらひらと見せる。確かに残った半券には招待券の文字が残っていた。

 

「志保も翔太に会いたいでしょ?」

 

 突然話が私に振られてきた。ニヤリと笑う恵美さんの大きな瞳は確信めいていて、その瞳と彼女が纏う独特の空気に流されてしまいそうなっている自分が分かった。

 

「いやっ、だから私はそんなんじゃ……」

「良いじゃん、良いじゃん! さっ、そうと決まれば早速しゅっぱーつ!」

「ちょ、ちょっと! 恵美ってば!」

「大丈夫大丈夫! 早く行かないと帰っちゃうかもよ!」

 

 案の定、私も琴葉さんも恵美さんのペースに流されてしまった。有無を言わず、恵美さんは両脇にいた私たちの腕を掴むと、そそくさと出口に向かって歩き始める。会場の外で捕まえたスタッフTシャツを着た大柄な男性に恵美さんが声をかけると、凄く困ったような顔をしてタジタジしたため、結局恵美さんが北斗さんに直接電話をかけることとなった。

 

「時間あるから、三人ともオッケーだって」

 

 得意げにウインクをして電話を切ると、恵美さんは再び私たちの腕を握り、最後まで困惑した表情のスタッフの隣を通って関係者通路を物怖じせず進んでいく。電話で北斗さんから楽屋の場所を聞いていたのか、恵美さんは一度も足を止めることなく“ジュピター 楽屋”と書かれたA4サイズの紙がテープで貼られたドアの前まで辿り着いた。

 

『俺たちはアンタのとこなんか絶対入らないからなっ!』

 

 恵美さんがノックをしようと私たちの腕を離した時、見るからに薄そうなドアの向こう側から天ヶ瀬さんの吐き捨てるような声が聞こえてきて、ドアを叩こうとした恵美さんの動きが反射的に止まった。

 何か揉め事でも起こっているのだろうか。さすがの恵美さんも物々しい楽屋のドアをノックする勇気はなかったようで、ドア前にかざした人差し指の関節を丸めた右手をそのままに、フリーズしてしまっていた。

 

『うん、では勝手にさせてもらおう』

 

 興奮気味な天ヶ瀬さんの口調とは対照的に、次に聞こえてきたのは落ち着いた様子の男の人の低い声。北斗さんでもなければ翔太くんでもない、威圧感のある初めて聞く声だ。

 

「……誰か来てるのかな」

「関係者とかじゃないんですか?」

 

 フリーズする恵美さんの背後で、私と琴葉さんは互いに顔を合わせる。するとすぐさま恵美さんが後退りするように私たちの横にやってきた。いつの間にか恵美さんの前で閉まっていたドアは開けられていて、ガッチリとしたガタイの大きな男がそびえ立つようして私たちを見下ろしている。季節感のない半袖のポロシャツはまるでサイズ感がないほどにピタッと身体にくっ付いており、そのポロシャツの上からでも分かるほどに立派に鍛えられた胸筋の部分には“315 Production”の文字がプリントされていた。

 

「ど、どうも……」

 

 男の圧倒的な威圧感に息苦しさを感じているような、そんな口調で恵美さんが頭を下げた。男はジロリと私たち三人を一通り舐めるようにして見ると、大きな口元をほころばせた。

 

「うむ。君たちもいいパッションを持っているな!」

「ぱ、ぱっしょん……?」

 

 なにそれ、と言わんばかりの表情で恵美さんが琴葉さんに助けを求める。琴葉さんは呆れたような表情で「情熱だよ」と、言葉の意味を教えた。琴葉さんの解説は正しいのだけれども、多分恵美さんが聞きたかったのはそういう意味じゃないと思う……、と内心突っ込んでいるうちに、大男は機嫌が良さそうに大きな声で高笑いしながら、私たちが来た静かな関係者用通路を肩で風をきるように歩いて行ってしまった。

 

「なっ、なんだったのあの人……」

「なんでも新興事務所の社長、らしいよ」

 

 恵美さんの疑問に答えたのは、北斗さんだった。ドアにもたれかかりながら「チャオ」、なんてお決まりのセリフを聞いて、恵美さんの顔が一気に花開いてくいように明るくなっていく。もし恵美さんが犬だったら、きっと大きな尻尾をブンブンに振り回しているんだろうな、なんてイメージが容易につくほどの表情の変わりようだった。

 

「北斗っ! お疲れ様っ!」

「ありがとう。琴葉ちゃんと志保ちゃんも、今日は来てくれてありがとう」

「い、いえ! こちらこそチケットありがとうございました。ライブ、楽しかったです」

 

 ほぼ同時に私と琴葉さんが頭を下げる。ゆっくりと顔を上げると、蓋が空いたままのペットボトルを握りしめる天ヶ瀬さんと目が逢った。汗を含んだ前髪の奥の瞳は、得意げに笑っているような気がした。「凄かっただろ」なんて言わんばかりの、いつもの余裕げのある瞳だ。ギュッと胸の奥が締め付けられて、熱い気持ちが絞り出されてくるような感覚が胸に走る。きっと私も犬だったら、天ヶ瀬さんに向かって無意識に尻尾を振ってしまうんだろうなぁ、なんて思ってしまって途端に少し恥ずかしくなった。犬ではなくて感情をコントロールできる人間で良かったなと、内心勝手に胸をなでおろす。

 

 ––––あれ、もしかして恵美さんって……。

 

 ふと、先ほどの恵美さんの表情の変わりようと自分の心境を照らし合わせようとした時だった。恵美さんがその思考を断ち切るように、口を開いた。

 

「ねぇ、この後三人は予定あるの?」

 

 私を見ていた天ヶ瀬さんの視線が、恵美さんへと移る。すぐに椅子に腰掛けていた翔太くんと目を合わせ、「俺たちは特になにもないけど」と北斗さんに同意を求めるように答えた。北斗さんもまた二人の意見に首を縦に振って頷いて、「ないけど、どうした?」と最年長者らしく三人の意見をまとめて、恵美さんに返す。

 

「もし三人とも疲れてなかったらさ、今からこのメンバーで少し遊びに行こうよ!」

 

 え?

 恵美さんの突然の提案に、今度は私と琴葉さんが目を合わせる。琴葉さんはパニクる寸前のように、顔を真っ赤にしていた。その様子から、「あぁ、やっぱり琴葉さんも天ヶ瀬さんのことが好きなんだな」となんとなく察した。驚いて動揺しているけど、決して恵美さんの提案を拒否しているわけではない、琴葉さんの表情に浮かぶのはそんな顔色だったのだ。

 

「おおっ! 良いねぇ、行こう行こうっ!」

 

 そんな私たち二人を置いてけぼりに、恵美さんの提案に同調するかのように声を上げながら、翔太くんが両手を広げる。その時の翔太くんの眼は、いつも天ヶ瀬さんを揶揄う時のような何かを計算尽くした時の眼と同じように見えた。




NEXT → Episode Ⅴ : 俺と私のクリスマス

ここまで読んでくれた物好きな皆さん、感想ニキ、誤字脱字報告ニキ、みんなありがサンキュー!
一向に恋をはじめようって雰囲気にならない今作ですが、一応ここで物語はちょうど半分、折り返し地点です。
残りは4話(各話5部構成予定)と本編には全く関係ない追加シナリオを幾つか描ければなと思っています。
幾度にわたるプロット変更でここまでも予想以上に長くなってしまい、挙げ句の果てには連載開始当初に立てていたプロットの面影は最早見るも無残な姿になってしまいましたが、一応ここで簡単に今の状況を整理してみました。

冬馬→自分たちの今後の活動に向けて不安を抱き始めている。
志保→冬馬への気持ちに気付き、恋愛対象として彼を見始める。
恵美→琴葉と冬馬が両思いだと思っており、二人をくっ付けようとしている。
琴葉→冬馬のことが好き(そこらへんん掘り下げは次回の予定)。
翔太→あざとい。
北斗→チャラい。

といった感じです。
現時点で冬馬は志保を異性の対象としては見ていません。自分に尊敬の眼差しを向けて素直に応援してくれている、よき理解者兼ライバルのような立ち位置だと思っています。一方志保は既に自身の恋愛感情に気付いており、その気持ちの着地点を探し始めています。
ここからラストまでの4話で、恵美と琴葉の勘違い、北沢一家の問題、冬馬と志保の関係性、そしてジュピターの今後、等の内容をぶち込む予定のためかなり内容を詰め込むことになりますが、二人の気持ちの変化を含む物語の動向を楽しんでもらえれば幸いです。
ここまで約13万5000文字、完結時は20万字でとどめたかったけど多分ダメみたいですね。

それでは引き続きよろしくおねシャッス!
次回の初投稿でお会いしましょう!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EpisodeⅤ:俺と私のクリスマス

周防桃子の十年後を想像すると眠れなかったので初投稿です。
第1作の卯月の話から作品を読んでくださってる秋道さんから志保と冬馬の素敵なイラスト頂きました!ありがサンキュー×ミリオン!
小説トップに載せといたから、みんな見とけよ見とけよ〜


 すっかり日が暮れてライトアップされた並木道は、日中の暖かさが嘘だったかのように気温が下がっていて、身体の芯にまで突き刺さるような風が時折吹き抜けていく。その度に俺は肩を竦めて寒さに備えるけど、すれ違う人たちは皆凍えるようなこの寒さの中でも険しい顔をせず、それどころか陽気で楽しげな表情を浮かべているようにさえ見えた。

 行き交う大勢の人たちの声や足音と、遠くの国道沿いを走る窮屈そうな車たちのエンジン音。その喧騒の中、大きな商業ビルに埋め込まれた液晶ビジョンの中から、若い女性の声が風に乗って届いてきた。

『再来週はいよいよクリスマスを迎えますが、東京は初雪の予報となっており数年ぶりのホワイトクリスマスになりそうです』

 見上げた液晶ビジョンの中の、“新田美波”とテロップが表示された清楚可憐な女性がそう言った。その口調はまるで子供のように心踊っていて、新田の隣にいた中年の男性アナウンサーは思わず口元を緩めて、微笑ましい眼差しで見つめている。そうか、もうそんな時期なのか。あっという間に今年も終わってしまうな、なんて物思いに耽ながら黒いコートの襟に首元を隠した。

 早いもので、俺たちが961プロを抜けてからもう一年の月日が経過しようとしていた。この一年間を適当に振り返り、俺は大きな白い息を宙に向かって吐く。果たして俺たちは961プロを抜けてから、少しでも前に進めているのだろうか、と。

 必死にバイトして金を貯めて、会場からスタッフの確保も全部自分たちでやって、それは間違いなく961プロにいた頃には経験したことのないような苦労で、新鮮でやり甲斐のある時間だった。だけどその一方、俺たちはインディーズで活動をし始めたこの一年、間違いなく表舞台から遠ざかったままで燻り続けている。その時間が長くなればなるほど、俺は自分たちの将来に不安を抱くようになり始めていた。

 今でも確かに、手の平には俺の真上の広大な大空を飛べる感覚が残っている。だけど今の俺が大空を飛べるイメージはまるで湧いてこない。それでもなお、「飛べる」と思っている今の自分が961プロにいた頃の傲慢な自分と重なって見えて、胸が苦しくなるのだ。

 

「……天ヶ瀬さん?」

 

 思考を断ち切るかのように名前を呼ばれた。隣では上目遣いで俺の顔を覗き込むように見る田中さんがいた。

 

「ライブ後で疲れてるのにごめんなさい。恵美が無理言っちゃったみたいで」

「まぁ、気にすんなよ。俺たちも予定あったわけじゃねぇし」

 

 そうは言ったものの、気遣っているのか遠慮しているのか、田中さんは申し訳なさそうな様子を崩さなかった。その視線から目を背けて、俺たちの少し先を歩く北斗に視線を向ける。北斗の隣では妙に近い距離感を保ちながら浮かれるような声で笑う所がいた。

 俺たちと北斗たちの丁度中間あたりの位置で、翔太と並んで歩く北沢の後ろ姿が視界に入った。チラリと見える翔太の顔はライブ後の疲れをみじんを感じさせず、いつものような愛想の良い表情だ。その横顔を見る度に、俺の胸には小さな針で刺されるような感覚が走る。あまりいい気持ちのする感覚ではなかった。

 

「……つまんねぇ」

 

 白い息と一緒に溢れ出た言葉。だけど白い息のように、言葉はすぐに消えなかった。

 

「え?」

「あ、いや、なんでもねぇ。はははは」

 

 隣で細い眉をハの字にして今にも泣き出しそうな顔をする田中さんに、俺は慌てて笑って見せる。その声は痛々しいほどに強張っていた。

 

 

 

Episode Ⅴ : 俺と私のクリスマス

 

 

 

「ねぇねぇ、あまとうは再来週何すんの?」

 

 所からそんな質問を投げつけられたのは、揃ってショッピングモールの一角に店を構えた喫茶店で一休みしている時だった。二人用のテーブルを三つくっ付けて、北斗の向かい側に座って暖を取るように所が握っている紙コップにはクリスマスツリーのイラストがプリントされている。そのイラストから所が口にした“再来週”の意味を汲み取って、俺は言葉を詰まらせた。

 

「冬馬くんは彼女いない歴イコール年齢なんだから、そんなこと訊いちゃダメだよ」

「えっ、マジで!? そうなの!?」

 

 余計な言葉を添えて助け舟を出してくれた翔太は、何故か所ではなく北沢の方を向いていた。心底驚嘆したように目をパチクリさせる所から目線を逸らすと、次はこちらも驚いたように目を大きく見開く幼い顔つきの北沢が視界に止まった。俺を見つめる北沢の目はどちらかといえば俺の発言を疑うような、そんな目つきだった。

 

「ふんっ、彼女くらいいたことあるってぇの」

「……冬馬、それは確か幼稚園の頃の話だろ」

「なっ……っ! 幼稚園でも小学生でも、居たことに代わりはねぇだろ!」

 

 完全に幼い子供をからかうような顔でニヤニヤする北斗の態度に、思わず語尾が強まる。だけどその発言は更に周りの失笑を買うだけだった。

 

「あはは、ウケるんだけど! あまとうって意外と面白いところあるよね、子供っぽいってか」

「まぁ、冬馬は見た目によらずピュアだからな。それがいいところなんだけど」

「良かったね冬馬くん、皆から褒められてるよ」

「う、うるせーよっ!」

 

 何も発言こそしなかったものの、北沢は呆れ返った眼で俺を哀れむように見つめており、田中さんは必死に口元に手を当てているが肩は小刻みに震えていて、笑いを抑えているのは明白だった。

 俺の必死の抗議も虚しく、四方八方からひと息にまくしたてられた後に「天ヶ瀬冬馬は“ほぼ”彼女いない歴=年齢」という悲しいレッテルを貼られて片付けられることとなってしまった。その後、所がさり気なく北斗に同じ話題を振っていたが、北斗はいつものように相変わらず曖昧な返事でボヤかしていた。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 日曜日の夕方なのもあってか、ショッピングモールの中はそれほど混雑はしていなかった。すれ違う他のお客さんも子連れの家族はめっきり減って、明日の朝から始まる一瞬間を思い浮かべて憂鬱そうな顔をする若い人たちばかり。喫茶店を出た後、私たちはそんな同世代に近い人たちの間を縫うようにして洋服を見たりアクセサリー屋に立ち寄ったり、殆ど恵美さんに先導されるような形で暇を潰すかのようにダラダラとした足取りでショッピングモールを回っていく。ジュピターの三人もしっかりと変装をしていただけあって、一度もプライベートの時間を邪魔されるようなこともなく、私たちはウィンドウショッピングを楽しんだ。

 その間、私は何度も盗み見るように天ヶ瀬さんの横顔を眺めていた。本当は天ヶ瀬さんの隣で「ライブお疲れ様でした、すごく良かったです」、なんて感想を伝えたかったのだけど、どうにも大人数になると普段のように話しかけることができなくて、私は悶々とした気持ちを抱えるだけで遠目に天ヶ瀬さんの綺麗な横顔を見つめることしかできなかったのだ。天ヶ瀬さんはあまりこういう集団で遊ぶのは好きではなかったのか、終始興味無さげにいつもの無愛想な顔をしていたが、それでも時折恵美さんや琴葉さんに話しかけられた時は彼なりに愛想よく振舞っているようにも見えた。

 結局ロクに天ヶ瀬さんと話をすることすらままならず、一時間が経過した頃だった。ふらりと立ち寄ったスニーカーの店で、唐突に恵美さんが琴葉さんと天ヶ瀬さんを除く私たち三人をこっそりと手招きして呼び寄せた。恵美さんの招集に気が付いていない二人を店に残し、恵美さんはエスカレーターを降りて、私たちを半ば強引に入り口付近にまで引っ張っていく。エスカレーターで降りていく途中、最後まで天ヶ瀬さんの顔を私は盗み見していたが、天ヶ瀬さんは手に取った新品のスニーカーに夢中で私たちが下のフロアに降りていっていることには気が付かなかった。

 

「二人とも今日は付き合ってくれてありがと! それじゃ、ここで解散!」

 

 自動ドアの前で足を止めた恵美さんの、パシャりと両手を合わせる乾いた音がフロアに響く。北斗さんも翔太くんも、呆気にとられた様子で恵美さんを見つめていた。

 

「解散って、冬馬と琴葉ちゃんは?」

「いいの、今回はそれが目的だったんだから」

 

 急なブレーキを踏んだ車のように、私の胸が大きな音を立てて動いた。してやったりといった顔でニコニコする恵美さんを見て嫌な汗が背中を流れる。やっぱり恵美さんの目的は天ヶ瀬さんと琴葉さんをくっ付けることだったのだ。

 

「えっ、それどういう……」

 

 翔太くんが何かに気が付いたように、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 そして咄嗟に北斗さんと顔を合わせ、チラリと私の顔を伺うように見る。何故か翔太くんの顔には私のことを危惧するような、そんな表情が浮かんでいた。

 

「にゃはは、今日はあまとうと琴葉を二人にするのが目的だったってこと!」

「そう……いうことだったのか」

 

 北斗さんの歯切れの悪い言葉で、翔太くんとの間の空気が少し変わった気がした。けれども恵美さんはその空気の変化に気が付いていない。

 

「そそそ、それじゃ私たちは退散するとしよっ! 志保と翔太はJR? それともバス?」

「私はJRですけど……」

 

 恵美さんの勢いに押されるがままそう答えると、隣で翔太くんも「僕も」と同意するように頷く。それなら良かったと、もう一度恵美さんは手の平をパチンと合わせて、着込んだコートの上からでも分かる細い腕を自然と北斗さんの腕に絡ませた。

 

「アタシと北斗はバスだから! それじゃ、またねぇ〜!」

「お、おい! 恵美ちゃん、ちょっと待てよ……」

 

 珍しく動揺する北斗さんを引っ張っていくように、恵美さんは私たちに手を振りながらバス乗り場の方へと行ってしまった。最後に一度だけ振り返った時に、恵美さんは私にこっそりとウインクを飛ばす。その視線は、「志保も頑張れ」と言っているようだった。

 恵美さんは大きな勘違いをしていた。天ヶ瀬さんが琴葉さんを狙っていることも、私が翔太くん目当てで今日のライブに来ていることも、きっと全てを誤って解釈してしまっている。必死に呼び止めようとしたけれど、強く紐で締め付けられるように息苦しい私の肺から、北斗さんを連れて去っていく恵美さんを呼びとめる声は出てこなかった。

 

「……なんか、まずい展開になっちゃったね」

 

 なす術なく後ろ姿を見送ることしかできなかった私に、翔太くんがボソッと独り言のように呟く。私を見る翔太くんの顔は非常に険しくて、今まで私たちに見せてきた笑顔や、それこそステージで振りまいていた愛想の良い顔と同一人物とは思えないほどに、冷たい石のような表情をしていた。

 

「ま、僕たちも帰ろっか」

「え? で、でも……」

 

 このまま私たちが帰ってしまえば、それこそ恵美さんの思惑通り天ヶ瀬さんと琴葉さんが二人っきりになってしまうのではないか––––、そんな可愛くもない不安が咄嗟に出てしまって、慌てて溢れた本心を隠すように口元に手を当てた。翔太くんはいつもの愛想の良い顔に戻って「大丈夫だよ」と優しく私に声をかけると、そのまま自動ドアに向かって行き真っ暗になった外へと足を進める。自動ドアの先からやってくる冷たい空気に身震いしながら、私は翔太くんの後に続いた。

 

「冬馬くんのことでしょ? 心配しなくても大丈夫だよ」

 

 あまりにストレートに胸の内を突かれ、ドキリとした。翔太くんの口ぶりはまるで全てを知っているかのような口調だった。私が天ヶ瀬さんに想いを寄せていることも、そして今恵美さんが引き起こした勘違いの先の結果にも。私は莉緒さん以外の誰にも口外していないはずなのに、どうして出会って間もない翔太くんが隠していた私の気持ちを知っているのか––––。その答えを求めるように、私は新品でまだ足に馴染んでいないブーツを必死に動かして、慌てて翔太くんの隣に並ぶ。背丈が私と変わらないほどの翔太くんはイルミネーションがチカチカと光る並木道の先を、ボンヤリと眺めていた。

 

「どうして、大丈夫だって思うの?」

 

 私の気持ちをどうして知っているのかも気がかりだったが、今はそれよりも琴葉さんの問題の方が気になっていた。翔太くんは一瞬だけ私の方を向いたが、すぐに視線を再び前に戻す。

 

「どうしてって、冬馬くんは多分志保ちゃんのことが好きだからだよ」

「なっ!?」

 

 またしても凄まじい直球が飛んできて、私はその場で足を止めた。暫く一人で歩いた後、私が立ち止まっていることに気が付いた翔太くんは「あれ、どうしたの?」と首を傾げながら戻ってきた。

 ––––天ヶ瀬さんが私のことを好き?

 翔太くんの言葉が凄まじいスピードで身体中を駆け巡って、一瞬で体内の血が呼応するかのように熱を帯びていく。グツグツと煮える血はあっという間に沸点を越え、ブーツの奥に隠れた指先から耳たぶの端まで、全身に熱を行き渡らせてしまった。

 ––––天ヶ瀬さんが私のことを好き。

 舞い上がってしまいそうになる程嬉しい反面、冷や水を浴びせるかのようにそんなはずがないと言い聞かせる冷静な私もいた。あれだけ魅力的な天ヶ瀬さんが、わざわざ私のような子供を選ぶはずがないと、いつもの冷静な思考の私が沸騰した血に水を掛けているのだ。

 二人の私の間に立って客観的に考えると、確かにそんな気がしてきた。今日のライブ会場にだって私より魅力的で可愛らしい女の子が数え切れないほどいて、天ヶ瀬さんに対して熱心に黄色い歓声を送る姿を見てきた。アイドルとファンの恋愛は非現実的だとしても、きっと天ヶ瀬さんの周囲にはそんな風な彼に見合うような女の子たちが溢れていて、そこには私のような子供が付け入る隙はないのだと思う。それこそ、誰がどう見ても私なんかよりずっと大人で歳も近い琴葉さんのような女性がお似合いではないか。

 

「ま、冬馬くん本人が言ったわけじゃないから分からないけどね」

 

 夢から連れ戻すかのように、翔太くんがニコッと笑う。ほら見てみなさい、束の間の期待を見るも無残に打ち砕かれた私に、胸の内で捻くれた私がほくそ笑んでいるのが分かった。

 

「適当なこと言ってからかわないで」

 

 持ち上げられて落とされた私がムキになって、苛立ちを翔太くんにぶつける。だけど翔太くんは嫌な顔せず、笑顔のまま両手を後頭部の辺りで組んでゆっくりと歩き出した。

 

「適当なことじゃないよ。少なくとも僕と北斗くんは冬馬くんと志保ちゃんをくっ付けるために今日来たんだから」

「え?」

「恵美さんも、僕たちと同じことを考えてると思ってたんだけどね……」

 

 立ち止まったままの私に、翔太くんは振り返って苦笑いを浮かべた。彼の後ろには商業施設と隣接した大きな駅がそびえ立っていて、その前の駅前広場ではまばゆいまでのイルミネーションが夜空を照らす星のように強い光を放っている。

 光の中心で私を振り返る翔太くんの元へ歩こうと足を動かした瞬間、彼の右手がすっと伸びて私の動きを制止した。眩しすぎる光が作り出した影に覆われて、翔太くんの顔は見えない。だけどこれ以上近づくなと、そんなことを告げているような気がして私は無意識に踏み出そうとした足を止めた。

 

「冬馬くん、あんまり自分のことを人に話さないから」

「……そうなの?」

「そう。だけど僕たちは分かるよ、冬馬くん単純だし。何より志保ちゃんに会って、北斗くんとも話してたけど二人とも似た者同士だなって思ったから」

「わ、私と天ヶ瀬さんが?」

「うん。ソックリだよ。だからこそ、ちょっと大変かもだけどね」

「そんな……っ」

「志保ちゃんの話をしてた時、冬馬くん凄く嬉しそうな顔してたから。気になるなら、本人に直接聞いてみたら? 『私のこと、どう思ってるんですか』って」

 

 そう言って、私を止めていた手を左右に振った。万国共通の、サヨナラの合図だ。

 

「冬馬くんも電車で帰るはずだから、きっとこの駅に来るはずだよ。運が良ければ会えるかもね! それじゃ!」

 

 私に反撃の隙を与えず、翔太くんは踵を返した。その背中を追うこともできず、私は大勢の人たちが行き交う駅前広場で一人、小さくて華奢な背中を呆然と眺め続けながらその場に立ち尽くしていた。

 ––––私のことを、天ヶ瀬さんが話していた?

 翔太くんが言った言葉の答えを求めるように、慌てて人混みの中に先ほどまで隣にいた姿を探す。だけど既に翔太くんの後ろ姿は跡形もなく人混みに飲み込まれてしまっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



月が美しい夜はsilent voiceなので初投稿です。


 俺と田中さん以外の四人の姿が見えない。

 その異変にいち早く気が付いたのは田中さんだった。

 

「あの、天ヶ瀬さん」

 

 店の入り口近くの目立つ場所に大々的に置かれていたレア物のスニーカーを見つけ、それに暫く気をとられてしまっていた俺は、田中さんに声を掛けられるまで目の前の貴重なスニーカーに没頭していた。このショッピングセンターに向かう道中でも見せた、困ったような表情で俺を見上げる田中さんの顔から何かあったのだと直感的に察した俺は、少しだけ踵を浮かせて手に持っていたスニーカーを棚に戻す。精一杯腕を伸ばして、なんとかスニーカーが空になっていた棚に戻るのを見届けた田中さんは、口籠もった様子でゆっくりと口を開いた。

 

「みんな、いつのまに居なくなっちゃったみたいなんだけど……」

「はぁ? なんだそれ」

 

 路地裏に迷い込んだ猫のような目でそう言われ、俺も慌てて周囲を見渡してみる。確かに店内には退屈そうにレジの前でぼーっと立つ男の店員と、大袈裟な声を上げてスニーカーを見比べている中学生くらいの年代の男女のグループがいるくらいで、四人の姿は見当たらなかった。田中さんもまた、店内の入り組んだ場所に一人でいたせいで気が付いた時には皆の姿が跡形もなく消えてしまっていたらしい。無言のまま俺たちは顔を見合わせると、スニーカーショップを後にしてショッピングセンターのフロアに出る。だが周囲の様々な店から出入りする人たちを一人一人チェックするように確認してみても、疎らな数の人たちの中に四人と思われる姿は一人も見つからなかった。

 

「アイツらどこ行っちまったんだよ……」

「わ、私、恵美に電話してどこにいるのか確認してみますねっ!」

 

 あたふたした様子で田中さんは小さい鞄からスマートフォンを取り出すと、俺から距離をとって通路の端に向かった。だけど耳に当てたシンプルなカバーを付けたスマートフォンは所には繋がらないようで、田中さんは俺の顔色を伺うようにチラチラと視線を動かすだけで、肝心の口の方は閉じたままになっていた。

 どうして俺と田中さんだけを残して、四人は居なくなってしまったのか。田中さんの繋がらない電話を待つ間に、俺もライブ後で少しだけ疲れを残したままの頭をフル回転させて思考を張り巡らせてみる。

 そもそも俺たち六人はこのスニーカーショップを同時に訪れていたのだから、小さな子供でもない俺たちがこんな小さな店内で偶然はぐれてしまう可能性はあり得ないに等しい。そうなると誰かが意図的に俺たちだけを残して立ち去ったという線が有力なのかもしれないが、一体誰が、そして何のために、そんな込み入ったことをする必要があるのかと疑問に思う。

 そこで行き詰まった俺は、このスニーカーショップを訪れる前までの行動も遡ることにした。喫茶店で休憩していた時、その前のショッピングセンターに向かうまでの道中、そして変な新興事務所の社長が来た後に楽屋にやってきた三人……。

 ––––あっ。

 今までの一連の流れの中を振り返った時にとある共通点が浮かんできて、俺の真っ暗な頭の中を照らす明るい電球がパッと付いたような感覚がした。

 今振り返ってみると、所の提案で会場を出てこのショッピングセンターに来るまで、自然と隣にいるペアが同じだったのだ。北斗の横にはもともと親しかった所が、翔太の横には同級生の北沢が、そして俺の隣にはそれほどの交友関係や共通点がなかったはずの田中さんが連れ添うようにいて、そのペアはまるであらかじめクジで決められていたように自然な流れで出来上がっており、初めから最後まで一度も変わることがなかった。所と北斗はただの友達関係だ、二人の間に何かがあるとは思えない。そうなると……、

 

(……そうか、それが狙いだったのか)

 

 ようやく事態の全貌が見えてきた気がした。所はハナから翔太と北沢をくっ付けようとしていたのだ。それが目的で俺たちを誘い、俺と田中さんを置いていったように隙を見計らって翔太と北沢を二人にさせようと魂胆だったのだろう。

 二人の仲に思い当たる節はあった。この前のビラ配りの時が初対面で、知り合って間もないはずなのにいつの間にか二人とも苗字ではなく下の名前で呼び合っていたし、何より二人は学校は違えど同級生だ。年の離れた俺と違って、自然と共通の話題や弾む話も多かったのかもしれない。きっと所のやつも北沢本人から相談を受けていたのか、それとも所謂“女の勘”ってやつが働いていたのか、キッカケは分からないが俺と同じように二人の様子を見て何かを察していて、その為に一連の出来事を仕組んでいたのだと思う。

 いつも俺を揶揄っている時の翔太の得意げな笑顔が脳裏に浮かんできて、チクリと胸に針のような突起物が突き刺さる。空調が効いた店内が異様に熱く感じられて、何枚も着込んだ衣服の奥の背中から嫌な汗が湧き出てきた。

 

「……俺なんてまだ、天ヶ瀬“さん”呼びなのに」

 

 嫌な胸騒ぎがしていた。翔太と北沢の妙に近い距離感をよく思わない俺が胸の中で、子供のような嫉妬心に突き動かされるがままに暴れ回っているのだ。それに加え、大事なモノがいとも簡単に手からすり抜けて落ちていくような喪失感が見え隠れしていて、暴れ回る俺をひどく不安にさせている。

 所のことだから、頃合いを見計らってとっくに翔太と北沢を二人きりにさせているはずだ。二人きりになった翔太と北沢は今、何処で何をしているのだろうか。どんな顔をしてどんな話をしているのだろう。想像を膨らまし、俺の頭に思い浮かんでくるのは北沢が表情筋を緩めて笑った顔だった。その滅多に見せない年相応の北沢の顔が思い浮かんでくるたびに、胸の中から何かが軋む音が聞こえてくるような気がした。

 

「天ヶ瀬さん! ちょうど今恵美からLINEがきて……」

 

 田中さんの声が北沢の残像を消し去っていく。スマートフォンを握って戻ってきた田中さんは、一度だけ画面を確認すると動揺した様子で、俺の首のあたりに視線を向けながら言葉を掻い摘むように言った。

 

「あの、なんか恵美たちはもう帰ってしまったみたいで……。その、悪気があるとかじゃなくて、なんていうか……」

 

 ––––あぁ、やっぱり。

 言いにくそうに口を動かしながら、言葉を無理やり紡ぐ田中さんの様子を見て予想が確信に変わった。俺たちはまんまと嵌められたのだ。翔太と北沢をくっつけようとする所の策略によって。

 俺が想像していた、そしてなるべくなら『勘違い』であってほしいと密かに願っていた予想に、歯切れの悪い田中の言葉が“大正解”と大きな赤丸を付けているようだった。嬉しくもない正解の印を押された俺の胸が更に激しく左右に揺れ動いている。必死に表情には出さないようにはしていたが、俺の心臓は凄まじい音を立てていた。

 

(……俺は北沢の“特別な存在”ではなかったのか)

 

 北沢は俺に羨望の眼差しを向けてくれている。過去の俺にそっくりな北沢はきっと誰よりも“アイドル天ヶ瀬冬馬”の本質の部分を見つめていて、そして俺もまた、自分自身の過去の面影が重なる北沢のことを普通のファンや同業者ではない特別な存在だと思っていた。

 だけど、それは俺の自惚れだったのかもしれない。

 北沢の“特別な存在”が俺一人だったなんて、どうして勝手に決めつけていたのだろう。自分ばかりが特別だと都合よく思い込んで、どうして翔太や北斗も彼女の中で“特別な存在”になりえる可能性があったことに気が付かなかったのか。

 961プロの裏工作を知った時と同じ、自分を恥じる気持ちが湧き出てきた。モヤモヤと黒い霧が立ち込める胸の奥底から、黒井のおっさんが顔を出す。人を小馬鹿にして、見下すような、あの嫌な目つきで俺を見つめているようだった。

 

「駒の分際で何を浮かれているのだ」

 

 自分の存在を特別だと過信し自惚れて、虚像を現実だと信じ込んでいた傲慢な自分を見て嘲笑うように、黒井のおっさんは俺に現実を突きつけてくる。俺が手のひらでずっと温めていた、あの大空を飛べる感触を絵空事だと一蹴し、握り潰すかのように。

 俺は何も言い返せなかった。悔しいが、まさにその通りだと痛感していたのだから。

 

「あの……、本当に振り回してばかりですみませんでした。天ヶ瀬さんも疲れてるでしょうし、私たちも帰りましょうか」

「あぁ、そうだな」

 

 田中さんに力ない返事をして、俺はどっと疲れが増した重い足取りでショッピングセンターを後にした。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 空が暗くなる度に、木々のイルミネーションの灯りが眩しさを強めていく度に、私の身体を切り裂く寒さが厳しさを増していく。私の前を通り過ぎる人たちの人種もすっかり変わってしまって、今は若い中高生と思われる姿は殆ど見受けられず、私の前を通るのは派手な色の髪をした大学生のような若者やコートの下に真っ黒なスーツを着込んだ大人たちばかり。

 凍えるように肩を震わせながらふと顔を上げると、駅前広場の中心にある時計はもうすぐ九時を回ろうとしていた。こんな遅い時間に街を出歩くことなんて一度もなかった私は、普段は見る機会のない夜の景色を前にして、心細い不安な気持ちが胸いっぱいに募っていくのが分かった。

 

「……私、こんな時間まで何やってるんだろう」

 

 寒さに負けてカチカチと音を鳴らす歯の奥から、今の自分を問う言葉が白い息と共に溢れる。

 翔太くんは私に、運が良ければこの駅で天ヶ瀬さんと会えると言ってくれた。そして、私のことをどう思っているのか聞いてみるべきだとも。

 どこまで本気か分からないが、私と天ヶ瀬さんをくっ付けようと考えていた翔太くんのその言葉を鵜呑みに信じて、私はこうして凍えるような寒さの中で来る確証もない天ヶ瀬さんを待ち続けている。天ヶ瀬さんが必ずこの駅前広場を通って構内に向かうとは限らないし、仮にそうだとしてもこれだけ多くの人が行き交う人混みの中から天ヶ瀬さんを見つけ出すことなんて、砂漠の中から一本の針を探すのと同等なほど非効率的なことだということも理解していた。

 それでも私は天ヶ瀬さんを待ち続けていた。自分でも途方もない阿呆なことをしていると自覚しながらも、あの神様が印を与えた彼の姿を周囲の人混みの中から見つけ出そうと、私は必死に目を凝らしている。翔太くんが言っていたような私自身のことは直接訊くことができるかは分からない。だけど、仮に訊けなかったとしても未だに言えてない今日のライブの感想だけは、今日のうちに直接彼に伝えなければいけない気がしていたのだ。

 

「うぅ、寒い……」

 

 一段と寒い風が吹いて、とっくに感覚が麻痺した手足を震わせる。翔太くんが帰ってから随分と時間が経ってしまった。もしかしたら天ヶ瀬さんも私に気付かずに通り抜けて、もうとっくに帰ってしまっているかもしれない。そんな不安が頭を過ぎる。今私がしている行為がとても無意味なことに思えてきて、なんだか哀しくなってきた。

 ––––それでも、天ヶ瀬さんはまだ来てない。

 あの特別な彼の姿を、私が見落とすはずがない。どれだけ多くの人の中に埋もれていたとしても、私は天ヶ瀬さんをすぐに見つけ出せる。そんな根拠のない自信があって、私はただひたすらに天ヶ瀬さんが人混みの中から姿を現す瞬間を待ち続けていた。

 ……だけど、さすがに遅くなりすぎると母に心配をかけてしまう。だからあと三十分だけ、それでも来なかったら私も帰ろう。自分でそうルールを定めて、改めて駅前広場の中心にポツンと佇む時計を見上げた時、薄っすらと時計の後ろで夜空に瞬く星の姿が目に入って、私は咄嗟に夜空を仰いだ。

 

「……今日の月、すごく綺麗」

 

 思わず寒さも忘れて、見惚れるように息を飲む。

 天ヶ瀬さんを待つ私の上空では、いつもの何倍も大きい金色の満月が力強くて優しい光を放ちながら私を見下ろしていた。




二人が別々の勘違いしてると、頭こんがらがってきてすっげー面倒臭いゾ……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



しじみ汁嫌いなので初投稿です。


 いつの間にか置いてけぼりを食らっていた俺たちがショッピングモールを出たのは、空がもう黒一色に塗りつぶされた頃だった。田中さんに帰宅ルートを尋ねると、彼女は東京でもだいぶ辺鄙な街に住んでいるようで、ここからバスで一時間ほどかけて帰るのだと教えてくれた。さすがにこの遅い時間に女の子を一人にさせるのも気が引けて「バス停まで送る」と申し出ると、田中さんはまた気遣ったような顔色を浮かべたが、俯き加減に小さな声で「ありがとう」と承諾した。

 田中さんが教えてくれたバス停までのルートを調べて、俺たちは並んで歩き出す。すれ違う人たちの隙間から肌触りが悪い冷たい風が吹いて、すっかり伸びた俺の前髪を揺らした。その度に隣で田中さんは寒そうに身体を縮ませたが、俺はただ冷気に晒されるだけでボンヤリとした思考のまま、次から次に向かってくる人混みを障害物を避けるようにして歩き続けていた。

 

(……アイツら今、何してんのかな)

 

 若いカップルとすれ違った時、連想するように頭の中に翔太と北沢が並んで歩くイメージが湧いてきて、俺は無意識に唇を噛んだ。北沢は俺の彼女でもなんでもない、なんなら友達と言えるかどうかも怪しいあやふやな関係性だ。だから北沢が誰と一緒にいて誰を好きになろうが、それは俺には全く関係のない話のはずだった。

 それなのに、どうしてこんなに胸が締め付けられるんだろうか。

 どうして翔太と北沢の二人の仲をよく思わない俺が胸の内に潜んでいるのだろうか。

 

「……天ヶ瀬さん、青になりましたよ?」

 

 ずっと俺の隣で口を開かずに黙っていた田中さんの声が聞こえた。隣にいたと思っていた田中さんは俺より少しだけ前の、横断歩道の白線の上に立ってこっちを振り返っており、その背後では色褪せた信号機が青に光っているのが目に入る。年季の入った信号機から流れるメロディに急かされるように、俺は正体が分からないモヤモヤをそのままに、慌てて横断歩道を渡った。

 

「あの、今度私が出るドラマが放送されるんですけど……」

 

 横断歩道を渡りきった頃、田中さんがそう切り出した。「ドラマ?」と聞き返すと、田中さんは恥ずかしそうにはにかみながらも、「はい」と元気よく答えて頷く。

 

「『階のスターエレメンツ』です。覚えてませんか、以前お仕事で一緒だった時に私たちが番宣してた」

「あぁ、あの時のか。確か矢吹未来と春日可奈と一緒のだったよな」

「それを言うなら、矢吹可奈ちゃんと春日未来ちゃんですよ」

「あれ、そうだったけ」

「……もうっ、本当に天ヶ瀬さんって人の名前を覚えるの苦手なんですね」

「め、面目ねぇ……」

 

 足を止めて、腰に手を当てながら説教をするように俺の間違いを指摘した田中さんだったが、すぐに膨らませた頬を縮ませると、口に手を当てて笑う。そんな彼女の気さくな仕草が俺たちの間に漂っていた重苦しい空気は綺麗に取り払ってくれた気がした。ずっとそれぞれが持ち合わせていた空気が今は間違いなく一つになり、その空気を俺たちは分け合っている。田中さんと分け合っているその空気が妙に居心地良くて、翔太と北沢のことばかりを考えて締め付けられるような感覚を覚えていた胸の痛みを、ほんの少しだけ和らげてくれているようだった。

 

「それで、最近はどうだ?」

 

 ずっと先の木々まで続いているイルミネーションを見据えながら、俺たちは再び肩を並べて歩き始まる。不思議なことに、先程までは何も感じなかったイルミネーションが今はとても綺麗に思えた。

 

「……最近、ですか?」

「前に、『アイドルになったんだから何か大きく変わりたい』って言ってたじゃん」

「あぁ、そんなこと話してましたね……」

 

 チラリと田中さんの横顔を覗くと、田中さんは寒さのせいか赤くなった頬を困ったように人差し指で掻きながら「覚えてくれてたんですね」と苦笑いをしていた。

 断片的にしか残されていない記憶を必死に振り返り、あの日の田中さんを思い出す。真っ先に思い出したのは、強気で露出度の高い服をカゴに入れたものの、それを着る勇気がなく鏡の前で立ち往生する田中さんの姿だ。

 煌びやかになりたいと本人は話していたけど、隣で肩を竦めながら歩く田中さんがそれこそ所のように肌の露出が多い服を着て、甲高い声を上げて笑う姿はイマイチ想像ができなかった。あの時は変わりたいという彼女の背中を押したけど、少しでも彼女のことを知った今はそんなギャルみたいな姿をした田中さんより、今の真面目で清楚な田中さんの方がずっと彼女らしくて魅力的だと思う。礼儀正しくて愛想がよくて、ショッピングセンターを回っていた時だって、彼女はライブ後だった俺たちを気遣って、誰よりも細かい気配りをし続けてくれていた。それでも田中さんはそんな自分を地味だと決めつけて好きになれず、今でも煌びやかで派手な人間になりたいと願っているのだろうか。

 

「……田中さんは、今のままでも良いと思う。誰かを無理に演じる必要なんかねぇよ」

 

 そう呟いた時、斜め前から少しだけ足早に進んでくる男の姿が目に入った。周囲の人たちには目も暮れず、「道を開けろ」と言わんばかりの強気な態度で男は突進してくる。その男を避けようと左に半歩ズレた時、俺の二の腕の辺りに小さな肩がぶつかった。

 様々な色のイルミネーションが輝く街頭を、強めの北風が吹き抜けていく音が聴こえた。田中さんが着ている暖かそうなダウンコートのフード部分についたファーが微かに揺れている。グッと近くなった距離で田中さんの汚れのない潔白な眼差しが、ジッと俺の瞳を見つめていた。

 その瞳がとても儚なげで可憐に映って、俺はこの時初めて田中さんのことを愛おしいと思った。コートの上からでも分かる華奢な身体つき、いつも自信なさげな表情を浮かべている調和のとれた綺麗な顔立ち、そして自分の魅力に気付かずに変わりたいと願う不器用なところも、全てが佳麗で、胸の奥を何かにグッと鷲掴みされるように、田中琴葉という存在に一気に惹き込まれていくような気がした。

 

「す、すまねぇ!」

 

 完全に引き込まれる一歩手前のところで冷静になり、田中さんから慌てて離れる。田中さんは何も言わずに笑っていた。その笑顔は、俺の胸の内を悟っているかのようだった。

 それから俺たちは再び歩き始め、目的地を目指す道中で沢山の話をした。田中さんがアイドルになる前に高校の演劇部に入っていたこと、偶然街で39 Projectの募集チラシを見た際に友達から勧められてオーディションを受験したこと、アイドル活動を通して様々な経験を得ていつか幼い頃から好きだったミュージカルや演劇の世界で皆を笑顔にさせる役者になりたいという夢も、田中さんは俺に色んな話をしてくれた。俺は田中さんの話を聴いて相槌を打ったりたまに同調したり、自分の話も少しだけしたり、そんな感じで俺たちの間で繰り広げられていたのは他愛もない有り触れた会話ばかりだったけれど、そんな普通の時間が堪らなく居心地が良くて、不思議とあれほど気がかりだった翔太と北沢のことがいつの間にか全く気にならなくなっていた。

 目的地のバス停が近付いてくると、俺はまだ田中さんとこのまま話を続けていたいという名残惜しい感情が芽生え始めていることに気が付いた。だけど時間が止まることもバス停までの道が歪むことも当たり前になく、俺たちは薄暗い公園の前にポツリと置かれたバス停に到着してしまい、田中さんはスマートフォンの灯りをバス停の消え掛かった時刻表に当てて、時間を確認している。

 

「バスが来るまでもう少し時間かかるみたい」

「マジで?」

 

 途方に暮れるようにそうボヤいた田中さんとは対照的に、俺の声のトーンは上がっていた。随分と遠い場所に住んでるせいか、家の近くまで走っているバスの本数が異様に少ないらしい。申し訳なさそうに「ここまでで良いです」と言う田中さんの申し出を断って、俺はベンチに腰を下ろした。この時はもう女の子を夜遅くに一人で置いていけないという義務感ではなく、少しでも一緒にいたいと思う俺の想いが自然とそうさせていたのだと思う。

 それから俺たちは誰もいないバス停のベンチで凍えるように身を寄せ合いながら、他愛のない会話の続きを始めた。身体を震わすように吹き抜けていく冷たい風も、群れから逸れた鳥のように俺たちの前をたまに通過していく孤独な車も、通行人が誰もいないのに生真面目に一定の感覚で色を切り替え続ける信号機も、全てが俺たち二人だけのために存在しているようで、何も邪魔が入らない静かな世界を俺たちは思う存分満喫していた。会話が弾んで田中さんが笑い、風が彼女の優しい匂いを運んでくる。その度に何度も何度もこのまま二人だけの世界が続いて欲しいと願いながら、俺は道路を挟んだ向こう側にある自動販売機が発する灯りを眺めていた。

 

「天ヶ瀬さんって、意外に優しいんですね」

 

 そんなことを唐突に言い出したのは、田中さんが階のスターエレメンツの収録現場で春日未来が起こした珍事件を話した後のことだった。いきなり突拍子もないことを言われ、呆気にとられる俺を田中さんは優しく見つめている。言葉に困ってズボンのポケットに手を突っ込む。ポケットの奥で辛うじて感覚が残っている指先に、何か硬くて細長い突起物のようなものが触れた。俺の言葉を待つ田中さんの眼が、何故かこの時ばかりは俺の瞳に妙に色っぽく映って、思わず視線を泳がせる。

 

「あ、ほら見てみろよ! 満月だぜ」

 

 照れ臭さと恥ずかしさも相まって、俺はポケットに突っ込んだ手と反対の指で東の空を差した。綺麗な丸みを帯びた月は神々しい灯りを放っており、俺たち二人だけの世界を照らしている。白い光は優しくて暖かく、思わず冬の寒さを忘れるほどだった。

 

「……本当。月が綺麗だね」

「え?」

 

 自分の耳を疑って、思わず聞き返す。その言葉に隠された意味を、俺は知っていたからだ。

 田中さんは顔を逸らすことも、リンゴのように頬を赤めらせることもせず、くっきりとした綺麗な瞳で俺の眼の奥を見据えていた。大きく鼓動が脈を打つ。田中さんもまた、この言葉に隠された別の意味を知っているのだと察した。

 

「私、天ヶ瀬さんのことが好きなんです」

 

 満月の月明かりの下、二人だけの世界に田中さんの柔らかい声が響いた。その言葉が何度も俺の鼓動を刺激するように、胸の中で木霊する。だけどその言葉が俺の胸の中で繰り返される度に何かが壊れていくような軋む音が聞こえてくる。それはまるで夢から覚めるように、この優しかった世界が、居心地の良かったはずの世界が、大きな音を立てて崩れ去っていく儚くてただただ虚しい音だった。

 何もかもが崩れ去った世界にまた冷たい風が吹いた。非情なまでに冷たくて身を縮ませるだけの、暖かさなんて微塵も持ち合わせてない厳しい寒さだけを感じさせる風だ。

 

「俺は……っ!」

 

 跡形もなく壊れてしまった世界に未練を感じながら、俺がそう言いかけてポケットから手を出した時、真っ暗なアスファルトの上に何かが落ちて弾く音が響いた。その音に引き寄せられるように二人ほぼ同時に揃って下に目をやると、アスファルトの上でキーホルダーがついた俺の家の鍵が横たわっている姿が目に飛び込んできた。コートの袖から見える手袋をした田中さんの手が、アスファルトの上で横たわる家の鍵へと伸びていく。田中さんは手に取った家の鍵ではなく、その鍵に付けられたキーホルダーを見て驚いたように目を大きくさせた。

 

「……これって、志保ちゃん?」

 

 俺の家の鍵に付けられていたのは、初めて北沢のライブを見に行った日の帰りにこっそりと買った彼女のアクリルキーホルダーだった。

 田中さんの問いに俺は頷いただけで、何も答えなかった。だけどそれだけで十分だったのか、田中さんは「そっか」と呟いて、俺に家の鍵を返してくれた。俺が鍵を無言のまま受け取ると、その途端に彼女の背後から突然真っ暗な闇を照らす強烈な灯りが俺たちを照らした。アスファルトを擦るタイヤの音と、重そうな車体を揺らす音がゆっくりと俺たちの元へ近付いてくる。そして古びたバスは田中さんの隣にピタッとくっ付くように、鈍いエンジンを立てて停まった。

 

「わるい、田中さん。俺……」

 

 バスのドアが開いて、俺は慌てて口を開いた。だが最後までは言えなくて、言葉を喉の手前で詰まらせる。ここから先の言葉を口に出してしまうと、俺が認めたくなかったことを必然的に認めてしまう気がしていたのだ。

 北沢はただのライバルであり同業者だ。きっとそれは北沢も同じように思っていて、俺たち二人の間に恋愛感情はないはずだった。もし恋愛感情が入り込んでしまうと最後、今の心地よい距離感の関係が崩れてしまう気がして俺は怖かったのだ。

 だからここから先の言葉は言えなかった。いや、言いたくなかっただけかもしれない。

 

「うん、分かった。私の方こそごめんなさい、変なこと言っちゃって」

 

 そんな俺に対して、最後まで田中さんは気丈に振る舞い、笑っていた。だけどその笑顔は影を持っているようで、無理して作られた偽りの笑顔だとすぐに気が付いた。

 やる気のなさげな運転手のアナウンスが聞こえてきて、田中さんは必死に繕った笑顔で手を振り、誰もいない無人のバスに乗り込む。窓際に腰を下ろした田中さんがまた手を振ってくれたから、俺も手を振り返した。ゆっくりとバスが動き出して、徐々に遠退いてくバスの中で俺に向けて振っていた手が彼女の目元に触れているのが目に入った。

 バスが角を曲がり、再び豆電球のようなか弱い灯りだけが照らす薄暗い世界が戻ってきた。だけど別れ際に見せた彼女の取り繕った笑顔が頭から離れなくて、俺の胸を苦しくさせる。罪悪感で胸が押し潰されて、息が詰まりそうだった。

 一人取り残された世界で、俺はボンヤリと月を見上げる。綺麗な丸の形をした月は、跡形もなく壊れ去ってしまった俺と田中さんの世界の跡地を、何も変わらない優しい光で照らし続けていた。




琴葉、当て馬にしてごめんよぉ……
だけど真面目で不器用で発言が一々重い琴葉ちゃんのことが好きです。しじみ汁は嫌いだけど。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



前回の琴葉委員長失恋回を投稿した直後、何故か自分が失恋した時のことを思い出してナーバスになっていたので初投稿です。
出来レースだと思って告白してフラれるの、人間不信になりますよね。


 天ヶ瀬さんを待っていた時間は、たった三十分のはずだったのにとても長く感じられた。綺麗な満月の下、駅前広場を忙しそうに行き交う人たちの中から天ヶ瀬さんらしき人物の顔だけを求め、私は目を凝らしてひたすらに探し続ける。だけど私の前を通り過ぎていった何十何百の数の人たちの中に、神様が印を与えた彼らしき姿は見当たらなかった。

 

「もう帰ったのかなぁ」

 

 探すのに疲れる度に私は独り言のように冬空に向かって弱音を吐き、無意識にコートからスマートフォンを取り出した。凍える指でLINEの天ヶ瀬さんとのトーク履歴を開いては、その画面で思い留まるように指を止め、数秒の葛藤の末、文字を打つことも電話をかけることもせずに、LINEを閉じる。この動作を、まるでリプレイを見ているかのように何度もなんども繰り返しをしていた。

 ここで来るかどうか分からない天ヶ瀬さんを待つより、LINEで直接訊いた方が明らかに効率的なことは分かっていた。万が一もう既に帰ってしまっているのなら、それこそLINEや電話で今日のライブの感想を伝えばそれで済む話である。今自分がしていることの非効率さを十分に理解して、何度も寒さで感覚が遠退いていく指でLINEを起動させたが、私は結局天ヶ瀬さんに自分から連絡を取るようなことはしなかった。今日私が初めて天ヶ瀬さんのライブに訪れた感想は、LINEや電話なんかじゃ絶対に伝わらないような、そんな気がしていた。

 それに加え、私にはここで待ち続ければ絶対に天ヶ瀬さんに会えるのだという予感があった。例え大勢の人混みの中に紛れていたとしても、私はあの特別な存在をすぐに見つけ出せる––––、全く根拠のない自信だったが、それは疑う余地を感じさせない確信めいたモノで、私はその直感を信じてここで待ち続けることにしたのだ。

 だけど、

 

 ––––いや、絶対来ない。会えるはずがない。私はなに似合わないことしてるんだろう。

 

 直感を信じて待つ裏腹、私の確信が錯覚だった時にショックを受けないようにと、必死に天ヶ瀬さんを探す私に期待をするなと何度も言い聞かせる自分がいた。これで天ヶ瀬さんと会えればさぞかしロマンチックな話なのだろうけど、現実はそんな都合よく奇跡が起こるはずがない。そもそもこんな大勢の中から一人の人物を見つけ出すなんて不可能に近い話だ。なに現実主義の私らしくないロマンチックな夢を見ているのだと、冷めた私が否定的な意見を何度もぶつけてきていた。

 天ヶ瀬さんに会いたいからこの場にいるはずなのに、その考えを私自身が否定している。行動と思考が完全に矛盾していて、もう途中から寒いのか暑いのか、私はここで一体何をしてるのかすらも分からなくなるほど混乱していた。

 

 ––––結局、琴葉さんとはどうなったんだろう。

 

 待ちぼうけをくらって、一人でトボトボと帰る未来を想像することに飽きた私は、今度は琴葉さんのことを考えるようになった。スニーカーショップに取り残された二人は、あれから何処に向かったのだろう。長く伸びた琴葉さんの髪と、天ヶ瀬さんの赤みを含んだ茶髪が並んで歩く後ろ姿が打ち上げ花火のようにゆらゆらと浮かんできて、パッと音を立てて脳内で華開いた。肩がぶつかりそうな距離感で歩く二人の背中、冗談混じりの天ヶ瀬さんの話を聴いて上品に笑う琴葉さん、そんな断片的に切り取られたイメージが次々と絶え間なく脳裏に打ち上げられてきて、頭の天井近くで音を立てて弾けていく。その度に私の胸はギュッと縮んで息が苦しくなった。嫌なイメージ、見たくもない景色のはずなのに、打ち上げられた花火はなかなか消えず、「現実から目を背けるな」と言わんばかりにひしひしと胸の内に迫ってきて、クリアな情景のまま私の頭の中に居座り続けていた。

 

 ––––きっと、琴葉さんとだと天ヶ瀬さんも楽しいんだろうな。

 

 寒いのか暖かいのか分からない風が吹く。靴先が汚れたブーツの先で軽く小石を蹴ってみると、小石は乾いた音を立てて転がり、錆びた排水路カバーの穴の中へと落ちていってしまった。再び風が吹き抜けた。今度ははっきりと寒いと身体が反応する冷たい風だ。私もこの無情な風に晒され続け、時折名前も顔も知らない誰かに苛立ちをぶつけられるように蹴られる小石だったらこんなに悩むこともないのにな、なんてことを小石が落ちていった排水路の穴を眺めながら考えていた。

 琴葉さんは同性の私から見ても可憐で清楚な女性で、私と違って愛想も良くて気遣いもでき、真剣な眼差しで何かを見つめる横顔も、クシャっと笑った顔も、全ての仕草や動作が画になるほど魅力に溢れた人だ。誰かのために率先して動けるリーダーシップも持ち合わせていて、だけど冗談も通じて愛嬌もあって、琴葉さんは間違っても私のように唐突に不機嫌になって帰ったりするような失礼な真似はしないと思う。そんな琴葉さんより私が優れていて、天ヶ瀬さんが琴葉さんではなく私を選ぶ要素が一つでもあるとは到底思えなかった。

 

 ––––それなのに、どうして翔太くんは天ヶ瀬さんが私のことを好きなのだと思ったのだろう。

 

 あの時訊きそびれたことを今頃になって激しく後悔し、胸が苦しくなった。私たちを似た者同士だと翔太くんは言ってくれたけど、そんなはずがなかった。

 天ヶ瀬さんはいつも誰よりも高い空の先を見上げていて、その大空を自由に舞う術をもう既に知っている。今は大空を滑走路から見上げているだけだけど、いつか彼の持つ翼を存分に羽ばたかせながらパッと飛び立って、何かとてつもなく大きなことをしてくれる––––、それこそ大勢の人の心を奪うような圧倒的な何かを、そんな予感を感じさせてくれる神様に選ばれた人間なのだ。

 一方私はただの一般人だ。北沢志保という人間は歌唱力だってダンスだって大好きな演劇だって、人並みかそれ以下の能力しか持ち合わせていない、神様に選ばれなかった凡人なのだ。どれだけ努力を重ねたところで、私は元バレエ経験者の海美さんのような華麗なダンスを踊ることはできないし、ジュリアさんのような力強い歌声が出せるわけでもない。誰にも負けたくないと思っている演劇だって、元子役の桃子や演劇部として活動していた琴葉さんに比べたら素人に毛が生えた程度のレベルである。

 それなのに特別な存在の天ヶ瀬さんに憧れ、私もこうなりたいと理想を重ねてしまう。そうやって天ヶ瀬さんに自分の理想を照らし合わせ、いつか彼と一緒にこの大空を舞うことができたらいいなと願うことですら身分不相応なことなのに、何の才能もカリスマ性もない、ただの一般人の私が天ヶ瀬さんと似た者同士だなんて烏滸がましいにもほどがある話なのだ。

 今度は一際強い風が吹いた。落ち葉や捨てられたチラシが宙に舞って、周囲の人たちからざわめきが起こる。目も開けられないほどの風力に負け、直撃する風から顔を背けた時、大きな駅に埋め込まれたアナログ時計が目に入った。アナログ時計の長い針は6の位置を少しだけ超えており、私の定めたタイムリミットをオーバーしていることをひっそりと告げていた。

 鼻の奥がツンとして、無性に泣きたくなった。それが寒さのせいなのか、はたまた別の理由のせいなのかは分からなかったが、私はいつの間にか目元に滲んでいた涙を零さないように、必死に鼻を啜った。結局私の直感は勘違いで終わってしまったようだ。いや、そもそもここで待てば会えるという直感だけではなくて、天ヶ瀬さんを好きでいること自体が愚かな勘違いだったのかもしれない。

 長い長い眠りから覚めるように、大きく息を吸って私は柱から腰を離す。何度もイメージしていた待ちぼうけを食らって一人寂しく帰るイメージを、なぞるかのように駅へ向かおうとした時だった。

 

「……あ」

 

 声に出して、踵を返そうとした足を止めた。ポケットに両手を突っ込んで、俯きながら重そうな足取りで歩いていくる一人の男の影が目についたのだ。胸の鼓動を抑えつつ、ギュッと目を細める。寒々とした駅前広場を照らす、眩いイルミネーションに照らされる茶髪の男がふと顔を上げて立ち止まった。視線と視線が交錯し、一瞬だけ瞳が大きく見開いたのを合図に男は歩幅を大きくして駆け寄ってきた。

 

「北沢、こんなところで何してんだよ」

 

 ぶっきらぼうで、だけど何処か温もりを感じるような天ヶ瀬さんの声。

 何かを喋ろうとするより先に、我慢ができなくなった私の瞼が瞬きをして一滴の涙が頬を伝った。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 田中さんと別れ、一人で来た道を戻る時間はとてつもなく長い時間だった。世界を壊してしまった田中さんの最後まで気丈に振る舞う姿、そして遠ざかっていくバスの窓越しに見てしまった彼女の涙、今にも崩れ去ってしまいそうな田中さんの取り繕った表情が頭から離れなくて、時間が経てば経つほど俺の胸をジワジワと苦しめる呪いのように心を蝕んでいく。呪われた胸の中では行き場のない罪悪感と田中さんが想いを口にする直前まで俺たちを包んでいた優しい世界への未練がぐちゃぐちゃに混ざり合って、言葉では言い表せないようなやるせない気持ちに姿を変えている。初めて味わったその感情に押し潰されるがまま、俺はどっと疲れた足取りで数十分もあれば到着する駅までの道のりを何倍もの時間をかけて歩いていた。

 田中さんと一緒だった時は綺麗だと思えたイルミネーションも、子ども心を刺激するクリスマスソングも、彼女が色っぽい目で綺麗だと口にした満月も、一人になった今では何も心に訴えてこない。むしろ乾いた北風に煽られる色を失った落ち葉も、都会の喧騒の中で苛立ちのこもったクラクションを鳴らすタクシーも、たまにすれ違う名前も知らないカップルも、全てが鬱陶しくて、この世界の全てのモノから拒まれているような孤独感さえも感じてしまう。街灯の灯りに負けて力無い光を発する星たちの世界を見上げてみても何処か居心地悪く思うばかりで、こんなに空が窮屈に感じられたのは初めてかもしれないと思うほどだった。

 風が吹いて、俺の五感を刺激する。耳たぶに冷たい風がぶつかるたびに胸がナイフのようなもので切り開かれていく気がした。あの時、俺のことを好きだと言ってくれた田中さんに、どんな言葉を返すのが正解だったのだろう。何と言葉をかけてあげたら、田中さんを悲しませずに済ませれたのだろう。どれだけあの場面を振り返っても、未だに俺が選ぶべきだった最良の選択肢は分からないままだ。

 あの時、俺たちの世界の崩壊にとどめを刺した北沢のキーホルダーがついた家の鍵を見て、田中さんは全てを悟ったような顔をしていた。それは俺自身でさえも気づいていなかった天ヶ瀬冬馬の深部に隠された本心を見抜いているようで、田中さんによって明るみにされた一面が、あれからひしひしと胸に何かを訴えかけてくるのだ。

 

 ––––違う。俺は、北沢のことが好きなんじゃない。

 

 それなのに、どうしてあの時全てを察したような田中さんの表情を否定しなかったのだろう。田中さんは間違いなく俺が北沢のことを好きだと思っているはずだ。彼女の勘違いを理解していたのに、どうして俺は何も言えなかったのだろう。

 核心に迫るように、凶器のような鋭い寒さが胸を切り開いていく。ずっと気付かないフリをして、避けていた感情が姿を見せようとしているのが分かった。垣間見えた本心から逃げるように俺は顔を上げる。いつの間にか駅前に戻ってきていたようで、時間も遅くなり少しだけ人の数が減って広く感じられる駅前広場には、無数の煌びやかなイルミネーションが思わず目を細めてしまうほど強い灯りを放っていた。

 

「……あ」

 

 細めた視線が一人の少女を捉えて、心臓が一度強く鳴った。その音が聞こえたのかのように寒空の下でポツンと柱にもたれかかる少女の俺を見る瞳が大きくなる。その瞬間、今まで世界の全てのモノたちに拒まれていたような孤独感は一蹴され、寒さで切り開かれた胸に暖かい感情がじんわりと広がっていくのが分かった。

 

「北沢、こんなところで何してんだよ」

 

 気がつけば俺は無意識に北沢の元へ走っていた。寒さのせいか、鼻を真っ赤にした北沢は何も言わずに鼻を啜って俺を見上げている。いつものクールな彼女の眼は、イルミネーションの灯りに照らされているからか、少し潤んでいるようだった。

 

「もしかして待ってたのか?」

 

 そう訊くと、北沢は何も言わずに手袋をつけた指で潤んだ目元を一度だけ拭って、首をコクっと動かして頷いた。また鼻を啜った彼女の背後にそびえ建つ駅の時計をチラリと確認する。時計の針はもう九時半を過ぎている頃だった。

 

「翔太は?」

「……もうとっくに帰りましたよ」

「北沢だけ残して?」

「はい」

 

 少しだけ鼻声混じりの声で、北沢は俺を見上げながらそう答える。

 おかしな話だと思った。いくら翔太と言えども、こんな時間に女の子を一人で置いて帰るような真似をするはずがない。ましてや今回は翔太と北沢を二人きりにさせてくっつけるのが目的のはずだったのに、その当事者の北沢だけがここで俺を待っているのというのもおかしなシチュエーションだ。

 そんな俺に丁寧に説明するように北沢が「ここで待っとけば天ヶ瀬さんに会えるかもしれないと言われたんです」と付け足してくれた。一瞬だけ納得したように「そうだったのか」なんて空返事をしたが、北沢の説明がまた別の疑問たちを発生させて、俺は慌てて彼女に問い詰める。

 

「え、ちょっと待て。なんで俺を待ってたんだよ。今回って北沢と翔太を二人きりにするって話だったんじゃねぇの?」

「はぁ? なんですかそれ」

 

 素っ頓狂な声で北沢が首を傾げた。その声があまりにもビックリしたような甲高い声で、まるで北沢も所の目的には気が付いていないようだった。妙な違和感を感じたため、俺は自分の答えと北沢の持つ答えを照らし合わせるように、一つ一つ確認作業をおこなっていくことにした。

 

「だってそうだろ。所のやつは翔太と北沢を付き合わせようとして俺と田中さんを取り残したんじゃ……」

「何訳分からない事言ってるんですか? そもそも私と翔太くんが狙いなら天ヶ瀬さんと琴葉さんじゃなくて私たちを取り残すでしょ」

「た、確かに言われてみれば……。で、でもさぁ、お前らお互いに下の名前で呼び合ってるし」

「下の名前で呼ぶくらい普通ですよ、同じ年なんですから」

「そうなのか? 俺はてっきり二人は両思いなんだと思って……」

「はあぁ!? 本気で言ってるんですか、それ!?」

 

 びっくりした声に半信半疑のまま頷くと、北沢は呆れた顔をして地面に突き刺さった木の棒のように突っ立ったまま大きなため息を吐いた。北沢の綺麗な形をした唇の奥から溢れ出た白い息が、風に晒されて駅構内に吸い込まれるように消えていく。北沢の顔は呆れ返って俺を見つめていたが、口角が少しだけ釣り上がっていて、呆れた表情の中には笑いの渦が微かに漂っているようだった。

 

「そんなわけないじゃないですか」

 

 あっさりと俺の推測を一蹴して、北沢は背中を向ける。だけどその小さな背中は駅に向かって歩き始めるわけでもなく、両手を後ろで組んだままその場で立ち尽くしていた。

 

「……逆ですよ。所さんは天ヶ瀬さんと琴葉さんをくっ付けようとしていたんですから」

「は? 俺と田中さんを?」

「はい、それが目的で二人を置いていったんです。まさか気付いていなかったなんて」

「マジかよ……」

 

 北沢が発したのは、「だと思う」や「みたいです」なんて曖昧な装飾を一切していない、ハッキリと白黒をつけるような言葉だった。予想もしていなかった真実を聞かされ、胸の奥で何かが詰まるような感覚がする。確かに北沢の言う通りだ、もし翔太と北沢を二人きりにしたいのであれば、わざわざ俺たちから最初に切り離すような面倒な手間をかける必要性なんてどこにもなかったのだから。

 スニーカーショップで置いてけぼりをくらい、慌てて所に電話をかけていた田中さんの姿を思い出す。あの時の反応から振り返るに、きっと田中さんも所の作戦や狙いを何も知らなかったのだろうなと思った。

 

「……それで、琴葉さんは?」

 

 どこかよそよそしい口調でそう尋ねながら、ゆっくりと北沢が振り返った。きっと二人きりになった後のことを尋ねているのだろうと思うと俺は返事に困って、言葉を探すように視線を泳がせる。少し離れたところで、まだ幼い顔つきの制服を着た女の子たちが足早に駅に向かっていく姿が目に入った。塾帰りなのか、肩にかかっているカバンは詰め込んだ教科書やノートでパンパンに膨れ上がっている。そのうちの真面目そうな眼鏡をした女の子が「早く帰らないとママに怒られちゃう」となんて真剣な顔して言うもんだから思わず吹き出してしまいそうになった。

 

「北沢、帰りの方面一緒だったよな?」

「え? まぁ、そうですけど」

「もう時間も遅いし、一緒に帰ろうぜ」

 

 北沢の問いには答えず、俺は走り去っていた女子学生たちの後を追うように駅構内に向かって歩き出した。慌てて隣にピッタリとくっ付くようにして歩き始めた北沢はちょっとだけ不満そうな顔をしていたが、それ以上言及するようなことはせず黙って俺の隣で歩いている。

 北沢の歩幅に合わせて、少しだけゆっくりとしたペースで俺は歩く。北沢の隣で田中さんとはまた違う、異なった居心地の良さを感じていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



ジュリアの実家は千早か大野城にありそうな気がしてるので初投稿です。


「田中さんに告白された」

 

 天ヶ瀬さんが私の問いに答えたのは、私たちが乗り込んだ電車がゆっくりと重そうな車体を走らせ始めた時だった。人と人との間隔が開いた車内で、隣り合わせで座る私たち。徐々にスピードを上げていく電車はホームを抜けた辺りで汽笛を鳴らしながら揺れて、天ヶ瀬さんの肩が私の頬にぶつかった。その拍子に目が逢ったが、天ヶ瀬さんは私に気遣うような目をチラリと向けただけで何も言わず、すぐに向かい側の窓の向こう側へと視線を戻した。

 その横顔を、私はジッと見つめていた。次から次へと移り変わっていく夜の景色を眺める天ヶ瀬さんの瞳はひどく濡れているようだった。初めて見る天ヶ瀬さんのその瞳は、窓の外に広がる東京の摩天楼ではなくて、もっと遠くにある私の知らない世界に向けられた瞳だと感じた。

 琴葉さんから告白されて、それで天ヶ瀬さんはどのような返事をしたのか––––。

 今の天ヶ瀬さんの表情はその結果を知るのに十分すぎる表情だった。だけど私は根拠のない予想ではない確かな証拠が欲しくて、思わず天ヶ瀬さんに尋ねてしまう。

 

「……それで、付き合うんですか?」

 

 手のひらに汗が滲んでいくのが分かる。自分で言っておきながら、すごく嫌味な言い方だなと思った。これではあたかも天ヶ瀬さんが琴葉さんのことを好きだった前提のような言い方ではないか。慌ててフォローの言葉を探したけど、その言葉を見つける前に先に天ヶ瀬さんが口を開いた。

 

「いや」

 

 否定的な短い言葉で一度区切り、ここよりずっと遠い世界を見つめていた眼差しを私に向ける。そして力のない声で、だけど迷いなく宣誓するかのようにハッキリと言った。

 

「断ったよ。すげぇ良い人だと思ったけど、なんか違ったんだ」

 

 そう口にしたの時の天ヶ瀬さんの眼は、もう遠くの世界ではない“目の前の世界”に焦点を合わせた眼だった。彼の瞳に見え隠れしていた遠くの世界の影が今はもう綺麗に消え去っていて、その世界の正体が、琴葉さんのいる世界だったんだなと私は今頃になって察した。

 ––––ほんとに?

 咄嗟に胸の奥から出てこようとした言葉を私は無理やりに飲み込む。どうして琴葉さんの告白を断ったのか、彼の中で琴葉さんがいる世界は何が違ったのか、本当は聞きたいことが山ほどあったはずなのに、それを知ってしまったら最後、私が密かに抱いている期待が粉々に粉砕されてしまいそうな恐怖があったのだ。私より何倍も魅力的な琴葉さんがフラれたのに、私なんかが彼の特別な存在になれるはずがないと、ネガティヴな言葉を投げつけるいつもの自分が自然と制止をかけていた。

 スピードを上げていたはずの電車がまたスピードを落として、沢山の灯りたちが到着を待っていた駅のホームに滑り込むと、鈍い音を立てて車輪を止める。機械音声のような車掌の声が響いてドアが開いたけれど、電車から人が降りていくだけで殆ど新たな乗客は乗り込んで来なかった。一段と閑散した車内のドアが閉まって、私たちを乗せた電車は気怠げに走り始めた。

 

「そうですか」

 

 私は曖昧な返事をして、椅子に深く座り直した。私と一緒にいる世界はどうですか、なんて訊いてみたかったけれど当然そんな勇気を持ち合わせているわけもなく、私はボンヤリとただただ窓の外で残像を残しながら流れていく駅のホームを眺めるだけ。天ヶ瀬さんもそれ以上は琴葉さんとの件については触れず、この話題は終わりを迎えてしまった。

 

「そういえば、もうすぐクリスマスですね」

 

 移り変わっていく残像の中にクリスマスツリーのような影を見つけて、私は咄嗟に呟く。取って付けたような在り来たりな話題を振られた天ヶ瀬さんは隣で含み笑いを見せながら、「所みたいなこと言うんだな」と返した。

 

「北沢はクリスマスなにすんの?」

「私は毎年家族と過ごしてますよ。いつも仕事で忙しい母が、クリスマスだけは早く帰ってきてくれるんです。だから弟と母と三人で、今年も過ごす予定です」

「三人?」

 

 そう口にした直後、天ヶ瀬さんの表情が何かに気が付いたように「しまった」といった顔に変わっていくのを私は見逃さなかった。

 ––––あぁ、そっか。私に父親がいないことはまだ教えていなかったんだっけ。

 以前天ヶ瀬さんが寝込んだ時、少しだけ家庭の話をした覚えがあった。だけどその時は私が家族に楽をさせたいからアイドルを始めたことを話しただけで、家に父親がいないことまでは話していなかったと思う。その時天ヶ瀬さんも私の家庭のことについて深くは訊いてこなかったが、おそらく彼なりに北沢家が一般家庭とは少し違うことを察していたのかもしれない。

 今まで私に父がいないことを知られた時、殆どの人は私に気遣ったり同情したり、そんな情けをかけるリアクションを取っていた。それがごく自然のことだと思うし、そのリアクションに悪気があるわけではないとは理解していたものの、それでも色眼鏡で見られているような気がしてあまり良い気のするモノではなかった。だけど天ヶ瀬さんの場合はそうではなかった。彼もまた幼い頃に母親を亡くし、きっと私のような片親の家庭で育った子が抱える特異な孤独感や喪失感を経験して、誰よりも理解しているのだと思っていたからだ。

 そんな天ヶ瀬さんの経緯を知っていたせいか、彼が見せた態度はそこまで私の気分を害するモノではなかった。だからこそ私は変に気を病んでほしくなくて、なるべく明るい声を演じ、彼が余計な罪悪感を抱えこまないようにと言葉を付け足す。

 

「私、父親がいないんです。私が六年前に家を出て行ってしまって。ちょうど家族みんなでクリスマスパーティーをした数日後のことだったんですけど」

「……そっか、だから家族に楽をさせたいって言ってたんだな」

「はい。そうなんですけど、実はそれが一番の目的じゃなくて」

 

 私たちの話し声以外の声が全く聞こえない車内に、次の目的地が迫っていることを告げるアナウンスが流れる。軋むような音が数回に分けて聞こえてきて、レールの上を走る電車が減速していくのが分かった。周囲の人たちは熱心にスマートフォンを眺めていたり、疲れ切った表情で今にも閉じそうな瞼の重さと戦っていたりと、誰も私たちの話には耳を傾けずに自分の世界に没頭している。そのことを確認して、私は今まで親にもプロデューサーにさえも、誰にも話してこなかったアイドルの世界に身を投じた本当の理由を言葉にした。

 

「……私がアイドルとして活躍して沢山メディアに出演できたら、何処かで父が見てくれるかもって思ったんです」

 

 今となってはセピア色に染まりつつある、父の面影を思い出す。私の記憶に刻み込まれた父との思い出は決して多くはなかったが、その限られた父との思い出を私はこの六年間ずっと砂時計を眺めるように振り返り続けていた。

 大きくてゴツゴツした手のひら、仕事から帰ってきてスーツ姿のまま私を抱きかかえてくれた時の温もり、いつも優しく私を見つめてくれた笑顔、そんな父との思い出を全て辿って、一通り思い出したらまた来た道を戻っていくように砂時計をひっくり返して––––、その動作を父が姿を消したあの日から今日までの六年間、飽きることなく永遠と繰り返してきた。そうやってさえいれば私は残された父との思い出を永遠に失くさずにすむような気がしていたからだ。

 

「もう以前のような家庭には戻れないかもしれませんけど、それでも何処かで父が私を見つけてくれて、何かの拍子でまた会えたらいいなって」

 

 誰にも話さなかった私がアイドルになった本当の理由を聴いて、天ヶ瀬さんは感嘆とした表情で「すげぇな」と一言だけ口にして大きく息を吐いた。その視線が妙にこそばくて、私は頬が暑くなるのを感じながら視線を窓に向ける。普段私も天ヶ瀬さんにこんな視線を向けているのかな、なんて考えているといつの間にか停車していた電車のドアが開いて、外の肌寒い風が車内に入り込んできた。今度は電車を降りた人と同じ数ほどの人が乗り込んできて、新たに乗り込んだ人たちがそれぞれの間隔で腰を下ろすとドアが閉まり、再び電車が走り出す。

 電車はホームを抜けて、また都会の摩天楼が広がる景色が戻ってきた。その景色を天ヶ瀬さんはじっと見つめている。いつもの何処か遠い世界を見つめている目だったが、彼の瞳は確かに私が見ている景色が映っていた。

 

「……絶対いつか親父さんに会えると思う。北沢、ほんとに頑張ってるから」

「だといいですけどね」

「俺が言うんだから間違いねぇって」

「なんですか、その自信満々な感じは」

 

 何の根拠もないはずなのに、あまりにも断言するように言い切るものだから可笑しくて笑ってしまいそうになる。だけど不思議なことに、天ヶ瀬さんがそう言ってくれるならいつか本当に何処かで父に会えるような気がしてくるのだ。

 天ヶ瀬さんの自信満々の言葉が、『会いたい』とただ願うだけだった私の想いを、『会える』という確信に昇華させていくのを感じた。不思議な言葉の力を持つこの人はやはり特別な存在なんだな、と改めて認識させられる。

 

「……ありがとうございます。いつか父に会えるように頑張ります」

「おう、応援してるぜ」

 

 天ヶ瀬さんが得意げに笑って、私を見下ろす。その顔が何故かいつもより大人びて見えて、私の左胸の奥がドクンと脈を打った。同情なんかじゃない、気休めなんかでもない。そんなチンケなものじゃなくて、この人は本当に私が一人で抱え続けてきた想いを分かってくれているのだ。

 いつの間にか私の胸は随分と軽くなっていた。それがずっと一人で抱え込んでいた想いを天ヶ瀬さんが少しだけ肩代わりしてくれたからだということに気が付き、申し訳なさと謎の幸福感の正反対の二つの感情が軽くなった胸の隙間を埋め尽くすようにじんわりと広がっていく。今までずっと自己完結ばかりを目指して生きてきたが、こうして誰かと一つの想いを共有するのも案外悪いものではないのかもしれないと、この時私は初めて思った。

 

「そ、そういえば天ヶ瀬さん! 私に嘘つきましたよね!」

 

 初めて経験する感情に戸惑いを感じつつ、私はふと喫茶店での話を思い出して彼を問い詰めた。

 

「嘘って? 俺が?」

「はい、彼女いたことあるってこの前言ってたじゃないですか。それが幼稚園の頃の話だったなんて……」

「なっ……! 幼稚園でも保育園でもいたことにかわりはねぇだろ!」

「そうですけど、それをカウントするのはさすがに引きますよ」

「なんでだよ、本当のことじゃねぇか。あ、そういや北沢は弟さんにクリスマスプレゼントはもう買ったのか?」

「話逸らさないでください。まだ買ってませんけど……」

 

 ––––あぁ、私、とても幸せかもしれない。

 電車が駅に停まって乗客が入れ替わっていくのと同じくらい、何気ないことで誰しもが経験するような日常だったとしても、天ヶ瀬さんと過ごす時間は宝石のようにキラキラと光る瞬間に思えて、私はその一瞬を一粒も欠けないように噛み締めていた。

 これから先、何度季節が巡って来てもいつか大人になっても、私は天ヶ瀬さんと過ごした時間のことを覚えているのだろうと思う。無愛想な眼で遠くを見る横顔も、親しみのこもった笑顔も、彼の隣で心臓の音を必死に隠したことも、時間が止まって欲しいと月並みなことを願ったことも、天ヶ瀬さんの一つ一つの仕草や動作、私がその時何を思い何を感じたのかも、きっと全てが色褪せることなく脳裏に残り続けて、私はその情景を砂時計をひっくり返すように、何度もなんども振り返り続けるのだ。

 その想いは私にとって、天ヶ瀬さんの一番の存在になりたい、誰よりも近い距離で彼の色んな顔を見てみたい、そして彼と一緒にこの大空を飛び回りたい、などといった傲慢で思い上がりな願望より、遥かに価値のあるモノに思えた。

 

 ––––どうかこの日常が永遠に続きますように。

 

 窓の外に広がる夜の東京の街に向かって、私は密かにそう願い続けた。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「あの、今日のライブ本当に良かったです。天ヶ瀬さん、素敵でした」

 

 田中さんと別れ、北沢と一緒に帰ったあの日、別れ間際に北沢は少しだけはにかみながらそう言ってくれた。その感想をちゃんと伝えたくて、駅前広場で俺を待っていたのだとも。

 面と向かってそんなことを言う北沢がやけに愛おしく感じて、恥ずかしくなった俺は何も言えなかった。北沢がかけてくれた言葉に見合う返事を言いたかったけど、思うように上手く言葉を選べなくて、ようやく思いついた何かを口にしようとした時、俺たちの間を遮断するように電車のドアが閉じてしまった。

 あの時、俺は何を伝えようとしたのだろう。

 咄嗟に頭に浮かんで、瞬く間に消えてしまった言葉の正体は、今となってはもう分からない。だけど、それは俺自身も気が付いていない心の奥底に隠した想いを代弁する言葉のような気がしていた。

 寒い中わざわざ待っててまでライブの感想を言ってくれた北沢にちゃんと返事を言えなかったことを後悔しつつ、自宅に帰り着いた時、真っ先に部屋の隅に置かれたままになっていたオレンジの箱が目についた。カバンを定位置に置いて、確か今日のライブで着る衣装を探していた時に見つけたんだっけと記憶を辿りながら箱を開ける。中から顔を出したのは、やはり俺の予想通りのモノだった。

 

「……これ、どうすっかなぁ」

 

 箱の中に入っていたのは、捨てるに捨てれなかった、新品のサッカースパイクだ。

 サッカーを辞めてしまった今、きっと今後使われることはないだろう。だけどお気に入りのカラーリングのスパイクだったから、新品のまま捨てるのはどうにも勿体無い気がするし、かといってネットで売りに出すのも、それはそれでものすごく無粋なことのように思えて背徳感を感じてしまう。

 暫くサッカースパイクの扱いにあれこれと頭を悩ませた後、俺は先ほどまで電車で一緒だった北沢との会話を思い出した。そしてすぐさまスマートフォンを取り出して北沢にLINEを送ったのだった。

 

 

 

「それで、なんですか急に」

 

 十二月二十四日、クリスマスイブ当日。

 どんよりとした灰色の空の下、事前に教えてもらった住所で待っていると、北沢が部屋着にエプロン姿の薄着のままバタバタと団地を降りてきた。寒そうに肩を震わしながら、挨拶も手短に北沢がそう切り出してくる。どうやら弟の迎えの時間までに一通りの準備を終わらせないといけなかったようで、そのタイムリミットまでもうあまり時間が残されていなかったらしい。

 よりによって忙しい時に来てしまったと間の悪さを呪いつつ、俺はあまり時間をかけるべきではないと判断し、背中に隠していた袋をさっと北沢に差し出した。

 

「は? なんですかこれ」

 

 驚いたようにキョトンとする北沢に、俺はおどけた声で返す。

 

「メリークリスマース! ジュピターの天ヶ瀬冬馬からのプレゼントだぜ」

「ぷ、プレゼント!? 私にですか?」

「そう。あと、弟さんにも」

「りっくんにも?」

「とりあえず開けてみろよ」

 

 そう言うと、北沢は驚いて眼を見開いたまま俺から受け取った袋の紐を解いていく。最初に北沢が取り出したのは、俺のクローゼットで眠ったままになっていたサッカースパイクだった。

 

「これ、サッカーのスパイクですか?」

「それは弟さんの。俺がアイドルになる前に買って使わなかったやつだけど」

「いいんですか、新品みたいですけど」

「あぁ、結構気に入ってたから捨てるに捨てれなくて困ってたんだ。サイズは大きいから、いつか弟さんが大きくになってサッカー続けてたらその時に履いて欲しいなって思って」

「……ありがとうございます。りっくん、天ヶ瀬さんもサッカーも大好きだから喜ぶと思います」

「だ、だといいけどな」

 

 北沢から大好きというフレーズが飛び出し、それが彼女の本心ではないと分かっていても何故か恥ずかしくなって、照れ隠しをするように虚空に視線を泳がせる。

 そんな俺の気も知らない北沢は弟へのプレゼントを胸に抱き締めながら器用に袋の中を漁って、俺が北沢にと用意してたもう一つのプレゼントを引っ張り出した。

 

「に、似合うと思って買ったんだけど、どうだ?」

 

 北沢が何かを言う前に、我慢できずに俺が先に口を開いた。俺が買ったのは北沢が39 Projectでイメージカラーとして当てられている白色のニット帽だ。女の子にプレゼントを買う経験なんてしたことがなかったため何を買えば良いのかなんて分かるはずもなく、一人で悩みに悩んだ俺は結局北斗の意見をそのまんまに(勿論北沢にとは言っていない)今年の冬に流行りだと勧められたニット帽をチョイスした。

 しかし本当にこれで北沢が喜んでくれるのかと、そんな悩みが湧いて出てきて、俺は今日ここにくる直前までこのニット帽を渡すべきかどうかで悩み続けた。でも弟だけプレゼントを用意するのも不自然な話だし、何よりあの日ちゃんと言えなかったお礼を何かしらの形で返したいという想いが強く胸の中で渦巻いてて、俺は恥ずかしい気持ちを振り払って、ニット帽とサッカースパイクが入った袋に慣れない手つきでリボンを巻いたのだ。

 

「……嬉しいです。まさか天ヶ瀬さんからプレゼントを貰えるなんて」

 

 恐る恐る顔を上げると、北沢は今まで見たこともないような満面の笑みでニット帽を大事そうに抱きしめていた。キラキラと光る北沢の瞳はまるで小さな子供のようで、その笑顔を見ている俺まで幸せな気持ちに包まれていく。どうやら初めて女の子のために用意したプレゼント選びは成功だったらしい。

 

「本当にありがとうございます。大事にしますね」

「いやいや、そんな大したもんじゃねぇから。でも喜んでもらえてよかった」

「だけどすみません、私は天ヶ瀬さんに何も用意してなくて……。その、良かったらこれからウチに寄って行きませんか? 母もりっくんから天ヶ瀬さんの話を聴いていて、きっと大歓迎だと思いますので」

「いや、それは申し訳ねぇから遠慮しとく」

 

 せっかくの申し出だったがその誘いは断った。普段忙しい北沢一家が家族揃って過ごせる貴重な時間に俺が入り込むと、それこそ家族の時間に水を差してしまうような気がしていたからだ。

 そうですか、と心底残念そうに北沢は口にして俯く。だけどすぐに何かを思い付いたように顔を上げると「少し待っててください」とだけ言い残して、俺の返事を待たずに団地の階段を走って登って行ってしまった。

 肌寒い風が吹き抜ける冬空の下、待つこと数分。今度はゆっくりとした足取りで、だけど気持ちは急いでいるような矛盾した歩き方をした北沢が降りてきた。

 

「これ、良かったらどうぞ。こんなものしか渡せなくて申し訳ないですけど」

 

 押し付けるように差し出された箱を、俺は何も言わずに受け取った。小さな白い長方形の箱はまるで空箱かと疑うほど軽く感じられる。箱を開けて中身を確認しようとすると北沢が慌てて制止して、それなら振って音を確認しようとすると、今度は先ほどより強い口調で止められてしまった。

 

「中身はケーキです」

「北沢が作ったのか?」

「はい、なので味の保証はできませんけど」

 

 そう言うと頬を掻きながら視線を逸らした。先ほど俺がプレゼントを渡した時に照れ隠しで視線を泳がせた時と全く同じだと思って、思わず吹き出してしまった。そんな俺に「何が可笑しいんですか」と食い気味に訊いてくる北沢に俺は「似た者同士みたいだな」と返す。北沢は「何言ってるんですか」と首を傾げるだけだ。

 遠くで鋭い声を上げて鳥が鳴いた。北沢の住む団地沿いの国道から、微かに都営バスのアナウンスも聞こえてくる。バスから降りてくる子供達の妙に弾んだ声が耳に届いて、北沢がクリスマスパーティーの準備で忙しかったことを思い出した。

 

「ケーキありがとな」

「いえ、こちらこそ。プレゼントまで本当にありがとうございました」

「気にすんなって。それじゃあな」

「あっ……、天ヶ瀬さん!」

 

 踵を返した時、慌てて呼び止められて振り向いた。

 北沢は何かを言いかけたようだったが、直前で止めた。その代わりに、両手を背中で組んで不慣れな笑顔でニコッと笑う。

 

「メリークリスマス。素敵な夜を過ごしてくださいね」

「あぁ。北沢もな」

 

 俺たちはお互いに笑いあって、別れた。




NEXT → Episode Ⅵ : 俺と私の北沢一家の闇


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EX : 田中琴葉とシルエット

以前友達を乗せて運転している時に朝焼けのクレッシェンドを流したら「誰この音痴」と言われてしまったので怒りの二日連続投稿です。
エクストラエピソードなので本編には関係ありません。琴葉と恵美のその後のお話です。


 遠くで今年一年の終わりを告げる除夜の鐘が鳴っている。一定の間隔をあけて叩かれる鐘の音は大晦日の夜に鈍く響き渡っていて、アタシの胸の中に重くのし掛かるようにじわじわと圧を与えてきているようだった。

 その圧を軽減させようと、顎を炬燵のテーブルの上に乗せながら溜息を吐いてみる。だけど口から出てきたのは脱力感に溢れた吐息だけで、胸を締め付ける圧は少しも弱らなかった。何気なく点けたテレビで流れてる今年一年を振り返る特番も、全く興味が湧かなくて面白みが感じられない。テレビの中では昔から憧れていた有名モデルが今年の一年で自身に起こった出来事をランク付で紹介していたけれど、そのモデルの可愛らしい声は右耳から入って左耳から出て行くだけで、何一つ頭には残って行かなかった。

 二度目の溜息。だけどやっぱり二度目の溜息も、空振りするようにブルーな吐息が出てくるだけだ。

 

「恵美、あんたさっきから溜息ばっかついてうるさいわよ」

 

 台所から母の苛立ちのこもった言葉が飛んできた。アタシの悩みを何も知らないくせにと、思わずムッとなって私も応戦する。

 

「溜息ばっかって、まだ二回しかしてないもん」

「何が二回よ。アンタ朝からずっと溜息ばっかついてたじゃない」

「え? そうだっけ?」

 

 アタシの屁理屈のような反撃もあっさりと返されてしまった。どうやら無意識のうちに何度も溜息を溢していたらしい。「なんならここ最近ずっと溜息ついてたわよ」と呆れたような口調で付け加えた母は、振り返りもせず器用に片手鍋の中を箸でかき混ぜている。換気扇が回る音に乗って、出汁の香りがアタシのいる居間にまで漂ってきた。その香りが鼻から肺の中に落ちて行って、今更ながら今日は大晦日なんだなと実感させられた。

 

「今日はずっと家にいるの?」

「うーん、分かんない。友達と初詣行くかも」

「そう」

 

 母はそう尋ねてきたが、訊いてきたわりにアタシの予定にはさほど関心があるわけではなかったらしい。何気なく訊いただけだったのか、私の曖昧な回答に興味なさげな返事をしただけで、それ以上は何も訊かずにまたせっせと片手鍋の中で蕎麦の麺を解す作業に戻ってしまった。

 そんな母の背中を見つめつつ、また溢れ出そうになった溜息を慌てて抑える。退屈になって何も面白みが感じられないテレビを流すように観ていると、木造の家の窓の外から再び除夜の鐘の音が聴こえてきた。

 

『多分、冬馬は琴葉ちゃんじゃなくて志保ちゃんが好きなんじゃないかと思ってたんだが』

『……恵美、私フラれちゃった。天ヶ瀬さんは私じゃなくて志保ちゃんのことが好きだったみたい』

 

 除夜の鐘がアタシの胸の中で響き渡るそのたびに、数週間前の記憶が掘り起こされるようにしてフラッシュバックしてくる。琴葉とあまとうの二人を半ば嵌めるような形で置いてけぼりにした後、北斗と一緒にバスを待っている時に言われた言葉、そしてその日の夜に電話越しで聴いた涙ぐむ琴葉の弱々しい声––––。もう何週間も前のことなのに、あの日のことがずっとアタシの頭の中で渦巻き続けていて、事あるごとに脳裏に蘇ってきてはアタシの心を貪るように、行き場のない罪悪感が身体全体を侵食してくるのだ。

 

 全て、アタシの勝手な勘違いだった。

 そして良かれと思って琴葉を煽り、独断で起こした身勝手な行動が、結果として大事な友達を傷つけることになってしまった。

 

 後悔と負い目、後ろめたさが一つの大きな負の感情の集合体となり、胸の内を激しく暴れ続ける。その自責の念にアタシの心は耐えきれず、かと言って自らの手で傷付けてしまった親友に合わせる顔もなければ掛ける言葉を見つけ出すこともできず、こうして自身が犯した過ちを後悔して悔いるばかり。取り返しのつかないことをしてしまったと、日を追うごとに波のように襲いかかってくる呵責が切り裂く胸の痛みに、アタシはひたすら耐え続けることしかできなかった。

 

(琴葉、怒ってるだろうなぁ……)

 

 あの日以来、琴葉には一度も会っていない。もともと琴葉や未来、可奈たちは“階のスターエレメンツ”の放送直前なのもあって、年末ギリギリまで番宣や音楽番組への出演など、多くの仕事でスケジュールが詰め込まれていたから、三人とも殆どシアターに足を運ぶ暇がなかったのだ。現にクリスマス前に未来がほんの少しだけシアターに顔を見せにきたことがあっただけで、それ以外で三人がシアターにやってきたこと一度足りともなかった。

 最初はその偶然を有り難く思ったりもしたが、ここまで時間が空きすぎてしまうと逆に気まずくなってしまって、次に顔を合わせた時にどんな風に接すれば良いのかが分からなくなってしまうものだ。遅かれ早かれシアターで顔を合わせる機会は訪れるのだろうけど、その時のことを想定すると今から少しだけ憂鬱な気分になってしまう私がいた。

 ––––あんなに楽しかった友達と一緒にいる時間を憂鬱に思うなんて。

 あの日までは想像もしていなかった心境の変化に戸惑いを感じつつ、そんな自分に嫌気が差す。一番の被害者はアタシの勝手な勘違いで傷付いた琴葉のはずなのに、なんで加害者のアタシが被害者面をしているのだと。会う機会がない偶然に甘えて面と向かって謝ることもできず、こうして一人で塞ぎ込んでいる自分が卑怯者のように思えて、自己嫌悪に陥ってしまうのだ。

 

「恵美ー、アンタの携帯鳴ってるわよ」

 

 背中から母の気怠げにアタシを呼ぶ声が聴こえてくる。極端にネガティヴな想いで胸が一杯だったせいか、炬燵から出ることさえも煩わしく思えて、アタシは母の声に聴こえてないふりをした。テレビではいつの間にか好きだったモデルではなく、今年の上半期に大ブレイクした芸人に切り替わっている。あれほど面白いと思っていた彼らの一発芸も、やはり今は何も面白みを感じれなかった。

 

「恵美! 携帯鳴ってるって言ってるでしょ! なに無視してんの!」

「もー分かったよぉ。今いくー」

 

 怒りのこもった口調で再度呼ばれ、無視することを諦めたアタシは適当な言葉を返して炬燵から這い出ることにした。炬燵の中で温められていた足が暖房のついていない寒い部屋の気温に晒されて、ほどよい温度感を保って心地良く感じられる。重い身体を引きずるように一歩一歩台所へ向かうと、古びた木製のテーブルの上に置かれたままになっていたアタシのスマートフォンが煩い音を立ててアタシの到着を待ちわびていた。スマートフォンのバイブが古いテーブルを振動させていて、その音が台所に響いており、母が迷惑そうな眼差しでチラリとスマートフォンを見やる。早く出なさいよ、なんて無言の圧力をかけられているようで、そんな母の視線にウンザリしながらスマートフォンを手に取った。

 だけど次の瞬間、スマートフォンの画面に表示されていた名前を見てアタシは思わず手放してしまった。ガシャンと更に煩い音を立てて、揺れ続けるスマートフォンがテーブルの上に落ちる。驚いたように肩を震わせた母の姿が視界に入ったが、その姿を気にも留めずに、私は恐る恐るスマートフォンを拾い上げて通話ボタンに触れた。

 

「も、もしもし」

『もしもし、恵美?』

 

 電話の相手は琴葉だった。いつもと変わりない、よく透き通る琴葉の声を聴いて心臓がドクンと高鳴る。久しぶりに聴く琴葉の声の後ろからは、ガヤガヤとした喧騒と何処かで聞き覚えのあるアナウンスが聴こえてきた。どうやら外にいるようで、アタシは琴葉の声だけを拾えるようにとスマートフォンが当てられていない方の耳を人差し指で封じる。

 

「どうしたの? 外にいるみたいだけど」

『うん、今エレナと所沢に来てて。恵美、この後用事ある?』

「アタシは特にはないけど……」

『なら三人で初詣行かない? 私たち、所沢駅で待ってるから』

 

 そう誘った琴葉の声は、悪意も悲壮感も感じさせない、いつもの優しい声色だった。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「スゴーイ、人いっぱいダ! カーニバルみたい!」

「そうだね、本当に人いっぱい。エレナは初詣来るの初めて?」

「うん! いつもは大晦日寝て過ごしてたから」

「あはは、エレナらしいね」

 

 所沢駅で合流したアタシたちは、駅から続く人混みに紛れて流されるように歩き続けた。

 意外にも初めて初詣に来たらしく、人の多さに謎の感動を覚えるエレナの隣では琴葉がいつもと何も変わりない様子で楽しそうに笑っている。それは今まで私たち三人が過ごしてきた変わり映えのない日常のはずなのに、何故か今ばかりはその当たり前の光景に違和感を覚えてしまっていた。その違和感を拭えないまま、アタシは少しだけ距離をとって二人の様子を横目で盗み見るように眺めていた。

 

「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくるネ!」

 

 エレナが唐突にそう言い残してアタシたちの元から飛び出していったのは、三人でおみくじを引こうと話をした直後のことだった。思わず呼び止めそうになった時には既にエレナの背中は人混みの中に消えてしまっていて、沢山のおみくじが巻かれた木の前でアタシと琴葉は取り残されてしまった。お祭りムードが漂う神社でアタシたちの間にだけ気まずい空気が漂っていて、息苦しさから逃げるようにアタシは空を仰ぐ。年を跨いだばかりの空には月の明かりすら見えなくて、真っ暗な闇がどこまでも広がっているだけだ。山から降りてくる優しい風が、アタシの髪をさらっていく。乱れた髪を直そうと額に手が触れた時、琴葉がアタシを見つめていたことに気がついた。

 

「…………琴葉、本当にごめん」

 

 まっさらな風に吹かれて、思わず言葉が溢れた。「何が?」と尋ねた琴葉はずっとアタシの言葉を待っているようだったが、アタシは次の言葉を見つけることができなかった。そんなアタシに助け舟を出すように琴葉は一度だけ目を瞬かせて、じっと瞳を見据えながら口元を緩める。

 

「私ね、ずっと憧れてた人がいたの」

「憧れてた人?」

 

 突拍子もなくいきなりそう切り出され、アタシは風に揺られる草木のように首を傾げた。琴葉は「そう、憧れてた人」とだけ繰り返して、話を続ける。

 

「私が演劇部に入っていたことは話したよね」

「うん、高校の演劇部でしょ? 部長もやってたって」

「そうなの。その時に私が演じた役があってね、その役の子に私はずっと憧れていたの」

 

 過去を回想するように目を細める。また山から風が降りてきてアタシたちの間を抜けていったが、琴葉は乱れた髪を気にも留めずにアタシの瞳を真っ直ぐに見つめていた。

 

「その子はね、何があっても誰のせいにしないで自分と向き合う強い子だった。きっと私が迷ったり悩んだりしてる間にも自分と戦っているような子で、その強さに惹かれて、私もこの子のようになりたいって思ってたんだ。誰にも明るくて優しくて、いつも強気で自信に満ち溢れていて、あの子みたいな人間になりたいって思って、変わるキッカケが欲しかったから私は39 Projectのオーディションに挑戦することにしたの」

 

 高校の友達に勧められてオーディションに参加したとまでしか経緯を聴いていなかったため、この話は初耳だった。何も言わずにただ話を聴いているだけのアタシに語りかけるように、琴葉は更に言葉を紡いでいく。

 

「でも実際はそう簡単に変われるはずもなくて。そんな時に天ヶ瀬さんに会って、この人が横にいてくれたら私も憧れてたあの子みたいになれるのかなって、そんな漠然とした希望を抱いて、あの人の影に理想を重ねていたんだと思う」

 

 ––––だけど。

 そう口にして一区切りすると、琴葉は額にしわを寄せて笑って見せた。その笑みを見て私は何故か無性に泣きたくなった。緩んだ涙腺を決壊させないようにと、ポケットに突っ込んだ掌を強く握りしめる。

 

「……そうやって誰かの影を重ねても誰かの言葉を借りても、結局私自身が変わることはできなかったんだよね」

 

 その言葉はアタシに対してではなく、自分自身に言い聞かせてるようだった。琴葉は自分を卑下するように笑っていたが、その苦笑に後ろ向きの感情は込められていなくて、むしろ遠くの先までを見据えているような前向きな感情が見え隠れしているように思えた。

 その達観した表情に胸を揺さぶられて頬に一滴の雫が垂れた。だけどその雫を拭うこともせず、アタシは琴葉の次の言葉を待ち続ける。琴葉は細めていた目を一度だけ閉じて、そして暫く閉じた後に何かを振り払うように開くと私に笑いかけた。

 

「私は結局憧れたあの子にはなれなかった。だけど恵美もエレナも、シアターのみんなも、今の私を受け入れてくれていて、それが本当の私なんだってことに気付いたの」

 

 琴葉の後ろで、ずっと雲に覆われていた月が顔を出したことに気が付いた。それを合図にするかのように、憧れと決別する言葉を琴葉はハッキリと口にした。

 

「もう無理に変わろうなんて考えないで、今の自分を受け入れることにしたんだ。それからちゃんとした意味で、誰かの影に重ねたり誰かの言葉を借りるんじゃなくて、自分の足で一歩ずつ歩いて変われたらないいなって思って」

「……うん。うん!」

「恵美、こんな私を好きになってくれてありがとう。これからもよろしくね」

 

 琴葉の最後の言葉がダムが決壊させたかように、目元から堪えていた涙がボロボロと溢れてくる。視界が滲んで琴葉の姿がハッキリと認識できなくなって、だけど確かに琴葉がアタシの前に立っていて、周囲に他の人たちが大勢いることさえも忘れて大泣きした。自分の勘違いで琴葉を傷付けてしまった罪悪感と、それでもアタシに「これからもよろしくね」と言ってくれる琴葉の優しさが胸の中で渦巻いて、ぐしゃぐしゃになった気持ちに流されるままアタシは涙を流し続けた。

 

「もう、恵美は涙腺弱すぎだよ」

 

 そう言いながら身体を抱きかかえてくれる琴葉の胸の中で、何度もなんども「ごめんね」と謝罪の言葉を繰り返す。だけど琴葉は決してアタシを責めるようなことはせず、ずっと優しく頭を撫で続けてくれていた。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 静かなクラシックが流れる店内。薄暗い店内には珈琲豆の匂いが充満していて、何度もここを訪れていたはずなのに、何故か緊張してしまって未だに無意識のうちに背筋がシャンと伸ばしてしまう。その理由にアタシは気付いていたが、だからといってどうこうできる問題でもなく、為す術なく慣れない緊張感に包まれたまま、肩肘を張り続けることしかできなかった。

 

「何はともあれ良かったじゃないか。仲違いすることもなくて」

 

 その緊張を引き起こしている張本人は、アタシとは対照的に微塵も緊張感を感じさせない優雅な手つきで、真っ黒な珈琲が入ったカップから唇を離す。一通りの経緯を話した後、北斗は気を抜けばあっという間に吸い込まれていってしまいそうな優しい眼で私を見下ろしながらそう言ってくれた。

 

「うん、本当に良かった。一時はどうなることかと思ったよ」

「琴葉ちゃん、良い子なんだな。きっと冬馬なんかよりもっと良い相手が見つかるよ」

「……ちょっと、まさか琴葉に手を出そうとしてるんじゃないだろうね」

「ははは、今度琴葉ちゃんの連絡先教えてくれよ。デートに誘ってみるから」

「相変わらずチャラいなぁ。ぜっっっったい教えないからっ!」

 

 油断も隙もありゃしないと、わざとジト目で見つめてみたけれど北斗は相変わらず余裕のある顔つきを崩さないで笑っていた。口ではこうは言っているが、彼が誰よりも誠実で女の子に優しい人間だということをアタシは知っている。そして、そんな彼に初めて会った時からずっと恋心を抱いている自分の本心にも。

 

「ねぇ、北斗」

 

 さりげなく名前を呼んでみる。北斗は綺麗に整えられた眉毛をピクリと動かして、視線を向けた。

 

「……アタシのことは、好きになってくれないの?」

 

 卑怯な言い方だった。北斗は優しくて、「そんなことはないよ」と言ってくれると分かっていたからだ。

 だけどアタシは知っている。北斗が絶対に「好きだよ」と言ってくれないことも、アタシの想いが一方通行だということも。どれだけ彼のことを想っても、彼はアタシを一人の女の子としては見てくれていない。マスカラなんかじゃ隠しきれないほど強くなったこの想いをぶつけても、北斗の背中には絶対に届かなくて、そのことが悔しくて切なくてもどかしくて、ただひたすらに苦しかった。

 それでもアタシは彼と一緒にいたい。その一心で、こうして時折冗談交じりに胸に秘めた想いの一角を見せて、彼に振り向いて欲しいと願っている。琴葉に謝りたいと思っていたのに自分から何も言い出せなかったあの時と全く同じだった。

 

「そうだな、好きになるのは恵美ちゃんがもう少し大人になってからかな」

「え?」

 

 予想していたのとは違う答えが返ってきて、アタシは思わず訊き返した。

 北斗はカップに残っていた珈琲を一気に飲み干すと、呆気にとられたアタシを尻目にゆっくりと席を立つ。そして背もたれにかけていたコートに袖を通し、帽子を目深に被った。

 

「でも、今の仲間想いな恵美ちゃんも俺は好きだよ」

 

 帽子のツバから覗き込むような瞳でウインクをし、「今から撮影だからお先に」とだけ言い残してそのまま店を出ていってしまった。ポツンと残されたテーブルには少し多めの代金が置かれていたことにも気が付かず、アタシは遠退いていく北斗の背中をずっと眺め続けていた。

 あれほど遠く感じた北斗の背中に、ほんの少しばかり近づけたのかな。そう思いながら。




琴葉のシルエットを聴いていて思いついた話で、実は琴葉メインの長編を投稿しようとプロットを立てていたこともありました。
童話の青い鳥のように、変わりたい一心でアイドル活動を始め、理想を追い求めてあれこれチャレンジするけど、結局素の自分を受け入れてくれる周りの環境に気が付いて本当の自分を見つけ出す……といった内容です。
だけどそれを長編にするほど話を広げられず、ずっと温めるだけで結局このような形で投稿することになってしまったのは自分の力量不足です。委員長ごめんよぉ……。

今回は当て馬のようにポジションにしたり、Twitter上で散々重い発言をネタにしてましたが、琴葉のことは好きです。シルエットを初めて聴いた時はのインスパイアされたような衝撃を今でも覚えてるほどに。
今後、何かしらの形で彼女のエピソードも書けたらいいなと思っています。まぁしじみ汁は嫌いですけどね。
次から本編に戻ります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EpisodeⅥ:俺と私の北沢一家の闇

いよいよ物語の大山にあたる北沢一家の回。
事前に予防線を張っておきますが、ここからは完全な個人の考察と推測です。
もしかしたら公式で北沢一家の真相が今後語られるかもしれませんが、多分この物語のようなことはないと思われます(切実な願い
それを踏まえた上で、ここから残り3話(各話5部予定)も楽しんで読んでいただければ幸いです。
R-15は保険。そんないやらしい描写はないです。

と言いつつ第一部は北沢志保一回も出てこないので初投稿です。


「そういえば冬馬くん、もうすぐ志保ちゃんの誕生日だよ」

 

 それは年を跨いで間もない、寒い日のことだった。俺の部屋で二月のライブに向けた簡単な打ち合わせをしていたのだがいつの間に話が大きく脱線し、気が付けばもう収拾がつかないほど話が逸れてしまっていた頃、何の脈絡もなく翔太が唐突にそう口にした。俺のベッドの上を陣取ってゴロゴロと転がる翔太はスマートフォンを片手に、おもちゃを見つけた子供のような笑顔で俺を見つめている。

 

「なんで翔太が北沢の誕生日を知ってんだよ」

 

 二人の間に何もないことを知っていながらも、咄嗟に出た俺の言葉は不貞腐れたような声をしていた。翔太は「だってホームページに載ってたんだもん」とあっさりと種明かしをし、俺は「ふーん」とわざと興味なさげな返事をする。その場で翔太に気付かれないようにテーブルの下にスマートフォンを隠しながら調べてみると、確かに一月十八日が北沢の誕生日としてプロフィールに載っているのが確認できた。

 

「クリスマスプレゼントはどうだったんだ? 喜んでくれたのか?」

 

 チラリとテーブルの下を覗き込む北斗にそう問われ、俺は慌ててスマートフォンを伏せて画面を隠す。

 

「なんかよく分からなかったけど喜んでくれたみたいだ」

「そうか、悩んだ甲斐があったな」

「まぁな。北斗のアドバイスのおかげだ。ありがとな」

「ねぇねぇ、志保ちゃんにプレゼントあげた話は僕聴いてないんだけど」

「いいんだよ、翔太は聴かなくて」

 

 翔太はいじけたような態度で俺たちに背を向けたが、すぐに反転すると今度は悪戯っぽく好奇心に満ち溢れた眼差しを俺に向け始めた。相変わらず表情がコロコロと変わるヤツだなと、そんなことをボンヤリと考えながらテーブルの上に置いていた麦茶が入ったコップに手を伸ばす。

 

「ところで、冬馬くんと志保ちゃんはいつから付き合ってるの?」

「ばっ!?」

 

 翔太の口から飛び出した疑問が矢になって物凄いスピードで麦茶を追い越し、喉の奥にグサッと突き刺さった。突き刺さった矢に遅れるように口元に到達した少量の麦茶は、すぐさま俺の口から全て溢れ出てしまった。

 ゲホッゲホと咳き込む俺を見て翔太はこうなることを予測していたと言わんばかりにゲラゲラと笑っており、北斗は呆れたような顔を向けながらもティッシュの箱を手繰り寄せて俺に差し出してくれていた。北斗から受け取ったテイッシュを何枚か重ねて、口元を拭う。テーブルの上では口から溢れた麦茶が浅い水溜りを作っていた。

 ––––俺たちは付き合うとか付き合わないとか、そういう関係じゃなねぇんだよ。

 ティッシュを水溜まりに被せながら、自分に言い聞かせるようにそう何度も胸の内で繰り返す。北沢は俺にとって少し特殊な存在の人間だ。考え方も不器用なところも、偶然か必然か俺と似た要素を多くもつ北沢を見ているとまるで自分自身を見つめ直しているような気になって、一緒にいるだけで不思議なほどに頑張る気力が湧いてくる。そうやって切磋琢磨し合っていければ、いつか俺たちはこの大空を飛ぶ翼を得られるような、確証はないけれどそんなことを思わせてくれる存在だったのだ。

 その絶妙な距離感と関係性が俺は好きだった。だから俺はこの関係を安易な彼氏彼女なんて世の中にごまんと溢れている在り来たりな関係に成り下げたくなかったのだと思う。北沢があの日俺に言ってくれたように俺にとっても北沢は特別な存在で、俺たちはちっぽけで脆く崩れやすい恋愛関係なんかじゃなく、もっともっと特別で高貴な関係なのだと。それは恋人関係より遥かに価値のある宝石のようなモノで、その関係性を俺は大切にしていこうと、北沢と会う度に強くそう思うようになっていた。

 そう考える自分のことを傲慢だと分かっていながらも、きっと北沢も俺と同じ風なことを考えていると思っていた。似た者同士だからこそ、北沢の考えもなんとなく分かるのだ。そして北沢が俺に対して向けている眼が、田中さんが俺に向けてくれた眼とは異質なことにも、とうの昔から気付いていた。

 そのことを二人にも伝えたかったが、この複雑な関係に最適な言葉は俺の語彙力じゃ見つけきれなかった。だから困ったように髪をかき上げ、安易な言葉で済ませようとする。

 

「……ったく、バカ言うなよ。俺が北沢と付き合うわけねぇだろ」

「え?」

 

 二人は常識を覆されたような眼で、唖然としたまま俺を見つめていた。

 

 

 

Episode Ⅵ : 俺と私の北沢一家の闇

 

 

 

「冬馬くんって志保ちゃんのこと好きなんじゃなかったの?」

 

 まるで「そうじゃないよね」と確認するような言い草だった。疑い深い眼差しを向ける翔太の顔にはいつもの俺を小馬鹿にしたりからかうような色が全く見えない。純粋に追い真実を求めているような翔太の真っ直ぐな眼差しを避けるように、俺は思わず目を伏せた。

 ふと思い浮かぶ、ライブ後に北沢と二人で電車で帰った日の別れ際の場面。俺はあの時、車内に残った北沢に何かを言いかけた。それは物凄い勢いで心の奥底から湧き上がってきた言葉で、その正体が何だったのか、どうして喉の奥から顔を覗かせただけで姿を見せなかったのか、何も分からないままあっという間に俺の中で弾けて消え去ってしまった。

 

「……んなわけねぇって。ただの友達だ」

 

 友達、というフレーズが俺たちの関係を表すのに適切な言葉だとは思わなかったが、とりあえず今はその言葉を当て嵌めることにした。だけど翔太も“友達”というフレーズがピッタリと当て嵌まるとは思えなかったようで、俺の閉ざした心の内を必死に開けようとする探求の眼差しは曇らない。

 

「もし志保ちゃんから告白されたらどうするの?」

「北沢が俺に告白なんかするわけねぇだろ」

「だからもしもの話だって」

「そのもしもが、極端にあり得なさすぎんだよ」

「あり得なくてもいいから。どうするの?」

「訳分からねぇよ。何でお前そんなに北沢の話に喰い付いてんだ」

「僕、志保ちゃんのこと気になってるんだよね。だから冬馬くんが好きじゃないなら狙っちゃおうかなって」

「なっ!? マジで言ってんの!?」

「嘘だよ」

 

 いつの間にか立ち上がって身を乗り出していた俺にしてやったりといった表情でケラケラと翔太が笑う。なにこんなことで熱くなってたんだよと、冷静に自分に言い聞かせながら俺は腰を下ろすも、内心ホッと胸を撫で下している俺にも、その本心を見透かしているように笑う翔太の眼差しにも気が付いていた。

 ––––あの日、俺は北沢に何を伝えようとしたのだろう。

 伝えれることができずに咄嗟に飲み込んだ言葉の正体が、実は北沢への好意の言葉だったのではないかと思う。仮にそうだったとして、北沢に恋愛感情は持っていないはずなのにどうしてその言葉が喉元まで出かかったのか。翔太と北沢が二人でいることをよく思わなかったことも、田中さんが俺が北沢のことが好きだと勘違いしていると分かっていながらも否定の言葉が出なかったことも、考えれば考えるほど謎が謎を呼んでくるようで、最近は北沢のことを考えると堂々巡りになるばかり。年末から抱えている北沢への気持ちの正体は年が明けた今でも一向に判明しないままだった。

 出口がまるで見えないトンネルを走るのに疲れ、小さく溜息を吐く。肩の力を抜いた時、ふとテーブルの上に綺麗に積まれた名刺の山が目に入った。

 

「……そういや、こんなにスカウト来てんだな」

 

 手にとって上から順々に積み重ねられた名刺に目を通していく。有名どころから聴いたこともない無名の事務所まで、数多くのプロダクションのプロデューサーや社長達が、半ば強引に押し付けるように残していった色とりどりの名刺達。しかしどれもイマイチ心惹かれず、こうして無造作に積まれていくだけで俺たち自らが連絡をすることは一度たりともなかった。

 

「どこも変わらないね。お金や待遇の話ばかりだ」

 

 俺たちが心惹かれなかった理由を、北斗が言語化してくれた。

 確かにな、と思う。どこもかしこも俺たちの興味を引こうと、口に出すのは金銭面の話ばかり。ウンザリするほど同じ話ばかりを俺たちは聴かされていた。そんなモノを俺たちは全く求めていないというのに。

 代わり映えしない名刺をトランプのように捲っていると、ふと一枚の白い名刺に書かれた名前が俺の何かに引っ掛かって捲る指を止めた。ここ最近神出鬼没で俺たちの前に顔を出す、季節外れのポロシャツを着た男の姿が思わず脳裏に浮かぶ。

 

「315プロだけはそういう話をして来なかったかな」

 

 パソコンの画面を見ながら、独り言のように北斗が呟いた。俺の目に止まった名刺が何だったのかを当てるような言い方だった。

 

「でもパッションだろ? 嫌だぜ、あんな訳の分からないおっさん」

「ははは、確かにあの事務所に入ったら苦労するだろうな」

 

 笑いながらそう言うも、北斗は満更でもない笑みを浮かべている。

 

(苦労……、か)

 

 北斗の言葉には何も返さず、俺は物思いに耽るようにこの一年を振り返る。961プロを抜けてインディーズで活動を始め、俺たち想像を絶する苦労を強いられた。たった一度のライブを開催するためだけで汗水流して必死にお金をかき集め、スタッフや会場を抑えるために夜遅くまで奔走したり、新曲を出そうとすれば作詞家や作曲家からとんでもない額の代金を請求され目を点にしたり––––。

 それらは961プロにいた頃の俺たちは全く知る由もなかった苦労で、それと同時に俺たちが今まで何不自由なく活動できていたことがどれほど恵まれたことだったのかを、ひしひしと痛感させられた経験でもあった。

 チラリと背後に目を向ける。翔太は俺をからかって満足したのか、ベッドにうつ伏せになって動かないままだ。耳を澄まして翔太の寝息を確認してから、一度だけ頭の中で言葉を整理して口を開く。

 

「……俺たち、961プロにいた頃は恵まれてたんだよな」

「どうしたんだ、急に」

 

 視界の隅で北斗がパソコンの画面から俺に視線を向けるのが分かった。俺は俯いたまま、頭の中で整理された言葉を順々に口にしていく。

 

「黒井のおっさんのやり方は今でも納得できねぇし許せねぇ。だけど、形はどうであれ俺たちは大事にされてたんだよな、って思うようになって」

「……そうだな。黒井社長のおかげで今の俺たちがあるといっても過言ではないと俺は思うよ」

「あぁ、それは間違いねぇ。あの人がジュピターを作らなければ俺たちは出会うこともなかったんだろうし」

 

 色々なことがあって、結局俺たちは喧嘩別れのような形であの人の元を去ってしまった。

 そのことに悔いはないし、961プロにいた頃に未練があるわけでもない。だけどこうして昔は知らなかった苦労を経験した今だからこそ分かる気がした。黒井のおっさんは本気で俺たちをトップアイドルに育て上げようとし、間違った形であれ情熱を持って接してくれていたことを。

 業界最大手の事務所の社長として多忙のはずなのに毎回のようにレッスンをチェックしにきてはあの人なりの言葉で叱咤激励し、スケジュールの合間を縫って社長直々に現場まで出向いて俺たちの活動を誰よりも近くで確認したり、時には遅い時間の送迎までをもしてくれた。あの時は当たり前だと思っていたそんな日常が、どれだけ有り難くて恵まれていたことだったか。黒井のおっさんの元を離れた今ならそれが身に沁みるように分かるのだ。

 

「……悔しいけど、黒井のおっさんのおかげなんだよなぁ」

 

 インディーズ活動をすることになっても、誰一人として黒井のおっさんが俺たちに与えた“ジュピター”というユニット名を変更しようと提案しなかった。きっとそれぞれが胸の内であの人が与えてくれたユニット名を大事にしていて、少なからず感謝の気持ちがあったからだと思う。

 俺たちがこの業界に足を踏み入れるキッカケをくれたのも、そしてインディーズで細々と活動している今でも沢山のファンに支えてもらえていることも。元を辿れば全て黒井のおっさんが俺たちを見つけてだして輝かせてくれたからなのだ。765プロへの執拗な嫌がらせは許せないし擁護できない、でもそれと同じくらい俺たちジュピターの起源に黒井のおっさんがいるのは紛れもない事実なのだと思う。

 

「だけど」

 

 北斗はパソコンを閉じて、テーブルの上に戻していた名刺の山を押し込むようにケースの中に詰め込んだ。

 

「俺たちは前に進まないといけない、だろ?」

「……あぁ、そうだな」

「来月のライブで冬馬の初作詞の新曲出すんだから。頼んだよリーダー」

 

 冗談交じりの口調でそう言うと俺の肩を優しく叩き、ゆっくりと立ち上がった。俺は「任せとけ」と北斗の背中に向けて返し、すぐさま胸の内を覗かれないように俯く。

 

 961プロを抜けてインディーズで活動し始めて、果たして俺たちは本当に前に進めているのだろうか。

 今のままインディーズで活動を続けたところで、本当に目指す場所に辿り着けることはできるのか。

 

 日に日に募っていく迷いたちを隠しているつもりだが、きっと北斗も翔太も薄々俺が抱えている不安に気付いているのだろうなと、そんな予感がしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



添削してたら何故か文字数倍になってしまったので初投稿です。


「ねぇ、そういえばもうすぐ志保の誕生日じゃない?」

 

 年を越してから暫く経ち、初めて劇場でメンバーたちと顔を合わせた日のことだった。新年だからといつもより気合の入った様子で美奈子さんが華奢な腕で重そうな鍋を自在に操りながら盛大に振舞ってくれた中華手料理を囲んでいた時、恵美さんがふと思い出したような口ぶりでそう呟いた。各々で美奈子さんの料理をつついていた皆の視線が一斉に私に集まる。私は何人もの視線を一身に受け、口に箸を含んだまま、箸を握る手はピタリと止められてしまった。

 どうして恵美さんが私の誕生日を知っているのかと疑問に思ったが、そういえば人の誕生日を覚えることが特技だって、知り合って間もない頃恵美さんが自分で話してたっけ。その話を聴いた時、派手な見た目によらず律儀でマメな人なんだなと、失礼ながらそんなことを考えていた事を思い出し、名残惜しい気持ちを感じつつも急ぎ足で口の中の料理を飲み込んだ。

 

「えぇ、そうですね。再来週ですけど」

 

 大きめのお皿に大量に盛られた回鍋肉を再度箸で摘み、口の中に放ると瞬く間に絶妙なバランスの調味料に包まれた牛肉の味がじんわりと口の中で広がっていく。気を緩めればあっという間にだらしない顔になってしまいそうな、絶品の味だった。

 

「次で十四歳だっけ?」

「ですね」

「まだ中学二年生かぁ、いいなぁ若くて」

「……恵美ちゃん、そう言うセリフはその場にいる年長者だけが言えるセリフなのよ」

 

 恵美さんの隣に座っていたこのみさんが不愉快そうに指摘したものの、必死に威圧感を出そうと眉をしかめる姿と童顔が生みだすギャップがおかしくて、私は思わず視線を逸らした。私と同じタイミングで奈緒さんと未来がこのみさんから視線を外しているのが見受けられたから、きっと二人も同じ事を危惧したのかもしれない。勿論、当の本人は頬を膨らませたままで私たちに気付いていないようだったが。

 

「志保ちゃんは誕生日なにするの?」

 

 私たちが楽しそうに食べる姿を、一番端の席で頬杖を付きながら幸せそうな表情を浮かべながら見守っていた美奈子さんがそう尋ねられて、私は再び箸を持つ手を止めた。

 ––––なにをする、かぁ。

 その問いには少し困ってしまう。というのも誕生日は私の中ではとっては何も変わらない普段と同じ一日で、特別何かをする日ではなかったのだ。それこそまだ父がいた頃は私が小さかったことも盛大にお祝いをしてくれた記憶があるが、父が姿を消して母が多忙になってからは自然と誕生日は普通の一日に成り下がってしまった。そのことが少しだけ寂しいと思う傍ら、家庭の事情的に仕方ないとすんなりと割り切っている私もいる。今では私の誕生日に気を遣うくらいなら母には少しでも休んでほしい、という気持ちの方が強いほどだ。

 

「……特に何かをするわけではありません。いつも通りに過ごすだけです」

「えー、誕生日なのに!? 家でパーティーとかしないの?」

「しないわよ。普通どおりだって言ってるでしょ。家族だって皆忙しいんだから」

「そっかぁ……」

 

 もともと大きな瞳を更に大きくさせていた未来は、ぶっきらぼうな私の言葉を聴いて子犬のようにシュンとした。まるで自分のことのように落ち込む未来を見て、少し大人気ない言い方をしてしまったかなと、申し訳ない気持ちが芽生えてくる。

 シアターの皆どころか、プロデューサーにも中学校の友人たちにさえ私の家庭環境は伝えていない。伝える必要がないと思っていたし、何より伝えたところで変に気を遣われたり安い同情を向けられるのが嫌だったからだ。そのせいか、劇場や学校で過ごす日常でこうして皆の当たり前と私の当たり前のズレを実感する機会が多々あり、その度にポッカリと空いた心の穴に風が吹き込むような疎外感を感じてしまうことがあった。それが仕方のない事だと分かっていても、私は開き直る強さも、誰かを頼る強さも持ち合わせていない。こうしてなるべく他人との距離を取ることで、自分を守る術しか知らなかったのだ。

 

 空がまだ青い時間にシアターを出た私は、帰路の電車の中で東京の町並みをぼんやりと眺めながら断片的になりつつある幼い日の記憶を辿っていた。家族揃って、幸せいっぱいに過ごした八歳のクリスマス。その時はまだ父がいなくなる予兆なんて微塵もなくて、こんな風に家族全員が揃って幸せに暮らす日々が永遠に続くのだとばかり思い込んでいた。その日常が数日後には崩壊し、一変してしまうなんて疑いもせずに。

 楽しかったクリスマスパーティーから数日後。年が明ける前か後かはもう定かではないが、ちょうど今くらいの時期に突然父は私たちの前から姿を消した。父がいなくなったショックもだが、何より父がいなくなったのに関わらず、一切悲壮感を感じさせずにいつもとなんら変わりない様子で私たちに接してくれていた母の姿が強く印象に残っている。その姿はまるで父がいなくなることを予め知っていたかのように吹っ切れていて、私が知らぬ間にもう既に修復ができないほど夫婦の関係に亀裂が生じていたのではないかと、子供心ながらそんなことを考えていた。

 そして父が姿を消してから数ヶ月後、私たち北沢一家は父と住んでいたマンションから今住んでいる団地へと三人だけで引っ越した。それを機に、母は仕事を始めて朝から夜遅くまで仕事で家を開けることが多くなり、家族で過ごす時間は極端に減ってしまった。それが今の北沢家の生い立ちだ。

 

「あっ……」

 

 気が付けば私はいつもとは違う駅で電車を降りていた。背後で閉まるドアの音で我に返る。ここは私がかつて利用していた駅なだけで、今利用している駅ではない。そのことに気が付いた時、電車は私を残して動き始めてしまっていた。

 セピア色に染まった幼い日のカケラを追い求めるのに夢中になりすぎた私が無意識に降りたのは、父がいた頃に住んでいたマンションの最寄駅だった。そしてこの駅は少し離れてはいたが天ヶ瀬さんが住んでいるマンションの最寄駅でもある。時刻表を見るとすぐに次の電車が来ることを確認できたが、今日は弟の迎えもなく、間違って降りてしまったのも何かの縁なのかなと、そう思って私は久しぶりにかつて住んでいた街を歩いて回ることにした。

 今となってはあの頃と随分風景が変わってしまったが、住んでいたマンションを筆頭に、要所要所ににかつての面影が今でも残されていた。改札口前の人気のパン屋、駅前の唐揚げ弁当屋から流れてくる食欲を刺激する匂い、長い時間太陽の光を浴び続けて色褪せた看板が立ち並ぶ商店街––––。

 タイムスリップしたかのような記憶の中の景色と変わらない風景を感慨深く味わいながら、私は赴くままに足を進める。駅から家まで父と一緒に手を繋いで帰ったことや、家族揃って商店街のお店に外食に行った日のこと、久しぶりに通る道で意外と沢山のことを私は忘れてしまっていたことに気が付いた。父が私たちの前からいなくなってから六年、もの凄い速さでこの街は変わり始めている。当時は沢山あった空き地には高層マンションが立ち並び、商店街のお店は殆どがシャッターを下ろしてしまっていて、退屈そうなタクシーが並んでいた駅前には随分とオシャレな店も増えた。

 ––––この街が変わっていくように私も大人になっていく過程で父との思い出を忘れていくのだろうか。

 そんな不安が頭を過って途端に寂しくなる。今でも既に私は父との大切な思い出を忘れてしまっているのではないかと、そんな身に覚えのない空虚感が今になって私の胸をかき乱して不安にさせるのだ。

 懐かしさと大切な思い出を忘れていることへの不安を抱きかかえたまま、一月の肌寒い風に流されるようにアテもなく歩き続け、私が辿り着いたのは高台にある公園だった。街を一望できる公園から街を見下す私の頬を、肌寒い北風が叩く。ここから眺める景色も、随分記憶の中の景色と変わってしまったように思えた。

 弟はもう覚えていないかもしれないようだが、この公園も父との思い出の場所の一つだ。綺麗な芝生の上で、休みの日に父と追いかけっこやフリスビーなどで遊んだことを私は昨日のことのように覚えてる。そんな父との記憶を少しでも良いから弟にも覚えておいてほしい、密かにそんな想いがあって私は時間を見つけては弟を連れ、父との思い出を胸に刻み直すようにここを訪れていた。

 

(そういえば、天ヶ瀬さんと初めて出会ったのもここだったなぁ)

 

 初めて想い人と出会った日のことを振り返る。あれはまだ日差しが強くて入道雲が空に居座っていた時期のことだった。天ヶ瀬さんのマンションからここまではそう遠くはなかったはずだから、もしかしたら彼も私と出会う前から頻繁にこの公園に訪れていたのかもしれない。もしかしたら今日も––––……。

 

(いや、さすがにないか)

 

 都合のいい少女漫画のような偶然が一瞬だけ頭にチラついて、冷めた私が「現実を見ろ」と一蹴した時だった。数十メートル先のベンチで何か考え事をするように虚空を眺める見覚えのある男の姿が目に入って、私の心臓が一気に高鳴った。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「冬馬、今回自分で作詞してみたらどうだ?」

 

 北斗からそう持ちかけられたのは、インディーズ活動を始めてから知り合った新人作曲家に新たなメロディーを貰った年の暮れの日のことだった。そろそろ新曲を出そうという話もチラホラ上がり始めていた時期に偶然メロディーを貰えたことや二月にライブを予定していたこともあり、タイミング的にも悪くなく、またこれも一つの新たな試みかなと思った俺は二つ返事で北斗の提案を受け入れることにした。

 作詞といえども既にメロディーは出来上がっているから、そのメロディーに合うような歌詞を考えて与えていくだけだ。作詞の経験は今まで一度もなかったが一から作るよりはずっと簡単だと、そう思って気楽な面持ちで作業に取り掛かったが、俺たちの曲にしては珍しいバラード調のメロディーということもあってか、思っていた以上に作詞作業は難航を極めた。頭に思い浮かぶのは世界中で擦り切れるほどに使い古された有り触れたフレーズばかり。安っぽい歌詞をノートに書き記す度に俺は破ってゴミ箱に捨て、新たなページと睨み合う。だけど結局新しいページにペンを走らせても、似たような聞き覚えるのあるフレーズばかりが並ぶだけで、俺は反復作業のようにノートを破り捨てていく。そんな足踏みをしばらく続けて、ゴミ箱にはぐしゃぐしゃに丸められたノートのカケラたちが積もっていくばかりだった。

 そんな不毛な時間を何日も続けていよいよ作詞に行き詰まったある日、俺は気分転換も兼ねて近所の公園に足を運ぶことにした。気持ちのいい夕暮れ時の風が吹く空の下、キャッチボールをする親子や仲良さげに並びながら背筋を伸ばして歩く老夫婦たちを横目に、俺は辺りを見渡せる位置のベンチに腰を下ろす。数えれるほどの雲たちを抱えた空は西側から柔らかいに朱色に染まり始めており、俺が住んでいる街も既に傾き始めたオレンジ色の太陽に照らされて影が伸び始めていた。

 こうしてベンチから俯瞰して自分が住む街を眺めるのが好きだった。ここから街を見下す度にこの街には沢山の人が住んでいて、きっとこの街に住む人それぞれに大切な日常があり、至る所で俺の知らない世界やドラマが沢山広がっているのだろうなと想像を膨らませる。更に視界を遠くに向ければ、高層マンションが立ち並ぶ東京の街並みも見えて、この街よりもっと多くの人が暮らす東京の街並みは俺の知っている世界が如何に狭い世界なのかを痛感させるかのように、遠目から俺を見つめているようだった。

 俺たちが探し求めている“何か”が、きっと今はまだ俺の知らない世界で眠っている。その根拠のない直感は長い時間俺の手に握りしめ続けられていた「俺はこの広大な空を跳べる」という高揚感と似ていて、何かにぶつかった時、悩みを抱えた時の俺を前向きにさせてくれる魔法のような感触なのだ。

 

「天ヶ瀬さん、こんなところで何してるんですか」

 

 暫く夕暮れ時の街を眺めていると、聞き覚えのある声に名前を呼ばれて俺は意識を戻した。声のした方を振り返ると、ベンチの側で北沢が俺をいつもの無に近い表情で見下ろしている。何だか北沢に会うのが随分久しぶりに思えて、彼女の姿がひどく懐かしく思えた。その懐かしさがゆっくりと姿を変えていき、胸の中に言葉では言い表せないような安心感を満たしていく。

 

「北沢……。お前こそこんなところで何してんだよ」

 

 そう言い終えて、俺は言葉の選択を誤ったことに気が付いた。最後に会ったのはクリスマスイブの日だ。たった数週間、その間に年を跨いだだけで随分昔のことのように思えてしまう。

 

「じゃなくて……、明けましておめでとう、だな」

「あっ、確かに。明けましておめでとうございます」

 

 新年の挨拶を口にし、お互いに礼儀正しく頭を下げあって、俺たちは目を合わせた。何も言わずとも、自然に笑みが溢れる。俺はベンチに腰を戻すと端にズレて、北沢の為のスペースを作った。

 

「今度新曲出すんだけど、作詞をすることになって。行き詰まって気分転換に来てたんだ」

「作詞? 天ヶ瀬さんがですか?」

 

 俺の隣に座った北沢は意外そうな顔をして俺を覗き込んだ。ふんわりとした風が優しく吹いて、北沢のスカートを揺らす。微かに汗の匂いが風に乗っ鼻へとて辿り着いてきて、北沢はレッスン帰りかなと勝手に想像していた。

 

「そう、まぁ今回が初めてだから全然上手くいってねぇんだけど。北沢は何してたんだ?」

「難しそうですよね、作詞って。私はただの散歩です。同じく気分転換で」

「散歩って、一人でか?」

「そうですけど?」

 

 あっさりと肯定されたが、それはそれでおかしな話だと思った。北沢の家はここから数駅離れたところにあって、劇場とも離れているこの駅で北沢がわざわざ降りる理由が思い付かない。弟を連れてならまだしも、今日に限っては一人だ。何かあったのかと思わず勘ぐってしまう。

 気が付けば北沢は目を細めながら、あてどもなく街を見下ろしていた。夕日に照らされて影が生まれている北沢の横顔を見つめる俺の背後で、平和そうな親子の笑い声が聞こえてくる。「母さんが待っているから早く帰ろう」と子供を促す父親の声が、チクリと俺の胸に引っ掛かった。両方の親がいるごく当たり前の家庭を無意識に異質だと思ってしまったことが、ただただ虚しくて哀しかった。

 

「……天ヶ瀬さんってずっとこの街に住んでいたんですか?」

「え?」

 

 北沢は穏やかな顔で遠くを見つめたまま、そう問いかけた。北沢にしては珍しい、脈絡のない質問に俺は戸惑いながらも首を横に振る。

 

「俺、父親が単身赴任になるまでは二十三区に住んでたんだ。だからこの街に来たのは一人暮らしを始めてからだな」

 

 俺だけが東京に残ることが決まり、その際に比較的家賃が安いエリアを探して辿り着いたのがこの街だった。だからこの街に引っ越してきてまだ一年とちょっとといったところだろうか。そう考えると、自分の住んでいる街なのにまだまだ知らないことの方が多いような気がしてくる。

 

「私、昔ここに住んでいたんです。父がいた頃だからもう六年ほど前の話ですけど」

「え、そうだったのか?」

「はい、あそこです」

 

 そう言って北沢は、俺の住むマンションとは正反対の位置にある繁華街近くにポツンと建つマンションを指差した。まだ築年数が新しそうなマンションは、夕日を浴びて黒い影に染まりながら佇んでいた。

 

「この公園も父とよく遊びに来てたんです。そのせいか、どうしても父がいなくなった今の時期になると無意識に足を運んじゃうんですよね」

「北沢……」

 

 かける言葉が見つからなくて、俺は北沢の綺麗な横顔を見つめることしか出来なかった。

 北沢の父の話は、先月のライブ後に電車で帰っていた時に少しだけ聴いたことがある。幼い頃、ちょうどクリスマスが過ぎた頃に父が唐突に家を出て行ってしまったのだと北沢は語ってくれた。彼女の身の上話を聴いて、俺は北沢は父親のことが本当に好きだったんだろうなと思ったし、なにより母を亡くした俺だからこそ、彼女が抱えている孤独感や胸にポッカリと穴が空くような喪失感も、痛いほど共感できて、その話を聴いた時はまるで自分のことのように胸が締め付けられるような想いに駆られた。幼少期に片方の親がいなくなってしまうのは子にとって大きなショックで、それがきっかけで塞ぎ込んだり、心に大きなダメージを負うことも少なくはない。子にとって親はそれほど大きな存在だということを、俺もまた嫌という程理解していたのだ。

 だけど北沢はそんな自分の不幸に浸るだけの弱い人間ではなかった。何処か彼女の知らない街で生きている父に自分の姿を届けたい一心でアイドルになり、その夢を叶えるためにストイックに自分を追い込み続けている。北沢を突き動かす理由を知って、初めて会った時から垣間見得ていた異様なまでの向上心の理由を、北沢の中に宿った強さの理由を、俺はようやく理解することができた気がした。

 北沢は父親に会いたがっている。前のようには戻れないと本人は話していたけれど、北沢は自分が北沢一家の拗れた関係を修復する架け橋となろうとしているのは明白だ。それはとても立派なことだと思うし、彼女を突き動かす強烈なモチベーションになっていることもわかる。だけど、その一方でそれは中学生の北沢が一人で背負いこむにはあまりにも大きすぎるモノではないのかという不安があった。身を削るような勢いで夢に向かって走り続ける北沢の姿を見ていると、いつか抱え込んでしまったモノの重さに耐え兼ねて何かがポッキリと折れてしまうのではないかと、そんな心配がつきまとっていたのだ。

 

「そういえば、北沢もうすぐ誕生日だよな」

 

 安い同情の言葉もかけたくはなかったし、かと言ってくだらない質問をして北沢の事情にズカズカと土足で立ち入るのも無粋な気がした俺は、ぎこちない言葉で話題を変えることしかできなかった。だけど北沢は不愉快そうな顔はせず、「え?」と不意をつかれたように訊き返すと、細めていた目を少しだけ見開いて驚いたような顔色を浮かべた。

 

「知ってたんですね、私の誕生日」

「あぁ、39 ProjectのHPに載ってたの見ちゃって」

 

 弁解するようにそう言うと、北沢は慌てて俯いてしまった。夕日に当てられてか、北沢の耳が赤く染まっている。もしかして照れ隠しをしているだけなのかもしれないと思った。北沢は俯いたまま、ボソボソと独り言のように口を開く。

 

「……母が天ヶ瀬さんにお礼を伝えたいと言ってました。りっくんのプレゼントの件で」

「あぁ、全然気にすんなって伝えてくれよ。俺だってもう使わないものだったから」

「それで、母が良かったら一度直接お礼を言いたいと言ってまして……。良かったら私の誕生日の日、家に来ませんか?」

「え?」

 

 北沢は残り少なくなった歯磨き粉を絞り出すように、声を震わせてそう口にした。俯いたままの北沢が耳だけではなく白かったはずの頬も赤いリンゴのように染まっている。

 

「いいの? 俺が行っても」

「はい。りっくんも会いたいってずっと言っていたので、皆喜ぶと思います」

「……そっか、分かった。ならお邪魔させてもらおうかな」

 

 母親に弟さん––––、あくまで北沢自身が来て欲しいと思っているワケではないんだな。そのことがちょっと胸の内で引っかかったが俺は北沢の誘いを承諾した。一月十八日、帰ったらスケジュール帳に忘れずに書き込まないとなと、頭にしっかりと刻み込む。それから暫く、北沢は俯いたままで俺たちは無言のまま公園のベンチで日が沈んでいく街をボンヤリと見下ろしていた。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 一月十七日。

 その日は朝からソワソワして終始心が落ち着かない一日だった。カレンダーで、新聞で、テレビで、スマートフォンで、何度もなんども今日の日付が間違っていないかを確認して、今日が十七日で間違いないと確認できる度に私の胸は大きく脈打ち、抑えきれないほどに興奮していくのが分かった。

 明日は私の誕生日。天ヶ瀬さんが家に来てくれることになって、母も仕事はあるが早めに帰ってきてくれるらしく、ささやかながらパーティーをすることになっていた。シアターでは誕生日はいつも通りの日だと言い切っていたのに、まさか今年はこんな誕生日になるとは想像もしていなかったなと夢心地の気分そのままで明日を想像してみる。もしかしたら明日は父がいなくなってから今日までで、一番楽しい一日になるかもしれない。そう思うと今から明日の夕方になるのが待ち遠しくて、時間が早く進んでくれれば良いのにと、我ながら遠足前日の子供のようだと呆れてしまう。だけど、そんな心の底から何かを楽しみにするなんて久しぶりに味わう感情が懐かしくて何処かこそばゆくて、思っているほどに嫌な感じはしなかった。

 そんな柄にもないワクワク感を抱えたまま私が風呂から上がって髪を乾かしている時のことだった。ドライヤーの音の中にスマートフォンが揺れるバイブの音と初期設定のままの着信音が聞こえてきて、私はドライヤーを止めた。鳴っているのは自分のではなく、クリスマスに私がプレゼントした母の綺麗なスマートフォンだ。こんな時間に電話がかかってくるのも珍しいなと思いつつ画面を覗き込むと、ディスプレイに表示されているのは父親の弟さんの名前。また珍しい人からの着信だなと意外に思いつつ、私はバイブだけを止めて風呂場にいる母の元へと向かった。

 

「お母さん、電話なってるよ。ナオキさんから」

「ナオキさん? なにかしら、後で掛け直すからそのまま置いてて」

「はーい」

 

 私はそう返事をして、リビングに戻った。

 ナオキさんは父がいなくなってからも私たちのことを気にかけてくれている気さくな人だ。昔からナオキさんとその奥さん、そしてまだ幼い子供を連れて金沢から遊びに来てくれるほどに北沢一家とは仲が良く、不思議なことに父が出て行った今でもその関係は変わることなく続いていた。父が居なくなったのにその弟一家と仲が良いのも妙は話だなと疑いつつも、かと言って敵視するわけでもなく、何かと私たち北沢一家のことを気にかけてくれるナオキさんのことを私も信頼していた。

 リビングに戻ってドライヤーへと手を伸ばした時、再び母のスマートフォンが揺れた。今度はLINEかメッセージの受信だったようで、通知音とバイブがそれぞれ一回鳴っただけだ。どうしてかこの時、私はものすごく嫌な胸騒ぎがした。直感というにはあまりにも頼りなくて、だけど間違いなく私の五感に何かが反応していて、激しく抵抗するように警告を発している。その胸騒ぎに駆られ、私はしてはいけないことだと分かっていながらも、母のスマートフォンの画面を覗き込んでしまった。

 

『直樹:今度兄の墓参りに東京へ行きます。その際に妻と北沢さんのお宅へ久しぶりに挨拶に伺おうと思っているのですが、予定はどんな感じですか?』

 

「……え、どういうこと」

 

 墓参り? 兄ってお父さんのこと?

 理解できないナオキさんの文面を見て、停電時のように私の思考回路は瞬く間に遮断されてしまった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



今日のミリマス生配信の時間帯に仕事が被ってしまったので怒りの初投稿です。


 

 一月十八日。北沢の誕生日当日、東京は大雪だった。

 朝起きるといつの間にか降り積もった雪が東京を雪に覆われた銀世界に変えており、テレビでは延々と交通機関の運転見合わせを報道している。窓の外を忍び足にように歩く僅かな人影を見ると、この一晩で随分と雪が積もったことを証明するかのような深い足跡が刻まれていた。それでもなお飽き足らないのか、東京を覆う灰色の空からはしんしんと雪が降り注いでおり、雪原に付けられた足音をかき消すかのように、新たな雪が積もっていく。空は寒波を緩めるつもりは毛頭なさそうだった。

 眠気が一瞬で飛んでいくような別世界を暫く窓から眺めていると、テレビの中のアナウンサーが「東京は今晩にかけて吹雪になるでしょう」と興奮気味に伝えている声が耳に届いた。どうにもここ数年で最大規模の大寒波になるようで、しきりに積雪や地吹雪による災害を注意する呼びかけをしている。これは少し厄介なことになったなと思いつつ、俺はエアコンの温度を少しだけ高くしてから部屋を離れた。

 顔を洗って部屋に戻り、一斉送信で届いていた休校の連絡には目もくれずにスマートフォンで北沢の家までのルートを確認してみる。ニュースでやっていた通り、電車は全線運転見合わせで再開の目処はなし、本数は少なかったが北沢の住む団地近くの病院まで走っているバスも本日は終日運休、残された交通機関としてタクシーは辛うじて走っているかもしれないが、この大雪と交通機関の麻痺具合じゃ予約どころか並んでても乗車できるか定かではないだろう。

 交通状況のアプリ閉じてLINEに切り替える。北沢に一度確認しようかと考えたが、俺はすぐにその考えを打ち消した。北沢は優しいから俺の身を案じて今日は来なくていいと言ってくれるだろうと咄嗟に思ったのだ。

 ––––せっかくの誕生日だしな。

 チラリとテーブルへと目をやる。テーブルには北沢にと用意していたプレゼントが自身の身の行方を不安視するかのように、寂しげに佇んでいた。

 

「……仕方ねぇ、今日は歩くか」

 

 覚悟を固めるように一度だけ大きく息を吐いて、立ち上がった。なるべく防水性の高い靴を履いて行って(いずれにせよビショビショになるだろうけど)、団地に着いたら靴下とともに替えの靴に履き替えれば良い。それはひどく手間のかかることではあったが、嫌な気は微塵もしなかった。誕生日という特別な日に北沢に会える––––、たったそれだけのことが妙に嬉しくて、しきりに降り積もる雪さえも綺麗だと思えるほどに、今は全く煩わしさを感じなかった。

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 家を出たのは待ち合わせの一時間半前だった。この時間は北沢の住んでいる団地まで歩いて四十五分と表示されたマップアプリから雪で足取りが重くなることを踏まえて逆算した時間だったが、雪が降っていなかったとしても俺は同じくらいの時間に家を出たのではないかと思う。待ち合わせの時間が近づくにつれ俺は北沢の喜ぶ顔を想像し、何気ない会話だけど温かみと居心地の良さを感じる北沢との会話を思い浮かべた。この時になって俺は初めて北沢は笑った顔が好きなんだなと気が付いた。ツンと張った頬が緩み、気の強そうな尖った目元でニコッと笑う北沢の顔は妙に魅力的で、普段のクールな表情も素敵だなとは思っていたがその何倍も俺の頭の中に強く印象的に残っていた。北沢のことを思い浮かべるたびに身体中は熱く火照って落ち着かなくなり、その度に気持ちを落ち着けようと時計を見て、あまり進んでいない時計の針を見てもどかしい気持ちになって––––。結局最後はジッとしていられずに家を飛び出してしまうものだから、もしかしたら俺は北沢よりずっと子供なのではないかと思えて、我ながら内心呆れかえってしまう。だけど俺よりも四つ下とは思えないほどに達観して落ち着きがあって、沢山のものを背負ってしまってもその重さに負けず、夢に向かって突き進む北沢は間違いなく俺よりも遥かに強い人間なのは間違いないと思っていた。

 マンションを降りて一歩を踏み出すと、その瞬間にスニーカーが雪に埋もれてじんわりと冷気が足先にまで侵食してきた。それからすこし遅れて、靴下がじわじわと濡れていくのが分かる。一番耐水性のありそうなスニーカーを選んだつもりだったが、結局どの靴を選んでも結果は同じだったのかもしれない。空は綺麗に蓋を閉められたように灰色一色に染まっていて、朝から変わらないペースで雪が舞い降りてきては東京の街を白色に染め上げている。俺は暫く桜のようにゆっくりと舞う雪を眺めた後、冬の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、一通りが全くなく足跡一つ見当たらない綺麗な雪原の上を歩き始めた。 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 北沢の団地が見えてきた頃、今朝の天気予報の通り空から降ってくる大粒の雪は綺麗な細氷へと姿を変えていた。いつの間にか強くなった横殴りの風が細氷を拐って、身が引き裂けるような寒さとともに俺の身体にぶつかっていく。何層にも着込んでいたのに直に冷たさが伝わってくるほど、元は細氷だった水分がコートの上から染み込んできていて、俺がマンションを出た時から握りしめていた傘はもう何の存在意義も持ち合わせていないほどに無力化されてしまっていた。

 北沢が住んでいる棟の入り口に避難するように走って向かい、ようやく雪と風を凌げる軒下に辿り着くと俺は途中から存在意味を失っていた傘を畳んでリュックを下ろした。雪が溶けて色が濃くなった黒いリュックのチャックを手袋の上から開けて、真っ先にタオルを取り出して身体中の水分を拭き取る。リュックのポケットに入れてたスマートフォンの着信音が聴こえてきたのは、身体中の水分を拭き取ったタオルがずっしりと重くなり始めてきた時のことだった。

 

「……ん、誰だこの番号」

 

 てっきり北沢からの着信だと思って画面を確認した俺だったが、ディスプレイに表示されているのは登録していない電話番号だった。手袋を外して直に冷気に晒され、感覚が失われつつある指先が通話ボタンを押すのを躊躇う。見覚えのない電話番号から電話がかかってきたことではなく、何かこの電話が良くない報せを告げる電話のような気がしていたのだ。

 

「……もしもし」

 

 いつまでも諦めない着信に負けて、俺は電話に出てしまった。電話越しから真っ先に聴こえてきたのは誰かが息を切らして走っている呼吸の音だった。たったそれだけのことで、何やら騒々しい雰囲気が伝わってくる。寒さのせいか、背筋が凍るような感覚が走った。

 

『あ、もしもし! あまとう!?」

「と、所か?」

 

 俺の名前を変わった呼び方で呼ぶ声で、電話主の正体がすぐに分かった。所は興奮したような口調で話していて、いつもの人懐っこさは微塵は感じられなかった。

 

『いきなり電話してごめんね! 北斗から電話番号聞いて』

「あ、あぁ。それでどうしたんだよ」

『ねぇ、志保が今どこにいるか知らない!?』

 

 所の声の後ろで車のクラクションが鳴った。こんな天気の悪い日に、所もまた外に出ているらしい。背中に迷い込んだ一滴の水滴がゆっくりと首から腰にかけて降下していくのが分かった。嫌な胸騒ぎが収まらない。心臓がバクバクと激しい音を立てて脈を打っていた。

 

「北沢なら家なんじゃねぇの? それよりどうしたんだよそんなに慌てて」

『志保がいなくなったの! 学校は休校なのに家にも居ないらしくて」

「はぁ!? 居なくなったって、どうして……」

『そんなのアタシたちも分かんないよぉ! 今朝劇場に来て、プロデューサーに唐突にアイドル辞めますって言って出て行ったきりみたいで……。どこにいるのか分かんないからみんなで探してんの!」

 

 今にも泣き出しそうな所の声を聴いて、心臓が止まりそうになった。

 ––––北沢が居なくなった? アイドルを辞める? 

 思考回路が所の話にまるで追い付かない。背後から細氷を乗せた風が誰もいない外の世界を一心不乱に走り抜けていく音が聴こえてきた。だけど不思議と寒さは感じなかった。

 

「ちょっと今北沢ん家の近くにいるから、家に行ってみて親に確認してみる!」

『……分かった。何か分かったらまた連絡して』

「あぁ、それじゃ!」

 

 最後はもうすすり泣きのような声で喋る所にそう告げて、俺は通話終了ボタンを押して階段を駆け上がった。雪の中を歩いてきて疲労を溜め込んだ足が疲れを訴えていたが、俺はその反応を無視して一段飛ばしで階段を走っていく。足の疲労も、乱れた呼吸も、全てを忘れて俺は北沢が住んでいる最上階を目指して無心で走り続けた。

 あっという間に辿り着いた最上階の右側のドアに『北沢』と書かれた表札が貼られていることを確認して、俺は肩で息をしながらインターフォンをグッと押す。ドアの向こうでインターフォンの音が鳴って、すぐにドアは開かれた。

 

「天ヶ瀬冬馬……くん?」

 

 ドアの先に立っていたのは北沢の弟だった。俺を見上げる不安げな表情で目も泣いた後のように赤く腫れている。きっと姿を消した姉のことを心配していたのだろう、幼い弟の不安に怯える顔を見ると、胸がギュッと締め付けられた。

 

「よっ! 久しぶりだな。元気にしてたか?」

 

 少しでも元気にさせようと明るく努めようとしたが、弟は笑わずに不安げな表情を浮かべたまま頷いただけだった。僅かに開いたドアの先から、誰かが歩いてくる足音が聴こえてきた。やがてその足音が止まると、誰かがドアを優しく押して更に開かれた。

 

「天ヶ瀬冬馬さん、ですよね」

 

 出てきたのは小綺麗な女性だった。華奢な身体つきと肩まで伸びた綺麗な黒髪、何より少しだけ吊り上がった気の強そうなタレ目が北沢にそっくりで、この女性が北沢の母だということにすぐ気がつくことができた。

 北沢の母は礼儀正しく頭を下げると、申し訳なさそうに優しい口調で俺に話かける。

 

「こんな雪の日にわざわざ来てくださったのに、ごめんなさい。ちょっと志保は今出掛けているようで……」

「さっき劇場の人から聴きました。北沢が居なくなったって」

 

 やんわりと追い返そうとした北沢の母の言葉を、俺は遮った。一瞬だけ驚いたように目の端を釣り上げたが、すぐに困ったように溜息をついて「知ってたんですね」と言葉を漏らす。俺は頷いたが北沢の母はそれ以上何も言いはしなかった。だけど無理に追い返そうとする意思も感じられない。

 

「……北沢のやつ、ずっと言ってました。トップアイドルになって何処かで生きている父に見つけて欲しいって。それなのにアイドル辞めるって、一体何があったんですか!?」

「志保がそんなことを……」

 

 今度は大きく目を見開いて、長い間俺の瞳の中を探るように見つめていた。まるで初めてその話を聴いたかのような反応を見て、北沢は父親に会いたいが為にアイドルになったことを母には伝えていなかったのだと察した。北沢の人間性的にも、母を気遣って自分たちを置いて出て行った父の話はあまりしたくなかったのかもしれない。

 無言のまま視線を交わらせる俺たちの下では、取り残された弟が俺と北沢の母を交互に見つめていた。その視線の動きに母も気付いていたのか、弟の頭に優しく手のひらを乗せると、困ったように笑いながら言った。

 

「……あなたにはちゃんとお話しした方がいいのかもしれませんね」

 

 弟の背中を部屋に押し戻すと、北沢の母はドアを九十度にまで開いて「どうぞ、入ってください」と、手招きをしながら口にする。俺は唾を飲み込んで浅く会釈をすると、濡れたままのスニーカーで北沢家の敷居を跨いだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



ミリシタ生配信とっても楽しかったので初投稿です(感想偏差値2)


 誕生日の前夜、私は生まれて初めて母と喧嘩をした。喧嘩といっても私が一方的に母を責め立てて罵っただけだったから、喧嘩という表現はあまり適切ではなかったかもしれない。

 風呂から上がってきた母にナオキさんのLINEについて問い詰めると、観念したようにあっさりと全てを白状した。父は出て行ったのではなく既に他界していたこと、そしてそのことを今まで私と弟に意図的に隠し続けてきたこと––––。何故母が父の死について真実を語らずに今日まで隠してきたのか、その理由を更に追求したが母は壊れたロボットのように「ごめんね」と泣きながら謝り続けるだけで、私が求めている理由について一切話してくれなかった。

 そんな母の態度が気に食わなかったのか、はたまた死んだ父の存在を今でも追い求めていた愚かな自分に腹が立ったのかは分からない。だけど気が付けば私は母に怒りの感情の全てをぶつけていた。自分でもゾッとするような酷い言葉を沢山口にしてしまった気がするが、それでも私の怒りは収まらなかった。何処かで生きている父に私の姿を見つけてもらう為、そして私が架け橋となって家族皆が揃って笑顔だったあの頃まで時計の針を戻すことができたらと願う一心でアイドルを始めたのに、その指針が実現不能な意味のないものだったのだと知らされ、どうすることもできない怒りと絶望の感情の矛先を母に向けることしかできなかったのだ。

 その日は結局一方的に私が母に暴言を吐き続けて、だけど母は言い訳も抵抗もせずただひたすらに謝るだけで、平行線を辿るだけの不毛なやり取りを続け、私は自室に引きこもった。そして翌日の早朝、私は僅かな荷物だけをカバンにつめて家を出た。当然行くアテなんて何もなかったけど、それでももうこの家にいるのは無理だと思ったのだ。

 団地の外は東京では珍しいほどの雪景色が広がっていた。そういえば今日から過去最大規模の寒波が訪れるってニュースで言ってたことを思い出し、一晩のうちに積み重なった雪の絨毯に足を踏み入れる。薄い生地のスニーカーから雪が染み込んできて、すぐに液体となって私の足を冷やしたが、寒さも冷たさも私は何も感じなかった。

 大雪が降り積もる中、私はまずシアターへと向かった。灰色の空から無限に落ちてくる大粒の雪に傘もささず、突如平日の午前中にシアターにやってきた私を見てプロデューサーは驚いたような顔をして迎えたが、もうその私に構う表情すらも煩わしくて仕方がなかった。

 

「志保、どうしたんだ朝から。学校は休みなのか?」

「今日限りでアイドルを辞めます。今までお世話になりました。それでは」

 

 顔を合わせてすぐ、単刀直入に要件だけを告げて踵を返したが、プロデューサーのゴツゴツした手のひらが伸びてきて、すぐに私の腕を捕まえる。

 

「や、辞めるって、いきなりどうしたんだよ。せめて理由を話してくれないと」

 

 プロデューサーは激しく動揺しているようだった。だけど対照的に私は驚くほどに冷静だった。シアターを抜けることに対しても、アイドルを辞めることに対しても、哀しいほど未練や情が全く感じられず、私の声はむしろ清々しいまでの言い草にさえも聞こえた。

 

「続ける理由がなくなったからです」

 

 もともとは何処かで生きている父の目に留まりたい一心で始めたアイドル活動。その父がこの世にいないことを知ってしまった以上、アイドルを続ける理由が私にはなかったし、今更本来の目的に取って代わるような大きな目標や夢が見つかるとも思えない。目的も夢も持たずに続けれるほどアイドルという世界は甘くないし、私自身もそんな中途半端なまま続けるくらいなら辞めた方がマシだと思っていた。劇場には半年もいなかったけれど、目標や夢を持って真剣に夢を叶えようと努力するメンバーたちの中に指針を失った私のような人間がいること自体、場違いなような気がしてたのだ。

 

「もう辞めるって決めたので。それでは」

 

 何かを口にしようとしたプロデューサーより先に、これは決定事項なのだと念を押して伝え、有無を言わせず腕を振りほどく。一瞬だけ怯んだプロデューサーだったが、すぐに我に返り再度私の腕を握った。もう離さまいと、二度目は先程より私の腕を握るプロデューサーの力は強まっていた。

 

「続ける理由がなくなったってどういうことだ。ちゃんと事情を話してくれ」

「嫌です。プロデューサーには関係のないことですから」

「志保!」

 

 ほぼ怒鳴り声のようなプロデューサーの声が、私たち二人だけしかいない劇場のエントランスに木霊する。思わずしまったという顔をするプロデューサーを冷めた目で私は見つめていた。

 プロデューサーに何も話したくない。私の胸の内を覗かれたくない。その一心で全てを拒絶する私が、昨晩の母の姿と重なって見えたのだ。私が軽蔑した母と、全く同じことを私はプロデューサーにしている。無意識に線をなぞるように嫌悪した母と同じ行動をしてしまっている自分が憎くて仕方がなくて、胸の内から行き場のない怒りが込み上げてきた。その怒りが身体中に行き渡ると次第に変異し始め、今度は自分の存在がとても醜い存在に思えてきて、すると途端に視界に映る世界の色が枯れていくように消え去っていくのが分かった。もう何もかもがどうでもよかった。父が生きていようが死んでいようが、プロデューサーが怒ろうが哀しもうが、弾力を失った私の胸には何も響かなかった。この時、既に私の胸からは大きな何かが抜け落ちてしまっていたのだと思う。

 大きく腕を振ってプロデューサーの手を強引に剥がす。そして最後にもう一度だけ軽蔑した眼差しでプロデューサーを見つめ、それを最後の挨拶にして今度こそ踵を返した。エントランスから走り去っていく私をプロデューサーは何度もなんども呼び止めようと名前を呼んでいるような気がしたが、その声は私の耳の中にまで辿り着くことはなかった。

 

 劇場を出てからのことは正直あまり記憶にない。

 唯一覚えているのは、霰と細氷が入り混じった吹雪のような雪に打たれながら人通りが全くない東京の街を一人で彷徨い、何時間か経過した頃に歩き疲れ、空腹を感じてファーストフードの店に入った時のことだ。朝から何も口にしていなくて、お腹と背中がくっつきそうなほどに空腹だったはずの胃は食べ物を一切受け付けず、私は従業員が暇そうに雑談をしている店内のトイレで、胃に入れようとしていた食べ物たちを全て嘔吐した。私自身でも自分の身体に何が起こっているのか分からず、だけど眼からはひっきりなしに涙が溢れてきて、私は日が暮れるまで一人、トイレで嗚咽し続けた。

 身体が食べ物を受け付けない理由も、涙が止まらない理由も、訳が分からないことだらけだったが、店を出た時はもう涙は止まっていた。それは心が落ち着いたとかこの分からないことだらけの感情を理解したとか、そんな前向きなものではなくて、ただ単純に私の中で何かが一線超えてしまっただけのような気がした。

 それから私は意味もなく街を彷徨い続け、気が付けば父との思い出が一番多く残っている高台の公園に流れ着いていた。日が暮れても尚、空から舞い降りてくる雪はその手を緩めず、私以外に誰もいない公園を健気に照らす街灯の上に降り積もっている。雪に埋もれた街灯の灯りが霞む蜃気楼のようにか弱く儚げな存在に見えて、真っ白な公園はまるで終焉を間近に控えた世界のようだなと思った。芝生広場とその周りを囲うトラックの境目も分からなくなるほど積もった雪は、いずれ街灯をも覆い尽くし、世界はこのまま雪に埋もれていってしまうのだ––––、そんな絵空事を私は一人街灯を見上げながら考える。私の存在自体も雪に覆われて消えて無くなってしまえればいいのと、そう強く願いながら。

 雪は私の望みを叶えるかのように、優しく私に降り積もっていった。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「あの、先日はありがとうございました。陸は勿論、志保も本当に嬉しかったみたいで」

 

 俺だけを綺麗に整理されたリビングに取り残し、弟の手を引いて別室へと向かっていった北沢の母が一人で帰ってくると、開口一番にそう告げて浅く頭を下げた。どうやらクリスマスプレゼントのことを指していたようで、俺もぎこちない口調で「いえ」とだけ返す。少しだけ緊張していたのか、無意識に腰を上げて椅子に座り直したタイミングで北沢の母に「コーヒーでよかったですか」と尋ねられた。俺は黙って首を縦に振った。

 狭い台所でケトルでお湯を沸かす北沢の母の顔をチラリと覗いてみる。北沢と同じようにピンと張った表情筋に曇りはなく、初めて会ったばかりだがきっとこの人はいつもこのような顔をしているのだなと直感的にそう思った。それは娘が家出をしたばかりとは思えないほど、落ち着いた顔つきだった。

 コーヒー豆の匂いが漂ってくると北沢の母が二つの珈琲カップを持って戻ってきた。俺は慌てて視線を逸らすと、着地点を探して周囲に泳がせる。ふと棚に飾られた写真立てが目に入って目を細めると、遠目に見える写真には四人ではなく三人の人影が映っているのが分かった。父親がいない三人だけの写真が、俺のような赤の他人が見てはいけない秘密のように思えてしまい、慌ててまた目を逸らした。

 

「……それで、天ヶ瀬さんは何処までご存知なのでしょうか」

 

 俺の向かいに腰を一直線に伸ばして座る北沢の母がそう切り出した。それが何についてなのか分かり兼ねたが、話の脈絡的に北沢一家のことなのだろうと推測をする。そういう微妙に言葉が足らないところも北沢と似ていて親子なのだなと思い、変に実感させられた。

 

「六年ほど前にお父さんが突然家を出ていったとだけ聴きました。あとはお母さんが仕事で忙しいから、合間を縫って家事を手伝っているとか、弟さんの迎えに行ってるとか」

「そうだったんですね。先ほど仰っていたことについては?」

「先ほど?」

「はい。志保がアイドルになった理由です」

「あぁ、そのことですか」

 

 やはり北沢は伝えていなかったようで、北沢の母は一番知りたかった話は、北沢がアイドルを志した理由だったらしい。ここまで来てしまった以上、言い逃れはできないのだと分かっていたが、今から話そうとしていることに対して俺は背徳感を抱いていた。きっと北沢は母に気遣って父の面影を探していることは伝えていなかったのだと思う。それを第三者の俺が暴露して良いことだとはどうしても思えなかった。

 俺の後ろで窓が揺れる音が聴こえてくる。細氷を乗せた風が窓を激しく叩いているようで、沈黙が漂うリビングに大きい音を轟かせていた。北沢の母はそんな外の音がまるで聴こえていないかのように、ただ俺の顔の一点だけをジッと見つめて、言葉を待ち続けている。

 その視線に負けて、俺は重い口を開いた。

 

「……さっきお伝えした通りです。アイドルとして有名になれば、何処かでお父さんが北沢の姿を見てくれるかもしれない。北沢は俺にそう話してくれました」

「そう……だったんですね。それは初耳でした。あの子、あまり私に本音を話してくれなかったから」

「北沢なりに気を遣ってたんだと思います。前みたいには戻れないって言ってましたけど、本当は家族揃って暮らしたいって思ってるみたいだったから」

「……だとしたら、私はきっととんでもない裏切り行為をあの子にしてしまったんでしょうね」

 

 達観した声で、だけどどこか悲壮感が滲んだ声で北沢の母はそう口にした。裏切り行為ですか、と言葉の意味を汲みきれなかった俺は咄嗟に訊き返す。北沢の母は大きく首を縦に振ると一呼吸置いて、ハッキリとした口調で罪を告白した。

 

「夫は六年前に既に他界しています。そのことを、私は志保と陸に隠し続けてきました」

「………………え?」

 

 思いも寄らない発言を聴き、電気ショックのような衝撃が身体中を走り回る。思考が全く追いつかなくて、自分でも混乱しているのが手に取るように分かった。

 北沢のお父さんが死んだ? それも六年前に?

 意味が分からなかった。だって北沢は父が何処かで生きてるって言ってたし、その父にもう一度会いたいが為に強い意志でトップアイドルを目指していたはずだ。それなのにその父が既に死んでいるって、どういうことなんだ。

 

「偶然昨晩、私のスマートフォンにきていた父の弟のLINEを見てしまい、それで気が付いたようです。志保は激しく憤慨し、私はただただ謝ることしかできませんでした。きっとそんな私に、志保はどうしようもないほどの憎悪を抱いて出て行ったのでしょう」

 

 唖然とする俺を取り残し、北沢の母は淡々と話を続けて行く。にわかに信じられない話ではあったが、北沢の母は父を亡くなった者として扱い、何の感情も見せないまま機械のように抑揚のない声色で語り続けていた。

 その姿が、北沢の父が亡くなっていた事実をジワジワと俺の胸に突きつけてくる。受け入れたくないと咄嗟に拒んでいた現実がものすごいスピードで迫ってきて、俺はそれをモヤモヤしたまま受け入れることしかできなかった。

 北沢の父は既に亡くなっていて、そのこと北沢本人は知らなかった。だとしたら北沢が今までやってきたことは何だったのだろうか。いくらトップアイドルになっても、全世界中の人が北沢志保の存在を認知したとしても、父が死んでしまっていたのなら会うことは絶対に叶わないではないか。そうだとも知らず、寿命を削り取る勢いで自分を追い込み続けた北沢の血の滲むような努力に一体何の価値があったのだろう。

 それは北沢のアイドル活動の全てを否定する、あまりにも一方的で理不尽すぎる現実だった。

 

「なんで、そんなことを……」

 

 北沢が家出をした理由も、アイドルを辞めると突然告げて姿を消したわけも、ようやく理解することができた。それが当然のことだと思えるほどに、現実は非情で酷すぎたのだ。

 北沢がどれだけの強い思いでアイドル活動を頑張っていたのか、あの小さな背中にどれだけのものが積み重なっていたのか––––。この人は親なのに、どうしてそのことに気が付いてあげれなかったのか。

 胸の内がグツグツとマグマのように沸騰し始めて、自然と北沢の母に対して怒りが込み上げてくる。北沢の母は一切表情を崩さず、冷静なまま怒りに打ち震える俺を見つめていた。

 

「陸が生まれてすぐのことです。夫の身体に癌が見つかって、もう長くは生きられないと分かったのは」

 

 込み上げてくる怒りを、どうにか唇を噛み締めて堪える俺にゆっくりとした口調で語り始めた。きっと俺は今敵意の含んだ眼差しで北沢の母を見ているのだろうけど、それでも北沢の母の表情はピクリともしない。鉄のように硬い表情をしたまま、話を続ける。

 

「それから夫とは何度も話し合いました。子供達にどう打ち明けるか、これからどうするべきかについて。だけど私たちはどれだけ話し合っても最良の選択を見つけることはできませんでした」

「……それで行き着いたのが、こんな酷い選択だったのかよ」

 

 あまりにも北沢が不憫すぎて、思わず本音が溢れてしまった。それでも北沢の母は「本当に酷い選択をしてしまったと思います」と言い訳のように口にしただけで、相変わらず動揺した様子は一切見せない。

 

「志保は昔から内気な子供でした。保育園に行っても他の子達との間に入って行けずいつも一人で遊んでいて、先生にもずっと警戒するように距離を取っていて……。だけど志保はお父さんっ子で、家ではとても父に甘えていたのを覚えています」

「だから、隠していたのか?」

「そうです。私も夫も、志保に父が亡くなったと知られるとどうなってしまうか––––。そのことを一番に懸念しました。最愛だった夫を失うことが志保にとってどれほど大きなショックになるのか、そのショックから立ち直れなかったり一生塞ぎ込んでしまうのではないかと。夫は死ぬ直前まで志保の未来を気にかけていました。だから志保が成人するまでは隠しておこうと。そう二人で決めてたんですけど……」

 

 そこまで言って、息を詰まらせるように言葉を区切った。

 微動だにしなかった北沢の母の表情が一気に崩れ去っていく。いつの間にか鉄のように硬かった表情は綻んで、気を緩めたように弱々しくなっていた。表情筋が緩んだ頬に一滴の水滴が、今朝から東京の街を白に染める雪のように、優しく、静かに伝っていくのを俺は見逃さなかった。

 

「––––結局、私たちのその気遣いが志保を余計に傷付けてしまったんですよね」

 

 その言葉を口にした時の北沢の母の表情を見て、俺は自身の誤ちに気が付き、胸が張り裂けそうになった。

 俺は大きな勘違いをしていた。北沢の母は残忍で冷徹な人間なんかじゃなくて、必死に自分たちが犯した罪を背負い、一人で向き合い続けてきた強い人間だったのだと。夫に先立たれ、独り残されても子供達を育て上げて、亡くなった父との約束を守り続けてきたこの六年間は孤独で苦しい時間だったに違いない。きっと北沢の母も早い段階で自分たちが選んでしまった選択が間違いだったことには気付いていたはずだ。そうだと分かっていながらも、北沢の未来を案じて嘘をつき続けることにどれだけの罪悪感を感じ続けていたことだろうか。

 きっとこの人だって誰よりも悲しかったはずなのに、北沢や弟の前で涙を見せることもせず、今日まで必死に悟られないように平静を取り繕って生きてきたのだと思う。父を失った悲しみを残された家族と共有することもできず、一人で全てを抱え込んで生きてきた北沢の母の六年間の苦労を思うと、どうしようもないほどに胸が痛んだ。

 北沢家の運命はあまりに複雑に絡み合い、そして縺れ合ってしまっている。悲しい哉、長い年月を経てしまった以上、ここまで絡み合った糸はどれだけ泣いても悔いても、解けないほどに入り組んでしまっているようだった。

 

 ––––似た者同士なだけじゃねぇか。北沢も、お母さんも。

 

 あまりに残酷すぎる運命に翻弄されてしまった北沢家を想うと、気の毒なんて言葉じゃ済まされないほどに猛烈な行き場のない悲しみが溢れてきた。

 北沢も母も亡くなった父も、誰も悪くなんかない。ただ皆それぞれが不器用すぎたが故に、こんな悲劇が起こってしまったのだ。父は間近に迫った自分の最期より家族のことを想い、母は自分の悲しみよりも残された子供達の未来を案じ、そして北沢は両親のために人生を賭けてアイドルを志した。お互いがお互いのことを想って、それぞれの形で大切な人に幸せになってほしい一心で行動してきたはずなのに、その想いが強すぎたが故に皆が不幸になってしまっている。

 

 どうして大切な人を誰よりも守りたいと願っていただけのはずなのに、こんな負の連鎖のように悲しいことが起こってしまうのだろう。

 どうしてこれだけの哀しみをそれぞれが一人で抱え込まなくちゃいけなかったのだろう。

 

 北沢家が歩んできた六年間は、俺の遥かに想像を絶する過酷な時間だった。その中でも大切な人を想い、凛とした強さで生きてきた母と北沢のあまりの報われなさが、ただただ哀しかった。

 

「……北沢に嘘を吐き続けたのは正解だとは思わない。けど、お母さんと亡くなった旦那さんの気持ちも分かります」

「お気遣い、ありがとうございます」

「気遣いなんかじゃなくて––––」

 

 違う。そんなんじゃねぇんだよ。

 思わず涙が溢れそうになって、俺は慌ててシャツの袖で目元を拭った。こんな言葉をかけたところで安い同情にしかならないことは分かっている。部外者の俺なんかが北沢家が歩んできた六年間の苦労を理解することなんてできないことだって。

 だけど、それでも俺は伝えたかった。伝えなければならないと思っていた。同じ経験をしてきた人間として、これ以上哀しみを一人で抱え込もうとする北沢の母を、放っておくことができなかったのだ。

 

「……俺も、幼い頃に母を癌で亡くしたんです。だから親が子を想う気持ちも、残された子の想いも、なんとなくでも分かっているつもりです」

 

 鼻を啜って、零れ落ちそうになる涙を必死に堪える。

 北沢の母が一度だけ肩をピクンと跳ねさせた。そして次の瞬間、口元に手のひらを被せてボロボロと涙を流し始めた。

 

 

 

 

 北沢家を出たのは、積もりに積もった雪が街灯に照らされて白く光っている頃だった。団地を降りて吹雪の中に身を投じると、最後に窓から灯りが溢れる北沢の住む部屋をもう一度だけ見上げた。横殴りの細氷の先、窓から溢れる暖かな灯りを見て、北沢家は優しくて暖かい家庭だったなと思った。母も子も、そして亡くなった父も、皆が自分のことより大切な家族のことを優先し想いやっていた。その想いの形は各々で違っていたし、その結果すれ違いが発生してこんな悲劇が起こってしまったけれど、そこに家族の絆と愛情が存在していたのは間違いなかった。

 だからこそ、北沢を絶対に連れ戻さないといけない。亡くなった父も、その哀しみを一心で背負ってきた母のためにも、その両親を誰よりも愛していたであろう北沢のためにも。それぞれの優しい想いをこんな形で終わらせてしまうのはあまりにも憐憫すぎる。例え父がいた頃の生活には戻れないにしても、それでも北沢一家には人並みの––––、いや、どの家庭よりも幸せになってほしいと俺は強く願っていた。これだけ苦労と哀しみを抱えて、それでも自分のことよりも大切な誰かを思いやる強さを持った優しい人たちだからこそ、誰よりも幸せにならなければいけないのだと。

 北沢家の優しい温もりが溢れる窓を遠目に、ポケットに手を突っ込むと凍える指先が薄い紙のようなものに触れた。北沢の母が別れ際にもどかしい想いとともに、「何かあったらすぐに連絡をください」と一言添えて、俺に託してくれた北沢の母の電話番号が書かれたメモだった。

 きっと俺の何倍も北沢のことを心配していたであろう北沢の母は最後の最後まで自分自身もこの大雪の中、外に出て北沢を探しに行こうとしていた。だけどそれだと弟が家に一人になってしまう上に、万が一北沢が帰ってくるようなことがあったら入れ違いになってしまう可能性がある。そう俺に説得され、分かったような顔をしながらも、北沢の母は最後まで家で待つことしかできない自分を責めるように、俺を見送り続けてくれた。

 その視線を思い出し、メモがしっかりポケットに入っていることを指先で確認すると、俺はフードを被って雪原の中を走り出す。北沢の行く先は検討がついていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



アイマスの闇落ち回はもはや伝統芸で切っても切れないモノだから、仕方ないよね。
何故か今日休みになって週末仕事になったので怒りの初投稿です。



 どのくらいの時間、私は雪に埋もれていたのだろうか。まだ数分のことのようにも思えるし、もう何年も前からここで世界の終焉を待っているような気もする。だけどいつまで経っても世界の終焉は訪れず、いつの間にか荒々しかった吹雪もおさまっていて、今は静かにゆったりと、だけど着実にこの街を覆い尽くそうとする雪が降り注いでいた。

 ふと自分の腕を見てみると、自分が着ていたはずのコートが何色だったかさえ分からなくなってしまうほどに真っ白に染まっていることに気が付いた。とうの昔に神経が行き届かなくなった指先を突き刺すように立てて、腕に触れてみる。すると人差し指の第一関節の辺りまですっぽりと雪に埋もれてしまって、その積もった雪だけが私がここに流れ着いてから長い時間が経過していたことを証明していた。

 

 ––––私のしてきたことって、一体何だったんだろう。

 

 そんな漠然とした疑問が、ふと浮かび上がってくる。

 家族全員が幸せに暮らせていたあの頃に戻りたくて、きっとそれは私だけじゃなく母も陸も願っていることだと思い込んで、私はアイドルになった。アイドルとして活躍すれば何かと制限の多い中学生の私でも家族に経済的支援をすることができるし、何処かでアイドルになった私を見た父が戻ってきてくれるかもしれないと、その一心で。だけどそれは私が本当にしたかったことではなく、「私が夢を叶えなければ」、「私が六年前から止まっている北沢一家の時計の針を動かさなければ」、そんな風な半ば脅迫観念のような感情だけが私をひたむきに突き動かしていたことに気が付いた。要するに私は特別アイドルをやりたかったわけでもなく、夢を叶える手段の一つとして、もしくは一種の使命感や義務感でアイドルをやっていただけなのだ。

 だけど私の走る道を照らしていたはずの標識が消え去り、今まで積み重ねてきた時間と労力が全て無価値なものだったと判明した今、私がアイドルを続ける理由は失くなってしまった。すると途端に北沢志保という人間から多くのものが抜け落ちてしまい、その結果アイドルではなくなった、夢を失った己自身には恐ろしいほどに何も残らなかったことに気が付いたのだ。

 目標も夢も失った今の私は、これから何処に向かって歩いていけばいいのか。何に生きる意味を見出せばいいのか––––。次から次へと止めどなく雪が落ちてくる灰色の空を真っ白な画用紙に例えてみて、私のこれからの未来を描いてみる。暫くあれこれと考えながら空を睨んでいたが、灰色の紙の上には線一つ描かれることはなかった。

 

「……悲しいくらい、なんにもない」

 

 自分の未来が全く想像できない。

 どんな風に生きていくのか、どんな大人になるのか、一欠片もイメージが湧かない。

 思わず自虐交じりに笑ってしまった。私は一体何て価値のない人間なのだろうと。

 この時になって初めて北沢志保という人間が中身を持たない空っぽな人間だったのだと思い知らされた。家族のため、父に会うため、その一心で今日まで走り続けてきたが、結局は誰かの人生に自分を投影していただけで、実際は自分のやりたいこと、叶えたい夢なんて何一つ持ち合わせていなかったのだと。

 幾億幾千の雪が降り注ぐ中、私たちがまだ幸せに暮らしていた頃に住んでいたマンションの窓から溢れる灯りが一際輝いて見える。その灯りの先に、私は幻覚を見た。

 私たちがかつて暮らしていた部屋で、名前も知らない家族たちが楽しげに食卓を囲んでいる。その様子を、私は俯瞰して見つめていた。

 温かい母の手料理、仕事から帰ってきたばかりのスーツ姿の父、楽しげに今日一日の出来事を両親に話す子供たち––––。外はこれほどまでの雪に覆われているというのに、このマンションの一室だけは一切冷気を受け付けていないような、それこそ遠く離れた別世界のように暖かな温もりに溢れていた。

 その優しい幻覚がふと消えて、情景が切り替わる。次に私が見たのは、狭いはずの居間がやけに広く感じられる団地の一室で、一人寂しく冷たい料理を食べる自分の姿だった。母も父もいない、誰もいない居間で一人寂しく食事をとる私の顔は、悲しいほどやつれていて、憔悴しきっているように見える。私だけの居間の空気は大雪に覆われた外の世界より遥かに冷たくて、それは先ほどまで私が見ていた幻覚とは相反する孤独な世界だった。

 いつの間にか幻覚は消え去り、私の意識は高台の公園に戻ってきていた。私の腕には先ほどより倍近い量の雪が積み重なっており、その量を確認しようとしたが私の指はとうの昔に機能停止していたのか、神経が行き届かずにピクリとも動かない。スローモーションのように降り注いでは私を埋めようとする雪に囲まれた私の身体には、もう感覚が殆ど残されていないことに気が付いた。

 

 ––––このまま私は雪に埋もれて凍死するのだろうか。

 

 身体の芯の部分に僅かに残された意識で、そうだったらいいなと思った。生き続けたところで先ほど見た幻覚のような優しい世界に私は絶対に辿り着くことができない。生きている意味も、私が存在する価値もない、なら生きていても死んでいても同じことではないだろうか。

 世界の終焉を待つ高台の公園で一人、辛うじて残った意識を振り絞って天に祈る。どうかこのまま、雪に埋もれて私という存在が消え去ってしまうようにと。

 

 誰もいなかったはずのこの世界を踏み荒らすような騒々しい足音が聞こえてきたのは、私がそう願った直後のことだった。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 根拠のない直感だったが、北沢の行く宛は予想が付いていた。

 数時間前の夕暮れ時にゆっくりと歩いた道を、そのまんま逆走するかのように全速力で駆けていく。相変わらず雪は降り続いていたが、そんなものには目もくれず、お構いなしに走り続けた。身体中から出るアドレナリンが、寒いだとか冷たいなどといった感情を一切排除しているかのようで、俺の意識の中にあったのは、北沢の姿だけだった。

 一面白に染まった誰もいない真っ暗な東京の街を走る間、何度も脳裏に浮かんだ北沢の姿は一人きりで、地平線の先までずっと続く道を途方もなく歩き続ける姿だった。北沢はあの小さな背中に数え切れないほどのモノを背負い込んで、今日までとてつもなく果てしない旅路を歩いてきた。自分の母にさえも打ち明けなかった想いを胸に秘め、家族の幸せだけを願い歩き続けたその旅路は、どれほど過酷で壮絶な道のりだっただろうかと思う。そして、背負ってしまったモノの重さに潰れることもなく、今日まで歩き続けた彼女は、本当に優しくて強い人間だったのだとも。

 きっと俺なんかじゃ北沢が歩んできた道のりも、抱え込んだ多くのモノの重さも、彼女の苦しみの一つさえも理解することなんてできない。だけどそれでも俺は北沢を支えてやりたいと思った。少しでも彼女の背中に積み重なったモノを肩代わりして、彼女が長い旅路に疲れたら一緒に足を止めて休んで、そしてまた果てしない道をいつまでも北沢の隣で一緒に歩き続けたいと。

 そう無意識に思った時、俺は初めて自分の気持ちに気が付いた。あの不器用にしか生きれなくて、でも本当は誰よりも優しくて胸の内には熱い情熱を灯している、そんな北沢志保という人間に心底惚れ込んでいたのだと。好きとか気になるとか、そういった段階をいつの間にか超越して、俺は北沢志保という存在を愛していたのだ。

 だからこそ、俺自身の手で北沢を守りたいと強く願った。喫茶店で話したあの日、北沢が俺が手に握りしめていた錯覚に近い感覚を確信に変えてくれたように、俺も少しでもいいから彼女の力になりたい。その想いだけが、行き道の上を走る俺の足を突き動かす。雪が着込んだコートの上からどれだけ染みこもうが、とてつもない寒さにどれだけ身体の感覚を奪われようが、俺は走り続けた。きっと北沢が味わった辛さは俺が今感じている辛さの比にならないほどのモノなのだと、そんな気がしていたからだ。

 

 一時間半もかけて歩いた道をその半分足らずの時間で走破した俺が辿り着いたのは、亡くなった北沢の父との思い出の場所であり、俺と北沢が初めて出会った高台の公園だった。

 疲れた足で急斜面のぬかるんだ階段を踏み外さないように、だけど一秒でも早く駆け上がれるように俺は一歩一歩確実に進んでいく。いくつかの階段を超えた先で視界が開けると、そこにはまるで雪国ような真っ白な世界が広がっていた。人っ子一人いない真っ白な世界を一定の間隔を開けて佇む街灯が照らしており、その灯りの中には今もなお空から落ち続けてくる雪が浮かび上がっている。時間の流れが止まっているかのような静寂に包まれた公園にゆったりとした風が吹き抜けた。その風に乗って雪に埋もれた草木と、積もった雪の入り混じって匂いが、鼻の奥に入り込んでくる。耳たぶを叩く風は冷たかったが、不思議と俺が感じた匂いは暖かい。

 都会の騒音とは無縁の、ゆっくりと時間が流れる幻想的なこの世界の端に、ポツンと取り残されたようにベンチに座る人影が見えた。俺は乱れた呼吸を整えながら、人影の元へと向かった。

 

「北沢?」

 

 俺の声が半信半疑だったのは、雪だるまのように雪を被ったこの人影が北沢だという確証が持てなかったからだ。積もっている雪を気にもとめず、地蔵のように虚空を眺めていた人影の首が長い金縛りから解かれたように、ゆっくりと動いた。その拍子に雪崩のような音を立てて頭上に積もっていた雪が落ちていく。雪の下からは水分を含んだ黒髪が顔を出した。

 

「……天ヶ瀬さん?」

 

 俺の名前を呼ぶ北沢の声は、そよ風にもかき消されてしまいそうなほど弱々しい声だった。俺を見上げる北沢の顔は憔悴しきっている上に真っ白で、生気が全く感じられない。俺はその顔色に見覚えがあった。幼い頃、病院のベッドの上で最後に見た生前の母の顔色とソックリだったのだ。

 嫌な胸騒ぎがする。何か北沢が良くないことを考えていたのではないかと、そんな予感が脳裏をかすめた。

 

「何してんだよ、こんなところで。風邪引くぞ」

「そういう天ヶ瀬さんこそ何してるんですか」

 

 質問をそのまんま訊き返されて、俺は素直に告白した。

 

「……さっき北沢ん家に行ってきたんだ。そこで全部聴いたぜ。お父さんのことも。あとアイドルを辞めるってことも」

「そうですか」

 

 まるで他人事のように北沢は返すと、再び視線を虚空に戻す。北沢の次の言葉を待っている間にその視線の先を追うと、北沢は虚空をただボンヤリと眺めていたわけではなかったことに気が付いた。

 北沢の虚ろな瞳は、ここから遠く離れた位置にあるマンションを捉えていた。そのマンションは、以前ここで北沢と話をした時に、北沢一家がまだ四人で暮らしていた頃に住んでいたのだと教えてくれたマンションだった。

 

「天ヶ瀬さん」

 

 遠い世界を眺める眼差しでマンションを瞳に映したまま、北沢がボソリと呟いた。

 

「……私はこれから、どうやって生きていけばいいのでしょうか」

 

 そう問われ、俺の胸は張り裂けそうなほどに一杯になった。

 アイドルを辞めるとか辞めないとか、母親を許すとか許さないとか、もうそんな次元の話ではなくなってしまっていた。北沢の人生の中で目標や生き甲斐などといった要素の大多数を父親が占めていて、アイドルになったことも、些細な日常も、きっと全てが父親に直結していたのだ。その父親が他界していたことを知り、北沢の日常の殆どが無価値なモノへと成り下がってしまった今、生きる糧と言っても過言ではなかった父の存在に代わる目標が安易に見つかるはずもなくて、北沢は路頭に迷ってしまっていた。

 新たな指針なんて見つかるはずがないと思った。人生を賭けてまで手に入れたい、叶えたいと思うほどの夢が、そう易々と次から次に湧いて出てくるわけなんてないのだから。大半の人が大きな夢を持つことなく年を取っていくという話を聞いたことがある。理由やキッカケはどうであれ、人生で一つでも夢中になれる“何か”が見つかればそれだけで幸せなのだとも。そんなことを言われている夢のない今の時代に、その二度目があるとは到底思えなかった。

 北沢の頬に一滴の煌めきが伝う。それは涙ではない、彼女の上に降り積もった雪の一部が溶けて水滴となっただけだった。北沢は一滴も涙を流していなかった。泣くという感情を遥か昔に通り過ぎてしまったかのように、ただただ疲れ果てた瞳で、かつての自分たちが住んでいたマンションを見つめ続けていた。

 

「私が今までやってきたことって、結局全部無駄だったんですよね」

 

 母親と同じ、淡々とした口調で北沢は語り続ける。

 俺は何も言葉をかけることができず、北沢の語り口調を聴くことに徹することしかできなかった。彼女の言う通り、死んでしまった父に会いたいために始めたアイドル活動に意味があったのかと問われても、同情以外の意味で「あった」とは言えなかったからだ。

 

「……こんな想いをするくらいなら、アイドルなんてならなきゃよかった」

 

 今までの淡々とした口調ではなく、今度は心底後悔しているような声色だった。その言葉が鋭い凶器となって、俺の喉の奥に突き刺さった。グサリと突き刺さった喉の奥から北沢が抱えている哀しみや絶望が、気管を通り抜けてゆっくりと肺に落ちてくる。あっという間に俺の肺の中に広がっていった底知れぬ絶望の闇の深さに、思わずゾッとして鳥肌が立った。

 

 ––––北沢は、こんな重いモノをずっと抱え込んでいたのか。

 

 初めて知った北沢の抱えていた闇の想像を絶する重さに、無性に目頭が熱が帯びていくのを感じた。

 こんなとてつもない闇に押し潰されずに、真っ暗な闇の中でも僅かな希望を見出して今日までずっと走ってきたのに、結果として何一つ報われなかった。僅かな光も、その光を信じて費やした努力も時間も、全てがあっという間に闇に飲み込まれてしまい、跡形もなく消え去ってしまった。

 

 ––––こんな酷な話があっていいのかよ。

 

 無情で非情な、あまりにも残酷すぎた現実。

 だけど俺は北沢に何も言葉をかけてやることができず、酷すぎる現実を恨むことしかできなかった。

 

「天ヶ瀬さん、今まで色々とありがとうございました」

「…………北沢?」

 

 北沢の座るベンチの隣で寄り添う街灯の灯りが、北沢の綺麗な鼻に影を作っている。その影が、やけに深い漆黒の闇のように映った。

 北沢が俺の方を向いた。生気のない視線が、ボンヤリと俺の顔を見つめている。ずっと胸の片隅にあった嫌な予感が、確信に変わろうとしていた。北沢の表情が妙に晴れ晴れとしていて、何かを覚悟したような顔つきをしていたのだ。

 

「どういう意味だよ、それ」

 

 心臓が高鳴っている。北沢は清々しい表情で笑っていた。

 

「私に、もう構わないでください。独りきりにさせてほしんです」

「……独りになって、何をする気だ」

 

 寒さなんかよりもっと嫌な鳥肌が立った。なんとなくではあったが、北沢の考えが読めてしまった。だけどその推測を俺の心が全力で拒絶している。その言葉を耳にしたくないと、心が叫んでいた。

 

「もう、疲れたんです」

 

 大きな溜息を吐いて、北沢は虚ろな眼で瞬きをした。

 そして、

 

 ––––このまま死なせてください。

 

 聴きたくなかった言葉が北沢の口から白い息と共に溢れ出た瞬間、俺の身体が反射的に動いた。背負っていたリュックを真っ白な雪原の上に放って、二メートルもない距離にいた北沢に手を伸ばす。たった二メートル弱の距離が、凄まじく長い距離に感じられた。

 

「志保!!」

 

 長く感じられた距離を飛び越えた俺は、気が付けば雪を一身に被った北沢の身体を捕まえていた。

 北沢のことを初めて名前で呼んだことも、想像よりも遥かに華奢で小さかった身体に初めて触れたことも忘れ、俺はひたすらにあまりに多くのモノを背負い過ぎてしまった北沢の背中を、何処か遠くに行ってしまわないように強く抱きしめていた。小さな北沢の身体の芯が微かに振動している。その震えが寒さのせいなのか、今まで一人で背負ってきたモノの重さに耐えかねていたからなのか、定かではなかったが俺はどちらでもあるような気がした。

 こんな小さな身体で大切な人たちの幸せを願うあまり、どれだけの自分を犠牲にしてきたのだろうか。北沢が抱え続けてきたモノの重さが、小刻みに震える彼女の小さな身体から全身に伝わってくる。

 思わず涙ぐんで、俺は鼻を啜った。初めて実感した北沢が背負い続けてきたモノは、明らかに中学二年生の女の子が一人で背負い切れる規模のモノではなかったのだ。

 

「家に帰りたくないんだったら俺ん家にいろよ。もう頑張らなくていいから、これ以上頑張る必要なんか何もねぇんだから。だからそんなこと二度と言うなよ」

 

 自分の声が震えていて、俺はいつの間にか泣いていたことに気が付いた。だけど涙を拭うことができなかった。今北沢を抱きしめている手を離したら最後、北沢が何処か遠くに行ってしまうような気がしていたからだ。

 俺の首元に、ひんやりとした感触が伝ってくる。その次の瞬間、俺の首元に顔を埋めた北沢が声を上げて泣き始めた。あれほどまでに冷静で感情を露わにしなかった北沢が、幼い子供のように感情を爆発させて泣き叫んでいる。次から次に首元に北沢の涙が溢れてきて、まるでずっと水を溜め込んでいた堰が決壊したかのように、止めどなく涙が俺の首元へと流れてきた。

 俺は北沢がこの六年間で溜め込んでいた涙を、ただただひたすらに受け止めることしかできなかった。抱き合ったまま大声をあげて泣く俺たちを包み込むように、雪は非情なまでの冷気をまとって降り続けていた。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 その後、俺は北沢を家に連れて帰った。頭の整理ができるまでずっと家にいて良いし、遠慮はしないでほしいと、そう申し出ると北沢は本当に行くアテがなかったのか、憔悴しきった顔で静かに首を縦に振った。

 家に帰り着き、北沢に大きなバスタオルを渡して無理やり風呂場に押し込むと、俺は真っ先に北沢の母へと連絡を入れる。遅い時間だったが、呼び出し音の後にすぐに電話に出た北沢の母に事情を説明し、暫く俺の家に居させてもいいかと訊いてみると、北沢の母は二つ返事で了承してくれた。だがその代わりに北沢が俺の家にいることで負担がかかる生活費を払わせて欲しいと申し出てきて、さすがに気が引けて断ったが、妙に頑固なところは娘にそっくりだったようで、北沢の母は最後まで「それはできません」の一点張りで俺の断りを受け入れてくれなかった。結局最後は北沢が風呂から上がってくる音が聞こえたのもあり、俺は折れる形で北沢の母の提案をうやむやなまま承諾してしまった。

 

 その日、俺たちは小さなシングルベッドで二人肩を並べて眠った。隣から北沢の匂いが漂ってきて、妙にドキドキして眠気が遠退いた時間もあったが、大雪の中走り回った疲れもあってか俺は北沢が眠りにつく前にいつの間にか深い眠りに落ちていってしまった。

 深い眠りの中で、久しぶりに母の夢を見た。

 夢の内容は覚えていない。夜中に目が覚めた瞬間、頭の中から弾き出されてしまうかのように、夢の内容がスッポリと抜け落ちていってしまった。だけど、懐かしい記憶でとても暖かな夢だったことだけは微かに覚えていた。

 ふと窓の外を見ると、灰色の空の合間からは三日月がひょっこりと顔を覗かせていて、東京の闇を優しく照らしていた。その月明かりに照らされた北沢の寝顔をチラリと確認してみる。俺が眠った後も暫く一人で泣いていたのか、俺の腕を抱き締めながら小さな吐息を立てて眠る北沢の目元には、うっすらと乾いた涙の跡が残っていた。

 

 

 

『ねぇ、なんで僕たちがジュピターって名付けられたか知ってる?』

 

 ふと北沢の寝顔を見ていると、いつの日かの翔太の言葉が記憶の底から湧き上がってきた。あれはまだ俺たちジュピターが結成されて間もない頃、翔太が何故黒井のおっさんが俺たちにジュピターと名付けたのか、その理由を訊いてきたという内容の話だったはずだ。

 

『木星って太陽系の中でも特に大きな惑星で、地球の三百倍の重力があるんだって。だから三百倍の力で人を惹きつけれるようにって想いが込められてるらしいよ』

 

 初めて知ったユニット名の由来に関心する俺の隣で、北斗が黒井のおっさんの話に言葉を付け足す。

 

『それに加えて、重力が強すぎる木星が太陽系外から飛来してくる小さな彗星たちを引きつけてくれるおかげで、この地球へ衝突することを防いでくれているんだよ。もしかしたら翔太の聞いた理由だけではなく、大切なエンジェルちゃんたちを守れるくらい強い存在になれって、意味合いもあるのかもね』

 

 二人の話を聴き、俺はジュピターの明確な活動目標を定めた。

 

『だったら、俺らはジュピターの名に相応しいアイドルになろうぜ。沢山の人を惹き付けて、笑顔を守れるようなアイドルに!』

 

 きっと俺たちならジュピターの名に恥じないアイドルになれる。数え切れないほどのカタチない哀しみや涙をさらって、満点の星空を多くのファンに届けれるような、そんな高貴なアイドルに。

 ––––そのはずだったのに……。

 

 

 

 「…………何がジュピターだよ。何がアイドルだよ」

 

 いつの間にか北沢に向けた視界が潤んでいて、俺の眼からはポロポロと涙が溢れていた。

 アイドルとは時に誰かを勇気付けたり、時に不特定多数の人間に元気を与える存在だ。他のアイドルたちがどのようなアイドル像を描いているのかは分からないが、少なくとも俺たちはそういったアイドル像を根底に持って、それこそ黒井のおっさんが俺たちに与えてくれたジュピターの名に相応しい存在になれるように今まで心掛けていたつもりだった。

 それなのに、俺はこんな身近にいる大切な存在さえも助けることすらできない。励ますことも、勇気付けることも、守ることさえもできず、自身の無力さを誤魔化すように抱き締めることしかできなかった非力な自分が虚しくて、腹立たしくて、もどかしくて、悔しくて仕方がなかった。

 俺は北沢を起こさないようにと必死に唇を噛み締めながら、溢れてくる涙を一度だけ拭って窓の外の月を見上げる。どうすれば俺は北沢を救うことができるのか、その答えを求めるように見上げた月は、「自分自身でその方法を見つけろ」と言わんばかりに、すぐに灰色の分厚い雲に隠れてしまった。

 朝が来るまで俺は答えを見つけられないまま、一人で悔し涙を流し続けていた。




NEXT → Episode Ⅶ : 俺と私のPlanet scape


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EpisodeⅦ:俺と私のPlanet scape

沢山の評価、お気に入り、誤字脱字報告、ありがサンキュー!
貴重な高評価をこんな作品に付けて、誇らしくないの?

いよいよここからPlane Scape編突入で今作も残り2話。
父を失いシアターを辞めた志保と961プロを抜けてから足踏みを続けてきたジュピターの今後、その二人の関係性、直近2話と同じくらい詰め込みますが、綺麗に終わらせれたらと思っています。
終わりに近づくにつれ多くの反省点が浮き彫りになってきたと同時に、まだまだこの二人の話を続けたいという寂しい気持ちも芽生えてきたので初投稿です。



 懐かしい夢を見た。

 それはずっとずっと遠い世界の夢。夢の中は、心の底に潜んでいた純粋に触れるような暖かい優しさで溢れていた。

 幼い頃、かつて住んでいたマンションの一室。私たち家族四人は小さなテーブルに置かれた色とりどりの料理たちを囲んで座っている。私も父も、母も陸も、皆が何をするわけでもないのに自然と笑みを溢していた。それはどこの家庭にもある至って平凡な光景のはずだったが、北沢家では非日常的な光景だった。

 

「志保はもうすぐ高校生か」

 

 私の目の前に座る父が、そう口にしながら感心したような眼差しで私をマジマジと見る。妙に照れ臭くなって、私は何も言わずにはにかむことしかできなかった。

 

「陸も来年から小学生だもんね」

 

 優しい声で、今度は母が陸にも話を振る。隣に座っている陸は、白ご飯を口一杯に頬張りながら「うん!」と私とは対照的に元気な声で答えた。もうすぐ始まる新たな環境での生活に不安は一切なく、心底楽しみにしていて心躍らせるような、そんなはつらつとした声に聞こえた。

 

「志保は高校生になったら何かやりたいことはないのか? 部活でも習い事でも」

「うーん……」

 

 父の問いに思わず言葉を詰まらせる。

 暫くの沈黙の後、私は手に持っていた箸を茶碗の上に添えるように置いた。もうすぐ高校生になる私なんかがこんな夢を語るなんて––––、といった後ろ向きな想いがあったが、その反面不思議と口に出せば本当にその夢が実現しそうな、そんな小さな子供のように未来を強く信じる無邪気さが私の中にはあったのだ。

 

「……私、アイドルやってみたい」

「あいどる?」

 

 素っ頓狂な声で目を丸くした母が訊き返した。想像以上に驚いた表情の母を見ると耳たぶの端まで熱くなって、私は咄嗟に顔を隠すように俯いたまま頷く。

 

「志保がアイドルか……。いいじゃないか。絶対立派なアイドルになれるぞ」

 

 驚く母とは裏腹に父は一切驚いた様子も見せず、大きな口を開けてニカっと笑っていた。アイドルについて何一つ知らない素人のくせに、それでもあまりに自信満々に言うものだから、本当にそうなってしまいそうな謎の自信が身体全体から漲ってくる。父は昔からそうだった。根拠もないし、理屈も何もないのに、それでも父が口に出した言葉は全てがその通りになってしまうような、そんな不思議な言葉の力を持ってる人だったのだ。

 

「陸は小学校に上がったら何がしたい?」

「僕はサッカーがしたい! プロサッカー選手になるの!」

「そっか。陸がプロサッカー選手になるのなら日本もW杯で優勝しちゃうかもね」

「––––ねぇ」

 

 私と陸のやりたいことを聴いて、まるで自分のことのように幸せそうな笑みを浮かべる両親に、今度は私が疑問をぶつけた。

 

「私と陸じゃなくて、お父さんとお母さんはやりたいことないの?」

 

 そう問いかけると、二人は戸惑ったように眉をハの字にして、顔を見合わせる。そして、

 

「……家族全員で旅行にでも行きたいな」

 

 父はそう言った。だけどそれはきっと実現しないんだなと私は直感的に思った。この時、父はもう私たちのいる世界ではなくて、何処か遠くに離れた世界を見つめているような気がしていたのだ。

 

 

 

Episode Ⅶ : 俺と私のPlanet scape

 

 

 

 いつもの珈琲豆の匂いが漂ってくる。母が毎朝出勤前に飲んでいた珈琲豆の匂いだ。靄がかかった意識の中で、リビングだけではなく寝室の部屋にまでこの朝の匂いが漂ってくるのは珍しいな、なんてことを私はボンヤリと考えていた。

 だけど次第に嗅覚が戻ってくると、珈琲豆の匂いの中に普段は嗅がないような他人の匂いが紛れていたことに気が付いた。その拍子に焦点が定まって視界が広ける。真っ先に目に入ったのは見慣れない真っ白な天井で、その次に目に飛び込んできたのは私のベッドのとは全く違う初めて見る柄の布団だ。おまけに私は手のひらまでもがすっぽり隠れるほどダボダボの見覚えのないジャージまで着ている。

 非日常的な光景を前に、寝起きの頭は全く回っていなくて、私はただただ混乱していた。

 

 ––––あれ、ここ私の部屋じゃない?

 

 確かにいつも朝に充満している珈琲豆の匂いがしたのに。そう疑問に思った時だった。

 

「おはよう北沢。目、覚めたか?」

「あ、天ヶ瀬さん!?」

 

 狭いワンルームの部屋の隅で、退屈そうに珈琲を飲んでいるスウェット姿の天ヶ瀬さんに気が付き、思わず跳ね上がった。天ヶ瀬さんは私がここにいることが当然のように落ち着き払った様子で、「よく眠れたか?」と呑気に尋ねる。私はまだハッキリとしない意識の中を無理やり荒らすように、昨晩のことを振り返った。

(そうだ。昨晩は家出して高台の公園に行って、そこで天ヶ瀬さんと会って……)

 徐々に霧が晴れていくように、昨晩の情景がクリアになって浮かんでくる。雪が降りしきる高台の公園で見た光景だけではなく、その時私が何を考えていたのかまでもが鮮明に蘇ってきた。父がもうこの世にはいないことを知り、自分が今までしてきたことが無価値なことだったと気付いてしまったこと。自分の生きる指針が消え去って、己自身が何も意味を持たない人間だったことを思い知らされたこと。そんな自分に嫌気がさして、このまま雪に埋もれてって私の存在自体が消えてしまえばいいのと強く願ったこと。そして、天ヶ瀬さんが私を強く抱き締めてくれて、彼の胸で父が姿を消してから一度も流さなかった涙が大量に溢れ出したこと––––。

 昨晩のことを思い出すにつれて胸が錘を積み重なっていくように胸を圧迫し、すぐに黒い感情が一杯に広がっていく。呼吸が苦しくなって、私は思わずサイズが合っていないジャージをの袖をギュッと握りしめた。それでもジワジワと胸の隅にまで広がっていく黒い感情の侵食は止まらなくて、私はその闇に飲み込まれていくことしかできなかった。

 

 父は亡くなっていた。もう二度と会うことはできない。

 それなら私が今までやってきたことは?

 これから何を目的に生きていけばいいの?

 

 私が私である理由、私が生きていく目的、そして私が今までしてきた努力の意味。黒く染まった闇の中で私は、執拗に自分の存在意義を問う。だけど昨晩と同じ通り、私の存在を正当化する答えは見つからない。見つからないどころか、今後見つけれるような可能性さえも一ミリも感じさせないほどに、私の胸を覆う闇は濃くて深かった。

 昨晩までのことが全て夢だったらいいのに––––。現実を受け止めれない一心でそう願うも、当然現実はそんな都合がいいはずもなくて。窓の外には未だに多くの雪が積もったままになっており、その積雪が昨晩までの出来事が現実であることを私に突きつけているようだった。

 

「天ヶ瀬さん、私……」

「やめろって。今は何も言うなよ」

 

 咄嗟に何かを言いかけたが、天ヶ瀬さんに言葉を重ねられ、最後まで言わせてもらえなかった。

 私は謝ろうとしたのか、それとも別の何かを言おうとしていたのか、天ヶ瀬さんに遮られて喉元で消えていった言葉の正体は私でも分からなかった。だけどきっとあまりよくない意味合いを持つ言葉だったのだと思う。私にとっても、天ヶ瀬さんにとっても。

 

「北沢、昨日も言ったけど暫くここに住んでいいぜ。学校も行かなくていいからさ、ゆっくり休んで一度頭ん中整理しろよ」

「で、でも」

「家に帰りたくはねぇんだろ? それとも他に行くアテでもあんのかよ」

 

 何も言えずに黙り込む私に天ヶ瀬さんは考える時間を与えずにまくしたてる。

 

「中学校だって義務教育だから多少サボったって留年はしねぇって。部屋は狭いし俺と二人で嫌かもしんねぇけど、行くアテがないなら落ち着くまでここにいろよ」

「そ、そんなんじゃなくて。天ヶ瀬さんが迷惑なんじゃ……」

「俺のことはいいから。ここにいろって」

 

 有無を言わせず、強引にそう言い切られてしまった。私が黙り込んだのを確認すると天ヶ瀬さんは手に握っていたマグカップを口元に近づけてコーヒーを口に含む。そして穏やかな表情でテレビのリモコンへと手を伸ばした。

 

「俺は迷惑じゃねぇよ。むしろ丁度良いくらいだぜ」

「……丁度良い、ですか?」

 

 テレビの電源が点いて、液晶の中ではニュース番組が映った。小さなテレビの中では如何にも真面目そうな眼鏡をかけた男が、重そうなコートを着込んでお台場にあるテレビ局を背景に、少々大袈裟な喋り方で今日の天気予報を伝えていた。男性アナウンサーによると当初の予定より早めに寒波は過ぎ去るようで、今日は昨日ほどの雪は降らないらしい。確かに外を見てみても雪は未だに残っているが、灰色の空も心なしか昨日よりは薄くなっていて、新たな雪も今は落ちてきていない。昨晩は全く終わりが見えないほど永延と雪が降り注いでいたこの世界の、終幕が少しだけ垣間見えたようだった。

 

「あぁ。この時期は色々余計なこと考えちまうから、俺もあんまり一人ではいたくなかったんだ」

 

 テレビの音に掻き消されそうなほど小さな声量で、天ヶ瀬さんが独り言のように呟いた。天ヶ瀬さんの目はテレビではなくその少し上を見つめていて、テレビを載せたパイプ棚の頂点には写真立てが置かれていた。シンプルなフレームの中には少し色褪せた写真が入れ込まれていて、その写真は何処か仲良さげな雰囲気に満ち溢れた三人家族の写真だった。

 三人家族の写真を瞳に映す、儚げな天ヶ瀬さんの眼を見て私は察した。きっと天ヶ瀬も寒さの険しいこの季節に大切な人を失ったのだと。

 幼い頃に母を失くした天ヶ瀬さんも、私と同じ境遇の中で生きてきた人間だ。それどころか、父も一年ほど前に単身赴任で四国へと行ってしまい、独り東京に取り残された天ヶ瀬さんは、もしかしたら私よりずっと大きな孤独を感じたり、二度と戻ってこない家族団欒の時間を恋しく思ったりすることがあったのかもしれない。それでも彼は、私のように自暴自棄になることもなく東京で独り、夢を追い続けている。その強さが羨ましくもあり、少しだけ寂しくも感じていた。

 

 ––––私もいつか、天ヶ瀬さんのように父の死を受け入れて前向きになれる日がくるのだろうか。

 

 真っ暗な闇の中で佇む私に彼の姿を照らし合わせてみる。

 だけど私は天ヶ瀬さんのようになれる気がしなかった。父がいないこの世界を受け入れて、その上で何か他のことに生き甲斐や目標を見出して生きていくことなんて、できるはずがなかった。父の死を受け入れてしまうと最後、今でも私の胸に残された父との僅かな記憶たちが一瞬で価値を失ってしまう気がして、前に進むということがひどく薄情なことのように思えてしまっていたのだ。

 亡くなった父を受け入れる術も、これから自分自身が歩むべき道を見つける術も分からない私は、ひたすらに漆黒の闇の中に浸り続けている。絶望に抗いもせず、かといって現実を受け入れようともせず、ただただ不幸な自分に酔いしれるあまり思考を停止させて、闇に身を任せるだけだ。その空間は、不気味にも非常に気が楽になるような錯覚さえも覚えさせる。

 もしかしたら少しでも前を向こうと、変わらなければという自分を、一番に拒んでいたのは私自身だったのかもしれないと思った。

 

「わりぃんだけど俺、今日はちょっと用事があってそろそろ行かないといけねぇんだ」

 

 すごく申し訳なさそうな口ぶりで、天ヶ瀬さんがそう言った。どうして用事があるだけでそんな顔をするのだろうと疑問に思ったが、私を心配そうに見つめるその眼差しから、天ヶ瀬さんの懸念をすぐに汲み取ることができた。

 

「昼までには戻ってくるから、何処にも行くなよ」

「わかりました」 

「絶対だからな、絶対だぞ?」

「……大丈夫ですってば」

 

 もう昨晩のように死んでしまおうなんてバカな真似を考えるつもりは毛頭ない。かと言って、生きていく希望を見つけたわけでもないけれど、同じような経験をしてもなお、今を強く生きる天ヶ瀬さんを見ていると、そんな気も消え失せてしまっていた。

 それでも私の言葉を信じられないのか、天ヶ瀬さんは何度もなんども釘を指すようにしつこく念を押してから、洗面所で着替えを済ませて部屋を出て行ってしまった。その後ろ姿を見送って、閉められたドアの向こう側で足音が遠退いていくのを確認して、私もゆっくりと立ち上がる。顔を洗おうと点いたままのテレビからBGMのように流れてくる音声を背にワンルームを出ると、小さなキッチンにサランラップが被せられた一枚の皿が置かれているのに気が付いた。ラップを被った二つのサンドイッチの隣には小さなメモ紙が添えられている。

 

『北沢の分だから、腹減ってたら食べて』

 

 

 昨晩、隣で眠っていた天ヶ瀬さんの腕から伝ってくる温もりを思い出した。天ヶ瀬さんの隣で眠った昨晩、私は一時ではあったが非情な現実を忘れるほどに暖かくて優しい夢を見た。夢の内容は追憶の彼方に消えてしまったけれど、それは私の胸の氷を溶かすような、暖かい空間だったことだけはハッキリと覚えていた。

 大雪の中にも関わらず私を探し出して抱き締めてくれて、家に帰りたがらない私の想いを汲み取って嫌な顔一つせず泊めてくれて、食事まで用意してくれて、そして優しい夢まで見させてくれる––––。

 私がこれから歩むべき人生と同じくらい、彼の優しさの理由が分からなかった。北沢志保という人間が彼の優しさに値する価値がある人間だとは到底思えなかったのだ。

 

「……どうして、ここまで優しくしてくれるの」

 

 答えてくれるはずもないのに、天ヶ瀬さんが置いていったサンドイッチに問いかける。そして横に添えられていたメモを、折り目をつけて私はジャージのポケットに押し込んだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



先日、パソコンの整理中に未投稿だった書き溜め7部(多分9万文字くらい)を誤って抹消するというとんでもない愚行を犯してしまい完全に心が折れてしまいましたが、完結目前で今更後には引けず、新たに書き下ろす覚悟ができたので初投稿です。


 肉体的にも精神的にもよっぽど疲れていたのか、俺が起きてから数時間後に北沢はゆっくりと目を覚ました。寝起きの時こそ取り乱したように少々混乱していたが北沢は俺が思っていた以上に落ち着いていて、顔にはまだ多少の疲れの色が残っていたものの、昨晩のような虚ろな表情をしているわけでもなく、見た限りでは受け答えも意識はハッキリしている。だけどその瞳だけはまるで心ここに在らずといった北沢の心の内を表しているかのように、ボンヤリとしているようにも思えた。

 

(父親の為にアイドルになったのに、その父親が亡くなってたんだから仕方ねぇか)

 

 こればっかりは時間が解決するのを待つしかないと思っていた。

 いくら話を聴いてやってもありふれた言葉で慰めても、親を亡くしたショックはちょっとやそっとで癒されるものでもなく、自分もそうだったように結局は本人が乗り越える他に前に進む手段はないのだ。

 今の俺にできることは、少しでも北沢の側にいて変な気を起こさせず、父の死を乗り越える彼女を支えることくらいだ。だけどその限られたできることを、俺は北沢のために全力でやっていきたいと思っていた。同じ経験をした人間として、そして愛する人間の力に少しでもなりたい一心で、それこそ今まで俺が北沢から自然と勇気をもらっていたように、今度は俺が北沢を支えてあげたいと。抱き締めることしかできずに自分の無力さを痛感した昨晩、俺はそう心に強く誓ったのだ。

 だからこそ、今の北沢を独りきりにさせるのは些か不安で後ろ髪を引かれる思いではあったが、それでも誰かがやらなければいけないことだ。俺は「用事があるから」とだけぼかして、昼まで出掛ける旨を伝えた。

 

「絶対だからな、絶対だぞ?」

 

 家を出る直前まで俺が帰ってくるまでこの部屋から出ないようにと、何度もなんども釘を刺す。ほんの少し目を離した隙に、北沢が昨晩のような良からぬことを考えてしまうのではないかという不安があったからだ。

 

「……大丈夫ですってば」

 

 言葉にこそしなかったが、北沢は俺の胸の内を理解しているようだった。その上で大丈夫だという北沢の言葉を信じ、俺は部屋を出る。依然として空は灰色の雲によって青みを隠されていたが雪は止んでおり、昨日は一面真っ白だった道もところどころでは雪を存分に染み込ませて一層黒くなったアスファルトが顔を出していた。道路の端に残された雪も多くの人たちに踏み荒らされた痕跡があり、昨日までの非日常感は少しずつ薄れているようだった。

 過去の記憶と目的地までのルートを表示しているマップアプリを頼りに、今朝から通常運行に戻った電車を乗り継いで、俺は海沿いのとある駅に降り立つ。都市部から少しだけ離れたこのエリアは平日の午前中なだけあって人の通りも少なく、俺を含めて下車した人間は片手で数えられるほどしかいなかった。

 そんなまばらな数の人たちを追い抜いて改札を出ると、海の匂いを含んだ乱暴で荒々しい風が俺を出迎えてくれた。遠くにはレインボーブリッジが見えて、遠景には今朝テレビでも見たテレビ局の建物が見える。ここからのルートを最後にマップアプリでもう一度だけ確認して閉じて、北沢の母に電話をかけた。

 

『もしもし、北沢です』

 

 三コールもしないうちに電話は繋がった。北沢の母は相変わらず娘そっくりの抑揚のない声をしていて、思わず緊張を感じてしまって、背筋が一直線に伸びる。緊張を解そうと息を吐き出すように一呼吸つくと、ぶわっと真っ白な息が口から溢れてきた。すぐに肌寒い風に晒されて消えていった冬の息を見て、雪は溶けてもまだまだ冬は終わりそうにないなと、そんな漠然としたことを俺は感じた。

 

「おはようございます、天ヶ瀬です」

『おはようございます』

「今、時間大丈夫でしたか?」

『えぇ、大丈夫です。どうされました?』

 

 電話が掛かってきたことに驚きもしなければ、話を催促するような焦りも感じさせない、まるで感情を持たない機械のような話し方だった。だけどそれが決して北沢に無関心だからというわけではないことを俺は知っている。感情を表に出さない人ではあるが、不器用ながらも娘のことを精一杯愛し、案じていることを、昨日俺の前で見せた北沢の母の綺麗な涙から察していたのだ。

 

「ちょっと相談ってか、お願いがあって……」

 

 潮の香りを乗せた海風が前髪をさらって、視界が開ける。電話を耳に当てながら顔を上げると、海沿いの公園の近くにそびえ建つ、立派な建築物が目についた。

 

「765の関係者に北沢の事情を話してもいいですか? 765の人たちも随分心配してるみたいだったから、とりあえず北沢が無事なのとちゃんと今回の事情を説明した方がいいかなって思って」

 

 もちろん、公にするのではなくプロデューサーなど一部の人間だけに伝えるだけだと慌てて言い訳をするように付け足した。

 今回の一件が北沢家のプライバシーに触れる話だということも、そしてそれを赤の他人の俺が説明するのが適切ではないことも分かっている。だけど昨日所から電話が掛かってきた時の様子から察するに、いくら北沢自身が直接辞めると伝えていたとしてもそれを納得していないから皆が心配して探し回っているのであって、ここまで大勢の人を巻き込んでしまった以上、誰かがちゃんと事情を説明しなければいけなくなってしまっていた。

 かと言って今の状態で北沢本人を行かせるのはおろか、未だに北沢とちゃんと話をできていない母が行くのも得策とは思えない。その結果、消去法ではあるが親の承認があるとはいえ家出をしてきた北沢を匿ってる俺が説明するほか、選択肢があるとは思えなかったのだ。

 

『……構いませんよ。むしろ、お願いします。本当は私や本人がお話しした方がいいんでしょうけど』

 

 少しの間を挟んで、あっさりと承諾してくれた。事情が事情なだけに断られることも想定していたが、北沢の母は断るどころか「ご迷惑ばかりかけて本当にすみません」と度々俺に謝罪の言葉を口にしていた。電話越しだったから顔こそ見えなかったが、昨日の記憶から想像される北沢の母の姿がまぶたの裏に浮かんでくる。イメージの中の北沢の母は自身の逸る気持ちを押し殺しながらしきりに頭を下げていて、その姿が俺の胸をギュッと締め付けた。

 だけど今の俺では無責任な慰めの言葉をかけることすらもできず、「また連絡します」とだけ約束して電話を切ることしかできなかった。

 北沢の母から許可も無事に取れた俺は劇場の前で足を止め、765 THEATERと大々的に掲げられた看板を見上げながらこれからどうしようかと頭を悩ませる。平日の午前中なだけだって、劇場のエントランスは電気が点いておらず、開かない自動ドアの先には『準備中』と書かれた立て札が一人寂しくポツンと佇んでいるだけだ。以前北沢から劇場には普段から誰かしら人がいるのだと聞いたことがあったから今日も例外ではないのだろうけど、一応今は営業時間外。俺のような直接的に劇場と関わりのない人間が正攻法で劇場に入ることはできない。

 とりあえず所に電話をしてプロデューサーに繋いでもらうか。そう思ってスマートフォンを再びコートのポケットから取り出した時だった。

 

「天ヶ瀬さん?」

 

 突如、背後から名前を呼ばれた。慌てて声の方を振り返ると、栗色の髪をしたショートカットの女の子が驚いたように目を見開いて俺を見つめていた。

  ––––え、誰だコイツ?

 俺の名を呼ぶ女性の姿に、見覚えがなかった。だけど相手は俺のことを知っているようで、肩にかかるくらいの辺りで綺麗に整えられた髪を潮風に揺らしながら、じっと俺を見つめている。そして俺の胸の内を見透かすかのように優しく笑って、こう言った。

 

「志保ちゃんのことで来たんでしょ?」

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 劇場の二階に位置する控え室に通されて待つこと数分、やって来たのは以前駅前でビラ配りをしていた時に偶然会った若い男性のプロデューサーだった。

 聴けば彼が39 Project全体を統括するプロデューサーのようで、アポなしでやってきた俺を見るなり最初はキョトンとした顔をしていたが、嫌な顔一つ見せずに俺を出迎えてくれた彼に今回の一連の騒動の全てを打ち明けた。北沢がアイドルになった本当の目的や、北沢家が隠してきた父の死についても、プライバシーに踏み込んだ話をする度に背徳感と罪悪感に駆られたが、それでも俺は自分が聴いてきた話を全てありのままに伝えた。予想していた通り、プロデューサーは俺の話の殆どが初耳だったようで、終始驚いた顔をしていたが一通りの話が終わるまで相槌を打つだけで、ただただ聞き手に徹し続けるだけだった。北沢が俺の家にいることについても、俺との関係についても深くは言及してこなかった。今は俺との関係性の話はさほど重要ではないと思っていたのかもしれない。

 

「……そうか、志保にはそんな事情があったんだな」

 

 程よく暖房が効いた控え室で、俺の向かいに座るスーツ姿のプロデューサーが大きく息を吐くようにそう口にした。一通りの話を聴いたプロデューサーは一応納得はしたようではあったが、かといって根本的な解決策を思い付いたわけでもなく、正直どうすればいいのか分からないといった困惑した表情を浮かべていた。だけどそんなリアクションになるのも仕方がないと思う。これはあくまで北沢家の問題であって、俺たち部外者がどうこうできる問題ではなかったのだから。俺自身も、プロデューサーや765の連中に解決策を求めて来たわけでもなかったため、こうなることはある意味想定内であったのだ。

 一連の話を終えて、俺がやってきてすぐに事務員と思われる若い風貌の女性が持ってきてくれたお茶に初めて手を付ける。だけど湯気が出ていたはずのお茶はいつの間にか温くなってしまっていて、思っていた以上に長い時間俺が話し込んでいたことを物語っていた。

 

「申し訳ない、色々と巻き込んでしまったようで」

「別に……。俺が好きでやってることだから気にすんなよ。それより……」

 

 目の前に座るプロデューサーから視線を外し、その背後へと向ける。俺の視線が捉えたのはこの部屋に案内された時からずっと気になっていたホワイトボードだった。落書きのようなメッセージがビッシリとホワイトボードを覆い尽くしており、その中心には一際目立つようなフォントで“北沢志”とまで書かれていて、右端には何かの文字を入れるために空けられたであろう空白が中途半端に残ったままになっていた。

 プロデューサーも腰を捻って俺の視線の先を確認すると、「あぁ、あれか」とだけ言って苦笑いを受かべた。

 

「昨日は志保の誕生日だったから、未来がサプライズでお祝いしたいって言い出してな。あぁ、未来ってのは––––」

 

 そうだ、あまりに色々なことが起こりすぎてすっかり忘れていたが、昨日は北沢の誕生日だったんだっけ。大雪の中、北沢の喜ぶ顔だけを思い浮かべて家に向かっていた昨日の自分が随分と遠い日の出来事のように思えてしまう。

 

「春日未来だろ? 前仕事で一緒になったことあるから分かるぜ」

「あー、そっか。去年の夏終わりにファッション雑誌の現場で被ってたんだっけ」

 

 俺の言葉にプロデューサーは思い出したかのようにそう言うと、捻っていた身体を戻して湯呑みを口元に運んだ。喉が渇いていたのか随分と多くの量を口に含んで、底が見えるほど量が減った湯呑みをそっとテーブルの上に置くと、再びホワイトボードへと視線を戻す。ゴクッとお茶を飲み干す音が、静かな控え室に響いた。

 

「……それで皆が一昨日の夜から志保には内緒でパーティーの準備をしていたんだ。だから突然辞めるって言いに来たことを知って、皆もビックリしてたよ」

 

 一段声のトーンを落として、寂しげにそう言った。その横顔を見て、胸がチクリと痛む。ホワイトボードを眺めるプロデューサーの眼差しは遥か昔を振り返るかのようで、それが既に北沢志保の存在を過去形にしてしまっているように映って見えたのだ。

 

「北沢のことなんだけど、もう少しだけ待っててくれ!」

 

 プロデューサーの視線に我慢できずに、思わず椅子を蹴って立ち上がった。頭の中に浮かんできた言葉をそのまんま言葉にして叫んだせいか、後ろに倒れた椅子が床を叩く音より大きな俺の声が部屋中に轟く。プロデューサーはぽかんとした表情で俺をじっと見上げていた。

 

「確かにアイドルを辞めるってアイツは言ったかもしれないけど、それでも色々落ち着いた時にアイドルをまたやりたいって思うかもしれない。だから、その時のためにアイツの籍だけは残してて欲しいんだ」

 

 こんなことを俺が伝えるべきではないのかもしれない。

 北沢がアイドル活動に対して本当に未練があるのかどうかさえも、俺には分からない。

 だけど、たとえこれが俺の勝手な願望だったとしても、このまま北沢にはアイドルを辞めてほしくなかった。始めた理由はどうであれ、あれほどまでに熱中していたのだから、少なからずアイドル活動に対する充実感や楽しみを感じていたのだと思う。アイドル活動を通じて叶えたかった夢は実現できなくなってしまったのかもしれないが、それでも北沢が見つけた本気になれる大切なモノを、俺はこんな形で失ってほしくはなかった。

 

「……大丈夫だって。心配するな」

 

 興奮まじりに話す俺とは対照的にプロデューサーは俺を見上げたまま、口角をキュッと結んで笑っていた。

 

「俺も劇場の皆も、ここにいる全員が志保の帰りを待ってるから」

「それじゃあ……」

「あぁ、活動休止中として籍は残しとくつもりだよ。社長にも俺が説得してみせる」

 

 その言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろし、腰を下ろす。プロデューサーの力強い言葉を聞いて安心するのと同時に、北沢は俺が思っていた以上に皆から大事にされていたことを知って、まるで自分のことのように嬉しくなった。

 お世辞抜きにしても決して愛想が良いとは言えず、不器用な性格なのも相まって人付き合いが苦手な上に、夢を追う過程で誰かと一緒に頑張ることを馴れ合いだと口にしていた北沢に対する俺のイメージは、ずっと孤独な姿だった。誰かと特別仲良くするわけでもなく、それこそ人に一切媚びない野良猫のように、ただひたすらに自分一人で誰の手も借りずに、ずっとずっと遠くにある夢を一心不乱に追っかけている姿ばかりを思い浮かべていた。

 だけど、実際はそうではなくて、ここにいる大勢の人が不器用な北沢のことを理解してくれていて、ちゃんと劇場には彼女の居場所があったのだ。北沢に秘密で誕生日パーティーを企画してくれるような仲間がいて、突然アイドルを辞めると聞けば所のように雪の中必死に探し回ってくれる人もいて、そしていつになるか分からない帰りを信じて待つプロデューサーがいて……。俺が知らないだけで、北沢と劇場の人たちとの間に絆が存在していたのは間違いなかった。

 

 ––––アイツ、独りじゃなかったんだな。

 

 そのことを知って安心する反面、そんな北沢のことがほんの少しだけ羨ましくも思えた。俺たちジュピターは961プロにいた時からある意味孤独で、騙されていたとはいえ天海たちを敵視して見下して、北沢のような心の底から信頼できるライバルや仲間と呼べる存在がずっといなかったのだから。

 

「……それより、赤羽根さんから聞いてた通りだ」

「はぁ? 何がだよ」

 

 突然脈絡のないことを言われ、俺は思わず訊き返した。前任の名前を出して含み笑いをみせるプロデューサーはゆっくりと立ち上がると、持て余していた右手で隣の椅子に掛けていたジャケットを掴み、背中で広げて両方の袖に腕を通す。ジャケットを羽織るとチラリと腕時計を確認して、僅かに残っていた湯呑みの冷え切ったお茶を飲み干した。

 

「天ヶ瀬冬馬は少々口が悪いけど、筋が通った熱い男だって話してたんだよ」

「なっ……!」

「赤羽根さん、心配してたぞ。ジュピターの三人は才能あるんだから、まだどこかで再出発して頑張ってほしいって」

「……ふんっ、余計なお世話だぜ。言われなくてもすぐ追い抜いてやるよ。それよりその赤羽根ってプロデューサーは今どこにいるんだ?」

「赤羽根さん? 赤羽根さんなら今は研修でハリウッドだよ」

「は、ハリウッド!?」

 

 それじゃ俺は今から打ち合わせあるから、そう言い残してプロデューサーは驚いて口を開けたままの俺に自身の電話番号が書かれた名刺を渡して、先に控え室を出て行ってしまった。きっとまた何かあったら連絡してくれと言う意味合いなのだろう。俺はその名刺を握りしめたまま、ボンヤリと立ち尽くしていた。

(ハリウッド、か……)

 確か星井がハリウッド映画に抜擢されたとニュースで見た覚えがあったから、もしかしたらその横の繋がりか何かで赤羽根も現地に飛んだのかもしれない。研修が何の研修なのか、既に765プロを退社していたのかは分からないが、プロデューサーから聞いた話が俺の肺の奥を抉ったのは確かだった。アリーナライブで痛感させられた差は、俺の思っていた以上に大きかったのかもしれないと。そんな想いが不安となって、俺の胸から溢れ出てくる。この時はっきりと、今のままでは一生765プロに追い付けないのだと痛感させられた気がしたのだ。

 俺は溢れ出そうになる不安を押し殺して、控え室を出た。部屋を出るとちょうど入り口の前で俺を控え室まで案内してくれたショートカットの女の子が待ち伏せしていた。

 

「ねぇ」

 

 ショートカットの女の子は控え室から出てきた俺に気が付くと、壁に預けていた背中を浮かせて、声を掛けてくる。外見といい喋り方といい、記憶の中の姿と随分雰囲気が変わったせいか俺は未だに違和感を拭えずに、口籠ってしまって言葉が咄嗟に出てこなかった。そんな俺に御構い無しに、女の子は話を続ける。

 

「話は終わったの?」

「あぁ、一応な」

「そっか」

 

 ならさ……。

 そこまで言って口を閉じると、少しだけ気恥ずかしそうに女の子は笑った。その姿が俺の記憶の姿と初めてピッタリ一致して、外見や雰囲気は変われど目の前の女の子は俺のよく知っている人なんだなと、今更ながら実感が湧いてきた。

 

「ちょっと付き合ってほしんだけど、いいかな」

「……ちょっとだけなら」

 

 俺の言葉を聴いて、ショートカットの女の子––––、田中さんは俯き加減に「ありがとう」と言って、俺を先導するかのように歩き始めた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



書き溜め、プロットを誤って消した後に新たに書き下ろすと99%の確率で「あれ?こんな話だったっけ」となるので初投稿です。
関係ないけど、アイドル同士でもっとギスギスしてほしい。


 田中さんに連れられてやって来たのは、俺たちのいる二階から更に上の階へと続く薄暗い階段だった。劇場に三階なんかあったっけと疑問に思う俺に構うこともなく、田中さんはか弱い照明だけが照らす階段を一段ずつ登って行って、その頂上の踊り場で俺を見下ろすかのように待ち構えていた重そうな灰色のドアに手を掛ける。鈍い音を立ててドアが開かれると、一気に外の冷気が階段全体にまで入り込んできた。外の匂いと薄暗い階段に募っていた埃っぽい空気が肺に広がって、俺は思わず肩を縮ませながらポケットに手を突っ込む。そんな俺とは対照的に、田中さんは一切寒さを感じていないかのようにピンと背筋を伸ばしたまま、ドアを半開きにして俺が登ってくるのを待っていた。

 

「屋上……?」

 

 半分だけ開いたドアの先に、昨日からずっと空を覆っている灰色の雲たちが見える。階段に響いた俺の声に田中さんが静かに頷いて、ドアから手を離して足跡が一つもない屋上へと足を踏み入れた。いまだに見慣れない後ろ姿を追って、俺も慌ててドアの向こう側へと飛び出していく。

 

「あそこ」

 

 昨日から全く人の出入りがなかったのか、田中さんは足跡一つないまま雪が積もった屋上の端までゆっくりと歩いていくと、柵に肘を乗せてある一点を指差した。だけどその指の先には真っ白になった芝生公園が広がっているだけで、俺は田中さんが何を指しているのか分からなかった。訊き返そうとした矢先に、田中さんの口から白い息吹が溢れ出る。

 

「あの大きな樹のところで、いつも志保ちゃんが自主練してたの」

「自主練?」

「そう。レッスン前もレッスン後もあそこでずっと独りで。ここから私たちが見ていることには気が付いていなかったみたいだけどね」

 

 田中さんの白い指が公園の隅にある大きな樹を指していたのだと分かっても、俺はイマイチ話の脈絡が分からなかった。適当な相槌を打ちながらふと田中さんの横顔を覗いてみる。腰まで伸びていた髪はバッサリと切られ、短くなった髪が顔の輪郭を浮き彫りにさせている。鉛筆で線をなぞったようにくっきりとした端麗な横顔が、やけに大人びて見えた。

 

「正直に話すと私、最初は志保ちゃんのこと苦手だったの」

「え?」

 

 そう口にした瞬間、屋上に潮の香りを含んだ風が吹き抜けて田中さんの口から出た白い息を拐っていった。短くなった髪が風になびいて揺れているが、まるでそんなことには気にも留めない様子で北沢が自主練をしていたと教えてくれた大きな樹を田中さんはジッと見つめている。

 

「なんか近寄り難いし、愛想も全くないし、協調性とかひどいくらいなかったし。それに以前アリーナライブの練習中に可奈ちゃんと喧嘩して、そのまんま辞めさせようとしてたって話も聴いてたから」

 

 ––––あれ、田中さんってこんな人だったっけ。

 息を吐くようにスラスラと北沢への辛辣な言葉が出てくる田中さんを見て、思わず引いてしまった俺は何も言えなかった。

 

「……まぁ、それは尾びれが付いた噂話だと思うけど。奈緒ちゃんもちょっとニュアンスが違うって、否定してたし」

 

 奈緒ってのが誰かは分からないが、話の流れから推測するに北沢と同じアリーナライブにバックダンサーとして出てたメンバーの一人なのだろう。

 アリーナライブというのフレーズと紐付けされていたかのように、パッと記憶の隅から喫茶店で北沢と話をした時の会話を思い出した。確かメンバーのうちの一人が辞めたいと言い出して、その子を巡って天海と揉めたとかそんなことを話していた気がする。北沢は辞めたいと言っていた子を連れ戻すために時間を割くくらいなら、少しでもレッスンをするべきだと。確かそういった内容の話だったはずだ。もしかしたらその辞めたいと申し出た子が、田中さんが言う矢吹可奈で、そう言い出したキッカケとして北沢が何かしら関わっていたのかもしれないと思った。

 

「でもそんなんだから、私は本当に志保ちゃんが苦手で。私だけじゃなくて志保ちゃんのことをよく思っていなかったメンバーって実は他にも大勢いたの。志保ちゃんと近い歳のメンバーの間では特に浮いていたみたいだし」

「……そう、だったのか」

 

 自分の肩がこわばるのが分かった。プロデューサーの話とホワイトボードに書かれたメッセージを見て、てっきり北沢が劇場の皆に受け入れられているとばかり思っていたが、事実は異なっていたらしい。血の気が引いていく気がした。田中さんの言葉が心に小さな傷が付けて、その傷に肌寒い風が触れるたびに心が痛みを覚えていく。見たくなかった女の陰湿な世界を覗いてしまったような気がして、こんな胸が痛くなるような話を聞かされるくらいなら、誘いを断って帰っていれば良かったとひどく後悔した。

 すると田中さんはゆっくりと体を反転させて、柵に背を預けて俺の方を向きなおした。俺の目を見つめる顔ははにかんでいて、嫌な世界の話をしていたはずなのに、自然とその笑顔に嫌味は感じられない。北沢を攻撃するようには思えない、穏やかな表情をしていた。

 

「“階のスターエレメンツ”、見てくれた?」

「え? あ、あぁ。録画して見たけどそれがどうしたんだよ」

 

 唐突にそう訊かれ、俺はぎこちなく答えた。

 “階のスターエレメンツ”は田中さんや春日未来、そして先ほど話にも上がった矢吹可奈らが出演した、トップアイドルを目指しぶつかり合う女の子たちを描いたドラマだ。夏過ぎにドラマの番宣の抱き合わせの形で俺たちジュピターもインタビューを受けていたからドラマの存在は知っていたし、年末に放送されたオンエアも録画して後日ちゃんとチェックしていた。

 だけど、それが北沢とどう関係あるのか。そんな疑問を抱く俺に、田中さんは穏やかな顔つきのまま淡々と話を続ける。

 

「あのドラマで草薙星蘭を演じて、ちょっと分かったんだ」

 

 草薙聖蘭。

 田中さんがドラマで演じていた役で、トップアイドルを目指すアイドルの一人だった。無愛想で他人に冷たくて、だけど胸には誰よりも熱い想いを秘めていて、それ故に自分の夢に必死なあまり余裕がなくて––––。

 確かに言われてみれば北沢と共通する部分が多い役だったような気がする。人付き合いが妙に武器なようなところとか、瓜二つだなと今更ながら思った。

 

「きっと志保ちゃんにも聖蘭のようにどうしても叶えたい願いがあって、そのために色んなモノを削って生きてるんだなって。その想いが強すぎて、ちょっと周りが見えてなかったのかもってね」

 

 だから……、と紡いで一呼吸おくと、田中さんは視線を逸らして俯いた。次の言葉を探しているのか、ブーツを力なく半歩滑らせて、雪を蹴る。田中さんのブーツの下からはコンクリートが顔を覗かせていた。

 

「……その理由を知って驚いたけど納得もした。志保ちゃんの異様なまでのストイックさも、向上心の強さの理由も今なら分かる気がする」

「もしかして、話聴いてたのか」

「ごめんなさい。盗み聞きをするつもりはなかったの。ただ、天ヶ瀬さんを待ってたら話声が廊下まで聞こえてきて、それでつい……」

 

 弁解するようにそう言って俯いたまま頭を下げたが、俺は綺麗に九十度の角度で頭を下げた田中さんの後頭部に何も言葉をかけれなかった。あまり多くの人に話すべきではない事情だとは当然思っていたが、この話で少しでも北沢の印象が変わるのなら話した方がいいのかもしれないとも思っていたからだ。もちろん、それを決めるのは北沢自身であって、第三者の俺がどうこう言う問題ではないのだけれども。

 

「私、志保ちゃんのこと好きだよ。きっと私だけじゃなくて、今はもう劇場のみんなが志保ちゃんのことを好きだと思う。志保ちゃんが独りで頑張ってるの、ここからみんなで見てたから」

 

 田中さんは再び背を向けて、じっと北沢が自主練をしていたという場所の近くにある樹を見下ろした。静かな風が劇場の前に広がる芝生広場を走っていって、大きな樹の枝先を揺らす。細い枝の上に積もった雪が落ちて、必死に厳しい寒さに耐え凌ぐ木々が姿を表した。今は重そうな雪を積もらせているあの木々たちにも、春が来れば綺麗な花が咲くのだろうか。大きな樹に向けられた田中さんの眼差しはそんな今はまだ遠くにある暖かい春に想いを馳せているように映った。

 

「同じ劇場の仲間なのは勿論、トップアイドルを目指すライバルだと私は思ってる。だから––––……、ちゃんとここに志保ちゃんを連れ戻してきてね」

「でも俺は……」

 

 ––––俺なんかが北沢のためにやれることなんて。

 そう言いかけて、俺は直前で言葉を詰まらせた。

 木星のような強力な引力もなければ、大切な人を守ることもできない非力な俺に、父を失って生きる指針をなくした北沢を導くことなんてできるのだろうか。前向きな言葉をかけることも、辛い思いを共有することも、励ますことすらできない俺に、父の死という大きな壁を乗り越える北沢の手助けができるのだろうか。

 そんな大層なこと、とてもじゃないができる気がしなかった。だって俺たちは自分たちの力を百パーセント証明できる環境でトップを目指すと大見得切って961プロを辞めたはずなのに、この一年間何も証明できずにその場で足踏みをし続けるだけの無力な存在だったのだから。かつて脚光を浴びることができたのは所詮961プロの後ろ盾があったからで、俺たちだけになると悲しいくらい何も残らない現実を嫌という程この一年間で突きつけられてきた。仕事もファンも減る一方、バイトをしてどうにか工面したお金で抑えた小さなキャパでのライブでさえ自分たちでビラを配って宣伝しなければ集客できない。そんな俺たちは決してかつて北沢が言ってくれた“凄い”存在なんかじゃなくて、ただただ誰かの力を借りなければ輝けない、そしてそれを自身の実力だと勘違いして自惚れていた傲慢な存在だったのだ。

 

「志保ちゃん、誰かを頼ったり弱みを見せるようなことって絶対にしなかったんだよ? 私たちにもプロデューサーにも」

 

 言葉を詰まらせて黙り込む俺に田中さんは静かにそう語りかける。上半身だけを捻らせて、俺を見つめるその瞳は喉元まで顔を出していた俺の言葉に気付いているようだった。小さく息を吐いて柵から離れると、俺の目の前で立ち止まった。曇りのない真っ直ぐな眼で、ジッと俺の眼差しを見上げる。その顔はまるで怒っているかのように、しかめっ面をしていた。

 

「それなのに天ヶ瀬さんを頼ったんだから、きっと私たちじゃなくて天ヶ瀬さんにしかできないことがあるんだよ」

 

 ––––俺にしか、できないこと?

 

「志保ちゃんのこと、好きなんでしょ?」

 

 あの日と同じ質問を、今度は言葉でハッキリと問われた。

 俺は迷う間も無く無意識に頷いて、その様子を見た田中さんは満足したようにニコッと笑う。そして少しだけ強い力で俺の背中を思いっきり叩いた。

 

「ならしっかり応えてあげなきゃ」

 

 迷っていた俺の背中を田中さんに押されて、初めて気が付いた。

 これは家族の問題だから、北沢自身で乗り越えなければいけない問題だから、そう言い聞かせてばかりで、自分の無力さを正当化していただけなのではないのかと。側にいるだけじゃなくて、もっとこう俺にしかできない何かがあるかもしれないのに、それを探しもせずに諦めて放棄して、そうやってまた俺は自分の無力さを誤魔化そうとしていたのだ。

 俺は北沢が好きだ。そして北沢は劇場のメンバーやプロデューサーではなく、俺を頼ってくれた。ならばその想いにちゃんと応えないといけないと思う。一日でも早く北沢が前向きになれるように今できることを全力でやるだけじゃなくて、もっと何か力になれることがないのかを探していくべきではなかったのか。

 背中を押してくれた田中さんの言葉で、今俺がやるべきことが少しだけ明確になった気がした。ふと空を見ると、灰色の雲に少しだけ切れ目が入っていて、そこから北沢が自主練をしていた場所にある大きな樹に向かって真っ直ぐに光が差し込んでいる光景が目に付いた。それは寒さを忘れさせる、美しい一閃の煌めきだった。

 

「……田中さん、本当にありがとな」

「いーえ、どういたしまして」

 

 おどけたように田中さんが笑う。

 田中さんなりの気遣いなのだろうなと思った。嫌われる覚悟で北沢に対する自分の想いを正直に打ち明けたのも、自分を振った相手に好きな人への気持ちをわざわざ確認させたのも、全部彼女なりに俺に今すべきことを気付かせるためにしてくれたのだと。

 その優しさが、その強さが、今はただただ有り難かった。

 

「田中さん」

 

 どうにかしてその想いを伝えたいと、そう思った言葉を探したけれどなかなか思うような言葉が見つからない。だから俺はだいぶ遠回りな言葉を、田中さんに向けて掛けてしまった。

 

「……その髪型、俺はすごく良いと思うぜ」

「え!?」

 

 驚いたように目を丸くして、田中さんは赤面した。

 

 

 




琴葉が髪を切ったのは単純に冬馬への想いを振り切って、自分らしさを損なわずに前に進む為の新たな決意表明です。
その最中で志保に対してどう向き合えば良いのか分からずにいた冬馬を見て、琴葉らしいお節介の形で背中を押そうとしたけれど完全な憎まれ役にもなれなくて、そんな不器用で中途半端な成長過程の琴葉を描きたかったんですが表現力と語彙力なかったので、卑怯だけど後書きで解説させてもらいました。
知る限り、ミリオンでは覚醒(髪型変更)キャラはいなかったと思うので、是非琴葉になってほしいなぁと思ってます。何かを振り切った委員長、めちゃくちゃ強そう(小並感


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



つくづく天海春香って国民的大スターなんだなと思うので初投稿です。
※申請済みだけど歌詞載せてるんでもし消されたら許してクレメンス。


「北沢がここに住む上でのルールを決めたんだ」

 

 天ヶ瀬さんが唐突にそんな話を切り出してきたのは、用事とやらを済ませて部屋に戻ってきてすぐのことだった。ぼんやりと特段面白味も感じられない再放送のドラマを眺めていた私は、テレビのボリュームを下げてコートをハンガーにかけている天ヶ瀬さんの方を向いて座り直すと、天ヶ瀬さんは「そんな大したものじゃないから身構えんなよ」と私を見て笑った。

 

「言っとくけど、これは絶対だからな。絶対守るって約束しろよ?」

「……約束するのは、ルールを聴いてからでいいですか?」

 

 勿論、私は居候の身なのだからあれこれ偉そうに反論できる立場ではないのだけれども。

 まぁルールってくらいだから、やれ使ったものは元の場所に片付けるとか、やれ食器はすぐに洗うとか、そういったこの部屋で暮らしていく上での小さな決め事なのだろう。そんな在り来たりなルールを予想していただけに、天ヶ瀬さんから伝えられた『私がこの部屋で住む上でのルール』は全く予想をしていなかったものばかりで驚かされてしまった。

 

「まず、何も考えねぇこと。そして何も頑張らねぇこと。あとは俺に遠慮したり気を遣ったりしねぇこと、この三つ」

「……それだけ、ですか?」

「そう、そんだけ」

 

 呆気にとられる私を横目に、まるで至極当然といわんばかりの様子で天ヶ瀬さんは三つのルールを私に提示した。何も考えない、頑張らないって、あまりにも漠然としすぎてて要領が掴めず、私は天ヶ瀬さんに訊き返す。

 

「ちょっと、意味がよく分からないんですけど。何も考えない、何も頑張らないってどういうことですか?」

「そのまんまの意味だって」

 

 私に向けられた天ヶ瀬さんの瞳が、「その意味は自分で見つけろよ」と、言っているような気がした。

 点けたままになっているテレビからは、ドラマの主題歌である女性ボーカルの語りかけるようなバラード曲が流れてくる。少しだけ悲壮感が漂う重苦しい歌声が部屋にまで流れてきているが、天ヶ瀬さんはまるでテレビの音が聞こえていないかのように、私をじっと見つめていた。

 

「……北沢、今まで頑張りすぎたんだよ」

 

 どれほど無言の時間が続いただろうか。

 提示されたルールの意味を私が汲み取れずにいたことを察したのか、痺れを切らした天ヶ瀬さんがおもむろに口を開いた。

 ––––私が頑張りすぎ?

 またしても言葉の意味を汲み取れなかった。テレビの音だけが私たち二人だけの小さなワンルームの世界に響いている。短い次回予告も過ぎ去ってドラマは終わっており、今テレビの中では音楽番組のコマーシャルが流されていた。次から次へと短いスパンで紙芝居のように切り替わっていく映像の中から聞き覚えのある声を拾って、私は思わずテレビに視線を向ける。

 

 “だけど時には 夢の荷物放り投げて 泣いても良いよ付き合うから”

 

 最近、随分と昔に大ヒットした誰もが聴いたことのある有名な曲をカバーしたことで話題を集めたかつての先輩の姿を、ハッキリと私の目が捉えた。その姿から私は奇妙な焦りと焦燥に駆り立てられる。そんな私の視線に気付いていたのか、天ヶ瀬さんは春香さんの歌う歌詞を借りるように、言葉を続けた。

 

「ずっと多くのものを背負って頑張ってきたんだから、今は何も考えずに休めって。時には色々と放り投げて立ち止まるってのも、意外と大事なことなんだぜ?」

「でも、そんなことしてたら––––……」

 

 慌てて言いかけた言葉を飲み込んで、私は口をつぐんだ。

 言いかけた言葉が今の私にとってひどく的外れな発言だと思ったからだ。立ち止まっていたらその分だけ皆に差を付けられてしまう。私はアイドルを続ける理由を失って39 Projectを辞めたのに、何故かそんな言葉を思わず口に出してしまいそうになっていた。

 気が付けば春香さんが出演する音楽番組のコマーシャルは終わっていて、今度は近々駅前に完成予定の幾つかの高層マンションのコマーシャルが流れていた。最寄り駅が天ヶ瀬さんの家の駅になっていて、着々とこの街が変わっていく様を見ているような気になって、今度は意味もなく寂しさが込み上げてきた。

 

「ともかく、この三つは絶対守れよ。約束だからな」

「……もし守らなかったら?」

 

 私の疑問に天ヶ瀬さんは少しだけ困惑するように真剣な表情を浮かべると、腕組みをしながら視線を宙に泳がせる。だけど何も思い付かなかったのか、表情そのままに苦笑をもらした。

 

「……俺を困らせないためにも、この三つのルールは絶対守ってくれよ」

 

 時間をかけて選び抜かれた言葉はそれだった。私に拒否権を持たせず、若干投げやり気味に頬を掻きながら、天ヶ瀬さんにそう言って強引に押し切った。

 

 

 こうして天ヶ瀬さんとの奇妙な共同生活が始まった。

 天ヶ瀬の日常は、一言で表せば『多忙』な日々だった。朝から学校に通って、放課後は以前私がお邪魔したレストランのバイトやジュピターの打ち合わせにレッスンなど、毎日何かしらの予定が遅くまで詰め込まれていて、部屋に帰ってくるのはいつも夜の十時を過ぎた頃。それから風呂に入ったり学校の宿題をしたり、諸々済まして日付を跨ぐ頃に深い眠りについている。私がこの部屋にやってきた日から当たり前のようにお互いが何も言わずに小さなシングルベッドで肩を寄せ合って寝ていたが、毎晩私の意識が遠のく前に天ヶ瀬さんの静かな寝息が子守唄のように耳元へと聴こえてきて、天ヶ瀬さんが寝たのを確認して私も眠りにつくのが、いつからか習慣化していた。そして毎晩私の隣で泥のように眠る天ヶ瀬さんは、バイトやジュピターの活動があった日も、何もなく早めに帰ってきた日でも、一度たりとも私の身体に触れようとはしなかった。

 最初の一週間は、あまりの多忙さに驚きを隠せなかった私だったが、天ヶ瀬さん曰く二月にライブが控えているからだそうだ。その準備とやらで普段より何割り増しかで忙しくなっていたらしいく、普段はもう少し余裕があるのだと涼しい顔で話していた。

 その一方、私は最初に天ヶ瀬さんから提示された約束を律儀に守っていて、その言葉通り『何もしない』毎日を送っていた。その日常は殆ど意味を持たないただの暇潰しのような日常で、私にも無駄に時間だけを食い潰している自覚もあった。かと言って何か他にやるべきことや、やりたいことがあるわけでもなく、私はこうして漠然と流れていく時間を見つめることしかできなかったのだ。学校にも行かず、私は半ば引きこもりのような形で代わり映えのない同じような毎日を過ごす日々。それは私が今まで全力で駆け抜けてきた時間とは対照的な、ゆっくりとスローモーションのように流れていく時間だった。

 真っ白なパレットの上に広がった青色の絵の具のように澄み切った青空、喧騒とした東京の街の音の中でも耳を澄ませば聴こえてくる鳥たちのさえずり、駅前の街路樹たちが冷たい風によって揺らされる際に生じる枝と枝とが擦れ合う音––––。天ヶ瀬さんが与えた『何も考えない、頑張らない』生活の中で、私はそういった沢山の自然の感性たちを見落としていたことに気付かされた。 

 トップアイドルになることが全てだとばかり決めつけて、こういった日常の景色さえも見落としていた私は今までどれだけ狭い視野で、狭い世界を見て、生きてきたのだろうと思う。立ち止まって初めて知った世界の景色はとても広くて新鮮味があって、だけど私がアイドルを辞めようが続けようが一切影響を受けずに何一つ変わらない世界がほんの少しだけ寂しくて、複雑な想いを胸に渦巻かせながら一気に減速した時間をただただボンヤリと過ごしていた。

 天ヶ瀬さんはライブ前の忙しい時期なのに関わらず極力私のために時間を作ってくれているようだった。週に二度ほどは意味もなく学校をサボって朝から私と一緒に家に居たし、バイトやジュピターの活動がない日は真っ先に家に帰ってきて、私が何も言わずともずっと隣にいてくれていた。

 今までは数週間に一度の頻度でしか会えなかった好きな相手と同じ部屋で生活できているのだから、嬉しくないはずがなかった。だけど例え今まで見落としていた綺麗な世界を知ることができても、大好きな天ヶ瀬さんと毎日顔を合わせることができても、それでも私の心に空いた穴は埋まらなかった。

 ジグゾーパズルと同じだなと思った。父に関する真実を知った際に胸に空いてしまった穴は、他のピースじゃ絶対に埋められない。代わりのピースがいくら“あの”天ヶ瀬さんだったとしても、それを無理やり嵌めたところで私が当初思い描いていた画が完成することは有り得ないのだ。アイドルになって有名になって、そして父と再会し、止まってた家族の時計の針を進める––––。その画を完成させるのには、父という名のピースが絶対に必要不可欠だったのだから。

 

 

「なぁ、今からちょっと散歩いかねぇか?」

 

 私がこの部屋にやってきて早くも二週間が経過し、スウェット姿の天ヶ瀬さんも、ネクタイを締めたブレザー姿の天ヶ瀬さんも、色んな姿の天ヶ瀬さんがようやく見慣れてきた時のことだった。今日は珍しくバイトもジュピターの活動もなかったのか、学校から直帰して夕飯を二人で食べた後、真っ暗になった窓の外を見つめながら天ヶ瀬さんはそんな誘いを持ち掛けてきた。

 

「散歩ですか?」

「そう。散歩」

 

 夕飯を作ってくれた天ヶ瀬さんに代わって使い終わった食器を洗っていた私がそう訊ね返した時、既に天ヶ瀬さんはテレビを消してハンガーにかけていたコートに手を伸ばして、私の返答を待たずに外に出る準備を始めていた。どうやら私に断る選択肢はなかったらしい。

 

「まぁ、いいですけど」

 

 最後の一枚だった食器を綺麗に洗って水切り籠に入れると、私もコートを羽織って部屋を出た。

 狭いエレベーターを出て地上に出ると、一気に冷気がコートを突き抜けて身体の深部にまで到達してきた。反射的に肩を縮ませてしまったが、思っていたより寒くないことに気が付き、肩の力をゆっくりと抜いていく。そういえばもう二月に入っていたんだっけ。あれだけゆっくりと流れていたはずの時間が思いの外積み重なっていたことに気が付いて、吹き抜けていく風と一緒にふいに不安が胸をかすめた。

 今天ヶ瀬さんが私の為に用意してくれている世界は、決して長居していい世界ではないことを知っていた。それなのに二週間が経過して二月に入っても、私は未だに何も変わらないままボンヤリと彼の厚意に甘え続けている。確実に流れている時の流れと相反するかのように立ち止まり続けている自分がこれから先もずっと足踏みを続けていそうな気になって、不安で仕方がなかったのだ。

 暫く他愛もない会話を交えながら私の少し前を歩く天ヶ瀬さんに付いていくこと数分、急斜面の階段を登った彼の足は真っ暗になった高台の公園で止まった。

 

「星、綺麗だな」

 

 天ヶ瀬さんが公園の入り口で空を仰ぎながらそう言った。私もつられて空を見上げると、点々と公園の周りに立つ街灯の先にでもくっきりと判別できるような、幾多の星々がいつになく眩い光を放って私たちを見下ろしていた。

 今にも落ちてきそうな星たちを見つめながら、私は相槌を打つ。

 

「……そうですね」

「ほら、あそこ見てみろよ。オリオン座の右斜め先」

 

 数え切れないほどの星空の一点に向かって、天ヶ瀬さんが指をさした。その指がどの星を捉えているのか、私は自然と理解することができた。天ヶ瀬さんの真っ直ぐに伸びた人差し指がさしているのは、南東の方角に輝くオリオン座の近くで一際強い灯りを放っている星だ。

 

「木星が太陽になれなかった話、知ってるか?」

「え? 木星が太陽にですか?」

「そう。まぁ学校じゃそこまでは習わねぇか」

 

 いつの間にか天ヶ瀬さんは木星ではなく私を見つめていた。

 遠くの街灯が天ヶ瀬さんの綺麗な鼻に影を作っている。影を含んだ天ヶ瀬さんの表情がやけに弱々しく見えた。いつもの勝気な勢いは影に隠れているようで、その表情は私が初めて見る表情だった。

 

「……木星は自ら光り輝くことができねぇんだって」

「それならどうやって光っているんですか?」

「太陽の光を受けてるんだとさ。太陽があるからこそ、こうやって真っ暗な夜で光り輝くことができるらしい」

 

 ––––まるで、961プロにいた頃の俺たちみたいだな。

 天ヶ瀬さんが咄嗟に漏らした言葉を、私は聞き逃さなかった。

 静かな風が吹いて、彼の前髪が揺れた。目を覆うほどに伸びた髪の隙間から、無愛想な眼が顔を出す。らしくない、自分たちを卑下するようば言葉を口にしていたはずなのに、その眼差しからは悲壮感を一切感じなかった。出会った頃から私がずっと憧れていた、この大空の先を見つめる眼差しで私を見つめていた。

 

「再来週、ライブがあるんだ」

「言ってましたね、この前と同じ会場だって」

「そうそう。そのライブで俺が初めて作詞をした曲を披露するんだけど……」

 

 一呼吸置いて、天ヶ瀬さんが一歩私の方へと歩を進める。手袋を忘れてかじかんでいた手が、ぽっと暖かくなった。

 

「俺が初めて作詞した曲を、北沢に聴いてほしい」

 

 私の手をギュッと握った天ヶ瀬さんに、何も言えなかった。アイドルを辞めた私がアイドルのライブに行くこと自体、少なからず抵抗を感じていたはずなのに、気が付けば天ヶ瀬さんの眼をじっと見つめながら私は首を縦に振ってしまっていた。

 私の反応を確認して、「ありがとう」と嬉しそうに言うと、天ヶ瀬さんは私の手を握ったままに来た道を戻るかのように階段を降り始める。私は手を引かれるまま、無言で天ヶ瀬さんに導かれて歩き続けた。

 階段降りてマンションへと戻る途中、私はふと見覚えのある建物を目にして足を止めた。すぐに立ち止まった私に気が付いた天ヶ瀬さんも足を止め、私の方を振り返る。

 

「……ここって、最近テレビでよくCMやってるマンションですよね」

 

 闇に紛れるように光を一切灯していない大きなマンション。その入り口と思われる場所に、『入居者募集中』と書かれた横断幕が貼られていた。

 

「そうだな。けど、それがどうしたんだよ」

「なんだか、この街がどんどん変わっていってるんだなって思って……」

 

 そう言葉に出した途端、行き場のないような寂しさが胸の底から湧き上がってきた。

 かつて住んでいたこの街は急速な勢いで変わり始めている。多くのマンションやビルが立ち並び、知らない店が増えて、いつの間にか私が父と住んでいた六年前とは比べ物にならないくらい立派で大きな街になってしまっていた。その変わりゆく変化の中で私が父との思い出を忘れてしまっていたように、今私が過ごしている天ヶ瀬さんとの時間もいつか忘れ去ってしまいそうな気がして怖くなったのだ。

 天ヶ瀬さんと一緒に寝る時間も、狭い部屋で彼の優しさに沢山触れたことも、星が落ちそうな夜に高台の公園で木星を見つめたことも、こうしてどんどん街が変わってしまう過程で私もいつしか忘れてしまうのだろうか。

 そう思うと、怖くて怖くて仕方がなかった。何が怖いのか、その恐怖の正体さえも明確じゃないのに、私の胸はあっという間に不安で埋め尽くされてしまって、無性に寂しくなった。アイドルをしていた頃は夢を叶えるために常に変化を求めていたはずなのに、辞めた今はただただ変わるのが怖くて仕方がなかった。

 

「……大丈夫だって。そんな目、すんなよ」

 

 天ヶ瀬さんが私の目を見て言った。天ヶ瀬さんが言う「そんな目」がどういった目なのかは分からなかったが、目頭が熱くなってきて、きっと今にも泣き出しそうな弱い目をしているんだろうなと思った。

 

「この街が変わり続けても、俺はずっと北沢の側にいてやるから」

 

 以前電車の中で「絶対父に会えるさ」と言ってくれた時と同じだった。天ヶ瀬さんは根拠のない自信に満ち溢れた顔で笑ってみせる。そして私の手を握っていた手とは反対の手の人差し指で、私の目元から溢れ出そうになっていた雫を優しく拭ってくれた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



いよいよPlanet scape回ラスト。
エムマスの最終話で流れた時は315だったぜ!(語彙力マックス
1万5000文字を新たに書き下ろすのは訳が分からないくらいシンドかったので初投稿です。



 窓の外からは雨たちがアスファルトを叩く音が聴こえてくる。時折ほんの少しだけか吹く風が窓を揺らして、その度に小さな雨粒が窓に衝突し、外の景色を滲ませている。ライブ当日の今日は生憎朝から雨が降ったり止んだりを繰り返す嫌な雨空が広がっていたが、それでも楽屋入りの際に裏口から覗いた入場口には大勢のファンが色とりどりの傘をさして並んでいて、開場を今か今かと待ち侘びてくれていた。改めてこうして多くのファンに支えられていることを感じさせられて有り難く思う傍ら、今日俺たちが披露しようとしているパフォーマンスが今まで支えてくれた多くのファンを失望させるのではないかという不安が俺を襲ってくる。今更後には退けないと分かっていながらも不安は拭えなくて、俺は視界が滲んだ窓に向かって思わず溜め息を吐いた。

 

「……新曲、何回見ても冬馬くんらしくないよね」

 

 俺の口から溢れた溜め息が窓を曇らせた瞬間、独り言のような翔太の声が俺たち三人しかいない楽屋に響いた。翔太は片膝を付いて座りながら、数週間前に俺がコピーして二人に配った新曲の歌詞カードに目を通している。

 まるで判決を言い渡す直前の裁判官のように、真剣な眼差しでじっくりと歌詞カードを確認する翔太の視線が俺の胸をギュッと締めて緊張感を走らせた。既に雨の中でも駆けつけてくれたファンの人たちは場内に入っており、会場内の興奮やざわめきが防音壁を突き破って微かにこの楽屋にまで伝わってきている。チラリと時計に目をやった。オープニングまでは、もう十分も残されていなかった。

 

「やっぱ、変か?」

 

 我慢しきれずにそう問い掛けた俺の声は思っていた以上に不安げで、有罪判決が言い渡されるのを待つ被告人のような不安な心境をそのまんま表しているようだった。ゴクリと唾を飲み込んで、無意識に再び時計を見る。時計の針は先ほどから全く動いてはいなかった。だけどその僅かな時間で俺の心臓は凄まじい勢いで脈を打っており、自分が如何に緊張しているかがひしひしと伝わってくるようだった。

 

「ううん、変じゃないよ」

「本当か?」

「本当だよ」

「マジで?」

「……冬馬くん、しつこい」

 

 翔太は緊張感を微塵も感じさせずに、いつものからかうような調子で笑っていた。その言葉の真偽を確かめるように翔太の顔を暫く見つめていたが、翔太の奥で俺たちのやり取りを穏やかな顔つきで見守る北斗の表情が嘘ではないことを代弁してくれているような気がして、俺はほんの少しだけ張り詰めていた緊張の糸を緩めた。

 今日のライブのアンコールでは、俺が初めて作詞した曲を披露することになっている。北沢には強気に聞きにきて欲しいと啖呵を切った俺だったが、実際はこの曲が果たして俺たちジュピターに相応しい曲なのかと、完成させた日から今日までの間ずっと不安な気持ちを抱え込んでいたのだ。

 俺が作った曲は間違いなく今までの「カッコいい」部分だけを見せてきたジュピターのイメージを大きく覆す曲だった。どの星より強く、誰よりも輝くことだけを一心不乱に目指し続けてきた俺たちジュピターの今までの印象を破壊しかねないこの曲を聴いた時、ファンの人たちは何を想うのだろうと想像してみる。もしかしたらファンが俺たちの弱さを見て失望し、受け入れてもらえないかもしれない。そんな拒絶される光景がどうしても浮かんできて、恐怖心を生み出し、俺の心にさざ波を立てていた。

 

「ジュピターさん、そろそろスタンバイお願いします」

 

 薄い楽屋のドアの向こうから急かすようなスタッフの声が聞こてきて、ハッと我に返った。いつもと何ら変わりない翔太と北斗が「はーい」と返事をして立ち上がったのを見て、俺も慌てて腰を浮かせる。その瞬間、足元が急にフラついてしまい、咄嗟にテーブルに手のひらをついてしまった。情けない話だったが、膝がガタガタと笑っていたのだ。

 

「冬馬」

 

 ふと顔を上げると北斗がドアノブを握ったまま、俺の方ををジッと見つめていた。いつものキザで余裕のある、落ち着いた大人の表情で俺に語りかける。

 

「怖がるなよ。今の俺たちにしか描けない未来があるんだろ?」

「北斗……」

「俺は本当に良い曲だと思ったよ。今のジュピターの全てを表現している曲だし、きっとエンジェルちゃんたちも素の俺たちを受け入れてくれると思う」

 

 そう言って、得意げに片目を閉じた。一気に真剣な顔つきだった北斗の表情が崩れて、途端に子供っぽい笑みが表れる。

 

「……それに、冬馬の想い、志保ちゃんにもきっと響くと思うよ」

「な、なっ……! なんで北沢が出てくんだよ!」

 

 北斗の言葉が俺の胸の奥深く、誰の目にも止まらない場所に隠していた想いに触れて、身体中がかあっと熱くなった。全部お見通しだよ、なんて言わんばかりのウインクを投げて、北斗は背を向けてドアを開く。

 今度は翔太が、呆れたように頭の後ろで手を組みながら俺の方を振り返った。

 

「冬馬くん、バレバレだよ。二番からの歌詞、絶対志保ちゃんに向けた歌詞だよね」

「ち、ちげぇよ! そんなんじゃねぇって!」

「はいはい。ほら、早く行くよ」

 

 聞く耳もたず、といった様子でわざとらしいカタコトの返事をして、翔太も北斗に続いて部屋を出た。

 北沢のことは二人にも話していた。踏み込んだ事情までは説明していなかったが、ちょっと家庭の問題で派手に家出をしてきて、親の承認の元、俺の家に泊まらせているのだと。たったそれだけしか伝えていなかったはずなのに、俺が密かに北沢への想いを歌詞に詰め込んでいたところまで見抜いていたらしい。

 俺も未だかつてない緊張と不安と、そして羞恥を胸に抱えたまま、遅れて二人の後を追った。

 インディーズ活動を始めてからのこの一年で俺は嫌という程痛感させられた。俺たちジュピターは961プロの力を借りなければ何一つ成し得ることのできない、ひ弱な存在だったのだと。961プロの恩恵無くして輝くこともできず、大切な人を照らす太陽にもなれず、それでも俺たちはいつか多くの人たちを照らす木星のような存在になりたいと願い続けている。太陽になれないジレンマも、自分たちの無力さも、それでも輝きたいと思う傲慢な自分たちも、強がりも見栄も捨てて俺は自分たちの全てを曝け出して進むべく、この新曲に今のジュピターのありのままの全てを詰め込んだ。それはファンの前では決して弱みを見せてこなかった俺たちにとって、今までのイメージを根底から覆す大きな博打だった。

 そして翔太と北斗に指摘されたように、俺はこの曲の中に密かに北沢への想いも隠していた。その想いが北沢に届くかは定かではないが、これが俺なりに考え抜いて見つけた、田中さんの言う「俺にしかできない」ことだったのだ。

 

 二人に続いて俺も楽屋を出ようとした時、扉横のハンガーラックに三着の真新しい衣装がぶら下がっているのが視界に入った。

 ジュピターのメインカラーである黄緑のラインが至るところに散りばめられたジャケットと、真っ白なパンツ。この新衣装は、アンコール時に着用する予定になっている。それは即ち、俺が作詞した新曲を初披露する時だ。新たな衣装に身を包んで既存の曲とは全く印象の違う新曲を披露して、そんなジュピターをファンや北沢は受け入れてくれるだろうか。数時間後のすぐそこに迫ってきている未来が、今は全く想像できない。

 

(……俺が迷っちゃダメだよな)

 

 拳を握りしめて、北沢を初めて抱きしめた夜を思い出す。無力さを誤魔化すように抱きしめたあの日、俺はもっともっと強くなりたいと願った。大切な人の笑顔を守れるだけの、強さと煌めきが欲しいと。

 だからこそ、俺が迷ったらいけなかった。迷い続けている人間が誰かを導くような存在になれるはずがないのだから。一人でも多くの、そして一番身近にいてくれた大切な人を照らせる人間になるの為には、俺は自分が正しいと思った道を振り返らずに歩いていくしかない。その道のりが、いつか輝くことだけを信じて。

 

「ここで変わらねぇとな」

 

 間違いなく今日のライブは大きなターニングポイントになる。俺個人としても、ジュピターとしても。そして今日という日が、俺が初めて手掛けた新曲が、あの日高台の公園で一緒に見た夜空に一際輝く木星のように、北沢の闇を照らす星になれるようにと、俺は切に願う。

 覚悟を決めるようにドアノブに手を掛ける。俺は二人の後ろ姿を追って、楽屋を後にした。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 天ヶ瀬さんのライブ当日、東京は朝から雨雲に覆われていた。リハーサルのため天ヶ瀬さんが昼過ぎには部屋を出て行ったのを見送った後はいつものようにボンヤリと一人でテレビを見て時間を潰し、開演の丁度一時間前に私も部屋を出た。直前まで見ていたニュース番組でこの鬱陶しい小雨は今より強くなることはなく、今日は弱い雨が降ったり止んだりの繰り返しだそうで、明日の早朝には雨雲が東京の上空を抜けていくのだと伝えていたことを思い出しながら、一人で雨を含んだアスファルトの上を歩いていく。すれ違っていく人たちの傘と私の持つビニール傘がぶつからないように気を付けて歩きながら、最近は天気の良い日が続いていたのに、よりによってどうしてライブ当日に雨が降るのだろうと月並みなことを考えながら休日の人の多い電車に乗り込んだ。

 会場の最寄駅のホームに降り立って、ライブに来たと思われる集団から少し距離を保ちながら歩くこと数分。会場に着いた私は大勢の人が並んでいる入場口の隣に設置されていた招待者案内口から場内に案内された。大勢の人と期待と興奮が溢れ返る薄暗い場内をなんとか通過して、ライブホールに到達する。前回のライブ同様、全てが立ち見席となっている小さなホールは既に多くのファンで埋め尽くされていて、いまかいまかと開演を待つファンの熱気で包まれていた。

 このライブ前の独特な緊張感が、ひどく懐かしく感じられた。

 

 ––––ライアー・ルージュを歌った時、天ヶ瀬さんはどんな風に観ていてくれたのかな。

 

 幕が降りたままになっているステージを遠目に、既に過去形になってしまっていた、アイドル時代の自分を思い出す。

 劇場の小さなライブ施設で初めてもらったソロ曲を披露した時、会場にいた天ヶ瀬さんの瞳に私はどんな風に映っていたのだろう。あの時は、私がある日を境に突然ライアー・ルージュを歌えるようになったことに困惑したままで、本番直前の楽屋でその困惑を莉緒さんに相談したんだっけ。無責任な言葉で莉緒さんが背中を押してくれたことも、本番前の舞台袖で一人震えながらマイクを握りしめたことも、ステージに初めて立った時に感じたスポットライトの熱も、あの日の思い出たちがひっくり返ったカゴから零れ落ちてくるようにどっと胸の中に溢れ出てきた。

 遠い日の一コマになってしまった劇場での出来事を一つ一つ振り返っているうちに、懐旧の念にかられていくのが分かった。本番前の胸が張り裂けそうになるほどの緊張感も、個性や才能豊かなメンバーたちに劣等感を抱いて何度も苦汁を嘗めたことも、あまりに遠く離れすぎていた先輩たちの背中をガムシャラに追いかけたことも、酸いも甘いも嚙み分けたあの日々の全てが辞めた今となっては宝石のように輝いて、アルバムを捲っていくように一コマずつ脳裏に浮かんでくる。次から次に捲られていくあの頃のアルバムは、それが私にとってかけがえのない時間だったことをしきりに伝えているかのようだった。

 それらは過去の出来事になってしまった途端に何割り増しに美化される、俗に言う『思い出補正』という現象なのかもしれない。そう言い聞かせてみても、その考えを頑なに否定する私が心の何処かにいるようだった。短い時間ではあったが真剣にトップを目指して多くの努力を費やしたアイドル時代の時間は、決して『思い出補正』などといった安い言葉で片付けられるような半端なモノではないと。美化された思い出として一括りにしようとしている今の私に対し、ひたむきに上だけを見て走り続けていたあの頃の私が、何かを懸命に訴えかけようとしているのだ。

 

 ––––もう手放した過去のはずなのに。

 

 我ながらこの期に及んで往生際が悪いなと思った。

 父が亡くなっていた以上、私がアイドルを続ける理由はない。そもそも父の目に留まりたいと思わなければアイドルになろうなんて考えてもいなかったのだから、アイドルを辞めるのは至極当然の結論だ。

 それなのに、どうして目的を失ったアイドル活動をまだ続けたいという想いが微かに残っているのだろう。目的もなく、ただ楽しいから、好きだからで通用する世界じゃないと分かっているのに、それでもあの頃の時間を恋しく思ってしまうのは何故なんだろう。

 

 ––––中途半端な未練も、思い出も、全て捨て去ることができれば楽になれるんだろうけど……。

 

 だけどそれができるほど私は器用ではないようで、今でもこうして過去の日々を懐かしみ、ほんの少しの渇望を抱いている。父の死を未だに受け入れられないのと同じだった。どうしようもないと頭では理解していながらも、私は次の一歩を踏み出すことができていなかったのだ。

 だけど、その一歩を踏み出すための新たな目標やキッカケが、この先の人生で見つかる気がしなかった。実現不可の夢となってしまった父との再会も、その為に始めたアイドル活動も、これら以上に情熱を持って向き合えるモノが私の前にふっと現れるなんて到底考えられなかったのだ。

 きっと私は死ぬまでここで足踏みをしていくんだろうなと思う。ポッカリと胸に穴を開けたまま、絶対に完成しないジグゾーパズルの残骸を大事に抱え続け、時にはこうしてアイドル時代の思い出のアルバムを捲って回想しながら、退屈な世界でぼーっと生きていくのだ。明日も明後日も、きっと一年後も十年後も、そうやって呪われた砂時計をひっくり返して生きていくのだろう。

 僅かな照明が消えて、暗くなったライブホールが一気に闇に包まれていく。灯りが消えていくのに呼応するかのように巻き起こる、はち切れんばかりの黄色い歓声。ブザーが鳴って、闇の向こう側にあるステージの幕がゆっくりと上がっていくのが分かった。心臓がドクンと高鳴って、高揚感が一気に臨界点を突破していく。その感じがやっぱり懐かしいなと思ってしまった。

 この時、私は初めて夢を叶えるためだけに始めたアイドル活動を心底楽しんでいたことに気が付いた。だけど悲しい哉、その楽しかったアイドル活動に私が戻ることは今後一切ないのだろうなとも思う。だって父が亡くなったと知った今、その日常に私がいる意味はないのだから。

 私は複雑な想いを絡ませながら、ステージに立つ三人の人影を見守ることしかできなかった。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 アンコールの声援を受け、一呼吸ついて俺たちがステージに戻ってくると会場はどよめきに包まれた。ステージ場を照らすライトに含まれる前列のファンの人たちの視線が俺たちの顔から微妙に外れているのが見える。ファンの皆も何か俺たちの雰囲気が違うことを察してか、今までとは少しだけ会場の空気が変わっているのは確かだった。

 

「みんなー、アンコールありがとう! これ新衣装なんだけど、カッコいいでしょ!?」

 

 自慢げに新衣装の裾を引っ張って、翔太がファンに向かってアピールをする。ぎゅうぎゅうに詰められた観客席からすぐに翔太の言葉を肯定する声が数え切れないほど飛んできて、翔太は満足げに笑顔を浮かべていた。

 

「新衣装だけじゃなくて、今日はエンジェルちゃんたちに特別なプレゼントを用意してきたんだ」

 

 今度は北斗がそう煽って、一際大きな黄色い歓声がどよめきに変わった。一歩ずつ前に出た二人の後ろで会場の反応を見守っていた俺の方を、北斗が振り返る。その視線の先にある何百人もの視線が俺に集まるのを肌で感じて、俺も二人に並ぶように一歩前に踏み出した。

 

「今日は新曲を用意して来たんだ。それを今から、皆の前で披露したいと思う」

「この新曲は冬馬くんが初めて作詞したんだよー! だから誤字脱字あっても大目に聴いてあげてね」

「ちょっ、おい、翔太! バカにしてんじゃねぇよ!」

 

 どっと会場が笑いに包まれる。

 そんなMCするなんて打ち合わせでは一言も言ってなかっただろ。急なアドリブを織り交ぜてきた翔太に思わずそう言いそうになったが、翔太の俺を見る眼がいつもの悪戯っ子な眼じゃないことに気が付いて俺は口をつぐんだ。ニッと笑う翔太の表情が、ほんの少しだけ俺の緊張を解いてくれた気がしたのだ。もしかしたら翔太なりの気遣いだったのかもしれない、なんて思いながら俺は静かに息を吐いて、今度は二人より更に前へと大きな一歩を踏み出した。

 

「きっとこれから俺たちが歌う曲を聴いて、ジュピターらしくないって思う人が多いかもしれない。だけどこれが俺たちジュピターの本当の姿で、ありのままの姿をファンの皆に届けたい一心で俺はこの曲を作ったんだ」

「今までの俺たちとは一味違う、素のジュピターを皆に届けるよ」

「だからちゃーんと最後まで聴いててよね!」

 

 両脇の仲間と視線を合わせて、力強く頷く。

 この一曲が俺たちジュピターの再出発を誓う新たな門出となるように、そしてこの会場のどこかにいる北沢の心の闇を照らす木星になるように––––。

 会場のファン全員に向かって、俺は高らかに宣言した。

 

「今までファンの皆と歩いてきた道も、これからファンの皆と歩いていく道も、全てをこの一曲に乗せて届けるぜ! それじゃあ聴いてくれ、『Planet scape』」

 

 一気に照明が落ちて、会場がペンライトの灯りだけが残る。息を飲むように静まり返った場内にゆったりとしたピアノの伴奏が響き渡って、闇の中で静かに揺れ動く無数の灯りに向かって俺たちは歌い始めた。

 

 

“選んでゆく道の先が 分からなくて だから不意に昨日さえも 眩しくなる”

 

 961プロを抜けてインディーズ活動を始めたあの日から、俺たちは今目の前に広がってるような真っ暗な闇の中をずっと歩き続けてきた。あの日俺たちが選んだ道が正しいのかも、俺たちがここから何処に向かって進んでいるのかも、何も分からないまま歩き続ける毎日。そんな不安な夜を越えて行く度に、961プロにいた頃の傲慢で勘違いをしていた自分たちが眩しいほど輝きを増していくような気さえもしていた。

 

“振りむいて問いかけた 今、何が出来るのだろう”

 

 闇の中をひたすらに歩くことに疲れて振り返ると、遠く離れてしまった光の中にいる過去の俺たちが、ジッと見つめていた。まるでこの道が間違いだと言わんばかりに、あの頃の765プロの連中に向けていた高圧的な態度で嘲笑うような視線を、今の俺たちへ向けているのだ。

 そんな961プロ時代の自分たちに、これから俺たちはどうすれば良いのかと何度も問いかけてみた。だけど過去の光の中に閉ざされた俺たちは何も答えてはくれなかった。ただただ冷ややかな目で見つめるその瞳は、「今のお前たちにできることなんて何もないんだよ」と告げるように、自ら栄光を捨てた愚か者を写し出しているだけだ。

 

“信じたい 微かなヒカリだから描ける未来 There is my hope”

 

 そんな過去の自分たちが他者に向けてきた嫌な視線を常に背中で受け止めながら、時には現在地を確かめるように光の中の自分たちを振り返って、今日まで闇雲に足を動かしてきた。961プロ所属ではなくなって、自分たちの力不足と傲慢さを嫌というほど味わって、だけどそんな今のひ弱な俺たちだからこそ、描ける未来があるのだと信じて。

 お互いの顔すらも認識できないほど真っ暗だったステージに微かなスポットライトが射し込む。依然としてステージの向こう側にいるファンの顔は誰一人として見えなかったが、翔太と北斗の顔は認識できるほどには明るくなって、俺たちは互いに顔を合わせる。ずっと俺たちを冷めた目で見つめていた961プロの亡霊を振り払うように、俺たちがあの日から歩んできた道に意味を持たせるために、全ての想い乗せてそれぞれの声を重ね合わせた。

 

“果てしないこの空をまっすぐ渡って キミを照らせるような 惑星になると いつか願ってる 不確かな今日も 希望描くための鍵になること……”

 

 ––––自分たちの力を証明できる場所で、今度こそ真のトップアイドルを目指す。

 961プロを抜けた時に建てたこの誓いが、果たして俺たちが選んだ道の先で叶うのかどうかは分からない。だけどいつの日か、地球の三百倍の重力で人々を引き付ける木星の名に相応しいアイドルになれることだけを信じて、俺たちが今日まで積み重ねてきた何度も迷って悩んだ不確かな一日も、いつかトップアイドルになるための鍵になると信じて、例えこの先も深い闇が続いていたとしても、迷わないで歩き続けていこうと思う。歩き続けて夢を叶えることでしか、俺たちの選択が正しかったと証明することはできないのだから。

 俺たちは再び顔を合わせて、散々迷って立ち止まった今までの弱い自分たちと決別するかのように、声を揃えた。

 

“祈りながら歩いてく”

 

 サビが終わって、観客席から疎らな拍手が起こった。

 再び証明が暗転して、ステージが深い闇に包まれる。ここから先はジュピターの弱さだけじゃなく、俺が北沢に対するメッセージを隠した歌詞が続いていた。

 真っ暗な観客席を見つめて、何処かにいるはずの北沢に俺の伝えたい想いの全てが伝わりますように。そう心の中で願う。駆け足気味のギターの間奏を経て、まずは翔太に小さなスポットライトが当てられた。

 

“傷をつくるその数だけ怖くなって 夢見ていたその理由を忘れるけど”

 

 初めて喫茶店で話をした時の、あのギラギラした眼の北沢が思い浮かんだ。

 人との繋がりを馴れ合いだと言い切って、俺たちのように誰の力も借りずに夢を叶えて見せたいと口にした北沢の姿が、あの時はかつて思い上がっていた昔の俺とそっくりだと思っていた。だけど今となっては、それは誤った解釈だったのかもしれないと思う。

 あまりに多くのモノを背負っていた北沢の夢に対する想いは、あの時の傲慢な俺なんかより何百倍も強かったのだ。周囲の仲間をライバルと言い聞かせて、負けず嫌いな性格が災いしてきっと沢山周囲の人を傷付けてその度に自分も傷付いて、それでも叶えたい夢のために爆進し続けて、好きとか楽しいとか、純粋に夢を見る気持ちさえも忘れて、北沢は独りきりでずっと頑張り続けてきたのだろう。そんな北沢と思い上がっていた頃の自分と重ね合わせて、勝手に分かった気になっていた俺が恥ずかしかった。

 北沢は俺のことを尊敬の眼差しで見つめてくれるが、俺からすれば北沢の方が遥かに強くて逞しい人間だ。見たくなかった現実を沢山突き付けられて、前のようにただ闇雲に進むだけじゃ夢は叶わないのだと知ってしまって、何かと臆病になってしまった今の俺にとって、傷付いてでもなりふり構わず夢に向かって一直線に進もうとする北沢の姿は眩しく見えて、ほんの少しだけ羨ましかったのかもしれない。

 だけどそれ故に、北沢は明確な目標が消えた今、燃え尽き症候群のようになってしまっている。夢に向かってひたむきに走り続ける姿に眩しさを感じていた分、今の北沢の姿を見ていると俺まで自分のことのように胸が苦しくて仕方がなかったのだ。

 歌い終えた翔太が再び闇に飲み込まれ、次は北斗の方へとスポットライトが向けられた。

 

“失くせない約束が繰り返しココロの中灯るから 目をひらく何度だって、答えを出せる There is my mind”

 

 父と会うことが叶わない以上、アイドル活動を続ける理由はない。北沢はきっとそう考えているのだろう。

 だけど真剣にアイドル活動のことで悩む北沢も、ライアー・ルージュを歌うステージ上の北沢も観てきた俺は知っていた。北沢にとってアイドル活動は夢実現の為だけの手段ではなくなっていたことを。勿論第一に『父との再会』という目標があったのは間違いないのだろうけど、それでも情熱を持って夢に向かって走り続ける北沢の根底に、純粋にアイドル活動を楽しんでいる姿が垣間見えていたのだ。

 だからこそ、理由がなくなってしまったからと簡単に割り切って辞めてほしくなかった。

 961プロを辞めて多くのモノを失って、自分の無力さを痛感させられて、それでも再スタートを切れた俺たちのように、例え信じていた人に裏切られても、アイドルを続ける理由や明確な目標を失ったとしても、諦めずに続けることで今まで知らなかった景色を知ることができたり、新しい何かを見つけ出せることはできるかもしれない。今すぐにじゃなくてもいい、迷いながらでも良いから何よりも夢中になれたアイドル活動を続けて、その中で新たな人生の夢や目標を見つけてほしい。

 この気持ちが俺の単なる願望だけじゃないことだけを祈って、再びスポットライトに照られされた俺たち三人は声を重ねた。

 

“果てのない暗闇も迷うコトは無い キミが見つけだしてくれるのなら”

 

 これから先、何度北沢が迷って立ち止まって深い闇に飲み込まれそうになったとしても、北沢が俺を見つめ続けてくれる限り、俺は彼女の行く道を照らす木星のような存在であり続けたいと願った。その為に、もっともっと自分の選んだ道を振り返らずに進めるような強い存在になりたいと思う。

 そして、

 

“たとえこの街が変わり続けても ずっとここにいるよ 瞬くように 同じメロディ 流れてる”

 

 俺が住んでいる街のように時間が経って色々なモノが変わっていったとしても、それでも俺はずっと大好きな北沢の側で変わらずに支え続けれるような存在でいられるようにとも。

 二番のサビが終わって、再び俺たちの視界は幾多のペンライトの光だけになり、その幻想的な緑のペンライトの海を、俺はボンヤリと立ち尽くして見つめていた。あぁ、これがもしかしたら今の無力な俺たちにしか見えなかった景色なのかもしれないと、そんなことを考えながら。もしそうだとしたら、何度も紆余曲折して立ち止まって見てみる景色も決して悪いモノじゃないと、今ならそう思うこともできた。

 さぁ、ここからはいよいよソロパートだ。

 まずは俺の左隣の翔太にスポットライトが当てられる。

 

“いつだってひたむきに 恐れずに輝きたい”

 

 信じた夢は全て叶うと信じて止まない、子供のような無邪気な笑顔を浮かべて翔太は歌っている。

 ––––あぁ、そうだよな。夢を語る時はこれくらい笑顔で語らないといけねぇよな。

 いつの間にか忘れかけていた夢を信じるひたむきさを、翔太が教えてくれているような気がした。得意な笑顔を浮かべたままに、まだまだ小さいけれどそれでも多くの夢を掴み取ろうとする手のひらを俺の肩に乗せる。

 

“信じてる 微かなヒカリだから描ける未来 There is my hope”

 

 次にスポットライトに当てられた北斗は、ほんの少しだけ儚げな表情を作って歌っていた。その表情から、ふと北斗が高校時代までピアニスト志望だったと聴いた日のことを思い出した。残念ながら指を怪我してその夢は潰えてしまったのだと話していたから、もしかしたら北斗は俺たちより何倍も夢を見続けることや叶えることの難しさを知っているのかもしれない。

 だけど今、俺の方を向く北斗は決して悲観的な表情をしていなかった。それどころか翔太と同じように自分たちの輝く未来を信じて止まないような、そんな純粋に夢を信じ続ける瞳をしているようにさえも見える。

 ぽっと優しく北斗も俺の肩に乗せ、一瞬だけスポットライトが消えた。スポットライトが消えた拍子に二人の手のひらが肩を離れて背中へ移ると、「行ってこい」と言わんばかりに俺の背を力強く押してくれた。

 ここからは俺のソロパートだった。

 二人より一歩前に立って、俺は目蓋を閉じる。その刹那、目蓋の裏に北沢の色んな顔が映っては、走馬灯のように次から次へと流れていった。いつもの無表情な顔、少しだけ愛想のない笑った顔、綺麗な眉をしかめる困り顔、アイドルの話をする時の真剣な顔、そして俺が一番好きな不器用に浮かべる笑顔。

 上手くなんか歌えなくていい。声が裏返ったって、カッコ悪く音程を外したって構わない。どうか俺の歌声が北沢の胸の中を覆い尽くす絶望の闇を掻き消す光になりますように。

 眩しいスポットライトが、俺を捉える。あの日、抱きしめるばかりで守れなかった北沢の笑顔をもう一度だけ思い浮かべて、俺は北沢への想いの全てを込めてマイクに声を通した。

 

 

 

“カタチ無い哀しみや涙をさらって きっと満天の空 届けたいから––––”

 

 

 

 俺のソロパートが終わると、ステージが一気に明るくなった。いつの間にか隣に立っていた二人が満面の笑みで俺を見つめている。

 その二人の顔付きを見て、俺はこの時確かに確信した。無力さ、弱さを受け入れることのできた今の俺たちならどこまでだって飛んで行けるのだと。例え空が灰色の雲に覆われたとしても、太陽が沈んで不安な夜が訪れようとも、この二人と一緒なら俺は大きな空へと羽ばたいて、多くの人たちを照らす木星のような存在になれると––––。

 ずっとずっと手のひらで握り締めていた“あの感触”が、確かにこの時俺の手のひらに物体となって存在していた。その感触を大事に大事に握りしめながら、俺たちは最後のサビを歌い上げる。

 

“果てしないこの空をまっすぐ渡って キミを照らせるような 惑星になると いつか願ってる 不確かな今日も 希望描くための 鍵になること 祈りながら 歩いてく”

 

 Planet scapeが終わると、途端に今日一番の歓声と拍手が鳴り響いた。それは今まで俺たちジュピターがファンから受けてきた喝采や称賛の中で、一番に近い熱を持った反応だった。

 ––––弱い俺たちも受け入れてもらえたんだ。

 そう思うと心がスッと軽くなって、俺たちは三人手を繋いで横一列に並んだまま、深く頭を下げる。ゆっくりと顔を上げると、真っ暗な会場は徐々に明るくなり始めていていて、今まで見えなかった観客席にいるファンたちの満足そうな顔を確認することができた。その景色はまるで俺たちジュピターが961プロを抜けてからずっと過ごしてきた長い夜が明けたかのように、目を開けていられないほど明るくて眩しく感じられたのだった。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 不思議な感じがした。

 天ヶ瀬さんの、翔太くんの、そして北斗さんの歌声が私の喉を一直線に通り過ぎていって、Planet scapeの歌詞が私の胸に入り込んでは深い海の底を突き進む潜水艦の如くグルグルと胸の中で渦巻いて、あの日高台の公園で見た木星のように闇の中で一閃のきらめきを放ち、胸の中を覆い続けていた闇を徐々に照らしていく。その光はとても温かくて優しくて、私を包み込んでくれているようだった。胸の中に居座り続ける深い闇を完全に消し去ることはできなかったけれど、闇を押し消そうとする三人の光は、ほんの少しだけ私の行く先を照らしてくれているような気がした。

 天ヶ瀬さんが作詞したPlanet scapeが終わって会場が明るくなった時、その明るさに怯んで私は思わず瞳を閉じた。すると頬に一滴の涙が伝ってきて、そのことに気が付いた途端、止め処なくボロボロと涙が溢れ出てきた。涙を無理やり止めようと何度も目元から溢れ出てくる涙を拭って鼻の先をこする。だけど必死に抵抗をする度に視界が潤んで涙が止まらなくなって、もうどうすればいいのか分からずに、私はその場でうずくまりながら息を殺して泣き続けた。

 ステージでは三人が簡単な挨拶をしており、ライブは終幕を迎えていた。いつになくやりきった表情でファンに向かって手を振る天ヶ瀬さんを見ていると更に涙腺が緩んで、まともに直視することさえも許してくれなかった。そして潤んだ視界の端で天ヶ瀬さんの姿が舞台袖に隠れた瞬間、私は無意識のうちにモノクロ調のタイルの床を蹴って、全速力で走り出していた。ライブの余韻に浸るファンの人たちを縫うように掻き分けて、十二月の記憶を頼りに道なりを走っていく。眼から溢れる涙を拭いもせずに一心不乱に走り続けた私が辿り着いたのは、以前恵美さんと琴葉さんと共に訪れたジュピターの楽屋だった。

 

「北沢?」

 

 ドアをノックしようとした瞬間、背後から名前を呼ばれて振り返る。振り返った先では汗を滲ませた真新しい衣装に身を包んだ三人が、少しだけ驚いたような目で私を見下ろしていた。真ん中で私を見つめる天ヶ瀬さんの両脇にいた二人が、すっと離れて踵を返す。おそらく今歩いてきた道を逆走していったであろう二人の姿が見えなくなると、天ヶ瀬さんは言葉を探すように視線を宙に泳がせながら、後頭部を掻いた。

 

「……アイドル活動、楽しかったか?」

 

 僅かな沈黙を経て天ヶ瀬さんの口から飛び出した第一声はそれだった。意外な問いかけを聴いて、私は思わず涙を止めた。私がですか?と訊き返すと、「北沢がだよ」と天ヶ瀬さんは答える。

 

「楽しいか楽しくないかと言ったら、楽しかったかもしれませんけど……」

 

 歯切れの悪い言葉しか出てこない。曖昧な返事になってしまったが、これが私の本音だった。

 上手くいかないことばかりで、時には泣きたくなるほどの挫折もして、それでも今振り返ればそんなアイドル活動を少なからず楽しんでいた私がいたのは確かだった。だけどそれは絶対に叶えたいと強く願った夢があったからで、その夢が実現不可となってしまった今はほんの少しだけ私が口にした言葉の意味合いが変わってしまうような気がする。アイドル活動は確かに楽しかった。だけどそれは結局私にとって何も生み出さない無駄な時間だったのだ。

 天ヶ瀬さんは「そっか」とだけ返すと、視線を私から足元へと落とす。何度か口元が動きかけたような気がしたが言葉は出てこなかった。やけに慎重に天ヶ瀬さんが言葉を選んでいるのが分かった。

 

「……楽しかったならさ、続けるべきだと思うぜ」

 

 ようやく顔を上げて汗を含んだ前髪を除けながら、天ヶ瀬さんがそう言った。

 ––––でも。

 天ヶ瀬さんが私のために必死に言葉を選んでくれているのは理解していた。そしてそれが気休めや慰めの言葉なんかじゃなくて、彼なりの本心なのだとも。そんな彼の思いやりを私は咄嗟に可愛げもなく否定しようとしてしまって、慌てて出かけていた言葉を飲み込もうと口を閉じた。だけど静止をかけるのが一歩遅くて、私は天ヶ瀬さんが今日のライブで私に伝えたかった想いを、真っ向から否定する言葉を口走ってしまった。

 

「目標も夢もないのに、続ける意味ってないと思うんですけど」

 

 溢れた言葉がそのままブーメランになって、自分の胸に突き刺さる。口に出してしまってすぐにしまったと思った私は、慌てて天ヶ瀬さんから目を逸らした。

 

「そんなに続ける理由が必要か?」

「え?」

 

 優しい声が誰もいない楽屋前の廊下に響いた。自分の想いを真っ向から否定さてもなお、天ヶ瀬さんは涼しい顔で私を見下ろしていた。

 

「そんなに理由が必要なら俺が一緒に探してやるよ。これから北沢がアイドルを続ける理由も、新しい夢も」

 

 てっきり差し伸べてもらった手を拒む私を軽蔑したり、それこそ「もういいから」なんて言葉と共に諦めたりするものとばかり考え、身構えていた私に掛けられたのは、思いも寄らない言葉だった。ひとつまばたきをして私をじっと見つめる天ヶ瀬さんの思考が読めず、私は頬に残った乾いた涙の痕を動かして問いかけた。

 

「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」

 

 家出をしてきた私を泊めてくれたり、こうして少しでも前向きにさせようと気に掛けてくれたり、私がアイドルを活動を通して新たな夢や目標を見つける手助けをしてくれるとまで言ってくれたり。

 天ヶ瀬さんがここまで私に気を遣ってくれる理由が、未だに何一つ分からなかった。私は天ヶ瀬さんのような人を惹きつける才能も、大空を飛ぶ術も持たないただの凡人だ。そんな私を気遣うメリットが天ヶ瀬さんにあるとは到底思えなかったのだ。

 天ヶ瀬さんは困惑したようにしかめっ面をして苦笑いをしている。だけど何処か余裕を感じさせる表情で周囲をしきりに確認すると、再び後頭部を掻いて一歩だけ私の方へ歩み寄り、瞳の奥をじっと見据えた。それは何かを覚悟したかのような、強い決意が込められた眼差しのように見えた。

 

「聴いてくれ。俺は北沢のことが––––」

「いやあぁ、素晴らしいライブだった! あれこそまさしく私が求めていたパッションの結晶体だっ!」

 

 天ヶ瀬さんが私の瞳に向かって何かを言いかけた時だった。二人だけだった世界の静寂を突如破壊する男の陽気な声が廊下中に轟いた。

 驚いて肩をビクッとさせると、慌てて後退りする天ヶ瀬さん。その視線はもう私の瞳ではない別の何かを捉えていて、私も反射的に背後を振り返って天ヶ瀬さんの視線を追う。私たちの視線の先では翔太くんと北斗さんが曲がっていった角の辺りで、季節外れのポロシャツを着て襟を立てた大柄な男が立っていた。

 

「まっ、またアンタかよ!」

 

 天ヶ瀬さんはこの大男を知っていたようだ。天ヶ瀬さんの言葉に怯みもせず、堂々と大男が私たちの方へと歩いてく。近付いてきて目に入ったポロシャツの胸にプリントされた『315 Pro』の文字、そして息苦しさを感じさせる大男の威圧感に、私は既視感を覚えた。

(あれ、この人ってこの前のライブにも来ていた人じゃ……)

 前回のライブ後に、同じようにこの楽屋前ですれ違った時のことを思い出す。あの時もパッションがどうとうかこうとか話していた記憶があるから、間違いないと思った。確か新興勢力のプロダクションだって北斗さんが言っていたっけ。

 

「しゃ、社長! 挨拶もしないでいきなり失礼ですよ!」

 

 今度は慌てた様子で男が角の先からやってきた。大男とは打って変わってか細い華奢な身体つきの男は髪を一つに束ねるほどに伸ばしており、中性的で綺麗な顔立ちをしていた。低い声と喉から出た喉仏がなければ女性と見間違われてもおかしくないような、そんな風貌だ。

 

「あ、アンタは……?」

 

 新たにやってきた中性的な顔をした男は天ヶ瀬さんも初対面だったらしい。社長と呼ばれる大男の前に立つと、綺麗な仕草でポケットから薄い四角形のケースを取り出し、物腰が柔らかい様子で一枚の紙を天ヶ瀬さんに差し出した。

 

「申し遅れましたが、私、315プロダクションのプロデューサーを勤めております石川と申します」

「石川さん……?」

 

 礼儀正しい口調と共に天ヶ瀬さんが差し出された名刺を受け取ると、石川と名乗る男は突如視線を私へと向けた。

 

「貴女は確か765プロダクションの北沢志保さんですよね?」

「え、あ、はい。元ですけど……」

「元、ですか?」

 

 石川さんは私のことも知っていたようで、ジュピターの楽屋前にいることも、私が“元”と付け加えたことにも疑問を抱いている様子だった。だけどあまり興味がなかったのか、それ以上の詮索はせず何も言わないまま視線を天ヶ瀬さんに戻した。

 受け取った名刺をボンヤリと見つめる天ヶ瀬の表情には明らかに迷いが生じている。その迷いを、石川さんは見逃さなかった。

 

「本日はジュピターの皆さまへの正式なオファーを出すためにやってきました。是非私たち315プロダクションにジュピターの皆さんの夢を叶える手助けをさせていただけませんか?」

 

 石川さんの言葉が、静かな廊下に木霊する。

 すぐに断るのかと思いきや、天ヶ瀬さんは黙り込んだだけで何も言わなかった。その姿を見て、我慢しきれずに私が先に口を開いてしまった。

 

「……天ヶ瀬さん、事務所に入るんですか?」

 

 私の言葉を聴いてもなお、天ヶ瀬さんは罰が悪そうな形容もできない妙な表情を浮かべるだけで、何も言葉を発しなかった。




NEXT → Final Episode : 俺と私のOver again

次回でやっと最終話。
なんとか30万字以内で収まりそう。それでも長いか。
ここまで頑張って読んでくれた皆、最後まで付いてきてくれよなぁ〜。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Final episode:俺と私のOver again

いよいよ最終話。
冬馬と志保のこれからと、二人の関係性の着地点をしっかりと綺麗にまとめて終わらせます。
と言いつつ、なんだかんだ終わらせたくない気持ちの方が強いので初投稿です。
※ちゃんと完結させます。


 

「是非私たち315プロダクションにジュピターの皆さんの夢を叶える手助けをさせていただけませんか」

 

 石川と名乗る315プロダクションのプロデューサーの言葉が、不思議なくらいストンと肺の底へと落ちていった。真っ直ぐに俺へと向けられた石川さんの瞳は澄んだ川のようにとても綺麗な色をしていて、まるで何も汚れを知らない子供のような純粋な色を灯していた。

 咄嗟に受け取ってしまった名刺に視線を落とす。シンプルな名刺の上からは石川さんの本名と、『315プロダクション プロデューサー』の肩書きの文字列がジッと俺を見上げていた。石川さんと暑苦しい大男の社長の雰囲気や話し方、態度などから、今まで何度もしつこく詰め掛けてきた他社の連中とは違うことは一目で分かっていた。この人たちは俺たちを金のなる木だとは思って声をかけているのではなく、純粋に今のジュピターの実力を見て評価してくれているのだと。インディーズ活動を始めてから今日まで多くのスカウトを受けてきた中、こういった正当な形で俺たちを評価し、誘ってくれたのは皮肉にもこの315プロダクションが初めてだった。

 もしかしたらこの事務所でなら俺たちが目指している『真のトップアイドルになる』という夢が叶うかもしれない。そんな予感を感じさせる石川さんの真っ直ぐな誘いが、俺の心を大きく揺さぶる。石川さんは俺の揺れ動く心境を逃がさないとばかりに、ひたすらに監視するかのように綺麗な色をした瞳を向け続けていた。

 

 きっとこの人たちは信用できる。

 この人たちの下でなら俺たちは自分の実力を示して思う存分夢を追いかけることができる。

 

 ここで315プロダクションの誘いを受けることが最善なのだろうなと思った。だけどそれを素直に受け入れてしまったら最後、俺たちがこの一年間で頑張ってきた時間はどうなってしまうのだろう。結局事務所に所属するのなら、俺たちは自分たちじゃ何一つ成し遂げることができなかったと認めてしまうことになるのではないか。それは一種の負けのような選択な気がして、石川さんの誘いに素直に首を縦にふることができなかった。

 そんな想いたちが交錯しあって、素直に最善の選択を受け入れられない自分と誘いを承諾することを勧める俺とが胸の内で張り合っているのだ。それに加え、この大事な選択の局面で躊躇いを与える存在は俺だけではなかった。

 

「……天ヶ瀬さん、事務所に入るんですか?」

 

 思わず石川さんの眼差しから目を逸らした時、今度は俺を見つめる北沢の姿が視界の隅っこに入り込む。まるで断ることを期待するような言い方に聴こえた。その北沢の言葉に俺は何も答えれず、あやふやな態度のまま黙り込むことしかできなかった。

 

 

 

Final Episode : 俺と私とOver again

 

 

 

 シンと静まり返った廊下で石川さんと北沢と、そして少し離れたところで季節感のないポロシャツを着た315プロダクションの男が俺を見つめている。この場で俺に目を向ける三人が誰も口を開こうとせず、ただひたすらに俺の言葉を待っているようだった。

 

「……それは俺一人で決めれることじゃねぇ。北斗と翔太とも話し合わないと」

「お二人とはここに来る途中でお会いし、既にお話させていただきました。お二人とも、天ヶ瀬さんの決断を尊重すると申していました」

 

 苦し紛れに出た逃げの一手だったが、それもあっさりと退路を絶たれてしまった。

 俺に任せる、といった答えが確かに二人っぽくて、石川さんの話が嘘ではないと思った。助言やアドバイスなどはするけれど、あの二人はいつも大事な局面での選択には口出しをしないで、俺に一任させてくれている。961プロを抜けた時だって最初に言い出したのは俺で、二人は何も言わずに俺の後を付いて来てくれただけだった。それこそ、まるで俺の意見はジュピター全体の意見だと言わんばかりに。

 そんな二人の態度を、俺は一度たりとも人任せだとは思ったことはなかった。例えるなら自分たちの人生を俺に投資してくれているような、そう思えるほどに二人は俺のことを心底信じてくれていることを感じてたのだから。

 だから二人は今回俺が石川さんの誘いを受けようとも受けなくても、きっと何も言わずに付いて来てくれるだろう。二人の揺るぎない信頼がありがたい反面、今は苦しくもあった。石川さんの誘いに迷いを生じらせているのが、ジュピター全体の意見ではなく、ただ俺一人の身勝手な感情だと気付いていたからだ。

 

「もちろん、すぐにとは言いませんよ。今日はライブ後に突然押しかけてしまったのもあって、今後のことなので時間をかけて考える必要もあるでしょうし」

 

 結局曖昧な返事しかできなかった俺に、石川さんはこれ以上畳み掛けてくるようなことはしなかった。石川さんが攻勢を緩めて一歩離れたところで俺たちの様子を伺っていた315プロの社長に対し、「社長は何かありますか?」と話を振ったタイミングで俺は北沢の顔色をチラリと伺ってみた。北沢は普段よく見る無表情に近い顔つきで俺を見つめていた。今にも俺に何か話しかけてきそうだった。自然を装ってその視線から逃げるように、周囲に目を走らせる。今は何も言われたくないと思った俺の胸の内を察したのか、北沢は口を開かなかった。

 

「……前回、前々回と参加させてもらったが、その中でも今日のライブは実に素晴らしいものだった」

 

 おもむろに口を開いたのは、北沢でも石川さんでもなく、315プロの社長だった。ガッチリとした身体つきに似合わない、お菓子をもらった子供のように満面の笑みを浮かべて俺を見つめている。だけど次の瞬間、その表情が一気に険しくなった。

 

「それなのに、どうして君は現状に甘んじてもっと多くの人に届けようとしない?」

「……どういう意味だ」

「私は千人も入らないこの小さな会場で、君たちは満足なのかと訊いているんだ」

「て、てめぇ! 黙って聴いてれば好き放題言いやがって!」

 

 315プロの社長の言葉が、一番触れて欲しくなった琴線にぶつかった気がした。結局コイツも他社の連中同様にそういうことを口に出すのか。

 咄嗟に火がついた感情があっという間に沸点に到達し、ライブ後で冷え切っていたはずの体温を瞬間的に上げ始める。

 

「会場の大小なんか関係ねぇ! 満足も何も、ファンの期待に全力で答えるのがアイドルってもんだろ!」

「ちょっ、落ち着いてください天ヶ瀬さん!」

 

 思わず前のめりになった俺の肩に、すぐに北沢のか細い手が掛かった。細い手の平にはグッと力が入っていて、俺はその力に制止をかけられたように反射的に身体を止める。そんな俺を見て全く動じずに変わらぬ眼差しで315プロの社長は見下ろしながら、落ち着いた声色で「違う違う」と子供をあやすように俺に言い聞かせていた。

 

「今日のライブ、中でもPlanet scapeは非常に素晴らしいモノだった。あれほどまでに素晴らしい曲を歌える実力があるのに、どうして君はそれを多くの人に届けようとしない?」

 

 まるで至極当然なことを問うような言い草だった。純粋に俺の考えが理解できないといった様子で区部を傾げながら、北沢に押さえつけられている俺へと話を続ける。

 

「君たちは間違いなく多くの人たちを笑顔にし、勇気を与えるだけの実力とパッションを持っている。だからこそ、一人でも多くの人に届けようとしない気持ちが私には理解できないのだ」

「一人でも多くの人に届ける……?」

「今日のライブの来場者はざっと九百人前後だとしよう。その数がジュピターのファン全員の数だと思うか? 答えは否だ」

 

 自分で提示した質問を、間髪入れずに自ら否定した。俺は口を挟む時間を与えてもらえず、黙り込んで315プロの社長の話を聴くことしかできなかった。

 

「今日ライブに来れないファンだって多くいただろう。もしかしたらチケットが取れなかったファンもいたかもしれない。地方在住故に、ジュピターのライブに頻繁に通えないファンだっていたかもしれない。そして、まだジュピターの存在に気が付いていないだけで、今後ファンになる可能性を持つ人たちだってごまんといるかもしれない」

 

 俺が黙り込んだのを良いことに、ドンドンと付け入る隙を与えずに言葉を発していく。その一つ一つが、ジワジワと俺の胸を蝕んでいくようだった。俺が何も言えなかったのは、喋る隙を与えてもらえないからではなく、この男の話が妙に的を得ていたからなのもしれない。

 気が付けば315プロの社長は口を閉ざしていて、俺の言葉を待っていた。我に返って、慌てて何かを言わなければと必死に言葉を探したが、適切だと思う言葉が一つも頭に浮かんでこない。言葉を探そうと視線を泳がせた際に、肩にか細い手を乗せた北沢と目が逢った。北沢も鋭い目に俺を向けたまま言葉を待っているようで、その視線が315プロの社長の男が放った言葉たちが突き刺さった胸に沁みていくようだった。擦り傷に熱湯が触れた時のように、胸がズキズキと痛む。俺が次に口に出した言葉次第では、俺に向けられた北沢の眼差しが今にも軽蔑の眼に変わってしまいそうな、そんな予感が胸の中でざわめていたのだ。

 

「……そんな今日この会場に来れなかったファンたちも、君たちを待っているはずだ。そしてそういったファンたちにも全力で応えて見せるのが、君の言う『アイドル』としての仕事だと私は思っている」

 

 俺が何も話す気がないと判断したのか、315プロの社長が更に畳み掛けてきた。

 嫌という程分かっていたことを正面切って言われて、俺は何も言い返せなかった。315プロの社長の言っていることは何一つ間違っていない『ど』のつくほどの正論だったからだ。それなのに躊躇しているのは俺個人の感情が邪魔しているからであって、こういった風に理解できないと思われるのは致し方なかった。俺たちがこのままインディーズで活動を続けたところで、かつてのような舞台に舞い戻ることが困難なことはこの一年でハッキリと明確になっていたのだから。

 

「……確かに、アンタの言う通りだ」

 

 思わず言葉を滑らせてしまった。石川さんは俺の言葉を聴いて嬉しそうにパッと顔を上げると、俺の気が変わらないうちに確定させようと「それでは……」と何かを言いかける。俺は慌ててその言葉を遮った。

 

「少しだけ考える時間をくれ。数日以内に返事を出すから」

 

 まさに頭では理解していてもいまだに踏ん切りがつかない、といった言葉だった。石川さんは言えなかった言葉を飲み込んで、「どうしますか?」といった表情で315プロの社長をチラリと見ている。

 

「……うむ。分かった」

 

 少しの間をおいて、315プロの社長は腕組みをしながら頷いてそう返事をした。言いたいことはもう全て伝え終えたのか、315プロの社長は別れの挨拶の代わりに「良い返事を期待している」とだけ残して、大きな背中を向けて立ち去っていく。石川さんは最後まで礼儀正しく、俺たちに律儀に深々と会釈をして、その背中に追うように一度も振り返らずに角を曲がって行ってしまった。その二人の背中を見送っていると、ふといつかの日の北沢の言葉が記憶の引き出しの中から飛び出してきた。

 

 

『今はインディーズで活動されてるって聴きました。バイトもして、何から何まで自分たちでやってるって』

『その話を聴いて、凄いなって純粋に思ったんです。誰にも頼らないで、自分の実力だけでトップを目指すって、私も皆さんみたいにそれくらい強くなりたいなって』

 

 

 嬉しかったはずのあの日の言葉が、今ばかりは俺に重く伸し掛かる。

 結局俺たちは、この一年のインディーズ活動で何も手に入れることができなかった。その上で逃げるように事務所に所属すると言ったら、北沢は何を思うのか。間違いなく、あの頃向けてくれていた尊敬の眼差しが瞬く間に消え去ってしまう気がしていた。

 それは、ひどく身勝手で個人的な感情だ。大切な仲間の夢を背負っている人間が左右されるべき感情ではないとも分かっている。だけど俺にとってはとても大きな意味を持つモノで、そう易々と切り捨てれるモノではなかったのだ。

 北沢の顔を直視するのが怖くて、俺はただただ逃げるように二人が曲がっていった角をジッと見つめ続けていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



キスシーン前に血が出るほど歯磨くあまとうほんと好きなんで初投稿です。


「それじゃあ、ライブの成功を祝って〜」

「カンパーイ!!」

 

 上機嫌な翔太くんの掛け声のあと、天ヶ瀬さんの部屋にはジュースが入った四人のグラスがぶつかり合う音が響く。

 ジュピターのライブがあった日の夜は、必ず三人揃って天ヶ瀬さんの家でカレーを食べる不思議な習慣があるようで、今日も例外なくその恒例行事が行われていた。さすがに部外者の私がその中に混じるのは気が引けてしまい、最初は終わるまで外で時間を潰すと天ヶ瀬さんに申し出たが、その申し出はここに住み始めた時に提示された『天ヶ瀬さんに遠慮しない』のルールに反すると指摘され、即座に却下されてしまった。翔太くんと北斗さんも私が一時的にここに住んでいることは知っていたようで、決して驚いた顔も嫌な顔も見せることもなく、部外者の私の参加も快く承諾してくれた。その結果、こうしてジュピターの中に私が紛れ込むという不自然な光景が出来上がってしまったのだ。

 騒がしい音を立ててぶつかったグラスが離れると、事前に示し合せていたかのように皆がジュースを勢いよく飲み干していく。暫く無言のままそれぞれがジュースを喉に通すとグラスをテーブルの上に戻し、皆が枝分かれしていくようにバラバラの行動に移っていった。

 

「やっぱライブ後は冬馬くんのカレーだよねぇ」

 

 しみじみとそう呟きながら空にしたグラスに新たなジュースを注いでいるのは翔太くんだ。その隣で北斗さんは「そうだな」と相槌を打ちながら少し大きなお皿に積まれた野菜を四人分の小皿に均等に取り分けていて、天ヶ瀬さんは一晩眠らせておいたカレーの味を吟味するかのように真剣な眼差しで食している。そんなバラバラの三人を見ていて、すっかり取り残されてしまっていた私に声をかけたのは翔太くんだった。

 

「このカレー、志保ちゃんも手伝ったの?」

「え? ま、まぁ……。具を切るとか、それくらいだけど」

 

 未だにジュピターの三人の中に私が紛れていることに違和感が拭えずにぎこちない口調で返すと、翔太くんは「やっぱりね」と言ってスプーンに乗った大盛りのカレーを口に運んだ。

 昨晩、私も微力ながら天ヶ瀬さんのカレー作りに協力させてもらった。と言っても本当に具を切ったり米を炊いたりするだけの単純な作業で、殆どは天ヶ瀬さんがやってしまったから協力と言えるほどのものではないような気がしたけど。

 

「大変だったでしょ? 冬馬くんとカレー作るの」

 

 最初の一口だけで満足そうな笑みを浮かべていた翔太くんが手を止めて、同情するような眼差しでそう問い掛けた。北斗さんもまた、苦笑いを浮かべながら同じような視線を私に向けている。

 

「冬馬はカレーに異様な拘りを持っているからなぁ。昔、翔太と作った時なんか本気で喧嘩になってたし」

「あっ、あれは翔太が訳わからねぇモンを混ぜようとしてたからだろ?」

「訳わからないモンって、ただ僕はチョコレートを隠し味として……」

「それが外道だって言ってんだよ。チョコなんかに頼ってるうちはいつまでたっても半端者だぜ」

「ハイハイ、スミマセンデシタ」

「ちゃんと聴けって! いいか、カレーってのはな……」

 

 料理好きで普段から自炊をしている天ヶ瀬さんだったが、彼の持つ幾多のレパートリーの中でも特にカレーには凄まじい拘りがあるらしい。暫く天ヶ瀬さんが翔太くんにカレーについての情熱を語り明かしたのを見て、言われるがまま手伝っただけの昨晩の私は正解だったなと思い始めた頃、空返事ばかりを続けてきた翔太くんが再び私に話を振ってきた。

 

「ねぇ、志保ちゃん。冬馬くんと一緒に生活すんの大変じゃない?」

 

 きっと翔太くんは何気ない質問のつもりだったのだろうけど、いざ口に出して言われると一緒に生活しているという事実が途端に気恥ずかしくなって、私はスプーンを口に咥えたままその場で硬直してしまった。私が一方的に天ヶ瀬さんの厚意に甘えて居候しているだけの関係だが、端から見ればワンルームで一緒に暮らしている私たちはどう映っているのだろうかと想像してみる。するとすぐに耳たぶの端まで熱くなって、私は顔を隠すように俯いたまま、スプーンにカレーを乗せて口の中へと運んだ。顔が赤くなっているのはカレーの辛さのせいだと、そう言い聞かせるように。

 

「別に、全然大変じゃないけど」

 

 なんとか平静を取り繕ってそう答えたが、私の答えは翔太くんの求めていたのとは少し違ったようだ。ジュースの入ったグラスを握った手を止めた翔太くんは人懐っこい大きな瞳を瞬きさせながら、信じられないといった様子で私を見つめている。

 

「えー嘘だ! 冬馬くん妙なとこに拘り持ってるから絶対大変だよ!」

「翔太、お前なぁ……」

 

 不服そうに何か言いたげな天ヶ瀬さんが目に入って、私は慌てて割り込むように翔太くんの何かを期待する目を即座に否定した。

 

「本当に、全然大変なことなんてないから! 料理も上手で美味しいし、いつも私のこと気にかけてくれてるし、何よりすごく優しいし……」

 

 そこまで言った時に私は初めて場の空気が変わったことに気がつき、口を止めた。天ヶ瀬さんとの共同生活で大変だと思ったことなんて一つもなくて、むしろ私はすごく感謝してるってことを伝えたかっただけのはずなのに、気が付けば三人は各々の動きを全て静止してフリーズするかのように、ペラペラと無心で喋っていた私をボンヤリと見つめていた。

 ––––あれ、私何か変なこと言った?

 私が喋るのを止めた後に暫く間を挟んで、天ヶ瀬さんは頬を紅めらせて恥ずかしそうに視線を虚空に向ける。翔太くんはそんな天ヶ瀬さんと私を交互に見て、意味深にニヤニヤしていた。

 

「まさか、このタイミングで惚気られるとはな……」

 

 困ったように笑う北斗さんの言葉を聴いて、「え?」と思わず訊き返す。北斗さんはそれ以上は何も言わず、含み笑いを見せて不自然に天井を見上げる天ヶ瀬さんに視線を移した。すぐに自分が喋っていたことが全く違うニュアンスで伝わっていたことに気が付いて、もうカレーの辛さなんて理由で隠しきれないほど顔が赤面していくのが分かった。すぐさま興奮交じりに「違います、そんな意味じゃないんです!」と弁解する私に、翔太くんは今にも吹き出しそうな笑いを堪えながら、「うんうん」とまるで中身のこもっていない言葉を繰り返す。

 

「まぁ、確かに冬馬はこう見えて優しいからな。エンジェルちゃんにそんな気遣いができることは知らなかったけど」

「料理だって上手だし」

「……あの、本当にそういうことじゃないんですって」

「ははは、分かってる分かってる」

 

 絶対に分かっていない口ぶりで北斗さんは笑いながら、ジュースの入ったグラスに手を伸ばした。ジュースを飲む仕草さえも気を抜けば一瞬で虜になってしまいそうほど魅力的な振る舞いになって、まるで美術館に飾られた完成された絵を見ているような錯覚を抱いてしまうほどだった。ジュースを飲み干した北斗さんは、男性のものとは思えない綺麗な指でグラスを大事そうに握っていて、空になったグラスの底をじっと見つめていた。その瞳は、小さな子供がキラキラと光る綺麗なビー玉を見つめているような純粋な眼差しだった。

 

「冬馬は本当に凄いんだ。不器用なところも多いけど、ちゃんと自分で問題と向き合って乗り越えることができるから」

 

 私たちには見えないグラスの底にある何かに向かって語りかける北斗さんへ、天ヶ瀬さんがチラリと視線を向けたのが分かった。

 

「まだまだ子供っぽいけどね。僕にスマホのゲームで負けたらすぐムキになるし、ドラマのキスシーンの撮影では血が出るまで歯磨いてたし」

「それで結局NG連発して台本変えちゃったからな」

「……ったく、今更昔の失敗談なんてひっぱりだすなよ」

 

 眉をしかめる天ヶ瀬さんを、二人はやんわりとした微笑みを作って見ていた。その笑顔に、嫌味は全く感じられなかった。

 

「でも北斗くんの言うことは本当だよ。冬馬くんはできないことがあっても、絶対にできるまで努力はやめないし、それで結局できるようになっちゃうんだから僕も本当に凄いって思ってる」

「子供っぽいけど、逆にその純粋さが誰よりも夢に真っ直ぐさせて、時々俺たちでも眩しくなるくらいなんだ。何より、熱い男だしね」

 

 だから……。

 北斗さんがそこで一度だけ区切って、翔太くんと互いに顔を合わせる。お互いの意思をちゃんと確認し合うように見つめあった後、一度だけ天ヶ瀬さんを見て途切れていた言葉の続きを口にした。

 

「俺たちはずっと冬馬に付いてきたんだ。今までも、これからも」

 

 北斗さんはそう言って笑いながら、大きなペットボトルの蓋を開けてずっと大事そうに握りしめていた自分のグラスへと新たに注ぎ込む。

 北斗さんの短い言葉はジュピターの三人の関係性を説明するのに、十分すぎる言葉だと思った。天ヶ瀬さんが二人のことを信頼しているように、二人もまた天ヶ瀬さんに絶大な信頼を寄せている。ライブ後に石川さんと名乗る315プロのプロデューサーが、「二人とも天ヶ瀬さんの決断を尊重する」と話していたの理由がようやく理解することができた気がした。この三人の中には私が思っている以上に深い絆があって、きっと北斗さんも翔太くんも天ヶ瀬さんなら自分たちにとって最良の選択をしてくれると信じていたのだ。

 綺麗な白い歯を見せながら、楽しげに北斗さんの話を聞いていた翔太くんが、そのタイミングを見計らうように切り込んでくる。

 

「それで、あの話はどうするの?」

 

 天ヶ瀬さんのカレーを装っていたスプーンが、食器の中で止まった。翔太くんの言った“あの話”が指すモノがなんとなく分かって、私も自然と天ヶ瀬の顔を盗み見るように確認してみる。天ヶ瀬さんは弱り切った表情でスプーンから手を離すと地べたに両手のひらをつき、空を仰ぐように天井を見つめていた。

 

「……悪くねぇ、話だったと思う」

 

 シンとした部屋にキッチンの隣に置かれた小さめの冷蔵庫の稼働音が響く。歯磨き粉を絞り出すように出てきた天ヶ瀬さんの言葉は、そう口では言いつつも、迷いを含んでいる声色にも聞こえた。

 

「だけど、もしここで事務所に入ったら俺たちがやってきた一年間はどうなるんだ? 結局何も成し遂げないままじゃねぇか。そう考えると、315プロに入るのは逃げの一手にしか思えない」

「……私はそうは思いません」

 

 北斗さんでも翔太くんでもなく、天ヶ瀬さんの言葉を真っ向から否定したのは私の声だった。咄嗟に口から溢れ出てきた言葉を聴いて、三人の視線があからさまに私に集まる。もうこの時には冷蔵庫の稼働音は聴こえなくなっていた。

 

「仮にインディーズ活動で結果が出なかったとしても、その時間の中で得た苦労や経験は絶対今後の財産になるんじゃないですか? 私は天ヶ瀬さんから皆さんの話を聴いて、本当に苦労して頑張っているんだなっていつも刺激をもらって、尊敬してました。だから本当にできることを全てやりきった上で事務所に所属するのは、全然逃げなんかじゃ……」

 

 胸の底から溢れ出てきた言葉を躊躇なく口にしていると、まさに唖然とした様子で口を開けながら私を見つめる三人の姿が目に入った。

 ––––あれ、私また何か変なこと言った?

 そう思った瞬間、部外者の私がいつの間にか三人に対してまくしたてながら熱弁してしまっていたことに気が付いて、慌てて口を閉ざした。うなじの辺りからどっと熱が出てきて、汗になって首元にゆっくりと降りてくる。先ほど惚気だと勘違いされた時よりも比べ物にならないくらい恥ずかしくなって、「でしゃばってすいません」と情けないほど小さな声が絞り出てきた。私みたいな一般人がジュピターに向かって意見するなんて、と不愉快に思われたかもしれない。そんな不安が一気に押し寄せてきて、どうしてあんな偉そうに知った口を効いてしまったのだろうと数秒前の自分を激しく叱咤した時だった。

 少しの間の後で、北斗さんが呟いた。

 

「……ご尤もな意見だ。まさか志保ちゃんに背中を押されるとは」

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

「……私、明日から家に帰ろうと思います」

 

 二人が帰って四人分の食器を洗っている時、北沢が唐突にそう言った。最後の一枚を洗い終えた俺は流し台に並べて手を拭くと、「そっか」と返事をした。

 

「なんだか寂しくなるな」

 

 心の中で思っていたことが、そのまんま言葉になって出てきた。

 北沢がこの部屋に来てから早いものでもう一ヶ月もの月日が経過していた。その間ずっと二人で一緒に住んでいたせいか、明日から一人の生活に戻ることがひどく孤独で寂しい日常に思えてしまう。今までずっと一人暮らしをしてきたくせに、たった一ヶ月の時間が当たり前を非日常に変えてしまうのだから、俺も北沢との共同生活を楽しんでいたんだなと実感させられたような気になった。

 だけど、北沢のいるべき場所はここじゃない。北沢の帰りを待っている家族がいて、北沢自身もちゃんと向き合わないといけない問題がまだ残っている。いつの間にかずっと北沢との時間が続けば良いのにと思い始めていた自分に、そのことをずっと言い聞かせてきたからか、思っていた以上の寂しさは感じられなかった。

 

「あの、本当にありがとうございました。天ヶ瀬さんには何てお礼を言えばいいのか……」

「いいって、好きでやったことだから気にすんなよ」

 

 俺も楽しかったから、なんて北斗のようなキザなセリフは言えるはずもなく、かしこまって何度も頭を下げる北沢に、気の利くような言葉は何も言えなかった。妙に気まずくなって会話が途切れる。沈黙の拍子にふと北沢の母のことを思い出して、関連付られていたように俺は北沢に気付かれないようにと引き出しの中の奥底に隠していた封筒の存在も思い出した。忘れないうちにと引き出しの中から取り出して、思っていた以上に分厚くなっていた封筒を北沢に渡す。北沢は「なんですかこれ?」と受け取る前に疑問を呈したが、俺は「いいから」と少し語尾を強めて押し付けた。

 

「え、お金!?」

 

 封筒の中を見て仰け反ったように声を裏返した北沢はすぐに封筒を手放そうと俺に差し出した。

 

「お金なんてもらえません、これはお返しします」

「いや、それはもともと北沢んとこの金だから。返すだけだって」

「私の家のお金、ですか……?」

 

 話が理解できないといった様子の北沢に封筒を押し返して、俺はこのお金の正体を説明をした。北沢を俺の家で預かることを話した時に、北沢の母から受け取っていた北沢の生活費なのだと。俺は何度もその申し出を断ったものの、北沢の母もそこだけは絶対に譲れなかったようで、結局俺が押し負けて受け取ることになってしまったが、俺はそのお金を一円も使わずにずっと貯めておいた。いつか北沢が家に帰ることになった時に渡して、そのお金を新たな再出発を測る北沢家の為に使って欲しいと考えていたのだ。

 

「……この金でどっか家族で美味しいモノでも食べてこいよ」

 

 北沢は母親より頑固ではなかったのか、俺の言葉に「ありがとうございます」と何度もなんども口にしながら、俺が預かっていたお金を受け取ってくれた。その姿を見ていると、ほんの少しだけ北沢が父の死も母の嘘も受け入れて前に進もうとしていることが分かって、無性に嬉しく思う自分がいた。

 北沢が泊まる最後の夜も、俺たちは今まで変わらずにシングルベッドに二人で並んで寝た。今日が最後だと思うとこの一瞬さえもかけがえのない時間に思えて、俺たちは部屋を暗くしてベッドに入った後も暫く他愛もない会話を続けていた。

 

「あの、天ヶ瀬さん」

 

 いつの間にか会話が途絶え、もう寝てしまったのかと思いながらボンヤリと月明かりを見つめていた時、北沢の声が聞こえてきた。視線だけを動かして北沢の方を向くと、北沢は俺に背を向けたままで顔を確認することはさせてくれなかった。寝言か、そう思った矢先に再び北沢の透き通った綺麗な声が真っ暗な部屋に響く。

 

「私、ちゃんと向き合ってみようと思います。家族とも、父の死とも」

「……そっか。頑張れよ。また何かあったらいつでも泊まりにきて良いから」

 

 ほんの少し未練がましく聴こえたのか、北沢は「そんなに泊まりに来て欲しいんですか?」と冗談交じりに返してきた。その問いに俺が素直に肯定すると、「意外に素直なんですね」と言って北沢が笑う。満更でもなさそうなその口調が、妙に嬉しくて心地よく胸に響いた。

 

「よかったら明日、会えませんか? ちゃんと母と話して解決することができたら、天ヶ瀬さんに伝えたいことがあるんです」

「伝えたいこと、か」

 

 きっと同じことを考えているのだろうなと思った。奇遇にも、俺も北沢に言いそびれて伝えられなかった言葉があった。だけどそれは今伝えるべきじゃない。ちゃんとケジメをつけて、俺自身も問題を解決してからじゃないと口に出してはいけない言葉のような気がしていたのだ。

 

「なら、明日の十四時に高台の公園でいい?」

「はい。ありがとうございます。ならまた明日、ですね。おやすみなさい」

 

 そう約束をして、再び沈黙が訪れた。疲れているはずなのに眠気は全く来ず、一人で俺は窓から差し込む月明かりを眺めていた。月の近くにオリオン座が見えて、そこから線を結んでいくように幾つかの星を渡って木星へと辿り着く。北沢が初めて泊まりに来た日の夜、自分の無力さに涙を流しながら見上げた木星は、あの頃と変わらず幾多の星の中では一段とまばゆい光を放って俺を見下ろしていた。

 

「北沢」

 

 その木星に語りかけるように、名前を呼ぶ。返事は返ってこなかった。

 

「お前、もう少し自分のために生きて良いと思うぜ」

 

 そう言い残して、俺も瞼を閉じる。遠のいていく意識の途中で、僅かに残っていた聴覚が北沢の声を拾った。

 

「事務所に所属したくらいで天ヶ瀬さんのこと嫌いにはなりませんよ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



ありがサンキュ!!!!!!(フライング)
残すところあと3部、もう初投稿ネタも切れてきたので初投稿です。


 

 瞼をこじ開けるようとする陽の光の刺激で目が覚めた。瞼を開いて薄いカーテン越しに見える空が明るいことを確認すると、小さく寝返りを打って身体を起こす。隣では天ヶ瀬さんがまだ眠っていた。昨日のライブの疲れか、それとも連日の疲労が溜まっていたのか、天ヶ瀬さんは泥のように眠っていて、私が起きていることには気が付きもせずに静かな寝息を立てている。暫くその寝顔をボンヤリと見つめて、私に掛かっていた布団を天ヶ瀬さんに優しく掛け直し、私はベッドを降りた。

 ここに住み始めてからずっと借りっぱなしだった天ヶ瀬さんのジャージから私の私服へと着替え、畳む前に忘れ物がないかを確認しようとジャージのポケットの手を突っ込むと、指先がヨレヨレになった紙を捉えた。ポケットの底に潜んでいた紙を引っ張り出してみる。私の指先が捉えていたのは、この部屋で最初の夜を過ごした翌日、天ヶ瀬さんが用意してくれたサンドイッチに添えられたメモ用紙だった。

 何度かジャージを洗濯するたびにポケットから出しては、もともとそこが定位置だったかのようにポケットの中に戻して、そうやって繰り返し大事に温めてきた天ヶ瀬さんのメッセージ付きのメモ用紙を暫く睨んで、私はそのメモ用紙の裏側に感謝の意を込めてメッセージを残すことにした。

 枕元にメッセージを書いたメモ用紙を置いたがそれだけでは物足りない気がして、部屋を出る前にもう一度だけ天ヶ瀬さんの方を振り返る。この一ヶ月、数え切れないほど私を助けてくれた大好きな人の寝顔に向かって「ありがとうございました」と言い残し、私は部屋を出た。天ヶ瀬さんは最後まで眠ったまま、私の声に反応は示さなかった。

 

 私がマンションから出ると、丁度月を南西の方角へ追いやった太陽が雲の隙間から顔を覗かせていた。昨日までの雨はすっかり止んでしまって、濡れたアスファルトは朝日に照らされてキラキラと光っている。空にはまだ灰色の雲が散りばめられていたが、その雲たちの隙間からも強烈な朝日が射し込んでいて、一直線に伸びた光の軌道が東京の街に突き刺さっていた。この一ヶ月で見慣れた光景のはずなのに、今日ばかりは全てが新鮮に映って見える。雲を浮かべた空も、人の通りが少ない朝の道も、近くの駅から聴こえてくる電車の警笛の音も、何処かで鳴いている鳥たちのさえずりも、全てが真新しく感じられて、私の五感が「綺麗」だと感じているのがひしひしと伝わってきた。

 朝の空気をめいいっぱい吸い込んで、私は自分の家への道を歩き出す。電車で帰ろうかとも考えたが、今私が感じている綺麗な世界をもっと肌で感じたくて、歩いて帰ることにした。その足取りが次第に大股になっていって、私は初めてあれほどまでに嫌悪していた母に会いたんだなと思った。

 会って話したいこと、謝りたいことがあった。私は一秒でも早く母に会いたい一心で濡れたアスファルトを蹴っていく。

 色々と考えたが、母に会って真っ先に言うべき一言目は「ごめんなさい」だと決めていた。沢山心配をかけたことは勿論、父の死を知らされたあの日、感情に身を任せて辛辣な言葉を言い放ったことに対しても。一度家族から離れて、天ヶ瀬さんの家で過ごしたゆっくりとした時間の中で、いつの間にか自分の中でも気持ちの整理ができていて、気持ちの整理がついて初めて理解することができた。私たちに気遣って父の死を隠してきた母も、きっと私と同じように辛い思いをしていたのだと。

 だからちゃんと謝って、そして母を許そうと思う。その上で家族三人で、これから再出発を図れればと、そんな前向きな考え方ができるようになったのも天ヶ瀬さんのおかげなのかもしれない。

 ––––例えこの街が変わり続けてもずっとここにいるよ。

 昨日のライブで天ヶ瀬さんたちが歌ったPlanet scapeの歌詞が頭の中で流れてくる。

 あの頃とはすっかり変わってしまった街を私は歩いていく。最近新たに完成したマンションの前を通りかかった時、手を繋いで歩くスーツ姿の男と小さな子供とすれ違った。幼稚園に向かう途中なのだろうか、黄色のカバンを肩から掛けた子供は楽しげに話しており、優しそうな父親はしっかりと子供の目を見て話しを聴いている。昔はこういう仲睦まじい子と親の姿を見るとまるで世界から拒絶されるかのような疎外感を感じていた。だけど今は不思議なほど、何も感じなかった。疎外感も劣等感も、羨望感も嫉妬感も、何も私の胸に訴えかけてこない。あれほどまでに切羽詰まって、余裕がなくて、自分のことばかりしか見えていなかった私からは想像もつかないほど、晴れ晴れとした穏やかな気持ちで私はすれ違う親子の後ろ姿を見つめていた。

 見知らぬ父と子の姿も、あれほどまでに受け入れたくなかったこの街並みも、今の私の瞳には不思議なくらい綺麗に世界の一部として映っている。暫くその場で足を止めて親子の姿を見送った後、私は前を向いて軽くなった足取りで再び歩き始めた。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 既に太陽が高い位置まで昇った頃に目を覚ますと、隣にいたはずの北沢はいなくなっていた。

 まるで今までの一ヶ月が夢だったかのように、北沢がこの部屋にいた痕跡は消え去ってしまっていたが、僅かに布団に残っていた優しい匂いと、律儀に畳んでテーブルに置かれていた俺のジャージだけが確かにこの部屋に北沢がいたことを証明しているようだった。唐突に独りぼっちになって寂しい気持ち半分と、ようやく北沢が前を向くことができたことを嬉しく思う気持ちが半分、寝起きでハッキリしない胸の中で入り混じるように渦巻いている。暫くは両者による胸の内での葛藤を見守るように、俺はベッドの上でボンヤリと虚空を見つめながら意識が覚醒するのを待ち続けていた。

 ボヤけていた視界のピントが合ってきて、やけに広く感じられるベッドを降りると、俺が起きるのを待っていたかのようにジャージの上に置かれたメモの存在に気が付いた。俺の文字と思われる少し乱暴な文字が書かれているメモの裏側には、綺麗な筆跡で「本当にお世話になりました」と書かれており、端には可愛らしい猫のイラストが添えられている。

 

『よかったら明日、会えませんか? ちゃんと母と話して解決することができたら、天ヶ瀬さんに伝えたいことがあるんです』

 

 北沢の残したメモ書きを見て、ふと昨晩のベッドの中での会話を思い出した。

 ちゃんと母と話をして、越えるべき壁を乗り越えて、俺に再び会いたいと北沢は言ってくれた。そして、その時になって初めて伝えたいことがあるのだとも。それは俺も同じだった。俺にも前を向くためにちゃんと乗り越えてケジメを付けなければならない問題があって、北沢に想いを伝えるのはその後じゃないといけないような気がしていたのだ。

 顔を洗って着替えて、いつものようにコーヒーを飲みながらテレビを見つつ、簡単な朝食を取る。遅い時間だったせいか、テレビではもうニュースではなくすぐそこに迫った桜の開花予想が報じられていた。

 そうか、もう冬も終わりに近づいてきているのか。

 北沢と初めて出会った時はまだ夏の日差しが残っていた頃で、あれから秋を挟んで険しい冬を迎え、その冬ももう終わりを迎えている。いつの間にか季節が二巡りもしていたことに気が付き、今更ながら本当に色々なことがあった日々だったなと振り返った。

 初めて喫茶店で話した時に北沢が眩しい眼差しで俺を見上げてくれたこと、その視線を裏切りたくなくて頑張りすぎて体調を崩し看病してもらったこと、北沢のデビューステージを劇場まで見に行ったこと、クリスマスにプレゼントを届けに行ったこと、そしてこの部屋で一緒に生活したこと––––。あっという間にすぎていった季節の中での北沢との思い出は、一欠片も欠けることなく俺の胸に刻まれていた。

 そんな北沢との思い出の残像を消し去るように、俺はテレビを消した。きっとこれからも俺は北沢と沢山の時間を過ごして、季節が巡っていくたびに彼女との思い出を振り返るのだろう。そんな時間がいつまでも続けはいいなと願う。そのためにも、北沢同様に俺も過去と決別して前に進まなければいけないのだと言い聞かせて、俺はコートを羽織って部屋を出た。

 マンションの外は雨が止んだ空から晴れ間が見えていて、冬とは思えないほど暖かい陽気に包まれていた。テレビで言っていた通り、もう春はすぐそこまで来ているんだなとありふれたことを考えながら、財布の中から昨日受け取ったばかりの真新しい名刺を取り出して見る。315プロダクションに俺たちジュピターの望んでいた未来があると信じて、俺は大きく息を吸った。雨を染み込ませたアスファルトの生暖かい匂いが肺の中にじわっと広がっていく。一度だけ空を仰ぐと、沢山の雲を抱えた大きな空の天井が今日は一段と近く感じられた。 

 手を伸ばせば届きそうな空だなと、そう思いながら手のひらをギュッと握りしめてみる。手のひらの中には昨晩同様、確かにこの空を飛び立てるような感触が残っていた。その感触を何度もなんども握りしめて確認し、かつて何度もなんども数え切れないほど通った道のりを思い出しながら、暖かい陽の光が照らす道を歩き始めた。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 住み慣れた団地に帰ってきたのは、ほんの少しだけ太陽が高い位置に昇った頃だった。灰色の少し古びた外装、団地の端にある小さな公園は雑草が伸び放題になっており、もう何年も使われていないまま放置されている錆びた遊具が悲しげに佇んでいる。駐車場のアスファルトはあちこちがエグられていて、長年の月日が作り上げた浅い穴には昨晩の雨がまだ水溜りとなって残っていた。その水溜りの水面に朝日が反射してキラキラと光り輝いている。その煌めく水面を覗いてみると、驚くほど自然な笑みを浮かべている私が見つめ返していた。

 ––––もう大丈夫。

 水面の中の私がそう言って背中を押してくれたような気がして、私は我が家に向かって階段を昇り始めた。最上階の角部屋に着いてドアノブを回すと、開いたドアの先から嗅ぎ慣れた珈琲豆の匂いが溢れ出てきた。洗面所にある洗濯機が回る音、珈琲豆の匂いの中から微かに漂うトーストの匂い、私が毎日のように味わっていた朝の雰囲気だ。あぁ、私はいつもの日常に帰ってきたんだなと、妙な感動を覚えてしまった。

 

「志保!?」

 

 玄関のドアが開かれた音に気が付いた母の声がリビングから聴こえてくる。一目散に駆け寄ってきたエプロン姿の母は玄関に立つ私を確認すると、走ってきた勢いでそのまま私の身体を抱きしめてくれた。

 

「ごめんね、本当にごめんね……」

 

 もう遠くへ行ってしまわないようにと、ガッチリと私を捕まえる母は泣きながら何度も私の名前を呼びながら謝り続けた。鼻を真っ赤にした母は、意識的に声を抑えることもなく、感情を爆発させているようだった。母の目から溢れてくる大粒の涙が私の首元へと伝ってくる。それが母が今まで一人で背負い続けてきたモノの重さだということを、この時初めて知った。

 

「お母さん」

 

 泣き喚く母とは対照的に、私の涙腺は不思議なほど潤まなかった。きっとそれは感情が欠落したとか、私の瞳に映る世界が色を失ったとか、そういったネガティヴな感情ではなく、私の中で父の死も母の嘘も全てを受け入れることができたからなのかもしれないと思う。昨晩、母に会ったら真っ先に伝えようとしていた言葉が喉元まで出てきていたが、私はその言葉ではない違う言葉を母に掛けた。

 

「……ただいま」

 

 そして、私も今まで一人で多くのモノを背負ってきた母の小さな背中に手を回して、決めていた言葉を口にした。

 

「沢山迷惑かけてごめんなさい。お母さんもずっと一人で嘘つき続けて、辛かったよね」

 

 母は私の腕の中に倒れ込んで、声を上げて泣いた。しばらくの間、私は母が今まで一人で抱えてきたモノたちを肩代わりするかのように、何も言わずに母を抱きしめ続けた。やっぱり涙は一滴も浮かんでこなかった。

 

 その後、母が泣き止んだタイミングで私は天ヶ瀬さんから預かっていた封筒を手渡した。最初は私と同じように受け取れないと拒んだ母だったが、私は天ヶ瀬さん同様に無理やり母に封筒を押し付けて、最後は半ば強引に握らせた。

 

「……あの人、本当に一円も使わなかったのね」

 

 未だに納得し兼ねないといった様子で封筒の中身を確認した母が、困り果てた顔でそう言った。母としても一ヶ月も私を家に置いてくれた天ヶ瀬さんに何かしらの形でお礼をしたかったのだろうけど、それを一切合切返却されてしまったのだから、親としては素直に受け取りたくない気持ちがあったのかもしれない。

 天ヶ瀬さんはこのお金を家族の時間に使えって言ってたっけ。あの時に掛けてくれた言葉を思い出し、私は暫くお金の入った封筒の扱いに頭を悩ませていた母に提案をした。

 

「ねぇ、お母さん。このお金で旅行に行かない?」

「旅行?」

 

 意外と思ったのか、赤く腫らした眼を私に向けて母が訊き返した。

 

「うん。今まで忙しくて家族の時間ってあんまり取れなかったから、もしお母さんの休みが取れたら三人で旅行にでも行きたいなって思って……って、お母さんどうしたの?」

「え?」

 

 ボンヤリとしたまま私の提案を聴いていた母の眼からは、また一滴の涙が溢れて落ちていることに気がついた。頬を伝う涙を指摘すると、母も気付いていなかったようで慌てて目元を拭って苦笑いを浮かべる。だけど一度指で拭っただけでは涙は止まらなかったようで、母はしきりに「ごめんね」と困ったように謝りながらテイッシュで何度も涙を取り除いた。

 

「……亡くなる直前にお父さんも家族皆で旅行に行きたかったって言っていたの思い出しちゃって」

「お父さんが?」

「うん。だから行きましょうか、旅行。お父さんが羨ましく思うくらい、楽しまないとね」

 

 泣きながら笑って母はそう言うと私に背中を向けて、「志保に渡したいものがあるの」と一言だけ告げ、リビングに戻って行ってしまった。私も慌てて靴を脱いで母の背中を追うようにリビングへと戻る。久しぶりに帰ってきた我が家のリビングは少しだけ広く感じられて不思議な気がした。時計はまだ朝の九時前を指している。日曜日だから弟はまだ寝ているのだろう。リビングのテーブルには母の食べかけのトーストと愛用していたマグカップだけしか置かれていなかった。

 

「いつ渡すべきかどうか迷ったんだけど……。きっと今がその時なのかもしれないわね」

 

 リビングと隣接している部屋から戻ってきた母の手には、私が先ほど手渡したのと同じような色の封筒が握られていた。窓から入り込む朝日が母が持つ封筒に当たって、中に別の紙が入っているのが透けて見えた。

 

「なにこれ?」

 

 差し出された封筒を受け取って、中を確認する前に母に尋ねてみる。母は少しの間をおいて、涙の痕が残った頬を力なく緩ませた。

 

「お父さんから預かっていた志保への手紙よ。志保が二十歳になった時に渡すように言われてたけど、本当のこと知っちゃった今渡すべきかなと思って」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



ここにきて奇跡の三日連続更新なので初投稿です。(生き残った書きだめをぶっ込んでるだけ)
いよいよ次回が最終話です。最終話は今死ぬ気で復旧活動に勤めているので、今暫くお待ちください。
※今週中にはアップします。



 都市部にある駅で降りて一直線に伸びる道なりに進み、暮れかかる街路樹を抜けて広いスクランブル交差点で俺は足を止めた。未だに昨晩の雨で濡れたままになっているアスファルトの上を車がドンドンと走り去って行き、雨上がりの匂いと排気ガスの匂いが肺を伝って全身に行き渡る。一年ぶりに訪れたこの道は、高慢で勘違いばかりをしていたあの頃と何一つ変わっていないような気がした。

 信号が変わるのを待つ間、ふとまばゆい太陽を見上げる。あれほどまでに眩しく思えていたはずの一年前の自分へ、もう何も感じていないことに気が付いた。寒さをあまり感じさせない春風が前髪を揺らして、俺はポケットに手を突っ込む。朝に比べて徐々に晴れ間が広がりだした空は、清々しいまでに蒼く染まっていて、その蒼色の部分を俺はジッと見上げていた。

 

 ––––俺たちは……、俺たちは利用されるために歌ってんじゃねぇんだよ!

 

 あの日のセリフが、頭の中で反響する。

 たった一年前の日の出来事のはずなのに、あの頃は若かったな、なんて年寄りみたいなことを思ってしまって笑いそうになってしまった。だけど自惚れて自分たちには才能があるのだとばかり過信して、他人を見下してばかりだったあの頃の自分が遠い過去に思えるのは、俺が少しでも前に進めたという証なのかもしれないとも思う。インディーズ活動を通して知らなかった苦労を沢山味わって、自分たちの過ちを知って、それを受け入れることができたからなのだとも。

 

『その時間の中で得た苦労や経験は絶対今後の財産になるんじゃないですか?』

 

 昨晩の北沢の言葉の通りだった。

 俺たちがこの一年で味わった苦労は決して無駄な時間ではなかったはずだ。俺たちだけの力で本気でトップを目指して、だけど俺たちの力だけじゃ絶対にトップには立てないことを知って、それはきっと961プロにいた頃の俺たちが見落としていたことで、何より気付かなければいけない大切なモノだったのだと思う。

 信号が変わって、俺はスクランブル交差点を渡った。横断歩道を歩き切ったあたりから徐々に目的地のビルの姿が見え隠れしてきた。色が変わった信号機から数十メートルほど歩き、一年ぶりに訪れた懐かしいビルを見上げて息を飲む。ただこれだけで十分意味がある行いのような気がしてきた。

 

「冬馬くん!」

 

 俺を呼ぶ声が、空に向かって伸びるビルの影に覆われた小影の道に響く。視線をビルから落とすと、メガネをした男が俺に向かって満面の笑みで手を振ってくれていた。俺もなんだか嬉しくなって、柄にもなく駆け足で男の元へと向かった。

 

「よっ、マネージャー! 久しぶりだな」

「ほんとお久しぶりです! 元気にしてましたか?」

「あぁ、俺たちは相変わらずだぜ。マネージャーは?」

「私も変わらずです」

 

 一年ぶりに再会したかつてのマネージャーは髪が短くなっていたように見えた。綺麗に刈り上げた短髪の近くに位置する耳に掛けられた眼鏡も、俺の知っていたモノではなくなっていた。だけど年下の俺たちに対する腰の低さは相変わらずなようでで、礼儀正しい言葉使いのまま「さ、こちらへどうぞ」と少し前を歩いて先導してくれる。マネージャーと並んで久しぶりにビルの自動ドアを潜ると、ビルのエントランスで入館手続きを済ませ、来訪者用の札を受け取った。札を首から下げると、マネージャーが寂しそうな眼差しでその札を見つめているのに気が付いて、ほんの少しだけ胸が痛んだ。

 

「……もう冬馬くんたちが961プロを辞めてから一年が経ったんですね」

 

 俺たちしかいないエレベーターの中で、マネージャーがおもむろに口を開いた。俺が伏し目がちに「あぁ、そうだな」と相槌を打つと同時にエレベーターが閉まる。静かな音を立てて、俺たち二人だけを乗せたエレベーターは上昇し始めた。

 

「悪かったな、急に電話かけたりしちまって」

「いえいえ、全然お構いなく。むしろこうして久しぶりに会えただけでも嬉しかったです」

「ははは、大袈裟だって」

「……それで、今日は社長にどういったご用件で?」

「あぁ、ちょっとな」

 

 言葉を濁した俺に、マネージャーはそれ以上言及してこなかった。

 その代わりに、俺はマネージャーにエレベーターのドアが開くまでの僅かな時間で簡単な近況報告をした。マネージャーは驚くというよりただひたすらに懐かしむような表情を浮かべながら、俺の話を聴いてくれた。

 短い近況報告の時間も終わり、俺たちはエレベーターを降りた。一昔前の宮殿のような真っ赤な絨毯、一定の間隔で置かれた妙なセンスの花瓶とそこに刺さった黒色の造花、見慣れた光景が久しぶりに視界に入ってくると一気にノスタルジックな感情の中いっぱいに充満していく。たった一年前なのにこれほどまでに懐かしく感じるとは予想もしていなくて、思わずその場で足を止めて立ち尽くしてしまった。あれほどまでに消し去りたいと思っていた過去のはずなのに、何故か今は綺麗な思い出の一部として俺の眼に映っている。ここにやってくると過去の自分を思い出して嫌悪感に包まれたりするのかなとも思っていたくらいだから、こういった懐かしい感情に駆られたのは自分でも意外だった。

 その場で黙り込んだまま、懐かしい感情に浸る俺を隣で見守ってくれていたマネージャーと視線が交錯した。その視線に「覚悟はできましたか?」なんて問われた気がして俺が頷くと、並んで立ち尽くしていたマネージャーがレッスンルームの方へと歩き始めた。俺は無言のままその背中に付いていく。懐かしさが半分、もう半分が妙な緊張で、胸がざわめているようだった。

 

「失礼します」

 

 レッスンルームのドアを二度ノックし、マネージャーは中からの返事を待たずにドアを開けた。ドアの先に広がっていたガラス張りの部屋には二人の女の子の後ろ姿が見えて、微かな汗の篭った匂いと程よく効いた空調の匂いが溢れ出てくる。その匂いが鼻に届いて、やはり懐かしいなと感じてしまった。

 

「マネージャーさん? どうしたんですか?」

 

 真っ先に俺たちに気が付いたのは、肩に掛からないほどに伸ばした髪を揺らした同じ年くらいに女の子だった。色素の薄い綺麗な髪には汗が混じっていて、照明に当てられてキラキラと光っている。初めて見る顔だったが、とても端正な顔立ちは何処か異国の雰囲気を感じさせる形をしていた。

 

「誰だい、その男は」

 

 鏡ごしに目が逢ったもう一人の女の子は、少々高圧的な言葉遣いを俺に向けていた。最初に気が付いた女の子とは対照的に腰まで伸びたオレンジの髪と左右の瞳の色が違うオッドアイが特徴的なその女の子は、物怖じしない態度のせいか俺よりも少しだけ年上のようにも見える。言葉遣い同様に俺たちに向けられた視線も威圧感を感じさせるものだったが、それほど嫌味な感じはしなかった。

 

「社長はいらっしゃいますか?」

 

 おそらく961プロの新たなアイドルであろう二人にも、マネージャーは変わらず敬語らしい。二人とも首を横に振ってここにはいないことを伝えると、「さようですか」と少し困ったような口調でドアをそのまま閉めてしまった。

 どうやらレッスンルームにはいないようだ。日曜日だけど間違いなく出勤はしているはずなのですが、と困ったようにマネージャーが独り言を漏らした時、コツコツと革靴の踵が硬い床を叩く乾いた音が廊下の奥から聞こえてきた。次第に近くなってくる足音は数メートル先の角から聞こえてくるようで、その足音が俺の目当ての人のだと直感的に理解した。

 曲がり角の向こう側から足音の本人が姿を現した。到底常人では理解できないようなセンスの紫色のスーツに黒色のワイシャツ、記憶の中の姿と何一つ変わらない男は、マネージャーの隣に立つ俺を見て驚いたように足を止める。

 

「……貴様、何をしに来た」

 

 歯ぎしりが聞こえてきそうな、低くて鋭い声が廊下に響き渡いた。961プロを喧嘩別れのような形で辞めたあの日から、久しぶりにこの男の顔を見た時、俺はどんな感情を抱くのだろうとずっと考えていた。駒扱いしたことへの恨みか、それとも突発的に辞めたことへの負い目か––––。ここに来るまでの道中でもあれこれと想像はしていたが、今俺が抱いている感情はどれにも当てはまらなかった。

 

「黒井のおっさん、久しぶりだな。おっさんに話があって来たんだ」

「話だと?」

 

 自分でも驚くくらい、俺の声も気持ちも落ち着いていた。憎悪も嫌悪も、何も含まれていない俺の声を聴いて少々戸惑った顔を見せながら、黒井のおっさんがゆっくりと俺の方へと向かってくる。コツコツとカウントダウンのように皮靴を鳴らし、そして俺の前で音を止めた。

 俺より少しだけ身長の高い黒井のおっさんの瞳を見上げて、グッと拳を握る。相手の瞳に俺が映っていることを確認すると、俺は硬くなった蛇口を力一杯に捻るように、声を絞り出した。

 

「……俺たち、315プロに行こうと思う」

 

 睨むように目を細めて俺を見下ろしていた黒井のおっさんの眼が、ほんの少しだけ見開いた。

 

「315プロ……? あぁ、あの斎藤のとこの弱小事務所のことか」

 

 どうやら315プロの存在自体は知っていたらしい。ワザとらしく大袈裟に咳払いをすると、あの頃と変わらない憎まれ口を開いて高笑いをした。

 

「ふんっ、どうやら貴様らに染み付いた負け犬根性は相当なモノだったようだな! わざわざあんな弱小事務所に加担するとは」

「今は弱小事務所かもしれねぇけど、すぐに俺たちがおっきくして黒井のおっさんたちなんか追い抜いてやるさ。だから首洗って待っとけよ」

「負け犬ほどよく吠えるとはまさにこのことだ。良いだろう、面白い。すぐに貴様らでは961プロには歯が立たないという現実を教え込んでやる」

「へっ、それは楽しみなこって」

 

 憎まれ口を言い合った後に嫌味な笑いを見せて、黒井のおっさんは俺に背を向けた。このまま立ち去るのかと思いきや、その場で足を止めたままで動く気配を感じさせなかった。何か言葉を探しているのか、束の間の沈黙が訪れる。

 

「…………北斗と翔太は元気にやっているのか」

 

 時間をかけて選び抜かれた言葉は、ちょっと意外なモノだった。だけどこの人はこの人なりに俺たちのことを心配していたのかもしれないとも思った。北斗と話していたように、不器用で方法は間違っていたけれど、それでも俺たちのことを本気でトップアイドルにしようと情熱を持って接してくれていたことに変わりはなかったのだ。そんな俺たちの予想もあながち間違っていなかったのかもしれないと思うと、途端に一年前から居座り続けていた胸の中のしこりが消え去った気がした。

 大きな背中に向かって「あぁ、元気にやってるぜ」と答える。すると黒井のおっさんは、「ふんっ」といつものように鼻息を鳴らしただけで、それ以上は何も言わなかった。

 

「せっかく晴れた日曜日の朝から貴様の顔なんざ見てると不愉快になる。さっさと消え失せろ」

 

 昔ならすぐにカッとなって言い返したり、殴りかかろうと飛び出していた嫌味な言葉も、今はただただ気持ち良く感じられるほどに胸にすんなりと収まっていくのが分かった。そう感じられるということは、ようやく俺は過去と決別することができたのかもしれない。

 

「おっさん!」

 

 嫌味な言葉だけを言い残し、そのまま背中を向けて来た道を戻るように歩き始めた黒井のおっさんの背中に向かって声を掛けた。その足が止まったのを確認して、俺は深々と頭を下げた。

 

「色々あって、最後はあんな別れ方になっちまったけど、それでも俺たちはアンタに感謝してる。ジュピターを作ってくれて、俺たちを引き合わせてくれてありがとな」

 

 黒井のおっさんは一度だけ俺の方を振り返り、そしてまた背を向けて歩き始めた。

 

「……また会えるのを楽しみにしてるぞ」

 

 初めて聴いたらしくない言葉を残して、一度も振り返らずに曲がり角を曲がって行ってしまった。俺はその背中を目に焼き付けるようにしっかりと見届けて、マネージャーと共にエレベーターを降りた。最後まで名残惜しく見送りに来てくれたマネージャーと別れ、一人きりになって空を仰いで見る。やはり今日の空はとても近くに感じられて、でもそれはきっと気のせいじゃないと思った。ようやくこの空の飛び方が分かったような気がした今の俺が、961プロ時代の俺に優しく語りかける。

 

 ––––あの時より今の俺は何倍も大きな空を見てるぜ。

 

 さぁ、今から北沢に会いに行こう。

 会って今まで言えなかったこの想いを伝えよう。

 

 俺は黒井のおっさんの後ろ姿が瞼の裏に残っているのを確認して、足早に駅へと向かって走り出した。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 長い間電車に揺られ、私が降り立ったのは東京の喧騒とは無縁の静かな田舎町だった。私の住んでいる街と同じ東京とは思えないほど長閑な自然が広がるこの街は、遠くの山がくっきりと見えるほど空気が透き通っていて、どこか時間の流れがゆったりとしているような錯覚さえ感じさせる。私以外に誰も降車しなかった電車が走り出していくのを見送ると、帰りの時刻表を確認して私は小さな駅の改札を抜けた。

 私が住んでいる街よりも随分と田舎の街並みを、スマートフォンのマップの案内通りに進んでいく。途中、いくつもの店にシャッターが降りた寂れた商店街の中で退屈そうに店番をする年配の女性の花屋を見つけて、立ち寄った。滅多に若い人が来ないのか、それともそもそもお客さん自体が来ないのか、私の姿を見て大袈裟に喜んだお節介な女性が沢山オマケをしてくれて、私は予想以上に大荷物になった花束を抱えて無人の商店街を抜けた。

 商店街を出てすぐにあった神社の角を曲がり、山へと続く石段を登っていく。昨晩の雨が染み込んだままでぬかるんだ石段を滑られないように慎重に進んで、半分ほど登った辺りで母が教えてくれたとおりに右の横道に進むと、すぐに目的のモノが目に飛び込んできた。ほんの一瞬だけ、胸がギュッと締め付けられたような気がしたが、ただそれだけで哀しむ気持ちもなければ憂鬱感もなく、私はただただ穏やかな心持ちで目の前に広がる現実をしっかりと受け止めることができた。

 ずっと遠くにいると思っていた父が意外にも身近にいたことを知って妙な安心感を覚えた自分を変に思いつつも、六年ぶりに父へと話しかけた。

 

「……お父さん。久しぶり」

 

 雨に濡れた墓跡に掘られた“北沢家乃墓”の文字が煌めく。遠くで鳥たちのさえずりが聞こえて、緩やかな風に揺れる草木が擦れ合う音がやけに大きくなって聴こえてきた。悲しい気持ちより、久しぶりに父に会えたことが嬉しくて、思わず口元がほころんでしまう。

 八歳の私しか知らない父は今の十四歳の私を見てどう思うのだろう。大きくなったと褒めてくれるか、まだまだ子供だなと言って茶化すのか。なるべくなら前者であってほしいなと思いつつ、私は商店街の花屋で買った菊の花を暮石前に供えて、手を合わせるとゆっくりと目を閉じた。

 ずっと父が私の生きる指針だった。

 家族が揃っていたあの頃の時間に戻りたくて、ごくごく普通の家族の時間が羨ましくて、私はアイドルを志した。私がアイドルとして有名になれれば母を少しでも楽にさせることができて、もしかしたら何処かで父が私の姿を見つけてくれるかもしれないと、その一心で色んなモノを犠牲にして、何度も泣きたくなるほどの挫折を味わって、全力で駆け抜けてきた。

 だけど父は既に他界していて、私の夢は叶わないことを知って、恐ろしいほど自分には何も残らないことを初めて知った。私が何をしたいのかも、どんな人生を歩みたいのかも、自分のことなのに何も分からなかった。父への想いが大きすぎたが故に、その絶対的な指針を失うと私は途端に人生の路頭に迷ってしまったのだ。

 きっとそれは私の弱さだったんだなと思う。結局私が当初抱いていた夢は私自身の為の夢ではなくて、他者を優先するあまりに本当の意味で自分と向き合えていなかったのだから。私が弱かったあまりに母に酷い言葉を何度もぶつけ、自暴自棄になって沢山の人に迷惑をかけ、そして一時でも私は死んでしまいたいとさえも思った。あの時の私は母が嘘をついてきたことより、きっと父をとったら何も残らなかった自分が許せなかったのかもしれない。

 だけど今は違う。ちゃんと気持ちの整理をつけて、父の死とも自分の人生とも向き合う覚悟ができてここにやってきたのだ。

 ゆっくりと瞼を開いた。父との再会を果たした私をジリジリと太陽の光が照らしていて、その光に屈しそうになりながらも目を細めながら空を見上げた。沢山の雲がゆっくりと流れる空は私が普段見上げている空より何倍も近く、今にも飛び立てそうな気がして、無意識に手を伸ばしてみる。当然雲たちには届きはしなかったけど、それでもいつの日かこの大空を自由に舞うことができるような、そんな根拠のない“何か”が私の手のひらで掴み取れたような気がした。

 そんな“何か”を確かに手のひらに握ったまま、私はカバンの中から母がくれた封筒を取り出した。家を出る前に一度目を通してはいたけれど、父の前でちゃんと受け取ったと意思表示をしなければいけない気がしていたのだ。封筒から一枚の便箋を取り出して、風で飛ばないように両手でしっかりと両端を握る。懐かしさを感じさせるボールペンで書かれた父の手紙にもう一度だけ目を通した。

 

 

『志保へ。

 

成人おめでとうございます。あんなに小さかった志保がもう二十歳だと思うと、お父さんは色々と感慨深い気持ちになります。

この手紙を読んでいるということは、もう既にお母さんからお話を聞いた後でしょう。今まで嘘をつき続けてきて本当にごめんなさい。もしかしたら隠し続けてしまったことで真実を告げるよりも沢山傷付けてしまったかもしれませんね。だけど本当のことを伝えるべきか、隠し通すべきか、正直な話この手紙を書いている今もどちらが最善の策かは分かりません。ですがきっと今は隠すことがベターな選択肢だと信じて、お母さんに志保が成人したらこの手紙を渡すように後からお願いしてみるつもりです。

志保は昔からお父さんの自慢の娘でした。人見知りだけど気が利いて優しくて、陸とも喧嘩することなくしっかりと面倒もみてくれて、お父さんもお母さんも本当に何度も志保の気遣いと優しさに助けられてきました。だからきっと二十歳の志保も優しくて綺麗で、魅力的な女性になっているのでしょうね。大人になった振袖姿の志保を見れないのがお父さんは本当に心残りです。

誰よりも優しくて思いやりのある志保だからこそ、お父さんは少々心配していることがあります。それは、志保が自分のためではなく人の為にばかり生きてしまうのではないかということです。

誰かを思いやること、誰かに親切にすること、それらはとても大事なことです。だけどそれ以上に自分の人生をわがままに生きることはもっと大事なことだと思っています。

だからどうか、志保が人の為ではなく自分の為に幸せな人生を送れますように。志保の人生は志保だけのモノなので、二十歳の志保が自分のやりたいことを見つけて、自分の為に生きていることを願っています。もしまだやりたいことがなかったり見つからなくても焦らずにじっくりと探してみてください。そして夢中になれる何かを見つけたら、誰にも遠慮はせずに、自分の為に全力で向き合ってください。

お父さんはいつも志保の味方として、天国から応援しています。

 

父より』

 

 

 二度目もやはり涙は出てこなかった。だけど私の胸には確かに父の想いが届いていたことは実感できた。自分の為に生きなさい、天ヶ瀬さんと同じことを言う父の文面を目に焼き付けるようにもう一度だけ見て、手紙を封筒に入れると、父の眠る暮石を見つめる。父は私に何も語りかけてはくれなかったが、それでも私は父の視線を感じてた。私はその視線に向かって、はっきりと誓いを立てる。

 

「ありがとう、お父さん。二十歳になった時に胸を張って自分の為に生きてるって言えるように、私、もう一度アイドル頑張ってみようと思う」

 

 風がまた吹いて、僅かに残った雨の雫が暮石を伝って下に落ちていった。

 初めて手紙を読んだ時、どうしようか少し迷ったが返事は二十歳になった時に書くことにした。きっと今の十四歳の私は二十歳の私に比べるとまだまだ未熟で、父の手紙に対するちゃんとした返事を書ける気がしなかったのだ。だから父や天ヶ瀬さんの言うようにもっと自分の人生と向き合って、自分の為に生きて、その上で二十歳になった時にちゃんと返事を書けたらなと思う。

 ––––必ず立派な女性になって返事を書くから、ずっとここから私を見守っててね。

 最後に父へとそう語りかけて、私は踵を返そうとした時、まるで私の背中を優しく押すかのように一際強い春風が駆け抜けた。

 

 風に背中を押されて、私は大きな一歩を踏み出した。

 今から私は天ヶ瀬さんに想いを伝えに行く。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



遂に最終話!
ここまで読んでくださったみなさん、本当にありがサンキュー!
プロット変わりまくったり書き溜めが死んで同じ話書き直したり、すげーキツかったけどやりきった感半端ないゾ〜。
作中で補えなかった補完要素や志保と冬馬の考察、次回作などは後書きにまとめてます。でも自己主張全開の歪んだ部分も多いから、自己責任で読んでくれよな!
では投稿したくないけど最終話初投稿です。


 俺が住んでいるマンションの最寄駅に戻ってきて、真っ直ぐに北沢と約束をした高台の公園へと向かうと、公園の入口へと繋がる急斜面の階段の先に小さな人影があるのに気が付いた。少しだけ癖っ毛の伸びた黒髪が春風にさらされて、ゆらゆらと静かに揺らめいている。立ち止まることなくゆっくりと頂上を目指して歩くその後ろ姿を見ていると気持ちが抑えきれなくなって、俺はその名を呼んだ。その声が聴こえたのか、はたまた名前を叫ぶ前に駆け出していた俺の足音が先に届いたのか、どちらが先かは分からなかったが、階段を上っていたその人影は足を止めて俺の方へと振り向いた。

 

「天ヶ瀬さん!」

 

 昨晩から空に居座っていた雲たちの殆どが何処かへと流れていってしまったようで、空にはもう数えれるほどの雲しか残っておらず、ただひたすらに青い一面が空の端にまで広がっていた。見惚れてしまうほどに透き通った青空を背にして立つ北沢が、照れ臭そうにはにかみながら小さく手を振っている。俺はそんな北沢の横まで全速力で階段を登っていって、肩で呼吸を整えながら隣に立った。

 

「そんなに慌てなくても、まだ時間にはなってませんよ?」

 

 華奢な手首に巻かれた腕時計をチラリと確認して、北沢は笑いかける。狭い階段で窮屈そうに足を揃えて見上げるその顔は、俺たちの真上に広がる青空のようにスッキリとしていて、その表情から母とちゃんと話をすることができたんだろうなと思った。

 北沢の姿を見ると一秒でも早く会いたくて駆けてきた、なんて本音は当然言えるはずもなくて、俺は適当に苦笑いだけを返して、青空に向かって歩くように階段を登っていく。同じ歩調で北沢と最後の階段を登りきると、見慣れた広々とした公園の景色が一気に視界に広がった。

 

「……すげぇ」

 

 日曜日の昼間だというのに、見渡す限り、人っ子一人公園にはいない。いつもはそこら中から聴こえてくる家族連れの幸せそうな声も、芝生の上を元気に走り回る子供達の笑い声も、今日は何一つ聴こえなくて、ただただ優しい春風が吹き抜ける自然の音だけが公園には静かに響いているだけだ。

 まるで俺たちが立っている公園がこの世界の中心のようだった。何度も訪れていたはずのこの公園は今だけ世界から切り取られていて、俺たち以外の誰も立ち入れない聖域のようになっているのかもしれない。そんな絵空事を本当に信じてしまいそうになるほど、見慣れていたはずの公園にいつもと違う景色が広がっていた。

 俺は風が吹き抜ける世界の中心に立って、空を仰いだ。北沢に何から話せばいいのだろうか、少し迷って俺はポケットに手を突っ込んで考えてみる。大きな風呂敷を広げたかのように、会ったら伝えたいと思っていた断片的な言葉たちが無数に浮かんできて、それらを飛行機の影さえも見えない空で組み合わせてみる。一瞬バラバラだった言葉たちが綺麗にハマるように並んだ気がしたが、それもすぐに春風によって吹き飛ばされて散っていってしまった。

 

「……天ヶ瀬さん、私から先に話をしてもいいですか」

 

 言葉を選べずにいた俺を見兼ねたのか、北沢が先に口を開いた。その言葉に反応して北沢の方を向くと、北沢は俺たちの間を吹き抜けていく風の行く先を見届けるかのように、遠くを見つめていた。何も言わずにずっと北沢の横顔を見つめていた俺の視線に気が付いて慌てて伏し目がちに俯くと、風で乱れた黒髪を耳にかけて、俺の目を見つめ返す。どこか吹っ切れた感のある北沢の表情は、自然な笑みを浮かべていた。

 

「私、もう一度アイドル頑張ってみようと思います」

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 

 私が高台の公園へと続く階段を登っている途中に走って駆け寄ってきた天ヶ瀬さんと合流し、私たちは二人並んで天気の良い日曜日の昼間なのに誰一人いない光景をボンヤリと見つめていた。寒さが薄まった風に髪をなびかせる横顔をふと覗いてみると、陽の光が眩しいのか、目を細めて遠くを眺める天ヶ瀬さんは大人の顔をしていた。

 その横顔はまるで別人のようだった。当たり前の話ではあるが、昨日観客席から見つめていた顔も、今朝私がジッと見つめていた寝顔も、今私の隣に立っている天ヶ瀬さんと同一人物だ。それなのに今は私の知っている天ヶ瀬さんと雰囲気がガラッと変わっているような気がして、私は思わず呆けたように何倍も大人になった天ヶ瀬さんの顔を暫く見つめていた。

 だけど違うからこそ本物なのかもしれない。そう思って、私は視線を誰もいない公園に向けて妙な緊張感を抱えた胸の底から声を出した。

 

「……天ヶ瀬さん、私から先に話をしてもいいですか」

 

 私の言葉を待つように黙り込んでいた天ヶ瀬さんの目が私の方へと向く。何も言わずに見下ろすその目は私が今までずっと追っかけていた天ヶ瀬さんの目で、大人の顔の中にある唯一の面影のようにも感じられる。何故だか妙に恥ずかしくなって咄嗟に視線を足元に落とすと、雨を含んだ道を歩いてきたせいか綺麗に洗ったばかりのスニーカーは水を染み込ませていて、右足の親指のあたりに小さな泥がついていたことに気がついた。

 風が吹いて視界に私の長い髪が割り込んできた。その髪を強引に耳にかけ、広くなった視界で天ヶ瀬さんの目をジッと捉える。いつもこの空のずっと先だけを見つめていた彼の綺麗な瞳に映る私に向かって宣言した。

 

「私、もう一度アイドル頑張ってみようと思います」

 

 私の言葉に、天ヶ瀬さんは大袈裟に喜ぶことも、驚愕のリアクションを取ることもなく、ただ自然な感じで「そっか」と言った。もしかしたら私がいずれアイドルに復帰することを知っていたかのような、そんな口ぶりにも思えた。

 手紙のことは伝えるべきか直前まで悩んだ。だけど偶然にも父と同じことを言ってくれた天ヶ瀬さんにはちゃんと話しておいた方が良いような気がして、私は父から貰った手紙のほんの一部だけを彼にも共有することにした。

 

「今朝、母と話をしてきたんです。その時に母が父から預かってた手紙を貰って」

「手紙?」

「はい。父が亡くなる間際に私宛に書いた手紙で、母は私が成人した時に渡すように頼まれていたって言ってました」

 

 たった二度しか目を通していなかったけど、それでも父の手紙は一言一句欠けることなく私の胸に刻まれていた。その中でも一番心に響いた一文を、私自身に言い聞かせるように口に出してみる。

 

「……天ヶ瀬さんとおんなじことを父も言ってました。『自分の為に生きなさい』って」

「だからアイドルに復帰することにしたんだな」

「そうですね。と言いつつも、今でも色々迷ったり、思うことはあります。それでも……」

 

 今度は天ヶ瀬さんの瞳の中の私ではなくて、天ヶ瀬さん自身に向けて、言葉をかけた。

 

「私の新しい目標や夢、天ヶ瀬さんも一緒に探してくれるんですよね?」

「あぁ、もちろんだぜ」

 

 記憶の中の父と同じような、謎の自信に満ち溢れた笑顔で天ヶ瀬さんは笑う。そして大きくて暖かい手のひらを私の頭の上に乗せると、父がいつもしてくれたように頭を撫でながら優しく「一緒に頑張ろうな」と言ってくれた。

 暖かい手のひらから温もりが伝ってきて、胸の中が満たされていくような穏やかな気持ちが広がっていく。きっと今の私はとんでもなくだらしのない顔をしているんだなと思うと、途端に恥ずかしくなって顔を隠すように下を向いてしまった。暫くの間、ほころんだ今の顔を天ヶ瀬さんに見られないようにと芝生周りを囲うゴム製のトラックに視線を落としていると、ふと今まで一度も思い出さなかったような昔の情景が頭に浮かんできた。

 突拍子もなく浮かんできた光景は、ちょうど半年ほど前、真っ暗なこの公園を一人で走っていた時の私だ。ライブ後の疲れた身体に鞭を打ちながら肺が破れそうになるほど何周も何周も走り回って、こうして膝に手を付いて地面を見つめながらどうしようもない現実に腹をたて、悔し涙を流した。初めて知った春香さんとの圧倒的に開いていた距離、そして自分が今までいかに高慢な愚か者だったかを知って、悔し涙を流したあの日の夜のことが何かを訴えかけるようにぽっと記憶の引き出しから飛び出してきたのだ。

 

「アリーナライブでバックダンサーを務めた日の夜、ここに来たんです」

 

 気が付けば私は天ヶ瀬さんにあの日のことを話していた。

 あの時はこの公園が天ヶ瀬さんと初めて知り合った場所になって、それから沢山の思い出を積み重ねていく場になるとは思ってもいなかったはずだ。きっとあの日の私が今の私を見ると驚くだろうなと、そんなことを一人で考えていると、ふと目をパチクリさせて私を見つめる天ヶ瀬さんの姿が視界に入った。どうしたんですか、と尋ねると天ヶ瀬さんは過去を遡るように目を瞑って、腕を組みながらうんうんと唸り始める。

 

「……もしかして、その時ランニングしてなかったか?」

「え? なんで分かったんですか?」

 

 私の反応で何かが確信に変わったようだった。天ヶ瀬さんには困ったように笑いながら、更にあの日の出来事を的中させていく。

 

「それで入り口に立っていた男に、『何ジロジロ見てんですか』って毒吐いたり」

「ど、毒なんかじゃないですっ! そもそもなんで天ヶ瀬さんが、そこまで……あっ!?」

 

 ––––もしかして。

 ようやく天ヶ瀬さんがあの日のことをやけに詳しく把握していた理由を理解することができた。「まさかあの時の女の子が北沢だったなんてな」と、天ヶ瀬さんは含み笑いを見せながらそう言った。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 アイドルをもう一度頑張りたいと思う。

 そう宣誓した北沢は、それからポツポツとその結論に達するまでの過程を静かに喋ってくれた。北沢の母から亡くなった父が北沢宛に書いた手紙を受け取ったこと、その手紙の中には偶然にも俺が昨晩寝る前に独り言のように伝えた言葉と全く同じ言葉が書かれていたこと。そのついでに「私の新しい目標や夢、天ヶ瀬さんも一緒に探してくれるんですよね?」と確認するかのように問われたから俺が頷くと、北沢は照れているのか暫く唇を噛んで俯いた。そして取ってつけたように、アリーナライブが終わった日の夜にここにやってきた事を語り始めた。

 

「……もしかして、その時ランニングしてなかったか?」

 

 まさか、と思って尋ねると、北沢は驚いたように目を瞬かせる。その様子だけで俺の考えと現実がリンクして、思わず口元が緩んだ。奇遇にも、765プロのライブ後に俺もこの公園にも訪れていたのだ。そしてその時、凛とした強さと美しさを感じさせながら一心不乱に走る女の子の姿を、見惚れるように眺めていたのを今でもしっかりと覚えている。

 

「え? なんで分かったんですか?」

「それで入り口に立っていた男に、『何ジロジロ見てんですか』って毒吐いたり」

「ど、毒なんかじゃないですっ! そもそもなんで天ヶ瀬さんが、そこまで……あっ!?」

 

 からかうようにちょっとずつ答え合わせをしていって、ようやく北沢も気が付いたようだ。北沢も驚いたように、だけど少しだけ嬉しそうに口角を上げて「あの時が初見だったんですね」と言った。俺も「そうみたいだな」と相槌を打ちながら、あの時からもう既に北沢に惚れ込んでいたことを知った。あの時に感じた北沢への不思議な感覚、あれは俗にいう『一目惚れ』というやつだったのかもしれない。

 北沢が俺の瞳を真っ直ぐに見上げながら口を閉ざした。次は俺の番なのかと思って、初めて会った時から変わらない眩しい視線を向けてくれる北沢に、新たな決意を伝えた。

 

「……俺、315プロダクションに入ろうと思う」

 

 そう口にした瞬間、遠くで芝生の上に降り立っていたカラスたちが真っ黒な翼を広げて大空へと飛びだって行った。小さな群れを作って、次第に遠のいてく黒い点を見つめながら北沢が言う。

 

「良いと思います。応援しますよ」

 

 素っ気なくもなく、押しつけがましくもない、北沢らしい言葉だなと思った。961プロに行ってきたことも話そうかと迷ったが結局その話はしなかった。俺の胸の内だけに留めておけばいい話なような気がして、今話すのは少し違うような気がしたのだ。

 この話は、いつかまた何かの拍子で適切なタイミングがきたら話そう。そう言い聞かせて、まだ暫くは胸の中で眠らせておこうと蓋を閉じる。

 

「北沢の言うように、インディーズでの一年もだし、961プロでの時間も絶対無駄じゃなかったと思う」

 

 目を閉じれば961プロで過ごした時間も瞼の裏に浮かんでくるようだった。あれほどまでに憎くて、捨て去りたいとまで思っていた961プロの頃の思い出たちが、今では優しく俺に寄り添ってくれている事を実感しながら、目を見開いて一年前よりもぐっと近くに感じるようになった空を見つめてみる。僅かに残った雲たちがゆっくりと流れていくのを見て、その先で俺はどれだけの夢を叶えることができるのだろうかと物思いに耽った。

 きっと今はまだ全てが未来形で、これからもまだまだ沢山の困難や試練が待ち受けているのだろう。315プロに入ったからといって全ての夢が望み通り叶うわけでもない。もしかしたら叶わない夢の方が圧倒的に多いのかもしれない。

 だけど過去としっかりと向き合い、ケジメをつけることができた今の俺ならどんな壁だって越えていける。そんな雲の先に広がる未来に立ち向かう勇気を、胸の奥で永遠のように光る過去の思い出たちが与えてくれたような気がしていたのだった。

 

「……空、飛べそうだな」

 

 ぽつりと口から溢れた絵空事に、北沢が「私もそれ思いました」と返してくれた。

 ––––あぁ、俺たちは今同じ空を見上げて、同じ事を考えてんだな。

 今俺が見上げているこの空は北沢にとっても優しい場所なんだと、そのことに気が付くと胸が温かい気持ちでいっぱいになった。春はもうすぐそこまで来ているようだった。

 

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 

 315プロに入ると告げた天ヶ瀬さんの顔は、気持ちがいいほどに晴々としていた。その表情にはもう迷いも未練もなくて、ただただ遠い空の向こう側を見つめていて、あぁやっぱりこの横顔が好きだなと、そんなことを私は考えていた。

 

「……空、飛べそうだな」

「私もそれ思いました」

 

 世界の中心に二人で立って、空を見上げながらそんな途方もない絵空事を語ってみる。空を飛ぶなんてあまりにも馬鹿げた話で、叶いっこなんてないはずなのに、それでもこの人の隣に立って空を見上げると、そんな馬鹿げた不可能な話もあながち無謀な話じゃないように思えてくるから不思議なものだ。

 暫く二人で空を見上げながら、私は天ヶ瀬さんとひたすらにもがき続けた今日までの日々を思い出していた。

 私は誰の力を借りずにトップアイドルになろうと、天ヶ瀬さんはインディーズ活動のまま今後も続けていくべきかどうかで多分それなりに悩み、手探りで自分のこれからの行き方を探していたこの半年間。ようやく私たちはそれぞれの形で答えを見つけることができて、するとその半年間は途端にひどく懐かしい記憶の日々のようにセピア色に染まっていくような気がした。

 ––––だけど全部覚えている。今日までのこと。

 天ヶ瀬さんとの思い出が一つも欠けていないことを確認して、私は一緒にだだっ広い世界の先を見つめる。これから先、何度季節が巡ってきても、こうして二人並んで空の向こう側に流れていく沢山の夢を見続けられますようにと願いながら。

 ふと飛べそうなほど近い空から視線を落とすと、天ヶ瀬さんが私を見下ろしていたことに気がついた。天ヶ瀬さんはコートのポケットに両手を突っ込みながら、私の瞳の中の最深部を覗き込んでいる。その瞳を見て言葉を待っていると、私たちの間に春風が吹き抜けていった。その風を合図にするかのように、大きく息を吸って天ヶ瀬さんが口を開く。

 

「俺、北沢のことが好きなんだ」

「私もですよ。天ヶ瀬さんのこと、大好きです」

 

 お互いに相手の気持ちを確かめ合って、静かに笑い合う。

 雨を含んだ草木の匂いが風に乗ってツンと私の鼻についた。春風は私たち二人の新たな未来への入り口をさすように、優しく吹いていた。

 




ありがサンキュー!!!!!!!!!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

あとがき

綺麗な物語の後に水を差す、後書きです。


 どうもラジラルクです。

 この度は三ヶ月に及んで連載が続いた「ニタモノドウシ」を読んでいただき誠にありがとうございます。後書きなので汚いネットスラングはなしで、真面目に語っていこうと思います。笑

 30万字近いなかなかの長編になってしまいましたが、こうして無事完結することができて何より、ほんと謎の達成感と喪失感を抱えながらもほっとしています。一応連載開始当初は物語中盤までと終盤の書き溜め(すぐに投稿できる添削済の話)と、会話文や簡単な描写などを織り交ぜただけの骨組み(勝手にそう呼んでいます)があったので、手こずることなく終わるかなとナメてましたが、早い段階でプロットの変更があったり、最終盤で書き溜めを自ら粛清するという大愚行を犯してしまったのもあり、終わってみれば今作もだいぶシンドかったです……。

 だけどまぁ、結果オーライ。無事に完結させれたのでヨシ!ってことで。

 後書きは載せるべきか否かで迷っていたのですが、実力不足が故に色々と回収できなかった点や説明不足で曖昧だった点、その他諸々語りたい部分が多々あったので、こうして卑怯ですが後書きで解説していきたいと思います。まぁ、キモオタの勝手な自分語りだと思ってください。

 

 今作はわりと数年前から頭にあった物語でした。

 ムビマスを視聴した時点で既に志保と冬馬の話を考えていて、ステージで自分が間違っていたのだと実力でねじ伏せられた志保と、961プロを抜けてアリーナで輝く春香たちを複雑な思いで見守る冬馬を絡ませたら面白いのではないかと初見から考えていました。片親だったり変にプライドが高いところだったりと、二人の共通点を勝手に見いだし、「あぁ、もうこれは絶対に作品にしなければ」と、そんな謎の義務感と勢いで構想を練ったのは今でも覚えています。まぁ自分が絵に描いたような怠惰人間なのと、クソみたいに仕事が忙しくなって思うような時間が確保できなかったこともあり、こうして世に出すまでだいぶ時間をかけてしまいましたが……。

 この作品をちゃんと執筆しようと思ったきっかけは、Side Mの前日譚である『Episode of Jupiter』を視聴したことでした。実は自分は本当にジュピターの三人が好きで、EoJももうセリフ覚えるほど見返していたほどなんですが、EoJを見てこの「0から1に進む物語」をもっと自分なりに深く作ってみたいなと思ったのが始まりだったんです。なので今作の冬馬パートは最終的にEoJに繋がるように設定し、そしてより深くジュピターの三人が315プロに進む過程を描けたらなと、そのことを念頭に起き続けて微力ながら執筆をしました。

 志保パートに関してもジュピター同様に「0から1に進む物語」をテーマに構成を練りました。もともと原作でも家族のためにアイドルを始めた志保ですが、その志保が家族のためではなく自分の為にアイドル活動をするようになるのが自分なりに考えた志保の「0から1に進む物語」で、そのため多少設定も都合よく解釈しています。既述したように志保がアイドルを始めたのは家族を楽にさせるためで、決して父に会いたいといった今作中の目的は公式でも一切触れられていません。なんなら父は死んでないですからね。定かではないけど、そうであってほしい……。

 まぁ、そこらへんの勝手な解釈は多めに見てください。笑

 

 それぞれの「0から1に進む物語」を程よく交わらせて、最終的に重なるようにと、なるべく交互の視点で物語を進めているつもりでしたが、まぁ終わってみればだいぶアンバランスな状態になってしまったなと反省しています。恋愛関係に発展する二人の心境の変化も、一応中学生特有の好きな人の何もかもが特別に見えるキラキラした感覚と、自分がもしかしたら何者でもないかもしれないと気づき始める高校生の現実的な感覚をそれぞれ描きたかったのですが、恋愛ものは本当に苦手なので、全くもって目指していた異なった年頃の二人の心境の変化は描けませんでした……。また、作中で冬馬が感じていたように安易な恋愛関係で終わらせたくないっていう気持ちがずっとあって、どちらかと言えば人間ドラマの方向へ舵を切ったのも、物語の中盤まで恋が始まらなかった要因でもあります。もうちょっとこう、バランスよく描ければよかったんですけど、ペース配分ミスや序盤の中だるみは完全に自分の実力不足でしたと猛反しております。

 

 また、作中以外にも本当はまだ幾つか挟みたいエピソードもあって、その書き溜めもあったんですが、これ以上追加すると多分とんでもなくダラダラした長さになる(今でも十分ダラダラしてましたが)と判断し割愛しました。そのためこんなグダグダになってしまったのは重々承知しております。

 割愛されたエピソードの殆どは志保のもので、その一部をここで説明させてください。

 終盤のしじみ汁委員長のセリフでもありましたが、志保は序盤から同世代の中で(バックダンサー組みを除く)ともかく浮きまくっていました。序盤に莉緒姉や桃子、歌織さんやこのみさんなど年が離れたメンバーたちが出てくる一方で同世代が殆ど出てこなかったのは、志保が馴染めていなかったのが原因です。なんなら可奈ともちゃんとした和解はしておらず、アリーナライブが終わった後も互いに気まずいままです。その和解話も一応用意はしていましたが……。

 なのでボツになった話としては、

・静香や翼たちとガチ喧嘩

・可奈との和解

・志保VSクレッシェンドブルー

・莉緒姉の恋愛講座

などです。

 本当は莉緒姉を終盤まで絡ませるつもりだったのですが、冬馬が劇場にやってきた時に志保のことを話す役をしじみ汁委員長に与えてしまい、莉緒姉の扱いに困らせることになり、結局まさかまさかの途中退場。志保の恋愛事情をいち早く知っていた人物だったので、料理の仕方次第ではもっと面白みのある絡ませ方ができたはずなんですけどねぇ。これも反省点の一つです。

 だけどしじみ汁委員長もあのまま当て馬だけで終わらせるのも勿体無くて、なんかもうアレもコレもと欲張ってしまったせいで志保パートは割と壊滅的なほどぐちゃぐちゃになってしまいました。欲張れば話が長くなり、削り過ぎれば余るキャラが出てきて、もっと登場させるキャラをちゃんと絞るべきだったかなと。でもミリオンは魅力的なキャラ39人もいるから仕方ないですよね!!!

 

 一方の冬馬パートは当初よりあまり変更点はなく、自分の書きたかった話がかけたと思っています。強いて言えばもうすこし北斗と翔太にも触れたかったのですが、今作は冬馬がメインだったのでそれはまた別の機会にということで。

 冬馬パートでボツになったのは、

・志保の握手会に行く話

・中途半端な優しさを見せるばかりで志保にぶん殴られる回

・その他、高校での日常的な話

などですかね。

 でも幾つかは作り直せば使えそうな話があったので、今後何かしらの形で出せたらなと考えています。

 

 

 ニタモノドウシに関しては以上です。

 ここからは自分なりの志保と冬馬(ほんの少し)の考察を書きたいなと思います。読んでも読まなくても人生損することも得することもないと思うので、モノ好きな方は読んでいただければ幸いです。

※志保Pは要注意!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まずは少しだけ自分語りをさせてください。

 第1作の後書きで少し触れて(挫折したとも書いて)いましたが、あれから本当に色々な偶然が重なって、実は自分は子供の頃から憧れていた職業に運良く就くことができ、今は大好きな仕事でお金をもらって生活をさせていただいています。と言ってもクソみたいな底辺で3流4流ですが。

 特定は避けたいので職種は言えませんが、ミリの中にも自分の職業と関わりを持つキャラが一応います。また、自分でもいうのも変な話ですが、今でも多くの子供が憧れを抱く職業で、トップの人間たちはものすごくお金持ちになれる夢のある世界です。その傍ら、常に数字と結果だけが求められるシビアな業界でもあり結果至上主義の勝負の世界で、実力がない人間はすぐに消されていきます。ぶっちゃけ気を抜けばすぐに仕事がなくなるくらいに。

 特に自分のようなほぼ底辺に近い人間なんか、常に死と隣り合わせです。笑

 だけどそんなピリピリとした勝負の世界が自分は好きで、何より大好きなことでお金を稼げたり多くの人に夢を与えれるのがすごく嬉しくて、その一心だけで今の仕事をさせていただいています。そういった勝負の世界で生きる人間が好きなのもあって、実は学生の頃から今の仕事で収入が安定するまでの数年間、とある芸能関係の事務所で事務員としてアルバイトをしていたこともありました。

 そのアルバイトで仕事柄、アイドル志望はもちろん役者や歌手志望などの芸能関係の卵たちを沢山見てきて、そして時たま業界の一流の人たちとお会いすることもできて、運良くそういった妙な経験もさせてもらえました。

 勝負の世界で生きる人間として、そして多くの卵やほんの少しだけガチ一流を見てきた人間として現実的な話をすると、志保がトップアイドルになるのはおそらく不可能だと思っています。(志保Pの方は本当にすみません……)

 いくら努力の時間を割いても結局一流になるのは才能に秀でていて努力を重ねた人間だけで、努力だけで勝ち上がれるのはせいぜい3流まで。2流になることでさえも才能は絶対必要だと思っています。アニメのキャラにここまで推測をすること自体意味はないことなのかもしれませんけど、自分が思うに765で一流になれるのは天海春香や如月千早、星井美希の初代信号機の三人くらいです。その他のアイドルたちは殆どが3流止まり、よくて2流かなと思っています。

 志保も様々な媒体で触れられているように、基本スペックが低いアイドルです。それを血の滲むような努力で補っているのであって、才能はハッキリいってある方ではないはずです。烏滸がましい話ですが、自分も夢への思いが誰よりも強かったのに実力と才能は全く伴ってなくて、子供の頃から今の仕事に就くのは不可能だと言われ続けてきたほどでした。だけどどうしても夢を叶えたくて、それこそ寝る間も惜しんで努力して、それでも結局辿り着けたのは3流4流の世界。上を見れば絶対に届かない偉大な先輩たちの背中があって、下を見れば次から次に溢れるように出てくる才能に溢れた新人がいて、努力だけでは埋められない才能の差を嫌という程見せられてきました。

 だからクソ自分勝手ですが、死ぬ気で努力をしてようやく同じ土俵に立てる志保の心境もわりと理解はしているつもりです。誰よりも頑張っているの一番にはなれない、他の人がすぐにできることを長い時間かけないとできない、ゲッサンの「できないならできるまでやるしかない」といったセリフは、まさにそんな志保のジレンマを的確に表した言葉だと思っています。

 きっと志保も自分は一流になれないと心のどこかで気付いていて、だけどどうしても夢を叶えたくて頑張って、そうやってずっとチャレンジャーの精神で上を目指し続けて頑張っていく人間なのかなと。そしてそういった努力を続けてきた人間は時々、信じられないような奇跡を起こしたり、大事な場面で120%の力を発揮したりするのが勝負の世界の面白いところでもあります。志保もそういったタイプの人種で、その時折訪れる一瞬のために常日頃から準備をしているのかもしれませんね。そしてそのストイックさが、志保の最もたる魅力の一つなのだと思います。

 

 一方の冬馬はガチの天才肌タイプです。

 才能がある上に情熱のある努力家で、そのうえ若い頃に挫折を経験しているので、将来的にはかなり大成する人間の典型的パターンだと思います。変に考察する部分がないほど、ガチな天才肌タイプなので自分のような才能のない人間にはちょっと分からないところの方が多いです。笑

 だけど、自分も二十歳になる前頃に一度夢の入り口の前に立てたことがあって、もしかしたら長年の夢が叶うかもしれないというチャンスを目前にしたことがありました。だけどその時、長年自分の夢を応援してくれていたはずの大人が大金を持って夜逃げをかまし、近かったはずの夢の入り口が遠く彼方に消えていってしまった……なんて修羅場を経験したことがあります。結構残酷な話ではありますが、わりとどんな業界の勝負の世界にもそういった悪い大人の存在はうごめいていて、ジュピターの三人が経験したような「純粋無垢だったが故に悪い大人に利用されてしまう」ことは、よくある話です。夢を叶えようと一生懸命になる若い人は絶好の金づるだと、それはもう昔から言われていることですし。 

 でもジュピター、特に冬馬にはそういった嫌な過去だけで終わらせて欲しくなくて、形は間違っていたかもしれないけどちゃんと961プロとも決別して前に進んでほしいと、そんな思いがあったので最後の再会のエピソードを追加しました。一応コミック版でも黒井社長に会いに行くシーンはあった(結局会えずに手紙を置いただけ)のですが、そのシーンをより細かく、明確に描きたかったので、ライブシーンよりも実は961プロと決別するシーンが一番個人的にお気に入りの話だったりします。

 

 

 長くなりましたが、自己満の自分語り・考察は以上です。

 ちなみに以前、一度だけニタモノドウシの公開を停止しましたが、それは自分の本名でやっている仕事のTwitterアカウントの方に誤って更新ツイートをしてしまったからです。笑

 一瞬で火消ししましたが、もし見ていた方がいたら笑って記憶の中にだけ留めておいてください。ラジラルクの正体は秘密でお願いしゃっす!

 次回作は一応幾つかプロットはあるのですが、ぶっちゃけどうなるかは分からないです。Twitterにも書きましたが、中学卒業を機に劇場を抜けた静香に続くように翼と未来もアイドル活動を辞め、その後疎遠になっていき残念に大人になった25歳の三人の元へアイドル時代の自分たちから同窓会の手紙が届く……といった話を書きたいなと思っていますが、もうアイドル辞める話しつこいくらい書いてるし、そもそも1作終わると燃え尽きてしまう人間だし、しまいにはそろそろコロナで全く止まっていた仕事が一気に忙しくなりそうなので、どうなるかは分かりません。

 今後は未定ですが、一つだけ言えるのは今作のニタモノドウシは本当に執筆していて楽しくて仕方がなくて、実はまだまだ二人の物語を終わらせたくないって気持ちが強く残っているってことです。なのでもしかしたら今後、劇中では入れなかった話やボツになった話の再構成ものなど、短編的な形で投稿を続けていくかもしれません。その可能性がおおいにあるため、一応小説情報は『連載中』のままにさせていただきました。

 

 色々と長くなりましたが、後書きは以上です。書きたいこと書き殴ってかなり読みにくいですけど、言いたいこと、伝えたかったことは多分全部まとめました。笑

 

 

 最後になりますが、こんな駄作を最後まで読んでくださった読者の皆さんはもちろん、投稿するたびに凄まじい数の誤字脱字報告をしてくれた方々、もったいないほどの評価を付与してくださった方々、全ての方にこの場を借りてお礼申し上げたいと思います。

 

 ありがサンキュー!!!!

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

SE@SON TWO
EpisodeⅠ: 俺と私の福岡旅行


二日間で6回WING敗退したのでニタモノドウシSE@SONⅡ初投稿です。


 

 

 ––––春。

 進学や就職、はたまた卒業や退職など、四季の中でも何かと目まぐるしく環境が変化する季節だ。そんな季節柄のせいもあってか、この時期を目安に何か新しい物事や挑戦を始めたり、心機一転新たな気持ちで自分を引き締め直す人も多いと聴く。そういった人たちの気持ちが分からないわけではなかったが、私は14年間生きてきて、春だからと言って何かが大きく変化するようなことは特にはなかったと思う。

 勿論、進級したりクラス替えがあったりと多少の環境の変化は私にもあったものの、それらがもたらす影響は大きいものではなかった。進級しようがクラスが変わろうが、私はいつも通り学校の授業に遅れないように勉学に励み、自分の目標のために今やらねばならないことをやるだけ。それは春だろうが夏だろうが変わらなかったから、特段春という季節に新鮮味を感じることはなかったのだ。

 だが、そんな私でも今年の春ばかりは違った。

 見上げる空は例年になく蒼く澄んでいるように映って、寒さを含んだ春風はいつになく優しく感じられて。か細い木々の先に宿った小さな蕾が花開いた姿を、初めてこんなに美しいと思った。

 自分の研ぎ澄まされた五感に戸惑う反面、その理由に大まかな見当も付いていて、今年の春を“特別”だと感じるのは、仕方のないことなのかもしれないとも思う。

 

「北沢!」

 

 高台の公園から春の日差しに照らされた街並みを見下ろしていた私の背後から、優しい春風に紛れて名前を呼ぶ声が聞こえてきた。ベンチから立ち上がって振り向くと、満開の桜の木々を背景にして大好きな彼が照れ臭そうな表情を浮かべながら私の方へとゆっくりと歩み寄ってきている。

 

「天ヶ瀬さん」

 

 思わず私もその名を呼び返し、芝生を蹴って彼の元へと駆け寄った。

 いつしか冬の厳しい寒さが和らいでマフラーを外し、コートも脱いで、そうやって新しい季節がゆっくりと動き始めた頃。私はジュピターの天ヶ瀬冬馬さんと正式に交際を始めた。

 

 

 

 

ニタモノドウシ SE@SON Ⅱ

 

 Episode Ⅰ : 俺と私の福岡旅行

 

 

 

 

 年が明けてから春が訪れるまでの数ヶ月、今年はいつになく様々なことが起こった時間だったなと思う。

 記録的大寒波が東京を襲った北沢の誕生日当日、父の死を知った北沢が吹雪の中で家出をしたこと。その北沢を家に連れて帰り一時的に一緒に生活をしたこと。初めて自分自身で作詞をしたPlanet escapeをライブで初披露し、偶然ライブ会場に訪れていた315プロの石川さんと齋藤社長に正式にオファーを受けたこと。そして過去の自分と決別をし、春風の吹く高台の公園で北沢に想いを伝えたこと––––。

 あまりに多くの出来事が慌ただしく起こった、年明けからの日々。

 だけどそんな忙しい冬を乗り越えて暖かな春を迎えて、俺たちの関係は昨年からは信じられないほどに大きな変化を遂げていた。

 

「福岡といえばやっぱり博多座ですよね。天ヶ瀬さんは何処か行きたいところとかないんですか?」

「そうだな、屋台に行ってみてぇ。屋台のラーメンってめちゃくちゃに美味いって評判だしな」

「屋台……、ですか。いいですね! なら屋台と博多座と、えっと他の観光名所は……」

 

 かつて北沢と一緒に過ごしたワンルームで、俺たちは小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。薄いカーテンからは春の日差しが差し込んでいて、俺たちに囲まれたテーブルの上に置かれた何冊もの観光雑誌たちは優しい陽だまりに照らされている。目の前で観光雑誌を忙しそうに捲る北沢は、出会った頃からは想像もつかないような無邪気な子供のような顔つきをしていた。

 961プロや過去の自分とのケジメをつけ、315プロへ入ることを決めたあの日。俺たちは互いに想いを伝え合い、正式に恋人として付き合うこととなった。付き合い始めたからといって今までと何かが劇的に変わるわけではなかったが、それでも恋人へと関係性を変えた北沢の存在は俺にとって大きな存在になって、こうして互いに休日を合わせて一緒の時間を共有したり、時に“トップアイドル”という夢を志すライバルとして切磋琢磨しあったり、そんな今までと大差ない平凡な日常の中でも十二分の幸せを感じ、そして未だ経験したことのないような暖かな気持ちに満たされるようになっていた。

 願わくば、北沢も同じ想いをしてくれていたらなと思う。

 

「にしても、やっぱり……」

 

 どうしても払拭しきれない後ろめたさからか、思わず北沢の表情に水を差すような言葉が口から出てしまった。慌てて口を閉じたものの、俺のぼやきが耳に届いていたのか、夢中になってページを捲っていた北沢のか細い指はその場で止まっていた。

 北沢は胸の内を汲み取っていたようで、俺に向けられた綺麗な顔つきの上には俺に対する同情半分、その上で「もう諦めてください」と言わんばかりに降参を誘うような表情が半分。どうやら今更ごねたところで、もうどうすることもできないらしい。

 

「まだ気にしてるんですか? 今回の件は母からの申し出なんで、天ヶ瀬さんは遠慮しないでくださいって何回も言ってるじゃないですか」

「そっ、そうは言われてもだな……」

 

 頭では理解していても全てを受け入れれるほど納得はできなくて、言葉の歯切れが悪くなる。北沢はそんな俺に嫌な顔一つも見せず、綺麗に整った眉をしかめて、困ったような笑みを浮かべるだけだった。

 

「母から今度は天ヶ瀬さんと二人で旅行に行ってきなさいって言われたんです。天ヶ瀬さんの費用も母が負担させて欲しいって聞かなくて」

 

 唐突にそんな話をされたのは、北沢から家族三人で焼肉に行った日の話を聴かされた後だった。

 

「……旅行?」

「はい」

「俺と北沢が? 北沢の母さんのお金で?」

「そうです」

「わりぃ、話が全然分からねぇんだけど」 

 

 どういう顛末で北沢の母が俺たちにお金を出して旅行に行ってこいなどと言い出したのか––––。

 まるで見当が付かなかった俺に、北沢は時折話しにくそうにしながらも、丁寧に順を追って説明してくれた。

 事の発端は俺が北沢の母から受け取ったお金を全額返金したことだったらしい。以前、北沢が家出をしていた一ヶ月ほどの間、俺は北沢の母の承認のもとで北沢を家に泊めたことがあった。その際にどうしても生活費の援助をさせてほしいと申し出た北沢の母の頑固さに負けて幾らかのお金を受け取っていたのだが、俺はそれを一円も使わず、北沢が家に帰る時に預けたのだ。このお金を北沢一家の関係修復のために使ってほしいという想いを込めて。

 だが、そんな良かれと思ってやった俺の行動が、逆に北沢の母に親としての示しがつかなくさせてしまったらしい。

 偶然とはいえ本来なら無関係なはずの俺を北沢家の問題に巻き込んでしまい、散々娘の世話までしてもらった挙句、その際に渡していたお金も丸々返されてしまった––––。頑固な北沢の母の性格もあり、何かしらの形で俺にお礼をしないと気が済まないと聞かなかったそうだ。

 

「母としても何かしらの形で天ヶ瀬さんにお礼がしたいんだと思います。気が引けるのも分かりますが、母の顔を立てる意味でも、どうか受けてもらえませんか?」

「ま、まぁ俺は全然大丈夫だけど……」

 

 彼女の母親のお金で旅行に行くという、前代未聞のシチュエーション故にあまり乗り気にはなれなかったが、かと言って北沢の母の立場を考えると断ることも気が引けて、結局俺は何ともいえない複雑な心境のまま北沢の提案を受け入れざるを得なかった。

 

 何故お礼が旅行なのか。

 そもそも年頃の娘の異性との県外旅行を親自らが薦めるのはいかがなものなのか。

 

 そんな心配も頭を過ぎったが、北沢曰く俺と交際を始めたことは母親に伝えていたみたいで、その上で今回の旅行を提案したのだから特に問題はないらしい。北沢の母も薄々俺たちの関係には勘付いてたのか、北沢の告白に特段驚いた様子も見せずにすんなりと交際を認めてくれたと話していた。旅行に行くことを勧めたことに関しては最後まで分からなかった。だけどその理由が分かったところで俺に拒否権はなさそうだったから、これ以上深く考える事はやめることにした。

 

「……でも楽しみですね、福岡」

「そうだな」

 

 行き場のないモヤモヤを抱える俺とは対照的に、テーブルに頬杖を付きながらそう口にした北沢の頬は、旅行に行く日程が決まってからずっと緩み切っている。かくいう俺も、純粋に北沢との旅行が楽しみな気持ちもあって、そのせいか普段は絶対に見せないような北沢の幼い表情に釣られるように、自然と口角が上がっていることに気が付いていた。

 

「あ、そうだ! 劇場に福岡出身の人がいるんですよ。明日のレッスンで一緒なので、色々と穴場を聴いておきますね」

「へぇ、そいつは心強いな。美味しい屋台のラーメン屋とか訊いててくれよ」

「ふふふっ、分かりました。ちゃんと訊いておきます」

 

 今にも鼻歌を歌い出しそうなほどに上機嫌な様子で、北沢は先ほどまでのとは別の観光雑誌を広げてパラパラとページを捲り始める。今日だけでも何回も目を通しているはずなのに、北沢はまるでクリスマスシーズンに届くおもちゃのカタログを見つめる子供のように、興奮した様子で次々に捲られていくページを追っていた。

 

(まぁ、せっかくだから楽しまねぇとなぁ)

 

 こんなウキウキな様子を見せられると、心にしこりを抱えている自分がとても無粋な気がしてくる。俺は北沢の笑顔を曇らせないようにと、胸に居座り続けていたモヤモヤを無理やりに隅へと追いやった。

 

「博多に着いたらまずはお昼ご飯を食べて、それから博多座に行って……。夜は屋台のラーメンだから中洲で、次の日は……」

 

 多分本人は無意識なのだろうけど、スマートフォンと観光雑誌を交互に見つめる北沢の綺麗な唇の奥からは独り言のように次々と旅行の計画が溢れ出ている。未だかつてないほど幼い姿を露呈している北沢を、俺は暫くの間微笑ましい気持ちで見つめていた。

 

 今回の旅行の目的地が福岡が決まったのは、ある意味消去法だった。

 と言うのも、せっかく旅行に行くのなら東京からなるべく離れていて、尚且つ今までお互いに行ったことのない都市に行きたい––––。そんな俺たちの漠然とした条件に一致する場所が、九州の福岡くらいしかなかったのだ。

 旅行の定番である北海道は俺が、京都や大阪などの関西は北沢が既に修学旅行で訪れていて、日本列島最南端の沖縄はあまりに費用が掛かってしまい(飛行機とホテルの値段の高さに思わず無言になった)、そうなってくるとこの小さな島国に残された観光地は絞られてしまう。四国や東北などの地方都市も幾つか候補に挙がったがイマイチ心惹かれるような名所が見つからず、最終的に『互いに一度も足を踏み入れたことがないから』といった投げやりな理由だけで九州へ行くことを決めてしまった。

 しかし、そんな半ば消去法のような形で選ばれてしまった今回の目的地ではあったが、観光雑誌で福岡の街を知れば知るほど、俺たちはあっさりとその魅力に惹かれていった。西日本有数の観光地として栄える福岡には豚骨ラーメンを筆頭にもつ鍋や明太子などの充実したグルメ、伝統的な祭りである博多どんたくや博多祇園山笠––––、そして福岡が持つ幾多の名所の中でも特に北沢の興味を強く引いたのが、九州最大規模の演劇施設である博多座だ。

 

「……あ、あの。もし良ければ博多座に行きませんか?」

 

 最初にそう申し出た北沢は、まるで顔色を伺うような上目遣いで俺を見上げていた。

 母の提案と言えども、強引に付き合わせるような形で実現してしまった今回の旅行だけに、北沢も自分の要望を主張することに対して少なからず心咎めがあったのかもしれない。だけど俺としても特に福岡で行きたいところがあったわけでもないため断る理由もなく、控えめに申し出た北沢に二つ返事で了承すると、すぐさま北沢は向日葵のような笑顔を浮かべて、両手を叩いて喜びを表現した。

 そして次に会った時には満面の笑みで何冊もの観光雑誌を抱えて来たのだから、よほど博多座に行けることが嬉しくで仕方がなかったらしい。

 

(そういや以前から演劇の仕事に興味あるって話してたよな)

 

 いつしかの会話をふと思い出し、すぐに北沢の異様なまでの張り切りように合点がいった。俺は正直そこまで舞台や演劇の仕事に興味があるわけではなかったが、それでも北沢と一緒なら関心のなかった博多座も楽しめるような気がしていたし、何よりこんな風に北沢の喜んでいる顔を近くで見れるだけでも十分俺は嬉しかった。北沢の嬉しそうな顔を見ているだけで抱えていたモヤモヤを押し潰すほどに幸せな想いが胸いっぱいに広がっていくのだ。

 その不思議な感覚が、心地良くて温かく感じられて、俺は好きだった。

 

「楽しみな気持ちは分かるけど」

 

 自分も無意識のうちに北沢と同じくらい頬が緩んでしまっているような気がして、慌てて咳払いを挟む。気持ちがすっかり東京から遠く離れた福岡に行ってしまっていた北沢が、焦点を合わせるように俺の方を向くのが視界の端に入り込んだ。

 

「まずは今週末だぜ。CDの発売イベントあるんだろ?」

「もっ、もちろんですよ。大丈夫です、ちゃんとこなしますから」

 

 慌てて現実に引き戻されたかのように、北沢の頬がシワなくピリッと引き締まった。

 今週末、765劇場では北沢含むデビュー第二世代組のCD発売イベントが予定されていた。昨年の秋に劇場で行われた第二回定例ライブで披露された北沢のソロ曲、“ライアー・ルージュ”だったが、実はあのライブから今日まで、ネット上でのダウンロード販売のみでCD化はされていなかったのだ。

 恐らくネット配信が主流になりCDが売れなくなったこのご時世、わざわざ知名度の低い新人アイドルの楽曲をCD化するのは費用対効果を考えてもあまり旨味がないと考えていたのだろう。だがその守りの姿勢も、北沢たちの前に定例ライブでデビューした春日未来、最上静香、伊吹翼の三人––––、通称“シグナル”の存在によって改めさせられることとなる。

 シグナルの一人である春日未来が田中さんも出演した“階のスターエレメンツ”で予想外の人気を博し、39プロジェクトの存在と共にその名を世間に広めることに成功したのだ。嬉しい誤算となった春日未来のブレイクは、今まさに始まったばかりの39プロジェクトの背中を押す絶好の追い風となった。

 この好機を易々見逃すはずもなく、765プロはすぐさま三人のソロ曲をCD化。それぞれの楽曲が店頭に並ぶと、ものの見事に三人揃ってオリコンチャート入り。その前例もあって、こうしてめでたく39プロジェクト第二世代である北沢たちのデビュー曲もCD化されて店頭販売されることが決まった……、というのが俺の大まかな推測だ。

 

「シグナルの三人、すげぇよな。デビュー時期から全然勢い衰えてねぇし」

「まぁ、確かにすごいですけど……」

 

 謂わばシグナルの三人は、39プロジェクトの稼ぎ頭のような存在だった。当然他のメンバーたちより、この三人は知名度は群を抜いて高い。ただ強すぎる光はか細い光を消してしまうように、現状他のメンバーたちは想像以上にブレイクしてしまったシグナルの三人の影に隠れてしまっている。

 北沢も例外ではなく、デビューこそしたもののシグナルの影に隠れてしまっている側の人間だった。そしてその三人は北沢と同世代。筋金入りの負けず嫌いな北沢のことだ、この三人に並々ならぬ対抗心を燃やすのは自然の流れだった。

 

「私、絶対に負けませんから。シグナルの三人にも」

「あぁ、応援してるぜ。でもあんまり気負いすぎるなよ」

「分かってますって」

 

 ギラギラした炎が綺麗な瞳に宿った、普段の見慣れた表情に戻ってそう口にした北沢だったが、それも数分ももたず、すぐにテーブルの上の観光雑誌へと目移りしてだらしのない表情に戻っている。

 

(本当に大丈夫かよ)

 

 内心そう心配しつつも、こうして普段は全く見せないような表情を俺の前で見せてくれることも嬉しくて。

 薄いカーテンを突き抜けて、春に陽だまりが差し込む昼下がり。俺はゆっくりと時間が流れるこの幸せな世界がいつまでも続きますようにと、そんな月並なことを考えていた。




投稿するする詐欺でもう十二月になってしまいましたが、やる気と時間が比例して確保できるようになってきたので今日から細々と投稿再開していきます。
SE@SONⅡでは主にSE@SONⅠでカットした話をメインに、プロット制作当初に考えていた別EDの方にくっつけて行こうと考えています。に加え、SE@SONⅠで行き場のなかったEXエピソードを幾つか(桃子ところめぐ、翼もいければ)ブッ込むつもりです。
と言いつつも、本編は全4話予定。あんまり長くはならないと思いますが、是非引き続き楽しんで行ってくれよなぁ、なんでもしますから〜(爆死するとは言ってない


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



早速沢山の高評価、お気に入り、ありがサンキュー!
こんな作品を日間に載せて誇らしくないの?(褒め言葉
お礼に1145141919810秒毎に投稿してやるからさぁ、見とけよ見とけよ〜(大嘘


 凄まじいスピードで人々の生活を豊かにし、様々な生活を様式を変えた二十一世紀のIT革命。音楽業界もその例に漏れず、ここ数年で人々の音楽文化は幾度となく進化と終焉を繰り返してきた。

 CDからカセットテープに、カセットテープからMDに、MDからiPodなどのウォークマンに、そしてスマートフォンが大流行した今は定額制の音楽サービスやダウンロード販売が主流になり、音楽の起源とも言われたCDの存在が淘汰され始めている。ネット環境さえあれば好きな時に好きな楽曲だけを手軽に購入できるようになったこのご時世、わざわざ店頭に出向いてまでCDを購入する人が減ってしまったのだ。

 だが圧倒的に数が減ったとはいえども未だに利便性を無視してCDを購入し続ける人も多いと聴く。コレクション目的の人もいれば、同封されているイベントのチケットなどの特典目当ての人など、その理由は十人十色だが、かくいう俺もこれだけ便利な時代になった今でもなおCDを買い続ける人間の一人だった。

 表紙となるジャケットや歌詞カードのデザイン、何かしらのテーマや意図に沿って定められた曲順など、CD一枚と言えどもそこには沢山のアーティストの拘りや作曲家などの想いが秘められていて、それら要素を全て引っ括めて“一つの作品”として楽しむことによって、より深く楽曲を味わうことができる––––。楽曲のみならず、そういったCDという媒体を通して味わう音楽の楽しみ方が、俺は昔から好きだったのだ。自分でもそれがアナログな楽しみ方だとは思っていながらも、今の主流である便利な音楽配信サービスやダウンロード販売ではどうしても味気なく感じてしまい、物足りなさを感じていた。

 そういったCDへの強い拘りがあったせいで、北沢のデビュー曲である“ライアー・ルージュ”がダウンロード販売が始まったと知った時も随分と頭を悩ませたが結局購入はしなかった。その時既にシグナルの三人のソロ曲CD化が公式で発表されていたため、 今すぐではなくともいずれ北沢たち第二世代組もCD化されると踏んでいたのだ。定例ライブから半年も待たされたのは少し想定外ではあったものの、案の定俺の予測通り北沢のソロ曲もCD化されて店頭で販売されることが決まり、その発売日を俺は指折り数えて待ち続けていた。

 発売日当日、俺はまだ冬の寒さの名残が残る早朝から近所の大手CDショップへと向かった。その道中で何度も思い浮かべていたのは、少しばかり遠い日の記憶になってしまった定例ライブでの北沢の姿だ。あの時の会場の空気がガラッと変わった瞬間の雰囲気、誰よりも強く美しく輝いていたステージ上での北沢の姿––––……、まばらな数の席しか埋まらなかった劇場で俺の五感が感じ取った全てが、埃をかぶった宝箱の中から次々と顔を出すかのように、断片的に覚えているライアー・ルージュの歌詞と共に浮かんでくる。

 

「……良い曲だったよなぁ」

 

 思わず白い息と共に溢れたあの時の感想は、目の前の横断歩道を横切っていく車たちの喧騒な音に掻き消されてしまった。

 定例ライブの直前、北沢は俺に弱音を吐いた。誰かを好きになった経験がない自分はライアー・ルージュの歌詞に込められた想いが理解できず、それ故に歌いこなせる自信がないと。

 それからライブ当日までに何があったのか分からないが、俺が観たステージ上の北沢の佇まいはそんな弱音を吐いた人間とは全く別人の姿だった。迷いが一ミリも感じられない立ち振る舞いは新人らしからぬ堂々としたもので、ライアー・ルージュと真正面から向き合うその姿はまさに凛とした強さを兼ね備えた、一人のアーティストの姿だった。そしてそんな迫真の姿に、胸の奥に潜む何かが大きく揺さぶられる衝動を覚えた人は、決して俺だけじゃないと思う。

 信号機が青色に変わって、聴き慣れたメロディが交差点に響く。横断歩道の先で通行人を待つ真新しい信号機の背後には、よく足を運ぶCDショップの看板が俺をじっと見つめていた。その一際目立つ黄色い看板に向かって、俺も横断歩道を渡り始める。俺の足取りがいつの間にか早足になっていたことに気が付いて、すぐさま耳たぶの端まで一気に熱が行き渡った。柄にもなく、俺は今日という日を思っていた以上に楽しみにしていたのかもしれない。

 ––––1秒でも早く、ライアー・ルージュを聴きたい。

 その一心で、俺は横断歩道を渡りきった。耳が熱を持っているのは、きっと寒さのせいだけじゃはずだ。

 

 ほぼ開店と同時に目当てのCDショップへと辿り着いた俺。しかしそこで直面したのは思いも寄らない現実だった。

 入り口からすぐの場所に置かれた天海春香の大きなパネル、その周辺の女性アイドルコーナーの棚の中をくまなく探してみたが、どこにも北沢のライアー・ルージュのCDは見当たらなかったのだ。

 全く想像もしていなかった嫌な予感が、静かに胸をよぎる。まさかとは思いつつも、レジであくびを押し殺しながらボンヤリとしている店員に声をかけた。

 

「はっ!? う、売ってないっ!?」

「そっすね。シグナルのならあちらにあるんですけど」

「入荷する予定とかは?」

「今のところないっすね。日数いただければ取り寄せできますけど」

 

 レジに立つ店員のまるで「当たり前でしょ」と言わんばかりの口調。

 その現実を受け入れることができず、俺は必死に訴えかけるようにしてスマートフォンでCDの写真を見せたが、少し気怠けな口調のメガネをした男性店員は俺の希望を易々と打ち砕いた。

 

「いやぁ、分からないすね。この子たちの名前は、見たことも聴いたこともないんで。ウチには入ってこないと思いますよ」

 

 呆然としながら店を出て、俺はどうしてこの可能性を考えなかったのだろうと激しく後悔した。CDの販売前から知名度と人気があったシグナルの三人に対し、北沢は無名アイドル同然の存在。店員が言うように、そんな三人のCDがシグナルと同じように大手CDショップの店頭に発売日から並ぶはずがなかったのだ。

 それでも俺は望みを捨てきれず、近辺のCDショップを幾つか回ってみた。が、結果は変わらず。店頭に並んでいるのはシグナルのCDだけで、どこの店にも北沢のCDは一枚たりとも置いていない。一店舗だけは田中さんのCDを取り扱っていたが、それも数はかなり少なかった。各店舗の店員に尋ねてみても、皆揃いも揃って「入荷の予定はなし」と口にするくらいだから、恐らくそもそもの出荷枚数自体が少ないのだろう。

 大手CDショップで入手できない以上、ネット通販以外の方法でCDを入手するのは現状不可能に近い。ネット通販で購入しても、どうしても手元に届くまでに数日単位で時間がかかってしまう。当然それは店舗で取り寄せた場合でも、だ。

 

(なんかいい方法ねぇのか……)

 

 途方に暮れながら重い足取りで帰路を辿る中、俺は必死に頭を捻らせた。

 定例ライブから約半年も楽しみに待っていたのだ、どうしても発売日の今日中に入手して今すぐにでもライアー・ルージュ聴きたい。だがダウンロード版だけは絶対に購入したくなかった。CDで聴きたいという拘りは勿論、一生に一度の“アイドル北沢志保”の記念すべきデビューシングルとして、何かしら形あるものを手元に残しておきたかったのだ。

 

「そもそも何処に行けば売ってんだよ……」

 

 思い付く限りの店を回って、だけど何処も結果は同じで。

 もう何店舗目かも分からないまま店を出た俺は道端に転がってい小石をスニーカーの先で突いて、空を仰ぐ。いつの間にか太陽は俺の真上にまで昇っていて、ジリジリと春の日差しを向けていた。

 CD化されて間違いなく世に出回っているはずだが、現状どのCDショップにも北沢のCDは並んでいない。だとすれば、逆にどこに行けば入手することができるのか。必死に考えてみたものの、北沢のCDを取り扱っているような店が一つも思い浮かばない。それどころか、日本の中心地である東京の大手CDショップにでさえ並んでいないのだから、現物を店頭で入手するのは砂漠の中から一本の針を探し出すことのように不可能に思えてきた。

 朝から何店舗も巡ったせいか、はたまた精神的ショックのせいか、途中からもうアレコレと考えることさえ面倒になった俺は、取り扱っている店舗を北沢に直接聴くことにした。正直なところ、「北沢のCDが欲しいから手に入る場所を教えてくれ」なんて、恥ずかしくてあまり言いたくはなかったのだが、それでも莫大な労力と時間を割いて砂漠の中から出てくるかも分からない針を探すよりはよっぽどマシだと思ったのだ。

 

『北沢のCD、今日発売って聴いたんだけど、それってどこで』

 

 あくまで自然体な感じで、それでいて今日という日を待ち侘びていたことを気付かれないように。

 念入りに時間をかけて考え抜かれた文章だったが、俺は途中で画面の上を走っていた指を止めて文章を全て削除した。北沢が今日、劇場で行われるCD発売イベントに出席していることを思い出したからだ。

 先日会った際にイベントは昼頃から夕方までと話していたから、今LINEを送ったところで返事が返ってくるのは恐らくイベントが終わってからになるだろう。だとすれば恥を忍んで北沢に確認したところで今すぐにCDを入手できる場所を知ることはできないことになる。一分一秒でも早くCDを入手したい今の俺にとって、夕方までジッと返事を待つのはあまり得策とは思えなかった。

 とりあえずイベントが終わるまでは自力で探して、それまでに見つからなかったら北沢に連絡するのが一番ベターな気がしてきた。だいぶ効率は悪いと思うけど。

 

 ––––ん、待てよ。

 

 大きく溜息を吐きながらスマートフォンをポケットに戻した瞬間、行き詰まっていた頭の中で何かが思いっきり弾けて、すっと道が開けたような気がした。クリアになった頭の中、一直線に開けた道の先にあるのは今日北沢が参加するイベントが開催されている765プロの劇場。この時になって初めて、俺はいとも簡単な事実を見落としていたことに気が付いた。

 

(あぁ、そうだ、劇場でCD発売イベントがあるんだから、劇場に行けば買えるに決まってるじゃねぇか!)

 

 まさに灯台下暗し、といったところだろうか。

 CDショップで買うことばかりに捉われていた単細胞な自分の思考回路に我ながら呆れてしまったが、それでもようやく北沢のCDを買える目処が立って、一気に身体中に活力が戻ってくるのが分かった。

 そうと分かれば早速劇場に向かうのみである。

 今の格好で劇場に行っても自分が天ヶ瀬冬馬だと気付かれないかをもう一度確認しようと、ニット帽を深く被り直して度が入っていない伊達メガネを掛けた自分の姿をガラス張りのビルで確認してみた。春の日差しを受けて煌く曇りのない透明なガラスには、嬉しそうに頬を綻ばせた自分が映し出されていた。そんな自分の顔を見ていると途端に気恥ずかしくなって、その場から逃げ去るようにガラスに映った俺に背を向けて踵を返した。

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

「まぁ、ざっとこんな感じだな。麗花と志保は初のファンイベントだから緊張もあるかもしれないけど、気楽にやって大丈夫だから」

 

 薄いマニュアルの読み合わせを終えて、プロデューサーはリラックスした様子でそう言った。私の隣で麗花さんがいつもと同じ調子で返事をし、その後に続くように琴葉さんも「分かりました」と応える。慌てて私も何かリアクションを取らなければと、そう思って口を開こうとした矢先、プロデューサーと目が合った。

 

「志保、そんなに緊張するなって」

「べ、別に緊張なんかしてません。全然大丈夫ですから」

「そうか? それなら良いんだけど」

 

 プロデューサーも口ではそう言いつつも実際は冗談混じりだったのか、さほど心配した様子は見せずに「自分が楽しむことも忘れるなよ」とだけ言い残して楽屋を出て行ってしまった。

 その後ろ姿が見えなくなって、扉が閉まったと同時に溜息が溢れ出る。無意識に溢れた溜息に反応した琴葉さんが心配そうに私を見つめている様子が視界の隅に入って、私は慌てて席を立った。

 

「……ちょっとお手洗いに行ってきます」

 

 苦し紛れの嘘を付いて、私も楽屋を出た。そして誰もいない廊下で再び溜息。今日は無意識のうちに何度も溜息を溢しているような気がする。

 今日のイベントは、プロデューサーが言うように大袈裟に緊張するほどのものではなかった。

 私と琴葉さん、麗花さんの三人のソロ曲が今日からCD化され、そのCDを劇場の売店で買ってくれた人たちは私たちの中から一人を選んで握手をすることができる。ただそれだけのイベントだ。確かに私は他のメンバーたちと比べると口下手な方だという自覚はあるが、それでもお客さんと握手をして少しお話をするくらい、問題なく私でもこなせると自負していた。

 それなのに、何故こうも溜息が次から次へと止まらないのか。その原因は、握手会の会場に設置されたベルトパーテーションの数だった。

 会場には私たち三人が座る椅子があって、その前に置かれた長机にはそれぞれの名前が書かれた札が貼ってある。その長机から少し間隔を開けて、待機列を作る為のベルトパーテーションがそれぞれ三列分に設置されているのだけれども、真ん中の琴葉さんの待機列だけ私と麗花さんの倍近くの数のベルトパーテーションが置かれているのだ。

 

(……なんだかなぁ)

 

 突きつけられる現実を頭では分かっていながらも、どうしても悔しいと感じてしまう。

 琴葉さんの待機列だけが長く用意されている理由は明白だった。劇場での定例ライブ以降目立った仕事が与えられていない私と麗花さんに対し、昨年末の放送されたドラマ、“階のスターエレメンツ”に主役として出演した琴葉さんは既に知名度が高く、今日も大勢のファンが押し寄せてくることが予想されていたのだ。なんなら数ヶ月前にネット配信が始まった私たちのソロ曲だって、明らかに琴葉さんの“朝焼けのクレッシェンド”の売り上げだけは桁違いだと聴いている。今日のイベントも“39プロジェクト第二世代組”だと一括りにされているものの、琴葉さんの知名度だけ頭ひとつ抜けているのは誰の目にも明らかだった。

 こればっかりはもうどうしようもないことだし、アイドルはどんな綺麗事や御託を並べても結局は勝負の世界。現状定例ライブに立っただけの私がドラマに出演した琴葉さんに勝てる要素など何一つ持ち合わせていないわけで、だからこういった目に見える“格差”がついてしまうのは致し方ないことだとも分かっている。だけど私はその現実を素直に受け入れるほどの素直さも前向きさもなくて、こうして行き場のないモヤモヤを終始抱え込んでいた。

 

「……本当は天ヶ瀬さんにも来て欲しかったんだけどなぁ」

 

 直前まで彼を今日のイベントに誘おうか悩んだが、結局私は声掛けをしなかった。イベントに来て欲しい、アイドルとして活動している自分を見て欲しいという気持ち以上に、誰かに劣っているところを絶対に見られたくないという気持ちの方が圧倒的に勝ったのだ。

 今日の場合、琴葉さんの列に圧倒的に人が集まることは最初から分かりきっていた。そもそもの話、琴葉さんが居なかったとしてもほぼ無名に近い私に会いに来てくれる人が一人もいない可能性だってある。もし琴葉さんや麗花さんの列にだけ人が並んで、自分の列には誰も並ばなかったりでもしたら––––。

 万が一そんな最悪な事態を天ヶ瀬さんに見られたりでもしたら、多分私はその場で舌を噛み切って死ぬだろう。それくらい、天ヶ瀬さんには情けない自分を晒したくはなかったのだ。

 

「でもいつか、天ヶ瀬さんにも来て欲しい」

 

 天ヶ瀬さんは私だけじゃなく、きっと他の人たちから見ても強烈な存在感を持つ人間だと思う。神様に選ばれたかのような輝きを持つ彼は、きっといつの日か大勢の人の注目を一心に集めるような大きな“何か”をやってくれる––––、彼に会うたびにそんな予感を抱くのは初めて出会った当初からずっと変わらなかった。

 だからこそ、私も天ヶ瀬さんのような人間になりたいと強く願った。彼女としては勿論、一人のアイドルとして天ヶ瀬さんに認めてもらえるほどの価値を持つ人間に。そうすればきっと、天ヶ瀬さんがいつも見つめている空のずっと遠くの世界へ、私も辿り着けそうな気がしていたのだから。

 彼の見つめる先に、きっと私の追い求めている世界がある。

 その予感は、日に日に確信に近付いていた。

 

 ––––そのためにも、まずは今日のイベントからしっかり頑張らないと。

 

 頬を軽く叩いて、憂鬱な気分を吹き飛ばして気合を入れ直す。

 例え今日私の列に並ぶお客さんが少なかったとしても、今日の頑張り次第で次はもっと増えるかもしれない。今日よりも来月、来月よりも半年後、半年後より一年後、歌唱力もビジュアルも、才能もない私がトップアイドルになる方法はそうやって地道にファンを増やしていく他、ないのだから。

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

 いざ幕を開けた私たち第二世代の握手会イベントはまぁ大方の予想通り、といった感じだった。

 やはり圧倒的に人気があったのは琴葉さんで、イベントが始まると同時にあっという間に長蛇列が出来上がり、凄まじい混雑ぶりを見せていた。その傍ら、私と麗花さんの列は無人かと言われればそういうわけでもなく、ほんの僅かな長さではあったが時折待機列ができるほどお客さんがやってきてくれて、私たちは自分を選んでくれたお客さんに感謝の意を込め、自分ができる精一杯のおもてなしをしていた。

 

「あ、あの! お、応援してますっ! ライアー・ルージュ、めっちゃ聴きますんで!」

「友達に連れられてライブに来たんですけど、北沢さんの曲聴いてほんと感動しました! 応援してるんで頑張ってください!」

「……私、志保ちゃんみたいな可愛い女の子になりたいです。アイドル頑張ってください」

 

 部活帰りなのかパンパンに膨らんだリュックを背負った坊主頭の男子学生や、同世代くらいの風貌の垢抜けていない男の子、母親らしき人に連れられてやってきた小さな女の子は緊張しているようで何度も目線を逸らしながらも私の手を終始小さな手の平でギュッと握ってくれた。

 定例ライブに来てくれていた人、雑誌やメディアなど媒体を通して知った人、中には春香さんたちのバックダンサーとしてステージに立ったアリーナライブから観てくれていた人などもいたりと、私のことを知ったキッカケはそれぞれだった。だけどそういった人たちの優しさを手の平から受け取っていく度に、次第に私の緊張もほぐれ、いつからか初対面なのに関わらず自然体で話をすることができるようになっていた。

 

 ––––あぁ、なんかいいなぁ。

 

 今までに感じたことのないようなやり甲斐を感じ、優しい気持ちで心が一杯に満たされていく。

 まさかこんなに多くの人が私の列にやってきてくれるとは思っていなかった。そして、こんなにも温かい言葉をかけてもらえるとも。

 確かに琴葉さんに比べると私の列に並んでくれた人の数は決して多くはないけれど、すぐに私が気にかけていた人の数なんて無価値なモノなんだなと気付くことができた。少なからず私のことを応援してくれる人がいて、こうやって温かくも優しい激励の言葉を沢山もらって、それだけで私は十分に幸せだったのだ。

 

(応援してくれている人たちのためにも、もっと頑張らないと)

 

 私の列に一度人気が減ったタイミングで一呼吸ついて、ペットボトルの水を口に含む。喉が乾き切っていたことを忘れるほど来てくれた人たちと夢中になって話していたようで、いつの間にかカラカラになった喉に冷たい水が駆け抜けていく感触がやけに気持ちよく感じられた。まだまだ残された時間のことも考えて少しだけ多めに水を体内に取り込み、ペットボトルから唇を離した時だった。

 ふと顔を上げた先、劇場の入り口付近にいた男の姿を視線が捉えた。一人でやってきたのか、男は困った様子で会場を彷徨っていて、すぐさま近くにいた誘導スタッフに声をかけられている。手には入り口で販売されているCDらしきものが入ったビニール袋が握られていた。

 紅色のニット帽にグレーのダウン、そして黒縁のシンプルなメガネ、その男の背格好を私が見間違えるはずがなかった。まさかとは思いつつも、反射的に心臓が大きく高鳴る。私の身体に咄嗟に訪れた衝動が、その予感が間違いでないことを証明しているようだった。

 

(ど、どどどどどうして天ヶ瀬さんがここに)

 

 嬉しさ半分、驚き半分、訳がわからないまま心臓が激しく動悸して呼吸が乱れる。

 私も今日のイベントに誘ってもいないし、彼も来るとは一言も口にしていなかったはずだ。それなのに何故天ヶ瀬さんが劇場にやってきたのか。

 彼がここにやってくる理由、目的が一切分からなかった。だが次の瞬間、天ヶ瀬さんは更に私の疑問を増やすような驚きの行動にでた。

 

「…………はっ?」

 

 信じられない光景を目にし、アイドルらしからぬ言葉が口から漏れる。隣で琴葉さんが慌てて私の方を振り返った。 

 天ヶ瀬さんは暫く入り口付近でウロウロした後、大勢の人が並ぶ琴葉さんの列に並んだのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



S4Uも小さなオーケストラも、全然出てこなくて提供率バグってんじゃないかと疑い始めたので初投稿です。


 電車に揺られて数駅、潮の匂いを乗せた風が吹く海沿いの街にそびえ立つ765プロ劇場。

 都心から少し離れたこの街に、俺が喉から手が出るほど欲していたモノはひっそりと存在していた。

 

(おぉ、やっぱりあるじゃねぇか……!)

 

 イベントが始まって一時間ほど経過していたせいか、劇場の入り口にはそこまで多くの人影はなかった。両手で数えられるほどの人数が作る列の先には白い布で覆われたテーブルがあり、その上には三種類のCDが山積みになっている。その光景はありとあらゆる都心のCDショップを回っても一度たりともお目にかかることができなかった俺にとって、思わず謎の感動を覚えてしまうほどのモノだった。まぁ、最初から劇場に来ていればわざわざ朝からこんな手間暇かけずに済んだ話なのだけれども。

 

「はい、こちら商品です。志保ちゃんの応援、今後ともよろしくお願いしますね」

「どうも」

 

 朝イチで訪れたCDショップの店員と違い、随分と愛想の良い若い女性から北沢のCDを受け取り、ようやく俺の悲願は達成された。多少遠回りはしたかもしれないが何はともあれ北沢のCDを発売日に購入できて、半年間楽しみに待ち続けたライアー・ルージュをようやく聴くことができる。一時は現物を購入することが絶望的に思えただけに、北沢のCDが手元にやってきた感動は一際大きかった。

 CDをゲットしたら後は家に帰って聴くだけだ。今日は一日予定を入れなかったから、いくらでも好きなだけ聴き込むことができる。今すぐにでも開封したい衝動を抑えつつ、早く家に帰ろうと踵を返した時だった。

 

「あ、お客様! どちらに行かれるんですか?」

 

 突如背後から突拍子な問いかけを投げられて、一目散に帰路を辿ろうとする俺の足は静止をかけられた。

 

「え?」

「イベント会場はこちらですよ?」

「いべんと?」

「はい!」

 

 俺に声を掛けた女性は、屈託のない笑顔で近くの柱に括り付けられた看板を指差している。真っ白な看板に書かれていたのは、“CD購入者対象、田中琴葉・北沢志保・北上麗花握手会”の文字。CDを買うことばかりに捉われて頭が一杯になっていたが、今日のメインイベントはCD販売ではなく握手会だったことを今更ながら思い出した。

 

「……あぁ、そっか。CD買ったら握手会に参加できるんだっけ」

「そうですよ! ささ、是非参加してってくださいね」

「あっ、でも俺は……」

「せっかくなんで志保ちゃんに激励の言葉でも掛けてあげてください。喜ぶと思いますので」

 

 俺はあくまでCDを買いに来ただけで、握手会が目的で来たわけではない。咄嗟に断ろうと思ったが、女性が購入者が握手会に参加するのは至極当然のような口ぶりで勧めてくるものだから断ることもできず、促されるがままに首を縦に振ってしまった。

 気の良さそうな女性に案内されて劇場の門をくぐると、場内は静かな熱気に包まれていた。

 劇場の入り口近くには同世代くらいのバイトと思われるスタッフが最後尾のプラカードを高く掲げており、三人のアイドルが座ってると思われる最前線のテーブルまでは随分と距離があるように感じる。思いの他賑わっていた握手会の現状に内心驚きながらも感心していた俺だったが、すぐにその一直線の列が生み出している残酷な現実に気が付いた。

 

「……これ、殆ど田中さんの列なのか」

 

 よく見ると列ができているのはベルトパーテーションで区切られた真ん中のレーンだけで、その両隣のレーンは人が殆どおらずスカスカになっている。最後尾でプラカードを持ったスタッフもしきりに、「こちらは田中琴葉さんの列の最後尾になります」と連呼しているだけで、北沢ともう一人のアイドルの待機列に触れることもなければ、最後尾を案内する別のスタッフがいるわけでもなかった。

 考えてもいなかった現実に、胸がチクリと痛む。“階のスターエレメンツ”でドラマに出演していた実績もあって、ある程度の知名度があった田中さんに対し、北沢ともう一人のアイドルは劇場のイベント以外では恐らく殆どメディアの露出がなかったのだろう。その結果がここまであからさまな格差を作り出してしまっている。致し方ないとはいえ、大勢の人で賑わっている田中さんのレーンとは対照的に、閑古鳥が鳴いているような無人のレーンを見ていると何ともないた堪れない想いに駆られてしまった。

 

(……これ、北沢に会いに行ったらダメなやつだよなぁ)

 

 人一倍負けず嫌いな性格且つ、プライドの高い北沢のことだ。これだけ露骨な差が付いた状況で会いに行ったところで、変な気を遣われただけと思われるかもしれない。そしてそういった安い同情こそ、ひたむきに頑張る人間への一番の冒涜になることだと、俺は考えていた。

 それに加えて人目のない列に並んで変に目立ってしまうことで、自分の正体がバレてしまう可能性も無きにしも非ずだ。そのリスクを踏まえると、ここで北沢に会いに行ったところで双方メリットがあるとはあまり思えなかった。

 

「さっきから随分迷ってるみたいですけど、どちらに並ばれますか?」

「え?」

 

 やっぱり帰ろうと思った矢先、今度はプラカードを持ったスタッフから声を掛けられた。外の女性に促されるがままに劇場内にやってきたものの、北沢に会いに行くべきか否かで悩み、一人でウロウロしていた姿は随分と目立っていたのかもしれない。俺を握手会の会場に案内した女性とは違い、スタッフの男は億劫な眼で俺を見つめていた。

 優柔不断なところを見られた恥ずかしさを誤魔化すように思わず頬を掻いた時、プラカードを握るスタッフの眼の雰囲気が少し変わった。ボンヤリと俺を見ていたスタッフの眼が、明らかに何か隠された真偽を確かめるような眼になっていたのだ。

 その視線の意味を瞬時に理解し、サッと血の気が引いていくのが分かった。うなじの辺りにどっと変な汗が吹き出てくるのが伝わってくる。

 

「あれ、なんだか何処かで見たことあるような……」

「あ、あぁぁ! こ、ここに並ぶぜ! ここが田中琴葉の列だよな!?」

「えっ? まぁ、そうですけど」

「す、すまねぇ! ちょっとどの列か分かんなくてさ! ありがとな」

「そ、そうすか」

 

 俺はスタッフが言いかけた言葉に被せるようにして、強引に遮った。少し不自然な流れになってしまったが、プラカードを持ったスタッフはそれ以上何も言及することはしてこなかった。

 成り行きというか偶然というか、俺の意思ではなかったにせよ田中さんの列に並んでしまったことに対する北沢への罪悪感を抱きつつも、ひとまず自身の正体がバレてしまうといった最悪の事態を回避することができた俺はほっと胸を撫で下ろしていた。万が一俺と北沢の関係がバレてしまったら、双方の事務所に迷惑をかけてしまうことになるかもしれない。俺の場合は前科もあるだけに、そういった面倒事を巻き起こすことだけはどうしても避けたかった。

 だがそんな俺の行動も、すぐに大間違いだったと思い知らされることとなる。そもそも握手会に来てしまったこと自体が間違いだったのだと、後に激しく後悔する羽目になってしまった。

 並ぶこと数分、雪が降り頻る一月末に劇場の屋上で話をした以来の対面となった田中さんが俺の正体に気付いてしまったのだ。

 

「え、え、ええっ!? あ、天ヶ瀬さん……!?」

 

 華奢な両手を口に当て、慌てて驚きを隠そうとする田中さんが声を漏らす。その声は間隔を開けて並ぶ俺の後ろの待機列の人たちには届かなかったが、田中さんの両脇にいた二人のアイドルには十分届く声量だった。

 最後にあった時から少しだけ伸びた髪を後ろで結んだ田中さんは気まずそうにチラリと左を向いて、俺はその場で硬直する。田中さんの隣からひしひしと伝わってくる異様なまでの殺気を身体全体で感知し、自分が犯してしまった罪の想像以上の重さを痛感させられたのだ。

 

「……あの、こういうことを私が言うのもアレですけど、並ぶ列間違えてませんか?」

「あぁ、完全にミスったみたいだわ」

 

 当然、即座に出たこんな苦し紛れの言い訳が通用するはずもなく。

 田中さんの隣から俺へと突き刺さるように向けられた視線から、俺は最後まで逃げるように眼を背け続けることしかできなかった。

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

 握手会が終わり楽屋に戻ってスマートフォンを確認すると、天ヶ瀬さんからLINEが何通か届いていた。謝罪のLINEが一通と、言い訳のような弁解のLINEが二通。私はそれらに一応目を通したが、一通も返事をすることなくスマートフォンを鞄に押し込んだ。

 

「あの、志保ちゃん……」

 

 私服に着替え終えて、今すぐにでも帰ろうと立ち上がった時、楽屋の端で座りながらスマートフォンを弄っていた琴葉さんに呼び止められた。あぁ、やっぱりかと思って、気付かれないように深く息を吐く。実はイベントを終えて楽屋に引き上げてきた時から琴葉さんが何か口にしたげな様子だったことには気付いていた。だけど、私は琴葉さんが口に出すのを渋っている言葉に見当が付いて、そしてその言葉もあまり聞きたい言葉ではなくて、だからこそなるべく琴葉さんに喋らせる隙を与えないようにしていたのだ。

 こんな拒み方が幼い方法だとは分かっている。だけど、今は琴葉さんにも麗花さんにも、誰にも声を掛けて欲しくなかった。

 

「なんですか?」

 

 少しの間を置いて返した私の言葉に、琴葉さんが一瞬だけ怯んだのが分かった。私はあくまで平常心を保っているつもりだったけれど、それでもどうしても声の節々に感情が籠ってしまっていて明らかに不愉快そうな声色になってしまっている。どうして嬉しい時の感情表現は全然できないくせに、こういった不機嫌な時ばかり分かり易くなってしまうのだろう。そんな自分が私は嫌いで仕方がなかった。

 

「その……、多分間違えたんだと思う。そう言っていたし」

 

 琴葉さんの声は先ほどまで大勢のお客さんに向けていた時とは違って、随分とひ弱で申し訳なさげに聴こえた。

 ––––間違えた。

 確かに天ヶ瀬さんもそんなニュアンスの言葉を琴葉さんに話していた気がする。だけどその言葉の真偽の程くらい、中学生の私でも安易に理解することができた。あれは完全にその場で取って付けただけで言い訳であって、本心なんかじゃない。むしろどうやったら無人の列と多くの人が待機している列を間違えることができるのか。

 ––––何故私ではなく琴葉さんの列に並んだのか。

 一から十まで全てが意味不明すぎる天ヶ瀬さんの言動に紐付けされるように、ふと連想したのは昨年の十二月に琴葉さんと恵美さんの三人でジュピターのライブを観に行った日のことだ。ライブ後、恵美さんの提案で六人で近くのショッピングセンターを訪れた時、終始天ヶ瀬さんの隣にいたのは琴葉さんだった。あの時の二人の様子を遠目に眺めることしかできなかった哀れな私が、今の私にひしひしと何かを訴えかけている。

 

「……別に、何も気にしてませんので」

 

 あの日の私の影を追い払うように溜息をついて、そそくさとイヤホンを耳に装着する。これ以上何も言わないでくださいという、コミュニケーション拒否の仕草だ。

 私は音楽が流れていないイヤホンを耳に付けたまま、琴葉さんに一礼して楽屋を出た。琴葉さんは最後まで私を気遣うような表情で言葉を探していたが、結局何も思いつかなかったらしい。新しい琴葉さんの言葉がイヤホンを飛び越えて耳に届くことはなかった。

 まさに捨て台詞みたいだったなと、電車を待つホームで夕日を眺めながら数分前の自分を思い返し、再び自己嫌悪。あの日の私が今の私に伝えようとしていること、「目を背けるな」と訴えかけていることが何なのか、薄々だが勘付いていた。だけどそれを認めたら最後、私の中の大きな柱が折れてしまいそうな気がして、私はこうやって目を背け続けている。

 

「……天ヶ瀬さんは、本当に私のこと好きなのかしら」

 

 とうとう直視できずにいた現実を言葉にしてしまったが、その声は思っていたより淡々としていて自分でも驚いた。

 天ヶ瀬さんと知り合って、本当に色んなことがあった半年だったと思う。お互いに沢山のことで悩んで迷って、それでも過去と決別して本当の意味で前向きに生きることができるようになって、ようやく付き合えたはずなのに。私たちの関係は、付き合う前から何一つ変わっていない。平行線を辿ったままの距離感が、天ヶ瀬さんの本心を隠しているような気がして、私は不安で仕方がなかった。

 ホームのずっと奥から、レールの上を走る電車の足音が聴こえてきた。騒がしい足音が近付いてくると同時に駅構内にアナウンスが響いて、地響きのような音を立てて私の立つホームにも振動が伝わって来る。潮の匂いと春の草木の匂いが混じった風が電車より一足先にホームに到達し、強引に私の髪を揺らした。

 

「北沢!」

 

 様々な騒音が入り乱れる中で、イヤホンをした耳が私の名前を呼ぶ声を拾った。

 空耳かと思いつつ周囲を見渡してみると、いつの間にか私の真後ろには天ヶ瀬さんが立っていた。肩で息をしながら私を見つめてる天ヶ瀬さんは、少しだけ乱れたニット帽を整えながら眼鏡を外す。LINEに既読をつけるだけで一通も返事をしなかった私を、どうやら駅で待ち伏せしていたらしい。

 

「……良かった、まだ帰ってなかったんだな」

 

 乱れた呼吸を整えつつ、綺麗な唇を開いた。

 風に遅れてやってきた電車は、私の背後で軋む音を立てながらブレーキをかけて停まっている。ドアが開く音が聴こえて、電車から降りてくる人たちの足音が響くと、車内からは通過列車を待つため数分間停車する旨を伝えるアナウンスが聴こえて来た。

 

「……北沢、わるい。本当に申し訳ねぇ」

「悪いって、何がですか?」

 

 天ヶ瀬さんが何に対して謝罪しているのかは分かっている。

 だけどそれを簡単に認めて許せるほど、私の胸の波は穏やかではなかった。怒りと不安、そして劣等感、私の胸の中でそういったネガティヴな感情たちが嵐の日の海のように大きな波を立てているからこそ、こうしてわざと困らせるような意地悪な返事をしてしまうのだ。

 

「それは、えっと、その……」

 

 言葉を詰まらせた天ヶ瀬さんの姿が、更に胸の波を大きく荒立てる。

 ––––何が悪いのかも分からないまま、とりあえず形だけで謝ってんの?

 そんないい加減な人ではないことくらい分かっているはずなのに、それでも良くないことばかりを考えては疑ってしまう。そもそも困らせるような言い方をしたのは私なのに、それで困惑する姿を見て勝手に怒りを覚えるのは随分と身勝手でわがままな話だ。

 だがどうしようもないくらいムシャクシャした私はとうの昔に感情のコントロールを失っていて、何もかもを負のエネルギーに変換することしかできなくなってしまっていた。

 

「……分からないのに、適当に謝らないでください」

「ちっ、違うんだって! 北沢のとこに行こうとしたんだけど……」

「そんな言い訳、今更聴きたくないですから」

「言い訳じゃねぇって、本当に俺はっ!」

 

 少しだけ語尾を強めた天ヶ瀬さんの言葉の後、反対側のホームを猛スピードで通過列車が駆け抜けて行って遅れて一際強い風が吹いた。嵐のような風は私のスカートを激しく揺らし、足の爪先から一気に冷気が身体全体に伝ってくる。

 いつの間にか天ヶ瀬さんは、電車に乗らせないと言わんばかりに私の手首を強く握っていた。暫くの間、私たちは無言のまま見つめ合う。天ヶ瀬さんの次の言葉を期待していたが、彼は綺麗な瞳をひどく曇らせたままで、口を開こうとはしなかった。

 私の後ろから停車していた電車から、出発を告げる車掌のアナウンスが聴こえて来た。何も話そうとしない天ヶ瀬さんに見切りをつけて強引に腕を振り解くと、私は彼に背中を向けて電車の中へと足を踏み入れる。それでも先ほど言いかけた言葉の続きを話そうとしてくれない天ヶ瀬さんの姿が癪に障ったのか、私は自分でもゾッとするような醜い言葉を彼にぶつけてしまった。

 

「……そんなに琴葉さんが好きなら、私なんかじゃなくて琴葉さんと付き合えば良かったじゃないですか」

 

 あぁ、サイテーだな私。

 一番言ってはいけない言葉を、私のことを好きだと言ってくれた彼の言葉を、真っ向から否定するような言葉を私は凶器に変えて彼に振りかざしてしまった。胸の奥底に隠して来た不安を言葉にしてしまった瞬間、胸いっぱいに気味の悪い真っ黒な液体が広まっていく。漆黒に染められた海ではいつの間にか荒立っていた波が落ち着いていて、その代わりに罪悪感と後ろめたさを含んだ穏やかな波がじわじわと胸を締め付け始めていた。

 私はそのままホームに背を向け続け、最後まで天ヶ瀬さんの顔を見ることができなかった。あんな酷いことを言って、きっと幻滅されただろうなと帰路を辿る電車の中で激しく後悔する。こんなことしたってウザい女って思われるだけで何一つ良いことなんてないのに、どうしてもっと上手にコミュニケーションを取ることができないのだろう。もっと素直に許せたり、せめて天ヶ瀬さんの言い分を聴けるほどの余裕を持ち合わせていれば、こんな嫌な想いをしなくて済んだはずなのに。

 私の気分は車窓から見える東京の摩天楼の足元へと沈んでいく太陽と同じように、底無し沼に向かってずっしりと静かに沈み続けていった。

 

 憂鬱な気分のまま自宅に着くと、暖かな夕飯を用意してくれていた母が上機嫌に私を迎えてくれた。

 

「志保、おかえりなさい。今日お金振り込んでおいたから」

「お金って?」

 

 もう、何とぼけてるの。

 そう言って腰に両手を添えたエプロン姿の母が笑っている。ここ最近、こんな風に笑う母を見たことがあまりなかったから、心底母の機嫌が良いのだろうなと思った。

 

「旅行のお金よ、飛行機代と宿泊代」

「あっ……」

「明後日でしょ? 春休みなんだし家のことは心配しなくて良いから、天ヶ瀬さんと福岡旅行楽しんできてね」

「えっと、うん……、そうだね。お母さん、ありがとう」

 

 少しだけ口籠ってしまったが、母はそんな様子に気付かなかったようで、まるで自分のことのように嬉しそうにしている。その姿が、私をより一層心苦しくさせた。

 あれだけ楽しみにしていたはずの福岡旅行が、たった今日一日だけで最悪なイベントに様変わりしてしまった。今の険悪な雰囲気のまま旅行なんて行ったところで楽しめるとは到底思えず、かと言って母の嬉しそうな顔を見ていると今更キャンセルしたいなんて言い出せるはずもなく。

 私はなるべく母に胸の中を見透かされないようにと、楽しみで仕方がなかった昨日までの自分を取り繕って、夕飯が並んだ食卓に着いたのだった。

 

 

 そして握手会のイベントから二日後。

 私たちは最悪な雰囲気のまま、福岡旅行当日を迎えた。

 




なんで恋人と旅行行く時(もしくは旅行前)って必ずと言って良いほど喧嘩するんでしょうね(すっとぼけ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



先日今年N回目のブリーチをしたら、毛先だけが完全に逝って真っ白になり浅◯透のような変なヘンテコな髪色になってしまったので初投稿です。


 握手会から二日後に訪れた福岡旅行は、全く予想だにしていなかった険悪且つ壊滅的な雰囲気のまま幕を開けることとなった。

 

「お、おはよう!」

「…………おはようございます」

 

 東京駅で待ち合わせてからバスで成田空港へ向かい、そして成田空港の国内線から飛行機で福岡に到着するまでの間、私たちが交わした言葉のはこの東京駅での一回のみだ。それ以降、私たちは互いに無言のまま、数日前に嬉々としながら計画した予定に沿って黙々と行動している。勿論、そこに愉快だったり仲睦まじいといった雰囲気は微塵も存在しておらず、それどころか私たちの雰囲気は時間が経てば経つほど、飛行機が西に向かうにつれて世紀末への一途を辿っていくかのように重くなる一方だった。

 私とて、今の状況がよくないことくらい分かっている。そして、今の状況を打開する為にまずは私が寛大な心を持って歩み寄り、彼の言い分を聴くことから始めなければいけないことも。

 頭ではそう理解していても、実際問題それができるかどうかは別の話だ。それができないからこそ、こうして二人で和気藹々と建てた計画を終始無言のまま遂行するという摩訶不思議な現象が起こっているのだから。

 

(……本当にどうすればいいのかしら)

 

 内心ではそう思いつつも、私の行動は明らかに矛盾していた。私は今朝からあからさまに不機嫌な態度をとり続けて、一方的に天ヶ瀬さんを拒絶している。天ヶ瀬さんと仲直りをしたいと思う自分と、私ではなく琴葉さんを選んだことに対して怒りを覚える私とがぶつかり合っていて、恐らく後者が一歩リードしているが故に、こうして天ヶ瀬さんと眼を合わせることができないでいるのだろう。

 成田空港を離陸してからの二時間半の時間、私は窮屈な機内で、ただひたすらに今の最悪な現状を打破する糸口を求めて、窓の外に広がる真っ白な雲たちを見下ろしていた。だけど窓の先には汚れのない真っ新な雲の海が続いているだけで、当然御都合主義の解決策なんて落ちているはずもなく、私たちは無言のまま福岡に降り立った。

 

「……まずは、博多座だったよな?」

 

 地下鉄福岡空港駅の切符売り場の前で自然と足を止め、天ヶ瀬さんがおもむろにそう言った。不意に声を掛けられた私は慌てて俯きながら頷くと、天ヶ瀬さんは「そっか」とだけ返して、見慣れない路線図と睨み合いを始める。

 ––––あぁ、嫌だな。

 彼の大人びた横顔を見ていると、彼の綺麗な瞳に映る自分の姿が安易に想像できて、途端に自分で自分が嫌になってきた。

 本当は素直になりたいのに自分の気持ちを表現しようともせずに一方的に相手を拒んで、そうやって私はどうにかして自分のチンケなプライドを守ろうとしている。一日でも早く大人になりたいと願っているのに、実際はその想いとは正反対の子供じみた言動ばかりだ。

 もしかしたら私は勝手に嫉妬して一方的に天ヶ瀬さんを突き放したライアー・ルージュの時から何ひとつ成長していないのかもしれない。

 

 それからまた暫く、私たちの間には静寂と呼ぶにはあまりにもピリピリとしすぎていて、気を抜けば息を詰まらせてしまいそうになるほどの重い沈黙が続いた。一向に修復の余地を見せないまま最初に訪れたのは、東比恵、博多、祇園と見慣れない駅名を通過した後に下車した中洲川端駅前に佇む西日本最大級の呼び名高い演劇専用劇場、博多座だ。

 中洲の街の代名詞でもある屋台を彷彿とさせるような大きな提灯が設置されている博多座の入り口に初めて立った時、思わず気抜けしてしまいそうになった。周囲のビルたちに埋もれてしまっている灰色の建物はお世辞にもスケールが大きいとは言えず、ここが“西日本最大級”という形容詞に相応しい劇場には到底思えなかったのだ。

 

 ––––なんだかなぁ。

 

 イメージしていたのと全く違う外装に、溜息が溢れる。

 天ヶ瀬さんとの雰囲気も然り、圧倒的に期待外れ感が強い博多座も然り。何かとこの福岡旅行は私の思うように事が進まないことばかりらしい。

 失望の重りを抱えたまま博多座の門を潜った私だったが狭い劇場に入ってから程なくして、すぐにそんな憂鬱は何処かへと遠く吹き飛ばされると共に、とてつもなくインスパイアされることとなった。

 

 

 私たちが観劇した舞台は、混沌とした幕末の時代に翻弄された新撰組の時代劇だった。

 まさに「滅びの美学」の代名詞として知られる新撰組については互いに義務教育で学んだこともあって最低限の知識があったこと、そして主役である近藤勇を演じる役者がドラマや映画などでも活躍する大物俳優だったことが決め手となって、博多座に行くことが決まった時点で新撰組の舞台を観劇することは双方一致で決まっていた。

 物語は江戸での新撰組の結成時から始まり、京で名を挙げるキッカケとなった池田屋事件、新撰組の運命を大きく狂わせた鳥羽伏見での激戦を経て局長である近藤勇が新政府軍に処刑される場面で幕を閉じた。時間にして僅か一時間半、だけどその僅かな時間で私は演者たちの迫真の演技に心をがっしりと掴まれ、想像とは違った博多座の姿も、握手会から続く天ヶ瀬さんとの気まずい空気も、息をすることさえも忘れるかのように物語にのめり込んでいった。

 想像以上に心の底から楽しめた物語の中でも特に私の目を引いたのは、原田左之助の嫁である原田まさだ。

 原田まさは、一言で表せば“強い”女性だった。

 鳥羽伏見に向かう最愛の夫を見送ったのが今生の別れになるとも知らず、ずっと戦乱の続く京で残された子を育てながら帰りを待ち続けた。敗走を続ける新撰組の関係者として幾度となく新政府軍から厳しい取り調べを受けても口を閉ざし、どんなに辛い処遇を受けても最後の最後まで前向きに夫の帰りを信じて前向きに待ち続けるその姿は儚くも美しくて、私の心を何度も何度も強く叩き続けた。

 前向きで底抜けに明るくて、だけどその胸に秘めた想いは絶対にブレなくて。

 どれだけ周りに夫を批判されようが、拷問を受けようが、それでもひたすらに自分の想いを貫いて夫の帰りを待ち続けて。

 

“自分が好きになった人なんだから、何があっても自分が一番に信じてあげないとダメに決まってんじゃない!”

 

 物語終盤、新政府軍への謀反を企てた犯罪者として新撰組が京で次々と晒し上げられた際、原田まさがそう叫んだシーンはとりわけ印象的だった。

 

 あぁ、そうだ。全くもってその通りだと思った。

 どうして私はそんな当たり前で簡単なことができなかったのだろう。

 自分が本気で好きになった人が私に伝えてくれた好意を疑ってしまったのだろう。

 どうして言い分も聴かずに拒絶し続けていたのだろう。

 拒絶し続けたところで、その先に二人が納得できる未来がくることは絶対にあり得ないのだから。

 逆境の中でも想い人を信じ続ける原田まさの凛とした強さに、私は今自分が何をするべきなのか、天ヶ瀬さんとどう向き合うべきなのかを説かれたような気がしていたのだ。

 

 原田まさを演じる役者の実力も相まってか、彼女のセリフや生き様の一つ一つが私の胸に突き刺さって、いつしか私は他の演者やそれこそ近藤勇役の大物俳優の姿でもなく、ただただひたすらに原田まさの姿だけを追うようになっていた。

 私の視線を奪った原田まさを演じる役者は、ざっと見た感じでは二十歳前後くらいだろうか。観覧席の遠目から見てもはっきりと確認できるほど目鼻立ちが整った綺麗な顔立ちをしており、演技力は勿論ルックスを見ても脇役に留めておくのは惜しいほどの存在感を兼ね備えている。動作や仕草の一つだけでもまるで神経の端にまで感情が込められているかのように一ミリの狂いもなく洗練されていて、ステージ上には確かに幕末の世を生き抜いた原田まさの姿があって、その佇まいは思わず言葉を失って見惚れてしまうほどに美しく、完成された姿だった。

 そのあまりに人間離れした役者の佳麗な姿に、何度も魂が震えた。

 こんなに人は誰かを情熱的に、感情的に演じれる事ができるのだろうか。

 少なくとも今まで様々な劇場に足を運び多くの演劇を観てきたが、ここまでの衝撃を与えた役者に私は出会ったことがなかった。

 

「…………北沢?」

 

 新撰組が生き抜いた幕末の時代にすっかりとタイムスリップしていた私の意識は、天ヶ瀬さんの声で現代に呼び戻された。

 いつの間にか舞台は終演を迎えており、場内はカーテンコールが巻き起こっていた。周囲の人たちは席を立ち、一時間半もの時間で新撰組の勇姿を演じ切った役者たちに精一杯の拍手を送っている。その拍手に応えるように役者たちが再度ステージ上に現れて、横一列に並んで頭を下げていた。

 

「大丈夫か?」

 

 私をぼんやりと見つめる天ヶ瀬さんの瞳が私の頬に向けられていた。その時になって初めて、私は涙を流していることに気が付いた。

 

「す、すみませんっ! 思わず見入ってしまっていて……」

「……面白かったもんな。ほらっ、これ使えよ」

「ありがとうございます」

 

 微笑ましく笑う天ヶ瀬さんからハンカチを受け取って、私は慌ててハンカチで溢れ出てくる涙を拭う。だけど涙を止めようとする度に原田まさの姿が頭に浮かんで、優しいハンカチの薄い生地は瞬く間にバケツに突っ込んだ雑巾のように水分を含んで重くなってしまった。

 せっかく莉緒さんが教えてくれたメイクをしてきたのに、ここまで泣いてしまっては台無しだ。

 そう思いつつも、私の胸の内では春先に天ヶ瀬さんと想いを伝えあった日の青空のように爽快感溢れる蒼色の空が広がっていて、妙に清々しい気持ちが心地よく居座っていた。素敵な物語ほど終わった後の余韻が残るものだと言われているが、今私たちが見終えた新撰組はその余韻がダントツだった。今まで数多くの映画やドラマ、小説や演劇などで幾多の物語に触れてきたが、ここまでの爽快感と余韻を残した作品に私は出会ったことはなかったと思うほどに。

 

 ––––演劇で、ここまで人の心を動かせるものなんだ。

 

 潤んだ視界でステージに立つ原田まさの姿を追いながら、私はそんなことを考えていた。

 天ヶ瀬さんとの一件が尾を引き続け、あれほどまでに窮屈で行き場のないモヤモヤが胸いっぱいに広がっていたのに、不思議と今はそれほどまでの窮屈感を感じられなかった。今なら一方的に拒絶をするのではなく、天ヶ瀬さんの言い分に耳を傾けることができるかもしれない。

 私の心を鷲掴みにし、多くの悩みを追憶の彼方へと吹き飛ばしてくれた原田まさは、端整な顔立ちをくしゃっと崩したように笑いながら、何度も何度も手を振りながらカーテンコールに応えていた。

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

 会場を出てすぐにトイレで化粧直しをして、すぐに売店でパンフレットを購入した。原田まさを演じていた役者の素性が気になったのだ

 パンフレットの最後のページには今公演で最も注目を集めた近藤勇役の俳優の写真がデカデカと掲載されていたが、その写真には目も暮れず、端に箇条書きでまとめられた役者一覧の中から原田まさの名前を探す。チラホラと見覚えのある名前がずらっと並ぶ中、下から三番目の行に探し求めていた演者の名前がひっそりと書き記されていた。

 

「……速水奏、さん」

 

 独り言のようにその名を口に出してみる。今まで一度も見たことも聴いた事がない名前だ。

 そもそも原田まさ自体が脇役だったせいか、演じていた速水奏さんの細かなプロフィールは一切載っていない。

 不思議な感覚だった。

 あれほどの演技が出来るのに、速水さんはほぼ無名同様の扱いをされている。どの役者よりも一際強い煌めきを持っていたのに、まるで誰もその輝きに気が付いていないかのように。

 

 しっかりと余韻が刻まれつつも、狐につままれたような感覚を抱えたまま劇場を出ようとすると、入り口には人集りが出来上がっていた。その中でも一際人が集中する一点から時折悲鳴に近い歓声なども上がっていて、この人集りが演者のお見送りなのだとすぐに察する事ができた。

 もしかしたらと思い立った私は近藤勇役の俳優に大勢の人が押し寄せる中、原田まさを演じていた速水さんの姿を探す。そして出口の端っこの方で誰の目に留まる事なく笑顔でお客さんを見送る速水さんの姿を視線が捉えた。

 

「すみません」

 

 気が付けば私はその足を動かして、綺麗な横顔に声をかけていた。

 速水さんは少しだけ驚いたように眉をピクリと動かせ、私の方を振り向く。

 

「あら、どうしたの?」

「あ、えっと……、その……」

 

 品のある驚き方をした速水さんに優しい声でそう問われ、言葉を詰まらせてしまった。

 間近で観た速水さんは観覧席から眺めていたのより遥かに整った顔立ちをしていて、まるで職人の手によって手作りされたビー玉のような、研ぎ澄まされた透明感を持つ瞳をしていた。そして何より人を惹きつけるような圧倒的なオーラがあって、同じ人間とは思えないほどに不思議な魅力を秘めている。

 そんな速水さんの前で、私はすぐさま思考が停止してしまい、頭の中で考えていた言葉や伝えたかった想いは瞬く間に消失してしまった。

 

「もしかして舞台、観てくれてたの?」

「えっ? あ、あっ、そうです!」

 

 少しだけ首を傾げながら、そう訊かれ慌てて首を縦に振る。

 すると途端に速水さんの顔は花開くように、屈託のない笑みを浮かべた。

 

「嬉しい〜、ありがとう! どう、面白かったでしょ?」

「はいっ! とても面白くて感動しました」

「ふふふ、そう言ってもらえたら役者冥利につきるわ。鬼みたいにキツイ稽古、頑張った甲斐あったみたいでよかった」

「そ、そんなに大変だったんですか?」

「そりゃあもう、スパルタよ。心身ともにみっちりとしごかれたんだから」

 

 高嶺の花のような見た目とは裏腹に、速水さんは演じていた原田まさ同様に優しくて気さくな性格の人だった。喜怒哀楽の色を頻繁に切り替えながらよく喋ってよく笑い、初対面でいきなり声をかけてきた私にもまるでクラスメイトと接するようにフランクに話しかけてくれたおかげで、すぐに私は全身を縛っていた緊張から解放されることができた。

 速水さんと話をできたのは僅かな時間だったが、私はその短時間で速水奏という人間にあっという間に心惹かれていった。

 優しくて初対面の人とでも円滑にコミュニケーションを図れて、そして観る者のハートをガッチリと鷲掴みするような圧巻の演技をすることができる。まさに、私が持っていないモノを全て持ち合わせた完璧な人間だ。

 どうやったら私は速水さんのようになれるのだろう。

 私が抱いたのは、劣等感や敗北感ではなく、ただただ純粋なまでの憧れ、羨望。

 それこそ私が初めて天ヶ瀬さんを知った時と同じような、尊敬に近い感情を私は速水さんに抱いていたのだ。

 

「あの、今日は本当に素敵な演劇、ありがとうございました」

  

 あまり長く居座りすぎると迷惑になると思い、後ろ髪を引かれる思いであったが私は最後に一番伝えたかった想いを告げて、深々と頭を下げた。

 

「ううん、こちらこそ観に来てくれてありがとう!」

「……速水さんの演技、とても素敵でした。応援しているので、これからも頑張ってください」

 

 一瞬、私も演者を志していることを伝えようか迷ったが、結局口にはしなかった。

 今の凡人みたいな私が速水さんと同じ夢を語ることがあまりにもおこがましいと思ったからだ。

 

「本当にありがとう。……貴女も頑張ってね。私も応援してるから」

 

 だけど速水さんは私の隠した野望を見抜いているのかもしれない。綺麗な瞳で私たちを見送ってくれた速水さんを観ていると、不思議とそんな気がした。

 神懸かっていたステージ上での速水さんの姿を決して忘れぬよう大事に大事に抱えたまま、私たちは博多座を後にした。この時にはもう、数時間前までに抱えていたモヤモヤたちは影も形もなくなっていた。




全然歴史オタとかじゃないけど大河ドラマの新撰組は普通に面白かったゾ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



あけましておめでとうございます。
2021年初投稿です。


「……なぁ、ちょっといいか」

 

 ようやく俺が北沢にそう切り出せたのは、博多座を出た直後のことだった。

 北沢は相変わらず眼を逸らすように俯いていたが、微かに口角が動き、か細い声で「はい」と返事が聴こえてきた。その返事を合図に、俺たちは今日初めて歩幅を合わせて肩を並べる。無言のままの気の赴くままに彷徨い、いつしか俺たちは博多座近くを流れる小さな河沿いの、レンガ調の遊歩道を歩いていた。

 少し強い北風が吹いて、冬の名残を感じさせる冷気が頬を叩く。

 鼻に辿り着いた道路を走る車たちの排気ガスのにおいの中に、微かに海のにおいが混じっていたことに気が付いた。

 そういえば福岡市内は海に面していたんだっけ。 

 北沢が買ってきた観光雑誌に書かれていた情報を断片的に思い出して顔を上げてみると、河沿いに続いている遊歩道の先には空の蒼さに負けないほどに透き通った色を持つ海が広がっていた。

 どうやら俺たちの真横を流れる河は海へと繋がっていたらしい。

 春風と呼ぶには少し荒々しい海の風に、俺はその足を止められた。

 

「……この前は本当にすまねぇ! 申し訳なかった!」

 

 腰を九十度に曲げて、だけど気持ちはほぼ土下座で。

 レンガ調の地面に向かって、駅で北沢に手を振り解かれたあの日から何度も何度も伝えなければと胸の中で温めていた言葉を勢いよくぶつける。その拍子に北沢が俺の方を向いたのが間接視野の中に入り込んだのを確認して、俺はようやく謝罪と弁解を始めた。

 ライアー・ルージュのCDが欲しくて劇場に行ったこと、そこで受付の女性に勧められて流されるように握手会の会場に来てしまったこと、本当は北沢の列に並ぼうとしたけれどスタッフの人に正体を気付かれそうになって逃げるように人が多かった田中さんの列に並んだこと。

 今更になってこの想いを伝える勇気が湧いてきたのは、北沢と共に素敵な演劇の世界を楽しめたからなのか、はたまた普段住み慣れた街とは違う街にいる非日常感が後押ししてくれたからなのか––––。

 そのキッカケは定かではなかったが、一度口を開けばずっと胸の中で重りのように居座っていた謝罪の言葉たちは、思っていた以上にあっさりと姿を現してくれた。

 

「……事情は分かりました」

 

 俺の言い訳じみた弁解が一通り終わり、何年も閉ざされたままになっていた扉を開けるように、北沢がゆっくりと口を開いた。

 恐る恐る顔を上げてみると、俺を見下ろしていた北沢は怒った様子でも、軽蔑する様子でもなく、ほぼ無表情に近い殺風景な顔をしていた。その表情が、口では「分かった」と言っているものの、内心ではまだ納得できていないことを物語っているようだった。

 暫く無言の沈黙の時間があって、その後北沢が、「一つだけ確認していいですか」と言った。俺は黙って頷いたが、北沢はその様子を見てすぐに話を始めるわけでもなく、むしろ困惑したような顔になって慌てて視線を泳がせ始める。

 必死に言葉を探している北沢の漆黒の髪が、太陽の日差しに照らされてキラキラと輝く。その姿に、俺はいつの間にか見惚れていた。

 

「……天ヶ瀬さんは、本当に私のこと好きなんですか?」

 

 海風の音に掻き消されてしまいそうなほどの弱々しい声でそう問われ、はっと我に返った。

 無表情に近かった北沢の表情がいつの間にか、憂色を浮かべていた。何かに怯えるような北沢の顔を見て、思わず胸が張り裂けそうになると、次第にじわじわと胸がスコップでえぐられていくかのような痛みを覚える。自責の念と北沢への罪悪感が、スコップでえぐられた穴を瞬く間に埋め尽くしてしまった。

 

「……もちろん、好きだぜ。田中さんとか他の人じゃなくて、北沢のことが一番に––––」

「違うんです、そういうことじゃなくてっ」

 

 少しだけ感情的な北沢の声が、俺の言いかけていた言葉の上に被さった。

 違うって、どういうことだよ。

 北沢の発した言葉の意味が分からずに黙り込む。北沢はまたも言葉を選んでいるようで、顔を俯かせてジッと足元を見つめている。 

 俺は暫く待ってみたが、結局北沢は自身の胸の内を的確に表す言葉を見つけきれなかったらしい。

 

「……不安なんです。本当は私のこと好きじゃないんじゃないのかなって思って」

 

 俯いたままの北沢の口から出てきたのは、先ほど俺に問うた質問とあまり趣旨が変わらない言葉だった。

 

「だから、そんなことねぇって!」

「だ、だって––––っ!」

「“だって”、なんだよ?」

「それは……」

 

 好きじゃないのか、と訊かれ、「好きだ」と答えても北沢は納得してくれない。だとしたら北沢はどんな答えを求めているのか。

 何かを言いかけて慌てて蓋をした北沢の視線が不自然に泳いでいる。その動揺した姿から、北沢はもう自分が伝えたい想いを言語化する言葉を既に見つけているのだと察した。

 

「ちゃんと話してくれよ、何が不安なのか」

 

 北沢が俺にとって大切な存在で、本当に好きだからこそ、もし俺が彼女の顔を曇らせているのならその理由を知って改善したい。

 その想いが通じたのか、逃げ場を求めているかのように動き回っていた北沢の視線が一度だけ俺の瞳に焦点を合わせた。

 

「別に、不安ってわけじゃないんですけど。なんていうか、えっと……」

 

 視線が重なったのも束の間、すぐに伏し目がちになってものすごく言いにくそうに、途切れ途切れで言葉を紡ぎ始める。

 そして、

 

「私たち、付き合う前と今とで何も変わっていないじゃないですか」

 

 北沢が意外な言葉を零した。

 

「……変わってない?」

「そうです。握手会だって私のところじゃなくて琴葉さんのところに行くし」

「だからそれは––––」

「恋人らしいことも何一つしてないですし、それでそんなことされたら、いくら信用してても不安になるに決まってるじゃないですか!」

 

 再び言葉を遮られた。

 紅色に染まった綺麗な唇から、つらつらと言葉が溢れてくる。気が付くとあれだけ動き回っていた北沢の瞳が俺を真っ直ぐに見据えいて、俺は何も言えずに静かに聞き手に徹することしかできなかった。

 俺は根本的に北沢のことを分かっていなかった。

 北沢が俺に抱いていた不満は、俺が握手会に黙ってきたことだとか、田中さんの列に並んだことではなく、そもそもの俺の付き合い方が原因だったのだ。

 この春から俺たちは交際を始めたものの、それから二人の関係性に特別大きな変化が訪れたわけではなかった。そしてそのことには俺も気付いていながらも、何も思わなかった。きっと俺たちはこういう付き合い方でいいのだろうと、そう勝手に判断して自己完結し、劇的に何かが変化することを特には求めていなかったのだ。

 だが北沢は違った。北沢は俺とは正反対で、恋人になったことで訪れる劇的な変化に期待をしていたのだろう。だからこそ代わり映えのない俺たちの距離感にいつしか不安を抱くようになり、そして俺が田中さんの列に並んでしまったことで、その不安が一層強いものへと昇華してしまったのだと思う

 

「……すまねぇ」

 

 どんな顔をすれば良いのか分からなくて、今度は俺が逃げるように視線を逸らした。

 謝れば良いってものでもないと思うけど、今はこの言葉しか喉元からは出てこなかった。

 

「い、いえっ! 別に私も謝って欲しいとかってわけではなくて。ただ––––」

 

 ––––もしかしたら私が好きなだけで、天ヶ瀬さんはそうじゃないのかなって思ってしまって。

 硬くなった雑巾をまるで無理やり絞るように言葉が出てきたその一瞬、北沢の表情は今にも泣き出してしまいそうなほどに不安に怯えた顔つきに変わった。

 

「ち、違うっ! んなわけねぇだろっ!」

 

 抉られるように開いた胸の穴はとうの昔に満杯になっていたが、それでも罪悪感と後ろめたさは止まることなく沸き続け、俺の胸の中で溢れかえっていた。その胸に抱えた苦しみを振り払うように、俺は北沢の言葉を即座に否定した。

 

「俺は北沢のことが本当に好きなんだよっ! その気持ちは嘘じゃねぇって!」

「で、でもっ!」

「北沢がそうして欲しいならこれからは志保って呼ぶから」

「い、いやっ、別にそんな無理やり言わせてる感じじゃ私も––––」

 

 咄嗟に俯いた北沢の耳元が微かに赤くなっている。

 俺はもう捲し立てるかのように、その名を呼び続けた。

 

「志保!」

「––––っ!」

「志保! 志保!」

「ばっ、馬鹿の一つ覚えみたいに連呼するのやめてください!」

「そうだ! 志保も“天ヶ瀬さん”じゃなくて“冬馬”って呼んでくれよ」

「はぁ!? 何バカな事言ってるんですか!? そんな呼び捨てなんてできるわけないじゃないですかっ!」

「じゃあ俺も志保って呼ぶのやめるけど?」

「あ、いや、それは……。できればやめないでください」

「それならほら」

「なっ、なんでこんな時ばっかり先輩ぶるんですか?」

「良いから早く」

「うっ……」

 

 そして、北沢は耳元だけではなく沸騰したやかんのように顔を真っ赤にしながら、

 

「––––冬馬……、さん」

 

 声を振り絞った。

 その様子があまりにも愛おしくて、俺は周囲の目も確認せずに小さな志保の身体を無意識のうちに強く抱きしめていた。

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

 北沢––––ではなく、志保は「上手く丸め込まれた」と不服そうにしていたが、ようやく仲直り(?)をした後、俺たちは気を取り直して福岡観光を思う存分楽しんだ。

 福岡市内は決して観光スポットが多いとは言えなかったが、それでも初めて訪れる街は存分に俺たちに高揚感を与えてくれて、いつしか俺たちは互いの手をギュッと握り合って、見知らぬ街の探索を楽しんだ。入り組んだ天神の通りにある古着屋で服を買ったり、天神駅裏にある広い公園でギターを弾く名も無きアーティストの演奏を聴いたり、福岡に来て何か特別なことをしているわけではなかったが、それでも大好きな人とこうして知らない街で過ごす非日常的な時間はとても新鮮味があって、それだけで俺の心は満たされていた。

 日が暮れた頃、俺たちは志保が事前に福岡出身の同僚に教えてもらった屋台の店に訪れた。年配の店主はかなり気さくな人で郷土愛が強いのか、はたまたただ単に気前がいい性格なだけなのか、俺たちが東京から観光で福岡にやってきて知り合いに勧められてこの屋台にやってきたことを話すと、これでもかってほど大袈裟に喜び、サイドメニューを幾つかタダでサービスしてくれた。東京はわりとサバサバした人が多いだけに、店主の人懐っこい人間性がやけに親しみやすく感じられた。

 

「……あんた、ジュピターの天ヶ瀬冬馬だろ」

 

 食べ終わって屋台を出ようとした時、カウンター越しにいた店主が外まで出てきて、そう声をかけられた。どうやら店主の娘さんがジュピターのファンだったらしく、その影響なのか店主も俺の顔を覚えていたらしい。

「色々大変みたいだけど頑張れよ。応援してるから」

 志保のことはさすがに知らなかったようで、「彼女と来てたことは言えねぇけど、娘に会ったって自慢できるわ」と言って高笑いしながら、最後に俺の肩を力強く叩いて見送ってくれた。

 

 

 

「……福岡、思っていたより良い街でしたね」

 

 福岡市内からは少し離れた志賀島にあるホテルに到着し、ようやく一息つけたところで志保が外を眺めながら独り言のようにそう言った。

 都会の喧騒から離れたこの志賀島のホテルは海に面しており、志保の見つめる先、月明かりが映し出された夜の海からは時折静かな波音が聴こえてくる。ほどよく涼しい風が吹いて、風呂上りで湿ったままの志保の髪を優しく揺らしていた。

 

「そうだな。なんかやけに優しい人も多かったし」

「ですよね! 私もビックリしました。東京の人とは全然違うなって思って」

 

 何かに追われているようにいつも急ぎ足の人が多い東京ではあまり感じられない、ゆったりとした時間の流れや人の温かさが福岡の街にはあって、その妙な居心地の良さを志保も感じていたらしい。

(同じ日本でも、こんなに雰囲気が違う街があるんだな)

 自分が思っている以上に世の中は広くて、まだまだ見たことない景色や世界が沢山あるのだと、そんな世界の広さを改めて実感した旅行だった。そしてそのことを知った福岡の街で、沢山の人たちの優しさに触れて、思っていた以上にリフレッシュできた気がする。

 

「私、いつか福岡に住んでみたいなって思いました」

「そんなにか?」

「だって程よく都会で海や自然もあって、人も温かくて……。住みやすそうに思いませんか?」

「まぁ、そうだけど……。でもアイドル活動はどうすんだよ」

「じ、冗談ですよ! いつか住めたらいいなって、それくらい漠然とした話です」

 

 慌てて志保は否定したが、そう思う気持ちも分からなくもなかった。

 東京で生まれ育ち、異様なまでの人の多さと駆け足な雰囲気が当たり前だと思い込んでいる俺たちにとって、落ち着いた都会である福岡の街は何かと衝撃的だったのだ。

 

「天ヶ瀬さ––––……じゃなかった。冬馬さん」

 

 未だにぎこちない口調で志保が俺の名前を呼ぶ。

 俺は志保の声と外から聴こえてくる優しい波音に引き寄せられるように、広縁にやってきて志保と向かい合うように置かれた椅子に腰掛けた。

 

「……冬馬さんは高校卒業後の進路、どうするんですか?」

「進路?」

「はい」

 

 また思いも寄らない質問を投げられて、俺は思わず訊き返した。頷いてそう言った志保の瞳は俺の口元をじっと捉えていて、この質問がなんとなくで訊かれた質問ではないことを察した。

 卒業後の進路……、か。

 そういえば春から俺が高校三年生になるのと同じように、志保も中学三年生に進級することになる。アイドルをしていてもあくまで本業は学生だ。志保も一年後には自分にとって最適な進路を考えて、決断しなければならない。

 

「正直、俺もまだはっきりとは決めてねぇけど……」

 

 アイドル活動をする傍らで大学に通う北斗から時折キャンパスライフの話を聴いたりもしていたが、正直高校受験の時の俺や当時の北斗と違い、明確にやりたいことがある今の俺にとってわざわざ大学に通うのはあまりメリットがあるようには思えなかった。

 

「多分進学はしねぇかな。本格的にアイドル活動に専念すると思う」

「そうですか」

 

 そんな気がしました、と志保は少しだけ口角を上げて、外に目をやる。綺麗な横顔の先には、満開の星空が広がっていた。

 俺は高校受験をした時、まだアイドルとして活動するなど微塵も考えていなかった。

 周囲の同級生と同じように自分の学力に見合った高校に何となく進学し、そしてアイドルになるまでは人並みの高校生活を送っていた。だから今すでにやりたいことが明確な志保にとってはあまり参考にはならないかもしれない。

 

「……志保はどうするんだ?」

 

 同じ質問を返すと、夜空を見上げながら志保は困ったように苦笑いをし、人差し指で掻いた。

 

「まだ全く決めてないんですよね。親の負担を減らしたくて寮のある学校に進学したいと思っているんですけど……、やっぱり弟のことも心配で」 

「まぁ、そうだよな。弟さん、まだ小さいもんな」

「そうなんです。だから多分近場の都立高校に進学すると思います」

 

 そうは言ったものの、その言葉が志保の本意だとは思えなかった。

 親の負担を減らしたいがために寮のある学校に進学したとしても、結局は親の仕送りが必要になるか、もしくは奨学金を借りないといけないことになる。俺みたいに事情があって一人暮らしをするならまだしも、普通は実家から通える高校に進学するのが経済的負担が少ないのは明確だ。

 だけど、志保はその選択に何か引っかかるモノがあるのだろう。話ぶりからそんな様子が節々に感じられたが、その引っかかっているモノを志保は俺に打ち明けなかった。自身の中でまだ整理がついていないのか、それとも話しにくい理由があるのか、原因さ定かではないが、志保は俺に“あえて”話さなかったような気がしていた。

 

「さっ、もう遅い時間ですし寝ませんか? 明日寝坊してバタバタするのも嫌ですし」

 

 最後にもう一度だけ目に焼き付けるように星空を見上げ、志保はカーテンを閉めて立ち上がった。

 きっと今は無理に聞き出そうとせず、本人が話してくれるまで待つのが得策なのだろう。俺はそう思って、志保の本心にはあえて触れないでおく事にした。

 

 

 翌日、俺たちは福岡市内でお土産を買って昼過ぎの飛行機で関東へと帰った。

 帰りの飛行機も行きと同様に無言だった。よっぽど疲れていたのか、飛行機に乗車して離陸する前に志保が深い眠りについてしまったからだ。

 俺の肩に首を乗せ、静かな寝息を立てながら眠る志保を起こさないようにと、俺はずっと身体を固定してぼんやりと窓の外の世界を見下ろしながら物思いにふけていた。

 

(俺、まだまだ志保のこと分かってなかったんだな)

 

 付き合い始めてからも変わらない距離感で満足していた俺と、不安を抱いていた志保。

 きっと志保は俺に気遣ってその不安を隠し続けていたのだろう。結果として俺が田中さんの列に並んだことで爆発させてしまったが、もしあの一件がなければずっと俺は気付くこともなく、志保は一人で我慢し続けていたかもしれない。

 本気で愛していて、自分にとって唯一無二な大切な人だからこそ、もっともっと志保と向き合わないと。

 俺は幼い子供のように安心しきった表情で眠る志保の横顔に、そう誓ったのだった。

 




NEXT → Episode Ⅱ : 俺と私の夢への距離

これにて福岡旅行編は終了です。
今回は福岡在住の作者によるあからさまなステマ……ではなく、二人が福岡に訪れたこと、そして志保が博多座で速水奏に出会ったことが、SE@SON Ⅱの物語を動かす大きなキーとなります。
物分かりの良い人はすでにこの回でSE@SON Ⅱのオチに気が付いたかも……。

あ、でも大学時代は東京に住んでたけど福岡はほんとに良いとこだゾ。
何はともあれ、今年もよろしくお願いしゃっす!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EX : 周防桃子と永遠の花

全然話題にならないけど、周防桃子の永遠の花はマジで全てが完成されている至高のソロverだと思っているので初投稿です。
エクストラエピソード第二弾、桃子先輩のお話になります。



 志保さんが変わった。

 その変化に気が付いたのは、わりと早い段階だったと思う。

 何かと多忙な年末年始の時期を終えて、緩やか平穏を取り戻しつつあった一月の末。この冬一番の大寒波が襲った日、偶然にもその日誕生日を迎えた志保さんが突如「アイドルを辞める」とだけ言い残し、失踪したことがあった。

 結局志保さんはその日の遅い時間に無事保護されたとお兄ちゃんから聴かされたけど、それから暫くの間は『活動休止』として欠席扱いが続き、劇場に戻ってきたのは二月末のことだったと思う。劇場に戻ってきた志保さんは深々と頭を下げ、淡々とした様子で今回の騒動の顛末を説明してくれた。

 誰も知らなかった志保さんの壮絶な家庭事情。初めて聴いた時、思わず涙したメンバーが何人もいたけれど、不思議と本人は前向きにこれからの未来を見据えていて、そこに悲壮感や絶望感は一ミリたりとも感じられなかった。

 

 あの騒動を一件に、志保さんは変わった。

 何が変わったのかと訊かれたら説明するのが難しいけれど、曖昧な言葉で表すのなら、志保さんは“柔らかくなった”と思う。

 今までの志保さんは常にピリピリとした張り詰めた空気を身に纏っていて、それこそまるで一匹狼のように、常に劇場の皆とも一定の距離を置いていた。誰と群れるわけでもなく、飽くなき向上心と高いプロ意識を持っていてどんな仕事にも熱心に向き合う、超が付くほどのストイック。それが皆が抱いている志保さんの印象だったと思う。

 そんな志保さんが、あの一件を境に親しみやすくなり、自然に笑う機会が多くなった。だけど仕事熱心で自分に厳しいところは全く変わっていなくて、見間違えるように変化した志保さんは以前に比べて随分と魅力が増したような気がしていた。

 きっと家庭の問題が解決して、心に余裕ができたのだろう。

 最初はそう思っていたけれど、実際は別の理由があったらしい。

 

「志保ちゃん、最近生き生きしてるわよね。彼氏ができるとこうも変わるモノなのかしら」

 

 ある日の休憩中、莉緒さんがそんなことを唐突に喋り始めた。

 驚きのあまり思わず口に含んでいたお茶を吹き出しそうになったけど、周囲にいたメンバーたちは特に反応を示すわけでもなく、頷いたり相槌を打ったりして莉緒さんの言葉を肯定している。どうやら志保さんに彼氏ができたことを自分が知らなかっただけで、いつの間にか周知の事実になっていたらしい。

 だけど、その話を聴いてどうにも志保さんらしくないなと思った。いつも自分で自分を律してる志保さんが彼氏はもちろん、他の人の影響を受けてここまで見間違えるように変化するとは思えなかったのだ。

 

「ねぇ、桃子ちゃんは彼氏や好きな人はいないの?」

「い、いないよ! 前にも言ったでしょ?」

「あら、そういえばそうだったわね」

 

 揶揄うように莉緒さんが笑う。

 こういう時に恋愛経験のないが故に子供扱いされるのは正直あまり良い気がしないけれど、かといって恋愛をしてみたいという気もさらさらない。もともと他人にそこまで関心があるわけでもない自分が、恋愛なんて浮ついたモノに振り回され、影響される姿が今は全く想像がつかなかったからだ。

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

「周防、ちょっといいか」

 

 春休みが近づいてきた三月の上旬、帰りのホームルームが終わった直後に担任の先生から呼び出された。ランドセルを背負ったまま先生の席に向かうと、机の上には何枚ものプリントが挟まったクリアファイルが置かれていた。一番上に挟まったプリントの上部分に書かれた名前が目について、このプリントたちが今日一日学校を欠席したクラスメイトのシュウくんのものだと理解することができた。

 

「申し訳ないけど、今日の帰りにシュウんとこにプリント届けに行ってやってくれないか」

「別に、いいけど……」

 

 今日は劇場に行く用事もないし、どうせシュウくんの家も通学路の途中にあるから遠回りになることもない。特に断る理由もなかったから先生の申し出を引き受けて、クリアファイルをランドセルの中に詰め込んで学校を後にした。

 シュウくんは少し変わった男の子だった。

 いつもクラスの端にいて本を読んでいるような物静かな男子で、他の男子のように休み時間に戯れあったり、校庭で無邪気に走り回るような活発な性格ではないものの、だからといって友達付き合いが疎いわけでもなく、特別クラスで浮いているようなわけでもない。優しくて誰とでも隔たりなく仲が良いし、喜怒哀楽の波が小さい非常に穏やかな性格で小学生らしからぬ落ち着きがある。それこそ日頃お仕事で携わる業界の大人の人たちのような、そんな佇まいを彷彿とさせるシュウくんは、良い意味でませた男の子なのだ。

 そんなシュウくんのことを、実は数年前から一目置いていた。

 でもそれはシュウくんが優しいからとか、それこそ莉緒さんが言うような『恋』なんて浮ついたものじゃなくて、ただ単に自分を特別扱いしないでくれるからだ。

 子役として多くの作品に出演していた時も、アイドルとして芸能界に復帰した今も、何かと周囲のクラスメイトたちや先生たちは自分を色眼鏡で見るように特別扱いしてきた。いや、特別扱いされているだけならまだマシなのかもしれない、異端児扱いされて心ない言葉を投げつける人だって少なからずいたのだから。

 仕事が忙しくなれば当然学校に通う時間は減ってしまって、その間にクラスメイトたちは自分たちの仲良しグループを形成してしまうから、気が付けば自分はいつもどのグループにも属さない浮いた人間になってしまっていた。自分もまた、仕事が忙しくて友達と遊んだりするような普通の経験をあまりしてこなかったのもあり、既にグループが出来上がった同級生たちとどう接すれば良いのかわからず、こうして十一歳になった今も疎外感を感じながら学校生活を送っていたのだ。

 だけどそんな自分にも、唯一シュウくんは他の子たちと同じように接してくれた。

 席が近い時はよく世間話をしてくれたし、学校に通えない時期が続くとノートを見せてくれたりもした。芸能活動をしているからといって自分を特別視することもなければ煙たがることもなく、周囲のクラスメイトと同等の扱いをしてくれる。

 きっとそれは、普通の生活が送れない自分が一番強く求めていたものではないかと思う。

 

「あら、桃子ちゃん! こんにちは、ちょっと待っててね」

 

 綺麗な外装の新築のアパートのインターホンを鳴らすと、出てきたのはおばさんだった。

 今までも何度かこうしてシュウくんの住むアパートにプリントを届けたことがあったから、おばさんとは顔見知りになっていた。シュウくんと同じように優しい人柄のおばさんがドアを閉めて慌ただしく部屋の中へと戻っていくと、すぐさま入れ替わるように小さな足音が聴こえてくる。再びドアが開かれると、マスクをして軍手をはめたシュウくんが顔を出した。

 

「桃子ちゃん、いつもありがとう」

「べ、別に……、どうせ帰り道だし」

 

 咄嗟に可愛げのない言葉を返してしまったけど、シュウくんは嫌な顔一つ見せずに穏やかに笑っていた。そしてプリントが入ったクリアファイルを受け取り、再度「ありがとう」と言った。

 

「ねぇ、それより学校休んでたけど体調は大丈夫なの?」

「え? 体調不良じゃないよ」

「なっ!? それならどうして休んだの? まさかズル休み?」

「まさか」

 

 あっさりと否定して、けらけらと笑う。

 そしていつもと同じ、優しい落ち着いた声のトーンで信じられない言葉を発した。

 

「もうすぐ引っ越すんだ。その準備で忙しくて」

「––––––––えっ」

 

 シュウくんが引っ越す?

 頬をぶっ叩かれたような衝撃が走った。あまりにも淡々とした口調でにわかに信じられないようなことを話すものだから、それが冗談なのではないかと疑ってしまいそうになる。

 だけど、シュウくんはこういう人だった。過剰に驚くこともしないし、あまり感情を表に出さない人だから、ときたま周囲の人間があっと驚くようなことをさらっと口にするのだ。だからきっとこの話も冗談なんかじゃないのだろうなと思った。

 この時、生まれて初めて胸が糸で縛り付けられるような窮屈さを感じた。どうしようもないくらいに胸が痛くて、だけどどうすることもできないし、どうすればいいかも分からない。ただひたすらにその痛みに耐え続けることしかできなかった。

 

「……引っ越しって、どこに行くの?」

「宮城だよ。宮城の仙台市ってところ」

「それって東北だよね?」

「うん、さすが桃子ちゃん。ちゃんと勉強してるね」

 

 優しくそう言って笑うシュウくんの眼差しに胸の奥まで見透かされているような気になって、慌てて目を逸らした。

 なるべく感情を表に出さないようにと思っても、それでもどうしても喉から出てくる声は自分のとは思えないほどに震えている。だけどシュウくんはやっぱりいつものように、ポーカーフェイスで感情を表に出してくれない。

 シュウくんの胸の中を覗いてみようと視線をぶつけてみたけど、シュウくんの胸の中は一欠片も見えなかった。

 

「引っ越しは、いつなの?」

 

 失礼だと思っていながらも、シュウくんの背後にチラリと目をやると、そこには幾つかの段ボールが重なっていた。その光景が、更に胸を締め付けていく。

 

「うん、明後日」

「あっ、明後日!? もうすぐじゃない!」

「そうかもね。あ、学校の皆には内緒にしててね」

「…………そっ、それは分かったけど」

 

 きっと盛大に見送られることも、皆に別れを惜しんでもらうこともしてほしくなくて、ひっそりと転校したいのだろう。いかにも控えめなシュウくんらしいな、と思った。

 だけど静かに引っ越しの時を待つ本人とは裏腹に、自分の心はまだ現実に追い付いていなかった。今日ここに来て引っ越しの話を聴くまで、勝手ながらシュウくんとはこの先もずっと同級生でいるのだろうなと思っていたからだ。クラスは別になるかもしれないけれど、この学区だと進級する中学校は同じになるはずだし、そう考えると少なくとも残り四年間は同じ学校に通うことになる。そして数少ない自分を普通の同級生として扱ってくれるシュウくんと一緒に過ごせたら、その時間も実りあるモノになるはずだと、そんないつか訪れる未来を勝手ながら想像していたのだ。

 そんな当たり前に訪れるはずだった未来が、まさか明後日で終わりを迎えるとは想像もしていなかった。しかも東北の町に引っ越すとなると、もしかしたらこれが今生の別れになってしまうかもしれない。

 残されたタイムリミットへの焦りと、突如告げられた別れへの喪失感で、どうすれば良いか分からず、だけどその現実を受け入れることもできず、自分の頭の中は様々な感情が入り乱れて混乱していた。

 

「……ねぇ、これって何ていうお花?」

 

 まるで明後日に迫った唐突な別れから目を背けるように、ふと目に入った玄関に飾られていた華を指差した。

 シンプルな白の花瓶に刺さった紫の華は、今まであまり見たことのない華だった。色鮮やかな紫色はとても鮮明で、思わず見惚れてしまうような優しい色をしている。あまり華には興味がなく、何かを感じるようなことは今までになかった自分だけれど、この華には何か自分を惹き付ける不思議な魅力のようなモノがある気がした。

 

「それはね、『桔梗』っていうんだよ」

「ききょう?」

「そう。綺麗でしょ?」

「う、うん」

 

 あ、そうだ。

 唐突に何かを思いついたようにシュウくんが言う。そして普段はあまり見せないような年相応な顔つきで笑った。

 

「明後日さ、引っ越し前に会えないかな? 桃子ちゃんに渡したいモノがあるんだ」

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

「やぁ、桃子ちゃん。来てくれてありがとう」

 

 シュウくんが引っ越すことを知った二日後。

 雨空に覆われた当日、指定された時間に東京駅の新幹線改札口に向かうと、既に私服姿のシュウくんが待ってくれていた。シュウくんは相変わらずいつものように穏やかな表情をしていて、まるで今から生まれ育った街を離れるとは思えないほどに清々しい顔をしている。その顔を見て二日前から胸を縛っていた糸が、強く引っ張られていくのが分かった。シュウくん本人はなんともない顔をしているのに何故か自分だけにどっと寂しさが押し寄せてきているようだった。

 

「お父さんとお母さんは?」

「一本前ので先に仙台に向かったよ」

 

 そう答えると、あまり時間がないのか少し早足でシュウくんの足が改札口に向かって動きだした。

 

「何時の新幹線に乗るの?」

「すぐのだよ、五分後のやつ」

「なっ……! 全然時間ないじゃないっ!」

 

 ––––なんでもう少し早い時間に待ち合わせしてくれなかったの。

 そう言いかけて、喉元で言葉が詰まった。初めて自分がシュウくんに会いたいと思っていたことに気が付いたのだ。

 もうシュウくんとのお別れが間近に迫ったことへの寂しさ、そして初めて味わう自分の不思議な感情に一人困惑していたが、当の本人はそんな心境を知ってか知らずか、予め買っておいたと思われる入場券を渡して先に改札を通り抜けてしまった。置いていかれないようにと慌ててその背中を追って、改札口を抜ける。改札を通ってホームに向かう途中のエスカレーターでちらりと覗き見したシュウくんの横顔は、いつになく凛々しい顔つきをしていた。

 

「ねぇ、渡したいものって何なの?」

 

 エスカレーターを昇り終えると、ホームには既に新幹線が到着して発車時刻を待っていた。さっき会ったばかりなのにあっという間に時間が流れてしまっていて、しきりに場内アナウンスが発車時刻がすぐそこにまで迫っていることを伝えている。

 

「これだよ、桃子ちゃん喜ぶかなって思って」

「なぁにこれ?」

「開けてみて」

 

 シュウくんはポケットから小さな長方形の紙袋を取り出して、そっと差し出した。

 その間にも時計の針は進んでおり、着々と別れの時間が迫ってきている。一秒でも時間が惜しくて、慌てて受け取った紙袋を言われるがままに開けてみると、紙袋の中から姿を現したのは紫色の花がプリントされたパックだった。

 

「……これってもしかして」

「うん、この前桃子ちゃんが綺麗だって言ってた桔梗の花の種」

「もらって良いの?」

「いいよ。綺麗な華だから、ちゃんと育ててあげてね」

「ありがとう、大事にするね」

「あ、そうそう。桔梗の花言葉は––––」

 

 シュウくんが桔梗の花言葉を言いかけた時、東北に向かおうとする新幹線が大きな警笛を鳴らした。警笛を合図に、慌ただしく何人もの人が新幹線に乗り遅れまいと駆け込み始める。まるで自分たちはそんな人たちの姿を遠目から見守っているかのように、乗車口の近くで佇んでいた。

 掻き消されるような形で花言葉を言えなかったシュウくんはじっと自分の瞳を見据えて、「邪魔されちゃったね」と笑っている。その微笑みは、まるで「言わない方が良かったのかもしれない」と、そんな胸の内を表しているようにも見えた。

 

「それじゃ、もう行くね」

 

 そう告げて、シュウくんが新幹線に乗り込んだ。

 ホームと新幹線、その距離は僅か二メートルもないほどだったけど、何故かこの瞬間はとてつもなく果てしない距離に感じられて、すると途端に今まで以上に胸が圧迫されて、息苦しくなった。

 

 さっき言いかけていた花言葉って何だったの?

 ねぇ、どうして最後に桃子だけをお見送りに呼んでくれたの?

 

 まだまだシュウくんに聞きたいことが沢山あるのに、胸が苦しくて言葉が出てこない。

 必死に歯を食いしばって、だけど喉の奥から出てくるのは嗚咽のような情けない声だけだ。堪えようとしても目からは涙が、鼻からは鼻水が溢れてきて、シュウくんがどんどん遠のいてくように視界が潤んでいく。

 どうしてこんなに胸が苦しいのか、涙が止まらないのか、その理由は全く分からない。伝えたい言葉も、訊きたかったことも、何も口にできないままその場で泣きじゃくっていた。

 

「桃子ちゃん、アイドル頑張ってね。応援してるから」

 

 そう言い残し、とうとうシュウくんとの距離を完全に断ち切るドアが閉められてしまった。

 ダメだ、本当にシュウくんが仙台に行ってしまう。

 慌てて強引に袖で涙を拭って、潤んだ視界の焦点を合わせる。遠い町に旅立つシュウくんの姿を最後に目に焼き付けようと、そう思って顔を上げた時––––。

 

 

 ゆっくりと東北の地へと向かい始めた新幹線の窓から、シュウくんが何かを伝えようと自分の目を見つめて必死に口を動かしていた。

 シュウくんが何を口にしたのかは残念ながら聞き取れなかった。だけどほんの一瞬、最後の最後で目と目が合った瞬間にシュウくんが伝えようとしていた言葉が胸に届いたような気がした。

 

 そのままシュウくんを乗せた新幹線はあっという間にスピードを上げて、ホームを抜けて行ってしまった。

 新幹線が見えなくなるまでずっとその場で立ち尽くした後、トイレに立ち寄って鏡で自分の顔を確認してみると、鏡の中には“周防桃子”が笑って泣いていた。

 この時になって初めて、自分がシュウくんに恋心を抱いていたことを知った。

 だけどその想いを、シュウくんに直接伝える術はもうなくなってしまっていた。

 

 

 

 

「桃子、そろそろ起きなさい……って、あら?」

「おばあちゃん? 桃子ならもうとっくに起きてるよ」

 

 朝、いつものように起こしにきてくれたおばあちゃんは、身支度を済ませた自分をまじまじと見て驚いたように目を点にしている。「桃子がこんな時間に一人で起きるなんて珍しいわね」なんて心外な言葉を言いながらも笑うおばあちゃんが、そのまま踵を返して部屋を出ようとした時、昨日から新たに窓辺に置いていた華の存在に気が付いて足を止めた。

 

「……桔梗じゃない。にしても、綺麗な色合いね」

 

 シュウくんが東京を離れてから二ヶ月、最後にもらった桔梗の華の種が先日ようやく開花した。そのうちの何本かを選んで、こうして花瓶に差して部屋に飾ることにしたのだ。

 

「でしょ? 桔梗はね、桃子のお気に入りのお花なの」

「あら、そうだったの。ところで桔梗の花言葉って、知ってるかしら?」

「もちろん。桃子が知らないわけないでしょ」

 

 それじゃ、桃子は今日一日劇場でお仕事があるから。そう言い残して、家を飛び出した。

 外はもう陽が昇って明るくなっており、夏の到来が近づいていることを感じさせる日差しで東京の街を照らしている。晴れ渡った青空を見上げて大きく深呼吸をし、朝の新鮮な空気を肺の隅にまでめいいっぱい取り込んだ。

 あの日、シュウくんは最後に「また会おうね」と言ってくれた。実際に言葉で聴いたわけではないから本当にそう言っていたのかは分からないけれど、例え言葉として耳に届かなくても、最後の最後に重なったシュウくんの視線は確かにそう言っていたような気がしたのだ。

 

 桃子もいつか、もう一度シュウくんに会いたい。

 そしてその時にこそ、居なくなって初めて気付いた自分の想いを伝えれたらなと思う。

 

 ふと自分の部屋の窓の方を振り返ると、朝の日差しを浴びて花瓶に差した桔梗の華が光っていた。僅かに開けておいた窓から迷い込んだ優しい風に誘われて、キラキラと輝く桔梗の華がまるで手を振っているかのように緩やかに左右に揺れている。

 

「次に会う時までに、桃子ももっと魅力的な人になっておかないとね」

  

 そう言い聞かせて、桔梗の華に手を振り返して歩き始めた。

 遠い町に旅立って行ったシュウくん。だけど別れ際に彼の瞳が言っていたように、いつかまた何処かで運命が重なって会えるような気がしていた。

 その“いつか”が近い将来訪れることを信じて、今できることを全力で頑張ろうと思う。仙台の街で頑張っているシュウくんに「桃子も頑張っているよ」って胸を張って言えるように。

 そして、こんな風に誰かのことを想って、毎日を頑張れる活力を得られるのなら––––。

 恋をして変わっていくのも、思いの外悪くないのかもしれないと思った。

 




そういえばミリシタでそろそろ永遠の花のイベントくるって言われてましたよね……。
ちなみに桔梗の花言葉は「永遠の愛」、「誠実」だそうです。また、白の桔梗だと「清楚」という意味もあるそうで、少し擦れてはいるけど子供らしい透明感もちゃんと保っている桃子にピッタリじゃないのかなと思いました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Episode Ⅱ : 俺と私と夢への距離

ようやくW.I.N.G優勝したので初投稿です。


 

 

 福岡旅行から帰ってきて間も無く、桜の華たちが開花のピークを迎えた頃。

 まだ時折肌寒い風が春風の中に紛れてはいたが、三月が過ぎ去って新たな年度が始まりを迎えた。

 

 私は765プロの所属アイドルとして、冬馬さんはこの春から正式に移籍を果たした315プロの所属アイドルとして、初めて迎える春。特に冬馬さんは、移籍した315プロが立ち上がったばかりの新興プロダクションだったこともあり、他のメンバーたちとの顔合わせや事務所の宣伝も兼ねたメディア出演など、何かと忙しそうな毎日を送っていたようだ。

 その傍ら、私も六月の定例ライブで39プロジェクト史上初の試みとして披露されることが決まったユニット楽曲のメンバーに選出され、冬馬さんほどではないにしてもレッスンに追われる忙しい時間を過ごしていた。

 

 そんなこんなで、桜の華の美しさを味わう暇もないほどに多忙な四月が終わってやってきたゴールデンウィーク。私はとある有線放送のアイドル番組の出演者として、都内の収録スタジオを訪れていた。

 『今春注目のクール系アイドル特集』。

 各事務所からアイドルたちが集い、キュートな正統派アイドルとはまた違うアイドル像の魅力を伝えていく––––といった趣旨で構成されたこの企画に、765プロからはプロデューサーの推薦もあって私が参加することになったのだ。

 今回765プロから選ばれたのは私一人。

 ほんの少しだけ心細くて不安な気持ちを抱えつつも、765プロの代表として恥ずかしくないように振る舞わなければ、と。そんな緊張感と意気込みを持って関係者に挨拶を済ませ終えて楽屋のドアを開けた時、部屋の隅にいた人影を見つけて私の心臓は激しく飛び跳ねた。

 集合の予定時刻まではまだ余裕があったため、誰もいないと思い込んでいた楽屋に座っていた先客。

 スマートフォンを退屈そうに弄っていたショートカットの女性はすぐに私の存在に気付いた。こちらをジッと見つめる黄金色の瞳はとても澄んだ色をしているが、瞳の色の明るさとは対照的に中性的な顔立ちはほんの少しだけ影を感じさせて、その特徴的なギャップが神秘的な魅惑を放っている。

 その圧倒されるような美しさに、私は見覚えがあったのだ。

 

「あら?」

 

 狭い楽屋に響く、透き通った声。

 一直線に耳へと届いた綺麗な声に、思わず背筋がピンと伸びる。上品に眼を開いた女性は、品定めをするように私を見つめていた。どうやらこの人も、思いも寄らない偶然に気が付いたらしい。

 

「……まさか、あなたも同業者だったとはね」

 

 ––––やっぱり。

 速水さんは、私たちが福岡旅行で訪れた博多座で聴いた声とはまるで別人のように落ち着き払った声で微笑んでいた。

 

 

 

 

Episode Ⅱ : 俺と私の夢への距離

 

 

 

 

「……そう。貴女は39プロジェクトの一員だったのね」

 

 私の話を一通り聴いて、そう口にした速水さんの声はまるで夜の浜辺に訪れる波音のように単調としていた。だけど興味が全く無さげなわけでもなさそうで、その証拠としてうっとりするほどに長いまつ毛を纏った瞼は不自然に開かれている。速水さんは普段あまり感情を表に出さない人なのかもしれない。そんなことを、速水さんの惚れ惚れするような横顔を眺めながらボンヤリと考えていた。

 思わぬところで速水さんと再会を果たした私だったが、その後すぐに収録の打ち合わせや準備などで忙しくなり、ようやく速水さんにきちんと挨拶ができたのは、番組の収録を終えて楽屋に戻ってきてからのことだった。

 

「さすがに驚いたわ。志保もアイドルだったなんて」

「私もです。速水さんはてっきり女優の方かと思っていたので……」

 

 聴けば速水さんは俳優や歌手、モデルなど多岐に渡る分野で多くの芸能人を排出している老舗事務所、美城プロダクションに所属するアイドルだったらしい。私たちが観劇した博多座での舞台は単発で参加していた案件だったようで、普段は私たちと同じように東京を拠点として活動しているのだと教えてくれた。

 一方の速水さんも765プロについては大先輩である春香さんたち765ASの面々についてはそれなりの知識がありながらも、私が属している39プロジェクトについては名前を知っている程度で知識は乏しかったようだ。

 他の事務所のアイドルのことについては正直あまり関心がなくて何も知らなかったが、速水さんは私とは違って、飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進を続ける346プロの中でもとりわけ注目度が高い、看板アイドルの一人だったらしい。番組内での扱いやスタッフの対応などから、なんとなくではあるが彼女の立場を察することができた。

 

「……すみません、私全然速水さんのことを知らなくて」

「そんなこと気にしないでいいわよ」

 

 お互い似た者同士ってことで、お相子にしましょ。

 無知を詫びる私に、速水さんはそう言いながら片目を瞑る。そんな芝居掛かった仕草も、速水さんがするとすごく自然な動作かつ魅力的に映るのはどうしてだろう。胸が静かにかき乱されていくような感覚がして、なんだか落ち着かなかった。

 普段の何気ない些細な仕草の一つでも、速水さんからは圧倒的な『美』が感じられる。

 博多座で観た原田まさを演じる姿にすっかり魅了されてしまった私だったが、どうやらこの人が持っている異様なまでのオーラは意図的に作り出された演技ではなく、生まれ持った天性のものだったらしい。 

 まるで同じ人間とは思えないほどに美しい速水さんの仕草に、私はただただ見惚れて言葉を失ってしまっていた。

 

「……だけど、なんだか意外でした」

「意外って、なにが?」

「速水さん、博多座で会った時と印象が違うっていうか……。あっ、全然悪い意味じゃないんですけど」

 

 不自然に空いた間を慌てて埋めようと口にした言葉だったが、口から溢した後にすぐさま過ちだったと後悔した。自分で口走っておきながら、すごく失礼な言い方に聴こえたのだ。

 だけど速水さんは私の失言を咎めることなく、「そうね」と相槌を打ちながら涼しい顔で笑っていた。

 

「速水奏はつまらない人間だって気付いて、ガッカリした?」

「そっ、そういうわけじゃ––––」

「ふふっ、冗談よ、じょーだん。志保の言いたいこと、ちゃんと伝わってるから」

 

 速水さんはそう口にして揶揄うように愛嬌よく笑う。

 咄嗟に否定はしたけれど、未だにあの日の速水さんと今の速水さんの姿がシンクロしていないのは確かだった。

 博多座で初めて速水さんを見た時、私はもっと活発な女性のイメージを抱いていた。劇場のメンバーで例えるならそれこそ恵美さんのような、明るくて社交的でお喋り好きでバリエーション豊かな表情の色を持っている––––、私の瞳には速水さんの姿がそう映っていたのだ。

 だけど今私の前にいる演者ではない“速水奏”は、そうではなかった。

 表情のバリエーションはお世辞にも多種多様とは言えず、喋る時の声のトーンに抑揚がないからか喜怒哀楽が全くと言っていいほど伝わってこない。それはまるで本当の自分を誰にも見せまいと内側に隠し込んでいるかのようで、自分の想いを身体全体で表現していた演者の“速水奏”とは正反対の人間に思えたのだ。

 しかもこんなに大人びた雰囲気を醸し出しているのに、実年齢はなんと十七歳の高校三年生!

 そこらへんの大人より遥かにしっかりしていて色気もあるのに実際はまだ高校生だったなんて、もう色んな意味で掴み所のない人だな……、というのが改めさせられた速水さんの今の印象だ。

 

「お仕事で貰った役なんだから、なりきるのは当然のことでしょ?」

「そうですけど……」

 

 至極当然のように速水さんはそう口にするけれど、それは決して誰もが簡単にできることではないと思う。

 芝居というのは、自分ではない誰かを演じることだ。

 誰かになりきるには、演技力はさることながら、自分を客観視できる想像力や、演じる役の想いや心境を的確に汲み取る理解力など、様々な能力を高水準で持ち合わせていなければならない。

 そしてそれらは演者自身の人生経験の豊かさによって培われる代物だと言われていた。数多くの豊富な人生経験が演者の見聞を広げ、一人の人間としての多くの引き出しを持たせるのだと。まだ演技のお仕事を貰えたことはないけれど、実際に何度かオーディションを受けた私も、確かにその通りだなと思っていた。

 何度も何度もオーディションに落ちた私だからこそ、速水さんの凄さはとくと理解していた。あれほどまでに人格を違和感なく切り替えれるのは、一流が為せる技であって、常人では不可能に近いことなのだ。

 

「博多座でも言ったかもしれないんですけど、本当に速水さんの演技には感銘を受けたんです」

「それはさすがに言い過ぎじゃない? 私の演技なんて、志保が言うほど大したものではないわ」

 

 はにかみながらも、速水さんは謙遜する。

 でも、そう言って貰えるのは素直に嬉しいわ。そう付け加えて、速水さんは困ったように笑った。

 

「実は私も演技のお仕事に興味があって、だけど全然オーディションには受からなくて」

「そうだったの?」

「はい。だからあの日の舞台を見て思ったんです。速水さんみたいな演技ができる女優になりたいって」

 

 博多座で速水さんの演技を見たあの日、私は冬馬さんと仲違いをしたままで、期待していた博多座も見掛け倒しに思えて、どうしようもないほどに行き場のないモヤモヤと苛立ちを持て余していた。例えるなら視界に広がる世界が全て白黒に見えるほど、私の心は荒んでいたのだと思う。

 だけどそんなネガティヴな感情たちも、速水さんの演技を見た後には一変した。あれほどまでにトゲを持っていた感情たちが、いつの間にか浄化されていて、不思議なほどに私は爽やかな気持ちに包まれていたのだ。

 きっと素晴らしい物語に触れて、心が満たされたからだと思う。

 自分が実際にそういった体験したからこそ、純粋な憧れを抱くようになった。私も速水さんのようにストレスや悩みを吹き飛ばせるほどの、人の心を満たす演技ができるようになりたいと。 

 

「速水さんって、346プロに入るまでは何されてたんですか?」

「え、どうしたの急に」

 

 私が突然投げかけた質問を慌ててキャッチした速水さんは、少しだけ驚いた素振りを見せた。

 速水さんのように、人の心を強く打つような女優になりたい。だからこそ私は気になっていた。十七歳の高校三年生であそこまでの演技力を兼ね備えた速水さんは、一体今までにどんな人生や経験をしてきたのかを。高校生離れした速水さんの演技力と言葉では言い表せない魅力の原点を何だったのかを。

 

「特に変わったことは何もしてないわよ」

 

 だけど、返ってきたのは期待外れな回答だった。

 

「本当ですか?」

「ええ。普通の高校生として普通に生きてきて、声をかけられるまで自分がアイドルになるなんて思いもしてなかったわ」

 

 そんなはずがないと思った。

 だけどその反面、これが本当でも嘘でも速水さんは本当のことを話してはくれないのだろうなとも思った。今日初めて知った速水さんの性格からそんな予感がしたのだ。

 それでも私はベールに包まれた速水さんの秘密を知りたくて、今度は違う角度から速水さんの内側を覗こうと試みる。

 

「……それならどうしてアイドルをやろうと思ったんですか?」

「うーん、どうしてかしら」

 

 唇に人差し指を当てて、困ったように笑う。

 速水さんは紫色のネイルが付けられた指先でコツコツと机を一定のリズムで優しく叩きながら、思いを巡らせ始めた。小刻みに上下に動くネイルは照明が反射して煌めいて、速水さんの大人びた雰囲気をぐっと色っぽく演出しているようだ。

 暫く考え込むように虚空を眺めた後、楽屋に響いていた机を叩く音が消えた。そして速水さんは追憶に浸るような眼で呟いた。

 

「––––『変わりたい』って強く思ったから……、かな」

「変わりたい、ですか?」

「そう。変わり映えのない退屈な日常に飽き飽きしてて、虚無感を感じてたわ。胸にぽっかりと空白があるような気がして」

 

 古いアルバムを捲っていくかのように、速水さんはゆっくりと丁寧に言葉を紡いでいく。

 

「そんな自分を変えたいと思いつつもキッカケもなくてどこかで諦めてて、その時に今のプロデューサーに声をかけられたの。もしかしたらアイドルになれば胸に空いた穴も埋めれるかなーって思ったから、彼の話、受けちゃった」

「……それで、アイドルになって埋めれたんですか? その穴は」

「さぁ、どうかしら。それは未来の私にしか分からないわ」

 

 まるで他人事のように、速水さんはキッパリと言い切って椅子から腰を上げた。

 これでこの話を終わり。

 遠回しにそう言っているように感じて、私は口を閉ざす。結局私が知りたがっていたこと、速水さんの考えていることたちは何一つ分からないまま、上手く言いくるめられてしまった。

 速水さんは私の求めているような答えを口にしてくれなかったが、ふと思い返せば春香さんも冬馬さんもそうだった気がする。結局私が知りたいこと、気になっていることの根本的な答えは直接教えてくれはしなかったのだ。

 それは即ち、『自分で答えを探せ』ってことなのだろうか。 

 

「ねぇ、それじゃあ次は私が志保に質問しても良いかしら」

 

 物思いに耽る時間も与えてもらえず、そう言葉を掛けられた。

 立ち上がって小さな鞄のベルトを肩に掛けていたからすっかりもう帰るのかと思っていたが、速水さんはまだ帰るつもりはないらしい。

 

「博多座に一緒に訪れていた彼は、天ヶ瀬冬馬でしょ?」

「……気付いていたんですか」

「当たり前じゃない。それで、天ヶ瀬冬馬は志保の彼氏なの?」

「なっ、何言ってるんですか。そんなわけ––––」

「もしかして私の勘違いだった? それならそれでいいんだけど」

 

 私の反応を楽しむかのように、速水さんは含み笑いを浮かべた。

 すると次の瞬間、速水さんがその端正な顔をぐっと近づけてきた。唇が触れ合いそうになるほどの至近距離で瞳の中の自身の姿を確認するかのように、じっと速水さんの鋭い視線が私を捉えている。

 その視線が嫌な胸騒ぎを引き起こし、心臓が激しく脈打つ音が聴こえてきた。

 速水さんは何を考えているのだろう、そう思って私も速水さんの瞳を覗き返してみたが、そこには不安げな顔をした自分の姿しか映っていなくて、やっぱり速水さんの感情は一ミリも見えてこない。まるで真夜中の海のように、速水さんの瞳の奥は真っ黒に染まり切っていた。

 

「彼、すごく魅力的じゃない。志保の彼氏じゃないなら声かけてみようかしら」

「ちょっ、それって––––!」

「……なんてね」 

 

 志保って大人びて見えるけど、意外と分かりやすいのね。

 そう言って悪戯っぽく笑いながら私の頭を軽く叩くと、「またね」とだけ言い残して速水さんは楽屋から出て行ってしまった。

 その後ろ姿をぼんやりと見送りながら、「あの人には敵いそうにないな」と、ドッと遅れて押し寄せてきた疲れをひしひしと感じながらそう思ったのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



年末あたりから早坂が無断欠勤を続けているので初投稿です。


 961プロを退社してから一年にも及んだインディーズ期間を経た後、俺たちジュピターはこの春から始動した315プロの一員として、新たな一歩を踏み出すこととなった。

 年中ポロシャツ姿で口癖は「パッション」の齋藤社長、女性のような端正な顔立ちと結べるほどに伸びた長髪が特徴的な石川プロデューサー。何かと癖の強い二人の元には、弁護士や医者、パイロット、中にはプロサッカー選手や高校教師など、実に個性的な経歴を持つメンバーたち十九名がアイドル候補生として集まった。

 メンバーの大半は俺よりも年上で、前職も、アイドルを志した動機もバラバラ。スクールバンドとして活動していた現役高校生も数人いたものの、アイドルとしての経歴があるのは俺たち三人のみで、その他のメンバーは当然ながら素人だ。

 初めて315プロにやってくるメンバーたちの経歴を聴かされた時、さすがに何かの冗談なのだろうと耳を疑った。常識的に考えて、社会人だった人間をアイドルに仕立て上げるなんで前代未聞の話だ。それも芸能のキャリアを全く持たない素人となれば尚更である。

 だけどそんな俺たちの浅はかな固定概念は、石川さんの目論見によって瞬く間に吹き飛ばされてしまうこととなった。

 

 早速石川さんが持ってきてくれた仕事のロケが長引き、俺たち三人だけが一時間ほど遅れる形になってしまったメンバー全員での顔合わせ当日。慌ててタクシーで事務所に帰ってきた俺たちが見たのは、不慣れな様子ながらも真剣な眼差しでレッスンを行う“良い歳”をした大人たちだった。

 ドアのガラス越しに初めてそんな大人たちの姿を見た時、俺は胸が震えるほどの衝撃を覚えた。

 ひたむきにレッスンに打ち込む大人たちはそれぞれが胸に確かな野望と覚悟を秘めていて、アイドルとしての自分と向き合おうとする姿は技量の優劣に関係なく、純粋にカッコ良くてキラキラと輝いて見えたのだ。それは普段街で目にするような、生活に疲れ果ててやつれていたり、何かを諦めたかのように瞳から色を失った大人たちの姿とは正反対の姿だった。

 後にプロデューサーから聴いた話であるが、315プロをアイドル事務所として立ち上げるにあたり、比較的年齢層の高い人選を行ったのは意図的だったそうだ。

 

「315プロにやってきた皆さんは、何かしらの葛藤や挫折を抱えたまま、燻っていた人たちばかりです。だけど僕や社長はそれを『輝ける可能性』だと思っていて、そんな煌めきを持つ人たちに僕は声をかけただけなんです」

 

 才能や実力ではなく、一人の人間としての“生き様”をセールスポイントとして、従来のアイドルたちとは違った角度から売り出していく––––。これが315プロの方針だったらしい。

 また、石川さん自らが声をかけて集めたという十六人は皆揃いも揃って人柄がよく、俺たち三人もすぐに打ち解けることができた。

 

「冬馬、ここのステップのところなんだけどさ……」

「あー、そこはちょっと急ぎ足だから、天道さんの場合だともっと軸足を踏み込んでからやった方がいいっすよ」

「逆に桜庭さんは少しリズムが早くなってるので、もうワンテンポ遅めがいいかもしれませんね」

「伊集院君、アドバイスありがとう。次は意識してやってみるよ」

 

 メンバー内で唯一アイドルとしての経歴があっただけに、必然的にレッスンでは俺たち三人が教える立場になる機会が多かった。だけど年下の俺たちの助言に誰一人として嫌な顔はせず、それどころか俺たちから少しでも多くのことを吸収しようと真っ直ぐに向き合ってくれて、そんな前向きにレッスンに励むメンバーたちの姿に、俺たちもまた多くの刺激をもらっていたのだ。

 

「なんかさ、良いよね。こういう感じ。僕、すごく最近楽しいかも」

「……そうだな。確かに悪くはねぇと思う」

 

 こうして同じ目標に向かって切磋琢磨しあえる仲間が身近にいる環境は、961プロ時代もインディーズ時代もある意味孤独だった俺たち三人にとっては新鮮なモノだった。だからこそ、きっと俺だけではなく翔太や北斗も今までにないような充実感を感じていたのだと思う。

 315プロで互いに刺激を与え合える仲間たちと出会えたことで、少しずつ俺たちジュピターにも変化が訪れていたことに気が付いたのは、五月の末のこと。普段からよく利用している喫茶店にミーティングの名目で三人で集まった際、おもむろに北斗の口から溢れ出た言葉がキッカケだった。

 

「近いうちにソロ活動を始めようと思っているんだ」

 

 それは俺たちへの相談などではなく、宣言に近い口ぶりにも聴こえた。

 呆気にとられる俺を置いてけぼりに、北斗はどんどんと話を進めていく。石川さんにはもうその旨を伝えていて、今後はソロアーティストとして活動の幅を広げていきたいと思っていること。ようやく俺が北斗の話に追いつけたのは、翔太が「良いんじゃないかな」と北斗の宣言を肯定する言葉を口にしてしまった頃だった。

 

「ちょっと待てよっ! ソロ活動って、ジュピターはどうすんだよ!?」

「心配するなよ、誰もジュピターを辞めるなんて言ってないだろ?」

「そ、それはそうだけど……」

「そうだよ。冬馬くん、そんなに心配しないでも大丈夫だって」

「ちゃんと今まで通り、ジュピターの活動を最優先にした上でソロ活動をしていくつもりだから安心してくれ」

 

 翔太は元々北斗の言い分を察していたのか、特別驚いたり焦ったりするわけでもなく、比較的いつものと同じように落ち着いた様子だった。その傍ら、俺だけがどうしても腑に落ちない感情を拭えずにいて、そんな俺に気遣ってか、北斗は何故自分がソロ活動をしたいと思うようになったのかをゆっくりと説明してくれた。

 315プロで多くの出会いを体験して、その中で過去の挫折と向き合い、世間的には遅すぎる年齢からでも本気でアイドルに挑戦することで前に進もうとする仲間たちの姿に、北斗も刺激を受けていたこと。

 そして彼らの挑戦する姿を見ているうちに、自分自身にも目を逸らしていた夢があったことに気が付いたこと––––……。

 

「……俺、やっぱりもう一度ピアノをやりたいんだ」

「ピアノ?」

 

 またもや予想だにしていなかった言葉が飛び出してきて、面食らってしまった。

 北斗が高校生の頃までピアニストを目指していた話は、以前聴いたことがある。なんでもそれなりに将来を嘱望されていた実力だったそうだが、腕の腱を傷めてしまって諦めざるを得なかったとか、確かそんな話だったはずだ。

 

「今からピアニストを目指すってことかよ?」

「ははは、さすがにそんなことはしないさ。だけど大好きだったピアノで弾き語りとか、アイドルになった今だからこそやれることをしてみたいなって思えるようになって」

「……なるほどな、そういうことか」

 

 昔、北斗はピアニストになる夢は完全に終わった夢だと話していたけれど、実際はそうではなかったのかもしれない。諦めたと言い聞かせていただけで、本当はただ北斗が僅かに残っていた夢への情熱の炎から目を背けていただけだったのではないかと思う。

 いずれにせよ、北斗の胸の内に残っていた情熱に再び火を灯したのは、315プロの仲間たちだったことに変わりはないはずだ。心なしか、「ピアノをやりたい」と口にした北斗の表情は、いつになく清々しく見えて、それは普段見かける仲間たちの顔つきに似ている気がした。

 

「だから、昔やってたモデルじゃなくてソロアーティストなんだよね?」

 

 そうだな、と翔太の言葉に得意のウインクを添えて返して、北斗は目を瞑った。

 数秒の間瞼を閉じた後、両手を頭の後ろで組んでゆっくりと目を開く。その視線は、今ではなくずっとずっと先の、遥か遠い未来を見つめているようだった。

 

「……今自分が本当にやりたいことから逃げてると、カッコ悪い大人になってしまう気がするんだ」

 

 そう呟いて、焦点を俺たちに合わせると、

 

「どうせ大人になるんだったら、あの人たちのようなカッコイイ大人になりたいよな」

 

 北斗はいつものように、得意げな笑みを浮かべる。

 その笑みが、得体の知れない不安、焦慮などの感情を引き連れて、何故か俺の胸にチクリと突き刺さったのだった。

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

 北斗からソロ活動を始めることを打ち明けられた週の日曜日。

 俺は久しぶりに休みが重なった志保と二人で、近所の高台の公園に訪れていた。

 

「なんだかこうして会うの、すげぇ久々な気がするな。最後に会ったのいつだっけ」

「たしか……、GW前とかでしたよね。だとしたら一ヶ月ぶり?くらいでしょうか」

「あれ、もうそんな前になるんだっけ……」

 

 志保の言葉に違和感を感じたが、確かに最後にあった時に、互いのGWの予定を話していたような気がする。志保はアイドル番組の収録があって、俺は久しぶりに善澤さんの取材が入ってたとか、そんな話をしていたはずだ。だとすれば志保の言う通り、本当にあれからもう一ヶ月も経っていたことになるのか。

 ふと空を仰げば、俺たちを見下ろしている青空の端には大きな入道雲が浮かんでいて、五感を研ぎ澄ませば公園を駆けていく風たちも以前に比べて生温くなっているような気がする。まだ春の名残を感じられた一ヶ月前とは違い、今はもう夏の入り口に立っているような気候に変わってしまっていた。

 季節が確実に流れていること、体感の何倍もの速さで時間が経過していたことを知り、俺は妙な焦りを感じていたことに気が付いた。その焦りの正体が何なのかは全く見当がつかなかったけれど、それは数日前に「もう一度ピアノを弾きたい」と話した北斗を見て感じたのと同じような感情にも思える。

 

「……あの、なんだかすみません。ここ最近はなかなか予定が合わせれなくて」

「大丈夫だって、それはお互い様だろ」

 

 確かに最近は志保が劇場初のユニット公演を目前に控えていることもあって、こうして直接会って話す機会はめっきり減ってしまっていた。

 会える頻度が減るのは寂しい気もするけど、互いの職業柄それは致し方のないことだ。それに忙しい日常を過ごせるのはそれだけアイドル活動が充実している証拠で、俺のことを気にするあまりそこに負い目を感じては欲しくはなかった。

 あくまで志保には俺のことより自分の夢を優先して欲しい。どんな姿よりも夢に向かってひたむきに頑張る志保の姿が一番魅力的だと思っていたからこそ、志保のアイドル活動が忙しくて会えないということにはそこまで抵抗は感じていなかった。

 

「それで、調子はどうだ」

「調子、ですか?」

「そう。もう来週末なんだろ、公演は」

 

 特に深い意味もなく投げかけた質問だったけど、その問いに志保は表情を曇らせた。困ったように頬をか細い人差し指で掻いて、言葉を探している。少しの間を挟んで、温い風が志保の黒髪を揺らした。乱れた髪を耳にかけて、浮き彫りになった志保の表情は思い詰めたように影を潜めていた。

 

「……はっきり言って、かなり厳しいです。何もかもが上手くいかなくて」

 

 口から溢れたのは志保にしては珍しく、弱気な言葉だった。

 そして志保がおもむろに言葉を紡いだ時、僅かに下唇を噛みしめたのを、俺は見逃さなかった。

 

「……そっか。せっかくだから相談乗るぜ。話してみろよ」

「で、でも! せっかく会えた貴重な時間に、私の相談なんて……」

「そんなこと気にすんなって、行き詰まってんだろ? 解決はしなくても、話せば楽になるかもしれないし」

「……そうですね、分かりました」

 

 憂鬱そうな表情を拭えないままではあったが、一通りの顛末を話してくれた。

 今回のユニット公演で志保は全五人で形成されるユニットに組み込まれたが、そのメンバー同士の年齢や技量、体力に大きな振り幅があったようで、なかなか全員の足並みが揃わなかったそうだ。公演が迫ってくる中、クオリティが上がらないことに対してメンバー間でも焦りが生まれ始め、その不穏な空気を一掃すべくユニットのリーダーである最上静香が「メンバー全員で気分転換にご飯にでも行かないか」と提案をしたらしい。

 だがその提案に対し、志保は「そんなことをする暇があるのなら少しでも足並みが揃うようにレッスンをするべきだ」と猛反発。その結果、以前に増してユニット内の空気は壊滅的なほど悪くなってしまった––––、といったのが話の全容だ。

 話を聴いた限り、ユニット全体の問題というよりリーダーと志保の衝突が大きな原因になっているような気がした。だけど志保も志保とて、自分が空気を悪くしてしまったという自覚はあるものの、その発言をしたことに対して微塵も悪いと思っていないせいで、余計に話がややこしくなってしまっている。

 

「親睦を深めたいって目的は分かります。だけど私からすれば今の状態でもう時間もないのに、悠長にご飯に行こうだなんて言える神経が理解できません」

「まぁ、確かにそうだよな……」

 

 確かに志保の言い分はご尤もだ。

 現状全く足並みが揃っていなくて、残された時間も限られているのならば、一秒でも多くの時間を割いてどうにか現状より良くしていく他ないと思うのは至極当然だと思う。

 だけどリーダーの最上静香は恐らく、今の悪い空気のままでいくら時間を重ねたところで、きっと物事が良い方向に転ぶとは思えなかったのだろう。それもそれで一理ある考えではあるのだけれども、結果としてその両者の正反対の考えがぶつかり合って、一番最悪な方向に進んでしまっている。

 どちらかが折れれば、少なくとも今以上に事態は悪くならないのかもしれない。きっと志保もそうと分かっているのだろうけど、簡単に折れることができない理由があった。

 

「……私、やるからには誰にも負けたくないんです。だからこそ、例えユニットでも絶対にクオリティを落とすようなことはしたくないんですよね。この考えって間違ってるんでしょうか」

 

 ––––やるからには誰にも負けたくない。

 そう言った志保の言葉が、「最上静香に負けたくない」という意味だということを俺はすぐに察することができた。

 今回のユニットでリーダーを務める最上静香は、春日未来や伊吹翼ら二人と同時期にデビューを果たした“シグナル”の一員であり、現状39プロジェクトの看板を背負って立つアイドルの一人である。最上静香含む、他のシグナル二人も志保と同じ中学三年生、同世代なのもあってか、人一倍負けず嫌いな志保は三人に対してかねてから並々ならぬライバル心を燃やしていたことを俺はしっていたのだ。

 

「なぁ、志保はその最上さんの事が嫌いなのか?」

「嫌いとか好きとか、そういうわけじゃなくて……。なんか馬が合わないっていうか……」

 

 志保が言うには、最上静香は人付き合いが不器用で、プロデューサーや周りにもよく反発するような自己主張の強い性格らしい。本人は無自覚のようだが、聞く限りでは最上静香と志保の性格はそっくりで、きっと同族嫌悪のようなものなのだろうと思った。まぁ、それはさすがに口にはできなかったけれど。

 だけどそんな最上静香のことを気に入らないと思う反面、彼女のアイドルとしての実力は正当に評価しているようだった。

 

「悔しいですけど、やっぱり見てて「凄いな」って思うことは多々あるんですよね。私がまだ行き着いていないところに静香はもう到達してる気がして」

「だから、負けたくないって思うんだろ?」

「……だと思います。静香は本当に凄いから」

 

 不服そうにしながらも、最上静香の実力を認める姿を見て、この様子なら問題はないような気がした。

 確かに今は互いにぶつかり合って、周囲を巻き込むほどに悪影響を及ぼしているかもしれない。だけどその根底にはちゃんと相手をリスペクトする気持ちがあって、その上で自身の意見を主張しているのだから、それは決して悪いことではないはずだ。志保の話から推測するに、最上静香も志保の意見を頭ごなしに否定しているようなわけではないみたいだから、きっと相手も同じように志保のことをリスペクトしているのだろう。

 互いに譲れない価値観をぶつけ合って、きっとその先に見えてくる新たな道もあるはずだ。その道が正しいかどうかは、公演が終わった後じゃないと分からないのだと思う。要はこれからどうするにせよ、結果論でしか語れない話なのだ。

 ここまでユニット内で拗れているのに関わらず、一切プロデューサーが介入しないことに対しても志保は少し不満を感じているようではあったが、きっとプロデューサーも同じようなことを考えているのだろうと思った。この衝突が悪いことではないと理解しているからこそ、敢えて割り込むようなことはせずに、メンバー同士でどう解決するのかに委ねているのだと。

 

「……まぁ、良いんじゃねぇかな」

 

 互いに意見を主張して、だけど相手の意見もちゃんと尊重しようとして。

 俺は志保が言うほど今の状況が悪いとは思えなかった。

 

「とりあえず今は、志保が正しいと思ったことを貫いて一生懸命頑張ればいいさ。そうしてれば自ずと結果は付いてくるって」

「それ、本気で言ってます?」

「あぁ、本気だぜ」

「……呆れた。冬馬さんって、意外に楽観的なんですね。私にはこのままだと悲惨な結末しか想像つきませんけど」

「楽観的じゃねぇよ、絶対最終的に事態が良い方向に転ぶって思ってんだからそう言ってんの」

 

 志保はきっと必死になりすぎて物事を広く見る余裕がないのかもしれない。だけど絶対にこの先の着地点が志保の言うような事態にならない確信があったからこそ、俺はこれ以上は何も言葉をかけなかった。

 最後まで俺の言葉に半信半疑な様子だったが、志保も相談したことで多少は気が軽くなったのか、それ以上は何も言わなかった。 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



箱崎星梨花はカワイイ。
カワイイので初投稿です。


 ユニット活動が行き詰まっていると相談した時、冬馬さんは「自分が正しいと思うことを貫けば、自ずと結果は付いてくる」と言っていた。

 もっと具体的な解決策を期待していた私にとって、その言葉はひどく見当違い且つ無責任な言葉にしか聴こえなかった。だけど冬馬さんは私みたいな無名アイドルなんかより遥かに実力もキャリアも豊富で、もしかしたらあの発言も今まで幾多のステージを成功させてきた経験値から裏打ちされたモノなのかもしれない––––。

 そんな予感があったからこそ、納得はいかなかったけれど、冬馬さんの言葉を信じてみることにした。そして信じた結果が、これだ。

 堰を切ったようにステージ上で泣き叫ぶ星梨花、ステージ上で蔓延しているのは一切の希望を感じさせない絶望感。自分が正しいと思ったことを貫いた結果、私が辿り着いたのは最悪な結末だった。

 

「うっ、うっ……。本当にごめんなさい……。私が、わたしが……」

「星梨花ちゃんだけの責任じゃないんだから。ほら、泣かないで」

「そうだよ、麗花ちゃんの言う通りだって!」

「でも、でもっ! 私がずっと足を引っ張ってきたから……」

 

 公演二日前、最初で最後のリハーサル。

 ユニット結成時から一度たりとも足並みが揃わないまま、本番と同じステージに立った私たちが披露したのは、今まで何時間もレッスンを費やしてきたとは思えないほどの、お粗末なパフォーマンスだった。

 まるで匙を投げるかのように大きな溜息を吐き、何も言わずに会場を去っていったトレーナー。

 未だかつて見たことのないような険しい表情で、腕組みをしたまま虚空を睨むプロデューサー。

 二人の様子から、私たちは二日後に迫ったバッドエンドをもう回避することはできないのだと悟った。そして、その拍子にステージ上でとうとう星梨花が泣き出してしまったのだ。

 

「本当にごめんなさい、本当にごめんなさい……」

 

 茜さんや麗花さんの言葉には一切耳を傾けず、星梨花はとめどなく涙を流しながらひたすらに謝り続けている。そんな星梨花の様子を、私と静香は何も言えずに、ただただやるせない想いを抱えたまま傍観し続けることしかできなかった。

 ユニットが始動した時から、星梨花の体力不足は課題の一つだった。

 とは言え星梨花はユニット内では最年少、もともと基礎体力に自信がある方ではないことも皆が理解していたことだ。その上で私たちは誰もが、体力不足はレッスンを重ねていけばそれなりに補えるはずだし、何より星梨花自身もどうにかして私たちに追いつこうと自主的に努力も続けていたのだから、いずれ解決するだろう––––と、そんな安易な考えを持っていて、さほど重要視はしていなかった。

 だがそんな楽観的思考は物の見事に裏切られ、星梨花の体力不足の問題は思っていた以上に改善されなかった。いや、正確には改善されなかったと言うより、新たに勃発した問題がその成長を妨げる形になってしまったという方が正しいのかもしれない。

 

「間奏のダンスはもう少しコンパクトにしましょう。そうじゃないと呼吸が合わないわ」

「ちょっと待ちなさいよ! コンパクトにするって、それ本気で言ってるの?」

 

 ある日のレッスン中、私と静香が衝突した。その衝突の根底にあったのは、星梨花の体力不足だった。

 星梨花がどうしても二度目のサビが終わった直後のダンスで息切れをしてしまう。その後全員で歌うCメロが控えているのだが、激しいダンス直後だけに、星梨花だけが呼吸を整えることができずに安定した声を出せなかったのだ。

 この時既にユニットレッスンが始まって既に三週間が経過し、星梨花も一生懸命に頑張っているとはいえ改善の兆しが見えないことには私も少しだけ不安を抱いていた。だが今回の楽曲で間奏の激しいダンスは特徴の一つであり、故にこの部分を妥協してしまうと、必然的に楽曲全体のクオリティはガクッと下がってしまうことになる。ダンスの何度位は極端に上がる部分ではあるが、楽曲のイメージと完成度を踏まえると、安易に妥協なんてことは絶対にしてはいけないことだと考えていた。

 静香もそのことは当然分かっていたはずだ。星梨花だって絶対に妥協してはいけない部分だと理解していたからこそ、どうにかして私たちに付いていけるように日々努力をしていた。それなのに、リーダーが率先して妥協案に走ろうとしたことが、私は納得がいかなかったのだ。

 

「それはあくまで理想論だわ。もう時間もないんだから、今の実力で出来る精一杯を目指すべきよ」

「ふざけないで。クオリティを下げたステージに価値なんてあるわけないじゃない」

「でも今のままじゃ星梨花が––––!」

「星梨花だって努力してるわ。その努力を否定してクオリティを下げようって、失礼だと思わないの?」

「なっ……! そういう話ではないでしょ!?」

 

 星梨花のためにダンスの負担を減らそうとする静香と、星梨花の努力が実ることを信じて今のままやるべきだと主張する私。

 互いに星梨花のことを考えての意見だったはずなのに、今思えば私たちは一番大事なことを見落としてしまっていた。静香も私も、自分の意見が正しいと主張するばかりで、一度も星梨花本人の意見を確認しなかったのだ。

 衝突した日を境に、星梨花のパフォーマンスは目に見えてガクッと落ちた。自分だけが付いていけていないことに対する負い目、そしてそんな自分を巡って口論が起こってしまったことに星梨花は人一倍責任を感じてしまっていたのでないかと思う。だが私たちがそのことに気付いた時にはもう、ユニット内の雰囲気も、星梨花の精神状態も、手の施しようがないほどにボロボロになってしまっていた。

 険悪な空気を改善しようと、慌てて静香が気分転換に全員でご飯に行こうと提案を持ちかけたが、それも私が一蹴してしまった。星梨花のことを考えるのなら、あの時一度でも話し合いの場を設けていればよかったのかもしれない。だけど公演までカウントダウンが始まった中、全く足並みが揃わないことに対する不安と焦りで追い詰められていた当時の私には、そこまで考えれるほどの余裕を持ち合わせていなかったのだ。

 

 誰が星梨花をここまで追い詰めてしまったのか。

 何がここまでユニットを壊してしまったのか。

 

 その原因に心当たりがあるからこそ、私と静香はリハーサルのステージ上で泣きじゃくる星梨花に何も言葉をかけることができなかった。

 

 

 翌日。

 公演を明日に控え、劇場では設営の業者たちによって慌ただしく準備が進められる中、私たち五人の雰囲気はまさにお通夜さながらだった。

 施工業者が入っているため、もうステージでリハーサルをすることはできない。リハーサルどころか、小さなレッスンルームでさえも一度も息が合わなかった私たちは、このまま明日の本番を迎えなければならないことになる。どれだけレッスンをしようと、いくら解決策を練ろうと、可能性なんてモノは欠片も湧いてこなくて、私たちはもうバッドエンドから逃れることはできないのだと思った。

 あの日、冬馬さんは最終的に事態が良い方向に転ぶと言ってくれて、私もその言葉を信じていたけれど、結局静香と私がぶつかり合った結果が、この状況だ。互いの意見が衝突して何かが生まれるどころか、周囲の人たちを巻き込んだ挙句、何もかもを木っ端微塵に壊してしまい、こうして何も形になることなく公演前日を迎えている。今の状況の先に、事態が好転するような何かがあるとは到底思えなかった。

 

 それでもまだ微かに残された奇跡に賭けて、はたまた少しでも明日への不安を和らげたい一心で、私たちは最悪な雰囲気のままでもレッスンを行った。だか当然都合よく噛み合うはずもなくて、相変わらずのまとまりのないクオリティがむしろより一層悲壮感を強めただけだった。

 とうとう今まで空元気にでも雰囲気を和ませようとしていた茜さんは終始口を閉ざすようになり、麗花さんはこれから自分たちに訪れる最悪な結末を淡々と受け入れるかのように諦めの色を表情に浮かべ始めている。星梨花は相変わらず大きな瞳に涙を浮かべていて、私はその世紀末のような雰囲気を、罪悪感と絶望感を抱きながら遠目に傍観し続けていた。

––––もう、このまま明日を迎えるしかない。

 そんな、どうしようもない諦めムードがレッスンルームに蔓延しきって息苦しささえ覚え始めた時。静香が大きく息を吐いて、閉ざしていた口を開いた。

 

「……みんな、一回集まって。提案があるの」

 

 意を決したような静香の声に圧倒されたのか、ほんの少しだけレッスンルームの空気が変わった。

 俯いたまま、重たい足取りで集まった私たちに静香は迷いなく喋り始める。

 

「星梨花、二番のサビが終わった後、もうダンスはやらなくていいわ。私の後ろでずっと立ってるの。分かった?」

「え? で、でも……」

「星梨花が空いたところは志保と茜さんで埋めてください。ほんの少しだけ中央寄りに動くだけで良いですから」

「あ、茜ちゃんは大丈夫だけど……。星梨花はどうなるの?」

「星梨花はコーラスに入って。Cメロは私がソロで歌うわ」

「こ、コーラスですか!?」

 

 突発的に静香の口から飛び出した言葉に、思わず正気を疑った。

 前日になって間奏とCメロの根本的な部分を大幅に変更するなんて、現状より良くなるどころか、かえって混乱を招いて今以上の悪化を促すだけにしか思えなかったのだ。更にコーラスなんて星梨花は一度たりともやったことがないはずなのに、今の精神状態でぶっつけ本番など成功するはずがない。

 何故この期に及んで、リーダーが更にユニットを破壊するような提案をするのか––––。

 

「ちょっと静香! 何勝手なこと言ってるの!?」

 

 咄嗟に私の右手が動いて、無意識に静香の胸倉を掴んでいた。

 だけど静香は私の右手には全く動じず、逆に眉間にシワを寄せた険しい目つきで睨み付けている。そしてまるで私とは張り合うつもりがないと言わんばかりの様子で、あっさりと胸ぐらを掴んでいた右手を振り払った。

 

「志保は黙ってて」

「なっ––––!」

 

 そう言って私をあしらった静香は、私には見向きもせずに話を再開させた。

 

「星梨花はずっとバイオリンをやってきたんだから、ここの誰よりも音感があるわ。音感が優れていればコーラスはある程度できるはずよ」

「で、でも! 私は今までコーラスなんて今まで一度もやったことないのに、やれるかどうかなんて……」

「やれるかやれないかじゃないわ。やらないといけないの。これは星梨花にしかできないことなんだから」

 

 それはお願いすると言うには、あまりにも強引で強制的で、まるで星梨花に有無を言わせないように語気を強めた口調だった。

 唖然とする星梨花の返答を待たず、今度は私たちへとその鋭い眼光を向ける。

 

「三人はダンスを継続してください。ただ私がソロで歌うから、Cメロでは歌わず、ダンスだけをお願いします。四人で歌ってしまうと星梨花のコーラスをかき消してしまうから」

「ソロって、静香ちゃんは大丈夫なの?」

「私は大丈夫です。なので麗花さんたちは私の指示に従って––––」

「……良い加減にしなさいよ。本当に静香は何を考えてるの」

 

 無理やりにでも話を進めようとする静香の言葉を、私が遮った。

 星梨花にコーラスをさせるとか、私たちにCメロを歌うなとか、代わりに自分がソロで歌うとか。

 私たちの意見を全く聴きもせずに、次から次に独断で今までレッスンしてきたものを変更して。いくら今までの私たちが上手くいってなかったにせよ、こんな身勝手な変更が許されるはずがないと思ったのだ。

 もしかしたらこの案に静香なりの意図があるのかもしれない。だけど仮に何かしらの目論見があるのなら、それをちゃんと私たちに説明して、納得させてから変更を行うのが筋というものではないのか。

 それをすっ飛ばして勝手に推し進めるのは、リーダーでもなんでもない。ただの身勝手な独裁者だ。

 

「これはリーダー命令よ」

 

 だけど静香は全く引き下がらなかった。

 その強気な態度が、余計に私の神経を逆撫でる。

 

「意味が分からないわ。リーダーだからって何をしても許されると思ってるの?」

 

 リーダーだって、プロデューサーが決めただけで私たちが直接的に選んだわけではない。

 そもそも、どうして静香がリーダーなのか。そんなことを、ユニット活動が始まってから私は何度も疑問に感じていた。

 確かに静香はシグナルの一員として、私たちより遥かに知名度も人気度も高い。CDの売上枚数だって未来や翼、静香の三人だけは他のメンバーより桁違いで、39プロジェクトの看板アイドルの立ち位置を確固たるものにしているのは事実だ。

 だけどその一方で、静香は事あるごとにプロデューサーに反発するなど、性格だって頑固で意地っ張りで、気難しい一面もある。仲間たちとの協調性だって特別あるわけでもないし、私がこの一年弱の間で見てきた最上静香という人間は、とてもじゃないがリーダーに任命されるような器のある人間には思えなかった。それこそユニット内には最年長の麗花さんや、ムードメーカーとして場をまとめる能力に長けた茜さんだっている。それなのに、どうしてプロデューサーは静香をリーダーに据えたのか––––。その意図が、公演を翌日に控えた今でもなお私は理解できずにいたのだ。

 理解できない、納得できないからこそ、静香の勝手な意見を黙って聴くことができなかった。

 

「はっきり言って、私は静香がリーダーを任せられた理由が分からない」

「ちょっと、しほりん!」

 

 慌てて仲介に入ろうと茜さんが私と静香の間に割り込んできたが、その姿には目も向けずに、私は一直線に静香の瞳を睨み付ける。何を考えているのか、何が目的なのか、必死に探ろうとしたけれど、静香の瞳の中に答えは存在していないような気がして、何一つ理解することができなかった。

 どう考えても人間性を見たら麗花さんや茜さんの方がリーダーに適しているはずなのに、プロデューサーは二人ではなく静香を選んだ。その選考理由が、仮に「静香のアイドルとしての知名度」だったり、「静香の実績作り」、などといったふざけた理由だとしたら––––。たまったもんじゃない。静香の当て馬になるためだけにユニットに選ばれ、そしてステージで踊るなんて、私のちっぽけなプライドが絶対に許さなかった。

 

「貴女の勝手な我が儘に付き合わされて、翻弄されるは御免だわ」

「志保、私の指示に従って」

「どうして認めてもいないリーダーの指示に従わないといけないの?」

「志保は納得してないのかもしれないけど、このユニットのリーダーは私よ」

 

 リーダー、リーダーって。

 まるで自分の立場を棚に上げるような静香の言い草が、私の逆鱗に触れた。

 毎週のように忙しく仕事が貰えて、色んな人に応援されながら様々な仕事に挑戦できて––––。そんな静香にとっては、明日の公演は数ある仕事の中の一つなのかもしれない。

 だけど静香のように仕事を貰えていない私たちにとっては、明日の公演はまたとないチャンスなのだ。ここで成功させることができれば、もしかしたら今後の仕事に繋がるかもしれない。その一方でしくじれば最後、次に繋がるどころか、その“次”が二度と訪れない可能性だってある。

 そんな絶好の機会を、リーダーとして認めることのできない静香の身勝手な行動で、潰されることだけは納得できなかった。静香の血迷った采配でダメになるくらいなら、いっそのこと今のまま玉砕した方が私にとっては何倍もマシだ。

 そんな静香への嫉妬心が胸の中で煮え滾っていた感情に火を灯し、あっという間に我慢の限界点を超えていってしまった。

 

「ふざけないでよっ! これでもしステージがめちゃくちゃになったら静香が責任とってくれるの!?」

「めちゃくちゃになんか、私が絶対にさせない!」

「無責任なことばっか言わないで! 責任も取れないのに好き勝手言って、何がリーダーよ!」

「そこまで言うのなら分かったわよ!!」

 

 私の声に無理やり被せるような、荒ぶった静香の声。

 その声がレッスンルームに響き渡り、何度かこだました後、シンと静まりかえった中で静香は私の眼を真っ直ぐに見つめたまま、ゆっくりと瞬きをした。

 

「……これでもし明日のステージがダメになったら、私が責任をとってアイドルを辞めるから。それで良いでしょ?」

 

 だから私の言う通りに従って。

 そう口にした静香の瞳は真剣さながらだった。言葉通りの覚悟が宿ったその瞳に私は強引に捻じ伏せられてしまったような気がして、何も言葉を言い返せなかった。

 

 それから何度か急ピッチで新たなフォーメーションを組んでレッスンを行なったが、最後までおぼつかない私たちの声と動きが一つに交わることはなかった。無言のまま解散し、家に帰ると何も食べずに自室に直行した。とてもじゃないが、今の精神状態で食事が喉を通る気がしなかったのだ。

 明日、私たちを待っているのはとんでもなく酷いステージだろう。

 ガラガラの定例ライブとは違って、青葉さんからは明日の公演のチケットは全て完売しているのだと聴いている。明日劇場を訪れる多くのお客さんの中には、きっと仕事関係の人たちも紛れているはずで、もしかしたら明日のステージ次第では停滞していた私の夢へと道が切り開ける可能性だって少なからずあったかもしれない。

 だけど、今の状況でそんな希望を抱けるはずもなくて。

 私は不安と恐怖を胸に抱えこんで怯えたまま、長い長い夜を越えて公演当日を迎えた。

 

 

 しかし、『現実は小説より奇なり』、とはよく言ったもので、絶望感だけを持って挑んだこの公演後、私の人生は思わぬ方向へと舵を切ることになる。

 そしてこの長い一日が私の今後の人生を大きく変えただけではなく、後に訪れる冬馬さんとの別れの序章だったことも、当然この時の私は知る由もなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



志保に訪れる思いがけない転機。
ここから物語はラストまで、一気に加速して行きます。
けど更新頻度は多分加速しないので初投稿です。


 志保が予め手配してくれたチケットを握り締め、劇場にやってきた俺が目にしたのは思いも寄らない光景だった。

 物販コーナーでは数え切れないほどの人たちが長蛇の列を作り上げており、レジから遠く離れた列最後尾では「二時間待ち」と書かれた札をスタッフが誇らしげに掲げていて、その隣のチケット売り場ではどうにかして当日券を購入できないかと、ダメ元で訪れたお客さんが売り場のスタッフに問いかけては残念そうに肩を落として引き返していく姿が、繰り返し見受けられる。

 すごい光景だ。

 志保が初めてステージを踏んだ定例ライブ、その時に披露した『ライアー・ルージュ』のCD販売会など、俺は今までに劇場で開催されたイベントに二度足を運んだことがある。だが定例ライブでは至る所で空席が目立ち、CD販売会も田中さんの列以外は殆ど待機列ができないくらいで、正直アイドルのイベントとしては決して盛り上がっているとは言い難いほどだった。

 だが、そんな今までの閑古鳥が鳴いているような風景が今日は一変。

 辺り一帯は隙間なくびっしりと敷き詰められた大勢の人でごった返しとなっており、凄まじい熱気と興奮が劇場を取り囲んでいる。そこには俺が今までに感じていた、まるで近くの海の波音が聴こえてきそうなほどに閑散としていた劇場の面影は微塵も存在していなかった。

 間違いなく、今日のユニット公演は39プロジェクトの今後を占う大事な分岐点になるはずだ。周囲を取り囲むのぼり旗の数を見ても、765プロの今日のライブに懸ける並々ならぬ意気込みが感じられる。

 その大きな期待が、どうか志保にとって重荷になりませんように––––。

 俺はそんなこと密かに願いながら、人混みに紛れて劇場の門を潜り抜け、既に半数以上の席が埋まっているライブホールの後方で開演を待ち続けていた。

 開演までの間、暇つぶしの一環として入場口で貰ったパンフレットに目を通してみる。だが冊子の最後のページまで捲ってみても、志保に関する記事は隅に追いやられるように記載された簡単なプロフィールだけで、大半はシグナルの三人の写真や簡易なインタビューばかり。期待していた以上の暇つぶしにはならなかった。

 

「ねぇ、お隣いいかしら」

 

 あっさりと最後のページにまで行きついてしまったパンフレットを閉じた時、周囲の喧騒の中から綺麗な女性の声を俺の耳が拾った。咄嗟に顔を上げると、艶感が際立つ黒髪のボブヘアーの女性が隣で俺を見下ろしながら、隣の空席を指差している。

 その口調や佇まいは記憶のイメージから随分とかけ離れているような気がしたけれど、それでも俺はこの女性の姿に見覚えがあった。

 

「お前、もしかして博多座の時の……」

「あら、私のこと覚えててくれてたのね。光栄だわ」

 

 天ヶ瀬冬馬さん––––。

 不適な笑みを浮かべながら、耳元で俺の名前を囁くように呼ぶ。彼女の吐息が耳に触れて、身体全体が無意識に動揺したのが伝わったのか、女性はしてやったりの表情で返答を待たずに隣の席に静かに腰を下ろした。

 博多座で志保と話をしている姿を遠目から眺めていた時は表情が実に多彩で、考えている事がすぐ顔に出る素直な人間のようにも見えたのに、どうやらアレは役者の演技だったのかもしれない。今はあの時とは別人のように落ち着き払っていて、端正で大人びた顔つきと一切胸の内を相手に読ませないようなミステリアスな雰囲気が、掴み所を分からなくしていた。

 

「それで、なんでお前は俺のことを知ってんだよ」

 

 内心妙にかき乱されているような感覚がして、少しでも平静を装おうとして咄嗟に質問をぶつけてみたものの、なんでもないといった顔であっさりと打ち返されてしまった。

 

「なんでって、貴方の彼女に聞いたのよ」

「なっ––––っ!」

「志保も全く同じようなリアクションをしていたわ。貴方たちは似た者同士なのね」

 

 俺の名前だけではなく志保との関係も既に知っていたらしい。驚いてどもる俺を見て、相手は上品に口元に手を当てながら得意げに笑っている。

 ……コイツ、絶対小悪魔だ。

 常に一手先を持ち合わせているかのような余裕ぶりを見て、今後コイツと真面目に張り合うのは止めようと深く心に刻んでおくことにした。

 

「遅れたけど、私は速水奏よ。奏って呼んでいいから」

「いや、なんかそういうの遠慮すんだよな。速水でいいだろ」

「……驚いたわ。見かけに寄らず、女慣れしてないのね」

「ちっ、うるせーよ!」

 

 暫くの間、悪そびれる様子もなくケラケラと笑った後、速水は開演までの僅かな間でGWに収録が行われたアイドル番組の現場で志保と偶然鉢合わせしたことを教えてくれた。その際に少し話をしたそうで、速水もまた志保のことが気になって今日のライブに足を運んできたらしい。

 

「––––可哀想な子ね」

 

 いつの間にか満員になっていたライブホールの照明がゆっくりと落ちていって、ドッと歓声がわき起こる。人々が席から立ち上がり、地響きのような歓声が物凄いスピードで会場のボルテージを上げていく中、速水は取り残されたように座ったまま、誰もいないステージを見つめたままそう呟いた。

 

「今日やってきたお客さんの中に、志保の姿を目に留める人はどれだけいるのかしら」

 

 いよいよ完全に照明が落ちきって、真っ暗になったライブホールではピンク、ブルー、ピンクの三色“だけ”のペンライトが光り輝き始めた。その三色の灯りが作り出すイルミネーションは非情な現実を突き付けているようで、とてもじゃないが俺はそれを綺麗だとは思えなかった。

 

「……さぁな」

 

 適当に相槌を返す。速水はそれ以上は何も言わず、憐憫の眼差しをステージに向け続けていた。

 俺も速水も気付いていた。

 ユニット公演と謳いながらも、今日のライブの主役はユニットではなく春日未来、最上静香、伊吹翼の三人であって、志保をも含むその他のアイドルたちは所詮ただの“エキストラ”に過ぎないことを。

 だが勝負の世界である以上、勝者と敗者がはっきりと別れてしまうのは致し方のないことだ。むしろエキストラから這い上がるためにはこういう時こそ真の強さが問われるもので、例え誰からも関心を持たれていないにせよ、誰かの目に留まることを信じて前向きに頑張り続けないといけない。志保だってきっとそのことは理解しているはずだし、何しろあの負けず嫌いな性格だ、このような逆境にこそ燃え上がるような人間だと思っていた。

 そう思っていたからこそ、胸に引っかかるモノがあった。

 

『今回は多分……、というか本当に惨事になると思います』

 

 一昨日、電話で少し話をした時にそう言っていた志保の口ぶりからは、前向きな強さが微塵も感じられなかったのだ。

 一週間前に高台の公園で会った時、志保は最上静香と衝突したことを打ち明けた。ユニットレッスンで足並みが全く揃わないことに焦りを感じている中で、メンバー全員で食事に行こうと提案した最上静香の神経が理解できない。そんなことをしている暇があるのなら少しでもレッスンをするべきだと主張したことで対立し、雰囲気を悪くしてしまったのだと。そういった経緯を志保は俺に話してくれた。

 その話を聞いて、俺は結果的に事態は良い方向に転がって丸くなるだろうと思い、深くは捉えていなかった。

 志保も最上静香も、互いにユニットのことを第一に考えているのだから、過程は違えど目的地は同じのはず。ユニットライブを良い雰囲気で成功させたい––––、そう願う気持ちが同じ方向を向いているからこそ、例え衝突したとしてもそこから道ができて、一つになるはずなのだと。

 志保より少しだけ長いアイドルの世界での経験から、俺は志保にそこまで気にする必要はないと言葉をかけた。あの時の言葉は気休めなんかじゃなかったはずだ。

 

 だけど実際問題、状況は少しも改善されないどころか恐らく悪化の一途を辿っている。

 互いにユニットのことを考えているはずなのに状況は一向によくならない。この時になってどうにも俺は志保の話を少し勘違いしていたのかもしれないと思うようになった。互いにユニットのことを考えて……、と勝手に解釈していたが、もしかしたら二人が揉めている理由や原因はもっと根深いもので、俺は問題の本質を見誤っていたのかもしれないのだと。

 

「さぁ、始まるわよ」

 

 速水の抑揚のない澄んだ声で、我に返った。

 いつの間にかステージ上には既に青を基調とする衣装を身にまとった五人の姿があり、センターに立つ最上静香のから見て一番右端に志保の姿がある。俺の瞳に映るスポットライトに当てられたその顔は、心なしか不安げな様にも映った。

 だが周囲の人たちはそんな志保の表情に気が付くこともなく、小さなライブホールは期待を興奮が入り混じった歓声が重なり合い、地鳴りとなって大きく揺れ動いている。悲しい哉、この会場内で志保の姿を見ているのは俺と速水しかいなかったのだ。

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 『天才』。

 それは恐らくこの世に存在する幾千幾多の人種の中で、私が最も嫌う人種である。

 天才は非情だ。どれだけ凡人が最大限の努力を積み重ねて達成した最小限の結果を出したところで、天才は最小限の努力で最大限の結果を出すことができるのだから。効率的なんて話じゃない、もはや根本的な構造が違っていて、天才には凡人のセオリーが一切通用しないのだ。

 そして残念なことに、アイドル『北沢志保』は天才ではなかった。

 実力と才能に秀でた猛者で溢れるこの業界に身を置き始めて早一年、その事実に気が付くのにそう時間は要さなかった。

 天才が一日でできることを、私は一週間かけないとできるようにはなれない。だから私にはがむしゃらに努力をすることしかできなかったのだけれど、その努力をしてる間にも当然天才たちも努力を重ねているのだから、いつまで経っても追いつくことはできない。追いつくどころか、そもそもの速度が違うために次第に距離が離れていく一方なのだ。

 例えるなら自転車とスポーツカーでレースをするようなものだろうか。

 極端な例えだと思う人がいるかもしれないけど、私からすればそれくらい、天才と凡人の差はあるのだと感じていた。

 だけどその一方で、私は心のどこかで自転車でスポーツカーを追い抜かすことができるのではないかと淡い期待も抱いていたのだと思う。

 もしかしたら信号でスポーツカーが停車するかもしれないし、交通事故や渋滞などのアクシデントで足止めを食らう可能性だってあるかもしれない。給油でガソリンスタンドに寄る時間も必要なはずだ。そういったスポーツカーが立ち止まっている間にも休まずに自転車を漕ぎ続けて行けば、いつの日か追い抜くことだって不可能じゃないはず––––。

 その一心で、私はめげずにせこせこと今日まで自転車を漕ぎ続けた。そして現実を突きつけられた。

 

「モガミン、サイコーだったよ!」

「静香ちゃん、本当に凄かったわ。よくあれだけのダンスの後で声が出たわね」

「本当に成功して良かったです……。これも静香さんのおかげです」

 

 あり得ない。

 こんなこと、信じられるはずがなかった。

 ライブが終わり、舞台袖に帰ってきた私の頭に浮かんだのはそんな暗雲のような疑問だった。

 本番のステージはあくまでレッスンの延長線上である。レッスンで出来なかったことがいきなり本番で成功するはずがなかった。

 

「いいえ、これは皆のおかげよ。私の急な変更に対応してくれてありがとう。おかげで何とか成功させることができたわ」

 

 だけどライブは成功した。

 ライブ前日に突然大幅な変更を提案した静香の思惑通りに事が進み、今まで一度も揃わなかった私たちの足並みが本番のステージで初めて揃ったのだ。懸念されていた間奏後の星梨花のコーラスも、静香のソロも、全てが違和感なく繋がって、当初の目的通り楽曲のクオリティを一切下げる事なく完成させて見せた。

 あれほどまでに壊滅的だったユニットライブが奇跡的に成功した––––。

 嬉しいはずなのに、何故か納得がいかなくて、煙るようにモヤモヤが胸の中で沸き続けている。そのジレンマが、私を安易に喜ばしてはくれなかった。

 

「志保もありがとう。最高とは言えないかもしれないけど、悪くないステージだったと思うわ」

「え? あ……、うん。そうね、静香もお疲れ様」

 

 ほっとした様に安堵の笑みを浮かべる静香にそう返した後、暫くライブの余韻に浸るメンバーたちを少し離れたところから眺めて、私はその場を去った。何故か素直に喜べない自分がその場にいるとすごく違和感があるような気がしたのだ。

 他のユニットがステージに上がったのか、ライブホールの防音壁を突き破った歓声が廊下にまで聴こえてくる。着替えと得体の知れないモヤモヤを抱えたままシャワー室へ向かうその道中で、すれ違った一人の男性に声をかけられた。

 

「北沢くん。お疲れ様」

「あ……、善澤さん。お疲れ様です」

 

 善澤さんはよく765プロに出入りしている芸能記者の人だった。

 なんでも芸能界隈ではかなり有名な人のようで、この人が取材した新人アイドルは瞬く間に売れていくという根もないジンクスが生まれるほどの凄腕の記者の人らしい。だが善澤さんは頻繁に765プロにやってきてはたびたび私たちの前に顔を見せてはいるものの、今までに765ASの先輩たち以外の記事を書いたことは一度もなかった。それは、きっと私たちがまだ善澤さんの眼鏡にかなうアイドルになれていないからだと思う。

 

「今日のライブは実に良かったね。楽しませてもらったよ」

「そんな、勿体ないお言葉です」

「ははは、相変わらず北沢くんは言葉遣いが堅いな」

 

 親しみのこもった表情で笑う。

 そしていつも被っているハンチング帽のプリムの部分をクイっと人差し指で上げ、いつもと変わらない優しい声で私に尋ねた。

 

「ところで、最上くんは何処にいるか分かるかい?」

「え、静香ですか?」

「あぁ、いきなりで悪いけど、さっきのライブを見て彼女の記事を書かせて貰いたいって思ってね。もちろんプロデューサーには許可をもらったよ」

 

 善澤さんが静香の記事を書こうとしている––––。

 その事が何を意味しているのか、私はすぐに理解する事ができた。そして胸の中で渦巻いていた煙の正体が、静香に対する劣等感や敗北感だったことを、この時になって私は気付かされた。

 

「……まだ舞台袖にいると思います」

「そうか。ありがとう」

 

 ぐっと拳を握り締めたのを気付かれない様に、正直に静香の場所を教えて私は善澤さんと別れた。

 重い足取りでシャワー室へ向かい、蛇口を捻ってお湯を頭から被る。だけどそれでも一向に鉛の様に重くなった身体全体の疲労が取れなくて、ライブ後の疲れだけではなく心身共に疲れ果てていることを証明している様だった。

 

 静香は、天才だったんだ––––。

 

 確かに静香は私より知名度も人気もあるし、39プロジェクトの看板的立ち位置のアイドルだ。だけど私との差は誤差のようなもので、それは決して追い付かない差ではないと思っていた。

 だけど、それは私の願望だったのかもしれない。

 最上静香は天才で、北沢志保は凡人。今日のライブの成功が、その事実を私にまじまじと突きつけていた。

 前代未聞の大博打にも思えた大幅なフォーメーションの変更、結局それを成功に導いたのは静香の実力以外の何者でもなかった。逆に静香があの時にこの代打案を出さなければ、もし私の主張通りに本来のままライブに挑んでいたら––––、間違いなく全員が思っていた通りのバッドエンドが何のひねりもなく訪れていたはずだ。

 そしてその静香の才能の片鱗に目をつけた善澤さんが、既に動き出している。

 きっと今日のライブをキッカケに、静香は今よりも更にアクセスを踏んで猛スピードで駆け上がっていくのだろう。だけどこの世界に身を置き続ける以上、その背中を私は必死に自転車で追いかけ続ければならない。何年後、何十年後に追いついて追い越せると、根拠もないのに無理やりにでも言い聞かせながら。

 

「…………無理だ」

 

 とてもじゃないが静香に追いつける気がしなかった。

 そして、そんな不可能に近いレースをこの先ずっと続けていかなければならないと思うと、鬱になりそうだ。

 この時、私はこうやって大勢の人は夢を諦めていくのだろうと悟った。

 努力だけじゃどうにもならない壁を知って、そしてその無謀な挑戦を続けることに疲れ果てて、人は大事な夢を放ってしまうのだ。

 夢を諦める、そう言ってしまえば聴こえは悪いかも知れないけど、実際は自転車でスポーツカーに勝とうなんざどだい無理な話なのだから、そんな不利な舞台で無謀な戦いをするくらいなら、自分がスポーツカーになれる舞台を見つけてそこで戦った方が遥かに効率的な生き方な気がする。むしろ可能性がないと分かっていながらも自転車でスポーツカーを追い続ける方が、よっぽど効率の悪い生き方なはずだ。

 だとしたら私は––––……、

 

「……結局、私は間違っていたのかな」

 

 一日だって頭の片隅から消えない、あの暑い夏の日の記憶。

 苦い経験を味わい、そして自分が何者でもないことを突きつけられたあの日と同じ自問自答を、もう一度してみた。

 偉大な先輩にタテついて、納得がいかないままステージに立って、そして自分が間違っていたことを突きつけられたアリーナライブ。

 自分が正しいとばかり決めつけて、そして信じて対立して、結果実力でねじ伏せられる。この全てを否定されたような敗北感は、あの時と全く同じだ。

 

 私は、一年間何をしてきたのだろう。 

 

 この一年もの月日をかけてアイドルをやってきても、あの頃から変われていないことに気が付いた。正しいと思うことを見極める力も、そして自分の意見を貫き通せる実力も、一年前から何に一つ身についちゃいない。

 間違っていたか間違っていなかったでは言えば、その答えは誰に聞くまでもないほどに明白だった。あの時の春香さんも、そして今日の静香も、私の意見を押し除けた二人の思う通りに事は進み、ライブは成功したのだから。

 その事実を理解しているはずなのに、だけど受け入れられなくて、私はこうして異様までの敗北感と劣等感に押し潰される様に胸を痛めている。そんな自分が滑稽で仕方がない。あの日から一歩も前に進めていないことが悔しくて、歯痒くて、ただただ虚しかった。

 暫くの間、私はただただ降り頻る雨に打たれる様にして無心のままシャワーを浴び続けた。いつになく、シャワーの水圧が強く感じられた。

 

 

 

「あぁ、志保。こんなとこにいたのか」

 

 シャワー浴び終えて髪が半乾きのまま楽屋に戻ると、無人だと思っていた楽屋にはプロデューサーの姿があった。

 まだライブは続いているのはずなのに、現場そっちのけでプロデューサーはこんなところで何をしているのだろう。そんな疑問が浮かんだが、私を見つけたプロデューサーのその口ぶりから、どうやら私を探していたのだと気付くことができた。

 

「どうしたんですか?」

「志保にお客さんが来てるんだ。ちょっと付いてきてもらっていいか?」

 

 問いかけたはずなのに、プロデューサーは私の返答を聞かずに急ぎ足で楽屋を出た。慌ててその背中を追う途中で、「まだ髪を乾かしてないんですけど」と言葉をかけてみたけど、「大丈夫だから」とプロデューサーは返すだけでその足を止めなかった。

 プロデューサーが大丈夫とかじゃなくて、私が嫌なんだって。適当にも聞こえた返事に思わずムッとしたが、今の気分ではプロデューサーと張り合う気にもなれず、私は些細な抵抗として黙り込むことしか出来なかった。

 そんなことより、気になるのは私宛に来たお客さんのことだ。

 真っ先に思い浮かんだのは母の姿だったが、今日は確か仕事がだったはず。その仕事が実は嘘で、こっそりライブを観に来ていた……なんて可能性もなくはなかったが、仮にそうだとしても自分の母がプロデューサーを通してまで私に会いたがる理由が思い付かなかった。

 冬馬さんも同じだ。今日のライブは私が招待してるからこの会場に来ているはずだが、だからと言ってわざわざ劇場の中にまでやってくる目的はないだろう。

 だとしたら一体誰が来ているのだろう。

 全く見当が付かなかった。

 

「すみません、お待たせしました!」

 

 関係者控室の紙が貼られた部屋のドアを二度ノックして、すぐさまプロデューサーがドアを開ける。プロデューサーの背中から覗き込むようにして部屋の中を確認してみると、手前にはいつもと変わらないネクタイをキッチリと絞めた社長がいて、その隣では青葉さんが腰を下ろしてお菓子を頬張っている。駆け足気味だったプロデューサーの足取りとは裏腹に、部屋の中に広がっていたのは普段からよく見るような穏やかな風景だ。

 

「おっそい! 高木社長も美咲ちゃんも忙しい中ずっと待ってくれてんのよ?」

 

 聴いたことのない女性の声が響いて、この部屋に社長と青葉さん以外にも人がいたことに気が付いた。ふと部屋の隅に目を向けると、そこには綺麗な金髪の髪を巻いたスーツ姿の女性が、長い足を組んで私たちの方をジッと見つめている。

 パッと見た感じは三十代ほどだろうか。派手な髪色と強気な化粧の印象が邪魔をして具体的な年齢は予想がつかなかったが、その風貌からは決して若作り感は伺えない。

 仕事関係の人かもしれない。だけどその顔に私は見覚えはなかった。

 

「す、すみません……。急いではいたんですけど」

「一々言い訳するとこも変わってないのね。カッコ悪いからやめなさいって何回も注意したでしょ?」

「ははは、すみません……」

 

 ペコペコと頭を下げるプロデューサーの姿を見て、えらい言われようだなと思う。だけど女性とプロデューサーのやり取りを社長と青葉さんは微笑ましい眼で見守っていて、女性の言葉にもセリフほどの嫌味は感じられなかった。

 もしかしたらこれがこの人たちなりのコミュケーションの取り方なのかもしれない。そして、この女性と765プロの人間たちの関係がこういったコミュニケーションを撮れるほど深いということも私は何となく察することができた。

 

「志保、この人はゴールドプロダクションの金田社長。簡単に言うと俺の元上司だ」

「元上司、ですか?」

「そう。そこのポンコツが765に来る前はウチで働いてたの」

 

 あぁ、そういうことか。

 確か昔にプロデューサーはここに来る前に違う事務所でアイドルをプロデュースしていたと聴いたことがある。その事務所が、この金田社長のゴールドプロダクションだったらしい。

 どうりでやけに親しく話しているわけだなと思った。

 それに加えてプロデューサーは常々765プロとゴールドプロダクションは繋がりが深く、従業員の異動などはこれまでに何度もあったのだと教えてくれた。

 

「北沢志保ちゃんね、初めてまして。ゴールドプロダクションの金田よ」

「あっ、はい。よろしくお願いします」

 

 会釈をして差し出された名刺を受け取った時、金田社長の名刺の下に書かれた住所が目に付いた。 

 福岡県福岡市博多区……、てっきり東京の事務所かと思っていたが、偶然にも春に冬馬さんと一緒に訪れた博多に事務所を構えているらしい。

 だとしたら今日はわざわざ福岡から東京までやってきたのだろうか。そう思った矢先、金田社長はまるで私の胸の内を見透かしていたように口を開いた。

 

「今日は貴女に会うためだけにここまで来たの」

「……私のためだけ、ですか?」

「そうよ」

 

 相槌を挟んで、バッチリと整えられたメイクの奥に潜む鋭い眼光を、一瞬だけプロデューサーの方へと向けた。まるで何かの最終確認するかのような視線を受け、プロデューサーは小さく首を縦に振る。その様子を確認して、金田社長が視線を私へと戻した。

 

「志保は演劇のお仕事に興味があるって聴いたんだけど、それは本当?」

「え? ま、まぁ、そうですけど……」

 

 何を言われるかと思いきや、金田社長が私に訊いたのは脈絡のない質問だ。

 だけど金田社長は私の返事を聴いて納得した様で、「それなら良かったわ」と安心したように独り言を口にした。

 

「ゴールドプロダクションはここと同じアイドル事務所でもあるんだけど、舞台や演劇の仕事が中心で最近では自社で制作などもしてるの」

「制作ですか?」

「えぇ、簡単に言うと舞台の仕事を一から企画して行うってことね」

「なるほど……」

 

 端的で分かりやすい説明のおかげですぐに理解する事ができた。その一方だからなんだというのが私の率直な感想で、未だにどうして金田社長がわざわざ私に会うためだけに東京までやってきたかは理解できないままだった。

 仕事の紹介ならプロデューサーを通してオーディションに誘うのが普通だし、間違っても今までのオーディションで全敗を喫している私単体に対するオファーなんてことも考えにくい。そもそも私と会うためだけなら、社長や青葉さんもわざわざこの場に居合わせる必要もないはずだ。

 考えれば考えるほどこの状況が不自然に思えてくる。

 様々な思考を張り巡らせる間に、ふと金田社長と視線が交錯した。

 

「……志保、私がどうして貴女に会いにきたのか分からないって顔をしてるわね」

「––––なっ!?」

 

 またもや私の図星を突いた金田社長は「やっぱり」と言って不適に笑うと、腰に手を当てながら数歩、私の方へと歩み寄った。

 コツコツと、高価そうなピンヒールの床を歩く音が部屋中に響き渡る。そしてその足を止めると少しだけ腰を曲げて、金田社長は視線を私と合わせた。

 

「今日は志保をスカウトするために来たの。中学を卒業したらすぐ、福岡で私と一緒に夢を追う気はない?」

 

 カチッ。

 アイドルを初めてからのずっと止まっていた私の時間が一歩を踏み出したかのように、静寂に包まれた部屋には、掛け時計の分針が進む音が響いた。

 




ゴールドプロダクションは漫画『Jupiter』に登場する、冬馬たちが961プロを退社して移籍した事務所です。
ですが二次創作なので色々と設定は都合よく改変してます。
この漫画くっそ面白から、みんな見とけよ見とけよ〜(唐突なステマ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



真壁瑞希とミリパチ打ちに行く夢見たので初投稿です。


 五人の動きや声が、明らかに噛み合って居ない。

 ライブが始まってすぐ、俺は志保がずっと懸念していた問題に気が付く事ができた。

 決して誰かがダンスを乱しているわけでもないし、誰かが音程を外しまくっているわけでもない。だが要所要所で目に付く誤差のような僅かなズレが重なっていって、隠し切れないほどの違和感を発生させてしまっている。簡潔に言ってしまえば、ユニット楽曲のはずなのに、各自がそれぞれ自分を表現するソロ楽曲のように歌ってしまっているのだ。

 そのバラバラになってしまったユニットの中でただ一人、志保だけはどうにか周囲に合わせようとしているように見えた。だけど周囲に気を遣いすぎるあまり、自身の動きが全く安定していない。動きがダイナミックになったかと思いきや途端に小さくなったり、歌声も重なるメンバーによって声量にバラ付きが見えて、それ故に志保のアンバランスなパフォーマンスが悪い意味で一番目立ってしまっていた。

 メンバー同士の呼吸もバラバラ、志保自身のパフォーマンスもかなり不安定、細かいところまで目を向ければ、クレシェンドブルーのステージは志保が話していたようにかなり酷い有様だ。だが会場はそんな低調なステージに盛り下がるどころか、次第にボルテージが上がっていくばかり。

 どうしてこんなにも酷いクオリティなのに会場は盛り上がっているのか––––。

 その摩訶不思議な現象の理由にも、俺はすぐに気が付く事ができた。

 

 今日のライブに来ている人の殆どが“シグナルの三人”が目当てだったのだ。

 

 その人たちからすれば、知名度のない他の四人には全く関心がなくて、正直なところ居てもいなくても変わらない存在に過ぎなかったのだろう。

 最上静香単体が注目を集めすぎるあまり、ステージ上で明るみになっているクレシェンドブルーの綻びだらけのパフォーマンスに、誰も目を向けていない。皮肉なことにもどれだけ志保のパフォーマンスが落ちようと、五人の足並みが揃わなかろうと、結局のところ誰も見ていないが為に誰にも気付かれていないのだ。

 

(……さすがにこれはあんまりだぜ)

 

 それはあまりにも非情で、あまりにも虚しいステージだった。

 スポットライトに照らされる志保の横顔は、やはり影が深くて、ライブ途中にも関わらず自身にもユニット全体のパフォーマンスにも納得がいっていないといった表情を映し出している。

 だけどその葛藤に、俺と速水以外の人たちは気付いていない。要は、志保や他のメンバーの調子が良かろうと悪かろうと、お客さんの視界に入っていない以上、このライブの価値に一切影響を及ぼすことはないのだ。

 そして中途半端なまま続いたライブ終盤、志保と最上静香の決定的な“差”を見せつけられた場面が訪れた。

 二度目のサビが終わって間奏に入り、ステージ上ではアイドルたちがテンポの速いダンスを繰り広げる中、最年少の箱崎星梨花一人だけは最後尾で立ち尽くしたまま、コーラスとして伸びのある声をダンスに被せ始めた。そして程なくして、センターの最上静香が箱崎星梨花のコーラスをまるで追い風にするかのように、とてつもない声量でCメロを歌い上げたのだ。

 その瞬間、会場の雰囲気がガラッと変わったのを肌で感じた。

 最上静香の歌声に呼応し、会場のボリュームが臨界点を突破していく。圧倒的な声量とパフォーマンスが架け橋となって湧き上がる観客席と五人が立つステージとが重なり合い、その一体感に導かれる様にして、そこから突入した楽曲の最後のサビで、クレシェンドブルーの五人の足並みが初めて揃った。

 結果としてクレシェンドブルーの五人のライブは、入場時にもらったパンフレットに書かれていた、『それぞれの個性がぶつかり合いながらも、同じの煌めきを追いかけていく力強いユニット楽曲』という紹介文に沿るような形で幕を閉じた。そのことに気付いてるかどうかは分からないが、楽曲が終わった瞬間に小さなライブホールは五人(と言っても実質最上静香一人だが)を称える大歓声で揺れ動いていた。

 

「……思ってたよりやるのね、あの子」

 

 さすがに速水もこの急展開には驚きを隠せなかったらしい。もちろん、その主語は志保のことではなく、最上静香のことなんだろうけど。

 最初から終盤まで、五人の足並みは一切揃わなかった。そんなバラバラの五人を最後の最後で一つにまとめたのは、紛れもなく最上静香のカリスマ性だ。言うなれば、最上静香の歌声が、突出した実力が、全く別の方向を向いていた四人を強引に振り向かせたのだ。

 

「確かにな。アイツは本物かもしれない」

 

 ––––最上静香。

 既に彼女は頭ひとつどころか、二つも三つもズバ抜けている感がある。そのポテンシャルの高さをいかんなく発揮した今日のステージで、俺はとてつもない才能の片鱗を垣間見た気がした。

 伊達に如月千早の再来と謳われるだけあって、正直なところもうそこらへんのアイドルでは太刀打ちできるレベルじゃないようにさえ思える。申し訳ないが志保や他の三人とは贔屓目抜きでもその差は圧倒的だった。

 

「……なぁ、志保のことはどう思う?」

 

 自分でそう尋ねながらも、今日の志保の出来なんて、わざわざ訊くまでもないと思った。

 周囲の影響を受け過ぎていて、終始不安定なパフォーマンス、誰が見ても決して褒められた内容ではなかったというのが普通の評価だろう。

 だけどそう分かっていながらも尋ねたのは、もしかしたら速水は俺の視点とは違う角度から志保を見ていたような気がしたからだ。それは、その視線が俺が見落としていた何かしらの可能性に気付いていて、少しでも志保の今後に繋がるようなアドバイスが聴けたら……なんていう、俺の勝手な願望だったかもしれない。

 ともかく、俺は今日のライブで志保に何か一つでも可能性を掴んで欲しかったのだと思う。

 ただ最上静香との差を痛感させられた、だけで終わらせて欲しくなかったのだ。

 

「––––そうね。私には志保がなんだか迷ってるように見えたわ」

 

 少しの間を置いて、速水は今日の志保のステージをそう表した。

 迷ってる……、か。

 確かに速水の言うとおり、今日の志保は周りに気を取られすぎる場面ばかりが目立って、終始窮屈そうにしていた。その様子が速水の瞳には『迷っている』ように見えたのかもしれない。

 だが「確かにな」と、俺が相槌を打つと、いつの間にかステージではなく俺の方に視線を向けていた速水がゆっくりと首を横に振って否定した。

 

「私が言ってるのはそういうことじゃなくて」

 

 そして少しだけ言葉を探す様に虚空を眺めて、速水は自身が口にした『迷っている』の意味を噛み砕いてくれた。

 

「もっと根本的な部分で迷っている様に見えたの」

 

 根本的な部分……?

 

「根本的な部分って、なんだよ」

「さぁ、それは私にも分からないわ」

 

 速水も本当に分からなかったのか、それ以上は教えてくれなかった。暫く退屈そうに最上静香のMCを聴いて、クレシェンドブルーの五人が舞台袖に捌けると最後にもう一度だけステージの方を一瞥して席を立った。まさかと思いつつ、「もう帰るのか」と尋ねると、至極当然の様に「そうだけど」と返されてしまった。どうやら今日は本当に志保の様子を見に来ただけで、他のアイドルたちには一切興味がなかったらしい。

 その帰り間際、速水から綺麗に二つ折りにされたA4サイズの用紙を渡された。

 

「これ、良かったら志保に渡してくれないかしら」

 

 咄嗟に受け取ったチラシの一番目立つ場所には、「あいくるしい オーディション」と書かれている。

 何かの案内みたいだが、薄暗い会場の中では小さい文字までは見えなかった。

 

「別に良いけど、なんだよこれ」

「今度私の事務所で制作されるドラマのオーディションよ。外部からもキャストを募ってるみたいだから、志保のプロデューサーと相談して許可が降りれば受けに来なさいって、そう伝えといてね」

「あぁ、そういうことか」

 

 もしかしたら志保が演劇に興味があると聴いて、速水なりに気を遣ってくれたのかもしれない。

 この場にはいない志保に代わって、俺が「ありがとな」と伝えると、速水は少しだけ困ったように、「どういたしまして」と笑った。そしてそのまま一度も振り返らず、速水はライブホールを出て行った。

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

「福岡で私と一緒に夢を追う気はない?」

 

 金田社長は私の瞳を見据えて、そう問うた。

 笑っているようで笑っていないその眼差しに射止められた私は、思考が現実に全く追いついておらず、一言も言葉を発せずに立ち竦んでいた。

 何か返事をしなければと思うも、動揺した今の私が冷静に返す言葉を見つけれるはずもなく、まるで助けを求めるようにプロデューサーの方へと思わず目を向ける。だがプロデューサーは前もってこの話を聴いていたのか、普段と変わらない穏やかな眼で私の反応を待っていて助け舟を出す気は毛頭なさそうだった。

 

「––––して」

「ん?」

 

 ようやく出てきた私の声は、金田社長の耳には届かなかったらしい。だけどその際に一呼吸つけたおかげで、私はほんの少しだけ平静を取り戻すことができた。

 

「…………どうして、私なんですか」

 

 素朴な疑問だった。

 私は間違っても有名なアイドルではない。デビューこそしたけれども、39プロジェクトの中でも知名度で言えばだいぶ下の方で、他事務所の引き抜きなんて大層な話が舞い込んでくるほど、誰かの目に留まるアイドルだとは到底思えなかった。

 それこそ静香のように、様々な媒体で取り上げられ、知名度も人気も一定数に達しているアイドルに声をかけるのならまだ理解できる。それなのに何故、金田社長は私のような底辺に近い無名アイドルに声をかけたのか––––。

 金田社長は私と違って一切動揺は見せず、むしろこの質問が来ること予想していたかのように、落ち着き払っていた。

 

「アリーナライブで初めて見た時から、ずっと志保のことを気にかけていたわ」

 

 聴かされたのは、全く予想していなかった言葉だった。

 えっ、と思わず虚を突かれた私に、金田社長はチラリとプロデューサーの方を向いて、「その時すでにコイツが39プロジェクトのプロデューサーやるって話があったから一緒に見に来てたのよ」と説明を付け加える。

 そして一年前のアリーナライブの記憶を遡るように、遠い眼で私を見つめながら話を続けた。

 

「……あの時の志保はある意味衝撃的だったの」

「衝撃的、ですか?」

「えぇ。だってあんな素敵なステージで貴女ただ一人だけが納得がいかないって顔してたんだから」

 

 一直線に嫌なところを釘で刺されたような感じがした。

 思わず口を閉ざしたのは、その言葉が皮肉でもなんでもない、図星だったからだ。

 

「今日だってそう。一人でずっと浮かない顔をしてたわね。まるでライブが失敗することを望んでいたかのように」

「そ、そんなこと––––」

「分かるのよ、私には志保の気持ちが」

 

 全てを観られている気がした。

 確かに金田社長の言う通りだ。今日だって一年前だって、ライブの成功とは裏腹に、その現実を何故か受け入れようとしない“北沢志保”がいたことは事実である。喜ばないといけないはずなのに、それを許さない“北沢志保”がずっと心の中に居座り続けていたのだ。

 だけど同時に、それは誰にも観られたくないと思っていた醜い自分だった。

 

「どうして、そんなことが言えるんですか」

「志保と私は似た者同士だから」

 

 その言葉の意味は教えてはくれなかった。

 けれど、と金田社長は話を続ける。

 

「私は貴女のその気持ちが間違っているとは思わないわ。『誰にも負けたくない』、『自分が一番になりたい』って気持ちは何も悪いものではないでしょ?」

「それはそうですけど……」

「そのメンタリティを、私は大事にしたいの。はっきり言わせてもらうけど、ここじゃ志保の才能は開花しないわ」

 

 思考が派手な音を立てて、再び停止した気がした。

 プロデューサーも社長も、青葉さんもいる目の前で金田社長は淡々とそう言い切った。だけど誰一人として横槍を入れるように待ったをかけようとしない。その反応が、誰もが金田社長の言葉を肯定しているようだった。

 その雰囲気が、何故かほんの少しだけ悲しくて、胸がチクリとする。

 

「765プロが正しいとか、志保が間違ってるとかじゃなくてね。世の中には適材適所ってもんがあるの」

「適材適所?」

「えぇ。例えばの話、最上静香がゴールドプロに居たとしても多分今ほどブレイクはできなかったはずだわ。私たちはあの子が求めてるような、あの子の才能を開花させてあげれるような、歌の仕事は殆ど用意できないから」

 

 もしかしたら私が静香をライバル視していることも察していたのかもしれない。例え話といえ、静香の名前を出したのも、きっとこの人のことだから偶然ではないのだろうなと思った。

 

「『時は金なり』、よ。若いといえども時間は限られているんだから。自分がやりたいこと、自分の才能をいかんなく発揮できる環境で、夢への距離を詰める最善の努力をするのが効率的だわ」

 

 自分の才能を発揮できる場所……、金田社長はそう言った。だけどそれは言い換えれば劇場が私にとって最適な場所ではないということを意味しているのではないか。

 その言葉の真意に気が付くと、無性に寂しくなった。この時になって初めて私は自分でも気付かない間に、劇場に対して自身が思っていた以上に居心地の良さを感じていたことに気付かされた。

 だけど金田社長はふいに物寂しさを感じている私を気に留めないで、テキパキと話を進めていく。契約期間は高校に通う三年間で、仮に私がゴールドプロに移籍した際は福岡での一人暮らしの生活費や引越し費用、そして現地の私立高校に通う学費まで全額負担してくれるらしい。そして高校を卒業したら、望むなら39プロジェクトに復帰することもできると教えてくれた。これはプロデューサーや社長の提案だったようで、未来の私が選ぶ選択肢の中に、少しでも劇場の存在を置いておきたいという想いがあったそうだ。

 それは無名のアイドルにしてはあまりにも不自然すぎるほどの高待遇だった。そして少しでも親の負担を減らしたいという本来の私の希望にも合致している。だがそんな高待遇な条件よりも、何より私の心を強く引いたのは演劇の仕事に携われるという点だ。

 

「さっきも言ったけど、私たちは舞台や演劇の仕事をメインに取り扱っててね。たまに博多座っていうそこそこ有名なとこで舞台をやったりしてるんだけど––––」

「は、博多座でやってるんですか!?」

 

 思わず食らい付いた私に、金田社長は珍しく面食らったように驚いた。東京にいる私が博多座に興味があるとは流石に思っていなかったらしい。意外だという様子で「博多座、来たことあるの?」と尋ねられ、私は春に旅行で訪れた際に立ち寄り、新撰組の舞台を観劇したことを話した。

 

「へぇ、新撰組のやつを観たのね。あれ、制作はウチだったの」

「そ、そうだったんですか?」

「まぁ制作って言ってもキャスティングは殆ど外注したんだけど。ねぇ、せっかくだから観た感想を教えてくれないかしら」

 

 感想を求められ、あの日の舞台を思い出す。

 ずっと抱えていたモヤモヤを忘れるくらいに夢中になれて、そして終演後は思わず涙するほどに引き込まれた素敵な物語。その中でも一際際立って見えた、速水さんの演技––––。あの日、博多座の舞台に、速水さんの迫真の演技に、私がインスパイアされたのは間違いなかった。

 

「凄くよかったです。特に速水さ……、速水奏さんの演技は見入ってしまうほどでした」

「ん、もしかして奏と知り合いなの?」

「あ、いえ。そう言えるほどの関係ではないです。ただ、あの時本当に速水さんの演技に感動して、その後少しだけお話させていただいたくらいで」

「そうだったの」

 

 なるほどね、と金田社長は呟いて小さく頷くと、不適に笑った。

 

「良い着眼点ね。確かに奏の演技はあの年にしてはズバ抜けたものがあるわ」

 

 だけど––––。

 一度そこで区切って、ブリーフケースから分厚い封筒を取り出し、私に手渡す。思わず受け取った白色の封筒にはゴールドプロダクションの名前が書かれていて、ずっしりとした重みが手のひらから伝わってきた。

 

「……志保なら、奏を超えれるわよ。いや、私が超えさせるって約束するわ」

 

 お世辞や虚言は微塵も感じられない、今まで幾度となく私の胸の内を言い当ててきた真っ直ぐな言葉に、胸の最深部に潜んでいた何かが大きく揺さぶられた。

 




NEXT → Episode Ⅲ : 俺と私の決断

次回、志保の決断と冬馬にも訪れる人生の分岐点。残り二話です。
もうゴールドプロに関しては名前使ってるだけで、設定めちゃくちゃ捏造しまくりだけど許してクレメンス!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EX : 所恵美とフローズンワード

久しぶりの更新ですが本編全く関係ないエクストラエピソードになります。
今後は最低でも二週に一度は更新したいと思うけど多分無理な気がするので初投稿です。


 アタシが初めて劇場のステージに立った、二月の定例ライブの時のこと。

 間奏の途中に空席が目立つ観客席の一角に学校の友達たちの姿を見つけて手を振った直後、その集団から少し離れた位置でポツンと独りで座っていた男の姿がふと目についた。少しふくよかな体型でメガネをかけたその男はアタシの視線に気が付いたのか、動揺したように慌てふためいて、すぐさま黒のキャップを目深に被り直している。

 え、誰だろう。

 男の風貌にも、その挙動不審な振る舞いにも、薄らぼんやりと見覚えがあったようで、アタシの記憶に何かが触れているような気がした。だけど間奏の短い時間内では男性の正体が誰なのかは思い出すことはできず、アタシが感じた既視感がハッキリと明確になったのはライブを終えて帰宅する電車の中でのことだった。

 

(あ、確か高校一年の時に同じクラスだった同級生の佐藤くんだ)

 

 サトウくん。下の名前は……なんだったっけ。

 彼のことは正直何も知らなかった。先生もクラスメイトたちも皆が“サトウくん”と呼んでいたからアタシもサトウくんと呼んでいるだけで、彼の下の名前だって知らないし、何の部活をしているのかとか、地元が何処なのかとか、そういった基本的な情報も何一つ把握していない。何か目立つような特技や強烈な個性があるわけでもなく、ぶっちゃけかなり存在感が薄い人間で、ともかく地味な男子……というのがアタシをも含む周囲のサトウくんに対する印象だと思う。

 同じクラスだった一年生の頃も休み時間になるとサトウくんは誰とつるむこともなく、いつも教室の隅でイヤホンをして音楽を聴いていた。その印象が強いせいか、アタシもサトウくんとはあまり喋ったこともないし、それどころか同級生と話している姿も殆ど見かけた覚えがない。授業中も先生に名指しで怒られるようなこともなく、良くも悪くも普段誰かの目に留まるようなことはほぼ皆無で、失礼ながらもこの国にあり触れた「佐藤」という苗字がぴったりだなと思えるほどに、ごくごく普通の存在だったのだ。

 だからこそ、定例ライブに来ていたのは少し意外だった。

 アタシ自身もサトウくんと接点があるわけでもなく、話したのも両手で数えれる程度。友達というよりは赤の他人に近い関係だ。そんなサトウくんがアタシを観に来るとは考えられないし、仮にアイドルが好きだったとしても、無名アイドルばかりの39プロジェクトの定例ライブに足を運ぶのはかなり稀有なことだと思う。

 ––––どうしてサトウくんが劇場にわざわざ独りでやってきたのか。

 その理由が気になって、アタシは翌日の放課後に校門で待ち伏せをし、サトウくんを捕まえて直接聞き出すことにした。

 

「ねぇ、サトウくん」

「と、ところさんっ!?」

 

 軽く叩いたはずなのに、悲鳴に近い声を上げたサトウくんの肩は大きく跳ね上がった。

 丸っこい身体を瞬時に捻って振り返ったサトウくんは相変わらずオドオドしたような表情で、焦点の定まらない視線があちらこちらにと忙しく動き回っている。その視線がアタシの方へと定まって落ち着くのを待ったが、その予兆が一向に訪れる気配がなかったため、結局アタシから本題を振ることにした。

 

「サトウくん、昨日劇場に来てなかった?」

「き、きききき気付いてたんですかっ!?」

「気付くも何も、普通に目合ったじゃん」

「え、あ、はい……。そうだったかもしれません……」

「ねぇ、昨日は独りだったよね? アイドルに興味あるの?」

「そ、それは……。ええっとですねぇ……」

 

 追い詰められているように、後退りするサトウくんにつられて、アタシの足も距離を縮めようと無意識に前に動く。

 決して劇場に来たことを責めているわけではないのに、言葉をかける度にサトウくんはバツの悪そうな表情を浮かべるものだから、まるでアタシが尋問しているような構図が出来上がってしまっていた。そんなつもりじゃないのになぁ、なんて思って逆に困惑していると、ふと忙しく動き回るサトウくんの視線が単に闇雲に動いていたのではなく、下校途中の同級生たちを捉えていたことに気がついた。

 アタシたちに向けられた周囲の人たちの眼は物珍しそうな光景を見る眼差し。その視線を気にしてか、サトウくんが額に冷や汗を滲ませながら震える声で提案をした。

 

「……ちっ、ちょっと場所変えませんか?」

 

 そう提案されたはずなのに、サトウくんの足はもうその場から別の場所へと向かい始めていた。

 慌てて付いていくアタシの方を一度も振り返らずに、夕陽を受けながら佇む信号機にも足止めを食らうことなく、サトウくんはそそくさと夕暮れ時の街を縫うようにして歩いていく。無言のままその背中を追うこと数分、サトウくんは苔に覆われた鳥居を潜り、寂れた神社の境内でその足を止めた。

 この時になって初めてアタシの方を確認したサトウくんは、教科書でパンパンになった学校指定のスクールバッグと共に木製のベンチに腰を下ろした。夕日に照らされて赤くなった横顔は先ほどより落ち着いているようだった。アタシも中身が殆ど入っていない鞄をサトウくんのスクールバッグの横に並べて、制服のスカートの裾にシワができないようにと注意しながらベンチに座った。

 暖かい春風が神社を吹き抜けて行った。狭い敷地内の中央にそびえる木の枝が、温かくて優しい風に揺らされて触れ合う。その枝の先に小さな蕾がくっ付いていることに気が付き、もう春が近づいているんだなと、そんな月並みなことを考えていた。

 

「気持ち悪かったですよね、僕みたいなスクールカースト最下層のインキャが陽キャ代表の所さんのライブに独りで来てたなんて」

 

 季節の変わり目の優しい風に心地よさを感じながら無言の沈黙の時間を過ごしていると、サトウくんが唐突に自身の黒いローファーを見下ろしながら、ぶつぶつと独り言のように意味不明な言葉を溢し始めた。

 

「え、何の話? 陽キャとかスクールカーストとか、意味分かんないんだけど」

「ほんと、下心があるとかじゃないんで! 所さんに不快な想いをさせてしまったのなら謝ります! 土下座でもなんでもしますので!!」

「いやいや、土下座なんてしなくていいから! って、ほんとに何してんの!?」

 

 なにをどう早とちりしたのかは知らないが、いつの間にか砂利の上で膝をついて、今にも土下座をしそうな勢いのサトウくんをどうにか思い止まらせるのはなかなか骨が折れる作業だった。サトウくんは異様なまでに自己評価が低い人だったようで、何故だかは分からないがアタシに黙って劇場にやってきたことに対してとてつもない負い目を感じていたらしい。

 何も不快に思っていないし、むしろ毎回ガラガラの定例ライブにわざわざ来てくれて嬉しかったと伝えて誤解を問いた後、もう一度アタシが気になっていた疑問を尋ねた。どうして独りでライブに来たのかと、再度そう問われたサトウくんは一瞬躊躇う仕草を見せながら、「今から言うこと、誰にも話さないって約束してくれますか?」と念を押すような前置きを挟み、二人分の鞄を挟んでベンチに腰を戻した。そして、また暫くの間を置いて、予想だにしなかった言葉を口にした。

 

「僕、実は歌手を目指してるんです。それで所さんがステージに立つって聞いて気になってしまってつい……」

「へ? かしゅ?」

 

 思わず拍子抜けた声が出た。

 もっとこう、765の誰々が好きとか、可愛いアイドルに興味があるとか、そういった理由が出てくるのだとばかり思っていたから、まさかサトウくんが歌手志望だったなんて予想は頭の片隅にもなかったのだ。

 

「や、やっぱり僕なんかが歌手なんておかしいですよね……」

「ち、違うの! そういうことじゃなくて……!」

 

 虚を突かれたアタシの反応が歌手になりたいという夢を否定しているように見えたのか、再びネガティヴモードに突入しそうになるサトウくんを慌ててフォローしようと、動揺を隠しきれないままに言葉を探す。だけど、なかなか適切な言葉は思い浮かんでこなかった。

 歌手ってことは、どこかのバンドに属しているのだろうか。

 もしかしたら週末にストリートで弾き語りをしていたりとか。

 歌い手として活動しているそれっぽい“サトウくん”の姿を想像しようと試みたけれど、どのサトウくんも“アタシが知っているサトウくん”の姿からは全くイメージが付かなかった。頭に思い浮かんでくるのは、教室の片隅で誰の目にも留まらずに独りでイヤホンをしているサトウくんの姿だけだ。

 でも冗談を言っているようにも見えないし、だとしたらどうすれば––––、

 

「あ、そうだ!」

 

 パッと名案を思いついて、掌を合わせた。静かな境内にアタシの掌がぶつかり合う音が響いて、サトウくんが驚いたように顔を上げる。

 

「今からカラオケ行こうよ!」

「か、カラオケですか!?」

「そそそ! 歌手目指してるんでしょ? ならサトウくんの歌、聞かせてよ」

 

 隣に座っていたサトウくんが凄まじい速さで立ち上がって後退りした。信じられないと言わんばかりの表情で細い一重の目を精一杯見開いて、耳たぶの端まで熟したリンゴのように真っ赤に染めている。サトウくんには申し訳ないけど、その驚きようがあまりに面白くて、思わず吹き出しそうになってしまう口元をアタシは必死に堪えていた。

 

「い、いっ、嫌ですよ! どうして僕が所さんの前で歌わないといけないんですか!?」

「へぇー。サトウくんは黙ってアタシの歌を聴きに来たのに?」

「そ、それは……」

 

 ズルイと分かっていながらも、絶対に反論できない言葉を突きつけると、サトウくん罰が悪そうな顔をしてブレザーのジャケットのポケットへと手を突っ込んだ。そしてもう何も言い返せないと悟ったのか、俯きながらローファーを地面に擦るように前後に動かし、「ほんと下手くそなので期待しないでくださいね」と自信なさげな小声でそう言った。

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

「ほんとに歌わないといけないんですか?」

「絶対笑わないでくださいね!? 引いたりとかもしないでくださいね!? 絶対ですよ!?」

 

 神社を出てから駅前のカラオケ店の個室に入るまでの道中、サトウくんは何度も何度もアタシに念を押すようにそう言い続けていた。その合間に少しだけ話を聴いたけど、サトウくんは何処かの事務所に入っているわけでもなく、なんなら今まで一度もオーディションを受けたこともない、音楽仲間とバンドを組むわけでもなく一人でストリートで歌っているわけでもなく、独学でカラオケに通って歌うくらいのことしかしていないそうだ。本人の実力がどれ程のものなのかは分からないが、サトウくんは「歌手になりたい」と思っているものの、何か行動を起こすわけでもない“趣味止まり”のアマチュアだった。

 だから失礼ながらアタシはサトウくんの「歌手になりたい」という夢は、あくまで「なれたらいいな」という漠然とした程度のものだと思っていた。

 

「普段はどんな曲歌うの?」

 

 狭いカラオケ店の個室へと案内され、薄暗い部屋でマイクを差し出してそう尋ねた。向かいに座っていたサトウくんは困ったように頬を掻きながら手を伸ばしてマイクを受け取る。

 

「ナツメロが多いですねぇ。WANDSとかロードオブメジャーとか」

「うわ、全然聴いたことないかも」

「さようですか……」

 

 端末を触っていたサトウくんが、その手を止めてこっちを向いた。アタシは慌てて「一番自信のある曲でいいよ」と言葉を掛ける。アタシの知らない曲でも大丈夫だよという意思表示だ。

 

「それでは、一番自信のある曲で」

 

 本当に期待しないでくださいね、と最後にもう一度だけ前置きを挟んで、サトウくんは丸っこい指を端末から離した。少し大きなボリュームで部屋に響いていたCMが途切れて、一瞬だけ部屋が沈黙に包まれる。隣の部屋からはどっと笑い声のような歓声が弾けて、だけどその中でマイクを握るサトウくんの唾を飲み込む音が微かに聞こえた気がした。

 画面に表示された曲名は「明日君が壊れても」。

 その隣に小さく出ていたアーティスト名はWANDSだ。さっきサトウくんが普段よく歌うと話していたアーティストの曲らしいが、アタシはその曲名にやっぱり見覚えはなかった。

 ピアノの伴奏が流れて、テレビには歌い出しの歌詞が出てくる。その歌詞にサトウくんの声が重なった時、胸の奥あたりで鳥肌が立って、あっという間に足のつま先まで滑って行った。アタシの知っているサトウくんからは微塵も想像できない一直線に悠々と進んでいく歌声が、安っぽいカラオケ店のマイクの影響を一切受けずに物凄いスピードでアタシの心をかっさらっていったのだ。

 サトウくんが一番自信がある曲としてチョイスした「明日君が壊れても」は、バラード調の恋愛ソングのようだった。愛する人が仮に壊れたとしても、それでも変わらぬ一途な愛を誓う曲の歌詞を、サトウくんが優しく力強く、そして丁寧に歌い上げていく。

 いつの間にかアタシは息をするのも忘れるくらいにその歌声に入れ込んで、無意識に制服のスカートの裾をギュッと握り締めていた。

 

「す、すごいっ! サトウくんめちゃくちゃ歌上手いじゃん!」

 

 曲が終わってまたテレビ画面にCMが流れ始めた時、何の捻りもない素直な感想が口から飛び出してきた。

 サトウくんはぽかんとした様子でアタシを見ている。次第に照れ臭くなったのか困ったように苦笑いを浮かべて静かにマイクをテーブルの上に置いた。

 

「ほんと、めちゃくちゃ上手だった! 思わず感動しちゃったよ、アタシ」

「そ、それは大袈裟ですよ!」

「いやいや、ほんとだってば! サトウくん絶対素敵な歌手になれるよ!」

 

 未だ興奮冷めないままにそう言ったけれど、本人は相変わらず自信がないのか、それとも謙遜しているのか、「僕なんかじゃ無理ですよ」と過剰なまでに否定している。だけどお世辞抜きで、これほど聴く者の心を拐うことの出来る歌声を出せるのなら、サトウくんの夢は決して絵空事なんかではないと思う。サトウくんのスポーツカーのように一直線に進む歌声なら、きっと多くの人の心を鷲掴みすることができるのだと、素人ながらもそんな確信をアタシはこの時確かに感じていたのだ。

 

 あの日を境に、アタシはサトウくんと一緒の時間を過ごす機会が増えて、劇的に仲良くなった。

 一緒の時間を過ごすと言っても、殆どアタシが放課後に何も予定がなかった日にサトウくんを一方的に誘うばかりで、いつも向かう先は決まって駅前のカラオケ店だ。カラオケ店に着いて二人きりになると、サトウくんはアタシを虜にした歌声で沢山の曲を歌ってくれた。サトウくんの好きな曲や得意な曲、そして時たまリクエストにも応じてくれてアタシの好きな曲を歌ってくれたり––––。そうやってカラオケ店の小さな個室の世界で二人きりの時間を重ねるうちに、彼の歌声にはもちろん、優しくて誠実な人柄にも惹かれていくようになった。

 不思議な感覚だった。

 いつもオドオドして、自分に自信がなくて、だけどマイクを握るとサトウくんの眼差しは純粋無垢な子供のように光り始めて、その瞳を眺めているだけで自然と優しい気持ちになれて、胸が心地よい気分で一杯に満たされていく。胸のグラスが優しさで一杯になる感覚が、アタシは堪らなく好きだった。

 

 そして春休みに突入してすぐの頃。

 アタシは偶然仕事で訪れたグラビアの撮影所に貼られていた大手レコード会社による新人発掘オーディションのチラシを見つけてサトウくんに勧めてみた。なんでも音楽界では幾多の有名アーティストを手掛けてきた凄腕のプロデューサー自らが審査員としてオーディションを開催するようで、その目に留まることができた合格者には、大手レコード会社の所属アーティストとしてメジャーデビューすることが確約されるらしい。まさにサトウくんのような歌手志望の歌い手にとっては絶好のチャンスだと思ったのだ。

 案の定サトウくんは最初は乗り気ではなかったが、後にこのオーディションに挑戦すると言ってくれた。「自信はないけど、せっかく所さんが勧めてくれたので」と気弱に決意を語っていたが、それでも参加するからには何が何でも合格したいのだと意気込み、オーディションまでの間はほぼ毎日のようにカラオケ店に通っては、ひたすらにトレーニングに打ち込んだ。

 その様子をアタシはずっと側で眺めていた。アイドルと言えども歌唱力に関しては歌い手からすれば毛が生えた程度のモノで、専門的なアドバイスは殆どすることができない。だからアタシはこうして毎日のようにサトウくんの歌を聴くことしかできなかったのだけれども、それでもアタシは日に日に胸を強く打つようになっていく歌声を聴いて、ごく当たり前のようにサトウくんがオーディションに合格することを信じた。この歌声なら絶対に審査員の人の魂を揺さぶることができると、それは何一つ根拠のない予感だったが、その予感がアタシを裏切ることは絶対にないのだと思い込んでいた。

 オーディションの前日、カラオケ店で最後のトレーニングを終えたサトウくんをショッピングモールに連れて行き、服を選んでプレゼントしてあげた。明日のオーディションに向けて何か少しでも力になりたいと考えた結果、これがアタシなりにできる数少ないサポートだと思ったのだ。

 

「練習にまで付き合ってもらって、服まで買ってもらって……。本当に所さんにはご迷惑ばかりおかけして申し訳ないです」

「ううん、アタシが好きでやったんだから気にしないでよ」

「で、ですが……」

 

 新調した服が入った大きめのビニール袋を持ったまま、最後までサトウくんは手を加えてない眉毛をハの字にして申し訳なさそうにしていたから、少し強めに肩を叩いて「明日はそれ着てサイコーの歌を聴かせてね」と伝えると、サトウくんの眉毛の角度がほんの少しだけ緩やかになった。

 

「では、また明日」

「うん、気をつけてね! 今日は早く寝るんだよ?」

「ははは、なんだかお母さんみたいですね。ありがとうございます、所さんも気を付けて帰ってください」

 

 そう言葉を交えて、アタシたちは別々の方向へ向かう電車に乗り込んだ。

 帰路へと向かう電車の中で、紅色へと染まりつつ空に一粒の煌めきを見た。その煌めきはサトウくんに対して抱いていた予感を具現化したような存在にも見える。

 歌手になりたいと最初に聴いた時は失礼ながらも軽い気持ちで語った夢で、それは小さな子供がスポーツ選手やアイドルになりたいと思うのと同じような漠然とした夢だと思っていた。だけどそれはアタシの勘違いで、サトウくんは自信がないながらも(実力はあると思うけど)自分の夢に真摯に向き合って、そしてその夢を叶えるための一歩を踏み出そうとしている。そこに費やされた情熱や努力は、決して“軽い気持ちで語った夢”なんて言葉で片づけられるほどのモノではなかった。

 

 どうか、明日のオーディションでサトウくんが夢への一歩を踏み出せますように。

 

 アタシは祈るような想いで、電車が地元の駅に到着するまでの間、ずっと夕暮れ時の空に輝く一番星を眺めていた。

 

 

 翌日。

 春休み最終日、サトウくんは東京で開催されたオーディションに出場した。名の知れたプロデューサーが直々に主催したオーディションだけに、老若男女問わず大勢の夢見る者たちが集っては、ステージ上では各々の腕前をいかんなく披露していた。

 

「エントリーナンバー68番の方、どうぞ」

 

 オーディションが始まって一時間半ほどが経過した頃、ついにサトウくんの出番が回ってきた。機械のような抑揚のないアナウンスの後、昨日アタシが選んだシャツとジャケット、そしてジーンズ姿のサトウくんが緊張した足取りで登場し、ステージの真ん中でマイクの高さを調整している。その表情はやはり自信なさげだったけど、アタシは何も不安や心配を感じなかった。サトウくんはいつも気弱な表情をしているけど、マイクを握ったら人が変わるように自信に満ち溢れた歌を、素敵な眼差しで歌えるのだと知っていたからだ。

 

「ロードオブメジャーさんの“心絵”を唄わせていただきます」

 

 それだけ言って審査員の人たちに軽い会釈をすると、サトウくんはマイクを握って大きく深呼吸をした。ボリュームがミュートされたかのように会場が静まりかえり、一気に静寂が訪れる。そしてその静寂をぶち壊すように、サトウくんの歌声が会場内に響き渡った。

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 サトウくんの一直線にぐいぐいと突き進んでいく歌声は今日の参加者の誰よりも際立って、そして多くの人たちに驚きと衝撃を与えた。あっという間に終わった演奏後、審査員の人たち全員が腰を上げて、拍手でサトウくんの歌を称えていたのが何よりの証拠だった。

 だが、「厳正なる審査の結果」と前置きをしていたの関わらず、最終的に選ばれたのはサトウくんではない全然違う人だった。オーディションに合格して大手レコード会社に所属することになったのは、歌なんか全然上手くなくて、だけどビジュアルが少し整っている同世代くらいの男の子。得意げにステージの中央に立って、主催者のプロデューサーと握手を交わす姿を見てなんとなく察した。このオーディションは最初から合格者が決まっていた出来レースだったのだと。

 

「……あんなの絶対出来レースだよ! サトウくんが一番だったのに!」

 

 オーディションを終えて埼玉へと帰る途中、どうしても審査結果に納得ができなかったアタシの口からは、何処にぶつければいいのか分からない苛立ちが溢れ出て止まらなかった。だけどアタシとは対照的にサトウくん自身はとても落ち着いていて、不平不満を言うわけでもなく「まぁまぁ落ち着いてください」とアタシを宥め続けていた。不合格だったのに関わらずいつものようにネガティヴな言葉は一切発さずに、むしろ淡々とこの理不尽な結果を受け入れているかのようだった。もともと自分に自信がない性格だから万が一落選でもしたらより一層ひどく落ち込むのではないかと思っていただけに、この反応は正直予想外だった。

 所沢駅に電車が到着したのはもう夜の遅い時間だった。「もう遅いので送りますよ」と言ってくれたサトウくんの言葉に申し訳ないと思いながらも、今の気分で一人で夜道を歩く気にもなれず、アタシは彼の厚意に甘えて「ありがと」とだけ言って頷いた。

 二人で静かな心細い街灯が照らす住宅街を歩く。普段は一人で歩くこの道を、サトウくんと歩いてるのが妙に不思議な気がして気持ちが落ち着かない。いつの間にか黙り込んでしまって沈黙が続いた後、サトウくんはおもむろにこう言った。

 

「所さん、今回は色々とありがとうございました」

「ど、どしたの急に改まって!」

 

 思わず足を止めると、いつもは恥ずかしいのか目を合わせてくれないサトウくんの優しい瞳がアタシの眼を捉えていた。ジッとアタシの瞳の深い部分を覗くように見つめるサトウくんの後ろ、茶色に錆びた古い街灯の隣でそびえる桜の木が目に入った。チカチカと消えたり点いたりを繰り返す街灯に、綺麗なピンク色の桜の花が照らされて光っている。寒さを感じさせない風が吹いて、数枚の桜の花びらが枝を離れた。

 

「今回結果は残念でしたけど、所さんのおかげで臆病者だった僕でも大きな一歩を踏み出せた気がします」

「そ、そう? それなら良かったけど」

 

 いつになくハキハキと話すサトウくんに違和感を感じているせいか、アタシの口から出てくる言葉には動揺が混じっていた。思わず顔を下げると、昨年の秋に買ったブーツが地面に落ちた桜の花びらたちを踏んでいたことに気が付いた。なんだか物凄く罪深いことをしているような気になって、アタシはなるべく地面の上の桜の花たちを踏まないようにと、黒いアスファルトの色が剥き出しになっている場所へとブーツを動かす。ブーツの新たな着地点を見つけて顔を上げると、先ほどよりぐっと距離が近くなったサトウくんが未だにアタシの眼を見つめ続けていた。

 

「所さん、変なことを言いますけど」

 

 サトウくんが呟いた。再び風が吹いて、アタシの髪を揺らす。

 

「……所さんのことが好きです」

「え?」

 

 乱れた髪を整えようと、耳にかけようとしたままその手を止めてしまった。呆気にとられたようにサトウくんを見つめ返すと、次第にサトウくんの頬が真っ赤に染まっていって、沸点を超えたのかすぐに顔を逸らして勢いよく腰を曲げた。

 

「すすすすすみません! 僕みたいな根暗インキャが陽キャ代表の所さんに告白なんて、事案ですよね!」

 

 ほぼ腰を九十度に曲げたまま、桜の花びらたちが落ちた地面に向かって一気にまくしたてる。その様子はいつものマイナス思考のサトウくんの姿のまんまで、さっきまでの妙な落ち着きからのギャップが面白く感じて、思わず吹き出して笑ってしまった。アタシの顔色を伺うように「ど、どうしたんですか?」と腰を曲げたまま見上げるサトウくんの姿が更に面白くて、とうとうアタシは我慢できずに静かな住宅街に響くような声を上げて笑い出した。

 しきりに笑ってようやく落ち着いた頃、アタシはようやくサトウくんと眼を合わせることができた。不思議とサトウくんの瞳を見ていると先ほどまでの苛立ちは姿形もなく消え去ってしまって、心の中では嵐が過ぎ去った後のような穏やかな波が打ち寄せていた。

 

「……アタシね、ずっと好きな人がいたんだ」

 

 ぽっと意識せずに出てきた言葉に気付かされた。いつの間にか北斗の存在が過去形になっていたことを。

 

「ずっとずっと好きで、でも絶対に届かないような人で、この人以外の人を想うことなんて想像もできないくらい好きだったの」

「……そう、なんですか」

 

 サトウくんが再び下を向いた。でもね、と付け足すとサトウくんの顔が自然と上がる。アタシは照れ臭くなって、両手をポケットの中に突っ込んだまま言った。

 

「サトウくんは、もっと特別だよ」

「えっ!?」

 

 変な声を出して、腰を伸ばした。

 真っ直ぐに立つとアタシより少しだけ身長が高いサトウくんがアタシを見下ろしている。その不安げな顔に、笑いかけた。

 

「アタシもサトウくんのことが好きだよ。だから付き合おっか!」

 

 想いを伝えた瞬間、山の方から降ってくる強い風が駆け抜けた。

 サトウくんの背後でアタシたちを見守ってた桜の木が大きく揺さぶられて、幾千幾多の桜の花たちがまるでアタシたち二人を包み込むように宙を舞う。桜の花びらが降り注ぐ中、サトウくんの眼鏡越しに見える綺麗な瞳には涙が浮かんでいた。

 

「あー! サトウくん泣いてる!」

「な、泣いてませんよっ!」

 

 揶揄うようにそう言ったが、反論したサトウくんの声が鼻声そのもので、おかしくて地団駄を踏んだ。

 止めようとすればするほどに溜まっていく涙を一滴も溢さないようにと、アタシは少し踵を浮かせてシャツの袖でサトウくんの目元を拭う。薄い生地にサトウくんの涙が染み込んで、地肌に濡れた感触が伝ってきた。

 

「いつまでもアタシの側で素敵な歌を聴かせてね」

 

 サトウくんが力強く首を縦に振る。桜の花びらたちは、もう少しの間、アタシたちを優しく包んでいた。

 

 




今回は文字数バグりそうになってかなり端折ったので、ここで解説を挟みます。
今回はフローズンワードの歌詞と直接的な関係性は薄く、北斗を想いすぎるが故に氷のように捉われていた恵美の心を動かした告白、と言う意味合いでこの曲名を選びました(ホ◯特有のガバガバこじつけ設定)
琴葉のEXで最後に北斗が言った、

「好きになるのは恵美ちゃんがもう少し大人になってからかな」
「でも、今の仲間想いな恵美ちゃんも俺は好きだよ」

というセリフは、「自分とは釣り合わないし、釣り合うような大人(作中でいう挫折を経験し、斜に構えるような大人)になってほしくない」という意味です。なので結局恵美は北斗に好かれたいがために背伸びをすることではなく、今の自分(北斗の言う仲間想いな恵美)でいることを選んだことになります。
その結果として、等身大の自分を好きでいてくれて、恵美自身もありのままの姿でいられるサトウくんと付き合った……というお話でした。
好きな人の一番になれなかった琴葉、初恋の人と結ばれた志保、離れて初めて自分の気持ちに気付いた桃子、そして初恋は実らなかったけど自分らしくいられる人を見つけてその隣で収まった恵美、色んな形の恋愛を当作を通じて描きたかったのでもう満足です(自己満
次回から本編に戻ります。ちなみにEXはあと一本挟んで終わりです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Episode Ⅲ: 俺と私の決断

拙者S.E.Mすこすこ侍!
なので初投稿です。


 

 劇場でのライブから一夜明けた日曜日。

 志保から急遽連絡がきて会うことになった俺はその際にライブに速水が来ていたことと、帰り際にオーディションのチラシを渡すよう預かっていたことを伝えた。だが志保はどこか淡々としていて、思っていた以上に速水が劇場に訪れていたことにも、その速水がドラマのオーディションに志保を誘ったことにも驚いたリアクションを見せなかった。

 

「……あいつ、346のアイドルだったのか」

「はい。私も知らなかったんですけど、346の中でも特に期待されてる有望株の一人らしいですよ」

 

 聴けば速水奏は俺と同世代、博多座で見た舞台女優としての姿はあくまで仮の姿だったようで、本業は俺や志保と同じアイドルだったそうだ。そして速水の所属する事務所は近年、渋谷凛や十時愛梨、高垣楓など数多くの有名アイドルを排出し続け、歴史は浅いながらもめきめきと頭角を現し始めてきた東京の346プロダクション––––。その看板的アイドルの一人だというのだから、速水もそれなりの実力者なのだろう。

 それにしても––––……、

 

(今日はやけに会話が続かねぇ)

 

 もともと志保はお喋りな性格ではなかったが、今日はいつになく会話が途切れて、無言の間が続く。俺が話題を振っても志保は最低限の受け応えをするだけで、それ以上の掘り下げも違う話題への転換もなく、すぐさま会話は行き止まりを迎えてしまっていた。昨日のライブがライブだけに、機嫌が悪いのかとも思ったけれど苛立っている風にも見えず、疲れているが故に口数が少ないといったわけでもなさそうで、隣で口を閉ざす志保は何か心の中につっかえるモノがあって、そればかりに意識を捉われている様子だった。

 海沿いのベンチに並んで腰を下ろし、ボンヤリと水平線を眺めていると、遠くでは数羽の鳥たちが蒼い海の上を優雅に旋回している姿が目に入った。その鳥たちの背後では夏の到来を感じさせる大きな入道雲がそびえている。そんな光景を見て、志保と公園で初めて話した時のことをふと思い出した。弟を連れて高台の公園にやってきてた志保とランニングをしに来ていた俺、あの時邂逅を果たした俺たちの頭上にも、今日のと同じような大きな入道雲が浮かんでいたはずだ。

 ほんの数日前の出来事にも感じるあの日から、もう季節が一巡りしていたのか。

 そのことに気付くと、嫌な感触が胸の中を通り抜けた。961プロを抜けてから暗闇の中を走っていたインディーズ時代によく感じていた、“あの”感覚だ。

 

「冬馬さん、ゴールドプロって知ってますか?」

 

 ふいに、志保からそう尋ねられた。

 聴いたことのない事務所の名前に首を横に振って答えると、志保は予めそのリアクションを予想していたのか、すぐに『ゴールドプロ』の公式サイトが表示されたスマートフォンの画面を俺に見せてくれた。派手目の金色でデザインされたロゴの下には、事務所の住所が小さく掲載されている。福岡県福岡市博多区……、どうやら東京の事務所ではないらしい。やはり見覚えも聞き覚えもなかった。

 

「そのゴールドプロとやらがどうしたんだよ」

 

 見せられていたスマートフォンの画面から顔を上げると、志保は感情のはっきりしない複雑な表情をしていた。カチッと、志保の細い指がスマートフォンのボタンを押す音が響く。画面が真っ暗になったスマートフォンをポケットに戻しながら、水平線の彼方から吹く潮風にかき消されてしまいそうなほどにか弱い声で言った。

 

「……昨日のライブの後、ゴールドプロの社長とお会いしました。私を観るために福岡からやってきてたそうで」

「志保のために?」

 

 俺をジッと見つめる志保の向こう側に、黒い豆粒のような点が見える。それらがいつの間にか遥か先に遠ざかっていってしまった鳥たちだと気付くと、何故だか無性に寂しい気持ちになった。

 浮かない顔のまま志保は小さく頷きながら「そうです」と言った。俺の目線の焦点が志保に戻ったのを待っていたのか、また少しの間を置いておもむろに口を開いた。

 

「ゴールドプロの社長に誘われました。中学卒業後に福岡で挑戦する気はないかって」

「福岡で挑戦って、それってどういう––––」

「引き抜きの話みたいです」

 

 躊躇う俺の言葉を断ち切るように、志保がそう言い切った。

 思わぬ話を聞かされて胸が詰まる。奇妙な焦燥に駆られて、伸びた襟足の裏のうなじの辺りから嫌な汗が湧き出てきた。

 

 

 

 

Episode Ⅲ: 俺と私の決断

 

 

 

 

 それから志保は、昨日のライブ後にゴールドプロの金田百合子と名乗る女性社長から提示された条件を細かく教えてくれた。

 元々ゴールドプロと765プロは古くから業務提携をしていたそうで、天海たちをアリーナライブまで引き上げた赤羽根プロデューサーの後釜として39プロジェクトを担当することになった今のプロデューサーも以前はゴールドプロで働いていたそうだ。要は会社同士が提携しているから正確には引き抜きではなく移籍扱いになり、極端な話、面倒くさいしがらみが一切なく、志保の意思だけで決められるということになる。

 ゴールドプロでの提示した契約期間は高校三年間のみ、その間の福岡での一人暮らしの生活費や現地で通う高校の学費などは全てゴールドプロが賄ってくれるそうで、契約期間が満期を迎える……即ち志保が高校を卒業した後は、ゴールドプロに残るも765プロに戻るも自分の判断で選ぶことができるらしい。また、ゴールドプロは舞台や演劇に力を入れているプロダクションで、常々志保が興味を抱いていた演劇についてかなり重点的に学ぶこともできるそうだ。

 それはあまりにも恵まれた条件で、誰がどう見ても志保にとってメリットしかない話だった。

 母親の負担を減らしたいという点も、興味があった演劇に打ち込めるという点も、福岡のゴールドプロに行く道を選べば志保の要望は全てが叶う。それなのに、どうして志保は終始浮かない顔をしているのだろう。

 

「……悪くない話じゃねぇか」

 

 何一つ志保にとってデメリットがない話を一通り聴いて、至極当然の感想が口から出てきた。潮風に髪を揺らされる志保は「そうですよね」と相槌を打つ。だけどその横顔は口から溢れ出た言葉とは正反対で、やはり影を感じさせるようで、どこかスッキリとしない迷いが生じていた。

 

「でも私、この話は断ろうと思います」

 

 そう言って、志保が俺の方を向いた。一度瞬きをして、志保の瞳は水平線へと移る。その視線を追うように俺も水平線へと目を向けたが、その時にはもう先ほどまで微かに見えた鳥たちの影はどこにも見当たらなくなっていた。

 どうして、と尋ねる前に志保は蒼い海の先を見据えたまま淡々とした口調で言葉を続けていく。

 

「私、まだ765プロで何も成し遂げてないですし、有難い話ですけどここで福岡に行くのは違う気がして」

「……そっか」

 

 意外だなとは思ったけれど俺は志保が出そうとする答えに、何も言わなかった。

 以前の志保だったら間違いなくこの話を受けていたはずだ。あの頃の志保は父親に会いたいという一心で夢を叶えることだけに捉われていて、そこに個人的な情などは一切含まれていなかった。

 そんな志保が損得勘定だけではなく、私情で物事を判断をするようになった。それが結果として良いか悪いかは別として、それがこの一年で志保が大きく変化した証拠であることに違いはないはずだ。

 志保は大きく息を吐くと両腕を入道雲が浮かぶ空に向かって大きく伸ばして、ベンチから立ち上がる。どうしてだか、かつて多くの物を背負いすぎた小さな志保の背中を見て、俺は妙な安心感を覚えていた。だけどその安心感は俺にとってあまり心地の良いものではないような気がした。何かに対する背徳感のようなものが胸の中でぐるぐると渦巻いている。志保の判断がどうこうではない、自分に自身に対しての拭いきれない違和感があったのだ。

 

「本当に断るのか?」

 

 その違和感を確かめるように、志保にそう尋ねてみる。志保は腰を捻って振り返りながら簡潔に「はい」と応えたが、それでも俺の胸に居座る違和感は消えなかった。

 

「そっか」

 

 結局違和感の正体は最後まで分からないままだった。

 だけどこれは志保自身が選んで決めるべきことであって、いくら交際しているといえども俺がどうこう口を挟むべき問題ではない。だから志保が断ると決めたのなら、その意見を尊重するべきだ。例えその決断に妙な違和感を感じていたとしても。

 

「また近々ユニットでライブあるんだろ? 頑張れよ」

 

 違和感を無理やり片付けるように、話を切り替えた。

 志保も今回の件についてはこれ以上は話すつもりはなかったようで、身体ごと俺の方を向き直すと海を背にしながら力強く首を縦に振る。その腰の辺りで一瞬だけ拳が作られて解けたのも、俺の目は見逃さなかった。 

 

「……そうですね。昨日のライブは正直自分の中で全然納得してないので、次回は納得ができるように頑張ります」

「また観に行くから、頑張るのは良いけど無理しない程度にな」

「ありがとうございます。冬馬さんもライブが決まったら教えてくださいね」

「あぁ、もちろんだぜ」

 

 こうして互いに刺激しあいながら高みを目指していく––––……。

 今まで幾度となく理想的だと思い、心地が良いと感じていたはずの俺たちの関係性も、何故だかこの時ばかりは素直に良い関係だとは思えなかった。向き合わなければならない“何か”から目を背けているような得体の知れない背徳感が、胸をチクチクと刺すような感覚が走る。その痛みは俺が目を背けている“何か”の存在を必死に訴えかけているようだった。

 目の前に広がる大海原の上では夏の訪れを感じさせる大きな入道雲が俺たちを見下ろしている。その入道雲の中に、一ミリも黒い影たちはやっぱり見えなかった。

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

「……それで、訊きたいことってなに?」

 

 仕事を終えて315プロの狭い事務所に帰ってきた翔太がすぐにそう切り出したから、俺はほんの少しだけ緊張して、浅く座っていたソファに深く座り直した。志保から福岡行きを断ると聴かされた日曜日の翌日、俺はふと一つの疑問が浮かんで翔太を呼び出した。あの時感じた違和感と背徳感の正体は分からないままだったが、志保と同世代である翔太の意見を聴けば何か分かるかも知れないと思ったからだ。

 狭い事務室には俺の他に元科学教師の山下さんもいたけれど、翔太は特に気にするわけでもなさそうだったから、俺は単刀直入に本題をぶつけた。

 

「翔太さ、お前中学卒業後の進路ってもう決めたのか?」

 

 ありきたりな質問のはずなのに、いつもより声が強張っているのが自分でも分かった。翔太は一瞬俺の目を覗き込むと、机を挟んだ向かい側のソファに腰を下ろした。

 

「え、そんなこと訊きたかったの?」

「そうだけど……」

 

 呆気にとられたように目を少しだけ見開いて、翔太は質問に質問で返す。

 視界の端に、山下さんがマグカップを片手に俺たちの様子を微笑ましい顔で眺めている姿が入り込んだ。その視線が妙に恥ずかしくて、俺は思わず下を向く。

 

「あー、もっと深刻な話かと思って身構えてたよ。ビビらせないでよね」

 

 まぁ、いいや。

 そう言って翔太が質問に対して出した答えは、俺が予想していたのより遥か右斜め上を行く答えだった。

 

「僕、高校行かないよ」

「え?」

 

 あまりに意外すぎた回答に、思わず顔を上げる。翔太はいつものように頬の筋肉を緩めてニコニコと笑っていたが、俺の瞳を捉えるその視線は笑っていなかった。

 

「高校には行かないで、中卒でアイドル活動に専念しようと思ってるの」

「なっ––––! それ、本気で言ってんのかよ」

「うん、本気だよ」

「……意味が分からねぇ、高校に通いながらでもアイドル活動はできるじゃねぇか」

 

 今時高校に通わないで中卒でアイドル活動に専念するなんて、そんな人生を棒に振るかもしれない選択をするなんて何考えてんだよ。

 翔太の答えに納得ができず、俺の意見に同意を求めるようにチラリと山下さんの方を盗み見る。だけど山下さんは俺たちの話に割り込む気はないようで、視線は手に握られていた雑誌に向けられていた。

 

「確かに高校に通いながらでもアイドル活動はできるよ。だけどそんな中途半端なことしてたら絶対僕はこの業界で生き残れない」

 

 いつになく、翔太の言葉の語尾が強まっている。そして、淡々と話を続けた。

 

「今は『弟アイドル』なんて言われてるけど、そのうち僕だって歳をとって大人になって、弟じゃなくなるんだよ? そうなった時に今のままじゃ絶対生き残れないって思うんだ。子役は大成しないって話は冬馬くんでも知ってるでしょ?」

「そ、それはそうかもしれねぇけど……」

「僕はこのまま消えたりする気なんかないよ。冬馬くんや北斗くんとトップアイドルを目指すって決めてるから。だから今後『弟アイドル』じゃなくなっても生き残れるように、演技にダンスに歌に、色んなことにもっともっと挑戦したいと思ってるんだ」

 

 翔太の言いたいことはよく分かった。

 きっとこれから翔太自身がアイドル業界で生き残っていくために沢山の努力をしていかないといけないと考えていて、そのためには高校に通う時間さえも惜しいと思っているのだろう。

 だけど仮に高校に通わないでアイドル活動に専念して、それで何も得られなかったらどうするつもりなのだろう。

 必要最低限の保険さえも持たずに、成功が保証されていない道を選ぶのはあまりにもリスキーすぎるのではないだろうか。

 

「翔太の言い分は分かるけどよ、高校は絶対に出てたが良いぜ。何かあって後で後悔しても遅ぇだろ?」

「確かに場合によっては後々後悔するかもね。だけど––––」

 

 一呼吸を置いて、翔太は笑った。

 それはいつもの余裕を感じさせる、翔太“らしい”笑顔だった。

 

「315に来て色んな人たちを見て思うようになったんだ。今の僕にしかできない判断を大切にしたいって。だから例え高校に行かなくて失敗することになっても、後悔はしないよ。きっと挑戦しなかった方が後悔すると思うから」

 

 肺の奥に潜む何かを、ギュッと握り潰されたような感覚がした。

 翔太は高校に通わないことに何も躊躇いもなく、夢に向かって一直線に進もうとしている。北斗だって一度は挫折したピアニストになるという夢にもう一度向き合おうとしていて、そのためのソロ活動も始めるようになった。

 ––––だとしたら俺は?

 いつの間にか自分だけが取り残されているような気がして、嫌な焦燥が駆け巡る。

 インディーズ活動を終えて315プロに入って、だけどそれはゴールじゃなくてトップアイドルを目指すためのスタートラインに立っただけに過ぎなかったのだ。そのことを二人はとっくに理解していて、その上で今後の自分のために今できる最善の道を選ぼうとしている。

 その傍ら、俺は二人のように今為すべき道が分からないままだった。ジュピターの三人でトップアイドルになるという夢に辿り着く過程で何をするべきなのか、どのような道を通るべきなのか、恐ろしいほどに何も浮かんでこなかったのだ。

 そしてその理由にも、なんとなくではあるが気が付くことができた。高校に通わずにアイドル活動に専念しようとする翔太を自然に止めようとしていたように、俺はいつの間にか無意識にアンパイな選択ばかりをするようになってしまっていたのだと思う。

 

「……まぁ、いいんじゃないの」

 

 俺たちの会話には今まで一切介入してこなかった山下さんが、ゆっくりと口を開く。読んでいた雑誌をパタンと閉じて机の上に置くと、俺と翔太とを交互に眺めながら優しい口調で、元教師としての意見を発してくれた。

 

「先のことなんか誰も分からないんだから、俺みたいなおじさんになる前に今やりたいと思うことをやるべきだと思うよ。最悪後から高認取って大学受験とかもできる時代なんだから。どちらにせよ、今の現状に満足せずに更に高みを目指すってのは悪いことじゃないと思うけど」

 

 ––––現状に満足せずに更なる高みを目指す。

 山下さんの言葉が、俺の閉ざされていた胸のドアを激しくノックした。そのドアの先から出てきたのは、昨日俺が志保の話を聴いて感じた違和感と背徳感の正体だ。

 志保が福岡行きを断ると聴いて感じた安心感。だけどその安心感の中には違和感と背徳感も含まれていて、その正体に俺はようやく気付くことができた。

 

(なにしてんだよ俺は––––)

 

 きっと志保が福岡行きを断ると聴いて安心したのは、志保が側に居てほしかったからだ。

 北斗がソロ活動を始めると聴いて劣等感を感じていたからこそ、志保には遠くに行って欲しくなかったのだと思う。俺の近くにいて一緒に上を目指していければいいと、そんなすごく身勝手で我が儘なぬるま湯に、いつの間にか俺はどっぷりと浸ってしまっていたのだ。

 初めて志保と会った時、志保は俺に羨望の眼差しを向けてくれた。俺のようになりたいと言ってくれたその言葉は、俺がずっと握り締めていた不確かな感触に現実味を与えてくれる魔法の言葉だった。

 

 そんな志保の眼差しに、志保がなりたいと言ってくれた天ヶ瀬冬馬に、今の俺はなれているのだろうか。

 315に入ってある程度安定して仕事が入ってくるようになって、大好きな人も側にいて。

 そんな恵まれた環境にいることでいつしか上を目指す情熱を失くしかけてしまっているのではないか。

 

 いつの間にか現状に満足してしまっていた自分。

 そしてもしかしたら志保も俺と同じではないのだろうか。そんな嫌な予感が、山下さんの言葉によって開かれたドアの合間を静かに通り過ぎて行った。

 

  



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



ジュリア 、千早、志保と続き、見事桃子のS4Uガチャでも大爆死をかましたので初投稿です。



 ユニット公演を機に、静香を取り巻く環境はがらっと変わった。

 あの日のステージを見に来ていた善澤さんは、私の予感通りに39プロジェクトについての記事を手掛け、静香のことを大きく取り上げた。案の定その記事が多くの反響を呼び、もともとシグナルの一員として39プロジェクトの中では知名度があった静香だったが、今回のライブの成功と善澤さんの記事を追い風に、アイドル業界のみならず様々な界隈の人々へとその名を知らしめることに成功したのだ。

 まさに39プロジェクトで一番の稼ぎ頭となった静香のホワイトボードにはぎっしりと仕事の予定が書き込まれるようになり、それに伴って静香が劇場に姿を現す機会もめっきり減った。プロデューサーも静香の学業やプライベートとの両立に頭を悩ませるほどで、その多忙さは私たちの中でも明らかに群を抜いており、それこそ765ASの先輩たちと比べても引けを取らないほどの仕事量だと思う。

 静香がユニット公演後、更にスピードを上げてトップアイドルへの道を駆け上がっていく一方で、私の生活は何も変化がなかった。仕事も今まで同様にまばらな数しかなく、それもプロデューサーがコネクションを使って取ってきた仕事ばかりで、静香のようにクライアント側から受けたオファーなんて皆無。本番直前まで崩壊寸前だったクレシェンドブルーのライブをなんとか成功させて私が得たのは、今まで以上に明確に突き付けられた静香との差だけだった。

 

「39プロジェクト二年目は、諸君たちにユニット活動をメインにやって行ってもらおうと思っている」

 

 ユニット公演が全て終わった後、39人のメンバー全員を集めた高木社長は今後の活動方針をそう明らかにした。もともと一年目は個々のソロ活動をメインにして、二年目はユニット活動をしてもらう計画だったらしい。どうやら私たちの知らないところで既に話は進んでいたようで、今度は八月の末に再び劇場でユニット公演を開催することも併せて発表された。

 それからプロデューサーは39プロジェクトが始動してからのこの一年間の活動を見た上で、39人をフェアリー、エンジェル、プリンセスの3つのグループに振り分けた。私は静香と共にフェアリーに属することになり、そのフェアリーの中で私たちは紬さんとジュリアさん、恵美さんの計五人で新たなユニットを結成することが告げられた。そしてプロデューサーがリーダーに指名したのは、やはり静香だった。

 夏の暮れに予定された新たなユニット公演に向けてレッスンに励む中で、私は以前のように静香がリーダーであることに異議を唱えたり、静香の意見に反抗して張り合うような真似はもうしなかった。認めたくはなかったけれど、静香の実力が私たちの中ではズバ抜けていること、そしてクレシェンドブルーの時に偉そうに意見するだけで何も改善することができず、結果として静香個人の実力に助けられた私がそのやり方に何か文句を言う資格があるとは思えなかったからだ。

 アリーナライブの時と全く一緒だなと思った。

 自分が正しいと思ったことを主張して衝突して、その結果実力で捻じ伏せられて、全てを否定されたような敗北感だけが突き付けられる。そんな圧倒的なまでの敗北感と劣等感の中で息苦しさを日に日に覚えていく度に、思い出されるのは金田社長の言葉だ。

 

『世の中には適材適所ってもんがあるの』

 

あの時の言葉が、噛めば噛むほど味が出るスルメのように、日に日に私の胸の中でじんわりと広がっていく。第二回ユニット公演に向けて共にレッスンに励む静香の姿を、何かしらの媒体を通じて順調にアイドルとしてステップアップを重ねていく静香の姿を見る度に私は敗北感と劣等感を感じ、あの時の金田社長の言葉は本当なのではないかといった想いが強くなっていくのだ。

 金田社長はユニット公演が終わったあとも、東京出張のついでにと言って何度も劇場まで足を運んでくれた。だけど決して催促するわけでもなく、あくまで私が答えを出すまで待つスタンスなのか、一度も決断を急かすような言葉は口にしなかった。

 

「志保、お疲れ様」

「あ……、金田社長。お疲れ様です」

 

 第二回のユニット公演を二週間後に控えた頃、金田社長が再び劇場に姿を現した。この時の金田社長の服装がいつになくラフな感じに見えて、なんとなくではあるがいつものように出張ついでに来たのではないなと私は察した。

 

「調子はどう? もうライブは二週間後でしょ?」

「今のところは順調だと思います」

「そう。それなら良かった」

 

 挨拶がわりの近況を報告を終え、金田社長は一瞥して踵を返す。付いてきなさいと言わんばかりにヒールの音を響かせながら歩き出した背中を、私の足は無意識に追う。多分今から福岡行きをどうするのか決めなければいけないのだろうなと、そう直感的に感じた私は一度も振り返らずに歩いていく金田社長の背中を眺めながら、どのような言葉で断れば納得してもらえるかを考えていた。

 だけど金田社長を納得させるどころか、私自身を納得させる断り文句すら出てこなくて、そうこうしてる間に金田社長は薄暗い階段を登り切って、燃えるような真っ赤な夕焼けが広がる屋上へと辿り着いてしまった。

 

「良い風ね」

 

 劇場近くの海から吹いてくる風に巻かれた金髪を揺らされながら、フェンスに腰を預けた金田社長がそう呟いた。私は「そうですね」とだけ相槌を打って、隣に並ぶようにフェンスに体重を預ける。ふと空を見上げると一面に広がる夕焼けの、一番赤みが深い部分で光りを放つ一つの星が目に付いた。一番星の灯はか弱いけれど、それでもしっかりと私と金田社長を照らしていた。

 

「……静香ちゃん、武道館って聴いたわ。すごいわね、ほんとバケモンみたいなアイドルが出てきたもんだわ」

「ぶどうかん、ですか?」

 

 てっきり福岡行きの話をどうするのか訊かれると思い、身構えていた私は静香の名前が出てきて思わず聞き返した。金田社長は「あれ、もしかして聞いてなかった?」、と少し驚いたように背中をフェンスから離して私の顔を覗き込む。そしてわざとらしく溜息を付いて、先ほどより深くフェンスに腰をかけた。

 

「アイツ、まだ言ってなかったのか……。ごめんね、この話は公になるまで黙ってて」

「分かりました。それで、武道館っていうのは?」

「静香ちゃんに大型新人オーディション番組のオファーきてるのよ。優勝すれば武道館に立てるって話の」

「静香が武道館に……?」

 

 ドクンと心臓が一度だけ大きく鳴る。脈が速くなったのも束の間、すぐさま縮むように心臓が締め付けられていくのが分かった。ここ最近、静香の活躍を耳に挟む度に私に襲いかかってくる衝動だ。この衝動の正体は、静香が想像以上の速さで階段を駆け上がっていっていることへの猛烈なまでの劣等感だった。

 

「多分あの子は勝つわよ。それくらいの勢いも、実力もあるから」

「……静香が優勝したらどうなるんですか?」

「志保たちの先輩と同等、いやそれ以上のアイドルとして世間から認められるでしょうね」

 

 金田社長の言葉で、私の胸を一杯に埋め尽くしてた劣等感が不安へと一瞬ですり替わった。

 一年前の春香さんの姿を思い出す。あの絶対に超えられないレベルの差を私に突き付けた偉大な背中。どう足掻いても勝てないことを知って、だけどどうしても負けを認めたくなくて無心で夜の公園を走り続けた私。あの時感じた屈辱感、噛み締めた敗北感を私は今後ずっと静香に対して抱き続ければいけないのだろうか。

 何かが胸の中でうごめいた。自分の中に潜む最低な北沢志保だ。

 春香さんも、静香も、本当は失敗して欲しいと願っていた。失敗して、挫けて、そして結局私が正しかったのだと認めて欲しかった。そんな最低なことを願ってでもいないと、春香さんや静香のような実力も才能もない私は自分自身を保つことができなかったのだ。

 

「ねぇ志保、貴女はどうするの? このまま静香ちゃんがトップアイドルになるのを指を咥えながら眺めるだけで満足なの?」

 

 いつの間にか金田社長の真っ直ぐな瞳の焦点が、私に向けられていた。その視線は私の瞳の奥深くを捉えていて、誰にも見せなかった醜い北沢志保に向かって話しているようだった。

 

 このまま指を咥えて見るだけなんて、そんなの絶対に私が納得できるはずがない。

 だけど、何の才能もない私が静香に張り合えるとも到底思えない。

 

 金田社長の問いかけに私は口を噤んだ。負けたくないけど勝てる気がしない、そんな矛盾した考えが私の胸でぐるぐると渦巻いていて、もう何をどうするべきなのか判断が付かないほどぐちゃぐちゃになってしまっていたのだ。

 

「……志保、少し私の話をしても良いかしら」

 

 いつの間にか醜い北沢志保に向けられていた金田社長の視線が、真上に向けられていた。その視線は夕焼けの一番濃い部分を見つめている。私の方を見てはいなかったけれど、無言のまま頷いたのが視界の隅に入ったのか、金田社長はいつになくゆっくりとした口調で話を始めた。

 

「私ね、志保と同じくらいの歳の頃にアイドルやってたの」

「え? 金田社長がですか?」

 

 驚く私の方を見向きもせず、金田社長は「そうよ」と照れ臭そうに空を見上げながら笑う。

 遠い昔を思い出すかのように空を眺める金田社長の横顔は初めて見る姿で、頬の筋肉が緩んだその横顔はテキパキとした普段の姿とはまるで正反対の、優しくて温もりを感じさせる表情だった。

 

「私もまぁそれなりにトップを目指してやってたんだけど、笑っちゃうくらい才能も実力もなくて。だけど努力だけでのし上がってやろうと思って必死にやってたわ」

 

 思わず顔を伏せた。金田社長の若い頃の話が、今の私と重なって聴こえたからだ。

 そして私と同じように才能も実力もなかった若かりし頃の金田社長がこの先どのような結末を迎えるかも安易に予想がついた。その必死の努力が実らなかったから、金田社長はこうして一人の社会人としてプロダクションを経営していて、私に声をかけているのだから。

 

「同じ時期に一緒に事務所に入った同期の子がいたんだけど、その子がまぁとてつもなくスーパーな子で。実力も才能もピカイチで、信じられないくらいポテンシャルが高くて、私はその子に負けたくない一心で必死に付いて行ってたわ」

「そんな凄い方がいたんですか?」

「そうなの。日高舞って知らない?」

「……すみません、聞いたことないです」

「そっか、今の若い子たちは知らないのか」

 

 ま、舞も三年くらいでアイドル辞めちゃったしね。

 そう口にした瞬間、ぬるい風が水平線の向こう側から吹いてきて、金田社長の髪を拐った。風に拐われた髪の奥で、一瞬だけ金田社長の瞳の色が変わったのを私は見逃さなかった。後悔、未練、そして諦め––––、そんな今となってはどうしようもない感情が、金田社長の大きな瞳を濡らしていたのだ。

 乱れた髪を優しく耳に掛けて、金田社長は頬を人差し指で掻く。その時にはもう先ほどまでの「ただただ昔を懐かしむ」瞳に戻ってしまっていた。

 

「実は私もわりと良いところまで行ってたのよ。オーディションだって結構勝ってたし、舞ほどじゃないけど知名度もそれなりにあったし。だけど結局長くは続かなくて、私も舞が辞めるほんの少し前に辞めちゃったわ」

「……どうして辞めたんですか?」

 

 一瞬訊いて良い質問なのか迷ったけれど、無意識のうちに私はそう尋ねてしまっていた。ずっと空を仰いでいた金田社長がゆっくりと首を動かし視線を私に戻す。そして今度は胸の奥底に隠していた醜い北沢志保ではなく、金田社長の目の前に立つ北沢志保に向かって答えてくれた。

 

「いつの間にか舞と同じことをして、舞に勝つことだけに拘るようになってしまって楽しくなくなっちゃったの。何も同じ方法でトップを目指さなくても、自分の得意な道でトップを目指せば良かったのに」

 

 思わず眉をしかめた私に、金田社長はまるで同意を求めるかのように笑って見せた。だけどその微笑みに私は笑い返せなかった。今の私がまんまかつての金田社長と同じだと気付いたからだ。

 金田社長の言う通りだった。現に私は静香と比較して勝手に劣等感を抱いて、腐りかけている。静香に勝つことだけがアイドルの全てではないはずなのに、だ。

 私は周囲と見比べて劣等感に苦しめられるあまり、大切なことを見落としていた。誰に勝つとか、誰より有名になるとかじゃなくて、そんなことよりも大事なことがあったのだ。

 

 私はアイドルとしてどうなりたいのか。

 私はアイドルとして何がしたいのか。

 

 もともとは父に見つけてもらうために始めたアイドル活動だったが、その目的は結局実現することができなかった。だけどそれでも私はこうしてアイドルを続けている。その道を選んだのは誰の為でもなく、自分の為だ。誰かになりきって自分を表現する演劇がしたいから、そして冬馬さんのような逞しくて強い人間になりたいから、私は自分の意思でアイドルを続ける道を選んだのだ。

 だとしたら静香に勝つとか、そんなことを考える前に、自身の目標を叶えるための努力をするべきではなかったのか。

 皆が全て得意なことや不得意なことが同じなわけではないのだから、それぞれの得意な分野で、挑戦したいと思える場所で、トップを目指せばいい。それこそ静香が765プロで輝きを放っているように、もしかしたらゴールドプロは私が今以上に輝ける場所なのかもしれない。

 福岡行きの話を断ろうと決めていたはずなのに、金田社長の言葉でその決意が揺らいでいる。

 その迷いを、当然金田社長は見逃さなかった。

 

「前に言ったでしょ、志保と私は似た者同士だって。負けず嫌いなところや意識の高いとこも、若い頃の私とそっくりだから、志保が抱えているもどかしさや想いが痛いほど分かるの。だからこそ貴女を誘ってるのよ」

 

 指先に飾られたネイルが、夕焼けに照らされてキラキラと光っている。その光るネイルが私の両肩に触れた。

 金田社長の背後で、沈んでいく太陽の前を飛行機が通り過ぎていくのが目に入った。おそらく羽田空港から出発した飛行機なのだろう、上空へと上昇していく飛行機は真っ赤な太陽を背景に、闇と夕焼けの狭間へと進んでいく。その飛行機の足取りを記録するかのように空に残された飛行機雲は、まるで私のこれから進むべき道を示しているかのように、西の方角へと一直線に伸びて行った。

 

「志保、福岡に来なさい。貴女の挑戦したい演劇の世界でトップを目指すの。私のようにならないためにも」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



実は今日で連載開始からちょうど一年になるので初投稿です。


 金田社長の話で決意が大きく揺らいではいたが、それでも私はその場で福岡行きを即決はしなかった。口籠る私に対して、金田社長自身もあの場での答えを欲していたわけではなかったようで、必要以上に判断を催促しなければ、更に口説き落とそうと畳みかけてくるようなこともしなかった。むしろ金田社長は言いたいことを全て話し切ったといった様子で、最後の判断を私に委ねているような気さえした。

 間違いなく福岡に行けば私は今以上に自分の夢や目標に近づくことができる。

 そのことは十分に理解することができた。それと同時に、このまま765プロに居続けたところで、私が静香のようになれる可能性は低く、燻り続けていくことになることも。

 だけどその現状を理解してもなお、私が首を縦に振れない理由があった。それが冬馬さんの存在だったということに私が気が付いたのは、金田社長から話を聴いた数日後のことだった。

 なにも冬馬さんと離れることが寂しいわけではない。仮に私が福岡に行くと伝えればきっと何も言わずに背中を押してくれるだろうし、冬馬さんなら遠距離になることが原因で別れるとかそういうことも言い出さないと思う。だけどそういうことではなくて、私はただ単に冬馬さんが側にいない日常が想像つかなかったのだ。

 アリーナライブで春香さんに全てを否定されたあの日から、まさに露頭に迷っていた私に歩くべき道を示してくれたのが冬馬さんだった。いつも私の少し先を歩いていて、そして私と似たような価値観を持つ冬馬さんは言うなれば私の生きる指針のような存在で、その背中を追いかけ続ければいつか自分も冬馬さんのようになれるのではないかという予感があったのだ。誰かの真似をして、誰かが通った道を歩こうとする––––、その気持ちは謙虚なんかじゃなくて、随分と身勝手なことだとも分かっている。私は冬馬さんのような煌めきを持たない、冴えない一般人だ。そんな人間が神様から印をつけられたような人間のようになりたい、彼がいつも眺めている大空をいつの日か一緒に舞いたいと願う気持ちも随分傲慢なものだとも。

 だけど、それでも私は願わずにはいられなかった。冬馬さんのようになりたい、と。

 私の中で冬馬さんが占める割合が大きかったからこそ、今更人生の指針が何一つない中での生活が想像つかなかった。冬馬さんがいない福岡で私はどうやって生きていけばいいのか、誰の背中を追い続ければいいのか、それはまるで真っ暗闇に一人で放り投げられるようなもので、とてもじゃないが光挿さない暗闇の中、私は一人でやっていける気がしなかったのだ。

 以前は一人でも生きていけていたはずだった。誰の力を借りることを弱さだとすら思い込んでいて、自分は己の力だけでトップアイドルの道を目指せるものだと、そんな根拠のない自信もあったはずだった。だけど誰かの力を借りることを覚えてしまってその居心地の良さに慣れてしまった以上、もうあの頃のように進むべき道が全く分からない暗闇の中をただ闇雲に走り回ることはできないのだと思う。

 

(こんなんじゃなかったのに……)

 

 運命を大きく左右する決断を迫られる中、問われるのは夢へと向かう情熱の強さのはずなのに、皮肉にも露わになったのはいつの間にか弱くなってしまっていた自分だった。

 

 

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 

 

 金田社長が劇場にやってきた週の日曜日。

 私は特別にユニットレッスンを休ませてもらって、速水さんが誘ってくれたドラマのオーディションに参加していた。このドラマは速水さんが属する346プロで企画・制作されたものであったが、役者としての有望な新人を発掘する狙いもあったようで、オーディションでは外部からも積極的に参加者を募っていたそうだ。製作陣には多くの有名作品を手掛けた実力者たちが揃っており、役を勝ち取ることができれば、役者を志す者として大きなステップアップになる。それが狭き門だとは分かっていたが、またとないチャンスに私は飛びつき、冬馬さんから受け取ったチラシの裏に書かれていたURLにアクセスしオーディションに応募したのだった。

 

 オーディションに参加することが決まってから、私はユニット公演のレッスンの合間を縫ってオーディションの準備に打ち込んだ。何度も何度も映像を巻き戻して再生し直すかのように、繰り返し思い返していたのは博多座で観た速水さんの演技だ。あの時の一つ一つの仕草や動作を私の脳は鮮明に覚えていて、その時の速水さんの演技に自分自身を重ね合わせる。その作業だけに、私は莫大な時間と労力を割いていた。

 当然ながらあの時速水さんが演じた役と、今回私がチャレンジする役はまるで違っていた。だけどあの時の息を飲むことさえも忘れるような速水さんの迫真の演技を私もすることができれば、間違いなくオーディションに勝ち残れると思っていたのだ。だからこそ、自分が見出した勝機を確実なモノにするために、立ち振る舞い息遣いも、何なら爪の先の神経までも、何もかもを博多座のステージに立った速水さんと同じになることだけを目的に私はひたすら演技のレッスンに打ち込んだ。

 その努力の甲斐あってか、私の演技力は記憶の中の速水さんの姿とかなり近付けたような気がしていた。私はあの時の速水さんのような演技ができる、そんな自信を持って臨んだオーディションで、私はあの日の速水さんにかなり近付けた演技を披露することができたと思う。

 だが、手応えはまるでなかった。

 私の演技を観た審査員たちは皆、困り果てたような表情をしていたのだ。そして最後に部屋を出る間際には背中から控えめな溜息が聴こえてきたのだから、私の手応えとは裏腹に審査員たちの評価はよくなかったのだろうなと察することができた。

 

––––どうして私はダメだったんだろう。

 

 結果を待たずとして落選の印を押され、納得がいかないモヤモヤした気持ちを抱えながら会場を出た時だった。出口の近くで見覚えのある姿が目に入って、無意識に重い足取りを止めた。

 

「志保、お疲れ様」

「……速水さん」

 

 夏の日差しを微塵も感じさせないような涼しい笑顔を浮かべて、速水さんが手を振っている。私が止めていた足を少し急ぎ足で動かして速水さんの隣に並ぶと、速水さんは何も言わずに歩き始めた。自然と動き始めた私たち二人の足が最寄りの駅の方角へと向かっていたから、もしかしたら速水さんは私が出てくるのを待っていたのかもしれないと思った。

 日も暮れ始めている時間帯だというのに、未だに外はうだるような暑さが続いている。時折吹く風は少しも涼しさを含んでなくて、少し歩いただけで額に汗が滲み始めているのが分かった。

 

「聞いたわ、ゴールドプロの金田社長からオファー受けたんだって?」

 

 額の汗を拭った時、速水さんからそんなことを訊かれた。速水さんは前を向いたまま、相変わらずこの暑さに動じないような涼しい表情で歩いている。その横顔に「はい」とだけ返すと、すぐさま「どうするの?」と鋭く切り込んできた。

 

「……分からないです。どうすればいいのか」

 

 何処からか聴こえてくるセミの高らかな鳴き声にかき消されてしまいそうなほどの声だった。速水さんの足が止まったのと同時に、私は慌てて視線をアスファルトに向ける。咄嗟に俯いたのはきっと速水さんに弱い自分を見せたくないといったチンケなプライドのせいだ。

 私たちの伸びた影は点字ブロックを超えていて、ちょうど頭の部分を沢山の車が走っている。次から次へと私たちの前を通り過ぎていく車のエンジンの音や、灼熱と化したアスファルトの上を走るタイヤの音がやけに耳に届いた。乾いた口の中の唾を飲み込むと、一滴の汗が頬を伝ってゆっくりとアスファルトの上へと落ちていくのが目に入った。

 

「金田社長はかなりやり手の人よ。あの人のとこでなら志保も演劇に打ち込めるんじゃない?」

 

 速水さんはそう言ったものの、その口ぶりは「何を迷うことがあるの」と言っているようだった。

 今までの人生で経験したことのない不自然な沈黙が続く。速水さんは痺れを切らしたのか、黙り込む私の顔を確認するかのように覗き込んできて、私はそれに慌てて反応し、二歩くらい横に引きながら咄嗟に背を向けてしまった。

 演劇をしたいと常々口にしておきながら、こうして演劇の仕事に打ち込める絶好のチャンスが来ると途端に躊躇するのだから、私の言動は酷いくらいに矛盾しているのだと思う。きっとその理由が速水さんには全く見当が付かなくて、だからこそこうして疑問を呈しているのだろう。

 言えるはずがなかった。冬馬さんが居ない福岡で、自分一人でやっていける自信がないだなんて。

 自分の肩が硬く突っ張っているのが分かる。つむじの辺りに速水さんの視線が注がれているのが伝わってきて、暑さではない別の原因によって湧き出てきた冷たい汗が、いつの間にか身体中の体温を下げていた。

 

「ねぇ、今日のオーディションで私の真似をしたって本当?」

 

 唐突に速水さんが脈絡のない言葉を口にして、私は執拗に上げようとしなかった顔を思わず上げてしまった。速水さんは私の顔を覗き込むわけでもなく、ほぼ無表情に近い顔つきで私を見つめている。そんな速水さんの背後では、いつの間にか信号の色が一周回っていたようで、真新しい歩行者用の信号機には再び赤色が点灯していて、速水さんと遠くで佇む信号機の間を次々と車たちが走り抜けていく。その車たちが道路の上に置いて行った排気ガスの匂いが気管を通って肺の中に入り込んできて、妙な息苦しさを覚えた。

 

「……誰がそんなことを言ってたんですか?」

「審査員の人よ。明らかに私を意識した演技をしてたって」

 

 質問を質問で返したが、あっさりと打ち返されてしまった。

 いよいよ返す言葉がなくなって口を閉ざした私を、速水さんは相変わらず何の感情の色を見せない顔で見つめていた。決して怒っているわけではなさそうだが、間違っても速水さんの演技を真似した私を好意的に捉えている風には見えなかった。

 

「志保は一体何をしてるの?」

 

 瞬きもせずに目を細めて、速水さんがそう問うた。

 胸がどくんと鳴る。その質問はあまりに漠然としたもので捉え所が分かりにくい質問だったが、私が胸の中で大事に大事に抱えていた何かが大きく揺さぶられたことだけは確かだった。

 

「志保は、何がしたいの?」

 

 少しの間を置いて、速水さんが質問を繰り返す。

 すっと頭が冷えた。何をしているのか、そして何がしたいのか、立て続けにそう訊かれて、何か私は根本から大きな間違いをしていたのではないかという気になったのだ。

 そして速水さんは私が犯し続けてきた過ちの正体を、はっきりと突きつけた。

 

「志保は志保なのよ。他の誰にはなれないし、誰かの真似をしたところで所詮コピーにしかなれないの」

 

 アリーナライブで春香さんに自分の過ちを突きつけられた時よりも、クレシェンドブルーで静香の実力に無理やり捻じ伏せられた時よりも、何倍も大きな衝撃が全身を駆け巡った。私を支えていた太い骨組みが、激しい地響きを立てながら木っ端微塵に壊れていったのだ。

 真似をしたところで所詮はコピーにしかなれず、オリジナルに勝てることはない。

 当たり前のことだった。人間誰しも唯一無二の存在であって、誰かの真似をして誰かに完全になりきることなど不可能なことなのだから。きっとそれは殆どの人が理解している常識で、速水さんもそれを分かっていたからこそ、常識を疑うような口ぶりで言ったのだろう。

 だけどアリーナライブが終わってから今日まで、独りで先の見えない未来を生きていくことに不安を感じ、天ヶ瀬冬馬という名の都合の良い存在に頼りきって生きてきた私は、いつの間にかそんな当たり前の常識さえも忘れ去ってしまっていた。

 自分にはない煌めきを持つ二人が羨ましくて、冬馬さんや速水さんのような人間になりたいと強く願うあまり、いつからか私は二人が生きてきた道を必死になぞることだけに夢中になってしまっていた。

 だけどそれは自分が自分である事から逃げ、直視しなければならない現実から目を背け続けていただけなのかもしれない。私は北沢志保として生きていかなければならないはずのに、自分の人生について考えることを放棄して、全く関係のない他人の人生のレールの上を走ることで楽をしようとしていたのだ。

 

「……それじゃあ、私はどうすればいいんですか」

 

 自分が大切に抱えていた価値観、生き方を全て否定されて、速水さんに見せたくなかった弱い自分があっさりと姿を現した。その声は、情けないほどに弱り切っていた。

 だけどそんな醜態を晒した私に対して、速水さんは口角を上げて笑っている。数歩だけ私の方へと歩み寄ると、春香さんも、冬馬さんも決して言わなかった答えを、優しい声で教えてくれた。

 

「志保は志保なんだから、自分だけの人生を歩めば良いのよ」

「……自分だけの、人生?」

「そうよ。誰かの真似をするのではなく、良いところも悪いところも自分らしさだって認めて、受け入れて生きていくの。そうすればきっと他の人じゃできないような、自分らしい演技ができるようになるんじゃない?」

 

 アリーナライブが終わったあの夜から私がずっと探し求めてきた答えがきっちりと形になって、初めて私の前に姿を現した。

 

 良いところも悪いところも自分らしさだって認めて、受け入れて生きていく。

 誰かの真似をするのではなく、自分の人生を歩む。

 

 そんな強い生き方が、私にもできるのだろうか。

 いや、この世界で生きて行きたいと願うのならば、速水さんの言うような人間にならないといけないのだろう。だとすればそんな強い生き方ができる人間になる為に、私はどうすればいいのだろうか。

 そう考えたとき、真っ先に頭に思い浮かんできたのは金田社長が持ちかけた福岡行きの話だった。




速水奏の人生周回プレイ感は異常。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



※この回は過激なBL表現を含みます。ホモじゃない人は帰ってください。
上記の注意書きは嘘なので初投稿です。


 もう誰かの真似をしようなんて思わなかった。

 私は速水奏でもなければ天ヶ瀬冬馬でもなく、誰でもない北沢志保として生きていかなければいけなくて、自分以外の誰かになることなんてできないのだと知ったからだ。

 ありのままの自分が例えカッコ悪くても、それが本来の自分であり、あるべき姿なのかもしれない。そんな当たり前のことを見落としていたことに気が付き、ようやく本当の意味で自分と向き合うことができた気がする。

 そしてその上で改めて考え直して、私は福岡に行ってゴールドプロで挑戦することを決めた。

 私が今後一人のアイドルとして、演者として生き残る為に、冬馬さんがいない福岡の地で誰の手も及ばない孤独な環境に身を置いて、自分らしい生き方を探す挑戦をするべきなのだと。それくらい極端な環境に身を投じないと、誰かに自分を照らし合わせる癖が抜けずに、いつまで経っても静香に追いつける気がしなかったのだ。

 

 その決意が固まると、私はすぐさま冬馬さんに電話をして、いつも高台の公園に呼び出した。今すぐにでも冬馬さんにこの覚悟を伝えて福岡行きを決めないと、すぐにでも弱気な自分が出てきて決意が揺らいでしまいそうだったからだ。冬馬さんは仕事が入っていたそうだが、私の急な呼び出しにも嫌な顔一つ見せず、少し遅れるかもしれないがなるべく早く駆け付けると言って応じてくれた。

 待ち合わせの時間より少し早めに公園に到着した私は、夜の街を見下ろしながらこれから冬馬さんにどのように福岡行きを伝えようかと頭を悩ませていた。あれこれと断片的に頭に浮かんできた言葉たちを組み合わせて、どうにか私の気持ちや考えが伝わりやすいような文章を作ろうと試みる。映画のワンシーンのように、簡潔かつ的確に伝わるフレーズを探していたのだけれども、バラバラの言葉のピースたちはなかなかピッタリとハマってくれなかった。それこそ私の上空に広がる星たちのようにあちこちに散らばったままで、一向に思うような一つの文章としてまとまってくれなかった。

 

(福岡に行くって言ったら、冬馬さんはどんな顔をするのかな)

 

 完成形の見せないジグソーパズルの作成に飽きてしまい、私はいつの間にかそんなことを考えるようになった。

 冬馬さんのことだ、きっと表立って寂しいとか行かないでくれなんてことは言わずに、「頑張れ」って言って私の背中を後押してくれるだろう。決して小さな子供のように駄々をこねて、「考え直してくれ」なんてことを言うような人間じゃないことは分かっている。

 だけど、それでも私は止めて欲しかった。

 私だけではなく、冬馬さんにも心のどこかで私たちが離れ離れになることに対して寂しいと思っていてほしいと、そんな随分と自分勝手な願望が胸の中で渦巻いていたのだ。

 

「わりぃ、待たせたな」

 

 結局思うようなフレーズは最後まで完成することなく、冬馬さんが到着してしまった。

 急ぎ足で階段を登ってきたのか、少しだけ呼吸が乱れている冬馬さんを見て思わず「急に呼び出してすみません」と一言謝ると、冬馬さんはやっぱり優しい顔で「大丈夫だから気にすんなよ」と言ってくれた。

 そんな冬馬さんの些細な表情を見ただけでもう堪らなくなって、一大決心で決めたはずの覚悟が大きく揺さぶられる。途端に今から私が口にしようとしていたことが大きな過ちのように思えた。冬馬さんの隣にいる今の生活以上に素敵なステージが、福岡で私を待っているとは考えられなかったのだ。

 

「……それで、どうした?」

 

 私の隣に腰を下ろした冬馬さんが、一度だけ空を仰いで単刀直入にそう切り出した。

 覚悟を伝えようとしたけれど、吸う息が苦しくてなかなか声が出てこない。私の気持ちとは裏腹に、身体全体が福岡に行くことを拒否しているかのようだった。ここで口にしてしまったら最後、当然だが後戻りできなくなり、そのせいで後に収集がつかない事態を引き起こしてしまうような気がして、心が必死に拒絶反応を起こしていたのだ。

 だけど私は気付いていた。この拒絶反応が、ただの甘えだということに。

 いつの間にか俯き加減になっていた頭を思いっきり振り上げると、冬馬さんが隣でジッと私の眼を見つめて言葉を待っていた。その瞳は、私が今から言おうとしている言葉を知っているかのようだった。

 

「––––私、福岡のゴールドプロに行こうと思います」

 

 気付かれないように両手で拳を作って、きっぱりと言い切った。

 やはり私の言葉を予め予測していたのか、特別驚いたようなリアクションは見せなかった。冬馬さんはゆっくりと瞬きをしただけで、身体を硬くして言葉の真偽を確かめるように私をジッと見据えたままだ。

 

「……どうして行こうと思ったんだ?」

 

 そう訊き返してきた冬馬さんに対して、私は先ほどまで頭の中で散らばっていた言葉たちの中から答えを探す。恐らくこう訊かれることは予想がついていて、そのための答えを用意していたはずだった。だけど口から溢れ出てきたのは、用意されていた答えではなくて咄嗟に思い浮かんだぎこちない言葉だった。

 

「冬馬さんが握手会に来てくれたこと、あったじゃないですか」

「握手会? あぁ、春頃の……」

 

 そう言いかけて、冬馬さんの顔が一瞬だけ曇った。もしかしたら琴葉さんの列に並んでしまって私に怒られたことを思い出したのかもしれないと思って、私は慌ててその陰りを消すように話を続ける。

 

「決して多くはなかったけど私の列に並んでくれた人もいたんです。その人たちは皆、こんな私に『応援してます』とか、『元気をもらってます』なんて言ってくれて」

 

 あの日味わった幸福感を忘れることはなかった。常に四六時中というわけではなかったけど、あの時の記憶はふとした時に頭に浮かんできては不思議なほどに私にパワーを与え続けてくれて、どれだけ時間が経っても一切色褪せることなく、いつまでも特別な思い出としてキラキラと光り続けていたのだ。

 そして偶然にも、私の列に並んでくれた人たちと似たような経験を、自らも福岡の地ですることができた。

 博多座で初めて速水さんに出会い、それまで抱えていた憂鬱や苛立ちを吹き飛ばす不思議なパワーを貰ったように、あの日私の列に並んでくれた人たちも私から何かを得ていたのだと思う。そしてその両者の立場を経験できたからこそ、私はもっと多くの人を笑顔にしたい、多くの人に元気を与えれる存在になりたいといつしか強く願うようになった。

 

「私、もっと多くの人に影響や勇気を与えられるような人間になりたいって思ったんです。そしてその手段として、演劇の道を極めたい。その為に、私は私の道を歩かないといけないと思うようになったんです」

 

 初めて出会った時から、冬馬さんは憧れだった。

 冬馬さんのような強い人間になりたい、だけどなれなくて、そのジレンマの中でもがきながら、どうにか近付きたい一心でずっと大きな背中を追いかけ続けてきた。

 だけど、それではダメなのだ。

 冬馬さんは冬馬さんの方法で、私は私の方法でしか、この大空を舞うことはできないのだから。だから私は私だけの方法を、空を舞う手段を、見つけ出さないといけない。

 私の話に冬馬さんは何も言わずに、ずっと瞳を見据え続けていた。純粋なその視線が鼻の奥が湿っぽくさせて、このまま口を開くと声が鼻声になりそうな気がした。

 大きく瞬きをして、夜空を見上げる。幾千の星たちを見ながら鼻をすすって、この時になって初めて決意を固めた。

 

「––––だから、私はゴールドプロに行きます」

 

 今までの弱い自分を切り捨てるように、語尾を強めてそう言い切った。冬馬さんは「そっか」と小さく頷いて、変わらない穏やかな顔のまま口を開いた。

 

「志保なら、そう言うと思ったぜ」

「……分かってたんですか?」

「なんとなく、だけどな」

 

 前髪の向こう側で眼を細くさせて、ニヤリと笑った。その笑顔に私が笑って返せたかは分からない。言い切れたことに対する安堵感と、言ってしまった以上後戻りができないという不安が胸の中で渦巻いていたからだ。

 だけど冬馬さんは顔つきを変えることなく、膝を叩いて腰を上げた。その拍子に頭のてっぺんから温もりが伝ってくる。冬馬さんの大きくて男らしい掌がいつの間にか私の頭の上に乗っていて、優しく撫でていた。

 

「がんばれよ」

 

 余裕の笑みで、私を見下ろす。そのまま両手を頭の後ろで組むと、歯を見せて笑った。

 

「良かったじゃねぇか。福岡に住みたいって言ってたし」

「そ、それは……っ!」

「冗談だって」

 

 戯けたように笑って、私に向けて親指をぐっと立てる。

 

「少しでも時間があれば、志保に会いに福岡まで行くから。だから、頑張ってこい」

 

 そう言って、冬馬さんは力強く私の背中を押してくれた。

 だけど、私が心の底で期待していた言葉は、最後まで冬馬さんの口からは出てこなかった。

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

 いつもの駅で志保が改札を通っていくのを見送った時、ふとこの駅でこうして手を振り合って別れる機会も今後限られてくるのだろうなと思った。ふいに猛烈な寂しさが襲ってきて、福岡に行くと宣言した志保に対して必死に取り繕ってきた自然体が崩れそうになる。俺は辛うじて崩壊寸前一歩手前のところで踏みとどまって、なんとか笑顔で手を振って踵を返した。

 駅を出てから夏の夜の匂いがする帰路を歩く途中、無意識のうちに何度も溜息が溢れてきた。それはまるでパンパンに張り詰めていたボールの空気が抜けていくようで、溜息が繰り返されたびに俺の身体からは力が失われていくのが分かる。一人きりになってどっと疲れが押し寄せてきた身体は長くは保たず、駅から少し離れたところにあった駐車場で足を止めて、空になっていた駐車場のブロックの上に座り込んだ。何度目かのガス抜きをした後に空を見上げると、街灯の灯りの側では大勢の虫たちが屯ろしていた。

 

「……福岡かぁ」

 

 志保が福岡に行く予感はしていた。本人は当初、福岡行きは断ると話していたけれど、ユニット公演を終えた日から、時折ここではない何処か遠くを眺めるようになった志保の様子から、きっとゴールドプロの話を受けるのだろうなと察していたのだ。

 寂しい気持ちがないといえば嘘になる。だけどこの挑戦が今後の志保を間違いなく左右する決断になることを分かっていたから、俺はその想いは伝えなかった。伝えたら最後、きっと志保の夢へと向かう気持ちの足枷になってしまう気がしたからだ。志保は志保の夢に向かって頑張って欲しい、その思いに嘘偽りはなくて、だからこそ俺がその邪魔だけはしたくなかった。

 そんな複雑な気持ちが半分、もう半分は異様なまでの焦燥だ。

 北斗や翔太は315プロで今後の自分の歩むべき道を見つけ出し、未来に向かって進み始めた。志保だって迷いながらも、こうして福岡の地で独り夢を追う覚悟を決めている。その傍らで、俺は相変わらず今後の自分の未来設計図を何一つ描けず、漠然とした毎日を過ごしている。それがとても罪深いことのような気がして、異様なまでの焦りを募らせていくのだ。

 

 ––––このままじゃ、俺だけが取り残されちまう。

 

 数ヶ月前からまるで強迫観念のように襲い続けてきた不安が、今日の志保の決断を聞かされてからより一層具体性を増して俺を囲うようになった。

 確かに315プロにいればアイドルとして落ちこぼれていくことはないだろう。インディーズの頃と比べると仕事だって安定してあるし、他のメンバーたちの頑張りもあって事務所自体もそれなりに軌道に乗り始めている。だけど今の生活を続けていったところで、俺がずっと飛べると信じ込んでいた空の向こう側へは絶対に行ける気はしなかった。思い描く理想の自分、志保が憧れだと言ってくれた天ヶ瀬冬馬になるためには、何かが決定的に足りないのだ。

 ボンヤリと街灯に群れる虫たちを見ていると、その中で一際大きな羽を持つシルエットが灯に向かって行く姿が目に付いた。だけど一直線に街灯へと羽ばたいていった黒いシルエットは、光に近づいた途端に鈍い音を立てて落下して行ってしまった。そのあまりにも惨めに落下していく姿が、俺の胸をギュッと強く締め付ける。

 ズボンの裾を掴んで、眼を閉じる。瞼の裏ではあの日の志保が、憧れの眼差しを俺に向ける姿が浮かんできた。喫茶店で志保がずっと手の中で握り締めていた予感を確かなモノに変えてくれた感触––––、絶対に俺は飛べると、あの時に感じた確信を何度なんども確かめる。

 

 ––––俺はこのまま飛べないのだろうか。飛べる感覚は確かにあるはずのに、この感覚を憶えたまま、埋もれていってしまうのだろうか。

 

 焼け落ちていくシルエットが未来の自分に重なって見えた時だった。いつの間にか強く掴んでいたズボンの裾が、慌ただしく揺れ動いた。ポケットからiPhoneを取り出すと、しつこく揺れる画面に表示されていたのは石川プロデューサーの名前だ。

 こんな夜遅くに何かあったのだろうか、妙な胸騒ぎを抱えながら俺は応答のボタンを押した。

 

『あ、お疲れ様です。今大丈夫でしたか?』

 

 電話越しの石川さんは落ち着いた口調だった。どうやらトラブル系の連絡ではなかったらしい。

 

「大丈夫すけど、どうしたんすか?」

『今から少し時間ありますか? 冬馬さんにお会いしたいっていうお客さんが来てて』

「お客さん? 誰だよこんな時間に」

『まぁ、それはお楽しみってことにしておきましょう。今どちらにいますか? 場所教えてくれたら迎えに行きますよ』

 

 最後までその“お客さん”の名前を教えてはくれなかったが、場所を伝えた数分後に石川さんは車で迎えに来てくれた。石川さんの運転する車の助手席に乗り込み、夜の街を駆けていく道中に再度問いただしたが、やっぱり不適な笑みを浮かべるだけでその人の正体は教えてくれなかった。

 車に揺られて十分ほど経過した頃、少し不慣れな様子で二度ほど同じ道を走った後に石川さんは繁華街から少し離れたエリアのパーキングに車を停めた。それから俺に帽子と伊達眼鏡を差し出して変装するようにと指示を出して、暗い路地裏の道をゆっくりと進んでいく。何も聞かされないままその背中に付いていくと、大きなゴミ箱が並んだ曲がり角を曲がったところで、石川さんは年季の入った木製のドアをゆっくりと押して中に入って行った。開かれたドアの向こう側から微かな灯りと共に、鼻の奥を摘まれるような強い匂いが飛び込んでくる。その匂いと薄暗いお店の内装から、ここがアルコールを提供するお店なのだとなんとなく気付くことができた。

 

「おーい、こっちだ!」

 

 物静かな店の雰囲気をぶち壊すような暑苦しい声。店の奥のカウンター席に座った齋藤社長が俺たちの方へと大きく手を振っている。その隣に座っていた、齋藤社長の連れだと思われるメガネをかけた男性も、俺たちの方をじっと見つめていた。

 普段は立ち入らないような店に来て緊張しているのか、ほんの少しだけ肩肘を張っている。だけどそんな肩の力も齋藤社長の元へ近づくにつれ、隣に座る男の顔がはっきりとしてくると途端に抜けてしまいそうになってしまった。

 

「え、おい。あいつって、まさか……」

 

 咄嗟に足を止めて、石川さんの顔を仰ぐ。石川さんはそんな俺のリアクションを楽しむように、ニコッと笑っているだけで何も言わなかった。だけどその反応だけで齋藤社長の隣に座る男が誰なのか、確信がついた。そして男性もまた、俺を前にしてメガネの奥の眼を糸のように細め、笑っていた。

 

「……なんでアンタがここにいるんだよ。ハリウッドに行ったんじゃなかったのか」

「さっき帰ってきたんだよ。まぁ一時帰国だからまたすぐに戻らないといけないんだけどな」

 

 赤羽根さんが隣の椅子を軽く叩いて、「こっちに座れよ」と合図を送る。その合図に答えて高級そうな背の高い丸椅子に腰を下ろした時、ふと店の隅に置かれた大きなスーツケースの存在に気が付いた。取っ手の辺りにはヨレヨレのタグが付いたままになっていて、どうやら本当に空港に到着してからすぐにこのお店にやって来たらしい。

 

「ったく、帰って来たんだったらこんなとこに寄らないで765プロに顔出しにでも行ってやれよ」

 

 こんなところで道草を食ってる暇があるのなら、少しでも早く天海たちに会いに行ってやればいいのに。そう思っていたことがまんま口から出ると、赤羽根さんは少しだけ赤くなった頬をピンと伸ばして、驚いたように目をパチクリさせた。

 

「……驚いた。話には聞いていたけど、思ってた以上に雰囲気変わったな」

「はぁ? なに言ってんだ」

「いいや、こっちの話だ。気にしないでくれ」

 

 いつの間にか石川さんが注文をしてくれていたみたいで、無口なバーテンダーが俺の前にすっとオレンジ色のドリンクを差し出してくれた。当たり前だが俺は未成年のため、まだアルコールを飲むことができない。そういう法律なのだから仕方がないのだろうけど、齋藤社長や赤羽根さんがアルコールを飲んでいる様子を見ていると、ソフトドリンクしか飲めない自分がひどく子供に思えてきて居心地の悪さを感じ始める。

 なんか子供扱いされているようで良い気がしないまま、オレンジジュースを喉の奥へと走らせた。そもそもこんな遅い時間に未成年の俺がバーにいること自体、おかしな話なのだ。

 

「……君は最近、アイドル活動に窮屈さを感じていただろう」

 

 突然、齋藤社長がおもむろに言った。

 居心地の悪さを誤魔化すようにオレンジジュースを飲んでいた俺は、慌ててグラスをテーブルに戻す。齋藤社長は氷だけが残ったグラスの底を眺めながら、独り言のように話を続けた。

 

「もっと大きな空を飛んでみたい。だけど飛ぶ方法も方角も分からない––––。そんなもどかしさを抱え込んでいたんじゃないか?」

「……気付いてたのかよ」

 

 いつの間にか誰にも見せなかったはずの不安を、齋藤社長が的確な言葉で具現化した。

 無鉄砲で脳筋野郎なイメージばかりが先行する人だが、この人は妙に勘が鋭いところがある。そのことはスカウトを受けた時から薄々感じていたけれど、それでもここまで俺の内面を把握していたのは正直予想外だった。

 

「そんな君のために、今日は赤羽根くんが来てくれたんだ。さっ、後は君から直接話を聴かせてやってほしい」

「分かりました」

 

 どうやら無駄な世間話は一切省いて、本題に入るつもりらしい。

 話の全舵を任された赤羽根さんは、まず最初に自身と齋藤社長は以前から面識があり、時折連絡を取り合う仲だったことを説明してくれた。仕事だけではなくプライベートでも親睦があったようで、齋藤社長が315プロを正式なアイドル事務所として立ち上げる時に、俺たちに声をかけるよう勧めたのも実は赤羽根さんだったそうだ。

 

「私情ではあったけど、ずっと961プロを抜けた三人のことを気にかけてはいたんだ。あのまま終わらせるのは勿体ないって思ってたからな。それに齋藤社長のとこでならジュピターがもう一度輝けるんじゃないかって確信があったんだ」

「……そういうことだったのか」

「まぁなんだ、昔は色々あったけど315でまた頑張ってるって聴いて自分のアイドルのことのように嬉しかったよ」

「ふんっ、相変わらずお人好しなんだなアンタは」

 

 はははと困ったように笑って、赤羽根さんはグラスに口をつけた。残っていたお酒をそのまま一気に飲み干してグラスを空にすると、テーブルから肘を離して椅子を回転させ、俺の方へと身体ごと向ける。あの頃より少しだけ伸びた前髪を人差し指で除けて、メガネの奥の人の良さそうな眼で俺を見て言った。

 

「それで本題だ。俺が今ハリウッドでお世話になっているとこが、今年から留学生を受け入れる学校を設立したんだが、来年からは北米以外のアジアやヨーロッパ圏からの留学生も積極的に受け入れたいって話になってて」

「留学生を受け入れる学校? 語学学校かなんかでもやってんのか?」

「いいや、違うな。正確に言えば芸能活動をしている人たちを受け入れる施設で、ようはハリウッドにいる一流スタッフの元で音楽や演技を本格的に学ぶことが目的、って感じだ」

 

 まぁ当然英語でのレッスンになるから語学研修もあるんだけどな、と付け足した。

 赤羽根さんは人差し指で鼻上のブリッジを押して、メガネを掛け直す。その仕草を見て心臓が一度だけ、強く鳴った。この次に出てくる言葉が、なんとなくではあったが見当がついたのだ。

 

「冬馬がずっと何か刺激を求めているって話は齋藤社長から聞いてたよ。だからもし興味があるんだったら、高校生卒業してから二年間、ハリウッドに来て色々と学んでみないか?」

 

 俺の中の何かが大きな音を立てて弾けた。

 それと同時に、今まで全く見えてこなかった空の一番高いところへの道筋が、すっと浮き上がって来たような気がしたのだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



そろそろフェスなのでいつになく気合を入れて初投稿です。


 

 

 赤羽根さんの誘いに、俺はその場では迷わず即決した。今まで自分が海外に行くことなんて考えたこともなかったけれど、ハリウッドの話を聞いた時、直感ではあったが俺がずっと探し求めていた“何か”がある気がしたのだ。

 俺は唖然とする赤羽根さんの向こう側で、まるで即決することを分かっていたかのように笑みを浮かべる齋藤社長に頷きかけた。

 

「そ、そんなすぐに決めてもいいのか? もっと時間をかけて考えたりとか……」

「いくら時間をかけたって変わらねぇよ。俺はハリウッドに行く。だから今すぐにでも話を通して欲しい」

 

 ハリウッドに誘ったくせに、行くと伝えたら途端に引き留めようとしたり、何がしたいのかイマイチ分からない赤羽根さんを強引に説得して、俺はハリウッド行きの話をその場で確約した。赤羽根さんだけではなく、石川さんからも「よく熟考して結論を出すべきでは」と言われたが、それでも俺は最後まで自分の意思を貫き通して、そんな俺を齋藤社長だけは終始楽しそうな表情で眺めていた。

 

 キッカケであればなんでもよかったのではないかと言われれば、確かにそうなのかもしれない。現に俺は北斗や翔太のようにしっかりと考えて自分の道を選んだわけでも、志保のように明確な目的や夢があって決めたわけでもなく、ただただぽっと出て来た話に飛びついただけなのだから。

 だけど、俺はこのまま“空を飛べる感覚”をぼんやりと握りしめたまま、何も挑戦することなく燻り続けるような大人になりたくなかった。

 例えハリウッドで俺が探し求めている“何か”がなかったとしても、315プロで出会った格好良い大人たちのように、可能性を信じてチャレンジする道を自らの意思で選択したんだと胸を張って言える大人になりたい。この感触を覚えたまま何もせず、なんとなく流されるがまま歳を重ねたくはなかったのだ。

 だが、そんな想いに比例して浮かび上がってくる不安もあった。それは志保のことだ。

 志保が福岡に行くと話したあの日、俺は例え志保が福岡に行ってしまっても暇を見つけて会いに行くと約束をした。例え遠距離になってしまっても俺たちの関係は決して変わらないのだと、そういった意思表示を込めて口にした言葉だった。

 だけどそれが東京と福岡ではなく、ハリウッドと福岡になると当然話は大きく変わってくる。日本を出てしまったら最後、ハリウッドに滞在する二年間で一度も日本に帰ることができない可能性だって十分に考えられるのだから。かといって福岡で高校に通いながら演劇に打ち込む志保に、金銭的にも時間的にもハリウッドまで来る余裕があるようにも思えなかった。

 

 そうなると俺たちの関係はどうなってしまうのか。

 

 ハリウッドと福岡という、とてつもなく現実味のない遠距離を前に、俺たちは想いの糸を切らさずに繋ぎとめておくことができるのだろうか。国を跨ぐ遠距離恋愛なんてはあまりにも非現実的で、完全に未知の世界の話だった。

 反射的に「行く」と言ってしまったものの、日を追うごとに志保の存在が俺の頭を悩ませ、一度決めたはずの決意が揺らいでいく。赤羽根さんからの誘いを受けてから暫くの間は、志保どころか北斗や翔太、315プロの誰にもこのことは話さずに一人であれこれと考えてみたものの、結局己を納得させる答えは導き出すことはできなかった。

 

 

★☆★☆★☆★☆ 

 

 

「珍しいな、冬馬から誘うなんて」

 

 俺が待ち合わせ場所に選んだ315プロの近くにあるラーメン屋は、ネクタイを締めたサラリーマンでいっぱいだった。その中で俺たちだけがラフな私服姿だったため妙に浮いてしまっている気もしたが、店内のお客さんたちはそんな俺たちなんか気にも留めず、自分たちの世界にだけ入り込んでいる。店長と思われる大柄で声が野太い店員がメニューと水を持ってやって来たのと同時に隣で「いつものを頼む」と店員に伝える様子をみて、とりあえず俺も便乗して「いつもの」ラーメンを注文することにした。

 

「ここさ、たまに翼と食べ来るんだよ」

「そうだったんすね」

「初めは桜庭も来てたんだけど毎回翼が信じられねぇくらいの量を一人で食うからさ。もう付き合いきれねぇって言って来なくなったんだ」

 

 楽しそうに語る天道さんの話に、俺は程よく相槌を打つ。

 天道さんは俺と十一も歳が離れているものの、何処か感性が似たものがあるのか、不思議なほど波長が合う人だった。きっと俺と天道さんは似た者同士なのだと思う。趣味や特技などの共通点も多く、まるで自分の生写しのような天道さんを、いつしか俺は実の兄のように慕うようになっていた。

 だからこそ、俺は今回の相談相手に天道さんを選んだ。

 北斗や翔太などの第三者の視点からの意見ではなく、俺と似た価値観や考え方を持つ天道さんの意見が今の自分にとって一番参考になる気がしたのだ。

 

「あのさ、ちょっと天道さんに相談したいことがあって」

「相談? 俺に?」

 

 店員が注文を取り終えて離れた瞬間を見計らって、天道さんを呼び出した目的を話そうと切り出す。

 俺は小さく息を吸って天道さんの目を見て言おうとしたものの、今から言おうとする言葉に引け目を感じてしまい、結局ほんの一瞬だけしか見ることができなかった。猛スピードで落下していく視線は木製のカウンターへと向かって行き、その途中に視界の端っこの方で呆気にとられるような天道さんの視線が目に入る。天道さんは俺の方を見つめたまま、ずっと言葉を待っていた。

 

「……俺、実は彼女がいるんすよね。付き合って半年くらいになるんすけど」

「彼女って、765の北沢志保ちゃんのことだろ?」

「え?」

 

 勇気を振り絞って出した告白を、あっさりと受け止められてしまった。咄嗟に顔を上げると、何も驚いた様子もなく天道さんが俺を見下ろしている。

 

「––––なっ、なんで知ってるんすか」

「いやいや、むしろ逆に知らないと思ったのか?」

「……だって俺、北斗や翔太以外に言ってないし」

「冬馬は気付かれてないと思ってるかもしれないけど、多分みんな知ってると思うぞ。なんならプロデューサーとか社長も知ってんじゃないかな」

「はぁ!? なんで皆知ってるんだよ!?」

「そりゃあ、あんなに堂々とキーホルダー付けてたら嫌でもなんかあるのかって勘繰るだろ。おまけに事務所の近くでも平気でデートしてたし」

「うっ……」

 

 動揺する俺とは対照的に、天道さんは何にも動ないようなドライな反応だ。もっと彼女がいることに驚いたりとか、そもそも一人のアイドルとして異性と交際することに対し難色を示される可能性ばかりを想定していただけに、事務所の仲間たちに全て筒抜けだったのは想定外だった。

 天道さんに会って話そうと思っていた計画が初っ端から破綻したタイミングで、店員が二人分のラーメンを持ってやってきた。底が見えないほど濃いスープが入ったラーメン鉢が俺たちの前に置かれると、天道さんが「それで、志保ちゃんがどうしたんだよ」と当たり前のように志保の名前を口にしながら割り箸を俺に向けて差し出す。その箸を受け取って二つに割ると、俺はもう一度頭の中で整理してから本題を切り出した。

 

 志保が夢を追って福岡に行ってしまうこと、そのことが決まる前から俺自身も今後アイドルとして高みを目指すために何かをしなければならないと思っていたこと。そして赤羽根さんが誘ってくれたハリウッドの話に食らいついたが、その結果志保との関係性の未来が見えなくなり、これからどうすればいいのか分からなくなってしまったこと––––。

 

 天道さんは時折俺の意思を確認するような質問を挟みながらも、終始聞き手に徹してくれた。だが全てを打ち明けた後、天道さんが口にした言葉は俺の相談とは何の脈絡もないものだった。

 

「俺、実は小さい頃から正義のヒーローになりたかったんだ」

「正義のヒーロー……、すか?」

 

 あまりに唐突な話だったので、思わず訊き返してしまった。天道さんはスープまで完飲して底に書かれていた店のロゴが明るみになったラーメン鉢の上に割り箸を揃えて置くと一口だけ水を口に含む。コップを空にしてカウンターの上に置くと、「そう」とだけ呟き、肘をつきながらメニューに目を落とした。

 

「カッコいい正義のヒーローになりたくて、それで弁護士になったんだ。まぁ、結局辞めちゃったんだけどな」

 

 天道さんが315プロに来る前に弁護士をしていた話は何度か聞いたことがある。

 なんでも猛勉強の末に念願だった弁護士事務所に入社したものの、実際は思うような仕事ができずに行き詰まりを感じていて、そんな時に石川さんに声をかけられてアイドルに転身した––––、というのが315プロに流れ着いた経緯だったはずだ。その経歴の中でも、天道さんが「人助けをしたい」という想いから弁護士を志したエピソードは特に印象に残っていた。その「人助け」ができないと気付いたから、弁護士を辞めたという話も同じくらいに。

 だけど、そんな天道さんの幼い頃からの憧れと俺の相談とで何の関係があるのだろうか。

 今の時点では何一つ共通点が見つからず、話の意図が汲み取れなかった。

 

「だけど大人になって……、ていうか正確には315プロに入ってからなんだけど、ようやく本質に気付けたんだよな。どうして小さい時に見た正義のヒーローがカッコよく見えたのかって」

「……どうしてなんすか?」

 

 天道さんは一度だけ俺の方を見て、少しの間を開けた後に再びメニューに視線を向けながら、まるで自分に言い聞かせる独り言のように淡々とした口調でその答えを教えてくれた。

 

「悪を懲らしめるとか、誰かを助けるとか、そういうのがカッコ良いんじゃなくて、正義のヒーローは自分の信じる正義や生き様を貫いているからカッコ良いんだよ」

「自分の信じる正義や生き様……?」

「まぁ簡潔に言えば『自分の中で絶対譲れないモノ』ってやつなんだろうな。そういう強い思いがあって、それに忠実に生きてるから輝いて見えるしカッコよくも見えるんだと思う」

 

 ––––自分の中で絶対に譲れないモノ。

 頭の中が一瞬だけ空っぽになって、天道さんが伝えたいことがすっと正体を現したような気がした。

 もしかしたら天道さんが憧れた正義のヒーローと、俺が315プロで憧れた大人たちの姿は全く同じモノだったのかもしれない。誰々より強いとか、何をしているからとか、俺たちを強く惹きつけたのは必ずしもそういう薄っぺらい上部だけのものじゃなくて、自分が信じる正義や道を貫き通す強い人間の生き様だったのだ。

 俺が今ここで志保に気遣ってハリウッド行きの話を断れば、例え志保が福岡に行ってしまった来年の春以降も恐らくは月に一度、最低でも数ヶ月に一度は会う機会があるだろう。今までに比べたら決して多くはない機会だけれども、ハリウッドと福岡の遠距離恋愛に比べたら互いに寂しさを埋めるには十分すぎる頻度のはずだ。

 だけど果たして俺が感じた可能性を捨てて選んだその道の先で、俺は志保がなりたいと言ってくれた天ヶ瀬冬馬に、そして315プロで出会った格好良い大人たちのような人間に、なることはできるのだろうか。この先歳を重ねて俺も天道さんくらいの年齢になった時、あの時の判断は間違ってなかったと本当に胸を張って言うことはできるのだろうか。

 自問自答するまでもなかった。答えはとっくに分かっていたのだから。

 

「志保ちゃんがいつまでもカッコいいって思う天ヶ瀬冬馬で居続ければ、アメリカでも福岡でも距離は関係ないさ」

 

 最後に天道さんはそう言って、席を立った。

 

 

 店を出ると、街中では珍しく星が見えた。

 雲の隙間から点々と散らばった光の粒が、今日はやけに煌めいて見える。夏の終わりを感じさせる少し切ない風がラーメンを食べた直後で火照っている素肌を叩いた。俺たちはポケットに両手を突っ込んだまま、立ち尽くすように星々を見上げていた。

 

「……ハリウッドから帰ってきたらもう冬馬は二十歳なのか」

 

 東京の上空に広がる星々に向かって、天道さんが言葉を投げる。俺よりも十一年長く生きてきて、その中で俺の知らないような多くの葛藤や挫折、決断を経験してきた天道さんの横顔がいつになく大人の顔つきに見えた。

 そんな横顔を暫く見つめていると、天道さんが振り向いて視線が交錯した。大人の顔をしているのに、俺を見る表情は邪気のない子供のような笑顔だ。

 

「帰ってきたら一緒に飲みに行くか!」

「……良いっすね! 絶対行きましょ!」

 

 俺たちは二年後に大人になる約束をして、軽く拳をぶつけあった。

 315プロに来て良かったなと、この時改めて俺はそう感じたのだった。

 

 

 

 




NEXT → Final Episode : 俺と私のSTANDING ALIVE

残り4話の予定!です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

EX : 最上静香とCatch my dream

フェス開催と同時に早坂が帰ってきたので初投稿です。


 この人とは絶対に気が合わないな。

 それが、北沢志保に対して私が抱いた第一印象だった。

 

 協調性はないし、頑固で意地っ張り。いつも理屈だけで全てを片付けようとして、融通も効かないし相手に気遣うような思いやりはカケラもない。思ったことは例え相手を傷つける言葉だったとしても堂々と口にして伝えようとする––––。

 そんな北沢志保という人間が、正直あまり好きではなかった。

 だけどそれはきっとお互い様で、志保も私のことはあまりよく思っていなかったのだと思う。互いにそのことを分かっていたから、私たちは仕事以外では極力接しないように常に一定の距離を保っていた。数少ない絡みがあった仕事関係の話でも、口を開けば何かと衝突ばかり。私たちの衝突が原因でユニットが崩壊寸前にまで陥った時だってあったくらいだ。そんな感じだったからいつしか犬猿の仲とかまで称されるようにまでなり、お世辞にも私たち二人の関係性は良好とは言えなかった。

 だけど劇場にやってきてから今日まで、ずっと志保との間には時間さえも埋めきれなかった大きな溝があったのは確かだが、その一方で次第に志保の人間性や事情も少しずつ垣間見えてきて、私が志保をよく思わない理由がなんとなくではあったが分かるようになってきていた。きっと私と志保は似た者同士––––、言わば同族嫌悪のような関係だったのだと思う。

 だからこそ、志保が中学卒業と同時に劇場を抜けて福岡の事務所に移ると聞いた時、私は途方もない寂しさと心に風穴が開いたような喪失感を感じたのだった。

 

 

 

「志保は来年の春から福岡の高校に進学することになった。だから劇場にいるのも二月いっぱいまでになる」

 

 久しぶりに39人全員が揃ったとある日曜日の昼下がり、狭い控室に集められた私たち39人にプロデューサーがそう伝えたのは、いよいよ寒さが本格的なものになってきた十二月の一週目のことだった。なんでも第一回のユニット公演が終わった直後に765プロと業務提携している福岡の事務所から志保へ引き抜きの話があったようで、劇場を辞めて福岡に行くのはその話を受けることになったからだそうだ。志保自身もこの決断に至るまでには随分と頭を悩ませたそうだが、それでも今後の自分の成長のためにと福岡行きを決めたその表情には、一ミリも迷いや後悔は感じられなかった。

 誰もこの件は聴かされていなかったのか、唐突な発表に人口密度の高い控室は騒然となり、瞬く間に話の張本人へと視線が集まる。だけど部屋の隅で一身に視線を集める志保の顔つきはいつもと変わらない、淡々としたものだった。

 

「劇場での時間は残り僅かになってきましたが、私は今まで通り自分のやるべきことをやるだけだと思っています。だから皆も変に気を遣わないで今まで通り接してもらえれば幸いです」

 

 プロデューサーから前に出て「皆に何か一言を頼む」と促された志保だったが、飄々とした様子で私たちに対して伝えたのは、やっぱりいつもと変わらない、ある意味“らしい”コメントだ。いつもと何も変わらない志保の横顔が、この険しい冬を乗り越えた頃に劇場から居なくなるという現実のリアリティさを薄めているようだった。

 そんな志保の様子を遠目から盗み見るように眺めていた私は、胸にポッカリと開いた穴を風が何度も通り過ぎていくような感覚を覚えていた。風が穴を通っていくたびに胸が詰まるようで、息が苦しい。整理がつかないやりきれない想いと、私の心から大切な何かが抜き取られたような喪失感で胸が空っぽになっていくのが分かる。だけどその時はまだ、志保が劇場から居なくなることを寂しく思っていることに気が付かなくて、ただただいつものように大きな溝を挟んだ向かい側から志保を眺めることしかできなかった。

 

 

 それからニヶ月ほどが経過し、年末年始の慌ただしさが過ぎ去った二月の上旬。

 曇天の空からパラパラと小さな雪が降り頻る日曜日、劇場で志保の送別会が開かれた。

 始まってから間もない頃は39人全員が揃うのも随分と久しぶりだったのもあってか和気藹々とした雰囲気だった。だが、時間の経過とともに次第に薄らと寂しさが漂い始めてきて皆の笑顔も口数も減っていくと、とうとう可奈が堪えきれずに泣き始めてしまったのを合図に、劇場は一気に哀しみの色で塗り潰されてしまった。

 

「志保ちゃん、私絶対福岡まで会いに行くから……っ!」

「桃子も頑張るから志保さんも福岡で演劇頑張ってね。今度は舞台の上で会いましょ」

 

 涙しているのは可奈だけじゃなくて、メンバー全員が志保との別れを惜しんでいる。それは劇場で初めて顔を合わせた時からは想像もつかないような光景だった。

 39人が初めて揃って顔を合わせた時、志保のことをあまりよく思っていなかったのは私だけじゃなかったはずだ。私や未来、翼らの同世代組とも一切関わろうとせず、可奈や杏奈たちスクール出身組とも群れている様子もなく、まるで人との繋がりを拒むように志保はいつも独りきりだった。話しかけても最低限の受け応えしか返ってこなくて、会話なんて殆ど続かない。珍しく口を開いたかと思えば、仕事のことと言えどもトゲのついた辛辣な言葉ばかり。そんな感じだったから必然的に志保は近い世代の中では浮いた存在になっていて、誰も近付こうとはしないようになってしまっていた。

 だけど今は各々仕事が忙しいのに関わらず、こうして皆がスケジュールを調整して集まり、志保との別れを惜しんで涙を流している。39プロジェクトが始動してからの一年半で志保の姿を見て沢山のことを知って、志保は劇場の誰からも受け入れられ、もしかしたら誰よりも愛されていたのではないかと思う。

 この光景を志保の人望の厚さが創り出したのは、紛れもない真実だった。

 

 志保の送別会が終わり、私は何とも言い表せないような思いを抱いたまま劇場の屋上で一人、真っ暗の空を眺めていた。とっくに日が沈みきった空からは依然として雪が降り注いでいて、より一層空気を冷やしている。だけど長い時間をかけて地上へと降り立った雪たちの息は短く、すぐに解けてしまって姿を消してしまった。この調子だと明日の朝起きても雪が積もっていることはなさそうだなと、そんなことを考えていた時、ふち背後で私を呼ぶ声が耳に届いた。

 

「……静香、こんなところで何してるの」

 

 振り返ると志保が階段の入り口で立っていた。そう訊きながらこちらへ歩いていくる志保は、ふと立ち寄ったわけでもなさそうで、まるで予めここにやってくることを決めていたかのようにしっかりとコートを着込んでマフラーを首元に巻いている。

 

「そういう志保こそ何してるのよ。主役がこんなところにいてもいいの?」

「もう送別会は終わったでしょ。ずっと暖房の効いた部屋にいたから、外の空気を吸いたくなっただけよ」

 

 私の隣に並んで柵に両肘を付くと、志保はガス抜きをするように大きく白い息を吐いた。殆ど背丈が変わらない志保の横顔を盗み見ると、志保は私ではなく真っ黒な海をボンヤリと見ていて、海から吹く風の行先を目で追っているようだった。

 そんな志保の横顔を近くで見て初めて気が付いた。あれだけ大人びて見えていたはずの志保の顔つきが、私や未来たちと変わらない年相応の顔つきだったことに。

 

「…………なに?」

 

 いつの間にか私の視線に気が付いていたのか、志保の不機嫌そうな声で我に返った。端正な顔つきをしているのだから、もっと愛想よく笑顔を振りまいたら良いのになんて思ったけれど、そんな志保は志保じゃないような気がして、結局言葉にはしなかった。

 沈黙が重くのしかかってくると何か言わないといけない気になって、慌てて何か取ってつけたような話題を探す。志保を送り出す言葉の一つでも咄嗟に言えれば良かったのだろうけど、この時は不思議と最適な言葉が思い付かなくて、私から沈黙を破ることはできなかった。

 

「ねぇ、明日からなんでしょ。W.I.N.Gの予選は」

 

 先に口を開いたのは志保だった。

 その視線はもう私ではなく、目の前に広がる夜の海へと戻されている。私も志保の横顔ではなく真っ暗な海へと視線を向けた。私たちの前に広がる海原は、まるでこれから何が起こるか全く予想もさせないかのように漆黒に染まっていて、静かに波打っている。

 

「……そうね。だから志保と会うのは今日が最後になると思うわ」

 

 明日から私は新人アイドルの祭典––––……、トップアイドルへの登竜門とも呼ばれる『W.I.N.G』の予選会に参加することになっていた。半月にも及ぶ長丁場の予選会を順調に勝ち上がることはできれば、武道館で行われる本戦は三月の中旬だ。予選会では遠方や泊まり込みでの収録も予定されているだけに、今後W.I.N.Gが終わるまで劇場に顔を出す時間があるとは思えなかった。 

 万が一私が武道館での本戦に辿り着くまでに敗れるようなことがあれば、また劇場で志保に会うことはできるのかもしれない。だがW.I.N.Gでの敗退––––……、それは即ち私のアイドル人生のジ・エンドを意味しているだけに、あまり望ましくない再会だ。

 

 負けるつもりはない。

 W.I.N.Gの先にある夢のためにも、絶対に負けることだけは許されない。

 

 そんな覚悟があったからこそ、私は今日が志保と会う最後の日になるのだと勝手ながら決めつけていたのだ。

 

「最後って、もう優勝した気でいるの?」

「最初から負ける気で挑む方がおかしいでしょ?」

「さすが、天才さんは言うことが違うのね」

 

 志保はそう言って鼻で笑う。だけど不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 ––––天才……。

 第一回のユニット公演後から今まで以上にメディアに取り上げられる機会が増えて、その中でいつしか誰かが私を天才呼ばわりするようになった。そのことを志保も知っていて、きっと皮肉で言ったのだと思う。

 だけど私は自分が天才だとは微塵も思っていなかった。謙遜なんかじゃない、私のような偽物じゃない本物の天才を知っているからだ。

 

「私からすれば志保の方がずっと天才だと思うけど」

「なに、馬鹿にしてるの?」

「馬鹿になんかしてないわよ。本当にそう思ってるだけ」

 

 メディアは揃いも揃って軽々しく天才だなんて口にするけど、天才なんて言葉は誰かが誰かに都合よくつけたいだけの飾りの場合が殆どだ。本物の天才なんてそう何処にでも存在するものじゃない。

 もし本物の存在がいたとすれば––––……、それは徹底的に自分を律して、いつ如何なる時も誰よりも努力し続けれる人のことだと思う。それこそ765ASの千早さんや志保のような努力家こそが本物の天才なのだと、少なからずアイドル業界という過酷な勝負の世界に身を置いてきた人間として、私は長年使い古されてしまったせいで曖昧になっていた“天才の定義”をそう定めていた。

 

「この際だからハッキリと言うけど、私は志保のことが嫌いだったの」

 

 志保の瞳に向かってはっきりとそう想いを伝えると、志保は頬の筋肉をピクリともさせず、私の目を見つめながら言葉を返した。

 

「奇遇ね。私も貴女のことがずっと嫌いだったわ」

「でしょうね。そんな気がしていたから」

 

 きっと私は志保に憧れていたのではないかと思う。

 他人にも一切手加減は許さなくて、だけど自分には誰よりも厳しくて、そんないつ如何なる時も全力でアイドル活動に向き合う志保のような人間に私もなりたかった。誰よりも夢へ向かう気持ちが強くて、例え仲間を蹴落としてでも夢を掴み取ろうとする覚悟が、志保には最初から備わっていたのだ。

 でも私は志保ほど物怖じせず周囲の人間に要求できなかったし、場の空気を壊してでも自分の意見を主張するようなことはできなかった。例え仲間を蹴落としてでも夢を掴むくらいの気持ちが必要だと分かっていても、どうしても未来や翼、劇場の皆との世界に居心地の良さを感じてしまう。それが自分にとって決して良くないことだとは分かっていながらも、志保のように周囲の全てを敵に回してでも自分のやり方を押し通すまでの強さを持ち合わせていなかった。

 私が持っていない強さを持つ志保のことが羨ましかった。だからこそ私は志保を受け入れらなくて、嫌悪感を抱いていたのだろう。

 私がそのことに初めて気付いたのは、クレシェンドブルーで対立した時だ。

 ユニット公演が迫る中、なかなか私たちの足並みに星梨花が追いつけなくて、私はダンスのクオリティを星梨花のできるレベルにまで下げて足並みを揃えようと提案したことがあった。だけど志保はそれに猛反発し、私たちが星梨花に合わせるのではなく、星梨花が私たちに合わせることに異様に固執していたのだ。

 星梨花は精一杯努力をしていて、その努力を志保も皆も知っていたからこそ、私たちが星梨花に合わせることは本人の頑張りに対しての侮辱になるのではないか。頑張っているのだから、その努力が花咲くのを信じて待ってあげたい––––。そんな志保なりの不器用な優しさがあったのだと思う。

 そんな志保の優しさを感じ取ったからこそ、私は星梨花にコーラスを任せることにした。出来ないからレベルを落とすのではなく、少しでも皆が持てる力を最大限生かせるような最高のステージにするのがリーダーの役割ではないのかと。そんな大事なことに気が付かせてくれたのは、間違いなくあの時の志保だったのだから。

 最終的には星梨花のコーラスと私のソロばかりが注目を浴びる形になってしまったが、あの時クレシェンドブルーのステージを成功に導いたのは、私でも星梨花でもなく、紛れもなく志保だった。決して表立って志保が評価されることはなかったけれど、私は密かにあの日からユニット公演を成功に導いた志保に感謝と尊敬の眼差しを向けていたのだ。

 

 私が憧れていた人間であり、大切なことを気付かせてくれた志保だからこそちゃんと伝えたかった。

 私の覚悟と、そして福岡に旅立つ志保への餞の言葉を。

 

「……志保、今からする話は誰にも言わないで欲しいの。聴いてくれるかしら」

 

 海風が吹いて、志保のマフラーからはみ出た髪を揺らす。志保は口を噤んで、綺麗な眉をほんの少しだけ上に動かしただけで、何も言わずに次の言葉を待っていた。その様子が警告に同意したものだと見て、私は初めてプロデューサー以外の人に隠してきたタイムリミットの話を打ち明けた。

 

「私、実はもうすぐアイドルを辞めないといけないの。もともと中学生の間だけってお父さんと約束して765プロにきたから」

 

 自分のことを嫌いだと言われても全く動じなかった志保が、驚いたように目を見開いた。まさに言葉をなくしたかのような唖然とした表情で私を見つめている。

 

「……それ、未来や翼は知ってるの?」

「知らないはずよ。プロデューサーにしか言ってないから」

 

 真っ先に出てきたのは「どうして」ではなく、私と仲が良い未来や翼の心配だった。

 やっぱりなと思う。普段の言動のせいで自己中心的に捉えられがちだけど、志保は星梨花の時のように、不器用ながらも相手を気遣おうとする。本当は自分のことではなく誰かのことを真っ先に思いやることができる優しい人間なのだ。

 暫く驚きを隠せずにいて、咄嗟に何かを言いかける素振りは見せたものの、志保は言葉を詰まらせたのか閉じた唇は開かれない。そのことを確認して、私は話を続ける。

 

「でも私は辞めたくないし、辞めるつもりもない。だからW.I.N.Gで優勝して武道館の一番高い表彰台に立って見せて、お父さんを認めさせるつもりよ」

「……そう」

 

 あまり関心がないように澄ました顔で志保はそう言ったけど、その表情は心なしかほっとしたような顔にも見えた。

 今でこそ私はW.I.N.Gに出場するくらい有名になれたけれど、それが全て私の実力だなんてことは傲慢なことは一ミリも思ってなんかいなかった。アイドルの世界なんて気まぐれそのもので、いつどんな出来事がキッカケでブレイクするかなんて誰にも分からない世界だ。だけど私は皆より少しだけ先に広い世界を見てきて、この業界の第一線で耀く偉大な先輩アイドルたちを見てきて、そういった人たちは皆とてつもない努力を積んできていたことを私は知っていた。

 自分がブレイクする人間に相応しいかは分からない。

 だけど、志保がその条件を満たしていることだけは確かだった。

 

「今は嫌味にしか聴こえないかもしれないけど、いずれ私の前に立ちはだかるライバルは絶対に志保になると思っているの」

 

 それは願望でもなければ根拠のない直感でもなく、確信だ。

 この一年半、ずっと私は見てきた。誰よりも早くレッスンルームに来て、誰よりも最後にレッスンルームを後にしていた志保の姿を。誰よりも努力家で自分に厳しくて、それでいて誰よりも周囲に厳しくて優しい志保こそが、いずれ私が超えなければいけないライバルになるのだと。

 いつかきっと今まで積み重ねが一斉に発火するように、突発的に志保がブレイクする時が来る。その日が遠からず訪れること確信していたから、今日が今生の別れになるとは思っていなかった。

 

「私は志保とまた会えるのを楽しみにしてるわ。その為にも絶対にW.I.N.Gに勝ってアイドルを続けるから」

「……ま、せいぜい恥掻かない程度に頑張りなさいよ。一応、応援はしてあげるから」

「ありがとう。志保もホームシックにでもなってすぐに東京に帰ってきたりするもんなら絶対に許さないからね」

「私は一度決めたことを投げ出すほど弱くはないわ」

「でしょうね。それは流石に冗談よ」

 

 私が意識的に口角を上げて笑いかけると、志保も呆れたような笑みを浮かべる。

 一度はアイドルを続ける理由を失い、非情な現実に打ちのめされながらも、こうして再び立ち上がって劇場に帰ってきた志保だ。ホームシックなんかで帰ってくることはまずあり得ないだろう。きっと福岡で何倍も輝きを携えて、いつかトップアイドルの世界で私の前に立ちはだかるに決まってる。

 その舞台でまた相まみえるためにも、私は絶対にW.I.N.Gで優勝してこの世界に残り続けないといけない。

 

「ありがとう志保。貴女に出逢えて本当に良かった」

 

 最後まで憎まれ口を叩き合ったけど、きっと私の伝えたかったことは志保にちゃんと伝わったと思う。

 そして私たちは似た者同士だから、志保が私に伝えたいことは言葉にしなくてちゃんと伝わっていた。

 

「福岡でも頑張ってね。必ずまた会いましょう」

「そうね。その為にも必ずW.I.N.Gで勝ってきなさいよ」

 

 雪が降り頻る空の下、冷たい海風が吹く屋上の上で、私たちは再会を誓って硬く握手を交わした。

 志保のつり目の目元が優しく膨れる。親しみのこもったその笑顔を、私は初めて見たような気がした。  




最後のEXは最上静香と志保のお話でした。
いずれ静香の前に立ちはだかるライバルが志保になるというのは、静香のSSR“思いは和歌に秘めて”のセリフから。
なんか良いですよね、お互い歪みあってるけど心のどこかでは認め合ってるみたいな王道なライバル関係。
これまでEXでは本編とあまり関わりない、他キャラの恋愛事情を中心に描いてきましたが、一つは他者から見た志保の話を書きたかったので、志保の大親友の静香の話にかぶせました。ちなみに武道館ネタはゲッサンから。W.I.N.Gは咄嗟の思い付きで、特にシャニとの関わりはありません。最後に一部だけシャニから出てくるキャラもいますが……。
タイトルのCatch my dreamは内容とはあまり関係ないけど、自身のアイドル人生を懸けて挑むW.I.N.G予選の前日に、夢を叶えてお互い再会しようと約束する前日譚って事でこのタイトルにしました。めちゃくちゃなこじ付けな気がするけど……笑
EXで書きたかった話は全部書いたのでもう(自己)満足です。
残り4話。ここでストック切れたんで少し遅れますが、最後までおねしゃす。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Final episode:俺と私のSTANDING ALIVE

ラスト4回で完結なので初投稿です。


「ごめん、志保。福岡まで会いに行く約束は守れそうにない」

 

 冬馬さんはそう前置きを挟んで、高校卒業と同時にハリウッドへ二年間の留学に行くことにしたのだと言った。

 その話を聴いた時、あまりにも飛躍しすぎた話で何も言葉が出てこなかった。人って本当に驚いた時は思考回路が停止するんだな、ってことを呆然とした頭でボンヤリと考えていたことだけを覚えている。

 冬馬さんにこの誘いを持ちかけたのは、かつて春香さんたちを担当していた赤羽根プロデューサーだったそうだ。赤羽根プロデューサーはアリーナライブが終わるまで765プロで働いていたから、私も少しだけ面識がある。少し気の弱そうな顔つきをした人だけど、性格は仕事熱心かつ真面目で誠実、何より春香さんたちから絶大な信頼を寄せられていたことが強く印象に残っていた。

 冬馬さんも赤羽根プロデューサーとは961プロ時代から面識があったようで(詳しくは話してくれなかったけど)、春香さんたち同様に赤羽根プロデューサーには厚い信頼を寄せているようだった。あの人の誘いだからこそ、ハリウッドに行くことを決めたのだと。照れ臭そうに頬を掻きながらも、冬馬さんはそう話してくれた。

 

 ––––ハリウッドに行くなら私たちの関係はどうなるの?

 

 冬馬さんがハリウッドに行くことになった経緯を聴いているうちに、徐々に停止していた思考回路が動き始めて、真っ先に脳裏を過ぎていったのはそんな不安だ。

 ハリウッドと福岡。

 このままいけば、春から私たちは気が遠くなるほど莫大な距離によって引き裂かれることになる。途方もない距離を前に、今の恋人関係が何の支障もなく継続できるとは到底思えなかったのだ。

 だけど、私はそんな不安を言葉にして伝えることができなかった。

 ハリウッドに行くと決意を明かしてくれた冬馬さんの瞳はもう、ここじゃないずっと遠くを見ていたからだ。

 

 

 

 

Final Episode 俺と私のSTANDING ALIVE

 

 

 

 

 中学卒業と同時に福岡のゴールドプロに行くことを決めて、そして冬馬さんからハリウッドに行くことを告げられた夏から、日々が凄まじいスピードで塗り替えられていく様をこの目で見た。私は福岡の私立高校への推薦入試を受け、合格通知が届くとすぐさま福岡で始まる新生活の準備に追われる日々。一方の冬馬さんもアメリカでの滞在ビザの申請や現地の学校に入学するための語学試験など、国を跨ぐだけに手続きや申請もかなりの時間を擁し、私よりも何倍も慌ただしい毎日を送っているようだった。

 それでも多忙な毎日を過ごす私たちを置き去りに、季節はどんどんと移り変わっていく。

 いつの間にかうだるような暑さも和らぎ、空に浮かんでいた入道雲も萎んでいって、街が鮮やかな紅葉柄に着せ替えられたかと思いきやその秋景色も長くは続かず、あっという間に険しい冬がやってきた。

 

「え? アメリカにいた頃の話?」

 

 それは確か年の瀬が迫った時期のことだったと思う。

 東京の狭い世界しか知らない私にはアメリカでの生活が微塵も想像が付かなくて、偶然劇場で二人きりになったのを見計らい、アメリカにダンス留学をしていた経歴を持つ歩さんに尋ねてみたことがあったのだ。

 冬馬さんがハリウッドに行くことも、きっと私と付き合っていることも知らないであろう歩さんは、「急にどうしたの」と呟きながら不思議そうに首を傾げていたものの、実際に自らが経験したアメリカ時代の話を私に沢山聴かせてくれた。

 世界中からやってくる人たちと知り合って日本の常識が非常識だと初めて気が付いたこと、油断すればすぐ太ってしまうほどにジャンクフードに囲まれていること、アジア人というだけで心ない人種差別を受けるようなことも少なからずあったこと––––。

 歩さんの話はどれも興味深い内容ではあったけど、その中でも一番気になったのは歩さんが現地で暮らしていたシェアハウスの話だった。

 

「アタシは英語全然話せなかったから、現地にいた日本人と一緒にシェアハウスしてたんだよ」

「日本人とですか?」

 

 日本ではあまり馴染みがないけれど、外国ではシェアハウスと呼ばれる一つの賃貸や家を複数人で借りて共同で暮らす文化があることは私も一つの知識として知っていた。だけどそれはあくまで外国人の話だとばかり決めつけていて、日本人同士でのシェアハウスがあることは今までに聴いたことがなかったのだ。

 だけど歩さん曰く、現地ではわりとよくある普通のことらしい。その時の生活の様子も、私に語ってくれた。

 

「アメリカにくる日本人留学生って意外に多いから、そういった人間で集まって一緒に住んでたんだけど、それがわりと楽しいんだよ。外国で一人ぼっちはどうしても心細いからさ、すぐ仲良くなれるしね」

「そうなんですか?」

「そうだよ! やっぱり異国の地で日本語が通じるだけで安心感あるしね。休みの日は皆でBBQしたり遊び行ったり……、あ、そうそう! シェアメイト同士で付き合ったりした人もいたなぁ」

 

 その話を聴いた瞬間、小さな針で胸を刺されたような痛みを感じた。痛みを感じた胸の中では何処からか現れた拭きれない不安が濃い雲になって、あっという間に広がっていく。真っ暗な影が瞬く間に私の胸全体を覆い尽くすと次は骨の髄にまで不安を染み込ませるように、強烈な雨を溢し始めた。

 琴葉さんが冬馬さんのことを好きだと気付いた時と、同じ感じがした。

 あの時と全く同じ––––、冬馬さんが私ではない誰かの特別な人になってしまうのではないかという不安が、心の底に潜む嫉妬心をうごめかせるのだ。

 歩さんにとっては本当に楽しかった思い出のようで、シェアハウスの話を暫く続けてくれた。だけど不安の雨に打たれる私には、もうその内容は途中から入ってこなかった。

 

 ––––春から私の知らないところで、知らない環境で、冬馬さんは生きていくんだ。

 

 そんな当たり前の事実が一閃の雷になって、土砂降りの胸の中で雷鳴を轟かせる。

 きっとアメリカでは数多くの出会いが冬馬さんを待っていて、その新たな出会いと環境に囲まれて生活することになるのだろう。もしかしたら私の知らない日常で、私なんかよりもっと魅力的で冬馬さんに相応しい人に出会うことだってあるかもしれない。それこそ歩さんの話のように、現地で一緒に日本人と暮らすようなことがあれば、色恋沙汰の一つや二つ、あってもおかしくないはずだ。冬馬さんのもつ煌めきに惹かれる女性が、誰一人いない保証なんてどこにもないのだから。

 考えたくもない事態が次から次へとクリアな情景になって頭に浮かんでくる。その度に不安になって、胸が張り裂けそうになるけど、それは私がどうこうできることではなかった。これはどれだけ悩んで不安がっても、日本にいる私の力が及ばない世界の話になるのだから。

 

「俺は志保と別れる気は絶対ねぇからな」

 

 ハリウッドに行くと告げた日、冬馬さんは私に何度も何度も念を押すようにそう言ってくれた。

 その言葉を信じたいし疑っているわけではない。私だって冬馬さん以外の誰かを好きになることはないと思っている。けれども、人の心に“絶対”なんてことはないのだ。

 どれだけ互いを想いあっていても、途方もない遠距離に負けて破局を迎えるなんて物語は世の中には腐る程あるだろう。遠距離恋愛を乗り越えてハッピーエンドを迎える、なんて奇跡の物語よりも何倍も多く散らばっているに違いないはずだ。

 そして自分がその奇跡の物語のヒロインだと信じてやまないほど、私はもう夢見がちな少女でいられる年齢ではない。でもその現実をすんなりと受け入れられるほど、達観している年齢でもなかった。

 中途半端な今の私はただただ先の見えない未来に怯え、震えることしかできなかったのだ。

 

  

★☆★☆★☆★☆

 

 

 年を越してから数日が経った頃、ハリウッド行きの準備がある程度整ったのを目安に冬馬さんは航空券を買ったことを教えてくれた。日本を発つ日は高校の卒業式の翌日、偶然にも私の中学校の卒業式と冬馬さんの高校の卒業式が同じ日だったから、私も卒業式の翌日に福岡行きの航空券を購入することにした。

 互いに東京を発つ日が決まり遠くにあるはずだった未来が現実味を増して迫ってくると、いよいよ別れのカウントダウンが始まった。

 私たちに残された時間は限られていたが、その限られた時間を少しでも二人で一緒に過ごそうと、僅かな時間でも都合が良ければ私たちは会うようになった。だけど会って冬馬さんの顔を見るたびにいずれ訪れる別れが寂しくなって、眠れない夜を重ねていく度に想像もつかない未来が怖くなって、私の胸はどうすることもできない不安でいっぱいに押し潰されそうになっていた。

 

(私たちはどうなってしまうのかな)

 

 そんな先の見えない将来を、不安に思う毎日が積み重なっていく。

 当然ながら、未来のことなんて誰にも分からない。

 もしかしたら福岡とハリウッドの距離に負けず、私たちは想いの糸を切ることなく繋ぎ止めておくことができるかもしれないし、世界中に転がっている別れ話の一つのように、あえなく破局を迎えるかもしれない。

 どっちに転ぶかは、当たり前の話だがその時にならないと分からないのだ。だから今の時点でどうすることもできない未来に怯え、不安がることが建設的ではないことくらい私でも分かっていた。

 それでも私は確証が欲しかった。

 例え遠距離になったとしても、冬馬さんと共に歩む未来がこの先に待っていることを。冬馬さんの隣で、私もこの大空を飛べる未来が訪れることを。

 ––––今は例え別々の道を歩むことになっても、必ず何処かで一つの道に繋がることができる。

 その未来が約束されていたとすれば、こんな不安はあっという間に消え去って、私は笑顔で冬馬さんと別れることができるだろう。縁もゆかりもない福岡の地での生活だって、きっと乗り越えられるはずだ。この別れだってハッピーエンドを迎えるために必要な試練だと、そう割り切って前向きに向き合えるのだと思う。 

 でも現実はそんな子供向けの絵本のような御都合主義に物事は進んではくれないのだろう。

 だって世の殆どの人間が、思い描くようなハッピーエンドを手に入れることはできないのだから。ハッピーエンドに辿り着けなかった大半の人は、例えそれが心が張り裂けそうなほどに辛い経験だったとしても、受け入れて生きていかなければならない。そして歳を重ねて、戻らない日々が輝いて見えるようになった頃にふと振り返り、「あの頃は若かったな」なんて思うのだ。

 私もそんなことを思う日が来るのだろうか。

 冬馬さんとのかけがえのない時間を、「若かった」なんて言葉で片付けなければならない日が来るのだろうか。

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 時間というものは名残惜しいと思えば思うほど、あっという間に過ぎ去ってしまうものなのかもしれない。福岡での新生活への準備、そして冬馬さんとの先の見えない未来に怯えている間に、いつの間にか卒業式の日を迎えてしまった。

 

 互いに卒業式を終えた後、私たちは制服姿のまま待ち合わせをした。

 今日で制服を着るのが最後になる冬馬さんが「最後の思い出作りで制服デートをしよう」と提案をしたからだ。今まではアイドルという立場を踏まえ、一発で在籍校が特定される制服姿でのデートは極力避けるようにしていた。だけど今日で一旦学校を卒業したわけだし、何より街には私たちと同じように卒業式を終えて制服姿のままデートを楽しんでいる歳の近いカップルも多く見受けられる。きっといつもよりは面倒ごとに巻き込まれるリスクも少ないはずだ。

 

「志保、卒業おめでとう」

「ありがとうございます。冬馬さんも、おめでとうございます」

 

 卒業証書が入った筒を持った制服姿の冬馬さんは、ほんのり寂しげな影を含んでいたけれど、それ以上に晴々しい顔つきで私を見下ろしていた。制服姿の冬馬さんを見ることができるのは今日で最後なのだと思うと、私はやっぱり愛おしい気持ちになってしまう。明日から私たちは別々の道へ進む、その事実はもう何ヶ月も前から決まっていたはずなのに、いざこうして前日を迎えると今更じわじわと実感が湧いてきて、中学校の卒業式では一度たりとも緩まなかった涙腺が刺激されるようだった。

 

「なぁ、最後だから学生っぽいこと沢山しようぜ」

「学生っぽいこと、ですか?」

 

 だけど冬馬さんは私とは対照的に、相変わらずいつもと変わらない様子だ。

 なんなら卒業式を終えて「学生」という縛りから解放されたことを喜ばしく思っている風にも映って、いつになく上機嫌な気さえする。

 

「あぁ。プリクラ撮ったりクレープ食ったり、あとはカラオケ行ったり……」

「なんかもっとやりたいことないんですか? せっかく卒業したわけですし、明日で––––」

「ん? 明日がどうしたんだよ」

「い、いえ、なんでもないです。とりあえず何処か行きましょうか」

 

 明日で最後––––なんて、言えなかった。言えるはずもなかった。

 その言葉を言ってしまうと最後、本当に私たちの関係は明日で終焉を迎えてしまいそうな気がしたからだ。

 だけど口に出さなくたってもしかしたら私たちの運命はもう既に決まっているのかもしれないとも思った。今更私がどうこうしたって、仮に子供のように泣き喚いても、いずれ訪れる恋の寿命を先延ばしすることはもう不可能なことに思えてきたのだ。

 そして冬馬さんは、もしかしたらその事実に気付いているのかもしれない。

 私たちの前にはどうやったって抗うことのできない巨大な運命が待ち構えていて、その運命が訪れる日まで少しでも楽しい思い出を作ろうとしているのではないか。いつになく上機嫌な冬馬さんを見て、私はそんなことを感じ取っていた。

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 時間の流れは、やはり不公平だった。

 楽しくない時間は永遠に感じるのに、楽しい時間、終わって欲しくない時間はあっという間に過ぎ去っていく。確かに同じ早さで時は流れているはずなのに、その両者の時間の流れが明らかに違うのだから、不公平以外のなにものでもないはずだ。そして今日の時間の流れは未だかつてないほど早く感じられたのだから、私にとって本当に終わって欲しくない時間だったのだと思う。

 時間よ止まれ、なんて月並みなことを冬馬さんの隣でずっと願っていたけれど、当たり前だけど時間は止まってくれるはずもなくて。時間の経過と共に鮮やかな夕焼けは闇に染まっていって、街灯に光が灯り始めて、街中では制服姿の学生よりスーツ姿の社会人の比率が多くなってきた。真っ暗なカーテンに覆われた空の一番高いところには太陽みたいに眩しい月が私たちを照らしている。この月が地平線の彼方に沈んで本物の太陽が昇ってくると、次に訪れるのはいよいよ私たちが離れ離れになる旅立ちの日だ。

 

「志保?」

 

 冬馬さんの声で、どこか遠くに行っていた意識が呼び戻された。

 気が付けば冬馬さんは私の少し先に立ってこちらを振り返っている。冬馬さんが私より先を歩いていたのではなく、私が知らぬ間に足を止めていたみたいで、いつの間にか私たちの間には手を伸ばしても互いに触れ合えないほどの距離が開いてしまっていた。

 

「……泣いてるのか?」

「え?」

 

 そう言われて、初めて頬に涙が伝っていたことに気が付いた。

 確認するかのように慌てて瞼に触れてみると、途端に堰を切ったように涙が溢れ出してきた。異変を察して冬馬さんが駆け寄ってきたけど、私たちの距離が縮まれば縮まるほどに視界が潤んで、冬馬さんの姿がぼやけていく。

 大きくて頼り甲斐のある手の平が私の肩に触れると、とうとう我慢できなくなって私はその場に膝から崩れ落ちてしまった。

 

「お、おい! 急にどうしたんだよっ!?」

「なんでも……、なんでもないです」

「なんでもねぇわけないだろ! 大丈夫か、なんか具合でもわりぃのか?」

 

 とうとう胸の中に押さえ込んでいた不安が、爆発したかのようだった。

 一度崩壊した堰はもう何の意味も持たなくて、ずっと胸の中にだけ押し込めていた想いが、恐怖が、とめどなく私の身体全体に駆け巡って行く。泣き止まなきゃって思うけど、そう思うたびに吸う息が苦しくて、涙を止めようと歯を食いしばることすらもさせてくれない。完全にリミッターを崩壊させてしまった私は、もう悲しみの全てに身を委ねることしかできなかった。

 

「……私、怖いんです。冬馬さんがハリウッドに行ってしまって、これから私たちの関係はどうなるのかって思うと不安で仕方がなくて」

 

 絶対に言わないでおこうと思っていた胸の内が、とうとう言葉になって口から出てしてしまった。

 潤んだ視界のまま顔を上げると、冬馬さんが泣きじゃくる私の顔を覗き込んでいる。私に向けられた冬馬さんの顔は溢れ出る涙のせいではっきりとは分からなかったけど、困っているのだけはなんとなくだが伝わってきた。

 

「……そうだよな、不安だよな。分かるぜ、志保の気持ちは」

「いい加減なこと言わないでくださいっ!」

 

 自分でも驚くほどの叫び声が、人通りの少ない通りに反響した。気が付けば私は冬馬さんの手を振り払って、震える足にどうにか力を入れて立っている。今後二度と着ることのないであろう中学校のセーラー服の袖で強引に涙を拭うと、口を開けたまま唖然とする冬馬さんの姿を、私の瞳が克明に捉えた。

 

「冬馬さんは全然分かってない! 私の気持ちも、私の不安もっ!」

 

 頭の中に浮かんできた言葉が、何の遠慮も気遣いもないままに次から次へと口から垂れ流れてくる。もう自分でも明日の別れを悲しいと感じているのか、何も分かってくれない冬馬さんに怒っているのか、コントロールを失った感情の根底にあるものの正体は分からなかった。

 こんなに泣いて、感情の思うがままに言葉をぶつけたって、きっと冬馬さんにとってウザいだけで何も伝わらないことだって分かっているはずだった。だけどそんな理屈を理解していながらも、私はこの感情を抑えることができなかった。

 私たちは互いの夢のために、進むべき道を歩いていく。

 大切な夢のための挑戦なのだから、これは致し方ないことなのだ。

 だけど、それでも私は「仕方ない」で全てを割り切れるほど器用な人間じゃなかった。街で歳の近いカップルを見るたびに、綺麗な冬馬さんの横顔を見るたびに、どうしても福岡に行くことを選んだ過去の決断を激しく後悔してしまうのだ。もしかしたら私が福岡に行くなんて馬鹿なことを言わなければ、冬馬さんだってハリウッドの話は断っていたかもしれない。そうすれば私たちは明後日からも二人で一緒の時間を過ごすことができたかもしれないのに、と。

 もう後戻りができないと分かっていながらも、あの時福岡に行かない未来を選択した自分を想像してしまう。そして都合の良い未来に夢を見てしまったが為に、明日から始まる福岡での生活が、冬馬さんと一緒に過ごす時間以上の価値を持つものになるとは到底思えなかったのだ。

 

「本当は、本当はあの時だって––––っ」

 

 夢と大事な人を天秤に掛けて、どちらかを選べと言われても選べるはずがない。

 冬馬さんを好きになって、初めて誰かを大切に想う気持ちを知って、どちらも等しい価値を持ったかけがえのないモノだと気付くことができた。夢も恋愛も、何物にも替えられない大切なモノだからこそ、どちらか一方を選ぶなんて出来るはずがなかったのだ。

 だけど、そう頭では理解していても、あの時は違う言葉をかけて欲しかった。

 福岡行きを力尽くで止めて欲しかったわけじゃない。あの時に冬馬さんが何て言おうが、私の決断は変わらなかったと思う。そして、自分の望んでいることが酷いくらいに我が儘で身勝手なことだとも分かっている。だけどそれでも理屈じゃなくて、あの時は気遣いじゃなくて、冬馬さんの本心を私は聴きたかったのだ。

 

「––––本当は止めてほしかった! 「行かないでくれ」って、言って欲しかったのにっ!」

 

 口からその言葉が溢れ出てきたと同時に、私の膝からはすっと力が抜けて行って、再びその場に座り込んでしまった。




※全話(EX:最上静香編)の志保と同一人物です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



添削してたら訳わからんことになったので、一回分伸ばしました。
この回含めてあと4回で初投稿も終わりです。


「––––本当は止めてほしかった! 「行かないでくれ」って、言って欲しかったのにっ!」

 

 そう叫んで志保が泣き崩れた時、すっと頭が冷えていくようだった。この時になって俺は初めて、自分が自惚れた勘違いをしていたことに気付かされた。

 

 いつから俺は志保のことを分かった気になっていたのだろう。

 決して長いとは言えない志保と過ごしてきた時間をざっと遡ってみたが、そのキッカケとなった出来事や、明確な時期は分からなかった。だけど俺は多分、知り合って日が浅い頃から、志保のことを分かったつもりになっていた気がする。

 育った環境や性格、アイドル活動に対する考え方や価値観など、俺たちの間には沢山の共通点が存在していた。言うなれば俺たちは似た者同士で、そう思ったからこそ不思議と志保の考えていることや悩み、葛藤などが手に取るように理解できる気になっていたのかもしれない。そして、きっと俺だけではなく志保も同じなのだと。志保と過ごす時間が長くなる度にそういった信頼感のような感情が芽生えてきて、いつからか俺たちは言葉を交わさなくても意思疎通が図れているものだと思い込んでいたのだ。

 だけど、そんなはずはなかった。

 共通点が多くあろうがなかろうが、他者の全てを理解することなんて当然不可能なことなのだ。そんな当たり前のことも忘れて志保の全てを理解した気になって、それを高慢と言わず何と言うべきか。そしてその勘違いが、こうして自分の大切な人を不安にさせ、深く傷付ける凶器となってしまっていたことにも、俺は今まで気が付くことができなかった。

 

「……俺、志保のことを分かったつもりになってた」

 

 今になって振り返れば、俺と志保の考えが噛み合っていない時は多々あったのかもしれない。

 だけど志保のことを分かったつもりになっていた俺はそのズレと向き合おうとしないで、勝手に自分の頭の中でだけで推測し、完結させてしまった。きっと志保はこう思っているだろう、こんなことを考えているのだろう、といった風に。

 そんな勝手な予想が間違っていたとも、例え大きくはないズレもそれが積み重なれば大きなズレになることも知らずに、だ。

 

「––––冬馬さんは不安じゃないんですかっ!? 私は不安で仕方がないのにっ!」

「……ごめん」

 

 嗚咽混じりの叫び声に俺は心からそう言った。そう言うしかなかった。 

 俺の腕の中に志保が倒れ込んできて、泣きじゃくりながら二度ほど肋骨の辺りを叩く。泣きじゃくる志保の小さな拳には強い力が込められていて、それは志保が長い間俺に見せないようにと隠してきた不安の強さを表しているようだった。

 

 俺だって不安じゃないはずがなかった。

 

 だからこそ俺はなるべく平静を装って、少しでもありのままの自分で居続けようとした。寂しいなんて口にしてしまえば互いに後ろ髪を引かれる想いをすると分かりきっていたから、旅立つ瞬間まで今までと同じように過ごすことができれば、志保の不安も少しでも軽減できるのではないかと思って。

 だけど、結果としてそれが裏目に出て志保の不安を煽ってしまっている。志保のことを何も分かっていない、理解できていなかったのに分かった気になっていた自分の勘違いが招いた失策だった。

 

「……志保、今から行きたいところがあるんだけどいいか」

 

 華奢な肩に優しく手を置くと、胸の中で泣いていた志保がそっと顔を上げた。鼻の先まで真っ赤にさせた志保の、大粒の涙が溜まった瞳が不安げに俺を見つめている。その潤んだ瞳が俺の鼻の奥を刺激した。

 思わず零れそうになった涙を堪えるように空を見上げながら鼻を啜ると、俺たちの上空では雲に覆われた月が曖昧な光を放っているのが目に入った。それはまるで、俺たちの行末を暗示しているかのように不安定な光だった。

 

「遅くなっちまったけど、これからのことをちゃんと話したいんだ」

 

 言葉にしたところで、俺の想いが全て伝わるかどうかは分からない。だけど、ちゃんと話さないといけないのだと思う。このまま明日の別れを迎えないためにも。これからの俺たちのためにも。

 震える首が縦に動いたのを確認してから志保の手を引いて、俺たちが初めて出会った場所へと向かった。

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 そう遠くはない目的地までの道中では、互いに一言も言葉を発さなかった。無言の時間が積み重なって出来上がる重苦しい雰囲気の中で、俺はずっと頭の中で志保に伝えるべき言葉を探していた。俺の思っていることを全て一ミリも残さずに伝えれるには、どんな言葉を用いればいいのだろう。今まで志保のことを分かったつもりになっていたことへの「ごめん」なのか、明日の別れを惜しむ志保へ同情するような「寂しい」なのか、幾つかそれっぽい言葉たちが頭に浮かんできたが、どれもピンとこなかった。

 なんだろう、そんな在り来たりな言葉ではなくて、もっと別に伝えなければいけない言葉があるような気がしたのだ。

 ふと信号で足を止めた際に、俺の手の中が優しい温もりに包まれている事に気が付いた。その温もりの正体が志保の小さな手の平から伝って来ていたものだと知ると、途端に今となっては当たり前に感じるようになったこの温もりが、何故かひどく懐かしいモノのような感覚を覚えた。

 

 ––––あぁ、俺、ずっとこの温もりに守られてきたんだな。

 

 その事に気がつくと、改めてその温もりが身に染みていく。

 何度も志保から勇気を貰ったこと、一緒に過ごした楽しい時間のこと、想いを伝えあった時に空に手が届きそうな予感がしたこと––––、手の平から伝ってくる陽だまりのような志保の温もりと共に、この一年半の思い出たちが俺の胸を圧してくる。

 志保と一緒に過ごした日々は、鮮明なままフィルムとしてしっかりと焼きついていた。思い出だけじゃない。俺がその時に何を感じて何を思ったのか、見上げた空の高さも肌を優しく撫で回す微風も、景色も空気だって、何もかもが一つも欠けることなく胸に刻み込まれている。

 

 ––––志保にも同じような思い出があるんだろうな。

 

 俺の持つ思い出とは少し違う景色のもあるかもしれないけど、俺たちはきっと胸に抱えれきないほどの思い出を持っているのだと思う。

 そしてその思い出たちを一つも落とすことなく、風化させることもなく、別々の道へと歩いていくのだろう。

 

「……ここって」

 

 目的の場所に近付いてきたところでようやく気が付いたのか、何も聞かされずに手を引かれていた志保の足が止まった。それにならって俺も足を止める。志保は涙の跡を頬に残したまま俺の顔を見上げて、言葉を待っていた。

 冷たい風が俺たちの間を縫うように駆けていく。ちょうど一年と半年ほど前に、今と同じこの場所に立った時に感じた想いが、ふっと胸の奥から込み上げて来た。あの時に俺が感じた焦りも、不安も、何一つ色褪せていないまま、静かに俺の胸の中で波打っている。

 それらを全て胸に抱きしめたまま、志保へと視線を戻した。

 

「……志保と初めて出会ったこのアリーナのステージに立つのが俺の今の夢なんだ」

「出会ったって、この時はまだ互いに知り合ってすらなかったと思いますけど」

「まぁ、そうなんだけどさ」

 

 呆れたように志保が笑って、ほんの少しだけ空気が和らいだ気がした。

 確かに志保の言う通りなんだろうけど、それでもきっとあの瞬間、この場所から、俺たちの関係はもう始まっていたのだと思う。

 

「本当にごめん。最後まで志保のこと分かってやれなくて」

 

 俺はその和らいだ今の雰囲気に流されて、大切なことを有耶無耶にはしたくなかった。

 どこから手を付ければいいのか分からないほどに、話したいことがある。だけどまずは謝罪の言葉を伝えたいと思って、志保の瞳に向かってそう言った。

 

「ごめんな。ちゃんと話さないと志保だって何も分からねぇし不安に決まってるよな」

「そ、それは––––……」

「本当にすまねぇと思ってる。だからちゃんと話すよ、俺が考えているこれからのことを」

 

 志保は不自然に上がっていた口角を下げて、笑みを切った。そのまま口を閉じたまま、やっぱり俺の言葉を待っているように見上げている。

 

「ずっと俺は何かでっけぇことをやれるって思ってた。この手の中には、確かにそんな感触をあったんだ」

 

 志保の視線が、俺の右手に向かって落ちた。拳を作っていた右の手のひらを開いてみたけれど、その上には何もなくて、当然ながら空っぽのままだ。だけどそこには確かに目に見えない“何か”の、感触が残っていた。決して目に見えるものではないけど、それは空想なんかじゃなくて、確かにこの手の中にあるものだった。

 その確信があったから、志保に話したってちゃんと伝わるかは分からないけど、伝えたいと思ったのだ。

 

「笑っちまうくらい根拠なんかねぇんだけど、いつかは俺はこの空を飛ぶくらい大きなことを成し遂げてやるって信じてた。だけど––––」

 

 唇を噤んで一度だけ空を仰ぐと、目の前に佇む建物へと視線を向けた。あの時に感じた劣等感と敗北感を、唾と一緒に飲み込む。少しだけ苦い唾液が、すっと喉の奥へと走っていくのが伝わってきた。

 

「……俺、正直もうダメなのかなって思ったんだ。天海たちのステージを見て」

 

 考えていたことが、そのまんま口から出ていた。それこそ、一年前に高台の公園で想いを伝えあった時と同じように。

 俺はアリーナライブで初めて自分たちの現在地を突き付けられて、ずっと手の中で大事に温めていた可能性を疑うようになった。俺は誰よりも高い空を見ていて、その空の一番高いところへと辿り着く鍵を持っている––––、そう信じてやまなかったはずなのに、あの時だけはどれだけ手を伸ばしても、そこは絶対に届かない世界のように感じられたのだ。

 961プロを退社して極端に仕事がなくなり、明日が見えない毎日をひたすらに歩き続けていたインディーズ時代。そんな時期に天海たちのアリーナライブを観たからこそ、ステージに向けられたスポットライトがいつになく輝いて見えていたのかもしれない。

 弱気になっていた背中を押してくれたのは、あの日の志保だった。

 

「でも志保はそんな俺みたいに生きたいって言ってくれた––––」

「喫茶店で私が相談した時、ですよね?」

 

 久しぶりに志保が口を開いた。俺はポケットに両手を突っ込んだまま、一度だけ頷いた。

 喫茶店で感じた、ぐっと背中を押してくれる追い風を手に入れたような感覚は今でも鮮明に覚えている。空の飛び方も、飛ぶ方角さえも分からない俺でも、どこまでだって飛んでいける––––なにも根拠のない自信ではあったけど、俺に向けられた志保の眼差しと言葉から、そんな勇気をもらったのは確かだった。

 

「あぁ。俺、あの時は本当に嬉しかったんだぜ」

「それで頑張りすぎて体調崩したんですもんね」

「……そういえばそんなこともあったな」

 

 そう言った志保の目は、三日月形になって笑っていた。その意地悪な視線に、俺は思わず苦笑いを返す。

 志保に看病をしてもらった日のこともよく覚えていた。弱っていたせいか、今まで北斗や翔太にも打ち明けなかった弱音を初めて志保の前で吐いたことも、そしてそんな俺に志保が「分かりますよ」と優しく言ってくれたことも。

 

「……俺だって遠距離恋愛なんて寂しいし不安なんだよ。できるもんなら志保にはずっと側にいて欲しいって思ってる」

「冬馬さん……」

「だけどそれじゃダメなんだ」

 

 いつの間にか泣き止んでいた志保の落ち着いた息遣いが冷たい風に紛れて聴こえてくる。志保は俺の言葉の一つ一つをしっかりと胸に刻み付けるように、ジッと眼を見ながら話を聞き続けてくれていた。

 優しい微風が、俺の前髪をさらう。視界が開けたのを合図にして、俺をハリウッドへと導くキッカケとなった決意を、夢の舞台であるアリーナの前で宣誓した。

 

「俺自身さえも疑っていた自分の可能性を、志保は信じてくれた。だからこそ、俺はずっと志保が憧れた天ヶ瀬冬馬であり続けたい。志保が信じた可能性を、形あるものにして、間違ってなかったって証明したいんだ」

 

 志保は何も言わずに、俺を見上げていた。その瞳の中に映った月はか細い煌めきを持ったまま、ゆらゆらと揺れている。瞬きをした拍子に月から大きな雨が一滴だけ溢れたが、その顔は曇り空を一切含んでおらず、むしろ清々しいほどに晴れ渡る空のようだった。

 その志保の表情を見て、やっぱりとっくの昔から気付いていたんだろうなと思う。俺が手の中に握っていた“何か”を、空を飛ぶことだってできるという可能性を。

 志保の潤んだ瞳は、俺がずっと確かめられないでいた––––、だけど信じていた世界を、ハッキリと映し出していた。

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

「俺自身さえも疑っていた自分の可能性を、志保は信じてくれた。だからこそ、俺はずっと志保が憧れた天ヶ瀬冬馬であり続けたい。志保が信じた可能性を、形あるものにして、間違ってなかったって証明したいんだ」

 

 冬馬さんのその言葉を聴いた時、私は思わず瞼を閉じてしまって、涙が溢れてしまった。

 だけど不思議なほどに、その涙には「悲しい」や「寂しい」といった感情は含まれていなかった。そういったネガティヴな想いより、ポジティヴな想いが圧倒的に私の胸を埋め尽くしていたからだ。

 私がずっと冬馬さんの中に見出していた煌めきを、冬馬さん自身も感じていたことが凄く嬉しかった。

 やっぱりこの人は特別なんだ。いつか大勢の人の心を奪うような“何か”をやってくれる可能性を秘めた人間なのだと。

 願望に近かった憧れが、冬馬さんの話を聴いて確信に変わる。やっぱりこの人は、神様から印を貰った特別な人間なのだと思った。

 

「私、好きですよ。冬馬さんのそういうところ」

 

 冬馬さんの魅力を語れと言われれば、私は恥ずかし気もなく何時間も語ることができるだろう。

 時折言葉を失ってしまうほどに目を奪う綺麗な横顔、ぶっきらぼうに見えて優しいところ、何事にも絶対に手を抜かないところ、意外とシャイで子供っぽい一面も多々あること––––。

 冬馬さんの魅力は星の数ほどあるけれど、私が一番に惹かれたのは簡単な言葉で言い表すことのできるモノではなかった。私が冬馬さんに一番惹かれたのは端正な容姿でも優しい性格でもなくて、彼が言う「手の中にあった“何か”」と、その可能性を信じて突き進もうとする冬馬さんの生き様だったのだ。

 

 ––––私の思っていたこと、ちゃんと伝わってたんだな。

 

 気付いていないと思っていたけれど、冬馬さんは私が感じていた可能性にとっくの昔から気が付いていた。そのことを知れたからこそ、先ほどまで私の心を破壊するほどに覆っていたネガティヴな感情たちは一斉に浄化されたのかもしれない。

 そしてあれほどまでに悲しくて仕方がなかった明日の別れも、不思議と今は何も私に訴えてこなかった。むしろ私ではなくて、冬馬さんらしい生き方を選んでくれたことが、嬉しいと思えるようになったのだ。

 

「初めて冬馬さんを知った時、純粋に羨ましいと思ったんです。冬馬さんは空のずっと高いところを見ていて、いつかそこに辿り着けるんだろうなって気がしてました。だから私もそうなりたいと思って」

 

 喫茶店で話を聴いてもらった時と同じように、冬馬さんの目元は照れ臭そうにふくれて、笑っていた。

 冬馬さんが見つめる空を私も飛びたくて、だからこそ飛べない一般人の自分を冬馬さんに重ねるようになった。それが速水さんの言うように誰かが生き方をコピーしているだけで、誰かの真似をしているだけでは絶対にこの空を飛ぶことはできないのだとも知らずに。

 

「だから、私は福岡に行こうと思いました。いつか冬馬さんの見てる空に一緒に飛び立てるように、そのためには夢に一番近い世界で頑張るべきだと思ったんで」

 

 本当の意味で自分の道を生きることが、冬馬さんと見てる空に繋がることを信じて。私の憧れる自分になるために、私は自分自身の意思でこの道を選んだのだ。

 私たちは明日からそれぞれの場所で、たった独りで、互いの手が及ばない世界でこの空に向かって突き進んでいかなければいけないことになる。

 だけど冬馬さんの気持ちを知った今なら、別々の道を選んだことが誤りだったとも、自分が明日から孤独になるとも思わなかった。

 

「互いに譲れない想いがあって、それぞれの場所で頑張らないといけなくて、支え合うことなんて今までみたいにはできねぇかもしれないけどさ」

 

 丁寧に言葉を選びながら紡いでいく冬馬さんの、無限の可能性を握り締めた右手が、私の頬に触れる。まるで記憶の中の父の手の平のようにゴツゴツとした大きい手から伝ってくる冬馬さんの純粋な想いは、確かに私の胸の奥底にまで行き届いていた。

 

「けど俺は、互いの存在を誇らしく見つめ合うことができれば、きっとそれぞれの夢に辿り着けるって信じてる」

「––––っ」

 

 返事をしようとしたけれど、口が開かなかった。その代わりにに不意にまた涙が溢れてきて、私はその涙に戸惑いながらも笑いかけることしかできなかった。

 頬を伝って足元へと落ちていく涙を冬馬さんは優しく拭ってくれると、そのまま私の身体をギュッと強く抱きしめた。力強くも優しい腕に抱かれた私も、冬馬さんの腰に両手を回す。ふと至近距離で私を見下ろす冬馬さんと視線が交錯した。瞬く見つめあった後、冬馬さんが腰を曲げて私たちは初めて唇を重ね合った。この時初めて、本当の意味で私と冬馬さんは言葉を交えずとも分かり合えたのだと感じた。

 頬に残った涙の通り道の跡に風が触れてこそばゆい。春の入り口から漂う草木の優しい匂いが、私たちを包み込む。

 大きな腕の中に抱かれたまま、私は幸せだなって、そんな月並みなことを考えていた。そんな安っぽい言葉一つで今の気持ちを表現できるとは思わなかったけれど、本当にこの言葉以外に言いようがなかったのだ。

 

「私、冬馬さんを好きになって本当によかった」

「あぁ、俺もだぜ」

 

 冬馬さんが私を瞳の中を見て笑う。それに釣られて、私も自然と笑みが溢れた。

 

「俺たちはこれからずっと一緒にいるんだから、その長い時間の中で振り返れば二年なんか一瞬だって。遠距離なんか乗り越えてやろうぜ!」

「……そうですねっ」

 

 今度はちゃんと言葉で返事をすることができた。

 その返事を聴いた冬馬さんは満足そうに私の頭を撫でて、再び顔を近づけてくる。その意味を知っていたから、今度は私が精一杯背伸びをして口付けをした。

 高台の公園で想いを伝えあった一年前と同じ、草木の匂いを含んだ春の風が吹いて、私の胸をぎゅっと縮ませる。春の訪れと、私たちの別れはもうすぐそこに迫っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



一応この回で物語は(仮)完結になるので初投稿です。


 あれほどまでにもどかしいと思っていた旅立ちの日が、とうとうやってきた。

 ずっと前から決まっていたこの日を迎えた時、きっと私は不安な気持ちを感じてしまうのだと考えていた。家族や劇場の皆との別れにも、冬馬さんと離れ離れになることにも、もしかしたらさほど思い入れのなかったはずのこの生まれ育った東京の街にも、胸が焼けるような恋しさを抱くのだろう、と。

 だけどいざ当日を迎えてみると、私の胸にはそんな恋しさや不安は微塵も存在していなかった。

 旅立ちの日の朝はいつもより日差しが眩しく感じられて、窓を開けて肺一杯に吸い込んだ空気は新鮮な味がして。大きくて重いキャリーケースを引いて家を出た時に見上げた空は透き通るような青色に染まっていて、私の胸の中では昂るような衝動が駆け巡った。

 これから福岡の地で新たな生活が始まって、きっとそこで私は今よりもっと夢に近づくことができる––––……。今日という日がそんな希望に満ち溢れた未来へと続く第一歩のようで、もしかしたら蛹から羽化し、初めて羽を大空に向けて広げた蝶はこんな風に空を見上げているのかもしれないと思った。

 私はこの空の飛び方を知らないけど、追い風を含んだ背中の羽は既に飛び方を知っているようで、あとは私の気持ち次第でどこまでも飛んでいけるような気さえする。冬馬さんが隣にいなくても、私は自分の空へと飛んでいけるのだと。初めてそう思うことができた。

 

 ––––これも冬馬さんのおかげなのかな。

 

 私がこうして前向きにこの日を迎えることができたのも、そしてこの空を初めて独りきりでも飛べると思えるようになったことも。

 きっと冬馬さんがちゃんと話をしてくれて、私が選んだ道も、冬馬さんが選んだ道も、全ては決別ではなく私と冬馬さんが見上げている空へと続いているのだと再確認することできたからだと思う。

 今見ている景色や肌で感じている空気、身体中の血流を昂らせる衝動も、そして冬馬さんとの思い出も、何一つ忘れまいと胸に刻み付ける。全てを持って、私は福岡で夢を叶えるのだ。

 この何処までも続く真っ青な空を飛べると確信を得た私に、昨日までずっと居座っていたはずの後ろ向きな気持ちが入る隙間は少しもなかった。

 

 駅まで見送りに来てくれたプロデューサーや劇場の皆と最後の別れを済ませ、乗り込んだ東京モノレールを羽田空港第3ターミナル駅で降りると、空港の向こう側に広がる滑走路から飛行機が離着陸する騒音が聴こえてきた。飛行機独特の燃料の匂いを乗せた北風は乱暴に吹き乱れていて、これから始まる私の新たな門出を手荒に祝福しているようだった。

 

「志保、身体に気を付けて頑張りなさいね」

「お母さんもね。りっくんもちゃんとお母さんの言うことを聞いて良い子にしててね?」

「うんっ!」

 

 母と弟は高校の入学式に出席するため、一週間後に福岡へとやってくることになっている。そのせいか、そこまでの寂しさは感じられなかった。

 福岡の事務所から話があったことを伝えた時、母は真っ先に「家族のことは気にしないで、志保が行きたいと思う道を選びなさい」と言ってくれた。結局その後福岡に行くことを決めたと告げた時も、金田社長を連れてきて三人で話した時も、母は一貫して「志保のやりたいことをやらせてあげたい」と私の背中を押し続けてくれたのだ。

 その言葉に有り難みを覚えつつも、あまりにあっさりと承諾してくれたことに少しだけ腑に落ちない部分もあって、後々母に「どうしてすんなり行かせてくれたの?」と尋ねてみたことがある。すると母は、「今まで散々志保に助けられてきた分、これからは少しでも志保には自由に生きて欲しい」と照れ臭そうに答えてくれた。私はもう気にしていないと何回も伝えたけれど、もしかしたら母なりに父の死を隠してきたことや無意識のうちに多くのモノを背負わせてしまったことへの負い目があったのかもしれない。

 だからこそ、私が自ら選んだ道を進むことに対して寂しさ以上に嬉しさが勝って、そして誇らしくも思っているのだろう。今までとは違う形で母の愛情を感じ取れたのと同時に、母も私も、父の死を本当の意味で受け入れることができて、ずっと止まっていた北沢家の時計の針が未来に向かって進み始めていることにも気が付くことができた。

 その変化に気が付けたからこそ、私も後ろ髪を引かれることもなく、自分の道を進めるのだと思う。

 

「これから天ヶ瀬さんにも会うんでしょ? よろしく伝えといてね、気を付けて行ってきてくださいって。それと本当にありがとうございました、とも」

「うん。ちゃんと伝えとく」

「お姉ちゃん、頑張ってね!」

「ありがとう。りっくんも春から小学生頑張ってね」

 

 最後まで別れを惜しむような空気にはならず、母と弟は帰っていった。何度も振り返りながら改札を通って行った二人の背中を見えなくなるまで見送った後、私は目の前にそびえ立つ羽田空港第3ターミナルの中へと向かう。私が買った福岡行きの飛行機より、冬馬さんが乗るハリウッド行きの飛行機の方が早く東京を離れる事になっていた為、待ち合わせは国内線ではなく国際線ですることになっていたのだ。

 第3ターミナルで無事に冬馬さんと合流した私だったが、その後は驚くほどに会話がなかった。この瞬間を最後に莫大な距離によって引き裂かれてしまうというのに、私たちは残された時間で今までの楽しかった時間を共有する思い出話や、それこそ昨日の私のように寂しさから感情を爆発させることもなく、互いに手を握り合ったまま言葉は殆ど交わさないという、奇妙な無言の時間を過ごしていたのだ。

 だけど不思議と私たちの間には沈黙に対する気まずさも、別れることへの悲壮感は感じられなかった。むしろ何故かこの沈黙が心地良いと感じられるくらいだ。

 無言のまま手を繋いでベンチに座る私たちの前を若いカップルや、それこそ別れを惜しんで涙する人たちの姿が何組も通って行ったけれど、やはり悲壮感は私の心の中に付け入ろうとはしてこなかった。

 

 ––––もう言葉は必要ないんだな。

 

 昨晩、私が伝えたかったこと、知りたかったことは全て話し合うことができた。だからきっと本当の意味で私は冬馬さんと繋がり合うことができたのだと思う。

 ようやく言葉に心の底から繋がり合うことができた今、私たちに余計な言葉は不要だった。わざわざ言葉で確認しなくても、今の私は冬馬さんの考えていることも、綺麗な瞳が捉えている未来も分かるのだから。

 そしてそれはきっと冬馬さんも同じなのだと思う。

 

「あ、そう言えばさ」

 

 ふと何かを思い出したような素振りを見せ、冬馬さんがそう言った。

 だけどその切り出し方はごく自然なもので、沈黙に対する気まずさや何か取ってつけた話題のような不自然さは一切感じられない。その様子からやっぱり冬馬さんも無言の時間に何も違和感を感じていなかったのだと密かに思った。

 

「どうしたんですか?」

「前さ、志保がアイドル続けるって言った時あったじゃん。あの時、俺が言った言葉って覚えてるか?」

「冬馬さんが言った言葉……?」

 

 訊き返した私はそう問われ、ちょうど一年前の今頃だった日の光景を記憶の隅から引っ張り出す。

 久しぶりに実家に帰って母と和解して、父の墓参りに初めて行って––––……、その後に高台の公園で冬馬さんと待ち合わせをして互いに想いを伝えあった日のことだ。あの日はそれこそ今日と同じくらい空が高くて、優しい春風が吹いていた覚えがある。

 

 ––––誰かの為ではなく自分の為に、アイドルを続けたい。

 

 確かそんなことを私は冬馬さんに伝えたはずだ。

 一問一句しっかりというわけではなかったが、あの日のことはつい昨日のように鮮明に覚えていた。私が高台の公園で何を思って、何を伝えたのかも、そしてその時の冬馬さんの反応も、優しくかけてくれた言葉も。だから冬馬さんの問いかけの答えは、わりとすぐに見つけることができた。

 

「私がアイドルを続ける理由を一緒に探してくれる、ってやつですか?」

「そう! さすが志保、よく覚えてるな」

 

 正解だったようで、冬馬さんは子供のように無邪気に笑う。

 だけどすぐにその笑みを切って、困ったように眉をしかめた。その表情が心なしか申し訳なさそうにも見える。

 

「……結局志保がアイドルを続ける理由ってのは見つけてやれなかったな、って思ってさ」

「そのこ––––」

 

 弱々しい冬馬さんの声が途切れたのを確認して返事を言いかけた時に、割り込むように空港内には大きなアナウンスが鳴り響いた。

 

『ロサンゼルス行き、十六時三十分発、ANA航空〇〇◯便をご利用のお客様は保安検査場をお通りになり、五番搭乗口よりご搭乗ください』

 

 流暢な英語の後に聴こえてきたのは機械のように淡々とした日本語のアナウンス。二度同じ内容のアナウンスが繰り返され、出発時間が迫っていることと保安検査場を早く通過するようにとしつこく勧告している。

 冬馬さんにもそのアナウンスが聴こえていたのか、シャツの袖を捲って腕時計を確認すると、おもむろに腰を上げて立ち上がった。

 いよいよ別れの時なのだと思うと、途端にギュッと胸が締め付けられる。いくら心が通じ合ったからと言って寂しさが全くないわけではない。やっぱり別れの瞬間を迎えると私の胸は針を刺されたように痛くなって、気を抜けばあっという間に昨晩のような弱い自分が姿を見せてしまいそうな気がした。

 だからこそ、そんな自分を押し込めるように、私は縮んだ胸の底から声をどうにかして絞り出した。

 

「そのことなら大丈夫ですよ」

「え?」

 

 私がそう言うと、この答えは予想していなかったのか、立ち上がったままの冬馬さんはびっくりしたような顔で振り返った。座ったままの私を見下ろす冬馬さんは、言葉の真偽を確かめるように私の瞳を見つめている。

 

「ちゃんと見つけられましたから、アイドルを続ける理由は」

「そうなのか?」

「はい。冬馬さんのおかげで」

「え、俺のおかげ?」

 

 ますます疑うように、冬馬さんは私に向けた目を細めた。どうやらこの言葉の意味に気が付くほどにはまだ通じ合えていないようだったけど、それはそれでいいのかもしれないと思った。きっと全てを分かり合えなくても、今の私たちなら大丈夫なのだとも。だから私は敢えて言葉にしてまでは伝えない事にした。

 

「さっ、早く行ってください。これで乗り遅れたら洒落になりませんよ」

 

 恐らく冬馬さんと同じ飛行機に乗るであろう何組かが、急ぎ足で保安検査場へと向かう姿が目に付いて、私はそう言った。

 冬馬さんは簡単に頷いて、大きく深呼吸をする。そして溜め込んだ息を吐くと、小さなキャリーケースのハンドルを握った。

 

「……そうだな。じゃ、行ってくる」

「はいっ。行ってらっしゃい」

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

「ちゃんと見つけられましたから、アイドルを続ける理由は」

 

 あの日に誓った、『志保がアイドルを続ける理由を一緒に探す』という約束を守れなかったと話した俺に、志保が返した言葉は意外なものだった。思わずその意味が分からなくて、「そうなのか?」と確認してみたけれど、志保はやっぱり確信に満ちた表情で頷く。見つけれたのは俺のおかげだという意味深な言葉も添えて。

 その理由も、俺のおかげで見つけれたと話す志保の『アイドルを続ける理由』は依然として分からないままだったが、俺は言及はしなかった。志保も話す必要はないと思っていたのか、それ以上は自分から話を広げるつもりはなさそうだった。

 ついさっき聞こえたのと全く同じ内容のアナウンスが、再び何処からか聞こえてくる。検査保安場へと足早に向かって行く人たちも増えてきて、俺たちにはあまり時間が残されていないことをひしひしと突き付けて始めていた。

 

「じゃ、行ってくる」

「はいっ。気を付けていってらっしゃい」

 

 まるでまた明日にでも会えるかのような、冷たくも未練がましくもない口調だった。自分たちでも驚くほどに軽い言葉を別れの挨拶にして、ずっと繋いでいた手を解く。手が離れた瞬間にだけ寂しさが顔を覗かせたが、特に胸を激しく叩くようなことはしなかった。

 少しだけ距離を取ってから最後にもう一度だけ手を振り、背を向けて俺たちは別れた。保安検査場に向かうまでの道ではひたすらに前だけを見据えて、俺は一度も志保の方を振り返らなかった。確認できていないから確かではないけれど、きっと志保も一度も俺の方を振り返らなかったと思う。

 急ぎ足で保安検査場を抜けて搭乗口へと向かうと、ちょうどロサンゼルス行きの便の搭乗手続きが始まっていた。真新しいパスポートと搭乗券を見せて乗り込んだ飛行機の窓から外を見ると、そこにはただっ広い滑走路が広がっていて、多くの飛行機が空へと飛び立つ瞬間を今か今かとあちこちで待機しているのが目に入った。

 不思議なくらいに胸が高鳴っている。日本を独りで離れる不安なんか全く感じなくて、今はただずっと見上げていた高い空へ飛び立つ瞬間が、待ち遠しくて仕方がなかった。

 

 ––––いよいよ、か。

 

 ふと手の平を開いてみると、微かに志保の手の平から伝ってきていた温もりが残っていたことに気が付いた。一度だけ瞼を閉じて、志保の姿が焼き付いているのを確認する。志保のくれた勇気も、可能性も、そして温かさも、全てをちゃんと持っていることを確かめてから瞼を開くと、飛行機は大きく揺れながらゆっくりと広い滑走路を走り始めた。

 

 ––––その話を聴いて、凄いなって純粋に思ったんです。誰にも頼らないで、自分の実力だけでトップを目指すって、私も皆さんみたいにそれくらい強くなりたいなって。

 ––––あの、今日のライブ本当に良かったです。天ヶ瀬さん、素敵でした。

 ––––私、冬馬さんを好きになって本当によかった。

 

 徐々にスピードを上げていく飛行機の中で、その速度に負けないほどの勢いで志保との思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。次々と思い浮かんだ記憶は自分にとって都合の良い思い出ばかりだったことに気が付いて、少しだけ恥ずかしくなった。

 思い返せば初めて出会った時から、志保はずっと俺を特別な枠に置いてくれていた気がする。俺がこの空を見上げているのと同じように、ずっと俺を高いところにいる人間として見上げて、眩しい眼差しを送り続けてくれた。時折その志保の羨望の眼差しが俺には不釣り合いなような気がして怖くなったこともあったけれど、そんな志保の眼差しが俺を奮い立たせてくれて、自分ですら信じられなくなっていた可能性を信じる強さをくれたのは紛れもない事実だった。

 だからこそ、俺は強く願った。今度は俺が志保に貰った倍以上の勇気と元気を与えることのできる大人になりたいと。それがきっと天道さんたちのような、俺が憧れる大人の姿に繋がるのだと信じて。

 

 ––––ちゃんと忘れてないぜ。全部、ちゃんと覚えてる。

 

 志保との思い出も、ずっとずっと握り締めていた可能性も、全てを持って俺たちはそれぞれの場所へと歩いていくのだ。一直線に、迷わずに。

 喫茶店で志保と話した時のように、身体全体がふっと軽くなって、強烈な後押しを受けて背中の翼が広がるような感触が背中を走って行った。

 この時初めて、俺はようやく飛べたんだなと思った。思い描いていた世界へ、胸の奥に広がってた世界へ向かって、ずっと確かめられないでいた可能性が初めて具体的な感触に変わった瞬間だった。

 俺を乗せた飛行機は轟音をたてながら離陸し、あっという間に日本から遠ざかっていった。

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

「じゃ、行ってくる」

「はいっ。気を付けていってらっしゃい」

 

 このやりとりを最後の会話にして、私たちは互いに背を向けあってそれぞれの道へと歩き始めた。

 大勢の人で賑わう羽田空港の第3ターミナルには夕暮れ時だと言うのに春の日差しが差し込んでいて、温かい陽気に包まれている。出口へと向かう途中で、私は数え切れないほどの人たちの出会いと別れを繰り広げられてきた空港という場所には、まるでこの季節がピッタリなのかもしれないと思った。

 ふと近くで別れを惜しみ合うように泣きながら抱き合う若いカップルの姿が視界の端に入った。きっと私たちのように国を跨いだ遠距離恋愛になるのだろうか、女の人が感情を露わにして泣き叫んでいる。その光景が昨日の自分の姿と重なって、思わず冬馬さんの方を振り返りたい気分にとらわれた。

 

 ––––大丈夫。大丈夫だから、振り返らないで。

 

 そう言い聞かせて、私は春の日差しが差し込む空港内を振り返らずに進んでいく。つい数秒前の冬馬さんの面影がハッキリと脳に焼き付いているのを確認できたから、私は最後まで一度も振り返る事なく第3ターミナルを後にすることができた。冬馬さんの姿も、そして私にかけてくれた言葉の一つ一つの意味も、ちゃんと覚えているから、わざわざ振り返って確認する必要はなかったのだ。

 第3ターミナルからバスを乗り継いで、今度は私が搭乗する福岡行きの便が待つ第1ターミナルに到着した時、空港の上空をぐんぐんと登っていく一機の飛行機の姿が目に入った。飛行機の種類なんて全然分からないし、航空会社にも詳しいわけでもない私だけれども、それが直感的には冬馬さんを乗せたロサンゼルスへと向かう飛行機なのだと気付くことができた。

 

 ––––やっぱり冬馬さんは凄いなぁ。

 

 初めて会った時からいつか大きいことをしてくれる人だとは思っていたけれど、まさかハリウッドに行くなんてことは予想できなかった。私が福岡に行くと決めたら、冬馬さんは国外にまで行ってしまうんだから、やっぱりまだまだ私は冬馬さんに敵いそうにないなと思う。

 

 ––––どうか、冬馬さんがこの先もずっとずっと遠くまで飛んで行けますように。

 

 煙る夕日の先へと飛んでいく冬馬さんの飛行機をジッと見つめながら、そう強く祈った。そしてその背中を、私もずっとずっと、いつまでも追い続けていけるようにとも。

 冬馬さんを乗せた飛行機の姿が見えなくなるまで見送って、私は自分の進むべき道へと戻った。既に日が暮れてしまった第1ターミナルの中は少し肌寒くて、だけどその寒さが程よく感じられて、私は軽快な足取りで空港内を進んでいく。第3ターミナルに比べると若干人の数が少なかったようで、チェックインを終えてから搭乗口に辿り着くまでの間は殆どその足を止める障害物はなく、スムーズに進むことができた。

 搭乗口で大きなガラス張りの窓の外側で待機している飛行機たちをボンヤリと見ていると、ふと父のことを思い出した。父は私が幼い頃に他界したのもあって、今胸に残っている父との思い出はあまり多くはない。それでも今でもなお残り続けている記憶だけは決して錆びらせないよう、定期的に磨くように思い出していたのだ。

 

『志保、よーく聴け。自分の身に起こることには全て意味があるんだ。偶然で無意味なことなんて何もないんだからな』

 

 何度も何度も磨かれた父との思い出の中でも、一際強く印象に残っているのがこの言葉だった。

 あの頃も、そしてつい最近までもこの言葉を父が幼い頃の私に伝えた意図が分からなかった。だけど冬馬さんと出会って、ほんの少しだけ大人になれた今なら、その意図が分かる気がする。

 

 ––––きっと、全てのことに意味を持たせろってことよね。

 

 自分の身に起こる出来事、全てにちゃんとした意味があるわけではない。きっと意味も理由もなく突発的に訪れる出来事だって人生の中では沢山あって、そういう形容しづらい機会があるからこそ『偶然』なんて言葉もあるのだろう。

 だけどそういうことではなくて、父はきっと偶然でも必然でも、私の身に起こった出来事、私の周りで起きたこと、一つ一つに意味を見出して生きろってことを伝えたかったのだと思う。偶然の一言で片付けるのではなく、その出来事や経験は私に何を伝えたいのか、何を学ばせたいとか、もしかしたらそういう前向きな物事の捉え方ができる人間になって欲しいと父は願っていたのかもしれない。

 長い年月がかかってしまったが、父が伝えたかった本当の意図に気が付くことができた。だからこそ冬馬さんがハリウッドに行くことも、私が福岡に行くことも、きっと全てに意味があって、私たちの選んだ道は間違いではなく、進むべき方向へと向かっているのだと信じることができる。今は離れ離れになった道の先は、必ず私たちが共有した空の一番高い部分に繋がっていることを、強く信じることができるのだ。

 

『大変お待たせ致しました。日本航空にて福岡へご出発のお客様にご案内いたします。日本航空〇〇〇便、福岡行きは全てのお客様を機内へとご案内いたします』

 

 旅立ちを告げるアナウンスが聴こえて、私は春先に冬馬さんと二人で乗り込んだ飛行機に独りきりで乗り込んだ。だけど私の胸には孤独感も不安もなくて、ただただこれから始まる福岡での新生活に心を躍らせる期待感だけが一杯に詰め込まれていた。

 福岡でしっかりと自分のやりたいこと、夢に向き合って努力して、そして今度冬馬さんと会う時はもっと魅力的な女性になっていよう。いつまでも冬馬さんと同じ空を、自分にしかできない方法で昇り続けていけるように。

 新たな誓いを胸に刻んだ私を乗せた飛行機も、冬馬さんをハリウッドへと連れて行った飛行機の跡を追うように羽田空港を飛び立って行った。

 




ぶっちゃけここで終わらせるのが一番切りが良いかなと思っていたので、どうしようか迷ってました。
でもここまで長々と続けてしまったし、まだ書きたい話もあるので、残り二回分は後日談扱いにして投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



今回含むラスト2話で完結なので初投稿です。


 こうして俺と志保の遠距離恋愛は始まった。

 ハリウッドと福岡の距離はおよそ8873キロメートルで、二都市の時差はおよそ十六時間。安易に会うことも叶わないどころか、生活習慣だって殆ど重ならない。そんなあまりにも巨大すぎる壁が俺たちの前には立ち塞がっていて、その壁を乗り越えることも、ましてや破壊することもできず、ただただ淡々と二年の月日が過ぎるのを待つことしかできなかった。

 そんなどうしようもない現実に屈しそうになった時がないといえば嘘になる。どうしてもふとした瞬間に志保の温もりが恋しくなる時というのは訪れて、その度に俺は行き場のない孤独感に苛まうことだって少なからずあったのだから。

 だけどそんな風に孤独感に負けて挫けそうになる度に俺を支えてくれたのは、誰でもない、遠く離れた福岡の地で頑張る志保の存在だった。

 志保は一年目の梅雨時期から徐々にローカル局のCMの仕事を貰い始めると、夏には準主役の役を貰って舞台女優デビュー。それから更にスピードを加速させてみるみる頭角を現していくと、冬には台詞の少ない脇役だったそうだが念願だった博多座で行われる舞台への出演も勝ち取って見せた。

 

 ––––志保はちゃんと福岡の地で独りでも頑張っていて、着実に夢に近づいている。

 

 だからこそ俺も二年後に帰国した時にちゃんと胸を張って会えるように、今後も志保が憧れた天ヶ瀬冬馬であり続けれるように、もっともっと頑張らなければいけないと思った。その思いが会えないことへの寂しさを和らげて、自らを異国の地で奮い立たせるモチベーションになっていたのだ。

 例え側で支え合うことができなくても、今の俺には「志保が福岡で頑張っている」という話だけで十分だったのかもしれない。悔しくて眠れない夜も、強烈な太陽の光に屈しそうになる朝も、遠くの街で頑張っている志保を想うだけで、俺は頑張り続けることができたのだから。

 そんな風に互いに刺激を与え合う関係性を保ち続けてたからこそ、俺たちはそれぞれ違う場所で孤独にも負けず、誰の手の及ばない場所でも独りきりだと感じなかったのだと思う。途方もない距離と時差の前に俺たちは引き裂かれてしまったが、そんな現実にも負けることなく、互いの存在を誇らしく見つめ合うことで、俺たちは旅立ちの前日に初めて繋がった糸を断ち切らぬように丁寧に、そしてより深く紡ぎ続けることができていたのだ。

 

 そして、ハリウッドにやってきてからちょうど一年が経過しようとしていた三月。ようやく志保との遠距離恋愛も折り返しを迎えたこの時期に急遽、俺に思わぬ形で日本へと一時帰国する機会が訪れた。

 

「トウマ、たまには日本に帰ってリフレッシュしてきたらどうだ」

 

 二週間ほどの春休みに入る直前にハリウッドでお世話になっていたボスが、そう言って日本への往復航空券をプレゼントしてくれたのだ。さすがに日本までの航空券の相場を知っている俺は気が引けて断ろうとしたが、「オフの時はしっかりリフレッシュしろ」という如何にもアメリカ人らしい言い分で俺の遠慮は捻じ伏せられてしまった。

 大きな野望と強い志を持ってハリウッドにやってきても、ハリウッドの芸能界隈でも特にスパルタと評判のボスの厳しい指導に耐え切れず、ハリウッドを去っていく者も多かった。後に赤羽根さんから聴いた話だが、これはそんな厳しい環境下でも逃げ出さずに頑張って来た俺に対する、ボスなりのご褒美だったそうだ。

 ボスに対して申し訳ない気持ちはあったものの、それでもいざ日本に帰れるとなると嬉しくて、心が浮き立ってしまう。幸い俺が日本に到着する日から志保が通っている高校も春休みに突入するそうで、俺はボスがプレゼントしてくれた航空券の発着点を福岡空港に変更し、日本の皆に会いたいと早る気持ちを抱えて春休みに入ると同時にロサンゼルスの空港を発って日本へと向かった。

 乗客の少ない機内の電気が消灯されて真っ暗になったタイミングでふと窓の外を覗いてみると、飛行機の下は雲の海が広がっており、上空の星たちは手を伸ばせば届きそうなほどに近い距離に浮かんでいる。銀河と月明かりの下、一年ぶりに日本へと向かう機内で俺はあっという間に過ぎて行ったこの一年を振り返っていた。

 言葉も今までの常識も通じない日常でもがき苦しんだ跡、孤独に負けそうになった夜、手に染み込んだ志保の温もりが異様に恋しく感じた日のこと––––。

 この過酷な一年間で俺は志保の存在にどれだけ助けられてきたことだろう。その話は何度か電話でも伝えたことがあったような気がするけれど、きっと言葉にしても伝わりきれないほどに俺は志保に支えられた一年だったと思う。

 

 ––––志保にも同じような一年があるんだろうな。

 

 電話では伝えきれなかった話が山のようにある。

 だけどそんな俺の話の前に、まずは志保に「おめでとう」と伝えたかった。演者として博多座に立つことができた志保の努力を、真っ先に称えるべきだと思ったのだ。

 

 

 一年ぶりに日本へ帰ってきて、入国審査を終えて福岡空港の国際線のターミナルに出ると、すぐに見慣れない清潔感のある白を基調としたセーラー服姿の志保が目に付いた。制服を身にまとう志保の姿は遠目から見ても一年前と比べものにならないほど大人びて見えて、その凛とした佇まいがこの一年での苦労を物語っているようだった。

 志保もすぐに俺に気が付いたようで、俺に向けて控えめに手を振っている。泣いて駆け寄ってくるようなことはしなかったけれど、志保の表情は満面に喜色を湛えていて、その顔を見るともう我慢できなくなって、俺は重いキャリーケースのキャスターの音を煩く鳴らしながら志保の隣にまで駆けて行った。

 

「志保っ!」

「冬馬さん」

 

 電話越しではない、志保の肉声が耳の中で心地よく弾ける。

 隣で見下ろした志保の目にはやっぱり涙が滲んでいたけれど、その煌めきに悲壮感は一切なくて、ただただ汚れのない純白な輝きを放っていた。

 最後に会った一年前に比べて、ウェーブのかかった髪は肩上に触れるくらいの長さで切られていて、少しだけ化粧もしているようだった。髪型や化粧のせいで高校生らしからぬ雰囲気を漂わせていたけれど、実際の志保は俺の思い出の中の姿と何も変わっていなかった。雰囲気や制服が違和感を感じさせているけれど、綺麗な鼻の形も、小さな手の甲も、髪の毛から漂う優しい匂いも、羽田空港で別れた時と一緒のままだ。

 妙な安心感と懐かしさが胸の中にじんわりと広がって行く。俺は帰ったら真っ先に伝えようと決めていた言葉をすっ飛ばしてしまって、心の底から温まるような優しい気持ちに浸っていた。

 

「……お帰りなさい、冬馬さん」

「あぁ、ただいま」

 

 志保は二回ほど瞬きをして、その拍子に大きな瞳から涙が溢れた。 

 俺はキャリーケースから手を離して、志保の小さな身体をギュッと抱きしめる。一年ぶりに華奢な身体に触れて、俺はずっと志保に会ったら伝えようと決めていた言葉を口にした。

 

「待っててくれてありがとな。それと、博多座出演、本当におめでとう」

 

 

 ☆★☆★☆★☆★

 

 

 冬馬さんが日本に到着する当日、私は高校生活一年目を終える終業式を終えて、制服姿のまま福岡空港へと向かった。到着予定時刻までは少し余裕があったから一度マンションに帰ることもできたけれど、あまりに胸が急くものだから、マンションでジッと待つなんてことができる気がしなかったのだ。私が急いで空港に着いたところで、冬馬さんを乗せた飛行機の到着が早まることなんてないのに、それでも私は早る気持ちを抑えられなくて、地下鉄の福岡空港駅を降りると制服姿のまま長いエスカレーターをダッシュで駆け上がった。

 

 ––––久しぶりに会って、冬馬さんには私がどう映るのかな。

 

 一年前の冬馬さんと別れた時、私は二年後までにはもっともっと魅力的な女性になろうと密かに誓っていた。ハリウッドから日本を結ぶ航空券は決して安価なものではないことは私も知っていたし、何となくではあったが冬馬さんは二年間の期間を終えるまでは帰って来ないような気がしていたから、てっきり次に冬馬さんと会えるのはハリウッドでの留学を終えた二年後だと勝手に決めつけていたのだ。

 その二年後の春を一つの到達点として、私は福岡での日々を過ごしていた。演劇や勉強はもちろん、39プロジェクトで学んだアイドルとしてのダンスや歌の技術も鈍らせないように、寂しさを感じる暇もないくらいに自分が福岡でやるべきことに打ち込み続けた。冬馬さんと共有したこの大空を私なりの方法で飛べるようにと、この大空を飛ぶことが亡き父の手紙にも書かれていた魅力的な女性になることにも繋がると信じて。

 そう思っていただけに、まさか冬馬さんがこのタイミングで一時帰国するのはある意味誤算だった。想像していた期間の半分……、この一年で私はどれだけ変われたのかどうかが気になって、何度も空港のトイレと到着ロビーを往復しては髪や化粧をチェックする。マンションでジッとしてられないから空港に直行したのに、結局空港でもジッとしていられなかったなと自分の落ち着きのなさに我ながら呆れる反面、時計の針が進むたびに胸が張り裂けそうなほどにドキドキして、私はやっぱり冬馬さんが好きなんだなとも思った。

 

 冬馬さんを乗せたロサンゼルスからの飛行機が到着したとアナウンスがあってから、三十分ほど経った頃だろうか。

 国際線の到着ロビーには、大きなキャリーケースを持った人たちがぞろぞろと出て来始めた。ラフな格好をしたガタイの良い外国人、キッチリとしたスーツ姿のビジネスマン、小さな子供を連れた家族、私の前に出てくる一人一人の顔を失礼のないように遠くのベンチから確認しながら、鼓動の早まる胸を押さえ込んでいた。

 

「……あ」

 

 思わず声が出て、ベンチから立ち上がった。一年前にも見た真っ黒なキャリーケースを握った茶髪の人影が、私の方をジッと見つめている。胸の中で何かが弾けて、泣かないと決めていたのにあっという間に涙腺が緩んでいくのが分かった。必死に涙を堪えつつ、気丈に振る舞おうとして小さく手を振ると、人影はキャリーケースのキャスターを強引に走らせて私の元へと駆け寄って来た。

 

「志保っ!」

 

 ––––あぁ、やっぱりダメだ。

 一年ぶりに聴いた冬馬さんの私を呼ぶ優しい声が、視界が潤ませる。私も冬馬さんの名を呼び返したけれど、ちゃんと言葉になったかどうかは怪しかった。だけど冬馬さんは私の隣に立って、ただただ笑っていた。

 見上げた冬馬さんの顔は頬の辺りが引き締まっており、あの頃とは見間違えるほどに逞しくなった大人の顔をしていた。一年前にまだ高校生だったとは思えないほどに変わり果てた顔つきに、きっとハリウッドで私の想像以上に苦労して大変な思いをしてきたんだろうなと思う。

 一度だけ鼻をすすって涙を堪えつつ、今度はちゃんと聴こえるような声量で「お帰りなさい、冬馬さん」と言った。すると冬馬さんはやっぱり優しく笑って、おどけたように「ただいま」と返すと、周囲の人目を気にもせずに私を頑丈な両腕で包み込んでくれた。

 

「待っててくれてありがとな。それと、おめでとう」

「……ありがとうございます。冬馬さんのおかげです」

 

 きっと冬馬さんは私が博多座に立てたことをお祝いしてくれているのだろう。そして私も、博多座に立つ夢が叶ったのはハリウッドで頑張る冬馬さんの存在のおかげだと伝えたかったのだけれども、だいぶ言葉を端折ってしまって分かり辛くなってしまった。

 だけどそんな言葉足らずのセリフだったけど、想いはちゃんと伝わっていたらしい。

 

「俺も志保のおかげで、頑張って来れたんだ。お互い様ってことだな」

 

 一年前にようやく繋がった糸は、ハリウッドと福岡の遠距離にも負けずにしっかりと繋がり続けれていた。

 

 

 博多で借りている私のマンションに寄って冬馬さんの荷物を置きに行った時に、お腹から空腹を主張する音が聴こえて、私は以前旅行で訪れた屋台に行かないかと提案した。実はあの時に行った屋台の味が忘れられなくて、あまり身体に良くはないと分かっていながらも福岡に引っ越して来てから度々一人で足を運んでいたのだ。

 機内で最後に食べた食事から随分と時間も経っていたようで、冬馬さんは若干時差ぼけの疲れを感じさせながらも私の誘いに同意し、二人で中洲の屋台に行く事になった。

 

「志保はあの屋台のラーメン屋よく行くのか?」

「いえ、行っても月に一度行くか行かないかくらいです。さすがに頻繁に行くのは身体に悪い気がして」

 

 この一年ですっかり見慣れた博多の街を冬馬さんと並んで歩く。ずっとずっと私が憧れていた夢の一つだ。

 いくら互いの夢のためだと言っても、やはり制服を着た同世代の男女が歩いている姿を見ると羨ましく思えて仕方がなかった。誰でも良いわけではなくて、私の隣は冬馬さん以外に考えられなくて、だけど私も周囲の人たちと同じような人並みの青春を送ってみたくて、そのどうしようもない現実と理想の狭間で私は何度も何度も胸を締め付けられて来たのだ。 

 特別なことをしたいわけではない。

 きっとこうした些細な日常の一コマを、私は冬馬さんと過ごしたかったのだと思う。

 だけどそんな日本中に転がっているありふれた日常を捨てて、私たちは互いの進むべき道を選んだのだ。そのせいか、誰にでも起こりうる日常を二人で過ごすだけでも随分と特別なことをしているような気がする。こうした身近なことで幸せを感じられるのも、冬馬さんと付き合えたからなのもしれない。

 

 まだ少しだけ早い時間帯なのもあって、中洲の博多座近くに構えている屋台は誰一人としてお客さんがいなかった。年季の入った暖簾をくぐると、退屈そうにて店の隅に置かれたテレビを眺めていた店主がすぐに振り返って、パッと子供のように嬉しそうな顔をして私たちを出迎えてくれた。

 

「おー志保ちゃんか! いらっしゃい!」

「こ、こんにちは」

 

 何度か訪れるうちに顔馴染みになった店主の、嬉しそうな声が響く。その視線に少しだけ恥ずかしさを感じつつもいつも座っている隅の席に腰を下ろすと、店主の視線が冬馬さんに向けられたまま止まっているのに気が付いた。

 

「––––あんた、もしかして数年前に志保ちゃんとここにきた天ヶ瀬冬馬か?」

 

 どうやら冬馬さんのことも覚えていたらしい。

 私と冬馬さんが付き合っていることは初めてここに訪れた時に気付いていたみたいだけど、こうして今でも続いているとは思ってもいなかったのだろう。店主は調子の良さそうな顔で親指を私に向けて立てると、すぐにメニューを冬馬さんの前へと引っ張り出した。

 

「志保ちゃんは久しぶりじゃないよな。二日前にも来てく––––」

「いつのもラーメンでお願いします。冬馬さんもそれで良いですよね?」

「あ、あぁ良いけど……。それより今、二日前にも来たって……」

「そんなこと誰も言ってません。言ってませんから」

 

 お喋りな店主の口を強引に封じて、そのままぽかんとする冬馬さんの視線を無視して水を喉の奥へと走らせる。乾いた喉に冷たい水が走っていく間、狭い屋台には隅に置かれた小さなテレビから流れる音だけがBGMとして響いていた。テレビに映っているのはここ数年でよく見かけるようになった三人組のアイドルだ。よく見かけるわりに三人の名前も、どこの事務所のアイドルなのかも知らなかったけれど、のんびりとした声と、抑揚のない透き通った声と、そして少しバタついたような若い声が、楽しそうに戯れ合っていて、その仲睦まじい雰囲気は不思議と心地の良いものだった。

 

「あ、そういえばな」

 

 店主が何かを思い出したようにそう切り出したのは、慣れた手つきであっという間に二人分のラーメンを作ってくれた直後だった。

 

「あの子も志保ちゃんの舞台見に行ってたみたいだぞ。この前の博多座であった」

「え? 本当ですか?」

 

 意外な話が飛び出して来て、私は目の前に置かれたラーメンを今すぐにでも食そうと二つに割った割り箸を握ったままそう訊き返した。私たちの目の前に置かれたラーメンは食欲をそそる匂いと湯気を立てていて、そのラーメンを目の前にした冬馬さんは横目で私を見つめていた。

 

「あの子って、志保の知り合いか?」

「あ、えっと……。知り合いって言うと少し違う気もするんですけど……」

 

 そう尋ねられると私は説明に困ってしまう。 

 おそらく店主が話している「あの子」というのは、よくここの屋台に一人でくる常連さんのことだ。その常連さんとは何故かいつも示し合わせたように同じタイミングで鉢合わせをするというだけで、特別仲が良いわけでも悪いわけでもない、非常に曖昧な関係だった。

 常連さんは不思議な人だった。年齢は私より上なのだろうけど、そこまで離れているような気はしない。涼しげな目元と泣きぼくろ、そして赤髪が特徴的で、綺麗な顔立ちをしているもののその瞳はいつも冷めきっていて、常に周囲の人間を自分の側には立ち入らせないようなバリアを醸し出していた。そんな雰囲気もあってか私はおろか、店主にも素性を明かそうとせず、年齢どころか名前さえも知らなかった。学生なのか社会人なのか、福岡の人なのか他所から来た人なのか、一切プライバシーを明かそうとしない人だから、いつしか私と店主は常連さんを「あの子」としか呼ぶようになったのだ。

 

「志保ちゃんと同じでよくここに来てくれる子のことさ。だけど一向に名前とか年齢を教えてくれなくてな」

「だから“あの子”って呼んでるのか」

 

 店主が私に代わって常連さんのことを説明してくれた。だけど説明と呼べるほどの情報はなくて、冬馬さんはイマイチ実態を掴めていないといった顔をしている。でもそれも仕方がないと思った。あの人のことを言葉で簡単に説明するほど、私たちはあの人のことを知らないのだから。

 

「あぁ。笑ったら可愛い顔してると思うんだけどな。いっつも不貞腐れたようにブスッとした顔をしてて、口を開けば辛辣な言葉ばっか言って……」

 

 言葉は失礼だが、そこまで的を外していない特徴をぺらぺらと喋っていた店主が、不自然にその口を閉ざした。暖簾が揺れた先に、私たちが話していた「あの子」が立っていたのだ。

 

 

 ☆★☆★☆★☆★ 

 

 

「あ、えっと……。いらっしゃい!」

 

 慌てて言葉を繋いだ店主のリアクションを見て、この赤髪の女性が今ちょうど話題に上っていた「あの子」の正体なのだと察することができた。

 だいぶ失礼な言葉を並べていた気がするけれど、本人には聴こえていなかったのか、そもそも気にもしていないのか、店主には文句どころか一言も言葉をかけず、黙り込んだまま俺たちと少しだけ距離をとって腰を下ろす。その拍子に冷たい視線を俺の方へと一瞥したが、あまり興味がなかったのかすぐに視線を逸らして頬杖を付いた。

 

「ちょうど今アンタの話をしてたんだよ」

「…………私の話?」

 

 不愉快そうに眉をしかめながら、氷のような冷たい声で返事をする。その威圧的な雰囲気にも慣れているのか、店主は何も気にしない様子で話を続けた。

 

「あぁ。ほら、この前志保ちゃんの舞台を観に行ったって話してたじゃないか。そのことを伝えてたんだ」

「そう」

 

 自分のことなのにまるで関心のなさそうな無愛想な返事だった。だけどきっとこの人はこれが普通の態度なのだろうと思う。不思議とその態度からは悪気は感じられない。

 

「ほら、せっかくだから何か志保ちゃんに感想でも言ってやりなよ」

「え、そんな気遣わせないでください! ほんと、観に来てくださっただけでも嬉しかったので」

 

 店主のお節介(というより無茶振り?)に、志保は慌ててフォローの言葉を口にしたが、当の本人は相変わらず無表情のまま、ボンヤリと虚空を眺めていた。重い沈黙が続く中には、相変わらずテレビの音だけが不自然に響いている。

 

「ビールちょうだい」

 

 少しの間を空けて「あの子」が口にしたのは、志保の舞台の感想でもなんでもない言葉だった。注文を聞かずに勝手にラーメンを作り始めていた店主はその手を止めて、「アンタ、成人してたのか」と驚きの声まじりに言うと、「あの子」は溜息をついて左手で頭をひと掻きして、免許証を財布から取り出した。無言のまま、だけどしっかりと名前のところは指で隠されている免許書を確認して、店主は狐につままれたような顔でビールをジョッキ一杯に注ぐ。そのジョッキを、「あの子」は一度も休むことなく一気に飲み干した。

 

「お、おいおい! そんな飲み方して大丈夫かよ」

「……大丈夫。もう一杯頂戴」

 

 動揺する店主とは対照的に、「あの子」はまるで落ち着き払ったようで、空になったジョッキをカウンターに置く。アルコールがまだ飲めない俺でも、その飲み方が普通ではないことは理解できた。

 唖然とする俺らの方を見向きもせず、ジョッキを空にした「あの子」はもう一度大きな溜息を吐く。そしてほんのりと顔を赤めらせながら、「お酒の力に頼らないと言えないこともあるの」と小声で呟いた。

 

「……志保の舞台、すごく良かった」

 

 店主から受け取った二杯目のビールを少し口に含んでから、独り言のように虚空を眺めたまま志保の舞台の感想を述べた。

 

「私は演劇なんか全然分からないし、知識もないけど、それでも志保の演技は何か心に来るものがあって、すごく良かったと思う」

 

 とうとうと喋る。誰も「あの子」の言葉を止めなかった。俺も志保も目の前の食べかけのラーメンの存在を忘れ、店主も手を止めてジッと見つめている。

 

「……私も志保と同じくらいの時、やりたいことがあった。踏み出すことで何かが壊れることも、綺麗なものにはトゲがついてることも分かっていたけど、それでも当時の私なりに真剣に向き合おうとしていたことが」

 

 虚空を眺めながら淡々と語るその瞳が、水溜りのようだなと思った。その水溜りの底が見えないほどに深くて、そして真っ黒な影を落としている。その水溜りは一日二日の雨で出来上がるような浅いモノではなく、長年の雨が積み重なってできるような深いモノで、深淵を覗くことは決して許してくれない。

 

「希望を持てばその度に傷は増えてって、だけどその痛みにはいつまでも慣れなくて。それでも飛ぼうとした。だけど、私“だけ”が飛べなかった––––」

 

 その水溜りの奥底に潜む瞳が、虚空を眺めているのではなくテレビを見つめていることに初めて気が付いた。

 テレビではさっきからずっと変わらず、283プロと呼ばれる事務所に所属する三人組ユニットの『ノクチル』が映し出されている。リーダーの浅倉透と福丸小糸、そして市川雛菜の三人組は、アイドル界では異色の“三人組幼馴染みユニット”だった。

 283プロ自体は俺が961プロに所属していた頃から時折耳に挟んだことがあった。近年マルチタレント化しつつある傾向のアイドル界では異色の、「かつてのスター性のある古き良きアイドル象」を掲げ、異様なまでに新人アイドルの登竜門である『W.I.N.G』の優勝に拘りを持つ事務所として知られていたが、その規模は決して大きくはなく、悲願であるW.I.N.Gでも毎年思うような結果が残せず例年準決勝以下の成績で敗退。所属アイドルの出入りも非常に多かったようで、イマイチ軌道に乗れていない事務所––––というのが俺が勝手ながら抱いていた283プロのイメージだった。

 だが丁度俺がハリウッドに行く直前に初めてノクチルのリーダーである浅倉透が決勝まで勝ち進むと、それを機に注目を集めるようになり、その恩恵を受けて浅倉透が所属するユニット、ノクチルもメディアに登場する機会がグンと多くなった。浅倉透が決勝に進出するまでに多くの時間を要し、ノクチルの三人も全員成人済みで決して若くはない年齢になってしまっていたが、長年の雌伏の時を乗り越えただけあって今はそれなりに勢いのあるユニットの一つとして活躍の場を広げている。

 

「だけど、志保の演劇を見て思った。私もまた頑張ってみようかなって」

 

 いつの間にか「あの子」の視線がテレビではなく、志保の方へと向けられていた。あれほどまでに深かった水溜りも乾き切っていて、まるで雨上がりの晴れ空を映し出したように清々しく透き通っている。

 そして、ずっと睨み付けるように細めていた目の力を抜いて、自然な顔で笑った。

 

「ありがとう。志保のおかげで自分の場所へ帰る決心が付いた」

「か、帰るって何処に……」

「東京。私、出身は東京だから」

 

 だから、その挨拶で今日は来ただけ。

 そう付け加えて二杯目のビールを飲み干すと、無言のままラーメンを食べて帰って行ってしまった。暫く店主と他愛もない話をして、少しお客さんが増えてきたタイミングで俺たちも屋台を出ることにした。

 

「志保、また夢が一つ叶ったな」

「えっ、何のことですか?」

 

 すっかり日がくれた夜の博多の街を歩きながら、俺がそう言うと志保は咄嗟に足を止めた。

 幾つかの細道を挟んだ向こう側から、大きな道路を走っていく車たちのごうごうとした音が聴こえてくる。近くの博多湾から漂ってくる海の匂いと、春の草木の匂い、博多の街を駆けていく車の匂いがごちゃ混ぜになって、肺の奥へと入り込んできた。知らない街の知らない匂い、だけどこの匂いは志保にとっては日常のひとカケラなのだろう。

 長い間隔で置かれた電信柱の灯が、ポツポツと光を灯していく。それはまるで志保が福岡の地で掴み取った夢を順々に証明しているようだった。

 

「言ってたじゃねぇか。自分の演技で誰かに影響を与えたり、勇気を与えれる人間になりたいって」

「––––あっ」

 

 志保は今更になって自分の夢が叶ったことに気が付いたようだった。

 驚いたように立ち尽くしながらも、感極まって泣きそうになっている。その表情も、去年よりもグッと大人びて見えた。

 

「やっぱり志保はすげーよ。ちゃんと夢を叶えて、大人になってんだな」

 

 




志保の制服のイメージは千年さんが通っていた高校です。
志保はブレザーよりセーラーのイメージすよね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



冗談抜きの最後の初投稿です。


  

 

 ハリウッドから冬馬さんが帰国した翌日、私たちは揃って福岡空港から羽田空港行きの飛行機に乗って東京へと帰った。冬馬さんは当然ながら、実は私も東京に帰るのは一年ぶり。福岡での生活は慌ただしかったけれど、帰ろうと思えば帰れるタイミングはこの一年で何度もあったはずだった。だけどそれでも帰らなかったのは、福岡の地で何も成し遂げないままは帰りたくはないという想いがあったからだ。

 東京に戻って家族や劇場の仲間たちには会いたい。

 だけどそれには自分が皆に胸を張って会えるような『結果』が伴ってないといけなくて、何の手土産もなく東京に帰るのは少し違う気がしていたのだ。

 だからある意味、博多座出演という一つ大きな仕事を完遂することができた今、冬馬さんが帰ってきたのは私にとって丁度東京に帰るタイミングとしては良かったのかもしれない。皆に会うのが楽しみな気持ちと、ほんの少しだけの誇らしい気持ちを持って、私は冬馬さんと福岡空港を発って東京へと向かった。

 空の上を約二時間ほど飛び続けて羽田空港に到着すると、ただっ広い滑走路に吹き荒れる強い春風が手荒に私たちを出迎えてくれた。急ぎ足で駆け抜けていく春風が私の身体にぶつかって、胸の奥に隠していた懐旧の念を激しく揺らしている。懐かしい気持ちと妙な安心感が、一点を鋭く突くように強く深く胸に刺さっていく。遠くに見える摩天楼の景色はやっぱり懐かしくて、一年ぶりに仰いだ東京の空はほんの少しだけ、最後に見た時よりも近く感じられた。

 一年福岡に住んでそれなりに良い街で住みやすさも居心地のよさも感じていたけれど、私にとってこの生まれ育った東京はかけがえのない故郷であり、私が本来いるべき場所なのかもしれない。

 

 東京へ戻ってきた私たちがまず最初に向かったのは、母と弟が二人で暮らしている団地だ。

 冬馬さんは久しぶりに会うのなら私たち家族だけの方がいいのではと最後まで遠慮していたが、母が「せっかく一緒に東京に帰ってきてるんだから」と言って、四人で会おうと提案してくれたのだ。冬馬さんと一緒に久しぶりに我が家の敷居を跨ぐのは変な感じもしたけれど、それでもいざ帰ると胸を突く懐かしさが小さな我が家の中には一杯に広がっていた。母が毎朝飲んでいるコーヒーの豆の匂い、使い古された家電製品、幼い頃から何度も顔を合わせてきた壁のシミ、一年ぶりの我が家はそこまで大きく変わっていたわけではなかったけれど、その空間には心の底から気が休まるような優しい空気に満ち溢れている。

 その久しぶりの我が家で、私と冬馬さんが並んで座り、向かい側には母と弟が座って小さなテーブルを囲む。どことなく懐かしさと違和感が重なっていたけれど、窓から居間に差し込む生暖かい光がその雰囲気を緩和してくれて、春の手助けを借りた私たちはいつしか自然に話ができるようになっていった。

 

「こんなお土産まで頂いて、本当にすみません……」

 

 申し訳なさそうにそう口にする母の右手には真新しいマグカップが握られている。マグカップには、『Hollywood』の文字とポップな絵柄で表現されたハリウッドの街並みがプリントされていた。

 

「冬馬くん、ありがとう! これ着てサッカー頑張るねっ!」

「あぁ! いっぱい練習して早く日本代表になるんだぞ」

 

 その一方で母の隣に座る弟は対照的に、今にも躍り始めそうなほどに悦びに溢れた瞳で冬馬さんから貰った白色のサッカーユニフォームを抱きしめていた。

 冬馬さんは母と弟にハリウッドのお土産を用意していたようで、コーヒーが好きだと私から聴いていた母にはハリウッドでしか手に入らないスターバックスの限定マグカップを、弟にはロサンゼルスを本拠地とするプロサッカークラブのユニフォームをプレゼントしてくれたのだ。

 きっと冬馬さんなりの気遣いなのだと思う。母のお金で福岡へ旅行に行ったことをずっと気にしているようだったから、冬馬さんは何かしらの形でお返しをして、“おあいこ”にしたかったのだろう。母は嬉しさ半分、もう半分は申し訳なさと遠慮が入り混じってた何とも言えない顔をしていたが、それでも最後は折れて、「大事に使わせていただきます」とお礼を言いながら、マグカップを箱の中へと戻した。その時の母は普段はあまり見ない笑顔を浮かべていて、ふと父がまだ生きていた頃はこんな風によく笑っていたのかもしれないと思った。

 

「冬馬くん、アメリカでの生活はどんな感じなの? アメリカ語は話せるの?」

「ん、英語のことか? それならまぁ、程々だな……、ははは」

「でも本当に立派ですよね、十八歳で一人アメリカに行くなんて」

「いえ。一人だけど助けてくれた人たちも沢山いたんで。そんなに俺は立派じゃないすよ」

 

 春の陽気に包まれた昼下がり、冬馬さんを交えた私たち北沢家の時間は緩やかに進んでいく。

 小学生になった弟の話、冬馬さんのハリウッドでの暮らしのこと、私が博多座に立った時の話、私たちが繰り広げている会話の内容は俗にいうただの“近況報告”で、決して何か特別な話をしているわけではなかった。だけどそんな何処の家庭内にでも転がっているような平凡な話題のひとつだけでも、こうして顔を合わせて話をすることで四人が座る狭い居間が、温かくて優しい雰囲気に満たされていくのを私は肌でひしひしと感じていた。

 それは冬馬さんと出会う前の北沢家からは想像もできない、そして私が何度も何度も求め続け、焦がれていた和気藹々とした光景だった。

 あの頃は母も私も、そして弟も幼いなりに、きっと互いが互いを思いやろうとしすぎて、すれ違いが生じていたのだと思う。母は私たちに少しでも楽をさせようと毎日のように朝早くから夜遅くまで仕事に行って、私はそんな母の負担を少しでも減らそうと、そして父が帰ってくればまた皆が楽しく過ごせる時間を取り戻せるものだと信じてアイドルを志した。あの頃は皆が誰かを気遣うあまり、ろくに話もする機会もなく、家族揃って顔を合わせて話をする機会なんて殆どなかったはずだ。

 だけどそんなすれ違いも今は解消されて、父がいなくなったあの日から止まっていた北沢家の時計の針は間違いなく未来へと進み始めている。今までの遅れを取り戻すかのような速度で。

 冬馬さんに助けられたのは私だけではなく、きっと母も同じだったのかもしれない。

 あの時に冬馬さんがいてくれたからこそ、こうして北沢家は本当に向き合わなければならない問題が何なのかに気が付くことができて、その結果、本当の意味で全員が父の死を乗り越えることができたのだから。

 父とはもう会うことはできない。だけどその傷を癒し、埋めてくれたのは冬馬さんだった。

 絶対に父の存在でしか埋まらないと思っていた北沢家の欠けたパズルの穴を埋める最後の一ピースに、冬馬さんがなってくれたのだ。

 

「あの、天ヶ瀬さん」

 

 暫く他愛もない会話で盛り上がった後、次に向かうべき場所へと行くために冬馬さんと私が家を出ようとした時、玄関で母がそう呼び止めた。振り返った冬馬さんに対し、母は時間をかけて言葉を探すかのように視線を周囲に泳がせている。そして探していた言葉を見つけたのか、少しだけ照れ臭そうに頬の筋肉を緩ませて、ふっと笑った。

 

「私たちはずっと天ヶ瀬さんを応援しているので、くれぐれもお身体に気をつけて頑張ってください。あと、もし何か困ったことがあればいつでも連絡してくださいね」

 

 冬馬さんは深々と母に頭を下げると、「また遊びに来ます」とだけ返して踵を返した。

 久しぶりに帰ってきた我が家を出ると、蒼く透き通った空のやや傾いた場所から私たちを見下ろしていた太陽と目が合った。その日差しは、福岡で私が感じていたのよりも何倍も暑くて、そして何倍も温かく感じられた。

 

 

★☆★☆★☆★☆

 

 

 北沢の家を出て、幾つの駅を跨いで到着したのは俺が日本を出る前にまで住んでいた街の駅だった。

 俺が住んでいたマンションには今、四国での単身赴任を終えて東京に帰ってきた父親が住んでいて、今回の一時帰国の際は父と同じマンションに滞在することになっていたのだ。

 父に志保を紹介したいと思っていたのだが、父が仕事を終えてマンションに帰ってくるまでにまだ少し時間があり、鍵を預けていた俺は家に入ることができない。それまでの時間潰しという建前を使って、俺は北沢に高台の公園に行かないかと誘い、普通なら十分もあれば着く道のりをその何倍もの時間をかけながら俺たちは歩いていった。

 今年の東京は暖冬だったのか、まだ四月にもなっていないというのに駅前の通りの街路樹は既にピンク一色に染まっている。春の微風が吹けば枝木は擦れ合う音を立てながら揺れると、まるでスローモーションのようにゆったりと桜の花が舞い散った。俺たちを包み込む桜の花たちを仰いだ時、何か心の奥底をギュッと掴まれるような衝動が走った。乾いた心に一瞬で潤っていくようなこの感覚は、“感動”なんて有り触れた言葉では表現できないような複雑なモノで、だけど俺はその言葉以上に適切な表現を知らなくて、乾いた胸の底から温かさが潤っていくのをひたすらに感じ続けることしかできなかった。

 

「まだ一年目だけど、高校を卒業した後はどうするか決めたのか?」

「そうですね、やっぱり765に戻ろうと思っています。福岡での生活も充実してるし楽しいけど、私の居場所はこっちだと思ってるんで。冬馬さんは?」

「俺も二年間の期間を終えたら東京に戻るつもりだな。やっぱり俺はソロよりジュピターで活動する方が性に合ってる気がして」

 

 桜に包まれる道で俺たちは話の続きをした。

 春の日差しが温めるアスファルトの上を歩くたびに会話は他愛もない話題になっていって、俺はハリウッドで厳しくも優しく面倒を見てくれたボスの話や赤羽根さんが度々仕事関係でやってきては顔を見にきてくれたこと、志保は博多座の舞台の練習がとてもキツかったことや、ゴールドプロの金田社長やマネージャーの話などを喋った。

 それは互いに知らない日常の話ばかりだったけど、不思議と不安な気持ちにはならなかった。俺には俺の志保には志保の生活があって、だけどその離れ離れの世界にいても互いの存在を誇らしく見つめ合うことで、しっかりと想いの糸を繋ぎ止めることができたからだと思う。

 ようやく辿り着いた高台の公園に続くコンクリートの階段を登ると、そこには見慣れない光景が広がっていた。本来芝生の公園だったはずの場所にはブルーシートに覆われた建物がそびえていて、公園の入り口には『立ち入り禁止』と書かれたコーンが道を塞いでいたのだ。周囲のフェンスに『入居者募集』と書かれたパネルが貼られているのを見つけて、志保が福岡に、俺がハリウッドにいる間に、俺たちの思い出の場所に新たな高層マンションが建とうとしていたことを初めて知った。

 かつては休日などには大勢の家族連れで賑わっていたこの場所は公園としての役目を終えたのか、春休みだというのに人の影は一つも見当たらない。周囲を覆うフェンスの奥に残されたベンチが、ただただ寂しげに佇んでいるだけだ。

 

「……ここ、マンションになるんですね」

 

 一年前より短くなったウェーブのかかった髪が揺れて、志保の声が春風に拐われた。その声が心なしか寂しそうに聴こえたから、俺はただ相槌を打つように頷く。何か前向きになるような言葉をかけようと探していたけれど、その言葉を見つける前に志保が先に言葉を発した。

 

「でも、冬馬さんはこの街が変わり続けてもずっと側にいてくれるんですよね?」

「え?」

「忘れたんですか、自分が作詞したくせに」

 

 悪戯っぽく笑うその視線でようやく思い出した。志保が口にした言葉が、俺がかつて志保に向けて書いた歌詞の一部だったことに。

 恥ずかしさからか、俺の込めた想いが今でも志保の心の中に残っていることへの照れ臭さなのか、俺は頬が緩んでしまいそうな気がして慌てて空を仰いだ。

 俺らの上空に広がる空は二年前と同じだった。

 雲ひとつない空は清々しいまでに蒼一色に染まっていて、手を伸ばせば届きそうな気がするほどに空が近い。あの日のことだけじゃない、今までにこの場所で空を仰いで感じたこと全てが、肺の奥から逆流するかのように込み上げてくる。

 

 

 アリーナライブ後、初めて志保と出会った時に感じた衝撃。

 自分の無力さを誤魔化すように志保を抱きしめた冬の日。

 一緒に満開の星空を眺めに来て、ライブに誘った夜。

 そして過去と決別して初めて想いを伝えた、春風が吹き抜ける日。

 

 

「––––ちゃんと覚えてるぜ」

 

 何ひとつ忘れていない。ここで俺が感じたこと、そして志保から沢山の勇気をもらったことも。

 そしてこの煌めいた思い出を全て持って、俺はここから大空へと飛んでいくのだ。志保の手を引いて、迷わずに、ただただ、ひたすらに空の一番高いところを目指して。

 気が付けば俺は咄嗟に思い付いた言葉を、そのまんま志保に投げていた。

 

「志保、いつかここに住もうぜ」

「……ここにですか?」

「あぁ。この空に手が触れる場所で一緒に暮らしてさ、志保のお父さんが羨むくらい幸せな家庭を築くんだ」

 

 そう言って俺は西の方角にあるマンションを指差したけれど、果たしてちゃんとその指が志保がかつて家族全員で暮らしていたマンションを指せていたのかは分からない。

 自分でも口にした後に歯が浮くようなセリフだなと恥ずかしくなったけれど志保にはちゃんと伝わったのか、少しだけ照れ臭そうにはにかんだ後に「いいですよ?」と言ってくれた。その頬が赤くなっていることに恐らく気付きもせずに。

 暫く無言のまま見つめあっていると、春風が俺たちの間を駆け抜けて行った。その風を合図に覚悟を決める。

 この場所に来た意味を、次志保に会ったら伝えようと思っていた言葉を、もう一度だけ頭の中で整理して、鞄のチャックを開ける。そしてアメリカからずっと肌身離さずに持ち歩いていた正方形の箱を、志保の前に差し出した。

 

「志保この前の誕生日でもう16歳になったんだよな?」

「そうですけど……。なんですかこれ、誕生日プレゼント?」

「えっと、その……。誕プレでありお土産なんだけど、そうでもない……みたいな––––」

 

 恥ずかしさと緊張で逃げ出したくなるような目元をグッと抑えて、志保の綺麗な瞳を覗き込んだ。俺の胸の中での葛藤を当然知る由もない志保は、疑い深いような視線で俺を見上げている。

 高台を走り抜けていく風の音がやけに大きく聴こえてきた。鳥のさえずりさえも、木々の呼吸の音も、全てが大音量で俺の耳に届いてくる。その自然の声たちを全身の五感で感じながら、小さく深呼吸を挟んで、俺は静かに拳を握った。

 

「––––いつかさ、俺がアリーナに立つことができたらの話なんだけど」

 

 いつか、なんて曖昧なことを言ったけれど、志保と一緒ならばその“いつか”はそう遠くない未来に訪れる気がしていた。

 きっと志保となら俺はこの空を飛べる。

 ずっと昔から手のひらに存在し続けた感触がより一層確かなモノになっていることを再確認して、俺はもう一度空を見上げた。やはりこの場所から志保と見上げる空は、他の場所で見るのより遥かに近くて、手のひらの感触が錯覚ではないことを物語っていた。

 

「俺と結婚してくれ」

 

 開いた箱の真ん中に埋め込まれた指輪が、春の日差しに照らされて輝いている。

 その輝きに負けない煌めきを瞳に宿した志保は、無言のまま驚いたように目を見開いた。だけどすぐにくしゃっと表情を崩すと、その指輪を左手の薬指にそっと通して、初めて此処で出会った時からは想像もつかないように優しく笑いながら言った。

 

「その“いつか”が早く来るように、一緒に頑張りましょうね」

 

 




また近々後書きも載せますが、これにて1年以上続いたニタモノドウシはガチのマジの完結です。
最後まで読んでくださった皆さん、ありがサンキュー!


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。