らいりーオンリー☆ルート (まなぶおじさん)
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らいりーオンリー☆ルート

 俺は、怪獣映画に出てくる自衛隊のことが好きだ。

 

 小学三年の夏休みに入って、俺は父と母に連れられて映画館へやってきた。家族サービスの一環、というやつだ。

 そして期待半分のまま、いま話題の怪獣映画を見て、

 最高だった。

 負けてでも、守りたい存在を守り抜く自衛隊が、とてもかっこよかったから。

 

「俺、自衛隊になりたい! みんなを守れるようになりたい!」

 

 だから俺は、映画館の中でいてもたってもいられずに叫んでしまったんだ。

 警察官だった父と母は、この誓いに、とても喜んでくれた。

 

――

 

 

 小学三年から中学三年に至るまで、鬼塚衛はずっと柔道を歩んできた。これも自衛隊に入るためだ。

 おかげで体は良い感じに太くなって、なんとか勝利も重ねていって、いつしか周囲からは「怪獣」と呼ばれるようになって――正直、この呼び名は勘弁してほしい。

 まあ、仕方がないとは思う。

 だって――

 

「おはよう」

「うあ! お、おはよう……鬼塚……」

 

 普通に教室に入って、いつも通りにクラスメートへ挨拶を交わし、そしてやっぱり怯まれた。

 いじめ、ではない。

 単に、顔が怪獣のように厳ついせいだ。

 

 席に座る。ため息まで漏れる。

 

 小学六年の頃までは、まだセーフの顔面を保てていたと思う。友達もいたし。

 けれども中学校へ進級した途端に、クラスメートからはよく恐れられるようになった。柔道部という肩書もあってか、「みだりにふれてはならぬ」という印象までもが蔓延してしまったものだ。

 怪獣映画の季節()だというのに、状況はお寒い。

 

 まあ、いい。自分は、何も悪いことはしていない。

 背筋を整える。

 鞄から柔道の指南書を取り出し、それを読み始めた。

 

 もちろん、部活仲間は普通に自分と付き合ってくれる。やっぱ怪獣だなと称賛もしてくれる。けれども学生である以上は、時間の大半はどうしても教室で過ごすことになるのだ。

 それ故に、教室で楽しい青春を過ごせないというのは、正直つらい。

 けれどもクラスメートに話しかけてしまえば、その人のことをびっくりさせてしまう。万が一雑談に持ちかけられたところで、そもそも上手く舌が回ってくれるかどうか。会話をこなせていなかったせいで、今やすっかり口下手だ。

 ――いかんいかん。

 腐るな。自分は、人を守れるような男になるんだ。

 報われなくても、成すことを成す。それが防衛軍スピリッツというものだろう。

 

「おはよーっす!」

 

 その声にクラスメートの誰しもが、特に女子が反応を示す。聞き慣れた朗らかな声に、鬼塚もちらりと視線をくべる。

 

「おはよー」

「おはよう、岡田君!」

 

 間髪入れず、だったと思う。

 岡田は女子に囲まれ、続けて男子からも惜しみない挨拶を交わされる。

 

「聞いてくれよ岡田ー、久々にチャンカーとオヤジが大喧嘩して、先日からギスギスなんだよーなんとかしてくれよー」

「えー? でもまあ、そういうのは時間が解決してくれるもんだよ。ケンカなんてそんなもんだろ?」

「岡田ー、先週の練習試合また決めやがったなー。お前なに食って生きてんだよ」

「え? なんだろうね、普通だよフツー」

「おはよう岡田君! ね、ね、化粧変えてみたんだけどどお? イケてる?」

「おお、おお、イケてんじゃん! 目がいいカンジ? 大きく見える。でもまあ、俺はそこまでメイクに詳しくないからアテにならないかも」

「いいのいいの、岡田君にそう言われただけで十分」

 

 さすがだ、と思う。

 容姿端麗でサッカー部のエース、性格もいたって爽やかで、しかもイケメンときた。クラス一の人気者になるのも、心から頷ける。

 時おり「面白いこと言えないんだよなー」とこぼすこともあるが、余計なことを口走ってしまうよりはよっぽど良い。自分なんて、目を合わせただけで避けられてしまうのに――

 いかんいかん。

 

「岡田クン!」

 

 聞き慣れた女の子の声が、隣の席からよく響く。

 鬼塚が女の子を注視する前に、女の子は岡田めがけ勢いよく飛び掛かり、

 

「おっ、らいりー! 朝からハラ空かせてんのか! ほれ、バナナ!」

「うほほーっ!」

 

 物欲しそうにバナナを受け取り、まるでビーバーのような勢いで中身をかじり始める。それを見たクラスメートが、どっかんどっかんと笑い弾けた。

 

「ほんと、らいりーってゴリラアクションすげーよな!」

「どうやってんだよ、俺にはマネできねえ!」

「凄いよね、ホント……顔もゴリラだから全然違和感がないっていうか……」

 

 バナナを頬張っているらいりーこと河野来夢(こうのらいむ)に対し、クラスメートが十人十色の反応を露わにする。

 男は大袈裟に笑っている者が多く、女子はいたって物珍しそうな目つきで来夢を眺めている。

 

「お前さー、なんで来夢って名前なんだよー」

「うほ?」

「ゴリラとらいりーなんて、都合よすぎだろ! ゴリらいりーって呼ぶしかねーじゃん!」

「うほーっ!」

「や、やめろっ、ハグはやめろっ!」

 

 大ウケするクラスメート、共に大笑いする来夢と岡田。来夢と岡田が織りなすゴリラギャグは、昨日も今日も教室を賑やかなものにしていた。

 ――すごいなあ。

 絶賛ベアハッグ中の来夢を見て、素直にそう思う。

 来夢の容姿は、たしかに動物めいてはいる。けれども来夢は、その要素すらも笑いに変換せしめてしまい、遂には岡田をも「相方」にしてしまった。

 人を笑わせられるからこそ、来夢はいちクラスメートとして周囲から受け入れられている。岡田の隣というポジションも、誰もが自然と納得しきっていた。

 来夢はすごい。容姿を活かしきれない自分とは違って。

 

「ゴリらいりーな、いいよな。芸人っぽいし」

「だねー、ぴったりだと思う!」

 

 来夢が、「んー」と首をかしげ、

 

「ゴリらいりーって呼び名はキライじゃないけど……でも時々でいいから、人間であった頃の私を思い出してください!」

「おおっ、人語を解した!」

 

 でも、まあ、

 女の子に対して、その言い草はさすがにどうかとは思う。

 けれど本人も、その言い草を受け入れている。誰も、悪いことなんてしていない。

 ならばせめて、自分は彼女のことを「河野さん」と呼ぶまでだ。

 

「おーっ痛って……おお、鬼塚、ちっす」

「あ、ああ」

 

 あまりに突然だったものだから、声が回らなかった。

 ベアハッグから解放された岡田と目が合って、それだけで岡田が気楽そうに近づいてきたのだ。あまりの積極性に、思わず腰まで引けそうになる。

 

「よお、何読んでんだ?」

「あ、ああ、柔道の参考書を、ちょっと」

 

 長らくマトモに口を開けていないせいか、言葉選びが上ずってしまう。

 それでも岡田は、鬼塚の言葉に対して真面目に頷き返している。

 

「さすが柔道部のエース、真面目だなあ」

「そ、そうかな?」

「俺よかよっぽどマジメだよ。すげえなあ、こういう奴が成功するんだろうなあ」

「そ、そんなことないよ」

「謙遜すんなって」

 

 岡田が笑う。

 鬼塚の口元も、緩む。

 

「どうか県大会で優勝を収めてくれよ。我らが怪獣王!」

 

 岡田が、悪意なく笑う。

 その呼び名はちょっとなあと、思わず苦笑い。

 ――チャイムが鳴った。

 

「っと。そろそろ時間かー」

 

 何事もなかったかのように、鬼塚へ背を向けて、

 

「あ、そだそだ」

 

 岡田が、いつもの調子で言葉を告げ、

 

「おれ、らいりーと付き合い始めました」

 

 なんでもなさそうに、そう報告した。

 岡田と来夢のツーショットを、携帯に表示させながら。

 

 もちろん、教室全体が大爆発を起こした。

 とにもかくにも教室内はてんやわんやの大騒ぎで、入ってきた担任から二、三回ほど注意されてようやく沈静化。それでもクラスメートは、来夢の後ろ姿は、焦燥感をまるで隠しきれるはずもなく。

 

 そうか。

 やっぱりすごいなあ、来夢は。

 

―――

 

 それから、わずか数日後。

 放課後の街中で、鬼塚は買い物袋を片手に喜色満面の笑みを浮かばせていた。その足並みはとても軽やかで、並みいる人々も鬼塚へ道を譲っていく。

 正直、心に多少のダメージは受けた。

 けれども買い物袋の中には、今年の冬に公開された怪獣映画のDVDが入っている。主役はあくまで怪獣だが、それに振り回される自衛隊の困惑がシナリオの肝といっても過言ではない。

 戦いたいのに戦えない、政治的な理由でミサイルの一発も撃てない。けれども最後は「守りたい」の怒号で怪獣と交戦し、ギリギリの勝利をつかみ取る――映画館で見た時は、それはもうボロ泣きした。防衛軍の活躍が家でも見られるなんて、それはとても素晴らしいことなのだ。

 そう思うと、心の傷なんて消えてなくなっていく。

 横断歩道を渡り、おしゃれな化粧品屋を通り過ぎて、賑やかなジャンクフード屋を前にし、ちょうど自動ドアが開いて、

 

 うつむいた河野来夢が、自分とすれ違っていった。

 鬼塚は、小さく驚きながら来夢へ振り向く。

 

 見間違えるはずなんて、なかった。

 来夢は間違いなく、泣いていた。

 遠ざかっていく来夢の背中を眺めながら、何度も何度もどうしようどうしようと戸惑う。まともに相談に乗れるかどうか、そもそもおせっかいにしかならないのではないか。岡田は一体何をしているんだ。

 その時、緩い夏風が吹いた。

 買い物袋が、音を立てた。

 ――自衛隊は、負けてでも困難に立ち向かうものだ。そんなかっこいい人々に、俺はなりたいんだ。

 

「あのっ」

 

 びくりと、来夢の背中が揺れた。

 

「どうしたんだ? よかったら、相談に乗るよ」

 

 買い物袋を、強く握りしめる。心に、ありったけの誠実さと勇気をかき集める。

 なにを言われてもいい。少なくとも自分は、いまの自分は、なにも悪いことはしていない。

 

「――鬼塚、君?」

「ああ」

 

 来夢が、そっと振り向く。

 その顔を見て、鬼塚から小さな声が漏れた。

 

「ご、ごめんなさい。なんでも、ないから」

「そんなはずない」

 

 来夢の目はひどく染まっていて、いまも涙を流している。声なんて少しも整っていない。

 来夢はまちがいなく、心の底から泣いていた。

 だから鬼塚は、一歩ずつ来夢へ寄り添っていく。

 

「話なら、聞くから」

「……鬼塚君」

 

 道行く人が、鬼塚と来夢を様子見している。ケンカか何かかと呟く者もいた。いまは夏であるはずなのに、ずいぶんと涼しい。

 そして来夢は、ずっと、自分と目を合わせていた。

 だから鬼塚も、じっと、来夢へ視線を重ねている。

 

「――鬼塚君」

「うん」

 

 そして、来夢は、

 

「ありがとう」

 

 ようやく、ほんの少しだけ、笑ってくれた。

 

 □

 

「――えっとね」

 

 雲がまばらな青空の下で、鬼塚と来夢は公園のベンチで座りあう。

 半ば道端に近い公園からは、青く広い川がよく覗える。耳を澄ませてみれば、流れる音が小さく聞こえてきた。

 人がまばらに横切っていくが、誰も鬼塚と来夢のことなど気にも留めない。

 

「私ってばよく食べるから、放課後になってジャンクフード店によく寄ったりするの。さっきの場所とかね」

 

 うん。

 

「で、その店にたまたま岡田がいて……岡田の女友達もいた。読モクラスの美人」

 

 うん。

 

「最初は、たまたまかなって思ってた。岡田って女友達も多いしさ」

 

 うん。

 

「でも元恋人としては気になっちゃって、近くの席で聞き耳を立てることにしたの」

 

 元、

 

「そしたらさ、」

 

 うん。

 

「そしたらさ、」

 

 来夢は、うつむいて、

 

「私の告白を受け入れたのは、その場のノリでしかなかったんだって」

 

 は、

 

「ほんとうに好きなのは、その読モの子だって。クラスで交際宣言をしたのも、度量の広い男アピールがしたかっただけだったんだって」

 

 信じられねえ、と思った。

 よくもそんなことができるな、と思った。

 けれど、そういうことをしでかしてしまえる奴もいる。いま学んだ

 

「……最後に、岡田はこう言った」

 

 来夢は、一切の感情を顔に表さないまま、

 

「高校に進級したら、ゴリらいりーとは自然消滅するつもりでいる。愛しているのは君だけだよ」

 

 いまの自分は、無表情を保てていただろうか。

 拳が震えている、力まで入り始める。試合をする以上に、心がかき乱されていく。頭の中で、岡田への罵詈雑言が止まらない。

 隣を、見た。

 来夢の瞳から、確かに涙がこぼれ落ちていた。

 生まれて初めて、人を殴りたい気持ちが芽生えそうになる。

 そして鬼塚は、そんな思考を振り払うように首を横に振るう。腰の上に置いてある買い物袋を、自衛隊の教科書をじっと見つめた。

 岡田のことを、とやかくするヒマなんてない。

 それよりも、いまは、

 

「河野さん」

「――え?」

「河野さんは、なにも悪くないよ」

 

 いまは、来夢を守らないといけないんだ。

 

「簡単に解決できることじゃない、それはわかる。だから、その、話とか気晴らしとか、俺が付き合うから」

 

 そして来夢が、ようやく、自分と目を合わせてくれた。

 

「鬼塚、君」

「話してくれて本当にありがとう。このことは、秘密にする。口が裂けても言わない」

 

 口下手な鬼塚にできることは、ありったけの本心をただただ言葉にすることだけ。

 気の利いた言い回しなんてまるで思いつかない、間違いを口にしてしまっているかもわからない。けれども鬼塚は、言いたいことを言った。

 

「……鬼塚君」

「うん」

 

「――ありがとう」

 

 ようやく、ようやく、来夢は笑ってくれた。

 生まれて初めて、人を守ることができた。それを嬉しく思う。

 

 □

 

 もう岡田なんていい、どうでもいい。

 来夢の縁切り宣伝をきっかけに、鬼塚と来夢は公園を後にしていく。だいぶ時間が経ったのか、空は既に夕暮れ色に染まっていた。

 

「今日はありがとう。じゃあ、そろそろ」

「いや。なんだったら家まで送っていくよ。途中で岡田と会ったらアレだろうし」

「……うん」

 

 そうして来夢と、他愛の無い話を口にし始める。教室のこととか、柔道の話とか、ほんとうに広く浅く。さすがに、怪獣映画が趣味とは言えなかったのだけれど。

 街中を歩いて、ふと赤信号に捕まる。横断歩道の前で来夢と横並びになって、そこで来夢が鬼塚のことを無表情に見上げてきた。

 

「鬼塚君ってさ」

「うん?」

「背が、凄く高いよね」

「え、そう? 平均なんだけどな……」

「そうなの? とても高く見えるなあ」

 

 そう言われて、テレない男はいない。

 鬼塚も、思わず笑みがこぼれてしまった。

 

「……まあ、たぶん」

「うん」

「常に、背筋を伸ばしているからじゃないかな」

 

 来夢が、目を丸くする。

 

「自信というのか、悪いことをしていないという自負というのか……まあ、こうやってると落ち着くんだよね。見てくれがこんなんだから、なおさら背筋ぐらいは立たせておきたいなーって」

「……そうなんだ」

 

 来夢が、背を正し直す。

 

「私も意識してみるかな」

「河野さんは、いつでも堂々としていた気がするけどね」

 

 青信号になって、横断歩道に人があふれ出す。鬼塚も来夢もゆっくり渡り切って、先ほど通ったジャンクフード店を目前にし、

 

「――あ」

 

 来夢が、ふと立ち止まった。

 なんなんだろうと視線を追いかけてみれば、化粧品屋が目の前に、ウィンドウに鬼塚と来夢の顔が薄く映り込んでいた。

 

「化粧、か」

「うん……」

 

 来夢が、頬に手を添える。

 

「化粧、か……」

「……寄ってみる?」

 

 それは、何気ない鬼塚の提案だった。

 そんな鬼塚めがけ、来夢は戸惑うように振り返る。

 

「……いいのかな」

「え、いいんじゃないかな」

 

 行ってみようよ。鬼塚はにこりと微笑み、化粧品屋のドアに手をかける。

 ほんの少しだけの間を置いて、来夢やがて、「うん」と返事してくれた。どこか気恥ずかしそうに笑いつつ。

 

 □

 

「……実感が湧かないなあ……」

「そういうものかな」

「うん」

 

 化粧品店でたくさんの時間をかけたからか、空はずいぶんと薄暗くなってしまった。いまは住宅地の中を歩んでいるが、人気はまるで少ない。

 来夢が、化粧品屋からもらった買い物袋の中身を覗う。その中には店員おすすめのメイク用品から口紅、そして初心者用のマニュアルまで、一通りものが揃っている。

 

「キレイに、なれるかな……」

「店員さんも言ってたじゃないか、なれるって」

 

 綺麗になりたいんです。そう告げた来夢に対し、女性の店員は「なれますよ」と笑顔で答えてくれた。

 ――鬼塚の顔を目にした時は、ほんのちょっと怖がられらけれども。

 

「マニュアルも渡してくれたし、絶対になれるよ」

「……うん」

 

 歩いて数分、ようやく来夢の家の前にまでたどり着く。二階建ての、白を強調とした普通の一軒家だ。

 すっかり暗くなったからか、窓からは黄色い光が射しこまれている。

 

「鬼塚君」

「うん?」

「もし、よかったらだけど……その、メイクの写真、送ってもいいかな?」

「え」

「判定、してもらいたいかなって」

 

 ああ、

 

「もちろん」

「ほんと? やった、ありがとう!」

「……うまく、評価できるかは保証できないけどね」

「いいの。あなたなら、信じられる」

 

 ――久々に、柔道部以外の連絡先が増えた。

 誰かを守ることができたのだと、ようやく実感を抱く。

 

 来夢から小さく手を振られながら、そのまま家の中へと消えていく。

 一区切りがついて、鬼塚は安堵したように両肩をすくめる。心地よく見える夏の夜空を背に、鬼塚も家へ帰っていった。

 

―――

 

 日を重ねるごとに、来夢はだんだんと綺麗になっていった。

 世事で言っているつもりはない。毎日のようにメイクの成果が送られてくるものだから、かえって客観的な評価ができていると思う。時には指摘を入れることもあるが、そのたびに来夢は「ありがとう」と返してくれるのだ。

 それが嬉しいからこそ、鬼塚は今日も大真面目に来夢のメイクを評価していく。

 

 ――あれ? らいりーってばメイクし始めた?

 

 あの日以来、来夢は岡田に対して絶縁宣言を叩きつけた。もちろん、その理由を教室内で叫んだ上で。

 その時の岡田の顔ときたら、まさに傑作だった。そんな岡田にある程度の擁護はついたものの、大半の女子は来夢に同情を、それどころか「私も実はさあ」と告発する者まで現れた。

 救えない男だ。まあ怪我なりしたら、せいぜい助けてはやるが。

 

 ――らいりー……あんたの目、そんなに綺麗だったっけ?

 

 岡田のことを連想してしまうからだろう、来夢はすっかりゴリラギャグを披露しなくなった。

 あとは本人のトークスキルや処世術で、残り少ない中学生活の色が決まる。鬼塚はといえば、柔道では連戦連勝、教室では相変わらず連敗の毎日だ。来夢が話しかけてくれるだけ、前よりは格段とマシにはなったのだけれど。

 

 ――え? らいりー……? あんた、らいりー……?

 

 そして来夢は、河野来夢は、秋を境にクラスメートから注目されるようになった。

 性格はそのまま、顔は様変わり。長い黒髪は見るものすべてを惹きつけた。岡田も難なく引き寄せられたが、もちろん来夢は歯牙にもかけない。

 

 ――ねーねーらいりー、化粧のコツ教えて欲しいなー

 ――私も私も! 今度奢るからさ!

 

 寒い冬が訪れようとも、来夢の輝きは日に日に増していっている。

 人のいい性格で女子も男子も飛んでくるし、憧れのメイクアップスキルも惜しみなく伝授してくれる事から、他のクラスメートとの交流も深くなってきている。河野来夢は、この学校における時の人といっても過言ではなかった。

 だから自分は、あえて来夢から距離を置くことが多くなった。怪獣ヅラをした男が傍にいては、来夢と触れ合いづらくなってしまうだろうから。

 ――そう、思っていたのだけれど、

 

「こんちはー。ねね、一緒に食べない? 食べよー?」

 

 昼休みになって、弁当を持参した来夢が隣の空き席に座り込む。あまりのリア充的行為に、すごいなあと思わざるを得ない。自分にはとてもマネできない。

 

「い、いや、その……」

「え、なに?」

 

 長い黒髪が揺れる、まばゆい瞳が鬼塚の心すら射貫く。単純な男であるが故に、顔すら真っ赤になってしまっていると思う。

 とてもでないが、こんな至近距離からでは来夢のことを直視できそうにもない。

 けれど、なんとか踏ん張って視線を重ねてみせる。自分は来夢のことを、守ると誓ったのだ。

 

「い、いいのか? 俺と一緒に、なんて。ほら、俺がいると怖がる人が、」

「いいのいいの」

 

 来夢が、鬼塚の言い訳を遮った。

 

「私は鬼塚と食べたいの」

 

 有無を言わさず、机と机をがっちり組み合わせる。周囲のクラスメートが遠目で見守る中で、来夢は鼻歌交じりに弁当箱の包みを解いていき、

 

「私のこと、気遣う必要なんてないよ」

 

 そして来夢は、鬼塚に対してにっこりと笑って、

 

「だって鬼塚は、なーんにも悪いことなんてしてないじゃない」

 

 背筋を伸ばして、堂々とそう言い切ってみせた。

 思わず、笑い声が飛んだ。クラスメートの一人が、びくりと震える。

 ――きっとこの先においても、自分はこんな風に怖がられてしまうのだろう。

 

「さ、食べよ食べよ」

「……わかった」

 

 でも、こんな自分だからこそ、寄り添ってくれる人はまちがいなくいる。

 

「あ、そだ。この間の練習試合すごかったねー」

「ああ、見てくれたのかい?」

「もち。やー、守護神様、さまさまだよー」

「みんなが頑張ってくれた結果だよ。俺だけじゃあ、どうにもならなかった」

 

 それは、柔道部のみんなで、

 

「そーお? そっかあ……でも鬼塚も頑張ったよね、勝ったし」

「まあ、な」

「県大会で優勝してくれたし、いやもーかなわないなー」

「河野さんが、何を言ってるんだか」

「えー?」

 

 それは――

 

―――

 

 銀十字高校に進学して、早速ながら二件ほどの変化が訪れた。

 

 一つ目は、岡田が別の高校に進級したこと。来夢のメンタルを考えてみれば、この事柄はかなり重要だと思う。

 そして、二つ目は、

 

「おっはよーみんなー!」

「あ、おはよーらいりー! ……お、今日もいい色してるねー」

「その金髪どうやって再現してんの? チョーキレー、チョースゲー」

「OK、あとで教えたげるよん☆」

 

 来夢が、華々しいイメチェンをやってのけてみせたこと。

 まず目につくのは、チョーキレーな金髪だ。黒髪も似合っていると思うが、いまの来夢の気質を考えてみれば、キラキラとした金髪の方がよほどベストマッチしていると思う。

 

「ねーねー、そのチョーカーどこで買ったの? 高い?」

「いやーやっすいよー」

「うそ、見たことある。いい値段してたやつじゃん!」

「たはは。でも、値段は人を裏切らないからさ、思い切って試してみて!」

 

 そしておしゃれのコツも掴んでみせたのか、アクセサリーも多様するようになった。

 毎日のように切り替わる小物の存在感は中々侮れず、つけ方次第でその人の印象を変幻自在に変化させてしまう。逆にいえばコントロールが難しいという点もあるのだが、来夢は幾度もの試行錯誤と天性の才覚を駆使し、こうした装飾品を楽しく活かしきっていた。

 

「おお見ろ。お前の写真、千いいねを突破したぞッ!」

「マジでマジで? お、ほんとだー! みんなありー☆」

「RAIRIすごいじゃん、もうアイドルじゃん」

「もー森っちー、褒めてもなーんも出ないよー」

「フォロワー数も三万でしょ? すっごいなあ、羨ましいなあ」

「サクちゃん美人だし、うまくメイクすれば変われるって!」

「ほんとー!? おすすめのメイクおしえてらいりー!」

 

 現実はおろか、ネット上においても、来夢は時の人として今日も輝いていた。

 ――後ろ側の席に腰を据え、柔道の参考書を両手に添えながら、鬼塚はひそかに笑う。

 たくさんの人が、河野来夢という女の子を評価してくれている。その事実が、たまらなく嬉しい。

 

「おっけおっけ、リクエストはメッセージボックスに送っといて!」

「あいよー!」

「待ってるねー!」

 

 そうして、朝のチャイムが鳴り響く。クラスメートが、面倒くさそうな足取りで自分の席についていく。

 

「衛」

 

 体が、びくりと震えたと思う。

 

「おはよ」

 

 心臓まで、止まりかけたと思う。

 笑顔の来夢が、自分のことを見下ろしていたから。

 

「あ、ああ、おはよう、河野さん」

「うん。――ああ、このアクセだけど、衛の言う通りイイ評価が得られたよ。ありがとね」

「……どうも」

 

 そうして、来夢が自分の席についていった。

 ――はあ。

 柔道の参考書を、机の中にしまいこむ。

 来夢のファッションチェックは、あの日から未だに続いている。自分の評価なんて今更だと思うのだが、来夢は「いいからいいから」と言って譲らないのだ。

 そう言ってくれることに、鬼塚は高揚感めいた喜びを抱いている。

 そして送られてくる画像を見るたびに、毎回毎回思うのだ。

 

 ――好きに、なってしまった。

 

 間違いなく、そう思っている。

 けれど、とても軽薄だとも思っている。

 化粧に彩られている彼女に、ただ見惚れているだけじゃないのか。そんな浮ついた心で愛を口ずさむなんて、自分には絶対にできない。許せない。

 岡田というケースを見てからは、ほんとう、つくづくそう思う。

 心の底から、そう想っている。

 

―――

 

 相変わらず柔道に揉まれまくって、時には自衛隊の活躍に見惚れて、ほどほどに来夢と付き合っていって、気づけば夏真っ盛り。怪獣映画の季節だ。

 今週末になれば、海の向こう側から怪獣映画が飛来してくる。海外産はことのほか防衛軍にドラマを割く傾向があって、そのくせ理不尽に怪獣に蹂躙されてくれるものだ。兵器が破壊されようとも、戦友が消し炭にされてしまおうとも、身一つで怪獣に挑むその姿はまさにヒーローであり、自分の夢そのものだ。

 だから怪獣映画はやめられない。

 当日になったら、絶対に見に行く。

 今週は、いつも以上に早寝しようと思う。

 

 とは、いえど、

 

「まだ六時かぁ」

 

 学習机の前で、己が椅子を力なく回す。

 宿題なんてとっくの昔に終わらせてしまったし、柔道の参考書も今のところ読破済み。部活帰りであるから、必要以上の筋トレも避けたいところだ。

 自室を仰ぐ扇風機が、風情たっぷりに首を動かしている。

 はやる気持ちを抑えながら、どうしたものかねと外界を眺め始める。

 アパートから見える遠い都会からは、星々めいた光が今日も瞬いている。今ごろ警察官の両親は、あの都会のどこかで見回りでもしているのだろうか。この前は確か、悪質な酔っ払いを捕まえたとか言っていたな。

 都会とはほんの少し縁の無い住宅地に、自分はひっそりと暮らしている。

 若い頃は不便だなあと思っていたが、今となっては、この距離感が好きだ。なぜだろう。

 

 そのとき、机の上の携帯が震えだした。

 

 もしかしてと思って見てみれば、やっぱり来夢の画像が送信されていた。

 本文によれば、新しいネックレスの評価をして欲しい、とのこと。

 苦笑いが漏れる。

 いまの来夢なら何を着ても、どう染めても似合うというのに、どうしてわざわざ自分に聞いたりするのだろう。もちろんイヤなんかじゃないし、むしろ嬉しいしで、悪い感情なんて一つも抱いていないのだが。

 ――SNSに上げる前に、最終チェックでもしておきたいのかもしれないな

 それだけ、来夢はファッションに対して本気なのだろう。自信はあるが無謀というわけではない、これは柔道にも通ずる立派な心構えだと思う。

 隅々まで画像を確認し、なるべくしっかりと考察した上で、「とても良い感じ。シルバーネックレスと金髪の組み合わせがとても合っている」という語彙力の無い返答を送信し、

 

 やっぱり、バナナのピアスは外さないんだな。

 

 髪型はよく変えるし、メイクの色も気分次第、けれどもバナナのピアスだけは頑なに外そうとはしない。

 周囲からも「イメチェンしないの?」と指摘されることがあるが、本人は笑いながら「これ好きなんだよねー」と返すのみ。そういうことならと、クラスメートもそれ以上は指摘しない。

 まあ、譲れないものは誰にだってあるよな。

 理解したフリをして、携帯の画面を切る。

 

 日課、おしまい。

 さてどうしたものかなと、ぼうっと天井を眺めて、

 

 ゆるく鈍く、長い地響きが足から伝わった。

 

 なんだ、と思った。

 地震か、と思った。

 地響きが止まないまま、外から唸り声が、なんだか親近感(・・・)のある遠吠えが耳にはっきりと聞こえてくる。

 俺は本能のままに、音を立ててまで窓を開け、

 

 巨大怪獣が、都会の中心部に君臨していた。

 

 ビルよりも巨大な出で立ち、まばゆいばかりの白い歯、体に乱立するトゲ、血も涙もない黒色の肌、闇夜を彩る紅い目。まちがいなく、怪獣。

 上機嫌なのか、あるいはその逆か、怪獣は天高く甲高く吠える。

 あまりにも大きすぎて、ここからでもはっきりと見える。

 それを茫然とただ見つめ、見つめ――怪獣知識が、頭の中で瞬間展開する。

 

 逃げろ、なるだけ遠くまで。

 生き残り長ければそうしろ、一般人はそうするほかない。

 だから鬼塚は、携帯を片手に部屋から飛び出そうと、

 

「――もしもし!?」

『あ! 衛! 見てる! あれ!?』

「見えてる! いいか来夢、とにかく怪獣から逃げろ! 逃げても逃げ足りないと思って逃げるんだ!』

『う、うん!』

「写真とか、そういうのはぜったい避けろ、近づくのは絶対だめだ! ああいう奴は、口から、」

 

 高熱の炎を吐く、それで数キロメートルはあっさりと消し炭になる。

 怪獣映画を見ない来夢は、あまり「恐怖のイメージ」を抱けないかもしれない。

 なら、

 

「――ああいう奴は、もしかしたら毒液を吐き出すかもしれない!」

『マジで!?』

「毒液を吐く動物なんていくらでもいる、可能性はある! あれほどデカい奴の毒液は、すべてを溶かすかもしれない!」

『う、うん!』

「あ、あと、地下鉄などにはなるべく避難するな! ……怪獣の重さで陥没するか、毒液に汚染されるかもしれないッ!』

『わかった!』

 

 思い出す。怪獣の炎が、地下鉄をまるごと飲み込んだワンシーンを。

 怪獣は、そういうことを平気でやってしまえるのだ。

 

「そういうことだから! 早く逃げるんだ!」

『わかった! 友達にもそう伝えとく!』

「助かる!」

『うん! また明日、会おうね! 衛!』

「わかった!」

 

 切る。

 来夢はリア充だ、それ故に横のつながりはどこまでも長い。メール一発で、ほぼ全てのクラスメートに対する避難勧告が完了するはずだ。

 やるべきことはやった、あとは逃げるだけ――父と母の携帯に、「街はずれまで避難する」とメールを打ち込みながら。

 

 生きてくれよ、来夢。

 

―――

 

「やー、昨日はヤバかったねー。近くにいたから超やばかった!」

「怪獣なんてテレビにしかいねえと思ってたけど、マジでいたんだな……」

「週末に怪獣映画が公開されるらしーじゃん? そのイベントか何かだと思ってたけど……道路潰れてたし、ガチだよね?」

「にしてもさ、らいりーの警告メール。あれヤベーくらい分かりやすかったと思わね? ヤベーくらいヤバさが伝わってきたし、ヤベーくらい逃げてた」

「あ、それわかる!」

「『怪獣から逃げろ、逃げても逃げ足りないと思いながら逃げろ! 何をするか分からないからとことん逃げろ! 地下にこもるのは最後の手段! 明日また会おうね!』、よくまーこんなキャッチフレーズめいた文章書けるよねー、あんた脚本家になれば?」

 

 朝の教室で、来夢がやめてよもーと苦笑する。

 ――日常は、あっさりと戻ってきた。

 テレビではニュースキャスターやコメンテーターが、興奮気味に怪獣について語ってばかり。SNSにおいても、一般人から愛好家まで、怪獣についての憶測をあれこれ乱立させていた。

 ここ数日は、とにもかくにも怪獣のことばかりが目につくだろう。

 ちなみに週末の怪獣映画だが、特に延期はしないらしい。きっと、いつも以上に売り上げが伸びるにちがいない。

 

「みんな、ちゃんとメール読んでくれたんだね。あんがとー!」

「おかげで、今日こうして出会えました。らいりー様さまー!」

 

 クラスメート同士で、ハイタッチを交わしあう。

 鬼塚は、そんな場面を頬杖混じりで眺めている。

 その光景がとても微笑ましくて、みんな生きていることがとても嬉しくて、河野来夢の笑顔が何よりも眩しい。

 

「あ、でもね」

 

 来夢の通った声が、教室にひっそりと響く。

 

「この文章なんだけど、実は考えてくれた人がいて」

「え?」

 

 クラスメートの視線が、来夢に殺到する。けれども来夢は、これといって笑顔を崩すこともなく、

 

「それは――」

「っつつ、ハラ痛いな……トイレ」

 

 わざとらしく、声を出す。

 ――来夢から、表情が消えた。

 

「……らいりー?」

「あ、ああごめんごめん! この文章なんだけれど……あー……昔読んだ小説からちょっと引用したの!」

「ほー……というか、らいりーってば小説も読むんだねえ」

「最近はてんで読んでないけどねー、読書ブームに入ってみようかなー!」

「いいんじゃないかなー。おすすめの本、教えたげようか?」

「マジ? なになに?」

 

 □

 

 賑やかな昼休みに入って、机の上で銀色の弁当箱を開け、

 

「はい」

 

 鬼塚の視界に、バナナジュースが割り込まれた。

 差出人は、河野来夢、

 

「おっ! な、何か?」

「何か、じゃないでしょ」

 

 バナナジュースが、机の上にあっさりと置かれる。

 

「気、遣ってくれたんでしょ?」

「な、なんのことやら?」

「目逸れてるよ」

 

 否定できなかったので、無言でいただきますと手を合わせる。

 そして来夢の方も、前方の空き席へ無遠慮に座り込み、椅子を鬼塚めがけそのまま反転させる。来夢と向き合う形になって、心拍数がばかみたいに上がった。

 

「あなたの功績なんだから、ちゃんと誇らないと」

 

 手持ちの黄色い弁当箱を、鬼塚の机の上に置く。今日の昼休みは、何がなんでも鬼塚と共に過ごす腹積もりであるらしい。

 そんな鬼塚と来夢の組み合わせを、教室の誰もが目に留めない。来夢が「中学の頃からの友人でさー」と告げてあるから、特にこれといった事態も起こらないから、それ故に「時たまあること」として受け入れられている。

 来夢にあらぬ誤解を抱かれていない事実に、鬼塚は今日も安堵する。 

 そして来夢の表情は、とても不服そうだった。

 

「……それなんだがな」

「うん」

「俺が言っても、あんまり影響力はなかったんじゃないかな。むしろスルーされていたかも」

「え、ええー? そんなこと、」

「あるよ。いまは、そういう時代だろ?」

 

 来夢から、唸り声がにじみ出た。

 SNSを使いこなしているからこそ、鬼塚の言い分がよく理解できてしまうのだろう。

 ――誰が言ったかによって、同じ発言でも影響力が段違いになる。情報化社会の常識だ。

 

「だからこそ俺は、河野さんが避難勧告をしてくれたことが、とてもありがたいと思ってる」

「……でも、でもね、納得はしたくないなあ……」

「いいって。俺たちは、友達だろ?」

「……やっぱり、だめだよ」

「どうして」

「衛にも、リア充になってほしい」

 

 来夢が、ぽつりぽつりと白米を食べはじめる。

 

「やっぱりさ、友達として気になっちゃうんだよ。衛にはたくさんの恩があるし、一緒に幸せになってほしいかなー、なんて」

「いや、十分幸せだよ。柔道はうまくいっているし」

「部活は、でしょ。ココでは?」

 

 言葉に詰まる。

 

「謙虚なのもいいけどさ」

 

 来夢が、顔色一つ変えずにミニトマトをかみ砕く。自分は少し苦手だ。

 

「そればっかりだと、このさき上手くやっていけなくなるんじゃないかな。私としては、やっぱり自己主張性って大事になると思う。色々とソンしちゃうかもしれない」

「……かもな」

 

 守ってばかりでは、柔道では勝てない。意見を出さねば、倒せる怪獣も倒せない。

 来夢の言う通りだった。

 

「大人になって、就職するにあたって……コミュニケーション能力がヤバヤバだったら、選択肢が狭まっちゃう」

 

 就職。

 その言葉を聞いて、体が無意識に力む。

 

「衛は、どんなところで働きたいの? ちなみに私は、コスメブランドを立ち上げることなんだけどさ」

「え、そうなの?」

「うん。頑張りたい女の子の背中をそっと押してあげられるような、そんなブランドを立ち上げたいんだ」

「――そうか」

「そうそう。で、衛は?」

 

 どデカイ先手を差し込まれて、鬼塚は「ええと」とか「その」とか言いよどむ。視線が逸れる。

 来夢の二つの目は、鬼塚のことを決して逃しはしない。正直にモノを言わない限り、食事の続きすら許されないだろう。

 ちらりと、来夢の顔を見る。

 来夢は、手を止めたままで鬼塚のことをじっと見つめたまま。

 ――まあ、来夢にはいつか、夢の事を話すつもりではいた。その動機も、知ってほしいという願望すらあった。

 

「俺は、さ」

「うん」

「自衛隊に、入りたいんだ」

「――へえ」

「ど、どうかな?」

 

 来夢の目は、

 

「……かっこいい……」

 

 来夢の目は、めちゃくちゃなまでに輝いていた。

 

「かっこいいよ衛!」

 

 うんうんうん。

 

「ああ、わかる、衛が言うならなんとなくわかる。そっか、柔道をやっているのも、その下積みみたいな感じだったんだ……」

「よ、よくわかったね」

「当たり前だよ。何年付き合ってると思ってるの?」

「い、一年半くらい?」

「あ、意外と短い」

 

 来夢が、たははと苦笑し、

 

「それにしても自衛隊か……ね、ね、どうして衛は自衛隊を選んだの? やっぱり男の憧れってやつ?」

 

 やっぱり、聞かれるか。

 ここで首を縦に振っても、来夢は信じてくれるだろう。

 けれども来夢には、ウソはつきたくなど――自分のすべてを、知ってほしいという願望があった。

 だから、

 

「……怪獣映画を見た、影響なんだ」

「え?」

「子供の頃に見た怪獣映画にね、怪獣と懸命に戦う人々が映し出されていたんだ。……それこそ怪獣は、昨日現れたやつと同じくらいデカくて、口からは火を吹いて、それで何人もの命が消えていった」

 

 来夢は動かない。

 

「けれども、そんな怪獣と必死に戦う人たちがいた。防衛軍っていってね、その人たちの命がけの戦いっぷりに、一目惚れしたんだ」

 

 苦笑いがこぼれ落ちそうになる。

 けれども鬼塚は、真顔を貫く。ここで照れを露にしてしまえば、防衛軍への憧れが嘘になってしまいそうだったから。

 

「一目惚れして以来、俺はずっと、自衛隊を目指してる。誰かを守りたいって、本気でそう思ってるよ」

 

 言い終えた時、来夢から長い、長い吐息が伝わってきた。

 鬼塚と同じ無表情のまま、小さく二度ほどうなずいて、わずかに視線を落とす。周囲は昼休みを満喫しているはずなのに、教室の中はまるで静か。

 

「そっか」

 

 来夢の言葉が、まちがいなくはっきりと聞こえた。

 

「いい」

「え?」

 

 そして、来夢がきっぱりと笑った。

 

「すごくいい、いいと思う。なんだろう……言葉にはできないけど、いい!」

「そ、そ、そうかな?」

「うん。何かを見て影響されて、それを目指してちゃんと動くなんて、すごくかっこいいことだよッ!」

 

 単に、頷かれるだけでも良かった。

 そうなんだと、苦笑いされてもそれはそれで。

 ――河野来夢という女の子は、まったく惜しみのない称賛を口にしてくれた。表情なんて、ほかの誰よりも輝かせて。

 息の根なんて、止まっていたと思う。

 ますます、惚れてしまった。

 

「そういうことなら、なおさらアピール力を鍛えないと。軍隊って、コミュ力がすっごく必要なイメージあるし」

 

 その言葉に対し、俺は、

 

「……ああ、そうだな。お前の言う通りだ。」

 

 決めた。

 これからは、堂々と人と触れ合っていこう。顔は確かにいかついかもしれないが、決して悪いことなどは考えていないのだ。

 だから自分には、人と話す資格がある。

 ――バナナジュース缶のプルトップを、力強く開ける。弾ける音とともに、それを一発飲み干す。

 

「来夢」

「うん」

「俺、やるよ」

「……衛なら、いい波に乗れるよ。私が保証する」

「なら、いけるな」

「いけるいける」

 

 これから自分は、青春の海に飛び込むつもりでいる。すべては自分の為に、夢への足掛かりとして。

 

「私も手伝うから、楽しくがんばろう!」

 

 何よりも、来夢の笑顔に報いたいから。

 

―――

 

 次の日――

 

「おはよう、みんな」

「あ、ああ、おはよう」

 

 ここまではいつも通り。

 

「何の話をしてたんだ?」

「え、あー……」

 

 笑顔を維持したまま、鬼塚は来夢と仲が良いグループの傍へ歩み寄る。男子三名、女子三名の、教室内でよく目立つ仲良しグループだ。

 対してグループは、困ったように鬼塚へ笑いかけ、すっかり会話が止まってしまっていた。

 まあ、そうなっちゃうよな。こんなガタイの良い野郎がいきなり近づいてきたら。

 だからこそ、退いてはならない。この一回さえ乗り越えられれば、このツラにだって慣れてくれるはず。

 

「何か、大事なことでも話してたかな?」

 

 会話してほしい。その意図を察したのだろう、男が「おお」と反応を示し、

 

「いや、ハルゴンの話をしてただけだよ」

「あ、あー、ハルゴンか」

 

 ハルゴン。ワイドショーに出演していた人気お笑い芸人が、三秒も考えずに付けた怪獣の名前。

 地名に乗っ取った、まさにまんまなネーミングセンス。覚えやすい、語感も良い。

 

「ハルゴンって水ん中から出てけど、今までどうやって隠れていたんだ?」

 

 男子の意見に対して、女子の一人が「さあねえ」とお手上げする。他の男子は「カメレオンのように透明になってたんじゃね?」と意見した。

 いっぽう鬼塚は、その謎について真剣に考察を練っていた。空から降ってきたわけでもない、泳いできたにしては唐突すぎる、ワープでもしでかしたのだろうか。

 荒唐無稽な怪獣でも、さすがに無から生じることはほとんどない。となれば、何か小さなモノが突如として巨大化したとか。

 ありえ――る。

 怪獣ならば、急激な巨大化なんて割とやり遂げてしまえる。巨大化の原理にも色々なものがあるが、少なくとも無からバーンよりはよっぽど現実的だ。

 これだ。

 鬼塚は、思考の海から這い上がって、

 

「あ」

 

 グループが、鬼塚との距離を保っていた。目が合った女子から、力なく笑われる。

 ――理由なんてすぐにわかった。考え事をしている際に、ものすごい形相を浮かばせてしまっていたのだろう。

 こんなナリだ。単なる真顔でも、他人からすれば十分に怖い。こんな年だからこそ、それぐらいの自覚は抱いている。

 

「ご、ごめん。いやその、怒っているわけじゃなくて、」

「おーっす、おはよーッ!」

 

 朗らかな声が、教室全体に反響した。

 クラスメートの誰もが、声の主に視線を傾ける。瞬く間に注目を浴びた声の主、河野来夢は全く臆することなくにっこり微笑みながら、

 

「お、今日もいい波乗ってんねー! で、で、何話してたのかな?」

 

 軽やかな足音とともに、来夢が自分に近づいてくる。

 ちょうど気まずい空気に入りかけていたから、来夢の存在は実にありがたかった。

 

「あ、ああ、ハルゴンについて語り合っていたんだよ」

 

 鬼塚の言葉に、一同が同意するように首を振るう。

 来夢が、なるほどねーと顎に手を当て、

 

「ハルゴンすっごかったよねー、でも人畜無害っぽかった気もするけど」

「な、これといった破壊活動はしなかったしな。普通ならビルなりちぎって投げ飛ばしそうだけど」

 

 男子の意見に、女子が「ぶっそー」と笑う。

 鬼塚は、心の中で「ありえるな」と思いつつ、

 

「なあ、河野さん」

「なにかな?」

「ハルゴンは、どこから来たと思う? それについて、推測しあってたんだけれど」

 

 鬼塚の言葉に、一同が同意するようにうなずく。

 いきなり話を振られた来夢だったが、来夢は両腕を真面目に組みはじめ、しばらくの間うんうんと唸り続け、

 

「……わからん」

 

 だよなーと、一同が苦笑いする。

 

「……これは、俺の勝手な想像なんだが」

 

 グループが、来夢が、鬼塚めがけ視線を差し向けてくる。

 慣れないシチュエーションだったが、鬼塚は勢いのまま、言葉を口にした。

 

「川に住む何かが、いきなり巨大化したんじゃないかと思ってる」

「……どうして、そう思う?」

 

 男子が、真面目な顔で言葉を促す。

 やはりこのテの話題は、男の方が興味を抱きやすい。

 

「どのニュースでも、『突如として怪獣が出現』としか言っていない。だから遠くから泳いできたとか、空から降ってきたとかは、違うんじゃないかな」

「! そういえばそうか」

「ワープ説も考えたんだけれど……あの巨大生物にワープって、そんなイメージ、あるか?」

 

 一同が、首を左右に振った。

 

「だろう? だから俺は、川に住む何らかの生物が急速に巨大化したと、そう考えてる。これなら、都会のど真ん中から『突如』として現れることもできるし」

 

 グループと来夢から、感嘆の声が漏れた。

 向けられた視線からは、純粋な称賛がはらみ始める。それが嬉しくて、くすぐったくて、鬼塚は照れたように苦笑してしまいつつ、

 

「――なんて、根拠はないけどね。外れてるかもしれない」

「いや、案外当たってるかもしれねえ」

 

 来夢も、「うん」と同調する。

 

「相手は意味ワカラン怪獣だし、いきなりでっかくなってもおかしかねえもんな。確かに、鬼塚の言う通りかも」

「そ、そうかな?」

「だと思うけどねー」

 

 いつの間にか隣で立っていた来夢が、元気よく笑い気前よく同意した。

 ――チャイムが鳴った。

 もうそんな時間だったのかと、学生鞄を持ちっぱなしだった鬼塚が慌てて席につこうとして、

 

「あ、ああ、今日は話をしてくれてありがとう。楽しかった」

 

 笑って言えた、と思う。

 思わぬお礼に、一同は顔と顔を合わせ、視線をふたたび鬼塚へ傾けて、

 

「こっちこそ面白かった、お前けっこう頭いいのなー」

「いやいや」

「また話そうな」

 

 その言葉を機に、仲良しグループが次々と席についていく。あっという間に、雑談の空気が霧散した。

 ――はあ。

 まるで祭りが終わったあとのような、そんな心地よさが、鬼塚の心にずっと反響し続けている。

 話せてよかった、何度も何度もそう思う。

 

「衛」

 

 隣から、来夢の声。

 

「いい顔、してるね」

 

 ああ。そうか、やっぱりそんな表情をしているのか。

 

「お前もな」

「――そう?」

 

 来夢が、精いっぱいおどけてみせた。

 そうして、あっさりと授業が始まる。

 

 いつも以上に背筋を伸ばしていたせいか、国語の担任からとある四字熟語のひらがな読みを問われた。

 いつも以上に脳が張り切っていたお陰で、自分ははきはきと「『ひそうせんぱく』です!」と回答した。

 教師からは「元気だな、正解」と笑われ、クラスメートからは感心され、遠い席に居る来夢からは頬杖混じりで微笑まれた。

 

 あとから冷静になってみて、もちろん鬼塚は真っ赤になった。

 

 □

 

 ホームルームが終わると同時に、鬼塚は半ば食い気味に席から立ち、なるだけ不自然な足取りにならないよう来夢へ近づいていく。

 気配を察したのだろう。席に座ったままの来夢が、微笑とともに「なに?」と対応してくれた。

 

「今日はその、話をつなげてくれて本当にありがとう。昼だって、君の紹介でグループと弁当を食べられたし、感謝している」

「どういたしまして。でも私はきっかけを作っただけ、受け入れられたのは衛の人柄があってのものだよ」

 

 来夢が、ウインクを弾かせる。

 

「それを、絶対に忘れないように!」

「……わかった」

 

 その時、後ろから「らいりー、一緒に帰ろー」という声が響き渡った。こうなることは分かっていたから、あらかじめ行動を早めていたのだ。

 伝えるべきことは伝え終えた。

 だから鬼塚は、「じゃあ」と振り向こうとし、

 

「衛」

「え?」

 

 来夢が、ゆっくりと立ち上がる。

 

「よかったら、一緒に帰らない?」

 

 来夢が、口元をにこりと緩める。来夢の瞳に、鬼塚の顔が映り込む。

 それはきっと、心からの言葉なのだろう。

 だからこそ鬼塚は、心の底から両手を合わせる。

 

「ごめん。今日は部活なんだ」

「あ――そっか、それは大事だよね」

 

 それなのに来夢は、嬉しそうな顔をしてくれた。

 

「部活、がんばってね」

「ありがとう」

 

 そして来夢は、学生鞄を机から取り外して、

 

「またあした、私のヒーロー様」

 

 バナナのイヤリングを揺らしながら、来夢が友人たちと合流していく。

 ――来夢のことしか考えられなくなって、数秒は過ぎた。

 ふと時計を見てみて、部活の時間が迫っていることにはじめて気づいた。それでも鬼塚の両足は鈍い、夢から醒めた後のように意識がぼんやりしている。

 来夢の言葉が、頭の中でずっとずっと繰り返されていく。

 やがて、そうして、鬼塚の中に一つの夢が芽生えていく。

 

「やるか」

 

 自分の席から、柔道着が入った手提げ袋を持ち運ぶ。これから相手を傷つけてしまうかもしれないけれど、自分がそうなるかもしれないが、道を歩み終えるつもりはない。

 俺の手で、河野来夢を守ってみせたい。

 それだけで、今日も明日も、背筋を伸ばして生きていける。

 

―――

 

 私はうまく生きていけているし、満たされていると思う。

 学校に行けば誰からも挨拶をされて、他愛の無い話から恋バナまで自然と持ちかけられる。コスメブランド設立の夢に向けて、日々勉強に努めているからか、先生たちのウケも良い。

 休日の予定なんて、月曜日から埋まってしまうこともザラだ。皆が皆、私のことを好きでいてくれている。

 

 私はうまく生きていけているし、満たされていると思う。

 SNSのフォロワーなんて、ここ一年でドカンと増えた。九割がたはメイク技術に惹かれてのものだろうが、SNSを設立した理由も「客観的な意見」欲しさによるものだったから、それはそれで良い。正直、面白いことを言える自信なんてない。

 時の人となった私には、毎日のようにメッセージが届く。伝授を乞うものから、純粋なファンメッセージまで、それはもう多種対応だ。

 私は認められている、現実でもネットでも。

 

 □

 

 進級の春が訪れ、温かい日差しに恵まれながら、私と衛は恐る恐る、クラス表の掲示板を目にした。

 

「ああ、河野さんとは別のクラスか」

「そっか……」

 

 結果は、これだ。

 人だかりの中から、クラス結果に喜ぶ声から萎えの一言、無関心そうな反応などが次々と湧いている。

 

「残念だな……」

 

 本心本音が、口から漏れた。止めるつもりもなかった。

 私の言動を耳にして、心配してくれたのだろう。衛が声をかけてくれた。

 

「大丈夫だ。俺がいなくても、お前は十分に輝けてる」

「……衛だって、イイ感じの青春送れてるよ。保証する」

「ああ。それもこれも、お前のお陰だ」

「こんな風になれたのは、衛の力があったからだけどね」

 

 衛が、気恥ずかしそうに笑う。

 

「まあ、俺のことはもう心配しなくてもいいから。部活仲間と、ようやく同じクラスになれたし」

「うん。気遣いはもちろん、トークスキルもバッチリになったからね。いけるいける」

「ありがとう」

 

 そこで衛が、「あ」と声に出して、

 

「そうそう、ハルゴンには気を付けるんだぞ。とにかく全力で逃げろ、撮影なんて考えないように」

「うん、わかった」

 

 ハルゴンはといえば、今もなお、都会にて絶賛潜伏中だ。

 当初は夜中の川付近にのみ出没するのかと思われたのだが、この前は真昼間のライブ会場にて突如姿を現したのだという。このことは専門家も、衛も、たいそう頭を痛めていた。

 出現する理由はやっぱり不明、無から生じているのかすらも分からずじまい。明らかなのは、大砲を食らってもぜんぜん平気ということぐらい。

 本当にトンデモな存在だ。

 こんなの、逃げるしかない。

 

「これまで怪我の一つを負っていないのは、君がちゃんと逃げているからだ。警告メールも送信してくれているし、本当に助かる」

「いえいえ、私は教えてくれたことを実践してるだけですよー」

 

 こう言われた衛は、頭に手を当てながらで苦笑いをこぼす。

 いい顔だ。

 

「……これからも、君にはそうして欲しい」

「うん、するする」

「君には、怪我なんてしてほしくないから」

 

 視線を合わせて、よくそういうことが言えるよね。

 ずるいなあ。

 

「私の事、本当に心配してくれてるんだ」

「当たり前だろ」

「友達、だから?」

「そうだ」

 

 即答。

 ――望んだ答えじゃなかったけれども、衛は間違いなく真顔で、誠実な声で、何の迷いもなく私のことを意識してくれた。

 残念かな、と思う。

 けれども私は、そんな大真面目な彼のことが、

 

「あ、見て! 南君とメンヘラたんが!」

 

 女子生徒の、何やら必死そうな声。

 言われるがままに視線を向けてみれば――いた。銀十字で二番目のイケメン、南新太と、

 

「黒絵さんだ」

「黒絵さん?」

 

 私は、新汰の隣についていっている黒絵をじっと見つめ、

 

「友人の友人がよく話題にしてる、話題のクラスメート」

「話題? どうして」

「なんだか人嫌いらしくて、すぐ一人になる傾向があるんだって」

「……そうか」

「あ、でも、いつの間にか南新汰と急接近してたんだって」

「へええ」

 

 興味があるのか、衛から嬉しそうな感情がこぼれ落ちる。

 その反応を見て、私は安堵した。

 この人も、「そういう」のには興味があるんだ。

 

「マジかよ、メンヘラたんとくっついてるじゃん!」

「て、手ぇっ手までつないだぞ!」

「南君、いい顔してるしー!」

「ありえないでしょ、釣り合ってない!」

 

 ひどい言い草ばかりが、周囲から生えてくる。正直うんざりしそうになったけれども、さっさと学校に逃げたかったけれども――あの黒絵って子、

 

「ッ、別にいいじゃないか」

 

 衛の舌打ちに、私は心の底からびっくりした。

 顔にまで現れてしまっていたのだろう、衛は困ったように眉をへこませて、

 

「すまない。驚かせてしまった」

「……ううん、いい。私も、同じこと考えてた」

 

 ほんの小さくだけ、笑う。

 いわれのない悪意に対して、大真面目な苛立ちを覚えてしまったのだろう。

 そういう一面も、私は好きだった。

 

「――にしても」

「うん?」

 

 掲示板を見ようとしているのだろう。黒絵と新汰が、私のいる場所にまで近づいてくる。

 私は黒絵のことを、黒絵の横顔をじっと眺め続ける。黒絵の意識はクラス表と新汰に持っていかれているようで、私のことなど気にも留めないようだ。

 

「……来夢?」

「うん?」

 

 衛が、なんだか困ったような顔つきになっている。

 

「赤石さんに、何かあるのか? すごく、楽しそうな顔をしているが」

 

 その言葉に対して、私はざーとらしくキメ顔を弾かせた。

 

「あの子、いい波持ってるよ」

 

 一見すると、なんのこっちゃな言い回しだ。

 

「――そうだな、俺もそう思う」

 

 けれども衛は、そんな私の言葉をすぐに理解してくれる。

 

 学生鞄の中身を、改めて確認する。教科書、筆記用具、化粧品(おとめのぶき)――

 よし。

 かわいくしちゃうぞ。

 

 □

 

 私はうまく生きていけているし、満たされていると思う。

 高校二年になって、新しいクラスに配置されてからというもの、私にはたくさんの友達ができた。隣のクラスから、わざわざ私に会いに来る旧友だっている。

 今週の土日だって、友人とのショッピングや映画で大盛り上がりする予定だ。どんな服を買おうか、ホラー映画の手ごたえはどんなものなのか、今からハラハラしてしょうがない。

 

 朝の教室に腰を下ろし、数分が経った頃、

 

「――らいりーさん!」

「ん? ……おお! クロたそチョー綺麗じゃん! そうそう、クロたそ元がいいからね~磨けば素直に綺麗になるタイプだよね~いいよいいよー!」

「い、言い過ぎじゃないかな?」

「私は正直者なんですー!」

 

 ここ最近は、私の秘密を知る「理解者」もできた。

 その事実は、とても喜ばしいことだ。

 

 

 私はうまく生きていけているし、満たされていると思う。

 SNSのフォロワーも多くなって、メイク画像を上げるたびに山盛りのいいねが付与されるようになった。それに伴ってメッセージ数も増えてきたのだが、その中には「相談」が投稿されていることもある。

 内容はほぼ同じ、「自分の顔に自信が持てません」。

 まっすぐに共感した私は、出来る限りの応援メッセージを書いて、それから初心者用ハウツーサイトのURLを添付した。普段使っているメイク用品だって、惜しみなく紹介した。

 ――そして数日が経つと、必ずといってもいいほど、こうしたメッセージが返ってくる。

 

『ありがとうございました。すごく、自分の顔に自信が持てました!』

 

 それを聞くたびに、夢への自信が確固たるものになっていく。

 メイクを初めてよかったと、心の底から思う。

 女の子にとって、もっとも繊細な問題を後押しできたことが、とても愛おしい。

 徐々に相談役としての面も目立ってきたのか、相談の数が以前より増した。もちろん、フォロワー数も。

 私は輝けている。現実でもネットでも。

 

 けれど、

 

 ――おっすー鬼っちー! この前のハルゴンもパなかったねー!

 ――おはよう桜木さん。ちゃんと逃げたか?

 ――いやー、あん時は街中に居たからさ、死ぬかと思いましたわ

 ――本当か!? 大丈夫なのか!?

 ――ヘーキヘーキ

 ――そうか……まったく、気をつけろよな。怪我をしたら、佐藤の奴も悲しむ

 ――ちょちょっ、佐藤は関係ないでしょ!?

 ――……交際したんじゃないのか?

 ――……まあ

 ――だろう。だからお前は絶対に死んじゃだめだ

 ――……だね

 ――っはよー! ありゃ? 桜木どした? 鬼塚と何か話でもしてたか?

 ――んーん、なんでもないよ、佐藤

 

 なんだ。

 桜木という女の子は、衛の女友達に過ぎなかったのか。

 衛のクラスの前で、私は深く胸をなでおろす。通りすがりの男子からちらりと様子見されたが、あえて気にしないことにする。

 

 ――衛のクラスを通るたびに、ずっと気になってはいたのだ。

 すっかり明るくなった衛は、クラスの一員として健全に青春を育んでいた。元から人柄が良いし、体も大きいから、体育会系の男達とは特にウマが合ったのだ。

 

 けれど、それに異性が絡むのならば、話はかなり変わる。

 

 桜木という女の子は、とにかく「イマドキ」を体現したような女の子だ。自分と似たメイクを施しているし、フォロワーの一人かもしれない。

 そんな明快な女の子は、ある日を境に衛とよく接するようになった。当然私は「まさか!?」と気が気でならなくなってしまい、食欲が割と落ちたりしたものだ。

 ほんとうは、ずっとずっと監視してみたかった。

 けれども私は人気者であるから、休み時間のほとんどは友達とのおしゃべりに費やされる。コミュニケーションの重要性はよく知っているつもりであるから、けしてフイには出来なかったのだ。

 

 大人になると、もっと重たくなるんだろうなあ――

 

 そうして私は、スキを突いて衛と桜木の動向を見守り続けた。そして結果は、これだ。

 たしかに安心はした、したのだが、衛との接触はここ数日において、まったく成されてはいない。

 それもこれも、別のクラスという壁があるせいだ。

 

 ――おはよう

 ――おはよう、南君!

 ――よお、南君。無事だったみたいだな

 ――まあね。でもすっかり、慣れちゃった感はあるかな

 ――大したものだな。どうだ、柔道部に入ってみないか? いい感じだと思うが

 ――えー? ムリムリ、俺は運動苦手でさー

 

 ここで足を踏み入れては、まず間違いなく衛のペースが崩れてしまうだろう。隣からやってきたクラスメートという異物とは、それはもうクラス中で悪目立ちしてしまうものだ。

 それが人気者ならなおさら、さらには「会いに来たの」なんて言おうものなら、衛に対してありとあらゆる誤解の念が生じるだろう。

 ここまで培ってきた衛の土台を、自分の手前勝手で崩したくはない。

 

「あ、らいりー、ここにいたんだ?」

「――あ、どしたのマイマイ、何か用?」

「あー、メイクのことなんだけどさ。なんか口紅がクドくなっちゃうんだよね……解決法はありますか!」

「あるよー☆」

「らいりー先生ッ!」

 

 私は、うまく生きていけている。

 けれど、やっぱり満たされてなんかいない。

 こればっかりは、衛なしではどうしようもないものだから。

 

 ――だから、

 

送信先:MAMORU 時刻20:14

『新しい口紅に挑戦してみたよ。黄色い口紅はあんまり使わないんだけれど、どうかな?』

 

送信者:MAMORU 時刻20:18

『これが黄色? それにしたって、らいりーの白い肌と上手く合っている気がするな。明るすぎってわけでもないし。……俺はいいと思う』

 

 だから、この時間だけは絶対に譲らない。

 これはずっと前から、衛と共有してきた秘密の日課だから。

 

送信先:MAMORU 時刻20:19

『ほんと? じゃあ明日は、これで過ごしてみるよ。いつもありがとう、また明日もお願いね』

 

 バナナのイヤリングを、机の上に置く。

 衛と過ごした過去を忘れないための、私だけが知るアルバムだ。

 

―――

 

 高校二年生という身分に慣れて、はや一か月後。待ちに待った校外学習がやってきた。

 舞台は、都会から少し離れた場所にある山。元はキャンプ場であるらしく、学習内容は「みんなでバーベキュー作成」のみといってもほぼ差支えがない。

 いつも通りに過ごせば、この課題は自動的に達成されるだろう。

 つまるところが、超ラクだった。

 

「賑やかですなー」

「ですなー」

「……南クンのところには、行かないのん?」

「は!? いやいや、別のクラスだしっ」

 

 そのとき、遠くに居た新汰から手で挨拶をされた。

 それだけで、黒絵はしゅんとうなだれる。

 

「乙女~」

「ッ~~! しょ、食材、食材をはこ、」

「――おーい、木材運んできたぞー」

 

 聞き逃すはずがなかった。

 大量の木材を抱えた衛が、新汰めがけ難なく歩み寄ってくる。

 それを見た新汰が、

 

「すげー」

 

 それを目の当たりにした私は、

 

「すごー……」

 

 衛のことだから、率先して力仕事を担当したのだろう。それはとても、すごーなことだ。

 そして衛は、新汰が驚くほどの木材を持ち運んできた。疲れているようにはまるで見えない。

 やっぱり、日ごろから体を鍛えているんだろうな。

 それがとても頼もしくて、たまらない。

 

「……らいりーさーん?」

「へ!? は、な、なに!?」

「えっと、南君に何か?」

「いや、南クンじゃなくて、」

 

 首を、ぶんぶん振るう。

 黒絵が、びくりと跳ねた。

 

「さーさ、食材を運んでいこー」

「あ、はい」

 

 食材は、すこし離れた位置にあらかじめ置いてある。この「少し歩く」というのが、校外学習のポイントなのだろう。

 

「――おんや?」

「どしたの、らいりーさん」

 

 黒絵が、私の袖をくいくい引っ張る。これは黒絵のコミュニケーションみたいなものだが、正直めちゃくちゃ可愛いと思う。

 それなのに本人は、一歩引いた場所から教室を眺めるだけ。これはもったいない。

 ――それにしても、

 

「あれ、知らない生徒だ」

「え、そなの?」

 

 銀十字高校とは少し離れたバーベキュー会場で、他校生らしい複数の男女が賑やかに活動している。食材を運んでいることから、私たちと同じく、校外学習に励んでいるのだろうか。

 すごい偶然だなあ、と思う。

 まあ、そういうこともあるか、と思う。

 

「ど、どうしよう、声をかけられたら……」

「そだねえ、クロたそは美人だもんねえ」

「そ、そんなことっ」

「まあまあ、声をかけられたら私が守ってあげるから」

「……サ、サンキュ」

 

 私ははじめて、守るという言葉を口にした。

 それだけなのに、心が嘘みたいに熱を帯び始める。たぶん、衛と同じ言葉を使ったからなんだろうな――

 

「あれっ?」

 

 後ろから、男の声がした。

 自分の事かと思い、首だけを後ろに向いて、

 

「――あ」

「――あ」

 

 声にならない声が、吐き出た。

 

「き、君……」

 

 過去が、否応なくフラッシュバックする。

 

「君は……」

 

 昔のあだ名が、「この男の声で」再生されていく。

 

「――RAIRIさんですか!?」

 

 返事すら、すぐにでも思い浮かばなかった。

 

「いやあ、会いたかったんですよ! 俺ファンなんです! フォローもしてるんですよ!」

 

 ――へえ

 

「会えて光栄です! いやあ、画像で見るよりすごく綺麗ですね!」

 

 ――はあ

 

「……でしょ? 綺麗って言われるなんて、頑張ったかいがありました!」

「いやー、俺もRAIRIさんのメイクが見られて光栄です! ほんと、綺麗ですね……」

「日頃から頑張ってます!」

「やっぱり積み重ねなんですね、そういうのって! シンパシーを感じます」

「そうですか~! ……あ、じゃあ私はそろそろこのへんで、」

 

 行こう。

 私は、黒絵の手をとろうとして、

 

「あの!」

 

 背から、大声をかけられた。

 

「自由時間になったら、一緒にどっか遊びに行きませんか?」

「どうして?」

「いやー……」

 

 その男は、平然と、

 

「俺、前々からずっと、RAIRIさんに惚れてました!」

 

 岡田は、平然と、そんなことを言った。

 

「は、はあ……」

「一度だけでいいんです、一緒にデートしませんか? 俺のこと、たくさん知ってほしいんです!」

 

 岡田は、やっぱりすごいやつだ。

 好きになった人に対して、無遠慮に好きと言えてしまうその気質はほんとうにすごい。

 岡田は、やっぱりすごいやつだ。

 

「RAIRIさんみたいな綺麗な人は、初めて見ました! フォローしてから、ずっとずっと会いたいと思ってました! マジです!」

 

 岡田が、手を伸ばす。

 

「よかったら、肉も一緒に食べませんか? みんな、歓迎してくれますよ!」

 

 私は、岡田より優位に立ってしまえているのだろう。

 こんなふうにお願い事をされて、好きとまで言ってくれているのだ。

 ――けれど、ぜんぜん嬉しくない。

 

「RAIRIさん、行きましょう」

 

 岡田が、相手だから。

 

「俺、絶対にRAIRIさんを楽しませますから」

 

 相手が、衛じゃないから。

 

「あー、ごめんねー?」

 

 RAIRIは、あははと笑う。

 

「友達も待ってるし、行かないと」

「待ってください、RAIRIさん」

 

 何が起こったのか、一瞬ほど分からなかった。

 

「いいじゃないですか。俺と一緒にいた方が、絶対楽しいですって」

 

 岡田に、肩を掴まれていた。絶対に逃がすまいと、岡田から笑顔を浴びせられた。

 ――怖い。

 誰か、助けて、

 

「おい」

 

 私の耳に、威圧的な声が轟いた。

 肩を掴んでいたはずの岡田が、目を丸くして後ずさりする。私は声の主をちらりと見て――安堵が、口からこぼれた。

 

「何をしているんだ、岡田君」

「お、お前……鬼塚か?」

 

 鬼塚が、淡々と「ああ」と返す。

 

「この人が困っているだろうが。そういうことは、やめろ」

「お、お前、なんだ? 彼氏面しやがって」

「違う」

 

 彼氏。

 そのことをきっぱり否定した衛は、

 

「この人を、守りたいだけだ」

 

 私の前に、立ってくれた。

 背筋を伸ばしているからこそ、その背中がとても大きく見える。

 恐ろしくて、頼もしくて、生真面目で、盾になってくれるこの人の背中が、私は大好きだった。

 

「ったく、なんでお前、そこまでRAIRIにこだわるんだ? 知り合いか何か、」

 

 何かに気づいたらしい岡田が、顎に手を当てて思考し始める。

 ――ようやく気付いたのか、この軽薄野郎。

 ようやく答えを導き出したらしい岡田が、恨みがましい目つきで、私のことを凝視する。

 

「お前、ゴリRAIRIか!?」

「あちゃーばれたか」

「て、てめえ! 俺をだましやがったな!?」

「あんたが勝手にナンパしてきたんでしょ」

「うるせえ。……あ、いいこと考えた」

 

 いやな笑みを浮かばせた岡田が、ポケットから携帯を取り出す。衛と黒絵が首をかしげる中、私は、岡田の目論見を本能的に察知した。

 

「こいつの素顔を、みんなに見せびらかしてやる!」

 

 思う、つくづく思う。

 どうして私は、こんな男のことを好きになってしまったのだろう。

 ――顔か。

 イケメンに惚れたからこそ、私は、外見の重要性を理解することが出来たのかもしれない。

 ――衛と、横に並ぶ。

 イケメンに惚れたからこそ、私は、衛と出会うことができた。

 そのことだけは、岡田に感謝している――やっぱり感謝したくない。

 

「岡田、やめろ」

 

 衛の声は、これまで以上に重い。

 

「悪いことは、するものじゃない!」

「う……うるせえ!」

 

 ――、

 

「ここで止めても無駄だぜ。一斉送信すりゃいいだけだからよ」

「岡田!」

「……いい」

 

 衛が、私のほうを見る。

 

「ありがとう、衛。私のために、こんなにも怒ってくれて」

 

 いまの私は、きっといい顔が出来ているのだろう。

 ――黒絵から、手をぎゅっと握りしめられる。

 

「晒せば?」

 

 堂々と言う。

 

「いいよ、どうぞ。どうせ、いつかはバレるだろうなーって思ってたし」

 

 岡田の視線から、一歩も退かない。

 ――只事ではない雰囲気を察したのか、周囲からこぞって生徒が集まってくる。

 逃げ場なんて、もうない。

 だからこそ、どこまでも笑ってやる。

 背筋を、伸ばしきる。

 

「やれば?」

「ッ! てめえー!」

「……うるさい!」

 

 気が、一瞬だけ遠くなった。

 私の隣に立っていた黒絵が、歯を剥き出しに叫んでいる。

 

「さっきかららいりーさんのことを傷つけて……恥ずかしくないのか! ええ!?」

「な、なんだお前!? あっちいってろ!」

「誰が行くか! お前がさっさと消えろ!」

「んだとこの、」

 

 私は、黒絵から手をほどく。

 黒絵が戸惑うが、私は黒絵に対してピースサインで返した。

 

「ったく、まだ晒さないの? じらさないでほしいな」

「ああ!?」

「しょうがないなあ……」

 

 そして私は、何の迷いもなく河原へ走りこんだ。

 衛が待てと叫び、黒絵が私の名前を呼んで、そして野次馬達から視線を投げかけられる中、私は両手で川の水を掬い取り、己が顔面めがけ何度も何度も浴びせかけた。

 ――バーベキュー会場が、沈黙する。

 水浴びを終えた私は、やがてゆっくりと、重い腰を上げていく。前髪から雫がこぼれ落ちる中、私は顔を一切隠さないままで、衛のもとへと帰り始める。

 歩んでいる間、私はギャラリーから強い注目を浴びた。さながらファッションショーのようで、心の中で思わず苦笑い。

 

「――はい、満足?」

 

 そして私は、ふたたび衛の隣に立って見せた。

 もちろん衛は、こんな私のことを無言で受け入れてくれる。理解者である黒絵も、私の手を握り直してくれた。

 切り札を失った岡田はといえば、視線で助け舟を求め始める。けれど誰も、こんな岡田のことなど助けようとはしない。

 

「お前……」

「なに」

「素顔がそんなんなのに、メイクでひた隠しにしやがって……はー、恥ってモンを知らねえのか」

「……はぁー……」

 

 メイクというのは、ちょっとやそっとの欠点を克服してくれる、夢の技術そのものだ。それを説明しようと、私は口を開けて、

 

「自分を磨いて、何が悪いんだい?」

 

 はっきりとした男の声が、この場全体にしんと響き渡った。

 

「み、南君!」

 

 ギャラリーをかき分けた新汰が、躊躇なく黒絵の隣で仁王立ちした。

 日頃の爽やかさはどこへいったのか、その両目は岡田を確実に射貫いている。岡田は、実に不愉快そうに舌打ちを発した。

 

「らいりーさんは、自分の力で綺麗になったんだ。それをとやかく言うのは、どうかと思うな」

「あんだ? カッコつけか?」

「赤石さんの友人が傷つけられているんだ。これを黙ってなんて見ていられない」

「……南くん」

 

 そこで岡田は、「あーうぜー」と前置きして、

 

「――一つ聞くけどよ」

「何?」

「正直、どうなんだよ。そいつは素顔がこんなんだってのに、メイクでひた隠しにしてたんだぞ? そんな奴を好きになれるのかってハナシだよ」

「好きだ」

 

 時が、停まったと思う。

 

「俺も昔は、」

 

 新汰が携帯を取り出す。軽やかな手つきで、携帯を操作し始める。

 場違いめいたその行為に、誰もが困惑の色を隠しきれない。こうなれば、ただただ新汰の行為を見守ることしか、

 

「……まさか!」

 

 黒絵が、目を丸くしてまで絶叫した。

 え、なに。私がそう聞く前に、新汰は既に携帯を前へ突き出していた。

 

「――こんなふうだった」

 

 新汰の携帯には、太っている男の子の写真が堂々と表示されていた。

 誰、とは、意外にも思わなかった。

 これは間違いなく、南新汰本人のものだ。

 

「う、嘘だろ?」

「嘘じゃない、昔は本当にこうだった」

 

 新汰は、胸に手を当てて、

 

「俺もらいりーさんと同じく、自分を磨いて今のようになった。それの何が悪い?」

「て、てめ――」

「南君にとやかく言うな!」

 

 獰猛な女の子の声が、バーベキュー会場に突如として飛来した。

 見渡す。

 銀十字高校の女子生徒達が、岡田のことをロックオンし始めている。狼狽する岡田だったが、怒れる女の子を止められるものなんて、この世に存在しない。

 

「女の敵!」

「頑張っている人を否定すんのかよ、オメーマジダセーな」

「南君の敵は私の敵よ!」

「らいりーに謝れ!」

「ぐ――」

 

 正論の暴力を四方八方から食らい、岡田の腰が砕けそうになっている。私はそれを、ただただ見物にしてやるだけだ。

 ――それにしてもこいつ、中々しぶといな。まあ平然と二股をかけるだけのメンタルがあるから、ちょっやそっとじゃ折れないのかもしれないけれど。

 

「――お話は聞かせていただきました」

 

 本気でびっくりした。

 本当に脈絡もなく、容姿端麗な女の子が黒絵の隣に立っていたのだ。

 誰だったかなと、私と衛が女の子のことを眺め始める。目と目が合って、女の子は無言で一礼してくれた。

 

「私は友里真夏といいます。黒絵さんと、南くんのご友人です」

「は、はい」

「……へえ」

 

 その時、岡田から感嘆めいた声が聞こえてきた。

 新しい獲物を見つけたとばかりに、岡田の両目がきらきらと輝きだす。これは明らかに、真夏のことを意識し始めているのだろう。

 ほんとう、大したやつだ。救えない。

 

「ふむ――」

「え、何? 俺に興味があるの? 俺は岡田っていうんだけど」

「なるほど」

 

 そして真夏は、岡田と出会って三分も経たないうちに、

 

「本当に、いるんですのね……」

「え、何が?」

 

 純粋無垢な真顔で、こう断言した。

 

「――映画の終盤で、怪獣のエサになりそうなイケメンが」

 

 はあ、なるほど、

 ――バーベキュー会場から、大爆笑が響き渡った。

 真夏が大真面目に言うものだから、女子がウケると笑い転げる。ハルゴンブーム真っ盛りだからか、男子がいいねいいねと指をさす。

 いてもたってもいられなくなった岡田が、ちくしょうと叫びながら向こう側へ走り去っていった。せいぜい強く生きてほしい。

 

「あーあ、疲れた」

 

 あれだけ言い争っていたはずなのに、空はまだ青い。腕時計を眺めてみれば、ここに来て一時間程度しか経っていないらしかった。

 未だ爆笑が収まらぬ中で、私は長く長くため息をつく。

 ようやく、過去と決別できた。そのことが、ひどく嬉しくてたまらない。

 

 その時、私の肩に大きな手が置かれた。

 それが誰ものなのか、詮索なんてしなかった。

 

「ねえ、らいりー」

「……うん」

 

 友人から、声をかけられる。

 素顔はそのまま、私は両目をつぶる。

 

「やっぱり、らいりーのメイク技術は凄かったんだね。だってらいりーを、あんなにも変えてくれたんだから」

「うん」

「あたしはこれからも、らいりーのフォロワーだよ。らいりーのお陰で、自信が持てたしね」

「うん」

「私も私も! 前に相談に乗ってくれた時は、ほんとーに嬉しかった!」

「うん」

「俺の方もさ、らいりーのことずっとフォローするから。いつも話しかけてくれてあんがとな!」

「うん」

 

 もう、十分だった。

 そっと目を開けてみれば、友人のみんなが、黒絵が、新汰が、そして真夏が、それぞれの笑顔を私に返してくれている。

 心臓が、ひどいくらい動き回っている。血が、嘘みたいに熱い。目の先が、にじんでよく見えない。

 

 肩に乗っていた手が、私の背中にそっと添えられる。

 わたしは、声を上げて泣いた。

 

 □

 

 バーベキューを完食し、食器を片付け終えれば、あとは待ちに待った自由時間が残るのみ。

 それぞれのクラスメートは、山なり川なりに姿を消していった。中にはデートをしでかす者もいて、鬼塚はたいそう羨んだものだ。

 ――デート、か。

 思い浮かんだ顔は、一人しかいない。

 けれども自分は、化粧を施した後の顔を望んでいる。

 我ながら軽薄すぎて、左右に頭を振るった。

 この自由時間は、寝て過ごした方が良いかもしれない。先ほどの件で、けっこう疲れてしまったし。

 そうして鬼塚は、バーベキュー会場に設けられた椅子から、ゆっくりと立ち上がろうと、

 

「衛」

 

 して、体ごと震える。

 振り返ってみれば、やっぱり来夢が、笑顔で手を振っていた。

 

「いま、ヒマ?」

「ま、まあな」

「そっか」

 

 そう言って、来夢が前の相席に座り込む。もちろん、背筋を真っすぐにして。

 またしても先手を取られたが、相手が来夢ならいくらでも。一度上げた腰を、ふたたびゆっくりと下ろした。

 

「ね、衛」

「うん」

「さっきは本当に、ありがとう。助かったよ」

 

 視線は来夢に向けたまま、口元を力なく緩ませた。

 

「やるべきことを、やったまでだよ」

「……そうだね。人を守るという義務を、あなたは全うしたね」

「そう、だな」

 

 カップルらしい二人組が、来夢の背中を横切っていく。

 それに気づいた来夢が、口に指をあてて、「んー」と唸り、

 

「ねえ、衛」

「うん?」

「あなたは、好きな人とか、いる?」

「ああ、まあ、」

 

 あ、

 鬼塚が間抜け面を晒すが、もう遅い。来夢は、真顔で「ふうん」と頷く。

 

「そっか、いるんだ」

「まあ、な」

「……どんな人?」

「え?」

「どんな人、なのかな?」

 

 珍しい、と思う。

 来夢は明快な性格をしているが、別に無神経というわけではない。人の本質に触れそうな箇所は、あえて話題にすら出さないタイプだ。

 そんな来夢が、人間にとって最も繊細な秘密を発掘しようとしている。これにはさすがに戸惑ってしまうが、来夢は未だ無表情を貫いたままだ。

 本気、なのだろう。

 理由はわからないが、そういうことなのだろう。

 

「そう、だな」

 

 本当のことを口にしてしまえば、軽薄だと罵られるかもしれない。

 けれども実際は、いつかは本心を口にしたかった。長らく秘密を隠し通すなんて、できるはずがないという確信もあった。

 来夢の両目は、未だ自分を射抜いている。

 自分の恋を聞いて欲しいと、心がざわめき始める。

 

「……いいんだな?」

 

 来夢が、静かにうなずいた。

 

「……性格がとても明るくて、友達が多くて、困っている人と向き合えて」

 

 来夢が、首を縦に振るう。

 

「自分を変えることができる、すごい人なんだ」

 

 来夢が、首を、

 

「ん?」

「……は、はは」

 

 照れ隠しのつもりで、力なく笑ってしまった。

 そんな自分のことを、来夢はただただ見ている。言葉なんて、一言すら発しないまま。

 まあ、そりゃあそうだよな。

 身近な人から、好かれていたんだもんな。

 そりゃあ、驚きもするよな。

 

「――そっか」

 

 そして来夢は、胸に手を添えた。心から安心したかのように、長く長く息をはいた。

 

「よかった」

「……え?」

 

 そして来夢は、精いっぱいの笑顔を表現して、

 

「あなたに愛されていることがわかって、本当によかった」

 

 どうして。

 そこまで言いかけて、鬼塚はようやく意図に気づけた。

 だからこそ、言葉がうまく紡げない。驚いたやら、嬉しいやらで、ぜんぜん感情が整わない。確かなのは、来夢に対する恋愛感情だけ。

 でもそれは、ひどく上っ面な気持ちでしかない。

 本来なら、口に出すことすら許されないだろう。

 

「来夢」

「うん」

「これから、軽薄な本音を言う」

「……うん」

 

 でも、聞いて欲しかった。

 両想いだからこそ、聞いて欲しかった。

 

「俺は、化粧で綺麗になった君のことが、好きなんだ」

「ああ、うん」

「素顔の君には、心がときめかなかったんだ」

「うん」

「だから、そういうことだから、俺は君を愛する資格がない」

 

 ひどいやつだと、そう怒られても良かった。

 自分の醜さを吐き出せた時点で、自分はとても恵まれている。ましてや聞き手は、他でもない河野来夢なのだ。代償としてハルゴンに踏みつぶされようとも、立派な因果応報として受け入れられる自信がある。

 

「そうなんだ」

 

 無言で、肯定する。

 

「やっぱりあなたは、真面目な人なんだね」

 

 無言。

 

「やっぱり、そんなあなたのことが好き」

 

 背筋を伸ばしていたはずの来夢が、柔らかく前のめりになる。顔が近づいてきて、呼吸すら乱れた。

 

「いいんだよ」

「え」

「メイクっていうのは、顔を魅せるための武器なの」

「武器、」

「巨大怪獣と戦う時だって、素手じゃあかないっこないでしょ? だから武器を使って、怪獣をやっつける。それは何も悪いことじゃない」

 

 よりにもよって、そんな例え話をするなんて。

 そんなの、考える前に納得するしかないじゃないか。

 

「……それにね」

 

 気づいた。

 来夢の頬が、赤く染まっていく。

 

「私は、嬉しいんだ」

「……なにが?」

 

 そして来夢は、目を合わせられないまま、

 

「私の技術が、あなたの恋心を震わせられた事実に」

 

 河野来夢という女の子は、どこまでも前向きだった。

 周りから動物扱いされようとも、それをギャグに昇華することによって、一躍クラスの人気者となった。

 顔のせいで恋に破れたのなら、それを機にお洒落に目覚めることによって、一躍クラスの麗人となった。

 夢すらも抱けた来夢には、人が集まり、時には頼られ、そして愛されて、いつしか時の人になっていた。

 

 そんな来夢はとてもかっこよくて、どこまでも美しかった。だから惚れたんだ。

 

「……来夢」

「うん」

「ありがとう」

「うん」

「俺はこれからも、君を守り続けるよ」

「うん」

「何かよくない点があったら、遠慮なく言ってほしい」

「えー? そんなのあったか、」

 

 何か思い当たりがあったのか、否定の言葉がぴたりと止まった。

 鬼塚の緊張感が、急激に膨らんでいく。それを知ってか、空を見つめていた来夢が「あーそうだそうだ」と二度うなずいて、

 

「衛」

「な、なに?」

「私のことを、名前で呼びなさい」

「え、いや……」

「なに。私も衛って呼んでるんだから、いいじゃない」

「でも、まあ、うん、まあ」

 

 これからは、来夢と共に道を歩んでいくはずだ。それなのにさん付けとは、確かに他人行儀が過ぎる気がする。

 来夢は手の上に顎を乗せながら、今か今かと笑いっぱなしだ。

 そこまで期待されては、言うしかない。

 本当の意味で来夢の隣にいたいから、言わせてほしい。

 

「――来夢」

 

 来夢は、バナナのイヤリングを小さく揺らして、

 

「――衛」

 

 



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