蒼崎橙子のオカルト探偵事務所 (風海草一郎)
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チュートリアル
第一話 ありふれない私の日常
少し汗ばむ初夏の陽気が額に汗をにじませ、寂れたビル群の中を歩く少女が一人。欠かさず手入れされているだろう艶やかな黒髪と、凛々しさと意志の強さが滲み出る瞳が特徴的な少女だ。
その少女がなぜかやたらと存在感が希薄な崩れかけのビルの敷地へ足を踏み入れ、中へと姿を消した。
カツーン、カツーンとタイルも無く剥き出しになった素材にしては高い音を生み出す階段を昇ること三階分。私こと黒桐鮮花は今日も今日とて修行のために師匠の元へ足繁く通っていた。
私の師匠であり、兄の幹也からしてみれば雇用主でもある蒼崎橙子さんは、一言で説明するなら世捨て人だ。
常に怪しげな商品を買いあさっては金欠となり、従業員である幹也にちょくちょく金をたかってはすげなく断られている。
仕事場はバブル崩壊の煽りを受けて建設途中で投げ出された廃ビルで。本来は六階建てになるところを四階までしか出来ておらず、作りかけの五階の部分が屋上らしき扱いとなっている。
おまけに仕事と言えば完全なフリーランスで、売り込みに行っては報酬を前払いで受け取り制作に取り掛かる。表の顔である建築デザイナーとしても超一流なのに、依頼を受ける事はほとんどない。だから腕が良くても仕事が少なく、兄は給料未払いの件についていつも愚痴っている始末。
――うん、紛う事なき世捨て人ね。
私は師匠の評価を再確認し、やはりその評価は変わらなかった。
しかし、私が橙子に対して悪感情を抱いているかと言えばむしろ真逆である。私は橙子の事をいっそ尊敬すらしていた。
例え世間一般に社会不適合者の誹りを受けようが、そもそも一般社会の『常識』という物差しで測れる人物ではないのだから、仕方が無いではないか。
なぜなら、蒼崎橙子は魔術師だから。
魔術師。いい年をした大人なら一笑に付す、おとぎ話の中の登場人物。多くの子供が寝物語の中で心を躍らせ、胸を高鳴らせた儚い空想の存在。自分もほんの数年前までそう思っていた。
しかし、とある事件で魔術師は実在する事を知った私はは蒼崎橙子に師事し、愛しい人の奪還に燃えていた。
思考に意識をしばらく向け続けていたら、いつの間にか橙子さんが仕事場としている四階のドアへと到着していた。
少しひんやりとする金属製のドアノブを回すと、金属の擦れる不協和音と共に、少女たちのかしましいやり取りが聞こえてきた。
「ほらこれ、シオンがエジプトの名産品だってくれたスカラベのお守り! これがあると砂漠でも迷ったりしないし、幸運を運んでくれるんだって! みんなの分も送ってくれたからあげるよ!!」
「あら、かわいいですね。このつぶらな瞳などが特に」
「スカラベはエジプトでは再生や豊穣を司る縁起物だからな。ありがたく受け取っておこう。微かに魔力も感じるから、まんざらただの土産物というわけではなさそうだ」
現在はエジプトでとある研究に打ち込んでいる友人からの贈り物を、嬉しそうに応接用のテーブルへと広げる活発そうな少女の名は弓塚さつき。涼し気な半袖シャツ姿は他校の制服だが、ひょんな事から知り合い、今では良き友人だ。
そしてスカラベが現物そのままで標本にされているグッズを『かわいい』と表現するちょっと変わった清楚系美人が浅上藤乃。こちらも私の友人であり、同じ礼園女学院に通う友達である。
私含めて三人ともいわゆる『普通の人』ではなく、力のコントロールも下手なため、それを制御する術を見つけるまでという条件付きで橙子さんの事務所でアルバイトとして働いている。
最後に、やはり魔術師らしい観点から興味深げにお土産を見つめているのは橙子さん。
「こんにちは橙子師。それからさつきと藤乃も」
「こんにちは鮮花。今日は少し遅かったですね」
「あ! こんにちは鮮花。鮮花の分もあるから持って行ってよ。ほら、これすごいでしょ」
ツーサイドアップの髪を揺らしながら手を振るさつきに鮮花は微笑を浮かべると、自分も輪の中に入る。
テーブル中央に並べられたのはヤクルトの容器より少し大きめのガラス瓶の中に、褐色の光沢を放つ甲虫と現地の砂らしきものが入れられているものだ。
石や木を彫った工芸品ではなく、本物のスカラベを標本にしてそのまま入れているらしい。生の昆虫独特のリアルなフォルムに一瞬、鮮花は委縮しかけたが、よくよく見ると確かにエキゾチックな情緒がある。藤乃の感想も案外、的を射ている。
鮮花はしばらく手のひらでそれを眺めた後、丁寧にカバンにしまうと、微かな違和感に気づいた。いつも事務所にいる猫のような自由人の姿が見えない。
「橙子師、式のやつはどうしたんですか? 食あたりかインフルエンザですか? 入院するんですか?」
「式がいないからといって露骨に嬉しそうな顔をするな鮮花。相変わらずいい根性をしているな……」
「式なら下の階で仮眠を取るって。サボってた補習を消化するのが大変らしいから」
「そんなの自業自得ですから兄さんが気に病む必要はありません。ついでにあの女とさっさと縁を切ってください」
呆れた表情の橙子さんの代わりに私の疑問に答えた幹也は、わたしのつっけんどんな態度に曖昧な笑みを浮かべるだけ。その子犬ように柔和で暖かな笑顔を独占しているであろう人物の事を思い浮かべると、ひどく心がささくれ立つ。
幹也が「お茶を入れてくる」といって四階の台所へ向かうと、私は橙子さんに向き合った。
といっても、橙子さんはデスクの後ろにある窓を開けて、そちらへ煙が行くようタバコをふかし始めたので背中越しではあるけれど。
「橙子さん、出された課題は全て終えてしまったので、次の課題に移らせていただけませんか」
私はカバンから人を撲殺出来そうなほど分厚い書籍を橙子さんのデスクにドンと置くと、こちらへ向き直った橙子さんは目をしばたたかせる。
何か言いたげに口を開閉させては、小さなため息と共に紫煙を吐き出した。
受動喫煙は御免こうむりたいが、この煙草の香りが私は嫌いではなかった。
「まだ三日だぞ。この厚さをもう読破したというのか?」
「私が速読術を習得しているのは橙子さんもご存じでしょう。それを駆使すればこのくらいは楽勝です」
何でもない事のように私が答えると、橙子さんはタバコの火を灰皿に押し付けて火を消し、私を落ち着かせるように言った。
「鮮花、物事には順序と段階というものがある。いくら鮮花が優秀とはいえ、焦りは禁物だ。桂馬の高跳びというヤツだ」
「焦ってなんかいませんよ橙子師、私にはぐずぐずしている暇なんて無いと――」
ピンポーン
と、私の言葉は気の抜けるようなインターホンの音で遮られた。
「む、ようやく届いたかな?」
「はーい、それなら私が行ってきまーす」
インターホンは構造上、一階に設置するため。もし重い荷物だった場合、運んでくるのは結構な重労働だ。ゆえにこの中で一番身体能力の高いさつきが自然と荷物を受け取る係となっていた」
さつきが階段を下りていき、配達員らしき男性と二言三言、会話を交わすと三十センチほどの小包を抱えて戻ってきた。
淡いピンクを基調とした花柄の包装紙でラッピングされ、ご丁寧にリボンが飾られている。まるで恋人に送るプレゼントのようで、この中にそういった物が送られそうな人物に心当たりの無い私は内心で首をひねる。
「ん? 弓塚、何だその包みは?」
「え? いつものように橙子さんのじゃないんですか? サインはいらないって言うから変だなーとは思いましたけれど」
心当たりが無いのは橙子さんもさつきも同じらしい。念のため、戻ってきた幹也や藤乃に聞いてみても結果は同じだった。
気になった私は包みを見せてもらうも、奇妙な事に差出人の名前が書かれていない。
「私が頼んだのはアマゾネス・ドットコムの電子タバコなんだがな。あそこはこんな洒落た袋に入れないはずだ」
「ああ、あのやたらとマッシヴな配達員のお姉さん方が運んできてくれるとこですか。確かに、あそこはもっと味気無い茶色の紙箱ですもんね」
慣れているさつきが思い出したように橙子さんに同意する。
アマゾネス・ドットコム。
近年、急激に通販業界で版図を拡大しつつある大手企業の名だ。『世界の果てどころかどのような次元、並行世界であろうと迅速に配達する事をお約束する!!』がモットーで、事実、品揃えと配達速度は目を見張るものがある。
橙子さんは妹の名義で買い物をしまくるという悪趣味があるので、今回もそうかと思ったが違うらしい。
「……とりあえず、開けてみませんか? 危険なものではなさそうですし」
おずおずと藤乃が最もな意見を口にし、橙子さんは慎重に包みを破いていく。
中から現れた箱の上にはメッセージカードが置かれ、胡散臭そうに橙子さんはそれを開く。
「げえっ!」
あまりに珍しい橙子さんの反応に、全員の視線が集中する。あの冷静沈着な彼女があんな素っ頓狂な声を挙げる事に、全員が意外そうな表情を浮かべる。
文字列を目で追う橙子さんの眼球がせわしなく左右を行き来し、その表情がどんよりと曇っていく。
やがて、全てを読み終えた橙子さんは頭痛を抑えるように額に手を当てると、新しいタバコに火をつけた。
「差出人は知り合いですか、橙子さん?」
換気扇のスイッチを入れながら幹也は尋ねると、橙子さんは苦虫を噛み潰したような表情で「ああ……」と重々しく呟いた。
気だるげに椅子の背もたれに全体重を預けると、肺腑に溜まった空気を全て吐き出すかのように盛大なため息をついた。
「……彼は時計塔時代の先輩でね。知人というか腐れ縁で、時々こういった嫌がらせをしにくるんだ……」
「嫌がらせ、ですか」
魔術師の世界における嫌がらせは、冗談では済まないような事も多々あるのを身をもって体感している私の頬は自然と引きつる。
つい先ほどまではお洒落な雑貨品でも入っていそうな箱が、今はテロリストの郵便小包に見えてくるのだから不思議だ。
じりじりと小包から距離を取り出した私たちに、橙子さんはひらひらと手を振って、私たちの考えを払拭する。
「あー、安心してくれ。あいつは確かに奇人変人で人をイラつかせる天才のろくでなしだが、人死にが出るような事はしない。……はずだ。多分、きっと、恐らく……?」
「そこは言い切ってくださいよ橙子さん!」
私たち全員の思いを幹也が代弁してくれた。
さつきは既に瞳を赤くし、藤乃も魔眼を発動しかけている。かくいう私も火蜥蜴のグローブをはめて臨戦態勢だ。これだけの戦力が揃えば、そうそう負けはないだろうが、今は非戦闘員の幹也がいる。幹也だけは何としても守らなければならない。
私たちの警戒をよそに、橙子さんは心底面倒くさそうに箱を開けると、中身をテーブルの中央に置く。その黒い物体が何であるかを脳が認識すると、私たちは呆けたような言葉を漏らした。
「……え?」
「……これは」
「……どう見ても」
「――――テレビ、よね?」
一辺、二十センチほどの小型テレビが全員そ視線を独占し、どこか満足気に鎮座していたのだった。
さて、このいかにも怪しげなテレビはなんでしょう……?
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第二話 望まれぬ待ち人
張り詰めた空気が消し飛び、緊張の糸がぷつりと切断された私たちの視線は、それこそ穴が開くほどに集中していた。もし、視線に物理的な力があれば、今頃このテレビはハチの巣になっているだろう。
全員から奇異の視線を注がれる小型テレビは答えない。それは壇上へ無言で降り立ち、観客たちの視線を一手に集める舞台役者にも似ていた。いつ、役者が言の葉を紡ぎだすのか、私たちは唾を飲み込もうとした瞬間。
ジリリリリリ ジリリリリリ
と、今時珍しい黒電話のベルが室内に鳴り響いた。勢いよく飲み込んだ唾が気管に入り、思わずむせた私の背中を橙子さんはさすりながら、ひどく緩慢な動作で受話器を取った。
『――もしもし、私だ。久しぶりだね橙子くん』
「人違いです」
橙子さんは先程とは打って変わって、高速で通話を切った。あれほど反射的な『人違いです』はそうないだろう。
ジリリリリリ ジリリリリリ
再び、けたたましい叫びを黒電話があげる。私には黒電話の内部で振動するベルがなんだか人の声帯じみていて、少しだけ不気味に思った。
「…………チッ」
またも橙子さんにしては珍しく、小さな舌打ちと共に電話線を勢い良く引っこ抜いた。
――いいんですか? 別件の仕事の電話もあるでしょう?
幹也はそんな風に視線で橙子さんに尋ねたが、橙子さんもまた「いいんだ」と視線で返した。私たちがどうしたものかと、逡巡していると、その空気を打ち消すように橙子さんはパンパンと手を叩く。
「ほらほら休憩は終わりだ。みんなには今日中にやってもらいたい仕事がある。黒桐は岩美重工社員のリストの洗い出し。弓塚くんと浅上くんは再び三咲町に現れたという殺人鬼の調査を――」
ピリリリリリ ピリリリリリ
橙子さんが言いかけたところで、再び着信。ただし、今度の音の発生源は固定電話ではなく、橙子さんの上着ポケットの中からだ。
渋面を作る橙子さんはポケットから携帯電話を取り出すと、さらに表情を渋くする。
その発信者の名前は『親愛なる君の友人』と表示されており、橙子さんは「いつの間に登録したんだ……」とぶつくさ言いながら覚悟を決めたように、えいやっと通話ボタンを押した。
『親愛なる友人に対してひどいじゃないか橙子くん。私と時計塔で過ごしたかつての日々をもう忘れてしまったのかね?』
ずいぶんと特徴の無い中性的な声だ。と鮮花は思った。男女どころか、年齢さえも掴みづらい。聞きようによっては二十代の青年にも、四十代の中年にも聞こえる。
「忘れるだなんて滅相もない。あなたと過ごしたあの日々は忘れたくても忘れられるものじゃありませんわ」
もっとも、忘れられない理由は異なるだろうがな! と橙子は内心で吐き捨てるが、そこは常識だけはある魔術師らしくグッと堪える。
「ところで今日はどういったご用件でしょうか先輩?」
声に怒気を孕めないよう、必死に抑えているのが表情から伺える。
『なに、大した用事じゃない。久方ぶりに愛しい君の声が聞きたくなって――おおっと、無言で電話を切るのは社会人としてどうかと思うよ』
反射的に通話を切りそうになっていた親指は、橙子の鉄の意志によって動きを止めた。
気分を落ち着かせるように腹式呼吸を行う橙子へ、電話の男は会話を続ける。
『君の事だから今は、贈り物のテレビを怪しげにみつめている頃だろうと思ってな。テレビだけではなく、箱の底にあるDVDと筒も見てくれたまえ』
橙子さんが視線で私を促すので、すかさずテレビの入っていた箱の中を覗き見る。確かに、そこにはタイトルの書かれていない無地のDVDが一枚と、黒い筒が一本入っていた。
私はわけもわからず、とりあえず同梱されていた二つを橙子さんに見せるも、橙子さんも意図を図りかねているようだった。
『ふふふ、君の工房にDVDデッキが無いのは把握している。そこは安心したまえ』
「先輩の辞書にプライベートという言葉は無いんですか?」
『そのテレビはDVDプレイヤーが内臓されている優れものでね。今、そこにいる若い子たちは知らないだろうが、昔はビデオデッキがセットになったテレビが流行ったんだよ。いやあ、懐かしいねえ橙子くん。おっと、女性に年齢の話は失礼だったかな?』
「…………」
橙子さんに握られた携帯電話はミシミシと悲鳴を挙げ、橙子さんのこめかみに青筋が浮かんでいる。
このままでは橙子さんの携帯が破壊されかねないため、私は慌ててDVDをテレビにセットした。
すると、テレビ画面に光が灯り、壮大なBGMが流れ出す。
星々が瞬く宇宙空間で、地球はもちろんのこと、土星や金星といった銀河系の惑星たちがそのスケールを雄弁に物語る。
そこでは先鋭的な宇宙船が互いにレーザーを打ち合うと大爆発を起こし、派手なアクションシーンが続く。
まるでSF映画の予告編のような動画だった。
『ただ説明するのも何だから盛り上げるためのオープニングもつけさせてもらった』
「……………………」
橙子さんは何も言わない。ただ、げっそりとした表情から、気力をすべてそぎ落とされている事だけは伝わった。
(ねえ、これってあの長編大作映画の音楽に似てない? 某、宇宙戦争的な)
(あ、幹也さんもそう思いました? ちょっと違いますけど似ていますよね?)
(似てるっていうか、これ完全にパクりじゃあ……)
幹也と藤乃、さつきはコソコソ話をしていて、自分と同じ感想を抱いていた事に私は少し安堵した。
銀河の支配を巡る大戦争が起こっているという旨を、超有名声優のナレーションが流れるが、私の頭にちっとも入ってこない。そして、そのナレーションのは母なる地球に向けられて、衛星写真の倍率を上げていくように、徐々に地表へズームインされていく。
まずユーラシア大陸が映し出され、少し右へずれて日本列島。さらに拡大されて東京都。
あれっ、と幹也が声を挙げると私も目を見張った。映し出される街並みには見覚えがあり、遂に私たちの現在地――伽藍の堂が目に飛び込んできた。
そこで画面は切り替わる。軽快なメロディーと共に『マジック☆ショッピング!!』とポップなテロップが映し出された。
ギャラリーらしい人々から拍手の嵐が起こり、一拍遅れて、舞台裏から一組の男女が現れた。
『ど~おもうっ、雅でぇ~すっ!』
『香奈でぇ~すっ』
『いやあ、最近すっかり暑くなってきてね! コートはさすがにしまいましたけど、長袖の上着どうするか悩んでいる最中なんですよ』
『分かりますぅ~! 私も出かけるときに春物と夏物のどちらで行くべきがいっつも迷っちゃうんですよねぇ~』
心底明るく、それでいて白々しさも多分に含んだ――絵に描いたようなテレビショッピングが始まった。深夜に見たいテレビが一つも無くて、見たくもないが、眠れなさ過ぎてどうしようもない時に嫌々見る類の番組としか思えなかった。
声音だけが明るいものの、特徴らしい特徴が一つも無い男とオーバーリアクションに作った声が目立つ二流感満載の女性がオープニングトークで場を温める。
なんとなく、この男のほうが電話口の先の人物なのではないか、私はそうアタリをつけた。
ひとしきり、世間話をした後、いやにもったいぶって男がようやく商品を登場させた。
『本日の商品はコチラ! 幸運を呼ぶネックレスです!!』
『わあ~! すってきぃ~!!』
「いやいやおかしいよ!? オープニング映像もトークも全然関係ないじゃん! 普通、ここは羽毛布団とか売りつけるところじゃないの!? それだと銀河の映像もおかしいけれど!!」
さつきの突っ込みに全員は頷いて同意する。藤乃が黒い筒から取り出したネックレスは、画面の中で女性の首元にかけられたものと完全に同一だった。
中央には紫トパーズが台座にはめ込まれ、周囲には空色のアメジストが星のごとく散りばめられていた。
「あら、本当に素敵……」
イミテーションではなく、本物の宝石のようだ。高貴に光り輝くネックレスから、私はなぜか視線を逸らせない。
――ドクリ
私の心臓が肋骨を飛びぬけて、荒れ狂うような錯覚に私は襲われた。暴れまわった心臓は浅く早く脈動し、全身に血液を上手く運んでくれない。
ふぅ、ふぅ、と浅い呼吸を繰り返す私だが、幸いにも私以外は全員、テレビ画面に気を取られていて気が付かないようだった。
この感覚には覚えがある。
幹也を押し倒そうと夜這いの準備を進めていた時。
一度、養子となれば戸籍上は他人なので実の兄弟でも結婚出来ると知った時。
子供さえ孕んでしまえば幹也はきっと責任を取ってくれるだろうと思った時。
私の起源は『禁忌』。とりわけ幹也を想うと、脳が沸騰しかけるほどに高揚するというのが私の魂の形だ。
幹也への想いとは比べるべくもないが、私がこのネックレスに惹かれているという事はつまりそういう事だろう。
『今から三十分以内にお電話いただいたお客様限定で――』
橙子さんはテレビのスイッチを無言で切った。プツン、というどこか間抜けな音を皮切りに室内に静寂が満ちる。
藤乃とさつきは疑問符を顔いっぱいに浮かべ、幹也は思案顔。橙子さんは興味をなくしたように窓の外へ視線を向けている。
私が思索にふけっている間に商品の説明は終わってしまったらしい。私がこのネックレスをどうするのかと尋ねようとすると、焦げ臭い匂いが鼻をついた。
『なお、そのDVDは自動的に消滅する』
切るのを忘れていた携帯電話からどこかで聞いた覚えのあるフレーズが伝えられると、橙子さんは電光石火の速さで挿入口から煙を上げるテレビを窓の外へぶん投げた。メジャーリーガーもかくやの大遠投、お見事です。
数秒遅れて、小さな爆発音が聞こえると室内は完全に沈黙が支配した。
「「「「……………………」」」」
誰も言葉を発さず、互いに口火を切る担当を押し付けあっているように見えた。
たまらず、貧乏くじを自ら引きに行く幹也が口を開きかけると、乱暴に扉が開かれた。
「……何の騒ぎだよ」
肩口まで切りそろえられた黒髪に、男のような乱暴な口調。品の良い着物の上になぜか赤い皮ジャンを羽織るという奇抜ないで立ちの少女――両儀式が入り口に姿を現した。
式はまだ寝ぼけているのか、眠そうに目元をこすると大あくびをしかけ――幹也が視界に入るとぐっと堪えた。何だか面白くない。
「近所の子供が爆竹でも鳴らしたのか? いやに派手な音がしていたぞ」
式はさして興味もなさそうに言うと「これもらうぞ」と幹也のぶんのお茶に口をつけた。いっそ首を絞めてやりたい。
藤乃が先程のやり取りをかいつまんで説明していると、橙子さんはネックレスを矯めつ眇めつ、検分しているようだった。
そして形のいい眉をわずかに吊り上げると、ポツリと呟いた。
「……本物、のようだな」
「ええ、確かに本物の宝石のようです」
橙子さんの呟きに私も首肯する。自慢ではないが、芸術品に多く触れてきた私は審美眼には自信があるのだ。クオリティの低い人工ダイヤと磨かれた天然石の違いくらいは判別出来る。しかし、橙子さんは私の回答に不満だったようだ。
「まだまだだな鮮花?」
「……何がです?」
「これは一種の礼装だよ。しかもそれなりに格のある。使い方を誤らなければ、なるほど、確かに総合的には幸福になれるだろうさ」
礼装、という単語に私は目を見張った。私には効果な貴石のアクセサリー程度にしか思えなかったが、魔術的な側面を持つというのならば見方は随分と変わってくる。
そして同時に納得もした。禁忌に惹かれる私の直感が告げる。これは諸刃の剣であると。
「とはいえ、私には必要の無い物だ。それにやつからの贈り物を身に着けるなんて御免こうむる」
電話口から何やら喚く声が聞こえるが、橙子さんは無視して通話を切り、ご丁寧に着信拒否に設定する。そのままネックレスをゴミ箱に放り込もうとするのを、私は慌てて制止した。
「あのっ、橙子さん。よろしければ、それを私にいただけないでしょうか?」
「これを? 正気か?」
「はい、何だか私に必要な気がしてならないんです」
まるで汚物でも触るようにティッシュ越しにネックレスを掴んでいた橙子さんが、信じられないという風に私を見る。しかし、私が真剣な眼差しを注ぎ続けると、根負けしたようにネックレスを渡してくれた。
「本当にいいのか? これは使い方を誤れば大変な事になるぞ?」
「鮮花、橙子さんがこう言っているんだし、やめた方が……」
「構いません。それぐらいこなせなければ橙子さんの弟子は名乗れませんから」
言うが否や、私は橙子さんからネックレスを受け取ると、首に回した。すると、体の奥底からじんわりと吹き出す何かが、ネックレスと複雑に絡み合い、溶け込むような感覚に襲われる。
「おい、鮮花。それは?」
お茶を飲み終わった式が訝しげに私の胸元を凝視する。
じぃぃっと、全ての終わりを見透かすようなどこまでも昏く深い眼光。私はこの眼光が嫌いだった。きっと彼女は全ての滅びをその眼で識っていて、だから厭世的なのだろうと思っていた。
「何よ、そんなにじっと見て。いっておくけどあげないわよ」
「頼まれたっているもんか、そんなもん。俺が言いたいのは息苦しくないのかって事だ」
「はあ?」
「両儀さん、それってどういう……?」
私が思わず聞き返し、藤乃も首を傾げる。このネックレスは比較的ゆったりとしたつくりで、首回りは別段苦しくない。
「……分からないなら別にいい。幹也、そろそろ時間だろ、行こうぜ」
「うん、そろそろ行こうか」
式は言いたいだけ言うと、幹也の袖を引っ張って、さっさと出て行ってしまった。私は式の発言も気になったが、二人の行動はもっと気にかかった。
「橙子さん、二人はどこに行く気なんです」
私が尋ねると、橙子さんは少し言いにくそうに視線を逸らした。
「あー、最近、私が黒桐の給料未払の月が多かったのは知っているな」
「ええ、私もお金の無心をされましたから」
少しだけ非難がましく私は答える。
「それで最近、ようやくまとまった金が入ったから、今までの未払にすこしばかり色を付けて給料を渡したんだ」
何やら雲行きが怪しくなってきた。私は何か、聞き捨てならない事を言われる予感がひしひしと伝わり、肌が焼かれたようにひりつく。
「そしたら有給休暇を利用して二人で温泉旅行に行くそうだ」
「はああああああああああああああああああっっっっ!!??」
私の悲鳴交じりの絶叫が伽藍の洞を震わせ、屋上の鳥たちが一斉に飛び立つ。私は思わず橙子さんの肩を掴み、揺さぶる。強烈なGに橙子さんは狼狽えるが、私はそれどころではなかった。
「何を考えているんですか橙子さん!? あんな女と一緒に旅行だなんて、幹也の貞操が奪われます!!」
「そうは言ってもな! あの二人はどこからどう見ても……っ! それにそろそろ一線越えてもいい頃合いだろう!?」
「認めません! 例え神仏が認めようとこの私が認めません!! ふっざけやがってえ! あの泥棒猫!!」
「鮮花、口悪いよ……」
「落ち着け。その幸運のネックレスがあれば、幸せになれるはずなんだ。あんまり人の幸せを妬むと不幸になってしまうぞ」
「不幸ならもう起きてるじゃないですか――――っっ!!!!」
私の魂の叫びは虚しく木霊した。
鮮花……何て不憫な子なんだ
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鮮花、始動す
糸を引くようにねばつく雨は窓ガラスを叩き、這いずる痕を残しながら消えていく。
鈍色の雲はざあざあと規則的に涙をこぼし、待ちゆく人々を帰路に急がせる。
師である蒼崎橙子に頼まれた買い出しに出かけた鮮花は、にわか雨に打たれて濡れ鼠となっていた。天気予報で降水確率は30%と出ていたので、思い切って傘を持たずに出たのは失敗だった。
いつか藤乃が鮮花の髪を『鴉の濡羽のようだ』と表現した事があったが、実際に濡れる方は堪ったものではない。
濡れた髪は固くきしみ、櫛を通すにも一苦労だ。
「……最悪ね」
鮮花は小さく溜息をつくと、スカートの裾を握りしめる。すると、ぼたぼたとコンクリートの上に小さく水滴を落とし、ますます鮮花の気分は暗澹たるものになる。
瞬間、首筋に暖かな熱を感じて後ろを振り向くと、雲の隙間から光が差していた。ビル群の隙間から除く光は夜明けにも似た清々しさで、ささくれ立った鮮花の心とはずいぶんと対照的だ。
つまり、なんだ。自分は出かける間だけ降られたのだ。
愛しい人は泥棒猫にかっさらわれ、自分は使い走りの途中で雨に打たれて立ち尽くしている。振り続けるまばらな雨は容赦なく鮮花の体温と気力を削いでいき、自分はいったい何をしているのかと自問自答する。
鮮花は目を閉じて、首から下げられたペンダントを握りしめる。
――何が幸福を呼ぶネックレスか
鮮花は内心で吐き捨てると、ここ数日で身に降りかかった不幸を思い起こす。
投身自殺によって電車が遅延し、性癖どストライクな兄妹の恋物語を描いた演劇が見られなかった。
ルームメイトである瀬尾のきわどい同人誌を隠すのに協力していたら、たまたま知人に見つかり妙な気を遣われたなど枚挙にいとまがない。
小さな不幸は積み重なり、徐々に心を蝕んでくる。他人が見れば大した事はないこれらの出来事も、続けばそれなりに堪えるというもの。
珍しく傷心の鮮花が意気消沈していると、カランカランと小気味良い鐘の音が耳に響く。
何事かとそちらの方へ顔を向けると、商店街のサービスらしきガラガラ(正式名称は新井式回転抽選器)の前で買い物帰りらしき主婦が嬉しそうに景品を受け取っていた。景品が羅列された看板を見やると一等は何と温泉旅館へのペアチケット。
何となく縁を感じた鮮花は先程の買い物で一枚だけ福引券をもらったのを思い出し、財布を漁る。
使うつもりも無かったのでくしゃくしゃになった券を係の人に渡すと、鮮花はガラガラのレバーを握る。
どうせここまで不幸続きなのだ。それならいっそ、後悔無く吹っ切ってしまえ。
半ば諦めの境地で鮮花が腕に力を込めて勢いよく回す。
中で玉たちが攪拌されて音をたて、幸か不幸か一つの玉が押し出された。
この一玉が自分の命運を分ける。鮮花は喉を鳴らして視線を落とす。
出玉の色は金。
目の色を変えた係員が大げさに称賛の声を挙げ、鐘を鳴らすも鮮花の耳には入らない。
反撃の狼煙があがる。
胸の奥底で燻っていた火種が燃え上がり、鮮花の臓腑から活力を生み出す。
「――まだよ。まだ私は諦めないわよ式!」
鮮花はひったくるようにペアチケットを受け取ると、伽藍の洞目指して走り出した。
〇
「草津の湯に行くわよ二人とも!!」
帰ってくるなり高らかに宣言した鮮花に、藤乃とさつきはポカンと口を開け、橙子は額に手を置いた。
濡れそぼった髪から水滴が飛び散るのも構わず、どこか誇らしげな鮮花に全員からの訝し気な視線が集中する。
「い、いきなりどうしたの鮮花? もしかして幹也さんを追いかけにいくつもり?」
お茶請けの煎餅をかじりながらさつきは鮮花の表情を伺い、藤乃はおずおずとタオルを差し出しながら鮮花の分のお茶を淹れ始める。こういった細かな気配りが藤乃の良いところだと鮮花は思う。
タオルで体を一通り拭いて、お茶をぐいと飲み干し、鮮花はさも当然と言わんばかりに宣言する。
「決まってるじゃない! あの二人の旅行を邪魔するためよ!! 私の許可なく幹也を毒牙にかけようとする女は殺しても許さないわ!!」
「ここまでくるといっそ清々しいな鮮花……。第一、資金はどうするんだ。いっておくが私は衝動買いしてしまってオケラだぞ」
「万年金欠の橙子師にお金をたかるほど困っていません。それに私にはこれがありますから」
誇示するように鮮花は草津温泉旅館の招待券を見せると、三人から感嘆の声が漏れた。
「わーすっごい! これ割引券とかじゃなくて招待券でしょ? しかもすっごい高そうな旅館! どうしたのコレ!?」
「商店街の福引で当てたのよ。今の今まで散々、不幸続きだったけど、やっと私にもツキが回ってきたわ」
「本当にすごいです。私はこいういうのに当たった事が無いからなおさら……」
二枚組のチケットにさつきは顔を輝かせ、藤乃はまじまじと観察する。
「でも、これって二人分しかないよ? 私たちのどちらかを連れて行ってくれるの?」
「そんな意地悪な事しないわよ。それは二人にあげるの」
「いいの!?」
「ですがそれですと鮮花が……。私はいいのでさつきとお二人で」
藤乃が申し訳なさそうに辞退の旨を述べだしたので、鮮花は遠慮がちな友人を手で制す。
魔術師の基本は等価交換。さすがの鮮花もこれだけのものをおいそれと渡すわけにはいかない。彼女には彼女なりの打算があった。
「いいのよ藤乃。私は自腹で行くから。そのかわり」
「そ、そのかわり?」
鈍いようで敏いさつきは鮮花の発言から不穏な空気を察したのか、やや及び腰となる。藤乃は既に察したようで柳眉を下げて伏し目がちにしていた。
短い付き合いながらも、鮮花のひととなりは把握されているらしい。
鮮花はそれを嬉しく思いながら傲岸と胸を張り、答え合わせをするように己の想いを言葉にする。
「二人にはデートの邪魔……もとい、幹也の貞操を守るために協力してほしいの」
やっぱり、と二人は予想が当たってしまった事にげんなりとした表情を浮かべる。良くも悪くもぶれない鮮花に、さつきは恐々と進言する。
「あの、鮮花。前から言おう言おうと思っていたんだけど、いいかな」
「ええ、何かしら」
「……もうさ、やめにしない?」
「――――――――――――ッ」
鮮花は一瞬、息を詰まらせ表情を押し殺す。
何に、と聞くのは愚問なのだろうな、と鮮花は思った。
さつきの投げかけた言葉はひどく曖昧でいて、痛いほど本質を突いている。
幹也が隻眼となった三月以降、二人の仲は急速に進展していたのは明らかだった。
幼い頃より彼の姿を追い続け、恋焦がれ続けた鮮花には殊更敏感に感じ取れる距離感。
もとより幹也は最初から両儀式しか見ていなかった。
たとえそれがどんなに自分とはかけ離れた断崖絶壁の境界であろうとも、幹也はただ愚直に式の帰りを心待ちにし、その背中を追いかけ続けた。
彼女がそのままどこか遠くへ逃げてしまえと何度思った事か。
あれほどまでに幹也に愛され求められ、その手をすげなく振り払ってきた女が、いまでは不器用ながらも手を取るようになってきたのだ。
そのぎこちなく、しかし二度と離れぬよう固く結ばれた手を見るたびに鮮花は胸が締め付けられるような思いだった。
言いようの無い不安と焦燥で足元が解け落ちていくような感覚に苛まされる日々。
食事は砂を噛むようで、何の感慨も浮かばない。
日々は輝きを失い、日常は彩色の抜けた白黒映画のよう。
私が喉から手が出るほど欲したものを一度拒絶したくせに、今さら取った最低の女。
それでも、それでもだ。
「――――それでも、私は指をくわえて見ているわけには行かないの」
「鮮花?」
鮮花の声音に熱がこもる。その変化にさつきが目を丸くし、顔を近づける。
「さつき、私は式が嫌いなの」
「う、うん。知ってるよ」
いきなり何を言い出すのかと、さつきは表情を強張らせるが鮮花は構わず続ける。
「でもね、幹也が式に心底惚れているってのも知っているの。そして式も幹也を好きだっていうのもね。二人が相思相愛なんてとっくに分かっているわ」
「だったら――」
「だからって諦めるのとは別問題よ」
燃えるような瞳で鮮花が宣言すると、さつきはあまりの迫力に息を呑んだ。さつきはなおも何かを言おうとするが、鮮花は下らない一般論を一周する。
「二人がお互い好きあっているから大人しく引き下がる? そんなものはね、大人ぶったお子ちゃまのする事よ。本当に欲しいものがあるのならば何度転ぼうが、泥にまみれようが実力で奪い取って勝ち誇るべきなのよ」
勝気な表情をさらに凛々しさで引き締め、獲物へ狙いを定めた狩人の顔で鮮花は断言する。お嬢様の仮面をかなぐり捨てた、ごく親しいものにしか見せない鮮花の本性。
「さつき、あなたもそうよ。あなたは志貴さんの事もそうやって諦めるの?」
「なん――――」
さつきの瞳が血の滴るような朱色に代わる。吸血鬼の力をコントロールするのが下手なさつきは、激情に駆られると吸血鬼としての本性を剥き出しにする。
感情の昂ぶり、とりわけ性的興奮と怒りに反応する事が多いのだが今回は後者だろう。
ざわざわと、さつきの背後の空間が歪む。他人に最も突かれたくない柔らかな部分を、遠慮なしにほじくり返された気分だ。
「鮮花……! いくら友達だからって言っていい事と悪い事があるよ……ッ!」
「分かるわよ。確かアルクェイドさんだったかしら? すっごい綺麗なヒトだったし、志貴さんだって彼女の事が好きなのでしょうね。あんな凄い人に勝てる人なんてそうはいないでしょうね」
「だったら何で!」
「女には、やらなきゃいけない時があるから」
「…………」
「どんなに敗戦濃厚であったとしても、ね。後悔だけはしたくないから」
途端、さつきは冷や水を浴びせられたように勢いを無くした。
ずるい。とさつきは小さく呟いた。
誰にでも優しく、特別な対象を滅多に作らない彼の隣へ、いとも簡単に自分の席を用意した人。物陰から機会を窺うだけの私に、格の違いを見せつけるあの人。
楽し気に腕を絡ませる姿に歯噛みしたのは一度や二度ではない。
誰が見てもお似合いで、そこに割って入る度胸も実力も無いのを自覚して泣く泣く引き下がったというのに。彼女はそれでも飛び込んでいくというのか。
生半な道ではない。多くの傷を負い、打ちのめされる事だろう。それでも後悔しないために、あの時ああしていればと、言い訳する逃げ道も封じて。
俯くさつきを鮮花は無言で見つめる。
やはり、彼女は自分と重なる部分がある。そんな共通点を知っているからか、鮮花はさつきを他人事と思えずについ発破をかけたくなる。
「――その気持ち、私は少し分かります」
ポツリと思わぬ方向から呟きが漏れた。
藤乃は決して手の届かない遠き幻想へ手を伸ばすように、物憂げな顔で二人に向き直る。
「私なんかじゃ絶対敵わないって、自分が一番分かってしまうんです。その人が誰を一番に見ているかって、その視線を独占しているのは誰かって」
伏し目がちに藤乃は自嘲気味に笑う。
「藤乃……」
鮮花は藤乃の想いを推し量ると、表情を僅かに曇らせる。しかし、直ぐに持ち前の切り替えの速さで弱気を吹き飛ばす。
その姿勢は咲き誇る気高き薔薇のようでいて、情熱を湛えた強いカタチ。
「私は引かないし退かない。賢しらげにもっともな事言って、逃げ続ける弱虫なんかになりたくない」
だから、と鮮花は言葉を区切り、右手の甲を差し出す。
「私は恋敵に挑むさつきを応援したいし、ライバルである藤乃とだって正々堂々と戦いたい。一人の女として、そして二人の親友として」
二人は差し出された手を凝視し、固く握りしめる。
今こそ選択の時だ。彼女のように傷つくことを承知の上で高い壁に挑む気持ちの良い人生か。それとも壁に向かって走り続ける誰かを嘲笑う臆病者の人生か。
「私の想いに賛同してくれるのなら、みんなの手を重ねてちょうだい。私はみんながどの選択をしたって笑いはしないわ」
「……かっこいいなあ、鮮花」
「私の事もライバルだと思ってくれていたんですね……」
三人の思いは一つとなった。
小さな、しかし当人たちにとっては大きな一歩を踏み出すために、さつきと藤乃は利き手をしっかりと鮮花の手に重ねる。
「いきましょう、藤乃、さつき」
「うん! 弓塚さつき華の十七歳。諦めるにはまだ早いよ!!」
「私も、少しだけワガママになってみようと思います」
「ええ、ええ! その意気よ二人とも!!」
せーの、と誰からともなく掛け声を。そして高らかに宣言する。
「「「打倒、両儀式!! えいえい、お――――!!」」」
個人的に今作のテーマはほろ苦い青春でいこうと思います。いいですねえ、こういうの!
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第四話 三人
「若いっていいわねえー」
颯爽と出かけて行った三人を見送った後、橙子は紫煙をくゆらせるタバコを灰皿に押し付けようとする。
「む……」
しかし、既に吸い殻で底面を覆いつくされた灰皿では消火は敵わず、指に挟まれたタバコは中空で行き場を失う。
これというのも先日から従業員がいないせいだ。ふとした拍子に幹也が雑務を行ってくれていたありがたみに気づく。
仕方なしに橙子は灰皿を掴むと、部屋の隅に置かれたゴミ箱へ吸い殻を捨てようとする。
シュレッダーにかけられた紙束や広告のチラシ、簡易食の容器などが雑多に放り込まれた中に異質なものが一点。
鮮花に渡したネックレスを包んであったピンクの包み紙だ。
嫌な物を見た、とでも言いたげに橙子は口をへの字に曲げると、それを無視してさっさと自分の机へ戻る。オフィスチェアの背もたれから軋んだ音を出しながら全体重を預け、新しいタバコへ火をつける。
「ふぅ…………」
肺腑に詰め込んだ煙をゆっくりと吐き出すと、摂取されたニコチンが染み渡り、脳血管を一時的に拡張し思考を覚醒させる。
どれだけ値上げされようが絶対に止めないと誓った嗜好品を味わいながら、温泉地へと旅立った弟子へと想いを馳せる。
そこで突如、微かに覚えていた違和感が脳内で点を結び、一つの事を思い起こさせた。
「しまった。鮮花にペンダントの説明をするのを忘れていた」
手のひらを叩き、誰に言うでも無く橙子は呟く。
幸運のネックレス。
その謳い文句に嘘偽りは無いが、あの礼装は癖が強く、使い方を誤れば危険な代物だ。
橙子は受話器へ手を伸ばしかけるが、すんでのところで動きを止める。
「この程度の事、私の弟子を名乗るのならば乗り越えてもらわなければな」
橙子は再びタバコを咥え、先端を赤く燃やし、有毒の煙を吸い込む。
吐き出した紫煙はいつもより長めに室内を漂い続けた。
〇
群馬県吾妻郡草津町大字草津。草津の湯といえば日本全国でも有数の温泉街であり、冬場はスキーと温泉を老若男女が楽しみ、夏場でも実は避暑地として密かな人気がある。
観光が主産業な町らしく、居並ぶホテルはどれも情緒溢れるものばかりで、夜になればライトアップされた幻想的な街並みとなり見るものを飽きさせない。
温泉街中心に位置する源泉からは毎分四千リットルを超える温泉が流れ出し、湯滝を流れ落ちる姿は圧巻だった。
湯気をもうもうと挙げる湯滝を覗き込みながら、黒桐幹也は子供のようにはしゃいだ声で式を呼ぶ。
「式、ほらほらすごいよ。子供の頃に何度か連れてきてもらったけれど、大人になって見ると全然印象が違うや!」
「う、うるさい馬鹿。子供じゃないんだからあんまり騒ぐな」
下駄を鳴らしながら、浴衣姿で式は幹也を追いかける。湯上りの肌は元から色白なのも相まってほんのり桜色となっていたが、はたして湯上りだけが原因なのだろうか。
背後から老夫婦がこちらのやりとりを微笑まし気に見つめているのも、余計に式の羞恥心を加速させる。
全身の毛穴がむずがゆくなるような錯覚に襲われた式は、幹也の手を取るとずんずんと歩き出す。
全身が紅潮している事を窺わせるうなじを見つめながら、幹也は苦笑を浮かべながら引かれていく。絡められた指の暖かさに頬を緩ませ、しばらくは式に身をゆだねる事にした。
温泉地に行楽しにきた事を強く意識させる硫黄の匂いが鼻孔を刺激し、幹也は喜びを噛みしめていると、声をかけられた。
「お兄さんたち、ちょっと寄っていかないかい?」
店の看板を見るとどうやら饅頭なども出しているお茶屋らしかった。ちょうど小腹が空いていた幹也は視線で式に尋ねると、彼女は小さく頷いた。
緋毛氈が敷かれた縁台に二人は腰かけると、温泉饅頭を二つずつ注文した。しばらくすると香り立つ緑茶に続いて、白と茶色の饅頭が乗った盆が運ばれてきた。
「それじゃあいただきます」
「……いただきます」
丁寧に手を合わせ、お茶で喉を潤してから饅頭を口に運ぶ。滑らかな餡に優しい甘さが口いっぱいに広がり、思わず笑みが零れる。
ちらりと横目で式の方を覗き見ると、彼女も僅かに頬をほころばせ、無言でせっせと饅頭を口に運んでいる。
ゆったりと、雲が青空を流れていくような間延びした時間が過ぎていく。やがて饅頭を食べ終えた二人が、残りの茶をすすっていると、店主らしき男が口を開いた。
「いやあ、ここに若い夫婦が来るのは久しぶりだねえ。もしかして新婚旅行かい?」
途端、式が盛大にむせてうずくまった。
背中を丸めてげほげほと小さくえずく式の背中を幹也がさすり、店主は慌てた様子で布巾を手渡した。受け取った式は口元を抑えながら、涙目で店主に非難の視線を向ける。
「おや、違ったのかい? 私はこういった商売をしているから、見る目はあったつもりなんだけどねえ」
「すみません、まだ違うんですよ」
「まだ、でも……ないっ!」
掠れる声で式は訂正する。
「なんだ、随分と仲睦まじいから若夫婦かと思えばまだ恋人同士だったのかい。それは御免ねえ、年寄が茶化してしまって」
「恋人でも……っ! いや、その、それは……」
二の句が継げずにごにょごにょと口ごもる式に、老爺は微笑むとお茶のおかわりを持ってくると言って店の奥へと引っ込んでしまった。
居心地が悪そうに足をぷらつかせる式へ、幹也は先程の話を蒸し返す。
「ねえ式、さっきは誤魔化されたけれど、僕たちの関係って恋人同士じゃないのかな?」
「んぐっ!」
再びむせそうになったが、すんでのところで式は堪えた。頬はみるみる朱色となり、視線を右往左往させ、やがて目を伏せた。
「ねえ、式」
穏やでいて、どこまでも真っ直ぐに向き合う幹也が式は苦手だった。どれだけ警戒しようと、威嚇して遠ざけようと、気づいた時には隣で柔和な笑みを浮かべているこの青年が。
式は答えない。
雨の降りしきる廃工場で抱きしめながら、『一生、許さない
日常の象徴のようでいて、照らすもの全てを穏やかにする陽だまりのようなヒト。
二人で一人。完結しているがゆえに何物も必要としなかった彼女を壊して、孤独と同時に他者の温もりを教えてくれたヒト。
もう居ない彼と、自分のどちらも好きだと憚らずに行ってくれたヒト。
その感情を言葉に堕として陳腐なものにする気はない。しかし、この朴念仁の側を二度と離れないと誓ったのも事実。
だからこれは彼女なりの妥協点。
微かに震える指先を、彼の手にそっと重ねて俯き加減にぽつりと漏らす。
「――それくらい分かれ、ばか」
個人的に式と幹也が型月界ダントツの純愛カップルだと思うのですがいかがでしょうか。
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