イセカイ&ドラゴンズ (原田孝之)
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第一章:旅立ちの塔
第一話:イセカイにて


 少年は気づくと視界一面に黄色が広がる自然の中にいた。

 

 空には雲ひとつない空が続いていた。やわらかい赤みのある黄色の穂がたくさん立っており、その穂にはびっしりと黴のような花が附いている。あたりには土と水の香しい匂いが漂っていた。

 

「あ、あれ……?」

 

 少年は戸惑っていた。

 

 この景色に見覚えはなかった。今見渡せる風景は田舎に行かなければ見ることがができないと確信させるものだった。遠くの畑には点のように見える人が作業しているのがみえる。

 

 唐突に放り出され、頭の中は混乱の極致にあった。脳裏にはここはどこ? 家の中にいたはず、という言葉が駆け巡る。そのくらい今の状況は理解の外にあった。

 

 耳にはピチッ、ピチッと虫の音が入り込んできていた。少年は落ち着くためはぁと息を吐き、さっきまでやろうとしていた事を思い出した。

 

 記憶が消えたような違和感はなく、意識がとぶほどの衝撃を受けた感触もなかった。一瞬前の記憶を明瞭に思い出せた。

 

「ぼ、ぼくは『パズドラ』をしようとしてたはず」

 

『パズドラ』――正式名称パズル&ドラゴン、スマートフォン向けのアプリゲームで、パズル要素とモンスター育成要素があるゲームである。総ダウンロード数は1億回をこえ、若者を中心に一世を風靡していた。

 

 少年は高校入学に際してきょう親に買ってもらったスマフォで、ずっと友達のプレイを見ているだけだった『パズドラ』をしようとしていた。

 

 ――僕はおかしくなってしまったのか。

 

 混乱しながら辺りを見回していると胸や肩が擦れてガサガサと痒いことに気づいた。気になって見てみると、教科書でしか見ないような麻のボロ服っぽいものを着ていた。同時に、自身の腕が日で黒く焼けているのに気づいた。

 

 中学時代、部活はしていたがアンダーで隠れていて腕はそこまで黒くなかったはずだ。少年はそう考えながら、記憶にある自身の腕と今の黒く焼けた腕を比較する。

 

(いや、気にするべきはそこじゃない。このボロい服はなんだ。着替えさせられたのか。そうだとしてもなぜこんなボロい服を)

 

 少年は状況を整理できずわけがわからないままでいると、後ろから声がかかった。

 

「ねぇ、ねぇってば、アンヘル。あんたさっきからなにやってんの? はやく収穫してくんない」

 

 聞き覚えのない名前に疑問を抱きながら振り向くと、女が呆れて立っていた。その女は少年よりも背が高く少し年上に思えた・

 

 ばさっとした茶髪にのっぺりした顔、少年と同じようなボロ服を着ていて全身砂がついているのかところどころ汚れていた。目はつり上がっており、気の強そうなのがありありとうかがえた。

 

「ねぇ、きいてんの? 日がくれるまでにここらへんのやつ全部とらなきゃいけないんだから。はやくしてよ」

 

 その女は明らかに少年に話しかけている様子だった。

 

 イライラしている。少年はそう思った。しかしどうすることもできない。戸惑ってしまい、うろたえているとよけいにどんどんいら立っているようにみえた。

 

 沈黙に耐え切れずそろそろと声をだした。

 

「え、えーと」

 

 彼女は、はっきりとしない少年の様子にいらいらとする。

 

 付き合いきれなくなったのか、ボンと近くにあった黄色い穂で編まれた屑籠を押し付けて、女は近くにある黄色の穂を収穫する作業をはじめた。いや、再開だ。辺りには鋭利なもので収穫された跡があった。女がやったものなのだ。

 

 少年はそう考えていると、小さな石の鎌のようなものが足元にあるのが目に入った。彼女がさっき持っていたものと同じものだ。

 

 ――もしかして僕もこの黄色い穂をとっていたのか。

 

 結局なにもわからないまま、少年は彼女をまねて穂の根本を鎌で切り、屑籠に穂を放り込んだ。

 

 困ったときは相手の言い分に従ったほうが良いと、少年は短い人生経験から理解していた。

 

 

 

 少し経つとある程度状況がわかってきた。いや、記憶がぶり返してきたといったような形だった。

 

 さっきの女は少年の姉であった。

 

 年は十九歳。少年の家の七人兄弟の長女にあたる。

 

 農作業に疲れたとき、手を休めると、彼女がどのような存在であるのかがぽつぽつと頭の中に浮かんできた。

 

 少年には兄弟はいないはずだった。両親との3人で、ひとつ屋根の下東京で暮らしていた。しかし、彼女の存在は名前から生活習慣まではっきりとわかった。奇妙な感覚であった。少年は自身が知らない事についてわかることに気味の悪さを覚えた。

 

 もう少し時間が経ち、わかったことがあった。少年自身の名前だ。さきほど姉が言っていた『アンヘル』とは自身の名前だと水たまりに浮かんだ自身の顔を見た瞬間はっとわかった。

 

 さらに付随して、農作業の方法や今日の仕事の内容などの記憶が断片的ながら戻ってきていた。アンヘルは何もわからないまま作業をしていたときとは違い、楽な作業の方法がわかりスムーズに作業を行えるようになった。

 

 作業にある程度慣れると、今の状況をゆっくり考える余裕ができるようになった。

 

 アンヘルはこれが転移だと思い至った。

 

 転移、転移だ。アンヘルの心は踊った。

 

 しかしその浮き立つ心はすぐに沈んだ。冷めた部分がどうせ夢だろうとも考えたからだった。

 

 さらに時間が経つと、転移にしてはくだらない世界だと思うようになった。普通、違う世界に来たのならば、物事を説明してくれるような人ややるべき使命があるはずである。しかし、そのようなものはない。

 

 姉らしき女性に強制されながら、農作業を行う。ただの農民であった。アンヘルはひたすら穂を刈るだけの世界など望んでいなかった。勉強するほうが遥かにマシである。

 

 家に返せ。それが本心だった。

 

 一度、心が冷たい方向を向くと止められない。現状に対する不満が噴火したように溢れだす。

 

 しかし、できることは何もなかった。

 

 アンヘルは突然沸いてきた記憶を嘘だとは断定できなった。姉であると考えられる人に反抗して、不審を抱かせたくなかった。

 

 夢とは思えない現実感のある世界で、無謀な行動をすることはできない。もし夢であれば、この大変な農作業から解放してほしい。アンヘルはそうねがった。

 

 照りつける日光、腰をかがめながらおこなう収穫作業、収穫した穂をどけるとその陰にいた虫たちが一斉に動きだす光景は、ずっと都内で暮らしていたアンヘルにとって耐えがたいものであった。もし顔に虫が飛んでくれば最悪である。

 

 とても苦労させられた田植えの校外学習について思い出した。ひとりひとりが苗を持ち、一列になって植えるのだ。

 

 しかしながら、この気の許せる友人もおらずたった一人孤独に作業するのは、昔より遥かに疲労を蓄積させるのだと身を持って体験させてくれていた。

 

 長い時間が経過した。アンヘルがこの平原に立っていた場所が遠く見える。近くには収穫した穂を集めた山がいくつも積み重なっている。太陽は傾いていて、空が赤く染まりだしていた。

 

 もう限界だ。一度休憩しようか考えていると、姉は滴り落ちる汗を拭っている。

 

「きょうはこんなとこかなぁ。あとは明日やればいいかぁ」

 

 疲れた様子で言った。

 

 アンヘルが作業の進まなかった原因であると顔ににじませつつ、てきぱきと取った穂を集めていた。アンヘルはほっとしたようにあたりを片づけていると、姉はこちらを見ながら言った。

 

「あんた、これ全部はこんでおいて。わたしは別のしごとがあるから」

 

 そう言い捨てるとサッと身を翻して畑を出ていった。

 

 アンヘルは絶望した。今日収穫したものは辺りいっぱいに積まれている。しかし、やるしかないのだ。強い姉を持つ弟とはこんな気分かと新鮮な気持ちになりながら。

 

 

 

 倉庫と畑を何度も往復して農作物を運ぶ。収穫した穂はぎすぎすしていて、半袖のアンヘルの身体に突き刺さった。肌が露出している箇所が異様に痒い。頭にも雪が積もったように藁くずがついている。アンヘルがヒイヒイ言いながら運んでいると、不意に名前が呼ばれた。

 

「おい。アンヘルよぉ。ちょっと、まってくれよ」

 

 荒っぽい声で呼ばれたほうには少年がいた。十代序盤くらいだろうか。黒髪の背の小さな少年がこちらにむかって歩いている。その歩き方は小さな背丈に似合わず堂々としており、自信があるように見えた。

 

「まぁたこき使われてんのかぁ。てめえはいっつもいくじがねぇなぁ」

 

 彼は少し呆れたような声で言った。

 

 また、知らない人だ。アンヘルはそう思った。

 

 アンヘルがどうやって返答そうか悩んでいると、ふと頭に名前が思い浮かんだ。こんな返し方で良いのか迷いながらこう返した。

 

「そんなこと言わないでよ、ホセ。仕事しないとご飯が無くなるんだから」

 

 そういいながら彼を見つめ返した。

 

 ホセ。この村の中で唯一、茶の栽培を行っている家の三男である。茶は高く売れるため、ホセの家には多少の余裕があり、せっせと農作業をしなくても良いのだった。

 

 そのためホセは弟や近所の家の子供を集めて遊んでいる日も多かった。しかし、いつも遊び惚けているわけではなく村の畑を荒らす大型のイノシシを何度か仕留めており、村の中では度胸のあるやつだとも思われているようだった。

 

 ――僕とは対照的に。

 

 アンヘルは日本の時の記憶を思い出す。部活では試合で打てなくてビビりだと言われていた過去を思い出し、少し心が沈んだ。

 

 村に年頃の少女がいれば彼は凄くモテるだろう。この村で結婚が決まっていない十代中盤はアンヘルとホセだけだが。

 

「で、どうよ。こんどいっしょに隣のむらに行くってはなしはよぉ」

 

「むりだよ。今は収穫の時期だし春になってからのほうがさ」

 

 アンヘルはホセから常々このような悪事に誘われているのを記憶から絞りだしつつ言うと、より不機嫌な声で返してきた。

 

「てめえが言ってたじゃあねえかよ。いっつもおんなじことばっかでつまんねぇよ」

 

 そうだった。今回の話に限っては、収穫の仕事に嫌気がさしてホセに相談したことから始まったんだ。

 

 アンヘルは自身の記憶の糸をたぐり、計画についての詳細を思い出す。姉とのやり取りでも何度か生じていたアンヘルの不審な返答は、多くの場合それは姉の機嫌を損ねる結果となっていた。

 

 アンヘルは不安を覚えながらその返答を不審に思われないように祈りながら言った。

 

「……で、でもさぁ」

 

 ホセは唾を吐き捨てながらいった。

 

「んだよ。てめえが言ったんだろぉがよ。いっつもそぉだなぁ」

 

 ホセは踵を返してどこかに去っていった。

 

 ほっとした。どこかへ行ってくれた。アンヘルはホセの機嫌を悪くしたのを憂いながら、これ以上不審に思われないよう細心の注意を払おうと心に決めた。

 

 たのむ、もし夢ならはやく覚めてくれ。この長いリアリティのある状況の中でアンヘルはそう願った。

 

 

 

 §

 

 

 

 結局、夢は一日二日といつになっても覚めず、これは現実であるとはっきりとアンヘルに思い知らせた。そうなると頭の中には暗鬱(あんうつ)一色であった。

 

 始めにアンヘルを打ちのめしたのは食事だった。毎日、朝と夜にしか食べられない米に似た細長い穀物*は、パサパサしていて有り体にいっておいしいとはいえなかった。そんな料理がひとつの皿に入っており、兄弟たちが我先にと素手で奪い取っていく食卓に、アンヘルはついていけなかった。

 

 個人の皿に入った食事は、父および一番上の兄だけにしか配られなかった。それは、ひとえに一家の大黒柱として仕事が期待されているからであった。アンヘルはなかなか兄弟の争奪戦に入っていけず、昼間はそこらに生えている草を食べたりしていた。

 

 そんなもので飢えを満たせるものではない。水をたくさん飲んだとしても、少し経てばお腹はすいたのだった。

 

 家は狭かった。小さな男兄弟たちが何人も集まって、小さなベットとも言えないような藁の塊にいっしょくたになって眠った。周りの音がうるさく眠れず、藁の寝具はグサグサと肌に刺さった。もし眠りにつけても、朝起きると、顔の周りを蟻のような虫が這いまわっている日も多々あった。

 

 アンヘルは違う世界に行ってみたいと想像したことがあった。現実はその想像を遥かに下回る最低の日常であった。

 

 打ち砕いたのは生活だけではなかった。ひとつは日々の労働である。機械を使わない農作業は、常にお腹をへらしつつ作業する身体を大いに酷使した。

 

 大抵の現代日本人はこんな労働を経験はないだろうと、悲劇の主人公のような感想を抱きつつアンヘルは日々働き、泥のように眠った。

 

 食料の不足も深刻だった。古代人は慢性的な栄養不足から背が低かったが、この現況はそれを体現する環境であった。とくに、今年は臨時の徴税が厳しく、徴税官は村の収穫品を根こそぎ持っていったのあった。また戦争があるんじゃないかと両親が語り合っていたのをアンヘルは聞いていた。

 

 それでも、なんとか兄弟やホセと協力し合い、なんとか冬を乗り切ったのだった。

 

 もし、アンヘルとしての記憶がなく、いきなり放り出されていたら確実に死んでいただろう。そんな最悪の結果を思い浮かべながら、アンヘルはいつもと同じように家族と食事を取っていた。

 

 今日の食事は、何時も通り細長い米と苦くて細長い葉っぱを煮詰めたものだった。いつまで経ってもこの世界の料理には慣れない。まれに、虫を煮たものが出てくるのも最悪だった。

 

 虫は最高のたんぱく源であるとか述べていた専門家を思い浮かべながら、食べてみろよと心の中で罵ってやった。

 

 唯一のご馳走はイノシシだった。アンヘルは冬ごもり前にホセが狩ったイノシシの肉の味を思い出しながら、沈んだ気持ちを無理やり浮上させようとした。

 

 ――あの時にようやく気の許せる友達だとおもえたんだよな。

 

 肉の味がこの世界にきて少しは良い面もあるんだとはじめて実感させてくれた。あくまであの瞬間だけだったが。ちょっと荒っぽいけれども、度胸があってぶっきらぼうだけど面倒見のいいホセの顔を頭に浮かべる。

 

 突然、急に父がアンヘルと姉に向けて言った。

 

「あしたなぁ、結婚道具みてったらどうだぁ、アンヘルは行商人みたことねぇっからなぁ。つきそいでさぁ」

 

 姉はきょとんとしていたが、パッと顔を輝かせながらブンブンと顔を縦に振って答えた。

 

「な、なんでも買っていいんっ?」

 

 一番上の兄は父の言葉が気に食わなかったのだろう。父の返事を遮ってガっとがなり立てた。

 

「おやじ、いまはくいもんもなんもねえぇ。そんなよゆうどこにもねえんだよぉ」

 

 一番上の兄は父がきにくわないのだろう。こういったやり取りは最近何回もあった。

 

「それでもさぁ、こいつは隣村にとつぐんだ。すこしくらいいい目したっていいだろぉ。ただしぃ、かっていいのは穂十束分までだぞ」

 

 父は長男をたしなめながら、姉に釘を差すかのようにそういった。

 

 当初、兄は隣町から嫁をもらい今年の冬に結婚することが昨年から決まっていた。しかし、父は姉の結婚予定であったこの村の男が徴兵で死んだのをきっかけに村長と相談し、姉の嫁ぎ先を探し始めた。大規模な徴兵があり、姉と同じ年頃の男が少なくなっていたためだった。最終的に、兄が嫁をもらう予定であった村と交渉して、嫁をもらう代わりに姉を隣村に嫁がせると、この冬決まっていた。

 

 姉はもう少しして完全に冬が明けると隣町の家に嫁ぐ予定であった。しかし、結婚を破談とされた兄は、その件について恨みを抱いているのか、父や兄弟に対して当たるようになっていた。

 

 兄は納得したのかしていないのか微妙な表情で食事を再開した。父はその様子をみて少し申し訳なさそうな顔をしながら、姉にこう言った。

 

「あしたもおんなじでよぉ、あさからうってるって、いうとったからさぁ。ひろばいってみいぃ」

 

 商人を見るのははじめてだった。冬ごもりで何もすることのない日常に何か刺激になるものはないか。アンヘルは浮かれる心を抑えながら務めて静かに言った。

 

「は、はい」

 

 

 

 

 

 次の日の朝、アンヘルは姉につれられて村の広場にやってきていた。

 

 びゅーと微風が吹いていた。まだ春が明けはじめて間もない山風は身体に刺さるような痛みを感じさせた。小さな動物達が遠くに見える。最近ぐっと暖かくなり、辺りにあった雪は見る影もない。恐らく動物達は雪の下に芽吹いた植物を食べに来たのだろう。そんなことを考えているとアンヘル達は小さな広場についた。

 

 小さい。それは、アンヘルが広場にはじめて来たとき抱いた感想であった。広場と聞いたとき、公園の噴水前のような場所を想像したが、ただ近くに村長宅や水車があるただの開いた場所であった。

 

 水車がカラカラと音をたてながら回っている。小屋の中では水車の力を利用して製粉を行っているのが見えた。その近くに、見かけない格好をした男がゴザの上に座っており、周りには数人が集まっていた。ゴザの上には布、食器、何らかの作業道具や骨董品のようなものまでが乱雑に積まれていた。

 

 箱の中には瓶状の物が見える。恐らく酒だろう。昨晩、父がこそこそと家の隅に隠しているのを夜中偶然見ていた。多分今晩にでも母にばれるのだろうと思いながら姉と一緒にその商人のもとに近寄った。

 

「ねぇ、きれいな布か細工、いいものないかしら」

 

 姉はゴザの上の物品を物色するのをそこそこに、商人へ問いかけた。

 

 このような物怖じしないところがアンヘルは羨ましかったが、同時に嫁ぎ先で苦労しないか不安になった。姉は当たりが強いが、その一方で情の深い面もある。兄弟との食料争奪戦に入っていけないアンヘルを見かねて、何度か食事を融通してくれていた。

 

 この世界で、いちばん初めに家族の愛を感じた瞬間であった。

 

 姉が嫁ぎ先でも幸せな人生を送れるようにと大きなお世話としかいえない願いをアンヘルは思い浮かべながら色々物色してみる。

 

 すると商人がこういった。

 

「結婚道具かなにかさがしてるのかい。いい細工はないけれど、そこそこ綺麗な布はあるよ……」

 

 その商人は40歳くらいのくたびれた中年だった。黒目に黒髪で、その体格は現代人の体格から考えれば遥かにたくましく見えたが、肉体労働よりも頭脳労働によって生活していることをうかがわせる風貌だった。格好も洒落ていてベルトのようなものをしており、明らかに農民とは違った。しかし、その眼だけは異様に濁っており、くたびれている様子がありありとわかる。アンヘルの日本にいた祖父のように、望まない仕事をしている者の眼だった。

 

 商人はガサゴソと近くに置いてあった荷台を探し始めた。恐らく高価な品物は荷台においているのだろう。少し待つと彼は二種類の布を取り出した。

 

「こっちの紫の柄がついた布は、ゼグーラで人気なやつさ。なんでも染色にベトニーを使ってるらしいからね。もうひとつのは亜麻で丁寧に織ったものだよ……」

 

 ベトニー。通称『お守りのハーブ』とよばれていて、魔女や魔物を遠ざける効果があると言われていた。この村の近くにも稀に生えており、母が何本か家に飾っている。

 

 しかし、彼はその説明をしなかった。普通、商人はこういったことをポイントに売り込むはずと疑問を覚えた。

 

 この商人は、売りたいという意欲よりも売れればいいという投げやりな印象を受けた。これはこの商人だけの特徴なのか、この世界における一般的な商人の姿なのか判断がつかなかった。

 

 ふと、アンヘルは中学の友人が海外旅行先で会った店の従業員について「あいつらは日本人と違って客を対等な存在と考えてるからしょうがねえけどさぁ……もっと丁寧に接してほしいぜ」と愚痴っていたのを思い出した。

 

 いや、それでもなげやりすぎだなと思いながら姉と一緒になってふたつの布を見比べることにした。

 

 姉はうんうんとうなっている。

 

 恐らくどのようなものを仕立てるのか考えているのだろう。姉はいままで花に興味を示した様子がなかったから、単純に色合いで亜麻を選びそうな気がする……アンヘルはそう思った。

 

 アドバイスを送ろうか一瞬悩んだが、彼女が真剣に悩んでいる様子を見て結局何も言わないことにした。一生に一度の品だ。口を出しずらい。

 

 キリがない買い物の悩みを横目に、アンヘルは面白そうな物の物色を再開しようとすると不意に商人と目が合った。その瞬間、彼の眼はキラリと輝いた。少し驚いたように口はパクパクとしていて、ゆっくりとアンヘルの全身を見渡した。

 

 そして他の人に聞こえないような小さな声でこういった。

 

「し、召喚士……」

 

 

 




* 細長い穀物:タイ米を想像してください。おいしくないよね。


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第二話:召喚士とは

 ――なんだろう『ショウカンシ』って。

 

『召喚士』という言葉なら知っていた。ゲームの中ではありふれたものだったからだ。アンヘルはヒロインが召喚獣を使役する某有名なファンタジーゲーム*がとても好きだった。

 

 しかし、この世界では魔法なんてものは一度も目にしたことはなかった。怪我があれば草をすりつぶしたものを塗りつけ、火を起すのは火打ち石の仕事だった。アンヘルは村の住人が呪いの話や魔女の話をしている場面に遭遇したことが何度かあったが、どれも眉唾な話で子供をいさめる内容であった。

 

 この村にはなんの情報もなかった。家に本などと洒落た物はひとつもありはしなかった。そもそもアンヘルは文字が読めないので意味などなかったが。

 

 税の支払いや領主に嘆願書を書く必要があるから、村の中で文字が読めるのは恐らく村長とその息子くらいだ。

 

 この発展途上の世界において識字率は著しく低いものであった。この村でも例外ではなく、支配階層に属する村長および親族が必要に応じて読み書きを行ったのであった。本は村長宅にしかない。その本も税の調査報告や定時連絡ばかりで、アンヘルの知りたい教養に関する情報が載っている本などありはしなかった。

 

 知識などまったく必要ではなかった。文字が必要な機会など一度もなく、算術が必要になるときなどない。食料をどの程度残しておけばいいか考える程度にしか頭は使わなかった。それも経験則に過ぎなかったが。

 

 なによりアンヘル驚いたのは重要であると思われたの国の名前や領主の名前もわからなかったことであった。わかったのはゼグーラというこの辺りを束ねている街に領主様が住んでいるといった大まかな情報だけだった。

 

 これはケソン村がおそらく辺境にあるせいだろう。村は山の麓にあり、これ以上向こう側には木しかない。今まで行商人が来るのは年に数回で、旅人が来たことはほぼなかった。

 

 ――大丈夫か、ウチの村。

 

 けれど、よくよく考えてみると自身も総理大臣以外の議員の名前はとてもあいまいだった。都長は顔すら浮かばなかった。テレビがあるのにこれじゃ責められないなぁとアンヘルは無知な自分を恥じたのであった。

 

 結局、いくらか調査したものの村の外について何も分からなった。頼りになる姉や兄弟は皆村の外に一度も行っていない。父だけが徴兵で街に行った経験があるが、後方で待機している間に戦闘が終了したため、何も知らないようだった。

 

 もしも、魔法があるなら見てみたい。

 

 そして、使えるならば使ってみたい。

 

 アンヘルは彼の言った言葉の意味が知りたくて聞き返した。すると彼は少し悩んだ様子で「いや、違うか」とつぶやいた後、少し待つように伝えてきた。そしてゴザに戻ると、周囲で商品を買おうとしている人たちに店仕舞いを伝え、片づけ始めた。

 

 その様子を見た周囲の人々は慌てたように商人に交渉を始めた。まだ時間は太陽が東に傾きかけたころで、早い撤収に驚いたのだろう。堰をきったような様子で、人々は目につけていた品々を購入した。

 

 結局、姉も亜麻の布を購入すると決めてしまったようだった。アンヘルはアドバイスをしなかったことに後悔しながら、急に慌ただしくなった周囲の様子を眺めていた。

 

 

 

 半刻はゆうに過ぎただろう。風が少し収まったおかげで太陽のぬくもりが感じられた。もう駆け込み客はいなくなったのだろう。アンヘルは長い間値段交渉を行っていた姉に用事があるからと告げ、先に帰ってもらった。

 

 商人はゴザの上に残った商品のほとんどを荷台に片付け終えた所であった。すべて片付け終えると荷台の影で休んでいた男に何か言い、こちらにやってきた。

 

「人がいないところにいこう」

 

 一言いうと人の少ないほうにスタスタと歩いていく。アンヘルは少し不安に思いながらも、彼の言葉の意味を知るためついていった。

 

 商人はデコボコした整備されてない道を軽々歩いていく。歩くのがはやい。いや、たぶん僕の歩く速度が遅いのだろう。このアンヘルという名の身体は、約十三回の冬を超えた記憶がある。一歳になるまでの記憶はかなりあいまいだから実際の年は十四か十五くらいだろう。1年が365日と仮定しての話であったが。

 

 日本で生きていた僕の本当の身体は一六五センチもあったのに……。アンヘルは自身の身体を思い出す。二歳若く、食料状況の悪いこの村では、日本の自身と比べ背が低くなっているようだった。アンヘルと商人の距離はどんどん離れていく。

 

 アンヘルは半ば駆け足ぐらいの速度で歩きながらどんどん進む商人についていく。距離にすると数キロだろうか。人の少ない開けた場所に来ると、無言で歩き続けていた商人が、こちらに向き直りながら座り込んだ。

 

「君は召喚士というものをしっているかい?」

 

 アンヘルは横に首を振った。

 

「なら見せたほうが早いかもしれないなぁ」

 

 商人はそういいながら指をパッチとならした。すると、近くに青くて吸い込まれそうな次元の裂け目としか言えないものが出現した。そして中から黄色いプルンとした生物が飛び出してきた。

 

「う、うわぁ」

 

 アンヘルは驚いて数歩後ろにさがった。

 

 出てきた生物らしきものは商人の横でじっとしている。黄色のプルンプルンしたのがゼリーのようで、表情はとてもコケティッシュだ。

 

 かわいい。サイズは子供の4分の1くらいだろうか。アンヘルはそう思った。今まで見たことのない変な生き物でもあった。

 

 商人はアンヘルの驚きっぷりに満足したのか、少し楽しそうに話始めた。

 

「これが召喚士の力さ。こうやって仲間にしたモンスターを召喚することができる。これは『ヒカりん』といわれるモンスターでね。とても可愛いらしいだろう?」

 

「さっきのも青い光も魔法ですか?」

 

「召喚士は『召喚(サモン)』と『召還(デポート)』、ふたつの魔法が使える魔法使いなのさ」

 

 商人は少し誇らしげにいった。アンヘルは自身の心臓の音が聞こえるくらいに興奮していた。

 

 ――まほう、魔法だ。本当にあるんだ。

 

 興奮が抑えられない。そんな様子に苦笑いしながら商人はこういった。

 

「君にも召喚士の才能があるみたいだ。君も、召喚士になるかい?」

 

 

 

 §

 

 

 

 商人は落ち着いたの見て、こういった。

 

「僕ら召喚士はね相手が召喚士の卵かどうか判別できるんだよ。普通の召喚は、決まったタイプのモンスターしか命令させられない。僕だったら『光属性』だけにしか命令できないというみたいにね。でも他のタイプのモンスターを持っている時に、近くに何もモンスターを持っていない子がいるとなんとなくざわつくっていうのかな、なんとなくわかるんだよ。たぶん使われないモンスターが騒ぐんだろうね」

 

「あなたも、そうやって召喚士になったんですか?」

 

「そうだよ。僕も若いころ、行商人に教えてもらったんだ。それで、このライをもらったんだ」

 

 ライ? と思った瞬間、パチッという音と共に青い裂け目ができた。そして子犬ぐらいの黄色のトカゲが出てきた。プテラノドンみたいだった。黄色蜥蜴は好奇心旺盛そうにキョロキョロと辺りを見渡している。

 

 さっきの黄色いゼリーよりよっぽどモンスターしてるなとくだらない感想を抱いた。

 

「正式な名前は『プテラス』ていってね。もう15年くらいの付き合いになる……」

 

 商人は思い返しながら、黄色蜥蜴を撫でた。ライは主人に頭を差し出しながら、じっとしていた。とても強い絆のようなものが感じられた。アンヘルはその光景を見ながら、唐突に沸いた疑問を口に出した。

 

「でも、どうして行商人なんてやってるんですか? 召喚士ならもっといろんなことができるんじゃないですか?」

 

 それは大きな疑問だった。商人は明らかに商売の仕事に対して熱意がなかった。それなら召喚士の能力を生かせばいい、そう思った。

 

 商人はその意見に対して笑みを返した。諦めたような寂しさが滲んだ笑い方だった。

 

「僕も若いころはそう思っていたよ。自分には特別な力がある。なにか大きなことを成せる。召喚士としての力を生かせばもっといろんなことができる。そう思って何回か『ダンジョン』に潜ったりしたさ」

 

「な、なにがダメだったんですか?」

 

「一言でいうなら強さかな。モンスターを召喚できるといっても自力で育てたモンスターだけだ。簡単に強くなるわけじゃない。それに僕ら召喚者はただの人間だ。狙われればひとたまりもない」

 

「……」

 

「モンスターは実践で力を獲得しなければ成長しないなんだ。君も見ただろう、あの小さなライの姿を。15年前からほとんど変わってない。召喚士として身を立てるなんて夢のまた夢さ。まぁ、愛着はわいてくるけどね」

 

 商人は寂しそうに言った。召喚士としての道に未練があるようにみえた。そして、それが成されないともわかっているようだった。

 

「ライじゃ何の訓練もしてない僕でも勝てる。そんなんじゃ、召喚士として生きていくなんてできっこないさ」

 

「召喚士はみんなそうなんですか?」

 

「召喚士は騎士や魔法士と比べても、とても数が少ないからね。数回しか他の召喚士にあったことがないから正確なことはわからないが……大抵の人は僕みたいに別の職業を持っているようだよ」

 

「じゃあ少数の人は召喚士として生きているってことですか?」

 

 僕は期待するように聞いてみた。

 

「ああ、召喚士というか軍人としてだけどね。優秀な召喚士を輩出する貴族家があると聞いたことがあるし、この前の国境沿いの紛争では無名の召喚士が活躍したと聞いたけどね」

 

 そんな否定的な意見であっても、アンヘルにとっては希望の光が差したようだった。

 

 ――やった、こんな生活とはおさらばだ。

 

 アンヘルはこの村の生活にうんざりしていた。

 

 汚い環境、きつい仕事。満足な食事はできず、同年代の友人はホセという男一人。家族は姉が嫁げば今の父と兄がいがみ合い、ぎすぎすしている。このままいけば自身の結婚すら危ういだろう。

 

 きっかけがあれば飛び出したかった。可能であればいますぐにでも。

 

 でもそれは不可能だった。

 

 何の能力もなかったからだ。

 

 街がどこにあるのかも知らなければ、文字も読めず、子供だから力もあまりない。たどり着く前に飢え死にするのがおちだった。

 

 ――僕が小説の主人公なら、この村を良くするいろんな発想が出るんだろうな。

 

 アンヘルは力のない自分を自虐する。授業中にノーフォーク農法の説明を受けた時、フォークで耕すのかななんて感想をもたずその内容について調べるべきだったと自身のアホさ加減に嫌気がさした。

 

 でも、召喚士としての能力があればもっといい暮らしができる。

 

 そんな軽率な考えが読めたのだろう。商人は諭すように務めて冷静に言った。

 

「さっきもいっただろう。モンスターはそこまで強くない。恐らく君が棒を持てば確実に勝てるだろう。君が召喚士として成功するためには、モンスターが強くなるか強いモンスターが手に入るまで、君自身の実力で戦い続けなければならないんだよ。君にはそんな実力はないだろう?」

 

 一転、冷水を浴びせられたような気分は沈んだ。アンヘルに残ったのは失望だけだった。希望が見えてから、それを取り上げられるのは残酷なことだった。

 

 そんな表情をみて悲しそうなけれど安堵したような声で商人はいった。

 

「それでも召喚士としてモンスターを召喚することができれば、多少は安全になる。ここぞというときの切札にできる。それに、モンスターと接するのは悪い気分じゃないよ。食費もかからないしね」

 

 聞き分けのない子供をあやすような優しい声色だった。いや、事実そのとおりだった。アンヘルはそれでも沈んだままだった。気分を紛らわせるため、とりとめのない疑問を口にした。

 

「どうして、食事が必要ないんですか?」

 

「うーん。詳しいことは僕も知らないんだ。僕が教えてもらった人がいうには、召喚士のモンスターは召喚士や倒したモンスターの力で生きているんじゃないかって話だったけどね……しかし、君はさっきから理知的な考え方をするんだな。話し方自体も農民らしくないし」

 

 アンヘルは凍り付いた。最近は、周囲からも僕の行動に不審さを感じなくなってきていたため油断していた。自身がアンヘルになる前はかなり無口だったし、アンヘルがぼくになってからも村では中身のある会話や議論はしなかった。

 

 ――そもそもよく話す相手がホセだけだったし。

 

 饒舌になると違和感がでるのか。アンヘルは不安になった。唯一、姉はかなり不審がっていた様子だったが、結局は気のせいだと思ったらしい。男らしい判断と元々無口な過去の自分にアンヘルはとても感謝した。

 

 動揺を悟られないようにしながら、商人の目を見返すと商人は頭を掻きながらいった。

 

「まあ、なんでもいいか。とりあえず君に渡すモンスターを見せよう」

 

 そう言って彼は指を鳴らした。

 

 

 

 

 

 彼はとてもあっさりとモンスターを渡した。

 

 種族名『プレシィ』。中型犬くらいの大きさで、青い体表に魚のような尾、身体の横にはヒレがぱたぱたと動いている。頭には青いの角があるモンスターだ。アンヘルはシィールと名前をつけた。

 

 同時に召喚士としての輝かしい未来など存在しないこともわかった。キュートで可愛いシィールは明らかに水生生物であった。地表をぱたぱたとヒレで器用に動くシィールは、可愛くはあったが俊敏ではなかった。噛む力は強いようで木に大きな歯形をつけられたが、あれほど緩慢な動きならば敵に噛みつく機会など皆無だろう。事実アンヘルは棒を持って訓練してみたが、シィールはまったく近寄れない様子だった。

 

 ――いくら練習で軽くやっているとはいえ、何の技術もない僕に完封だなんて。

 

 水中ならば結果は違うのだろうが、水中に行く機会などそうそうない。結局、世の中楽にうまくいくことなど存在しないのであった。アンヘルはうまくゆかない現実に思いをはせた。

 

 商人は、アンヘルが召喚士になれたのを見届けたあとこういったのだった。

 

「君は召喚士になれたわけだけど、その事を言いふらしちゃあ、いけないよ。とくに大人になるまではね。周りの人に利用されて、危険な仕事を任されたり、嫉妬されたりするかもしれないからね。君だって手に入れたばかりの子をなくしたくはないだろう?」

 

 その言葉には深い彼の体験が含まれているようだった。恐らくいままでの経験で、召喚士としての能力が使えるということで何か問題を抱えたことがあったのだろう。その言葉に脅す意味合いがなくても、とても恐ろしく聞こえた。

 

 ――手に入れたばかりの子をなくしたくはないだろう。その言葉だけは商人が村を去ってもアンヘルの頭を離れなかった。

 

 

 彼が去った後、アンヘルは手が空いたときに召喚士としての能力を確かめた。わかったのは、召喚士がみっつの能力を持つということだった。『召喚』(サモン)『召還』(デポート)、このふたつは彼が言っていた通りだったが、もうひとつモンスターの状態がわかる能力をもっていた。

 

 わかるのはみっつで『正式名』『レベル』『タイプ』だった。

 

 そしてシィールの能力も調査したが、結論は何も変わらなかった。

 

 自身はモンスターを召喚できるだけであり、シィールは何の訓練も受けていない自分よりも弱い。

 

 つまり、召喚士として生きるのは不可能であり、農民として暮らすしかないと決まったのだ。召喚士になったことでアンヘルが得たものは可愛いペットとそのペットが川で魚を捕まえられることだった。

 

 アンヘルはシィールの事を知られないよう触れ合うのを川の中だけに限定した。極力シィールを見られないことに努めるためだ。万が一見られたとしても魚と触れ合っているとしかみえなかっただろう。

 

 昼間の休憩時間には川で必ずシィールを召喚し、魚を取ってもらったのだった。

 

 アンヘルは兄弟の中で魚取り名人として扱われた。

 

 食糧事情だけは改善したのだった。

 

 

 

 §

 

 

 

 商人が去って数か月たった。冬は完全に明けて肌寒かった風も今は感じられない。

 

 アンヘルは召喚士となることをきっぱり諦めた。かわりにシィールのおかげで食事だけは十分にとれるようになっていた。低かった身長も5センチは伸び、子供から青年に変わった気がした。

 

 姉の婚姻は夏に延期された。相手の村の近くにオオカミの群れが住み着いたらしく、群れを撃退するまでは村に近寄らないほうが良いといった判断だった。

 

 アンヘルは家族内最大の理解者である姉がまだ居てくれる事に喜んだ。相変わらず言葉はきつかったが、その中の優しさがこの1年でわかった気がしていた。

 

 しかし、冬が完全に明けると同時に不幸が訪れた。父の容体が悪くなったのだった。30から40代の父は、日本では働き盛りといった年だったが、肉体を酷使するこの村では老齢に差し掛かる年であった。当然ながら、畑仕事を行わなければある程度回復するし、薬を飲めば容易に回復するだろう。

 

 家にはそんな余裕などなかった。父は一家の大黒柱であり、また食糧の少ない困窮した現状では休めるわけもなかった。

 

 父は身体をごまかしながら、冬の間にあれた畑の耕作と種まきをおこなった。家の権限を一番上の兄へ任せるようになった。父の容体はなかなか安定しなかった。もしシィールで魚を取れなければ、より悪化の一途をたどっていただろう。

 

 父はアンヘルの魚取り能力に疑問を感じながらも、よく感謝の言葉を口にしていた。おまえにも特技があったんだなと余分なことを呟きながら。

 

 一方で、家を任された兄はより横柄にふるまうようになった。兄は口癖のように「しごとやらんかったらなぁ晩飯ぬきやぞぉ」と兄弟に言った。よく標的となったのは二番目の兄だった。

 

 二番目の兄とは驚くほど激しくやりあっていた。横柄な態度が気に食わなかったのだろう。事あるごとに反発した。一番上の兄も応戦した。時には殴り合いになる場合もあった。

 

 今まで無口で挙動不審なアンヘルがやり玉にあがるケースが多かったのだが、魚取りの能力が認められて叱られ役が免除となったのだ。しかし、それはアンヘル自身にとっては良い事だったが家族内では良い事ではなかった。

 

 スケープゴートがいるのは重要な事だったのだ。あまり言い返さない人が叱られる事により、家庭内の秩序が保たれていたのだ。その秩序が崩壊し、事を収める父が不在では家族関係は悪化するばかりだった。

 

 わいわいと楽しそうな食卓は、常にピリピリした様子にかわった。仲裁する役を努める姉がいなくなればどうなるのだろう、とアンヘルは不安になった。

 

 そんな状況で、また、大きな変化がおきたのだ。

 

 父が死んだのだ。村に軽い熱病が流行った時だった。父は2日程であっさりと死んだ。長く続いた体調不良が身体を弱くしていたのだろう。昼の仕事から帰り、無言で床に入ったかとおもうと再び動くことはなかった。

 

 村長に薬をもらったが、何の効果もなかった。

 

 地球においても、医療が充実し、さまざまな風土病や伝染病に真に有効な治療法を確立できたのは18世紀に入ってからである。そして、それは一部の都市部でのみ有効なものであった。それは、アンヘルの住むこの世界でも同じように彼の親族に降りかかったのであった。

 

 父の死に顔は、熱に苦しみ歪んでいた。

 

 葬儀はなかった。村で決められている場所に埋めるだけで、墓石もなかった。兄弟たちは泣かなかった。アンヘルも泣けなかった。悲しくなかったわけではない。

 

 多分、覚悟をしていたからだろう。

 

 長い時間、体調の悪い人間はそのまま亡くなる。これは村の常識であった。死んだときにはやっぱりか、と思いが湧きあがっただけだった。アンヘルとしての記憶は少年に完璧に根付いていた。少年が完全にこの世界の農民なった瞬間でもあった。唯一、泣いていたのは母だった。元々寡黙だった母は心ここにあらずといった様子でボーとすることが増えた。

 

 その様子は、1回りは年老いて見えた。アンヘルは、日本語で父の墓石を作り、遺体を埋めた所に建てた。

 

 

 父が死ぬと、兄弟同士の争いは激化した。もういっそ醜いと言い切ってもよかった。一番上の兄は、父が死に、管理できなくなった土地を村に分けると言い出したが、2番目の兄は猛反発した。「なんでぇ、おれらがつくったはたけをわたさなぁいかんかぁ」と2番目の兄は梃子でも動かぬ様子だった。

 

 税は家族の人数と土地の広さで決まっている。管理できないならば手放すしかないと理屈は理解できる。一方で、先祖が開拓した畑を手放したくない気持ちも分かった。

 

 皆が集まる食事は、まさに災害に遭遇したようだった。姉ですら、その争いには関与できなかった。村は完璧な男社会だ。日頃の小さな争いならばともかく、父が居なくなった後の方針については口を出すことは許されない事であった。

 

 僕らは身を縮めながら嵐のような争いをやり過ごした。

 

 そんな中、村長から夏の税が上がる事を告げられた兄は、分別のつく年の兄弟たちを食卓に集め、「もりに、かえさなぁならんぞ」と言い出した。つまり税を減らすために、兄弟の誰かを森へ捨てるという意味だった。

 

 現状を鑑みれば仕方のない事だが、納得はできない。これにはたまらず、姉も反論した。2番目の兄は怒鳴り散らした。アンヘルも少しばかり反論した。一番上の兄に歯向かうのははじめてだった。

 

 しかし、無意味だった。結局、夜通し話しても兄の決意を曲げることはできなかった。

 

 誰も納得していないが、兄は兄弟を減らすだろう。硬い意思が感じられた。

 

 アンヘルはたまらずホセに相談したのだった。

 

 

 

 

 

 ホセはひとり道端をぶらぶらしていた。そんなホセにアンヘルは近づき、尋ねた。

 

「ねえ、兄弟同士で仲が悪いのってどうすればいいかな?」

 

 訊いてから、要領の得ない発言だなと思った。ホセは言葉がほとんど耳に入っていない様子だった。思いつめたような表情をしている。

 

 アンヘルは心配になり、自分の事も忘れ尋ねた。

 

「ど、どうしたの? 何かあったの?」

 

 ホセは絞りだすかのような声色で返した。

 

「おれさ、あっこのよ、となりの婆とくっつくことになったんよぉ」

 

 たしか隣には夫が戦争でなくなった30ばかりの未亡人がいただけのはずだ。彼の周囲の情報を思い出していると、ホセは言い出した。

 

「あんなくそばばあとけっこんなんてなぁ、したくねぇよぉ」

 

 もはや、泣き出しそうな声だった。僕の悩みを相談できるような状態ではなかった。

 

「ちょっとくらいびじんならさぁ、まだいけっけどよぉ、おれに近いくらいのこどもがいやがんだぜぇ。ありえねぇよぉ」

 

「た、確かに美人じゃないもんね」

 

「ブスだよ、ブス」

 

 そうやって吐き出したのが良かったのだろう、ホセは少し落ち着いた様子だった。

 それから思い出したように聞いた。

 

「そういや、おまえの用ってよう、なんだっけぇ」

 

 アンヘルは笑いそうになった。

 

 ――やっぱ面倒見いいなぁ。

 

 事情を説明すると、ホセは少し気の毒そうな表情をした。なんて返そうか悩んでいる。明々白々たる事実であった。正しい答えなど存在しない。

 

 ――やっぱりどうもならないか。

 

 ホセはかなりの時間悩んだが、急にパッと明るくなり、興奮したような表情で言い出した。

 

「街にいこうぜぇ、街によぉ! 街でモンスターをたおしてカネをもらうんだよ!」

 

 アンヘルはその言葉に瞠目(どうもく)した。

 

 

 




*有名なファンタジーゲーム:全然ファイナルじゃないファンタジーのこと


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第三話:旅立ち

 その日の夜、アンヘルは兄に村を出ていくと告げることにした。

 

 一番上の兄はひとり、疲れたように家の前の箱に腰かけていた。家の中では兄弟たちとやりあうからだろう。最近の兄たちは食事が終わると、顔をあわさないように席を外すようにしていた。

 

 空には真っ白な月が輝いていた。

 

「ちょっと話したいことがあるんだけど……いいかな?」

 

 兄はその提案に少し意外そうな顔をした。アンヘルは自己主張するタイプの人間ではなかった。それは、新たな人格に変化して半年立った今でもかわることではなかった。

 

「次の税のはなし……どうなったの?」

 

「いっただろぉ! うちのいえにはよぉ、次の税をしはらうよゆうなんざねぇてぇ! はたけを手放してさぁ、人を減らさなぁどうしようもねぇだろうが」

 

 兄は怒鳴った。怒りのようで悲鳴だった。そこには疲れが滲んでいた。怒鳴られることは分かっていた。散々兄弟と話し合った後で蒸し返すのである。機嫌を損ねることは分かりきっていた。覚悟していても、アンヘルの身体はびくっと硬直した。

 

 それでも、それでも言った。決意して言ったのだ。

 

「兄さん。僕は街に行くよ。僕が出ていく。ひとり減れば収めなきゃいけない税を払えるでしょ?」

 

 昼間のホセの提案についてよく考えた。その提案は無謀であった。田舎者が何の展望もないまま上京することは緩慢な自殺である。

 

 異世界に限らず、どのような業界、国にかかわらず、何の寄る辺もない若者が夢を頼りに上京し、成功した例は余りない。それでも、社会整備が成された場所では、セーフティネットを頼りに身辺を整えつつ、力を蓄え成功する者は僅かながら存在する。しかし、十分な弱者救済措置の取られることがないこの世界では自殺と何ら変わらなかった。

 

 それでもその方法へ賭けることにした。分の悪い賭けなのは、承知の上である。友人のホセは、何度か街に茶を売りに行ったことがあり、その時の伝手で荒事の仕事を知っていると言っていた。何もないよりは可能性がある。

 

 兄妹のこともある。自分の兄弟を捨てて、あっさり切り替えられるほど大人ではなかった。捨てられる兄弟――おそらく一番下の弟は、仲が良いわけではなかったが、それでも自分の弟だ。今後、村でずっと生きていくのであれば、このような事態には幾度も遭遇するだろう。惨めで鬱屈した生涯を送るのならば、ロマン・ロランの「自分にしかなり得ないなにものかになる為に生まれてきた」の言葉どおり、自分だけの召喚士としての人生を歩んでみたい。

 

 それが結論だった。アンヘルは、兄がどう返すのかわからなかった。

 

 怒鳴るのか、問題がなくなったと喜ぶのか、それとも引き留めるのか。アンヘルは魚を取ることで家族内の食糧事情に大きく寄与していた。魚で税を払えないが、日々の食糧の足しにはなる。引き留めるかもしれないと思った。

 

 少しの間、ふたりとも無言だった。

 

 兄は戸惑った様子だったが、こう返した。

 

「そうか。わかった」

 

 疲れた様子だった。予想した、どの返答とも違った。

 

「おまえは弟をへらすんにそんなにはんたいかぁ?」

 

「反対だよ。反対に決まってるじゃないか」

 

 その言葉を聞いて兄は激高した。

 

「お、おまえにッ! なにがわかるってェんだぁ! お、おれが……」

 

 だが、途中で思い直したように冷静になった。まるで別人のような変わりようだ。

 

「い、いや。わりぃ。なんでもねえよ。んなこといったっていみねえよなぁ。なあ、おまえならどうしたんだぁ? 弟をへらさず、とちもへらさずうまいことやれったてのかぃ?」

 

「無理だよ。どうやったって払えっこない。家にはそんな余裕ない」

 

 それは事実だった。兄の言葉は、受け入れがたかったが受け入れざるを得ないものだ。他の兄弟たちはなんとか方法を探しているが、そんな方法などありはしない。この村は働き盛りの男が徴兵で減っていた。税も厳しい。だれも助ける余裕などなかった。

 

「だから僕は文句を言わず出ていくんだ。どうしようもないことだから」

 

「……」

 

 兄は落ち込んだ表情となり、そして気の毒そうに見た。それは兄がアンヘルに見せたはじめての素顔だった。

 

 急にいなくなった保護者の代わりに、家を守らねばならない兄。自身の結婚は破談となり、頼りになる長女が隣村に嫁ぐ。さらに、自身の伴侶となれる適齢期の女性はこの村には存在しない。そして、父が死んだことで人手が足りなくなり、さらに厳しくなる税。追い打ちをかけるように、兄弟を切り捨てなければならない重大かつ誰にも賛成されない結論を下した。最近の兄は苦悩を体現しているように、さまざまな苦難を抱え込んでいた。

 

 アンヘルは、その若い兄の背に大きな荷物を抱え込んでいるように見えた。潰れかけているようだった。兄の横柄な振る舞いは、家族の見えない先行きの不安の裏返しだった。頼るもののない、孤独な戦いだった。

 

 兄は寂しそうに尋ねた。

 

「まちではどぉすんだぁ? 仕事もなんもわかんねえだろぉ?」

 

「ホセが街で荒事の仕事があるって言ってた。そこで働くつもり」

 

「ああ、『たんさくしゃ』かい。ちょっとまってな」

 

 そういうと、兄は家に入り、先端を金属でコーティングした木の棒を持ってきた。

 

「これをもっていけぇ。なんも物がなきゃかっこうつかねえだろぉ」

 

 それは、父が徴兵時に持ち帰った軍の武具だ。丈夫な木に手元を布で巻き、先端に金属をつけたこん棒。軍が農民に配る武器のひとつだった。このご時世、村では非常に貴重な金属製の武具である。父はオオカミや野犬が出ればこのこん棒で戦ったのだった。父の形見である。

 

「こ、こんなのいいの。家にあるたったひとつの武器じゃ?」

 

「きにすんなや。弟の旅立ちになんもわたさんかったらバチあたんでぇ」

 

 兄は笑いながら豪快にいった。

 

 

 

 §

 

 

 

 セグーラの街は、トレラベーガ帝国の東に位置する都市である。アンヘル達が住んでいたケソンの村など複数の村を束ねる衛星都市で、住んでいる領主はここ一帯を取り仕切っている。人口は約1万5千人ほどの小さな城壁都市で、周囲は壁で覆われている。しかしここ一帯はすべて帝国の領内であり、侵攻の気配はなく、過去に作られた防壁は整備されることなく老朽化している。都市には、スピラ男爵の軍団が警備しており、一時期前までは治安のよい都市であった。

 

 しかし、近年西方で行われる戦争のため、税が上昇していることから農民の流入があり都市パンク状態となっていた。ひとつの都市にある仕事量は一定である。そのため、許容量以上の若者が集まることによって、街は困窮した者や犯罪者が増加し、治安は悪化の一途を辿っていた。

 

 道端には困窮した市民が寝そべっているのが見える。いきなりの別世界にアンヘルは面食らった。それをごまかすようにつぶやく。

 

「つかれたねぇ、ホセ」

 

 アンヘルは兄に相談した次の日の朝、兄弟に事情を説明すると次の日には街に向かった。兄弟達は悲しんだり心配したりしていたが、その中には安堵が見え隠れした。それは、2番目の兄も同じであった。恐らく、この争いに不毛さを感じ取っていたのだろう。

 

 そんな皆に一抹の寂しさのようなものをおぼえた。

 

 ただひとり、姉だけは純粋に悲しんでいるようであった。アンヘルは姉が泣いているのをそのときはじめて見た。一番上の兄は感情の変化を見せなかった。ただ最後に「……げんきでなぁ」といった。

 

 ホセとは、村を出てすぐの大きな木の下で待ち合わせた。アンヘルと違い、ホセは無断だったからだ。街までの道のりはまる三日ほどだった。三日間の旅程は厳しいものであったが、問題は起きなかった。時期が良かった。春の暖かい気候は、昼でも体力を奪わず夜に凍死する危険性もなかった。獣には遭遇しなかったうえ、盗賊も出会わなかった。いくつかの幸運が重なることによって、なんとかアンヘルとホセはセグーラの街に辿り着いたのであった。

 

 ホセはその弱気なつぶやきを拾う。

 

「てめえはよえぇなぁ。おれなんかこんな重ぇ斧もってんだぜぇ」

 

 ホセは家を出る際に、大きな木を切り倒すための斧と茶の葉を拝借していた。賢明な判断だったが、見つかったらホセの家族に殺されそうだ。アンヘルはそう思った。

 

「ホセも疲れてるじゃない。昨日の夜、足痛いって喚いてたじゃんか」

 

「そんなのうそにきまってんだろぉ。こっからはじまんだぜぇ、おれの伝説がよぉ!」

 

 言い合いながら街を進んでいく。

 

 ホセの夢見がちなセリフに笑いながらも、アンヘルはバカにできなかった。いや、アンヘルのほうが内心期待していたといっても良かった。

 

 日本にいた頃には当然のように思えた豊富な食事、充実した衣料品。それらは突然失われた。娯楽などない。村には気の利いた遊びがない。子供がつくったような木彫りの玩具か古典的なごっこ遊び。仕事をすれば寝る。それが農村の人生だった。ようやく来た街。しかも、ゲームのように、敵を倒してお金を得る。アンヘルには日本の記憶があって、実年齢よりもすこし年上だ。しかし、まだそれでも思春期の少年だった。浮かれるのは仕方がないことだった。

 

 セグーラの街は雑然としていた。

 

 村とは違い家はレンガ造りで地面も舗装されている。たくさんの人が行きかい、活気に(あふ)れていた。等間隔で街灯が設置されており、村とは比べ物にならないほどの発展度合いだった。ところどころに馬車が走っており、中には不思議生物に引かれた馬車もある。(まれ)に何にも引かれていない車らしきものの姿も見えた。

 

 行き交う人々を観察していると、多様な年齢層、職種を目にすることができたがファンタジーお約束の獣人やエルフには遭遇しなかった。

 ――当然だけど、エルフや獣人なんていないのかなぁ……。アンヘルは中世感ばりばりの街に文句を言った。辺りには公示人の声や店の客引きで溢れており、ただ会話するのも難しかった。

 

 アンヘルはホセに大きめな声で言った。

 

「ねぇ、ホセ。これからどうする?」

 

「あー。アンヘル、おめえは『くちいれや』にいって仕事を聞いてこいや。おれはいつもンとこいって、茶を売ってくる。あの宿前にしゅうごうな!」

 

 口入れ屋――いわゆる斡旋所(あっせんじょ)やギルドといったものでこの場所に荒事専門の人が集まる。各都市に1つは存在するアウトロー用の施設である。

 

「くちいれや? なにそれ? どこにあるの?」

 

「仕事をもらうとこだよ! まわりのやつにききゃあ場所くれぇわかんだろがよぉ!」

 

「なんか怖いし、一緒にいかない?」

 

「ふざけんじゃねぇ! さっさといかねぇと茶のかね、分けねぇぞぉ!」

 

 それにはたまらんと駆けだした。今日の食事はホセの茶の代金にかかっていた。

 

 不安からか、独り言が口から出る。

 

「ねぇシィール。ちょっと怖いね」

 

 そのつぶやきは空に溶けていった。

 

 

 

 アンヘルは『口入れ屋』について、周囲の人に尋ねた。

 

 その調査はなかなかうまくいかなかった。多くの人は、アンヘルが尋ねても通り過ぎていくばかりであった。たちどまって話を聞いたとしても、『口入れ屋』について尋ねると人々は蔑んだ目でアンヘルを見て去っていった。この『蔑まれる』という事態には、この街に来てから何度も遭遇した。門番や店員など、多数の人がアンヘルとホセを卑しい者を見る目で見た。

 

 苦労しながら、気のいい老人からなんとか『口入れ屋』の場所を聞き出したのであった。

 

「ここが『口入れ屋』かぁ……おもったより小さいな」

 

 その建物はレンガ造りの一軒家で、周囲の家と何ひとつ変わりなかった。ただ、剣と盾で作られた看板が家の前に立てかけられているだけで、横にある酒屋と大きな差はなかった。場所を聞かなければ、ただの住宅か店だとおもっただろう。失礼な感想を持った。

 

 アンヘルは悩みながらも決意をすると、扉のドアをノックした。

 

「あ、あの……すみません。ここって」

 

 店の中は荒事を専門とする斡旋所のわりに小綺麗だった。店の奥にはボトルが整然と並んでおり、テーブルは綺麗に整えられていた。天井にはランプがついていた。その明るさは一般的なオイルランプやろうそくと比べ、異様に明るい。まるで蛍光灯のようであった。

 

 中には二人の男がいた。ひとりは中年で、奥で書類を書いている。もうひとりは若い男で、家の中の清掃を行っていた。どちらも筋骨隆々とした身体だった。

 

 中年の男はアンヘルを見るとぶっきらぼうに尋ねた。

 

「何? 依頼?」

 

「い、いえ……えっと、ここにくると仕事をもらえるってきいて」

 

 中年の男は舌打ちすると、若い男に顎で指示した。

 

 若い男はアンヘルに近寄り、いきなり殴りつけた。ガンッと大きな音がして、アンヘルは後ろに吹き飛んだ。鼻からは血が出ていた。

 

 若い男はアンヘルを店の外に連れ出すと、店の扉を完全にしめ、倒れているアンヘルの胸倉を掴んだ。

 

「おまえ、どこで聞いたんだここの話?」

 

「そ、その、ともだち。いっしょに来た友達から聞きました」

 

「あぁ! なんて聞いたんだ!?」

 

「え、その、えっと『口入れ屋』にくれば仕事がもらえるって」

 

 若い男はアンヘルを離した。そして、呆れたような口調で言う。

 

「最近はどの村も厳しいみたいでなぁ。街に出てきた田舎者がよく仕事くれってくるんだよ。わりぃなぁ。主人はそういうやつがきらいでよ。まあ、諦めてくれや。新入りに仕事はねぇんだわ」

 

「な、なんで、ないんですか?」

 

「あぁ? おまえ、なんも知らねぇんだな」

 

 若い男はバカにしたような感じで語りだした。

 

 つまりこういうことだった。

 

 ――探索者になるには親方探索者と呼ばれる人物にスカウトされ、一定の実績を積まなければならない。

 

 ――仕事は親方および親方から一人前と認定された人物にしか供給されない。

 

 ――田舎から仕事を求めて街を訪れる人が増えている

 

「とくに最近はよぉ。仕事のねぇ奴が俺らの仕事場所を荒らしたりしてるしよぉ。そんな奴らは根性もねぇ。すぐに盗みや強盗をしやがる。街の奴らは俺らまでごろつきみたいに見やがる。いい迷惑だぜ」

 

 男はうんざりしたようにいった。

 

「そういうわけでおまえに仕事はないし、主人は田舎者が嫌いなのさ。勘弁してくれよ」

 

 そうか、そうだったのか。アンヘルはさっきまでの町民達の蔑んだような目の意味を理解した。

 

 とても非協力的だったのは、自分が犯罪者予備軍のように見られていたからだった。アンヘル達の格好はボロの上下で、どこからどう見ても上京してきた農民だった。街がそんな状況ならば、そう見られるのも理屈の上ではわかる。

 

 見られる側のアンヘルはたまったものじゃなかったが。

 

 しかし、ここで諦めるわけにはいかなかった。所持している金は、ホセが持っている茶を換金したものだけだ。どれくらいの金額になるか判断はつかないが、仕事が無ければそう遠くないうちに尽きるだろう。

 

 アンヘルは顔から流れる血を拭いながら尋ねた。

 

「ど、どうやったら、見習いになれますか?」

 

「いまはどこも募集してねぇよ。諦めんだな」

 

「なら、なにかありませんか。人気のない仕事でいいんです。どんな仕事でも構いません。仕事がないと生きていけないんです」

 

 アンヘルは懇願する。男は悩んだ様子だった。言うかどうか迷った様子だったが、深刻な言葉が響いたのかこういった。

 

「一応、あるにはあるぜ。依頼じゃなくてフリーの仕事だけどよ。こっから半日くらいの所に『塔』って呼ばれる遺跡がある。そこのモンスターの魔石を回収すりゃ金にはなるぜぇ。めっちゃ安いけどなぁ」

 

「ほ、ほんとうですか! ありがとうございます」

 

 アンヘルは涙ながらにいった。バツが悪くなったのだろう。店の前で半泣きになったアンヘルの対処に困ると、男は頭をがりがりと掻いた。

 

「チッ、わーったよ。ちょっと詳しく教えてやるから」

 

 アンヘルは『塔』について教えてもらった。

 

 

 

 

 

 § § §

 

 

 

 

「あぁ、たしかこっちだったかなあ?」

 

 ホセはアンヘルと別れた後、家からくすねた茶を売るため、何時も卸している店に向かっていた。数回しか街に来たことはなかったから、おぼろげな記憶を頼りにここまで来ていた。

 

 空はもう昼頃を過ぎており、太陽は傾き始めていた。

 

「しっかし、アンヘルのやろー。いつまでたっても、ビビりがなおんねぇなぁ」

 

 先ほどのやり取りを思い出す。

 

 ――ひとりで仕事場を見に行くことのなにが怖いんだ?

 

 ホセがさっさとしろと怒鳴るのは珍しくなかった。いや、ホセだけでなく家族でもそんな扱いだった。アンヘルは主張が弱く、何をするにしてもワンテンポ遅れる。そのため、どうしても家族内からは重要な立ち位置に添えられにくかった。

 

 村社会とはそういうものだ。多少の頭の良さや性格の良さは考慮されない。とくに、男は村を守るためにはオオカミや野犬を追い払ったりする必要がある。腕っぷしと度胸が男の甲斐性とされた。村では強さと度胸が必要とされていたため、アンヘルのような弱気な男はどうしても冷遇されやすい。狩りもできないアンヘルにとって村は針の莚であった。

 

 去年くらいからは要領が良くなったのか家族に叱られることも減った様子だったが、臆病なアンヘルが心配になる。

 

「あれもあれで、わりぃとこじゃねえけどよ」

 

 アンヘルは気が利き、農民の割りに頭が良い。親父は、数年経っても未婚であれば、齢8の妹と結婚させるか考えていたようだった。

 

 だが、不安なのも事実だった。今仕事にしようとしているのは荒事専門のモンスター狩りだ。

 

 ――あんなビビり野郎じゃ、すぐおっちぬぜ。

 

 そうホセが悪態をついていると、不意に見覚えのある建物が目につく。

 

 カブラの雑貨店――中年の男女が営む店で、雑貨や食器を主に扱っており地方から取り寄せた少量の茶も販売している。セグーラの街の商業区では老舗で通っている店だ。ケソン村の茶農家は、行商人へ売る以外にもこの店に卸していこともあり、ホセは何度か親の手伝いで訪れていた。

 

 ホセは勝手知ったように扉を数度ノックし、ガチャと開けて入っていった。

 

「茶を売りにきたんだけどさぁ。いま、いいかぁ?」

 

 がらんとした店内にホセの声が響きわたる。店の奥には中年の女が座っていた。その女は一瞬なんだと顔に疑問を貼り付けたが、すぐ思い至ったように言い出した。

 

「あぁ。あんた、たしかケソン村の人かね」

 

 ホセの顔をじっくりと見た後、尋ねた。

 

「それで、何の用だね?」

 

「だ、か、ら、茶をうりにきたっていっただろが」

 

「あぁ、そういってたね。どれくらい持ってきたのさぁ」

 

 ホセはそう言われて、背中に背負った袋から瓶をふたつ取り出した。

 

「これさ、これ。2つあるぜ」

 

 女は瓶の蓋を開けると、中の茶の状態を確認し始めた。じっくりと葉の状態を確認したあと、瓶の蓋をゆっくり締めた。

 

「ポレオかね。状態も悪くないしねぇ……七十コインでどうかね」

 

「もっとたかくなんねえのかよぉ?」

 

 七十コインはそれほど安くない。宿に泊っても二人一部屋なら一週間はもつだろう……。ホセはそう思った。

 

 一般的な3人家族が街で一ヵ月暮らすのに百コイン程度である。それに対してポレオは一般的な茶でそれほど高く売れるものではない。今回はまとまった量と高品質、そして品が切れた時に都合よく持ってため高くなったが、通常はそれほど高値ではうれない。

 

 しかし、金は貴重である。地獄の沙汰も金次第というし、いくら持っていても困らない。仕事探しの時期ならなおさらであった。

 

「えっとよぉ。そうだ、さいきんはウチの村の連中も売りに来てねえんだろう? もっと高くしてくれよ」

 

「まあ確かに茶はないけどね。あんまり嗜好品は売れないのさぁ、不景気だしねぇ」

 

「棚にはぜんぜんねぇじゃんかよ!」

 

「倉庫にあんのさ。とはいっても十分には程遠いけどね」

 

 その時、ホセはひらめいた。

 

「なんか物を置くために、クラをいっぱい持ってるって、いってなかったかぁ?」

 

「よく知ってんねぇ。とはいっても最近は倉庫も空だけどねえ」

 

 ――シメた。空き屋だ。これで住む場所が手に入る。

 

 ホセは知っていた。どんな場所でもよそ者には厳しい。今までの経験から、住居を見つけるには苦労するだろうと。とくに、街には村から来た若者が多いように感じられた。ならば、なかなか探すのには苦労するだろう。アンヘルはそこらの機敏が鈍いがホセは気が付いていた。

 

「じゃあよぉ。その倉庫をさぁ……」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 アンヘルが集合場所に戻ると、ホセはすでに待っていた。ホセはアンヘルを見つけると、すぐさま叫んだ。

 

「おせぇ! おせぇぞ。さっさとしろよぉ」

 

 アンヘルは駆け寄りながら、ホセに言った。

 

「ごめん、ごめん。そっちはどうだった? 高く売れた?」

 

「まあまあいいねだんになったぜ。それにちいさいものおきをかりたんだ。いまのカネじゃろくな宿にはとまれねぇからな」

 

 ホセは自慢げに言った。茶を60コインと倉庫を10コイン月極で借りる契約をしたのだった。

 

 アンヘルはホセの自慢げな表情に納得した。茶を売るには農民だと足元を見られるだろう。家に関しては借りることすら難しい。宿に泊ることは可能だろうが、一瞬で金が溶けてなくなる。そのため、月10コインで倉庫を借りられたのは大きな進捗だった。

 

 ――ホセがそのことについて理解していたかは謎だったが。

 

 失礼な事を考えていると、ホセは顔の傷に気づいたようだった。

 

「おい、アンヘルよお。そのかおどうしたんだぁ?」

 

「あ、いや、転んじゃってさ」

 

 アンヘルはとっさにごまかした。殴られたことが気恥ずかしかったからだ。そのうえ、得た情報が半ば泣き落としだったため、堂々としたホセに言いにくかった。

 

「そ、それより、仕事について聞いてきたよ。なんか『塔』ってところのモンスターを狩ってくればいいんだってさ」

 

「やるじゃねえか。なんもわかってねえかとおもったけどよぉ」

 

「い、いや、そんなことないよ」

 

 アンヘルの額に冷たい汗が出た。

 

「半日くらいかかるらしいからさ、『塔』まで。明日朝早くに出てさ、さっさと稼ごうよ……あんまり高くないらしいけど」

 

「高くないだぁ? もっといい仕事なかったのかよぉ?」

 

「え、いや、なかったんだよ。最近村から来る人が多いらしくてさ。新入りにそんないい仕事なんかないっていわれたよ」

 

「ああ。そうかよ」

 

「で、でも、『塔』の仕事続いてる人全然いないからって。店の人が。だから続けば見習いにしてくれるって」

 

「だれがンなもんになるって?」

 

「な、なんか、見習いにならないとほとんどの仕事は回ってこないって……店の人が」

 

 最初から説明すれば良かった。アンヘルは思った。

 

「さ、最初はさっ、しょうがないよ。安全第一っていうじゃない?」

 

 ホセは苛立ったようだが、当たってもしょうがないと思ったのだろう。息を吐くとホセは言った。

 

「チッ、しょうがねぇ。さっさと稼いででビッグになってやるかぁ! なにしてんだ、さっさと行くぞ。あしたに備えていいもんくわねぇとなぁ」

 

 ホセはそういうとずんずん進んでいく。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 

 アンヘルは走って追いかけた。

 

 明日には探索者としての人生が始まる。浮き立つ心を抑えながらアンヘルはホセの背中を追いかけた。

 

 

 

 



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第四話:『塔』にて

「ついにきたぜ。おれがでんせつをうちたてるときがよぉ」

 

 ホセが高らかに、遠くに塔が見える広場で叫んだ。近くには、人が休息した跡であろうか、ちょうどいい切り株と火の始末の跡があった。

 

 塔はそこそこ巨大だった。一言でいうなら高層マンションだ。頂上は高く、遠くから見ても十分な大きさに見える。しかし、それほど高いというわけでもなかった。マンションなら10階くらいだろうか。天を突くほどの高さではないが、監視塔のように小さいともいえない微妙な大きさだった。

 

「ホ、ホセは元気だねぇ」

 

 アンヘルが弱々しく返す。

 アンヘル達は、この『塔』に来るため日が明ける前に街を飛び出した。店員に『塔』までは半日近くかかるといわれていたからだ。ここまでの道のりは村から街の道程と比べて困難であった。整備されていない道のりを進むのは容易でない。

 

 また、獣道を行かねばならないため、獣――特にオオカミが出るため安全ではなかった。ただ、人がいない道なので盗賊が出る心配はない……其れだけが救いであった。

 

 アンヘルはオオカミとの戦闘を思い出す。アンヘルが群れを牽制しつつ、ホセが斧ではぐれた一匹にとどめを差す。そこには戦いの技術などない、けれど農民の生きるすべがありありとわかる戦い方だった。対して、オオカミは頭の良い動物だ。勝てそうな相手に群がって仕留める。

 しかし、頭の良い動物とは臆病な動物の事でもある。周辺に生息するオオカミは元々人を襲うことがないのだろう。人肉の味を覚えていないオオカミのリーダーは、仲間がひとり殺されたのを見ると、こちらに脅威をおぼえたのかサッと撤退していった。もし、総力戦になっていたらこちらも大きな被害を受けていただろう。

 オオカミの毛皮が手に入ったため金の心配はない。しかし、アンヘルはダンジョンに挑む前から襲い来る敵に不安でいっぱいだった。

 

「しっかりしろよぉ、しっかりとよぉ。さっきもへっぴりごしで戦いやがってよぉ」

「しょ、しょうがないじゃないか。戦ったことなんてないし……」

「きえーだよ、きえー!。バッとたたき切ってやら倒せんだよぉ」

「むりだよぉ。それに僕の武器、斬れないし」

「きえーつったろがよぉ。ぶったたいてやれば、相手もびびんだろがよぉ」

 

 ホセは自信満々に言ってくる。

 

 アンヘルは初戦闘に疲れただけでなく、長い距離の移動にも疲弊していた。

 人間は通常生活の中で、一日に経口摂取する水分量は1.5リットル必要であると言われている。迷宮探索する中では、身体を酷使する。そのため余裕をもって街の井戸から2人分の水約4リットルを運んでいた。そのうえ、シィールが取った魚を何匹か持ってくれば袋は満杯だった。おまけに、ホセは持ってくれない。

 疲れた様子のアンヘルを見てホセは勝手に進む。

 

「おらぁ、きやがれ! モンスターども」

「ちょ、ちょっと待ってよぉ」

「おせえやつが悪ぃんだ! おいてくぞ!」

 

 アンヘル達は塔が見える森に足を踏み入れた。

 空気が少し重くなったような、明らかに別の場所に踏み込んだ変化だった。森は想定外に暗い。まだ昼だというのに、背丈の高い木々が光を遮るのか、驚くほど薄暗い。そのうえ、周囲の木が邪魔で塔までの道程がわからない。油断するとあっさり迷いそうであった。塔までの道のりをホセはどんどん、アンヘルはその後ろを金魚の糞のようにつき従いすすむ。

 

「ちっ。しっかしよ、なんもいねーなぁ」

 

 ホセがぼやく。

 

「なぁ、中でなにがみつかんだぁ?」

「……え、えっと、モンスターを倒して得られる魔石の他に、魔道具なんかが拾えるらしいよ……。ここで、魔道具や高価なものが発見されたことはないらしいけど……」

 

 ダンジョン――迷宮とも呼ばれ、過去に存在した文明や超越者達の住処であったり、モンスター達が巣とするような自然環境の事を指している。ダンジョン内は神秘の力で満ちており、人族に敵対しているモンスターが存在している。過去に文明が存在していたり、収集癖のあるモンスターが存在するダンジョンにおいては、魔石よりも高価な遺物が見つかることもある。

 しかし、この迷宮では余りに低いランクらしく高価なアイテムは見たことがないと若い男は言っていた。

 

「じゃあ、ここじゃモンスターからの魔石だけか。ほかンとこじゃてにはいんのかぁ?」

「他の探索者がいく『紅玉の坑道』だとたまに見つかるって話だけど。僕らじゃ許可がおりないって……」

「チッ、まぁたそれかよぉ。そんなンばっかだなあ」

「しょうがないよ。僕達は新人なんだから」

 

 そういうとホセはため息をついた。

 

「さっさとでてこねぇかなぁ?」

 

 しばらく歩くと、木の影に何か動く物体を目にした。

 松明をかざしてみると、赤くてまるいぶよぶよがこちらに向かってくる。

 

「ね、ねぇ、ホセ。敵だ! 敵だよ!!」

 

 身体はまんまるとしていて燃えているように赤い。くりくりとして可愛いが、目は異様にぎらついている。赤丸ぶよぶよの生き物――『ホノりん』ダンジョン『塔』に生息する最弱の雑魚モンスターである。

 敵はこちらに気づいたのか、アンヘル達に向かって跳ねながら向かってくる。

 

「おらぁ、いくぞ! さっさとかまえやがれぇ!!」

 

 そういうとホセは木の斧を正面に構える。アンヘルも慌てて構えると敵の気を引くため、ホセより前にでる。

 

 一歩、二歩とすすむ。

 あと一歩というところで、大きく踏み込み構えた棒を上段から振りおろす。棒がビュウと音を立てて敵に命中した。すぐさま飛びのくと、すかさずホセが構えた斧を振り上げる。そして、間合いに入った途端、跳び上がりながら勢いよく斧を振り下ろした。

 

「おらぁああああ!!」

 

 アンヘルに打たれた敵は意識を飛ばされたのか、ホセの斧を回避する事もできず正面から受けた。 瞬く間に敵は半分にたたきわられた。ホセは拍子抜けしたように、敵――『ホノりん』の残骸を確認すると少しバカにしたようにいった。

 

「なんでぇ、ぜんっぜんたいしたことねぇなあ」

 

 アンヘルもほっとしていた。初めての戦闘で少しばかり緊張していた身体から、力が抜けたような……そんな気分だった。

 作戦がうまく行ったのもあっただろう。アンヘルが牽制しつつ、ホセが斧で斃す。作戦と胸をはって言えるようなモノではないが、単純だからこそ経験の足りない二人でも実践できた。ホセは斧についた汚れを丁寧に拭き取っている。

 

「こ、これなら、オオカミの方が強かったね」

「あぁ、そおだな。おい、さっさと魔石とれよ」

「ちょっと待ってね……。あ、あった」

 

 アンヘルが石ナイフでモンスターの内部を探っていると、ほのかに光輝く拳大の石を見つけた。魔石だ。珍しいモノを見るように掲げていると、ホセが尋ねてきた。

 

「なぁ、魔石ってなににつかうんだぁ?」

「……僕もよく知ってるわけじゃないけど、いろんな道具の燃料になるんだって。ほら、ホセも見たでしょう? 街で走ってた何もついてない馬車。ああいうのに使うんだって」

「ふうん……。で、いくらでうれんだぁ?」

「えっと……。詳しくはしらないけど……安いって」

「まあ、そらそうか。こいつらよぉ、クソよええからよぉ」

 

 アンヘルは背中の袋に、綺麗に拭った魔石を入れた。

 ホセはその様子を見届けると斧を背中に背負いながら進んでいく。

 

「おらぁ、さっさとでてこい! モンスターども!!」

 

 そう叫ぶと、アンヘルを置いていくかのようにして進んだ。

 

 

 

 一刻後。

 

 アンヘルは緊張感から少し疲れていた。

 敵は出てこない。しかも、似たように見える景色ばかりでずっと同じ場所をぐるぐるまわっているかのようだった。

 経験のある人間にとって森は食糧の宝庫であり、人間の友である。しかし経験のないふたりとって森は、迷わせ、体力を奪い、モンスターとの不意の遭遇を発生させる魔の領域であった。

 

 いくら進んでも塔に入れる様子はない。少しばかりうんざりしてきた。

 

「ねぇ、ホセ。さっきから同じ場所じゃない?」

「チッ、うっせえよ。地図でもつけりゃよかったか?」

 

 ふたりでぼやいていると不意に前から敵が現れた。

 今度は青色と黒紫色のぶよぶよが出てきた。黒紫色のぶよぶよは青色よりも大きく、こちらをギラギラと見ている。あいつは強敵だな。アンヘルは直感でそう感じた。

 

「おい、アンヘル。てめえはくろいのをおさえてろぉ!!」

 

 アンヘルは、返事をすると回り込むようにして黒紫のぶよぶよ――『ワルりん』に向かう。敵には羽根と尻尾が生えていた。身体が大きいためか跳ねる速度がはやい。

 

 アンヘルが近づくと、敵も跳ねるの抑えながら進んでくる。双方とも臨戦態勢のまま近づく。視界の端にホセが残りの青いモンスターに斧を振り下ろすのが見えた。

 

「うぉおおおおおおおおお!!」

 

 アンヘルがホセの行動に気を取られて一瞬目を離した隙に敵が突撃してくる。

 

 ――はやい、まるで弾丸だ。

 

 アンヘルは持っていた棒を横に構えて敵の突撃を受け止める。

 

 敵は口を大きく開いて飛びつきながら棒に噛みついてきた。手に大きな衝撃がかかる。持っている棒はぎしぎしと軋んでいた。

 

「く、くそ、舐めるなよ! 僕だって戦えるんだ」

 

 棒を大きく振り払い、敵を大きく弾き飛ばす。相手は大したダメージもなくけろっとした様子でこちらを見ている。今度は油断しないようにゆっくりと近づく。

 アンヘルは自分に言い聞かせる。

 

(落ち着け……。相手は少しばかり大きいが、今までの敵と大きく変わるわけじゃない。不意打ちの攻撃だって防げたじゃないか。)

 

 アンヘルと敵がにらみ合う。そのまま位置を変えながらじりじりと動く。

 アンヘルの額に冷や汗がつうと流れた。

 

 すると、不意に横から人影が現れた。ホセだ。

 ホセは斧を大きく振りかぶりながら叫ぶ。

 

「おらぁあ!!」

 

 敵は予想外だったのだろう。ギラギラ光らせた目を丸くしながら斧の軌跡を見ていた。ガンと地面を叩いたような音を響かせながら斧が敵を真っ二つにした。

 ホセは汗を拭いながら言う。

 

「おぃ、なに苦戦してんだぁ!? こんなザコによぉ」

 

 アンヘルはホセの散々な物言いに悔しさすら浮かばなかった。

 

 ――何が強敵だ。一撃じゃないか……。

 

 ホセの斧によって一撃で葬り去られた相手を見て、アンヘルは心底ほっとした。そして、かなりカッコ悪い自分を自嘲した。

 アンヘルはへなへなと地面に座り込みながらホセを見る。地面が冷たい。

 

「あ、ありがとう」

「ふん! さっさと魔石をとりやがれ」

「う、うん。……でも複数は厳しいね」

 

 ホセはそういわれると、少し考え込むようになった。

 

「……あぁ、たしかにそうかもな。とくに、おまえはあいてをたおせるわけじゃねえしな、その武器じゃよぉ。盾かなにかもったほうがいいんじゃねぇか?」

「……そうかもしれない。この棒じゃ防ぐのは難しいし……」

「まぁ、なんにしてもよぉ、2匹以上はやめたほうがいいなぁ。いまんとこはよぉ」

 

 ホセはそう言いながら、斧を綺麗にした。

 アンヘルは急いで魔石を取るとホセについてゆく。

 

「そういえば、さっきから前に明かりが見えない?」

 

 アンヘルの前方に小さな光が見える。

 青く光っている。自然の光には見えない。

 

「そぉいえば、そぉだなぁ。ちょっと見にいくかぁ!」

 

 そういうとホセは駆けだした。

 はやい。アンヘルはたまらず追いかける。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 

 光が大きくなってくると、不意に森がひらけ、大きな広場に辿り着いた。塔には、青い色で燃える不思議な松明が幾つも飾られている。奥には大きな塔が見えた。アンヘルは「塔だ」と叫びそうだったが寸でのところで思いとどまった。

 

 敵だ。

 青色と緑色をした動物。一見リスのように見える動物だが、額には光輝く魔石がある。二匹はじゃれ合うように遊んでいる。強そうには見えない。

 しかし、相手は塔の正面に陣取っている敵だ。油断はできない。

 

 アンヘルがそう思っているとホセは雑魚だと判断したのか、覚悟を決めたように進む。ゆっくり進んでいたのが小走りになる。斧を上段に構えると、全力で相手に飛び込んだ。

 

「うぉらぁあああああああああああああ!!」

 

 ホセと敵の距離が10メートルになると、敵はホセに気づいたのかこちらを見る。そして、手を突きだすと頭の魔石が光りだした。敵の周りに小さな魔方陣が描かれると近くにあった石が浮かびだす。

 

 アンヘルはその現象に覚えがあった。

 

「ホセ、壁に隠れて!!」

 

 ホセはアンヘルの言葉に気づいたのか間一髪で塔の周りにある瓦礫の影に隠れる。すると瓦礫の壁に向かって勢いよく石が打ち込まれる。

 

 ――念動力……いや、魔法だ。

 

 アンヘルは自身も壁の影に隠れながら、漫画の知識をひっぱり出す。アンヘルは大きな声で聞いた。

 

「ねえ、ケガはない!?」

「ねぇよ!! そんなもん。けど、威力はたいしたことねぇが、すすめねぇ」

 

 そうしている間にも、敵は新しく魔法を唱えだす。敵は交互に魔法を放つことで、連続で唱える続けられるらしかった。救助に行きたいが、タイミングがみつからない。放たれた石は止まることなくふたりの隠れている壁にぶつかり続ける。

 

 アンヘルが迷っているとホセが提案してきた。

 

「きょうンとこはひくぞ!! たてがねえとむりだ!!」

 

 そういうとホセは反転しながらこちらに向かってくる。

 

 アンヘルも一緒に走りながら遁走する。背中には幾つもの石がぶつかった。

 

 

 

 §

 

 

 

 その後、幾度かモンスターの群れと遭遇した。決めたとおり、2匹以上のモンスターは無視し、それ以下のモンスターに狙いを定めた。

 

 モンスターはオオカミよりも弱く、ケガをする事態にも陥らなかった。ふたりは合計で10体のモンスターを倒すと、帰路に就いた。街についたときには、辺りは真っ暗だった。

 ふたりは街で得た魔石を換金するため、口入れ屋に来ていた。

 

「あぁ!? なんで10こで2コインなんだよ!! オオカミが50セトで売れたんだぞ!? もっとたけぇだろがよぉ!」

 

 ホセが怒鳴る。

 

 相手はうんざりしたような顔をしている。迷惑な客を見る眼だった。

 

 しかし、ホセの言い分もわかる。ひとり1コイン、ひとり2日分の食費にしかならない。一日がかりで二日分の食費しか手に入らない命懸けの仕事――そんな仕事、成り立つわけがない。モンスターを狩るために半日かけて移動し、命懸けでモンスターを討伐して得たものが二日分の食費では納得できなかった。

 

 相手はぶっきらぼうに言い捨てる。

 

「だからさぁ、いっただろ。『塔』でとれる魔石はやすいってさぁ。まぁ、塔の中に入ることができりゃ、ちっとはマシになるがよ」

 

 前日に『塔』について教えてもらった男――ゴルカが言う。

 

「そ、それでも、安すぎます。こんなんじゃ、2日分にしかなりません。もっとなんとかならないんですか?」

「しらんよ。こっちも割高にしてんだよ。こんなクソ魔石。なにに使えるってんだ」

 

 魔石――神秘の力で満ちた特殊な石だ。多くの道具の動力源として使われており、灯りや暖房にも使用されているエネルギー資源だ。一般的な燃料には鉱山から採掘された魔石を使用しているが、小型化された高性能魔道具にはモンスターの体内で濃縮された魔石を使用する事が多い。

 アンヘル達は『塔』で小型の魔獣魔石を手に入れたはずだった。

 

「あっこだとよ、モンスターが弱すぎて魔石のエネルギーが少なすぎるのさ。ほとんど採掘魔石とかわらねぇ。だから、いっただろがよ。この仕事は安すぎてよ、だれもつづかねぇのさ」

 

 それはその通りだ。モンスターにはアンヘルたちでも容易に勝てた。しかし、承服できそうにない。

 こんな額では、武器が壊れたり、ケガをした際の貯金もできない。何かトラブルが合った瞬間、即飢え死にすることが確定する。

 

「で、でも……」

「でももクソもねぇんだよ。割高にしてるっていっただろがよぉ。もっと低くすんぞ!」

 

 ゴルカの言い分では、『塔』に討伐へ行く人が少ないためモンスタースタンピードを考慮して『塔』魔石に補助金を出しているとのことであった。

 ――その恩恵を感じられはしなかったが……。

 

 アンヘルはホセが爆発しそうになっているのが見えた。そして、ゴルカも爆発しそうだ。これ以上安くされてはたまらない。そう考えたアンヘルはここで退散することにした。

 ホセは魔石の換金代である2コインを受け取ると、ホセを連れて外に出た。

 店の前でホセに対して告げる。

 

「ホセ、もう諦めようよ……。ごねてもしょうがないって……」

 

 弱弱しくいうとホセは怒りの矛先をアンヘルに変えた。

 

「ああ!? てめえももっといえよぉ! こんなんじゃいつまでたっても乞食だ!!」

「で、でも、あの人も怒りそうだったし……。これ以上安くされたら……」

「ああゆうのはよぉ、ガツンといってやればいいのよ。ガツンとよ!!」

「で、でもさ」

 

 ホセはアンヘルの態度にイラついた様子だったが、金も受け取ってしまった。どうしようもないと思ったのだろう。アンヘルが握っているコインを1枚奪い取ると舌打ちし、どすどすと歩いていく。

 

 ――だってどうしようもないじゃないか……。

 

 今日はじめての仕事で、いきなり睨まれるわけにはいかなかった

(そりゃ、ホセの言い分もわかる。こんな額じゃ何もできない。だからって、暴れてもしょうがないじゃないか……。それに、僕に当たったって)

 アンヘルの頭にホセの態度がリフレインする。

 

「はぁ。なんでいきなりこうなっちゃうかなぁ」

 

 下に落ちていた石を思いっきり蹴りとばす。夜も更けて、閑散とした道に石が転がる。ある程度転がると石が溝にポチャと落ちた。

 まるで僕たちの結末を予言しているようであった。

 

「はぁ……」

 

 アンヘルはなおさら落ち込んだ。

 

 遠くから、怒声と多数の人間の足音が近づいてくる。まるでマラソン大会のような振動が真夜中の路地に響いた。その音はどんどん近づいてきていた。

 

 気になって様子を確認しようとそちらの方向に振り向くと、男がぶつかってきた。

 アンヘルは胸に衝撃を感じ、うっと唸った。

 

 正面にはフードを被った小柄な男がぶつかった衝撃でのけぞっていた。年頃はおなじくらいだろうか。細身で俊敏そうな体格をしている。顔は暗くて見えないが、前かがみでどうにも堅気には見えない。

 ホセは胸を抑えながら尋ねる。

 

「あ、あの、大丈夫ですか?」

 

 そういうと同時に、怒声を上げていた多数の男たちが殺到する。アンヘルはその男たちを昼間に見ていた。口入れ屋がある通りの食い物屋の店主達だった。

 

「この盗人がっ!」

「代金払いやがれやぁあ!! ぶっ殺すぞ!」

 

 ひとりの店主が手に持った棒を振り回しながらこちらを見ている。その男の髪が怒髪天を衝くように逆立っていた。

 すると、アンヘルにぶつかった小柄な男が叫ぶ。

 

「あ、アニキ、ここは頼んます!!」

 

 そういうと男は外套をなびかせながら、住居の横の小道を駆け出していった。

 アンヘルがアニキって何?……と考えていると店主達がにじり寄ってくる。

 

「なあ、アニキさんよ。金払ってもらえっか!?」

「ないなんていわねぇよな?」

「盗みなんてするやつには、キツイ罰を与えてやんねぇとな」

 

 アンヘルを囲むように男たちがにじり寄ってくる。

 

 ――嵌められた。完全に嵌められた。

 

 男達がにじり寄ってくるのを防ごうと腰の棒に手を伸ばすがみあたらない。ここへ来る前に、倉庫に武器を置いてきていた。

 このままでは、一日しんどい思いをして手に入れた金を失うどころか、私刑によってケガまで負う可能性もある。ホセと喧嘩したあと、この事態はまさに踏んだり蹴ったりだ。

 なんとかするために包囲網を抜け出す方法を考えるが、時すでに遅くどんどん近寄ってくる。

 

 やばい。アンヘルはそう思ったときだった。

 

「待って!」

 

 大きな声を出して女が飛び出してきた。女はアンヘルに背を向けて男たちを説得し始めた。

 

「この人は違うわ! さっき口入れ屋からでてきたもの。盗みをするような人じゃないわ」

「おい、ナタリアちゃん! そんなやつかばってどうすんだ!」

「離れなよ、そんな襤褸切れきてるやつなんか、ろくなもんじゃねえ!!」

 

 そうだ、そうだと店主達が一斉に合唱を始める。しかし、その女は怯まずに言い返した。

 

「でも、違うものはちがうものっ」

 

 男たちはそれでも食い下がる。

 

「仮に違ったとしてもそいつは上京もんだろ。どうせすぐに盗みをはたらくようになるさぁ」

 

 周囲の男たちも同意を示す。

 

 まさに差別の具現化であった。レッテル貼りの悪意はアンヘル達を苦しめる。疑われた際に有罪となりやすいのが社会的弱者の常であった。

 このままでは、私刑にされるどころか拘置所にぶち込まれると思ったアンヘルは助けてくれそうな女に祈りを込めて願う。なんとかしてくれと。

 

「関係ないだろっ、そいつとはよぉ」

 

 男達がそういうと、女は小悪魔的笑みを浮かべながら周囲に言った。

 

「関係あるわよ!。きょう、ウチの店で仕事の打ち上げをすることになってるんだからっ」

 

 アンヘルはその笑顔に惹かれて、彼女の顔をボーと見ていた。

 

 

 

 

 

 




通貨:1コイン=100セト


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第五話:出会い

 その女――ナタリアは、アンヘルを引っ張りながら、毒気を抜かれた顔をした店主達の脇をすり抜けていき、彼女の両親が経営する店へ案内した。

 

 『菜の花亭』。セグーラの街の大通りから一本となりの道にある古い木造建築の店である。

 食い物商売。特に酒場は多くの銭が入る。盛場は他の商売と比べ、初期投資こそある程度かかるものの店舗とある程度の調理スキルがあれば、簡単に始められる効率の良い商売である。

 その中でも、『菜の花亭』は大通りのすぐそばに面しており、そこそこ広い木造建築の店である。セグーラの中でも指折りの酒場と言ってよかった。

 その店の看板娘兼一人娘のナタリアは、良家のお嬢様といってもいいほど、農村育ちのアンヘル達とは育ちが違った。

 

「ごめんなさいね。最近、ちょっとピリピリしてて……」

 

 ナタリア――女というよりも少女に近い。年齢はアンヘルよりも少しだけ年上に見えた。栗色に光る髪と黒々とした瞳が特徴的な彼女は、その垢ぬけた美貌(びぼう)もあいまってとても輝いていた。

 

 彼女は謝罪しながらも、テーブルにビールと料理を配膳する。

 

 このトレラベーガ帝国においては、酒の制限は存在しない。古代から、水の保存のために、アルコールが使用される例は多く、異郷の地においてもそれは例外ではなかった。現在は魔石を利用した魔導工業化が進み、浄水や保存技術は向上しているが、慣例からか若年層の酒精の禁止には至っていない。

 アンヘルも当然のように村で呑んだことがある。

 気負いせずビールに口をつけた。

 

 アンヘルは喉を通るビールの苦みが嫌いではなかった。

 

「ど、どうして、助けてくれたんですか?」

 

「ううんとね……」

 

 アンヘルは彼女の仕草ひとつひとつにどぎまぎさせられた。

 村にいた女性は同年代ではなかったし、日々の農作業で薄汚れていた。

 最も情を感じた女性が姉だったのだから、村の事情がよくわかるというものである。

 

 考えるしぐさなのか、右の人差し指で髪をクルクルと巻く。後ろに束ねられた髪のためか、うなじが灯りに照らされて艶かしく見える。

 

「まっ、見過ごせないじゃない。わたし、あなたが友達と争ってるのも見ちゃったしさっ。可哀そうじゃない、喧嘩したあとにあんな騒動があったんじゃさ……。もちろんっ、ここのお代を払ってもらうっていう下心もあったけどねっ」

 

 そういうと、ナタリアは照れ隠しなのか下をチョロっとだした。

 

 愛嬌があるのか、親しみやすいのか。酒場の酌婦をやっているからだろう。人見知りが入っているアンヘルにも接しやすい。

 

 アンヘルは照れてしまって、視線を外すため辺りを見渡した。

 奥で体格のいい中年男性がテーブルを拭いているのが目につく。

 

「ああ、あれ? 父さん。からだ大きいでしょ」

 

 ナタリアは僕の視線に気づいたのかこちらに声をかけてきた。

 

「父さん、昔探索者を目指してたってこともあってさ。あなた、困ってるみたいだったから。助けたいなって、なんとなく」

「そ、そうなんだ。今は引退してるの?」

「ううんとね……。あんまり知らないんだけどさっ、やっぱり探索者も狭き門らしいから、うまくいかなかったって」

 

 そういうと、彼女は目を興味深そうに輝かせながらこちらを見る。

 

「ねえっ。あなたも探索者なんでしょ! どうだったの!?」

 

 興奮しながら尋ねてくる。

 

「ええっとね。今日はじめてだったからさ。『塔』にいってきたよ」

「へぇ、すごいじゃん。結構以外かも、あんまり探索者に見えないからさっ」

 

 ナタリアはかなり踏み込んだ感想を述べた。

 

 ――いや、わかってるよ。僕が向いてなさそうって……。

 アンヘルは悪気のなさそうな彼女に文句をいうわけにもいかず少しへこんだ。

 

 するとナタリアはそれに気づいたのか両手を合わせた。

 

「ごめん、ごめん。気にしてたんだね」

「い、いや、いいよ。なんか場違いみたいに見えるのは、ホントだから」

 

 こういう人の変化に気づきやすいのが彼女の長所なのだろう。先ほどからこちらの話を進めやすいよう、気を配ってくれている。

 それにしてもナタリアはコロコロと表情が変わる。まるでアンヘルの話を楽しんでいるようだった。

 

「でも、それで? どうして喧嘩したの? せっかくの初凱旋だってのに」

「いや、報酬が少なくてさ……。それで、もめちゃって」

「あー、『塔』って少ないんだね、報酬。ここに来てた探索者志望の子たちが嘆いてたよ……。あ、これもらい」

 

 そういうと、テーブルに置いてあるスプーンで麺料理――セグーラの街名物『パンシット』を一口食べた。

 

「んー、おいしー。君も食べなって! おいしいよ」

 

 そういうと、皿をずいっと前に押し出す。

 そして彼女が使用したスプーンを渡してくる。

 

 間接キスだ。中学生の発想で、アンヘルは渡されたスプーンにドキドキしながら食べた。

 

 ――パスタというよりは皿うどんに近いかな……。

 パサパサしていて千切れやすいつまみ料理の味に、アンヘルは感動した。

 

 この世界に来てから初めてまともな料理に出会った。最初はパサパサした味のない米らしきものだったし、シィールが来てからはほぼ魚の丸焼きだった。その料理からはたしかに文明の味がした。

 

 感動からか涙目になると、ナタリアはわたわたと慌てだす。

 

「え、え!? 泣くほど!? そんなに美味しかった?」

「い、いや、ちょっと埃が、埃がね……」

 

 苦笑いしながら涙を拭う。同時に意味不明な場面で泣いたことにより、アンヘルは気恥ずかしくなってしまった。不格好なヘンテコ回答をしながら、なんとかごまかした。

 

「うん、うん。まあ、それだけ美味しかったってことかな、ウチの料理はさっ!」

 

 ナタリアはアンヘルの態度に満足したように笑った。

 カラっとした笑みだった。

 

 すると、店の扉がガラガラと開き、複数の男達が入ってくる。男達がナタリアを見つけると彼女の名前を呼んだり、手を振ったりしながら席についた。

 

 すると、奥で作業をしていた彼女の父が声をかけた。

 

「おおい、ナタリア。休憩も終わりにして、こっち手伝ってくれ」

 

 人が増えたからだろう、店内が慌ただしくなり始めた。

 

「はーい」

 

 ナタリアが元気よく答えると、小悪魔的笑みを浮かべながら言った。

 

「じゃあ、私はいくけどさっ。好きなだけいていいよ。私が助けた分はサービスしてあげるからさ。また来てよ、それが君のお礼ってことで」

 

 そういうと、ナタリアは颯爽とカウンターに向かう。しかし、途中でこちらに振り返り、注意するように言った。

 

「あと、ともだちとは仲直りしなよ。次来るときは、友達といっしょにね」

 

 そういいながら人差し指を立てた。子供っぽい仕草だったが、異様に彼女に似合っていた。

 

 アンヘルは他の客の給仕に向かう彼女の後ろ姿をずっと眺めた。

 沈んだ気持ちがどこかに消え去り、輝かしい明日への予感がした。

 

 

 

 

 

 § § §

 

 

 

 

 

「チッ、どうすっかなぁ、こんなんじゃあよ」

 

 ホセは手に持ったコインを上に投げ上げ、落ちてきたところを掴み取る。

 

 この1枚では、2日も飲み食いすれば空になる。繁華街で遊興に耽ることは不可能であった。

 ホセはフラフラ歩きながら、自然と明るいほうに歩いていく。

 

 ホセの頭には、先ほどのアンヘルとのやり取りが浮かぶ。

 

「あいつもよぉ、あいつだぜ」

 

 悪態を吐く。

 

 しかし、本心では分かっていた。

 あれ以上、粘っても何も引き出せない。

 アンヘルの言い分が正しいことも。

 しかし、その言い分を理解するのと自分の言葉を取り下げるのは別だった。

 

 人は誰だって振り上げた拳を下げるには理由がいる。探索者というアウトローを自称しているホセにとって面子は大事だ。

 なにより、自分を頼りにしているアンヘルの前では。

 

「はぁ、クソ!」

 

 虚空にいろいろ吐き出しながら歩いていると、辺りは雰囲気はどんどん明るくなる。それに、騒ぎ声も大きくなっていった。

 

 近くには、血相を変えたオヤジや前後もわからぬほど酔っぱらった男が歩いている。ピリピリした空気。血の匂い漂う戦いの場の空気ではない、けれど戦場のような独特な雰囲気を醸し出す区画にホセは辿り着いた。辺りはショッキングな色でライトアップされている。

 

 ホセはその中でも盛り上がっている店に入った。

 

 辺りで歓声や悲鳴が聞こえる。

 ホセは人が集っている区画へ行き、血走った目をした男に話を聞いた。

 

「なんだ、てめぇはよぉ、賭けに参加しねぇならあっちいけや!」

 

 男はぞんざいな返事をすると、すぐに盆台を見る。

 

「うらぁあああ! 来たぜぇ」

「おらぁのもん取り返すまでは、ひけねぇんだよ!!」

 

 歓声と怒号は鳴り止むことがない。

 別世界に入り込んだようだ。

 

 壁際には、派手な服を着た若い女――娼婦が腰に手をあて、艶やかな視線を周囲に送っている。大きく勝った男の近くにいっては、手をとってやる女もいた。

 

 ホセが入った店は鉄火場だった。

 辺りで行われているのは(サイ)をつかった勝負のようだ。

 

 ディーラーが振った賽の目に大きな歓声と悲痛な叫びが響き渡る。

 辺りの客は、数字の書かれた紙切れを握りしめていた。

 

 サイは古くからある博打である。

 大きな場所を必要とせず、必要な知識もないことから、日銭でその日暮らしを繰り返す貧困層および下民に好まれた。

 サイのルールは原始的である。賽の目が偶数なら『丁』、奇数なら『半』と予想して賭けるだけである。しかし、単純がゆえに学のない民衆はこの娯楽に熱中した。

 

 当然ながら、街に来たことはあるが、その隅々まで行ったことがあるわけではないホセには物珍しく映った。

 

 ホセの目の前、盆台の上でツボを振っていたディーラーが言い出す。

 

「さあ、揃ったよ、賭けた賭けた!!」

 

 客は一斉に数字の紙――コマ札を線で区切られたふたつの領域に置いてゆく。

 

 少し待つと、客がコマ札を出し終えたのか誰も置かない。

 

 緊張が高まるが、まだ勝負は始まらない。

 どうやら、『丁』――偶数側の札が多いようだった。

 

「ほらほら、『丁』に賭ける奴はいねぇのかい」

 

 店側があおるが、なかなか賭ける奴は出てこない。

 どうなるのか気になっていると、横から声がかかる。

 

「なぁ、あんた。『丁』側に賭けねえか? 今回はいける気がすんだよなぁ」

 

 声を掛けたのは、ホセよりも幾分か身長の高い青年だった。

 年のころもそれほど変らない男である。

 

 目に大きな隈があり、健康状態が悪く見えた。良く言っても、その恰好からは浮浪児にしか見えない貧困層の住民である。

 

 男の名はナセといった。ナセもホセと同様、昨年の秋に村から上京してきたのであった。

 ナセは博打に慣れた様子で、ホセに札を買うように勧めてくる。

 

「なあ、ここで無効にしたかねぇんだよ、持ってんだろ?」

 

 ナセが指で輪っかを作り、こちらに話しかけてくる。

 

「ほら、打つは男の器量っていうだろが。ビビってんのか?」

 

 ホセはその言葉に、血が頭に昇った。

 ――くそ、舐めやがって……。売り言葉に買い言葉でホセはその提案に乗った。

 

「参加するにはよ、どうすりゃいいんだよ?」

 

 ナセはその言葉に嬉しそうにクックと笑った。

 

「ほら、あそこの店員に札もらって賭ければいいのさっ」

 

 そういって、近くの男を指差した。

 

 ホセはその言葉に従い、半コイン分の札と取り換え『丁』へ置いた。

 

 ホセの動きにつられたのか、数人が続いて賭けた。

 

「さあさあ、出そろいましたよ!!」

 

 ディーラは右手でツボ振りを握り、左手は開いて客側に見せる。

 ホセの心臓が高鳴る。

 

「くるぜ!、くるぜ!」

 

 ナセが騒ぐ。

 

 ディーラーが静かにいった。

 

「勝負!」

 

 賽のひとつは五。

 もうひとつは……。

 

 三だ。

 

 偶数、『丁』だ。

 

 そう分かった瞬間ホセは手を振り上げながら叫んだ。

 獣のような声がでた。ナセも大きい声で叫ぶ。

 

「へっ、みたかよ。やっぱり『丁』じゃあねえかよ!!」

「ああ!、ああ!」

 

 ホセは興奮したように頷くだけだ。

 ナセはその様子に頷きながら言った。

 

「なあ、俺が博打教えてやるよ。どうだ、一緒に賭けねえか?」

 

 ホセは興奮冷めやらぬまま、一気に増えたコインを見つめる。

 ホセの返事は決まっていた。

 

 

 

 

 

 § § §

 

 

 

 

 

 あの晩、ホセは住んでいる倉庫には帰ってこなかった。

 それほどに怒っているのかと、アンヘルは心配した。

 何回も探しにいこうか迷った。治安も悪い郊外で問題が起きるのも珍しくはない。ホセの身に何かあったのかもしれなかった。

 

 しかし、結局アンヘルは探しには行かなかった。

 喧嘩した後にどんな顔をして迎えに行けばわからなかったというのもある。顔を合わせるのが、バツが悪い気もした。なんだかんだと言い訳をかさね、倉庫から出ることはなかった。

 

 もう帰ってこないかと思った矢先、ホセはあっさりと明け方には帰ってきた。酒精の匂いを漂わせながら。

 ホセはとても上機嫌に酔っぱらいながら帰ってきたのだ。

 

 アンヘルは昨夜の喧嘩について恐る恐る謝ろうとすると、ホセは上機嫌なまま「気にするな」といったのだった。

 アンヘルは釈然としないような、それでもホッとしたような気持ちになった。

 

 ホセは眠いと床に入りながら、アンヘルに盾を探すように言った。

 

 

 アンヘルはそんなホセを見送りながら、盾探しのために街へ繰り出した。

 しかし、盾探しは難航した。

 

「そんな簡単に盾なんて見つからないよぉ」

 

 水辺の岩に腰をおろしながら、アンヘルがぼやく。

 柔らかな風が吹いており、降り注ぐ光による熱を緩和している。

 

 あたりにはふんわりと水の匂いが漂っていた。

 

 アンヘルはホセに言われたように盾を買い求めに店を訪ねたが、どの店も手が届くような値段ではなかった。そのうえ、アンヘル達が必要としているのは飛んでくる石から身を守る大型の盾である。しかしながら、その条件を満たす盾は偉丈夫のみが使えそうな重厚な盾だけだった。

 

「もっと薄くてもいいのになあ、シィール」

 

 シィールは水に潜りながら顔だけ出して、アンヘルの言葉に反応する。

 アンヘルが手を出せば、なめらかな頭をこすりつけてくる。

 

 アンヘルは望み通りの物が見つからず、現実逃避のために街の外の河まで遠出していたのだった。そして、日課になっているシィールとの触れ合いおよび魚の入手を行っていた。

 

「えらいなぁ、シィールは」

 

 頭を撫でてやると、シィールは目を細めながら気持ちよさそうに鳴く。

 魚を持ってくるシィールはほめてほめてと言わんばかりに甘えてきた。

 

「ごめんね、今はまだ外で大っぴらに会えないんだ」

 

 言葉が分かっているのか、シィールは寂しそうな表情をする。

 そんな顔をみて、アンヘルは決意をより深くする。

 

「みてて、シィール。もっと強くなって、いつでも会えるようにするからさ」

 

 そう言いながらもため息をつく。

 

 今やっていることが現実逃避であることは分かっていた。

 

 しかし、盾を入手するのは容易でない。

 

 そもそも武具は高い。

 効率的な生産を可能とする現代日本とは違い、工業化が始まったばかりのトレラベーガ帝国では、武具はすべてワンオフ品であり、下々の民衆にまでいきわたる程量はなかった。

 そのうえ、治安の悪い辺境においては、民衆は自分の身を自分で守らねばならず需要は増加するいっぽうであった。戦争で軍が武具を必要としていることにも武具不足に拍車をかけていた。

 そのうえにどの店にもほしい盾が置いていないため、新造してもらう必要のあるアンヘルには打つ手がなかった。

 

 ――最悪、木を張り合わせただけでいいのに……。

 頭にボロい盾が浮かぶ。

 

 ため息しかでない。

 

 最終手段だ。アンヘルはそう思った。

 木を張り合わせて、取っ手をつければいいだろう。

 

 ないものねだりを諦めたアンヘルは自作することにした。

 工作技能は小学生並みの自身があったが、不格好でも目的さえ果たせればいいと割り切る。

 

 ――どうせ、あそこを乗り切るための盾だ。使い切りにしてしまえばいい。

 

 そう考えたアンヘルはシィールを召還すると、街へ向かって歩き出す。

 

 ろくな盾ができないとわかっていたが。

 

 

 

 §

 

 

 

 木材はかなり安く手に入った。

 もう材質にもこだわらず、見た目にもこだわらず廃材を使うことにした。

 

 それを素人作業で張り合わせると、張りぼてと言わんばかりのぼろぼろの盾が完成した。誰が見ても、斧の一撃で破壊されそうなボロさだったが、アンヘルにはは作り上げた達成感があった。

 

 ――見た目は最悪だけど……。隠れられるし、わるくないよね?

 

 もはや石を避けるためだけに使うと決めた。

 

 そう考えれば、一応とはいえ身体も覆えるし、十分な大きさが確保できたこの盾は十分であるかのように思えた。

 アンヘルは最後の部分である自作盾の取っ手をつけるため、工具を買った後、仕上げをするため家に向かっていた。

 

 ――あとは、取っ手をつけるだけだ……。

 

 アンヘルの気分は、盾造りを通して上向いていた。

 

 久しぶりの休養であった。

 農村では、毎日のように農作業が続いており、街に来てからは生活基盤を整えるのに必死で街を見廻った事はなかった。民衆にとって、娯楽のないこの時代における買い物は良い気分転換であった。

 

 この世界において、男の娯楽といえば酒、女、博打である。それは、どこの国でも変らない不変の事実である。

 

 しかし、アンヘルにとってそれらの娯楽は関心の外側にあった。

 アンヘルには、日本人として過ごした記憶がある。いや、正確には日本人として暮らした人格のほうが支配的であるといえた。

 

 そのため、日本人の価値観として、現在未成年にあたる飲酒や博打――パチンコなど日本にも合法の賭博があったが、若いアンヘルにはそれらは息を抜く方法として考えも及ばないものであった。

 唯一、若干の興味があった女に関しては、その生来の性格や環境ゆえに生まれてこの年まで縁がなかったのであった。

 

 アンヘルも一般的な男子学生と変わらず、図画工作について興味がある――人並以上に優れているとはいえないが、盾を自作するための街巡りは気持ちを軽くさせたのであった。

 

 足取りは軽い。

 買った工具を背負い、家に向かってどんどん進む。

 

 日はもう少しで落ち始める頃だった。

 

「お金に余裕ができたら、また会いに行きたいな……」

 

 酒場『菜の花亭』はここから数分の距離である。

 垢ぬけた笑顔の看板娘――ナタリアの顔が頭に浮かぶ。

 

 こうやって、時間に余裕ができればそのことばかり考えてしまう。

 それは、アンヘルにとって初めての経験だった。

 

 ――ホセとの仲直りできたし、塔に突入できれば打ち上げもかねていこう。

 

 盾をつくったばかりであるのに、楽観的に考えてしまう。

 色も知らぬ少年の幼い思考回路であった。

 

 気分よく歩いているアンヘルの耳に、何か硬いものをぶつけ合う音と威勢の良い叫び声が聞こえてくる。

 

「はああぁあああああ!」

「腰を落とせ、腰を!」

 

 複数の男達の掛け声だ。

 周囲を灌木で囲まれた敷地では、少年と言える年頃の男達が木刀を振り回し、打ち合っている。

 

 周囲には打ち倒され、泥にまみれた者が幾人かいる。

 彼らは、息を荒くしながら下を向いていた。

 

 多くの人物が、疲れたように剣を振るっているなか、赤毛の少年だけは威勢よく師範と思われる年配の男性に挑みかかる。

 

「うらぁああああああ!」

 

 赤毛の少年は、上段八双に構えながら、相手側の間合いに目にも止まらぬ勢いで飛び込み、雷光の如く降り下ろした。

 木刀はなめらかな曲線を描きながら、轟雷のような音を鳴らして相手の木刀を打ち据える。

 打たれた側はたまらず下がる。背丈もアンヘルと変らぬような少年が繰り出す斬撃はまるで巨人が打ち込んだと思わせるほどの迫力があった。

 

 赤毛の少年は引いた相手に合わせて、さらに一歩大きく踏み込む。そのまま剣を打合せ、鍔迫り合いになった。ぎりぎりと必死の表情を浮かべながら競り合う。一瞬の拮抗の後、力の比べ合いは師範代側に傾きはじめた。

 

 単純な膂力においては、大人である師範代に分があるのだろう。赤毛の少年は、足跡が残るほど強く地面を蹴り、後ろに飛びのいた。

 

 それが、仕切り直しの合図となった。

 赤毛の少年は上段、師範代側は下段に構えなおし、間合いを図り合う膠着状態へ陥った。

 じりじりと小さく移動しながら、互いは互いを伺う。

 

 両者の位置が時計回りに動く。両者が円を描いて半周した。

 

 ――す、すごい、これが、剣術!

 

 アンヘルははじめて見る実践的な闘技に目を奪われた。

 

 道場。

 軍国主義を標榜するトレラベーガ帝国において支配階級ではない下層民にとっても武芸者としての実力を高めることは立身出世の近道のひとつであった。トレラベーガ軍には、現場のたたき上げであったとしても実力主義を採用している。それは、周辺国家の中でも先進的な主義であった。

 そして、武術を高めるための私塾、家庭教師、道場は各都市においては一般的なものであった。

 

 各地域には力の満ちる『ダンジョン』がある。そのダンジョンに眠る富とモンスターの間引き――スタンピードを引き起こさないための措置のために、軍は上位の探索者を引き抜いたり、軍内で迷宮探索専門の人員育成を行っている。実際、この国において、高名な迷宮探索者は軍人で占められている。『ダンジョン』に満ちている力は、人を強化するが、一方でモンスターも強化した。このような情勢下において、人々の個人能力信奉が高まり、剣術に始まる武芸が信仰されるのも当然の流れであった。

 

 あくまでも、道場に通える余裕をもつ住民が一定数おり、一定の腕を持つ技能者が存在する中規模以上の街に限られるが。

 

 いまアンヘルが目にしている剣術は、軍内でも使い手の多い東方一刀流であった。

 

 アンヘルは興奮した。敷地を囲う木に近づき、身を乗り出して試合を見る。

 

 互角の戦いを繰り広げるふたりの間は、まるで空気が違うかのごとくヒリヒリしており、見ているだけで圧倒されそうであった。

 ふと、身を乗り出している不審者――アンヘルが気になったのだろう。赤毛の少年がこちらに視線を向けた瞬間であった。

 

「余所見などとぉおお!」

 

 師範代の叱責と共に、滝を断ち切るが如く剣を下段から振り上げる。予備動作も見せない剣戟を少年はぎりぎり身体をスライドさせることで避けた。

 はらはらと少年の髪が数本舞う。

 

 髪に触れるほど至近距離で避けた利点を生かし、少年は伸びきった師範代の腕の中に踏み込む。そして、上段から降り下ろした剣を首筋にピタッと止めた。

 

 紛れもない、少年の勝利であった。

 

 勝負が決まった後、スッと剣を引き、激しく争ったと気づかせないほど、落ち着いたたち振る舞いで礼をした。

 

 アンヘルは拍手をしたい気持ちが胸に溢れた。

 今の技に比べれば、アンヘルの武技など子供の癇癪(かんしゃく)同然である。

 

 ――か、かっこいいな……。ぼ、ぼくもあんなふうに……。

 

 そうやって考えていると、赤毛の少年は師範からはなにやら指導を受けているようで、見本を見せている。

 

 それを見ていると、アンヘルは棘のある視線を感じた。倒れ伏している少年たちだ。

 その視線を認識すると、アンヘルは自分の行為がまごうことなき不審者であることに気づいた。ぼろぼろの農民服と合わせて乞食不審者と印象は最低最悪である。

 

 アンヘルは慌てて駆け出し、その場を逃げ出した。

 

 アンヘルは今日見た光景をなかなか忘れられなかった。

 

 家にかえっても見た剣術の真似をしていたため、盾に取っ手がついたのは夜が更けてからだった。



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第六話:『塔の入口』の戦い

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 アンヘルの息は荒い。

 

 背中には彼を覆い隠すほど大きい盾――鍛冶屋に面と向かって盾と言えるほど立派なものではないがある。

 横にも縦へも大きいそれは、木々が引っ掛かり前進できない。

 

 身体を左右に傾けながら、なんとかくぐり抜ける。

 大きなボロ盾は、角を擦ったのか大きくかけていた。

 

 塔までの行く手を遮る森は、相も変わらず陰鬱(いんうつ)である。

 薄暗く、太陽の光を通さないこの異界では、気分が沈むのも仕方ないことであった。

 

 アンヘルは半日続く移動に疲れきっていた。

 

「おいおいおい、へばんじゃねぇよ!」

「はぁっ、むちゃっ、言わないでよ、はぁっ。重いんだから、さぁっ」

 

 ホセは軽々とすすむ。もうこの森には慣れていた。大樹の根が張り出す悪路をすいすいと行く。尖った樹木の葉っぱで腕を傷つけることもある不気味な森を、ホセはたった一度の経験からホームグラウンドに変えてしまっていた。

 

 これは、ホセの能力が優れていたのもあるが、それ以上に村において、多数の害獣を度胸試し半分に狩っていた経験が大きかった。

 

 一方で、ほとんど森に入った経験のないアンヘルにとっては、重量、面積ともに大きい盾を背負っての移動にへばりきっていた。

 

 森は動物や昆虫などおらず、風によって葉の揺れる音が響くばかりであった。太陽の暑さを遮る効果以外は、森はとにかく不気味で不安を煽った。

 

 とはいえ、森はそこまで危険でないことも分かっていた。

 

 さきほども、ぶるぶるのゼリー状モンスター数体と戦闘を行ったが、不意をつかれないかぎり、負傷なしで乗り切ることが可能であった。

 つまり、狼や熊が出没する通常の森よりは危険ではないということである。ただし、戦闘する頻度はこちらのほうが圧倒的に高かったが。

 

「はぁっ。あと、どれくらいっ、なの」

「あとすこしだ。さっさとしろやぁ!」

「じゃぁ、これ、持ってよ」

 

 そう言ってアンヘルは盾を下す。

 そして、冷たい地面の上に腰をおろした。

 

 冷たい。雨が降ったわけでもないのに、まるで雪解け後に露出した地面のようだった。少し湿っている。

 

「それはよぉ、てめえのもンだろうが! なら、てめえがもつのがよ、筋ってもんじゃねえかぁ!?」

 

 ――それはそうなんだけどさぁ……。

 

 アンヘルは心の中でぐちぐち反論する。

 (でも、協力してくれたっていいじゃないか……。これほど長い距離なのに、少しくらい協力してくれても罰はあたらないよぉ)

 

 そう考えながらも、アンヘルは言い返せない。

 言ってもムダと分かっている事もあるが、元来の性格からこういう時には言い返せないのである。それは、現代社会においても、異郷の地においても損をする性分であった。

 

「……」

 

 諦めたようにもう一度背負いなおす。

 

「いじけんなよ。他の道具はもってやってんじゃねえかぁよ!」

 

 この話題は不毛であると結論付け、アンヘルは身体の疲労を無視することにした。

 そして、彼の言い分は正しい面もある。斧を持っており、攻撃能力の高いホセの体力を残しておいた方がモンスターと対峙したときに有効である。

 

 そうアンヘルは自身に言い聞かせて進んだ。

 

 

 

 それからどれほど進んだだろうか。

 急に前方が開けてくる。

 

 塔だ。

 あの魔法を使う獣どもが住んでいる塔の入口だ。

 前回は、何もできずに撤退へ追いやられた奴らだ。

 

 疲れた身体に何か燃料のようなものが注ぎ込まれた。背負っている盾が軽くなる。

 同時に、惰性で歩いていた足が、不安からか進まなくなった。

 

「なぁ、おい。忘れてねぇよなぁ?」

 

 ホセはそういって確認してくる。

 

 それは、小動物どもの魔法攻撃を撃ち破る作戦の事であった。

 作戦は単純明解である。

 

 前回、2匹は交互に石弾を放つことによって、長時間敵を近寄らせない手法をとってきた。そこで、盾を持つアンヘルが囮となってひとりで2匹の注意をひきつける。その間に、周囲の瓦礫を利用して回り込んだホセが1匹を急襲する。うまく1匹を処理すれば、のこり1匹など如何様にでも料理できる……そう踏んでの作戦立案であった。

 それは、あくまでも盾を作っていないホセが、盾が通用すると判断しての作戦だったが。

 

 ――大丈夫、大丈夫、大丈夫。頑張って作ったんだ。小さな石くらい防ぎきれる、はず……。

 

 アンヘルは自分にそう言い聞かせる。

 見た目はぼろぼろで、取っ手も日曜大工以下な盾をフィルターをかけて、聖盾であると認識する。そうすると、なにか輝いてみえるような気がした。気がしただけだったが。

 

「だ、大丈夫だよ。だ、だから、そっちも気をつけてね」

 

 まるで説得力のない、つっかえた返事がでた。

 実際、泥船にのっている気分であった。

 アンヘルの背中は不安からの汗でびっしょりだ。

 

「ほんとぉかぁ? ビビってんじゃあねえのか!?」

「ダイジョウブ、大丈夫。ぜったい、大丈夫だから」

 

 さんざん大丈夫といって、少しだけ勇気がでた。

 足も震えていない。アンヘルは進みだす。

 

 小動物どもは、何の捻りもなく2匹でじゃれ合っていた。石弾を飛ばす危険生物とは思えない程愛くるしい。

 

 その愛くるしさがひっくりかえってアンヘルには憎らしさすら覚えた。

 

 大声を出した。

 弱気な心を奮え立たせるために。

 

 左手に盾の取っ手を握りしめた。

 囮となるために。

 

 右手に兄が授けてくれた棒を握りしめる。

 敵を斃すために。

 

 そして、駆け出す。

 

「はぁあああああああ!」

 

 視界の端で、ホセが回り込んでいるのが見える。

 同時に敵はこちらに振り向き、小さな魔方陣を紡ぐ。

 

 敵の周囲には、ピンポン玉ほどの大きさの石ころが浮きはじめた。

 

 ――く、来る。

 

 アンヘルはそう感じた瞬間、身体を盾の影に隠しながらも前進する。

 相手は、腕を突きだし石弾をこちらに向かわせた。

 

 後、十数メートル。

 

 盾に嵐のような衝撃が幾つも襲う。

 端はともかく、中央にぶつかる石は完全に盾でシャットアウトしていた。

 

 ――すごい、すごいぞ。行ける。

 

 不安視していた盾の性能に感心しながらすすむ。

 

 十メートルを切った。

 

 魔法を唱えていたモンスターが弾切れなのか魔法を中断した。

 間髪入れず、もう一方のモンスターが魔法を唱えた。

 

 その衝撃は足を一歩進めるたびに強くなる。

 絶え間なく打ち続けられる石の弾幕はまるで津波のような圧力を伴っていた。

 

 それでも、進む。進み続ける。

 ホセを信じて。

 

 後、もう少しで五メートルだ。

 敵は警戒したのか、移動しながら盾の死角をねらう。

 

 アンヘルはなんとか食らいつく。

 二匹が分かれずに攻撃を行わなかったことが功を奏した。

 絶えず変化する一方向からの攻撃に気を配り続ける。

 

 もう、飛び込めばすぐの距離だ。

 

 もはや盾を持つ左腕の筋肉が疲労して動かず、うまく取っ手を握れない。それでも肩で押すようにして前にすすむ。

 

 どれほどの攻撃にも怯まないアンヘルに焦れたのか、魔法を唱えず休息していた一匹が腕を横に広げた。同時に、相手の背後にかつてない大きさの魔方陣が築かれる。大きさにして倍はあった。

 周囲に浮いた石が集まり、吸着し、塊となる。まるで鉄球の如く巨大な岩球が敵の目の前に形成された。そしてその小さな腕をこちらに向けると、巨大な岩球がアンヘルの盾目がけて発射された。

 

 射出された岩球は盾をさながら障子のように突き破ると、アンヘルの胸にガッと大きな音を立て、直撃した。

 

「あ――が、がふっ」

 

 ぶひゅぶひゅと、まるで風船に穴のあいたような音が口から漏れた。気胸状態みたく息が取り込めない。アンヘルの肺は、すべての空気を吐き出し膨らまない。息をしようとあえぐが、まるで取り込めなかった。

 身体は心臓を止められたと感じさせるほど動かない。

 

 視界が眩む。暗転しそうになった。

 片膝を突いた。

 

 アンヘルは朦朧とする世界で、敵を見る。その穿たれた盾の穴の先には、安堵と嘲りの混じった顔が覗く。

 

 ――もう、もう無理だ。

 

 身体は鉛のように重く、握られた棒はずり落ちる。素通しとなった盾は身体に立てかけられたまま、動かせない。

 

 間をおかず、相手ははまた小さな石弾を放つ。穴の開いた盾では身を守る効果は余り期待できない。

 

 アンヘルは石弾に打たれた。

 (うずくま)り、海老のように身体を丸めながら、惨めに耐える。石をぶつけられながら耐えた。両膝を地面につけ、耐えた。

 肩や腕に小さな斑点ができる。内出血の跡だ。

 まるで、罪を裁かれる罪人の如く石弾を受けた。

 

 薄れゆくアンヘルの意識のどこかで、獣どもが悪魔のようにぼそぼそと嘲笑うのが聞こえた。

 

 それが、アンヘルには、すごく、無性に気に入らなかった。

 

「あぁああああああああ!!」

 

 魂がガソリンを注がれたように熱くなった。燃え上がった魂が、身体に力を注いだ。ガリガリガリと歯車が強引に回るように動かないはずの身体が意思にしたがって動きだす。

 

 崩れていた膝に力を込め、両足を地面にドッシリつけた。持っていた棒を硬く握りしめ、背中に回して振りかぶる。下半身をかがめ、力を大きくためた。白く狭まったアンヘルの視界に敵の姿がはっきりと映る。

 

 穴のある盾を正面に構え、とびかかる。

 盾で覆いきれない身体に、無数の石弾がぶつかる。至る所に無数の打ち傷と切り傷ができる。構わない、構うもんか。アンヘルは呪文のようにとなえた。今にも止まりそうな身体を、力が尽きるまでふり絞った。

 

 もう、敵はすぐそばだ。

 獣の驚愕が張り付いた表情をみた。アンヘルは魔法を使う獣を盾で一度叩き、魔法を解除させた。敵は後退する。振りかぶった棒に渾身の力を込めて振り抜く。棒の先端がかすむほどの速度で敵の頭蓋に到達した。驚愕した表情を苦痛に歪めさせ、相手を瓦礫の方へ吹っ飛ばした。

 

 ボールのように弾み、大きな音をたて、瓦礫に突っ込む。立ち上がったときには、その大きな耳をしおらしくたらしていた。

 

「でかしたぜぇ!! アンヘル!」

 

 すかさず、ホセが瓦礫の影から飛び出る。大きく斧を構えて躍り掛かった。

 

「おらぁああああ!! しねぇえええ!」

 

 縦に勢いよく振られた斧が描く銀線は、阻害するものがないかのようにまっすぐ振り切られた。ホセ渾身の一撃は獣の額を真正面からかち割り、その血肉を辺り一面にぶちまけた。敵は真後ろに倒れながら、血の海に沈んだ。コロンコロンといつもより大きめの魔石が転がり落ちた。

 

 魔法を使う獣は死んだ。

 

 残ったのは、仲間を失い、大技を使い切った力の使えないおろおろするだけの獣だけだ。アンヘルはお返しに、嘲笑をくれてやった。

 

 同時に盾を投げ捨て、左足を踏み込む。右手を上段に構える力もない。それならばと、下段に垂れさがらせたままの棒をまるで打ち上げるが如く下から振り切った。その渾身の一撃は相手に回避の余地を与えない。

 強烈な攻撃は、相手をホセの近くまで吹き飛ばした。

 

「これで、しめえだぁ!!」

 

 ホセは宙に浮き、何もできない相手を赤く染まった斧で叩き割った。獣は何の抵抗も見せず、両断された。

 

 アンヘルは地に沈んだ2匹を、消え去りそうな意識の中で見る。そのとき、ホセがいままさに倒した相手は薄くなり、砂となった。そして、その死体から出た光がアンヘルの中に入ってきた。

 

 ――なんだ、今の?

 

 そう思った瞬間、こちらにホセが走り寄っていた。

 ホセはアンヘルが不審に思ったことなど目にも入らぬ様子で、満面の笑みでこちらに来た。

 

「よっしゃー! アンヘルもやるじゃあねえかよぉ!!」

 

 そういって右腕を大きく上げて手を開いた。

 アンヘルはそれをみて、弱弱しくハイタッチを返した。

 

 ――勝ったんだ。勝てたんだ。

 ホセを見るととても安心したのか、身体から力が抜けた。

 

「ぼ、ぼくだって……」

 

 カッコつけようと思った瞬間だった。

 ぶつりと切れた電線みたいに意識がなくなった。

 アンヘルは倒れた。

 

 

 

 §

 

 

 

「しっかっしよぉ、アンヘル。やっぱなさけねぇなぁ」

 

 はぁとため息を吐きながら、ホセは肩をすくめる仕草をした。

 

 アンヘル達は2匹の獣――『カーバンクル』に勝利したのち、少しの間身体を休め、セグーラの町に帰ってきていた。

 

「いや、だってあんなに大きな岩が直撃したんだよ! しょうがないじゃない」

 

 アンヘルは敵を打倒したものの、結局気絶してしまったことに言い訳をした。ホセは帰り道もこうやって、ねちねちとアンヘルをバカにしてきたのだ。とはいえ、本心からバカにしているわけではない。その言葉の節々には、全力で囮となったアンヘルの根性を褒め称えるている気配が感じられた。。

 とはいえ、アンヘルは穴に入りたい気持ちでいっぱいであったが。

 

 ホセはビールを口に運ぶ。

 つまみの料理をばくばくと食べた。

 

「鍛えてねぇから、そぉなんだよぉ。まあ、たたかいンときに倒れなかったのは、ほめてやっけどよぉ」

「だ、誰だって、あんなの苦しいに決まってる!」

「まぁ、そぉかもなぁ! おれなら、よけたけどよぉ」

 

 ホセの上機嫌な態度は止まらない。酒が入ると余計に饒舌だ。口が緩い。アンヘルが初めて見る一面であった。

 

「それなら、ホセが盾をやってよ! 運ぶところからだからね!!」

「へいへい。まぁ、そうおこんなよ。まあまあいい金になったんだからぁよ」

 

 獣の魔石はそこそこの値がつき、ひとつ3コインとなった。ただし、最後に倒した獣の死体はどこにもなく、魔石も入手することは叶わなかった。

 結局、行き帰りの道のりで得た魔石と狼の毛皮を合わせれば、合計でコイン5枚の収入である。多いとは決して言えないが、若い町民の日給よりはいくらか高いぐらいだ。浮草稼業の無頼の徒であるふたりにとってはなかなかの稼ぎであった。

 怪我をしないという前提に立てばの話ではあったが。

 

 アンヘルの直撃弾の怪我は重症ではなかった。岩球がぶつかりはしたものの、鉄球ほど重量があったわけでも、速度が出ていたわけでもなかった。

 硬球のライナーが至近距離で衝突した程度だろう。その上、盾というクッションを1枚かましている。これが尖った物質であれば即死だっただろうが、球状であったため肋骨が折れた程度で済んでいた。あくまでも、異世界の感覚であり、現代日本においては重症だったが。

 とはいえ、肋骨の骨折はさほど珍しいことでもない。人によっては肋骨が折れていることに気づかないもまま放置した結果、直っていることもあるほど肋骨は折れやすい骨である。アンヘルも自身の経験からそれほど痛まない自分の胸に大丈夫と判断し、自力で街まで戻ってきていた。

 

 アンヘルは無言で料理を食べる。

 この店の料理は、疲れた身体に染みわたるようだった。

 

「しっかし、なんでこの店なんだ。めしは、わるかねぇけどよぉ。たけぇし、混んでんじゃあねぇか」

 

 ホセの言葉どおり、菜の花亭は裏通りにある店と比べると幾分か割高である。そのうえ、ちょうど飯時にやってきたふたりはなかなか店に入れず、外で待たされたのであった。

 

 今は、夜も遅くなってきたのか客は帰り出しており、店は少しガランとしていた。

 

「めずらしぃなぁ、てめえが、あんなに言うなんてよ」

「別にいいじゃない、せっかくの勝利祝いなんだから」

「まぁ、わるいっていってはねぇけどよぉ。なんか、意外でよぉ」

 

 ホセは少し訝しるように顔を覗いてくる。

 そうやって疑われると、バツが悪くなった。この店には明らかに私情で来ていたためだ。

 

 すると手が空いたのか、栗色の髪を束ねた美貌の少女――ナタリアが声をかけてきた。

 

「あれ、あれあれ、この前の君じゃん! 仲直りしたの?」

「う、うん! そうなんだ。そ、その。それできょうは、仕事がうまく行ったから、お祝いに」

 

 アンヘルはこの瞬間に少し期待していた。

 その期待した瞬間の到来に、声は上ずり、頬が赤くなった。

 

「へぇ。ってことは、『塔』でうまくいったの?」

「う、うん。塔の前にいた奴を追いはらってさっ」

 

 彼女は仕事をひととおり終えたのか、くたびれたような表情をしながらアンヘルの横の席に座った。汗をかいていて、疲れているそぶりを見せている。しかし、アンヘルは横から漂ってくる花のような香りが気になって仕方なかった。

 

 変態アンヘルが匂いに酔いしれていると、ホセが肩をつついた。

 

「おい、おい! この女はだれだよ?」

「むかっ。失礼ねっ、この女なんて。わたしはナタリア、ナタリアです。菜の花亭の看板娘兼長女です。よろしくね! お、チ、ビさん」

 

 ナタリアはホセの禁句を言った。

 

「はぁ!? てめぇ、舐めてんのか!?」

 

「べっつにぃー、無礼者をバカにしただけですけどぉ」

 

 ふたりは立ち上がって言い合う。

 

「ふざけんな! このむねなしが!!」

「いっ、言っちゃいけないことを! そんな乞食みたいな服きてるくせにっ!」

 

 ナタリアは胸を抑えながら、顔を真っ赤にして反論する。

 しかし、ホセには堪えた様子はない。

 

「へぇへぇ。おれたちゃ汚いですよ、におってみっかぁ?」

 

 アンヘルの胸にグサッっと来た。

 

 ――さっきの言葉を気にしないよう心掛けていたのに……。やっぱり汚いよね……。

 

 街に来るまで3日、街に来てから4日。洗ってはいるものの常に同じ服を来ている。服からは()えた生ごみみたいな匂いがしていた。

 

 気になってはいた。しかし、金がないんだ。そうやって言い訳していたら、ぼろきれを纏う浮浪者に職業を変更していた。きょうの金で、街行き用の服を買おう。アンヘルはそう心に誓った。

 

 へこむアンヘルを尻目にふたりはさらにヒートアップする。

 

「てめぇみたいなのが目にはいると、めしもまずくなんぜ。ブース」

「な、な、な。だ、だったら、店に入らなければ、いいんじゃない?」

「こっちは、金はらってんだぜぇ。客だぜ、客」

「あんたなんか、こっちから願い下げよ! さっさと帰んなさいよ。あ、えっと、君は別だからね……。って、君、名前なんだっけ?」

 

 そういうとナタリアはてへっと舌をだしながら、尋ねてくる。

 そんな仕草ひとつひとつにアンヘルは緊張した。

 

「あ、アンヘル。アンヘルです」

「ふむふむ。アンヘルね。覚えた覚えたっ。それで、あなたは? 一応聞いといてあげる。アンヘル君の友達みたいだし」

 

 そういいながら、ぶっきらぼうにホセへ尋ねる。よほど、胸なしが腹に据えかねたのだろう。怒りは冷める様子がない。

 

「ホセだよ、ホ、セ。そのちいさなむねにしっかりつめこんどけやぁ」

「さ、さっきから言っちゃいけないことをぉ!!」

 

 ホセも止まらない。チビはホセには禁句だし、なにより酒が入っている。シラフであれば、女に対してはそれほど熱くならない。

 

 もう、取っ組み合いになりそうなほどふたりはにらみ合っている。

 

「あぁ!? やんのかぁ?」

「これるもんなら、来てみなさいよっ。女を襲う度胸なんてないくせにっ」

 

 売り言葉に買い言葉。

 アンヘルはおろおろすることしかできない。

 まさかの、強敵出現である。

 獣どもよりも遥かに厳しい困難が街で待ち構えていた。

 

 アンヘルはこのような知り合い同士の喧嘩が最も苦手であった。

 コミュ障には厳しい戦いだ。

 

 何か、なにか止める方法はないか。

 そうやってアンヘルは考えていた。

 おろおろしているだけで意味はなかったが。

 

 よく見るとナタリアの顔も赤くなっている。

 おそらく、店の付き合いで少し飲んだのだろう。

 そうでなければ、これほどの小さな諍いで飲み屋の店員が憤るわけはなかった。

 

 ホセからは獣のような唸り声が聞こえる。

 ナタリアは腕を胸の前で組みながら、ホセを睨みつける。

 

 助けの声は店の奥から響いた。

 ナタリアの父にして、菜の花亭の店主、ペドロが声をかけた。

 

「おい、ナタリア! 遊んでんじゃあねぇ、さっさと片づけ手伝え」

 

 それは、言葉通りの意味ではなく、争いを止めるための言葉だった。新たな人手が必要なほど、店内は混みあってはいなかった。

 

 しかし、ナタリアはその言葉で客と争っていた自分を客観視して、冷静になったようだ。

 父親に対して、取り繕ったような声で元気に返事を返して、身繕いをする。

 

 そしてアンヘルに向き直って言った。

 

「ごめん、ごめん。もう行くね。……また来てね、何かサービスするかさっ。……あっちの子はなしで」

 

 そういって駆け出していく。

 その後ろ姿さえも可憐だった。

 

 ホセがぼやく。

 

「なぁんだ、あのおんな! むっかつくぜぇ!」

 

 そういってドガッと椅子に座る。

 怒りを冷やすためか、ビールをグイッと呷った。

 

 ――むかつくのはこっちだよ。楽しい時間をじゃましてさっ。馬に蹴られてしまえばいいんだ。

 

 喧嘩だったけど、ナタリアと喋っていたホセの顔が少し妬ましい。

 アンヘルはホセに対して初めて殺意を覚えた。

 

 げに恐ろしきはナタリアの魅力かな。

 

 



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第七話:新たな力

 10回。

 アンヘル達が塔の内部に挑み、そして敗走した回数である。

 

 塔の内部は外観より意外に小綺麗で、モンスターが住み着いているとは思えなかった。日の光が届かず、松明を用いてなんとか一寸先が見えるほどの暗闇であったが、道は平坦であり、ふたりにとっては森よりも余程戦いやすい空間といえた。

 

 彼らを阻んだのはモンスターである。といっても、強烈に強くなったわけではなかった。多少の戦闘能力の違いが外部と内部で生じていたかもしれないが、彼らはその違いを感じ取れなかった。

 変化したのは数である。戦いにおいて勝利を決定づける因子の最たるものは、この異郷の地においても数であった。それは、モンスター達の魔窟たる『塔』においては覆せないことであった。

 

 しかし、ただ手をこまねいていたわけではない。アンヘル達は内部に挑戦する1ヵ月あまりの間に、多くの力を得た。中でも、大きく変化したのは、装備の充実と彼ら自身の成長であった。

 

 防具は非常に重要である。

 農村から出てきたままの装いで、探索に行くにはさまざまな困難がある。石や木々に引っかかるだけで簡単に出血し、まったく衝撃を吸収しない麻の服では本格的な攻略は不可能だとふたりは判断した。そこで、有り金のほとんどを投入し、全身をすっぽり覆う皮の服を手に入れたのであった。小型モンスターしか存在しない『塔』においては、石の投擲魔法が最も恐ろしい攻撃であるため、頭部さえ防護すれば苦戦してきた戦闘もなんとかなった。

 

 そして、とりわけ精神面の向上は著しかった。

 ダンジョンにおいては、そこに満ちる力によって来訪者の強化が行われるが、たった1ヵ月程度ではふたりに劇的な進化が進むことはない。強いて言えば、同年代の農民よりも筋力や持久力が上回り、戦士としての一歩を踏み出し始めたといったところである。

 それは技量についても同じである。誰の師事も受けず、独力で攻略を続けてきた彼らにとって、効果的に技芸や腕前を体得することは不可能である。

 変化したのは精神面。とりわけ戦闘への忌避感と攻撃に対する恐怖心の欠如が進み、一般人よりもはるかに荒事へ精通していった。そのため、相手に対して躊躇せず突っ込み、容易に敵を討ち(たお)すようになっていた。

 しかし、同時に戦闘経験が増したことによって戦況を冷静に判断でき、相手との戦力差が鮮明に把握可能となったため、数の差による被害把握が可能となってしまったのだ。

 

 被害を無視すれば戦闘に勝利することは、決して不可能ではない。数が増えたといっても、所詮『ぶるぶる不思議最弱雑魚モンスター』集団である。有効な攻撃方法は突撃ぐらいであり、武器で防御することはなんら難しくない。

 それでも、ふたりが強攻しなかったのはリスク管理を考えたからであった。万が一大怪我をしてしまった場合、ふたりには何のリカバリー手段が存在しない。そして、怪我で仕事ができない体になった場合、飢え死にが待っている。アンヘルは生来の臆病な面から、ホセは意外にも合理的で機知に富んだ思考から、冷静に判断し、撤退という道を選択していた。

 

 継続して攻略を続けられた最大の要因は、新たな力――アンヘルに岩球を投げつけた獣『グリーンカーバンクル』が仲間に加わったことである。敵対していた当初感じていた小面憎い『リーン』――アンヘル命名も、配下として収まれば、愛くるしさの溢れた可愛いやつであった。

 アンヘルたちを散々苦しめたリーンの魔法の力は、防具を持たない人間には多大な痛みを与えるが、毛皮や身体を強化するモンスターには無意味であった。しかし、リーンはそれとは別に優れた力を持っていた。『癒しの光』である。一日に何度も使用できるわけではないが、その癒しの力は軽傷に対しては大きな力を発揮した。小さな傷は日々絶えなかったが、リーンを使えば次の日には元気になる。長期に渡る探索を支えた大きな要因のひとつであった。

 ホセに召喚士の能力を隠していることに対してうしろめたさを覚えないと言えば嘘であったが、アンヘルはもはや意固地となっていた。ホセは一番の友人――そもそも友人と呼べるほどの人物は他にいないが、商人の言葉から中々に言い出せないのであった。そのうえ、実質的な召喚士としての能力はホセに対して寄与していた。シィールの魚取り能力は勿論のこと、リーンの癒しの力も、ホセが眠った後使用すれば良かったのである。アンヘルは嘘をついていることに申し訳なさを感じていたが、召喚能力の恩恵を与えていたためその感情はしだいに相殺されていったのであった。

 

 さまざまな要因から成長を遂げ、安定して塔の前の門番どもを排除可能となり、金には幾ばくかの余裕があった。一度の探索において、町民の日給よりも少し高い額を受け取る事ができていた。当然ながら、連日探索を行うことは体力面から考えても不可能であり、気候や準備の関係からも難しい。

 よって、数日に一度のペースで仕事につくふたりには、十分な金があるとは言えなかったが、それでも上京してきた農民よりは安定した生活を送れていた。

 

 そんな最中、11回目の挑戦でホセは言ったのだった。

 

「……人、ふやすかぁ」

 

 それは、たったふたりの探索に限界を感じ始めていた気持ちの吐露であった。

 

 ホセは、探索に出ない間、瞬く間につくった友人――アンヘルは話で聞いただけで会ったことはない、と飲む打つで時間を潰していたが、それにも半月ほどで飽き街で仕事を探すようになっていた。そして、その探索者としての能力を生かし、街で用心棒の助っ人を何度か引き受けている様子だった。

 ホセは常々、ビッグになりたいと大成願望を覗かせていた。アンヘルは、この願いを探索者として成功したいとおもっていたが、それは勘違いであることに漸く気が付いた。ホセは、どんな手段であったとしても成り上がることを目的としていたのだった。

 

 されど、用心棒稼業は中々に難易度が高かった。金の取り立てや酒場の護衛には、実力よりも相手が手を控えるほどの見た目が肝要である。『塔』への探索に赴き、街で暮らす住人とは格別したほどの実力を備えているホセだったが、その風貌は唯の子供である。どれほど実力があろうとホセでは不十分であった。

 そこで、ホセは組織に重宝されるよう、仕事のない農民上がりの若者を集ってグループを作ろうとしていた。そのために、子分を抱え込む資金が必要であり、金を集めたがっていた。そこから出た言葉だった。

 

 ホセは、街から帰った次の日アンヘルに最低ひとりの仲間を探すように言いつけ、出かけていったのだった。

 

「……新しい仲間なんて、いないよぉ」

 

 そういってうなだれる。アンヘルはホセが倉庫を出ていった後、口入れ屋に来ていた。

 

「……おいおい、いきなり来て飲んだくれるたぁ、いい度胸じゃねえかよ」

 

 呆れたような口調でゴルカは言った。その言葉の中には、出会った当初に含まれていた嘲りはなかった。

 アンヘルはナタリアや町民からの視線から学び、服装の重要性に気づいていた。人口の多い都市においては、村とは異なり出会う人すべて覚えることは難しい。彼らが、何によって農村出身者を迫害しているかといえば、それは服装である。

 簡潔に言えば、アンヘルのみすぼらしい出で立ちをみて、町民は差別していたのである。魚で食費をカバーできるアンヘルは、その余裕を使って、普段着とは別の外行きの衣裳を仕立てたのであった。その効果は抜群で、普通の農民とは違い、教養のあるアンヘルの立ち振る舞いは、顔以外はいいところの坊ちゃんのようであった。

 また、アンヘル達は農民出にしては稀なほど、探索者稼業をこなしていた。通常の人間であれば、力仕事と同じ報酬の命懸けの仕事を続ける事はできないが、若さと勢いで1ヵ月もの間継続していたのだ。そのため、口入れ屋の連中からは根性のあるやつとして、仲間と認められ始めていた。

 

 ――それなら、見習いにしてほしいとは思うが……。

 

「でもさぁ」

「でももクソもねぇよ、しかも酒じゃなくフルーツ水とはなぁ。てめぇも男なら、酒飲んで売り上げに貢献しやがれ」

「はぁ。……おかわり」

 

 そう言って、アンヘルはフルーツ水を頼む。ゴルカは呆れながらも、空になったカップへ注いだ。

 

「で、なんで悩んでんだ?」

「流石にふたりじゃ、進むのが厳しくて……。人を増やしたいんだけど……」

 

 ゴルカは頷いて、納得の表情を浮かべた。

 

「まぁ、そうかもな。……大体の連中は5、6人で組んで仕事するからなぁ。いくら『塔』とはいえ、ふたりじゃ苦しいだろなぁ」

 

 そういって、ゴルカは就業時間にもかかわらず酒をついで飲み始めた。彼とは、近頃飲みあう仲となっていた。

 

 ホセが街にいる間新しい仕事を探したように、アンヘルも時間を潰すためいくつか試したことがあった。

 まずは、武術である。道場に見学へいったのである。アンヘルは、道場で見た光景を中々忘れることはできなかった。しかし、通う金などありはしない。よって、物陰からコッソリと様子を伺い、基礎技術らしきものを持ち帰って鍛錬した。身体を動かすのは嫌いでなかったし、博打や酒に興味を持てないアンヘルには十二分に娯楽となった。正確な指導を受けている訳ではなかったので、意味があったかわからなかったが。

 しかし、一日中身体をいじめるのは精神的、体力的に無理があった。打ち合う相手もいないのだから当然である。そこで、無聊を慰めるため口入れ屋に通い、情報を仕入れることにした。当然、見習いでもないアンヘルに、金に直結する仕事の情報を与える者など存在しない。それでも、気のいい探索者達は、アンヘルの塔における研鑽に対して感心を示し、アドバイスをおくったのであった。

 縁故とはどの時代においても、大きな力を持っていたのであった。

 

 ゴルカはどんな時も店に詰めている関係上、アンヘルとよく顔を合わせ、仲良くなったのであった。

 

「いいことなんじゃあねえの、先の事を考えるならよぉ」

「それは、そうなんだけど……」

「なら、何が問題だってんだ?」

「いや、その……」

 

 悩みを告白するには勇気がいった。まるで友達がいないことを告げるみたいであった。実際に、ホセとゴルカ以外で気安く会話できる友人はいなかったが。

 

「えっと、その。ひとり仲間を探さなきゃいけなくて……。それで」

「そんなの、そこら辺の農村から来てるやつらをひっぱりゃいいだろうがよ。少しくらいいるだろが、知り合いがよ」

「え、ええっと」

 

 そうなのである。多くの農村から来た住民の多くは、彼ら同士でコミュニティを作り、情報交換や仕事の斡旋まで行っているのである。それは、街から白眼視される弱者の防衛行動の一種であるのかもしれなかったが、人見知りの激しいアンヘルはコミュニティに参加したことがなかった。

 アンヘルが彼らを頼らずとも独力で生活可能だったことが、人間関係を狭めさせてしまった要因でもあったが。

 

「いや、その……知り合いが、いなくて……」

「はぁ!? もう街に来てから1か月近く経つだろうが! いままで何してやがった?」

「そ、そうなんだけど……、いなくて」

 

 アンヘルは顔から火が出そうなほど赤くなった。身体がぎゅっと縮こまった。

 

「おまえぇ……。一ヵ月で知り合いがいないって、やばすぎだろぉが。もしかしてまともに喋れる奴なんて俺以外いねぇのか?」

「い、いや、そんなことは……」

「なんだぁ? マジで大丈夫かよ。そんなんじゃ生きていけねぇぜ」

 

 そうやって説教する体勢にゴルカは入る。酒が進むと、こうやって講釈を垂れるのがゴルカの癖だった。

 

「そんなんじゃよぉ、女なんて一生できねぇよ。いいぜぇ、女の肉ってやつはよぉ。ジュースなんて飲んでやがる、お子様のお前にゃ分からんだろうがな」

「別に、酒が嫌いって訳じゃないよ。好きじゃないだけで……」

「そういうとこが、ガキだってんだよ。まあ、お前にゃ気になる女なんていねぇんだろうが。――俺がお前ぐらいんときゃよ、自慢の棒でそこらの女どもを突いてヨガらせたもんだったがなぁ。もったいねぇぜ、いまヤっとかなきゃよ」

 

 そういってポンポンと馬鹿にするように背中を叩く。

 

「ぼ、僕だって気になる子ぐらいいるさっ」

 

 ちょっと頭に来て、アンヘルは言わなくてよいことを返してしまう。アンヘルのその返答が気に入ったのか、ゴルカは興味津々といった様子を見せた。

 

「へぇ、どこのだれだい?」

「え、いや、その……」

「おぃ!? 男だろ、さっさと言いやがれ」

 

 背中を叩いて急かしてくる。

 

「その。その、『菜の花亭』の、ナタリア、さん……」

 

 勇気をふり絞って言った。友達がいない告白よりもさらに恥ずかしかった。今日はまちがいなく厄日だった。

 

 ゴルカはアンヘルの返答に一瞬ぽかんとした後、大爆笑した。ゴルカは腹を抱えて笑う。ガランとした店内にゴルカの野太い笑い声が響き渡る。目に涙を浮かべながら苦しんでいた。

 

「な、なにが、おかしいんだよ!?」

「はっはっ! いやあ、悪い悪い」

 

 口では謝罪しながらもその顔には笑いが乗っていた。彼はなんとかこらえながら、神妙な顔を無理やり作り続きを言った。

 

「なぁ、悪いことはいわねぇからやめとけって。どーせ無理だからよ。ナタリアちゃんっていえば、ここらのアイドルだしよ。なんでも、この街の騎士様が求婚したって噂もあるくらいだぜ。お前なんかが相手にしてもらえるわけねぇよ」

 

 アンヘルは否定されたのに腹がたって言い返す。

 

「で、でも、店に行ったら色々喋ってくれるし……」

「かあぁ! これだから、ガキはよぉ。そんなン、トークに決まってんだろ、営業トークによぉ」

「そ、そんなの、見てないゴルカには分かりっこないじゃない!!」

「いいや! わかるね。そんなの、店の酌婦じゃ普通のことだぜぇ。それに、ナタリアちゃんがお前ぇみたいなナヨナヨ好きになるなんざぁ、天地がひっくり返ったってありえねぇ! 俺みたいな男らしい奴なら、惚れるかもしんねぇがよ」

「う、う、うるさい! ナタリアさんはそんな人じゃない」

 

 机をバンと叩いて立ち上がる。飲んでもないのに、アンヘルの顔は真っ赤だ。ゴルカはおもしろそうにおちょくってくる。

 

「まぁ、なんにしてもおめぇみてぇな短小野郎じゃナタリアちゃんは振り向きもしねぇさ。ほら、悪かったよ、今度いい女がいる店に連れてってやっからよ」

 

 ゴルカはからかいながらも慰めてくるが、アンヘルは収まりがつかなかった。懐から金をとりだすと「お勘定」と言いながら机に叩きつけ、店を出ていく。アンヘルの背後からは、楽しそうな声で「まいどー」と声が聞こえた。

 

 クソと地面を蹴る。

 通りは人通りが多く、騒然としていた。頭を冷やしながら、周囲を物色する。

 

 ――そんなのさ、わかってるんだよなぁ。高嶺の花だってことはさぁ……。

 

 ナタリアは誰が見ても垢ぬけた容姿をしている。健康的に焼けた小麦色の細い手足、なだらかな撫で肩は落ち着いた印象を思わせるが、快活な笑顔がその印象を反転させる。その整った容貌は、綺麗どころが揃っている【菜の花亭】においても抜きん出ていた。肉感的に十分とはいえない体つきなので好みでない男性もいるだろうが、毛も生えそろったばかりのアンヘルにとっては気にならない要素であった。

 

 そのうえ、彼女は向日葵のように明るい性格をしていた。アンヘル達よそ者はときに差別を受ける。生活や服装の基盤を整えた今でこそ、差別を受けることは減っていたが、浮草稼業を続けるアンヘルを排除する風潮はある。それを理性で抑えながらも見え隠れする偏見の目も同じだ。しかし、最初から無縁でいることのできる場合もあった。稀にしか見かけられないが、アンヘルにとって彼女はそんな存在であった。

 

 ナタリアに会うことはアンヘルにとって、最大の楽しみとなっていたのだ。少々チャンスを夢見るのは、年頃の少年にとって致し方のない。

 ぶつぶつと呟きながらも、その足取りに迷いはない。勝手知った風に街を歩いてく。ひと月も経ち、お上りさん全開行動はなくなり、街に完全に溶け込んでいた。探検雑貨を販売している行きつけ店の中年女性が、アンヘルに気づいて声をかけてくる。アンヘルは、彼女にちょっとした世間話を返し、通りを歩く。

 会話によって冷静になったアンヘルは、これからどうしするか考える。

 

 ――店に行こうかなぁ。けど、まだ早いしなぁ……。

 

 【菜の花亭】の開店は日が暮れてからである。まだ、日も高いためアンヘルは手持無沙汰になった。ふと、なんとなく店の間の路地裏を見た。

 

 そこにはふたりの男がいた。

 ピタリと寄り添っている禿頭(とうとく)の中年と筋骨隆々とした若い男が視界に入った。若い男は、口入れ屋によく来る探索者のひとりで名をリンヘルといった。

 ふたりは誤解の余地がないほど、寄り添って身体をまさぐっている。そして腕を絡ませながら、互いの股間のふくらみを蛇のように掴んだ。奥まった場所で行為に及んでおり、他の人は気づかない様子である。

 アンヘルはギョッとして、立ち止まった。まさに常軌を逸していた。あまりの光景に、アンヘルの純朴な精神はガラスのように砕け散りそうであった。

 

「いけない。ヘッド、こんなとこじゃ。あっ」

「そんなことを言って。ここはこんなに固くなっているぞ。ほら……」

 

 ヘッドと言われた男は、夏に差し掛かろうかといった暑さの中、荒く呼吸しながらリンヘルの唇をベロベロ舐め始めた。ヘッドの二股でわれたような醜く長い舌は頬を経由し、耳へ辿り着く。ネチャネチャと粘ったような湿った幻聴が頭に注がれた気がした。

 若い男は、その大きな身体に似合わない手つきで、その瞳を蕩けさせながら相手の起立を丹念に撫で上げる。両者の下半身は卑猥に蠢いていた。

 

 ――えぇええ! うそでしょ!?

 

 アンヘルはそう叫びだしたいのを我慢しながら、神がもしいるならこの場に現れて、奴らに神罰を与えてほしいと心のそこから願った。

 しばらく待って、まったく、なにも起きないことにアンヘルは真理へ辿り着いた。神などいないのだと。

(ええっ! うそでしょ! こんな、こんな場所でアームストロング砲と肉団子の大運動会ってなんだよ!! こっちはこんなに悩んでるのに、リンヘルと次会ったとき、どうすればいいんだよぉおお!!)

 

 リンヘルはアンヘルと名前の響きが似ていることから、食事を幾度かおごってくれた気の良い人物であった。それがアンヘルのリンヘルに対する印象である。それは、この光景を見るまではであったが。

 そんなアンヘルの事情を斟酌せず、ふたりの男たちの手はベルトに伸びる。カチャカチャという金属音が、異様に汚らしく聞こえた。熊のような下半身が視界に入る。あまりの異常さ加減に、気が狂いそうだった。

 アンヘルは目を閉じた。そして、口を絶対に開かないよう、手で封じた。開けば、吐きそうだったからだ。向きを変えると、全速力で走る。地獄から遠ざかるように全力で。

 

 何も考えずに走った。通り過ぎる人を突き飛ばしながら走り抜けた。そして、大通りに来ると手を地面について息を吐いた。食べた物が少し出てきそうであった。アンヘルは涙目になりながらもこらえた。

 最低な気分だった。本当の厄は遅れてやってきた。

 そうやって俯いているアンヘルに声がかかった。地獄に咲いた一輪の花だ。

 

「あれっ? アンヘル、アンヘルじゃない!」

 

 そう言った女――【菜の花亭】の看板娘、ナタリアはアンヘルに駆け寄ってくる。仕事中ではないためか、髪を下ろしている。手には大きな買い物袋を持っていた。服装もいつもの派手な服装とは違い、固い印象を与える。

 

「もおぉ、ダメじゃない! こんな大通りで座りこんだりしたらっ!」

 

 そう言ってプリプリと怒った表情をする。彼女はこうやって、感情表現豊かにコロコロと表情を変えた。

 

「ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」

 

 アンヘルは立ち上がって、服の埃を払った。

 

「う、うん。大丈夫、大丈夫だから」

「どうしたの、こんなところで?」

 

 今度は心配そうに聞いてくる。顔には不安が貼り付いていた。

 

「い、いや、大丈夫だから。心配しないで」

「でも、普通じゃないよ、こんなところで。何かあったんじゃないの?」

「じ、地獄から抜け出して来たんだ。これ以上聞かないで」

 

 そう言ってこの会話を終わらせようとする。ナタリアは怪訝そうな顔をしたが、アンヘルは頑として言わなかった。

 

 ――こんな、下品なこと、ナタリアさんには言えないよね……。

 

 ごまかすために、何でもない風に笑った。そんなアンヘルにナタリアはしょうがないなぁというふうに笑った。

 

「じゃ、ちょっと手伝ってよ。買い物っ」

 

 そう言ってアンヘルに買い物袋を差し出し、歩き出す。もう先ほどの話は忘れたかのように、ルンルンと軽い足取りだった。

 

「アンヘルはこの辺に来ることってある?」

「う、ううん。あんまり、かな?」

 

 大通りは高級店や食材の小売店が並んでおり、アンヘル達探索者には縁遠い区画であった。特に、節約とばかりに魚ばかり食べているアンヘルは、大通りで買い物をしたことはなかった。ホセは魚嫌いで、金ができるとさまざまな店に出向いている様子だったが。

 

「じゃあ、いろいろ教えてあげるっ! あっちの服飾店は流行りものばっかりでいいし、あっちの小物店は……」

 

 ナタリアは嬉しそうに周囲の街を紹介してくれる。この街で生まれ育った故の知識と愛情が言葉の端々に現れていた。その、きらきらした笑顔がアンヘルに輝いて見えた。

 

「……で、それであっちの……。って、聞いてるのっ! せっかく教えてるのにっ!」

「ご、ごめんなさい。聞いてます、聞いてますから」

「もおお。ほんとうにぃ!? じゃあ、あの建物は?」

 

 なんとか、説明を絞り出す。見惚れていたなんて、アンヘルは思われたくなかった。アンヘルの答えはなんとか合格点を得た。

 

「ふうん。いちおう、きいてるみたいね、一応だけど!」

 

 そうやって、クルッと向きを変える。どうやら、機嫌を損ねたようだった。なんとかしようとアンヘルは話題を変えた。

 

「え、っと。ナタリアさんって昼間よく来てるの?」

「だーかーら、ナタリアで良いっていってるじゃないっ」

 

 そう言いながら、彼女は逡巡したような顔をした。

 

「何時もはもっと遅くに来るんだけどね。料理の買い出しとかもあるし。けど、最近なんか視線を感じるっていうか……」

「ええ!? それって大丈夫なの?」

「大丈夫、心配ないって。こうやって昼に来てるんだし。こういうの、たまにあることだからさっ。それに、きょうは、立派なナイト様がいるみたいだしっ」

 

 そういってからかうような笑みを向けてくる。人差し指をちょんちょんと向けてくるのが、アンヘルの心を躍らせた。

 

「で、でも全然ふつうじゃないよ! そんなの」

「まぁまぁ、大丈夫だからっ。それに、この街に堅気の娘に手を出すような人はいないって」

 

 そう言ってクルクルと回る。整備された歩道の端にある段差へ登り、平均台をすすむようにゆらゆら歩く。彼女のスカートがはらりと舞った。

 

「で、でも、心配だよ」

 

 アンヘルは、気負ったように周囲を確認した。人通りはあるが、みんな普通にみえた。

 

「もう、そんなに心配しなくていいよっ。ふつうにしよ、ふつうに、ね」

「いや、でも……」

「はい、この話はもう終わりっ。さっさと行こう!」

 

 そう言って彼女は段差から飛び降りると、踵を翻して進んでゆく。強い女性だなぁとアンヘルは彼女の新たな一面を知った。

 そうやって、たわいのない会話を繰り広げる。アンヘルはこの世界に来てから、最も幸福に溢れた時間であった。

 しかし、その時間は無粋な声に遮られた。

 

「おい! きさま。なにをナタリアさんにちょっかいを出している。この、不審者め!!」

 

 その声とともに、外套を翻し、腰に携えた木刀を引き抜いた。アンヘル達が気づいたときには木刀を大きく振り上げ、飛びかかっていた。やられる、とアンヘルが目を瞑った瞬間、ナタリアの制止がかかる。

 

「待って!! この人は違うのっ!」

 

 男が降り下ろした木刀はアンヘルの額ギリギリで止まった。

 

 目を明けたアンヘルが目にしたのは、怪訝そうな顔をした赤毛の男であった。

 道場で異彩を放っていた男、その人であった。

 

 

 

 

 

 



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第八話:ニューフェイスたち

「いやあ、すまん、すまん」

 

 そう軽く言って、赤毛の男は謝罪した。

 

「ナタリアさんから、最近不穏だってのを聞いてたから。君は道場でも不審者扱いされてたし、危険かと早とちりしてしまって……」

 

 赤毛の男――名をホアン・ロペスは、アンヘルより幾ばくか年上の青年であった。背丈はそれほど変わらず、百七十に届かぬほどであった。身体は、武芸者らしくムダな肉は一片もないがっしりと引き締まった筋骨であった。顔立ちは爽やかで、さながらエリートスポーツ選手である。

 ホアンはその特徴的な赤髪をゆらし、アンヘルに頭を下げた。

 

「え!? 何、不審者って……」

 

 そういって、こちらを見てきたのはナタリアである。少しだけアンヘルから距離をとる。ホアンの道場不審者発言が気になったのであろう。驚いたように、口元に手を当てながら聞いてくる。

 

「ああ、道場をずっと見てくる不審者だ。道場を見る奴は、少なくはないが初めから終わりまでずっと見てるやつなんかいないからな、見てたろ?」

「え、いや、その……そうだけど」

 

 完全にアンヘルの仕業とばれているようで、ごまかしの類は通用しそうになかった。アンヘルとしては、物陰から覗いていており、不審に思われているとはまったく考えていなかったが。

 

「なんで、そんなことしてたの?」

「あっ、その……かっこいいなぁって」

 

 アンヘルは穴があれば入りたい気持ちになる。しかし、正直に白状したことが功を奏したのか、ホアンとナタリアは顔を見合わせて笑った。

 

「いや、そうかそうか。そういうことだったか」

「やっぱり、男の子ってやつかなっ?」

 

 ふたりは微笑ましいものを見る目でアンヘルを見る。その視線に余計にいたたまれない気持ちになった。ホアンがバシバシ背中を叩く。

 

「まぁ、だけど、これからはやめたほうがいい。他の門弟も金を払っているわけだから。あんなに長時間見学しているのは倫理に(もと)る」

 

 ホアンは真面目な顔になりながら注意してきた。

 

「は、はい。もうしません。すいませんでした」

 

 アンヘルはそう言って頭を下げる。そうすると、この話はもう終わりとナタリアが両の手をパンと合わせた。

 

「もう、いいじゃない。ねっ、ふたりとも。そういえば、自己紹介もまだだったね。こっちはアンヘル。見習い探索者さんよ。それで、こっちは軍入りを目指してるホアンよ」

「ホアン・ロペスだ。よろしく」

 

 そういって、ホアンは手を差し出してきた。

 

 ロペス。

 ホアンはロペスと性を名乗った。

 

 貴族ではない。貴族は爵位をミドルネームとして持つ。そして、爵位は貴族にとって名誉であり、誇りである。貴族はその誇りたるミドルネームを隠したりしないのである。例外も存在するが、堂々と性だけを名乗ったホアンには当てはまらない。こうやって、名前の後に性がつくのはいわゆる軍人の勲章姓。つまり、三等騎兵以上の地位にある軍人――恐らく父親が、戦勲を積んだ報酬として家族に姓を授かったということである。三等騎兵以上の軍人は、いわゆる現場指揮官に相当する。つまり、ホアンはこの都市における一定の地位を得た男の息子であることを示していた。

 

 アンヘルは差し出されたその手を握り返した。豆が潰れたゴツゴツした手のひらであった。

 

「しっかし、ひょろく見えるが、探索者なのか。君は」

「まぁ、見えないかもしれないですけど。一応、探索者です」

「ふうん。まぁ、手はなかなか鍛えてそうな感じだったけど……」

 

 体格と瞳はその人物の多くを映じている。アンヘルは魚取りや探索者稼業を続けていくうえで、急激に向上した食糧事情によって、身体が驚くほどの勢いで成長していた。急激な成長のために、どうしても筋肉が追いつかず、ひょろく見える身体つきと、その精神性を表した素朴な瞳から、どうしても探索者と思われにくいのであった。

 

「ホアンさんは、軍人を目指しているんですか?」

「ん、ああ、ホアンでいいよ。ああ、それで、軍か。父さんが軍人でね。俺も、軍人を目指そうかなって。いま、あの、士官学校上級士官養成課程(エリート)を目指してんのさ」

「えりーと? そ、それで、道場で訓練しているんですか」

「ああ、試験にも軍で活躍するにしても、腕前は重要となるからね」

「ホアンはすごいのよ! 16なのにもうすぐ、伝位に届きそうなんだから。この前あった、若者の剣術大会で優勝しそうなところまでいったのよ」

「すごい、そんなに強いんだ!」

「まぁ、若者ばっかりで腕自慢のやつは出場してないからっ。まぁ、それでも腕には多少の自信はあるが」

 

 そうは言いながらもかなりの自信が伺えた。剣の腕に絶対の信頼があるようだった。

 アンヘルの脳裏に華麗な剣戟で師範と思われる人物から勝利を手にしていた光景が蘇る。

 

「そうだ、君も門徒にならないか。探索者なら剣の腕はあって困るもんじゃない。それに、ずっと見学するより習ったほうが効率いいぞ。誰の目にもはばかられず、見学もできることだしな」

「いや、でもお金が……」

「あぁ。そうか、まあ高いな……」

 

 アンヘルも幾度か道場に入門しようとした。セグーラの街には、ホアンが通う道場以外にもいくつか道場が存在しているが、どの道場もアンヘルの薄給で賄える月賦ではなかった。

 何事にも習い事というものには金がかかるものである。中でも、道場はいわゆる私塾の役割も兼ねていた。軍人の卵を養成する私塾である。当然、読み書きや学問についての指導も行ううえ、力をもった人物が荒くれ者にならないよう道徳倫理や仕事の斡旋まで兼ねている。必然、上流階級の人間かコネのある人物にしか通うことが許されない。

 

「ま、それでも諦めないでくれ。剣術の指南だけなら、割安で人を受けることもあったらしいから、昔は。いま、師範の数が少ないからやってないが、いつか再開するはずだ。それまで待ってくれ」

 

 そういって、ホアンは慰める。

 アンヘルは剣術の指南のみが行われていることを初めて知った。

 

 ――あとで、詳しく調べよう……。

 

 ホアンとアンヘルがふたりだけの世界に入っていたのが、気に食わなかったのだろう。ふんふんと拗ねた素振りをナタリアが見せる。

 

「もういいっ? 私たち、買い物があるんだけどっ! そんなに剣の話ばっかりしちゃってさっ」

「えっと。すいません。盛り上がっちゃって」

「もう、みんなそうやって女を除け者にしてさっ」

 

 そう言いながらも、もう怒りの色はない。

 参加するタイミングを見計らっていたのだろう。

 

「お金がないなら、ホアンが教えてあげたら? ホアンって実力あるらしいし、せっかく今日知り合ったんだから。剣で叩かれそうになったんだから、それくらいお礼してあげなよっ!」

「それは無茶だ。師範じゃないから。そんな勝手したら、破門になる」

「ふうん。意外と厳しいのね。道場もさっ」

「ああ。まあ、アドバイスぐらいならしても構わないけど」

「あれ、言っといてあれなんだけどさっ。ホアンって暇なの? 働かなくていいの?」

「暇なわけがない。こっちは試験までに腕磨いてる途中なんだ」

「へー。」

 

 ホアンに強い口調で注意されてもナタリアが興味を示す様子はない。恐らく遠い世界の物語のように感じているのだろう。アンヘルにも、ホアンが遠い世界で暮らす人物に見える。歳はさほど変らないのに、将来に対するヴィジョンがまるで違った。

 

「その、試験って、いつあるんですか?」

「いつって言うか……。この街にはないよ。ここは帝国の辺境だから。皇帝直属領帝都グラディラウスか元老院属州にしか、士官学校上級士官養成課程(エリート)のある帝国軍士官学校はないんだ。来年の春にそこまで受験にいくつもりだ」

「す、すごいね」

「凄くないよ。受かってもないからな。語るだけなら誰だってできるさ」

 

 帝都、元老院属州、エリート。アンヘルが知らない言葉ばかりすらすらと出てくる。ホアンは、剣の腕だけでなく知識に関しても十分な研鑽を積んでいるようであった。

 

「で、でもそれなら、この街を離れることになるんじゃないですか? 不安じゃないんですか?」

 

 ホアンはおもしろそうに笑った。

 

「男は冒険してこそっていうだろ! 君も街に生まれながら探索者なんて志した癖に、妙なことを聞くんだな?」

「え、アンヘルは違うわよっ。たしか……ケソンから来たんじゃないかしら?」

「う、うん。1ヵ月前。村の人頭税が払えなくなって……」

 

 ホアンは意外そうな顔を浮かべる。訝し気な表情をしながら、アンヘルをじっくり眺めた。

 どうにも納得できない表情だ。

 

「1ヵ月まぇ!? 全然、そうはみえないけどな?」

「嘘じゃないわよ。街に来たばっかりのときは酷い格好だったしっ」

「いや、それは、忘れて欲しいというか……」

「あっ、ごめんなさい。もしかして、気にしてた?」

「う、えっと、そうじゃないけど……」

 

 ホアンは、中々信じない。アンヘルは、元々日本人としてある程度の教育を受け、普通の農民以上に教養を身に着けている。そのうえ、見た目を整えてしまえば、初対面の人間はどうにも、アンヘルを町出身であると勘違いするのである。

 もっとも、勘違いしてほしいナタリアには村出身であることが判明してしまっているのがアンヘルの持っていない所以であるが。

 それでも、ホセは男らしく気にしないと決めたのか、もうその話題について触れることはなかった。

 

「で? そちらは何してるんだ。ナタリアさんは買い物だとして……探索者って暇なのか?」

「い、いや。そういうわけじゃ。いま、悩み事があって」

「悩み事? なにそれっ?」

「結構たいへんなんだな。探索者ってのは」

 

 ふたりは口々に悩み事について訊ねてくる。それを耳に聞きながら、アンヘルはホアンについて考えた。

 実力については問題なし。歳の頃も同じで接しやすい。ホセがうまくやれるかは分からなかったが気安いホアンのことだ。恐らくうまくやれるはずである。探索者でないのなら、実力が離れていても報酬で揉めたりしないだろう。あらゆる面でホアンは仲間に誘う条件が整っていた。

 アンヘルは少し深呼吸すると意を決して頭を下げた。

 

「あ、あの、『塔』の攻略、手伝ってもらえませんか?」

 

 その言葉は人通りも少なくない通りに響き渡る。辺りの人がアンヘルの大声にビクっとして反応した。

 アンヘルは、頭を上げてホアンの顔をみた。

 

「はぁ!?」

 

 ホアンの間抜けな顔が印象的だった。

 

 

 

 §

 

 

 

 アンヘルとホセは、日がようやく登り始めた早朝、セグーラの町東門周辺の広場に集っていた。

 

「で、なんとかひとりつかまえたと?」

「う、うん。木刀で打ち込みそうにになったことを負い目にしてたのか、渋っていたけど……」

「はぁん。言っといてなんだけど、どうせむりだろぉなと、おもってたんだけどよぉ。アンヘルにはよぉ」

 

 ホアン・ロペスはアンヘルの提案に驚き、当初は断ってきたのだ。しかし、ナタリアがホアンに対して木刀でアンヘルを襲った事を引き合いにだしつつ、何回か手伝うことに渋々同意させた。

 ただ、本人も度重なる試験勉強に嫌気が差していたのだろう。道場に通う子息であるホアンには、実践を積む機会などそうそうなかった。実際の戦いの場の空気を知っておくことが試験で有利に繋がるとホアンは考えたのか、アンヘル達と分かれる頃にはノリノリで準備の計画を進めていた。

 

 ――本当、ナタリアさんには助けられてばっかりだな、僕。

 

「そ、それで、ホセは見つかったの? 新しい人」

「ああ。ふたりくるぜ」

「え!? ふたりも! どんな人なの? 強い?」

「いや、どっちもずぶの素人だけどよ。ちょっと、扱いずれぇが、なんとかなんだろぉ」

「えぇ!? だいじょうぶかなぁ?」

「まぁ、しんぱいすンなや! わりぃやつらじゃねぇからよ。それよりよ、そっちの奴は、どんな奴なんだぁ? からだのよぇやつじゃ、使いもんにならねぇぞ」

「あ、うん。心配ないよ。道場に通う人でかなり強いはずだから……」

 

 そう言ってホセに対してホアンの事を説明しようとしたアンヘルだったが、その背後から複数の声がかかった。それに対してホセは返事を返し、アンヘルの会話を打ち切ったうえで、彼らの紹介を始めた。

 

 ふたりの男はナセ、ヨンと名乗った。

 ナセは比較的背の低く百六十ほどの男でホセと似た体格をしている。頭皮はボサボサで、あまり綺麗にしていないのが伺えた。胸を張り、手をポケットに放り込んだその歩き方はどことなくホセに似た部分を感じさせる。しかし、目元にある大きな隈が、彼の印象を陰惨(いんさん)なものへと変えていた。

 対照的に、ヨンはアンヘルに迫るほどの体格で、貧民暮らしとおもわれるその装いに反して若干肥満体質である。ヨンはナセを頭と認識しているのか、良妻のごとく三歩後ろに付きしたがっている。

 アンヘルは、第一印象からヨンとは仲良くなれそうだなと思った。

 

「こっちの奴が、ナセ。で、そっちの奴がヨンだ。それで、こっちの奴がアンヘルだ」

「はぁー。だいじょうぶかぁ? こんな、ひょろい奴でよぉ」

「しんぱいすんなぁ。アンヘルは、これでもまぁまぁキモがふてぇ。それより、そっちのデブはいいのか?」

「まぁ、使えねぇが、力はあるからな。にもつもちくらいには、なるだろぉよ」

 

 そう言ってナセはヨンを顎で示した。ヨンは大きな身体を小さくしながら、ぺこぺこと頭を下げた。よく見ると、ヨンはふたつ袋を担いでいる。ナセが何も持っていない所をみると、ヨンが2人分持っているのだろう。

 ナセはアンヘルのことなどどうでもいいと言わんばかりに振る舞う。早くもナセとアンヘルとの間に格付けがついてしまった。

 

「で、早くいこうぜ。さっさとよぉ、こんなに朝はやいんだぜぇ」

「そうだな、おい! アンヘル。新人はまだかぁ?」

「え、えぇっと。じ、時間は伝えたから、もう来ると思うんだけど……」

「あぁン!! なんだそれはよぉ! はっきりしろや、ボケ!!」

「おい! やめろって、ナセ」

 

 アンヘルはいきなりの怒声に反応して反射的にびくっと震えた。ナセはどうやら、ホセよりも遥かに気が短いらしい。しかし、ホセには従うのかナセを諫めると、舌打ちしながら引き下がった。

 気まずい沈黙が4人の間に流れる。黙ったまま、少し待っていると通りの向こうからホアンが走ってきた。

 

「すまん、すまん。遅くなって。ブーツが中々見つからなくてね……」

 

 そう言って、ホアンは軽く謝罪した。

 ホアンは昨日見た姿と違って、十分に武装した姿でやってきた。上半身には体格に合わせて作られた茶色の皮鎧、アンダーにはキルティングが施されたものを着用している。足元は脛の中ほどまである丈夫そうなブーツで覆われていた。彼の赤い短髪に良く似合っていた。

 

「おぃおぃ!! なんだぁ、遅れやがってよぉ! その態度はよぉ」

 

 そう言ってまた、ナセは怒りだす。

 

「すまないっていったじゃないか」

「だから、やめろって言ってんっだろ! ナセ!!」

「あぁ!? なんだよ! おれが間違ってるってのか!?」

「こんなところでよぉ、やめろよ! まだ、なにもよぉ、はじまってないんだぜっ」

「でもよぉ、こいつ絶対舐めてやがるぜぇ」

「もう、やめろって! おい、あんた。ホアンっていったか? 時間はまもってくれよなぁ」

 

 ホセはナセを諫めながらホアンにも釘を刺した。ホアンはそれに同意して、もう一度謝罪したが、ナセは舌打ちしながらホアン側を向かなくなった。そして「さき、行くぞ!!」といいながら、ヨンを腹いせ代わりに蹴りつける。

 ヨンはウッと唸ると、地面に両の手をついた。ホセはナセを注意するためか、「おい!」といいながらナセを追いかける。

 アンヘルとホアンはヨンが心配になって、声をかけた。

 

「ね、ねえ。だいじょうぶ?」

「しかし、かなり苛立ってるな。探索者ならそんなものなのか?」

 

 ヨンは埃を払いながら落ちた袋を拾う。そして、アンヘルが差し出した手も取らず、独力で立ち上がった。

 ヨンは卑屈そうな表情で言ってきた。

 

「で、でえじょぶだから……」

「で、でもさ。そんないきなり蹴られるなんて」

「あいつ、なにか気に食わねえ事でもあんのか?」

 

 ヨンは一瞬、逡巡したあとふたりに告げた。

 

「ぁあ……ナセさんはしゃっきんがあるだ……。いま、気がたってるんだべ……。その、おまいらも気をつけたほうがいいだっ。ナセさん、おこぉると手がつけられンだ……」

 

 ナセと借金。

 アンヘルはホセの口からたびたび出てきていたその名前を思い出した。彼はホセと用心棒業を一緒に立ち上げた人物である。ホセは彼と賭博を一緒にやったときの知り合いだと漏らしていたのだ。借金は恐らく、賭博の代金だろう。常習的に博打をする人間特有の刹那性をナセは醸し出していた。

 その荒っぽい雰囲気は探索者に向いている気がしたが、ヨンには余りそぐわない。アンヘルについ疑問が口から出た。

 

「き、君はどうして、この仕事に参加したの?」

「確かに。あまり向いているようには、見えないが……」

「んとだ、ナセさんは頭だから……。おいらは付いていくしかないんだっ」

 

 そう言ってヨンは先に行くふたりを追いかけようとしたが、最後に思いついたようにこちらに忠告した。

 

「ナセさんは、怒ると……ホントこええだ。とくに……、あんた……ホアンさんていっただか。あンたみたいな、坊ちゃん……ナセさん大きれぇだから。じっとしてて、くだせえ……」

 

 そういうと、彼は駆け出していく。

 前途多難な探索になりそうだ。アンヘルは今日の探索が順風満帆に進むことを神に祈った。

 

「はぁ、前途多難だ……」

 

 ホアンは腰に手を当てながらあきれ果てた。

 

 ――ホアン……。それ、僕が先に思ったから……。

 

 苦しくなると、どうでもいいことが気になるのがアンヘルの癖だ。

 

 

 

 §

 

 

 

「おらぁあああ!」

 

 ホアンは叫びながら、上段に構えた長剣から袈裟斬りを放つ。そして、そのままの勢いで、横にいた敵へ飛びかかる。

 強敵――『ドラゴンシード』。『塔』の内部へ侵入してはじめて登場するモンスターである。緑色の蛹型モンスターでかなり小型だが、森にも多数出現するゼリー状モンスターよりはるかに頑丈な外甲殻というべき鎧を纏っている。奴らの突撃にはアンヘル達が対峙したどのモンスターにも勝る威力と速度を誇っていたが、ホアンにとっては飛んでくる的であった。アンヘル達が苦労したその生命力をものともせず、長剣で叩き割った。

 

 その近くで、アンヘルとホセが駆け出す。周囲のモンスターはリーダーとする『ドラゴンシード』が瞬く間に撃破されたことによって、および腰だ。

 アンヘルはモンスターの考えが理解できるほど、この『塔』に通い詰めていることに、場違いながら感慨深くなった。それでも、アンヘルの手は緩まない。ホセが一撃で敵を斃すと同時に、アンヘルも相手に打撃を見舞った。そして、気絶してピクリともしない敵に、鉈による止めの一撃――止め専用の鉈を振り下ろした。

 

 ブシュッと体液が飛び散った。

 

 後方では、ナセとヨンが同数の相手に苦戦していたが、早々に大将を撃破したホアンが援護にまわっていた。強固な外殻を一撃で叩き切るその剛剣の前になすすべなくモンスターは敗北した。

 

 ――楽だ。まるで雑魚みたいだな……。

 

 前途多難な門出となった人間関係とは対照的に、探索は悠々と進んだ。味方が五人となることによって、圧倒的な手数を得られたアンヘル達は、塔の内部であっても苦戦することなく進行していた。アンヘルやナセら複数の人間がモンスターを相手取っている間に、ホセが的確に敵を各個撃破してゆく。

 そして、際立ったのはホアンの強さであった。メンバーの中で、もっとも敵を撃破する確立の高いホセであってもモンスターを相手にするには一対一でなければ厳しい。複数の敵を相手取ると乗数的に難易度が上昇する。その戦いの原則は、動きの不確定性が増大するモンスターとなると殊更変えられないルールであった。しかし、ホアンは日々培った圧倒的な剣技によって、一方的にモンスターを切り伏せた。まさに、鎧袖一触である。一度に複数の敵を相手取るその実力は、チーム全体の負傷するリスクを大幅に下げた。

 しかし、その強さが人間関係をいい方向に導くわけではなかったが。

 

「へぇへぇ。すごいですねぇ。さすが、ホアンさまだ」

 

 そう言って、ナセは拍手をする。彼の言葉には、からかいと内に秘められた醜い嫉妬が多分に含まれていた。

 

「ああ、そうだろう。今のは、【穂群斬り(ほむらぎり)】といってな! 俺の得意技なのさっ!」

「はー。そいつは、すげえですなぁ」

 

 そういってホアンは得意げに話す。

 ホアンの気のいい面がありありと出ている発言だったが、彼は悪意を察する能力が致命的に欠けていた。ナセが剣技をからかい混じりに褒めて、それを真に受けたホアンが返すといった奇妙なやり取りがアンヘルの目の前で行われていた。

 

 ――もしかして、ホアンって天然なのかな?

 

 そのうえ、ホアンはなかなかに正義感の強い男であった。正義感が強いというのは、大抵の面において正しいことであるとアンヘルは思っているし、信頼できる人物の条件にもなると考えている。彼のような誠実な人間が軍に入るべきだと思えるほどの、一種の才能である。

 しかし、アンヘルは彼の信頼できるその部分が今日だけで嫌いになりそうであった。

 

「おい! ナセ。あんたも、魔石拾いを手伝ってくれよ!」

「おれは、けーかいってやつだよ。けーかい。そんなのも分からンのかぁ?」

「だけど、そうやっていつもヨンとアンヘルに任せてるじゃないか!」

「ホセだって、何もしてないだろがよぉ」

「彼は、ちゃんと見廻っているが、君はさっきから座り込んでるだけだろ!」

「座ってみてんだよ!」

 

 ナセは座り込んだまま立ち上がらない。

 こういったふたりのやり取りは幾度となく繰り返されていた。

 

 ホセも最初は注意していたが、一向に改善の兆しが見えないふたりの関係に無視を決め込んでいた。そのうえ、ホセ自身にも上流階級出身のホアンに対して何らかの含みがあるのか、ふたりで話し込む様子はなかった。

 そして、当然のごとくカースト下位に回されやすい性格のアンヘルとヨンは淡々と魔石を回収する。アンヘルはナセに便利な奴だと思われたのか。ナセに頻繁にこき使われていた。そして、それを見たホアンが注意するという誰も得のない負の三角形(トライアングル)が形成された。

 

 ――別に食糧をあげたり、雑用をするくらいいいんだけどなぁ……。

 

 アンヘルは順調に進む攻略と、それと同じくらいに破綻している人間関係の板挟みに苦しんでいた。ヨンは我関せずという様子で、黙々と作業を続ける。

 これまでにないほど順調であるのに、アンヘルは今すぐにでも街へ帰りたかった。

 

 完全に魔石を取り終える頃、ふたりの諍いも収まった。ホセが介入したのだ。ホアンは不承不承、ナセは舌打ちをして離れる。

 ナセはホアンから離れると、小さな声で呟いた。

 

「おれだってよ、あいつみたいに剣があればよぉ。いくらでも活躍できんのによぉ……」

 

 そう言ってヨンを小突く。

 

 ナセの武器はアンヘルたちと同じく、ただの棍棒である。ナセはそのことについて、さっきから幾度も文句を言い続けていた。

 

 ホアンの持つ長剣は非常に高価だ。

 一般的な短剣に分類される長さの武器は、扱いやすいうえに鍛造の難易度から、努力すれば手が届く値段である。しかし、長剣は製造に複雑な技術を必要とするうえ、用途が戦争に限られる。そのため、どうしても持っている人間は少ない。

 とはいえ、この面子の中で下から2番目に弱いナセが武器を手に入れた程度で、日々訓練を重ねたホアンと同じ働きができるとは到底考えられないが。

 

 ――こんなに争ってるのに、なんでホアンは褒められたことに疑問を感じないんだ? ホアンってもしかして、バカなの?

 

 常とは違う疲れからか、アンヘルはホアンを侮辱する。

 

「おれもよぉ、ああいう、金持ちのいえにうまれりゃよお。女どももとっかえひっかえだったのによぉ。なぁ、てめぇもそうおもうだろ」

「ええ、ええっと。うん、そうだと、思うよ?」

「ああ!? ちがうってか? バカにしてんのか!?」

「い、いや! そんなことないよ」

「ふん。ま、てめぇよりは、マシだけどな!」

 

 そういって、アンヘルの頭を軽く張る。

 その行為がホアンの目に留まった。ホアンがまた厳しい口調で注意し始める。

 

 ――まただ、もうやめてよ……無限ループだ。

 

 ダンジョンの探索は厳しい所も多いが、苦難を乗り越え、徐々に成長している自分が好きだった。アンヘルは日本で暮らしていたにもかかわらず、ダンジョン探索という命の危険も省みない向こう見ずな人生がなんとなく、性にあった。けれど、それがきょう、覆されようとしていた。

 

 仲間の重要性。アンヘルは戦力でもなく、補給でもなく、人間関係によって仲間選びの重要性を理解した。

 理解したと同時に、今日が早く終われと願った。

 

 すると、助けの声はホセから響いた。

 

「もう、十分な数はあつめた。てっしゅうだ」

 

 ホセは苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 日は沈み、街は驚くほど暗い。昼間は活気に満ちていた通りも、いまは人影ひとつ見えない。

 

 セグーラの街はトレラベーガ帝国南端に位置する、最も辺境にある都市である。近年、進歩の著しい魔道具による工業化も、この都市では通りひとつ離れるだけで、その恩恵をなくした。煌びやかな大通りと繁華街の区画以外は、日が暮れると同時に、誰も住んでいないかの如く静かになる。

 そして、都市には税の厳しさから若者が街に際限なく流入してきていた。それは必然、仕事のない浮浪者の増加による都市の治安を引き起こしていた。そして、その犯罪行為は、さびれた郊外に集中した。

 

(はああ、しっぱいしたなぁ。つけられてるみたい、どうしよう)

 

 誰もいない通りを歩く少女――ナタリアは、早歩きで後ろを振り返りながらすすむ。彼女は、実家の酒場『菜の花亭』で切れた酒を補充に買い足しへ行ったのだ。しかし、つけられていることを察したナタリアは、撒くために街を走ったが、急いだせいで人のいない区画へ来てしまっていた。

 

(もおお。最近視線を感じてたのにぃ。さいあくぅ)

 

 ナタリアは走ったり、早歩きを繰り返して撒こうとするが、相手との距離が離れることもなく後方20メートルの位置をキープされていた。

 そのうえ、逃げることに必死なナタリアは、自分がいる位置を見失っていた。半時間ほどの追いかけっこの末、レンガ造りの住宅街から、木造の貧民街に辿り着こうとしていた。

 

(さいきん、悪い人がふえたってお父さんが言ってたけど……。もおお、なんでなのよぉおお)

 

 ナタリアはこのあたりの区画まで来たことはなかった。これ以上進めば取返しの付かないことになる。ナタリアは覚悟を決めて振り返り、相手をキッと睨みつけた。

 

 若い男だ。

 20代くらいのひょろっとした男である。髪は乱れていて、頭頂は薄い。顎は異様に出っ張っていて、ぎょろぎょろした目つきがせわしなく動いている。その大きな身体に似合わず、卑屈そうな体勢がより不気味さを強調していた。

 

 ――うええ。こわいかも……。

 

 それでも、なんとか声を出した。

 

「あの、さっきからずっとつけてるみたいですけど。なにか、御用ですか? なにもないなら、私行きますんで! もう、追いかけて来ないでくださいね!」

 

 ナタリアは勇気をふり絞って、相手を指差しながら言った。そして、なるべく視線をそらさないようキッと睨んだ。

(だいじょうぶ、こういう連中は強く言われたら、にげていくから)

 必死に強気の仮面を取り繕った。しかし、それでも恐怖が勝った。ナタリアの足はかすかに震えていた。

 

 ストーカーというのは、大抵の場合強く言われればその場は去っていくものだ。相手の住所を知りたいなどと特別な理由がないかぎり、付きまとう行為はその男の積極性がないことを表している。ストーカーはいきなり直接行動を起さないからストーカーなのである。

 

 しかし、今回の場合はそれが悪い方向に働いた。恐怖に逃げ惑う姿や震えながら忠告したのが見せかけにしか見えなかったのだ。ナタリアの抵抗は、男にとって可愛らしいアクセントにしかならなかった。

 

「な、ナタリアちゃん!」

 

 そういうと、男はナタリアの手を強引に掴んだ。高い身長に似合ったその大きな手は、かなりの剛腕でナタリアの細い腕へし折る勢いで引っ張る。

 

「な、なんですか!? ちょ、はなして!!」

「いっ、いっしょに、く、くるんだな!」

「いや、いやです! はなして! 人、呼びますよ」

「べ、べつに、いいんだな。だれも、こないな」

 

 男はナタリアをずっとつけまわしていた犯人であった。アンヘルがホアンに木刀で打たれそうになった原因である。男はナタリアを襲う勇気が持てず、ずっとつけまわしていたのだ。しかし、それは失敗に終わっていた。ナタリアが早々に気づき、周囲から人を絶やさず、夜に街へ出かけないようになっていた。ナタリアはこれでも酒場の酌婦である。一般女性よりは遥かに自己防衛する術を身につけていた。

 そのため、男のストーカー行為は継続できなくなり、パタッと一度はなくなったのだ。ナタリアはそれに油断して、夜に外出してしまった。そして、たまたま男と遭遇してしまう。さらに、逃げ惑って人の少ない区画に入り込んでしまった。それが、男の欲望に火をつけたのである。

 

「ほら、はやく、するんだな!」

「名前も知らない、あなたなんかに、だれが!」

 

 そういって、ナタリアは掴まれた腕を振り払うと伸びてきた手をひっぱたいた。後ずさって警戒を強める。

 身体はぶるぶると恐怖に震えていた。対照的に、男は自分の物になったと錯覚したナタリアからの反撃で、目の色を変えた。

 男は一歩前にでる。ぐっと大きな体がナタリアに近づいた。

 

「やだ、こっちこないで!!」

 

 相手から距離を取るため全力で駆け出す。しかし、恐怖で足がすくむナタリアの速度は遅い。

 

 服を掴まれながらもなんとか曲がり角を曲がろうとする。ビリビリッと服の割ける音がした。

 角を曲がった先に、小さな男が歩いているのがみえた。その男が、事態を好転させる要因になればと考え、きゅっと勇気をふり絞った。

 

「助けてっ!」

 

 今まで出したことのない切迫した声だった。高くかすれたその声は辺りによく響き渡った。

 

 小さな男は小さな斧を背負っており、丈夫そうな皮の服を着ている。貧民街に似合わず、靴も上質な物を履いているのか、皮のブーツを履いていた。その顔には、体格に似合わず生意気な顔が乗っている。ナタリアにはその顔に見覚えがあった。

 

 ――たしか……アンヘルといっしょにいた……ホセだっけ?

 

 ナタリアは、アンヘルと一緒に一度だけ来た少年――ホセを思い出した。ふたりの邂逅は、一方的にナタリアの気にしている身体的特徴を揶揄される最低な内容だったが、そのことも忘れ彼の背に隠れた。

 

「あ、あの、助けてください。襲われてるんです!」

 

 男は一瞬驚いた表情をしたが、目の前に飢えた狂犬のごとき男が立ちふさがると目に理解の色を浮かべた。そして、ニカッと童のように笑うと、一歩相手に向かって踏み出した。

 男は気圧されたように後ろへ下がった。ホセの斧を背負う小さな背中が、まるで父親のように頼もしく見えた。

 

「あぁ!? なんだてめぇ?」

「な、なんなんだな! か、関係ないんだな!」

「ンだとてめぇ!」

 

 そういって、ホセはナタリアを庇うように腕を広げた。

 ナタリアは不安になって、ホセの背に手を添えながら顔だけ出して様子を伺った。

 

 その様子が男の嫉妬を煽る。奇妙な叫び声を出した男は突進してきた。ホセは男の突進を軽くいなすと、顎に一撃を与え、昏倒させた。

 ガクッと男が地面に倒れ伏すのが見えて、ナタリアは漸く自身が助かったことを実感した。ナタリアは腰から力が抜けて、へなへなと地面に座り込む。はぁーと大きなため息を吐いた。なかなか立てそうにない。

 

 それでも感謝の意を示そうと、昏倒した男の顔を見ているホセに言った。

 

「あ、あの、ありがとうございます。助けてくれて」

 

 ナタリアは無意識のうちに声を高くして礼をいった。ホセはナタリアを助けたことを誇ろうともせず、座り込んだナタリアに手を差し出した。

 

「ん、ああ。気にす……うん? あんた、あんたたしか……胸なしか!?」

 

 ホセの最低発言が響き渡った。

 

 

 

 



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第九話:歪んで

「もう、いくのかい?」

 

 そういって、中年女性は座った椅子から腰を浮かせ、目の前の息子に問いかける。老齢に差し掛かるその女性は、目に不安そうな表情を浮かべている。その、白い毛髪は長年の苦労を漂わせていた。

 

「ああ」

 

 息子は簡潔に答えた。屈みこみながら、身につけているブーツの紐を引き締める。その上半身には丈夫な皮鎧を身につけ、腰には立派な長剣が差してあった。息子――ホアン・ロペスは、心配する母の様子を気にすることもなく淡々と準備を続ける。その所作は、拒絶を強く放出していた。

 中年女性は手を伸ばしたり縮めたりを繰り返しながら会話の糸口を探すが、ホアンの纏うオーラがそのすべてを拒否していた。

 

 すべてを確認し終えたホアンが告げる。

 

「もういくよ、母さん」

 

 そう言って立ち上がる。中年女性――ホアンの母であるコンチタ・ロペスには目もくれない。家の戸に手を掛けたときに母から声がかかった。

 

「もう、いくのは止めないかい? もう、5度目だろう? 探索者の仕事なんてする意味、あるのかい? 軍の試験だって来年に迫ってるんだし、今は勉強に専念したほうが、いいと思うんだよ……。それに、私は軍に入ることも賛成しているわけじゃ……」

「やめてくれよ! 自分のことは、自分で決められるんだ。何も分かってない、母さんに言われたくないよ」

「で、でもね。探索者の仕事なんて、大した金にもなりはしないんだろ? それなのに、あなたが危険な目に遭う必要ないじゃない……。家には、お金もあるんだし……」

「もう決めたことなんだ! 試験では実戦経験を重視されるかもしれない。多くの事を成すべき時期なんだ」

「それは、そうだけど……。それに、わたしは軍へ入るのに賛成したわけじゃ……」

「いい加減にしてくれ!! 俺は父さんと同じように軍に入ると決めてるんだ! いつもいってることだろう。口を挟まないでくれ!」

「そうだけど……。あの人みたいに、あなたが軍に取られるみたいで……」

 

 そうやって母は、目尻に涙をこさえる。しかし、ホアンには何も響かない。その表情が逆にホアンの怒りに火を注いだ。

 

「もういいだろう。いくよ」

「ま、待って。家には十分なお金があるし、あなたは剣の腕もある。道場に誘われているんでしょう? 軍に入らなくても十分やっていけるわ」

 

 その言葉がホアンの沸点を振り切った。喧嘩などしたくはなかったが止められなかった。

 

「絶対に、ごめんだ! あんな奴と一緒に暮らすだなんてっ」

「あんな奴だなんて。そんな言い方……、あなたのお義父さんでしょう?」

「あんな奴といって何が悪い!! 母さんも、母さんだ。どうして喪も明けぬ内に再婚だなんて! 地を這う阿婆擦れよりも汚らしいことを。父さんの死になにも思わなかったのか!!」

「それは、そうだけど……」

「それに、相手も相手だ!! よりにもよって、父さんが良くしていた部下とだなんて。俺と1回りしか変らない歳じゃないか! 財産目当てに寄ってきたに決まってる!!」

「やめて!! あの人は、夫を亡くしたわたしに優しくしてくれたの。いい人なのよ!」

「なにが、いい人だ。俺は知ってるんだぞ! 父さんが生きてる間も仲良くしていたのを!」

「そ、それは……ただ、仲良くしていただけで……」

「何が、仲良くだ! こっちが知らないとでも、思っているのか! 父さんの留守中、夜中に出かけていくのが、ただ仲良くなのか!! 母さんみたいな人から生まれてきたことに反吐が出るッ!!」

「えっ!! ち、違うのよ! あ、あの人は、軍ばかりで……。わたしに、何もしてくれなかったのよ……。そのときに、少しだけ良くしてくれただけで……。その時はなにもなかったのよッ!」

「そんなこと知ったことかッ!」

 

 そう言ってホアンは母を糾弾した。義父が屯所に詰めて母とふたりになるとこういった諍いは頻発した。

 ホアンは努めて道場で寝泊まりし、義父と顔を合わせないようにしていた。義父と母の関係を許してしまえば父のすべてを否定することになると思ったのだ。だから、義父と母の関係を容認するわけには行かなかった。誰が祝福したとしても、唯一の血縁たる息子が。

 こうやって、ホアンが実家に帰宅するのは義父が仕事に出ている時間帯だけであった。

 

 とはいえ、母を心底嫌っているわけではない。実際、旦那を亡くした未亡人がひとりで暮らすのは容易でない。一定の社会的地位を築いているロペス家であっても、それは変えられない。

 そもそも、この世界における女性の立場など吹けば飛ぶように軽い。父権主義が横行する現状では財産を保有する権利は、旦那および親族にある。もし母が長い間再婚もせずにひとりで暮らしていれば、その家や財産はすべて母方の家のモノとなっていただろう。実際、喪が明けてから母の助けになる人物へ添い遂げるのであれば、ホアンは祝福するつもりだったのである。軍人とはどうしても死が付きまとう。碌な治療技術もない世界では致し方ないことであった。

 しかし、母は父が死んだ後、体面上は悲しんだふりをしたが、すぐさま別の男と再婚した。心の底では母が父の事をどう考えていたかなどわからないが、口がさない近隣住民どもは毒蜘蛛妻と呼んだ。

 

 父は近隣では高名な軍人であった。そして、人好きのされる人格者で近隣住民からは慕われていたことが母の悪名に繋がったのだが、ホアンは父の名誉まで汚された想いだった。

 その想いは日増しに高まり、母との関係は修復不可能な所まで来ていた。

 

「もう、いいだろう」

「……」

「いくよ。母さん」

 

 そう、最初と同じことを言ってホアンは踵を返した。心の底にヘドロのような塊がたまる。

 振り払うように、扉を開けて進んだ。

 

 ――きょうは、悪い日になりそうだ……。

 

 ホアンはひとりごちた。

 

 

 

 

 

 § § §

 

 

 

 

 

「はぁ」

 

 アンヘルは大きなため息をつく。その顔には大きな疲労があった。疲れきった表情は、身体にも伝染し、全体から負のオーラを発している。

 

「なんでぇ、いきなりよぉ。けいき悪いったらありゃしねぇ」

「いや、そうなんだけどね……」

 

 返事をしたホセは、店員にビールを勝手知ったように頼む。アンヘルは何時も飲まないビールを浴びるように飲んでいた。もう、3杯目になる。

 

「黙ってひとりで、のみまくりやがってよぉ。それで、なにがあったんだ?」

「いや、それは……」

 

 ホセに今日の探索を報告する。

 

「もう、今日は最悪だったよ。ホアンは最初から調子悪いみたいで、最後の最後まで連携もうまくいかなかったし……。ヨンは相変わらず後ろで見てるだけだから、全然楽にならないし……。それに、帰りには雨まで降ってきてさ。そのとき、岩陰で休んでたらヨンが袋を忘れたみたいでさ。魔石を半分置いてくるし……」

 

 アンヘルは一息つき、ビールで唇を潤した。顔は少し赤くなり、視界も狭まっている。それでも出始めた不満は止まらない。

 

「攻略は全然進まないし、収入は激減だし。さいあくだよぉ」

 

 空になったカップを、ばんと机に叩きつけた。

 

「あぁ、それはクソだったなぁ。まぁ、のめや。きょうは、金、もってやんよ」

「うん、ありがとう。……でも、ホセは来られないの? 三人じゃ、攻略なんて進まないよ」

「ン、ぁあ。やっぱ、まだ厳しいなぁ。はじまったばっかだしよ」

「……そっか」

 

 ホセは街の用心棒仕事を本格的に開始した。街の金貸しに気に入られて、金の回収役の護衛となったのだ。

 都市間同士の情報交換もまともにできないセグーラの街では、金貸しは現代の闇金よりも遥かに恐ろしい手段を取るが、同時に金貸しは難しい商売でもあったのだ。借りた人物が都市間を移動されれば追跡する方法などないのだ。借りた側は金が返せそうになければ違う都市に向かえばいい。そして、借り倒しに対して法で裁くことはできない。

 しかし、殺してしまうこともできない。この世界に人権保護などと甘ったれた思想などない。目には目を、歯には歯をといった原則で、殺人被疑者は当然の如く斬首に処される。金貸しは現代社会よりも荒っぽい手を使ったが、同時に相手が死なないように手を緩める必要があった。

 

 そのための暴力装置としての用心棒。相手が逆らわない、そしてもしも問題を起したときのための保険として、外部の傭兵を雇うことが最善であった。

 ホセが興した用心棒団は、農村出身者の若者を中心としていた。そのため金は少額でよく、そのうえ捨て駒としても扱いやすい。そして、探索者として抜け目なく戦い抜いたホセの実力と手腕は、そこらの農民とは一線を画していた。ホセの経歴と実用性の観点から、ホセの用心棒稼業はたった2週間で軌道に乗り始めていた。

 ホセは軌道に乗り始めた商売へ専念するため、ここ何回かは探索に参加していなかった。人間関係上の問題から、ナセはあれ以来まったく顔を見せていない。どうしてか、探索者の仕事を気に入ったホアンと、無言で参加し続けるヨンの3人でなんとなく仕事を回している。そんな現状であった。

 

「なぁ、アンヘルもこっちにうつれよ。ぜんぜん、うまくいかねぇんだろ」

「……うん。そうなんだけど、なんだかね。あんまり、用心棒ってピンとこなくて……」

「はぁ。アンヘルよぉ。仕事は仕事だぜぇ。どれもいっしょさぁ。汚ねぇ仕事なんてありゃしないんだぜ」

「まぁ、それは分かっているんだけど……」

「それに、魔石の買い取り額も低くなったんだろぉ? ゴルカの野郎がいってやがったぜ」

「それは、そうなんだけど……」

「なら、きっぱりやめちまえよぉ。どうせ、探索者なんて、クソみたいな仕事だぜぇ」

 

 アンヘル達が通い続ける『塔』の買取価格は下がった。モンスタースタンピード抑制のための資金が尽き、補助金が出なくなったのだ。そのため、ホアンが参加することで大幅に上昇していた収入も、街に来たときと同じくらいに値下がりしていた。

 

 ――初めのころより、4倍近い相手を斃せるようになっているんだけどな……。

 

「……でも、なんとなく、性にあってる気がするんだ。最近は、口入れ屋の人にも覚えられてきたみたいだし……。もう少し、頑張ってみたいんだ。もしかしたら、見習いにスカウトされるかも、しれないし」

 

「そうかよ。なら、がんばれや」

 

 そういって、ホセはビールを口に含んだ。

 

 ホセとは探索に行かなくなったが、こうやって飲みに来ることが増えていた。ホセも一端の会社の社長である。部下に弱さをさらけ出すことはできず、アンヘルもホアンとはそれほど打ち解けているわけではなかった。まったく会話に参加してこないヨンなど、もはや仲間なのかも分からなかった。

 ふたりとも、弱音を吐き出す場所を探していた。ふたりは違う仕事に属していており、昔からの友人である。気兼ねなく語り合える存在となるのに時間はかからなかった。アンヘルが探索から帰った日かその次の日は、必ずふたりきりで飲みに来るのであった。

 

「それにしても……珍しいね。『菜の花亭』なんて。昔、いろいろあったから。ここは避けてるとおもってたのに……」

「あン? まぁ、別にいいだろ。どこでもよぉ」

「それは、そうなんだけどね」

 

 ホセは、街に来たばかりの頃とはまったく違うピリっとした服を正す。

 もはや、別人であった。背が低いからか威厳は感じないが、全体から粗野な雰囲気がぬけている。しかし、それは腑抜けたということでなく、狼のような鋭さを内に備えた男への変貌だった。人は立場によって成長するというが、ホセは正に典型例であった。

 

「昔のことだからよ、気にしねぇのさ」

「うん。良かったよ。ぼく、この店好きだからさ……」

「ああ、飯はわるかねぇもんなぁ。さいしょに来た時も、おまえが無理やり引っ張ってきたんだっけなぁ……」

「すごくおいしいよね、ここの料理」

「ま、たったひとつ。店員のアイソウがわるいってことぐらいか。いちゃもんつけるとしたらよ」

「へぇー。聞こえたわよ。お、チ、ビさん」

 

 そういって背後から現れたのは、怒気をあらわにしたナタリアである。さきほどまでは見かけなかったが、この時間帯になって仕事に参加してきたのか元気溌剌という様子でまくしたてる。

 

「愛想が悪くて、わるかったですねっ。それなら、来なければいいんじゃないっ。さいきん、何回もきてるくせにっ!」

 

 左手を腰にあて、右手の人差し指でホセの胸をツンツンと押す。私怒っていますと言わんばかりに頬を膨らませていた。

 

「まぁよ。けど、全員がわりぃわけじゃねえのさ。いちぶ。一部だけだ。飯は悪くねぇんだし、それで来ねえのは、もったいねぇだろ」

「へぇ。一部って誰かしら? その、一部って」

「さぁ。だれだろなぁ?」

 

 ホセはにやにや笑いながら揶揄した。

 

「まぁ、客にすぐカッカきちまう、胸のねぇやつかもしんねぇなぁ」

「はぁっ!? それってだれのことよ。だ、れ、の」

 

 ――はぁ。また始まった……。始まってしまった。

 

 アンヘルはそう思いながらも止める術を持たなかった。今回の諍いは、前回と違って顔見知りだからか、ヒートアップが早い。

 

「これを、聞いてるやつの胸にはよぉ、とどいてるとおもうけどなぁ。あぁ、そいつには胸がねぇから、わかんねぇか」

「はぁあ、それって、とぉっても失礼なんですけどッ」

「べっつによぉ、おまえのことなんて言ってねぇじゃねえか。それとも、自分だっておもってんのかぁ?」

「もぉぉぉ、なによ、なによっ。これ、渡さないわよっ!」

 

 そういって、ナタリアは顔を真っ赤にしながら、先ほどホセが頼んだビールをぐいぐいと飲みだす。一気に飲み干したグラスをホセに押し付けた。

 そして、アンヘルとホセの間にすわった。

 

「おいおい、とんだ不良娘じゃぁねえかよぉ。さっさと、あたらしいもんもってこいやぁ」

「いやですぅー」

 

 そう言って、ホセから差し出された手を払いのける。そして、その手で相手の胸をトンと弱くついた。

 

「そんな、捻くれてるやつには、なぁんにもあげませんー。はい、アンヘル。これ、あなたのよね」

 

 そういって、もう一杯のビールを差し出してきた。アンヘルがそれを受け取る前に、横から伸びてきたホセの手がそのビールを奪い取る。

 

「ああっ、勝手に取らないでよ!」

「かってはどっちだよ。さっさと、あたらしいやつもってこい」

「もう、持ってきましたー。そこに、ありますぅ」

「はぁ、おまえが飲んで空じゃねぇかよぉ。ジョッキ一杯にしてしてもってこいや」

「えぇ? あなたが、飲んだんじゃないんですかぁ。嘘つかないで、ちゃんとみとめてくださぁい」

 

 そういって、ナタリアはホセの肩パシンと叩く。もうやりたい放題だ。

 アンヘルは場にまったくついていけない。

 

「なにが、『えぇ?』だ。目の前で、飲みやがったんじゃねぇか。おれは、こんなん払わねぇぞッ。てめぇが、のんだやつなんてよぉ」

「食い逃げ宣言ですかぁ。もしかして、捕まりたいんですかぁ?」

「はぁ? ふざけんな、このくされアマ。胸までじゃなく、あたままでねぇのかよ」

「ぁあッ、また言った。もう、腹立つッ!!」

 

 そういうと、ナタリアは立ち上がり、ホセの目の前に指を突き出す。周りが見えていないのか、カンカンに怒っているナタリアはホセに至近距離まで近づき、大声で宣言した。

 

「なにが、胸なしよ。このチビっ。大きいほうじゃないけど、あるんだからね。私だって」

「はぁん。おれは、まだ成長するけどよ。おまえは、もう成長しねぇんじゃねぇかぁ?」

「はぁ!? あんただって、もう成長しないわよッ」

 

 アンヘルは、ホセの返しが意外に感じた。正直に言うと、ナタリアの背の低さを指摘する言葉にドキッとしたのだ。ホセは、女子供に手をあげるような人間ではないが、言葉でならいくらでも返す。アンヘルは、ホセが手を出さないまでもブチ切れると思ったのである。

 アンヘルは、ホセが街で働くことによって大人になったのかと思った。

 

 ――ああ、ホセもかわっていくんだなぁ……。

 

 短時間で目まぐるしく成長していくホセに、アンヘルは憧憬の想いを抱いた。アンヘルがそんな感想を抱いているとは露ほどもおもっていないふたりは、どんどんヒートアップする。

 

 そんなとき、アンヘルはたくさんの視線を感じた。どうやら、周りの席からも注目され始めたようだ。

 

「ねぇ、ねぇってば。もうやめてって。恥ずかしいしっ」

 

 そうやって、アンヘルはふたりの間に入る。

 それでも、歯をむき出しにしてふたりはやり合っていたが、少しすると落ち着いたのか座る。ふたりとも、周囲の視線に気づいたのか恥ずかしそうだ。その空気を割るようにホセがいった。

 

「おい、さっきのは払ってやるからよ。あたらしいやつ、もってこいや」

「はいはい」

 

 そう言ってナタリアは立ち上がる。そして、空になったカップを受け取りながら、ホセの頬を指でついて反対側をむかせた。そして、アンヘルに向き直って言った。

 

「ごめんなさいね。勝手に、喧嘩しちゃって。すぐ持ってくるからさっ。アンヘルもゆっくりしていってね」

 

 そういうと、ナタリアは最後っ屁と言わんばかりにホセに悪態をついた後、カウンターの奥に消えてゆく。

 

 駆けてゆく後ろ姿に、きょうも綺麗だったなと思う反面、アンヘルには小さな違和感が残った。

 ほんの少しだけど、心にトゲが刺さるような、そんな違和感が。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 繁華街から少し離れた所に、薄暗い事務所があった。左右を高層の建築物で挟まれた狭い空間に据えられたその事務所は、率直に言ってボロい。その広いとは言えないその室内には、小さな机とスツールが乱雑に置かれている。中には幾つもの酒瓶とコマ札が捨てられている。壁には窓などという上等なものはなく、男臭いムワッした匂いが鼻腔をくすぐる。

 小柄な男――ホセは、たてつけの悪い引き戸をこじ開けた。

 

「チッ。やろうども。さんざん片付けろって、いってあったのによぉ」

 

 室内は酷い有様で、明りを着けなければ足を運ぶことも危うい。ホセは、転がった瓶を踏まないように奥まで進み、光を取り込むための戸を開けた。時間が経てば、室内に篭った悪臭が陰鬱な事務所の雰囲気と共に外へ吐き出された。

 

 この事務所は、金貸しの用心棒を専属で引き受けるに当たって、貸し与えられた建物である。事務所は窓口兼住居として活用する予定だったが、学もない農村出身の男所帯ではまともな管理などできない。ホセが散々注意したとしても、こうやって汚れるのが常だった。

 ホセの配下となった若衆は、今までまともな報酬を受け取れる立場ではなかった。それがほぼ専属で金貸しの仕事を受けるとあって金に恵まれ、事務所を窓口として使用することもほぼないとなれば、降って湧いた儲けに螺子が緩んで宴会場と化すのを中々止められない。

 

 とはいえ、常ならば清掃はしなくともゴミを出す所まではしているものだが。

 

 ――まぁた、シメなきゃなんねえなぁ……。

 

 明るくなった室内で、ホセは転がっている瓶を端に寄せる。瓶内に酒が残っているため、酒精の匂いが二日酔いの頭に響いた。無言で作業を続ける。すると部屋の隅の毛布がガサゴソと動いた。

 

「ぁあ!! チッ、なんだよ!」

 

 毛布の下から、小柄な男が這い出てくる。ボサボサとした毛髪とトロンとした眼が男の半覚醒状態を表していた。男は眠っていたところを邪魔されたからか、言葉に怒気が混ざる。

 

「おい! ヨン。さっさと、扉閉めねぇかい!」

「まてよ。ナセ。ねるんじゃねぇ! さっさと起きやがれッ」

 

 ホセの事をヨンと勘違いしたのか、入ってくる陽光を遮るための指示を出し再び床に就こうとしたナセをホセは呼び止める。毛布を剥ぎ取って、ナセの機嫌が悪そうな顔を睨みつけた。

 

「チッ。ンだよ。朝っぱらからよ!」

「うるせぇ。もう昼だ。起きやがれ」

「ぁあん? チッ。なんだよぉ、ホセかよ。他のやつはどうしたぃ?」

「知らねぇよ。だれもいねぇ。それにしても、てめぇよ。なんだってんだぁ? このありさまはよぉ?」

「はぁ?! なんだってんだ。いちゃもん付けやがって」

「なにがぁいちゃもんだ。また、こうやってここで呑みやがって。ここで、飲むなっつったろうがよぉ!」

「ああ! なんでてめぇに、そんなん指図されなきゃいけねぇんだよ。関係ねぇだろうがよ」

「何言ってやがる。ここは、おれたちの事務所なんだぜっ! さっさと片づけやがれ!」

 

 そう言って、ホセは周囲の惨状を指し示す。そうやって示してやると、ナセの周りに高額配当のコマ札が何枚も落ちているのが目についた。その周りの酒瓶は、街でも人気の割高のモノだ。

 

 ――こいつ、もしかしてまた抜きやがったな!!

 

 ホセは辺りに落ちているものを指差して訊ねた。

 

「おい! ナセ。おまえ、これよぉどうやったんだ?」

「ああン。べつに。買っただけだぜ」

「どうやってだ! お前、また事務所の金を抜きやがったな!!」

 

 ホセに用心棒稼業や行き場を失くした若衆を教えたのはナセである。ナセは頻繁に賭場へ出入りしており、街の事情に詳しかった。ホセが仕事を立ち上げるまでは、ナセは街に来てまだ間もないホセに十分な情報を与えた。そのうえ、ナセは街へ団体で上京しており、その集団のリーダー格であった。ナセが声をかければ、簡単に人間を調達できたのである。

 ホセはナセの人脈を頼りに仕事を立ち上げたが、ナセは軌道に乗り始めると頻繁に事務所の金を博打や酒につぎ込んでいた。事務所にいる奴らの半分はナセを頭と仰いでおり、ヨンのように腰を低くしてナセに付きしたがう。必然、ナセの暴挙を抑制するものはいなかった。

 

「はぁ? べつにいいだろ。ここはおれらで作ったんだぜ。おれらの金じゃねぇか」

「あれは、これからいるんだよ!! 備品とか、人を雇うとかよ!」

「おれも、必要だったんだよ。しかたねぇだろうがよ」

「てめぇ、ふざけんじゃねぇ!! だいたい、てめぇは最近なンもしてねぇじゃねぇか!」

「べつにいいじゃねぇか。しゃちょーってのは、そんなもんだろうがよ。しゃちょーってのはよ」

 

 ホセはその言葉で頭に血が上った。近くに置いてあった棒を手に取り、能面のような顔でにじり寄る。ナセは相手の雰囲気が変ったことにきづいたのか、卑屈な態度になった。

 

「へ、へへ。そ、そんな怒るなよ。ちょっと、ちょっとじゃねえか。なぁ、悪かったって」

「だったら、さっさとここを片づけやがれ」

「わかった、わかった。な、ちょっとまってくれよ」

「さっさとやりやがれ。ブチのめすぞ!」

「悪かった、わるかった。今からやるよ」

「次やりやがったら、ぶっころすからな!!」

 

 そう言ってホセは勝手口を開く。これ以上口を開くと、本当に殺してしまいそうだった。振り返って、ナセに告げた。

 

「いまから、あいさつ回りにいってくるからよぉ。それまでに、片づけやがれ。できてなかったら、本当にぶっころすからな!」

「あ、ああ。やるって。やるっていってんだろ」

 

 ナセは渋々あたりを片づけはじめる。しかし、その顔からは不満がにじみ出ていた。作業もどこかなげやりだ。

 

 ――さいきん、こんなんばっかだなぁ……。アンヘルとふたりで『塔』に行ったのが懐かしいぜ……。

 

 ホセはなんとか頭を切り替えると、次の仕事へ向かっていった。

 

 

 



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第十話:別れて

 ギシギシと歪んだ床板。一歩踏み込むだけで、グラグラと身体が揺らぐ。窓も換気口もなければ、膨張した材木が扉の開閉を妨げるぼろ廃屋は、倉庫に挟まれて位置する部屋には陽光は差し込まず、ビュウビュウと入り込む隙間風がその空間と外を繋げる唯一の導きだ。その空間は、まるで拒絶するように外界からの干渉を拒絶していた。

 荷物を端に積み上げ、人が包まってなんとかふたりが過ごせるその小屋の中はガランとしていた。扉から右側には、毛布や備品が置かれているが、反対側には荷物すら置かれていない。まるで、いるはずのない幽霊が住んでいるかのようだ。それくらい、部屋の中は片側だけがすっぽりと空いていた。

 

 部屋のごちゃごちゃとした側に座り込んだアンヘルは、すっかり何もなくなった空間を見つめる。その瞳には欠落感が宿っていた。

 アンヘルはゆっくりとした手つきで、傍らに座り込んだ幼水龍シィールの頭を撫でた。シィールは主人をいたわるように、頭を差し出しながら身体をこすりつける。

 アンヘルは左手で酒瓶に口をつける。鼻腔一杯に酒精の匂いが入り込んでくる。グイッと煽り、深い海の底に沈んだ心を慰めた。ぽつりぽつりと言葉が湧いてくる。けれども、それをぶつける人間はいなかった。

 

「ねぇ。シィール。見てよ、こんなに部屋が広いなんてさ……。ぼく、しらなかったよ」

 

 アンヘルの放つ言葉は虚空に溶ける。喜色に満ちた言葉とは裏腹に、その響きは無彩色だった。どよんとしたヘドロのような濁りを心の奥底にためる。吐息にはアルコールの臭気が強く混じっていた。

 背中を壁にもたれさせながら立てた膝に顎を乗せる。反対の足は前方のガランとした空間に伸した。相手がいれば文句を言われた無作法も、いまは何の反論もない。それが、嬉しく感じたのは一瞬だけだ。この空間では、アンヘルに届く音は何もない。

 

 ――ああ、なんていうか、静かだなぁ……。

 

 視界の片隅で、アンヘルの治癒を終えた獣――リーンが自分の指先を見つめていた。その目は、まるでアンヘルの心情が伝染したように重い。いつも活発に動き回るリーンとほど遠い状態だ。召喚獣の元気印たるリーンのありさまは、締め切った室内全体をより暗くした。

 

「ひとりって、心細いなぁ……」

 

 その言葉が、たったひとりの空間に響き渡る。もうひとりいたはずの家主には届くことはない。

 代わりとばかりに、シィールがその輝いた瞳を向ける。蒼いはずのその瞳は、アンヘルにはどこかくすんで見えた。

 

 もう一人の家主――ホセはこの小屋を出ていった。郊外に位置するこの小屋は、鍵をかけることもできなければ主要商店街からも遠い。なによりも、歪んだ家屋と狭い室内による居住性能は限りなく最低である。そのうえ、治安のよくない郊外に位置するのであれば、住居としては雨を凌げるだけマシといった程度である。

 

 ホセの手腕はそこいらの農村出身者と比べて抜きんでていた。探索者として培った戦闘技能と生来の人を引っ張る能力は、用心棒稼業にうってつけだった。そして、街が持て余し気味にしている農村出身の若い衆を扱う人脈が合わされば、ホセはおもしろいようにエスカレーターを昇るが如く駆けあがっていった。

 そんなホセは、このさびれた住居から出ていってしまったのだ。そもそも、ここに住み続けていることが非効率だったのだ。ホセの配下達は、事務所や事務所から近い住居に住んでいる。ホセは頭である。仕事だけを考えるのならば、常に居場所が分かりやすい事務所やその近辺に住んだほうが良いのである。

 

 それでも、ここに残り続けたのは、口には出さなかったがアンヘルのためだった。アンヘルは「ひとりは嫌だ」とまったく口に出さず、ホセも訊ねたことはなかった。それでも、頼るもののない街でひとり生きていくのは困難だとホセは人見知りのアンヘルのことを案じていた。口の悪いホセの、ぶっきらぼうな優しさであった。

 しかし、それも限界だった。街の商売にうまく入り込んだホセは、多忙を極めた。そして、見栄もあった。用心棒の頭がこんなボロ小屋に住んでいるわけにはいかなかったのだ。驚愕に値するほどの速度で成長したホセの仕事と同じくらい唐突にホセとアンヘルの離別はやってきた。

 

「べつに、ちがう街に行くわけじゃねぇんだからよぉ……」

 荷物をまとめて小屋を出ていくときのホセの声色は、いつもからは想像もできないほど優しかった。それに対して、アンヘルは頷くだけで返した。

 ふたりには確信があった。これは別離の言葉だと。探索者として過ごした2か月あまりの間に決めた、ホセはしっかりとした、アンヘルは漠然とした進路が、これからは交わることがないのだと。そう宣言する別れの言葉だった。

 

「もう、行かなくちゃ。ホセも、頑張っているんだし」

 

 最後に、シィールの顔を撫でた。くぅんと鳴き声をもらしたシィールとリーンを召還(デポート)する。

 力の入らない足を無理やり奮い立たせ、立ち上がる。そして、扉を開いて外界に飛び出した。

 

 ――ホセ。ぼく、がんばるよ……。

 

 アンヘルは心に誓う。そして、近くに立てかけてある訓練用の棒を持ち上げて振り下ろす。明日からまた厳しい戦いだ。アンヘルは棒を強く、強く握った。

 

 

 

 §

 

 

 

 アンヘルは構えた棒を上段に構え、飛びかかる。

 

 ――穂群斬り(ほむらぎり)*。

 

 上段から斜めに放たれた銀光は、【モリりん】の身体に食い込んで破裂させた。そのままの勢いで、左方から薙ぎ払う。一匹、二匹と周囲のモンスターを弾き飛ばすと、相手のリーダー格までの道を切り開いた。

 

 疾風の如く。目にも止まらぬ速度で、ホアンが道を駆け抜ける。

 そして、雷光のような速度で剣をリーダーである【ワルりん】に振るった。ズバッと振られた長剣に真っ二つにされた相手は、地面に横たわる。

 

 残り五体。

 相手方の態勢が整わぬうちに、アンヘルは右手に持った棒を叩きこんだ。相手は、反応できない。

 瞬く間にホアンが三体、アンヘルが二体倒すと、敵影はなくなった。

 ホアンが剣の血糊を拭いながら、アンヘルを賞賛した。

 

「アンヘル! かなり、良くなってきたんじゃないか。【穂群斬り(ほむらぎり)】。もう、一端の戦士ってところか?」

「いや、そんな、まだまだだよ。まだ、うまくく行かないこと、多いしね……」

「そうかな? 今回のは、かなりうまくくいった技だったと思うけどな……。蓄えた闘気をうまく武器に込めていたと思うけど」

「今回は、相手の動きが分かりやすかったからさ……。もっと複雑な動きをされたら、もっと難しいし。それに、今の武器。剣じゃないし……」

「そんな、細かいこと。気にするべきじゃないとおもうけどな……。せっかくうまくくいったんだから」

「うぅん。まぁ、そうなのかなぁ?」

 

 そう言いながらも、アンヘルはよどみなく魔石を回収する。その傍らでは、無言のヨンもたどたどしい手つきで回収を進めていた。8体分の魔石を回収すると立ち上がる。

 

「まあ、なんにしても。板についてきたってのかな。アンヘルも。漸く、入門は卒業かな?」

「入門卒業っていっても、次は準初級でしょ? さき、長いなぁぁ」

「そんなもんさ。それに、奥が深くていいだろう?」

「それは、大位に手が届きそうなホアンだから言えるんだよ。僕があと幾つ昇級しなきゃいけないか知ってて言ってるの? もう、イヤミにしか聞こえないよ……」

「たった、五階級だろ。体力はあるんだし、上がるのなんてすぐだよ」

「……もしホアンが五階級も上がったら、皆伝になるんじゃない?」

「あぁ。そうかもな。……じゃあ、楽じゃないか?」

 

 そう言って、ホアンは笑ってごまかす。

 

 アンヘルはホアンのコネで、道場【東方一刀流】へ入門した。現在は師範の不足から剣術のみを教える門徒は取ってはいなかったが、ホアンが無理やり頼み込んでくれたのである。とはいえ、師範も多忙であり、中々稽古を見てもらう機会はなかった。もっぱらホアンと打ち合い、技能を教えてもらう毎日となっていた。

 

 その流派に伝わる特殊な呼吸法。それによって、外界に満ちる神秘の力(マナ)を取り込んで、戦闘術に活用する。それが、東方一刀流における基礎であった。とはいえ、外界の力を取り込んで身体を強化する術は、それほど特異ではない。たとえば、ダンジョンによる強化である。ダンジョンによる強化は、恒常的かつ無意識化のものではあるが、探索者ならば誰もが経験するものである。しかし、それを意識的に使用する闘技は、アンヘルの攻撃能力を大幅に上昇させた。

 

(リンヘルは、親方に呼吸法の訓練をつけてもらったって言ってたけど……。こんな技教えてもらえないんじゃ、なかなか独力で探索なんて無理だよなぁ……)

 

 秘密主義ここに極まれり。

 成果や手法をオープンにする思想が出てきたのは近年になってからだ。インターネットによる世界中の知識が共有されない世界では、リーナスの法則にはじまる共同開発という思想が誕生しないのである。そのうえ、特許にはじまる知的財産権を保護するシステムが整わない業界においては、秘密主義に拍車がかかった。

 医学や数学のような学問でない市井の商売へ直結する技能の秘匿はなかなかに厳しいものであった。そして、それは探索者や戦士の技能である呼吸法も同じであった。

 

(使えるからって、身体が丈夫になるとか、ちょっと速く走れるとか、棒を早く振れるとかぐらいなんだから。広めても、問題ないとおもうけどなぁ……)

 

 これは、帝国の軍国主義の弊害でもあった。

 徴兵される農民の役割は、つまり肉壁であった。少しばかり闘技を鍛えたところで、生半可な訓練では戦闘能力を大きく向上させることはできないし、生存能力が著しく上がるわけではなかった。

 そのうえ、貴族は街に住む人間を戦争に使いたがらない。街は貴族にとってお膝元であり基盤である。都市の人間には高度な教育を受けた上流階級の者や資産家が多く混じっている。貴族といえども所詮は地方の領主一族にすぎない。円滑な街運営には、有力者たちの協力が必要不可欠なのだ。自分の街が攻撃されるならばともかく強国として覇を唱える帝国は、なんの知識もない農民だけが戦場に赴き、肉壁としてやられるだけなのである。

 

 当然、知識のない農民や戦場に行ったことのない町人の間に戦闘技術が広まることなく今に至っていたのであった。もちろん、この技術が一般生活において何ら必要でないモノであるということもあったが。

 

「おっと、敵だ!」

 

 そういうと、ホアンは駆け出していく。アンヘルもそれを追いかけた。

 ホアンが一太刀で1匹を葬り去るのと同時に、アンヘルも1匹に攻撃を行う。

 

 ――ああっ。ちょっと、ブレたかも……。

 

 アンヘルの心情どおり、棒に込められた力は霧散して、相手に十分な打撃を与えられなかった。それでも、アンヘルは戸惑わずに、腰から引き抜いた鉈で止めをさした。

 ずぶりと敵の肉体に刺さる感触が手に伝わた。ホアンはそんなアンヘルの失敗を伺っていた。

 

「やっぱり、毎回上手くいくってわけじゃないか……。ブレちゃうんだな……。とはいっても、実践で慣らすのはあんまり良くないんだよな。危険だし。もうすこしすれば、ミスはしないようになると思うんだがなぁ……」

「なにか、アドバイスとか。ある?」

「うーん。そういうのは、昔に通り過ぎたからなぁ……」

 

 ――でた。ホアンのこういうところ。

 

 アンヘルは内心で呟く。ホアンは少しばかり天然だが、基本的に正義に熱く礼儀正しい青年だ。アンヘルは彼のそれ以外の面を見たことがなかったが、道場に通うことでホアンの違う面を発見していた。

 ホアンは剣に対して非常に高慢な態度を取るのである。もちろん、それが見下したり卑下に繋がることはない。ホアンのその態度は、何故できないのか? 何故やらないのか? といった腕が劣るものに対する無理解であった。当初、アンヘルはホアンの天然故の自覚のない悪意かと思ったが、鍛錬中にホアンと他の門徒が話し合うのを見て考えを改めた。

 

 ――これこそが、強者故の悩みってやつなのかなぁ……?

 

 できるがゆえに、できない人のことを理解できない。それを指摘することの愚かさは理解しているようだが、言葉にせずとも態度から滲んでいた。それは、道場に長年通っているが、才能がなく呼吸法を体得できない門弟や半ば遊びにきているような人に向けられた。

 

(ぼくが呼吸法を一週間でできたとはいえ、あの時はちょっと怖かったなぁ。べつに、無視すればいいのに……)

 

 ホアンの無理解とそれでも見せる面倒見の良さが発生させた不幸であった。優等生らしいホアンの唯一の欠点である。

 

「今度、道場試合に参加してみるか? アンヘル。攻撃はともかく、闘技を使わない防御はうまいからなぁ。俺も、けっこう関心させられるときあるしさ」

「ううん。そうかなぁ? あんまり、自信ないけどなぁ」

「まぁ、大丈夫だよ。負けたとしても、死んだりしないしさ。ここと違って」

「うーん。そうなんだけどさぁ」

「男だろ、もう決定っ。今週の週末に試合があるからさ。師範に訓練みてもらうチャンスだろ」

「そうかなぁ」

「心配ないって、実戦経験のあるやつなんかそうはいないからさ。いいとこまでいけるさ」

 

 ホアンの気楽そうな意見に反論できず、アンヘルは頷かされてしまった。ここまでくると、自分の力を試してやろうという気持ちになった。もう、やけっぱちだ。

 

 そんな心情のアンヘルの横で、ヨンが疲れた表情をしていた。少し気になって訊ねてみる。

 

「どうしたの。ヨン? もう、疲れた?」

「な、なんでも、ねぇべさ……」

「そ、そうかな? なんか、顔色。悪いみたいだし」

「べ、別に、気にしなくていいだよ」

 

 そういうと、ヨンは目を合わさないように俯いた。

 同時に、アンヘルはヨンの薄汚れた靴が目に入る。側面には穴が空いており、靴としての役割を果たしているか疑問の一品だ。

 

「そういえば、ヨン。靴、新しいのに変えたほうが良いって言ったじゃない。そんな靴だと、走れないよ?」

「く、くつだべか? あ、あ、えっとだな……」

「えっと、もしかして。お金がたりなかったのかな? 三等分してるから、足りないってことはないと思うんだけど……」

「あ、……え」

 

 ヨンはどもったまま、喋らない。ヨンはいつも本音で喋らなかった。

 しかし、アンヘルはこうやってヨンの事ばかり気にしているわけにも行かなかった。

 

「ごめん、他にいろいろ必要なモノがあるんだよね……。けど、靴はやっぱり大事だから、早めに変えたほうがいいと思うよ……」

 

 そう言って、アンヘルはヨンとの会話を打ち切った。

 

 ――ヨンって装備が変わる気配ないんだけど。注意したほうがいいのかなぁ……。でも、自分のことだしなぁ……。

 

 3人に減って、以前ほど進まなくなった攻略も終わりが見えてきていた。塔の中間点、『旅立ちの間』に辿り着くまであともう少しだった。アンヘルは気合を入れなおした。

 

 

 

 §

 

 

 

「一本ッ!! 勝負あり!」

 

 師範が大きな声で宣言する。道場の中心には剣を落とした汗だくの男と、残心をとった長髪の男がいた。ふたりは姿勢を正すと、礼をして空いた席に座り込んだ。

 

「次、初級のゼントスと準初級のアンヘル!」

 

 師範の大きな声に合わせて、アンヘルは所定の位置についた。アンヘルが立つ位置から五メートル先に相手も立つ。アンヘルは礼をすると、木刀を正眼に構えた。

 相手は木刀を上段に構える。火の構えだ。刈り上げた短髪と燃え上がりそうなほど熱い目がよく似合っており、攻め重視なのがありありとわかる積極性を示していた。じりじりと空気が痺れる。ふたりの間に緊張が流れた。

 

 師範が開始の合図を告げる。

 上段に構えた男は、その長身を生かしてアンヘルを威圧する。頭上に構えた剣を左右に振り、斬線を読まれにくくする。その目には、一部の隙も見逃さない熱意があった。

 

 アンヘルは剣で間合いを誇示するように、相手に突きつける。

 すべては、相手の攻撃性をそぐためだ。

 

 ――相手は、僕よりもリーチも経験もある。まともに攻められたら、勝てっこない……。

 

 アンヘルが狙うは、攻撃を誘ってからのカウンター。其の一点突破しかなかった。攻撃を誘うため、相手に攻めづらく、それでいて攻め込めそうな隙を作り出そうと間合いを探りあう。

 

 ゆっくりと両者共に立ち位置を変えながら移動する。照りつける陽光が緊迫するふたりに容赦なく降り注いだ。

 中々動かない戦況に、アンヘルは焦れそうになるがなんとか堪えた。経験の浅い者が、何の策も持たず攻め入る愚をアンヘルは学んでいた。

 

 ――相手は積極的な性格だ。こうやって焦らせば、いつか動くはず。

 

 相手の間合いとその外の狭間で活路を見出そうとする。剣術経験が浅かろうと、実戦経験では劣らないアンヘル唯一の特技だ。

 

 十数秒ほどの睨み合い。

 無限に続くかと思われた睨み合いは、長身の男――ゼントスによって動きだす。

 

 アンヘルが牽制の為に構えていた木刀を、ゼントスは上段から打ち下ろしてきた木刀で払う。そして、アンヘルの無防備になった間合いへ飛び込んだ。

 男の木刀は、アンヘルの木刀にぶつけた反動で上方に構えなおされる。

 男の強化された踏み込みの一歩は、一瞬で間合いをゼロにした。

 

 ――ここだッ!

 

 アンヘルは打ち払われた剣を見て迎撃するのは不可能だと判断した。そのうえ、引くことはできない。彼のような積極性のある武芸者に対して守勢に回るのは得策ではなかった。下がれば、相手の追撃が永遠と続く。それならばと、相手の飛び込みに合わせて、アンヘルは肩から飛び込む。

 

 剣の根本は斬れないうえに、小回りも利かない。その法則に目をつけて相手の懐に飛び込んだアンヘルは、姿勢を低くしながらショルダータックルを見舞う。男は、剣に闘気を込めており、敵が前に突っ込んでくるとは微塵も考えておらず、無防備となっていた身体へのアンヘルのタックルは効果的だった。

 

 ガッと大きな音がして、男は後方に転がる。相手が手に持っていた木刀はすでにない。

 アンヘルは持っていた木刀を、尻もちをついてこちらを見ている男に突きつけた。

 

「そこまで!」

 

 師範の大きな声が響く。同時に相手の悔しそうな表情が目に映った。

 姿勢を正し、所定の位置へ戻ると、相手へ合わせるようにして礼をする。その時になって漸く、緊張と疲れからの汗に気が付いた。アンヘルの想像以上に強く木刀を握りしめていたのか、木刀を握る手の感触がない。手がぶるぶると震えた。

 

 アンヘルは、試合初勝利に喜ぶような安堵したような複雑な気持ちで定位置の壁際に戻り座り込んだ。すぐさま、ホアンが駆け寄ってくる。

 

「おお、やったじゃないか。初勝利、おめでとう。まあ、あまり褒められた戦い方ではなかったけど」

「う、うん、ありがとう。分かってはいるんだけどね……」

「まぁ、分かってるならいいんだけどな。ここは、剣術道場だからな。体術が禁止されているわけではないが、推奨されているわけでもないからな。アンヘルも剣を磨く為に来ているわけだから、剣で戦うべきだろう?」

「こ、今回は、咄嗟にってだけだから。次は、剣だけを使うよう意識するよ」

「いや、そこまで気負う必要はないんだけどな……。アンヘルは探索者なわけだし、師範だって公然と批判しているわけじゃないだろ。ううん、難しいな。何ていえばいいか……」

「うん、大丈夫。分かってるから」

 

 アンヘルは、ホアンに空返事を返した。

 道場はどこか剣至上主義的な面があった。実戦を経験している師範は別としても、ホアンなど多くの門徒は剣のみで敵を打倒することに執着しており、体術および柔術による戦闘技能は軽んじられていた。それは、アンヘルが勝利したゼントスの不服そうな表情が物語っていた。とはいえ、公然と批判するほどに嫌っているわけではない。風潮として剣を最上とする空気が蔓延しているだけなのだ。

 

 ――剣も体術もそれほど変わらないと思うんだけどなぁ……。

 

 アンヘルのように実戦から戦闘技能を学んだ者にとって、剣術と体術に差などない。戦士は、技能について驚くほど冷淡ともいえるような区別をする。ともすれば、道場内で孤立を引き起こすほどのシビアな精神をアンヘルは育みつつあった。

 

「でも、あの体当たりは強烈だったな! スムーズに強化を施せていたし、体術のほうが得意なのか?」

「うーん。自分でもよく分からないんだけどさぁ。正直、剣に力をのせて斬撃を放つってイメージが付きにくくて……。それよりも、身体を強化してってほうが簡単だから。ホアンは違うの?」

「普通は、いきなり強化なんてできないからなぁ……。大抵の人は指向性のある武器に力を乗せる鍛錬を重ねて、制御法を体得するからな。剣は苦手だけど、身体の強化はスムーズっていうのは聞いたことがない。恐らくだけど、アンヘルの経歴が関係しているんだと思う。中々いないからな、何の技術もなく探索者を始める奴ってのは」

「ダンジョンの強化が関係してるってこと?」

「多分そうだろう。普通の人間には『塔』といえども幾重にも困難が立ちはだかる。ヨンを見ればわかる。俺たちがいるから、なんとか付いてこれているが彼ひとりではどうにもならないからな。アンヘルは、長期に渡って『塔』で鍛錬を積んだ事によって、無意識の内に強化を使いこなしていたんだろう。達人は、厳しい鍛錬の末に無意識化で強化を行えると聞いたことがある。アンヘルの場合、生存本能から簡単な強化ができるようになっていたんだろう。呼吸法の体得が早かったのも納得できる」

「やっぱり早いんだ。一週間って」

「かなり早いな。とはいえ、全然いないって程ではないからなぁ……。俺も同じくらいの期間だったからな。この情報だけで、アンヘルが身体強化を得意にする理由とするのは早計かもしれない。反論が幾つも見つかりそうだ」

 

 ホアンは色々考えながら唸る。脳筋に見えるホアンだが、剣術に関することならば理論にも積極的に取り組んだ。この傾向は道場にもある。この国で、剣術がどれほど信奉されているのかがわかる光景であった。

 

「まぁ、今日の試合はあといくつもある。最低でも、穂群斬り(ほむらぎり)が実戦で使えるように慣らすんだぞ」

「うん、わかってる。もうすこし、守備型の人と対戦すれば試しやすいと思うんだけど……」

「あぁ、確かに。さっきの相手は、かなり攻撃的だった」

「長身の人に上段で構えられると、威圧されちゃって……。こっちから向かっていくのは難しいよ」

「そうなると、しんどいな。ウチの流派は中道派だが、どちらかといえば攻撃に偏っているからな。守備型の人間は少ない」

「あ、やっぱりっ。さっきから、上段に構えるひとが多いなぁって思ってたんだよ」

「だが、折角の機会だ。難しいとは思うが、無理やり攻めてみたらどうだ。それも、練習の内だろ?」

「やっぱり、そうなるのかなぁ。はぁ、自信ないなぁ……」

「負けたって、死ぬわけじゃない。思い切ってやってみたほうがいい」

「それは、攻撃な得意なホアンだからそう思えるんだよ。中々難しいんだけどなぁ……」

 

 ふたりが他愛もないやり取りをしている間にも、試合は進んでいく。そういえばと、アンヘルはホアンに今日の流れを訊ねた。

 

「試合って、どんな組み合わせなの? トーナメントって訳じゃないんでしょ?」

「とーなめんと? いや、試合は階梯の近い人同士で組み合わせが行われる。アンヘルは準初級だから、それに近い階梯の初級や表位と当たることになる。準初級はアンヘルだけだからな」

「やっぱり、準初級っていないんだ」

「まぁ、半年も通えば自動的に昇級できる階梯だからな。アンヘルも実力だけなら準初級を超えているが、入門してまだ間もないからな。もう少し間を置かないと、昇級はしないだろう」

「ふうん」

「ふうんって。アンヘル。興味ないのか? 上位の階梯を目指すことは剣士として誉れ高いことだぞ」

「いや、そうなんだけど……。なんとなく、想像つかないっていうか……。遠い世界の話っていうか……」

「そんなんじゃダメだぞ。男は上昇志向に溢れていなければ。大成なんて夢のまた夢だ」

「そういわれると、言い返せないんだけど……」

 

 そうやって離していると、師範がホアンの名前を呼んだ。ホアンの出番である。顔に自信をみなぎらせながら中央に向かって歩いていった。

 

 ――よし、僕も頑張るぞ。

 

 アンヘルは、そのあとも初級に一度勝利したが、その後3連敗したのであった。

 

 

 

 

 




穂群斬り:東方一刀流の基礎技。道場内からは名前と由来がダサいともっぱらの噂


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第十一話:失くして

 ――ぼく、結構つよくなったよね? 2回も勝ったんだしさ……。

 

 そう心の中で呟きながら、アンヘルは家までの道のりを駆けた。

 

 最近の彼は充実期にあると言ってよかった。街に来た当初は、身体を限界まで酷使したとしてもにっちもさっちも行かない報酬であったのに、それに耐えて力を蓄え、探索者として必要な能力と装備が整い、歯車が噛み合い出したのである。

 人は変わろうとしても、中々に成長できるものではない。もがいてもがいてを繰り返し、けれど成長曲線が停滞することに人は諦めるのである。彼はその努力の壁を超えて、自分の殻を壊し始めていた。

 

(ホセはずっと先にいってるけど、ぼくも頑張るから! 明日からももっとがんばるぞー)

 

 エイエイオー。手を頭上に高く掲げたいほど、心ははずむ。それでも、人目を気にして不審な行動は慎んだ。

 

 道場から家までの道のりは小一時間以上かかる。黄昏時の街路は日中の熱が残っているのかうだるような暑さだった。それでも、足取りはまるで踊りだしそうなほど軽い。

 通りは人で溢れていた。夕方から夜にかけて、繁華街はガラッと姿を変える。昼間はやっていない食い物屋や酒場の魔灯が灯され、軒先に暖簾を出し始める。

 

(って、こんなにゆっくりしてる場合じゃないッ。もう、夕暮れ時だし、仕事をおえた職人たちが店にやってきちゃう。早くしないと、店に入れないよ!)

 

 アンヘルは息を整えて駆け出した。この後、剣術試合の反省会も兼ねてホアンと祝勝会を【菜の花亭】で上げる予定なのである。そのため、アンヘルは急いで倉庫へ着替えに戻っていたのだ。

 

 急いで走るアンヘルの視界に、ふたりの人物が入る。曲がり角から、スッと歩いて出てきた。それは、見知った顔であった。

 

 ひとりは男。背の低い男である。自信に溢れた表情は、男らしさの塊である。堂々と胸をはり、恐れることなどないと言わんばかりの歩き方は、その人物の性情をありありと表していた。

 その男――ホセを見たとき、アンヘルは声を掛けようとした。アンヘルとホセは別宅で住むようになったとはいえ、仲が(こじ)れたわけではない。むしろ、その逆である。違う仕事についたふたりの間に、利害関係は存在しない。その関係性は、何も絡まないからこそ純粋な友情に昇華していたのだ。

 

 休みの日、飲みに行くこともあるホセに対して喉元まで出かかかった言葉をギュッと押さえ込んだのは、その横に別の人物がいたからだ。

 

 アンヘルは近くの物陰に身を潜めた。とっさに。正に衝動的と言っていいほど、咄嗟に隠れた。別に隠れなくていいんじゃ? という気持ちはあったが、場の空気に流され隠れてしまった。

 それは、もうひとりの人物が穏やかならぬ人影だったのである。

 

 穏やかならぬといっても、その人物が穏やかではないという意味ではない。スラッとした体格に栗色の髪が特徴的な女であった。身長はホセより少し低いくらいで、遠くから見れば同じくらいに見えた。彼女は楽しそうに朗らかな笑みを浮かべていた。その女は、『菜の花亭』の看板娘にして長女であり、アンヘルの想い人であるナタリアであった。

 

 ――ぐ、ぐうぜん会っただけ……だよね? たぶん。

 

 アンヘルは顔を半分だけ出して、ふたりの動向を伺う。周囲からは奇異の視線に晒されたが、アンヘルには気にする余裕などなかった。

 

(こういうの、良くないよね――ストーカーみたいだし……。覗きって言うかさ。ううん。これは、ふたりが喧嘩しないか気になるだけ、それだけだからッ! ホセとは友達だし、ナタリアさんも、その……顔見知りだし)

 

 心中で免罪符を手に入れたアンヘルは観察を続ける。

 ふたりは話し合っている。ナタリアがあちこちと忙しなく指を差して捲し立てるのを、ホセが澄ました顔で返す。酒場でも見た光景だが、ふたりの距離は近かった。盛り上がっている様子だが、争い合う雰囲気ではない。会話の内容も、雑然とした繁華街では耳に届かなかった。

 

 どれくらい経っただろうか。それほど長い時間でないにもかかわらず、アンヘルは胸に痛みを覚える。ゆっくりと喋りながら進むふたりを追うのは、苦痛を覚える作業だった。それでも、追った。恥や外聞といった言葉は頭から抜け落ちていた。その時だった。

 

 ――えッ!!

 

 アンヘルは叫びそうになった。

 ホセがナタリアを抱くようにして、後ろから肩に手を置いた。自身の内側に迎え入れるような、そんな動きだ。ナタリアはそれに対して、ビクっとしただけで、反抗はしなかった。

 そして、ふたりで歩き出した。ナタリアは逆らわない。下を向いたまま、ついていく。しおらしく、従順に、まるで恋人のように。

 

 会話のトーンは落ち、喋っているのかどうかもわからない。唯一わかるのは、肩を抱かれて歩くナタリアが、夕焼けではない赤さで顔を染めていることだけだ。

 

 この通りは、ホセの家に続いていた。ホセの家は、繁華街から少し離れたところの借家であり、そこそこ新しい。ここからたった数分の距離にある家は、広さも十分でアンヘルの倉庫と比べれば豪邸である。若くして用心棒のトップとなったホセにふさわしい邸宅である。

 そして、明日は祝日である。探索者という就業日もなければ定休日もない仕事にはまったく関係ないが、街全体としては祝日なのである。その祝日の前夜に、若い男女が家に向かうとなれば、そうとしか言えなかった。ふたりの間は友達とは思えないほどに近い。アンヘルに誤解の余地を与えないほどの距離感だった。

 

「はぁぁぁ……」

 

 アンヘルは大きなため息をついて地面に座り込み、胸を押さえた。

 

(まぁいいけど……。そうだ。ぜんぜん大丈夫ッ! むしろ、全然祝福できちゃうっていうか。言ってくれればさっ。打ち明けてくれれば、なにもおもわないしッ。そうそう、驚いただけだから……。別にさぁ……)

 

 その言葉とは裏腹に、目から涙がこぼれ落ちた。胸を包丁で刺されて、身を切り刻まれたような幻痛が襲った。

 それでも、なぜ? という感情は湧きあがらなかった。大きなショックを受けたが、なんとなくそうでないかという予感はアンヘルの中にあったのだ。

 

 ナタリアは酒場の店員――酌婦だ。初対面の人間には普通の娘よりも夜の女と尻軽に見られやすいが、快闊な性質と朗らかな笑みがその印象を一転させる。そのうえ、ナタリアのガードは驚くほど固かった。誰に対しても親身に接したとしても、ボディコンタクトを伴うような態度はとらない。それは、酒場で育ってきた女の鋼鉄の守りであった。そんな度胸もないアンヘルはともかく酒の入ったオヤジどもをあっさりと躱すナタリアの手腕は、周囲の男性からの偶像化を促進していた。

 

 アンヘルはナタリアが近い距離で接しているのを見たことがなかったのだ。小突いたり、指で押したりといったボディタッチを含んだコミュニケーションは。

 しかし、一度だけ例外があったのだ。ホセとナタリアが喧嘩をしていたときだ。ヒートアップしたふたりを押しとどめようとあたふたしていたアンヘルに気づく余裕はなかったが、客観的に見れば明らかにふたりの距離は縮まっていた。

 それだけではない。ホセが自主的に『菜の花亭』を選んだりと、怪しい要素は他にもあったのだ。それをアンヘルは確信を持てないながらも察してはいたのだ。小さな違和感を。

 

 中々立ち上がれない。

 

 言ってくれれば、打ち明けてくれればというのは難しい注文だった。ホセに対して、ナタリアの事を漏らしたことはない。当初の経緯もあって、ホセは【菜の花亭】に近づいたことはなかった。そのため、アンヘルもナタリアについて話す機会が無かったのだ。

 

 そのホセが急にナタリアとの仲を縮めたことに大いに嫉妬した。アンヘルにとって、ホセは尊敬できるうえ一番の友人であり、そのホセに恋人ができれば大いに祝福し歓迎するが、ナタリアだけは別だったのだ。街に出て苦労してきた頃から一貫として変わらない態度とその垢ぬけた容姿に、一目惚れでこそないが数回会う内にアンヘルは彼女に恋焦がれていた。引っ込み思案な性格からは考えられないほどに節制して【菜の花亭】に行く代金を捻出していのだ。

 相手が街の騎士や上流階級出身の人間であれば諦めもついた。僕たちは所詮貧乏人なんだと悪態をついて酒を飲めば忘れられただろうが、それがアンヘルと境遇も変わらないホセだったのである。彼がいくら優れていたとしても、同じ村の出身で農民なのだ。スタート地点から考えれば、現代で高度な教育を受けたアンヘルのほうが、明らかに有利なはずなのである。

 

 それでも、この結果だった。

 

(まぁ、分かってたんだけどさ……。どうせ、脈なんてないって。ぼく、どうせビビりだしさっ)

 

 無論、アンヘルはナタリアが好きになるなどとはこれっぽちも思っていなかった。まったく、といっていいほど期待などしなかったのである。ナタリアの事が好きな人物は巷に溢れるほどいたし、それでなくても食い物商売の跡継ぎは魅力的だ。立地もいい『菜の花亭』の後釜を狙って、彼女と良い仲になろうとする人間はいくらでもいる。

 

 だから、アンヘルは考えないようにしていた。その感情を意識しないように蓋をして、心の奥底に閉じ込めた。そして、アイドルへ会いに行く気持ちで足繁く通ったのだ。自分を本音を心の奥底に閉じ込めて。

 それが、ふたりを見て溢れだした。

 

「うぅぅぅ……」

 

 胸が痛んだ。

 

 アンヘルにとって、初めての恋だった。苦しい中に現れた、まるで別世界の住人のような彼女。飛びぬけた美貌に接しやすい態度。向日葵のような笑みに、差別からは無縁な高潔な精神。明るく快活でそれでいて親しみやすい。真に完璧だった。彼女の存在が、この空虚な生活に潤いをもたらしていたのだ。

 

 アンヘルの頭に浮かぶ女の顔はたった3つだ。

 ひとつは現代の母親の顔。引っ込み思案なアンヘルに優しく、それでいて毅然とした態度で躾をした。男が最初に惹かれる女は母親だというが、その例にもれずアンヘルは母親に母性を感じていた。

 もうひとりはこの世界の姉である。母のように厳しくも優しい。アンヘルがもっとも困難な時期を助けた姉は、彼にとって最大の味方だった。

 そして、ナタリアである。彼女の笑顔はアンヘルの原動力だった。今思い返せば、それだけが楽しみだったのである。中学の同級生でもなければ芸能人でもない相手に対する初めての恋。それが、彼女だったのである。

 

 ホセが彼女の関係を想像するだけで、悔しさと嫉妬心で心が崩れそうだった。心の奥底にほんの少しだけ彼らの関係を認める気持ちが湧いたことに心底失望した。それには、無理やり入っていけるほどの度胸がない自分への失意であり、関係を宣言されてもいない内に諦めてしまう自分に対する情けなさが多分に含まれていた。

 それでも、一番の親友たるホセと初恋の彼女との仲を認めて、ほんの少しでも幸せを願える自身の精神性を褒められる気がした。

 

 アンヘルは呆然と真っ暗な空を仰いだ。

 

 激しく痛む胸には大きな穴があいて、心を失ったように感情が動かない。それは、大きな痛みが一斉に襲ってきたときの一種の自己防衛機能だった。それでも、空いた穴を埋める方法などない。鈍い痛みが続くだけだった。

 

 アンヘルは失恋した。

 いや、とっくに失くしてたのだ。

 

 

 

 §

 

 

 

「はぁ、はぁ。おいッ、しっかりしろよ! アンヘルッ」

「う、うん。ごめん。大丈夫だからッ」

 

 ふたりは九十九折りの階段を、息を切らしながら駆けがる。塔の中層は複雑に入り組んでおり、入り込む者を惑わせる。そのうえ、光も差し込まぬ暗闇の中では手に持っている松明ごときでは一寸先も照らせず、侵入者を引きずり込むかのような闇の中が広がっていた。

 

 はぁはぁと呼吸が定まらない。ただ、ひたすらに敵を破り進んでいくだけの足取りが重い。体中に錘をつるされ、魂が地獄へ引っ張られているかのように足が地面から離れるのを嫌がった。行動の隅々にまでおよんだ異変は明らかにアンヘルの体力を奪っていた。

 

「早くしろッ! 追いつかれるぞ!!」

 

 ホアンが叫ぶ。後ろからはモンスターの群れが大挙して、侵入者を根こそぎ狩り取ろうと襲ってくる。

 

 モンスターハウス。湧き。殺し間。モンスターが大量に発生するその現象に呼び名はいくつもあったが、それは危険性の高さを表していた。最も死亡率の高くなる素因が経験の浅さであるならば、もっとも死亡率が高くなる誘因はこの『湧き』である。どれほど武芸に秀でた戦士であっても、数の暴力に逆らうことはできない。

 

 道順に目印も付けずに、モンスターが闊歩する魔窟を短時間で走破するのは困難を極める。探索の原則として、逐一道程にメモをとり、十分な安全マージンを保ったうえで歩いて進んでいく。当たり前のことだが、大股での短時間踏破は足の負荷が大きすぎるため、戦闘に余力を残しておくことができないのである。

 しかし、ふたりにそんなことを考慮している余裕はなかった。すべてを無視して全力で駆走する。その後ろにモンスターの群れの姿が付かず離れず見えた。階段を駆けのぼり、曲がり角を曲がる。松明だけが頼りの視界の中、行き止まりがないことを祈りながらの逃避行。足元が覚束ない道を総力を上げて進んでいった。

 

「クソッ。こんなときに、ヨンがいないことだけが救いだッ!」

 

 ホアンが珍しく悪態をつきながら駆けはしる。

 

 ふたりの近くにヨンの姿はなかった。今日の探索に赴くとき、集合場所に来なかったのだ。しかしアンヘルはそのことについて意外性を覚えず、このときが来てしまったのかとある意味で納得してしまった。元々、ヨンは探索者稼業に向いている性向ではなく、その体格に似合わない臆病な性質は、幾度『塔』に来たとしても荒事に慣れることはなかった。そしてそれはヨンの探索者としての素質を開花させることはなかったのであった。

 

 この『塔』における最大の敵は、報酬の低さと距離にある。報酬の低さはホアンというモンスター殺戮兵器が加入したことで徐々に解消されつつあったが、距離は自力で克服するしかない。アンヘルとホセは積極的にモンスターを倒し、自身の肉体を精強に鍛え上げていったが、ヨンは戦闘には参加せず、後方支援に徹していた。人は苦難を受け入れ、乗り越えることで成長すると言うが、その意味ではヨンは探索者という仕事のすべてを拒絶していた。なまじ戦闘に特化して味方に成果を求めないホアンと、アンヘルがヨンに対して積極的に戦闘に参加することを求めなかった姿勢から、疎外する空気が育まれ、ヨンに成長の機会を与えなかった。

 それと、もうひとつ。ヨンに探索者の仕事に対する遣り甲斐が芽生えなかった。成功経験の乏しい人間は努力することに意義を見出せず、自身の成長に繋がらない無益な行動ばかりをとることになると心理学では考えらえている。それはヨンにも当てはまり、積極的に装備の更新や能力の向上に勤しんだアンヘルと違って、彼の報酬の使い道は稚拙に過ぎた。金の用途を詳細に訊ねたわけではなかったが、彼の恰幅の良さだけに拍車が掛かり、装備は一切更新される様子がないことを鑑みれば察するのは容易だったのだ。

 

 そんなヨンが今回の攻略に参加していなかったのは幸運だった。そうでなければ、アンヘルは見捨てて逃げるしかなかったのだ。今回起きた大群の襲撃は、ヨン不在による魔石採取時間の増加であることを考えれば皮肉ではあったが。

 

 

 整然とした塔の内部を駆け抜け、曲がり角を右に曲がる。少し進んで十字路をもう一度右へ曲がり、不揃いな階段を一段飛ばしで駆け登る。時折顔を出すモンスターの顔面にアンヘルは躊躇もせず棒を叩きつけて駆けた。アンヘルの目にホアンの背中が映る。

 

 ホアンの足は速い。持久力も瞬発力もアンヘルより余程優れていた。身体能力という面ではふたりに大きな差などないが、長年培われた『力』の使い方が違った。浪費のない力の制御は、道の先導と後方の妨害を同時にこなした。

 

「うらぁッ!!」

 

 ホアンは走りながら落ちている石を拾うと、右腕を振りかぶり投射した。力によって強化された剛腕が驚くほどの速度で石を投じると、モンスターの先頭『わるリン』に直撃し、そのモンスターを先頭とした集団が雪崩のように崩れるが、あっという間にそれを乗り越えた後方集団が襲い掛かってくる。

 

 ――キリがないッ!

 

 終わりのない耐久走に幾度も足が止まりそうだった。いや、それだけではない。足が死者に引っ張られるように進まない。『力』の制御は感情に大きく支配されるのだ。不安定な心がアンヘルのコンディションを悪化させていた。

 

 曲がりくねった長い距離を走り抜ける。行き止まりに当たれば一貫の終わりだった。無数に枝分かれする通路を勘だけで選ぶ。もはや、帰路について考える余裕などない。

 

 長い階段を登りきった後に、まったく横道のない一本道にたどりついた。その道の遥か先には塔の入口と似た青い光が見える。

 

 ふたりは顔を見合わせると全力で駆け出した。長い一本道には逃げ場などない。わき目もふらずで先に進むしか無かったのである。そんなふたりの前方にひとつの脇道が現れた。

 

 いや、正確には下方向の道だから落下というのが正しい。塔の内部は外観からは想像できないほど整備されていたが、年季からか経年劣化した場所は多々あり、崩壊した足場は上層に行くほど増大していた。その崩れ落ちた床からつづく奈落という死への道のりがふたりの顔の前に顔を出す。

 ふたりの前に鴻大な関門が立ちふさがった。

 

「クソッ! 行くぞ!」

 

 そういうとホアンは全力で駆け出し、崩落をまのがれている床ギリギリで踏み切った。威勢のいい掛け声とともにホアンが跳躍する。

 

 軽く五メートルは空を翔けた。強化された足による跳躍は、人にあるはずのない翼を与え、進めるはずのない道に橋を掛けた。鳥のように雄大で、それでいて陸上動物のように荒々しく跳躍したホアンは軽々と崩れた足場を飛び越えて向こう側に着地する。着地の衝撃を和らげるために、ゴロゴロと転がった。

 

 そして、ホアンがこちら側に向かって叫ぶ。

 

「おい! アンヘルッ。急げ!! 死んじまうぞッ!」

 

 アンヘルの耳にモンスターの到来を告げる轟音が届く。振り返ってモンスターを見ると、まるで立ち止まったアンヘルを嘲笑うように笑みを浮かべながら殺到していた。そのモンスターはまるで津波で、よける隙間なんてありはしない。

 

 アンヘルは前方に目を向ける。そして、崩れた足場の底を確認しようと松明で照らし目を凝らした。けれど、アンヘルの双眸に映じられたのは暗い闇だけだ。

 

 ――これって、落ちたら……たぶん死ぬよね……。

 

 そう思うと足がすくんだ。身体がまるで金縛りに遭ったかの如く硬直する。ホアンが叫ぶ声も、モンスターが迫りくる音もまるで他人事のように響いた。

 力がぬけて虚脱したみたいに動かない。死にたくない。生きたい。心の中で何時も叫んでいた気持ちがまったく入ってこない。原動力を根こそぎ持っていかれてエンジンがまるで掛からなかった。

 

 前方には五メートルを超える巨大な穴。三十メートル後方には、隙間もないほどに密集したモンスターの群れ。去るも地獄、残るも地獄である。

 

 アンヘルの脳裏に今までの人生がリフレインした。

 ユーモアに溢れた父、優しくも厳しい母に囲まれ退屈でありながらも平和でなんの不安もない日常。

 突然やってきた、過酷で救いのない、娯楽も無ければ食糧もない。家族の情すら感じることの難しい農村の日常。

 多大な困難と刺激に溢れ、自身の成長と過酷な生活から抜け出しつつある探索者としての街の生活。

 そして、一番の友達であるホセとアンヘルの想い人であったナタリアの顔が浮かんだ。

 

 過去の思い出が、浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。それはさながら走馬灯だった。

 死。探索者として、そして人間として逃げることのできない最大の敵がアンヘルに迫っていた。

 

 死は恐怖と諦めを促す。アンヘルは死を前にして腑抜けた脆弱の徒になり果ててしまった。もういいか、がんばったじゃないかという甘言を心の悪魔が囁いた。

 

 そんなとき、ホアンの声が響き渡る。

 

「飛べッ! アンヘル。探索者として成り上がるんじゃなかったのかッ!!」

 

 その言葉でアンヘルはシィールを思い浮かべた。

 

 シィール。か弱いシィール。素直で、従順で、甘えん坊で人懐っこい。シャープな顔も、間抜けな動きもすべてが愛らしい。行商人が授けてくれたアンヘルの相棒である。どんなときもアンヘルを助け、それでいてなんの不満も見せずに召還されないまま過ごしており、アンヘルとシィールが会うのはもっぱら魚を取ってもらうときだけだった。そしてアンヘル達を苦しめた獣であるリーンも同様である。すべては召喚士(サモナー)の都合のいいままに彼らは操られていた。それでも、彼らは不平不満を見せず、従順に、そして補佐を十分にこなしていた。

 

 ――もし、もしもぼくが死んだとしたら……。シィールたち眷属は、果たしてどうなるのだろうか。

 アンヘルの頭に最悪の結末がよぎった。そして、それに対する申し訳なさと、不条理に抗う反骨心が沸き上がった。

 

 ――ぼくが強くなって、シィールたちといつでも会えるようにするって誓ったじゃないか!

 

 ホセと別れて、ナタリアという初恋を失って、それでも残った最後の願いだ。強く、強くなるんだ。その言葉を呪文のように唱え、アンヘルは全力で駆け出した。

 

「うわぁぁぁぁぁ!!」

 

 五体の生気を右足へ極限まで集約し、崩壊を免れている足場ぎりぎりを全力で踏み切った。敵が迫り来る後ろは見ない、奈落に続く下も見ない。前だけをみて、全力で跳んだ。

 

 ぐっと踏み切った右足が沈み込んだ。残っていた足場がアンヘルの重みに耐えられず崩壊したのだ。十分な反発を得られなかったアンヘルには飛距離が足りなかった。羽根をもがれた鳥のように落下してゆく。

 

 ――あと一メートルなのに。

 

 宙空でぐるぐると腕を回し、前に進もうとする。そして、身体を前方に倒し、空気抵抗を減らした。それでも手は反対側に届かない。空を掴むように手を伸ばしたが、何も届かなかった。

 

 アンヘルの後ろでは、勢いをつけすぎて急に止まれないモンスターたちが虚空に消えてゆく。

 それと同じようにアンヘルも奈落に吸い込まれようとしていた。

 

 伸ばした手は何も掴まない。落下してゆく浮遊感と地面が遠ざかってゆく絶望感が、生への渇望を殺いだ瞬間だった。

 にゅっと腕が伸びてきて、パシッとアンヘルの腕をホアンが掴んだ。

 

「もうちょっとだッ。アンヘル。頑張れッ!!」

 

 そういって、ホアンが両腕でアンヘルを引き上げようとした。アンヘルはそれに縋ってなんとか反対側に登った。

 

 ふたりは足場が崩れる心配のないところまでいくと尻もちをついて休息した。

 

「はぁ、はぁ。なにっ、やってるんだっ。さっさと、とんでくれよっ」

「ごっ、ごめん。こ、こわくてっ」

「な、なんだよっ。こわいってよっ」

 

 ふたりは息をきらしながら軽口を叩く。その声には助かったことに対する安堵の色があった。どこからともなく笑いがこみあげてくる。ふたりは声を出して笑った。

 

「ホアン。大丈夫? さっきから腕をさすってるけど……」

「あぁ。大丈夫さ。軽い脱臼だ。今日一日は動かせないが、利き腕じゃないからな。なんとかなるだろう」

 

 そういってホアンは自身の脱臼した肩を苦悶の表情を浮かべながら嵌めようとする。こういった簡易治療術も門下生の技のひとつだ。

 

「ごめん。ぼくが、落ちちゃったから……」

「気にすんなよ。足場が崩れちゃったもんな。しょうがないさ。強いて言うなら、もっと早く飛んで欲しかったってくらいでさ」

「うう、ごめん」

「そう落ち込むなって。ふたりとも助かったんだ。なにも謝ることないって」

 

 そう言いながら、ホアンは悩んだような表情をする。するべきかしないべきか2択で迷ったときの表情であった。数瞬の逡巡の後、ホアンは意を決して訊ねてきた。

 

「なぁ。なにかあったのか? いや、訊くべきじゃないかとも思ったんだが。どうにも、心ここにあらずと言った様子だったから。この前のからさ。違うか?」

「あ、いや、べつに……。そんなことは……」

「いいや。絶対になにかあったろう? 三日前の打ち上げのとき、道場を出るまではあれほど喜んでいたのに、店に来た途端終始無言だっただろ。飲みの席ではそんなものかとも思ったが、今日の様子をみれば明らかにおかしいからな……。なぁ、おれたちは一応仲間だろう。組んでからまだ日は浅いが、それでもひと月近く一緒にやっているんだ。もう少し信頼してくれてもいいんじゃないか?」

 

 ホアンは立ち上がるとアンヘルに手を差し伸べる。ホアンの瞳には、他人を案じる優しい色が映っていた。

 

「その。ほんとうに、何でもないんだ……。ほんとうに」

「はぁ。まぁアンヘルがそういうなら、良いんだが。なら、探索には集中してくれよ。一対一なら不覚をとることもないが、今日みたいに多数を相手にすれば厳しい戦いになるんだ。万全を期してくれ」

「う、うん。大丈夫。頑張るよ……」

「頑張るってアンヘル。それは」

 

 ふたりは向かい合って話し合う。訊きだしたいホアンとナタリアの事を話したくないアンヘルの会話は平行線で交わることはない。ホアンは諦めのため息をつくと、この話を打ち切った。

 

「なら、この話はおわりだ。集中してくれよ、アンヘル。ここはもう何処だかわからないうえ、逃走するのに夢中で荷物も置いてきてしまった。ここからは正念場だからな。探索のことだけ考えてくれ」

「うん。ごめん。わかったよ」

 

 口から出た言葉は空虚だった。数日でそんな簡単に切り替えられるはずがない。

 アンヘルはたった十五の少年だ。平和な現代で暮らしていたアンヘルは、おしなべてひと回り以上成熟した精神をもつ異世界人とくらべて、圧倒的に幼い。数多の経験を乗り越えて、権利が尊ばれる世界から一転不条理や不平等が跋扈(ばっこ)する劣悪たるこの世界に慣れ、成長したアンヘルであったとしても、世俗の認識であるジェンダー平等の欠落と偏った婚姻概念には簡単に恭順することはできなかった。アンヘルのような青少年にとって、恋や愛とは神聖なモノであり何人たりとも汚すことはできないはずなのである。

 しかし、結婚の権利が家長に一任されている社会では、その理念は通用しない。そのため、人は叶わぬ恋に焦がれることがあったとしても、社会的生涯が立ちさがったとき容易に諦めてしまうのである。当然、彼らにも愛念を尊ぶ気持ちはあり、壮大なロマンスである駆け落ちや身分違いの恋には涙を流が、それはフィクションの話であり現実世界では普段の生活がどうしても絡み、個人で身を立てることが困難な縁故主義色の強い社会では、自由な恋愛など生まれるはずもなかった。

 

 それでも頭を振って切り替えようとした。それだけがアンヘルにできることだった。

 ふたりは青く光る灯りに向かって進んでいった。

 

 

 

 長い一本道を歩き、青き灯りの灯る大広間に辿り着くと、アンヘルは腰から棒を引き抜いた。

 

 大広間の中央には二体のモンスター――『ゴブリン』と『ブルーゴブリン』が座り込んでこちらをずっと眺めていた。

 

 ゴブリン。邪悪なる人類の怨敵にして、魔の先兵かつ醜悪なる悪の手先である。人間のように氏族を形成し、彼らなりのコミュニティを形成する社会性動物である彼らは、ときに単独行動をとり、はぐれとして『塔』の中にも住み着いていた。はぐれは、『塔』に代表されるようなダンジョンの力に魅了され、種としての存続を放棄し、力のみを追い求めた者の末路であると言われている。その証拠に知性は退化し、見るものに見境なく襲い掛かる亡者と化していた。しかし、引き換えにその小さな体格からは想像できないほどの大きな力を持っていることが多いのである。

 

 醜悪たる彼らの相貌は醜く歪んでおり見るに堪えない。口からは涎を垂らし、視線も定まらぬようにぎょろぎょろとするさまは良く言っても知性を感じられなかった。しかし、彼らが放つ戦闘者特有の闘気は、弱き体だと侮ったものを総毛立たせるに足るものだった。

 

 相手は2体。こちらもふたり。

 

 アンヘルとホアンは示し合わせると、距離をとって一対一に持ち込もうとした。

 ホアンの技量はずば抜けており『塔』であっても少数を相手ならば容易に切り抜けられるが、半面、道場剣術しか知らず集団戦闘があまり得意ではない。それは、アンヘルにも言えた。これまでの成功体験が良くなかったのであろう。ホセと組んでいたときは完全に分業制で、ホアンと組み始めてからは連携が必要になる事態へ陥ることが無かった。

 

 その判断は相手にも伝わった。アンヘルの相手、青き小鬼『ブルーゴブリン』は槍の使い手だった。小鬼の体格に合わせられた三又の槍は切っ先が煌めいている。

 

 アンヘルは青き小鬼と対峙する。

 

 アンヘルと小鬼は同時に駆け出した。アンヘルは上段に構えて飛び込もうとするが、相手の構えを見た瞬間に悪い予感がした。

 

 ――あれは、まずい!

 

 構えを崩し、無理やり横に飛びのいて回避行動をとった。それとほぼ同時に、アンヘルの頭があった場所に小鬼の槍が突きだされた。

 剣と槍ではリーチが違い過ぎる。アンヘルの戦闘経験はモンスター、害獣、剣士に限定され、槍使いと相まみえたことはなかった。即座に真っ向勝負を諦め、打ち合いを避けるヒットアンドウェイに移行した。

 

 心臓の鼓動が加速し、頭の中から余計な雑音を消去する。

 視界が狭まり、時間がゆっくりとながれるような超集中状態が脳を支配する。

 目に映るのは敵の動きだけだ。

 

 大きく円を描くように走り、相手の出方を伺う。迷いはない。

 青き小鬼が構えた三又の槍を猛烈な勢いで突きだした。

 一突き目は躱した。大きく後ろへ跳躍し、間合いを外す。

 すると間髪入れず相手は踏み出す。突きだした槍を引き戻し、構えなおした。そしてもう一撃放った。

 その一撃はアンヘルの髪を掠めた。なんとか首を傾げながらも回避したが、避けきれず数本髪が弾ける。紙一重の生だった。

 

 小鬼の腕前はかなりのものだった。そのうえ、槍相手の経験が不足しているアンヘルには相手の間合いが無限に感じる。隙を見出すことができなかった。

 

 膠着状態に陥ったアンヘルは横目でホアンの戦闘をみる。ホアンは苦戦している。東方一刀流は両手剣の使用をそうていした剣術を基礎としており、ホアンが得意としている剣も両手で使う長剣だ。片手で使えなくもないが、どうしても力や技量で劣る。中々の実力者相手にホアンも苦戦を余儀なくされていた。

 

 一瞬ホアンに意識が持っていかれた瞬間、青き小鬼は飛びかかりながら槍を右から薙ぎ払ってきた。

 アンヘルは、気づくのが遅れながらもなんとか紙一重で穂先を躱すと伸びきった(かいな)を左手でつかみ、不可避の打撃を相手の額にぶち込んだ。相手は避けきれないと悟り頭の兜で受けたが、衝撃は吸収しきれずバランスを崩し、後方へ後ずさりする。アンヘルは、追撃とばかりにがら空きとなった脇腹を足裏で蹴り飛ばした。

 

 小鬼が地面に転がる。

 アンヘルは止めとばかりに左手で腰から鉈を引き抜き、腕を大きく振りかぶる。そして、しならせながら相手の脳天へ叩きこもうとした。

 

 その瞬間、相手の右腕が跳ね上がり、三又の槍がアンヘルの左肩を割った。血潮が舞い、鉈が手元から抜け落ちる。

 ウッと呻いて後方に下がるが、尖った先端は傷口を掘り返し、出血を増大させ激痛で視界を歪ませた。

 

 ゲキャゲキャと聞くに堪えない笑い声を上げ、槍を構えながら小鬼は立ち上がる。柄の中央に持ち替え、負傷したアンヘルの人生に幕を引かせようと槍を唸らせながら突きだしてくる。

 

 肩を押さえながら転がり、地面を駈けずり回った。

 相手から大きく距離をとり、息を整えると傷口を見る。傷口は熱湯をかけられたように熱いが、動かすには支障なかった。

 感覚が麻痺しているのか痛みはあまりない。ただ、熱がこぼれていく感覚だけが残った。

 

 歯を食いしばって、右手で棒を正眼に構えた。負傷した左肩から力を抜き、半身になって相手からの突きに対峙する面を最小限にする。

 そしてじりじり間合いをはかった。

 

 これからが正念場なのだ。

 

 棒をゆらゆら振り、相手を幻惑させる。

 視線を左右にふって狙いを絞らせない。

 

 相手の間合いギリギリでワルツを踊るように挑発する。

 死の境界での挑発は、相手の神経を逆撫でした。

 

 小面憎い戦法をとるアンヘルを叩き潰そうと、神速の槍がアンヘルの頭部目がけて唸りながら突き出される。

 此度の強襲に対して、一歩も下がらずに踏み込んだ。

 

 ――今度はひかない。

 

 三又の槍は首の右側すれすれを通過する。頬に小さな切り傷を作ったが、意も介さず腰を回転させ、突っ込む。

 棒を握りしめた拳へ五体臓腑に至るまですべての力を集中させ、槍を持つ肩に叩きこんだ。

 ゴリっと生々しい感覚と共に、相手の上腕骨と鎖骨を粉々に砕く。

 甲高い絶叫が耳をつんざく。

 

 青き小鬼は槍を落とし、地面に転がった。

 アンヘルは息を吐きながら棒を地面につき、近くに落ちていた鉈を拾い上げる。

 

 眼下には、地面に倒れ伏し肩を押さえながら呻く小鬼の姿が見えた。

 小鬼は惨めったらしく這いつくばってアンヘルから遠ざかろうとする。

 

「もう、おわりだよ」

 

 アンヘルは鉈を掲げる。

 這って逃延びようとする小鬼の頭蓋を叩き割るため、鉈を叩きこんだ。脳漿が飛び散り、血の海を作り出す。

 鉈を引き抜くと、ホアンの様子を眺める。

 

 ちょうどホアンも長剣で相手を叩き斬った瞬間であった。

 ホアンもアンヘルが勝利したことに気づいたのか、片手を上げて応答してくる。

 

 ――ぼくは、生き残ったんだ……。

 

 安堵とともに、痛みがぶり返す。それでも、アンヘルには生の実感があった。

 原始的で、刺激的で、蠱惑的な勝利による生の実感が。

 

 人生は続いてゆく。友人と別れて、初恋を失ったとしても日々の暮らしは変わらない。気持ちの整理がつかなくとも、もやもやが続いたとしても明日はやってくるのだ。今日という刹那的な一日でアンヘルは過去に片をつけ、新たな毎日を迎えられる。

 そう、割り切れる気がした。

 

 

 



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第十二話:急転

 ふたりが塔から帰還するのには、一日を要した。

 大広間までの経路の一部は崩落しており、その通路から帰還するのは危険性が高く負傷しているふたりが取るべき選択ではなかった。それでも、帰還する道が其れしかないのならば致し方なかったが、この大広間には屋上に繋がる通路と下層に繋がっている複数の通路が存在しており、より容易な道を選べば良かったのである。

 

 とはいえ、悠々と帰還できたわけではない。ふたりは、そもそも何処にいるのかさえ把握していないのである。帰り道に直結したルートを一度で選択することは不可能であり、この状況に追い込んだ『湧き』を回避するために警戒を厳にしなければならない。負傷したふたりの足取りはひたすらに重く、生半なものではなかった。

 しかし、だからといって休息を十分に取るわけにもいかない事情があった。アンヘルたちは糧食や飲料水が詰まった荷物を落としてきていた。水が二三日無ければあっという間に干上がるのが人間であるが、とくに、激しく運動する探索者にとって飲料水は必需品であり、充分な水を確保できなければあっという間に行動不能となり脱水症状を引き起こすのだ。彷徨い歩き体力を消耗したふたりは、奇跡的に発見した袋が見つからなければかなり危ないラインまで踏み込んでいたのだ。

 半日かけて、命からがら塔を脱出したふたりは目尻に涙をこさえながら抱き合い、襲撃の予測が容易な見晴らしのいい喬木の下で眠りについた。

 

 とはいえ、彼らに収穫がなかったわけでも無かった。まず、アンヘルたちが入手した小鬼たちの武具であるそれらは、たいそう嵩張り脱出の重荷となったが、長さこそふたりに合う大きさではないが強度や鋭利さは十二分に有している。小鬼たちはモンスターではなくあくまでも住み着いた種族であり魔石が取れない(魔力(マナ)を扱う贓物がありそれらは一部取引されることもある)が、その代わりとばかりに身につけている武具は高価な値段で取引されていた。あくまでも、『塔』という括りの中においてはだが。

 そして、もうひとつ、頂上までの道順を記録することができたアンヘルたちは、ついに完全制覇が目前に控えていた。『塔』はその薄給さから探索者からも敬遠されており、頂上まで制覇したものは近年いないと口入れ屋のゴルカから訊いていたのだ。そして、『塔』の制覇が為されればアンヘルの探索者としての実力は証明され、ほぼ間違いなく見習い探索者としてスカウトされるだろうとも聞いていた。アンヘルの見習い未満の探索者生活に終わりが見えてきていたのだった。

 

 塔から、そして塔を取り巻く森から脱出したアンヘルの顔には笑みがあった。ケガも早々にリーンを召喚し、治療を行った。身体には疲労だけが残っていたが、喉元過ぎれば熱さを忘れるといわんばかりに探索成功に喜んでいた。

 

 ホアンも人間に近い造形のモンスターに対して勝利したことで、より一層自信を深めていたが、唯一、右腕のケガが直っていることに対してだけは首を捻っていた。流石に、アンヘルは自身の左肩の負傷は重く、それに対してリーンの癒しの力を使わないという選択肢は無かったが、その際にホアンの怪我を見て見ぬ振りをする事は難しかった。ホアンは現状最大の戦友で、命の恩人なのである。しかし、やはり召喚士としての能力を打ち明けるには度胸や覚悟が必要だった。もう、アンヘルにとって召喚士としての能力を隠すのは習慣と化していたのだ。そのため、眠っている間にひっそりと治療を行ったのであった。

 

 そんなふたりの成果ある、けれど苦難に満ちた攻略は終わりを告げ、這う這うの態で街へと帰還した。

 

 

 

 アンヘルは蒐集品を口入れ屋で換金したあと、ホアンに別れを告げてから『菜の花亭』に向かっていた。

 

 ――ああ。我ながら、女々しいなぁ……。

 

 アンヘルは独言する。

 

 ナタリアとホセの間に割って入って、間男のような真似をするつもりも無ければ、無理やり奪おうとするつもりも無かった。彼らの仲については、もうすっぱりと認めていたのだ。それでも、『菜の花亭』に足が向いたのはもはや偶像(アイドル)に対する信仰に近かった。彼女が幸せにしている笑顔さえ見られれば、とそんな信者の如き思考がアンヘルを突き動かしていた。

 

 日も落ちた街路を潜り抜けて店の扉を開き、店員に案内されて端の席に腰をおろす。店内は大勢の人で賑わっており、若衆が赤みがかった顔で騒ぎ立てていた。アンヘルのように独りで席に着くものは珍しいのか奇異の目を向けられたが、慣れたことと素知らぬ顔で料理を注文した。

 

 ビールの入った杯を傾け喉を潤すと、たちまち酒精が身体を廻り困憊(こんぱい)した体躯に染みわたった。

 片手で料理をつまみながら、店内を眺める。すると、従業員の中に垢ぬけた少女――ナタリアが目についた。

 

 彼女は忙しなく動きながら、客からの対応に追われているが、どこかいつもよりも表情が硬く動きは精彩を欠いていた。顔に浮かべている笑顔にも影があり憂色を濃くしている。何時もしないようなミスを重ねていた。

 

 アンヘルは、そんな彼女を不審に思いながらも彼女の顔を久方ぶりに見たことで心が弾む。もう、彼女との邂逅だけを純粋に楽しめていた。

 

 しかし、そんなアンヘルの視姦による至福の時間はすぐに終わった。ナタリアはアンヘルを見つけると顔色を変えてアンヘルの元に大股で向かってきた。その表情は正に鬼気迫るといったもので、周囲の客は何事かと騒ぎ出す。

 

 ――っえ? もしかして、この前つけていたのがバレた? で、でも、それで怒られるほどのことじゃ……。

 

 彼女の形相に瞠目(どうもく)しながらこれまでの生涯を振り返るが、なにひとつ心当たりはなかった。あたふたと狼狽(うろた)えながら彼女が迫りくるのを見るが、事態が好転することはない。距離が縮まるのを待つだけだった。

 

 ナタリアはアンヘルの真ん前までくると、目を潤しながら口元を尖らせ、テーブルをバンと両手で叩きながら甲高い声で叫んだ。

 

「なにしてたのッ! ホセが、ホセが――ホセが大変だったのよッ!! あなた友達なんでしょッ!! 何処にいってたのッ!?」

 

 彼女の叫び声が店内のにぎやかな空気を引き裂いた。

 

 

 

 §

 

 

 

 アンヘルは、ナタリアの嗚咽の混じった支離滅裂な非難を戸惑いながら必死になだめ、なんとか彼女がまともな言葉を喋れるくらいまで辛抱強く待った。

 店内の客どもの認識が、アンヘルの事をナタリアに危害を加えた暴漢であるとの誤解が解けるぐらい長い時間が経つ頃には、彼女の目からの涙も止まりなんとかふたりで会話が可能となった。

 

 ――まわりの客、ぼくのこと、殺しそうな目で見てるんだけど……。

 

 ナタリアの人気ぶりが伺えるというものである。信者――ナタリア目当ての客の目には、少しでもアンヘルが狼藉(ろうぜき)を働こうものならすぐさま叩きのめすといった暗い熱意が感じられた。

 

 アンヘルが周囲の状況に戦々恐々としながらナタリアに話を促すと、ぽつりぽつりと語り始めた。

 

「そ、その。なにがあったの? いきなり言われても何が何だか……」

「ええ。カレがっ、ホセが捕まったの! それで昨日、刑罰が執行されて――」

「捕まったッ! ホセがッ!? どうして?」

「どうしてって、なんで何も知らないのッ!? 捕まったのはもう四日も前のことよ!」

「え、えっとそれは……」

 

 その日はホセとナタリアの逢引を目撃した翌日で、失意の底に沈んで自室に引きこもっており、そのままの流れで探索に出たアンヘルにはここ数日の世俗に疎かった。

 しかし、それを正直に告げるわけにもいかず、曖昧な笑みを浮かべながらごまかそうとした。

 

「どぉしてなにも知らないのッ!! あんなに大きな事件だったじゃないっ。四日前、繁華街の鉄火場で、殺人事件が起きたでしょ! ファロ*もあんなに騒ぎ立てて、夜だっていうのに大どおりや繁華街は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていたのよッ! それなのに何もしらないなんて、本当になにしてたのよっ!?」

「その、ご、ごめん……」

 

 ナタリアはからっとした性格で情にあつい少女だが、事ホセという想い人に関しては、気が違ったように冷酷になり、友人として手を差し伸べられなかったアンヘルに向かって汚物を見るような目で糾弾してきた。

 男は体面や見栄を気にして、愚行を繰り返すが、女は感情的であるが確信を捉えた対応をとる。ナタリアも例にたがわず、彼女にとってもっとも重要なモノを違えず、外聞も気にせずホセに対しての心配を露わにしていた。

 その態度に、アンヘルはもう彼女の気持ちが手に入らないことに対する一抹の寂しさと、恋慕を勝ち得ているホセを渇仰した。

 

 ――もう、ナタリアさんはホセにゾッコンなのかなぁ。チャンスがないのは分かってるけど、こういうのはあんまり見たくないなぁ。かなり虚しいし……。

 

 姿勢を正して、事件について尋ねる。

 

「そ、その。事件って何があったの。ぼく、仕事に出ていて……」

「そう……。その、ごめんなさい、怒鳴ったりして。……事件についてね。四日前の夜のことよ。賭場で殺人が起きたの。殺されたのは商業組合の幹部兼食品の小売を一手に引き受けている商家の会長アーロンさんよ。私も詳しく知っているわけじゃないけど、アーロンさんが賭け事に熱中している間に、その、カレの部下の人が、殺したって……。それで、カレは組織のトップだからって、捕まったの」

 

 ナタリアは声を押し殺しながら告げた。俯いた彼女の目には宝石のような涙が端にたまり、はらりと一筋の線ををつくりながら零れ落ちた。

 

「ほ、ホセの仕事は用心棒で、殺人なんかするような仕事じゃない。ど、どうして、そんなことに……」

「わたしだってしらないわッ!! でも、公示人の話だと、カレやその部下のひとたちが賭場に行っているときに、その部下の人が刺したって。カレは用心棒なんてやってるから、疑われてしまって……。なんとか、組織だっての殺人じゃなくてその人の独断だって分かってもらえたみたいだけど、大きな罰を受けて……」

「その、ホセは大丈夫なの……?」

「だいじょうぶなわけないじゃないッ!! 笞刑(ちけい)にあったのよ。背中には大きなあざが残ったし、丸一日寝込んだのよ。社の蓄えもすべて接収されたうえ、公衆の面前であんなに打たれたっていうのに、それなのに、なにが大丈夫よッ!!」

 

 笞刑(ちけい)。いわゆる鞭打ちの刑罰はその手軽さに反して尋常ならざる痛みを受刑者に与えた。人間とは酷くもろい。どれほど鍛えた筋骨隆々の大男であろうとも、皮膚を鍛えることは叶わず、大声で啼泣(ていきゅう)するのである。皮下の神経を強烈に刺激する鞭打ちは、五十も連続で殴打されれば、どんな人間でもたやすく痛みで死に至るのであった。

 

「えッ。じゃ、じゃあ、ホセはもう釈放されてるの?」

「いまは、家に帰ってる……。けど、仕事も会社も全部なくなったのがショックだったのか、家に行ってもいないのっ。だから、アンヘルなら何か知ってるかなって……」

 

 瞳に希望の光を宿しながら訊ねてくるナタリアに対してアンヘルは首をふった。

 

「ご、ごめん。ぼく、なにも知らないんだ」

「そう。わかったわ……」

 

 彼女の目が落胆に染まった。この世の終わりみたいにしょげかえり、俯く。

 アンヘルは、彼女を慰めるべきか手を開いたりしながら熟考したが、結局何もしなかった。資格がないと思ったのだ。彼女を抱きしめ、不安を払拭し、もとの優しく太陽のような彼女へ戻すのはアンヘルでなくホセの役目なのである。これほどまで弱っている彼女につけ込む人間には、いかほどの利益があろうとも成りたくはなかったのだ。

 

 アンヘルは彼女を元気づけるためホセの捜索を申し出ようとした瞬間、横から無粋な声が届いた。

 

「なぁ、ナタリアちゃん。あんな奴のことなんざいいじゃねぇかよぉ。殺しだぜ、殺し。死んだほうが世のためじゃねえのかぁ? あんな小さい奴なんざ忘れちまえよなぁ」

 

 臨席の若い酔客が嘲笑うかのような態度でホセを侮辱する。その中には、人気者のナタリアを横からかっさらっていったホセに対する嫉妬が多分に含まれていた。

 

 そんな言い草にアンヘルは少しカチンときただけだったが、精神的に不安定なナタリアには堪えきれないほどの中傷だった。涙目で相手を()める。

 そんな彼女の態度にうっと引け腰になるが、酒の力か自分の正義に酔っているのか強気で講釈を垂れてきた。まわりに回った舌は、ツレの制止も聞かずに暴言をすらすらと吐き出す。

 

「あんなよぉ、浮浪者ばっかり集めたような礼儀のレすら知ンねえもねぇやつらがよぉ。街ででかい顔しよおってのがそもそもの間違いなのさぁ。その挙句に、殺したぁ、オテントさまにどう言い訳するってんだぁ?」

「カレはそんなことしてないわッ!! 罰だって管理不届きになってるもの!」

「いいや。そんなわけねぇ! どうせ金でも積んだんだろうがよぉ。なぁ、ナタリアちゃん。アンタはあの男に騙されてるだけなんだぜぇ。きっぱりと別れちまいなよぉ。あんなブ男なんざ捨てちまって、おれに乗り換えたらどうだぁ?」

 

 男はそういってゲラゲラと笑い出す。すると、店内の客も同じように怒号を上げながらホセを誹り始める。彼らには、横の酔客と違って周囲の人間の中にはホセに対する嫉妬心などなく、純粋にナタリアを案じている者もいた。

 

 質が悪い。周囲の雰囲気はそれに尽きた。

 酔客はともかく、老婆心からナタリアを案じている彼らのふるまいには、ホセという部外者の存在を徹底的に許さない空気が滲みだしていた。国の南東の端に位置し、周囲を山で囲まれたこの田舎街には優れた警備機構など存在しないため治安が悪くなりそうなものだが、人が少ない街ではそもそも罪を犯すメリットが余りない。知人関係が密接になっている地方都市では、利害関係が明白で、誰の犯行なのか容易に追跡することができる。必然、盗みなどの軽い犯罪行為ならばともかく、町人の殺人に対する忌避感は強くなった。

 そのうえ、公衆の面前での刑罰は娯楽の一面もあった。斬首などの残忍な罰はともかく、鞭打ちにはじまるような致死性の低い罰に関しては、受刑者の羞恥心を煽り再発を防ぐ意味からも公開される場合が多い。それは、この狭い世間においては、名誉を致命的ともいえるほどに貶めるのである。

 それに加えて、ホセが近年問題となっている農村からの成り上がりとなれば、彼に対する差別は加速した。なまじ、ホセが成功していたのがよくなかったのだ。誰であっても、用心棒として成功しているホセに面と向かって罵る度胸などない。しかし、いったん傷ができるとこれでもかと言わんばかりに世間はホセを排除し始めたのだ。

 

 こうなってはナタリアとしても言い返せるものではない。ギュッと拳を握りしめ、足元を見つめながら泣いていた。落ちた涙が床板に染みをつくる。

 

 しかし、加熱した空気は止まるはずもない。周囲の声援を受けたと勘違いした男は、調子に乗って罵倒する。

 

「いま、あいつが何やってんのか知りたいんだろぉ? 場末の酒場で飲んだくれてやがったぜぇ。はぁ~、いくら用心棒の頭やってようが、ああなりゃしめぇだ。いいざまだぜぇ」

「……」

「悪いことはいわねぇから、さっさと縁きっちまいなぁ。それとも、脅されてんのかぁ? なんならよぉ、おれが縁切りやすいようにぶちのめしてやってもいいぜぇ」

 

 大口を開けて下品に笑いながら、力こぶを誇示してナタリアにアピールする。その浅ましく品性の欠けた行為にアンヘルの頭は沸騰しそうになったが、ナタリアが机の上にあったフォークを握りしめたことで冷静になった。

 

 ――彼女にそんなことをさせるわけにはいかない。

 

 立ち上がり、ナタリアを庇うために無言で男の前に立ちふさがる。毅然とした態度で相手を威圧したが、残念ながらアンヘルには相手を押しとどめるような威厳は備わっていなかった。ひょろっとした体格と間延びした顔は相手の神経を逆撫でして、怒りを増幅させた。

 

「なんだぁてめぇはよぉ」

「……その、ホセはぼくの友達でもあるんです。あなたはホセのことが嫌いなのかもしれないけど、今日はもうやめてくれませんか? 彼女にも、時間が必要なんです」

「あぁ!? なんか文句でもあるってのかッ? おれがなんか間違ったことでも言ったかぁ!」

「……いえ、そういうわけでは。けど……」

「文句がねぇんだったら、さっさとどきやがれッ!!」

 

 まるでチンパンジーとの会話だった。アンヘルは努めて腹を立てないようにしながら(なだ)めた。本音ではこんな男と喋ることに意味を見出せなかったが、ナタリアと会話させるよりは余程良いと思案したのである。アンヘルは、店員がなんとか収束してくれないかと願いながらも男の応対を引き受けた。

 

「その、それでも今日のところは引き下がっていただけませんか。どこか気に入らないところがあれば、僕の方からも謝罪させて頂きます。ですから、ここはなんとか――」

「はぁ!? じゃあ、謝って見せろや。ここでよ」

 

 そう言いながら、ビールをあおる。話題の矛先がナタリアから見知らぬ男に変化したことから、静観を決め込んでいた客が口々に罵声を浴びせてきた。ナタリアだけが心配そうに気遣ってくるが、アンヘルはそれを手で制す。

 

 謝罪。世の中には自身に非がなくとも頭を下げなければならないことなどいくらでもある。しかし、それを易々と受け入れるにはアンヘルは若すぎた。

 

 屈辱的な要求に憮然とした。

 憤懣(ふんまん)。いや、激憤だろうか。頭の中がまるで火をつけられたみたいにカッと赤くなるが、ナタリアとホセの顔を思い浮かべてそれをなんとか飲み込んだ。ここで暴れたら、それこそホセやナタリアの名誉は地に落ちるのだ。アンヘルはなんとか自分に言い聞かせて頭を下げた。

 

 頭を下げることで怒りに満ちた表情を見せずに済む。それだけが救いであった。

 しかし、男の要求はとどまることを知らなかった。

 

「オイオイ! てめぇは、礼儀もしらねぇのか。土下座だよ、ド、ゲ、ザ」

 

 そういうと、男はビールをアンヘルの足元に垂らす。床は水たまりのように水を張り、酒精の匂いがいっそう強くなった。周囲からは土下座コールが巻き起こる。

 

 アンヘルは眼下に広がる濡れたビショビショの床を眺める。

 アンヘルだって男だ。プライドがないわけない。しかし、いまここで男の要求に反旗を翻せば、ホセをどれほど貶め、鬱憤晴しにナタリアへどんな誹謗中傷が向けられるとも限らない。もう、すでに一度頭を下げたのだ。後一度下げることなど大したことはない。そう(うそぶ)きながら、覚悟を決め、濡れた床に膝と両手をつくと、アンヘルは頭を下げた。

 

 いままで生きてきた中でもこれほど汚辱に塗れたことはなかった。

 怒りと諦念、そして哀傷に苦しみながらもなんとか謝罪の言葉を告げる。アンヘルの鼻腔に酒と木のまじりあった匂いが入り込んだ。

 すると、ことの成り行きを見守っていた周囲の客たちから、アンヘルの臆病ぶりを笑う声が響いた。

 

「なっさけねぇな! 男だろぉがよ!」

「これだから、農民はよぉ。学もねぇうえに、根性もねぇときた!」

「おい、あいつ。たしか、探索者志望じゃねぇか?」

「嘘だろ、あんな根性なしでも探索者を名乗れるようになったとは、良い世の中になったもんだぜぇ!」

 

 強烈に罵倒する周囲の客の反応に男は自尊心が満たされたのか、カップに残っていたビールをアンヘルの頭に掛けると椅子に座りなおした。

 

 アンヘルは濡れた頭を振りながら立ち上がる。そして、元の席に座ろうとした瞬間であった。

 

「あなたッ、ほんとうにそれでも人間なのッ! こんな畜生にも劣るようなマネができるなんて、淫売の腹からでも生まれたのかしらッ!! この人非人!」

 

 ナタリアが烈火の如く怒る。品位をかなぐり捨てて叫んだ彼女の声は、広い店内に響き渡った。

 この暴言を受けて、一度は満足した男も黙ってはいなかった。

 男は立ち上がり、怒りに染まる。

 

「なんだとぉ!! このアマッ! ぶっ殺してやるッ!」

「やってみなさいよッ! あなたなんかに、絶対負けるもんかッ」

「やってやろうじゃぁねえかッ!!」

 

 場の雰囲気が一変した。

 立ち上がった男が隆起した右腕を振りかぶって、ナタリアの顔面に狙いをつける。

 ナタリアもそれに対して一歩も引かずに()めつける。

 

 周囲から悲鳴の声が響く。

 その瞬間、アンヘルの身体は独りでに動き出していた。

 

 激しく肉を打つ鈍い音が鳴った。女の悲鳴と男の怒号。非日常の空気が辺りを支配した。

 

 アンヘルは横っ面を張られたのだ。

 

「なんだテメェはよッ!!」

 

 男は邪魔された腹いせに、割り込んできたアンヘルの横面を再度殴りつける。

 ナタリアは急に割り込まれたことで面食らった様子だったが、男に連打されているアンヘルを見て悲鳴を上げながら庇うため前に出ようとする。

 

 しかし、アンヘルはそれを腕をつかってとめた。

 

 ――こんな殴り方じゃ、ぼくたちにとっては、遊びぐらいにしか思えないんだ。

 

 男の殴り方は、完全にど素人だった。アンヘルは見習い未満で若年に入るくらいの年であるとはいえ、歴とした探索者である。モンスターとの命のやり取りなど日常茶飯事だ。ダンジョンでおどろおどろしいモンスターから受ける攻撃に比べれば、何の訓練も受けていないただの力自慢の暴力など、大したものではなかった。

 

 身体を力で強化したアンヘルにはロクなダメージは入らず、顔からは鼻血が出ている程度であった。

 

 それでも、心に響くダメージまではなくならない。公衆の面前で殴打されるのは、誰だって悔しいものである。しかし、恥辱の土下座までこなしたアンヘルにはもう恐れるものなどなく、頭にあるのは如何にしてナタリアの不利益にならぬようこの場を収めるかということだけだった。

 

 男の腕が十は軽く往復し、ナタリアの甲高い叫び声にも慣れてきたころだった。

 

 店の従業員が奥で作業をしていたナタリアの父親を呼びに行ったのであろう。彼女の父親がその優れた体格を生かして恫喝しながら、暴行を続ける男を止めたのだった。

 

 

 

 §

 

 

 

「すまなかったな」

 

 ナタリアの父親――イバンは申し訳なさそうに頭を下げる。その横には同じように申し訳なさそうな顔をしたナタリアが俯いている。

 

 イバンは酔客を店の外に叩きだしたあと、治療のためにアンヘルを店の準備室まで連れてきていた。

 アンヘルの傷は浅いが、いくら素人の殴打とはいえ、力自慢の男が繰り出した拳を無傷で受けることなどできない。鼻血を止めるために詰め物をしている傍ら、少し腫れた頬を冷やしてもらう。

 

「ほんとうに助かったよ。娘も中々に自分を曲げないもんでね。いつかこんなことになるんじゃないかって思ってたのさ。俺が居ないときに起きるとは思わなかったがね」

「いえ、大したことはしていませんから……」

「いや、そんなことはない」

 

 イバンは一呼吸おいてから、一瞬逡巡すると、ナタリアに向き直った。

 

「なあ。父さんは彼と話があるから、今日はもう寝るんだ。こっちで、お礼は言っておくから」

「けど……」

「もう下がるんだ。彼にもこんなに迷惑を掛けたんだ。これ以上、恥の上塗りをするんじゃない」

 

 そう強く諫められたナタリアは俯いたまま小さくお礼を述べると、ゆっくりと退室していった。

 パタンと扉の閉まる音が聞こえた後、部屋は静寂に支配された。

 

 アンヘルはとても気まずかった。ほぼ初対面の大人に感謝を述べられるのはどこかむずがゆいうえ、それほど優れた対処だったとは言い切れない。沈黙に耐え切れず声を出そうとすると、イバンが話しかけてきた。

 

「まずは、ちゃんとお礼をいわせてくれ。娘はかなりの器量よしだと思っているんだが、それ故にああやって絡まれることも多い。今回のことは大きな事件だったし、娘もかなり気落ちしていたのか冷静さを欠いていたんだろう。君に多大な迷惑をかけた。娘には注意しておくから許してほしい」

「い、いえ。そんなこと、ありません。ぼくなんか、なにも……」

「いや、君の恰好をみればよくわかる。かなりこっぴどくやられたみたいだな。これは気持ちだ。受け取ってくれ」

 

 イバンは小さな包みを取り出すと、アンヘルに手渡した。袋はジャリっとした感触がある。中にはゆうに10枚以上のコインが入っていた。

 

「そんな、受け取れません。こんな大金」

「いや、受け取ってくれ。娘を助けてくれたお礼に何もしないのは義に悖るんだ」

「で、でも……」

「そういわず。な、迷惑料だとおもってくれればいい」

 

 アンヘルは包みを無理やり握らされると、諦めたように懐にしまった。

 

「それにしても、あれほど殴打されたにもかかわらず、それほど頬は腫れていないな。君は身体が丈夫なんだな」

「いえ、そんなことは……。あの、少し聞いてもいいですか?」

「うん? なんだ?」

「その、娘さんと、ホセのこと。知っていたんですか?」

「ああ。まぁ、直接言われたわけではないがね。店での接客態度をみれば一目瞭然だった。他の客だって気づいていたはずさ。あんなに楽しそうに喋っているのは見たことがなかったからな。公然の秘密ってやつなのかな? とはいえ、娘が傷ついた彼を見てあれほど取り乱すとは思わなかったがね」

「……そう、ですか。もしかして、あなたも、娘さんとホセは別れたほうが良いと思っていますか?」

「……まあ、正直に言えばね。こんな言い方は良くないのかもしれないが、彼は農民出だろう。後ろ盾もなにもない馬の骨に娘を任せようだなんて奇特な親はいないだろ?」

「……」

「とはいえ、娘が本心で願うなら止めはしなかったがね。ウチには後継ぎがいないし、結婚相手を吟味するような名家ってわけでもない。この家で修行すれば、生活はどうとでもなる」

「……ありがとうございます。こんな、不躾なことをいきなり訊ねてしまって」

「いや、いいさ。君は彼とも友達なんだろう。覚えているよ。ふたりで店に来ていたのを。すごい友情だな、あれほど耐えるなんて」

「いえ、そんなことは……」

 

 アンヘルはその言葉に対して素直に頷く気持ちにはなれなかった。正直に告白すれば、ナタリアを助けたい気持ちの比重のほうが重かったのである。しかし、自身の浅ましい気持ちを告げるわけにもいかず、もやもやとした恥ずかしさだけが残った。

 

「なぁ、お願い続きでわるいんだが、娘を彼に会わせてやってくれないか? 彼は盛場や郊外なんかを転々としているみたいでね。娘も探したがっているようだが、女ひとりでそんな場所にやるわけにもいかない。娘が勝手な行動を取る前に、なんとか彼を探し出して欲しいんだ」

「わかっています。ホセはぼくにとっても友達ですから。言われずとも、そうするつもりです」

「そうか。そういってくれて助かるよ」

 

 イバンは立ち上がると右手を差し出してきた。

 

「ほんとうにありがとう」

 

 そう言いながら、彼は頭を下げた。




※ファロ:ファロティエ(ランタン持ち)事件が起きた際に騒ぎ立てる街公認の地域防犯員


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第十三話:『最初の試練』

 アンヘルは汚れたままの格好で足を繁華街に向けていた。ナタリアの傷心ぶりはかなりのもので、ホセを早く見つけ出し、ふたりの仲を改善したいと考えたからであった。

 

 ホセの性格から、どこに入り浸っているか、どこには行きたくないのかがある程度推測可能だった。人は名誉が貶められたとき、なるべくその汚点について触れられたくないものである。つまり、ホセは知人に遭遇する可能性のある家や行きつけの店には近寄らず、あまりなじみのない酒場で暮らしていることが予想できた。これは、アンヘル達に絡んできた酔客の話とも一致する。

 

 アンヘルは繁華街の裏路地に位置する寂れた店舗一軒一軒へ顔を出し、ホセの特徴を伝えながら探し回る。いくつか店舗でホセらしき人物が来訪していたという情報を得たが、現在の所在地について有力な情報を得ることはできなかった。

 

 10軒ほど見回ったあとホセの家を見に行ってみたが、扉は開けっ放しで在宅している様子は一切なかった。

 

 ――はぁ。いったい、どこにいるんだよぉ……。

 

 街は広い。人口1万人程度の街であっても、乱雑に建築された建造物の中からひとりの男を見つけ出すことは容易でない。そのうえ、なんの注文もせず尋ねまわるアンヘルは、客だけでなく従業員からも煙たがられ店を追い出されるのがオチだった。

 

 まだ夜も更けたばかりの繁華街は、多くの歓声で盛り上がっている。これからが本番と言わんばかりに酔っぱらった職人たちが酒場に消えてゆくのが視界に入る。

 

 アンヘルはむしゃくしゃした気分になって、空を仰いだ。宵の口特有の冷えた空気とそれを翻す粗雑な音が通りを支配する。そんなおり、小さな男が店から叩きだされアンヘルの目の前に転がった。

 

「てめぇ! カネもねぇのに何時間も居座りやがってッ! 今度来たら、ぶっ殺すぞッ!!」

 

 小さな男を叩きだした店員は怒鳴りつけざまに一発蹴りを放ち、壊れるかと思うほどの音をたてながら店内に消えていった。

 暴行を受け、地面に転がった男の服は薄汚れてはいたが、作り自体は良いものであり、物乞いには見えない。その体格と髪型から、目の前の人物が誰なのか思い至った。

 

「……ほせ? だ、だいじょうぶ?」

 

 ホセの風貌は一変していた。自信に満ち溢れた達振る舞いは、すべてを諦めきった表情を浮かべ、酒で前後不覚となるまで溺れており、見る影もなかった。身体全体から以前とは異なる負のオーラを放射している。

 刑罰とは人をこれほど変えてしまうのか。アンヘルは心配するよりも愕然(がくぜん)としてしまった。

 

 正直に告白すれば、容貌をしっかり確認したにもかかわらずホセなのかどうか確信が持てなかった。まるで別人である。店員に殴られ、敗者のように地面に転がってしまうなど想像することもできなかった。

 

「あぁッ! なんだよ!?」

 

 ホセは声が掛かった方向を反射的に睨みつける。その瞳は酷く暗い闇を映じていた。

 

「あ、アンヘルだよ。そ、その、大丈夫?」

 

 アンヘルは助け起そうと手を差し出したが、ホセはその手をパシンと振り払い、立ち上がった。

 

「なんの、ようだ。テメェも、おれを笑いにきたってのかぁ?」

「いや、そんなわけ……」

「じゃあ、なんのようだってんだッ!!」

「それは、その。ナタリアさんから、ホセのことが心配だから、探してくれって。それで――」

「いつから、てめぇは女のお使いなんざぁするようになったんだぁ? 探索者じゃねえのかよッ!」

「それは、そうなんだけど……」

「落ちぶれたもんだぜ。おまえもよ。……いや、そんなおまえなんかに心配されるようなオレが、いっちゃんクソかぁ……」

 

 そういうとホセは沈みながら路肩に座り込んだ。

 

「な、何があったの? ホセは、悪いこと、なにもしてないんだよね?」

「ハッ。なに意味わかんねぇこといってぇやがる」

「で、でも、犯人は部下の人なんだよね。だったら――」

「だから、なんだってぇんだ。オレは、かしらさ。仕方ねぇだろうがよ」

「……」

「カネは他の奴らが持ち逃げしやがった。こんなんじゃぁよ、二度と用心棒なんざできやしねぇ。苦労して拵えたもんが、一夜にしてパアさ。笑うならよぉ笑いやがれ」

 

 ホセはそう吠えると、アンヘルを睨める。その瞳には強い拒絶の色があった。

 

「……それでも、探索者はできるんだしさっ。これから、もう一度やり直そうよ。それに、ナタリアさんも心配して――」

「うるせぇ! オレを憐れんでんじゃねぇ。さっさと失せやがれぇ!!」

 

 ナタリアの名前は禁句であった。農村出身のホセ自身が誇れるのは、ただひたすらに強さであった。それは、暴力だけではなく、用心棒としての権力、それに伴う財力も含んでいる。

 ホセほどの勇敢さを持っていたとしても、身分差とは大きなものであった。それをひっくり返すには、大きな力を必要とするのが世間一般の常識であった。必然、ナタリアが好いてくれる理由も力を持っているからだとホセは確信していた。ホセにとってナタリアは、最も縋りたい人物でありがなら、対面することのできない人物であった。

 しかし、それを察するにはアンヘルの社会経験は短すぎた。

 

「二度とオレのまえに顔だすんじゃねぇぞ。つぎ、会ったらテメェもぶっころしてやらぁ」

 

 そういって、フラフラと去っていくのを止めることはアンヘルにはできなかった。

 

 

 

 §

 

 

 

 それでも日々は廻る。

 ホセに罵られた二日後。アンヘルとホアンのふたりは『塔』制覇を目論んで、頂上を目指していた。

 

「しっかりしろよ、アンヘル。ホセのことは聞いたが、俺達にはやることがあるんだ。いつまでも引きずっていては、この前の二の舞だぞ」

「……うん。わかってる。だいじょうぶ、大丈夫だから」

 

 その言葉はひたすらに空虚だった。アンヘルの頭にはホセのことしかなかった。休みを取るとき、寝るとき、いつでもそれしか浮かばなかった。

 しかし、心とは反対に身体は冷静だった。前回のモンスター集団に追いかけられた経験から、アンヘルの身体は意識から隔離され最適な動きを描く。冴えないのは顔色だけであった。

 

 打ち斃したモンスターの遺骸から手慣れた動きで魔石を抜き取り、得物についた血脂を反故紙(ほごがみ)で拭う。そして、暗がりの道を松明で照らしながらふたりは進んでゆく。

 

 慣れきったふたりの足取りに迷いはなく、よどみのない動きで『塔』内部を切り開いてった。もはやふたりには数倍の相手すらも敵ではなく、唯一、『湧き』さえ気に掛けていればどうということはなかった。

 

 

 ひたすらに内部を突き進む。前回の『湧き』スポットを避けて通ったため、幾分遠回りをしていたが、それでも充分な速度で進んでいた。

 そうやって四半日近く歩き回っていると、前回小鬼(ゴブリン)共と戦った青き灯りが燦然(さんぜん)と輝く大広間にたどり着いた。

 

「よし、今回は何の問題もなく辿り着いたな。小鬼共もいないみたいだし、後は頂上だけか」

「そう、だね。頂上に登った人は最近いないらしいし、緊張してきたよ」

 

 アンヘルの心は探索を通して上向いていた。

 探索は人間を社会から隔離する。探索は危険で厳しい職業であるが、それでもなり手がいなくならないのは、報酬以外にもメリットがある。高名な探索者が、軍からの勧誘を蹴ってまで浮き草稼業を続けるのは、煩雑な俗世から離れることができる利点を捨てきれなかったのであった。

 

 大広間から繋がる階段を登りきると、大きな扉が現れた。

 

「よし、開けるぞ。せーので押せよ」

 

 合図とともに扉を開けると、アンヘルの目には光が飛び込んできた。

 アンヘルは喜びから駆け出す。

 

「外、頂上だ!」

 

 塔から見える景色は一面真っ青な空が広がっていた。遠方に見える連峰は、地上からの雄大さとは違って美麗な印象を与えた。塔の下に広がる木々は、距離が遠すぎて一本一本判別することはできず、緑一色で塗られたような自然が広がっていた。

 

「ようやく頂上か。それにしてもなにもないな」

 

 ホアンはそう言って、辺りをきょろきょろ見渡す。塔の頂上は直径20メートルほどの円形広間である。

 そこにはいくつかの彫像があるばかりで目新しいものは見当たらなかった。

 

 ホアンは少しばかりぐるぐると辺りを廻っていたが、すぐに飽きたのか扉付近に腰を下ろしてくつろぎ始めた。

 

「はぁー。達成感があるにはあるが、あまり感慨は湧かないなぁ。宝箱だとか、強敵だとか、何かしら事が起きないと、いくら頂上だといっても……。なぁ、アンヘル。君もそう思うだろ?」

「……」

「おぉい、聞いてんのか?」

「……う、うん。きいてる、聞いてるよ?」

「だから、そう思うだろって?」

「ええっと。うん、そうだね」

「……。絶対、聞いてなかったろ。オレの話」

「う、うぅん。ごめん」

 

 ホアンにとっては、頂上など何もない場所でしかないのかもしれないが、アンヘルにとってこの場所は努力の象徴であった。

 

 アンヘルはこれまでに、目標を立て何かを成し遂げたことがなかった。もちろん、テストで高得点を取りたい、部活のレギュラーになりたいといった目標はあった。しかし、それを成し遂げなければならない状況に遭遇しなかった。どんな結果であろうと、如何様にでも取り返せる。悪く言えば現代人によくいる学生と同じように、何かを成し遂げたい意思を持たない人間であった。

 器用である、というのが彼の人生だった。一番に成れなくとも、学業・部活動・人間関係すべてにおいて要領よくこなした。生まれてこのかた、何かを渇望して行動をすることなどなかったのである。

 

 しかし、『塔』制覇は違った。正直なところ、『塔』制覇に探索者としての価値などない。最近行われた『塔』での間引きは主に中層であり、頂上まで制覇した記録はかなり過去まで遡らなければならない。頂上についての情報など残っていないのである。アンヘル達が前回の探索で狩った小鬼(ゴブリン)たちの武具を提出した時点で、『塔』制覇を申告すれば十二分に他の探索者に信じてもらえただろう。

 

 それでも頂上にこだわったのは、一重にこれが単なる探索ではなく、探索者として生きていけるかの試金石であったのだ。

 制覇を成し遂げた末に辿り着いた頂上から見える碧空(へきくう)には、感慨も一入(ひとしお)だった。

 

「おーい。聞いてんのか。そろそろ帰ろうぜ。何もないみたいだしな」

 

 そう言って、ホアンは立ち上がると扉に向かって歩き出す。

 それを聞いて、アンヘルも振り返って扉に向かおうとするが、そのときなんとなく違和感を感じた。

 

「ま、待って。あそこの彫像ってあんなポーズだったっけ?」

「うん? いや、覚えていないが……。そうだったんじゃないか? 彫像が動くはずもないし」

「気のせいかなぁ? あそこの彫像は腕を下ろしていたと思うんだけど……」

「気のせいだろう。彫像が動くはずない。彫像が動けるなら、塔だって動けてもおかしくないしな」

 

 ――その理屈は無理があると思うけどなぁ。

 

 アンヘルはくだらないことを考えながらも、彫像が動いたなんて気にしすぎかと首をふった。

 

 そんな様子をよそに、ホアンはその彫像に近づいてペタペタと確認した。

 

「なにもないと思うけどな。ただの木製彫像だ。まあ、こんな大きさの木製彫像は見たことないから、珍しいといえば珍しいが。他の彫像よりも綺麗に残っているしな」

 

 そういうと、ホアンは興味を失くし、彫像に背を向けた瞬間であった。

 彫像が突きだした左拳を天に掲げ、ホアンに振り下ろそうとしたのがアンヘルの目に入った。

 

「ホアン!! 避けてッ!」

 

 ホアンが転がり避けた後、紙一重で右こぶしが振り下ろされた。

 

 轟音。

 彫像が振り下ろした拳の衝撃波が周囲に轟く。

 

 ホアンは這う這うの体で逃げ出してくると、アンヘルの隣で得物を構えた。

 

「ありがとな、間一髪だった。声かけられなきゃやられてた。しかし、あれはなんだ?」

 

 その視線の先で、彫像が拳を地面に叩きつけた体勢から立ち上がる。完全に立ち上がると、彫像はこちらに戦いを挑むように構えた。

 彫像が構え終えると、関節部に色が塗られたように変色してゆく。腰・膝・腕・指などの人体の関節部が木とは似ても似つかない魔導的な色を放つ緑に変色する。身体の変色が終了した後には、顔面部分のスリッドに緑色の輝きが灯った。

 

「ゴーレムッ! あれは、ウッドゴーレムだよ!!」

 

 ウッドゴーレム。主人の命令だけを忠実に実行する、いわゆるロボットのような自立木製人形である。その起源は古く、過去の大魔法使いが泥で作られた泥人形型ゴーレムが始まりであり、その魔法を悪魔や異形の者が応用してゴーレムを造り上げていると言われている。ゴーレムを利用する術は人間界ではすでに失われているが、その強大な力と頑強さは世間に響き渡っていた。

 

「ゴーレムだとッ!? なぜ、そんなものがここにある!」

「たぶん、過去に塔を守護する者として配備されたけど、何らかの理由で放置されていたんだ。それが、長い年月をかけて魔力をため込むことで復活したんだと思う!! ……たぶん」

「ずっと長いこと放置していたから復活したってことかッ!?」

「そうだと思う。わかんないけどッ!」

 

 その瞬間にゴーレムが突進してきた。三メートルを越える巨体と頑強な装甲は、明らかに只人がかなうようなものではない。

 

 ふたりは二手に分かれながらなんとか回避する。

 しかし、ゴーレムは彼らを攻撃することが目的ではなく、ふたりの後方にあった地上への扉が目的であった。ふたりのことなど気にもせず、扉を閉める。

 

「……まずくないか、おい。扉、閉められたぞ」

「逃げられないね。あの扉、重くてひとりじゃ開けられないし……」

 

 アンヘルの視界には、扉を閉めて悠然と佇むゴーレムの姿が映る。表情がかわらない人形であるにもかかわず、ゴーレムがこちらを嘲笑っているような印象を受けた。

 

「逃げられないとなれば倒すしかない。分かりやすくていいじゃないか」

 

 そう言いながら嗤う。

 アンヘルが制止する間も無く、ホアンは弾丸のように跳び出してゆく。

 

 ゴーレムの大振りな攻撃を躱して、果敢に得物で斬りかかる。尋常ならざる身体能力を持つホアンにとって、ゴーレムの攻撃は余裕十分に回避可能であった。

 されど、こちら側の攻撃はまったくと言っていいほど効果がなかった。ホアンの様子見の斬撃はいつも以上に鮮やかな銀線を描いたが、表面装甲に傷をつける程度の効果しかなかった。

 

 ホアンが一度舌打ちをすると、大きく飛び退き、相手の間合いから離れる。

 

「おいおい、これは固すぎるだろう……。どうする、アンヘル」

「うーん。装甲部じゃなくて、関節部を狙うとかかなぁ……」

「それしか、ないかッ!!」

 

 大物持ちの相手は、精神を蝕まれる。

 肉を斬らせて骨を断つとはよく言ったものだが、それを相手にするのは容易でない。巨大な得物から繰り出される致死の一撃は、いくら回避が容易であったとしても神経を使う。そのうえ、ゴーレムには斬らせる肉すらないのである。理不尽極まりなかった。

 

 人間ひとりを軽くぺしゃんこにできそうな、冗談じみた大きさのゴーレムが放射する死の圧力は、空間を詰め色彩を奪う。

 必然、攻めあぐねて、自然とじりじり下がる結果になった。

 

「ぼくが、気を引くよ。なんとか、その隙に間接部を攻撃してッ」

 

 そういって、駆け出す。得物を正眼に構えたが、相手の巨躯に比べてなんとも頼りなかった。いくらアンヘルが守勢に優れていようと、この尋常ならざる相手には多少の剣の腕前などなんの意味も無かった。

 

 ゴーレムが右腕を振り回してくる。それを余裕を持って躱すも、右腕の造り出した風圧がアンヘルの背筋を冷たくさせる。

 

 ――まるで暴風雨だ。

 

 地面へ右腕を叩きつけたときに発生した衝撃波で破壊力は想像がついた。それが、ただの人間に叩きつけられるのである。わずかな隙が、即座に身体をもの言わぬ肉塊へ変えることを意味していた。

 

 それでも、一撃二撃と躱しながら相手に打撃を加える。効果があるとはいえなかったが、少しでも気を引けるように攻撃を加えた。

 

 そして三発目、右腕をハンマーをすばやく振り下ろしてくる。

 

 アンヘルは、それを転がって避けた。しかし、振り下ろしの衝撃が地面に伝わり、轟音となって辺りに響き渡る。その爆音に恐れを抱き、一瞬身体が硬直した。

 

 それは、致命的な隙であった。

 固まったアンヘルにゴーレムが右腕を振るった。

 

 ぎりぎりで転がって逃れようとするも、アンヘルの左腕に攻撃が掠めた。

 

 破砕音が響く。

 

 まるでゴムボールのように数バウンドしながらアンヘルは吹っ飛ばされた。

 転がりながらも、アンヘルは自身の得物を確認し、反抗精神を立ち上げようとした。そのとき、自身の得物の違和感に気がついた。

 

 棍棒の先っぽがない。

 父の形見であり、幾多の冒険を共に潜り抜けてきた相棒たる棍棒が根本から折れていたのである。

 

 それを見た瞬間、アンヘルの反抗精神はポキッと折れた。あの大きかったゴーレムが数倍に巨大化し、まるで完全無欠の巨人に見えたのである。

 呼吸は早くなり、思考が恐怖で埋めつくされた瞬間であった。

 

 ゴーレムの死角で、ホアンが大きく跳躍した。ホアンは得物を両逆手で持ち、先ほどの攻撃で伸びきった右腕間接部に向かって全力で突き刺した。

 

 ホアンの全身全霊の力を込めた突きは、攻撃後の弛緩した間接部にキンと硬質な音を響かせて突き刺さった。間接部の魔導的な緑の輝きは失われ、右腕はまるで意思を失ったかのようにカクンと垂れさがる。

 

 ――やった。

 

 アンヘルがそう思った瞬間であった。

 

 痛みを感じないゴーレムは、即座に反撃行動へ移った。間接部に突き刺さった剣を引き抜こうとしていたホアンには十分な足場もなく、回避行動を取ることができないまま左腕の打撃を受けた。

 

 轟音が響き渡る。ホアンは、トラックにでも跳ね飛ばされたような速度で吹き飛ばされ、扉に叩きつけられた。地面に転がったホアンはピクリとも動かない。

 

「ほ、ホアンッ!!」

 

 ゴーレムは動かなくなったホアンの事を一瞥(いちべつ)もせずに、アンヘルへ向かって一目散に突貫してきた。アンヘルの恐怖で凝り固まった頭が指令を出し、無様な姿で転がり避けた。

 

 巨大な質量が風圧を伴って真横を通り過ぎる。

 蛇から逃げ惑う蛙のような逃げ方であった。

 

 ゴーレムがゆっくりとこちらに向き直る。

 

 死。

 意思を持たぬ木の怪物は、まさに死を体現していた。

 圧倒的な体躯、頑強な装甲、意思持たぬ冷徹な思考回路。アンヘルにとってゴーレムは完全無欠の怪物であった。

 

 ちらりと右手に持った得物を見る。衝撃に耐え切れなかった棍棒は根本から折れており、何の役にも立ちそうにない。

 

 ――きょう、ここで死ぬのかな……。

 

 右手の得物が自身の行く先を暗示しているようにすら感じられた。

 

 そんなとき、アンヘルの頭には先日の記憶がまるで走馬灯のように蘇る。

 

 ホセの落ちぶれた姿。

 ナタリアの悲痛な叫び。

 ナタリアの父の心配。

 

 そして、それらをすべて投げうって探索に出た自分自身。

 

 唯一無二にして心底参っている友人でもなく、人生はじめての想い人でもなく、彼らを心配している人生の先輩の頼みでもない。

 

 自分自身に誓った、唯一の願い。ホセを失っても、ナタリアを失っても、強くなって、成り上がる。死を覚悟した中での決意は、アンヘルの折れそうな心を奮い立たせた。

 

召喚(サモン)ッ!!」

 

 アンヘルの右隣の空間が唐突に裂ける。そして、中からシィールとリーンが飛び出した。

 

「シィールは相手の壊れた右腕側から脚間接部を攻撃、リーンはホアンを治療してッ!」

 

 そう指示しながら、腰の鉈を引き抜き、相手を見据え水平に構えた。

 

 ――間接部が弱点というのは当たっていた。倒せなくとも、遠距離攻撃手段を持たないなら足を破壊すれば逃げられるはずだ。

 

 ビュっと風を切るようにして踏み出す。

 腹をくくったアンヘルの速度は、ホアンにも劣らないほどのはやさだった。

 

 懐に潜り込む。右腕が破壊されたため左右の連続攻撃はできないうえ、全体的に動きが悪くなっていた。右腕の間接部に突き刺さった剣から魔力の光が漏れている。ゴーレムのエネルギーは、時間が経過すればするほど減っていた。

 

 だからといって、時間はアンヘルの味方というわけではなかった。攻撃が掠った左腕は、熱があるだけでなんの反応もしない。軽くても脱臼以上の怪我を負っているのは明白であった。回避に神経をすり減らすアンヘルは、ほんの数秒であっても、体中の力をふり絞らざるを得なかった。

 

 決定打がない。ゴーレムとの戦いはそれに尽きた。

 

 左腕を振り回すだけの攻撃は、肝は冷えるものの回避も反撃も容易にこなせた。しかし、アンヘルもまた、相手側に致命的なダメージを与えるほどの武技を備えてはいなかった。

 

 アンヘルが東方一刀流で習熟したのは、基本的な神秘の力(マナ)による強化法と対人戦における防御戦術であった。アンヘルには、致命的なまでにゴーレムの装甲を貫くほどの攻撃力を欠いていたのだ。

 

 鉈で間接部を斬りつけるが、鈍い音を立てるだけで、鉈が欠けるくらいしか効果がなかった。

 

 ――シィールがなんとか攻撃できれば良いんだけど……。

 

 シィールの噛みつきは唯一の突破口ではあったが、動きは愚鈍そのものである。そのうえ、ゴーレムはシィールを脅威とみなしているのか、シィールを視界からまったく離さない。

 

 千日手だった。このままだといずれ体力が尽きる。

 そんな焦りがアンヘルの回避先を誤らせた。

 

「しまっ!!」

 

 塔の縁に追い込まれて逃げる場所を失ったアンヘルの眼前で、ゴーレムは構えた。

 

 拳を振り上げて、振り下ろす。虫を捻り潰さんが如く冷酷無比な打撃が、コマ送りのみたくアンヘルの瞳に映写される。

 

 その瞬間、アンヘルにひとつのイメージが湧いた。

 

 外套を跳ね上げたまま、地を這うようにしてゴーレムの底部へ滑り込む。要塞のような胴体からの伸びる脚部の隙間をスライディング*の要領で滑り込んだ。

 

 通り抜けて背後に回ったアンヘルの視界に、シィールが入る。その瞳は、期待と信頼が宿っていた。

 

 理由はわからないけれど、口から自然と指示が湧いた。シィールなら、何かを起せるはずだと。

 

「いけぇ!! シィールッ!」

 

 まるで世界を丸ごと凍らせるほどの強烈な冷気が、シィールの叫びとともに放出された。

 放射状に迸る冷気がゴーレムに向かう。

 

 ――【コールドブレス】

 

 水属性、ドラゴンタイプの『プレシィ』がもつスキルは、人智を越えた超常の力としてゴーレムに襲い掛かる。必殺の一撃を思わぬ方法で躱されたゴーレムに回避する術などなかった。

 

 下半身から凍り付いてゆくゴーレムを眺める。冷気で動きが鈍ったゴーレムなど、もはや木くずにしか見えなかった。

 

 疾風のように駆け、鉈に五臓六腑の力を集める。そして、のろのろとこちらに向き直ろうとしているゴーレムの右足間接に斬撃を横向きに叩きこんだ。

 

 轟雷のような速度で叩きこまれた間接部は、キンと硬質な音を立てて分断された。

 足を失ったゴーレムがバランスを崩す。

 

 それを見逃すアンヘルではなかった。

 

 一歩下がり助走をつけると、ショルダータックルの要領で胴体部分に体当たりした。

 

 踏ん張る力を失ったゴーレムは、アンヘルに押されてゆらゆらと揺らめいた後、数歩後退する。しかし、片足を失った人形に立て直す力はなく、ゴーレムは縁に倒れこんだ。

 

 縁は質量に耐え切れず、ミシミシと音を立て、崩れ去る。当然、そのうえに乗っかっていたゴーレムも塔から落下した。ゴーレムの最後はあまりにあっけなく、何事もなかったかのようにスッと塔の下へ消えていった。

 

 残ったのは、満身創痍のアンヘルと眷属達、そして負傷したホアンであった。

 

 へなへなと力が抜け、地面に座り込む。乾いた笑いが口からでた。

 

 アドレナリンがどばどばと出ていたのか、まるで酩酊状態で事態を受け止められない。

 それでも、落ち着いて痛みがぶり返してくると、漸く実感が湧いてきた。

 

 何にも代えられない、生の実感が。

 

「ははッ! やった、やったよ。シィールッ!! 生きてるッ! 生きてるよ、ぼくっ」

 

 そういってシィールに向かって叫ぶ。そして、天に向かって手を大きく掲げた。

 

 

 

 




*スライディング:部活時代の得意技。


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第十四話:アンヘルとホセ

「せーの、かんぱーい!!」

 

 アンヘルの掛け声で、ホアン、ゴルカ、リンヘルが目一杯に注がれた杯を打ち鳴らした。

 

 時刻は夜半、もっとも酒場が盛り上がる時間帯である。アンヘル達は『塔』制覇およびゴーレム撃破のお祝いを兼ねて『菜の花亭』に来ていた。

 

 正直なところ、顔を出したくはなかったが、この街の常識として男の祝いの席はこの店であると相場が決まっていた。

 

 ゴルカが注がれた酒をまるで水でも浴びるように飲み干し、大きな声で祝福する。

 

「いやぁ、しっかしよぉ。まさかあのアンヘルが『塔』を制覇しちまうとはよぉ。オレの人物鑑定眼も鈍ったか?」

 

「そうかぁ? おれはやるときゃやる奴だとおもったけどなぁ」

 

「おいおい、ホントかよ。リンヘルてめぇ、アンヘルがいつくたばるか賭けてなかったかぁ?」

 

「むかしの話だよ、そんなのは。ちょっと見ればただもんじゃねぇってわかんだろうが」

 

「嘘つきやがれ」

 

 そう言い合った後、ふたりは大口を開けて笑い出した。

 

 ――っていうか、いつくたばるか賭けられてたんだ。

 

 右腕に大きな包帯を巻いて首から吊っているホアンが左手で飲みにくそうに酒をあおっている。今までにないほどの解放感が瞳に映っていた。

 

「しっかし、よくゴーレムなんざ倒したな。中々の大物だぜありゃよ」

 

「俺もそれは気になっていた。どうやって倒したんだ。アンヘルがゴーレムに対して有効な攻撃ができるとは思えないんだが」

 

「だからそれは説明したじゃない。体当たりして塔から突き落としたって。ホアンも見たでしょ。塔の下でバラバラになっているゴーレムを」

 

「それは、そうなんだが。あの足の間接部。あそこだけは鋭いもので切り裂かれたような印象を受けたんだが……それになんだが、ゴーレムが濡れていたのも気になったしな」

 

「そんなの、下に尖った石でもあったんじゃない。濡れてたのは、よくわからないけど」

 

 アンヘルの召喚士としての能力は露呈しなかった。ゴーレムの直撃を受けたホアンは右肩と頭に大きなダメージを受けたため、リーンがふたりを治療し終えるまでの時間、目が覚めること無かった。

 

 喋ってしまおうかとも思ったが、ホセにも召喚士について告げなかった。ホアンに話すことは、ホセに対する裏切りに思えたのだ。

 

 ――それにしてもシィールの冷気放射はなんだったんだろう? あんなことができるだなんて聞いてないんだけど。

 

「そんなことより、怪我の具合聞いたよ。そのギプスも数日で取れるんだってね。すごいね、あんなに吹っ飛ばされたのに、そんな傷で済んじゃうなんて。ぼくも鍛錬が足りないなぁ」

 

「うーん。それはそうなんだが。正直、もっと深い傷になったとおもっていたんだがなぁ」

 

「おいおい、そんな辛気臭い話ばっかしすんなや。オレらは軍人じゃなくて探索者なんだぜ、探索者。どんな手使おうが勝てばいいのよ」

 

「俺は軍人志望だ」

 

「そういやそうだったな。まぁいいじゃねぇか。生きてんだからよ。ちょっとぐらい不可解な事があろうがどうでもいいだろ。変な傷があろうが、濡れてようが、アンヘルが叩き落とした事には変わらねぇんだ。別にいいだろそれで」

 

「まぁ、そうなんだが」

 

 ホアンはそれでも頭を捻っている。几帳面な性格の彼には不可解な点が心に残るのが気に食わないのだろう。それでも、過去を振り切るように頭をぶんぶんとふった。

 

 ゴルカが鶏肉の揚げ物をパクパクとつまんでゆく。今日は店の外で飲んでいるからか驚くほどペースが早い。

 

「しっかしこれでアンヘルも見習いか。もう親方共が何人か誘おうとしてんだろ。たしか、お前んとこの……ヘッドって親方もアンヘルの事狙ってただろ」

 

「いや、ウチは取らないことにしたんだ。もう人は十分にいるからなぁ」

 

「はー。じゃあ、あとはバーンと――」

 

 ゴルカは指を下りながら親方冒険者の名前を上げてゆく。中にはこの街でも上位に位置する探索者の名前もあった。

 

(正直リンヘルの所には入りたくなかったから、助かったぁ)

 

 アンヘルの頭に地獄の光景が蘇る。リンヘルとヘッドを見かけるたびに思い出すのは絶対にごめんだった。

 

「――と。まあ、こんなところか。しっかし、久しぶりなんじゃねえの。見習いが入ンのはよぉ。最近はどこも安定志向で入れ替わりがすくねぇからな」

 

「ゴーレムの報酬もあるしなぁ。準備は万端ってか。そういや、いくらになったんだ。ゴーレムの報酬はよぉ」

 

「うーん。ゴーレムの部品はこの街では珍しいらしくて、査定に時間がかかるってことらしいんだけど」

 

「そういやそうかもな。ゴーレムなんざ戦うもんじゃねぇよ、ふつう。足遅いから逃げればどうにでもなるしな」

 

「そうなんだけど、報酬がでないと困るんだよねぇ。武器壊れちゃったし」

 

 父の形見である棍棒はゴーレムの攻撃を受けて根本から折れてしまった。もうひとつの武器である鉈はどちらかといえば止めや解体用であり、リーチが短く普段使いするには適さない。

 

 アンヘルの手持ちは少ない。報酬が手に入っても装備や消耗品の更新を繰り返して手元に残らないのである。あと数日は耐えられるが、無報酬状態が長期に渡れば生活が苦しくなるのは明白であった。

 

「そう思って俺の昔の武器を持ってきたんだ。今回はアンヘルがいなければ死んでいたしな。お礼さ」

 

 ホアンが腰に携えていた剣を鞘ごと引き抜くと、アンヘルに手渡した。その剣は、造りこそ古いもののよく手入れされているのが分かった。

 

 アンヘルは一言断りをいれると、剣を鞘から引き抜いた。

 

 刃渡り六〇センチ、柄一五センチの両刃の刀身が鞘からのぞいた。アンヘルは興奮したように刀身を灯りにかざして、鉄製武器特有の鈍い光を味わおうとしたが――。

 

「おいおいその剣。よくみりゃ錆びてんじゃねぇか。しかも、なんだぁ? 片刃、全然研いでねぇじゃねえか。そんなんじゃ、片刃しかつかえねぇじゃねえか」

 

「しょうがないだろっ! アンヘルの大きさに合うのがウチにはこれしかなかったんだから。父さんも俺も代々両手用の剣を使ってるんだ。盾と併用するような短い剣はこれしかないんだ。研ぎなおせば両刃とも綺麗になるッ」

 

「そりゃそうだがよ。そんなんならよ新しいもン買ったほうがよっぽど良いんじゃねぇか?」

 

「ううん。大丈夫、これにするよ。よく手入れもしてるみたいだし、研ぎなおせば僕には十分だよ」

 

「アンヘルがいいってんならいいんだけどよ」

 

 腰に剣を下げる。まるで一端の剣士になったみたいである。武器にロマンを感じるのは男共通の悪癖だ。

 

 ゴルカが店員から酒を受け取ると杯を乾かしながら尋ねてきた。

 

「それで、これからどうすんだ? 見習いになるとして、何処に入るんだ」

 

「うーん。まだ、考えているんだけど。見習いになるんじゃなくてほかの――」

 

「助けてくれ、ナタリアちゃんが!」

 

 血まみれの男が息を切らしながら店に入ってきて叫ぶ。その男は『菜の花亭』なじみの客で、いわゆるナタリア信者のひとりであった。

 

 店は血まみれの男が入ってきたことで騒然となる。店の店主であるナタリアの父や店員が駆け寄っていき、男に尋ねた。

 

「どういうことだ! ナタリアはどうした!」

 

 ナタリアの父は胸倉を掴むと、前後に激しく揺らした。

 

「ナタリアちゃん。ホセって野郎を探して酒場を廻ってて。そしたらごろづきどもに連れ去られて。見せしめにするって。俺、止めようとして」

 

「どこだッ!」

 

「南……貧民街だ」

 

 男はそれを告げると力尽きたのか気絶した。

 

 同時に店員達と信者である客は鬼気迫る顔で駆け出してゆく。ナタリアの父も武器を取り出して走っていった。

 

 それを見たアンヘルの身体は独りでに動きだした。ホアンやゴルカの制止の声も聞かず、受け取った剣を腰に差し駆け出していた。

 

 

 

 §

 

 

 

 強姦は魂の殺人と呼ばれる。

 

 古代より、強姦は女性に対する厳格な貞操観念に対しての犯罪であった。その結果、処女の強姦は非処女よりもさらに重い重大な犯罪である。身持ちの悪い女性に対しての暴行は罪にならぬことがあっても、市民権をもつ女性への強制性交は即刻死刑になるほどの大罪である。

 

 しかし、それは裏を返せば犯行にあった女性に対する価値は地の底まで落ちることを意味していた。彼女たちに一切非はなくとも、世間一般にとっては汚された女性そのものが堕ちた、とされるのである。社会の不条理を彼女たちに一切合切押し付けるのだ。そこは現代社会と変わりなかった。

 

 ごろつきどもには、教養がない。ゆえに倫理観を持たない。しかし、彼らは経験から強姦がどれほど罰を受けるか理解している。一般市民を襲うのは割に合わない。街社会で生き抜いてゆくにはごろつきといえども、頭が必要なのである。ごろつき共が襲うのは決まって卑しい下層民である売春婦などに限られた。

 

 事情が違うのは農村出身者のごろつきどもだ。教養がないうえに、罪についての恐怖感がなかった。もともと村には犯罪者を罰する規則がないためである。それでも、彼らが村にいる間は回りの者に重い危害を加える程の度胸はないため、問題にならない。

 

 しかし、農民たちが街に出れば話は変わる。街には顔見知りもいない。一般市民の女たちは集団になると自分たちを見下し、貶める。そんな彼女らは街仕事のため鍛えられておらず、そのうえ日焼けもなく垢ぬけた容姿だった。彼らにとって日頃の鬱憤をはらす格好の得物だった。

 

 彼らが欲望を発散させるための十分な金を得る機会を持たないのが拍車をかけた。

 

 その大罪を理解するのは、ある日しかるべき報いを受け、己が成した悪行を振り返るときだけであろう。

 

 焦りが増す。逸る心を抑えつけ貧民街を駆ける。貧民街は広い。闇雲に走り回っていても、ナタリアを探し出すことは不可能であった。先ほどの男の言葉を思い出す。

 

 ――ナタリアさんは、ホセを探していた。なら、酒場の近くを巡っていたはずだ。

 

 貧民街の店舗内で飲める酒場。そんな店は限られる。

 

 一件目の酒場は外れだった。二件目に辿り着くとアンヘルはその店の路地裏にまわる。上半身を脱がされ、スカートをたくし上げられたナタリアとボロ雑巾のように血まみれのホセが倒れていた。

 

 ナタリアは涙を浮かべながら露出させられた尻を突きだし、陰部を膨張させている男に腰を掴まれている。男はいままさに事に及ばんとしていた。ホセはそれを止めようとしてか地面に這いつくばい、蹴られながらも必死の形相で叫び続けていた。

 

「やめろぉ! なたりあ、には、てをだすんじゃねぇ!」

 

「いい気味だなぁホセよ。おれはなぁ、最初からてめぇが気に食わなかったんだぜぇ。てめぇだっておれと変わらねぇ農民なのにおれらを顎で使って、そのうえこんないい女を手に入れるなんざ不公平だろがぁ。だからよ。ちょっとばかし分けてもらおうってわけさ!」

 

「てめぇ、ぶっころしてやる!」

 

「できるもんなら、やってみればいいさッ」

 

 そういって男が部下に指示すると、部下たちは強烈な蹴りを体中の至る所に浴びせた。

 

「どうして、どうしてこんなことをするの。あなたはホセの部下だったんでしょう!」

 

 ナタリアの悲痛な悲鳴が響く。男はナタリアの髪を強引に引っ張った。

 

「だから、いっただろうが。気に食わないってよ。てめぇは黙ってやがれ」

 

 湧き立つ心を抑えながら、現場に足を踏み入れた。背中を冷えた夜風が嬲る。

 

「なにを見てやがるッ。ぶっころされてぇのか!」

 

「あ゛、あんへる……」

 

 七対のごろつきの目がこちらを向いた。その中の主犯格と思われる男にはアンヘルも面識があった。

 

「……ナセさん。ホセとナタリアさんを離していただけませんか」

 

 主犯格の男――ナセは、ナタリアから手を離し、数瞬訝しげにアンヘルの顔を伺うと思い出したかのような顔つきに変わる。

 

「誰かと思えばあのホセの子分じゃねぇか。助けに来たってのかぁ? いいか、へなちょこ。きょうはこのボケをよぉ、もっと痛めつけてやってよぉっ。そんでもってよぉ、目の前で女をいやってほどヨガらせてやるんだよぅ! こいつの前でしこたまヤって、こいつを心の底から叩きのめしてやるのよッ! キヒヒヒッ! いいか、てめぇもおんなじ目にあいたきゃなかったらよぉ、さっさとこの場からうせやがれ」

 

「あんへる、たのむ! あいつ、なたりあだけなんとか助けてくれぇ!」

 

「うるせぇ! てめぇらは今から楽しい楽しいショーが始まるんだッ。おとなしくしてやがれ!」

 

 ホセの懇願が小さく響くたび部下の男たちがホセを嬲った。

 

 アンヘルは集団の中に姿の見えない人物がいることに思い至った。

 

「ヨンは、いないんですか?」

 

「なんだぁ。あのヨンのことを気にしてやがんのか? あいつは死んだよ。とっくの前にな」

 

「どういう、ことですか」

 

「しらねぇのか? この前あっただろうが。せけんさまを騒がす殺人事件ってのがよぉ。あれよ、あれ。その犯人としてヨンは首をぶったぎられたぜぇ。キヒヒヒ。あぁ、ありゃいい金になったぜぇ。なんたってあのおっさん、いろんなとこから恨み買ってやがったからな。あとはヨンをちょいと脅してやりゃぁ、すぐに殺しやがったぜっ。ま、むかしからヨンはおれには逆らえねぇからよ」

 

 ナセは乳房を鷲掴みにしながら高笑いした。ナタリアの悲痛な叫びが響き渡る。

 

「てめぇがやりやがったんだな! ヨンがあんなことできるわけなかったんだ! てめぇのせいで、てめぇのせいでっ」

 

「やったのはヨンだろがよぉ。キヒヒ」

 

 アンヘルは自身の唇を強く噛む。

 

 暗いものが身体に溜まり、心臓が改造されたかのように血流が加速した。

 

 同時に、目が燃え盛る炎を幻視する。

 

「ほら、さっさと失せやがれってんだ。てめぇもヨンみたいに殺してやろうか? あン?」

 

 ナセの揶揄で火がつく。

 

 視界が真っ赤に染まった。

 

 腰の剣を引き抜き水平に構える。

 

 アンヘルの身体から尋常ならざる闘気が放出された。

 

 人数に勝り、優位を信じている男達のニヤニヤした空気が一変した。

 

 アンヘルは外套を跳ねのけ、持っていた鞘をナセに投げつける。

 

 投擲された鞘は矢のように走り、ナセの頭部に直撃した。

 

 ホセを囲む男達に向かって踏み込み、剣を横殴りに振るった。

 

 いかに研がれていない剣であろうと、鉄製の武器に殴られた衝撃は軽いものでない。

 

 不快な破裂音とともに手に砕けた肋骨の感触が残る。

 

 続けざまに柄で男の顔面を殴りつける。熟れた果実を叩き潰すようなたやすさで原形をなくした。

 

 アンヘルは心の底から激昂していた。

 

 ホセの絶望。ナタリアの辛苦。そしてヨンの無念。

 

 人が入ってはならない領域を土足で踏みにじったのである。もはや、アンヘルには目の前の男たちが畜生に見えた。

 

 ――殺してやる。

 

 純粋な殺意が心を満たして、身体を突き動かす。

 

 得物は怒りで軋み、殺すという意思をもって生きているかのように滑らかな銀線を描いた。

 

 ひとりは両足を。

 

 もうひとりは胴体を。

 

 そして、慌てて武器を構えようとした男の頭部を剣で殴りつける。

 

 鈍い破壊音とともに男たちが倒れ伏す。

 

 恐れをなして、男が逃げ出そうとする。アンヘルは足をひっかけてやり、転ばせてやった。仰向けにひっくり返すと、マウントをとり、左手で顔面を殴打する。

 

 一回、二回、三回。

 

 力で強化されたアンヘルの力は尋常でない。戦士としては未熟だとしても、武芸のぶも知らぬ一般人にはアンヘルの膂力(りょりょく)は怪力無双の偉丈夫と大差なかった。

 

 殴りつけるたびに、過強化の影響で背中の筋繊維がブチブチと鳴る。

 

 それでも、赤く染まった頭が機械のように冷徹な動作をつづけた。

 

 後方からの衝撃と共に口に鉄の味が広がる。残った男が背後から棒で殴りつけてきたのだ。

 

 けれど、なんの痛苦も感じない。

 

 ゆっくりと立ち上がり、ふりかえる。相手はアンヘルの尋常ならざる様子に恐れをなして後退りした。

 

 一歩、二歩と近づき跳躍。

 

 半月のような線を描き、顔に向かって剣が伸びる。

 

 固まったままの男の顔面に剣をくれてやった。

 

 男は血を吹き出し名がら倒れ伏す。

 

 着地したアンヘルの眼前には呆然としたホセ、恐怖に染まったナタリア、そしておびえるナセの姿があった。

 

「うわぁあああ!」

 

 ナセは這いずりながら後ずさりする。

 

 アンヘルは剣を構えながらゆっくりと追いかける。ナセは周囲を這いずりまわったが、壁に遮られ逃げ場もなくなった。

 

 アンヘルの歩く音が響き渡る。

 

「助けてくれぇええ! な、な、たのむよぉおお! かね、金ならわたすからよぉおお!」

 

「しね」

 

 アンヘルは両手に握った剣を真正面から振るい、胴体を打ち据えた。

 

 何度も、何度も。

 

 悲鳴が響き渡る。

 

 悲鳴が途絶えて、意識を失った。

 

 それでも、アンヘルは悪鬼に憑かれたようにナセを殴打した。怒りの塊が剣に込められ、振るわれる。

 

 永遠に続くかと思われたが唐突に剣を止めた。虚しくなったのだ。

 

 ナセの口からはかひゅかひゅという空気の抜ける音が響いていた。

 

 すべてが終わった。剣を腰に収めて息を吐くと、赤い世界がもとの路地裏に戻る。

 

 外套を脱ぎ、半裸のナタリアに手渡す。アンヘルは柔和な笑顔が浮かべた。手をとって立ち上がらせた。

 

「だいじょうぶ?」

 

 ナタリアはびくっと肩を震わせるだけで、返事をしない。

 

 そこには暴行を振るおうとした男達への恐怖ではなく、アンヘルへの畏れがありありと瞳に宿っていた。

 

 ナタリア、そしてホセも一般人である。

 

 ホセも元は探索者とはいえ、『塔』の攻略が佳境となる中層でドロップアウトしている。探索者として漸く半人前といったアンヘルであっても激化する探索で鍛えられた戦闘術は、一般人の喧嘩とは一線を画していた。ナタリアは、はじめて見る戦闘の専門家アンヘルの闘いに根源的な恐怖を抱いていた。

 

 ナタリアが何よりも恐ろしかったのは、アンヘルの精神性であった。暴力の世界からほど遠い世界で生きてきた人間にとって、普段はボケッとしたアンヘルが怒りで豹変し、男達をまるで嬲るように暴行を加えたのは信じ難い光景だったのだ。そして、まるで何事もなかったかのように柔和な笑顔で外套を渡してきたアンヘルには、抑えることのできない恐怖が湧きあがっていた。

 

 もちろん、彼女が感謝していないわけではない。しかし、一度植えつけられた恐怖は今後の人間関係に大きな影を落とすことが容易に想像できた。

 

 ナタリアは立ち上がるとすぐに手を離し、走ってホセに駆け寄った。それには、多分にアンヘルから逃れたいという意思が感じられた。

 

 寂しさを感じながらも、アンヘルはホセに向き直る。

 

 ホセは、自分を打ちのめした男達が瞬く間に倒されたことを受け止めきれない様子だった。唖然としながら、口をパクパクと開閉する。

 

 それでもナタリアが手を握りしめると、歯の折れた口で言葉を紡ぎだした。

 

「あ゛、あんへる。ありがとぉな。なぁ、おれがわるかったっ。もういっかい、たんさくしゃとしてやりなおさせてくれねぇか? たのむよぉ」

 

 ホセの目から涙が零れ落ち、嗚咽が漏れる。

 

 はじめて聞いたホセの頼み事であった。

 

 アンヘルの瞳がホセを貫いた。

 

「ぼくは――」

 

 

 

 §

 

 

 

「よかったのか、ぜんぶ置いてきてしまって」

 

 朝日がまぶしい。柳の葉を揺らせる風は、爽やかさとわずかな寂しさを感じさせる。揺られた葉が地に落ち、細い川の流れに流されながら谷に吸い込まれ跡形もなく消えた。晩夏の景色をつつむ引き締まった空気だった。

 

「うん」

 

 アンヘルの声が空にとける。

 

 その顔は期待感と不安、そして寂しさが混ぜこぜになった複雑な面持ちであった。

 

「ぼくは先に進むって決めたんだ。このセグーラの街には『翠玉の森』くらいしかダンジョンがないから。だから、もっと大きな街に行かなくちゃ」

 

「友達のホセを差し置いてもか?」

 

「……うん。ぼく自身が決めたことなんだ。それに、ホセなら大丈夫だよ。勇気も度胸もぼくよりずっとある。ちょっとくらい失敗したからって心配ないよ。ホセはすごいんだからさっ」

 

 口にはしなかったがナタリアの事もあった。彼女のアンヘルに対する恐怖はちょっとやそっとで拭えそうにない。そのアンヘルの恐怖が長じて探索者への恐怖へ変わらないとも限らなかった。ホセを探索者の仕事に引っ張りこみ、ふたりの仲を引き裂く原因を残すわけにはいかなかった。

 

 アンヘルとホアンはふたりして歩き出す。

 

「それで、ここからどうするんだ?」

 

「明確なプランはないんだけど……ホアンが試験に受けるまでの間、オスなんちゃらって街で生活費を稼ぎながら情報収集かなぁ? これから行くところ何も知らないし」

 

「オスゼリアスな、オスゼリアス。都市の名前くらい覚えておけよ。あと、俺の部屋に居候するんだから訓練や受験のサポートはしてもらうぞ」

 

「大丈夫。っていっても、訓練はともかく受験のサポートはできないけど」

 

「勉強について相談しようってわけじゃない。料理や雑事さ。心配しないでくれ」

 

「うーん、心配だなぁ。料理、苦手なんだけど」

 

「くだらないこと行ってないでさっさと行くぞ。秋も半ばになれば中央山脈に雪が積もりだすからな。それまでに山を越えないと、試験に間に合わない。くだらない事で神経を使いたくないからな」

 

「試験に余裕を持つのは大事だもんね。それにしても大変だなぁ、士官学校上級士官養成課程(エリート)ってのはさっ」

 

「それはセグーラの街が悪いのさ。この広い帝国の中でも南東の端にあるからな。オスゼリアスに行くのも一苦労さ。これも辺境出身者の不利な点かもな」

 

「たいへんだねぇ、ホアンも」

 

「だからこそ気合が入るってもんさ。それに俺たちはダンジョンの制覇を成し遂げたんだ。いい自信になったよ」

 

 そう言いながら、ホアンは握りこぶしを胸の前で作った。

 

「今回の冒険でなんか不安が一気に吹き飛んだんだ。なんていってもゴーレムを相手にしたんだ。試験くらいなんでもないものに感じよ……ま、俺は倒してないんだが」

 

「いいじゃない。探索ってのは生きてることが一番だよ」

 

「そうだな。そのとおりだ。生きて試験に受かる、それだけだ」

 

 ふたりは話し合いながら、次の休息所を目指して歩き続ける。アンヘルの胸には父の形見である棍棒から作られた細工が吊り下げられていた。

 

 

 

 帝国歴312年晩夏。

 

 偉大な召喚士として名を馳せることになるアンヘルの冒険は、今日この日始まった。

 

 

 



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一章あとがきと登場人物紹介

読まなくても大丈夫です。


 どうも初めまして。原田孝之と申します。

 この度は、私の作品を見ていただきありがとうございました。

 

 どうでしたかね。少しでも楽しめて頂ければ嬉しく思います。

 とはいえ、UA数(あとがき作成時、通算UA数)などを見ていると、最新話まで追ってくれているのは10人くらいでしょうか? まぁ、正確な人数はわからないんですが、全然人気がないことは分かりました。作品の小説情報を見るたびに愁然の面持ちになります。

 

 とはいえ、小説を書くことで私自身に至らない点がたくさんあるなぁと実感させられます。

 顕著なのは、文章力でしょうか。一話目と最新話でかなり文章に変化があるように思います。今なら「こんなんかかねぇよ」っといった箇所がちらほら見受けられるのですが、当時はこれがいいと考えていたのでしょう。私自身の変化が見れて非常に興味深いです。

 

 察しのいい方(もしかしたら皆様)は気づいておられたかも知れませんが、私ははじめて小説を書きます。この小説が処女作ということになりますね。まぁ、プロの方の処女作と違って、私の作品は本当の意味での処女作ですが(笑)。なので描写がくどいとか、誰が喋っているんだとか、文章力低い作家にありがちなミスをやらかしていると思います。ただ、それを直すのではなく、成長の記録として残して偶に見返しています。読者の皆様も私の成長を見守っていただければ幸いです。

 

 まあ、前書きはこの辺にして、なぜこの題材を選んだのかを話さなければいけませんね。

 どうしてパズドラを題材に小説を書こうと考えたかといいますと、単純にパズドラが好きだからというわけではありません。どちらかといえば、槻影大先生の小説『アビス・コーリング』に影響を受けたからで(というか、結構設定をパクっているのは許して)、パズドラに思い入れはあまりありません。召喚士モノの長編小説は、ありそうでありません。どうしても、育成やガチャ要素が強くなってしまからか、味方がどんどん強くなってインフレしてしまうからなのでしょうか。どちらもゲームならともかく、物語には難しい題材だと思います。結局のところ理由はわからないのですが、召喚士モノ小説はかなり珍しいと考えていました。

 

 そういった経緯で、今回の全然召喚士っぽくない召喚士もの小説が誕生することになりました。槻影大先生の作品がライトよりのファンタジーなので、どちらかといえばダークよりのファンタジーを目指しています。パズドラを題材にしたのは、完全オリジナルよりも、元ネタありのほうが親しみやすいかなという姑息な思惑に基づいています。

 

 ただ、姑息な方法の代償として私自身のパズドラ経験はかなり浅く、情報収集に手間取るという問題があります。というのも、パズドラが流行り始めたとき、ちょうど私の中学受験が始まってしまったんですね。それから、パズドラについて触れて来なかったので実はかなり浅い知識しかありません。感想欄で知っている知識を披露して頂ければ、こちらもそれを利用したいと思っています。と、このようなパズドラ二次小説ではありますが、昨今のオワドラとか言われている現状の助けに成れれば幸いです。

 

 今回はコロナ禍ということで、私もかなりの時間が捻出できました。更新時期が飛んだのは、大学の動きがいろいろ不鮮明であったからです。それも今になって落ち着いてきており、漸く一章を書きあげることができました。

 

 非常に大変なコロナウイルスによる自粛期間ではありましたが、物書きという趣味を持てたのは唯一良かったことなのかもしれません。そして、作家の方の日頃の努力を知ることができました。こうやって小説を書き上げる難しさを体験できたのはよい経験であったと思っております。作家の皆様に尊敬の念に堪えません。

 

 最後に、ここまで読んでくださった皆様に感謝を述べたいと思います。

 読者の皆様がもっと楽しんでいただけるよう努力しますので、今後とも宜しくお願い致します。

 

 

 PS

 

 予告ですが、二章はサスペンス要素をちょっとだけ入れた作風にしたいと思います。

 この作品が気にいって頂ければ、槻影大先生の偉大なる作品『アビス・コーリング』をどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 § § §   登場人物紹介   § § §

 

 

 ■メインキャラクター

 

〇アンヘル(14)

 

元は日本人の新高校生。

親にスマホを買ってもらって、遅ればせながらパズドラに参戦しようとした瞬間、アンヘルに成り代わっていた。日本でも引っ込み思案な性格がいろんなところで悪影響を及ぼしていたが、それなりに器用なため心底困る状況へ陥ったことはない。

中学時代、野球部のポジションは8番ライト。7人しかいない三年生野球部員全員で最後の大会にでるため、後輩と熾烈なレギュラー争いを繰り広げた。最終的にレギュラーを射止めたが、それが監督の恩情だったことを彼は知らない。

中学通算打率は1割6分。

 

・シィール(種族名:プレシィ)【眷属】

 

水・ドラゴンタイプの眷属。いわゆる御三家のひとつ。

動きは鈍いが力は強い。水の中なら動きもはやい。魚を取るのが得意。

アンヘルに対して召喚しろと心の中でいつもぼやいている。

 

・リーン(種族名:グリーンカーバンクル)【眷属】

 

塔の入口で倒して仲間にした眷属。

アンヘルに殴られた経験が忘れらないのか、手を振り上げるたびにびくっと怯える。かわいい。

 

 

〇ホセ(14)

 

アンヘルのと同じ村に住む少年。

背は小さいが勇気があり、村の連中から頼られていたいわゆるガキ大将。

実は顔立ちが整っているので、街に来てから数週でさくっと童貞を卒業した。

今後は『菜の花亭』の見習いとして働き、ナタリアの父に認めてもらえるよう精進するつもりである。

 

〇ホアン(16)

 

赤毛と高身長がトレードマークの青年。

体格もよく、端正な顔立ちから女にはモテそうなものだが、天然で空気の読めないところがすべてを台無しにする。

猥談が好きだけど、それを表にだせない。道場内ではむっつりスケベだと思われている。

 

〇ナタリア(15)

 

菜の花亭の看板娘。

アンヘルの想い人にしてホセの恋人。昔、ホアンが好きだったが、会話してすぐに幻滅した。

あの事件以来、ぼけっとした風貌の若い探索者が苦手。

 

 

 ■サブキャラクター

 

〇ゴルカ

 

元探索者であり、今は口入れ屋で事務および店員をこなす不良店員。

過去の徴兵で膝に矢を受け探索者を引退した。

体格がいいためリンヘルに狙われている。

 

〇リンヘル

 

アンヘルに似た名前の探索者。ゲイ。

アンヘルを見習いにしようとしなかったのは、彼らのチーム内でやっていけるとは思えなかったら(性的な意味で)。実力はたしかで、アンヘルに幾度も助言した。

 アンヘルたちがどれほど探索者を続けられるかの賭けには、一週間で死ぬに5コイン賭けていた。

 

〇ウバルド

 

菜の花亭の店主にしてナタリアの父。

天真爛漫な娘を気に揉んでいる。

本編で名前は出てこない。

 

〇ラッゾ

 

口入れ屋のマスター。

恰幅のいい体格とぎらついた瞳が特徴。

当初はアンヘルたちの報酬をピンハネしていたが、実力があるとわかるとサポートに回っていた。アンヘルが安く消耗品を手に入れていられたのは彼のおかげ。

本編で名前は出てこない。

 

〇ヘッド

 

リンヘルの親方。

若くて筋骨隆々の肉体が好き。攻め受けどっちもいける。

 

〇ナセ

 

怪我が酷すぎたため、故郷へ帰ることに。

賭け事の技術は高い。

 

〇アンヘルの姉 無事に嫁いだ。

 

〇アンヘルの兄 なんとか苦境を乗り切り、収穫の時期を迎えた。

 

〇行商人 雑魚眷属をもつ召喚士のひとり。夢は嫁さんをもらうこと。

 

 

 

 





ホセはお気に入りなので今後もどこかで出したいなぁと思っています。


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第二章:ウルカヌ火山
第一話:大都市オスゼリアス


 庭のあちらこちらにまばゆい夏の雲が立ち上がり、そのために蜂の羽や毛が金色に光る。辺りではアブラゼミがやかましく鳴いており、蒸し暑い午後の不快感を増大させていた。

 

 風鈴の音がかすれて鳴り響く。

 庭を一望できる縁側で、少年と老人が横並びに座り込み、本を読んでいる。

 

 齢10ほどの黒髪の少年は、かれこれ2時間近く読書に没頭しており、本の最終行までをじっくり吟味している。

 少年を唐突にパタンと本を閉じ、書かれていた文字を頭の中で咀嚼(そしゃく)する。本の中身を思い返すその姿は、楽しそうな様子の中に必死さが垣間見えていた。

 

「どうだい。なかなかに、おもしろいものだろう?」

「うんっ。むずかしかったけど、とくに『漂流した救命ボート』のおはなしはね。ぼくがそのボートに乗っていたらってかんがえたら、どうすればいいか迷っちゃう……」

「しかし、そんな時どうすればいいか教えたはずだが」

「理屈が間違ってないと思えばどんな障害があろうと実行するべきだ、だよねっ! だいじょうぶ。ちゃんと覚えてるよ」

 

 着物を着た姿勢のいい老人は、鷹揚に頷く。そのしわがれた声から放たれる言葉は穏やかだったが、奇妙な威圧感が空気を震わせ、周囲の物体と共鳴・反響して少年に圧迫感を与える。

 

 少年はつばを飲み込んだ。

 

 老人が持つ雰囲気は60近いとは思えないほど重い。姿勢、目の光、しわの入った容貌。それらが複雑に絡み合い、立ち振る舞いにうねりをあげるほどの引力と重厚感を与えていた。

 

「話は変わるが、この前の試合はどうだったんだ」

「えーと、うん。おじいちゃんの言う通りにやったらたくさん打てたんだっ。こう、カキーンって」

「そうだろう。振り子は良くないというのが、もはや常識だ」

「おじいちゃんは物知りだなぁ」

「……」

「いやっ、その、ぼくもなにも考えず練習してたわけじゃないんだよっ! ただ、野球をしてたわけでもないのに、教えられるなんてすごいなーって」

「……そうか、そうか。ハハハ。それならば、いい」

 

 少年は常に輝くほどの笑顔で、大げさな身振り手振りを加えながら話しかける。

 老人の顔色ひとつで少年は態度を変えた。その小さな背中はひんやりと汗をかいていた。

 

「よく、がんばっているようだ」

 

 そういうと老人は本を閉じ、立ち上がる。

 

「しごとに行くの?」

「選挙が近い。あいさつ回りは欠かせん」

 

 対面者がいなくなることで、少年の緊張が一瞬解ける。

 しかし老人はクルッと帰ってくると、持っていた本を手渡した。

 

「この本も、なかなかに興味深い。明日までに、読んでおきなさい」

 

 分厚い革表紙の表には、『功利主義論』と記されていた。

 

 少年は一瞬固まる。

 しかし、すぐさま再起動すると、違和感を微塵も感じさせない輝く笑顔で、少年はわざとらしくはしゃぎながら受け取る。

 

「おじいちゃんがくれる本っていっつもすっごくおもしろいから、楽しみだなー」

 

 それは日本の、平和にしか見えない祖父と子の団欒の一幕であった。

 

 

 

 §

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 栗毛の少年から青年に移り変わるといった年頃の男が、息を切らしながら駆けている。身長は160半ば辺りであろうか。体格は、ひょろいと言われないぐらいの肉付きで日焼けした肌が健康的だった。

 

 その男――アンヘルは、オスゼリアス近郊に位置するダンジョン『ウルカヌ火山』でモンスター相手に決死の逃走劇を繰り広げていた。

 

 アンヘルの前方を、端正な顔つきをした赤毛の男――ホアンが走る。汗びっしょりでいつも見える余裕はない。

 

「はぁ、あ、アンヘルッ。どうするっ、迎え打つか」

 

 ふたりの後方には、燃えた鉄球が鎖でつながれた得物を持つ小鬼『レッドゴブリン』と赤い巨躯をもった大鬼『レッドオーガ』が群れをなして迫りくる。アンヘルたちとの距離は縮まるばかりだ。

 

 ダンジョン『ウルカヌ火山』の探索は困難を極める。

 

 モンスターが強い。少なくとも、『塔』などより遥かに強力なモンスターが出現する。

 地形が入り組んでいる。人工建造物がダンジョンになった『塔』と比べて、火山洞窟内を行く探索は生半な難易度ではない。

 

 しかし、『ウルカヌ火山』の探索難易度を著しく向上させている理由は他にある。

 

 気温。

 活火山であるこのダンジョンの気温は並大抵のものではなかった。

 

 人間は熱に弱い。人間の体温が38.5度に達すると、ほとんどの人間は疲労感を覚え、体内中のタンパク質が壊れ始める。さらに体温が上昇すれば、心臓や脳といった重要器官に重大な障害を残す危険もある。

 それを防ぐための体温調整システムとして人は汗をかくが、モンスターの攻撃に備えるための防具をふたりは着こんでいる。汗の蒸発による気化熱の影響はほとんど期待できない。

 

 早く休息を取る必要があった。

 体力と戦闘力の均衡が崩れる前に決断しなければならなかった。

 

 アンヘルは足を止めずに尋ねる。

 

「ホアンッ! ひとりで大鬼を抑えられるッ!?」

「わからないッ! なぜだ」

「ぼくが、小鬼を倒す。ホアンはなんとか大鬼を抑えてッ! 次の小道で戦えば、一度に相手をする敵を限定できるはずッ!!」

 

 前方に小道が見える。その中程でキュッと振り向いた。

 となりでホアンの掛け声と赤肌大鬼(レッドオーガ)の咆哮が轟く。

 

 その音と同時に腰の剣を引き抜き、正眼に構える。見据えるは三匹の赤肌小鬼(レッドゴブリン)だ。

 剣を構えれば疲れ切った身体の底に沈んだ熾火(おきび)へ風が送られ、エンジンを取り替えたみたいに活力が戻る。

 

 同時に三匹の小鬼の一体が燃えるモーニングスターを振りかぶり、突貫してくる。

 

 アンヘルは飛びのいて躱す。が、顔に掠り小さな傷を残した。

 続けざまに右と上から、小鬼が飛びかかってきた。

 

 上からの小鬼の攻撃は、必死で避ける。

 

 右からの攻撃は剣で防いだ。

 しかし、相手の攻撃は終わらない。

 

 防いだ剣に、鉄球と柄の間の鎖が巻きついた。アンヘルと小鬼の間で得物の引き合いが始まる。

 

 それを他のゴブリンは逃さない。

 早いもの勝ちと言わんばかりに競ってアンヘルに飛びかかる。

 

 アンヘルは剣を取り返すことを諦め、飛びのいた。

 剣を手に入れた小鬼は、ぽいっと投げ捨てる。

 

 ――くそっ、隙がない。

 

 達人でも複数人を相手取ることは簡単でない。数が増せば難易度は乗数的に上がるのだ。人型の多数戦をこなした経験が少ないアンヘルには、なかなかの試練だった。

 

 腰から鉈を引き抜き、水平に構える。狙いは頭部に防具をしていない左側の小鬼だ。

 

 受け身にまわれば、一瞬にしてやられると考えたアンヘルは歩幅の違いを生かして機動力勝負にでる。スピードで攪乱して、瞬間的に数的不利を解消するのだ。

 

 右に走りこみながら、急に左へ切り返す。

 油断した左側の小鬼が慌てて横殴りにモーニングスターを振るった。

 

 アンヘルは膝を抜いて、体勢を下げる。頭上を鉄球を通り過ぎた。

 右手に持った鉈を切り上げる。脇の下の装備が薄い部分を切り裂いた。

 

 小鬼が悲痛な叫び声を上げる。アンヘルは嗤いながら左手で頬を張って地面に倒す。

 

 そのままの勢いで走り抜け、後方に捨てられた剣を拾い上げる。

 第二ラウンドの始まりだ。

 

 小鬼たちは完全に目の色を変えて、隊列をなす。

 怪我をした小鬼が先頭となり、右後方にぎらついた瞳の小鬼、左後方に三人の中で最も立派な体格を持つ小鬼が移動した。

 

 野生は生き死にの判断が極めて冷徹だ。

 人間ならば怪我をした人間を先頭になどせず、怪我のないふたりがもうひとりを庇いながら戦闘を継続しただろう。しかし、野生に生きる小鬼達は違った。彼らは最悪の場合、怪我をした小鬼ごと敵対者を倒す覚悟なのだ。それを何の逡巡もなしに隊列を組んで見せた小鬼たちは、まさに野生の怪物であった。

 

 三匹の小鬼が塊となって突撃してきた。

 

 相手の思考が分かれば、それを逆手に取るだけだった。

 

 アンヘルは地面を蹴って空を駆ける。一匹目の小鬼の肩を踏みつけにして、後方の小鬼達の中央に躍り出る。

 そして、剣を回転しながら横薙ぎに振るった。

 

 アンヘルの研ぎ澄まされた銀線は二匹の小鬼の首筋を切り裂いた。

 首と胴体を切断され、血を滝のように噴き出した小鬼たちは地面に倒れ伏した。血の海からは足音がぴちゃぴちゃとなる。

 

 最後の一匹は、二匹が一瞬のうちに倒されたことにも恐れず、果敢に攻めかかってきた。

 

 モーニングスターを振りかぶり、振り下ろす。アンヘルはそれに対して剣で防いだ。

 

 モーニングスターの鎖が絡みつき、剣をからめとる。

 小鬼が薄汚く笑ったが、すぐに凍り付いた。

 

 アンヘルも笑ったのだ。

 

 想定通り、と剣を手放すと腰から鉈を引き抜き、脳天へ向け振り抜いた。

 横向きに振るわれた斬撃は頭蓋をパカっと切り開き、脳漿を飛び散らせた。

 

 アンヘルは周囲を見渡す。足元には三匹の小鬼が倒れ伏していた。

 

 ――相手が黒肌でぼくが白い服を着てたら、帝国の白い悪魔*って名乗ろうとおもったのに。

 

 ため息をひとつ吐くと、刹那的な戦闘思考が戻ってくる。

 

 まだ戦闘は終わっていない。

 ホアンは優勢に戦闘を進めながらも、決着は未だつかない。すぐさま援護に向かった。

 

 

 

「はぁ、はぁ。大鬼っ、つよいねぇ」

 

 アンヘルが地面に手をつきながら、息を整える。大鬼との戦いは激戦であった。

 

「と、塔とは、格がちがうッ。はぁ、というか段違いすぎるだろッ。なんで、こんなところの依頼受けてるんだッ! ちゃんと、調べたのかッ? ここの難易度ッ」

 

 ホアンが息を切らしながら尋ねる。ホアンの長剣は大鬼の脳天に突き刺さったままだ。

 アンヘルは心当たりがありすぎて、まともにホアンを見ることができない。

 

「えーと、それはぁ……」

「ほらみろ。絶対その反応、調べていないだろ。言ってみろ、なんでこのダンジョンを選んだのか」

「えぇー……」

 

 縮こまりながらも、アンヘルが依頼を受けたときの出来事をポツリポツリと告白した。

 

 

 

 §

 

 

 

 都市オスゼリアスは、帝国第二の人口を誇る帝国領元老院属州内最大規模の大都市である。人口は、都市部だけでも優に百万を越えて、周辺地域の村落を合わせれば二百万はくだらない帝国領土屈指の財が集まる都市であった。近隣に三日間馬で駆け続けても一周できないデンドロメード湖と湖から延びる運河がある、いわゆる「湖の都」である。

 北方を山脈、西方を湖と自然に守られたオスゼリアスは、長い帝国の歴史の中でも一度も敵国の侵入を許したことのない鋼鉄の都市である。さらに、元老院が総督を任命する権限を有する地域で、そのお膝元であるこの都市は統治が行き届いており、上級士官候補生を育成する士官学校と総督直属の治安維持機構であるバンレティア騎士団を有していることから秩序はそれなりに保たれていた。

 

 安全。

 それはこの世界に根差し始めたリバタリアニズム的価値観を有する商人達にとって、喉から手が出るほどの価値があった。

 

 現代社会では財産の所有権などもはや当然でなんの疑問も抱かないが、この世界には財産の所有権を認めるか否かという議論が支配階級の中で当たり前のようにあるのである。

 初期財産が適正な手段で得たものであり、そのあとで市場における交換か贈与が適正な手段によって財産を移譲させるかぎり、その財は所持者に権利がある。現代において、この理念*は至って当然の考え方ではあるが、この世界においてはまったく常道ではない。支配者が土地を統治している中での得た財産は、その所有者の努力の結晶ではなく、その環境が作りえた成果であるという考え方が主流なのだ。

 

 つまり、簡潔にいえば貴族の都合で市民の財産が取り上げられるのである。

 

 もちろん、支配階級の人間がむやみやたらに市民の財産を奪えば、労働意欲を奪い、結果的に得られる利益が減少する。それが極まれば衆人の恨みから反乱が発生し、支配階級の座を引きずり降ろされることになる。

 しかし、それは平時の話で、非常事態となれば話は違った。世評が悪徳に染まることを恐れて、喫緊(きっきん)の課題解決を先延ばしにするような輩のほうが、率先して悪事を働く者より遥かに有害である。

 

 つまり、この異郷の地においては、有事となれば貴族の都合で財が奪われうる危険性を常に孕んでいるのだ。

 

 ゆえに地理的、歴史的、政治的に安定しており、「安全」な都市であるこのオスゼリアスは商人たちの希望の都市といえた。

 

 無限と思えるほどに商人たちが集まってくる。湖から延びる運河のおかげで物資の輸送にも困らない。モノを運ぶ商人たちが大勢集まり、販路が整備されていれば、そこに生じる金は並大抵ではなかった。

 

 それに加えてもうひとつ。

 オスゼリアスの近郊には周囲に多数のダンジョンが存在した。

 

 それは、街道の治安を悪化させるため、オスゼリアス最大の欠点であった。一般人にはモンスターの脅威は大きすぎる。それをひっくり返したのは、隣国の魔法大国が開発した魔道具作成技術の登場であった。

 魔道具の祖であるアルント伯は、モンスターの体内で生成される魔石の魔力貯蓄機能に着目し、実用に耐え得る魔法技術の恩恵を世間一般に与えたのである。その技術は市民に絶大な力と財を与えた。脆弱な力、そして貧しい頭脳しか持たない賤民に、生きるための力と知恵を与えたのである。

 

 オスゼリアス周囲のダンジョンは憎むべき敵から一夜にして宝の山に変化した。

 

 そうなると魔道具技師と魔石を集める探索者。そして、探索者の為の武器・防具を扱う商店、怪我を治療するための病院や巨大な娼館を経営する為の人材が山のように集った。

 オスゼリアスにいけば、とりあえず探索者・職人・娼婦・商人など何らかの職にありつける。それが帝国東部の常識である。

 

 しかし、それは探索者志望の教養のない農民やならず者が無限に集うことも意味していた。

 必然、そのならず者たちを管理する機関が設置されるのは当然の成り行きだった。

 

 探索者相互扶助帝国認可協同組合。通称、探索者組合(ギルド)。セグーラの街にあった探索者を束ねる民間組織とは異なり、国家直属の協同組合である。

 

 アンヘルはその探索者組合(ギルド)総本部を訪れていた。

 

 本部内は整理整頓されており、白色に光る魔導灯が室内の清潔感を促進させていた。受付には驚くような美人を多数配置しており、その奥には着飾った衣装の責任者が何人か見える。探索者たちは、設置されている掲示板や椅子にまばらに集っていた。セグーラの町のように酒場を兼用としていないのか、美人の受付を除けば市役所と変わらない雰囲気だった。

 

 ――探索者が酒を呑んでるのを想像してたんだけど、あんまりギルド感ないなぁ……。

 

 探索者たちは、入ってきたアンヘルを一瞥するとすぐに視線を切った。興味がないという反応である。

 

 アンヘルは困りきった。組合は探索者たちに話を聞けるような雰囲気ではない。どこの探索者も内輪らしき少人数で集まっており、各々の集団は疎外感を露わにしていた。

 

 一応、組合内には多数の表示板の役目を果たすと思われる張り紙があったが、まるで無意味だった。なにを隠そう、アンヘルは文字が読めないのである。

 学生の例に違わず、アンヘルは勉強が好きではない。現代人として識字の重要性を理解していないわけではなかったが、実際に文字を学ぶことは避けてきた。探索者の仕事で、識字の必要性が薄かったのだ。

 

 受付嬢の待つテーブルの上に文字の書かれたプレートが置かれており、各テーブルで役割が別れていると容易に察せられるが、どれが何を表しているかがまったくわからない。

 こうなると、勘で行くしかないがアンヘルには嫌な思い出が思い浮かぶ。

 

 ――口入れ屋でいきなり殴られたんだよなぁ……。

 

 探索者にとってメンツとは何よりも重要である。探索者は純然たる実力主義であるが、その実力主義とは強さや装備の充実度ではなく、名声の高さのことであった。

 探索者の能力を一律に評価することは難しい。得意とする環境、所持する技能、チームの人数そしてその人物の人間性までを加味して評価しなければならない。詳細に仕事ぶりがわかる現代ですら正当な能力評価は行えないのだ。姿も形も見えない場所で活動する探索者を、正当に評価することなどまったくもって不可能だった。

 しかし、口コミから昇華した名声は嘘を付かない。例外がまったくないとは言えないが、高名なものが名前すら知られていないものに劣ることなど探索者界隈では殆どないといっていい。ミスが死に直結する世界である。戦力分析はどんなものよりもシビアであった。

 

 つまり、探索者は強くて物知りである必要がある。少なくと、そう見せかける必要があるのだ。

 そうしなければ同業者に舐められ、喰い物にされることをアンヘルは数か月にわたる経験から理解していた。

 

 ――新人なら、端のはず……。つまり右端か左端だ!

 

 右端の受付嬢を見る。金髪、妙齢の肉感的な美女がきりっとした姿勢で待機している。そちら比べれば、左端の受付嬢はガキだった。不細工では決してなく、快活な印象を与えるすらっとした美少女だったが、人気投票を行えばどちらに軍配が上がるかは明白であった。主に「胴体の一部分」の差で。

 

 ――男は度胸。新人はランクの低いほう。つまり、左だぁあああ!

 

 ここまでの組合に入ってから決断するまでの時間は一瞬のことであった。アンヘルも世間ずれしたものである。

 

 受付嬢は退屈そうに頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。並んでいる受付嬢の中でも際立った態度であった。

 

「あのー、すみません」

「んんっ? あぁ、ごめんなさいっ! 新人さんですか? それとも、依頼の方ですか?」

 

 その受付の少女は、今気づいたとばかりに机から肘を下ろし、アンヘルに向き直った。

 

「ええっと、新人、なんですけど……」

「新人さんですねっ! えっと、団体さんですか? それとも、個人でっ?」

「えー、団体になるのかな……。ふたりなんですけど」

「はいっ! 団体さんですねっ! この用紙に記入をお願いしますっ」

 

 少女は蛇がのたうち回ったような文字が書かれた書類を机に取り出す。そして、羽ペンをアンヘルに手渡そうとした。

 

「……すみません。文字、書けなくて」

「……へー、そうなんですか。じゃあ、私が書きますね」

 

 アンヘルは、笑顔が輝く少女の声がワントーン下がったような気になる。

 

 ――そんなに不味いこと言ったかな? 文字を知らない人なんて結構いると思うんだけど……。

 

 受付嬢は何事も無かったように記入に必要な情報を訊きだし、用紙に書き込んでゆく。

 アンヘルが気のせいか、とかぶりをふった時だった。受付嬢が羽根ペンを机におき、両手を胸の前でパンと合わせた。

 

「はいっ、おわりましたっ! あとは登録費5コインを払えばすべて完了ですよ。おめでとうございますっ! これであなたも立派な公認探索者ですねっ! よっ、やりますなっ! それで、ここだけの話なんですが、前途有望な探索者さんに耳寄り情報があるんですよっ! 聞きたい? 聞きたいですかっ!?」

 

 少女がガバッと身を乗り出す。

 

「ぁー、うん。ききたい、かな?」

「そうですよね、そうですよね! でもー、どうしよっかなぁーなんて」

「ええっと、無理なら全然いいん――」

「いやー、そこまで言われると私としても困っちゃいますね! とくべつっ! ゆうぼう、なあなただけに特別ですよっ! 特別ですっ!!」

「あぁ、うん、ありがと――」

 

 アンヘルは戸惑ったまま返事をしようとするが、途中で遮られた。

 

「なな、なんと。いまは新人応援キャンペーンで『ウルカヌ火山』の魔石報酬が1.5倍っ! 1.5倍ですよっ!! 信じられますかっ。さらに、さらにー、それだけじゃあありませんっ。依頼の報酬も1.5倍なんですっ。これも、これも、あなたみたいな有望な新人さんを応援するためなんですよー。ほら、絶対受けないと損ですよっ。ソン! ささ、依頼を選んで選んで」

「えー、そこまでいうなら、そうしよう、かな?」

「さすが、有望な探索者さまですぅ。はーい、決まりでーす。ささ、お好きな依頼をっ」

 

 少女は数枚の紙を机の上に置いた。依頼書には蛇のような文字が書かれている。

 

 そんなこんなでアンヘルは少女に収集依頼を受けさせられた。

 失敗時の違約金設定と共に。

 

 

 

 §

 

 

 

「……ってそれ、完全に新人潰しだろ」

「新人潰し? 受付が?」

 

 アンヘルは剣についている血糊を反故紙(ほごがみ)で拭いながら尋ねる。

 

「アンヘルは新人潰しってのをどういうふうに思っているんだ」

「えーと、先輩探索者が新人の探索者を潰すってことじゃないの?」

「いや、違うな」

 

 ホアンは剣術を教えるときのようなしたり顔になった。

 

「じゃあ、どういうことなの?」

「勿論、組合の人間が手を出してくるんだ。当たり前の話だが、先輩の探索者が新人を潰してもいいことなんてない。街の近くで襲ったんじゃ罪になるかもしれないし、ダンジョンの中まで追いかければ時間もかかる。新人は高価なものなんて持っていないし、人間なんだ。どんな手を使うかわからないうえ、ひとりでも逃がせば悪行を暴露される。脅したりなんかはありそうなものだが、将来的にそいつが強くなれば困るしな。わかるだろ、メリットがなさすぎるんだ」

 

 ホアンの口ぶりが知らないのかという叱責の形をとる。

 

「でも、組合の人の方がメリットは少ないと思うけど? わざわざ加入した人を叩くなんて」

「それがそうでもない。組合の人間が恐れているのは信用を失うことだ。ここでの信用は探索者からの信用じゃなくて、依頼者からの信頼だ。つまり、使えなさそうな新人や反抗的な新人に対して嫌な依頼を押し付けたり、先輩探索者に依頼してお灸をすえたりするんだ。当然、国公認の組合に反逆するような奴はいないだろうしな。新人にとっては、まさに無抵抗に叩かれ矯正されるかやめるかってなわけだ。これは、セグーラの町でもあったことだぞ」

 

 その言葉でアンヘルはその時の様子をおもいだした。

 

「……じゃあ、ぼくは初対面で無能と見抜かれて、嫌な依頼を押し付けられたってこと? 本当にそうだったら、もう組合に行きたくないんだけど」

「そう、そこなんだよな。いくら新人とはいえ、一度も仕事ぶりを見ないままブラックリストに載るなんてありえない。なぁ、アンヘル。もしかして、なにか恨みでもかったんじゃないか?」

「恨み? でもこの街に入ってから時間もそんなに経っていないし、組合でもその受付の人としか喋ってないんだよなぁ。文字が読めなかったくらいで……」

 

 そうやって、アンヘルはあの時の記憶を引っ張り出す。

 問題となりそうなところは、文字が読めないと告白したときの態度の変化ぐらいだった。

 

 ――もしかして、新人探索者を担当しているのが誰か容姿で判断したと思われたから? 流石に穿(うがち)ちすぎかなぁ?

 

「そうか、アンヘルは文字が読めないんだったな。そうは見えないから忘れていた。とはいえ、それだけでこんな依頼を振られるとは思わないんだが? このウルカヌ火山は環境が悪すぎる。どれだけ実力があっても、わざわざこんなところを仕事先には選ばないだろう。覚えていないだけで、なにかやらかしたんじゃないか?」

 

 アンヘルは脳裏に浮かんだ情報を整理した。

 

「うーん、心当たりがないなぁ」

「そうか、ならそうなのかもな。よし、この分じゃ失敗時の違約金も高く設定されてそうだ。アンヘルは字が読めないんだからな。……冷静に考えると、かなり不味くないか? 文字が読めないって。勉強したほうがいいぞ」

「そういわれると、困るんだけど……」

 

 そういうと、ホアンはこの話は終わりとばかりに手をふった。

 

「まあいい。とりあえず、依頼を解決することが先決だ。依頼はなんだった?」

「ええっと、『デカホノりん』の風切羽(かぜきりばね)だって」

 

 アンヘルは、受付嬢から『デカホノりん』の横についている羽根を回収するようにと指示を受けていた。

 

「『デカホノりん』か……。名前だけ聞くと、あまり強そうじゃないんだが」

「ちょっと大きい『ホノりん』って感じかなぁ」

「それだけだといいんだがな」

 

 火山奥部から熱風が沸き起こり、炎が迫りくる幻覚に陥る。

 汗が滝のように流れ落ち、汗を吸った衣類が肌に張り付いた。

 

 ダンジョン『ウルカヌ火山』は、『塔』などとは比較にならないほど巨大で長大だ。長い時間歩き続けているが、迷宮内の風景は一切変化がない。

 それでも、踏ん張りながら数刻歩き続けたときであった。

 

 アンヘル達の前方に、黄色の翼と尻尾を生やした赤色のモンスターが移動しているのが見えた。

 ふたりはサッと岩陰に隠れ、様子を伺う。

 

「おい、アンヘル。あれだろ、『デカホノりん』。倍くらいの大きさだが、あまり強敵にはみえないな……」

「確かに、大鬼なんかよりずっと楽に見えるけど。どうかな?」

「やるしかない。せーので行くぞ。いいなッ!」

「うんっ」

 

 ふたりは息を合わせて飛び出すと、狭い洞窟内を疾駆する。

 モンスターとの間合いが、剣の届く距離まで縮まった瞬間だった。

 

 相手はふたりに振り向き、大口を開けた。

 モンスターの口から火炎が吐き出される。蜷局をまく火炎は天井まで立ち昇り、ふたりに迫りくる。

 

「ッよけろ!!」

 

 ホアンがアンヘルを突き飛ばしながら、突き飛ばした反動で飛びのく。ふたりの間を炎を竜巻が通過した。

 地面にはまるで竜が移動したようなな破壊痕と融解した溶岩が残る。

 

「じ、じょうだんでしょ……」

 

 アンヘルは倒れながら、モンスターが引き起こした破壊の痕を眺める。可愛げな容姿から繰り出された炎の火力は常軌を逸しており、その破壊力に度肝を抜かれた。

 

 ――当たったら、怪我なんかじゃ済まないっ。

 

 剣を支えにして立ち上がる。足が震えた。

 そんなアンヘルの視界に最悪なモノが映った。

 

 岩陰からひょこひょこと『デカホノりん』が二体出現する。アンヘル達は、強大な威力の遠距離攻撃を可能としているモンスターを複数相手にしなければならないのだ。

 

 ぶわっと汗が湧き出す。

 

「おいおい、嘘だろ」

 

 ホアンも呆然とした表情で呟いた。

 

 過去最大の試練である。アンヘルも悲痛な覚悟を決めた瞬間であった。

 

【大火球】(ファイアーボール)

 

 凛とした高い硬質な声と共に、砲丸のような速度で真っ赤な燃える玉がアンヘル達の後方からモンスターたちに向かって襲来する。

 

 轟音。

 世界を割ったような破壊音とともに、モンスターが火の海に包まれる。

 モンスターの悲鳴が響き渡った。

 燃焼の効果に頼らずとも、モンスターは炭化しており、生存の見込みは一切ない。

 

 アンヘルたちは驚いて、すぐさま後ろに振り返る。そこには、壮麗な装備の4人組の姿があった。

 彼らは皆、戦闘慣れしているのかこの最悪たる環境の中にあっても悠然と佇立していた。

 

 アンヘルが生き残ったとため息を吐き、礼を述べようと足を向ける。

 

 すると、その中の中心にいた人物が歩み出て、フードをおろした。

 

「入らぬ心配かとも思いましたが、苦戦されているご様子でしたので、ご助力させていただきました」

 

 落ち着いていながらも、まるで鈴の音のような優しい声で女は話す。

 

 深緑の長い髪と切れ長の目。整い過ぎた目立ちが冷え冷えとした印象を与える。幾らか冷ややかな輪郭の中に柔らかい肉感を閉じ込めているというような、いわゆる近づき難い高雅な美貌。ロイヤル・ブルーの瞳に秘められた強い光が、人心を惑わす魅力を放っていた。

 天に作られた宝石。まさにその言葉を体現した美貌をもつ少女だった。

 

 アンヘルはその少女に、情欲や憧憬ではなく、恐怖を抱いた。それは、記憶が呼び起こした抑えようのない恐怖だった。

 

 慌てて視線を下げ、武器を下ろして、直立不動に起立する。アンヘルの顔には卑屈な笑みが浮かんだ。

 ホアンはいつもと様子の違うアンヘルを不審に思いながら、武器を腰に戻した。

 

「いや、正直助かった。かなりギリギリだったんだ」

 

 そう答えたホアンの声は上ずっていた。美貌の少女を見て舞い上がっているのだろう。アンヘルはそんな彼を殴り飛ばしてやりたい気分になる。

 

 ――彼女は貴族だ。これ以上、無礼なことはしないでよ!!

 

 貴族。

 帝国の重臣であり、特権を備えた名誉や称号を持つ。それゆえに他の社会階級の人々と明確に区別された支配階級の住人である。

 しかし、その他の階級の人間と明確に異なるのは、ある技能一点に集約された。魔法使用の有無である。

 

 人間誰しも魔法を扱う素養を持つが、実用段階にまでこぎつけるには、血の滲む努力ではなく、圧倒的な才能とも呼べる尊き血統が必要であった。魔法技能は明確に遺伝するのである。三元素のスピリットを使役する範囲魔法と自身の才覚により放たれる二極の魔法は、魔道具による対策がなければ一瞬で戦争の勝敗をつける戦略兵器とも言えるべき威力を誇っている。突然変異の例外をのぞけば、魔法使いはすなわち貴族なのだ。

 

 炎属性の『デカホノりん』を火属性の魔法でいともたやすく屠った彼女は、貴族に違いないのである。それだけではなく、格好や所作をみれば彼女が高貴な存在であることは容易に想像がつくはずだった。

 

 アンヘルはホアンの能天気な返事にむかついて仕方なかった。

 

 後ろの人間のひとりが武器に手をかけたのが目に入る。心臓の鼓動がドクンと早まった。

 死を覚悟した瞬間だった。

 

「そうですか。では、私たちはこれで。……不躾かも知れませんが、あなた方の実力ではこのダンジョンは厳しいように思われます。もう一度、探索内容をご再考なさってみては?」

 

 そういうと、少女は笑顔を浮かべながら別れを告げる。クルッと(きびす)を返すと、仲間を連れて去っていった。

 

 彼らが角を曲がって見えなくなるまで、アンヘルは直立不動で見送り続けた。

 

 彼らが完全に視界から消えると、へなへなと力が抜けた。地面に座り込む。

 ホアンは興奮しているのか、顔が赤い。

 

「アンヘルッ! さっきのひと、とてつもない美人だったなッ!! あそこまでのは、見たことがない。女神か天使かッ、神聖さすら感じられた。ナタリアも器量よしだったが、まさに月とスッポンだ。うん? どうした、アンヘル」

「……今の人、ぜったい貴族だよ。ホアン」

「げッ! ほ、本当か。いや、魔法が使えるんだ。それは、そうか。……不味いな、完全に探索者に話しかけるのと同じ要領で話してしまった」

 

 アンヘルは呆れてものが言えなくなった。ホアンの愚行のせいで確実に寿命が縮んでいた。

 

「けど、彼女が貴族だなんて驚きだ。俺たちを助け、無礼を働いても何も言わず去っていくうえ、助言まで残すだなんて。慈愛の心に溢れているというべきか……。貴族なんていけ好かない奴らばかりだと思っていたが、立派な人もいるんだな。見方が変ったよ」

 

 ――いや、それはちがうよ。

 

 アンヘルは、心の中でホアンに対して反論した。

 

 柔和な笑顔も、優しい声色も、すべてが対等ではないから生まれるのだ。

 彼女の優しさは、ひとえに庇護するものに対する優しさだ。劣った、保護するべきペットに対して慈愛を見せたに過ぎない。それは、人間に対する対等な優しさではないのだ。

 

 その証拠に、彼女が創りだした奇妙な存在感はアンヘルたちの意見を圧殺し、対話することを拒絶していた。

 

 つまり、彼女は保護すべき対象である下級民に慈愛を見せただけであり、人間に優しいかどうかはまったく別の話なのである。

 

 アンヘルには、それに覚えがあった。

 慈愛に満ち、聡明で、威厳がある。人をひきつける要素をこれほどかと持ちながらも、瞳に宿る光だけはとてつもなく暗い。

 

 アンヘルの大嫌いな政治家の祖父と同じ、人を支配する為政者の在り方だった。

 

 

 

 




*帝国の白い悪魔:ジェットストーリーなアタックを撃ち破ったから

*理念:理由は作中とは違いますが、現代でも当たり前に認められているわけではありません。


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第二話:デーモンハント 上

「えぇー、すごいですぅ。まさか、ホントに達成できちゃうなんてっ! テリュス、驚きっていいますかー。まさか、アンヘルさんが――いえいえ、信じていましたよっ! アンヘルさんはすごい探索者さんですからねっ! よっ! さすがですぅ! 未来の英雄さまぁー」

「……」

「あれあれ、信じていませんねっ? やだなー、ちょっとした乙女のいたずらですよっ。い、た、ず、ら!!」

 

 探索者組合の新人担当のひとりにして、アンヘルとホアンに高難易度の依頼を押し付けた少女――テリュスはキャピっという音がふさわしいほどの媚びた態度をとり、アンヘルの機嫌を伺っていた。栗色の髪が目立つ彼女の額からはだらだらと汗が流れていた。

 

 アンヘルは誘惑から流されそうになるも、ジトっとした目を保ち続ける。ここで大事なのは怒ってはいけないということだ。いくら相手が悪かろうとも、組合内で問題を起せば、どれほどのデメリットを受けるか分かったものではないからだ。しかし、コミュニケーションの延長として文句をつけておくことは重要であった。

 強く言えないアンヘルの言い訳でもあったが。

 

「もう、そんな顔しないでくださいよぉー。ほら、笑って笑ってっ。ねっ! ほら、あれですっ。報酬もちゃんと1.5倍にしてますしぃ! なにか、文句ありますかっ!」

 

 テリュスは腰に手を当てながら、ぷんぷんと逆ギレを始める。相手側も事を収めるのになりふり構わなくなってきていた。新人潰しの相手が平然と帰ってきたというのは、受付嬢にとっても良いことではない。能力のある探索者から確実に恨みをかっているのだ。組合からの報復と自らの恨みを天秤にかけて、自分を優先するものがいないとも限らない。それでも、こうやって強気に出られるのはテリュス自身の生来のものと、アンヘルの男らしくない容貌が問題だった。

 

 ――ここらへんが、落としどころなのかなぁ……。

 

 アンヘルは肩を落としながらため息をひとつ吐くと、頭をボリボリと掻いた。

 

 報酬はコイン70枚。『塔』で討伐したゴーレムを上回る額だ。さすがは大都市オスゼリアスといったところであろう。難易度も報酬も桁違いであった。

 

「もう少し、羽根が焦げていなければよかったんですけどねー。それでもっ、あんまり値段を引かれなかったのは、この私の努力のおかげですよっ!!」

 

 少女はそう言いながら胸を張った。どこまでも厚顔無恥な少女である。

 

「あー、うん。その、ありがとう」

「そうです、そうです。ほらほら、もっと、感謝してください」

「いや、そこまでは――」

「んん? なにか、文句でもっ?」

「……いえ、ありません」

 

 ――怒るの、僕だと思うんだけどなぁ……。

 

 少女の持つ雰囲気はまるで台風で、人を巻き込む活力があった。。それでいて、誰からも恨みをかわないというのは一種の怪物であった。その証明として、たむろしている探索者の中に熱っぽい目をしているものが幾人もいた。

 

 ――もう帰ろう。これだけ報酬があれば、受験ストレスで参ってるホアンにいいものを買えるしね。

 

 コイン70枚とは、一般家庭が一年間切り詰めればなんとか暮らしていける額である。それほどの額を、一夜にして稼いだのだ。それはアンヘルが今まで稼いだ収入の半分を優に越える。死にかけたとはいえ、メリットがなかったとは言い切れないのだ。

 

 アンヘルが金を受け取って、その場を辞そうとしたときに、テリュスが声をかけてきた。

 

「ああ、ちょっと待ってくださいっ! そのっ、今回のお詫びって訳じゃないんですが、今度は割のいい依頼を用意しておきましたよっ! ほら、これですぅ!」

「……また、人気のない依頼なんじゃないですか」

 

 アンヘルの重たい目がテリュスを貫いた。

 

「いえいえ、そんなことは――まぁ、あったんですが、あんまりにも事件が解決しないってことで組合も力を入れだしまして。個人からの依頼が、まさかの公共任務ですっ! 心配なんて、いりませんよっ!」

 

 その言葉で、アンヘルの背筋が寒くなった。公共任務とは、所謂公務では処理しきれなかった役所の仕事が下りてきたもののことである。当然、難易度は民間由来のものに比べてはるかに高かった。

 

「それだと、とてつもなく難しいってことじゃ?」

「いえいえ、まさかぁー。まあ、難易度が高いのは否定しませんがっ、危険度は低いはずですぅ。なんたって、街の中の依頼ですからっ。心配なんて、なぁんにもいりませんっ!!」

「街の中?」

 

 探索者に対する依頼のほとんどは、その名前のとおりダンジョンに関するものばかりである。街の中で必要な警護依頼などは傭兵団が請け負うことになっている。探索者は破落戸(ならずもの)の集まりであると認識されており、街の中では大した仕事があるはずもなかった。

 

「そうです、そうですっ。最近街へ来たあなたにピッタリですよねっ! そのうえ、そのうえ解決出来なくても、情報を集めればちゃぁんと報酬が出ますよぅ。ああ、こんな依頼を持ってくるだなんて、私ったらなんて優しいんでしょうかっ! んん、その目はなんですかっ! その目は。怒っちゃいますよっ。ぷんぷん」

 

 そう言いながら、机の中から用紙を取り出した。

 

 ――自分でぷんぷんっていっちゃったよ。この子。

 

「ま、それはそれとしまして、依頼の内容なんですが――」

 

 アンヘルは相手側の勢いに押されて、結局、依頼を受けるはめになったのだった。

 

 

 

 §

 

 

 

 貧民街(トゥゴリオス*)の獣。

 

 都市オスゼリアスの北部に位置する貧民街で、男8人、女5人を殺害した冷酷な殺人犯の異名である。その手口は極めて残酷で、男は胴体をまるで食われたかと思われるほど鋭利な刃物で執拗に切り裂かれており、女は情事の最中にでも絞め殺されたと言わんばかりに乱暴された状態で発見された。

 

 この事態を重く見たバレンティア治安維持騎士団の団長は、慣例に逆らって貧民街の調査に乗り出したのである。騎士団の団長は貴族家出身でありながら、探索者として過ごした経験を持ち、義に厚いという評判を得ていたのだ。

 

 しかし、騎士団の殺人鬼狩りは難航した。騎士団が調査に乗り出すと、殺人鬼はピタッとその悪逆をやめたのである。そして、決まって騎士団が調査を諦めた夜に狩りを行い、犠牲者の数を増やした。

 

 この冷酷無比な殺人犯は、一見ただの異常者であるように見せかけて、実に知能犯的側面を持ち合わせていたのだ。

 

 騎士団団長は、夜半警護を強化すればすぐに犯行者が見つかると考えたのが間違いであった。そもそも、このバレンティア騎士団は治安維持の為の実行部隊および抑止力的側面を強く持ち、発生してしまった事件に対する被疑者の特定は騎士団の一部である憲兵部門専門なのである。その専門家たちは、常日頃から貧民街以外の市街地における調査に忙しく、獣の調査に乗り出すことができなかったのだ。

 

 捜査を遅らせたのが貧民街の性質であった。貧民街はその名のとおり貧民たちの町ではあるが、貧民のみが暮らしているわけではないのである。表を堂々と歩けないような脛に傷を持つ人物が貧民街には幾人もおり、そのような人間は決まって影響力を持っていたのだ。住民の上層部に探られれば困る人物で占められているならば、必然、協力する者は減った。

 

 そもそも、貧しい者は富める者を妬むものである。実力主義社会にして市場主義社会が格差を造り出すのが必然であるならば、貧者と富者の間に確執が生まれるのもまた必然であった。貧者である貧民街の住人が、それぞれ理由を作り、調査に乗り出した騎士団に対して十分な情報提供を行わなかった。

 

 そのような経緯で、お鉢が廻ってきたのが探索者であるアンヘルだった。社会的立場を持たない人間で十分な戦闘能力を持つと考えられたからであった。

 

「それで、これが一番新しい被害者なんですか?」

 

 アンヘルは、依頼のとりまとめを行う中男に尋ねた。

 

「ああ、飲んだくれのバーンだ。わりぃ奴じゃ、ねえのによ……」

 

 そういって、死体に被せられた布を除く。死体の胴体はまるで掘り起こされたように損壊させられており、空いた穴からは白いものが幾つも見える。死体の表情は苦悶で歪んでおり、生きている間に解体されたようなおどろおどろしい表情だった。

 

 アンヘルは死体を見て、ウッとえづいた。

 それを見て、後ろで腕を組んでいた男が見下したような声を出した。

 

「こいつで14人目だ。ハッ、なんだよこれはよ。俺たちゃいつまで、怯えて暮らしてりゃいいんだ。騎士団の連中は何の役にも立たないどころか、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して消えやがった。そのうえ、代わりとして寄こされたのがこんなガキたぁ、終わってんぜ」

「おい、よしやがれッ!」

 

 文句を垂れる若い男――地回り*のバルドは、死体とアンヘルを憎めしげに睨んでいる。

 

「まあ、こういうことだからよ。なんとか頼むぜぇ。探索者さんよ。聞きたいことなら、今のうちに聞いておいてくれ」

 

 そういうと中男は布を被せると、目を閉じて祈りをサッと捧げた。男は典型的なミスラス教徒のようで、首からは木彫りの十字架がかかっていた。

 バルドはそれを見届けずに、石ころを蹴とばしながら去っていった。

 

「あの、それじゃあ、これまでに殺された人の特徴とその場所を教えて頂けませんか? できるだけ詳しく」

「あぁ、べつにいいけどよ。1人目の男が見つかったのは、3か月くらい前だったかな。水路の近くに打ち捨てられてたよ。仕事はとくにねぇ、若造どもから金をせびるよな、いわゆる小悪党ってやつだよ。そのあとは、そうさなぁ。男は一週間にひとりって感覚でよぉ、殺されていったな。みんな、共通点なんざねぇぜ。娼館の下男だったり、チンピラだったり、乞食だったりよ。若かったり、年食ってたりよ。あぁ、けど。親とか子供だとかよ。家族がいねぇ奴だったけどな。まぁ、貧民街に家族がいる奴なんざ、そんないねぇがよ」

 

 中年の男はよどみなくすらすらと答えた。騎士団にも幾度となくこの話を聞かれたのであろう。

 

「女性のほうはどうなんですか?」

「女かぁ。女もそんなに共通点なんざねぇが、大抵美人だったなぁ。あとは、期間も一定じゃあねぇな。三週間ぐらい何もない時もあれば、一日と空けずに殺されたりしてやがる。……なぁ、今回の事件だがよ。おれは、男の殺人犯と女の殺人犯は別なんじゃあねぇかって思ってるんだがよ。こんだけ違うんだしよ。実際、これが同じ犯人だと思ってやがんのは、騎士団の連中だけさぁ。ここにいる奴らは、みんな別だと思ってやがる。だから、あんたもそう思って調べたほうがいいぜ」

 

 アンヘルは日本語でメモを取る。その姿は、さながら探偵であった。

 

「……ありがとうございます。これから、ぼくは現場を見にいきます。また何かあれば、伺います」

 

 そう言って頭を下げる。 

 

「ああ、俺はたいてぇ家にいる。用があったら、そこまできてくれや」

 

 そういいながら、中年の男は去っていった。

 

 ここから、アンヘルの殺人鬼探しが始まった。

 

 

 

 が、その調査は一瞬で座礁に乗り上げた。

 

 とりあえずアンヘルは殺人現場をひとつひとつ見て回り、周囲の人間からも情報収集を行ったが、なんの成果も上がらなかった。完全にお手上げ状態である。

 

 それは、ひとえに殺人に対する関心の薄さにあった。この貧民街の住人にとって、人が死ぬことなど日常茶飯事なのである。もちろん、このような残虐な方法かつ連続的に殺人が行われるのは珍しいが、飢え死にしたり、病で倒れ死んでいくのは珍しくない。

 

 そうなると、当然、死体に関心が薄くなるのは必然だった。

 

 現場はまったく保存されていない。死体の第一発見者もわからない。なんなら死体から財布などを盗んでいった奴もいれば、死体を食糧とみなした野犬が食らっていることもあるのだ。

 

 これで犯人が特定できるのならば、そいつは頭脳が大人な超小学生を遥かに越えて、エスパーの域にあった。

 

 アンヘルが足で稼いだ情報は、死んだ場所の景色と貧民街の土地勘だけである。

 

 ――そもそも、ぼく、探偵ってあんまり好きじゃないしなぁー。はぁ、もっと探偵漫画を読んでおくんだった。

 

 アンヘルは親と違って、探偵ものの物語がまったくもって好きではなかった*。両親は、じっちゃんの名にかける系探偵や幼馴染恋愛探偵が大好物で、年に似合わず全巻をそろえていた。

 

 なぜ好きではなかったかと問われると、なによりもその主人公たちの行動理念を理解することができなかったの一言に尽きた。つまり、なぜ彼らは事件が発生すると先陣をきって事件解決を目指すのかが理解できなかったのである。

 

 クローズドサークル、密室殺人。どんな状況であったとしても、全員で固まって行動して危険な状況を乗り切り、事件解決は警察が来るのを待てばいい。仮に警察が解決できなかったとしても知らないところで殺人犯が野放しになるだけで、不用意な行動から自身に悪影響が及ぶ可能性に比べれば大したことではない。それは、旅行のたび事件に遭遇する死神達への強烈な批判であった。

 

(ただ、そんなことを言っていると、どうしても解決しなきゃならない事態に遭遇することもあるんだよなぁ。本当にどうしよう。受付は情報を取りまとめて、報告するだけでもいいから気楽にやってほしいってことだったけど。難易度高すぎでしょ、これじゃ。今のところ役に立つ情報は、みんな知っていることだけだしなぁ)

 

 アンヘルは空を仰ぐ。完全に手詰まりだった。

 

 とはいえ、致し方ないことでもあった。アンヘルが多少なりとも事件の対処法を知っていたのだとしても、隠された真実を見つけられるはずがない。一応なりとも、捜査のプロである騎士団が人海戦術を駆使して捜査したのである。驚くような新事実がすぐに見つかるわけではなかった。

 

 そして何よりも、アンヘルは本質的にバカなのである。現代知識を持っていようが、高度な教育を受けていようが、その性質は頭脳労働よりも肉体労働に向いていたのだ。

 何かを計画したり、隠された情報を探し当てたりするのにはまるで向いておらず、与えられた情報から感覚でいい結果を選び抜く。そのような直感に優れていた。だからこそ、探索者としてこれまで生き抜いて来られたのだ。アンヘルの能力は、意外にも現代よりこの世界に適していたのであった。

 

 アンヘルは完全に諦めの心境で、調査を放りだし、商業区の人気店で昼食をとった。

 

 その足取りは重く、その向きも貧民街から真逆の広場に向かっていた。

 

 ――ここから、どうしようかなぁ?

 

 商業区にある広場は広大で、多数の行商人たちが露店を出している。ガヤガヤと雑然とした人ごみの中を通り抜けながら、興味が引かれそうなものを物色した。

 

 オスゼリアスは歴史が古く、その街の建造物の歴史もまた古い。それでいながら、広場から見えるレンガ造りの家屋やモニュメントと活気のある商人や買い物客の姿は絶妙にマッチしており、街全体を古臭さではなく歴史の荘厳さで表現していた。

 

 物珍しそうに周囲をキョロキョロとしていたアンヘルは、広場の中央にある噴水の前で絵を描く男を見つけた。その下には、顔と文字の描かれた看板が置いてあった。つまり、似顔絵師であった。

 

 客はおらず、男はひたすら広場から見える風景を描いていた。アンヘルは無意識に足が動きだす。中学時代から、絵――とくに水彩画が好きだったのである。

 

 男に近づいて、声をかける。そのとき横から声がかかった。

 

「――あの、あなたも似顔絵に興味があるの?」

「えッ、あ、うん」

「へぇ、珍しいね。あなたって、たぶん探索者さんでしょ。そんな格好してるし。そんな人が似顔絵なんて、なんか笑っちゃう」

 

 そういって、少女はクスクス笑い出した。

 少女は茶髪を肩まで伸ばしており、その瞳と合わせて活発な印象を与える。その幼い相貌は、整えられたパーツが綺麗に並んでおり、誰が見ても活発な少女と表するであろう。しかし、彼女の着ていた純白のワンピースがちぐはぐな印象を与えていた。

 

「でも、困ったなぁ。わたしも似顔絵描いて欲しいんだよねっ。ねぇ、じゃあこうしない? じゃんけんで負けたほうが、後にするってことで」

 

 少女はアンヘルの返答も聞かず右手をだした。

 

「……ううん、べつにいいよ。そっちが先で」

「だめだよ。こういうのは、平等にしないと! よし、じゃんけんするよ、じゃんけん。はい、手をだして。じゃんけんぽんで行くよ、ポンで!」

 

 少女は右手をパーの形にしたりチョキの形にして快活に笑う。

 アンヘルはどうにも戸惑ってしまった。

 

「……ええっと」

「おーい。そこのお二人さん。なんなら一緒に描いてやろうか。もちろん、値段はふたりからいただくが」

 

 絵描きの男が見かねて声をかけてきた。その声には、多分に客を逃してたまるかという必死さが見えていた。

 

「ねぇ、そうしようよ!! 袖振り合うも多生の縁っていうでしょ。わたし、マカレナ。そっちは?」

「ええっと、アンヘルだけど……」

「うん、アンヘルね。で、いっしょにしようよ。ね、いいでしょ?」

 

 少女はアンヘルの手を両の手で包んだ。そして、ねだるようにしてアンヘルを見つめた。

 こうなるとアンへルは弱い。サクッと頷いた。

 

「あー、うん。そっちがよければ、それで」

「よーし、決まりだな。ほら、座って座って。描き終わるのに半刻くらいは必要だから、それまでの間動かないでくれよ」

「はーい。わかりましたー。美人に描いてよ、なんちゃって」

 

 てへっという幻聴とともに、マカレナは椅子に座った。アンヘルもそれに従い、渋々横に座った。

 

 似顔絵師が書き始めて四半刻はゆうに過ぎたであろうか。

 昼間を過ぎた広場はやや閑散としていた。

 

「ヘー、そうなんだ。最近来たばっかりなんだね、この街に」

 

 絵師の、顔は描き終わったから会話してもいいという言葉で、マカレナは解き放たれた獣のようにまくしたて始めた。

 

「でも、なんで? どうしてこの街にきたの? わざわざ旅をしてまで」

「一応、ダンジョンが元居た街にあんまりなかったっていうのはあるけど……。でも、多分そうじゃないんだとおもう」

「おもう? とういう意味?」

 

 少女が首を傾げる。

 

「自分でもうまく言えないんだけど……。なにか目的があって、街を出たんじゃなくて。街を出るために、目的を作ったというか。なんていうか、そんな感じ、です」

「じゃあ、街を出たかったってこと? なにか嫌なことでもあった?」

「そういうわけじゃなくて、単純に街を出なくちゃ行けないっていう考えがあったんだ。そうすることが、今後のためだって。なんとなくなんだけど……それが先に進むことだって」

 

(ホセとナタリアさんのことも、あるんだけど……。言えないよね)

 

「ふーん、なんか難しいこと考えて生きてるんだね。私なんかだったら、なにがあっても街を出たくないけどなぁ。家族と離れるだとか、ぜったいにイヤだし」

 

 マカレナの言葉に苦笑いするようにしてアンヘルは笑った。

 

「いや、そんな難しいことじゃないよ。ただ、そう思ったってだけだから」

「えー、そうかなぁ?」

 

 マカレナは身体を左右にふった。間髪入れずに絵描きから注意の声が響き、マカレナはしゅんとしながら姿勢を正す。その顔にはごまかし笑いが浮かんでいた。

 

 ――なんか、忙しない子だなぁ。

 

「で、それで今はどんなダンジョンに行ってるの? 危ない? それとも、楽しい?」

「いまは、ダンジョンに行ってないんだ。別の事をしてて」

「別の事? なにそれ?」

「えーと、言っていいのかなこれ。その、貧民街で殺人事件が起きてて、それの調査って感じかな」

「殺人事件? それって探索者の仕事だっけ?」

「ううんと、正確には違うんだけど……。今回は特別ってことで」

 

 その言葉で俄然興味が湧いたのか身を乗り出しながら、少女は尋ねる。絵描きからの注意など耳に入らないようで、目を輝かせていた。

 殺人事件というのは一般人にとっての良い暇つぶしである。日常に入り込んだ非日常の雰囲気は、モンスターなどの現実的な脅威と違って、スリルと謎をスパイスに想像をかきたてるよいゴシップであった。

 

「へぇー、じゃあ殺人事件とかが得意なんだッ! それで、それで。どんな風に調べるのッ!? 聞き込みとか? 張り込みとか?」

 

 声がワントーン高くなる。興奮しているのがありありとわかった。

 

「きょうは、一応現場を見てまわったよ」

「見ただけ? それで、なにか分かったの?」

「死体は綺麗に処分されてたなぁって思ったんだけど……」

 

 アンヘルは小学生の感想文みたいな報告をした。

 

「んん? 何その感想? もっと犯人に繋がるような証拠とかないの?」

「いや、その。半日調べた成果です」

 

 マカレナはアンヘルの言葉に口をあんぐりと開けて目をパチクリと開いて閉じる。顔が赤くなり、怒りに染まった。

 

「そんなんじゃ、だめだめだよっ! なにか計画とかないの! この後の! 被害者の共通点とか調べたッ!?」

「明日、聞き込みをして、目撃した人がいないか聞いて回るつもりなんだけど……」

「もう!! そんなんじゃ、いつまでたっても捕まえられないよッ!!」

 

 そう叫ぶと、マカレナは立ち上がってアンヘルを指差した。

 

「あした。わたしもついていくッ!! これは、けっていですからッ! この広場にいるので、ぜーったい迎えにくるようにッ!!」

 

 そう宣言する。アンヘルに愉快な仲間が強制的に加わった瞬間だった。

 

 

 

 §

 

 

 

 あくる日。

 

 アンヘルは広場でマカレナと再開した後、情報収集の一環としてもう一度依頼主を訪ねるために貧民街を歩いていた。

 

「それで、被害者は14人、共通点もなし。そういうことですか、ワトリン君」

「いや、そのワトリン君って……。まぁ、簡潔に言うと、そういうことだけど」

「ふむふむ。それで、目撃者は? ワトリン君」

「いや、その。……もういいです、それで、目撃者はいません。遺体を最初に見つけた人もわかりません」

「ふーむ。むむむ。それで、どうしますか?」

「いや、だから、ぼくが知りたいくらいなんですけど……」

 

 マカレナは、昨日とはうって変わって、Tシャツと短いレザーパンツにまったく似合っていない探偵お決まりのディアストーカーハットを被っている。その手には手帳を持ち、すらすらと情報を書き留めていた。

 

「それでは、それでは。……困ったなぁ。とりあえず、アリバイを調べてみよっか」

「……被疑者は誰ですか?」

 

 マカレナは首を傾げながら唸る。ピタッと止まると、曇りが晴れたような朗らかな笑顔で言いきった。

 

「犯人は、依頼した中年の人だッ!!」

 

 聞くことも嫌だったが、一応尋ねる。

 

「……その理由は?」

「ええっと。それは、そう。これだけ被害者が出てるのに、情報がないのはその人が情報を抑えているからッ! だから、怪しいッ!」

「……わざわざ依頼を探索者に出したのに?」

 

 単純な反論にも関わらず、返答に詰まる。アンヘルはこれくらいの答弁はスムーズにできるようになってから犯人を決めてほしかった。

 それでも、マカレナは何とか答えをひねり出した。

 

「ええっと、それは……。わかった、自分が疑われないためよッ! そうに決まってる」

「……」

 

 ――ああ、この子たぶんバカなんだなぁ。

 

 アンヘルは頭を抱えた。捜査に疎いアンヘルと、面白半分で首を突っ込んでくるマカレナが犯人を捕まえるのは至難の技であった。アンヘルの心に暗雲が立ちこめて、目を黒く濁らせた。

 

 こうなってしまうと、いろんなことに対して憂鬱な気分になってくる。そうなると、必然、怒りの矛先はこんな仕事を押し付けた受付へ向くことになった。

 

 ――けど、この子。たぶん、いいとこのお嬢さんなんだよなぁ。

 

 今のボーイッシュな格好、所作から考えてもいいところの出身であるとは一切感じられないが、一点だけ彼女の地位を証明する物があった。純白のワンピースである。

 

 白の服というのは珍しくない。布を染めるほどの金を持たぬ貧民は、皆決まって無地の衣類を身にまとっている。しかし、純白は違う。衣類は使ううちに汚れるうえ、そもそも製造段階から粗雑に扱われるため純白などというのはあり得ない。この世界でいう白い衣服とは、無地の手抜き商品なのである。

 

 それを無視して、純白の衣類を普段着として使えるのは、高価な洗剤と汚れたら捨てて新たな服を購入できる財力を持った人間だけであった。

 

 とくに何の役にも立たない足手まといを率いながら、頭のよくないずぶの素人が捜査する。一寸先は闇どころか地雷原であった。

 

 マカレナはご機嫌に、アンヘルは絶望を抱えながら道を歩き続けると、中年の家に辿り着く。

 アンヘルは扉をガンガンと叩いた。

 

 返事の後、中年が外に出てくる。

 

「ああ、あんたかい。こっちから、訪ねようかと思ってたんだ。また、ひとり遺体が見つかったよ」

 

 

 

 §

 

 

 

 アンヘルたちは、連れたって死体が収められている教会に足を運んでいた。

 

「それで、どんな方だったんですか。その、亡くなった方は」

「ああ、あんまり知らねぇが、普通の奴だったよ。大工の下働きをする、どこにでもいる奴さ。しかし、わりぃな。バルドの奴来れなくてよ。あいつ、教会きれぇなんだ」

「いえ、そんなことは。それにしても、どうして今回の遺体は教会に運ばれているんですか?」

 

 これまでの遺体は貧民街の死体置き場に放置されていた。今回のように教会に運ばれるのは珍しいと道中でマカレナとも話していたのだ。

 

「特別信仰に熱心だったんだよ。そのうえ、教会の正面で死んだとなりゃ、教会側もだまっちゃいねぇさ」

「はぁ、そんな方なんですね」

「んん? アンヘルはかみさまを信じていないの? ダメだよ。そんなんじゃ、バチが当たっちゃうよ」

 

 マカレナがそうやって顔を近づけながら嗜める。その声には、盲目な信仰ではなく、母親が我が子に常識を説くような頑なさが宿っていた。

 

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

「だけど?」

「いや、これも情報だなっておもって」

 

 日本人で宗教を熱心に信仰しているものは少ないが、帝国は一神教であり、神を信じていないものは異端だとみなされる傾向がある。近年に入っては他国との交流も盛んになり異文化が混じり始めた影響からか、近年では宗教上の問題から一方的に不利益を被ることは少ないが、それでも周囲に白い目で見られる可能性はあった。

 そうなると、アンヘルとしては、信仰心を持っているフリをしなければならなかった。

 

 汗が流れ落ちる。

 

「ハハハ。なに、言ってやがる。この国の奴なら、ほとんどのやつが信じてるさ。意味ねぇよ、そんな情報」

「はは、そうですね。意味ないですよね」

 

 乾いた笑い声がでた。マカレナもそうだよ変なのと小さな声で呟いていた。

 

「でも、貧民街の人はとくに熱心に信仰している人が多いかも。よく、炊き出しとかしてるし。わたし、たまに手伝いへ行くよ」

「そうかもなぁ。金のねぇ奴には、救いだろうしなぁ」

 

 そう言いながら、アンヘルたちは霊安室に入る。中には、老齢の司祭が棺の前で待機していた。

 中年は司祭に一言告げると、祈りを捧げ棺の扉を開けた。

 

「ウッ」

 

 あたりに死臭が漂う。

 マカレナが顔を真っ青に染めながら顔を背けた。そして、数歩後退し、膝をつく。げろげろと饐えた匂いがアンヘルの鼻に届いた。

 

「今回もズタズタですね」

「ああ、男は毎回こうだ。やることが人間とは思えねぇ」

 

 胴体はズタズタに切り裂かれており、まるで奇妙なオブジェのように穴が幾つも空いている。そのうえ、手足は中程ですっぱり切断され、完全に達磨状態だった。

 

「けど、今回は手足や顔まで切り裂かれてますね……。これは、よくあることなんですか?」

「……そういや、そうだな。身体はともかく、顔や手足は珍しいな。いっつも、泣き叫ぶような顔で死んでるんだがな。今回は、目ン玉までくりぬかれてやがる。なんだぁ、こりゃ?」

 

 アンヘルは遺体の損壊具合が酷すぎて感覚が麻痺してきていた。殺人鬼に切り裂かれた遺体は、完全に映像の中の産物であった。

 

 目玉はくりぬかれ、口の中にひとつ入っている。耳は削ぎ落され、くりぬかれた片方の眼窩に詰め込まれている。右側半分の皮は削ぎ落され、千切り取られた爪がピアスのように突き刺さっている。頭部は焼かれたのか、ヘドロのように溶けていた。

 

 これを冷静に観察できてしまうほど、死体から感じられる狂気は異次元の領域にあった。

 

「はやく、見つけてくれよ。こんなんが続くんじゃ、おちおち外も出歩けねぇ」

「それについては、わかることがあります」

 

 唐突に、司祭が口を開いた。

 

「それを行った犯人は、おそらく悪魔(デーモン)です」

 

 

 

 

 





*トゥゴリオス:スペイン語でスラム街

*地回り:市民による警備隊

*ワトリン君:イセカイで有名な探偵小説の助手。ワト〇ンではない

*探偵もの:作者は好きです。あくまでアンヘルとしての意見であり、名作を貶める意図はございません


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第三話:デーモンハント 下

 悪魔(デーモン)

 

 そう、司祭は告げた。

 

 デーモンは超常の存在で、迷宮を住処にする普通のモンスターとは一線を画した存在である。その存在は、あらゆる社会・宗教の天敵とされ、いかなる時代においても発見次第即殺することが求められたが、叶うことはごく少数という極めて悪辣な存在である。

 

 迷宮のモンスターついて一概には言えないがその行動原理は野生動物と一致する面も多い。モンスターが迷宮の外に溢れて市民を襲うのは、生存競争に敗れた個体の移動によるものであり、モンスター自体が能動的に人間を襲うため迷宮の外へ繰り出すことはほとんどないといっていい。

 

 しかし、悪魔(デーモン)は違った。

 

 悪魔(デーモン)は、自らを深淵に近づけるため、人間の象徴的な臓器である心の臓を喰らうのである。しかし、それだけであればここまで恐れられる存在には成らなかった。そんなものより遥かに恐れられる嗜好(しこう)を有しているのだ。

 

 つまり、悪魔(デーモン)は人をいたぶることが何よりも好物なのである。

 人間の男の臓器を食べ、人間の女に対して不浄の行為を行うなど序の口であった。過去には身の毛がよだつほどの悪行をなした悪魔も存在する。

 

 この悪魔(デーモン)に対して、人間は手をこまねいてきたわけではない。

 教会の異端狩り専門の執行者、帝国の聖騎士団とその対策にはいとまがないが、被害を抑え込めているとは言い難いのが現状であった。

 

 悪魔が何よりも厄介な点は、人間の宿主に寄生して社会に溶け込んでいる点であった。身体の内に入り込み、その人間の身体を闇の使徒に作り変えてしまう能力こそが、怪物を悪魔たらしめんとしていた。

 

 司祭はアンヘルたちにこう語った。

 

「これは、我が教会の失敗です。我らの発見が遅かったことが、彼のような敬虔な信徒を無残にも殺させる原因なとなってしまったのですから。すでに執行者に連絡をつけてあります。すぐに、決着をつけられるでしょう。悪魔といっても不死身ではありません。身体に回復不可能な損傷を与えれば浄化できます。ミスラス神の名前に誓って、必ずや討滅するとお約束します」

 

 苦々しさに満ちた司祭の心からの言葉であった。

 

 それを聞いてアンヘルは心底安心した。いや、アンヘルだけではない。元々アンヘルとして生きていた身体が反射神経のように安堵したのだ。学のない農民であっても、悪魔の兇悪(きょうあく)ぶりは轟き渡っていた。

 それは、話を聞いていた他のふたりにも当てはまった。怪物を相手取りたい奇特な人間などそうはいないのである。奇怪なアートを目撃してしまえばなおさらであった。

 

 事件が解決したと確信した中年は、すでに肩の荷をおろしたような朗らかな笑顔を浮かべている。アンヘルが出会った当初は、厳つい表情ととげとげしい言葉を吐き続けていたものの、それは貧民街の事件を取りまとめる重圧からのもので、今の柔和な人格が彼の本性であった。

 

 司祭は最後に「恐れることはありません。すべてはミスラス教の思し召しのままに」と厳粛な雰囲気で告げると、霊安室を去っていった。

 

 

「ねぇ、大丈夫? もう解決したも同然だし、家に帰ったほうがいいんじゃ……」

 

 アンヘルは、芸術的な遺体を見て青い顔をしているマカレナに声をかけた。彼女の中で、あの遺体の衝撃度は予想を遥かに上回っていたのであろう。あれ以来一切口を開くことなく、肩を震わせながら息を吐いていた。

 

「あぁ、そうしたほうがいいんじゃねぇか?」

 

 中年が意外にも心配そうな声色で諭す。いかに上流階級の人間を嫌う貧民街の市民であっても、ここまで怯える少女に悪意のこもった皮肉を吐くほど性根が曲がってはいなかった。

 

 アンヘルたちは教会を辞した後、今後の相談のために中年宅を訪れていた。その中には、バルドの姿もあった。

 

「ハッ。それで、そいつらは報酬をもらってチャンチャンってか? なんにもしてねぇじゃねぇか」

「おい、バルド。やめろッ!」

「しかも、悪魔ときたか。ハハッ。こいつは傑作だ」

 

 バルドは険しい顔を向けながら、中年を嘲った。

 

「なにが面白れぇ?」

「あんな胡散臭ぇ連中の言い分を信じるなんざ、落ちぶれたもんだぜ。どうせ、適当に調べて終わりさ」

 

 バルドは唾を吐き捨てる。彼の教会嫌いは相当なもののようで、そもそも悪魔の存在自体に疑いを抱いている様子だった。

 

「だからって、手があるわけねぇだろうが。がたがたと文句いってんじゃねぇ」

 

 中年は立ち上がり、声を張りながら叱責する。その間でアンヘルは小さく縮こまるだけだった。いまだに、マカレナは復活する素振りをみせなかった。

 

 バルドはその言葉で数瞬頭を捻ったのち、告げる。

 

「なら、そいつらを明日の朝まで警備に使うぜ。たった二日しか働いてねぇんだ。最後の夜ぐらい、夜回りしたってバチはあたらねぇ。こっちも、高い金を払ってんだ」

「……いや、まあ、それなら構わんか。なあ、あんたら。今日一日、街を廻ってはくんねぇか?」

「……ぼくは、構いませんが。彼女は家に帰しても大丈夫ですよね? 依頼を受けているのは、ぼくだけですし」

 

 正直なところアンヘル自身が残るのもごめんだったが、この場面で言い出すのは憚られた。そのうえ、悪魔の出現頻度は一週間程度ということもあり、今日一日警備しても危険性は低いだろうとそんな思惑もあった。

 

「ダメだ。夜回りは複数でやるもんだ。偶数人いたほうが効率よく回せる。それとも、ひとりでやるってのか?」

「けどッ!」

「けどもクソもねぇッ! この女がついてきたんだ。最後までやり遂げんのが仕事ってもんだろうが」

 

 アンヘルは言葉に詰まる。マカレナが無理やり参加したとはいえ、依頼人がそんな事情を斟酌する必要などない。

 参加したメンバーをフルに使う依頼主の意見は、至極当然の主張であった。

 

 中年には反対意見を持っていそうだが、バルドの意見の正当性から黙したままである。

 依頼を諦めるか、マカレナを強制参加させるか。そのどちらかを判断しなければならなかった。

 

「ねぇ、ダメなら、依頼を――」

「ッううん。だいじょうぶ。大丈夫だから。わたし、やれる」

 

 そう言いながら、マカレナは無理やりに気丈な笑みを浮かべてみせた。肩は震えたままだが、目には強い光が宿っていた。

 

「けど……」

「わたしが無理やりついてきたんだもの、街を守らなきゃ。それに、こんなこと許せない!」

 

 マカレナは恐怖を撃ち破るように立ち上がった。その表情にもう怯えはない。

 

「ハッ。決まりだ。今日の夜は四人で交代しながら街を廻る。それでいいな」

 

 その言葉に、アンヘルは言いようのない悪い予感を覚えた。

 

 

 後刻。

 夜も更けて辺りが真っ暗になると、アンヘルたちは中年宅を拠点にしながら、街の見廻りを行っていた。

 

 初めはアンヘルとバルド。次はマカレナと中年。その次はマカレナとバルドといった準繰りで2時間ごとに交代しながら街の見廻りを続けていた。

 

 マカレナとバルドはさきほど見廻りに出ていったばかりで、アンヘルと中年は現在部屋で待機中であった。

 

 ――っというかあの子、家に連絡しなくていいのかなぁ。後で、なにかしらの問題が起きる気がするなぁ……。

 

 いいところのお嬢様が無断で外泊というだけでも醜聞が悪いのに、その間に行っていることが殺人事件の調査など狂気の沙汰である。この依頼が無事に終わったところで、万事解決とはいかない予感がアンヘルにはあった。

 

 受付に高難易度の依頼を受けさせられ、そのお詫びに悪魔退治をさせられ、お嬢様の無断外泊の原因となる。アンヘルの不幸っぷりはここにきて極まっていた。

 

「それにしても、あんた若ぇな。いくつだ?」

「ええっと、この冬で15になります。たぶんなんですが」

「たぶん? なんだぁ、そりゃ。あんた、もしかして農民か?」

 

 農民は季節の巡った数などに興味を抱かない。余裕がないのである。年を数えて祝っている暇があるのならば働く。それが農民であった。

 

「まぁ、そうです」

「はぁー、こいつは意外だ。てっきり、いいとこの坊ちゃんかなんかだと思ってたんだがよ。あの嬢ちゃんと知り合いだしな」

 

 中年の男は驚きの顔を作った。

 

「いえ、彼女とは最近知り合ったばかりで……。ぼくは、この街に来たばかりです」

「なんだ。……ってことは、あの嬢ちゃんは事件が気になって首突っ込んでんのか。あんたの部下として付いてきてるって感じじゃねぇしな」

 

 納得いったというような素振りで頷いた。アンヘルとマカレナの関係は他人から見て奇妙だったのであろう。まさか、マカレナが興味本位で付いてきているだけのほぼ初対面の関係だとは考え難いからだ。

 中年は立ち上がり、お茶を汲みなおしながら尋ねる。

 

「なあ、どうしてこの街に来たんだ?」

「……その、よく聞かれますが、そんなに疑問なんですか? この街に来ることが」

 

 アンヘルはマカレナとのやり取りを思い出した。彼女にも街に来た経緯を聞かれたのだ。しかし、目の前の男の探る眼はそれよりも遥かに冷たい。

 

「いや、そうじゃねぇ。金や女を求めてこの街に来る奴は絶えねぇ。そりゃそうさ、この街は天下の大都市オスゼリアスさ。放っていたって人は集まって来やがる。けど、あんたはそんな風に見えねぇ」

「どうしてそう思うんですか? ぼくだって、お金が欲しくないとはおもっていません。善人のようにいわれても――」

 

 アンへルの疑問を中年は遮った。

 

「いや、逆さ。逆」

「逆、ですか?」

 

 中年は手に持ったカップをとんとんと叩き頭の中から捻りだすように言葉をねる。そして、身を乗り出しながら答えた。

 

「ああ、あんたはもっと身の丈に合わねぇようなモンを求めてるやつの目さ。あんたが坊ちゃんってんなら、なんの疑問も湧かねぇんだがよ」

 

 中年の男は続ける。

 

「あんたが、農民出身ってなると話は違う。若さによる勢いって感じもねぇ、才能ややる気に溢れてるようには見えねぇ。そんでもって仲間もいねぇ。けど、その若さでちゃんと探索者をやってやがる。そんな奴は、裏に一物抱えてるってのが相場なのさ。たぶんだがよ」

「……」

「その様子じゃ、自覚がねぇみたいだがよ。なら、さっさと見つけたほうがいいぜ。あんたが、何をやりてぇってのをよ。歳食ってからじゃ、なんもかも遅いんだぜ」

 

 中年の悔恨の念がこもった重い言葉であった。

 

 その言葉はアンヘルの一部分を的確に突いていた。

 人間誰しも何を成し遂げたいのかという疑問を抱えながら生きている。しかし、将来のヴィジョンを明確に持つ者だけが、成功するチャンスを得られるのだ。

 

 アンヘルはこの世界で変わった。農民としての生活、探索者見習いとしての生活。どれをとっても容易ではない。その環境を生き抜いてきたアンヘルは、身体能力よりも精神的に大きく成長していた。過酷な世界では成熟した精神でなければ生きてゆけないのだ。

 

 その中で誓った、強くなる、先へ進むという決意は現在も変わらない。

 しかし、それが探索者として大成することと直結するか分からなかった。

 

 探索者は誰にとってもステップアップでしかない。ダンジョン探索は探索者の特権ではなく、むしろ高難易度のダンジョンは限られた人間にしか許可が下りない。地位を望むなら軍人に、強さを目指すなら武芸者に、金を望むなら貴族の私兵や傭兵団に、未知の世界を望むなら探検家や学者を目指してその上でダンジョン探索をすればいい。探索者は通過点でしかなく、その地位に留まり続けるのは世俗の評判を無視した奇特な者に限られるのだ。

 

 強くなると決めたアンヘルは、それでいて、今後、どうするべきなのかが見つからないでいた。

 早々に探索者としての将来から見切りを付けたホセの意図がここに来て漸く理解でき始めていた。

 

 空気が重くなったのを察したのだろう。中年は、辛気臭い話は終わりと手をふった。

 

「しっかし、悪魔たぁ大物の登場だぜ。こんな貧民街によ」

「そう、ですね。なにもなければいいんですが」

「まぁ、あの執行者が出張ってくんだ。今日さえ乗りきりゃいい。バルドと嬢ちゃんになんもなけりゃいいだがよ」

 

 バルドの話が出て、とっさに話題を振った。アンヘルと同じ無神論者である彼の話を聞いてみたかったのだ。

 

「……そういえば、バルドさんってミスラス教のこと毛嫌いしていましたよね。なにか理由でもあるんですか?」

 

 この国の人間はほとんどがミスラス教を信仰している。奉仕活動にも熱心で、悪魔などの危険な生命体に対しての抑止力としての側面も持っているのだ。他国の文化が混じるようになったとはいえ、バルドほど嫌悪感を露わにするのは珍しいといえた。

 

「そういやそうだな。あいつは、元々隣の国の人間だからよ。とはいえ、あんなに憎むようになったのは最近じゃねぇかな。なんか心変わりする出来事でもあったのかねぇ?」

 

 最近、という言葉がイヤに大きく響いた。

 恐ろしい想像が頭をよぎる。

 

「……その、最近っていうのはいつ頃からなんですか?」

「うん? ああ、ここ3か月ってところか。それがどうしたってんだ?」

 

 三ヵ月前から始まった教会嫌い。

 騎士団が調査に来ると、決まって犯行をやめた情報収集能力の高さ。

 地回りという夜中にうろついても疑われない立場。

 

 アンヘルの頭でその3つが駆け巡り、最悪の予想が導き出された。

 

 ――彼女が危ない。

 

 アンヘルは剣を握りしめると中年の制止も聞かず駆け出していた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 バルドは帝国の北方、山岳地帯の中のひとつである都市国家に生まれた。

 

 長期にわたって安定した君主制が敷かれている帝国と違って、北方諸国は国家の興隆が激しく、治安はお世辞にもいいとは言えなかった。

 北方の厳しい気候、貧しい土地、不安定な治安に安定しない国家体勢の元で生まれたバルドの幼少期は悲惨の一言につきた。

 

 5人兄弟の次男として生まれたバルドは、物心ついた頃から盗みを生業として生きてきた。

 生活必需品が貧民にはとても買えるほどの値段ではなく、それでいてまともな職すらない街では、バルドのような少年は群れをなして生きる術を身に付けていた。

 

 しかし、幼いころから犯罪に手を染めていたバルドではあったが、それでいて冷酷に徹しきれない男だった。

 

 盗んだ食糧を友人や兄弟たちに分け与え、生活が苦しそうな商店からは盗みを控え、年下の少年からの恐喝は一切行わなかった。それだけでなく、友人たちが捕まった場合には進んで救出に乗り出すほどの、良く言えば情に厚い、愚直とも言えるべき男であった。

 

 その性根は、飢えに苦しんでいる彼の助けには成らなかったが、それでもバルドは他人を踏みつけにしてまで生き残ろうとしなかった。

 

 転機が訪れたのは彼が10代半ばに差し掛かろうとしたときであった。

 

 仲間のひとりが行商人の有り金を盗もうとしたが、護衛に捕まってしまった。バルドはそれを見て、周りの声を無視して「自分がそいつのかわりになる」と申し出た。

 愚かな奴だと周りの人間は彼を嘲ったが、行商人はその行動にいたく感動した。北方の治安は悪い。それこそ、生まれた子供が親を殺してその肉を喰らって生きようとするほどである。自分を犠牲にしてまで他人を助けようとする人間がいるとは、行商人たち異国人は露程も考えてはいなかった。

 

 捕まった仲間の代わりに身を粉にして働くよう告げられたバルドは、行商人に連れられ各地をまわった。

 

 学はなく、それでいて性格も(あきない)にまるで向いていないバルドは、行商人の仕事を効率的に覚えられたとは言えなかったが、不思議と隊商の人間に好かれた。

 人間誰しも人の良い人間を好む。それでいて頭の小間使いであればちょっかいもかけづらい。必然、バルドの地位は皆に可愛がられる弟分的位置へ収まった。

 

 バルドの行商の旅は、都市オスゼリアスで免状を渡され、一人前として認められた20代半ばまで続いた。

 

 その後、バルドは行商人時代の伝手を頼って、大工の仕事に付き、そこでメキメキと頭角を表した。彼は商人としての才覚には欠けていたが、人をまとめる徳を持っていた。彼は悲惨な北方諸国で生まれ、優しい性格から損を続けてきたが、その生来の気質によって成り上がり、貧民街の地回りという役職に認められるまでになったのだった。

 

 順風満帆な彼の人生の風向きが変わったのは、ひとりの酌婦に嵌ってからだった。

 

 仕事仲間と共に行った酒場で出会ったその酌婦は、驚くほどの美人というわけではなかったが、人の機微に聡く、人好きのする愛嬌さをもっていた。

 

 そんな彼女に、これまで仕事一筋で生きてきたバルドは一発で嵌った。

 

 最初は少しづつ、関心を買うために物を買い与えた。物を贈るというのは、一般的に求愛の行為として正しい行為ではあったが、恋愛に関して百戦錬磨の酌婦に対してはバルドは幼過ぎた。

 

 酌婦に言われるまま貢ぎ続け、将来市民権を得るために貯蓄していた資金を吐き出し続けてもまだ足りず、借金をしてまで物を与え続けた。

 それで女の関心を得られればまだ良かったものの、その酌婦は金が尽きたことを知るとあっさり彼の元を去り、年配の金持ちの後妻の座に納まってしまった。

 

 残ったのは、借金だけであった。

 

 それでも、バルドは枕を濡らしながら恨み言を唱え続けただけであった。

 

 身を粉にしながら貯め続けた金をすべて奪った酌婦にも、その酌婦を奪った金持ちに対しても恨み言を吐くだけで、危害を加えることは一切なかった。

 これだけなら、素朴な男が女に騙されたよくある悲劇のひとつで終わっただろう。

 

 その心の隙間に入り込んだ悪魔がいなければ。

 

 

 

「あの、こっちに何があるの?」

 

 マカレナはバルドに連れられ、小屋を訪れていた。

 

「ああ、悪いね。家で燻製を作っているんだが、火を消したか不安になってね。少しくらい、いいだろ?」

 

 そういいながら、バルドは小屋の中に消えていった。

 マカレナもそれに続く。見知らぬ男の家に入ることの拒否感がないとは言えなかったが、それよりも、貧民街にひとり残されるほうが遥かに怖かったのだ。

 勢いで見廻りに参加することを表明した彼女ではあったが、夜の貧民街はなんの力も持たない少女にとって悪魔関係なしに危険地帯であり、こうやって見廻りするたびに心が削れていた。

 

 小屋の中は小綺麗と言うよりも、物がないというべき質素さであった。人間の必需品ともいえる机や椅子もなかった。あるのは寝具だけである。

 

 マカレナは何もない室内を見渡す。すると、あることに思い至った。

 

「あれ、燻製は? なにもないよ」

 

 その疑問に返答はなく、ばたんと扉の閉められる音だけが響き渡った。

 

 顔をだらしなくニヤケさせたバルドがゆったりとにじり寄る。マカレナは、後退りした。

 

「……ど、どうしたの?」

「ハハッ。あんた、察しがわりぃな」

 

 バルドは指をぽきぽきと鳴らしながら、瞳をぎらつかせた。怯えた表情こそが至上とでも言わんばかりに体を舐めるように見つめた。

 

「明日には、執行者の連中が来やがるからよ。今日中には街を出なきゃなんねぇ。なら、最後に愉しもうってわけさ」

「あ、あなたがッ! 悪魔(デーモン)!」

 

 マカレナの叫び声と同時に、バルドは拳で腹を殴りつけた。

 

 マカレナが声にならない悲鳴を上げると、前のめりに地面へ倒れ伏し、幾度も呻く。バルドは酷薄な笑みを浮かべながら、彼女を仰向けにひっくり返し、無防備な身体へ馬乗りになった。

 

 マカレナは痛みと恐怖から身体を動かせない。その間に、この態勢へ持ち込まれてしまえば、体格体重がまるで違う彼女に抗う手段はなかった。

 それでもマカレナは呻きながら、気丈に睨み返した。

 

 バルドの中の悪魔は、バルドの持つ女性不信からくる強烈な恨みを、彼女のような気の強い人間の心をへし折る嗜好に変換していた。それは、彼女の想い人であった酌婦を跪かせたいという暗い願望が具現化した姿だった。

 

 バルドは、まず、両腕の間接を外した。マカレナの絶叫が響き渡る。その悲鳴の間に挟まる呼吸の音は官能的で、彼の歪んだ嗜好をますます掻き立てた。分身が起立して、服の上からでもよくわかるように主張していた。

 

 ――ほら、もっと鳴けッ!

 

 愉悦に満ちた表情のまま、頬を打ち据える。バルドの肉体は鍛えられていて、腕はマカレナの首よりも遥かに太い。ゆえに、彼女を壊さぬよう慎重に、それでいながら無骨な手で執拗に殴った。

 

 その一打一打で悲鳴が響く。

 その声は回数が重ねられる内に弱くなっていった。

 

 マカレナはバルドの前では無力で、ただ彼の欲望を吐き出させる玩具となり果てていた。

 

 いくら打ち据えられただろうか。マカレナの顔は真っ赤に腫れあがり、その目からは反抗心が失われていた。スッと手を止める。

 

 バルドの眼下には無抵抗な無垢の少女がいる。

 気の強い、あの酌婦と同じ女がいた。

 

 バルドは立ち上がる。

 

 股間で盛り上がっていた怒張が張り裂けそうに痛んだ。少女の服に手をかけ、破り捨てる。生まれたままの姿が晒された。

 小さく膨らんだ乳房、しゅっと引き締まった腰、まだ生えそろったばかりの幼い女陰を上から下までじっくり舐めまわすように視姦した。マカレナの恥じらうような目線や、羞恥による頬の火照り具合がよりバルドの欲を高ぶらせた。

 

 下履きを脱ぎ捨てる。勃起した怒張に手を当ててどんな声で鳴かせてやろうと、マカレナの半身に組みつこうとした瞬間だった。

 

「マカレナさんッ!!」

 

 衝撃音と共に扉が破壊され、冴えない探索者の男――アンヘルが小屋に飛び込んできた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 飛び込んだアンヘルの目に映ったのは、目も覆いたくなるような惨状だった。

 バルドが下半身を露出させて少女に襲い掛かっている。マカレナは顔を執拗に殴られたのか真っ赤に泣きはらし、衣服を切り裂かれた状態で組み伏せられていた。

 その扱いは場末の淫売以下で、まっとうな人間が行えるような行為ではなかった。

 

 バルドは余裕ぶったニヤついた顔で振り返る。

 

「ハっ。王子様の登場ってかッ! おもしろくなってきやがったッ」

 

 頭に火が付いたみたいに熱くなり、視界が赤く染まる。心臓の鼓動は耳に聞こえるくらいに大きくなった。それでも、無理やりに落ち着いた声を吐き出した。

 

「……バルドさん、あなたが悪魔(デーモン)だったんですね。どうして、彼女を狙ったんですか?」

「どうしてだぁ? そんなの決まってやがる。この茶髪さっ! こいつが、あいつを思い出してしかたねぇのよ。それで、俺の心が囁くのさ。こいつを(ひざまず)かせなきゃ、ならねぇってよッ」

 

 そう言い切ると、バルドはマカレナの美しい髪を鷲掴みにして引き立たせ、壁に放り投げた。少女の悲鳴が響き渡る。

 バルドは、近くにあった四本刃の草又を掴み上げる。

 

「さぁさぁ。コイツでテメェをぶちのめしてやって、目の前であの女を鳴かせてやるよ。どうだぁ? テメェのなよっちいもんじゃなくて、俺のモンをぶち込んでやったらよ、どうなるかなぁ。ヒヒ」

 

 バルドは醜いモノをぶら下げながら、くいくいと腰を揺らめかす。その顔と合わせて生理的嫌悪感を存分に煽る動きだった。

 

 ――こんな奴を生かしてはおけないッ!

 

 マカレナの泣き顔にナタリアがナセに嬲られていた光景が被る。身体に溜まった怒りは沸騰して、臨界点を越えた。

 

 剣を腰から引き抜いて、正眼に構える。

 

 吠えた。

 アンヘルは身体のエネルギーすべてを爆発させ、跳躍する。

 

 アンヘルの横眼にはマカレナの泣き顔が映る。悲惨だった。

 マカレナは軽率で、物事を深く考えずに今回の事件に首を突っ込んで来たが、ここまでの罰を受けるほどのものではない。

 この男だけは、悪魔だけは許すことはできない。頭でも、心でもなく魂が叫んだ。

 

 反撃の為にバルドが草又を突きだす。

 それが、アンヘルには止まったかのようにスローモーションに見えた。

 

 身体を捩じって躱す。

 捩じった回転力をすべて拳に集めた。

 

 インパクト。バルドの頬に拳がめり込む。

 振り抜いた腕、吹き飛んだバルド、落下する自身が時間から切り離されたように流れる。

 

 壁に叩きつけられたバルドは、うめき声を上げた。余裕綽々としていた顔を一変させて、鋭くアンヘルを睨んでいる。

 バルドは得物を杖代わりにゆっくりと立ち上がった。

 

  

 アンヘルは駆ける。

 剣を身体を回転させながら力任せに横に振り抜く。

 

 ガンという衝撃音とともに、バルドの得物の柄と衝突する。続けざまに切り上げ、袈裟斬りをお見舞いする。

 

 ビュっと風切り音を伴って銀線が宙を駆ける。

 バルドは防ぎきれず顔と脇腹に薄い切り傷を作った。

 

 とどめだ。

 相手に不可避の斬撃を与えんと踏み込んだ瞬間、いままでの闘いで培った勘が「さがれ」と叫んだ。

 

 アンヘルは無理やりに飛び退いた。

 

「ハハハ、やるなぁ。ただの坊ちゃんかと思ったが、なんでぇ、意外に強ぇじゃねぇか」

「あなたは、必ずここで倒します」

「ヒヒヒ。やればいいさ。できるもんならなぁあッ!!」

 

 そう叫ぶと、バルドは額に指を突き立てる。指を第一間接まで突き入れると、べりべりべりという不快な音をたてながら顔の皮膚を剥がした。ピンクの肉がむき出しになった。

 

「お、お、お、お、お、オオオォッ!」

 

 同時に、ミシミシと奇妙な音をたてながら、みるみるうちに巨大化した。元々あった身長よりも優に50センチは大きくなり、巨人かと見まがうほどの巨躯へと変貌した。

 むき出しの肉からは薄汚い茶色の毛が生えてきて、鼻が突きだす。背中からは小さな黒い翼が張り出し、尻尾がにゅっと生えた。

 すべてが終わると、頭から二対の巨大な角が生える。その姿は、強大な雄牛と悪魔をいびつに混ぜたような、寒気を誘う恐ろしさがあった。

 

 上半身に纏っていた衣服は破れ、丸太のような筋骨隆々の四肢が膨れ上がっている。全身には血管が浮いており、激しく脈動していた。

 

「ゴおおぉぉおッ!! まさカ、コの、スガタで闘うことニ、ナルとはな」

 

 マカレナの口から【タウロスデーモン*】という言葉が響いた。

 

 醜悪な牛の悪魔であるバルドは、クラウチングスタートの要領で身を低くして走り出す体勢を取ると、黒く濁った瞳をぎらつかせた。

 

 破裂音と共にバルドが爆走する。

 トラックが突っ込んでくるように、角をたてながら突き進んでくる。

 

 当たれば死ぬ。

 バルド渾身の突撃の迫力は尋常でない。みっともなく転がって避けると、その空間を機関車のようにうねりを上げながら通り抜ける。

 

 バルドは壁に突っ込むが、なんの抵抗感もなく粉砕した。すっと豆腐に穴を開ける容易さで壁を突き破る。床板には足と同じ大きさの穴が空いていた。

 

 アンヘルはゴクリとつばを飲み込む。

 力とは体重だ。膨れ上がった巨躯の怪物が持つ力は、唯の人間であるアンヘルに敵うものではない。

 

 それでも、スピードは失われていた。そこに勝機がある。

 

 そう考えたアンヘルにバルドの悪意が届いた。

 

「ソこの女。なカなカ、愉しめたゾ。ヒヒ。何より、名器ダ。オレのを、コウ、突きダしテやると、いい声でナく。そして、揺さブリながら、殴っテやるト、閉まっテ夢心地ダっタ。ヒヒヒ、礼ハ、要ラねぇゼ」

 

 相手を否定する間もなかった。

 挑発はすぐに染みわたる。冷静さを失った頭は、心配になったマカレナを見てしまい、一瞬バルドから意識を外してしまった。

 

 弾丸のような影が眼前を通った。

 衝撃とともに、身体が動かなくなった。

 

 真っ赤だった視界が明滅し、黒と白に分かれる。

 

「いやぁあああああああ!!」

 

 マカレナの絹を裂くような絶叫が響き渡る。

 

 浮遊感。

 足が地面から離れていた。世界は横向きになり、バルドを見下ろしていた。

 

 天井が近い。なんでだろ、と意味が分からない。

 痛みでも、辛さもなかった。ただ、なにか大事なものが胸から零れ落ちるようなそんな感覚だけが残っていた。

 

 アンヘルの横向きの視界に、バルドの立派な角が自分の右胸に入っているのが目に入る。

 まるで現実感がなく、絵を見ているみたいに冷静かつ客観視できた。

 

 野生動物の戦果を誇るように、バルドの頭上に掲げられていた自身の体をうまく認識できない。

 

 バルドの口から笑い声が漏れた。

 

 その笑い声も、マカレナの叫びも他人事だ。あれほどの怒りも何処に消えたのか。脳裏には日本の思い出とホセ達の思い出だけが浮かぶ。

 

 すると、衝撃。腕を捕まえると地面に叩きつけられる。

 目の前には、悠然と佇立するバルドの姿があった。

 

「そこデ、見てイロ。ヒヒ。もウすぐ死んジまう、オマエに、贈りモンだ」

 

 ぐりぐりとアンヘルの頭を踏みにじり、唾を吐くとマカレナに向き直る。

 

 もう、バルドの姿も歪んで、視界が滲む。

 耳にアンヘルの名を呼ぶマカレナの叫び声が聞こえた。

 

 止めなきゃ、止めなきゃと心が叫んでいるのに、身体はピクリとも反応しない。この、女をまるで玩具のように扱う生物がマカレナに近づいていくが、指すら動こうとしなかった。

 

 もういいか、という言葉が頭をよぎる。

 よく頑張ったじゃないか。こんな怪物に敵うわけがない。優しい言葉だけが残る。誰しも乗るような甘言ばかりの中で、黒い黒い最後の一粒がアンヘルの心に残った。

 

 ――強くなるって誓ったんだ。

 

 ガリッと唇を噛んだ。

 歪んだ世界が像を結んで色彩が戻る。同時に、痛みが、生きている証が蘇った。

 

召喚(サモン)

 

 シィールとリーンが飛び出す。アンヘルには口を開くことしかできない。けれど、心が通ったようにリーンは治療を始め、シィールは主人を咥えて立たせようとする。

 

 剣を水平に構えて、立つ。立つしかできない。

 けれど立った。

 悪鬼を殺せと、立ったのだ。

 

 それを見たバルドは笑った。

 

「ほウ、召喚士トハ。ヒヒヒ。まだ、愉しめソウだ」

 

 バルドは再びクラウチングスタートの態勢をとる。身体が動かないアンヘルにとっては必殺の構えだ。山のような肉体がアンヘルに向かって疾走する。

 

 躱せない、受けられない。

 死ぬ。死んだな。バルドの笑みをスローモーションの世界で眺めた。

 一歩二歩と迫りくる角が輝いて見えた。

 

 それがどうしようもなく、許せなかった。

 

 アンヘルの意思が通じたのか、シィールが腕を噛んで無理やり身体を引き倒す。角の付いた頭を無理やり捩じって避けた。

 そして、がら空きの胴体に剣を突き刺す。どこにそんな力があったのか。アンヘルにはまったくわからなかったが、身体だけが機械のようにガリガリと音を立てて動いていた。

 

 ズブという音と共に剣が腹に埋没する。零れ落ちた血が、なんだか綺麗に映った。

 

 絶叫。

 バルドの叫びが響き渡る。扉や瓦礫がビリビリと振動していた。顔には憤怒が現れる。

 

「テ、テメェ。殺スッ! 殺ス!!」

 

 アンヘルは腹部に突き刺さった剣を(こじ)りながら、抜く。血潮がぷしゅっと吹き出ながら、辺りを汚した。

 

 絶対に傷つかない遊びで格下から受けた負傷に、バルドは怒りが収まらない様子だった。たたらを踏みながらも、今までにない必死な殺意を向けていた。

 

 アンヘルは狂ったみたいに笑いがこみあげてくる。

 

 痛みも、諦めも、先ほどのように感じられなくなったのではなく、跡形もなく消えた。残ったのは、真っ赤な殺意だけだ。視界が元通り赤く染まる。

 

 心臓がもうひとつくっ付いたみたいに、血流を加速させた。動かないはずの体が、新品みたく蘇る。胸からこぼれる血が汗みたいだった。

 手についた血が、相手を殺せと急き立てるように熱い。

 

 ――さぁ、第二ラウンドだ。

 

 シィールの冷気放射とともに飛びかかる。

 

 白銀の世界のなかで、アンヘルとバルドの得物が交錯した。胸に穴が空いたとはいえ、リーンの回復があるアンヘルと内臓をザクザクに切り刻まれたバルドでは消耗具合がまるで違った。

 

 ふたりの間にあった膂力の差は埋まっていた。

 死に物狂いで繰り出されるアンヘルの力と削れた命を守りながら繰り出すバルドの剣戦が縦横無尽に繰り広げられる。

 

「コおぉおおオオオ!!」

 

 どこから響いたのかわからない奇声とともに、バルドの左腕が振るわれる。

 巨大な丸太のような腕を左手でいなして、切り上げる。腹部を抉ったその斬撃は、苦悶に歪めさせた。

 

 痛みに狂って暴風のように手を振り回した。

 しかし、その姿に過去の迫力はない。弱弱しさに満ちていた。

 

「まだ、おわりじゃありませんよね?」

 

 余裕をつくる。余裕ぶる。

 胸からは命が溢れて、動けば動くほど死に近づいていくのがわかる。

 

 それでも、平然な顔をする。

 目の前の悪魔が苦痛に歪んで、悲鳴を上げるのをまるで愉しむみたいに笑う。

 

 バルドはそれでも果敢に殴りかかってくる。それを躱しながら、腕、足、背中、頭を順番に斬りつける。それでも突進するバルドを、外套を闘牛士のマントのように用いてかわし、切り刻んだ。

 

「ガああっ!」

 

 けれども、牛の悪魔の耐久力は尋常でなく、強烈なタックルを浴びせてきた。

 

 ――よ、よけれなッ。

 

 覚悟を決めた瞬間、ふたりの隙間に水色の影。シィールが割り込んできた。

 シィールが毬みたいに吹っ飛ぶ。それを見たアンヘルはなりふり構わず眼球に向けて横薙ぎに剣を振るった。

 

「ギぃやあアアアああああッ!!」

 

 強烈な叫びが辺りに轟く。残った目には怒りと、隠しようのない恐れが浮かんだ。

 

「ナぜッ!? ナぜ、ソこまで闘ウッ!!」

「じぶんのことを、気にしなくていいんですか? 悪魔っていうのは、意外に軟弱なんですね」

 

 嘲笑を添えた。無理やりに笑おうとしたにもかかわらず、表情筋は驚くほどスムーズにいびつな笑顔を作った。

 

「殺スッ!!」

 

 最後の勝負だと、バルドは再度クラウチングスタートの体勢を取った。必殺の構えだ。

 

 足は動かない。多分、受ける事もできないだろう。アンヘルの冷静じゃないところが囁いた。なら、刺し違えてでもやってやれと。

 

 マカレナを一瞬見た。目が合う。神に縋るような目で自身の惨状を気にもかけず、アンヘルの無事を祈っていた。

 その優しさにつけ込んで、暴行を加えた目の前の存在を許せなかった。

 なら、覚悟は決まった。

 

 轟音と共に巨躯が迫る。アンヘルはその砲弾みたいな頭部の光る角を、ジッと見つめる。

 長い角。その先をガシっと左手で掴んだ。

 

 気合の雄たけびともに、全身の光をふり絞る。音をたてながら床を引きずられつつも、その角を離さない。

 

 バルドの勢いが衰えるにつれて、喜びから戸惑い、そして絶望に変わった。

 もがくがピタリと停止する。

 

 ――これで、終わりだッ!!

 

 逆手に構えた剣を天に掲げる。そして、それをなんの躊躇いもなく脳天に振り下ろした。

 

 どすん、という音と共に脳を貫通した。

 

「あ、ア、あ、あ……!」

 

 バルドはかひゅかひゅと息を漏らしている。

 音をたてながら膝をついた。

 

 剣を引き抜いたアンヘルは、そのまま両手で持ちかえ、首筋に向けて振り下ろした。

 

 衝撃を伴って、バルドの首が落ちる。

 生臭い血がドバっと出てきて辺りに血の海を作った。

 

 アンヘルはばたっと地面に倒れる。裸のままのマカレナが駆け寄ってきた。

 ほっと息を吐く。

 

 怪物はピクリとも動かない。

 貧民街を荒らし廻った悪魔は、息の根を完全に止められ、地上から浄化されたのであった。

 

 

 

 §

 

 

 

「えぇー。ホントぉ、いいんですかぁ? 私が頼んでおいて、言うのも何なんですが」

 

 組合の新人担当の受付嬢――テリュスが(しな)をつくりながら、尋ねる。

 時間は午後の手が空き始める時間帯。アンヘルは疲れた身体を引きずりながら、報告のためなんとか組合に赴いていた。

 

「悪魔を倒せるってなかなかの奇跡ですよっ。その名誉を断るだなんて、ホント、いいんですかぁ?」

「けど、報酬が変わる訳でもないんでしょ? それに、君、すごく困るって……」

「いやぁ。それは、そうなんですが……。私も、連続で依頼を押し付けたって知られたらぁ、クビになっちゃいますしぃ」

 

 アンヘルは二度に渡ってテリュスに高難易度の依頼を押し付けられた。二度目の悪魔狩りに関してはテリュスにとっても不可抗力ではあったのだろうが、低級とはいえ悪魔を狩れるような新人と美人とはいえ唯の受付嬢どちらを優先するかということは明白であった。

 

 そういった経緯でテリュスはアンヘルに対して今回の事件の隠ぺいを頼んできたのだ。

 

 結局、バルドの悪魔化した姿は死体になると元通り人間になり、彼が悪魔であるという証拠はなかった。そうなれば、彼を悪魔だと知っているのはアンヘルとマカレナだけである。

 異端狩りの専門である執行者たちには、バルドが悪魔であったという証拠を見つけることもできるのだろうが、徹底した秘密主義の彼らが情報を漏らす可能性は低かった。

 よって、マカレナに口裏を合わせてもらえれば隠ぺいは簡単だった。

 

「いいんですかぁ? 有名になれば、いいチームに入ったりできますよっ。それに、スカウトが来たりとか? 興味、ありませんかぁ?」

「そういうわけじゃ、ないんだけど……」

 

 中年とのやりとりが思い出される。

 

 何を為したいか。それを見つけなければならない。

 アンヘルの頭の中でぐるぐるといろんな夢が巡るが、いまだ、これといった目的は見つかっていない。

 悩みは増すままだった。

 

「もう、ハッキリしませんねっ」

 

 テリュスが机の反対側から身を乗り出し、同時にアンヘルの腕をグイッと引っ張る。突然の行動になすすべもなく受付の机に倒れこんだアンヘルの頬に、なんだか柔らかい感覚が押し付けられた。

 その感触は一瞬ではあったが、女の柔らかい匂いと頬に当たる髪の感触がまじりあってなんとも言えない幸福感をアンヘルにもたらした。

 

 無限にも感じた至福の時間は、現実時間ではほんの一瞬で、テリュスの顔がどんどん遠ざかっていくにつれてアンヘルを現実に引き戻した。

 

「ほら、今回は私のためにがんばったってことでっ! それで、いいですよねっ」

 

 テリュスは顔をプイと背けながらそういった。その顔は窓から差し込む光で分かりづらいが、明らかに赤くなっていた。

 

 アンヘルは感触のあったところを手で抑えた。

 

 ――悩みもある、分からない事だってある。けど、そうやって生きていけばいつかわかるよね。

 

 後ろから感じるテリュス信者の視線を気にしつつも、アンヘルは前向きに進んでいくことを決めた。

 

 

 

 

 

 ミスラス教会の異端狩り特務班・執行者の捜査手帳には、現地に到着したときには悪魔は逃走済みで発見できずとある。

 調査事項には、首を落とされた地回りの男の死体のせいで騒ぎになっていたとあるだけで、他の者の名前はなかった。

 

 

 

 




*タウロスデーモンファンの方は申し訳ありません。


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第四話:強制クエスト発生

「なあ、どうしたんだ。包帯ぐるぐる巻きの大怪我で帰ってきたと思えば、今度はぼおっとして。組合で頭でも打ったか」

 

 宿舎の一室で、ホアンは机の上の問題と格闘しながらアンヘルの奇行に目をつける。慣れない勉強を続けた疲労が顔に色濃く浮かんでいた。

 

「えッ! いや、そんなことないよ。なにもないって」

「そうか? 心ここにあらずといった風に見受けられたが……」

 

 アンヘルは誤魔化すようにして、剣の手入れを再開する。砥石の擦れる音が響いた。

 晩秋の柔らかな光が差し込む昼下がりの一室でアンヘルは回想する。

 

 ――なんていうか、柔らかかったなぁ。

 

 これまでテリュスの事はあまり気にしていなかったが、性的接触を女性と持ったのは彼女がはじめてで、それを意識するなというのはどだい無理なことであった。

 彼女は二度も無理難題を押し付けられた存在だったが、しかし、可憐で女性的な魅力に(あふ)れていて、それでいて無茶をしても許される独特な愛嬌を持っていた。

 

 アンヘルの中で彼女は、迷惑な存在でありながらも意識してしまう複雑な存在へと昇華していた。そこには、女性関係の薄いアンヘルのチョロさが(にじ)んではいたが、同時に彼女の人間的魅力の表れでもあった。

 

「……まあいい。それよりも、砥石をあまり早く動かすな。ぶれて刀身にむらができるぞ」

「うん、ありがと。その……ごめん、試験前だってのに部屋で研いじゃって」

 

 そう返答すると、砥石を持つ手の力を緩める。ホアンはそれを見て続けた。

 

「いいさ、気にするな。……と、言いたいところなんだが最近はそうも言えなくなってきたよ」

「まぁ、試験前ってかなりナイーブな気持ちになるよね。試験ってどんな感じなの?」

「幾つもあるが――」

 

 士官学校上級士官養成課程の試験内容は多岐にわたる。実技による戦闘能力評価や身体能力評価は当然としても、筆記試験として多様な科目を修める必要があった。

 文章読解・作成、算術や史学に加えて建築知識などの専門分野の知識まで問われる。ひとつひとつの問題を取っても容易ではなく、たとえば算術の分野では魔導砲術器のための射角計算に三角関数が平然と使われており、高校数学を一切学んでいないアンヘルには文字が読めたとしても解けない問題がずらりと並んでいた。

 

「いやぁ、むずかしいね」

「難しいって、アンヘルは文字が読めないから、問題の意味なんてそもそもわからないだろ?」

 

 文字が読めない責められたアンヘルはごまかしの意味で視線を散らす。すると、机の上に波紋が広がったような地図に気が付いた。

 

「そうなんだけど……。あれ、この地図って等高線図? 分水嶺を見分けるってことじゃ無さそうだし。ってことは、用兵術の問題かな?」

「……まあ、そうなんだが。よく『分水嶺』なんて言葉を知っているな。結構な期間一緒にいるが、いまだにアンヘルのことが良く分からないよ」

「その、ちょっと聞いたことがあるだけで」

 

 ごまかしながらもぺらぺらと用紙をめくる。ざっと見ではあったが、ホアンの解いた問題には6割近く丸が入っているように見えた。間違えた問題のポイントを一問一問書いており、至る所からホアンの几帳面さが垣間見えた。

 

「アンヘルも勉強するか? 試験に受けるわけでなくとも、文字も読めないのはこれから苦労するぞ」

「それは、そうなんだけど……。勉強かぁ」

 

 アンヘルはため息をついた。

 

「探索者を続けていくといっても、文字を読めなければ依頼もまともに選べないぞ。っていうか、この前それで死にかけただろ」

 

 この世界の識字率は意外にも高い。それはひとえに魔道具の発展によって市民が能力のすべてを労働につぎ込む必要がなくなったからであり、より頭脳労働を行える人間の価値が高まっていることの証明でもあった。農村部の人間はいまだに識字率が低いままだが、都市部やその近隣の人間は私塾から文字や算術を習うのである。

 

 そもそも探索者は必要技能基準の高い仕事であった。逆説的にいえば、文字の読めない人間はこんな危険な仕事でも淘汰(とうた)されることも意味していたが。

 

 アンヘルは渋々ホアンの横に座り、ペンを片手に持った。ゆっくりと文字を書き記す。

 

「ええっと。『わたし”に”あんへるです』、っと」

「おい、そこは”に”じゃなくて、”は”だぞ」

「ええッ!? そっか。うん、ありがとう」

 

 間違えた文字を書き直す。

 

 アンヘルはこの作業がとてつもなく嫌いであった。どうしても日本語的思考が文字習得の邪魔をするからである。

 

 日本語は発声と文字が一致しており、会話可能で漢字や表現方法にこだわらなければ、文字の習得は難しくない。しかし、日本語のような言語はかなり稀で、前世でも日本語の特異性は異彩をはなっていた。

 そしてやはりこの世界の文字も英語と同様、発声と文字が対応していないのである。ひとつずつ単語の(つづ)りを覚える必要があるうえ、どの文字も似たり寄ったりの筆記体で読み取るのも書き取るのも一苦労である。のたうち回る蛇を書き写す作業は多大な精神的苦痛を与えられた。

 

 どれほど時間が経ったであろうか。

 アンヘルとホアンの書く音だけが響いていた。

 

 すると突然、どたどたどたという音が階下から響き渡る。それはどんどん近づいてきて、部屋の前で止まった。

 

「アンヘル。わたし、マカレナだけど居るー?」

 

 アンヘルが返事をする間も無く、がちゃっとドアは開けられた。いつか見た白いワンピースを来たマカレナが入室してくる。

 

「あれ、居るじゃない。返事してよ」

「……」

「おい、アンヘル。誰だ? 知り合いか?」

 

 ホアンの声でようやくアンヘル以外の人間がいることに気が付いたのか、そちらに向き直って笑みを作った。

 

「ええっと、アンヘルの友達さんかな? わたし、マカレナっていうの。気軽に呼んでくれていいから。……えっと、なにさんかな?」

「あ、ああ。おれはホアン。アンヘルの友人だ」

「そう! よろしくねッ」

 

 マカレナは右手を突き出し、握手する。握った手をぶんぶんと振った。勢いに押されたのか、会話に困ったホアンは話の矛先をアンヘルに向けた。

 

「おい、アンヘル。おまえ、おれがいない間、真面目に探索者をやっているのかと思ったが、まさか女をひっかけて遊んでいたのか?」

「いやいやいや、ちょっと待ってよ。そんなわけないよ。彼女とは依頼で知り合っただけで――」

「――襲い掛かられて。それで、裸に剥かれて。それで、それで……」

 

 マカレナはしくしくと目を伏せて泣くふりをする。アンヘルはブッと吹き出しそうになった。

 

「ちょっ。そっちも何言ってるのッ! 嘘はやめてってッ!!」

「べつに、嘘じゃないけど?」

 

 マカレナはうって変わって揶揄うような笑顔で口吻(こうふん)を尖らせる。

 

「いや、言葉だけ見れば間違ってないんだけどッ。けど言い方ってものが――」

「おい、アンヘル?」

 

 融通の効かないホアンが冷たい雰囲気を作り始める。ゴミムシを見るような冷たい目でアンヘルを貫いた。

 

「いやいや、ホアン信じて。ぼくがそんなことできるわけ――」

「そういうこと言う男の人を信じちゃいけないって、お母さんから教わったけどなー」

 

 四面楚歌である。アンヘルをいじめたいマカレナと、受験ストレスで疲れているホアンのスーパータッグは確実に逃げ道を塞いだ。

 とくに、マカレナの冗談が洒落にならない。何ら気負いなくトラウマ級の事件を投げつけてくるマカレナの心理が理解できなかった。それでいて、こちらから突っ込むと特大の地雷になりそうな危険な雰囲気を持っている。

 

 マカレナがふふっと笑う。

 

「冗談、冗談。そんなに本気にしないで」

「いや、けど……」

「わたしは気にしてない。なら、それでいいでしょ。ちょっと怖い目にあったってだけなんだから」

 

 マカレナは目をパチッとウインクしながらも、同意を迫るような強い声色で言った。

 

「なんだ、お前ら?」

 

 ホアンは(いぶか)し気に尋ねる。

 ふたりだけの会話に訳が分からなくて首を傾げていた。アンヘルのような消極的な人間が数日で女の子と知り合うという事態が理解できないのだろう。当事者でなければ、アンヘル自身も意味が分からなかった。

 

 ホアンの疑問を打ち切るようにしてマカレナに尋ねる。

 

「それで、どうしたの? 急に尋ねてきて?」

 

 マカレナはその言葉にパンと両手を胸の前で合わせてから、思い出したようにそうだと言い、深々とお辞儀をした。下げる前に見えた顔には苦々し気な顔が映っていた。

 

「その、ごめんなさいッ! アンヘルのこと、隠そうとしたんだけど、父さんにバレちゃって。それで、連れて来いって」

 

 ああ、やっぱりという感想が浮かんだ。アンヘルの厄日はまだ終わらないようであった。

 

 

 

 §

 

 

 

「じゃあ、わたしお父さんが今空いてるか聞いてくるからちょっと庭で待ってて」

 

 マカレナはそう言い残すと、ぱたぱたと駆けながら屋敷に消えていった。

 アンヘルは手持無沙汰になって辺りを見渡した。

 

「ひえー。大きいねぇ」

 

 豪邸。

 マカレナの家はまさに豪華絢爛(ごうかけんらん)と言う言葉がぴったりの豪邸であった。邸内に入ったわけではないが、外から眺めるだけでも想像は容易についた。個人宅では珍しいガラス窓や黒光りする大扉が目についた。

 なによりも驚いたのはマカレナ邸があった場所である。マカレナ邸は明らかに高級住宅街と思われる場所に立ち並んでいた。この地区はアンヘルが立ち入ろうとすると頻繁に職質され、これまで何度か訪れていたものの十分に見物できない場所であった。

 マカレナ邸は他の邸宅と比べて大きいわけではなかったが、それでも見劣りしない立派な豪邸である。

 

 庭には噴水や彫像、そして花が植えられており、庭師と思われる少年が枝切ばさみで剪定(せんてい)していた。

 

「確かに大きいな。というか、アンヘルは彼女のことを知らなかったのか? こんなお嬢様だって」

「いや、ちょっと変な出会い方だったから……。ホアンは来てよかったの? 試験までそれほど時間ないんでしょ?」

「まぁ、そうなんだがな。ずっと部屋に缶詰というのも効率が悪い。少しくらい外出するほうが、勉強も(はかど)るさ」

 

 ホアンは受験疲れの浪人生みたいな事を言い出す。

 アンヘルは受験の経験からなんとなく理解できたが、言い訳を口にして勉強をサボると大体良い結果にはならないと知ってはいたが、機嫌を損ねるだけだとわかっていたので黙っていた。

 

 そういえばとアンヘルは思い返す。

 

 ――突拍子もない事件の繰り返しで忘れてたけど、彼女、召喚士について黙ってくれているんだろうか?

 

 彼女が紹介してくれた魔導高等医療院で治療している間、アンヘルは召喚士の能力について黙秘してもらうよう頼んでいた。しかし、あの状態の彼女に強く言いつけることもできず、そのまま解散してしまった。

 マカレナは善人ではあったが、ポロッと情報を漏らしてしまう秘密事にはまるで向いていない性格をアンヘルはあの短い付き合いで何となく理解していた。

 アンヘルは、マカレナが父にどれ程情報を漏らしてしまったのか、急に気になって仕方がなくなった。

 

 たんたんとアンヘルがつま先で地面を打つ音が響く。

 

 ふたりは邸内に続く門の前で辺りを見渡していたが、数分も経てばそれにも飽き始めていた。美人は三日で飽きるとはよく言うが、動きもしない邸宅では尚のことである。

 

 ふと庭を眺める。

 庭園の奥、秋桜(コスモス)金木犀(キンモクセイ)など多様な植物で埋めつくされた小さなガーデンに、淡い藍色のカシュクール・ワンピースに包まれた少女が目に入った。

 

 退屈からか、脚が向いた。

 

「おいッ!」

 

 ホアンの咎める声が響く。

 

 後で考えてみればなぜそのような軽率な行動をとったのか、アンヘルは分からなかった。

 その姿に惹かれたと言われれば否定できない。それとも不安だったのか。雑事とは思えない少女から、今日の要件について情報収集をしたくなったのか。それとも、誰かと話して安心したかったのか。

 

 アンヘルは、ホアンの制止も聞かず、その少女に話しかけてしまった。

 

「あのー」

「あら、どなたかしら?」

 

 そう言って振り向いた少女は険しい目でこちらを見た。

 

 形のいい唇。浮世絵にでもありそうな細い鼻付きをした瓜実顔。幼さの中に見える儚さが黒髪に映えた。美しく、それでいて雰囲気のある少女であった。

 そして、なによりも特徴的なのは、車椅子に乗っていることだった。

 

 すべての印象がマカレナとは真逆で、それでいながらどこか共通する不思議な少女であった。

 

 ――なんか、深窓の令嬢って感じだなぁ。目はすごく怖いけど……。

 

「ええっと、ぼくたち、マカレナさんに呼ばれて来たんだけど……」

「ああ、噂の暴漢ね。姉さんを非行の道に引きずり込んだ」

「え゛。ぼうかん?」

 

 綺麗な唇から想像もできない暴言が飛び出す。アンヘルは一瞬何を言われたのか理解できなくて固まった。

 

「ええ。家で噂になっているわよ。バカな姉さんを巻きこんで一日中遊び惚けた末、ふたりとも傷だらけになって病院へ行って、馬鹿みたいに高額な治療費をスリート商会持ちにしてくれた間抜けな探索者さんのことよね」

「……」

「まぁ、間抜けというのが、本当に間抜け面だとは思わなかったけど」

 

 殴った拳を返して裏拳を与えるような少女であった。こちらが言葉を紡ぐ暇もなく毒を吐き続ける。見た目と中身が合わない人物というのは良くいるが、ここまで落差がある人間に遭遇したことはなかった。

 

「あら、だんまりかしら。間抜けな上に口まで動かないの? 可哀そうを通り越して哀れだわ」

「いや、ぼくはべつに――」

「ぼくって、子供じゃないんだから。もっと男らしくできないの? それとも、実は女なのかしら」

「ち、ちがう、ぼくは男で――」

「なら、男らしくすることね。そんなふうでは一生不遇なままよ。あなたの分身と同じでね」

 

 そういうと、口元を手で隠しながら薄く微笑んだ。絵になる仕草であるにもかかわらず、アンヘルには悪魔の嘲笑(ちょうしょう)にしか見えなかった。

 

 元来、男は女に口喧嘩では勝てないのである。口下手なアンヘルと弁達者な少女が対決すればどのような結果になるか火を見るよりも明らかであった。

 

 アンヘルは肩をガクッと落とす。完全な敗北宣言であった。

 

「あら、こんなのにも感情があるのかしら。意外ね」

「おい、あんた。いくら何でも失礼じゃないか」

 

 見かねたホアンが口を出してくる。

 

「事情はよくわからないが、人には引くべき一線があるだろ。いくらなんでも、言い過ぎだ」

「そうね。いくらバカな姉の為とはいえ、すこし言い過ぎたわ。えっと、あなたは誰かしら?」

「……ホアンだ。それでこっちは――」

「いえ、結構。ドブネズミの名前なんて知る必要はないわ」

 

 ホアンの紹介を一蹴する。上げて落とすとはこのことで、アンヘルのメンタルHPはレッドゾーンを爆走中だった。

 ホアンもお手上げと首を振った。

 

「それで、ドブネズミさんはどうしてここにいるの? あなたの住処はここじゃないわよ」

「ぼくはドブネズミじゃ――」

「ドブネズミ意外なら何がいいの? 借金まみれかしら? 好きに選んでいいわよ」

「……」

「ほら、そんなのだから、いつまでたっても間抜けなのよ。さっさと答えなさいよ。どうせいつも間抜けとか言われているんでしょう?」

 

 ――間抜けなんて正面きって呼ばれたのははじめてだよッ!

 

 そう言い返したかったが、出来なかった。言い返せば十倍で殴り返されると分かりきっていたからだ。

 なお、アンヘルは村では間抜けに近いあだ名を付けられていたことを知らない。

 

「……ドブネズミでいいです」

「そう、それでドブネズミさん。あなたはなぜここにいるの?」

「えっと、マカレナさんに呼ばれたからで……理由はよくわからないです。……えっとあなたは?」

 

 アンヘルの質問を鼻で笑った。

 

「私はアリベール。マカレナの妹よ。覚えなくていいわ。……それにしても、なぜ呼んだのかしら。いちいち呼びつける必要なんて――」

 

 最後の言葉はほとんど聞き取れないくらいに小さな声になっていた。元々、アリベールはアンヘルたちと会話する気がないのだろう。こうやって会話の最中に思考を巡らしているのがいい証拠だった。

 

「おい、アンヘル。なぜこの女に話しかけたんだ。口が悪すぎる」

「ご、ごめん。けど暇だったから」

「そんな理由で話しかけるな。はやくお暇するぞ」

 

 ふたりしてこそこそ話始める。ふたりはこの棘を持つバラのような美しい少女から逃げたくてたまらなかった。ただし、棘が大きすぎて「美しい花は棘を持つ」ではなく「棘を持つ美しい花」といった風だったが。

 

「聞こえているわよ?」

 

 アリベールはアンヘルをギロっとにらんだ。蛇に睨まれる蛙と相違なかった。

 

 アリベールはふうと息を吐くと、車椅子の取っ手に手を込め、ゆっくりと立ち上がる。そして一歩二歩と歩き出した。その足取りは生まれたての小鹿よりはマシという印象で、人間の力強さを感じさせる姿ではなかった。

 

「その、歩いて大丈夫なんですか?」

 

 ホアンの早く別れを告げろという視線が突き刺さるが好奇心から尋ねてしまった。

 アリベールが意表を突かれたようにして驚きの顔を作った。

 

「あら、気になるの? ふつうの人は気を遣って何も言わないのに」

「いえ、すこし気になっただけで……」

「まぁ、そうよね。あなたのようなドブネズミさんに気を遣って貰おうとして私が愚かだわ」

「……はい、すみません」

 

 もういいやとアンヘルの頭が言った。この人と対話するのは諦めて、さっさと門の前に戻ろうと思ったときだった。

 硬質な、これまでとは違う強い意思が込められた言葉をアリベールが放つ。しじまを彼女の意思が切り裂いた。

 

「あなたは、自分が歩けることをどう思う?」

「へ?」

 

 予想外の質問であった。

 歩けることについて何か深く考えたことはない。歩くとは手段であっても目的ではないのだ。そこに意味など求めない。

 

 きょとんとしたアンヘルを馬鹿にするようにして、アリベールは笑った。けれど、その瞳はカケラも笑ってはいなかった。

 

「そうよね。あなたたちみたいに普通の人は歩くなんて意識しないものね。けど、私からすれば、羨ましくてたまらないわ。……いえ、ごめんなさい。これは、他人に言っても仕方がないことね」

 

 そう言ったアリベールは愁然の面持ちで庭内の花を見つめる。そこには、これまでの毒とはちがう硬質な隔たりがあった。

 その横顔に気圧されたアンヘルは、その空気の中で立ち尽くしていた。

 

 アリベールは切り替える為なのか、一呼吸置くと、通告するようにして一方的に告げた。

 

「ねぇ、覚えておいて。姉はどうしようもないバカで、何処で野垂れ死のうが知ったことじゃないけど、これでもスリート商会の長女よ。あなたのバカな企みに姉を巻き込んだら、商会のメンツにかけてあなたを許しておくわけにはいかないわ。それをしっかり理解することね」

 

 そう言い残すと、アリベールは車椅子に座りなおし、ふたりの前から去っていった。

 

「大丈夫か? おまえ、あそこまで言わなきゃいけないことでもしたのか?」

「いや……」

 

 もしかしたらとアンヘルは思った。

 彼女――アリベールは商会のメンツだなんだと姉のマカレナを下げる発言を繰り返していたが、もしかしたら姉を危険な事に巻きこんだ事に対して怒っていたのかもしれないとそんな疑問が湧いた。

 

 アリベールが去った後、マカレナが迎えにきたのはその数分後のことであった。

 

 

 

 §

 

 

 

「総額しめて200枚。それが君の治療費だ」

 

 立派な髭を蓄えた壮年の男が腕を組み、椅子に深く腰かけている。その口からしわがれた声で告げた。

 

「それに加えて嫁入り前の娘を一夜中引きまわしたのだ。いくら分別のない探索者といえども、どうなるか分かっているだろう?」

 

 壮年の男は部屋の中に入って来たアンヘルに一瞥した後は一切視界に入れず、机の上の書類に目を落としているばかりだったた。

 

 室内にはマカレナとホアンの姿はなく、武装をした護衛と思われる男が扉の前にふたりいるばかりであった。

 

 ――ぼく一人だけって、そりゃないよ……。

 

 ホアンとマカレナは、呼ばれたのがアンヘルだけだと言うと応接室で茶を飲むことになった。ホアンは半笑い、マカレナは謝罪に満ちた顔で去っていき、残されたアンヘルは孤独だった。

 そんな中で辿り着いたマカレナの父との面会は想像以上に過酷であった。

 

「いえ、その――」

「君に意見は求めていない」

 

 アンヘルの言葉は一刀両断された。

 壮年の男は手に持っていたペンを置きアンヘルをジッと見た。

 

「私が要求はひとつだ。君のような若い探索者が金を持っているとは思えないし、わざわざその程度のはした金を取り返そうとは思わん。良識を期待などしない」

 

 冷たい言葉、それ以上に冷たい瞳だった。壮年の男は探索者であるアンヘルの価値をこれっぽっちも認めてはいなかった。賤民(せんみん)以下、物乞いを処分するような冷酷さで告げる。

 

 ここまでくると悔しさなどは一切覚えなかった。

 

 もちろん、アンヘルの中には反論したい気持ちはあった。マカレナがついてきたのは自分の責任ではないと言いたかったし、殺人事件の調査で悪魔が出てくるなどとは思いもよらなかった。反論できる余地がなくはなかった。アンヘルの心は文句をいったが、頭だけは否定してきた。

 

 身分が違う人間に意見することは、高利貸しから借金をすることより遥かに愚かであると。

 

 身分差がないなどとは幻想だ。それは、この異郷の地に限らず、現代においても否定できない純然たる事実であった。地位、職業、年齢、人格、あらゆる場所で人間にはカーストが存在する。それが、集団ひいては組織を円滑にし、またその内部の構成員にとっても過ごしやすいことをすべての人間が本能的に理解しているのである。

 

 それは、アンヘルも例外ではない。むしろ、その生い立ちからより敏感であった。

 

 顔を伏せ、手を後ろで組み、卑屈に構える。礼儀作法に詳しくなどはなかったが、そうすることが正しいとわかっていた。

 自分を下げる。それこそが最大な礼儀であると。

 

 世界の不条理さでもなく、目の前の傲然としている男にでもなく、ただ自身の弱さに対してアンヘルは(わび)しさを覚えた。

 

 壮年の男はアンヘルの態度を気にもかけず続ける。

 

「いま、我々の商会に必要な魔石や部位を産出するダンジョンがスタンピードを起している。この街から離れていることから大規模な軍が動くのは先だろう。そこで、商会内で協力して傭兵や探索者を雇うことになった。スリート商会も10人ほど送ることになった。君にはそのひとりとして参加してもらう」

 

 そういうと、壮年の男はペンを握りなおした。その目はもうアンヘルを見てはいなかった。

 

 選択肢は「イエス」と「はい」しかなかった。

 アンヘルは小さく返事をした。

 

「詳細はその男に聞け。わかったな、ならすぐに出ていけ」

 

 アンヘルはその声にしたがって一礼すると、すぐに退出した。

 悔しさではない、それでいて似た暗いものが心の中に残った。

 

 

 オスゼリアに来てからの三連強制クエストにして、人生最大の苦行の旅が強制的に始まった。

 

 

 

 

 

 



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第五話:来路花は地に落ちて 上

 

「おい、着いたぞ」

 

 馬車のキャビンに乗っていた重装備の男が声をかけてくる。アンヘルが馬車から顔を出すと寂れた農村の風景が映った。

 

 村の周囲には、最近作られたと思われる木造りの柵が張り巡らされており、村人とは思えない物々しい装備の男が至る所で野営を設けていた。

 モンスターの死骸らしき物体が至る所で燃やされ、饐えた臭いが物騒な空気をより重くしていた。

 

 ルゴスの村。人口三百人あまりの小さな村である。この村は、近年作られた開拓村のひとつで、紫水晶の洞穴と呼ばれるダンジョンの前線基地兼補給所として作られ、魔道具を主に商う商家には欠かせない場所であった。

 当然、魔道具商売で稼ぐマカレナたちスリート商会もルゴス村は重要地点のひとつであった。

 

「オレはまとめ役に報告してくる。あんたらは仲間と野営の準備を手伝ってくれ」

 

 そういうと男は村の中心部に去っていった。

 

 スリート商会から派遣された傭兵はアンヘルを含めて十人。その内訳は、スリート商会お抱えと思われる六人と、外部から引っ張ってきたと思われるバラバラな装備の三人組であった。

 この部隊のリーダーは、スリート商会の当主謁見の際に扉で警護をしていた人間であった。

 

 部隊内の空気が良いとは言えなかった。険悪とまでは言わないが、まったく行動原理の異なるグループと完全なる個人が組み合わさってできた部隊である。有事にはどうなるか想像したくもなかった。

 そのうえ、三人組のひとりがアンヘルを与しやすいと考えたのか雑用を押し付けてきていた。この村に着くまでの一週間で疲労困憊であった。

 

 とぼとぼと歩くアンヘルの耳に、別の商会が派遣した傭兵の話が耳に入った。

 

「しっかし、ここはもうだめだな。想像以上にモンスターの発生量が多いぞ」

「ああ、オマエもスタンピードははじめてか。こんなの普通だぜ。ただ、戦力は足りねぇがな」

「やっぱりそうか。この数じゃ軍隊でもねえとどうにもなんねぇぞ」

「まぁ、そうだな。しかも、いっちゃん力を持ってるプロビーヌ商会の奴らが乗り気じゃねぇ。こりゃ、負け戦だな」

 

 そう会話しながら、傭兵たちは通り抜けていく。

 未来のない情報にぞっとしながらも村の内部を進んでいった。

 

 村の内部に行けば行くほど、人の数とその物々しさは増加した。そこに住む人の表情ははっきりふたつに分かれた。村人と傭兵たちのふたつに。

 

 傭兵たちは村に思い入れはないのだろう。依頼は紫水晶の洞穴のスタンピードを止めることなのだ。村での防衛は負け戦だと考えており、村である程度相手戦力を削り、それ以降の戦いが勝負だと認識しているのだろう。表情は浮かないまでも暗さまでは感じられない。

 しかし、村人はそうもいかない。この村が故郷で終の住処なのだ。能力も縁もない農民たちが他所で暮らせるはずがない。村人たちの顔は、絶望と諦観がブレンドされた暗い面持ちで過ごしていた。

 

 傭兵たちの噂話の通り、村内の空気は死んでいた。それでも村が廻っているのは、他人事ともいえる傭兵たちの空気が伝染しているのだろう。粛々と過ごす。死期を悟った老人のような雰囲気を醸し出す村であった。

 

 アンヘルたちは村人の指示にしたがって、村の中心である村長宅から幾ばくか離れたところに天幕を設営を始めた。

 カンカンと手際よく紐を繋いだ杭を地に打ち込み、天幕の布を張る。一週間繰り返しこなした作業だけあって手際よくこなしていく。アンヘルのほかには純朴そうな商会お抱えの青年が設営を手伝うだけで、他の人間は他所に繰り出していった。

 新人やよそ者に仕事を押し付けるのはよくあることで、この一週間、ふたりで雑用をこなすことが多くなっていた。

 

 荷物を天幕に運びながら、青年に尋ねた。

 

「あの……、さっき聞いたんですけど、情勢が悪いって本当なんですか?」

「ああ、そうみたいだね。とはいっても、自分もよく知らないんだけど。ただ、見れば誰にでもわかる。村の人はみんな下を見ているからね」

 

 青年はポリポリと頬を掻きながら答えた。

 

「大丈夫なんですか? 負け戦なんて」

「まぁ、それは心配しなくてもいいと思うよ。無茶な戦いをするほど、この村に価値はないと思うから。とはいっても、あんまり自信はないんだけど。いつもは護衛ばかりで外に出て戦うのはこれが始めてだから」

 

 青年もどこか他人事な様子で語った。その空気が好きになれなくて、より個人的な話題を振ることにした。

 

「探索者上がりじゃないんですか?」

「いや、自分は道場の出身でね。自慢じゃないけれど、都の若手大会で4強に入ったことがあるんだ」

 

 青年はそのことに誇りを持っているのか、満足気に胸を張る。そして腰に下げた剣の柄を握った。

 

「へぇー、すごいんですね。ぼくも剣を習っていたんですけど、なかなか道場で勝つのは難しくて」

「そうか。まぁ、道場で勝つのは簡単じゃないが、長くやっていればなんとかなるよ。自分は八つのときに――」

 

 ああ、始まった。話を深堀したことを後悔した。

 

 アンヘルはこの青年――イマノルが、自分語りを始めると中々終わらない事を一週間で学んでいた。話は壱に剣の話題で、しかも話題を繰り返す悪癖があった。それでいて空返事をすると機嫌を損ねるのだから面倒なことこの上ない

 この気の良い青年が嫌いではなかったが、悪癖を好きになれる人間は少ないだろう。目の前の青年をそう評しながら、相槌を打った。最後にどうやって締められるか想像しながら。

 

「――それなのに、あいつらは認めようとしない。いつまでたっても門の警備や雑務ばかりだ。剣術じゃ敵わないくせに、実戦経験が足りないとかいっていつも冷遇される。これが老害でなければなんだっていうんだ」

 

 予想通りの終わり方にデジャブを感じた。この青年の意見は最終的に上司批判に帰結する。それには一理あり、また社会の必然性を(はら)んでいた。

 

 イマノルは主張するとおり腕に自信があるのだろう。その自信は剣術を見なくても面持ちから想像できる。しかし、完全実戦派であるアンヘルには危うい強さに見えた。そもそも、道場剣術のような綺麗な武術などモンスターや得物の違う相手が跋扈(ばっこ)する戦場では意味などなく、経験こそが力だとアンヘルは考えていた。それは、実戦経験豊富なベテランほど実感しているだろう。

 しかし、武芸を知らぬものにそれを証明するのは簡単でない。雇い主に戦いの腕の証明を望めば、どうしても真っ向からの剣術勝負になり、一対一の戦いを得意とする青年に勝てはしない。

 

 そうなると、お抱えの商会の護衛たちは実力が足りぬと思っている若者に公衆の面前で負け、青年は実力で劣ると思っている護衛たちから雑務を押し付けられるという対立構造を作り出していた。

 

 このどちらも間違っていない主張は難しい問題だった。正論も慰めもイマノルには逆効果である。結局、アンヘルは同意を返すしかできなかった。

 

 ――言ってる理屈はわかるけどなぁ。そういうものって思うしかないと思うけど……。

 

 そう考えながら、話を続けることが面倒になったアンヘルは今までの経験の中で似た事例を話してやり、自身も同じ経験をしたと話を合わせる。イマノルはその言葉に頷き、理解を示し、満面の笑みで理不尽に戦おうという決意を示した。

 アンヘルは最後に同意を示すと、この話は終わりとばかりに作業にとりかかった。その作業の中で自身の聞き役としての立場が確立されそうになっていることを危惧した。

 

 

 数刻は経っただろうか。

 頂点にあった太陽はかなり傾いており、もうすぐ夕暮れ時になることを示していた。設営を終えたアンヘルは荷物の近くで座り込み、人が往来する道をただジッと見つめていた。

 

 そこにふたりの男が激しく意見を交わしているのを中心とした集団が歩いているのが目に入った。

 

 ひとりの男は若い。年頃はアンヘルと変わらないかひとつふたつ上といった所だろう。整った相貌と艶のある躑躅色(つつじいろ)の髪がその青年の特別さを現していた。

 質のいい上着を羽織った黒髪の青年は、唾を飛ばす勢いでもうひとりの男に口吻(こうふん)を尖らせた。

 

「なにを考えてるんだ、あんたは。撤退だと!? 村がどうなってもいいのか!」

 

 もうひとりの男はそれを歯牙にもかけない様子で青年の赫怒(かくど)を鼻で笑った。

 

「こっちは仕事で来てんだよ。わざわざ意味のねぇ橋は渡らねぇ」

 

 そう返した禿頭(とくとう)の大男は、つまらなそうにボリボリと髭を掻いた。

 大男は重装備で、如何にも傭兵といった風貌であった。それでいて、そこいらの人間とは違うと一目でわかるほどに別格の風格を備えていた。その窪んだ眼窩に備えられていた鋭い鴇色(ときいろ)の眼が青年を見た。

 

「そもそもてめぇに指図される筋合いはねぇ。こっちはプロビーヌ商会の指示で来てるんだ。気に食わなけりゃ、あんたらだけで防衛すりゃいいじゃねぇか。止めやしねぇぜ、俺らはよ」

 

 そういうと大男は青年を笑う。同時に、大男の部下らしき集団から嘲笑の嵐が沸き起こった。

 

「村人はどうなる! このままじゃモンスターに呑まれるぞッ!」

「それこそ知ったことじゃねぇ。ハハッ。それで足止めになるんならいいんじゃねぇか? 肉壁さ、肉壁」

 

 その言葉で青年は拳を握りしめた。

 今にも殴りかかろうとするほど、青年の顔は怒りで染まっていた。

 

「おい、エルンスト、やめろ。もういくぞ」

 

 青年の後方で控えていた若者が(いさ)めた。このままでは殴り合いになると判断したのだろう。ポンと肩に手を置いて、青年を引っ張っていった。

 それを見た大男も唾を吐き、青年とは別方向に消えていった。

 

 彼らのやり取りを聞いていた村民は暗い顔をしている。そして青年に希望を託しているようにも見えた。吹き消えそうな小さな希望を。

 

 アンヘルの横でくつろいでいたイマノルが心配そうに呟いた。

 

「なかなか、今回の戦いは難しそうだ」

 

 諦観の念に満ちた村内を、来路花が寂しく見守っていた。

 

 

 

 §

 

 

 

 夜半になり、天幕へ帰ってきたスリート商会のリーダーの男は、アンヘルたち部下全員を集めると情報と仕事を告げた。

 

 現在、主力を務めるプロビーヌ商会の傭兵団と村人の信を得ている探索者の間で意見の対立が起きており、その意見の一致まで数日は要するだろうとリーダーは語った。

 プロビーヌ商会の傭兵たちはここから一日の距離にある峡谷で陣営を築き、帝都や他の街にモンスターを行かせないための防衛線を張ること主張している。モンスターを効率的に狩るには地理的に優位な場所へ陣地を設けるのは妥当な判断であるし、多くの傭兵たちも賛成しているとのことであった。

 

 他方、村人の信を得ている探索者――エルンストたちは、村の防衛を提案していた。数少ないとはいえ、実力者が揃っているとの噂である若い探索者たちは、全員一致して村の防衛を行い、その間に援軍を呼べば十二分に討伐可能だと主張していた。

 

 しかし、スリート商会のような数が少なく実力者もいない隊には発言権などないに等しく、意見が固まるまで細々とした雑事に従事すると決まった。とはいえ、リーダーは多くの傭兵たちと同じく、撤退を希望しているのはありありと分かったが。

 

 このような事情から、スリート商会の傭兵たちは事実上必須な仕事を持たない遊軍的立ち位置を得ていた。

 当然、仕事も各々の力量を十分に生かすため、別れて行動することとなった。

 

 リーダー率いるスリート商会の護衛たちは、村内の情報収集および村の防衛。

 三人組は単独行動による哨戒。

 

 ここまでは理解できたが、なぜかアンヘルは村の義勇軍、その中でも少年団である一隊の訓練役兼まとめ役を任された。

 

 経緯は一切不明であったが、年頃、風貌から駆け出しだと判断されたのだろう。体のいい厄介払いとも言える。それでいて村の少年たちの御守という危険のない仕事ならば、邪魔にもならないと判断したのだろう。結果、反論の余地なく、子守役を担うことになった。

 

 ――とはいうけど、ぼくあんまりリーダーって向いてないんだよなぁ。

 

 目の前に少年たち六人が粗末な木の板を胸に貼り付け、石を先端にこさえた槍を携えて立っていた。日はまだ頂点に達しておらず、あと一刻もすれば昼になるという時間帯である。

 肌寒くなり始める時期の日光は、程良い気温を作り出していたが、アンヘルは冷や汗でいっぱいであった。

 

 ため息をひとつ吐くと、少年たちに告げる。

 

「ええっと、ぼくが訓練役兼まとめ役を担うアンヘルです。みなさんのことを良く知りたいので、名前とかを一人づつ教えてください」

 

 その言葉に反応したのは、右も左も分からなさそうな少年と敵意をまったく隠さない似た年頃の少年だけだった。それ以外の少年達は、眼中にないといった様子で私語を繰り返していた。

 

「えーと、ぼくのなまえはリカリスっていって。それでそれで、好きなものは――」

 

 舌っ足らずな口調で、隊内で最も幼い少年が名前を告げる。続いて好物や家族の名前などを喋り、それでも終わらずに話し続けた

 

「うん、ありがと。もう大丈夫だよ。そこらへんで」

 

 途中で遮り、次の敵意を向けてくる少年に話を振った。しかし、少年は睨んだまま何も答えなかった。残ったのは、こちらに一切感心を寄せない少年達だけであった。

 

 アンヘルは心の中で頭を抱えた。

 

 こうなることは明白であったとはいえ、何の捻りもなく見せつけてきた自身の統率力の無さが悲しくなった。そのうえ、少年団の現状は最悪の一言であった。

 

 少年たちはアンヘルよりも幾らか年下といった様子で、最年少のリカリスに至っては齢10を数えているかすら微妙なラインである。そして農村特有の細い体格では、そろいもそろって肉壁にも成れなさそうな頼りなさである。

 その頼りなさに拍車を掛けるのが木の防具と石の槍であった。少年たちに鉄製の武具を与えるほどの余裕があるわけないと分かりきっていたが、それでもこうやって揃ったところを見ると悲惨である。

 

 アンヘルはため息を飲み込みながら敵視する少年に近寄り、尋ねた。

 

「君の名前はなんていうのかな?」

 

 刺激しないようにゆっくりとした口調で尋ねたがまったくの無意味で、少年は気勢高らかに罵ってきた。

 

「へっ。別にどうでもいいじゃんかよ、名前なんて。どうせ村なんか放ってくんだろ。あんたらヨウヘイはさ」

 

 その声変りをしていない高い声が辛辣(しんらつ)な言葉を紡ぐと、井戸端会議をしていた少年たちも敵意を隠さない目でアンヘルを睨んだ。

 

「アンタがいなきゃ、武器がもらえないっていうんで来ただけで、それ以上の意味なんてない! ジッとそこで立ってろッ!」

 

 そうだ、そうだと叫ぶ少年たちの声が響いた。

 

「いや、まだ傭兵が撤退するとは決まったわけじゃ……」

「なにが決まったわけじゃないだ。どうせ、子供だから何も知れないって思ってるんだろ。オマエラにとっちゃ村なんざどうでもいいってことは分かってるんだ。言い訳なんざ聞かねぇよッ!」

 

 その言葉でアンヘルは返事に詰まる。その言葉は確信をついていたからだ。実際、村の去就などどうでも良かった。村の今後など大きすぎて手に余る。ただ、この村に未来はなさそうだという予想があっただけだった。

 

「けど、君たちは子供だし……それに、そんな装備じゃ」

 

 自身で言っていて、これは詭弁(きべん)だなと思った。反論のための反論。意味のない対論が口から流れ出る。

 

「だからなんだってんだ。子供だから戦わなくてよくて、それで村は助かるってのか。そんなの、他人事だから言えるんだ!」

「……きみたちが村から逃げれば、よそでやり直せる。わざわざこの村に残って死ぬことはないよ!」

 

 必死に言葉を紡いだ。紡げば紡ぐほど、ほころびが生まれる。それでも、彼にこれ以上続きを言わせたくなかった。なによりも、自身が分かっていたから。

 

「そう、君たちは探索者になれば暮らせるかもしれない。それに街へ行けばいくらでも仕事が見つかるよッ」

 

 必死に提案する。けれど、少年に軽くいなされた。

 

「探索者なんて成功するわけないッ! それに、数人の奴が街へ行くんじゃなくて、村全員で街にいったところで仕事なんてなくて、ほとんど死ぬに決まってるッ」

 

 それは、世俗に疎いアンヘルであっても容易に察せられる未来だった。

 街への移住は良い案に見えるが、それは年若い少年少女だけに許される特急券である。いくら街に仕事が溢れているとはいえ、将来も学もない農村出身の中年を雇う奇特な者はいない。見習いとして、若者を雇うものはいるだろうが、彼らの報酬だけで家庭を養えるはずもなかった。

 つまり、残された道は各家族が持てる伝手を頼って、バラバラに先の見えない移住を決断するしかないのである。

 

 アンヘルだって分かっている。

 貧困から村を捨て、家族と別れを告げ、探索者になったのだ。そして、その道が簡単でないことなど百も承知だった。

 

 それでも、死ぬと分かっている少年たちを戦わせることなどできない。そこまで人間性を捨てたつもりはなかった。しかし、説得の糸口は見つからなかった。

 

「ここはオレたちの生まれた村で、故郷さ。家族や友達が住んでるんだ。関係ないやつはすっこんでろ」

 

 その口火で、少年たちは各々訓練を始めてしまった。

 

 アンヘルは少年の言葉に打ちのめされ、立ち尽くす。

 

 凄然(ぜいぜん)たる現実。

 阻むことのできない崩壊の序曲が聞こえてくる。アンヘルの中で、村の消滅は仕方のないと思っていた。

 

 人間は敵わない巨壁にぶつかることはある。それが村の去就というような、ひとりの人間の力では余る事態に遭遇すれば誰だって隠れて、誤魔化してやり過ごす。仕方ないさと笑って心を誤魔化して。

 

 弱い我々には、身の丈以上の不条理、いやちっぽけな悩みすらも満足に抱えられないのだ。

 

 けれども、目の前の少年は違った。

 アンヘルの理想論ともいえる綺麗事が、この壮絶な事態のまえでは糞の役にも立たないことを一部の隙もなく理解していた。彼が信じるのは、ただ残酷なまでのちっぽけな自分自身の力だけだった。

 

 日本にいた頃なら、画面の向こうの非現実的な決断を一刀両断し、無謀な少年の選択を笑っただろう。どうして、分かり切っている死の結末に進むのかと。しかし、探索者として生き抜いてきたアンヘルに、少年を笑うことはできなかった。無慈悲で無意味な世界に、それでも抗おうとする少年の高潔な意思に。

 

 しかし、その意思こそが彼らに最も必要ないものなのだ。

 

 少年も、誰も高潔さや理想論のような虚ろで飾り立てられた言葉を必要としていない。彼らが欲しがるのは、現実を救う方法だけだ。

 これが異郷の地の現実であった。

 

 まだ高校生にもならぬほどの年若い少年たちに、これほどまで悲痛な覚悟を独りでに決めさせる。そして、その覚悟は、一片の価値もないと言わんばかりに世界に飲み込まれていく。

 

 不条理の極みが、弱者である少年たちを飲み込もうとしていた。

 

 その小さな身体が生み出す拙い武芸を見つめた。

 アンヘルたちが『塔』の探索を始めたころよりもなお幼く、それゆえに弱く頼りない槍術。貧相な身体。基本もない武技に悲壮な輝きを見た。

 

 眼前が涙で(にじ)んだ。

 

 力なき己の不甲斐なさをこれほどまでに呪ったことはなかった。そして、それを覆せないということも。

 

 そんな思いとは裏腹に、完全に無視して行われる少年たちの訓練。

 唯一残った舌足らずの幼い少年――リカリスがキョロキョロと勝手に訓練を始めた少年たちを眺めている。事態を理解するほどの成熟していないのか、明らかに知性が足りていなかった。

 

 涙をごしごしと袖で拭い、リカリスに声をかけた。

 

「ええっと、相手がいないならぼくが相手をしようか?」

 

 リカリスは、アンヘルとは対照的な満面の笑みで頷いた。

 

 

 

 §

 

 

 

 訓練は夕刻になるまで続いた。長々とリカリスの相手を務めたことで、幾ばくか信頼されたのか他の少年の名前を訊きだした。

 

 アンヘルを敵視していた少年――イゴル以外の少年たちとは当初よりもかなり打ち解けられた。もともと、少年たちは村の防衛にやる気のない傭兵たちに敵意を抱いていたのであって、リカリスの相手を長時間続けるアンヘルを嫌う理由は少なかった。その代わりとして、幼い少年に長時間付き合うアンヘルを見くびるようになっていたが。

 彼自身はまったくもって気に入っていないが、侮らせることに掛けては右に出るものはいない。そんな人物に成長しつつあった。

 

 しかし、イゴルは違った。彼の憎しみは根が深かった。それは、村を救ってみせるという悲壮な覚悟の表れにも見えた。それは訓練が終わっても続き、くたびれ果てたリカリスを送っていく道中でも後方からジッと睨みつけて監視していた。

 

 リカリスを背負うアンヘル。それををからかう少年たち、そしてその光景を後方から睨むイゴルという奇妙な集団が家に向かっていた。

 

 少年たちの中でもお調子者の少年が揶揄うように言う。

 

「なぁ、アンヘル。おまえずっと木の槍で訓練に付き合っていたけど、その腰の剣は飾りなのか。なら、オレにくれよ」

「いやいや、そういうわけじゃ。ただ、訓練で真剣を使うわけには……」

「へー。けど、アンヘルって弱いんだな。恥ずかしくないのか? リカリスなんかに負けてよ?」

 

 ――リカリスのやる気を失くさないように程々の勝負をしていただけなんだけど……。やっぱり、滅茶苦茶舐められるなぁ。

 

「いや、槍はあんまり得意じゃ無くて。ははは」

「そんなに弱いんなら、オレが剣を貰ってやるよ。ほら、倒したら魔石をやるからさ。な、アンヘルもそっちのほうがいいだろ?」

「いやぁ、それは。そう、これは形見だから。だから人には貸せないんだ。ごめんね」

 

 剣が形見ってどんな家の出身だと突っ込みを心の中で入れながら、苦しい言い訳を述べた。それでも一定の効果はあったのか、少年は剣を奪う計画を諦めたようだった。

 

 くうくうとリカリスの寝息が耳に入る。

 

 ひとりふたりと少年たちが自分の家に着く。そのたびに、からかうような、それでいて拒絶ではない別れを告げる。残ったのは、リコリスと睨み続けるイゴルだけだった。

 

 そうやって歩いていると、イゴルの家の前に差し掛かる。イゴルはむすっとした顔で家に向かうが、家の前で傭兵たちがひしめいているのが目に入り立ち止まる。

 

 彼らは昨日見たプロビーヌ商会の傭兵たちで、革の鎧や槍、剣で武装しており、その人相の悪さも相まって極悪人に見えた。彼らはイゴル邸の前で、成人に差し掛かりつつある女性を取り囲んでいた。

 

 アンヘルの耳に周囲を取り巻いていた野次馬たちの声が届いた。

 

「ありゃ、彼女また傭兵たちにちょっかい掛けられてら」

「だいじょうぶかいな。さいきん、あいつらも物騒になってきておるしなぁ」

「そだそだ。そんで、ベッピンさんやからね。こら、えらい災難だわ」

「クセルトのとこの女房さも連れてかれて、一夜中責め抜かれたって話だべ。今は、ショウフ以下の扱いで傭兵に引きまわされてるて聞いただ」

「聞いた聞いた。それを止めようとした父親は滅多打ちにあって床に伏せっているうえ、クセルトは部屋に閉じこもって出てこないんだろ。あいつの家に行ってきたが、うめき声が聞こえただけだったぜ。もう、おれたちゃ終わりさ」

「領主さまも助けちゃくれねぇしなぁ、なにが悪かったのかねぇ」

 

 村人たちが諦観の面持ちで凶行を見守っていた。いや、立ち尽くしていたのだろう。ただ通り過ぎるのを待っている。そんな印象を受けた。

 

 栗毛が特徴的な女は、最初は声だけで抵抗していたが、傭兵のひとりが手を掴みあげ、その合間に後ろへ廻った男が不意にスカートをまくり上げたことで反射的に手を掴んでいた男を平手で打ってしまった。パシンという乾いた音が辺りに響き渡る。

 

「テメェッ!!」

 

 殴られた男が眼の色を変えて、腰の剣に手をかける。女に恥をかかされた男は、もう一切の容赦をしないといった冷酷な目で女を見つめていた。

 同時に、後方で睨んでいた少年――イゴルが、男の怒声で自分の前で家でよからぬ事態が発生していることに気づき駆けながら叫んだ。

 

「姉ちゃんッ!!」

 

 イゴルが傭兵たちの間をぬって、姉と傭兵たちの間に立ちふさがった。両の手を広げて姉を庇うように立ちふさがる。それでいて、庇われた姉のほうも強気に傭兵たちを睨めつけていた。

 

「ああん、なんだぁガキ? いっちょ前に騎士さまの真似事かぁ?」

「姉ちゃんには指一本触れさせないぞッ!」

 

 鬼気迫るといった少年の様子に一瞬怯んだ顔となったが、その容姿を見て余裕を取り戻す。にやにやと笑いながら諭すように告げる。

 

「だーからよう。べつにおれたちゃ取って食おうって訳じゃねぇんだ。ただ、このなんもねぇド田舎の糞不味い飯や酒をつまむ(さかな)として、枯れ木みたいな婆じゃなくて若い女にちょっくら酌をしてもらおうって寸法なわけよ。そうすりゃ、この潤いのねぇ日々に一滴でも足しになるってもんさ。ま、そのあとのことは要相談って感じだけどよ」

 

 男たちはヒヒッと意地汚く笑っていた。その好色そうな視線は、女のふたつの盛り上がった丘陵に向いていて、意図は明らかであった。

 欲望でぎらついた目に、女は勝気なつり上がった目をしばたかせた。瞳は明らかな怯えが宿っていた。

 

「姉ちゃん、下がって」

 

 イゴルが槍を構えて、女を家の扉ぎりぎりまで後退させる。そうして、最前面にいる男へ槍を突きつけた。

 

「へへッ、なんだそりゃ。石の槍ってか。そんなんで、どうやって勝つっていうんだぁ?」

 

 槍を突きつけられた男は嘲笑を浴びせた。余裕と侮りがありありと見える。そもそも体格からして大人と子供ほどの差があるのだ。そんな子供に石造りの槍を構えられても滑稽なことこの上なかっただろう。

 

 男が悠々と一歩を踏み出す。イゴルはその余裕につけ込んだ。

 イゴルが顔に向かって槍の穂先を付きだす。男はそれを軽々と避けた。

 

 しかし、狙い通りと言わんばかりに腰に携えた石のナイフを左手で抜き、脇腹の装甲が薄い分に突き立てた。余裕綽々といった様子の男の口から悲鳴が漏れる。そして呻きながら倒れた。

 

「やりやがったな」

「なめてりゃ、調子に乗りやがって」

「ガキが、ぶっ殺してやるッ」

 

 周囲の傭兵たちが得物を抜き、脇をナイフで刺された男も増悪を宿しながら立ち上がった。そして周囲の男達を手で制した。

 

「テメェら、手を出すんじゃねぇ。こいつはおれが直にボコボコにしてやんなきゃ気が収まらねぇ。そんでもって目の前で大事な姉ちゃんを泣き叫ばせてやるぜ。おら、かかってこいや」

 

 男の眼は今までとは違って完全に据わっていた。一歩違えばイゴルもととも彼の姉も斬り殺しかねない。

 

 アンヘルは息を吸って飲み込んだ。

 当然、警察の代わりになる治安維持機関には期待できない。そのうえ、自身の傭兵としての立場から、プロビーヌ商会のような大規模な傭兵団に敵対するのも好ましくない。しかし、こみ上げてくるものを飲み下せなかった。なぜか彼の無鉄砲さが、残してきたホセや兄弟たちを思い出させたからだ。

 

 リンクスを老人に任せ、野次馬をかき分けて中心に躍り出る。そして震えた声色で言った。

 

「待ってください」

 

 仲間を傷つけられて怒り心頭な男たちの前に姿をみせた闖入者(ちんにゅうしゃ)に面食らっていた。そしてそれ以上に、イゴルは助力するアンヘルに驚きを禁じ得ない様子であった。

 

「ああ、なんだぁ、てめえはよ。どこの傭兵か知らねぇが引っ込んでやがれ」

「その、彼は私たちスリート商会が指揮する義勇兵のひとりなのです。戦いが佳境に迫っているなか、戦力を失いたくはありません。どうにか、手をひいてはいただけないでしょうか」

 

 アンヘルは早口で賢しらげに言葉を並べ立てて、深々と頭を下げた。そうやって煙に巻くのが、血気盛んな相手の気勢を削ぐと分かっていたからだった。

 その行為は、男たちの毒気を抜いた。男達も使い走りで、他所の傭兵と揉めるほどの気概や地位を持つ者は集団の中にはいなかった。

 

 スリート商会の名前を勝手に使うのは賭けだったが、こんな依頼を受けさせられた腹いせに名前くらいは存分に使ってやろうという反骨精神が賭けを断行した。

 

 弛緩した空気の中、男達が顔を見合わせる。

 なんとか矛を収められそうだ。そう考えていたアンヘルに、訃報(ふほう)を知らせる声が届いた。

 

「ああッ? どうしたてめぇら」

 

 ゆっくりと野次馬の群れを割りながら、男が歩いてきた。そのひときわ大きな身体つきをした禿頭の大男は、残忍な笑みを浮かべていた。

 先日見かけた、プロビーヌ商会の傭兵団団長の姿であった。

 

 

 



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第六話:来路花は地に落ちて 中

はじめて誤字訂正を頂きました。ご指摘の通り、明らかに間違っていますね(笑)。二ノ吉さま、報告ありがとうございます。


「俺の部下が世話になったみてぇだなぁ」

 

 禿頭の大男は、地の底から響くような低い声で言った。そして彫の深い顔の中に嵌る瞳には、そこいら有象無象の傭兵とは違って人を人と思わない残忍さが滲んでいた。

 

 その鴇色の双眸が、アンヘルを射貫く。

 

「団長。この野郎が得物を抜きやがって――」

 

 刺された男が大男に駆け寄った。同時に、彼らに変化が起き、烏合の衆だった集団が狼を頭に持った羊の群れの如く統一された空気を纏う。それほどまでに団長の信望は厚いのか、圧倒するようなカリスマが成せる業なのか。悪意が集団に戻りつつあった。

 

「なんなんだお前らは。姉ちゃんには絶対に手を触れさせないぞ!」

 

 イゴルが果敢にも叫ぶ。それは、登場した大男の巨大な存在感に対する警戒の裏返しであった。アンヘルも大男の出方を伺うようにして腰を落とす。

 

 その怯えた様子を大男は鼻で嗤いながら、部下に経緯を尋ね始めた。

 

「それで、何があったんだ?」

 

「あのガキがオレを刺しやがったんだ。許しておけねぇよ、頼む、ここは俺にやらしてくれッ」

 

 その言葉を聞いて、大男はボリボリと髭を掻いた。

 

 アンヘルには、男の雰囲気が冷たく、そして硬くなった印象を受けた。

 

「そもそも、なんで刃傷沙汰になってやがる。それだけはやるなって命令しただろうがよ」

 

「それは……あのガキが槍で突いてきやがったからで。べつに、俺が最初に手を出したわけじゃ――」

 

 話を最後まで聞かないまま、禿頭の大男は拳で顔面を殴りつけた。

 

 おおよそ人肉を打ったとは思えないような不快な打撃音と共に男が吹っ飛ぶ。トラックにでも跳ねられたみたく数メートル飛ばされ、イゴルの家の隣の家屋の壁に突っ込んだ。

 

 うめき声を漏らす男に禿頭の大男は悠然と歩いて近寄った。

 

「テメェは、俺の言うことが聞けねぇってのか」

 

 そう言って返答もできない男に向かって蹴りを浴びせ続ける。ぐふという肺から空気が抜ける間抜けな音と重い打撃音だけが辺りを支配する。

 

 十発は蹴ったであろうか。男はもう反応すらしない。周りの傭兵たちも顔を真っ青にしていた。

 

 大男が蹴りをやめ、周囲を見渡した。

 

「悪かったな。俺の部下が世話かけてよ」

 

 人相からは想像もできない優しい声だった。数瞬前まで部下を縊り殺す勢いで暴行を加えていた男とは一致しない柔らかい表情だ。周囲には無作法の部下を懲らしめたように見えたのだろう。イゴルの安心したため息が耳に届く。

 

 しかし、アンヘルだけはより強い恐怖に包まれていた。大男の瞳には、残忍さだけが宿っていたからだった。

 

 大男は言葉を続ける。

 

「けどよ」

 

 大男は視線を外し、倒れ伏した男を見る。そして、悼んでいると言わんばかりの責めの口調で告げた。

 

「あんたらが俺の部下を刺したってのは違い無さそうだ。ああ、可哀そうになぁ。ってことで、慰謝料として、この俺の世話係としてその女を使うってのはどうだ。文句はねぇだろう?」

 

 無茶苦茶な言い分である。そもそも、男をボロクズのように痛めつけたのは大男自身である。それをまるでなかったことにして、他人を責める性根がただひたすらに恐ろしかった。心の底から背筋をぞっとさせる恐ろしい響きは、姉に責め苦を受けさせる話を真正面でされているイゴルですら一瞬気圧されて反抗の意思を奪われたほどであった。

 

「どうかお許しを」

 

 反射的に、身体をふたつに折り頭を下げる。

 

 当然ながら、それを黙って聞き入れるわけにはいかなかった。イゴルの姉をこの怪物に差し出せば、イゴルは立ち向かい、そして命を散らすだろう。村の防衛という近い日に起きる死ではなく、守ってくれるはずの傭兵によって無残に縊り殺されるというまったく意味のない死に方で。

 

 感情を失くして、大男に謝罪する。

 

「ああ? それだけは許して欲しいってか。えらく都合がいいな。こっちは部下がやられたんだぜ。なら、代わりのもんを払うのが筋だろうが。そんなこともわからねぇのか。それとも、この女がそれほど大事か?」

 

「それだけはお許しを、なんでも、致しますので」

 

 しかし、そんな謝罪の言葉は男には通用しない。冷酷な瞳が刃のように光っていた。

 

「だから、てめぇの女かって聞いてんだよ」

 

「……はい」

 

「はあん、なるほどね。見ねえ傭兵だったが、あの若造らの仲間かと思ってたぜ。けど、そういうわけじゃなくて、私情ってことか」

 

 男は満足そうに頷いた。

 

「よし、気に入った。こういうのはどうだ。俺は今、融通の利かねえ若造らにせっつかれてむしゃくしゃしてるんだ。そこで、いまから俺と徒手空拳で殴り合うっていうのはどうだ。それで、この煙草が燃え尽きるまでにお前が立っていられたら、今回は勘弁してやろう。どうだ、じつにいい提案だろう」

 

 大男は凄絶な笑みを浮かべる。そして部下に煙草を持たせ、上着を脱ぎ、指をぽきぽきと鳴らした。

 

 イゴルが唾を飲み込む音が聞こえる。それほどまでに大男の巨躯は圧倒的であった。構えるとまるで巨人だ。アンヘルですら巨人に見える大男は、イゴルにとって真に怪物のように見えただろう。

 

 アンヘルは男を見た。

 

 巨躯、暴力に生きてきた風貌、そして練られた身体を纏う空気。経験も、ダンジョンによる強化も明らかにアンヘルを上回っていた。

 

 正直なところ、半分破落戸と変わらない部下たちには、一対一でなら倒せる自信があった。けれど、目の前の大男からは半端者とは違うオーラがあった。

 

 アンヘルには徒手空拳で戦った経験などない。そもそも武器を使わない身体の戦いでは、体格がほとんどを決める。リーチも威力も圧倒的に違うのだ。それに加えて、強化ですら敵わなければ勝ち目はほぼないと言っていいだろう。

 

 それは、文字通りの私刑宣言であった。

 

 諦めの境地に至りながら、両腕を顔の前に構えた。そして歩み出る。

 

 大男は嗤った。

 

「おらっ!」

 

 掛け声とともに大男が右腕を振り抜く。

 

 アンヘルの視界が一瞬真っ白に揺れた。そして、数歩後退する。腕の上から顔を殴られたにもかかわらず、鼻腔から逆流してきた血が喉を塞ぐ。

 

 ふらふらと元の姿勢に戻ろうとする。しかし、それすら許されなかった。

 

「まだ、始まったばっかりだぜッ!!」

 

 がら空きになった胴体へ拳が打ち込まれる。高温に熱された焼きごてを身体に押し付けられたようだった。一瞬意識が飛び、身体が傾く。けれどなんとか立っていた。口から唾が流れ落ちることにすら気にする余裕がない。

 

 たった二発でこのザマである。煙草に火が付けられてからほんの数瞬しかたっていない。

 

 立て続けに大男の三発目が放たれる。

 

 三発目になって漸く拳が見えた。大振りのその一発を少しだけそれるようにして身体を流す。それで、意識が飛ぶことはなかった。かわりに、拳を受けた腕から嫌な音がした。

 

 いつぞやの飲んだくれ一線を画しており、鍛えられた戦闘者の暴力は尋常ではない。人体を破壊するための暴力、その比類なき膂力から生み出された暴力は想像を絶していた。

 

 朦朧とする意識のなか、躱すのではなく受け流すことに終始する。頭さえクリーンヒットを受けなければ昏倒する危険性は排除できた。

 

 あとは、根性である。部活時代にくだらないと断じた根性論だけが、ただイゴルを守りたいという一心で身体を支えていた。

 

 数えきれないほどの轟音がアンヘルを打つ。そのたびに意識を刈り取られそうになりながら、繋ぎとめる。

 

 揺らされるたび、自身が誰なのかすらも分からなくなっていく。

 

 それでも残った、一粒の小さく頑なな意思が彼を立たせつづけた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「しかし、あの小僧、なかなかやりますね。アンヘリノ大将が本気でやってるっていうのに、最後まで立ちつづけるたぁ。良かったんですかい? 女を連れてこなくて」

 

 手に持ったナイフを弄んでいる痩身の男が、アンヘリノと呼ばれている男に話しかけた。

 

「ああ、別にいいさ。オレの拳を耐え続けたんだ。ちょっとくらいは褒美をやってもいいだろうよ」

 

 薄暗い天幕内でアンヘリノは裸身のまま、村でかっさらってきた女を奉仕させ続けている。暴戻の限りを尽くされたのか、眼は虚ろで涎を垂らしながら視線は定かでなかった。

 

 アンヘリノの周囲には、女の淫蕩を心行くまで楽しんだ男たちがにやにやと嗤いながら屯しており、事後の匂いと混ざりあって陰鬱な空気を作り出していた。

 

 その中の男の一人が、煙草も吸わずに久方ぶりの上機嫌な大将に気がつく。

 

「どうしたんですかい? そんな楽しそうに」

 

「気にすんなや」

 

 アンヘリノは(かしず)く女の髪を無造作に掴み、女の喉奥に向かって解き放つ。肉付きのいい身体が、喉奥に穢れた物を無造作に流されたことで嘔吐(えづ)き、震えた。

 

 長い放出のあと、用済みとばかりに女を放り投げる。

 

「あの野郎、なかなか楽しめたな。また、やり合いてぇもんだ」

 

 そう言ってアンヘリノは酷薄に笑う。

 

 アンヘリノは傭兵としてその立派な体躯を生かし好きに生きてきた。すべての戦いに勝ってきたというわけではないが、殆どの戦いで勝利をおさめてきた。

 

 だからこそ、飽きている。普通の快楽では満たされない。

 

 激変し、殺気を放ち始めたアンヘリノに恐れ(おのの)く傭兵たちを眺めながら、煙を更かす。

 

「次は、どうするかねぇ」

 

 アンヘリノのその冷酷な眼は、興味を惹かれる物を探す狩人の眼をしていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 目覚めたアンヘルの目に映ったのは、つり上がった勝気な目が特徴のイゴルの姉の姿であった。

 

 彼女は力強いパーツがそれでいて柔和な笑みを浮かべていた。

 

「まだ起きちゃだめさ」

 

 女にしては低い声が響く。

 

「どうして、あんな無茶をしたんだい。あんたら傭兵には、村の事なんてどうでもいいだろうに」

 

 女の声でアンヘルが覚醒した事を察知したのか、イゴルが近寄ってくるのが視界の端に映った。そしてピタッと寝台の数メートル手前で止まる。その表情は戸惑いに染まっていた。

 

 アンヘルは目の前の女が告げた言葉を反芻(はんすう)する。どうしてか、と口で弄んだ。

 

 天井を見上げると、小さな蜘蛛の巣が目に入る。視線を振ると、唯一の(いろどり)として来路花の花弁が燦燦(さんさん)と花開いていた。よくある木造小屋であった。

 

 ぐっと力を込め、身体を起した。そして寝台から這い出ると、端に腰かけた。

 

「それは……」

 

 自分自身も理解に苦しむ行動だった。無理無茶を成す人間でないのは、自身が一番良く分かっていた。

 

 心理学者ならば自己解離性を伴う英雄症候群とでも診断するだろうか。くだらない妄想に笑みがこぼれた。

 

「イゴル君が僕たちの仲間だからですよ。だから、放っておくことはできません」

 

 発したセリフは嘘ではない。本音である。ただ、それがすべてではなかった。

 

 けれど、その綺麗事を聞いたイゴルは真に受け泣きべそをかいた。

 

「お、おまえ、おれがあんだけ(けな)したのにッ、それなのに」

 

 アンヘルの事を嫌い、助けられることで複雑に混濁した感情は放流した。ひとたび感情が決壊すれば留めることはできない。イゴルの眼からはボロボロと大粒の涙が落ちた。その目をごしごしと腕で擦っている。

 

 イゴルの姉は、そんな彼を微笑ましく見ていた。

 

 弛緩した空気が流れる。

 

 彼らは無事だったのかと安堵の気持ちが溢れた。そして、落ち着いた空気に馴染んだところで、自身の怪我の具合が気になった。

 

 腕を振ってみる。なんの痛痒(つうよう)もない。破砕された腕も、向こう数日は引かないはずの顔面の腫れもなかった。あれ程執拗に殴打されれば、傷痍(しょうい)によって数日は満足に動けないはずである。しかし、実際は一切後遺症がない。

 

 よくわからない現象に頭を捻る。

 

 リーンの治療を無制限に施せば、負傷を治癒できる。しかし、リーンを召喚した記憶はなく、治癒魔法を行使可能な知人や、治療薬を無償で提供してくれる奇特で財力を持つ知人に心当たりはなかった。

 

 経緯がつかめず頭を掻いていると、イゴルの姉がその回答を持っていると言わんばかりにふふっと笑った。

 

「その怪我が気になってるの? それは――」

 

 イゴルの姉の声は扉が開く音に遮られた。

 

 勢いよく開かれた扉の向こうから、壮麗な装備で身を包んだ躑躅色(つつじいろ)の髪の青年が現れた。

 

「おお、目が覚めたか」

 

 青年は目覚めたアンヘルを見ると、無造作に近寄ってきた。

 

「エルンストさんッ!」

 

 イゴルが喜色満面で叫ぶ。

 

 黒髪の青年は、(たしな)めるようにして口元に人差し指を立て静かにと言った。

 そして、イゴルの姉を一瞥する。すると、彼女はコクンと頷き、寝台の横に椅子を置いた。それをイゴルも静かに見守る。黒髪の青年は堂々とした動きで椅子に座った。

 

 ――なにか力強いものを感じるっていうか、普通の人じゃないというか。

 

 目の前の青年が只者ではなく、得体の知れない、なにか強大な力を(まと)っているように感じられた。使い込まれている実直な装備と堂々たる所作で、少年は明らかに只者ではいことは瞭然たる事実ではある。けれども、そんな見てくれには頼らない、アンヘルを完膚なきまで撃摧(げきさい)した大男とも違う存在格から別次元の生物のようだった。

 

 それは過去、たった一度だけ体感した凄絶(せいぜつ)なる力。ウルカヌ火山でアンヘルの危機を救った美貌の少女と同じ力、絶対的生物強者の証ともいえる魔の法を自在に操る者であった。

 

「もう起きても大丈夫か? オレが回復魔法を掛けたんだが、どこか痛いところでもあるか」

 

 アンヘルはもう一度、身体をゆっくりと細動させる。頭、肩、腕と障害が残りそうな部位を重点的に確認する。重大な損傷後には痺れが残りやすい手をもう一度振ってみる。何の違和感もない。それどころか、日々苛まれている、悪魔によって穿たれた胸の治療痕の幻痛すらもきれいさっぱり消えていた。

 

「えっと、だいじょうぶみたいです」

 

 続く「むしろ今までより快調なくらいです」という感想は飲み込んだ。

 

「そうか、いや、安心したよ」

 

 そういうと、青年は気を張っていたのか顔を弛緩させ、ホッと息をついた。伏せた目尻が、表現しようのない濃艶さだった。

 

 イゴルは二人の会話を遮って声を上げた。

 

「その、エルンストさん。兄ちゃんを助けてくれて、ありがとうッ!!」

 

 イゴルは勢いよく頭を下げた。同時に、イゴルの姉が話を遮ったことに対して謝意を抱えながらも控えめに頭を下げた。その言葉で、アンヘルも目の前の青年が自身の命を救ってくれた事実に思い至った。

 

「あ、その、ありがとうございました」

 

 そうやって頭を下げるため身体を浮かすと、青年は手で制した。

 

「いやいや、やめてくれ。これはオレたちが引き起こしたと言っても過言じゃない。オレたちは傭兵団をまとめる立場で村を守る存在なはずなのに、村を破壊する奴らをのさばらせているんだ。それを責められこそすれ、感謝されるような(いわ)れはないよ」

 

 青年は苦虫を噛みつぶしたような表情をつくった

 

「こちらこそ、礼を言わせてくれ。君のおかげで二人を助けることができた」

 

 そう言いながらエルンストは頭を下げた。

 

「いえ、そんな。やめてください」

 

 照れながら手を開きをぶんぶんと横に振った。

 

 こうやって、正面から真摯に感謝されるのは何時ぶりだろうか。少なくとも、異郷の地における記憶にはほとんどないなと過去を振り返る。

 

 そんな様子を見て青年は笑顔を作った。

 

「そういえば、まだ、名前を聞いていなかったな。君の名前を教えてくれないかな? って、まずは自分の名前からか。オレはエルンスト……傭兵さ」

 

「ぼくはアンヘルです」

 

 控えめに答えた。

 

「そうか、アンヘル。一応聞くが、君は傭兵なんだよな? 装備からそうだと思うんだが、君みたいな年若い傭兵は仲間以外この村では中々見かけなかったから。もしかして、たまたま村に立ち寄った探索者なのか?」

 

「昨日来たスリート商会の傭兵です」

 

「ああ、スリート商会の。そうか、なら納得だ」

 

 エルンストは朗らかな声で納得した。合点がいったとばかりに手を合わせる。

 

「そう、兄ちゃんは今日から俺たちのリーダーなんだッ」

 

 イゴルが寝台に飛び乗った。姉の咎める声が小さく響く。

 

「こら、邪魔しない。エルンストさんは忙しいのよ」

 

「別にいいよね? おれ、じゃましないし、それに、エルンストさんは優しいからそんなこと言わないよ。だからいいでしょ」

 

 身体を張ったのがよかったのか、それとも取り繕った善意に絆されたのか、イゴルに認められたようだった。今の彼は丸きっり別人で、棘のある罵声もなく心を開いている。

 

 エルンストは微笑ましそうに笑った。

 

「ハハ、そうか。アンヘルはいいリーダーなんだな」

 

 いえと反射的に否定しそうになった。実際のリーダー業務は何もしていないのである。

 

「けど、ごめんな。オレもアンヘルと話すことがあるんだ。申し訳ないんだが、二人きりにしてくれないか」

 

 イゴルの姉が恥ずかしそうに頬を染める。

 

「いえ、そんな。申し訳ありません。こら、イゴルッ。ほら、さっさといくよ」

 

「えー、なんだよ姉ちゃん。べつに、いいだろー」

 

「ばか言ってない。さっさとくる」

 

 イゴルの姉は聞き分けのない弟を引っ張っていきながら、扉の前で一礼すると部屋を出ていった。

 

 静寂が流れる。二人で向き合う時間が流れた。

 

 二人とも話を切り出せずに沈黙する。アンヘルは戸惑って、エルンストはどう話したものかと悩んで。

 

 最初にその静寂を切り裂いたのはアンヘルだった。

 

「聞いても、いいですか」

 

 エルンストは一瞬訝し気な目をする。

 

「あ、ああ。べつに構わないが。どうしたんだ?」

 

 アンヘルは好奇心と保身を両天秤に掛けて、より好奇心に重りを追加した。どうしても気になったのだ。

 

「その、本名を教えていただけませんか」

 

「本名はすでに言ったが? エルンストが本名だ」

 

 エルンストは意味不明と首を傾げた。

 

 言葉が足りなかったかと考えながら、そういう意味じゃないと首を振り、もう一度尋ねた。

 

「そういうわけではなく、フルネームを教えてくださいという意味です」

 

 エルンストの表情が変わる。そして、一段階低いトーンで返答した。

 

「どういう意味だ」

 

「……今、考えていらっしゃる通りの意味です。エルンストさんは我々とは違う高貴な身分かとお聞きしました」

 

 エルンストの冷たい目が射貫く。圧力が増した。

 

「なぜ、そう思うんだ」

 

「あなたが、回復魔法を使えるからです」

 

 その返答にエルンストの張りつめていた気が緩んだ。そして、(たしな)めるようにして言った。

 

「回復魔法が使えるだけで貴族と決めつけるな。市井にもいただろう、回復魔法が使える人間は。教会の司祭や治療院の医者がいい例だ」

 

 エルンストは、ははと小さく笑った。

 

 教会・治療院に回復魔法を使える人間は、希少ではあっても存在する。そもそも魔法は貴族にだけ許された御業(みわざ)ではない。人は大なり小なり魔法を使える。幾年ものたゆまぬ努力があれば、魔盲と呼ばれる一部の無能者を除けば、ライター程度の火魔法は誰でも行使可能だ。

 

 ただ、魔法を費用対効果の面で有効な段階にまで持っていくには、才能とそれに合わせた技能開発が必要である。才能の乏しい人間には明らかに費用も労力も効果には見合わず、一般人には才能のある者か金持ちの道楽としてしか魔法は学ばれない。

 

 そして唯一、外科技術と密接に関係する治癒魔法の技術は魔法技能の中でもポピュラーな費用対効果の面で優れた技能であり、一般人にも学ぶ価値のある技能のひとつであった。

 

 しかし、アンヘルはその事情を加味したうえで、エルンストが高貴な身分であると考えたのだ。

 

「あなたは、市井に出回っている回復魔法より高度な魔法を行使できるのではないですか? それに、洒落で装備しているようには見えない、使い込まれた武具。飾りには見えません」

 

 語りを続ける。

 

「探索者に始まる戦闘行動を前提とする魔法技能所有者は回復魔法よりも攻撃魔法を優先して習得します。体系づけられた魔法を学ぶ機会にない魔法士は、自身の特徴と合致した唯一の技を研鑽(けんさん)します。必然、回復魔法などにまわす余力はありません。武術や交渉術、人脈などを作る必要がありますし、治療は金や薬で補えますから」

 

 エルンストは黙している。

 

「つまり、戦闘技能に優れるもので回復魔法が使えるものは貴族に限られます。神官の可能性もありますが、傭兵に成りすます可能性はかなり低いと思われます。それに、彼らはなにより分かりやすいですから」

 

 話し終えると、緊張をほぐすように息を吐いた。

 

 沈黙が場を支配する。

 

 長い沈黙のあと、エルンストは参ったという顔をした。

 

「ふぅ、アンヘルのいう通りだよ。バレては仕方ないな。オレは、エルンスト・オーゲル・シュタール。法政家を輩出するシュタール家の次男だ」

 

 エルンストは乾いた笑みを浮かべた。

 

「よくわかったな。このことは、仲間にも数人しか打ち明けていなんだが。それにしても中々貴族事情に詳しいな」

 

「士官学校上級士官養成課程を受験する友達から聞いたことですから」

 

 それに、と続ける。

 

「他の人も知っているんじゃないでしょうか。正直、初めてお会いしたときから只の傭兵には見えませんでした。仲間の方も薄々気づいているのでは」

 

 エルンストは眉をへの字にした。

 

「……本当か?」

 

「分かりませんが、少なくとも知っていて言わない人もいるのではないかと」

 

 目の前の少年が、隠し事が上手には見えなかった。節々から感じられる家柄の良さ、教養の高さ。整った容貌を合わせれば、平民の傭兵に見える奴のほうが異常者だ。

 

「初めて言われたよ」

 

「恐らくですが、皆さん気を使われていたのではないかと」

 

 その言葉でエルンストは悩む表情を一瞬作り、冷え切った空気を打ち切るような空々しい元気な声で述べた。

 

「まあ、いいさ。なあ、なら、少なくとも知っている君がそうやって(へりくだ)るのは止めてくれないか。今は、ただの傭兵で、君となにも変わらない対等な存在なんだ」

 

「そういうわけには」

 

 無理な注文であった。心に刻み込まれた記憶。権力という名の怪物を見て育ってきたアンヘルに、貴族と対等な関係を築くことは不可能に近かった。

 

 それを気にせず、エルンストは咎める。

 

「ほら、敬語。オレは出身が貴族ってだけで、今はそんなの関係ない。それに、オレは貴族だからって威張り散らすのは好きじゃないんだ。ほら、気楽にエルンストって呼んでくれよ」

 

「ええっと……それなら、そうするよ」

 

「よし、それでいい。オレのことを知っている仲間も対等に話してるんだ。アンヘルもそうしてくれ」

 

 平易な言葉で話し合うことに同意したわけではない。

 

 相手がそれを望むならそうする。それこそが、アンヘルの上位者との付き合い方であり処世術だった。

 

「いや、雑談が長くなったな。アンヘルに、聞いてほしいことがあるんだ」

 

 エルンストはそう前置きした。

 

「アンヘルも聞いているかもしれないが、今、ダンジョンのモンスター討伐について傭兵たちで意見が分かれていることは知っているか?」

 

 アンヘルは神妙に頷く。

 

「そうか、知っているならいい。傭兵たちは二つに分かれているんだ。アンヘルが今日相手にした大男、プロビーヌ商会お抱えの傭兵団団長アンヘリノは村を捨ててこの村と街の間にある峡谷まで撤退することを主張している」

 

 エルンストは言葉を一旦切った。

 

「その連中と対立しているのが、オレ達防衛派だ。とはいっても、数十人しかいないんだが」

 

 ゴクリとつばを飲み込んだ。それを気にせず、エルンストは続ける。

 

「アンヘルたちスリート商会も村の防衛には賛成していないことは知っている。けど、なんとか賛成派にまわってくれないか? 最近、モンスターの攻勢が強まっている。このままじゃ、撤退派の勢いに負けて、撤退が決まってしまいそうなんだ。そうなれば、オレたちは命をかけて村を守るつもりだ。頼む、そのときは君だけでも防衛に参加してほしい」

 

 そう言って、エルンストは頭を下げた。貴族とは思えない態度で真摯に懇願していた。

 

 この村に来訪してから常々感じられる閉塞感。生き永らえる姿勢を捨て、ほとんど諦めている村人たち。すでに防衛を放棄している傭兵達。そのすべてが、エルンストという指揮官から語られることで結びつき、現実味を帯びてくる。エルンストが語ったすぐ先の未来と得られた情報が符合した。

 

 しかし、その点ではない。聞いてはならないはずの言葉を聞いてしまった気がした。

 

 頭を下げているエルンストを見つめながら、震える声で尋ねた。その声は、驚くほど低かった。

 冷たい冷たい、声が出た。

 

「そのために、少年義勇兵を結成しているんですか」

 

 エルンストは頭を下げたまま答えた。

 

「ああ、そうだ。このままでは、傭兵団は撤退することになるだろう。そのために、戦力が必要だった。子供に戦わせるのは酷だとは思ったが、青年義勇団を作ってしまえば、少年義勇団がつくられてしまった。オレも止めようとしたんだが、村人が勝手にやってしまって」

 

 苦々しい声で続けた。

 

 その回答は、アンヘル求めた答えではなかった。

 

 子供を戦わせたくないわけではない。いや、アンヘルだってリコリスたち少年を戦場に叩き込みたいわけではないが、村では男は齢十を超えれば成人と等しく扱われる。精神的にはともかく、能力的には成人と同じ能力を期待される。それを、村育ちのアンヘルが理解していないわけではない。

 

 許せないのは少年たちを戦わせる決断だ。

 

 彼らの命を掛けて村を守るという決断は尊い。これをただの傭兵が言ったなら尊敬できただろう。素晴らしい自己献身の精神だと。しかし、貴族が、指揮官が語るのは許せなかった。

 

 村を守る。それはいい。正しい決断に聞こえるうえ、素晴らしく燦然(さんぜん)と輝く理想の未来である。

 

 しかし、現実には対処法は二つしかない。

 

 つまり、村を捨てて楽にモンスターを討伐するか、傭兵を犠牲にして村を守るか。

 

 ルゴス村には現在大量の傭兵が集っており、その数は数百人にもなる。その全戦力をもって対処に当たれば、村を守り、モンスターを撃滅することは叶うだろう。傭兵たちの被害を度外視した場合だが。

 

 当然、傭兵たち、そして傭兵を雇っている商家の人間は受け入れない。無理を通すには、その反発を無視できる強権か報酬を示さねばならない。

 

 残った方法は唯一つ、村を捨てる。馬鹿でも理解できる理屈だ。

 

 村を捨てれば、村人は飢えて死ぬだろう。稼ぎ口を失った家族が生きていけるはずもない。受け入れがたい現実だ。しかし、年若い少年少女たちは助かる。アンヘルと同じように、将来ある年若い者たちには受け入れ口などいくらでもあるのだ。

 

 エルンストたち若武者たちが、義憤に駆られるのはいい。自己犠牲に酔って、綺麗事をほざくのはいい。若者故、高位魔法技能者ゆえの万能感に陶酔してもいい。

 

 その瓦礫のあとに残るのが、郷里愛に満ちた若者の将来を断つことだと分かっているならば。

 

 貴族なら、指揮官ならばと反駁しそうになった。

 

 どれほど受け入れられない未来が迫ろうとも、立場があり、教育を受けた人物なら英断するべきだ。少数の人間を生かし、助ける決断を。

 

 どれほど恨まれても、蔑まれても、人々を導くのが力持つ者の定めであってほしかった。村の防衛という名の愚かな希望を村人たちに抱かせるのではなく、現実を突きつけ、村人の生き残りを最優先に考えさせることが。

 

 しかしアンヘルは憤怒と失望、軽蔑に蓋をした。するしかなかった。

 

 何を言ってもエルンストは受け入れないだろう。対等な関係だと彼は言ったが、それをアンヘルは信じない。

 

 そもそも「私とあなたは対等で、どんな批判も受け入れる。だからなんでも言ってほしい」という言葉ほど空虚に響くものはない。

 

 あの有名な韓非子も葉陰も述べているとおり、古来から諫言の危険性についての故事には事欠かない。

 

「意見をしてその人の過誤を正す」とは、奉公人の第一要項であるように思える。ほとんどの人間はその理念に(のっと)り、人の好かない、聞きたくないことを言ってやるのが親切であると思い込んでいる。

 

 だが、実際にはそうではない。そもそも、他人の成している事に対して道徳論・効能論を持ち込んで粗を探しだし、批判することは容易いのだ。その容易くなんの役にも立たない話をさも識者ぶって成せば、無視されるどころか恥をかかされたと恨みを買うだろう。こんな批判は、的外れな批判よりも遥かに害悪で、悪口と何も変わらず、識者ぶった愚者の気晴らしにすぎない。

 

 これは意見された者の器の大きさの問題ではない。人間の本質なのだ。

 

 諫言というものは、まず、その意見が受け入れられるか考え、その次に相手に意見を受け入れさせることができるほどの影響力・親密度を持っているか考えるべきなのだ。その過程を飛ばして、好き放題に講釈を垂れ流すことを諫言とはいわない。いいところを褒めて、気分よくさせることに心を砕き、そして、自身の望む方向に相手のベクトルを微修正する。それが、諫言であり限界だ。

 

 アンヘルとエルンストの間には、主張に決定的な溝がある。

 

 根本方針すら違うのである。折り合える可能性など微塵たりとも存在しない。

 

 仮に撤退について理論整然と意見しても、路傍の石と同じ弱腰で村人を見捨てる傭兵へ評価が下がるだけだ。実際にはそうならないかもしれない。若武者エルンストはアンヘルの意見を受け入れ、苦渋の決断として少数の村人たちを助けるかもしれない。

 

 けれど、アンヘルは信じない。ただ、ひたすらに権力を信じない。そして、それ以上に目の前の男を信じなかった。

 

 唇を噛み締める。血が出るほどに噛み締めた。そして、止めようとしても止まらない声の震えを携えながら尋ねた。

 

「もし、傭兵たちが撤退して後、残った戦力で戦うことになった場合、勝算はどのようなものだと見積もっていますか? 魔法ですべてを片づけられますか?」

 

 エルンストは身体を起して、質問を意味を一瞬考えた。

 

「いや、オレは魔法が余り得意ではないんだ。ウチは代々法政を司る家柄で、血筋的に魔法を得意としていないんだ。だから、かなり厳しい戦いになると思う」

 

 そうですかと力なく返答した。

 

 逃れられない死がイゴルたちに迫る光景を易々と見える。絶叫が耳を(つんざ)いた。イゴルやリカリスの遺骸が、磔にされ、貪られ、朽ちていった。獣が、猛虎が、か弱いウサギを喰らい、花々を踏みつけにする。愚かな群れの長がそれを唖然と見ている。そして、人々が幾年にも渡って築き上げてきた歴史が崩れるのだ。

 

 窓から差し込む月明かりが昏い。ろうそくの火が風に揺られて明滅していた。

 

「なあ、アンヘル、頼む」

 

 そう言いながら、エルンストはもう一度頭を下げた。

 

 誰もが称賛するだろう。否定することのできない素晴らしい姿勢だった。誰もが尊敬しただろう。アンヘルという一種の悲観論者以外は。

 

 すべての悪夢に蓋をして、笑顔をつくった。

 

 感情と別物を顔に貼り付けることが、まっとうな人間の一歩であると言い聞かせながら。

 

「はい、スリート商会の傭兵なので勝手はできないのですが、できるだけ努力いたします」

 

 エルンストが満面の笑顔をつくる。

 

 まっとうな人間への一歩は、苦い血の味がした。

 

 

 

 

 



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第七話:来路花は地に落ちて 下

 それからの数日間、アンヘルは少年義勇兵の訓練に努めた。

 イゴルからの信頼を通して他の少年たちとも仲を深めたアンヘルだったが、やはりリーダーとしての威厳を欠いていたのか、何時まで経っても少年たちに指示を徹底させるのは叶わなかった。

 

 打ち合い稽古に都合がよく、それでいて扱いやすい兄ちゃん。それが数日間の訓練で確立した地位である。本人としては真っ平であったが。

 

 アンヘル個人の立ち位置も変わった。変わらざるを得なかったというべきだろうか。いくら個人行動が多くとも社会性動物であるのに違いない。何かを頭と仰ぎ、群れなければ生きていけないのだ。

 

 元々、仲間内に居場所のないアンヘルはよく目立った。それを見かねたエルンストは派閥の人間にも引き合わせてくれた。知性溢れる学士、猛々しい武人、才気あふれる学士と能力あるエルンスト少年の仲間は若く、それでいて彼に劣らず才能の輝きを放っていた。

 数度言葉を交わしただけだが、彼らが優れた人材であるとすぐに分かった。

 

 知己を得るとはすばらしい事である。それが、未来ある徒であるなら尚更だ。しかし、思惑渦巻き、信頼できる味方が何よりも重要な傭兵達との間では良い方向へ働くはずがなかった。

 

 つまり、本人の意思にかかわらず、アンヘルはエルンスト派のシンパとして周囲から看做されるようになった。

 

 立ち位置が変われば環境も変化する。撤退派に属するスリート商会での居心地は、裏切者のアンヘルにとって(すこぶ)る悪いものであった。内心は撤退派の意見を否定できないどころか、むしろ賛成派に近いため、より気疎い思いを抱えることになった。

 唯一、仲間に迎合していない新入りの青年だけはエールを送ってくれたが、焼石に水である。

 

 そんな経緯で天幕内での居場所を完全に失くしていた。

 

 そこで手をあげたのがイゴル達であった。

 彼らは今回の迷宮スタンピードによって両親を失くしていた。イゴルは寂しかったのだろう。彼の刺々しさは、つまり、彼の内面の裏返しでもあったのだ。

 

 また、イゴルの姉には思惑があった。村では先行の見えない将来の不安が募っており、その中でも殊更、成人しているイゴルの姉は焦りが強かったのだろう。探索者としてある程度の実力を持つアンヘルは相手として不足はなく、この先の見えない現状で、人間が相手を求めるのは必然であった。

 

 イゴルの姉は積極的にとまでは行かなかったが、進んで世話を買ってでて、熱心に奉仕してくれた。

 彼女の女の魅力。ムチッとした太ももに盛り上がった双丘、時折見える腋の艶美さに心揺らされながらも、日々耐える暮らしを送ることになった。

 

 そんな三者三様の思惑が一致によって、まるで三人の家族のごとく日々を過ごしていた。

 

 アンヘルは朝起きて、来路花が咲いた花瓶の水を取り替える。そして、イゴルの姉が作る朝食を食べ、イゴルと共に訓練所に向かう。イゴルは訓練所で人が変わったようにしてかまってきた。「兄ちゃん、兄ちゃん」と付いてくるイゴルは、父親を失った代償行為だとしても、悪感情を抱かせるものではなかった。

 そして、日が暮れると家に戻り、夕食をとる。そして、イゴルやその姉としばしの間、緩やかな団欒を楽しむ。そして、大人の共同作業を姉と取り組むはずだった。妙に勘のいいイゴルがいなければ最後以外は実現した、異郷の地に来てからのはじめての緩やかな日々であった。

 

 しかし、現実は無情で、穏やかな日々は続かない。

 

 家に住み込み始めてから数日後、防衛派と撤退派の間で最終の話し合いが持たれた。日々激化する言い争いに終止符を打ったのは、ここ一帯を支配する領主軍が渓谷の防衛のために出陣したという情報であった。

 

 元々、折り合いの付かない話し合いであった。それでも、話し合いの席が持たれていたのは、(ひとえ)にエルンスト少年が持つ能力と見え隠れする家格のせいであった。大男が如何に優れた傭兵で、五十に近い傭兵を派遣できる商家のお抱えであったとしても、正面から支配階級の人間とやり合うのは避けたかったのだろう。大男との諍いは、そんな板挟みのもどかしさの顕れであった。

 

 しかし、領主軍に従うという大義名分を掲げれば話は別だ。領主の判断にしたがって撤退する判断をした傭兵たちの考えを改めさせるには、エルンスト少年は領主を直接問い詰める必要があった。しかし、立場を隠しており、領主に再考させる時間すらなく、傭兵団を引き留める理由を創出できなかった。

 

 傭兵たちはすぐさま撤退していった。

 

 アンヘルには選択の余地もなかった。情報が遮断されているためその情報を、話し合いという名の通告、退去の準備、そして漸く撤退が始まって村内ががらんどうになり、別れの挨拶としてイマノルだけが生き残ったら連絡してくれという台詞を聞いたとき初めて知った。

 

 スリート商会としてはさして重要ではない新人で、なんなら殺したほうが良いと指示されているのか、それとも単純に少年義勇兵にまとめ役が必要だったのか。アンヘルはあっさり置き去りにされた。

 

 なんとなくは察していた。こうなった以上、撤退側に与することはできないと分かってはいた。

 だが、青年傭兵の死にゆく者を見る慈しみと勇敢さを称える羨望の眼差しを受けたときは、これ以上もなく堪えた。

 

 しかし、覚悟は決まった。

 折を見て、少年義勇兵を連れて撤退すると。

 どれほど(そし)られても、どれほど蔑まれても、イゴルたちだけは救ってみせると。

 

 それだけが、自身に成せる唯一の事だからと。

 

 傭兵たちが去って数日経つと、モンスターを間引く人間がいなくなった事で明らかに存在密度が上昇していた。村の物見やぐらから見渡せば、至る所にモンスターを発見でき、周辺警備の危険度は加速的に上昇した。

 

 村民すべてが武器を取る。

 唯一、子供と未婚女性だけが隣町へ避難することになった。年長者には現実が漸く見えたのだろう。その決断を強行した。

 イゴルの姉は心配そうに、それでいて気丈に去っていった。弟に家族愛の証である来路花を、アンヘルに口づけをして。

 

 そしてまた数日後、事は起きた。

 

 迷宮から吐き出され続けたモンスターが限界を超え、大群をなして移動を始めた。

 

 怪物たちの行進が、地獄の濫觴(らんしょう)が、幕を開けた。

 

 

 

 §

 

 

 

 剣戦の煌めき、怒号と破砕音、そして血潮の臭いが辺りを支配する。曇天と戦場が交錯する草原は、暗澹(あんたん)たるものだった。

 

 パープルカーバンクルの投擲魔法を躱し、跳躍。青小鬼(ブルーゴブリン)の脳天に剣を突き刺す。剣を蠕動(ぜんどう)させ、脳髄を掻きだした。

 地面に足を着けると同時に、脳を掻き出された青小鬼(ブルーゴブリン)の腕を掴み仲間を殺されて唖然としている小鬼(ゴブリン)へぶん投げる。死体は数匹の小鬼を巻きこんで地面に転がる。

 

「はあぁぁああああッ!!」

 

 イゴル達少年義勇兵は、倒れ伏した小鬼に向かって槍を突き刺す。 喉頚、臀部、胸部をめった刺しにされた小鬼は不快な悲鳴をあげる。

 

 それを見たアンヘルは、続けざまに腰の鉈を投擲。パープルカーバンクルの胸部に突き刺さり、ブシュっと血流が吹き出る。

 そのまま疾駆し、倒れる死体から乱雑に鉈を引き抜くと、敵集団に向かって飛び込み回転。

 

 横薙ぎに振るわれた剣戟は小鬼達の胴をかち割る。桃色の贓物が腹圧に押されて排出。獣臭い血臭が漂う。

 内臓を掻き出されても命尽きない小鬼の顎を右足で蹴りつけ、その勢いのまま後方へ跳躍して退避。

 

 膝をついて息を整える。同時に、周囲の状況を見渡して怒鳴る。

 

「だめだッ、イゴル!! まえに出過ぎだッ」

 

 アンヘルたちが任された村の西門はダンジョンの真反対に位置しており、その防御の必要性の薄さから戦力が不足していた。当初配置されていた数人の傭兵・村の青年は開始早々攻勢の強い東門に向かっていき、今では傭兵の弓使いと老齢の狩人、そしてアンヘルたち少年義勇兵だけであった。

 

 彼らには叱責が届かない。指示を無視しているわけではない。ここにいる少年たち全員が戦場の空気に飲まれているのだ。それは大なり小なり、年長者たちも同じだった。

 

 舌打ちをすると立ち上がる。

 突貫してくるワルりんに向かって下から切り上げる。血潮が顔を汚した。

 

 ブッと口に入った血を吐く。そしてイゴルまでの最短距離を駆け抜ける。

 一歩二歩と疾走。通り道を妨げる障害を撫で斬りにする。断末魔の交響曲の中で一目散に走った。

 

 ――迷宮の中で戦うよりは、なんとかッ。

 

 迷宮のモンスターは強化の影響を強く受けている。そのモンスターが外界へ出てきた場合、通常よりもひと回りほど弱くなる。そのうえ、西門に廻ってくるモンスターは、スタンピード早期段階で生存競争に負け迷宮外へ脱出を図ったいわゆる負け組であり、西門の防衛機能を合わせれば十分に対応できる範囲内だった。

 

『塔』よりも一段落ちる強さであり、数多の戦いを潜り抜けてきたアンヘルにとっては手頃な相手だったが、しかし、素人である少年義勇兵はすでに限界を迎えつつあった。

 

「イゴルッ!!」

 

 扉の付近から走り出して、倒れたモンスターに止めを差そうとしていたイゴルの首根っこを掴む。そして、後方へ放り投げた。

 

「なんだよ、兄ちゃんッ! じゃますんな」

「飛び出ちゃだめだ、木柵の後ろから門を死守するんだッ!」

 

 二体のドラゴンシードが横を抜けようとする。その先には槍を震えて持つ、リカリスがいた。

 

 バックステップからの反転、減速しないままドラゴンシードを穂群斬り(ほむらぎり)の要領で両断。銀線が虚空を通り抜ける。

 

「抜けたのお願いしますッ!」

 

 おうと返答した弓使いの傭兵が、矢を射る。矢は風を切ってドラゴンシードに突き刺さる。敵は苦悶の表情を浮かべて倒れ伏した。

 

 ホッとしたのも束の間、イゴルがさらに飛び出す。そして青小鬼に向かって槍を突きだす。同時に、反対側でも少年の飛び出す姿が見える。

 

 イゴルの槍が躱され、反対に青小鬼の三又の槍が突きだされる。小さい身体から繰り出される槍芯をアンヘルは左手だけをイゴルの顔の横から出し、決死の思いで掴む。摩擦で左手の皮膚が千切れる感触。それでも、イゴルの胸、数十センチ手前で槍が停止する。同時に右の手で握る剣が眼球を抉る。悲鳴と同時に槍を握る手の握力が喪失。青小鬼の槍を奪い取る。

 

 反対側で戦いに戸惑っている少年を狙う獣へ槍を投擲すると、間髪入れず傭兵の矢が到来。獣は血を吹いて絶命する。

 

 少年の援護に老齢の狩人が腰の手斧でモンスターに斬りかかる。老齢とはいえ、自然と獣を相手に生き抜いてきた経験は侮れるものでない。狩人の手斧が小鬼の頭蓋を粉砕。脳漿(のうしょう)を噴出させながら手斧を引き抜いた。

 

 アンヘルはイゴルの手を掴んで無理やり門前の木柵の後方へ連行すると、堀を乗り越えようとする紫紺幽体(アメリット)の姿が映る。

 

 属性石という名の手榴弾を抱えて浮遊するゴースト系モンスターは一対一ならともかく、拠点防衛には神経を使う相手である。地形を無視して走破できる移動性能と範囲破壊攻撃は放置できない脅威だ。

 

 村の周りに張り巡らされている木の壁に鉈を突き立てる。そして、その刃の上に飛び左足を掛け、さらに跳躍。右足で壁の天端(てんば)を踏みしめ、横幅三十センチもない道を疾駆する。一歩二歩と平均台を移動するように走る。目の前に堀を越え壁を乗り越えんとしていた紫紺幽体(アメリット)の姿をとらえる。

 

 紫紺幽体(アメリット)が抱える属性石を投擲する。濃紫の属性石が投擲された。

 

 アンヘルはそれを横に飛び躱す。足場失ったため落下するが、代わりに紫紺幽体の尾をむんずと握り、共に堀の中に墜落。血が垂れ流しになっている水堀の中に飛沫(しぶき)を上げて落ちる。

 

 音圧の波が水分子を揺らし、伝播することでアンヘルの耳に紫紺幽体のくぐもった悲鳴が響く。屈折の影響で歪んだ体躯を眺めた。

 

召喚(サモン)

 

 水中に幼水龍シィールを召喚。水中という得意領域において、シィールに敵うものはそういない。

 

 シィールが紫紺幽体の胴体(かじ)り付く。歯圧に負けたのか、幽体は身体を保てず悲鳴を上げながら煙となって消えた。同時にシィールが背びれでアンヘルを水の外に弾きだす。地上へ出た瞬間にシィールを召還(アポート)。髪をかき上げて戦線に復帰する。

 

 ――これで六十三体目っ。

 

 戦闘開始から数刻は経っただろうか。当初はアンヘルと傭兵の二人で排除していたモンスターは減ることを知らず、徐々に押し込まれつつあった。

 

 中でも苦しいのは開戦当初から働きづめの傭兵である。

 とくに、射撃にはどうしても打起し、引分け(弓を引く)の際に胸筋、上腕二頭筋、後背筋を酷使する。打つ詰めである傭兵の疲労は大きく、先ほどから明らかに矢の勢いと精度が落ちていた。

 

 疲労に関してはアンヘルも他人事ではない。こうやって戦場を駆けまわる戦い方は連続で続けられるものではない。それでも、モンスターの練度の低さと時折見せる狩人のサポートにより絶妙な均衡を維持していた。

 

 攻勢が一瞬弱まったことで傭兵が近寄ってくる。中年のその男は、周囲をぎらついた視線で観察しながらもアンヘルに声を掛けた。

 

「はぁッ、なあ。どれくらいの余力があるッ」

「あ、後、持って一刻というところでしょうかッ!」

 

 視界の端で老齢の狩人が紫紺幽体(アメリット)を打ち落とす。

 

「お、おれはもう限界に近い。それに、矢弾が底をつくッ」

 

 そういって、腰の矢筒を見せる。後数本しか残っていなかった。

 

「け、剣の心得は?」

「あんま得意じゃねぇっ。女を落とすことよりは得意だがよ」

 

 どんな例えだと心で呟きながら、剣の血糊を反故紙(ほごがみ)で拭う。そして息をついた。

 

「あの、どうして村の防衛に残ったんですか?」

「ぁあ? なんだいきなり」

 

 中年の男は意表を突かれたのか、驚いた顔を作った。

 休息が口を開かせる。その口は率直な疑問を尋ねた。エルンスト少年の防衛派は若手で占められていて、彼のような中堅の傭兵は珍しかったからであった。

 

「シンパのお前に聞かれるとはな。それともなんだ、実は格好だけってことか」

「……」

「ハン、まあいいさ。……よくある話さ。村出身の傭兵が年食って辿り着いた村が、故郷に重なった。くだんねぇ理由さ」

 

 男は唾を吐く。

 

「そんな理由で、こんな戦いに残ったんですか?」

 

 今度はアンヘルが驚くことになった。故郷でもない村に過去の思い出だけで命を掛けるその精神を理解できなかった。

 男は破顔して笑う。若ぇ若ぇと呟いた。

 

「まだ、おまえさんには分かんねぇかも知んねぇけどよ。人が決断する理由なんざ三つくれぇしかねぇんだ。理想か、義務か、それとも過去か。結局よ、傭兵として色々ワリィ事やってきた俺も、そこいらの奴らとなんも変わらねぇんだよ」

 

 しみじみと呟いた。鳶色(とびいろ)の瞳が苦悩の色を浮かべる。

 アンヘルは男の悲壮感を感じ取って息をのんだ。

 

「おまえこそ、なんでこんなところに居やがる。ここは死地だぜ、間違いなくな。ぜってぇ生きては帰れねぇ。それなのに、義憤心に燃えてねぇなんざ自殺志願者もいいところだぜ」

 

 男は煙草に火をつけて、煙を吐き出す。視界の端では、リコリスが属性石の炸裂に驚いて尻もちを着くのが見えた。

 間髪入れずイゴルが飛びだしていく。「あいつは長生きしねぇなぁ……」と男は呟いた。老齢の狩人が援護に入るったのが目に映る。

 

「それは……」

 

 イゴル達のように下手な誤魔化しは通用しない。芝居が下手なアンヘルは嘘も下手だった。問い詰められ、返答に詰まった。

 

 男は「若いってのはバカだねぇ」と笑った。嘲る笑みではなく、懐かしいものを見る郷愁の笑みだった。

 

「まあ、いいんじゃねぇのか。もしかしたら、生き残れるかもしれねぇぜ。気づいてるか? さっきから、南から迂回してくる連中が減ってやがる。もしかしたら、スタンピードも打ち止めってことなのかもな」

 

 それは、と呟く。そういった男の声にも空々しさだけがあった。

 

「……それは、南門が抜けたという事じゃありませんか? 北門の迂回は変わらないままです」

 

 南門から迂回してくるモンスターが減ったとなれば、殲滅されたか、それとも突破されて村の中に侵入されているかのどちらかである。北門から迂回するモンスターが減っていないのならば、突破された可能性が高かった。

 アンヘルは考え得るかぎり最悪の可能性を述べる。

 

「もしそうなら、ぼくたちは後方からの攻撃に晒されること――」

「やめろって。んなのわかってんだよ、気休めさ、気休め」

 

 これだから坊ちゃんてのは気休めが通じねぇから嫌になんだよと呟くと、暗い声でいった。

 

「さっきから真後ろで怒号が聞こえやがる。おそらくだが、ほかのところが抜けやがったんだろうな」

 

 男は煙を吐き出す。遠くでイゴルの「俺はやれるんだッ!」という叫びと狩人の制止する怒鳴り声が聞こえた。

 

「そもそも、土台無理なのさ。モンスターを狩り尽くすならともかく、村を防衛するなんざ不可能に決まってやがる。人が影響を及ぼせる範囲なんざ決まってらぁ。あいつらリーダー連中が守ってる東門は生き残るかも知れねぇが、他のところは抜かれて村は崩壊さ」

 

 煙草を地面に放り、足でぐりぐりと火を消す。

 

「ここが、もう限界なのさ」

 

 覚悟していたアンヘルですらゾッとする昏い響きだった。

 力なく男は笑っていた。

 

「ほら、来やがったぞ、お客さんだ。盛大にパーティを開いてやらんとな」

 

 男はニヒルに笑って矢を数発放つと、終わりとばかりに弓を投げ捨て、腰の剣を抜く。アンヘルもそれに合わせて、剣を水平に構えた。男に指示されるまでもなく、招かれざる客の集団に突貫。

 

 刺突、撫で斬り、切り上げ、回転。残ったモンスターを水堀に叩き落として、相棒のシィールを召喚。悲鳴を上げさせる間も無くモンスターは水底に沈む。代わりに紅い血が水面を染める。

 

「イゴルッ。飛び出しすぎだッ! こっちにもどれ」

「うるさい兄ちゃんッ! いま、ここで頑張んなきゃ、何時頑張るっていうんだッ!」

 

 青小鬼の三又の槍を跳躍して躱す。そして、青小鬼の頭部の右半分に足を掛け、頸骨をへし折る。

 飛び降りると叫んだ。

 

「君は少年団のリーダーだろッ! リコリスをサポートしなくてどうするんだッ!」

 

 語気を意図的に強める。戦うことに必死なイゴルには届かなかった。

 しかし、瞬く間に周囲のモンスターを斬り殺したアンヘルの勢いに押されて、一瞬怯む。

 

「……けどッ、兄ちゃん。前で倒したほうが、リコリスのところには行かないよッ!」

「それは君がひとりで相手を打ち倒せる力がある前提だッ。いまの君じゃ、正面から戦ったら勝てないぞッ」

 

 老齢の狩人の額には大粒の汗。彼がイゴルをサポートするため、限界を越えて身体を酷使していることは明白であった。

 

「なんだよッ! 兄ちゃんもおれを除け者扱いすんのか。バカにすんじゃねぇ!!」

 

 イゴルがアンヘルに掴みかかろうとする。

 終わらない戦いに、少年義勇兵は限界を迎えつつあった。

 

 また少年たちが持ち場を離れて、水堀や木柵でからめとられたモンスターの止めを差そうとする。

 もう少し集団戦に長けた人間が居ればとないものねだりをした瞬間、後方から衝撃が轟いた。

 

 轟音。

 岩がぶつかったような重量のある轟音とともに、濃紫の槍が門から二本突き出ている。そして、その二本の槍が門の向こうに消えたと思うと、再度出現。門の別の箇所に穴を開ける。

 

 (かんぬき)に当たったのか、門が開いていく。同時に、門に風穴を開けたモンスターの姿が見える。

 

 両手に構える濃紫の双槍が妖しく光る。頭部は大仰な装甲で覆っておきながら、胴体部分は軽量化のためか薄い。尖った二本足が木偶人形(ゴーレム)という名の殺戮兵器に似合わぬ速度と俊敏性を可能にする。紫色の殺戮兵器(ダークゴーレム)。紫水晶の洞穴において突出したキルスコアを誇る、怪物である。

 

 その後方から、ぶよぶよ不思議生物の親玉、デカワルりんが襲来。その後方から覗く村は、悲鳴と炎に包まれていた。

 

 ――リコリスたちが危ないッ!!

 

 リコリスたちは、自分たちのすぐ真後ろに顕れた巨躯のモンスターに驚愕したのか、震えて動けない。身代わりとばかりに、傭兵が飛びかかる。

 

 ダークゴーレムの無機質な四つの機械眼が煌めく。同時に右の槍が構えなく突きだされる。

 突き出された槍は男の腹部を貫通。ダークゴーレムは獲物を掲げるようにして、中年の男を宙に掲げた。

 

 男の口がゆっくりと動くのが眼に入る。「あとは頼まぁ」と口を動かしたように見えた。

 

「うわぁああああッ!!」

 

 絶叫。

 アンヘルは一目散に駆け出す。

 

 ダークゴーレムは次の狙いを定めたのか、物言わぬ死体となった男を堀へ投げ捨てる。そして、次の獲物であるリコリスを目標にして、槍を振りかぶった。

 リコリスは震えて動けない。

 

 リコリスが逃げられるよう躍り掛かろうとするが、デカワルりんの一体が向かって突撃してくる。ワルりんとは桁が違う突撃に、剣で受けるしかなかった。

 

 衝撃までは消せず、後方に吹き飛ばされる。同時に、濃紫の槍が突きだされるのが見えた。

 

 スローモーションで世界が流れる。リコリスの悲壮な顔と無情な紫紺の槍の間がなくなっていく。

 その無限にも思えた悪夢は、双槍がリコリスの小さな胸部と頭部に穴を開けたことで終わった。

 

 豆腐にフォークを突き刺した軽さで双槍が突き刺さった。

 

「てめぇええええッ! よくもリカリスをッ!!」

 

 イゴルの絶叫が響き渡る。

 

 ダークゴーレムはその声すらも愉悦を感じるのか、それともただの定められた行動なのか、串刺しにしたままのリコリスを宙吊りにする。

 

 そして両腕に力を込める。ぎりぎりと少しづつ開かれていく二つの槍に合わせて、リコリスの体は開かれていく。

 眼窩に開けられた穴が拡張され脳漿をまき散らし、胸部に空いた穴からは血流と白いモノが見える。万力のような力を加えられたリコリスの口からは、即死にもかかわらず(つんざ)くような不快な響きを奏でていた。

 

 臨界点を越え、双槍が勢いよく真横に広げられる。

 拡張に耐え切れなかったリコリスの身体は、身体を穴の空いた頭部とそれ以外のふたつに分割され、地に落ちる。開いた瞳孔からは、絶望と恐怖がありありと残っていた。

 

 リコリスの幼い身体の頸から、血液が流れ血の海を作る。その体を、ダークゴーレムは踏み潰した。

 

 絶叫。いや咆哮か。

 喉が枯れそうになるくらい叫ぶが、水堀に沈んだはずの男の手が縁に掛かっているのが見えた。

 

 思い出せ、何故ここにいるのか。傭兵やリコリスの復讐をするためじゃないだろと心に言い聞かせる。

 そして、目の前に立ち塞がるデカワルりんを切り伏せる。

 

「これ以上無理だッ! ぼくたちはここで村を放棄して撤退するッ!!」

 

 同時にダークゴーレムへ襲いかかる。目的は倒すことでも、無力化することでもない。ただ、リコリスの死体を見て震えている少年たちに襲い掛からないように意識を引くためだ。

 それでも、脇をぬけていくモンスターを押しとどめる事はできない。下がれと叫ぶも、逃げ遅れた数人がモンスターに(たか)られ、悲鳴を上げる。

 

 落ちているモンスターの死骸を盾に槍を躱し、機械眼に向かって鉈を投擲。四つあるうちのひとつに突き刺さる。

 ダークゴーレムは怒りを噴出させるようにして槍を振り回す。アンヘルはチャンスと見て、生き残っているひとりの少年を連れ、イゴル達の元にやってくる。

 

「撤退するッ! イゴル、君もいくよッ」

 

 老齢の狩人は疲れか油断か、足をやられていた。置いていくしかない。アンヘルは老齢の狩人に一礼すると先に進もうとする。

 

「何言ってんだ兄ちゃんッ! ここで撤退ッ!? あんたも、腰抜けの傭兵たちと一緒だってのかッ!」

 

 イゴルは石の槍を振り回し、老齢の狩人ににモンスターを近づけないようにしながら続ける。

 

「それに爺ちゃんは動けないんだッ!! ここに置いていくっていうのかッ!」

 

 老齢の狩人が悲痛な眼をしている。それが眼に入った。

 

 このわからずやがと怒鳴ろうとした瞬間だった。後方から悲鳴が上がる。連れてきていた少年が青小鬼の槍が胸部を突き刺さっていた。

 クソッと叫ぶ暇もない。反射的に手に持っていた剣を閃かせ、青小鬼の頭蓋を半分に寸断。パカッと開き、うねうねしている脳みそが現れた。

 

「このままじゃ、皆死んじゃうんだッ! 見ただろ、ここで死にたいっていうのかッ!」

「それでも、オレたちの村なんだッ! 今ここで戦わなきゃ、いつ戦うっていうんだッ!」

「だからって、無駄に死んでも意味ないだ――」

 

 言い切る途中で、ダークゴーレムが濃紫の槍を振りかぶるのが見える。そして投射。うねりを上げて、槍が到来する。

 

 反応する暇すらなかった。

 飛来する槍をただ唖然と見守る。

 

 濃紫の槍は宙空に尾を引いて、真横を通り過ぎる。そして悲鳴。アンヘルは後ろを振り向いた。

 

 投擲された槍は、イゴルの脇腹を貫通。そして、倒れている老齢の狩人の頭部に刺さっていた。

 

「に、にいちゃん……」

 

 イゴルが血を吹き零しながら、地面に倒れる。

 

「あぁあああああああああ!!」

 

 相棒シィールとリーンを召喚(サモン)。シィールに冷気放射を、リーンにイゴルの治療を指示する。

 亜空間を作りだすかと錯覚させるほどの強烈な冷気を周囲に放射。その隙にイゴルを背負った。

 

 シィールが作りだした道を駆け抜ける。リーンはアンヘルの肩に飛び乗り、治癒を始めた。

 

 向かってくる敵を切り伏せる。足が重たい。あれほどいた少年たちや仲間はもういない。残ったのは、アンヘルと重症のイゴルだけだ。

 

「イゴルッ、がんばって、頑張ってッ! 街に行けば、医者が、医者がいるんだ」

 

 血に飢えた獣たちが跋扈(ばっこ)する草原を駆け抜ける。モンスターを切り伏せ、水たまりを踏みこえ、木々を迂回する。

 

 もう力が入らない。足が棒のように痛んだ。それでもアンヘルは走り続けた。

 

 背中にかかる暖かい命の水が足を突き動かす。走る、走る、走る。

 盛り上がっている丘陵を越える。後方には、轟轟と煙の立ち上がる村が小さく見えた。

 

「に、にい……」

「喋るなッ! だいじょうぶ、絶対にだいじょうぶだからッ!」

 

 アンヘルは止まらない。止まれない。

 若き命が、前途ある少年の未来が尽きようとしているのだ。止まるわけにはいかない。

 

 いや、違った。そんな他人行儀な考えではない。

 イゴルは、彼はアンヘルの現身で鏡なのだ。

 

 イゴルとアンヘルはまったく似ていない。けれど、イゴルを他人だとは一切思えなかった。

 

 アンヘルは傭兵の言葉を思い出す。

 なぜこの村を守っているのか。それは理想でも、義務でもなく、ただひたすら過去に、現状に縛られているのだ。イゴルはアンヘルなのだ。村人として日々を過ごしており、押し寄せる不条理に四苦八苦している。村人として、そして探索者として過ごしているアンヘルと何も変わらない。

 

 そしてイゴルの未来はアンヘルの将来を映しているように見えたのだ。力ない人間の、ありきたりな末路を。

 

 イゴルを死なせるわけにはいかない。

 それは、ただひたすらに、自分自身のためだった。同じ境遇・過去を持つ人間の人生の結末を直視したくなかった。自分勝手で、自己中心的で、ひたすらに自分本位な願い。それでも、イゴルには生きていて欲しかった。

 

 駆け続ける。

 草原を抜けて森に入る。早く走りすぎた影響か、途中で右手を葉で切り裂いた。ドロッとした血が流れ出る。剣を握る手から力が抜ける。それでも、イゴルを背負う力までは抜けなかった。

 

 目の前にドラゴンシードが現れる。アンヘルは、もう戦えない。

 

 相棒のシィールを召喚する。門から飛び出したシィールはドラゴンシードに噛みつく。相手には突如現れたシィールを躱す術なかった。

 

 首元に回しているイゴルの腕が急速に冷たくなっていく。

 そして、それに合わせ軽くなる。疲労が溜まっていく身体に反比例し、軽くなるイゴルの身体。

 

 避けようもない未来を幻視する。それに蓋をして走る。走った。

 

「い、いまは、よるなの?」

 

 イゴルが掻き消えそうな声で尋ねる。目を(しばた)かせていた。

 

 空には重い積雲が集り、光は木々に遮られているとはいえ、まだ日中で暗闇にはほど遠い。けれど、イゴルは周囲の物に反応しない。彼の目は、もう光を映していない。開かれている目はただの飾りだった。

 

 アンヘルの背中に意識が行く。そうすれば、否応なく命の水がこぼれていることがわかる。ドバドバと、とめどなく。

 

 リーンが悲壮な顔で顔を振っているのが目に入った。ふるふるとこれ以上は無理だと。

 

 うるさいと怒鳴る。リーンは叱られれば身体を縮こませるが、今はただ粛々と回復を続けた。癒しの光がイゴルを包む。

 

 はやく、はやく、はやく。駆けつづける。

 隣町までは徒歩で数日かかる。しかも今は森の中を走り抜けているのだ。街に辿り着くには、それ以上掛かるだろう。

 

 イゴルには今すぐ医者が必要だ。数日後なんて意味がない。そんな理屈は分かりきっていた。

 けれど、走った。

 

 理屈じゃない。ただ走った。

 ただ、イゴルを生かしたいという一心で。

 

 半刻は走り続けただろうか。疲れた身体でイゴルを背負ったまま、走り続けた。

 けれど、それは唐突に虚空から飛び出たシィールがアンヘルの腕を引っ張ったことで終わった。

 

 なんだと聞こうとして、シィールの哀しい瞳が映った。その瞳は、背中のイゴルをただジッと見ていた。

 

「に、にいちゃん……」

 

 小さな、小さな、葉擦れにかき消されそうな声が響いた。

 アンヘルは諦観と絶望を綯交(ないま)ぜにされた気になりながら、イゴルを地面に横たえた。

 

「……どうしたの?」

 

 アンヘルは優しく尋ねる。

 

「ね、ねぇ、ここは、どこ、なの? オレ、もう何も見えないよ」

 

 息をのんだ。

 ただの森、ただの木陰だ。その言葉を封じ込める。

 

「……ここは、ここはルゴスの村だよ。……ほら、あっちにお姉さんの声が聞こえるでしょ」

 

 咄嗟に嘘を吐いた。もう、イゴルの目は何も映していない。ただ、暗闇が広がっているだけだった。それでも、その嘘に目は喜びを表した。

 

「そ、そっか、それじゃ、オレたち……むらをま、まもった、んだね。へ、へへ、やった。やったなぁ」

 

 イゴルの眼から涙がこぼれる。そして、ぼそぼそと口を動かした。

 

「けどさぁ、オレ、し、しんじゃうのかなぁ……。なんか、もう、からだ、がうごかない、んだ。に、にいちゃん」

 

 イゴルは続ける。

 

「いやだなぁ、し、しにたく、ないよぉ。にいちゃん」

 

 眼前が涙で滲む。

 その滲んだ視界の中でイゴルの身体を見た。腹部に空いた穴からは臓器がゴソっとなくなっており、そこからは腸の残りが覗いていた。穿たれた穴は想像以上に大きい。

 血が噴出するように流れ出ている。黄色がかった肌から血が抜けたため、イゴルの身体は色白を通り越して青白くなっていた。

 

 アンへルは涙声でイゴルに語りかけた。

 

「だ、だいじょうぶっ! ほら、いまお医者さんが来てくれたから。ほら、だから、ひと眠りすればもう元通りだよ。し、心配なんかないってば」

 

 涙を零しながらも、空々しい明るい声で答える。

 

「そ、そっかぁ。じ、じゃあ、なおった、らたんさくしゃに、なろうかなぁ。おれもさ、にい、ちゃんみたいにさぁ……」

 

 もう、ほとんど聞き取れない。泣きながら、嗚咽を漏らしながらイゴルの口元に耳を寄せて言葉を読み取った。

 

「できる、できるよイゴルならッ! だから、だから――」

 

 命の灯が消えようとしている。イゴルのあらゆる所から力が抜け、生気が失われていた。

 

 アンヘルは神に祈った。この異郷の地に送り込んだ何者かに祈った。

 このか弱き少年を助けてほしいと。生涯ではじめて、心底なにかに縋った。

 

「へ、へ。にい、ちゃんが、そういう、なら、できるかなぁ……」

 

 イゴルは最後にそう言うと、二度と動かなくなった。

 

 頭を抱えて、膝を突き、蹲る。村を見捨てた傭兵たちに、無謀な選択をした若武者たちに、残酷な世界に呪詛を唱える。それよりも大きい、自分自身への無力感をひたすらに呪った。

 

 力なき自身。何も成せない、少年すらも救えない自分自身を呪った。

 その呪いは、ただ自身に跳ね返った。

 

 呪いをイゴルの前で吐き続けていると、シィールが主人を慰めるためか手の傷口を舐める。

 

 くぅーんと小さく鳴いた。同時に身体を擦り合わせる。その体表が、明らかに青くなっていることに気が付いた。

 顔を上げる。シィールの全身は深青に染まり、額から伸びる角は桃色の鋭利なモノに代わっていた。体格もひと回り大きく成っており、以前のシィールとはまったく違うものだった。

 

 【若水龍プレシィール】への進化であった。

 アンヘルは先ほど、シィールがドラゴンシードを噛みちぎった事を思い返す。そして、【幼水龍プレシィ】の進化条件がドラゴンシードであったことに思い至った。

 

 けれど、その姿を見てより暗鬱な気持ちになる。

 

「……ちがう、ちがうんだよシィール。必要なのは、僕たちに必要なのは、そんな力じゃないんだ」

 

 蹲ったまま、地面に顔を付けた。

 シィールは主人を慮るようにして、首をくぅーんと傾げた。

 

 ――違うんだ。そんな力じゃ、飲み込まれるだけなんだよ……。

 

 涙が滂沱の如く流れた。泣き続けた。それを分かち合うようにして、シィールは隣に寄り添っていた。

 蹲ったまま、数刻が流れた。漸く日も暮れ、雨が降ってきたところで、立ち上がった。

 

 そして、イゴルの遺体を背負って、歩き始めた。

 

 

 

 §

 

 

 

「申し訳ありませんでした」

 

 隣町に着いたアンヘルは、そのぼろぼろの身なりのまま、イゴルの姉に頭を下げていた。目の前には、イゴルの死体が横たわっていた。

 

「弟さんを死なせてしまったのは私の不手際です。謝罪の言葉もありません」

 

 能面のような顔のまま、頭を下げ続ける。友人たちに身体を支え続けられているイゴルの姉は、アンヘルの謝罪を最後まで聞き続けていた。

 一言一句、最後まで。

 

「お詫びのしようもありませんが、本当に申し訳ありませんでした」

 

 謝意を告げると顔を上げて、イゴルの姉を直視する。彼女も、アンヘルの顔をジッと睨みつけていた。

 

 友人たちに支えられていた身体に力を入れて、ツカツカと歩み寄る。そして、右手を振りかぶった。

 パシンと乾いた音が鳴る。

 

「こんな、こんなことをして悲しくなくなると思っているのッ! どっかにいってッ!! 二度と私の前に姿を見せないでッ!!」

 

 女の悲痛な叫びが辺りを支配する。

 

「申し訳ありませんでした」

 

 最後にそういって、踵を返す。

 すると、イゴルの姉の泣き崩れる姿がちらっと目に入った。

 

 それでも進んだ。他にできることなどなかった。ただ、進んでいった。

 

 イゴルがお守りとして渡された来路花は、泥にまみれて汚れていた。

 来路花の花言葉は家族愛。そのお守りは、地に落ち、散っていた。

 



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第八話:マカレナの大冒険

 どんよりと物悲しい陽射しが、朝だというのにまるで夕方のような侘しさをたたえている。辺りにはビュウと凍てつく晩秋の風が吹きつけ、乾いた落ち葉を歩き去る人の足元に纏いつかせていた。

 

 通りは切れてはつづく長い長い行列のような態をなした人混みである。商店街の繁盛に沿うて(うごめ)く人間たちの流れが、まるでひとつの生物に見えた。

 

 そんな中、マカレナは風でバタつくコートを抑えながら商業区の中央通りを歩いていた。

 

 ――今日も、アンヘルってば元気なかったなぁ……。

 

 立ち止まり、ふうとため息を吐く。マカレナの頭にあったのは、アンヘルの沈んだ顔だけであった。

 

 昨日の宿屋での出来事を思い返す。

 スタンピード制圧の遠征から帰還したアンヘルは、ここ数日ずっと暗い顔で座り込んだままだった。

 ホアンが話しかけても空返事でぼそぼそと食事を取るアンヘルにマカレナは悲痛さを覚えていた。

 

 ――そんなに大変な任務ってわけじゃなさそうだったんだけど……。どうしたんだろ?

 

 マカレナが治療費の代わりとして父からの強制依頼を渋々許可したのは、スタンピード制圧は危険性が低いからであった。傭兵とは命知らずの代名詞ではない。スリート商会として雇わており、より安定した立場である護衛たちは無鉄砲さとは無縁にある。

 誤算だったのは場の空気とアンヘルの後ろ盾のなさにあった。エルンスト派に与してしまったという間の悪さと味方のいない環境により村の防衛に就かされてしまった。その情報を傭兵たちが隠蔽(いんぺい)してしまったため、マカレナには護衛依頼の内情など分からない。

 

 マカレナはそんな事情を知らず「父へ告げてしまったせいで彼に暗い顔をさせてしまっているなら、私が元気づけなければならない」と口に出し、意気込んだ。

 

 そうやって歩き出すが、数瞬後には立ち止まる。実際に元気付ける方法が思い浮かばなかったのだ。

 街頭では、村の門を守り切った英雄、エルンストを讃える曲が、吟遊詩人の美麗な声によって奏でられていた。

 

 ――そもそも、私ってばアンヘルのことあんまり知らないからねー。

 

 アンヘルとの付き合いは短い。悪魔討伐の際に知り合って、その後のスリート商会訪問、そして落ち込んでいる彼に会うと出来事としては数回程度である。当然、好みなど知らない。

 

 マカレナは灯されていない魔導灯の下でうんうんと唸る。こうやって人を励ます経験はなかったうえ、それ以上に男の子について深く悩むことはなかった。良家の息女として付き合う人を制限されてきたため、今春の縁談の破談に端を発する新しい人間関係には戸惑うばかりであった。

 

 通りを歩いている人々が、道の真ん中でうんうんと唸っているマカレナを奇妙な眼で眺めている。

 あっちにきたり、こっちにきたりと思考のリンボーダンスを踊っていたが、突如閃いたように拳で掌を打った。

 

「そうだ、こういう時は人に聞こう!」

 

 霧が晴れたマカレナの顔には笑顔があった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「はぁ。それで、いきなり来て何の用かしら? 姉さん」

 

 カタンとペンを置く音が響く。

 机の前に座って勉学に励んでいるマカレナの妹――アリベールのその艶かしい紅の唇が、ため息混じりに姉を責めるようにして言った。

 その怜悧(れいり)な瞳が相手を睨みつけんとばかりに尖っていた。

 

「そんなこと言わずにさぁ、ちょっと助けてよっ。ね、お願い」

 

 マカレナは胸の前で掌を合わせて懇願する。アリベールはそんな姉の姿を見てもう一度深くため息を吐いた。

 

「姉さんには見えないの? 私、勉強しているのだけど」

 

 机の上に置かれた紙の束には家庭教師から配られた参考資料が無数に置かれている。稼業を継ぐことを諦めたマカレナにはさっぱり分からない複雑怪奇な文字が並んでいた。

 

「そこをなんとか、お願いッ」

 

 マカレナは腰を折り、お辞儀の姿勢から頭だけを浮上させ上目遣いに伺っている。

 アリベールは姉を説得するのは無理だと判断する。肘を机について頬に手を当てて、尋ねる。

 

「それで、話は誰かを元気づける方法だったかしら?」

「そうそう、そうなの」

 

 いつもの手で妹を巻きこむことに成功したマカレナは嬉しそうに跳び上がった。そして、アリベールに近寄る。

 

「ちょ、近いわッ、姉さん離れて」

「えー、別にいいじゃない、姉妹なんだし」

 

 マカレナの極端に狭いパーソナルスペースと対照的に広いパーソナルスペースを持つアリベールの相性は良くない。際限なく近寄ってくるマカレナの身体を手で押しのける。

 近づく、押しのけるという動作を何回か繰り返した後、マカレナは諦めて元の間隔に戻った。

 

「……それで、この情報だけじゃよくわからないのだけど。結局、姉さんは私に何をしてほしいのかしら?」

 

 えっとねぇとマカレナは口ごもる。何とか捻り出すようにして言葉を紡いだ。

 

「えーと、そのね、その……元気がない人がいてね。それで、その人は、最近何か良くないことがあったみたいで。あ、でも、それはそんな危険ってわけでもなくてね。これは、他の人にも聞いたから間違いないと思うんだけど。ね、それで、それで……、えっと、元気がないから、何かしてあげたいなって感じかなぁ?」

 

 たどたどしく説明する。アリベールは若干のイライラを携えながらも辛抱強く最後まで聞いていた。

 

「……それで、結局相手は誰なのよ?」

「ッえぇ!! べ、べつに、それはいいじゃないっ」

 

 マカレナの顔が暖められたように赤くなる。慌ただしく目の前で手を振った。

 そんなマカレナを訝し気に見る。

 

「誰かを元気づけたいのでしょう? なら、相手が誰か知らないと対策の立てようがないじゃない」

「それは、そうなんだけどぉ……」

 

 マカレナの眼が泳ぐ。泳げもしないくせに、こうやって言葉に詰まると眼だけが泳ぐのが特徴だった。

 

 アリベールは頭の中で姉の交友関係を検索する。性格的には誰とでも仲良くなれる姉ではあるが、出自から付き合う相手を制限されているため、交友関係は広くない。その中に姉を困らせるような人間に心当たりはなかった。最近知り合った間の抜けた男以外は。

 

「まさか、その相手ってあの探索者じゃないでしょうね」

「え゛、まっさかー、そんなわけないよー」

 

 アリベールがぎろりと睨みつけると、マカレナはだらだらと汗を流す。

 マカレナは妹の洞察力に戦慄しながら否定していたが、その鋭い眼に射貫かれて最終的には首を縦に振ってしまった。

 

 答えを聞いたアリベールは落胆の表情を作るしかなかった。

 

「……姉さんが誰と付き合おうと私には関係ないけれど、相手は選んだほうがいいと思うわ」

「そ、そんな、付き合うだなんてッ! 私たち、べつにそんな関係じゃ……」

 

 慌てたように首を振る。其の否定には、妹でなくともありありと分かる照れの色があった。

 

「はぁ……、私はべつに特別な付き合いという意味で言ったのではなくて、友人付き合いという意味で言ったのよ」

「えッ! あ、ああ、そっか。い、いや、べつに勘違いしてたわけじゃないよ、分かってるってば、えへへ」

 

 これはもう手遅れかなとアリベールは思った。しかし、姉をただの一探索者風情に任せるわけにはいかず、否定の言葉がとめどなくこぼれた。

 

「姉さん。あの探索者は、よくいっても優秀という雰囲気ではなかったわ。それでなくとも、探索者なんて安定しない職業についている人をそう易々と信用しないほうが……」

「べつに、そんなんじゃないってば。そうやってすぐに小言ばっかり、やめてよ」

「ッ! 私は姉さんのために――――いえ、いいわ」

 

 マカレナの小言を締め出す姿勢によって一瞬怒気が溢れるが、堪える。昔は頻繁に発生していた喧嘩も、こうやってアリベールが堪えることで最近は起きなくなっていた。

 

「それで、元気づける方法よね。ありきたりだけど、プレゼントなんていいんじゃない?」

「あぁー、いいかも! ……けど、なにをプレゼントすればいいかな?」

 

 アリベールの口から「自分で考えなさいよ」という言葉を飲み込む。落ち着くために素数を幾つか数えると、閃きの電光が頭を走った。

 

「これがいいんじゃない?」

 

 アリベールは、机の端に置かれていた菓子専門店のチラシを手に取る。そして、姉に見せた。

 

「ここの最新デザート、随分話題になっているらしいわ。なんでもすぐに売り切れるって。これをプレゼントすれば、少しくらい機嫌が良くなるんじゃないかしら?」

 

 そう言いながら、大きな見出しで強調されている黒い三角形の菓子、チョコレートケーキを指差す。

 

「けど、お菓子って好きなのかなぁ? もっと渋いもののほうが……」

「そんなものにしたら、重いって思われるわ。ここは軽いお菓子くらいにしておくのが正解よ」

 

 妹の助言にマカレナは数瞬悩んでいたが、妹の言う通りにするべきだと思ったのだろう。頷いて礼を述べ、部屋を出ていこうとした。

 

「待って、姉さん」

 

 その声でマカレナが振り返る。

 

「相談に乗ったんだから、私にもお菓子、一つ買ってきてね」

 

 そう宣言する。その顔は、憂さ晴らしの済んだ清々しさがあった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 乱雑に建てられた家々が真上に差し掛かりつつある太陽の光を浴びて、そこに午後の日陰を作っている。お昼時ということもあって、食事や往来のために人々が絶え間なく流れていく。そんな中をマカレナは一直線に進んでいた。

 

 ――たしか、こっちを右に曲がってだっけ?

 

 おぼろげな記憶を頼りに、新作チョコレートケーキを販売しているお菓子屋、パティスリー・レイを目指す。過去に友人と一度だけ訪れたことのある外観を思い浮かべる。家から距離があるため縁のない店であったが、私塾の友人たちの中では評判が最もいい店の一つである。そして、その人気具合から長蛇の列ができるということも。

 

 行列に並ぶのが何よりも苦手なマカレナは憂鬱(ゆううつ)な気持ちになりながらも、順調な足取りで店を目指していた。

 

 記憶にあるとおり道を右に曲がる。すると、そこには見覚えのある顔が目についた。

 

「あれ? ホアンじゃん。おーい!」

 

 精悍で赤髪が特徴的なアンヘルの友人である男――ホアンが小物店の前で所在なさげに立ち尽くしている。

 雑踏の中にいても自分を呼ぶ声ははっきり聞こえたのか、彼はすぐにマカレナを発見した。

 

「どうしたの、勉強はいいの?」

 

 ヤッホーと駆け寄りながら尋ねる。ホアンは、声を掛けてきたきたマカレナに気が付いて、所在なさげな様子から緊張した面持ちに変わる。そして、手を背中に回して何かを隠した。

 

「あ、ああ。マカレナか。ど、どうしたんだ、こんなところで?」

「見かけたから声かけただけだけど。それにいいの? こんなところで油を売ってて。試験までもう少しなんでしょ?」

 

 そう訊ねながらホアンが立ち止まっていた店を見る。よくある石細工の店だ。

 都市オスゼリアスの近郊には、三守石(みかみいし)と呼ばれる石が簡単に採れる。この三色の石は明度、彩度、そして入手性という観点から、宝石に分類される金剛石などとは違って比較的安価に入手できるが、光に照らすと綺麗に輝くという特徴から古来よりお守り兼プレゼントとして親しまれてきた宝石だった。

 

 しかし、女性ならともかくホアンのような男性には違和感のある店であった。

 

「ああ。いつも机にかじりついてばかりじゃ効率が悪いからな。それに今はアンヘルもあんな感じだしな……」

 

 そうやって語るホアンの額には時期に見合わない汗があった。ふーんと相槌を打ちながら訝し気にじろじろと見る。そこはかとなく、話をそらしたいという意図が透けて見えた。

 

 ふとホアンの背に回している手が気になる。隠している腕を掴んだ。

 

「なぁにこれ? 何隠してるの?」

「ちょっ! やめろって。べつにいいだろッ!」

 

 腕の引っ張り合いが始まる。ぐいぐいと引っ張るが不意を突かれた最初以外はほとんどビクともしない。諦めようかなと力を抜こうとした瞬間、後ろから走ってきた男がホアンにぶつかり、後ろ手に隠していたものがチャリンと音をたて落ちた。

 

 キラキラと光る青い三守石(みかみいし)耳輪(イヤリング)。それがホアンの手に握りしめられていたのだ。マカレナの顔がいやらしく歪む。

 

「あれぇ? もしかして、誰かにプレゼントするための物だったの? やるじゃん、この色男ッ」

 

 そう言いながら、どすどすと肘で脇腹を突く。

 

「それでそれで、相手は誰なの? どんな人? 可愛い? それとも優しい感じ?」

 

 おもしろいオモチャを見つけたと言わんばかりに追及する。ホアンの顔には、焦りが浮かんでいた。

 

「別にいいだろッ! これは、だれのプレゼントってわけじゃないッ。ただ、見てただけだッ」

「えー。こんなのプレゼントじゃなきゃ見ないと思うけどなー。これ、完全に女物だし」

 

 そう言って落ちた耳輪を拾い上げ手の中で弄ぶ。

 

「で、結局相手はだれなの。言わないから、お姉さんに教えなさいって。…………もしかして、私だったり。いやー、それだったら照れちゃうなぁー」

 

 その言葉で緊張気味だったホアンの顔が真っ赤になる。そして、怒気を露わにした。

 

「そ、そんなわけないだろッ! た、ただ見ていただけだッ!」

 

 ホアンが早口でまくしたてる。その必死さが面白くなって、さらにからかってみた。

 

「えー。あやしーな」

 

 にやにやと笑みを浮かべる。すると、ホアンはもう我慢ならないと耳輪を奪い取り、棚に戻すとスタスタと歩き去っていく。

 

「ちょっ、まってよー」

 

 マカレナは駆け出す。揶揄い過ぎたのか、ホアンの背中には話しかけるなというオーラが放出されていた。

 

「ねー。ほんとごめんって。謝るから止まってって」

 

 数十メートルは無言で歩き続けただろうか。しつこく付きまとうマカレナに疲れたのか、はぁとため息を吐くと向き直った。

 

「わかった、分かったよ。それでなんなんだ。こんなに追いかけてきて」

「えーと。用って言われると困るんだけど。見かけたら何となく?」

 

 こくんと首を傾げる。その仕草を見たホアンは、もう疲れたとばかりに表情を曇らせた。

 

「あッ! そうだ。私、いまアンヘルのお土産を買おうとしてるの。ホアンも一緒にどう」

 

 両手をぱちんと打ち鳴らして提案する。その提案を聞かされたホアンは、先ほどまでとは違う翳りが差す。そして、アンヘルかと小さく呟いた。

 

「……ああ、分かった。今は手も空いてるしな。少しくらいなら手伝うよ」

 

 ホアンが暗い声で続ける。

 

「それで、どんな店に向かっているんだ?」

「パティスリー・レイだよ」

 

 マカレナの花のような笑顔が開いた。

 

 

 

 §

 

 

 

 パティスリー・レイ。

 商業区、中央通りから一つ曲がった所に位置する帝国風菓子専門店は何時もの大盛況ぶりであった。

 商業区の中でも一番地価の高い区画に堂々と立っているその黒塗りと硝子張りの建物は、周囲の建物と比較して下品にならない程度の配色で、それでいてその荘厳な黒が影を作り出し浮き立たせ、装飾過多な周囲の建物と比較して(ぬき)んでた品の良さを演出していた。

 

 店内には私塾に通っていると思われる若く身なりの良い少女たちが集団でワイワイと教本片手に菓子をつまんでおり、またその隣の席では品のある老貴婦人が優雅に談笑している。

 

 黒と白の簡素かつ質のいい装束に身を包んだ使用人が列を成している。彼らは主人の物と思われる菓子を購入するべく列を成して並んでいるのが見えた。

 

 マカレナが意気揚々と、ホアンがおっかなびっくりに店内に入店する。マカレナは記憶にある店内と、現在の店内を見比べながらカウンターへと進んでいく。

 

「『カヌレ・ド・ボルドー』に『オランジェット』? だめだ、もう魔法の呪文にしかみえない」

 

 ケースに陳列されている、黒く焼かれたコルク大のお菓子とオレンジにチョコレートを塗ったお菓子に付けられたプレートを見て混乱したようにホアンが呟く。その弱弱しい声に、マカレナはふふっと笑った。

 

「『カヌレ・ド・ボルドー』は卵黄を使ったお菓子で、外はカリっと中はモッチモチでとぉっても美味しいんだよ。だめだなぁ、ホアンは。いろんなことを勉強しないと、女の子にはモテないゾ」

「べ、べつに、マカレナには関係だろッ」

 

 ホアンがバツの悪そうにそっぽを向く。マカレナは「お菓子に詳しい男もちょっと嫌だけど」と慰めを口にした。

 

 ふたりで列に並んでいる間、マカレナはお菓子についてあーだこーだと色々レクチャーしてあげた。ホアンはいくら軍志望とはいっても金持ちの出身ではない。当然ながら、彼はまったくと言っていいほどお菓子について知らなかった。

 お菓子は比較的高価でいわゆる嗜好品に類する高級品である。魔導化が進み、第一次産業の低コスト化によって、市井にも出回るようになった菓子ではあるが、富裕層に位置する人間にしか日常的に食べることはできない。

 こんな小さな所にも見え隠れするお金の力の大きさを実感してしまった。今の不安定な現状に対してマカレナは憂鬱な心持ちを隠しつつ、束の間の談笑を楽しんだ。

 

 ひとり、またひとりと列に並んでいた客が減っていき、前方に並んでいる客は目の前の老紳士ひとりになった。買う予定のチョコレートケーキは後数個残っている。運よく買えそうだと思った瞬間であった。

 

 老紳士の無情な響きがマカレナの耳を打った。

 

「チョコレートケーキをあるだけ頂けますか」

 

 店員の素晴らしい笑顔と共に、ケースに陳列されていたケーキがひとつ、またひとつと取り出されていく。その希望の塊は、箱に丁寧に詰められ、老紳士に手渡される。そして老紳士は会計を済ますと希望の箱を持ってスタスタと去っていった。

 ドナドナドナ。ふたりは無残にも出荷されていく希望を、唖然としながら見守っていた。店員の素敵な笑顔そっちのけで出ていった老紳士の後を眺める。それは、店員が声を掛けるまで続いた。

 

「あのぉ、お客様? 注文は、どうされますか?」

 

 止まった時間が動きだす。マカレナの眼には、戸惑ったような笑顔の店員とすっからかんのケースが映った。

 それでもめげない。マカレナの不屈の魂が、店員には厄介な形で発揮された。

 

「あのぉ、チョコレートケーキってありますか?」

「大変申し訳ありません、お客様。チョコレートケーキは先ほどのお客様で売り切れとなってしまいまして」

 

 それでも諦めない。不屈の魂は、そんなにヤワではないのだ。

 

「じゃ、じゃあ、次に出来るのっていつになるの? 私、それまで待ってるからッ!」

 

 マカレナがカウンターに身を乗り出して、大きな声で言う。完璧な店員の笑顔にも、翳りが射しはじめた。

 

「そ、その、お客様。チョコレートケーキは時間がかかりますので、夜に作っているのです。なので、出来上がるのは明日になってしまいますので……。明日にもう一度来店して頂ければ――」

「そんなのダメだよッ! できるだけ早く欲しいの。ねぇ、お願い。どれだけでも待つから、だから今日中に欲しいの!」

 

 マカレナの場を切り裂くような声に、店内が騒然とする。横にいるホアンは注目を受けて小さく止めようとするが、ヒートアップした不屈の魂を止める術などなかった。

 

 縋りつくようにして店員の手を握りしめ、頭を下げる。マカレナの目尻には必死の涙が滲んでいた。

 店員の完璧だった営業スマイルが崩壊し、半笑いになる。

 

「お、お客様ッ。こ、困ります。なにを言われても、予定は決まっておりますので」

「そこをなんとかお願いします。ほら、お金ならありますから。本当、お願いしますッ!」

 

 頭を下げたまま、ぶんぶんと手を振る。半笑いだった店員の顔が取り繕えなくなって無表情になる。しかし、マカレナの風貌から明らかに良家の息女だと判断した店員は警備も呼ぶことができず為すがまま手を上下に振られる。顔は無表情から泣き顔にチェンジしていた。

 

 お願いします、お願いしますと頭を下げ続けるマカレナに注目が集まる。半泣きの店員に動けない警備。緊張と罪悪感の板挟みのホアンには場の収拾をつけられそうにない。誰もがどうするか、それだけを考えているところだった。

 収拾する者のいないカオスの支配する店内に、凛とした女の声が響いた。

 

「分かったよ、お嬢さん。負けた、負けたよ。チョコレートケーキを作るから、だからちょっと落ち着いてくれ」

 

 威厳のある中年の女の声。白く上方に伸びる帽子――シェフハットを被り、スカーフで首元を締めている風格のある女性、パティスリー・レイの店長にして創業者、天才パティシエの称号を冠する女傑ジョアナが疲れた表情で立っていた。

 

「ほ、本当ですかッ!? 良いんですかッ!」

「ああ、そう叫びなさなんな。分かったから。作ってやるから」

 

 興奮したマカレナを手で制する。そして、その疲れた表情を一転、悪戯めいたものに変えた。

 

「ただ、交換条件がある。それを飲めるっていうなら、特別に作ろうじゃないか」

 

 マカレナを良家の息女と知っていても、それに対して物怖じしない態度。激戦区である中央商業区の一角に、一代で大繁盛の店舗を拵えた女傑は、堂々たる態度で不屈という名の厄介な客に対処していた。半泣きだった店員が、神様でも拝むかのような表情で彼女を見据えていた。

 

 店長ジョアナの提案を断る理由などない。マカレナは頷いた。

 

 

 

 §

 

 

 

「……アンヘル、いる?」

 

 こんこんと静謐な空間にノックの音が響く。ノックの後、一秒、二秒と冷たい時間が流れる。暫くすると、扉の向こうでゴソゴソと動く音がして、ガチャッと扉が開かれた。

 

「……どうしたの? こんな遅くに」

 

 ボサボサの髪、目の下の黒い隈。夜も更けているというのに、それを塗りつぶす程の暗闇をアンヘルは纏っている。

 哀しい瞳。マカレナはアンヘルの眼を見てそう思った。

 

「……その、さ。入っていいかな?」

 

 緊張の混じった震えた言葉が紡がれる。マカレナ自身、なぜ自分がこんなに動揺しているのか分からなかった。ただ、友達が元気を失くしているから励ましに来ただけと言い聞かせた。

 

 そんなマカレナの思考を他所に、アンヘルは迷いの表情を一瞬見せた。

 

「きょうはもう遅いし、明日のほうがいいかな。…………それじゃ、おやす――」

 

 閉められようとしていた扉に手を差し込む。マカレナは、緊張と心の底の不思議なものに蓋をして、笑顔を浮かべた。

 

「そ、その、お土産を持ってきたからッ! ちょっとだけ、ちょっとだけだから」

 

 沈黙が場を支配した。どきどきと相手の返答を待つ。焦りぎみの勢いに押されたアンヘルは分かったと小さく呟いて、扉のチェーンを外した。

 アンヘルに促されて、椅子に座る。室内には、ホアンの勉強の跡と思われる教本の山と、使い捨てられた紙屑が落ちている。部屋の隅には、使い込まれた武具が見えた。

 

 アンヘルは部屋の窓際に備え付けられた椅子へ腰を下した。月光がアンへルの幼くも男性として成長しつつある顔に影を落とす。いつもは柔和そうで、悪く言えばどんくさそうな顔つきも、彼の心の沈みとしじまが混じり合って鋭利な印象をマカレナにもたらした。

 

 心がふわっと沸き立った。

 マカレナは得も知れぬ感覚に襲われる。

 その感覚に当たりを付けることもできないまま、緊張と静寂に耐えられず言葉を紡いだ。

 

「これ、その、お土産。その、人気のお店で買ってきたの。口に合うか分からないけど、その、美味しいと思うから……」

 

 手に持っていた紙袋を机の上に置く。中には、パティスリー・レイで購入した人気のお菓子、チョコレートケーキが入っていた。紙袋からとりだし、近くにあった皿の上に置く。その一連の動作に対して、アンヘルは心ここにあらずといった様子で頷くだけだった

 

 それを見たマカレナは、悲しさと寂しさを覚える。

 

 マカレナが最初にアンヘルと出会ったとき、頼りにならなさそうな探索者だと思った。自分の実力には自信のなさそうな気弱な人、そんな印象だった。

 それが、悪魔討伐を通して変わっていった。頼りにならない人から、すごい人。あんなにやられても、立ちあがって戦う人。それで最後には守られて、頼りになる人へ変わった。そうなると、一緒に過ごしやすい友達から、少しだけ緊張させられる存在に変わった。

 そして、今の状況。この暗い表情で虚ろに外を眺めているアンヘルに悲しさと寂しさを覚えていた。

 

 こんなに、こんなにも男の子に感心を寄せたのは初めてだった。

 いつもは快活なその口も上手くまわらない。

 

 会話に困って、立ち上がりスプーンを棚からとり、ケーキが置かれた皿に置く。

 

 そしてもう一度椅子に腰かけようとして失敗する。突き出た腹が机に当たって、積まれた本が崩れる。あわあわと慌てているマカレナを見て、アンヘルが疑問を口にだした。

 

「……どうしたの、そのお腹?」

 

 マカレナのお腹は、立派に膨らんでいた。普段の倍はあるだろうか。膨らんだお腹が、腰のスカートを圧迫していた。

 マカレナは照れたようにして返答する。

 

「えへへ。その、このケーキ売り切れたから、特別に作ってもらう代わりに、試食係になってね。それで、お腹一杯食べることになっちゃって。けど、心配しなくていいからね。やっぱり職人が作るだけあって、練習って言っても全部美味しかったから」

 

 嘘だった。あくまで試食である。腕の足りない新人パティシエの作品や斬新な作品はすべて美味しいとは言えなかった。そのうえ、お腹が一杯になっても食べ続けるのである。いくらお菓子は別腹とはいえ、その別腹を満たして主となる腹に貯蔵されたあとも詰め込む作業は苦行を通り越して修行であった。

 可哀そうなのはホアンである。男だからとマカレナの数倍は食わされた彼の努力は勲章に値するものだった。そんな彼は今、店の中でダウンしている。

 

 そんなマカレナを見て、アンヘルは呟いた。

 

「……なんか、妊婦さんみたいだね」

 

 何を言われたのか、一瞬まったくわからなかった。その言葉の意味を理解して、マカレナは立ち上がる。

 

「ッ…………妊婦さんって…………」

 

 小さく唸りながら、アンヘルにパンチ。怒りと恥ずかしさで真っ赤になった顔で、弱弱しいパンチを肩に向けて何度も放った。

 

「ご、ごめん、ごめんって」

「う、うるさいッ! せくはら、セクハラだから、それッ!」

 

 照れ隠しのパンチを複数回浴びせると、腕で肩を守っているアンヘルと目が合った。手を止めて、見つめ合う。すると、どちらともなく笑い声が漏れた。

 

「ご、ごめん。お、面白くってさ」

「もう、女の子のそういうところを指摘するのは犯罪なんだよ」

 

 なんだか眼を合わせるのが気恥ずかしくなって、そっぽを向く。すると、いままで陰鬱だったアンヘルの声が少しだけ明るさを取り戻したように感じられた。

 

「その、ありがと。ぼくを励ますために、これ、買ってきてくれたんだよね」

 

 そう言って、アンヘルは立ち上がる。そして、チョコレートケーキが置かれている机の前に座った。

 スプーンを手に取る。そして、一口食べた。

 

「うん。美味しいよ。その……ありがと」

 

 アンヘルの小さな笑み。過去を誤魔化すような空元気の笑顔。それでも久々に見た笑顔はマカレナの悲しさや寂しさを吹き飛ばしていった。

 



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第九話:『火山龍現る』 上

 

 沛然(はいぜん)とした雨が終日つづく。この雨が上がれば、いよいよ秋も終わり、冬の到来を知らせる冷たく粒だった空気が入り込んでくるだろうと予感させた。村の防衛依頼から帰還してひと月は過ぎようとしていた。冬の到来はすぐそこで、午後は短く、夕暮れが灰色に侘しくなってきていた。

 冬があければ、士官学校上級士官養成課程の入試も始まる。ホアンの受験勉強も佳境だ。宿舎にはピリピリした空気が常に漂っており、アンヘルは雨の中、外へ繰り出していた。

 

 行きつけの喫茶店でマテ茶を口に運ぶ。その対面には、ニコニコ顔のマカレナの姿があった。

 歴史を感じさせる茶塗りの円形テーブルにカップを置く。そして、茶菓子を口に運んだ。

 

「ねぇ、アンヘル? 今日は仕事ないの?」

 

 対面で朝ご飯を家で食べ損ねたマカレナがパスタを頬張る。フォークとスプーンの使い方は慣れており、上流階級の気品を感じさせる所作だというのに、口元をソースで汚しているのがちぐはぐでアンヘルには可笑しく映った。

 

 ちょんちょんと指で口元を示してやる。すると、マカレナは頬を染めながらナプキンで口元を拭った。その恥ずかしそうな表情を見ないふりをしながら、先ほどの質問に答えた。

 

「ううん。いちおう、今日も仕事があるんだ」

「え、でもこんな昼前だっていうのに喫茶店でぶらぶらしてていいの?」

 

 マカレナの意外そうな返答はごく自然なものだった。

 探索者は荒くれ者で、昼間から酒を浴びるように飲み、社会不適合者の如く昼夜逆転の生活を送っていると考えている人間も少なくないが、実際は真逆である。魔導化が進み、魔導灯・製紙業が発達している帝国では、日が暮れたら眠るといった古代人的な生活とは無縁ではあったが、夜間でも働いているのは頭脳労働に限られていた。

 とくにフィールドワークを主活動とする探索者の仕事は、朝早くに始まり、日が暮れる前に撤収することが多い。自然を相手取る探索者らしい実用主義の思考であった。とはいえ、休日はその限りではないが。

 

 そんな事情をアンヘルを通じてよく知るマカレナは、昼までチルしている彼の状況に理解が及ばなかった。

 

「きょうは仕事って訳じゃなくて。今度の共同依頼の顔合わせってことなんだけど」

 

 共同依頼を引っ張ってきた憎めない受付嬢、テリュスの顔を思い浮かべる。あの悪魔退治事件以来、信頼されているのか、それとも馬鹿にされているのか、どうにもフランクに接してくる彼女に戸惑いながらも何度も依頼を受けていた。当初は酷い依頼を受けさせられたものだったが、彼女の手腕には眼を見張るものがあるのだ。

 

 優れた探索者の条件として、良い依頼を持ってきてくれる伝手――受付などを持つことは最低条件である。やる気に欠けるテリュスだが、国の機関である探索ギルドの受付をしているだけあって、彼女の伝手は強力である。

 そのうえ、新人担当というだけあってか、能力はありながらも仲間の少ない将来有望な若手との共同依頼を幾つも引っ張ってくる。彼女としては、若手で使いやすい新人を組ませることで低賃金・高い能力、そして生存率の高さを求める程度の事でしかなかったのだろうが、引っ込み思案なアンヘルにとっては良い機会として機能していた。

 

 弓使いのロサ、兄弟剣士のフランとフアン、道場出身の槍使いカルロスに運び屋(ポーター)のハビとレガス。ホセとホアンという狭い世界で生きてきたアンヘルにとって、他所の探索者との交流は新鮮で色々な発見があった。なにより、若手の彼らから滲みだしていた野心。探索者などでは終わらないという強い意志がアンヘルに小さな影響を与え始めていた。

 

「じゃあ、今日はあそべないんだ?」

 

 マカレナはため息を突きながら、顔に影を落とした。

 

 二人の仲は急速に接近していた。部屋にいてはホアンの邪魔になるため、休日はマカレナと出歩くとことが多い。年若い男女である。こうやって休みのたびに出歩いていれば、仲が良くなるのも必然だった。

 

 不機嫌そうな顔をする彼女を見て、妹ってこんなかんじなのかなと思った。

 

「その、ごめん。けど、そのあとは空いてるから。前に行ってたお菓子屋さんへ行こう」

 

 その言葉でマカレナの顔が喜色で一杯になる。そんな彼女を見て、アンヘルも嬉しくなった。

 

「けどいいの? 今日は雨だし、また今度でも」

「いやっ!」

 

 マカレナが唐突に大きな声を出す。驚いたアンヘルはびくっと身体を震わせた。

 

「今日は家に居たくないのッ」

 

 宣言するように告げる。その声色には絶対の拒否の色があった。

 

「えっと、そんなに意思が強いならいいけど……。でも、どうして?」

「それは……」

 

 マカレナは口ごもるようにして唇を震わせた。

 

「今日は、そのブロビーヌの、嫌なやつが来るから……」

 

 口に出すのも(はばか)られると言わんばかりに顔をしかめながら、マカレナは答えた。その返答を聞いて、過去の記憶を呼び戻す。

 

「ああ、振った婚約者がいるんだっけ」

「もう、思い出させないでよッ! あいつの顔なんか、思い出したくもないッ」

 

 吐き捨てるようにして言う。心底嫌いなのか、快活とした表情がどろどろと(よど)んでいた。

 ごめんごめんと小さく謝る。

 

 気まずくなった空気に飲まれて、ぐびぐびとカップのお茶を胃に流し込む。マカレナは、不機嫌そうな顔でパスタを黙々と口に運んでいた。

 冷えた空気に耐え切れず、空になっているカップを口に運んだ。それでもいたたまれなくなって、大きな古時計に目を向けた。

 

「ああ、もうこんな時間っ。早くいかないと遅れちゃうっ」

 

 わざとらしかったかなとひやひやしながら立ち上がる。そして、机に二人分の代金を置いて、もう行くねと声を掛け、出ていこうとした。

 マカレナに背を向けて、扉に向かう。店主のぞんざいな声とともに、外に出ようとした瞬間だった。

 

「待って、アンヘル」

 

 少女の冷たい声が響いた。

 

「パティスリー・レイで待ってるから、終わったら来てね」

 

 清々しいほどの笑顔であった。アンヘルは、それで機嫌が取れるならと思いながらも、薄くなる財布に少しばかり怯えた。

 

 

 

 §

 

 

 

「おーい、こっちでーすっ」

 

 探索者ギルドに入って開口一番元気よく声を掛けてきたのは、華奢な身体つきの受付嬢テリュスであった。この一ヵ月の間に幾度も依頼を達成したおかげか、彼女からの信頼は厚いものになっていた。

 

 とはいえ、ギルド側の信頼を得るのと、探索者のコミュニティで信頼を得るのはまったく別である。ほとんど単独もしくは若手とのペアで仕事をこなしてきた結果、探索者コミュニティでの知名度は皆無に等しい。当然、新人人気のあるテリュスから親しい気に話しかけられれば、嫉妬が集うのは必然だった。

 

 ――あぁ、また睨まれてるよ。

 

 はぁとため息を吐く。カウンターの奥では先輩受付嬢から大声を出すなと叱られているテリュスの姿が映った。

 

 背中に突き刺さる嫉妬の視線。ひとつふたつと感じられる圧力を数える。特殊部隊でもないのに、こんな視線を察知できるのは嫌だなぁという感想を持ちながら歩む。

 

 入口から、中央のホールを抜けてカウンターまで向かう。視線を気にしないよう進んでいると、常にない違和感を覚えた。背中に突き刺さる視線ややっかみの声が少ないのである。

 

 実際のところ、アンヘルはかなり悪目立ちしている。見た目もあまり荒事に慣れている風貌ではなく、ほぼ単独で仕事を受けるため実力が知れ渡っているわけでもない。悪魔を単独で討伐したりと、新人としてはかなりの成果をあげているが、何も知らない他人から見れば、ファッションで探索者をやっている風にしか見えない坊ちゃんであった。

 

 農民出身の万年金欠野郎であるにもかかわらず、ファッション探索者という新時代の称号を不名誉にも受けたアンヘルは、こうやって探索者ギルド内を歩くと揶揄(からか)いの声が掛けられる。もちろん、アンヘルにはそんな揶揄いに反論できるような強靭な精神を持っていないため、頭を下げながら揶揄いの言葉をやり過ごすのが何時もの光景である。

 だが、今日に限ってはそうではなかった。ギルド内に人がいないわけではない。むしろ悪天候によりギルドで情報収集している者も多く、常時より人の数が多いくらいであった。

 

 かぶりをふりながらテリュスの前に辿り着く。先輩に叱られて少々シュンとしている彼女にゆっくりと声をかけた。

 

「その、今日はどんな依頼なの?」

 

 おずおずと尋ねる。心境としてはくじで大凶を引かないように願う敬虔な信徒の気分だった。あれから深刻な依頼を受けさせられた覚えはないが、なかなか負の記憶は消えてくれない。彼女との会話は、依頼を尋ねる瞬間が一番恐ろしいのだ。

 

 テリュスはさきほどのしおらしい仕草さは演技ですと言わんばかりに満面の笑顔を浮かべ、答える。

 

「いやー、今回もやっかいな依頼が入っちゃいましてねっ。まあ、依頼というか協力って感じなんですが。それで、フットワークの軽いアンヘルさんに白羽の矢が立ったというわけですよっ」

 

 てへっと擬音が浮かびそうな仕草で首を傾げながら告げる。

 狙ってやっているのか、毎回同じぶりっ子演技には呆れが先走った。なにより、依頼を頼まれる経緯は何時もこんな感じなのだ。疲れは倍々で役満である。

 冷たい目で、続きを促す。

 

「はぁ、さいきんノリが悪くなりましたねぇ。まあ、いいですけどねっ」

 

 言葉とは裏腹に爪をいじりながら詰まらなさそうな顔になる。それでも仕事はするのか机の上に置かれた紙へ目を走らせた。

 

「それで、依頼の内容なんですが……。ウルカヌ火山の麓にある村が頻繁に襲われるそうなんですよ。それで、その元凶を退治してもらおうっていうのが今回の依頼なんですが」

「……ひとつ聞いてもいいかな? そういう治安維持って騎士団とか私兵がするんじゃないの? さすがに村の防衛は手に余るっていうか」

 

 アンヘルの脳裏に苦い記憶が蘇る。一ヵ月経ったとはいえ、忘れられる記憶ではない。燃ゆる村、リコリスの無惨な死、そしてイゴルの冷たい死に際。すべてが鮮明で簡単に過去を押し流せるものではなかった。村の防衛とは、禁句にも近いトラウマなのだ。

 

 動悸がする。じんわりと背中が汗をかき、あの地獄が眼前に蘇りつつあった。そんな思考を、テリュスは朗らかな声で遮った。

 

「ああ、そんな心配はしなくて大丈夫ですよっ。村の防衛とは言っても、モンスターの大群みたいな軍が出動する事態ってわけじゃないですから」

 

 テリュスは続ける。

 

「相手にするのはたった一体だけ。ああ、なんて簡単な依頼なんでしょうか」

 

 秘密を仰々しく告げた彼女は不気味を通り越して異様だった。手を広げ、腕を高く掲げた彼女はひとり演劇の世界に入っているかのようだった。こんな調子の彼女に尋ねるのは恐ろしかったが、震えた声で尋ねた。

 

「……あの、その相手って?」

 

 聞いていながら、悪い予感がした。これは久々に来る、糞依頼だと。息を小さく吸い込み、衝撃に耐える。覚悟を決めたつもりだったが、てへっと照れながら告げられた悪魔の言葉に耳を疑うしかなかった。

 

「えーと、その、なんていうか、まあ、……龍ってやつですね。龍」

 

 空気が一瞬死んだ。沈黙でも静寂でもなく、本当に空気が死んだ。

 

 アンヘルは固まった空気の中で、自身の耳を叩く。こんこんと。そしてゆっくりとついているかどうか確認した。右耳、左耳をゆっくりとさする。当然、顔の横にくっ付いていた。頭がおかしくなった様子もない。それは、今言われた言葉が真実だと告げていた。

 

「は?」

 

 龍。

 受付嬢であるテリュスは龍と言ったのである。

 

 龍は世界最強の生物であることに疑問を挟む余地はない。極めて高い知能を持ち、人語を解する能力を持つほかに、永きを生きるその生態から魔法にも優れている。そのうえ、体表は皮や鱗で覆われており、非常に強固な防御力を持ってる。しかし、それらは龍の脅威を図るものさしにはならない。そんな要素を差し置いて龍を最強最悪の敵としたのは、翼を持ち、手の届かない上空から一方的に攻撃してくるという一点に集約された。

 空を飛べない人類にとって上空を飛行し、要塞に等しい強固な鎧を纏う龍を相手取ることは無謀を通り越して、自殺志願者となにも変わらないのだ。

 

 アンヘルの絶対零度の視線がテリュスに降り注ぐ。彼女はその視線にいたたまれなくなって、目を逸らした。

 

「ええっと、そのぉ、今回相手にするのは成龍じゃなくて、若龍ですから。心配しないでくださいっ」

「いやいやいや、何言ってるのッ!? 若くても、老いてても龍だってばッ!」

 

 今までにない凄まじい剣幕で詰め寄った。詰め寄られたテリュスはだらだらと汗を流しながら目を背け続ける。

 

「そ、そんなに心配しないでくださいよっ、本当に若い龍なんですからっ。それに、アンヘルさんは主力ってわけじゃなく、支援がメインになりますから」

 

 テリュスの言葉を聞いて、冷静さが戻る。詰め寄った末に零距離まで近寄っていた二人の間隔が開く。

 

「……っていうことは、大部隊の補助員の一人ってこと?」

「いやぁ、まぁそういうわけじゃないんですが……」

 

 いつになく歯切れの悪いテリュスが言葉を濁す。小さな藍色の瞳の上にある睫毛が不安そうに震えていた。視線は定まらず、アンヘルの後方をちらちらと見るようになる。

 

 辛抱強く待つか、それとも聞き出した方がいいのか迷っていると、後方からどよめきが起こる。

 なんだと思う間もなく、後ろから硬質な声が響いた。

 

「話は終わったのか? ならば、私の紹介を早くするべきだと思うが?」

 

 声の主を探るため振り向く。

 するとそこには一人の美姫がいた。

 

 刃の色の髪に鋼色の硬質な印象を与える瞳。美女の証といわんばかりの整った鼻梁と妖しい紅の唇。その印象を正反対にひっくり返す勇猛な眉と隆起した褐色の筋骨。相反する要素が絶妙に配合されており、妖刀の煌きによる妖しさと野生の生命力による恐ろしさを閉じ込めたような男だった

 その背中には恐ろしく大きい大曲刀。彼は長身に分類されるアンヘルよりも一〇センチ以上高い偉丈夫だが、それに匹敵するほどの大剣である。

 

 戦女神の化身と思えるほどの男の挙動に、周囲の人間全員が注目している。ここになってようやく、ギルド内の違和感の原因に思い至った。

 

 この男の名はクナル。怪物狩りの異名を持ち、新人としては異常ともいえるほどの名声を得ている男であった。

 

 

 

 §

 

 

 

 ユーバンク・アーバスノット・タフリン・クナル。この異様に長い名前の美貌の男は、近年、探索者界隈を騒がしている新人の一人だった。

 

 この新人の短い探索者生活は、アンヘルとはまったく違う意味で華々しく、目立ったものだった。

 従軍するまでの暇つぶしと公言しているのにもかかわらず、彼をチームに迎え入れようとする探索者は後を断たない程である。

 

 しかし、彼は何者にも迎合しなかった。

 誰も寄せ付けない孤高の一匹狼。貴族の子女と思わせんばかりの整った容貌。そこらの探索者とは隔絶した剣技。二十にも届かない齢の男は、戦う事のみで生きてきたと証明する壮絶な闘気を纏っていた。

 

 そんな目立つ彼は幾多もの厄介ごとを引き起こして来たが、其の一切を己の腕だけで潜り抜けてきた。それは、アンヘルにとっても憧れであった。実際の性格を理解するまでの話だったが。

 

 黙々と荒涼とした大地を歩む。袖広かつ薄着の民族衣装を身に纏った美貌の男――クナルが、引きずりそうなほど大きい大曲刀を背負い歩いている。初冬の肌寒い風が流れていくというのに、薄着の格好で気にせず歩んでいく。ふたりの間には長い間、静寂があるだけで会話の兆しはない。

 

 如何に優れた腕を持っていようとも、たった一人でこなせる仕事などたがが知れている。探索者がこなす仕事のほとんどがモンスター狩りとダンジョン内の資材回収だとはいえ、交渉や荷運びなど多様な業務が混在している。ダンジョン上層で魔石集めを主とする下級探索者ならともかく、より高収入を目指す探索者には人手が必要になる。

 

 当然、新人の域を脱しつつあるアンヘルはもちろん、単純な剣の腕前ならこの大都市オスゼリアスの探索者の中で三指に入ると噂されているクナルも他人とまったく組まないわけがなかった。

 

 しかし、そんなふたりの間で交わされた会話は、名前と翌日の集合場所・時間だけであった。その原因は目の前の男、クナルにあった。

 

 ――はぁ、一日と半日以上歩いているのにずっとこの調子だよぉ……。

 

 クナルとの出会いを思い返す。

 

 一言「私はクナルだ。援護など期待しないから雑務だけをこなしたまえ」と傲岸不遜に告げたクナルは、アンヘルの名前も聞かないまま、事務会話を一方的に始め終わらせた。

 なによりもやるせないのは、対話という普通の人間なら誰でも可能な行為をしなかったにもかかわらず、受付嬢たちが熱っぽい視線を彼に送っている事であった。あのテリュスですら、頬を染めながら挙動不審になっていた。

 

 今向かっている村はオスゼリアスからウルカヌ火山を挟んだ正反対側にある。よって大きく迂回する必要があり、その道中を無言で歩く男に付き合うのは簡単でなかった。

 

 アンへルとて、なにもしなかったわけではない。食事時、就寝時など口実をつくって話しかけようと努力はしたのである。しかし、彼の反応は興味なしの一点張りで、無言が帰ってくるばかりだった。心の底から戦力として期待していないのだろう。道中にあった幾度かの戦闘では、すべてクナルの一刀でケリがついた。代わりに、設営、炊事、交渉は一切しなかった。

 

 無言のまま歩き続ける。火山の熱気の影響なのか、どこもかしこも植物が枯れている。地面には黒々とした柔らかい火山灰土が敷き詰められていた。

 

「あのぉ。クナルさんって龍と戦ったことがあるんですか? たった二人だなんて、無謀だと思うんですけど……」

 

 最後の方は消え入りそうな声で尋ねる。どうせ返って来ないだろうなと思っていた質問だったが、予想外にも前を歩んでいたクナルが立ち止まり、振り向いた。

 

「貴様は数に入れていないから二人ではない」

 

 自己紹介以来の硬質な声が紅色の唇から放たれる。

 

「単独討伐は許可が下りなかったため雑務として使ってやっているが、私の闘争の邪魔となるなら貴様から切り殺してやっても構わんぞ」

 

 人形のように整った顔が酷薄さを滲ませる。その右手は、背にある大曲刀の柄を掴んでいた。

 

 取りつく島もないとはこの事である。恐る恐る頷くと、クナルは前に向き直り、歩き始める。

 こいつが死んだらさっさと逃げようと心に誓うと、アンヘルも続こうとした。しかし、歩き始めた瞬間、凄まじい勢いでクナルが振り向く。その双眸は天を見上げていた。

 

 アンへルは彼の鬼気迫る行動に釣られて、同じ方向を向いた。

 

 そこには紅き物体。紅い塊がこちらに向かって急降下していた。

 それは飛行というよりは滑空だった。米粒大の大きさだった紅い塊が、拳大になり、人間大より大きい巨体であることに気がつく。

 その巨躯の正面にはギラついた鋭い瞳が嵌る異貌の紅。紅き龍が滑空突撃を敢行していた。

 

 唖然と見ていたアンヘルをクナルが抱えて後方に跳躍。アンヘルたちが居た空間を砂塵を巻き上げ、紅き龍が通り抜ける。

 クナルが抱えていたアンヘルを放り捨てる。アンヘルは尻もちをついて倒れた。

 

 心臓の鼓動が痛い。正対するのは地上最強の生物、龍である。クナルの額にも小さな汗が滲んでいた。

 

 巻き上げられた砂塵をゆっくりとかき分けながら、紅き龍が姿を現す。その姿は、まさに神話上の怪物の姿であった。

 

 火山龍ボルケーノドラゴン。

 鋭く大きい牙に、全身を覆う紅鱗。両腕に備えられた鋭利な黄爪、そして翼を広げれば全長五メートルにも及ばんとする大型バスのような体躯。その顔に嵌る暗い緑の瞳が、すべてを憎む龍の凶相を克明にしていた。

 

 砂塵が消え、全貌が露わになると二足で歩行していた火山龍が腕と両翼を広げる。そして、天に向かって咆哮した。

 

 恐怖の波濤(はとう)が広がる。

 根源的恐怖。絶対的恐怖の象徴である龍の叫びが轟いた。

 

 膝が震え、歯がカチカチと鳴っていた。目の前の巨大な怪物から目が離せない。その大きな(あぎと)から漏れる小さな吐息ですら、容易く命の灯を吹き消しそうな圧力を伴っていた。

 

 固まるアンヘルの横で、クナルが戦女神の顔を歪ませる。同時に咆哮。勇ましい戦士の雄たけびがクナルの恐怖を消し去った。

 身体を沈めて、飛翔。宙空で大曲刀を抜き、両手で天に掲げる。

 

「がぁぁああああああッ!」

 

 クナルの雄たけびと共に、大曲刀の鋼の煌めきが駆け抜ける。上方から振り下ろされた刃の一閃を、龍は左の黄爪で受ける。金属のぶつかり合う硬質な音が響くと、クナルの大曲刀が弾かれる。

 空中で重力に従い身動き取れないクナルに向かって、龍の尾が旋回。その無防備な脇腹に尾が迫る。クナルはとっさの判断で大曲刀を逆さに構えて受ける。

 

 轟音と共に、毬のように吹き飛ぶ。十メートル近く吹き飛んだクナルは転がった。

 それを睥睨する龍は、大きく息を吸い込む。肺を膨らませながら両腕を広げ、天を一瞬仰いだ。

 

 龍の身体の中央の宝玉が輝くと、(あぎと)の奥、口腔から爆炎が吐き出される。

 

 龍の息吹(ドラゴンブレス)

 岩すらも融解させる灼熱の風が龍から吐き出された。

 

 死の熱風は大地を放射状に走り、そこにあるすべてを焼き尽くして駆け抜けた。

 放射状に広がったそれは、クナルを容易く飲み込んで塵芥を巻き上げた。

 

 歯向かう愚かな人族を熱の波濤(はとう)の彼方に消し去ったことで満足した龍は、もう一匹の人族に向き直る。

 

 龍は腕を地につけ、上体を低くする。そして、異常な速度で発進した。

 その一歩一歩は巨人の福音か。地面に深い爪跡を残して龍が突貫する。

 

 アンヘルはたまらず外套を翻して跳躍。恥も外聞もなく転がって避ける。後ろを振り向くと、躱されて減速しようとしている龍の姿が目に入る。

 

 いくら龍といえど、自然法則は無視できない。その巨体が生み出した前進エネルギーを打ち消し、急速に反転することは適わない。慣性に法り、地面に停止跡を作りながら向き直ろうとしている姿が目に映った。

 

 腰の剣を引き抜き、駆ける。

 

 クナルは死んだ。もしくは死んでいなくても重症で動けないだろう。また、逃げる選択もない。飛行できる龍から逃れたければ、生贄が必要だ。荒野に都合よくあるはずもない。ならと、冷静な頭が計算を弾きだす。そして、顫動(せんどう)する腕を理性で抑えつけて、剣を水平に構えた。

 

 振り向きざまを狙って飛翔。上昇の力に逆らわず、下から掬いあげる要領で剣を振り上げる。身体の上昇に右肩、右肘、右手首のしなりを加えた渾身の銀線が振り向いた瞬間の無防備な龍の頭蓋に向かって描かれる。

 

 顎の下の鎧が薄い部位を正確に切り裂く。燃えるような熱い血が飛び散った。

 

 龍の悲鳴とともに激憤の吐息。着地した瞬間、耳を聾する恐ろしい咆哮が轟いた。黄双爪を振り回してアンへルに迫る。

 右、左、右ときて尾を振り回す。

 

 決死の思いで避け続ける。反撃の糸口など存在しない。ただ、必死に躱し、避けきれない爪の攻撃を剣で受ける。たった数瞬の出来事で、受けた剣は悲鳴を上げ、避け損ねた左腕からおびただしい量の血液が流れ出ていた。

 

 一発一発が必殺である。直撃した瞬間、回復の余地なく即死するだろうことが容易に察せられる死の双爪がアンヘルに迫る。怒りに染まり、大振りの攻撃に終始してなければ、開始数発であの世行きだっただろう。

 無様によけ続けて十数秒。緊張と出血の極致で、ぎりぎりの綱渡りを続けていたアンヘルの視界に戦士の姿が映った。

 

「ぎぃぁあああああああああ!」

 

 戦士の咆哮。大曲刀を両手に構えた身体ごとの刺突が真横から無防備な頭蓋に向かって突き刺さる。

 

 上半身の民族衣装のほとんどが焼け焦げ、皮膚がケロイド状になって(ただ)れていたクナルの大曲刀が龍の左目に突き刺さる。

 今度こそ本当の苦悶の悲鳴。アンヘルのような薄皮を裂いた一撃ではなく、真の意味で損傷を与えた証だった。(おびただ)しい量の血液が吹き出て、たたらを踏む。クナルは顔に足を掛け、勢いよく剣を引き抜いた。

 

 横に降りたった戦士の皮下には、黒い金属質の鎧のようなものが覗いている。その顔には酷薄の笑みが浮かんでいた。

 

「貴様がまさかあの一瞬を生き永らえるとはな。世には不可思議なこともあるものだ」

 

 負傷している様子を一切伺わせない、超然とした態度をとる。そして、苦悶に苦しむ龍へ焦点を合わせた。

 

「しかし、貴様のおかげで龍の瞳を粉砕できた。おい、左からまわれ。逃げる前にこの場でけりをつける」

 

 あの一瞬の戦闘でクナルに認められたのか、淡々と指示を出してくる。その瞳は戦闘狂独特の妖しさが宿っていた。

 

 無理だよと叫ぼうとした瞬間だった。龍が残った右目に憎悪を宿らせるが、それを抑えこむ。そして、咆哮のあと尾で砂塵を巻き上げると、両翼を動かして空に飛び立つ。その憎しみに染まった右目は、アンヘルたちを鋭く睨みつけていた。

 

 十数秒にもわたる睨み合いのあと、龍が身を翻す。その姿は凄まじい速度で飛翔していき、ウルカヌ火山に消えていった。

 

「っち、逃したか」

 

 立っていることすら不可能なほどの大怪我であるにもかかわらず、クナルが心底残念そうに呟く。アンヘルはその敢闘精神が心の底から意味不明だった。

 

「おい、村まではもうすぐだ。奴は目の傷を癒せばまた襲ってくる。さっさとついてこないと斬り殺すぞ。このうすらマヌケが」

 

 そう言い捨てると大曲刀を肩に担ぎ、歩いていく。アンヘルは生き残ったことが嬉しいような、複雑で疲れのこもったため息を吐いた。

 

 

 

 



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第十話:『火山龍現る』 下

ここから二章最終話まで駆け抜けます。





 ピエデラの村。人口五百人の比較的大きな村である。

 厳しい冬は地熱により過ごしやすい、火山の恩恵を大きく受けた村である。しかし、活気に満ちているはずの村は、戸がすべて閉じられ、寂れ果てていた。

 

 装束は焼け焦げ、皮膚すら(ただ)れているはずのクナルはその美しい顔に涼し気な表情を浮かべながら、村内を見回していた。

 

「……それで、これからどうするの?」

 

 対照的に、たった一度爪が掠っただけで重大な傷痍(しょうい)を受けたアンヘルが尋ねる。その顔には、過酷な戦闘と二日間歩きづめだったことが重なって、強い疲労の色が浮かんでいた。

 

「あの龍は怒りに狂っている」

 

 美しい唇が淡々と告げる。

 

「怒り? あの龍は確かに怒っていたけど、それは僕たちが攻撃したからじゃ――」

「そうではない。我らが出会った当初から龍の瞳は憎しみを宿していた。龍とは我ら下等生物に感情を高ぶらせることはない」

 

 貴様も蟻に怒りを覚えたりはしないだろう、と続ける。

 

「食糧確保のために人族を襲うことはあっても、龍が怒りに任せて人を襲わぬ。だからこそ、利用できるがな」

 

 聞きかじったような言葉ではない。通常ならあり得ないが、明らかに実体験に基づく口ぶりだった。

 

 探索者が龍と相対するのは珍しい。龍とは今回の依頼のように、少数で戦う相手ではないのだ。迷宮を飛び出て、人の味を覚えた兇悪の龍を討伐するのは決まって軍の役目であり、彼のような若輩者の探索者が龍と戦うことはないのである。

 

 アンヘルは疑問を口にする。

 

「それも、一族の教えなの? それとも自分の経験から?」

 

 その言葉を聞いたクナルは苦々しい顔をした。

 

「……一族の経験からだ。ただ、私の経験でもあるがな」

 

 クナルには珍しい、ひどく人間的な表情を浮かべる。過去に対する苦悩からか、その勇ましい眉はしかめられ、皺が寄っていた。しかし、その表情は続く言葉で妖刀の微笑みに変わる。

 

「だが、これほどの人数で龍に挑む経験はない」

 

 長年にわたり拡張路線を貫いてきた帝国では数多の国家・部族が隷従させられ、文化の吸収・破壊が成されてきた。その行為は統治を円滑化させるため行いであったが、すべての国家・部族に対して行われたわけではない。

 

 クナルのように、褐色の肌に新雪を思い浮かべさせる白銀の髪が特徴的なラシェイダ族もその例外の一つであった。

 

 帝国が未だ拡張を望まぬ王国時代、周囲は部族で傭兵家業を営む種族に囲まれていた。彼らは、吸収後も武力を持ち続けており、いわば蜈蚣の足の如く頭が死んだ後も絡みついてくる厄介な存在であった。

 なにより、帝国が大陸で先駆けて施行した士官制度による軍事方針には傭兵は合わない。必然、帝国は拡張に合わせて傭兵を営む部族のほとんどは飲み込まれ、粉砕され、塵芥となっていった。

 

 しかし、力ある部族を潰していくと、領地を守る組織が存在しなくなってしまった。

 今となっては宝の山であるダンジョンも、魔石を利用した魔導具が開発されるまでは無用の長物であり、ただただ怪物を排出する厄介な土地に過ぎなかった。今ほど国家が安定しておらず、治安維持部隊に金を割ける余裕もないとなれば、利益を生み出さないダンジョン近郊は、怪物が跋扈(ばっこ)する魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界だった。

 

 そんな中、怪物のみを相手にするラシェイダ族は、群雄割拠の戦国時代に際しての治安の悪さから、怪物狩りの専用部隊を必要とする帝国内の内部事情と噛み合い、例外として吸収されず残った一族であった。

 とはいえ、昨今の探索者業価値の増大から狩りを専門とする部族はほとんどなくなり、完全に帝国に帰化し、軍へ所属することになっていたが。

 

 いくら探索者ネットワークに繋がっていないアンヘルとはいえ、珍しいラシェイダ族の凄腕剣士を知らないわけがなかった。

 

「その、龍がぼくたちを憎んでいる理由って見当がつく?」

「理由? どうでもいい。それよりも、その憎しみをどう利用するかだ。なぜ、そのようなことが気にかかる?」

 

 整った眉が怪訝さの表れからかゆがむ。瞳から発される圧力が増していた。

 

「その……理由を知らないと、利用できないかなって…………」

 

 詭弁だった。

 たった一撃で人を死に至らしめる攻撃力と要塞の防御力、さらには飛行能力まで備えた龍は完全無欠の相手である。ことさら、遠距離攻撃手段を持たないアンヘルたちには、逃げの一手を取る龍を仕留められない

 ならば、その憎しみの原因を解き放ってしまえばいい。危険も侵さず円満に解決できる、探索者らしい合理的な判断であった。

 

 しかし、クナルは非情に告げる。

 

「そんなものに意味はない。龍が人族を憎むとすれば、考えられる理由は限られる。おおよそ、村の人間が龍に手を出したのだろう」

 

 テリュスが話していた依頼の詳細を思い返す。彼女の話では、襲われている村人はこのピエデラの村の住人および訪れた人間に集中しているとのことだった。クナルの言葉を合わせれば、推測は的を得ているように感じられた。

 

「けど、村の人が龍にちょっかいをかけるっていうのは無理じゃないかな。ぼくたち探索者でも、あんなのに出会ったら即逃げると思うけど?」

 

 その台詞を聞いて、クナルは愚か者を見下す冷たい視線を送った。

 

「直接、ではないに決まっているだろうが。たとえば、龍の子であるとかな」

 

 龍の子という予想を聞いて、龍の憎悪に染まった瞳が頭から離れなかった。

 

 

 

 §

 

 

 

 情報を共有したふたりは、傷を癒すため村の中心部にある唯一の宿屋兼酒屋兼雑貨屋を訪れた。龍の脅威からか、近場の畑でしか農作業を行えない村人たちは仕事がなく、狭い店内に所狭しと屯していた。

 

 店の汎用性の高さゆえかそれとも需要の無さからか、専門店と比べれば酷い有様で、期待した情緒あふれる宿の部屋はちいさな物置に寝具を置いただけであった。救いは、寝具の上に藁が敷き詰めてあったことだろうか。宿としてこれまでの中で最下位をぶっちぎる割に高額の宿泊費を要求されたアンヘルは、経費で落ちるにもかかわらずぶつくさ言いながらリーンに回復を任せ、眠りについた。

 

 明朝、目を覚ましたアンヘルは左腕の傷を確認する。完治とはいかないが、動かすには支障はなかった。腕に巻いた包帯を解きながら、眷属であるリーンの丸まっている様子を眺める。夜通しの治療には流石に堪えたのだろう。その顔には濃い疲労の色があった。

 

 リーンを優しく撫でると、召還(アポート)。その姿は虚空に消えていった。

 

 剣を腰に差し、寝具しか置かれていない部屋を出る。小さな客室が居並ぶ二階を降りると酒場に辿りついた。そこは夜通し飲み明かした男たちの()えた匂いと酒精の臭いが漂っていた。

 

 酒場では、中年の女将と幼い少年が忙しなく酒瓶を片づけている。そして、客席にはクナルが無機質な表情を浮かべて佇んでいた。

 

 クナルは一階へ下りてきたアンヘルの顔に気がつくと、立ち上がる。そして「手がかりを見つけたぞ」と告げるとスタスタと店の外に歩いていった。

 アンヘルはその背を追いかける。

 

「……昨日、そっちの部屋から叫び声が聞こえていたけどなにかあったの?」

「なにも、ただ引っかけた女で(いとま)を潰しただけだ」

 

 そう告げた美しい顔にはただただ退屈が浮かんでいた。龍と戦ったときの獰猛(どうもう)な笑みは何処へやら、ただ事実を淡々と告げる冷たさがあった。聞いた側としてもそう淡々と告げられると、一瞬納得しそうになった。

 

「…………えッ! 女の人を連れ込んでたのッ!? いつ、どうやってッ?」

「朝から騒ぐなこのうすらマヌケが。貴様は手がかりよりもそんなことが気になるのか?」

 

 クナルは不愉快そうに眉を(ひそ)める。

 

「向こうから声を掛けてきたから、情報収集の一環で抱いただけだ。どちらにも損がない取引だ」

 

 心底下らなそうに告げる。興味のなさだけが浮かんでいた。

 

 ――いやいやいや、そんな暇、いつあったんだよぉ。っていうか、傷はどうなったの?

 

 クナルは龍の息吹を正面から浴びて重傷を負ったはずである。しかし、どういうわけか服の隙間から覗く素肌には火傷の痕は残っていなかった。一晩楽しんだということは、龍と交戦してから夜楽しむまでの間に治っていたことになる。治癒の魔法が使えるわけでもないのに、まったくもって理解不能の回復能力だった。

 

 しかし、頭に浮かんだ疑問を心の中に仕舞った。能力や私情を尋ねるのは探索者としても仕事に就く者としても不適切だからだ。

 

「……それで、いまはどこに向かっているの?」

「聞いた話では、その家の男は襲撃が始まる少し前から引きこもって出てこないらしい」

 

 早朝の畑の脇道を通り抜ける。中心部以外は、一軒一軒の距離が遠い。

 

「おそらく、その男がなにか手がかりを持っているだろう」

「引きこもり? そんな理由?」

 

 アンへルは頭に疑問符を浮かべながら尋ねる。しかし、尋ねられたクナルには確信の頑固さがあった。

 

「理由などどうでもいい。事件前後の変化はそれだけだ。あやまりであれば、次を探せばいい」

 

 そう言い捨てて足を早める。アンヘルとしてはそれに続くしかなかった。

 

 

 

 少しばかり歩くと、ひとつの小屋に辿りついた。

 その小屋には乱雑に農具が立てかけられており、周囲には価値のなさそうな小物が放置されていた。建物からは異臭が漂っており、住人のずさんさがありありと表れていた。

 

「あのー、すいません」

 

 扉をコンコンとノックする。返事はなかったが、背後のクナルに顎で指示され今度は大きくノックした。すると、中からドタドタドタと大きな音が響いてきた。

 

「誰だてめえらはよおぉ!?」

 

 扉の向こうから男と思われるだみ声が響く。

 

「ええっと、酒屋の店主からあなたの様子を見てこいと頼まれたのですが、扉を開けてもらえませんか?」

「ああっ!? ルグドの野郎たってかぁ? なんだってんだい」

 

 ぶつくさ文句を言いながら男が扉を開ける。ギイっと開いた瞬間、クナルの大曲刀が閃いた。風を斬り、目にも止まらぬ速さで男の首筋に大きな刃がそえられる。その神業には、男はなすすべなく固まるだけだった。

 

「な、な、な、なにモンだいてめぇはよぉ!」

 

 焦る男に対してクナルが冷酷に告げる。

 

「いいか、貴様に尋ねたいのはたったひとつだけだ。貴様の秘密を答えろ。さもなくば、首と胴がはじめての別れを経験することになるが」

 

 はじめてじゃない首と胴の離別ってなんだと心の中でツッコミながら、アンヘルも焦る。彼との打ち合わせでは扉を開けさせ、穏便に話すという作戦だったのに、これでは恐喝である。

 

「ちょっと待ってよっ。彼はなにも関係ないかもしれないじゃない」

「黙れ、貴様から別れを経験させてやろうか?」

 

 一瞥もくれずに返す。クナルの瞳には怯える男だけが映っていた。

 男は剣とクナルの威圧に負けて尻もちをつく。股は微かに濡れていた。

 

「ひ、ひみつ? なにをいってぇやがらぁッ!?」

「龍に手を出しただろう? 欲に目が眩んで龍の子を手に掛けたのか?」

 

 男はクナルの言葉を聞いて早々に狼狽えはじめた。

 

「そ、それのどこが、悪いってんだいぃっ! オラは、ただ魔物をこらしめてやってるだけだろうがぁっ!」

 

 威勢よく吠えかえす。しかし、僅かに震えが残っていた。

 

「ならば、なぜこうやって部屋に閉じこもっている?」

「それは…………龍が、龍がおそってくるからさぁっ。だから、家にいるだけだろうがぁよお、なにが悪いってんだあいっ!」

 

 男は続ける。

 

「オラはよぉ、山に登ったら魔物がいたから弓で射ただけだあっ。ただ、魔物をヤっただけでさぁ、そだに閉じこもってるだけで、なにをそんな責められなきゃならねぇえええッ! 魔物を殺して、その死体を売っぱらって、良いくらしをおくるってことの、なにが悪いっていうんだよぉおお!」

 

 男の叫びに対して、アンヘルは心の底から驚愕した。彼の論理には、ひたすらに自分自身しか存在しない。龍を襲うななど幼子でも知っている常識だ。龍は聡明だが、襲ってきた者を生かして返す温厚さは持ち合わせていない。

 龍の血は良薬に、龍の牙は武器に、鱗は鎧にと身体中余す所なく利用できる。たとえ龍の幼子であったとしても、その価値は一介の農民には大きい。しかし、これほどの悲劇を落としたことに対して自分だけを考えられる思考に怒りを覚えた。

 

「……あなたは、この村へ龍の災厄をまき散らしてしまった事に対してなにも感じないのですか?」

 

 村を守ろうとしたイゴルやリコリス。過去の思い出だけで村に残った傭兵。その死にざまがフラッシュバックする。アンヘルの顔には封じ込めたはずの深い陰が差した。

 鈍い疼痛(とうつう)が広がる。右手が腰に差した剣へ伸びようとした。

 

 それをクナルの冷たい声が遮った。

 

「くだらん。貴様の動機も、マヌケの感傷もな」

 

 クナルが興味を失い、剣を引く。その顔にはまた退屈が浮かんでいた。

 

「龍がこうやって彷徨っているということは、いまだ子の一部を持っているのだろう。それをよこせ」

 

 淡々と、それでいて拒否させない威圧を伴って告げた。

 

 

 

 §

 

 

 

 村から離れた荒野でアンヘルたちは目の前に小さな牙と鱗を並べて座っていた。冷え冷えとした空気が荒野を駆け巡る。

 

 クナルは瞑想して、アンヘルは、ただひたすらに剣を研いで龍が現れるのを待っていた。

 

「こんな牙と鱗を置いただけで来るのかな? あんなに目を怪我していたのに……」

 

 クナルが負わせた傷は深い。いくら龍とはいえ、眼球に剣を突き立てられれば耐えられるものではない。毅然と飛び立っていった龍だが、かなりの重症であることはアンヘルにも察せられた。

 だからこそ、手負いの龍をおびき出せれば仕留められる可能性は高い。

 

「龍は他の生物とは別物だ」

 

 紅色の唇が言葉を紡ぐ。

 

「野生生物は敗北を予感すれば一目散に逃げる。そこには、恥も外聞もない。奴らに人間の考える誇りや見栄は存在しない。しかし、龍は別だ。自らの子が辱められるとあれば、如何に手負いとはいえ出てこざるを得ないだろう」

 

 野生にない知性を持つがゆえに狩られる。彼の語る怪物狩りの手法は、知性と裏打ちされた経験と冷徹さがあった。怪物狩りとしての一族の歴史の重さ。語る一言一言にそれが詰まっていた。

 

「そもそも、どうして村を襲わなかったんだろう? あの龍なら、村なんて滅ぼせる気がするけど……」

 

 言っておいて、反吐が出る響きだった。しかし、あれ程強大な龍が只の村人を屠るなどたやすいことに思えた。

 

「人族を狩り過ぎれば、我らのような討伐隊が組まれると理解しているのだ」

 

 クナルは「もう少し頭を使え」と辛辣に言葉を投げた。

 

 返す言葉もなく、沈黙する。

 ふたりの間には、砥石の摩擦音だけが響いていた。

 

「しかし、貴様の得物は酷いな」

 

 瞑想を終えたクナルが唐突に言う。それは、クナルからはじめての問いだった。

 

「刀身は歪んでいて、さらに貴様の体格にあっていない。その上、造りの古さから所々ガタが来ている。遠目に見てもそのざまだ。今時、駆け出し以下の得物だな」

「それは……そうなんだけど」

 

 責められたアンヘルには否定の言葉を持たなかった。

 アンヘルは万年金欠だ。最近はテリュスの依頼により十分以上に生活できているが、それはホアンの借家に居候しているからである。オスゼリアスにはじまる発展した都市では物価が高く家を買うのは難しい。そのため、借家を借りるしかないが、探索者のような浮き草稼業の人間が一定ランク以上の家を借りるには、知名度がなければ難しい。そうなると宿へ泊まり続けるはめになる。金銭感覚が破綻している他の探索者は気にしないが、将来のため貯蓄を残したいアンヘルとしてはムダを減らしたかった

 

 しかし、その精神こそが戦士たるクナルには受け入れられない姿勢だった。

 

「剣士が己の魂たる剣に金を惜しむなど愚かな事だ。我が一族には『準備を怠ることは失敗を準備していることと同じだ』という格言があるが、貴様のやっているのはまさにそれだ」

 

 辛辣な言葉が心をささくれ立たせる。村の男の身勝手な振る舞いもあってか、苛立って言い返してしまった。

 

「そっちこそ、なんなのそのバカでかい剣は? もしかして、君のラなんちゃら一族は炊事にもバカでかい包丁を使うの?」

「これだから、無知は困る」

 

 クナルがやれやれと首を振った。

 

「これは刀匠ドミトリ・ラザフォードが手掛けた一品だ。大業物級には届かぬが、十二分に業物ではある。最近になって発見された十七振りの魔剣には遥かに劣るがな」

「そんな自慢、聞いてないよ」

 

 彼の言葉を両断しながら、覚えのある魔剣について記憶を探る。

 

 ――ああ、新聞に書いてあったあれかぁ……。

 

 アンヘルはホアンが試験の時事問題のために取っている新聞の記事を思い出す。最近は勉強が身を結んで、新聞記事くらいなら判読可能になっていた。とはいえ、時間がかかるため気になる記事にしか目を通さないが。

 

 幻と言われた十八本目の魔剣についても思い出していると、クナルが光悦の表情で続ける。

 

「この美しく滑らかな刀身に、バランスを崩さない重心。そのすばらしい全体像はまさに芸術の極み」

 

 女を抱いたというのに淡々と告げていたその唇が興奮して語る。

 無機質に佇んでいるクナルは恐ろしいが、武器に興奮しているさまは不気味の一言だった。

 

「…………もしかして、剣が好きなの? 女の人じゃなくて?」

「なにを言う。あんな肉の塊のなにがおもしろい?」

 

 クナルが心底不思議そうに返す。その不思議そうな顔がひどく不気味だった。

 なら一生剣に射精してろと心の中で呟いた。

 

 どんな皮肉を返そうかと考えていると、会話の最中にもかかわらずクナルが唐突に立ち上がる。そして空を見上げた。アンヘルもそれを追って見上げる。

 

 紅い塊。片目に傷を負った龍が飛んでいた。

 龍を狩る死闘が始まった。

 

 

 

 §

 

 

 

 地上に降りたった龍の咆哮が轟く。

 すべてを飲みこむ死の叫びは、それでいて力強さを欠いていた。

 灼けつく右眼の輝きが、切り裂かれた左目の血流で濁っている。その吐息には、傷の苦しみが多く混じっていた。

 

「眼球の傷は脳まで達しているな、奴にはもう正常な判断力は望めまい」

 

 勇猛なラシェイダ族の戦士が凄絶な笑みを浮かべながら背の剣を構える。それに続いてアンヘルも腰の剣を引き抜いた。睨みあう両者の間で闘気が高まりあう。それが頂点に達した瞬間、両者は一斉に駆け出した。

 

 クナルが身体をまるで豹のごとく縮め、飛翔。天を駆けるがごとく猛烈な速度で跳躍する。上腕二頭筋、三角筋が隆起し、人の身長を越える大曲刀を掲げた。

 龍の脳天に向かって彼の急降下攻撃が行われる。強化のなされていない一般人には視認すら不可能な一撃を龍が右の黄爪で防ぐ。鈍い音とともに火花が散った。

 そのままクナルが超人的な身体能力と剣の薙ぎの慣性によって空中で態勢を整えると、立て続けに切り上げる。龍の左爪を躱して薄く咢を切り裂いた。

 

 クナルが地面を滑るようにして着地。それを見ながら回り込むようにして疾走する。

 

「はぁぁあああ!!」

 

 気合の雄たけびと共に刺突の構えをとる。龍の装甲は生半可なものではない。アンヘルの腕と得物では、力を一点に集中させた刺突を眼球か腔内に当てなければ効果はない。

 クナルから目を離さない龍の死角から剣を突きだす。踏み込んだ右足から捩じった腰、上腕の力が強化の力と合わさって剣先に集中する。渾身の刺突が龍の眼球に迫る。

 

 寸前で気づいた龍が咢を開いた。そして櫛比する牙で刺突を弾く。カキンと子気味のいい音を立て、剣が上方に弾かれた。

 無防備になったアンヘルの胴体を龍の黄爪が襲う。それを無様に転がって避ける。

 

「がぁあああああああああああ!!」

 

 戦士の咆哮とともにクナルが曲刀を振る。世界を半分に切り裂かんと真横に振り抜かれた剣は躱されたことで虚空を斬った。しかし、凄絶な剣士たるクナルは振り抜いた剣をそのまま反転させるという、人体の構造を逆らった動きをした。

 

 いくら鍛えても人間はそれ以上の存在にはなれない。剣を振り抜いてしまえば、その流れに逆らえない。だからこそ、剣術とは円を描くようにして流線形の型を取るものだ。

 しかし、彼の剣技はそれに当てはまらなかった。人体構造に逆らう筋力かあるいは超常の力によって、勢いに乗った曲刀を制止させ反転させる。異常とも言える武技は龍の横面を切り裂いた。

 

 龍が悲鳴を上げる。

 クナルの超人的身体能力はさすがの一言であったが、それ以上に龍の動きが鈍い。明らかに昨日の戦闘よりも覇気が減じていた。

 

 これならばいける。そう心の中で考えた瞬間だった。

 

 龍が息を吸いこむ。

 龍の息吹の兆候だ。クナルに注意を促そうとしたが、息吹を吐き出す瞬間に龍が向きをこちらに変えた。

 

 ――こっちかッ。

 

 弱い方を狙う。戦術としては当然の行為だが、まさか龍がそんな低俗な戦術を取るとはまったく考慮していなかった。それは相手の余裕を無さの裏返しでもあるが、今まさに死が迫るときには何の役にもたたない。

 

 吸い込んだ息が火炎となって蜷局を巻き、津波となって迫りくるのをスローモーションで眺める。いくら強化が成されたアンヘルの肉体も、空を飛んだりすることはできない。

 外套で身を包み、必死に避けるも放射状に広がる龍の息吹を躱すことはできない。炎の津波がゆっくりと迫ってくる光景を見るしかなかった。

 

 小さくクナルの舌打ちが響く。

 普通の人間とは違う法則で動いているのか、生まれついての戦士であるクナルの身体能力は超人的なものだった。

 眼前にまで迫っている炎の津波を躱して、クナルがアンヘルを抱える。そして、飛翔した。

 

 人を抱えて垂直に十メートル以上飛んだクナルは炎の海を飛び越えると、アンヘルを投げ捨てる。そして、自分自身も静かに着地した。

 げふっと尻もちを着く。それでも尻の痛みより、生き残ったことが嬉しかった。

 

 しかし、その喜びを無粋な言葉が打ちきる。

 

「私の足を引っ張るな、このマヌケが」

「…………うるさいっ。ぼくは子猫じゃないんだから、君の恋人みたいに扱ってほしいよ」

 

 いつもは受け流せる軽口も、クナルの前では引っ込められない。ある意味、相性がいいのか軽口の応酬が続いてしまう。

 

「私に恋人などいたことはないぞ」

「そう? 手に持ってるじゃんか。麗しいお姫様が化粧をしているんだから、今日は抱いて寝てあげたら?」

 

 血に染まった大曲刀を揶揄う。その言葉に苛立ったクナルが剣をアンヘルに向かって軽く薙いだ。アンヘルはそれを飛びのいて躱す。

 

「おわっ。なにすんの!」

「だまれ、我が愛刀ビフェニルを愚弄することは許さんぞ」

「あれ? もしかして自分の剣に名前を付けてるの? それは不気味を通り越してキモイよ」

 

 常に無機質な表情を浮かべていたクナルの顔がはじめて怒りに染まった。額には青筋が浮いている。

 

「なるほど、龍を倒した後は貴様から死にたいという宣言と受け取って良いわけだな?」

「君の一族の格言に、他人の言葉を拡大解釈せよっていうのもあるの?」

 

 言い合うふたりの間を龍が駆け抜ける。ふたりは磁石が反発するようにして二手に別れると、龍の背を回って、またも合流する。

 

「貴様、愛刀だけでなく一族までも。本当に死にたいらしいな」

「君の武器性愛嗜好には一切の興味はないけど、部族批判に聞こえたことは謝るよ」

 

 龍の咆哮が轟く。怒れる瞳が負った傷によって輝きを失いつつあった。

 しかし、戦意までは失っていない。ここからが正念場だ。

 

 アンヘルは剣を水平に構える。隣には少しばかり疲れの見えるクナルの姿がある。

 

「とりあえず、倒すまでは一時休戦にしない?」

「…………いいだろう」

 

 クナルも戦意高らかに大曲刀を構える。

 

「息吹を回避するのに力を使い過ぎた。龍の鱗を貫くほどの剛力はすぐには出せんぞ」

「なら、少し時間を稼いでほしいな。あと、今からやることは秘密で」

「……まさか貴様に指示されるとはな」

 

 吐き捨てるクナルの顔には意外にも不快さは浮かんでおらず、なんとなく愉快そうな笑みが浮かんでいる。それは、珍しく毒を吐き続けるアンへルも同じだった。

 

 再戦の狼煙と言わんばかりにクナルが雄叫びを上げる。そして、弾けるようにして地面を蹴り疾駆する。クナルの強靭な肉体が生み出す突進は砂塵を巻きあげ、一直線になって龍へと迫る。全身の筋肉が躍動し、人には余る大曲刀を振り回した。

 

「どぅらあああああ!」

 

 大曲刀の連撃と龍の爪がぶつかり合い、鈍い交響曲を奏でる。凄絶な連撃は地面を抉り、衝撃波を周囲にまき散らした。

 美貌の剣士の瞳には野生と同じ獰猛な光が宿っている。その狂剣士の勢いに、理性ある龍がたたらを踏んだ。

 

 半円を描き迂回していたアンヘルは、その光景を唖然と眺める。龍を狩る探索者の存在は知っていたが、まさか正面から剣を交えることができるとは思いもよらなかった。ホアンやホセのような今までの武芸者とはまったく違う、本物の実力者だった。

 

 クナルの剣が煌めき、銀線を描く。上段から斜めに振り下ろされた銀線が龍の左翼を引き裂き、右肩を薄く裂く。そのまま返す刀で切り上げ、右足の肉を削った。

 クナルは龍の反撃に対してまったく下がらない。掠っただけで肉を持っていく致死の一撃に対して踏み込み、得物を振り回す。それどころか、身体に掠っても皮膚の下に鉄の鎧でもあるかのように龍の爪の一撃が弾かれていた。

 

 狂剣士の舞。舞踏と言うべきか。

 美貌の戦士が踊る死神の舞は、着実に龍の命を削っていた。

 しかし、同時にクナルの額にも大粒の汗。妖しく笑うその顔には強い疲労が浮かんでいた。

 

 右、左と黄爪を躱し縦横無尽に駆けまわる。龍が焦れて爪を大きく振り回した瞬間にアンヘルの閃きが実現した。

 

「クナル、下がってッ!」

 

 アンヘルの掛け声とともに、クナルが大きく飛びずさる。

 それを見届けたアンヘルは腕を大きく掲げた。

 

召還(サモン)ッ!」

 

 中空に開かれた門から若水龍シィールが出現。その額には、躑躅色の角が輝いていた。

 シィールは主人の指示にしたがって息を吸い込む。そして吐き出された。

 

 シィールから吐き出された吐息が放射状となって広がる。白銀の世界が龍を包んだ。

 モンスターには自身の能力に由来する属性を持つ。自身の能力に適合するスピリチュアルを取り込むことで強くなっていくのだ。そしてそのスピリチュアルには相性というものがある。シィールの持つ属性は水。火山龍ボルケーノドラゴンの火属性に対して優勢な属性である。

 

 シィールの息吹に対して正面から受けた龍は身体に霜を張りながらも、残った右眼を強く猛らせていた。

 

 ――これで、最後だ。

 

 構えた剣を引き、刺突の構えを取る。そして、残った右眼に向かって突貫する。

 

 気合の乗った剣先が龍の右眼に迫る。霜の下りた身体、鈍った腕部に気取られて、最後の反抗心を見逃した。

 

 龍が大きく咢をひらく。その奥には、灼熱の息吹が込められていた。紅い火が喉奥に灯る。その火が吐き出されんとしていた。

 

 ――くっそ、やばいッ!

 

 躱せない絶対の死を遮ったのは、大剣だった。

 高く飛翔したクナルが大曲刀を逆手に急降下、負傷した左目に突き刺さる。その刃は、目を貫き、脳を裂き、喉奥を凌辱した。

 息吹を吐こうとした腔内が脳ごと縫い付けられる。行き場を失った灼熱が龍の体内を焼いた。

 

 龍が苦悶の悲鳴とともに倒れる。

 

 龍の灼熱の息吹が渦巻いている。その噴出口は黒く炭化していた。

 尻もちをついているアンヘルの隣にクナルが歩いて近寄る。その顔には不可解さと不快さがあった。

 

「貴様が召喚士の力を隠していたことも不愉快だが、なによりもなぜあの龍は避けなかった。すべてを回避できずとも、負傷を抑えることができたはずだ」

 

 声に含まれる怒り。それは闘争を穢された怒りのようだった。

 

 この若龍には人語を解する能力はないうえ、もう虫の息だ。アンへルが答えるしかなかった。

 

「この龍は避けられなかったんだ」

「……どういう意味だ」

 

 クナルの怒りの込められた冷たい瞳がアンヘルを射貫く。

 

「……この龍の後ろには彼の子の一部である牙や鱗が置かれていた。もう、影も形も無くなったとはいえ、シィールの吐息に晒すことはできなかったんだ」

「……」

 

 クナルの顔には納得と怒りの表情が浮かぶ。詰問の色が瞳に宿っていた。

 しかし、数瞬するとさっぱり消えて失望の色が浮かんでいた。

 

「この龍も、そのような感傷に惑わされるのでは、真の闘争の相手にはならないということなのだろうな」

 

 心底下らなそうに告げる。

 

 真の闘争。アンヘルはクナルの武芸の根底に思い至った。

 その若さでは普通身につけられぬほどの凄絶な剣技。超人的な身体能力。この若きラシェイダ族の神童は、名誉でも財貨でも地位でもなく、ただ自らが望む闘争のためだけにこの領域に至っているのである。

 彼の精神構造は人間的な弱さをすべて切り捨てている。彼の前では、女も子供もすべてが無価値に映るだろう。

 

 アンヘルはその非人間的な在り方に恐れを抱くしかなかった。

 クナルはそんな心情を斟酌せずに刀を背負う。

 

「さっさと片づけるぞ。貴様は村に――」

「うぉおおッ! あんたらよぉ、てえしたんだなぁああっ!」

 

 片づけを指示しようとしたクナルの声を遮って、遠くで隠れていたらしい男が叫ぶ。その男は、龍の子を害した村の男であった。

 

「なあ、なあよおッ! あんたら、あいつを倒したんだろ? ならよぉ、あの牙と鱗は、返してもらうべっ」

 

 男は返事も聞かず地面に並べられた牙や鱗を懐に仕舞う。その浅ましい姿に反吐が出そうになった。

 なんの反省の色も見せない目の前の男を許せなくなり、アンヘルは一歩踏み出す。

 

「あなたは――」

 

 責めようとしたアンへルの肩をクナルが掴む。その顔にははじめて見る表情、嘲笑があった。

 

「貴様はあの男が許せないのか?」

 

 クナルの質問が一瞬理解できず疑問符を浮かべる。それを咀嚼して、脳内で再生した。

 どう考えても、誰もがあの浅ましい男の所業を詰問したくなるだろう。そう考えたアンヘルをクナルが断じた。

 

「それは同族嫌悪と言うのだ。貴様のやった戦術とあの男がやっている行為にはなんら違いはない」

 

 戦慄が走る。

 クナルの辛辣な言葉がアンヘルを打ち砕いた。

 

 ちがう、そんなわけがないと反駁しようとしたが言葉が出ない。

 

「戦士としての貴様の行為には敬意を払うが、自覚がないのは愚か者の極みとしか言いようがないな」

 

 吐き捨てるようにして告げる。そして、そのまま踵を返して去っていった。

 

 男の奇怪な悲鳴が響く。

 視界の端で、龍の遺骸の中心に光が溢れている。

 

 光は、霞となって移動し、アンヘルを包んだ。その光に導かれるまま、小さな震える声で呪文を紡ぐ。

 

召喚(サモン)

 

 現れたのは、小さな卵だ。白に緑の斑点の小さな卵だった。それは、召喚と共に小さくひび割れ始めた。

 ピキピキと亀裂が大きくなり、中からは赤い小竜が現れる。紅き龍が体内に宿していた、もう一匹の子供であった。

 

「キュウ?」

 

 龍の小さな泣き声と吹き抜けた冷たい初冬の風が、アンヘルの心を撫でつけていた。

 

 

 



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第十一話:トラジディへの序章

 大都市オスゼリアスにおける運送の喉仏ともいえる物資集積港、デンドロメード湖港(ここう)の一つ、リックガル集積所にて、男が煙草を更かしながら歩いている。

 

 湖に接続した大河により、無尽蔵と思えるほど大量の物資を一手に引き受ける港、それがリックガル集積所である。最大規模を誇るこの港には、物資、人、金が集まり、身体を巡る血流のように都市オスゼリアスに流れていく。人々は、まるで蜜に(たか)る蟻のようにして、この物資の心臓部ともいえる集積所に向かうのである。

 

 煙草を吸い終えた男――検閲官ダビド・クビノは定期巡回検査を終えて、同僚の待つ事務所に戻る所だった。波止場に吹き寄せる風は冷たく粒だっている。水面を撫でる冷風が波だった水面を掻き立て、飛沫となって吹きつける。初冬の夜の湖風はひどく肌寒い。

 

 ダビドは今年で三十になる検閲官で、総督から俸給を受ける下級役人であり、大河を渡ってやってくる船を検査する仕事に就いている。

 

 港の検閲官は現場仕事であり、最下級に近い役人であるが、それでも権威あるお役人である。要領よくこなせば船主から受け取る賄賂もあり、日々身を粉にして労働に励む下級労働者には殿上人といえた。もっとも、役職は完全に世襲・縁故採用のみであり、新規採用された職員は最近を振り返っても皆無だったが。

 

「ひぃぃ。今日はやけに冷えるなぁ」

 

 背筋を震わせながら、羽織ったコートの襟を立てて身を縮こませる。夜風に揺れる魔導灯りの光を頼りに、暗がりを進んでいく。

 

 ダビドの祖父は、六十年前の隣国リヒトガルド王国とのメルオヴァレイ会戦において、ティラノス騎馬突撃隊の一員として名を馳せた人物であった。彼自身も数年前に没したその祖父と似て、目を引く高い身長と人並外れた膂力を持ってはいたが意気地を欠いており、役人仕事だけで長年食いつないできた気の弱い父と同じ臆病な性質であった。

 

 そして、このダビド、要領というものがよろしくなかった。十八のときから熱心に仕事を務めているが、人に意見を述べることが苦手で、とくに上司から気に入られない性質であった。

 基本、検閲官の仕事は見廻って小さな不正を見つけては船主に賄賂をねだり、十分な金が手に入るとそさくさと早引きするといったものである。しかし、ダビドは中々手を抜けない性分であった。賄賂が俸禄に含まれていることを父に知らされてからも、不正を働く度胸と悪知恵を持たないダビドは、決められた時間を異常がないか熱心に調査・報告し、その上司が賄賂を受け取るところを眺めるという毎日を送っていた。

 

 ――はぁ、なんでこんなこと毎日やっているんだ俺は…………。

 

 軍国主義が支配する帝国は、軍人と官僚が高い地位を占め、教育・文化・イデオロギー・風習までもが軍事的特色を帯びる。魔導化による物資と思想の流入により、多元的思想が認められるようなった近年でも、民間はともかく官僚機構の中では、この人の良い気質で出世の機会に恵まれるはずもない

 

 今日も、五つ下の若造が事務方に出世するため、同期の上司に買い出しを強制されていたところであった。

 苦笑いをしながらランタンを振り回す。検閲予定の場所はあと一か所だった。

 

 ――はぁ、ここはいっつも治安が悪いから来たくないんだけどなぁ。

 

 ぼやきながら最後の場所である第四区画に足を運ぶ。

 

 第四区画は込み入っており、杜撰な管理状況から禁制品の密輸を取り仕切るカルテルの連中が出入りしている。そのため、治安が悪くなりがちであった。人並外れた体格のダビドだが、武術の心得があるわけではない。ごろつきの喧嘩や倉庫・船上荒らしには無力であり、夜半検閲の仕事は誰からも敬遠されていた。

 

 ――しかもこの前、人身売買の摘発があったせいでぴりぴりしてるんだよなぁ。

 

 嫌な想像が頭をよぎった。

 船留めに打ち寄せる波が小さな音を立てて反響している。いつもは気にならないその音が、今夜はやけに大きく聞こえるような気がした。

 

 鈍い部類に入るダビドであっても、治安の悪い場所へ入ることに無神経にはなれなかった。

 

「き、きょうは早めにおわらせよう。うん、そうしよう」

 

 ランタンを持っている手が心なしか震えた。

 

 指定の場所に行き、置かれた荷物をサッサと確認する。仕事を手早く済ませると、責任者に一言告げ立ち去る。

 嫌な想像のせいか、逸る心を抑えながら、速足で第四区画を通り抜ける。薄暗い路地を曲がると、その街頭の先でちらりとなにか動くものを見た気がした。

 

 ギクッと身体が停止する。じっと制止して数秒待つが何も起きなかった。

 

「はぁ~、なんだ気のせいか――」

 

 息を吐いた瞬間だった。不意に、ガタッと木材の倒れる小さな音がした。

 心臓を握られたような悪寒がダビドを包む。喉がカラカラに乾いた。

 

 ゆっくりと音の鳴った方向を見ると、ランタンの光を真っ向から浴びせた。

 

「誰だッ!! 俺は検閲官だぞッ!」

 

 照らされた木箱の影になにかが(うずくま)っている。そこで、心底恐ろしくなり、半分気絶しそうになる。しかし、意思に反して自分の足は物陰のなにかに近づいていった。

 

 ランタンの光に照らし出されたのは、尖った耳が目を引く少女の寝顔だった。

 

「……え?」

 

 安堵のため息を吐く。

 落ち着いたことで頭に冷静さが戻ると、現在の状況がハッキリとしてくる。目の前には青白い顔色の少女がいた。少女は寒そうに震えている。眠っているというより倒れているといったほうが正しかった。

 

 早く助けないと、と気がつけばダビドは少女を担いでいた。路地をそさくさと駆けぬけ、最近越したばかりの借家の扉を開くと少女を自分の寝台に寝かせる。そして、寒そうに凍える少女にありったけの毛布を被せた。

 

「とはいうもののなぁ……」

 

 ダビドは少女を眺める。

 少女の身に纏っている衣類は乞食以下、農村の少年少女なみの飾り気のない貫頭衣ではあったが、暖炉の光い照らされて眠る横顔は今まで見たことがないほど整ったものであった。

 

 金の束を集めたような美しい絹のような金髪。

 瞼は閉じられ、長い睫毛が目立って、恐ろしく整っている。

 肌の色はやや青みがかっているが、新雪のように白い。

 

 そして、なによりも特徴的な上方向に尖った耳。帝国内でも非常に珍しい人種。アルン人の特徴だった。

 

 素人童貞と同僚から陰口をたたかれるダビドにしてみたら、触れることすら恐れ多い貴人の如き美貌を持つ少女だった。年の頃は一五くらいであろうか。ただ眺めているだけなのに神聖さすら伺わせた。

 

 もう時間は深夜である。後輩を送る会はもう始まっている。買い出しを頼まれたにもかかわらず、遅れるなど、ただでさえどんくさいとバカにされているのに拍車が掛かることは間違いないだろう。しかし、そんな小さい事は頭になかった。

 

 俺は善意で彼女を助けたんだ。その彼女が起きたとき、まったく知らない場所にいれば怯えるに違いない。つまり、俺は彼女が起きるまで待たなければならない。ダビドは強く自分に言い聞かせると、椅子に腰を落として腕組みをする。

 

 すうすうと寝息をたてる少女を見ていると、中心が高ぶってくるのを感じる。それを抑え込みながらジッと待った。

 

 ――俺は、少女を部屋に連れこんで乱暴するような人間じゃない。ただ、助けただけなんだ。

 

 カチカチと古時計が動く。ダビドは、それをひたすら眺め続けた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「やっぱり、やめたほうがいいんじゃないかなぁ……。ほら、僕ってあんまりそういう格式の高いところ苦手だし」

 

 黒の背広を着たアンヘルが本音を漏らすようにしてぼやく。その眼差しは、白塗りの豪勢な邸宅に注がれていた。

 

 敷地には何台もの馬車が止まっており、中央に備えられた噴水の周辺で優美な装束に身を包んだ貴人・貴婦人が談笑しているのが見える。初冬の肌寒い風が飾られている水仙によって煌びやかな印象をもたらしていた。

 

 アンヘルの隣では、淡い藍色のフィット&フレアードレスに身を包んだマカレナがむくれ顔で目を尖らせている。その矛先は、ぼやいていた張本人へ向かっていた。

 

「もうぉ、またそうやって逃げようとする。別に大丈夫だって、私がいるんだから」

「けどさぁ、完全に場違いっていうか……」

「けどもなにも、アンヘルが来たいって言ったんじゃないっ! この美術展に」

 

 ブライアン・ネブソン画伯。若き天才といわれた彼の死後二十周年として、パトロンであったリーア伯の邸宅で開かれる個展に訪れていた。

 

 若き天才と言われた彼の生前は決して順風満帆なものでなかった。

 近年に至るまで、風景画とは『天へと続く塔』や『破滅の混沌龍の襲来』など宗教的、歴史的な主題の中で風景がしばしば描かれてきたのみであり、幻想的なある種理想化された風景を描くものであった。そこに新風を吹き込んだのが若き天才ブライアンである。自然主義的発想に基づき、野外に出て観察しながら風景を描くその手法は、当初絵画を買う上流階級には受け入れられなかったものの、豊かになった市民階級の家屋を飾る絵画としての地位を確立、没後美術史に新たな歴史を書き加えた画伯として称えられるようになった。

 

 この経歴は奇しくも好きだった画家と似通っており、訪れたいと思っていた。とはいえ、パトロンがリーア伯ということもあり、上流階級の社交場と化しているこの場へ踏み入れる勇気はなかなか湧かないのも事実ではあったが。

 

「苦労してこの美術展の招待状をもらったんだからっ。っていうか、なんか傷が一杯だね? どうしたの」

「ああ、ええっと、最近仲間になった龍の子が、言うこと聞かなくて」

「龍の子? ああ、召喚した眷属のこと?」

 

 幼龍レッドコドラ。アンヘルがフレアと名付けたその龍は、気性が荒く、何処もかしくも引っ掻き回すヤンチャ坊主であった。顔だけではなく、腕は傷だらけである。

 

「えっと、大丈夫?」

「うん、ちょっとヒリヒリするだけだから」

「そ、よかった。じゃ、行くよッ」

 

 そう言いながら左腕を絡めてくる。肘に薄く当たる柔らかい感触を感じて、アンヘルは黙るしかなかった。

 門衛らしき男に招待状を渡し、敷地へと入る。背丈まで上がる噴水を抜けて、二人は邸内へと足を踏み入れた。

 

「わぁー、すごいなーこれ」

 

 入ってすぐ目を引いたのは、巨大な湖にいくつもの小舟が描かれている絵画だった。デンドロメード湖を描いた若々しい光彩の(みなぎる)る作品は、その大きさもあって人の目を一気に惹きつける力があった。

 

 二人は嬌声を上げながら個展を回っていく。

 邸内では若い二人組が珍しいのか常に視線を感じたが、嫌なものではなかった。むしろ若者に対する芸術の興味に対して感心している雰囲気すらあり、なんとなくむずがゆい気分になりながら、観覧を続けた。

 

「どう、アンヘル? よかった?」

「……うん、とっても良かったよッ! なんかこう、言い表せないんだけど、壮大っていうかさぁ。あッ、とくにあの絵なんか水の波紋がとっても綺麗っていうか、精緻っていうか――」

 

 興奮して捲したてる。その様子をマカレナが微笑ましそうに相槌を打つ。

 あと残すところは二階の作品のみである。アンヘルがマカレナの手をとり、階段を見上げると、一人の男が階下へと降りてきていた。

 

「おや、これは、これは、あの大商会であるスリート商会のお嬢様ではありませんか」

 

 その悠々とした動きに、気品ある白金の髪。整った顔に粘ついた眼。奥に宿る悪感情を隠そうともせずに告げたその男は、アンヘルも因縁がある人物にして、オスゼリアス三大商家のひとつプロビーヌ商会の次男サンティアゴであった。

 

「――ッ! サンティアゴッ」

 

 マカレナが小さく叫ぶ。その顔には嫌悪があった。

 

「あなたのような方に芸術を理解するような心があったとは、驚きですね」

 

 サンティアゴがそう言いながら意地悪く微笑む。サンティアゴとマカレナの間だけ明かりが翳り、重く冷たい空気が張り詰めだした。

 

「……あなたこそ、なんの用よ」

「ほう、いつもながら辛辣だね。元婚約者に対してだと言うのに」

 

 その言葉で、マカレナがゴキブリを噛み潰したとしても見せないような嫌悪を露にする。冷えきった関係の横で、アンヘルは聞かされた話を思い返した。

 

 マカレナとサンティアゴ。この二人は今春まで婚約者の仲であった。

 マカレナの生家、スリート商会の歴史は古い。元々鍛冶・装飾で生計を立てる技術者集団であったスリート商会は、魔道具技術の発展により大きく飛躍した商家であった。日々発展する魔道具技術、物資・物流に恵まれた大都市、豊かになる市民という購買層の増加、あらゆる要素が技術者集団スリート商会発展の追い風となり、一時は三大商家の一角に入り込むとまで噂された程だった。

 

 しかし、当時当主であったマカレナの曾祖父であるテオは技術に対する知識はあっても経営に対するヴィジョンを欠いていた。彼はあくまでも技術者集団としての立場に固持したのだ。技術こそが商会を救うと信じ続けていた彼は商品開発に無尽蔵ともいえる資金をつぎ込み、経営を傾かせた。

 

 そこで台頭したのがプロビーヌ商会だった。彼らはスリート商会の物流を担当する子会社の一であったが、その中で頭角をあらわし、主家が経営戦略で迷走する間も堅実かつ効率的に勢力を伸ばしていった。

 

 魔道具は高価だ。便利とはいえ維持費が嵩み、そのうえ高級品となれば少々の性能向上によって買い替える人は少ない。しかし、物流は違う。豊かになればなるほど集まる人も物も増加する。彼らは販路を拡大・独占し、デンドロメード港のほとんどを管理する立場となることで、主家であるスリート商会を追いこし、遂には主家が至れなかった三大商家の一角に食い込んだのだ。

 

 衰退していくスリート商会と発展著しいプロビーヌ商会。この関係に終止符を打つべく、野心家であるマカレナの父ミチェルは娘のマカレナとサンティアゴを婚約させたのであった。

 

「それでどうやってこの館に入ったのかね? 君の高貴な家には、美術品など置いていないように思われたが? てっきり美術に興味がないのだと思っていたよ。わが主家たるスリート商家にはね」

「あんたみたいなゲス野郎には、関係ないッ!」

 

 サンティアゴの嫌味に対して、マカレナが辛辣な言葉で応酬する。返されたサンティアゴの悠々とした顔に青筋が入る。浮かべている笑顔と相まって強烈な憎しみが感じ取れた。

 

 二人の間には、過去に婚約者であったという親密さは一切ない。それもそのはず、二人の婚約破棄にはおぞましいサンティアゴの性癖が絡んでいた。女と見がまう容姿の彼だが、その魂はこれでもかと言わんばかりに腐り果てていた。

 

 彼は幼少期から素行の良い人間ではなかった。物心ついたときから使用人に乱暴を働き、体が大きくなるにつれ、粗暴な者たちを連れて町を練り歩き町民たちに暴行を働くようになり、そのすべてを実家の力でねじ伏せてきた。とくに、彼の歪んだ性癖は、気の強く、そして弱い立場の使用人へ向けられることになった。

 

 名家や富裕層の人々が成長するにつれて習得する、誇りも情も持ち合わせない怪物へと成長していったのだ。それでも、多くの怪物はその性癖を隠すものである。しかし、世評のマイナスすら天秤によって測れない異常者。それがサンティアゴであった。

 

 マカレナとしても噂自体は知っていた。しかし、父権主義の横行する世界である。婚姻の自由などあるはずもない。嫌悪感に蓋をするしかなかったが、ある事件に際して決壊することとなった。

 

 マカレナには歳の近い友人がいた。

 その友人は、商家お抱え奴隷の娘であり、生まれながらの奴隷であった。ただし、奴隷とは現代人が考えるような厳しいモノではなく、就職や婚姻の自由を持たないだけで、それ以外は普通の人間とは変わらない。奴隷とはいえども人間で、そして財産である。むやみやたらに害する人間などいるはずもない。歳の変わらぬマカレナとケールは、互いに信頼し合える友誼を交わしていた。活発な子供であったマカレナにとって幼い頃から仕えているケールは、頼りになる姉同然の存在であったのだ。

 

 そんな存在であるケールに不幸が訪れたのは、半ば必然だったのかもしれない。桜の花びらが舞う季節、二人が自室で談笑しているとき悲劇は起きた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「ねぇ、ケール? あなたの旦那さんになる人ってどんな人なの? あの恋人だった庭師の子じゃないんでしょ」

「ちょっと、やめてくださいって。別に私の話なんていいじゃないですか」

「まあまあ、そんなこと言わずにさぁ」

「私のことばかり気にしていると、宿題が終わりませんよ」

 

 ケールは慣れた様子でマカレナを嗜める。母親を幼い頃に亡くしたマカレナにとっては、この不幸な結婚に頼れるのは彼女だけだった。

 

 背丈は一六〇くらいと、成人女性と大差ない背格好のケールに対して、マカレナはしな垂れかかる。ケールは仕方なしという表情の奥に、隠しきれない喜びが滲んでいた。

 

「別に、そんな大層な話じゃありませんよ。母の紹介で、昔馴染みに嫁ぐことへなったのです。勿論、向こう側もこの仕事に対する理解がありますから、辞めたりしませんよ」

 

 表情ひとつ動かさず返すが、頬が薄っすらと赤く染まっていた。

 

 ケールがこうやって感情を出すのは珍しいが、無理もない、とマカレナは思った。

 相手の男は昔馴染みといっても立派な帝国市民である。奴隷として生まれたケールが市民権を得られ、子孫を帝国市民として誕生させることができるのである。望外の奇跡と言えた。

 

 穏やかな空気が流れる。未だ見ぬ結婚、希望に満ちている少女たちの流れを激変させたのは男達の不躾な声だった。

 

「も、申し訳ありませんサンティアゴさま。この先は、この先は困りますッ!」

「君のような護衛如きに指示されたくないな。ほら、道を開けたまえ」

「いえ、しかし婚姻前の不用意な接触はお控えいただくようお願いしているはずです。御用の際はアポを取るように連絡しているではありませんかッ」

「うるせーっ。プロビーヌ商会の若が会いたいっていってんだい。若がそうしたいっていったらよう、そうするってもんがてめえらの仕事じゃねぇのかいぃ」

 

 扉の奥で何人かが争う音が聞こえた。双方の言い合いは激化し、それが頂点に達すると暴力の音へと変わる。聞くに耐えない苦悶の悲鳴にマカレナは耳を押さえた。

 

「おやめくださいぃぃ、おやめくださぃいいいいいッ!」

 

 悲鳴が途切れる。そして扉が開かれた。

 

 現れた三人の男達は、揃いもそろって暴力の雰囲気を隠そうともしない下卑た顔をした男たちだった。

 中央には女と見紛うほど整った容姿の男が佇立(ちょりつ)している。まったく知らない顔ではあったが、その穢れきった顔つきから、一瞬でサンティアゴだと理解させられてしまった。

 

 サンティアゴが堂々と足を踏み入れる。そして、マカレナの髪に手を伸ばした。

 

「ほう、ほう。あのスリート商会の娘と聞いて期待はしていなかったが、なかなか美しいではないか。我が婚約者も」

 

 サンティアゴはうっとりした様子で、顔をさらに近づける。鼻腔にうっすらと香水の臭いが漂うが、目の前の男の性根と合わさって酷く不快なものにしか思えなかった。

 商家の子女への訪問とは思えない程無作法なうえ、その瞳には色に塗れ濁っている。マカレナは、恐れと吐き気に襲われて、動けなくなった。

 

 髪に伸びていた手が下におりて、肩を伝い胸に差し掛かろうとする。つつーと降りるその手をマカレナは嫌悪感から振りはらった。

 

「ん? なんだね。婚約者如きが私に逆らおうというのかね?」

 

 サンティアゴの顔が怒気に染まる。力強く一歩を踏み出した。

 それを遮るようにしてケールが割り込んできた。

 

「申し訳ありません、サンティアゴさま」

 

 ケールが震える声を振り切るようにして言った。

 

「しかし、此度のような無作法は困ります。御二人方は婚姻前の身でありますのでお控えくだ――」

 

 ケールの言葉をサンティアゴの平手が打ち切った。

 サンティアゴは怒気に染まったまま、無言で二人から離れる。そして、倒れていた護衛に近づいた。

 

「いいかッ!」

 

 怒声とともに、サンティアゴは腰の剣を引き抜くと、護衛の脇腹にずさっと沈めた。鈍色の刀身に血が絡みあい、翳っている室内の雰囲気とまじりあって兇悪に煌めく。

 

「私に逆らうということはッ!」

 

 サンティアゴは手を上下に動かし、脇腹に突き刺さっている剣をまるでのこぎりのように顫動させた。

 

「こうなるということだッ!!」

 

 絹を裂くような悲鳴とともに、男の身体をザクザクに凌辱する。絶叫が木霊した。

 

 マカレナは恐怖のあまり、両手で耳を覆って目を瞑る。胴体から吹きでる血がぴしゃと顔にかかった。

 

「ふう、わかったかね? 私に逆らうと言うことの意味が?」

 

 異常。サンティアゴの行為はその一言に尽きた。噂で聞いていた事が生ぬるく感じる。人を人と思わないモンスター。それこそが、マカレナの婚約者の姿だった。

 

 震えて動けないマカレナの膨らみに、サンティアゴの手が伸びる。その手を掴んだのは、唯一無二の友人、ケールだった。

 

「あ、あなたのような方に、マカレナお嬢様を嫁がせるわけにはいきませんッ!!」

「ふう、これだから下民は、嫌になる」

 

 サンティアゴは掴まれた手を不快そうに見つめる。

 

「おい、テール。おまえは、この前の祭りに参加できなかったよな。どうだ、埋め合わせにこの女を使わせてやろうか?」

「へへ、いいんですかい?」

「ああ、この女の言うことには一理ある。婚前に孕ませたとあれば、また父さまにどやされるからな。とはいえ、ここまで来てなんの収穫もなしというのもつまらんだろう?」

「ふひ、じゃあ、エンリョなくいかせてもらいまさぁ」

 

 テールと呼ばれた男は、護衛の死体をひょいと乗りこえると、ケールに向けて淫猥な目を向けた。

 

「ほうほう、こりゃ、いい身体してやがる」

 

 男はケールの腕を掴む。ケールの気丈な目が揺れている。身じろぎしながら小さな悲鳴を上げた。

 

「やめて、止めてよッ!」

 

 マカレナが叫ぶ。しかし、サンティアゴはマカレナの肩を右手でガシッと掴み、左手でその乳房を弄んだ。

 

「だめだよ、マカレナ。これはね、教育なんだ。この私が、下民に教育を施す方法を指南してやろう。さもないと、彼女がどうなるか、わかるね?」

 

 ぎゅっと乳房が絞り込まれる。痛みが走るが、口から吐き出せるのは吐息だけだ。

 サンティアゴが暗い情熱に歪んだ瞳でその光景を見ている。口のはしから小さな涎をたらし、静かに股間を膨らませていた。

 

 親友ケールが悲鳴を上げ、組み伏せられる光景が飛び込んできた。

 ベッドの脇の床に組み伏せられたケールの目尻に涙が浮かぶ。

 男が下履を脱ぎ、汚らわしいものを露わにする。

 

 目を覆うような惨劇が始まった。

 マカレナはその光景を、乳房を弄られながら直視させられた。

 

 何度も、何度も、ケールの悲鳴が上がる。

 長い地獄の時間が終わるころには、ケールの悲鳴は途切れていた。

 ケールが自殺したのは、この日の夜だった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「ケールのこと、忘れたとは言わせないッ!」

「なんのことかね? そのような細事に煩わせないでもらえるかね」

 

 マカレナに、友人のケールを自殺に追い込むほどの責め苦を与えたこの男が平然と歩き回っているのが許せない。さらに、この男と一時でも婚姻関係であった事実に耐え切れない。

 

 父から婚約破棄に対して失望されたとしても、何一つ後悔はなかった。二人の間には、冷え切った翳りだけがあった。

 

「まだ私にそのような口を開く度胸があったとはな。なかなかに気の強い女だ」

 

 サンティアゴの目に色欲の炎が灯る。マカレナに対して一歩踏み出そうとした瞬間であった。

 

「何事でしょうか? ここは闘技場ではありませんよ」

 

 絢爛たる個展に相応しくない緊迫した二人の間を切り裂いたのは、麗しい響きの声だった。

 深緑の髪に琥珀のような瞳。冷たい鋼を思わせる冷ややかな輪郭に少しばかりの朱色が合わさった色相。黒を基調としたドレスのエンパイアラインは、髪に添えられた金の飾りと絡み合い、高雅な美をもたらしている。神々しさすら感じさせるその美貌も、怜悧な瞳によって冷たさに変わっていた。

 

 彼女は、過去アンヘルを助けた貴族の少女、その人であった。

 

「今は、亡きネブソンさまを偲ぶ個展なのです。かような鄙陋(ひろう)はお控えになっていただけますか?」

 

 少女が薄く微笑む。その優艶さに魅せられたサンティアゴは一瞬欲望を露わにするが、言葉を発した相手に気づいてすぐさま引っ込めた。

 

「あ、ああ、いえ、これは無作法を。え、ええ、た、大変申し訳ありませんでした」

 

 平時には想像もできないほど卑屈な態度で謝意を告げた。そして、すごすごと立ち去っていった。マカレナも固まって動かない。その顔には、驚愕と畏れが浮かんでいた。

 

 騒ぎが収まったことで周囲の野次馬たちが散っていく。しかし、彼らにも騒ぎを収めた少女に対する欽仰(きんぎょう)があった。

 

 少女がこちらに向き直る。

 

「あなた方も此度のような騒擾(そうじょう)を起こさぬよう――」

 

 少女がふと違和感に気付いてアンヘルの顔を見る。そして、驚きの表情をつくった。

 

「あら、あなたは確か、ウルカヌ火山でお会いした探索者さまではありませんか?」

 

 紅色の麗しい唇が旋律のような言葉を紡ぐ。一瞬、上位者から話しかけられていることを忘れて黙ってしまった。マカレナに肘で突かれたアンヘルは、頭を下げ気味にして、どもりながら答える。

 

「は、はいぃっ。そ、その折はお、お世っ話になりましたぁあ」

 

 ひどい返事である。独裁者の前でこんな返答をすれば処刑一直線だろう。生まれてこのかた女性と話したことのない神聖童貞にもましな返事が可能なはずだ。

 

 その返答を聞いて少女は、目を丸くして驚きながら笑った。それは一切の濁りがない、アンヘルがはじめて見る素顔だった。

 

「ふふ、そうですか。私は、ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエント。どうかお見知り置きを」

 

 少女は片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げてお辞儀をする。マカレナはそれを受け、慌てて返礼した。

 

 彼らの無様な慌て様。それもそのはず、ヴィエントという名前は、軽々しく扱えるものではない。

 南の農地を支配するヒューゴ家、法政を司るアッグア家、財務を司るリエガー家、魔法・召喚術を一手に引き受けるオスキュリア家、そして軍事を司るヴィエント家。帝国を支える五大貴族の名は、伊達ではない。

 

 翡翠の君。麗しきその少女はそう呼ばれていた。

 

 当然ながら、貴族事情にまったく詳しくないアンヘルにはあずかり知らぬことだが、上流階級に属するマカレナやサンティアゴは貴族事情に通じている。帝国階級ピラミッドの頂点に位置する軍家、ヴィエント家の長子を前にしては、たがが一都市の商家など指先ひとつで吹き飛ぶものでしかなかった。

 

「それにしても、よもや探索者の方が絵画に興味があるとは驚きです。一応お聞きしておきますが、あなたは上級士官養成課程志望ではありませんか? それとも商家や軍家の出身でしょうか?」

「い、いいえっ。わ、わたしは、ただの探索者。ただの農民であります。しゅ、出身はここから南東にあるセグーラの開拓村でありまして……」

「そうですか……ただの農民の方、それも探索者のような方が絵画に興味を持っていただけるとは」

 

 少女が笑顔を湛える。それは貴族としてではない、純朴な笑みだった。

 

「自然主義の作風を嫌う方もいらっしゃいますが、あなたのような未来ある徒人に支持者がいるなら心配はありませんね」

 

 彼女の瞳には慈愛の色があった。

 

「それでは、失礼します」

 

 少女が優雅に礼をする。上げた顔には、元の怜悧な瞳が嵌っていた。

 

 二人は去っていく少女に向かって頭を下げる。

 少女が消えていったのをチラリと確認すると、マカレナが勢いよく顔をあげた。

 

「アンヘルッ! あなたって、あの方と知り合いだったのッ!?」

「いや、知り合いってほどじゃ……。ただ、助けてもらたってだけで」

「ええッ! ホントッ。すごい、わたし今日を一生の思い出にするっ」

 

 興奮したように呟く。その顔には、先ほどの諍いの残滓はなかった。

 頬を赤く染めながら、ふたりは残りの絵画を鑑賞した。

 

 それでも興奮冷めやらぬ様子のマカレナに連れられて個展を飛び出したアンヘルは旅の吟遊詩人の歌に合わせて、路上で踊りまくった。

 くるり、くるりと。路上のお客さんを巻き込んで、盛大に踊った。

 

 もう冬真っ盛りだ。

 冬は探索者の仕事もない。受験戦争で気が立っているホアンと同じ部屋にいるのも難しく、飲食店のアルバイトの傍ら、毎日マカレナと出歩いた。

 

 旅芸人のショウ、食べ歩き、スイーツパラダイス。

 マカレナに連れられて毎日街を巡った。

 

 ミスラス教の聖夜も、新年を祝う日も二人は共に過ごした。マカレナの心情はともかくとして、アンヘルにとって彼女は妹のような存在で恋愛関係にこそ発展しなかったが、もっとも仲のいい存在だった。

 

 こうやって、穏やかな日々がずっと続けばいい。

 アンヘルはそう思っていた。

 

 年が明けて一週間後、突然にしてマカレナからの連絡は途絶えた。

 

 



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第十二話:訃報は唐突に

 暮れも押し詰まった底冷えする日の朝。冬至を過ぎると、夜毎に冴えわたる息吹が街全体を蝕んでいた。窓から空を見上げると、黒々と磨き上げられた曇天。灰色の寒空が、どこか凶兆を予感させた。

 

 寝具に腰かけた茶髪の少年――アンヘルが、朝早くから机にかじりついている赤毛の少年を見ながら息を吐いた。

 

「ねぇ、ホアン。今日もマカレナ来ないね」

「あ、ああ。そ、そうだな」

 

 凍てつくような空気が部屋を漂っている。湖すら氷を貼る気温では、暖炉の炎のなんと侘しいことか。

 

「い、今は年始で忙しいんじゃないか? ほ、ほら、彼女は商家のお嬢様なんだ。実家の行事に参加しないといけないんじゃないか?」

「うーん、そうなのかなぁ? 年始も気軽に出歩いていたけど……」

 

 年始から二週間も過ぎている。年始に暇だった彼女が、この時期に忙しいとは考え難い。

 

「それは、そうだが。……なあ、アンヘル。もう少し待ってみろよ。相手の迷惑になったら悪いだろ」

「うーん、そうなのかな。もう一週間だけど、こんなに長い間連絡もないなんてはじめてだし」

 

 この頃、マカレナとは毎日のように出歩いていた。そのため、彼女の性格を鑑みると、なんの音沙汰もないというのは不自然極まりない。

 

「もしかして、何かの事件に巻き込まれているとか? それだったら、早く助けにいかないと」

 

 腰を浮かせる。ただの推論であるにもかかわらず、顔には焦りが滲んだ。

 

「ま、待てよアンヘル。そんなに早合点するな。この前に通りで見かけたぞ」

「そ、そっか。じゃあ、無事なんだね」

 

 安堵のため息を漏らし、腰を椅子に落ちつける。悩みを飲み込むようにして、カップの水を飲み干した。

 

「ああ、そんなに気にすることはないよ」

 

 噛み合わない歯車を見せられているような気分だ。言葉にはできないが、何処となく不気味なものを感じざるを得なかった。不安を打ちきるため立ちあがり、流しにカップを浸ける。寝具近くの道具置き場に近寄り、ホアンから譲り受けた剣とは違う、簡素な剣を腰に差した。

 

「ごめんね、勉強の邪魔しちゃって。勉強はどうなの? 捗ってる」

「い、いや、気にするな。確実とまでは行かないが、そんなに悪くないと思ってるよ」

 

 勉強の話題に変わって明らかに気分が和らいでいる。ずっと勉強漬けの彼は、雑談のときに其れだけは聞くまいと拒絶していたが、珍しく受験に対して前向きに話し出した。

 

「とはいえ、今年はなかなか厳しいんだがな。道場巡りのついでに情報収集をしたんだが、今年の志望生は粒揃いだそうだ」

 

 彼は今年の志望生を連ねる。剣術道場の御曹司、魔導院上がりの秀才、与一と称される天才、都市闘技大会の優勝者。そして、すでに探索者として名を馳せている怪物、クナルの名前を告げる。

 

「だが、だからこそ、燃えるってものさ」

 

 熱く語るホアンを見る。彼の瞳には、強い情熱の炎が宿っていた。見ているこちらが焼きつくされそうになるほどの熱量に、寂しさを覚えた。

 

 ――ぼくには、まだ、そんなモノは見つかってないなぁ……。

 

 眩しさで目がくらむ。太陽を見上げているようだった。憧れと寂しさで頭が揺れる。それを振り払うようにして扉に手をかけた。

 

「うん、がんばってね。じゃあ、夜には帰るから」

 

 虚しさを湛えながら、扉を開け放った。

 

 

 

 §

 

 

 

 ホアンと別れてから、アンヘルは鍛冶屋ウィルキンを尋ねることにした。

 

 埃が立ち篭む店内に足を踏み入れる。

 剣や槍が鈍色の肌を晒し、陳列棚には無骨に飾られた刀剣の刃が貪欲に煌めいていた。また、棚と棚の間には、禍々しい形状をした重装鎧に、楯や兜が並んでいる。狭い店内に、戦争でも起こせそうなほど大量の武具が櫛比(しっぴ)していた。

 

 棚の間を抜けて、奥のカウンターを目指す。手に掛けた棚には、おどろおどろしい東方鎧の兜がこちらを見据えていた。

 

「ダメったらだめッ!」

 

 激しい言葉が店内に響きわたる。手に力が入り、横の棚を薙ぎ倒しそうになった。倒れそうになる棚をなんとか左手で掴む。

 吐きそうだった。もし棚を倒していれば、あの銭ゲバ、ウィルキンに幾ら毟られるか分かったものではない。収支は沈没し、グラフの下を突き抜けて地殻にまで潜ってしまうことは確定だ。

 

「そうかぁ? この剣なんて、今逃せばいつ出会えるか……」

「ムダな買い物は許しませんっ」

 

 知らない男女の声だった。棚を倒しそうになった恨みから、顔ぐらい見てやろうと棚に沿って移動。棚の裏を覗く。通路には、探索者に見えない武芸者風の男女が言い争っていた。

 

「いや、これは今度の試験の前祝なんだ。だから、いいだろ?」

「そんなわけないでしょ。あなたのお父さんから、ムダ遣いしないよう言われているんだから」

 

 片方の青年は、頭をツンツンに尖らせた特異な髪型、いわゆるサイヤ人ヘアーだ。腰には飾りのある剣が差してある。彼は純粋そうな瞳で剣への情熱を熱弁していた。

 言い争っているもう片方の女性は、黒髪を後ろに結んだ、いわゆるポニーテール少女だ。背中にある小さな短剣と短弓が、まるで弓道少女のような風貌だった。

 

「そんなケチなこと言うなよ、なぁエマ」

「ケチですって!?」

 

 少女には青筋が浮いている。

 

「今月、買ったものを言ってみなさいッ!」

「なんだよ、そんなに怒鳴んなよ。ええっと、剣二本と盾ひとつか?」

「ちっがーう。あと、鎧、外套、短剣四本とスローイングナイフ18本。わかんないのッ? こんなのムダよ、ムダッ!」

 

 エマと言われた少女は完全に噴火している。

 というか、そもそもとして青年の金銭感覚は完全に破綻していた。彼の持つ剣は長剣に分類される類で、一般的に盾と併用することはない。人並外れた力があれば片手で扱うなどわけないだろうが、彼の身長体格は普通と言ったところである。それに加えて短剣など、もはや蒐集癖があるとしか思えない。

 

「はぁ? なんだよこのチビ、俺の母親かッ! そんならよ、本当に必要かどうか判断して貰おうじゃねぇか。そこの人によ」

 

 二人の視線が一気に集中する。

 巻きこまれるのが嫌で棚の裏に戻ろうとしたのだが、青年がこちらに気がついて呼びかけてきた。こうなると、無視することもできず二人が待つ通路に移動するしかなかった。

 

「なぁ、あんた。この剣、どう思う? やっぱり名刀だろ?」

「だからそんなのムダだって。そもそも、それ両刃じゃなくて片刃だし、そんなの使いこなせないでしょッ!」

 

 どっちでもいい、というのが本音だったが、それを言ったらどちらからもブーイングを受けそうな気配である。アンヘルは思考の海を亜高速で泳ぎながら、慎重に答えを出した。

 

「ええっと、その、片刃剣を使ったことがないなら、今回は諦めたほうがいいんじゃないかな……はは」

 

 口喧嘩は女に勝るものなし。言い争いでは、女を立てるべし。

 悲しいサガだが、これが彼の処世術なのであった。

 

 勝ち誇った顔の少女と対照的にむくれ顔の青年。少女の煽りによって怒りが頂点に達すると、青年が愚行を敢行した。

 

 青年の手が少女の服の裾を握る。そして、顔の近くまで捲りあげた。

 素肌とともに、淡い色の下着がまろび出る。少女の、薄く盛りあがった胸部が少しだけ晒された。

 

「き、きゃあああああ!」

 

 絶叫。絹を引き裂くような絶叫だった。

 今度は青年が勝ち誇った顔をしている。満足したのだろうか。

 

 少女は胸を手で抑えながらしゃがみ込み、どんどんと頬を染めていく。そして、爆発した。

 

「ぶっ殺すッ!」

 

 睾丸が隠れそうになるほど、ドスの聞いた声だった。

 これには、青年もさすがにヤバいと自覚したのだろう。全力で後方に向かって走り出した。

 

「待てぇえええッ! リカルド、ここに直れぇええッ!」

 

 なんだったんだ、という感想しか浮かばない。得をしたのは、水色の下着姿を見たアンヘルだけだ。

 

「俺の店で暴れる気か?」

 

 不機嫌そうな声とともに、見慣れた樽体形の男が出てきた。店の主人であるウィルキンである。彼は腕を組んで笑った。

 

「幾らでもやればいいさ。だが、損害請求は一桁ほど上乗せするがね」

 

 一割ではなく一桁である。強欲を通り越して、糞野郎だった。しかも、騒ぎを起こしたのは別人だ。犯人共が外で嬌声を上げていた。

 

「って、おめえかよ? なんだ、そんなツラしていっちょ前に喧嘩か? やっぱ探索者ってのは仲良くできんもんかねぇ?」

「いや、喧嘩していたのはぼくじゃなくて、他のって……まあ、なんでもいいです」

 

 肩を落とす。

 

「それで要件は? って、あれに決まってるわな」

 

 ウィルキンが奥の棚から布に包まれた物を投げる。

 受け取って布を取ると、ホアンからもらった剣が現れた。鞘から抜いて刀身を確認する。

 

「おお、すごい。まるで新品みたいだ」

「当然だ。金が支払われる限り、このウィルキンは永遠にお前の味方だ」

「……それ以外のときは?」

「その辺で野垂れ死ね」

 

 刃先まで確認する。そして、当分の間借りていた剣を返す。

 

「この前の戦いで、刃先が欠けて芯が歪んでいたような気がしたし……」

 

 一振りする。風を切り裂く音が鳴った。

 

「やっぱり、大物を狩るような使い方は想定していないから、そもそも武器として無理があるんだろうけど……」

 

 刀身に手を滑らせ、鍔本へと戻す。出来栄えに感嘆が漏れた。

 

「不満でも?」

「いえ、なにも。新品ではなく、ただの修理でここまですばらしいものになるとは思いもしませんでした」

「それが、俺の鍛冶屋としての腕の見せ所だ」

 

 だが、とウィルキンは続ける。

 

「直っているのは見た目だけだ。勿論、刃先は研ぎなおしているから切れ味には問題ないだろうが、芯の方はイカレてる。造りは悪くねぇんだが、そもそも古いしな。悪いこたぁ言わねぇ、さっさと得物を新調しやがれ」

 

 銭勘定の濁った目ではなく、研ぎ澄まされた職人の目で告げていた。

 

「もしかして、親切割引って意味?」

「神様が直々に命令したとしても、俺は殴り殺して拒否する」

 

 ウィルキンは皮肉気に笑った。

 金にうるさい彼らしい言葉なのだろうが、本当に殴りそうで恐ろしい。

 

「だが、お前さんがそんな剣を使っているってのは、正直馬鹿バカしいよ。今時、実戦経験のない道場の倅でもマシな得物を腰に差してるもんさ」

 

 悲し気に首を振る。この口うるさい鍛冶屋の悩みは金が八割、そして優れた使い手の減少を嘆く二割で構成されているのだ。長きに渡り紛争のない都市オスゼリアスに居を構える職人の悩みは、実直な剣より優美な装飾剣が讃えられることにあるのだろう。

 

「剣を見ればよ、使い手がどんな戦いを潜り抜けたってのが理解できるのよ。お前は、こんな得物でくすぶってるタマじゃねぇだろ?」

「そうやって煽てても、ない袖は振れませんよ」

「そりゃそうだ。だがよ」

 

 ウィルキンは店の奥に消える。そして、長い箱を持って現れた。

 箱を開き、中身を引き出して商品棚の上にのせる。そして、その刀剣を鞘から引き抜いた。

 

 飾り気のない鞘、精緻な螺鈿掘りが施された鍔元、薄く布が巻かれている柄。そして、鈍く輝く鋼色の刃。そしてそれを覆うようにして、赤と青の光が迸っていた。ヴゥィィィンと虫の風切り音のような細かい振動が耳を衝く。

 

 目が、刀身に引き寄せられる。その美麗さに、絶句した。

 

「刀匠ジョージ・デイビットが創りあげた、新式魔導剣。それも、使用者の力を吸い取って、切れ味を増す完全術者使役型、永久機関のⅣ式。製造番号は一八號。本人が造り上げたのは五本だと言われているから、弟子が造ったレプリカか。明らかに禁制品だろう?」

 

 鋼の声が後ろから響いた。

 振り返ると、見上げる程の長身に、美麗な顔立ち。輝くような銀髪。怪物、クナルがそこにに立っていた。

 

 彼の瞳もその麗しい刀剣に縫い付けられていた。

 

「詳しいな。まあ、確かに禁制品だが、こんなものは港で見つからなければ大したことはない」

 

 安全のため、一般市民が持つことのできる武器には制限がある。刀身は三尺(約一メートル)と決まっており、また魔導武器の所持も厳格に定められている。

 だが、ウィルキン武器屋はオスゼリアス中トップクラスの禁制品で溢れていた。武器は麻薬などと比べ重要度が低く賄賂で誤魔化せるとはいえ、ここまでくれば最早芸術である。

 ただ、馬鹿みたいな大剣を日々持ち歩いて捕まらないクナルは謎に過ぎたが。

 

「この剣を、召使い如きに与えるつもりか?」

「ああ? なんだお前ら、まさか知り合いだったのか?」

「ああ、致し方なくな」

「……僕ははじめて会うけど?」

「死ね」

 

 アンヘルとクナルのやり取りを聞いて、ウィルキンが目を丸くする。そして、豪快に笑った。

 

「なんでぇ、おまえらずっとソロでやってやがるからどうなるかと思ったが、まさか気が合うとは。アンヘルが、あのクナルとねぇ。世の中ってのは、分からんねぇ」

 

 くつくつと笑う。心底愉快そうに笑っていた。

 不愉快そうにクナルの眉が歪んでいる。その綺麗な眉が、なにかの拍子に切り取られればいいのにな、いいのにな、と心の中で呟いた。

 

「あと、クナル。お前には何があっても買わせねぇ。春先の修理の月賦支払いが終わるまでは、テメェは俺の商品に指一本振れるな」

 

 クナルの眼差しが哀し気に曇る。女ならば、彼の憂いを晴らすために何でもするだろうが、アンヘルにとっては気分がいいだけだった。

 

「まあ、そんなパーティ結成祝いだと思えばいい。ほら安くしてやるから」

 

 樽男は指を五本立てる。

 

「五百ってこと?」

「五千だ、ボケ」

「……それ、家が立っちゃうよ」

 

 五千などあるはずがない。数百あれば、四人家族が数か月優に暮らせるのである。今まで稼いだ金を合わせてもまったく足りない。

 

「だろうな。だからよ、頭金五百払えば月賦支払いにしてやるよ」

 

 ウィルキンの目が銭に変わる。円マークが容易に幻視できた。

 

「じゃあ、ぼくはこれで」

 

 そさくさと退散する。こんな契約をしてしまえば、一生借金を返すだけの奴隷生活だ。ウィルキンは腕もいいが、なぜか金貸しとしても腕がいいのだ。

 

 樽男の舌打ちを聞きながら、クナルの脇を抜けて店を出ようとする。それをクナルの言葉が遮った。

 

「おい、そういえば貴様、今日はあの茶髪の女を連れていないのか」

「……それって、マカレナさんのこと? 彼女は今忙しいみたいで会ってないけど……」

 

 自分で言っておいて、苦味を感じてしまう。蝗を生で食らったような、泥の塊が体に広がった。痛みを堪えていると、ウィルキンが思いついたと云う顔をした。

 

「まさか、お前があのマカレナお嬢様を誑かしたとかいう探索者かいッ!」

 

 ウィルキンが快活な笑みを浮かべる。小柄な体に似つかわしくない樽腹を抱えて大笑いした。

 

「こりゃ、傑作だ。こんな若造があの嬢ちゃんの想い人たぁ、ほんとう、世の中わからんねぇ」

 

 ガハハハと大口を開けて笑う。その言葉を聞いて、気恥ずかしいような、安心したような気分になった。

 

「えっと、マカレナさんを知っているんですか?」

「知っているもなにも、彼女はあのスリート商会のお嬢様だろ? 俺らみたいな職人には、あの商会は元締めみたいなもんよ」

 

 世情を知らぬ若造を咎めるようにして、強い口調で言った。

 

「お嬢は、あのバカ息子の件で話題になったからな。つまりは、みんな同情してんのよ。あの、阿漕(あこぎ)な父親を除いてな」

 

 その口ぶりには、まるで父親のような温かみがあった。彼女の快活な性格は誰からも好かれる。こんな偏屈オヤジにも通じる、太陽の魅力だった。

 

「じ、じゃあ、今彼女が何をしているか知っていますか? 最近、連絡がなくて……」

 

 誰にも相談できなかった悩み。事情を知っているものが現れたことで其れが小さく漏れた。

 しかし、無情にもその不安を増大させる言葉をウィルキンは吐いた。

 

「ああ!? なんだ、お前さん、しらねぇのか? お嬢は婚約したんだよ」

 

 無情な言葉に立ち尽くすしかない。興味なさそうに悠然と佇むクナルの美貌が、忌々しかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 目が覚めると、朝日が降り注いでいる。眼前では、寝台に横たわっているはずの少女が上半身を起こしてこちらをみていた。

 

 金糸を束ねたような髪に朝の陽射しが反射して、キラキラと輝いている。眼には稲穂のような黄金色の瞳が嵌まっている。

 ダビドの想像以上。神が創りあげた造詣物のような、触れることすら恐れおおい神秘性を伴っていた。

 

「も、もう、朝か!」

 

 ――とにかく、説明しないと。自分が彼女を助けた経緯と、それと自分の立場と。あと、それと、あくまで部屋にはこんだのは正義感からで、不埒なものは一切ないと――。

 

 組んでいた腕を解くと勢いよく立ち上がる。しかし、勢い余ってバランスを崩し、背後に倒れてしまった。

 

 椅子と近くにあった机の上の新聞を撒き散らして、みっともなく倒れる。鈍い音とともに、背中を強く打った。

 

「い、いたたたたた」

 

 強く打った背中を押さえる。

 転がりながらも、頭の中にあったのは違うことだけだった。

 

 ――ああ、また、やっちゃったよ。もう、俺のばかやろう!

 

 少女の前で醜態を晒したことに頬を染めながら、彼女の顔を見上げた。

 

 陽光の中に舞い散る塵の先に、美しい彼女が目尻を下げ、瞬かせている。その唇の奥には、白い歯が小さく覗いていた。陽だまりに眠る小動物を優しく照らすような、優しい微笑み。

 

 その小さな微笑みに強く魅せられたダビドは、強く胸を高鳴らせた。

 

 少女は、ララノアと名乗った。アルン語で、微笑む太陽の意味を持つ名前であった。

 

 ダビドはどこか諦めたような彼女に根気よく問いかけると、彼女はポツリポツリと己の生い立ちを語り始めた。

 

 

 

 帝国大森林のアルン一族、西のタルカン族として生まれた彼女は、一族の総意として売り払われた女であった。彼女の転落人生は、最初の結婚に端を発し、紆余曲折(うよきょくせつ)を経たもので、悲惨の一言に尽きた。

 

 タルカン族の族長の娘として生を受けた彼女は、その擢んでた容貌と相まって太陽の華とすら名付けられるほどであり、数多くの男たちが娶ろうと熾烈な競争が起きたほどだった。

 

 彼女の最初の不幸は婚姻からであった。

 初潮を迎えた彼女は、数多のライバルを蹴落とした一族の勇士、精強で知られる男に娶られることとなった。

 ここで、この男に添い遂げることができれば、なんの不幸もなく、まずまず順風満帆といった生涯を送っただろう。だが、唐突に起きた魔獣災害により、その若き勇士は美しき太陽の花と讃えらえた少女を愛でることなくこの世を去った。

 

 大森林に暮らすアルン人にとって、魔獣災害によって命を落とすことなど、日常茶飯事である。初日に旦那を失った彼女ではあったが、候補者に限りはなかった。二人目の旦那が、嫁いだ初日に病で倒れ、彼女に触れることなくこの世を旅立つまでは。

 

 不幸を運ぶ女。

 

 科学技術の科すら浸透してない世界である。現代人より遥かに迷信深い帝国人だが、アルン人の部族はさらに原始的であった。

 村内で、売女を遥かに上回る陰口を叩かれたのも、仕方ないことだったのかもしれない。彼女の太陽の微笑みに、陰りが射しはじめたのはこの頃だった。

 

 心底困ったのは、部族の長たる彼女の父であった。

 閉鎖された村で、幼い少女が独り生きていくのは困難だ。部族の長は苦渋の決断の末、彼女を他の部族へ嫁がせることに決めた。

 

 しかし、運命は彼女を暗がりから離さなかった。

 

 迷信が、真実に。

 三度(みたび)、不幸が彼女を襲う。婚姻した日、狩りに赴いた夫を仲間の誤射が貫いた。

 

 不幸を運ぶ女の世評を確固たるものにしたララノアは、一族がこれでもかと忌避する人身売買を用いて、奴隷商人に売り払われることとなった。

 

 そんな彼女から笑顔が失われたのは必然だった。

 しかし、それでも生への渇望はある。奴隷商人たちの警備が緩んだ瞬間、脱走を図ったのだった。

 

 

 

 長話を聞かされた後、ダビドは心底自分が発見できたことにほっとした。そして、奥底から義憤の炎が燃え盛った。

 

 アルン人の奴隷売買はある種異常ともいえる強固な法律で禁止されている。それは、過去に狩りすぎた貴族たちの悔恨の意であるのだが、それはともかくとして、割に合わない事業なのである。

 

 彼女が助かったのは、大規模摘発のお陰であろう。辛かった調査が、この少女を助けたことに誇らしくなった。

 

「まあ、気にするな。多分、いくところもないだろうし、実家を紹介するよ。なに、心配しなくても、幼い姪とお袋がいるだけだから問題ない。それに、お金のことも気にしなくていい。これでも、俺は港湾検閲官なんだ。それに、結婚していなければ、子供もいない。――あ、ああ、そういう意味じゃなくて、お金の心配はないって意味だから――――」

 

 ララノアは、ダビドが官吏(かんり)だと知ると、随分安心した表情になった。そして、鈴を鳴らしたような澄んだ声色で、どうかよろしくお願い致しますと小さく呟いた。

 

 彼女の顔には、どこか自暴自棄の色がある。心底、いろいろな物を諦めている目だった。そんな彼女に、さっき見た微笑みを取り返してみせると心に誓った。

 

 休日出勤が当たり前のようになっているダビドではあったが、珍しく休み、ララノアを連れて実家へ赴いた。

 

 母親には、なにも告げず女を連れてきたことを咎められると思いきや、予想に反して顔を綻ばせて喜んだだけだった。母は戸惑う彼女を連れて、体を洗ってやり、お古ではあるがなるべく古臭くない衣服を着せてやった。

 

 垢が落ち、貫頭衣を脱ぎ捨てた彼女の姿は、天上人に匹敵する姿だった。これには、日頃三十にもなって恋人一人いないダビドをばかにしきっている姪も、口をアングリと開けて驚くしかなかった。

 

 どこか所在なさげに佇む彼女に対して母は厚かましくかまった。母は人種差別や奴隷を嫌う、役人の妻としては比較的珍しい革新的思想を持っていたのだ。アルン人に対して偏見を持つ父が何も言わないとなれば、母直伝、家事のイロハを止められる人物はいなかった。

 

 ララノアもそれを厭うことなく、従った。やることがない故の盲目さだったのだろうが、仕事に没頭することで心が和らぐことも多い。

 

 少しずつではあるものの、温かい家庭が、彼女の凍りついた心を溶かしつつあった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 店主の話を聞いたアンヘルは、直ぐさま真偽を確かめにいった。一目散に駆けぬけてスリート商会宅に到着したが、しかし、マカレナと会うことは叶わなかった。

 

 元々立場が違う関係である。

 かたや商家のご令嬢。田舎村出身の探索者など、路傍の石にも劣る存在である。彼女が下に降りて来なければ、触れることすら叶わないのだ。

 

 結局、門番に止められたまま、中庭で新たな婚約者と話こむ彼女をただ見つめることしかできなかった。彼女は歩けば直ぐの距離を縮めることはなく、こちらを一瞥することもなかった。

 

 直接問いただすのは諦めて、片っ端から知り合いに当たってみたが、婚約に関する情報が明らかになるばかりだった。

 

 婚約者は宝石商の長男。堅実に、長く商売をしてきた商家である。スリート商会の装飾技術が合わされば、より飛躍の時を迎えるだろう。婚約者には悪い噂もなく、多少顔が冴えないということだけで、誠実な人であるらしかった。

 

 こうなると、もう何もできることはない。

 ただ、妹が嫁いでいくような。ただ、そんな寂しさを湛えながら、諦めるしかなかった。

 

「うん、その、ありがとね」

「いや、こっちこそ君が探索者として上手くやっていることが知れてよかったよ」

 

 スリート商会の護衛、イマノルに別れを告げて立ち去る。

 

 雪の降り頻る街を抜けていく。

 凍りつくような街路を抜けていく人々は、どこか慌ただしい。その足取りに取り残され、遂には雑踏の中で立ち止まってしまった。

 

 人は変わっていく。

 

 仮初の、永遠に続くと思っていた穏やかな日常はあっという間に姿をなくし、消えていく。

 夢を追いかけ、仕事を見つけ、そして家庭を持つ。変化。人が、空気が、風景が、自分を追い抜いていくのだ。

 

 残されたのは、ただ、無為に日々を過ごしていた自分だけだ。

 大きくなるのは体だけ。心は、ずっと子供の、過去のままだ。やりたいことすら見つからない、ただの迷子だ。

 

 今更、駆け出しても、もう遅い。アンヘルには、道すら見えないのだ。

 曲がりくねった迷路にいるような、それとも闇夜に囚われているような、現在地点すらわからない、暗渠(あんきょ)に迷い込んでいる。

 

 後ろから流れていく人々の肩がぶつかる。彼らには、ぶつかった者に対して怒声すら浴びせない。彼らには、道で立ち尽くす者に興味などないのだ。過ぎ去っていく日々に追いつくため、必死に歩き続けているのだ。

 

 よろめいている人間には、未来は見通せない。日常に追い越される人間に未来はない。それをわかっていながら、進めない。歩み出せないのだ。

 

 虚しさを抱えながらも、帰路についた。

 

 

 

 数日経って、飲食店のアルバイトから帰った夜だった。

 自室の扉の前にたどり着くと、珍しく話し声が聞こえる。もう夜中だ。受験前のホアンを訪ねてくる人もいないうえ、こんな時間に訪ねてくる知り合いにも心当たりはなかった。

 

 耳を澄ますと、中からは女性の高い声が響く。

 

 しかし、色っぽい事情には思えない。どこか怒りを感じさせる、詰問の重さが扉の取手に絡みついていた。

 

 静かな、静かな冷気。心を凍てつかせるような、嫌な重圧。其れが、この扉の奥に秘められている。そんな予感がした。

 

 扉を数度、ノックする。乾いた音が、辺りに響き渡った。

 

「どうぞ」

 

 凛とした声。冷え冷えした声が部屋に誘い込む。

 

 扉の取手を握った。心の臓すら震え上がらせる冷たさが、そこには宿っていた。重い扉を開く。ギイっと木が擦れる音の後、ゆっくりと扉の奥にいる人物が明らかになった。

 

 怜悧な黒い瞳に、絹を束ねて闇夜にとかしたような漆黒の髪。非人間的な、どこか人形を思わせる白い肌。深窓の令嬢の名に相応しい少女アリベールは、恐ろしく冷えた瞳でアンヘルを見据えていた。

 

「どうぞ、そこにかけて」

 

 指示されたのは、彼女の対面にある小さな椅子。ホアンは、その横で小さく震えながら座っていた。

 

 彼女の背後には二人の大男。護衛と思われる男たちは、不動の姿勢で立っている。

 

 部屋には暖炉の灯る。だというのに、部屋の中はまるで雪山のみたいに冷え冷えとしている。友好的な素振りは一切ない。

 

 おずおずと座った。臓器を握られているような痛い沈黙が続く。

 怒り、絶望、そして、炎。烈火の焔が灯る瞳から発される強烈な圧力を浴びながら、ただ、じっと待つしかなかった。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。実際には、それほど時間が経っていなかろうと、永遠に感じられた。

 

 紅色の唇が悩ましげに(うごめ)くところを見るだけが、苦痛ですらあった。魂すら凍てつかせる視線。それを浴びせられながら、ただ、ずっと耐えるしかできなかった。

 

 悲痛な色を湛えながら、アリベールが言葉を選んでいる。長い刻を経た後、深窓の令嬢は言葉を放った。

 

「今朝、私の姉が遺体で発見されたわ」

 

 ゾッとする響きだった。地獄の使者すら震えさせる、魂の怒りの権化をそこに見た。

 

「それはもう、女性の尊厳を根本まで(おとし)められた姿でね。ねえ、あなた、なにか知っているの?」

 

 彼女の態度は事情聴取ではなかった。容疑者に対する尋問だ。恐ろしほど怒りの篭った言葉が放たれた。

 

 しかし、問いかけられたアンヘルは、それどころではなかった。

 目の前が真っ暗になる。闇の帳が降りたような、そんな暗闇が眼前に広がった。

 

 

 



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第十三話:無知ゆえに

 死んだ。彼女が死んだ。

 ありえない。拒絶の言葉が口から溢れる。

 

「そ、そんなわけっ。だって数日前に家の庭で――」

「だからこそ、よ」

 

 黒髪の麗人は言葉を区切る。部屋の窓は吹き荒ぶ風によって激しく揺れ動いている。部屋の灯りがはらりと舞う雪の結晶を照らしていた。

 

「あなたは、疑うに足る人物よ」

 

 彼女は罪状を数える判事のように、冷然と弾劾(だんがい)していた。

 

「あなたは、私の姉と親交のある人物。けれど、姉は突然婚約してしまったわ。さぞ、恨んだ事でしょうね」

 

 喉元がカラカラに乾く。視線が、投げかけられる言葉が、痛くてたまらなかった。

 

「動機があるうえ、ここ最近、姉の婚約者について調査していたわね。我が商会の護衛や事情に詳しい商人たち、そして、婚約者の実家である宝石店でもあなたが見つかっているわ」

 

 厳しい言葉を投げ続ける。背後の護衛たちが、ジワリと剣を握りしめていた。

 

「そしてなにより、姉は最近行きつけになったパティストリー・レイの道中で拐われたわ。姉の行動範囲を熟知していないと、できない事よ」

 

 深甚(しんじん)な憎しみの篭った言葉だった。部屋に備え付けられた蝋燭が揺らいでいる。壁に飾られた風景画が、灯りの明滅に合わせて暗い陰を落としていた。

 

「最後に聞かせてくれる? 姉を、マカレナ姉さんを乱暴するのはどんな気持ちだったの? 快感だった? 手の届かない花を手折る気分ってのは、どんな気分だったの?」

 

 彼女の瞳が微かに潤んでいる。しかし、その奥に灯る激しい炎が、彼女の体の内側から焼き尽くさんと燃え盛っており、その熱が部屋の中を覆っていた。

 

「何か言いなさいよッ!!」

 

 叫んだ。ヒステリックで憤激に狂ったような声だった。

 

 ビリビリとした冷たい声が彼女の手元に置かれたカップを揺らす。注がれた珈琲が、波立っていた。

 

「……ぼくじゃない」

 

 問いただされたアンヘルには深い闇が降りてきている。それでも、震える心を押し殺して否定した。

 

「へえ、犯罪者っていうのは、お決まりの台詞を吐くのね。ほら、どうぞ。聞かせて。あなたがここ数日、家に帰らなかったと彼から聞いていたのだけど、それを覆す新事実でもあるのかしら?」

 

 ホアンに視線を向ける。額には流れ出る汗、強い焦燥感。アンヘルの近況を話したことに対する罪悪感かと思ったのだが、それにしては此方に意識を割いていない。どこか上の空のような空気すらあった。

 

「ちなみに、拐われたのは一昨日の昼。その時間帯、横の彼は私塾で士官学校試験の模試を受けていたことが分かっているわ。そして、あなたの目撃情報は一切ない。おもしろい回答を期待しているわ」

 

 怜悧な瞳が槍となって貫く。黒い瞳が、ただ怒りを湛えていた。

 

「……昨日と一昨日。ぼくは、湖を渡ったレイナルモンド港で荷運びの仕事を受けてた。今朝かえってきて、そのままの足で別の仕事に行った」

 

 突然の離別を癒す方法は人それぞれだ。

 酒に溺れ、薬で現実をねじ曲げる。それか、遊びで現実から逃げる。もしくは仕事に打ち込むことで忘れる。

 

 港での荷運びは探索者の仕事ではない。しかし、この年始の時期には港の働き手が激減する。誰だって、この凍える季節に働きたがるわけがない。半ば便利屋扱いされているアンヘルに、テリュスから白羽の矢が立ったのは半ば必然だった。

 

 アンヘルにとってもその提案は渡りに船だった。薬は危険で、暇を潰せる趣味もない。そして、酒は空虚だ。酩酊している間はごまかせても、酔いが醒めれば、忘れたはずの喪失感が押し寄せる。

 寝食忘れて仕事に打ち込み、泥のように眠る。痛みも悲しみも、時がすべてを彼方に追いやって、いずれ忘却してゆく。それこそが、神が授けた恩寵なのだ。

 

 ホアンに告げなかったのは一人になりたかったからだ。だが、結果的に疑わる原因となっていた。

 

「それは随分と都合がいいわね。事件が起きた当日、この街に居なかったと。それで、それを証明できる人物は?」

「……依頼をしてきた協会の受付嬢テリュス。それから、仕事先で同室だった探索者のノールとレガス。あと、現場監督のカルロスさんなら、確実にぼくのことを覚えていると思う」

 

 美しい顔が苦々しく歪む。憎悪を吐き出す紅色の唇が、口惜しそうに閉ざされていた。

 

 アリベールは長く逡巡していた。顔色は変わらなくても、瞳の色が憤怒と悲嘆を濃く映じていた。否定する材料は持ち合わせていないのだろう。彼女は振り返って護衛に確認の指令を下す。指令を受けた護衛の一人は、この寒空の中駆け出していった。

 

 静謐(せいひつ)が部屋を支配する。

 疑いが晴れたにもかかわらず、彼女の顔色は晴れない。むしろ、より(かげ)っていた。

 

「ひとつ、聞いても、いいですか?」

 

 彼女の黒眼(くろまなこ)が無言で先を促した。

 

「どうして、たった一人で調査しているんですか? あなたは、憲兵でも治安維持対策専門の騎士団でもない。ただの商会令嬢である、あなたが?」

 

 少女の顔が憎しみに染まる。

 

「理由が必要? 姉を殺した奴に裁きを与えることが」

「……それは、動機であって、調査する原因じゃない。あなたを突き動かす事情が何かあるんですか?」

 

 今度はアンヘルの冷徹な言葉が彼女を貫いた。非情な論理が、自身でもゾッとするほど、鋭利な刃物となって空間を切り裂いていた。

 

「……進捗が思わしくないのよ。目撃情報も、動機も、何もわからないのよ。ただ、可能性があるのはあなただけ。でも、それももう終わりね。なぜ、憲兵があなたを疑っていないのか疑問だったけど、裏が取れていたのでしょうね。今更だけど」

 

 自嘲気味に告げる。その諦めたような横顔は、姉のマカレナによく似ていた。

 

「条件が一致するのは、貴方だけだったのよっ。だから、これが最後だった。けど、それももう、終わったわ」

 

 茫然と天井を見上げている。疲れからか、身体を背もたれに預けていた。

 

「ねぇ、聞かせてくれる? どうして、姉さんと別れたの? どうして、姉さんは突然婚約したの? あんなに、あんなに貴方に入れ込んでいたのに。突然、別人になったように貴方のことを忘れたの? 姉さんは情の深い人よ。経営にはまったく向いていないけど、善良で優しい人」

 

 生きている間には言わなかったであろう言葉が、彼女の口から漏れる。姉妹の情が、ありありと照らし出されていた。

 

「教えて? どうして、姉さんと(たもと)を別ったの? あの姉さんが、どうやったらスッパリ綺麗に貴方のことを忘れられたの?」

 

 落ち着いた声。まったく変わらない音量。けれど、そこに悲痛さを見た。

 

「わ、かりません。ぼくにとっても、突然の別れ、でしたから……」

「そう……」

 

 沈黙が落ちる。ホアンの慌ただしそうな目が揺らいでいた。

 

「なら、聞かせて。姉さんとの最後は、どんなものだったの?」

 

 つまらないし、意味がない、とは言ったが、彼女には通じなかった。そこには、真相よりも姉の話が聞きたいという願望が有ったのかもしれない。ぽつりぽつりと、過去を語り始めた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 彼女は、個展以来、毎日のように部屋を訪れた。

 飲食店のアルバイトの日時はすでに告げてある。空いている日の朝にドアがノックされ、開くといつものようにマカレナが立っていた。

 毎日会っているにもにもかかわらず、彼女は満面の笑みを浮かべていつも「今日はどこにいく?」と元気よく言った。

 

 相変わらず彼女は活発で、その好奇心を生かして何処にでも行きたがった。アンヘルが飲食店のアルバイトをしているときにも店を訪れ、つまらない武器の整備にもついてきた。それどころか、洗濯、炊事、掃除すら手伝った。

 商家の令嬢ということもあり、拙い家事だったが、そもそもとして男所帯である。誰も特別なスキルなど持ち合わせてはいない。流石に炊事はやらせなかったが、整理整頓に関しては女性として一日の長があり、部屋に小物が増えていくにつれ華やかさが増していった。

 

 最終的には、仕事から帰ると、部屋にマカレナが掃除をして待っていることすらあるほどだった。

 

 これには、受験前のホアンも嫌がるかと思ったが、案外何も言わなかった。それどころか、歓迎していた様子すらあった。彼も男である。いい気分転換になるのだろう。部屋を片づけてくれる女に文句を言うほど捻くれてはなかった。

 

 彼女とアンヘルの間には常に会話があった。

 弁達者な男はいない。活発な彼女が常にリードして、若い男女が語り合うようなそんな類の話を続ける。彼女の活発さも、アンヘルの没個性も、二人の間にはアクセントに過ぎなかった。

 

 二人の間で一致する趣味は絵画だが、それとは別に彼女はひたすら読書に熱中していた。

 部屋に本はない。彼女が持ってきた本を広げて、ゆったりとした午後を過ごすのが日常になった。

 

 彼女が読むのは二十年ほど前に出版された詩集だ。現代詩、主に恋愛を詠った詩集である。

 じっとしていられない性格な彼女だが、読書をしているときに声をかけると「じゃましないでよ」と言った。

 

 字を読み書きできるようになったのはこの頃だったかもしれない。

 寝台に寝そべって本を読む彼女の隣で、ただじっくりと字を書き写していた。

 

 一番記憶にあるのは演劇だ。

 週末には、毎週のように大通りの劇場に通った。

 劇場では、美姫と呼ばれる大女優が舞台で大立ち回りを演じていた。彼女はゴダールだか、ウダールだか以外は認めないとか熱く語っていたが、アンヘルにはさっぱりチンプンカンプンで、ただただ頷くしかなかった。

 彼女は、劇の終わりに近づくとうって変わって目を潤ませ、悲劇の主人公に感情移入していた。そんな起伏に富む彼女が嫌いではなかった。

 

 このころになると、もう完全に彼女の好意は理解していた。男として嫌な気はしない。しかし、身分がまったく違う。それに、彼女は妹としてしか感じられなかった。

 ただそうだとしても、心地よかった。もうすでに失くした、暖かさがそこにはあった。

 

 最後は唐突だった。

 

 ある日、アンヘルが仕事から帰ると、マカレナはいなかった。その日はディナーの予定だった。

 ホアンは一人居た。どこか歯切れの悪い彼の佇まい、なぜなのか、吹雪く日だというのに窓だけは開いていた。

 

 数日立つと、マカレナは急に現れた。

 それは、最後に会った日。二人ではじめて遠出をした日だった。

 

 最初から不思議な旅だった。

 道中すら、ほとんど会話がなかった。

 

 冬の風が優しく吹いている日。

 デンドロメード湖のほとりの村まで日帰りで馬車旅行をした。

 

 山並みを白い雪が染め、湖にその色が映っている。アンヘルたちは湖面を見下ろすベンチにすわり、その風景を眺めていた。

 

 湖の空気は柔らかだった。何処までも、透き通って見えた。暖かい陽射しが、二人を包んでいた。

 

「寒くない?」と告げると、小さく「大丈夫」と返答した。

 

 アンヘルたちは、長い間、そのまま動かなかった。黙ったまま、そうやって座っていた。

 

 マカレナが肩に頭を乗せてきた。風が吹き、彼女の髪がさらさらと頬を撫でた。心地よさと、くすぐったさを感じた。

 

 そのことを告げようとして、彼女を見た。

 

 アンヘルは口を閉ざした。彼女は泣いていたのだ。その眼から涙が一筋、流れ落ちていた。綺麗な雫が尾を引いて、頬に跡をつくっていた。

 

 そして、その瞳には静かな諦めの気配があった。目の前には、繊細なうなじがある。なにかが、なにかが過ぎ去ろうとしている。その場では分からなかったが、別れだったのだ。

 

 二人は、ただずっと無言で湖面に映る山々を見つめていた。

 

 言葉はない。けれども、言葉を紡ごうとしていたのだろう。ここに来ること自体が、何かのメッセージだった。しかし、彼女は口を噤んでしまった。

 

 マカレナが姿を消したのは、それからすぐのことだった。彼女が会いたいと思わなければ、会えない関係。身近にずっといたがため、それを忘れていた。

 

 整理はこの数日でついた。つけたはずだ。

 

 当然の事が起きた。ただそれだけだ。

 

 なにかの自然の流れにより、終点にゆきついたのだ。彼女は帰る場所を再び見つけたのだ。季節の巡りで移りゆく風のようなものだ。

 

 身分違いの関係。当然の成り行きだ。

 

 そう、思っていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 後日、就業時刻となると、ダビドは真っ先に仕事をあがった。要領がよくないとはいえ、元来生真面目な性格である。仕事の虫とも揶揄される彼が、不真面目な同僚を差し置いて早退きするのを、同僚たちは驚きながらも眺めていた。

 

 夜半に差し掛かる前、ちょうど黄昏時に家へ帰る頃には、母とララノアは仲良く夕飯の支度をしていたのだった。

 

「その、お帰りなさいませ。ダビドさま」

 

 ダビドに気がついたララノアが、おっかなびっくりな様子で深々と体を折って頭をさげる。白い前掛けが、夕陽に照らされて眩く輝いていた。

 

「ちょっ、いいって。ほら、顔を上げて」

「えー、べつにいいじゃん。ほら、なんか奥さんみたいだし」

 

 悪ふざけで家長に対する礼を教えた姪が意地悪く笑う。茶化されたことに、苛立ちを覚えた。

 

「こら、くだらないことを教えるんじゃないの。――ごめんなさいね。この子、ちょっとマセてて」

 

 母の雷が拳となって姪に落ちる。もういい歳なのに、いつまで経ってもやることはガキそのままだった。

 

「いえ、いいんです。これは、助けていただいたダビドさまへの感謝の証ですから」

 

 困ったようにララノアが返答する。

 そう返されると、どうしようもない。ただ、彼女には自由に、自分の意思でありのままにいて欲しいのにと、心の中で呟くしかなかった。

 

 ララノアが配膳する。

 容貌は一流を抜けて超一流の域にあったが、さすがに料理の腕までは一流とはいかなかった。

 

 そもそも風習が違うのである。使う食材や調味料も違うため、流石に二、三日で料理を完璧にこなせるようにはならなかったが、其れでも、筋は良かった。

 瞬く間に、料理の腕を上げていく彼女に、母ももうすぐ一人前だねと太鼓判を押していた。

 

 生まれてはじめて食べる母以外の女の手料理は、素直に美味しいと心から思える物だった。

 月並みな表現だが、雲から陽光が差し込んだような、そんな微笑みを見て、ダビドは、自分がこの美しい娘にどんどん傾倒していくことを自覚し始めていた。

 

 やがて、ダビドの務める検閲官事務所である噂が流れるようになる。

 それは、彼の家に居候している、家内同然の恋人ができたという話であった。

 

「あの、鈍臭いダビドのことだろ? どうせ、くっそ醜女に違いねぇ」

「いやいや、俺が聞いた話じゃ、年増な商売女の見受けをしたって話だぜ」

「あの素人童貞の彼女なんて、たかが知れてやがらぁ」

「けどよ、仕事の虫のあいつが、そんなもんに早引きしたりするもんかね」

「だがな、あいつの恋人なんて見たことがねぇんだろ? どうせ、毒物みてぇな顔に決まってやがラァ」

「まぁ、だろうな。誰か見たことがあれば、さっさとこんな噂もひっこむってもんだ」

「んだんだ」

 

 日頃の風評と相まって、件の恋人の評価は底辺を低空飛行していた。

 

 普通の人間ならここまで陰口を叩かれれば激昂しそうなものだが、アルン人の寛恕を持つダビドには迂闊に紹介できない理由がある。

 むしろ、ダビドには負け犬の遠吠えにすら聞こえていたところであった。

 

 手編みのマフラーを首に巻く。ララノアが編んだその緑のマフラーは、寒さを凌ぐだけではない、心の底から暖めるものだった。

 

 しかし、それを身につけるたび、事務所の同僚たちはわざとらしく近づいて、からかいの言葉を投げつけた。

 

「いやぁ、いいですな。手編みのマフラーとは」

「そうそう、愛が溢れてますなぁ」

「そんなばば臭い色。今時の若いもんが編むもんですかねぇ?」

「たしかに、たしかに。もしや、オフクロさんのもんってことはねぇよなぁ?」

「そんなんだったら、俺ぁ一生軽蔑するぞ」

 

 そんな揶揄いの中、ダビドだけは優越感に浸りながら薄く笑うだけだった。

 

「仕事の調子はどうだい? ダビド」

「ん? ああ、ラードか。別に、大したことはないよ。ただ、ちょっとばかり、気になることがあってね」

 

 居候の娘に対していくつもの噂が飛び交う中で、一足先に昇進した親友のラードが顔を出した。ブラッドはそんな彼に目をやらず、じっと地図を眺めている。

 その仕事一筋な様子に、ラードは失望を浮かべる。そして、深くため息をついた。

 

「なんだ、やっぱりダビドはダビドってことか」

「……? どういう意味だ?」

「だから、噂されている君の恋人の話だよ。まぁ、いいさ。どうせ、君に彼女がいるなんて少しも思っていなかったし。よし、次に飲みに行くのはいつにする?」

「はぁ、またそれか。だから、気にすんなって。そんな大した話じゃねぇんだから」

「まぁ、そうみたいだね。だって、こんなに仕事に打ち込んでいるんだからさ。はぁ、よかったよ。彼女ができたほうに賭けなくて。だって、一生素人童貞なんだから」

「……ぶっ飛ばされてぇんなら、最初からそう言えよ」

 

 ペンをゆっくりと置いて、ラードを見据える。

 巨躯のダビドに恐れを為して、慌てふためいた。

 

「いや、けど、みんな噂しているじゃないか」

「気にすんな、としか言えねぇんだよ」

「ううっ。わかった、分かったよ。ほら、そんなに脅かさないでくれよ」

 

 ラードは嗜めるようにして、両手を前で広げた。

 

「それにしても、なにを調査しているんだい?」

「ああ、これか」

 

 机にあった地図を広げる。それは、リックガルド集積所第四区画の地図だった。

 

「ここが、前の調査で踏み込んだところ。この色は今までも調査が入っている場所。それで、残ったこの場所がまだ調査に入っていない場所だ」

 

 しかし、説明されたラードの顔には疑問符。不可解の色が浮かんでいた。

 

「そんなの見たらわかるって。そうじゃなくって、なんでこの場所を調べているのってこと。第四区画なんて、この前の摘発以来、検閲官は危なくて立ち寄れないよ」

「まあ、そうなんだけどな」

 

 声のトーンを抑える。そして、耳の近くに口を寄せた。

 

「最近、禁制品の密輸があったってタレコミがあったんだ」

「え、ウソッ!」

「ああ、しかも、第一級禁制品だ」

 

 第一級禁制品。それは数少ない、見つかっただけで死罪が確定する代物である。それには、アルン人の人身売買も含まれていた。

 

 ダビドは誓う。

 絶対に、彼女を捕らえた奴隷商人を捕まえて、幸せな世界を作ってみせると。あの寂しそうな笑顔に、溢れんばかりの喜びをもたらしてみせると、自分に誓ったのだ。

 

「なぁ、俺を助けてくれるよな?」

 

 力強く、ラードの手を握る。

 そこには、鈍臭いと言われた男の姿はなく、力強い、活力に溢れた漢の姿があった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「ちょっと待って、あなた、姉さんの恋人じゃなかったの?」

 

 アリベールが驚いた声で尋ねた。後ろの護衛も驚いている。ここにきてはじめて、冷たさ以外の感情が渦巻いていた。

 

 アンヘルはゆっくりと頷く。

 

「そう、そうなのね。ここで、嘘をつく理由なんてないわけだしね。あなたの犯行じゃないことは、先ほどの報告で分かっている事だし……」

 

 長い語りの間に、探索者協会まで走らせた護衛の一人が帰ってきていた。彼がテリュスから聞き出した情報は、確実にアンヘルが街にいなかったとの事であった。そこには、すでに憲兵が情報を聞き出した後だということも添えられていた。

 

 これからも裏を取るのだろうが、出てくるのはアンヘルの犯行を否定する事実ばかりだろう。

 事実そうなのだから、当然といえばその通りなのだが。

 

 彼女は深いため息を吐いた。

 

「……あなたの父君、スリート商会の御当主は今後どうするつもり?」

「父は、姉さんには興味がないわ」

 

 吐き捨てるようにいう。

 

「父は、今傾きかけている商会を立て直すことしか興味がない。ずっと、長い間、魔道具技術に憑りつかれているわ。一族、皆そうなの。祖父が死んだときも、母が死んだときも、ずっと、そう」

 

 父親に対する言葉ではない。恨みですらない、無情がそこにはあった。

 

「父にとって姉さんが死んだことなんて、婚姻の駒がひとつ失われたに過ぎないの」

 

 彼女にとっては、父を糾弾するひとつの言葉でしかないのだろう。

 だが、アンへルはその言葉に打ちのめされていた。

 

 聞きたくなかった言葉。

 駒。駒である。その言葉だけは、絶対に聞きたくなかった。

 

 マカレナは、ずっとアンヘルだったのだ。

 幼い頃のアンヘル。昔、アンヘルはずっと駒だった。

 

 もう、ずっと昔。

 忘れたはずの記憶が、ぶり返す。

 

 嫌いな、大嫌いだった祖父の姿が蘇る。

 それは、ずっと、記憶の奥底に封じ込めていた苦い記憶だった。

 

 

 

 祖父はしがない県議会議員だった。

 他県の人間には顔すら思い浮かばず、役職すらない、平凡な県議会議員。それが、祖父の肩書だった。

 

 しかし、なにもない地方では、議員の肩書は絶対だった。

 すべての人間は、祖父を先生と呼び、影で恐れていた。祖父は、幼いアンヘルにとって、神に等しかった。

 

 父は若い頃、バンドマンだった。

 母は「音は兎も角、詩が良くてねぇ」と昔を語った。

 

 しかし、祖父の選挙区の支持者は保守層ばかりで、息子である父のバンドマンとしての印象が懸念の種となっていた。そこで祖父が取った行動は、父との縁切りであった。それでも父は地元に就職し、仲間とバンドを続けようとしたが、圧力をかけることで就職活動を妨害した。

 父は祖父の影響が及ばない他県に移るしかなかった。CDを出す寸前だったはずのバンドは、メインメンバーがいなくなって自然と解散に追いやられた。

 

 悪辣極まりない行為である。

 しかし、彼の行為はそんなことに留まらなかった。

 

 男のサガなのだろうか。晩年になると、男は自分の血を引く人間に何かを残したがるものなのだ。

 祖父にとって、それは自分の創りあげた選挙基盤だった。

 

 父に息子であるアンヘルが生まれたことを風の便りで知った祖父は、子供を取り上げた。流石に、子供だけというわけにはいかず、アンヘルは母と一緒に田舎へ越すことになった。

 父は単身赴任という形になった。就職氷河期、夢を諦め田舎から上京し、苦労して掴んだ父の苦労に対してまったく斟酌せず、子供を取り上げる。非情さを幼い頃からずっとアンヘルは見つめてきた。

 

 父にとっても、祖父は神だった。彼の言葉で海が開け、山は割れた。カラスを白いと言えば白いのだ。母も、すっかり、飲み込まれていった。

 

 アンヘルの好みは、つまり祖父の好みだった。

 祖父に逆らうことは、原初の殺人者カインに匹敵する大罪なのである。

 

 地獄から解放されたのは、偏に祖父が病で亡くなったからだ。

 

 今でも、その瞬間を覚えている。

 機械音がピーっと病室に響く。心停止を知らせる音だ。

 冷たくなっていく手を握る。溢れたのは、たった一つ、安堵だった。

 

 

 だがしかし、神と等しい祖父の言葉がアリベールの糾弾と混じって蘇っていた。心の中を神の声が支配した。

 

 神は人間の歴史を『取引』だと称した。

 取引の象徴、それが金であり、人を何処までも卑しくする。つまり、卑しさこそが人の本質なのであると語った。

 

 ずっと嫌っていた神の言葉を、否定できない。

 神の言葉は、非倫理的だったが、それでいて真実だったのだ。

 

 なぜ、なにかを求めるのか。

 

 富めるものは、夢を持ち、それをただひたすらに追いかける。彼らには、卑しさなど関係ないのだ。ただ、ひたすらに目標に向かってひた走る。

 

 それは知性でも、努力でもない。

 ぶれない。其れこそが、力を得る唯一の道なのだ。

 その重要性を、富める者は理解しているのだ。

 

 それに比べて、アンヘルのなんと貧しいことか。

 歳は十五かそこらだ。日本の記憶を合わせれば、三十近い。

 現代知識を持ち、身の丈に合わぬ技術を修める。剣術もこなせれば、身体は戦士の肉体だ。それに加えて、召喚の秘術を使う。それだけ優秀であるのに、ずっと、ずっと惨めに生きている。

 

 貧しい。ずっと、ずっと追い立てられている。

 その場限りの美しい物に飛びついてしまう。

 

 だからこそ、ひとたび見つけた安寧も、粉々に砕け散る。

 

 ホセを見捨て、イゴルを見殺しにして、クナルから糾弾される。

 マカレナも、この世を去っていった。

 

 若武者エルンストを心の中で罵ったのは、とどのつまり、夢持つものに対する僻みに過ぎない。賢しらぶって、悲観的に物事を捉えて、なんの行動も起こさない。

 

 欲望に従い狂った強欲者でもなく、理屈の通らないバカでもない。革命や革新を志し、理想に殉じてすべてを捧げる覚悟もない。それでいて、ただ清く正しく、時には小さく悪の道に逸れる只の一般人にすらなれない。善を信じ、正しさを信奉して、綺麗な世界だけを見ているくせに、悲観的に物事を捉え許容する。

 

 口だけ男。醜く地を這う貧しき愚か者。其れこそがアンヘルに相応しいあだ名だ。

 

 心に潜む、神の声がアンヘルを糾弾していた。

 いや、今までの経験すべてが糾弾していた。

 

 見捨ててきたすべてが、アンヘルを取り巻いて、泥のように固着していた。

 イゴルが、リカリスが、ホセの叫びがアンへルを貫いていた。

 

 過去が、神の言葉が、永遠に駒だと言っているような気がした。

 

 実力者、そして富める者たちの駒であると。

 

 オマエは、いつまでもコマなのだと。

 

 顔は真っ青だった。

 絶望が暗い影を落としていた。

 

「ねえ、ねえったら、大丈夫? 突然顔色が悪くなったのだけど」

 

 アリベールが心配そうな声を出す。

 冷たい美貌が、優し気だった。姉妹の、マカレナにそっくりな姿だった。

 

「い、いや、何でもないよ…………」

「そう……」

 

 もう死んだ彼女を、妹の少女に重ね合わせる。

 自身の愚かしさを自嘲した。

 

 もう、愚かなのは分かった。

 

 それでも、だからこそ、報いは受けさせる。彼女を穢した人間に、怒りの鉄槌を下してみせる。

 暗い炎が、心の奥深く、魂の底から身体を焼きはじめていた。

 

 強い意思が宿る。瞳には、力が戻りつつあった。

 

 アリベールは深く考え込んでいた。そして、意を決したように口を開いた。

 

「あなたに、依頼があるの」

 

 護衛に顔を向ける。すると、護衛は近くにあった黒塗りの革鞄を開いた。

 パカッと開かれたその中には、四角の箱があった。電子医療器具に似ている。白塗りの箱に、二つの差し込み口があった。

 

「これは、最新の魔道具*よ。人体を構成する細胞の一部を照合して、別々の箇所で発見された人物を特定するものなの。商会の、最先端技術が使われているわ」

 

 少女が続ける。

 

「これは法的な証拠にならないわ。けれど、事件解決の糸口にはなるはずよ。あなたには、姉さんの遺体から乱暴した者の体組織を取ってきて欲しいの。勿論、今姉さんの死体は騎士団の死体保管所にあるから、侵入することになるけど。お願い、できるかしら?」

 

 彼女も辛さを堪えているのだろう。

 当然だ。姉の死体を漁って、体液を取ってくるのだから。

 

 贖い。

 構うものか。何でもしてやると決めたんだ。

 

「ぼくができることなら何でもします」

 

 ちりちりと、炎が身を焦がしていた。

 

 

 




*魔道具:魔道具式DNA検査キッドと考えてください


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第十四話:砕けたつるぎ

「素晴らしい成果だよ。これで第四区画にのさばっていた破落戸たちを一網打尽にできた。これも君の入念な調査のお陰だ」

 

 背広に身を包んだ大柄な男が、口許に蓄えられた白い髭を歪めて笑っている。ダビドの手を握っている手はゴツゴツしていおり、武人らしい無骨な手だった。

 

「とはいえ根絶できたわけじゃないがな。根本のプロビーヌ商会は蜥蜴の尻尾切りをしてお茶を濁すだろう。だがあの不正人身売買にメスを入れることができたんだ。君は誇っていい」

 

 ガハハハと大仰に笑っていた。

 

 ダビドは日頃の鈍重さを脱ぎ捨てた後、月例会議にて第一級禁制品密輸情報を掴んだと声高に叫び、第四区画に大鉈を振るうことを提案した。すると、たまたま上役である幹部の目に留まった。

 

 ダビドにとってはララノアを不幸にぶち込んだ奴隷商人を捕らえたい一心だったが、その上役は元軍人であり、制御の効かない地域を苦々しく思っていたのだ。

 

 ダビドの執念は実を結び、大きな成果を残した。

 

 大成果に機嫌を良くした幹部は、ダビドを飲みに誘いそのまま意気投合した。終始上機嫌な上役に彼をよろしくと頼まれれば、事務所の同僚たちも配慮するしかなかった。

 

 数日後、事務所のナンバー2。老齢の主任監督官が体調を崩し、退職する運びとなった。万年ヒラの冴えない男だったダビドにはまったく縁のない地位だと思われたが、実績とコネを手に入れた彼は数多の候補を叩き落とし、数段越えの大出世、父すら超える地位を射止めたのであった。

 

「あんな奴になにができる」

 

 大出世に陰口を叩く者もいたが、現実は位がすべてだった。

 

 監督官といっても、然程仕事内容が変わるわけではない。長年に渡って仕事を押し付けられていたダビドは職場の誰よりも仕事に精通していた。

 

 実績と地位を持つ彼に公然と逆らえるものはいなくなった。少し前までは雑務を押し付けていた同僚・後輩は打って変わって犬のように尻尾を振るようになった。

 

 彼らは影で、醜女だと言われている恋人を罵ることで精一杯だった。ある日、バスケットを持った少女が現れるまでは。

 

「あの、ダビドさまはいらっしゃいますか?」

 

 金髪の髪を束ねた小柄な少女は、白のワンピースを身にまとい、おずおずと室内を見回していた。頭には大きな麦わら帽子をかぶっている。深く被っているためほとんど見えないが、その人並外れた容姿は誤魔化しようがない。

 

 不安そうに身を縮こませながら、小さなバスケットをギュッと握り込んでいる。男の庇護欲を誘う仕草と相まって、その少女の非凡さを称えていた。

 

「ララノア。もしかして、弁当を届けてくれたのか」

 

 その美しい少女は、元奴隷にして恋人のララノアであった。

 

 違法奴隷商人たちの本拠地が壊滅した今ララノアを縛るものはなにもない。恐る恐るも外の世界に興味が向かうようになっていた。

 

 ララノアは多数の人間から注目されたことに心細くなったのか、たたっと事務所の中を突っ切ると、事務所の奥のダビドに駆け寄った。

 

「おい、ちょっと待て。もしかしてあの娘主任の恋人か?」

 

「はは、そんなまさか。従姉妹とかそんなんだろう」

 

「けど、あんな美人な従姉妹がいるなんて話あったか?」

 

 ララノアはダビドに近寄ると心底ほっとしたように話し始めた。彼らの会話はいわゆる家の中の話で、同じ家に住む夫婦のような身近な人間の空気を醸し出していた。

 

 親友のラードも目を疑った。同僚たちが突然の大出世に文句をつけていたときも決まって擁護していた彼ではあったが、これ此処に至っては怒りの収まらぬ事案だった。

 

「おまえら、その、そういう、関係なのか?」

 

 その言葉に、ララノアは恥ずかしそうに頬を染めた。

 

 ラードは驚きのあまり脳が停止し、再び動きだしたときには上司であるダビドをこれまでもかと罵って早引きした。あまりにも失礼な反応である。ダビドは来月減給してやると心に誓った。

 

 その日から、ララノアは外出するようになった。とはいっても、その行動範囲はダビドの職場のすぐ近くに限られた。

 

 彼女は週に一度くらいのペースで事務所に訪れ、昼食を届けると近くの商店を見て回った。決まって事務所の近くのベンチにちょこんと腰かけ、ダビドが仕事を終えるのを待ったのだ。

 

 同僚たちは、文句一つ言わずに待つ少女を見て、だんだんとダビドを尊敬の念を持って接するようになった。

 

 勝ち組として女と地位を手に入れ、ダビドは絶頂期にあった。

 

 生活も落ち着いたララノアは、実家を離れてダビドの家へ越すことになった。元々、実家に通うのは面倒だった。彼女は拒否しなかった。

 

 たった二人、健全な男女が屋根の下で過ごせばなにも起きないはずがない。ダビドは健全な成人男性だ。性欲は当たり前のようにある。むしろ身体が大きい分、より強かった。

 

 正月が明けて、実家から帰ったララノアを見て、寝台へ押し倒したのは当然の成り行きだった。夜通しかけた行為は、二人にとって未知のモノだった。俯いてその白い肌を赤く染めるばかりだった彼女だが、未経験なせいもあり、ダビドの大きいモノにはたいそう痛がった。

 

 其れでも、事後には嬉しそうに微笑んでいた。

 

 それから数日経ったある日。ダビドは片膝をつきひとつの小さな箱を彼女に差し出していた。中には小さな宝石の嵌った指輪がひとつ輝いている。

 

 ――結婚指輪だった。

 

「君をこれからもずっと、ずっと守るから。だから俺と結婚してほしい」

 

 ララノアは面食らったようだった。それも一瞬のこと。心の底から嬉しそうにコクンとうなずいた。

 

 その顔には一筋の涙。そして名前にふさわしい輝かしい微笑み。

 

 数多の地獄を経験し閉ざされていた心が今、開かれたのだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 翌日。日が昇るのと同時にアンヘルは行動を開始した。まず最初は遺体がある死体安置所に入るための手段を入手することだ。どこか焦燥感に揺れるホアンを連れたって、目的の中央区に赴いていた。

 

 目的の場所は知り合いの邸宅だった。大都市オスゼリアスでも十指に入る超がつくほどの大豪邸である。大庭園にそびえる白塗りの大豪邸。敷地自体はそれほど大きくなかろうとその荘厳な絢爛さは周囲の建物とは別格であった。

 

 その邸宅の門に向かって一直線に向かう。貸衣装屋から借りた背広を身につけて堂々と歩く。門番はホアンの一般人然としている格好に眉をひそめたが、一応なりとも礼装をしているアンヘルには礼を示した。

 

「止まれ、そこの二人組。ここはヴィエント家の所有する邸宅だ。此処にはどのような要件で参った」

 

 ピタリと静止する。そして、頭を下げながら告げた。

 

「この度は貴きヴィエント家が長子、ヴィエント侯爵令嬢さまに先日の御礼をと参りました。私のことは先々週の個展でお会いしたと尋ねれば、必ずや分かって頂けると存じております」

 

 仰々しく告げる。此処は今迄とは違う相手のフィールドである。一歩のミスが本当に死へ直結する。そもそもすべてがハッタリに過ぎないのだ。堂々と、そして大仰に告げることが肝要だった。

 

「ならぬ。此度は誰とも合うような予定は聞いておらぬゆえ、通すことはできん」

 

 当然と言えた。これぐらいの会話で通すようなら門番失格である。此処からが本当の勝負だと意気込みながら、堂々と語った。

 

「私はスリート商会の者として参りました。此度の事件は御耳に挟まれたかと思います。そのことについても少々時間を頂ければと思うのです」

 

 スリート商会は落ち目の商会ではあるものの、魔道具技術を用いるという性質から貴族界隈に太いパイプを持つ。その長女が殺されたとなれば、かなりの大事件であった。

 

 その話が少しでもあの翡翠の少女に届いていれば、必ずや面会できる筈である。後は、彼女の予定が空いているか。そして、門番からそこまで話が通るかという点に尽きた。

 

 結局、その天秤は成功に傾いた。門番には大きすぎる話だと判断したのだろう。その門番は名前を聞いた後、他の仲間に一言言うと、邸宅の中に消えていった。

 

「おい、結局だれの所なんだ?」

 

 ホアンが不安そうに尋ねてくる。

 

「まあ、気にしないで。どうせ入るのはぼくだけだから」

 

 今の格好のホアンを入らせるわけにはいかない。それに此処からは戦場である。彼は貴族に対してフランクに接した前歴を持つ。連れて行く気などさらさらなかった。

 

 幾分か待って、門番が帰ってきた。少しばかり意外な表情を浮かべていた。

 

「お会いになるそうだ。だが、粗相のないようにな」

 

 その言葉で門が開かれた。

 

 

 

 

 

「よくぞいらっしゃてくださいましたね。アンヘルさま」

 

 翡翠の君。ルトリシアはアンヘルが想像していた以上に歓迎の意をあらわして出迎えてくれた。テーブルには見たこともない高級そうな菓子がこさえられている。

 

 ルトリシアは慣れた手つきでティーカップに茶を注ぐ。そして、席に着いているアンヘルの脇からそっと皿と茶を置いた。

 

 ふんわりとした涼しげな香りが髪から漂ってくる。アンヘルは上位者たるルトリシアから給仕されたことで、恐縮しきりとなり茶を飲み終えるまでロクに受け答えもできなかった。

 

 一般社会ではジェンダー平等など望める筈もないが、意外にも、貴族社会は男女の差がない。それは、偏に魔法至上主義的側面を持っているからである。貴族とは、性差ではなく、その貴き血に基づく魔の法で差別されるのである。貴族の女性が茶会で給仕するというのは、魔法が発展していない頃の名残の一つであった。

 

「どのようなお味ですか? お口に合えば良いのですが」

 

「は、はひ、とてもすばらしい、お茶であります」

 

 ルトリシアはニコニコ微笑みながら、この茶はアッグア領から買い付けた茶葉であるとか、乾燥させ過ぎで風味が飛んでいるだとか、あなたはどこの茶葉がいいか、と尋ねてきた。

 

 いわゆる上流階級の遊戯、闘茶である。

 

 答えられる筈もない。緊張で味など飛んでいるし、茶の産地など知る筈もない。万年金欠のアンヘルは大抵水しか飲まない。

 

 ニコニコ笑ってはいるが、これが上流階級の教養ですよといわんばかりに茶葉談義に誘い込む目の前の少女の瞳には揶揄いの光が滲んでいた。

 

 ――知らなかったけど、性格悪。

 

 その後は政治、軍事、世情に経済など多様な話題を行き来した。アンヘルはおぼつかない知識を総動員しながら、なんとか話に喰いついた。

 

 この話を打ち切ることは許されない。なぜなら、これは面接と同義なのである。その会話は、祖父との会話に酷似していた。意見をただ述べるのではなく、相手の望んでいる話を予測して話す。涼しげな顔の裏で疲労困憊な自分を隠しながら、食らいつくしかなかった。

 

 カップの茶を飲み干したルトリシアが、さてと呟いた。

 

「あなたが私になにか頼み事をしたいということは分かっています。単刀直入にお聞きしますが、何が望みなのですか?」

 

 優しげな微笑みを浮かべるだけの少女はいなかった。顔は微笑をたたえている。しかし、目だけは昏く輝いていた。

 

「わ、わたしの望みはひとつです。ただ一つ、亡くなったマカレナさまの無念を晴らしたいのです。どうかお力添えをお願いいたします」

 

 椅子から立ち上がり、背筋を伸ばしてお辞儀をする。

 

「捜査に加わりたいと迄は申しません。ただ、自由にマカレナさまのご遺体を検分する委任状をお授けください」

 

 頭を下げ続けた。沈黙が続く。最終的に、少女は悲しそうな顔を作った。

 

「申し訳ありません。私には、騎士団の捜査に介入するような力がないのです」

 

 見た目だけは綺麗な言葉を紡いではいるが、嫋やかな微笑みの裏に副音声が降りてきていた。つまり、お前のために権力を行使する必要性がないと告げているのだ。

 

 だが、此処で挫けてはならない。激昂し、涙ぐんで情に訴えたところで優しく叩き出されるだけだろう。価値、アンヘル自身の価値を示さねばならないのだ。今まで生きてきた存在意義を示すのだ。

 

 アンヘルは平伏したまま尋ねる。

 

「で、では、私へお申し付けになる事柄はありませんか。微力な身ではありますが、なんなりとお申し付けください」

 

 ここまできて、ようやくルトリシアは逡巡に瞳を揺らした。これ程食い下がるとは思慮の埒外だったのだろう細く白い指で頬を触り、思考を彷徨わせていた。

 

「ではこう致しましょうか。ヴィエント家の者として日々の研鑽を忘れぬため、毎月二度、仕えている者たちの中から選抜して武闘技会を開いているのです。貴方にはその前座として力を披露して頂きましょうか」

 

 

 

 §

 

 

 

 アンヘルは半刻ほど待たされた後、貸し出された服に着替えて、邸内の庭、石畳を敷き詰めた遮蔽物のない決闘場に赴いていた。

 

 石畳の一角には観覧席らしきものがこさえられ、屋敷の上役と思われる年配の騎士数人がこちらを見下ろしていた。その中心では黒いドレスに身を包んだルトリシアが脚を組み微笑んでいた。

 

 決闘場に居並ぶのはアンヘル以外に三人の男たち。反対側にも、四人の男たちが並んでいた。

 

 通常、ヴィエント家恒例の月例闘技大会は選抜の六名によって行われる。観覧者たちは突如現れた闖入者に興味津々といった様子だった。

 

 ルトリシアはこの戦いを提案したにもかかわらず、

 

「貴方の対戦相手は士官学校で護衛を務めるハーヴィです。金剛流の優れた使い手ですが、若手という点を突けば貴方にも勝機があるやもしれませんね」

 

 という助言を残していた。

 

 退屈しているのだろうが、相手の流派を知れたのは都合が良かった。

 

 金剛流。東方一刀流と対をなす、多くの門弟を抱える流派である。特徴はなんといっても豪剣だ。流れるような連撃を信条とする東方一刀流とは正反対の流派で、どちらかといえば貴族に好まれる流派であった。

 

 進行役の若い騎士が開幕の笛を鳴らす。同時にアンヘルの名前が大きく呼ばれた。

 

 ふうと息を吐くと精神を集中させる。人同士の対戦はホアンとの訓練を除けば道場以来である。だが、泣き言を言っている暇はない。精神を集中させると、長剣を引き抜き無造作に構える。

 

 アンヘルの剣技は完全に実戦派であり、その対象はもっぱらモンスターであった。東方一刀流で学んだ基礎は長く続く実践で崩れ去っていた。

 

 不格好な構えに周囲から失笑が漏れる。ハーヴィと呼ばれた若い騎士は金色のオールバックを掻き上げながら、ニマニマと余裕の笑みを浮かべていた。

 

「それでは騎士ハーヴィ、探索者アンヘルの決闘を執り行う。ただし、騎士ハーヴィは神秘の法行使を禁じることとする」

 

 眼前の騎士も剣を抜いて構える。正眼に構えられた剣には迫力が篭っていた。

 

「では、はじめッ!!」

 

 掛け声と同時に、撃ち出された弾丸のように素早く疾走した。

 

 構えた長剣を後方へ隠すようにして、一直線に向かっていく。剣の間合いを計らせないための工夫だった。

 

 一方、ハーヴィは一切身動きしない。ピクリともせず、アンヘルの動きを見据えていた。

 

 白刃がびょうと唸る。

 

「む」

 

 そこではじめて反応を示した。

 

 ハーヴィの長剣は上方に打ち上げられ、体が無防備に晒された。

 

 アンヘルは体を小さく纏めると、腕をしならせて凄まじい速度で突きを繰り出す。光線が閃いた。

 

 が、騎士は飛び退いて突きを躱した。その顔には少しばかりの驚きがあった。

 

「探索者風情と思っていたが、なかなか腕があるようだ」

 

 虫から害獣程度には格上げされたのか。騎士の瞳は真剣な色を帯び始めていた。

 

「だが、所詮はその程度よ」

 

 今度は騎士が剣を持って躍りかかる。上段から繰り出された剣が火のように振り下ろされる。

 

 アンヘルは受け止め、飛び退き、転がって躱した。

 

 無呼吸で避けつづけ、しだいに疲労が蓄積されていく。明らかに動きが鈍りつつあった。だが、足を止めるわけにはいかない。行動を止めた瞬間、屠られるのは自明の理だ。

 

 対照的に、騎士ハーヴィに疲れの色はない。

 

 覚悟していたことではあったがキツイ。剣士たるもの、相対した瞬間に相手の力量が知れるものだ。一端の剣士たるアンヘルには、力量差が対峙した瞬間に理解できてしまった。

 

 勝負というのは、実力が拮抗していなければ一瞬でつくものである。ハーヴィが立ちあってみせたのも自信の表れであり、主君たるルトリシアに実力の程を披露したいという青い自尊心によるものだった。

 

 振り抜かれた剣を受け損なって吹き飛ばされる。

 

 ズシン、と石畳がなって白い埃が立った。騎士が自慢げな顔を浮かべる。

 

「無理をするな。魔力を持たぬ平民の体は柔い。貴様の腕では私には腕一本触れること叶わぬぞ」

 

「まだ、勝負は始まったばかりだよ」

 

 強く打った背中を押えながら立ち上がる。唾を小さく吐いた。

 

「強情よな。実力差がわからんと見える」

 

 ハーヴィは疾風(はやて)になると無造作に剣を振り下ろした。アンヘルは咄嗟に剣を水平にして刃を受け止める。

 

 とてつもない剛力である。膂力では真っ向から抗えそうもない。歯を食いしばり、必死に耐えた。

 

「貴様如きがお嬢様にお声をかけるなど一兆年早いわ」

 

 金属の擦れ合う音と共にのし掛かってくる。アンヘルは姿勢を縮こめながら耐えた。

 

 ハーヴィの目は憎悪に染まっている。平民風情が、騎士に立ち向かうなという傲慢さがそこにある。

 

 だからこそ、勝ち目がある。

 

 実践を知らぬ戦士ほど剣に拘るものだ。戦いは神聖なモノだと勘違いしている。

 

 だが、探索者のアンヘルにはそんな理念はほとほとない。

 

 勝つことがすべてなのだ。

 

 生死を賭けた争いに細事など無用である。

 

 アンヘルは右足を伸ばしてのし掛かってくるハーヴィの足を払った。相手はたたらを踏みながら一歩二歩と後退した。

 

 そのままポケットに忍び込ませた砂を握りしめると顔に向かって撒き散らした。ぶあっと細かい砂つぶが決闘場を舞った。ハーヴィは目を瞑りながらさらに後退する。

 

「き、貴様ッ!!」

 

 騎士が吠える。

 

 だが、無視した。真剣を握った戦場である。泣き言を喚くほうが愚かなのだ。

 

 身体を丸め、爆発させる。風となり、疾駆した。

 

 長剣を水平に構え、飛びかかろうとした瞬間だった。

 

「この下民風情がなめるなよぉおおおお」

 

 カッと目を見開くと、剣を天井に構える。神秘の粒子が騎士を取り巻き収斂した。

 

 ――術式の輝きだ。

 

暴風嵐(エアロストーム)ッ」

 

 人間ひとつ切り刻むなどわけない殺戮の風が吹き込んだ。

 

 ――くそっ、反則だろっ、それっ!!

 

 ルール違反を咎める暇もない。当たれば即死である。

 

 此方も切り札を切るしかなかった。

 

「っ召喚(サモン)

 

 盾になるように幼火龍フレアを召喚。身体を縮こまらせて、フレアを前面に押し出した。

 

「きゅう?」

 

 突然迫った死の風に混乱しながらもフレアが身構える。スピリチュアル属性は火。相手の風魔法に対する相性は最高だ。

 

 風半減。

 

 属性最強と尊ばれる火龍の耐久力は生半可なものでなかった。幼い身体であっても、半減属性に対する抵抗力は一端の龍そのものだ。

 

 暴風雨の中でも涼しげな顔を浮かべるフレア。眷族にも個体差があることは理解していたが、進化前ながらもその力は明らかにシィールを上回っていた。

 

 強引に突破すると、フレアを召還(アポート)。今度は相手の後方にシィールを召喚する。

 

 最近になって、なぜ召喚士の能力が危険視されるのか漸く理解できてきていた。一対一の戦いにおいて完全な部外者たる眷族を使役できる点もそうだが、なによりも虚空から唐突に召喚できるという点が卑怯すぎるほど強力だ。

 

 血筋に寄らない能力という点を鑑みると、魔女狩りの如く狩られるのも致し方なしというものだろう。

 

 激憤し、禁止された魔法を行使したにもかかわらず突破されたハーヴィの顔は驚愕に染まっている。背後のシィールを気にする余裕は吹き飛んでいた。

 

 蛇のようにシィールが忍び寄る。

 

 俊敏性はともかく、進化したシィールの剛力は人間と比べるべくもない。強靭な顎がハーヴィの左足を噛み砕き、身体を捻り倒した。

 

 アンヘルはそのまま走り寄り、切っ先を首筋に添える。

 

 進行役の「それまでっ!」という声が響きわたった。

 

 ざわざわと観客席の住人たちが騒ぎ立てる。

 

「あの男まさか召喚士とはっ。探索者などと勿体ない。我が家に勧誘するべきでは?」

 

「だがしかしあの不格好な剣術よ。砂を投げるなど、武芸をばかにしているとしか……」

 

「ふ、愚かな。戦いに美しさを求めるなど。勝つことが正義よ。だから貴様らはいつまで経っても第三格なのだ」

 

「なにぃ? あのようなみっともない戦い方をする輩を褒め称えるとは、騎士筆頭家の名も落ちたものよっ」

 

「ふたりとも止めい、此処はルトリシア様の御前であるぞ。それよりも議論すべきは反則をした騎士ハーヴィであろう」

 

「そのとおりよ。反則をして魔法を行使したばかりか、よもや負けるなどと。幾ら若手筆頭とはいえ、ルトリシア様の護衛の件、考え直したほうがいいのでは」

 

「武門の面汚しめが。ハーヴィめ、覚悟しておれよ」

 

 上役たちが話しこんでいる。ルトリシアだけはアンヘルの意外な才能に驚きを示していた。

 

 予想外の結末だったのだろう。進行役の男もどうしていいか戸惑っている。ハーヴィの反則負けとすべきか、それともアンヘルの勝利とするべきか。アンヘルは召喚士の能力を行使したことが、より複雑な状況へと叩き込んでいた。

 

 進行役が上役に駆け寄る。話が長引くにつれ、矛先は反則をしたハーヴィに向いていった。

 

 アンヘルは完全に蚊帳の外である。勝敗よりも、罰をどう与えるかという方向に向かっていた。

 

 なにをしたものかと手持ち無沙汰になっていると、漸く起き上がったハーヴィがルトリシアに向かって嘆願した。

 

「ルトリシアさま、此度の戦い、まったく正道な結果ではありませんっ! こやつは、卑しくも己の能力を隠し持ち、私が魔の法を禁止されているにもかかわらず、使ってきたのであります!」

 

 ハーヴィは、尋常ではないほど憎悪に染まった瞳でアンヘルを見据えている。

 

 人から向けられた悪感情。それを今日ほど実感した日はなかった。

 

「もう一度、もう一度私に機会を。この卑劣な悪鬼めを私が打ち払ってみせましょうぞ!」

 

 大きくアンヘルを指差す。そして剣をもう一度構えた。

 

 反則したのはそっちだろ、という言葉は封じられた。上位者の嫉妬ほど恐ろしいものはない。これはもう委任状の話どころではなくなったなと思った。

 

 貴族は面子を重視する。たかが平民に負けたなどと許す筈がない。寄ってたかって殺されると考えたアンヘルは逃走経路を模索した。

 

 だが、それは空が落ちてくるのを心配するようなものだった。

 

 騎士たちの怒りは、アンヘルではなく恥の上塗りをしたハーヴィに向かっていた。冷然とした空気が、吹き荒んでいた。

 

「……そう、ですわね」

 

 ただ一人、穏やかな笑みを浮かべるルトリシアの麗しい紅色の唇が蠢いた。悠然と立ち上がる。

 

「アンヘルさま、貴方さまは今まで召喚士の能力を隠していらっしゃったのですか?」

 

 ゆっくりと近寄ってくる。艶治な所作だった。

 

「は、はい。その、通りです」

 

「聞きましたかルトリシアさま、こやつは卑劣極まりない奴なのです。わたしに――」

 

 告げようとしたハーヴィに指を一本立てて黙らせた。瞳は怜悧に輝いていた。

 

「おっしゃるように召喚士の能力は卑怯でしょう。ご存じないかも知れませんが、決闘では古来より暗黙の了解で禁止されているのですよ」

 

 ルトリシアは茶目っ気多くウインクをした。

 

 一体一において、第三者を召喚できる召喚士は強力にすぎる。血筋による力ではないため、貴族が禁止する理由も当然だった。

 

「ならば――」

 

 ハーヴィの顔が喜色に染まる。だが、ルトリシアの冷たい言葉が続けられた。

 

「とはいえ、探索者のアンヘルさまに我々の作法を押し付けても致し方ないでしょう?」

 

 優雅に、それでいてゆっくりとルトリシアの指先が虚空を薙いだ。

 

 予備動作なく神秘の輝きが灯り、取り巻いて結集した。

 

 風が流れた。

 

「え?」

 

 アンヘルの口からたまらず漏れた。

 

 紙を引き裂くようにして、袈裟懸けの風がハーヴィの右腕を断ち切ったのだ。真っ赤な血潮が石畳のうえに一輪の薔薇となって咲いた。

 

「どう、して、ルトリシア、さま……」

 

 重い袋が崩れるような音を残してハーヴィの身体が前のめりに倒れる。

 

 驚愕に震えるアンヘルを他所に、ルトリシアは倒れたハーヴィに歩み寄った。彼女は動物の死体を転がすように、足で瀕死のハーヴィを仰向けにすると、傷口を自分側に向かせた。それから片手をかざすと、光が渦巻いた。白い指先が、艶かしく動く。キラキラと神秘の光が舞っていた。程なくすると、血が抜けて真っ青になったハーヴィの顔色が朱色を増し、傷口が塞がった。ただ、千切れた腕がひとつ転がるのみだった。

 

 ルトリシアはドレスの端を摘んで、淑女が行う上品な動作で身を翻した。黒のドレスは、まるで血で染められ凝固したように見えた。

 

 その仕草に、アンヘルはたとえようもない嫌悪感を、はじめて、覚えた。

 

 祖父は自分の息子や孫すら駒のように扱う男だった。だが、目の前の女はそんなちっぽけなものじゃない。部下、それも己を慕う者の命すら、なんとも思っていないのだ。

 

「なんで、なんの意味があって」

 

 震える声でアンヘルは訪ねた。

 

 ルトリシアは常と変わらぬ微笑みと怜悧な瞳を持って応じた。

 

「信には褒美を、罪には罰を。当然の成り行きですわ。貴方さまが気になさる必要はありません」

 

 善も悪も正義も倫理も彼女には通用しない。すべては数字の上に成り立っているのだ。いま、敗北したハーヴィの価値は消え失せた。命を存えさせたのは、ひとさじの慈悲ゆえなのか。

 

 傲慢、傲然。

 

 ここまで、人を恐れたのははじめてだった。

 

 油断していたのだ。優しげな、その表情に。

 

 わかっていた筈なのだ。恐ろしい存在、なのだとは。

 

 震えるアンヘルを他所に、彼女は部下を指し示した。

 

「望みは叶えましょう。あなたの行く道に、幸があらんことを」

 

 そういって踵を返した。

 

 世界はこんな人間で溢れている。

 

 無力なアンヘルは呆然と立ち尽くすしかなった。

 

 

 

 §

 

 

 

 邸宅の前で待機していたホアンと合流すると、そのままの足で騎士団詰所の横に構えられた死体安置所を訪れていた。

 

 病院より白い、硬質な白。死者の怨念が取り憑いているような、おどろおどろしさがそこにはあった。

 

 手に持つは、美しい羊皮紙造りの封筒。翡翠の君、ルトリシアから持たされた委任許可証だった。

 

「それは本当に効力があるのか? ここは天下の騎士団詰所だぞ。紙切れ一枚で入れるのか?」

 

「問題ないよ。絶対に大丈夫」

 

 説明が面倒だった。律儀なホアンのことだ。取引があったとなれば、気にするだろう。

 

 二人は門を抜けて死体安置所にまでたどり着く。扉の前には一人の男。その男に向かって声をかけた。

 

「あの、これを」

 

 手に持っていた委任許可証を渡す。男はアンヘルたちを訝しげに見ていたが、封筒の印字を見て血相を変えた。

 

「こ、この度はなんの御用で?」

 

「先日殺害されたスリート商会ご息女の遺体を拝見したいのです」

 

「は、こちらです」

 

 姿勢を正し、かしこまった姿勢で案内する。二人は、その後ろに続いた。

 

「す、すごいな。こんなに態度を変えるなんて」

 

「だから心配ないっていったでしょ」

 

 階段をのぼり角を二回曲がる。第二霊安室。その部屋はそう書かれていた。

 

「ここがその部屋になります。午後からも遺体見聞がありますので、できるだけ動かさぬようお願い致します」

 

 隊員は低頭低身で告げた。

 

 隊員に礼をすると、ガチャっと扉を開く。

 

 部屋の中央に台がひとつある。石造りの寝台のような台だ。あたりにはメスらしき医療器具。室内に窓はなく、魔導灯が白い壁面に反射して、異様な白さを映していた。台の中央には布が被せられていた。台すべてを覆う大きな布と先端に被せられた白布。

 

 アンヘルはゆっくりと近づいてその小さな布をめくった。茶色の髪がゆっくりと現れる。閉じられた目、鼻梁、唇が現れた。

 

 マカレナだった。

 

 動かぬ身となって、そこに横たわっていた。

 

 現実感がなかった。何かの間違いだったら良いなと心の奥底では思っていた。

 

 だが、現実だった。眠ったように、ただ、横たわっていた。

 

 身体の力が抜けた。たたらを踏んで、後ろによろめいた。

 

 ――嘘だ。

 

 みっともなく、叫びそうになった。

 

 彼女は眠っているようにしか見えない。見えないのだ。少しばかり、白いだけだ。だが、アンヘルの戦士の部分が否定した。動かぬ肉の塊でしかないと。

 

 喉がカラカラに乾く。酩酊したように視界が揺れる。そして、世界が暗がりに包まれていた。

 

 魔導灯がチカチカと明滅していた。

 

 堪らず台に手をついた。咄嗟の行為だった。それは最悪をもたらしてしまった。意図せず、身体にかけられた布を引っ張ってしまった。少しばかり傾いた布は物理法則にしたがってハラリと地面に落ちた。

 

 現れたのは、壮絶な仕打ちを受けたマカレナの裸体だった。

 

 まず目についたのは乳房のミミズ腫れ。鞭打ちの跡が幾つも走っていた。縦横無尽に走っているそれは、煌々たる灯りに照らし出されて、其のままの色と形の蛇や、蜥蜴や、蛙となって、今にも這いまわり始めそうなほど、痛々しさを浮かび上がらせていた。

 

 視線を下ろすと、太腿の内側に根性焼きの痕が幾つもある。鼠にでも齧られ、蚯蚓が其処から這いまわることで毒々しく滲んでいるのかと思わせるほど黒々とした点が連なっていた。

 

 彼女の中心には、いまだ生え揃っていないの陰部がある。そこは、まるで冗句のようにして鉄輪が幾つも縫いつけらていた。鉄輪に黒々とした血が伝っており、凝固して染め上げていた。

 

 とどめに首筋の青い手型。死因は絞殺だろう。馬鹿でもわかってしまった。

 

 酷い、あまりにも酷い死に様だった。どんな奴ならこんな殺し方ができるのか。吐くことも、涙ぐむこともできず、ただ絶句した。

 

 なにも言えない。ホアンは手で口を押さえて部屋を出ていった。

 

 頭がクラクラした。見なかったことにしたかった。けれど、無理だった。アリベールとの約束が震える体を突き動かし、蒼白なまま行動を実行させた。

 

 右手が鞄の中から匙をとりだした。彼女の女陰を開く。右手に握った匙を差し込んでいた。

 

 やめろと頭が言った。

 

 身体は、いうことを聞かなかった。

 

 硬かった。柔らかみのない、死した人肉の硬さがあった。胎内の内壁を血ごと掻き出し、瓶に詰める。それを数度繰り返した。

 

 涙で滲んで吐き気がした。心臓は震えて足は蠕動していた。魂が切り刻まれる思いだった。刻まれた傷口から穢れが滲んで苛む。

 

 これ以上の地獄はないだろう。人生最大級の地獄を味合わされた。

 

 だが、本当の地獄はこれから始まるのだ。

 

 

 

 §

 

 

 

 震える身体を引きずりながら、部屋を出た。中の時間はゆうに十年に匹敵した。廊下に差込む陽射しががやけに陰っていた。

 

 目の前に青い顔をしたホアンの姿がある。便所で吐いたのだろう。口元からは吐瀉物の匂いが漂っていた。

 

 二人は無言でその場を後にした。どの道をどう通ったのか分からない。

 

 一直線に宿へ帰っていた。大通りを外れて小さな路地に出る。そこを越えると誰も使っていない寂れた公園があった。

 

 真冬の寒空。寂れた公園には誰もいない。葉を失った木の枝が風に揺られていた。

 

 唐突に、ホアンが尋ねてきた。

 

「これから、どうするんだ」

 

 その声はなんだか不思議な感情が篭っていた。悲しみ、焦りだろうか。この場には似つかわしくない感情だった。

 

「今日、採取した組織と怪しそうな人物の組織を照合するけど……注意にあったように魔道具の調整をしないといけないから」

 

 アリベールの言葉を思い返す。

 

「使い始めてから十回程度は誤差が出てしまうらしいから、僕やホアンのと照合して調整しないと――」

 

「待ってくれ。アンヘル」

 

 ホアンが言葉を遮った。

 

「もう少しで俺は試験なんだ。これからは、アンヘル一人でやってくれないか」

 

「……どうして?」

 

 まったく意味が分からなかった。なぜここで試験の話になるのか。此処からは犯人を捜す作業だ。先ほどの地獄に比べれば、些細なことの筈である。

 

「まだ、ぼくたちは何もしてないんだよ。ここからここからじゃないか。ホアンだって悔しくないの?」

 

「だからこそ、さ」

 

 ホアンの目はこちらを直視できていない。額には汗が滲んでいた。

 

「もう、嫌なんだ。こんなの、見たくないんだ」

 

「けど……」

 

「頼むよ。な、お願いだ」

 

 二人の間を冷たい風が吹き荒ぶ。確かな温度差。それを肌で感じた。

 

「わかった。けど調整は手伝ってほしい。体液の一部があればいいから。それぐらい試験の邪魔にならないでしょ」

 

「そ、それは、困る」

 

「どうして? ただ、涎なんかを一滴くれれば良いだけじゃない」

 

 小さな雪の結晶が舞っている。一つとして同じ形のない結晶たちが、二人の上に舞い落ち溶けていく。

 

「もう、いいだろ。アンヘル、お前ももう止めろ」

 

 ホアンの顔には焦りと苛立ちが浮かんでいる。

 

「これで終わりだ。放っておいてくれ」

 

「――ッ。そんなにはいかないんだ」

 

 アンヘルはホアンに詰めよる。胸ぐらを掴み上げた。

 

「ここで終わりなんて、犯人を見つけないなんて、なにを考えているんだ!」

 

「お前は誰の為にやっている!」

 

 胸ぐらを掴み上げていた手が払われる。ホアンは努めて冷静に襟元を正した。

 

「怒り狂ってなにも言わず、なんだかよく分からない所から騎士団死体安置所に入る術をみつける。あまつさえ彼女の遺体を凌辱して、犯人探しをするなどイカれているとしか思えない! こんなことをして彼女が喜ぶと思うのか」

 

「なら、なら、なにをどうしろっていうんだ」

 

「だから、其れを考えろっていうんだ。葬儀やなんやら、やる事が幾らでもあるだろッ」

 

 葬儀に参列できる筈もない。アンヘルは、なんの身分も持たない下民だ。外から葬儀を眺めて、涙を流せばそれで良いというのか。

 

 誰の為にやっているか。そんなこと言われずともわかっているのだ。ただ、自身のためだ。アンヘルの許せない何かが、燃え盛っているだけに過ぎないのだ。

 

 君もそうじゃないのか。問い返そうとした。

 

 けれど、辞めた。

 

 何となく、彼の顔に別のモノが滲んでいるように見えたからだ。汗や挙動に、怒り以外の隠れている別のモノが見えてしまった。

 

 アンヘルは、尋ねてしまった。開いてはいけない扉を、開いてしまった。

 

「中学校の性教育で聞いたんだ」

 

「は?」

 

 唐突な独白。

 

 場違いで、奇天烈な台詞に不意を突かれたホアンは疑問符を浮かべていた。

 

「女性の卵子は、排卵後一日程度しか生殖能力を持たないらしい。けど、男性の精子は女性の胎内で二、三日、長いモノになると一週間を超えることもあるって」

 

「な、なにを言っているんだ?」

 

「ずっと、ずっと疑問だったんだ。ここ最近の君はどこか挙動不審だったから」

 

 風が服を揺らした。一際強い風だった。

 

「ホアン。きみはぼくがマカレナと夕食にいく筈だった日。彼女が連絡もなく部屋から居なくなった日、なにがあったの? いや、きみは、なにをしたの?」

 

 マカレナが突然居なくなった。そして、彼女は別れのように涙を流した。

 

 受験前だというのに、家に滞在することを許したホアンの心情。

 

 季節外れに開いて、換気されていた窓。

 

 会えなくなって以来、ずっと挙動不審なホアン。

 

 黙って涙を流すだけだったマカレナ。

 

 すべてが符号していた。獣の欲が連なって、蜘蛛の巣のようにひとりの少女マカレナに絡みついてたのだ。

 

 ホアンの顔は背後の陽射しを背景に黒い影となっている。苦味のある表情と相まって、まるで弾劾される罪人の凶相だった。

 

「どんな、どんな気分だったんだ? 悲鳴を上げる彼女を見て興奮したの? それとも、壊れていくぼくたちの関係を見て、愉悦でも感じていたの?」

 

「な、なにをっ」

 

「答えろ!」

 

 腰に差していた剣を抜き放つ。右手で水平に構えた。

 

 茶色の瞳の奥で体を燃やし尽くす焔が身を焦がす。激情に震えた。

 

「お、落ち着けって。な、そんなわけないだろ?」

 

「なら、証明してみせろ」

 

 実際にホアンが不義を働いたか証明するのは至難の技だろう。もう悪夢の日から二週間近くになる。証拠が検出できるとは考え難い。

 

 だが、ホアンには医学的知識がない。アンヘルの持つ現代知識が、彼の無知を突いたのだ。

 

 無言。怒りが怯え、そして無へと変わった。さらに怒りが現出した。それは混じり気のない怒りだった。

 

「なにが悪い」

 

 心底恨みの篭った言葉だった。

 

「無防備に部屋へ上がり込んで、それで襲われないなんてどうかしてる。俺は、試験で気が立っていたんだ。仕方ないだろ」

 

「それが、そんな言葉で正当化できると思っているのか!」

 

「黙れ!」

 

 ホアンも剣を引き抜いた。両手で正眼にかまえる。瞳には憎しみが強く宿っていた。

 

「彼女はいつもいつも、アンヘル、アンヘル。口を開けばおまえの言葉ばかりで、行動はおまえのためばかりだッ」

 

 ホアンの怒りは止まらない。波々と、吐き出される。

 

「俺はずっと惹かれていた。出会った時からずっとだ。けど、彼女のこころはずっとおまえの上にあった。嫉妬した。ああ、もちろん嫉妬したさ。おまえには何もない。俺と違って学もない。力もない。未来すらない。それに比べて俺はどうだ。あの士官学校のエリートを目指している。すべて持っているんだ。それなのに彼女ときたらまったく見向きもしなかった。探索者として粗野になっていくおまえに、誰の影響を受けたのか皮肉を口ずさみ始めたお前にすらうっとりしていた。俺が力を見せても、知性を見せても、贈り物をしてもまったく無意味だったんだ」

 

 ホアンの剣から闘気が放出されている。

 

「それなのに、お前ときたらずっと呑気だった。本当にのんきだった。鈍感とはまるで違う、山羊が草を食らっているようにのんきだった。彼女が慕っているのを知っていて、ずっとくだらない仕事に就き続けた。夢も希望もない仕事に、惰性に日々を費やしたんだ。俺が恋い焦がれて仕方ないモノを、下らないとばかりに無視していたんだ。それが、それが許せると思うか?」

 

 怒りが、暗く、暗く陰っていく。最悪の真実が明かされようとしていた。

 

「だから俺は、彼女が部屋でひとりのとき、後ろから襲い掛かったんだ。最初は抵抗したが、あとは死体のように横たわっているだけだったよ。お前らが別れて嬉しかっただって。ああ、清々したよ。最高の気分だったさ」

 

 聞き終えてアンヘルの中に残ったのは得体の知れぬ怒りだった。火が、炎が、くべられた燃料が多すぎる。抱えきれない。

 

 なぜなら、彼の論理には自分とアンヘルしかなかった。マカレナはまるで景品だ。

 

 この悪鬼を打ち払い、その髑髏を永遠に晒してやる。

 

 未来永劫まで、自らの罪を悔いさせてやる。

 

 その怒りが、身体を突き動かした。

 

 殺意が、視界を焼いて赤く染めた。

 

 手に持つ剣の柄が軋む。強く、強く握りしめられた剣が悲鳴を上げている。熱量すら感じさせる凶悪な闘気が全身から放射された。

 

「殺してやる!」

 

 背中の鉈を振りかぶり、上半身を捻りながら一直線に放り投げる。鉈はクルクルと回転しながら風を切り裂き、ホアンに迫る。

 

 彼は持った剣で弾いた。

 

 外套を翻し跳躍。大腿四頭筋がミチミチと収縮し、巨大なバネとなってアンヘルの身体を射出した。

 

「できるモノならやってみろ――だがな!」

 

 脳天目掛けて振り下ろされた刃が、澄んだ音を立てて噛み合った。鋼と鋼が激しくぶつかり火花をちらした。衝撃が周囲に轟く。

 

「剣を教えたのは誰だったか、もう忘れたのか!」

 

 ガリガリガリと鍔元で競り合う。ぶつけ合う二人の腕部が盛り上がり、筋が浮かぶ。血流が加速する。呼吸が身体の奥底まで強化した。

 

 ホアンの手首が回転する。鍔競り合ったまま、剣を巻き取ろうとしているのだ。

 

 左手はそのまま流れのままに剣を巻き取られる。それを無視して、右の拳を振りかぶって、怒る顔に思いっきり叩きつけた。

 

 鼻が歪んで潰れる感触がする。そのまま拳を振り抜いた。

 

 ホアンは後方にまで吹き飛び、転がった。鼻腔からは血流が止まらないようだった。

 

 ふと、右手を見る。熱い。巻き取られる際に薄く切られた。血が滲んでいた。

 

「こ、こんなことで勝ったつもりか」

 

 髪を振り乱して顎に垂れた血を拭っている。折れた鼻骨をぐいっと押し、真っ直ぐに伸ばしながら、低く呻いて血の混じった唾を吐き出した。

 

「おまえはそうやって、何時も剣術を馬鹿にしていたな」

 

「剣にこだわるなんて、愚の骨頂だ。だから、きみは負けるんだ」

 

「そういう透かしたところが、心底気に食わないんだ」

 

「それは、こっちの台詞だ!」

 

 アンヘルは左方に向かっていきなり駆け出した。続いて、ホアンもそれに従い位置を変更する。

 

 両者は互いに駆け交差すると、それぞれの刃を脳天に向かって垂直に叩きつけた。

 

 震えるような金属音が鳴り響く。アンヘルは流れるようにして、蹴りを放った。身体が旋回して弧を描く。踵からの蹴りが右脇腹に突き刺さる。

 

「ぐっ」

 

 呻きながらも、ホアンは手首を器用に動かして、連弾の刺突を放つ。びょうと風を巻いた鋼は、顔面を捉えた。

 

 アンヘルはギリギリで顔を捻ってかわす。わずかに遅れた回避のせいで左耳が刃に擦れ、千切られる。耳のうえが開き、赤い花が中空に咲いた。

 

 堪らず後方に飛び退がる。後方に転がりながら、身を低くし、剣を水平に構えた。

 

「どうして、マカレナさんを巻き込んだ! ぼくが憎いだけなら、ぼくを遠ざければいいだけの話だろ!」

 

「お前なんかどうでもいい!。俺はただ、彼女を手に入れたかっただけだ!」

 

「なら、如何して犯人探しに協力的じゃなかった。当ててやる! きみにとって、彼女は景品で、道具でしかないんだ。好いても、愛してもいない。ただ、ぼくの側にいた異性が羨ましかっただけなんだ。だから、彼女が死んでも、自分の心配だけをしていられるんだッ!」

 

「黙れぇええええ」

 

 怒声とともに、剣を斜めに振り下ろしてきた。

 

 アンヘルの迎え撃つ長剣が銀線を鋭く描く。

 

 二つの刃が、虚空で煌々と動き、衝突し、激しくせめぎ合った。

 

 びりびりと衝撃で手が震える。アンヘルは剣の上を滑らせ、流れのまま回転し、脛を狙って剣を繰り出した。

 

 紺色のコートが空に素早く舞い上がるのが映る。同時に脳天目掛けて剣が振り下ろされた。

 

 剣を天上に構える。衝撃。

 

 叩き割るような急降下攻撃に剣がひび割れて軋んだ。流れのままホアンが蹴りを放つ。鳩尾に入った爪先が心の臓を一瞬止め、吹き飛ばす。

 

 土埃と溶けた雪に塗れながら、地面を転がる。転がるアンヘルの胸元に突き出された突きが変化して、薄く肩口を割った。

 

 転がるまま、破れた外套を引きちぎる。

 

 立ち上がって、外套をホアンの鼻先に叩きつける。水を吸い重くなった外套が、濡れ雑巾による鞭となってうねる。鈍い音が響きわたった。

 

 ホアンが顔を歪めて呻く。

 

 顔には外套に付着していた泥が飛沫となって付着していた。

 

 ホアンは薄く開けた左眼を頼りに、手に持つ剣を閃かせた。銀線は勢いそのままアンヘルの剣の鍔を裁断し、右腕を激しく割った。辺りに血飛沫が舞う。

 

 激痛で呻きが漏れた。後方に転がる。

 

 直前までいた空間には、剣が垂直に振り下ろされていた。

 

 泳ぐようにして転がりながら鉈を拾う。傷ついた右手へ添えるようにして鉈を構えると、左手で天高く剣を掲げた。

 

「醜い戦い方だな! 組討ち、蹴り技、そのうえ、鉈で二刀か。探索者らしい、節操のない姿だ!」

 

「きみには、ぼくたちの必死に生きる姿が醜く見えるんだな。そうやって人を見下して、楽しいのか!」

 

 二人は同時に跳躍した。

 

 空中で二人の長剣が撃ち合う。その瞬間、アンヘルの左手が剣から離された。

 

 相手の握り手を上から掴む。そして、残った右手で脇腹をかち上げるようにして鉈を振るった。ホアンは刃の根本を手で受け止めながら、致死の斬撃を止めた。

 

 両者の剣は弾かれる様にして散らばり、地面に突き刺さった。

 

 アンヘルは鉈から手を離すと、肩を巻き込んで相手を地面に倒す。右膝で蛙をつぶすようにして腕を押さえると、マウントを取った。そのまま、両拳で顔面を殴打した。

 

 右。左。右。

 

 鼻骨と頬骨が折れる感触とともに、ホアンの顔がひしゃげていく。

 

「どうした、これで満足か、こんなもんで」

 

「うるさい!」

 

 叫んだアンヘルの顔に赤い唾が吹きつけられた。堪らずに目を瞑る。その隙に、ホアンが落ちていた枝で脹脛を突き刺した。

 

 痛みに悲鳴が溢れる。続く右拳の衝撃に堪えきれず、体のバランスを崩して後ろに転がった。

 

 傷から噴き出す血が、理性を灼く。痛みと怒りが思考を崩落させた。

 

 息を吐く暇すらない激闘である。心臓から全身に送られた血液が沸騰して、全身をくまなく覆っているようだった。早鐘を打っている。体は、胸部を大きく膨らまして息を荒くしている。

 

 身体を止めると、まるで全身が泥で塗り固められたように重い。重りを背負い、水の中をゆくように、逝かれている。視界は重度の酩酊状態と同じように歪み、壊れたブラウン管テレビのように映像不良を起こして左右にブレていた。

 

「お、おまえ、なんかに、俺の苦しみが分かってたまるものか」

 

「だれが、きみの気持ちなんか、知りたいもんか! 此処で、くたばるんだ!」

 

「それは、これを受けきってから言え!」

 

 ホアンが剣をゆったりした動作で拾う。

 

 そして、両の手で剣を高々と構えた。

 

 それはホアンの必殺剣。未だ打ち破ったことのない最強の必殺剣。其れが今、放たれんとしていた。

 

 だが、敢えて撃たせる。

 

 正面から目の前の男の拠り所を粉々に粉砕するのだ。それから、骸を打ち捨てる。それこそ奴にふさわしい最後だ。

 

 眼前のホアン。振りかぶった剣を細動させ、一気に斬撃を繰り出す。斬撃が寄り集まって水となり、津波となって押し寄せた

 

「奥義、流水波濤剣!!」

 

 煌々と輝く刃が血に混じって尾を引いた。流水の如く、滑らかに繰り出された斬撃が面となり、塊となって大気を割る。

 

 一。

 二。

 三。

 

 三つの流れる流水が群れとなって飛翔する。迎え撃つようにして剣を振るった。

 

「はぁあああああああ!!」

 

 アンヘルは激しく咆哮しながら襲いかかる斬撃に剣を合わせた。

 

 握り締めた剣の刀身が鈍く輝き波濤となって押し寄せる衝撃を粉砕する。

 

 ひとつ。天から流れるような斬撃を斜めから外らせるようにして打ち鳴らす。

 

 ふたつ。流れのまま弧を描いて振り上げられた剣を、打ち下ろしで弾く。

 

 みっつ。水平に振られた斬撃を弾く。

 

 逸らし損ねた衝撃が刃となって全身を切り刻む。血潮が舞い上がり、霧となって立ち篭める。

 

 だが、打ち勝った。切り抜けたのだ。必殺の技を。致死の斬撃を。

 

「なんと」

 

 信じられないという表情で、眼前の男が呟いた。

 

 愉快だった。驚愕に歪む、眼前の男の表情がひたすらに愉快だった。

 

 叶わぬ存在だった存在が膝下まで落ちてきたような、そんな感慨を受けた。愉悦に頬が緩んだ。

 

 ――とどめだ。

 

 剣を持ち、歩みを進めようとした。違和感はその瞬間に起きた。

 

 左足が動かない。蜘蛛の巣に絡めとられたように固着していた。足を見る。赤い血が溢れている。パックリと拗ねが割れて、骨手前まで断ち切られていた。

 

 致死に至る傷ではない。だが、膝の力がカクンと抜けた。ホアンの必殺剣は破れていない。死の刃となって突き刺さっていたのだ。

 

 ゆっくりとホアンが剣を構えた。

 

「俺の勝ちだな」

 

 理由は簡単だった。

 

 アンヘルの剣は中程で分かたれていた。激戦に剣は耐えきれなかったのだ。

 

 ホアンの壮絶な必殺剣の前には剣を庇う余裕などあるわけがなかった。剛腕にして華麗な剣戟には全身全霊を持って挑まねばならなかった。

 

 その結果は砕けた剣。

 

 粉々になって、かけらとなり、砕け散ったホアンからもらったつるぎ。それが柄だけになって手に残っていた。

 

 絶無の世界。そこで繰り広げられた死闘は、ホアンに軍配が上がってしまった。

 

「くっそおおおおおお」

 

 力の入らぬ左足を引きずりながら、拳だけで躍りかかる。が、得物持たざるものに勝ち目などない。

 

 剣道三倍段とはよくいったものだ。徒手空拳の経験はほとんどないアンヘルに勝ち目などあるわけがなかった。

 

 哀れみの目でホアンが剣を振るう。剣の峰で打たれ、地面を転がった。天地が逆転し、何がなんだか分からなくなる。痛苦は極限に達していた。

 

 召喚と叫んだ。だが、声が出なかった。召喚術も無制限じゃない。体力が必要だった。転がったまま視界が滲んで、違う世界に送り込んできた。

 

 マカレナは、彼女は優しかった。

 

 誰よりも純朴だった。

 

 みんなが好きだった。

 

 だから、彼女を貶めた人間に報いを受けさせたかった。

 

 だが、気づけば、自身は地面に、友達だったはずの奴に転がされていた。

 

「なんで、なんでなの……」

 

 涙がこぼれ落ちた。一度落ちると、滂沱(ぼうだ)の如く流れ出した。

 

 なぜ。なぜなのか。

 

 ぼくは、ぼくたちは、ただ、ふつうに毎日を送りたかっただけなんだ。

 

 べつに特別なことなんか望んでない。ただ、毎日、平穏に、ふつうに、過ごしたいだけなんだ。

 

 美味しいものを食べたり、おもしろいものを見に行ったり、ちょっとばかり大変な仕事をしたり、恋や友情に悩んだり。

 

 日本のみんなが送っている、なにもかわらない日常をもう一度やり直したいだけなんだ。

 

 ぼくが送るはずだった、高校生活と同じ、たわいない日常を少しばかりやり直したいだけなんだ。

 

 望んだことは特別じゃない。誰だって享受しているじゃないか。

 

 くだらない話をして、くだらない娯楽にふけって、くだらない仕事に打ち込んで。毒にも、薬にもならない人生をみんな送っているじゃないか。

 

 幸せの総量は決まっているだって。そんなの誰が決めたんだ。

 

 日本人は世界中の貧しい人から搾取して暮らしているだって。マカレナが金持ちの商家に生まれたのは罪なのか。

 

 幸せを求めることの何が悪い。子供が生まれた環境を利用してなにが悪い。

 

 自分の生まれだって才能だ。人は平等じゃないなら、すこしくらい生まれに不平等があっていいじゃないか。

 

 あんな子供に、年端もいかぬ少女に責任などあるはずがない。彼女の幸せな幼少期の埋め合わせが、あの無残な最後なのか。そんなはずはない。犯罪者の子供が犯罪者なのか。親や環境の過失が、子供に及ぶはずがないだろう。

 

 ばかにするなよ。

 

 重力なんてものは誰が作った。

 

 ゼウスかオーディンか、ヤハウェかアトゥムかアイテールか天照か。誰でもいい。どうせ重力なんて天に向かって唾を吐きつつけた奴に自然と落ちるよう、神が定めただけなんだろ。

 

 くだらない。心底、くだらない。

 

 目の前のホアンも、マカレナをなぶった奴らも、ホセやナタリアを傷つつけた奴も。イゴルもリコリスもすべてがくだらない。

 

 ぼくのせいか。彼らの不幸はぼくのせいか。そんなわけない。そんなはずあってたまるものか。

 

 誰が悪いかだって。そんなの決まってる。みんな、みんな、悪行をなした奴が悪いに決まってる。そして、そんな悪を許容する社会や神が悪いに決まってる。

 

 なにもかも気に入らない。

 

 眼前のホアンも、ぼくを責めるアリベールも、彼女の父親も。傲然と偉ぶっているルトリシアも、能無しのエルンストも、ぼくを手駒のように扱った祖父も。ナセもアンヘリノも誰も彼も。

 

 全部が全部気に入らないんだ。

 

 立て、立つんだ。

 

 足が無くなって腐敗しようとも、血が吹き出ようとも、激痛に苛まれようとも。なせないものをなし通し、偉業を打ち立てろ。それが、勇者で英雄って奴だろう。

 

 殺戮人形も悪魔も龍も、この手で打ち倒してきたじゃないか。召喚術と剣術で乗り切ってきたじゃないか。すべてを打ち払ってきたじゃないか。

 

 やることは単純だ。

 

 立って、すべての敵を薙ぎはらえ。

 

 身体中に残るすべての筋肉に力を注ぎ込むのだ。

 

 根元からすべてを振り絞るのだ。相手を打ち倒すまで、戦い続けるんだ。

 

 ――異世界の英雄の力を見せてやる。そう息巻いた。

 

 だが、身体は一向に動かない。

 

 奇跡は起きない。なぜなら、アンヘルは勇者でも、英雄でもない。

 

 凡庸な人にすぎないのだ。

 

 現実は、無情だ。

 

「もう、止めろ。俺に、とどめをささせるな」

 

 ホアンの剣先が閃いた。

 

 膝立ちのまま、喉元に剣を突きつけられている。

 

 勝った者が強い? 努力した者が勝つ? そんなわけないだろ。強く、準備を怠らない者が勝利するのだ。奇跡など期待するな。あるのは、実力だけだ。

 

 善意、倫理、そんなもの勝負の前ではくそくらえだ。現実など、こんなものだ。

 

 マカレナを嬲った奴に剣を突きつけられ、哀れみの目を向けられる。こんな奴に叶わず、地面に転がされている。

 

 正義が勝つだって。なら勝たせろ。いますぐ、ここで。

 

 できるのは涙を溢すことくらいだ。声を上げれば、すこしでも動けば、切っ先が喉を貫くだろう。

 

 くたばれ、くたばれ、くたばれ。今見えるすべても、過去の記憶も、すべて灰塵に帰せ。なくなってしまえ。

 

 もういいよ。頑張ったねと誰か言ってくれ。救いの言葉を、誰か掛けてくれ。

 

 今すぐ、死にたいんだ。殺してくれ。死なせてくれ。一瞬の救いを、ぼくにくれ。

 

 母さん。父さん。マカレナ。もう一度、会いたいよ。

 

 ぼくに、もう一度だけ笑いかけてくれ。もういちどだけでいいから、はなしかけてほしいんだ。

 

 おねがいだよ。かみさま。おねがいします。

 

 ぼくをたすけて。

 

 

 ――まかれなを、たすけて。

 

 

 



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第十五話:豹の斑紋

 婚姻を申し込んでから、ララノアは人が変わったように明るくなった。

 引っ込み思案な性格に変わりはなかったが、ずっと俯いて粛々と従う奴隷のような立ち振る舞いがなくなり、燦燦とほほ笑むようになった。

 また、彼女の意外に頑固な面を知った。取り立てて意見を述べるわけではないが、約束や決まりごとは必ず守らせる頑なさがある。また、記念日にも煩い。ダビドがそれを破れば、優しい微笑みが悲しみに染まってしまった。

 

 互いにいい面ばかりの恋人の関係とは違って対立することも増えたが、それは誇らしいことに思えた。

 

 彼女の行動はそれからも一切変わりなかった。彼女は取り立てて家を空けることもなく、半を押したような決まりきった生活を送っていた。

 早朝、暗いうちから炊事に精を出し、昼は実家に通っては母と常に過ごしている。そして、夕方ダビドが仕事を終える頃には食事を用意しているという、理想の嫁の姿を体現していた。

 

 仕事、私事。人間万事塞翁が馬とはこのことである。

 薔薇色の未来を描くダビドは、狭い借家住まいを止め、新居に越そうと不動産に来ていた。

 

「どうですか。ここなら頭金の三百があれば、すぐに入居できますよ」

 

 バイル不動産の従業員が部屋を案内する。職場の集積所に程近い立地、商業区や実家にもほど近く、それでいて、経済的に払えないほどではない。

 庭には、小さな三畳分ほどの花壇が付随している点も気に入った。その分、家が多少手狭になるとはいえ、ララノアの出身を考えれば、造園は気散じになるだろう。

 

 大都市オスゼリアスの地価を考えれば、有料物件にあたる。

 尽日の見学の中でもっとも琴線に響いた物件だった。

 

「そうだな、ここにするよ」

 

 ダビドは即決して書類にサインする。そして、頭金に相当する小切手を切ると、従業員の礼を尻目に家を目指した。

 

 ――はやく、ララノアに知らせないとッ。

 

 喜び勇んで、足に羽が生えたようだった。雑踏を駆け抜けながら、一直線に家を目指す。ララノアが待つ、愛の巣に。

 

 ゼーハーと息を切らしてたどり着く。はぁはぁと息を整えて、扉を開こうとした。

 

 帰ったぞーという掛け声は封じられた。常日頃漂う夕餉の香しい匂いがない。規則正しい家内の見本たる彼女にはあり得ない事態だった。

 

 扉の奥は、人のいる気配もなく、シンとしている。不吉な予感を覚えつつ、ダビドはゆっくりと扉を開いた。

 

「お、おーい、ララノア? いるかー?」

 

 だが、その言葉はしだいに尻すぼみとなった。

 家の中はめちゃくちゃに荒らされていた。

 

 彼女が育てている植木鉢は引き倒され、椅子や家具は倒れている。床板には、血の滴が連なっていた。

 床には複数の足跡がある。誰かが侵入してきた証拠だった。

 

 ダビドは顔から血の気が引いた。

 

「ララノアッ! おい、居るんだろ! 返事してくれッ!」

 

 家中を駆け回ってタンスや棚の中を覗く。大声で叫びながら、ララノアを探し回った。

 

 だが、居なかった。

 ダビドが台所に帰ってくると、そこには血のついた包丁があった。彼女がいつも使っている、道具だ。

 

 奴隷商人、プロビーヌ商会の仕業。もしや、復讐なのか。

 ダビドは手元にあった棒を掴み取った。

 

 ――ララノアを、あの笑顔を、俺は守るって誓ったんだ。

 

 ダビドは顔を上げた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 いくつかの窓から差し込む陽射しが、四角く、斜めにさしこんでくる。その陽射しが、陰になっている室内に入りこみ、あちこちに反射することで翳りを照らしていた。

 その光が逆光となり、照らしてしまうせいで世界は見渡せない。それどころか、猛烈な光がなにか大事なモノを覆い隠してしまうような、暗闇すら塗りつぶしてしまう役目しか果たしていなかった。

 

 がりがりがり、と机を削る音が響いた。

 荒々しく使われた万年筆の先が歪む。

 

「クソっ」

 

 手が動いては止まるを繰り返している。

 書き損じた紙片を破り捨て、屑籠へと放る。屑籠の辺りには幾つも屑紙が落ちていた。

 

 ここ数日、ずっとこの調子だった。

 

 ホアンは、空の寝台を見つめる。幾度となく繰り返した動作ではあるが、どこか厭うような感覚すらあった。

 

 取返しのつかない酷いことになってしまった、と胃が絞られるような痛みを感じる。罪悪感と虚しさが交錯して、心はまるで斑だった。苦い灰汁のようなものが湧き出てきている。

 

 繰り返し、ここずっと考えている。

 戻せるなら、やり直せるなら。なぜ自分があのような、獣そのものの行為に逸ってしまったのか、自分に問いただしたかった。

 

 友を裏切り、その友を慕う女を襲い、そして友を殺そうとした。

 死すら生温い、糞野郎だ。

 

 何もかも手につかなくなってしまった自分を嘲りながら、万年筆を投げ捨て、そして背もたれに身体を預ける。試験のために大枚をはたいて購入したモノだというのに、もうペン先はへしゃげて曲がっていた。

 

 ――結局はあの母と、父を裏切った母となにもかわらないということなのだろうな。いや、それ以下か。

 

 あれ程嫌った母。父が死んですぐ再婚した、毒蜘蛛妻と呼ばれた母。

 尊敬する父を裏切った母は、憎しみの象徴だった。母との離別のため決行した士官学校上級士官養成課程の受験である。それなのに、結局、憎む存在と同じ行為に及んだ。

 

 壊れていく二人の関係を見て、愉悦を感じたのか。

 当初は清々しい気分だった。何もかもが晴れた気分だった。だが、残ったのは後悔だけであった。

 

 ホアンはずっと怯えていた。失うことが、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。だが、最悪の形で終息した。

 

 カラの寝台を眺める。すでに荷物はない。

 荷物は数日前に知らない男が回収へ来た。彼の腕には雑務ギルドの登録証があった。アンヘルが雇った雑用係だった。

 

 天を仰いだ。そこにあるのは、いつもの染みの滲んだ天井があるばかりである。

 

 ――俺はどうして勉強なんかやっているんだろう。どうせ、もう捕まって終わりなんだしなぁ……。

 

 惜しい、という気持ちがないわけではない。

 しかし、当然だろうという心情が心の中を占めていた。

 

 寝食を忘れて、勉学に励んだ日々。私塾で開催されている模擬試験の結果に一喜一憂する日々。リフレッシュに庭で打ち合いに励む日々。その隣にはいつもアンヘルがいた。自分ではない誰かが、常に助けてくれていたのだ。

 

 ――それもすべて、俺のせいで終わりなのか……。

 

 ふさわしい最後だと、そう思った。

 諦めが頭を支配し、身体からやる気がすべて抜け落ちていた。まるで干からびたミイラのように枯れ果てていた。

 

 身体をだらんと脱力させ、腕を投げ出す。映る景色は、滲んだ天井と壁ばかりだった。

 

 コンコンコン。

 誰かが扉を小さく叩く音が響く。控えめな弱々しい音であった。

 

 ――これで、終わりってことなのか……。

 

 小さな笑いが漏れる。諦めたような、寂しいような、それでいて納得の笑みだった。

 

 立ち上がり、歩き出す。死刑囚が昇る最後のきざはしのように、厳粛さをもって扉を開いた。

 

「少しいいかしら?」

 

 開いた扉の奥にいたのは、車椅子に座る黒髪の麗しい少女。マカレナの妹であるアリベールであった。

 

 

 

 §

 

 

 

「あー、犯人のひとりが見つかったって?」

 

 突如現れたアリベールの話は、ホアンを責めたてるものではなかった。

 アリベールとその車椅子を押す護衛はのろのろと街路を横切る。ホアンはその速度に合わせながら歩いた。

 

 街行く人々は冷気に身を縮めながら、足早に通り過ぎていく。世界は焦燥感に溢れていた。

 

「ええ、そうよ。あなたのお友達が見つけたの」

 

 アリベールの顔にはなんら含むものがなかった。明らかにホアンの悪行を知らない様子である。これで演技ならオスカー賞女優も真っ青であった。

 

 安堵したかと言わねば嘘になる。が、不可解さも残った。

 ホアンは、次の日には牢屋に繋がれ、惨めな死を迎えると考えていたのだ。だが、すべてを受け入れ、ただ宿舎でジッとしていたのだ。なぜ、捕まっていないのか。それは偏にアンヘルがホアンのことを話していないからに他ならない。しかし、その理由に見当がつかないのも事実だった。

 

「犯人はウチが雇っている庭師の少年よ。調査をする中で、彼が見つけたのよ」

 

 アリベールが吐き捨てるように告げた。その顔には、嫌悪と苛立ちが激しく浮かんでいた。

 

「まさか、ウチの家にそんな奴がいるだなんて。許せないわ」

「……どうやって見つけたんだ?」

「あなたのお友達の案よ。最初は私も反対したのだけど、姉の行動範囲内での犯行だったわけだしね。彼の言葉『人は誰でも裏切るから』だったかしら。本当にその通りなのね」

 

 ――人は誰でも裏切るから。

 

 その言葉を聞いた瞬間、ホアンの心臓は痛いほど締め付けられた。それは明らかに、糾弾の言葉だった。

 許すはずない。それを証明する刃が、鈍色に輝いて、心臓を真っ二つに切り裂いていた。

 

「……そ、それで、今日はどういう経緯で俺は呼ばれたんだ」

「…………捕まえたそいつ。今、家が所有する商業区外れの倉庫に押し込んでいるのだけど、どうもなにか隠している様子なの。当たり前だけど、あんな使い如きが姉さんを誘拐するなんて、そんな力があるわけないから」

 

 麗しい唇が、怒りの言葉をまき散らしている。唇が形を変えるたびに、炎が吐き出されているかのようだった。

 

「あなたは、士官学校の上級課程を志望しているのでしょう。関係者ということもあるし、尋問を手伝ってほしいの。こっちのイマノルはあまりそういう経験がないわ。それに、なんだかあなたのお友達って頼りなさそうじゃない?」

 

 アリベールの車椅子を押す護衛の青年が小さく会釈をする。剣には優れてそうな風貌だが、それ以外には疎そうな、剣術バカの雰囲気を醸し出していた。

 

「だが、俺には尋問の経験なんて――」

 

 とっさに否定の言葉がでた。これから赴く先にはアンヘルが居るのである。当然ながら、合わせる顔があろう筈もない。

 

 しかし、ほんの少しだけ、淡い期待を覚えないといえば嘘になる。もしかしたら仲直りできるかもしれない。そんな淡い希望を。

 

 ホアンのアンヘルの死闘。

 真剣を用いた殺るか殺やられるか、零と壱の世界で争った二人だが、両者とも生存したのは偶然ではない。

 

 勝負の、しかも真剣のやり取りで感情を爆発させれば、迎える結末は死一つである。だが、アンヘルとホアンという両者の戦いには、極僅かといえるほどだが、暗黙の了解の介在する余地があった。相手を殺さない、という一点においてのみ。

 

 両者は、得物や腕など、致死に至らぬ箇所ばかりを狙っていた。

 それは、実力の拮抗する者同士でしか起こり得ない、武芸者同士の武器を使った言語力に違いなかった。

 

 ホアンは、戦いを思い返すたび、その事実に驚愕するばかりであった。

 

 等しい実力を持つはじめて友人を見つけた。

 傲岸不遜な思考だが、幼き頃の華々しい経歴を見れば、さもありなんといったところだった。

 

 ここで、ホアンの幼少期について語ろう。

 

 軍の叩き上げ、いわゆる下士官の身であったホアンの父だが、幼き頃、友に優れた剣術家の出自を持つ男がいた。まったくの下民出ではあったが、先鋭的な武芸を遊びながらにして習得した彼は、生まれついての膂力もあり、軍内で多大な戦功を上げた。

 

 ホアンの父は、幼少時武芸に励む事の重要性を誰よりも理解していた。

 子にその技術を余すところなく伝えたのは、帝国文化である『父祖の遺風』として当然の運びだった。

 

 英才教育を受けたホアンには拮抗する相手などいようはずもない。齢十にして、相手になるのは師範のみであった。

 

 勿論、この大都市には敵わぬ神童が居るだろう。国全体や大陸全土に視点を広げれば、腐るほど現れるだろう。しかし、生まれ育ったセグーラの街では、ホアンの実力は擢んでていた。

 まったくの負け知らず、というわけにはいかない。師範には未だ劣り、対外試合で苦杯を舐めさせられたことはある。勝負の世界で、常に勝ち続けることは不可能だ。だが、同年代に限れば、実力で敵うものなし、とホアンは考えていた。

 

 その中で、アンヘルは違った。彼は、一年に満たぬ短い経験値しか持たぬ身でありながら、己の拠り所としている奥義を破ったのである。

 

 実力はほぼ等しい領域にある。勝負を分けたのは、奥義の有無でも、優れた武器の有無でもなく、単純な相性である。

 

 方や、流れるような豪剣と連打が持ち味の東方一刀流を学び、常に人を想定した剣術のホアン。

 他方、同じ流派に所属しているとはいえ、あらゆる手を使い尋常ならざるモンスターとの綱渡りを繰り広げるアンヘル。

 単純な相性が、二人の勝敗を分けたのだ。

 

 諦めきれない、という気持ちがホアンにはあった。

 だが、ひたすらに求めてきた、生涯はじめての対等の友人かもしれないのだ。

 やり直したい。心からの願いであった。

 

 そんな葛藤をかき消すようにして、アリベールが告げた。

 

「そんなことはわかっているわ。あなたが試験前で大変だということもね」

 

 からからと車椅子の車輪の廻る音が響いている。

 

「あなたには助言を貰えるだけでいいの。倉庫にはあなたのお友達と、私の護衛一人しかいない。とくに、あなたのお友達なんて最悪よ。この大事なときに大怪我して、そのうえ武器まで失って。そして、その代金を私に請求したのよ。信じられるッ!? ……動かせる人間がいないのよ。だから、色々見て、違和感があれば指摘してほしいの」

 

 彼女の顔には怒りと侮蔑が滲んでいた。車椅子の取っ手が握られた手によって軋んでいる。怒りが放出されていた。

 

 三人はそのまま無言で路地を行き、ひとつの倉庫に辿り着いた。

 路地と路地の間をぬっていくことでしか入れない、寂れた小さな煉瓦製の小屋が中にあった。

 

 アリベールに促されるまま、扉を開ける。目に飛びこんできたのは、開けた埃っぽい空間、そして、椅子に縄でぐるぐる巻きに縛られた少年、無言で少年を睨みつけている若い護衛。最後に見えたのは、目を瞑って、腕を組みながら背中を壁に預けているアンヘルの姿だった。

 

 腰には見たこともない大仰な柄の剣が差してある。静かに、佇んでいた。

 

 ホアンは、今すぐ土下座したいと、歩きながらずっと考えていた。腕の二本、三本くらい、好きなだけ斬り落としてもいい。だから、許しを乞いたかった。本当に大切なものがなんだったのか、ようやくわかったのだから。

 

 だが、そんな気持ちは悠然と佇む姿を見て、きれいさっぱり消し飛んでいた。なぜ、と聞かれればその瞬間は分からなかった。ただ、前までとは違う、なにか違う人に変わってしまったようなそんな違和感だけが小さく残った。

 

「どうしたの、早く入って」

 

 後ろからアリベールが催促の言葉を投げかける。その声に押されて、ささっと部屋の中に入った。

 遅れてアリベールが入室する。最後に入ったイマノルが扉を閉めながら、アンヘルに向かって「何もなかったか」と小さく尋ねていた。

 

 ――あのふたり、知り合いなのか?

 

 アンヘルは小さく「何もないよ」と呟いただけだった。イマノルはそのまま、取り囲むようにして縛られた少年の後ろ側にまわる。

 

 五望星の頂点を描くようにして五人は少年を取り囲んだ。そして、少年の正面に位置する少女――アリベールが怒りの形相のまま、少年を睨みつけていた。

 

「それでは始めるけど、まず、聞かせて。あなたは、姉さんに暴行を働いたの?」

 

 静かな、落ち着いた声だった。しかし、それが何よりも恐ろしい響きとなっていた。どれほどの怒りが木霊しているのか、ホアンには想像もつかなかった。

 

「そ、そんなわけ――」

「良い、よく聞きなさい。あなたの犯行だってことは、もうすでに魔導具が証明しているの。あなたの返事はハイだけよ。もし分からないのなら、指を一本ずつ、この場で斬り落とすわよ」

 

 アリベールが短剣を抜く。血も見たことがない、か弱い少女に指を切り落とすなどできるはずがない。誰もが分かりそうな事だが、短剣を胸元で輝かせる少女の形相は、簡単に否定できるようなものではなかった。

 

「いい、これで最後よ。あなたは、姉さんを、暴行したの?」

「……あ、ああ、そう、そうだ。そうだよっ」

 

 青い顔で少年がぶんぶん首を振って頷いた。

 

 その言葉を聞いて、イマノルと呼ばれた男が激昂した。

 

「貴様、よくもマカレナお嬢様を――!!」

 

 腰の剣を引き抜き、天高く構えた。

 

「待ちなさいッ! まだ、聞きたいことがあるのよ!!」

「だけど、お嬢様をッ!!」

 

 イマノルは、もう一人の護衛によって羽交い締めにされた。怒りの吐息をフーフーと吐きながら、ゆっくりと引き下がった。

 

 アリベールは、自身の怒りを鎮めるようにして、握り拳を車椅子の取手に叩きつけた。

 

「あなたの、共犯はだれなの? 庭師風情がここまで大仰な事を為せるだなんて、これっぽっちも思わないわ」

「へっ、そんなの、いるわけないだろ」

「――ッ。なら、なんのためにやったっていうのよッ!」

 

 アリベールが激昂する。手の短剣が鈍く輝いていた。

 

「そんなの、決まってるッ! 忘れたとは言わさねぇ、ケールのことだ。あの女は、俺のケールが嬲られているっていうのに、ただ黙ってみていやがった。これが、許せるっていうのかッ!!」

 

 少年も叫ぶようにして、言い返した。

 これには、アリベールたちも少なからず驚いたようだった。

 

「何のことだ?」

 

 イマノルと呼ばれる護衛に小さな声で尋ねた。

 

「……ケールってのは、マカレナお嬢様付きの使用人で、昔、乱暴されて自殺した人だ。付き合っているという噂があったような覚えはあるが、コイツだったのか」

 

 イマノルは怒りを宿しながらも、少しばかり同情の哀れみを瞳に宿していた。それは、少なからず、他の人間にも言えた。

 

 同情の余地がないとは言えない。恋人を奪われたのだ。事情を詳しく知らないとはいえ、心底恨める気分ではなかった。

 

 それでも、アリベールは気丈に反駁した。

 

「だからといって、あなたは姉さんをあれほど苦しめたのよ。ずっと、仕えていた家の人間に手を出すなんて、何様のつもりよッ!」

「はっ、お前らはいつもそうだ。金を出しているからって、何時も偉ぶって俺たちを見下しやがる。俺たち金のねぇ奴らは、女が殺されたからって黙って見てろっていうのかッ!」

「それと、これとは、話が全然ちがうじゃないッ!!」

 

 アリベールは激昂しきっている。もう少しで短剣を振り回して、躍りかかりそうな雰囲気すらある。

 ホアンは焦りながら、車椅子の取手を持ち、後ろに引き離した。

 

「なによッ! 止めなさい!!」

「少し落ち着けッ。このままじゃ殺してしまうぞ」

「だからなんだっていうのよッ! こんな奴、こんなやつ、死んでしまえばいいのよッ!」

 

 アリベールの目尻には大粒の涙がある。髪を振り乱して、泣くように激昂していた。

 

 いつか見た冷淡そのものだったアリベールの姿はまったくなかった。姉を殺されたことをこれ程までかと恨む、ただの妹の姿がそこにあった。

 

 ホアンは完全にアリベールを引き離して、壁まで後退させた。

 

 怒りの残り香のようなものが部屋を支配していた。沈黙が鼓膜を破り捨てるかのように痛い。

 

 そんな沈黙を切り裂いたのは一人の男の声だった。ずっと沈黙を保っていアンヘルが顔を上げた。

 

「それは、嘘だね」

 

 全員が疑問符を一瞬浮かべた。

 問われた少年が勢いよく口吻を尖らせる。

 

「なにが嘘なんだッ! 言ってみやがれッ!」

 

 なにが起きても、なにが語られても奇妙なほど沈黙を保っていたアンヘルが顔を上げてゆっくりと歩み始めた。

 

 一歩、二歩と近づくアンヘルに、縛られた少年は戸惑いを露わにして瞳を揺らしていた。

 

「第一に君は恋人じゃなかった。彼女の話では、その使用人は結婚相手がいるとのことだった。それに――」

 

 アンヘルがにじり寄る。少年は怯えたように顔をのけぞっていた。

 

「どうして、君の恋人を乱暴したプロビーヌ商会の傭兵連中と組んだの? 一応、君の思い人を襲った連中だろう?」

 

 その言葉に反応したのは、縛られた少年ではなく、アリベールだった。

 

「あなた、そうなのッ!! あの、プロビーヌの害獣に情報を売り渡したのッ!」

 

 今まで、少しばかり同情の雰囲気があった部屋の空気が一変していた。事情のわからぬホアン以外の護衛やアリベールは、少年を激情に染まった目で見つめていた。

 激情渦巻く中心の少年は額から汗を大量に流していた。

 

「だから何だってんだよ。それによ、どこにそんな根拠がっ――」

「根拠なんてなくていい」

 

 アンヘルだけが、冷静な声で切り捨てる。

 

「こんな大掛かりなことができるのは、組織だった集団だけだ。けれど、良家の子女を狙う奴はいない。個人的恨みを持つ、あの商会以外には」

 

 だからこそ、とアンヘルが続ける。

 

「君がなにをしたかなんて、どうでもいいよ。ただ、聞きたいだけなんだ。これから、プロビーヌ商会がなにをするのか、ただ――」

「待ちなさいっ!」

 

 続ける言葉を、アリベールが激しい言葉で遮った。

 

「ここからは、私が聞くわ。これは、家と家の問題なの。だから、あなたは口出ししないで」

 

 その言葉を受けて、アンヘルは意外にも簡単に引き下がった。情報を引き出した張本人だというのにもかかわらず、奇妙な物分かりの良さだった。

 

 アリベールは縛られている少年に向き直った。

 

「聞かせなさい。プロビーヌの目的は? あなた、どんな取引をしたの?」

「い、言えるかよッ! 俺が情報を売ったとなりゃ、殺されちまうッ!」

「よく考えなさい。今、言わなければ、この場で殺されるわよ」

「だ、だからってあいつらに殺されるよりはマシだ。あんな、あんな奴らにやられるぐらいなら、自分から死んでやるッ!」

 

 心底怯えたように少年が言った。アリベールが短剣で脅そうとするが、一向に靡かない。さもありなん。マカレナにあれほどの痛苦を味合わせた相手である。短剣を握った程度の少女風情では、比べようがなかった。

 

「なら、君が街を出る資金や次の街でやり直す資金を提供するよ」

 

 八方塞がりの状況を断ち切ったのは、またしてもアンヘルだった。

 

「黙っていても、今度は捕まるだけだ。なら、逃げられるように資金があれば大丈夫でしょ? それなら――」

「勝手に決めないで、こんな奴を野放しにするっていうのッ!」

 

 アリベールが激昂する。しかし、アンヘルは取り合わない。

 

「けど、ここにいる奴らが黙っちゃいない――」

「もちろん、そうだ。だから、しっかり思い出して。重要な情報だったら、ぼくが必ず逃げられるように手配するから」

 

 アンヘルがにっこり微笑んだ。君の味方だよと副音声が聞こえるほど、優しい笑みに見えた。

 

 提案された少年は、長い間悩んでいた。アリベールやイマノルはその間もずっと抗議していたが、なにが正しいのかは分かっているのだろう。最終的には、反論しなくなった。

 

 悩みに悩んだ少年は、絞り出すようにして言った。

 

「どれくらい、もらえるんだ?」

 

 なんと浅ましい姿勢だろうか。しかし、これが、これこそが、ホアンのやった行為そのものなのである。

 

 そこにいるアンヘル以外が、人を殺せそうな視線で睨んでいた。

 

「三百」

 

 アンヘルが小さく告げた。後ろでアリベールが渋々頷いている。

 

「も、もう少し上げてくれないか?」

「……なら、五百だ。これ以上は無理だよ」

 

 勝手に値段を引き上げたアンヘルを睨みながらも、アリベールは渋々頷いていた。姉を殺した犯人に金を渡す。どれほどの苦痛を伴うのだろう。想像すら、したくなかった。

 

「あ、ああ、分かった」

「なら、話して」

 

 アンヘルが静かに続きを促す。

 

「あ、ああ、その、あんまり情報を知っているってわけじゃないんだけど、ただ、次のターゲットは逃げた商品を回収するとかって言ってたな」

「そのターゲットとは?」

「ええっと、たしか、主任監督官のダビデだかダビドだかって奴の女房らしいが……。これ以上はわからねぇ、なあ、ちゃんと喋っただろ。なあ、だから許してくれよ」

 

 少年がみっともなく懇願する。

 

「そんなことで助けるとでも思っているのッ! 知っているんでしょうッ! さもないと――」

 

 アリベールが短剣を掲げる。少年は怯えたように慄いていた。

 

「ま、待ってくれよッ! ちゃんと、ちゃんと言ったさ」

 

 震える声で弁明する。此処にいる誰もが納得していない、そんな空気だった。

 そんな中、アンヘルだけが反対の言葉を述べた。

 

「信じるよ」

 

 小さく言った。

 

「本当か。あ、ああ、助かったよ。本当、信じてくれて」

「ふざけないでッ! あなた、さっきから何様のつもりよッ!」

 

 アリベールの言葉にも、アンヘルは取り合わない。

 すべての言葉を無視して、アンヘルがゆっくりと少年に近づいていく。その顔には、柔和な笑みを浮かべていた。

 

「た、助かったよ、ありがげぇ――」

 

 安堵のため息を漏らしながら、感謝の言葉を漏らそうとした瞬間だった。

 

 アンヘルは腰の刀剣を目にも止まらぬ速度で抜き放つと、少年の口腔に正面から突き立てた。

 

 感謝を告げようとした少年の口腔、その喉奥を、赤と青の光の迸る刃が貫く。傷口から漏れる血流が、とうとうと刀を伝って刃を切っ先まで朱く染め上げていた。

 

 アンヘルは、物言わぬ死体になり果てた少年を睥睨しながら、切り払うようにして剣を抜きさった。

 

 剣に付着した血潮が周囲に飛散する。少年の遺体は、椅子ごと後方に倒れた。

 

 アリベールは絶句している。アンヘルの凶行を背後から見ていた彼女は、人がたわいも無く死ぬ様子を見て、驚き戸惑っていた。

 

 だが、アンヘルの行為を正面から見ていたイマノルとホアンはまったく別の感情に包まれていた。

 

 豹変。

 豹の毛が気候の変動によって変化を余儀なくされ、斑紋が鮮やかに移り変わったようだった。

 

 当初、この部屋に入った時、別人になったような印象を受けた。面構えには変化なかろうとも、まるで中身をそっくり入れ替えた。そんな印象が。

 

 その、正体に漸く思い至った。

 

 それは、龍だ。

 すべてを焼き尽くし、それでも未だ足りぬと燃え盛る、人のすべてを飲み込む龍の凶相。

 

 横に立つイマノルだけではない。

 ホアンは震えた。心胆から凍え震えた。剣の腕で優っているなど、なんの意味を持たない。

 

 龍に抗うこと敵わず。

 よく知っていたはずの人間は、其処にはもういなかったのだ。

 怪物が、そこに誕生していた。

 

 唯一、その燃える瞳を見なかったアリベールだけが、死体に青い顔をしたままアンヘルに尋ねる。

 

「――どうして、殺してしまったの? なんの、なんの情報もないじゃない。これから、どうするの?」

 

 それは戸惑ったような声だった。

 しかし、アンヘルはにべもない返答だった。

 

「君には関係ない」

 

 双眸の奥は、燃え滾っていた。

 

 

 



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第十六話:隣の地獄を見送って

 ――くそ、くそ、くそッ! なんで、なんで俺はララノアを一人にしたんだ。

 

 疑懼(ぎく)の念が堪えない。

 美しい妻が、奴隷商人などというおぞましい下劣な者どもに捕まれば、どれ程責め苦を負わせられるのか。己の大切な妻を見失ったダビドは、頭がカッカと来ていた。が、手がかりがない。何処に攫われたのやら、完全な行方知れずだ。

 

 ダビドは部屋中をひっくり返して、手がかりになりそうな物を探した。

 

 部屋中はか弱い女性たった一人を拐ったとは思えないほど荒らされている。大規模摘発の報復、そう思い至るのは当然の帰結だった。

 

 だが、なにも見当たらない。仕事道具を持ち帰っていないのだ。価値あるものもない。

 

 ふと、壁に飾られている地図を見る。それは、日夜摘発に向けて準備していた頃に作成した、区画の情報が示された塗り分け地図だ。唯一、記念の品として飾ってあった物である。

 

 だが、先日までとは違う点がある。それは血文字だった。

 

『女房を返して欲しければ、許可印を持ってこい』

 

 血塗られた文字と一緒に、ある区画が朱く塗りつぶされていた。そこは、すでに廃墟と化した場所であった。

 

 奴らは、妻を利用して、便宜を図らせようとしているのだ。

 

 その事実に気がつき、頭が煮えくり返りそうだった。

 心臓は鼓動を早め、巡る血が沸騰していく。

 

 ――俺が、おれが守ってみせる。

 

 ダビドが自身の巨躯を怒らせ、憤怒を浮かべる。

 得物と印鑑を握りしめ、部屋を飛び出した。

 

 

 

 部屋を飛び出して、右手側に曲がろうとした。それを遮ったのは、若い男の声だった。

 

「あの、すみません。貴方がダビドさんで宜しいのでしょうか?」

 

「今、忙しいんだッ――」と怒鳴ろうとして振り向いたが、ぴったりと口が固着した。

 

 声を掛けてきたのは、パッと見何処にでも居そうな若い男だった。

 歳の頃は少年から青年の盛年というところだろうか。揃わない探索者風の格好は賤民のようで、垢ぬけていない容姿と相まって上京者の雰囲気も漂っている。

 容姿はこれまた平凡だ。上中下に分ければ中だが、上下で分ければ下に入るだろう。適当にナイフで切ったと思われる雑で短い茶髪に日で焼けた肌。若者特有のソバカスが頬に浮いていた。童顔と相まって、幼子が好きな女性には顔だけならそこそこ受けそうだが、自身の巨躯より頭一つ分だけ低いという、この齢にしてはそこそこ大きめの体格で、チグハグというか、アンバランスと言った印象を受ける。つまり、強くて男らしい理想男性像からは程遠く、それでいてか弱く美しい帝国風美男子からも程遠い、なんとも不憫な男だった。

 使用人の倅、というのがもっともしっくり来るだろうか。仕事において活躍する人間は、端正な顔つきか、不男であることが多い。ダビドの短い監督者の経験から言えば、死ぬまでうだつの上がらぬヒラ社員のような容貌であった。

 

 だが、ある一点だけ、その一点だけは今までに経験したことのない光を放っていた。

 

 しじま一点に煌々と輝く昏い双眸。

 その奥には今まで見たこともないほど、大きな炎が燃え盛っていた。

 

 ダビドはその視線を受けて、一瞬、自分が何を追っているのか忘れて縫い付けられた。

 

 目の前の男は柔和な笑みを浮かべて問いかけてくる。

 

「職場の方からダビドさんのお宅を伺ったのですが、貴方が血相を変えて出ていこうとしたのが見えたものですから。もう一度お聞きしますが、貴方がダビドさんで宜しいのでしょうか?」

 

 スラスラと落ち着いた声で男は語りかける。だというのに、世界が此処だけ切り取られたかのように、静謐さを保っていた。

 

 いつもは煩い街路の喧騒が嘘のように聞こえない。ピタッと完全に世界が止まっているようだった。

 

 ダビドの額から一筋の冷や汗が流れ落ちた。

 

「ああ、おれが、ダビドだが……。何か用か?」

 

 絞り出して喉を震わせた。

 男が頷き、目蓋を閉じて下唇を一瞬噛んだ。

 

「血相を変えていらっしゃったようですが、何かあったのですか?」

「い、いや、何もないよ。ちょっと忘れ物があっただけさ」

 

 大ごとにすれば、取り返しのつかないことになるだろう。

 

 だが、それよりも、ダビドには目の前の男が信用できなかった。

 どこか、殺伐な、大広間で斬首に処された大犯罪者と酷似した雰囲気を纏っている。目的の為なら手段を選ばない男の眼だ。此れ程の若さで強烈な輝きを放てることに、ダビドは慄然を隠せなかった。

 

 男は小さく横を向き、今飛び出てきた家に視線を向けた。

 この男の目的はわからない。だが、これ以上嗅ぎ回られるわけにもいかなかった。

 

「君は誰なんだ? 目的はなんだ?」

 

 震える身体を押さえつけ、男に毅然と立ち向かう。この状況でも無ければ、言葉も出なかっただろう。

 

 男は一瞬逡巡するような様子を見せた。

 

「…………私は、ホアンというものです。その、貴方の事務所に助けられたので、お礼を一言申し上げようと参りました」

 

 直感で、嘘だなと思った。

 確証はなく、話に矛盾が見つけられるわけでもない。が、態度が真実だとは到底思えなかった。

 

 だが、しかし、取り合っている暇はない。

 この様子から察すれば、喫緊の事情ではないのだろう。ダビドにとって、妻以外のことは細事にすぎた。

 

「ああ、そうか。だが、今は忙しいんだ。また、今度にしてほしい」

 

 ――こんな不気味な男など、いつ迄も相手にしていられない。

 

 男は話を打ち切られると、すぐさま礼をした。

 ほっとしたのが本音である。だが、男が柔和な笑顔で、それでいて悲しそうな瞳で「お手数をお掛けしました」と言ったときの表情が頭から離れなかった。

 

 

 

 §

 

 

 

 集積場第四区画の外れにある大きな倉庫。大きな灯台が夕日の影を引いて、暗い影を落としている。ダビドは先客が開け放った鉄扉を抜けて、広大な倉庫へと進む。

 倉庫内は大規模摘発の名残なのか、大量の貨物箱で埋め尽くされており、乱雑に積まれた荷物が砂上の楼閣のように崩れ落ちそうだった。

 混凝土で敷き詰められた敷地が、薄く積もった塵芥で汚れている。居並ぶ倉庫の窓からは、見捨てられた廃屋が(そび)え立っているのが見えた。未だかつての栄光を取りもどさんと、叶わぬ夢を描く犯罪者の虚栄を写しているのだろうか。

 

 頑丈そうな奥の扉に佇んでいる男を見つけて、ダビドは叫んだ。

 

「おまえ、ララノアは、妻は無事なんだろうなッ!!」

「へへへ、なあ、そんな焦んなって。ほら、アレ持ってきたんだろ?」

 

 男は下卑た顔のまま、尋ねる。声色はどこかニヤついていた。

 ダビドは懐から印鑑を取り出す。

 

「へへ、わかりゃいいのよ。ほら、こっちにあんたの女房はいるぜ」

 

 男は背後の扉を開いた。ダビドは男を突き飛ばして奥に入る。

 

 駆け抜ける。

 埃の舞う通路を抜けて、もう一つの大きな扉に差し掛かった。力のかぎり押す。錆の浮いた扉はギギギと音を立てながら開いた。

 

 ララノアの名を叫ぼうとした瞬間だった。小さな女の声が、ダビドの喉を詰まらせた。

 

 断続的に女の叫び声が響いている。同じペースで、同じ間隔で響いている。張り裂けそうな、千切れそうな、悲痛でくぐもった声だった。

 

 次いで届いたのは、淫靡(いんび)な香りだった。人の根源的なモノを思わせる、生物の臭いだ。それは近寄れば近寄るほど、強く、明確になっていく。

 

 しだいに、ダビドの足が止まる。

 同時に、恐るべき、決して認められない最悪の結果が見え隠れした。

 

「そんなに焦んなって、なぁ」

 

 先ほど突き飛ばした男が、ニヤついた顔のままダビドの肩に手を回す。常なら弾き飛ばす行為も、今は応じることができない。

 男に連れられるまま、ダビドは荷物に遮られているその声の元に辿り着いてしまった。

 

「かはッ――」

 

 奥の、更の奥の布の上、男たちが取り囲む中央でそれは蠢いていた。

 ダビドは、一瞬、それがなんだかわからなかった。

 

 脳が働くことを、その事実を認めること拒絶しているのか。ただ、白い物体が、茶色の物体と絡みあっているとしか、認識できなかったのだ。

 

 それらの物体がリズム良く蠢くと、白い物体からくぐもった悲鳴が漏れた。鳥の絞め殺される声に似ていた。

 ダビドは声に導かれて、その物体に焦点を合わせた。少しずつ、その朧げな輪郭に焦点が合う。

 

 リズムに乗って動くその茶色い物体は、男の尻だ。そして、その左右から、綺麗なしろい足がスラリと伸びている。手は見えない。後ろ手に回されたまま、下敷きになるような格好で戒められているのだ。

 

 認めたくない。だが、嫌が応にも、はっきり見えてしまった。

 

 ――ララノアが、泣いていた。

 

 己の妻は、仰向けにされ、白い足を男の両腕に抱えられ、のしかかられている。その体は、いたぶられた後なのか、赤く滲んで、また度重なる淫靡な行為でピンク色に火照っている。そして、眦から涙をこぼした痕が尾を引いて、化粧の崩れた痕となっていた。

 

 微笑む太陽と冠されたその笑顔は曇り、絶対に避けなければならない運命が、彼女を襲っていた。

 

 その光景を認識した瞬間、心臓が一瞬止まり、頭の中が焼き切れそうなほど燃え盛った。

 

「貴様らぁああああッ!!」

 

 嫌な予感はしていた。

 アルン人の人身売買を企む奴らが、主任監督官の許可如きで済ませるのかと。あの麗しき妻を見て、何もせずにいられるのかと。

 

 だが、蓋をして、楽観視していたのだ。必ず、俺が助けると。そう願っていたのだ。

 

 だが、現実は地獄そのものだった。

 

 ララノアは、もはや性奴隷同然に扱われていた。裸にむかれ、腕を戒められ、口輪がはめられている。ならず者共に攻め抜かれ、がらんどうとなった少女は、虚な目のまま与えられる刺激に声を漏らしていた。

 

 怒りに、怒りに震えた。

 

 ララノアの、金糸を束ねたような美しい髪も、豊満な乳房も、丸く柔らかな臀部も、長くてシミひとつない白い脚も、この目の前の男たちに貪られたのだ。

 

 ララノアが甲高く鳴いた。同時に男が腰を細動(さいどう)させる。吐き出したのだ。汚らわしい欲望を。

 

「ぶっ殺してやるぅううう!!」

 

 ダビドは握っていた棒を掲げて、ララノアを嬲っている男に飛びかかろうとした。だが、それは叶わず、後ろから殴られ、倒れる。背中には先ほどの男が腰を下ろし、体重をかける。ダビドはうめき声を上げながら、男たちを見上げるしかなかった。

 

「ほおう。威勢がいいな」

 

 集団の中でも一際大きい体格で禿頭の大男は、ニヤニヤとダビドを睥睨した。

 

 他の男たちが半裸となって行為に耽る男を囃し立てているにもかかわらず、この男は優雅に酒を飲んでいた。見かけこそ粗野な傭兵そのものだが、丸太のような太い腕には似合わない盃運びといい、動作の節々に只者ではないことを伺わせた。

 泰然自若に盃を傾けながら、目の前の光景を肴に楽しんでいる風な、そこいらの傭兵とは別格の風格を帯びている。女の悲鳴と賊の叫びの坩堝の中で、大男は髭をしごいていた。

 

「貴様ぁあああッ! なにが目的なんだッ! おまえらの望み通り、印鑑は持ってきたぞッ!! 早く、早くララノアを離せッ!」

 

 ダビドは押さえつけられたまま、大男を真っ直ぐに睨みつけた。

 

 だが、顔色一つ変えず、顎で部下に指示した。部下は指示されると、ダビドの手から印鑑を奪いとった。

 

 大男は部下から手渡された印鑑を眺め、手の中で弄ぶ。そして、少しばかり思案し始めた。

 

「何が目的か、か。そんな事を問われたのはおまえがはじめてだ」

「な、なにを」

 

 大男は、戸惑うダビドを放って杯を置くと、腕を組んだ。その声は天から降ってくるような重圧を伴っていた。

 

「愉快、それにつきる」

「そん、なこと」

「剣を振るってなにもできぬ者どもを斬り殺すのが楽しい。妻や子供を奪われ、屈辱に塗れ、それでも立ち向かえぬ愚か者を見下すのが楽しい。時には復讐に燃え、立ち向かってくる者たちを、此れでもかと嬲り、そして、またそいつの大切なモノを奪ってやるのが楽しい。そして、そんな奴らが築き上げた家や村に火を放ち、金を奪い、奴隷にまで叩き落として絶望に染まるのが楽しくて仕方ない。つまり、結論を言うと、俺はおまえらのようなつまらない日々を送っている奴らから奪い、跪かせることが愉快でしかたないと言うことなのだろうな。たとえば、この女だ。この女のように、手のついていない新雪のような体を美しいとは思うが、俺はそれを汚したいのだよ。その美しきを踏み荒らし、泥まみれにして、穢し尽くす。それこそが俺の望みだ…………。だが……」

 

 異常な男であった。けれども、有無を言わせぬとてつもない力が込められていた。

 

「――最近はなにをしてもつまらぬ。なにも、響かぬ。渇きが俺を突き動かすのだ」

 

 大男は苦悩に揺れている。だが、その狂気は昂っていくばかりだ。ダビドどころか、仲間の男たちも恐怖に塗れていた。

 

 ダビドは俯きながら唇をかみしめた。

 この目の前の大男の言葉は、官吏として平凡に生きてきたダビドにとって異世界の住人のセリフに聞こえた。

 

 幼い頃から、帝国人、そして文明ある人間として最低限の規範を両親から教わった。人を傷つけるな、欺くな、貶めるな。宗教も、文化も、国家すらもそう説いている教えを、目の前の大男はすべて否定していた。

 

 大男は立ち上がる。そして、ゆっくりとダビドへにじり寄った。

 

「おまえでは、思ったほど楽しめそうにないな」

 

 大男はダビドの髪を掴み上げると、頭を上に向かせ、つまらなそうな顔で顎をしゃくった。手下たちは指示を受け、ララノアを抱き起こし、四つん這いにすると、こちらに顔を向かせ後ろから嬲り始めた。

 

 ララノアの口から悲鳴が漏れる。

 ダビドは顔を上げさせられたまま、己の妻で他の男たちが土足で踏み入る様子を眺めさせられる。

 

「うぅうううう、うううう!!」

「そうだッ! もっと、もっとだッ!」

 

 大男はダビドが唸るさまを楽しそうに見届け、続ける。

 

「おまえの恋女房は、今日からおれたちの共有便所だ。おまえのようなつまらぬ男に、こんな美貌が傅くなど、宝の持ち腐れだ。今日から、おれたちが便利に使ってやろう」

「ら゛らのあっ」

 

 ダビドは大男の宣誓を聴くと、狂ったように暴れ出した。しかし、男にのし掛かられ、頭を掴まれている現状ではその場から一歩も動けなかった。

 

 大男は立ち上がると、丸太のような大腕を振るい、ダビドの脇腹を打つ。そして、蹴りを何度も放った。

 

「ぐ、ぐえぇぇぇ」

 

 ダビドは肺の空気をすべて吐き出しても止まらず、血を吐き出した。

 

 大男はつまらなそうに立ち上がると、今度はララノアに近づいた。腰の短剣を引き抜く。

 

「ほら、どうした、己の妻を奪われる気分は? どうだ? 悔しいか。悔しいと言えッ!!」

 

 背後から嬲られているララノアの頬を撫であげる。ダビドは殴られた痛みで動くことができない。霞んだ視界の先で、ララノアを見つめた。

 

 大男は心底つまらなそうな顔をした。

 腰から短剣を引き抜く。そして、ララノアの白い腹に突き刺した。

 

「アンヘリノ大将。殺しちゃ不味いですよッ!」

 

 背後で腰を振っていた手下が悲鳴をあげる。それを大男は拳で黙らせた。

 

「立ち上がれッ! 憎かろう? 悔しかろう? 妻を奪った俺がッ」

 

 イカれた男である。この目の前の男はダビドが復讐してくるのを心底楽しみにしているのだ。破滅願望と言い換えてもいい。闘いこそが、目の前の男を癒す術なのだ。

 

 アルン人の性奴隷であるララノアも、監督官として物資の許可を一手に引き受けるダビドの権限すらどうでもいいのだ。

 

「ちっ、骨のない」

 

 しかし、ダビドは動けない。

 ダビドは大男ではあるものの、ただの官吏である。武技もなにもない。

 アンヘリノは力加減を間違えてしまった。体格だけを見て、期待できる奴だと誤解した。無造作に放った蹴りは肋骨をへし折り、肺に突き刺さっていた。

 

 脇腹が内出血で青く染まっていく。同時に、ララノアの腹から夥しい量の血が溢れていく。

 

 ――ごめん、ごめんな。きみを守るって、誓ったのに……

 

 ダビドは眉間にシワを寄せ、苦悶の表情を浮かべながら、やめてくれと呟くことしかできない。

 己の女房を守る。男としての尊厳を根こそぎ奪われ、冷たくなっていくダビドを見据えながらアンヘリノはつまらなそうに見ていた。

 

 優しい微笑み。誰もが一目で引かれる美貌。意外にも頑固な一面。ダビドは彼女の善良さと温かさに惹かれていた。夫婦の契りを結び、彼女が再び微笑みを取り戻したとき、これほどの幸せはないとさえ考えていた。

 苦しみの中、屈辱の中、犬のように這わされ、目の前で妻を嬲られている中で、絶望が徐々に染み入ってくる。

 

 ララノアの脇腹から流れた血が伝って、ダビドの元まで伝ってきていた。がらんどうの瞳が嵌る顔は、血が抜け真っ青になっていた。

 

 ――許してくれ。許されるなら、来世でももう一度……

 

 滲んでゆく意識のなか、パチパチと弾ける音が響きだす。

 地獄の狭間で、ダビドは周囲が燃えていることに気がついた。

 手下の男たちが驚き戸惑ったように騒いでいる。

 

「ああッ!? なんだぁ、こりゃ?」

 

 突然の轟音。

 それと共に、雪崩のような炎が全員を包んだ。

 燃料でも残っていたのか、巻き起こった炎がダビドたちを飲み込んだのだ。

 

 死にゆくダビドの視界に、焼け焦げる手下たちの姿が映る。

 神は、神は見捨てていなかった。

 ダビドは必死に腕を伸ばしながら、動かぬララノアの頬を撫でた。

 

 ――かならず、君を守るから。だから…………。

 

 薄れゆく景色の中で、大男だけが一点を見据えていた。その先には、茶髪の少年の姿があった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「よう、また会えるんじゃねえかって楽しみにしてたんだぜぇえええ!! 今度こそ、俺さまを楽しませてくれるんだろうなぁ!」

 

 炎で荒れ狂う倉庫の中で、禿頭の大男アンヘルノは凄絶に嗤っていた。

 

 部下や嬲り続けた夫婦すら気に留めず、じくじくと焼け爛れている自らの半身すら斟酌せず、此方を睥睨している。

 

 相手はプロビーヌ商会きっての傭兵、他者を圧倒する巨躯に、膨大な経験。何をとっても歴戦の戦士である。

 

 アンヘルもその腕前は身を持って体感した。一対一で勝負しても、まず勝ち目はないだろう。腕力、瞬発力、経験。あらゆるすべてにおいて相手が上なのである。だが、逃げるという選択肢はまるでなかった。

 ついに捉えた敵だ。友に裏切られ、人を殺し、さらに畜生にまで身を落とした。ここで逃げるということは、今までのすべてを否定することになる。死など二の次だ。

 

「あなたの狙いは、一体何なんだ。誘拐して、乱暴して、殺して。何の得がある」

「さっきもいったが、得なんてものは如何でもいいのよ。確かに、仕事として、逃げ出した奴隷に制裁を加えろと指令を受けてはいるがなぁ。だが、そんなことよりも大切なことがあるのよ。ただ、今が、いまが愉しいかってことよッ! 今楽しめなきゃ、如何にもならねぇだろうがよぉおお!!」

「――そんなことで、マカレナさんを殺したのか」

「うん、ああ? マカレナってあの女か。もしかして、テメェはアンヘルって云うんじゃねぇか?」

 

 大男が頬についた煤を右手でスッと拭った。

 

「だから何だっていうんだ」

「ハハハ、やっぱりそうか。この前の、お坊ちゃんの仕事でよ、如何にも気乗りしなかったんだが、その女が死際に何回もテメェの名を呼んでやがったからよ。ツマンネぇ女で、一日も輪せばさっさと壊れやがるから、気にも留めてなかったが、これも天の配剤ってやつか。最後の最後で盛り上がってきたじゃねぇかよ」

 

 頭の中が激烈に燃え上がった。目の前の男を生かしておくことなど、誰が許しても自分だけは許せそうになかった。

 

 こんな、こんな男によって、彼女の人生は潰えた。

 なら、今こそ、己の手によって、冥府へと送ってやろう。

 苛烈に、激情が燃え盛り、周囲の炎すら飲み込まんとする大炎になり蜷局を巻いていた。

 

「しね」

「いぃぃぃいいねぇ、やっぱりおまえは、いつか見かけた時から違うと思ってたんだよ。他の傭兵どもや腰抜けの子分どもとは違って、まったくこのオレさまにビビった様子がねぇ。今さっき、ボコボコにしてやった旦那とはわけが違う」

 

 アンヘリノは二人寄り添って死んでいるダビドとララノアを見て嘲笑をあげる。大きな歯を剥き出しにして、まるで百獣の王のように咆哮をあげ、野卑な舌なめずりをした。

 

「ほら、やろうぜ。闘いってやつおよぉおおお」

 

 男は半身の爛れなど気にせず、腰の剣を引き抜いた。決戦の火蓋がきって落とされた。

 

 燃え尽きた背後の屋根が崩れ落ちる。残響が頭の中にじんと響いた。煤の匂いと灰があたりに立ちこめている。

 

 均衡を破って、呪文を唱える。

 

召喚(サモン)

 

 後方に相棒のシィールを召喚し、同時に目の前に新たな仲間、幼火龍のレッドコドラ――この倉庫に火を撒いた張本人を召喚する。

 

 何時もはまったく言うことを聞かない幼龍フレアだが、主人の増悪に乗せられたのか、気焔高らかに吠え猛っている。

 

 アンヘルはフレアの尻尾を掴んで放り投げると、奔馬のように突進した。

 

 幾らなんでも召喚士だとは思わなかったのか、龍を投げ飛ばしたアンヘルに対して反射的におよび腰になりながらも、飛びつきながら噛み付いてくるフレアの牙を剣で迎え撃った。

 体重の軽い幼龍とはいえ、されど龍である。アンヘリノは弾き飛ばした衝撃でタタラを踏んだ。

 

 それが隙だった。

 

 アンヘルが號と光の迸る魔導剣を振るった。ガキンと甲高い金属音が鳴り響き、相手の刃物と噛み合った。

 

「やれぇ、シィール!!」

 

 溜めに溜めた氷の息吹で己ごと飲み込ませる。絶対零度の空間が放射状に広がり、燃え盛る炎の中、銀の輝きを放ちながら二人を飲み込んだ。

 

 アンヘルは外套で頭を包みながら、強烈な体当たりを喰らわせると、冷気の放射される方向にアンヘリノを蹴り飛ばした。

 

 リーンの回復能力があるとはいえ、明らかにイカれた行為である。だが、アンヘルには己の死すら勘定に入れることができない。冷気に包まれ、炎煙に焼かれ、それでも剣を振るった。

 

 アンヘリノは崩れた態勢を戻そうと、燃え盛る炎で焼け焦げている部下たちを蹴り飛ばし、こちらに向かわせる。男たちは半死半生のまま、わけもわからず走ってきた。

 

 長剣が閃いた。

 

 男は両手を突き上げ、万歳の格好のまま顔を両断され、背後に倒れた。そのまま横の男の顎を蹴り上げると、腹を思う存分に引き裂いた。真っ赤な流血が飛散し、燃え盛る炎に気休めの消火の水を撒いた。

 アンヘリノが勢い余って蹴りつけすぎた男が地面に倒れた。アンヘルは、そのまま首元に足を置いて、ごきりとへし折った。

 

 その瞬間、体勢を立て直したアンヘリノが剣を閃かせた。半身が焼け焦げ、使い物にならないというのに体重の乗ったソレは、アンヘルの胸元を割いた。

 

 アンヘルは喘ぎながら後方に飛んだ。

 リーンが癒しの光を輝かせる。両脇には、シィールとフレアが轟々と敵を睨みつけていた。

 

「まさか召喚士とは、さすがのオレさまも恐れ入ったよ」

 

 言葉とは裏腹に嗤っていた。心底愉快というように、嗤っている。

 

 アンヘルは呪文を唱える。それは、目の前の男を殺す呪怨の言霊だ。

 

 燃え盛る炎で身体は蝕まれ、肺は活力を失っている。だが、だからなんだというのだ。身体を燃やせ。頭を凍らせろ。立ち向かえ。痛みなど必要ない。苦痛はすべてデリートするのだ。死がその歩みを止めるときまで、闘うのだ。

 

 焼け落ちてきた木材が肩に当たり、よろめく。アンヘリノに切り裂かれた傷へ炎が入り込み、体内を焼いていた。

 

 だが、まるで関係ない。剣を天上に掲げ、握る拳に力を込めた。

 

 飛翔する。流星の如き銀線が振り下ろされ、アンヘリノの繰り出した長剣とかち合った。

 火花が散り、鈍色の刃がからみあう。両者は額を寄せ合い、視線をかち合わせた。

 

「おらぁあああ! 戦いってのは、こっからだぜぇええええッ!!」

 

 アンヘリノは片手だというのに、常人を大きく超えた力で対抗する。只人なら一歩も動けぬような重傷であるはずなのに、兇悪な笑みを浮かべて、アンヘルの刀剣を押し込んでくる。

 

 グイ、グイと押すたび、アンヘルは足を引きずりながらズルズルと後ろへ下がった。

 

 天下無双。

 傭兵として暴力の世界を生き抜いてきた大男の底力は、自身やホアンの剣技などと比べればまるで児戯に思える。ごおおと別のエンジンが備えられているかのように、馬力がまるで違った。

 上からのし掛かるようにしてアンヘルを押しつぶす。

 

 主人を助けようと眷族たちが一斉にアンヘリノへ殺到する。だが、アンヘリノは飛び退くと、足を振り回してシィールとフレアを吹っ飛ばした。

 

 ――くそっ、強すぎるッ! もう、動けるはずないのに。

 

 炎の瓦礫に突っ込む眷族を見る。すると、アンヘリノは巨大な長剣を頭上で旋回させ、低い唸りをあげた。烈風に似た轟音が響き渡る。周囲の炎が巻き込まれるようにしてアンヘリノを取り巻いた。

 

「よそ見してる暇がテメェにあんのかよぉおおおッ!!」

 

 アンヘリノは獰猛な笑みを刻みながら、全身する。巨人が炎の中を歩む。それは、神話の巨人にふさわしい威容だった。

 汗が噴き出て、ポタポタと落ちた。アンヘルは剣を片手で構えて、徐々に後退した。

 

「こんなんで、くたばんじゃねぇぜぇえええ!!」

 

 轟音を伴い、大気と炎を割って、長剣が繰り出される。水平に振られた長剣は、アンヘルを断ち切らんと迫る。

 

 アンヘルは右手を刀身に添え、振るわれる剣を迎え撃った。

 紫電が貫く。巨躯から振るわれた長剣は、大凡、人が繰り出したとは思えないほどの轟音を立て、防御ごと数メートル吹き飛ばした。

 

 ゴロゴロゴロと煤の床を転がる。手は龍を受け止めたときと同じ衝撃を覚えていた。

 人外。悪魔や龍と同じ、人知を超えた剣撃であった。

 

 地面に伏せながら、相手を見上げた。双眸が、相手を呪い殺さんと貫く。

 

 アンヘリノは其れを見て、本当に愉快そうだった。

 

「いいねぇ、その目。堪らねぇよ。それでなくっちゃいけねぇ。男ってのは、闘いってのは、そうでなくちゃいけねぇ。世の中、こんなやつがいねぇと、詰まらなくてたまらねぇよ」

「なにを」

「俺たちを一網打尽にしようと、こいつらが嬲られるのを見ながら、ずっと身を潜めていたんだろ? 手を伸ばしている旦那を見て、絶望に染まる女房を見て、それでも復讐の牙を研いでいたんだろ?」

「……だまれ」

 

 図星だった。

 卑劣極まりない行為だ。ダビドが死にゆくさまを、ただじっと眺めていた。ただ、チャンスが訪れるまで。

『理屈が間違ってないと思えば、どんな障害があろうと実行するべきだ』とは誰の言葉だったか。もはや思い出せないが、拒み続けてきた理念だったはずだ。だが、あらゆる障害が立ち塞がった。だから、情も倫理も捨て立ち上がったのだ。

 

 だが、それをこんな男に見抜かれた。アンヘルを見透かしたように、嗤っている。

 

「黙らんさ。俺はな、嬉しいのよ。愉しくて、仕方ないのよ。女や金なんてのは、気晴らしの手段なのさ。テメェ見てえなキチガイ野郎が、こうやって復讐にくるのが、いっちゃんの楽しみなんだよぉおおおお」

「黙らないなら、今すぐ、その口を開けないようにしてやるッ!」

 

 脳髄が沸騰し、爆発した。暗い怒りが燃え上がる。握った長剣が閃いた。

 

 一太刀目。

 剣線が業火となって落下し、アンヘリノの剣を握る腕を薄く割いた。

 二太刀目

 氷結のように鋭い突きがうねりを伴って直線に走る。耳元をスパッと割った。

 三太刀目。

 水平に薙いだ刃が紫電となって、大男の胸元を切り開いた。

 

「ぐぁあああ」

 

 さすがのアンヘリノも悲鳴をあげた。だが、すぐさま反抗精神を立ち上げ、蹴りを放った。

 明滅する視界の中で、大男が片手で長剣を掲げる。信じられない耐久力と膂力であった

 

「ぶっ殺してやるぅううう!!」

 

 だが、アンヘルも黙ってはいない。大男の後方から這い出てくる水色の影に、思い切り叫んだ。

 

「シィール。引き倒せッ!」

 

 蛇のように這い出た青き龍は、アンヘリノの爛れる足に噛みつき、思い切り引き倒した。

 

 巨躯の弱点は、いつもその足にある。いつの世も巨人は足元を崩され、倒されるのだ。後方から飛び出た眷族には、さすがのアンヘリノも対応できなかった。

 

 アンヘルは剣を杖のように突きながら、歩み寄る。そして、蝙蝠のように外套を羽ばたかせながら飛びついた。

 アンヘリノが必死の形相で体をひねる。アンヘルの繰り出した渾身の突きは、肩口を切り開いて、膨大な量の血流を噴出させた。

 

 バッと地面に朱い花弁が咲く。血飛沫が顔を濡らした。

 アンヘリノが恨みがましく剣を振るう。苦し紛れに繰り出された斬撃が脛を切り裂いた。体重が乗っていないため、大きな傷ではないが、無防備な箇所への斬撃に苦悶を漏らした。

 

 アンヘルは痛みを堪えながらも、必死に睨みつけた。アンヘリノもゆっくりと起き上がる。その双眸は憎々しげに燃え上がっていた。

 

 だが、両者とも限界が近い。

 夥しい出血が体力を奪い、燃え盛る炎が死へ誘っている。

 それでも、目の前の敵を討ち払わんと、両者の空気は極限に達していた。

 

 大男が剣を構える。それを見て、アンヘルも対峙した。

 

 耳を劈くような咆哮をあげる。地を這うように剣を構え、姿勢を低くした。ゴリゴリと歯車が始動する。蒸気機関に変わったかのように、身体の出力が増大し、溢れ出る力が駆動力の証明となり鳴っているようだった。

 

 弾丸のように疾駆し、躍りかかる。と見せかけて、アンヘルは地面に横たわるダビドの死体を掴んだ。

 

 寄り添う二人を引き裂いて、死体を掴んだまま放り投げる。ダビドは、うねりをあげて飛んで行った。

 

 ――絶対に、殺してやる。

 

 卑劣、極悪、最低。それでも、それでも、許せないのだ。眼前に立つ、男が。

 

 龍が吠えたける。殺せと、哭いていた。

 

 投擲に呼応して、シィールとフレアが冷気と炎の息吹を放射する。三方から浴びせられた冷酷無比の攻撃に、アンヘリノは腕で顔を庇うだけだった。

 

 ダビドの死体によって、アンヘリノは倒れる。それを見たアンヘルは瓦礫に向かって駆けだした。

 

 崩落した瓦礫を駆け上がる。炎と血に塗れた瓦礫はまるで地獄への門のようで、朱く染まっている。その地獄へのきざはしを、踏み締めるようにして駆け上った。

 

 頂点にまで駆け上ると、剣を逆手に握り、重力に沿って落ちる。全体重を掛けたまま、切っ先にすべてを集中し、急降下した。

 

 アンヘリノはダビドの死体に絡まったまま、もがいている。それを気にせず、アンヘルは繰り出した。

 

 ざくりという不快な音とともに、ダビドの背中に剣が埋没する。そのまま、体を貫いて、アンヘリノの心臓を穿った。

 

「く、くそがぁ」

 

 アンヘリノは呻いた。その顔は苦痛で染まっていた。

 

 アンヘリノは手に力を込めた。だが、アンヘルは、剣をそのままねじり、ぐいぐいと傷口を広げた。

 

 血を噴出させたまま、地面でもがき続ける。しかし、流れ出る血の海へ沈んだアンヘリノは徐々に力を抜いていった。

 諦めと少しばかりの喜びが表れている。ヒヒヒと汚らしく嗤う。

 

「な、なにがおもしろい」

「べ、べつに、なんもねえ、よ。ただ、おわりかぁ、って思ってる、だけさ」

 

 アンヘリノはゴフッと血を吐き出した。

 

「なぁ、よう。てめぇなら、よ。てめぇなら、いいようへいに、なれんぜ。おれがよ、たどりつけなかった、ホンモ、ノのたたかいによ」

「なにを、言っている……」

「ホしい、もんのために、なんでも、できるって、いうやつ、はいくらでも、いるがよ。ほんとう、に、できる、やつは、そうは、いねぇ」

 

 最後っ屁とばかりに男は語る。それは奇しくも、祖父の言葉と酷似していた。

 アンヘルは、打ちのめされ、立ち尽くしていた。

 

「じごくへ、さきに、いってるぜぇ」

 

 コロンと事切れた。微笑みだけを残して。

 感情が爆発した。

 

「くそぉおおおっ!!」

 

 アンヘルは剣を引き抜き、死体へ振るった。刻んで、刻んで、粉微塵にした。燃え盛る炎のなか、顔を切り刻み、身体を凌辱し、膾に変えた。

 それでも収まらず、剣を振り下ろした。

 

 同類。そう、思われていた。

 こんなやつに、見込みがある。そう思われていた。

 

 ふざけやがって。

 怒りが練られ、集り、高まった。剣に収斂し、振るわれる。

 

 なにも、なにも収まらない。

 マカレナは帰ってこない。ホアンとは、あのままだ。すべて、地獄のまま変わりない。

 

 復讐の末、こんなものになってしまった。

 すべてが終わっている。

 

 剣が止まった。眷族たちが寄り添ってくる。だが、そんなことすらどうでもよかった。

 

 剣の切っ先を見つめる。自死しようかな、と刹那思考が頭の片隅をよぎった。

 

 ふと、視線を揺らす。

 切り刻んだ男の懐から、虹色に輝く五つの石が目についた。眩く輝くそれは、なんだか、希望の光に見えた。

 

 その石を握りしめる。命からがら、燃え盛る炎の中、なんとか駆け出した。

 

 

 



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第十七話:泡沫の夢は儚く散って

 ただ、泣いていた。時が過ぎるのも構わず、ただ涙を流していた。

 

 掌で五個の虹色に輝く石を弄ぶ。アンヘリノの懐にあった虹色の石だ。それはいつか見た、魔法石と呼ばれているモノに見えた。

 

 くだらない。心底そう思った。

 

 だが、泣き疲れたのか、それとも儚い夢を信じたのか。神にでも縋りたくなったのか。

 

 石を放り投げながら、呪文を唱えた。

 

「召喚」

 

 紡いだ呪文と共に虹色の石が煙となって消失した。

 

 だが、何も起きない。

 

 目の前には何も残らない地面があっただけだった。

 

 やっぱりか。そう思った。握った剣の刀身が鈍く光っている。喉を貫けばそれで終われるな。じっとそれを見つめた。

 

「人の子よ」

 

 後ろからの威厳に満ちた声で振り向く。そこには神々しく輝く男の姿があった。『光輝』と呼ばれ、天界の輝きを放つ胸当てをつけ、聖獣の鷲を引き連れている。輝く雷霆は時空すら溶解させるほどのエネルギーを持つ。全知全能にして全宇宙を支配する神、ゼウスがそこに降臨していたのだ。

 

「人はなぜ争うのだ。短いその生、それをなぜ、他者から奪う道に逸れる。他者を愛し、愛されることが生あるものの定めであろう」

 

 神の有難き言葉にも何も感じない。

 

 だが、続く言葉が心臓の鼓動を止めた。

 

「我は定命の者の魂を取り扱う。常ならば、貴公を思う少女を天に送るべきであろう。だが、まだ死してはいない。我の力によって、少女を引き留めているのだ」

 

 アンヘルの思考が蘇り、記憶を辿った。神話では、ゼウスは次々と女性に手を出した好色な面も描かれているが、弱者の守護神にして秩序を創造した神としても描かれている。

 

 正義と慈悲の神。そんな存在にならばマカレナを生き返らせることができるのかもしれない。アンヘルは縋った。

 

「蘇らせられるのですか? だとしたらお願いします。もし、マカレナが蘇るのなら僕はなんでも、なんでもします!」

 

 地面に座り込みながら懇願していた。

 

「我を召喚したのは貴公である。我の力により、肉体を再構成し、その体に魂を呼び戻すことなどたやすい。だが、それでよいのか?」

 

 神ゼウスの言葉がアンヘルを打ち据えた。

 

「少女マカレナはこの世の絶望を味わい、去っていった。あらゆる男の欲望にさらされ、三日三晩嬲られ、助けも来ず、命を落とした」

 

 湖から吹き込む冷たい湖風が、アンヘルをなじった。

 

「それでも少女の蘇生を望むのか。この世の地獄のすべてを味わった少女にそれでも生きろと、身勝手な欲望を押し付けるのか? 自然の理を曲げて奇跡を望むのか?」

 

「ぼくが、決めるんですか?」

 

「当然よ。生という苦しみから解放され、虚無の世界に旅立つのが少女の望みかも知れぬのだぞ。短い生をさらに縮めるのやもしれぬ。見送ってやることが優しさではないかね?」

 

 神の問いは、すべての人類に送られている気がしてならなかった。

 

 躊躇した。そんな奇跡が存在し得るのか。そんな奇跡の上に蘇ったマカレナは幸せなのだろうか。

 

 答えは出ない。出るはずのない問いだ。

 

 月光が神を克明に照らしていた。

 

 答えを出せずにいると、目の前の神が霞掛かってゆく。

 

「やはり長時間は顕現できぬな。時間がないぞ、定命の者よ」

 

 アンヘルは最後まで迷い、そして頷いた。

 

 神の纏う電光が虹色の輝きとなり、人の身体を包むように球体を作り出す。自然の摂理を根本から書き換えるような超高位魔法の輝きが練られ、球体の内部を埋めつくした。それは、人には実現しえぬ超常現象だった。

 

 薄い光の中で少女の頭部や胴体、手足や筋骨、肉、神経網を恐ろしい速度で修復していく。滑らかな肌がまるでスプレーで塗られたように色づいていく。

 

 そして、虹色の輝きは唐突に消滅した。

 

 目の前で少女が目を開いた。

 

 少女の血が通っていない青白い肌が徐々に温かみを帯びていき、頬は朱色に染まっていく。月光が眩しいかのように、瞼が痙攣し睫毛を揺らす。瞼が開くと、瞳を揺らめかせていた。ゆっくりと視線を交差させる。

 

「あれ、どうして、アンヘルが?」

 

 少女の瞳には疑問符が浮かんでいた。

 

 自分の体を見下ろし、そしてアンヘルを見上げた。

 

「死んだとおもったのに、どうしてだろ? 生き返ったとか? あはは、そんなわけないか」

 

 照れくさそうに微笑むマカレナに全力で抱きついた。

 

「どうしたのアンヘルってば。恥ずかしいよぉ」

 

「よかった、よかった。ほんとうによかった」

 

 目から熱い涙がこぼれた。恥ずかしそうに頬を染めるマカレナを他所にずっと、ずっと抱きつき、涙を流した。

 

 落ち着いた二人は帰途についた。いつものようにくだらないやり取りをしながら。途中で買い食いをしては、おかしそうに笑った。

 

 邸宅では、マカレナとアリベールが向かい合っていた。アリベールは驚いたが、事情を話し終えると姉に抱きついた。

 

「姉さん。私を置いていくなんて、許さないわ」

 

「あはは、ごめんごめん。でも、もう大丈夫だって」

 

「そんなことないわ。大丈夫なの? 辛い記憶があるんでしょ?」

 

「辛い、けど大丈夫だから。私にはみんながいるしっ」

 

 マカレナは快活に笑った。

 

 コンコン。小さなノックの後に赤毛の男が申し訳なさそうな顔を浮かべながら入室してくる。

 

 入ってくるなりその男――ホアンは土下座した。

 

「すまない。俺は、俺はあんなことを。許されるなんて思っちゃいない。好きなだけなじってくれ。牢獄にぶち込んでも、死刑にしてもいい。本当に申し訳なかった」

 

 その言葉にアリベールやアンヘルは冷たい視線を向けていた。だが、マカレナだけが優しい微笑みでホアンを見ていた。唇を小さくかんでいる。それでも許しの微笑みを向けた。

 

「もう、許す。あなたはアンヘルの友達なんだもの」

 

 ホアンは涙を流しながら、謝罪を繰り返していた。

 

 彼が帰った後、不意にアリベールが切りだした。

 

「そういえば、あなたのお友達が遠方から尋ねてきているわよ」

 

 促されるまま、大広間に移動した。そこには、背の小さな男――ホセとナタリアがいた。

 

「よう、久しぶりだな。なんだ、そんな驚いた顔をして? ちょっとばかり仕事があったから寄っただけさ」

 

 ナタリアはホセに寄り添っている。相変わらず嫌われているのか目も向けてくれないが、嬉しさが勝った。

 

「ふたりはどんな関係なの?」

 

 マカレナが嬉しそうに尋ねる。アンヘルの過去が知れて嬉しいのだろう。横顔が輝いていた。

 

「俺たち、同じ村で育ったのよ。だから初恋の人から好きだった奴までみーんな知ってるぜぇ」

 

「ええっ。なにそれ、聞きたい聞きたいッ」

 

「ちょ、止めてってホセ」

 

 若いころの記憶をほじくられるのは恥ずかしい。マカレナは過去が知れて嬉しそうな、それでいて嫉妬も感じられるような顔で聞き入っていた。

 

 だが、それでも平和な光景に口許が綻ぶ。

 

 ――これが、手に入れたかった世界なんだ。

 

 唐突にマカレナが振り返る。

 

「でも今は、私のことが好きなんだよねッ?」

 

 首元に飛びついてくる。視界の端に苛立たしく睨むアリベールの姿があった。

 

「あはは、えっと、そうだな」

 

「いいって、わかってる。今はそんな関係じゃないけど、いつか振り向かせて見せるから」

 

 マカレナは飛びのいて、カラッと笑う。答えられない自分が情けなくなった。

 

「頑張っているな、***」

 

 背後からの声に振り向く。そこにはスーツ姿の男と普段着を来た女性の姿があった。

 

「父さん、母さんッ」

 

「本当に頑張ったな。おまえは俺たちの誇りだよ」

 

「そんなこと、ぼくはほとんど助けられなかったんだ。イゴルも、リコリスも」

 

「そんなものさ。人間、全部が全部守れるわけじゃない。でも、おまえはひとつ守ったんだ。立派に育ったな」

 

 優しい言葉にアンヘルは涙をこぼした。母がゆっくりと抱きしめてくれる。

 

「帰ってきていいのよ。もう疲れたでしょう?」

 

 本当に優しい言葉だった。滂沱の如く涙が流れた。

 

「うん。でも、みんながいるし戻れないよ」

 

「どうして? 辛い記憶しかないでしょう?」

 

「でも、こうして生きているから、だからぼくはこっちで頑張るよ」

 

 アンヘルは振り返る。そこには和やかに談笑する友人たちの姿があった。

 

「わかったわ。けど、忘れないでね。いつだって帰ってこられるんだから」

 

「僕は大丈夫。大丈夫だから」

 

「そうだ、それでこそ俺たちの息子だ」

 

 両親が優しく抱きとめてくれた。

 

 

 

 

 

 そこでアンヘルは目を覚ました。

 

 目覚めたのは港近くの廃屋。埃の舞う場所で疲れて眠っていたのだ。掌の中には虹色に輝く石ころがあった。

 

 試しに放ってみた。

 

 夢のように、消えていく泡沫のように、幸せが訪れるかもしれない。

 

 呪文を唱える。しかし、石は消えなかった。

 

 奇跡は起こらなかった。

 

 現実には神など現れないし、マカレナは無惨に死んだまま生き返らなかった。虹色の石は魔法石ではなく、たった二、三日の食費に変わっただけの石ころだった。

 

 悲憤や歓喜の涙など流さなかった。ただ、呆然と天を仰ぎ見るしかなかった。ホセとナタリアが現れることもなければ、ホアンが謝罪に来ることもなかった。当然、両親が突然現れ、日本に戻してくれることもなかった。

 

 それからなにをしたのか記憶になかった。

 

 貧民街のゴミ溜めのような地区の宿を借り、呆然自失としてソファに座っていただけだった。

 

 眠っては都合の良い夢を見て、目覚めては現実に戻ることを拒否して、また眠りに戻ることだけを続けた。

 

 砂のような時間だけが過ぎていく。そこで、ただ項垂れているだけだった。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。何も取らず、何も飲まず、ただジッとしているだけの時間が過ぎ去っていく。

 

 復讐。マカレナを嬲った奴らを殺す。それだけを燃料にして心を奮い立たせてきた。

 

 だが、終わってみれば何も残らなかった。

 

 友人も、人間性も、何もかも、失っていた。

 

 くだらない、と嘯いてみる。だが、本当にくだらないのは自分自身だった。

 

 視線を逸らすと寝台の上には新聞が載っていた。思考から、そして現実から逃れるため文字を辿った。前の客が残したものなのか、それすら長い間気づいていなかった。

 

 三度目にしてようやく文字の羅列が理解できた。プロビーヌ商会の次男、サンティアゴの婚姻。あの男が新しき恋人に毒牙を伸ばしていることを示す記事だ。

 

 ――まだ、やるべきことが残っている。

 

 アンヘルはゆっくりと立ち上がった。

 

 

 

 §

 

 

 

 暗く冷え冷えとした廊下に魔導灯が灯っている。絨毯が引かれ、窓から月明かりが差し込んでいるそこは靴を鳴らす音だけが響いていた。

 

 疲れた表情を浮かべた壮年の男は、灯りによる影を引きずりながら肩を回す。そして、勝手知ったる自室に向かい、今日最後の仕事を終わらせようと顔を引き締めた。

 

 最後の角を曲がり、自室の扉まであと一歩という所まで来たとき、男は違和感で足を止めた。

 

 自室の扉が開いている。

 

 使用人たちに向けた叱責の怒声は喉奥に封じ込めた。これは違うと直感が囁いたのだ。侵入者の香りだった。

 

 其処だけが、何時もより一段と暗く凍えた状態を映し出している。男はゴクッと唾を飲み込んだ。

 

 近くにあった鉢植え用の鋏を握りしめる。ギイっと扉を開き、部屋に踏み込んだ。

 

「誰だ、賊かッ! 私は若い頃、従軍していたのだぞ――」

 

 室内の明かりを灯す。人が隠れていそうな中央の机の裏にも誰もいない。取り越し苦労かと思い、安堵の息を吐いたときだった。

 

 バタンという音と共に部屋の扉が閉じられる。扉の裏に潜んでいた男が姿を現した。

 

 悲鳴をあげなかったのは、商会を束ねる長としての矜持故だった。

 

 驚きのあまり揺れていた焦点がその男に合う。

 

 そこそこ高い身長に茶髪の髪。何処にでも居そうな平凡そのものの容姿。探索者風の格好の男であった。

 

「あなたに、聞きたいことがあります」

 

 その男は、娘であるマカレナがいつか連れてきた探索者の男であった。

 

 

 

 

 

 眼前の男は驚き戸惑っている。だが、その驚愕を押し込んで平然を装っていた。

 

「なんだね、聞きたいこと? 金の在り処か? 其れなら、横の金庫にある。通報はしないから持っていきたまえ」

 

 男は記帳が大量に収まる棚の横、黒光りする大きな金庫を指し示す。多少だが、犯人の正体を知って落ち着きを取り戻していた。

 

「そんなことを聞きにきたのではありません」

 

 アンヘルの纏う衣服は血が染み付き、幾つもの風穴が空いている。その姿は貧民街の乞食そのものだが、ボロボロの装束のまま、煌々と輝く瞳は異彩を放っていた。

 

「なら、なんだ?」

 

「あなたの娘、マカレナさんのことで聞きたいことがあります」

 

 しんしんと冷え込んでいる寒気が、壁に浸透して体の奥まで冷やした。

 

「ずっと考えていました。なぜ、妹のアリベールさんが独自に調査しているのか。どんな意図があって彼女がプロビーヌ商会に拉致されたのか。そして、貴方はなぜ何もしないのか」

 

 問いかけられた男――スリート商会の当主ミチェルは黙していた。

 

「その答えはまったく出ませんでした。けれど、推測はできます。プロビーヌ商会は、誰かを誘拐すると便宜を図らせるために脅す、ということを平然と行っていました」

 

 ダビド事件からの推察である。アンヘルが無断侵入したダビドの家には、許可証を作らせるための印鑑を持ってくるよう指示があった。

 

 元々奴隷の少女を取り戻すための作戦で、そのうえ便宜を図らせるとは常習的に犯行を繰り返している証明である。

 

 マカレナはプロビーヌ商会の次男サンティアゴを振ったことで恨みを抱かれていたのだとしても、何も要求しないということはあり得ない。

 

 つまり、何らかの要求が当主に届けられたことは想像に難くない。

 

「あなたは知っていたんですね。マカレナさんが、あなたの娘が誘拐されたことを。如何して、あなたは助けなかったんですか? そしてなぜ、彼らを糾弾しようとは思わなかったのですか?」

 

「何のことだかわからな――」

 

「答えてくださいっ!」

 

 腰の剣を引き抜いた。刀身はアンヘルの激情にしたがって轟々と光を迸らせていた。

 

 嘘をつけば殺されると観念したのだろう。ミチェルは深々と頷いた。

 

「そうだ、知っていた」

 

 続く言葉を待った。あらゆる事情を話し、謝罪を述べるのを待った。

 

 だが、降りてきたのは沈黙だけだった。

 

「そ、それだけですか?」

 

「そうだ」

 

「ふざけるなっ! 事情も謝意も見せず、それで許されると思って――」

 

 ミチェルは冷然とアンヘルの言葉を遮った。

 

「許し? 貴様のような探索者風情に、なぜ許しをこわねばならんのだ」

 

「ぼくにじゃない! あなたの娘二人にだ」

 

「なぜだね? 必要あるまい」

 

 男は冷徹な光を瞳に宿していた。

 

「確かに私はプロビーヌ商会が娘を拐ったことを知っていた。私宛に便宜の書類が届いたからな。無論、プロビーヌ商会が関与していると直接的には見せないよう内容を練ってはいたが、事情を知るものなら関与の匂いに気がついただろう」

 

 悠然と執務室の椅子に腰かけ、背もたれに背中を預ける。

 

「だが、受け入れられない条件だった。それに逮捕などと、なんの意味もない。尻尾切りにより、実行犯が捕まるまで。我らと奴らとでは其れ程財力が違うのだよ」

 

 葉巻を咥え煙をくゆらせる。娘の死を淡々と語るその顔は、人の情を考えない怪物そのものだった。

 

「あなたは娘が可愛くないのか」

 

「もちろん可愛いい。二人しかいない血の繋がった娘なのだからな。だが、商会の存続に比べれば安いものさ。そもそも、サンティアゴとの確執は娘自身が撒いたものだ。私のせいではない」

 

「元はといえば、あなたが婚姻させたんだっ」

 

 あんな婚約者を娘に紹介しておいて平然な顔をしていられる神経が理解できない。いくら娘の婚姻が政略の道具にされる世界だとはいえ、あまりにも親子の情に欠けている。

 

 だが、男は冷酷な言葉を続けた。

 

「仕方のない状況だったのだよ。落ちていく競争力。昔は当然のように技術界隈の頂点をひた走ってきた我が商会だが、近年ではその技術ですら負けている。革新が、ブレイクスルーが必要だった」

 

「あなたの話はすべて商売のことばかりだ。悔やむ言葉ひとつくらい吐いてみたらどうだ」

 

「貴様のような貧民にはわからんよ。人の上に立つということが、如何に難しいか、ということがな。私の肩には、スリート商会の従業員千人の将来と、今まで受け継いできた歴史というものがある。なんとしてでも、なんとしてでも守らねばならんのだッ!」

 

 男は大きく手を広げ、アンヘルを睥睨した。

 

「わかるまい。自分の判断で何かを失う無力さを。己の天秤に私事と商会をかけ、片方を選び取らなければならない重圧を。貴様のように見たい世界だけを見て、綺麗な世界だけを見て、正しいと思うことをほざいて生きているやつには何もわからん。なぜ、貴様が賎民でいるのか教えてやろう。自分の価値観だけを信じ、それだけで人を断罪するような人間には、結果などなにもついてこないし、何も手に入らない。そうやって迷い続けて、どちらも失うしかないのだ。今までそうやって生きてきただろうッ!」

 

 天から降ってくるような重圧感とともに、男が吠えた。力強い瞳でアンヘルを見据えている。

 

 力強い言葉にごくっと唾を飲み込んだ。

 

 見たい世界だけを見ている。綺麗な世界だけを見ている。そう、その通り。迷っている間にすべてを失った。賎民として生まれ、賎民として生きている。そんなことは百も承知だ。

 

 だか、今は違う。言葉だけで理解していた気持ちになっていたが、すべての経験がアンヘル自身を作り替えた。

 

 打ちのめされ、引き倒され、地獄の夢を乗り越えて、今ここにいるのだ。その程度の言葉ではまったく響かない。

 

「……あなたの言葉は詭弁だ」

 

「なんだとぉ」

 

「取り繕ったところで、あなたは結局、自分と家が可愛かっただけだ。娘の婚約者だというのに、欲に駆られて調べず婚姻させた。最大級の爆弾を作ったのも貴方だし、独自に犯人を探すアリベールに真実を話して止める勇気もない」

 

 アンヘルの冷たい言葉が男を刺し貫く。怒りで血が上っているようだった。

 

「あなたは僕が愚かで賎民だというが、あなたも結局変わらない。僕が選べないなら、あなたはひたすら間違った選択肢を選び続けているだけだ。あなたの判断が、マカレナを、娘を殺したんだッ!」

 

「黙れ小童がっ、知ったような口を開くなっ! なにも知らぬくせに」

 

「なにも知りたくない。あなたのことなんか、分かりたくもない」

 

 最善を尽くした結果、マカレナが失われた。それなら、許せなくとも、納得の仕様がある。だが、マカレナの死は、そもそも目の前の男から始まったのだ。そんな男が家のためと嘯いて犠牲を語るなど、怒りすら湧いてこない。

 

 此処には自身の人生を賭けて、目の前の男を殺すつもりでやってきた。捕まって死罪になろうとも、この男を殺すつもりで来た。サンティアゴを殺すのは護衛に守られていて困難だ。だからこそ、娘の事件でゴタついているこの家を狙ったのだ。

 

 だが、そんな気は失せた。くだらない、と心底思った。

 

 クルッと踵を返す。

 

 最後っ屁とばかりに、男が問いかけてきた。

 

「貴様が私のことを理解できないならそれでいいがな。だが、貴様が無能なのは変わらんのだぞ。いつまでたっても、支配され、這いずりまわることしか貴様にはできんのだッ!」

 

 その言葉を否定するつもりはない。そのとおりだ。幸せを享受するだけの、甘っちょろい思想をいつまでも抱いていては、何度でも繰り返すだろう。大切な彼女を失った、今回の事件を。

 

 歩みをとめて、振り返らずそのまま告げた。

 

「あなたとは違う。ぼくは変わる。変わってみせる」

 

 強くなってみせる。理不尽に立ち向かう力を手に入れるまで。

 

 振り返らず部屋を去った。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 落葉した銀杏の枝の間から、冬の陽射しが漏れる。凍りつくような粒だった空気が撫でつける中、温もりのある陽射しだけが、枯れ果てた草木をねぎらうように照らしていた。

 

 街の郊外、素朴な田畑の真ん中に建てられた教会には、喪服を着た参列者たちが献花を持ち、入っていくのが見える。葬儀自体は終了したというのに、故人を偲んだ人々が続々と教会に消えていく。

 

 葬儀式は味気ないものだった。

 

 遺体は陵辱のかぎりを受けたとは思えないほど綺麗に化粧され、まるでカステラの箱をそのまま大きくしたかのような飾り立てのない箱に押し込められていた。ステンドグラスから淡い光が差込む、白と木の教会で、聖書の朗読と賛美歌が司祭によって執り行われると、出棺式が開始され、遺体は土の中に沈んだ。その他にはなにもない。皆が皆、無言のまま此処に居並んで、去っていく。葬儀とは死者の為ではなく残った遺族のためにあるらしいが、実務的な儀式は、それなりに厳粛なもので、心の淀みが洗い流されるようだった。

 

 少女は葬儀を終えた格好のまま、護衛のひとりに車椅子を押させ、教会を見渡せる小さな丘を訪れていた。

 

「こんなところにいたの?」

 

 喪服姿で教会を見つめ続ける少年――アンヘルに向かって、アリベールは問いかけた。

 アンヘルは声をかけた主人を一瞥すると、また視線を正面へと戻した。その横顔には、深い翳りが差し込んでいた。

 

「今は招待者だけじゃなくて誰でも献花できるのよ。あなたも姉さんのために行って欲しいわ。姉さんが一番仲良かったのは、貴方だもの」

 

 柔らかい棘のない声が発された。姉を誑かした気に食わない男だというのに、包み込むような母性が心から溢れていた。アリベールは、己がこんな言葉をかけられることに驚いた。

 

「あそこに、彼女はいないよ」

 

 無表情。けれども、痛苦の蝕みに耐えているような、そんな悲しい背中だった。

 

「……なら、どこに居るの?」

 

「彼女は善良で、優しかった。だから、たぶん天国かな?」

 

 まるで自分は善良でも優しくもないような口振りだ。自嘲の笑みで口が歪んでいる。参列者の誰よりも、悲しみに暮れていた。

 

 最初は、喧嘩腰だった。

 

 馬鹿、けれど大切な姉を誑かした卑劣な探索者。しかし、姉が久々に浮かべる満天の笑顔を見て、責められなかった。姉が唐突に婚約をしたとき、アリベールはすぐさまこの探索者が何かしたのだと思った。なにも言わず、悲しげに決意を固める姉を見て、暗殺者を送ってやろうと考えたことは数えきれない。

 

 それから、しだいに信頼が増した。

 

 姉の死を通して、彼は揺れ動いていた。彼にとっても、姉の死は重大事件だったのだ。必死に調査する彼は信頼できる友だった。

 

 そして、今まさにこの瞬間。

 

 教会をずっと見つめ続ける彼は、小さな背中だった。其れを後ろからずっと見続けると、心の中に得体の知れぬ感情が湧き上がってくるのを、アリベールは感じていた。

 

 女が男に惚れるのは、ただ力に魅せられるからではない。ただ強い男になど、惹かれはしないのだ。陰がある寂しそうな男にこそ、心を許す。アリベールに恋愛感情などない。けれど、高まる自身の優しさが、なぜ姉がこの男を好きだったのか、理解させるのだ。寂しそうな姿を、なんとかして救ってやりたかったのだと。

 

「……あんなに嫌いだった祖父の言葉に従い、全部を捨てた。『理屈が間違ってないと思えば、どんな障害があろうと実行するべきだ』か。昔はくだらないと思ってたのにな」

 

 少年が、誰にも向けられていない独白を語る。すべてを後悔するような、涙の言葉だった。

 

 その独特な空気に呑まれて、アリベールは言葉を失った。心が締め付けられた。

 

 震える足を押さえつけ、なんとか立ち上がる。

 

 アリベールの身体は元々弱い。生まれついて此の方、ずっと病弱で、幼い頃は寝たきりだったことも珍しくなかった。けれど大きくなるにつれ、少しづつ問題は解消されていった。

 

 彼女の足が欠けたのは、馬車の事故で同乗していた母が亡くなってからだ。医者の話では傷は精神的なものらしいが、治ることはなかった。

 

 けれど、今は立ち直るための訓練ではなく、独力で、心のままに立ち上がった。よたよたと生まれた子鹿の足のように少年に近寄った。首元に腕を回して後ろから抱きついた。

 

「もう、泣かないで。大丈夫、大丈夫だから」

 

 泣く子供をなだめるようにして優しい声を掛けた。彼の表情は変わらない。けれど小さな、小さな涙をこぼし始めた。

 

 一度決壊すると嗚咽を漏らすようにして泣いた。顔はこちらには向けない。漏らす声すら最小限だ。弱さを見せない。そう誓った少年の、最後の悲鳴のようだった。

 

 どれほど時間が経っただろうか。少年が背を震わせ続けるのに、アリベールは寄り添い続けた。吹き付ける風が痛いことすら忘れていた。

 

「あなたは、これからどうするの?」

 

 少年は、絞り出すように答えた。

 

「僕は士官学校に入るよ」

 

 アリベールはそんな彼にいつまでも寄り添い続けた。

 

 

 

 

 

 帝国暦313年大寒。

 オスゼリアス士官学校第二一三回候補生入学試験。士官候補生一般課程五〇〇位中、四七九位で、セグーラの街所属ケソン開拓村出身、アンヘルの入学を許可すると学内文書に記されている。

 

 偉大なる召喚士として名を馳せることになる彼のキャリアは此処から始まった。

 

 

 




探索者編、終了  ->  次章、学園編、開幕


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二章あとがきと登場人物紹介

 どうもお久しぶりです。原田孝之です。いないとは思いますが、いきなり二章あとがきを見てくださった方は始めまして。

 いかがでしたでしょうか。二章を少しでも楽しんで頂ければ幸いです。

 

 とはいえ、相も変わらずUAは伸び悩んでいますね(笑)。ここまでくると、半ば意地のようになっています。やっと通算UA千を達成しました。感慨深いような、悲しいような複雑な気持ちです。

 

 と思ったら、二章最終話を投稿後ニ十分でしおり更新した人がいます。

 ありがとう!! やったぜ!! 君は最高だ!! ついでに感想もよろしく。

 

 とまあ、私の話はここまでにしまして、小説の中の話に移行しましょう。

 今回のテーマは少年の進路という点に焦点を合わせました。私としても、皆様としても進路に悩まれた経験はあると思いますが、そんな鬱屈した思いとのしかかってくる現実を描かせていただきました。とはいえ、一章に比べてダークさが濃くなっているので、しんどいなーという思いに駆られながら書きました。心に少しでも残れば嬉しく思います。

 

 また、召喚ものとしては、ようやく真打の登場と言ったところでしょうか。アイコンにもなっているボルケーノドラゴンやゼウスを登場させました。皆様が思った通りの登場とはいかなかったかも知れませんが、私としては、かなり満足のいく登場回でした(とくにゼウス)。コイツを出して欲しい、という要望がございましたら、感想欄にてお待ちしております。叶えられるとは確約できないのですが。

 

 さて、前章のあとがきでサスペンス要素を入れると予告させていただきましたが、結局こんな感じに落ち着きました。サスペンスといっても、ミステリーではない、という点がミソですね。私が小説を書く上で注意している点といいますか、これだけはやるまいと考えているのが、ミステリーに足を突っ込む事です。なぜか、というとやはり本格的ななぞ解きには手を出すべきではないと考えているからです。そこで、謎はあるけど解かせないとか、ゲームみたいにお使い形式で謎を紐解くという、いわゆる読者に平等ではない形で描かせていただきました。フェアじゃないという方もいらっしゃるかもしれませんが、この小説を読む方でミステリにそこまで拘りがないと勝手に判断させて頂きました。文句は基本的には受け付ける予定ではありますが、この点だけは譲れません。ミステリは素人作家には鬼門。これだけは勘弁していただきたいと考えています。

 

 また、二章ではかなりの登場人物、そしてかなりの設定を明かしました。これはアンヘルという主人公が農民から都会に住む探索者として成長し、社会情勢に対する理解を描いたつもりなのですが、設定を考えるというのは中々難しくて大変でした。なぜ、異世界転生が流行ったのかという考察記事を拝見したことがあるのですが、著者によれば日本の価値観を持った人間が異世界に移ることで、主人公の思想的な部分で違和感を感じさせなくなり、書くのが簡単になるとありました。ですが、実際に書いてみると、簡単になったような気がしません。世界を描くって難しいなぁと思いました。

 登場人物に関しては、二章に出てきた人物はこれからも重要になってきますので(というか、これ以降ほとんど主要人物が入れ替わる)、皆さん覚えていただけると幸いです。

 

 さて、では話すことも尽きたので私の読書歴について明かしたいと思います。

 とはいっても、最近読んだ一般文芸や文学作品について話しても仕方ないと思いますので、別の話をしたいと思います。ただ、ライトノベルはめっきり読まなくなってしまったため、ウェブ小説、中でもお気に入りの作品を上げたいと思います。

 

 偉大なる槻影大先生の作品を上げるまでもないと思いますので割愛致しますが、他にも有名な無職転生、魔法科高校の劣等生、リゼロなどは除外しましょう。あの書籍化作品群を入れると、話がそればかりになってしまいます。当然といえば当然ですが、私以外にもっと詳しい方が確実にいらっしゃいますので、そちらを参考にしてください。(というか、小説家になろう様の作品についてここで語っていいのか? だめだったら即消します)

 

 私が高校のとき、ランキングに乗るような作品を除いて好きだった作品がひとつあります。よく探せば他にもたくさんありますが、その中でも印象が強く、それでいてあまり評価されていない作品です。

 

 それはキャプ本さまの「世界を撃て」です。

 

 2020年9月25日現在、総合ポイント586とまったく有名ではない作品で、更新も9年以上前に途絶えているのですが、その作品はなかなか忘れられません。

 

 一応、参考までに概要を書かせていただきました。

 

 *ーーーーーーーー*

軽薄な主人公レイは取り立てて特徴のない男だった。彼の噂は酷いもので、たいして強くもないのにAランクになった、とか、相棒である魔術師バルドが強いのであって、彼は強くなどないのだ、と言われている。

しかし、そんな彼には目的があった。過去にしでかした、己の欲望のため犠牲、その贖いのために。

親友の禿魔法使い、王国騎士団長の堅物ガール、正体不明の辻斬りを仲間に加えて行く冒険譚。ここに開幕。

 *ーーーーーーーー*

 

 どうですかね。良さが伝えられていると良いのですが。まあ、端的に言うとダークな冒険譚になるんですかね。読んでみたいと思っていただければ幸いです。ただ、更新は絶望的ですが。

 

 また話が長くなりましたね。作者の感性はこんな雰囲気だと思ってください。オススメがあれば感想ついでに添えていただけると嬉しいです。(いや、ほんと。感想待っているよ!!)

 

 最後になりますがまた予告をさせてください。

 次回はついに学園編となります。一応士官学校の話ですが、あまりミリタリー色の強い学校ではなく、よくある一般的な異世界学園的な話にします(軍学校が好きな人はごめんなさい。でも、そんな学校書けないよ)。また、話の中心は二章とは違って探索ともう一つの二本立てになります。これまでとは雰囲気も一変しますので、ぜひお楽しみに。

 

 あと、宣伝をさせてください。

 槻影大先生の作品、「嘆きの亡霊」新刊が8月31日に発売されました。最悪、私の作品は読まなくても構いませんので、偉大なる作品、槻影大先生をよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 § § §   登場人物紹介   § § §

 

 

 ■メインキャラクター

 

〇アンヘル(15)

 

収入が安定し、食事環境が改善。身長がぐんぐんと伸びた。けれども、その平凡な顔つきから散々な言われよう。哀しみに染まった。この章は大体地獄。つらたんまる。でも頑張った。

新しく買った剣はアリベールの融資によるもの。五千コインという日本円にして約五百万にあたる金額を無利子無担保で借りている。剣の銘はアリベールのつるぎ。それを聞いたアリベールがぼこぼこにしたことは言うまでもない。今は借用証剣アリベールⅡと呼んでいる。彼女には内緒。

士官学校入学試験のため、アリベールにつきっきりで勉強を教わった。頭があがらない。

 

・シィール(種族名:プレシィ―ル)【眷属】

 

水・ドラゴンタイプの眷属。いわゆる御三家のひとつ。

進化して強くなった。あまり出番がないことには不満を持っている。基本戦術はブレス一択。

 

・リーン(種族名:グリーンカーバンクル)【眷属】

 

回復要員として大活躍。眷属内でもっとも活躍している。

実は召喚されずとも勝手に出てくることができ、よく自室のお菓子を盗み食いしている。

 

・フレア(種族名:レッドコドラ)【眷属】

 

「火山龍現る 下」で登場したボルケーノドラゴンの子供。

実際に倒して屈服させたわけでもなく、もともと気性が荒い火龍なのでまったく指示を聞かない。貰った高レベルのポケモン状態。

生まれたばかりゆえ、情緒が発達していない。好きな遊びは放火。怖くてなかなか召喚できない。アンヘルの傷が絶えないのはコイツのせい。

 

 

〇マカレナ(18)

 

快活。いわゆる元気っ子。茶髪に低身長。商会連中の人気者でもある。

頭の悪さと婚約破棄から父親に見放されている。けどめげない。

妹のアリベールとは仲がいいような悪いような。けれど、嫌い合っているわけではない関係。

実はアンヘルより年上。

 

 

〇ホアン(16)

 

赤毛と高身長がトレードマークの青年。

影が薄くて悲しい二章と思いきや最後で大活躍(でいいよね?)。

ちゃんと士官学校上級課程に受かっている。今後も登場するけど、皆応援してくれよな。

 

〇アリベール(15)

 

マカレナの妹にしてスリート商会の次期当主。父親とは経営方針で対立している。幼い頃から頭がよく、アンヘルの家庭教師ができるほど。幼少期には文学作品を書いたことも。

ラストで過去に向き合い、このままではいけないと奮起。少しづつ歩けるようになった。

相変わらず情けないアンヘルを見て嘆きながらも、少しづつ大きくなっていく背中に不思議な感情を覚えている。

 

 

〇クナル(17)

 

戦闘民族ラシェイダの銀髪褐色の美人さん。ただし男。

本名はユーバンク・アーバスノット・タフリン・クナル。

ラシェイダの名前は、(父が名付けた名前)+(母が名付けた名前)+(自分の幼名)+(成人の儀の時に自分で名付けた名前)。なので語順が普通と逆。

薄着に超でかい大剣を持った戦闘狂。人間性も常人とは乖離している超人。

女より武器が好き。部屋は蒐集した武器だらけ。おかげで金欠。

明らかに物理現象に反した動きや回復能力を見せる。アンヘルとは犬猿の仲だが、実力は認めている。

 

〇テリュス(15)

 

探索者ギルドの受付嬢。新人担当として人気。

実は道場兼私塾の末っ子で、育ちがいい。

幼い年齢で国営の探索者ギルドに入れたのはコネのおかげ。

 

 

〇アンヘリノ(35)

 

禿頭の大男。強い、でかい、経験豊富でかなり強い。

性格は残忍そのものだが、クナルと違って戦闘狂というわけではなく、あくまでも戦闘という極限状態の中で揺れ動く精神状態および相手の憎しみが好きなだけ。本質的には戦いが好きなわけではない。

頭のおかしい主の元、好き勝手やれて万歳。

 

 

〇サンティアゴ(19)

 

ちょっと頭のおかしい奴。でも金で捻じ伏せる。そこにシビれずぅ! あこがれずぅ!

正直ルトリシアみたいな高貴な女が大好物だが、手を出すと速攻ぶっ殺されることも知っている。実は、危機回避能力が高い。

 

 

〇ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエント(15)

 

アンヘルを助けた美貌の少女。翡翠の君と社交界で呼称されている。

高い魔力、絶大な権力といろんなものを持っているが、それゆえに大きな責任を背負っている。

アンヘルが召喚士だと知っている数少ない一人。

 

 

〇エルンスト・オーゲル・シュタール(16)

 

法政家の次男。実家にいたころから、貴族内の権力ゲームに飽き飽きしており、実家を飛び出し探索者となった。ただ、吟遊詩人に語られたことで父親の耳に届き、来年からは士官学校へ通うことになっている。

まったく出てこないが死んだわけではない。

 

 

 ■サブキャラクター

 

〇バルド(29)

 

若いころ苦労して掴んだ成功の芽を、酌婦につぎ込んでぶち壊した。

頭は良くないが、人に好かれる性格だった。

作中内の粗野な言動はほとんど悪魔のせい。

 

〇ハーヴィ―・スペルト・スキピオ(16)

腕をぶっ飛ばされた騎士。ルトリシアからの評価を大きく下げた。

 

〇ダビド・クビノ(30)

リックガル糊港の検閲官。仕事のとき、奴隷の少女ララノアを拾う。

 

〇ララノア【微笑む太陽】(17)

日本にいたらアイドルJKになれるクラスの美少女。アルン人。不幸体質。

 

〇イゴル(13)

父親を失くした少年。ロゴスの村で出会った義勇兵の一人。

 

〇リコリス(9)

幼過ぎていろんなことが分からない。ロゴスの村で出会った義勇兵の一人。

 

〇ミチェル(45)

マカレナとアリベールの父親にしてスリート商会の当主

 

〇リカルド(16)

ウィルキン武器屋で遭遇した武芸者。かなりの浪費家。

 

〇エマ(16)

ウィルキン武器屋で遭遇した武芸者。弓が得意。

 

〇イマノル(19)

スリート商会の護衛。結構強い。

 

〇ホセ(14)

ユメで登場。頑張っている。二章でも出せてよかった。次は四章で登場予定。

 

〇ナタリア(15)

ユメで登場。ホセと一緒に頑張っている。

 

 

 ■どうでもいいけど覚えて欲しい設定

 

〇士官学校

 

15~17才に入学する志願制の学校。

オスゼリアスには、簡易課程(2年)、一般課程(5年:定員500)、上級課程(5年:定員100)がある。

上級課程は帝都とオスゼリアスだけ

 

 

 



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第三章:試練の塔
第一話:元老院属州オスゼリアス士官学校


 それは、一人の女が燃やされた跡だった。

 

 うず高く積み上げられた薪の中央に裸体の女が固定されている。その女は肛門から四〇センチ大の杭を差し込まれていた。本当に少しづつ、少しづつ、何日もかけて己の体重によって深く刺さっていたのか、地獄の業火の中ですらこれ程の苦悶を味わいはしないだろうという形相を浮かべていた。

 

 体内を貫通し、口から杭が顔を出しているだけで死に至っていることは明白なのに、それだけでは飽きたらず下半身を猛火の嬲った跡が残っている。人肉の火炙り、火刑だ。

 

 周囲には同じように見知った顔の人間たちが身体の中心部から杭で串刺しにされている。誰もが悲鳴を上げ続けた、狂気の坩堝と化していた。

 

 よく見た駐屯地の光景はもうない。巨人の通り過ぎた残骸のようにすべてが踏み荒らされ、なにも残っていない。軍服を着た男たちは泣き崩れていた。

 

 その中央にいた男はゆらゆらと、夢遊病者の如く磔にされていた女性に近寄る。端正な顔つきに立派な勲章を拵えた軍人だ。腰に差す剣もまた同じである。

 

 表情は悲観に暮れ、きつく結ばれた唇はふるふると震えていた。

 

「……な、なぜだっ…………なぜなんだ……」

 

 声なく、紡がれる言葉。しかし、目の前の物言わぬ遺体が返事を返すことはなかった。

 

「どうして……どうしてエミリアがこんな目にっ…………」

 

 誰にも届かぬその小さな悲鳴は、風によって吹き消える。絶え絶えな息を整えながら、かろうじて吐き出した言葉が、その無垢な女の身体に溶けて消えた。

 

 焼け焦げた死体に群がる鴉が、塊となって啄んでいく。黒鳥は、不吉の使者となって、曇天の空を駆け抜けていた。

 

 男は、己の副官であった女――エミリアの身体を撫でる。そこは、夥しいほどの拷問の跡が残っていた。ただ、男の嗜虐心を満たすためだけの、それだけの跡がこびりついていた。

 

 男は、なぜ、己が信頼する部下を置いていったのか、深く後悔していた。

 

 見開いた双眸が血走る。食いしばった奥歯がギリギリと軋んでいた。鬼のような形相を浮かべながら、女の奥に映し出される過去を見据えた。

 

 ――ほら、心配しないでください隊長。命令は命令ですし、それに、隊長が任務を終えてすぐ戻ってくれば、なにも問題ありませんからっ。

 

 二ヘラと女は軽く笑っていた。

 

 まったく、気に食わない女だった。男は彼女の事を思い返す。

 

 平民の癖にいちいち突っかかってきて、そのうえ何度も張り合ってくる。魔の法理を統べる男には敵うはずがないと知りながらも、幾度となくぶつかってきた。

 

 それが信頼に変わったのは、何時だったのだろうか。

 

 士官学校時代から付きしたがってくれる副官であり、盟友であり、そして恋人にまでなってしまった

 

 男の与えられた任務はある貴族のボンボンが戦場でミスをした後始末だった。戦略的には重大事ではない。しかし、主流派である元老院派閥の要請を無下にすることはできなかった。男は渋りながらも己の信頼する部下たちの声に押されて、拠点である駐屯地を後にしたのだ。

 

 その結果が、この有様だった。

 

 身じろぐこともできず、ただただ見据えることしかできない。炭化した下半身と凌辱され尽くした上半身を受けて、魂にその光景を焼き付けた。

 

 守り続けてきた拠点の残骸を。

 

 部下たちの無惨な姿を。

 

 そして、己の恋人の遺体を。

 

 曇天に映し出される地煙のような赤い夕焼けが世界を包み込んでいた。朱色に染まる世界が地を掃く一陣の風となって、無数の炭と死臭を運んでいる。鴉たちが蠢きながら死の旋律を奏で続けていた。

 

 男は誓う。地獄の轟々と燃えるその中心で、軍に横行する政治ゲームの末に起きたこの悲劇を二度と引き起こしてはならないのだと。

 

 すべてを引き起こした貴族の専横に反逆してやると。

 

「見ててくれ、エミリア……俺が、この国の軍を変えてやる…………そして、君のような悲劇を、もう二度と」

 

 双眸の奥に宿る決意の炎が、男に血の涙を流させていた。

 

 止める者はいない。男には物言わぬ死体となった部下たちが強烈に何かを訴えかけるのを感じていた。

 

「……君を、救ってみせる……」

 

 改革の炎が男を包んでいた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 戦争。帝国発足以前、戦争は貴族が支配していた。貴き血に元づく魔法は、山を抉り海を割る。強大過ぎる魔法は更なる開発と血統の収斂により被害をさらに甚大化させた。

 

 人がゴミと等価だった時代である。夥しい量の血が流れ、河を作った。

 

 そんな情勢下で、ある新兵器が登場する。

 

 妨害魔道具(SNジャマー)。平民程度の魔法力で行使できる、対魔法新兵器である。これは理を操る範囲戦略魔法に介入することで、魔法発動を抑制する道具だった。

 

 それまでの戦争形態を一変させる兵器の登場により、戦術を駆使する軍師と、少数部隊で妨害魔道具(SNジャマー)を発動させる部隊を強襲する武芸専門軍人が躍進することとなる。戦争は貴族個人の魔法の強大さのみで決まる前時代的なものから、戦術や個々人の戦闘能力が趨勢(すうせい)を決める近代戦へと移行することとなった。

 

 元老院属州オスゼリアス士官学校は熾烈化(しれつか)する戦争に対抗するため、二百年以上の長きに渡り士官候補生を養成してきた学園である。定員は上級課程百名、一般課程五百名。学力試験で選び抜かれた候補生たちは、最先端教育によって五年間みっちりと訓練に明け暮れるのだ。

 

(あと、三周かぁ。士官学校っていうけど、なんか体育学校みたいな感じなんだよなぁ。いくら個人主義とはいえ、ずっと訓練ばっかりってのもなぁ……やっぱり、入ったの間違いだったのかなぁ)

 

 夏初めの白墨の粉のような日の光がじりじりと世界を照らし、大地に染みいる。梅雨の蒸し暑い季節は過ぎ去り、空はカンカンに晴れあがっていた。

 

 校舎の下に広がる障害物一つない平坦な大地。そこでアンヘルは汗を拭いながら午前体育調練に励んでいた。横には、背丈が低く頭を民族衣で覆った者とハンサムな顔立ちの男が並んでいた。

 

「なぁなぁ。そういえば今日だろ? 演習小隊のメンバー発表。アンヘルはどの班長がいい?」

 

「ちょっとベップ怒られるよ。基礎調練中に雑談なんかしたら」

 

「いいじゃん、いいじゃん。俺らの班いっつもクソ早いし」

 

「それは、そうなんだけど」

 

 このハンサムな顔立ちの男は一般参科ベップ・リベラ・フォルチ。寮舎で同室の青年である。

 

 名前が示すとおりベップは貴族の出身であるが、平民に対して分け隔てない性格だった。だが、彼が特別というわけでもない。というのも貴族とはピンキリで、魔法もそれほど使えなければ仕事もなく困窮する家も少なくない。

 

 彼のような貧乏貴族は大量に存在する。帝国に置ける爵位とはある種称号であり、それ自体が金になるシロモノではない。貴族の俸禄はあくまでも役職に就くことで支払われるのだ。

 

 貧乏貴族の中には、物心つくようになってから親に知らされるまで自分が平民だと思っていたと、笑い話にしても酷い話がある有様である。

 

「ほら、アルバも黙ってないでさ。ちょっとくらい、好みはあるだろ?」

 

「……」

 

 問いかけられた人物は、正面を見たまま黙して走る。ベップは肩を竦めた。

 

 もう一人の同部屋。背丈が小さく頭の大部分を布で覆った人物は一般肆科アルバである。とはいえ、名前を聞いたわけではなく、プレートに記されている文字を知っているだけだが。

 

 一年と数か月同部屋でアルバと顔を合わせているが、講義や訓練以外では一切声を聞いたことがなかった。

 

「まあまあ、アルバはいつものことだから」

 

「そうだけどなあ、いっつもなーんにも話さねぇから口ついてないんじゃね?」

 

「だめだって、邪魔しちゃわるいよ」

 

「へいへい。真面目だねアンヘルは。この前の進級パーティに来なかったしな」

 

「いや、あれ。その後風俗コースだから」

 

「悪いか? 飲む打つ買うの三拍子は男の甲斐性だぜ」

 

「悪いわけじゃないけど。やっぱり、そういうのは好きな人がいいなぁって」

 

「けっ。やっぱ童貞臭いなアンヘル」

 

「ど、童貞臭い!?」

 

「なに動揺してるんだ? 童貞だろ?」

 

「い、いやぁ~、そんなわけ――」

 

「言わなくていいぜ、なんかこっちが恥ずかしいわ」

 

「ちょっ、なにそれ!」

 

「おいおい必死になんなって。ほら、教官が睨んでるぞー」

 

「もう最悪」

 

「そんな大したことないだろ。どうせなにも言われないさ」

 

「……とか言って、この前追加で十周されたじゃん」

 

「それは言いっこなしにしたろ」

 

 アンヘルはジト目でベップを睨む。ベップはからからと笑っていた。速度は落とさない。そのまま黙って規定の周回を終える。三〇五号室の面々は、この基礎体力訓練において上位だった。

 

 ベップは布で汗を拭いながら息を整える。

 

「で、話を戻すけどよ。班長は誰がいい? もう走り終わったから別にいいだろ?」

 

「うーん、難しいなぁ」

 

 班長。それは、一年超に及ぶ長い訓練を終えた候補生初の『演習班長』のことである。演習内容は、上級課程の候補生を班長にして、壱組から伍組までの生徒一人づつ選んだ小隊によってダンジョン踏破を目指すものである。

 

 いわば、初の実戦訓練であった。

 

 その中で重要なのはチームを指揮する隊長だと言われている。演習だけではなく、今年一年間の上司となる存在である。誰しもが無関心では居られない話題だった。

 

「やっぱり、リカルドさんやエマさんかなぁ? あとは、召喚士のラファエルさんとか、幼年魔導院主席って言われてるニコラスさんになるのかなぁ」

 

「無難といえば無難か。そういえばクナルは入れないのか? あいつは学年どころか学内でもぶっちぎりだぞ?」

 

「それだけは御免」

 

 問答無用の即答。しかし、事情を一切知らないベップは疑問符を浮かべている。

 

「はぁ? たしかに変人だが……もしかしてイケメンが嫌いなのか?」

 

「性根が死滅しているから」

 

「……辛辣だな」

 

 アンヘルたちは教官に敬礼するとそのまま寮に向かう。午後からの講義まで時間は限られている。昼食時間を合わせても、ゆっくりする暇などない。こういう部分だけは、なぜか軍隊色が濃い。

 

(一年間ずっと勉強と身体トレーニングばっかりで、しかも規律もそんなに厳しくないんだから、ここも緩くしてくれていいのに)

 

 オスゼリアス士官学校では大抵の規律に煩くない。なんなら教官たちにため口を聞いても許されるぐらいである。無論、講義中は咎められるが、休憩時間はその範疇にない。現代の軍隊では鉄拳制裁ものの緩さである。

 

 これは超実力主義から起きた現象である。ダンジョンや魔法による強化術が支配する世界では、人間の限界値が限りなく高い。集団行動を必要としない士官候補生たちには自立と向上心が求められるが、規律はそれほど必要とされないのだ。

 

 そういえばとベップが辺りを見渡す。

 

「アルバはどこだ。急にいなくなったが」

 

「いつも居なくなるよ。シャワー皆で浴びるの嫌いなんじゃない?」

 

「そういやそうか。俺、一回も見たことないわ」

 

 ベップは頷くようにして首を縦に振った。

 

「まあ裸って見せるの嫌がる人もいるからね」

 

「アンヘルもそうだったよな。最初は」

 

「慣れたけどね」

 

「ほんとかぁ? 童貞のくせに」

 

「もう、しつこいって」

 

 言い合っていると、部屋の前にたどり着く。アンヘルはさっさと部屋の中に入った。室内には簡素な三段寝台と木造の机が三台並んでいる。十畳の部屋は二人入るとすし詰め状態になった。

 

「そういえばアンヘル。伍科はこれから何があるんだ?」

 

 ベップが汗だくになったシャツをカゴに叩き込む。アンヘルもそれに倣って上着を脱いだ。

 

「ええっと、一応、砲術計算学と兵站学、それから、基礎算術に最後が基礎体術だったかな?」

 

「うへ、地獄。砲術計算なんか俺らにいらねぇぜ。試験は楽だがな」

 

「……ぼくにとっては鬼門なんだけど」

 

 士官学校は意外にも、と言うべきなのか学術関係の講義が多い。アンヘルはなんとなく剣を振り回していればいいと考えていたが、実際にはまったくの逆で頭脳集団的側面を多く持っている。

 

 当然といえば当然だが、軍国主義国家における二大士官学校となれば東大京大に相当する超エリート校だ。クラス分けは入学時の成績のため、伍科に配属されたアンヘルは勉強のできない落ちこぼれだが、国全体を見渡せば十二分にエリートである。

 

 ブルームとウィードで分けるならウィードかな? という下らない妄想はそこでやめた。

 

「そういやそうだったな。アンヘルって真面目だけどバカだからな」

 

「うるさい。っていうか電卓なしってのがおかしいよ。三角関数表を暗記とか、無理にも程があるでしょ」

 

「電卓? なんだそりゃ」

 

「気にしないで」

 

 ぶつくさ呟きながら袋に着替えを詰める。

 

「そういや、そろそろ夏聖祭の時期だよな。アンヘルは予定あるのか?」

 

「ないよ。残念だけど」

 

「そうかい。寂しいねぇ俺たち。じゃあさっさとシャワー浴びようぜ」

 

 ベップに続いてアンヘルも部屋を出た。

 

 

 

 §

 

 

 

 

 茜色した細長い雲が色づいた西空。修練場の茶色の大地が、燃えるようなみずみずしい夕焼けに包まれていた。アンヘルはその光景を窓から眺めながら歩く。今日も一日終わったとホッと息を吐いた。

 

「そ、その、今日もありがとね。練習に付き合ってくれて」

 

「いえいえ、授業ですから。そんなにかしこまらなくても」

 

「けど、ボクやっぱり弱いし、皆いい顔しないから……」

 

 弱々しく語るその童顔の少年はユーリといい、弐科との基礎体術では度々一緒になる候補生だった。

 

「いえいえ、そんなこと」

 

 と、慰めようとしたが踏みとどまる。普通なら有り得ない判断だが、事ユーリに限っては正しい判断だった。

 

 このユーリ、尋常ではないほど弱いのである。アンヘルとてみくびるつもりは一切ないが、擁護することが寧ろ皮肉に聞こえるほどだ。なにしろ、彼は訓練が開始されるまで武道経験がなかったのである。

 

 そもそもとして、軍人にはダンジョンの強化が最重要である。強化術を会得していない一般人と武芸者には、それこそ赤子と大人ほどの差が存在する。

 

 そのため、士官学校には 養殖迷宮 (レベリングスクール)の蔑称を持つ新人訓練用管理迷宮が存在した。新入生たちは一年間そこでみっちりと鍛錬し、強化術を会得するのである。その為、一般課程においては入学前の実力に一切頓着せず、筆記試験だけで生徒を選定する。

 

 よって、親が入学のための学力さえあればいいという、ある種育児放棄的行為をすれば、ユーリのような運動音痴が稀にとは言えない頻度で紛れ込むのである。無論のこと、ユーリも一般人に対しては身体能力で圧倒できるのだが。

 

 ちなみにだが、アンヘルのような田舎出身探索者というのは十年に一度の稀れ人といえた。士官学校に入れるのは上流階級の子供に潤沢な勉強を積ませられる家に限る。そんな子供が危険極まりない探索者業に励んだり、田舎村出身などありえないのだ。アンヘルが受かったのは、偏に現代人的受験テクニックとアリベールの超絶予想によるものだった。

 

「アンヘルみたいに強くなれたらなぁ……ボクも上の順位を取れるのに」

 

「いやぁ、僕より強い人はいっぱい居ますから」

 

 とりあえず励ましの言葉を掛けるしかなかったが、ユーリは首を振るばかりだった。

 

「そうかなぁ? ボクにはみんなが強く見えるけど、アンヘルほど強いと思ったことないけど……」

 

「それは僕とばかり訓練しているからだと思いますけど」

 

「そうなのかなぁ」

 

「たぶん」

 

 励ましの言葉が見つからない。アンヘル自身が順番に拘らないし、そもそも伍組が順番に拘っても仕方ない最下位組である。

 

「ねえ、そういえばアンヘルって何処に集合なの? さっきから同じ方向だけど」

 

 アンヘルは配られた用紙をもう一度確認する。

 

「ええっと、第十八多目的室です」

 

「ええっ、ウソ! ボクも同じだよ」

 

 ユーリがバッと用紙を広げ、掲げた。顔には満点の笑顔が浮かんでいた。

 

 ――これは、しんどそうだなぁ。

 

 ユーリは気のいい友人であるという言葉に嘘偽りはない。だが、演習という試験の場においては御守を押し付けられる可能性が高くなる。それは勘弁して欲しいというのが本音だった。

 

 その後は黙々と歩き続け、十八多目的室の前に辿り着く。部屋番号を示すプレートが黒く汚れていた。

 

 ガラッと戸が開かれると、中からぞろぞろと人が流れ出てきた。知らない顔が三人続くと、その後ろからベップとアルバが出てくる。ベップはアンヘルに気が付くとヨッと手を上げた。

 

「なんだ、アンヘルもオスカル教官が指導担当か。けど、アルバもいるんだからアンヘルも一緒の班にしてくれりゃいいのによ」

 

 指導教官は六人班を三つ受け持つことになっている。オスカルとは班は別だが、指導教官は同じだということだろう。

 

「って、僕たちオスカル教官が指導なの?」

 

「そうさ、やったな! 俺たち、あのオスカル教官の元で演習だぜ。けどよ、それだけじゃねえんだぜ。なんと、オレたちの班長は――」

 

「邪魔だ」

 

 ベップが興奮混じりにぺらぺらとまくし立てていたのを遮ったのは、後ろから悠然と現れた長身にして候補生制服を着流している銀髪褐色の美姫クナルだった。

 

「おお、こりゃわるいわるいっ」

 

 ベップが焦りながらもサッと退く。

 

 が、クナルの視線はベップではなく、アンヘルを捉えていた。

 

「聞こえなかったのか? 私は邪魔だといったはずだが?」

 

 ベップはキョロキョロと向かい合う二人を見比べている。先に出た班員たちも訝し気に此方を見ていた。

 

「どうやら貴様には人類に備え付けられて然るべき聴力を置いてきてしまったらしい。すまぬな、気が付かなくて」

 

「気にしないで。ぼくから置いてきたんだよ。サルの言葉を理解する必要性は恐らくないと判断したからね」

 

「ほう、その割には受け答えができているようだが? どうやら、言葉の意味すら分からんらしい」

 

「もう一度言ってくれるかな? ああ、またサル語になったみたいだ。次の自然理化学の議題は、周期的な頭脳退進化にするべきだね。ああ、必要ないか。君だけの病気だからね」

 

 ピキピキと青筋が浮かぶ。クナルが腕を振るった。

 

 アンヘルは右腕を掲げて頭を守る。まるでトラックに衝突されたような衝撃音が響くが、吹き飛ぶことなくそのまま耐えた。

 

「やっぱり原始人だね。話を聞かない」

 

「貴様こそやせ我慢は止めておけ。手が震えているぞ?」

 

「気のせいだよ。もしかして、視力を母親の胎に忘れたの?」

 

 とっさの判断だった為、掲げた腕に込めた力が弱かったのだ。だが、半ば遊びで痣の残る殴打を繰り出す反社会的な男に対して、またもや頬の不随意筋が悪口を奏でそうになった。

 

 この現象を、アレルギー性嫌悪クナル症候群とアンヘルは呼んでいた。

 

 どんな皮肉を返してやろうかと思ったが、突飛な暴力沙汰にユーリが目を丸くしている。というか明らかに注目を集めている。これ以上は続けられないと道を譲った。

 

「なかなか殊勝な心掛けだ。それでこそ、雑用係に相応しいというものよ」

 

「ほざいてろ」

 

 勝った、という微笑みを浮かべながらクナルが去っていく。その横には、疑問符を頭上に乱舞させたベップの姿もあった。

 

 アンヘルは疲れからため息を一つ吐くと、横で白目を剥いて、魂魄離脱しているユーリの肩を揺さぶった。

 

「もう時間ですから、行かないと」

 

「あ、う、うん。あ、アンヘルこそ、大丈夫だった? なんか、聞いたことないすごい音だったけど」

 

「あれは、音だけだから。ちょっと痺れるだけですよ」

 

 アンヘルは十八会議室の扉を開いた。

 

 ギギッと木造建築ゆえの摩擦音が響きわたる。奥には教壇に立つ男性と座席に腰掛ける候補生が数人危座していた。

 

「ああ、お前らも早いな。遠慮なく座ってくれ」

 

 気さくに声を掛けてきたのは、ざんばら髪を後ろで小さく纏めた男性だった。

 

 オスカル教官。士官学校屈指の実力、そして将来学校長を担うと噂される地位を合わせ持った教官であった。指導教官として翹望(ぎょうぼう)すべき相手だ。アンヘルは踵を揃えて敬礼をする。ユーリは少々興奮しながら、動きを緊張でカクつかせた。

 

「いや、いや。そんなに緊張しないでくれ。ほら、座った座った」

 

 ガチガチのユーリを連れてアンヘルは席に座る。そのまま周囲を見渡して、今座っている候補生たちの様子を観察した。

 

 まず目についたのは、斜め前に座する黒髪の女性だった。黒髪を刈り上げない程度に短くしており、ピンと伸びた姿勢が相まって社会人然としていた。如何にも気の強そうな雰囲気の女性である。胸のワッペンには壱科とあった。

 

 横目で隣の男を見る。線が細く、いわゆる参謀然とした風貌の男で、顔には眼鏡が乗っていた。

 

 もう一人、その後方に女性が居たが、興味津々に振り向くのはどうかとそれ以上の情報収集は諦めた。結論として、よく知っている人間は居ないことが分かっただけだった。

 

(というか、僕って知っている人少ないよなぁ)

 

 カチカチと古時計の秒針が時を刻む。ピリピリした空間の中、オスカル教官が態とらしく話題を振った。

 

「例年のこととはいえ、あまり緊張するのも良くないぞ。今日から一年、小隊を組んでやっていくんだから。ほら、まだ一人来ていないが、自己紹介でも始めたらどうだ?」

 

 時間も余っているしと教官が続ける。横に座るユーリはキョロキョロと周囲を見廻しだす。反対側の男やその後ろの女性も話を切り出そうか迷っているのが横目に映る。さがなら進級後の教室であった。

 

 ――仕切ろうとする人がいないから、今居ないのは上科の人かなぁ?

 

 上科は大抵組織を率いたがるものである。気質というよりは、そう教育されていると言ったほうが正確か。一般と違い、上科には軍を率いるため組織掌握術なる講義が課される。幹部候補生の上科が嫌われる原因であった。

 

 戸惑いを醸し出す空間を最初に打ち破ったのは、黒髪の女性だった。

 

「必要ありません。全員揃ってからのほうが効率的です」

 

 凛と澄んだ声だった。人によっては冷たいと感じるかもしれない。事実、威圧されたかのようにユーリは身体を震わせた。

 

「あー、そうだな。そうするか。時間までもうすぐだから」

 

 これには流石の教官も苦笑いだった。アンヘルは心の中で、黒髪の女性をキャリアウーマンと名付けた。

 

 寒々とした空気の中、ひたすら沈黙が続く。ムードメーカー不在の集団は地獄という定説を証明する時間だった。時間の最小単位を示す時計の針が十周したところで、教官がぼりぼりと頭を掻いた。

 

「さて、そろそろ時間なんだが。あと一人はどうしてるんだ?」

 

 その言葉に返答したのは、またしても黒髪の女性だった。

 

「軍人が時間に遅れるなど恥さらしもいいところです。早く始めましょう」

 

「それはその通りだが。一応初顔合わせだからな。そういうわけにも……」

 

 困り果てたオスカル教官が首を捻っていると、扉の外からドタドタドタと音が聞こえてきた。その音はしだいに大きくなった。その音がピタッと止むと、ガラガラと扉が開かれた。

 

「せ、せーふですか? ウチ、部屋間違えてもうてぇ~」

 

 似非っぽい喋り方の少女が手を膝について息を吐いている。ぜひぜひと喘ぎながらも、目は爛々と輝いていた。

 

 ――確か、肆科のユウナ、だっけ?

 

 鮮やかな唐紅の髪と豊かな身体が特徴的な候補生である。アンヘルは、学年末総合戦闘術試験で相対したため、彼女を記憶していた。

 

「アウトだ。と言いたいが今日はいい。折角の小隊結成日なんだ。早く着席しろ」

 

「へへへぇ。ありがとなぁ~」

 

「謝るときくらいは敬語を使え」

 

 はーいという軽い返事を聞き流しながら、教官は頭痛を堪えている。黒髪の女性も額に青筋を浮かべていた。

 

「頭スイーツだな」

 

 ぼそっと横の男が呟く。暗い声にアンヘルは少しばかりヒヤッとした。

 

 遅れてきた少女が椅子に座る。全員が席に着くと、教官は教壇に両手をついて候補生たちを睥睨した。

 

「よし、これで全員が揃ったな」

 

 オスカル教官はそこで切ると息を吸い込んだ。

 

「では、今ここにいる六人が一年間苦楽を共にする仲間たちだ。そして、士官学校最初の課外演習を行うメンバーでもある」

 

 教官が一人一人の顔をゆっくりと眺める。ごくっと喉を鳴らした。

 

「ここに二一三回生第七八小隊の結成を宣言する」

 

 士官学校入学以来はじめての演習。アンヘルにとって転機となる遭逢(そうほう)のひと月が始まった。

 

 

 




 ◇ 用語説明 ◇

~近代戦の成り立ち~

貴族が魔法で無双 ー> 妨害魔道具誕生、魔法が使えなくなる -> 戦術や少数部隊で妨害魔道具持ちを倒して、そっから魔法ぶっぱすればよくね? ー> 戦術、武芸至上主義誕生

~妨害魔導具~

SN(supernatural )ジャマー:Nジャマーじゃないよ


~クラス分け補足~

貴族組
特待生科:護衛(騎士)も通える

エリート組
エリート(上科):上級課程入学組 -> クナル

一般組
壱組(一般壱科、壱科):入学試験 1位~100位
弐組(一般弐科、弐科):入学試験 101位~200位 -> ユーリ
参組(一般参科、参科):入学試験 201位~300位 ー> ベップ
肆組(一般肆科、肆科):入学試験 301位~400位 ー> アルバ
伍組(一般伍科、伍科):入学試験 401位~500位 -> アンヘル


~寮分け補足~

八畳一人部屋:グレード一(上科)
十畳二人部屋:グレード二(一科、二科)
十畳三人部屋:グレード三(参科、肆科、伍科)-> アンヘル



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第二話:出会いの季節

 管理迷宮探索演習。三十日間で学園管理迷宮「試練の塔」を踏破し、その過程と達成までの日時を評価する演習である。

 

 しかし、この間も通常講義体制である。よって、候補生たちは各々ダンジョンを攻略しながら、同時に講義欠席過多による授業理解不足に陥らないよう気を配る必要があった。

 

 そんなわけで、第七八小隊の最初の仕事は演習計画の立案だった、のだが会議は紛糾した。

 

 経緯はこうである。

 

 まず、オスカル教官が七八小隊の面々を向かい合わせ、自己紹介を始めた。

 

「よーし、まず、俺の名前はオスカルだ。総合戦闘術と軍事法について教えているから、講義で会った人もいるな」

 

 オスカル・レダン・ナコル。非主流派貴族家出身にして、都市連合大戦の英雄。功一級エリシュオン名誉勲章の叙勲者にして、華麗なる魔導剣術に因んだ『緋天』の異名を持つ。教官では随一の知名度を誇る人物だ。教官故慣れたもので、皆が少しばかり興奮したが大した問題は発生しなかった。

 

 問題発生は次の人物である。

 

 教官はクラス順、つまり上科から伍科まで順番に自己紹介をするよう指示すると、ある少女がおずおずと話し始めた。少女の名はエルザ・フレイラ。童女にも見えるくらいの小柄で童顔に橙色の明るい髪。栗鼠のような小動物的愛らしさを持つ少女だが、エリート候補生らしさはまったくない少女だった。

 

「あ、あのー、よろしくお願いしますぅ」

 

 その時点でアンヘルは頭を抱えそうになった。

 

 頭首というのはそれほどに重要なのだ。勇気と野卑の区別すらない、完全な実力社会で部下の要求に従うようでは集団の統制は取れない。優しさや可愛らしさとは、弱さと同義なのだ。元々年齢的上下関係のない士官学校では、彼女のような自己主張の弱い上科生は野心に満ちた一般科生からは格好の的だった。

 

 逆転現象が顕在化したのは、次に挨拶したのは黒髪の女性である。名をソニアと言った。彼女は上科のエルザを組みやすしと見たのか、挨拶そこそこに場を仕切り出した。

 

 これが間違いの始まりであった。

 

「次はあなたね」とソニアがユーリに話を振る。が、ユーリも自己主張が苦手であった。エルザ以上におぼつかない自己紹介で「ぼ、ボクはゆーりですっ」とカミカミで言っただけだった。

 

 場は完全にソニアの独壇場である。

 

 次は遅れてきた少女に悪口を叩いた男、エセキエルだった。彼はわが物顔で仕切りだしたソニアに不満顔を浮かべながらも「俺はエセキエルだ」と言った。

 

 俯きがちなその姿勢と細っこい体格は明らかに前衛タイプではない。童女のようなエルザ。身長体格ともに平均を大きく下回り、武道経験のないユーリ。参謀タイプの頭脳労働系を思わせる容貌のエセキエルと中々偏った人選だった

 

 アンヘルは幾多もの激戦を潜り抜け、相手の立ち振る舞いからなんとなくの実力を察せるようになっていたのだが、この三人は候補生の中で、ずば抜けて経験がなさそうなのである。まさしく「うわっ、私の部隊、弱すぎ……?」である。前途多難どころではない面子だった。

 

 ソニアが次に話を振った。

 唐紅(からくれない)の髪を後ろで結った少女はユウマと名乗った。彼女の話し方はかなり論理がしっちゃかめっちゃかで、ソニアたちはイライラしながら聞き続けたが、要は最後の「よろしゅうなぁ~」の一言に尽きた。

 

 今度は完全に戦士極振りタイプだった。アンヘルは(おぼろ)げながら彼女との模擬戦を思い出す。

 

 ――あれ、どんなだっけ? 負けたことは覚えているんだけど……。

 

 が、筆記試験の後に行われる実技試験については記憶がまるでなかった。試験前は必死の缶詰でほぼ徹夜なのである。記憶が残っているだけマシだった。

 

 そして、アンヘルの順番である。

 無難かつユーモアを加えてといろいろ考えていると、ソニアが素っ気なく「名前は?」と尋ねてきた。いきなりの問いかけで驚きながらも「アンヘル、です」と返すと、自己紹介はそれで終わった。

 

 ――あー、やっぱり伍科嫌いなんだぁ……。

 

 伍科差別。士官学校で横行する学力劣等者蔑視主義である。エリート校に相応しく、学力底辺には風当たりが厳しいのだ。アンヘルの凡庸な容姿と相まって、どうにも下に見られやすい傾向があった。

 

 いきなり問題多発の自己紹介であるが、取り敢えず自己紹介を終えた面々は続いて計画に入った。争点は、如何に講義欠席の負担を均等化し、そして効率的に上層へと向かうことである。

 

 が、ここで尋常ではないほど意見が対立したのだ。アンヘルはその光景を唖然として見ていた。

 

「だから、私が計画した方いいっていっているでしょ。私は兵站計画で学年三位だったわ。なにが不満なのよ?」

 

「だから一人で決めるってのがダメなんだよ。低能だな」

 

「そうや、そうや。確かにウチは計画が苦手やけど、一人で決めたら絶対偏るて」

 

 オロオロとエルサが怒鳴り合う二人を見つめる。ユーリは必死に会議録を取ろうとしていた。アンヘルは完全に蚊帳の外だった。

 

「低能? それはあなたでしょ、参科のエセキエルくん」

 

「いちいち揚げ足をとるなよ。なんにも分かってないんだな。俺の言いたいことは、一人で決めると各々の授業負担が平等にならない可能性があるから、一応議論をもって決めるべきだと言ってるんだよ。それを一々言葉の節々に噛みついて、批判合戦にするなといってるだけだろ。話を読み取る能力すらないのか? これだから、頭でっかちの女ってやつは」

 

「ああっ! 今のあかんよ、女性差別っ」

 

 ユウマがエセキエルを指差す。ソニアは頭を振って、苛立ちを露わにした。

 

「此れだから頭の固い男って奴は。本当、死んだら」

 

「はあ? 本当のことだろ。それに死ねって言葉を使うのは真正のバカの証だぞ。子供じゃないんだから、論破されたからって安っぽい暴言を吐くなよ。痛々しいよおまえ」

 

「あなたこそ、一科に対する僻み(ひがみ)根性丸出しじゃない。ただ否定ばかりして、何様のつもりなの?」

 

「なぁなぁ、そろそろ止めようやぁ~。さっきから喧嘩してばっかりやんか~」

 

 ソニアとエセキエルがいがみ合い、そこに天然属性過多なユウマが茶々を入れる。会議は混沌(こんとん)の様相を呈していた。とくにソニアとエセキエルの相性は最悪である。

 

 制止役のオスカル教官の姿はすでにない。計画なしに迷宮探索の許可が下りないため放置するという合理的判断なのだろうが、放置された側は地獄である。

 

 キョロキョロしているエルサがいっそ哀れであった。

 

「そもそも、一科の癖にでしゃばるのが間違ってるだろ。普通、議論ってのはリーダーが仕切るもんだろ。それを勝手に進めるなんて、班長に対する敬意に欠けるね」

 

「あー、はいはい、ウチもそれ思った。班長はエルサなんやから、エルサに決めて貰おうや~」

 

「え、ええっ。そ、そんなぁ」

 

「ええ、いいわよ。班長に決めて頂きましょうか。どちらの意見に正当性があるか。ただの参科で兵站計画でも後れを取る無能と私のどちらが正しいのかを」

 

「お前本当に言ってる意味分かってるか? なんでお前が二択を迫るんだよ。常識的に考えて、最初からもう一回議論し直すのが筋だろ。論理すら分からないのか?」

 

「そんなことするなんて時間のムダじゃない。どうせ、その二択しかないのだから、決断を迫るのは当然でしょう? あなたこそ、ただ反論したいだけって見え見えよ」

 

「あぁ、そこまでにしよやぁ~。はい、これからエルサ班長が意見を言いますから、すこし静かにしよなぁ~」

 

 パンパンとユウマが手を打ち鳴らす。全員の視線がエルサ一点に集まった。

 

「えぇ。そのぉー」

 

 もじもじと両手の指を絡ませ、俯きながらぼそぼそと呟いていた。

 

 時間はすでに半刻以上経過している。これ以上はやっていられないと、アンヘルは助け船を出した。

 

「あのー、とりあえずソニアさんと残りのメンバーで計画を二つ立ててから、すり合わせるっていうのは如何でしょうか?」

 

 白熱した泥仕合に皆辟易(へきえき)としていたのだろう。とりあえずの折衷案(せっちゅうあん)に、ソニアとエセキエルが矛を収めた。

 

「そうね、そうしましょう。期限は週末を挟んだ四日後ね。それまでに準備しておいて」

 

「ああ、こんな不毛な会議さっさと終わらせるべきだ」

 

 ソニアとエセキエルが荷物を持って立ち上がる。ユウマとユーリも後れて立ち上がった。

 

 ガラガラと飛び散るようにして部屋を飛び出ていく。大変だったなぁと思った直後、ソニアが冷徹な瞳を向けていた。

 

「そこの伍科のあなた。明日までに全員の授業予定を纏めて持って来なさい。遅れないでよ」

 

 ソニアは(きびす)を返して去っていった。

 

 ――はぁ、大変だなぁ……。

 

 意気揚々とは行かない七八班の船出である。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 探索者ギルドの受付嬢テリュスがその人物に出くわしたのは、気散じに街へとぶらり出かけたときだった。

 

 彼女は幼くして探索者ギルドの職員として働いているが、その手腕については中々の評価を受けている。

 そもそもとして、新人担当はどんな会社においても困難なものである。新人たちは、やれ文句をつけたり、簡単なことで自信を失ってしまう面倒な存在である。しかし、そんな彼らを軽んじては探索者業務は立ち行かない。新規参入がない業界は滅びの道を歩むのみである。

 

 そういう意味で、テリュスの煽ててからの無茶ぶりという手法は効果的なものだった。無論、年齢の近さや容姿を考慮しての効果ではあるのだが。

 

 とはいえ、おべっか使いの日々に嫌気がさすのも事実だった。このような陰の気に囚われはじめたとき、テリュスはなにか目新しいものを探す癖があった。これは、実家が私塾兼道場を経営しているために心休まらないからだと、彼女は自己分析していた。

 

「はぁ、きょうも疲れましたねぇ。あ、その串ひとつください」

 

「お、いいぜ嬢ちゃん。ちょっとまってくれよ、ほら、一つサービスしてやるから」

 

「どうもですぅ」

 

 テリュスは、からっとした笑顔を振りまくと、屋台の店主にお辞儀をした。サービスした店のオヤジも、少女の笑みを見て顔をほころばせている。

 

(ふふふ、やっぱり私ってば美少女ですねぇ。人生イージーモードですっ)

 

 いやらしげに笑いながら、串焼きにかぶりつく。

 

 夕方の閑散とした街路の軒先では、これから来る夜半の盛り時のために食い物商売の店員たちが忙しなくしている。

 

 そんな盛り上がり前の静けさに感じ入りながら歩いていると、先の屋台、人混みの中から若い女の声が飛び出してきた。

 

「にゃあああああああっ! サイフ、おとしちゃったぁあああっ」

 

 酷く茶化した悲鳴だが、その発生源の周囲に複数の男たちが集っていた。

 

 異様な雰囲気だ。野次馬の男たちが小声で囁きながら、ただ眼前の状況に目をそそいでいる。テリュスは気になって耳を澄ますと、男達の会話が入り込んできた。

 

「おい、また喧嘩か」

「いや、そうじゃねぇよ。あの野郎どもが絡んでるみてぇだ。服を汚した金を払えとかなんとか。いつものタカリさ」

「おいおい、あいつら確か黒豹傭兵団じゃねえか。残忍なやつらだぜ」

「それって、あのプロビーヌ商会お付きの傭兵の頭領が死んだとかで台頭してきた奴らかっ。新規のやつらは、一線ってもんがねぇんだ」

「誰かもう騎士団に連絡したのかっ。あいつらなんでもやりやがるぞ」

「嬢ちゃんも可哀そうになぁ。あんなベッピンさんだってのに」

「俺らが下手に首突っ込んでもどうしようもあるめぇ」

 

 道行く人々がその集団を気の毒そうに見つめるが、そのまま何も行動を起こさない。都市部の人間は田舎の人間よりも遥かに冷たいというが、まさにそのとおりだった。

 

 テリュスは一瞬躊躇したが、どうしようもなく気になり、群集を掻き分けながら集団の前方に進み出る。そこには、一人の深い藍色の狩人服を来た少女が蹲りながら頭を抱えていて、周囲を下卑た笑みを浮かべた男たちが取り囲んでいた。

 

「うううう、ぜんぶ落としちゃいましたぁあ、大事なお金なのにぃぃぃ、えへんえへん……」

 

 少女がマヌケな声で嘆いている。どうにも緊張感の削がれる態度だが、その神秘的な顔立ちが胡散臭さを打ち消していた。鼻梁は恐ろしいほど整っており、背丈は百五十ほどの小柄だが、ぴったりと張り付いた狩人服によってスタイルの良さは明白だった。

 

 歳の頃は、十五、六だろうか。少女は、碧空の髪を風に(なび)かせ、抜けるような蒼穹と同色の瞳を瞬かせていた。

 

 テリュスはその瞬間、どくんと胸が高鳴った。どこが、どうというわけではないが、なんとなく、まるで運命にでも絡めとられた乙女のように、彼女を救わねばならないという使命感を覚えるに至っていた。

 

「おいおい、嬢ちゃん。いけねぇな、そんな言い訳は都会じゃ通用しねえぜ」

 

「ヒヒ、金がねえってんなら、その体で払ってもらおうか。心配スンナや、ちょっくら酌するだけだからよ」

 

「いつ帰れるかってのは保証しねぇがな。キヒヒ」

 

 男たちは酒精の匂いを漂わせている。目は血走っており、舌は呂律が回っていない。手加減というものを知らないのか、すでに得物を抜いている者もいた。

 

 こんな幼気な少女を見捨てることはできない。そう思ったとき、テリュスは行動に移っていた。

 

 近場にあった水桶を拾い上げると、周囲の男たちの制止の声を振りきりながら、踊り出てきた少女に驚いている暴漢目がけて水をぶちまけた。

 

「う――、なんだぁ、テメェはっ!!」

 

「行きますよっ」

 

「えっ、えっ?」

 

 男たちが目を瞑っている間に、テリュスは少女の手を引いて駆け出す。気の抜けた少女は驚きながらも、なんだかんだとついてきた。

 

 こうなれば、追いかけっこだ。テリュスの身体能力は道場の娘ということもあって、驚くほど高い。少女の手を引きながら、オスゼリアス市内を嫌というほど駆け巡った。

 

 半刻近く走り回って、ようやく相手を撒く。テリュスの額には大粒の汗が浮かんでいた。

 

「はぁ、はぁ。大丈夫、ですかぁ?」

 

「あなたこそ、大丈夫ですぅ?」

 

 少女の身体は染み一つなく、まるで箱入り娘のごとく白く艶やかであるが、かなりの長時間を走り回ったというのに息ひとつ乱していない。心肺機能は、道場娘のテリュスを上回っていた。

 

 ――やっぱり、狩人っぽい格好だし体力あるんですかねぇ…………。

 

「私は大丈夫ですっ。それよりダメですよっ。あんな男たちに絡まれたら。可愛いんですから、どうなるか分かりませんよっ」

 

「へ? え、ああ、はいですぅ?」

 

「なんですか? その変な返事はっ。もおう、折角助けたっていうのに、助け甲斐のない子ですねぇ。謝礼の一つでもよこすものでしょうに、ここは」

 

 テリュスが呆れて言うが、少女はきょとんとしたまま(ほう)けている。しかも、その視線は明らかに別の事を考えていた。「聞いているんですかぁ?」と少女の瞳を覗きこむ。すると、少女が急に両の手でテリュスの頬を挟み、額を寄せながら抱きついてきた。

 

「あれぇ~? なんだか、すっごくいい匂いがしますぅ」

 

「ちょっ、なに、何するんですかぁっ! はな、離してぇっ」

 

「お姉さんっ、すっごくいい匂いなのですぅ」

 

 少女はテリュスの話を完全に無視して、身体に擦りよる。鼻息とともに、テリュスの匂いが少女の鼻腔(びこう)に入ってゆくのを幻視していた。

 

 ――な、なになになにっ。テリュス、美人だけどぉ、女の子に好かれたいだなんて思ったことないよぉぉぉぉぉ。

 

 敬虔(けいけん)とは言えないものの、常識人の範疇(はんちゅう)としてミスラス教の教えが根付いているテリュスは、三大悪徳である同性愛には強い忌避感を覚える。しかし、よくわからない不思議な感覚が、彼女を強引に押し返せなかった。

 

 離してぇ、嫌なのですぅという、百合好きにはご褒美な行為を幾度となく繰り広げながら、ようやく少女を引き離す。テリュスは頭を押さえながら、とりあえず助けた少女を問い詰めた。

 

「それで、お名前は? ああ、私はテリュスっていいます」

 

「お姉さん、テリュスっていうですか。とぉっても、いい名前ですぅっ」

 

 はぁ、とテリュスは疲れを滲ませる。アンヘルがいつも彼女に感じる疲れと同種のものを纏いながら再度尋ねた。

 

「だーかーらぁ、あなたの名前を教えなさいっ!」

 

 テリュスがカッと吠える。少女は瞳をパチクリさせた。

 

「はぁい、私のお名前は、イズナ。イズナっていいますですぅ」

 

 蒼空の少女はそう名乗った。

 

 運命。

 後に、テリュスはこの出会いをそう呼んだ。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 あくる日。アンヘルは放課後、全員の講義予定を纏めてソニアに提出した後、ユーリと共に会議室へ向かっていた。

 

「だいじょうぶ? ちょっと疲れてるみたいだけど?」

 

「大丈夫ですよ。夜通し飲みに付き合わされただけですから」

 

 アンヘルの台詞を聞いて、ユーリは目を剥いて驚いていた。

 

「へー、いいなぁ。アンヘルの部屋は仲がいいんだ」

 

「そちらは不仲なんですか?」

 

「不仲ってほどじゃないけど……」

 

 ユーリは言い(よど)みながら暗い顔をしていた。

 

「やっぱり、真面目だから。壱科の人って」

 

「そうですね。壱科はほとんど上科予備生のようなものですから」

 

 上級課程を受けたが、補欠合格で一般に移された生徒は多い。そのため下剋上を願って日々鍛錬を重ね、三年目からの小隊入れ替えに備える壱科生も少なくなかった。

 

 ふう、と息を吐く。夜通し起きているからか、如何にも思考が錯乱(さくらん)している。気を抜くと、すうっと寝入ってしまいそうだった。

 

「それで、今日の会議はどんな内容なんですか?」

 

「ああ、ええっと。取り敢えず、訓練日と探索日を決めるために、全員の情報を纏めるだけ纏めようと思って。エルサさんは遅くまで講義らしいから、取り敢えずボクたちだけになるんだけど」

 

「訓練日? なんですかそれ?」

 

 オスカル教官から指示された演習内容は、迷宮探索である。訓練日についてはとくに指示されていないはずだと、アンヘルは首を捻った。

 

「ええっと、一応友達に聞いたら、探索前に個々の実力を把握するための訓練をするらしくて。この演習の伝統らしいんだけど、そういうチームマネジメント能力も測られてるんだって。だから、ボクたちもやったほうがいいじゃないかな。それに、はじめての実戦だから、慎重に慎重を重ねたいし……」

 

「ああ、なるほど……」

 

 士官学校らしい意地悪な内容である。冷静に考えれば、ただ優秀な人材を揃えた小隊が有利に決まっているのだ。それ以外に評価する方法、たとえばユーリのような情報収集能力やチーム管理手腕など、多角的に評価されていると考えたほうが自然だった。

 

「今日集まるメンバーは、ソニアさんとエルサさんを除いた四人と考えていいんですか?」

 

「ぁあ、そのぅ。ユウマさんは捕まらなくって……」

 

 申し訳無さそうに言う。が、候補生は放課後町に繰り出す連中も多い。明日からは三連休である。捕まらないのも仕方ないといえるだろう。

 

 ――ってことは、男三人かぁ。ちょっとだけ、気分が下がるなぁ……。

 

 失礼なことを考えながら、アンヘルは会議室の扉を開く。中には、眼鏡をかけた男が座っていた。

 

「すいません、遅れました」

 

 アンヘルの声で、エセキエルは読んでいた新聞から目を離す。細ばった顔を(しか)めていた。

 

「それで、今日はなにをする?」

 

「ええっと、ちょっと待ってくださいね……」

 

 取り敢えずアンヘルは計画に必要な情報を取り出す。ユーリは部屋に備え付けられている給湯場へ茶を汲みに行った。

 

 ゴソゴソと用紙を取り出して並べていると、エセキエルの持つオスゼリアス新聞が目に入った。見出しは『刀匠マレー・カルトナージュが残した十七魔剣、全容解明される』とあった。

 

 資料を並べ終えると無言になる。無言を気にする人間と気にしない人間がいるが、アンヘルは前者だった。

 

「あ、あの、魔剣についてどう思いますか?」

 

 魔剣って響きがかっこいいですよね、くらいの雑談として尋ねたのだが、エセキエルはバサッと新聞を置いてアンヘルを直視した。

 

「どうって、どういう意味? もっと、質問は正確にするもんだろ」

 

「ええっと……魔剣が発見されて一年も経つのに、ようやく能力が判明するだなんて、よほど複雑な能力なのかなぁって、思っただけなんですけど……」

 

 魔剣。それはアンヘルの持つ魔導剣とは根本から違うものである。アンヘルの剣はあくまでも魔法的効果が掛かっているのみで、名工の作品に過ぎない。

 

 しかし、魔剣は違う。偉大な刀匠によって魂を注ぎ込まれ、その信念が長年にわたり神秘の力渦巻く環境で堅固になると、超常現象を発生させる戦略兵器へと変貌するのだ。

 なお、一応魔剣と呼ばれるが、最初に発見された道具が剣の形状をしていただけであり、実際には短剣や槍なことも多い。皇家七剣と呼ばれる建国以来の魔剣は、剣は二振りしか存在しなかったりする。

 

 魔剣としても傑出した性能であると噂される十七魔剣に、男子たるアンヘルも興味が尽きない――といった程度の話なのだが、エセキエルは眉を顰め、グッと眼鏡を人差し指で押した。

 

「はぁ、なにも分かってないな。お前」

 

 失望したとばかりにため息を大きく吐いた。

 

「この話の本質がまったく分かってない。そんな考え方で、今までよく生きてこれたな」

 

 辛辣極まりない言葉である。常に相手を立てるため、自身より上の科には敬語を使い続けるアンヘルだがさすがにカチンときて反駁(はんばく)した。

 

「なにか問題ありますか。魔剣なんて僕ら一般候補生には関係ないと思いますけど」

 

「そういうところだよ。自分に関係ないと思って、情報の裏を読んでいない。そんなんじゃ、世間の情報に踊らされるのと一緒だぞ」

 

 アンヘルとしては空返事を返すしかない。その態度がさらにエセキエルを苛立たせた。

 

「そもそも、この魔剣の話はどういうことか、わかっているのか?」

 

「はあ、魔剣の能力が軍事バランスを変えるかもしれないってことですか?」

 

 取り敢えずやけになって憶測を言ってみる。しかし、エセキエルはお気に召さなかったようで、ため息を吐くばかりだった。

 

「いいか、情弱のお前に教えてやるが、あの魔剣の情報はオスゼリアスに居を構える三勢力の争いなんだ」

 

 唐突な言葉にアンヘルは一瞬なにを言われたのか分からなかった。記事にあるのは魔剣の概要や刀匠の生前の記録である。勢力の話など微塵も記載されてなかった。

 

「オスゼリアス最大規模の『帝国東方軍』、オスゼリアス治安維持組織『バレンティア騎士団』、そして貴族のお飾り部隊『聖カトー騎士団』。今回の魔剣騒動は、この三勢力の内、もっとも勢力の弱いお飾り騎士団が魔剣を発掘してしまったことに端を発しているんだ」

 

 エセキエルは三大軍派閥について熱弁する。その剣幕に黙るしかなかった。

 

「これが他の勢力だったら予算通り最大規模の帝国東方軍に半分。バレンティア騎士団へ、残りを三つを分けたうちの二つ。残りが他。こうすればいい。分かったか。けど、そう簡単にいかないから争っているんだ。こんな新聞の見た目だけの情報に乗せられて騒ぐのはバカの証拠だぞ」

 

 滅茶苦茶に(まく)し立てられて、最後のバカしかわからなかったが、どうやら軍の派閥争いや陰謀論に話をもっていきたいらしかった。

 

 真実をついている、というのは事実なのだろう。魔剣は一種の戦略兵器だ。人の手によって製造できないとなれば、勢力間のバランスが崩れる可能性もある。

 

 しかし、アンヘルの心にあったのは一点だった。

 

 ――だから、どうなの?

 

 出世のため派閥争いには多少の興味はあれど、まだ候補生の身である。オスゼリアス軍の勢力争いに興味を持てという方が無茶だろう。

 が、不満は押し込めた。こういう物知りタイプに反論をしてもムダだし、そもそも反論できる材料をアンヘルは持たない。(へりくだ)って誤魔化すしかなかった。

 

「ええっと、その、勉強になりました」

 

「もっと情報の裏を読め。情強になるには、情報リテラシーの観点から自分を変えるしかないぞ」

 

 ふふんと訳知り顔でエセキエルは鼻を鳴らした。会話に齟齬(そご)をきたすほどの関係悪化を招くくらいなら、こうやって気分を損ねないよう心を砕くのがアンヘルの処世術だった。

 

「どうしてそんなに詳しいんですか? 僕の知り合いには、エセキエルさんほど詳しい人はいないんですけど」

 

「はっ、これだから情弱どもは。まあ、いいさ。世界がそうなら、得するのは俺だけだからな。ああ、なんで俺が情強なのかって? それは、俺が子供の頃からいろんな情報を見比べてきたからだよ」

 

 エセキエルの眼鏡が夕日を反射してきらりと光る。インテリ特有の優越感(ゆうえつかん)が滲んでいた。

 

「ええっと、どうしてそんなに情報を見極めたんですか? 親が民会勤めだったりってことですか」

 

「いや、新聞社だよ。デンドロタイムズ。知ってるだろ」

 

「……名前くらいは」

 

 新聞社は大手しか知りません、といえばまた(けな)されそうである。それに親の会社を知らないと正面から告げるほど常識知らずではなかった。

 

「おいおい、まさか都市新聞しか読んでないのか? あの新聞は欺瞞(ぎまん)ばかりだぞ」

 

 エセキエルはバシバシと置かれている新聞を叩く。

 

「たとえば、民会に不正当選した奴が吊し上げられているが、それは完全に虚偽で、実際には元老院が気に食わない奴を弾劾しただけだ。それに、今度の夏聖祭にあの大神祇官ドミティアスが来るなんて情報があるが、それも嘘だ。あとは、十八本目の魔剣があるなんて都市伝説を信じているやつもいるが、それも嘘なんだ。全部元老院に踊らされているんだ。全部がぜんぶ、嘘っぱちなんだよ。それを解き明かしているのが、デンドロタイムズなんだっ」

 

 これが陰謀論者というものなのだろうか。アンヘルは頭を捻る。

 

 早く終わってほしい。が、願いは届かず。ユーリが来るまでの時間、延々と世情について聞かされた。エセキエルはもちろん、茶をいれる時間が長いユーリですら嫌いになったアンヘルだった。

 

 

 

 §

 

 

 

「じゃあな」

 

 エセキエルが機嫌良さげに去っていく。アンヘルはその後ろ姿に「死ね」と念を送った。

 

「あはは、その、ごめんね。一人にしちゃって」

 

 ユーリが苦笑いで謝罪する。しかし、そのよそよそしさすら憎らしかった。

 

 とはいえ、何の過失のないユーリを責めるほど狭量ではない。むすっとはしながらも、最終的には(わだかま)りなく別れた。

 

 アンヘルはひとり校舎を歩く。

 時は黄昏時(たそがれどき)、候補生の姿はまったくない。静かな空間をコツコツ靴を打つ音が響いていた。

 

 明日は仕事だと憂鬱な気分になりながら、疲れと眠気が入り混じった疲労感を堪能(たんのう)する。すると、角から何かが飛び出してきた。バンっという衝撃とを胸に感じる。同時にぶつかった誰かは尻もちをついていた。

 

「いててぇ~」

 

 倒れている女性は目を瞬かせていた。

 

 肩先で結われた紺藍(こんあい)の髪に露草のような肌。鳶色(とびいろ)の猫のような三白眼(さんぱくがん)。民族衣装に押し込まれた豊かな肢体が、倒錯的(とうさくてき)なほどに色香を放っていた。

 

 一瞬部外者かと思ったが、スカートには制服を採用している。バリバリの学則無視しても許されるのは、貴族だけの待生科に通う生徒のみだ。アンヘルは一瞬沸いた苛立ちを即座に封じ込めて、その少女に手を差し伸べた。

 

「も、申し訳ありませんっ。私がぼうっとしているばかりに……」

 

「う、ううん。いいの。ボクが見てなかっただけだから」

 

 えへへと朗らかな笑みを浮かべて差し伸べられた手を掴む。ぐっと立ち上がり、スカートの汚れを払った。

 

 自然な動きである。所作だけみれば貴族には思えないほど気さくだったが、美貌としてはあのルトリシアに劣らないだろう。

 

 だが、アンヘルはそんな少女に対して驚愕に打ち震えていた。

 

 尋常ではないほどの力、五大貴族という名の頂点、ヴィエント家の長子に匹敵する力。だが、それだけではない。それ以上に存在感を放つ特殊な香り。匂い立つフェミニンローズの香水とは違う、同族の匂いをアンヘルは強烈に感じていた。

 

「急ぎすぎですよ、クロエさん。それに廊下を走るなんて、迷惑になりますよ」

 

 後方から翡翠(ひすい)の髪の少女が追ってくる。それは、アンヘルが恐れる美貌の女ルトリシアだった。

 

 あのルトリシアと対等に話せる女。そんな存在はたった一人しかいない。

 

 第二一三回生は奇跡の世代と呼ばれている。怪物クナル、闘技大会優勝リカルドや召喚士ニコラスなど、例年では考えられないほどの実力者が揃った年なのだ。しかし、特待生科でも同様に豪華(ごうか)な面々が揃っている。

 

 帝国で唯一領地を持つことが許された五大貴族。その内四家が一学年に揃ったという、信じられない世代なのである。

 

 法政を司るデンホルム・オーブリー・アル・アッグア。

 帝国の南の穀物庫ユースタス・リンゼイ・アル・リエガー。

 軍の名門ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエント。

 

 その壮々(そうそう)たる面々の中、一際大きな輝きを放つ存在がいる。伍科生は貴族にアピールする機会がもっとも少ないが、それでも知っている超有名人。

 

 歴史上数例しか確認されていない、青い血に連なる者であるにもかかわらず、血筋に由来しない特殊能力、召喚術を併せ持った生まれついての英雄。

 

 名をクロエ・シルウィア・エル・オスキュリア。

 

 だが、大層な肩書を持つ女はそれを完全に無視して、気安く前にいた。

 

「ごめんごめん。でも、気になっちゃって」

 

「ほら、前を見ずに走るから。焦らずとも、演劇には間に合います――あら、あなたは、アンヘルさまではありませんか」

 

 うっと呻きそうになるが、何とか飲み込む。そのまま(かかと)を揃えて、敬礼をした。

 

「お久しぶりで御座います。ヴィエント侯爵令嬢さま」

 

「あら、畏まらなくても構いませんよ。ここは士官学校でありますから。ルトリシアとお呼びください」

 

「……恐れ多いお言葉ですが、このままで結構であります」

 

 そうですかと薄く微笑む。しかし、目は笑っていない。試し、ということなのだろうか。返答に満足したような雰囲気を放っていた。

 

 背後に控える騎士の一人、ハーヴィが片腕のまま此方を睨みつけている。髪の奥に昏く輝く瞳は、此方を貫かんとしていた。

 

「え、あれ? ルトの知り合いなの」

 

「ええ、そうですわ。以前、色々ありまして」

 

 ルトリシアが片目をパチっと瞑る。誰もが心動かされる態度だがアンヘルは寒気だけが先行した。

 

 クロエは物珍しそうにアンヘルの顔をじろじろと眺めるが、あっと思い出したかのように顔色を変えた。

 

「そうだっ。早く行かないと、ほら行くよ」

 

 今度はクロエがルトリシアの腕を引っ張る。女子高生の放課後、というにはあまりに婀娜(あだ)やかな光景だが、片方がルトリシアなだけで心胆まで凍えそうになった。

 

「キミ、ほんとゴメンね。でもボク、用事があるから。また今度ねっ」

 

 今度なんてあるわけがない、と知りながらもアンヘルは少女の笑顔に見惚れた。

 

「行きましょうか。それでは、また、アンヘルさま」

 

 ルトリシアが優美にお辞儀をして去っていく。その後ろには数人の騎士たちが続く。一瞬の邂逅(かいこう)だが、癒されたような疲れたような複雑な思いを感じていた。去っていく方向を見続ける。

 

「おい、貴様。アンヘルといったな」

 

 ゾッとするほど恨みの篭った声に振り返る。そこには、いつかヴィエント邸で対決した騎士ハーヴィーが佇立していた。

 

 想像を絶する憎しみを瞳に宿している。失った片腕と評価。それを乗り越えてきたのだろう。アンヘルという仇敵をバネにして。

 

 ハーヴィーの周囲が神秘の力で満ちる。魔法の前兆だ。疑問を呈する前に、魔法が発動した。

 

 が、なにも起きない、と思った瞬間だった。

 

「うっ」

 

 一瞬、喉に何かが詰まったのかと思った。まるで生きながら、棺桶に蓋をされ、墓穴に釣り下ろされたようだ。アンヘルは喉に手をやりながらもがく。呻くだけ、濁音が漏れるだけ。唾が生成されては飲み干すを繰り返すも、空気が体に入っていかない。

 

 霊の白い手が首を掴んでいるのか、透明の、熱い塊が喉元に溜まっていた。

 

 もう片方の手で胸を叩いた。膝をつく。視界が白く、濁っていく。酩酊状態を遥かに超える苦しみだ。呼吸をしているはずなのに、なにも入らない。哀れな声だけがこぼれる。口から泡が溢れた。

 

「どうだ、苦しいだろう? こんなもんじゃないぞ、俺の味わった苦痛はなぁ」

 

 恐ろしい形相で苦しむアンヘルを嗤っている。

 

 意識が霞み、なにも見えなくなった時だった。ふっと、魔法が打ち切られる。

 

 耐えきれなくなって口を開いた途端に、生命の息吹が逆流するように肺になだれ込んでくる。はぁはぁと呻くようにあえぐと、さっきまで空っぽだった通路に溜まっていたものが流れ出していくようだった。それでも、喉首あたりに熱がわだかまっている。水から這い出した魚の如く、口を開閉させるしかできなかった。

 

 ハーヴィーは暗い翳りを克明にしながら言った。

 

「いいか、必ず貴様を後悔させてやる。俺の名を、忘れるんじゃないぞ」

 

 それっきり去っていく。その後ろ姿は、まるで百鬼夜行のように暗がりが連なっていた。

 

 霞んでいく光景に、アンヘルは意識を失っていった。

 

 

 




 ◇ 二一三回生七八小隊紹介 ◇

上科:エルサ(女)
壱科:ソニア(女)
弐科:ユーリ(男)
参科:エセキエル(男)
肆科:ユウマ(女)
伍科:アンヘル(男)

*探索者現地集合:アンヘルはアホなので現地集合ですが、一般的にはそろって迷宮に向かいます。


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第三話:されど平和な日常に

「…………帝国歴が始まる前、共和政時代よりも(はる)か昔の王国時代。帝国創神話によると、女神ヴィーナスの血を引く少女の息子(むすこ)にして、軍神の系譜に連なる少年、崇高なる皇帝陛下のご先祖様にあたるトーラさまが、御家騒動(おいえそうどう)による遭難から偉大なる王龍に拾われ成長した後、建国した国がトレラベーガ王国である」

 

 誰もが知っている、試験にすら登場しない退屈な建国神話について語る。

 

 教室の前方にある教壇(きょうだん)へ肘をつきながら、暇つぶしの言葉を並び立てる。不真面目(ふまじめ)極まりない態度だが、気にする生徒は一人(ひとり)としていなかった。視線を上げると、私塾の教室が広がっている。教会の長机のように机が櫛比(しっぴ)した場所に、何人もの生徒が座っていた。

 

「まだこの頃は、魔法も発展していない、いわゆる軍史学上では原始戦争時代と呼ばれる時代だね。この後、トレラベーガ王国は十代ほど王政が続くけれど、王家の横暴によって市民たちが立ち上がり、各勢力の頭、今の貴族家の前身となる部族たちを旗頭に据えて、王政を破り、王国は共和制へと移行することになる」

 

 語られる言葉はしわがれていた。喉元には黒く濁った跡がついている。ただでさえ疲れているというのに、こんな道化のような事をしているせいで、憂鬱な気分は加速した。

 

「でも、これについては魔法技術によって、権力が王一強から、貴族に分割されていったことが原因なんじゃないかと史学では訂正されつつある。実際に僕がいたわけじゃないから真相は分からないんだけど、確かに魔法なんてものが出てくるんなら、世界の情勢は一変してもおかしくないなあと思うよ」

 

 生徒たちは言葉を聞かずに板書している。言葉を紡ぐ本人としても、板書中の暇をつぶす閑話休題的な話だった。しかし、金を(もら)っている身としては続けるしかなかった。

 

「魔法は、当時、神人や使命を受け、()(しろ)となった使徒の末裔(まつえい)のみが使える技術だったんだ。これまた、神人なんて大袈裟(おおげさ)だと思う人も多いだろうけど、神降ろしと呼ばれ、神霊を天から祭壇に招き迎える使命を負った巫女(みこ)はいまだに存在するから、まったくの(うそ)ってわけじゃないんだろうね。最近は巫女(みこ)プレイなんてものもあるから、現代人は巫女(みこ)に対して神秘性を感じなくなっているみたいだけど」

 

 くだらない冗談に優等生のお下げ少女が眉をひそめる。生徒たちは失笑を漏らすか、不快な様子を隠さないか、その二つに分類された。優等生らしく一足早く板書を終えた少女以外には誰も反応を示していない。

 

「まあ、そんなこんなで、トレラベーガは世にも珍しい共和制国家となったわけだね。当時は王国ばかりで、新たに登場した魔法に対応することが出来なかったけど、トレラベーガ共和国は貴族へ権力を集中させず、優れた血筋を持つ人材を力として使うことが可能だった。色々苦難はあったけれど、トレラベーガは世界に対して覇を唱え、結果的に広大な領地を得ることができたんだ。

 でも、物事には始まりがあれば、終わりもある。共和国時代にも限界があったんだ。それは広大になりすぎた国家を支配するのに、共和国制による議会統治では判断が遅すぎるということや、各国の魔法戦力が増大したという指摘もある。けど、一番大きな要因は、みんなの知ってのとおり妨害魔道具(SNジャマー)だ」

 

 これには板書を終えた数人の男子学生が反応を示した。記憶を引っ張り出して、彼らが士官学校志望生であることを思い出す。この時代、帝国成立の時代は、少年たちが心躍る時代なのだろう。アリベール教官の元、必死に学んだ試験前一ヵ月の地獄を思い返した。

 

「妨害魔道具は知っての通り、というか試験対策には必須だから知っていると思うけど、魔法大国リヒテガルドのアルント伯が開発した対魔法兵器だ。魔道具工学の分野的に言うと、魔法による魔素微粒子干渉を妨害するために、先んじて魔素粒子に干渉しておいて、相手の発動を妨害する兵器のことだね。これまであった防御魔法と違って、平民にも使えるし、維持も簡単。そのうえ、その妨害範囲も広大となれば、貴族一強の時代は終了した。魔法が絶え間なく飛び交う戦場では、平民は肉壁と同じ扱いだったらしいから、僕たちにとっては有難い事なんだけど、貴族の魔法を頼りにしてきたトレラベーガ共和国は困ったことになる。

 そんなとき起きたカルサゴ教国との大決戦、相手方の大将軍ハルカルミに大敗北を喫してしまったのも仕方ないといえば、仕方ないことなのかな。やっぱり国家としては問題があったということで、初代皇帝陛下の父君にして、あのトーラさまの血を引き、そして永久独裁官に指名された英雄カエルノさまが新たに軍体制を見直して、軍師やダンジョン攻略に励んでいた探索者たちを勧誘。専門的な軍人部隊を作り出したんだ。当時は徴兵制が基本だったから、軍の中核を志願制に変えたのは、(すさ)まじい決断だね。

 これが、現在のトレラベーガ帝国の基本。軍の武芸至上主義や軍国主義など、今まで貴族政治体勢だった風潮を一変させて、新たな風を巻き起こしたんだ」

 

 そこまで言いきって、アンヘルは生徒たちに視線を戻す。二十名の生徒たちがこちらをじぃっとみている光景に、自身が教師の真似事(まねごと)をしているという現状を再確認させられた。

 

 アンヘルとしてはまったくの不本意なのだが、学術院や士官学校に入学するため、もしくは単なる教養のため、日々私塾で勉強している生徒たちに教師のようなことをしている。

 

 理由としては比較的簡単で、目が飛び出るほどの借金をしていながら、日夜士官学校に通って返そうともせず、嗜好(しこう)品購入の(ため)に金の無心を続けたため、アリベールが激怒したのだ。

 

 出世払いが通用する、慈しみ(あふ)れる少女ではないことが悲運(ひうん)だった。

 

 そんなわけで、騎士ハーヴィーに気絶させられた次の日も、仕方なく街へ繰り出していた。当然ながら、本日行われている七八小隊計画会議には出席できない。

 

 カチカチと、頼まれてもいないのに時計(とけい)が独りでに針を動かしている。あともう少しで終わりだった。講義を終了させる。

 

「それじゃあ、終わりにするね。小テストはまた次も実施するから、しっかり勉強してね」

 

 生徒たちの不満の声を尻目に、そさくさと教室を出る。授業後も生徒たちの雑談に付き合うほど、教師業に熱心ではなかった。

 

 他所の教室から出てくる生徒たちに挨拶を返しながら講師控室へ向かう。ガラガラと扉を引くと、アンヘルを予備校の教師として迎えてくれた事務員のレズラの姿があった。

 

「あら、今日(きょう)も早いのね」

 

 恰幅(かっぷく)のいい中年の彼女は、その見た目通り機嫌よく焼き菓子を口に運んでいた。

 

「計画どおり授業を進行していますから」

 

「まあ、そうなんでしょうけど。やっぱり親御さんは、時間目いっぱい使って授業して欲しいのよ。ほら、学術院の生徒さんたちは、時間を超えても講義を続けるでしょう?」

 

 口ではそう言いながらも、本人にはそこまで執心している様子はない。とりあえず言ってみる、という様子だった。

 

 そんな彼女の分かりやすい面が嫌いではなかったが、アンヘルが教師として雇われているのは、彼女のもう一つの側面、人の話をあまり聞かない性格に由来していた。

 

 アンヘルが教師として雇われた経緯はこうである。

 

 アリベールに休日就業を強制されたため、今までの経験に(のっと)って東方一刀流の道場で指導員に応募した。(かじ)る程度だが基礎はできているし、士官学校候補生なら道場生に武術を教えることに不足はない。貧乏候補生の中には、指導員として食いつないでいる者も少なくなかった。

 

 すんなりいくはずだったのだが、レズラ事務員の早合点とアンヘルの士官候補生らしくない容貌が悲劇を生んだ。その日たまたま、学術院から雇われた新人講師が来ることになっていたが、それを勘違いしたレズラは、戸惑うアンヘルを引っ張って無理やり教壇に立たせたのだ。

 

 強引なレズラに断りを入れることもできず、はじめての講義でばっちり生徒たちの心を(つか)んでしまった。とは言っても、別段話が上手(うま)いとか、教え方が上手(じょうず)という意味ではない。知識自体も士官候補生としては底辺を彷徨(さまよ)っているし、教師としては不適格なはずだったのだが、ある一点、それだけにおいては誰の追随も許さぬ能力を持っていた。

 

 それは、受験対策である。

 

 そもそもが、この時代の勉強方法が稚拙に過ぎた。アンヘルが担当することになった史学においては、勉強法とは、ただ講師が年表を読みながら合わせて必要な知識を板書するだけのゴミ以下の内容である。

 

 これが算術などであればうまく行かなかっただろうが、史学は語呂合わせ、メモリーツリー、小テスト形式に穴埋め問題など勉強法が点数に直結する。

 

 こうやって、当代最高の私塾講師として高額な報酬を手にしたアンヘルは、辞めるに辞められず、教師を続けていたのだった。

 

 講義資料を机の上に(ほう)()して、椅子に腰かける。講師室には(ほか)にも学術院のアルバイト生が居て、妬心に満ちた瞳を向けていた。不真面目(ふまじめ)なアンヘルが講師人気最高というのが気に食わないのだろう。アンヘルとしては、日本時代の勉強法をそのまま伝授しているだけなので、誇らしくともなんともないのがまた不幸だった。

 

 レズラがしみじみと(つぶや)いた。

 

「ねぇ、あなたは講師の方が向いているんじゃないかしら?」

 

 何時(いつ)もの勧誘に対して壮絶に嫌な顔を浮かべる。だが、中年女性のいいところなのか、悪いところなのか、無視して続ける。

 

「あんまり、軍人さんには向いているようには見えないしねぇ。勿論(もちろん)、士官学校のエリートさんにこんなこというのは失礼だってのは分かってるんだけど。試験対策に詳しいし、なにより生徒から人気もあるから。もしやる気があるなら、臨時ではなくて正式に講師になるべきだと思うのよ」

 

 レズラがうんうんと(うなず)く。アンヘルはとりあえず笑っておいた。それが、社会を円滑に回す潤滑油だと知っていたからだった。

 

 心底どうでもよかった。

 もう一時間講義をすれば、その後は道場で指導を受ける予定である。講師料の一部と引き換えにタダで訓練できるとなれば、多少の嫌なことも忘れられた。

 

 

 

 §

 

 

 

 カンカンと竹刀を打ち合う音が、木張の道場内に響き渡っている。ささくれだった床板の上には、門弟たちの努力の跡が島のように連なっている。

 

 道場の奥、日陰となっているその場所で二人(ふたり)の男が激しくせめぎ合っていた。

 

「いやぁあああああッ」

 

 獅子吠。白い道着を(まと)った男が竹刀(しない)を両手で握りしめて、垂直に振り下ろす。

 対峙(たいじ)する茶髪の男――アンヘルは、その剣撃に対して、全速力で顔面から突っ込んだ。

 

 雷轟のような振り下ろしに、目が風を切る感触を感じるほどの至近距離で見極めると、そのままショルダータックルをお見舞いする。流れるままに足払い、回し蹴りを繰り出して、体制を崩した相手に横殴りの剣を振るった。

 

 ぺたんと男が尻餅(しりもち)をつく。アンヘルは首元に切っ先を据えた。

 

「ま、まいったよ」

 

 いちちと男が打たれた頬を()でる。その瞳は敗れたことの悔しさと門弟の成長を喜ぶ気持ちで二分されていた。

 

「いえ、たまたま作戦が成功しただけですから、カルリトさん」

 

 男は差し出された手を取って立ち上がる。パンパンと裾の(ほこり)をはらうと、手首を振って負傷具合を確かめた。

 

「ま、確かに剣の腕ならまだまだなんだろうが。何でもありとなると、道場でも勝てるやつはいないなぁ。師範のオレでも、こう易々と負けちまうとは。はは、面目丸つぶれだよ」

 

「そんな……」

 

「いやいや、謙遜してくれるな。今まで何人も弟子を見てきたが、その中でも群を抜いた身体操作技術だと思う。さすがは、士官候補生というべきなのかな?」

 

 カスコ道場。中央区に堂々と(そび)え立つ、数多くの門弟を士官学校に送り込んだ名門道場である。ただ、その功績は、どちらかといえば私塾のほうに重きが置かれているのが悲しいところなのだが。

 

 その師範代であるカルリト――正確には師範代代理だが――道場の長男ということもあり、師範不在の際にはこうやって道場を仕切っていた。

 

「こうして付き合っていただいて、ありがとうございます」

 

「いやいいさ、気にするな。実際のところ、此方(こちら)も私塾の大先生に稽古をつけるだけで給料を抑えられているんだ。それに、君が道場生から避けられているのは知っているしな」

 

 はははと笑う。言われた側のアンヘルも笑うしかなかった。

 

 道場生から避けられている、というのはもはや周知の事実だった。それは、嫌われているとか、見下されているわけではなく、単純に練習相手に誘いたくない人物という意味である。

 

 実戦経験、とくに人間同士の殺し合いを演じた戦士は、強化に殺意が混じるようになる。アンヘリノとの激戦を越えたアンヘルは、あれ以来勝負となると相手を無意識に(おび)えさせる戦意が芽生えつつあった。

 

 無論、経験豊富な武芸者には何の意味もない能力なのだが、年若い門弟ばかりの道場では、遠巻きにされるのも致し方なしだろう。そういう理由もあって、アンヘルの相手はもっぱら大人(おとな)ばかりだった。

 

「じゃ、俺は(ほか)の連中を見てくるから、少しの間素振りでもしていてくれ」

 

 身を翻すと、師範代である男が厳しい声を門弟たちに浴びせる。そのあとは、何時(いつ)もなら実力ある武芸者に稽古をつけてもらうのだが、日が悪く誰もいない。そうなると、素振りに従事するしかなくなるのだが、どうにもやる気が起きず辺りを見渡した。

 

 若い少年少女らが型通りに剣を振り回している。上方からの袈裟斬(けさぎ)り、【穂群切り】だ。

 

 ――流派自体は嫌いじゃないんだけど、名前だけは滅茶苦茶(めちゃくちゃ)ダサいんだよなぁ……。

 

 東方一刀流の初代は農村出身の男で、日々の農作業から剣技を編み出したとされる。そのため由来自体は尊いのだが、流派の基幹部分はどうにもダサい技名ばかりであった。

 

 その中でも際たるもの。【穂群斬り(ほむらぎり)】は、鎌で稲穂を切る動作から着想を得たものだ。が、若者は歴史の重みよりも、分かりやすい格好の良さを求めるものだ。

 

穂群斬り(ほむらぎり)にするなら、焔斬りにすればよかったのに。こっちで勝手に改名してやろうかなぁ……)

 

 (なお)、師弟たちが後年になって開発した技はこのかぎりではない。ホアンの奥義、【流水波濤剣】がらしい名前なのはそんな理由だった。剣術的には(いま)だ表位のアンヘルにはまったく関係ないのだが。

 

 渇きを訴えた喉を(いや)すため、道場を出て裏庭の井戸に回る。涼しげな風が吹き込んでいた。

 

 テクテクと石畳の上を歩く。いつもは静けさに包まれているその空間は、今日に限って少女たちの嬌声(きょうせい)で満ちていた。少女たちが木陰の石段に隣り合って座っている。

 

「こらぁー、くっつかないでくださいっ」

 

「いいじゃないですかぁ、テリュス姉さまぁー」

 

「だから、(わたし)はお(ねえ)さまじゃないって、いってるじゃないですかっ」

 

 少女たちが(じゃ)れあっている。片方の少女は嫌そうに、もう片方の少女は(うれ)しそうにくっつきあっていた。

 

今日(きょう)はなにするですかぁ?」

 

「だーかーら、あなたを連れて行かないっていってるでしょっ」

 

「えー、どうしてですぅ。ひんひん」

 

「その嘘泣(うそな)き。通用すると思ってますっ?」

 

 仲が良いのか悪いのか。打てば響くような関係だ。その片方、茶髪の少女には見覚えがあった。

 

 探索者ギルドの受付嬢テリュスである。いつもは人を引っ掻き回す小悪魔的策略が、己よりもさらに無邪気な少女の前では翳りが見えている。巻き込まれるのも大変だと思い、アンヘルはそっと身を引こうしたのだが、そういうときに限って現れなくても良い人物が登場する。

 

「――あれ、アンヘル。こんなところに居たのか」

 

 無粋な声は後ろから掛かった。アンヘルを探しにきたカルリトが、空気を読まずに呼びかけてきたのだ。無邪気にじゃれ合っていた少女たちの視線が集中する。同時に、カルリトの視線も少女たちへ向けられた。

 

「テリュスじゃないか。どうしてこんなところに居るんだ?」

 

 カルリトが見知った知人に声を掛けるような気やすさで尋ねる。知り合いなの、と感じるアンヘルを尻目にテリュスは嫌そうな顔をした。

 

「訓練するなら、道場を使ったらどうだ?」

 

「……どうでもいいんで、()っておいてくれませんか」

 

「けど……」

 

(にい)さんには、関係ないことですからっ」

 

 仲が悪いのかと(いぶか)しげに見るが、カルリトは悲しそうに苦笑いをするばかりだった。ギロリと妹に(にら)まれたからなのか「じゃ、じゃあ」とだけ言って去っていく。

 

 置いていかないでよ、という叫びは封じられた。テリュスのじろりとした冷たいナイフのような瞳が輝いていた。

 

「はあ、変なところを見られちゃいましたね」

 

 テリュスがしみじみと(つぶや)く。立ち上がりながら、ぼりぼりと頬を()いていた。

 

「ええっと、君もこの道場の人なの……」

 

「ええ、そうですよ。あなたもこの道場に通っていたんですね。一年前からポッキリとギルドに来なくなったので、死んだものとばかり思っていましたが」

 

 プライベートということなのだろうか。受付時の親しみある態度ではなく、どこか突き放した態度である。

 

 言いたいことを終えると、シンとした空気が立ち篭める。元々私事までは知らぬ関係である。とくに話す話題があるわけではなかった。

 

「姉さまぁ? 誰なのですぅ、この人」

 

 空気をぶち壊しにする間抜けな声が響き渡った。蒼穹(そうきゅう)の瞳が、不思議そうな色を浮かべていた。

 

 イズナがぴょこんと飛び上がって、アンヘルの周りをぐるぐると回る。ともだちーともだちーと騒ぎながら、碧空(へきくう)のツインテールを振り回していた。

 

「はあ、その人はアンヘルさんですっ。昔は探索者、今はたぶんニートさんです。こっちのおバカは――」

 

「イズナですぅ」

 

 ――ニートって……。

 

 不躾(ぶしつけ)な言葉だが、あれほど世話になった人物に対してなにも告げずに去った自身にも過失があったと、甘じんて(そし)りを受け止めた。ニート戦士ここに誕生せり。

 

「ぼくは、アンヘルです。ええっと、よろしく」

 

 半笑いで自己紹介する。

 

「アンヘルぅー、アンヘルぅー。うう、なんか言いにくいですぅ」

 

 確かに三文字が主流だけど、たった四文字だろとは言えなかった。大人(おとな)の辛さである。

 

「えっとぉ、じゃあ、アヘがいいですぅ」

 

「……いや、それはちょっと」

 

 ちょっとというか、かなり不味(まず)い。幼気(いたいけ)な少女にアヘと呼ばせるなどと、良識のある人間にはできるはずもない。テリュスも頭が痛いのか、手を当てていた。

 

「んーと、んーとですねぇ、じゃあ、アン。アンにしますか?」

 

「いや、それもちょっと」

 

「わがままですねぇ。仮称アンくんは」

 

 むむむむと少女が(うな)る。ぐるーりぐるーりという擬音が頭に響いてきた。蒼穹(そうきゅう)の瞳に恐ろしいほど整った鼻梁(びりょう)の持ち主なのに、どうにも残念な少女である。

 唐突に少女が(つぶ)っていた目をパッチリと開く。

 

「じゃ、アルにしましょう。けっていなのですぅ」

 

 ある、ある、あると鼻歌を謳いながら駆け回る少女に、アンヘルは疲れが多分に混じったため息を吐き出した。

 

 

 

 §

 

 

 

 イズナが悪戯(いたずら)をして、テリュスが文句を言う関係に見えたのだが、両者は根本的な所で一致しているのだろう。共通の(いじ)られ役が登場することで、息のあった姉妹のように暴走を始めた。

 

 アンヘルとしても、負い目があり中々無下にし(づら)い関係である。それに、美少女二人(ふたり)に構われて嫌な気はしない。棒も玉もある、立派な男児なのだ。不承不承ではあるのだが、稽古を中断して話し相手に徹することとなった……はずだったのだが、その判断を一瞬で後悔することになる。肝胆相照らす仲の女たちは想像以上の(かしま)しさで、中天にあった太陽が傾き始めても(いま)だ終わる気配をみせず、空が黄ばみ始めて(ようや)くイズナの「お(なか)すきましたぁ」の言葉で三人は店へ出かけることになった。

 

 イズナが街頭をクルクル回りながら歩み、その横を朗らかな笑みを浮かべたテリュスがペタペタと進む。追随するアンヘルの疲れた表情がやけに印象的だった。

 

 街ゆく人々が仲良さげな少女たちの嬌声(きょうせい)に振り返る。テリュスも十二分に整った顔立ちだが、イズナの非人間的な顔立ちを横に並べると、王侯氏族の姉妹に匹敵するほど(きら)びやかだった。

 

「で、どこにいくですぅー?」

 

(わたし)は、『バルモス』がいいですけどねぇ」

 

 (そろ)って視線を投げかけてくる。(おご)れということなのだろう。しかも、テリュスが告げた店名はドレスコード必須一歩手前の高級店である。借金のせいとは言え、働いても薄くなり続ける財布に悲哀を感じ入るしかなかった。

 

 見知った角を曲がって三人は進む。(ちょう)のような好奇心旺盛さでイズナがあちこちを行き来するせいで、ムダな時間を浪費していた。

 

 ようやく店先まで到着する。しかし、その先から(うっす)らと厄介ごとの気配が忍び寄っていた。

 

「けっ、乞食がオレらに逆らいやがって」

 

「へ、命があるだけ感謝しな、(にい)ちゃん」

 

 不穏な空気が曲がり角の奥から放射されていた。騒然とした雰囲気を醸し出している。

 

 待って、とアンヘルは先行く二人(ふたり)を静止しようとする。しかし、くるくるとまわる千鳥足のイズナを止めることはできなかった。

 

「あぁ!? なんだぁ」

 

 男たちの先頭へ立つ大男にボフンとイズナがぶつかる。あーれーと間抜けな声を出しながら、ぽてんと転げた。

 

 男たちは急のぶつかってきた少女に怒りを(あら)わにしたが、その容姿を見るなり態度を一変させ、下卑た欲望を秘めながら地面に転がって痛がりはじめた。

 

「い、いてぇぇぇっ! いてぇえよ。これ、骨が折れてやがるぅうう」

 

「嬢ちゃん、兄貴になんてことしてくれやがんだ。こりゃ完全に()れてやがる」

 

「おで、おでのあにきが。いしゃろう、はらうのだっ」

 

「バカ、”いしゃろう”じゃなくて、慰謝料だろが」

 

「嬢ちゃん、悪いことはいわねぇから、黙ってついてくれば、慰謝料はチャラにしてやるよ。どうだい?」

 

 げへへへと男たちが笑う。アンヘルとしては古典的だなぁという感想しかわかないが、男たちは手慣れている様子で、脅し役と痛がり役、そして仲裁役を一瞬の内で分担していた。

 

 彼らの腕には黒のスカーフが巻かれている。黒豹傭兵団であった。ただ、その実態はかなり怪しいものだった。傭兵団と名前は付くものの、下っ端のほうは会費を払えば名乗れるため、街の破落戸(ならずもの)たちがこぞって所属し、その後ろ盾もあって手付かずの無法状態になっていた。

 

「ほへ? いしゃろうってなんなのれす?」

 

 あちゃあ、とアンヘルは頭が痛くなった。螺子(ねじ)が数本外れているのか、イズナはバカっぽい返答をした。他方、揶揄(からか)われる形となった男の一人(ひとり)がプルプルと震えていた。

 

 ――あぁ、これは完全に刃傷沙汰(にんじょうざた)になるなぁ……。

 

 ため息を吐きながら、面倒くさい状況を解決するため前へと進み出ようとする。しかし、それよりも早くテリュスが飛び出した。

 

「ちょっと、何いってるんですかっ。別に()れても何にもないじゃないですかぁ。そんな言いがかりつけるなら、憲兵に言いつけますよっ!」

 

 イズナを(かば)()てるように両手を広げて()える。その叫び声で、野次馬たちが円を作って遠巻きに見守りはじめた。

 

 男たちは二の矢として放たれたテリュスを見て、さらに興奮高らかにした。これからの行為を想像しているのか、股間を膨らませている男もいる。野次馬たちは不幸な少女たちに同情を寄せながらも、介入してくることはなかった。

 

 テリュスが拾った棒を構える。しかし、男たちに(ひる)んだ様子はない。ヒヒヒとにじり寄る。

 

「嬢ちゃんたち、大人(おとな)しくしといたほうが身のためやでぇ……」

 

 群衆から悲鳴が上がる。誰もが、幼気(いたいけ)な少女の最後を幻視(げんし)していた。

 すわ、激突かっ! と思われた瞬間、野次馬の中から一人(ひとり)の男が飛び出してきた。

 

「うわぁあああああっ!」

 

 背の高いヒョロ長の男が、身を低くして体当たりする。その男は先ほど男たちに暴行されていた人物だった。彼は、そのぼろぼろの身なりのまま破落戸にしがみついていた。

 

「な、なんだってんだ。この野郎ッ」

 

「またボコボコにされてぇかっ!」

 

 ならずものたちが()って(たか)って殴る蹴るの暴行を始める。飛び出してきた男はボロ雑巾になりながらも、必死に気勢を上げ、集団の先頭にしがみついたまま必死に歯を食いしばっていた。

 

(にい)さんッ!」

 

 テリュスが目をひん()いている。アンヘルもその言葉でテリュスと男を交互に見比べた。

 

「て、て゛りゅすぅ、ばや、く、んげろぉぉぉ」

 

「ああ? なんだこいつ、こいつの兄貴か。こりゃ傑作だ。一緒に持って帰えって、目の前で遊んでやるか」

 

 (ゆが)んでいく男の顔を見て、テリュスが手に持っていた棒に力を送り込んだ。

 

「セリノ(にい)さんから、離れてくださいっ」

 

 土煙を上げてテリュスが疾走する。

 

 ただの力自慢とは違う、訓練された戦闘者の動きで男たちに迫る。武芸もなにも知らぬ男たちは、驚きで体を硬直させていた。

 

「はッ!」

 

 一陣の風となったテリュスが斜めに斬り下ろす。そのままの流れで、独楽(こま)のように旋回するとズバッと真横に()いだ。

 

 男たちが吹き飛ぶ。瞬く間に倒された仲間たちをみて、演技をしていた男が大粒の汗を浮かべていた。

 

 ――道場の娘だけど、やっぱり本人も訓練してるんだ……。

 

 アンヘルの感想を他所に、残された男は恐怖にたじろいでいた。

 

「お、お、おぉ」

 

「早く、ここから消えてくださいっ。これ以上ここにいるなら、通報しますからねっ」

 

 びゅっと棒を振って威嚇する。悪を撃つセイラームーンのような、純真さがそこにはあった。

 

 男は今時古い「覚えてやがれぇ」と()台詞(ぜりふ)を吐いて散っていった。

 

「ヒューヒュー、(ねえ)ちゃんやるね」

「いい気味だぜッ。黒豹の(やつ)らめ」

「それにしても、(にい)ちゃんのほうはなっさけねぇなぁ」

「おねぇちゃん、すごーいっ!」

 

 野次馬の拍手が響きわたる。テリュスは照れて頬を赤く染めていた。

 

 アンヘルもホッと息をつく。そして、ひとり地面に尻もちを着いたままの少女に手を差し伸べる。イズナはポカンとした表情のまま、騒がしくなっている光景を眺めていた。ぐっと手を引いて立ち上がらせる。イズナは拍手喝采の群集をボーと見ていた。

 

 ――探索者ギルドの職員だけあって、そういう出自の人ばかりなのかなぁ……。

 

 その疑問は(もっと)もだが、ほとんどの受付嬢は顔採用である。昔の銀行のような、顔面偏差値差別が就職活動にまで及んでいるのだ。

 

 騒ぎになっている群集を避けて、倒れ込んでいる男に駆け寄った。男はうめき声を漏らしながら、地面を()いつくばっていた。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 と聞いたものの、男からの返答はない。意識が朦朧(もうろう)としているのか、明朗な返答は期待できそうになかった。

 

 アンヘルは、彼に肩を貸して治療院まで行くことになった。

 

 

 



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第四話:瑕瑾の兄妹たち

 

「怪我自体は大したことないでしょう。全治数日といったところですかね」

 

 藁詰めの嘴マスクを被り、表面を蝋でコーティングされた革製のガウンが特徴的な治療院の医者が粛々と告げる。

 

 ベッドの脇に座るテリュスが医者の言葉に対して静かに耳を傾けている。その瞳は、ボロ雑巾になった兄をじっと見ていた。

 

「一応、治癒士を呼ぶこともできますが、数日もすれば腫れは引くでしょう。どうされますか」

 

 治癒士は限られた人材で、日に発動できる魔法にも限りがある。中々貧民に払えるような額ではないのだが、テリュスは迷う素振りを見せなかった。

 

「え、ええっ、お願いしま――」

 

「ま、まってくれないか。テリュス……」

 

 ベッドに伏せっていた男が身体を起こす。頬が腫れているせいか、発音がはっきりせずくぐもっていた。

 

「先生、数日もあれば治るんですよね」

 

「ええ、貴方は若いですから、とくに問題なく治るでしょう」

 

 医者が太鼓判を押す。それを聞いた男は治癒士の派遣を丁寧に断る。医者は事務的に「大事にしてください」と言うと、看護師と共に廊下へ消えていった。

 

「セリノ兄さんっ。どうして、治療を断ったんですかっ」

 

 医者が消えると、テリュスが詰問を開始する。確かに、財政事情を鑑みると治癒士派遣程度は大した痛手にならない。だが、問われた男――セリノは乾いた笑みを浮かべるだけだった。

 

「いやあ、数日もあれば治るんだし……」

 

「それは、お金がない場合の話ですぅっ! ウチにはお金がありますしっ、なんだったら私がお金を払っても――」

 

「一応、僕も成人しているのに。親や妹からお金を無心するだなんて……。折角、頑張って働いているんだから、そのお金でお稽古事に通ったりして、もっといい人と……」

 

 テリュスの兄セリノは古風な価値観を有していた。名家としては当然の思想とも言える。格好もボロの上下に、髪はナイフで切ったようなザンバラ、身体は上背に対してかなり細っこい。賢者饑し伊達寒しというが、まさにその通りの学術肌の青年で、ある意味、名家の爪弾きものらしい姿だった。

 

「兄さんには関係ないでしょっ! そもそも、父さんに無理やり働かされてるんですからっ、私は道場を継ぎたいんですっ!」

 

「それはダメだよ。テリュスは、女の子なんだからっ、そんな危ないことやっちゃあ」

 

「なにが危ないっていうんですかっ! 別に戦いに行くわけじゃなくて、生徒さんに教えるだけでしょうにっ」

 

 激熱していく二人に合わせてイズナがワーワーと喋りだす。迷惑になってはと彼女の口を塞ぐが、今度はムームーと抗議の悲鳴を上げる。かなりの力を込めているが、好奇心旺盛な少女は激しさを増すばかりだった。

 

「そもそも、兄さんは武道をまったく齧ってないんですから、口を挟まないでくださいっ」

 

「けど、女の子なんだよ。心配じゃないかッ!」

 

「だからなんだっていうんですか。それだったら、兄さんはどうなんですかっ! いい歳して、定職にも就かずにフラフラして。そんなんだから、家でもバカにされるんですっ」

 

「僕は無職ってわけじゃ……」

 

「売れない画家なんて、ただの無職とおんなじです」

 

 ズバッと切り込む言葉にセリノはパクパクと口を閉会させている。反論できる要素を失った兄を見て、テリュスはそさくさと病室を出ようとする。

 

「家のほうから、治癒士を呼んでおきますから、そこから動かないようにしてくださいっ」

 

 捨て台詞のような言葉を残すと、それっきり去っていく。部屋には、蚊帳の外二名が残されていた。

 

「結局、どういうことなのですかぁ~?」

 

 ――僕が聞きたいよ…………。

 

 とりあえず帰るかと、セリノに断りを入れてから病室を後にしようとすると、急にイズナがすり寄ってきた。クンクンとまるで犬のように鼻を胸板に擦りつけてくる。

 

「え、ええっと、なにをしているの?」

 

 無言で匂いを嗅ぎ続けるイズナ。その眉は徐々に顰められ、不快な物を見つけたといわんばかりに訝しげな色彩を瞳に宿していた。

 

「なんか、とおっても嫌なニオイなのですぅ」

 

 ひととおり嗅ぎ終えたイズナが正面に立って、上目遣いに媚びる。

 

「そ、そんなに臭いかな?」

 

 異性に言われて凹む台詞ナンバーワンは、ぶっちぎりで「臭い」だろう。アンヘルは慌てて己の服の匂いを嗅いだ。清涼感溢れはしないが、普通の匂いだった。

 

「ご主人さまの匂いに似てるですぅ~」

 

「は?」

 

 セリノの目が犯罪者を見るものに変わる。無抵抗な性奴隷に対して性的暴行を加える御曹司の気分だった。

 

 いやいや、と誤解を解こうとするが、イズナが「ごしゅじんさま~」と騒ぐ為に取り返しのつかない事態に発展しつつあった。穏やかならぬ単語に、室内を覗き込む人間まで出る始末である。

 

 社会的大ピンチに陥ったアンヘルを救ったのは、先ほど出ていったテリュスだった。

 

「ほら、ニートとおバカ。なにやってるですかっ。さっさと行きますよっ!」

 

 周囲の視線がゴミ屑に対するものへと変わる。

 助け舟ではなく、ただの泥舟でしかなかった。

 

 

 

 

 

 夜もすっかり更けて、街角はすっかりきらびやかな大人の世界へベールを脱ぎ捨てていた。酔っぱらいたちが鼻歌を歌いながら路地を闊歩している。オスゼリアスの夜の顔であった。

 

「恥ずかしいとこを見せちゃいましたねっ」

 

 ピタッと立ち止まったテリュスが此方に向きなおる。その眦は、身内の恥を悲しむように瞬いていた。

 

「私、あんまり家族、っていうか、兄と仲がよくないんですっ」

 

 兄弟たちとの確執。良好とは言えなさそうな関係である。

 

「まあ、簡潔にいうと、こういうことなんですけど――」

 

 彼女は、男兄弟の末っ子として生まれた。彼女の上には五人もの兄がおり、晩年になって生まれた彼女を両親は大層可愛がった。育てた長男は後継者として十二分な腕を備えつつあり、下の妹に武芸を仕込む必要がなく、辛く当たる必要がなかったからだった。そんな彼女の才能は、活発な性向もあり、武芸に発揮されることとなる。

 

 活発だった少女に武芸はまるで木綿が水を吸い込むが如く高い親和性を示した。兄たちはほとんどが道場で学んでいる。幼い彼女が道場でチョコマカしているのを邪険にする人物は一人もいなかった。

 

 だが、その関係は、彼女が大きくなり一人前の武芸者として身を立てたいと宣言したことで終わりを告げた。

 

 彼女の父は一般的な帝国人的思想を持つ人間で、女性の幸せとは家庭を築き、子をもうけることであると考えており、剣を振り回しチャンバラごっこに興じるなど以っての他だと言い始めた。此れが軍家ならば理解ある親に恵まれることもあるのだろうが、不運にも彼女の父は、女性の社会進出に否定的だった。

 

「ということで、私は無理やりギルドの職員にさせられたというわけですっ」

 

 明るい声だが空元気だった。言い切った唇はまるで震えを隠すようにきつく一直線に結ばれていた。

 

「ま、言いたいことはわかるんですけどねぇー。でも、馬鹿らしいじゃないですか。私より弱い人が探索者や軍人としてブイブイ云わせてるのって」

 

 純然たる事実ではある。探索者はともかく、軍国主義の帝国では、軍人の発言力は限りなく高い。

 

 その実態には大きな差があるとはえ、士官学校に通っていない平民も募兵に応じて戦争に赴かなければならないという考えが蔓延しており、民会では従軍経験のない人物を蔑視する傾向は消える気配がない。

 

 夜風がすっと身体に染み入ってくる。イズナは何もわかっていないのか、ほへーと提灯を眺めていた。

 

「こんなこと言いたくないですけど、正直私、アンヘルさんより強いと思いますよっ。そりゃ、カルリト兄さんには勝てないですけど、他の人には負けませんし。探索者の人に声かけられても簡単にあしらえますから」

 

 袖を捲り上げて力瘤をつくる。その横顔は評価されない悔しさと、己の能力に対する絶対の自信が滲んでいた。

 

 事実、その言葉に嘘はないのだろう。先ほど見た黒豹傭兵団に対する立ち回りは、一般人の喧嘩とは一線を画するものだった。

 

 どれほどの長い鍛錬を積んできたのだろう、とアンヘルは思う。道場だけでこれほどの力を育むには、類稀なセンス、そして、卓越した精神力が必要だ。

 

 男女差別。ザ・モーニングショーに始まり、現代でもジェンダー平等は声高に叫ばれている。彼女が欲している、女性が公の場でなんの差別なく活躍できる社会は確かに素晴らしいのだろう。

 

 だが、諸手を挙げて賛同はできなかった。ここは、現代ではないのだ。如何にテリュスが優れていようが、闘いという極限状態に身を投じた相手が、敗軍の兵となった彼女に紳士的でいられるとはまったく以って思えなかった。

 

「…………僕は、まず親御さんの了承を得たほうがいいと……」

 

 だが、アンヘルの濁した真意を、テリュスは明確に捉えていた。

 

「あなたも、そういうこというんですねっ」

 

 くるっと、悲しそうに顔を背ける。慰める言葉を持たない己の不甲斐なさに、虚しさを覚えるしかなかった。

 

「ま、いいですよ。今日は、ありがとうございました。夜も遅いんで、私は帰ります」

 

 さっと去っていく。その後ろ姿は、孤独な翳りを帯びていた。

 

「ねぇ、アルぅ? お腹空きましたぁ」

 

 でっかい子供ができたなぁと、くだらないことで己を誤魔化すしかできなかった。

 

 

 

 §

 

 

 

「じゃあ、この一週間は訓練に充てて、次の週から攻略に乗り出すってことでいいかなぁ」

 

 窓から差込む陽光を浴びながら、男女三人が向かい合って意見を交わしている。長机の上には、各科の講義予定と成績が並べられていた。

 

「ええと思うで~」

 

 調子はずれに桃色の髪の女性――ユウマがのんびりと答える。その横では、眼鏡をかけたエルサが確認漏れをチェックしていた。

 

「でも助かりましたっ。全員の講義予定をまとめてくれたり、先輩たちの予定なんかを聞いてくれたりして」

 

 か細い声で感謝を述べる。情報を纏めたユーリに向けたものだった。

 

「いえいえ、これはエセキエルさんが持ってきてくれたモノですから」

 

 エセキエルが知らせてくれた情報は多岐に渡るが、その中でも重要と思われる情報は、例年の候補生踏破日程だった。

 

 この管理迷宮踏破演習は、毎年基準となる、踏破者第一陣の存在がある。管理迷宮『試練の塔』の最上階には、侵入者を阻む迷宮ボスなる存在が立ち塞がる。これを倒さねば演習クリアとはならないのだ。が、当然ひよっこ候補生六人の小隊では迷宮ボスを倒せるはずもない。そうなると、必然、複数小隊合同で迷宮ボスを倒すことになるのだ。

 

 例年、第一陣が最上階に辿り着くのが十日、迷宮ボスを倒すのは十五日目前後になるとされている。迷宮ボスが復活するのは十五日後だとされていることから、第二陣は迷宮ボスが復活するまでの間にすり抜け踏破する必要がある。

 

 つまり、この演習は、迷宮ボスを倒した第一陣、それ以降滑り込みで踏破した第二陣、そしてクリアできなかった第三陣に分類される。エセキエルの提案は、この第二陣の中で如何に素早く踏破するかというものだった。

 

「それにしてもやー、エセキエルって人はどうしたん? 折角色々教えてくれたのに~」

 

「休日は、親の編集を手伝うんだっていってたけど……」

 

「休みだから責められませんね。そういえば、伍科の方はどうしたんですか? たしか……アンヘルさん……でしたっけ」

 

 エルサが記憶を漁りながらなんとか名前を捻り出す。さもありなんといった所だろうか。伍科で目立たないアンヘルは日陰の存在である。ユーリは苦笑いを漏らすしかなかった。

 

「アンヘルはバイトだって。彼、上京組だからお金がないんだってさ」

 

「そうなんですか。なんだか意外な感じがします。結構、ハイカラっていうか。都会人っぽい雰囲気なのに……」

 

「そうだよね。ずっと敬語使ってるし、不思議なところがあるよねぇ」

 

 いつも訓練に付き合って貰っているユーリだが、アンヘルについて知っていることは少ない。学術成績は悪く、対照的に基礎訓練ではそこそこ優秀な脳筋タイプの候補生だが、それにしては違和感がある。

 言葉にできないもどかしさを感じながらも、決定的な確証を得られないまま頭を捻るしかなかった。

 

「そういえば、アンヘルさんとエセキエルさんってどれくらいの実力なんですか? 私、あんまり講義で一緒になったことがなくて。一応、ユウマさんが強いっていうことは知っているんですけど」

 

「へへ~、頼りにしてやぁ~」

 

 肆科のユウマは、かなり高い実力を有している。そもそもとして、肆科の構成自体が、実技優先のシステムとなっているためだった。

 

 完全に学力制となっている士官学校だが、実技に優れる入学生のために一種の裏技を用意している。それが、上科試験補欠合格である。一般と違い上科には実技試験がある。普通なら、学力の劣るものが士官学校上級課程を受ける意味などないが、実技試験を利用して、実技に優れる生徒は肆科に補欠合格できるのだ。

 

「ユウマさんって、どこか道場出身なの?」

 

「ううん、そんなことあらへんで~。ウチ、ただの平民や。別に道場にもあんまり通ってへんで~」

 

「じゃあ、どうやって訓練したの? 生まれつきってことはないよね」

 

「そんなわけないやろ~」とユウマが語るが、実際、肆科の実力者はほとんどが軍家や道場出身である。人がなんの訓練もせずに戦えるはずなかった。

 

「ウチな、普通に店やってるオカンを手伝ってたんやけど、あるとき先生に教えてもらえることになってんー。それでな――」

 

 ユウマの話は要約すると道場のスカウトに掛かって、稽古を受けたという話であった。かなりの特例だが、まったくあり得ない話ではない。ユウマの才能、それは英雄症候群と呼ばれるものだった。

 

 強化術の体得、上達の手段は大きく分けて三つだ。

 ――長きに渡って道場で研鑽を積み、自然とその強化術を体得する方法。

 ――迷宮など、パワーゾーンで力を自覚すること。

 ――極限状態、とくに生存本能が強烈に刺激される戦闘行為。

 

 しかし、例外もある。ユウマの持つ英雄症候群とは、過去の英雄のように、生まれつき強化術に対して天賦の才を持つ者を指した。

 

 そもそも、強化術には個々人それぞれに大きな差異が出る。動作に合わせて部位毎に強化することもあれば、持つ得物を集中的に強化したりもする。スポーツに例えるなら、強化の総量がフィジカルだとすれば、強化の繊細さはテクニックにあたる。テクニックが訓練なしで高いレベルにあるユウマは、頭抜けた才能といえた。

 

「じゃあ、ユウマさんを先頭においた方がいいかもしれませんね。私、実戦には自信がなくて」

 

「ボクも、かな」

 

 二人して不安そうに縮こまる。ユウマは困ったように笑っていた。

 

「あのソニアって子は結構強そうやよね。キツそうな感じやけど」

 

「あ、確かに。じゃあ、残りはエセキエルさんとアンヘルさんってことになりますか」

 

「アンヘルのことは知ってるけど、エセキエルさんのことはよく知らないなぁ。誰か知ってる?」

 

「私はあまり……」

 

「ウチもしょうみよー知らんけど、見た目はあんまり強そうちゃうなあー。いんてりって感じや」

 

 確かにとユーリも肯定する。見た目で判断することは愚かしいが、エセキエルは頭脳派に見えた。三人の中で意見が一致したのだろう。全員が参謀姿を想像した。

 

「アンヘルさんはどうなんですか? ユーリさんはお友達なんですよね」

 

「うーん。よく訓練しているけど、ボクが弱すぎるからかあんまり参考にならないような気がするなぁ。あ、そうだ。ユウマさんってアンヘルと試験で対戦してなかった?」

 

 ユーリがパッと手を叩く。しかし、問われたユウマには苦々しそうに眉を顰めていた。

 

「ウチ、ああいういけ好かん奴、嫌いや」

 

 ユウマはエセキエルやソニアのことを苦手だと称しはしたが、嫌いだとは言わなかった。ユーリは、彼女の強烈な敵愾心がまさかアンヘルに向いているとは思わず黙してしまった。

 

 唐突な告白に一同言葉を失う。しんしんとした空間へ舞い降りた日差しが三人を照らしていた。その静寂を破ったのは、一人の闖入者だった。

 

「お、やってるなぁー」

 

 ガチャリとオスカル教官が入室してくる。ユーリたちは立ち上がって敬礼した。

 

「いいって。そんなかしこまらなくて」

 

 教官が片手を仰いでユーリたちを座らせる。教官も近くにあった椅子を引き寄せると、背もたれに肘を乗せる馬乗り座りをしながら机の上の計画表を眺めた。

 

「そろそろできてくる頃合いかな。一応、全員分の情報を整理できているみたいだし。おっ、もう例年の踏破記録について調べているのか。やるなぁ」

 

 オスカル教官が拍手を送る。瞳には称賛の色があった。

 

「はいっ! みんながんばった結果ですっ!」

 

 エルサが誇らしげに言う。彼女だけでなく、ユーリにも憧れの教官からおほめの言葉を頂いたことに対する照れが浮かんでいた。

 

「正直なところ、心配していたんだよ」

 

「心配、ですか?」

 

 ユーリが聞き返す。

 

「ああ、最初の会議はうまくいってなかったし、元々実技の不得意な生徒が集まっているだろ? 及第点なのはソニアとユウマくらいだしな。だから、この班はうまくいかないかもしれない、とそう思っていたんだ」

 

 心当たりありすぎる意見に、三人とも黙るしかなかった。

 

「けど、心配なさそうだな。計画もそれほど遅れているってわけじゃない」

 

「他の班は、もう提出したんかいな~」

 

「一応、クナルの班は提出を終えたが、もう一つはまだだな。そんなに焦る必要はないよ」

 

 心配するなと、教官は朗らかに言う。そのあとは、他愛ない雑談を続けた。教官としても様子が気になっていたのだろう。

 

「ああ、そうだ。一応言っとかないとな」

 

「なんですかいな~」

 

 そうだなぁ、と教官は頭をボリボリと掻く。言いにくい話をするとき特有の悩みの色があった。

 

「その、例年は第一陣踏破が十五日前後で、君たちは二十日目くらいに第二陣として踏破を目指す計画になっているよな」

 

「はい、ボクたちには迷宮ボスを倒せるほどの実力があるとは思えませんから。なんとか二陣の上位に名を連ねようと考えています」

 

 その言葉を聞いて教官はより悩みを深くする。うーんと何回か頭捻った結果、回答を出した。

 

「ま、それは間違いじゃないんだろうけどな……。その、お前ら第二一三回生が他所からなんて言われているか知っているか?」

 

「え、えっと、確か奇跡の年……ですよね。私、先輩からそう聞きました」

 

「ああ、ウチも聞いたことあるで、それ」

 

 教官はうんうんと頷く。ユーリもその話自体は聞いたことがあった。上科のクナルを始め多数の大型新人を拵えた第二一三回生には、軍派閥の面々も興味深く推移を見守っているらしいかった。

 

「今年は歴代演習記録が塗り替えらるんじゃないかと言われている。最初の踏破班が一五日目より手前なら、その年は豊作。それより後なら不作と言われている。歴代最速記録は知っているか?」

 

「え、ええっと、確かエセキエルくんの話では十日って」

 

「そう、その通りだ」

 

 オスカル教官が候補生を見渡す。

 

「歴代最速は第一三二回生の十日。ついでにいえば歴代最小合同班数は六五回生の三班だ。けど、今年はそれが更新されるんじゃないかと言われている。だから、その計画も前倒ししたほうがいいかもしれないな」

 

 がんばってくれとエールを残したオスカル教官はそのまま去っていった。三人は新たな情報に顔を見合わせる。とりあえず、ユーリは尋ねた。

 

「どうしよっか?」

 

「…………いまさらなにもできませんし。数日早くなっても、それは割り切るしかないですね……」

 

「そやね~。計画はギリギリやし」

 

 と、結論付けたものの、ユーリは脳裏にこびりつく不安を払拭できなかった。

 

 

 

 §

 

 

 

 デンドロメード湖を渡ってくる風が、汗の滲む頬や(うなじ)に染みいる。まるで清冽(せいれつ)な空気の流れの中に身を浸しているような、そんな涼やかな校舎の影を進んでいた。

 

 陽はすでに中天を回っている。バイト帰りのアンヘルは、そのままの足で会議室へ向かっていた。

 

 ――講義で不可を取ると補習だからなぁ……。

 

 アンヘルにとってこの計画は重大事項だ。成績の悪い人間にとって、講義を休むことは不可を取る可能性を限りなく増大させる。最悪演習を捨ててでも、講義不可を取らないようにする必要があった。

 

 演習で踏破できずとも無能班扱いされるだけで、その責任は六名に分散される。寧ろ、班長でもないアンヘルの責任は限りなく低い。しかし、講義不可を取れば評価に消えることのない欠損ができる。優等生なら兎も角、成績下位者は演習に対して非協力的に成らざるを得なかった。

 

 集団内の意識分断があらゆる目標達成活動に良い影響を与えないと知りながらも、利己主義に走ってしまう。人間とは業の深い生き物だと自戒しながらも、自嘲するしかなかった。

 

 ぴゅーと吹き抜ける風に煽られて、視線を校庭の先、小高い丘になっている場所に走らせた。そこには、先日出会った痩身の男の姿があった。

 

 手元には画材を幾つも置いており、膝には広い画板を立てかけている。

 

 テリュスの兄、セリノである。彼女の話では画家であるらしく、風景を描くのは問題ないが、此処は士官学校である。当然、関係者以外立ち入り禁止であった。急ぐ身ではあるのだが、候補生として見過すことはできなかった。

 

「あの、セリノさん、でよろしかったでしょうか」

 

 ふんわりとした黒髪が風に揺られている。手元のキャンパスは土色の校庭と白塗りの校舎の対比で色鮮やかに塗られていた。

 

「うん、なに? あ、あれ、キミは確か……」

 

「はい、昨日お会いしたアンヘルです」

 

「ああ、そうだ。確かテリュスの友達の。……そっか、君は士官候補生だったのか」

 

 意外そうな表情を浮かべる。いつもの反応に、アンヘルとしては己の軍人らしからぬ容姿を喜べばいいのか、悲しめばいいのか複雑な感情を持て余すことになった。

 

「はい、それで聞きたいことがあるのですが。士官学校は一応関係者以外立ち入り禁止となっていますので……」

 

「ああ、そうだよね。ほら、はい。許可証」

 

 セリノは懐から白い許可証を取り出す。士官学校事務局印が押されていた。

 

「これは申し訳ありませんっ」

 

「いやいや、良いよ。それよりコッチが感心させられるばかりだ。君の他にも何人か尋ねてきた。未来の軍人さんには頭がさがるばかりだよ」

 

 セリノは遠い目をする。手は許可証を弄んでいた。

 

「なぜ、っていう顔をしているね?」

 

「は、そんなことは」

 

「いや、いいさ」

 

 当然だからね、とセリノは続けた。画板を地面に置くと、その横をポンポンと叩く。座って話したいという合図だった。アンヘルは彼の横に腰を下ろした。

 

「僕の職業は聞いているかな?」

 

「画家と伺っています」

 

「まあ、そうだねえ。それは、間違いじゃない。けど、正しくもないんだよ」

 

 一呼吸おく。彼の視線は士官学校に注がれていた。

 

「僕の仕事は確かに絵を描くことさ。けど、それは美術的価値のある作品を描きたいとか、そういうことじゃないんだよ」

 

「……と、いいますと?」

 

「君は知らないかもしれないけど、絵画の主流は宗教画か風景画のどちらかに二分されるんだ。けど、僕はそれとは違う作風を目指している。一種の社会風刺とでもいうべきかな。社会に対する警鐘を、絵にすることでメッセージにするんだ」

 

 セリノは置いてあった風景画を掲げる。今見える光景を描いているようで、その中央には士官候補生らしき人物たちが楽し気に遊んでいる様子が描かれていた。士官学校ではありえない、日本の高校のような風景だった。

 

「士官学校を否定したい、ということですか?」

 

「いや、そこまで理想を見ちゃいないよ。士官学校は必要さ。ただ、僕は士官学校に入学する生徒たちも、未だ若い少年少女たちだと伝えたいんだ。候補生は皆、若い頃から行き急いでいる。やれ、外部演習や迷宮演習、有事のときには義勇軍となる。でも、君たちはまだ年若い子供なんだ。それを、大人たちに分かってほしい、というぐらいさ」

 

 セリノは乾いた笑い声をあげた。寂しそうな声だった。

 

「この学校は死の危険が付き纏う。ウチは道場をしているから、何人も士官学校に送り込んだよ。だから、よく分かってるんだ。この学校が、どれほど大変なのかってことをね」

 

 アンヘルは、彼の武芸嫌いの根源を垣間見たような気がしていた。

 彼は武芸に触れず芸術の道を選んだ。送り込んだ生徒たちが再起不能となり、さらに箱に入って返される光景に幾度も直面したのだろう。青年の目には、士官学校に対する恨みが滲んでいた。

 

「ああ、君の質問に答えてなかったね。僕が士官学校にいる理由は、僕の作品に共感してくれる教官が少なからずいるからなんだよ。意外かもだけど、士官学校は理由があれば許可証を貰えるからね。ま、その理由自体が簡単じゃないけど」

 

 ふふっと笑う。確かにアンヘルとしても意外な話であった。日本の自衛隊などと比べれば考えられない話だ。だが、個々人が強大な力を持つ異郷の地ならではのおおらかさであるかもしれなかった。

 

「妹のテリュスさんに対する姿勢も、そういう所から来ているのですか?」

 

「うん? ああ、まあ、そうなるのかな」

 

 ハキハキと己の主張を貫き通す男が、はじめて言葉を濁す。迷いが手に取るように浮かんでいた。

 

「えっと、妹からはどう聞いているのかな?」

 

「……家族から、武芸で生きていくことに反対されている、と」

 

 彼女の寂しさは、将来を家族から否定された若者特有の孤独感から滲んでいた。認めてもらいたい、認められたい、そんな焦りが根本にあるとアンヘルは思っていた。

 

「確かに、それは間違っちゃいない。僕や、カルリト兄さん、それに父さんは思いに差異はあれど、基本的には妹を武芸の道に進ませたくないと思ってる」

 

 しかし、続く言葉でそれを否定した。

 

「けど、根本的な所は別にあるんだよ」

 

 セリノが語った話は、それはもうドロドロとした兄妹の嫉妬にまつわる話だった。

 

 五人兄妹であるテリュス一家は、長男のカルリト、次男のセリノ、そして末の子であるテリュスの他に、あと二人兄妹がいた。

 

 三男、四男にして双子のダニーロとドミンゴである。

 

 テリュスが幼い頃、兄弟たちの関係は悪くなかった。長男カルリトは歳が離れており、次男セリノは武芸に興味がなかった。一番下のテリュスは幼く、道場のアイドルだった。唯一、双子だけは日々喧嘩が絶えなかったが、それは稽古の延長で、互いにリスペクトしたライバルのような関係だった。

 

 それを一変させてしまったのは、テリュスだった。

 

 才能、その一点においてテリュスは、三つも上の双子より遥か高みにあった。よちよちと道場に顔を出しては、遊びながらに武芸を学んだ彼女は、成長するにつれ擢んでた実力を備えるようになった。その時からだった、双子とテリュスの間に、隠しようのない確執が生まれ始めたのは。

 

 そして、道場の模擬試合において、それは決定的となった。一本試合、それも門弟たちが注目するど真ん中で、真っ向から双子を倒してしまったのだ。

 

 グレた。それが一番的確な表現だろう。

 

 上の兄、ダニーロは部屋へ引きこもるようになった。彼のプライドは、敗北したことに耐えきれなかったのだろう。だが、まだマシなほうだった。

 

 下の兄、ドミンゴは、本格的に悪の道へと逸れる運びとなる。恐喝、暴力、さらにははぐれ者たちの仲間へと、留まることなく下へ下へと流れていった。

 

 彼には、才能も努力を続ける精神力も備わってはいなかった。しかし、だからこそ、はみ出しもの集団に共感された。彼の体系付けられた戦闘技術を学んだゆえに歓迎され、気づいたときには浮上できなくなったのだ。

 

 テリュスは何も知らなかった。そのような機微を理解するには幼すぎた。そして、後には兄妹の破綻だけが残ったのだった。

 

「もちろん、妹が悪いなんておもっちゃいない。子供ながらに、褒められたい一心で頑張ったんだろう。けど、世界はそんな優しくないんだ。これが家族の話だから、破綻ぐらいで済んだ。けど、男社会で進んでいけば法界悋気(ほうかいりんき)の嵐に晒されるんだ。そのとき、命で許されればいい。けど、そうじゃないんだ。そんな簡単には、いかないんだ……」

 

 心底嘆くような声でセリノが言った。彼の言葉は、世界を知らぬ若者に語りかけているようだった。

 

 日本にいた頃のアンヘルなら、鼻で笑えただろうか。それが、差別の理由に、不条理がまかり通る理由にはならないと。だが、現実は遥かに無情なのだ。生温い権利や人道など、クソの役にも立たない。

 

「君はどう思う? 妹の夢を応援するべきだと思うかい。いや、話が大きすぎるかな。妹の剣を腐らせるには、惜しいと思うかい?」

 

 言葉に詰まった。惜しい、といえばそうなのだろう。拙い腕ながら、テリュスの才能は理解できる。その心情も理解できなくはなかった。

 

 だからこそ、黙したまま、何も話せなかった。

 

「言いにくい、かな。君は、印象よりもずっと大人みたいだね。こういう話を若い子にすると、どちらかの意見に偏るものなんだけどね」

 

 いろんな経験をしているからこそ、中庸という灰色に生きてしまうのだと、セリノは語る。

 

「なら、最後に聞かせてくれ。武芸はからきしだから知りたいんだ。妹は、どうなんだい。強い、のかな。それも、士官学校で潰れないほどに」

 

 真剣な光を瞳に宿していた。嘘偽りは許されない、そんな空気感だった。

 アンヘルは唾を飲み込む。誤解のない言葉を慎重に選んだ。

 

「弱くはない、そう思います。実際、伍科の人間と比べても、見劣りしないどころか勝っているでしょう」

 

 けれど、とは続けなかった。求められている回答ではないし、蛇足だ。自身が見た事実だけを答えた。

 

「そう、なのかな。やっぱり。僕のわがままなのかな。家族とはいえ、一人の人間の将来を決めるなんて」

 

 寂しそうな横顔で呟く。後悔やもどかしさなど、いろんな感情がブレンドされた複雑な面持ちで空を見上げていた。

 

「今日はありがとう。付き合ってくれて。つまらない大人の話をしてしまったね」

 

 セリノが優しげに微笑む。アンヘルは立ち上がって、黙礼をすると踵を返した。

 

 吹き抜ける風を浴びながら、アンヘルは再び思案する。告げなかった言葉を、いうべきだったのかと。家を貶める言葉を吐かないため、伝えるべき情報を飲み込んだのかもしれない、と。

 

 ――確かに、彼女の剣は綺麗で、強い…………けれど、綺麗すぎる剣など、実戦では何の役にもたたないんだ。

 

 過ぎた過去を思いながらも、ユーリたちが待つ計画会議の場所に急いだ。

 

 

 




 ◇ 演習評価補足 ◇

〇例年の傾向

演習日程:三十日
例年の踏破日数:十五日
例年の踏破合同班:七班
迷宮ボス復活日数:十五日

〇評価方法

第一陣(優):迷宮ボスを倒したグループ。その中で合同班を主導した班が最優秀班となる。班の一割弱がこの評価。

第二陣(良):迷宮ボスが倒されてから踏破したグループ。踏破した速度で良評価内の順位が決まる。班の七割がこの評価。

第三陣(可):クリアできなかったものの、八割程度は踏破したグループ。年によっては迷宮ボスが復活してしまい、クリア不能になる場合がある。班の二割がこの評価。

第四陣(不可評価):最低評価。ほとんど出ることのない評価。迷宮の八割すら攻略できなかったグループ。



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第五話:兄思う、ゆえに兄あり 上

 

「あの、くそアマぁあああ。絶対にゆるせねえぜぇぇ、あにきぃいい」

 

 叫ぶような女の嬌声(きょうせい)と男の()え声が、交互に重なりあって暗がりの部屋(へや)に響いている。隅には心許(こころもと)ない魔導灯が点滅していた。

 

 空箱(あきばこ)に腰かけた男が苦悶(くもん)(あえ)いでいる。その腕には黒いスカーフが巻かれていた。

 

「ぜってぇえええ、おれがやって、やって、やりまくってやるぅうう。ヌル穴に突っ込んでどぴゅどぴゅ()まったモンを出しまくってよぉぉ、ずぼずぼにして、そんでもっておれのを、ふやけるまで(くわ)えさせてやるぅぅ」

 

 男の瞳は狂気に濁っている。その狂態を笑う外野により、さらに男の怒りを増幅されていた。

 

「ま、確かによ。一理はあるわな。一理はよ」

 

 恰幅(かっぷく)のいい男が渋々ながら同意を示す。その男も同じように膝に痛みを抱えていた。

 

「お、おでもいたいだ。ゆ、ゆるせないだ」

 

「あー、バカは置いといてよ」

 

 恰幅(かっぷく)のいい男は身を乗り出す。瞳に強い増悪が宿っていた。

 

「実際、あのクラスの女なら、楽しんだ後に売っぱらっても、十分に元が取れるしよ。それに、立派に仕込んでやって、娼館(しょうかん)に卸すって手もあるしな」

 

「あにきぃ、やってくれるんですかいぃっ」

 

 狂気を(ほとばし)らせる男が強烈な笑みを浮かべる。中心人物が恨みを漏らすことで、周囲の男たちも少しづつではあるが復讐(ふくしゅう)計画に対して乗り気になり始めていた。

 

「けどよ、あの女ギルド職員なんだろ。やべえぜ、ギルドに手を出すのは」

 

「それにあの女、めちゃくそ(つえ)えって。俺らじゃ、真っ向からじゃどうしようもねえよ」

 

 否定的な意見が男たちから述べられる。確かに、と話を主導している男は(うなず)いた。

 

「俺らにゃ、あの女には勝てねえ。けどよ、俺たちゃよ、もう昔のチンピラだったときとは訳が違うんだぜ」

 

 ひひひと笑う。

 

「なんのため黒豹に所属してるとおもってやがる。ちょっとくらい金を払わにゃならんだろうが、腕利きの一人(ひとり)二人(ふたり)くらいよこしてくれんだろぉ」

 

 男は笑いながら「たとえば、あの『血まみれ』とかよ」と続ける。周囲の男たちから「さすがあにきぃ」という大合唱が響き渡る。男は立ち上がると、手で集団を鎮めながら、ひとり(うつむ)いたままの男の肩に手を置いた。

 

「それによ、作戦ならいくらでもたてられるぜ。な、ドミンゴや」

 

 手を置かれた男は完全に瞳から生気を消していた。

 心ココにあらずといった様子の青年を見て、男はさらに笑みを深めた。

 

「さあ、久々の上物だ。気張っていこぉや」

 

「さいこおでさぁぁ、あにきぃいいい」

 

 男たちが立ち上がって気勢をあげる。その中で、男はひとり自問していた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 テリュスが大切にしていた御守(おまも)りを()くしたことに気がついたのは、昼休憩のため気晴らしに市内へぶらりと出かけたときだった。

 

 御守(おまも)りは持ち主を邪視から守り、そして眼前の霧を払うとされている。心を曇らせることなかれと、心身とも鍛えることが必須とされる武芸者にとってポピュラーな御守(おも)りであり、駆け出しから脱した(あかし)でもあった。

 

(はぁー、どこに行ったんですかねぇ…………。あーあ、(ひも)が古いってわかってたんですから、さっさと取り替えればよかったですねっ)

 

 テリュスは(ひも)が千切れ、中央の石が失われた残骸を手元で弄ぶ。どうにも上手(うま)く行かぬ現況にやきもきしながら、テリュスはキョロキョロと視線を散らした。

 

「あ、あのー、ここらへんで御守(おまも)りを見かけませんでしたぁ? ナザール・ポンビュウなんですけど」

 

「いやぁ、悪いねお嬢ちゃん。見てないよ」

 

 屋台の店主が申し訳なさそうに首を振る。なんとか悄然(しょうぜん)とした態度が出ないよう苦慮しながら、礼を述べて去った。

 

 捜索を始めてから優に一刻以上経過している。そもそもがよくあるタイプの御守(おまも)りだ。そう易々と見つかる(はず)もないのだが、どうにも諦めきれず探し回っていた。

 

 ――そんな、こだわる必要ないんですけどねぇ……。

 

 なぜ、自分がこんな小さな御守(おまも)(ごと)きに(こだわ)っているのか、分からなかった。所詮、装飾が施されたただの石ころに過ぎないのだ。しかし、割り切ることもできず、歯痒(はがゆ)い気持ちを隠せないまま苛立(いらだ)ちをその歩幅に表していた。

 

 そろそろ仕事に戻らねばならない。無理矢理就かされた仕事だとはいえ、その業務自体を嫌っているわけではない。テリュスなりに誇りを持って取り組んでいたつもりだった。

 

 大きく息を吸い込んで、鬱屈した感情を吐息とともに吐き出す。涼しげな風に(あお)られて、抜けるような空に感情を溶かす。そうして、割り切ったテリュスは顔を前に向けた。

 

「あれ、テリュスじゃないか。どうしたんだ、こんな所で?」

 

 正面から歩いてきていたのは、痩身の男セリノだった。いつものようにボロの上下を(まと)っている。長く伸ばした黒髪と相まって、野暮ったい印象を与えていた。

 

「兄さん……」

 

「ひとり、こんな所でブラブラして、どうしたんだ」

 

「関係ありませんっ」

 

 にべもない返答にセリノが苦笑いを浮かべる。哀愁を帯びた瞳で妹をみつめていた。

 

 両者とも何一つ発さない閑寂としたまま立ち尽くす。ふたりの脇を道ゆく人々が駆け抜けていった。

 見つめあったまま動かぬ関係を先に崩したのは、兄セリノだった。

 

「そ、そういえば、あの青髪のお友達(ともだち)はどうしたんだ、一緒に居ないのか?」

 

今日(きょう)はギルドですよ。遊んでいる暇なんてありませんっ」

 

「あれ、そうなのか……。今朝(けさ)会った時、彼女テリュスのところへ会いにいくって……」

 

「何かの間違いじゃありませんかっ。一度も見てませんよ、おバカは」

 

 再び会話が途切れる。仲が一番悪くないセリノですらこのような関係なのだ。いかにこの兄妹(きょうだい)上手(うま)く行っていないのかを証明していた。

 

 テリュスが「じゃあ、(わたし)もう行きますから――」と身を翻す。兄の制止の声も聞かず、立ち去ろうとするがそれを遮るようにして男たちが(みち)を塞いだ。

 

 先日一蹴した黒豹(くろひょう)傭兵(ようへい)団の連中である。彼らは、ヒヒヒと粗野な笑みを浮かべながら、群衆を()()けてでてくる。その腕には、黒いスカーフが巻かれていた。

 

「よう、また会ったな、嬢ちゃん」

 

 正面に立つ男が、首を鳴らしながら近寄ってくる。その物々しい雰囲気に、周囲の野次馬たちは恐れをなして遠巻きに見守りはじめた。

 

「なんの用ですか。また、やられたいんですかっ?」

 

 腰の剣を引き抜き、物の数ではないとテリュスが構える。すると、男たちは一瞬ビクッと震えたが、それでもニヤついた笑みを崩さなかった。

 

「おいおい、ちょっと待ってくれよ。俺たちはよ、やり合いにきたんじゃねえのさ。ただ、知らせにきたのよ。迷子(まいご)の子猫ちゃんをよ」

 

迷子(まいご)?」

 

 その余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)な態度に不信感を覚えつつも尋ね返す。いざとなれば全員を容易(たやす)くノせるのだ。態々突っかかる理由はなかった。

 

「ああ、そうさ。俺たちはよ、あの――」

 

「あ、あおのおなご、いるんだな」

 

「うるせえッ。俺の話を邪魔するんじゃねえ、このバカ。チッ、話が訳わかんなくなりやがった。ええっと、そう、それだよ。あの青髪の女だよ。知ってんだろ?」

 

 男たちが示し合わせたように笑い声をあげる。暴力を隠さない態度に、兄のセリノは体を震わせていた。テリュスは凛然(りんぜん)と聞きかえす。

 

「イズナが、どうしたんですかっ?」

 

「別にどうもしちゃいねえよ。ただ、迷子(まいご)だったから、家に連れていっただけさ。ほら、お友達(ともだち)の誰かが迎えに来るからってさ」

 

 男が舌舐(したな)めずりをはじめる。(わな)にかかった獲物を吟味するような、食卓に上がったご馳走(ちそう)を眺めるような、そんな視線だった。

 

 生理的嫌悪感が身体中(からだじゅう)を駆け巡る。(つね)ならばこの時点で話を打ち切っただろう。しかし、彼の言葉を無視することはできなかった。

 

「私に、なにをしろっていうんですかっ」

 

「いや、知り合いが迎えに来て欲しいってだけさ。べつに悪いことじゃあるめえよ、な?」

 

「テリュス、そんな(やつ)の話を聞くんじゃない」

 

「兄さんは黙っててくださいっ。それで、ついて行けって言いたいんですか?」

 

「そうよ、さすが度胸が違うねぇー。へへへ」

 

 (わな)であることは間違いない。相手には人質もいるのだ。如何(いか)に武芸へ通じているとはいえ、実戦経験の乏しいテリュスには厳しい戦いになるだろう。

 

 だが、イズナの命がかかっているのだ。逃げることはできなかった。

 

「兄さんは、ついてこないでください」

 

「な、なにを言ってるんだッ! 妹をひとりで行かせるなんてっ。いや、そもそも行っていいなんて――」

 

「兄さんは足手まといだから、ついてこないでッ!!」

 

 周囲に響き渡る絶叫が世界を揺らした。渾身(こんしん)の怒声に、セリノは口を紡ぐしかなかった。

 

「へへ、それじゃ、ついてきな」

 

「言っておきますけど、イズナになにかしていたら、ただじゃおきませんからね」

 

「まだ、なにもしちゃいねえよ。まだ、な」

 

 男たちの後に続いてテリュスは進んでいく。

 

 ――ごめんなさい、兄さん…………。

 

 セリノは遠ざかっていく背中をなにもできず見守っていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「カルリト兄さん、テリュス、テリュスがッ!!」

 

 ボロボロの格好のまま、セリノは己の生家である道場に転がり込んだ。

 

 靴が脱げるのも忘れ、踏み締めた石ころで足が切れることにも斟酌(しんしゃく)せず、セリノは駆け続けた。走ることが魔法であるなら、まさに人の心が生み出した奇跡の御業(みわざ)であるに違いなかった。

 

 必死の形相で転がり込んできた男に道場内が騒然となる。名前を呼ばれた本人であるカルリトは、ただならぬ様子の弟を見て動揺を(あら)わにしていた。

 

「テリュスが、黒豹のやつらにっ!」

 

「どうしたんだ、落ち着け。ほら、ゆっくり最初から」

 

「そんな暇はないんだ兄さんっ。早く、はやくいかないとっ!!」

 

 ううと(うめ)(ごえ)を漏らすセリノ。武芸から逃げてきた結果、有事に力を発揮できない己に悔いていた。なんとか冷静に努めつつ、経緯を説明する。それを聞いたカルリトは表情を一変させた。

 

「どっちだ、どっちに向かった」

 

「し、知り合いに後をつけてもらってる。港のほうに向かっていたから、それを追いかければ――」

 

 その言葉を最後まで聞かず、カルリトは立ち上がる。道場の端にあった剣を腰にぶち込む。

 

「先生ッ、俺たちも!!」

 

 門弟たちが我先にと声を上げる。しかし、カルリトは首を振って断った。

 

「皆はこのまま待機していてくれ。応援に駆けつけたいのは分かっている。けれど、これは家の問題だ。今日(きょう)はそのまま訓練に励んでくれっ!」

 

 その言葉で、木刀を握り締めていた門弟たちの意気を()ぐ。彼らは(いま)だ未熟な身だ。いくら妹の(ため)とはいえ、そこまで付き合わせるわけにはいかなった。

 

 残った実力者たちに目を向ける。しかし、都合悪く経験豊富な勇士はいなかった。老齢の達人が数人残っているが、技術はともかく体力的にかなり不足がある。模擬戦ならともかく、実戦では危険だった。

 

 カルリトは仕方なく残った人物――アンヘルに向き直る。正式な門下ですらないが、緊急事態ゆえに(すが)らざるを得なかった。

 

「すまない、君にも来てもらえないだろうか。このとおりセリノは剣を使えないし、俺一人(ひとり)じゃ妹を守りきれるかどうか……」

 

「かまいません。ぼくも、彼女にはよくしていただいていますから」

 

 アンヘルは荷物の近くに置いてあった立派な刀剣を腰に差す。道場生から度々話題になる立派な精緻な鍔彫が印象的なそれを腰に携えると、まるで別人に変貌したような印象を受けた。

 

 その雰囲気に気圧(けお)されないよう構えながら、頭を軽く下げる。

 

「助かるよ。さあ、行こう。絶対に、妹を助けなければッ」

 

「……もしかしたら、テリュスさんがひとりで倒しているかもしれませんよ? 落ち着いて行きましょう」

 

 アンヘルが気軽そうな口調で言った。その焦りのない空気感に引かれて、ふっと肩の力を抜いた。

 

 ――こんな若い(やつ)に指摘されるなんて、俺もまだまだだな……。

 

 よし、と頬を(たた)き気合を注入する。その後には気合の入った(おとこ)の顔があった。

 

「よし、セリノ、アンヘル。行くぞッ!!」

 

 カルリト一行は、妹を救う(ため)に駆け出した。

 

 

 

 

 

 男たちの後方数メートルをついていきながら、テリュスは敵の状況を伺った。

 

 ――男たちは、三人。けど、本拠まで行けば、おそらく倍以上……。

 

 四半刻程度は歩いているだろうか。場所は港区の倉庫街に行きついていた。遠景に帆の張られた船が映えている。慎重に周囲を警戒しながら追従し続けていた。

 

 警戒しているのは、男たちも同様だった。下卑た表情は浮かべているものの、楽勝という雰囲気はない。衝突前の軍のようなピリピリした空気を(まと)いながら、無言で先導する。少数でやり合えば敗北するのを理解しているのだろう。

 

 倉庫街、そこの先に彼らの本拠地はあった。

 港区の端の端、今は沈没してしまったプロビーヌ商会お抱え傭兵(ようへい)たちが根城にしていた倉庫街の一角である。

 

 じんわりと(にじ)んだ手汗を裾で拭いながら、さらに警戒を深めた。

 

 狭い路地を抜けると、小さな建物に囲われたゴミ広場へ到達する。今、助けますッ! と勇んで入ったそこは、余りにも想定外の光景であった。なにせ、イズナは、間の抜けた表情でお菓子を要求してからだった。

 

「ねえ、お(なか)空きましたぁ~」

 

 本拠で待機していたならず者たちは、イズナの我儘(わがまま)に手を焼いていたいるのか、疲労困憊(ひろうこんぱい)な様子だった。これには先導していた男たちも、そのきかん坊っぷりに辟易(へきえき)とした様子だったが、気を取り直して此方(こちら)に向き直った。

 

「まあいい。計画通り女を連れ込んだ。あの女は後でゆっくり料理してやる」

 

「へへへ、あんときの恨み、ここで晴らさせてもらぁ」

 

 男たちがポキリと指を鳴らしながら刀剣掲げる。

 しかし、イズナという心配事項が消えた今、テリュス側にも心配事項はなかった。殺伐としたその中央で、堂々と笑う。

 

「忘れましたか? コテンパンにされたことをっ」

 

 スッと腰の剣を引き抜き、今度は手加減しないと周囲を威圧した。破落戸(ごろつき)(ごと)き散っていくと甘い期待をしたのだが、彼らには微塵(みじん)の動揺も伺えなかった。

 

「確かによ、おれたちじゃてめえには勝てねえだろうさ」

 

 男は純然たる事実を認めるようにして、厳かに言った。そこには欠片(かけら)も悔しさは伺えない。(むし)ろ、敗北という名のスパイスを楽しむように、余裕を持ち合わせていた。

 

「けどよ、こんだけ仲間がいりゃあ、てめえにも勝ち目はねえぜ」

 

 バッと十人近い男たちが飛び出してくる。手には石弓を携えており、少女一人(ひとり)では太刀打(たちう)ちできるはずもない。されど、テリュスは(ただ)の小娘ではないのだ。何の力も持たぬ男が数人集まった所で、物の数ではない。

 

 テリュスは薄く微笑(ほほえ)むと、脚に力を込める。グッと踏み込むと同時に、弾丸のように飛び出した。

 

「そんな人数じゃ、私には勝てませんよ」

 

 (ただ)の人間には視認することも難しい速度で駆け抜ける。これが草原など、見晴らしのいいフィールドならば苦戦しただろうが、ここは港区の倉庫街だ。いろんな物が射線を妨害してくれる。後は懐に飛び込んでしまえば、勝負ありだ。

 

 女でも扱える細剣を(ひらめ)かせる。厚みは()(かく)、その鋭利さはロングソードなどと比べるまでもない。疾風となって回転すると、峰の部分で手前にいた男を打ち据える。

 

 男たちも抵抗を始めるが、大した脅威ではない。そう判断したテリュスは次々と敵を打ちのめしていく。

 

 テリュスは、恐れをなしている男に向かって剣を振り下ろした。細剣を風を巻き上げながら、その脇腹を打ち据えた。

 

 同時に、激しい剣撃に威圧された男が気勢を上げながら向かってくる。テリュスはブーツの先に力を込めて、脚を振り回した。

 

 つま先が相手の膝を真っ向から砕く。男はくぐもった男を喉から漏らした。

 

 遠くに石弓を構える男たちが見える。バックステップからの跳躍して背の物陰に隠れる。そこから見えた男たちに向かって、足元の石を投擲(とうてき)した。

 

「ぐえっ」

 

 悲鳴が尾を引いて木霊した。矢が一本、二本と突き刺さると、勢いよく飛び出す。石弓は誰でも簡単に扱える半面、弓のように素早く装填できるわけではない。その間隙を()いた行動だった。

 

 車輪のように脚を動かして、遠距離武器を持つ男たち側へ回り込む。集団のバランスを()(みだ)すことが、対多数戦の基本だ。

 

 地面に倒れる男が二人(ふたり)、三人となったところで、敵の首領である恰幅(かっぷく)のいい男に向う。

 

 テリュスは大きく振りかぶる。そして、細剣をスッと振り下ろした。

 

「はぁああああッ!」

 

 流星のように駆けた剣を、男は驚愕(きょうがく)(あら)わにして眺めているだけだった。

 

 終わりだな、と判断する。イズナは無事で、頭を潰せばならず者など烏合(うごう)の衆と化すだろう。事実、頭目を潰されても整然と行動を続けられるのは、高度に訓練された軍隊だけだ。

 

 しかし、その当ては外れた。テリュスの剣が直撃する寸前、横から剣が飛び出してきて()()った。ガキンと火花を散らして、剣が男の額すれすれで停止する。影から現れた鈍色(にびいろ)の剣は、勢いの任せて押し切ってきた。

 

「誰ですかっ!」

 

 テリュスは後方に跳躍すると、暗がりから突然現れた増援に焦点を合わせた。

 

「ふ、ふふ、ふははは」

 

 獰猛(どうもう)な笑みを浮かべる痩せぎすな男が、テリュスの網膜に映じられた。驚いたような表情が(かん)に触ったのか、さらに頬を引きつらせて狂気を(あら)わにした。

 

 ボロのコートを(まと)ったその男は、テリュスの兄妹(きょうだい)にして四男ドミンゴであった。ドミンゴは剣を大きく振りながら、正眼に構えた。

 

「どうして、ドミンゴ(にい)さんッ!」

 

「うるせええっ。邪魔を、オマエは、また俺の邪魔をするのかッ! 俺の、新たな居場所を奪うって言うのかッ!」

 

「兄さんッ、何を言っているんですかっ!」

 

「だまれ、だまれ、だまれ、だまれ、だまれ、だまれ、だまれぇぇッ!! オマエが悪いんだッ。いつもいつも邪魔ばかりしやがってぇぇぇぇえええッ!! 殺してやるぅぅ、ころしてやるぞぉぉぉぉぉおおおおッ!」

 

 あらゆる増悪を煮詰めて発酵させたような、強烈な悪意を叫びに乗せて放出させた。禍々しい強化の残滓(ざんし)が周囲に漂う。テリュスはその気勢に少しばかり威圧された。

 

 久方ぶりに見たドミンゴの容貌は一変していた。記憶にある精悍(せいかん)な様子は一切なく、こげ茶の髪をそのまま腰の辺りに流し、頬が()()ちたように痩せている。瞳には深い虚無が宿り、まるで三十代に見えた。左目には大きな傷がある。それが、ますますかけ離れた印象を打ち出していた。

 

今日(きょう)は悪くない日だ。オマエを、正面からぶっ殺してやるんだからなぁッ!」

 

「何をっ!?」

 

 驚愕(きょうがく)に打ち震えるテリュスを他所に、ドミンゴは駆け出す。上段に構えた長剣を斜めに振り下ろす。テリュスは華麗にひらりと舞うと、その剣(うち)(かわ)した。

 

 氷柱(つらら)が落ちてきたような連なりを伴って、矢が直前までいた空間へ突き刺さる。飛びずさったテリュスはそのまま箱の影に身を潜めると、(いま)だ無事な男たちに意識を向けた。

 

「兄さんッ! どうしてこんな真似(まね)を。やっていることが分かっているんですかっ」

 

「うるさいッ! そんなこと、どうでもいいさぁあッ!!」

 

「そんなことって、それでイズナを巻きこんだんですかッ!」

 

 売り言葉に買い言葉、テリュスも頭に血が上る。駆け出すとドミンゴと打ち合いを始める。

 

「うおおおおっ!!」

 

 咆哮(ほうこう)を伴って、ドミンゴが駆ける。テリュスは合わせるようにして、剣を突き上げた。

 

 繰り出した激しい突きは、ドミンゴの長剣をすり抜けて、脇の外套(がいとう)を薄く裂いた。ドミンゴはぐらりと体重を揺らすと、右腕を振るった。

 

 腕の振りに合わせて、銀線が流線型を描く。テリュスは一度突き出した剣を引きなおして、必死に応戦した。

 

 右、左と流れるように剣を振るう。相手もそれに合わせてきた。

 

 しかし、その拮抗(きっこう)は長く続かなかった。ドミンゴが不利になるたび、男たちが突撃したり、矢を放ったりはするものの、徐々に人員が(けず)れる。相手も額に大粒の汗を流しながら応戦していた。

 

 ――ドミンゴ兄さん、昔とほとんど変わっていない……。

 

 対戦したのはもう三年も前である。その時から、まるで技量は上達しておらず、肉体に至っては度重なる不摂生によって劣化している。(とし)を重ねる事による身体の成長を加味しても、ドミンゴは変わっていない(どころ)か、劣化していた。

 

 このままいけると判断したテリュスは攻撃を激化させる。剣を苛烈に振るうと、男たちはさらに数人減り、ドミンゴも左腕を痛めて十分な動きが不可能になっていた。

 

 ならず者たちは、自分たちが絶体絶命の危機にあること察して、顔を青ざめさせていた。

 

「兄さん、もうやめてください! そちらに勝ち目はありませんッ」

 

「――クソッ! ()めるなよっ」

 

 それでも気丈に剣を構えるドミンゴ。しかし、勝ち目は誰が見てもありはしなかった。大勢は決した、とテリュスは悠然と周囲を睥睨(へいげい)する。ドミンゴも、その瞳から生気を失いつつあった。

 

 テリュスは、警戒を緩めないまま、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす男たちへとゆっくり歩み寄っていく。勝者の威風だった。

 

「おら、ドミンゴッ! テメエ、なんとかしやがれっ!」

 

「そうだ、そうだッ! おい、俺たちが助けてやった恩を忘れたのかッ!」

 

 ドミンゴはその言葉で、己の置かれた現状を思い直したのか、決意を新たにして構えなおす。しかし、テリュスにはそれがひたすら哀れに思えた。

 

「私は、別に憲兵や騎士団に突き出そうってわけじゃありません。ただ、イズナを返してくれればいいだけ――」

 

 本心からだった。ドミンゴ兄さんは()(かく)、他は心底どうでもいい。テリュスには、治安維持に貢献しようなどと大それた思想を持たない。事態の収拾、それこそが望みだ。

 

 完全に勝負あり、そう思っていたとき、それは現れた。

 

「はあぁぁぁ、テメエらが言うから黙って見ててやったがよ。やっぱ、ダメじゃねえか」

 

 それは、低い低い、底から響くような音だった。

 

 いままで、倉庫の奥に隠れていたのか、ひときわ大きな身体つきに、褐色の肌の大男が物陰から姿を表す。紺藍の短髪に、獰猛(どうもう)そのものといった血走った瞳がぎらぎらと飢えて光っている。巨大な線(おの)を背負っていた。

 

「グンドの大将ッ!!」

 

 男たちに活気が戻り始める。テリュスはその男の姿を見た瞬間、身体の震えが止まらなかった。

 

 ――なんなんですか、この男……。

 

 小さく(おび)えてしまったテリュスの正面で、グンドは朱色に塗られた頬を引いて酷薄な笑みを浮かべたみせた。

 

「さあ、楽しませてくれや。嬢ちゃんよ」

 

 砂塵(さじん)の地に住むもの特有の刺青(いれずみ)が胸元で輝く。それは、悪名高き戦士の部族ラドック人の特徴だった。

 

 

 



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第六話:兄思う、ゆえに兄あり 下

 

「こっちです、セリノさんッ」

 

 セリノは追跡を頼んだ男に先導されながら、その区画に辿り着く。後方にはカルリトとアンヘルの姿もあった。

 

「ありがとう、本当に感謝するよっ」

 

「いえ、いいんです。セリノさんには何度も助けられてますし、それに黒豹の奴らは許せませんから」

 

 町民の男は黒豹傭兵団に対する不快感を隠そうとはしなかった。近隣に住む者たちにとって、害虫そのものであった。セリノのように暴行を受けて泣き寝入りした者や、娘や恋人を乱暴され塗炭の苦しみを味わった連中も多い。彼もそんな一人であった。

 

 町民は「この角を曲がったすぐそこです」と言い残すと口惜しそうに去っていく。カルリトは一度立ち止まると、全員の顔を確認した。

 

「今から突入するが、俺が先頭になる。アンヘルはセリノを守りながら付いてきてくれ。それとセリノ。絶対に突っ込んだりするなよ」

 

 カルリトは、三、二、一の合図と同時に勇み足で其処へ突入する。セリノも剣を構えながら突き進んだ。皆一斉に角を曲がって、その場に躍り出る。そこは異様な光景、小柄な少女が大男相手に大立ち回りを演じている様子が広がっていた。

 

「たぁあああッ」

 

「軽いなぁ、嬢ちゃんや」

 

 テリュスは中央で佇立する大男に襲い掛かる。褐色の肌に立派な体格を持っており、まるで古代の大将軍樊カイを想起させる出で立ちだ。そして、その外面はけして見掛け倒しではないということを、ただの一瞬でセリノは理解できてしまった。

 

 視認することすら困難なはずの、全速力で振りきったテリュスの剣撃を、男は半ば欠伸を漏らしながら右手のガントレットで受ける。

 

 退屈そのものといった様子だったが、しかし、動きに鈍りはない。高速で右足を細動させると、突如うねりを伴って踵をぶん回した。

 

 少女には躱す余裕すらない。待っ正面からもろに喰らうと、肉を打つ音と共に吹きとぶ。大きな音を立てて物置に突っ込むと、がらがらと瓦礫の中に埋まった。

 

「テリュスッ!」

 

 鋭い悲鳴を響かせながら、駆け寄った。彼女は、ゆっくりと意識を立て直すと、がらがらと瓦礫の中から這い出てきた。

 

「大丈夫、大丈夫ですから」

 

 強気な態度を崩さないが、身体には幾つもの痣があった。完全に遊ばれている。実力差は歴然であった。

 

 セリノにとって妹は超常の戦士そのものである。元々身体の強くない彼にとって道場生たちは人外とほぼ同義だったが、あの一瞬の攻防で目の前の男がさらに高みにある存在であることは明白であった。

 

「増援の登場ってか。はあ、これならさっさと勝負をつければよかったぜ」

 

 男が杜撰な計画をした部下たちを咎めるようにして睨む。蛇に睨まれた蛙のように男たちは縮こまっていた。

 

 スポットライトが他の人物へ当たったことで、周囲を確認する余裕が生まれた。そこで、目についた男たちの中の人物、痩身の男に視線を奪われる。

 

「ドミンゴッ、どうしておまえがっ」

 

 カルリトが驚愕に固まる。ならず者の先頭に立つ男は、弟ドミンゴだったのだ。その事実に気づき、セリノは愕然とした。

 

「お前は何をしているのかわかっているのかッ。自分の妹だぞッ!」

 

「うるさいッ、よってたかって、何様のつもりだッ! 兄さんたちに指図される筋合いは――」

 

「はいはい、そこまでにしてくれや。つまんねえ家族ごっこはさ」

 

 男がパンパンと腕を叩く。ゆったりと戦斧を構えた。

 

「ほら、誰からやるってんだ。それとも、全員か? それでもいいぜ」

 

 斧を構えると、ひと回り大きくなったようだった。重武装は、その威容だけでも相手を恐怖の坩堝へと叩き落とす。カルリトは小さく「血まみれグンドだ」と呟いていた。

 血まみれグンド。黒豹傭兵団きっての凄腕である。異名通りの血をまき散らすような戦い方が特徴の男だ。セリノは仰々しい異名に身震いを隠せなかった。

 

「『血まみれグンド』ってなんですか?」

 

「…………僕も詳しく知っているわけじゃないけど、黒豹傭兵団の幹部だよ、たしか」

 

 アンヘルの能天気な疑問に対して苛立ちを覚えながらも、頭の片隅に残っている記憶を引っ張り出す。しかし、問うた本人はふうんと呟きながら、意識を正面へと戻していた。

 

 ――クソ、本物の傭兵じゃないかッ。幾ら兄さんでも勝てるのかっ。

 

 不安を隠せず周囲を伺った。だが、カルリトはその視線を受けて、ひとり神妙に頷くと、剣を正面に構えた。

 

「セリノはテリュスを見てやってくれ。アンヘルは周囲の奴らが乱入しないよう注意を頼む。こいつは、俺が相手をする」

 

 カルリトは闘気を高ぶらせると、そのすべてを剣に集める。それが臨界点に達すると、一気に飛び込んだ。

 

「東方一刀流師範代カルリト、参るッ!!」

 

「名乗りたがりってのは、雑魚の証だぜ」

 

 その掛け合いを合図に、両者は打ち合いを始めた。

 

 カルリトは道場の師範代だけあって、かなりの使い手である。長剣を手先の延長のようにして自由自在に操り、薙ぎ、払い、突きと教科書通りに放つ。間合いの取り方、踏み込みの位置、強化術の洗練さなど、すべてが高い水準で揃っていた。その華麗な剣術は、セリノが道場で見た剣術そのものだった。

 

 もっとも、数多の戦場を潜り抜けたグンドは実戦経験豊富な猛者である。『血まみれ』の二つ名は、伊達ではない。涼しい顔をして受けに回っていたかと思うと、突如として反撃を繰り出した。

 

 まさに戦士の技である。剣をギリギリで見極めると、その巨大な戦斧を唸らせた。ボッと、大気を割って先端が迸る。カルリトはその攻撃に煽られて、幾度がたたらを踏むと後退を余儀なくされた。

 

「カルリト兄さんっ、おされてないか。くそ、助けに入ったほうが……」

 

「いえ、大丈夫ですっ。兄さんには、あの秘剣がありますからっ。それに、危なげなく剣を躱しています。なんとかなりますよ」

 

 テリュスの言葉には絶対の自信が滲んでいた。確かに、巨漢グンドの斧と真っ向から打ち合う必要はない。重武装と打ち合いを避けるのは、道理でもあった。技術で躱し、致命の一撃を放つのが剣士の神髄だ。

 

「だ、大丈夫そうだな。よかった、よかったよ。な、アンヘル」

 

「……」

 

「どうしたんだい、アンヘル? まだ、不安なのかい」

 

「いえ、そういうわけでは……」

 

 言葉を濁すアンヘルを見ていると、周囲を取り巻いている男たちから悲鳴があがった。カルリトが大きく剣を掲げている。その剣に力が収斂されて、青く光っていた。

 

 ――カルリト兄さんの、秘剣だっ!!

 

「秘剣、清冽流しッ!!」

 

 その轟々とした剣の闘気からは想像できないほど、滑らかな銀線となって剣が閃く。白銀の鋼が、入刀するような穏やかさで世界を切り裂いた。

 

 スパッと綺麗に男の胸元を割った。一直線に筋が入ると、血が噴出する。しかし、傷は浅く、男は少しばかり顔を顰めただけだった。

 

「ここら辺にしておけッ、俺の秘剣を破ることはできないぞッ!」

 

「へ、箱入り坊ちゃんにしては中々やりやがらぁな」

 

 グンドは胸元の血を手で抄うと、ぺろりと舌で舐めとった。その顔には余裕があった。

 

「けどよ、まだおわっちゃいねーのさ」

 

 グンドの切れ長の目尻が、瞬間、恐ろしいほど昏く歪んで見えた。

 爆音とともにその巨大が走りだすと、號と蛇のように地を走りながら恐ろしいスピードで斧が唸った。

 

 おう、とカルリトが構えるが時すでに遅し。大気を割って迫る大斧は、彼が持つ剣を粉々に砕いた。

 

 そのままグンドが右拳を脇腹に放つ。

 ゴキゴキと骨が幾つも砕ける音と共に、カルリトは吹き飛んだ。宙を舞って血反吐をまき散らしながら地面へと倒れる。ドッと男たちの間で歓声があがる中、さも当然という顔でグンドが戦斧を肩に担いだ。

 

「カルリト兄さんッ!」

 

 悲鳴をあげながらテリュスが駆け寄る。

 

「ごほっ、く、くそっ」

 

 カルリトが上半身だけを起こしながら、ゆっくりと歩み寄ってくるグンドを睨みつける。しかし、その眼光からは常ある鋭さが失われていた。

 

「どうした? ああ? もう終わりだってか」

 

 グンドが嘲るようにして笑う。ずんずんと進むその威容は、巨人の行進そのものだった。

 

 一同に絶望が染みわたる。残っているのは傷だらけのテリュスと武芸がからっきしの自分、そしてアンヘルだけである。この場の最強戦力が倒れた今、絶体絶命の状況に陥っていることは皆理解していた。

 

 男たちがにじり寄ってくる光景に、まるで心臓に針を穿たれたような緊張感が増大してゆく。狭まっていく包囲網の中、セリノたち兄妹は互いに身体を寄せあった。

 

 不安感から、キョロキョロと周囲を見渡す。しかし、増援など望めるはずもない。万事休すかと嘆いていると、スッと横にいたアンヘルが前に進んだ。

 

「ここは、ぼくに任せてもらえませんか」

 

 その右手は腰の剣柄にかかっていた。その横顔は気負いも恐れもない。出会った当初から変化のない平静そのものだった。

 

「なに考えているんですかッ! カルリト兄さんが敵わなかったんですよ。あなたなんかじゃ――」

 

「そうだ、止めるんだッ! そいつは只者じゃないっ」

 

 全員が制止の言葉を投げ掛ける。対照的に、グンドの背後にいる男達は、此方の本命を大将が容易く一蹴したことで、虎の威をかる小物のように笑みを深めた。

 

「さすが、グンドの大将でさぁ」

 

「へへへ、諦めるんだな。それに、おまえらの実力なら、奴隷商にも高く売れんだろッ」

 

「いやっほおぉおおおおお。おんな、おんな、おんなぁあああああッ」

 

「おで、おでもっ」

 

 男たちが包囲の輪を狭める。

 

 テリュスは兄の重傷に気を削がれている。命に関わる傷ではないが、傷は重く、平時と同じ働きは期待できそうにない。この状況を一変させるには、グンドを一対一で破り、残りの男たちも片をつけねばならない。不可能に近い事態だった。

 

 それでも、アンヘルに動揺は見られなかった。

 

「分かっています。しかし、このまま固まっていてもどうしようもありません。僕が彼を引きつけます。カルリトさんとテリュスさんは、他を倒してイズナさんを助けてください」

 

「だが、きみがっ――」

 

「なるべくはやく、戻ってきてくださいね」

 

 ふっと笑顔を浮かべる。有無を言わせぬ態度だった。不思議な空気を漂わせる少年だと思ってはいたが、この状況でも笑顔を浮かべられるとはセリノにも予想外だった。

 

 セリノは五つ以上年下の少年が浮かべるその涼しげな顔に、間違いなく呑まれ、そして無意識の内に縋っていた。しかし、男たちには認められなかったのだろう。まだ歳若い少年の生意気な物言いに腹を立て、罵詈雑言の嵐を巻きたてる。

 

「舐めてんのかっ、てめえなんて、大した役にたちゃしねえよ」

 

「おれがぶっころしてやろぉかぁ? ええ」

 

「おで、ころす、ころす」

 

 男たちが肩を怒らせる。生意気な口を開いた愚かな少年へ罰を下そうと、粗野な悪意をあらわにしている。しかし、それをそれを遮ったのは大将のグンドだった。

 

「おい、テメエらはそこの雑魚どもを屠ってろ」

 

「へ、なんででさぁ。別のあいつなんておれらで……」

 

「いいからさっさと行け。俺に口答えするんじゃねえ」

 

 男たちはかなりの不満顔を浮かべたが、さりとて大将に物申すほど愚かでもなかった。さっと離れるとイズナたちの方向に壁を作る。場は、グンドと他に分断された。

 

「イズナさんを宜しくお願いします。あと、お兄さんとも……」

 

「けどッ」

 

「止めるんだテリュスっ! すまない、アンヘル。本当にありがとう。すぐ、すぐ戻ってくるから……」

 

 カルリトはグズる妹を引っ張って、新たな戦場に向かう。

 彼らの戦いも容易ではない。実力は兎も角、手負いなのだ。男たちは幾人も残っている。待っ正面の戦いとなれば苦戦を強いられるだろう。付いていくべきなのだろう。だが、セリノは動かなかった。

 

「僕は残るよ。どうせ、向こうにいっても役立たずだからね。微力ながら、力添えするよ」

 

「はあ、わかりました。ただ、前には出ないでくださいね」

 

 セリノは剣を構える。が、付け焼き刃の武術などなんの役にも立たないことは百も承知だった。

 

 ――勝てる可能性はほとんどない。なんとかして、戦いを長引かせないと……。

 

 戦略を練っているセリノを他所に、グンドはジロジロとアンヘルを眺める。その瞳には、ほかの部外者など欠片も映ってはいなかった。

 

「……テメエ、なにもんだ。さっきまでの奴らとは格がちげえ。傭兵かなんかか?」

 

「アンヘル、といいます。ただの士官候補生ですよ」

 

「……あん、へる、アンヘル…………もしかして、スリート商会の奴か?」

 

 唐突に飛び出した大手の商会の名前に首をひねる。奇妙な雰囲気だ。先ほどまで余裕たっぷりだった男が、警戒心を露わにしている。敵と相対した獣のような態度だった。

 

「……そうです。よく、ご存知ですね」

 

「はっ、知らねえわけあるめえ。あのアンヘリノをぶっ殺したって噂の野郎さ。まともな傭兵なら、朧げな噂くらいは聞いているもんさ」

 

 二人だけが知る情報が飛び交う。セリノは完全に蚊帳の外だった。両者の顔を見比べる。

 

「チッ、たいした仕事じゃねえから来てやったのに。こんなんじゃ元取れねえぜ」

 

「…………意外と現物主義なんですね。傭兵も」

 

「そりゃそうよ。世の中、イカれたアンヘリノみてえな野郎ばっかりとでも思ってんのか?」

 

 グンドがせせら笑う。

 

 このまま、終わるかと淡い期待を抱いたセリノだったが、大男は再び瞳に戦意を宿らせる。巨大な戦斧を頭上で旋回させて、正面に構えた。

 

「けど、まあここいらで名を売るってのも悪かねえかもな。あのアンヘリノをヤった野郎の首引っ提げて帰りゃ、俺も裏社会のスーパースターさ」

 

 男に闘気が満ちる。ブワッと身の毛のよだつ殺気が放出された。

 

 ガチガチと歯が鳴る。冷や汗が止まらない。突然、巨人が聳え立ったかのように、グンドの威圧が強大化していた。

 

 ――ば、化け物だ。今まで、手を抜いていたのか……。

 

 威容に押されてどすんとと尻もちを着いた。助けを求めるようにしてアンヘルを見る。しかし、彼も平然と佇立していた。

 

 ゆっくり剣を引き抜く。刀身に青と赤の光が迸り、ヴィィィィィィンと風切り音が周囲に轟く。リミッター解除した機関車のように、強烈な闘気を放出した。

 

 その肉体から放射された闘気はグンドに劣らぬものだった。

 

 うっと呼吸が詰まる。得体の知れぬ怪物が化けの皮を脱ぎ去ったかのような、異常な闘気が世界を支配していた。両雄に挟まれた間で、セリノの視界は霞んでいく。白と黒のモノクロ世界に落とされたような、異常な空間の中で、微かに響く声をその耳で聞いた。

 

「やっぱり、戦わないとだめなんですね」

 

 悲しそうに一瞬俯く。それが、この戦闘においてはじめての人間らしい表情だった。

 

「なら………ぼくは、あなたを討ちます」

 

 上げた顔は、闘争に慣れ、痛苦や悲哀を忘れ去ってしまった戦士そのものだった。

 

 

 

 

 

「かかれぇっ! 奴らは手負いだぞぉぉおおお」

 

 恰幅の良い男が此方を指し示す。その掛け声と同時に、残った男たちが飛び出てくる。テリュスは痛む身体に鞭を入れながら、剣を構えて飛び出した。

 

 瓦礫の上から射たれる矢を細剣で叩き落とすと、向かい来る男の小手を斜めから叩き斬る。鮮血がパッと舞い、痛がる男の腹を足裏で蹴り飛ばした。

 

「テリュスッ、左だッ!!」

 

 腹を押さえたまま、カルリトが指示を下す。テリュスはその声に呼応して脚を旋回させると、ムーンサルトを男の横っ面にお見舞いした。倒れた男をトドメとばかりに、カルリトが剣を喉に突き刺す。肉が引き裂かれ、くぐもった絶叫が流れた。

 

 先ではイズナが連れていかれようとしているが、テリュスたちが踏み込むことで場の人間は迂闊に動けなくなっている。手負いとはいえ、一対一では後れを取ることもない。

 だが、楽観視できるわけではない。物陰では重症を負ったカルリトが青い顔で喘いでいる。出血しているわけでもないため、死に至る危険はないが、戦力として期待できるわけでもない。手負いの兄を庇いながら戦うことを余儀なくされていた。

 

 男たちは残り少なく、またテリュスもまた痛みと闘いながら大粒の汗を流している。戦いは、佳境に移っていた。

 

 あと、一息だと、白い喉を上下させて呼気を整えると剣を握り直した。柄は血と汗で塗れてすべり、気を抜けばころんと転げ落ちそうだ。

 すでに剣の峰で打つという慈愛の精神は投げうっている。殺意を刃に乗せて、迫りくる敵を排除する。どばどば溢れ出る脳内麻薬が、殺しに対する葛藤を先延ばしにするが、じわりじわりと精神を追い詰めつつあった。

 

 間を置かず、耳元へと投擲物の鋭い音が飛び込んでくる。のけぞって躱すと、石畳へと矢じりが硬質な音を立てて撥ねた。転がって物陰に隠れる。まさしく、呼吸の間すらない刹那のやり取りだ。

 

 カルリトが落ちている石ころを拾って射手に投擲する。投石と侮ることなかれ。石の投射は古来よりありふれた戦闘方法だ。それが強化された武芸者にて用いられれば、簡易ライフルと同等の威力を誇る。男たちは石弾を受けて、瓦礫の上から瞬く間に落とされていく。その絶叫は尾を引いて伸び、やがて消えた。

 

「おで、ころす。おまえ、おかす」

 

 口から涎を垂らしている。脳みその足りない男が、そのぜいにくをタプタプ揺らしながら進んでくる。その手には大きな戦槌が握られていた。

 

 テリュスは叫びながら、襲い掛かってくる男の腹を薙いだ。ずどんと剣を放り込んだその腹部に深く突き刺さる。腹圧で細長いピンクの贓物が漏れ出してきた。

 

 ぐげげと男が呻き、持っていた戦槌を落とす。そのまま身体の力が抜けるのかとおもいきや、男は踏ん張り立ち止まった。

 

 ――ぬ、抜けないッ――!!

 

 テリュスが腹に深く突き刺さった剣を抜こうとすると、男は血が溢れるのも構わず両腕でテリュスごと抱きとめた。その顔は嫌らしく歪んでいた。

 

「でへ、でへ、つかまえた、つかまえたぁ」

 

 涎を垂らした顔を近づけてくる。テリュスはその悪臭と生理的に受け付けない顔の造形にたまらず顔を逸らす。しかし、男はさらに力を込めて両者の密着度をより高めた。

 

 ぎりぎりぎりとテリュスの身体が締まる。すうっと、腕の力が抜けた。男の腕に歯を立ててなんとか抜け出そうとするが、そんなことでは緩むはずもなかった。

 

「いぃっ、いたっ」

 

 テリュスの口から苦悶が漏れる。彼女の強化術はスピードに偏っている。それでも只の肥満体に負けるほどではないのだが、死に際の馬鹿力を発揮した男の膂力は彼女の力を僅かに上回っていた。

 

「よおぉぉし。そのまま押さえておけぇえい」

 

 恰幅のいい男が怒鳴る。その脇には馬鹿そうな男と暗い笑みを浮かべるドミンゴの姿もあった。

 

 カルリトは動けない。射手に集中狙いされている彼は、負傷もあってか物陰から飛び出すことができないのだ。

 

 気道が絞められた事により、少しづつ意識が消えさる。白めく意識の中で、男の下卑た声を聞いた。

 

「おお、おおお、いいねえ。その顔はよお。だがよ、これからだぜ。許してって幾らせがんでも、ずうっとずうっと俺たちのモンで気持ちよーくしてやっからよお、ん?」

 

「きひ、きひ、あにきい、さすがでさぁ」

 

 三人の男がゆっくりと近寄ってくる。テリュスが完全に意識を飛ばしかけたとき、新たな闖入者が顔を出した。

 

「うわぁあああああああああああッ!」

 

 剣を正面に突き出したセリノが目をつむりながら一直線に肥満体の男に迫る。その直剣は、正確に脳天を貫いた。

 

 荒々しく貫通したその剣から血が噴出する。テリュスが拘束から解放されると、その後方から新たな増援が到来した。

 

 外套を翻して大きく跳躍したアンヘルは、テリュスたちの頭上を飛び越えると独楽のように高速回転しながら集団の腹部を切り開いた。朱色の飛沫が上がると、床に悪趣味なタペストリーを描く。そのまま片腕を地面につきながら停止すると、次の狙いを射手に定めた。

 

「こっちは僕が引き受けます。そちらはお願いします」

 

 と言いながら、豹のように飛び出していく。生き残ったのは、なんとか輪切りから逃れたドミンゴだけだった。

 

 一瞬にして、形勢は逆転した。テリュスはそのことに唖然としながらも、最後の敵にして己の兄、ドミンゴにつるぎを向けた。

 

 

 

 

 

「兄さんッ! もうやめてくださいッ」

 

「ふ、ふ、ふ、ふ、ふははは、は。また、またもやこの結果なのか。笑える、笑える話じゃないか」

 

 茫然自失として、瞳から生気を失った状態で立ち尽くしていた。

 

 ドミンゴにとって、妹はすべてを奪った憎き敵だ。

 

 だが、しかし、現実はどうだ。己の仲間たちはすべて屠られ、その屍を晒している。眼前に立ち塞がるは、諸悪の根源と信じてやまない憎き妹なのだ。

 

 仲間たちのことが好きだったかと問われれば、否と答えるだろう。知恵もなく、力量もない。そして由緒ある家に生まれたドミンゴは爪弾きに合っていた。好意を抱けるはずもない。

 

 だが、それで済む話ではないのだ。許せる許せないは、己の心にのみ従うのだ。

 ドミンゴは剣を上段八双に構える。得意だった、東方一刀流の構えだ。

 

「最後の勝負だッ。おまえに、おまえに負けてたまるものかぁあああッ!」

 

「もう、もうやめてくださいッ!」

 

 ドミンゴは相手に構える暇を与えることなく、飛びかかった。

 

 ――先手必勝ッ!!

 

 闘いとは、先手を取ったものが勝利する。決定的な先手を打たれた相手は、まず反撃の余地はない。初手がすべてを決するのである。

 

 鋭く剣が振り下ろされる。

 白い光芒が十字の交錯した。

 

「うっ!?」

 

 ドミンゴが両足を床に着けたとき、手首から熱い炎柱が飛び出した錯覚を覚えた。

 

「もう、やめてよぉ」

 

 眼前のテリュスが涙を零しながら、じっと此方を見ていた。嗚咽を漏らしている。手に持つその刀剣には、直前に肉でも切ったかのように、血が滴っていた。

 

 右手の前腕伸筋群のほとんどが切り開かれ、白い骨が覗いている。それを理解すると、飛び散った血が誰のモノなのか、検討がついた。ついてしまった。

 

 見上げる妹の瞳、そこには確かな憐憫が宿っていた。

 

 ――待てよ、俺はまだ、何もしちゃいねえんだよ。

 

 だが、事実は妹に負けて、惨めに敗北し、地に転がっていた。許せない、と思うが、同時に意識が遠ざかっていく。

 

 走馬灯のように過去の記憶が流れると、煌びやかだった過去が鮮明になる。楽しかったのは、いつも兄のダニーロと競い合っているときだった。尊敬していた。喧嘩したことは数知れず。されど、負けてもいいと唯一思える人物だった。

 

 それをぶち壊しにしたのは、無邪気なテリュスに他ならなかった。

 

 いつも可愛がられて気に食わない妹。厳しい訓練、辛い勉学すべて免除されワガママに育った妹。それなのに、どうしてか自分よりも遥か高みに登ってしまい、遂には兄ダニーロすら下してしまった。その結果、兄は人生のすべてを諦めた。

 

 許せるものかと、一度は飛びそうになった意識をつなぎとめた。ドミンゴは、その胸元に手を差し入れると、鋭い短剣を引き抜いた。

 

 薄れゆく景色の中、必死の力で短剣を突き出す。泣き崩れているテリュスの無防備な胸部に突き立てんと、鈍色の刃が唸る。

 

 ――ハッ、その甘さを後悔しやがれぇぇッ!

 

 インパクトの瞬間、テリュスの驚愕した顔とカルリトの悲鳴が轟くそのとき、一筋の閃光が流れた。

 

 セリノが、横合いから、涙を流しながら長剣を突き出したのだ。

 

 視界が激しく明滅する。激痛なんて生易しいものでは語れないそれが、身体中を駆け巡った。世界が、ぐるりと一回転する。

 

 すでに声など出るはずもない。視界すら真っ黒だ。

 

 だが、その脳は、己の肉親を切り裂いてしまったことを悔いる兄の姿と、憎い妹がへなへなと泣き崩れるのをはっきりと幻視していた。

 

 死の瀬戸際で、ドミンゴはようやく己のしがらみから解放され、憎かったはずの妹へ歩み寄れるような気がしていた。

 

 

 

 

 

 ふう、とアンヘルは息を吐く。一度気を抜くと、倒れそうになるほど疲労が噴出してくる。それほどまでの強敵であった。

 

 あの大男、『血まみれグンド』は生半可な実力ではなかった。人目がある故、召喚術を制限せざるを得ないアンヘルとでは、実力差はない。

 

 砂塵の地特有の褐色肌に紺藍の髪、そして大柄な体。典型的なラドック人の特徴そのものだ。彼の強化や技術に不足はなかった。

 

 それでも、勝利をこの手に掴めたのは、一年間に渡る鍛錬の成果といえよう。じっくりと基礎技術向上に励むことができたアンヘルは、実戦経験と相まってかなりの近接戦闘能力を有しつつあった。

 

 にじむ額の汗を拭う。兄妹たちは皆遺体の前で涙を流していた。損な役回りを引き受けるのも仕事の内だと割りきり、ひとりポカンとしているイズナに駆け寄る。

 

 彼女はひとり女の子座りで周囲を見渡していた。

 

「ねえねえ、アルぅ? どうして、姉さまは闘ってるのぉ?」

 

 間抜けた質問だ。「いやいや君の為だから」という言葉を掛けながら、その腕を引っ張る。脱力させられる終わり方に肩を落とすだけだった。

 

(無事だったのはいいけど、本人がこの調子じゃ、なんだかなあ……)

 

 はあ、と地面に視線を落とす。その時だった。はじめて、何かおかしいと違和感を持った。

 

 ただの少女がこの状況で呑気にいられるはずがない。頭のネジが全部飛んでいなければ、あり得ない状況だ。そのうえ、男たちが手を出さないというのも異常事態だ。これほど麗しい少女なのだ。手を出さないほうが奇特者だろう。

 

 そうやって違和感を持つと、あることに気が付く。

 

 それは、力の気配だった。

 

 水が、淡く渦巻いている。非常に薄い、力に慣れ親しんだものしかわからないほど微量な力で色づいていた。貴族特有の力ではない。例えるなら、いつかの火山龍が放つ根源的強者の闘気に似ていた。

 

 圧倒的存在感。すべてが丸く収まったその横で、アンヘルは小さな蒼穹の少女の存在感に総毛立ち、縫い付けられていた。

 

 ――君は、なにものなの…………。

 

 棒立ちとなったアンヘルに、夏の日差しが容赦なく照り付けていた。

 

 

 



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第七話:一歩目なしの躓き

 

 コンコンと、アンヘルは扉をノックすると、

 

「どうぞ」

 

 という、綺麗な高い声に導かれて部屋へと入った。

 

 時はイズナ誘拐事件の翌日である。平日は当然通常講義なのだが、午前は小隊演習の調整もあってか、学園側が自主訓練となっていた。そこで、持て余した時間を利用して、ある少女の元へと尋ねることにした。

 

 絢爛な装飾の室内、その最奥に執務机が大きく鎮座している。部屋まで送ってくれた使用人に挨拶すると、部屋の主人に久闊(きゅうかつ)を詫びた。

 

「お久しぶり、というべきなのかしら? いいご身分ね。呼び出されないと来ないなんて」

 

 冷然というか、言葉の節々に怒りを匂わせながら頬杖をついていた。その姿は、線が細くふれれば折れそうだとか、儚げにすら思えるのだが、苛立ちを露わにする様子を受けてアンヘルは少しばかり青ざめた。

 

 机には難解な表題の本が整然と積まれていた。かなりの濫読派だと一目で理解できる。つまり、深窓の令嬢に知性と毒を足したような少女であった。

 

「忙しかった、といいますか」

 

「はぁ? 前も同じように言い訳していたわね」

 

 ぺしぺしとペンで机を叩いた。

 

「一応、聞いておきたいのだけど、あなたのその剣と士官学校の入学費、それにつきっきりで勉強を見てあげたのは誰だったのかしら?」

 

「…………アリベール、さんです」

 

「さん? 様をつけなさい、様をッ」

 

「あーりーべーえーるーさーま」

 

「ぶっ飛ばすわよ。あなた」

 

 ぎろりと睨まれると、己の分身が縮こまる。おいたわしやーと嘆く暇もなく、アリベールにソファへ着席を促されると、そのまま席についた。

 

 対面に座る彼女の顔を眺める。絹のような美しい白い肌が陽光に照らされて輝いていた。黙っていれば縫い付けられそうな美である。紅色の化粧が映えていた。彼女にしては、厚化粧だなと思案した瞬間、隠しきれない疲労にきづく。

 

 悪者は僕だけでいいだろう、とアンヘルは偽悪的に言葉を紡いだ。

 

「……今日の服、似合ってていいね。スラッとして見えるよ」

 

 アリベールのドレスは黒地のエスパライアラインにチュールが映える、まさに深窓令嬢然とした装いだ。ただ、歳の割に大人び過ぎているとアンヘルは思うのだが、こうして真正面から見ると似合っているので、ツッコミを入れることはない。目的は『スラッとして』の部分だけだ。

 

 あまり豊かさを伴わない彼女は、アンヘルがガソリンを注いできたことに気が付き、頭に血を昇らせる。ああ、やばいと思う間もなく、彼女の手が近くにあった小物を握りしめた。

 

「しねっ!」

 

「ちょ、ちょっとそれはヤバいって」

 

 手当たりしだい投げられる物をキャッチしながら、アンヘルは全力で逃げ回る。とはいっても所詮か弱い少女の凶行だ。幾ばくか逃げ回ると、投げるものが無くなったアリベールは、すとんとソファに腰を下した。

 

 振り乱した髪を整える彼女。それを刺激しないよう、ゆっくりと対面に腰かける。少女はふうふうと息を整えると、使用人を呼びつけ茶の準備をさせるよう言いつけた。

 

「はあ、朝から疲れたわ。ムダなことばかりして」

 

「……それもいい息抜きだよ。いつも気を張ってるみたいだし」

 

「あなたに言われたくないのだけれど?」

 

 はははと頭を掻く。アリベールの冷たい目がきらりと輝いていたが、鬱屈したような表情はどこかへ吹き飛んでいた。

 

「それで、今日はどうして呼び出したの?」

 

「投資している人物がどうしているのか、気にならないとでも? まあ、少しばかり話があるのも事実だけど、ただの安否確認よ。ただでさえ、士官学校は死人が出やすいのだから」

 

 そこでアンヘルは胸をなでおろした。昨日はテリュス兄妹の事件で大立ち回りを演じ、十人近くを切り殺している。アリベールは闘いに否定的な意見を持つ人物で、以前にも商会の仕事で力を貸したときには嫌な顔をされた過去がある。

 

「それより、あなたに聞きたいことがあるのよ」

 

「聞きたいこと……?」

 

 アンヘルの問いかけを無視して机の上を漁りだす。そして、一枚の紙を渡してきた。

 

「これよ」

 

 渡されたのは、取り置きされた一週間前の新聞記事だった。そこにはでかでかと『十七魔剣、全容が解明される』と書かれている。いつかエセキエルにマシンガントークを放たれた話題であった。

 

「……えっと、これがどうかしたの? ただの記事だけど」

 

「あなた、気にならないの? 魔剣よ。軍人を目指しているのじゃなかったかしら」

 

「でも、ただの士官候補生には遠い話だよ」

 

「五年なんてすぐそこよ。もっと深刻に捉えなさい」

 

 正直、言いぐさがおばあちゃんみたいだね、と思わなくもなかったのだが、これ以上揶揄うと、本格的に荒れそうだ。沈黙は金、とアンヘルは口を噤んだ。

 

「あなたがこの魔剣について知っているかと思ってね。無意味だったみたいだけど」

 

「……知ってるほうが変だと思うけどなあ。どうして、この魔剣について聞きたいの?」

 

「あなたには言ってなかったわね」

 

 アリベール曰く、この魔剣は非常に強力なものであるらしかった。

 

 刀匠マレー・カルトナージュが精魂込めて打ったとされ、それが長きに渡って迷宮に置かれていたことから、魔の力を宿すに至ったとされる超常の兵器。大陸全土を見渡しても年に十本程度しか見つからない、非常に希少なモノだが、このクラスの魔剣が出土したのは久方ぶりのことである。

 

 通常は軍の施設でのみ能力調査を行うのだが、十七魔剣クラスでは一つのミスで施設を丸ごと破壊しかねない。元々、軍は魔道具の兵器利用ばかりであまり解析が得意ではないため、民間のスリート商会に解析依頼が回ってきたとのことだった。

 

「へえ、すごいなー……けど、それがどうして僕に話を聞きたがるの?」

 

 そこでアリベールが言いよどむ。頬を触っていた指がとんとんと艶かしく蠢いている。彼女の悩むとき特有の仕草だった。

 

「……いいわ。どうせ知れ渡ることだろうし。今回の魔剣については、解析も終わり私たちの手を離れた。それは間違いないわ」

 

 アリベールは疲れたようにため息を吐く。

 

「それだけなら、問題はなかったのだけれど、その魔剣の配分に渡って問題が発生したのよ」

 

「配分?」

 

 どこかで聞いた話だな、とアンへルはデジャブを感じながら続きを促した。

 

「ええ、軍予算は厳密に決まっていてね。全体の半分が帝国東方軍、バレンティア騎士団が全体の三分の一、それ以外が聖カトー騎士団と決まっているのだけれど、十七本しかない魔剣では綺麗に分けられないのよ。魔剣を半分にして分けるわけにもいかないし……勿論、配分の少ない聖カトー騎士団が文句を言ったところで仕方ないのだけど、今回は、そこが見つけたのよね。だから、ごねてるってわけ」

 

 ――あの陰謀論、ホントの話かよ……。

 

 話半分に聞いていたあれが、まさか別の所から出るとは思わず、言葉を失う。アンヘルの動揺を見たアリベールは、理解できていないのかと心配そうに眦を瞬かせた。

 

「……けど、それがスリート商会に関係あるの?」

 

「しびれを切らした聖カトー騎士団の連中が、無理やり強奪を計画している……というか、すでに襲撃があったの。此方はすでに魔剣を返却済みだから問題ないと思うのだけどね。鼻つまみ者集団とはいえ、腐っても騎士団なのだから目を光らせておかないと」

 

 そこまで聞いて、ようやくアリベールの憂慮に思い至った。最近スリート商会邸に近寄らなかったのは、どこか忙しなさそうにしているからであったが、ここまでの事態に巻きこまれているとは予想外に過ぎた。

 

「まあ、いいわ。それと、もう一つ噂があるわ。寧ろそっちの話を聞いたら教えてちょうだい」

 

「噂?」

 

「幻の魔剣、十八本目のことよ。なんでも十七魔剣すべての能力を有するといわれる刀匠の最高傑作……らしいわ。なにか、それが都市伝説ではなく、本当にあるみたいなの。帝都からの高官だかが持ち帰ろうと画策しているらしいわ」

 

 アリベールは疲れを隠さない様子でため息混じりに語った。やれやれと首を振っている。

 

 幻の十八本目。伝説には、十七魔剣すべて能力を併せ持つ魔剣のことだ。真偽のほどは兎も角、興味は湧いた。ベップに尋ねるだけだが、調べてみようと決意を固めた。

 

 ふと、彼女の顔を見やる。整った造形に美しい少女だと思うが、目の縁に隈が薄く浮かんでいる。

 嫋やかな肢体。新雪を思わせる白い肌。闇夜にでも溶かしたような黒髪。なによりその分際の高さ。歳も近いことがあって、魅力的に映る。悩まし気な表情を晴らしたいと、常なら言わぬ台詞を吐いた。

 

「あの、さ」

 

「なに?」

 

「夏聖祭の日。空いてる?」

 

 夏聖祭。オスゼリアス最大にして固有の祭りだ。歌が響き渡り、街路を楽士が闊歩する。セグーラの街のお祭りなんかとは桁を違う。

 

 なによりミスラス教の聖夜と違って、男女間でも誘いやすい祭りである。士官学校側も、この日は強制休日を候補生に課していた。

 

 予想外の質問に、アリベールは目を丸くした。アンヘルは急激に顔が熱くなる。朱でも差したかのような気分になった。

 

「…………意外ね。あなたがそんなことを言うなんて。……いいわ、と言いたいところだけど、無理ね。父に嫌われているもの、あなた。跡取りの私にモーションを掛けていることがバレたら、暗殺者を仕向けられるわよ」

 

「……そう、だね」

 

 アリベールは知らないことだが、あのマカレナ事件以来、スリート商会の当主ミチェルとは険悪というより敵対的だ。現在は事業の半数近くを娘に譲っているため、邸宅で遭遇する機会はないが、今後アリベールと親しくしていれば、対決は避けられないだろう。

 

 曖昧な返答にアリベールは薄く微笑みながら、

 

「別にいいわ」

 

 と、やんわり言った。誘って貰えたのが嬉しかったのだろうか。少しばかり表情が緩んでいた。

 

 やはり身近に歳の近い友人がいないというのはかなりの苦痛なのだろう。アンヘルは気安く話せる友人として、小まめに顔を出そうと誓うのだった。

 

「あと、借金はしっかり返しなさいよ」

 

 だがしかし、未だ友人に昇格することはなく、ただの債務者であるらしかった。

 

 

 

 

 

 アリベールとの面会を終えた後、同じ小隊の面々が集まる会議室へと向かう。通路でヒソヒソと候補生たちの会話が聞こえてきた。

 

「おい、聞いたか?」

「ああ、ありえねえよ。俺たち、まだ潜ってもねえぜ」

「いや、そっちじゃねえって。なんか、偉いさんが幻の十八魔剣を持っていったとか……」

「はぁ? お前、そんな与太話信じてんのか? それより、クナ……」

 

 ――周りが騒然としているなぁ……。

 

 何か起きたのかと訝しみつつ、知り合いのいないアンヘルは目的地に進むしかなかった。

 

 実技棟を抜けた先、本棟の入口入ってすぐのラウンジに、若武者のエルンストとホアンが話し込んでいるのが目に映った。無言で踵を返す。

 

 少しばかりの遠回りを経て、会議室へと辿り着く。そこは班員たちが立ちあがりながら意見を交わしていた。

 小隊の面々はソニア以外揃っていた。計画のすり合わせは午後からの予定である。

 

「――あ、アンヘルッ!」

 

 アンヘルの登場に気がついたユーリが走り寄ってくる。彼の顔は焦り一色だった。

 

「き、聞いたっ!?」

 

「え? なんの話」

 

「だから、演習の話だよ、演習っ!」

 

 皆、慌てているユーリに驚いた様子はない。その場で何も知らないのはアンヘルだけだった。全員の視線が集中した。

 

「探索演習で、クナル班が踏破したんだよっ!!」

 

 ユーリが告げたその話は、アンヘルの想定を遥かに超え、とてつもない衝撃をもたらした。

 

 

 

 §

 

 

 

 管理迷宮踏破演習。二回生最初の演習であり、新士官候補生の能力を測る最初の機会でもある。夏聖祭を除けば、特科の貴族たちからも注目を集める、この時期最大の催しといえよう。

 

 とくに、今年は上科にはじまり粒揃いの年にあたって、例年の踏破記録十日が破られるのではないかと、多くの注目をあつめていたのだが、しかし、それは一人の男の劇場とかした。

 

 その男の名は、ユーバンク・アーバスノット・タフリン・クナル。

 

 彼が率いた班の踏破記録は五日。帰還に一日要しているため、正確には四日なのだが、とりあえずとして、迷宮探索演習は開幕早々第一陣が突破するはこびとなった。

 

 アンヘルの所属する第七八エルサ班は計画すら準備できていないのだ。いや、それは他の班もおなじで、辛うじて浅層を攫った程度だろう。つまり、クナル班はたった一班だけで迷宮ボスを倒したことになる。常軌を逸した結果である。

 

 そもそもとして、クナルの伝説は入学以前から始まっている。

 その銀の麗人は、アンヘル同様学識がなく、上科の補欠合格を狙って士官学校入試を受けた。そして、彼は試験官にオスカル教官を指名した。

 試験の模擬戦はあくまでも能力を見る場であり、勝敗に拘る必要はない。そもそも、入学前の候補生が教官に勝てるはずがないのである。事実、豊作と言われた二一三回生でも、教官に勝利したのはたった三名だった。

 

 しかし、クナルはそんな状況の中、教官最強と呼ばれるオスカル教官を態々指名し、そして真っ向勝負で打ち倒してしまった。学年どころか、学内でも不可能な偉業を入学前に達成してしまったのだ。

 

 此処でクナルの評価は最大になるか、と思われたのだが、彼の学力成績は最低で、そのうえ訓練に対してあまり真剣に取り組まず、たった一人で鍛錬を積む求道者的性質を有していた。

 結果、クナルのことは、強いが変人であり、またオスカル教官が敗北したのは試験で油断していたからだと結論づけられるようになる。しかし、時が流れて一年。皆がクナルのことについてそれほど気を払わなくなった今、またしても大いなる伝説を打ち立てたというわけであった。

 

「ていうか、なんで知らないの? 午前中すごく話題になったでしょっ」

 

 ユーリはあきれ顔で尋ねた。

 外に出かけていたと話せば、とてつもなく叱られそうな雰囲気である。そもそもとして、候補生たちは皆真面目で、自習時間に抜け出す人間などアンヘルくらいのものだった。

 

「でも、どうしてそんなに焦っているの?」

 

 と、アンヘルは首をひねりながら尋ねた。

 確かに、恐るべき記録だが、七八班の目標は、迷宮ボスが倒されてからの滑り込みゴールだ。班の目標が変わるわけではない。

 

 しかし、その軽率な考えにエセキエルが怒りを露わにする。

 

「おまえ、本当にバカなのか? クナル班のせいで、二十日後にはもう迷宮ボスが復活してしまうだろうが」

 

「あ……」

 

 衝撃の事実にポカンと口を開ける。

 クナル班の結果は四日であり、通例であれば十五日後に迷宮ボスが復活するはこびとなっている。つまり、立てた計画はおじゃんだ。

 

「もういい、おまえはそこでジッとしてろ」

 

 エセキエルは冷たく言いすてると、椅子にどかりと座り、

 

「班長っ! ここは計画を早めたほうがいいんじゃないかっ」

 

 と厳しくいった。エルサはわたわたとその剣幕に狼狽えながら返答した。

 

「え、ええっと、そのぉ」

 

「そやで、エルサ班ちょ~」

 

「でも、まだソニアさんの計画が……」

 

「今すぐあの女と連絡を取って、計画を前倒するべきだっ」

 

 会議は混乱しきっている。取りまとめ役の不在が悪い方向ばかりにはたらいていた。これにソニアが加わるなど、考えたくもない事態である。ある程度落ち着かせる役であるユーリですら混乱を招いていた。

 

 どれくらい騒然とした光景を眺め続けただろうか。救いの手は唐突に現れた。

 

「おお、やってるやってる。その様子だと、もうクナル班の結果は聞いたみたいだな」

 

 オスカル教官がしかめっ面で入ってくる。自分の教え子であるクナル班が前代未聞の大記録を打ち立てたにしては、冴えない表情であった。

 

 アンヘルたちは敬礼した。教官は手で制すると、会議の続きを促した。

 

 こんな状況である。憧れのオスカル教官にすら構う余裕を皆失っている。一応、ユーリなどは軽く挨拶を述べたりはしたものの、また議論へと戻っていった。必然、ひとりポツンと立ち尽くすアンヘルに近寄ってきた。

 

「どうした? 会議に参加しないのか」

 

「ええっと、私は計画立案担当ではありませんし、これ以上新しい意見を述べるのもなんだと思いまして……」

 

「へえ。それで、どんな風に揉めているんだ?」

 

 アンヘルはオスカル教官にありのままを話した。教官は神妙に頷いた。

 

「なるほどな。まだ計画段階か」

 

「はい、教官ならどう考えますか?」

 

「おいおい、それは聞いていいことじゃないだろう」

 

「冷静な意見も聞きたいと思いまして」

 

 オスカル教官はそこで不可思議に遭遇したような表情を浮かべた。腕を組みながらじろじろ眺めて、

 

「もしかして、君は迷宮探索に慣れているのか?」

 

 と尋ねた。

 実技成績は平凡だったよな、とオスカルはひとりブツブツ呟く。その疑問を続けさせるのは面倒だと、アンヘルはさらに質問を重ねた。

 

「ひとつ聞いてもいいですか?」

 

「うん? なんだ?」

 

 ひとり思考の海を彷徨っていたオスカルを引っ張り戻す。アンヘルは教官に座れるよう椅子を差し出しながら、尋ねた。

 

「教官はどうして不満げなのですか?」

 

「…………不満げ、不満げか……君には、そう見えるか?」

 

 ふっと自嘲するかのようにオスカル教官は笑っていた。気が付いたのはアンヘルひとりだ。皆探索会議に夢中で教官の表情まで注視する余裕がない。また、教官は軍人らしく、心を平静に保つことに慣れていたのもあった。

 

「見間違いなら、謝罪します。ただ、私の目には、クナル班の大きな業績に対して、それほど喜んでいないように見受けられます」

 

「……それは、勘違いだな。俺は、別に喜んでいないわけじゃない。クナル班の、いや、クナルの成果は十分評価している」

 

「いえ、そのような意味ではなく……クナル班のことは別にすれば、この結果はあまり良くないと思っていると、私には感じられました」

 

 そこまで言い切って、己が感じた感覚を正しく言い表せているか不安になった。オスカル教官がクナル班を嫌っているということはないだろう。そもそも、指導教官は、教官の意思によって決まる可能性が高いともっぱらの噂である。クナル班の結果自体には喜んでいる。が、その結果から派生する事態には気を揉んでいる、という風であろうか。さりとて、何を気にしているのかはさっぱりだった。

 

 オスカル教官は、図星を突かれた形になったのか、腕を組みながらムッと押し黙る形となった。

 

「いえ、言いにくいことであれば構いません。不躾にも尋ねてしまい――」

 

「いや、いいさ。確かに、気分上々、とはいかないからな」

 

 騒然とした空間の中、ふたりだけが落ち着いた言葉を奏でる。窓の外では、ゴロゴロと天候が変わり始めていた。

 

「クナルには、元々、気を掛けていたんだ。そもそも、試験官として相手をしたのは俺だからな」

 

 遠くを見るように空を仰ぐ。その横顔をアンヘルは眺めた。

 

「相対した瞬間に分かったよ。剣の実力だけ……いやすべてをひっくるめても、戦士としては俺より上だろう。強化、身体能力、剣技、その精神面を含めたあらゆる面が天才的だ。士官学校始まって以来の怪物、という呼び名に嘘偽りはないと断言できる。しかし、それは不幸でもあるだろう」

 

「不幸……ですか?」

 

「ああ、戦いは妨害魔道具の存在もあって、少数精鋭の部隊に特化する傾向があるのは事実だ。しかし、少数精鋭とはいっても、個人ではない。単騎の戦いでは、ミスがすべて死に直結する。自分の背中をカバーしてくれる仲間が必要なんだ。軍人として、長く戦っていくにはな……」

 

「……では、クナルが一人で踏破してしまったのが、気になる、ということですか?」

 

「それもある。それもあるが、結局のところ個人主義は人に訂正されても治るものではない。俺も候補生時代には自分自分ばかりだった。それが悪いことばかりでもないことも知っている。ただ、周りに与える影響を考えなければ……なんだろうな、やはり。今年の試験は、もしかしたらリタイアが大量に出るかもしれないうえ、クナル班の貴重な経験を奪った…………という点が、気になって仕方ない。それが本音なのかもな」

 

 オスカル教官自体もよく理解できていないということなのだろうが、つまるところ、周りの貴重な機会を失われたことを悔やんでいるのだろう。アンヘルの認識としては、オスカル教官は実力があり、そして融通が効くという面で良い人物であると考えていたが、まさかここまで真剣に候補生に向き合っているとは思いも寄らなかった。

 

 アンヘルは、自然とその思いに当てられたかのように謝罪を口にしていた。

 

「申し訳ありません」

 

「気にするな。俺も整理できたよ」

 

 沈んだ空気が、朗らかに変わる。話題が変わると、ふと思い出したように、アンヘルに向き直った。

 

「…………そういえば、おまえらの班はソニアが計画表を提出していたよな。いや、忙しくて見てないが、受け取った記憶がある。どうして今計画を見直しているんだ?」

 

 その言葉で、全員がユニゾンしてオスカル教官に振り向いたのだった。

 

 

 

 §

 

 

 

「ソニアっ!! どういうことだ」

 

「そうやそうや」

 

 血気盛んなエセキエルを先頭に第七八班の面々がソニアを問い詰める。問いかけられた側はたったひとり、炎天下の演習場で剣技の型をなぞっている最中だった。

 

 彼女はふうと息を吐き、滴る汗をぬぐう。周囲の自習に励む候補生たちがなんだなんだと興味深げに此方を伺っていた。

 

「なによ? 私は自己鍛錬で忙しいの。邪魔しないでもらえるかしら」

 

 冷たく突き放した台詞を吐くと、再び木剣を握りしめる。しかし、その態度はエセキエルの堪忍袋の緒をぶちぎった。導火線に着火したかの如く猛烈に噴火した。

 

「おまえ、頭沸いてんのかっ。こんな状況だってのにッ」

 

「ずっこいで、それ」

 

 彼らの怒りよう。原因は彼女が立案した計画にあった。

 

 オスカル教官から驚愕の事実を知らされた面々は、揃って提出された計画を確認した。そもそもとして、班の計画を勝手に提出する時点で問題なのだが、その計画自体も問題大有りの出来だった。

 

 とはいえ、計画の出来に問題はない。精緻に練られた計画であることはアンヘルの目にも明らかだった。しかし、それを打ち消して余りある大問題がそこに潜んでいた。

 

 まずはソニアだけ講義欠席負担が明らかに軽くなるよう調整されていた点だ。講義負担が他の五人へ均等に割りふられている。ここまで行けば芸術だといわんばかりの完璧な免除計画だ。そのうえ、ソニアはどこかから入手したのかユーリが提案した事前訓練の日程など、他人のアイデアをまるっきりそのまま使用していた。極め付きには、計画立案者名に自分の名前だけを振っている。スタンドプレーそのものの行為を連発したのであった。

 

 だが、肝心のソニアは怒る班員たちを見下しながら、嘲笑を浮かべていた。

 

「だから何だと言うの? 早く計画を提出しなければならなかったのだから。むしろ感謝してほしいわ」

 

「だからそういうことじゃないだろッ! 俺はおまえが勝手に計画表を提出したことを言ってるんだっ」

 

「だったら却下すればいいじゃない」

 

「ああ、勿論そうさせてもらうさっ! ほら、皆いくぞっ」

 

「ちょっと待ちなさい。勿論代わりの計画はできているんでしょうね? 私のを超える、素晴らしい計画を今すぐ見せてちょうだい」

 

 エセキエルは顔をこわばらせる。ほとんどできているとはいえ、まだ完全ではない。不完全なものを見せれば、確実に突っ込まれることは間違いなかった。

 

「ほらみなさい。だったら私に従ったほうがいいじゃない」

 

「でも、ソッチかてウチらの計画をパクってるやないの~。そやのに開き直るなんて――」

 

「あら、先に提出したのは私。計画を完成させたのも私。どうみたら私が写したように見えるのかしら?」

 

「ああいったら、こう言いやがってっ! お前みたいな、無能で独りよがりな奴にはじめてだよ」

 

「あら、あなたは無能を見たことがないのね。もしかして鏡もないの? 毎日見れるわよ。ああ、鏡も持っていない貴方に小銭でも恵んであげようかしら」

 

 ソニアが懐の財布をぶちまけて小銭を地面に撒く。チャリンチャリンと小さな硬貨が転がった。煽られたエセキエルは完全に頭が沸騰した。それを制するようにして、エルサが両の手を広げて割り込んだ。

 

「ま、待ってくださいっ。こんな処で争っても――」

 

「うるさいっ! そもそもお前が元凶だろ。このクソ女を制御できなかったお前のなっ」

 

「あら、今度は班長を責めるのかしらっ? なんでも人のせいね、貴方」

 

「お前こそそうやって人をバカにしてばっかりなくせに。嫉妬してるんだろ? 自分より無能な奴が上科にいてさ。自分は試験に落ちて必死に頑張ってるのにってことですかぁ? 意識高い系ヒステリックさん」

 

「……へえ、死にたいみたいね」

 

 スラリと手元の木剣を握った。対抗するように構えるエセキエル。両者の間に火花がちった。

 

「ま、待ってよ皆っ! ほら、一度落ち着いて……それに、ソニアさんも勝手が過ぎるよっ! 班長に一度相談する。常識でしょっ」

 

「なら、早く動いて貰わないと困るわ。もう踏破した班が出ているのよ。のろのろしていたらすべて終わってしまうわ」

 

「もうやめぇや。剣を置いてって、なぁ」

 

 ユウマがソニアを後ろから羽交い締めにする。彼女の膂力は強大なのか、力の真っ向勝負には敵わず彼女は声を上げて講義するのに留めた。その光景を唖然としながらオスカル教官が眺めていた。班内での喧嘩は日常茶飯事とはいえ、結成数日でこんな状況になるとは想定外なのだろう。

 

 噂によると隊の構成を指導教官が担うことになっているらしいが、クナル班に全力を注ぎこみすぎたせいで、七八班を寄せあつめにしたのではないかという疑問がアンヘルの脳裏によぎった。

 

 一歩間違えると空中分解な現状に、オスカル教官がため息混じりに両手を打って、

 

「はい、注目っ!」

 

 といった。

 全員の視線がオスカル教官に集まる。エセキエルは血走った目を、ソニアは冷徹な目をむけていた。

 

「ここまで来たらしょうがない。こうなったら、模擬戦で決着をつけよう。時間は三十分後、教官権限として七八小隊の探索演習計画を巡って代表者が決闘を行うことを決定する」

 

 それは、禁じられている士官学校内での戦闘行為を容認する措置。

 模擬戦の開幕をしらせる宣告だった。

 

 

 



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第八話:デュエル

 

 照明を落とした暗室。壁には一面、剣や魔導銃が所狭しと交差して掛けられている。反対側には、部隊名の書かれた駒が突き立ち、地図と写真が貼られていた。

 

 さながら秘密結社の根城のような場所で、男はひとり、淡い照明が照らす豪華な机の上で、手を組みながら、そこに顎を乗せていた。

 

 机の上には、広げられた地図の上に幾つもの駒があり、幾つものバッテンが記されている。地図の中央には、中央区と行政区が、その右には商業区、郊外部には士官学校が描かれていた。

 

 手を組む男の対面に座る老齢の男性。その人物は、影に潜んだまま男へ問うた。

 

「それで、司祭の動向は?」

 

「は。それが、情報が錯綜しているようでありまして」

 

「最悪、司祭の首を刎ねよ。なんとしても、幻の魔剣を渡してはならん。わかるな?」

 

 語り合う男たちの傍に、影のような闇が現れ、陰鬱な声を発した。

 

「司祭を行政区にて発見。どうやら総督と密会を繰り返している模様。往生際悪く宝剣と主張するようです。同行する騎士は一名」

 

 苛立ちを露わにする老齢の男。

 

「獅子身中の虫よッ! よもや、王側につくとは。我慢ならん。こちらも本格的に攻勢を掛ける」

 

 皺のよった干からびた手で、机の上にある行政区を叩いた。

 

「私めに、敵を打ち払う役目を」

 

 男は跪きながら、いった。

 

「よく言ってくれた。貴公の能力とその剣。必ずや、我らに勝利を齎してくれるだろう」

 

 そのまま視線を移すと、横に控える金色の女に、

 

「拾った恩を忘れるなよ?」

 

 と言いつける。金色の女は無言でさがり、闇の中にきえていった。

 男は立ち上がった。未だ鷹揚に座っている老齢の男は、満足げに笑った。

 

「さあ、愚かな司祭よ。道化に相応しい劇の主演を務めてもらおう。我ら貴き血筋の持てる力が、如何に神聖かつ不可侵なものなのかをな。

 そして、勝利の暁には、勝利の美酒を堪能しよう」

 

 精緻な細工が施された切り子硝子の杯を掲げると、飲み干した。

 杯が地面に叩きつけられ破砕。それが、開演の合図となった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「中々過激なんですね。こういう事態を止めるのが教官の仕事だと思っていたのですが」

 

 アンヘルは真横に立つオスカル教官へ向かって、嫌味にならないよう極力抑揚を抑えながら――とはいえ、言葉の節々には滲んでしまっているが――言葉を連ねる。手元は決闘用瞬間制止魔道具スタンガードの設置を行っていた。

 

 超大型冷蔵庫のような魔道具をいじる。候補生を一瞬制止させるにはこれほど大きな魔道具が必要なのであるが、設置の面倒臭さが余計にアンヘルの心情をささくれ立たせた。

 

 嫌味に対して、オスカルはまるで堪えた様子をみせず、

 

「士官学校は実力主義を標榜しているからな。こうやって意見が対立した場合にはこうやって決着させるのが慣例なんだ」

 

 といった。如何に教養を学んだ生徒たちが揃っているとはいえ、此処は士官学校である。どこぞの魔法科高校だとはおもうが、これがまごうことなき風習でもある。

 

「最近はあまり模擬戦の実施例はないと思いますが?」

 

「まあ、確かにそうだろうな」

 

 平穏な時代が続いている。田舎町の道場破りのような俗習は、都会ではすでに廃れていた。

 

「俺たちは士官で軍人なのだ。徴兵された兵を率いることもある。そんなとき、学校の仲間を説得できないようでは困る」

 

 力こそがすべて。野蛮極まりない思想だが、半ならず者集団をかき集めた軍内では致し方ない面もある。己の価値観だけで生きてきた人間に、遠い世界の法律などなんの役にたとう。倫理観が育っていない世界においては、それが真実だった。

 

 様相を崩したオスカルが、他のメンバーに声が届かないよう顔を近づけてきた。

 

「悪いな、君に準備ばかりさせて」

 

「お呼びじゃないみたいですから」

 

 事実である。模擬戦は壱科のソニアと参科エセキエル、そして予備にユーリとユウマが入れ替わりで参戦することになっている。エルサは応援で、つまりは以下の扱いというわけであった。上科が参戦しないのもどうかと思いながらも、粛々と雑用に励むしかない。

 

「あまり気にしてないみたいだな。……まあ、いいか。それより君は模擬戦をどう見る?」

 

「はあ」

 

 アンヘルはざっくばらんな質問に対して一度曖昧に相槌をうった。

 

「ソニアさんの実力は余り知らないのですが、エセキエルさんやユーリさんより闘い慣れている、という印象を持ちます。ただ、ユウマさんより強いかは分かりません」

 

 その回答に対して、神妙に頷くだけだった。

 

「よく分かっているというか、無難な回答だな。合理的だが、面白味はない」

 

 準備を終えた教官はそのまま双方が向かいあう中央へと向かっていった。

 

 あまり人格面を知っているわけではなかったが、かなり武芸特化な教官であると感じる。貴族派閥に属さない、純軍人的立ち位置特有の物腰だった。

 

 フットサルコート大の予備第二演習場は貸しきりになっている。遠目に伺っている面々もいるが、さほど興味津々ではない。皆、同輩たちの実力よりも自己研鑽や迷宮探索に必死だった。つまり、演習場内で注目しているのは七八小隊の人間だけだ。

 

 演習場中央では革の防具をつけた両者が開始の合図を待ちわびていた。それを尻目にアンヘルは観覧フィールドへとむかった。

 

「お疲れ様です」

 

「いえ」

 

 エルサはちょこんと膝の上で手を重ねながら待機していた。彼女の視線は両者の装備に向いていた。

 

「あの、アンヘルさんはどちらかの戦い方をご存じですか?」

 

「申し訳ないのですが」

 

 格闘訓練などは他クラス合同で行われることが多いが、総合戦闘術の訓練は基本クラス内でのみ行われる。アンヘルは両者の得意武器、得意戦術をなにもしらなかった。

 

 そうこうしていると、まずエセキエルが長短二本の木刀を取りだす。

 

「エセキエルさんは、双剣使いってことですよね?」

 

「珍しいですね」

 

 珍しいというか、絶滅危惧種といってもいいかもしれない。当たり前の話だが、二本持てば攻撃力が倍になるなんてものは架空の世界だけだ。素人ならば、盾を持ったほうが遥かに役に立つ。

 アンヘルも稀に鉈との二刀流をやるが、基本的にはフェイントの一種であり、二刀同時に操ろうなどと考えているわけではない。

 

 対照的にソニアは細剣を準備している。こちらはオーソドックスなのだな、と考えていると、エルサは表情をパッと明るくさせていた。

 

「あれ、あれ見てくださいっ! ほら、あそこ、あの脚のレッグホルダー」

 

「もしかして魔導銃ですか……?」

 

 脚のレッグホルダーに収納されている鈍色の兵器、それは魔導銃と呼ばれるものだった。エルサは喜々として語りだす。

 

「そうです! あの横から見える銀色の輝きは『シルバー300』に違いありません!」

 

「しるばー三〇〇?」

 

 急激に変容した態度に恐れをなして身体をのけぞらせると、さらに額を寄せてくる。瞳のハートマークをさらに輝かせて、熱弁をつづけた。

 

「『シルバー300』は現在主流となっている魔導銃技師の中でも異端の中の異端児。あの天才魔工技師、グリックス兄弟が設計、開発した奇跡のモデルなんですっ! 各国、とくにあの魔法大国には魔道具工学で一歩も二歩も後れを取っているといわれていた最中、突如新生のように現れた天才的技術! 前装式だったのを後装式に変更し小型化にも成功。そのうえインダイレクト・フィリングを採用することで弾の供給減にも対応したんです。あ、インダイレクト・フィリングというのは別名間接式魔力充填放出機構のことで使用者の魔力を吸い上げハンマー部に魔力を送り込みその衝撃と共に魔力爆発を薬室内で引き起こし単純な装甲弾丸のみでも容易に発射できるよう開発された新式の機構で今までは高価な魔石を利用した弾丸しか製作できなかったせいで使用者がまったくいなかったのを今は完全にひっくり返してましてほら見てください私のは『シルバー930』を使っていましてこれは限定モデルで装填システムをさらに見直してプローバックを採用していまして――!」

 

「ちょ、ちょっと待って! 分かった、すごいのは分かりましたから」

 

 恐怖である。その異様で長く饒舌な語り口は、いわゆる機械オタクのような様相を呈していた。とりあえず落ち着かせるため宥めた。

 

「えっと、結局、魔導銃使いということですか?」

 

「……はい」

 

 語りたりず、不満そうなエルサは顔を膨らませている。まったく上科に相応しく見えない彼女なのだが、魔導具に関する知識は人一倍だった。

 

 魔導銃――正式名称魔力放出機構型小型砲――は近年軍内でも注目される武器であり、講義中にも取りあつかうことはある。いわゆる拳銃タイプの魔道具で、使用者の魔力を爆薬に弾を発射する兵器であり、また魔法発動のプロセスを踏まない純魔力操作のみの作用のため、妨害魔道具(SNジャマー)作用下でも使用可能である。威力が低いという点を除けば、弓などと較べて訓練いらずの優れた武器である。

 

 ただ、アンヘリノ級の相手には効力は薄く、また、長年の研究で利便性、正確性、連射性は向上していても、その威力は一切向上していない発展途上な面も持ちあわせている。一応魔導砲なる大砲は十分な威力を有しているのだが、そちらはでかすぎて持ちはこびが困難であった。

 

「そろそろ始まりそうですね」

 

 とエルサがいう。両者は演習場の真中に移動した。

 

 ソニアが悠然と修練場の中央で構えをとる。左手に木剣、右手に魔導銃を持ち、半身で睥睨する姿は様になっていた。

 

「覚悟はいいんでしょうね」

 

「お前こそ、壱科だからって調子に乗るなよっ」

 

 相対するエセキエルも木刀を構える。利き手である右に本差し、左手に脇差を構える、俗にいう二天一流スタイルである。

 

「ひとつ言っておきたいのだけど」

 

「なんだよ、此の後に及んで」

 

「私が勝ったら、今後指示には逆らわないようにして」

 

「ぶれない奴だな。このクソ女ッ!!」

 

 陰口の応酬が止むと教官が合図をする。エセキエルは合図が尾を引いて響いているとき、すでに走り出していた。姿勢を低くして短刀を前面に構える。一撃をいなした後、利き手側の木刀によって勝負を決める戦法だ。

 

 銃という遠距離攻撃手段を持つ相手には、距離を取っても不利なだけである。ただ、判断としては正しいのだろうが、冷静な戦いを信条とするらしさを発揮できない戦術だった。

 

 これをみたソニアは、

 

 ――やっぱり、馬鹿ね。

 

 と、弾倉に込めた弾をうちだした。

 魔導銃から放たれる一筋の弾丸が、昼下がりの風を切り裂く。連続して打ち出される銃弾が、連星のように輝いた。

 

「うおおおおぉぉぉっ!!」

 

 エセキエルは身体を半身にして相対する表面積を減らすと、斜めに流れながら向かい来る銃弾を短刀で打ちおとす。神秘の力を纏った短刀が閃く度、硬質な音が響きわたった。

 

「す、すごいですっ!」

 

 エルサが眼前で繰り広げられる戦闘に目を奪われている。対照的に、アンヘルは苦い顔をしていた。

 

 距離が近づくにつれ、エセキエルの回避運動が激しくなる。魔導銃には、弓矢のようにつがえて、引きしぼり、放つという動作がない。ただ、引き金をひくだけだ。しかし、装填時に狙いを定めれば、ソニアが剣を振りまわして後退を余儀なくされる。距離が開けば最初からやりなおしである。

 

 リボルバーが三周しただろうか。三度目の装填と同時に放たれた銃弾がエセキエルの胴体を穿つ。幾ら訓練用の練習弾とはいえ、強化術の未熟な者には十分なダメージを与えた。

 

 痛みによって固着した相手。ソニアは、爪先で地を蹴って剣を閃かせた。

 

「く、クソっ!!」

 

 ぜひぜひと息を切らせるエセキエルの喉元に切っ先が突きつけられる。息を飲むような、練度の高い銃と剣のコンビネーションだった。

 

「勝者、第二一三回壱科生のソニアっ!!」

 

 教官が勝負ありの宣言をする。エセキエルはショックのあまりしょげかえり、地面にへたり込んだ状態で肩を大きく落としていた。

 

「これで私には逆らわないことね」

 

 と、失意の底へ沈むエセキエルに追い討ちをかけると、さらに周囲をあおった。

 

「次はだれっ!? なんなら、同時でも構わないわよ!」

 

 残りのメンバーを睥睨する。その堂々とした態度にユーリは完全に呑まれ、一歩二歩と後退を余儀なくされた。

 

「ウチがいくわっ」

 

 庇い立てるようにしてユウマが宣言し、戦鎚に見立てた木製の武器を構える。

 

 当初の予定とは違うが、文句をいうものはいなかった。ソニアの技量は抜きんでている。ユウマのその身体能力に期待するべきだと、衆目が一致していた。

 

 不安そうにしながら、

 

「……アンヘルさんはどちらが有利だと思いますか?」

 

 と、エルサは両手を強くにぎりながら聞いた。

 

「そうですね」

 

 銃を駆使して戦うソニア、朧げな記憶ではあるが強化術を得意とするユウマ。何方も甲乙つけ難いというのが本音だったが、取り敢えずの推測をはなす。

 

「……ユウマさんの強化術が、ソニアさんの想像を超える速度や耐久力をもたらすのであれば、勝敗はユウマさん有利に傾くでしょう」

 

「速度は兎も角、耐久力もですか? 銃弾に耐えられる練度なら、もう候補生の域を超えていると思うんですけど……」

 

「可能性の話ですから……」

 

 無意識にクナルを基準に考えている己に気がつき、思考を修正する。訝しげな視線を躱すように話を続けた。

 

「……結論だけいえば、ユウマさんにも、勝機はあると思います」

 

 ただ苦しい戦いだろう、とは告げなかった。ソニアが見せた最後の身のこなし、明らかに武芸に慣れたものだ。態々魔導銃を使って勝負を長引かせたのは、体力温存のためであろう。派手なパフォーマンスに対して冷静沈着な戦いはこび。野心家らしい緻密で大胆な思考だった。

 

 そんな会話を他所に第二試合の準備が終わりつつあった。両者わかっているのだろう。この勝負が天王山であると。

 両者の間は三十尺(約十メートル)。教官の合図が響き渡った。

 

「はいやぁぁぁぁぁっ!!」

 

 ユウマが駆け出すと同時にソニアの魔導銃が火花を散らした。

 

「す、すごいっ!」

 

 エルサの驚きも当然だろう。エセキエルが円を描くようにしてぐるぐると接近していたが、ユウマは宙空を駆けることで立体軌道を可能とし、一直線にソニアへ向かっていく。そして銃弾が打ちつくされると、戦鎚を一直線に振りおろした。

 

「スーパーハンマァァー!!」

 

 勝利を確信したユウマが迫る。ソニアは為す術なく固まっている。茶色の塊が唸った。

 

 衝撃波が海嘯のように広がっていく。土煙をまき散らした中で、両者が得物を振り抜いていた。

 

「う、わふぅっ」

 

 次の瞬間、苦悶の声を上げたのはユウマだった。

 

 ソニアは、剣を右手に持ち替えると、迫る戦鎚を躱しながら肩口から腰まで一気に袈裟斬りを見舞ったのだ。

 

 固唾を飲んで見守っていたユーリが鋭い悲鳴を響かせる。ユウマは柄をなんとか手繰り寄せながら、痛みを堪えながら立ち上がった。

 

「私を、ただ魔導銃を撃つだけの人と同じにしてもらっては困りますね」

 

 ソニアが剣を構えながら疾駆する。一二の三で大きく跳躍すると、一直線に剣を振りおろした。

 

 かぎんと凡そ木製の武器がかち合ったとは思えない硬質な音が響きわたる。単純な力勝負では、ユウマ優勢だろうと思った瞬間であった。

 ガン・カタ風格闘剣術の真骨頂、組み打ちの最中に銃口が火を吹いた。ユウマは必死になって身体を逸らす。

 

「うわっ、それずっこいって」

 

「戦いに卑怯もクソもないっ!」

 

 両者の視線が烈火の炎となって交錯する。今度はユウマが得物を掲げてせまる。

 

「だ、だいじょうぶ、でしょうかっ?」

 

 一見ソニア有利に見える戦局である。彼女の剣術の核は金剛流を源流とした、柳流が元になっている。流祖である剣客シュベリウスが得意とした鋭い出小手と抜き胴が特徴的な、正道かつ巧緻な剣術は隙をまるでみせない。しかし、ユウマもその不意打ちになんとか食らいついている。寧ろ身体能力を加味すれば、対応力では優っているだろう。

 

「次の打ちあいで大きく体力を削られたほうが不利になりますね」

 

 英雄症候群にはじまるような強化術の申し子にはスタミナという限界がない。凡人ならあっという間に続かなくなってしまう強化が、天性の運用効率によって長時間続く。相手が途方もないミスをしなければ、ソニアは勝利を決定する一打を放つしかないのだ。

 

 ユウマは疲れのみえない驚異的な速度で疾走する。一撃を入れられたにもかかわらず、まるで翳りを見せない走力である。

 

 ――というか、本物の剣なら最初の一撃で終わりだと思うんだけど……。

 

 なぜか対戦形式の訓練では、なぜか相手を降参させるか、意識を刈り取るか、武器を破壊するまで続けられる。非実践的というか、八王子甲源一刀流の他流試合に通づる野蛮なレギュレーションだった。

 

 そんな思考を他所に、二人の戦いは激化する。

 潮合は極まった。

 

「てやぁぁぁっ! ぐるぐるタイフーンっ!!」

 

 風車のようにユウマが大きく戦鎚を旋回させる。その大振りは大気を巻き込みながら、大きな渦となる。

 

 銃を放りだしながら必死の形相でそれを避けると、ユウマは強化を得物から足へと変更。流れるような体術からのステップは、最終的に右足の振りぬきへと移行した。

 

 ソニアがなんとか剣で足をガードする。しかし、衝撃までは防ぎきれず吹きとばされる。

 

 喜色の笑みを浮かべるエルサを他所にアンヘルは不安を抱く。それは、吹きとばされたソニアよりもさらに肩を激しく上下させるユウマを見て確信へと変わった。

 

 ――やっぱり、あのぐるぐるタイフーンは使うべきじゃなかったんじゃ……。

 

 ユウマの強化術は天才的なのだろう。ただし、それは運用効率がいいというだけで、出力や使い方に影響を及ぼすわけではない。運用効率と持久力は、同義ではない。

 名前は兎も角、【ぐるぐるタイフーン】は必殺技と言える大技だった。しかし、人に向けて使うにはオーバー過ぎる。無意味に大技を放っては、体力が尽きるのもやむなしだった。

 

「確かに貴方の才能は私以上みたいですね。さすが肆科というところでしょう。しかし、戦いとは常に冷静沈着にモノを運んだほうが勝利を掴むのです」

 

「はぁ、はぁ」

 

「これで、私の勝ちだ!!」

 

 剣を上段に構えると獣のように鋭く吠えた。勝利を誇るような雄叫びが、轟くようにして木霊した。大きく跳躍し、剣を一直線に振りおろした。

 

 ユウマが振りおろされる剣に対して、戦鎚を掲げる。神秘の力を纏わぬ戦鎚へ、ソニアの振るった剣が易々と貫入していくが、彼女はそれを意に介さず、柄から両手を離すと、スウェイ感覚で上体を反らしながら足を思いっきり振りあげた。

 

 武器を粉砕し、勝利を確信していたソニアの顎を思いっきり蹴りあげる。蹴られた側は脳を揺らされたことで、ユラユラと幽鬼の如く足をふらつかせ膝をついた。

 

「そこまでっ!」

 

 オスカル教官が制止の合図をする。その声で、両者は動きをとめた。

 

「この勝負、引き分けとする」

 

 得物を失ったユウマと不意の大打撃を受けたソニア。裁定としては正しい判断なのだろうが、両者は憤然と噛みついた。

 

「きょ、教官っ!! 私は相手の武器を破壊しましたっ! 通常のルールに従うなら、勝者は私の筈ですっ!」

 

「いんや、違うでっ! ウチは武器を破壊される前に攻撃してましたぁ。どう考えてもウチの勝ちやっ!」

 

「はあ!? それをいうなら、最初に一撃を入れたのは私でしょっ! 真剣なら、あそこで勝負はついていたわっ」

 

「二人とも、見苦しいぞっ!!」

 

 オスカル教官が一喝する。さすがに、本気になった教官の意気は常人のものではなく、ふたりとも動きをピタリと止めた。

 

「此度の対戦。中々興味深いものだった。銃を使った新しい戦術を巧みに操り、緻密な戦術を組んだソニア。技術はともかく、高度な強化術を駆使したユウマ双方とも二回生の水準を大きく超えるものだった。だが、武人として、軍人として潔く敗北を認めなければ成長は望めないっ」

 

 叱責された両者に沈黙が降りた。事態をおっかなびっくりに見守っていたエセキエルにもその矛先が向いた。

 

「エセキエルも技術は悪くなかった。ただ、これが実戦だったら死んでいるんだぞ。もっと、冷静に戦いを運ぶんだ」

 

 エセキエルが悔しさから唇を一直線に結び、俯く。その眦からは悔しさの涙が浮かんでいた。

 

「そして、ユーリっ! 相手の実力を正確に測るのはいいが、それで恐れを為して腰が引けるとはどういうことだ。後ろに控えるユウマのことを考えるなら、自分が戦って体力を削ぐぐらいの思考を働かせるべきだ」

 

 ユーリも目を伏せる。オスカル教官の全員を悪者にして、物事を丸く収めようとする魂胆が、アンヘルには透けて見えた。

 

「今回、両者ともいいところの光る好戦だった。だが、その中でも、ソニアの能力が一際大きく輝いていたように思う。そこで、計画は彼女のを採用するべきだと考えている。エルサ班長、君はどう思うかね?」

 

「えっ!? ええっと、あの……アンヘルさん、どう思いますか?」

 

 エルサが不安げに此方の顔色を伺ってくる。仕方なく、

 

「……僕たちには計画がありませんし、決定権を渡しきらなければ、問題ないと思います」

 

 と、答えた。

 消極的賛成だが、現状を考えれば致し方ない。そもそもとして、元々従うことに否はなかったのだが。

 

 エルサはそれでも深く悩んでいたが、渋々首肯した。

 

「よし、これで模擬戦を終了する。皆、遺恨のないように」

 

 オスカルはそれを最後に去っていった。

 

 奇妙な静謐が支配する最中、ソニアは薄く笑いながら、目を尖らせるユウマに向かって手を差し伸べた。

 

「中々やるのね。グズばかりの小隊だと思っていたのだけど、貴方みたいな実力者がいて嬉しいわ」

 

「……ウチ、そういう見下した感じ、すっごい嫌いやわ~」

 

 意外にも拒絶感はなかった。ユウマが差し出された手を握る。力を存分にぶつけ合った者たちの相互理解といえようか。両者には奇妙な信頼関係が構築されていた。

 

 残されたユーリやエルサには、未だ燻る敵愾心が奥底に眠っている。とはいえ、それほど問題にはならないだろう。ひとり蹲る男の憎悪に比べれば。

 

 エセキエルは、瞳の奥に妬気を宿らせながら、大きな炎を揺らめかせていた。

 

「クソ女ぁ、クソおんなぁ、見下しやがってぇぇぇぇっ」

 

 怨念の篭った念仏を唱える男の姿をみて、アンヘルは堪らない疲労感を覚えるのであった。

 

 

 




出番なくラノベ花形の模擬戦を終了させられる主人公


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第九話:『試練の始まり』

 

「お姉さま~」

 

 間の抜けた声を発したのはイズナだった。テリュスは「離れなさいっ」と、両腕で押しのけた。師範代が怪我を押して懸命に指導しているのにもかかわらず、門下生たちの興味は美麗な少女たちに向かっていた。

 

 時はイズナ誘拐事件から数日。

 

 道場の平穏は戻りつつあった。とはいっても、肉親を失った痛みは未だ癒えない。それでも兄妹たちは歩み寄りを、仲は改善の兆しをみせていた。

 

「最近はアンヘルが来ないな」

 

 と、カルリトがいった。アンヘルは士官学校探索演習に集中したいと、ひと月ほど纏まった休みをとったところだ。学習塾では早くも不満がでている、と事務員がぼやいていた。

 

「仕方ないよ」

 

 セリノが兄の横で窘めるようにいった。

 

「まあ、テリュスが手伝ってくれてるから」

 

 と、兄の慰めを聞きながら、

 

(一番気にしているのは、テリュスだろうけど)

 

 と、思っていた。間違いではない。

 ふたりじゃれ合う少女たちをよく見ると、この話題が出たときから耳を澄ましていた。セリノはその分かりやすい態度に苦笑いした。

 

「夏聖祭へ誘うついでに聞いておいてくれないか?」

 

 夏聖祭では、士官学校や道場など、出店にかかわるような所以外はほとんどが休みとなる。異性も気軽に誘いやすいということもあり、事件以来話せていないことが気懸りな様子の妹に助言したのだが、

 

「うるさい」

 

 と、テリュスは小手を投げたのだった。

 

 その照れ混じりの行為を注意深くみていたイズナは、いやらしく笑った。

 

「姉さまぁ~、緊張してるですぅ?」

 

「うるさい、おバカ」

 

 テリュスは身体の強張りを見抜かれた腹いせに、ポカリと一発拳骨を落とす。イズナは、

 

「痛いですぅ~」

 

 と呻きながら頭を押さえる。ただ、指摘のとおり、顔は少し赤くなり心臓の鼓動は弾んでいた。

 

 ――ホントにお礼、それだけですからっ。

 

 心の声にもかかわらず、言い訳がましく言葉を並びたてた。真っ赤になったり挙動不振になったりと、忙しない様子の妹をみて、兄たちは微笑んだ。

 

 そんな喧騒を他所に、老齢の達人たちが掛け声を出しながら稽古に精をだす。明鏡止水の心持ち、というやつだろうか。長い鍛錬を積んだ老齢の剣士は、実力はともかく心構えだけは真似できない。

 

 セリノが近寄ってくる。

 そういえば、私塾専門の兄さんがなぜいるのか、と疑問を覚えた。

 

「どうしたんですか?」

 

 兄は眉を曲げ、非常に言いにくそうにしている。戯れあっていたイズナを引っぱり剥がして、向きなおった。

 

「父さんと話したよ」

 

「そう、ですか」

 

「ドミンゴのこと、相当堪えたみたいだ」

 

 近年は衰えもあってか、道場稽古や出稽古――まだ当道場の経営が危ぶまれていたころは、オスゼリアス近郊の村々に出向いて、町民相手に稽古をしていた――などは控えていた当主キジェルモだが、ドミンゴの最後を受けて、日がな縁側で空を眺める毎日がつづいてた。

 

「それでな、テリュスが道場で働けるよう、聞いてみたんだ。最後は、納得してもらったよ」

 

 セリノは複雑そうな面持ちでいった。

 

 望んだはずの言葉だった。望んだ武芸者としての道。それが家族から認められた。

 

 だが、テリュスは曖昧な笑みを浮かべただけだった。

 

「嬉しく、ないのか?」

 

 問われるが、自分の考えが判然としなかった。以前なら、大喜びしたのだろう、と思う。願いつづけた武芸者としての道。だが、不思議となにも湧きあがってこなかった。

 

「ありがとうございます」

 

 テリュスは、穏やかな微笑みをうかべ、

 

「でも、私の武道は、終わったんです」

 

 といった。言葉にしてみると、すっとそれが心に染み渡った。

 数日悩んでいたが、意外感はなく、表情は晴々としていた。

 

「ど、どうしてだいっ? あんなに――」

 

 その答えに、セリノは慌てながら聞きかえした。

 

「戦う才能がないって、はっきりわかりましたから」

 

 迷いなく答えた。

 戦いの才能ではなく、戦うことの才能。それが、ない。

 

 むろん、非常時ともなれば剣を握るのに拒否感はない。だが同時に、グンドのような本物の強者になれないだろう、と予感もある。勝敗をつけるための武術ではなく、相手を排除するための刃。そうはなれない。日常的に戦いに身を置くことなど、できはしない。そう、思った。

 

「これからは、ギルド職員として頑張っていきます。気を遣ってくれて、ありがとうございました」

 

 ペコリと頭をさげた。セリノは口惜しそうにしながらも、最後は、そうか、と不承不承に頷いた。

 

 話が終わったとおもったのか、再びイズナが抱きついてくる。いつもは強く拒絶すると寄ってこないのだが、今日は離れる素振りを見せなかった。

 

「ああ、もう、どうしたんです?」

 

「姉さま行っちゃうんでしょぉ。イズナ寂しいですぅ~」

 

 引き剥がしながら「帰ってきたら」と約束した。唇を尖らせてぶー垂れながら、イズナが渋々、

 

「絶対ですよぉ」

 

 と離れた。スキンシップ過剰な最近の様子に、溜息をこぼした。

 今日は一緒なのですぅ、と叫びまわってイズナが道場を駆けまわりはじめた。

 

「好かれているんだな」

 

「どうしてでしょうか?」

 

 ふとした疑問だった。その瞬間、はしゃぎまわっているイズナが振り返った。

 彼女は、手を大きく振って答えた。

 

「だってだって、もうちょっとしたら、ご主人さまの所へ行かないとなのです」

 

 蒼穹。透き通るような青が瞳に宿る。

 イズナらしくないその力強い台詞に、テリュスは寒々しさを感じざるを得なかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 学園管理迷宮『試練の塔』はオスゼリアス郊外に位置する士官学校から馬で一刻程度の場所にある小さな塔であるが、渦巻く力場よろしく、空間が歪んでいるのか最上階まで約三十層あり、愚直に攻略をすると優に数日は掛かる代物である。

 

 そこで、候補生たちは各々情報収集を行い、諸先輩方から有効なルートを尋ねたり、同輩たちが頻繁に利用する道を探すのが常であった。

 

「でも、勇んで入っちゃうとこうなるってことかぁ……」

 

「なにか言った?」

 

「いえ」

 

 前を行くユーリがバッと振りかえる。極度の緊張状態にあるのか、物音一つするたびに反応を示していた。

 

 さらにその前方には、エルサ、ソニア、ユウマが続く。

 

「ここさっき通っただろっ」

 

 後方のエセキエルが不機嫌そうに告げる。その事実を知っていながら、皆黙していた。

 

 チームに漂う空気は良くない。いや、端的に言って悪いと言わざるを得ないだろう。なぜなら、アンヘルたち七八小隊は、この広い試練の塔で迷える子羊と化しているのだから。

 

 ソニアはあらゆる意味でトラブルメイカーだと、アンヘルは思っている。しかし、その能力はプライドに比例して非常に高い。彼女の足取りに乱れはなく、間断なく罠を指摘する姿はまさに理想で、先導者として並外れた能力を有していることは間違いなかった。

 

 ただ、いかに先導者が優れていようと、実際に上手くいくかは別だった。

 

(僕も苦手だしなぁ、探索)

 

 試練の塔は、日頃の演習の間引きによって出現する敵の量が少ない。ウルカヌ火山に比べれは五分の一以下だ。よって通常ならば、低層ではサクサク進めるはずなのだが、さすがは七八小隊。三体以上の群れとの相対は絶体絶命のピンチとなってしまう。必然、迂回数が増大するのも止むなしだった。

 

 アンヘルは、ふうと息を吐いた。担ぐザックが肩に食いこむ。総重量で、六十キロはあるだろう。

 

 人間が一日に経口摂取する水分量は一、五リットルであり、携帯食に湯が必須とあらば、一日二リットルは必要である。それが六人分とあらばザックは満杯となる。ただ、複数人で運んでしまえば戦力は激減である。そうなると、小隊内でもっとも役立たずと思われているアンヘルが荷物持ちを請けおうのは、半ば当然の成りゆきだった。

 

 その様子をみたユーリが、

 

「大丈夫?」

 

 と首をかしげた。

 

 強化術は短期的な能力上昇しか見込めず、長期的な持続能力強化には向いていない。とはいえ、ヒョロ長だが、長きに渡って鍛えられたその体は、持久力という点においても、候補生の中では突出しはじめていた。

 

 対照的にユーリの足元は覚束ない。段差のたび、手を貸してやりながら進んだ。

 

 そうして一刻。

 

 石造りの階段がみえてきた。その手前、大広間にモンスターの姿があった。

 

 ソニアは舌打ちすると、壁に寄るように指示してくる。アンヘルたちはそれに続いた。

 

 数は三。三色色彩豊かな『デカりん』タイプである。

 

 某龍クエストのようなスライム系統のモンスターであり、丸々とした胴体をしていた。どう考えても自然の摂理に逆らった身体で、明らかに生命活動に不都合な気がするのだが、物理法則を超越して踊るようにポコポコと跳ねていた。

 

『デカホノりん』

『デカアワりん』

『デカモノりん』

 

 士官学校では『最初の試練」と呼ばれている。

 

 管理迷宮の間引き頻度もあって、不成熟なモンスター程度チームで当ればさほど大した相手ではない、はずだった。

 

 さすがは七八小隊。まず、ユウマが何時ものように突っ込んだ。

 

「ウチ、いきっますぅー」

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいっ」

 

 大きな戦斧を持ったユウマの背中。それを見たソニアが仕方なく飛び出していく。エセキエルは心底苛立たしそうに続いた。

 

「え、え、えぇぇぇ」

 

「ぼ、ボク、どうすればいいかな…………」

 

「……さあ」

 

 アンヘル、ユーリ、エルサは後方待機である。七八小隊の得意戦術(笑)では、階層ボス相手にまずいだろうと、さすがに思った。

 

 不揃いな小隊を他所に、戦闘は激しさを増していった。一番優勢なのはユウマであった。パワーはずば抜けており足運びも抜群だ。敵の耐久力故時間は掛かるだろうが、危なげなく勝利するだろう。次点はソニアである。彼女の総合能力はユウマ以上で、その戦い運びは熟練の技すら感じさせる。しかし、魔道銃を使う性質上、時間はかかる。エセキエルは油断ならない状況だ。なにより、双剣という手数重視の剣術では、一撃の重さが重要となるモンスター相手には不利だ。一対一では高い確率で敗北する。

 

 そう判断したアンヘルは渋々、

 

「取り敢えず」

 

 と三方を睥睨した。

 

「ユーリさんはソニアさんの援護に向かって貰えますか。それから、エルサさんは魔道銃でエセキエルさんを援護してください」

 

 ちなみに、班長の頭越しに指示をだすのはこれで都合三度目である。

 

「え、で、でも……」

 

 と、ぐずるエルサを、有無を言わせぬ強い口調で説得した。

 ユーリは指揮系統にこだわらないのかさっさと駆けていった。

 

「エセキエルさんっ。今から援護します」

 

 アンヘルの掛け声と共に、エルサの魔導銃から弾丸が発射される。パスンと間の抜けた音が響くと、弾丸がデカモノりんの胴体に突きささる。しかし、それは体表で弾かれ、敵の身体を一瞬硬直させただけだった。

 

「よっ、余計なことするなっ」

 

 エセキエルが吠えるが、完全に無視した。

 苦戦しているのは一目瞭然だ。実戦でくだらない意地に拘っている場合ではない。

 

 怒鳴り声に怯えるエルサを無理やり装弾させ、さらに銃弾を浴びせる。

 

「早く攻撃を」

 

 ヘイトが此方に向きかけている。鋭い声で注意を促した。

 

「うるさいっ。伍科風情が指示するな」

 

 エセキエルが怒鳴りながら剣を振りおろす。そのまま身体を旋回させて横に薙いだ。双剣の強みである手数が存分に生かされ、敵の脾肉を削いでゆく。

 

 挟まれた敵が一瞬の行動不能に陥った。

 

 機動力を失ったモンスターを仕留めるのは至極容易で、デカモノりんは血飛沫を飛びちらせながらくぐもった悲鳴を上げつづけた。

 

「おらおらおらっ、この下等生物がっ、ゴミムシがっ。エセキエルさまに逆らうなんて、一兆年早いんだよっ」

 

 エセキエルが先ほどの苦戦を恨んで強烈な悪意を迸らせる。アンヘルはその人格の変わりように頬を引きつらせながら、切り刻まれるモンスターを眺めていた。

 

 敵はもう、死に体だ。

 エセキエルは、もう虫の息、と油断していたが、アンヘルはモンスターの目が一瞬輝いたのを見逃さなかった。

 

 モンスターが最後の力を振りしぼって頭部を振りまわす。頭頂部に生える巨樹がエセキエルを数歩、吹きとばした。

 

「お、おい、うわぁぁぁっ」

 

 よろよろと後退しながらエセキエルが尻餅をつく。その姿を尻目に、デカモノりんは巨体を揺らした。

 

 死際の力で敵の巨体が宙を舞う。その肉体を持って押しつぶさんと、エセキエルに迫っていたとき、アンヘルは駆けだしていた。

 

 全身の力を右足に集中させる。右足を振りかぶると収縮させた大腿四頭筋へ、振りきると同時に爪先へ力を収束させた。

 

 体重の乗った一撃が敵の横っ腹を撃ちぬく。鈍い音とともに、壁まで吹きとばした。

 

 デカホノりんは壁に染みを作りながら、ずるずると地面に墜落する。瞳は、もはや光を映してはいなかった。

 

「あ、ああ、ぇええ? は、はぁ?」

 

 その鮮烈な一撃に唖然としている男を放置して、あとはどうなっている、と視線を振った。視界の端で巨大な戦槌がトドメの一撃を放っているのが見えた。

 

 爆死、南無三。

 

 十階層もクリアかと思っていると、もう一方で悲劇が起きていた。

 

 苦悶の声。

 

 ユーリが足から血を流している。魔導銃の弾痕だった。

 

 一瞬、目が点になったが、状況を整理すると、焦ったユーリが射線状に飛び出したらしかった。

 

 自滅した奴を押しつぶさんとデカホノりんが迫る。それを妨害したのは、大斧を持って突撃した少女だった。

 

 振りかぶった戦斧を水平にフルスイング。大きく血肉を削いだその身体を、二つの砲口から吐き出された銃弾が穿った。ズドドドと速射砲の連射のように穴が空くと、モンスターが生きたえる。

 

 おわった。

 階層ボスを倒して感動のフィナーレのはずだが、最悪の雰囲気だった。

 

「仲間同士でなにやっとるんよっ」

 

 ユウマは鬼気迫る表情だった。

 

「同士討ちなんて、サイテーやでッ!」

 

「こいつが飛び出してきたのよっ」

 

 ソニアが言い返した。

 

「言い訳ばっかやんっ!」

 

「もうやめてくださいっ」

 

「だ、大丈夫だよ、エルサさん。それに、ボクが間違えて飛び出しただけだから……」

 

 仲間割れ、同士討ち。小隊は空中分解寸前である。やばいなぁ、と思いながら、今後どうなるか祈った。

 

 今回の探索結果。第十階層まで攻略。負傷一。

 

 前途多難な迷宮探索第一回はここで幕を下ろした。

 

 

 

 §

 

 

 

「なに考えてるんだっ、お前らッ」

 

 それは、まさに咆哮そのものだった。重く、轟雷が鳴りひびく。アンヘルはビクッと身体を震わせた。

 

 オスカルの表情は悪鬼羅刹そのものである。そこから吐きだされる声量は並大抵ではなかった。教官が心底から怒気を露わにしていると知った七八小隊の面々は、皆俯いて意気を挫かせていた。

 

「迷宮内で同士討ちなんて、冗談でもたちが悪すぎるぞ。これはもう、リタイアにする可能性も……」

 

 声を潜めていった。むしろ聞き取りにくいくらいだったが、有無を言わさぬ迫力があった。言葉の意味を悟った面々は顔を青ざめさせた。

 

「悪いのは飛び出してきた側です。私にいっさい過失はありません」

 

 最初に抗弁したのはソニアだった。彼女の意見にも理はある。基本、射線上に飛びだす際には、声を掛けるのがルールだ。

 

 彼女は、俯かせていた顔をあげて、必死の形相で他の班員を論った。

 

 しかし、それは他の班員の怒りを増大させるだけだった。

 

「お前こそっ。ずっと仕切りやがってっ。そもそもお前がいなけりゃ問題はなかったんだっ」

 

 エセキエルは怒りが納まらないのか、さらに他の人間を論う。

 

「いや、それ以前にお前らが勝手に突っ込んでいくから作戦が無茶苦茶に――」

 

「ウチだって、ちゃんとやっとるもんっ」

 

「あ、あの皆さん、もう辞めませんか……ボクの不注意のせいですし」

 

 というユーリの諭しは無視して、ソニアがボソッとエセキエルに向かって、

 

「何もしていないくせに」

 

 といった。

 

「テメェっ」

 

 オロオロとするエルサを他所に、ソニア対エセキエルの対立が勃発した。両者は肩を怒らせて、ガンを飛ばし合っていた。

 

「いい加減にしろッ!!」

 

 再び鳴り響いた轟雷が皆の肩を小さく震わせる。静まりかえった班員を見て、オスカル教官はさらに朱を顔にそそいだ。

 

「責任を押しつけあうなんてどうかしてるぞッ」

 

「私は、別に……」

 

「俺も、そんなつもりは……」

 

「金輪際、内紛行為が発覚すれば、活動停止を視野に入れると宣告しておく」

 

 続けて、

 

「それからお前たちもだ」

 

 と、ユーリとユウマを睨む。

 

「チームワークは、仲間を思いやることから始まる。この二人にはスタンドプレーの傾向が見受けられるが、それをサポートするのがチームの役目だ。味方が動いてくれないからといって、お前たちまで適当の動いてはチームは崩壊する」

 

 二人はしょげかえる。探索に関してだけなら、ユウマの非は大きい。彼女の突撃思考を御せなかったのが、事件の間接的な要因でもあった。

 

 反論がなくなったことを確認したオスカルは、その瞳に班長のエルサを捉えていた。彼は何度も悩みながら、最終的に息を吐きだした。

 

 オスカルはアンヘル、ユーリ、エルサに残るよう指示すると、小隊を解散させた。

 

 班員たちがバラバラにはけていく。

 その別れていく様が、チームとして完成されていないようにみえた。

 

 残されたアンヘルたちはひんやりとした部屋で立ちつくす。全員が出ていったのを確認したオスカルは腕を組んで、隊長であるエルサにむいた。

 

「今回の件、ソニアやエセキエルをこっ酷く叱ったが、本当の問題はちがう」

 

 彼に似合わない強い口調だった。

 

「迷宮探索で上手くチームを回せないのは、班長の責任であることが圧倒的多数を占める。そして、この七八小隊が回らない理由も、班長である君にある」

 

「――ッ! わたし、ですか……」

 

「そうだ」

 

 オスカルは断言した。

 

「むろん、君の事情は知っている。将来、軍魔道工学研究所に勤めるため、軍に志願したそうだな」

 

「……」

 

 エルサは黙り込んだ。オスカルは、

 

「だからといって実技が苦手では困る」

 

 と、咎めるように言った。同時にアンヘルは、あまりに弱い彼女の上科配属理由、それについてある程度理解しはじめていた。

 

 士官学校上級士官養成課程試験では、数学(算術、幾何学、代数学、関数学の四分野)、明経学(ミスラス教典の解釈)、論策などの他に選択の史学、基礎軍略、地学など多岐に渡るが、幅広く人材を募集するために、代理科目というものを実施している。彼女は、実技の代わりに魔導具工学を受験した人物であった。

 

「向いているようには見えない。将来、実戦に出る可能性が低いのもわかっている」

 

「なら、別に私じゃなくても――」

 

「だが、やらなければ、今ここで仲間を失うかもしれない」

 

 今回、負傷した場所が第十階層ということもあって、比較的治療までに時間がかからなかったが、これがもし、踏破寸前の最高層あたりで起きれば、本当に死ぬ可能性はある。

 

 大戦で仲間を失った、オスカルらしい、気迫のある言葉だった。

 

「で、でも……わたし…………」

 

 エルサは目尻に涙を溜め込んでいた。俯いて、やるせなさに唇を噛み締める。小さな身体を震わせていた。

 

 オスカル教官は、彼女の肩をポンと叩きながら、

 

「だからこそ、仲間がいるんだろ?」

 

 といった。ユーリは笑顔で、

 

「は、はい! エルサさん、絶対、ボクたちが支えるから」

 

 と励ました。アンヘルはそれを受けて、微笑みをなんとか浮かべる。上手く笑えているか不安になったが、表情筋はなんとか動いていた。

 

「わだしなんかが、できますか」

 

 鼻声になりながら、目尻に雫を浮かべている。

 

「大丈夫っ。だから、頑張ろうっ」

 

「……う、うぅぅっ」

 

 それを皮切りに、エルサは大粒の涙を溢しはじめた。大丈夫、大丈夫だからというユーリの励ましをただ立って眺めていた。

 

「君にも頼むよ。エルサには、協力者が必要なんだ」

 

 教官はアンヘルの肩に手を置き、念を押すようにして言った。室内には、泣き崩れる女の声が響いていた。

 

 此れからの展開は簡単に予想できた。ユーリが、

 

「いまからどうすれば良いか考えようよ」

 

 と言うと、エルサが涙ながらに感謝を述べるのだろう。

 

 ふと、過去の思い出。セグーラの街で知り合った友人、ゴルカの話を思い出した。

 

 ――なあ、アンヘルよ。お前は、合コンってもんに参加したことあるか? へえ、ないって? よし、いっちょ俺がそのテクニックってやつを披露してやんよ。いいか、合コンってモンは、例えるなら海よ。俺たちが、波を起こして、砂浜まで海面を引き寄せんのよ。けどな、偶に空気の読めねえやろうがいやがる。言うなら、凪だな。凪。そうなりゃ、しめえよ。もう、その回は失敗で、お持ち帰りもできやしねえ。そんときはな、冷えた座卓を見て、「ここは昔、海だったんだぁ」と懐古すりゃ、楽しかったことだけが、浮かんでくるんだぜ。ああ? よくわかんねえってか。はは、まだまだ、おこちゃまだな。アンヘルはよ…………。

 

 それが楽しむ為のテクニックとして適しているかは、未だわからない。ただ、それを思い出したアンヘルは、何も語らずじっと立ちつくしていた。

 

 

 

 §

 

 

 

 ふう、と息をすうと新鮮な空気が身体に入って全身を駆けめる。呼吸とは、空気中の酸素を血中へ取り込む身体機能に過ぎないことを知りながらも、そこになんらかの意味を見出すかのように、吸い込んだそれに淀んだ汚泥を混ぜて吐きだした。

 

 すでに、ユーリたちとはわかれた後である。

 

 今は、風を浴びたいと、寮への道からそれて校舎をすすんでいるところであった。

 

 明後日からは、再びダンジョンアタックが開始されるだろう。此度のお叱りをうけ、エルサは七八小隊の手綱を握ろうとする筈だ。そして、それが容易くはないということも。先を考えれば、ため息が出るのも仕方ないものだった。

 

 考えれば考えるほど、己が何をしているのだろう、と思考の迷宮を彷徨うはめになる。不条理に抗う力を欲して、士官学校へ入学した。もう一年になる。無論、これまでの経緯を否定するなどとは欠片も考えていない。ど田舎の開拓村出身という、身分があやふやな存在から、上への道を切り開いた。そこで学んだことは、雨露をしのぐ程度なら役にたつ。だが、先に進んでいるとはこれっぽっちも思えない。日々押し寄せる物事が、近視眼的にさせているような気にさせる。

 

 ああ、と黄昏の空を仰いだ。

 

 広く、そして明るい空が広がっていた。

 

 その下では、候補生たちが基礎鍛錬に明け暮れていた。一級下か、と彼らの幼い顔つきで判断する。そういえばグリックス兄弟の弟が上科に入学したらしいという噂をベップから聞いたのを思いだした。

 

 物思いに耽っていたからだろうか、廊下の先から聞こえてくる紛擾を聞き逃した。

 

 角を曲がった廊下の先。暗く影の差した木造のそこに騒ぎの元はあった。

 

 そこは、見るからに高貴そうな服装をした少年と取り巻きが、ひとりの少女を地べたに座らせて叱責していた。

 

 ここは校舎の中継点でもあり、人通りが多い。廊下を通る候補生たちがこれから起きる惨劇に目を逸らしながら足早に去っていく。

 

 しかし、アンヘルはその衝撃的な状況と暮れる心情もあってか立ち尽くしてしまった。

 

 中心人物である貴族の少年、ユースタス・リンゼイ・アル・リエガー。柔らかなブロンドと、薄い茶色の瞳が美しい、女性的な、帝国風美男子である。一目で育ちが違うと理解できる、豪華な改造制服が似合う貴公子然とした風貌だった。

 

 ――アンヘル、リエガー家の野郎には絶対に目をつけられるんじゃないぞっ。

 

 入寮して一週間。物知りのベップが口酸っぱくして語った言葉である。

 

 それが決して誇張ではないことを、アンヘルはすでに理解していた。

 

 ユースタスは、通り過ぎていく群集の侮蔑すら楽しむかのように、その場にしゃがみ込みながら、ペタンと尻もちをついた少女に目線を合わせた。

 

「ねえ、ダリア。どうして、こんな目に遭っていると思う?」

 

 優し気に、目下の者を慰めるかのように涼やかな落ち着いた口調で尋ねた。

 

 問われた少女。ダリアと呼ばれた候補生の顔は、茶髪に切れ長の目と、涙と恐怖に塗れていながら、ともすれば愛おしさすら覚えるほど男の加虐心を煽る美しさがあった。

 

 上半身には何も身につけていない。アンヘルからはその華奢で薄く、頼りなげな背中が克明に見えた。肩甲骨が硬く浮き出ている。腰もとの申し訳なさげに巻かれている制服が、彼女の大切な部分を隠す役割を果たしているが、そこにはチラリズムなどというエロスはまるでなく、ただひたすら濃い陰鬱さが浮かんでいた。

 

「わ、ばか゛りませ゛んっ」

 

 ダリアは縋るように主人を上目遣いで見た。

 

 言葉の反面、理解しているように感じた。少なくとも、アンヘルは理解できた。

 

 ベップの言葉を借りるなら、あの男は、性格破綻者、だ。

 

 五大貴族リエガー家の次男、ユースタスは名誉ある家に生まれ育った人間が有するべき誇りも情もまるで持ち合わせていなかった。

 

 ――いるんだよなぁ、そういうクソ野郎が。俺も一応貴族だからよ。そういう情報は入ってくんのさ。零細つっても、やっぱ世俗とは切っては切れないからよ。普通だったら、そういうやつは家紋の恥とかで幽閉したりするんだけどさ。けど、たまに逃れる奴がいるんだよなぁ。

 

 ユースタスは急に立ち上がると、彼女の頭を踏み、いきなり地面にたたきつけた。ダリアは地面に顔をモロにぶつけると、涙目で顔をあげた。

 

「どうして?」

 

 己の容姿に頼るしかない彼女は、主の戯れだろうと盲目に信じて、媚びた目つきで手を伸ばした。

 

「うん。それはね。おまえに飽きちゃったからさ。最初のほうは、市井の女を抱くのも悪くないと思っていたんだけど、もう一年にもなる。よくもまあ、この僕が我慢したものだとおもうよ。それにお前。最近、がばがばだろう? ダメなんだよね。女ってのは、キリキリ締まってなきゃ。やっぱり、処女が一番だよ」

 

 ダリアは呆然と口を開けていると、ユースタスはぱちりと指を鳴らす。取り巻きの男たちは、少女へとにじり寄った。

 

 これはショーだ。主演女優は彼女。めくるめく乱交ぱーちぃーが始まるのだ。

 

 見ていられなかった。このおぞましい催しの主として、一人満足げに腕を組むユースタスがこれ以上ないまでに陰鬱に見えた。

 

 何が恐ろしいか。これがはじめての催しではないからだ。直接は目にしていないが、過去にも数度あったことなのだ。ダリアは彼が持つ情婦(候補生)の中でも飛びぬけて容姿に優れていた。だが、人に飽きは必ず来る。見せびらかして愉悦に浸る趣味嗜好を持つ彼が、このような愚行を敢行する可能性は常にあった。

 

 男たちは、無神経かつ侮蔑の言葉を並びたてながら、ダリアの腕を取って地面に縛りつけた。

 

 汚らしい陰茎が、下履きからポロンと零れおち、まるで触手のようにダリアに襲い掛かりはじめた。

 

 まもなく、白昼堂々の凌辱が開幕の狼煙をあげた。アンヘルはその強烈な光景に、全身を硬直させた。

 

 ぐおお、とか、うおお、とか雄々しい叫びをあげながら、男たちが半裸を振りまわして少女を踏みにじる。ダリアは、その惨めさに涙を堪えることができなかった。ぽろぽろと涙が盛りあがってくる。それを見た男たちが一斉に欲をたかぶらせた。

 

 剣に、手がかかった。がちがちと震える指が、柄をがっしりと掴んでいた。

 

 貴族殺し。大罪だ。幽閉され、首を落とされることは確実である。

 

 常ならば止まっていた。一人女が嬲られるだけだと。

 だが、これは見過ごせない。この光景を見逃すには、辛過ぎた。

 

 剣を握る拳が、燃え滾る。

 熱くなった掌が、血が噴出するかのように鬱血し、筋が浮いていた。

 

 あと一歩だった。

 

 それを止めたのは、対面から登場した一団の叫びだった。

 

「やめろッ!」

 

 俯いて、激情を爆発させていたアンヘルは視線を正面へと戻す。

 

 そこで、貴族の少年を中心とした一団が肩を怒らせて、ユースタスらに詰め寄っていた。

 

 男にしては華奢なからだつきに、女を思わせん整った鼻梁。腰に携えられた剣が一際目立っている。躑躅色の髪を靡かせ、背後に供を連れたったその姿は一角の人物であることに疑いを抱かせなかった。供たちにはアンヘルの見知った顔が多い。いつか紹介された新進気鋭の実力者たちだ。一般的に貴族は実家や知り合いの若手騎士を伴うものだがら、かなり特異な人物である。その中に、赤毛の男が目に入る。剣士らしく鋭い眼光が光っていた。

 

 正面に立つ男、それはロゴスの村防衛戦で知り合った貴族エルンスト・オーゲル・シュタールだった。

 

「キサマ、貴族として恥ずかしくはないのかッ」

 

 エルンストはカッと吠えた。

 共のひとりが取り巻きどもを追い払い、ダリアを庇うようにして服を掛けてやる。

 

 ユースタスは鬱陶しそうに眉を顰めた。苛立たしそうにとんとんと指で足を打っている。彼らの仲が悪いのは誰もが知っている常識だった。

 

 逡巡すると、ユースタスは、

 

「おいっ、いくぞ」

 

 と、踵を返した。

 

 いくら家格に差があろうとも、他所の貴族と正面切って戦うのは憚られる。しかも、シュタール家は法政を司ることで有名だ。瑕疵のある状態で向かっていくほど無鉄砲ではなかった。

 

「あ、おいっ」

 

 手を伸ばしたエルンストの声が、どこか間遠に聞こえた。

 

 ダリアと呼ばれた少女は、助けられたにもかかわらず、すっと脇を抜けるようにしてユースタスと同じ方向に抜けていった。逃げられないのだ。逃げることは許されない。強大な何かが、ユースタスを制止しない限り、彼女の地獄は終わらない。

 

 恐らく、彼女に生きて会うことはもうないだろう。目を覆うような光景が、夜を越しても彼女を嬲って嬲って嬲りつづける。迎える先は、死のみだ。

 

 置いてけぼりにあって、ポカンとする彼らをアンヘルは強烈に罵った。なぜだ、なぜ、そんな単純な理屈すら分からない。中途半端な助けが一番の害悪なのだ。これから彼女は、ユースタスたちの苛立ちを、暗い場所で受けることになる。

 

 助けるなら根本から、そうでなければ、見捨てるか。

 

 何もしなければ、彼女は穢されるが、命は助かるだろう。退学か、精神を病むか。それでも命は救われる。それが許せないならば、相手を根絶やしにするしかない。

 

 ふつふつと煮えたつような苛立ちを堪えていると、声を掛けられた。

 

「よかった。君が飛びかかりそうに見えたから」

 

 いいながら、どんどん顔色が変わっていった。

 

「――!? 君は、もしかして、アンヘルじゃないのかッ」

 

 エルンストは、驚愕したとばかりに目を見開いていた。

 

「生きていたんだな。よかった、よかったよ」

 

「……」

 

「村の防衛戦以来、連絡が無かったからもう死んだとばかり」

 

 瞳が潤んでいる。

 アンヘルは怒りをけすように、唾を飲みこんだ。

 

「どうして、連絡してくれなかったんだ?」

 

「……シュタールさまはご多忙でいらっしゃいましたので……」

 

「おいおい、やめてくれよ。俺たち皆戦友だろ?」

 

 エルンストは背後の友たちをみた。背後にいた供たちも戦友だと思っているのか、優しげな眼差しを向けてきた。爛々とした若い徒人特有の光である。眩しすぎて、目をそらしそうになった。

 

「ああ、そういえば紹介していなかったな」

 

 エルンストは、手で差ししめすようにしながら、赤毛の男を前に連れだした。

 

「上科のホアン・ロペスだ。あとは、皆知っているよな?」

 

 ホアンは気まずげに頭をさげた。当然アンヘル側も知っているし、また向こうも知っている。

 

 親しげに接する仲ではない。不自然に思われない程度に挨拶を返すにとどめた。ピリピリした空気感だったが、エルンストたちにはそれが初対面ゆえの居心地の悪さだと思ったのだろう。両者の確執について問いかけることはなかった。

 

 彼は、アンヘルの怒りに打ちふるえているさまを義憤だと勘違いしたのか、優しげな瞳をむけた。

 

「それにしても、君は変わらないんだな。だが、今度は俺を呼ぶんだぞ。あいつは、一般科の生徒が相手にするのは大きすぎる。いや、俺にとってもだな。悔しい、悔しいよ。本当、あんな奴ばっかりさ。権威を笠に着て。あの女の子。大丈夫かな。もう、ユースタスの手から離れられればいいんだが……」

 

 心配そうにつぶやいたエルンストに、取り巻きのひとりが悲鳴を上げるかのようにして賛同した。

 

「本当に許しておけませんッ、あの野郎っ」

 

「おいっ、やめるんだっ――」

 

「でも、何人目ですかっ!」

 

「分かっている」

 

 エルンストはかれらの怒りを纏めあげるようにして、神妙に頷いた。

 

「必ず、あいつに勝ってみせる。それまで、付いてきてくれるな」

 

 信仰のような熱い熱が迸った。取り巻きたちの間で熱いやり取りが交わされていた。それをジッと見ていた。

 

 熱が冷めると、エルンストは置いてけぼりになっているアンヘルに向き直った。

 

「すまないな。熱くなってしまって」

 

「いえ」

 

 小さく答えた。エルンストは優し気にいった。

 

「それで、君は何科なんだ?」

 

「……伍科であります」

 

 と低い声で小さくいった。エルンストは寂しげに、

 

「だから、そんな他人行儀をやめてくれっていっただろう。俺たちは、同じ理想を持った勇士なんだ。そこに身分を持ちこまないでくれよ」

 

 と諭した。一年も経つが、彼らの思想にはまったくの変わりがない。供たちとも分け隔てない関係を築いていたし、時折見かけたホアンとの会話にも壁は感じられなかった。

 

「教官から指導されている方針ですので」

 

 嘘である。定められた上下関係が指揮系統を安定させる、と指導する教官がいないこともないが、少数派である。勿論オスカル教官は気にしない。

 

 アンヘルも指揮系統云々を気にしているわけではない。

 これは、上の者に対して媚び諂っているに過ぎない。ユーリやエルサに対する敬語は、そこから出ていた。

 

 ただ、今だけは違った。壁だった。それを馬鹿正直に告げるほど青くもなかったアンヘルは、申し訳なさそうに告げたのみだった。

 

「まだ、そんな身分主義が蔓延しているとは……」

「そのとおりだ。オスカル殿が主席教官となられてからは、なくなったと思っていたが」

「これだから権威を傘に着た奴らは」

 

 アンヘルの台詞は逆効果だった。口々に供の者たちが不満を漏らす。

 ホアンは口を閉ざしていたが、賛成派なのだろう。同意するように頷いていた。

 

 エルンストは労わるようにして、

 

「そんなことには賛同しなくていいんだぞ。俺たちは同じ釜の飯を食う軍人なんだ。それなのに、差別を助長する言葉にしたがってどうする?」

 

 と、主張するため声を大きくして、さらに握りこぶしを大きく掲げた。

 

「俺たちは、皆平等なんだ。五大貴族が、元老院派が、なんだ。あんなのがのさばるだなんて。くそくらえだっ!」

 

 皆が「そうだそうだ」と、気勢をあげた。盛り上がる集団の中で、アンヘルはただ一人、置いてけぼりになっていた。

 

 彼らのアイデンティティを知らぬ内に刺激してしまった。彼らは軍内のマイノリティ派閥、身分主義撤廃を唱えていた。とはいえ、反身分制と謳ってはいるが、別に政治団体というわけでもなく、正確には純粋実力主義というぐらいで、いわば、彼らのカラーだ。士官学校内における、政務官系貴族に多い、左派的立ち位置派閥の彼らは、専横の過ぎる元老院派貴族に対して反意を抱いていた。

 

「な、アンヘルもそう思うだろ?」

 

 エルンストが訪ねてくる。

 

 その思想については理解できた。特待生科の候補生の横暴に直面したことは一度や二度ではない。苦々しく思っている人が少なくないことも知っている。

 

 だが、アンヘルは言葉を濁すだけにした。

 

「私はまだ、候補生なので」

 

「なにをいってるんだ」

 

 エルンストははじめて咎めるような声をだした。

 

「差別なんてダサいことをやっていたら、いつまでたっても軍は正常化しないんだぞ」

 

「…………」

 

 確かに、そのような気持ちはある。平等であって欲しい、と。ただ、それが不可能なのもわかっていた。甘ったれた思考は捨てた。なによりこの男を信じたくない自分がいた。そう思っていると、ふつふつといいようのない怒りが込み上げているのを感じた。ボワッと、まるでガソリンが注ぎ込まれたかのように、炎が燻り始めた。

 

 何も、何もないのか。

 

 気高い意志を持ちながら、今の光景を目にしても。

 

 彼女が辿る運命にも。

 

 そして、過去の惨劇にも。

 

 言いようのない怒気が吐息となって漏れそうになる。なぜ、こんなに燃え盛っているのか、自身にもさっぱりわからなかったが、目の前の男が言葉を紡ぐたびに、封じたなにかが溢れそうになっていた。

 

「また一緒になって戦おう! 知っているだろ? 次の遠征演習では特待生科が主体となって動くことになる。君にも、協力してほしい」

 

 それは、甘美な理想に乗せられた過去の自分に対する怒りだった。上手くいかぬと知りながら、死なせたイゴルたちの幻影が、忘れたい過去が蘇るのだ。お前がころしたのだと、なにかが囁く。

 

 怒りが、急速に反転して負に向かう。反駁が口をついた。

 

「なぜ、彼女を助けたのですか……」

 

「うん? あんな状況だぞっ。助けるに決まっているだろうが。君も助けようとしていただろう?」

 

 強かったら、自身に力があれば、こう思えたのだろうか。眩しくて、眩しくて、目が痛かった。苦しかった。

 

 間違っていることを正したい。それはいい。

 

 だが、現実は違う。彼女は、命を失う。今日、アンヘルたちが余計なことをしてしまったせいで。イゴルも、みんなも、希望を作るから、縋らせてしまう。

 

 無知なまま出逢いたかった。そう、思う。今は、唯々凍えるのみだった。

 

「お誘いは嬉しく思います」

 

 喘ぐように、小さくいった。

 

「班長には伝えておきますので……」

 

「あ、おい――」

 

 礼を失しているとは知りながらも、短い挨拶のあと彼らの前を辞した。

 

 角を曲がると、ただひたすら走った。止まっていると、後ろから追いかけてくる亡霊たちに捕まりそうで、何かに怯えつづけた。

 

 木陰で、ふうふうと息をつく。溺れたようにして喘ぐと、さらに忘れた筈のなにかが責めたててくる。忘却という名の恩寵は、より強大で鮮烈な過去に対して無力だった。

 

 蹲って、そらを見上げる。先ほどとは違って曇天だ。風に流されて、積もりに積った雲が天頂にある。もう日が暮れるな、と思った時にふと影が差した。

 

「なにをしている? 気が散るからどこかへ行け」

 

 遠慮のない声が、うずくまるアンヘルを打ち据えた。其方をみた。そこには、美しい男が上半身を晒しながら歩いていた。テカテカと流れ落ちる汗が輝いている。自己鍛錬の跡だ。手には錘の付けられた木刀を握っていた。

 

 アンヘルは心情を探られぬよう、マインドベールを掛けながら美麗な男――クナルに返した。

 

「――君こそモロぬぎになって。露出狂かなにかかい?」

 

「不快ではあるまい。女どもも騒いでいるようだしな」

 

「へえ、異性に興味があったとは意外だよ。てっきり鉄にしか興味ないと思っていたからね」

 

「客観的事実だ。されど、興味がないのによってくるのは悲劇だな」

 

 この男は、モテないことを常々バカにしてくる。気に食わない奴だった。

 

 額に青筋が浮いた。何倍にもなって帰ってくると知りながらも、言ってしまう。ただ、自覚していないが、さきほどの暗い思考がどこかへと飛んでいた。

 

「暇みたいだね」

 

「貴様ほどではない」

 

 手ぬぐいで汗を拭いていた。余裕ぶった顔が気に食わなかった。

 

「自慢かい?」

 

「だといいがな」

 

 クナルはつまらなそうに口を歪めた。

 

「管理迷宮は詰まらぬ。貴様と共闘した火山龍のほうがよほどマシだ」

 

「君が共闘を懐かしめることに驚きだよ」

 

「ほざけ。あくまでも目糞と耳糞を比較しただけだ」

 

「僕がいなけりゃ死んでたくせに」

 

「此方の台詞だと言っておこう」

 

 クナルが下らぬことを話したと、木刀を投げ、手招きをする。組み手の合図だ。ごく稀にだが、気分が乗らぬときはこうやって打ちあいを求めてくる。

 

 ――どいつもこいつも、知り合いが少ないなぁ……。

 

 ふっと苦笑いを浮かべながら、投げてきた木刀を拾う。

 

 徒手空拳対剣術。完全にアンヘル有利だが、勝ちを拾えた回数は数えるほどだ。

 

 だが、気晴らしにはちょうどいいと、正眼に構えた。

 

「気絶させる前に、聞いておきたいことがあるんだけど」

 

「無理だな。だが、なんだ?」

 

「昔言ってたよね、幻の十八本目のこと、なにか知ってる?」

 

「貴様、そのような与太話を信じているのか?」

 

 その嘲笑に苛立ちを覚えた。身体を戦闘態勢。準備は万端。ナイフもランプも、熱い想いも眼差しも詰めこんだ。

 

 いざ、勝負! と身体を投げ出そうとしたとき、クナルの口が艶かしく蠢いた。

 

「明日は空いているのか?」

 

「――講義はあるけど?」

 

「ならばいい」

 

 完全に油断した。ふっと歪んだ笑みを見せたクナルが唐突に消えた。達人の縮地も真っ青な高速移動だ。気付いた時には、地面を転がって空を仰いでいた。

 

 それから、一刻、何度もぶつかった両者だが、疲れもあってかアンヘルに軍配があがることは一度もなかった。

 

 

 



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第十話:大神祇官の肖像

 

 道ゆく人々が急かされたかのように蠢いている。夏聖祭が近いこともあってか、辺りは浮ついた雰囲気で満ちていた。

 

 夕暮れの惨劇、その翌日である。講義の合間、お昼時になって突然現れたクナルによって街へと連れ出されていた。

 

「講義始まっちゃうんですけど」

 

「諦めろ」

 

「……もしかして痴呆でも始まった?」

 

 と苛立って煽るが、クナルは無情に、

 

「黙ってついてこい」

 

 といった。万事この調子である。

 

 こうなってはアンヘルにもお手上げだった。

 士官学校において無断欠席などイカれた奴の所業に他ならない。腐っても軍学校である。しかし、目の前の男に常識など通用するはずもなかった。

 

 くだらない雑談をまじえながらついた場所は、行政区の外れ、古い建物が居並ぶ隘路の建造物だった。行政区は名のとおり、民会のための議事堂や執政官が勤める庁舎、国家の諮問機関である元老院が座す都市の中心部である。入場が禁止されているわけではないとはいえ、一般市民には中央区――大商人や貴族が座す――以上に縁のない場所だ。

 

 木造の玄関ポーチに庇の影がさしている。歴史があるといえば聞こえがいいが、ただ古めかしい洋館であった。

 

「で、どういうこと?」

 

「入ればわかる」

 

 動きに迷いはない。

 

 彼曰く、はじめてらしい、が家人のような不躾さである。これほど厚顔無恥という言葉が似合う男は中々にいないだろう。その背に続いた。

 

 室内は外観ほど寂れてはいなかった。黒塗りの木造家屋特有の侘しさをたたえながらも、質素には見えぬ程度に装飾が施されている。侘び寂び、がもっとも相応しい形容であった。

 

 アンヘルが玄関ホールを見渡していると、廊下の奥、そこに一人の男性が佇んでいた。腰には剣を差し、精緻な色合いの金属プレートを纏っている。軍人ではなく、騎士用の重装備だ。

 

 物々しい装備を見て、これはただ事ではないぞ、と漸く実感した。

 

 無遠慮にクナルがその男の元へ向かう。どうなってんの? と尋ねたい気持ちを押しころし、だたついていく。その男は此方を測るような刺々しい眼差しを隠さないまま、

 

「どうぞ」

 

 と、部屋の中へ案内した。

 

 案内された部屋には、扉の前で待機していた男同様の重装騎士数名と、年若い候補生の姿があった。

 

 候補生の数は五。知っている顔は三。

 

 皆、アンヘルより上の級ばかりで、三人とも四回生以上で構成されていた。皆貴族の後ろ盾を持たず、そしてずば抜けた実績も持たないが、個人戦闘能力には優れた非主流派の人間である。

 

 この調子なら、他の二名も似たような構成だろうとアンヘルは判断した。ちなみに、クナルは興味なしとそさくさと端の壁に背を預け、目を閉じた。

 

(いやいやいや、ここで放置はないでしょ)

 

 ひとり挙動不審に周囲を伺ったが、好奇の視線を向けられるに留まった。此処にいる人物すべてが、実力者として知られる上科や肆科の面々ばかりである。キョロキョロしている彼を知っている人間も、注意を払う人間もいなかった。

 

「もう説明してくれてもいいでしょ」

 

 致し方なくクナルの近く、革張りのソファへ腰をおろした。

 

「いいだろう。なにが聞きたい?」

 

「そりゃ、どうして連れてきたとか、なにをするんだ、とか色々あるよ」

 

「知らぬ」

 

「は?」

 

 耳を穿りながら尋ねかえした。

 

「集まれといわれただけだ。貴様は雑用係だな」

 

「いやいや、さすがに冗談きついよ」

 

 クナルは真顔である。いつもの無表情だが、小面憎くなった。

 

「……嘘でしょ? そもそも、誰に頼まれたの?」

 

「決まっているであろう。指導教官の――」

 

 最中に、扉が再び音を立てた。

 

 新たに現れた人物は、指導教官のオスカルだった。

 髪を邪魔くさそう後ろに纏めがら、ついでに頭を掻いている。眉はへの字に曲げられ、機嫌良くは見えない顰めっ面で方々を見渡していたが、部屋の隅に座るアンヘルを見て、血相を変えた。

 

「どうしてここにッ!」

 

「僕のほうが知りたい、といいますか……」

 

 横のやつに聞けと、流し目で視線を送った。その男は、鬱陶しそうに切れ長の目を開いた。

 

「私が呼んだのだ。不都合でもあるか」

 

「――ッ! これは極秘の依頼だぞ。ただの候補生にこんな危険なことを――」

 

「ほう? 私も候補生だった気がするがな」

 

 オスカルがギョロリとした眼で睨みつけた。

 まるで堪えた風もなく、クナルは再び目を閉じて瞑想をはじめた。

 

 彼らの関係は、明らかに指導教官と候補生のではない。ラシェイダ族は長年魔物狩りで生計を立てたこともあり、異常なまでに力を尊ぶ傾向にある。クナルもその例にもれず、己以下の教官を敬ったりはしない。

 

 いくらオスカルが優れた人格者だとはいえ、この場面である。GTOでも矯正できないだろう男に、なにを言ってもムダだと思ったのだろう。クナルを完全に無視した格好で、アンヘルの耳に寄った。

 

「こんな所でなにをやっているッ」

 

「……連れてこられただけですので」

 

 と、アンヘルは言い訳した。失望の色が瞳に映じられた。

 

「明日も迷宮攻略だろうっ」

 

 あれほど協力して欲しいと頼んだだろう、とオスカルはいった。明日も第二回目の探索演習が予定されている。次の目標は二十階層の攻略であり、本日午後もマッピング情報と重ねあわせて、探索道順を練る予定だ。

 

「返す言葉もないのですが」

 

 肩を落としながら、表面上は申し訳なさそうな顔をした。だが、だからこそアンヘルは気になった。秘密裏に集められた候補生たち、しかも雰囲気はさながら密偵の基地である。

 

「これは、依頼ですか?」

 

「いや、それは……」

 

 今度は言葉を濁した。如何に、依頼の内容が極秘であるということを示していた。

 

 大きい依頼だろう、と特異な状況を考慮してアンヘルは結論を下した。唯一の疑問点は、なぜクナルが依頼内容について何も知らないのか、という点である。オスカルの態度を鑑みれば、概要くらいは知っていそうなものである。しかし、あの奇人の思考を考えてもロクなことはないと、さっさと疑問を打ち切った。

 

 ――候補生、それも非主流派にして実力者揃いの面々への依頼。

 

 候補生に依頼が入る、ということはさして珍しくもない。というのも、士官学校が一種のリクルート場として機能しているからだ。

 

 帝国における軍事方針は、将軍を頂点としたピラミッド型の指揮系統であり、現代的軍隊に近い権力一極集中型かつ指揮系統委譲構造である。先進的な軍事行動を可能とする帝国ならではの、合理的組織図なのだが、ある例外が存在する。それは、軍におけるエリート集団。小隊単位で妨害魔道具保有者を狩る、一騎当千の武芸者たちである。

 

 基本的に貴族やそれに準ずる立ち位置の人物が、徴兵された一般兵を指揮し、クナルたちのような機動力および戦闘力に優れる少数部隊が先行、浸透作戦にのぞみ魔道具持ちを狩るのが現代戦の肝となる。そこで皆優秀な小隊、人物を欲するのだ。

 

 昨日、エルンストがホアンを引き連れていたが、それは将来を見据えたスカウトであり、他の貴族たちも声をかけ始めている。ちなみにだが、決闘の一件もあり、アンヘルも認知されていないが、広義ではルトリシア派閥に属している。

 

 そんな卒業前内定人材には、上司と仰ぐ派閥の依頼をこなしたりすることは、けっして珍しくなく、むしろ学内で顕著な能力もしくは社交性を有していることの証左でもある。

 

 より確実な出世の為には、貴族との繋がりが必須となる。しかし、このまま頭角を顕さぬまま、卒業を迎えれば、待っているのはルトリシアの派閥の下っ端一直線である。が、アンヘルにとって、あの女の下など死んでも御免であった。

 

 認められぬ、それの一点に尽きる。五大貴族の軍家に仕えるとなれば大出世であるし、彼女が如何に無情であろうとも、実際に接する機会はほとんどないと言っていい。

 

 これは、いわば意地だ。

 

 不条理に抗うと誓ったその力の頂点が、彼女の権力に重なるのだ。対等、それを願う青い反骨心が、よりアンヘルを掻きたてていた。

 

 そうやって黙っていると、不安に襲われたと勘違いしたのか、

 

「もう、帰りなさい」

 

 とオスカルが指示を出してきた。

 

 渡りに船である。意味のない危険など望むべくもない。クナルが嫌な顔をするだろうとも思いながら、元々それを気にするたちではないことに思い至り、席を立つ。

 

「此処まで来たのだ。下がることは許されぬ」

 

 と、騎士がいった。有無を言わせぬその口調に、異議申し立てを介在させる余地など欠片もなかった。だが、とオスカルは反論を試みるが、石に灸である。貴族に仕える騎士たちは、第一に厳格さを求められる。融通が効かないといえばそのとおりだが、マニュアル通り物事を進行することの重要性は語る必要すらない。最終的に、ため息をついてその場を終えた。

 

「ふ、予想通りといったところか」

 

 クナルが満足げに笑みを浮かべた。脳筋のイメージが先行するが、一流の武芸者は基本的に知性にも優れる。基礎知識を必要としない物事においては優秀そのものだった。

 

「巻き込めて満足?」

 

「当然よ」

 

 その言葉どおり、つまらぬ事件ならば、アンヘルに解決させようとするのが、ここ一年の常套手段であった。

 

「平常運転な君を尊敬するよ」

 

「ふん。そろそろ腐るのはやめて、建設的な議論をはじめるんだな」

 

「相変わらず性根が腐っているね」

 

 アンヘルは半目で見た。

 

「まあいいよ。この依頼、夏聖祭に絡んだ一件だと予想する」

 

「この数で対処できるわけなかろう。数は六プラス一。恐らく、迷宮関係だ」

 

 ダンジョン探索では、なぜか六人編成が主とされる。一説には、狭苦しい迷宮内でもっとも力が発揮できる人数は六人だと言われているが、アンヘルは信じていない。

 

「プラスしたのは君の独断だろうに……」

 

「お前ら、仲がいいのか?」

 

 オスカル教官が意外そうに小首を傾げる。アンヘルには甚だしいことなのだが、ウィルキンに始まり、二人の会話を聞いた人物は皆そういう感想を持つ。

 イライラして顔をしかめる。クナルも同じ表情をしていた。

 

 不毛な会話を無視していた騎士が、慌ただしく姿勢を正した。一変した空気を感じたアンヘルは耳を澄ます。複数人の話声が扉の奥から漂ってきていた。

 

 扉が開かれると、集団がゾロゾロと入ってきた。

 

 七人の男たち、それぞれがまるで特徴のない平服を纏っている。が、逆にそれが強烈な違和感を発していた。隙のない立ち姿。平凡な相貌だが、鋭い刃のような眼光がある。意識しなければ、まるでなにも感じられない影の薄さだが、見る者がみれば、高度な訓練を受けた実力者だった。

 

 その背後から一人の女性が入る。若くもなく、さりとて、年老いてもいない。三十代に見えるが、実年齢を悟らせぬ特徴のなさだ。醜女とまではいえぬが、堂々と美女というには憚られる容姿だった。

 

 そんな彼らを引き連れた中年の男。彼が、集団の中心だと、誰もが一発で理解した。

 

 候補生全員が立ちあがり敬礼した。その中年の男は、苦笑いのようなくたびれた笑みを浮かべて、座るよう促したのだった。

 

 アンヘルは、その男を見た瞬間、一瞬、呼吸が途絶した。

 

 白髪の混じる黒髪と黒瞳に銀細工の眼鏡、黒に銀糸をあしらった、派手でもなければ質素でもない微妙な司祭服を纏っている。碩学(せきがく)の学者らしい風貌で、口元に笑みを貼り付けたその男には、貴族特有の権力も力強さもまるで感じられないが、独特の空気感をもって、なるほどと思わせるなにかがそこにはあった。

 

 ドミティオス・ガウス・マリアウス。

 

 ミスラス教会最大の中心人物にして大神祇官の地位を拝命し、現トレラベーガ帝国における皇帝ティベリスの意思を全面的に委任された全権内務官。皇帝、そして五大貴族の諮問機関にして、民会の任命権を持つ元老院の下院議長。軍事においては、帝国西方軍副司令代理を努める。査問機関である監察局主席監察官にして、マリアウス侯爵家次男にして次期当主。士官学校に肖像画が飾られる人物を知らぬ候補生は、余程奇特な人物に違いなく、この場に存在する筈もなかった。

 

 その場の全員が膝を降り、第一種敬礼を行おうとする。しかし、ドミティオス大神祇官は優雅に手を振って拒否を示した。

 

「構わないよ。私は皇族の人間だが、御稜威を感じる必要などないさ。ムダは省いて、合理的にいこう」

 

 気さくそのものの態度で、大神祇官は中央の革張りの席についた。促されるまま皆席につく。護衛たちが囲むようにして囲いを作った。

 

 全員が緊張したまま彼の言葉を待った。当たり前だが、皇族と話す機会などない。将来を考えれば、五大貴族長子ルトリシアも似た地位にあるが、現時点では比べようもない。

 

 そんな大人物が、眼前で気軽に指を組んでいた。

 

「そんなに緊張しないでくれ。今日は、自己紹介程度を想定しているからね」

 

 すべてを見通すような透き通った瞳だ。大神祇官は、候補生たちに自己紹介させるよういった。オスカル教官は大戦の英雄ということもあって、とくに紹介を求めなかった。

 

 超権力者であるその男の方針に否はない。準繰りに候補生挨拶し、アンヘルの順番となる。

 

「私は、二回生伍科のアンヘルと申します」

 

 短い紹介だが、相手の立場を鑑みれば長々話すことのほうが悪印象である。簡潔そのものだったが、やはりというか、それは波紋を起こした。

 

「伍科、なぜ伍科のやつが」

「みない顔だと思ったが、なぜあのような者が」

 

 ヒソヒソと陰口が広がる。面倒だなと思ったが、抗弁の余地はない。次の人物に移るの待ったが、それを静止したのは大神祇官だった。

 

「アンヘル君、か。失礼だが、予定の人物になかった気がするのだが」

 

「私の補佐役だ」

 

 返答したのはクナルだった。護衛たちに、己が主君に対して働かれた無礼に怒気と緊張が走る。しかし、彼はまるで意に介さず暴挙を続けた。

 

「別に構わんだろう。一人で来いなどと指定されたわけでもない」

 

「ふふ、そうだね」

 

 ドミティオスは、愉快だといわんばかりに笑みを深めた。風貌通りというか、どうにも貴族らしさに欠けるな、というのがアンヘルのファーストインプレッションである。

 

「寧ろ助かるくらいだよ。内容を考えれば、ね」

 

 飄々とした態度で肯定を示す。オスカルは抗議をしたいのだろうが、さすがにこの人物に物申すほどではなかった。

 

「では、気になっている内容について話そうか。ああ、これは、最優先秘匿事項であることを理解してほしい」

 

 途端に部屋の空気が固まる。破れば軍法会議の末、斬首の憂き目にあう、国家機密に属する類の内容だ。候補生程度が易々と絡める内容ではないことは明白だった。

 

 ドミティオスは宣託をするように、厳かに告げた。

 

「では、君たちに任を与える」

 

 手を振って合図をした。護衛たちが黒檀の長箱を運んでくる。その厳重な装いが、どれほどの重要性なのかを物語っていた。

 

「宝剣ドゥクス・グラディウス。帝国の誇る宝剣警護を君たちにまかせたい」

 

 初代皇帝の父君カエルノが持った最強の魔剣が、ここに鎮座していた。

 

 

 

 §

 

 

 

「今回の事件は十七魔剣の発見から始まっています」

 

 嗄れた声が、護衛の女性と思われるその喉から発された。冷たい瞳が、方々を睥睨していた。

 

「十七魔剣。ここ十年で発見された魔剣の中でも、際立って強力な代物です。その配分を巡って三勢力が舌戦を交わしていました。事態が変化したのは、我が主君がオスゼリアスに入られてからです。それまでは、内々で済んでいたのだが、ついに実力行使に及んだ勢力が現れたのです」

 

 ここまでは、アンヘルが方々から聞いた内容と合致している。ベップいわく、帝都からの高官が、十七魔剣を持ち帰ろうと画策している、という噂を収集していた。

 

「諸君は、この十七魔剣にまつわる伝説を存じていると思います。そう、『幻の十八振り目』についてです。

 今回、宝剣は修繕のためにオスゼリアスへ運んだのが、各勢力には幻の魔剣を持ち出そうとしているように見えたのでしょう」

 

 その説明で、漸く、此度の騒動の全体像が見えはじめてきていた。

 

 時期に見合わぬ大人物の来訪。その隠密行動が、宝剣を幻の魔剣へと誤認させてしまった。

 

 そのうえ、オスゼリアスは、元老院派閥の総本山であり、彼らが大きな権力を握っている。セグーラのような地方とちがって、民会や皇帝派の影響が及ばない。皇帝派筆頭株のドミティオス大神祇官には、現地の軍勢力を動かす力はなく、どうしても動かせる駒が少ない。

 

 以前の話が大きくなって到来している。アンヘルは話の大きさに喉を鳴らした。が、まるで意に介さない奇人が存在した。

 

「ならば、公表すればよかろう」

 

「たしかに、そうだね」

 

 その不躾な言葉に、アンヘルは戦々恐々とするばかりだ。オスカルが静止の言葉を投げかけるが、まるで無意味である。天上天下唯我独尊を自で行く男だった。

 

 ドミティアス大神祇官はさして気分を害した様子はない。にこりと微笑んだ。

 

「けれど、そうはいかない」

 

 帝国の父カエルノが持った宝剣を、無闇に晒すことはできない。面子以上に、政治的判断でもある。皇帝派として、元老院派の意見を易々と呑めない裏事情があった。

 

「というわけで、宝剣の警護を頼みたい。むろん、補助程度の役割だ」

 

 ドミティオスは極秘でオスゼリアスに訪れているが、政治屋として、極秘に有力者と会談を持つ必要がある。今回の依頼は、主人が出張中に薄くなってしまうのを警護したい、ということであった。

 

 部屋に弛緩した空気がやっと流れる。幾ら何でも宝剣の護衛を候補生如きに担わせるなど正気の沙汰ではない。騎士たちが核になると聞いて、ほぼ全員が安堵した。

 

 黙りこんだ候補生たちを見て、オスカルが一歩進み出ながら、

 

「失礼ながら、ご質問の機会を頂けますでしょうか?」

 

 といった。

 

「なんだい」

 

「どのような相手でしょうか?」

 

 その不安げな声は、候補生には荷が重すぎるのでは、という副音声すら聞こえてきそうなくらいだった。

 

「心配しないでくれ。本丸はこちらで担うからね」

 

 詳細はアグリッサから聞いてくれ、とドミティオスが言うと、女はペコリと頭を下げた。仰々しい内容だが、宝剣の価値を鑑みれば当然の処置だった。

 

 候補生側もやる気を見せている。話自体は大きいが、責任の程は小さく、なにより大神祇官に能力をアピールする機会だ。

 

 むろん、危険はある。皇帝派の中枢に位置するドミティオスを失墜させるいい機会だ、と地下に潜っていた連中が動きだし、謀略を企てる可能性は間違いなくある。

 だが、白昼堂々と暗殺者を送り込んでくるほど力のある勢力は存在しないと判断できる。この凄腕の護衛を掻いくぐって暗殺や宝剣奪取を実行可能な人材は帝国広しといえど名の知れた軍人だけだろう。つまり、起きても小競り合い程度だ、此処にいるすべての候補生がそう理解していた。

 

 名前だけでも覚えてもらいたい。

 候補生の意思が統一されたとき、都合よく相手側から会話の糸口を放ってくれた。

 

「折角の機会だし、君たちのことを聞いておこうか」

 

 ドミティオスは腕を組みながら、なにがいいかな、と頭を捻った。

 

「そういえば、オスカル君は特待生科の廃止を主張していたよね」

 

「は、ご不快に感じられたのであれば謝罪します」

 

「いやいや、気にしなくていいよ。私は貴族で、しかも軍権も持っているけど、実際に指揮した経験はないし、そもそも魔の法自体を扱えないしね」

 

 カラッと笑う。衝撃的な事実にもかかわらず、まるで気負いない態度だった。

 

「じゃあこうしよう。現在の軍体制について改善点を聞きたいな。遠慮ない意見を聞かせて貰えると助かるよ」

 

 テスト問題を出題する教師のような笑みを浮かべた。ピリッと室内が再び緊張に包まれた。

 

「じゃあ、セントール君から頼むよ」

 

 最初に指定された候補生はアンヘルに対して侮蔑的陰口を叩いた青年だった。胸には上科のワッペンが輝いている。突如振られた質問であるにもかかわらず、セントール候補生は迷わなかった。

 

「は、私は、オスカル教官と同じく、特待生科の廃止に賛同します。なぜなら、軍は政治から独立し、その力をなんの障害なく振るようにしなければならないからであります。ご存知のように、現在の士官学校では、任地は基本的に士官学校内の成績ではなく、在校中に得られた縁によるところが大であります。しかし、現代の戦闘に当て嵌めれば、より実力主義に移行した新たな軍を組織することが、帝国発展の礎にならんと私は確信しております」

 

 はきはきと答えた候補生に、ドミティオスは満足そうに、

 

「なるほどなるほど」

 

 といった。

 

 こうやって若者が世情や軍内情について論じるのは、今の帝国ではけっして珍しくないものだった。とくに士官学校でこなれてきた上級生たちは、囲ってくれる貴族主催の茶会において、思想や世務について語りあうのが通例である。

 

 道場内での談義が、一般化してきたのは世が不安に揺れている証左なのかもしれない。東方一刀流のような芋流派――広く信奉されているとはいえ、流祖が百姓ということもあり、政治思想には疎い――では、ほとんど見られない光景なのが悲しいところだが。つまり、ここにいる連中は、オスゼリアス一円の、金剛流などにはじまる名門の流儀を学んだものたちだ。

 

 他の候補生たちも、各々、

 

 ――能力主義への移行。

 ――現体制の貴族が指揮官を務める規則。

 

 など、思うところを述べた。大体が、反体制的思想である。

 

 全員腕は立つが、あまり主流に乗れていないマイノリティである。なまじ実力があるがゆえに、自分たちを重用しない貴族たちに蟠りがあるのも当然と言えば当然であった。

 

「先進的だね。こんな極端な意見は、議会ではないからねぇ」

 

「ドミティオスさま。これ以上は――」

 

「いいじゃないの。学徒の意見を聞く機会なんてないんだから」

 

 アグリッサの諫言を無視して続けさせた。護衛たちの、またか、という空気が蔓延した。この男は、その風貌どおりに、地方では割合好き勝手に動いているらしい。

 

「オスカル君の思想は中々根付いているようだ」

 

「いえ、候補生たちが自立した結果であります」

 

「謙遜しなくてもいいよ。帝都では、こうはいかないからねぇ」

 

 第二代皇帝の人気を失墜させた政策にして、負の遺産である反逆罪。これは政治的批判だけでなく、酔っ払いの戯言のような誹謗中傷ですら、適用範囲内となっている。現在は使われないが、御膝元とあっては、言葉や主張を選ぶ士官候補生が多い。自由に語れるのは、帝都から離れたオスゼリアスの特徴でもあった。

 

「同じ意見ばかりでもつまらないし、反対意見はあるかな?」

 

 続いて、もう一人の男が手を挙げた。ポールという肆科生である。おっかなびっくりに、現体制を擁護する意見を吐いた、のだがかなり怪しい論拠だったため、周囲は呆れ顔をみせた。

 

 これはつまり、態と反対意見を述べることで目立とうとしたのだ。ただ、明らかに不足ある根拠だったため、失敗した。

 そもそもとして、此処にいる面子は現行の体制で上手く貴族に取り入ることができない非主流派の人材が集まっている。やり方自体は賢いが、勇足の早合点であった。

 

 だが、ドミティオスは馬鹿にすることなく聞きつづけ、

 

「なるほど、なるほど」

 

 と頷いた。どうにも、権力者らしからぬ態度というか、なんなら冴えない学者のような男である。というのが、衆目の意見だった。愚鈍な皇帝を支える忠臣、という世評がまるで当てにならない。

 

「クナル君にアンヘル君だったかな? 君たちの意見はどうなんだい?」

 

 まったく我関せずといった様子だったクナルに矛先が向いた。が、この男。もう完全に「大物」そのものと言った様子で、我が道を行った。

 

「どうでもいい」

 

「それは、どういうことかな?」

 

 さすがの大神祇官も予想外の反応だったのか、ポカンと口を大きく開いた。

 

「軍体制や(まつりごと)など興味もない。論じたいのなら政界へゆけ」

 

 完全に軍人としてあるまじき思想だった。男児たるもの、夢を語らぬしてどうする。というのが帝国男子の規範だが、こんな男も珍しかろう。ラシェイダという部族に生まれついた者特有の思考かもしれない。

 

「こら、なにを言っているんだっ!」

 

「私にとって、軍など舞台装置にすぎん」

 

 教官に倣いアンヘルも睨むが、まるで気にした様子がない。護衛たちも呆れているのか、しらーとした空気が流れた。

 

「究極だね。すごいものだ。この歳でそこまで切り捨てられるなんて」

 

 ドミティオス大神祇官はさぞ関心というように笑っている。大人物とは、こういう物怖じしない武者を好むのかもしれなかった。

 

 対照的に、褒められた? クナルは興味なさげに明後日の方角を見ていた。疫病神で御免なさいと、心の中で謝罪したアンヘルであった。

 

「残りは、アンヘル君。どうだい?」

 

 問われて、アンヘルは一瞬思考を高速で巡らせた。どうすれば、最適か。頭に今までの情報が駆けめぐった。

 

 唇で口を舐め、喉を鳴らしてから、ゆっくり、

 

「分かり、ません」

 

 と告げた。

 

 空気が凍った。誰もがアンヘルの告げた言葉を飲み込むのに時間がかかったのだ。遅れて、候補生たちから失笑が漏れた。オスカルも目を丸くしていた。

 

「別に難しく考えなくても。大したことじゃなくてもいいんだよ」

 

「申し訳ありません。私には、難しすぎるようです」

 

 今度こそ、隠しもしない失笑が沸きおこった。「さすが伍科」という罵声がが、次々と飛んだ。アンヘルは目を伏せた。オスカルも、しまったな、とため息をついていた。

 

「よーし、よく分かった。今日は解散してくれていいよ」

 

 アグリッサから詳細を伝えさせるから、とドミティオス大神祇官は立ち上がる。ヒラヒラと手を振ると、軽やかに出て行った。

 

 部屋には候補生たちが残る。上位者が退出してすぐに出るのは無作法にあたる。アンヘルは、候補生たちから突き刺さる侮蔑の視線に耐えながら、ジッと待機した。

 

 オスカルの慰めを聞きながら、これからについて思案する。アンヘルはまだ演習中の身だ。忙しい日が来るだろう、と予感した。

 

 少し経ってから、候補生たちが去ってゆく。アンヘルも退出しようとして立ち上がる。

 

「貴様は、意外に上昇志向が強いのだな」

 

 どうでもよさそうに告げてきた。その洞察力は侮れない。アンヘルは彼の能力について上方修正を加えながら、背に続いたのだった。

 

 

 




迷宮探索のはずが、よくわからない方向にずれていく主人公


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第十一話:オスゼリアス観光

 

「まだ士官学校に慣れてないみたいだな」

 

 カンカンに太陽が照りつける路地にて、オスカルはそういった。

 

「慣れていない、ですか……?」

 

 クナルは我関せずといった様子で、ひとりブラブラと歩いている。

 大神祇官との面会後。三名は士官学校への帰路で、言葉を交わしていた。

 

「ああ、そうだ」

 

 深く頷きながらいったそれには、咎めるような意図はなかったが、強い憂慮が見えかくれしていた。

 

 アンヘルは、頭を掻きながら、その真意について思考した。もう、一年と数ヶ月士官学校に通っている。慣れていないとは、そうそう言えない期間であった。

 

「なぜ、でありますか」

 

「慣れると、皆、何かしらの意見は持つようになるからだ」

 

 ほとんど政治的思想を持たない芋流儀の候補生も、一年二年と候補生内で語りあうことにより多様な思想を育んでいく。上の科のエリート意識や貴族たちの横暴に反感を持つのは、至極当然の流れだといえよう。

 

「悔しくは、ないのか?」

 

「どのような意味ですか?」

 

「見下されることを、だ」

 

 ソニアやエセキエルたちは、確実にみくびっているだろう、とつづけた。

 

「……悔しくない、といえば、嘘になります」

 

「なら、どうして」

 

 尋ねられて、そこで黙する。悔しくないわけがない。確かに成績は下の下だが、下に見られて、不満を覚えない人間は、それこそ異常者か本当に能力が低いかである。プライドとは、能力に正比例するというのが、アンヘルの持論であった。

 

 しかし、アンヘルは、なんとかではあるにしても、それを呑みくだせた。これはもう、祖父であった伊之助から植えつけられた信念である。韓非子を幼少から読まされたアンヘルは、才覚を隠すということを、もはや強迫観念のように信奉していた。

 

 ただその思考は、昨今の論壇上の士官には推奨されないため、アンヘルはただ黙って、

 

「こちらこそ、聞いてもいいですか?」

 

 とごまかした。

 

「……なんだ?」

 

「なぜ特科廃止などという提言をなさったのですか?」

 

 名家でもない零細武官族系貴族のオスカルが、元軍体制を批判する提言をすることはかなりのリスクがある。教官内には、現場時代の反省も含めて上層部に反意を抱く者も多いが、当時オスカルに賛同したものは少ない。いまでこそ認められつつある思想――現在においても、五大貴族や元老院系貴族などからは羽虫のごとく嫌われている――だが、当時の批判は途轍もないものだったと、アンヘルも聞き及んでいた。

 

 真正面からの質問に対し押し黙った教官を見て、アンヘルは、はじめ、答えにくいからだと思った。が、実際には違った。それは、彼の語る言葉を通じて確信へと変わっていった。

 

 その瞳の輝きに、アンヘルは飲まれた。これが士というものか、そう震えが走った。

 

「昔話をしても、いいか?」

 

「……はい」

 

 オスカルはゆっくりとした口調で語りはじめた。

 

「今でこそ反特科なんてのを掲げてはいるが、当時の俺は酷かったよ。下の科を見下すなんて当たり前。集団演習では、無能だと判断した奴をどんどん切って、ばんばん新人を入れた。

 今とは違って、差別の風潮が強い時代だった。女性差別や能力差別は今の比じゃない。それこそ、伍科は班長の情婦同然の扱いを受けることもあったよ」

 

 十五年ほど前(帝国歴300年代)あたりは、比較的泰平の世であったと言われている。しかし、平和であるほど身分の差は絶対になるもので、五賢帝時代の世の春とすら呼ばれた時代には、軍隊が脆弱化し、国家守護のためにと志した士官が御上の玩具になることはけっして珍しくなかったほどである。

 

 ふたりの歩む速度は徐々におち、子供の散歩と同じくらいになる。クナルはすでに消えていた。

 

「だが、入学時点での成績なんて、あんまり関係ないんだよ。ある奴が、何度も俺に挑んできてな。それはもう何回も模擬戦をやったもんさ。『隊長は間違っていますー!!』ってな」

 

「それからは」

 

「そうだ。任官してからは何度も助けられた。あいつがいなきゃ、今ごろ墓の下だっただろうな」

 

 オスカルは、懐かしいものを語る寂しい瞳をしていた。

 

「その方は、今……?」

 

「ふ、察しの通りさ」

 

 緋天と呼ばれた男の勇名は、国が揺れはじめた都市連合との大戦によるものだ。オスカルが都市連合に急襲された駐屯地を奪回するために、鬼気迫る迫力で日夜少数部隊によるゲリラ戦を繰りかえしたのちに、敵軍主攻となる将軍を単独で撃破したことはあまりに有名だ。

 

 しかし、それには前日譚があった。貴族のお坊ちゃん、軍行動がつまらぬと、川で情婦たちと遊ぶために、魔物狩りに周囲の軍勢を利用したのである。オスカルはその任のため、己が信頼する副官を前線駐屯地へ置いてきたが、遠征の隙を突かれ、部下たちを失ったのであった。つまり、彼の大戦の英雄という称号は、己が片腕を失った苦い記憶なのである。

 

「申し訳ありません」

 

「いいさ、もう八年になる。嘆き続けるには、長い時間だよ」

 

 彼の顔には悲しみは残っていなかった。だが、何も感じていないようには思えなかった。燻り続けるなにかが、奥底にあるようにアンヘルは感じていた。

 

「だから、特科廃止を……」

 

「常々、軍は政治から切り離されるべきだと、そう考えていた。教官の任を受けたとき、天啓だと思ったよ」

 

 オスカルの目が、燃えている。

 

「俺には軍の体制を変えることはできない。だが、内部から意識を変えることはできる。差別を廃し、縁故主義を阻止して、貴族の専横を止める。今の主席教官の地位では力及ばぬが、いずれ学長の地位につく」

 

「……」

 

「必ず実現してみせる。仲間を失わない世界を、俺は……」

 

 最後は、アンヘルに向けてではなく、自分に、そして世界に向けて放たれていた。拳を握り、高く掲げている。

 

 理想家、若き改革者。

 熱が、ただ話しているだけにもかかわらず、伝わってくる。

 

 これぞ男だ、と思った。彼を信奉する士官候補生は多いが――代表例としてはエルンストたち――実際に彼ほど覚悟を決めている人物はいないだろう。国を憂う志士は、道半ばで息絶え、溝や堀に打ち捨てられることを常に想像し、自分の首が撥ねられる覚悟をしていなければならない。そういう人物でなければ、大事はなせない、と古来から言われている。彼には、他人の語る危険やそこらが見えない。いや、見えるのかもしれないが、彼にとっては細事にすぎないのだろう。徹頭徹尾、苦い現実から描き出された夢が、深い深い苦悩によって磨かれ、鮮烈に煌めいていた。

 

 アンヘルは強烈すぎる彼の世界に、言葉を失っていた。時代を変えうる寵児に相対してるのかもしれない。そう思いながらも、反駁が口をついた。

 

「ですが、それは軍が国の支配から離れ、独自行動の余地を与えかねないと思います」

 

 その反駁は、エルンストに従い起きた苦い記憶が吐かせたものだった。否定する材料はなに一つなかったが、理想に対して期待を抱くような過去を持ちあわせていなかった。

 

「その可能性は確かにある」

 

 オスカルは青い反論に微笑んだ。

 

「だが、今を解決しなければ、何事も先には進まないさ」

 

 それを最後に、講義は終わりと、オスカルは路の先へ消えていった。

 終ぞ、賛同して欲しいとは、いわなかった。彼の寂しげな、しかし燃えるような双眸が、彼の心情をあらわしていた。

 

 ――あの一件がなかったら、賛同していたんだろうな。

 

 アンヘルは心中で苦笑いを漏らしていた。立派だな、とは思う。けれども、行動を共にはしないだろうな、と己が性格を鑑みて、結論づけた。ただ、彼の信じる未来が、実現すればいいな、とそう願った。

 

 ふと生暖かい風を受ける。それがどうしようもなく、不穏だった。色んな情報が取り巻いている。どこか、街並みが歪んでいた。

 

 

 

 §

 

 

 

 幾千万の紙吹雪が、建物の歩廊や縁側から通りを練り歩く群衆へと降り注ぐ。建物と建物の間には、細い紐が張られ、吊られた魔導灯内蔵型の提灯が絢爛と咲き誇っていた。

 

 行進する楽隊の軽快な音色が、聴衆たちの高揚や発揚の気勢と重なり、重奏のような喧騒を生んでいる。

 

 うかがえる露頭には、大道芸人、踊り子、職人や露天商人などが、乱雑に折り重なっている。年齢も性別も人種も容姿も、多種多様な人々がまるで洪水の波濤のようになって、空前の大混雑を作り出していた。

 

「オスゼリアス夏聖祭。訪れたのは二度目だが、豪勢なものだね」

 

 炎暑の喧騒を、ドミティアス大神祇官は、名所となっている橋の欄干に身体を預けて、幼子のように眺める。

 

「すまないね。君も街へと繰り出したかったろうに」

 

 呑気に謝意を告げる大神祇官に対し、アンヘルは所在なさげに否定した。周囲では、護衛七人が不自然にならぬ程度の間隔で円陣を組んでおり、その中には欠伸を漏らすクナルの姿もあった。

 

 あの会談から数日後。

 

 相変わらず向上の余地が見えない第二回迷宮探索から帰還したそのとき、アンヘルはドミティオスたちから呼びだされていた。とはいえ、宝剣警護のためではなく、大神祇官本人を護衛するためである。クナルとふたり、お偉いさんの護衛役――というよりは観光案内役――を任されていた。

 

「よろしかったのでありますか。賓席から祭りを楽しむことも……」

 

「無粋だね。祭事は現地がもっともおもしろいのさ」

 

 護送犯みたいな観光がいいと思うかね、と尋ね返されれば、アンヘルとしては黙るしかない。そもそも、護衛たちが強固に厳重警戒下での観光を主張したにもかかわらず、鶴の一声でひっくり返されたから、現在の状況へと陥っているのだ。

 

 きりきりと胃が痛んだ。望んだ状況とはいえ、あの大神祇官の護衛など、平常心で望めるはずもない。該博な学士に似た気さくさを持つとはいえ、絶大な権力を持つ有力者との会話は、血で血を洗う激闘に匹敵する緊張感を伴わせた。無言の催促を受け、アンヘルは講師業の雑談用に仕入れた夏聖祭の観光案内を再開した。

 

「帝都の誕生祭、ミスラス総本山で行われる聖夜祭にはおよびませんが、帝国屈指の祭りであることは間違いありません。

 堅牢な要塞であり、あらゆる外敵を食い止める前線基地の役割であったオスゼリアス民が、エトリアル打倒を掲げて戦歌を歌った、そんな故事があります。この街に劇場が溢れているのは、歌信仰が強いからだ、と言われていますね」

 

 大神祇官は、響いてくる群衆の歌声に耳を澄ます。盛大に流れるその音楽は『戦乙女の依り代』。戦女神ヴァルキリーが巫女に憑依し、祖国の敵を討ち払わんとする軍歌である。

 

 ああ、とアンヘルは記憶を辿った。それは、マカレナが昔好んだ詩の一つである。一年半も過ぎたというのに、ふとした瞬間、美しい思い出が蘇り、心を蝕んでいた。

 

「『私は神の使徒となりて 祖国の敵を討ち払わん』――か。

 この一節。軍歌にしては愁嘆に過ぎるというか、曲調の軽快さに比べて悲愴さに溢れ過ぎている、と思うね」

 

 都市全体で好まれる名曲だというのに、ドミティオスは皮肉げに笑っていた。

 

「ポップな曲調ゆえ戦意高揚の軍歌とされますが、歴史的には悲劇の歌だそうです」

 

 エトリアルの侵攻から国を救った依代の巫女ヴェスパーは、ミスラス教を信仰するただの信徒であったが、突如して神託を受けた彼女は、私事を捨て祖国に殉じた。戦乙女の使徒と化した彼女が、幼馴染への悲哀を唄ったものだと、歴史書には書かれている。

 この知識はマカレナの受け売りである。彼女は、数ある詩や歌劇の中でも、これをとくに好んでいた。アンヘルもいまでこそ理解できるが、彼女がこの詩を好んでいたのは、自身の政略結婚という境遇を重ねあわせていたからであった。

 

「芸術にも造詣が深いんだね」

 

 軍人は実利主義となりやすく、貴族含めて芸術に興味を持たないことが多い。アンヘルやルトリシア――彼女の場合は、家の見栄のための芸術家支援という面が比較的強い――のような絵画趣味を持つ人間は少数派だ。

 

「私は、例外的な人間だと思います」

 

「そうだろうね。私と似たところを感じないでもないな」

 

 その自嘲に、アンヘルは人工的な愛想笑いを浮かべるに留めた。こういう、キツイ話題を振られるのが、上位者との会話で難しい点だろう。無関係を決め込んでいるクナルの横顔が、さらに表情を固着化させた。

 

「楽しんでいるかい」

 

「いえ、お構いなく。私は銅像だと思っていただければ」

 

「だが、そもそも君もはじめてだろう?」

 

 一回生は基本的に泊りがけで集団行動を叩きこまれる。休校になるのは、二回生以上だけであり、アンヘルは去年の夏聖祭に参加していない。

 

「元々、人混みは苦手なたちでありまして」

 

「それは損だね」

 

 ドミティオスはその瞳を空へ向けた。

 

「立場が変われば、楽しめなくなる」

 

「猊下も、でありますか?」

 

「ふふ。誰しも、若い頃の自由を懐古するものさ」

 

 力には、責任が付き纏う。皆大成を求め、日々努力を重ねるが、さりとて、其れを得たとき、必ずしも過去を回顧しないとは限らない。そのあり方は社会人に似ている。学生の時は、金がないことを嘆くが、実際に社会人となると、どれほど学生時代の自由が素晴らしいものか気付くのだ。

 

 会話を重ねる中で、まったくもって貴族らしさが窺えない態度に、アンヘルは調子を崩していた。ルトリシアもミチェル会長も、立場に合った態度であったが、大神祇官にはそれがまるでない。一応敬っているが、穏やかなその話し方に対して、空回りしているのでは、という猜疑心が湧くのを抑えきることはできなかった。

 

 気疲れからか、アンヘルは隠れながら息をついた。

 

 道ゆく女性たちが、クナルの並外れた容姿に対して惚けた表情をしている。囮としては十分な役割を果たしているのだろうか、と護衛たちは怪訝な顔をしていた。

 

「どうして、士官学校側へ協力を求めたのでありますか?」

 

 アンヘルは相手の空気に当てられて、率直に尋ねた。

 

 皇帝派にとって、この地は難しい場所だが、さりとて、未熟な候補生たちを頼りにしなければならないほど大神祇官の力は弱くない。ミスラス教の僧兵は自由にできるうえ、総督との仲を考えれば、融通はきいて然るべきだ。

 

「本当に、必要なのですか?」

 

「さあ、きまぐれと言ったら怒るかな?」

 

 欄干に背をつけて、肘を乗せた格好でドミティオスはいった。

 

「ま、確かに君たちを呼ぶ必要などなかった」

 

 アンヘルはその言葉に驚かず、ジッと続く言葉をまった。

 

「私も皇帝派で力を振るう側の人間だからね。やりようはあったさ。白状するとね、この士官学校を見たかったのさ。非常事態に託けての見学だよ。私も、単なる遊び好きの中年、ではいられないからねぇ」

 

 元老院属州という名がつくだけあって、オスゼリアス士官学校卒業生は基本的に元老院派閥の意を受けた任地ばかりである。毎年行われる四、五回生による小隊交流会を除けば、皇帝派側が生の情報を手に入れる機会はなかなかない。そのような観点からの、士官候補生への協力依頼であった。

 

「君こそ、疑問には思わないのかい?」

 

「疑問、でありますか?」

 

「なぜ自分が呼ばれたのか、気にならないのかね?」

 

 遊びに興じる子供のような無邪気な瞳であった。そこには裏もなにも窺えない。

 

 ここから本題だと感じたアンヘルは、いったん喉を濡らして、緊張を飲みこんだ。

 

「何も語らない。たった一瞬の間ではありますが、及ばずながら考えた次第であります」

 

「へえ、どうしてだい」

 

「彼らを上回る意見など持ちえません。また、あの場で目立てば、強烈な妬みをかったでしょう」

 

 なんといっても、伍科なのだから。それは、心中に留めた。

 

 このような処世術は、もはや必須技術だ。意見を述べるときも、実力を試す時も、いかなる時であっても目立ってはならない。戦の天才であった韓信は、いかなる時も己が主君への恩義を思って裏切ることはなかったが、しかし、主君劉邦は猜疑心を抑えられず、彼を誅殺した。古来より、もっとも恐れるべきは、人間関係に付きまとう妬心なのである。

 

 同級からならともかく、上の級から恨みを買うことはアンヘルにとっても避けたい事柄だった。なにせ、横のつながりもその能力も、二回生とは一線を画している。学内派閥で下位のアンヘルに目立った行動は御法度なのである。

 

「けど、それだけじゃない。君が配慮したのは、それ以上にオスカル君へ対してだ。違うかい?」

 

 と、ドミティオスは見透かすように言った。

 

「君は恐らく、元々オスカル君に対し、賛同はしていないんだろう。いや、違うな。否定はしないが、この私の前で反貴族的主張をするべきではない、と考えている。違うかい?」

 

「……その通りであります」

 

 渋々、頷いた。詰られる可能性もあったが、ひしひしと感じる現実主義者かつ享楽的な態度を鑑み、アンヘルは本音を告げるに至った。

 

 あの場で分からないと言ったのは、計算の上であった。穏便に場を切り抜け、そして爪痕を残す。一種の賭けだが、こうしてそれに成功し、大神祇官という宗政の頂点に限りなく近い男と一対一への面会を実現していた。

 

 正解だよ、とドミティオスは拍手をした。しかし満点回答を叩き出した生徒を見るにしては寂しげに、僧侶は川を見た。

 

「君は、利口だな。正しいが、君の過去を思えば悲劇的ですらある」

 

 突き刺さるような言葉に、アンエルは黙った。

 

 欄干に頬杖をつきながら川を眺めるドミティオスは、その痛みに気づかなかった。両者を、すうっと、群衆の熱気とは異なる一陣の風が吹いた。

 

 その時、突き抜ける碧空に、花火が打ち上がった。

 

 轟音と共に、炎が空へと舞い上がり、下降し、さらに上昇する。そして、空中で強烈に炸裂し、雄大な花を天へ咲かせた。

 

「いつも摩訶不思議な気分にさせられるよ。あれも魔導具の産物なんだろう? いや、吊るされた魔導灯にもさ。ありふれた品なんだろうが、私にはさっぱり検討つかない」

 

 大神祇官は、御伽噺の産物でも見るように眺めていた。それに対する回答を魔道具講義の教本の一文から引っ張りだした。

 

「花火、に関しては存じ上げないのですが、魔導灯は至極単純な構造です。魔力貯蔵機関に蓄えられた魔力が、微粒子となってフィラメントを通過、その抵抗による摩擦熱によって灯しています。これはストーブと同じ、原理です」

 

「いやはや、今時の候補生は物知りだね」

 

「必修課程ですので……」

 

 因みに、アンヘルの魔導具工学は学年最低点近辺である。エルサやユーリなどと比べれば雲泥の差だ。

 

「この世は、まさに魔法時代だな。私には、君の言う原理は分からない。だけならいいが、それを操る術すら持たない。愉快な話だよ」

 

 ドミティオス大神祇官。彼が有名となった理由は、その権力ではなく能力にある。

 

 魔盲と呼ばれる、ごく少数の生まれながらにして魔力拒絶症にかかった人間たち。青き血に連なる魔法を使えず、武芸者の技である強化術も使えない。生命の源であり、第二の血液、人なら誰しもが無意識ながら生命維持に使っている神秘の力を、神から授けられずに生を受けた者たち。

 

 病に弱く、身体は儚く、傷で容易く死に至る。そんな存在が、魔法至上主義の貴族社会で生き抜いているというのは、驚愕そのものの事実である。だからこそ、「市民の代弁者」と呼ばれ、平民出身の軍人にも信奉されていた。

 

「私には、魔法が奇跡にしか思えない。御伽話のように杖の一振りで国を救って欲しいものさ」

 

 そう語る声には苦悩の色がなかった。もう、魔法が使えないことには、割りきっているようだった。彼の魔法に対する口ぶりは、夢を語る幼子のような憧れすら垣間見えた。

 

「貴族の大魔法。超常の龍理使いたち。私から見れば、候補生も超人そのものだ」

 

 視線の先では、大道芸人が手品を使って人間消失マジックを行っていた。箱に入った男が移動する、ありふれた手品である。たわいない芸に対して観衆が歓声をあげる。

 

「ですが、魔法は万能たり得ません。たとえば、工業分野で必須の鉄を錬成しようとすれば貴族が必須でありますし、しかもその生成量は極小に過ぎます。魔法が万能性を有さないことは明白です。むろん、魔法や魔道具による人類の発展の功績を否定するつもりはありませんが、現状を鑑みれば、所詮人殺しの兵器にしか過ぎない、そう思います」

 

 アンヘルはそこまで言いきってから、深い後悔の念に囚われた。大神祇官の気さくな物腰は、人に建前以上の物事を語らせる能力がある。こういうのを、徳、というのだろう。つい、魔法・強化術信奉精神旺盛な軍内を批判してしまった。

 

「君の話は夢がほとほと欠けているな。普通、若い候補生は夢を語るものだと思うが?」

 

 口調に反して呆れはまったくない。その思考を覗きたいのか、爛々と瞳を輝かせていた。「私、気になりますっ」とはこのことだ。

 

 苦い顔の若者を見た壮年の僧侶は、思い出したように、

 

「そういえば、まだ聞いていなかったな」

 

 といった。言っているのは、前回の軍の改善点のことである。

 

「前の質問。本音で頼むよ」

 

「それは……」

 

 問われて、アンヘルは一瞬息を飲んだ。彼の持つ意見は完全に異端で、現代社会を生きた故の唐突さがあった。だが、それらしい欺瞞で嘯くことも不可能だった。生まれつき嘘が下手な彼は、政治の世界で生き抜いた相手に嘘を突き通せるなどと驕っていない。

 

 もう、どうにでもなってしまえ。そんなやっけっぱちな感情がなかったとはいえない。元来、深く思案するよりかは、どこか投げやりな感性を持つのが彼の特徴である。

 

 茹だるような喧騒の中、青年は覚悟を決め、深く息を吸いこんだ。

 

「軍、そこで魔法は切って離せない問題です。妨害魔道具の登場により、相対的に優位は下がっていますが、未だ戦争を決定する要因であります。

 オスカル教官は軍が政治や身分から干渉されていることを問題としていますが、真の問題とは、軍、そして国が魔法という力から切っては切れない存在であり、またその力が個人や血筋のみに由来する能力である、という点です」

 

 そこまで語って、アンヘルは顔色を伺った。魔法とは神が授けた恩寵であり、それを高い領域で行使する貴族は自らを使徒と自称する人間も少なくない。反貴族を掲げることは、危険ではあっても突飛ではない。しかし、反魔法主義は異端も異端であった。

 

 これには、周囲の護衛たちがぴくりと反応を見せたが、主人の会話に割り込んでくるほど愚かでもなかった。大神祇官の顔色に変化はなかった。

 

「特別な力は選民思想を生みます。魔法が切っても切れぬ存在なのならば、差別や身分制に基づく不平等も同様です。バアル教団のような邪教が謳う魔法排斥行為に賛同示すなど、国家安定のための魔法が本末転倒な結果になりつつあります。魔法が権力を生み、強化術が上下関係を植え付ける。軍の問題とは、つまり、魔法という力に頼らざるをえない点にあります」

 

「まさに、呪いだな」

 

 ドミティオスは深く笑った。

 

「だが、候補生の君が、よりによってそれを否定するのかね」

 

 そこではじめて冷たい目を向けてきた。アンヘルは逡巡しながらも返答した。

 

「私は、魔法に連なる技術を絶対に拒否できません。人類は、自然やモンスターたちとの戦いにおいて、その力なしには生存競争を勝ち得ません。

 ですが、それに胡座をかいていては、確実に衰退の道を歩むでしょう。西では民族蜂起の機運が高まっていると聞きますし、オスカル教官の例もあります。おそらく、私の知らない不満の種は大量に転がっているのでしょう」

 

 これは嘘ではなく、実際に、帝国南方の穀物庫と呼ばれる五大貴族リエガー家領ではスパルタスを核とした奴隷解放運動が巻き起こっているし、西方の旧シラクス領では、独立運動が盛んになっていた。

 

「しかし、何を変えるべきか、と問われましたが、私は、何も変えることはできないと思います。魔法は、生きていくために必要不可欠なものなのです。魔法を超える力がないかぎり、それらの論議はすべて夢想にすぎません」

 

「だが、それでは何も変わらない。まさに欺瞞だ」

 

「ですが、それが現実でもあります」

 

 アンヘルには語る夢などない。美しい夢など見れる若さを置いてきてしまった。失った過去が、夢の儚さを告げている。信じるものは、ただひたすらに己の力のみだ。それ以外は、信じられない。特別な理想や思想など、なんの役にも立たない、と思っていた。

 

 視線が厳しくなる。だが、ここまで言いきった以上アンヘルに釈明の余地はなかった。

 

「きみは、すべてを信じられないのか?」

 

 悲しそうにいった。ドミティオスはつづける。

 

「夢や理想を、まるで拒絶しているかのようだ」

 

「私は、ただ……」

 

 そこで、喘ぐようにして言葉を切る。

 

「私は、ただ夢を語る人物に難癖をつけているだけです」

 

 そこで、語る言葉を喪失した。両者は、そこで長い時間沈黙した。

 

 街は変わらずに喧騒の時間を続けていたが、閑寂とした空気が両者の間には漂っていた。大神祇官がふと、露天の焼き串屋を指差して、護衛を走らせる。

 

「君もいるかい?」

 

 と誘われたが、アンヘルは首を振って断った。焼き串を頬張りながら、ドミティオスは寂しそうに言った。

 

「悲しいな。自分の居場所は此処ではないと、私には聞こえたよ」

 

 強烈な弾劾に心臓でも貫かれたような気分になって、アンヘルは息を飲んだ。突き刺さる刃を、大神祇官は重ねていく。その表情は心底憐んでいた。

 

「君の経歴に珍しさはあっても、特別さは感じなかった。だが、その思考はペシミストそのものだ。けれど、心の底では美しい夢を信じている。君のような若者が、そんな結論に至ってしまう人生を、私は見ていられないな」

 

 哀愁漂う声に、心底憐れむ優しい瞳を受けて、アンヘルは返す言葉を見つけられなかった。

 

 大神祇官の視線が横にそれる。焼き串を頬張りながら、父親に肩車されている少女をその瞳に捉えていた。

 

「この国は末期で、衰退の道を歩んでいるといって間違いない。蠢く諸国、割れる国家、暗躍する組織、分断される民衆たち。

 そして、君のいうとおり、抜本的な改革などありはしない。私の行く道は、君と同じ次善策の繰り返しだ。すぐに、とは言わぬが、君の教官の意見を捻り潰す可能性は低くないだろう。罵ってくれて構わない。結局、私も支配する側の人間なのだから。

 だが、あの子供たちが幸せに送れる光景があるかぎり、私は帝国を支えるよ。そして微力ながら、策を捻りだし、血を流し、研鑽と叡智を傾けよう」

 

 そう言い切った目は、まごうことなき真っ直ぐだった。

 

 アンヘルは意気に呑まれ、立ち尽くすだけだった。

 

「ま、魔法の使えぬ私が言っても仕方がないのかもしれないけどね」

 

 最後は酷く茶化したものだった。本音は、どこまであったのか、だれにもわからない。しかし、今まで聞いたどの人物よりもアンヘルの心に響いたのは事実だった。

 

 はい、とも、いいえとも言わぬ相手に対して、ドミティオスは笑っただけだった。その姿が、どうにも煌びやかな希望のようにアンヘルは感じはじめていた。

 

 和やかな空気が支配する。欄干にもたれかかっていたドミティオスは、閃いたように手を叩いた。

 

「さて、折角こうやって語り会えたんだし、君は中々おもしろい。恐らくだが、伍科ということで、貴族と知り合う機会も少ないだろう。そうだね…………今から課題を出そう。それを護衛終了までの期間に答えられれば、君を引き上げてもいい、と思うんだけど。そうだね、神聖七騎士の従士はどうだい?」

 

 軽く告げたが、神聖七騎士の従士とはそんな軽い地位ではない。皇帝直属の帝国最強騎士七名の従士である。近接戦闘能力を磨かないはず貴族階級を集め、その能力を遺憾なく育んだ正真正銘怪物集団である。士官学校候補生の身から、その従士にたどり着いた人物はいないほどの地位だ。

 

 護衛たちの咎める視線の最中、頭を捻る碩学の男。やはりいつもこんな風ならしかった。

 

「なにが得意だい?」

 

「……史学ですかね」

 

「それで問題を出すのは難しいなぁ」

 

 ドミティオスは右上に視線を移した。

 

「数学はどうだい?」

 

「……苦手ではない、と思います」

 

 他の科目に比べたら、という言葉は外した。一般候補生からみたら、数学も十二分に苦手科目であった。

 

「実はね、数学には自信があるんだよ。なんていったって、二十五になるまでは学術院の教授を目指していたからね」

 

 ドミティオス大神祇官は、魔盲という瑕疵もあってか元々家の主流にはない人物で、その後、召喚師の能力を持った英雄である兄の暗殺を受けて突如政界へと引っ張りだされた。そんな特殊な経歴もあってか、かなりの学研肌なのである。

 

「じゃあ、ううんと、そうだねぇ。最近の話題……となると」

 

 大神祇官の視線が右上へと移動する。先には、曇りない空が広がっていた。

 

「夏聖祭、十七魔剣、猊下の来訪……あたりでしょうか?」

 

「そうだね。私の話題を問題にするのはあれだし、夏聖祭は君のほうが詳しそうだからねえ…………十七! よし、十七魔剣から取ろうじゃないか」

 

 大神祇官は、閃いた学者のように顔を綻ばせ、そして右上に視線を流した。

 

 

「じゃあ、問題を出すよ。

 

 ある牧場主の男が病に伏せっていました。

 牧場主には17匹の馬がおり、それを息子たちに譲るという遺言状をしたためました。

 1/2を長男に。

 1/3を次男に。

 1/9を三男に。

 それから間も無く、父親は亡くなりました。さあ、と子供たちは馬を分けますが、17匹では上手く分けることができません。

 そんなとき、困った三人に、老人がある手助けをしました。

 それはなんでしょうか?

 ただし、老人は損も得もしてはいけません。

 

 どうかな? まあ、焦らなくてもいいから、ゆっくり考えて欲しい」

 

 

 そういいながら、茶目っ気多く歯を見せた。観光は終わりということなのだろう。アンヘルたちは護衛したまま宿泊している官邸まで供をさせられ、そこで今日を終えた。

 

 

 




最後の問題、ネタばれは禁止でお願いします。今の人気だと、そんな心配要らないかなぁ(泣)とは思うのですが。


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第十二話:探索も佳境となりて

「はぁ? まだ、そんなところウロウロしているのか?」

 

「まあ、そうなんだけどね」

 

「もう演習が始まってから十日だぞ」

 

 呆れたようなベップの口振りに反論する余地なく、アンヘルは肩を落とす。輝く銀河の光が降り注ぐ星月夜だというのに、ジリジリ茹だる熱が、湿気を伴って狭い寮部屋に充満していた。

 

 今は夏聖祭最終日の夜である。三日間あった祭りは盛大に幕を下した。その名残を残したベップは酒を浴びるように飲んでいたが、大して酔った風ではない。その颯爽とした金髪らしく、蟒蛇であった。

 

 そんな声を聞きながら、二段ベッドの下で天井を見ているアンヘルは、上の住人に対して反論した。

 

「あんまり、班の連携が上手くいっていないというか」

 

「ま、そっちも大変なんだろうがな。でも焦ったほうがいいんじゃねえの?」

 

「でも、十日近く余裕は残っているし……」

 

 クナル班の異常早期踏破の影響で、今年度のクリア最終ラインは二十日目の迷宮ボス復活までである。迷宮内の解明されていない内情を鑑みると、早目にクリアしたほうがいいのは誰もがわかっていた。

 

 ベップは半笑いになりながら、顔だけをずいっとベッドから出して下を覗きこんだ。

 

「まだ中間のゴーレム二体すら倒していないんだろ」

 

「ええっと、もうちょいだね」

 

「一応いっとくが、終盤のほうがキツイぜ」

 

「分かっているけど、ね」

 

「おいおい、弱気だな」

 

(焦りの元凶はそもそも君らの異常な踏破にあるんだけど……)

 

 が、そんな愚痴をボヤいても、徒爾に終わることは明白である。なにより徒に甘えることは気恥ずかしかった。ちっちゃなプライドがある彼らしい態度である。結局、ぼりぼりと頭を掻きながら、話題を変えることになった。

 

「聞きたいんだけど今何してるの? 訓練とか?」

 

 ただ、アンヘル自身も言ってみてもなんだが、そのあり得なさに語尾が小さくなった。上段のベッドから笑い声が漏れてくる。

 

「ないない、あの班長どのが俺たちに期待していると思うか?」

 

「やっぱり?」

 

「俺たちゃ数合わせよ」

 

 探索演習も佳境となり、連携や作戦を研磨する小隊は多い。魔導銃・弩と剣の連携に、拳闘などインファイト戦術、大物を使った大火力や召喚術や魔法を使った個人技能。多種多様な得意技に磨きをかけ、候補生全員が『試練の塔』を駆け登っている真っ最中であった。が、それをたった一人の力だけで踏破してしまったクナル班には、連携訓練など必要ない。日頃、ベップが暇そうに校内を練りあるいており、他の班員たちも自由に訓練している様子だ。

 

 余裕さが羨ましくなり、アンヘルはゴロンと寝返りを打った。二段ベッドを見ていると、その圧迫感もあってか蹴りたくなる衝動に駆られるのである。

 

 すると、ヒョイとベップが二段ベッドの上から飛びおりた。月光に照らされた金髪が、きらきらと輝いていた。

 

「そっちこそ日頃何しているんだ」

 

「……訓練とかだよ」

 

「大変そうだな。そっちは確かソニアがいるだろ?」

 

 ベップは彼女のことを知っているのか、やれやれと首を竦めた。

 

 この男は交友関係が広く、機知に富んでいる。このような人の機敏を察せられる能力が彼の抜け目なさを支えているのだな、とアンヘルは実感した。

 

 もう一つある寝台には、アルバの小さな身体が毛布に包まれていた。顔まですっぽりと覆われている。スウスウと呼吸に合わせて、毛布が上下に揺れていた。

 

「アルバはどうしてるの?」

 

「しらねぇ。いつもみたいに一人で訓練してんじゃねえの?」

 

 雑な返しだが、致し方なかった。班長が何も言わぬ以上、集合する義務はないのだ。プライベートに干渉するほうが野暮というものだろう。

 

 ふと、窓の外の月が窺えた。その方角にはアリベールの住む邸宅がある。今月は護衛や演習によって金が入らないので、借金が返せず、機嫌は悪くなる一方であった。

 

 窓の外を眺めていたベップがふと、こんなことを呟いた。

 

「そういえば聞いたか? 夏聖祭の騒ぎに乗じて、街で物騒な事件が多発しているって」

 

「知らないけど、どんな事件?」

 

 それ以上に物騒な事件であるドミティオス大神祇官の話については、街中でもまったく広まっていない。アンヘルもいうつもりはなかった。

 

「なんでも、吸血鬼が出るって話さ。真夜中、黒い外套を靡かせながら、白い牙が月光に照らされるいる、らしいぜ」

 

「なにそれ? 流石に妄想激しすぎない」

 

「けど、結構な目撃者や被害者もいるらしいぜ」

 

「ふうん」

 

「興味なさそうだな。夜中に剣を振り回す吸血鬼だぞ?」

 

「ええっと、剣を振り回すの? それなら只の辻斬りなんじゃ」

 

「まあ、血を吸うわけじゃないらしいが、それでも格好は吸血鬼なんだろ。しかもそれだけじゃねえぜ。幼い少女を攫うらしい。最近は十八魔剣についての都市伝説もすげえ流行ってるし。ひいい、怖いねぇ」

 

 ベップは心底愉快という様子で、歯を見せて脅して見せた。血を吸う怪物。神話の世界の魔物を茶化す彼は、あまり熱心なミスラス教徒ではなかった。

 

(吸血鬼ってのは眉唾だけど、でも夜に出歩くのは注意しよう)

 

 七八小隊には素晴らしく情報収集能力に優れた新聞社の息子、エセキエルが存在する。このような本物の社会情報などは、魔剣などの都市伝説と違って彼の本職だろう。親の仕事道具をぺらぺら喋るかどうかは、かなり微妙ではあるのだが。

 

 明日からも、また探索演習が始まる。アンヘルは無理を言って、宝剣の護衛任務から外してもらい、数日間探索演習に集中できるよう日程を変更してもらったところだった。ここから数日が勝負だと、気合を入れたが、釘を刺すような言葉が放たれた。

 

「そんなに焦んなよ。半数近くが踏破しているとしても、な」

 

「――は、はんすうが踏破?」

 

「知らないのか? これからは間引きの頻度も下がるから、難易度は上昇するだろうな」

 

 アンヘルは完全に硬直した。約十日で半数が踏破。流石は奇跡の年と呼ばれる第二一三回生である。クナル班には及ばずとも、その能力はずば抜けていた。が、それに含まれぬ者にとっては疫病神そのものである。夜風の暑さが、世界の厳しさを物語っていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 夏聖祭の間は士官学校も閑寂としていた。オスゼリアス最大の祭りとあっては、士官学校側も休校せざるをえない。無論のこと、候補生であるユーリも例外ではなかった。

 

 沿道では市民が熱狂し、紙吹雪を撒き散らした残滓が残っている。鳩が舞い、歌が盛大に奏でられた形跡は見渡せなかった。祭りの翌日とあって、どこか浮かれ気分の候補生たちが校舎を闊歩している。ユーリはその様子を観察しながら、会議室に向かっていた。

 

 ――みんな、この話を聞いたらびっくりするぞッ。

 

 もう迷宮探索演習を終え、次の遠征演習に向けて訓練を重ねている同輩たちを尻目に、ユーリは浮かれた気分を隠せないでいた。その足取りは軽い。かっぽかっぽと、ホップスッテプの要領でその長い石造の廊下を進んでいた。

 その錆びたドアの取っ手をひねった。狭い室内には、七八小隊の面々が意見を戦わせていた。その光景は、過去と一味違っていた。

 

「だから、あと数日で第二十層の木偶人形を撃破して、一度帰還します。これは、班長の権限で決定しますッ!」

 

「もう時間はないのよっ。一度力を溜めて、一気に最終層まで攻略してしまうの。それしか方法はないわッ!」

 

「そうやではんちょ~。ちょっとウチらも急がんと」

 

 あれ以来、変化したのはエルサだけではなかった。ソニアの意見に、ユウマが援護をする。彼女たちには、あの決闘騒ぎを通じてなにか新たなものを得たのは確かだった。対照的に孤立していったのはエセキエルだった。彼のソニア憎しの感情は消える気配がない。勿論、実害を及ぼす悪行に身を染めたりはしないが、その敵意が悪い方向に働き、発言力は明らかに低下していた。

 相変わらず、アンヘルだけが部屋の隅で佇んでいる。それだけが変化しない点だと思ったユーリは、手伝わない彼を叱ればいいのか、安心すればいいか、よくわからなくなった。

 

 ユーリは部屋の片隅で一人ボケッと立っている彼に近寄ると、進捗状況を尋ねた。曰く、迷宮探索の日程が決まらず、こうやって意見を戦わせていたらしい。

 

「でも、ボクたちも急がないとね」

 

「そうですね。これから、どうするべきですかね」

 

 アンヘルらしく、凡庸な内容のない意見だった。

 

 この波風立てない事勿れ主義はいつからだったろうか。演習が開始した当初、彼も多少なりともやる気を見せていたはずだったのに、と記憶を辿った。

 

(そうだ、決闘騒ぎの後からだ。姿を消すようになったのは)

 

 倦怠感の滲んだ微笑み。くたびれた声。最近になって伺えなくなったものの、堪えきれない苛立ちのような何かが燻っているのを、ユーリはほんの少しだが感じていた。

 それが何なのか、尋ねる勇気がなかった。彼らの関係はけっして不仲ではなかったが、悩みを打ち明けるほど踏み込んだ関係でもなかった。互いのことを何も知らない。好みも、家族関係も友人構成も、なにもかも。

 

 唯一分かっているのは、実力を隠している、それだけであった。

 

 何度かアンヘル抜きで班内訓練が行われた。当然、ユーリ(ついでにエルサ)は、ほとんどの訓練で勝ち星を拾うことはできなかったが、彼ならいい勝負ができるのでは、と感じる場面はいくつかあった。

 

 ユーリの剣術は金剛流を学んだリチェグ師範に教えを受けており、師範の得意だった相手の呼吸を読むことに特化した流儀である。中でも、相手の実力を読むのは、最重要とされていた。実力不足によって、班員の能力を完全に把握できなかろうとも、アンヘルが実力を隠していることはわかっていた。

 

 実力を隠していることに対して苛立ちを覚えないか、と問われれば、ユーリ側にも多少の蟠りがある。当然だ。チームの能力が成績に直結するのだから。しかし、それを恨むほどではなかった。

 実力を隠す候補生は珍しくない。事実、連携訓練をサボる生徒や、そもそもの剣術は自分の道場だけで学ぶなど、クナルのような個人主義の候補生はかなり多い。

 

(参科のベップっていったかな? あれは、強かった)

 

 技を見せびらかす風潮がないのも事実だが、それよりも重要なのは、学校内の蔓延する低学力蔑視傾向である。元々学力が優れるものは、大抵の場合出自も優れているものである。だからこそ能力ある生徒は実力を隠す。己を引き立ててくれる上科の班長や特科の生徒に出会うその日まで。差別の中で、己の能力をひけらかして悪目立ちをした末に、失意のまま学園を去っていく愚か者にならぬため。

 

 それにユーリは信頼もしていた。危険が迫れば戦ってくれるだろう、と。野心家だが、仲間を見捨てられるほど冷血漢ではないと、日頃の態度からなんとなく察していた。

 

「わかった。ありがとう」

 

 ユーリは笑いかけた。

 

(けど、ボクはフォローしても小隊はどうなるかわからないよ)

 

 小隊内の疎外感はことの他強い。とくにアンヘルに対しての空気は部外者そのものである。ソニアやエセキエルは、もうすでに居ないものとして扱っていた。意外に難敵は最後にまで残るものである。

 

 そういえば、良い知らせを持ってきたんだよな、とユーリは思いだす。未だ結論の出ない会議に打ってでた。

 

「ねえ、皆ちょっと聞いてもらえる?」

 

 両手をバンと机に叩きつけて注目を集めたユーリは、己の提案を話し始めた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 闇の中で、びちゃびちゃと粘着質な音が響いていた。

 

 金色の髪の男は、上質な暖かい椅子に腰かけながら、椅子の顎を撫でまわしていた。

 

「中々耐えられるようになってきたな」

 

 男は無言のまま顎を撫でていた手を移動させ、背中にまたがる主人の重みに耐える椅子の白い膨らみに指を置いた。未だ大人の女性とはいえぬ年頃の肉付きである。成長途中なのか女性特有の豊かさはなかった。

 

 男はぎりぎりと手を絞った。椅子は甘さと痛みの混じりあった悲鳴を零した。それは、長らく主人の愛撫になれた反射的な動きで、背に乗る主人を揺らすことはなかった。椅子は健気に唇を噛んでいる。がらんどうの瞳で虚空を眺めていた。

 

 男は、騎士団の会談場所での会議をゆっくりと思い出していた。

 脳裏には、力を受け取った瞬間が未だくっきり残っていた。いままでの魔法を簡単に凌駕する能力を持ちながら、しかし、己の大事なものを犠牲にせねばならない。

 ごくりと、唾を嚥下した。力をこめた掌によって、肉がぎゅっと押しつぶされた。椅子は体中を這いまわる手にじっと唇を噛んでいたが、主人の変わりように、気分を損ねたと勘違いしたのか、媚びるような視線を送った。

 

「この子猫を、私は捧げなければならぬのか」

 

 その視線を受けた男は、優し気に椅子の髪を撫でた。椅子は目を閉じて、主人の行為に目を閉じて感じ入っていた。

 

 ほぼ同時、部屋の片隅に人影がたった。

 

 服は黒く張り付くような狩人服をまとっている。金髪の輝くような髪を靡かせ、神秘的な近寄りづらい美を持っているが、顔に嵌るぎらついた病的な目だけが冷たく輝いていた。

 

「……イドゥンさま、ですかな?」

 

「……」

 

 突如として現れた謎の女に、男は椅子から腰を浮かせた。

 

「何か御用ですかな?」

 

「……」

 

 女は興味なさげに椅子を見つめていた。酷く冷淡な眼である。年頃としては興味対象の少し上くらいであるのだが、まるで人間を下等生物としてい見ているような目が、男は酷く苦手であった。

 

(そもそもとして、女神の名前を騙るなど、イカれているとしか思えない)

 

 とはいっても、この女は男の主筋にあたる人物の配下である。これで実力が大した事なければ何とでもなるのだが、授けられた力を行使しても容易く負けるとあれば、従わざるを得ない。

 

 金髪の少女は後頭部で一つに括った髪を弄びながら、いった。

 

「人間。相手は馬車で郊外にゆきます。失敗できませんよ」

 

「分かっています」

 

 男は苛立たし気に近くの机の上にあった水を飲み干すと、それを叩きつけるようにして置いた。椅子が再び脚にすがりついてくる。反応するのも面倒だと、そのままにさせた。椅子は舌を鳴らして毛の一本一本まで舐めつくしていく。子猫がミルクを舐めるような音が間断なく続いた。

 

「問題ありません」

 

「ならばいいでしょう」

 

 女の歪んだ笑みが長く尾を引いて流れた。完全に陰と同化して、闇のように姿が掻き消える。男はあまりに不気味な女に呻くと、椅子の顔を踏んづけた。靴のままぐいぐいと可憐な顔を踏みつけにする。椅子は苦しそうにえづいた。

 

 長い行為に、椅子の呼吸が浅くなった。男は気を取り直して、

 

「すまないね。苦しかったろう」

 

 椅子は喘ぐようにして呼吸を整えた。その瞳は恐怖一色だった。

 

「そして、本当にすまない。私もこのようなことをしたくはないのだ」

 

 そうして、男は椅子の下側に思いっきり手を突きこんだ。手刀のような形である。

 椅子は己の肉体に貫入してきた異物に一瞬呼吸を止めた。窓から差し込む儚い光が椅子の悲し気な横顔にまっすぐ降りそそいだ。

 

 男は、ぐいぐい、ぐいぐい、とさらに奥へと入っていく。白い二股の間から、鮮やかな赤が流れていく。純白の雪に色でも塗りたくるように、彩っていった。

 

 美しい対比である。

 

「すまぬ。すまぬ。かならず仇は取って見せるぞ」

 

 男は涙を流しながら、謝罪を繰り返した。

 

 椅子はあぶくをぶくぶく口から漏らしながら、虚ろな眼で主人を見た。全身から力が抜ける。椅子は崩壊するようにして、地面へと倒れ落ちた。じくじくと脚部の間に染みができる。大きな池となった。

 

 男は最後に一際大きく突き入れると、肘まで貫入していた手をずにゅっと引き出した。手元にはぴんく色の肉が絡みついてた。

 それを近くにあった剣へと捧げる。手元の肉が消え去ると、まるで力がチャージされたかのようにして、魔剣は光を取り戻した。

 

 男の髪は銀色へと変わっていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「あなた、意味分かって言ってるの?」

 

「そやでそやでぇ。ウチはアホウやけども、それは無理やってわかるわぁ」

 

 提案は、立ち上がったソニアたちに否定された。エセキエルも沈黙を守っているが、腕を組みじっと睨んでいる。無言の圧力が拒否を示していた。

 

 うぐっと息が詰まりそうになるが、それでもユーリは一歩も引かず、意気高らかに語った。

 

「ボクも合同小隊が迷宮ボスを倒すために結成されることは知ってるよ。今まで探索のために合同班を組んだ小隊は存在しないことも」

 

 合同小隊は、迷宮ボスを倒すために結成されるものである。今年はクナル班(というかクナル単独)で撃破してしまったが、存在自体は珍しくない。

 

「でも、合同小隊について規定されているルールは存在しないんだ」

 

「たしかに、そやけどなぁ」

 

 ユウマが合いの手を入れると、ソニアが険しい顔で椅子に座った。

 

「過程点はどうするの? それに合同小隊を使って踏破なんて外聞も悪いわ」

 

 迷宮探索演習は事前に探索計画を提出して、挑むことになっている。内実は違おうが、率いるリーダーや計画担当が大きく評価されることは、過去のデータを洗った時点で確実となっていた。

 

「ボクらが、率いられる側だったとしたらね」

 

 ユーリは自信満々に笑みを深めながら、懐から一枚の紙を取り出した。

 

「これを見てほしいんだ。これは、ボクの同部屋の了承書なんだ。彼みたいに、無理な探索で仲間を負傷させてしまった班は少なくない。そんな班を集めて、適切に指揮、そして踏破へと導く。勿論小隊個々人の評価は低くなるけど、リーダーシップや機転に関してはかなり高く評価されると思う」

 

 ユーリの案は、負傷してしまい立ち行かなくなってしまった小隊や同じように低層でウロチョロしている弱小班を下に置いた合同班を作ることである。例年の合同班でも中核を成した班は高評価を得ることが多いことを利用した、新戦術であった。

 

「このまま突破したほうがいいのは分かってる。けど、失敗するくらいなら、裏技を使うべきだと思う」

 

 その意見に、全員黙りこんだ。このままでは踏破ができないと誰もがわかっていた。

 

「これしか、ないわなぁ」

 

「……そう、ね」

 

 渋々ながら、ユウマとソニアが頷いた。

 

「これでいいよね。エルサさん?」

 

「うう、はい」

 

 エルサは涙ぐんでいた。ユーリの近くに来るとその手を掴んで、何度もお辞儀をした。無理をしていた、ということなのだろう。班長業にはほとほと向いていない性格であるにもかかわらず、チームを纏めるハメになったのである。

 

 その仰々しい態度に、ソニアは毒気を抜かれていた。

 

「ソニアさん」

 

 彼女は威圧するように腕を組みながら背もたれに身体を預けた。鷹揚な姿勢だ。エルサも身体の前で指を絡めて彼の発する言葉に注意を払っていた。

 

「なに?」

 

「今回の合同小隊計画。あなたに任せても構いませんか。もちろん、エルサさんが承諾すればですが……」

 

 その言葉にソニアは面食らったのか瞠目していた。彼女自身も好き勝手やったことに自覚があったのか、ここで頼られるとは思いもよらなかったに違いない。

 

「私は、構いません。けど、どうして……」

 

 突然の提案に、班長のエルサはソニア以上に動揺していた。視線をユーリとソニアの間で行き来させる。席に座ったままだが、立ち上がって抗議の声を上げそうだった。

 

「ソニアさん。あなたが計画を担当するのが、もっとも効率がいいと思うからです。最初は対立してしまいましたが、総合力でいうなら、貴方がもっとも優れていると感じます」

 

 ユーリは色んな思考を重ねていった上で、最終的に導かれた結論を語った。ソニアは間違いなく優秀だ。実力も、頭脳も、その指導力も。強いて言えば、性急な所が欠点だが、それを他で補えばいいのである。

 

「ここで改めたいと思います。班長はエルサさんです。ですが、指揮には向いていない。なら、向いている人がやるべきです」

 

「それが、私だと?」

 

「そうです。あなたに、指揮を任せたいのです」

 

「つまり、私に班長を、ということかしら?」

 

「あくまで実行指揮です。行動指針はエルサさんが立てますが、実行するのはソニアさん。役割分担です」

 

 完結にいうと副隊長の任命である。冷静な隊長が指針を示し、優秀な副隊長が実行する。らしいといえばらしい、実に七八小隊に適した組織構造であった。

 

「ユーリさん?」

 

「ごめんなさいエルサさん。けど、ここでボクたちは変わらないと。そう思うんです」

 

 その言葉は、静かだったが、より克明に響き渡った。誰も反論を告げる余地はない。場を支配していたのは彼の言葉だった。

 

「ずっといがみ合ってきましたが、ボクたちは、同じ目的を持つ同士なんです。共に、演習達成を目指しましょう」

 

 ユーリは笑顔で言った。優しい言葉だったが、されど迫力があった。有無を言わせぬ、意思の強さが瞳の奥で輝いていた。

 

 ソニアは目をパチクリとさせていた。目を伏せ、決まり悪げにしたを向いている。ユウマも、今までの対立構造を作り出していた自分を悔いているのか、口を一直線に結んでいた。

 

「私にどうすればいいっていうのよ?」

 

 ソニアは小さく尋ねた。声は沈んでいた。

 

「班長と同じように全体の指揮をとってください。ただし、エルサさんの許可が必要。ただ、それだけです。エルサさんも構いませんね?」

 

「え、ええ。私は……その、ユーリさんがいうなら」

 

 エルサは頬を朱色に染めながら賛同した。班長が同意し、そして残りはソニアの同意のみである。意外にも、彼女は迷っていた。

 

「だめ、でしょうか?」

 

「……ひとつだけ、聞かせて。私が指揮を取るとなれば、評価されるのは私になるわ」

 

 合同小隊は小隊内だけでなく、他班を巻きこんだ大部隊になる。自然、目も増えるため、実質的な指揮を執ったソニアに評価が集中することは間違いなかった。

 

「エルサ班長は名目上の班長だと見做されるし、あなたも評価されない。それを分かっているの?」

 

 ユーリは彼女の意見を否定せず、じっと目を見つめた。

 

「ボクたちは、一年間小隊を組みます。もしかしたら、その後も組むかもしれない。ならこの一回譲っても、大した痛手ではないと思うからですよ」

 

「信じられないわ。そんな考えじゃ、いつまで経っても、下っ端のままじゃない」

 

 ソニアは感情的になって叫んだ。見振りを加えて、大仰に糾弾する。

 それでも、ユーリは穏やかに言った。

 

「それでも良いんです。あなたは強い人だ。たぶん、自分が支えることになった事がないんだと思います」

 

 ユーリはそこでアンヘルをチラリと見た。

 

「でも、やっぱり、ボクには分かってしまうんです。あんなふうには、成れないって。でも、それは悪い事じゃないと思うんです。指揮する人がいて、それを支える人がいて。色んな人が、色んな方向を向いている。そんな小隊が、本当に強いんだってボクは思うんです」

 

 理解されないんだろうな、とユーリ自身もわかっていた。だが、ソニアは言葉につまった表情で爪を噛んでいた。まったく違う価値観。ユーリの語る言葉は優しいが、若い候補生らしさがまったくなく、徹頭徹尾、現実に即したものだった。

 

「私には、わからないわ」

 

「それで良いんです。ソニアさんは、上に立つ人間ですから。ボクたちは支える。それだけです」

 

「そう」

 

 ソニアは一瞬悩みの色を見せた。それはほんの一瞬で、すぐに立ちあがった。

 

「分かったわ。私が、実行指揮を引き受ける。勿論、班長を蔑ろにしたりはしないわ。それで、構わないのでしょう」

 

「え、ええ、はい。そうです」

 

 エルサはびっくりしながら答えた。ユウマも満足げに頷いている。

 

 場は纏まった。正確にはエセキエルが何を考えているか不明で、アンヘルも感情を伺わせない表情だったが、主導要員の方向性は一致していた。

 

 こうなるともう早かった。ユーリの場の整頓力。エルサの行き届いた冷静な思考。ユウマの和やかな空気。ソニアの指導力が合わされば、バランスの良い小隊といえた。

 

 大枠となる計画は完成し、他の小隊たちの承認および教官の承認を終えれば、計画は指導する。その段階まで来ていた。

 

 会議は解散となる。

 

 最初に消えたのはアンヘルだった。バイトである。挨拶一つ残すとそさくさと部屋を後にした。続いたエセキエルも無言で消えた。

 

 残ったエルサが、

 

「また、相談したいことが……」

 

 と俯きながら、お腹の前で小さく指を絡ませて聞いてきた。もにゅもにゅ聞き取りずらい声である。

 

 ユーリとエルサは、あの励まし以来、なぜか距離が開いていた。とはいっても仲が悪くなったわけではない。時折エルサ側が袖を掴んだり、タオルを持ってきてくれたりする関係である。カージオイド曲線のような遠回しの感情が渦巻いていた。

 

 ユーリが、

 

「いいよ」

 

 と言うと、エルサは顔を綻ばせながらユウマと共に出ていった。残ったのはソニアだけだった。

 彼女は、唇を引き絞りながら、なにかを語りたそうに佇んでいた。優しい、優しい瞳だな、とおもった。そこでユーリは、どくん、と胸が高鳴った。彼女の紅い唇が、少しづつ言葉を作った。

 

「本当に、いいの……?」

 

 頼りない、自信にない表情を受けて、ユーリは優しく微笑んだ。

 

「ボクには兄弟がいます。上に兄がふたり、そして、弟が下に。誰もが自己主張をしては家族は立ちいきません。小隊も同じです。誰かが支える方向に動かないと。それが今回はボクだった。それだけですよ」

 

 ソニアは目を伏せて、それっきり言葉を喪失した。静謐が部屋を満たした。再び顔を上げた彼女には、もう、迷いはなかった。

 

「私には理解できない。けど、その言葉、忘れないわ」

 

 ソニアはそれっきり踵を返して出ていった。彼女の心の中は誰にもわからないが、恐らくそれは、賞賛の言葉だったのだろう。神妙な顔つきだった。

 

 計画は定まった。あとは実行あるのみだ。

 

 ユーリは希望を抱きながら、迷宮探索に思いを馳せた。

 

 

 



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第十三話:唐突な襲撃

「おい、さっきから何をやっている?」

 

 クナルの怪訝な声が部屋に響き渡る。彼はソファにどかっと座り、机の上に足を乗せた状態で呆れ顔を見せていた。

 

 古びた木造の室内には、暖色の魔導灯が光っている。未だ陽が中天に過ぎ去る前なのだが、木枠の仰々しさと隘路という立地も合間って、日照権もかくやと言わんばかりの薄暗さゆえ、灯りが灯されていた。

 

 室内中央にはアグリッサと呼ばれた女、そして護衛数人が固まっている。彼らはくすんだ栗の木の事務机の上に置かれた黒檀箱を囲むように佇立していた。

 

 アンヘルは部屋の隅、クナルが足を乗せている机で一人紙と模型に向かっていた。

 

 十七匹の羊模型を三つのグループに分ける、戻すを繰り返す。紙にはブレスト後のように、試された案が書き連ねてあった。何度も思考錯誤した後なのか、眉間に大きな皺が寄っている。内心の苛立ちが言葉尻に現れてしまっても責められまい。

 

「なにって、出された課題に取り組んでいるんだよ。一応聞いていたでしょ?」

 

「ふん、あれのことか」

 

 忘却の彼方に追いやってしまったのか、それともどうでも良いのか。彼は明後日の方向を見ていた。

 

「そもそもとして、長男の1/2が不可能過ぎるんだよなぁ。羊は十七匹しか居ないし。……助言をする人は得や損をしたらいけないんでしょ。ってことは、上手く分割する方法を考えるしかないんだけど……」

 

 十七匹。1/2。出口のない迷宮に迷い込んでしまった探求者のようにプスプスと思考停止の煙が起ちのぼる。

 

 グズグズ悩んでいるアンヘルに苛立ったのか、クナルが急に足を下げ、近くに置いてあった大曲刀を握りしめた。

 

「答えはこうだ」

 

 静止する暇もなく、大曲刀の鈍い光が閃いた。

 剛と、常人なら風を巻いて羊の紙模型やちゃぶ台を丸ごと粉砕してしまいそうな大剣を持ってして、彼が切り裂いたのは羊の紙模型一匹の胴体だった。

 

 鉄塊とも表現すべき刀が机の上に刃を立てて乗っている。周囲の物品には一切傷が入っていない。彼が精密無比に切り裂いたのは本当に紙模型だけだった。

 

「ちょ、殺す気なのッ!?」

 

 クナルは取り合わない。大曲刀を元の位置に仕舞うと冷然と告げた。

 

「見よ、これが答えだ」

 

 彼の瞳が指し示す。羊模型は十七匹の半分、八匹と半分に綺麗に分かれていた。

 

 こいつ。もしかしてアホなのか。そんな言葉を押し殺しながら、アンヘルは失望の視線を向けた。

 

「羊を半分にしただけじゃんか。これじゃ只の切り分け作業だよ」

 

「そんな謎かけなどなんの役にも立たん。そもそも、あのような男の戯言に耳を貸すなどどうかしている」

 

 その遠慮ない口振りにギョッとする。部屋には大神祇官の部下である護衛たちが同じように詰めているのだ。チラリと顔色を伺うと、護衛たちがぎょろりとした目を向けていた。顔を近づけ、ヒソヒソ声に変える。

 

「何考えてんのっ! ここには護衛たちが――」

 

「くだらぬ」

 

 彼に動揺はない。対するアンヘルは苛立ちに包まれた。誰しも親しみを覚えた人物への非難は腹が立つもので、無意識の内に眉がぐっと吊り上がった。

 

「君に何がわかるの?」

 

「わからぬさ。ただ、あの男は貴様が思っているような生温い男ではないだろうがな」

 

「だから、どこがそう思うの? 何も変なところはないよ」

 

 その反論をまるで意に介さない。腕を組んで素知らぬ方向を向き、嘲っていた。

 

「愚かな貴様に我が一族の格言を教えてやろう。『飼い犬ですら虚偽を働く』貴様にはピッタリな格言であろう?」

 

「…………意味が分からないんだけど?」

 

「理解力がないな。つまりは誰でも――」

 

「貴方がた。聞こえていますよ」

 

 会話を遮ったのは、護衛の中心人物であるアグリッサであった。表情に変化はないが、その無表情が怒りを抑えているようで、般若に見えた。

 

「狼藉の数々。日頃ならば見逃しませんよ。此度は我が主人の御意向もあって目を瞑りますが、御稜威がいつ迄も続くとは思わないことですね」

 

 クナルはふっと嘲笑を浮かべながら待機を続ける。彼の分厚い心臓が心底羨ましくなり、また何も起きなかったことに胸を撫で下ろした。アグリッサが袖を捲って腕の時計を見る。

 

「そろそろ、時間ですね」

 

 アグリッサが宝剣の収められた黒檀の箱を袋に仕舞う。それを肩に担いだ。ふたりも立ち上がる。迷宮探索演習用の刀剣とは違う、本物の武器である剣を腰にぶち込んだ。

 

「もう馬車がくる頃です。行きますよ」

 

 アグリッサの掛け声に続いて部屋を出て行った。

 

 

 

 

 

 

「あれ? アルじゃないですかぁ。こんな所でどうしたんですかぁ?」

 

 間の抜けた声で、少女は馬車から飛び降りながら言った。

 

 ポヨポヨと二つに括られた蒼穹の髪が揺れている。幼気な少女の中に輝く明媚な美しさ。ともすれば神々しさすらある、その容貌がキラキラと陽光に照らされ、煌めいていた。

 格好は露出が多く、新雪のような白い脚や腕がほとんど丸見えだ。黒塗りの革素材の狩人服はしなやかな肢体へピッタリ張り付いていた。何度か見たテリュスから借り受けた衣服ではない。体格に合った装いだ。腰には青の短弓がある。戦闘用装備で身を固めた彼女は、どこか小慣れた風格すらあった。

 

 態度が気さくな為忘れがちだが、絶世どころか隔世の美を持っている少女である。予期せず遭遇したアンヘルは、思わず瞠目した。

 

「い、ズナさん。どうして、ここへ……」

 

 疑問も当然である。彼女はアグリッサが手配した馬車から飛び出てきたのだから。

 

 アンヘルたちは現在、宝剣の修復任務のため、オスゼリアスきっての名工トラキア・ロンパイヤが住む郊外へと向かおうとしていた最中である。

 

 馬車を引き連れてきたオスカル教官や他の候補生がその美しい少女に度肝を抜かれ視線を奪われている中、彼女は相も変わらず天真爛漫に騒ぎを振りまいていた。

 

 イズナが他人の動揺など気にするはずもない。彼女は見知った顔であるアンヘルの脇に立ち、彼の腕を全身で抱く。「嫌な匂いなのですぅ」と言いながらも笑っていた。

 

「おい、お前。その人と知り合いなのか?」

 

 尋ねた候補生はセントールである。見た目麗しい少女に気安く話しかけているが驚きなのだろう。

 

(めんどうだなぁ)

 

 紹介しろという強い念が感じられて、アンヘルは心中で溜息をついた。女性関係は往々にして面倒なものである。さりとて、迂闊にテリュスの友達を紹介するわけにもいかない。

 

 誤魔化し笑いのような曖昧な態度で煙に巻くが、相手は徐々に苛立ちを噴出させはじめた。不穏な気配にイズナがぎゅっと腕を抱いた。臭いって言ってたじゃんと思いながらも、たまらない疲労感に喘いだとき、クナルが横合いから不穏な声を掛けてきた。

 

「貴様、なんだ? それは」

 

 刺々しい声だった。候補生たちのような色目では決してなく、ゾッとする刃のような鋭い眼光が光る。全身を総毛立たせている。腰を落とし、厳戒態勢を敷いていた。手は背中の柄に回されている。強烈な敵意だった。

 

 何度も相対したアンヘルですら震える熱量である。イズナについて尋ねたセントール候補生はあまりの迫力に顔を青くしながら、そさくさと退いた。

 

 イズナの、

 

「怖いですぅ、このお兄さん、危険ですぅ~」

 

 という声がやけに滑稽だ。アンヘルは庇うようにして両腕を大きく広げた。

 

「何やってんのッ! この子は――」

 

「この子は、何だ?」

 

「彼女は只の友人で…………」

 

「とぼけるな。貴様とて戦士の一員だろうが。気づいていないとは言わせんぞ」

 

 アンヘルごと切り殺しかねない闘気が迸っている。たまらぬと、手を振り乱しながら誤解を解く。

 

「とりあえず、落ち着いて……」

 

「ふざけるな。その女が放つオーラは――」

 

「やめて頂けますか。候補生クナルに候補生アンヘル。告げなかったことは謝罪しましょう。しかし、彼女に対する害意は、増援を決めた我が主人ドミティオス大神祇官に叛意を持つことだと理解しているのでしょうね」

 

 アグリッサが有無を言わせぬ強い口調で止めた。儼たるその姿勢にクナルが苦々しく矛を収める。如何に他を顧みない彼でも、大神祇官の名前を出されれば引き下がらざるを得ない。

 

「怖かったですぅ。ありがとなのですぅ」

 

 イズナが言った。良い子良い子とアンヘルの頭を背伸びしながら撫でる。くすぐったい感触からを振って逃れた。

 

「貴方は馬車に乗っていなさい。邪魔になります」

 

「ええぇ、でもでもー」

 

 アグリッサがギロリと睨むと、イズナが不満げに口を尖らせる。それでも睨み合いが続くと「あい、わかったのですぅ」と言いながら、両手を頭の後ろで組み、鼻歌を歌いながら馬車に消えていった。

 

 アグリッサが疲れたようにため息を吐く。しかし、大人の女性らしく一息で意識を切り替えると、彼女はそのまま護衛たちに指示し、乗り込む馬車を指示する。

 

 馬車は三台で、編成はこうだ。

 

 上級生で固められた前方警備用の馬車。

 護衛たちで固められた宝剣を持つ中央の馬車。

 そして、アンヘル、クナル、補佐の為のオスカル。なぜかイズナを加えた四名が守る後方警備の馬車。

 

 上級生たち、そして護衛たちが馬車へと続く。クナルも舌打ちしながら馬車の馭者席へと腰を下ろす。イズナと同じ空間には居たくない、ということだろう。

 

「あなたは、イズナに好かれているのですね」

 

 アグリッサは馬車へと向かおうとするアンヘルを呼び止めた。乾燥肌なのか彼女の人差し指が唇を撫でる。紅色が手に付着していた。

 

「……いえ、仲が良いというわけでは」

 

「謙遜する必要はありませんよ。恥ずかしい話、私はうまくいっていません。それに、信を得るというのは、我々のような存在には必須の能力なのですから、誇るべきでしょう」

 

「はぁ、その、有難う御座います?」

 

 空返事をする。彼女の瞳は遠くを眺めていた。空は雲の多い鉛色だった。

 

 ふと、彼女の両眼が焦点を合わせてきた。

 

「――あなたは、占いをしたことがありますか?」

 

「へ? いや、ありませんけど……」

 

 唐突な質問に面食らう。対する彼女の表情には悪戯めいたものが一切ない。直情真気の眼差しだった。

 

「そうですか……。悪いことはいいません。ご自身の未来を占って見てください。そして、可能ならばお祓いも。私が見るところ、あなたは才能がある。とびっきりの不幸になる才能が。もはや専なきことでしょうが、運を待つは死を待つに等し……こんな言葉があります。人より不幸を背負って立つあなたはより最適な行動を取らねばなりません」

 

「それは、どういう意味で――」

 

「故意に降りかかる試練、それ以上のモノを、自ら背負っているあなたに、同胞からせめてもの助言だと思って頂きたい」

 

 憐憫溢れる言葉を最後に、踵を返し、アグリッサは馬車へと消えていく。

 

 最近、周囲ではこのように謎めいた助言をする連中が闊歩していて、どうにも判断に迷う。言いたいことがあるならハッキリと言えと言いたい気分だった。が、クナルのように振り切れていない。ため息ひとつ吐くと、肩を落とし、馬車へと入っていった。

 

 

 

 §

 

 

 

 ガタゴトと揺れる馬車の中、隣のイズナが田園風景に一々感嘆を漏らしている。だが、それよりも教官の興味のほうが遥かに鬱陶しかった。

 

「へえ、なるほどな。友達の友達ってことか」

 

 ニヤリと格好を崩してオスカル教官が笑う。いつかの改革然とした立派な態度はまるでない。候補生の恋愛に興味津々な、悪く言えば野次馬根性全開である。

 

「まあ、友達の紹介で仲良くなる例は少なくないからなぁ。俺の同期もよくそんなもんで付き合ったもんさ」

 

「はあ、まあそうです」

 

「その友達もよく紹介してくれたな。こんな美人」

 

「……友達は女性ですから」

 

「へえっ! それはいいなぁ。青春青春っ。アンヘルも意外に楽しんでるじゃないか」

 

 オスカル教官は腕を組んでうんうんと頷く。「お前も立派に男だったんだなぁ」と沁々呟くと、表情を真剣にした。

 

「だが、良いことだぞ。本格的に任地へ着くことになれば、異性なんて出逢えたもんじゃない。将来地元に帰るつもりならなんとかなるだろうが、そうじゃないんだろう?」

 

「ええ、まあ、そのつもりですけど」

 

 用務なしに故郷の地を踏むつもりはない。アンヘルはそんな胸算用をしていた。人間到る処青山あり。ふと、生まれ故郷が懐かしくなる気持ちは確かにある。けれども、己の故郷があの小さな村、そしてホセたちの暮らす街にあるとは微塵も思えないのだった。

 

「けど、結婚を考えれば、きつい道だぞ」

 

「結婚なんて、僕には――」

 

「大人になったら、考えも変わる。候補生のうちに、恋人を作っておくんだな」

 

 候補生同士の恋愛は意外に盛んだ。閉じた空間、人によっては禁じられた恋。市井の異性と違って強く賢い人間たち。優秀な人間であればあるほど、士官学校内で関係を持つことは珍しくない。

 

 ふと、イズナがじっと見ているのに気づく。つぶらな瞳だ。じっと見ていると吸い込まれそうなほど、透き通った青が広がっている。彼女は目をパチクリしながら、こてんと首を傾げた。

 

「アルは恋人さんが欲しいですかぁ?」

 

 直球な台詞にドクンと心臓の鼓動が大きくなる。見透かされている気分だった。アンヘルは無性に恥ずかしくなり、目を伏せる。ぴっちりした狩人服を内から盛りあげる女性の象徴が視界に大きく映し出された。

 

 呼吸に合わせてそれが上下している。酷く艶かしい。そんな思考を他所に、イズナの白い喉が動いた。

 

「でもですねぇ、辞めたほうがいいと思いますよぉ。イズナまだ一回目ですからよく知らないですけどぉ~。皆言ってましたよ、虚しくなるって」

 

 カラッとした声で、イズナは言った。はじめてなら兎も角一回目ってなんだと思いながら、アンヘルは慌てて手を振った。

 

「いやいや、そんなつもりはっ」

 

「そうなのですかぁ? なら、良かったですぅ」

 

 告白する前に振られるアンヘル。恐らくこの瞬間、世界で一番不幸なのは彼だろう。ガクッと肩を落とした。

 

「残念だったな、まあ気にするなよ。女は星の数程いるんだ」

 

「…………でも、星には手が届かないんだけどな、とか言うんでしょう?」

 

「……よく分かったな」

 

 ぐうの音も出ないオスカル教官を尻目に、アンヘルは窓の外へ視線をそらした。

 

 がたん、がたん、と荒れた道を行く馬車が揺れている。舗装された市内を抜けて、郊外の未舗装部分へと差し掛かっていた。三台が堵列して進むその傍には、棚田が辺り一面櫛比している。青々とした稲穂が繁っている。先には未開拓の森林が見えた。

 

 泥でぬかるんだ悪路。そのうえ、この先は隘路だ。九十九折の道を降ってゆく馬車の中で、クナルの怒号を轟いた。

 

「おい、間抜けっ! くっちゃべってないで、外に出ろッ」

 

 馭者席からの叫びに立ち上がると、教官の静止を無視して、扉を開いてクナルの横に飛び移る。

 

「なにっ?」

 

「彼方だ! 森の影、彼処を見ろッ」

 

 クナルが木の影を指し示す。暗澹とした陰の中で蠢くものたち。仄暗いそこで明らかに敵意を持った生物が確かに潜んでいた。

 

 距離にして五百メートル。馬車の速度ならば一瞬で会敵する。オスカル教官も只ならぬクナルの警告に顔を出した瞬間だった。

 

小鬼(ゴブリン)ッ! 数は三十以上っ」

 

 アグリッサの甲走る声が響き渡った。

 

 同時に小鬼たちが姿を表す。赤緑青と色とりどりの悪鬼たちが、各々違う獲物を持って躍りでる。瞳はギラついており、狂気が渦巻いていた。

 

 小鬼と侮ることなかれ。近隣に迷宮は存在しない。つまり、彼らは部族由来の魔物であることは明白だ。一匹居れば、百は潜んでいると思え。迷宮由来の超人的戦闘能力はなかろうとも、部族単位で一つの生物のように襲いかかってくる軍団を侮ることはできない。

 

 中央の馬車が脇道へと逸れる。前方の馬車はそれに追随するように道を変えた。

 

「迂回しますッ! オスカル殿は遅滞戦闘に努めてくださいっ」

 

 アグリッサの声と共に、イズナが短弓に矢を番えた。

 

 射法八節。流水のような淀みない動きだ。

 その美しい一連の動作を終えた時、喉元に矢を穿たれた小鬼が倒れ伏す。同時に護衛や候補生たちの石弓や魔導銃が火を吹いた。

 

 瞬く間に五体の小鬼が屍と化すが、それを上回る速度で小鬼たちが出現する。後方は百を越す小鬼で埋め尽くされていた。

 

 後ろを伺うようにして顔を出すと、冷や汗が流れた。続々と追加される小鬼たちの群れは留まることを知らない。まさに地獄の濫觴だ。

 

 強化術は一種のドーピングだ。生命力を爆発させ、超人的身体能力と耐久能力を武芸者に齎す。しかし、その方向性は瞬発力に大きく偏っているから、長期戦となればもろい。逃げ出すことは可能だろうが、候補生に死者が出ることは予想に難くない。オスカル教官は一応貴族だが、戦略魔法を使用可能なほどに優れる真の青き血を持つ者ではなかった。

 

 皮算用をしていたアンヘルに更なる追い討ちを掛ける。小鬼たちが逃れようとする馬車に向かって矢を放った。

 

「クナルッ」

 

「貴様に指図される謂れはない」

 

 文句を言いながらも、クナルは跳躍した。

 荷台の上に飛び乗った偉丈夫はその怪力を持って、大曲刀を柄を中心に旋回させる。

 

 金属音が連続する。大剣と風圧が馬車への矢を迎撃する。

 同時にアンヘルは手綱を操って左右に蛇行。的を絞らせない。

 

 ――僕、あんまり馬の操作得意じゃないんだけど……。

 

 行商人の倅でもなければ、馬車など扱ったことはない。それでも避け切ったのは、馭者の腕以上に、乗組員の力量であった。

 

 オスカルが詠唱を終える。『緋天』オスカルの真骨頂は魔法剣だが、しかし小規模の改変は可能だ。炎の渦が小鬼たちを飲み込む。

 

 流れるようにイズナが矢を放つ。流星となって放たれる光は、眼を喉を口腔を次々と穿つ。

 

 アンヘルたちの馬車は能力を存分に発揮し、まったく相手を寄せ付けなかった。事情が違ったのはもう一つの候補生たちが乗る馬車で、オーソドックスな剣使いばかりの集まりでは、遠方からの射撃に対応する術はなかった。

 

 小鬼たちの狙いは中央の馬車を挟み込むようにして並列に並んだ右側、候補生たちの馬車に絞られた。小鬼たちの石弓に、火の灯る矢が番られる。

 

 ギョッとした。怒号をあげる。

 

「イズナっ! あのゴブリンを倒して――」

 

 指示した瞬間だった。焔が尾を引いて走った。

 火矢はまるで針鼠のように馬車へと突き立つと、炎を巻いて馬車を火達磨にした。

 

 御者が火達磨となった荷台に焦って操作を誤る。沿道の畦道に乗り上げた馬車はひっくりかえった。遅れて中からほうほうの体で這い出してくる候補生たち。強化術は予期せぬ負傷には滅法弱く、そして火傷には無力だ。御者や防御に成功した候補生は無事なようだが、半数は戦闘不能状態だ。

 

 しかし、アグリッサたちは足を止める気配はない。寧ろ、都合の良い足止めができたという風で速度を上げた。

 

「逃げるのかッ! 彼処にはまだ候補生たちがっ」

 

 オスカルが大声を張り上げる。朱色で塗りたくった顔は般若そのものだ。鋭い静止に、窓から顔を出しているアグリッサが此方を向いた。

 

「それが彼らの仕事です。厳しいようですが、貴方も理解している筈です」

 

 オスカルはグッと言葉に詰まった。そもそも、道理ではある。護衛を守るために、目的を逸脱してはなんの意味もない。

 

 だが、オスカルは再度叫んだ。

 

「なら、ならば俺だけが残るっ! それなら構わんだろうッ!」

 

 彼は教官だから、立場ゆえに、粛々と受け入れることはできない。。

 アグリッサはそこではじめて逡巡の構えを見せた。眉を寄らせて、顰めっ面を晒している。オスカルの決意は固い。それを感じ取っていた。

 

「わかりました。ただし、貴方一人では置いていけません。貴方たちの馬車で防衛しなさい。イズナ、良いですね」

 

「なにっ!?」

 

「異論は受け付けません。元々貴方が反対意見を述べたのです。これ以上の我儘は許されません。それに、馬車なしでどうやって逃げるつもりですか?」

 

 オスカル教官はアンヘルの顔を何度も見た。この修羅場では危険だと判断しているのだろう。だが、そんな悠長なことをしている暇はなかった。

 

「僕は大丈夫ですっ。それよりも、早く救援に」

 

「いや、だが――ッ! すまない、アンヘルっ」

 

 即座に意識を切り替えると、引き抜いた長剣に業火が灯る。魔法剣の輝きだ。

 

 アンヘルは馬に鞭打って、馬車を止める。クナルとオスカルが地上へ降り立つと、イズナも馬車を盾にして短弓を構えた。

 

「よろしいのですか? アグリッサさま」

 

 馬車を停止させたアグリッサは、護衛から問いただされていた。問い詰めるような鋭い響きだ。対するアグリッサに変化はない。全権を大神祇官から任されている彼女には、すべてを決定する権限があった。

 

「構いません。すでに計画は崩壊しています。彼女たちなら臨機応変に対応できるでしょう」

 

 アグリッサは声を張り上げる。

 

「オスカル殿。貴方に軍神アランの加護があらんことを!」

 

 それを最後に、馬車は駆け出した。

 冷たいとは思わない。護衛には護衛の役割がある。アンヘルはクナルの隣に立った。

 

「ふ、また貴様と共闘とはな」

 

「なにか問題でも?」

 

「なに、奇運だなと思っただけだ。貴様の死を看取る可能性がまた増加した」

 

「残念。今日の運勢は我流棒倒し占いでは最高だよ。僕の夢は孫に囲まれて穏やかに死ぬことだし」

 

「言ってやろう。恐らく無理だ」

 

 クナルは歪に笑った。狂人の笑みだった。

 

 アンヘルは静かに佇む。日頃の迷いは、すべて置いていく。精神状態は常に平衡だ。戦いの空気に酔うでもなく、高揚感に包まれるでもなく、そして恐怖に惑うわけでもない。静かに笑みを深めた。

 

「お前たちッ! 何を勝手にっ」

 

「オスカル教官っ。馬車は僕たちが守ります。教官は負傷した上級生をお願いします」

 

 もっとも効率が良い組合わせだ。教官は迷った。しかし、選択の余地はない。すでに上級生たちは会敵している。渋々、クナルに対して、

 

「アンヘルを守るんだぞ」

 

 と指示すると、魔法剣を振りかざして突入していく。小鬼たちをまるでバターでも引き裂くようにして膾に変えていく、オスカルはまさに鬼神だった。彼の通った後は屠殺場のように血が滴っていた。

 

「いやぁ、さすがにすごいなぁ」

 

「それよりも貴様、まだ猫被っているのか? 私はあの男が不憫になるぞ」

 

「猫かぶるって……。科の低い僕が目立つと良くないって知ってるくせに」

 

「ふん、小さい男よ」

 

 小鬼たちが囲みをつくる。彼らの瞳にはどこか焦りの色が浮かんでいた。

 十、二十。まだまだ増える。ここまで大量のモンスターを同時に相手取った経験は未だない。

 

 両者はふたり背中合わせになる。彼がその鉄塊を掲げると、極大の闘気が放出される。アンヘルもそれに合わせて、闘気を放った。

 

 剣を引き抜く。正眼に構えた。

 

 クナルの唇が蠢く。無言で返答する。

 

 ――なまっていないだろうな。

 ――そんなわけないよ。

 ――どうだかな。

 

 それが合図だった。

 

 クナルが身体を縮める。砂塵を撒き散らして、強烈に跳躍した。

 剛剣が唸る。風を巻いて、鉛が閃く。

 

 真横に薙いだそれは、小鬼たちの腹を真っ二つにする。贓物を撒き散らして、血潮を垂れ流しにする胴体が宙空を舞った。

 

 アンヘルも疾走。突き出される槍を躱すために、姿勢を逸らす。強靭な体幹を駆使して、地面と水平まで身体を傾ける。突き出された槍を尻目に、剣を薙いだ。

 

 首を飛ばす。正確無比な銀線が描かれると、頸椎を裁断した。残った身体を思いっきり蹴り飛ばす。

 

 まるでドミノ倒しだ。吹っ飛んでいった小鬼の死体が群れを薙ぎ倒す。

 

 視界の先に矢を構える小鬼たちの姿がある。クナルが飛ばした上半身を左手で受け取る。矢を死体で受ける。矢が途切れた瞬間、腰のナタを回転しながら投擲した。

 

 回転しながら飛ぶ鉈が小鬼の喉に突き刺さる。アンヘルは群れに飛び込みながら、小鬼たちを薙ぎ倒した。

 

「イズナッ! 射撃する敵を迎撃してっ」

 

「はぁーいです」

 

 呼応するようにして、イズナの矢が飛来する。精密な狙撃が次々と弓小鬼を殺害していく。

 

 アンヘルは中央に戻ると、再びクナルと背中合わせになった。

 

 クナル側には、縊り殺された死体が山となっている。一瞬の内に屠った数としては破格だ。アンヘルの倍以上だった。

 

「おい、何かおかしいぞ」

 

「――え、何がっ!?」

 

 ふうふうと呼吸を定めている最中、クナルが言った。彼は怪訝そうに顔を顰めている。

 

 その疑問を他所に、敵がさらに殺到する。

 二人は再び同極の磁石のように反発すると、剣線をいくつも引いた。一度の銀線が、何匹もの敵をあの世へ送る。オスカル教官にも劣らぬ屠殺場と化していた。だというのに、敵は減る気配がない。続々と増える。アンヘルは囲まれた中央でクナルの言葉を聞いた。

 

「何だこれは。どういうことだ」

 

「敵が減らないっ、ことが?」

 

「そうではない。見ろっ! 死体が消失している」

 

 クナルの指し示す方向、そこはオスカル教官が通った場所である。彼の跡には大量の死体がうず高く積まれていた。それが綺麗さっぱり消えている。

 

「化かされている。そういうことか」

 

「でも、幻術は相手に直接仕掛ける必要がある。そんな兆候はなかったし、そもそも小鬼が幻術なんてっ」

 

 幻術は相手を催眠状態に掛ける非常に強力な魔法だが、それゆえに行使には数々の障壁が立ち塞がる。

 

 まず、幻術をかけるには相手の知覚器官、つまりは視覚や聴覚に直接、長時間に渡って作用させ続ける必要がある。また、催眠状態は相手の思考状態を乗っ取って、幻を見せるもので、往々にして非現実的な光景を見せるものだ。

 したがって、洗脳などの用途に用いるなら兎も角、正面きっての戦闘には費用対効果がまるで釣り合わない。幻術を使うなら火魔法をぶっ放したほうがいい。

 

 だが、眼下で実行されている現象は明らかに幻だった。よく観察してみれば、アンヘルが殺した筈の死体も消えていた。夢幻舞踏。妖にでも化かされた気分だ。しかも実態がある。明らかに魔法を超えた超常能力が渦巻いていた。

 

「どうするのっ?」

 

「知るか、とりあえず斬って斬って斬りまくれっ」

 

「雑だねぇ、それは」

 

「他にどんな対処法がある?」

 

 クナルに動揺はない。寧ろ頬は緩んでいた。

 

(無限に現れる敵とか思ってるんだろうか?)

 

 アンヘルは剣を構え直す。確かに、対処法はそれしかない。此方の目的は殲滅ではなく、馬車を守ることなのだ。

 

 理由は不明だが、馬車への攻勢はめっきり減じている。それどころか、チャンスな筈のオスカルたちへの攻撃も減っていた。

 

 すべての敵がアンヘルたちに集中しつつある。オスカルたちも馬車から這い出してきた候補生を背負い、此方に向かっていた。

 

 戦意を新たにした瞬間、突然、何かが飛来した。

 

 それは黒い靄に見えた。視力が良ければ、それが蝙蝠の大群だと判別できただろう。それは、アンヘルたちの目の前、そこで塊となると、人型を形取った。

 

 漆黒のコート。裏地は、血のような朱で染まっていた。靡く銀髪。端正な顔の中央に嵌るその瞳は、燃えているように赤く染まっていた。

 

 身を包む黒々とした金属鎧。掲げるサーベルが陽光に照らされて輝いている。

 

 その男が登場した瞬間、世界が翳ったような気分に陥った。それほどまでに、強烈な威圧感がある。

 

「コイツはっ!?」

 

 後ろから、候補生たちを連れたオスカル教官が驚愕を露わにしていた。いや、彼だけではない。あのクナルですら、固まっていた。

 

 吸血公ヴァンパイアロード。

 

 闇の王。それがこの陽光の中、小鬼たちを背負ってアンヘルたちに相対している。掲げるそのサーベルが光を放つ。黒味を帯びた赤色が、眩く世界を照らし出した。

 

 

 



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第十四話:ファントム・ブラッド

 

「二十七小隊は予備隊にまわすわ」

 

「……うん、いいと思うよ。六三小隊はどうするの?」

 

「あそこは四人だけね。なら、合流させましょう」

 

 ソニアは会議室の長机に右手をついて立ちながら、ボードに貼り付けられた紙をじっくりと眺めていた。それに答えるユーリは、長机の前の椅子に膝を詰めながら座っている。

 

「あとは、日程調整あたりかしら」

 

「こっちでやってあるよ」

 

 ファインダーから一枚の紙を抜き出すと、手元に差し出してきた。筆跡は丸文字で少しばかり女っぽいが、筆圧が濃く読み取りやすい字である。ソニアは素早く文字列に目を通すと「悪くないわね」と、紙をピンでボードに貼り付けた。

 

 今は午後の会議室である。ソニアとユーリは、合同班の大まかな方針が決まったことから、隊の編成や物資、遠征日程など細かな計画を決めている最中である。他の人員はいない。方針が決まってしまえば少人数のほうが素早く動けるし、なにより対立が起きない。

 

 ソニアは朝からずっと働き詰めの疲れからか、無意識に首をまわして、ふうと息をついた。

 

「疲れた?」

 

 ふふっと笑いながらユーリが尋ねてくる。ソニアはムッとして、喉に物が詰まったような顔をした。

 

「何を言っているの? 班長が戻ってくるまでに終わらせないと」

 

 計画会議には班長も参加するが、上科は講義数が多いから、大抵の作業は二人だった。

 

「でもね、ソニアさん」

 

 ユーリは立ち上がると、備え付けられたポットの側に行き、茶葉を落とし込んでからお湯を注いだ。

 

「あんまり根を詰めたら意味ないよ。細かい所なら、他の人に任せればいいから」

 

「私は、自分の仕事を放りだしたりはしないわ」

 

「あはは」

 

 ユーリはその言葉を聞くと、笑いながらカップを差し出してきた。

 

「なにが可笑しいのよ」

 

「頑張り屋さんだね」

 

「なによ、それ」

 

 ソニアは気恥ずかしくなって、プイと視線をそらした。ユーリはいつもこの調子である。二人きりで会話する機会が増えたからか、まるで見透かすように内心に踏み込んでくる所が、彼にはあった。

 

「自分でやるのが確実だからよ」

 

「それは、いけないこと?」

 

 ユーリはこてんと首を傾げながら、いった。

 悪いだろう。ソニアは心中でそうかえした。

 

 他人を信頼していないというのは、仲間意識の強い士官学校の中ではあまり好まれない。だが、仕方ないとも思っている。どうしたって、無能な奴に仕事を任せて失敗する愚を犯したくなかった。だが、そんな心境を知らず、ユーリは幼げな声で、

 

「そういうのはね、責任感があるっていうんだよ」

 

「なにを言いたいの?」

 

「もちろん、良い面ばかりじゃない。けど、悪い面ばっかりじゃないって、こと」

 

 邪気のない笑顔に見つめられると、なにも言えなくなってしまう。ソニアは苦し紛れに淹れてもらった紅茶をぐいっと飲み干した。

 

「聞いてもいい?」

 

「なによ」

 

 ソニアはぶっきらぼうに聞き返した。

 

「どうして、そんなに気を張ってるの?」

 

「そんなつもりはないわ」

 

「嘘」

 

 ユーリが断言するようにいうと、二の句が告げなくなった。ソニアとしてもそんなつもりはなかったのだが、他者から見るとそう見えるのだろう。

 

 ソニアの来歴は、武家として一部には名が通っているロブレド家の息女ということになっているが、その実、幼少期は孤児院で過ごしたただの養子に過ぎなかった。ロブレド家は、男の兄弟が多くかなり武張った家柄であり、ひとり本当の家族の愛を知らず育ったソニアは、他者より上に立たねばならない、とある種クレバーな性格を育むに至った。もちろん養父母の愛に不足があったわけではないが、実の子供と微妙な差が生まれてしまうのは、仕方ないだろう。幼少期の子供は、人の機微に聡く、ひとり孤独な感情を持て余すのは当然の成り行きであった。

 

 だからこそ、ソニアは誰よりも強くなければならないと、強迫観念のように己を戒めているが、そんな複雑な内心を告げることもなく、ただ、

 

「私は、上に行きたいだけよ」

 

 といった。苦みを覚えた表情から察したのか、ユーリはただ優しく微笑んでいただけだった。

 

 部屋の外がバタバタバタと騒がしくなった。間隔の短い足音である。ソニアが扉に注目すると、ほどなく開かれた。

 

「すみません。遅くなりました」

 

 がらっと入ってきたのは班長であるエルサであった。息を切らしている。今日の予定は魔導具工学だから、講義に集中してしまったのだろう。ソニアは机の前で横並びになっていたユーリとパッと離れると、資料を片づけ始めた。班長がユーリに対して密に懸想していることは、班員のだれもが理解していたから、気を遣ったのだ。

 

「班長も講義があるのですから、構いません」

 

「でも……どこまで進みましたか?」

 

「目途はつきました。私が他班説明に行きますので、彼から詳細を聞いてください」

 

 ソニアはそういうと鞄を持って、制服の上着を羽織った。

 

「ソニアさん」

 

 エルサにあれこれ聞かれ始めたユーリが背後から尋ねてきた。キャッキャッと楽し気な班長の姿が映った。ソニアは首だけで振り返った。

 

「よろしくお願いしますね」

 

「これも仕事よ」

 

 ぶっきらぼうにいった。そのままノブを握って部屋の外に出た。

 

 なぜこんなにも、心がささくれ立つのか、まったく理解できなかった。あれ以来、ソニアとユーリの仲は縮まっていたが、気が合えば合うほど、永遠に縮まらない距離が浮き彫りになる。普通よりも近い双曲線。漸近線にいくら近づこうとも、交わることもなければ、なんの化学変化もない。ただただ、胸が痛んだ。ソニアはそれを誤魔化しながら、歩き続けていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ――何者なんだ、この男は……。

 

 どこから現れたのか、アンヘルには、まったく探知できなかった。巨大な影が染み出すかのように、醜い蝙蝠の大群が一塊となると、男は音もなく佇んでいた。世界は暁に包まれているかのような、黄昏時の風景が、やけに冷え冷えとしていた。寒気は確実に増している。

 

 長い銀髪から覗くその相貌は、恐ろしく整っていた。にもかかわらず、まるで印象に残らない。直前の記憶と映る映像が一致しないのだ。見つめれば見つめるほど、瞬間ごとに、顔の印象やパーツが曖昧にぼやけていく感覚を覚えていた。

 

 全身黒で統一された漆黒そのものの姿で、道化がかった仕草で髪を掻き上げた。小鬼たちは、その男の登場に慄きながらも、背後に控えるように位置を変えた。

 

 もはや、見間違いようがない。この男こそ、小鬼たちを扇動した頭であることは明白だった。

 

「これは、これは、やはり雑魚だけでは、本命は取り逃したか」

 

 男は口の端を歪めて笑った。

 

「まあ、獲物は一匹掛かったのだから、それで満足するとしようか」

 

 吸血鬼の王らしき男は、聞き間違いのない、流暢な帝国語でアンヘルたちに話しかけた。彼らの認識を用いれば、下等生物たる人族の言語を操れぬ道理はない。のだが、アンヘルは吸血鬼という超高位生物が下等なゴブリンを従えるなど過分にして聞いたことがなかった。そもそも、吸血鬼は神話に登場する生物であり、実際に遭遇した人間はいない筈である。其れが、本当に奥地に住んでいて会わないのか、それとも遭遇した人間を尽く皆殺しにしているのかは不明だが。噂に聞く、陽光が弱点などということもなく、太陽の元平然としていた。

 

 オスカルは業火の立ち昇る直剣を正眼に構えながら、油断の一切ない姿勢で鋭い質問を浴びせかけた。

 

「きさま、何者だっ」

 

「ふ。何者か……。そうよな、私の名は、ドラクル。世に名高きドラクル公よ。我が勇名、街にも響き渡っているであろう? しかし、まあ、きさまのような貴族の端くれともあろうものが、詰まらぬ質問をするものよ。やはり、愚民どもに感化された者は、その貴き精神までも腐り果ててしまうものなのか」

 

「なにを」

 

「そのうえ、気分を紛らわそうにも、年頃の女などおらぬではないか。男、男ばかり。歳の食った青髪の女が一匹居るが、しかし、張りはすでに失われている。私は寛容だが、グルメなのだよ。あと三年若ければ可愛がってやるというのに」

 

 ドラクルは喉を鳴らして上品に笑うと、その手で虹色の光を放つサーベルを弄んだ。

 

「なぜ我らの事情に通じているッ!?」

 

 オスカルの悲鳴が響きわたった。目の前の怪物は世俗に少しばかり通じていた。いうなら、人語を理解するライオンのような存在である。人間社会に通じる怪物など、笑い話にしてもタチが悪すぎた。

 

 イズナも怯んだようにして、可愛らしく悲鳴を上げた。言うまでもないが、イズナはパッと見十七くらいの少女でだから、それを皺くちゃババア扱いとは、とんでもない異常性癖だった。

 

 ドラクルは少しばかり逡巡を見せた。結論は嘲笑だった。彼は剣を再び掲げた。

 

「死にゆく貴様らに何を語る意味があるのだ?」

 

 ドラクルが胸元に手を差し込みながら、身体を前屈みにした。

 

 同時。みん、と場が詰まった。

 

 空気が一瞬で転じた。魔素粒子が意思を持って停滞を始める。オスカル教官の魔法剣が勢いを失う。火が掻き消えた。

 

「――妨害魔道具!」

 

 オスカル教官が己の魔法剣の残滓を見てしまった。それでも、アンヘルは目の前の男から視線を切らなかった。今までの戦闘経験である。アンヘルは異常なほどに上位者との戦闘に慣れていた。

 

 勝率九割の殺し合いを十回行えば、その生存率は三割近い。だからこそ、探索者や軍人は十二分にマージンを置いた戦いを信条とする。しかし、アンヘルの相手は常に格上ばかりであった。訓練も積まぬうちに『塔』へ挑み、それからも戦い続けた。災厄が降りかかる際には、無意識の中の戦闘本能が、どこかで危機を察知させた。彼の戦士の才能は、士官学校という基礎鍛錬を経て、開花の兆しを見せていたのだ。

 

 水の中に滲んだ墨汁のようにして、煙のように掻き消えたドラクル。そこからオスカルへ垂直に線を結んだ中間点に、燕のようにして飛び込んだ。

 

 薄い。黒い靄が空間を滑り蠢いていた。

 それを、アンヘルは直感に沿って剣を振り下ろした。

 

 ただの畦道の一角に剣を突きたてる。

 何もない空間に打ち下ろしたはずの剣は、硬質な金属音に弾かれた。

 

「き、きさま。どうやって?」

 

 驚愕するドラクルが現れた。

 

 後方から、怒号が爆ぜた。ドラクルは鋭く喉を鳴らしながらも、アンヘルの胴体を蹴り飛ばす。剣を掲げ、発光させた。

 

 遅れて銀色が靡く。巨大な鉄塊が生き物のように地を走ると、豪快に風を撒き散らして、世界を薙いだ。

 

 クナルの大曲刀がドラクルの身体を半分に割った。

 

「油断するな、間抜けっ。まだ殺ってないぞ」

 

 言われるまでもなかった。半分に断ち割られた姿は、靄となって掻き消えた。幻影である。

 

「まさか、見破られるとは……」

 

 何もない空間から声が響き渡る。その方向へ向くと、時間が巻き戻るようにして黒い靄が人型を作った。ドラクルは冷や汗を滲ませながら、油断のない鋭い眼光で睨んでいた。

 

「アンヘル……おまえ……」

 

「質問は後です、教官。今は闘いに集中しないと」

 

 誤魔化しはきかない。先ほどの一撃は、二回生の域を明らかに超越していた。オスカルはなにか聞きたそうにしていたが、一度頭をふると思考を追いやった。

 

「こっちの候補生はかなりの重症だ。そちらはどうだ」

 

「アンヘル以下、負傷ありません」

 

「ならば直ちに離脱するッ。殿(しんがり)は我らだ。すまないが、最後まで付き合ってもらうぞ」

 

 アンヘルは黙って頷いた。優しい男だ、そう思う。ずっと力を偽ってきた自身に対して、まだ気遣いできるのだ。

 

 アンヘルは剣を構えなおす。そんなとき、

 

「ダメだな」

 

 と、クナルが反対意見を述べてきた。

 

「ワガママ言ってる場合じゃ――」

 

「気付かんのか?」

 

 クナルは静かに敵を睥睨した。

 

「あの男、なぜか教官を狙っている」

 

 大剣を肩に担ぎ、全方位を威圧しながら、指でいくつかの小鬼の死体を指さした。

 

「あの死体。最初の方に斬り殺した死体だが、未だ消える気配はない。今考えれば、あれらだけ感触が違ったように思える。それに、ドラクルと名乗る男。妨害魔道具を使うところや、不死特有の負のオーラを感じないところを見ると、もしや、吸血鬼ではないかもしれん」

 

「……どういうこと? それは」

 

「私も知らぬ。ただ、これを単なる襲撃だと勘違いしていては、大きな失敗を招きかねんということだ。先ほどのやり取り、幻術に思考が囚われるが、動き自体は大したことない。目に見えるものだけを信じなければ、対処のしようもある」

 

 クナルは薄らと微笑んだ。艶冶だが、まさに狂人の微笑みだった。五感の内、戦闘で最重要なのは視覚だ。それが当てにならぬと言うのに、笑える男は世界を探してもこの男ぐらいだろう。

 

「ふ、御託は終わりか?」

 

 ドラクルは余裕な表情を浮かべる。ただ、よく観察すれば、頬は固着化し、瞳は刃のように鋭く輝いている。すべてではなくとも、クナルの言葉に少なからず真実が含まれていたのだろう。とはいっても、状況はなにも改善していないから、チャンスというわけでもなかった。

 

 ドラクルは再び黒い靄となると、今度は周囲の小鬼たちをけしかけてきた。

 

「間抜け、我ら二人で切り抜けるぞ」

 

「同意した覚えはないよ」

 

 といいながら、オスカルに向かって叫んだ。

 

「教官は援護をお願いしますッ」

 

「――っ! わかった、気をつけろよ」

 

 最早相手は偽りもしない。小鬼たちが目の前で分裂し、さらに分裂した。切り捨てた死体が時戻しの砂でも使ったように、再度身体を起こし、向かってくる。

 

 戦いに身を投じながらも、アンヘルは饗宴でひとり、じっと耳を凝らしていた。

 

 クナルが戦闘に関して超人的な洞察力を誇るのと同じように、アンヘルにも長けている部分がある。それは相手の思考を読み取る能力であった。

 

(クナルのいうとおり、剣術自体は大した事がない)

 

 敵は、姿を隠し、暗闇から突如として襲ってくる。これは能力としては恐ろしいが、しかし、真正面から戦うことのできない臆病者の裏返しに感じられた。そのうえ、相手はこの幻術だかなにかの能力に慣れていないのである。アンヘルは先ほど打ち合ったとき、擦れる小さな足音を聞き逃していなかった。視覚にしか作用できないのか、余裕がないのか。冷静になれば、対処法はいくつか浮かんできた。

 

 正面から襲いかかって敵を両断して、蹴り飛ばす。微かに、地面の擦れる音が背後から響いた。

 

 ――回転。

 

 身体を反転させると同時に剣を水平に薙ぐ。視界には何も映っていないが、しかし、金属音が響き渡った。影が実態を持ち、世界に顕現する。ドラクルの慄いた姿が克明に映しだされた。

 

「やるではないか」

 

 追撃は、遠くに居たクナルのほうが速かった。初速も、終速も桁が違う。乗用車とレーシングカーだ。その褐色の肌の下が、鉛色に変色した。轟音とともに飛来した大曲刀が突き出された。

 

「なぜだ! なぜわかった!?」

 

 ドラクルは鋭い吠え声を上げながら飛びずさる。それは、はじめて聞く、彼の本心からの叫びであった。

 

 脇腹を抑えながら、苦悶に顔を歪めている。黒い靄は人間体に戻ったり、消えたりしながらなんとかクナルの追撃を躱した。

 

 再び姿を消し、大きく距離を取る。

 逃げに徹されると、さすがに対処法がなかった。

 

 血は流れていない。金属鎧がアンヘルの剣撃を防いでいた。しかし、衝撃までは消しきれない。遠方。青白い顔で膝を突いて蹲っているドラクルは、怒気を露わにした。

 

 余裕を失ったからか、小鬼たちの幻影は煙のように掻き消えていた。オロオロと、数体ばかりの本物が視線を彷徨わせている。恐らくだが、仮初の頭領に見えるよう幻影で作り出し、操っていたのだろう。小鬼たちはすぐさま散っていった。

 

「よくやった、アンヘル」

 

 オスカル教官はアンヘルの隣に立ち、剣を水平に構え直した。視線はドラクルに注がれていた。

 

 クナルも自然体のまま佇んでいる。推測でしかないが、ドラクルがアンヘルを狙ったのは、相手を選んだような意図を感じ取った。彼の野生の勘とも言うべき直感力はずば抜けている。常人なら、ラシェイダ族の超人を最初に狙う愚は犯さない。だが、自信があるなら、まずクナルのほうから狙うはずなのだ。

 

 幻術を除けば、大した腕ではない。負傷もある。ドラクルの表情。憂悶の色が濃い。唇を歪め、額には栗粒の汗が滲んでいた。それどころか、銀髪だった髪の偽装は解け、金色が薄らと浮かんでいる。相手は、此れ以上ないほど、追い詰められていた。

 

「まだ殺すなよ。コイツには、聞かねばならん事が山ほどある。そもそも、妨害魔道具を使う吸血鬼など、宗教問題にすら発展しかねん」

 

 オスカルが油断せずににじり寄っていく。包囲の輪は確実に縮まっていた。ドラクルは剣を握りしめるが、虹色の光は小さく輝きを灯すだけであった。

 

 ――勝敗の潮合は極まった。

 

 ここから、挽回の手立てはありそうにない。ふっふと青ざめた表情で息を荒げる男には、当初の余裕などまるでない。浮かべていた薄笑いは消えさり、瞳孔は拡散していた。

 

 オスカルはさらに男に詰め寄った。イズナの「終わったですかぁ」という間抜け極まりない声が響き渡った。

 

 その瞬間だった。

 森の中で、小さく何かが光ったのを見逃さなかった。

 

 それは癖である。皆が同じ方向を見ていると、ふと、違う所に視線を向けるのだ。警戒心の現れ。いわば怠け蟻の習性である。怠け蟻は普段なにもしないが、働き蟻が不慮の事故で居なくなると、突如として働き蟻へと変貌する。日頃は力を蓄え、有事には動く。社会生物の仕組みだ。それは小隊にも当てはまる。全員が全力で一つのモノに当たると不慮の事態に酷く脆い。集中してる最中、休んだり、サボったりする人物が必要なのだ。

 

 その光は、光線となって空間に一筋の線を描いた。

 自然と身体が反応したのは、本当に奇跡の産物だった。

 

「え?」

 

 閃光と化した鏃が、油断なくにじり寄っていく男――オスカルを斜めから突き破ろうと走った。何もしなければ、確実にその脳天を突き破り、彼の命は一瞬で潰えていただろう。

 

 ――アンヘルが突き飛ばさなければ。

 

 怪我を気にしないとか、そんな自己犠牲精神に薫陶を受け、飛び出したわけではない。大した事ないとか、侮ったわけでもなかった。見る必要もなく、ヤバイ代物なのは、簡単に理解できた。

 

 それでも、飛び込んだ。分かっていて受けたほうが、さほどマシだろうと。

 

 次の瞬間、全身の毛が逆立つほどの冷気が肩口から全身へと広がった。

 激痛。耐えることのできない、電流が身体を駆け巡った。激しく叫びながら、地面を転がる。痛みで視界が真っ赤となった。

 神経を剥ぐような、凌辱感が全身を走った。鋭い痛苦が半身を襲う。遅れて、魂すら溢れそうなほど、大量の出血。苦しすぎて呼吸すら叶わない。無様に倒れこんだ。

 

「大丈夫か、アンヘルッ!?」

 

 オスカルの鋭い悲鳴が間遠に聞こえた。即座に彼が抱き起す。矢が肩から突き刺さり、鎖骨あたりから飛び出ていた。

 

 まともに答えることすらできない。抱きおこされるのにも苦痛に感じる。クナルは冷静に周囲を観察していた。

 

「は、なにをっ、失敗っ? ――わ、わかりました。指示に従いましょう」

 

 正面でドラクルが耳に手をやり、一人芝居のように頷いている。最後に同意を残すと、影のように消えた。

 

「アンヘルッ。早く、早く治療するからなっ」

 

 オスカルの声をどこか他人事のように聞いていた。此処からは、治療院までかなりの距離がある。召喚できれば、生存可能だが、水色の矢が、まるで毒のように全身を蝕んでいた。

 

 ミスったなぁ、という思いが、胸をよぎった。

 身体は不随意となる。アンヘルの意識はしだいに遠のいていった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 軍人の役割とは、得てして不条理なものである。オスカルは、負傷した候補生たちを、オスゼリアスの治療院へ間一髪運び込めたことにホッと胸を撫で下ろしていた。

 

 夜は更け、そして日が昇ってからすでに半日以上経過している。医師が疲れた表情で、なんとか峠を越えましたという宣言を聞いてから、待合室を後にした所である。

 

 それにしても、なんという生命力だろうか。オスカルは、候補生の分を遥かに超えた生命力に、侘しさのようなモノを覚えていた。

 

(節穴だった、のだろうな)

 

 候補生の中には、己の出自や交友関係の不確かさから、能力をひた隠しにする人間が少なからずいることを、オスカルは理解していた。そして、それが、彼らなりの自己防衛だということも。人はすぐに甚助を起こす。目をつけられた候補生の行末は、教官としてもっとも危惧すべき事態だった。

 

 ある候補生をオスカルは永遠に忘れられない。士官学校に勤めて、二年目の候補生だった。その少女はソニアのような、気が強く、そして上昇志向に溢れた壱科生だった。それがある上科生の目に留まった。曲がった事が嫌いな女性候補生は、班長へ事あるごとに噛み付いた。班長の利己的な方針に噛みつき、特科へ忖度したような思想を許さなかった。彼女には信奉者も多かった。美しく、そして強い少女だった。オスカルはそんな彼女に、失ったエミリアな面影を時折見ていた。

 

 若く、未熟だった。指導教官でないなど言い訳にもならない。サインを見落とした。級があがり、時折男性に怯えた視線を送るようになった彼女。終着はあっという間だった。三回生に上がり、小隊員の交代が可能になると、一気にそれは噴出した。便所。其れが渾名だった。詳細は何も知らない。当時のオスカルには己の業務で手一杯だった。いわく、頼めばやらせてくれる、とか。どんな、プレイでもやりたいほうだい、とか。すべて後から聞いた噂だ。彼女の死は、訓練中の事故で片付けられた。ただ、筆舌にし難い苦痛を味わったことだけは事実だった。

 

 権力や政治、それが軍と切っても切れない関係なのはオスカルも理解していた。綺麗事を騙った所で、暴力に訴える勢力が力を持つのは、もはや定めである。だからこそ、士官学校にまで持ち込まないでほしい。それが、オスカルの願ってもやまない理想の姿だ。

 

 大それた、身のそぐわない思想を掲げている。自覚はあるのだ。似合わないことをしている、と。だが、候補生たちが若い頃から政治に取り込まれ、能力のすべてを曝け出さずに、ひたすら貴族という上官の顔色を伺い続ける養成校が、果たして国家機関として正しいあり方なのか。アンヘルのような、才能のある候補生が、力を隠し、講義でも手を抜く士官学校に果たして未来はあるのだろうかと。オスカルは嘆かずにはいられないのだ。

 

(エミリア。まだ、君を救える世界は遠いみたいだ……)

 

 息を漏らすと、士官学校の門を(くぐ)った。まったく一睡もしていないため、目の縁に隈ができていた。纏う装束はくたびれている。が、それ以上に憂鬱な気分だった。

 

 誰もいなければいい。そんな面持ちで十三会議室――七八小隊がよく使用する――を覗いた。

 

「教官。お疲れさまであります」

 

 伺うようにして会議室へ顔を出すと、ユーリ候補生が立ち上がり敬礼した。中には他に、ソニアとエルサの姿もある。彼女らも敬礼した。

 

「ああ、座ってくれていい」

 

 場の空気は、見違えたように落ち着いたものだった。ソニアのなり振り構わない姿勢は消えており、他者の意見を受け入れる余裕があった。

 エルサもいつぞやの傀儡ではなく、意見を述べる勇気を持てていた。ユーリにくっつくように、というのは穿過ぎだろうか。彼女はチラリチラリと事あるごとに、彼の表情を窺っている。

 

 オスカルはボリボリと頭を掻いた。彼らが合同小隊を組んで迷宮探索に挑むことは事前相談で知っている。水を差す事実は告げたくなかった。

 唇がまごついて、無意味に動いた。言わなければならない。アンヘルは自分を救う為に、犠牲となったのだ。指導教官がねじ曲げることは許されなかった。

 

「まあ、そのなんだ。どうだ。合同小隊のほうは、上手くいっているか?」

 

「今まで例にない事ですので、完璧とは行きませんが。しかし、やり甲斐はあります。必ず成功させて見せますよ」

 

 ソニアは人差し指で唇をなぞりながら、薄く笑った。攻撃的な印象が先行するが、こうやって優しげな目をすると、短い黒髪に唇が映えて、酷く柔和にみえた。こういう一面を候補生たちに見せられれば、印象をガラっと変えられるだろう。

 

「それよりも、教官。今日はなにか御用でしょうか? もしかして、合同小隊のほうに何か不具合でも……」

 

「いやっ! そんなことは、ないよ」

 

 オスカルは慌てて手を振った。不自然な態度だっただろうか。ユーリから尋ねられるのははじめてだった。

 

 全員を見渡した。引き締まった表情に、場の空気が一気に締まった。候補生たちも顔を強張らせた。

 

「その顔は、愉快な報告ではなさそうですね」

 

 ソニアが唾を飲んだ。白い喉がゴクリと鳴った。

 

「そうだ」

 

 オスカルは言った。拳を握りしめた。

 

「明日の合同小隊による迷宮探索。君たち七八小隊の候補生アンヘルは演習に参加できなくなった。無論、君たちに瑕疵があるわけではないので、評価が下がることはない。ただ、彼が参加できない事実は通達しておく」

 

「ええっ。どうしてですかっ!?」

 

 ユーリの悲鳴が響き渡った。しかし、其れだけだった。

 

 オスカルの想定した反応とはかけ離れていた。ソニアやエルサは興味なさそうにボンヤリとした視線を向けていた。ユーリは反応を示さない仲間たちを見比べてから、不思議そうな顔をした。

 

「あぁー…………質問はないか?」

 

 寧ろオスカル側が遠慮してしまった。無関心が滲んでいる。ソニアは慌てた様子のユーリを一喝して黙らせると、静かに尋ねた。

 

「なぜ、参加できないのでありますか」

 

「申し訳ないが、詳細は述べられない」

 

 オスカルは軍人らしく、強い語尾でいった。

 

「ただ、現在負傷中で、数日は復帰の見込みはないとのことだ」

 

「はぁ、そうですか。まあ、訓練中の負傷だとは思いますが。一応、彼も努力をする側の人間だったのですね。てっきり、お坊ちゃん育ちのなんちゃって候補生だと思っていましたから」

 

 ソニアは冷厳に言った。そこには、同じ窯の飯を食う仲間に対する親愛の情はまるでなかった。エルサも苦笑いしているが反論の兆しはない。

 

「ソニアさんっ。そんな言い方っ」

 

「別に構わないでしょう。そもそも、彼は荷物持ち。居ても居なくとも、結果は変わらないでしょうに」

 

「そうですよユーリさん。悪く言うつもりはないですけど、やっぱり。ほとんど打ち合わせにも来ないんですから」

 

「けど……」

 

「足手まといがいなくなった。それでいいでしょう?」

 

 ユーリの声が尻すぼみとなっていく。オスカルは事情を知っているゆえ、反論を口にしたいが、生憎負傷の原因となった任務は最優先秘匿事項であった。

 

 ソニアは再び席に着いた。彼女は顔だけを向けてきた。

 

「教官。教えていただきありがとうございました。ですが、迷宮探索は予定通り実行したいと思います」

 

 それを最後にソニアは机に向かった。エルサもペンを取り出した。刺々しい雰囲気はまるでなかったが、それがやけに寂しいことに思えた。ひとり戸惑っているユーリを、オスカルは手招きして部屋の隅に呼び寄せた。彼もやるせない感情を持て余していた。

 

「……アンヘルは無事なんですか?」

 

「ああ、かなりの重症だが、命ある状態で治療院に運んだ。出血が多くてかなり危険な状態だったが、もう一命は取り留めたよ。数日もあれば退院できると思う」

 

 治療院の全力を尽くした治癒師による回復は、大神祇官ドミティオスの好意によるものだ。ただ、アンヘルを蝕んでいるのは、傷だけではなく、矢に込められた水の魔力痕のような残滓のせいだ。それが抜け切るのに、数日間は必要となる。

 

 オスカルは皇帝派として辣腕を振るうドミティオスのことを好ましく思っていない。まるで力を持たず、それゆえに市民からの支持は分厚いが、そんなことは関係なかった。彼に至らぬ点はなくとも、反貴族的思想を掲げるオスカルにとって、皇族とは敵である。そんな彼が、力の限りを尽くして生徒である候補生を救ってくれたことに微妙な気持ちを隠し切れなかった。

 

「じゃあ、お見舞いに行ったほうがいいんですかね」

 

「……それはどうだろうな。一応、最高峰の治療を受けているから、恐らく迷宮から帰った時は、ピンピンしていると思うぞ。多分、明日の迷宮探索を頑張ったほうが喜ぶんじゃないか?」

 

 オロオロするユーリを前に、オスカルは腕を組んだ。眉は顰められている。

 

「なんでしょうか?」

 

 教官が何かを聞きたそうにしていることに、目ざとく気づいたユーリは、そう尋ねた。

 

「アンヘルのことを、知っているのか?」

 

 歯切れの悪い台詞に、ユーリはぽかんとした表情を浮かべた。首を捻る。目はオスカルを見据えていた。

 

「ええっと、何をでしょう……」

 

「その、なんだ。あいつのその力というか――」

 

「――隠している実力、のことですか」

 

「知って、いたのか」

 

 まごついているオスカルに対してハッキリと告げた。

 

「そのどう思ってるんだ? いや、他の奴は知っているのか?」

 

「どうなんでしょう? あの反応を見ると、多分みんな知らなんじゃないでしょうか。いえ、ボクも詳しく知ってる訳じゃなくて、多分そうなんだろうな、って気がするだけですけど」

 

 ユーリはからっとした表情を見せた。

 

 彼に迷いは伺えなかった。

 

「でも、別にいいんです。本気を出さなくても。本当に危険に陥った時、彼は見過ごせるような冷血漢じゃないって、ボク、知ってますから」

 

 オスカルはその言い切る姿勢に、途方もない羨望を覚えた。

 

 信頼関係を築くには、まず己が信頼しなければならない。常識だ。しかし、簡単ではない。上に行けば行くほど、人は裏切る。扱うものが大きくなればなるほど、大義の為と嘯いて、人は容易く裏切りを働くのだ。オスカルはある確信を得ていた。なぜ、このバラバラだった小隊が急速に固まったのか。それはユーリという中核が力を発揮したからだったのだ。

 

 ――士官学校も、捨てたもんじゃないな。

 

「オスカル教官?」

 

 ニヤケ顔が堪えられなかったのを、ユーリに見咎められた。頬が急速に赤らむ。誤魔化すようにして話題を変えた。

 

「そういえば、ユウマとエセキエルはどうした。休みか?」

 

「ユウマさんは、疲れたとかで身体を動かしに行っています」

 

 ユーリは窓の外、演習場を見た。

 

「エセキエルさんとは、その恥ずかしながら、上手く行っていなくて――」

 

 言いにくそうな、歯がゆい顔になっていた。

 

 まだ、順風満帆とは行かないか。

 オスカルが若人たちを微笑ましく見た瞬間、扉の外で慌ただしい足音が飛び込んできた。

 

 バンと開かれた扉。そこから飛び込んできたのは唐紅の髪を上下に揺らして息を乱している少女、ユウマだった。彼女はぜひぜひと呼吸を整えると、悲鳴のように、凶報を告げた。

 

「ちょ、聞いたッ! 計画がなぁ――!」

 

「ちょっと落ち着きなさい」

 

 ソニアが鋭くいった。いつものやり取りである。ユウマは呼吸を落ち着けてから、息を大きく吸い込んだ。

 

「えっと、今日合同小隊を組む人と偶然あったら、その、計画が稚拙過ぎて俺たちは参加できないっていわれてなぁ。まだ計画は提出してないんよねぇ?」

 

「ユウマさん? なにを言ってるんですか。あなたも先ほど一緒に練っていたじゃありませんか。ほら、ここに……」

 

 ソニアは無言だった。ひとり腕を組み、じっと目を瞑った。ユーリとエルサが騒ぐ中、思考を巡らせ、そしてカッと目を見開いた。バンと机を叩き立ち上がった。

 

「エセキエルッ!? あの野郎、やりやがった」

 

 その響きは、地獄の閻魔すら凍りつくほどの迫力を伴っていた。

 

 

 



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第十五話:途絶

「検査しましたが、ほぼ完全に回復していますね。明日には自宅療養でも構わないだろうと先生から伝言を預かっています。よかったですね」

 

 胸元の体温計を取りだしながら中年の看護師が声を掛けてきた。サラサラと記録用紙に記述している。白衣の天使というにはあまりにも年季の入った女性に少しばかり気が削がれた。

 

 意識が回復したのは入院してから次の日。予定では所属する七八小隊の迷宮探索二日目である。

 

「そういえば午前中、来客がありましたよ。茶髪の綺麗な女の子でした」

 

 看護師が敷布を畳みながら背中越しに茶化してきた。寝台に横たわりながら曖昧な返事を漏らす。

 

(茶髪となると、エルサさんかなぁ。でも迷宮探索中だしなぁ)

 

 入院中出会った人間はオスカルだけだが、眠っている最中に訪ねてきた人物が他にも居るかもしれない。なんとなくだが、クナルは訪ねていないだろうなという確信がアンヘルにはあった。

 

 看護師が、

 

「あの、候補生なんですよね」

 

 と、正面に向きなおって聞いてきた。彼女は不安げに膝を整えていた。

 

「息子も候補生なんです。時折、弱音を吐くものですから心配で。少し相談に乗ってくれませんか?」

 

「いいですよ。何回生なんですか」

 

「二回生の二科なんですけど」

 

「ゆ、優秀なんですね」

 

「ふふ、そうですか」

 

 一般に、士官学校に通う生徒はエリートだと思われている。危険がないとまでは行かないが、十分に安全装置を付けたうえで実施される管理迷宮での鍛錬。先進的かつ実践的な知識の数々。ともすれば士官は破壊の化身として恐れられるが、敬意を表する一般市民のほうが多い。

 

 世は法律の整っていない中世だから、地方では「力こそが正義」と荒っぽい手法で舵取りをする人も多い。適切な倫理観と能力を併せ持った士官候補生上がりの軍人は頼りになる。引退後、警備役などの仕事を請け負う軍人の数がその商会の信用度の指標となっているくらいだ。

 

 十分ほどの会話だった。基本的に同意を示すだけだ。「危険ですよね」と問われれば「そうだ」と返し、「やり甲斐はありますよね」と問われれば「そうだ」と返した。まるで生産性がない。ただの共感装置だ。だが、悩み相談の本質とは如何に説得力のある人物が同意してやるかにかかっていると思っているから、アンヘルはただ頷きつづけた。

 

 その後、ひたすらに不味い病院食をかき込んだ。疲れから窓の外を眺めたアンヘルは見覚えのある顔を発見した。大神祇官たちだった。

 

 

 

 

 

 大神祇官は部下のアグリッサとイズナを連れて見舞いに訪れた。

 

 服装は司祭の帽子に黒衣という比較的目立たない格好だったが、見れば素材の良さがまるで違う。拵えの良い黒地が白金の指輪に映えていた。イズナも狩人服とは違う黒の礼服だ。キョロキョロと視線の定まらない様子と相まってまるで似合っていない。アグリッサだけがいつもと変わらぬローブ姿だった。

 

 イズナが一般的な見舞いの言葉と共に持っていた果物籠を置いた。

 

「元気になれなのですぅ」

 

 能天気な言葉に空気が固まる。頭を抑えたドミティオスが小さく言った。

 

「退出していてくれないかね」

 

 イズナはぶー垂れながらもアグリッサに引きずられ、病室を後にした。

 

「すまない。イズナは色々ある子でね」

 

「色々、ですか」

 

「特殊な出自ということもあって、主人のアグリッサも配慮せざるを得ないのだよ」

 

 ドミティオスが小さく笑みをこぼす。静謐な白い病室で、暫時の沈黙の後、老司教が口を開いた。

 

「まずは感謝を述べたい。君たちの働きによって無意味に候補生の命が失われずにすんだ」

 

「私はただ教官の指示にしたがっただけです。護衛という観点に立てば、責められても仕方ありません」

 

 アンヘルは照れ臭くなって窓の外を眺めた。褒められた人生を送っていなかったから、真正面から賞賛を受けるとどうにもむず痒くなる。逸らした視線の先で見覚えのある商会印の馬車が入ってきていた。

 

「そんなことは言わないでくれたまえ。護衛としては落第かもしれないが、そもそも何の為の護衛か。こんなつまらぬ儀礼剣に価値などないさ」

 

 ドミティオスはアグリッサが置いていった袋を開くと、黒檀の箱をぱかりと開けた。中には黄金に輝く剣があった。鞘は精緻で唾彫りは壮麗だ。だが、それだけで、魔道具特有の波動は一切感じない。アンヘルは首を傾げた。

 

「やはりわかるかい。ふふ。私にはまったくわからないんだがね。――宝剣と呼ばれるこの魔剣はすでに力を失っている。それはそうだろう。魔剣を誰が修繕できるというのだね。これは只の儀礼剣。歴史的価値ぐらいしかないのさ」

 

 手元で詰まらぬそうに弄ると再び箱の中に戻した。

 

「よろしかったのでありますか?」

 

「なにが」

 

 大神祇官は窓側に回ると木椅子へ跨る。瞳は外の風景を眺めていた。

 

「宝剣の秘を教えてしまって」

 

「構わないよ。万が一君が言い触らした所で信じる者はいない」

 

 ひび割れた物悲しい表情を浮かべて、虚空の瞳を湛えていた。その妙に威厳のある発言が、アンヘルのなにか封じている所を無遠慮に触れた。

 

「さて、そろそろ本題に入ろう」

 

「なにか分かったのでありますか?」

 

「市内で横行する吸血鬼騒動について手の者を動かしてみた」

 

 大神祇官はミスラス教におけるトップの座である。内々に伝わる執行官の能力を十全に使えるならば魔の眷属である吸血鬼について情報を得ることは可能であるし、それを簡単に告げるということは執行官たちが動いていないことの証明でもある。

 

「やはり」

 

「そのとおり。闇の眷属、吸血鬼の仕業ではないらしい。唯一神であるヤハウェやオーディンに誓おうじゃないか」

 

 司教にあるまじき宗教問題を題材に、指で此方を指し示しながら情報を開示した。ミスラス教は各部族の宗教を飲み込み、ミックスすることでその版図を拡大させた超闇鍋教であるから、役割どころか唯一神のニ柱三柱同立は珍しくない。しかし、それはもはやブラックジョークの域を超えた禁句であった。

 

 アンヘルは返しづらい冗句に脂汗を滲ませながら、続きを待った。

 

「恐らく今回の事件。魔剣がらみだろう。魔剣の能力は一応の報告を受けているが一致しない可能性はある。人ではなく世界を相手に幻術を掛けるなど聞いたこともない大魔法だ。魔剣の線から探るのが唯一の方法だろう」

 

「魔剣、でありますか」

 

 確かにあの男はひけらかすように特殊な光を放つ剣を掲げていた。魔剣の線は追及する根拠が十分にある。

 

 どうするかと考えていると、ふと、気になったことがあった。所々出てくる、

 

「信じる」

 

 という言葉に、どこか自嘲の意味合いを感じた。そもそも、彼は司教の癖に世界を斜に捉え、神すらも冗談にする洒脱さがある。アンヘルは素直に思ったことをそのまま尋ねた。

 

「猊下は、神を信じていらっしゃらないのですか?」

 

 窓の外を見上げるその背中は寂れていた。

 

「信仰の布告者にして守護者たる大神祇官の私にそんな涜聖を尋ねるのかね? ならば、問おう。君こそ神の存在を信じるのかね。塗炭の苦しみを糧に進んだ君自身が」

 

 発された言葉は厳格な声となって空から降ってきた。声が実態を伴い、圧力となって人々を押しつぶす。まるで神託のように厳かな雰囲気を纏っていた。

 

「今回の君の働きに対して答えよう。私は、神など信じない。そもそもありはしないのだ。我らが信仰を捧げるべき尊き存在など。いや、神は実在するのだがね。だが、僧侶や教会が謳う苦難や神の試練は存在せず、またこの世の悲劇や苦悩を作りだした張本人でもない」

 

 アンヘルがこの地へ召喚された理由はわからない。ただ、過去はすべて悲惨なものだった。神を呪った。それは嘘偽りない。なぜ、なぜ我らを苦しめる。信じるものは救われる。信じずとも善を成せば、正しき道を歩めば救われてしかるべきだろう。

 

 目の前の男は、司教にありながら神を真っ向から否定していた。アンヘルは知らずのうちに圧倒されていた。

 

「私は立場もあって世界の細かな事情に通じている。だが、君は違う。何も知らぬし何の洞察力もない。幸せなことだよ、それは。知りすぎて得することなど一つもない。だが不幸だな。いずれ君は知ることになる」

 

「それはどういう」

 

「神の実在を知る、ということさ」

 

 まごうことなき神託だ。同時に憐憫の色を伴っている。アンヘルにはまるで心当たりがないが、たしかに彼は憐んでいた。

 

 静謐が両者の間を取り巻く。アンヘルは完全に黙したまま、じっと己の膝を見つめていた。大神祇官は立ち上がり、穏やかな表情を浮かべた。

 

「私からも質問なのだが、クナル君とは仲良しなのかね?」

 

 ふっと厳格な雰囲気は消え、どこか雑談めいた会話になる。先ほど以上の不快な内容にアンヘルは苦虫を噛み潰したような顔となった。

 

「良く聞かれるのですが、私はその全員に医者でも紹介したほうがいいのでしょうか?」

 

 大神祇官はその不作法な態度に目を丸くしただけで、逆に笑みを深めた。

 

「彼の誘いで依頼に参加したんだろう?」

 

「彼は脳筋で、戦闘狂で、暴力的で、狂人ついでに、女にモテるという点を除けば良い友人だからです。これらを除いたとき、何が残っているのかは知りませんが」

 

 はじめて心の底から笑ったというような、愉快そのものといった声を腹の底から出した。腹を抱えてクックッと喘いでいる。恐らく今自分は筆舌にし難い不快そのものな表情を浮かべているだろう。

 

「いやぁ、愉快愉快。しかし、君もモテたいだなんて世俗的な嗜好を持っていたんだねぇ。ああ、新鮮だなぁ。まるで学生に戻った気分だよ。でも、心配しなくてもいいんじゃないかな。彼ほどは無理だろうけど、君は女性運に恵まれているほうだ」

 

 納得できない言葉に口を尖らせながら憮然としていた。そのとき、病室の入り口が控えめにノックされた。返事のする間もなくガラガラと扉が開かれる。

 

 入室してきたのは長い黒髪を靡かせている美しい少女アリベールだった。肩を怒らせながら登場した彼女は中に客人がいることを知るとすぐさま頬を染め、黙礼すると「後で来ます」とだけ言って去っていった。

 

「ほら、言っただろう。とても可愛い子じゃないか」

 

 パチっと片目を閉じられても寒気が先行するだけだ。茶目っ気の多いおじさんは始末に負えない。

 

「彼女は違います。ただの保証人です」

 

「そんな関係ではお見舞いになど来ないよ」

 

「ですが」

 

「それ以上の関係を望むなら自ら行動しなければ。異性へのお見舞いなんて相当親しい証拠だよ」

 

 大神祇官はそれを最後に、荷物をすべて手に持った。

 

「じゃあ、お暇させて頂こうかな。うら若きお嬢さんを待たせても申し訳ないしね。ああ、そうだ。退院するまでイズナを置いていくよ。こき使ってやってくれ」

 

 ひらひらと手を降って老司教は去っていった。アンヘルは病室の白い扉が閉まるまで、その背中を眺めていた。

 

 

 

 

 

「ちょっと、客人が居るなら言いなさいよ」

 

「そっちが返事も聞かずに入ってきたんじゃない」

 

 白いチェニックを纏ったアリベールは病室に入ってくるなり、我が物顔で病室の寝台の横に備えつけられた木椅子へ座った。扉の外からは、看護師や病人に向かって「警護なのですぅ」と叫びながらはしゃぎ回っているイズナの姿が見えた。迷惑顔の病院関係者たちが足早に去っていく。

 

 深窓令嬢たるアリベールはすでに車椅子を使っていない。日々のリハビリが報われ、今年に入ってから杖を使うことはなくなっているのである。足には上底の黒いブーツが光っていた。彼女が短い距離なら歩行可能な証明だった。

 

「もう怪我は良いの?」

 

「うん。明日には退院だって。だから大丈夫」

 

 そう、と冷然に言った彼女は右人差し指にクルクルと自分の直毛を巻きつけていた。両者に沈黙が降りる。

 

 突如として、アリベールは右手を振り上げると布団の下の太ももに叩きつけた。

 

「だいじょうぶ? はぁ? 意味分かってるの。貴方は運び込まれた一日あの世を彷徨ったのよ。それが大丈夫ですってぇ?」

 

「い、いたい、痛いです。アリベールさんっ」

 

 グリグリと押しつけた右拳を捻るようにして回転させてきた。中指の第二関節、それも尖った部位で太腿の肉が薄い部分を抉った。実際にはそれほど痛くないが、様式美として小さな悲鳴をあげた。

 

 その小芝居を数分続けると彼女がそっと手を引いた。鈍い痛みがいろんなものを誤魔化していく。アンヘルは底に溜まったものが押し流された気分となった。

 

「――ありがとう。君だよね。こんなに良い治療を手配してくれたのは。あと、この花。嬉しかった」

 

 素直に頭を下げた。チラリと上目で顔色を伺うと、決まり悪げな感情と羞恥の感情がない混ぜになった複雑な面持ちをしていた。

 

「私じゃないわよ」

 

「え?」

 

「だから私は何もしていない。士官学校がやってくれたのではなくて? 個室、最上級治療。士官学校の一候補生には過ぎた施しに思えるけれど」

 

 士官学校の治療は基本的に学内医療所があるが、衛生兵の訓練の場であり、基本的に至れり尽くせりの治療院とは違っている。またアンヘルが受けた治癒は相当高位の術者が派遣されたのか、今までの戦闘の傷が丸ごと消し飛んでいた。

 

「そっか、分かった」

 

 お見舞いの品である花に言及しなかった点には触れなかった。彼女の表情に気恥ずかしさが混じっていたからだった。膝の上で指を組む彼女を見やりながら話題を変えた。

 

「この前の魔剣のことだけど」

 

「そういえば話したわね。何か分かったの?」

 

 アリベールは身を乗りだす。ゆったりとした胸元から鎖骨が窺えた。ピタリと身体に張り付いた淡い色の下着の紐が小さく覗いた。

 

 ええっと、とか言いながらアンヘルは視線を窓の外に移した。童貞と笑われても仕方ない初心さだったが、どうにも大神祇官の言葉で彼女を意識してしまう。

 

「どうしたの?」

 

「いや、なんでも。魔剣について聞きたいんだけど大丈夫?」

 

「聞きたい? 私の願いは報告だったのだけど」

 

 ヒヤリとした声に変わった。物覚えの悪いアンヘルは試験前詰め込みに冷気を伴って覚えこまされたため、彼女の迫力ある顔が苦手だった。慌てて手を振って弁解する。

 

「その、必要なことなんだけど」

 

 訝しむように眉が寄っている。アンヘルは恐れ慄きながらも、汗を流しながらつづけた。

 

「軍のことだから言えなくて。けど、教えて欲しいんだ」

 

「なにをよ?」

 

「君の商会傘下で調査した魔剣。どんなものがあるの」

 

 アリベールは腰に手をあてて呆れてみせた。

 

「あのねぇ、知っていたとしても言えるわけないじゃない。情報漏洩で死罪になるわ」

 

「いや、そうなんだけど」

 

「そもそもすでに提出された情報は破棄したんだから――」

 

「でも、予備は隠してある。そうでしょ」

 

 アリベールはうっと詰まった。商会は大きくなればなるほど、保険を掛ける術に長けていることを分かっていたから聞いた。

 

 じっと睨みあう。譲るつもりはなかった。

 

 大神祇官から齎された情報が本当で、もしこれが魔剣を巡る権力闘争だった場合、なんの対処もなしにのうのうとして居ては命を失いかねない。あの男の奇妙な動きである。あの吸血鬼は宝剣奪取の他にオスカル教官殺害を目的にしていた。最後の矢もそうである。あれは、イズナばりの超高精度の射撃だった。去り際の吸血鬼の慌てようといい、裏に一手か二手控えているのはもはや必定である。

 

 アリベールは相手の折れぬ意思を瞳の奥に感じて、目を伏せながらため息を吐いた。

 

「何が聞きたいの?」

 

「とくに幻術関連の魔剣について」

 

「幻術、幻術ね。たしかイリュージョン・アックスと呼ばれる魔剣はあるわ」

 

「ううん。サーベル型の魔剣。ない、かな?」

 

「サーベルねえ。一応有ったわ。けれど光を放つだけの大した能力がないと判断されたモノだった。そう聞いているわ。あと知っているのは水を作りだす槍。私が知るのはその三つだけよ」

 

 光を放つサーベル型の魔剣。それが世界に幻術を掛ける大魔剣だということは、未だ知れ渡っていない可能性がある。

 

 アンヘルは掴みかけた尻尾を前に、ごくりと唾を飲み込みながら、ゆっくりと尋ねた。

 

「その名前は?」

 

「魔剣蘇芳。発光する色が『花蘇芳』に似ていることから名付けられたそうだけど、でも花の名前を剣につけるなんて変な話よね。騎士団側のゴリ押しだったような記憶があるけれど」

 

 アリベールが不可思議そうに首を捻る。だが、アンヘルにあったのは確信だった。

 

 ――いや、それだよ。

 

 薄い紅色の花を咲かせる花蘇芳。その花言葉は、

 

「裏切り」

 

 である。アンヘルは渋る彼女に詳細な情報を頼んだ。

 

 この盛大な魔剣騒動がひとつのうねりとなって収斂していく。姉妹と遊戯の劇が佳境を迎えようとしていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ユーリたち七八小隊を主軸とした合同班の面々は中間点の第二十層の主を撃破し、さらに進軍。最終層付近である二十九階層を進んでいた。

 

 合同班の面々は七八小隊を入れて十五人。他所の小隊四班から十人の補充人員を追加して、迷宮攻略に挑んでいる。

 

 集団の規模が大きくなると、必然的に纏めることは困難となる。現在、迷宮攻略が開始してからすでに十七日経過しているから、最終層主人復活想定日まで後僅かだ。皆切迫した状況でも集中力を切らさずにいた。

 

 パチパチと油が弾ける音を聞きながら、ソニアとユーリはランタンの前に座り夜警を務めていた。近くには押し黙ったエセキエルの姿もある。他の班員は天幕の中で寝入っていた。

 

「エセキエルさん。もう上がっていいよ」

 

「バカにしているのか。俺は仕事をしっかりやるんだ」

 

「だけど」

 

「他の奴と一緒にするな」

 

 この空間を諫めるために提案したが、相手を意固地にさせ、さらに事態を悪化させただけだった。苛立たしげにがじがじと干し肉を齧っているソニアが罵声を浴びせた。

 

「言うじゃない。元々二十五人の予定だった合同班をあなたの軽率な行動のせいで十人も減らして、それで自分の仕事はするですって? いい加減にしなさい」

 

「はっ、よく言うぜ。俺はお前と同じ行動を取っただけだ。むしろ感謝してもらいたいね。俺のお蔭で無事、踏破目前まで辿り着けたんだ」

 

 怒りからか彼女の紅色の唇が曲がる。目を三角に尖らせ腕を組んで立っているエセキエルを強烈に睨みつけた。

 

「あなたの計画じゃたどり着けなかったわ。もう忘れたの? 班長の機転がなければそもそもこの合同班は解散だったわ」

 

 この合同班を再編するにあたり、エルサが涙ながらに合同小隊の結成に渋る他班の面々を説得したのである。命が懸かる迷宮探索である。小隊内すら纏められない班長を誰が信頼できるというのか。彼女の心血を籠めた説得がなければ、計画は見送りになっていただろう。

 

「それはそうだろ、まとめるのが仕事なんだ。そっちこそ自分が実行班長になったくらいで尻尾を振りやがって。やっぱそんなもんだよな。自分が上の立場になりゃ、自分のやったことは棚に上げてすぐにこっちを責めやがる。女ってのはすぐにそれだ」

 

「だからってやって良い事と悪い事があるでしょう。今回は合同なのよ。班内の主導権争いとはわけが違うわ!」

 

「そうやってすぐ自分を正当化する。思い返してみろよ。俺のやったこと、おまえがやったこと。違ったか? 違わないだろ。厚顔無恥って言葉はおまえにぴったりだな」

 

 ソニアは激昂して立ち上がった。ギロリとした鋭い瞳が相手を射抜かんと尖っていた。

 

 それに怯んだ様子をまったく見せず、エセキエルは皮肉げに口を歪めながら背中を壁につけた。

 

「そらそら、気に食わないことがあるとすぐ暴力だ。さすがは壱科。別にいいぜ。ほら、殴れって。出発前みたいに好きなだけ殴れよ」

 

「言われなくたって。あなたなんかここで屍に変えてやるわ!」

 

「さすが壱科。惚れ惚れするくらいにクソ野郎だな。ほら、やれって。俺にお前の底を見せてくれよ」

 

「もうやめてくださいっ。今は夜警の途中ですよっ!」

 

 ユーリは拳を振り上げるソニアの細い腰に抱きつきながら、静止を図った。

 

 フーフーと吐きだす彼女を尻目にエセキエルが続ける。

 

「お前のこと調べたよ。はは、笑っちまったな。結構有名なとこの出身だが、その実ただの孤児の養子なんだって? 必死になって軍で成り上がろうとしているんだろうが、ああ、醜いねえ。そんなに人を蹴落としてでも成り上がりたいもんかね。俺には――」

 

 ソニアがその無遠慮な言葉に声を失っているとき、ユーリはすでに動きだしていた。

 

 身体を捻って、右拳を相手の顔に向かって突きだす。殴られた側は尻餅をつきながら背を壁に打ちつけた。

 

「おまえッ!?」

 

「あなたの非難合戦には興味がありません。けど、もし仲間を調べて悪く吹聴するのであれば、ボクは絶対にあなたを許しません」

 

 エセキエルは両腕を突いて此方を睨む。だが、ユーリは毅然と睨み返した。譲れぬ一線、彼はそれを超えたのだ。常に弱々しく見られる自分でも負けるわけにはいかないときがある。

 

 迷宮内の静かな夜には似つかわしくない騒音になんだなんだと班員たちが目を覚ましてくる。

 

「今日はもう、下がってください。残りは、ボクたちでやりますから――」

 

 起きてきた班員にユーリはなんでもないと釈明した瞬間である。

 

 うおぉぉんと吠え声が響き渡った。それは犬の遠吠えに似ている。遠方まで轟く叫びだ。全員がハッと顔つきを変え、姿勢を低くした。ソニアが鋭い動きで焚き火を消し、視界が暗がりに包まれる。薄暗いランタンの光の中で、ユーリは全身を緊張感で満たした。

 

「何、ですか。いまの?」

 

 エルサがユーリの袖を掴みながら怯えた表情で言った。

 

「おい、いまの」

 

 エセキエルも警戒心を露わにしている。「やばくないか。何、だ? 獣? だが、それにしては」と、唾を飲み込みながら、手で口を拭った。ユウマも目を見開いて脂汗を流している。

 

 他の小隊の面々も冷や汗を流して、ヒリつくような刺々しさを隠そうともしない。それでも、誰一人として急に動きだしたりする者もいなかった。一年の訓練を乗り越えた士官学校候補生に軽率な行動をするものは一人もいない。調査を開始する。全員が無言の内に胸中を一致させた瞬間である。

 

 爆発的にうねるような吠え声が連鎖した。獣の吠え声がまるで世界を支配するかのように木霊した。強烈な共鳴にユーリは咄嗟に耳を塞いだ。

 

「あかん、これはっ!」

 

 ユウマの息を飲む音に続いてどすどすと恐竜の進撃音のような足音が響いてきた。地を揺るがす爆音が此方に向かってくる。獣の吠え声も同様だ。

 

「に、逃げよう!」

 

「何を言っているッ? もう最終層は目前で」

 

 エセキエルの反論を無視して、エルサとソニアの腕を掴み「立って、ほら」と立ち上がらせる。

 

 逃げねば、逃げねばならない。死んでは意味がないのである。

 

「いったん一層下がって様子を見ます。まだ迷宮ボス復活予定までには二日もある。それよりも態勢を立て直さないと。ソニアさん、指示をください」

 

「――そうね。ユウマは先行して道を切り開く。他の小隊は即座に集められる物資を回収。班長はそこの指揮を。ユーリとエセキエル、それから第五六小隊は殿を勤めてっ」

 

 鋭い指示と同時に候補生たちが蜂のように飛びだしてく。ユーリたちは足音が響いてくる方向に向かって抜刀し、相手にそなえた。

 

(落ち着けっ。ボクたちは二十層のボスは倒したし、湧きも回避した。十五人もいるんだ。真っ当に対処すれば)

 

 少しづつ飛びだしてくる小鬼をソニアが一刀で処理する。他の面々も危なげなく、飛びついてくるモンスターたちを葬り去っていった。

 

「装備の回収終わりましたっ。もういけます」

 

「撤退。エルサ班長に続いて!」

 

 ソニアの掛け声と共に全員が駆けだした。ソニアが、エルサが後方に魔導銃を向けながら駆けぬけていく。ユーリは時折振りかえったり全体を確認しながら、時折不安定になる箇所へ位置を移した。

 

「やばいで、これ」

 

 ユウマが呟くようにいった。

 

 わかる、わかるのだ。小鬼が、スライム生物が、大鬼が無尽蔵に飛びだしてくるのだ。まるで、卵から生まれでた小鳥が、餌でも欲するかのように。曲がり角から、そこいら中から、モンスターが湧いてくる。世界を揺るがすような足音はどんどん大きくなっていった。

 

 一個の軍団が眼前で立ち塞がるように壁を作った。

 

「ユウマさん、ぐるぐるタイフーンッ」

 

 ユーリは叫んだ。

 

「はぁぁぁあ」

 

 ユウマは戦鎚を身体を軸に回転させながら敵の塊に突貫。血肉を周囲に撒き散らしながら、モンスターを壁や床の染みに変えていく。悲痛な悲鳴を轟かせながら屍となっていくモンスターたち。それ以上に悲痛な怒声を聞きながらユーリは敵を殲滅した。

 

 しだいに小隊はまとまりを欠いていく。基礎体力豊富な者、脚力に不安のある者。ユーリは全体を均すようにして逐一援護に入るが、焼石に水である。

 

 ユウマが突出して、エセキエルも周りが見えていない。ソニアやエルサは必死になって集団を纏めようとするが、合同小隊の弱みか、突発的事態に遭遇すると各小隊が個別に行動を始める。個人で参加している人は孤立して取り残されていった。

 

(諦めるな、諦めるな、まだ道は)

 

 弱る心を奮い立たせる。これじゃダメなのだ。イメージしろ。アンヘルを。あの動揺しない彼の姿を。

 

 無能、雑魚、そう言われてきた。強くなれ、強くあれ。そう言われて無理やり入学させられて、そして戦っているけれども。

 

 腕が痛む。切られたのか。関係ないと剣を強く握りしめる。弱る心が強く一本の芯となっていくのを感じた。

 

「ソニアさんっ。二十八層まであと」

 

「もう少し!」

 

「みんなっ、まず壁に寄って。先頭はユウマさんを中心に。後方は余裕のある人たちがカバーして」

 

 傷のない者など一人もいない。だが、ユーリの声に全員が反応を示し、一つの集団となっていく。続くソニアの指示で集団が再び一個の生物となった。

 

 実際の観察では、モンスターたちの攻勢も対処し切れぬほど強力ではない。数は多いが、やけに勢い走った若さのような必死さがある。また動きはバラバラで、湧き特有の無秩序さや無統制さがありありと映る。意外にも臆病で、ユーリたちが攻撃を加えると、怯むモンスターも少なくない。

 

 相手とて生物だ。軍隊のように己の死によって仲間を助けるような集団特有の冷徹さが微塵も窺えない。野生そのもの。容赦なく殺害していく候補生に対して、その牙は未熟すぎた。

 

 無論、遁走するユーリたちにも余裕はない。常に逃げるほうが疲労も緊張感も大きいし、強化術と持久力は相性が悪いから徐々にリスクは増大する。パニックにならなくなったことを鑑みても、いずれこの均衡は崩れさるに違いなかった。

 

「見えたわッ! 階段よ。早く」

 

 ソニアの指ししめす先。そこには石造の階段があった。敵はすでに一掃されていて、道は切り開かれていた。希望が見えたからか運動神経の悪い他の小隊の人が転ぶ。

 

 ユーリは、

 

「大丈夫っ。焦らないでっ」

 

 と叫びながら、後方から来る敵に備えた。

 

 階段は人がひとり通れる幅しかない。身を屈めながら、一人づつ降りていく。階段前の広場で一陣を作り上げながら敵を迎え打った。

 

「音、音がどんどん大きくなります」

 

 恐竜のような足音は留まることを知らない。早く、早くという焦燥の鐘を鎮めながら、ユーリは必死に冷静さを保たせた。

 

「キャッ――」

 

「エルサさんッ」

 

 エルサが腕を抑える。悲鳴を上げながら蹲った。

 

 駆け寄ると、彼女の右腕に矢が貫通しているのがわかった。ユーリは彼女を助け起こしながら同時に敵を薙ぎ払う。血潮で顔を汚しながら前方を睨みつけた。

 

「ユーリ、さんっ」

 

「下がってっ。ここはボクが」

 

 しおらしげに呟いた彼女の声を間遠に聞きながら、再び場を盛り上げる。ひとり、ふたりと消えていくとしだいにモンスターの増加も絶えていった。

 

 だが、ユーリたちにあったのは、なにか恐ろしい前兆のような逼迫感だった。

 

「音、止まったなぁ」

 

「油断しないで。敵はまだ来る」

 

 残り八人。必死に敵を処理しているその最中、のっそりとしたその腕が、曲がり角の向こう、そこから覗いた。

 

 その巨大さに人々は愕然とした。

 

 女の胴体ほどもあるその腕の先には、背丈は優に三メートルを超える。半裸の怪物が大きな足音を立て歩み寄ってきた。

 

 頭頂部は巌のような鋼鉄の兜に覆われ、上半身と下半身を動きの邪魔にならぬ程度の鉄板で守っている。腰にはチャンピオンベルトのような、円形のベルトを帯びていた。張り出した肩の筋肉は巨岩を思わせる発達度合いで、腹筋は鉄板のように硬く、そして赤みを帯びていた。のっしのっしと熊のように歩くその姿勢は間抜けそのものだが、しかし息を飲むほどの威圧感がある。特筆すべきは巨大な右腕のモーニングスターだ。充血しきった血管の走る筋肉質な腕がその巨大な背丈に見合った巨塊を担いでいた。

 

『試練の塔』のボス、タイタン。

 

 大きさとはつまり力の象徴だ。小さき者が巨人を打ち倒すことは、まさに雄々しい物語として語られるが、それは如何に巨人が強いのかの裏返しでもある。見るものに畏怖を抱かせる、人類を超越した肉体は圧倒的な存在感を放ち、眼前に聳え立っていた。

 

 それを見た瞬間、ぶわっと全身の毛が総立ちとなり、知らずのうちに、大量の汗が全身から吹きだした。

 

 これはヤバいっ。勝てるわけがない。ユーリは硬直した身体に鞭打ちながら、強烈に感じるプレッシャーを打ち払おうと努めた。

 

 だが人は、強大な恐怖に遭うと、どうにも身を抑えることができない。その場を捨て、必死の遁走を図るか、それとも、無鉄砲に向かってしまうか。

 

 少なくともユウマは後者だった。

 

「はぁあああああっ」

 

 必死の咆哮はある種の悲鳴に聞こえた。彼女の身に迫るほどの戦鎚を巨人はこともなげに盾で受けた。

 

「皆、逃げて!」

 

 その叫びは届かない。エセキエルはガチガチとなる歯音を誤魔化しながら、無理やりに笑った。

 

「は、むしろいい感じだ。あのクナルって野郎がたった一人で倒しやがったんだろ? こっちは八人だ。いや、仲間を呼び戻せば十五。余裕。余裕だよっ」

 

 エセキエルは剣を構える。確かに巨人の動きは遅い。ゆったりとしていて、ユウマの動きにも対処できていないように見える。冷静さを少しばかり保っていた候補生が魔導銃をぶっ放す。階段の下から、雰囲気の変わったことに気づいたエルサが顔を出した。

 

 脾肉を削るようにして血潮を撒きちらす。エセキエルたちは相手の緩慢さに当初の恐怖感を紛らわせているが、後方から冷静に様子を窺うユーリには楽観視などできなかった。

 

(相手はまだ余裕を残している)

 

 夥しい血流を撒き散らしながら、しかし、敵の悠然さは変わらない。ソニアが必死になって仲間を止めようとするのが目に入る。冷静な彼女らしい、客観視だった。

 

 ぎらりと相手の瞳が光るのをしっかりと見た。隆々とした肩の筋肉が、唸って、爆発した。

 

 その瞬間、すでに駆けだしていた。

 

 エルサの鋭い悲鳴が尾を引いた。きゃ、とかではなく、裂帛の鋭い悲鳴だった。

 

 下には驚愕を貼り付けたエセキエルが地面に転がっていた。自分は今、剣を頭上に掲げ、相手のモーニングスターを受け止めている。はずだ。筈なのだ。だが、両手で頭上に掲げたはずの刀身は視界の端の地面に転がっていた。

 

 巨人の腕から伸びるモーニングスターは振り抜かれている。真上から振り下ろされたそれは、構えた筈の防御を抜けて地面に降りていた。

 

 途中にあったはずの身体はどうなったのだろう。そんなことを思った。世界は赤い。赤いのだ。滲んで、霞んで、けれども赤い。朱色の世界。

 

 右側がよく見えない。いや、無なのだ。それどころか右の感覚がない。そう言えば剣はどこに行ったんだろう、と脳裏を過るが、視線を下へと向けると折れた柄が落ちていた。ついでに、腕も一緒にくっついている。そういえば、剣を離さぬようにしっかりと握ったなぁ、と意味のない感想が浮かんだ。

 

「ユーリ、お前」

 

 エセキエルが唖然と口を開きながら、ユーリの右半分を見ていた。知らずガクッと膝の力が抜けた。右手を突こうとして、何もなかった。代わりに左手を突いた。

 

 逃げて、とか、早く、とか叱責をしたような気がする。間遠に聞こえる悲鳴の中で怯んだ彼に怒鳴った。けれども代わりに、カヒュだとか、こひゅだとか間の抜けた空気が漏れた。

 

「あなた!」

 

 綺麗な声だと思った。はじめて会ったときは、多分嫌いだった。けれども、意見が一致すると優秀な人であると一目でわかった。女性がその身一つで立身を志すのは如何に難しいものか。それは女性でなくてはわからない。強さの裏には弱さがある。知らずのうちに彼女を目で追っていた。

 

 しかし、彼女は一線を引いていた。多分、エルサに遠慮していたのだろう。エルサの好意は理解していた。キッパリ答えを言っていれば、もっと話し合えたのだろうか。

 

 ――あなたは損する人だ。もっと素直なあなたを見せれば、皆付いてくるんじゃないかと思うのになぁ。

 

 視界が薄れていった。再び巨人の筋肉が隆々と膨れ上がる。とどめか、そうだろうな。よくクナルとかいう上科生はこんな怪物をたった一人で倒せたものだ。世界が違うのだ。やはり自分は、武芸者に向いていない。

 

 ふふ、と笑みが漏れる。兄弟全員が学術院では格好がつかぬと親に強制された士官学校である。自分よりさらに学術肌な弟を武芸の道に行かせるわけにはいかないと決めた筈だったのだ。

 

 だが、無理だった。無理だったなぁ。今、エセキエルを無視して、ソニアやエルサを助ければ生きられたのに。再び、迷宮に挑戦できたのに。ボクは致命的に向いてない。

 

(アンヘルだったら、たぶん、切り抜けられるんだろうなぁ)

 

 嗚呼、嗚呼。膝は震えても立ち上がった。

 

 ゴメンナサイ。父さん、母さん。不甲斐ないボクで。けど、頑張ったんだよ。だから許して。ボクは剣じゃ生きていけないんだ。

 

 巨人が腕を振り下ろすのが見えた。「ユーリっ!」もっと、もっと笑顔で、涼しげにボクの名前を呼んでほしい。あなたともっと話したかったなぁ。でも、あなたじゃなくて名前だから、まあいっか。そうだよね。ユーリは微笑んだ。

 

 振り下ろされる腕に組みついた。同時に強化術を爆発。これ以上は強化するなと言われた限界を遥かに超えて、身体を動かした。

 

 沸騰。燃える、燃えて、もえた。燃え尽きた。

 

 逃げて、とかいった筈だ。組みついて、離して、そして振り下ろされる。稼いだのは秒か分か。

 

 暗闇。皆逃げたのかなぁ。意識が掻き消える寸前、よぎった思いはそれだけだった。

 

 

 



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第十六話:曇天を晴らすのは

 よっ、よっと男は身長の肩程しかない少女に手を貸してもらいながら、吹き抜けるような治療院前の広場を歩いていた。

 

 緑色の芝生に暖色の石畳が美しい対比となっている。治療院の白さを覆い隠すようなその晴れやかな景色の先でリハビリに励む男――アンヘルは、少しばかりの鈍痛に顔を顰めながら歩いていた。

 

「そこ、段差があるですよぅ」

 

 と言いながら、肩を貸すイズナがぎゅっと脇の下から支える。優しい香りが鼻腔に広がる。柔らかな感触が身体に押しつけられて、アンヘルは知らずのうちに鼻の下を伸ばしていた。

 

「あぁ、またエッチなことを考えているですぅ~」

 

「えっ!? いや、そんなこと――」

 

 アンヘルはぶんぶんと手を慌てて振りながら顔を紅潮させた。するどい。イズナは青髪の隙間に瞳を隠しながら上目遣いに訝しがっていた。

 

「えー、怪しいですぅ。ねえ様に聞いたですぅ。男の人はいっつもアレなことばっかり考えているって」

 

「い、いつもそういう訳じゃない、よ?」

 

「そんな風に見えないですぅ」

 

 しらーとした視線を受けて目を逸らした。

 

(もしかして、僕、テリュスさんに嫌われているのかな?)

 

 事件以来会話していないが、実践経験のない少女に血生臭い現場を見られれば幻滅されることは分かっていた。良く言う、黒人の大男と白人の少年の厳罰率のようなものだ。

 

 アンヘルは「疲れた」と告げると、庭に併設されたベンチへ腰を下ろす。

 

 涼やかな風が木陰のふたりを巻き込んでいた。

 

「そういえばイズナの弓、どうでしたぁ。ねえ様みたいにかっこよかったですかぁ?」

 

 イズナが両手を広げてベンチの正面で構えをとる。空気を掴んで、ぱっと空に放つふりをした。

 

「そうだね。うん、すごかった」

 

 と、頷いていると不自然な会話に気が付いた。

 

「――ねえ様みたいに? テリュスさんって弓使えたんだ」

 

 テリュスの生家である道場は東方一刀流を習う稽古場だ。実践志向の道場では弓術や槍術を教えるところもあるが、彼女の生家には当てはまらない。基本かつ護身術向けというのが、かの道場の世評である。

 

「姉さまは関係ないですよう。ねえ様のことです」

 

「ええっと、テリュスさんと違うお姉さんってこと? あ、もしかして本当のお姉さんなのかな?」

 

「そうですぅ。イズナはねえ様に弓を教わったのですぅ」

 

 ぴょこんと青いツインテールを振り回しながら、小さく跳んで見せた。余程嬉しいらしく満面の笑みを浮かべている。

 

「じゃあ、お姉さんはもっと上手い?」

 

「そうなのですぅ」

 

「すごいなぁ、君以上の使い手は、あまりいないと思うけど」

 

「えへへ~。照れちゃうですぅ」

 

 格好を崩して笑う彼女はとても似合っていて可愛らしい。子供らしい表情がよく似合う。そんな印象を持った。

 

(というか、弓だけならクナル級な気がするけど)

 

 前回の戦闘で見た彼女の弓術は贔屓目なしに常人の域を遥かに超えた能力を示していた。速度、精度、位置取りに身体能力。すべてが高水準。候補生と比べるなどおこがましい。馬車を無傷で守り切った一因には彼女の力量があった。

 

「でもでも、ねえ様はもっとすごいですよぉ」

 

「もっとかぁ、それはなんていうか、怖いなぁ」

 

「そうですっ! びゅんってやったら、びしゅってなるのですぅ。アルなんてけちょんけちょんなのですよ」

 

「あ、うん。すごい、ね」

 

 イズナが矢を射る真似をする。擬音とともに空気が放たれた。アンヘルはその仕草を微笑みまじりに見ていた。

 

「そっか、じゃあ、一度会ってみたいなあ」

 

 そんなにすごいなら。その程度の感想だった。

 

 しかし、イズナはなにか恐ろしいことをいった。

 

「でも、アルはもう会ってるですよ?」

 

 こてんと首を傾げた。可愛らしい仕草だった。けれども、放たれた言葉は一切理解できなかった。青髪、狩人。どちらも思い当たる節はない。

 

 ぽかんと呆けた表情を浮かべるイズナがどこか白々しい。

 

 気の所為。そう嘯いて、浮かんだ疑問をかき消したのだった。

 

 

 

 §

 

 

 

 翌日。退院したアンヘルは一度アリベール邸に寄った後、ひとりクナルの寮部屋を尋ねていた。

 

 経験上、クナルは基本的に鍛錬をしているか、それとも自室で寝入っているかのどちらかであった。事前に修練場をちらり確認したあと、勝って知ったる野郎の部屋に向かった。そして、扉を開けた瞬間に目を覚ますだろうと――厚顔無恥など過去に罵ったが実は似たもの同士なのかもしれない――ノックもせず扉を開け放った。

 

 一瞬、なにが起きているか理解できなかった。

 

 窓の近くに設えられた寝台、夕日が差し込むそこに、ぴんと突き出した胸を反りながら女が喉を見せる。天井に向かって大きくほえていた。

 

(ああ、マジ、みすった)

 

 言語機能が崩壊した。一種の自己防衛である。

 

 アンヘルは完全に硬直。口をパカっと開けて馬鹿面を晒した。

 

 艶やかな嬌声。白い肉と褐色の引き締まった巨大な肉が二匹の蛇となって、もつれ、絡み、溶け合っている。

 

 ひときわ、おおきなあえぎとなる。

 

 確か――グレースといっただろうか。伍科の、有り体に言えばその美貌と肉付きで男子諸君の視線を独り占めする逸材だ。彼女は豊麗な肉体を曝け出して、思うまま喜びに打ち震えながら高い高い叫びをあげていた。

 

 馬乗りになって悲鳴をあげる女を冷めた目で下から見据えるクナルの瞳が酷く冷淡だった。淫蕩な匂いが部屋に充満していた。

 

 ごくり、と眼前で繰り広げられる光景に唾を呑んだ。大きく響く。クナルの冷えた目が此方を見据えた。

 

「感心しないな。覗き見など、趣味が悪い」

 

「へっ? え、あ、き、きゃぁぁあああああああ!」

 

 つんざくような悲鳴。アンヘルは咄嗟に耳を押さえながら、「ご、ごめんなさい」と部屋を出た。去り際、グレースの睨む瞳が心胆を凍えさせた。

 

 

 

 

 

「貴様が悪い」

 

「……はい」

 

 逢引きの相手が出て行った微妙に香りが残る室内でアンヘルは肩を落としながら静かに謝意を示した。クナルに常識を説かれると異常に腹が立つのだが、それでも反論の余地はなかった。

 

「今の班員じゃないよね。また引っ掛けたの?」

 

「くだらん女だが、程よい肉付きで飽きはまだ来ない。あのルトリシアやらクロエだとかいう女に比べれば月とスッポンだがな」

 

「手を出したら死ぬよ。絶対」

 

 アンヘルは頬を引きつらせた。

 

「言われずともわかっている。情事に惚けて命を捨てるほど私も愚かではない」

 

 戦いで無意味に命を賭けているだろうと聞くのはよした。理解不能な反撃にあうだけだ。長い付き合いですでに彼の反応には慣れていた。

 

 クナルは上裸のまま寝台に片足を立てていた。アンヘルは設られた椅子に腰を下ろす。何度か足を運んだが、一人部屋にはいつも心惹かれる。伍科のアンヘルにはまるで意味のない思考だったが。

 

「何の用だ? 詰まらぬ用だったら殺すからな」

 

「退院おめでとうぐらい言えないの? 一応病み上がりなんだけど」

 

「我らがそんな仲だと思うか。弱者は滅ぶのが必定であるしな」

 

「出た、また一族格言集のご開帳」

 

「残念だったな。これは私の語録だ」

 

「なおさらキモいんだけど」

 

 半眼で見つめるアンヘルを素知らぬ顔で受け流す。一呼吸おいて本題へと入った。

 

「前回の吸血鬼騒動。その詳細がわかったよ」

 

「ほう、まさか貴様にそんな情報収集能力があったとはな。ふむ、首を飾る機会が去ってしまって残念ではあるが興味が湧いてきた」

 

 クナルが顎で催促してくる。傲慢で悠然とした口調に苛立ちを覚えつつ、指示通りに言葉を紡いだ。

 

「あの吸血鬼。たぶん、聖カトー騎士団の団員、それも相当高位の貴族だと思う。君の予想どおり、あれは吸血鬼じゃなくてそれに扮した魔剣騒動なんじゃないかな。あと彼の持っていたサーベル。確証はないけど魔剣だと思う」

 

 クナルはその瞬間、顔色を変えて一人黙した。促されているのかと続きを述べる。

 

「世界に幻術を掛ける魔法。どこか道場剣術っぽい技。幼い少女を攫うといった愉快犯染みた行動。吸血鬼じゃないなら単独犯もしくは少数の可能性が高い。僕はそう思う」

 

「魔剣について他に情報はあるのか?」

 

「わからない。その魔剣が幻術効果を持つことも判明していなかったみたいだし。でも、ひとつだけ。魔剣が光を放つには一定期間のインターバルが必要らしい。だから、もしかしたら長期戦に持ち込んだりすれば」

 

 アリベールが保管していた概要には魔剣蘇芳の情報はほとんどなかった。推論でしかないが魔剣蘇芳は貴族級の魔力がなければ発現しないのかもしれない。だが、一度発動してしまえば多数すら容易に相手取れる能力を秘めていた。

 

 クナルは黙してそのまま腕を組んだ。じっと一点を睨んで、なにかを思案している様子だった。

 

「この情報。どうやって手に入れた?」

 

「えっと、ごめん。それは言えない。結構逸脱した行為だから」

 

 アリベールの行為が外部に漏れれば処断される可能性はある。いくらクナルとはいえ漏らすわけにはいかなかった。

 

「情報源など興味はない。それよりもこの魔剣に行き着いた理由はなんだ? 貴様の想像の産物か?」

 

「え? いや、そうじゃないけど」

 

「ふ、やはりな。いくら鈍い貴様でもわかるだろう? これは偽計だ。貴様のこれからの行動は読める。どうせ教官殿にでも助力を頼むのであろう。だが、やめておけ。これは我らだけで解決したほうがいい。全貌は未だ見えぬが少なくとも小回りの利く駒だけにしておいたほうがいいだろう」

 

 一理はある。理由はわからないが、オスカル教官は狙われているのだから虎穴に入るのは少ない人数のほうが良いのは理解できた。

 

「話聞いてた? 幻術使い相手に少数戦なんてアホ丸出しだよ」

 

「一方のやられる隙にもう片方が殺せばいいのだろう」

 

「こっちは大量の仲間がいたのに逃げられたし、まだ凄腕の弓使いが控えてるんだよ。もう忘れたの?」

 

 クナルはそれを嘲笑うかのように鼻を鳴らした。

 

「貴様はいつもそうだな」

 

 みくびるような言葉に無性に腹が立った。苛立ちから眉を顰める。

 

 クナルは立ち上がり冷たい目で見下ろしてきた。

 

「貴様にも見えている筈なのだ。いや、貴様がわからねば誰にわかる? そうやって余計な思考に囚われているから、下らぬ幻想を信じてしまうのだ。弱者の真似をそろそろ控えろ。貴様は心底くだらぬやつだが、現実を見据える程度はできる筈だ」

 

「――何様のつもり? 偉そうに御託を並べちゃってさ」

 

 ガタンと椅子を鳴らしながら立ち上がった。

 

 両者に冷え切った空気が流れる。

 

「いつまでも不貞腐れているから失敗するのだ。貴様の失敗はすなわち周りの不幸になるのだぞ。まだそれが分からぬのか?」

 

 過去を揶揄するような言葉で完全にどたまにきた。

 

「――黙れ!」

 

 右拳を握り込んで捻りながら突き出した。クナルはそれを涼しげに掴み取った。

 

「わからぬならいつまでもそうやってやっていろ。詰まらぬ、詰まらぬ男よ。去れ。二度と私の視界に入るな」

 

 クナルの剛腕がうなると、気づいた時、壁に打ち付けられていた。見上げたそこには興味を失った顔が巌のように聳えていた。

 

「君に会わなくてせいせいするよ!」

 

 立ち上がると、扉をヒビが入るくらいの勢いで開けて閉めた。

 

 走った。廊下を走った。

 

 張り裂けそうなほど胸が痛んだ。あれほど気が合わない奴だと思っていのに、しかし、彼の言葉は心に突き刺さった。

 

 訃報を聞いたのは、そんなささくれ立った日の夜だった。

 

 

 

 §

 

 

 

「我ら安和にして至と高き主の言葉を。我らはどのような行為にも、敬虔の念を持って、主の御恵みをひたすら祈り求めております。

 そして願わくは聖霊の働きによりあなたがつくりたもうた生命に、御心叶うことを願います」

 

 朗々と祈祷する司祭――デーモン退治で邂逅したヴェルナー司祭――の声が教会内の光の下で響き渡っていた。

 

 じっと目を伏せて立ち尽くすアンヘルにぽつぽつと押し殺したような声で泣く老婦人――いつかの看護婦――が映った。横に整列するのは、彼と同じように喪服に身を包んだ小隊の候補生たちが居並ぶ。友人たちであろうか。同部屋、壱科生などの姿もあった。

 

 先日帰還した合同小隊における名誉の戦死者を讃える葬儀が、士官学校近くの教会で行われていた。

 

 祈祷を行っている司祭の横で順番になって献花と黙祷を捧げていく。ソニア、エルサに続いて、ゆっくりと中央の献花台に近づいた。

 

「主よ。我らが友、ユーリの魂をあなたに委ねます」

 

 司教の言葉で若い候補生や家人たちが嗚咽とすすり泣きを堪える音を漏らした。アンヘルは引き絞った口そのまま、深い悔恨に囚われながら、ゆっくりと花を置いた。白い百合の花が友人の眠る棺桶を彩っている。目蓋を閉じると過去の優しい記憶が浮かんできそうだが、静かに流れる讃美歌が過去の葬儀と重なってやけに酷い鈍痛を齎した。

 

 よく言う、葬儀は死者を送るための儀式ではなく送る側の告別式に他ならないなんて言葉がある。事実、その意味はあるのだろう。こうやって厳かな雰囲気の中で見送る中、生物故のどうしようもなさを実感しながら、己の気持ちに区切りをつけていくのだ。まるで章区切りのように。

 

 しかし、こうやって目を閉じると、幽鬼のように暗く忍び寄ってくる過去を抑えきれないのだ。膨れ上がる後悔が、何もしてやれなかった自分を、その無力さを弾劾されている気分になる。

 

 この世界に来てからもう三回目だな。アンヘルは己の過去を振り返った。一度目はこの世界の父。二度目はマカレナ。三回目はユーリ。

 

 慣れない。慣れるはずがない。じくじくと心臓を捻りつぶされたかのような鋭い痛みが、半身を引き裂くようにして全身を駆け巡った。献花したそこに、背を向け去っていく。これで終わり。彼とはもう終わりなのだ。人々の記憶の中で輝き続けることはできても、新たに何かを生み出すことはできない。

 

 ああ、なんて、命の軽い世界なのだろうか。アンヘル、アンヘルと親し気に呼んでくれた声を再び聞くことは叶わない。軍人として、そして武人として志した時点で、すでに戦人の覚悟を決めねばならぬと言われるかもしれないが、この若き候補生の死は堪えに堪えた。

 

(先に待ってて。いつかは分からないけど、そのうち行くからさ)

 

 葬列から離れて悲しみに暮れる人々の間を抜けながら、再び自身の席へと戻る。着席せず、じっと立ち尽くす。ステンドグラスの下。そこに聳えるような天使を象った彫像が此方を睥睨するかのように鎮座していた。

 

 参列者の中から士官学校代表オスカルが献花を終えて、此方に向かってきていた。完全なる無表情。唇に悔しさのような戦慄きを残しながら佇むアンヘルの横に並んだ。

 

「悪いな。病み上がりなのに」

 

 小声の囁きに、アンヘルも無感情な言葉で返した。

 

「構いません。彼は友達、でしたから」

 

「そう、だろうな。もう詳細は聞いているか?」

 

 アンヘルは泣き崩れるエルサに目を向けながら、ソニアからの説明を思い返した。

 

「班長とエセキエルさんの様子は、その、かなり、深刻だと」

 

 エルサは親よりも感情を高ぶらせているのか、ユウマになんとか付いていてもらいながら立っている状況である。えっぐえっぐと、息をするたびに堪えきれない嗚咽のような音が響く。

 

 エセキエルの様子も通常ならあり得ぬほど変わっていた。あの饒舌な男が言語機能を失ったかのように首肯するだけの存在へとなり果てている。頬はごっそりと削げ、目からは生気を失っていた。

 

 班員たちもどこか歪になっている。ユウマもいつもの快活さは鳴りを潜め、沈痛な表情を浮かべるだけだった

 

「庇われたエセキエルの動揺は大きいようだ。エルサもとくに親交があったみたいだからな」

 

「そう、みたいですね。ソニアさんとふたり、協力してもう少し気を配ることにします」

 

 彼らの状態はまったく平常じゃない。軍人として覚悟を決め、そして、苦難の過去を乗り越えてきたアンヘルですらこの調子だ。眼前で仲間を失った彼らの衝撃はその比ではなかった。

 

 オスカル教官は優しい色を瞳に浮かべながら、気丈に前を向く女性を顎で示した。

 

「それなんだが彼女にも気を払っておいてくれ」

 

「ソニアさん、ですか?」

 

「ああいうタイプは抱え込みやすい」

 

 エルサから事あるごとに頼られていた。つまり、ユーリの人間関係で特筆すべき女性はエルサになるだろう。鈍いアンヘルでもそれは一目で理解できたが、ソニアの好意はまるで想像できなかった。

 

「勘違いならいいんだけどな。俺には悲鳴にしか見えないよ」

 

「教官」

 

 アンヘルは、痛まし気に見る教官の横顔をじっと見ていた。それに気づいた教官は振りむき、右手でガシャガシャと無遠慮に頭を撫でてきた。

 

「アンヘル。おまえもだ。いいか、大人に頼っていけないことなんて世の中にはほとんどないんだ。頼るってのは恥ずかしいことじゃない。冷静になっているつもりでも、積もれば心は鬱屈していく。俺じゃなくてもいい。けど絶対、吐き出すんだぞ」

 

「……」

 

「大人じゃなくて、友達でも恋人でもいい。あの黒髪の見舞い人なんかいいじゃないか。淀んだモノを吐き出さないと、結局こっちがミイラ取りになっちまう」

 

 アンヘルは彼を正面から直視した。優しく、気高く、そして寂しげに映る。教官の内面、その一端を垣間見た気になった。

 

「だから彼女とはそんな関係じゃ」

 

「人生は短い。それを忘れるな」

 

 オスカル教官は家族と話すために消えていった。恐らく、謝罪の言葉を残すのだろう。士官学校として、優秀な人材を死なせてしまったと。ただ自分の指導不足だと告げるため。イゴルのときと同じよう、憎しみをたった一身に集めるため。

 

 ユーリの弟らしき子供が泣き崩れる婦人を横から支える。昔、世間話で十にもならぬ弟がいると聞いたのを思い出していた。

 

 ふと、セリノとの会話が頭の中に湧いた。

 

 反吐が出る思いだ。己の汚らわしい龍の思考に嫌気が差した。

 

 ごくりと喉を鳴らした。アンヘルは壊れていく小隊員を見つめていた。

 

 

 

 §

 

 

 

「そう、わかったわ」

 

 短めの黒髪を鬱陶しげに払う女性は他の班長のつれない返答を受けて、己が仲間の待つ部屋へと向かっている最中だった。

 

 慌てているのか、注意散漫になっていたのか。「いたっ」と角に置いてあった木箱に足をぶつけた。苛立ち混じりに蹴り飛ばす。ガラガラと積み上げられた木箱は崩落した。

 

 知らず、唇を噛み締める。

 

 葬儀は昨日、終えたのだ。思考を切り替えなければならない。彼が言っていたではないか。チームには支える人間が必要だと。引っ張るのは自分しかいない。

 

 なにをやっている。力のない弱い自分が恨めしい。ごしごしと手で目元を拭った。微かに手の甲が濡れた。それが、想像以上にきつかった。

 

 感傷など必要ない。いらないのだ。

 

 任されたのは他ならぬ自分なのだ。実行班長をあなたに、と。ならば強くなければ、強く在らなければ価値なんて、きっと、ない。

 

 ぎっと壁面の肌を睨んだ。足を止めて、ぎりぎりと右拳を握りしめた。強く、強く。壊れそうなほど。金剛石のように硬くイメージした。仲間を奪った憎き怨敵を粉砕するのだと。

 

 まずは対策を練らねばならない。予定より二日も早く迷宮ボスが復活してしまった。困窮している小隊は少なくないと同部屋の女から聞いていた。可能性はまだある。黒髪の少女――ソニアは、悲鳴のような痛みの伴う覚悟を決めて、いつもの十三会議室に入った。

 

 扉を開けるとアンヘル以外が揃っていた。皆沈痛な面持ちで、設られた木椅子に俯いて腰掛けている。

 

 エルサは涙が止まらぬのか、目を腫らした状態でいまだ鼻水を啜っていた。

 

 ひどく閑散としている。皆の意見を整え、一つの方向に向けていた人物は存在しない。がらんと其処だけが切り抜かれたかのように空いているところを見て、なにかが込み上げてきそうになるが、それをぐっと飲み込んだ。

 

「取り敢えず報告よ。合同小隊は今回のことを受けて皆消極的よ。でもまだ可能性はある。二日も早く復活したのだからボスの力は不完全だし、それに踏破できなかった班がいくつも残っている。それを纏めあげれば――」

 

 室内に進みつつ、全員の顔色を伺った。心ここに在らずといった様子で返事は返ってこなかった。

 

「エルサ班長。あなたは一応班長なのですからそろそろ切り替えてください」

 

 努めて冷厳に言った。誰かが言わねばならないのだ。その役目は、彼に牽引役を任された、自分の役目だ。少なくともソニアはそう思っていた。

 

「あなたは、いつも変わりませんね」

 

 冷徹に映ったのか、エルサが血走った目で此方を睨んできた。

 

「なにが言いたいの?」

 

「あなたにとってユーリさんは替えの利く駒程度の存在だったかも知れません。けど、私にはっ! 私にはチームを支えてくれた、ただ一人の人間なんですッ。それを、それを、捨てるみたいに、そんな風に忘れて、ホイホイ次に行かないでくださいッ!」

 

 涙と嗚咽の混じった魂の叫びに、心の奥底の封じていた感情がぐつぐつと煮えた。

 

「いつまで被害者ぶっているのよ!」

 

 絶叫が室内に木霊して、ビリビリと部屋が震えた。血が滲むほど強く握った拳が震えた。

 

「私たちは、候補生ッ! そして、軍人なの! 切り替えて、先に進まなきゃなにも始まらないわ!」

 

 その反論に、エルサはぐっと詰まると、大きく叫んだ。

 

「私は別にずっとこのままって言ってるわけじゃありません。でも、葬儀から、たった一日です。それしか経っていないんです。あなたには人の心がないんですか!」

 

 彼女から吐き出される言葉は止まらない。唾を飛ばしながら、その小柄な体格すべてを使ってあげられる悲鳴のような狂乱の訴えは、ソニアの心の底を抉っていった。

 

「それにこの班でもう一回なんて、ムリです。私が、無能だったからユーリさんはっ…………私、班長なのに、一番先に下の階へ」

 

 ワッと、エルサは机に突っ伏した。

 

 気に入らない。気に食わない。この女はこうやってずっと、被害者ぶって悲しみに暮れて。それでどうなるというのだ。それで彼が帰ってくるというのか。

 

「泣いてそれで何が変わるの。現実を見なさい。もう守ってくれる彼はいないわ。戦う、それしかないのよ!」

 

 机に突っ伏しているエルサを穴でも掘るくらいに強烈に睨みつけた。

 

「班の文句を言うのは結構。でもね、私たちは運命共同体。彼のことを思うなら戦って、敵の首を捧げるのがそれこそ本当の供養なの」

 

 呼吸は荒く、顔は血が昇って紅潮した。けれど譲れない。あの巨人は自分の手で。自分たちの手で。誓って、そして信じたい。

 

 エルサは顔をあげると、弾劾するように吠えた。

 

「そもそもあなたの所為じゃないですかッ。私とユーリさんで必死になって計画を立てたのに、それをぶち壊しにして。あなたがいなければもっと早く踏破できていたのに!」

 

 その狂乱ぶりに一歩たじろいだ。エルサはさらにその矛先をエセキエルに向けた。

 

「それに、あなたもですッ」

 

「お、おれは」

 

 急に振られたエセキエルは、動揺を露わにしていた。直視できないのか、視線を左右に彷徨わせていた。

 

「ユーリさんが必死になって考えてくれた計画を、ぶち壊してっ! それが、嫉妬ッ。ふざけないで!」

 

「――俺が悪いってのかよっ!? 他のやつだって、全然、それこそ班長だってなんにもしてなかっただろ」

 

「ふざけないでください! あなたのせいっ! なんでユーリさんがあなたなんかクズ、助けて死ななくちゃいけないんですかッ! 代わりに、あなたが死ねばよかったんです! 返して、ユーリさんを返してよぉぉぉ」

 

 それを最後にエルサは地面へと崩れた。悲鳴の残滓のようなものが部屋に残っていた。ソニアはその常軌を逸した狂乱ぶりに、なにもできなかった。

 

 エセキエルが立ち上がって、キョロキョロと周囲を見渡す。

 

「な、なんっだよ。ぜ、ぜんぶ、おれのせいだってのかよっ。なんか言えよ! みんなそう思ってるんだろッ!?」

 

 誰も俯いたまま返事をしない。彼の叫びだけが虚しく響いた。

 

「なぁ、もうやめよーや。言い争うんも、これ以上戦うんも」

 

 突然、これまで沈黙を保っていたユウマが口を開いた。

 

「ウチ、もうイヤや、こんなん」

 

「なに言ってるの?」

 

 幽鬼のような表情を浮かべる彼女に呑まれながら、ソニアは聞き返した。彼女は目を合わせず床をじっと見ていた。

 

「おかしいやん。こんなん。戦って、争って、目の前で死んで、でもすぐ戦って。ずっと、ずっとこんなんやん。おかしい、おかしいって」

 

 最後の方は涙ながらの言葉になっていた。

 

「それが仕事やっていうんなら、ウチ、もう無理や。わかってるんよ、それが必要ってのは。けど、おかしいやないの。今までイヤなこといっぱいされた。貴族からやとか、ヤラシー目で見られても我慢しとったよ。けど、けどな。こんなんたえられへん」

 

 静かな言葉だったが、それがやけにしんと響いた。ユウマは頭を抱え込みながら後退していく。壁に背をつくと、かがみ込んで俯いた。

 

 急に視界が真っ暗になった。崩壊。それが現実となっていた。

 

 こんこん。扉をノックする音が、突然響いた。

 

 全員が扉を見る。日常の音に全員が少しだけ落ち着きを取り戻す。扉に近いのは自分だと、ソニアは近づき扉をゆっくり開いた。

 

「あなたは」

 

 其処にいたのは、ユーリの葬儀で見た夫人と弟の姿だった。

 

 夫人は葬儀の喪服ではなく、見た目のいい礼服を纏っている。弟も同じだ。小さな背丈を武装するように礼服で身を包んでいた。

 

 弟の顔はユーリによく似ていた。そのまま大きくすれば彼になるだろう。その類似性に否応なく悲しみを沸きたたせた。

 

「なんの、御用でしょうか。ユーリさんのご家族の方ですよね」

 

 ソニアは膝を降りながら、弟である少年に目線を合わせながら言った。

 

「ほら、カイン。あなたが言い出した、ことでしょう」

 

 夫人はカインと呼ばれた少年の背中に手を優しく添えた。少年が一歩前へと出る。

 

「あの」

 

 少年の唇は震えていた。ソニアは待った。

 

「お兄ちゃんは、どうでしたか? さいごまでゆうかんでしたか? みんなにそんけいされる、ぐんじんさんに。皆さんの、おやくに、たてましたか?」

 

 エセキエルがゴクッと息を呑む音が微かに聞こえた。

 

 少年カインはボロボロと涙を溢しながら、さらに続けた。

 

「お兄ちゃん、ずぅっと、ずぅっとイヤだって。そう言ってて。でも、おにもつうけとりのついでに、がっこう、みていったらどうだって。おにいちゃん。かっこよかったですか?」

 

 ソニアは言葉を喪失したままなんども縦に首を振った。目から、涙が溢れる。どうしようもなく抑えられなかった。夫人も同じように涙を溢していた。

 

「ありがとうございます」

 

 少女が頭を下げた。夫人も同じように下げる。

 

「それを聞いて報われました。ずっと、無理をさせていたんじゃないかって。けれど、あの子はあの子なりに、頑張っていたんですね」

 

 少年は涙に塗れた顔を上げながら、その小さな瞳を輝かせた。

 

「ボク、ずっとがくじゅついんに入りたいと、おもってました。けど、ぼくは、お兄ちゃんのかたきを、とります。おしえてください、お兄ちゃんをやっつけたやつは、どんなやつなんですか?」

 

 真摯な瞳だった。誰もが明朗な返事を語れなかった。先ほどまで、仇を討つことに否定的な話をしていたのだ。エルサも、エセキエルも、ユウマも枯れ木のように立ち尽くしていた。

 

 そのあまりにも気高い想いに、跪きながらハンカチで涙を拭ってやった。深い悲しみに遭い、それでも尚、失った兄の為に敬意を表して行動する。あまりにも清冽な願いだった。

 

「ありがとう。でも、大丈夫。お兄さんの願いはあなたが学術院にいくことだったでしょう? ならそれを叶えてあげなさい。仇は私たちが取るから」

 

 ソニアは振り向かずにそのまま言葉を投げかけた。

 

「私たちはなに? ただ力のある武芸者? 違うわッ! こんなにも純な願いを持つ遺族の代わりとなる力を求めたから此処にいるんでしょうッ! ここまで聞いてそれでも、自分可愛さに逃げ出したいってやつは今すぐこの部屋から出ていきなさいッ!」

 

 皆泣いていた。涙を溢し俯いていた。けれどそれは、悲しみにくれる涙ではなく、怒りと誇りに満ちた涙だった。

 

「俺は仇を絶対にとってやるッ」

 

 エセキエルが吠えた。エルサがソニアと同じように跪いて、少年を抱きしめた。

 

「私ももう、逃げませんッ。ごめん、ごめんなさいっ。かならず、かならず、ユーリさんの仇とってみせますっ」

 

「ウチも、やめるなんてもう言わへんッ! ぜったい、ぜーったい、あいつを倒すんやッ!」

 

 ユウマの鼻声が響いた。エルサが泣き、エセキエルが吠え、ソニアが美しい微笑みを湛えた。少年と夫人は泣き崩れた。

 

 開け放たれたままの扉から涙目の教官のオスカルと苦い顔をしたアンヘルの姿があった。

 

 オスカルは唇を噛み締めたままその光景をじっと見ていた。

 

 顔を上げて、立ち上がった。

 

「教官。私たちを、より厳しく指導してくださいっ。そしてかならず、仇をとってみせますッ」

 

「そう、だな。ああ、ああ、そうだ。それでこそ候補生だっ!」

 

 オスカルがひとり室内に入ってくる。部屋にいる全員の手を合わせると、気焔をあげるようにして円陣を組んだ。

 

「これは、俺の部隊でよくやっていた儀式だ。ソニア、一二の三で、頼む」

 

 円陣のように全員が組んだ。気合が爆発。あげた顔には、誰一人、悲観に暮れた表情をした者はいなかった。

 

 ――ユーリさん、必ず、あなたの仇をとってみせるわ。

 

 迷宮攻略演習終了まであと十日。未踏破小隊は十五組。

 

 七八エルサ小隊の真の門出は今日この日はじまった。

 

 

 



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第十七話:Re. 進撃の巨人

「十三小隊は左翼に移動。左通路からの増援を防いでっ。他は前方へ集中砲火。一匹たりとも逃さないで」

 

 ソニアは合同小隊の先頭で陣頭指揮を取りながら、己も剣で向かってくるモンスターを撃退していた。

 

 掛け声と同時に魔導中や石弓の砲口が火を噴いた。その砲火に怯んだ瞬間、剣を持った候補生たちが一斉に斬りかかる。ソニアは小鬼や幽鬼を斬り伏せながら、その先頭で周囲の状況に目を凝らした。

 

 ――事態は計画通りに進行している。

 

 現在、ソニアたち合同小隊は仲間を失った二十九階層を超え、三十階層の迷宮ボス巨人タイタンに挑んでいた。ソニア分隊が担う役割は巨人とその他雑魚の分断である。巨人たちに張り付きながら、その周辺を排除する役割は非常に難易度が高く、全体の成功率を左右する場所であった。

 

「タイタンのぶん回しやで、きいつけてなぁ」

 

 巨人を少人数で相手取る最精鋭集団のリーダー、ユウマが注意喚起してきた。間髪置かずソニアが指示を繰り出す。集団がひとつの生き物のように反応すると一斉に飛び退いた。巨人のモーニングスターが風を巻き起こしながら世界を薙いだ。

 

 ひやりと流れ落ちる汗がその巨人の威容を物語っていた。ふふ、と笑みが溢れた。

 

(よくこんな相手にたったひとりで)

 

 彼の最後は今も鮮明に焼き付いている。最後の最後まで逃げてと叫びながら、それでも必死に向かっていく彼の背中を見続けた。今でも力強さを感じたとか、技量に優れていたとは思わない。しかし、それでもあの強化の輝きが美しく、煌びやかに根付いていた。

 

 闘気が走った。魔導銃を掲げる。砲口が火を噴くと正確にモンスターの眼窩を貫いた。

 

 この管理迷宮『試練の塔』最深部である、通称「立ちふさがる者」の間では左右両方向と後方の三方向に通路が設けられている。主人を斃されてなるものかと、必死にモンスターたちが妨害してくるのだ。

 

「左方から一体大鬼が抜けてきますっ。皆さん、注意してください」

 

 後方の通路および全体指揮担当のエルサが鋭い声を届かせた。続いて大鬼の姿が現れだす。

 

(班長も上手く指揮できるようになった)

 

 これも残してくれた遺産だ。頬が緩む。嬉しいだとか、悲しいだとか、色々な気持ちが込みあげて膨らんで力となっていく。

 

 気を緩めて、ミスをしたりすることはできない。誓ったのだ。仇を取る。みんなで、彼の家族の前で。ならばどうやって裏切れるというのだ。

 

 持つ剣が軋んだ。上段に大きく構え駆けた。

 

 ソニアの指示に沿って仲間たちが敵に向かってゆく。大鬼(オーガ)の膂力は正面から戦っておよぶものではない。だからこその、チームワークだ。

 

 今でこそわかる。たったひとりでは何もなせない。自分は愚かだ。勝ちたい、認めさせたいと躍起になっていた。そんな本心を見抜かれた上科落第。補欠の一科になってからも永遠ムダに空回りした独り相撲だ。

 

 今は違う。ちがうんだ。ソニアは吠えた。

 

 仲間たちの執拗な攻撃で相手は膝を折った。こうべを垂れる。そこに精密な銀線を描いた。

 

 血飛沫が舞い虚空に花弁を咲かせた。ズシンと大鬼が背中から倒れる。塵埃がぱらぱらと巻きあがり視界を塞いだ。

 

 顔を上げて周囲を見渡す。埃に塗れながらも、その瞳は油断なく全体を睥睨していた。

 

「ソニアっ」

 

 横合いからエセキエルが駆けてきた。彼の額にも大量の汗がある。手の甲で流れ落ちる汗を拭いながら、短刀で巨人を指し示した。

 

「ここは俺がやる。そっちはボスの討伐に向かってくれ」

 

「左翼は大丈夫なの?」

 

 エセキエルは左側通路防衛部隊の参謀である。先ほどから何度もモンスターが抜けているため、左翼側にも余裕があるとは思えない。

 

 そんなソニアの不安を払拭するかのように、細ばった顔で自信満々に頷いた。

 

「ボスを倒せなきゃ意味がない。ユウマを援護してやってくれ」

 

「そうね。ありがとう」

 

 軽く頷くと、剣を空高く掲げ、指揮下の人間の注目を集めた。

 

「マネ、サラーは私に追随しなさい。それ以外はこのエセキエルが指揮を引き継ぐわ」

 

 そうやって大声で指示を出すと、最後にエセキエルへ振り返った。

 

「任せるわね」

 

「ああ」

 

 エセキエルがクイっと眼鏡の位置を正す。

 

 皆変わったところもある。けど、変わらないものもある。くすっと笑みを漏らしながらソニアは切り開かれた道を駆け抜けた。

 

 

 

 

 

「苦労するな。お前も」

 

 ソニアの駆け抜けていく背中を見つめていると声が掛かった。横を見なくても其処には知った顔がある。ユーリと同部屋だった男で、彼は短槍を構えながらつぶさに周囲を観察していた。

 

「それが俺の役割なんだ」

 

 自信満々に役割を請け負ったように見えたエセキエルだが、内実は厳しいものだった。右翼の指揮を担当している二七小隊の上科生は集団戦闘に長けた人物ではなく、度々綻びを作りだしている。正直なところ、ソニア抜きで戦線を保たせるのは難しかった。

 

 だが、そんなことは細事に過ぎない。使い捨ての発光灯に照らされて蠢く巨人の影を感じながら、エセキエルは計算を重ねていた。

 

「優先すべきは頭の排除だ。それ以外はどうにでもなる」

 

「状況はもっと酷くなるぞ」

 

「全体の危険度を均等化する。それが俺たち参謀の役割だろ」

 

 エセキエルは唇の端を歪めながら笑った。短刀を投擲した。回避に失敗した小鬼の動きが一瞬止まり、候補生たちの集中砲火が身体を焼いた。

 

「冷静に策を練るのは俺たちにしかできない。指揮はリーダーの役目だが、そのリーダーが十分に力を発揮できる場所作りが必要なんだ」

 

「ああ、そうだな」

 

 男は横で班長や右翼の左翼の状況を間断なく見守りながら、時折懐から取り出したナイフを投げて援護した。

 

(それに、これが俺の振られた配役でもある)

 

 苦い笑みが漏れた。己もソニアのことを笑えないな、そんなふうに思えた。自嘲の笑みがどんどんと湧いていた。

 

 モノを知らぬ馬鹿どもに指図されて動くのは気に食わない。誰だってその筈だ。馬鹿に指示されて、動く奴はそれ以上のバカなんだ。上科や壱科なんてものは、歴史を辿ればただできあがった順番に過ぎない。それを、上科や壱科の奴は傲岸不遜に選ぶっている。ずっと、そう思っていた筈だった。

 

 ソニアに対してまだ燻っているものが消えないとは言えない。瞼を閉じると、いつかの屈辱がふつふつと奥底から蘇ってくる。けれど知った。彼女たちには彼女たちの正義があり、彼女たちなりの真実がある。自分が間違っているとは思わない。ソニアは気に食わない奴だ。だがそれでも、遺族の前で啖呵を切ったあの姿は、虚偽だとは誰にも言わせないために。

 

 苦い葛藤がエセキエルの明晰な思考をより速く、鋭くした。人が集まっていくその光景も、火砲が吹く量も、怒声の大きさも。すべてがひとつの写真に収まり、記事となっていくかのように頭に浮かんだ。

 

「俺は援護にいくよ。ここは頼む」

 

「ああ、構わないが」

 

「どうした?」

 

 歯切れの悪い様子に首だけ振り返ると、相手は称賛の色を瞳に浮かべていた。

 

「俺たちの小隊には参謀が不足している。今はそんな気持ちにはならないだろう。けど、三回生になれば小隊組み替えが許可される。そのときウチに来てくれないか?」

 

 男は背中を向けながら、強制はせず判断を預けるようにして、続けた。

 

「お前たちの班は不幸にも一人を欠いた。必然、将来的には増員か解体を迫られることになる。そのとき、候補のひとつとして残しておいてくれ」

 

 それを最後に男は、

 

「絞れっ」

 

 と叫びながら、敵集団を押しつぶすように味方を移動させた。エセキエルはそれを見ながら、意識を切り替えた。

 

(ユーリ。悪かったな。償いなんてできないけど、お前の代わりにもっと頑張ってみるよ)

 

 はじめての軍に対する真摯な思いを抱きながら、苦戦する左翼に向かっていった。

 

 

 

 

 

 後方通路、崩れさった瓦礫の上でエルサは全体を見回していた。増援が入ったことで安定を始めた左側通路の状況にほっと安堵の息を吐く。

 

(ううん。ダメです。指揮官が不安を見せたらいけないって)

 

 エルサはぶるぶると顔を振りながら、不安を浮かべようとした頬を奮い立たせた。じん、と瞳に力が宿る。鋭い声で近くに居た味方へ指示を出した。

 

「今まで温存していた銃弾を総動員して、巨人対処部隊の援護に回ってください。それから数人ほど中央の援護を」

 

「はっ」

 

 踵を揃えて敬礼する候補生を冷たく見据えながら、エルサはひとり深い後悔の念に一瞬囚われた。

 

(甘えていた、のですね)

 

 この寄せ集め合同小隊。それに共通する項目は小隊長である上科生に対して、畏れがほとほと欠けている班員が多いことだった。ばらばらだったり和気藹々としていたりと、その雰囲気はチームで大きく異なるが、どこも小隊長を恐れている様子がない。

 

 飴と鞭は上科生として口酸っぱく教えられる人心掌握術の基本だが、その重要性がどれほど重要なのかということをいまさらながら理解した。ユーリが死んでしまったのは自分のせいだと、今でもその想いが夜な夜な蝕んでくる。あの優しい笑顔を家族から奪ったのは自分なのだと。

 

(だからこそミスは許されない。何よりも、彼のために)

 

 エルサは顔を上げた。眦には涙が薄く浮かんでいる。しかし、それを拭うこともせず、鋭い眼光で敵を味方を睨みつけた。逆らうものは容赦しないと、出来もしない強い自分を想像して。

 

 一本ぴんと筋の入ったその立ち姿は人を無意識に従える威厳が立ち籠めはじめていた。

 

「エルサ隊長」

 

 部下から呼びかけられたほうにちらりと視線だけを送る。その鋭い眼光に怯えを見せながら、参謀の男は静かにいった。

 

「右翼はかなり安定しています。右翼から数人引き抜いて、他に回したほうがいいのではないかと」

 

「そうですね。右翼には何人残っていますか?」

 

 エルサは別の状況把握担当の男に呼びかけた。計算に優れた男で、行き来する人物を正確に記憶し、全体を事細やかに把握することができる人物である。

 

「恐らくですが三人であると思われます」

 

「それは本当ですか?」

 

 合同小隊の合計人数は四二人。当初の大まかな内訳は両翼後方に十人ずつ、中央に残りという配置であるが、現在右翼はその三分の一以下となっていた。

 

 左翼の援護に人を回しましたが。エルサは自分の顎を撫でながら、その異常な安定力に首を捻った。

 

「残っているのは誰です」

 

「恐らくで申し訳ありませんが、肆科のヴィーと、壱科のゾノ。それからそちらの班のアンヘルだと思われます」

 

 現状を告げた頭脳明晰な彼にも自分が語る奇妙な事実に不可解そうな顔をしていた。

 

「ヴィーのお陰なのでしょうか?」

 

「左翼側は入り組んでいますから状況がまったく見えません。しかし、ヴィーはそれほど武芸に優れている印象はないのですが」

 

 エルサは腕を組んで一瞬考えこんだ。

 

「わかりました。現状では困っていないのです。これ以上減らすと、不測の事態に陥る可能性もありますし、右翼は必要以上に弄りません。寧ろ、危機的状況の際には必ず援護に行けるよう注意してください。必ず死傷者を出さないよう。わかりましたね?」

 

 エルサは意図的に厳しい顔を作った。周囲の人間たちがそれをうけて、ひやりと冷や汗を流した。

 

 はけていく集団。瓦礫の上からゆっくりと移動し、小岩の上に登って奥の巨人のその姿を、瞳に焼きつけた。

 

(ユウマさん。あとは、任せました)

 

 エルサは心中で祈りながら、全体の状況を見届け続けた。

 

 

 

 

 

「てやぁぁあああああ」

 

 ユウマはその聳え立つ巨人に向かって、その巨大な戦鎚を真正面から振りおろした。

 

 巨人の左腕がさっと頭を庇った。がぎんと金属が打ち合う強烈な音を轟かせながら、戦鎚の反動で後ろにくるくるバック転をしながら地面に着地した。

 

 じぃんと痺れる腕がどうにも苛立たしい。

 

 地につけた踵を地面に打ち込むと疾風になって走る。塔内部の暗がりを一筋の線を作りながら駆け抜けると、持った重武器が地面を縫いながら走った。

 

 土埃を撒き散らしながら旋回。ぐにゃんと強化の影響で視界が歪む。柄を持つ拳がまるで戦鎚に操られているかのように動いた。

 

 ――あなたは防御のことなんて考えなくていいわ。

 

 信頼してくれた人がそう言ってくれた。だから信じた。些細な攻撃は胸鎧や手甲が防いでくれる。致命的な攻撃は仲間が逸らしてくれる。今考えるのは、目の前の敵を如何に打ち倒すか。頭の中にあったのはそれだけである。

 

 集中すると、みぃんと空気の振動が止まった。音が無くなる。深い海へと落ちていく。無臭で色を無くした世界をユウマは孤独に走った。

 

 ——天才、いつもそう言われてきた。

 

 天賦の才能があると、戦うことは君の運命だと周りは鸚鵡のように繰りかえした。それに溺れたこともあった。自分は貧しい家に生まれて、辛い幼少期を歩んだ。今、楽をしているのは、そのときの取り返しだと心中で嘘をついた。

 

 でも疲れた。人を見下して、相手と競い合って。身体を動かすのが好き。だから軍でその力を生かす。みんなが喜んでくれるから。それでいいじゃないか。自分は頭が良くないんだから。ずっと、ずっとそう思っていたはずなのに気付けば嘘になっていた。

 

 力には責任が伴う。能力には期待が付随するのだ。知らなかったでは済まされない。見て、知って、体験してしまえば馬鹿でもわかってしまう。自分が間違ったら、他の誰かが傷つく。その犠牲は大抵、いい人なのだから。

 

 もう間違えられない。戦うしかない。バカでも、知らぬなりに、努力しなければならないのだ。

 

 大丈夫。できないことは仲間がやってくれる。自分は、前だけ見ていればいい。呪文のように呟いた。

 

 咆哮。剛と戦鎚を振るった。

 

 必死な形相。怖い。逃げたい。心が鳴いた。

 

(うっさい。ウチは今みんなの前に居るんよ。逃げられへん。背中を見せられへん)

 

 ごんごんと拳で胸を打った。

 

 魂の業火が逃げる口実をひとつひとつ灰にしていく。巨人のモーニングスターが掠めるたび、ひりひりと焦げつくような不安感と血飛沫の生臭い匂いが臆病な心を剥きだしにするが、それ以上の援護が彼女を後押しした。

 

 立って、戦えと。

 

「ユウマっ。いくわよ」

 

「さっすが。ウチの作った隙、見逃さんといてよ」

 

 ソニアの指示に従い飛び退く。魔導銃の火の嵐。悲鳴をあげる巨人。ユウマはすっと地面に膝をついて、力を溜めた。

 

 闘気が唸って、収斂して、中心で燃えた。身体の中央にまるで鉄印でも焼きつけられたように熱が爆発した。

 

 白い輝き。いつかの過強化の輝きだ。

 

 どうでもいい。自分は英雄症候群。なるようになると思考を捨てた。

 

 発光する粒子が渦を巻いた。光輝に染まったその中央で戦鎚を掲げた。

 

 ピィィンと場が緊迫した。ビクリ、巨人が恐怖で身体を震わせた。臆病な心があるんだな。ユウマはひとり不思議に思った。

 

「いくわよ」

 

「はいなぁ」

 

 ソニアの掛け声、それを聞いた瞬間にクラウチングスタートの要領で空間を走った。一歩一歩、地面に食い込むほど強く、太く。踏み込みの強さが即ち威力だ。そう教わった。

 

 大きく跳躍。縦に回転。勢いも、遠心力も。すべてここに込めた。粉砕。それだけに願いを込めて。

 

 真正面。高く舞い上がったユウマの振り下ろした戦鎚は、巨人のモーニングスターと真っ向から噛み合った。ぐいぐい軋む腕に血が滲むほどの力を込めた。

 

 ブーストの掛かった体が背中の推進剤に押されたように圧を強める。両の手で持ったモーニングターを圧し折ろうと唸った。

 

 巨人が啼いた。耳を聾する、苦悶の咆哮だった。

 

 巨人の足が予備動作のように蠕動した。引けない。戻れないのだ。打たれると分かっていても、攻撃だけに集中した。

 

 相手の右足が回される。踏ん張る力が抜けた。

 

 ――チャンスだ。粉砕だ。

 

 篭る力がモーニングスターを打ち砕いた。

 

 直後、衝撃。相手の足が突き刺さる。気づいたときには中空を舞っていた。

 

 だが、見たか。相手の武器と兜、そして右腕。大丈夫。受け止めてくれる。ユウマは霞む意識の中で、仲間たちに受け止めてもらうその一瞬の間にサムズアップを掲げたのだった。

 

 

 

 

 

(無茶、するわね)

 

 仲間に受け止めてもらい、意識を放り出したユウマをチラリと眺めた。治療技術を持つ候補生が彼女を抱えていった。

 

 頭を振ると心配はかき消した。生きていても死んでいても。この繋がれたバトンはゴールまで持っていかなければならない。でなければ恨まれる。

 

 後方のエルサは実に冷静だ。危なげなく全体を均してある。左翼のエセキエルは見事な補佐能力だ。時折危険域にある場面を寸での所で堪えさせている。右翼は入り組んで見えないが、一向に敵を通す気配がなかった。右側を気にせず戦えるのはひどく助かった。

 

 前方。憎き巨人が戦意を露わにしてこちらを睨んでいる。だからどうした。こちらはすでに極まっている。仇をとってみせるのだ。剣を掲げた。兵が呼応した。

 

 ――ソニアさん。あなたは強い人だ。

 

 勘違い。それはソニア自身が良く分かっている。自信のない自分を、能力というベールで覆っているだけ。本当の強さは貴方みたいな芯の強さのことを言うの。威張ったところで隠せない。そう思えば、相手の威勢が滑稽に映った。

 

(ねえ、そうなんでしょう?)

 

 叫んだ。仲間たちの銃弾が敵の全身を穿つ。決死の剣撃が、相手の肉を削ぐ。ユウマ渾身の大打撃に全員が畳みかけるようにして塩を塗り込んでいく。

 

「やれ、ソニア!」

 

「今ですっ、ソニアさん!」

 

 仲間たちの声が自分の背中を押してくれる。薄暗い塔の内部がやけに輝いて見えた。ぶおぉぉんと針のような尖った闘気が全身から放射され、巨人を捉えんと迸った。

 

「全員、突撃ッ」

 

 吠えた。呼応するは十人。全員、合同小隊の中では武芸に優れる候補生たちだ。

 

 蜂のように地面を走った。やぶれかぶれ、巨人が腕を振りまわす。構うか。突っ込んだ。剣先から一直線にして一本槍のように突っ込んだ。

 

 何度も防がれる。配下の兵が吹き飛ばされる。地面に転がった。剣を杖に立ちあがる。けれど魂の炎はかき消えない。

 

 ――使えないわね。剣もその程度なの?

 ――ははは、その、すみません。

 

 ――悔しくないの? 女の私に負けて。

 ――その、ごめんなさい。

 

 ――ボクは、あなたに、リーダーを任せたい。

 ――どうして、そんなの、あなたの得にならないわ。

 

 ――私にはわからないわ。

 ――それでいいんです。あなたは強い人だ。ボクたちが支える。それでいいじゃないですか。

 

 ――私ね、孤児なの。だから、どうしても強くなりたいの。

 

 ――ねえ。その、班長とどうなの?

 

 記憶が走ると、知らず涙が溢れた。

 視界が滲んだ。剣を振った、踊った、舞った。

 

 唸る豪腕。しゃがんで避けた。飛び上がって、顎を裂いた。翻した剣が左足を斬った。

 

 なんで、なんで。自分は言わなかったんだろう。たった一言、わがままになれば。よかったのに。いつもやってきたことじゃないか。自分勝手に、セルフィッシュに。曝け出せばよかったのに。

 

 ソニアは相手を見た。剛力、強靭。そして巨大。

 

 どれほど恐怖だったのだろう。これほど弱っている相手に対してもまだ体が竦む。怯えが止まらない。血走った目に身体が固着する。

 

 ――大丈夫。大丈夫だから。ボクたち仲間がいるから。

 

 右から優しい声を聞いた気がした。瞬間、鉈が飛来する。血に塗れたその鉈はとてつもない速度で飛来し、巨人の残った左腕に易々と貫入した。

 

 ――いまだ。

 

 ユーリの意思が物体になった。ソニアはそう理解した。仲間たちが、全員、一斉に吠えた。

 

 ソニアは走った。

 

 他者を害し、自分を大きく見せかけようとした少女は、今ここに真の巨人となったのだ。

 

 柄を握った拳が痛い。それ以上に張り裂けそうな心臓が痛い。関係ない。飛んだ。背に翼が生えたかの如く空を駆けた。

 

 ――ユーリさん。ありがとう。私、あなたのこと、忘れません。

 

 溢れでる闘気がきらきらと微細な粒子となって世界を照らした。ソニアは神々しく光るその刀身を真っ向から振りおろした。

 

 勢いよく、巨人の頭部、胸部、腹部、下半身を真っ向から雷の如く両断した。

 

 勢い余って剣が床に突き刺さる。

 

 ズシン。巨人が背後に倒れ伏した。

 

 ソニア。剣を持ったまま、ヘナヘナと地面に尻餅をついた。爽やかな涙がスッとこぼれ落ちた。

 

 ――さようなら。

 

 

 

 オスゼリアス士官学校における二回生迷宮探索演習。

 

 第二一三回生の七八エルサ班は一度仲間を失うものの、その後立ち直り、前例のない一期間二度目の迷宮ボス討伐を達成した。よって、その功績を讃え、演習特別賞を授与されたと学内文書に記されている。

 

 中心人物には、班長のエルサ、副班長のソニアと共に亡きユーリの名前が記されていた。

 

 

 



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第十八話:すべて虚構に過ぎぬと知りながら

「すごいじゃないか」

 

 オスカル教官は目尻に溜まった涙を拭いながら、感極まった様子でアンヘルを褒め称えていた。そんな教官の様子を候補生たちが忌々しそうに見つめている。クナルは興味なさげに欠伸を漏らして剣を愛撫していた。

 

 場はいつもの依頼待機場である行政区の建造物内だ。隘路に面した建物だが窓から微光が漏れている。魔導灯の光もあって、床の木目がはっきり見えるほど照らされていた。

 

「いえ、そんな」

 

 長椅子に腰掛けたアンヘルは、上級生の態度もあって大仰な態度の教官に苦い笑みを返した。

 

「謙遜するなアンヘル。本当によく頑張った。史上初だぞ、期間中に二度迷宮ボスを倒すなんて。エルサ班には演習特別賞が検討されているそうだし――」

 

 オスカル教官が話している途中、扉がガラっと開かれる。アグリッサや護衛たちとともに壮年の司祭が入ってきた。イズナがぴょこぴょこ手を振っている。

 

 アンヘルたちは踵を揃えて敬礼した。大神祇官は無機質な微笑みを浮かべた。

 

「すまないね。それより喜悦の声が届いたが何か慶事でもあったのかな?」

 

「いえ、申し訳ありません」

 

 オスカルは誤魔化すことなく謝罪し、その後恐縮したのか姿勢を低くした。待機中とはいえ、護衛の分際で騒がしくした事実に恥じているのか頬を染めている。

 

「気にすることはないよ。むしろ聞いてみたいな。何があったのかね?」

 

 ドミティオスはこんな些細なことで激怒するほど狭量ではなかった。

 

「詰まらぬことかもしれませんが」

 

 枕詞を付けながらも自分のことのようにして、アンヘルたち七八小隊の勇姿を語りはじめた。

 

「とくに、候補生ユーリを失ってからは我々正規軍人も見習わねばならぬほどすばらしい団結力でありました。士官学校を訪れた遺族たちに堂々と宣言したその姿。私は彼らが偉大な軍人として一歩を踏み出したのだと確信しています」

 

「それは素晴らしい」

 

 驚いたような言葉だったが、ドミティオス大神祇官の高雅な微笑は何一つとして変化しなかった。ただ、その淡い感嘆の端に氷河のような冷たい憐憫が浮かんでいた。

 

「よくやったようだね。アンヘル君」

 

 目を伏せて小さくその称賛を受け取った。イズナが「さすがなのですぅ」と言いながら腕に抱きついてくる。

 

 それを微笑ましく眺めていたドミティオス大神祇官は、

 

「さて」

 

 と手を打ちながら、室内の全員を睥睨した。

 

「今日集まってくれてありがとう。すでに宝剣の修繕は終え、諸君らの任務はほぼ達成されたと言っていい」

 

 ドミティオスはじっくりと候補生顔をひとつひとつ見比べながら、瞼を一度閉じた。

 

「最後にもう一仕事残っている。夕刻、私は魔剣騒動に決着をつけるため総督府官邸に赴かなければならない。申し訳ないが、正式な会談のため護衛を連れていく必要がある。そのため諸君には非常に少ない人数で宝剣警護に当たってもらう」

 

 ドミティオス大神祇官は護衛二人とイズナをちょいちょいと呼び寄せると、中央に鎮座した栗の木の机に宝剣の納まった黒檀の木箱を置かせた。

 

「ヘロルドとリャオセイル。それからイズナ。二人しか残せないことは誠に心苦しいが諸君に神々の祝福があらんことを。とはいっても何が起きるとは限らないのだけどね」

 

 ドミティオス大神祇官は最後誤魔化すようにパチっと片目を閉じると、苦笑いのような痛々しい感情が沸き起こった。

 

「クナル候補生。前に」

 

 入れ替わるようにして、黒い裾広がりの服を纏ったアグリッサが陰気な声を発した。

 

「あなたには別の仕事があります。送っていきますので付いてきなさい」

 

「お待ちください。どのような御用でしょうか?」

 

 オスカル教官が手を掲げて静止する。アグリッサが無作法を怒鳴りつけるよりも早く大神祇官が反応した。

 

「私の所為だ。エズモンド伯との会食で御令嬢に美しくも鮮烈な強戦士が居るといったら、如何しても会わせて欲しいと頼まれてしまってね。クナル君にとっては退屈極まりない仕事かもしれないが、ここは一つ私の顔を立ててはくれないかな?」

 

 クナルは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、一度アンヘルをチラリと見た。

 

 睨み返すと、心底不愉快そうに顔を背けた。

 

「では、よろしく頼むよ」

 

 ドミティオス大神祇官はそれを最後に部屋を去る。護衛やクナルたちもそれに続いた。

 

 魔剣騒動を巡る最後の幕が、開演の狼煙とともにあがっていった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「と、いうわけです」

 

 アンヘルは長椅子に座りながら、アリベールから収集した情報を警護する全員に共有した。オスカルが長椅子の背もたれに腰掛けながら感嘆の言葉を漏らしている。

 

「魔剣? 制限時間? 雲を掴むような話ばかりではないか」

「その通りだ。所詮伍科風情が手に入れた情報を信用など」

「ふ。どうせ適当に調べた情報を言っただけだろう。浅ましいことよ」

 

 候補生たちから厳しい言葉が飛んだ。彼らの中にあるのは、

 

  ――伍科風情が何を言っているのだ

 

 という侮蔑である。先ほどドミティオス大神祇官にお褒めの言葉を頂いたことや、イズナと仲が良いことから強烈な妬心の矛先となった。

 

 オスカルは彼らを咎めながらも、

 

「あまりに突拍子がなさすぎるぞ。そもそもどうやって」

 

 と、不信感を隠せない様子で、彼らの言葉を補足した。

 

「それは」

 

「情報源がなければ信用できない」

 

 彼の言っていることは正しい。実戦であやふやな情報はただ場を混乱させるだけだ。唯一、イズナだけが腕に絡みながら「ええー、私は信じるですぅ」と言っているが、恐らく内容を理解していない。「マジン、マジン」と言っており、リハビリ中に連れて行った観劇『ランプの魔神』だと勘違いしていた。

 

(これじゃ協力は望めないか。くそ、どうする)

 

 そっと歯がみする。折角得た情報が水泡に帰してしまう。

 

「えっと、あの……」

 

 往生際悪く説得しようとした瞬間、思わぬところから援護射撃を受けた。

 

「魔剣蘇芳。聖カトー騎士団に渡った魔剣の一つだ。奴らはもっとも強硬派で、この宝剣を一番欲している。もっとも襲撃の可能性が高いのは奴らだ」

 

 と、ドミティオスの護衛たちが、木造の壁にもたれながらぽつりといった。

 

 彼らは全身に警戒のラインを走らせながら、アンヘルの意見を支持した。候補生たちも彼らの判断には文句をつけられず、それ以降うんともすんとも言わなくなった。代わりとばかりに強烈な嫉妬の視線が飛んでくる。アンヘルはどうしようもなくなって目を伏せながら黙り込み、イズナの頭を撫でた。

 

 奇妙な静謐が部屋を支配する。そんな時だった。

 

 みんと場の詰まったような、独特の空気に転じた。

 

 最初に動き出したのはオスカルだ。彼は壁に背中をピッタリとつけ、窓の外を窺うように油断なく外を見つめた。ピリッとした空気が周囲を漂う。護衛たちも他の窓から外を覗いたり、宝剣の近くに寄った。その瞬間「くるです」とイズナが透き通る声でいった。

 

「一斉斉射だっ。全員散開」

 

 オスカルの怒声がはじけた。アンヘルの視界にも金属鎧を纏った男たちの姿が映ると、雨嵐のような大量の矢が窓の外から殺到した。

 

(ここは行政区なのにっ)

 

 この規模の襲撃はまるで内戦を想起させるものだった。ガラスやちょうど品を粉砕しながら、矢が部屋中に突き刺さる。

 

 突如始まった襲撃にオロオロした候補生を思いきり蹴りつけて、柱の影まで吹っ飛ばした。アンヘルは長椅子を蹴り上げ直立させると、イズナの頭を抱え込みながら椅子の物陰に隠れる。

 

 射撃の雨が弱まるのを見計らってイズナの手を引いた。

 

「部屋に固まっていてもやられます」

 

「ならばどうする」

 

 柱に身を潜めたオスカルが叫び返した。

 

「廊下で迎撃します」

 

「よし、いくぞ」

 

 オスカルは残りの候補生へ護衛たちに従うよう言いつけると、アンヘルと共に部屋を飛び出した。

 

 二手に別れて西方と東方のニ方向を塞ぐ。

 

 同時に廊下や窓から金属鎧を纏った重装の騎士たちが押し寄せてきた。

 

「イズナ援護!」

 

「ハイですっ」

 

 幻影か。いや、雑念はデリートしろ。集中。深く、静かに見極めろ。相手の剣だけに集するのだ。意識を尖らせるごとに、時間の感覚が鈍くなっていく。闘気が放出されると、エンジンが切り替わったように身体中を巡る血流の速度が倍加した。

 

 イズナの水のような矢。それが呼び水となった。

 

 引き抜いた剣がびょうと風を巻いた。管理迷宮に持っていくときとは違う、己がもっとも信頼できる魔導剣。それを突き出す。

 

 壁を疾る剣が先頭の騎士の剣と絡み合う。押せない。ゴブリンとは遥かに違う膂力を感じた。ヒヤリと汗が流れた。

 

 剣を撃ち合った騎士が唐突にしゃがんだ。後方の騎士から突き出される槍が肩を薄く抉った。眼下の男を蹴りながら後方に跳躍。イズナの矢が乱れ打たれるが、新たに出現した短刀使いにほとんど撃ち落とされる。

 

 後方を見た。オスカル教官も必死に戦っているが、此方と違い一人の為部が悪い。

 相手。明らかに正規軍の様相を呈している。幻影かどうかもわからない。アンヘルは瞼を一度閉じると、即座に決断した。

 

 右手を開きながら、空を切るように真横に振った。呪文を紡ぐ。虚空からゲートが開かれた。

 

「召喚」

 

 若水龍シィール。若火山龍フレア。二頭の龍が顕現した。劈くような強烈な咆哮を上げる双頭、アンヘルはシィールの息吹の中を疾駆した。

 

「アルっ。行くですよっ」

 

 イズナの声と同時に眷属たちが水を纏った。よくわからないが、ありがたい。アンヘルは突如冷気が増した白銀の世界で、剣を閃かせた。

 

 突然の召喚師に騎士たちも動揺を露わにした。

 

 下がっていく槍の騎士。対照的に兜の目庇から覗く無機質な表情を浮かべた騎士が突撃をかましてくる。

 

 ――こいつらは、幻影だ。

 

 魔剣の幻影能力について検討がつきはじめていた。どうやら騎士たちを複写する能力で力量すら真似できるが、細やかな心情までは再現できないようだった。

 

 アンヘルは剣を逆手に持ちながら、冷気に動きを鈍らせる騎士に近づくと、鎧の隙間から臓器を穿つようにして首元から斜め下に突き刺した。

 

 そのまま背中を向けて騎士を背負う。背走すると、背負った死体にがきんと幻影たちの刃が突き刺さった。

 

 敵集団に突っ込むと、ど真ん中で騎士を振りおろす。回転しながら周囲の男たちを斬りつけた。するどい金属に打ちつけた音がなる。騎士たちは重装である。真っ向からの斬撃はまるで意味がない。

 

 白雪がぱらぱらと舞う幻想的な空間で、さらにアンヘルは笑った。

 

「突貫!」

 

 入れ替わるようにしてフレアの影に隠れる。狂気の咆哮とともに相手の矢や刃を弾きながら突進する巨大な火山龍。その強烈な顎が騎士に噛み付いた。

 

 フレアは捉えた獲物を誇るように天井に掲げると、ばりばりと奇怪な音を立てて、その顎に絡みつく胴体を食いちぎった。

 

 腹部のその七割。腸や贓物がボロボロと落ち、血潮を地面に撒き散らすその様子を見ながら、フレアはグギャグギャと歪な笑い声を漏らした。

 

 すぅんと騎士たちが半分ほど煙となって消えていく。突如として、二十ほどいた騎士たちが半分となった。

 

(これはもしかして)

 

「教官。核となっている本物の騎士を倒せば幻影は消滅します!」

 

 小鬼の時と違って騎士に限りがあるのか、一気に形勢が傾く。しかし、アンヘルの助言は必死に戦っている教官には届かなかった。

 

 イズナを援護に送ろうかとも思うが、此方とて余裕があるわけでもない。そもそも弓使いとの唐突な連携は難しいものだ。アンヘルは偶々イズナと綺麗に連携が取れるが、オスカル教官とならば逆に力を発揮できなくする可能性もある。

 

 手に持つ剣。光を放つそれを一瞬見た。

 

 即座に敵を打ち払い、援護に向かう。それしかない。再び世界が闇に沈んだ。もっと、もっとだ。強化の光が渦を巻く。燃やせ。相手を叩きのめすのだ。

 

 アンヘルは一歩踏み出すと、それを遮るようにして黒い靄が行く手を妨害した。

 

「アル。下がってくださいっ」

 

 全身に冷気が走った。瞬きの彼方。それだけで、右腕が竹のように坂剥けた。それでも必死に後ろに下がった。

 

 すぐ真横を矢が突き抜ける。それは靄が型どった剣にはじき落とされた。

 

「本当に気に食わぬやつよ。よかろう。この私自ら始末をつけてやるとしようではないか」

 

 靄が型どったその男は白銀の上を靡かせ、紅の瞳を輝かせている。手にはあのサーベルがあった。

 

 因縁の相手である吸血公ドラクル。その男相手に最後の戦いが始まった。

 

 

 

 

 

「くそっ」

 

 ごろごろと横に転がりながら、必死の形相で敵の攻撃を躱していた。夥しい量の汗が全身から吹き出ており、避け損ねた斬撃の影響で滲んだ血が服を朱色に染めあげていた。

 

 肩に乗せたリーンが必死に回復を紡ぐが、それ以上の速度で傷が増えていく。士官学校の制服はもはや原形を留めておらず、ただの襤褸切れと化していた。

 

 教官や護衛たちの安否を確認する余裕などありはしない。戦いの中で、アンヘルは階段を昇り降りして現在位置すら不確かになっていた。

 

 後方の騎士たちが背丈ほどの巨大な弓――竜狩り――を構える。イズナを抱え込みながら、必死に角の向こうへ飛び込んだ。壁に巨大な矢が突き立つ。アンヘルは壁に背を付けながら角越しに敵を睨んだ。

 

「苦しいか? そうよな、そうでなくては。我はおまえのせいで五日間も愛しい子猫たちと別れを余儀なくされた。おまえが悪いのだよ。我はただすこしばかり剣を突き立てるだけだったのに、愚民風情が逆らいよって。そのうえよ。今回の戦いに当たって我は苦渋の決断を強いられたのだッ」

 

 ドラクルは怒りと悲しみで満ちた強烈な顔をしながら、横にいた騎士の頭をむんずと掴んだ。すううと幻が溶けてゆく。幻の中から現れたのは涎を垂れ流し、虚ろな表情を浮かべた赤毛の幼気な少女の姿があった。

 

「見よ、この醜悪な姿をっ。おまえがいなければ私は子猫にこのような卑劣極まりない行いをせずに済んだのだ」

 

 ドラクルはその長い腕を伸ばすと、水蜜桃のような白い臀部をまさぐり、性器の内部へと指を貫入させた。毛も生えていないその披裂を引き裂くようにして肘近くまで突っ込んだ。

 

 少女の虚ろな瞳が苦悶に揺れた。イズナが「ひっ」と小さな悲鳴を漏らした。

 

「な、なにを、なにをしている」

 

「知れたこと。幻影を生み出すための対価よ」

 

 ぎちぎちという不快な音が響きわたった。

 

「おまえを殺すため、我は涙を飲んで今まで集めた子猫たちを捧げねばならないのだッ」

 

 ドラクルはそう言いきると、少女の卵巣を掴み取り、体外へと掴みだした。ピンク色のそれが男の掌で動いている。それが煙のように掻き消えると、少女は鎧を纏った騎士となり、背後に騎士たちが続いた。

 

 うっと、胃から内容物がこみあげてきた。それをまき散らしながら悶えた。

 

 手が震えた。先ほど倒した騎士の真相にアンヘルは表情を消した。

 

(ぼくは)

 

 先に倒した騎士を見た。じっと見た。

 

 幻影が解ける。栗毛の少女だった。股から血を流した幼い少女。記事に乗っていた吸血鬼に誘拐された少女。その虚ろな瞳には深淵を覗き込んだように底がなかった。

 

 ――ころして、ころして……ください…………

 

 耳を澄ますと、少女たちの悲鳴のような呻きが響いてきた。

 

 アンヘルは目を見開きながら、呆然と木偶のように立ち尽くした。

 

 イカれている。本当にイカれている。攫ってきた少女を、その性を掴み取るようにして捧げなければならぬ魔剣など存在していいはずがない。

 

「殺すっ、殺してやるぞ愚民よ。そしてその死体を我がコレクションとして、新たな子猫たちにみせてやるとしよう」

 

 ドラクルの哄笑を合図に幼気な少女の幻影である騎士たちが波濤のように押し寄せた。アンヘルは固着していた。手にした剣のツバが強風にあおられた戸のようにカタカタ音を立てた。

 

「危ないです」

 

 イズナが庇い立てるようにして、アンヘルを抱えて飛んだ。避けきれなかった斬撃によって彼女の背中に血がにじんだ。

 

「だいじょうぶですか? アル」

 

「き、きみこそ、だい、じょうぶなの」

 

 ふたりはもつれあった状態で地面に倒れ込んだ。イズナが痛々しい作り笑いを浮かべている。

 

「ご主人さまを守るのが、私の役目なのです」

 

 瞬間。イズナの紅い唇が飛び込んできた。ふわっと柔らかく、甘い感触が口の中に広がる。涼し気な目立ちの奥に嵌る蒼穹の瞳が飛びこんできた。

 

「負けないで」

 

 イズナの悲痛な眼。それが、アンヘルの心の中にあった種火へ火を着けた。

 

 ごうごうと風が吹いた。なにをしても掻き消えぬそれを胸に手を突いて立ちあがった。

 

「ふ、ふはは、なんとつまらぬ三文芝居よ。さあ、これで終幕よ。ありったけの絶望を我に見せてみよっ!」

 

 ドラクルは高らかに吠えながら、猛烈な勢いで迫ってきた。

 

 近くにいた眷属たちが、剣呑な瞳を輝かせる。

 

「あなただけは僕が討つ!」

 

 言いきる前にアンヘルは大気を割って駆けだした。

 

 

 

 

 

「消えるがいい」

 

 ドラクルは身体を黒い霧に変えると、即座に襲い掛かってきた。同時、相手の後方から騎士たちが銀色に光る槍を投擲してきた。大気を割って迫る。穂先は驚くほど鋭い。しかし、悠長に回避をしていればドラクルの手中に落ちてしまう。奴の幻術は混戦であればあるほど効力を発揮する。

 

 だが、そんな状況の最中であっても、アンヘルは不思議と恐怖を感じなかった。

 

 凄まじい勢いで伸びてくる槍がやけにゆっくりな映像として映った。

 

 飛びのくように避けては迫りくるドラクルに対処できない。異常なまでに集中したその動体視力で、立体交差した槍の瞬間ジャングルジムを赤外線でも躱すかのように紙一重で躱しきった。

 

 ハラハラと舞う雪の結晶の残滓。その中を滑る黒い霧を正確無比な斬撃で引き裂くように抉った。

 

 がきん、と硬質な音が響き渡った。

 

 ドラクルは絶叫しながら人間体を象ると、ゴロゴロと剣圧に負けて地面を転がった。騎士たちが彼を守るように壁を作る。騎士たちから隠しきれない怯えが滲み始めていた。

 

 アンヘルはその異常な攻撃能力に目を疑った。手元。握る剣から迸るような水の魔力が渦巻いている。蒼穹に染まった剣が、青々と唸っていた。

 

 人垣の中に隠れているドラクルは起き上がろうと床に手を突いて力を込めているが、肩をぜいぜいと揺らしながら、無様に口を開けている。瞳を激しく瞬かせながら薄い唇を震わせた。

 

「ばか、な。なんだ、この力はっ!?」

 

 全身から薄い水が渦を巻いて、アンヘルを取り巻いていた。いや、己だけではない。眷属のシィールも、強烈な魔力がまるで増幅でもされるかのように膨れ上がっている。

 

 ふと気が付くと、イズナが背中を抑えながらも嫋やかな微笑みを浮かべていた。

 

「行くですよ。アル」

 

 袖をそっと握りながら彼女が言った途端、それまで以上の魔力が、身体の内から溢れんばかりにこぼれだしてきた。

 

 不思議な感覚だ。理屈も、意味も分からない。別次元の感覚を味わいながら敵を見下ろした。

 

 悪鬼。それを下すことに微塵も躊躇は生まれなかった。

 

 床を蹴って高々と跳躍。剣を逆手に持ち替え、胸を狙って正確に突きおろす。

 

 ――邪魔をしたのは、騎士たちだった。

 

 ドラクルが掴んでいた少女がその細面を兜から晒してアンヘルを正面から抱きとめた。金属の重厚感に一瞬動きを止めてしまった。

 

「いいぞ、いいぞ。その調子だ我が子猫たちっ。時間を稼ぐのだ」

 

 衝撃。

 

 ドラクルが騎士の向こう側から剣を突き出した。その先端は騎士ごとアンヘルの胸を撃ち抜いた。

 

 視界に真っ赤な日輪が咲き、胸の中に火でも放り込まれたような熱が迸った。痛みをとおりこした強烈なそれが体中に行き渡った。

 

 決定的な一撃だった。

 

 転がると、指先一つ動かすことができない。視界が壊れた映像機器のようにざわざわと揺れた。

 

 一緒に倒れた少女の幼い顔が視界一杯に映る。

 

 少女は白い喉をぶるっと震わせると、血の塊を吐き出した。熱い。顔を血反吐で濡らしながら強烈な炎が魂を焼いた。

 

「最後に我が子猫を抱くことができて嬉しかろう。おまえには大きすぎる栄よ」

 

「し、ね――」

 

「まだ強がれるとは見た目どおりゴキブリ並みの生命力よ」

 

 ドラクルはかなり余裕を取り戻したのか、指先でサーベルを弄ぶと、びょうとそれを突き出してきた。

 

「アルっ」

 

 と叫び声を間遠に聞いた。

 

 ごめん。心配させて。ほんとにごめん。どうして君がそんなに僕に肩入れしてくれるのか、分からない。けど、君の真摯な想いは嘘じゃないと思うから。

 

 振り下ろされる死の刃に必死に抗った。

 

「召喚」

 

 死地の最中に描き出した新たな手法である。この世界にいる眷属を再び呼び寄せる。遠方で主人を心配していた相棒シィールをすぐ脇に再召喚した。

 

 シィールがアンヘルの手を咥えて引き起こす。顔の真横を薄皮を裂くようにして剣が素通りした。かわりに狼狽しきったドラクルの顔があっという間に迫ってきた。

 

 ドラクルが目を見開いた。イズナがキンキン声で叫ぶ。

 

 水平に薙ぐ形で、剣を打ち込んだ。

 

 刃は、無防備な胸元に突き刺さると、深々と肉を抉った。

 

 そのまま、もう一度地面を踏んだ。

 

 跳び上がる。「愚民如きが」とドラクルの負け惜しみを聞いた気がした。

 

 剣を垂直に振り下ろした。轟雷。アンヘルの直剣はドラクルを脳天からすべてを叩き斬ったのだった。

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 リーンの回復を受けながら、アンヘルは倒したドラクルの骸を眺めていると、それはみるみるうちに金髪の細面へと変貌していった。吸血鬼の見るものを惑わすような美はない。そこにあるのは神経質そうな男だった。

 

「大丈夫ですか? アル」

 

「うん。それより、他の様子を見に行かないと」

 

 すでに魔剣を持った男は倒した。幻影の騎士たちも元の痛々しい少女たちの姿に戻っている。彼女らはすでに生気を失っている。

 

 心苦しいが、先に教官たちを確認したかった。首をまわして現在位置を確認する。戦闘の余波で建物はぼろぼろになっているが、よく観察すると当初の廊下からそれほど離れていなかった。

 

 アンヘルはイズナを背負い教官たちの方へ走った。

 

「そういえばさっきのご主人さまってのは――」

 

「アル。ごめんなさいです。イズナ、嘘ついてたのです」

 

 走りながら問うた疑問へ被せるようにして、イズナは告白した。

 

「本当はイズナじゃなくて『イズン』っていうです」

 

「それってどういう」

 

 と、あまりの意味不明な告白を問いただそうとした瞬間、アンヘルは立ち止まった。

 

 強烈な違和感。いや、既視感か。それが近づくにつれて強大化していった。わなわなと唇を戦慄かせながら直立した。一歩、二歩とそれに近寄った。

 

 脳が拒否していた。理解するのを。しかし焦点が合うと、拒もうとしても目に焼き付いた。手を伸ばした状態で苦悶の表情を浮かべる男。地面に転がっている男。胸に矢を突き立てた、男。アンヘルの教官にして強烈な理想を掲げた男の姿。

 

 驚愕に打ち震えるアンヘルの背後でさらにイズナが続けた。

 

「さすがすばらしい腕なのです。ねえ様」

 

 心底寒気を齎す響きだった。

 

 彼女はとんとんとアンヘルの背中から飛び降りると、ごふっと血を吐いた。

 

 その動きを呆然と見ていた。怪我の具合についてすら聞くことができない。肉体を貫いて雷光のように駆ける不安な戦慄を息苦しさとして覚える。喉の奥のそれが舌を引きだし、歯をこじ開けて外へ連れだそうとしていた。

 

 イズナはずるずると壁に背中をつけると、徐々に息を荒くして喘ぎだした。優しい蒼穹の瞳が、今はなにか別のものを見ているような気になった。

 

「なにか、知っているの?」

 

「何かなんてわかりずらい質問ですよアルぅ。イズンはおバカさんですけどアルよりはいろんなことを知ってるです。それにですね。うぺ、げろげろ、気持ち悪いのです。変な気分なのです」

 

 イズナは血の混じった痰をペッと吐き出すと、からからと笑いながらしゃがみ込んだ。

 

「心配しなくても大丈夫なのです。これは怪我じゃなくて、ご主人さまを裏切った罰なのです。アルに力を貸した時点でもう分かり切ったことだったのです」

 

「だから、さっきからなにを言ってるんだっ。教官はどうしてっ。いや、君はなにを知ってるんだっ!」

 

「無粋ですねえアルは。最後だというのに」

 

 イズナはごほごほと咳き込むと喉を鳴らして笑った。どんどん色素が抜けたように白くなっていく。存在が消えるように、儚く、薄く、なっていく。

 

「最後っ! どういう意味なんだ」

 

 アンヘルは狼狽しながらイズナを問い詰めた。

 

(意味が、意味が分からない。どうして死ななければならない。ねえ様? ご主人さま? 神罰?)

 

 膝をついて、救いを求めるようにしてイズナを見た。なにを言っているんだ。偽名を使っていた。神話に出てくる女神の名前だから遠慮したのか。

 

 いや、関係ない。リーンに回復を指示する。死なせるわけにはいかない。真実を聞き出すまで。彼女が嫌いではない自分のために。

 

 しかし、まるで回復しない。一瞬一瞬でイズナの存在が消えていく。薄くなっていくのだ。それをアンヘルはただ身体を激しく振るわせて見ていた。

 

 イズナはそうやって嘆くアンヘルに救いを与えるようにして、女神の微笑を浮かべた。

 

「アル。私たちを愛してくれますか?」

 

「なにを」

 

「そしてあなたは神の使徒となるのです」

 

 滲んだ視界に両手を差し伸べるイズナの姿が映し出された。血反吐をまき散らし、背中から大量の血を流しているにもかかわらず驚くほど神聖で美しい。触れることのできない、侵すことのできない完成された美。底から滲む慈愛。

 

 彼女はアンヘルを抱擁するように手を差し伸べていた。

 

「終わり、なのです。アルとの毎日、楽しかったのです」

 

 すっとイズナが泪を零した。すとんと腕の力が抜けて、全身から神秘性が失われていった。

 

 アンヘルは彼女の肩を握った。その小さな唇が細動した。

 

「姉さまに、ありがと、う、って。ある、にはまた、あえますけど、姉さま、にはあえない、から。さいごに、いってください、なの、です」

 

 とん、と腕が落ちるとそれを最後に、イズナの瞳から生気が消え失せた。

 

 ぐるぐる、ぐるぐる。途轍もない量の思考が頭の中を駆け巡った。

 

 叫ぶように吠えた。

 

 滂沱の涙を流しながら、アンヘルの想い、一つに収斂されていった。

 

(まだ、事件は終わっていない。この絵物語を描いた人物がいるなら必ず僕の手で)

 

 教官の死。そして、イズナの死。

 

 アンヘルは幽鬼のように立ち上がり、目の奥に消えることのない憎悪の炎を宿らせた。

 

 

 



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第十九話:姉妹の絆に祝杯を

 ――イズン。私たちは一心同体なのよ。

 

 変身の呪文によって、木の実と成り果ててしまったイズンを救うべく、堕天も覚悟の上で解除の呪法を成し遂げた姉を見た、ある冬の記憶だった。

 

 人々に永遠の命を約束する黄金の林檎の管理人だったイズン姉妹は、深い考えもなく日々惰性に過ごしていた。疑問は持たず、ただ愚直でお人好しだった。青空のように真っ青な瞳と髪を持つイズンと晴れやかで優しげな金色の美しさを持つ姉イズーナは、生と死そして豊饒を司ったフレイラに並ぶと称された。ゆえに、周囲は皆、彼女らを姫として丁寧に扱った。

 

 だからこそ無知で、どうしようもなく人の悪意に弱かった。

 

 騙された。気づいたときにはすでに遅かった。イズンは男に騙され、ヨトゥンヘイムに連れ去られたのち、呪法に掛けられ、木の実と成り果てながら鷲に啄まれていた。

 

 ぐさぐさと、玩具のように。丸何日も木の実となって転がった日々は屈辱に過ぎたが、心を揺さぶったのは、何某かの助けを借り、囚われの身となっていたイズンを助け出した姉の姿を見たときだった。

 

 姉のイズーナは、妹の自分が贔屓目に見ても美しい人物だった。臆病な心を持ちながらも、それをおくびにも見せない強さ、不正や卑劣さを憎む清さ、そして、弱き者に慈悲深さのある優しさを併せ持っていた。人は皆姉を頼った。つまらないことでも、姉は根気よく親身に付き合っていた。物事を深く考えないイズンではあったが、姉のことは誇りに思っていたのだ。

 

「イズン。困ったことはない?」

 

 なにかにつけて姉はそう訊いてきた。姉とは違って奔放に、そして自由に生きてきたイズンに対して、少しばかりの文句がなかったとは思わない。けれども、どんなときでも優しい姉を心の底から信奉していた。

 

 ともに使命を果たし、幼い頃にはひもじい思いを共にし、たったひとりしかいない親族としてひとつ毛布にくるまって寝た。理想だったのだ。弓も短剣術も手取り足取り覚えた。すべて模倣だった。

 

 ――イズン、髪がはねてるわ。

 ――イズン、弓はこう、もっと胸を張ってね。

 ――イズン、寒いでしょう。ほら、もっと寄って。

 

 美しい日々だった。なにもない退屈な日常だったけれど、穏やかな日々だった。だから見たくなかった。冷酷な姉の姿は。

 

「イズン。気にしなくていいのよ。所詮、人間なのだから」

 

 目が覚めた時、焼け焦げるような異臭に違和感を覚えたイズンへ掛けられた言葉は、それだった。得体の知れぬ儀式。祭壇の中央で、イズーナは血化粧で己を染め上げながらそう凄絶に微笑んだのだ。

 

 あの、ロキとかいう男とどんな取引をしたのかは知らない。聞きもしなかった。だが、イズンを助けるため、その精神すら作り替えてしまうような最悪の取引をしたに違いなかった。

 

 それ以来、姉とまともに話したことはない。

 はじめて主人の命の下、この世界に降り立った今でも。

 でも、それでも。

 

 ――イズンは、ねえ様といっしょにいたかったのです。

 

 その気持ちには、嘘や偽りはなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 アンヘルは襲撃の所為でボロボロになった建造物を後にした。びゅううと風が強く吹いている。夏の真昼の風だというのに、凍えるほど冷たく吹き込んできた。

 

 イズナの肩、その握った感触や熱がいまだ残っている。熱く、冷たいその感触。そして、それ以上に柔らかな唇の感触。焼き付く、優しい聖母のような最後の微笑み。それが、揃って底に眠る憎悪を掻き立てた。ごおお、ごおおと魂が唸った。

 

 通りには予想した見物人の姿はなかった。これも魔剣の力なのか。白昼堂々の襲撃すら覆い隠してしまう力を尻目に、アンヘルは胸の奥が鬱屈していくのを感じた。

 

「他はどうした?」

 

 正面から声を掛けてきたのは麗人だった。街路の向こう側に背を付け、目を閉じていた男が歩み寄ってきた。

 

「死んだよ」

 

 いつもの皮肉はでなかった。相手も皮肉を言わなかった。責めもしなかった。両者の間に重苦しい静謐が降りた。

 

「宝剣はどうなった」

 

「奪われたよ」

 

 宝剣の警護担当だった護衛たち、そして候補生たちも皆一発の矢によって仕留められていた。感知もさせぬ一瞬の出来事であったのか、抵抗の痕跡は微塵も見られなかった。宝剣の納められた黒檀の箱は消えていた。

 

「僕たちは取り返さなければならない。君はどこへいったのか知っているんでしょ?」

 

「なぜわかる」

 

「君が無意味に待っているはずがない」

 

 元々一匹狼を好むクナルは、人に合わせないし、待たない。首謀者と鉢合わせし、それでいながら一対一で戦うことの部の悪さを感じとった、という読みだった。

 

「少し前、一人の女が出てきた。金髪の不気味な女だ」

 

 クナルはその読みに対して、不愉快そうに眉を顰めた。

 

「貴様が侍らせていた青髪の女に近い。そういえば、その女はどうした」

 

「死んだよ」

 

「そうか」

 

 それっきり、クナルは黙り込んだ。

 

「なにも聞かないんだね。君の予言どおりになったっていうのに」

 

「死体を蹴ってどうするのだ?」

 

「死体、死体ね」と苦笑いを浮かべながら唱えた。遠慮のない言葉だ。だが、今はそれが無性に心を癒した。普段の変わらない感情を湧き起こし、イズナがいた筈のいつもの風景が浮かんでくる気がしたから。アンヘルは再び彼の目を直視した。

 

「金髪の女はなんて」

 

「郊外の川の畔にある小さな小屋で我らを待ち構えているらしい。準備はいいな」

 

 返事はしなかった。腰にぶち込んだ剣を柄を握った。強く、痛いほど握った。ドッドっと迸る熱が、心臓を鼓動を早める。熾火が加速したようだった。クナルの横顔もどこか鋭く唸るような殺意が出ている。

 

 道ゆく人々が前を譲った。人々は剣呑な闘気を放つ両者に慄いていた。

 

 近くの商会の使用人を張り倒すと馬を強奪し、郊外まで駆けた。商業区を抜けた先、リシヒト荘園の田圃、その川の畔にある古びた木造の小屋である。家屋の横には水車の残骸がからからと音を立てながら回っている。屋根はボロボロに崩れ落ち、扉は用を成さぬようにして半分となっていた。

 

 その暗がりの奥。アンヘルたちが近づくと、ゆったりとした歩調で刻まれる足音が聞こえた。

 

 足音の主人。それは、狩人服を纏った金髪の美しい少女だった。

 

 黄金に輝く髪が一纏めにされて、ぱらぱらと風にあおられている。曇天の最中にあっても、目を惹く白くて透明感のある肌が、美しい曲線を描く胸部の脇から流れている。琥珀の瞳に美しい鼻梁が彫刻品のような紅い唇の上に納まっている。だが、なによりも目を引いたのは酷薄そのものの表情だった。

 

「ようやくのお出ましね。人間」

 

「満足ですか? なら宝剣を返してください」

 

 少女は足元に黒檀の箱を放り出すと、興味なさげにそれを蹴った。ごろんと小屋の奥に箱が転がった。

 

「あまりつれないことを言わないで。人間。あなたには聞きたいことがいっぱいあるの」

 

 禍々しい黒弓を愛おしそうに撫でながら、金髪の少女は腰から矢を引き抜いた。アンヘルは剣を引き抜きながら、ぎりぎりと奥歯を噛み締めて激憤を抑え込んだ。

 

「なんですか」

 

「どうだったのかしら。妹のはじめての唇を奪ったのでしょう?」

 

 あまりの無遠慮な言葉に、脳髄が沸騰した。

 

「なぜイズナは死んだんだっ」

 

 金髪の少女は長い髪を靡かせながら、唇をそっと舌で撫でた。淫靡でそして、陰鬱な微笑みだった。

 

「私たちは、主人には逆らえないの。妹はそれを知りながら、それでも貴方を助けた。いえ、違うわね。妹の力を持ってすれば人間ごとき助けることはできたわ。あれは鞍替えよ。私たちは愛と引き換えに力を与えるの」

 

 少女は薄く笑ったのを、クナルは心底不愉快そうにして唾を吐いた。

 

「これ以上戯言に付き合うな。さっさとこの女の首を掻っ切るぞ」

 

 クナルは自分の喉笛に大曲刀を当てると軽く引いてみせた。陽光に照らされた指が、飛び出た喉仏の上にうっすらと赤い線を引いた。その異様なパフォーマンスに怯むことなく、金髪の少女は妖艶な笑みを浮かべると、ぎりぎりと矢を引き絞りはじめた。

 

「やはり、人間など下等な家畜でしかないわ。冥土の土産に見せてあげましょうか。アースガルズ一と呼ばれた、弓使いの腕前を」

 

「御託はいいから掛かってこい」

 

「私の妹を殺害した罪、ここで断罪させていただきましょうか。人間っ!」

 

 アンヘルとクナルは剣を構えて、強烈な速度で走り出した。

 

 クナルの跳躍、豹かなにかを思わせる人体構造を遥かに超えた見事な跳び方だ。大上段に構えた大曲刀の切っ先が、大気を両断する鋼となって落ちていく。アンヘルは合わせるようにして、疾風のように剣を突きだした。

 

「人間。もっと本気にならねば、すぐ終わってしまいますよ」

 

 それは目を疑う光景だった。

 

 イズーナは金色の髪を振り回しながら宙返りすると、クナルのその剣撃を躱し、アンヘルの遅れてきた剣の上に着地した。まるで重みを感じない。両足を揃え、平均台に着地するコマネチのように、軽やかに剣の上に立ったイズーナをただ唖然と見上げた。

 

 遅れて、重力を感じた。突き出した剣に強烈な重みが掛かる。イズーナが後方に飛びながら矢を放った。光輝。金色と水を纏って放たれたその禍々しい矢を、コマ送りの映写機でも眺めるように見た。右眼目掛けて迫り来る。

 

 必死に、必死に身体を動かすが、まるで反応しない。当然だ。早い、早すぎる。相手の行動についていけるのが、辛うじて思考だけだ。緩慢とした神経は思考による従属を許さない。

 

「世話のやけるっ!」

 

 クナルが必死に蹴りを放ち、固まるアンヘルを跳ね飛ばす。頬を掠めながら、矢が背後の地面に突き刺さった。すっと流れ出る血。アンヘルは地面に転がりながら、相手を見据えた。

 

「どちらも真剣にやらねば、本当に終わらせますよ」

 

 イズーナが首を振って、余裕そうに言った。対照的に大量の汗を流すアンヘル。クナルにも憂悶が浮いている。だが、引きさがる選択肢ははなからない。アンヘルは左手を掲げた。

 

「いわれなくてもっ」

 

 召喚という叫び声と同時に、若水龍シィールと若火山龍フレアが顕現する。強烈な吠え声が世界を支配した。唸る双頭の頭を撫でながら眷属の怒りを鎮める。それ以上に自分の心に冷静さを保たせた。

 

「間抜け、遅れるなよ」

 

「そっちこそッ」

 

 クナルの身体。制服から覗く首元や手首がどんどん黒く染まっていく。白い肌に墨でも入れたかのごとく、黒光していく。握られる剣から強烈な闘気が噴出した。それが最高潮に達した瞬間、空間は爆発した。

 

 異様な咆哮。クナルが全速力で駆けた。先ほどまでとはまるで違う、暴力的なまでの身体能力。暴走機関車が駆け抜けるように、地面にレールが引かれた。

 

 イズーナは静かに笑みを深めた。

 

 矢が高速で放たれた。クナルは器用に大剣を閃かせながら、高速で放たれる矢を叩き落とした。後方、アンヘルはフレアを駆りながら左方を塞ぐように回り込んだ。息を飲むような洗練された連携だった。

 

「それでこそ、やりがいがあるというものです」

 

 イズーナは回転しながら両者に間断ない矢を放ち続けた。必死に掻い潜る両者を嘲笑うように、飛びのき、放ち、時折体術や短剣を交えて踊った。

 

 もっと、もっと早く。アンヘルはイメージした。相手を凌駕するアイディアを捻りだせ。龍が呼応した。フレアの凶悪な顎を囮に懐へ飛びこんだ。

 

「これが人間の限界でしょうね」

 

 振り抜かれた短剣、そこの隙間にフレアの肉体を意識した。呼び戻せ。突き出される短剣をじっと見つめていた。身体と刃物、その微妙な隙間にフレアを召喚した。刃が突き刺さり、ぎぃやぁあと悲鳴をあげるフレア。それを無視して、アンヘルは冷徹に相手を見据えた。

 

 フレアは必死に肉を固めて、突き刺した短剣を抜こうとするイズーナに抗った。それを見たクナルが爆走する。水平に大曲刀を薙いだ。

 

 ふわりと再び宙を舞って躱したイズーナは小屋の屋根に降りたつ。剣を構えながら闘気を放出する二人を見下ろすようにして、太陽を背にした。煌々とした陽光がまるで後光のように差した。それがどうしようもなく、御稜威のような厳かなものに感じられた。

 

「いい、いいですね。快感でしょう? 肉を裂くこの感触」

 

 クナルは荒い息を吐きながら、呆然と相手を見た。

 

「何者だ貴様。我ら二人を相手にしてこの余裕。本当に人族か?」

 

「ふふ。見識に欠けますね。本当に私が人族に見えるのですか」

 

 イズーナは両腕を広げ、まるで宙に浮かび上がったかのような神聖なオーラを纏った。彼女の冷え冷えとした金色の瞳が、イズナの浮かべた微笑とまったく違うにもかかわらず、酷くかぶって見えた。

 

「人間は本当になにも知らない。使徒候補として選ばれたのでしょう。ならば、無知は背神とすら呼べるのでは?」

 

「まさか、貴様は神だとでも言いたいのか」

 

「人間と同じにしてもらっては困ります」

 

 イズーナはあきれ果てたように、肩をすくめてみせた。

 

「ですが、私の見たところ使徒として相応しくない。実に退屈な演目でした」

 

「最後に聞かせてほしい。何処までシナリオに関わっている?」

 

「ふふ、想像のとおり。今回の児戯のような計画にはまるで関与していない。所詮、最後に立ち塞がる悪役、という役割を振られたに過ぎません」

 

「どういう、意味だ」

 

「聞かなくてもわかるでしょう? 元の計画では妹は死ぬ予定ではなかった。妹と協力した人間は、なんとか闘いを潜り抜け姉である私を討つ。そんな筋書きだった筈よ。そうでしょう。そうでなければ人間に生き残る術はないわ」

 

 語られた言葉を信じるには、それはもう、途方もない嫌悪感が湧き上がってきた。屋根の上で放たれる詰る言葉が、否応なしに身体を蝕んだ。あらゆる人間が遊戯盤の上で踊っている。教官も、イズナも、目の前の女も。そして、アンヘル自身も。

 

 ――すべてが連なっていく。何者かの策謀の印が。

 

 ひやりと背筋が凍りつくと、恐怖に唇が戦慄いた。だが、それ以上に堪えようのない怒りが噴出した。それを誤魔化すようにしてアンヘルは懐から遺髪を取り出した。蒼穹の抜けるような青が、痛々しく滲んでいる。それを晒すようにして眼前に掲げた。

 

「妹の髪ね。それがどうかしたの?」

 

「古来から、髪は神威の象徴でありまた権威の象徴でもありました」

 

「だからそれがなに?」

 

「そして、髪は女の命ともいいますッ」

 

 アンヘルは遺髪の束を宙に放り投げた。イズーナが「あっ」と驚いた声を上げたと同時に、フレアのいかめしい顎門が開き、口腔から炎が吐き出された。

 

 伸ばされた手が届くことなく、青色の髪は炭へと変わった。

 

 イズーナが怒髪天をついた。顔を真っ赤に染めながら、激憤を露わにした。

 

「き、きさまッ!」

 

「そうだ、その顔が見たかったっ!」

 

 アンヘルは大きく跳躍した。矢が掠めるのすら気に留めず、相手に組み付いた。ゴロゴロと屋根を転がって相手の腰の上に跨り、膝で手を封じながら顔面を殴打した。三打目で無理やり姿勢を変えられた。とてつもない膂力だ。こちらが馬乗りになっているにもかかわらず、腹の筋肉だけで、即座に体勢を入れ替えられた。

 

 衝撃。殴られた顎が外れかかった。もがきながら必死に抗う。引き抜いた鉈で腿を抉った。少しの隙間ができると、背筋で跳ね上げて、屋根の上から川に叩き落とす。汗でぐしょ濡れになりながら、リーンを召喚して回復に努めた。息をつく暇すらない。ぜひぜひと呼吸が荒れた。

 

 川の中でクナルとイズーナが必死の攻防を演じている。唐突な奇襲によって、相手は弓をすでに落としており、水の中ということもあって踊るようなスッテプは見る影もない。それでも、クナルの勝ちの目は薄かった。あの巨塊の剣に対して、ひどく儚い短剣を持って、しかし、指揮棒のように相手を容易く操った。

 

 アンヘルは乱れる息そのまま水中に飛び込むと、ざばざば川を歩いた。腰ほどまでの水深な小さな川だが、沼のような定まらぬ足元に気を取られていると、水面を跳ねるようにしてイズーナが迫ってきた。

 

「間抜けっ」

 

 必死に剣を振り回しながら応戦した。

 

 舞うように飛沫を散らす相手に、アンヘルはクナルと必死の抵抗戦を演じる。潜って、倒れ込んで、組みついて。時折眷属を放って。まさに惨めそのものの戦い様だった。

 

 決定打を失くしていたのは、向こうも同じだった。小さな短剣ではリーンの力によって即座に治癒してしまう。アンヘル側はなんとか致命傷だけを避ければよく、場は膠着状態に陥っていた。

 

 両者は打ち合いを止め、距離を取った。

 

「なぜ、なぜあなたは、妹が辱められた程度でそれほど怒れるのに、どうして妹の死には無関心でいられるんだっ」

 

 息を切らしながら尋ねた。不可解だった。淡々と、まるで他人事のようにイズナの死を告げる目の前の女が。しかし、その疑問を嘲笑うかのようにイズーナは微笑んだ。

 

「私たちは、この世界では死なないのです。肉体の死は依代の死に過ぎない。それよりも、名誉や肉体の辱めのほうが遥かに許し難いのですよ」

 

 イズーナは水を滴らせながら、妖艶に微笑んだ。

 

「妹は、どうにも純真無垢な子でした。無知で、どうしようもなく善人です。そんな妹には決して暗い世界を見せたくないのです」

 

「そこまで妹を想うなら、どうして」

 

「だから言ったでしょう。真の主人を見つけることが、私たちの本懐であると」

 

 その言葉にクナルがかぶりをふった。大剣を肩に担ぐ。

 

「やめろ。この女を理解することは一生できん。イカれている」

 

「随分な言いようですね」

 

 イズーナは不快げに笑みを消した。変わらず目は轟々と燃えていた。短剣を真横に構える。

 

「さて、そろそろ本当にフィナーレと行きましょう」

 

 滑るように迫ってくる。アンヘルは剣を大上段に構えた。

 

「いつものパターンでいくよ」

 

「良いのか? 貴様の安全は保証できんぞ」

 

「元から保証してないでしょ」

 

「確かに、それはそうだ」

 

 クナルはくつくつと笑いながら、一歩引いて力を溜めた。企鵝の構え。ラシェイダ部族でそう呼称される、アンヘルたちの得意戦術である。

 

 外套を翻して、アンヘルは跳躍した。ばっと飛沫が舞った。ガンと打ち砕くようにして斬撃を放った。上段から放たれた雷光は一直線に大気を割って相手の短剣を打った。がきんと、あまりに鈍い音が響き渡った。鋭く、耳を聾する音だ。山壁にでも当たったような巨大な存在感。微動だにしない膂力を前にして、彼女の金色の瞳がこちらを射抜く。

 

 突然、噛み合った剣の力が消失した。勢いを消せず前のめりになる。同時にイズーナの姿も消失。一瞬戸惑うと脛に衝撃が走った。視線を下に。水中に足ばらいを仕掛ける金髪の女の姿があった。

 

「シィールッ!」

 

 アンヘルを救いあげるようにして、相棒が割り込んだ。倒れ込む主人を支え、敵を尾でうつ。イズーナは軽やかに下がると、短剣を投擲してきた。眷属を盾にすると、アンヘルは悲鳴をあげるシィールを尻目に、必死に追撃した。じくじくと打たれた脛が痛んだ。

 

 だが、なんとしてでも、クナルの攻撃の隙を作らねばならない。

 

 舞うように剣を振るいながら、必死に喰らい付いた。二人でかかっても叶わない相手に、たった一人で挑む。なんと愚かしい行為だろうか。どっどっと心臓が弾んだ。燃える。身体が燃えるように熱い。魂が燃えているようだった。

 

「はぁああああああ」

 

 流線型。流れるようにして斬撃を繰り出した。視界が揺れる。霞む。パラノマ写真を見ている気分になる。疲れを自覚すると腕の重みが増した。真剣は重い。その物質的な重量も、精神的な重みも。少しの疲れ、最初から数えて十合目の隙にイズーナは懐に潜り込んできた。

 

 がちっと腕を両脇でロックしてきた。相手は背筋に力を込めると背後へ倒れる。肘関節が逆側へ、曲がらない方向に曲がっていく。アンヘルの口から悲鳴が漏れた。

 

「ふふ、どうですか? 気持ちいいでしょう?」

 

「いや、狙いどおり、だよっ」

 

 アンヘルは曲がる肘を気にもせず必死に相手に絡みついた。足を相手に絡め、抱き止める。

 

「クナルッ、やれっ」

 

「人間、何を――ッ!」

 

 イズーナが驚愕に染まりながら、必死に迫り来るクナルから逃げ惑う。しかし、しがみついてくるアンヘルが邪魔で逃げられない。

 

「人間、こんなことをすれば、あなた諸共っ」

 

 アンヘルは薄く微笑んだ。クナルが激しく跳躍。大上段に構えられた大曲刀が振りおろされた。

 

 どすん、と衝撃が肩に響いた。続いて、背中にまで届くような強烈な熱。燃えるような痛みと命の漏れ出るような感触が身体を支配した。血を吐いた。よろよろと身体がふらつく。それを、クナルが腫れ物でも持つように片手で支えた。

 

「本当に遠慮なくぶった斬る?」

 

「文句を言うな。骨までは届いてない」

 

 二人は水の中に沈んだイズーナを見た。彼女は顔だけを水面から出しながら、驚いたような、それでいて朗らかな笑みを浮かべていた。

 

「ふ、ふふ、ふふふ。人間。やりますね。まさか、こんな捨て身でくるとは。さいごの、さいごまで、驚かせてくれます」

 

 アンヘルたちの前で、少しづつイズーナの色素が薄くなっていく。それと同じくして、水が赤く染まっていった。

 

「使徒アンヘル。私たちを愛してくれますか?」

 

 ぷつり。唐突に、まるで糸でも切れるかのように。彼女は息絶えた。

 

 不気味な、本当に不気味な最後だった。アンヘルたちは燃えるような熱を誤魔化しながら、最後の戦いを終えた。

 

 

 



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第二十話:払暁の龍理使い

 空は晴れていた。日盛りだというのに寒気を誘うような雲一つない抜けるような空の下、男たちは俯いたまま歩く。

 

 向く先は元居た行政区の建造物、隘路に挟まったように存在するそこに入ると、予想通り奥の木椅子の背凭れに手を置いて佇む一人の男の姿を認めた。

 

 僧服の壮年の男、大神祇官ドミティオスである。傍には黒のローブ姿のアグリッサが居心地悪そうに控えていた。

 

「宝剣の奪還ご苦労だったね。ご覧のとおり事後処理は此方でやっておいたよ」

 

 アンヘルは瞳に虚な色を浮かべた。

 

「首謀者と思われる貴族は聖カトー騎士団の剣客モルドレッド子爵だった。彼の非道と合わせて追求する材料となる。宝剣が失われたことには肝を冷やしたが、君たちの行方もわからなくなっていたからね。なんとかしてくれると信じていたよ」

 

 気にした様子すらなく、大神祇官は言葉を紡いだ。

 

「それにしても危険な行為だった。君たちは援軍を待つべきだったのではないかね」

 

 咎めるような声色で尋ねてくるが、それがもう一種の遊戯のようにすら感じられた。戦闘の余波でボロボロになり、血潮が撒き散らされたその中央で優雅に笑う男がアンヘルには恐ろしくて堪らなかった。

 

「それで、私たちの命はあったのですか」

 

「どういう意味だい?」

 

 大神祇官の優雅な微笑はかけらも変化しなかったが、淡い感嘆のようなものを口の端にのぼらせた。

 

 今回の事件。宝剣警護失敗の瑕疵はそれほどないが、実際に責任を取る人物が居ないとなれば、誰かが被らなければならない。それは生き残った唯一の人間に被せられることは明白だった。その最悪を想定した予想は目の前の男の白々しい笑顔で確信に変わった。たとえこれが遊戯でしかないとしても、である。

 

 ふと視線を散らした。脇には麻の死体袋が何枚も置かれている。中身は詰まっているのか膨らんでいた。イズナや教官が入っているのだろう。逆巻くような心痛を抑えながら再び碩学の男を見た。

 

「私も聞きたいことがあります」

 

 真実が知りたいわけではない。弾劾したいわけでもない。だが、このまま引き下がることは許されなかった。アンヘルは震えそうになる声を必死に抑えながら、尋ねた。

 

「なぜ、猊下は情報を漏洩させたのでありますか」

 

 その告白で途端にアグリッサの視線が鋭くなった。護衛たちの警戒心が跳ね上がる。大神祇官だけは優雅に微笑んでいた。

 

「どこで気がついたのかね?」

 

「気がついたのは先ほどですが、よく考えれば奇妙な点はいくつもありました。なにより注目すべき点は猊下の課題です」

 

 アンヘルは大神祇官から出された課題。十七匹の馬を長男の1/2、次男の1/3、三男の1/9に分けるため、老人はなにを助ければいいのか、についての解法について語り出した。

 

「猊下からの課題。十七匹の馬の問題を解決する方法ですが、それは老人が『一匹の馬』を持ってくることです」

 

 十八匹を分けると、

 

 長男の1/2には九匹。

 次男の1/3には六匹。

 三男の1/9には二匹となる。

 

 その合計は十七匹。つまり、老人は一匹を連れてきて、計算に入れるだけで実際に分ける必要はないのである。

 

「この課題。よく考えると、今回の魔剣騒動に合致する点が多くあります。各騎士団の魔剣配分も似たような構造で、その配分が上手くいかず争っていました。他方、突如として現れた老人役と思われる猊下が類似性を想起させます。

 相手の襲撃は猊下不在の警護の薄い時期を狙いすましてきました。完全に極秘とされていたはずの宝剣の修繕。猊下が訪れていることすら周知されていないにもかかわらず行動を読まれている。漏洩者がいるとしか思えません」

 

「ふむ。だが、情報漏洩の可能性は他の人物の可能性もあるよ。たとえば君の教官オスカル君だ。故人を悪く言うつもりはないが、彼は貴族排斥論者で私のことを嫌っているだろう?」

 

「ですが、その可能性はオスカル教官が第二のターゲットになっていたことから除外されます。いえ、それ以上に教官が狙われていたことを考慮に入れると、ふと見えてくる全体像があります」

 

 アンヘルは、挫けそうになる心を奮い立たせながら、必死に告発を続けた。

 

 氷河のように冷たい静謐が二人を取り巻いた。それでも、ドミティオスの微笑は動かなかった。

 

「それはなんだね?」

 

「当初は三勢力の争いを止めること、そして刃向かう騎士団への貸し、などの理由が思い浮かびました。しかし、その本当の目的は他にあったのではないですか?」

 

 恐ろしい確信に触れている。そんな予感があった。

 

「その目的とは、オスカル教官の殺害だ」

 

 ドミティオス大神祇官の発言を振りかえれば理解できる。彼は穏やかに振る舞っていたが、よく考えると皇帝派として反貴族思想を肯定していない。

 

 今回の事件の顛末は、とどのつまりすべてドミティオスから始まっている。

 

 彼はオスゼリアスで三勢力の魔剣争奪戦が起こっていると知ると、論理クイズである『十七匹の馬』から着想を得た策謀を考えついた。

 

 論理クイズの配役である老人として、持ちだした儀礼剣である宝剣を魔剣として情報を流し、各勢力を刺激する。また、子飼いであるイズナ姉妹を利用して、聖カトー騎士団の所為にすることで、士官学校の筆頭教官であり士官学校反貴族思想の根本であるオスカル教官を葬りさる。極めつきには、オスカル教官殺害を追求材料として、聖カトー騎士団から魔剣を合法的に強奪し、争いを収めたことにより総督からは信を得る。

 

 一石を投じた波紋だけで集団を争わせ、利益をだけを得る。最低最悪な発想だった。

 

「ふふふ」

 

 ようやく男は笑いを溢した。いつもと変わらぬその笑い声にアンヘルは心底震えそうになった。

 

「やはり君は利口だな。悲しく、不憫だ」

 

 ドミティオスは小声でいった。

 

「だが、私の目的は違うよ。本当の目的は――」

 

「士官学校開校以来の天才と呼ばれる私だろう。それは間抜けに移ったようだがな」

 

 クナルが言葉を引き継ぐ。その聞き流せない言葉で反射的に振り向きながら、鋼のような美貌を睨みつけた。

 

「そんな、意味のわからない――」

 

 あまりに唐突で衝撃的な事実に、目を見開き硬直するしかない。クナルの瞳も憎々しげに燃えていた。

 

「真実とは常にありふれたものだ。私にとって敵対勢力たるオスゼリアス軍への貸しなど役に立たないし、オスカル君の処遇についても、苦労はしようが手は幾らでもある。言ったはずだよ、私の目的は士官学校の生徒を視察することにあると」

 

 ドミティオスは残念そうに告げた。真相を語れなかったことが残念であったらしい。

 

「予想以上に賢い、いつから分かったのかな?」

 

「何も知らぬ。ただ貴様のような男を信頼しないだけだ」

 

 クナルは辛辣にいった。代わりにアンヘルが動揺を深めていく。

 

「どうして、こんな大掛かりな」

 

「いけないなぁ。薄々感じていたが、君はどうやら自己を低くする評価する傾向があるようだ。冷静になってみたまえ。私に対し不興を買わぬ話術。士官候補生を超越した戦闘能力。同胞クナルくんの存在。なにより、その召喚師としての能力だよ」

 

 驚愕に打ち震えるアンヘルをさらに打ちのめしていく。

 

「クナル君の推測通り当初の目的は彼だった。だが、最初の邂逅で戦うべき思想も何もないことが分かった。能力は兎も角そんな危険人物、勧誘する価値はない。しかし、その友人が召喚師ともなれば興味が移るのも当然だろう?」

 

 大神祇官は、あくまで優雅に品よく笑う。

 

「なぜ、なぜ、そんなことのために教官を殺す必要があったのですか。そしてイズナまで……」

 

 アンヘルの悲痛な叫びに、大神祇官は笑顔のまま返答した。

 

「そちらの方が効率的だろう。イズンくんの死は計算外だったが、想像以上の結果といっていい」

 

 冷淡すぎる言葉に、アンヘルは言葉に詰まった。

 

「そもそも君は召喚師の能力が知られていることに疑問を覚えないのかね?」

 

 ドミティオスは己の右眼を、目蓋の上からとんとんと叩いた。

 

「まあ、簡単な真相なのだけどね。私たち魔盲と呼ばれる人々は、あまりに弱いせいか、召喚師の放つ微弱な能力の波動すら感じ取れる。君のひた隠しにしている能力ですら。無論、大抵の人はそれが召喚師の波動だとは知らないのだがね。これは偉大な召喚師を兄に持った、私の特殊能力だといえるだろう」

 

 第神祇官は椅子に座りながら、さらに真相を続けた。

 

「君もご存知のとおり、イズンくんとイズーナくんは配下の子飼いでね。彼女らを使ってわざわざ接触して、口先だけの頭のない彼らを、親切に煽ってあげたのだよ。

 そういう意味では魔剣蘇芳は真実味を増すいい演出だっただろう。相手の動向を完全に掴んだワンサイドゲームさ」

 

「あなたの護衛すら殺させて、ですか」

 

 アンヘルは問いながらもその答えを得ていた。

 

「死ぬことも仕事の内だよ。そうでなければこれが真実に見えないだろう? ま、当初の予定では君たちはイズン君と協力して、姉であるイズーナ君を討つ予定だったのだがね」

 

 アンヘルは平素そのもので語られる真相に心底恐怖していた。

 

 大神祇官はまだ笑っている。微笑んでいるのだ。ありえない。それに尽きた。すべてが虚構。あらゆる物事がひっくり返った。すべてが、馬鹿馬鹿しいお遊びだったのだ。

 

 深い悔恨が舞い降りる。なぜこんな事態に陥っている、という耐えがたい後悔が襲ってきた。エルンストの若い理想を鼻で笑い、オスカル教官の真摯な願いを斜に構えて拒絶し、目の前の怪物を信奉した。

 

 クナルの否定が正しかったのだ。今考えれば、この男を信じた判断をまるで許せそうにない。

 

 謀略で人の運命を操り、真摯な願いすら遊戯として扱ってしまう本性に。

 

 思考をたどれば、アンヘルは綱渡りのような日々を送ってきたことに気づく。今回の事件で、反貴族的思想を持つ候補生は皆殺しの憂き目にあった。いや、それだけではない。もしも、宝剣の奪還に赴かねば確実に責任を取らされ、もし課題の解答がなされなければ、十分な能力を持たないということで殺害されていただろう。

 

 また、もしこれを告発しようにも、大神祇官の策謀の事実はまったくなく、しかも時の権力者として敏腕を振るう男に不確かな証拠しか持たぬ今、確実に投獄される。

 

 ――いや、それ以前に、今も不幸な事故として片付けられる可能性もある。

 

 アンヘルは悟られぬ程度に半身となり、緊張の糸を張り巡らせた。アグリッサが手を振り、ドミティオスの真横に巨大なゲートが開かれる。大神祇官に危害を加えれば即座に殺害するという威嚇だが、それ以上に強大な眷属の存在感に冷や汗が流れ落ちた。

 

「私たちにあの神聖七騎士が相手ですか」

 

「卑下しすぎだよ。私は君たちの能力に敬意を払っている」

 

 いつも背後に控える不気味な女アグリッサ。得体の知れぬ不気味な黒ローブの女だが、アンヘルはうっすらとその正体に気がつきつつあった。

 

 神聖七騎士の噂はいくつもある。

 

 ――喪服を纏った闇召喚師。

 ――狂戦士と魔法剣士の兄妹。

 ――最強の矛にして、最強の盾である騎士団長。

 

 軍における最強戦力たる神聖七騎士。彼らは大陸全土を見渡しても精強であり、所詮士官候補生であるアンヘルやクナルなどが敵う相手ではない。

 

「課題に対する答えは満点回答だ。多少の不足はあったが、君の相棒であるクナル君が補ってくれた。いや、イズン君の忠誠とイズーナ君の打倒を考えれば花丸をあげてもいいさ」

 

 まったく動けない。無関係を決め込んでいるのにもかかわらず、異常すぎる論理に飲み込まれる。

 

 配下の忠誠心や己の死すら天秤に掛けた遊戯そのものの策略。アンヘルの必死の努力すら、大神祇官の脳内盤上から一歩も踏み出せていない。

 

 イズナやオスカル、そしてアンヘル自身の身に透明な薄い糸が結ばれているのが想像できた。いや、その心にすら。

 

 その恐怖を振り払うようにして叫んだ。

 

「なぜ、あなたはそれを理解できるようにした!」

 

 大神祇官は寂しそうな表情をした。

 

「君に対する試練だよ」

 

「なにをっ」

 

「使徒には試練が尽きものだ。だが神など存在しない。ならば誰かが使徒へ試練を与える必要があるだろう」

 

 大神祇官は高貴な腕を掲げながら静かに告げた。

 

「君を測るためでもある。表面的には賛同してくれたが、しかしその実、オスカル君側に転ぶ可能性もまだあった。だが、杞憂だったようだね。これほど怒りに燃えてもやけになって向かってくる様子がない。君は利口で、そして国家権力に対して歯向かうほど馬鹿でも勇者でもない。もし私に歯向かうようでは危険人物として処理しなければならない」

 

 大神祇官の思考は、もはやどうやって試練を施すのかという神の視点で世界を見ていた。

 

 ドラゴンなのだ。あまりにも恐ろしい智謀の龍。それがアンヘルたちを喰らわんと吠え猛っている。

 

「君には能力がある。だが、まだ青い。もっとシビアなれば私に向かって問いただすなどせず無難にやり過ごしていただろう。けれど、それこそが伸び代で君を信頼できる所以でもある。もし君がそこまで利口なら、私はやはり殺さねばならなかっただろう」

 

「ここで反逆しないと?」

 

「ふ、その結果どうなるか君はわかっているのかね」

 

 アンヘルは、

 

「死ぬだけでしょう」

 

 と怒気を露わにした。クナルも呼応するように柄に手を掛けた。

 

 勝算はないといっていい。噂に聞く神聖七騎士。護衛も合わせれば、大神祇官に負傷すらさせることなく敗北するだろう。

 

 それを無視した。ここまでコケにされれて、駒扱いされて、なにも感じないほうがおかしい。

 

「そういうところが青いのだよ。君は本当にわかっていない。死ぬのは君の恋人であるアリベールくんだよ」

 

 ドミティオスは失望したようにいった。

 

「あなたは!」

 

「不思議に思わなかったのかね。彼女が、なぜ、二人きりの病室へなんの断りもなく入ってこれたのか。それは私が、君の恋人が来るタイミングを狙ったからだよ」

 

 鮮烈な言葉だった。脳が沸騰するほど熱くなる。対照的に身体は氷像と化した。

 

「君は私の出した魔剣という情報に踊らされて、無理矢理彼女から機密情報を得た。わかるかね。彼女を想えば、これからも君は従うしかない」

 

 あまりに茫洋とした語り口だった。本当にすべてが手のひらの上だったのだ。呆然とアンヘルは目の前の男を見つめた。無機質な黒い瞳が己の怯えを反射していた。

 

「あ、あなたは、人間じゃない!」

 

 さすがの大神祇官も苦い顔をした。

 

「きつい言葉だな。ふふ、私は普通以下の人間なんだがね。それがまさか古の龍理使いに言われるとは」

 

 続く言葉に、はじめて大神祇官は感情を込めた。

 

「ならば、いずれ菖蒲か杜若、とでも返そうか?」

 

「どういう意味だっ」

 

「オスカル教官が今朝言った言葉。覚えているかい。そう、士官学校に君の同胞の家族が訪れた、という話さ」

 

 彼が言っているのは、ユーリの家族が士官学校を訪れ、小隊全員の士気が著しく向上したことを指している。

 

 そしてそれはアンヘルが突かれたくない事柄でもあった。相手の言葉にどくんと心臓が高鳴り、唇がふるふると震え、顔は蒼白になった。

 

「士官学校などでも親族であれば入校許可は出る。死んだ候補生の遺品受け取りとなれば尚更だ」

 

「やめろ」

 

「だが、実際にその足で受け取りに来る人間はいない。皆、家族を失ったことで士官学校に恨みを抱く。誰かが彼らを招待し、入校許可を得なければ起こりえない」

 

「黙れッ!」

 

 完全に無視を決め込んでいたクナルの視線が突き刺さる。言わせるわけにはいかない。しかし、攻撃を加えれば、アリベールにどんな目が降りかかるかわかったものではない。

 

 必死に叫ぶが、冷たさが増した大神祇官は冷酷だった。

 

「あの口振り、指導教官の仕業ではないと士官学校側に使いをやってみたよ。そしたら、どうかね。彼らに入校許可申請を出した者の名前は」

 

「きさま」

 

 とクナルが衝撃的な事実を知ったかのように目を怒らせた。

 

「アンヘルくん。君の名前があったよ」

 

 ドミティオスは同類を見るような親愛の目をしていた。

 

「君も私と変わらぬのではないかね」

 

 ぼ、と視界が焼けた。

 

 本当に心の底から消し去りたい行為だった。そう、そのとおりなのだ。アンヘルはつまらぬ遠征演習達成という成果を欲し、士官学校へユーリの家族を招待して、そして悲観に暮れる小隊の面々に引き合わせた。

 

 結果は、予想のとおり悲観に暮れる候補生たちを盛り上げることができた。

 

 だが、その場にいてどんな顔で円陣に参加したというのだ。悲しみに暮れる親族を無理やりあわせ、傀儡のように士気を操ってみせた。それがどれほど悪辣なのかわかっていながら。

 

「私と君には相似性がある。私たちは弱い必死に生きる人間さ。だがね。負けないよ。普通の人間の力を見せてあげようじゃないか。この斜陽の国を立て直すためならあらゆる敵を鼻歌混じりに滅してしまおう。私たちの弱さでね」

 

 ドミティオス大神祇官は、そういいながら手をアンヘルに向かって伸ばした。

 

「私と共に来い。理想を持たない君にみせてあげようじゃないか。この国を立てなおすという夢を。勿論、クナル君もいっしょに」

 

 返答は決まっていた。強烈な力を目にこめて相手を睨みつける。

 

 折れそうな心をなんとか立ち上げ、必死に拒絶する。

 

「誰が」

 

「二度と我らの前に現れるな」

 

 素っ気ない拒絶にも、大神祇官は微笑んだままだった。

 

「いいさ。望もうと望むまいとも、私の理想に共感する。なぜなら私の行う方法こそが君の近視眼的な防衛論にもっとも相応しいからで、現実を知ったならば我らに付かざるを得ないからでもある。君たちはいいコンビだ。悩むリーダーに悩みを捨てた狂戦士。どちらも知らぬうちに依存していく。君たちほど将来有望で悲劇的なコンビを私は知らないな」

 

 大神祇官は静かに椅子から立ち上がり、襟元正して出口へと出ていこうとしたが、アンヘルは呼び止めた。

 

「イズナさんたちになにか意味はあったのか」

 

「ふ。それはすぐにわかる。そして自らの才能に後悔するだろう」

 

 ドミティオスは悲し気に笑った。

 

「私からも訂正しておこうか。君の軍歌の解釈。あれは間違っているよ。あの歌は依代となった少女が歌ったのではなく、その相手、使徒が歌ったのだよ」

 

 最後のその言葉に、アンヘルたちは立ちつくすだけだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 通路に出たのは、ひとりの僧服の男だった。

 

 閑散とした行政区の街路には人々が忙しなさそうに駆け抜けていくだけで、魔剣騒動が勃発していたなどと窺わせる余地はなかった。

 

 僧服の男は路地の前に付けられた馬車へ乗りこんだ。照りつける陽射しの影が濃くなるような、陰鬱な翳りを帯びた人物が続く。黒いローブを纏ったアグリッサと呼ばれる女だった。

 

「お戯れがすぎます。正直に答えるなど」

 

 咎めるように低くいった。それに対して微笑みを絶やさずに、

 

「君は遊び心にかけるね」

 

 と返す。

 

 二人が乗りこむと、馬車はかっぽかっぽと行政区をぬけて、街の外へとむかう。僧服の男――ドミティオスは窓越しに歩いている市民を穏やかにみつめていた。

 

「ですが」

 

 アグリッサは最後まで言葉を紡ぐことはなかった。だが、不満はありありと瞳に映じられている。先ほどの将来有望な青年たちに対する憐憫も強く浮かんでいた。

 

「不満かね。神の力を授けたことが」

 

「イズーナとイズンは私の眷属でしたから」

 

「そして、君の元大切な人たちだった」

 

 アグリッサはぎろりと鋭い眼を向けた。貫くような非難の視線である。

 

 馬車は門を抜けて、帝都への帰路をとっていた。がたごとと揺れる簾中でひとりごとのようにドミティオスは呟いた。

 

「闇の時代がやってくる。私たちには龍理使いが必要なんだよ」

 

 古の龍理使い。現代では召喚士と名付けられた、神の使いたちのことである。

 

 カルサゴ教国時代から脈々とつづくその能力者たちは、歴史の転換点において必ずといっていいほど姿をあらわす。竜をあやつり、神意を得て行動する彼らは、貴族たちが認めずとも大仕事を成しとげるのだ。

 

 アグリッサは普段よりも興奮したように語る主人を見ながら溜息をつくと、目を付けられてしまった若人たちを心底不憫に思った。

 

 ――彼らの行く先は、大成か、それとも破滅か。

 

 闇の召喚士として、帝国の矛たる神聖七騎士に名を連ねるアグリッサは、彼らとおなじように主人である大神祇官ドミティオスに引きたてられ成りあがった過去をもつ。そしてそのために歩んだ茨の道も。

 

 恨みはない。今あるすべては主人ドミティオスによるものだ。

 

 理想は蒼天のように高く、そしてどこまでも願いは他者のためである。だが、合理主義的な手段を選ばない手法をみると心の底が凍てついてくのを止められない。

 

 そんな心を見透かすようにして、もっとも力なき存在ながら、権力者としてアグリッサたちを統べるドミティオスは微笑みつづけていた。

 

「遡れば初代皇帝も、そしてその血脈のはじまりである王政時代の頂点も、常に龍理使いが時代の覇者となる。神の力をもつかれらが」

 

 心の底から愉快そうに告げる主人にアグリッサは、

 

「アンヘルとやらが皇帝にふさわしい、と?」

 

 といった。

 

 それに対して噴きだしながら、ドミティオスは、

 

「ありえないな」

 

 と、可愛いものをみる目で見返す。

 

「彼は上に立つ器じゃない。神輿として担がれるにはクナル君以下だろうね」

 

 ならどうして、と叫びそうになったがなんとか口を噤んだ。反論は当然である。イズンたち黄金の林檎を管理する女神はアグリッサの眷属にして親友たちだったのだ。

 

 今はまるで別人へと変貌してしまったのだとしても、それがただの気まぐれで譲渡されてしまってはたまったものではない。

 

「だがね」

 

 ドミティオスはさらに感情をさらけだした。常に冷静な男には珍しい態度だった。

 

「解決能力には目を見張るものがある」

 

「……」

 

「使いでのある駒としては飛びぬけて優秀になるだろう。足りない部分はクナル君が補ってくれるだろうさ」

 

 田園風景を一陣の風がさっそうと舞いた。あらたな季節の到来を予感させる、そんな涼しげな風をドミティオスは窓を開けひろげながら感じていた。

 

 蒼穹の空。連峰を見据えながら笑みを深めた。

 

「バアル教団。西方の民族紛争。揺れる南方奴隷制度や次期候補者である狂人スッラ。そんな時代に神の力を持たぬのでは話にならない。彼も乗り越えてくれるといいんだがね」

 

 さらに不幸を呼びよせる不吉な言葉だった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 夢をみた。いや、それは夢でなくてはならないとアンヘルは思った。凍えるような冬空のなか、ふたりで並んでいた聖夜の街並み。寒さに反してうんざりする人混みの熱気があたりに満ちていた。

 

 もう、朧げな記憶。駆け抜けてきた一年を思えばすでに遠い昔にすら思える。やさしい彼女の微笑み。天真爛漫な姿。それがどこか真っ青に染まっていく。ああ、いまごろきがつくのだ。イズナはそう、誰かに似ている。

 

 大切な人を失う。という経験はどれほど年月が経とうとも消えるものではない。顔の造形が思いだせずとも、細部が再現できなくとも、苦しみと痛みだけは心に突きささったままなのだ。

 

 隣にたつ彼女の横顔が交互に入れかわって薄く消えてゆく。どちらも手をこちらに差しのべながら、闇の彼方に遠ざかっていった。

 

 おかしいことはわかる。けれども、同時にここが真実のように感じてならなかった。

 

 アンヘルの衣装は厚手のコートだった。今の季節にあっていないと脱ぎ捨てる。雪が降りしきるよるだというのに寒さはなかった。空を仰ぐと眩しい半月が浮かんでいる。それが転じて濃い蒼穹の空になった。街路はじりじりと陽炎がたっていた。

 

 人混みはきれいさっぱり消えていた。かわりにマカレナの葬式をやった、丘の上の教会へと風景がかわっていた。今度は喪服の人々が脇から追いこしていく。アリベールの沈んだ表情が印象的で目に焼きつけられた。痛々しい車椅子姿だった。

 

 転じて、姉のイズーナを戦った場所。飛沫の舞う河川で男たちが金色の少女に挑んでいる。銀色の男と茶髪の男。クナルとアンヘル。彼らは双頭竜のように鋭くせまっていた。

 

 鋭く響く、少女の弾劾。

 

 イズーナの踏むステップや剣舞が言葉となってアンヘルを糾弾しているように感じる。外から見ると一目瞭然だ。いたぶるように少女は戦っている。

 

 ばかだなぁ。ほんとうになにもわかっていない。知っている気になっているだけだ。うまくやればイズナも、教官も、そしてマカレナも助けられただろうに。

 

 くつくつと笑みがこぼれた。泣き笑いのような痛々しい笑い声だった。

 

 世界が滲んで色を置き去りにした。ふと、暗転した。

 

 目が覚める。気づいたときにはアンヘルは場末の酒場の住人となっていた。窓から差し込む光があかるい。暁方の時間だ。迷惑そうな店員の顔が映ると、反射的に支払いを済ませて少しばかり冷える外へと繰りだした。

 

 クナルのことは知らない。もともと二人で飲んだりするような仲ではない。もともと仲がいいかと尋ねたのは誰だったか、くそ、あの男じゃないか。アンヘルは苛立ちまじりに石ころを蹴りとばした。

 

 足は士官学校の方角には向かなかった。どうでもいい。そんな気分だった。

 

 無意識に街の郊外、墓地に足が向いた。空は青い。鮮烈な緑の山々が目にしみいるようで俯きながらアンヘルは歩いていた。人はいない。明かるいのに見渡すかぎりたった一人だ。まるで世界に自分しかいないようだ。そんなことを想いながら、マカレナの墓の前で蹲った。

 

 ――ぼくもがんばって、いるんだけどなぁ。

 

 アンヘルは頑張ってるよ、と返してくれるはずもない。これはいつものルーティーンだ。どうしようもなくなったとき、己の無力さに打ちのめされたとき、ひとりぼおっと白の十字を見ていると過去に帰れる気がするから。

 

 目をあげると十字に汚れが付着していることにきづき、懐の布でぬぐってやる。ついでに枯れている花を取りのぞいた。

 

 どれだけそこで過ごしていただろうか。日が登っている。じりじりと茹だるような暑さになっていた。

 

 もう帰るか。ふとおもったとき、ふと後ろから声をかけられた。

 

「こんな場所でどうしたんですか?」

 

 振り向いた。腰に短弓を付けた、茶髪の少女だった。女はやさしげな、信頼の篭ったキラキラした瞳で佇んでいた。

 

 ――テリュスだった。

 

「どうした、って?」

 

 アンヘルは誤魔化すように立ちあがる。さっさと裾をはらうと、なんでもないように優しくいった。

 

「お墓参りだよ」

 

「故人思いなんですね」

 

 テリュスは口に手をやりながら嫋やかに微笑む。アンヘルは荷物を持ちながら、「君もかい?」と尋ねて、己の心を悟られぬように流れをかえた。

 

 女は首を振って穏やかに否定した。テリュスの手は花束もなにも持ってはない。テリュスの兄ドミンゴの墓は家人の希望もあってか実家に一番近いミスラス教会の北東部墓所にある。

 

 ならどうして。聞こうとした瞬間、目の前の少女に違和感を覚えた。

 

 蝉の声が間遠に響いているのがやけに寒々しい。ピリピリするような力の感触を感じた。

 

 アンヘルはじっと彼女を凝視する。いつもと変わらない涼やかな笑みだった。

 

「どうしたんですか?」

 

 こてんと首を傾げた。どうしようもなく、そのしぐさは可憐だった。

 

(気にしすぎか)

 

 感覚が尖りすぎている。それも必要以上に。

 

 目に映る風景が敵の隠れ家にすら思えるのだ。美しい自然も建造物も。湧きあがる猜疑心の塊が胸の奥にたまっている。自嘲しながら、アンヘルは彼女から目を離して遠くをみた。

 

「だいじょうぶですか? 元気がないみたいですが」

 

「大丈夫だよ」

 

 やけに心配性だなとアンヘルはおもった。嫌われているとすら思っていたのだ。

 

 かえろう。そんな風に気が晴れた。

 

 その、瞬間だった。

 

「良かったわ。人間、いえ、ご主人さま」

 

 相手の言葉で、ばちっと世界が転じた。アンヘルの心が急激に冷えこんだ。

 

 云い知れぬ戦慄が全身の皮膚を暴風のように這いまわり、駆けめぐるのを感じた。歯の一枚一枚がカチカチと打ち合うのを止めることができなかった。狂気の形相で振り向きながら、腰の剣を引きぬき正眼に構える。切っ先にはあきれ顔の少女がいた。

 

 その少女の髪は先ほどまでの茶色ではなく、黄金に染まっていた。

 

「また殺すの?」

 

 こてんと首をかしげた。先ほどとまったく同じ動作。それにもかかわらずまるで違う印象をもたらした。アンヘルは驚愕しながらも絶叫した。

 

「テリュスさんはどうしたッ!?」

 

「あら、ご挨拶ね。私はそのテリュスなのよ」

 

 金髪の少女は両手を広げて、アンヘルの震えるように構えている切っ先を赤い舌で舐めた。しっとりとした唾液が刃先をつたって波紋を撫でていく。震える剣先が彼女の舌を薄く裂いて、刀身を赤く染めあげた。

 

「テリュスは今ここに依り代となったわ」

 

「な、なにをいっている!」

 

「本当になにも知らないのね。自分がなんの為に戦っていたのかすら、わかっていない」

 

 テリュスを依り代とした神格――イズーナは金色に転じた彼女の身体でアンヘルに抱きつき、耳元で囁くようにいった。

 

「使徒となるには神を屈服させねばならない。あなたは認めさせたでしょう。この双星の女神イドゥン――いえ、イズンとイズーナを」

 

 アンヘルを強く抱きながら、徒然とつづけた。

 

「使徒は依り代として己を好いてくれる人物を『生贄』に捧げるの。さあ、殺すなら好きになさい。思いのままよ。私の身体も、そして、心も」

 

 かぷっと紅の唇がアンヘルの唇を啄んだ。そのキスはざらつく血と呪いの味だった。

 

 水の衣がアンヘルの身体を包んだ。嫋やかなその指がつつっと頬を撫でて、下へとおりていく。徐々に怒張へと迫っていった。典雅な、けれども恐ろしいその行為に反射的に突きとばした。

 

「ひどいわね」

 

 よろよろとよろめきながら、イズーナはいった。

 

「テリュスさんはどうしたんだ」

 

「だからいったでしょう。依り代として、(めい)を果たしたわ」

 

「殺したのかっ」

 

「人聞きのわるい。身体を使わせて貰っているだけよ」

 

 悪びれもなくイズーナはそういった。アンヘルは剣を動かして、首元に剣をそえた。

 

「いますぐそこから出ていけ」

 

「お望みのままにご主人さま。といいたいけれど、私にできるのは奥に引っ込むだけ。いずれ時が経てば私の神格に依り代の意思は飲み込まれる」

 

「でていけッ!」

 

 イズーナは寂しそうに笑った。

 

「あなたもそんな反応をするのね。そう思うなら一息に殺しなさい」

 

 そういって目を閉じた。すべてを受けいれるように厳かに。

 

 視界が怒りで真っ赤にそまった。けれど剣は万力に固定されたように動かない。

 

 殺して、テリュスが返ってくるか。そんなわけがない。あの軍歌の通りだ。依り代の死はテリュスの死なのである。どれほど経っても剣を動かせない様子にイズーナは悲しそうな瞳をみせながら、

 

「妹の復活を待ちながら、ご主人さまの(めい)をお待ちしておりますわ」

 

 と、それを最後に地面へと倒れる。ふっと彼女の身体から放出されていた神格のようなものが消えさった。

 

 アンヘルは彼女の身体を抱きかかえながら、そらにむかって大きく吠えた。

 

 天頂は新たな使徒誕生を祝福する蒼穹の空が広がっていた。

 

 

 

 

 

 帝国歴314年。報告書には「魔剣蘇芳、その強力過ぎる能力から封印が決定されたとある。また、残りの魔剣配分には魔剣騒動を終息させた大神祇官ドミティオスの功績が大であるとし、三本分与される」とある。人々はそれ以外の情報を認知することはなかった。

 

 

 




最後にあとがきを投稿して三章終了です。


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三章あとがきと登場人物紹介

 どうも、お久しぶりです。原田孝之です。いきなり三章あとがきを見てくださった方は初めまして。楽しんでいただけたら幸いです。

 

 三章も終えてやっと感想をいただくことができました。通算UAも二千に届いていますね。感慨深いですが、悔しい思いもあったりします。こんなマイナーな作品書いておいてなんですが、いっちょ前にプライドだけはあるみたいですね。もっと跳ねろー、と幻想を抱く毎日です。

 

 三章については、ある論理クイズ『十七匹のラクダ』と『七つの魔剣が支配する』というライトノベルを参考に書かせて頂きました。北京ダックさま。どうでしょうか。予想を裏切る展開にできていましたか? もしそうなら最高ですが、オチがわかったとしても伏線をうまく張れていたということなので、良かったと思っています。もし電波だなぁと思ったならば、感想で言っていただければ今後の勉強とするのでよろしくお願いします。

 

 と、ここらで近況報告は終了させていただきまして、まず、頂いた感想の話をしたいと思います。

 

 感想は北京ダックさまから頂いたのですが、まず、驚いたのは、パズドラを知らずに読んでいるということです。一章のあとがきに記させて頂きましたが、この小説は、基本パズドラを知っている層に向けて書いております。しかし、その層以外から感想が来ているということは、もしかしたらハーメルン界隈にはパズドラ民がいない、のかもしれません。

 

 と、まあ、こんなやらかしをいきなりしている私なのですが、次の文。これも中々衝撃でした。抜粋します。

 

「主人公がうじうじしすぎていてストレスのたまる展開が多かった」

 

 私的には、主人公アンヘルはあまりうじうじしているつもりがありませんでした。無論、まったく悩みがないわけではないのですが、それでも、主人公の気弱で意見がないところと、怒りで我を忘れたり、人を利用するような狡猾さなんかが入り混じった、普通に見えるけれども、完全に善良ではない、等身大の高校生から一歩ずれた人物を描いているつもりでした。

 

 この小説を書くにあたって、実はよく参考にした作品があります。

 

「としよし」先生作の「不揃いな勇者たち」です。この作品は、前回紹介させていただいた、「世界を撃て」よりもさらに海外ファンタジー(というか古き良きファンタジー)要素に、なろうで一般的な葛藤などを組み入れた、いわば王道ファンタジー作品です。

 

 私は気が付きました。結構うじうじ主人公すきじゃない? と。そこで、自己分析のため、自分が好む作品を上げてみました。作品が好み、ではなく、主人公が好きな作品です。こんなラインナップになりました。

 

 甲殻のレギオス

 ガンダムSEED

 SUIT(マイク・ロス)

 ファンタスティック・ビースト

 アルジャーノンに花束を

 

 とまあ、明らかに、悩みの多い主人公が好きだということが判明しました。他にも、槻影大先生の作品や、入間人間先生の作品が好きなのですが、そちら側は変人主人公だと思っているので候補からは除外しました。

 

 つまり、作者は、悩みの多い変人が好きなんだなぁ、という分析結果でした(笑)。

 

 ここでひとつ、ライトノベルの基本を勉強しました。本曰く、物語は大きくわけて二つに分類されるそうです。それは、いわゆる一般人が物語を通して大きく成長する『成長物語』。主人公が他者に影響を与えて成長させる『英雄物語』。ライトノベル売れ筋の基本は、どちらかというと英雄物語のほうがいい、らしいです。

 

 へー、と非常に参考になる情報でした。

 

 というわけで、私が目指さなければならない方向性は、英雄物語だということがわかりました。ただ、この作品で路線変更すると、主人公像がぶれてしまいますので、私の何時出すかわからない次回作で、うじうじしすぎない主人公を描きたいと思いますので、その際は、成長したなこいつ、と思っていただければ幸いです。

 

 さて、語ることもつきましたが、もう少し文字数を稼ぎたいので、くだらない駄文に付き合ってくださると恐縮です。

 

 今回なにを話そうか、と考えたのですが、好きな作品をいくつか上げたので、その中の一つを語りたいと思います。その作品の名前は「ガンダムSEED」です。いわずと知れた超名作で、この作品でも設定をパクったりしてますので、気づいた方もいらっしゃったかもしれません。

 

 ただ、この作品、非常にアンチも多いので、語り合うとだいたい喧嘩になります。なので、登場人物のひとりに話を絞ります。

 

 ヒロイン「フレイ・アルスター」です。

 

 どうですかね(ここからは知っている前提で話させて頂きます)。正直、嫌いだと思う方も多いかもしれません。私も幼い頃はそうでした。子供ながら、主人公を操り、感情を剥き出しにして行動するさまを好きになれる人間は少ない、とは思います。

 

 ただ、最近、もう一度ガンダムSEEDを見る機会がありまして、その際に、それほど悪印象を持たなくなりました。

 

 これが、大人になるということなんだな、とその時は感じたのですが、皆様はどうでしょうか? 子供のころは清純派ヒロインが好きでしたが、大人になると、寛容さが生まれるというか、多様な魅力が理解できるようになりました。

 

 中でもわかるようになったのは、強い女性像についてです。たとえば、ハウスオブカードで登場するヒロイン(というかパートナー?)は、浮気もするし、主人公の男を権力を持つ人物くらいにしか思っていません。この愛(この単語は平素でかくにはかなり気恥ずかしい)を持たない、けれど、なにか超越した利害関係による深い結びつきが存在するのは、酷く美しいものに映ります。映画のスターダムとしては独立した女性像が描かれやすいですが、将来的には、どちらの女性も魅力的に描けるような、そんなアマチュア作家になれれば、と考えています。

 

 ちなみに、好きなヒロインは誰か? という質問には、こう返します。

 その名前は、西尾作品のヒロイン。物語内の質問で「好きな作家は?」に対して「夢野久作」と答えた彼女です。それだけで、なんというか、すごく魅力的に映りました。皆様はどのようなヒロインが好みですか? できれば、感想欄で上げていただければ、また、あとがきのネタにしたいと思いますのでよろしくお願いします。

 

 

 PS

 

 恒例の宣伝です。

 槻影大先生がリメイクをやっています。みんな、ぜったいに見てね!

 

 そして、次回予告ですが、むだに短編をやります。三話構成です。皆さんお楽しみに!

 

 

 

 § § §   登場人物紹介   § § §

 

 

 ■メインキャラクター

 

〇アンヘル 主人公

 

オスゼリアス士官学校二回生伍科七八エルサ小隊所属。課外活動は絵描きの座「プルコープ」に所属している。上級生の貴族の子女に惹かれて入ったとは口が裂けてもいえない。

過酷な過去から常識が変遷し、ちょこちょこクレイジーな面が出るようになる。

 

・シィール(種族名:プレシィ―ル)【眷属】

 

水・ドラゴンタイプの眷属。いわゆる御三家のひとつ。出番はほぼなし。

 

・リーン(種族名:グリーンカーバンクル)【眷属】

 

回復要員として大活躍。眷属内でもっとも活躍している。出番なさすぎ。

 

・フレア(種族名:レッドドラゴン)【眷属】

 

「火山龍現る 下」で登場したボルケーノドラゴンの子供。地味に進化しており、手持ちの眷属内では最強の能力を誇る。

 

 

〇クナル 士官学校の同級生

 

オスゼリアス士官学校二回生上科二一クナル小隊所属。女に良くモテるが、かわりに同級生から異常なまでに嫌われている。ただ、あまりの強さから遠巻きにされているので、最近は平和。日頃は最低限しか講義に出席せず、訓練に明け暮れている。時折アンヘルを連れて依頼に望むが、どちらが疫病神なのか、だいたい不幸な目に合う。

 

 

〇イズナ ヒロイン

大神祇官ドミティオスが連れてきた増援。弓が得意で、抜けるような蒼穹の髪と瞳が特徴的。テリュスの生家に入り浸っている。

 

 

〇テリュス ヒロイン

アンヘルが雇われている道場の娘。彼女自身も高い能力を持つ。

 

 

〇ドミティオス

アンヘルに騒動を持ってきた張本人。この人物の依頼が元となって事態は進行することとなる。

 

〇アリベール スリート商会の娘

すでに父親から経営権を半分ほど譲られ、実直に事業を展開している。これまでの技術至上主義的な発想を捨ててより多角的に活動しているが、これまでの世評と相まって特段優れた成果を残せたわけではない。ただ、プロビーヌ商会が不祥事で落ちてゆくので、相対的に事業展開が進んでいる。対等に話せる存在がアンヘルだけになっている。

 

〇ユーリ 同じ小隊の仲間

 

〇ソニア 同じ小隊の仲間

 

〇エセキエル 同じ小隊の仲間

 

〇エルサ 同じ小隊の仲間

 

〇アルバ・エゴヌ アンヘルと同寮

 

〇ベップ アンヘルと同寮。軍戯盤倶楽部に所属している。

 

 

 ■サブキャラクター

 

〇マカレナ アリベールの姉。

 

〇ホアン エルンスト派閥に所属している。彼の出番はまだ来ない。

 

〇アグリッサ ドミティオスの部下

 

〇イドゥン 敵

 

〇三バカ テリュス家騒動で出会う男たち

 

〇ドミンゴ テリュスの兄

 

〇セリノ テリュスの兄

 

〇エルンスト 特科

 

〇ルトリシア 特科

 

〇クロエ 特科

 

〇ユースタス 特科

 

 

 



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第四章:プルトゥ渓谷
凱旋編第一話:故郷へ錦を飾る


 大都市オスゼリアスを南下し、中央山脈を越えたその先、さらに南東へ向かった地。

 

 ネルウィ賢帝時代に敷設されたスカリウ街道ぞいの旧ペンシル族の地は、共和国制時代よりもさらに前に併合されたとあって、古来より侵略の憂き目に合うことはなく、その一円はひどく平穏であった。

 

 しかし、帝国北方におけるデンドロメード湖近郊の、運河を利用した運送経路外ということもあり、また、西方は大森林に遮られたある種隘路的立地のため、あまり発展した様子もなく、年中、(まぐさ)くさい街道風が舞いたっている地域である。

 

 そんな事情もあり、その一帯を管理する領主は(元老院からの代官、現在はスピラ男爵)人気の薄い職で、一種の島流しとして機能していたが、保養地としての価値は高く、冬ごろになると積雪により移動にすら苦労する北部と違って、避寒を望む上流階級にはひどく好まれていた。

 

 なにより、スカリウ街道ぞいの中心都市にして衛星都市であるセグーラの町には、そこいらの旅籠とちがって上流階級を相手にした遊郭が拵えられており、飯盛女などとは比べ物にならない女が集まった。とくに、この地にはペンシルの血が濃く流れており、ふしぎと色黒が多く、人々は、

 

「南部の黒女」

 

 とよび、避寒する貴族や豪商たちが、この地に泊まるのを楽しみにしていた。

 

 午後である。

 

 といえば、あの騒乱のひと月――魔剣騒動に託けたドミティオス大神祇官の陰謀――が過ぎ去ってからすでに半年となる。そんな寒空の中、まだ日も高いというのに、茶髪の青年はボケッと街中に立ち尽くしていた。

 

「アンヘルは遊びにいかねえよな」

 

 とは、此度の遠征演習で一緒になったベップの言ではあるが、そのとおり、アンヘルは風俗には通うまい、というなにかよくわからない矜持のようなものをもっていた。忌避のような感情を抱いているわけではない。たとえば、今年の晩夏、ベップが無理やり連れて、第二期期末試験終了祝いに、士官候補生御用達の高級店へと繰り出したことがある。

 

 サンダカン三番娼館。アンヘルの敵娼は、ブルーナという店でも人気嬢となった。

 

 この地区の店は、帝都の遊郭とならんで、なんといっても天下の遊里であった。ことに人気嬢ともなれば、見た目麗しく、客の機嫌を取ったりしないことでも有名で、むしろ客の機嫌の取り方のうまさが、通人とされた。

 

 ベップはなかなかの遊び人で、レイラと呼ばれる馴染みにそうそう狎れたが、一方のアンヘルは、床に入るまでは緊張しっぱなしであった。が、いざ床に入ると、一向に沸騰するような熱情が上がってくることはなかった。

 

 結局、窓の縁でだまって杯を重ねた。ブルーナは見かねて、

 

「お好きやあらへんの?」

 

 といったが、その心中は穏やかならぬものだっただろう。こんな失礼な客を見たことがないとは仲居から聞いたはなしだが、口がさない連中はアンヘルのことを、

 

「伍科の不能野郎」

 

 と呼ぶ始末だった。ベップにも揶揄い混じりに「童帝」というあだ名を付けられた時点で、もはやどうしようもなかった。

 

 もっとも、アンヘル側にも言い分はあったのだ。これまで、ナタリア、マカレナ、ルトリシアと段階を踏んで位の高い女と触れ合ってきただけに、どうやら感覚が肥えて、なんの情欲も沸きおこらないのだ。

 

 ――身分は高いほうがいい。

 

 美醜や性格ではなく、ふかしぎな信仰を芽生えさせたアンヘルは、所作や言葉の切れ目切れ目に感じる高貴さ。それに震えるような魅力を感じるようになった。

 

 及ばぬ恋の滝のぼり、という奴である。

 

 その傾向はナタリアのような高嶺の花を好いた頃から如実に表れていた。通例、力に敏感な戦士ほど、根源的な力を持つ貴族に惹かれるのは当然である。また、現代日本の記憶を持つアンヘルには、諸芸学問に通じた才女のほうが遥かに魅力的だった。なにせ、あのテリュス――中にはイズーナが潜んでいる――と話しこんでいると、押したおして自分のモノにしてしまいたいという暗い欲望が湧いてくるのを抑えられないほどだった。

 

 こんな男も珍しかろう。が、それが性向なのだと思えばしょうがない事実でもあった。

 

 折角の演習中の休暇――隊を率いるユースタスのせいで三度目だが――にもかかわらず熱心に演習を果たすエルンストらにつき従う気もおきず、ひまを持てあましていた。

 

 と、そんなこんなでひとりとなったアンヘルは勝手知ったる故郷を歩み、一つの店に向かった。

 

 セグーラの町商業区そば、街路に板ぶき屋根を並べている店に聳えるその一軒は、アンヘルにも馴染みのある店だ。ようやく日が暮れはじめているなか、暖簾をくぐると、曖昧な笑みを浮かべながら、

 

「やっていますか」

 

 と、いった。歳若い人たち――仕込み中の店員たち――は、その明らかに軍人然とした装いの男に身を強張らせた。

 

 その日のアンヘルは、木賊色の開襟に、濃紺に染めぬかれた襟締、ぜいたくな拵えの飾りが上腕にたつ。脚部は総革のみごとな編上靴に脚絆を着用し、髪はサイドを刈り上げて、前髪を後ろに流していた。

 

 顔の造形はともかく、当時『塔』の探索で右往左往していたころと比べれば、背丈も相まって見ちがえるような立派な帝国男児の風である。

 

 場所はあの『菜の花亭』であった。

 

 中は驚くほど変わっていない。ナタリアを想って通いつめていたころ、懇意にした店員の顔もあるが、アンヘルの変わりようにピンときた様子はなく、

 

「どのような御用でありましょうか?」

 

 と低姿勢で聞かれるハメになった。怯えは隠せていない。

 

 この地に純軍人然とした装いの男があらわれるのは珍しい。事実、当時のこの街で過ごした記憶にも、貴人やエリート候補生の姿はなかった。

 

(こまったなぁ)

 

 当時、底辺を這いまわる探索者だったこともあり、士官となって敬われる機会が増えたことには胸がすくおもいだが、度々このような機会に遭遇していては辟易するのもやむなしだろう。

 

 困りはてて黙っていると、相手の男はさらに動揺を深めてゆく。アンヘルの曖昧な表情が、不興を買っているかと心配になったのだろう。

 

 酌婦である女たちも、眉を顰めながら身体を固くしていた。

 

 まだ日も落ちぬうちの客、しかもあきらかに分際の高い男である。菜の花亭はけっして客引きをしない健全な店だが、そんな好色ものとあってはなにが起こるかわかったものではないのだ。

 

「ああ、えっと」

 

(おんな)でしたら私どものみせは――」

 

 そうじゃないと、アンヘルは身振り手振りでなんとか説明した。説得が通じてからも女に酌をさせようとする相手を押しとどめ――相手がまったく気づかないのは、格好以上に抜けきった南西部訛りのせいだ――ひとりの男を呼びにやった。

 

 端の席に腰かけ、アンヘルはひとり舐めるように酒を飲んだ。オスゼリアスの品のある酒とちがい、度は火がでるように高い。昔はよく飲んだものだと味わっていると、待ち人がやってきた。

 

 外で仕入れ交渉をやっていた男は、ずいっと店に入ってきた。黒髪の短髪に、小さな背に似合ぬ威風堂々とした立ち姿。野良着であるのに、やけに風格あるその男は、もう田舎の百姓には見えない。

 

「アンヘルッ」

 

 驚いたように近寄ってきた男は、親友にして、このセグーラの街に残してきた人物、ホセであった。

 

 

 

 §

 

 

 

「えれェ変わっちまったな」

 

 そう言ったのは、筋骨隆々としていて鼻から伸びる小じわが印象深い男である。探索者用の仕事斡旋所に努める口入れ屋勤務のゴルカは、しみじみといった。

 

「そんなつもりは、ないけど」

 

「そう思ってるのはテメエだけさ」

 

 断言に、少しばかりむっとしたアンヘルは、黙って杯を傾ける。

 

 ゴルカは子供を見るかのように、相好を崩していた。

 

「そういえばリンヘルは?」

 

「あいつは遠征中よ」

 

「そっか」

 

「運がねえ野郎だよな。あんま居られねえんだろ?」

 

「うん」

 

 故郷へ帰ってきた理由。それは別に、郷里が懐かしくなったわけではない。二回生遠征演習。所詮、ピクニック演習と呼ばれるそれが、晩秋の時期になって開催されたからであった。

 

 此度の演習は、夏場の迷宮探索演習とは違って規模の大きいもので、その目的は、士官学校近郊から出ない候補生たちの遠征能力――兵站や行軍など――を養成するためにある。つまり、アンヘルは遠征演習の最中にたまたま、故郷に立ち寄っただけだった。

 

 もう夜半を廻っている。ぽつぽつと、職人衆たちが店に顔を出しはじめた。

 

 変わらない光景だ、とたった数年前にもかかわらず懐かしくてたまらない。床板のシミも、簾の汚れも、あのときのように懐古できた。それでいて、ときおり知らぬ顔が見つかるのだから、少しばかり可笑しくなり笑みがこぼれた。

 

「ここは、変わらないね」

 

 落ちついた声で周囲を見渡しながら、いった。

 

「いや、変わったさ」

 

「そうかな?」

 

「ああ。おまえに比べればちょっとだけだけどな」

 

「やっぱり、平民派の勢いが?」

 

「それもあるが、あの盗賊騒ぎも大きいな」

 

「そっか」

 

 西方の旧シラクス領の民族紛争や南部リエガー領の奴隷解放運動など、ロウウィート事件以来、世の体制反対運動さわぎで物情騒然となってくるにつれて、帝国西南部一円にかけ、職にあぶれた徒輩の横行が目立ちはじめている。この潮流はなかなかに堰きとめがたく、領主軍の取りしまりが強化される中でも、治安悪化に歯止めはかかるようすがない。来年度からは遠征演習がなくなる見込み、というのが士官学校側の結論である。

 

 しんみりした空気を吹きとばすように、ゴルカは溌剌に酒杯を飲みほした。

 

「新しい酒だッ」

 

「はいよ」

 

 カウンターの裏側に回っていたホセが、家人のような慣れた手つきで新しい杯を注いだ。彼が机の上におくと、露出多めの酌婦が運んでくる。盆のうえのそれをゴルカは大きな手で鷲掴みにした。

 

「ホセの野郎も休めってんだ、折角の機会だろ」

 

「いいよ、べつに」

 

「おいおい、つめてえなぁ」

 

 目を丸くしたゴルカには悪い、と思うのだが、実際のところアンヘルにもとくに話す内容もない。開店前に一言二言程度話せれば十分だった。若い男ほど過去を語り合ったりしないもので、二人もその例に漏れないのだろう。

 

「そういえば、さ」

 

「なんだ?」

 

 ひょこひょこと周囲を見渡してから、アンヘル声を潜めていった。

 

「その、ナタリアさん、は?」

 

「なるほどな」

 

 ゴルカは腕を組みながらニタニタ笑いを浮かべた。彼は、初恋の相手がナタリアだと知っている人物であり、またそれについて揶揄われたこともあって、いやらしい声で、

 

「まだ聞いてねえのか?」

 

 といった。

 

「なにが?」

 

「そのナタリアちゃんのことさ」

 

 口入れ屋の店員として街の事情には通じている。せいぜい一万を越す程度の地方衛星都市程度では、町人たちの生活など自然に入ってくるものだった。

 

 ゴルカは右親指を立てながらホセを指差して、

 

「あいつとくっついたよ」

 

「それは、知ってるけど」

 

 アンヘルの返事には未練の色は残っていない。社交辞令よりは親身に聞いていただろうが、実際のところ、現況を聞きたい程度の感情しか込められていなかった。

 

「ちげえよ」

 

 ゴルカは、自分の左薬指を右手で叩いた。それがなにを意味するのかさっぱりわからなかったが、指差された方向を見てようやく検討がついた。ホセの薬指に、銀色のリングが嵌っていたからだった。

 

「そっか、なるほどね」

 

「ああ? 興味ねえのか」

 

「脈なしなのはわかってたし」

 

 あっさりとした口調に、ゴルカは逆に驚いたようだった。ただ、逡巡してから、あまり拘泥されなくて助かったと思っているようであった。

 

「臨月だそうだ」

 

「えッ! それは、そういう」

 

「はっはっは、それはさすがに驚いたかッ」

 

「いや、そりゃそうでしょ」

 

 ホセの配偶者であるナタリアは今月出産予定であった。彼女はもう少しで十八になるのだから、この世界では盛り時、という時期であるのだが、現代人にはあまりに早すぎるお産に感じるだろう。少なくとも、アンヘルは驚きを隠せず瞠目した。

 

「あの野郎も身を固めてやがるし俺もさっさと結婚してえなァ」

 

 ゴルカが管を巻きはじめると、女の話か結婚したいという願望かのどちらかになる。彼は故郷から離れてこの街に居着いているために、結婚の主筋である親の紹介という手が使えない。

 

「確かもう三十路だもんね」

 

「いうなってェよぉ」

 

 それから先は、下らない愚痴を言い合うばかりだった。

 

 どれくらい時が過ぎ去っただろうか。客が減ったときには夜は完全に更けた後で、ゴルカはひとり机で寝ていた。

 

 アンヘルは仕方ないなぁ、と酒を置いた。あまり酒を嗜まない彼だが、意外に酒が強く――というよりはゴルカが見た目にそぐわず弱い――しれっとした顔をしている。呑む間隔を縮めなければ、次の日に残ることもあまりなかった。

 

「よお、楽しんでるか?」

 

 ゴルカの横に座ったのは、すでに従業員用の服を脱ぎ去ったホセだった。髪が疲労でしなびている。口から酒精の匂いがしていた。

 

「まあまあだよ。最後は管を巻かれて大変だったけど」

 

「はん。酒癖ワリィからな、コイツ」

 

「そうだったね」

 

 ホセはコップの角でゴルカの頭を小突いた。うーんという声が漏れた。

 

「なあ、アンヘル」

 

「どうしたの?」

 

「おまえは、そっちで上手くやってるのか」

 

「……」

 

 アンヘルは沈痛な面持ちで黙りこくった。返事はできなかった。友人たちの死。それを乗り越えられたわけではなかった。胸の奥に棘となって刺さったままだったのだ。

 

 それを、士官学校での失敗と受け取ったホセは、

 

「帰ってこねえこたぁ分かってる。けどよ、別に帰ってきたらいけねぇわけじゃねえ」

 

 といった。

 

「そうかな?」

 

「そうさ。故郷は出てった奴のためにあるんだぜ」

 

「はは、そうだね」

 

 アンヘルはその朗らかな励ましに、久方ぶりに心から笑った気がした。お返しにと杯を掲げて、

 

「結婚、おめでとう」

 

 と相手の杯にからんとぶつけた。

 

「もう聞いたのか?」

 

「うん。今月産まれるんでしょ」

 

「ああ、良く知ってらァな」

 

 ホセは気恥ずかしそうに明後日の方向を見ながら頬を掻いた。

 

「いつ結婚したの?」

 

「今年の春さ。わりぃな。俺だけ先行っちまってよ」

 

「いいよ。僕には結婚なんて」

 

「ま、そうだろぉな」

 

 照れ隠しなのか、ホセはにやりと笑った。

 

「どうせまだ童貞なんだろ?」

 

「……」

 

「おいおい、拗ねるなって。まったくよ、そういうところ変わってねえな」

 

「ホセこそ。相変わらずそういうところは勝ち誇るよね」

 

 両者はガンを飛ばし合った後、堪えきれなくなって同時に笑いだした。懐かしい空気に当てられたのか杯は進んだ。

 

「な。そういえば何時までいるんだ?」

 

「二、三日ってところかな。それがどうかしたの」

 

 遠征総隊長を務めるユースタスは、演習始まって以来の都市部遊郭を楽しみにしていたのか、かなりの時間をこの地で浪費することはわかっていた。ただ、目的地であるプルトゥ渓谷周辺を治める地ブルクランまでまだ幾ばくか距離があるため、そう何日も滞在できない。数日だろう、というのが予想である。

 

「ならよ、明日ちょっくら手伝ってくれねえか?」

 

 ホセのギラリとした目が輝いている。久々のタッグがここに決まった。

 

 

 

 §

 

 

 

 早朝、アンヘルは街が目を覚ます前に行動をはじめた。泊まった宿を飛びだし、待ち合わせした場所へゆく。ただ、やはりというか二年もあるためかなり記憶があやふやで、土地の人間に尋ね歩きながらようやく辿り着いた。石造りの巨大な門柱、立派な鉄扉が嵌めこまれている場所に、背の低い男は立っていた。

 

「それで、今日はなにするの?」

 

 ホセに聞いた。門の脇にある詰所の中から、子分らしき男が早朝に集まる男たちを訝しげに誰何していた。

 

「そっちは黙って見てりゃぁいいよ」

 

 この日のホセは、先日の町人然とした装いではなく、革の上着にベルト、靴といつかの傭兵らしい格好である。探索者時代の斧ではなく、短剣を腰に差しており、手に袋を持っていた。

 

「お頼み申します。直接、親分に会って話したいことが」

 

「なんだってんだ? 親分はたいてい宵っ張りなんだよ。用事があんなら、昼にきやがれ」

 

「いんや。親分は朝から仕事をしてる。それが親分の癖だ」

 

 知ったような口ぶりに子分は苛立ったのか舌打ちして、

 

「そいじゃどんな要件よ。場合によっちゃ口利いてやってもいいぞ」

 

 といった。

 

「直接お会いしてぇ。親分にはフリオの借金だといえば、とおる」

 

 ふうん、と子分はいうと、家の中へ消えていった。

 

「借金の返済?」

 

「ああ。親分のところにな」

 

 語るのも面倒臭いのか、ホセはこめかみを抑えながら低くいった。

 

 この屋敷は、セグーラの街南方の富豪街リースフィールドを縄張りとする貸元グスタボの店である。つまりやくざ者の根城ということだ。こういうと、どんな大悪党が住んでいるのかとおもわれるが、しのぎ自体は金貸しで成りたっており、金利も悪くなく、金を返さない連中以外には菩薩のような組織である。

 

 親方グスタボは今年四十になる苦みばしったかなりの男前であった。尖った鷲鼻が怜悧さを醸し出し、たっぷりした黒髪をワックスで撫でつけた恰幅のいい男である。

 

 そして、なにより大事なのは、ホセが用心棒時代に雇われていた親方だということである。傭兵時代の主な仕事は、金の返さない客を脅しつけることだったが――正確には金を返さない決断をさせないための抑止力――主な仕事はグスタボからであった。

 

「店の野郎が、こっから金を借りやがったらしくてな」

 

 ホセの述べるところによると、こうである。

 

 菜の花亭のような酒を出す店には、酌婦たち五、六人のほかに、男手が数人居る。やはり女手では不可能な量の物品を購入する際には必要であるし、酔客の制止役も必要だ。

 

 名前はマテオ。雑貨屋の三男坊で、将来店を持つための修行として徒弟に出された男である。いわゆるナタリアの幼馴染という関係で、真面目でないわりに、のらりくらりとやってきた男であった。ただ生まれつき身体は大きく、容貌も優れていても女は寄ってくる。金に困れば女を引っかけ、それをナタリアの父が詫びて回る日々だったそうだ。

 

 ただ、この男は、春前くらいに店も止めてしまったらしい。噂で聞いた話では、どうやらナタリアに惚れていたが、ホセに盗られたのが悔しかったのだろうとのことだった。

 

「おれァ、やっぱ街の奴には好かれちゃいねえ」

 

 ホセは寂しそうに門にもたれかかった。

 

「だからって、こっちが喧嘩腰でもしょうがねえ。それによ、わりぃじゃねえか。ぜんぶ持っていったみてえでよ」

 

 アンヘルからすれば、そんなゴミなど切ればいいと思う。なにより、ナタリアがそんな人物と結ばれて幸せになるとは思えないのだ。だがこの男は、マテオを追い出したという負い目があったのだろう。

 

 ――やっぱり、いいやつだな。

 

 妻にモーションを掛けた男を助けるとは、なかなか人ができている。真似できる人間は少ないに違いない。

 

「でもそんな金どこにあったの?」

 

「傭兵時代の蓄えがちょっとだけ残っててなァ。心配すんな。店の金に手を付けたりはしねえよ。それより、そっちは準備いいのか?」

 

「戦いになるかもしれないの?」

 

「そうはならねえ、と思うけどな。やっぱ、一人じゃどうにもならねえからよ」

 

 そうやって話し込んでいると、許可が降りたのか子分がやってきた。会ってくれるらしい。鉄の門が左右に開かれると、ホセを先頭に家敷の中に入った。

 

「お久しぶりです。親分」

 

 ホセはそう言いながら頭を下げた。通された大広間の部屋で、漆喰の椅子でどっしり構えているのがグスタボである。アンヘルはいつもどおりの候補生制服のまま、部屋の隅に立った。

 

「それで、今日はなんの用だ?」

 

「マテオの金、そっくり揃えてきやした」

 

 そういうと、ホセは控える子分たちへ袋を渡した。ずっしりした中には百コインほど入っている。田舎では中々の大金であった。

 

「ほう、別にテメエが払わなくても構わねえんじゃねえのかい」

 

「へい」

 

「なら、どうしたってんだ」

 

「マテオの野郎が金を借りねえようにして欲しいんです。ウチのカミさんが野郎の家族と仲良くて。あいつが不義理をすると実家がやべえんです」

 

「ほう、そうかい」

 

 グスタボは感情の見えない顔で頷きながら、

 

「けどよ、道理が合わねえんじゃねえか?」

 

 といった。

 

「それは――」

 

「テメエは、ウチの仕事を台無しにしてくれやがった。それを久々に来て頼み事たぁ、どういう了見だい」

 

 実はこのグスタボ、ホセの器量を信じてより大きな仕事を任せようとしていた最中であった。そこを裏切られて、ある程度のダメージを負ったのである。

 

「すいやせんとしか、いえねえんです」

 

 ホセは膝を折り、頭を地面にこすりつけて謝罪した。しかし、その眼差しに惨めさはいっさいなく、子を持つ父のように力強かった。

 

「あんときは俺も調子にのっていました。親分にも迷惑をかけたことは悪いと思っています。けど、そっちもわかってるはずです。あいつに金を返す力がねえことは」

 

「……」

 

「頼んます。ここらでしめぇにしてくだせえ」

 

 グスタボはぼりぼりと顎を掻いたあと、子分に袋を持ってこさせ、一枚一枚数えはじめた。金貸しらしく、あっという間に終わる。

 

「俺も鬼じゃねえ。テメエにも家族があるしな。だが、わかってんのか。あの野郎、うちだけじゃなくて他からも借りてやがる。それをどうするよ」

 

「そっちはあいつになんとかさせます」

 

「はん、そうかい」

 

 なら話は終わりだ、とグスタボはキセルを取り出した。

 

「これは、一応なりともウチの門をまたいだテメエに言っといてやるがよ」

 

「へい」

 

「あの野郎はクズだぜ。さっさと片つけちまえ」

 

「へい」

 

 それっきり、さっさと出て行けと手を振ると子分たちが背後の扉を開けた。ホセは立ち上がって礼を言った。部屋を出る。それに続こうとしたアンヘルは、

 

「兄ちゃん、ちょっと待てや」

 

 という声に止められた。

 

「何モンだい。ちょっと剣が使えるってぐれえじゃねえだろう?」

 

「私は、ただの候補生ですよ」

 

 自分の胸元をぴろっと掴んでアピールした。士官学校の制服はどこも共通で、近在の大森林警備隊には簡易養成課程が存在することからこの街の住人も制服だけでわかる。セグーラはこの近辺でもっとも発展しているため、気晴らしにそこの候補生が訪れることもあった。

 

「は、んなわけねえよ。俺だって若い頃は柳流の門人だったんだぜ」

 

 彼の出身は中央山脈周辺のポーナで、その立地の悪さから皇帝、元老院の支配が及ばず、民衆に対する統制が緩やかな地であった。自然、野盗たちが蔓延りやすく、中々に治安の悪い地域である。自然、百姓作男たちは争って武芸を学ぶ武侠の風土であり、どの村にも武芸自慢の若者が多くいた。

 

 この一円には、そういう連中に教える剣法が幾つもある。その一つは名の通った東方一刀流で、質実剛健かつ数多くの門人を抱える。出世したいならまずこれを、という名門だが、勉学重視の流儀のため、手っ取り早く技を磨きたい村衆には好まれない。

 

 柳流は、オスゼリアスで金剛流を学んだ流祖ラウデリーノが故郷に帰ってきてからはじめた流儀であり、気組と呼ばれる気魄重視の剣術で、都会の巧緻な剣術に比べれば田舎臭いが学のない村民たちには分かりやすい流派であった。

 

「ホセの野郎、一発かましてやろうかと思っていたがな。まさか、てめえみてえなガチ(もん)の軍人がいるとは思わなかったぜ」

 

「……」

 

「こんな片田舎になんの用だってんだ?」

 

 とはいうものの、金貸しを営む男が士官候補生来訪を知らぬわけがない。総隊長であるユースタスは街で派手に遊んでおり、明日の昼頃には街全体に噂が広まっているだろう。

 

 あくまでも確認程度だった会話に黙っていると、

 

「あの野郎、分かっていやがらねえ。テメェが、片付けてやれや」

 

 といった。

 

「それは、どういう意味ですか?」

 

「俺は言わねえ。自分で調べろ」

 

「そう、ですか」

 

 アンヘルはそれを最後に部屋を辞した。久々のタッグは、ここで解散の運びとなった。

 

 

 



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凱旋編第二話:虚実混交複雑怪奇

「しかし、貴様と仲良くお買い物とはな。愉快に過ぎる」

 

「部屋にずっといるからでしょ?」

 

「寝ていて何が悪いのだ」

 

 クナルはすっとぼけた様子でわざとらしく聞き返した。

 

「なにが悪いって……寝てただけじゃないでしょ」

 

 羨まけしからん状態を思いだすと徐々に憤りを抱えると、半目になって睨んだ。

 

「私が誘ったわけではない」

 

「だからって娘さんにちょっかい掛けて、問題起こしてりゃ世話ないよ」

 

 クナルはふんと鼻を鳴らしながら持っていた焼き串を喰らった。ぽたぽたと地面に汁が滴っている。

 

 朝からのくだらないやり取りに心がささくれ立つ。

 

 よく晴れた日の午後、グスタボ邸に赴いた翌日である。アンヘルたちは、遠征隊の実質的隊長であるルトリシア派閥から指示を受け、すでに買い付けた物品を宿まで運んでいた。主な品は、飲食料品である。

 

 ちなみに、彼らが運搬を担当している理由は単純で、一言でいえばクナルの容姿の良さにある。一瞬で宿の娘を引っかけると、褥を共にする。だけならよかったのだが、店主に発覚すると娘を取り返そうとして怒髪天を衝いたように暴れまわった。結局、なんとか事なきを得たものの、まさに前代未聞であった。

 

 そんな彼をルトリシアが許すはずもなく――総隊長であり婚約者候補ユースタスの遊び癖に気が立っている――いつもの優し気な雰囲気を消して、買い付けを命じたのである。

 

 美人は真顔になると異常なほど怒っている、と感じるいい例だった。

 

「というか、意外に云うこと聞くんだね」

 

 あまりに優秀な候補生には貴族側も気を遣わざるを得ない。超級の武芸者はどこも貴重で、何としてでも将来自派閥に来てほしいと横柄な物言いを控えることが多いのである。普段のルトリシアも無礼にならぬ程度ならクナルの自由行動を許可しているほどであった。

 

「あの女の髪を見ていると、婚約者を思い出してな」

 

「え? 婚約者がいるの?」

 

「だが、もう」

 

 クナルは顔を上げて遠くの連峰を見た。

 

「その、ごめん」

 

「なにを勘違いしている? 生きているぞ。私が会いたくないだけだ」

 

「……冗談の趣味が悪いと言われない?」

 

「よくわかったな。故郷では冗談の通じぬ男で通っていた。だが、貴様よりはセンスがあるだろう」

 

 仏頂面のアンヘルは、剣の鞘で相手の足を払おうとするが、容易く察知され距離をとられた。クナルの持っていた大八車が傾いて、ごろごろと地面に荷物が転がり落ちた。

 

「貴様が拾えよ」

 

 クナルが落ちた品物を指差した。

 

「いつか殺す。絶対殺す。犬の餌にしてやる」

 

「貴様にいい格言を教えてやろう――」

 

「負け犬の遠吠えでしょ。黙れ」

 

 アンヘルは手でしっしと遠ざけながら、食糧の詰まった樽を荷台に乗せた。澄ました態勢で佇立している麗人を見て周囲の女たちが惚けた顔をしているのが、荷物の重みを増加させた。

 

「それにしても貴様、昨日は何処に居た?」

 

「別に。どこでもいいでしょ」

 

「ふん。呑気だな」

 

 クナルはかぶりを振りながら、心底苛立たしそうに眉間に皺を寄せた。その仕草すら様になるのだから、まさに絶世の美である。

 

「此度の遠征演習。いつもの三倍以上の距離であろう?」

 

「そういえばそうだね」

 

 例年の遠征演習はオスゼリアス近郊の町々を廻り、湖港警備隊と呼ばれる湖賊に備える軍を視察するなど、もはや候補生の見識を広めるために存在しているといっていい。移動だけで十五日以上かかる地域に遠征することなど何者かの恣意が無ければあり得なかった。

 

「もしかして、これが仕組まれたものだと?」

 

 不吉な言葉に冷や汗を垂らしながら聞いた。

 

「その可能性も十分あるな」

 

「と、云うことは」

 

「そういう意味であろうな」

 

 今回の遠征地は突如後になってから変更されたものである。他の候補生たちも頭を捻っており、教官からは上から指示だの一点張りであった。

 

「あの男が絡んでいることは間違いないだろう」

 

 クナルの指す人物とは、二人が蛇蝎のごとく嫌っているドミティオス大神祇官のことである。今回の不自然な遠征演習は、魔剣騒動の貸しにより遠征内容を変えた可能性が高い。

 

 アンヘルはまた出てきた人物に大きなため息を漏らした。

 

「名前は言わないで。反吐が出そうになる」

 

「頼まれてもいうものか」

 

 クナルは眉が縦になるぐらい顰める。あまりに嫌悪感の溢れた表情であった。さすがの彼も堪えきれぬところがあるらしい。

 

「目的はなにかな?」

 

「知るものか。考えてもわかるまい」

 

「ろくでもないことが起こるのはなんとなくわかるけど」

 

「だが、この街では何もないだろう」

 

「この街で何か起きたら大惨事だよ」

 

 一万人規模の街で発生する事件。考えることすら恐ろしかった。

 

 アンヘルは己の握りしめた右掌をジッと見つめた。虚空を睨むような朧げな眼差しには、恐怖と怒りが含有されていた。

 

 あれ以来、己の持つ召喚術が恐ろしくてたまらないのである。双星の女神の力は強力だがあまりにも非人道的すぎる。召喚すれば、テリュスの意思を無視してイズーナは現れるだろう。さすがに使う気にはなれなかった。

 

 ふたりは言葉を喪失すると、黙々と歩き続けた。

 

 店を三軒回り、最後の天幕修繕を請け負っている布専門の店の筋に差し掛かった。外延部のため、人々の往来はまばらである。

 

「はあ。はやく帰りたい」

 

「なら早く進め、間抜け」

 

「槍が降ってこい。銀髪糞野郎の脳天に突き刺され」

 

「ならば私が降らせてやろう」

 

 クナルは荷台に乗っていた棒を真横に薙いだ。

 

 アンヘルは脚を止めて、その棒を両手でがっしりつかんだ。その完璧な防ぎ方ににやりと笑ったが、クナルは左手で口許を抑えていた。

 

 一瞬意味が分からなかったが、その笑いの意味を察すると頬がひきつった。

 

「天幕用の建材にヒビが入ってしまったなぁ。さて、どうしたものか」

 

「本当に死ね。消え失せろ」

 

「ふん。負け犬がほざいているが責められるのはどちらかな?」

 

「ひ、卑怯だ」

 

「戦はそういうものよ。『戦とは奇道を用いて制する』というであろう?」

 

「そんな絶滅危惧種部族の格言知らないよ。いつか絶対痛い目見せてやる

…………あれ、なにかな?」

 

 指差した先には、用水路橋の物陰に三人ほどの男がひとりの人間を取り巻いていた。普段は物見高い人々も寂れている地域とあって群がりはせず、時折気の毒そうに視線を向けては去っていく。中心の男の低い声が響くが、小声すぎていささか緊迫感に欠けたのも関係するだろう。

 

 絡んでいる男たちの恰好がやけに町民風で破落戸、という印象を受けないからだろうか。頑張って突っ張っている風で言葉を飾ってもチーマーぐらいにしか見えない。

 

「助けにゆきたいのか?」

 

「義を見てせざるは勇なきなりっていうでしょ。そっちこそ行きたいんじゃない?」

 

「この場面では触らぬ神に祟りなし、のほうが相応しいであろう。わざわざ助けに入るような局面でもあるまい。そもそも、我らが行ったところで問題が拗れるだけだと思うがな」

 

「そうなんだよねえ」

 

 アンヘルたちは明日街を発つ予定である。最後までは面倒を見切れないし、それに暴力が振るわれている気配がなく余計なお世話になる可能性もある。痴情の縺れから端を発した話かもしれないとなれば踏み込むのは余計度胸がいる。

 

 かなり迷ったが、結局割り込むことにした。マカレナのこともあって、どうしても女性が囲まれている姿を見ると強烈な不安に襲われるのである。

 

 アンヘルは大声で威嚇しながら騒動の中心に駆け込んだ。鍛えられていない町民然とした若者たちがギョッとした様子で女までの道を開けた。

 

 さっと割れた空間の中、囲まれていた女が顔を上げた。彼女の姿を認めると、アンヘルは一瞬にして顔を青ざめさせた。

 

「ナタリア、さん」

 

 囲まれていた女性は緩やかな服を纏い、遠目から見ても身重だと判別できる。過去の想い人にして、正式なホセの妻、そして菜の花亭の看板娘であった人物であった。

 

 わなわなと唇を戦慄かせながら一歩踏み出すと、彼女は深く俯き、手ぬぐいのようなもので顔を隠した。だが、その突き出た腹といつも見ていた綺麗な指先は、隠しようがないものだった。

 

「どうして」

 

 アンヘルが戸惑った声をだすと、ナタリアは一歩二歩と下がった。表情は完全にコントロールを失っているのか、放心したように呆然としている。

 

「おいおいおい、なんだぁてめえはよ。急にしゃしゃり出てきやがって、おれたちゃただ喋ってただけ……」

 

 集団のリーダーなのか、男は踏み出しながらアンヘルを威嚇しようとするが、纏っている候補生制服を見ると語気は少しづつしぼんでいった。

 

 年頃は二十くらいであろうか。梳いた金髪に横を刈り上げて快闊な印象を与える。顔立ちは整っており、平均よりは良い体格をしていて拳一つ分ほどアンヘルより低い。黒目がギョロリとしていて、博徒特有の鋭い眼光を携えていた。

 

「へへ、なにか用かい、兄ちゃん」

 

「やめて、マテオ!」

 

「おまえはだまってろや!」

 

「あっ」

 

 マテオと呼ばれた男の怒鳴り声に続いて、仲間の男が身重のナタリアの口をふさいだ。

 

「いやぁ、誤解させちまったみてえだなぁ。おれたちゃ別に喧嘩してるわけじゃねえのよ。な、そうだろ」

 

 仲間たちも賛同するように首を縦に振った。

 

「な、だから兄ちゃんはお勤めを果たしてくれや。おれたちじゃなくてよ」

 

 卑屈な笑みを浮かべながら、へへっと手をごねる。

 

 アンヘルは無言で一歩近寄る。その態度が無性に気に入らないと、無言でその横っ面を張り飛ばした。

 

「ぶげふッ」

 

 マテオはつぶれたカエルのような声を出して、地面に倒れ込んだ。

 

 場の空気はそれで騒然となった。男たちが腰の短剣を抜く。が、震えている。実戦経験はないのか、怯えた顔で真正面に両手で突き出している格好だ。

 

「おい、おい。あんた、下がれって」

 

「この剣が見えねえのか、おい」

 

 残された男たちが後退りをしている。マテオも恐怖に慄きながら立ち上がった。無言で歩みを進めるアンヘルに全員が戦意喪失していた。

 

 当たり前だが、アンヘルの戦闘力は一般人とは隔絶しており、もはや違う生物のようなものである。一見ひょろいが、身長は高い。整っているとも言えない温和な顔も、能面となればより恐怖を煽る材料となっていた。

 

「ま、待ってくれよ。なあ、おれたち本当に話していただけだろ?」

 

「関係ない」

 

 相手の話を遮りながら、腰の長剣に手を掛ける。

 

「彼女は歴とした友達のおかみさんだ。理由なんてどうでもいい」

 

 尋常ではない闘気が場を支配した。男たちもすでに冗談で済む次元の話ではなくなったと察したのか、皆一様に蒼白になり、額に大粒の汗を浮かび上がらせた。

 

「待って、待って、ください! なんでも、ありません。本当に話をしていただけなんです」

 

 呆然としていたナタリアは悲鳴のように叫んだ。マテオは若干の余裕を取り戻し、冷静な声でいう。

 

「だ、だろ。な、あんたが誰なのかしらねえが、おれたちゃ個人的な話をしているだけなんだ。邪魔はしないでもらおうか」

 

「……」

 

「な、ほら、どっかいきやがれ」

 

 なにが起こっている。いや、この場をどうやって収めればいいのだ。アンヘルは怒りを前面に押し出した態度の裏で、強い苦悶に喘いでいた。

 

 なによりナタリアの態度である。彼女はこの男たちに恐れを抱いているようだが、それ以上に闖入者であるアンヘル自身を怖がっている様子だった。いつかの事件の陰は未だ差したままである。このままの状況では、よりましな選択肢としてマテオ側を選ばせかねない。

 

「個人的って、どんな内容なんだ」

 

「べつに個人的なことよ。男と女、個人的といっちゃあそれくれえしかあるめえ」

 

「それは、どういう」

 

「察しがわるいなぁ。俺はナタリアと良い仲だったのよ」

 

「そう、なんですか?」

 

 アンヘルがゆっくりと聞くと、怯えた様子のナタリアは、

 

「むかし、昔の話です。それにただの幼馴染ってだけですから」

 

 と小さな声でいった。マテオはへらへらと笑い出した。

 

「おいおい冷てえなぁ、自分の男によ」

 

 聞き逃せない言葉に、アンヘルは愕然とするしかなかった。

 

「どういう、意味だ」

 

「嘘、嘘です。信じないでッ! 本当に、ただの幼馴染で」

 

「へへ、そう恥ずかしがんなって。どうせこの腹の子も俺の子に決まってやがらぁな」

 

 マテオはそう言いながらナタリアの腹をゆっくりと撫でた。ぶたれた怒りが混じっているのか、執拗に押しこむ。

 

「へ、ま、そういうことよ。間に入るってのは野暮なもんだろうし、そもそも俺のことすら知らねえだろう? そんな奴に仲裁できるわけねえんだから、さっさと消えてくれや」

 

 ふふんと鼻を明かしたような態度を取る男に対し、なんの言葉も捻りだせなかった。

 

 引くか、それとも押すべきか。なにがなんだかわからない。強い懊悩に悩みながらも、間を採用することで改善の糸口を探る。

 

「そう、だね。確かに状況も事情もわからない。けど見過ごせない。いったん君に事情を聞くよ」

 

 さすがに軍人――候補生――の言葉である。反論の余地を与えなかった。文句を言ったら斬り殺しそうな雰囲気も従順にさせるのに一役買った。

 

 同意を得たアンヘルは、部外者一の存在を探した。

 

 少し待つと、細事を無視して店に入っていたクナルが漸く出てくる。事情を説明して、退避を頼む。一瞬嫌な顔をされたが、流石に選択のないと悟ったのだろう。ナタリアを託すと、マテオたちと残った。

 

 雑貨屋の裏手には資材置き場用の倉庫があり、その前が空地になっている。アンヘルたちはそれぞれ距離をとると、剣呑な雰囲気で向かい合った。

 

「それで、どういうことなの」

 

 完全に気圧されていたマテオだったが、時が空いたせいか幾ばくか平静を取り戻していた。

 

「へ。別におれはなにひとつ嘘を言ってねえよ。こっちにはてめえみてえな軍人さまとやり合うつもりは一切ねえんだ。俺が昔の男だってのも嘘じゃねえ」

 

「だけど、彼女は否定していた」

 

「おいおい。女ってのはそういう昔の情事を隠したがるもんじゃねえか。あんただって、ホセの野郎と寝るまで初心のねんねだったかどうかなんて知らねえだろう?」

 

 夜這いはペンシル地方五百年の田園の風だから、彼の言が間違っているとは言えない。ケソン村では、祭りの際に女を草むらに連れ込んで情事に耽るのは一種の娯楽ともいえようし、また娘の間はさまざまなことがあったとしても、家に入ってしまえば身持ちを固く保つことが規範となっている。どちらかといえば、そんな環境で童貞なアンヘルの方が珍しいだろう。

 

「だとしても、彼女には歴とした夫がいる。おまけに身重だ。あんな風によってたかって詰るような真似をするのは」

 

「そ、そりゃ悪かったよ。けど、おれだって切羽詰まってんだ。こっちはあいつのオヤジのせいで人生滅茶苦茶で、もうにっちもさっちもいかねえんだよ」

 

「どういう意味?」

 

「今更だが、そっちは事情を知ってるのか?」

 

 アンヘルはホセから聞かされた事情について話した。マテオが店の名前で借金をしていたこと。博打に目がなく悪い遊びも覚えていたこと。店の仕事についてもあまり真面目ではなかったことについて語った。

 

 それを聞いたマテオは、喉にため込んだ唾を道端にぺっと吐き捨てた。

 

「なんも知らねぇみたいだな。おれには貸しがあんのよ、あいつのオヤジにな。てめえのダチってのはホセの野郎のことだろう?」

 

「その、とおりだよ」

 

「はん、だろうな。残念だがよ、あの野郎はおれのことなんざなんも知らねえんだ。野郎の知ってる話は俺に不利な話ばっかりだろうよ」

 

 マテオは屈辱を噛み締めるようにして俯くと、両肩を震わせた。目は真剣で、顔面の神経全体を強張らせている。嘘を言っているとは微塵も思われなかった。

 

「まじめにゃやってなかった。けどよ、それは俺だけってわけじゃあるめえ。他の奴を見てみやがれ。買い出しの金で遊んだりしてる奴もいるじゃあねえか。誓って言うが、おれは店の金に手を出したりしたことはねえ」

 

「じゃあ、どうして仕事を首になったの」

 

「知らねえよ。どうせナタリアが昔の男が店にいると嫌だってんで、追い出したんじゃねえのか? けどよ、おれはガキの頃からずっと働いてきたんだ! 五年、五年だぜ。それを、新しい男が来たってんで追い出されちゃあたまらねぇ。急に放りだされる方の気になってみてくれよ!」

 

「お腹の子がどうって話はなんなんだ?」

 

「い、いや、そりゃあ、言葉のあやってやつだよ。てめえがナニモンか分からなかったからよ、ちょいと男女関係を匂わせりゃ引き下がるかとおもったんだよ」

 

「……何の話をしていたの?」

 

「おれはあの店に五年もいたんだ。それが、少々の素行不良ごときで放りだされちゃたまらねえ。おれはもう十九だ。新しくなんかを始めるには遅えんだよ。けど、あいつのオヤジは奉公分どころかまったく融通してくれそうもねえし」

 

 アンヘルはそういわれて完全に黙った。これはもはや、部外者が出張ってきて一朝一夕に片づけられる案件ではなかった。

 

 この世界には労働基準法などは存在しない。つまり弟子となれば、修業期間中は飯を食わしてもらう代わりとして、まったく無給で働くことになる。そんな弟子が、道半ばで放り出されたとしたら、あとは盗みでも働くしかない。異世界は通称「エコノミックアニマル」と呼ばれる日本人からすれば極楽まりないホワイト企業ばかりだが、ひとたび脱落してしまえば蘇ることはできないシビアな世界でもあった。

 

「今更他の仕事に手を付けようとしたが、結局潰れて借金までこさえちまった。これも全部、あのオヤジが支度金を寄こさなかったからだ。なあ、分かんねえか? あんただって一人の男だろ。この年で親元を頼るなんてできねえんだ。生きていくには金がいるんだよ。たしかにナタリアを暴行する形にはなっちまったが、ちょっとばかしカッカきちまってもしょうがねえだろう?」

 

「それは……」

 

「なあ、おれはあんたに物申せる立場じゃねえけどよ。これ以上邪魔しねえでくれや。これは俺らの問題だ。あんたもわかるだろ? おれに対して対価が必要だってな」

 

 最後まで血走った眼でマテオは語っていた。

 

 それだけ切羽詰まった状況だというのだろうか。彼の話だけで判断はできなかったが、しかし、不憫な所もあるように見受けられた。

 

 相手も責めることが出来なくなって、マテオと別れると、ひとりポツンと街路を歩いていた。

 

 ずしんと肩が重くなる。それは決して荷物の重みではない。あまりに別世界の複雑な人間関係が生み出した重みだ。

 

「こんなのホセになんて言えばいいの」

 

 非人道的な面を持つアンヘルだが、あくまでも武力や策略という点に対してであり、その方向性は主に戦闘に向かっている。彼の根幹となっている悲惨な過去は、強大な武力が必要ではあるものの、明確な敵というものが存在していた。

 

 だが、マテオの言葉が真実なのだとすれば、今回の案件は明らかにその範疇になかった。なにせ、明確な敵というものもなければ、力で解決もできやしないのである。

 

 そもそもとして、アンヘルは彼の話に同情的でもあるのだ。むろん、ナタリアに危険が迫るのなら強引に話を進めても構わないのだが、口論の末の諍いだというなら、むしろ理はマテオ側にある気すらするのである。思想は特異であっても、大本はゆとりっ子かつ働いたことのない人間には判断など出来ようもない。

 

 もくもくと歩いていると、オープンテラス喫茶の椅子にふたつの人影がみえた。

 

 ナタリアはアンヘルの姿を認めると目を伏せた。ゆったりとした服の下の胎が、やけに痛々しかった。

 

 いくらなんでもクナルの姿があっては目立ちすぎる。離れているよう指示すると、アンヘルは彼女が手を落いている円卓から離れたところに椅子を置いて、座った。

 

「お久しぶりです。このような再開となってしまい、申し訳ありません」

 

「……」

 

 相手は俯いたまま返事をする素振りを見せなかった。嫌われている相手に話など難儀に過ぎたが、しかし、ホセのこともあって見過ごせなかった。

 

 無視された格好だがマテオの言い分をすべて語った。ナタリアは一言も言わなかった。が、最後に、

 

「貴方が事情を言ってくれないのなら、ホセに相談するしかない」

 

 とアンヘルが言うと、顔をあげて即座に否定した。

 

「そんなのは嘘です!」

 

「どこまでが嘘なんですか?」

 

「それは……ぜんぶです。彼と恋人だったこともありませんし、仕事を失った理由も違います」

 

「じゃあ、お父様に言って首にしてもらったっていうのは」

 

「それは違います。それに、父は出ていくときに十分な支度金を渡しています。五年分には足りないかもしれませんが、なにも貰えないのが普通ですから。もう、いいですか?」

 

 ナタリアはそれを最後に立ち上がろうとした。そこには、話したくないという以上に、掘り返されたくないという感情が見え隠れしていた。

 

 奇妙な点がいくつもある。マテオは十分な金を貰っていながら、すでに金貸しから大量の負債をこさえているし、明らかに切羽詰まった風である。実家を頼れないとも云っていたが、瀕死の状況で、家人が手を差し伸べないわけもない。なにより、彼には裏街道を突っ走っている男特有の陰鬱な雰囲気が多少はあった。

 

「もうすこし、聞きたいんです」

 

「忙しいので……」

 

「なら、こちらで処理しても構いませんか?」

 

 冷淡な言葉に、ナタリアがびくっと肩を震わせながらこちらを見た。

 

「それって」

 

「言葉通りの意味です。貴方を信じれば、すべてマテオという男のいいがかりになります。領主軍憲兵へ頼んで裁いてもらうしかありません」

 

 アンヘルが冷厳に宣告すると、ナタリアは食って掛かった。

 

「通報だけはやめてください! たしかに、彼は悪い人です。けど、それでも幼馴染なんです。だから話し合いでなんとかできますから。だから、今回ばかりは見逃してください!」

 

 ナタリアは涙目で頭を下げた。悲痛な叫び声に街の人々の注目が集まる。

 

 慌てて宥めると、彼女は放心したように机の木目を眺めていた。己の伴侶であるホセのことを考えているのだろうか。それとも、昔馴染みであるマテオを思っているのか。

 

 ナタリアの諦観混じりの顔に黙るしかなかった。

 

 彼女は女ではなく一児の母になろうとしている。所詮歳若い平和ボケ人間にその心中が察せるはずもない。

 

 だが、わかるのだ。何もわからなくても、嫌な部分だけ察してしまう。人の悲劇に触れてきたアンヘルには相手の心情が透けるのだ。悲観に暮れすぎている。触れることすら憚られる痛みを心の奥底に見てしまった。

 

「ひとつだけ教えてくれますか?」

 

 ゆっくりと唇を動かした。察しの良い自分が嫌いになりそうだった。驚くほど冷たい声が発された。

 

「……勘違いなら、いいんです。こんなことを聞いて申し訳ないとも思います。

 でも、教えてください。ナタリアさん、彼と寝ましたか?」

 

 あまりに嫌な真実だった。

 

 その言葉を理解したナタリアは必死の形相で掴みかかった。身重の体ながら、どんな力なのかと思わせる握力だった。

 

「言わないでッ! あの人にはッ!」

 

 アンヘルはしがみつく彼女を引き剥がしつつ椅子に座らせた。

 

 幾ばくかのやり取りの後、ナタリアは机の上に突っ伏して背中を震わせた。

 

「だって、だって、マテオがいうんです! お腹の子を降ろされたくなきゃ、いいなりになれって! それで、私怖くって。でも、抵抗したんです! うそ、嘘じゃないんです。けど、男が三人もいて、それで、脚を開かされて、手を抑えられてっ! しょうがないじゃないですかッ! お腹の子が死ぬなんて、嫌なんです。そしたら、みんなよってたかって、マワされて。でも、いうことを聞けば、あの人には黙っててやるって!」

 

「だから、通報できないんですか?」

 

「嫌なんですッ! マテオが捕まるってなれば、絶対あの人もわかっちゃう! せっかく結婚できたのに、それなのにっ! お金を払えば、黙っててくれるから」

 

 未婚時は兎も角、結婚後の不貞となれば離縁となっても仕方ない面がある。なにせ、世界は完全な男社会であり、女は半ば家の財産ともいえるのだ。財産が取られたとあっては、いかに女側に罪がなかろうと、家庭内に罅が入ったりすることは十分にありえる。

 

 さらに大きな問題は周辺に広く知れ渡ってしまう、という点にある。本人たちが如何に気にしないよう心掛けても、知人たちが白い眼で見てくるとなれば呑み下せない事実になることは間違いなかった。

 

「本当に、それだけなんですか?」

 

 聞いてから後悔した。言わなければよかったと心の底から思った。

 

 問われた側のナタリアは、泣きはらした顔をあげた。

 

「それは……」

 

「もしかして――」

 

「違う、ぜったいに違うのッ!」

 

 鋭い悲鳴があたりに響いた。裂帛の悲鳴である。ナタリアは身体を支えきれず地面へと崩れ落ちた。

 

 助け起こすべきなのだろう。しかし、身体は凍結したように動けなかった。

 

 血の気がひき、視界が歪んだ。

 

 アンヘルは唇を強く噛み締め、机を叩き壊さないよう抑えるので精一杯だった。幸せな家庭を作るはずだったふたりは、始まる前から壊れていたのだった。

 

 無論、ナタリアの言い分を信じたい心はあったが、どこまでが真実なのかわからない。だが、眦の涙を見ると己の勘が正しいのだと悟ってしまう。

 

「無理やり、ですか?」

 

「ちがう、ちがうったらちがう、ちがう、ちがうの」

 

 虚空を覗いているような声が尾を引いて流れた。じんわりと汗の滲んだ拳がいやに不快だった。

 

 彼女は夫がいる身でありながら他人にその身を捧げてしまった。この態度を見れば無理やりだったのだろうが、しかし、マテオのような男につけ入る隙を与えてしまったのは彼女である。

 

 いや、違った。間接的にだが、彼女をそんな不安定な状況に追い込んだのは、アンヘルとホセなのかもしれない。今更どうにかできるはずもないが、運命の巡り合わせが彼女を地獄へと誘った。

 

(本当にホセの子なら……)

 

 だが、そうでないなら本物の地獄だろう。その心労は察することもできない。胎に爆弾を抱えて生きているようなものである。

 

 このまま放置すれば、故郷に消えることのない後悔が刻まれる。しかし、もうどうしようもないところにまで来ていた。彼女の言い分を完全に信じ、マテオを始末することはできても、彼女を守ることはできないのだ。

 

 珍しくクナルも神妙な顔をしていた。興味はないだろうが、しかし、茶々を入れてくるほどでもない。彼の手の珈琲カップに波紋ができていた。

 

 アンヘルは呆然と立った。通りを抜ける鋭い風が身体の芯まで凍えさせた。

 

 もう帰すしかない。そう思い立ったとき、ナタリアが腹を抑えて呻きだした。

 

「う、ううぅ」

 

 アンヘルは急いで彼女を抱き起こした。倒れている格好が胎児に良くないと思ったからである。

 

 ナタリアはさらに痛がり始める。唸り声聞いていたクナルが、ぼそっと、

 

「陣痛が始まっているのではないか?」

 

 といった。破水がはじまる。店のオープンテラスは大騒ぎとなった。

 

 意識を朦朧とさせている彼女を荷台の上にのせて、街病院まで走ることになったのだった。

 

 

 

 



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凱旋編第三話:何が真実か

「ああ、あなたはナタリアさんを連れてきて下さった。どうぞどうぞ、可愛い男の子なんですよ~」

 

 受付に居た看護師はそう優し気な笑みを浮かべながら、二階の病室に案内した。角部屋の扉を開くと、出産を終えたナタリアが寝台に寝そべっており、その傍らの椅子にホセが控えていた。

 

「来てくれたか」

 

「うん」

 

 ホセは客を迎えて嬉しそうな顔をしていた。念願の息子である。慶事は皆で祝うというのが世の通例だ。

 

「お父様にも連絡しておいたから、手が空いたらすぐに来ると思います」

 

「……ありがとう、ございます。なにからなにまで」

 

「いえ」

 

 アンヘルはすこしばかり頭を下げた。沈痛な面持ちのナタリアを見るのは苦痛に過ぎたのである。極力目を合わせないように、花瓶が置かれた机に向かってホセだけを見るようにした。

 

「本当に助かったよ、さっすがはアンヘルだな」

 

「気にしないで」

 

 ポンポンと肩を叩いてくるホセに対してぎこちない笑みを返すことしかできず、促されるまま備え付けの木椅子に座った。

 

 窓の外に、燃えるような真っ赤な夕焼けが映しだされていた。アンヘルは無事出産を終えたナタリアの様子を見るため訪れたところである。

 

 もちろん、彼女の安否が気になったからでもあるが、それ以上に、この行末を見届ける義務が己にはあると思ったのである。測ったように遠征演習の時期に訪れた旧友たちの悲劇には、過去の清算のような運命的なものを感じていた。

 

 アンヘルはこれから、候補生として、そしてドミティオスの駒として、それがいかに連木で腹を切ることだとしてもあらゆる困難に立ち向かわねばならないのだろう。すでに賽は投げられたのだ。力を求め彷徨い、行き着いた先が権力と絶望の奴隷だというのは真に笑いごとだが、悲壮な覚悟は徐々に形勢されつつあった。

 

 可愛いだろう、とホセに誘われて渋々赤子の頬を撫でた。ゼリーのように柔らかで、そして活力に溢れていた。赤子はアンヘルの動きに合わせてきゃっきゃと喚いている。歯がないため、口を開くと赤い口腔が覗いた。

 

 なんとも無邪気な笑顔である。アンヘルは頬を撫でていた手を頭に持っていった。ツルツルした頭部に産毛のような柔らかい髪の毛が少しばかり生えていた。

 

(やっぱり、そうか)

 

 アンヘルが血の気の引いた顔で、そのまま手を下に持っていき赤子の指を確認した。小さい掌は暖かかった。

 

「ちょっと金髪なんだよな。俺たちの先祖に金髪なんか居ないと思うんだけど」

 

 とホセがいった。ナタリアの顔はさらに暗く陰っている。

 

 やはりそうなのだろう。喜劇である、そうとしか思えなかった。

 

 うすぼんやりと街路を照らしている魔導灯が、夕日の陰をより深くする。光があるからこそ、闇は際立つのだ。

 

 どうすればいい。いや、なにをすればいいのだ。そんな考えが浮かんでは消え、走馬灯のようにアンヘルの頭を駆け巡った。

 

 ナタリアは今にも泣き崩れて、すべてを告白してしまいそうだ。しかし、それを認めていいものか。世には罪を告白する方が正義だと騙られるが、実際のところ墓の下まで持っていった方がいいことも無数にあるのである。

 

「どうした?」

 

 無邪気な顔でホセが言ってきた。

 

 アンヘルはちらりとナタリアを見た。これはもう、何も言わなくてもいずれ壊れてしまうだろう。

 

 助けることは出来ない。けれども延命はできる。そう願うしかなかった。

 

「ホセ、聞いてほしい」

 

「なんだ」

 

 しんとした声が響いた。急に部屋の雰囲気がかわった。

 

「ホセはさ、テレゴニーって知ってる?」

 

「テレ……なんだって?」

 

「テレゴニ―、別名感応遺伝と呼ばれる説だよ」

 

 唐突な話題にホセたちは目をパチクリとさせていた。聞き覚えのないのも当然である。これは古代の識者が提唱した理論であり、貴族界隈では広く受け入れられている理論ではあるが、市民たちには馴染みのない話であった。

 

「ナタリアさん。あなたはホセと付き合う前に探索者の方と一夜を共にした、そう昔言っていましたね」

 

「え、いえ」

 

「なんだ、なにを言っているんだ?」

 

「金髪が不思議みたいだから」

 

 アンヘルが言っている探索者とは、つまりマテオの隠語である。直接マテオの名を告げてしまえば話がこじれる可能性もある。婚姻前の事なら、ホセも受け流せるだろうという配慮だった。

 

「隔世遺伝というのは知っているでしょうが、感応遺伝はあまり知られていません。ナタリアさん。ミスラス教のテーセウス神のことはご存じですか?」

 

「名前だけ、なら」

 

「テーセウス神は人と神の父親を持つ存在です。父親が二人、と思われたかもしれませんが、医学的に、女性は受け入れた男性だけでなく、過去の男性の影響を少しだけうけます。それは髪などといったところの影響を強く受けるのです」

 

 感応遺伝とは、未亡人や再婚した女性の子は先の夫の性質を持って産まれてくるという学説である。貴族たちが交際相手に処女性を求める根拠の一つとなっていた。

 

「ナタリアさんが気にしているみたいだから。確かに髪の色は違うかもしれないけど、本当に君たちの子なんだ。結婚前のことだから、許せるよね?」

 

「ああ。というか、そんなこと俺は」

 

「なら、ナタリアさんを慰めてあげて」

 

「あ、ああ」

 

 ホセはナタリアに向き合った。くぐもった涙声が流れてきた。

 

 まさに地獄のような光景である。アンヘルはそれを見届けることなく、病室から立ち去った。

 

「それで、実際にテレゴニーなどは存在するのか?」

 

 伏し目のアンヘルに声を掛けたのは、銀髪褐色の偉丈夫クナルであった。常日頃は理由なく共に行動する仲ではないのだが、彼の人間性の欠落具合からルトリシア派の幹部に誰かと行動を共にするよう義務付けられていた。

 

 それで指示を易々聞くような人物ではないのだが、今回に限っては事件に興味があったらしい。彼はその異常な聴力を使って、病室内の会話を聞いていたらしかった。

 

「テレゴニー自体は存在するらしいよ」

 

 ただし、この説が立証され始めたのは遺伝学が進歩した現代においてのみであり、また、その確からしさも疑問符が付いたままである。この世界でも信じられている事柄だが、実際に証明された例はない。

 

「なんだ、その曖昧な答え方は?」

 

「僕は、好きじゃない考え方だから」

 

「心底どうでもいい思考だな」

 

「それでも、処女性を求める根拠を捻りだすなんて気味が悪いよ」

 

 二人はそのまま待ち受けを出ると路地に出た。日は完全に沈み、世界は魔導灯の頼りない光が点々と灯る暗がりにかわった。街病院の近在は飲食店があまりなく、陽が沈むとかなり静けさに包まれていた。

 

「それで結局、テレゴニーとやらの可能性はどのくらいだ?」

 

 と、クナルが聞いた。煙に巻くような言葉では騙せないということなのだろう。アンヘルは目蓋を閉じると、嫌悪感に包まれた。

 

「わからない、けど」

 

「けど、なんだ?」

 

「可能性は、限りなく低い、と思う」

 

 眠っていたホセとナタリアの子供。彼は産まれたばかりだったが、指が綺麗に揃っていた。対照的に、ホセの右手小指は極端に短く薬指の第一関節くらいしかない。

 

 遺伝性短指症、というものがある。そして、これはかなりの確立で親から子に遺伝するものであった。もちろん、生まれてすぐ判別できるほど明確な差があるかはアンへルも知らなかったが、ここまで証拠が定まってしまっては、もはやホセの息子であると信じることはできないだろう。

 

 強い後悔の念が胸を襲った。今ならば、正直に告白すればお互いを許し合えるかもしれない。男女の恋の炎は三年までが限界であると決まっている。愛のある今なら過去のことだと笑い飛ばせるのかもしれない。

 

 子供が大人になってしまえば、自分たちの子供じゃないとホセが気づいてしまうかもしれない。そうなっては、もはや取り返しのつかないことになる。降りかかるのは、何の罪もない新生児なのかもしれなかった。

 

 しかし、何度この場面に遭遇しても同じ選択をするだろうな、という予感があった。臭い物に蓋をすることしかしてこなかった価値観は、いつになっても変わらない。

 

「行くのか?」

 

 苦みを覚えた表情のクナルが、静かに聞いた。

 

「……」

 

「我らが介入するべきではないと思うがな」

 

「……」

 

「やはり、貴様は愚かだ」

 

 クナルはそういうと、アンヘルに背を向けて去っていった。

 

 ひやりとする寒々しい風が落ち葉を巻き上げた。ぶわっと、視界を陰と枯れ草色に染め上げた。漆黒の建物が灯りに照らされて、克明に浮かび上がっていた。

 

 アンヘルはクナルの去った方向を見送った後、ひとり柄を握りしめた。その瞳は、血のように真っ赤に染まっていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「おまえは、もう帰ってこねえのか?」

 

「たぶん、ね」

 

 ホセは、最後の挨拶に訪れたアンヘルへ、そう声を掛けた。弱々しげな口調が協調されて、より頼りなくみえた。ほとんど降ろされたその目蓋が、瞳の弱さを覆い隠すようになっていた。

 

「そうか」

 

 と、ホセはいった。これ以上話せば、いろんな言葉が出てきてしまいそうだったのである。無理やり泣き出すのを堪えながら、袋を取りだした。

 

「コレァ、ウチの弁当よ。持っていけや」

 

「ありがとう」

 

 アンヘルは袋を掴むと、踵を翻して歩いていった。

 その背中が、どんどん小さくなっていく。

 

 それでもホセは、一言ももらさなかった。

 

「いいのか?」

 

 隣に立ったリンヘルが尋ねてきた。ホセは無言で首を縦に振った。

 

 惜別の言葉はない。

 

 これが今生の別れだとどちらもが知っていた。

 

 それでも、何かを交わせば、別れにケチがつくと思っていたから。

 

 ――おれたちゃ男よ。涙も喜びも、歩く道には、必要ねえんだ。

 

 幼馴染は、かつて憧れた道を進んでいく。道は分かたれた。街で平凡に暮らす自分と命をなげうって戦う旧友に。

 

 明日生きているかもわからない、そんな世界へ行く男に掛ける言葉などありはしなかった。心に残ったのは、一つかみの寂しさくらいである。

 

 緑のシルエットはやがて、街角で折れると雑踏に消えていった。

 

「おれたちゃ仕事よ、さっさと行くぜ」

 

「よっしゃ、今日は飲むぜぇ」

 

「てめえはいっつも飲んでるだろうが」

 

 ホセたちもそういうと、店の中にきえていった。

 

 彼の顔には、なんの感情も残ってはいなかった。

 

 

 




 登場人物紹介

〇アンヘル 主人公

〇クナル 同僚その一

〇ホセ 同郷

〇ナタリア 過去の想い人


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第一話:遠征演習は説教のあとで

 どことなく闇の密度が濃い夜であった。深く落葉樹の葉が積もった林を、一人の男が草臥れたように歩いている。夜空から、あえかなる月光が渓谷に染みこむように立っていた。

 

 男にはあたりを警戒する冷たさの奥に僅かの安堵があった。背には獣の死骸がある。開襟の制服には似合わぬ野良作業も、男の燃えるような赤い髪がどこか際立った所作に変えた。

 

 歳は十八。連れはいない。

 

 腰には立派な差料が伺える。鞘中の刀身は隙間もないほど血脂で溢れていた。油断ない周囲への警戒心も合わせてその腕前が常人とは遥かにちがっていることの証明である。

 

 名はホアン・ロペス。

 

 士官学校七〇小隊隊長にして、遠征演習第一中隊における斥候役に任ぜられた男である。ただ、現在この村には中隊はいない。彼は遅延する行軍円滑化のため、使番としてロヴィニ村の代官へ派遣されていた。今は中隊到着までの時間潰しとして、近在の獣退治に繰り出している。

 

(今日は、こんなもんだろう)

 

 用意した籠に入れておけば、村衆が勝手に革と肉に変えるだろう。ホアンは気乗りしない顔つきで、ゆっくりと宿へ向かった。

 

 足取りは重い。解放されたしがらみを再び巻きつけねばならないからだ。

 

 ホアンがロヴィニ村の使番――体のいい雑用――の仕事を受けたのは、なにも偶然ではない。志願者がいなかったのもあるが、多少の我儘が許される立ち位置を確保していることでもあるのだ。

 

 元友人アンヘルが大神祇官ドミティオスと内々の縁を持ったのと同じく、彼もまた、この二年のうちに飛躍を遂げることになった。

 

 きっかけは、一年次選抜試験である。当時まだ平民派として名の知られていなかったシュタール家次男エルンスト特科生に剣の腕前を褒められたのだ。当時のホアンの成績は下の上あたりを彷徨っていたが、剣の腕なら悪くなかった。

 

 ただ、どこか誇るようなところがあったから、普通は気に入られにくい。しかし、若武者エルンストはそれを才気とみた。ホアン自身も学内で横行する身分差別には辟易としていたから、高潔な志にはつよく共感した。

 

 さらに時代は加速する。

 

 帝国はいま、建国以来空前の大混乱に見舞われている。バアル教団の皇居爆破事件、オスカル教官殺害から端を発した事件、「救国」主義者たち。新勢力として平民派を名乗るホアンは、時代の潮流に乗っているといえるだろう。

 

 隊内ではそこそこの発言力。その権力を行使して、同じ中隊のアンヘルと一緒に故郷を踏むのを避けた形である。

 

 だが、こうして一人でいると虚しさが迫った。どこか遠いところへ来てしまったような、空虚な感情が。

 

 ホアンはそっと息を吐いた。

 

 ――またこれだ。一人だと不安になってしまう。

 

 駆け抜けてきた過去そのものを懐古した。その目が酷く冷たい。氷河のような眼差しである。それこそが、男が辿った足跡そのものであった。

 

(やめよう。疲れるだけだ)

 

 嫌気が差すような己の思考を頭を振って掻き消した。

 

 すると、ガサガサっと腰のあたりに違和感がある。いやな予感がして、制服を脱いでからばっと広げた。

 

 上着の脇に、鋭い爪痕が残っている。先ほどの獣退治で引っかけたのか。その痕は大きすぎて、男のなまくら針仕事では直せそうにない。

 

「やっちまったよ」

 

 深いため息を吐きながら、肩をガックリと落とした。制服は士官候補生の象徴である。ロヴィニ村には気の利いた仕立て屋なんてないから、修繕はむずかしい。見てくれは悪いが、なんとか縫い合わせるしかないだろう。

 

 沈鬱なのは、部下たちの手前狼なんぞに備品を破損したなどといいづらい点である。気の強い士官候補生をまとめるには、隙を一部たりとも見せられない。唯一の救いは、傷は負っていないことだろう。あくまでも損害は制服の上着だけだ。

 

 だが、手があるわけでもないし、ホアンは項垂れたまま帰途についた。

 

「どうしましたか。そんなに暗い顔をして?」

 

 その声にふと顔を上げた。

 

 村はずれの小さな小屋の入り口に、一人の女が手を口元に当てて笑っていた。

 

 歳のころは、ホアンより幾ばくか下の十五、六。風に流れる優しい麦畑のような髪色をしていて、大きな瞳には紫水晶のような蠱惑な色気がある。村人、それも低階級らしいつぎはぎだらけの麻服を纏ってはいるが、そこに貞淑さのようなものが淡そかに香った。

 

 ホアンは照れくさいところを見られたと、とっさに制服を背後に隠した。

 

「いや、べつになんでも」

 

「隠しても意味ありませんよ。後ろのそれ、見えましたから」

 

 女はバツ悪げにしているホアンを、さらに揶揄った。

 

「軍人さんも、意外にお間抜けさんですね」

 

「……」

 

 狭い村だから、余所者が来たというのはあっという間に広まる。彼女は、ホアンの身分を知っているような口振りだった。

 

 女はあっという間にホアンの後ろへ回ると、さっさと制服を取り上げた。

 

「おい、なにをする!」

 

「そんなていじゃ、お家に帰れないでしょう」

 

 女はさっさと家の中に入ると、中の机の上に制服を広げ、針仕事用の道具箱を開けた。

 

 反応もできずボケっとしていた。それを見た女は「寒いから早く閉めてください」といった。いわゆる驚愕法というやつだ。ちょっとばかり判断能力を失ったホアンは言われるまま扉を閉め、指さされた椅子に座った。

 

 部屋の中は、若い女の匂いが漂っている。花のような、それでいて生物だとわかる、そんな匂い。それが己の汗と混じって、なんとも言えない匂いが思考を満たした。

 

「こんなことをしてもらう謂れは」

 

「一期一会というでしょう。好意は受け取っておくべきかと?」

 

 女はこてんと首を傾げながら、幼児を諭すような声でいった。

 

「だが」

 

「ふう。煮え切りませんね。男ならハッキリとしてください」

 

 強引なやつだ。とホアンは心中で思いながらも、甘えることにした。彼の腕前では大して出来栄えは良くならないし、この時期に上着なしは辛い。そんなふうに言い訳して、彼女の隣で座してまった。

 

 チクチクと針仕事を眺め続けた。おもしろかったわけではない。女に慣れていないわけでもない。男の甲斐性として遊郭で女と遊んだことはほどほどにある。ただ、眺めていると、彼女の怜悧な横顔が誰かに被るのである。それは昔ぶち壊した強引で優しい誰かを思い出すような気がした。

 

 そうやって少しばかりぼうっとしていると、知らず時間が経っていた。

 

「あの」

 

「……」

 

「聞いてますか?」

 

「え、ええっ、ああ、聞いてるよ」

 

「本当ですか?」

 

 女は頬を膨らませながら詰るような目をしている。「完成です」とでき上がった制服を渡してきた。

 

「こんな夜に招いたからとはいえ、すぐ体を開くような女だと思われちゃ困ります」

 

 見惚れていたのを責めるためか声が拗ねている。ホアンは身を振り乱して、

 

「ちがう、ちがう」

 

 と弁解した。

 

「冗談ですよ。わかってます。でも、あんまりジロジロ見るのは失礼ですから」

 

 女自身も惹きつける容姿をしているのはわかっているのか、寂しそうにわらった。

 

 なんとか相槌を打って、その後、修繕された制服を広げた。素人仕事だが、遠目には破れていることすらわからない見事な出来栄えである。

 

 ホアンは礼をしながら、女に見送られて小屋の外まで出た。

 

「助かったよ」

 

「いえいえ、村の願いを聞いてくださっている軍人さまに、ちょっとばかりのお返しです」

 

「厚意には礼を返すものだ。そうだ、少ないがこれを」

 

 といって、懐の銭袋を取り出した。が、女は首を振って拒絶した。

 

「私には無為なものですから」

 

 小さい村では物々交換が主流なところもある。金を貰ってもしょうがないのかと合点し、他に候補を出したが、女は首を縦に振らなかった。

 

「夜も遅いですから、もうお帰りになってください」

 

「なら」

 

 ホアンは勇気を奮い立たせた。

 

「明日、もう一度来るよ」

 

 バクバクと心臓を高鳴らせながら、反応をまつ。女は、一度目を丸くしてから破顔した。

 

「なにがおかしい」

 

「いえいえ、そういうタイプには見えなかったので」

 

 ホアンは憮然としたが、話を続けた。

 

「俺は、そんな礼知らずじゃない」

 

「そんな怖い顔だと、こっちがお礼を強請られそうです」

 

「うぐっ」

 

 ホアンの顔が一瞬で赤くなった。女の顔に揶揄いの色が濃い。

 

「わかりました、わかりました。明日ですね。昼は仕事なので夕暮れどきにおねがいします」

 

「ああ」

 

 それを最後に背中を押された。もう寝る、という意思表示だろう。

 

 ホアンは扉を閉めようとしている女を少しだけ呼び止めて、

 

「最後に、君の名前は」

 

 と、尋ねた。

 

「ふふ」

 

 女は、口元を手で隠して嫋やかに微笑んだ。

 

「マリサ、と申します。軍人さま」

 

 

 

 § § §

 

 

 

「アル」

 

 鈴の音のような綺麗な呼び声を聞いた気がした。目も眩む神々しい後光が、遠くの人影に差している。それがチカチカと電飾のように明滅していた。

 

 目を凝らした。輪郭がぼやけて、引き締まって。ふわふわと浮遊するような雲の上で、右手だけを伸ばして少しづつ歩み寄っていく。距離は縮まらない。いや、たぶん間にあるのは距離ではないのだ。超えてはならないそんな間。それでも、その声の懐かしさに惹かれてアンヘルは腕を伸ばした。

 

「いけない子ですねぇ、アルは」

 

 ずっとその幻影を追いかけていると、なにかがぎゅうっと固まったようにして、一個の人を模った。髪は青く、小さく幼げな顔つきの中に嵌る切り立った目は、心の奥底に封じた記憶を蘇らせた。鋭い蒼穹の瞳が今は優し気に見ている。

 

 イズナは手を伸ばしたアンヘルにそっと抱き着くと、頬を寄せながら耳元で目を閉じる。くすくす、と束ねられたツインテールの髪が鼻をくすぐる。爽やかで、蒼天を想起させるような爽快な香りが胸を満たした。

 

 彼女の背をぎゅっと寄せると、身体の柔らかな部分が全身に絡みついた。細くて、壊れそうだ。そんな身体を離さぬように力一杯抱きしめた。離してしまうと、彼女を失ってしまうと思ったから。

 

「いたい、痛いですよう。アル」

 

 背中を叩いてくるイズナを無視した。しつこいほど彼女を抱きしめる。

 

 今はもう消えてしまったマカレナすら否定してしまう、そんなことすら思えてきた。

 

「もう、困った子ですねえ」

 

 イズナは、ダメな子供を見守る聖母の眼差しでみた。アンヘルはそんな心地のよい言葉をずうっと聞き続けていた。

 

「ご主人様は激しいのが好み?」

 

 豹変した女の声が、アンヘルを氷像へと変えた。

 

 抱きしめていた女が髪を掻きあげると、グラデーションをみるように、鮮やかな金色へと移り変わってゆく。女がそのままアンヘルの耳を噛むと痛みが体中を駆けた。鼻腔を熟れた果実のような重々しい香気が通り抜け、頭の中をけばけばしいもので占領した。

 

 女は背中に置いた指先を滑らせて、肩、鎖骨、胸部までをつつっと伝わせ、最後、愛おし人への行為のようにアンヘルの胸を、とん、と押す。力が抜けたアンヘルにはなんの抵抗もできずに押し倒された。

 

 膝立ちになった女は、己の白と黒の衣裳に手をかけて、胸元の白い部分を開け広げるとあっさり男の上に身を乗り出す。そのままアンヘルの胸に手をおいて、赤い舌をのぞかせる。白い指が円を描くようにして胸と腹を行き来すると、その感触を噛み締めるように目を閉じて感じ入っていた。

 

 女は片膝をあげると己の下着を掴んで少しずらし、アンヘルのベルトに手を伸ばすと、そのままずり下げて固くなった股の筋肉の上に腰をおろした。相手の熱を交換するようにして胸に両手をつけると、長い金髪を男の真横へ滝のように垂らし視線を交錯させた。

 

「嬉しいわ。こんなにも、ご主人様を感じるもの」

 

 気づくと世界が走っている。駆け巡るようにして、いつかの郊外の小屋の中になっていた。家の隙間から入ってくる低い光が女の厳かな白い肉の起伏を影にして、壁に映し出した。

 

 ――やめろ。

 

 女が膝立ちとなってゆっくり腰を動かすと、光悦に染まった表情をした。舌で己の唇を撫でて世界が揺籃となっているのを楽しんでいる。馬乗りの女が蕩けた声を上げるたび、身体中を甘い痺れが走った。女があまりの激しさに両手を顔の横についてくると、長い睫毛が映じられた。

 

 女は我を忘れたように動いている。脈が加速したように、どくんどくんと彼女の嫋やかな胸を上下させている。決して友情や愛ではない。熱っぽさはあれど、ただただ陰鬱な雰囲気ですらあう。見つめ合う瞳は魂を探り合っているかのようで、汗ばんだ肌から流れてくる栗粒大の汗が女の腕を伝って頬に落ちた。

 

「ああ、ああ、いいわ。ご主人様、お上手ね」

 

 ――やめてくれ。

 

「生きているって感じるでしょう」

 

 女は片手で己の髪を弄ぶと、厚みの程よい唇を開いて純白の八重歯を光らせた。美しい顔の下についている白の喉が蠕動し、怜悧な顔立ちが徐々に迫ってくる。それが焦点も合わなくなるほど大きくなると、口許に柔らかい感触が広がった。

 

「やめろッ!」

 

 ようやく身体が再起動させて、乗りかかっていた女を突き飛ばした。

 

「御言葉ね。なら、どうしたいの」

 

 突き飛ばされた女は、しなやかな身体を傾かせた。右手を地面へつけた女の子座りとなりながら、健気に見つめる。そうすると、アンヘルは再び自由をもがれ、地面へ両肘をついて相手を見た。

 

「ご主人様は悩んでばかりね」

 

 そろりと、女は這うようにしてにじり寄ってきた。薄くて白い双丘が地面に向かって垂れている。

 

「いつもそう。だから、皆死んでゆく」

 

 胸の両脇からなだらかに流れ落ちる女の腕が伸び、アンヘルの頬を優しくなでた。しっとりと誘うように。

 

「教えてくださる。ご主人様はなにと戦うのかしら」

 

 女がアンヘルの股の間に頭をさげると、中心が再び暖かいもので包まれた。そこで、世界は暗転した。

 

 

 

 

 

「――っ!」

 

 アンヘルは、あまりの悪夢に銃声を聞いた猪のように身を飛び起こした。目に写ったのは、野営用の天幕である。夢か、と胸を撫で下ろしながら肩で息をする。腕で汗を拭ったが、無限に滲んできた。

 

「どうしたよ」

 

 椅子に座っていた男が声を掛けてきた。彼は、アンヘルと同部屋のベップ・$ーー$・である。すらりとしたスタイルに制服の上着の袖を腰に巻きつけている。洒脱な彼らしい着崩しだが、見る人には肌寒さを覚えさせるスタイルでもあった。

 

 他の人間はほとんど眠っている。彼は酔わなければ意外に早起きだから――というよりアンヘルが寝坊助――先に朝を堪能していたのだろう。

 

「なんか悪い夢でも見たのか?」

 

 といいながら、コップに水を入れて持ってきてくれた。受け取って、飲み干す。

 

「……」

 

「だんまりか。アルバほどじゃねえが、アンヘルも大概不思議ちゃんだよな」

 

 すでに空は白んでいる。暁の爽やかな薄明りが西日となって差し込んでくるが、やけに尖りついたように感じられた。アンヘルはたまらず目の上を腕で覆った。

 

「そんな様じゃもう寝られねぇだろ。さっさと顔を洗ってこい」

 

 ベップの言にしたがって、のっそりと立ちあがると川の水で顔を洗った。水の一滴一滴は冷え込んでおり、手に突き刺さるようであった。外に干しておいた制服を取り込むと、着替えを済ませて戻る。

 

 これからはいつもの遠征演習だ。そう思ったが、戻った天幕では驚くべき光景が広がっていた。

 

「あなたは――」

 

 戸惑ったようにいったアンヘルに対して、男はむっつり黙り込んでいた。金髪をオールバックにして、神経質そうな顔立ちに目元のほくろが大人の色気を思わせる、ヴィエント家の筆頭護衛ハーヴィーであった。

 

 こんな朝っぱらから何の用だ。そう思っていると、一言ぶっきらぼうに「付いて来い」といった。

 

 助けを求めるようベップを見た。彼は苦笑いで首を振る。ドナドナ。養豚場の豚の如く、アンヘルは連れ出されていった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 士官学校において低学年一、二回生の間、春夏に一回、秋冬に一回の頻度で各々の能力を見定める総合演習が行われる。一回生では教官主導の迷宮内訓練や科内模擬戦で、二回生夏には迷宮探索演習が執り行われた。

 

 そして、二回生二期目の演習内容は、特科生を中心とした中隊規模の遠征演習と伝統的に決まっていた。

 

 歴史は古く妨害魔道具が世に出る前から記録が残っている。当時では、指揮能力こそが雌雄を決する最大要因であるとして、もっとも過酷な訓練として知られていたが、昨今の技術革新や超武芸者の登場から時代は徐々に妨害魔道具仕様を前提とした小隊単位(士官学校における分類ではなく、軍隊における規模を差す)分隊単位の内容が濃くなり、遠征演習が形骸化していった。

 

 そんな遠征演習第一中隊の目標は、スカリウ街道を南下、セグーラの街で南西に針をとったあと帝国南西端のプルトゥ渓谷近くのロヴィニ村まで辿り着くことである。

 

 ここで遠征演習第一中隊の陣容を記しておく。部隊の編成は、

 

 特待生科ユースタス・リンゼイ・アル・リエガーを中心とした隊。

 七小隊アルベルト

 一五小隊セルヒオ

 六一小隊ホアキナ

 

 特待生科ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエントを中心とした隊。

 三小隊ラファエル

 八小隊フェルミン

 十九小隊マニュエル

 

 特待生科エルンスト・オーゲル・シュタールを中心とした隊。

 三四小隊オウル

 七〇小隊ホアン

 八八小隊アンドレス

 

 に何処にも所属していない小隊、

 七八エルサ班

 三〇クナル班

 九六ホルディ班

 

 を加えた総勢八十九名である。

 

 中隊の陣容を見れば一目瞭然であるが、所属のないエルサたち三班を除けば、真にエリートぞろいの集団である。部隊順が若いほど一回生の間に勁烈な結果を残したということだから、ラファエル班やフェルミン班を従えるルトリシアらはすでに強力な陣営を築いているといえる。

 

 旅程は片道おおよそ二十日。遠征演習期間を目一杯に使った内容だが、教官がひとりしか居らず、お偉方の御子息さまを評定しようなどと熱意に溢れた人物でもないとなれば、ピクニックの様相を呈したことは、疑問に難くないだろう。

 

 ただ、本年の例外として、基本近郊で執り行われる遠征が突如として長距離に変化したことをエセキエルが小隊会議で指摘した。そのあたりを補足したのは、以外にもエルサである。

 

「聞くところによりますと、上からの指示があったそうです。恐らくですが、私たちの総隊長を務めるリエガー様への忖度があったのではないでしょうか」

 

 最近は中々上科にも馴染んできて、過熱化する派閥抗争から外れられればすいすい魑魅魍魎のエリート集団の中を泳いでいるらしい。

 

 ともかく、彼女の言によれば、旧ペンシル現オリアナ州は遊楽地として名を馳せており、ユースタスへの配慮だろうということらしい。小隊隊長であるルトリシアはユースタスの婚約者――正確にはユースタスの方が婚約者候補――であるからして、唯一諫められる存在というのも中々考えられた配剤である。ただ、一抹の不安として、大神祇官の試練が隠されている感覚を覚えながら今に至っていた。

 

 そんな事情で、遠征演習第一中隊はカラマツの落ち葉の雨がちかちかと陽を弾きながら振る立冬の時期に、セグーラの街を抜けて最終目標であるロヴィニ村に向かっているのである。

 

 アンヘルは村まであと数日というところで、中隊の首脳部の一人、因縁のヴィエント家次期当主ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエントに呼び出されていた。

 

 眼前で悠然と微笑んでいるのは、貴人ルトリシアである。翡翠と讃えられた緑髪が煌々と陽射しを反射させている。少女の冷え冷えした肉感が大人の美に変わり、神々しかった高雅な美貌をさらに讃えていた。

 

 そんな彼女をボケッと見つめながら、護衛騎士の軍靴の遠ざかってゆく音を聞いていた。規則正しい歩行ではあるがどこか苛立たし気に思える。天幕の外に音が消えると、よくある密会の幕が上がった。

 

(拒否権なんかはないけど)

 

 ルトリシアはこの朝っぱらだというのに、候補生の制服である木賊色の開襟を纏っていた。腰の佩刀がやけに似合っている。軍家の名門らしい出立ちであった。

 

 彼女は立ち尽くすアンヘルに背を向けると、持参した箱から由緒正しき名工の茶具を並べはじめた。

 

「さて、呼ばれた理由はわかっておいでで? 悪党(バラガキ)のアンヘルさま」

 

「も、申し訳、ありま――」

 

「誰が発言を許しましたか?」

 

 冷たい声だけが返ってきた。玉響の間だけ口を尖らせると、アンヘルはすぐに頭を下げた。

 

「結構」

 

 しばらくの間、魔導伝熱器によって湯を沸かす音が響いてきた。ちょっとした静寂。頭を下げていたアンヘルの前方から、クスクスと笑い声が聞こえてきた。

 

 チラリと上目遣いで伺うと、口元を片手で隠しながら上品に微笑んでいる。ちかちかと翡翠の髪が光を反射している。

 

「冗談、冗談ですよ。頭を上げてくださいな。アンヘルさまは中々染まりませんね」

 

 おそらく上げた顔は憮然としているだろう。なんとか平静を装おうとしたが、感情が昂って仕方なかった。

 

「お戯れは――」

 

「あら、私に指図しようというのでしょうか」

 

 コロコロと表情が変わる。再び頭を下げると、相手は満足したように鈴のような音で笑い声を上げた。

 

 二人の仲は、我儘お嬢様とその使用人という関係が構築されていた。これはつい最近の話で、向こう側が度々アンヘル側にアプローチをかけてきているのである。

 

 話は数ヶ月前に遡る。

 

 魔剣騒動を解決した後、アンヘルは一時期茫然自失となった。というのも、テリュスの依代化に際して、あらゆる物事を信じることができなくなったのである。

 

 ――あれれ、私って今なにしてたんでしたっけ?

 

 目を覚ました彼女の第一声がそれである。彼女の思いを踏み躙ってしまった罪悪感だけが、ぐるぐると渦を巻いて降りかかると、その場でただ黙り込んでしまった。

 

 それ以来理由をつけては講師業の休業を要請し、遂にはやめてしまった。さすがにあれ程の悪行を成しておきながら、のうのうと仕事に行けるほど面の皮は厚くなかった。

 

 と、そんな理由で退職したアンヘルだったが、借金という事情もあり手に職を付けねばならなかった。が、そこで性格「めんどくさがりや」を発揮すると、レイモンド並みの高速思考によって超紐理論が構築された。

 

 選択したのは「綺麗なお嬢様に養ってもらおう」である。

 

 馬鹿丸出しだが、今考えると鬱気味だったのだろう。富に不自由しない婦女子が出入りする集まりに参加し、個人的な親交を深めるため、取り敢えず特技を活かして絵画倶楽部に入会した。

 

 一級上の先輩子女に釣られてではあるが、平民には珍しい素養も相まって可愛がられた。が、一週間もすると事情が変わってしまった。

 

 新しくルトリシアが入会してきたのである。

 

 彼女はすでに学内で目立った人材の募集を終え、あとは一般の掘り出し物探しに精を出していたのだ。とはいえ、講義の少ない特科はそれでも暇になったのであろう。趣味が絵画というのもあり、偶々鉢合わせしてしまった。

 

 ――あら、アンヘルさまではありませんか。

 

 ――そんなに遠慮なさらないでくださいな。ああ、一緒に描いてみましょうか?

 

 ――中々お上手ですね。しかもタッチは大胆で意外性があります。実はオレ様系統なんでしょうか。

 

 所詮下位貴族や豪商の集まりであった絵画倶楽部でヴィエントの名は大き過ぎた。学芸会で本物の女優が出張ってくるようなものである。萎縮した部員たちは、こぞってアンヘルに世話を押し付けるようになった。

 

 しかも、どこからかドミティオスに目をつけられた逸材ということを聞きつけたらしい。なんとか横取りできないかと、相手がセールスをかけてくるのである。

 

 結果、アンヘルは探索者時代のような意味のない目立ち方をするに至っていた。

 

「さて、では冷めぬうちに」

 

 そういって、ティーカップを一つ差し出してくる。アンヘルは恭しく両手で受けとり、震える手でゆっくりと嚥下した。

 

(味がしない)

 

 いつものことである。彼女と一対一になると、恐怖と堪えようのない劣情が脳内を占領して、姦しく叫び立てるのだ。

 

 色合いと香り、それから相手の嗜好で判断を下す。

 

「独特なスモーキーフレーバーにこの渋み。ロウグロウティーですね。色合いから考えて――バイオール州産のルフナ、でしょうか」

 

「はずれ、といったらどうします」

 

「自信があります」

 

 無論、アンヘルには闘茶など出来ようもないが、事前に好みや流行を調査しているから色だけでも大体判別可能なのである。

 

 一方、あっさり答えを言われた側は口惜しそうにパクパク口を開閉させると、可愛らしく頬を膨らませてみせた。外したら罰ゲームを遣らせるつもりだろ、とは口が裂けてもいってはいけない。

 

「知恵はつけたようですね」

 

「何度も痛い目を見ていますから」

 

「あら、なんて生意気な。次回は絶対判別不能なものを持ってきましょう」

 

「……」

 

「そしたら今度は月例大会に出場させましょうかね」

 

「そ、それは」

 

「楽しみにしておきましょうか」

 

 ちなみにだが、ヴィエント家の週例大会には何度も参戦させられている。これは中々ない待遇で、アンヘル以外に複数回参戦したのは幹部候補筆頭のラファエルぐらいである。しかも、その彼にもダブルスコアで出場回数を上回っているのだから、大したものだろう。

 

 そんな理由もあり、アンヘルは方々から多大な嫉妬の火種タイムセールを始めているのである。

 

 因みにだが、騎士スキピオとは数度対戦しており、鉄芯の入った木刀で殴り殺されかけたことから、割と洒落になっていない。

 

 ルトリシアは言い終えると、うっとりした表情で紅茶を口に含んだ。白い喉がゆっくりと動く。胸がすっと膨らんで萎んだ。

 

「そういえば、すでに給茶の意は説明しましたか」

 

「はい。はじめてお目にかかった際に」

 

「そうでしたかね――今一度説明しますと、給茶、つまり貴族の子女がお茶を淹れるのは、古来の男尊女卑社会の名残であると言われています。まあジェンダー平等主義者は毛嫌いしているようですが。PCが求められる昨今、愛好を公言しづらい世の中になりました」

 

「はあ」

 

「興味がなさそうですね」

 

「そういうわけでは」

 

「顔に書いてありますよ。どうでもいい、と」

 

「そのようなつもりは――」

 

「ないと言い切れますか?」

 

「う、いえ」

 

「顔に出やすいのは、アンヘルさまの欠点ですね」

 

 ちょっとばかり本気の説教が入って、頭を下げた。

 

「結局なんの話でしたかね。そう、行為にはすべてに意味があるということを伝えたいのです。わかりやすい例なら、ヴァレンタインがそうですね」

 

 こういうタイプの女性から出ると思わなくて、咄嗟に本音が出そうになった。

 

「商工会の戦略だと思っていますね。間違いではありませんが、あれも貴族慣習から生まれたもので昔は情人節と呼ばれておりました。他にも、配膳、着付けなど、行為の一つ一つで示唆するのが、貴族としての実力といえるでしょう」

 

「で、ありますか」

 

「ありますか、ではないのですよ。わかっていないようなのでもっと直接的にいいますが、ルフナを温めで出せば苦味が引き立ち、相手に目を覚まさせる意図が含まれています。他にも、二人きりでお酌するのは――」

 

 そこまでいって、ルトリシアは頬を少し紅潮させてから、ぶんぶんと首を振った。言わなくていいことを言いかけたらしい。

 

「兎も角、言いたいことは分かりましたね」

 

「給茶は、昔からある作法ということでしょうか?」

 

「馬鹿にしていませんか?」

 

 ピキッと青筋が浮いている。爆発一歩手前ガールに慄いて思考を巡らすが、脳内プログラムは迷宮入りして作動しない。

 

「申し訳、ありません」

 

 取って付けたような謝罪は、相手を失望させただけで終わった。

 

 ルトリシアは、はあと頬に手を遣りながら答えを教えてくれる。

 

「セグーラの街の件です。調べはついているので無関係を装っても無意味ですよ。こちらで手を回して起きましたので、罪状が振りかかることはないでしょう」

 

 一瞬、笑顔が般若に見えた。砕けた言い方だったが、内心御嶽山だったのだろう。

 

「……」

 

「白状しないのは評価点としておきます――お仕置きとして仕事をいいつけますから、しっかりお馬鹿小隊長を見張っておくように」

 

 ルトリシアがパンパンと手を打った。すぐに騎士ハーヴィーが出てくると、すぐさま腕を掴んで部屋から引きずりだす。

 

 地獄の演習は説教から開幕したのだった。

 

 

 



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第二話:獣狩り

まったく推敲していないので、明日サイレント修正を掛けます。
申し訳ありません。


 オリアナ州セグーラの街領主スピラ男爵の調べによると、ロヴィニ村は以下のように記されていた。

 

 人口、六百。

 産業、漁業、茶。

 

 取り立てて名産がある地ではないが、渓谷から流れる湖で淡水魚がよく取れ、また立地問題から徴兵されないとなれば、争いの火種なく平和な農村地帯であった。

 

 衛星都市セグーラから数日の距離で、湖漁と桑畑が収入源となっており、立地に反して代官が配置されているのが特徴だろう。

 

 早朝説教から数日後。ようやく目的地であるロヴィニ村に到着したアンヘルたちは、下っ端らしく物資の運搬や片付け作業に精を出していた。

 

 馬車に積んであった木箱を村衆指定の場所に降ろしてから、ふうと額の汗を拭う。ちなみにだが、妙に物資が多いのは遠征演習にかこつけて、小遣い稼ぎに候補生が行商人の真似事をしているからであったりする。学校側も市井を知るためといって黙認している形だった。

 

「しっかし、派手だねぇ」

 

 同じく物資運搬に勤しんでいるベップが、呆れ混じりにぼやいた。

 

「何が?」

 

「あれよ、アレ」

 

「ああ、なるほど」

 

 指を差された方を見る。そこはやけに艶やかな女たちが集う宿で、ユースタス派閥の人間が愉快そうに屯しているのが遠目からでもはっきり見える。主人は到着早々向かったから、すでにしけこんでいることは間違いないだろう。

 

「この村も妙っちゃ妙だけどな。妙に娼婦は多いし、家は新築ばっかだし」

 

「だね。超がつく辺境なのに」

 

「なんか産業でもあったか? ま、こっちに火の粉がかかりにくいから文句はねえが」

 

「言えてる――」

 

 ユースタスの奔放ぷりは常軌を逸していた。これが街の住人に降りかかるとすれば心苦しいが、アンヘルたちにも手はない。彼は商売女には手をあげない所があったから、問題はないだろうと祈るしかなかった。

 

 まあ、所詮関係のないことである。むしろ、下っ端に働かせて休んでいる連中のほうが腹立たしいぐらいだ。ただ、その表情を勘違いしたのか横にいた人間が口を挟んできた。

 

「アンヘル君もそう思うか。あの男、自分を御大臣かなにかだと勘違いしていまいか? 我らの血税があのような蛮行に浪費されていると思うと、腸が煮えくりかえりそうになる」

 

 冷え切った声で云ったのは、エルンスト派の特科候補生であるフェルナンド・パストール・ナバーロである。彼は忌々し気にユースタスらが淫行に耽っている宿を見つめていた。

 

 この「~君」「~先生」という言葉遣いは、平民派の志士の間で流行っていた。エルンスト派はそこの急先鋒だから、こういう論客めいた言葉のはやりに聡い。

 

「おっしゃる通りかと」

 

「ああ、そうであろう。君はまさにオスカル教官のような士だ」

 

 アンヘルたちは曖昧な顔で話を打ち切ると、用を足すといって逃げ出した。もちろんアンヘルにも貴族排斥運動は悪い話ではないが、現実問題、平民派と見られて利益になることなど一つもない。零細でも貴族のベップなら尚更である。ただ、中隊の陣営を考えたとき、どこかに(つて)を持っておくことはプラスになるだろうと判断しているだけだった。

 

 唐突な冷や水に空気が変わってしまう。横に立つベップもだるそうである。社交性の割に巷で跋扈する思想のようなものを毛嫌いしている傾向を、アンヘルはこの二年の間に把握していた。

 

「しっかし、物騒になっちまったな」

 

 ベップは歳のわりに高めの声でぼやくようにいった。

 

「ロウウィート事件からは一触即発だからね」

 

 ロウウィート事件は、帝国中央地域において、軍内改革論者たちがオスカル教官復讐のために聖カトー騎士団団長幹部数人を誅戮した事件である。オスゼリアス士官学校教官であった彼の死は大きな波紋を呼び、時を同じくして起きたこの事件を呼び水にして、革命論は帝国全土に広まりつつある。帝国は佐皇派(皇帝派)と門閥派(元老院派)、そして平民派の三方に分断されていた。

 

 当然、アンヘルの通う士官学校は思想の影響をもろに受けるから、当初の異世界然とした和やかな雰囲気はサッパリ消え、どこか殺伐とした空気を纏うようになった。

 

「あーあ、なんでこんなになっちまったかねぇ。そっちの班もたしか平民派じゃないよな?」

 

「そうだけど……そっちは?」

 

「あの班長殿がそんなの気にするとでも?」

 

「そりゃそっか」

 

 クナルが細事を気にするとは思えない。二人は同時に吹き出すと、大きく笑いはじめた。

 

 小隊結成から半年。他班は勿論、悲劇の探索演習を終えた七八小隊は息の合った集団へと姿を変えていた。ベップやアンヘルのような根無草は珍しい。ただ、それを心の底から良く思ってはいないからなのか、笑い声がしぼんでゆく。

 

 その遠まわしな自虐をベップも察したのか、最後には白けた。

 

「にしても」

 

 と、こちらの肩に腕を回してきた。誤魔化すためなのだろうが、嫌な笑顔である。

 

「お前、ヴィエントさまに気に入られてるよな。ホント、どんな手管使ったんだよ」

 

「もう、やめてよ」

 

「おいおい、ちょっとくらいいいだろ」

 

「勘弁してって。結構洒落になってないんだから」

 

「なんだ、機嫌でも悪かったのか?」

 

「多分、ね」

 

 セグーラの街出発から数日。叱るだけなら、出発当日や前夜でいいだろう。あのタイミングで呼び出されたということは何かしらの意味があった筈である。どうせ憂さ晴らしだろうとは予想できたが。

 

「ま、事情は知ってるんだけどよ」

 

「えっ?」

 

 予想外の言葉に今度はアンヘルが疑問符を浮かべる番だった。

 

「ヴィエント様の婚約者候補がリエガー様だってのは知ってんだろ?」

 

「有名な話だから」

 

「『候補』って言葉を除きたいのか、夜這ったらしい」

 

「うぇっ」

 

 声を低くしていったベップの目を、アンヘルは何度も見返した。きょろきょろとまわりを伺いながら、さらに声を潜めた。

 

「本気でいってるの?」

 

「マジさ。ラファエルの奴がいってたぜ。態度には出さないが、姫様はカンカンだとよ」

 

 アンヘルはすこしばかり邪な想像をしながら、

 

「もしかして、成功した?」

 

 と、きいた。いわば、バタイユの名言にちかい感情である。

 

「まさか。ヴィエント家の護衛は半端ねえ実力者ぞろいだぞ。伝手でもなきゃ忍べるもんか」

 

 ハーヴィーを筆頭に、軍の名門であるヴィエント家の護衛たちは生半可な実力ではない。主人を守るためなら、命すら惜しまない真の忠臣が揃っている。魔法力は兎も角、所詮お飾りの剣術しか習得していない貴族連中には守りを抜けるはずもなかった。

 

「色狂いもそこまで行けば英雄だね」

 

「ちげえねえ」

 

 ベップはからからと大きく笑った。

 

 ルトリシアは五大貴族家ヴィエント家の長子だから、リエガー家次男のユースタスと較べれば、彼女のほうが格上になる。オスキュラス家の特殊な家事情を鑑みれば、士官学校内でもっとも格が上なのは彼女だから、ユースタスが忍ぶのは御法度といえる。

 

「上層部は対立の真っ最中ってことか」

 

「政治的立ち位置だけじゃなく、個人的感情も入ってる。こりゃ拗れるぞ」

 

「の、割には平気そうだね?」

 

「俺も貴族の端くれだぜ。性事情なんて知りたくなくても知ってらぁ」

 

 古代ローマ並みに開放的な性生活を送る貴族事情に詳しいベップは、不服そうな顔をした。とはいっても、感応遺伝のような話が当たり前に広がっているから、婚前交渉には厳しい目が当てられるのだが。

 

 さらにベップは帝国人風の大仰な仕草で肩を竦めてみせると、大きく息を吐いた。

 

「困ったモンだぜ。どいつもこいつもピリピリしてやがる」

 

「下にもそんな影響ある?」

 

「ばっか言えよ。そっちだけじゃなく、シュタール御坊ちゃまの気迫ったらあらしねえよ。三頭政治みたいに上手くやってくれねえかね」

 

「全員が険悪だから……」

 

「というか、問題は閣下さまにあるがねぇ」

 

 二重敬称という皮肉を使いながら論うベップに、アンヘルはなんとも受け取り難い笑みを浮かべた。彼は保守派で、現行の平民派を快く思っていないが、それ以上に中隊総隊長のユースタスを嫌っていた。というか、好意を抱くほうがレアだが。

 

 場がしんみりして話題が無くなる。そうなると、より暗い方向に話が流れた。

 

「あとは、オウル分隊長かぁ。しんどいなぁ」

 

「アンヘルは注意しねぇとマジで目の敵にされるぜ」

 

 ふたりは自然と周囲の風景に視線を移した。エルンスト派の隊列であった。目立つ位置で、颯爽とした金髪を後ろに流し、横を刈り上げた馬上の男の姿が目に入った。

 

「ガチでやべえからな。あんまり接触がなかったが過激派って世評は間違いない――それに、むこうは門閥派の東方流に喧嘩を売りまくっているからなぁ」

 

「あの話(ルトリシアとの密会)、言いふらさないでね」

 

「何時もなら揶揄ってやりたいんだが、本当に殺されそうな勢いだからな。やらねぇよ」

 

 ベップは黙り込むと、再び前を向いた。アンヘルにとってもオウルというのは中々受け入れ難い名前である。というのも、彼とは中々穏やかならぬ初対面だったからであった。

 

 

 

 

 

 オウル分隊長というのは、最近になって頭角をあらわし始めた平民派討院論者の一人である。アンヘルも最近までは名前すら聞いたことがなかったのだが、過熱化するオスカルの遺志を継ぐ勇士として、すでに実権を得つつあるらしい。

 

 アンヘルが彼を認識したのは、士官系東方流一門の懇親会であった。というのも、ロウウィート事件以降、元老院の報復人事で帝国東部は大きく揺れ動いており、同志勧誘の為に科や年度を跨いだ派閥形成に各勢力が心血を注いでいるという背景があり、この懇親会もその一つ、というわけであった。

 

 いわば、学閥意識に近いかもしれない。流儀の血というのは、ときには肉親の情を凌駕することもある。それを利用した方法は、なかなか賢いだろう。

 

 この頃、アンヘルはドミティオスの事件から時間も経っておらず、どこか信ずるものを失ったような虚無感を覚えていた。そのため、なにか縋るものを求めて集会に参加したのである。

 

 商業区の下町、保証人がロウリー商会の会館で行われた四半刻ほど宴会の後、突如として空気がピリッと変わった。

 

「私が、三都東方流フランシスコ・マルティンである。諸君らも、この話を心魂もって聞いていただきたい」

 

 窓に暗幕がかけられ、暗がりの集会所の壇上で三都東方流門人たちが崇める党首の演説がはじまった。須弥壇の右手に士官学校派閥幹部らが並び、みな緊張した面持ちで座っている。

 

 アンヘルは末席。その斜め前にオウルがいたのである。彼はすでに三都東方流に身をやつしていて、今日はじめて参加した人間とは扱いがちがっていた。

 

「この話はわれわれ一身のことである。われわれがなんのため、どんなことのために碧血をながすのかということだ。諸君はいずれも剽勇敢死の士であり、肝脳塗地となろうとも厭わぬであろう。此度の元老院の行いを正さねば、後の世でぬぐうべからざる汚名を被ることになるであろうぞ」

 

 演説している男は、帝国人らしい色白のうえに、目鼻だちがさわやかであった。そのうえ、学に長けているらしく眼がするどい。士官学校平民派を主導する男らしく、自信に溢れ、いかにも不敵にみえる。なるほど、一度見ただけでわかる、傑物、のような人物であった。

 

「われわれは、いつの世も虐げられてきた。軍人とは上意下達こそが尊ばれるというが、しかしなるほど、我らの忠誠の対象はつねに市民であり、国家であったはずであり、断じて帝国を蝕む国賊元老院の手先ではない。――そこでだ」

 

 フランシスコは、一座を見渡した。

 

 みな、かたずをのんで見守っている。いや、中にはアンヘルのようにびっくりして言葉を失った者も居るだろうが、結果は同じである。演説で一同を静まり返らせるとは、途轍もない華がある男であった。

 

「同士オウル。前へ」

 

 そこで、深く座していたオウルが鷹揚に立ち上がり、党首フランシスコの横にまで歩いた。

 

 党首は彼を讃えながら、

 

「同士オウルは、危険を承知ながら怨敵と接触をはかり、穏やかならぬ情報を入手した。なんと、元老院は帝都西方軍ならびにパンテオローン州北方戦線の人事にメスを入れようとしているらしい。かような蛮行が、許されてなるものか」

 

 といった。大仰だが、たしかに中々重要度の高い情報である。ただ、候補生の分際で大した諜報活動は不可能だから、どこかで又聞きした、もしくは侍女から寝物語で聞いたのだろうとは思ったのだが。

 

 ともかくこれは、加入を希望している同流たちに成果を示せば幹部待遇として迎え入れるという意思表示に見えたのだが、その次に、穏やかならぬことをいい始めた。

 

「そこでわれわれは、偉大なるオスカル教官の遺志を継ぎ、西方軍との連携を密にしてゆくつもりである。つまり、我らの真の目的とは、活動をもってして、討院の先駆けたらんとするところにある」

 

(うそっ)

 

 と、アンヘルは息をのんで周囲を見渡した。驚いた顔をしているのはおよそ半数。それ以外は、皆当然だろうという顔をしていて、中には信仰のようなものを芽生えさせ陶酔している者もいた。

 

 倒院、というのはこの頃にはやり始めた考えで、元老院打破を目論んだいわば体制転覆を志すことをさす。つまり、フランシスはなんらかの活動をもってして、現政権を倒そうと目論んでいるらしい。

 

 アンヘルは、この場で急激に恐ろしくなった。彼自身も貴族によい思いを持っていないが、この日はあくまでも東方流および派生した三都東方流道場出身者の懇親会程度だと思っていたのである。

 

「諸君らもすぐには行動できぬであろうから、共感したものは党員として雑多な活動をしてもらうことになる。われらの手で泰平を取り戻すため、力を貸してほしい」

 

 冷静に考えれば、内情は一切明かしていないから、その実行力には疑問符がつく。とはいえ、彼の語り口は堂々としたもので、一座は昂奮と呑まれた人間だけになった。

 

 しばらくすると、賛同者と戸惑った反応を残した者にくっきりと別れた。アンヘルは後者である。彼は批判的な人間だが、根っこは保守的で、革命論のようなものを好いてはいなかった。

 

 誰かの後に続いて去ろう――そんな風に決意したところで、再び、オウルが動いた。

 

「待ちたまえ」

 

 オウルが声を掛けたのは、アンヘルが続いていた人物であった。二回生上科の第十八小隊を率いる人物で、名はレヴィナといった。

 

 その彼が振り返る間も無く、オウルは冷え冷えとした声でこう続けた。

 

「レヴィナ君。君は、東方流の血を継ぐ身でありながら、逆賊(貴族ならびに従事者をさす)と密通したという嫌疑がかかっている。わたしは志士として、君の惰弱なる精神を叩き直さねばならない」

 

 後に知ったことだが、レヴィナは少し前から元老院系貴族の派閥に属していたらしい。東方一刀流の門弟は、大抵が平民の出だから、貴族に仕える人間を裏切り者と蔑む風潮が強まりつつあった。

 

「ならばどうする」

 

「小隊演習で決着をつけようではないか。むろん、公開で」

 

「貴様っ!」

 

 小隊演習とは、三回生から武官系小隊に課せられえる六体六のチーム戦である。一、二回生の間は基礎能力練成ということで、個人能力(武芸、学問)および演習達成能力が主に見られるが、三回生からは小隊演習の総当たり戦で成績を決めることになっている。

 

 それを使って、オウルは合法的――候補生がなんの名分もなく刃傷沙汰を起こせば、一発で退校処分や軍法会議行きだ――に叩きのめそうというのだ。

 

 レヴィナはぎりぎりと歯軋りしながら、相手を睨みつけた。

 

「わかっているのか。私との格の差を」

 

「私の剣は、いついかなる時も無明の闇を切り開く」

 

 実は、十七小隊と三〇小隊の差は中々大きい。隊長の格に合わせて小隊員が割り振られるため、オウルとレヴィナの差が小さくても、他で開いてしまうのだ。その上、レヴィナ小隊自体が実戦向きで、迷宮探索演習第七位の記録をもっていた。

 

 それを知っていながら、オウルは薄く笑うだけであった。

 

 かくして始まった公開小隊演習。レヴィナ有利と見られた勝負は、拮抗の暇なく、オウル三〇小隊の勝利で幕を閉じた。

 

 オウルはこの一件以来、己の実力を隠すのをやめた。最近の平民派の勢いはつよく、それを後押しする穏健派の影響もあり、士官学校のパワーバランスが崩壊、彼のような野心家が跋扈するようになった。

 

 さらに彼の飛躍は続く。

 

 アンヘルの印象ではあくまでも優秀な上科生程度だったが、このような口上――言い掛かりに近いものも多数あった――で多方に喧嘩を売りまくり、そのことごとくに勝利して、上位陣を一気に飲み込んでしまった。さらにそれは続き、彼の意に沿わない人間すら教育と称して叩きのめすようになった。

 

 上位陣は思想に興味がないリカルドと召喚師ラファエロだから、二回生小隊戦最強の名は、名実ともに彼を示す言葉になったのである(クナルが強いことは知られているが、他の小隊員は無名で、クナルの直接の実力を見たものは少ないから、小隊戦では実力が疑問視されている)。

 

 これもオウルのパフォーマンスなのか、圧倒的かつ優雅に相手小隊を翻弄する彼は、平民派でも有名となり、二回生の中では高い地位を得つつあったのだった。

 

 

 

 

 

 そうやってひそひそ声で隊の実情を二人で話し合っていると、ベップがまわりを見渡していった。

 

「そういや隊長殿はどこかね?」

 

「また獣でも狩ってるじゃないの? 見た目以外は猿みたいなもんでしょ」

 

「ほう、魚類の分際で吠えるではないか」

 

 ぶっきらぼうに云い切ったアンヘルの背後に、男が立っていた。銀髪褐色に目鼻立ちの整った偉丈夫クナルである。ひえ、とベップが混雑に消えていった。

 

「僕が言ったのはサルスベリムシの事だよ」

 

「減らず口だな」

 

 クナルは嘲笑を口の端に浮かべると、悠々とした動きで去っていった。肩にリスの手足を縛ったものを担いでいる。彼は基本的に中隊の食糧を食べようとせず、常に独自調達をしていた。

 

 それから半刻。ようやく荷下ろしが完了する。さて休むか、とアンヘルは腰を降ろそうとしたが、そんなとき、代官館から出てきたベップから新たな指示が降ってくる。所詮は下っ端休みなし。ブラック企業のお決まり3Kを思い浮かべながら、指示に従った。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 時を同じくして、代官館。遠征演習第一中隊副隊長にして、役立たずのユースタスの代わりとして実質の総隊長を担うルトリシアは、来訪挨拶として代官館に訪れていた。

 

 代官の名はルイス・ベガ。魔導具工学で名を残したベガ家の二世で、当代の彼は街で行政系の業務に就いた経験を持つ。

 

 見た目は四十をすぎたばかりの中年であった。くすんだ黄色混じりの茶髪で、整えられた顎髭がある。上背はあるが、それよりも横に張りでた腹が印象的であり、分厚い唇が商人のような弁達者にみせた。

 

 このような、典型的官僚である。

 

 悪い人物ではない。むしろ田舎者特有の恐れ知らずな性格をしていないから、ルトリシアのような殿上人に不敬を働かない知恵も持ち合わせていた。

 

 ただ、こちらを見るにどこかぎらついた目をしていて、セグーラの町で聞いた印象とは違ったのが少しだけ脳裏を掠めた。

 

 ロヴィニ村中央の代官屋敷の一室。必要事項の伝達を済ませたあと、ルトリシアは窓の外を指さした。

 

「あの異様な建造物はなんでしょうか?」

 

「あれは――流れの異教徒が建てた建造物です。ここは旧カルタゴ領と近いため、時折流れの教徒が住み着くのです。一応ミスラス教も信仰しているようなので、村人の好きなようにさせておりますが」

 

 ルイス代官は答えながらも、言外に許しを乞うような目をした。それに対し無感情に、

 

「結構」

 

 とだけいった。いつもの対応である。

 

 さすがは代官。貴種の対応には慣れているのか、さくさくと話は進行していった。すでに使番が出ているらしいので、相手方も大して驚いた様子はなかった。

 

 その後も雑談を続けた後、去り際に尋ねた。

 

「それで、なにか願い事があるとのことですが?」

 

「恥ずかしながら先月まで盗賊騒ぎがありまして。獣の間引きが済んでいないです」

 

 盗賊騒ぎ、というのは近在であった大事件のことである。これはルトリシアも驚いた話なのだが、セグーラの街の情報曰く、盗賊集団にバアル教団教徒が発見されたらしかった。

 

 バアル教団は、古くある論理使い信仰の宗派で、カルタゴ教国時代における時世の中心であった召喚師こそが世を率いるに相応しいと唱えている。ミスラス教のような節操のない宗教よりもある種真っ当だが、このバアル教団に限っては、全世界で邪教認定を受ける超危険思想団体であった。

 

 この教団は、召喚師に冠を載せるためならありとあらゆる手段が許容されると教義に記されている。また、徹底した身分主義で統制されている帝国を敵視しており、まったくの折衝案がなかった。昨年の皇居爆破事件に関与しているらしいというから相当だろう。

 

 そんな事情も手伝い村衆が警備隊に駆り出され、夏に行われる筈だった間引きが終了していないらしいのである。

 

 ルトリシアは少しの間考え込んだ。受けてやる意味はないが、かといって配下を動かすぐらいは大した労力ではない、と天秤を傾けた。

 

「請け負いましょう」

 

「ありがたき幸せ」

 

 ルイス代官は低姿勢で礼を述べる。ルトリシアは悠々と人差し指で己の頬を打ちながら、ついでに呼び出しておいた候補生のベップを見つめた。

 

「構いませんね」

 

「お任せを」

 

 彼は貴族ということもあってか、ルトリシア派から折衝事を頼まれやすく、クナル、エルサ班の交渉役を務める機会が多かった。

 

 他には、彼女の護衛としてハーヴィを筆頭とした護衛集団が控えている。彼らには、ユースタスの蛮行もあって数を減らすことはできなかった。

 

「では、よろしくお願いします――ああ、早目に終わらせるように」

 

 上位者の物言いだったが、それに文句をつけるものは誰もいなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「あんたらが士官かいな」

 

 開口一番、不機嫌そうな声を聴いて、アンヘルは集団最後尾で疲れたように息を吐きだしていた。面倒だなというのが本音である。

 

 新たな任務である獣狩りのまとめ役。猟師タラマンは極めて特徴のない中年だった。彼は連れてこられた候補生を見て失望を露わにすると、しわがれた声で無造作に歓迎を口にした。

 

「なにか文句でも?」

 

 とは、まとめ役であるベップも聞いたりはしない。軍人に性差や年齢があまり関係ないことを知らない地方民は、候補生の姿を見て侮ることもある。いちいち噛みついていては気苦労が増えるだけだった。

 

「あんたらの事情は聞いた。夜になったら遣りづれえ。さっさと取り掛かろうや」

 

「ああ、そうさな」

 

 中年はベップの話に渋々頷くと、後方に控えた若者衆を紹介し始めた。ベップは慣れた動きでこちら側の人員を紹介すると、二隊を混ぜこぜにしてから、二名づつ選出し、村案内を加えた三名でチームを作ることになった。

 

 アンヘルチームは、同部屋のアルバ、そして猟師見習いのミゲルとなった。片方は存じの仲だし、常に無言だから気苦労もない。やりやすい仕事だろうと高を括っていたのだが、それを打ち砕いたのは森案内役のほうだった。

 

「ふん、あんたらのそのナマっ白い腕で、狼退治なんて出来やしねえぜッ」

 

 アンヘルの第一印象は、

 

 ――若い。

 

 である。やはり猟師は自然を相手にしているから、どうにも攻撃的な性格を形成しやすいのだろう。

 

 野良で鍛えられた腕は太く、対照的に涼し気な目だちをしている。この地方はプルトゥ渓谷の影響で日陰ができやすいから、土地柄焼けてない村人が多い。

 

 ミゲルは候補生たちをまるで親の仇のように血走った眼で睨みつけながら、ぺっと地面に唾を吐いた。興奮しきっているのか、鼻腔は大きく膨らんでいる。

 

「おい、やめんかっ!」

 

「こんないけ好かねえ野郎どもに頼るこたぁねえ。オヤジだってそう思ってんだろォ」

 

「コラッ! はは、すみませんな。躾がなっていませんで、まったく」

 

 まとめ役は、ミゲルの頭をどつきながら苦笑いを浮かべた。表情には失望を浮かべても、言にする愚かさを知っている彼は大人なのだろう。ただ、そんな反応を苦々しく思ったのか、ミゲルは舌打ち一つすると集まりから離れた。

 

「なんだなんだ、面倒だな」

 

「やめなさい。これもヴィエント様から申し付けられた仕事よ」

 

「そーやで、お仕事や」

 

「あのぉ皆さん、聞こえますから」

 

 三者三様の愚痴を言う面々を、班長であるエルサが諫めた。

 

 不穏当な雰囲気となった集団だが、仕事は仕事と切り替えたベップは順調に班決めを終えると、最後にアンヘルの肩をたたいた。

 

「あの馬鹿、頼むわ」

 

「いいけど――そっちこそ大変じゃないの?」

 

「やっぱ実力は確かだからよ」

 

 ベップの相方はクナルである。人格を除けば最高のパートナーだから、彼の顔に不満は見えなかった。

 

「こっちだ」

 

 ぶっきらぼうにいったミゲルの案内にしたがって、アンヘルたちは森の中に入っていった。

 

 森は柘榴の樹ばかりだから閑散としていて、かつ足元に纏わりつく枯葉がアンヘルの行く手を阻んだ。とはいっても、散々迷宮探索で鍛えられた足である。山師のように悠々とは行かなくとも、案内人についていった。

 

 皆無言だった。それぞれに距離がある。アンヘルは、アルバが悠々とけもの道を行くのを後ろから眺めた。

 

(やっぱり、そう見える)

 

 と、思ったのは最近のことである。アルバの姿を見るたび不思議な思いに駆られることがあったのだが、ふとベップが、

 

 ――なんかあいつ、女っぽいな。

 

 といったことで、それまでの疑問がすとんと胸に落ちた。今までは十五六ということもあり誤魔化されていたのだが、この年になると流石に美少年では騙せない領域まで来ている。ターバンから覗く双眸が、やけに色気があるのだ。

 

 とはいえ聞いたりはしない。なんらかの事情があってのことだろうし、言葉を飾らずにいえば、アンヘルにとってどうでもいいことだった。だから、ひん剥いて確認することもなかった。

 

「ついたぜ、この辺りだ」

 

 半刻程度北進したあたりで、ミゲルはそういった。先島蘇芳木(サキシマスオウノキ)が一本あるが、根が大きく地上に出張っているせいか、周囲に草一本生えていない。代わりに小さな沼があった。

 

「ここは?」

 

 アンヘルが辺りを見渡しながら、いった。アルバも怪訝そうに周囲を見渡している。仕事は森の奥部での狩りだから、こんな狼とは無縁の場所に案内されてもどうしようもない。

 

「……おい」

 

「なに?」

 

 アンヘルはアルバが指差した方向を見た。ミゲルが革の上着を脱ぎ捨て、麻の服を腕まくりしている。苔むした大きな岩の横に立ち、その大岩を手で叩きながら口の端を釣り上げた。

 

「どういうつもりですか?」

 

「どうも、こうもあるめえよ」

 

 ミゲルは両こぶしを顔の前に掲げ、ファイティングポーズを取った。臨戦態勢である。

 

「おらァな、あんたらみてえな偉ぶった野郎が大っきれえなのよ。あんたらと来たら、よそから来たくせに、ダンビラ腰にぶら下げて風をきりやがる。うざってったらあらしねえ」

 

「だから、叩きのめそうってことですか?」

 

 アンへルは声を低くして、いった。

 

「おうよ。別に大したこっちゃねえ。俺が仕事を終えるまで、ここで伸びてもらうだけさ。そっちの嬢ちゃんは特別に勘弁してやらあ」

 

 彼は士官学校制服の横袖に、男子なら黒、女子なら白の二重線が入ることを知らないから、勘違いしたのだろう。最近のアルバは身長の低さもあって、先入観がなければ女子にしか見えない。

 

「……」

 

 アルバは無言だった。興味もないのだろう。彼女は肆科、そして、魔導院出身である。だというのに、この二回生になっても剣が凄腕だとしか知られていないのだから、相当な凄腕であることは間違いない。アンヘルは、彼女のことを金剛流伝位のベップ以上の腕前だと睨んでいた。

 

(面倒だな)

 

 アンヘルは心中で彼に罵詈雑言を浴びせながら、それでも丁寧に対応することにした。

 

 相手を叩きのめすのは簡単だが、その後案内してもらう必要性を考えれば、その選択肢は取りたくない。かといって殴られるのも癪だったから、近くの棒を拾って彼に投げ渡した。

 

「なんだ?」

 

「得物です。殴り合いは望みませんし、男なら剣で勝負しませんか?」

 

「ふん。ビビってるのか?」

 

「森で猟師とやり合おうとは思いません。ただし、勝負が着けば、道案内を再開してください」

 

 剣比べなら、相手の剣を打ち落としてしまえば勝負がつくと思っているし、相手を気絶させる必要もない。さっさと終わらせたくて、木の棒を構えた。

 

「アルバ、合図お願い」

 

「……」

 

 少しだけ嫌そうな顔を浮かべたが、反論するほうが手間だと思ったのか、鞘ごと刀を振り上げ地面を強かに打った。

 

「いくぜっ」

 

 ミゲルは獣のように激しく咆哮すると、前傾姿勢で駆け出してきた。

 

 三尺近くある木の棒を正眼に構えたアンヘルは、教本通りの動きで横に流れると、彼の籠手を打った。

 

 ぱしん、と乾いた音がなった。

 

 流れるような動きには、そこいらの村衆には出せない練達さと鋭さがあった。ミゲルは鋭い痛みに喘いで、木の棒を落とした。

 

「僕の勝ちです。いいですね」

 

「ふ、ふざけんな」

 

 ミゲルの思考は、敗北の屈辱よりも、トリックに掛けられたような不可解さだけが残っていた。その取り口があまりに鮮やか過ぎたのだろう。

 

 所詮落ちていた木の棒が与える痛みなど後に引くことはなく、ミゲルは再び立ち上がった。

 

 考えが甘かった。圧倒的な力の差を見せつけたつもりだったが、素人には技の掛け合いなど興味を持たない。逆に殴り合いでそこそこ打ち合いを演じたほうが話は早かっただろう。

 

 ――締め落とすか。

 

 最後の手段である。最悪仕事ができなくてもなんとかなるだろうという心算もあり、アンヘルが走り出そうとした。

 

 そのときである。狼の吠え声がしたのは。

 

「……準備」

 

 か細い声でアルバが声をかけながら、腰から見慣れぬ片刃刀を取り出した。ミゲルが顔を青ざめさせている。

 

「マ、マジぃぞ。この数はッ!」

 

 狼の声は連鎖するように大きくなった。

 

 アンヘルは風切り音の鳴る剣を腰から引き抜くと、油断なく周囲を睥睨した。

 

 

 



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第三話:巫女の舞

 しゃらん、と遠くに鈴の音を聞いた気がした。木の根方に落ちた葉が、樹々の間を強く吹き抜けた風に沿って舞った。それは渦を巻いて空高く舞い上がると、ちかちかと陽を弾きながら降りそそいだ。

 

 乾いた落ち葉のくれぐれとした匂いが、纏わりつくようにしてあたりに漂う。その中を影が疾風のように駆けた。

 

 落ち葉を踏みしめる音さえなく迫る影。襲い掛かってきた狼には反応する隙さえ与えない。天高く掲げられた片刃刀が、その小柄な肉体とともに空を飛んだ。

 

 ――風と踊っているようだ。

 

 巫女の舞。アンヘルは、腰をぬかしたミゲルを引きずりながら、アルバの圧倒的な動きを見つめていた。

 

 アルバは宙を舞って、回転するように剣を薙いだ。真横に線でも引くような、軽やかな動きである。鈍く輝く刃は、飛び出してきた狼の毛皮を、まるでバターでも裂くようにして引き裂いた。

 

 一つ、二つ、三つ。

 

 鮮やかな銀線を描いてから、着地する。

 

 駆け出した。足に羽根でもついたような軽やかさで、垂直に木を駆けた。

 

 狼たちは追いすがる。群れの長とみられたひと回り大きい狼が、取り囲むように指示をだすも、それを嘲笑うように空を飛んで長の口腔にその切っ先を突き立てた。

 

 続けざまに胴を蹴って跳び上がると、着地ざまに再び三体ばかりを死に体へ変えた。

 

 きゃうん、と狼が悲し気に泣いた。十はいた仲間たちが一瞬のうちにやられたのである。神がかりてきな早業であった。

 

 アルバは怯えて後ずさる狼にゆっくりと近づくと、脳天に剣を振り下ろした。

 

「終わった」

 

 刀の血脂を半月のように地面に飛ばしたアルバの姿には、言葉がなかった。

 

「な、な、な、なんだァよ、こいつは」

 

 さらに蒼白となったミゲルは、直視できないのか目を反らすと震えだした。

 

(これは、すごい)

 

 アンヘルも心中で感嘆していた。

 

 あまりに人間離れしすぎているのだ。武芸とは、強化術という力をもってしても合理の先にある。たとえば武芸者の一歩は遥か遠くまで及ぶから、間合いという概念は常人よりも広い。

 

 が、いってしまえばただそれだけなのである。このようなアルバの動きは人外を想起させる。それにミゲルは本能的に気が付いたのだろう。

 

「……帰る」

 

 アルバは周囲の態度を気に掛けることなく反故紙で刀身を拭った。すぐに歩きだす。アンヘルは慌てて駆けだし、止めた。

 

「ちょ、ちょっと待って。帰り道、分かっているの?」

 

「……む」

 

 憮然とした顔つきでアルバは振り向くと、腕をだらんとしたまま立ち尽くした。頬が微妙に紅潮している。

 

 これまでの道はミゲルがけもの道を縫うようにして来たから、両者ともにどうやって村まで帰ればいいかわからない。

 

(もしかして、天然なのか)

 

 失礼なことを考えながら再びミゲルに近づくと、しゃがみ込んだ。

 

「ミゲルさん」

 

「な、なんだ」

 

 じっとしゃがみ込んで相手の目を見つめていると、目を逸らしていたミゲルは落ち着きを取り戻していった。アンヘルの優男の風やトボけたような眼差しはこういう所で役に立つ。

 

「立てますか」

 

「お、おう」

 

 手を引いてやると、ミゲルはゆっくり立ち上がった。

 

「もう勝負は構いませんね。ちなみになんですが、狼はこれくらいで十分ですか?」

 

「あ、ああ。だが、後始末をしなけりゃならん」

 

 血の匂いを嗅ぎつけた同族を呼び寄せる可能性もあるうえ、熊などより強大な野生生物が肉の味を覚えて村に降りてくる可能性もある。腕の良い猟師ほど親方から厳しく指導されていることを、今までの経験から知っていた。

 

「なあ、そっちの嬢ちゃんは何者だよ」

 

 ミゲルはよたよたと狼の死体に近寄りながら、上着と共においていた鉈を取り出して毛皮を剥ぎはじめた。

 

「アルバは男ですよ」

 

「んぁ? 冗談だろ」

 

「まあ、それはともかく。仕事も終わったのでアルバを帰そうと思うのですが」

 

 まだ震えているミゲルに助け船を出してやる。予想どおり提案に飛びついてきた。

 

「か、構わねえよ」

 

「道はどちらですか?」

 

「右下のけもの道を通っていけば小川に辿り着くから、そこを下れば湖だ」

 

 アンヘルはひとつ頷くと、離れたところで無感情にこちらを伺っていたアルバに道を教えた。集団行動を好まない性格どおり、ひょいひょいと軽やかに森を下っていった。

 

「ふう。なんだ、あのバケモンは?」

 

「特別だと思いますよ、アルバは」

 

「そうかよ」

 

 ぶっきらぼうにミゲルはいった。どこか悔しそうである。よく見れば、唇を噛んでいた。士官に対してどこか恨みを持ったような態度に伺えた。

 

 軍人というのは、軍国主義を貫く帝国内では大きな権威や地位を持つから、それを妬んでとげとげしい視線を向けるものは多い。実際に横柄な態度の軍人も多いから責めるわけにもいかなかった。

 

 ふたりはそのまま毛皮を剥がした後、死体を地面に埋めて村に戻った。

 

 行きは曲がりくねった道を行ったのだが、帰りは一直線で四半刻もかからなかった。湖が見えて森が開けると、村の風車がすぐに見えた。

 

 レンガ造りの湖街が広がった。美しく異国情緒溢れる風景である。旧カルサゴ教国の文化が少しばかり流れてきているのがありありとわかった。

 

 ただ、国教としてミスラス教を信仰しているせいか、どこかちぐはぐな印象だ。しかも、道中の開拓村とは発展度が違っていて、新しい煉瓦造りの建物が幾つも並んでいた。

 

「あの教会は何信仰ですか?」

 

 アンヘルは街の中心部から少し離れた教会を指差した。見慣れぬ形の教会で、普通なら使われているはずのステンドグラスがなく、屋根の上の鐘もない。石造りの建築が一般的だが、木造で、段になるように作られているから、どこか東風の印象を受ける。

 

 ミスラス教はミックス教だから、名が知られていない一柱の場合、見慣れない教会になったりする。その程度の雑談としてアンヘルは聞いた。

 

「あぁ? ハンバニルさまだよ」

 

「えっと、ハンば――さま? 不勉強で申し訳ないのですが」

 

「俺に聞くな。最近宗派が変わったとかで建て替えたんだよ」

 

「そうなんですか」

 

 ハンバニルという神の名は、知識にはなかった。恐らくだが、先祖信仰の派生だろうという結論をたてた。帝国は「父祖の遺風」なんて文化が色濃く残っているから、先祖を祀るのは珍しくない。

 

 そんなことを話していると、ミゲルは立ち止まってバツの悪そうな顔をした。

 

「悪かったな」

 

「何がですか?」

 

「突っかかっちまってよ」

 

 ミゲルは気恥ずかしそうに、頬を掻きながらいった。

 

「構いません。こういうのは慣れていますから」

 

「いや、だがよ」

 

「こういうのはよくあることです。勿論、殴りかかられては困りますが」

 

「兄ちゃんは人ができてんな」

 

「……僕も、同じ穴のムジナですよ」

 

 アンヘルは俯くしかなった。ミゲルはそんな感傷を気に留めず、毛皮を纏めた袋の紐を重そうに担ぎなおした。

 

「少し聞いても?」

 

「ああ? なんだ」

 

「軍と何かあるんですか」

 

 ミゲルは一瞬キョトンとした。

 

「軍に恨みはねえのさ。いや、最近来たお前らの使番にはイラついたが、本当にムカついてんのは代官の野郎だよ」

 

「代官、ですか?」

 

「いや、こんな話は恥ずかしいんだが」

 

 アンヘルはポカンとして話の続きを促した。

 

「あの野郎、最初の頃は大人しくしていやがったが、この頃は気味の悪い教会を建てたり、色々好き勝手やってやがる。その上、最近は渓谷に続く森まで封鎖しちまいやがった。何様のつもりだってんだ」

 

「代官の指示で教会を、ですか?」

 

 教会に代官が介入など珍しいな、とアンヘルは頭を捻った。

 

「そんな細けえ話は知らねえよ。けど、あのヤローは好き勝手ばっかりしてやがる。それだけじゃねえ。最近は女遊びに嵌ってるのか、どっかから連れてきた女どもを侍らせて。しまいにゃ、マリサちゃんまであんな格好をさせやがって……あんな良い子だってのに」

 

「……」

 

「しかも村の奴まで信じてやがるんだ。なにが救世主さまだ。たしかに村に金や仕事を運んできてくれたみえてえだが、胡散臭くてあらしねえ」

 

 と、ぶうぶう文句を垂れ始めた。開けてはならない扉を開いてしまったらしい。

 

 ミゲルは腹の虫が納まらない様子でげしげしと足を地面に撃ち込みはじめた。こういうときは、相槌を打って躱すのが賢いとひたすら頷く機械に徹した。

 

 顔を真っ赤にしながら愚痴を垂れ続けると、最後に「悪かったな、今日はウチに泊まれよ。まだ宿は決まってないんだろ?」と言い始めた。冷静になると、初対面の人間に愚痴ったのが恥ずかしくなったのかもしれない。

 

 アンヘルはその言葉に甘えた。宿は幹部で一杯だから、どこかに野営するしかなかったのだ。さすがにこの季節の夜風は堪える。

 

 ふと、向こうに暗くそびえるプルトゥ渓谷が見える。龍のような唸り声が、轟いたような気がした。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 夜も更けて、村に提灯が灯りはじめた。

 

 外は雨が降っている。目には見えぬほどの細かな雨だが、地面は少しづつ濡れて、濃い土色に変わりつつあった。村人たちは雨を嫌がって軒先ばかり歩いているから、そこがどんどん泥汚れに染まっていく。

 

 遠くで閃光のような光が弾けて、そのまま一直線になって縦に落ちた。それはほんの一瞬で、闇夜にひび割れでも入ったような眩さがあり、遅れてゴロゴロ音を立てる。

 

 ルトリシアはそんな光景を代官屋敷の一室から見下ろしていた。部屋の大きさは百人ほどが入れるほどだが、家財は平凡である。壁に掛けられた画はどれも名のある画伯の作品ではないし、窓際には埃が薄らと残っているから、それほど使われていないのだろう。瀟洒な細工がないことも、自身の確信を強めていた。

 

 ――だと云うのに、宴会の肴は豪勢ですね。

 

 どうもこの村は具合が変である、というのがルトリシアの内心であった。代官が日々村民から搾取し、贅を凝らしているというなら理解できるが、宴会となるとそうはいかない。食材、シェフ、酒に酌婦と十分なモノを用意するには金だけでは不十分なのである。

 

 だが、ユースタスの満足しきった表情を見て、準備されたモノが大貴族を満足させる一級品ばかりであるのは明白だった。

 

 派閥候補生たちが箸を進める。テーブルの上の食材が無くなると、使用人たちがすぐに運んでくる。この村は湖業が盛んだから、とくに魚が美味い。それとどこから手に入れたのか豚がローストされていた。

 

 ルトリシアの眉間に一瞬深い谷が刻まれる。

 

「フェルミン候補生もお酒が進んでいるご様子で」

 

「は、い、いえ! 申し訳ありません」

 

 派閥配下のフェルミン連隊長は飛び上がるようにして謝罪した。グラスが都合三つ、彼女の前に並べられている。始まったばかりだというのに、相当気に入ったのだろう。

 

 ルトリシアは微笑みを浮かべて嗜めるも、内心ため息を吐いていた。

 

(呑気なものです。これからが本番ですのに)

 

 貴族子女の常として幼い頃から舞踏会で社交の経験を積んできた彼女にとって、外交に疎い平民候補生を減点せざるを得なかった。騎士ハーヴィーの酒を絶つ姿勢を見習ってほしいとすら思える。

 

 今はルイス代官主催の宴会。アンヘルやクナルなどの非主流派候補生の姿はない。場は、ルトリシア派閥、ユースタス派閥、エルンスト派閥の助勤や連隊長が集っていた。

 

 規模は兎も角、親睦会など手慣れた代官の手腕に舌鼓を打ちながら、手抜かりの部分に目をやった。面の皮が厚い貴族の彼女にも、直視は中々堪える問題である。親睦会を開かないよう指示しなかった自分の過誤だと思い込むことで、精神の均衡を保った。

 

 宴会に相応しくない怒声が耳に入る。ルトリシアは鉄壁の微笑みのまま、その場に近づく。

 

「代官の好意だ、受けないほうが失礼ではないかね」

 

「キサマの魂胆は分かっている。また女遊びだろうが」

 

 代官ルイスの邸宅の一室、地方代官の部屋にしては大きすぎるそこで、二人の男を筆頭にした集団が睨み合っていた。

 

(またですか。仲裁は疲れますが、遣らないと本当に斬り合いそうで)

 

 主催のルイス代官も涼しげな顔を崩している。士官学校の事情に詳しくない彼は「混ぜるな危険」を知らず、一緒くたにしたことを後悔しているのだろう。

 

「これも見学だよ。私は、市井の良さを学んでいるに過ぎないんだ」

 

 染み一つない白いコートには、襟元の金色の刺繍以外にはなんの飾りもない。それが、彼の身体全体を覆っていた。美しいブロンドの髪が肩近くまで垂れている。目を引くような美しい髪で、帝国貴族として典型例のような容貌である。

 

 男は左手の繊細な指を滑らせて、サキと呼ばれた女の腰に手を回した。相手が「やぁーん」という作った声をあげて悦ぶ。それをニタニタ笑いで眺めていると、神が右手で描いたような顔も台無しだった。

 

「お二人とも、冷静になってくださいな。ここは士官学校ではありませんよ」

 

 その男――ユースタス・リンゼイ・アル・リエガーはルトリシアを認めると、はっとサキから手を離した。取り繕った表情を浮かべている。

 

 内心の軽蔑を抑えるのに苦労した。彼の好意も理解しているし、政略結婚となれば選択肢のない話ではあるが、さすがに大根役者すぎるだろう。杜撰すぎる隠蔽に対し、何度目かもわからない、もはや数えることも億劫な回数のため息を小さく吐いた。

 

 しかし、介入の効果はあったのか。第三者の介入に、苛立ちを隠そうとしていなかった両派閥の人員も取り繕いはじめる。不特定多数の目がある場では表面上上手くやる分別を持って頂きたい、とユースタスの杯に酒を注いだ。

 

 その行為に少し満足したのか、にんまりと笑みを浮かべるユースタス。ただ、悪いことに、エルンストはそれを相手の援護と受け取ったようだった。平民派を標榜するだけあって、門閥派が羽虫か何かに見えるのだろう。五大貴族は正確には門閥派ではないことを言っても聞きはしない。

 

「分かっているのか」

 

「何を、かな?」

 

 苛立たし気に問うたエルンストを、ユースタスは小馬鹿にした様子でいった。彼の派閥配下が皮肉気に笑う。

 

「もうすでに、五日も超過しているんだぞッ!」

 

 躑躅色の髪を逆立て、エルンストは唾を飛ばしながらいった。

 

「だからどうしたんだい?」

 

「なにがどうした、だ。教官はセグーラの街に置いてきているんだぞ。これ以上遅延してどうする」

 

「そんなもの、待たせておけばいい」

 

 薄笑いを浮かべるようにして、いった。

 

「き、きさま」

 

 エルンストは額に青筋を浮かべている。

 

 彼らが言い争っているのは、遠征演習のことであった。

 

 第一中隊の目標はこのロヴィニ村まで行き、帰ってくることなのだが、途中の村々でユースタスが遊び惚けているから、日程が五日も遅れているのだ。教官はいない。その諫言にユースタスがうっとおしがって、セグーラの街で待機するよう指示を出したのであった。

 

 正論はエルンスト側にある。しかも、自分自身ユースタスの横暴っぷりには辟易としていた。行く町々で騒動を起こしては、その揉み消しに奔走させられたのは自分であり、事件を起こさないよう度々配慮に思考を割いたのも自分である。

 

 ただルトリシアとしては、リエガーを敵に回すことは避けたく、そして平民派の人員取り込みを狙う身とあっては場を濁すに留める他なかった。

 

「今はお酒が入っていますから、明日に――」

 

「それで反論は終わりかね。ならば、この村の滞在期間は三日だ」

 

「明日出発だ!」

 

「聞こえなかったのかな。中隊総隊長の言葉だよ、これは」

 

 完全に無視された。火花が散るほど激しく二人の視線は交錯した。ルトリシアは頭痛を覚えると、頭を軽く押さえた。

 

「ですから――」

 

「宴もたけなわでございますし、ここでひとつお休みになられては」

 

 横からルイス代官が入ってきた。緊張しているのかてかてかとした頭を撫でていた。これはチャンスだと感じたルトリシアは、話の流れに沿った。

 

「そうですね。私も長旅の所為か思考がボヤけてきました。ユースタスさま、本日はここでお開きになさっても?」

 

「……そうか。そうであるな」

 

 ここが纏め処だと感じたのだろう。さらにルイス代官が畳みかける。

 

「良ければ、サキをお連れください。サキは妻の従姉妹なのですが、歌が上手く、それはもう。リエガーさまのお眼鏡にかなうこと間違いなしでございます」

 

 サキは蠱惑に微笑みながら、頭を下げた。他の従姉妹と思われる人間が倣う。彼女らは、皆決まったように金色の髪をしていて、大きな紫水晶の瞳を輝かせていた。

 

 歓待には慣れているのか、赤いフリフリのミニスカートに、水着のようなトップス、赤い手袋とブーツだけをしている。唇を紅で塗っているから、色気も合わせて売春宿の引き嬢にも見えた。

 

「だが」

 

 ユースタスはこちらの顔色を伺ってきた。今更気にしてどうすると思うのだが、収まるならなんでもよかった。

 

「私も眠る前にはよく歌を聴きますわ。旅の疲れもありますし、ぜひお試しになって?」

 

「そ、そうか」

 

 ユースタスは婚約者から太鼓判を押されたと思ったのか、隠すことなく大胆に女の腰もとに手をやると、ぎゅっと引き寄せた。鼻は下劣に伸びている。

 

 彼の言葉を借りるなら、この後「市井の良さ」を教えてもらうのだろう。

 

「そうであるな。私も旅塵を落とさねばならない。うむうむ」

 

 もはや誰に言い訳しているのか。分け前を貰えそうな仲間たちとともに、女たちと廊下に消えていった。

 

「シュタールさまも、別邸に一室を用意してあります」

 

「結構。俺たちは野営訓練に励む」

 

 所詮、多少羽目を外しても構わないはずだが、彼らは常に街の外で野営訓練に励み、泊まるときも最低限に控えていた。これは一種の当てつけだろう。本人に響いていないから、意味はないが。

 

「そ、それはこまります。折角の御機会でございますのに」

 

「あんな男と一緒にするな」

 

 出て行こうとしたエルンストだが、目の前にまでやってくると怒気を露わにした。

 

「貴方はなぜあの男の味方をする」

 

「彼の味方でもなければ、エルンストさまの敵になったつもりもありませんわ」

 

「――ッ! 貴方のその曖昧な態度があの男をつけ上がらせるのだ!」

 

 一瞬怒りを全面に出したが、それを引っ込めると踵を返した。その後ろに派閥の者たちが続く。「救国」主義者と予想されているロペスは居ないが、穏健派のロールスや軍議盤都大会二位の助勤ミカエラなど、壮々たる面々である。

 

 そして最後に、勢力成長筆頭株である倒院論者オウルが慇懃に礼をした。

 

(嫌な目つきですね)

 

 自信に溢れ、貴族など歯牙にも掛けないと思っているかのような鋭い目立ち。それでいて、戦士特有の修羅場慣れした鋭さではなく、草食動物に身を潜めている雑食動物のような、上手く立ち回っている男特有の目である。これなら、ユースタスのようなわかりやすい感情のほうがまだマシだ。ルトリシアは表に薄くにじむ苦い顔で彼らの去る姿を最後まで見続けた。

 

 ふと、視線を外す。近くにいたレイナという妻の従姉妹がルイスに話しかけていた。

 

「どうされますか?」

 

「まあ、仕方ないでしょう。メインは泊まると言っているのです。計画に不足はつきものと割り切りましょう」

 

(なんでしょうか?)

 

 レイナが下がると、ルイスが頭を下げながら話し始めた。

 

「ヴィエント様の部屋もご用意しておりますので。配下の方々は、こちらに」

 

「お言葉に甘えまして」

 

 ルトリシアたちも本邸に泊まることとなった。こんな村宿では不足の事態が起きるとも限らないし、接待側も不安だろう。強いて上げればユースタスの蛮行が心配だが、騎士ハーヴィーらの守りを抜けるとも思えない。

 

 因みにだが、他の候補生はルイス代官の手配した場所に泊まる予定である。

 

 ――そういえば、たしかクナル班の一部が村衆の世話になると聞いたのですけど。

 

 一部の候補生の動向を報告し忘れたことを思い出した。まあ、所詮は一候補生。報告せずとも問題にならないと考えたルトリシアは、案内されるまま部屋に入った。

 

「ルトリシアさま、我らは扉の前に居ますので何かあれば」

 

「ありがとう、ハーヴィー」

 

「それから寝酒にと、代官から。高級酒らしいです」

 

「そうですか」

 

 ハーヴィーから受け取って一口呑んだ。不味い。貴族として酒を嗜むが、実はあまり好まない。しかも、この酒は地方酒特有の強い葡萄の香りと、底に潜ったようなざらついた舌触りがある。酒にそれほど詳しくない彼女にも、到底高級酒とは思えなかった。

 

 結局、一杯味わっただけで飲むのをやめた。

 

「では私はこれで。貴方もお休みになってくださいな」

 

「いえ、リエガー爵の一件もございますし」

 

「そうですか。では、お先に」

 

 ルトリシアは髪を解してから、制服を掛けて床に入った。どこか、この村は不審な点が多い。そんな予感を胸にしながら。

 

 なにかわからない。それでも、どこか不安をよぎらせる何かがある。ルトリシアは底から這い出てくる不安を拭えぬまま、微睡の世界に溶けていった。

 

 

 

 

 

 分厚い何かが自分を覆っているような感覚を覚えた。

 

(寒い、それに身体が重たい)

 

 分厚い闇が広がっている。それは身体中を取り巻き、重力のように沈み込もうとしている。

 

 世界は光がなく、奥行きもなにもわからない。そもそも、世界といっていいかわからない状態である。上下左右すら判別不能だった。

 

 頭が麻薬でも打たれたように鈍い。声が枯れているのか、くぐもった呻めきが流れたようであった。凄まじく動くことが億劫に思える。熱っぽい頭は人生で味わったことのないものだった。

 

 四肢に力を込めるも、毛ほども動こうとしない。セメントで固められたようにピクリともしない。

 

 それでも言い表すことのできない寒気に押され、なんとか身体中の力を振り絞った。

 

 微睡の中にいたルトリシアは掛け布団を押し上げると、転がるようにして覚醒した。

 

 寝台に手をつきながら、必死に体を起こす。それすら、長距離走並みの労力を強いられた。

 

「これは――」

 

 部屋は薄ぼんやりとした月明かりが差し込んでいる。が、それすら禍々しい。呼吸が苦しく、水の底に放り込まれたような圧迫感がある。

 

 鎖骨が肺に食い込み、胃を捻られた嘔吐感を抑えながらルトリシアは叫んだ。

 

「ハーヴィーっ、そこに居ますか」

 

「る、ルトリシアさま。なにか御座いましたかッ!」

 

 部屋の外でずっと待機していたのか、素早くノブが捻られた。廊下の魔導灯の光が差し込んでくる。太陽に等しいまぶしさを覚えながら、なんとか上着を羽織った。

 

「何が有りましたか。もしやまたあの男がッ」

 

 入ってきた騎士ハーヴィーは絶句した。

 

 ルトリシアの美しかった翡翠の髪は見る影もなく、くたくたになり艶を失っている。そればかりか、頬は青ざめ唇も一眼でわかるほど色を失っている。陶器のような白い肌は病的なほど色を失っていた。

 

「立ち上がられてはお身体にさわり――」

 

「化粧道具を。それと他の人間を呼びなさい」

 

 ピシャッと意見を跳ね除けながら櫛を取り出して整える。制服もヨレてはいるが、気にしていられない。

 

 ハーヴィーは部屋の棚に置かれた化粧箱を手渡しながら、動揺を露わにしていた。

 

「これはどういう」

 

「早くなさい、ハーヴィー。これは」

 

 続きを言わんとしたとき、屋敷の下から耳障りな音が響いてきた。すぐさま立ち上がって、窓から階下を眺める。信じられない光景が広がっていた。

 

 そこには、剣や槍を振りかざし、庭のあちこちに迫り来る悪鬼の集団が、津波のように押し寄せていたのだった。

 

 ルトリシアは冷静を保ったまま、騎士に指示した。

 

「直ちに派閥全員を集めなさい。それから、リエガー子爵のご様子も。屋敷の人間は全員敵だと思いなさい」

 

 ハーヴィーが息を飲む。今の事情を飲み込んだようだった。

 

 剣を引き寄せて大きく宣言する。一葉落ちて天下の秋を知る。初動対処が状況を決定すること、それを深く理解してのことだ。

 

「これは、敵襲です」

 

 その表情は厳しさに満ちていた。

 

 

 



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第四話:邪龍の烙印

 男の背のむこうに赤光を渓谷の雲に滴らせながら、陽が落ちてゆく。足元の影は、縦に間延びしながら小屋や路へ立つようにして映じられた。

 

 胸中には、一掴みの緊張感が漂っていた。というのも、彼は今、制服を縫い合わせてくれた少女マリサの元に向かっていたからだった。

 

(よろこんでくれるだろうか?)

 

 彼女と出会ってからすでに三日経っている。その間、理由をつけて毎日会いにいっていた。

 

 彼女は最初こそ戸惑ったような顔をしたものの、嫌な顔は見せなかった。彼女自身、話し相手を欲していたのだろう。都市や中隊など、色々な話をした。

 

 気づいた時には、彼女に惹かれていた。彼女はつまらぬ理系的蘊蓄話にもいちいち相槌を打ち、ときには大きな笑い声をあげた。それが、なんとなく優し気に思えたのだ。

 

 士官学校の女性は候補生をライバルと考えているから、ただの雑談ですら勝負になりがちだ。必然、より勝負しやすい思想や国学について論じるのが常で、こういうたわいない話にはなり難い。それが魅力的に映ったのだ。

 

「もう暗くなっちまったな」

 

 疲れからか肩が重い。昼間、班員が突っかかってくる森師を怒鳴りつけたのだ。そのため場は白け、仕事自体も捗らなかったどころか、森師は責任者のホアンを責め立てる始末である。

 

(なにが、軍務に関係ない命令など従う義務はないだ。どうせ仕事をしたくないだけだろ)

 

 そうやって感情が内に向かうと、ふつふつと己の小隊たちへの苛立ちが立ち上ってくた。

 

 ――あいつらは己の出世のために倒院や救国を掲げている。

 

 それが、最近のホアンの中で燻る怒りの大元であった。

 

 皆平民派という名を借りてさも改革者ヅラをしているが、実際にやっていることは派閥の力を利用した成り上がりである。それでも行動するならまだ許せるが、最近になって加盟した平民派は、勝ち馬に乗りたいが為だけに平民派を名乗っている節がある。そういう奴らは、いざとなれば裏切る。

 

 そんなことを常々頭に描いており、思想を共にする同士を心底では好いてはいなかった。

 

 決まって最後に、はぁ、と息を吐いた。こういう思考に陥ると、蘇るのは過去の後悔ばかりであった。

 

(俺は正しかったのか。あのとき、エルンスト様の派閥を抜けて)

 

 敬愛した主人の限界を見たから、決断した。

 

 ――エルンスト様の理想はすばらしい。

 ――エルンスト様の方法は気高い。

 

 ――でも、それでなにが成せるんだ。

 

 正しいことを掲げて、正しい行いをすれば、自ずと結果はついてくる。昔はそう思っていた。

 

 だが、そんな筈がない。無理が通れば道理が引っ込む。優秀さとは、どれだけ無理を通せるかにかかっているのだ。なら、世界では慈悲や正義が通用する筈はない。

 

 だからこそ、より実行的な手段を講じるために「救国」すら行った。

 

 それなのにどうしてか。

 

 宿っていたはずの、エルンストに仕えていたころの熱意が消え去っていた。

 

(やめだ、やめ。今は個人で行動しているのに、士官学校のことばかり考えてもな)

 

 少しばかり歩くと、マリサの住む屋敷についた。もう完全に陽が沈んでいるから、木組の窓からちらちらと光が漏れているのがよく見える。今日は行けないかもと前日に言っていたから、彼女が帰っているか少し不安だったのが解消された。

 

 ホアンは在宅であることに胸を撫で下ろしながら、小屋に入ろうとした。

 

 が、小屋の扉が開くのを見て、咄嗟に物陰へ飛び込んだ。

 

(誰だ、家族は居ないって言ってたが)

 

 もしかして男か、という想像を振り払いながらゆっくり開いてゆく扉を凝視した。

 

 徐々に明らかとなるその人物。それは、信じられない人物だった。

 

(ま、まり、サ……なのか?)

 

 肩が完全に露出している本紫のシャープドレスを纏っている。表情は叫びを堪えるような悲痛さで、研ぎ澄まされたような鋭さが瑠璃色の口紅と相まって、陰鬱さを克明にしている。流れるような金髪は暗闇の中でも輝きを放ち、目に嵌る紅玉は蠱惑の色香を伴っていた。

 

(なんだ、あの格好は)

 

 ホアンは呼吸を忘れてふらふらと立ち上がりながら、彼女の後を尾行した。

 

 目の前の光景が信じられなかった。記憶では、あまり派手にならない慎ましやかな服を好んだ。色合いも白や明るい色を好み、晴れやかなブロンドが草原の空とよく合っていた。間違っても、こんな格好をする女ではない。

 

 何もかもを忘れて、夢遊病患者のようにマリサの後を追った。それを勘付かれなかったのは腐ってもホアンが優秀な候補生だからか、それともマリサの能力不足か。理性ではなく、感情が突き動かすまま彼女の背中を追い続けた。

 

 その足は村の中心部に向かう。人通りは少しあったが、闇に包まれていて気付かれることはなかった。

 

 辿り着いた先は代官館であった。

 

 マリサは知った顔で塀の門番に声をかけると、さっさと屋敷に入った。

 

(ルイス代官の元へ? どういうことだ)

 

 陳情かなにかだろうか。という予想が脳裏をよぎるが、嫌な予感は消えないままだ。こんな時間帯にうら若き女が脂ギトギトの代官の元へ訪れる。どんな阿呆だって嫌な想像をするものだろう。

 

 一瞬、このあとどうするかを思案した。いくら上科生とはいえ所詮階級を持たない候補生である。

 

 だが、迷いは一瞬だった。

 

(ええい、ままよ!)

 

 ホアンは意を決し西側の庭へ回った。人がいないことを確認して、足に強化を集中すると、六尺程の塀を飛び上がった。すたっと片手を着きながら軽やかに着地すると、二階建ての代官館を見上げる。

 

 ここから見えるのは一階二階合わせて八部屋。そのすべてにカーテンが掛けられており、中の様子は伺えない。他に回ると門番に鉢合わせする可能性があるため、ここから侵入するしかない。そう結論づけると、取り敢えず一階の窓一つ一つの錠を確認したが、鍵の開いている窓はなかった。

 

(これからはどうする……)

 

 大した考えがあったわけではない。そのうえ密偵技能には明るくないから、窓を破壊する以外に入る方法は存在しない。

 

 一度考え込んだ時、二階の一部屋がぼやっと光った。

 

 何かと思ってみると、カーテンに閉ざされた部屋から光が漏れてきた。ほのかな暖色がカーテンの生地に滲んでいる。たしかあそこはルイス代官の私室だ。脳内地図を閲覧していると、そこに一人の女らしき人影が映し出された。

 

 ――あれはッ。

 

 見覚えのある人影を見て叫びそうになった。だが、それを必死に抑え込む羽目になった。カーテンに映じられる人影が、さらに一人追加されたのである。

 

 バクン、と爆発したように心臓が高鳴ると、強烈なほど胸が痛んだ。禍々しく代官の館が歪む。視界が感情で歪んで、悪魔の居城のような幻覚を見せるのだ。

 

 禍々しい漆黒の窓に映じられるのは姫が魔王に貪られる。それが、今まさに現実として起きようとしていた。

 

 女の流れるような髪に、ルイス代官と思われる醜い体の腕が伸びた。そしてその腕がすっと肩に落ちると、マリサと思われるシルエットを包んでいたように思われる薄い膜が、すとんと地面に落ちたのである。カーテンに滲むシルエットは、俯きながらほんのひとまわり細身になった。

 

 女は俯いたまま徐々に沈んでゆき、カーテンには顔だけが隅っこで映っている。唇を震わせ顔面を蒼白にしたホアンを他所に、女のシルエットは二本の手を樽のような男の腰もとに伸ばし、準備が終わると思われると男の股間と女の顔の影が重なった。

 

 女の影が前後に動く。男のシルエットが上体をそらし天に唾を吐きつけるような姿勢となった。

 

 闇で蠢く黒のシルエット。

 

 無限に続くかと思われたそれは、ようやく姿を変えた。

 

 男の影が横倒しになった。いや、寝台に寝そべっているのか。飛び出した腹のようなものが不恰好に照らされた。

 

 そして、想像したくもない状況へと移る。

 

 男の樽ばった腹の上に女が乗ったのである。俯いた格好のまま意を決したようにゆっくりと近寄るといったん跨り、そして片足を上げてから位置を調節したかと思われると、すとんと腰を下ろした。

 

 女の顎が衝撃で上に跳ねた。

 

 細身のシルエットが嘶く。横に張り出た山がふるふると振動で揺れた。男のシルエットから山へ手が伸びて噴火後のように痕を残す。それが離れると、長い時を経て再び隆起する山脈のように、静かな振動を伴って張りを得た。

 

 それを機に馬上の人は激しさを増した。

 

 ぱっぱっと散る透明な汗。それが首筋、鎖骨、胸部をつたって臍へ流れる。一度貯まったそれは、乗馬の衝撃で再び流れ落ちると今度は密林へ迷い込んだ。そんな光景が、色彩を伴って脳裏に投影されていたのだ。

 

 それ以降は見ることもできなかった。

 

 のしかかられているマリサを想像してしまう。巨体が美しい足を持ち上げ、押し開くと思うさまに肉を嬲っている。男の脂汁が全身から垂れ流されると、美しい金髪や白い肌を塗りたくるように染めていった。巨獣のまあるく醜い手が這うようにまさぐった。実のなった麦畑に消えることのない痕を残してゆく。なだらかな腕を撫でて、嫋やかに浮いた鎖骨に沿わせ、丘の上に咲く蕾を強調するように絞り上げた。女は痛みと痺れの綯交ぜになった表情で鳴き、快楽と辱めで桃色の染め上げられた身体を震わせた。

 

 うっ、うっと、つまらぬ妄想だというのに、ホアンの脳内を麻薬のような鈍麻が襲った。胸が締め付けられるように苦しくなったが、妄想ですら頭の片隅で興奮してしまう自分が尚嫌になった。くそ、くそと蹲りながら地面に拳を打ちつける。

 

(なぜだ、なぜなんだ)

 

 ミゲルは荒い息を吐きながら再び代官館を眺めた。激しく喉が乾き、全身が火であぶられたように熱い。

 

「候補生さま、勝手に入られては困ります」

 

 闇から響くようにして、声をかけられた。

 

 ホアンは振り向いた。

 

 そこには、一人の女が立っていた。

 

 マリサと同じ明るい金髪に蠱惑な紅玉。造形はまったく違うから血縁には見えないが、かといってまったく無関係にも見えない。同じ部族、といえば納得のゆく相似性である。

 

「ルイスさまは現在ご就寝中です。御用がお有りでしたら、明朝にお願いいたします」

 

 答える余裕などなかった。顔の向きは目の前の女だが、持てる意識のほとんどは二階の明かりに向けられていた。

 

「お、おれは――」

 

「このような御見物はいささか不作法であると思われますが。喫緊のご用件でなければ、お引き取りを」

 

 女はそういって、静かに頭を下げた。

 

 その場で良い考えなど浮かばず、ホアンは悪の居城から去ることになった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ふと、唐突に目が覚めた。まだ夜は空けていない。月の薄明かりが差し込んでくるが、すでに大きく傾いており、あと数刻もすれば朝だろうと瞼を瞬かせた。

 

 床には酒瓶が転がっている。アンヘルはそれを踏まないようゆっくり立ち上がる。すると、部屋の壁に背を付けた姿勢で座ったクナルが声を掛けてきた。

 

「ようやく起きたか、間抜け」

 

 その声で周囲を見渡す。ベップも起きたのか、寝ぼけ眼で目をこすっている。アルバに至ってはすでに準備万端なのか、制服にターバンと完全装備で直立している。

 

 アンヘルたちは先日、ミゲルの誘いに乗って村外れの漁師小屋にてやっかいになっていた。ベップ、アルバはそれに釣られた形である。夕飯が向こうの奢りというのが効いたのだろう。クナルは夜居なかった筈だが後に来たらしい。

 

「これは……」

 

「気づいたか?」

 

 なぜ、目が醒めたのか。脳が活性化を始めると、戦士の勘のようなものがけたたましく喚きはじめた。

 

(魔の法。しかもこの規模、尋常じゃない)

 

 村の中心部で燃え上がるような力が渦巻いている。この距離でも感じられる魔法など、平穏な村では通常考えられないことだ。

 

「間抜け、貴様はどう思う?」

 

「行くしかない。嫌な予感がするんだ」

 

 ミゲルは起きる様子がない。彼は最後まで飲んでいたから、かなり酔っているだろう。同程度飲んだベップが酔ってない理由は謎だが、気にして居られない。

 

「おい、なんだってんだ?」

 

「早くしろ、殺すぞ」

 

 クナルの恫喝にベップは青い顔で準備をはじめた。

 

 アンヘルたちは装備を整えると、出発前にいった。

 

「村を迂回して行こう」

 

「どうしてだ? ど真ん中突っ切ったほうが早いぜ」

 

「そっちはどう思う?」

 

「気に食わんが、賛成だな」

 

 アルバは不投票。というか、隊長のクナルが賛成しているのだから結果は決まりだろう。

 

「遅ければ置いてゆくぞ」

 

 というクナルの掛け声と共に、すぐさま部屋を飛び出した。即座に追いかける。無言のまま走ると代官館に到着した。

 

「これは、結界?」

 

 代官館全体を風が台風のような風が取り巻いている。薄らと見える奥には無傷の代官館があり、壁の周りには惨殺された遺体が複数あった。

 

 血の匂いが強く漂っている。暗がりでよく見えないが、死体は魔物のものであるらしかった。

 

(これはヴィエントさまの結界か。だけど、どうして魔物の死体があんなにたくさん……)

 

 意味不明な事態過ぎて頭の思考回路がショートしたが、取り敢えず現状を打破することに決めた。アンヘルは最大戦力であるクナルに向かう。

 

「これって、突破できる?」

 

「不可能ではない。が、多少は苦労するだろうな」

 

 クナルは大曲刀を掲げた。禍々しい輝きをその刀身が放つ。ベップはその威容に呑まれたのか、一歩後ろに下がった。

 

 咆哮からの一刀。風の空間を切り裂きながらクナルが突貫する。アンヘルたちはそれに続いて、切り裂かれた隙間に飛び込んだ。

 

「おいおい、マジでなんだコレ。何が起きてんだ」

 

 ベップがボヤく。アンヘルも内心では同意していた。飛び込んだ庭の中には、大量の魔物の死体が転がっているのだから。十はくだらない。目に見えるだけでも五十近い死体の山。紛争地帯のような光景である。

 

「早く」

 

 気にしている暇もない。胸の焦燥感は消える気配がなかった。アンヘルは抜刀すると、館の中に走り込んだ。

 

 目指すは本邸。直感だけを頼りに進んでいると、曲がり角から唐突に刃が降ってきた。鋭く反応。正面にいたアンヘルが剣を受け止め、クナルが剣を走らせる。それで終いだと思った瞬間、切り落とす寸前で剣をなんとか止めた。

 

「あなたは――」

 

 予想外の人物に、アンヘルたちは硬直した。

 

 完全に殺される一歩手前だった男は、憮然としながらむっつり黙り込んでいた。金髪をオールバックにして、神経質そうな顔立ちに目元のほくろが大人の色気を思わせる、ヴィエント家の筆頭護衛ハーヴィーは、首に剣を添えられた状態で停止していた。

 

「貴様らか」

 

 舌打ちをしながらも、どこか安緒の響きがある。彼が剣を降ろせばこちらも剣を引いた。

 

「スキピオさま、これはどういう――」

 

「風の結界を突破したのは貴様らか?」

 

 尋ねるが、相手は貴族専用窓口のベップに話しかけた。というより、アンヘルを嫌った形だが。

 

「え、ええ。そうですが」

 

 ハーヴィーはかなり長い間逡巡したが、結局話すことを決断したのか「こっちに来い」と近くの部屋に案内した。

 

 しかし、部屋の前にたどり着くと彼は再び長い逡巡に襲われていた。それでも鋼の決意で憎しみを飲み込むと、アンヘルだけを連れて行くことを決断した。主人が気に入っている人間、という判断だろう。

 

 他の人間は廊下で待たせ、扉をノックした。

 

「ルトリシアさま。結界は問題ありませんでした」

 

「そうですか、ありがとう」

 

 アンヘルは騎士に続いて、入室した。

 

 部屋に踏み入った瞬間、強烈な腐臭のようなもので一瞬立ちくらみにあった。

 

 通された部屋に漂っていたのは、バターと脂が焦げて混ざり合った腐臭であった。アンヘルは立ち眩みにあった。そうやって耐えがたい悪臭の最中にいると、段々感覚が慣れてきてこれが魔力の匂いだと思い至った。

 

(しかもこの感触、呪いやその類)

 

 漸く視界が明瞭になり、候補生たちが寝そべっているのが目に入る。ルトリシア系の候補生とユースタス系の候補生が関係なく顔を青くして眠っている。

 

「アンヘルさま、でしたか」

 

 中心人物、ルトリシアは青い顔を笑顔で誤魔化しながら、ユースタスの寝台の隣に座っていた。彼女は白い手を広げて緑色の光を当てている。治癒魔法の光だ。彼女以外に起きている人物――ラファエルやフェルミンら――もそれぞれ誰かを治療していた。

 

「緊急事態です。ハーヴィー説明を」

 

「はっ」

 

 彼女の横に控えたハーヴィーが、はきはきと説明をはじめた。

 

 事態は深夜ごろから始まったらしい。

 

 ことの始まりは、ルトリシアの体調不良から始まったらしい。ただ、その時点では勘違いかと油断していた。貴族は魔力のせいで毒や病に滅法強い。だから、精神的疲労かなにかだと思ったのである。

 

 が、様相が変わったのはそれから一刻後である。明らかに尋常ならざる状態だと思ったルトリシアは、扉の前で待機していたハーヴィーに指示を出すと、驚愕すべき情報が返ってきた。なんと、派閥全員が同じ状態に陥っていたのである。

 

 そこで屋敷の調査を命じたが、代官らの姿は消えており、重傷のユースタスらが青白い顔で伏せっているのを発見した。しかも、魔法を行使しても治癒の兆しが見えず、体力を回復させて延命するのが精一杯だった。そのうえ、館の外から魔物の集団が迫ってきたらしいのである。

 

 ハーヴィーら騎士決死の応戦虚しく、屋敷に侵入を許してしまう。そこで、ルトリシアが風の結界を張り、魔物の侵入を防いでいるということであった。

 

「原因は不明ですが意識不明の重体です。アンヘルさまは何か案でも?」

 

 召喚師は魔力の動きに聡い。それは、魔剣蘇芳と正面から闘った経験を持つアンヘルの特性でもある。そしてその能力は、ルトリシアの体調が見た目以上に悪いことを察していた。

 

「ただちに脱出すべきです」

 

 アンヘルは間髪入れず、いった。拙速を尊ぶべきという思想がまずはじめにある。

 

「できません」

 

「どうしてでありますか」

 

「移動手段がないのです。牽くはずの馬が死亡しています」

 

「馬車は無事ですか」

 

「ええ。一部は壊れていないと報告を」

 

「ならば無事な人間で牽きます。クナル班は半数が無事です」

 

「そうですか。では、運びましょう」

 

 起きている人間が十名行かぬほどで、伏せっているのが二十名ほどである。症状がましな者も人一人を運ぶのは重労働だから作業時間を考えてのことであった。

 

 廊下待機組も加わって作業を開始仕様とする。ベップに話し終えた後、アンヘルも担架を運ぼうとした。

 

「こっちはこっちで相当愉快な状況なようだな」

 

 クナルが近寄ってきて小声でいった。

 

「黙って。これは遊んでいるような事態じゃない」

 

「であろうな。もしやあの男の指金か」

 

「どうだろう。こんなことをして得があるとは思えない」

 

「ふむ。たしかに相当な傾者じゃないと笑えまいな」

 

 とアンヘルとクナルが端で言い合っていると、青ざめたアルバが進みでた。

 

「どうしたの?」

 

 その問いかけを無視して、アルバはルトリシアに寄った。

 

「おい、貴様何をする」

 

 ハーヴィーの静止を完全に無視して、体を震わせながらおもむろにルトリシアの服を捲くりあげ、その純白な腹の上に手を当てた。突然の出来事にその場の全員が驚愕する。

 

 当然、ハーヴィーはその暴挙へ激昂するのだが、ルトリシアは冷静な表情で制止させた。やり場のなくなった怒りを他にぶつけるためか、その白い肌を凝視していた男どもに剣を向け、明後日の方向を向かせた。

 

「そう言えば、あなたはエゴヌ一族の者でしたね」

 

「……」

 

「なにか分かりましたか」

 

 ルトリシアの言葉を聞いて一瞬嫌そうな顔をしたアルバだったが、調査に集中したのか目を閉じた。少しの間そうやっている、目を閉じたままゆっくりと後ろに下がった。

 

「これは、邪龍の烙印」

 

 そういったアルバの顔は引きつっていた。

 

「どういうものです?」

 

「邪法。獲物につける印のこと。効果は魔封じ」

 

 さらに、この呪いの原因について言及した。

 

「基本は性交。他には飲食物に混ぜる方法もある」

 

 たどたどしい説明曰く、この邪法は古来より貴族を狩るために編み出された方法であるらしい。かなり強力で、相手は定められた期間内に相手を殺さねば呪いが跳ね返るという誓約を持って、基本は呪いすら効かぬ貴き者を堕とす手法だ。魔力を持たない者には効き目が薄いという欠点もあるらしかった。

 

 なによりこの邪法の特性は、相手の魔力を侵食して毒に変えるという点である。掛けられた相手は進行を遅らせるために魔法行使を控えざるを得ない。「貴種堕とし」という別名はここから来ていた。

 

「ルトリシアさま。お身体に障られますので」

 

「そうですね」

 

 と言いながら、ルトリシアは遠隔治癒魔法を一部除いて打ち切った。残された魔法は、主にユースタスに向けられている。大貴族級の魔法でなければ、彼の容体の維持が難しいということなのだろう。

 

 ハーヴィーはふうっと息を吐いた。彼が無事なのは、昨日酒を一滴足りとも飲まなかったからだろう。まさに鋼の精神である。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ。となると、今から襲撃を受けない?」

 

 あまりの情報量に唖然としながらも、思い至ったことをいった。アルバは頷いている。

 

「呪いの期間は約一週間。呪いが深まるまで待つかも」

 

「……」

 

 嫌な予想である。冷静な視点だといえばその通りだが。

 

「では結論は出ましたな。撤退しましょう」

 

 出揃った情報をすべて整理したハーヴィーが主人へ進言した。

 

「それもダメ」

 

 アルバの瞳には絶望したような色がある。

 

「呪術は『人を呪わば穴二つ』。逃げ切っても相手が死ぬだけ。助からない」

 

 ハーヴィーはギョッとした。唇をわななかせている。

 

「解呪方法はなんです?」

 

 一方、ルトリシアはその結論を想定していたのか、気丈なまでに表情を変えなかった。

 

「掛けた人物の死。他は知らない」

 

「なんだそれは! ふざけていると叩き殺すぞ!」

 

「呪いは一方通行。そこらの術者では解呪できない」

 

 アルバは胸元をつかまれて揺さぶられながらも、そう淡々と返した。

 

「必ず命を落とすのですか?」

 

「魔力が少なかったり、本命じゃないなら大したことはない」

 

 比較的進行の遅いラファエルらを指し示しながら、言った。

 

「本命とはなんですか?」

 

「呪いの矛先のこと。大抵は中心があり、そこから伝播するように呪いは拡散する。それれぐらいなら自然治癒でも対処できる」

 

 呪いは基本、指向性を持たせることで効力を上昇させる。この邪法は跳ね返りも考えればターゲットを絞るのは当然と言えるだろう。ユースタスの陣営がやけに重症なのは、放蕩の限りを尽くしたからか。

 

「でも、メインターゲットには――」

 

 アルバは、ルトリシアの瞳を見つめた。

 

「必ず死が訪れる。相手も命が掛かっているから、必死」

 

 アルバの言葉を信じるならば、ここにいる配下たちもあと一週間の命である。無論、メインターゲットではない彼らは呪いで死なずとも、主人を失った瑕疵は大いに咎められるだろう。

 

 アンヘルはたまらず顔を青くして、一座の顔つきを見渡した。全員が揃いも揃って痛々しい表情をしている。なによりも、騎士ハーヴィーの表情には途方もないものを感じた。

 

「シュタール派に協力を申し出てみては?」

 

 といったのは、ベップである。ただ、進言した彼にも苦いものが浮かんでいた。

 

「貴様は馬鹿か。ありえぬ」

 

「今回に至っては、猫の手も借りるべきかと」

 

「何も知らぬくせに、口を出すなと――」

 

 叱責しようとしたハーヴィーを遮って、ルトリシアが引き継いだ。

 

「耳にしたことはあるでしょう。彼らとは協力できない理由があります」

 

 ルトリシアは、まったく感情のこもっていない声で反論した。

 

「救国主義者の可能性が高い彼らとは、むしろ獅子身中の虫を抱え込むことにすらなりかねません。とくにオウル候補生やロペス候補生が居る今となっては」

 

 士官学校内におけるエルンスト派閥は、一般に貴族排斥論を掲げた過激派集団の急先鋒、という見方をされがちだが内実は違っている。彼らの派閥は実は内部で二極化されていた。

 

 一つは、エルンストら貴族を中心にした穏健派とされるグループ。彼らは、行政官族と呼ばれる元老院系貴族の傍流で、帝国内に蔓延る不正、不平等打破、身分格差是正を唱えているが、その手法は議論や法改正などに終始し極端な手段を取らない。

 

 一つは、オスカル教官の遺志を継がんとする派閥であり、学内における五回生フランシスを中心としたグループ。二回生においては、一八オウル班長が筆頭株となっている。彼らはより直接的な手段に傾倒し、夜半に徘徊しては「救世」と称して貴族を誅殺しているという噂が立つほど超過激派であった。

 

「態勢を整える必要があります。一度、手前の村まで後退します」

 

 ルトリシアは、目を閉じて静かに決断した。死に向かっての敗走である。

 

 大急ぎでルトリシアたちが乗る馬車七台を牽いて、館の門を潜った。アンヘルは村の中に残っている隊――エルンストらは野外訓練、エルサ・ホルディ班もそちらに追随しているから保険といって差しさわりない――を回収するよう言いつけられ、クナルを道案内に残して村に潜った。

 

 アンヘルは走った。心の中に突き刺さる不安感が消えるよう願いながら。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「んぁ?」

 

 ミゲルはちらちらと差す陽射しに眩しさを覚えて、もぞもぞと寝台から這いでた。頭が、唸るように痛む。二日酔いの感覚である。

 

 ミゲルはいつもそれほど飲まないが、他所から来た男たちと飲むうちに、いつもは吐き出せない苛立ちを解き放ったせいか酒が進んでしまった。

 

 かぁぁと喉を鳴らして、痰を窓から吐いた。ついでに食道から内容物がちょろちょろと這い出てくる。ミゲルはそのまま胃の中の物を吐きだした。

 

(ちっ。まぁたオヤジにどやされるぜ)

 

 すでに仕事始めの時間は過ぎている。ミゲルは奥にあった装束を取り出して装備を整えると、外へ飛び出した。顔には焦りが強く出ていた。

 

「なんだぁ、こりゃ」

 

 外へ出たミゲルは、街並みを見渡すと、どこか何時もと変わった印象を受けた。どこが、と問われると難しいのだが、強いて言うなら匂いである。漁港の生臭い匂いと田舎臭いどこか野暮ったい風がいつも吹いているのに、今感じるのは、けばけばしいネオン街のような甘ったるい匂いである。

 

 ミゲルは猟師だから鼻が利いた。それも、風の流れのような匂いだけじゃない人々の生活の感触を、身体ですっと覚えているのである。彼の眼には、何時も住む世界に別の色が塗られたように映っていた。

 

「おいおい、マジでどうしちまったってんだァ?」

 

 人が一人も居ないのである。田舎くさい村だからこそ、そこらを歩いていても誰かから声が掛かるものだ。だが、今は朝だというのに、まるで闇夜が深まったように静けさを保っている。

 

 仕方なく、ミゲルは教会に向かった。

 

 村でもっとも人の居る可能性が高いのは、領主館に次いで教会である。現代日本人はどこか宗教を疎んでいるが、この村の教会とは、一種の集会所のような役割を持っており、年老いて仕事のない老人たちは、日がなここで時間を潰していた。

 

 ミゲルは最近になって変化した教会が好きではなかったが、背に腹は変えられぬと道を急いだ。

 

 森近くの古小屋からは、教会まで一里ほどある。猟師の彼には大したことのない距離で、あっという間についた。

 

「おい! だれか居ねえのかッ!」

 

 ミゲルはガンガンと教会の大扉を叩きながら、大声で叫んだ。しかし、閑寂とした空間に虚しく響くばかりで、大した効果は見えなかった。

 

(ちっ、しょうがねえなぁ)

 

 それは、どこか不安の表れだったのかもしれない。ミゲルは巨大な鉄扉を押すと、教会の中に入った。

 

 教会は、木造の長椅子が幾つもならび、窓から仄かな光が差し込んでいた。祭壇には大仏が飾られており、そこまで一直線に道が続いている。

 

 そしてその祭壇の前で、誰かが跪づいていた。

 

「なんだ、居るじゃあねえか」

 

 ミゲルは、ほっと胸を撫で下ろしながら、その人物に近寄ろうとした。

 

 だがそれは、相手の姿で立ち止まらざるを得なかった。

 

「あらら、取り残しがいましたか。だっから、信徒を使うのは嫌だっていったのにぃ」

 

 肩が完全に露出している朱色のトップスを纏った女。体型は幼なげだが、表情全体に蠱惑な色を浮かべ、縫い付けられるような色気がある。。流れるような金髪は、しっとりと日陰に際立ち、眼に嵌る紅玉のような瞳が色気を出している。

 

 女は、嫌悪感を隠さずにゆっくりと立ち上がった。

 

「なんだテメェ、こんなところで何してやがる」

 

「やだやだ。口を開かないでよ。ばっちい菌が移ります」

 

 女は顔の前で手を振った。高飛車なところを感じさせる仕草である。

 

「ちっ、まあいい。他の奴はどうした?」

 

「はぁぁあしんど、まあいいですよ。私が仕事をしますから」

 

「聞いてんのか!」

 

「こういう雑用はつまんないですけどねぇ。ねえ、そこの人。なにか言い残すことってあります?」

 

「何いってんだ。話が通じねえのか?」

 

「親切で言ってあげてるのに、馬鹿な男です」

 

 女はそっとため息をついた。しかしその顔には、冷たさが滲んでいる。

 

「お探しの人たちなら、もう居ませんよ」

 

「なんだと?」

 

 怪訝な顔をするミゲルに、女は東を指差した。

 

「見えるわけはないんですが、我らの故国に向かったのです」

 

「故国? 何いってやがる」

 

「これだから無宗派は。本当に無知ですねぇ」

 

 その口振りにイラッとしながら少しづつ近寄っていくと、ふと段差に足を取られた。

 

 なんだ、と思ってそれを見ると、それは長椅子の影まで続いている。暗がりでよく見えないが、どこか薄気味悪い物に見えた。

 

 ミゲルはそれを掴むと、すこしぬめった。

 

「なんだ、これ?」

 

 少しばかり差し込む光に、水分の付着した掌をかざした。衝動的な行動である。

 

 ――照らされた掌は、真っ赤に染まっていた。

 

「うわぁぁああああああ!」

 

「そっか、愚民にはこういう直接的な方がわかりやすいんですねぇ」

 

「なんだ、なんだこれぇっ!」

 

 ミゲルはパニックになりながら、それをひっくり返した。

 

 苦悶に歪んだ表情。よく知る猟師親方の顔だ。いや、それだけではない。代官の用意した仕事に追随しなかった、所詮古参村民ばかりが連なるようにして捨てられていた。

 

 ミゲルは驚愕して、ペタンと尻餅をついた。

 

「さあ、最後はお前の番ですよ」

 

 女が舌なめずりしながら近寄ってくる。四つん這いになりながら、ミゲルは必死に扉の外へ遁走した。

 

「いーぬさん、いーぬさん。どこまでゆくの」

 

 女が童謡に載せて、歩いている。

 

 ミゲルの背中には、大量の冷や汗が流れ落ちていた。

 

「お遊びは、この辺で終わりにしましょうねぇ」

 

 背後で圧力が増した。その瞬間である。ミゲルの身体は真横に吹き飛んだ。

 

 視界が斜めになると、遅れて時間が追随してきた。己の脇腹を掴む手に気づいた。男の手である。

 

 顔をあげると、先日飲み交わした男――アンヘルの姿があった。

 

「あんたは――」

 

「静かに。アレは?」

 

「知らねえよ。くそアバズレじゃねえのかッ」

 

 彼は、厳めしい目つきで女を見つめていた。

 

 なんだ、と思って釣られてみると、女の背中に巨大な翼が生えていた。悪魔を想起させる、骨と被膜の禍々しい翼である。頭からは一対の角が出ている。どこからどう見ても邪悪の徒にしか見えぬものだった。

 

「なんだ、これァよぉ!」

 

 ミゲルの叫びが遠くにまで響いた。女は手を突き出したままの姿で、ゆっくりと首だけを向けた。

 

「貴方は候補生。やはり、逃した連中もいたんですねぇ」

 

「……」

 

「喋らない……警戒心が強いのはポイント高めですよ」

 

 女は己の懐に手を差し込むと、場が急激に詰まった。

 

「妨害魔道具!」

 

「油断しましたねっ」

 

 そういうと、女は目にも止まらぬ速度で駆け抜けた。ミゲルには、紺の影がさっと動いたようにしか見えなかった。

 

 アンヘルは驚きつつも冷静だった。剣で相手の手刀を弾くと、切り返す。つつっと上段に構え踏み込むと、轟雷のように剣を振り切った。続けざまに突き上げると、女はたまらず後方へ退いた。

 

「くっ」

 

「残念だけど、僕は貴族じゃない」

 

 赤黒い地飛沫がパッと辺りに舞ったかと思えば、女の足元まで点々と痕が流れた。

 

 ミゲルの眼にもわかる。相手にあるのは恐怖だ。戸惑いといってもいい。

 

 彼女の頭には貴族は魔法を封じれば大したことはない、という先入観があったから、一瞬のやり取りで相手の実力に気づいて恐れ戦いたのだ。ミゲルには速過ぎて理解できなかったが、彼女の戦闘能力は恵まれた身体能力に頼り切った戦い方で、見た目の大仰さに較べれば驚くべき強さではない。

 

「やれぇ、やっちまえッ!」

 

 女の目が、ミゲルを見た。

 

「そっちのうるさそうなのを先に片付けますか」

 

 再び女の姿が消えると、眼前に現れた。その手刀は、アンヘルが必死に防いでいる。

 

「邪魔です。下がって」

 

 胸に衝撃を受けた。気づくと、ミゲルは宙を舞っていた。足裏で蹴られたのである。

 

「庇いながら、戦えるとでも?」

 

 だが、実力差は確かだった。アンヘルは最初こそ不意打ちに面食らった様子だが、相手の手数が減ると、あっと云う間に詰める。

 

 あと一歩だ。

 

 しかし、女が手を掲げると、さっとアンヘルが身を引いた。ミゲルはその様子を唖然としていると、彼らの周囲に敵が集ってくるのが見えた。

 

「どうです。諦めます?」

 

「……」

 

 場は、すべて敵に囲まれていた。見たことのない悪鬼ばかりであるが、誰が見ても悪の先兵だと確信を得る容貌ばかりである。

 

「ジッとしていれば、痛みは一瞬ですけど?」

 

「かもね」

 

 アンヘルは、そんな状況でも表情を変えなかった。

 

「余裕そうですね。もしかして怖くないとか?」

 

「隠し玉があるのは君だけじゃない」

 

 アンヘルはそう啖呵をきると、腕を真横に振って、召喚、と叫んだ。

 

 巨大な紅龍が顕現した。

 

「なにっ!?」

 

「行くよ」

 

 驚き戸惑っている女を他所に、アンヘルは赤き龍に跨ると、ミゲルを掴んで駆け出した。再起動した敵に向かって、赤き龍が灼熱のほのおを吐き出した。

 

「逃すなぁぁあ、追えぇ!」

 

 女の叫びが、ミゲルには間遠に聞こえた。

 

 

 



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第五話:撤退戦

 はぁはぁ、とアンヘルは肩を激しく上下させながら漆喰璧に手をついた。街中で唐突に始まった剣戟をなんとか切り抜け、ようやく広場まで戻ってきたところである。

 

(いったいなにがどうなっている)

 

 ここに来るまで片手に収まらぬほどの魔軍兵を斬った。スピード重視で囲まれぬよう走り抜けたため、両手両足がパンパンに膨れ上がっている。その中に女夢魔らしき者が居たのを見逃して脇腹に一発良いのを貰っていたから、身体中が痺れるように痛んだ。

 

 額に流れる汗を袖口で拭いながら油断なく周囲を見渡す。呼吸の度に喉がイガイガした。

 

(村に残っているはずだった小隊は脱出している。そのはずだ)

 

 素早く小屋内を検分したが、候補生らしき遺体などはなく、また争った痕跡も見受けられなかった。皆予定通りエルンストらと共に野外訓練に励んでると思われる。彼らの堅い性格が役に立ったようだ。

 

 ただ、良い便りばかりではない。アンヘルはついでとばかりに周辺を見て回ったが、村人たちの死体がいくつも発見された。村は死体ばかりの廃墟と化していたのだ。

 

 しかし、奇妙なのはそれだけではなかった。

 

 状況把握に努めようと魔軍行進の隙間をぬって家々を飛び回っていたが、気が付いたのは知り合いに背後から刺されたような死体が多数存在することである。魔物、というのは基本力任せに相手を惨殺するから、死体は大体荒らされる。が、この村の中に残っているのやけに綺麗なモノばかりなのである。

 

 ロヴィニ村の凄惨たる光景に目を背けながら、アンヘルは再び思案していた。

 

(死体がない屋敷の共通点は――)

 

 いくつかある。たとえば、漁師や猟師が住む村の外回りは殺されていたし、裕福な家庭はほとんどが殺害の憂き目に合っていた。この村の農民衆屋敷は比較的無事であり、そこは一律ハンバニルという土着信仰をしているのか、すべての家に小さな祭壇があった。

 

 この演習が始まったときから、なにかある、というのは分かっていたが、現状起きていることはその想像を遥か上にゆく出来事である。

 

 アンヘルは今起きている状況を整理してから、すでに脱出したルトリシアらを追うために駆けだそうとした。

 

 そのときである。

 

 昨夜世話になった猟師が、黒い翼の女に襲い掛かられようとしていた光景を見たのは。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「あのバケモンどもは何だ」

 

「わかりません。それより喋っていると舌を噛みますよ」

 

 騒ぎ立てるミゲルを黙らせると、アンヘルは跨るフレアに強くしがみついた。そうやって決死の鬼ごっこを演じながら、出入り口で合流したクナルへ叫んだ。

 

「どこから湧いたの、あれ」

 

「知らぬし聞くな。だがあの数が侵攻してきたにしては気配が無さすぎた。どこか潜む場所があったのか」

 

「一応専門家なら、もっと有効な情報を言ってよ」

 

「その看板は、すでに下ろした。今は軍人である」

 

「冗談でしょ。だったら遊びまわってないで、軍人らしく恭倹の心を持ったらどう?」

 

「ふん。寂しい独り身の貴様には羨ましかろう」

 

「一生いってろ」

 

 吐き捨てると、アンヘルは若火山龍フレアを召還しながら、ついでに掴んでいたミゲルを放り投げた。

 

「ぐへっ」

 

 クナルが呆れたような表情を浮かべる。

 

「なぜ使わぬ」

 

「龍なんて乗ってたらこっちが疲れちゃうよ」

 

「そっちの男を運ぶ方が疲れはしまいか?」

 

 言外に、中隊との合流を考えての能力隠蔽であると告げてくる。痛い所を突かれて嫌な顔をした。

 

「それより中隊はどこに」

 

「一つ前の開拓村ガンジログゼロに向かっている。貴様こそどうだったのだ?」

 

「空振り。多分だけど、予定通り動いているんだと思う」

 

「魔物の腹の中でなければいいがな」

 

「……君の脳みそはそうでしょ」

 

「ほう?」

 

 ゆらりと、クナルが表情を変えた。

 

「貴様は瀉血というものを知っているか? 病人は、悪い血液を抜くと良いらしい」

 

「それ、最近学会で完全に否定された否定された民間療法だよッ――」

 

 言葉の途中。突如として剛と剣が風を巻いた。

 

「なにすんの!」

 

 アンヘルはスウェイの要領で必死に避ける。パラパラと前髪が数本舞った。

 

「貴様の首を取り払って、瀉血してやろうというのだ」

 

 そういうのは、瀉血とはいわない。そう心中で呟きながら剣の柄を叩いた。必然、走りながらも睨み合う形になる。

 

「おいアンタらっ、なにふざけてんだっ」

 

 ミゲルが吠える。額からは大量の汗が流れており、彼の焦燥具合がよくわかる様だった。

 

「遊びはほどほどにして、さっさと行くぞ。もたもたしていると追いつかれかねん」

 

 クナルは悠々とそう告げた。一騎当千の力を持つ彼だが、それはあくまで短期的なもので、草原で千の敵軍に囲まれればひとたまりもない。

 

 それにアンヘルが遭遇した敵には、魔剣騒動での小鬼軍団とは桁の違う敵が混ざり込んでいる。多数に囲まれれば脱出すら叶わないだろう。

 

「って、ちょっと待って。アレって、中隊じゃない?」

 

 アンヘルが指し示した先、距離にして数里の場所に中隊の姿を認めた。

 

「……であるな。さっさと退かねば碌な事態にならぬぞ」

 

 猟師の若者を連れているから大した速度は出せないのに、グングン距離が縮まってゆく。背後の魔軍とは距離があるとはいえ、そう楽観視できる状況ではない。

 

「このままでは追撃を受けるだけだ。待機になんの意図がある」

 

「上の考えを探るだけムダだよ。それより、もしぶつかり合ったら勝算はどう思う」

 

「目算で敵は数百。つまり大隊規模か」

 

 クナルは背後を振り返りながら、同じように数里後方に見える集団を眺めた。

 

「一方、こちらは実働五十だ。殲滅可能だろうが、今後を考慮すれば戦力消耗は下策だろうな」

 

「その目測は正しいの? こっちは集団戦の経験なんてないよ」

 

「指揮官次第だ。あの女(ルトリシア)が万全ならどうとでもなるだろうが、バラバラに動いては魔物の個に圧倒されるやもしれぬ」

 

 四半刻ほどして、アンヘルたちはルトリシアたち撤退部隊に追いついた。

 

 プルトゥ渓谷に落ちる湖、それに接続する州河川へ沿うようにして広がる草原。少しばかり盆地になっているその場所でエルンストたちは野営をしていたのか、小さな天幕が乱立していた。

 

 真横へ付けるようにして、ルトリシアの馬車が留まっている。その中は慌ただしく、健康な者たちが看護に精を出していた。

 

 アンヘルはすぐさま状況を整理するべく、指揮官の元へ向かった。そこでは、ルトリシアとエルンストの二派が激しくやり合っていた。

 

「このまま村人を見捨てて逃げるなど、正気なのか? ユースタスが佞臣ならば、貴方は冷血漢そのものだ」

 

「たとえ溢れてしまうとしても、ときに小さな器で物事を成さねばならぬときがあるのです。あなたも法務官の御子息として、理解できることではありませんか」

 

「詭弁だ。俺には貴方の言葉がすべて空虚に聞こえる」

 

「あくまでも一時的な措置、大いなる廻天の翼を張るための後退です。理想ばかり唱えるのではなく、今一度現状を推して知るべきでは?」

 

 両者折り合うことなく、厳しい目つきで睨みあう。こういう自体に陥ると、両者の確執がただならぬとわかる。立ち位置の差が原因だから、もしかするとユースタスより根が深いのかもしれない。

 

 そんな舌戦の外、のんびり顔のベップを見つけたアンヘルは事情を尋ねた。

 

「どうなってるの、これ」

 

「ああ、アンヘル。帰ったのか。そういえば七八小隊はそこにいたぞ。さっきまた出て行ったみたいだが……」

 

「そうじゃなくて、今何やってるの?」

 

「見た通りさ。撤退派のヴィエント様と村人救出優先のシュタール様。話は平行線だよ」

 

(今はそんなことをしている場合じゃ――)

 

 そんなことを思った瞬間、警邏担当の男が高い声で吠えた。

 

「敵軍襲来!」

 

 それは、数里先だと思っていた魔軍とは別方向だった。アンヘルたちを追っていたのとは違う軍勢が中隊に牙を向いたのだ。

 

 

 

 §

 

 

 

「全軍退却!」

 

「隊を分けろ。陣形を守るんだ!」

 

 ルトリシア、エルンストが真逆の命令を発して全員が行動指針を一時的に見失った。

 

 それは集団戦において、致命的な隙になり得た。

 

(なにもこんな時に対立が表面化しなくても――くそっ、あの馬鹿はどこだ)

 

 混乱する人垣を掻き分けてなんとかクナルの下へ駆けつけた時、戦闘の音が断続的に響いてきた。

 

「遅いぞ」

 

 平然と大剣を背負いながら、クナルはいった。

 

「そっちこそ部隊はいいの」

 

「戦場で脚欠けの家鴨(レームダック)はいらぬ」

 

「あっそ。それより、今の爆発音はわかる?」

 

 クナルの非人間的聴力は、特定不能なディスタンスボイスすらつきとめる。それを期待しての問いだった。

 

「馬鹿が焦って撃ったのだろう。収拾がつかなくなるぞ」

 

 その言葉どおり、エルンスト派の魔使いが続々と詠唱を開始する。

 

「おい、止めろ!」

 

 素早く気がついたエルンストの静止虚しく、候補生の指先から大火が放たれた。下位の貴族にしては立派な大炎が渦を巻いて、一里ほど向こうに見えた魔軍を飲み込んだ。

 

 ざぁぁと、潮が引いたように一瞬静まり返る。身に余る大魔法の行使によって、身体機能の低下した候補生が荒い息を吐いている。土埃が舞い、周囲がやったかと安堵を漏らしている。

 

 その油断を戒めるようにルトリシアが厳しい声で叱咤した。

 

「陣形を横列に――左翼はシュタール隊が中心となって迎撃してください」

 

「なにをッ!? いや、アンドレス隊、先行しろ!」

 

 この場では、この二人だけがさきほどの悪手に気がついていたのだ。そしてアンヘルの隣にも、集団戦の基礎を知っている者がいた。

 

「奇襲戦防衛側は、何にしても視野の確保と状況整理が重視される。自ら視界を妨げるなど、愚の骨頂よ」

 

「何、どういう意味っ?」

 

「間抜けは黙って見ていろ」

 

 戦争において経験というのは重い。戦術に詳しい者でも突発的な事態となれば、力を発揮できないことが多いのだ。

 

 そういう意味では、この男に勝てる人物はそういないだろう。

 

「乱戦になるぞ」

 

 クナルは背中の大曲刀を引き抜き、正眼に構えた。

 

「だから何を――」

 

 アンヘルの言葉は最後まで紡げなかった。

 

 土煙の向こうから、大量の魔軍が出現した。幽鬼、小鬼、大鬼、機械人形に夢魔。それらは塊となって、どよめく候補生集団に突撃した。

 

 血みどろの乱戦が始まった。

 

 魔物というのは、基本的に野生に忠実で戦術もクソもあったものではないと思われているが、実は違う。「王冠を被った小鬼」のように、集団を率いる頭の存在があれば、己の命を駒とした軍隊として機能する。

 

 仲間の屍を超えて先に行け。生温い戦闘経験しか持たない候補生たちに、それは覿面に作用した。

 

 一方、部隊の戦術は拙い。奇襲、主力の負傷、負傷者の防御など考えることは多い。そのうえ、基本的に小隊員は超個人主義ばかりである。乱戦には極めて脆弱といえるだろう。

 

 連携が上手い班は倒し過ぎて孤立するし、弱班は、片っ端から陣形崩壊を余儀なくされた。唯一の救いは、獅子奮迅の活躍を見せる騎士スキピオの存在である。彼の適正かそれとも経験か、馬車への猛攻を躱す指揮ぶりをみせ、すんでのところでなんとか堪えている。

 

「これは負け戦だな」

 

 鮮血に半顔を染めたクナルが鮮烈に笑った。

 

 イカれてやがる、とアンヘルは心中で貶しながらも、口先では同意を示した。

 

 とはいっても、まだ余裕があった。病人、負傷者を多数出し万全になくとも、ほぼ全員がルトリシア指揮の下、足並みを揃えているからだろう。そもそもルトリシア派は構成員含めて精鋭揃いである。途中参戦したクナルの暴威もあって、徐々に後退の準備が整いつつあった。

 

「フェルミン! 右方の敵を押しとどめろッ」

 

「わかりました。ラファエル隊長もお気をつけて!」

 

 近くで分隊を率いるラファエルは二ッと人好きのする笑みを浮かべた。

 

(こっちはどうにかなる。けど、あっちは)

 

 アンヘルの危惧通り、エルンスト派は動きを硬直させている。元々彼らは敵殲滅を考慮しているうえ、そもそも練度が低いのだ。

 

 畳み掛けるように不幸は続く。こういうときに限ってルトリシアは非情な選択をとる。勝手に殿を押しつけるかのように、エルンスト派の陣と連絡を切り孤立させたのだ。

 

「ホアン、ホアン候補生はなにをしているのだッ!」

 

 若武者エルンストの無情な響きが広がる。

 

「あれでは全滅もあるかもしれぬな」

 

「……助けにいったら?」

 

「自殺したいなら、貴様が行け」

 

 エルンストの計算ではこの危機でもなんとか乗り越えられる予定だったのだろうか。しかし、魔軍の個人能力に圧倒され、敵軍内で立ち往生を余儀なくされた。

 

 こうなると、候補生はフレンドリーファイアを恐れて恐慌状態になる。

 

「くそ、ここは俺がッ」

 

「エルンストさま。前に出過ぎれば――」

 

「だが、このままでは仲間がッ」

 

 巨大な機械人形が突進の構えを見せている。マズい。そう思った瞬間、ある男が颯爽と現れ、一刀の元にそれを切り倒した。

 

「この戦闘は無益である。見よ、ヴィエントの浅ましい姿を。我らに敵兵を押し付けて、助かろうとしている。我ら志士が貴族らの保身の爪牙となって堪るものか!」

 

「オウル、何を勝手にッ」

 

「貴方の指揮ではムダに犠牲が増える。ここは、私にしたがってもらおう!」

 

 オウルの掛け声と共にエルンストの指揮を脱して後退行動を取り始めた後、強烈な武威を持ってして、乱戦状態にあった候補生たちへ戦意高揚を促した。

 

 一方、そんな状況を見ていたアンヘルたちの戦況も佳境を迎えようとしていた。

 

「さて、此処からが本番よ」

 

「相変わらず、こういう役回りかぁ」

 

 クナルの異形の咆哮と共に、アンヘルは平青眼に構えると力を込めた。

 

 ルトリシアらは馬車の準備を終え、すでに数台走り出している。戦線は縮小し、残っているのは殿を受けたクナル・アンヘルだけである。気づけば少し先のエルンスト隊も考えを改めたのか、撤退の準備を始めていた。

 

「勝負でもするか?」

 

「褒賞は?」

 

「決まっていよう。名誉よ」

 

「寝言は寝て言おうね」

 

 場に残存する五十ほどの魔物は、さすがに精鋭揃いだった。

 

 とはいっても、対峙する方も尋常の使い手ではない。彼らは皆一様に目を血走らせて攻撃を加えてくるが、アンヘルたちの剣戟に近寄ることはできなかった。

 

 そもそも、二人の仕事は殿であり、殲滅ではない。斬っては引いて、斬っては引いてを繰り返して、なるたけ囲まれぬよう戦いを演じるだけである。数は大して減らなかったが優位に戦況を進めた。

 

「我らも引くぞ」

 

 エルンスト隊が引き上げ始めたのを見て、クナルは小鬼の首を足で割ると、一気に速度を上げた。

 

「こっちだ、馬車に乗れ!」

 

 先行していた馬車で唯一近辺に待機していた一台から、騎士ハーヴィーが叫んだ。アンヘルたちは大股で一気に草原を駆け抜けると馬車に飛び乗った。

 

 荒い息をつく。後方から魔物たちが恨めしそうに見ているのが視界の端に映った。

 

「御苦労でしたね」

 

 馬車の中で労いの言葉を掛けたのは、派閥の長ルトリシアだった。通例なら跪かねばならぬのだが、馬車内の狭さもあって敬礼で済ませた。

 

「ありがとう、ございます。てっきり先んじていたとばかり」

 

「あら、私があなた方を見捨てるとでも? それにしても腕を磨かれましたね。いえ、今までは手を抜いていたのでしょうか」

 

 ルトリシアは優しい微笑みを見せた。アンヘルは少しばかりドキリとしながら、いえと頭を下げた。

 

 なんとか一息ついたアンヘルは、馬車の端、ルトリシアの対角を描くようにして腰を下ろした。

 

 そんなとき、アンヘルは御者の脇から覗く前方に、脂ぎった中年の姿を見た。膨れ上がる感覚。微かに死の気配が香った。

 

 ――あれは、まずい。

 

「停車するんだ!」

 

 アンヘルは叫びながら、落ち着いた顔をしていたルトリシアの腕を掴んで、全力で馬車から飛んだ。掛け声と同時、クナルもハーヴィーを蹴り飛ばして地面に転がった。

 

 一拍遅れて、馬車を引いていた馬――エルンストらの馬を強奪したらしい――御者、木造りの馬車を貫通する様に巨大な鋭いモノが通過した。

 

 アンヘルはルトリシアを抱きながら、草原をゴロゴロ転がった。少しばかり避け損ねたのか、二の腕が裂けている。

 

 目を丸くしているルトリシアを背中に隠すと、アンヘルはしゃがんだ状態のまま抜剣の態勢をとった。

 

(落ち着け、どうやって切り抜けるかだけ考えろ。相手のアクションを見逃すな)

 

 ルトリシアの瞳に縋るような光を認めて、如何にこの状況が絶体絶命の危機か実感させられた。遠方から騎士ハーヴィーの非難が突き刺さるが、アンヘルは彼女の腰を抱いて、いつでも駆け出せるようにする。

 

「ほう、ほう。イケたかと思いましたが、物事に予想外はつきものですな。『あのお方』の計画を無視しての作戦でしたが。包囲は遅れて相手を逃すわ、追撃も退けられるわ、その上、姫を守るナイトの登場ですか」

 

 警戒を全開にしているアンヘルを他所に、呑気そのものの声が響いた。

 

 優雅にカツカツと歩いてくる男は、先日に挨拶を交わしたばかりのルイス代官であった。

 

 その間に生き残った乗員のクナル、ハーヴィーが走り寄ってくる。中でもクナルの顔にはには、鬼気迫る緊迫感と昂揚感が漂っていた。

 

「今回の事件はあなたが?」

 

「そうですとも。勿論、私がすべて計画させていただきました。叡智溢れる『あの方』の鬼謀が、こんな杜撰な結果を招くわけがありませんよ――ああ、そうそう、あなたがたが知りたいのはこれですかね」

 

 男はそういうと、纏っていた白のスラックスを開け広げ、胸元に刻まれた円形の刺青を示して見せた。

 

「私こそが、神秘の法の主人ですよ」

 

 ハーヴィーの目がギラっと光った。だが、ルトリシアが声でそれを制する。

 

「なぜそれを教えるのです」

 

「ははは。愉快、愉快ですよ。やはり聡明なのは見せかけですかな。穢れた血の末裔に相応しい見識です」

 

 男は腹を抱えて大声で笑った。

 

「どういう意味です?」

 

「私を倒すことなど不可能だからですよ。当初は脱出されて、解呪される可能性を危惧しましたが、まさかその場に留まって魔力を浪費するとは。口酸っぱく警戒を促されましたが歴史から何も学ばぬ無知蒙昧の徒を相手にしていたとは思いませなんだ。『あの方』の心配性も困ったものです」

 

「ほう、四対一。背後からは援護もくるぞ」

 

 と、クナルが挑発気味に言い返した。

 

「私相手に、穢れの邪法なしで勝ち目があるとでも?」

 

「やってみるか」

 

 クナルの狂気の笑みに相手も少しばかり面食らったようで、余裕綽々とした態度が剥がれ始めた。

 

「ほう、ほう。ならば、その言葉が偽りでないか、証明していただきましょうか」

 

 ルイスは己の頭頂部に手を当てると、顔をすり潰すようにして力を加える。顔が変形してゆく。それと同時、下顎が物理法則を超越するかのようにして、迫り出し始めた。

 

「あれは――クナル、やめさせるんだ!」

 

 アンヘルが叫ぶのも虚しく、極めて短い時間で体躯の変形は終わり、そのすべてが詳らかになった。

 

「お、お、お、お、オオオオォッ!」

 

 変化を始めたルイスの身体は、ミシミシと奇妙な潰れる音を立てながら、みるみるうちに肥大化していった。白豚の樽腹は爬虫類を思わせる被膜に覆われ、巨大化した頭蓋からは禍々しい角が突き出ていた。両腕には人体を容易く引き裂く五対の爪牙が光っている。

 

 その身体は鱗ごと尽く紺紫で、二対の翼を大きく広げると二階建て住宅ほどの大きさだ。眼前で見上げると、如何に人間がちっぽけなのかと実感させられるサイズ感である。中央には醜く太い血管が収斂して脈動し、邪法の元だと思わせる宝玉に繋がっていた。

 

「なんだ……これは」

 

 背後から徒歩で撤退してきたエルンストたちが、驚愕した表情でその巨躯を見上げた。

 

 ――邪龍。

 

 その禍々しい狂気の双眸が、アンヘルたちを貫くようにして、光っていた。

 

(どうすればいい。ヴィエント様を背負って逃げるには、相手が大きすぎる。かといって、邪竜相手に全力勝負となれば、剣しか選択がない今勝機は薄い。それに、追撃してくる魔軍を相手にしたら、飲み込まれる)

 

 龍というのは、なんであれ強力過ぎる。相手の特性を考えた時、乱戦時に味方ごと呑み込む戦術を取られれば、容易く全滅の憂き目に遭うだろう。

 

 そんなアンヘルの焦りを見越したように、ルトリシアが静かに囁いた。

 

「風が止んだら、抱いて逃げてくださいな。触るのは許可しますが、優しくですよ」

 

 なにを、と振り向いた時、やさしく微笑したルトリシアの顔があった。

 

 その瞬間。

 

 大気を裂くようにして、何層もの烈風が辺りを駆け巡り始めた。遅れて感じる神秘の奔流。それがルトリシアの身体を取り巻き、翡翠の髪を神々しく輝かせた。

 

「まさか、まだこれほどの力を――」

 

 邪竜がその巨体を震わせて、逃走の気配を見せる。

 

 だが、それよりも早く魔法が発動した。

 

「――嵐流」

 

 ルトリシアの手の指し示した方向に向かって、一陣の刃が何層にもなって迫った。それは強大な邪竜や魔軍に殺到すると、血風を巻き上げながら空間を切り裂いた。

 

 異次元の破壊力に唖然としていると、力の抜けたルトリシアがくてっ倒れた。アンヘルはすんでのところで抱き止める。

 

「撤退!」

 

 そのまま彼女を背負うと、ハーヴィーの怒鳴り声を無視して一気に駆け出した。

 

 ――ふふふ。やってくれますね。まさか今の状態でもこれほど迄の邪法が使えるとは。ですが、試合に負けても勝負には勝っていますから、良しとしますか。ふふふ、ふはははは。

 

 そんな笑い声が響く土煙から離れる。アンヘルたちは、からくもその追撃戦を振り切ったのだった。

 

 

 



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第六話:亀裂の入った卵たち

 気付けばどれほどの時間が経ったのだろうか。ホアンは、ルトリシアらからロヴィニ村で騒動が起きたと聞いて、小隊員の静止も聞かず走り出していた。

 

(なぜだ、なぜだ! なぜ、こんなことが起きている。どういうことなんだ。頼む、だれか無事だといってくれ!)

 

 ホアンはここ数日、ずっと塞ぎ込んでいた。というのも、あの現場を見て以来、なにも手付かずになってしまったのだ。だから、ロヴィニ村への魔軍急襲の報は寝耳に水もいいところだった。

 

 すべてを放り出して帰ってきたとき、村では魔物たちが列を成して行軍していた。煉瓦造りの家屋には、逃げ遅れたと思われる村人の残骸が残っている。

 

 焦る心をなんとか鎮めようとしたが、走る鼓動に煽られて、ひたすらに心配性な心が顔を出すだけであった。マリサの家は、親が猟師らしく森の近縁にひっそり建っているから、被害の可能性は低いだろう。そんな超観測的希望を拠り所にしていた。

 

 それでも腕は錆びつかなかったのか、転がるようにして村を駆け抜けた。空の鋭いまでの青さが目に染みた。

 

(家は、まだ無事か)

 

 ホアンは、雨で黒ずんだ古造の小屋に辿り着くと、一度立ち止まって疲れの溜まった身体から疲労を吐き出した。辺りは奇妙なほどしんしんとしている。

 

「マリサ、居るのか」

 

 無事なわけがない。そんな恐ろしい予感を抑えきれないまま、扉を開け広げた。

 

 血みどろの死体を貪る魔物の姿か。それとも、惨たらしく辱められている姿か。

 

 しかし、そんな覚悟を他所にあっさりと開いた扉の奥、そこに逢いたかった彼女はいた。それも、極めて自然な状態で。一瞬、ホアンは村で何も無かったかもしれないと思い込んでしまった。

 

「君、なのか」

 

 唖然としながら呟いた先には、いつかの淫靡な格好で俯きながら地面の一点を見つめているマリサの姿があった。

 

「無事、無事なんだな。よかった、よかったよ」

 

 ホアンは彼女の両肩を飛びつくようにして抑えると、揺さぶって無事を確かめた。暖かい肉の感触が掌から伝わってくる。為されるがままになっている彼女は、そのまま揺さぶられ続けた。

 

「よし、よし。無事でよかった。すぐ、すぐ逃げるぞ。もう今は村が危ないんだ」

 

 まったく動こうとしないマリサの顔を正面から覗き込んで、そうやって諭した。だか、彼女の瞳はがらんどうのままである。反応のない様子に戸惑っていると、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「なんだ、どうしたんだ?」

 

「……私……」

 

「なにか、なにか有ったのか」

 

 ゆっくり、慰めるように彼女の目を見つめた。すると、口の形が、はっきりと見えた。

 

 ――ホアンさん……私、殺したの。

 

 その瞬間、なにか恐ろしいものを感じて、ホアンは咄嗟に飛びのいた。遅れてその空間になにか恐ろしいモノが走った。

 

 恐怖に慄きながら、彼女を見る。相手は眉間に皺を寄せたまま目を伏せた。

 

「避けて、しまうのですね」

 

 マリサは悲しそうにいった。

 

「な、なに、を」

 

 喉の奥から、意味をなさない言語が、ただ音となって吐き出された。目の前の現実が理解できない。

 

 そのような恐ろしさは、再び彼女を捉えたとき、己の脳髄に偽らざる現実として映し出された。

 

 彼女のは人であるとは決して思われぬ異形の翼を広げる。足元に真白の蛇を従えていた。その手には、魔の者特有の波動が波のようにうねっている。エナジードレインの濃紫色であった。

 

「あ、あ、ああ」

 

 ホアンの中で漲っていた、生存確認の喜びが、みるみるうちに萎んでゆくのを感じていた。

 

 マリサのこの立ち姿を見て、意味するところは、この一つしかなかった。

 

 美しい姿を持ちながら、生者のエネルギーを糧にするもの。時の権力者や支配者に取り入り、古来から幾多の文明を破滅に追いやったという、全人類の敵。

 

 ――サキュバス。

 

 彼女の正体とは、これであったのだ。

 

「嘘、嘘だ……そう、嘘に決まっている」

 

 吐く言葉一つ一つが、虚しく空気に溶けていった。

 

 ひび割れた唇から呼気が漏れるたび、自分の声とは思えないしゃがれた呻きが長々と響く。

 

 ゆっくりと首を振りながら、後退る。脳の配線がショートし、心の中がシェイクされたように乱れた。足が震え、喉から嗚咽が漏れそうになって慌てて口許を押さえる。

 

 猖獗極まる村内の魔の兵。意味するところは、彼女も魔軍の一味であるということである。

 

 好意を寄せていた。なんとかして、彼女を都まで連れていけないかと考えていた。もしも、あの代官ルイスとのやり取りが不本意なものならば、身分を捨ててでも、救ってやりたいとまで思っていたのだ。

 

 そんなホアンの目に、魔の者に相応しい非人間的な美しい横顔が映じられた。それは、切り取られた絵画のような美しさと淫靡さが共同していた。

 

「ふぅん、これが貴方の言っていた情報提供者ですか」

 

 その声は這い出るかのように、背後から唐突に響いた。

 

 上半身をひねって背後を見ると、そこにはマリサとよく似た特徴を持つ、それでいて造形はまったく似ていない金髪紅瞳の女が佇立していた。

 

「な、何者だ!」

 

「うふふ。カワイイ子ですねぇ」

 

 女はモデルのように腰を揺らしながら、悠然と小屋に入ってきた。出口を塞がれた格好になる。なんとか距離を取ろうとジリジリ壁へ移動した。

 

「なんの用ですか」

 

 問いかけたマリサに嫌らしい笑みを浮かべると、近寄ってゆく。ホアンのことなど気にした様子はなかった。

 

「つれませんねぇ。折角指示を伝えにきたというのに」

 

「今は取り込み中です。下がりなさい」

 

「えぇ、いいじゃないですか。ほら、こんなに美味しそうな男なんですよ。すこしぐらい分けてくれてもいいじゃないですか」

 

 入ってきた金髪の女は腕に傷があるのも気に留めず、ぽたぽたと血を垂らしたままである。こちらに微笑みかけながら、赤いトップスの上を右手で摘んで、下乳を晒しながらお茶目に笑ってみせた。

 

「仕事はどうしました」

 

「それがぁ、聞いてくださいよぉー。なんか、意味わかんないぐらい強いやつがいてぇ、しかも龍理使いだったんですよ! そんなの聞いていませんよ」

 

「――仕事はどうしました」

 

「はいはい。お察しの通り、一匹逃しましたよ。しょうがないじゃないですか」

 

 女はぶー垂れたようにして、いった。

 

「なら、さっさと追いなさい」

 

「そっちはカオスさまが追ってるからいいんです。私のお仕事はここでおわり。そういうことですね」

 

 女はそういうと、片手で髪をかきあげながらペロリと長い舌で己の唇を舐めた。その瞳は、草食動物を見る肉食獣のようで、情熱のようなものが滲んでいた。

 

「それにしても、本当にいい男ですね。燃えるような赤髪に知的な目。しかも、服を着ていてもわかるいい身体。こんな田舎には居ない男です――最初は冗談半分でしたが、惜しくなってきました。譲ってくれませんか? ねえ、聞いてます?」

 

 女は勝手に苛立つと、無視を決め込んでいるマリサに詰め寄る。特段反応を示さない彼女に業を煮やしたのか、ホアンに向き直った。

 

「ねえ、そっちの貴方はどうなんです。私のほうがいいと思いませんか。テクはこんなマグロ女より遥かにいいですし、どっちの穴もばっちり整備してますよ」

 

 女は恥ずかしげもなく、半ば露出したようなミニスカの上からパンパンと尻を打ち、こちらに向けて見せた。

 

 ホアンは呑まれたまま、なにも答えられなかった。

 

「やっぱりおっぱいなんですかねぇ、カオスさまも、なんか最近淡白だし――」

 

 女は、流れのまま左手の爪を伸ばすと、あっさりマリサの肩紐をきった。薄い衣服はハラリと落ちて、上半身裸となる。ホアンの目に、白く美しいうなじから珠のような汗まで明確に映じられた。

 

「ほら、どうです。これがあなたを魅了したおっぱいですよ」

 

 女はぎりぎりと力のままにそれを握りつぶした。

 

 痛みを堪える呻きと共にマリサが鋭く反応して女の手を払う。手が離れると、サッと上半身に被せて右手で押さえた。

 

「何するんですか。こんなのちょっとしたスキンシップですよ」

 

「やめなさい。これは命令よ」

 

「ええ、固いなぁ」

 

「命令は絶対のはずよ」

 

 強く拒否を示すと、女は声を低くして、

 

「――おまえこそ、カオスさまに気に入られているからって。新参者のくせして調子に乗るなよ」

 

 と態度を急変させた。

 

 バチバチと火花を散らして両者が睨み合った。それでもマリサが折れないのを見ると、女はぺっと唾を吐いてから、壁に背中を預けた。

 

「はいはい。ならさっさとやっちゃってください」

 

「……わかっています」

 

 マリサは覚悟したように、一歩づつホアンに近寄り始めた。手には仄かに濃紫の光が灯っている。

 

「待てよ、待ってくれ。何を言ってんだ。マリサ。これがお前の望みなのか」

 

「……」

 

「本気、本気なのか! 全部嘘だってのか! 親父さんの故郷を見てみたいって言ってたじゃないか。なあ、本当の言葉で、お前の言葉でいってくれよ。頼む、頼むよ!」

 

 マリサの両翼が大きく張られた。片手を突き出した態勢のまま、影を深めている。それは、人との訣別を表しているように思えてならなかった。

 

「俺と、俺が街を案内するっていたら、あんなに喜んでたじゃないか!」

 

「あはははは、変な人。機嫌を取るだけのお世辞に決まっているじゃないですか。バッカですねぇ」

 

「……」

 

 女が後ろから嘲笑を浮かべている。

 

「でも貴方には感謝しなきゃですねぇ~。貴方が中隊の情報をペラッペラと話しまくったから、もう情報はだだっ漏れ。しっかもその中には、ヴィエントとリエガーっていう大物が混ざってるっていうじゃないですか。ほんと、男ってのは口が軽くてたまりませんねぇ~」

 

 その言葉を聞いた時、あまりの衝撃にひどい立ちくらみを覚えた。

 

 振り返ってみれば、時折、中隊の大して興味の引かれなさそうな情報に嬉しそうな顔をしていた。だから、聞かれるがまま中隊の構成員を知っている限り、いった。言ってしまったのだ。

 

「そうなのか」

 

「……」

 

 マリサは無言だ。

 

「何とか言ってくれ!」

 

「……娼婦のリップサービスを信じるなんて、愚かそのものですね」

 

 顔から、血の気がひいた。

 

 魂を引き裂かれるような痛みとともに、消えることのない強烈な大炎が心の底から湧き上がってきた。

 

 あの優しげな微笑みも。下らない話に相槌をうって見せたのも。それも、なにもかも、全部嘘なのか。

 

 許せない。裏切った。自分を弄んだのか。そう思うと脳髄が沸騰した。咄嗟に、口から罵声が飛んだ。

 

「この、阿婆擦れが! 騙しやがったな。殺してやる、殺してやるッ」

 

「……」

 

「あはははは、みてくださいよ。本性が出ました、出ちゃいましたよぉ。好き勝手身体を貪っておいて、気に入らなくなると一転して罵りはじめる。あーあ、男ってなんて虚しい生き物なんでしょうか」

 

 女が笑いながら腹を抱えている。目には隠しもしない蔑視が浮かんでいた。

 

 ホアンは長剣を抜刀すると、大上段に構える。何度も救国を行なって磨いた剣の冴えは、入学前とは桁が違っていた。惨烈な剣気が噴き出しはじめた。

 

 心の中で、宝物のように好きだったマリサの笑顔を、ゴミ箱にぶち込んだ。

 

 そのまま、ツツと地面を滑るようにして、動いた。

 

 全力で踏み込んだ。人生最大の気迫であったことは間違いない。

 

 振り下ろした白刃が相手の手刀と噛み合う瞬間、横合いから鮮やかな唐紅の髪が写りこんだ。

 

「てやぁああああ、どっせーい!」

 

 間合いに飛び込んできたのは、過去の迷宮探索演習で話題になったエルサ隊の実働隊員ユウマであった。

 

 彼女は、身の丈に迫るほどの大槌を大上段に振りかぶりながら、大気を割って振りおろした。その巨体。さすがに面食らったのだろう。マリサは長剣に応対しようとしていた身体を旋回させ、手刀で受け止めた。

 

 それを見たユウマは、ホアンの制服を掴みながら衝撃の反動で後方へ跳躍した。

 

 吹き飛ばされるような他人任せの加速感。流れる景色を見終える。着地後すぐ問いかけようとすると、さらに畳みかけるように後方から魔導銃の爆裂音が連鎖した。

 

「ホアン隊長、ご無事ですか」

「っち、くそ。まさかこんな所まで追いかけさせられるとは」

「文句を言わない。さっさと牽制する」

 

 エルサ、エセキエル、ソニアの順で三段撃ちのお手本ように連射すると、忽ち小屋の中は火の海になった。

 

 小屋の外に連れ出されると、ホアンにもさすがに状況が整理できて、ユウマの手を振り払った。

 

「手を離せ、何のつもりだ!」

 

「ええ……ウチ、ただ助けただけやのに」

 

「誰がそんなことをしてくれって頼んだ! お前ら『一般生』が指図するな!」

 

 咄嗟に差別用語を使ってしまった。しまったと思うも、もう遅い。一度吐き出された言葉は取り消せないのだ。

 

 ユウマの表情が曇ってゆく。関係ない。ホアンは彼女を押しのけて再び剣を構える。

 

「甘えないでよ!」

 

 砂塵が立ち上り沈黙を保っている小屋を睨みつけていると、真横から張り手を食らった。

 

 地面に倒れ込みながら、その相手を見る。

 

「なにをする!」

 

「貴方が死ぬなんてどうでもいいわ。でも、ここまで救出に来た私たちの意を汲みなさい! それに隊を纏める責務はどうしたのッ!」

 

 ソニアが顔を真っ赤にしながら、いった。一気呵成に吠えられると、すっと頭が冷えた。

 

 俯きながら「悪い」と小さくいった。相手は鼻を鳴らしただけだった。それでも謝罪の効果はあったのか、それとも見境を失ってすぐさま攻撃する可能性は低いと踏んだのだろうか。厳しい目つきをしていた他の人間も、前方へ意識を移し始めた。

 

「はあ、また邪魔者ですか。もう面倒くさいですねぇ」

 

「……」

 

 炎の立ちのぼる小屋から、女たちがゆっくりと出てくる。マリサは大斧を受けたにもかかわらず、一切怪我を負った様子はなかった。

 

「げ、うそやん。手応えはあったんやけどなぁ。もう一回やってみてもええ?」

 

「やめなさい。想像以上に強敵よ。二人も居れば、損害は免れないわ」

 

「だな。目的は達したんだ。さっさとズラかるぞ」

 

「ホアンさん。貴方にも来ていただきますよ」

 

 エルサがそういいながら、パッと右手を上げると、四人の小隊がひし形を描くようにして配置を変えた。先頭のエセキエルが懐に手を差し込む。

 

 遅れて意味が理解できたホアンは、士官学校のセオリー通り、目を手で覆った。

 

「行くぞ!」

 

 エセキエルが足元に野球ボール大の物体を投げつけると、全員が一斉に遁走した。一瞬後、空間が光で満ち溢れた。

 

 魔力充填式使い棄て特殊閃光弾。フラッシュバン。光系統の魔道具工学技術を発展させた新世代の兵器で、現代の特殊音響閃光弾とは違って一七〇デシベルの圧縮衝撃破はないが、太陽光を凌ぐ閃光を撒き散らした。

 

 それを予測していたエルサ隊は、素早く状況から脱出すると、撤退をはじめた。

 

 小屋に業火の炎が上がり始めた。

 

 後ろ髪を引かれるような、苦しい遁走であった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 死者、七名。

 行方不明者、十三名。

 重病者、十七名。

 

 総勢八九名の候補生内、三七名が行動不能に陥っている。重軽傷者を含めればその損耗率は半数を容易く上回り、軍事規則上に則れば*現状は事実上全滅を意味した。

 

 天には鈍く光る積雲が漂っている。それが、もうすぐ夕暮れという時刻であるにもかかわらず、闇に閉ざされたような暗く荒涼とした大地を演出していた。

 

 ロヴィニ村から十里。決死の逃避行を終えた候補生たちは、ガンジログゼロという近在の村に辿り着いていた。

 

 開拓村でもかなり侘しく、荒作りの家々が居並ぶ土地では大した休息も取れない。ボロボロの候補生たちは俯いたまま地べたに座り込んでいた。

 

 アンヘルは一人、嘆息するしかなかった。

 

(これから、どうする)

 

 漂う雰囲気は、一種の鬱状態にも伺えた。

 

 軍隊、というのは繊細なもので、どれだけ精強に鍛え上げたとしても、一度敗れれば、まるで新兵のように戦意が挫かれるのだ。

 

 下等な昆虫ですら、メスを争って破れると神経伝達物質が分泌され、鬱になる。殊更、人間というのは自意識がつよく、また賢い生き物だから、昆虫のように二、三日したら忘れてしまうといった自己決着をつけられない。

 

 人間のみに許された、知能レベルが高い故の弱点といってもいいだろう。それが、麻薬のような拭い難い依存性を持って、演習第一中隊に漂っていた。

 

(それに――)

 

 邪竜、というインパクトは強烈に過ぎたのだ。

 

 ――一族伝来の体内魔力観測法によれば、成龍に果てしなく近いな。

 ――バカにせず一応聞くけど、それって精度は?

 ――確認を取る術がないから知らぬが、勘では高いはずだ。上位属性だから、戦力勘算を五割増ししておけ。

 

 闇龍、光龍は、五大属性で常に序列一、二を争う極めつきの化け物である。以前、火山龍と闘ったアンヘルは、すでに子持ちの老龍といっていい火山龍に、その戦闘力、脅威を魂の隅々まで刻み込まれていた。

 

 絶望的な情報に呆然としながらとぼとぼ歩いていると、帰還に気がついたベップが歓迎の意を示してくれた。

 

「アンヘル、か。斥候の手応えはどうだった」

 

 やや疲れを表情の端にのぼらせている。アンヘルが斥候を言いつけられてからも何かしらあったのか、どことなくやけっぱちな印象を受けた。

 

「なにも」

 

 首を振りながら、ブーツの踵を打ちつけて泥を落とす。

 

「かなり先まで見回ったけど、追撃の気配はないよ。それどころか衝突地点にすら敵影はなかった」

 

「そうか」

 

 ベップは報告を受けると、頭をガリガリ掻いた。首脳部が会議を行なっている以上、現場統括は彼に任されているのだろう。手には指示用の手帳があった。

 

 アンヘルはルトリシアを抱えての救出後、その行為を見咎めた騎士スキピオ、隊長ラファエルによって、外回りの仕事を押し付けられていた。

 

 まあ、意識のない貴人をゼロ距離で抱き抱えていたのだから仕方のない差配である。ホアン班とエルサ班――ホアンには脱走疑惑が浮上しており、その追跡に当たっているらしい――が行方不明な以上、手空きの人員はアンヘルだけという理屈もあった。

 

「そっちは、何かあった?」

 

「まあ、有ったといえば有ったかな」

 

 ベップは苦々しい顔を隠そうとしない。いつも飄々とした態度を標榜とする彼には、珍しい姿勢である。

 

「ココだけの話だが――」

 

 と、ベップは音量を抑えながら辺りを見渡した。

 

「ヴィエントさまの容体は相当悪いな。化粧や元々の白さで誤魔化してるが、あの戦略魔法は堪えたみたいだ」

 

「そう、なんだね」

 

「後悪い知らせなのは、エルンスト派で序列の変動があったらしい。まあ、こんな事態だからしょうがねえが、隊はぐっちゃぐちゃよ――いい知らせなんてのは、アンドレス隊が戻ってきたことぐらいか」

 

「行方不明だった隊だよね。無事なの?」

 

「命はな。戦線復帰は数日じゃ効かねえだろうさ」

 

 そういうと、ベップは疲れたように馬車へ寄り掛かると、適当に手帳を放り投げた。

 

「まあ、どうでもいいさ。こっからは逃げるしかねえだろう。ピンピンしてんのは、ウチの隊長殿くらいさ――村の連中には悪いが、自殺までは職務に入らねえよ」

 

 すでに彼の許容範囲を逸脱している事態なのだろう。いや、それはすべての人間に当てはまり、現状の空気を鑑みれば敗戦の機運は明瞭に伺えた。

 

 それでも仕事は仕事なのか、結局ベップは首脳部に報告するよう言いつけると、再び現場整理に向かっていった。

 

 アンヘルはそのままの足で、ガンジログゼロの村長館へ赴いた。この屋敷――というには寂しすぎる作りだが――土間が大きめに作られているから、多人数が集まって会議、治療するのに良い空間である。部屋の片隅では持ち直したルトリシア派が中心となって重傷者の看病を行なっており、奥では首脳部と思われる人間たちの会議が行われていた。

 

 ルトリシア派の主要人員は、筆頭護衛ハーヴィ。次は召喚師のラファエルである。

 

 一方のエルンスト派は、彼の助勤を中心とした面々である。名前は聞いたが、アンヘルの記憶にはなかった。

 

「散歩の気分はどうであった」

 

「僕は犬かよ」

 

 アンヘルはそこで驚愕することになる。

 

 入り口で腕を組んで静かに佇んでいたのは、クナルだった。健康状態、戦闘能力を加味した結果、首脳部の護衛官の立ち位置を得たらしい。不服そうなのがこの男の異常性を表してはいたが。

 

「それで、状況は?」

 

「知らぬな」

 

 他人事のようにいった。相変わらず会議には参加しようとしないのか、聞いていなかったらしい。

 

「方針ぐらいは知っているでしょ」

 

「ふむ――ほとんど聞いていなかったから知らぬが、恐らく撤退になるだろうな」

 

「どういう意味? 反撃一択じゃないの」

 

 少しばかり予想外の結論に、疑問をもった。

 

「貴様は、蟻の生態には詳しいか?」

 

「は? 今関係あるの、それ?」

 

 突然意味不明なことを言われて、ポカンとした。

 

「南部熱帯地域の蟻は、夜になると巣の外に斥候を出す。それらは巣を外側から塞いだりと複数の作業をこなす重要な役割を持つのだが、翌朝には全滅する」

 

「へぇ、蟻に詳しいなんて意外だね。でも、意味がわかんないんだけど」

 

「魔物狩りとは、生態調査と似通っている。貴様が無知なのだ」

 

 クナルは鼻を鳴らしながら、此方を見下してきた。

 

「話の腰を折るな――いいか、この集団は重要なことを見失った、蟻以下の存在だ。貴様も見たのではないか? 外の腑抜けた光景をな。それに、シュタールの坊やも鞍替えしたとあっては、惰弱極まりない方針となるのは明白だろう」

 

 個々の生存よりも集団の勝利を目指す彼らしい意見だが、たとえは意味不明だ。ここで聞いてるじゃないか、とは思ってはいけない。藪蛇だ。

 

「シュタールさまは、そういう薄情さとは無縁だと思ったけど?」

 

 と、言いながらも、これは相手の穴を探そうとしているだけだなと思った。

 

 龍災には、大隊規模の派遣が通例となっている。それに加えて今回、魔軍とよばれる部族単位の魔物集団を率いているのだから、精鋭の派遣を検討する必要があるだろう。

 

 それでも、ルトリシアの魔法があれば勝機はあっただろう。つまり、邪竜との初邂逅こそが、唯一のチャンスであったのだ。

 

 アンヘルはそんな事情に今更ながら気づいて歯がみした。

 

 一方、エルンストらの舌戦は激しさを増していった。

 

「呪法は恐ろしいものだ。だが、それは俺たちには関係のないことだ」

 

「貴族は常世、手を取り合い武威を示してきたではありませんか」

 

 エルンストの怒りが篭った意見に、ルトリシアは淡々と返した。顔色は化粧で誤魔化してあるのか、何時もより尚白い。

 

「誰がそんな風に決めた。そもそも現状では、邪龍相手には戦力が足りなすぎる」

 

「それは――」

 

「ユースタスの自業自得だということは、分かっているはずだろう」

 

 エルンストはすでに議論が終わっていると思ったのか、席から立ち上がった。

 

「これは意見ではない。提案でもない。あの男のために、付いてきてくれている者たちに死ねとはいえん。撤退の決断をしてもらう」

 

「――却下します」

 

「なぜだ」

 

「婚約者を差し置いて、逃げることはまかりなりません」

 

 立ち上がったエルンストをただただ真摯に見つめた。

 

 此処にいるルトリシア派だけが、この絶望的な状況を理解している。この話し合いの邪魔はしないが、ハーヴィーなどは義手がギリギリと嫌な音を立てている。唇は歯の圧力で白くなっていた。

 

 嫌な雰囲気を両者放っている。もしかしたら何か起きるかもしれない。

 

 そんなときである。突然屋敷の外から声がした。

 

「おぅおぅ、これは上からの御言葉ですなぁ」

 

 声をした方角へ、場の全員が振り返った。彼らの発言を遮って、議論へ参入する人物に心当たりがなかったのである。

 

 しかし、エルンストらは闖入者を認めると、苦虫を噛みつぶしたような表情となった。

 

 その男は、中肉中背だが神経質そうな細く尖った顎、狼のような鋭い目をしている。純帝国風の金髪を総髪にし、肌は白く、背筋をぴんと伸ばしているからとても自信があるように伺えた。所々の若白髪が、眼力と相まって鮮烈な第一印象を齎す。

 

 現れたのは、エルンスト麾下のオウル連隊長であった。

 

 何より、貴族に対してこの態度である。まったく尊敬の念が感じられない姿はどこか勝算を持っているように伺えた。

 

「オウル、下がっていろ」

 

「そうは行きませんな。我らの命が掛かっているのに、あなたの主張は惰弱にすぎる」

 

 エルンストから叱責された男は、さらさらの直毛の金髪をかき上げながら芝居がかった仕草で部屋に入ってきた。ぞろぞろと、配下の者たちが続くようにして入ってきた。

 

「おい、どけよ」

 

「……」

 

 入口の前で屯していたアンヘルの顔へ唾を吐きつけると、そのまま鼻で笑いながら議論している奥まで進んだ。配下たちの哄笑が響いた。

 

 アンヘルはあまりの不快さに内心暴れまわりながら、袖で拭った。やけに強気な態度である。この男は、ルトリシア派に属している東方一刀流の志士を恨む傾向があるとはいえ、らしくない態度であった。

 

「下がれ、下民」

 

 突然会話に介入してきたオウルに、騎士ハーヴィーは主を庇いだてするようにして剣を抜いた。

 

「いいんですかな。そのような態度で?」

 

「なにを言っているッ」

 

「今は猫の手でも借りたいはず。そうではありませんか、ルトリシアさま」

 

 オウルは騎士ハーヴィーの手前で止まり、慇懃無礼に膝をついて騎士の礼をとった。

 

 ルトリシアは憤るハーヴィを手で制しながら、彼に尋ねた。

 

「なにが望みです」

 

「これは、これは。さすがに話がはやい」

 

 ルトリシアは、彼の遠まわしな態度に含みがあるとすぐに気が付いた。下々の連中にこういう態度を取られるのは経験がないのか、眉が気持ち寄っている。

 

(もしかしたら、ヴィエント様の病状が漏れたのかもしれない)

 

 その予感は、中らずと雖も遠からず、といったところであろう。慎重な男が、貴族に対して正面から要求を突きつけるなど他に考えられない。

 

「杯の御下賜、その栄に預かりたいと存じます」

 

「なっ!」

 

 驚愕して二の句が継げなかったのは、傍で聞いていたハーヴィーだった。彼は言葉の意味を理解すると、みるみるうちに顔を紅潮させてから、すぐさま相手を叩き斬らんと怒気を発した。

 

 ルトリシアは険しい表情で相手を見つめた。

 

「驕っている訳ではありませんね」

 

「もちろんですとも。相手は邪龍、全力で当たっても尚厳しい敵でありましょう。ならば、それに応じた礼を尽くすのが役目では?」

 

 オウルは強気である。杯の御下賜というのは、アンヘルはまったく知らない事柄であったが、それがルトリシアたちにとって易々と認められないことなのは察しがついた。ベップたち貴族系の人間は揃って驚愕しているから、よほどの重大事を所望したらしい。

 

 立ち上がると、固まっているハーヴィーの真横を素通りし、ルトリシアの白い顎に手を這わせ顎をくいっと上に向かせた。ふたりの視線が交錯した。

 

「無礼な」

 

 ルトリシアはその手を鋭く払った。不快なモノを見る眼をしている。

 

「さすが、帝国の宝玉とまで呼ばれた貴方は美しい。私ども下民など常々仰ぎ見るしかありませなんだが、こと此処に至っては立場など関係ありません。お近くで拝謁できて、とても光栄でございますよ」

 

「オウル、控えろッ!」

 

 エルンストが顔を真っ赤にさせてオウルの肩をつかんだ。両者は相当不仲であると噂で聞いていたが、確かにオウルが振り返りながら相手を見る表情は悪感情しか浮かんでいなかった。

 

 ルトリシアは掴まれた顎を袖で拭ってから、じっと黙って机を見ていた。その後、一度目蓋を閉じると、もごもごと口の中で相手の言葉を反芻するようにして、咀嚼した。

 

「ルトリシアさま」

 

「……」

 

「なりませんぞ」

 

「……」

 

「ルトリシアさま!」

 

 ルトリシアはハーヴィーの問いかけにを一切無視して、ただひたすら思案に耽った。数瞬後、目を再び開けると、その宝石のような目を沈痛な色に染め上げて、いった。

 

「オウル候補生。論決は後ほど伝えます。下がりなさい」

 

「はっ、良いご返事を期待しております」

 

 オウルは、にたにたとした粘着質な笑みを誤魔化さないまま、堂々と去っていった。部屋の中の全員が、彼を憎々し気に見つめている。

 

「よい部下を持ちましたね」

 

 ルトリシアは、とげとげしさを隠さないままエセキエルにそういった。エルンストは、相手の弾劾に苦い顔をしながらも、言い訳を吐かなかった。

 

「謝罪はしよう。だがな、おれたちの意見は変わらない。即座に撤退を求める」

 

「私は、すべてを生かしたい、と言っているのです」

 

「不可能だ。おれは、学んだ。ここは勝負するべき場面じゃない。一度帝都まで撤退し、正規軍を派遣するべきだ」

 

 彼にも苦い経験があったのか。人が肥っている、とでもいうべきなのだろう。派閥の長として、この沸騰しつつある士官学校内で国事を論じている間に現実的な視線と夢想的な視点を持つようになった。昔なら、この男は部下の身を省みずに戦いへ走った可能性もある。

 

「あなたも長なら、現実を見ろ」

 

 そういって、エルンストも派閥を引っ提げて去っていった。

 

 ルトリシアに付き従うマニュエル連隊長がちいさく息を吐いた。彼女らの声にならない悲鳴が、徐々に漏れ出していくのを感じていた。アンヘルは、上着の襟をゆっくりと直しながら、部屋のなかに充満する諦めのような重々しい空気に耐えた。

 

 その場で会議は解散の運びとなった。アンヘルは部下にひっそり報告を済ませると、指示役にしたがって休息をとることになった。

 

 

 




*師団規模の場合、らしいですが。大隊規模の場合は損耗率10割が全滅なのかな? 調査不足ですがお許しを。


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第七話:叱責

「落ち着きましたか?」

 

 栗鼠のような可愛らしい仕草で首を傾げながら、隊長であるエルサが水筒を差し出している。ソニアはほっと息を吐きながら、薪を焚き火に放り込んだ。

 

「……ああ」

 

 救出したホアンが心此処に在らずという風で返事をした。パチパチ、と焚き火が弾けている。だと云うのに、寒々しい谷風が轟々と唸っており、全身を突き刺すようであった。ソニアは身体を縮めながら炎に近寄るが、風が体温を奪うのは止められない。

 

 闇の帳が降り、一寸先すら見通せない深い暗闇の中でソニアたちはなんとか脱出後の一息をついていた。

 

 身体が鉛になったように重い。長い距離を奔走したうえ、見通せぬ先行きに鬱々とした不安が蔓延り、朧げな森へ一層影を落としたようにすら思えた。

 

「結局、七〇小隊(ホアンの班)とは再会できませんでしたね」

 

 ソニアはその短い黒髪を撫でつけながら、ハキハキした言葉遣いで答えた。

 

「無事で居てくれればいいのですが……そもそも入村前に逸れたので合流は絶望的でしょう」

 

「これからどうしますか?」

 

「斥候次第ですが、一度情報整理するため、撤退したほうがいいでしょう」

 

「ですね。中隊なら詳しい情報を得ているかもしれません」

 

 エルサたち七八小隊がここ迄ホアンを追ってきた経緯はこうである。魔軍襲来の情報が齎された時、七八エルサ班は偶然外回りに出ており、ホアンの追跡を頼まれたのだ。よって、中隊の窮地など何も把握していなかった。

 

 ふう、とエルサが息を吐いた。ここで軍行動は終わりという合図だ。ソニアもそれに合わせて口調を崩す。

 

「――遅いですね。エセキエルさんも居るので、無茶はしないと思うのですが」

 

「ユウマが居るからね」

 

 ソニアはちょっと呆れた顔を見せる。

 

「前はその辺のキノコを食べて腹痛で死にかけていたかしら」

 

「今の場面では笑えませんね」

 

 エルサが苦味のある笑みを浮かべた。薬学を学んだ彼女としては、信じ難い行為なのだ。ただ、ユウマも学んでいる筈なのが笑えるが。

 

 ソニアはゆっくりと焚き火の側に寄った。ホアンはまだ呆然としている。じっと焚き火の炎を覗き込んでいるだけで、瞳に空虚さすら感じさせる。このまま放っておくには忍びない。

 

 それに、このまま黙っていても何も改善しない。エルサと顔を見合わせてから、頷き合った。

 

「ロペス隊長」

 

「……」

 

「聞いていますか、ロペス隊長。貴方には脱走の疑惑があるそうですし、魔族の女と関係があったように見受けられます。一度話して頂きたいのですが」

 

 男は沈痛な色を浮かべた。このような表情を見れば心が痛む。言葉を失ったソニアの代わりに、エルサが身を乗り出した。

 

「ロペスさん。せめて、話せることだけでもお願いします」

 

 それでも黙っていた。どれだけ問いつめても口を結んだまま、何も答えようとはしない。

 

 ソニアたちもとくに話を聞き出すことに慣れているわけではなかったし、焦燥した男から無理やり聞き出すのは気が咎める。

 

 体育座りで彼を眺めるだけの時間が続いていると、唐突に風の吹きすさぶ音が止んだ。

 

 無音。

 

 それが口を開かせるきっかけとなったのか、ホアンはぽつりと言葉を紡ぎはじめた。

 

「手先、と言っていた」

 

「つまり何某かの部下、という意味ですか?」

 

「そう、だろう」

 

 饒舌な訳ではなかったが、ポツリポツリと話す内容に耳を傾ける。

 

 曰く、女の一人はもう一方の部下である。

 曰く、その上に『カオス』という人物が控えているらしい。

 

 とはいっても、大した情報量ではない。女二人が幹部のような存在であること。前々から何かを計画しており、今回の襲撃事件は突発的な犯行であるらしいこと。ちょっと不手際があったらしいこと。彼女らが、有名な魔族、サキュバスであること。などを話した。

 

 エルサがホッとしたように息を漏らした。

 

「よく生きていられたわね。私たち」

 

「追いかけて来なくて助かりました」

 

 しみじみとエルサが呟いた。確かにその通りなのだ、なのだが。

 

(もしかしたら……)

 

 ソニアには別の意図があるように思えてならなかった。

 

 それは、最近の悩みにも直結する。この激化する士官学校内の派閥争いの真っ只中で奮闘するソニアはひとつ、大きな疑念を抱くようになっていた。

 

 ――士官学校には、力を隠した人間が多数存在する。

 

 七八小隊は、迷宮探索演習初の二回踏破を達成した。しかも、クナル班が単独で制覇してしまったから、実質合同小隊の中心となったのは七八小隊なのである。特別賞受賞もあり、下位班の中では随一と謳われていたが、最近の動きを鑑みれば、それが幻か何かだと思えてしまっていた。

 

(この班の連携は悪くない。いいえ、個人としてもユウマの実力は抜き出ている。そう思っていたのに)

 

 最近起きたオウル班の躍進。あの小隊演習戦を見たとき、不覚にも及ばないという感想を抱いてしまったのだ。

 

 それ以外にも、警戒していなかった連中に模擬戦で負けるなど、戦闘訓練成績は徐々に下がり始めている。ソニアには彼らが努力によって突如能力を開花させたとは微塵も考えられなかった。

 

(それに、先輩たちが言っていたこともある)

 

 先輩たちは、武芸者に「ボーダー」と呼ばれる基準が存在すると述べていた。無論、その存在に否定的な者もいたが、昨今の事情を鑑みると、それがまったくの嘘であるとは言いきれなかった。

 

 ボーダー。つまり、境界を超えし者たちのことである。人間の生存本能が極限まで研ぎ澄まされる環境に身をやつし、それでも尚真に生を望み、勝ち取ったものに与えられる神の恩寵である。

 

 一般には秘匿されているが、武芸者の能力向上は青天井であるのだ。無論、誰でも辿り着ける境地ではない。いや、ソニア自身覚えがあるのだ。あの巨人との戦闘において、底から溢れんばかりに力が流れ込んできた。あれは決して嘘偽りではない。

 

 少年老い易く学成り難しゆえに一寸の光陰軽んべからず、というが、武芸者には成長など瞬きの間かもしれない。今年の候補生は奇跡の世代だと、皆口を揃えて言っていたのもある。冒険者あがり、紛争地帯出身に部族出身。それらの人間が纏う空気というのは、すこし違うことを感じはじめていた。

 

(その疑わしき筆頭は、このホアン・ロペスという男)

 

 決して目立つ男ではない。班の序列は七〇であり、有名な班員も居ない。だが、その殺伐とした風貌、尖り切った目つきは明らかに尋常の者ではないとすぐわかる。世間では「救国」主義者たちが蔓延っているが、彼がその一味であると否定しきれぬ自分がいた。

 

 ――もしかしたら、相手はこの男を警戒して。

 

 いいえ、とソニアはぶんぶん首を振った。現状を棚上げしても仕方あるまい。士官学校の下らぬ事情など持ち込んでいる暇はなかった。

 

 さっさと場を退くべきである。いつ敵が現れるかわかったものではないし、彼とエルサの相性もわかったものではなかった。

 

 ソニアは腰を浮かしながら、告げた。

 

「馬鹿たちを探してくるわ。いつまでもこうしてはいられないもの」

 

「そう、ですね。よろしくお願いします」

 

「そいつは結構だ――」

 

 立ち上がったソニアの背後で、ざっざっと雑踏を踏む音が響いた。

 

 無礼な口調で近寄ってきたのは、話題の男エセキエルだった。神経質そうな目が細まり、眉間が連峰のように波打っている。

 

 馬鹿と言われたことに腹が立ったのだろう。足音をどすどす立てながら近寄ってきた。

 

「やっとね。って、その背中のはどうしたの!」

 

「ああ、これね」

 

 エセキエルが背負っていた人間をごろっと降ろした。唐紅色の髪が印象的な女性、ユウマである。

 

 ソニアは反射的に鋭く叫んだ。

 

「どうしたのっ、それっ!」

 

「どうしたもこうしたもあるか。この馬鹿、また隠れて拾い食いを始めやがった」

 

「また? だからちゃんと見張ってなさいと」

 

「俺はお守りかよ。一々そんな注意しなくていいと思ったんだよ」

 

 エセキエルの眼がちょっとばかり剣呑となる。彼もさすがに疲れているのだろ。まあ正直なところ拾い食いする人間の重りなど御免だと、ソニアならそう答える。

 

 だが、エルサがこの班で最大戦力なのも事実。とくに仲間の死に敏感なエルサは、こちらの身体を押しのけながら寝転がっているユウマに駆け寄った。

 

「ユウマちゃんは大丈夫なんですか!」

 

 近寄り、首元に手を当てている。脈を確かめはじめたのだ。

 

「心配すんなよ。ただ、寝てるだけだ」

 

「むみゅ~、ウチ、もう食べられへんてぇ」

 

 幸せそうな顔をしたユウマから、これまた幸せそうな台詞が吐き出された。口の端には涎。

 

 このボケ。ソニアは無意識の内に地面を蹴っていた。エルサも同意だったのか、数センチ持ち上げていた頭を無造作に落とす。ゴツンという嫌な音が鳴った。

 

「起きたら水に沈めるわ」

 

「協力します。三日は眠れないようにしましょう」

 

 エルサはもはや小隊の恥だと感じたのか、目が据わっている。が、エセキエルは頭を掻きながら擁護した。

 

「ま、やめてやれよ。コイツは馬鹿だが、今回ばかりは勲章を上げてもいいかもな」

 

「なぜ庇うの?」

 

「俺も叩き起こしてやろうかと思ったさ。けど、こいつ頬を引っ叩いても起きねえ。なんかおかしいと思って、コイツが食ったのを良く見たのさ」

 

 エセキエルは腰のバックから三枚の葉っぱを取り出した。緑色が茂る、何の変哲のない葉っぱ。それを見る彼の眼鏡は怜悧な光を反射していた。

 

「なによ、それ?」

 

「コクの葉ってやつだ。南部の暖かい地域に生える。こいつが大量に植えられていたのさ」

 

「だからそれがどうしたっていうのよ?」

 

「話の腰を折るなよ。最後までちゃんと聞け」

 

 エセキエルは眼鏡をくいッと上げながら、かぶりをふった。

 

「次にこのバカの特徴はなんだ、ソニア?」

 

「英雄症候群よね。それがどうかしたのかしら?」

 

「そう、それだ。強化術が得意ってことだが、実はそれだけじゃない。無意識に使えるってことは、意識しなくても使ってしまうってことなんだ。そしてそれは、身体能力以外にも適応される。

 なあ、森に住む部族が、半里先の足音を判別できるって話を聞いたことはないか?」

 

 思い当ることがあるのか、エルサが発言した。

 

「アルン人ですね。長い耳が集音能力を高めると長年信じられていましたが、実は聴覚強化に優れる遺伝的特徴だと証明されたのでしたか?」

 

「よく知ってるわねエルサ隊長も。それで、それに何が関係あるの?」

 

「この二つを合わせると、ある事実が出てくるんだよ」

 

 エセキエルはしゃがみながら、言葉を紡いだ。

 

「『サイレール』っていうものを知っているか?」

 

「なによ、それ」

 

 聞き馴染みのない単語に眉を顰める。エルサも同様だったのか、不思議そうな表情をしていた。

 

「おいおい、冗談だろ。情弱でも知ってるぞ」

 

「わかったわ。早く説明して」

 

「……錬金術師お得意の物質錬金で作り出された合成物質にケルタミンというものがあるんだが、この葉っぱがそれの原材料なんだよ。昔はカルタゴ教国の資産で、南部の暖かい地域で育つと思い出してピンと来たんだ」

 

 結論を言わないその話し方にイライラする。ソニアの額に青筋が浮かび始めていた。

 

「だからいつも言っているでしょう。御託が長過ぎるわ。要点だけいいなさい」

 

「こっちが教えてやってるんだぞ……」

 

 エセキエルが不貞腐れたように口を尖らせる。とはいえ、エルサも同感なのかちょっと口先が曲がっている。それを察したのか、まあいいとエセキエルは話を続けた。

 

「それで、サイレールってのは、そのケルタミンを錠剤化したものらしい。製造当初は薬として重宝したらしいが――」

 

 いったん言葉を区切って、二人を見渡した。

 

「今は違う」

 

「違う? どういう意味よ?」

 

「これには判断を狂わせる効果と強い依存症があるんだ。それ以来、こいつは別のことに使われている」

 

「何よ。それって」

 

「待ってください。それはもしかして――」

 

 エルサが話を遮ってきた。検討がついたらしい。血の気が引いた顔をしている。

 

「そうだ。今は、ドラッグだ」

 

 サイレールとは、オスゼリアスで流行の兆しをみせる非合法の薬物である。意味するのは名前の通り。しかも、強い依存性があり、手慣れた人間なら快楽と借金の地獄に叩き落として人間をランクアップさせる。人間の尊厳を丸ごと踏み砕く、禁忌の薬物である。

 

「この馬鹿は、意識しないと常人の何倍もの消化・吸収力を発揮する。だから、濃縮しないと効果が薄いコクの葉でも、覿面に作用したんだろう」

 

「ちょっと待って」

 

 頭を押さえながら、話を分断した。

 

「この村では、違法ドラッグが製造されていたってことなの」

 

「そうだ。思い返せば明らかにこの村は富んでいた。こんな辺境なのにな――それに、気づいたか?」

 

「これ以上何があるの?」

 

「村の人口は、あの規模からいって三百人はくだらない。その人数が魔軍に気が付かないなんてあり得るか?」

 

「……たしかに。村人なら一目散に逃げるはず。半日の間に制圧なんて無理だわ」

 

 ソニアは知らぬことだが、ほとんどの死体は家の中で殺害されており、アンヘルが奇妙に思ったことと一致していた。

 

(もしかしたら、村と魔物はグル? いいえ、そんな筈ないわ)

 

 内心浮かんだ疑問を自否定していると、エセキエルは得た情報に満足したのか、うんうんと頷いている。

 

「違法ドラッグの栽培。神速で制圧された村。ここまで異常事態が重なるなんて偶然はありえない。とすればだ――」

 

 そこまで続けてから、エセキエルは思案に耽っていた顔を上げた。キョトンとした顔である。

 

「なあ、ソニア。俺の装備はどうした?」

 

「そこに置いたはずよ」

 

「そこって、何処だよ」

 

 キョロキョロと周りを見渡すしかなかった。置いたはずの道具がない。しかも、エルサが恐ろしいことを言いはじめた。

 

「あの、そういえばロペスさんはどこに?」

 

 ぎょっとして全員が居たはずの場所を見た。何もない。忽然、ホアンは姿を消していた。ソニアは皆に向かって激しく言葉を発することしかできなかった。

 

「うそでしょッ! 探して、くまなく探すのよ!」

 

 多分、一番の苦労人になるのは彼女だろう。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 同刻、ガンジログゼロ村村長宅。

 

 男は室内にて、一人で佇む貴人の姿を認めていた。その女――翡翠の君は、粗末なスツールに腰掛けながら、こちらに背を向けている。

 

 それを見てほくそ笑む。いつもは凛々しかったその姿がどこか萎んだようにすら思えた。

 

 男――オウルは、足音を殺して女の背後に忍び寄ると、そっと背後からその肩に手をおいた。

 

「ルトリシアさま、ご様子を伺いに参りました」

 

 入室の際には返事をしたから、その存在は気付いていただろう。だが、決して反応を示そうとはしない。貧民を歯牙にも掛けないという意思表示なのかもしれないが、それが寧ろ怯えを隠しているようにすら見えた。

 

 所詮はまだ十七、八の若い女に過ぎないのだ。いくら気丈に振る舞っても、自分の命が掛かれば弱気にもなるだろう。オウルはニタニタとした笑みを口の端にのぼらせた。

 

 ――貴き女を堕とすのは、心底ソソるものだ。

 

 オウルは長い髪で隠れた可愛らしい小耳に息を吹きかけて露出させた。ルトリシアの身体がピクリと跳ねる。

 

 それでも、女は抵抗を見せなかった。

 

 さらに甘い言葉を耳元で囁く。

 

「心配はいりません。貴方も私の実力をご存知のはず。必ずや邪龍を討滅して差し上げましょう」

 

 嘘である。あの邪龍の姿を一眼見たが、おそらく捨身で特攻しても敗北することは明白である。

 

 だが現状、ルトリシアには縋る道がない。エルンストは勢力としては達者だが、単独戦闘能力には欠ける。あのような化け物には、集団よりも単騎性能に長けた人材が不可欠であった。

 

 歪んだ笑みを貼り付けながら、オウルはされるがままの宝玉のような髪を手で梳いた。

 

 ――これでこの女も私のものだ。

 

 喝采で叫びそうになる心を抑えて、視線をスライドさせる。

 

 陶器のような白い肌に細い首。鎖骨は、屈辱か感情の昂りの所為で、薄く桃色に上気している。未だ年若いというのに、士官学校制服を大きく押しあげる果実が実っており、掬っても拾いきれぬほどだ。まさに美術品そのものである。

 

 この女を楽しんだ後は派閥を皆殺しにし、その首を元に派閥を駆け上がれば――

 

 地位、名誉、女。すべてが思いのままだ。そんな皮算用を胸に、すでに同意が取れたものと確信する。

 

 さて、少し味見でもするかとその乳房に手を伸ばした所で、女が手首をぐっと掴んだ。

 

「まだそこまで許したつもりはありません」

 

 視線もくれなかったが、さすがの迫力だ。もう力をたいして使えないことは派閥に潜り込ませた手の者によって知っている。だが、それが本当に正しい情報なのかわからなくなるほどだ。

 

 掴まれた手首を押さえながら、数歩後退する。その背中を強く見つめた。

 

「よ、よろしいので? まだご決断されなくとも」

 

「論結を待ちなさい。オウル候補生」

 

 その言葉を最後に、興味なさげに会話を打ち切った。

 

(クソっ。まだこれほどの力を……)

 

 真正面から撃ち合えば確実に敗北する。向こうにはまだ召喚師ラファエルや騎士ハーヴィーもいるのだ。それに貴族が加われば敗北は必至である。

 

「では、良い返事をお待ちしておりますよ。ルトリシアさま」

 

 慇懃無礼に頭を下げて部屋を出る。だが、まだオウルには余裕があった。

 

 どうせ手は存在しないのだ。強がっていればいい。

 

 オウルはほくそ笑みながら、手に入る宝石の大きさに感嘆するのだった。

 

 

 

 §

 

 

 

 ソニアたちが野営する少し前。アンヘルは村中央の広場から外れた中年夫婦農家の道具小屋で世話になっていた。彼らに礼をすると、設えてくれた土間のかがり火の前に座った。

 

 疲れからウトウトする。朝から飛び起き、真昼間からは村の大虐殺騒動や邪龍追撃で大いに体力を消耗していたから、寝入るのは早かった。

 

 そのまま目を閉じる。剣を抱えた姿勢で膝を立て、壁に背を預けていた。傾いた日が空を血の色に染め上げ、世界が詰まったような印象を与える。吹き込む山風が地を冷やし、アンヘルの吐息を白銀へと変える。老夫婦が土間中央のかがり火に薪を足してゆく。いったん降りてきた日常に心緩めていると、ふと、唐突に外が騒がしくなっているのに気が付いた。

 

「うん?」

 

 アンヘルは寝ぼけ眼をごしごしと手の甲で拭ってから、虫籠窓からじっと様子をうかがった。

 

 敵襲という気配ではない。人同士の小競り合い、というように見えた。

 

 ようやく目が慣れてくると、男たちの小競り合いだと判明する。猟師服姿の男は戸惑う候補生ふたりを突き飛ばすと、一気呵成に村中を飛び出していった。抜き身の輝きが差し込む。どうやら、腰に鞘を外した剣を持っているらしい。

 

 大方、落ち着いてから血の気の逸ったミゲルが制止する候補生を押しのけて飛び出し行ったのだろう。とはいえ、現状が現状である。余り騒ぎ立てると、彼がどんな目にあわされるか分かったものではない。アンヘルは外套を羽織ると、屋敷の外へ出た。

 

「なにかあったの?」

 

「おっ、アンヘル。いや助かったよ。あの男、俺たちのいうことも聞かずに行きやがった」

 

 ベップは困ったように首を掻きながら、そういった。

 

「止めようとはしたんだが、話を聞かないもんで」

 

「僕が追いかけるよ」

 

 ベップは安堵したように笑みを漏らした。

 

「助かるよ。もう村は悲惨だろうし、一人くらいは助けてやりてえ」

 

「そうだね――徒歩でいった?」

 

「ああ、残された馬の管理は厳重だからな。だが剣を一本持っていきやがった」

 

「分かった」

 

 アンヘルは黙って一度頷くと、泊まっていた屋根に飛び乗ってから、目の上を手で陽射し除けを作ってから方々を睥睨した。遥か彼方、燃えるような夕焼けに向かって、一人の男の焦燥感に溢れた背中が見えた。

 

 このまま黙っていかせるわけにはいかない。

 

 屋根から飛び降りると、小走りで追いながら声を掛けた。ミゲルは背後のアンヘルに気が付くと、突如として進む方角を変更し、深い森の中へ分け入っていった。その走力は猟師だけあって、一般人離れしている。士官候補生が全力で追っても、なかなか追いつけない。

 

(くそッ、暗くなってきた)

 

 夜が更けてしまえば、相手を見つけるのは困難である。アンヘルはあくまでも士官候補生であって、レンジャー技能はまったく保有していない。一度見失ってしまえば、足跡から森の中でたった一人の男を追跡するのは、困難を極める。

 

 アンヘルはさらに足を速めた。それほど俊足ではないが、持久力には自信があったのである。

 

 とはいっても、相手もそれは同じだっただろう。山は相手のホームグランドだから、時折迂回しなければならない道すらも、ミゲルは颯爽と走ってゆく。

 

 息せき切って走る。呼吸は激しくなり、心臓が口から飛び出しそうなほど鐘を打つ。ぬかるんだ地面が、体力を奪う。それでもむきになって追い続け、見失ったときには樹林の上に飛び上がって、遠ざかってゆくミゲルを補足しつづけた。

 

 半刻ほどの鬼ごっこであった。

 

 もう森は一寸先も見通せぬほど真っ暗になり、相手は敵を撒いたと油断している。そんなとき、アンヘルは木の上からばっと蝙蝠のように飛び降りた。

 

「て、てめえ」

 

「追いかけっこは終わりにしましょう」

 

 アンヘルが低くいうと、ミゲルは呑まれたようにして一歩二歩と後退するが、背後には彼が手を掛けていた巨樹があり、距離をとることは叶わなかった。

 

「放っておいてくれ! 俺は村に戻らなきゃならねえ」

 

「死ぬと分かっていて、あなたを行かせるわけにはいきません」

 

 すっと抜き身の剣を正眼に構えるミゲルだが、いつかの余裕はまったくない。先日とちがって、アンヘルの実力を把握しているから、付け焼き刃の暴力では勝負にならないことを承知していたのだ。

 

 アンヘルが一歩踏み込む。それに呑まれたミゲルはフルフルと剣を震わせる。

 

 動揺に合わせ、一気に間合いを詰める。手首を押さえ込みながら剣を叩き落とした。

 

 剣を失ったミゲルは、懇願するように頭を地につける。

 

「頼む、頼むよ。なあ、今生の頼みだ」

 

「ミゲル、さん」

 

「あんたには関係ないことだろう。だがよ、あの村は俺が生まれ育ったところなんだ。なあ、わかるだろ。俺にとってあそこはすべてなんだ。生まれて、死ぬまで。ずっとあそこに居る。くだらねえとはわかってても、それが俺のすべてなんだ!」

 

 そう叫ぶと、身体を九の字に折りながら、嗚咽を漏らしはじめた。

 

 その痛ましげな姿が過去の誰かに被って見えた。

 

 ――それでもオレたちの村なんだ。ここで戦わなきゃ、いつ戦うっていうんだッ。

 

 ――そ、そっか、それじゃ、オレたち……むらをま、まもった、んだね。へ、へへ、やった。やったなぁ。

 

「やめて、やめてください」

 

「なあ、なあ頼むよ。頼む」

 

 涙声になって足元に縋り付いてくる。目尻から澎湃と透明な雫が流れ落ち、地面にポタポタと後をつくる。

 

 その姿が鋭い刃となって突き刺さる。

 

 彼の家で飲み明かしたときの話を思い出す。改宗した親方とは口汚く罵り合った。代官が持ち込んだ農業に従事する連中とは縁を切った。だが、それでも村のことは大切だと、言い切ったのだ。

 

 たとえ酔っていたとしても、それは嘘には思えなかった。

 

 それが、自分には眩しく映るのだ。いつかあの平穏な日の本の国へ帰りたい。美しく、優しいあの世界へ。誰もが、死と強奪の気配に怯えることのない、煌びやかな世界へ。

 

 それが決して叶わぬ夢だと知っていて。

 

「あんたらは、村を見捨てて逃げるつもりなんだろ。なら、いいじゃねえか。人生ってのは、誰かに決められて進むもんじゃねえ。あんただって男だ。なあ、そう思うだろ。なら、黙って行かせてくれ。

 俺は、後悔しているんだ。あんとき、あんたに連れて行かれて、そのまま呆然としたまま逃げちまった。けど、あんな状況だったんだ。俺が残りゃ、誰か助けられたかもしれねえ。新婚のバルス。従兄弟のヘンゲル。誰でもいい。俺の命なんて、おしかねえんだ!」

 

「もう、やめてください。行かせられません」

 

「頼む、今生の頼みさ。俺を、俺を行かせてくれっ!」

 

 アンヘルは、そっと彼の肩に手をそえた。できない、という意味をただ態度で表した。

 

「行かせて、くれよぉ」

 

 ミゲルはそのまま涙を流し続けた。

 

 

 

 §

 

 

 

 時は亥の刻を廻っている。

 

 夜は斑なかがり火の揺れ具合以外、道と田圃の境すら判らぬほどの暗さだが、ただ一人火の前で暗やみを見つめている男には、すでに目が慣れている。地面と、草と、空の闇は違うし、遠くのプルトゥ渓谷を見上げれば、大きくそびえたったそれが薄っすらと輪郭が映りこんできた。

 

 アンヘルは谷風が地を這って火を揺らせているのを、ただじっと眺めて、己の中で大きくなっていく感情と向かい合っていた。

 

(いまさら、なにを悩むことがある)

 

 帝国はいま、新たな危機に直面し、真っ二つに割れている。現体制を維持しようとする皇帝派、行政のほとんどを担う門閥派、そして革命、体勢打破を目指す平民派。そんな時代に、アンヘルは士官として身を起こした。

 

 だが、所詮一市民として、力を求めて軍人を志したに過ぎぬ男には、思想などという高尚な事柄などほとほと共感することはできなかった。祖父伊之助が植えつけた物事でさえ、思考を助ける一助にはなっても、根本に宿ることは、終ぞない。

 

 結局のところ、はやりの論客めいた輩の語ることなど、自分の立ち位置を屁理屈を捏ねまわして正当化したいだけの戯言にすぎぬと思っていた。だから、それに傾倒する理由など欠片もなかった。

 

 信ずるは、力。

 

 それこそが、この暗澹たる異世界で信奉した「正義」であった。

 

 気に食わないなら、力を蓄える。刀を抜くと決めるまでは、相手を必ず打ち倒せると確信するまでは、ただ耐える。そして、いつか必ずや。

 

 それだけを信条にしてやってきた。

 

 それなのに、だというのに。

 

 今のアンヘルには、敵が見えない。

 

「ご主人さま。今日は、どんなことでお悩みなのかしら」

 

 鈴の音のような声が背後から響いた。何時も聞く幻聴である。いや、これは正常な世界なのかもしれない。

 

 世界が靄に包まれた。彼女の淑やかな右手がすっと首筋を沿わせてから、胸を伝って反対側の肩に移動した。耳元に頬寄せてそっと優しい声で撫でた。

 

「消えろ」

 

「あら、今日も冷たいのね。ご主人さまのために出てきているのに」

 

「頼んでない」

 

 アンヘルは無表情のままである。顔を見ようともせず、ただ無感情そのままだった。

 

「また夢でも見たのかしら?」

 

「うるさい」

 

「ふふ、図星ね。可愛らしいご主人さま」

 

 女は空いた左手でアンヘルの左手の上に重ねると、上から指一本一本に絡ませて、熱っぽさを隠さないまましな垂れかかった。

 

「私は行けないのだから、そう迷われては困りますね」

 

「もともと使うつもりはない」

 

「いい傾向ね。『使う』だなんて言葉、やっと出てくるようになった」

 

 アンヘルは相手の揚げ足を採るような言葉に、うぐっと詰まった。

 

「それでいいのよ。使徒にとって、眷属なんて道具でしかないの。もっと割り切りなさい。私はただ戦う肉の塊なのよ。ご主人さまが望むこと、それを実現するのが私の望み」

 

「他人の身体を使っている分際で、いい気になるな」

 

「もう他人じゃないわ。あの子は、私」

 

 女は、妖艶に微笑んだ。

 

「ご主人さまは、最近、人を遠ざけているみたいね。好かれるのが怖いみたい」

 

「……」

 

「怖い顔。ゾクゾクするわ」

 

 女はゆっくりとアンヘルの正面に回り、膝の上に跨りながら、瞳を正面から覗き込んだ。

 

「でも、ダメよ。愛こそが力となる。もっと、他人を愛して、愛されなさい。たとえ、依り代に出来ない貴族であっても、懇意になれば得難い縁になるわ。そう、弱さこそが、ご主人さまの最大の武器」

 

「そこをどけ」

 

「そうはいきません。ご主人さまったら弱いんですから」

 

「いいから、そこをどけ!」

 

 アンへルは力の限り、女を突き飛ばした。

 

「なにをするの?」

 

「話をするつもりはない」

 

「勝手ね。私を蹂躙したくせに」

 

 女は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「私を拒絶したいなら、迷わないことよ。だって、そうでしょう――」

 

 しかりつける聖母のような眼差しで、此方を見る。

 

「目的なき意思は、何も果たせないのだから」

 

 たまらず「召還」と叫ぶ。悲鳴と共に世界の霧が晴れた。

 

 晴れた後に残ったのは、悔恨と、苛立ちの混じった己の吐息だけであった。

 

 朧げに消えた幻影が、やけに己を導く礎となって見えた。気に入らない。俯いたまま、ずっと、消えたその幻影をにらみ続ける。氷のような三日月が、夜空にギラギラと浮かんでいた。

 

 気に入らない。けれども、どこか。

 

 女の言葉を否定しきれない自分がいるのも確かだった。

 

(ここで折れては、今までの犠牲はどうなる)

 

 己の失敗のせいで、数多の人間の命が失われた。

 

 だが、だからこそ、今、退がるわけには、いかない。

 

 進み続けるしかない。

 

 なにがあろうとも。

 

 ならば、やることはひとつしかなかった。

 

 

 



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第八話:小隊結成

「どうした? そんな大声だして」

 

 そのあらん限りの怒声に驚いたベップが声を掛けてきた。クナル班は現在村の夜警任務に当たっているから、たまたま見つかったのだろう。

 

 鼻先を撫でるようにして夜の山風が流れてゆく。ベップの持っている松明の火の粉がちらちらと視界に舞っていた。

 

「なにも」

 

 アンヘルは、首を振って否定した。

 

「色々あったから気が立ってるんだ。気にしないで」

 

「そうか。まあ、そうだよな」

 

 初の実戦だしなぁ、とつづけたベップは疲れたような笑みを漏らした。金剛流として高位の剣術家であるベップであっても、疲れの滲んだ表情をしている。

 

「そういえば連れかえってきた奴さん。そうとう暴れてるらしい。あとで見に行ってやってくれ」

 

「わかった。けど、ちょっとだけいいかな」

 

 アンヘルはそういうと、ベップを連れて、クナル班が集う場所へ向かった。

 

 村の外円部から中央の警邏司令部となっている場所へ向かうと、クナル、アルバの他に、騎士ハーヴィーが集っていた。

 

「これは私が取れる最大の譲歩だ」

 

「くだらんな」

 

 ハーヴィーはクナルの前で剣に手を掛けながら尋ねている。が、相手は木箱に座ったまま、じっと目を閉じて相手を無視していた。

 

「なにがあったの?」

 

「……」

 

 アンヘルはなにが起きているかアルバに尋ねた。しかし、彼女はつんと無視したまま再び道具の整理を始めた。他の人間の姿はない。クナル班は、班長のあまりの鮮烈さに気圧され、実力がない他三名は日がな距離をとっているから常に二分されている。

 

 アルバの反応に眉をしかめながら、加熱してゆくクナルたちの話し合いを見つめた。

 

「聞いているのか貴様!」

 

 ハーヴィーは胸倉をつかみ上げてようとしたが、クナルの重さに持ち上げることができず、ただ睨みつけるだけになった。

 

「意味のない闘争に興味はない」

 

「ヴィエント家に逆らうというのかッ!」

 

「死体はなにも言わぬよ」

 

 クナルは相手の反論を斬って捨てた。ハーヴィーが鼻白む。

 

「なにが望みだ」

 

「報酬の可否など、それこそ無意味よ」

 

「貴様ッ」

 

「お引き取り願おうか」

 

 取り付く島もない。騎士とは、高圧的に従わせることは得意でも、話術で相手の同情を引いて協力させる能力は欠いている。この男が相手、と考えると効果があるかは謎に過ぎたが。

 

 ハーヴィーは激憤を喉の手前でなんとかこらえながら、ぐっとその場に踏みとどまった。とてつもない形相である。ぷるぷると拳を震わせたまま、しかしそれでも、凶行に及ぶことはなくすっと踵を翻した。

 

 アンヘルは、その背中に呼びかけた。

 

「お待ちください、騎士スキピオさま」

 

「なんだ」

 

 炯眼が振り向く。クナルたちの視線も集中した。こういう場で発言するタイプの人間ではないと思われているから、珍しく思われたのだろう。

 

 ハーヴィーは怒りよりも意外そうな表情を前面に押し出していた。

 

 アンヘルは慇懃に家名で呼んでから、頭をさげた。

 

「ヴィエントさまのご容態、それと噂されている森林防衛戦部隊到着日をお教えいただきたいと存じます」

 

 ハーヴィーは怪訝そうな表情を浮かべた。そこには、アンヘルを信用しきれないという感情があったし、それ以上にどこまで話していいものかという派閥原理もある。

 

 代わりにクナルが足を組みながら、いった。

 

「間抜け、何をするつもりだ」

 

「想像通りだよ」

 

 アンヘル自身が驚くほど低い声だった。あのクナルがすこしばかり戸惑っている。

 

「お答えいただきたい」

 

 ハーヴィーは苛立たしそうに眉を寄せながらも、苦々しそうに答えた。

 

「ルトリシアさまの御加減は芳しくない。森林防衛戦線までには数十里ある。持つとは思えない」

 

「ならばオウル隊長の案を受ける御つもりで?」

 

 ハーヴィーは般若のような鬼面で地面に唾を吐きながら、

 

「腹立たしいがな」

 

 といった。余程の窮地なのか、剣を抜いて居なくとも殺気が漏れている。アンヘルは再びクナルに向き直った。

 

「君は上科生の実力を大体分かってるはず。成功率はどのくらいに見る?」

 

「軍の指揮など私には門外漢だが――」

 

 クナルは顎に手を当てて考え込みながら、鋼のように光る目で虚空を見つめた。

 

「あの規模の相手に、この戦力では万が一ほどであろうな」

 

「やっぱりそうなる?」

 

「あるとすれば敵大将への特攻ぐらいだろうが、可能な人間が居るとは思えん。あの取引内容では、前報酬だけ受け取られて終わりだろう」

 

 であろう、とハーヴィーへ尋ねる。その推測は正しかったのか、彼は義手が壊れるほど力強く

拳を握った。

 

「おい、なにを考えてる」

 

 ベップが肩を掴んでくる。それを振り払うと、話し合う中央に進みでた。

 

「今回の事件については?」

 

「どういう意味だ」

 

「この事件にはあの男の影がある。今の状況は何か仕組まれたモノだと思う?」

 

「どうだかな」

 

 クナルは不快そうな表情をしながらも、組んだ足の膝を指で叩いた。

 

「確かにあの男は恐ろしい男だ。だが、決して神ではない。全知全能でも、すべてを見通せる慧眼を持ち合わせているわけでもない。ただの人間に過ぎぬのだ。情報なくこの事態を予期したとは到底考えられぬな」

 

「今回の事件は偶発的なものだと?」

 

「起きる可能性ぐらいは考えていただろうが、規模も危険性も想定外、というのが現実的だな」

 

「――さっきからなにを言ってるんだ」

 

 ベップがさらに横合いから口を挟んでくるが、完全に無視した。場の空気は剣呑さを増している。唐突に始まった二人の会話によそ者は口を挟む余地を失くしていた。

 

 ピリピリした空気が二人の間を流れる。再び口火を切ったのはクナルだった。

 

「やる気だな。なぜだ?」

 

「聞く意味があるの、それ」

 

「意味なく戦う人間ではあるまい、貴様はな」

 

 クナルは不思議そうな顔をしている。この男には珍しい表情だった。

 

「君はなんのために戦ってるの」

 

「知れたこと、己の為よ。貴様もそうであろう」

 

「そうだよ」

 

 アンヘルは一歩踏み出すと、剣を抜き放ち天頂へ掲げた。

 

「なら、僕がやることはひとつだ」

 

 他の連中はなにも分かっていない。どいつもこいつも、皆、分かった気になって軍の基本を忘れている。ここで退いてどうなる。軍の名門ルトリシアを見捨て、名家のユースタスを見殺しにして、最後になにが残るというのだ。そんな状況で士官学校へ逃げ帰れば、上官抹殺の汚名を着せられ永久に出世街道から外れる運命となる。

 

 ユーリを偲ぶ家族の清洌な願いを地獄送りにしてまで、「迷宮探索演習踏破」という下らない点数に変えたのだ。この二年間の士官学校生活で虐げられてきた同輩を幾人も見捨ててきた。ならば、やることは決まっている。

 

 アンヘルは掲げた剣を一直線に振り下ろした。

 

「ヴィエントさまを死なせるわけにはいかない」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ――アンヘルは、いったいどうしてしまったんだ。

 

 ベップにとって、アンヘルの印象とは取るに足らない人間であった。

 

 いや、誤解を恐れず言うのなら士官学校の同級などすべてが物足りない人間ばかりだった。

 

 ベップは幼少の頃から才気に優れた子だった。元老院系貴族の武官族にして、軍家の名門フントの傍流フォルチ家に生まれた彼は、一族の長男として、十分な教育を受けて育った。

 

 帝国の一般的な考え方として、己が子孫のために栄達を望み十分な教育を施すことこそ美徳である、と信じられている。一軍人の両親の元に産まれたが、そんじょそこいらの下民には望めぬ武芸、学問を学んだ。

 

 中でも大きく影響を与えたのは、金剛理心流グラン試衛館の門弟たちであった。ベップには下に二人男兄弟が居たが、歳が離れていて競い合う相手にはまったく向かず、彼の情熱はこの道場の武芸へ向けられることになる。

 

 ベップはそこで頭角をあらわす。人間社会の常として、フォルチ家程度の家柄では妬みを買うことも珍しくなかったが、人好きのする性格と幅広い交友関係を築ける快活さを持ってして、しだいに有能の士という立ち位置を得るに至っていた。

 

 両親からかけられる期待も大きくなる。金剛流は東方一刀流と違って名門の流儀だから、学問に対しても十分に仕込んだ。そのうえ、ベップはそつがなかったから、若者衆の論議でも禍根を遺さないよう細心の注意を払っていた。

 

 結果、オスゼリアス金剛流グラン試衛館史上最年少にて、ベップは伝位の座に着くこととなった。

 

 この時代が彼にとってもっとも輝かしく、未来の明るかった時代だといえるだろう。

 

 当然の流れとして、ベップは流派闘技会へ出場する流れとあいなった。流派闘技会とは、金剛流の流れを汲む全傍流が集い、各門人の中で秀でた人物が御前で技を競い合うというものである。彼は、年少の部の第三格――身分もあって一、二格を譲った――として出場した。

 

 負けなかったことだけは覚えている。道場内の試合なら兎も角、対外試合になれば遠慮する必要などない。本当に器用で、とくに相手の動向を読むことに長けていたから、大人でも早晩負けることはなかった。

 

 世界とは狭い、それが子供のときの心情である。

 

 そんな天才少年のはじめての挫折は、登ること叶わぬ巨壁であった。

 

 試合見学として座に訪れた貴族がいた。名を、クロエ・シルウィア・エル・オスキュリア。オスキュリア家の長年の夢であった、神童その人であった。

 

 オスキュリア家は玉の後継者に優れた護衛を望んでおり、優秀な成績を残した五名に士官の打診を行った。が、まだ幼かったクロエ御令嬢は、

 

「ボクも戦ってみたい」

 

 と言い出したのである。まだ十を越えたばかりの少女の我儘を諌めることは家人たちもできず、結果、絶対に怪我を負わせないよう言いつけられ、ベップは対峙することになった。

 

 ――所詮、お偉方のお遊びだ。

 

 という感情が、当時のベップには渦巻いていた。相手には鍛えた跡もなく、運動神経も大したことはないように窺えたのである。大魔法は禁じられているから、勝敗は簡単な魔法と剣術のみに絞られている。少なくともそんな侮りがあった。

 

 勝負は、一瞬だった。

 

 気づいた時には地面を這いつくばっていた。多数の剣士が顕現して、瞬く間に叩き伏せられたのだ。それがはじめて見る召喚師という名の怪物の姿であった。

 

 後日。師範は召喚師とまともに遣り合う愚についてベップに説いたが、彼の心中にあったのは剣への失望心だけであった。

 

 すべてがくだらなく思えたのである。幼心ながら、己が届かぬ場所をまざまざと見せつけられたのだ。古来から、真に成長した召喚師に勝つのはほぼ不可能であると言われているが、それを体験したとき、鮮烈なまでに現実を知ったのだ。

 

 さらに時が経って、残ったのは諦めだけであった。

 

 聡すぎるというのも考えもので、彼には叶わぬと知りながら愚直に向かってゆく、という思考はほとほとなかった。

 

 熱意は徐々に失われていった。最初は学問である。両親と同じように改革論を説くような物には一切身が入らなくなった。それは広がり、最終的には剣技と基礎学以外はほとんど空耳状態が続いた。代わりに、金のある連中と連んで博打や女に時間を注ぎ込んだ。

 

 虚しい感覚を慰める、そんな時間が己の血となり、肉となっていったのである。

 

 それでも剣技だけはやめられなかった。未だ道場内で一番の腕であったから、剣だけなら、というくだらないプライドだけは捨てられなかった。

 

 それを打ち砕いたのは、再び、敵わぬ天才の存在だった。

 

 士官学校上級課程の試験において、クナルの腕前を見た。その光景を見た者は少ない。しかも一瞬の出来事である。中には信じられぬという馬鹿もいたが、騙される筈がなかった。雄々しく剣を掲げる様は嫉妬すら浮かばぬ、天才の名に相応しい姿だった。

 

 それを見たとき嫉妬や悔しさは微塵もなく、ただどうでもいい、という感情だけが湧いていた。

 

 試験内容はまるで記憶にない。上科、悪くて壱科という師範の予想を裏切って、参科に補欠合格したとき、親に何時間詰られても何も感じなかった。士官学校に入ってからは、楽にやれればいい、それだけしか考えてなかった。

 

 だから、なおさら理解できなかった。

 

 どうしようもない、意味のない戦いに身を投じようとしている男を見て、ベップの中で言語化できない恐怖のような感情がみるみるうちに沸きたった。

 

 所詮平民に過ぎぬのに、身に余る計画をしている男。

 

 才気をまるで感じないと思っていた男。

 

 ベップの目には、遠い昔に諦めたはずの、理解できぬ根源にすら思えたのだ。

 

「冗談だろ。そもそもアンヘル程度の腕でどうするつもりなんだ」

 

 ベップは手をばたつかせながら、尋常ではない宣言をした男へ反論する。

 

「その意見には一理ある。だが、命あっての物種だろう。それにこの時勢だ。いくらヴィエントさまを見捨てたからとはいえ、瑕疵を問われるのはシュタール派閥らだろう」

 

 もっとも、ベップ自身代償は支払わなければならないとは思っている。そんなことを考えていないのは呑気な奴くらいで、大半がお咎めなしだとは思っていまい。

 

「許容できないんだ」

 

 それを、アンヘルは鼻で笑った。

 

「なに?」

 

「今回の失敗が些細な欠損にならないんだよ」

 

 アンヘルはクナルだけを見ている。彼にとって、説得する相手はまず第一にクナルなのだろう。反論をまじめに受け取ってもらえなかったベップは相手をねめつける。

 

「なにが言いたいのだ?」

 

 クナルが話を引き継いだ。

 

「あの男がどういう意図を持って僕らを遣わしたかなんて知らない。でも、ここで失望されるわけにはいかない」

 

「あの男に従うと言いたいのか?」

 

「そんなわけがない。けど、オスカル教官、テリュスさん、イズナという犠牲を払って、何の報酬も得ず帰るわけにはいかないんだ」

 

 あまりの迫力に、ハーヴィーすら黙り込んでいる。

 

「分かっているのか。今回は火山龍の一件とは訳が違うぞ」

 

「関係ない。君こそここで退けるの?」

 

「ふん。知ったような口を聞くな」

 

 クナルは一人渇いた笑い声をあげると、すっと立ち上がった。

 

「なにが要る?」

 

「露払い」

 

 アンヘルは間髪入れずに答えた。クナルも想定していたのか考え込むことなく二方を指さした。

 

「こいつらは使える。だが四人だぞ」

 

 といいながら、クナルはベップとアルバを見た。アンヘルは、さらに人員を追加した。

 

「スキピオさま、あなたにも協力していただきます」

 

 ハーヴィーは戸惑ったままだったが、渋々頷いた。もしかしたら、たった一人で特攻するつもりだったのかもしれない。

 

 アンヘルは満足そうに頷いた。

 

「一人足りないけど、足手まといが居るよりはいいよね」

 

「で、あろうな」

 

 もうすでに話は固まりかけている。このまま進行させては、望まぬ大将特攻の一員にさせられかねない。ベップは介入するため声を上げようとするが、伸ばした手は空をきった。

 

「自分は、むり」

 

 と、アルバが先んじて反論したのである。全員の眼が彼女を見る。

 

「それは貴方の事情。関係ない」

 

「貴様っ」と吠えたハーヴィー。それを落ち着いた声で止めたアンヘルは、笑顔のままゆっくりと近寄っていった。

 

 その姿に一歩二歩と下がるアルバ。いつもは平然としているアルバだが、アンヘルの変わりようには戸惑っている様子だった。

 

「そうだね。確かに、関係ない」

 

 不気味な声だ。

 

 だが、アルバも決して頷こうとはしなかった。魔軍、それも邪龍が絡むような軍勢である。大将特攻を仕掛けるなど、正気の沙汰ではない。

 

「どんな報酬なら賛成してくれる?」

 

「むり」

 

 アルバはにべもない返答をしたあと、

 

「自殺なら勝手にやって」

 

 と気丈かつ辛辣なまでに云い切った。常識的な反応ともいえる。少なくとも、意見をはっきり言えるというのは美徳といえるだろう。

 

 その態度を嘲笑うように、アンヘルは凶行に走った。

 

「なら君自身のことにしてあげるよ」

 

 アンヘルは逆手で剣を引き抜くと、同時に右手でアルバの胸ぐらを掴み上げた。そしてそのまま木箱の上に叩きつけ、刀身の根本を喉元に突きつけた。

 

「おいっ、アンヘル、おまえ何を!」

 

「こっちは構ってる暇がないんだ」

 

 アンヘルは戦友に向けるには殺伐としすぎた雰囲気を隠さず、アルバの額に寄せて正面から睨んだ。

 

「もう一度聞くよ。協力するか、否か」

 

「……得がない」

 

 アルバが震える声で返答する。アンヘルは微笑みすら浮かべていた。

 

「あるよ。従えば首が繋がっていられる」

 

 怯えを堪えているのがハッキリわかる。ベップは額から流れる汗に戦慄を隠せなかった。

 

「どうせ、ハッタリ」

 

「なら試してみる?」

 

 ベップには、その態度が真嘘偽りには見えなかった。本当に仲間すら叩き切りそうな剣呑さである。

 

「十数える。その間に決めて」

 

 というと、本当に数を数え始めた。

 

 一、二、三。

 

 折れたのは、五を越える前だった。アルバは震えた声で「わかった」と小声で承認した。その額には栗粒大の汗が浮かんでいた。

 

 アンヘルはそれを無感情に見つめながら剣を腰に戻すと、同じようにベップへ尋ねた。選択肢は、一つしか残されていなかった。

 

「貴様も、立派な戦士だな」

 

「君ほど外道じゃない」

 

「いいや、同じよ。仲間を見殺しにできるとき、真の戦士となる。我が一族の伝統よ」

 

「いやな伝統だね」

 

 アンヘルという名の知らない男が悲しそうに笑った。

 

「臨時小隊、結成だ」

 

 帝国暦314年。偉大なる召喚師と苛烈な剣士を双頭とした鮮烈無比な小隊の雛形は、晩秋の寒空の下誕生した。

 

 

 



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第九話:前哨戦 上

一時間ミスりました。


「あの女。まさかあんな身体でも力を出せるとは驚きです」

 

 その声は、地の底から響く悪魔の囀りのように洞窟内を反響して、闇の中へと広がっていった。壁に設られた蝋燭の仄かな香りが、男の醜く肥えた樽腹をわずかに照らしている。

 

 身体は木乃伊のように包帯が巻かれており、血が大量に滲んでいる。眼球は潰れ、激戦地帰りの古兵以上に満身創痍な姿だったが、口元には満足そうな微笑みが浮かんでいた。

 

「でもカオス様、嬉しそうに見えます」

 

「そうですかね」

 

 狭い洞窟で傷だらけの男には似合わぬ哄笑をあげると、満足そうにぼりぼりと髭をこじった。

 

 傅く多数の影が周囲に控えている。どれもみな一様に人とは思えぬ出で立ちで、邪悪極まりない笑みを浮かべていた。男はその集団をじっくり見据え、自らの陣容に対し満足そうに顎を引いた。

 

「運搬はどの程度終了していますか?」

 

「三割ほどです。ですが重要な人材と機材はすでに運び終えました」

 

「結構。信徒以外の村人はどうなりましたか?」

 

「ほとんど信徒が殺しましたが、一人候補生とともに行動を共にしており、逃しました。ただ、その男は密造にまったく関与していないので、情報漏れは警戒する必要がないでしょう」

 

「ふむ、あの数ですから。一匹くらいは仕方ありませんね」

 

 足元の肉付き骨を取り出して大口でパクりと丸呑みした。さらに腹を満たすため、爪を尖らせて頭部を捻り切ると、ギョロリと張り出した目玉の部分から一気にバリバリと頬張りはじめる。ぴしゃぴしゃと滝のように血流が流れ落ち、身体を伝って辺りを血染めにした。

 

 血特有のむせるような鉄の匂いが漂う。跪きながら控えている一匹の夢魔が、うっと鼻を抑えた。

 

「初い仕草ですねぇ」

 

 ふっと男が微笑むと、その夢魔を手招きした。パンパンと毛が縮れている醜い太腿に導くと、座らせる。男の大柄な身体に女の矮躯が包まれた。

 

「ええぇ、またその女なんですかぁ」

 

「やめなさい――躾がなっておらず申し訳ありません。カオスさま」

 

「構いませんよ。そうですね、サキには明日に頼みましょうか」

 

「ええっ! 本当ですか、カオスさま。やったぁ、私、ちゃんと身を清めて待ってますから」

 

「サキには運送部隊統括という仕事が……」

 

 一人の夢魔が困り顔で頬に手をやる。

 

「やめてください。あの方から任された大役を、些細な亀裂から失敗させるワケにはいきません。明日はマリサに交代させればいいでしょう」

 

「へへぇ、やったぁ」

 

 ガッツポーズして女は飛び上がった。それを冷たい目で見据える金髪灼眼の女。どの女の背後にも醜い骨張った翼が広がっていた。

 

「そう拗ねないでください、レイナ。君には明後日に頼みましょう」

 

「そういうわけでは」

 

「嘘つきぃ、顔がニヤけてますけど?」

 

 レイナと呼ばれた女は、サキと呼ばれた女に拳骨を落とした。涙目の女が頭を抱えて蹲る。男は腕の中の豊さに手を這わせ微かに感じる拒否感に中心を起立させた。

 

「それで、反撃の対策は十分ですか?」

 

「もっちろんです。こいつらが居れば、大抵なんとかなりますしぃ」

 

 サキ、と呼ばれた女は、近くにあった二体の鋼鉄を叩いた。まったく微動だにしない身体は冷たい。魂を持たない古代の兵器の姿である。

 

「授かった貴重な兵器ですが、村の防衛の為には惜しんではいけませんよ」

 

 黙って頭を下げる夢魔たち。今回の任務が教団にとってどれほど重要なことかを理解している者たちだからこそ、鋭い緊張が走った。

 

 教団の収入源ロヴィニ村。その移転計画中降って湧いたヴィエント、リエガーという大物狩りの機会は、教団幹部であるカオスにも早々訪れない千載一遇のチャンスである。こうやって、変身魔法を使って醜いルイスという男の皮を被っているのだ。失敗は許されなかった。

 

「リエガーはサキの房中術で瀕死。ヴィエントもあの規模の戦略魔法を行使すれば、持って三日。それでは解呪師に処置してもらうどころか、会いに行くことすらできないでしょう」

 

 男は自らの身体を見やりながら、そういった。

 

 身体が回復するまで一日ほどか。それまでの期間、村を守り通せば当初の移転計画に継いで、帝国の怨敵である貴族を二匹も斃すことができる。

 

 しかも、ターゲットとなる二人はすでに瀕死で、「邪竜の烙印」のデメリット、呪返しの可能性は極めて低い。最初は期間内に仕留め損ねる確率を考えて実行には躊躇したものだったが、結果として判断は正しかったようだ、と首肯した。

 

「ガードの固かった五大貴族が遂に崩れる。しかも、ヴィエントは次期家長という立場です。あと数日、絶対に気を抜かないように」

 

 会議の幕が降りると、男は負傷した身体を引きずって奥間に引っ込む。

 

 その去り際、部下たちの話し声が聞こえてきた。

 

「あの裏切り者の龍理使い、私にやらせてくださいよぉ。あ、それか、逃した情報源でもいいですよ」

 

「そういえば、召喚師の存在がありましたね。ですが、サキ。あなたには任せられません」

 

「ええぇ、なんで」

 

「もっと楽な方法があるからです。そうですね、マリサ。あなたも耳をかしなさい……」

 

 ふふふ、ふふふ。そんな歪な笑い声を聞きながら、己が主人であるあの方に報告すべく、男は筆を取った。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 決戦の日になった。

 

 まだ夜は明けていない。シンと静まり返った世界をアンヘルたちは駆ける。沈んでゆく月を眺めながら、腰もとの剣柄を確認した。上着の下には、編みこみの鎖帷子、ブーツの底には仕込み用の鉄板。制服には血の洗い残しが紋様のように残っていた。

 

 背後には臨時小隊を組みクナルたちの姿がみえる。彼を除けば皆一様に緊張した面持ちだ。中でも、ハーヴィーの気合の入れようといったら尋常のものではなく、顔に傷でも付けられたような皺が深く刻まれていた。

 

 アンヘルは、木陰を隠れるようにして走りながら、そっと最後の忠告について思いを馳せていた。

 

 ――あなたの提案は理解できました。ハーヴィーの諫言もありますし、なにより撤退戦の功労者として、その意見を尊重します。

 

 ――待つのは、二日。それ以降は、オウル候補生の提案を受けるになるでしょう。それまでに成功しなければ、死んだものと看做します。

 

 ――ですが、勝算はあるのですか。奉仕を受ける側が言ってはならぬのですが、アンヘルさまの実力では、唯の自殺志願者にしか思えません。

 

 突き抜ける冷たい風がアンヘルに囁く。本当に、お前に勝てるのか、と。

 

 ハッキリ言って、コンディションは最悪である。夢魔に斬られた傷は未だ癒えないし、大して眠れもしていないから、頭の中はぼやっとボケている。

 

 そして、勝算などこれっぽっちもなかった。結局あの邪龍について勝ちの目など見通せないし、その他にも敵が立ちはだかるだろう。大将特攻とは、戦時劣勢下で最後っ屁として破れかぶれに敢行する手段で、こんな素人集団がやっていいことではない。

 

 広範囲に広がる敵軍を潜り抜け、敵本陣の守りへ特攻し、相手の大将首だけを狙う。敵軍をやり過ごせるかもわからず、大将が見つかるかもわからず、そして、倒せるかもわからない。隠密、発見、打倒という三つの関門が立ちはだかるくせに、打ち倒した後のことなど一切考慮していないから、待っているのは敵陣のど真ん中で孤立した馬鹿のいっちょ上がりだ。死んで元々、大将首を獲って玉砕すれば御の字だろう。

 

 だが、それでも勝ってみせる。

 

 それが勝つためにすべてを捧げた自分ができる、唯一の贖罪と信じて。

 

 それからともなくして、草原を抜け、ロヴィニ村の外縁部に到達していた。小高い丘に寝そべりながら、村内の敵影を確認する。篝火は伺えるものの、それが逆に確認を困難とする。遠望から眺めても敵影は確認できない。暗闇に紛れているのか、それとも警戒が浅いのか。一度立ち止まり、方策を練り始めた。

 

「そろそろ日が昇るぞ。そうなれば、我らは多数に囲まれる可能性がある」

 

「わかってる。スキピオさま。地理に関しては信頼しても?」

 

「冒険者あがりが私に指図するな――スキピオ家は代々風の法を得意とし、風水や地理を読む術に長けている。問題はない」

 

「……ヴィエントさまの御身が懸かっているのです。下らない啀み合いはよしませんか?」

 

「黙れ! 貴様と馴れ合うなど有り得ぬ!」

 

 唾を飛ばしながらハーヴィーが怒鳴る。これは、無理やり連れてきたベップ、アルバも同じだろう。所詮、強制された兵士など露払いぐらいにしか役に立たない。唯一信頼できる剣鍔を一人叩いた。

 

「ですがスキピオさま」

 

 じろりと炯眼が向けられる。彼を煽り立てると知っていても、忠告しておかなければならない。これから挑むのは超常の相手。ミスの要因はなるたけ減らしておきたい。

 

(責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である、か)

 

 無論、杞憂な可能性も高い。

 

 アンヘルは彼の義手を眺めた。彼の忠誠心は、その右肩あたりから先を金属の魔道具に変えられたところで目減りしていない。今回も主人の不興を買って挑んでいることを、直前の讒言で見聞きしていた。

 

「作戦中は我々にしたがっていただきます」

 

 言われるまでもない、とばかりに首肯するハーヴィー。アンヘルは立ち上がりながら揺れる芝を引き千切り、文字を書けるよう土を穿りだした。

 

「作戦を説明します」

 

 鞘で地面に文字を書き始める。アンヘルとクナルを頂点に置き、他の三名を周囲に配置した布陣である。

 

 アルバとベップも覗き込んでくる。月光で薄く照らされた地上絵に数人が覗き込む。クナルは当然の無視だが。

 

「スキピオさま、あなたにはベップらと一緒になって、後背を守っていただきたいのです。本丸は僕とクナルで相手をします」

 

「……」

 

「以上です。では、いきましょう」

 

 足で描いた布陣をかき消すと、先へ進もうとする。それを誰かが後ろから襟首を掴んで止めた。喉が一瞬つまる。

 

「ちょっと待て。なんだこの作戦は」

 

「ふ、不明な点でも有りましたか」

 

 ケホケホ咳き込みながら、いった。

 

「貴様はバカか。一応黙って聞いてやったが、これは作戦ではなくただの現状報告にすぎぬ――もしや、いつもこんな戦い方をしているのではあるまいな」

 

 じろりとハーヴィーが白い目を向けた。クナルがバカにしたように嘲笑を浮かべる。

 

「馬鹿がカッコつけて作戦など立てるな。我らには突撃か撤退しかない」

 

「馬鹿っ、馬鹿ってなんだよ」

 

「いや、アンヘル。これを見て馬鹿以外の感想は思い浮かばないぞ。というか、本当に候補生か?」

 

 ベップ以下が呆れた顔を見せた。顔に血があがって真っ赤になる。

 

 恥ずかしさから「うるさい」という言い訳をして、先に進んだ。

 

 昼間であっても凍てつく風の染みだす季節である。闇夜の中であわい月光に照らされる村々を見るだけで、迫り来る朝の寒さが制服を通して全身を苛んだ。背後の連峰の奥に、空に溶けるような陽光が滲みつつある。先々日に降った夜雨の影響か、泥濘んだ畦道に足を取られ、すこしばかり顔をしかめた。

 

「敵の気配だ。開戦と行こうではないか」

 

 パンパンとクナルが旅塵を落としながら、背中の大曲刀を抜いた。各々が勝手に抜刀する。見渡せる距離には敵影はないが、魔の者特有の気配はひりひり来ていた。

 

「行くよ!」

 

 アンヘルたちは、隠密モードだった姿勢を変更して一気に村の中央へ走り出した。同じくして、強化術の発露を感じた魔物たちがわらわらと湧く。

 

「おい、アンヘル。やっぱり、潜んでやがったぞ」

 

「前方だけに集中。他は無視して」

 

「貴様に指図されずとも!」

 

 豪雷に似た音と共に、騎士の動きが素早く滑る。やはり、護衛筆頭に返り咲いた実力は際立っており、たった一薙で数匹の小鬼を膾に変えた。

 

 寝ぼけ眼だった敵兵の目が据わる。彼らの目にあった侮りが掻き消え、血相を変えて、わーきゃーと姦しく喚き出した。

 

「ぐぎゃぎゃぎゃぎゃ」

「ザボゾロバ、ゴパシダ」

「ボグゾ、ジョデ、ボグゾ、ジョデ」

 

 敵の魔物集団は、尋常一様なものいいで咎め立てはじめた。その粗末な衣服からは、隠しきれない死臭が漂っている。彼らは残らず人類の敵であることは明白であった。

 

「……仲間、呼ぶ」

 

「どうしてわかるのっ?」

 

「……知ってるから」

 

 クナルは無言で答えてみせた。増援を呼ばれては突破できぬという判断である。無造作に敵集団のど真ん中に突っ込むと、大剣を剛っと振るった。

 

 鈍く輝くその刃は、アンヘルたちに見えるように血潮を撒き散らしながら、小鬼たちの脳髄を真正面から断ち切った。

 

「邪龍までの良い肩慣らしよ」

 

 機嫌良さそうに鼻を鳴らすと、損傷した小鬼の胴体を蹴り飛ばし、ドミノ倒しになった軍団へ飛びかかる。数メートルは悠に宙を舞った男は、重力に沿ってその鉄の塊を振り下ろす。一塊になっていた敵から、噴水のように血が吹き上がり、ばらばらと地面へ腕を投げ出して力を失った。

 

「力を使い果たさないでよ」

 

「野暮な心配よ」

 

 即座に転進してきたクナルはどこ吹く風である。唖然とするベップを他所に、脂の乗った刀身を払うと、眼前に現れた大鬼の頭蓋へ手刀を突き入れた。

 

 そのまま地面を引きずる大男には愉悦に染まった笑みがある。この男にかかれば、人喰い大鬼など赤子のようなものだ。あっという間に破られる上顎。相手は、吐瀉物のように脳味噌を引き摺り出され、無惨な頭部が地面へ晒された。

 

「くそ、無限に湧いてくるぞ」

 

 ベップが苦言を述べながら、眼窩を刀身で撃ち抜いた。

 

「こんな雑魚どもに構っている暇はないぞ。邪龍は何処に居る」

 

「スキピオさま。この密度、当初の予定である代官館には居ません。西になにが有ります?」

 

「何もない。いや、教会があるから大広場があるはずだ」

 

「全員西進!」

 

 アンヘルの掛け声と共に、より密度の高まる陣営へと足を向ける。敵兵を斬りながら駆けていると、大きな橋に差し掛かった。走り抜けてから、叫ぶ。

 

「クナル!」

 

「言われずともわかっている」

 

 大曲刀を振り回すと、石造のアーチ橋を欄干ごと叩き切り、背後で追撃していた魔物たちを叩き落とした。川の流れに魔物たちが流されてゆく。とはいっても、大して深くない川だから、時間が経てばすぐに追ってくるだろう。

 

 第一関門の敵陣突破は闇夜に紛れたのもあって、なんとか無傷で切り抜けた形になる。いったん立ち止まって、そっと息を吐いた。

 

「よし。よし。いける! いけるぞ! 後は、邪龍の討伐を残すのみだ。やります、ルトリシアさま。騎士スキピオはやりますぞ」

 

「……早く行く」

 

 敵の包囲をくぐり抜けたアンヘルたちは、その中央にある教会へたどり着いていた。今まで敵が溢れていたというのに、まったく敵影が見えない。

 

 一番最初にクナルが立ち止まった。続いてアルバ。二人はじっと教会を凝視している。

 

「どうやら、此処が当たりのようだな」

 

 クナルの言葉に、アンヘルは教会へ瞳を動かした。東方造の瓦が印象的な建造物である。全員が息を飲んで待っていると、重々しい鉄扉がギィィと摩擦音を立てて開かれた。

 

「あれは……」

 

 アンヘルは、静かに相手の姿を認めた。知っている顔もある。ミゲルを襲っていた夢魔や右わき腹をブチ抜いた夢魔だ。その背後には動く機械人形の姿もあった。

 

「夢魔――」

 

 ベップの息を飲む音が此処まで響いてきた。美しく、そして、酷薄な表情である。人理を超えた、魔の者の妖しい容貌であった。

 

「ご登場ですね。愚かな人間ども」

 

「あっー、あの男。私の言ってた裏切り者ですよ。ほら、やっぱり来るっていっじゃないですか」

 

「喚きすぎです、サキ。歓迎していないとはいえ、一応の御客人。礼節は弁えなさい」

 

 中央に立つ金髪紅眼三姉妹の中央、その女がゆっくりと頭を下げた。

 

「ようこそおいでくださいました。とはいっても、招かれざる客で御座いますが。わたくしはレイナと申します。我々のおもてなしを存分に」

 

 そう言った女は、目鼻がキリッとしており、一番年上の印象を受ける。目元には泣きぼくろがあり、大人らしい艶冶な美しさがあった。

 

「はいはーい。私はサキでーす。あの茶髪野郎は私が達磨にして飼ってやりますから、触らないでくださいよぉ」

 

 こちらはアンヘルがミゲル救出の際に遭遇した夢魔である。金髪紅眼は同じだが、背丈は他二人に比べれば小さく、プロポーションも抜群からは程遠い。小柄な可愛らしさと、小悪魔的な悪辣さが同居していた。

 

「……」

 

 最後。無言のままこちらを見ているのはルイス代官の妻のマリサである。能面そのものの無表情だが、三人の中でもっとも整った容姿を持ち、その儚さは深窓の令嬢を思わせる姿だった。

 

 三者三様の挨拶を見届けてから、アンヘルは一歩進み出た。

 

「邪龍はどこですか」

 

「カオスさまに会おうなど、考えぬことです。それよりも、今は我々に集中しなさい」

 

「貴様ら雑魚に興味はない」

 

 クナルがぶっきらぼうにいった。この物言いには、相手方も態度を変えた。

 

「邪龍を出せ。それとも聞き出してもらいたいのか?」

 

 クナルが一歩踏み出そうとした――

 

 その直後である。まったく別の大広間に繋がる路地から、一人の男が駆けてきた。服はボロボロで薄く血が滲んでいる。頬は痩け、眠っていないのか濃い隈が浮かんでいた。

 

「ま、マリサ!」

 

 戦時下の雰囲気には似合わぬ逼迫した声が響いた。それはどこか、”シェイクスピア”の悲劇「ロミオとジュリエット」のバルコニーで愛を叫ぶ姿におもえた。

 

 その姿を認めて、アンヘルの脳裏に形成された杜撰な計画が、がらがらと崩れ去る感覚を覚えていた。酷く喉が渇く。乾いた唇がひび割れて、ピリピリとした痛みを神経に訴る。頭痛や苦悩が蘇ってくるようであった。

 

(どうして、ホアンが)

 

 彼の目に映っているのは、マリサと呼ばれた女だけであった。

 

「ホアン、さん」

 

 マリサと呼ばれた女は俯いたまま、そっと男の名を呼んだ。あれほど能面のようだった表情が一、点沈痛な面持ちである。死していた瞳に生気が吹き込まれる代わりに、パンドラの箱の最悪を抱え込んでしまったような、そんな印象を受けた。

 

「あははっ、まぁた来たんですか。あんなにこっぴどく振られたっていうのに、結構なことですねぇ」

 

 サキと呼ばれた女がクスクスと嘲る。拭いきれない人類への蔑視が滲出していた。

 

 ホアンはそこで漸く他人の姿に気がついたようだった。最初アンヘルたちの姿に面食らいながらも、頭の中からその情報をこそぎ落としたように切り替え、一歩踏み出した。

 

「マリサ頼む。もう一度だけ、もう一度だけチャンスをくれないか。俺はあんな酷いことを口走っちまった。けど本心じゃない。おれは本当はマリサと……」

 

「あぁもう。なんですかこの茶番は。はいはい終わり終わり。恋愛脳なんか引っ込んでてください」

 

「マリサ。黙ってないでなにか言ってくれ。なあ、俺にはわかるんだ。たしかに君は俺を騙した。けど、それは、きっと本心なんかじゃないって。君が語ってくれた村の外の憧れは嘘じゃない。そう思うんだ」

 

「うるっさい! ちょっとアンタ。あんな奴さっさと始末しなさいよ。あの下心塗れの薄っぺらいポエム聴いてると、こっちまで吐きそうです」

 

「……」

 

 問われた女は、ずっと黙り込んでいる。見かねたレイナは助け舟を出した。

 

「マリサ、よい機会です。計画したアレ、貴方が実行なさい」

 

「……」

 

「聞いているのですか、マリサ」

 

「……承知、しました」

 

「マリサ、待ってくれ!」

 

 マリサは身を翻すと、さっと去っていった。ホアンはそれを追って駆けだす。

 

 緊張の糸が切れたようにどこか白けている戦場。クナルは顎で去っていった二人の方角を差しながら、ぶっきらぼうにいった。

 

「貴様が追え」

 

「……どうして、そんなことを僕が?」

 

「適任だからだ」

 

 クナルはじっと敵を見据えて、つまらなそうな表情を浮かべた。

 

「こいつらは幹部だ。誰かが邪龍の居場所を知っているだろう。貴様はあの女から情報を聞き出してこい」

 

「でも」

 

「貴様が今作戦を企画したのだ。貴様が壊すつもりか?」

 

 それを問われて黙り込むしかなかった。ベップやアルバたちがこちらを見据える。彼らは、アンヘルが無理矢理ここへ連れてきたのだ。にもかかわらず、過去の遺恨如きで台無しにされれば、地獄でも祟られることになるだろう。

 

 悩みは一瞬である。それでも酷い懊悩に遭ったが、足に力を込めて進んだ。

 

「こっちは任せたよ」

 

 アンヘルはあの男を追って駆け出した。背後からは、汗の飛び出るような鬼気が溢れている。だというのに、脳裏に過るのはマカレナを通した確執だけであった。

 

(また、やり合うのかな)

 

 やけに肌がピリつく。それは、過去の遺産を精算せねばならぬ時が来たのだ、と思えた。

 

 

 

 

 

「ふふふ。わたくしたちが、どうしてあの男を追わぬか不思議ではありませんか」

 

 チロチロと舌を出したレイナは、豊な金髪を右手で梳きながら白い八重歯をチラリとみせて笑った。その犬歯はやけに艶やかである。どこか吸血鬼を思わせる奇怪さであった。

 

「どういう意味だ」

 

 騎士ハーヴィーが鸚鵡返しに尋ねると、サキという女が口の端を歪めて嘲笑を浮かべた。

 

「バッカですねぇ。あっちには罠が盛りだくさん。小さい路地に魔物が湧き湧き。あぁあ、飼ってやろうと思っていたのに魔物の餌ですねぇ」

 

「なっ!」

 

 ベップは息を呑んだ。ハーヴィーも苦い顔をしている。あれだけ嫌っていた人間でも、戦力減少は避けたいということなのだろうか。

 

 レイナは右手を掲げると、正面に構える候補生たちを指し示した。同じくして背後に控えていた機械人形たちの頭部に光が宿る。戦闘モードへ移行した合図なのか、ギランと目が煌き、重々しく前進を始めた。

 

「悲しむことはありません。無残な死を彼らは迎えることになりますが、あなた方もすぐに送って差し上げます。さあ、誰からお相手致しますか?」

 

 無機質な、感情を感じさせない威容を伴って進みでる機械人形二体。鋼鉄製の槍を光らせると、不快な圧迫感が分厚い壁のように空気ごとジリジリ迫ってくる錯覚を覚えた。

 

 不安そうにしているベップを見て、クナルは一瞬うんざりした。やはりあの間抜け以外と組むとやる気が下がるな、と呟く。

 

「貴様らは、わかっていないな」

 

 相手の圧力を跳ね除けるように、クナルは闘気を噴出させた。その場の空気を塗り替える強烈な闘気である。

 

「あの馬鹿は集団になると考えすぎて自滅する。一人放り込んだほうがいい」

 

 それに、と続けながら大曲刀をぐるぐると旋回させ、正眼に構えた。

 

「我々の目的は邪龍よ。貴様ら前哨戦など、暇つぶしにすぎん。御託はいいからさっさとかかってこい、雑魚どもが」

 

 いわずと知れた、オスゼリアス第二一三回士官候補生の豪傑にして、個人戦闘能力においては並ぶ者なしと冠される怪物ユーバンク・アーバスノット・タフリン・クナル。

 

 敵は、クナルから噴出した尋常ならざる闘気を浴びると、それぞれが同時に地面を蹴って、風のような速さで飛び出した。

 

 

 



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第十話:前哨戦 中

 小隊長クナルの相手は相手の大将格と思われるレイナが向かっている。騎士ハーヴィーの相手はサキと呼ばれた夢魔であるから、残されたのは機械人形だけであった。

 

 三角に尖った頭部、脚部が蠕動する。歯車の仮回しが終わったのか、動力部の駆動力がそのまま相手の機動力に変換された。

 

 ベップは剣を構える。直後、機械人形の一体は淡い紫の槍を真正面に突き出し、一直線に突っ込んできた。背丈は軽く倍ある。巨人でもなければ真正面から拮抗することなど敵わない膂力である。

 

 それなら、剣を斜めに構えて駆けだした。それほど筋力に自信はないが、速度ならまだ可能性はあった。

 

 空は白み始めている。金剛流を学んだ実直な剣士は、冒険者あがりのようになんでもありの闘いには向いていないが、このような障害物、闇夜のない真正面からの勝負には滅法強い。

 

 残像が尾を引く槍の影をじっと眺めた。目蓋を一度開閉する。時間が淀み、世界が加速する。加速するほど時間が遅くなる感覚。意識の加速が風景を歪ませた。

 

 相手の槍を頬を掠めるほどの近距離で躱す。大上段から振り下ろした銀線が胸部装甲へ走った。

 

 一線。がきんと火花が散った。

 

(硬すぎる、なんだこれは!)

 

 金剛流伝位の真髄は一撃の重さにある。真っ向から振り下ろされる剣はまさに神速。それこそが彼の信ずる剣だったが、それが真正面から弾かれたのは驚愕に値する光景である。

 

 ベップは舌打ちしながら大きく下がった。

 

 思考停止などもっての外だ。短い逡巡のあと、広く場所を使うことを選択し、大広間の中央へ躍り出た。

 

 中央には木彫りのランドマークが設られており、周りには花壇が丁寧に整備されていた。それ以外に遮蔽物は一切ない。強いて言えば石畳のほうが踏み込みやすいが、贅沢は言ってられないだろう。ベップは走りながら弱点を探った。

 

 モノアイか、間接部か。そう思考を巡らせていると、もう一体のほうから、小柄な人影が吹き飛んできた。

 

 ベップは顔を上げた。その人影はクルクルと回転しながら地面へと着地する。唇には切った痕。相手に叩き飛ばされた証明だった。

 

 相手が畳み掛ける。追撃してきたベップの相手は、コマのように旋回した。足元が一本足になっているからか、回転軸が不変で素早い。ビグザムの周囲拡散砲のように砂塵を撒き散らしながら接近してきた。

 

 それをなんとか走って逃げると、アルバの元に近寄る。距離を取られたことを察した敵は槍を投擲。ベップは全身全霊でそれをパリィすると、態勢を立て直そうとするアルバに助力した。

 

「大丈夫かッ」

 

 アルバの手を引いて立ち上がらせる。

 

 二体の機械人形が並走しながら吶喊してきた。戦車隊のような姿である。後背が家の壁となったベップは、アルバを突き飛ばすとその反動で反対側に流れる。異様な唸り声をあげて迫り来る槍をなんとかかわすと、ガラガラ崩れる壁の瓦礫が残った。

 

 家の瓦礫の影に潜む二体の機械人形。ベップは横並びになった。

 

「いけるか」

 

「……問題ない」

 

 アルバは短く言うと剣を静かに納刀した。気を溜めている、のだろうか。目を閉じて、深い思考の海に沈んでいる。

 

 しゃらん、と鈴の音を聞いた気がした。

 

「……行く」

 

 小さな体躯が空を駆けた。背中に翼が生えたような、軽やかな舞である。士官学校の制服だが、ベップにはどこかの民族の巫女が踊っているように見えた。

 

 その姿の細部を追えなかった。宙に舞ったまま、剣戟の反動だけで空を駆けている。二体の機械人形は撃たれるままだ。

 

 ベップも駆け出した。アルバは息が尽きたのか、荒れた呼吸で地面に着地した瞬間、スイッチした。

 

 目まぐるしく立ち位置を変えて戦う二人。まったくはじめての共闘にもかかわらず、その呼吸は、驚くほどに合致していた。

 

 モノアイのような頭部に切り込む。当然、相手側も黙っては見ていないが、足で泥をかけながらバック宙を繰り出して、顔を土濡れにする。着地後、大きく跳び上がると兜割を放つ。

 

 横合いから差し出される槍に防がれるも、すぐさま飛びのいたことでアルバが戦線に復帰。再び、アルバの舞が披露された。

 

 一見、圧倒しているようにも見える戦い。

 

 相手は打たれるがままだ。

 

 ――だが、それでも。

 

 ベップの中で、徐々に不安は現実のものとなってゆく。

 

 個人の能力も連携も、本番勝負にしてはうまくいっているほうだろう。むしろ、ベップが昔残してきた未練のような錆が、アルバの技術に呼応して取れてゆく感触すらある。

 

 だが、それだけでは敵わない領域があるのも事実なのだ。

 

 二人の脳裏に過っていたのはただ一つ。火力が圧倒的に不足している、という点である。

 

 アンヘルが過去に相手取ったウッドゴーレムとは違い、ダークゴーレムの関節部はやけに頑丈に作られている。魔道黎明期に作られた神造兵器の後継機は、大抵の弱点を克服しているのだ。

 

 さらに、ベップは対人以外の経験が兎に角浅い。人相手なら早晩遅れは取らぬが、魔物相手になると手詰まりの感はある。人外の防御力を備えているとなると、苦戦は必至だった。

 

 二人は荒い息を吐きながら、再びモニュメントの前で横並びになった。ベップは肩で激しく上下させているが、アルバは頬を染めているくらいである。

 

 ――この班は隊長といい化け物ぞろいだな。

 

 ベップは感想を飲み込みながら、敵の細動すら見逃さないアルバの顔を見た。

 

「なあ、ちょっといいか?」

 

「……なに?」

 

「お前、アイツらの守りを突破して、破壊できるか?」

 

「……むり」

 

「こっちも無理だ。俺の剣は剛剣だが、あくまでも人斬り、鉄を斬るなんざやったことはねえ」

 

 ベップは握る剣の柄を叩いた。長剣にしては幅広で、刀匠グンドが打った業物だが、刀身一メートルとあんな鉄塊を叩き斬るには頼りない。

 

 アルバの披露も深刻だ。栗粒の汗を額に幾つも浮かび上がらせ、いつもなら平然としているはずの呼吸も大きく乱れている。

 

 一見すると絶望的状況。だが、アルバの戦意には一向に翳りはない。何かしらの手段が残されていることを意味していた。

 

「なあ、アルバ。そっちは隠し球があるんだろ?」

 

「……」

 

「そう黙り込むなよ。お前はこの二年、隠し通せてきたつもりかもしれないが、こっちだって馬鹿じゃない。ネタは上がってんだ」

 

 相手の身体が強張った。やはり、と確信を深める。

 

「そっちはたしか、学術院上がりだろう。それにヴィエントさまが洩らしたエゴヌ一族という言葉。それを忘れていねえ。お前の正体は、エゴヌ族に伝わる内燃魔術の使い手だ。そうだろう?」

 

 ラシェイダ族にはじまり、帝国に合併された部族の中にはそれ以前の文化を色濃く残した部族も存在する。エゴヌ一族というのは、貴族級の魔力を持たぬ代わりに、魔法の独自性と特異性を発展させた一族であることを頭の片隅で記憶していた。

 

「それを使えば、アイツらを一泡吹かせられるんじゃないか?」

 

 確信のしたり顔で尋ねてやる。

 

 だが、アルバは強張っていた身体から力を抜くと、失望したような表情を浮かべた。

 

「……お前、節穴」

 

「なにっ」

 

 アルバは目の前で大きく溜息を吐くと、呆れたように首を振った。

 

「……だが、良い。時間を稼げ」

 

 それを最後に後方へ非難する。地面で胡座を掻き、何某かの呪文を唱え始めた。ブツブツと意味の解さないお経が響いてくる。

 

「おい!」

 

 呼びかけるがまるで返答がない。眼前には再び突撃の準備を始めている機械人形たち。やぶれかぶれだ。ベップは剣を上段に構えた。

 

「くそ、やってやる。やってやるよぉぉおおおお!」

 

 やけっぱちになって真っ向から斬りかかったベップは、瞳に真っ赤な殺意をたぎらせていた。

 

 馬鹿なことをやっている。そんな自覚があった。意味不明な理論に乗せられて、無謀極まりない戦況に身を置いている。

 

 常ならば見切ってしまう戦況。敵わぬと知って戦っている。それが、男のステージを一段上げた。

 

 これ以上ない程に冴える。無分別で怠惰な日常が近視眼的だった己の剣筋を変え、ただ生き残ることへ特化させたのだ。

 

 剛槍が唸る。ベップは機械人形の間合いに潜みながらも、決して距離を空けず常に挑発し、己の間合いから逃さなかった。

 

 前後、巨体に挟まれる形となる。必然、無防備な背中が晒されるが、冴えわたる身体技術で躱した。振り返って応対する。振り返る時間が惜しければ、剣を後方に構えて、受け流した。

 

 この男に真に向いていたのは、果たして金剛流なのかどうか。今となってはもうわからない。不誠実だった金剛流剣術に叩きつけた真実とは、対極に位置した東方一刀流と似た生き汚さへの適合であった。

 

 青白い燐光が迸った。朝日に強化術の光が染め上げられ、立ち上ってゆく。倍はある機械人形のモノアイが、打ち倒せない敵に戸惑いを深めてゆくように感じられた。

 

 殻をひとつ突き破った感触がある。絶体絶命、一太刀受ければ即死。此方の一太刀は、無価値。だが、そんな状況ですら、ベップは笑った。

 

 頬に槍が掠める。血の雫が頬を伝って地面に飛び散った。意識に間隙はない。剣に伝う強化術の流れだけがやけに鮮明だ。ベップは地面を滑りながら、相手の時間を置き去りにして、関節部を叩きに叩きまくった。

 

「まだか、アルバ!」

 

 強化の持続がそろそろキツくなってきた。そう思った瞬間、背後で神域の気配がした。

 

「憑依降霊術。人柱アルバ・エゴヌの名の下、降臨せよ」

 

 いつの間に書いていたのか、地面に描かれた血の魔法陣から朱色が立ち昇り、鮮血のカーテンを創り出した。

 

 鴉の濡れ羽色のようなアルバの髪が、純白に染まってゆく。触媒とされる髪が神降ろしによって変色するのは有名で、今何をしていようとしているのか、ベップの目にも明白だった。

 

 ふわりと拳ひとつほど浮き上がったアルバは、手に持った剣を水平に構える。その双眸から覗く瞳はどこか生気がなく、非人間的な印象を受けた。その瞼が下ろされると、あたりの空気がすべて集まり収斂した。

 

 開眼。剣を大きく振りかぶった。

 

 達人でも感嘆させられるようなまったくブレのない身体運びで、機械人形に向かって、必殺の剣撃を見舞った。

 

 その速度、力、精神状態、強化術の練度はあらゆるものを切り裂くに足るもので、大気の魔力微粒子を巻き込んでうねる。

 

 その斬撃には射程という概念が存在しなかった。刀身延上にまるで不可視の剣が出現しているような、そんな神の一撃は、機械人形二体の体を斜めに大きく断ち割った。

 

 続けて、背後の家々まで一刀両断する。暴威を極めた巨体は、壊れた人形のように動きを止めると、ずるずると斜めにずれ落ち、地面へと倒れ込んだ。

 

「アルバっ!」

 

 一撃にすべてを注ぎ込んだのか、神聖さを失って地面へとへたり込もうとする。ベップはすぐさま駆け寄って、その身体を抱きとめた。

 

「大丈夫か!」

 

「……うるさい」

 

「あ、ああすまなかったな。ああ、お前のおかげだ。すげえ、すげえよ」

 

「……頭ガンガンする」

 

「あ、すまない」

 

 ベップを押しのけて一人立とうとするも、力が入らないのか地面にへたり込んだままだった。

 

 代わりに手を差し伸べてやる。アルバは戸惑いながらも手を握った。

 

「それより、あの憑依降霊術。どんな神様を降ろしたんだ?」

 

「……先祖」

 

「あ、ああ先祖、先祖ね。ああ、うん」

 

 顔に出なかっただろうか、という心配をする羽目になった。立ち上がったアルバも不審な顔をしている。相手に読心能力がなくてよかったと心底思った。

 

 ――もっと高名な神かと思った。

 

 こんな罰当たりには、天罰が降ればいい。

 

 

 

 

 

 同刻。

 

 騎士ハーヴィーは夢魔の一人サキと対峙していた。

 

 一言で言えば、凶悪極まりない容貌である。さすが傾国の美女と呼ばれるだけあった。まったく興味のない女であるにもかかわらず、恐ろしいほどの色気を肌でピリピリ感じていた。

 

「私、こっちの騎士っぽいのも良いですけど、そっちのイケメンがいいですねぇ」

 

「あなたはそちらに集中なさい。毒を飲まなかった騎士ということは慎重なタイプです。それに、この場に立てているとなれば妨害魔道具の影響はなさそうですよ」

 

「はいはい、わかってますよう」

 

 もう一方のレイナと呼ばれた女は、クナルに釘付けとなっていた。当のクナルは敵が分散したからか興醒めしている。剣を地面に突き刺して待機の姿勢だ。

 

 大概イカれた奴だ。ハーヴィーは一人抜刀した。

 

「おい、私があの女をやる。もう一匹は任せるぞ」

 

「好きにしろ」

 

 どうでもいいのか腕を組んでいる。ハーヴィーは鼻を鳴らしながらこの班の異常性を再確認した。

 

「女よ、御相手願おうか」

 

「あはは、勝てると思ってる顔ですねぇ。それを歪めてあげたらどうなるんでしょうか」

 

 サキは目を歪めた。三白眼の奥には人類を完全に見下した蔑視の炎が揺らめている。口調から覗く無邪気さからの油断は一切伺えない。腰もとから短刀を二本取り出し、手元で交差させてから、その切っ先をハーヴィーの胸元にピタリとつけた。

 

 ハーヴィーは下段。剛剣を信条とする金剛流としては邪流だが、右腕を失ってからは、できるだけ負担の掛からぬ技に傾倒していた。

 

 鋭い風の音。それが、開戦の合図だった。

 

 ハーヴィーは地面を滑るように移動すると、大気を割るようにして、水平に白刃を突き入れた。

 

 剣がシュルシュルと相手の動きに合わせて動く。蛇の如く変幻自在だ。だがその中に、流派の真髄である剛剣の牙が隠されていた。

 

 対するサキは短刀だから間合いが短い。どうしても相手の懐に飛び込む必要がある。

 

 それこそが狙い。騎士ハーヴィーは剣術のスペシャリストである。

 

 戦闘経験、練度、どれをとっても、そこいらの候補生とは格が違う。相手を懐に入れないなど簡単な話だった。

 

 矢継ぎ早に剣劇を繰り出す。サキは二刀という手数有利な型だったが、自慢の手数を圧倒することで反撃の糸口を封じる。

 

 ――この女、まともな戦闘経験がないな。

 

 たった一太刀交えただけで、相手の能力の大幅を察する。汗すらかかず圧倒するハーヴィーの剣術は、アンヘルが御前試合で勝利したときより遥かに進歩していた。

 

 

 

 仕える家を探して幾星霜。

 

 ハーヴィーの記憶は、父と二人、仕える家を探して放浪することから始まった。現オスキュリア領の騎士団一門であったスキピオ家だが、政争に敗北すると、内紛騒動に合わせて解雇の憂き目となる。父の努力もあり家名はなんとか残せたが、彼の幼少期は、貴族とは程遠い職なし家なしの旅であった。

 

 その長い旅路で、母親は過労で亡くなったらしい。国境の紛争地帯で陣借りをするも、大きな戦功を挙げる機会には恵まれず、いつまで経っても傭兵生活が続いていた。

 

 その放浪は、およそ八歳まで続く。父親は北方諸国への増援によって失った。あっけない最後で、矢が首に刺さっての落馬である。それが六歳。それからはたった一人、スキピオの名を再び興隆させんと、力を振るった。

 

 貴族の煌びやかな人生とは程遠い地獄のような人生である。彼にあった貴族らしさとは、唯一といっていいほどの父の教えである「剣」と「言葉遣い」であった。

 

 名流の金剛流と言葉遣い。再起を願う父の希望である。だが、所詮八歳の少年には厳しい現実だった。その夢は、途中で儚く消えるものと本人ですら思っていた。

 

「あなたは見所がありますね。仕える家がないなら、ヴィエント家に加わりませんか?」

 

 今でも鮮明に思い出せる。血みどろのゲリラ戦。その最中に現れた援軍の中に、風に靡く翡翠の髪、神々しく恐れ多い馬上の姿を見た。それは、洗礼そのものであった。

 

 スキピオの名は、ヴィエント私設護衛団に加わる運びとなった。

 

 それからは順風満帆だった。大貴族だけあって差別がないわけではなかったが、徹底した実力主義を標榜するヴィエント家は過ごしやすい環境であった。幼少期から戦場を渡り歩いた男ハーヴィーには、そこいらの道場剣術はぬるすぎた。

 

 結果、メキメキと頭角を表したハーヴィーは、ルトリシアの士官学校入学にあたって、筆頭護衛の位置を獲得するに至る。

 

 しかし、それが間違いであった。倉廩満ちて礼節を知り衣食足りて栄辱を知る、とは管子の言葉であるが、貴族として成長しようとも剣は脂で鈍くなっていた。

 

 そんなときである。聞いたこともない冒険者に叩きのめされたのは。

 

 それ以来、復讐を誓った。この男を屈服させることこそ我が宿命。そう、ハーヴィーは位置付けた。

 

 それ以来、護衛を除けば、人が変わったように鍛錬に身を投じた。

 

 剣とはつまり精神である。迷いのない剣ほど斬れるものはない。騎士スキピオは、いまや一点の曇りのない白銀の剣と化していた。

 

「女よ。降参するというなら命ばかりは取らないでおいてやろう」

 

 ハーヴィーは相手の短刀を小手ごと叩き斬りながらいった。相手は唖然と大口を開けている。ここまで圧倒された経験はないのか、対応策が思い浮かばぬようだった。

 

 とうとうと切断された腕から血流が溢れている。ボコボコっと肉が盛り上がり、再生がはじまった。

 

「ふふ、あはは、あははア」

 

 サキは女の子座りで高笑いをあげ始めた。不気味に思って顔を顰める。まだ何か奥の手を隠しているのか。ハーヴィーは瞳に鋭い光を宿した。

 

「男ってのは皆そうです。すぐそうやって見下す。すぐ抑えつけて、組み伏せて。それで出したらもう知らんぷり。ムカつく、ムカつく、ムカつく。何様なんだよ、テメェらはぁあああ!」

 

 女が唾を飛ばしながら立ち上がった。口を大きく膨らませる。そして、ふぅぅと大きく息を吐いた。

 

「コレはねぇ、毒の息ってやつですよ。タランチュラの毒を遥かに超えて、熊すら一滴で身体の中どろっどろにしちゃうんです。油断しましたねぇー」

 

 紫の毒々しい霧が吐き出される。ハーヴィーの視界が靄に包まれる。

 

「はは、はあ。どうです、やりましたよカオスさま。見てください。この大馬鹿クソ野郎の姿を。ひひ、ひひひひひひ、あははああああああ」

 

 両手を広げて、哄笑を挙げるサキ。

 

 その声は広間全体へ響き渡るようにして広がった。壁で反響する。満足したのか、一瞬、視線を戻した。

 

 それが、女の最後の抵抗だった。

 

 騎士は外套を翻して一回転すると、毒の霧を払った。そのまま、一直線に進み出る。相手の驚愕が目に入った。

 

 地面を滑るような一歩から、胸に向かって神速の突きが放たれた。

 

 刹那、女の胸に先端が貫入する姿と苦痛に歪む姿を認めた。

 

 女の口から血が溢れる。同時に男の剣に血が伝った。それを切り払う。赤いトップスが無惨に切り開かれ、中の内臓が開帳された。

 

 女の顔が奇妙に歪み、地面へと前のめりに倒れる。

 

 それは、あり得ない事態に遭遇したのを、夢であると思い込む様にも見えた。

 

「お前はバカか。こんなチンケな毒が効くわけないだろうに」

 

 貴族級の魔力持ちは、身体の自浄作用によってあらゆる病魔、毒を無効化してしまう。だからこそ、ユースタス・ルトリシア撃破の為邪法を用いたのである。

 

 美しく整った女の顔が魔力を失って朽ちてゆく。残ったのはぐずぐずに溶けた魔族の最後であった。

 

「男に、私は男になんか負けないっ」

 

 最後の力を振り絞ってにじり寄ってくる女。ハーヴィーは、その地面を這う女の惨めな姿に激しい同情を覚えていた。

 

「止めろ。もう勝機はない」

 

「五月蝿い、五月蝿い、うるさい。男なんて、奉仕する奴隷なんです。私に指図するな、私に触るなぁあああ!」

 

 女は、己の手を自分の胸に突き入れた。ハーヴィーに負けるのがそれほど堪えたのか、自殺するつもりらしい。

 

「おい、止めろ!」

 

「私は、カオスさまの居場所を吐いたりしない。穢れた血の末裔どもは、我らが邪法と共に滅びろ!」

 

 そういって、己の胸を掻きむしると絶叫した。凄まじい生命力になんども復活を遂げるが、その度に己の心臓を破壊して、最後には朽ちた。

 

 その姿は美しかった頃などを思い起こせない。眼球や口や鼻から血を垂れ流しながら、死んだ。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 隘路をぬって、先にぼんやりとみえる影を追っていた。朝日が昇りはじめている。闇に紛れて大将首を獲る予定であったが、こうなってしまえば敵に発見してくださいと言っているようなものである。

 

 村の中は、あちこち村人たちの抵抗の痕なのか、死臭が強く立ち籠めている。所々、人の残骸とおもわれる臓器や肉片が落ちており、烏が集っている。グズグズの地面に血が染みこんでいた。

 

 アンヘルは苦味を顔中に刻み込んだまま、早鐘を打つ心臓を叱咤した。魔族、そして、上科の候補生を追っているのだ。多少の疲れなど気にしている余裕はない。眷属(リーン)の治癒術で回復はしていたが、先日レイナとかいう夢魔に付けられた傷から血が滲みだしていた。

 

(先行され過ぎたせいで距離が開き過ぎている。このままじゃ、敵のど真ん中で孤立するかも)

 

 ホアンとの距離は開くばかりである。相手を気にしながらの尾行は難しいし、なにより魔物に注意を払わねばならない。たった一人で敵と相対すれば、一貫の終わりである。

 

「どこに行ったんだ」

 

 アンヘルは眉間に皺を寄せながら、キョロキョロと周囲を見渡した。曲がってから何処へ行ったのかわからない。屋上へ飛び上がるわけにもいかず、耳を澄ませた。

 

 斬り合う音。近くで戦闘が始まったのだ。

 

 南か。アンヘルは思い切ってそこまで走った。そこから一丁ほどの距離に行くと、村の狭い路地に小鬼の集団が集っていた。躊躇を見せず、抜剣して飛び込んだ。

 

 ――ホアン。

 

 最初に確認したのは、剣を振り回して応戦する男の姿だった。多数に囲まれながら、何体もの屍を量産している。傷ついた腕からはポタポタと血が滴り落ちていた。

 

「マリサ、行かないでくれ!」

 

 ホアンは敵から目を離して敵軍に身を潜める女に叫んでいた。彼女は魔物の人垣に埋もれながら悲しそうな顔をした。

 

「火計、誘い込み。これで助かる道はありません。ごめん、なさい……さようなら……」

 

「行くな! 待ってくれ!」

 

 踵を返して去ってゆくマリサ。それを遮るようにして、大鬼たちが姿を表した。さらに敵が集まってくる。この場は、見渡す限り敵となった。

 

 ホアンが地面で泣き崩れている。すぐさま抜刀し、無防備な背中を見せている小鬼の集団に剣を叩きこみながら割り込む。

 

 そして、寸でのところで彼に向かっていた棍棒をせき止めた。

 

「あ、アンヘル! どうして」

 

 驚愕を露わにするホアン。そんな反応に斟酌せず、アンヘルは腕を引いて無理やり立ち上がらせた。

 

「早く、この場を脱出しないと」

 

「やめてくれよ。俺を恨むのはわかる。けど、俺にはマリサが」

 

 泣きじゃくりながら、縋りついてくる。その言葉でド頭に来た。

 

「ふざけるな! 立ち上がれホアン・ロペス! 僕の前でそんな無様を晒すのか!」

 

 向かってくる敵を薙ぎ払いながら、一度深呼吸する。それからできるだけ落ち着くようにと言い聞かせて、ゆっくり言葉を紡いだ。

 

「――あの女は、大事な情報源です。ホアン隊長にどんな事情があるにせよ、我々臨時小隊の特務を妨害してもらっては困ります」

 

「……」

 

「それに貴方には、敵前逃亡の嫌疑が掛かっています。ですがこのような事態、必ずお目溢しが下るでしょう。私の方からも口添えを致します。まずは、現状を脱することだけをお考えください」

 

 努めて他人行儀に言った。これ以上話せばどんな暴言を吐き出すか判ったものではなかったからである。

 

 ジリジリと、周囲の魔物たちが距離を詰めつつある。剣士として全身全霊の力を振り絞ればなんとか切り抜けられるか、という包囲網である。なんとしてでも彼の力を借りねばならなかった。

 

「すまない」

 

「謝って頂いても困ります」

 

「そうじゃない。違うんだ」

 

「どのような意味でありますか」

 

「……許してくれ。アンヘル」

 

 ――今さら、何を謝る。

 

 そう思った瞬間、ホアンは懐から拳大の鉄塊を取り出した。その物体の頭にはピンが付けられている。そのピンを引き抜くと、目を腕で隠しながら地面に放りなげた。

 

「すまない!」

 

 瞬間的には太陽光すら超える閃光によって、直視したアンヘルの目を焼いた。

 

 ――閃光弾っ。

 

 強烈な立ち眩みを感じて、アンヘルは膝をつく。微かに瞼に映る影が、ホアンが走り去ってゆこうとするのを認めた。

 

「また、また僕を裏切るのか! ホアン・ロペス! 答えろっ!」

 

 虚しく、絶叫が響いた。

 

 パチパチと何かが弾ける音がした。もくもくと白煙が登っている。誰かがこの場に火をつけたのか、前門後門を挟まれた状態で、炎が上がりはじめた。

 

 目眩から立ち直った時、すでにホアンの姿はなく、目を抑えた魔物が囲んでいるだけだった。

 

 

 



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第十一話:前哨戦 下

 土砂降りの最中のような陰鬱な空気が、中隊全体に染み込んでいる。暖かい朝の日差しを浴びるも、どこか虚しさがあり、沸き立つ恐怖心に辟易とした。

 

 第一中隊のヴィエント派フェルミンは迅速に朝食を終えた。屋敷に戻ろうとすると、同じ第一中隊に所属する候補生たちの視線が幾度となく突き刺さる。屋敷にゴザを敷いて寝転ぶ姿は呪いの蝕みもあってどこか諦めすら窺える。

 

 もしこれが平時なら連中に一発喝を叩き込んで、その迷いを吹き飛ばすのにな。フェルミンは己の中で盛り上がる恐怖心を知っているがゆえ、何も語ることはできなかった。

 

 目的の人物の姿を認める。黒髪の男は険しい目で机に広げた地図を見ながら溜息を吐いていた。

 

「ラファエル連隊長。何か手は見つかりましたか」

 

「フェルミン、か。もう朝食はいいのか?」

 

 フェルミンは後ろに括った髪を梳きながら、不安げに彼を見つめた。

 

「あんまりのんびりしていられませんから」

 

 ラファエルは目を優しくした。

 

「悪いな。水浴びでもしたいだろうに」

 

「女だからって気を使わなくていいです」

 

 フェルミンは口を尖らせる。ラファエルは軽く笑った。

 

「助かるよ。皆結構参ってるから――スキピオさまの話は?」

 

「聞きました。早朝に出たんですよね」

 

 朝に当番から聞いていた。騎士スキピオを中心とした特務小隊が早朝出発し、単独で邪龍討伐を実行するらしいのである。

 

 なんて無茶な。それがフェルミンの感想である。ヴィエント家麾下として、模擬戦の中で何度か騎士スキピオと剣を交えたことはあるが、絶対的な実力差は感じられなかった。

 

 相手は龍なのである。多少強かろうが、人が勝てる相手ではない。それが召喚師ならまだ可能性はあるが――

 

「そういえば、ラファエル連隊長はお呼ばれしなかったんですね」

 

「ああ。少し寂しいが、まあ行く意味はないだろうな」

 

「連隊長なら――」

 

「相手は邪龍。誰が行っても変わらないさ」

 

 ラファエルは諦めたように、地図から顔をあげた。

 

 士官学校二回生の二番手ラファエル。学年二人しか居ない召喚師でありながら、剣にも長ける英才。頭脳戦にも優れ、小隊戦ではあのクナルを凌ぐと予想されている。奇跡の世代筆頭株である。

 

 当初は敵視していたものの、フェルミンは密かに好意を抱いていた。格別した実力はもはや嫉妬すら浮かばない。ヴィエント家の派閥に組みしたのも彼の誘いあってであった。

 

 そんな彼が弱音を漏らしている。それ程まで邪龍は強大なんだと、こんな所でも実感してしまった。

 

「誰が随行しているんですか?」

 

「クナル班だったかな。あとは余りも入っているようだったが」

 

「そんな混合部隊で勝てるんでしょうか」

 

「さあな。だが、ルトリシアさまは相当焦っているんだろう。オウルのこともあるしな」

 

 彼は召喚師である。実感している龍との戦力差は誰よりも正しいだろう。

 

「こちらも絶体絶命の危機だ。なんとか一手、ということだろうが――」

 

「何が一手なのかな?」

 

 背後から響いた似つかわしくない鋭い声。その殺気混じりの声に背筋が粟立つ。フェルミンたちは、さながら戦時下のような険しさをもって振り返った。

 

 屋敷の入り口には、多数の配下を引き連れ不敵な笑みを浮かべるオウルの姿があった。

 

 右手には抜き身の剣。抜剣している。否、配下の者たちも皆武器を持ち、戦闘態勢を隠しもしていなかった。

 

 寝転んでいた部下たちが驚いて立ち上がるも、皆突然の出来事に冷や汗を垂らしている。ジリジリと後退しながら此方に集まってきた。

 

「何のつもりだ。気でも狂ったか」

 

 代表であるラファエルが進み出ながら、相手を牽制した。

 

「質問に答えていただこう。何が一手なのかな?」

 

「ふざけているのかッ」

 

 オウルはまったく退く気配を見せなかった。口の端を歪めながら肩に剣を置く。

 

 ――これは絶対外に漏らさぬよう。

 

 騎士スキピオが邪龍討伐に出ていることは極秘事項になっていた。優秀な護衛として重石となっているのは事実だし、日が過ぎるにつれ弱ってゆくルトリシアに代わり指示を出すのは彼である。もしそれが外部に漏れれば、どんな蛮行に及ぶかわかったものではなかったのだ。

 

 だが、オウルたちはその様子を完全に把握しているように思われた。

 

「では代わりに言おう。筆頭護衛騎士ハーヴィー殿が邪龍討伐に出陣したそうではないか」

 

 オウルはその極秘情報を容易く漏らした。

 

 その発言を受けて、ラファエルはピタリと動きを止めた。空いている手が痙攣したように震えている。

 

「……なんのことだ?」

 

「ふ、あまり腹芸が得意ではないみたいだなラファエル君。頬が引き攣っているぞ」

 

 ハッタリだ。フェルミン達は指摘されても表情筋ひとつ動かさなかったが、果たしてどれほど意味があったのかは判らなかった。

 

(やっぱり、どこからか情報が漏れている……)

 

 ルトリシアの病状がバレている件にしろ、今回のハーヴィー出陣にしろ、どこからか情報漏洩が為されていることはもう確実だった。フェルミンは背中に大量の汗を実感した。

 

「まさか、ここで謀反を起こすつもりか?」

 

「今更だが、もはや折れるのを待ってはいられない。もし邪龍を討伐されても困るからな」

 

 あまりに潔い宣戦に、ラファエルも目の色を変えて抜刀した。もはや敵を見る剣呑さで相手の様子を伺う。

 

「この俺に勝てると?」

 

「君こそなぜ戦うんだ? ヴィエントについた所で未来はないと思うがね」

 

「俺は貴様のように裏切りを働いたりはしない」

 

「ふう、やはり降る気はない、か」

 

 オウルはやれやれとかぶりを振った。

 

「ラファエル君。認めよう、確かに君は強い。しかし、その対処をしていないと考えるのは実に浅はかだ」

 

 オーケストラでも見せないような鷹揚さで、オウルは悠然と語った。

 

 その瞬間、真横から誰かが突き飛ばしてきた。何、と感じる暇もない。二階に繋がる階段の前まで突き飛ばされると、手摺をぶち壊した。

 

 顔を上げる。ラファエルが突き飛ばしてきたのだ。

 

「ラファエル連隊長っ、なにを!」

 

「よく見ろっ」

 

 脂汗が滲んで、苦痛に耐えるような声だった。フェルミンは彼を支えようとするが、背中を触った瞬間、べっとりとした感触に戦慄した。

 

 ――ラファエルは、出血していた。

 

 誰が、と相手を見る。ラファエルは明らかに背後から斬りつけられていた。オウルの仕業ではない。

 

 信じられないと思いながらも、自分の部下たちの姿を見た。

 

 それを見たとき、愕然とした。

 

 ――部下の一人が、血の滴る剣を振り抜いた姿勢で佇んでいたのだ。

 

「バイルっ、あなた何をっ!?」

 

 喉から悲鳴が漏れる。ありえない。そんな想いが胸中を占める。

 

 一方、バイルは辛そうな顔をするものの、少しづつオウルらに合流を試み始めたのだ。

 

「ふ、ふははは。傑作だな」

 

 フェルミンは涙目になりながら、裂帛の怒声を浴びせた。

 

「裏切ったのね!」

 

「いいや、違うな。強い方に付いただけだろう? 弱肉強食は世の理。お前らこそ泥舟に乗り続けて呑気なもんだな」

 

 くっくっと笑うオウルは、部下たちをさらに散会させ、絶対に逃げられないように布陣を取る。

 

 自分の部下が二人相手側に追加された。ラファエルの部下は今現在警邏か怪我でこの場にはいない。十対二の絶体絶命である。

 

 青い顔をしたラファエルを抱えながら、恐怖で手が震える。剣には自身があるがこの状況では勝ち目など――

 

「フェルミン。君はルトリシアさまを」

 

 ラファエルが血を吐きながら小さい声で囁いた。

 

「そんな無茶な。それより今は手当を……」

 

「大将が獲られれば負けなんだッ!」

 

 ビリビリと鼓膜が震える。ラファエルは死の淵にありながら、戦士の顔で叱責した。

 

「行け」

 

「でも」

 

「行くんだ! 君は何のため軍に入った!」

 

 ラファエルはよろよろと立ち上がり、眷属を召喚した。

 

 オウルが意味不明な状況に陥ったとでもいわんばかりに嘲笑を浮かべた。

 

「まだ現実が見えないのか?」

 

「俺を舐めているだろ? たった十人ぐらいで勝った気になるな」

 

「おいおい、そちらは手負い。勝機などないと思うがね」

 

 ラファエルがわざと自信満々に仁王立ちした。フェルミンを心配させないような、そんな態度。

 

「ラファエル隊長」

 

「行け。君の仕事を果たすんだっ!」

 

「っすみません。ご武運を」

 

 フェルミンはもはや振り返らず、二階への階段を駆け上った。

 

 涙がつつっと頬を伝った。いくら何でもたった一人で叶うはずがない。悔しくて、悔しくて、握りしめた手から血が滲んだ。だが、振りかえるわけにはいかない。彼はわかっていて、自分を送り出したのだ。

 

 フェルミンは寝室に飛び込むと、半朦朧としたルトリシアの身体を抱えて、窓から飛び降りた。

 

 屋敷から幾度も爆砕音が響く。余りが外から回ってきたのか、数人が追いかけてきた。

 

 振り返ることはできない。フェルミンは後ろ髪引かれる思いを振りきり、森の中に駆け込んだのだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「逝ってしまいましたか」

 

 油断なく待機していたレイナという魔族が、そっといった。夢魔の最後を物悲しげに見ている。サキの全身は白化粧のように灰の塊へと変化し、砂上の楼閣が崩れるような軽い音を立て、崩れていった。

 

 広場では、ベップらの尽力により機械人形が討たれたようである。ガラガラと金属の崩落が見えた。

 

「残りは、貴様一人だな」

 

 剣の血を払うと、ハーヴィーは大上段に構えた。向こうからはぞろぞろとベップたちが戻ってくる。場は四体一。勝敗は決したように思われた。

 

「先も言ったが、貴様らの主人の居処を吐けば見逃してやろう。我とて騎士。いくら魔族といえども、女子供の命までは取ろうとは思わぬ」

 

 頭にあったのはサキと呼ばれた女の最後である。彼女の男を憎んで去っていた最後が脳裏にこびりついて離れない。どこか、虐げられた過去が吐かせたように見えたのだ。

 

 主人ルトリシアを蝕む元凶だというのに、心の底から憎む気持ちにはならない。ハーヴィーは優しい表情で宣告した。

 

「ふ、ふふ。馬鹿にしてくれますね。人間」

 

 それを侮りと見たのか、レイナは不敵に笑ってみせると、両の手を大きく広げ、歌劇のように高々と返答した。

 

「機械人形を、そして、同胞サキを屠ったことは認めましょう。たしかに、あなた方は強い。邪法に身を窶した卑しき者どもと侮ってたことを謝罪します。

 ですが所詮ただの人間。この私の前ではそのような些細なことは無意味なのですッ!」

 

 レイナは己の頭に生える二対の角に両手を掛けた。それをギリギリと真横に引っ張ってゆく。その角は血を撒き散らして千切取られようとしていた――

 

「スキピオさま。どうしたんですか、これは?」

 

 隣に並んだベップが、渋面をつくっている。背中には青い顔をしたアルバの姿があった。力を使い果たしたようだった。

 

「無事なのは貴様だけか」

 

「はい。とはいっても負傷ではありません。ですが戦力になるのは私だけです」

 

「そうか。では、あの女がなにか企む前に片付けるとしよう」

 

「あっ、お待ちください!」

 

 ベップがアルバを安静にさせるのも見届けず、ハーヴィーは、ついと前に踏み出す。サキの死に感傷を覚えたのは事実だが、優先順位を間違ったりはしなかった。

 

 剣を真っ向から振り上げる。

 

 猛犬のような勇ましさと刀剣の鋭さを持って跳ねた男の身体は、流星のような銀線を描きだした。

 

 ――すまぬな。

 

 勝利を確信したハーヴィーは、頭蓋を叩き割ることを止め、腕と脚を斬り裂くことにした。顔に一抹の虚しさのようなものが浮き上がる。

 

 女の手がゆっくり反応した。左掌で刀身を受けようとする。意味のない抵抗だと、その瞬間は思った。

 

「――進化『リリス』」

 

 眼前で繰り広げられた現実は、信じ難いものであった。

 

 叩きつけられた刃は、水仕事もしたことのないような皺一つない手によって遮られ、毛ほども傷を与えることはできなかったのだ。

 

 口を開け広げたハーヴィーの目に女の威容が克明に映じられる。

 

 美しかったボブのブロンドが伸び、朝日に照らされている。千切取られた角は牛を思わせる厳しい大角へと生え変わっていた。体内から漏れる、おどろおどろしい陰鬱な気。全身の隅々まで闘気を纏わせていることで放たれる、人外の業に思えた。

 

 大きく邪悪な翼が広げられる。骨が浮かび上がり紫の膜だけが張られたそれは、ジョン・コリア作の「リリス」を思わせる出立ちを想起させた。

 

 ハーヴィーに信じられないという感覚が魂にまで刻まれた。それは、後方から続こうとしていたベップも同じである。勝利という階段からあと一歩で叩き落とされたような絶望感を味わう。

 

 何もできず、ジリジリと退がるしかなかった。位違い、という現実をまざまざと見せつけられたのだ。

 

「この姿は今の私では負担の大きいものです。ですが、あなた方の力に敬意を称してお見せ致しました」

 

 レイナは冷気すら感じさせる冷厳さを伴って、そう告げた。足元の大蛇が彼女を中心に蜷局を巻いてゆく。その頭に手を這わせると、一転、目つきを鋭くさせた。

 

「サキの意趣返し、させていただきましょうか」

 

 腕が大きく広げられた。闘気が噴出する。それに合わせて、細身の身体が巨人の歩行のように見えた。

 

 世界が、止まった。女だけが編集で切り取られたような動きを見せる。常識の中の生物には信じがたい動きだった。

 

 繰り出される手刀を受けたハーヴィー。

 

 太刀で受けたにもかかわらず、ゴム毬のようにはるか彼方へと吹っ飛ばされた。

 

 教会の扉に突っ込む。ぎいいと重苦しい木の摩擦音が響く。遅れてベップも飛ばされてきた。飛ばされた場所が悪く、彼は後頭部を壁の端にぶつけ昏倒した。

 

 パラパラと漆の下にある木が崩れる。風が吹き抜けると、砂塵の立ち昇った中心に腕を振り抜いた女の姿があった。

 

「この程度ですか?」

 

「ほざけ!」

 

 ハーヴィーは全身の力を振り絞ると、足腰に気合を叩き込んだ。主人の敵を討ち滅ぼせ。そんな騎士精神にしたがい、剣を杖にして、反抗精神を立ちあげた。

 

「ヴィエント家の筆頭護衛騎士として、邪龍を打ち倒すまでは死ぬわけにはいかぬッ!」

 

 震える足腰に喝を入れて走り始めた。剣を天頂にかかげ疾駆する。そして、つつっと間合いを見極めると両足で踏み切って飛んだ。

 

 女はその度胸に白い歯を見せると、正面から叩きつけてきた男の剣を二本の指で摘んだ。

 

 指二本による、真剣白刃取り。

 

 ハーヴィーには唖然としながら涼しい顔で立つ女を見上げることしかできなかった。万力に絡められたように固着している。精神状態から溢れ出る膂力を持ってしても、ミリ単位で動かすのが精一杯であった。

 

「あ、あ、あ、あぁ」

 

「素晴らしい腕前ですね」

 

 相手から絶望的といえるほどの密度で闘気が放出された。逃げなかったのは、騎士としての矜持故か。だが、生物の根源的恐怖に抗えたのはその程度であった。

 

 極度の恐怖と狼狽でいつもの冷静さがなくなってゆく。剣先は震え、足腰からは力が逃げてゆく。正面からの手刀を何度も幻視し、自身の死を幾多も予期する。

 

 芸を凝らせば、多少の力は削げたであろう。だが、今のハーヴィーには踏みとどまることで精一杯だった。

 

「化け物か、きさま!」

 

 歯が噛み合わず、かたかたと鳴る。身体を恐怖の蛇が這い回り、のたうち回っているような感覚を覚えていた。

 

「バケモノ、ですか。一応言っておきますが、私の力は、それほど優れているわけではありません。しかし、超越種である我らに肉薄しようなど、天に手を掛けるに類することであると認識を改めるべきでしょうね」

 

 女の手刀がうねる。その掌は、研ぎ上げた剣よりも鋭く、戦鎚の衝撃を遥かに上回ることを、しっていた。

 

 音を立てず、迫る。傷口から噴水のように血が噴き出る光景を幻視した。

 

 ――申し訳ありませぬ、ルトリシアさま。

 

 諦めとともに、目を閉じた。

 

 ここに至って、今までの敵がどれほど恵まれていたのかを思い知らされた。此度の相手は、いままでの常識が通用する相手ではないのだ。

 

 そして、それを悔やんだところで、何も得られぬことを察していた。最後に思ったのは、それでも、我が主人への後悔である筈であった――

 

 ――止めたのは、巨塊のような大曲刀であった。

 

 ガキン、と到底肉と刃がぶつかりあったとは思えぬ音を立て、女の手刀が弾かれた。すぐさま、ハーヴィーの身体が後方にすっ飛んでゆく。首をつかんで投げられたらしい、と気が付いたのは、地面に転がりながら悠然と佇むクナルの姿を見てからである。

 

「邪魔をしますか」

 

 女は後ろへ飛びながら、警戒感を露わにした。着地してからはすでに全集中をクナルへ向け、構えをとっていた。

 

 一方、悠然と身の丈ほどの大曲刀を肩に担ぎなおすクナル。欠伸すら浮かんでいた。

 

「戦うつもりがないのかと思っていました」

 

「雑魚に構っても仕方あるまい。と考えてはいたが、露払いを考慮すれば生かしておいたほうがよかろう」

 

「そうですか。噂に聞くラシェイダ族とは些か違うようですね。もっと戦闘狂のようなものかと――」

 

「能書きはいい。さっさとかかって来い」

 

「ふふ。いいんですか? それがあなたの最後の言葉となりますよ」

 

「ちっ、自己顕示欲のつよい女だ」

 

 女はその一言で顔色を変えると、上体を屈めて走りだす態勢を取った。疾走。女性には似合わぬ強烈な速度である。距離を瞬く間にゼロとすると、手刀を振りあげた。

 

「駄目だ! その女に一人で敵うわけが!」

 

「黙って見ていろ」

 

 迫り来るレイナ。それを、クナルは悠然と迎え撃った。両手で構えることもなく、それどころか、半身のまま注意を払うこともなく、ただ大剣を振り上げた。

 

 勘に触ったのか女の顔が険しくなる。首筋を狙って放たれた手刀が大気を割る。そして、両者は、トラック同士の強烈な激突音と共に、位置を入れ替え、立ち止まった。白煙が濛々と立ち昇っている。

 

 女がゆっくりと振り返った。顔には嘲笑がある。手刀からは僅かに血の痕が残ってる。見れば、クナルの頬が僅かばかり裂けていた。

 

 固唾を飲んで見守っていたハーヴィーに絶望が広がる。あのクナルですら子供扱いか。圧倒的な相手の実力に戦慄を覚えた。

 

 しかしそれは、レイナの奇妙な変化によって変わっていった。ハーヴィーは、その眼を大きく見開いた。

 

「馬鹿な……ありえない……いつだ、いつやった!」

 

 女は余裕を無くして、顔中に栗粒の汗を浮き上がらせ、引き攣った声で大きく叫んだ。ズルズルと、女の身体が傾いてゆく。すとっと、まるで芋虫が落ちたように、手刀と反対側の腕が転がった。ペンキをぶちまけたように赤が地面へ広がる。

 

 対照的に、頬を薄く斬られたクナルは心底興味が失せた表情だった。大曲刀は真っ赤に染まっていた。

 

「雑魚だな」

 

 振り返ると、クナルはさらに剣を投じた。

 

 上段から、袈裟斬り。真横に薙いでから、切り上げる。都合、三つの斜線が身体に引かれると、女の身体は不良品のプラモのように崩れはじめた。

 

 残ったのは胴体だけである。魔族の再生能力によって死なぬ、しかし、自殺や反抗をさせぬ封殺状態であった。

 

 目にも止まらぬ、神速の剣撃。ハーヴィーを圧倒したはずのレイナとクナルには、大人と赤子のような差が存在していた。

 

「心底くだらぬ。こんな雑魚に手間を掛けさせるな」

 

 クナルは剣を背負い直すと漏れたあくびを隠そうともせずに、いった。

 

「あ、ああああ、ああああぁああ!」

 

 女の、ヒステリックな絶叫が響き渡った。それは、己の自負心と、絶望的なまでの巨壁に相対したときの混合が飲みくだせなかったように見えた。

 

「さっさとこの女から情報を取れ」

 

「あ、ああ」

 

 指示されてしたがうハーヴィの脳裏には、己の中に湧いた感情をかき消せないでいた。まざまざと見せつけられた圧倒的実力差。それを見る眼差しには、あってはならない畏敬の念が込められてしまっていた。

 

 そしてそれは、恐怖に慄きながら叫びまわる女こそがもっとも感じていることだった。

 

「化け物、バケモノよ。寄るな、寄らないで!」

 

 恥も外聞もなく叫ぶ女。彼女の顔には特大の氷塊でも落とされたような、戦慄があった。

 

「あなたのような化け物を、カオスさまに会わせるわけにはいかないッ!」

 

 そういうと女はうぐっと苦悶を漏らして毒々しい血を石畳に巻き散らす。目が虚になった。

 

「おい!」

 

 ハーヴィーの静止虚しく、女からブクブクと血泡が溢れ出す。どうやら舌を噛んだらしかった。

 

「この様子では、喋れまい」

 

 舌を噛むという自殺は基本的に出血による窒息であるから、適切な処置をすれば死亡する可能性は低い。ただ、舌を噛み切った以上、そう易々と情報を聞き出すことは難しいだろう。

 

 クナルは瞬く間に首を落とした。

 

 灰化してゆく。男の横顔はただひたすらに無感情だった。

 

「雑魚どもを叩き起こせ。さっさとあの馬鹿を追うぞ」

 

「あ、ああ。そうだな」

 

 戸惑ったままその背中を追った。どんな戦場を切り抜けてきたんだ。そんな修羅への恐怖をこの時ばかりは覚えた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

(すまない。すまないアンヘル。だが、マリサを殺させるわけには……)

 

 エセキエルという候補生からくすねた閃光弾によって窮地を脱したホアンは、心中で懺悔の言葉を紡いでいた。

 

 アンヘルは確かに特務、と言っていた。そして敵前逃亡の疑いあり、とも。そう言われてしまえば、ヴィエントらの一報を聞いて村に無断で駆けつけ、特務隊のアンヘルを囮にしてしまった。軍法に則れば斬首間違いなしだろう。

 

 そして、最後に響いた糺弾の台詞が耳から離れなかった。

 

 ――また僕を裏切るのか!

 

 あれほど心に突き刺さった台詞はこれからも聞くことはないだろう。一度目は恋人を。二度目は本人を。もはや、生きて彼に顔向けできる日は来ないに違いない。いや、そもそもあの場から逃げ延びる可能性はゼロに近いだろう。

 

 頭の中に、己の父親と母親の姿が何度も映された。誠実であった父、不誠実であった母。今の自分は他者からどう映るのか。確認するまでもない事実が何度も鏡面で反射されているようですらあった。

 

 だが、それでも。

 

 自分を癒してくれたマリサ。自分を裏切ったマリサ。そんな彼女を、俺は――

 

 整理のつけられぬままマリサを追っていると、湖の畔に差し掛かった。いくつも漁用の船が止まっている。日差しがキラキラと水面を反射して、奥のプルトゥ渓谷と合わせて幻想的な空間を作り出していた。

 

 マリサは、浅瀬で脚を膝まで浸した状態で俯いていた。

 

「ま、マリサ!」

 

「ホアン、さん」

 

 女は悲壮な顔をはっとあげて、ホアンの姿を認識した。泣いていたのか目は腫れている。眦からつうっと雫が落ちていた。

 

「マリサ」

 

 ホアンは靴が濡れることも忘れて走り寄った。頭の中の悔恨などはすべてが吹き飛んでいる。嫌がる彼女を無理やり抱き寄せた。

 

「や、やめてください! 離して!」

 

「俺にはわかるんだ! 君のその顔を見ただけで、後悔しているって。君はずっとそうだった。村人を殺したと嘆いていたのも、さっきの辛そうな顔も。俺は全部忘れてない!」

 

 頭の中でマリサの表情がリフレインした。ずっと彼女をみていた。街の外について離すときに朗らかな表情、代官屋敷へ行くときの沈み切った表情、村人を殺してしまったと後悔する表情。そのどれもが、嘘には見えなかった。

 

「……そんなの、気のせいです」

 

「それならそれで良い。人は見たものだけを信じる。俺も、そうだってだけだ」

 

「でも」

 

「もう良いんだ!」

 

 マリサの抵抗が弱まり、バシャバシャと響いていた水の音が去ってゆく。その小さな頭は、胸の中に収まっていた。

 

 背中に腕を回しながら、キツく抱いた。優しい言葉を投げかける。

 

「これは悪い夢だ。君の言っていた街へ行こう。俺が案内するから」

 

「でも、私は夢魔で……汚れて、います。知っているでしょう。私は何人もの男の人に身を捧げて」

 

「そんなのいいさ。気にすることはない。だから、もう忘れよう。なにも言わなくていいんだ」

 

 そう声を掛けると、マリサはうっうっと声を殺して泣きはじめた。静かに、しかし、寄り添い合う二人の姿は一輪の睡蓮のように儚く美しかった。

 

「ずっと、ずっと一緒にいよう。だから――」

 

「……」

 

 ――ありがとう。ホアンさん。

 

 そう口が動いたように見えた。遅れて、腹の中が焼けたような感触を覚えた。

 

「えっ――」

 

 喉に血泡が逆流してきた。贓物が沸騰したように熱い。一方で、視界が一気に閉ざされたような意識だけが残っていた。

 

 足元から崩れ去ってゆく。

 

 その眼には、血に濡れた手刀を掲げている女の姿が映っていた。

 

「どう、して――」

 

「え、あ、ご、ごめん、なさい。私、そんな、つもりじゃ」

 

 マリサは顔面を蒼白にしたまま、血に濡れた手で顔を覆った。べったりと顔が血で彩られてゆく。霞む視界で、大粒の涙を零す彼女がやけに美しく思えた。

 

 ――つまらない三文芝居でしたね。マリサ、プルトゥ渓谷まで戻りなさい。

 

 どこからともなく声が響いてくる。怨霊のような囁きだった。その言葉が発されてから、マリサの意に反して足が勝手に動きはじめた。

 

「いや、どうして、勝手に! ホアンさんがっ、ホアンさんを助けないと!」

 

 マリサの気配が遠ざかってゆく。水面に漂うホアンには、それ以上の情報を拾うことは叶わなかった。身体の中の物が広がってゆく。辺りは、血で澱んでいった。

 

 

 

 

 

 身体中が焼印でも押されたかのように痛む。敵は少なくとも二十斬った。背中、腕に数え切れない切傷をこさえ、出血を抑えるために傷口を焼いた。

 

 それでもギリギリで切り抜けたアンヘルは、女を追って湖の畔にまでやってきていた。

 

 バシャン、と腕が水に叩きつけられる音が鳴った。

 

 それを見たとき感じたのは、怒りでも、失望でもなく、ただただ喪失感であった。

 

 水をかき分け、目的に向かった。湖に咲く紅い華。美しく佇むそれは、どこか開放されたような朗らかさがあった。

 

 その華の土手っ腹に痛々しく開けられた穴。白濁した瞳、微かに蠢いていた唇に掲げられた指先。彼の運命という名の星が流れたことを如実に示していた。

 

 腰に差してあった剣が水の流れで足元にたどり着いた。血の揺蕩う中彷徨ってきたそれは、呪いのようでもあり、また、加護のようでもあった。

 

「……ホアン…………」

 

 怒り、悲しみ、苛立ち。あらゆる感情が砂となり、崩れ去ってゆくようであった。湖風の創る流れが彼の身体を攫ってゆく。アンヘルは彼の身体を捕まえると、歪んだ視界でただただ声を殺した。

 

 それから彼を背負った。水が傷に染みて涙が溢れる。アンヘルは小さく「召喚」と呟いて、シィールを呼び出した。

 

 ゲートの中からくりっとした瞳が此方を見据えた。アンヘルはその頭を撫でる。いつもなら目を閉じて感じ入るシィールだが、今日は何も言わずに、ただ主人を見返した。

 

 素朴なメロディーを聴いた気がした。それはいかなる奇跡か、召喚師の感応が作用した。シィールの魔力を通じ、背中に背負ったホアンの記憶が流れ込んできたのだ。世界はぼやけ、聞き覚えのない声が近くで聞こえ始めた。

 

 

 



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第十二話:ホアン・ロペス

 ――世界を良くする。それが、俺の贖罪だと決めたはずなのに。

 

 ホアン・ロペスは、トレラベーガ帝国南部オリアナ州衛星都市セグーラの街に生を受けた。

 

 幼少期の思い出は少ない。父親が鍛錬してくれたような記憶がぼんやりとあるだけだった。父親はほとんど家に帰らず、唯一の接点である鍛錬と云うのは帝国軍古来から脈々と続く伝統であるから、それほど印象的なものではない。巨木のような背中だったことしか覚えていなかった。

 

 時は流れて、十年あまり。

 

 士官学校に入学したホアンは、やるべきことを見失っていた。

 

 一種の受験病のようなもので、現代でも有名大学を目指し日夜勉学に励んだものの、いざ入学してみるとヴィジョンがなく、道を見失なってしまうのと似ている。彼の場合、士官学校の入学とは母からの逃避という意図も含まれていたから、この傾向は殊更強かった。

 

 その上、胸中に宿る強い強迫観念が善行を遂げよと囁けば、孤独のまま目標を探すことに拘泥するしかなかった。

 

 半期終え、すでに内部の派閥が固まりはじめたころである。前期の試験終わり、いくつもの長机が並ぶ教室にて同じ東方一刀流の剣客オウルに苦言を吐かれていた。

 

「なあ、ホアンよ。お前もさっさと身を寄せる場所を探したほうがいいぞ」

 

「わかっているさ」

 

 空返事のホアンにオウルは鼻を鳴らした。オウルとは入学以来同流ということもあって付き合いがあった。彼は能力を隠すような如才のなさを持ち合わせており、ホアンは密かに尊敬を抱いていた。

 

 一方、そのホアン自身は散々な学園生活であった。士官学校は殊更田舎者に厳しい環境で、その訛りや仕草にかけて揶揄するようなことが蔓延っていた。しかも、剣技だけなら真ん中程度の順位は有ったから目を付けられるのは早かった。

 

「あー、今日も上の級に扱かれていたが、動けるか?」

 

「ホント、大丈夫? ダメだったらコイツに言わせようか」

 

「おいエマ、コイツって俺はお前の召使いかよ」

 

「今回の試験、私が助けなかったらどうなったでしょうか? 今度は何も助けてあげないよぉーだ」

 

「うそうそ。本当、すみませんでしたエマ様」

 

「よろしい。下民のリカルド君」

 

「っておい、格下げかよ」

 

 上科の中でホアンを気にかけてくれた者が居ないではなかったが、その助けを借りはしなかった。入学当初、信頼していた人間に陥れられて以来、助けを求めることの難しさをその身に刻み込んでいたのだ。

 

 ――上科とは、蹴落とし合うことである。

 

 担当する教官が言った言葉だった。あのオスカルですら、真っ当な――殺人や暴行が含まれぬ駆け引き――争いならば容認していたのだから、上科が如何に厳しい環境であるかは明白だろう。

 

 身を守る為には派閥に属するということが必須だ。たった一人でいる人間など体の良い的そのものだった。

 

 うだつのあがらない劣等生としての日々。

 

 そんな生活が卒業まで続くはずだったのに――。

 

 救いの天使は唐突に現れてしまった。恐らくそれが、ホアンにとっての転機になってしまったのだろう。

 

 ある日、失意に暮れるホアンはある男の姿を見たのだ。

 

 世に渦巻く不満の種、蔓延する格差、貴族の横暴に絶望的な出世への道。ありとあらゆる物に権力の糸が見え隠れする。それを改善すると声高に上げたエルンストを見た時、我が意を得たり、と思った。平民派として勢力を拡大してゆく彼らに加わり、恵まれぬ人を救ってみせる。

 

 それこそ、時折凍りつくような目で此方を見張っているアンヘルへ残された赦しに思えたのだ。

 

「私に、できることは有りますか?」

 

「真摯な想いさえ有ればあとは何も必要じゃない。ホアン・ロペス。君の志を心から歓迎する」

 

 エルンストの勢力は脆弱で大した影響力を持てずにいたが、徐々に世論が傾いてゆくとこちら側につく人間が居ないではなかった。

 

 大きかったのは、シュタール家ら法務系の貴族がこぞって平民派に傾いたことだろうか。行政官族と門閥派の溝が深まると一気に二極化したのだ。よって、エルンストはそれまで実家の支援を得られずにいたが、一気に勢力を強めてゆくことになる。

 

 さらにロウウィート事件以降、親門閥派であった五大貴族、佐皇派も静観を決め込み、一気に情勢はわからなくなった。

 

 チャンスだ。ホアンはそう息巻いていたのだが――

 

「どうしてでありますか、エルンストさま! すでに仲間は大勢集まりました。あのような非道を繰り返す聖カトー騎士団の連中を放ってはおけません!」

 

「何度も言ったはずだ! 手段を誤った正義に結果はついてこない。間違った手段によって齎されるのは、歪んだ現実だけだとなぜわからない」

 

「私には、エルンストさまの仰ることが弱腰に映ります! オスカル教官が聖カトー騎士団の手によって殺されたのは明白。その上、元老院はその行為を庇いだてしています。断じて許される行為ではありません!」

 

「くどいぞ! 俺たちの方針は変わらない。元老院に対して陳情を出すだけに留める」

 

 オスカル教官の死。それは大きなニュースとなって流れた。付随する聖カトー騎士団の非道や剣客モルドレッド公の行った悪鬼そのものな残虐行為が衆目に晒されたのも大きかった。

 

 さらにホアンの心を抉ったのは、それらを正した志士たちに下された屈辱極まりない沙汰であった。

 

 オスカル教官殺害を目論んだ団長および幹部暗殺事件。巷ではロウウィート事件と呼称される事件において、元老院は天誅を下した勢力への見せしめとして人事介入を行い、平民派の多い西方軍の幹部から名の知れた人間まで尽く飛ばして見せたのだ。

 

 それに激怒した帝国西方軍の一部将軍はアッグア領にて蜂起するも、全戦力を集中させた門閥派によって殲滅、解体され、将軍は斬首の刑に処された。

 

 ――これの何処が正義だというのだ。

 

 エルンストさまには、正義や理想はあっても、それを実行する手段を持ち合わせていない。そんな思いが沸々と湧き上がってくる。

 

 救わなければならない。成さねばならない。遂げねばならない。そんなやり切れない憤りだけが渦巻いていた。

 

 ならば、どうする。

 

 ホアンはそう思いながら、東方一刀流道場で剣を振っていた。士官学校で真剣に訓練すればやっかまれる。ただひとり、そんな感情で腕を磨いているとき、壁に体重を預けながら腕を組むオウルが言ったのだ。

 

「なあ、ホアン。お前も限界を感じてるんじゃないか」

 

「何がだ」

 

「シュタール様よ。あの人は立派だが所詮は貴族。俺たちのような地を這う者たちの気持ちに寄り添ったりはできやしないのさ」

 

「……黙れ」

 

「お前も薄々気づいているだろ? ユースタスのクソ野郎にはいつも『いつか必ず』だ。馬鹿げているよな。いつかが来るか分からねえ奴も居るっていうのに」

 

「……」

 

 オウルは元々ホアンより先にエルンスト派へ属していたが、その過激思考からすでに離名している。最近は三都東方流という、剣よりも国学を優先した分流と付き合っていることを、風の便りで聞いていた。

 

 ホアンは俯きながら、相手の真意を確かめた。

 

「どうすればいい?」

 

「俺がフランシス先生に話を通してやる。お前は東方一刀流でも中々の腕だ。歓迎されるだろう」

 

 数日後、街の商業区の宿で会ったのは五回生や四回生に囲まれたフランシスという候補生であった。

 

「フランシス先生。こいつが同級のホアン・ロペスです。剣ならば二回生でもそうそう敵う奴は」

 

「そうですか」

 

 頷いたフランシスは優しげな双眸ではあったが、その奥には強い光が渦巻いていた。

 

「ロペス候補生。あなたの志、信じてもよろしいのですね」

 

「はい。たとえこの身が朽ちようとも帝国の為働く所存です」

 

「結構。あなたに任せたい仕事があります」

 

 幾ばくかの期間を置いた後、ホアンは「救国」実働部隊の隊長となって現地に赴いていた。

 

 晩夏の真夜中である。吹き荒ぶ横風に霧雨が傾き、時期外れの寒波もあって半袖のシャツでは肌寒い日であった。

 

 黒のフードにコート。その中もそこらの仕立て屋で揃えた麻の上下で揃え、靴も軍用ではない革靴にした。

 

 行政区元老院議会議事堂からもっとも近い料亭「蘭月」の出入り口がはっきり確認できる狭い路地の軒下で、ホアンは救国に志を捧げる同志たち七名に対し、静かに息巻いていた。

 

「これから行うは正義の剣。悪虐非道の徒である元老院貴族リエル・ローフォルを膺懲する。今此処に至って、気後れしたと申す者はいないな」

 

 其処此処から、おう、と短く答えが返ってくる。それを聞くと、厳しい目つきのまま灯りの灯る窓を眺めた。

 

「そろそろ、だな。此処からわかるか?」

 

「はい。暗くてわかりにくいですが、あの紋様は間違いなくローフォル家の者です」

 

 玄関先に馬車が付けられそれに店の者に見送られながら乗り込んだ男の身元を、仲間の目利きが断定した。

 

 御者が馬車に乗り込み、出発しようとしている。護衛たちも数人居るが、時間もあってかそれほど警戒しているようには見えない。作戦決行の時である。

 

「自由、平等、忠国しからずんば死を。我らを虐げる国賊共に天の裁きを」

 

「天の裁きを!」

 

 ホアンたちは一斉に覆面を被ると、バッと軒下から飛びでた。

 

 予定通り妨害魔道具を起動する。その波動によって相手側も勘づくが、突如として発生した戦いに相手も戸惑っていた。

 

 瞬く間に仲間が護衛三人を斬った。それで勝負は七対三。御者とローフォルは大した腕を持たないと聞いていたから、残りは筆頭護衛の男だけである。

 

 が、さすがに事態を把握した護衛の力量は大したもので、実質一人にもかかわらずたった一振りでこちらの戦力を半減させた。

 

「何者だ、貴様ら! 此方のお方を何方と心得る!」

 

「逆賊には神罰あるのみ!」

 

 こちらの戦力は三人が候補生。残りの四人が兵卒教練を受ける東方流の剣客である。そのどれもが、たった一太刀で三人を屍に変えた相手の実力に慄いている。この流れを変えるのは自分だと一人で踏み込んだ。

 

「き、きさま」

 

 その時にはじめて人を斬った。手にこびりつく嫌な感触、血の匂いに死した後の苦悶の表情。すべてが鮮明に記憶されている。紙一重で相手の剣を躱すと、ホアンの剣は相手の首を正確に切り裂いていた。

 

 どさりと崩れ落ちる護衛。その死体を睥睨しながら、ローフェルに歩み寄る。

 

「や、やめてくれ。頼む! 金なら、金ならいくらでも恵んでやる。待て、もしかして女か! そう、最近亜人どもをダース単位で奴隷にした。屋敷へ戻ればすぐにくれてやるから――」

 

「口を開くな、この外道が」

 

 後退る男の額を真っ向から叩き割った。二度目の殺しに大きな忌避感はなかった。

 

 後日。ホアンは数日の潜伏を経てフランシスに呼び出されていた。

 

「よくやってくれましたね。貴方には今後より大きな仕事を任せたいと思います」

 

「ご期待に添えるよう、努力してゆく所存であります」

 

 フランシス先生、と媚び諂いながらもホアンには彼に対する敬愛など持ちえなかった。過去の主人と違ってどこか驕奢な面があり、軍資金を懐に入れていることを知っていた。彼も人間だから多少の贅沢をするなとは言わないが、どこか志の低さが透けてしまうと、軽蔑が膨れ上がるのは仕方なかった。

 

 それでもはじめての「救国」で得たものは大きかった。闘死三名、重症一名を出したが、筆頭護衛を倒した実力は大いに評価され、平民派倒院論者ではかなりの地位を得た。だけでなく、ホアンの心衷にあったのは確かな実感である。

 

「おい、聞いたか? ローフェル議員が死んだらしいぜ」

 

「ああ、結構悪どいやつだったんだろ。大きな声では言えないけど自業自得ってやつだろな」

 

「しっかし、奴の荘園で働いてた奴は本当にラッキーとしか言いようがねえよ。後見は割とおおらかだって噂だし、天罰だな、こりゃ」

 

「言えてるぜ」

 

 そんな会話が平民出身の候補生から囁かれるようになり、心の中で燻っていた感情が一気に解放されたような気分になった。

 

 ――見ていてください、エルンストさま。私の手で貴方の理想を実現してみせましょう。

 

 それから一月。「救国」実働部隊の勇名はオスゼリアス中に響き渡った。

 

 晩夏に一件。初秋に二件。どれも警護の険しい中実行された。その尽くが紙一重だったが、すべての凶刃をくぐり抜けあらゆる敵に罰を加えた。

 

 このとき、ホアンの中では、世を良くしているという快感が膨れ上がっていた。敵を撃ち倒すと世界が浄化されているような気分になるのである。それは本当のところ、自分が汚れていくことによる罪の意識の希釈化だったのかもしれないが、当時の彼には知るよしもなかった。

 

 絶頂期にあったホアンだったが、それはほんの短い間。いうならば儚い夢であった。

 

「ホアン君、君は少し過激ではないかね」

 

 ある日、いつもの料亭でフランシスは唐突にいった。

 

「フランシス先生。それはどのような……」

 

「そのままの意味だよ。君のやり方は急進的すぎる。ここ一月の間に三件。我らにも計画があるのだ。少し控えたまえ」

 

 横に並ぶオウルも深く頷いている。したり顔で揃って戯言をほざく二人にホアンは激昂した。

 

「どうしてです! 彼らのやり方は極悪そのもの。一時の間身を隠して居ても、脅威が去ったと知れば再び暴虐を尽くします。今ここで、膿をすべて取り除かねば――」

 

「聞こえなかったか? これは、代表であるフランシス先生のお言葉だ。君のような一候補生が口を挟んで良い問題ではない」

 

「オウル同士の言う通りです。我々には深遠なる計画があります。我々への嫌疑も深まっており、日夜警邏が厳しくなる様子。ここは同意して頂きます」

 

 周りには屈強な東方流の剣士が控えており、その場で反論することの愚かさを理解していたホアンは引き下がった。しかし、その失意はエルンスト派閥にいた頃よりも殊更大きいものであった。

 

「なぜだ! なぜ皆わからない! 今ここで悪の根源を取り除かなければ、国は根本から腐りきってしまうというのに!」

 

 その夜、そう喚き散らしながら枕を濡らして、疲れ果てて寝た。それが幾夜も続いた。真っ暗な闇の世界でホアンは、ただ一人こんなことをしている場合ではないと叫び続けた。

 

 そんな嘆きにも疲れたある日。自分は必要とされていないと知ってもなお、なにか下仕事でもしようとフランシスを訪ねた。

 

「不肖の身ではありますが、身を新たにして働く所存であります」

 

「構いませんよ。貴方の実力であれば、できることはいくらでもあります」

 

 屈辱ではあったが、フランシスに頭を下げたあと部屋を辞した。帰り際である。今後の方針をオウルに相談したかったため引き返した。そこでオウルとフランシスの密談を聞いてしまった。

 

「さすがフランシス先生。まさか、あのじゃじゃ馬のホアンを腑抜けにするとは」

 

「いえいえ、貴方も中々信頼されている様子。見ましたか、否定された時の顔。絶望の色がありありと見えました」

 

「傑作でありますな。そしてホアンのお陰で平民派の勢いは増すばかり。先生はなんの労力なく志士を集められた」

 

「ふふふ。あの男の実績が大き過ぎるのは懸念の種でしたが、まさかああも容易く押さえつけられるとは。雑用をさせるには、惜しかったかもしれませんね」

 

「っははは」

 

 その会話を聞いた時、心中にあったのはあらゆる失望だった。

 

「くそ、くそっ。何が救国だ! 神罰だ!」

 

 ホアンは寮の家具すべてを叩き割りながら、そう叫び続けた。髪はあまりの荒れ様にボサボサになり、目は刃のように鋭くなっていた。

 

「馬鹿にしやがって! これが貴様らの本性だ!」

 

 本当のところ、フランシスたちには遠大なる計画が存在し、その破綻を恐れてホアンを封じ込めた可能性もある。だが、彼らの行動原理にはホアンの日増しに高まる名声に嫉妬したようにしか思えなかった。

 

 ここで反逆することもできただろう。だが、「救国」実行部隊隊長を解任され、指南役に任ぜられた今勝機はなかった。それからは本当に平民派なのかもわからない志持たぬ候補生を相手にした。

 

「平民派に入った理由ですか? オウル隊長に憧れたからですね。すごいですよね。平民なのに一科でも上位に食い込んで」

「俺は単にいい派閥だと思ったからです。貴族は嫌いだし、なにより平民で固まれる。居心地も悪くないですよ」

「自分は友人に勧められました。友人の言う通り訓練もちゃんとあっていい感じです」

 

 ――馬鹿にしているのか、貴様らは。

 

 怒鳴りつけなかった自分を心底褒めたい気分だった。どいつもこいつも大した志を持たぬ連中ばかりで、挙げ句の果てには勧められたから入ったと抜かすような輩が紛れ込んでいる始末である。

 

 これなら兵卒教練科のほうが骨のある連中だ。たとえ実力で上回っていたとしても、コイツらには夢も理想もない。ただ楽だから入っているだけだ。

 

 そんな加盟者にいい顔をして、裏では加盟費で豪遊を繰り返すフランシスたちも。

 

 相変わらず陳情や裁判ばかりに傾倒して、大して国を正す気配も見せないエルンストたちも。

 

 そして、結局なにも変えられない自分も。

 

 なにもかもが嫌になった。すべてを投げ出して故郷に帰りたい。そう何度も思う度、どこからか凍てつくような目を感じて踏みとどまるのだ。

 

 ――だが、おれはもう。

 

「迷っているのみたいですね?」

 

「あ、ああ、いや別に何もないよ」

 

「誤魔化さないでください。ここには、私たちしか居ないのですから」

 

 日が暮れた夜。ホアンはマリサ邸で夕食後のひと時を楽しんでいた。

 

 マリサから茶の入ったカップを受け取り、ゆっくり飲んだ。真正面には両手を組んで座る彼女が映る。優しくそっと微笑んでいた。

 

「勘弁してくれ」

 

「ダメですよ。折角の機会なんですから」

 

 此方が拒否の姿勢を示すとすぐ引き返すマリサだが、この時の様子は変だった。仕方なく、ポツリと本音を漏らした。

 

「俺は、こんなに遠い所に来てしまったんだなって」

 

「ふふ、なんですか。それ」

 

「いや、悪い。なんでもないよ」

 

 頭を振りながらそういった。こんなところだけは見せられない。そうやって意識を切り替えようとすると、マリサが唐突に立ち上がって背中を向けた。

 

「私にはホアンさんの悩みをわかってあげられません。ですけど、助言はできるかもしれません。

 こんな話があります。女は現実を見るもの、男は夢を追うもの。そう言いますよね」

 

「あ、ああ」

 

 マリサはくるっと振り返った。

 

「私はこんな話信じていません。女だって夢を見るし、男だって現実を見ます。結局、人の性格は生まれ育った場所がでます。けど――」

 

「けど、どうした?」

 

「お母さんが言ってました。子供は、そういう風に教育するべきだって。女の子には現実を、男の子には夢を追わせるのが大成への第一歩だと」

 

「俺が、子供だと言いたいのか?」

 

「違います。私はただ――初心に帰るべきだと言いたいんです。最初の目標、最初の夢。誰かを倒したかった、誰かに勝ちたかった、誰かになりたかった。なんでもいいんです。軍人さんになってやろうとした夢、いいえ、違いますね。軍人さんになろうと思った最初の理由は何なんですか?」

 

「それは」

 

「男の子には夢を追わせよ――子供の頃のちっぽけで、でも巨大な夢。それがはっきりすれば、悩みは晴れるかもしれませんよ?」

 

 彼女がはじめて長丁場で喋ったから、よく覚えていた。

 

 帰り道でなんども反響した。それから何度も事件が起きて、考える時間はなかったけれども。じっくり考える時間があれば、なんとなく頭の中に浮かび上がってくる。

 

 この世を良くするために、平民派の穏健派や過激派を放浪し、救国という手段に手を染めたのか。

 

 ――いや、違う。

 

 軍人として、出世コースを歩むために努力したのか。

 

 ――いや、違う。

 

 剣術は、おもしろいから学んだのか。

 

 ――いや、違う。

 

 全部違う。持っているものはすべてまやかし。欲しかったものは、すべて手のひらから溢れていった。自分の悍ましくて浅ましい性格ゆえに。

 

 本当は、ただ――

 

「ただ、なんなんですか?」

 

 記憶にもない言葉を誰かが紡ぐ。それは、マリサなのかも知れないし、マカレナなのかも知れない。いや、それ以外の誰かなのかも知れない。

 

「……俺は、誰かと……いや、誰かに認めて欲しかったんだよ」

 

「貴方のことを皆認めなかったんですか?」

 

 女がゆっくりと尋ねる。無邪気な質問が弾劾に聞こえた。

 

「認められていた。認めてくれていたさ。けど、俺がぶち壊したんだ。全部!」

 

 アンヘルは尊敬してくれていたと思う。剣を教えたのも、街を教えたのも自分だし、そもそも仲が悪くなるような原因はなかった。あれさえ起こさなければ、楽しい毎日が送れた筈だった。

 

 エルンストには目を掛けられていたように思う。後から参加した身ながら、かなり優遇されていた。その優遇を当然のことと受容し、さらに求めた。正義を掲げ、正当な手段を持ってして世を正そうとする清洌な願いそのものを、真っ向から否定して。

 

 そして、母親である。嫌いだった。顔すら見たくないと思う。だというのに、懐かしくてたまらない。母は裏切ったという自覚があったのだろうか。しかし、自分はそれを気にも留めず責め続けた。針の筵だったろうによく耐えたものだ。母は同じ家庭で永遠と耐えた。自分はアンヘルの眼差しに二年持たなかったというのに。

 

 胡乱げな瞳で天を眺める。憎らしいほど美しい大空だ。白い雲、傾いた日。あらゆるものが美しい。答えはすぐそこにある。欲しいものは此処にあったのだ。

 

 家族、恋人、友人そしてたわいない日常。

 

 それこそが、本当に自分が欲した何かなのだ。

 

 それさえ知っていれば、間違えなかった筈なのに。

 

 ふと、強い風がながれる。渓谷の風情のない風だ。水面というこの世を短い間たゆたう己にとって、もっとも許せないなにかに思えた。

 

 視界の端に、ぼろぼろの擦り切れた服を纏った男が写った。火傷のあとも窺えるが、すでに視界は靄がかかって人相を確認することもできない。だが、なんとなく自分が知っている男であることはわかっていた。

 

 最後の力を振り絞って、プルトゥ渓谷を指指す。少しばかり笑いが込み上げてきた。醜い自分だと思っていたが、最後となれば人は変われるのか。すでに表情筋は動かないし、喉は朽ちたが、たしかに笑い声を上げた。

 

「……あ……っちだ」

 

 俺は先に行くよ。ダメなやつで済まなかったな。

 

 お前は、しくじるなよ。そんなこと、言われなくてもわかってるかもしれないけど。

 

 あと、エルンストさまも助けてやってくれ。あの人を嫌っているのは知ってる。けど、悪い人じゃないんだ。だから。

 

 ――さよならだ、アンヘル。

 

 

 



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第十三話:邪龍撃滅戦 上

「この男を知っているのか?」

 

 荒い息を吐きながら、一人ホアンの遺体を引き上げ近場の丘に埋めていると、クナルの声が背後から響いた。

 

「知人だよ」

 

「それだけには見えぬがな」

 

 ホアンの最後。その朗らかな表情はアンヘルに深い後悔を抱かせるに十分なものであった。今ももちろん憎んでいる。マカレナを犯し、そして彼女が死んだ一因となった男である。だが、最近の殺伐とした雰囲気から解放された男の顔を見て、どこか憎しみが霧散してゆくのを感じていた。

 

「死者に対してぐちぐちと言うほど重要なことじゃない」

 

「そうか」

 

 ホアンの身体に触れた時、召喚師の感応によりアンヘルの脳に途切れ途切れの記憶が津波となって流れ込んできた。贖罪から善行へと身を投じたこと。平民派となり、差別是正に心血を注いだこと。それからより直接的な過激派に傾倒していったこと。

 

 思うのだ。被害者は常に地獄の記憶に苛まれる。だが、加害者も罪の意識に苛まれ、地獄をみるのではないか、と。

 

 ずっと凍えるような目で彼を見た。それが彼を狂わせた。将来有望な彼を、マカレナの友達でしかなかった自分のせいで。

 

 そんな結論に行き着いてしまえば結局、深い懺悔が舞い降りてくる。大義や合議を持ってして、ただひたすらに相手を追い詰めた。それは名前を変えようとも、本質としては変化せず、ただの殺人かもしれないのに。

 

 真摯に受け止め続けたホアン。そう思えば、彼の苦悩は尋常ならざるものであろう。続いて、畳み掛けるようにして起きた事件の数々。彼はマリサという女を奪われる経験をした。それも眼前で。それでも奪い返そうとして結局女に殺された。さぞ無念だったはずである。

 

 だと云うのに、最後に浮かんだ言葉が謝罪だというのだ。ならば、友人であったアンヘルの供養とは――

 

「他は?」

 

「貴様を待っている」

 

 アンヘルはシャベルで埋めた土を叩くと、最後に手頃な石を拾って地面に突き刺す。ホアンの愛用していた大業物の長剣を腰に差した。

 

 数メートルほどの丘を下ると、草臥れた表情の臨時小隊員たちと目が合った。満身創痍といった形のベップとアルバ。騎士ハーヴィーも意気込みは感じられるが、その負傷は隠しきれていない。自分自身、火傷と裂傷で浅くない傷を負っている。

 

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 

「僕たちに撤退はない」

 

 細事は捨て置く。確認などしない。長とは、下の心情を汲んでやっても顔色を伺ってはならない。追随せぬというのならば其れ迄の話である。

 

 外套を翻してプルトゥ渓谷へ進路を取った。クナルが静かに聞いた。

 

「敵は?」

 

「プルトゥ渓谷」

 

 二刻ほど掛けて尾根を登った。そこから見下ろした光景は、淋しくも美しくあった。

 

 枯れかけた紅葉は錦繍の帯のように谷を沿うて遠く上流まで連なっている。不規則に、だが自然という名のある種合理に則った川の流れが、渓谷の表面をまるで弓形のように描き出していた。流れる水は、透き通る宝石のようであった。

 

 その上流の奥に不自然な洞窟を発見する。周りには多数の敵兵。アンヘルは冷たい声で言い捨てた。

 

「スキピオさま、ベップ、アルバ。ここで退路の確保をお願いします。もし我らが死んだと見れば撤退も特攻もご自由に」

 

「あっ、おい!」

 

 振り返らなかった。クナルも駆け降りるのを横目で見る。一目散に駆け、魔物数匹を斬殺しながら洞窟内に入った。

 

 中に敵は居なかった。入り組んだ洞窟内を駆け巡る。大きな扉の前に立つとそれを躊躇せず押し開いた。

 

「ふふふ、やはりあなた方ですか。弱兵揃いの穢れ供と違い、骨のありそうな人間たちですね」

 

 ルイスは巨大な石造の椅子に腰掛けながら、膝に乗せたマリサという夢魔の胸をまさぐり続けていた。女の瞳には正気が失われている。

 

 相手を叩き割って、細切れにしてから魚の餌にしたとしても尚腹の虫が収まらぬほどの不愉快さを秘めながら、ゆっくりと進み出る

 

 部屋は洞窟の中だというのに驚くほど広かった。ドーム球場ほどはあるだろうか。よく見れば、そこかしこに人の手入れが見受けられる。遠い昔、祭壇か何かで使われていたに違いなかった。

 

 ルイスは女を突き飛ばすと、自然な動作で包帯を取り、悠然と立ち上がった。

 

「まだ完全とはゆきませんが、大方は回復しました。さて、お相手致しましょう」

 

「ここは、真っ暗だ」

 

 アンヘルは天上を見上げながら、ゆっくりとつぶやいた。

 

「はい? ああ、ここは一応土着宗教の祭壇だったようですよ。とはいっても、数百年も昔のことなので何を信仰していたかも不明ですがね」

 

「そういう意味じゃない」

 

 仄かに蝋燭が灯る洞窟をアンヘルはゆっくり眺めた。

 

「薄汚いトカゲ野郎には、お似合いの墓場だと思っただけさ!」

 

 アンヘルは「召喚」と叫んだ。虚空に青白い門が開かれる。長年の相棒たる若水龍シィールと荒っぽい若火山龍フレアが顕現した。同時にクナルが異形の咆哮を伴って駆けだした。

 

「礼儀知らずの愚か者を叩きのめすには十分な広さだと思いますがね」

 

 ルイスは己の腕を鱗で覆うと爪牙を鋭くさせ、醜い樽腹には考えつかぬスピードで走った。

 

 クナルの大剣とルイスの爪が噛み合った。大凡人間たちの衝突とは思えぬ音が洞窟内を反響した。闇に鋼の摩擦で火花が散る。

 

「私としてはそれほど興味を惹かれぬが、あの馬鹿も熱くなっているようだしな。さっさと始末してやろう」

 

「あれ程圧倒されたのを忘れたのか、吼えますねぇ。その威勢がいつまで続くか、尚更試してみたくなりましたよ」

 

「ほざけ!」

 

 クナルは両手を大剣から離すと、身体を旋回させて回し蹴りを放った。身長一九〇に迫る巨躯の蹴りは、強化術も合わせれば象すら浮かす馬力がある。

 

 だが、この相手はアンヘルたちが戦ってきた相手とはまるで次元の違う存在であった。あのイズーナにすら匹敵する実力を持ち、しかも相手の手抜かりも期待できない。となれば、人間種を超越した敵を真っ向から打ち倒さねばならないのだ。

 

 ルイスは、クナルの踵を腕一本で受けた。その腕には龍鱗が浮かんでいる。クナルはギリギリ歯を食いしばりながら、さらに力を込めた。

 

「クナルッ」

 

「わかっている!」

 

 掛け声と共に背後へ脱したクナルと入れ替わるようにして、アンヘルは抜刀した。左右両方向から龍が迫る。三位一体となった召喚師の同時攻撃である。

 

 相手が本気になるまでにケリをつける。龍の肉体で勝負となれば、勝ち目はさらに薄くなるだろう。

 

 体重とはつまりパワーである。とはいってもアンヘルも軽量ではない。筋肉はともかく、背丈は一八〇近い。全力の踏み込みから、切り込んだ。

 

「柔いですねぇ。あの方とは、比べるまでもない」

 

 だが、龍や悪魔などが犇く怪物の坩堝ではなんと儚げな肉体であろうか。アンヘルの武力など容易く屠られる。

 

 目を疑う光景であった。青と赤の奔流に自身が描き出した流星の如き刃。会心の一撃に他ならないそれは、容易く受け止められていた。

 

 ――両手で龍の頭を抑え、剣を大口で噛んで。

 

「そんな、馬鹿な」

 

 渾身の力で剣を推し進めようとするが、万力に捕まったように毛程も動かせない。唖然とするアンヘルの眼前で男がにちゃっと笑った。

 

 ゴッ、と。強烈な粉砕音が骨伝導によって頭の奥まで響いてきた。脇腹に相手のハンマーのような拳が突き刺さり、気づけばサッカーボールのように軽々と弾き飛ばされた。

 

 身体中を裂くような衝撃だ。アンヘルは壁にめり込むように叩きつけられると、血反吐を撒き散らしながら地に手をついた。

 

 遅れて、衝撃からパラパラと土が舞う。近くにあった蝋燭が倒れてさらに薄暗くなった。眷属たちが周りに吹き飛ばされてゆく。よろめきながら立ち上がろうとするも、続いて飛んできたクナルが腕に掠って脱臼した。

 

 濛々と舞う土埃が潮のように去ると、そこには惨めに地面を這う男の姿があるだけであった。

 

「どうしましたか。私はただ少し撫でただけですよ。だというのに、このようにのたうち回られては興醒めですねぇ。少々は無聊を慰めることができると思いましたが」

 

「黙れ。このトカゲ野郎」

 

 アンヘルはよろめきながらも、壁に手をついて立ち上がった。クナルもすっと立ち上がる。自分から飛ばされたのか、アンヘルよりもダメージは軽い様子だ。

 

(どうすればいい。相手は、こちらの攻撃を苦にもしていない)

 

 何か突破口が必要だ。クナルへ無言のメッセージを送る。

 

 ――何か手は?

 

 ――首だ。それも、貴様では無理だろう。時間を稼いで無防備な頸椎を叩き斬るしかあるまい。

 

 ――隙なんてないよ。

 

 ――見出すしかないな。

 

 相手の実力は圧倒的にすぎた。よくルトリシアはこんな化け物を撤退させたものである。

 

 手が震える。知らず、臆病な心が溢れている証拠だ。

 

「怯えていますね。ふふふ、それが当然です。私は『あの方』の命を受け、穢れ供を始末する任にあるのです。使命すら持たぬ雑魚が束になっても叶わぬというものでしょう」

 

 愉快げな言葉と反対にすでに戦う気は失せてきているのか、龍化を解いたルイスは倒れ伏した女の側にどかっと尻をついた。

 

 女の顔を持ちあげ、アンヘルたちに向けさせる。土と涙に塗れたその表情は、世界に絶望したようですらあった。

 

「見てくださいな、マリサ。これが裏切り者の召喚師に相応しい最後ですよ」

 

 ルイスは好色な笑みを浮かべながら、マリサの身体に手を這わせた。フルンと肉が揺れる。ボロボロになった衣服の脇から手を差し込んで、さらに女の体を貪った。

 

「どうですかな。羨ましいですか。あなた方のような低俗な思考など知るよしもありませんが、卑賤な者どもはこうやって愛の行為を見るだけで催すものでしょう?

 ――ふふふ、良いことを思いつきました。あなた方もそこで交わってはいかがです? それが愉快であれば、助命して差し上げましょう。貧相な脳味噌で私を楽しませることができる、唯一の劇であるとは思いませんか?」

 

 マリサの呻き声を聞きながら満足そうに男が微笑む。あふれ出る憤怒に、アンヘルは剣を地面に叩きつけながら立った。

 

「便所に頭を突っ込まされた気分だ」

 

「気に食わぬが、同意しよう」

 

 アンヘルたちは両者空いた拳を打ち付け合い、呼吸を新たにする。勝機が見えなくとも戦い抜かねばならない。いや、絶対に勝たなくてはならないのだ。

 

 足の筋骨が膨れ上がる。筋が違えようとも関係ない。同時に粒子が全身から立ちのぼる。強化が膨れ上がったのだ。二人はダメージを負ったとは伺わせぬスピードで吶喊した。

 

「ふ、ふふ。その意気です。そうですよ。見せてください!」

 

 相手はマリサから手を離すと、再び身体を龍化させた。

 

 ルイスの指先から伸びていた爪牙が漆黒に染まってゆく。まるで周囲の闇を吸い込んでいるようだ。そして、黒よりも深い闇へと落ちた爪は周囲の風を巻きこむようにして放たれる。

 

 大気を割って迫る奔流。それは誠信じられぬが、鎌鼬のようにして空間を飛んだ。

 

「”龍爪”」

 

 強化術を極めた達人は剣の射程を伸ばせるという。それは己が剣気によって刀身を拡張し、不可視の斬撃となって飛翔するということなのだろうが、人類を超越した龍種にとって児戯に過ぎぬことだったのだ。

 

 アンヘルたちは必死に左右へバラけた。伸びた穂先はそこを寸分違わず駆け抜け、背後の壁まで疾駆し、ダンボールでも食い破るように破壊した。岩肌に恐竜の爪痕を残してゆく。

 

 だが、それで終了となる筈もなかった。着地すると同時、さらに爪牙が飛来した。次々と到来する死の旋風は、激戦区の戦場のようである。身を縮めて隠れたいも、脚を止めることは即死を意味した。掠めた脇や腕から夥しいほどの出血があるも、回避に全力を注ぎ込んだ。

 

「ほら! ほら! どうですか! まだ逃げ回りますか!?」

 

 攻撃に思考を移す余地もない。疲労からか脚が止まり始め、致し方なく召喚術を行使した。

 

(頼む。シィール)

 

 息を整えるだけだ。という言い訳を残してアンヘルはシィールの影に隠れる。水龍が必死に身を縮めて龍の攻撃に耐えていた。「きゅうう」という苦悶の悲鳴を聞きながら、必死に主人のため身体を張るその瞳を懸命に見つめる。切り裂かれた肉から血潮が噴き出し、アンヘルの足下に伝う程となった。

 

「なんと醜い。これが召喚師のエゴですか。やはり穢れに身を窶した者は、情というものがないですな!」

 

 クナルは流石の身体能力で躱しているが、距離を縮めることは叶わずにいる。

 

 シィールの悲鳴が徐々に小さくなってゆく。血みどろの体躯と、隠れているアンヘルの顔にも夥しいほどの血潮が吹きかかる。

 

 アンヘルは息を整え終えると、シィールを消した。

 

「はぁぁああ!」

 

 一目散に駆け抜ける。もはや、ガードのことなど気にしては居られなかった。企鵝の構え。アンヘルたちがもっとも得意とする戦術である。

 

 だが、そんな甘い目論みはついえた。

 

「その動き、見たことがありますね」

 

 ルイスは嘲笑を浮かべた。

 

 アンヘルを一瞥すると、背後に飛ぶ。狙いは、クナルだ。

 

 一気にクナルと距離を詰めると、爪牙を放った。その素早さは今までの比ではない。クナルの数太刀の抵抗虚しく、強烈な刃を胴体にぶち込んだ。

 

 大量の血飛沫が舞う。さらに鉄を打ったような音が鳴って、吹き飛んでいった。

 

「たしか、人鳥の習性から取ったのでしたかね。一人を突っ込ませて後続が討ち取る。人間らしい戦術です」

 

 その声は遅れて聞いた。懐にルイスが飛び込んでいたのである。それからのショルダータックルは身体に響き渡った。見た目こそ人の身だが、その衝撃は十トントラックに匹敵し、地面に転がった後には視界が白濁するほどのダメージを負った。

 

 喉から血がせり上げてくる。耐えきれずに吐いた。内容物と血が夥しいほど流れ、真っ赤に地面を染め上げる。

 

 頭脳が割れんほどの警鐘を鳴らす。逃げろ、逃げろと。痛みと出血で怒りや感覚が麻痺し、ただ本能だけが噴き出してくる。

 

 圧倒的な実力差にねじ伏せられた。男は眼前で、もはや油断しきった態度でこちらを見ている。

 

 勝てる気がしない。脳裏をふとそのフレーズがよぎった。

 

「お逃げ……お逃げください……」

 

 地面に倒れていたマリサが呟いた。すでに何処を見ているのかもわからぬ瞳の色だが、恨みと痛みの混じり合った声にはどこか寒気を感じさせられた。

 

 ルイスは、そんな彼女の後頭部を力任せに蹴った。鈍い音が鳴って地面に顔面がめり込む。頭から激しく出血し、美しい顔を真っ赤に染め上げている。

 

 くぐもった呻めきが流れる。そのまま彼女の髪を掴み上げると、苛立たしげにその顔を睨みつけた。

 

「ふう、あれほど愛してやったというのにまだ反抗しますか。賎民には、どれほど良い教育を施したとしても無意味なのでしょうね」

 

 太い手を挙げるとパンと女の臀部を張った。瑞々しい、しかし悍ましい音が反響する。怖気すら呼び起こさせる動きだ。

 

「もう、この村に未来などありません……あなたは、ホアンさんのご友人で、しょう。お逃げ、お逃げください」

 

「黙れ、この淫売が!」

 

 ついに立ち上がって、女の体を蹴り飛ばした。転々と転がる女。それでも、彼女は言葉を紡ぐことをやめなかった。

 

「この村は、最初から死んでいました……教団の教えにしたがい、禁制品の製造に手を染めていました……そして私は、善良な皆を手にかけました。それどころか、ホアンさんまで」

 

 女は声を殺して泣き始めた。

 

 アンヘルは色を消した瞳で見た。

 

「どういう、事だ?」

 

「――ふん。まあ、冥土の土産にでもしましょうか。簡単な話ですよ。我ら教団の帝国攻略の橋頭堡として、このロヴィニ村が選ばれました。憲兵の目は届きにくい立地でしかもコクの葉栽培にはうってつけの気候。すべての条件が一致していたのです。とはいえ、彼らも利益を享受しました。文句を言われる筋合いはこれっぽっちありませんがね」

 

「なん、なんだ。その、教団というのは」

 

 男は、やれやれと首を振った。

 

「――バアル教団ですよ。言わずとも知れたことでしょう?」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 アンヘルたちが死闘を繰り広げているのと同時刻。こちらも佳境を迎えようとしていた。

 

 息を詰めて状況を見守る。すでに身体も動かせなくなってしまったことに、ルトリシアは腹立たしかった。背負われて、揺さぶられているだけでも辛い。だが、守られている自分自身が弱音を吐くわけにはいかなかった。

 

「フェル、ミン、苦労を、掛けますね」

 

「い、いえ、そんなことは」

 

 雑林を抜ける頭上には、澄んだ青い空が広がっている。ルトリシアは熱っぽい頭に鞭打ちながら、必死にフェルミンの首にしがみついた。

 

 息が荒い。これだけの動作だというのにひたすら億劫に感じる。本能で察してしまう。もし追いつかれてしまえば、立ち会うどころか逃げることすら叶わないだろう。

 

 フェルミンの脚はすでに限界だ。顔色も相当悪い。当初の予定ではエルンスト派への合流を目指したが、それだけは避けるため進行方向を制限してくる。これでは、終着は時間の問題だった。

 

(身体を奪われるのは、いいでしょうが。しかし、死ぬわけには)

 

 ルトリシアは頬を伝って流れる熱いものに気づき、それが涙であることに愕然とした。なんという弱さだ。こんなくだらない場所で死ぬわけにはいかないのに。

 

「ルトリシア、さま。山を、山を登ればもう一度隠れられます。ご心配、なく」

 

「ありが、とう」

 

「大丈夫、大丈夫ですから」

 

 フェルミンも眦に涙を溜め込んでいた。もう先が長くないことは両者理解しているのだ。ここから大逆転の手など見つかりようもない。逃げ回ってはいるが、徐々に包囲網は狭まっている。

 

 ルトリシアはその頬を撫でて、涙を拭ってやった。フェルミンの優しい笑顔が映る。彼女の献身のためにも、ここで死ぬわけにはいかない。

 

 そう考えた瞬間である。ついに恐れていたことが起きた。

 

 天空から飛来する一本の矢。それが、山を駆け上っていたフェルミンの右脚に突き刺さると、ルトリシアの身体は中空に放り出された。

 

 その意味を理解した瞬間、血が凍った。

 

「フェル、ミン。だい、じょうぶ、ですか」

 

「る、ルトリシアさま」

 

 ルトリシアは必死の思いで這い寄るも、彼女は膝を押さえたまま立ち上がれそうになかった。矢は膝を打ち抜いている。処置しなければ、誰かを背負って走ることなどできようもない。

 

 後背で、ドタドタと重たげな靴音を耳にした。捕まるまで時間の問題だ。今すぐここから離れなくてはならない。

 

「お逃げ、ください。私はもう、歩けません。ここで殿をつとめます」

 

「フェル、ミン」

 

「貴方だけでも、お逃げを……」

 

 フェルミンはそういうと、剣を杖にしながら立ち上がった。ここで殿を務めるつもりらしい。全身から死兵の空気を発散させていた。

 

 その背中を引き留めることなど許されなかった。あるのは励ましだけである。一言だけ別れを告げると、自分も剣を杖によろよろと立ち上がった。

 

 進む。進まなければならない。何度も地面に倒れ込みながらも、立ち上がり続けた。

 

 自分ほどの魔力持ちならば、探知を使えば一発で居場所が判明してしまう。隠れるのは下策。かといっても逃げ続けることも叶わない。なにより働かせるべき頭脳が死んでいる。万事休すか。そんな思いが何度もよぎった。

 

「ま、だ――」

 

 荒い息を吐いて転けたとき、目の前から雑踏を踏む音がした。ハッと息を呑む。だが、なんの意味もなかった。

 

「大分苦労させられたが、ようやく追いついたぞ」

 

「フェルミン隊長は死にていでしたが、最後まで折れませんでしたね、オウルさま」

 

「ま、所詮は女。むしろラファエルの方が苦労させられた」

 

「結局は怪我した部下を人質に取らないと無理でしたから。まじめに戦ってればどれだけ被害が出たか」

 

「済んだことだ。それより、付いてきても分け前はないぞ」

 

「わかっています。私は取り敢えず、フェルミン隊長で我慢しますよ」

 

 そういうと、オウルの付き人らしき男は味方が運んできたフェルミンを転がした。縄で雁字搦めになている。すでに意識はないのか、白目を向いていた。

 

 眼前に現れたオウルは、しゃがみ込みながら髪を引っ掴んで顔の目の前まで動かす。男の顔が大きく映し出された。

 

「やめ、なさい……」

 

「ああ、申し訳ない。あいつは中々曲者で。ま、前戯としてアイツらの行為でも眺めましょうか?」

 

 オウルが頭を掴んだまま、顔の向きを無理やり変えてくる。その先では、意識のないフェルミンにのしかかろうとしている男の姿がハッキリと見えてしまった。

 

「さあ、俺たちもお楽しみと参りましょうか」

 

 男に腕を引っ掴まれて転がされた。ルトリシアは熱い息を吐きながら、強い目で睨みつけた。

 

 ――貴様にくれてやるのは身体だけだ。たとえ下賤な連中の慰み者になったとしても。

 

 ルトリシアは強く唇を噛み締めた。

 

 強く、強く。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ――バアル教団ですよ。

 

 この男は一体なんと云ったのか。凍りつくアンヘルに、男は演劇のように続けた。

 

「我らの怨敵トレラベーガ帝国。それを支える支柱二本を崩すときがついにやってきたのです。今日は、なんと素晴らしき日だ!」

 

 ルイスは声高に歌い上げながら、マリサを巨大な手でしたたかに打ち据える。彼女から痛々しい悲鳴がこぼれ落ちた。

 

「だと言うのにッ、すぐに裏切りを働いた愚か者が! ほら、どうです!」

 

「うっ、うっ」

 

「なんとか言ったらどうなんですか!」

 

「あ、あ、ああ」

 

 何度も打って満足したのか、ルイスはふうと視線をアンヘルたちに戻した。すでにマリサは虫の息で、荒い息を吐くだけの機械に成り果ている。

 

「どうです。次は貴方ですよ――」

 

 そう告げようとした男が固まった。背後に、一人の男が幽鬼の如く立っていたのだ。

 

「最後の詰めが甘かったな」

 

 すっと立った男は、真っ向からその一撃を受けたクナルであった。

 

 巨大な大剣が掲げられている。振り返る間を与えず、ルイスの首に振り下ろされた。

 

「はい?」

 

 刃はあの鋼鉄すら上回る鱗に食い込んだ。最後の最後でルイスは躱そうと努力したが、背中から脇ばらまで内臓が覗くほどに断ち切られ、多量の出血を伴ってよろめいた。

 

 唖然とした様子のルイス。死んだ筈の男に付けられた致命傷並みの傷をボンヤリと眺めながら、瞠目した。現実は変わらず、傷とそれを付けた相手を交互に見つめた。

 

「勝負は首が離れるまで油断せぬものよ」

 

 クナルは鉄拳を降ろした。鉄塊のような右拳が相手のブクブクとした頬を思いきり振り抜いたのだ。

 

 巨体がボールのように跳ねてゆく。相手が地面に沈んだのを確認してからアンヘルはなんとか立ち上がった。

 

 クナルに「なんで無事なの?」と尋ねるも、苦い顔の無視が返ってくる。仕方なくマリサの元に駆け寄ってリーンの回復を与えた。

 

「どうして協力してくれるのですか?」

 

「……当たり前のことを、しているだけです」

 

 マリサは血泡を吐きながらも、悲しげに小さく首を振った。

 

「貴方は敵だったはずです」

 

「敵なんて、この世には居ません。居るとするならば、それは私のような穢れた者だけです」

 

「それは」

 

「内なる私の悪の気がホアンさんを殺したというのなら、私こそが敵なのです」

 

「――でもいい」

 

 彼女にホアンの剣を持たせると抱き起こし、真正面から見据えた。

 

「君を助けることが、彼の最後の望みだった。僕に裁く権利はない。罪の意識があるなら生きて欲しい」

 

 優しく声を掛ける。マリサはワッと嗚咽を漏らすと、手で顔を覆って泣きじゃくり始めた。

 

 ――私、私。ごめんなさい。本当に御免なさい。

 

 深い悲しみの声は胸を打った。ホアンの記憶が流れ込んできたアンヘルには、彼の苦悩が同期し、彼自身になったような幻覚すら思わせた。それでも、彼女を慰める行為ができるはずもなく、ただ木偶のように立ち尽くすだけであった。

 

 今ならばわかる。彼の最後。その朗らかな表情の意味が。

 

 やっと見つけた安寧の地。背伸びして保ち続けた地位の無意味さに気付き、やっと己の本心を打ち明けられたのだ。そして、彼女が陥っている状況にも気がついた。魔族と人族の恋。そんなものは不可能だということは、ミスラス教徒であれば常識である。滅びは目前、だと云うにもかかわらず彼女をその螺旋から救いだそうとした。

 

 そして、アンヘルはその残酷な結末をただ直視した。

 

 ただひたすらに懺悔を繰り返す彼女の瞳は、もはや生きている生物の色をしていなかった。虚な瞳はただひたすらに深淵を覗き込んだようであり、その姿は、急に歳を取ったようにすら思えた。

 

 ギリギリと耳障りな摩擦音がした。知らず、噛み締めた奥歯が軋む音であった。

 

「ふ、ふはは。滑稽、滑稽ですねぇ。これが卑しき者どもの最後の後悔ですか。まさに、最高の戯曲に他なりませんよ!」

 

 ルイスの哄笑が響き渡る。男は重傷を負いながらもなんとか立ち上がっていた。背中から脇腹にかけての深い傷はすでに肉が盛り上がり始めており、龍種に相応しい再生能力を見せている。

 

 アンヘルたちは再び構えをとる。必ず仕留めて見せる。その意気込みは決して嘘ではない。

 

 だが――

 

「まだです。ほら、やりなさい――」

 

 相手はまったく動いていない。だと言うのに、死の予感が唐突に迫った。警戒心から剣を持つ手に力を込める。しかし、事態が好転する予感はなかった。

 

 すとん、と右足の力が抜けた。右脚が急に熱を持ったのだ。太腿が焼けたように熱い。下を見れば突き出た刃の先端があった。

 

 同時に、背筋がゾッとするほど冷える。収斂された殺気そのものが塊となって背後で高まる。

 

 考える暇はない。新手か、と思って必死に転がりながら剣を返した。

 

「待て! 間抜けっ――」

 

 慌てた様子のクナルが鋭い声で静止した。だが、止まることはなかった。

 

 視界の端で捉えた華奢な女の首。そこから、噴水のように鮮血が溢れ、溶けたような顔で正面から崩れる女の姿を見た。

 

「あ、ああ、あああっ」

 

 ――新手の正体とはマリサであった。

 

 アンヘルの反射的な返しは、マリサの喉を正確に切り裂いていた。元から致命傷に近い負傷を負っていたのだろう。虚な瞳のまま地面に沈んだ彼女は、みるみるうちに形を失い、細かな灰へと変化した。

 

「なんで、どうして貴方がッ!?」

 

 ガラガラと膝から崩れながら、アンヘルは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。敵陣のど真ん中にありながらも蹲り、嗚咽をあげる。手が恐怖でカタカタと震えた。

 

「なぜ不思議に思うのですか? 主人は眷属への絶対命令権を持ちます。召喚師の貴方が一番よくわかっていることでは?」

 

 その言葉にハッとしたアンヘルは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「お前が、やったのか」

 

「やった? 何の話ですかね?」

 

「彼女にやらせたのは、お前の指示かっ!」

 

 男は高らかに笑いながら、嘲りを見せた。

 

「あの男を殺したのも、そして今貴方を刺したのも、私の指示ですよ。――ああ、ついでに言っておきますと、村の住民を殺させたのも私の指示ですよ。しかしまあ、性格というのは如何に重要か思い知らされました。次の眷属化には気を付けますよ」

 

 眷属化。その言葉を聞いた時、クナルの視線が鋭くなった。

 

「……どういう意味だ、それは」

 

「はい? ああ、素養のありそうな人物を眷属にする。神降ろしと同じ原理ですよ」

 

「もしや、あの女どもは元人間か?」

 

「ついでに言えばサキやレイナも。わかりませんでしたか?」

 

「――人間を生贄にしたのかッ!」

 

 アンヘルの絶叫が虚しく響く。

 

「むしろ救いをくれてやったつもりなのですがね。この穢れた世界でのうのう暮らす劣等種族どもに――そもそもサキは自身が望んで眷属化したのですよ。ほら、男を死ぬほど嫌っていたでしょう? 彼女は男どもにマワされ続けて精神崩壊の寸前でしたが、それを救ったのが眷属化というわけです。まあ、マワされたのは、良質な眷属制作実験だったというのがお笑いですがね」

 

 ふふふ、ふふふと男は笑った。

 

 もはやアンヘルたちは完全に感情を消した顔つきでルイスを見た。いや、カオスと呼ぶべきか。瞳は氷河のように凍りつき、逆に身体の中は灼熱の炎に焼かれている。視界は真っ赤となり、もはや真っ直ぐ歩けもしないほど強烈に歪んだ。

 

「貴様に言ったことを訂正しよう。私も興味が湧いてきた」

 

 クナルは反吐をはきながら、忌々しそうに顔を歪める。

 

 アンヘルはマリサに持たせた筈だった剣を足から引き抜き、自分の腰の剣を捨てた。そして、ただ、モノを観察するような目でカオスを眺めた。

 

「僕も訂正するよ」

 

 すべては感情のあるままに。

 

 激憤が頭頂からつま先まで貫いたとき、己の決意は固まっていた。

 

「さあ、辞世の句は読み終わりましたか? 踊りましょう。これがフィナーレです!」

 

 最後まで嘲りを見せたカオスが身体を龍化させる。腕だけではない、全身を膨れ上がらせたあの邪龍の姿である。

 

 同時、アンヘルの胸元に焼印を押し付けられたような熱が膨れあがり、青白く発光をはじめた。

 

 ――ようやく覚悟が決まったようね、ご主人さま。

 

「あの男だけは、僕らがここで討つ!」

 

 

 



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第十四話:邪龍撃滅戦 下

 手を掲げ、真横に振り切る。

 

 その瞬間、胸元に押し付けられた焼印のような熱が膨れ上がり、爆発的な光を発し始めた。

 

「召喚」

 

 決して使うまいと思い続けたその力。

 

 神意という名の悪の力はアンヘルの呼び声に呼応した。

 

 アンヘルの頭上に薄い燐光が浮かび始める。それがはっきりと世界に現れると、複雑な幾何学模様とルーン文字が描かれた黄金の環が掲げられる。

 

 天空への階段を幻視する。

 

 羽根とラッパが木霊する神々しい異界の向こうから、天使のような美しい女が舞い降りた。

 

 発酵するプラチナブロンドの髪を後ろで括り、宝玉のような瞳で相手を見据え、凛々しく弓を天に掲げる姿はまさしく女神以外の何者でもなかった。

 

「まさか、まさか貴様、使徒かッ!?」

 

 はじめて聞く、カオス渾身の叫びであった。

 

 女が微笑むと、忽ちアンヘルとクナルの身体が水を纏い始める。流々とした力がまるで血のように全身を巡った。

 

「ホアンの無念、彼女の絶望が僕を決断させたんだ!」

 

 身体を掠めるように白銀の矢が飛んでゆく。二人は闇に溶かすよう身を沈めると、両方向から突きを繰り出した。

 

 両翼を裂いてから、足と腕に取り掛かる。スペックの違うクナルの強化は常軌を逸しており、たった一太刀で腕一つを切り落とした。

 

 けたたましい絶叫を上げながら、ひたすらに暴れ回るカオス。無敵と思われた邪龍は、血走った眼で怒気を露わにした。

 

「この劣等種族どもがっ!」

 

「本性が出てきたな。貴様の気取った口調は見せかけか」

 

 クナルは嘲笑を浮かべながら、全身真っ黒に染め上げた肉体を大きく晒した。

 

 体の至る所から、まるで間欠泉から吹き出す湯水のように血が流れているにもかかわらず、真紅に染め上げた狂相を美しくも歪めた。明らかに人体の限界を超えた負傷にしか見えぬが、闘気を纏って進む男の姿は閻魔すら可愛く見える。異形の咆哮を上げながら縦横無尽に疾駆するクナルは、さらにその禍々しい大曲刀を振りかざした。

 

 カオスは青ざめた顔で、両者を必死に見比べた。一方は使徒。もう一方は地獄の使者そのものである。当初の余裕ぶった薄笑いはかき消え、微塵たりとも王者の風格は感じ取れなかった。

 

 ――さあ、ご主人さま。ご指示を。

 

「援護しろ」

 

 ――望みのままに。

 

 アンヘルはホアンの長剣を水平に構えると、一度目を閉じて深呼吸した。血色に歪む視界すらどこか心地よく感じる。感情のまま戦っている自分に酔いしれた。

 

「貴様がトドメをやるか?」

 

「いや、君のほうが確実だよ」

 

「であるな。油断するなよ」

 

 アンヘルは疾風のように斬りかかった。相手。ふっふと荒い吐息を吐いている。切り離された足からは夥しいほどの出血が認められ、龍体であっても焦りの色がはっきりと映る。これほどまでに追い詰められた経験はなかったのだろう。

 

 相手は真っ向から爪牙で挑みかかってきた。悪手だ。顎門か息吹か、とにかく遠距離でも打てる手は幾らでもある。だが、脳髄にまで刻まれた焦りが、カオスの対応を誤らせたのだ。

 

 アンヘルはシィールを呼び出して、迫り来る邪龍の胴体に氷河の息吹を撃たせた。イズーナの魔力がシィールの息吹に乗る。チカチカと光る白銀の世界は、世界の動きを凍結させるような予感さえあった。

 

 動きの遅いシィール。力もないシィール。されど、龍種だ。倍率上昇の影響下にある龍のブレスを真っ向から受けてタダで済む筈がない。

 

 怒りの底に巣食うカオスの怯えを認めながら、アンヘルは光り輝く銀を背景にして、懐へ飛び込んだ。

 

 龍の巨躯がやけに緩慢に映る。脳が加速し、ぐにゃんとあぶられたかのように世界が歪む。

 

 恐怖すらない。紙一重、しかし危なげなく懐に潜り込んだアンヘルは、驚愕すべき速度で必殺の突きを矢継ぎ早に繰り出して、鱗のない柔らかな腹をズタズタに蹂躙した。

 

 龍の表情など察することはできない。が、両腕を突いて腹を隠すカオスのそこかしこに恐怖が滲んでいる。地の底から響くような低い声がどこか滑稽にすら思えた。

 

「嘘だ。まさかこんな筈は……」

 

「しね」

 

 再び走ったアンヘルの凶刃が、下滑りして振り上げられた。鉄を裂くような、硬質な音がした。

 

 カオスは顔面を激しく顰めながら、絶叫した。

 

 放った斬撃が顎から昇って左眼球の上まで抉ったのだ。びりびりと洞窟内が反響する。悲鳴すらも幼児の駄々のようだった。

 

 地面に降り立ったアンヘルは自分の身体を確認する。ボロボロだ。相手が冷静さを取り戻せば、体力的に厳しい戦いを強いられるのは自分である。

 

 そして、この悪鬼に利する行為など微塵もしてやることはない。

 

 床を蹴って高々と飛ぶ。

 

 剣を逆手に持ち替え、脳天をざくざくに抉り取ってしまう。それで、勝負ありだ。

 

「舐めるなよッ!」

 

 最後の足掻きとばかりに、身体の中央に嵌る紅玉が大きく光りはじめた。中空に舞うアンヘルの視界を焼くほどの閃光。つい瞼を下ろすと、相手は大きく吠えた。

 

「”混沌魔球”」

 

 アンヘルの身体を、漆黒の闇の塊が襲った。超重力を持つブラックホールは、光すら歪めその脱出を阻むという。閃光の中から放たれた虚無の球体は、たしかにそれと同質のなにかを感じさせる力であった。

 

 それは、天井の岩肌を丸ごと飲み込んで、音も立てず消し去った。闇はそれでも止まらず、空の彼方へと飛んでいった。

 

 すうっと日差しが差し込む。ぱらぱらと石が崩れてくる。敵を消し去ったことを確信したカオスは、口から血泡を拭きながらも気色ばんだ。

 

「は、はははっ。やった。やったぞ。見たかっ! これで、貴様も残り一匹。余興などこれで終わりよ――どうして、まだこの場に居るのだ!」

 

 カオスは主人が消え去っても召還されない様子のイズーナを見て驚愕した。

 

 女の手がひゅっと指差す。

 

「本性どころか、低脳まで露呈しはじめたな」

 

「っふふ。毒舌ですね」

 

 クナルが女の茶々に嫌な顔をするが、当カオスにはそんなことを気にする様子はなかった。女が指し示した場所を見る。そこには、地面に転がる男の姿があった。

 

 男が幽鬼のようにゆっくり立ち上がる。消えたはずの男。それを見つめる龍の瞳は、不死者に出会った者のように見えた。

 

「言った、筈だ。あなたは、僕が討つ、と」

 

 アンヘルの右腕には矢が突き刺さっていた。死の瀬戸際、イズーナから放たれた矢の反動によって態勢を必死に変えたあと、類稀な身体操作で身体を捻って闇を躱した。むろん、無傷ではない。真正面から受けた矢傷からは出血があり、掠めた闇が腕や脚の肉を削いだ。綺麗に切り取られた断面からは、赤々とした牛肉のようなものがならぶ。毛細血管から大量の血が流れていた。

 

 しかし、それでも立った。立ったのだ。

 

 痛みと、それに倍する炎が心に立つ。ミゲルの怒り、ホアンの無念。そして彼女の絶望。あらゆる慟哭が感情の導火線に火をつけた。

 

 ――打ち倒せ。たとえ、己の肉体が朽ちようとも。

 

 アンヘルは血の泡を吐いた。ざらつく血の味が舌に残る。生ぬるいそれが己の身体を汚した。

 

 だからどうした。剣を取れ。今すぐにでも、あの男を冥府に送ってやるのだ。そうでなければ、なんのためにこれまで剣を取ったというのか。

 

 相棒のシィールが虚空から独りでに現れ、アンヘルの身体を支える。瞬間移動したのか、イズーナが逆側の肩に手を置いた。

 

 ――さあ、ご主人さま。最後の最後までお奮いになって。

 

 さらに力が溢れる。死者の念を纏い、憤怒の力を刀身に溢れ返らせ、背後に眷属を付き従えるその姿は使徒に相応しき姿だった。

 

「それがなんだというのだ! タネが分かってしまえば大した話ではない。もう一度だ。もう一度、我が力を受けてみよッ!」

 

 息を切らしたカオスが全身の力を振り絞って、再び両足立ちになる。あの力はそう何度も撃てるはずがない。

 

 狙いは、自分だ。

 

 これを凌げば、必ずや勝機は見える。躱すのではない。正面から叩き伏せるのだ。

 

 弱音など此処にすべて置いてゆけ。そんな相手を喜ばせる真似になんの意味がある。断じて、そんなことは許されない。

 

 アンヘルは全身の力を収斂させ、ホアンの長剣に込める。軋むほどに気が高まる。その音はホアンの慟哭そのものだった。

 

「トドメは君に任せる!」

 

 返事は必要ない。なにか言ったかもしれないが、脳がそれを遮断した。無音。必要だと思う音だけを脳味噌が拾う。天頂から差し込む日差しを浴びて、男は剣を掲げた。

 

 最後の勝負だ。

 

 駆け出した。相手の巨体が紅玉を丸出しにして、閃光を放ちはじめる。必殺の構えだ。

 

 ――消えよ。

 

 間遠にその響きを聞いた気がした。関係ない。相手の放った闇の球を真正面に見据えた。シィール、フレアを脇に召喚し、過去最大のブレスを前方に放つ。そして滑るように飛び込んだ。

 

 眷属の魂の息吹。気に食わぬ神意。絶望や諦観を持ってこの世を去った人たち。すべてを長剣に込めて、突きを放った。

 

 衝突。全身を引き裂くほどの衝撃が到来した。

 

 闇、水、炎と光が混沌に混ざり合う中で、アンヘルは道を切り開かんと必死に力を込め続けた。

 

 軋む。

 

 ホアンの剣が軋んでいる。

 

 カタカタと唾が鳴り、鋒に集中した力が相手の闇に飲まれ消し飛ぼうとしている。

 

「なんと愚かよ! 我が魔力に剣で立ち向かうなど」

 

 そうかな。たしかにセオリーからは外れる。魔法に対して物理で立ち向かうなど馬鹿丸出しだ。常識で考えれば、剣は折れ、闇に飲み込まれることは決まっている。

 

 だが、この剣の嘶きを見よ。人の無念と絶望が混じりあった剣の魂は、決して魔剣などに引けはとらない。剣と腕さえ残ればあとはすべてをくれてやる。

 

 永遠に思える拮抗。闇の中を彷徨うような絶望感に身を浸しながらも、その胸に宿る復讐の炎は、決して消えはしなかった。

 

 足掻いて足掻いて、その先にアンヘルは光を認めたのだ。

 

 ――さよならだ、アンヘル。

 

 刀身が半分ほど消滅する。無茶をする男への加護であったのか。微かに、別れの台詞を聞いた気がした。

 

「うわぁぁあああああッ!」

 

 世界が唐突に開けた。つうっと涙が伝う。これが、今生の離別だ。

 

 ――君を許せそうにはない。

 

 ――いつまでも、マカレナを奪った君を恨むよ。

 

 ――だけど、あの世があるなら平穏な日々を、彼女と。

 

 そう、そっと願った。

 

 アンヘルは必死に突き出した剣を真横に薙いで、取り巻いていた闇を斬り払った。帳が掻き消された。先には、狼狽しきった龍の顔があるだけだ。

 

 世界が加速する。肉弾となったアンヘルは、頭から突っ込む形でその長剣を振るった。

 

 真横に振られたそれは、無防備な龍の胸元、その紅玉に深々と突き刺さった。

 

 透明感のある、高い音がなった。

 

 アンヘルの刃が、ついに邪竜に突き刺さった証明であった。

 

 邪竜はよろよろと後退すると、その胸に突き刺さった剣から醜い鮮血を滴らせる。罪人が杭打ちされているような、惨めな姿であった。

 

「ばか、な。この私が……人間如きに、やぶれる、など……」

 

「貴様の方が、劣等種だったようだな」

 

 クナルがニッと粗野な笑みを見せた。麗人には珍しい賞賛と確信の笑みである。

 

 そのまま大きく跳躍すると、男は日差しの中に入り込んだ。逆光の中であっても、雄々しく刃を掲げて見せたそれは、まさに、天の裁きのように眩く見えた。

 

「申し訳、ありません……ハンバニル、さま」

 

 クナルの大剣が流星のように降った。隕石のような衝撃が巨大な龍の頭蓋に叩き込まれ、その邪悪な相貌を粉砕した。

 

 その勢いのまま、胸、腹、尾までを一刀で叩き割る。アンヘルたちを苦しめ、ホアンたちを地獄へと誘った狂気の先兵は、完膚なきまでに滅ぼされたのだ。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「さあ、俺たちもお楽しみと参りましょうか」

 

 強く、強く唇を噛み締める。そんな気丈な決意を虚しく、男が手首を地面に押さえ込む。男の体躯が大きな影を作った。

 

 下卑た笑みで顔を近づけてくるオウルが大きく映る。

 

 もう、手は存在しないのか。

 

 ルトリシアは抑え込まれた手を握りしめるしかない。はらりと流れる涙が、悲壮さを表していた。

 

「クソっ」

 

 そう思った瞬間、オウルは顔を険しくすると一息で後方に飛びのいた。

 

 直前までオウルが居た場所に矢が殺到する。遅れてがやがやと木々から幾人もの足音が聞こえてきた。

 

「無事か、ルトリシアッ!」

 

 増援として駆けつけてきたのは、シュータル派の代表エルンストだった。周りには、エルサ班の面々や裏切りを働かなかった派閥の人間も居る。

 

 オウルたちは舌打ちしながらも、気を失っているフェルミンからも離れ、抜刀。同時に素早く陣組を行い、敵に備えている。

 

 エルンストが魔法行使の準備を察したのだろう。先ほどまでの嬲る気配は消え、臨戦態勢に突入していた。

 

「ルトリシアさま、御無事で」

 

 マニュエル連隊長がこちらに駆け寄ってきて、助け起こしてくれる。治癒が身体を癒す。フェルミン候補生も同じように助けられていた。

 

「貴方たち、こそ、よく無事で。他は、どうしましたか」

 

「も、申し訳ありません。気づいた時には、手遅れで」

 

 助け起こしてくれた女性候補生が涙目で事情を説明してくれる。屋敷で防衛に当たっていた人物は皆重症であるそうだ。なかでもリーダー格であるラファエルは、行方知れずらしい。

 

 ルトリシアは弱弱しい動きながらも、女性候補生の手を握ってやり元気づけてやる。自分が、ここで折れないためにも。

 

 一方、オウルらは態勢を整え終えたのか、じりじりと間合いを狭めてくる。

 

「オウルッ! 見下げ果てたぞ、まさかここまでやるとはッ!」

 

「ふ、今更ですね」

 

 エルンストに糾弾されたオウルだったが、鷹揚に尋ねるだけだった。

 

「そんな下らぬことよりも、どうやって気づいたのか教えて頂けませんか? 貴方は敵軍の斥候に赴いていたはずだが」

 

 ぎりと唇を強く噛みながら、腹立たしそうにエルンストが答える。

 

「彼らのおかげだ」

 

 エルンストはエルサ隊の面々を示した。

 

「ロヴィニ村から報告を持ち帰った彼らが、気づいたのだ。貴様のその稚拙な策略をなッ!」

 

「なるほど、なるほど。たしかにそいつらが帰還するとは考えていませんでしたよ」

 

 オウルは両手でお手上げと示しながら、戯けて見せた。

 

 エルサ班はホアン捜索のためロヴィニ村に訪れていたが、結局ホアンを見失ってしまい、仕方なく野営地に帰還した。するとそこで周囲を警戒するエルンストたちと遭遇したというわけである。

 

 まさかずっと居なかったエルサ班が帰還するなどとはオウルも考慮の埒外であったらしく、その隙をつかれた格好だ。

 

「とはいえ、貴方の腕では到底我らに叶う筈もありません。ま、ロペスでも居れば話は別ですが」

 

 オウル派の人間は七人。一方、エルンストが引き連れてきた人数は、配下五人にルトリシア派閥の中心数人、それからエルサ班四人。数にして倍差があるが、それを意に介した様子はない。

 

「さすがに全員死んでは怪しまれるので、貴方には避雷針として生き残って頂きたかったのですが、仕方ない。男はサンドバックにして、女は慰安婦にでもしますかね」

 

「ウチな、アンタのことがずっと気に食わんかってんッ! ぶっ飛ばしたるッ!」

 

 これまで後ろにいたユウマが叫んだ。ぶんぶんと槌を振り回しながら、エルンストを押しのけて進み出る。

 

「気が合うわね。私もよ」

 

「おいおい、ソニア。冷静になれよ」

 

「いいえ、エセキエルさん。ここは戦うしかありません」

 

 エルサ班が皆戦意を露わにする。歴戦とは決して言えぬが、下位五十の候補生では、優れていると言われるエルサ班。それにエルンスト派の人間が追加されれば、多少は怯んでしかるべきだろう。

 

 だが、オウルは鼻で笑っただけだった。雑魚を相手にするだけムダと、闘気を前面に出す。エルサ班の威圧も関係なしで、オウルが一歩踏み込んだ。

 

「さっさと蹴りをつけるぞ。さすがにエルンスト派が集結すれば苦しい。お前らは雑魚を蹴散らせ」

 

「は、わかりました」

 

 部下が指示に沿って左右へ散る。それが開戦の合図だった。

 

 オウルは大上段に剣を掲げながら飛んだ。

 

 蝙蝠のように外套をはためかせて飛ぶと、雄叫びと共に剣を振り下ろした。流星が落ちたような轟音に遅れて、濛々と白煙が舞う中心地にオウルは姿を表す。

 

「まず一人」

 

 集団のど真ん中に着地したオウルは、剣を真横に薙ぎ払う。逃げ遅れたエルンスト派の一人がバターでも割かれるようにして脳髄をぶちまけられた。

 

 エルンストが必至の形相でオウルの剣筋に合わせる。火花を散らしながら両者の直剣がぶつかり合った。

 

 さらにオウルは持っていた剣の力を抜くと、サマーソルトの要領で固まっていたエルサ班に突っ込む。薙ぎ倒すようにユウマとエルサを吹っ飛ばすと、着地際に右足だけでもう一度跳躍して、大きくエセキエルを蹴り飛ばした。

 

「ウソっ」「ソニア、大丈夫かっ」「みんな下がって、ウチがッ」「ユウマさん、危ない」

 

 残ったソニアに向かって剣を打ち合わせると、軟体動物のようにグニャンと手首を操作して、真上に剣を絡み取った。

 

「雑魚が」

 

 続けざまに放たれた蹴りがソニアの脇腹に吸い込まれる。彼女は藪の中へ転がるようにして消えた。

 

「まさに鎧袖一触だ。貴方もいつまで持つかな?」

 

 エルンストこそ辛うじて受けたものの、後はおもちゃのように吹き飛ばされるエルサ隊。なんとか受けたエルンストも手首を痛めたのか、険しい顔をしている。

 

「くっ、オウルぅう!」

 

「ははは、足掻く足掻く」

 

 一刀、二刀と直ぐに撃ち合う。が、その差は誰が見ても歴然。圧倒されるエルンストは剣を絡め取られると、脛を切りつけられ蹲った。

 

「くっ」

 

「ほら、プレゼントですよ」

 

 オウルは畳みかけるように膝で顔面を打つ。エルンストはゴロゴロと地面に転がった。

 

「さあ、残りは誰かな?」

 

 絶望的な状況だった。格が違う。せめてエルンストたちの武闘派がもう少し居ればなんとかなったかもしれないが、捜索のために人員を分割していたのが不幸だった。

 

「残念ですね、ルトリシアさま。死ぬ前に女の悦びを教えて差し上げようと思ったのですが、この状況ではそんなリスクは負えません。冷凍保存して遺体を好事家にでも売りますよ」

 

 歩み寄るオウルを眺めるしかない。こう警戒されては、最後の魔法も当てることは叶わないだろう。

 

 すとんと肩の力が抜ける。

 

 それが諦めとなったのか、走馬灯のように世界がゆっくりと流れる。

 

 今まで、貴族としていついかなる時も気を抜かずやってきた。どんなときでも頭脳を働かせ、権力を行使し、魔法を使って。

 

 だから、わかっていた。

 

 困ったとき、都合よく助けなど来ない。神などいないのだ。あるのは、擦り切れた虚しい現実だけ。ご都合主義のハッピーエンドなど、起きようもない。

 

 だから祈らない。願わない。意味のない行為は必要ない。

 

 ただ、少し疲れただけ。

 

「ここまで、ですか」

 

(彼らには、申し訳ないことをしましたね)

 

 今戦っているはずのアンヘルたちに、心の中で謝意を告げる。

 

 空が綺麗だ。これが最後の景色か。そう諦めたとき、ふと影が差したのだ。

 

 空高く、雄大に舞う龍の姿。

 

 それを皆が認めたとき、信じられないような表情でかぶりを振ってオウルは瞠目していた。

 

「まさか、まさか貴様はッ! 死んだ、はず……」

 

「ここで真打参上だ、オウル!」

 

 これまで余裕を見せていたオウルの表情が一変する。一歩、二歩と後退しながら、剣を天に向け狼狽を露わにしていた。

 

 空からの救世主は、討ち取られたと思っていた男ラファエルであった。彼は血みどろながらも、空駆ける眷属に跨り雄々しく叫んだ。

 

「召喚士を相手にするなら、首を切り落としておくんだな!」

 

 信じられるのは自分だけ。ずっとそう思ってきた。

 

 何かを信じてもいいのだろうか。今見える景色にはそんな風に思わせる力があった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「本当にご苦労でしたね」

 

「いえ、結局は私怨でありますので」

 

 あの邪龍討伐作戦から二日、アンヘルは近在のガンジログゼロ村の一室で椅子に腰掛けながら息をついていた。横には顔色の回復したルトリシアが久々にバチッとした制服姿で佇んでいる。彼女の目の前には香りの漂う紅茶があった。

 

 現在、側仕えであるハーヴィーや他の姿はない。労いのお言葉を頂戴するにあたり、部屋の外に出された格好だ。窓から差し込む月明かりが目に毒だ。二日ぶりの目覚めで、久しぶりの明かりに慣れない

 

「それにしてもよろしかったので? 邪龍討伐など快挙なのですが」

 

「構いません。それに私がやったと言い張ったところで誰も信じないでしょう」

 

 ルトリシアが言っているのは、今回の顛末についてである。今回の黒幕である邪龍、バアル教団という襲撃を退け、打倒したとなれば一候補生としては伝説とも言えるべき功績である。が、アンヘルはこの事実を捻じ曲げ、この功を残らず騎士ハーヴィーに押し付け、口裏を合わせたのだ。

 

 元々、邪龍を討伐したのはアンヘルとクナルである。クナルは名声に興味はないし、アンヘルにとっても恨まれている騎士に恩を売れるとなれば悪くない差配である。勿論、ベップやアルバには報酬は必要だが、どうも彼らも目立つのは避けたいようであったから、ヴィエントおよびリエガーからの金品で落ち着いたようである。

 

 あまり派手に動きたくない、というのは全員の一致であった。

 

「ところで、私以外の人間はどうなりましたか」

 

「全員無事ですよ。お馬鹿隊長を除けば、大した負傷ではありませんしね。アンヘルさまが一番死の淵にいらっしゃいました」

 

 帰還では騎士ハーヴィーに迷惑を掛けた記憶がぼんやりある。クナルも戦闘中は澄ましていたが、相当重傷だったらしく終わるなりぶっ倒れていた。自分でもよく裏工作する余裕があったものだと思っていた。

 

 ちなみに、これは後日聞いた話だが、オウルらとの決戦によってラファエルら他も大層負傷したらしい。それでもアンヘルの治療を優先してくれたのは、功労者だからか、それともそれ以外なのか。

 

「そう、ですか」

 

「何か懸念でも?」

 

「いえ、そういう意味では」

 

 懸念ではない。後悔というべき感情であろう。ホアンやマリサのこと。すべてが突然にすぎた。まだ整理には短すぎる。

 

 都合よく、ルトリシアは勘違いをしてくれたようで、補足してくれた。

 

「バアル教団、それからオスゼリアスで流行するドラッグ。我らのことがなくても大成果です。一先ずはお喜びになってくださいな」

 

「そう、ですね。有難う御座います」

 

「礼を言うのは此方の方ですよ。もし何か願いがあればお聞き致しますが?」

 

「宜しいので?」

 

「なんでも、という訳にはゆきませんが。進路、金品、後ろ盾。可能な限り手を尽くしましょう」

 

 アンヘルはトントンと指で頬を打った。これは、今までの関係とは違う。一時的だが、あのルトリシアと対等の関係を結んだのだ。昔の駒とは違う、そんな関係を。

 

 真横を向いて、三寸ほど先の彼女の瞳を見つめた。貴族らしく何も伺えない。が、恐らく信頼があるのだろう。この瞬間だけであっても、二人には確かに身分を超えた関係となったのだ。

 

「幾つまで、望めます?」

 

「……強欲ですね。意外です」

 

 ルトリシアは呆れた表情を見せた。

 

「いいでしょう。気の済むまで言ってみなさいな」

 

「い、いえ。そういうつもりではなく」

 

「ならば何です?」

 

「小さきことですが、いくつかお願いが」

 

 急に冷たくなった視線に頭を下げた。どちらがお礼するのか判ったものではないが、アリベールに続きこの眼が苦手なのである。

 

 その情けない態度を見て、ルトリシアは再び呆れを見せた。

 

「まあ、良いでしょう。それでどのような事を?」

 

「色々あるのですが、まずは勝利の乾杯でも?」

 

 美女に注いで貰った酒で勝利の祝杯を挙げよう、ぐらいの気軽なものである。が、それを言った瞬間、ルトリシアの雰囲気は今までの茶化した冷たさではなく極寒そのものになった。

 

「本気で、仰っているので?」

 

「え、ええ」

 

「……はぁ。まさか、ここ場面でこのような要求をされるとは。一難去ってまた一難ですか」

 

 敵でも見るような目で睨むルトリシア。アンヘルは怯えながらも、意味のわからない状況に戸惑うばかりだった。

 

「いいでしょう。この距離で暴れられれば敵いません。ですが、お忘れなきよう。この屈辱。決して消えることは有りませんよ」

 

 ルトリシアはすっと立ち上がると、制服の上着を脱ぎ捨てアンヘルの顔面に投げつけてきた。それを除けたとき、彼女は寝台に腰掛けながらスラックスの釦を上から外していた。

 

 一つ、二つと外される。純白の肌が月光に晒される。冬の華のように白く清冽な冷たい匂いが漂ってくるようですらあった。三つ目まで外された時、恐ろしいほど冷えた目が此方を見据えた。

 

「こんなケダモノにはじめてを捧げるとは思いませんでした」

 

 胸の下、半分まで外された。その美しさには、手つかずの清らかさすら滲んでいた。口紅などは引かれておらず、淡い華ように軍人らしい飾り気のなさだったが、それが逆に彼女の積もったばかりの雪のような幻想的で楚々とした美しさを示していた。思わず、見惚れる。

 

 そこでようやく、意味が分からなくてショートしていた脳が再起動した。

 

「あ、あの!」

 

「なにか? プレイの指示で?」

 

「い、一体、何を、しているんですかッ」

 

「は?」

 

 比喩ではなく、本当に世界が凍ったようだった。無言で戸惑うアンヘルと機能停止したルトリシア。

 

「は?」

 

 もう一度言ってから、本当にアンヘルが困惑しているのを察したのだろう。現状を正しく理解すると、プルプルと釦を外していた両手が震える。そして喉から朱色が昇ってきて、頬が一気に紅潮した。

 

 白くて細い指が、近くの陶器を握って潰した。

 

「アンヘルさま」

 

「は、はい」

 

 彼女は、今まで見た中でもっとも優しく微笑んだ。

 

「目を瞑って頂けますか?」

 

 はい、と言う暇もなかった。衝撃――

 

 気付いたとき、アンヘルは突風によって壁まで吹き飛ばされていた。けたたましい音が鳴ってから、ズルズルと地面に落ちる。柱にぶつからなければ、壁をぶち抜く勢いだった。

 

「ルトリシアさま、なにか有りましたかっ!?」

 

「なんでも有りません。下がりなさい」

 

 鋭い声で扉の外まで寄ってきたハーヴィーに指示しながら、ルトリシアは着崩れた服を直した。乱雑に紅茶の入ったカップを取ると、飲み干してからひび割れるほど乱雑に置いた。

 

 苛立たし気に椅子へと座り、足を組んだ。

 

「アンヘルさまに貴族慣習の理解を求めたのは間違いでしたね」

 

「あ、あの、どういう意味で」

 

「オウル候補生の言葉を忘れましたか? 古くからの慣習で一対一でのお酌は”信頼”を意味します。とはいっても信頼とはその、アレなのですが……」

 

 最後のほうはゴニョゴニョと言うだけであった。アンヘルにもここ迄説明されれば理解できる。というか、オウルの発言を後で精査していれば済んだ話だった。

 

 無意味に負傷したアンヘルはなんとか立ち上がる。なんとか元の椅子に腰を落ち着けた。

 

「申し訳、ありません」

 

「帰ったら礼儀作法一式叩き込みますから、そのつもりで」

 

 笑顔が怖いとはこういうことを言うのだろう。さすがのアンヘルにも言葉がなかった。

 

「ちなみに、なんですが」

 

「何です」

 

「さっきのやり取りを忘れて、というのは?」

 

 たぶん、頭を打っておかしくなったのだろう。そうに違いない。胸に手を伸ばす、そんな蛮行は身体へ届く寸前に払われた。

 

「自殺願望がありまして?」

 

「冗談、冗談です。ははは」

 

「笑えるとでも?」

 

 ドン引きするくらいには低い声だった。たぶん、これ以上は藪蛇だろう。アンヘルは態とらしくキリッとした表情を作り、声に真剣味を持たせた。

 

「本題ですが――シュタールさまの処遇はどうなりますか?」

 

「……どういう意味でしょう」

 

「誤魔化さないで頂きたい。シュタール(エルンスト)さまを処分されるおつもり――いえ、リエガー(ユースタス)さまにそう吹き込むつもりでしょう?」

 

 今回の一件、辛くも勝利を拾ったアンヘルたちだが、それでちゃんちゃんとなるはずもない。恐らくルトリシアたちはそれを利用した方法を考えている筈なのである。

 

 未だ目を覚さぬが、ユースタスが目を覚ませばエルンスト派閥の消極性を揚げ足に取り、攻撃を進言するだろう。そうなれば彼女は手を汚さずに平民派の勢いを削ぐことができる。現在、ラファエルによって両手両足を切断され、猿轡をされたオウルら証人も存在する(無論、今現在のアンヘルはそのことを知らない)。罪の捏造などお茶の子さいさいだろう。

 

 こういう考えが読めていたから、政治に巻きこまれぬようスケープゴートである騎士ハーヴィーを連れて討伐に赴いたのだ。ただ、ホアンの記憶の残滓に触れて、エルンストの助命を頼まれた。恨みはあるが、それを無碍にはできなかった。

 

「だとしたら、どうします」

 

「処罰はオウルら下士官に留めて頂けませんか。それから、ホアン候補生の脱走嫌疑の解除と故郷への見舞金を」

 

「これは政治問題ですよ、一候補生が首を突っ込んでいいとは――」

 

 先ほどとは違う、しかし、こちらも恐ろしい表情である。貴族の顔といって差支えあるまい。

 

 けれども、アンヘルは一歩も引くつもりはなかった。

 

「引くつもりはありません」

 

「本気、のようですね」

 

 敵対も辞さないつもりである。ハッタリだが、邪龍討伐の勇名は効いた。ルトリシアはふう、とため息をついてから同意を示した。

 

 アンヘルは目を閉じて、礼を述べた。

 

 仕方有りませんね、と言いながら彼女はティーカップに酒を注ぎ手渡してきた。慣習など関係ない平民への祝杯であろう。

 

 それを受け取り無言になった。窓の外に綺麗な夜空がある。電飾のない空は星の輝きが天の川のように連なって見えるほどだ。一等星が、たとえ目を閉じてもぼんやり浮かんでくるほど眩く輝いていた。

 

 ――たとえ、織姫と彦星のように引き裂かれても、彼らならいつか。

 

 そう、願うしかなかった。

 

「乾杯」

 

 チンと杯のぶつかる音をたてながら、ルトリシアが優しく、いった。

 

 アンヘルは星の彼方を穏やかに眺めながら、小さな嗚咽を漏らして、苦味と悲しみが混じったそれを味わっていた。

 

 

 

 

 

 帝国暦314年

 

 偉大なる召喚師として名を馳せるアンヘル。士官学校二回生では、彼に数多の困難が降りかかったが、名を馳せることはひとつも記録されていない。ただ一つ、小隊の雛形が結成されたことだけが記されていた。

 

 

 



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四章あとがきと登場人物紹介

 はい。というわけなのですが、この度も作者の拙文にお付き合い頂きありがとうございました。苦しみながらではありましたが、無事第四章を書き上げることができて、感無量といったところであります。

 

 実は本作、評価バーに色が点灯致しました。五人の評価者を得るといいらしいのですが、皆様はご存じだったでしょうか? 作者はそれに気が付いた時、狂喜乱舞しました。いやぁ、素晴らしいことこの上ありません。

 

 これも皆様の応援のおかげでありますので、こうやって見て頂いて嬉しく存します。これからも切磋琢磨して参りますので、ぜひ感想のほうを一文でも書いていただけたらと思っております。

 

 とまあ、堅苦しい挨拶はここまでにして、第四章の感想を書いてみたいと思います。

 

 実は第四章、かなりの苦しみの末に生まれたもので、実は二度ほど大きく変更が成されています。

 

 初期の時点では、この四章はミゲルとマリサの二人を主軸に置いた話を展開する予定でした。それで半分ほど書いてみたのですが、ミゲルの魅力が全然わからず、ホアンにバトンタッチしてもらう形になりました。

 

 で、ヒロインがいないことに気が付いた作者は急遽ルトリシアをヒロイン役として登場させました。結構無茶な配役かなぁと思ったのですが、オウルを登場させることによって、なんとかギリギリ形になった気がします。

 

 割を食ったのは主人公のアンヘル君で、出番は大きく削られることになりました。感想を頂いた時「主人公の活躍が少なくてなんか残念」とあったのですが、もしかして四章のことを指していたのでしょうか? それだったら、大変申し訳ないことをしました。プロットが二転三転したせいで、こうなりました。謝罪させて頂きます。

 

 とはいえども、実際ミゲルとマリサが主役のストーリーが良かったかと言われると、そんなことは決してないでしょう。つまり、そもそものプロットがダメだったからこうなったんだなぁと思って頂ければ幸いです。

 

 とまあ、こんな言い訳が続きました。いや、本当に四章が完成して心底ホッとしています。

 

 今回は短いのですが、予告だけして終了にしたいと思います。

 

 あらすじも変更しましたが、次は幼馴染青春篇になります。

 

 キーワードは次の二つです。

 

 幼馴染、書簡体小説。

 

 この二点を軸に、頑張っていきたいと思っています。第四章でははじめてのハッピーエンドだったのですが、あまりしっくり来なかったので違う形にするような気がします。

 

 今後ともぜひよろしくお願いいたします。

 

 

 

 § § §   登場人物紹介   § § §

 

 

 

 ■メインキャラクター

 

 

〇アンヘル 主人公

 

最後の最後まであんまり出番が無かった人。この章では結構平和。むしろ凱旋編の方が地獄だった。クズ進行が加速し、見捨てたり脅したりを平然とする。クナルあってのこの男といった所か。でもやっぱり不幸。

 

・シィール(種族名:プレシィ―ル)【眷属】

水・ドラゴンタイプの眷属。いわゆる御三家のひとつ。

盾にしやがった、ふざけんな。

 

・リーン(種族名:グリーンカーバンクル)【眷属】

出番何処よ。

 

・フレア(種族名:レッドドラゴン)【眷属】

イズーナのせいでシィールに出番を取られた。だって水属性倍率ないんだからしょうがないよね。

 

 

〇ユーバンク・アーバスノット・タフリン・クナル 同僚

 

結構地味な活躍。実は動植物や昆虫類についての造詣が深い。別に好きなわけではなく、必要だから覚えただけ。やっぱりイケメンで、色んな所で女を作って問題を起こしている。今回は結構重症を負った。

 

〇ホアン・ロペス こっちが主人公か?

 

赤毛と高身長がトレードマークの青年。といいながら、最近アンヘルに身長を抜かされている。元平民派であり、現在は過激派の志士「救国主義」として活動している。オウルの部下。あれから色々あったせいで、実力的にはかなり上がっている。

 

〇マリサ こっちがヒロインか?

 

ロヴィニ村の村娘。父が村の外出身で、もっと北方の人間。南部の色黒系や日焼けしないロヴィニ村周辺とはちょっと違う肌合いの人物。物腰も柔らかで、知的なところがあった。使い番としてやってきたホアンと仲良くなる。

 

〇ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエント たぶんヒロイン

 

スーパーお嬢様。アンヘルが恐れている人間の一人でありながら、結構茶目っ気を出してゆくスタイルでビビらせてくる。同じ倶楽部に所属する。滅茶苦茶強大な魔法を使えるが、本人の戦闘能力はそれほどでもない。あくまで砲台。最近の趣味は知識のないやつをいたぶってやること。筆頭はアンヘル。

 

〇ハーヴィ―・スペルト・スキピオ 護衛

 

めっちゃ苦労人。腕をぶっ飛ばされながら義肢をつけ、主人に忠誠を誓う男。まさに騎士の鏡である。実はアンヘルもちょっと尊敬していたりする。ただ、騎士っぽいのはあくまで忠誠心だけで、長年戦場で過ごしたせいなのか性格は陰険。木剣を使った試合では、鉄心入りの剣でボコボコにしたり、試合前に下剤を入れてボコボコにしたりと、アンヘルにとってトラウマものの事態を引き起こしている。

いつかアンヘルの事をぶちのめしてやろうと思うが、思えば思うほど主人が仲良くなって不可能になる。超かわいそう。

 

〇ベップ 友達?

 

ボンボンだけど貧乏。貴族だけど貴族っぽくない系の友達。悪仲間といったところか。アンヘルにも結構積極的に話しかけてくれる。ヴィエント派閥のトップラファエルに尊敬の念を抱いており、また堪えきれない嫉妬のような想いもあった。アルバのことは変な奴だと思っている。

 

〇アルバ・エゴヌ 友達?

 

辺鄙な一族の末裔にして、魔導院出身の天才。のはずが、やる気が全然ない。クナル以上にやる気がない。誰一人アルバが訓練をしているところを見たことがなかったりする。剣の腕も一級品であり、特殊なまじないを使えることから、便利な奴だとアンヘルに認識されている。ベップのことは煩いやつだと思っている。

 

〇オウル 平民派の剣客

 

ホアンと同じ流派(アンヘルとも同じだが、彼にはもはやその名残はほぼない)の剣客。エルサ班から見て、桁違いな実力を持っている。フランシスという五回生がもっとも信頼する男であり、頭脳においてもかなりのもの。素行はやんちゃ系。

 

〇カオス 敵

特殊な変身能力を使って、代官に扮していた。その目的とは?

ブクブクデブな体形が気に入っておらず、この変身能力で潜入しろと言われた時には、はじめて主人に反抗したらしい。でも、慣れた。人って慣れるもんだよね。人じゃないけど。

 

〇サキ 敵

夢魔 敵

 

〇レイナ 敵

夢魔 敵

 

〇ラファエル 仲間

 

超強い召喚士。総合的な実力では学年一位だと思われている。あのオウルも待っ正面からの勝負はさけるほど。実は魔法もちょっと使えたりと最強キャラ筆頭だったりする。あまりに便利すぎるせいで、出番はない。

 

〇フェルミン 仲間

 

ラファエルを尊敬する取り巻き其の一。取り巻き候補はいっぱいいる。彼女も結構優秀で、エルサ班を除けば、下位五十の組など相手にならない。

 

〇ドミティオス 黒幕

 

アンヘルの身の回りで起きる事件は大体コイツのせい。アンヘル、クナルはめっちゃ嫌っている。

 

〇スリート商会のアリベール

 

名前すら出てこなかった可哀そうな子。いや、オスゼリアス以外で出るのは無理だから。実は商会を軒並み併合し、三大商家の一角に躍り出た。アンヘルはあんまり知らない。

 

〇オスカル 元教官

 

故人だが、実はもっとも重要人物といえる。彼の死後、遺志を継ぐといって複数の思想が誕生した。つまり、現在の党派の先駆け的存在。でも彼が想像したのとは違う方向にずれている。パイオニアの苦しみってこういうのかな?

 

 

 



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第五章:水のダンジョン
就活編第一話:頑張れソニアちゃん


 ――今日、私は珍しいものを見ているのかもしれない。

 

 祭壇に続く道。傍には長椅子がいくつも櫛比していて、がらんとして汚れ一つない乳白色の石畳は、高い窓から射し入る陽の光がステンドグラスの加減で鮮やかに彩られている。その中央、白と黒の飾り気ない僧服の男が神を模った彫像をながめていた。

 

 美しいが、長居したい場所ではない。主人の仕事場兼私室は教会でありながら葬儀場のような雰囲気漂い、荘厳さよりも悲壮さが重苦しい。そんな場所。

 

 しかし、今日ばかりはそんな感傷も吹き飛ぶ。

 

 帝都のミスラス教総本山、その教会にてドミティオス大神祇官麾下の私設部隊神聖七騎士第六位の召喚師アグリッサは、珍しい表情を浮かべる主人を見ながらローブの下の見えないところで拳を震わせていた。

 

「本当に危なかった、一歩間違えば水泡に帰すところだったよ」

 

 ドミティオスが背を向けたまま呟いた。

 

 アグリッサからはその表情は伺えない。しかし、首筋に流れている冷や汗から安堵しているのはわかる。主人は頭を振ったり手をこね回したりと、忙しなかった。

 

 ――本当に珍しい。

 

 ふと口元が緩む。見つかれば揶揄われるため前髪で顔全体を隠すように俯いた。

 

 主人ドミティオスが胸を撫で下ろしているのは、諜報戦を専門とする神聖七騎士序列七位、隻腕の騎士から齎された情報にあった。

 

 オスゼリアス士官学校第二回生遠征演習。その遠征に及んでいた中隊からバアル教団の資金源であるサイレール製造工場が発見され、さらに橋頭堡と目されるロヴィニ村の支配者邪竜の討伐の一報が入ったのである。

 

 簡潔に告げる伝令に対し、最初の邪竜討伐までは微笑気味の驚きを表していたが、邪竜の烙印、サイレール製造の産業の巨大さ、そしてヴィエントやリエガーら五大貴族の子息たちが死に瀕したという報を受けるといつもの微笑は崩れ去ることとなった。

 

 さすがの主人も寝耳に水、ということなのだろうか。時折髪を撫でつけている様がいつになく慌ただしい。

 

「君は驚かないのかい?」

 

「邪竜が出てくるのは、珍しいですが」

 

 アグリッサにとって思考は不得手である。そもそも駒に求められるのは確実に仕事をこなすことだ。一手一手の意味など思案するだけ時間のロスというものである。

 

 そんな意識を声色から読んだのか、上半身だけを捻りながら主人が振り向く。

 

「今回の事件で大事なのは、邪竜の烙印のほうだ」

 

「邪竜の烙印、ですか?」

 

「教団はこれまで多数の事件を起こしてきたが、貴族を直接狙った例は大昔にまで遡らないといけない」

 

 主人はゆっくりと長椅子に腰掛けた。

 

「皇居爆破事件は皇族や貴族を狙ったものでは?」

 

「それは勘違いだね。情報を精査したが、恐らく教団は無関係だ。オスキュリア家関連の事件だろう」

 

「そうなの、ですか?」

 

 そうそう、と頷くドミティオス。すでに余裕を取り戻したのかいつもの碩学な雰囲気が戻っている。

 

(しかしそんな情報。初耳ですが――)

 

 主人はいつもの微笑みを浮かべている。相変わらずの秘密主義に内心で深いため息を吐くしかなかった。

 

「では殊勲者に賛辞を送らねばなりませんね。騎士ハーヴィーといいましたか。邪竜討伐とは、ヴィエント家も大した手駒を飼っているようですね」

 

「それは必要ないよ。多分だけど、ね」

 

 ポカンとした表情を察したのだろう。ドミティオスは立ち上がり、教鞭をとる先生のような笑みを浮かべた。

 

「カルサゴ大戦の英雄スキピオ、その血がまさかヴィエント家に流れているとは知らなかったが、今回の件はたった一人の騎士には身に余る」

 

「ですが報告では――」

 

「あくまでも発表された情報だよ。内実はわからない」

 

 ドミティオスは自分の横を素通りして教会の出口に向かった。木造の扉の隙間から光の筋が流れこんでくる。

 

「夏の調査で有力な人間は見あたらなかった。ヴィエント家の騎士ならもっと名が知れ渡っていてもおかしくない」

 

「ですが、名声を捨てるなど狂人のやることです」

 

「狂人か、云い得て妙だね」

 

 名声の価値は計り知れない。あの悪名高きバアル教団の邪竜を討伐した者となれば、その勇名はオスゼリアス中に響き渡るだろう。縁故主義の強いこの世界、名声は金以上に重要なものだともいえる。

 

「名声を捨てるのは馬鹿のやることだ。けど、例外も居るだろう?」

 

 どこか楽しそうに告げるドミティオス。

 

 その表情を見て、ふと閃きの電光が走る。アグリッサの脳裏には不憫な二人の青年が浮かび上がった。

 

「彼らのことを考えていますか?」

 

「正解。彼らだけが、今回の事件で名声を必要としないんだ。平民派の運動が高まるオスゼリアスでは佐皇派として振る舞うことは勿論、五大貴族のヴィエント家に付く事も難しいからね」

 

「それを最初から予期して……」

 

「そんなに買い被らないで欲しいな。私だって神じゃないんだ。彼らは保険に過ぎなかったんだよ?」

 

 遠征演習第一中隊の目的地が変更されたのはアグリッサもその謀略に加担したことから知っていた。

 

 折角得た総督への貸しをそんな詰まらないことに使う意味がわからなかったが、こうして結果を知ると背中が粟立つ思いである。そんなアグリッサを無視して主人は茫洋に語る。

 

「しかし、まさかロヴィニ村とはね。三分の一、いや、それ以下の確率なのに。彼らの引きには本当に参るよ」

 

「……」

 

「けれど怪我の巧妙といったところかな。そこまで働けるとなれば、此方も防御に回らなくて済む」

 

 悪戯に成功した子供のようにドミティオスはつぶやいていた。

 

 主人は相手に出し抜かれる事が極めて少ない。それはありとあらゆる可能性を排除しない思考ゆえだ。

 

 だが、それは決して無敵たり得るわけではない。

 

 身体が一つしかない以上、遠い地方の出来事では後塵を拝することがまったくないとはいえない。

 

 そして、だからこそ駒となる優秀な人間を探している。

 

 教会の扉に手を掛け、外に出てゆこうとするドミティオスの背を追った。

 

「彼らにはお礼をしないとね」

 

「望まないと思いますが、彼らは」

 

「だろうね。私は嫌われているから」

 

 ゆっくりと重々しい音を立てながら扉が開かれる。突き刺さるような陽光が差し込んできた。

 

「けど、考えはある。モノはやりようさ」

 

 ドミティオスの手には、従士の証である鞘入りの短刀が握られていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ガヤガヤと混雑の音が無秩序に響いている。春先の清洌な風もこの密度の熱にあっては大した清涼感を得ることはできない。

 

 その混雑を一足早く回避した女は険悪さを伴った表情で群衆を見つめ、苛立たし気にサラダをつついていた。

 

 士官学校に内設された古い食堂。ボロ木の露出した内壁や柱は割合出自の良い候補生には不評である。今にも木くずが飛び散りそうな古びた机もそれに拍車をかけた。そこに座る彼女もその一人。旧七八エルサ班の副隊長であり、士官学校の中で上から二番目に位置する壱科ソニアの表情は苛立たし気だ。対面には同班の同僚であるエルサ、エセキエルが並んで食事を取っていた。

 

「それでソニアさん。目ぼしい小隊はありましたか?」

 

 のほほんとした声でエルサが言う。頬を膨らませて食べる様はどこか栗鼠を思わせた。

 

 しかし、癒しの動きもなんのその。ソニアはさらに眉間の皺を深くした。

 

 時節はすでに春を迎えている。深い積雪は溶け、オスゼリアスは厳冬を乗り越えた末の鷹揚さで満たされていた。というのに、箸の進んでいないソニアの心情は暗く沈んでゆくばかりである。

 

「で、でも、大丈夫ですよ。ソニアさん優秀ですからっ」

 

 エルサが不味いことを聞いたという表情をした。

 

「慰めてくれてありがとう」

 

 返答が素っ気なくなってしまうのも仕方ないだろう。実際、ソニアは結構切羽詰まっていた。

 

 士官学校では基礎課程として一、二年の間、強制的に組まれた小隊で成績を競い合うことになっている。しかし、その間の成績が卒業時に響くことはない。重要なのは、これから訪れる三回生からの試験にある。

 

 小隊演習。六体六で行われる対抗戦である。

 

 三回生からは自由な小隊編成が許可され――隊長は上科固定――一年間固定だった序列の変更を及ぼし、成績の如何によっては個人の科変動すら起こす士官学校花形の試験である。

 

 これ迄の成績は、この小隊編成を見据えたアピールタイムといえるだろう。が、ソニアはその小隊編成で大きく躓いていた。

 

「面接はどうだったんだ?」

 

「門前払いよ。エマ隊長はリカルド隊長の班に入るんですって」

 

 エセキエルに返答する。

 

 ソニアが最有力候補として考えていた第五エマ班は、序列一桁かつ女性が率いる小隊である。

 

 今与一とも呼称されるほどの腕前の彼女。上位層のラファエルらは基本的に門閥派、平民派など色を帯びているが、彼女だけはリカルドと共に無派閥である。

 

 だからと思ってソニアも応募したのだが、返答はまさかの合併。まったく例がないとはいえトップ層。上科同士が組むなど予想外の返答だった。

 

 リカルド班に立候補するのも手だが、第一位と第五位が組んだ小隊に割り込むのは難しい。そもそもなんの面識もないのだ。信頼度という点でも大きく劣る。

 

「良いわね其方は。もう決まっているんでしょう」

 

 言葉を濁しながら返答した両者。ソニアと違ってこの二人はすでに所属を決めた者たちだ。

 

 エルサは初期の希望通り、軍研究部への道を歩むため所属を移すことになっている。つまり彼女は三回生からの小隊演習には参加せず、研究と勉強漬けになることとなっていた。

 

 一方のエセキエルは、いつかの迷宮探索演習で誘われた班に席を移すことになっている。序列は六十位程度と悪くなく、また、個人としても軍議盤の腕を買われ作戦参謀への道を歩むことになっていた。

 

「あ、そうそう。ユウマちゃんもフェルミン隊長の班に決まったそうですよ」

 

「聞いたわ。今は凹むからやめて」

 

 ソニアはフォークで茄子を突き刺す。ザクリと乾いた音が鳴った。

 

「俺は知らないぞ、そんなの」

 

 新聞屋の息子として仲間内の知らない情報が気に入らないのか、エセキエルが口を尖らせる。

 

「五月蝿いわよ。それでユウマはまだ訓練しているの?」

 

「はい。あの遠征演習以来、時間があるたびずっとです」

 

 平民派の反乱主導者オウルに鎧袖一触とされた遠征演習以来、あのボンヤリしたユウマにも何か思うところがあったのか。彼女の選択としては意外な感のあるヴィエント派への立候補もそういう所から来ているのかもしれない。

 

 そういうソニアにとっても思うこと多数だったのは同意である。

 

 まったく歯が立たなかったオウル、それを正面から打ち破った召喚師ラファエル。その上、彼らの戦いが児戯に思える偉業、邪竜討伐を果たした英雄ハーヴィー。人の噂など七十五日に過ぎぬが、迷宮探索にて轟いた七八小隊の勇名など今ではないにも等しい。

 

 ソニアとて五十位以下なら引く手数多である。が、もっと努力しなければならない。あの世のユーリに失望されないためにも、もっともっと努力する。その為の一歩として上位三十位以内の班を目指す身にあっては、五十位以下など眼中にすらない。

 

「本当、どうしたものかしらね」

 

 手から力が抜けて、フォークがカランコロンと零れ落ちる。正面の気まず気な瞳に遣りきれなさを感じた。

 

 食事は残ってはいるがこのままでは空気が悪くなる一方である。食膳にフォークを片付け立ち上がろうとする。

 

「なあ、ソニア」

 

 音を立てながら椅子を引いてエセキエルが立ちあがる。

 

「なによ?」

 

「もしよかったら、なんだが……ウチに参加しないか?」

 

 どこか恥ずかし気なエセキエルが鼻の下を掻きながらそういった。

 

「何、憐れんでるの? タチ悪いわよ」

 

 ソニアの視線の温度が下がる。見据えられたエセキエルがあたふたと慌てた。

 

「そうじゃないってっ! その、お前と一緒ならうまくいくかなって。あ、ほら、お前は結構副隊長として悪くなかったっていうか。その、なんならこれからも一緒にやていきたいと……いうかさ」

 

「あぁ、そうね」

 

 気のない返事をして一瞬考え込む。

 

 予想外の反応である。喧嘩友達のような仲だったが、こう照れ臭い様子で告げられては返事もし辛い。

 

 ありがとう、などと微笑むのが淑女の嗜みだろう。しかし、そこを裏切ってゆくのがソニアスタイルである。

 

 頬杖をつきながら簡潔に告げた。

 

「貴方の事嫌いじゃないけど、そういう対象じゃないから」

 

「いっ! お、俺は、そんなつもりじゃ!」

 

「ならいいでしょ。自分のことは自分でやるわ」

 

 ズバッと轟沈、これこそソニアスタイル。パクパクと酸素を失った魚のようにエセキエルが口を動かしていた。

 

 その後、完全に崩れ落ちる。どこか侘しさを誘う背中だった。

 

「じゃ、あとはよろしくね」

 

「えっと、はい。頑張ってください」

 

 苦笑いで慰めるエルサを見ながら、食膳トレイを持って去ってゆく。

 

(まだまだ時間はある。そのはずよ)

 

 やる気が出た。ついでに撃墜数も伸ばした。

 

 たぶん、お局さまへの未来は明るい。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 そうやって三週間の時が流れた。

 

 しかし、状況は一向に改善の余地を見せてはいなかった。

 

 目ぼしい小隊にはほぼすべて声をかけ終えた。いくつか良い返事を貰えた小隊もあったが、そのどれもが現状以下の成績を残す未来しか見通せない。

 

 ソニアを勧誘してきた小隊ないではなかったが、どこも思想の色が強く危険な香りしかしない。完全にお手上げ状態だった。

 

 もはや新年度は目と鼻の先だ。三回生となれば悠長に班を選んでいる余裕もなくなるだろう。桜が散り、浮ついた空気が漂っている。街角には毎年恒例、他州からの新入生を目当てとした詐欺紛いの商売が蔓延っていた。

 

(ああ、本当にもうどうすれば良いって云うのよ!)

 

 ガンガンとアーチ橋の石畳をげしげしと踏んだ。士官学校制服で激しく地団駄を踏む女性の姿は奇異そのものだが、辛うじて人通りが少なく見過ごされる。

 

 ソニアは現在、新年度前最後の休日をたった一人街で過ごしていた。

 

 いや、過ごしているというよりはヤケのようなものだろうか。

 

 何の目的もなく街をぶらついては、時折思い出したように地面に当たるだけである。しかし、反応のない地面を相手にしていても虚しいだけだ。気づけば迷惑顔の子連れ女性が横を早足で通り過ぎていった。

 

(聞こえたわよ。見ちゃいけませんですって? 情緒教育に悪いとでもいうの)

 

 いっそ叫んでやろうかとすら思ったが、流石に人間としての尊厳を捨て去ることはできない。石ころを蹴り飛ばしただけで済ませる。

 

「ああ、もうっ。うっとおしいわね」

 

 ――久しぶりに店でも行くか。

 

 思い立ったが吉日。都合よく目当ての店にも近い。これこそ天の配剤だと思ったソニアは、直ぐに回れ右をして目的地に向かう。

 

 都合数分。目的地パティスリー・レイにたどり着く。洋菓子の老舗であり、確かな腕と黒の格式高い建築が有名な名店だ。

 

 金銭的事情や店内の混み具合から避けている店だが、幼少期の来店以来窮地には必ず訪れた店である。

 

 昼前の時間だからか、昼過ぎとは違って混み合っておらず運よくテーブル席が空いていた。

 

 店員の指示にしたがって席につこうとする。

 

 そのとき、ドタバタと慌ただしい音とともに一人の少女が来店した。

 

「あ、あの。席って空いてますっ?」

 

 

 

 

 

 突然来訪した少女はテリュスと名乗った。

 

 ブロンドに近い茶髪をポニーテールにして前髪にピンをつけている。口紅を薄く引いているぐらいの自然な化粧にもかかわらず、同性のソニアすら目を奪われる美しさだ。

 

 なにより印象的なのは、どこかチグハグな空気感を持っているのである。彼女のことをどれだけ注意深く観察しても快活や活力など動のエネルギーしか見当たらないのだが、しかし、感性の部分では神秘的で楚々とした静の印象になる。

 

 陽光に照らされる髪はどこか黄金の輝きすらあって。自然と傅いている自分と、彼女の女子然とした活力にげんなりする自分がいて、板挟みになったような気味の悪さを覚えていた。

 

「いやぁ、ありがとうございますっ。相席してもらっちゃって」

 

「……問題ないわ」

 

「助かりますっ。あ、店員さん新作二つ。ハリアップで」

 

 テリュスは店員に向かって指をしゅぴっと二本立て、高らかに宣言した。

 

 頭痛がする。ソニアは頭をおさえながら天真爛漫な彼女に追随するよう注文した。

 

 少し経って注文した紅茶が運ばれてくる。柿の渋い香りがあたりに漂う。執事のように優雅な動きで去ってゆく店員を眺めていると、手元のケーキをパクつきながらテリュスが言った。

 

「そういえばソニアさんって士官学校の候補生なんですよね?」

 

「ええ。それが何?」

 

「いえいえ、士官学校ってどんなところなのかなって思いまして。そういえば何科なんですか?」

 

 どういう意味だ、とソニアは眉尻を下げる。

 

 要領の得ない質問である。親族か誰かが士官学校に通っているのかとも思ったが、オスゼリアス在住なら会うのは難しくないだろう。

 

 まさか受験志望者だろうか。さすがに彼女のような人間を軍に入れるわけには。そんな葛藤をしていると、テリュスが不思議そうな顔をした。

 

「もしかして、兵卒教練の方だったんですか?」

 

「壱科よ。けどどうして士官学校の話を気にするの? こんなことを言うのは失礼かもしれないけれど、軍は危険と隣り合わせよ。軽い気持ちで挑むのは」

 

「あー、気持ちはありがたいんですけど」

 

 そういいながら、テリュスはカバンから封筒を一つ取り出してひらひらして見せた。

 

 見覚えのある茶封筒、緑の袋綴じ紐。それはソニアにも見覚えのあるモノだった。

 

「それはッ」

 

「そうですっ。後輩ってことになりますね」

 

 てへっという擬音すら聞こえそうな笑顔で首を傾げて見せると、封筒を仕舞う。

 

 その表情には士官候補生に相応しい厳しさなど何一つ身についていないように伺えた。

 

 気持ちが軽い。そんな印象を抱いた瞬間、気づけば身を乗り出していた。

 

「貴方ね、士官学校は遊びじゃないのよ。一歩間違えたら死ぬことだってあるわっ!」

 

「ちょ、ちょっと待ってください。店の中ですよぅ」

 

 ビックリした様子のテリュスは、キョロキョロ店内を見回して冷や汗をかいている。

 

 店内の客や店員も何事かと此方に注視していた。

 

 さすがに恥ずかしくなってストンと腰を下ろす。だが、声は落とすものの論調は変えないまま問い詰めた。

 

「遊びじゃないのよ。そんなヘラヘラした態度じゃ――」

 

「心配してくれているのはありがたいんですけど、正直こっちにも事情が有りまして。それに私、ソニアさんより強いと思いますよ?」

 

 持っていた銀フォークから手を下ろし、腕を組みながらニッと口角をあげるテリュス。

 

 舐められている。士官学校で訓練を積んだこともない小娘の勘違いにソニアはため息を吐きそうになった。

 

「吹くじゃない。剣を握り始めたばかりのお嬢さんがね」

 

 腰を浮かし、浅く座り直す。彼女も態度を変えたのがわかったのかさらに笑みを深めた。

 

「すごい迫力ですね」

 

「それがわかるのなら、完璧な素人ってわけでもなさそうね。道場にでも通っていたのかしら?」

 

 生ぬるい家庭教師からの教えのみで士官学校に入学する例は後をたたない。男なら虐めで済むが、女は後に引く事態へ繋がりかねないのだ。

 

「いえいえ、私は道場の娘ですからっ」

 

 軽く答えた少女には、そんな事情も折り込み済みのように見えた。

 

 机に向かい合うだけでも戦闘に慣れた様子が窺える。先ほどの叱責は野暮だったかと肩から力を抜いた。

 

「御免なさいね。勘違いだったわ」

 

「あれ、そうですか?」

 

 テリュスはへへぇと相好を崩した。

 

 子供かよと内心毒づくも内心の評価は上がりっぱなしだ。此方が敵対の意思をやめた瞬間合わせて力を抜いた。かなりの使い手であることは明白だ。

 

 それでも、と釘を刺すようにソニアは厳しい顔を見せる。

 

「でも大言壮語は止めたほうがいいわ。世界は広い。士官学校の訓練も受けたことがない貴方には相応しい言葉じゃないわ」

 

「あはは、確かにその通りです。って昔はそう思っていたんですけど、ね」

 

「けど、何よ」

 

 入学する前に変な勘違いは正しておくべきだ。彼女は才能ある、しかも女。同性として捨て置くのはしのびない。

 

 しかし、ソニアの鋭い眼光にも彼女は微塵も怯まなかった。むしろ、彼女の深淵のような瞳に飲み込まれる。

 

「昔は私も驕ってました。所詮、道場でしか学んでないのに私の方が強いって勘違いしてました。

 でも、不思議なんです。今は何も鍛錬してないのに――」

 

 突如、自分のティーカップから突沸のような音が響く。

 

 ほんの一瞬、目の前の少女から意識を逸らしてしまった。

 

 刹那。少女の鋭い眼光が煌めくと魔法の発動兆候を確かに感じた。

 

「――私はどんどん、強くなる」

 

 唾を飲み込むことしかできなかった。

 

 目の前に据えられた氷の刃。ソニアのティーカップから立ち上ったものが漣を打つかのようにして薄く広がり、鋭利な刃物となって凍りついた。

 

 その氷の剣を掴んだ少女は、そのまま目にも止まらぬ速度で此方の喉元に切っ先を突きつけたのだ。

 

 一歩も動けない。

 

 これが戦闘なら、殺されていた。

 

 戦慄するソニアを他所にテリュスは軽い調子で戯けてみせる。

 

「ごめんなさい。けど、やっぱり舐められるのって我慢ならないんですよ」

 

 ――只の人間になんてね。

 

 軽く言ったような、そんな言葉。けれど副声音のような声を続けて聞く。小さくウインク。似合わないはずの妖艶な仕草に色気と恐怖を感じた。

 

(この子……)

 

 化け物だ。ソニアはたった一度のやり取りで彼我の実力差を実感していた。恐らくどのような場面で遭遇したとしても敗北するだろう。絶望的なまでの壁を彼女との間に認めた。

 

 額からひんやりとした汗が流れ落ちる。身体は金縛りにあったように動かない。

 

 オウルやラファエルのような化け物が、ここにも居る。世界は広いということを逆に思い知らされた。

 

 そこでふと気づく。

 

 テリュスは氷の刃を手掴みしていたが、それは……。

 

「ねえ、私の紅茶なんだけれど」

 

「ああっ、ごめんなさぁいっ!」

 

 なんか締まらないな。ソニアは先ほどの修羅場も忘れてげんなりした。

 

 

 

 

 

 結局、テリュスがお詫びとして新たな紅茶を注文して、先ほどのやりとりはなかったことになった。

 

 普通ならこれで気まずくなるものだが、そこはやはりソニアスタイル。小隊活動の悩みもあり、逆に空気が軽くなったよう感触すらある。

 

 なにより彼女の特異性は注目に値する。二年差ならば学校内で行動を共にする可能性はあるだろう。

 

 しかし、そんな興味は早々に打ち砕かれた。

 

「さっきの魔法ですか? うーん。なんかグニャってやるとできるんですけど、わかりません?」

 

「どこで鍛えた? あんまり覚えがないんですよね」

 

「志望理由? なんとなく、ってかんじですかねぇ」

 

 大体この調子である。というか、魔法は神秘と論理の産物である。感覚で扱えるなど聞いたこともなかった。

 

 それ以外にも大抵の質問に対し明瞭な回答が返ってこない。見当違いの答えに到達したときの不可解さの残る会話が続いた。

 

「――どういうこと? 士官学校に入学した理由も言えないの?」

 

「そういうわけじゃないんですけどね」

 

 テリュスは渋面を作りながら唸る。尋ねる側の目が鋭くなるのもやむなしだろう。

 

「なんか、気づいたら志願書送ってたんですよね」

 

「意味がわからないわ。親が送ったということ?」

 

「いえいえ、送ったのはテリュスなんです。たぶん」

 

 意味がわからず、お手上げと両手を上げた。

 

「本当にわからないんですよね。気づいたら志願してて、試験受けてて。仕事も辞めてるし、強くなってるし。もしかして病気なんでしょうか?」

 

 彼女は困ったような笑みを浮かべた。

 

「大丈夫なの、それ」

 

「悪いことばっかりじゃないんですけどね。この前なんかはじめて弓を触ったのに、親族全員驚愕するくらいの腕で」

 

「どのくらいよ」

 

「あの看板ぐらいなら余裕です。端っこにある盾のイラストを撃ち抜けますっ」

 

 ソニアはそれを見た。ここから都合三百メートルはある。しかもその距離の霞んで見えないボール大の飾絵を打ち抜こうというのだ。笑えるほど異次元の実力である。

 

「ま、そんなのは良いんですけど」

 

 テリュスは気軽に頭の後ろで両腕を組みながらいった。

 

 かなり問題あるだろうとは思うのだが、本人がいいなら良いのだろう。もはや麻痺して驚かなくなってきた。

 

「ただ、困ったことがありましてね」

 

「困ったこと?」

 

 ソニアはお代わりの紅茶を飲み干した。

 

「うーん。ちょっと恥ずかしいんですけど」

 

 困ったように頬を染めるテリュス。ああでもない、こうでもないと唸る。

 

 ソニアは頬杖を突きながら反対の手に持ったスプーンで紅茶をかき混ぜた。

 

「言いたくないなら良いわよ。あんまり面白そうじゃないし」

 

「うーん、はい。決めました。言います、言いますよ――その私、実は好きな人がいるんですけど……」

 

 テリュスは頬を染めながら嫋やかにはにかんだ。

 

 やっぱりそんなことだろうと思った。ソニアはこっそり嘆息しながら、一応の礼儀で先を促した。

 

「けど、ですね」

 

「どうしたの?」

 

「最近変なんですよねぇ」

 

 一転して寂しげな表情を浮かべるテリュス。急激なテンションの変わり方に混乱する。

 

「何が変なのよ」

 

「昔は、なんか良いなぁって感じだったんですけど――」

 

 一度言葉を区切ると、テリュスの眦が寂しそうに下がる。

 

「今はなんでも叶えてあげたい、って思うんですよね」

 

 寂しさが多量に含有された眼差し。普通なら甘ったるくて聞いていられない台詞な筈だが、アガペーのような決して交わることのない壁が存在しているように思えた。

 

 意外な結論にうまい返しが浮かばなかった。

 

「あんまり、私らしくないと思うんですけどねぇ。こういう重いの」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 後の話は弾まなかった。ちょうど店内が混みだしたということもあり、偶然の出会いはそこで終了を告げた。

 

 それにしても、とソニアは昨日のことを思い浮かべる。

 

(あれくらいの年頃で、あのレベルに到達できるなんて)

 

 色々不可思議な少女だった。

 

 志願動機、能力、心情すら謎の少女。密偵を疑ってしまいそうな不可解さだが、あの容姿では目立ってしょうがないだろう。意味がわからないとしか言いようがない。

 

 結ばれた街角の奇縁。ただ、それだけ。

 

 流してしまうような、そんな一日に過ぎない。

 

 しかし、彼女と会ったことでソニアの中にも確固たる決意が生まれようとしていた。

 

 流々転々。物事は常に移り変わり続ける。

 

 最下級生として常に同級を出し抜こうとする時は終わった。基礎課程も終了し、三年度からは小隊演習も開始する。テリュスのような実力を持った下級生たちも此方を追い越さんと迫ってくるだろう。

 

 となれば、小隊結成になど躓いている暇はない。ソニアは最後の手段をとっていた。

 

「クナルを紹介してほしい、ですか?」

 

「ええ、そうよ」

 

 ソニアが尋ねた人物とは旧七八エルサ班の同僚にして、唯一疎遠のアンヘルである。

 

 彼は寝ぼけ眼のまま寮部屋から出てきた。髪はボサボサで、頬の小さなそばかすが如何にも間抜けっぽい。

 

 部屋の中からは酒精の匂いが強く漂う。アンヘルの口からは匂わないのでおそらく同部屋の人間が夜通し飲んでいたのだろう。

 

「貴方たちの班はまだ規定の六人に達していないでしょう? それに壱科の生徒は含まれていない。私なら十分力になれるわ」

 

「ああ、えっと、そう、ですね」

 

 クナル班は序列三十位にありながら、未だ欠員が埋まっていない珍しい班である。構成は、旧クナル班のクナル、ベップ、アルバになぜかアンヘルを加えた四名である。

 

 班員の上昇志向の薄さとクナルの異常さを合わせて、行動の読めなさからダークホースともポンコツ班とも言われている。そのうえ、旧クナル班の残り三人は小隊編成が解禁された一ヶ月前の初日に脱退している。この辺りが学内で敬遠される要因の一つだろう。

 

 しかも、気に食わない理由がもう一つあった。

 

「でも、受け入れられるかはわかりませんよ?」

 

 ソニアはその言葉を聞いて眉間に皺を寄せる。

 

 頼れない理由とは気軽そうにいったこの男アンヘルの存在である。いつからか判然としないが、この男を苦手に思うようになっていたのだ。

 

 伍科でも最底辺の成績を突っ走り、ポンコツ童帝と呼ばれる。

 

 不真面目で、休みの日にはバイトばかり。訓練のくなど見せたことはない。

 

 その割に虐められる気配を見せず、何だかんだ小隊にもいち早く加わっている。

 

 怠惰で無能、しかし順調。一年共に過ごしても評価が定まらない人物である。

 

(それに――)

 

 いつでも大らかなユウマが言っていた。「ウチはあの戦い方を認められへん」。彼に対する頑ななユウマの姿勢を問いただした際の言葉は、衝撃を伴って頭の片隅にこびりついていた。

 

 それ以来、彼を見下しているエルサやエセキエルとは違って、ソニアはこの男のことを警戒していた。どこか不気味な存在。そんな意味でもって。

 

 とはいえ、所詮気に掛かるぐらいだ。その程度で有力な小隊を選ばない理由はない。ちょうどクナル班は頭脳を欠いた状態。もし自身の戦術によって好成績に導くことができれば、なくてはならない存在へと昇華されるだろう。

 

 そんな皮算用を持ってして無理矢理面接実施に漕ぎ着ける。結果、明日正午に面接する予定となったのだが――

 

「……これ」

 

 四半刻遅れで現れたのは、隊長であるクナルではなくアルバという小隊員だった。アルバに手渡されたのは、なんと「合格」と書かれた雑紙一枚だった。

 

 もはや笑える程のザル勘定。一度も面識のない隊長に会うことなく合格を言い渡される。同班にアンヘルという問題児がいる事も忘れ、これからは隊の管理を十全にして見せるとやり甲斐のようなモノが沸き立つ。

 

 そして迎えた新年度。

 

 一向に揃わないクナル班の面子に苛立ちながらも、休みの間にコツコツ戦術や訓練内容を考案した。なんとしてでも自分が隊を導いてみせる。そんな決意を持ってして。

 

 しかし――

 

「って、どうなってんのよぉぉおっ!」

 

 準備した資料がバラバラと崩れる。虚しい叫びが空へと溶けていった。

 

 試合当日。集合時刻になって気の毒そうに告げた担当教官。彼はフルフルと顔を横に振るだけだった。

 

 クナル班は、三回生における小隊演習において伝説的ともいえる成績を残した。

 

 ――前期。一部班員の特務による離脱にて、前期前哨戦不参戦。

 

 ――後期。軍特務における離脱にて、後期小隊リーグ戦不参戦。

 

 クナル班は一年間全戦不戦敗という歴史的偉業を成し遂げ、消えることのない汚名を士官学校二百年の歴史に刻み込んだのだ。

 

「ふざけんなぁああっ!」

 

 がんばれソニア、君の未来は暗い。

 

 

 




五月二十一日現在、五章は八話まで執筆しています。四章あとがきでエルサ班の紹介を忘れたということもあり、短編の主人公は五章で登場予定のないソニア、ユウマでした。恐らくファンはいないと思うのですが、ぜひぜひ彼女らのこともよろしくお願いします。


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PHASE1-1:告白なしに青春は語れない

ようやく投稿再開です。途中で推敲に疲れたりしなければ、章の終わりまで連投します。


 ○月○日。はれの日

 

 きょう、はじめてじしょを引いてみました。なんでそんなきもちになったのかわかりませんが、お姉ちゃんがなんだか嬉しそうだったので、きになったんだとおもいます。

 

 そこには、こういうふうに書いてありました。

 

「告白」

 

「心の中に秘めていた想いや秘密にしていたことを隠さずありのまま告げること」

 

 むずかしくって、なんだかよくわかりませんでした。かわいくないし、すっごくつまんない。わたしはそう思って、じしょを閉じました。

 

 それなのに、なんでこんなことがうれしくするんだろうって、ぜんぜんわかりません。でも、お姉ちゃんは泣いてました。ぽろぽろ泣きながらふくでずっと顔をふいていました。

 

 イーサク兄もすっごくうれしそうでした。ずっと飛びはねてて、なんだかバッタみたいだなって思いました。

 

 わたしはお姉ちゃんになんで泣いてるのって聞きました。イーサク兄がわるいことをしたんだったら、助けてあげないとと思いました。

 

 でも、お姉ちゃんはすっごくきれいに笑いながら、むずかしいことを言っていました。

 

「想いを伝え合うことができるのは、言語を発明した人類への神様からの贈り物」

 

 よくわからなかったので、お姉ちゃんに書いてもらいました。

 

 なんだかすっごくきれいって、かんじます。

 

 でも、いっぱいしらべてもわからなかったので、いつかわかるかなってお姉ちゃんに聞いたら、大きくなったらねってアタマをなでられました。

 

 いつか、っていつなんだろう。でも、わたしもあんなふうに、お姉ちゃんみたいに笑えるときがくるのかな?

 

 そうならいいな。なんて、思いました。

 

 あしたは待ちに待ったおまつりの日。りかるどとあそびに行きます。きょうみたいにはれるといいな。

 

 

 

        候補生エマ。八才の日記より抜粋。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 階下の桜並木がすでに華を咲かせている。まだ開花の時期ではないとしぶとく居残る蕾たちも限界だろう。都市を運輸、漁業の二方面から支えてきた湖の送る清涼な風が、チラチラと早咲きの華を散らしてゆく。

 

 若草の芽も一晩で伸ばす穏やかなそよ風が、後ろに括った髪を撫でた。艶のある黒髪は風に流れ、燦々と照りつける夕日を浴びて煌々と光っていた。

 

 どれほど、今の沈黙が続いたのだろうか。気づけば一階校舎の影が伸びていた。

 

 大きく斜めに傾いた柱の陰影に自らの指先が少し掛かる。そこだけひんやりとした感触が神経を伝った。それを防ぐ為に手を閉じることもできず、ただ指先の冷気を感じ続けた。

 

 誰か居ないのか。女はふと、周囲を見渡した。

 

 右手側の医務室と書かれた部屋があり、廊下の奥にも似たような用務室が居並んでいる。人通りはなく、放課後の士官学校校舎はがらんと閑寂に包まれていた。

 

 誰もいない。注意を逸らすようなことは期待できない。

 

 緊張から喉がごくりと鳴る。ひび割れたように唇が傷んだ。少しだけ唇を舐めると潤いが戻る。決意を固め、ゆっくりと絞り出すように口を動かした。

 

「えっと、その、ね」

 

 意味をなさない呟きが空気に溶ける。それがなんとももどかしかった。

 

 声を発した女――エマは直視することを避けていた青年へと意識を戻した。

 

 眼前には頭を下げた男が一人。優しげな茶色の髪を真っ直ぐ此方に下げ、右手を大きく開いて突き出していた。

 

 男の手は極度の緊張と興奮から小刻みに震えている。直角まで曲げられた腰からは必死さと悲壮さを読み取ってしまう。いつもは猫背気味で上背を感じたことはなかったが、今日はことさら小さい。

 

「一目惚れ、だったんです。だめ、ですか?」

 

 彼の膝が震え、互いに打ち合っているのを認めてしまって、自分の中の決意がどんどん鈍ってゆくのを感じていた。

 

 返事をしなければ。頭の中でそれだけが反響した。

 

 長い沈黙で男が僅かばかり顔を上げる。体躯こそ大柄であり、頭三つ分も上背があるが、そばかすの残る童顔は年下みたいだ。ちょっと不均衡な鼻梁も可愛げを煽るアクセントであるし、垂れ下がった眦を伝ってゆけば、充血した結膜により仄かに赤みのさす瞳を見つけてしまった。

 

 目尻に盛り上がる雫が庇護欲をくすぐる。だというのに、もう一度「お願い」されれば、深層心理から帰ってきたのは拒絶だった。

 

 びくりと肩が震える。咄嗟に頬へ手を伸ばすと、頬の引き攣りを手先の感覚が教えてくれた。

 

 何を期待されているかなど、明白だ。

 

 彼を泣かせたくない自分もいる。

 

 ――だというのに。

 

 心の中は微塵も傾かない。

 

 伸ばされた手に対して、どういう対処を取ろうか結論することができない。真摯に想いを伝えてくれた彼を裏切るのは忍びないのに、想いは定まっている。

 

 この思いは水をかき分ける手のように不毛なものだとはわかっているつもりだった。けれど、心衷でぐちゃぐちゃとした塊になれば普段のように振る舞うのは難しい。

 

 口角を上げて無理やりに微笑みをつくる。光風霽月こそ金剛流青嵐弓術の基礎だが、まだ女として花開いていない彼女には心を無にする術はあれど、作る術は持ち合わせていない。

 

 それでもなんとか取り繕い、彼の肩に手を置こうとして空をきる。顔を上げさせて「ゴメンね」と一言あれば、それで済む話であるのに。

 

 だめ、だめなのに。

 

 優柔不断な押しに弱い性格を今は恨んだ。

 

「エマさん、お願いします!」

 

 目の前の男は懇願した。

 

 やめて、だめなの。このまま行ったところで不幸になるだけだから。

 

 エマは心中で願った。意味はなかった。心中で象られた言霊は、しかし相手に伝わることなく、ただ闇へ溶けてゆく。

 

 強まるのは男の支配。自分の手を無理やり取って、さらに言葉を紡いだ。

 

「エマさん、僕と付き合ってください!」

 

 もう、わからない。

 

 どうすればいいのか、わからない。

 

 迷った末、結局その男に対し「お友達から」という遠回しなオーケーを出してしまう。ぱぁと顔を綻ばせた彼は、大きくガッツポーズを作って飛び上がった。

 

 その男――『アンヘル』の嬉しそうな顔を見て、こう思う。

 

 どうしてこんなことに。

 

 エマは頭によぎる、これまでの経緯を振り返り始めた。

 

 

 

 

 

 士官学校に入学して以来三度目。そして、誕生以来十七年ずっと見続けてきたオスゼリアスの初春である。街の郊外一帯に広がる界隈には、二百年の歴史を持つ由緒正しい国立機関が存在する。

 

 その中の乱立するコンクリ建造物ではなく、一際古びた建物――倶楽部などに使っている――旧講義棟の窓からエマは外を眺めていた。

 

 二階、談話室と呼称される娯楽部屋にはボードゲームなどが多数置かれており、歴史と権威のある軍議盤も漏れなく備えられていた。

 

「王手」

 

「ちょ、ちょっと待ったっ。今のなし、なしだからな」

 

 往生際悪く慌てている男――リカルドは相手の了承を得る前に駒を一手巻き戻す。こういう光景は幾度も繰り返されたもので、向かい合う男もその強引さに半笑いを漏らしている。

 

 手に持つ本「慶用戦理戦術参考全其ノ一」に視線を落としながら、目下のところ愚形による突撃戦術しか持ち合わせぬ格子縞の盤上に呆れ混じりのため息を吐いた。

 

「あんた往生際悪くない? ささっと負けを認めたら?」

 

 リカルドはいつもの癖で爪をかみながら、忌々しそうに顔を顰めた。

 

「待てって、まだ負けてないんだって」

 

「そこから最高でも五手詰みよ。あんたの負けず嫌い、もう病気じゃない?」

 

「うるさいな。これは漢同士の神聖な戦いなんだっ。邪魔するなよ」

 

 といいながらも、彼は神の一手を見出そうとする。

 

 救いようがないな。エマはかぶりを振る。

 

「これで僕の十二勝目だね」

 

「うるっせ。今日こっから二勝すれば、俺の勝ち越しだ」

 

「ふーん。僕に勝てるかな?」

 

 悠々とふんぞりかえっている男――アンヘルは如何にも得意げだ。彼の盤面がもう少し良ければ、少しは尊敬できたろうか。両者の実力を鑑みて、エマは重々しいため息を吐くことしかできなかった。

 

 アンヘルとリカルドがこうやって放課後軍議盤を打つようになって、ちょうど一月になる。

 

 剣術では比肩する者の居ないリカルドだが、軍議盤は苦手で、放課後ひそひそと勤しんでいるのはエマだけが知る秘密であった。

 

 六種十六個の駒を駆使して王を詰める、古来からの戦術遊戯、軍議盤。新年のある日、リカルドたちが恒例の特訓のため談話室を訪れると、アンヘルという男が一人定石並べをしていた。そこからなんだかんだあり、二人は対局する運びとなった。

 

 最初はもつれにもつれ、アンヘルが取った。

 

 リカルドははじめて出会う好敵手カッコ笑いに対し、本気になった。

 

 くそ泥仕合の後、二人は意気投合した。驚くべきことに入学前から面識を持っていたのである。力の拮抗、話も弾めば、当然の結果だった。

 

 その日以来、二人は約束を取り付けるや否や三日に一度のペースで対戦していた。

 

(友達ができるのはいいんだけどね)

 

 アンヘルは純朴に映った。裏で何かを企んでいる同期たちとは違い、守ってやりたくなるようなヤギのような存在である。

 

 可愛らしい子だとは思う。こうも眼前で酷い泥仕合を見せられなければ、だが。

 

 盤上の攻防を見た。今度はリカルドが優勢。残ったのは竜と僧侶二つ。凄まじい損耗戦――泥仕合ともいう――であった。

 

 ――あいつに負けず劣らず、アンヘルくんも酷い腕。

 

 今度はアンヘルが唾を吐きながら食ってかかる。

 

「も、もう一回、もう一回だってっ」

 

「へへぇ~、『僕に勝てるかな』っていう威勢はどこ行ったんだ?」

 

 エマは頭が痛くなった。

 

「もういいでしょ。夕方だし、疲れた」

 

「明日は休みなんだぞ。もう一番くらいまだいけるっって。あ、お茶淹れてくれ」

 

 黒髪のツンツン頭を背凭れに掛けながら、椅子の前足半分を浮かして頼んでくる。

 

 さすがにムカついて、近くにあった彼の水筒を机に叩きつけた。

 

「はい、どうぞっ!」

 

「ひっ」

 

 アンヘルが手足を縮めながら、椅子の上で小さくなった。

 

「あ、ごめんさい。そんなつもりじゃ」

 

「おいおい、何しおらしく振舞ってんだ? あ、もしかしてアンヘルに――」

 

「違うッ!」

 

 どうしてまったく興味ない軍議盤対決に来ていると思っているのだ。無神経バカ男に内心パンチしながら、再び窓際の席に戻る。

 

「あぁ、こえー。そんなんじゃ嫁のもらい手はいなくなるよなぁ」

 

「そんなこと言ってたら、また叩かれるよ」

 

「聞こえてるんだけど?」

 

 小声で囁き合っているリカルドたちを睨め付ける。男らしく豪快に笑い飛ばしたリカルドは再戦とばかりに駒を並べ始めた。

 

 再開される戦い。凡戦に胡乱げな瞳を向けていたのだが、ふとエマは身を乗り出して、昨日の不思議な出会いを思い出した。

 

「そういえば、新入生にすごい子が入ってきたのよね。たしか――テルスさんだっけ。昨日会ったんだけど、なにか知ってる?」

 

「んあ? ああ、あの首席のやつか。超美人の」

 

「そうそう。わかる?」

 

「あー。遠目から見たぐらいだわ。アンヘルはなんか知ってるか?」

 

 リカルドが象の駒を進めながら、適当な調子で尋ねた。

 

 突然、窓から強い風が吹き込んでくる。エマのくくった髪が巻き上げられた。遅れて、ゆっくりとアンヘルが口を開く。

 

「知らない」

 

 氷のように冷えた声だった。稀にみせる、劣等生の彼には似合わない怖い表情だ。盤面に集中しているリカルドは気づかなかったが、エマはそのごく僅かな時間の変化に背筋が寒くなった。

 

「え、えっとじゃあ……」

 

「というかエマ。昨日ってどこで会ったんだ? 昨日は下級生と合同なんかなかっただろ?」

 

 しまった。藪蛇を踏んだ。

 

 ぎくりと表情を硬直させる。集中している二人は気づいていないようだが、あまり長々と黙っていても突っ込まれる。エマはさきほどの寒気も忘れ、適当な言い訳を考えはじめた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 タン、タタンと規則正しいリズムが届く。機嫌の悪そうな顔をした短髪の女が厳しい顔で腕組みして、右のつま先で地面を叩いているのだ。

 

 本日は小隊戦に向けた三回生の懇親会である。参加は自由ながら開幕まであと少しとあって、どこも情報収集に余念がない。

 

 そんな中開かれる集まりはすべてにおいて優先される。であるからして、会場の廊下で屯するなどもってのほかであった。

 

(彼女はソニアさんね。やっぱりクナル班はリスキーだったみたい)

 

「そんなにカリカリしなさんなって。それより、この後食事でもどう? 良い店見つけてさ」

 

「結構よ。あいつはまだ呼びに言ってるの?」

 

「アンヘルさん……じゃなくて、アンヘルはまだ掛かるんじゃねえかなぁ。ほら、ウチの隊長は気まぐれだろ?」

 

「やってられないわね。アルバ、貴方が呼びにいってくれないかしら?」

 

「……むり」

 

 ふるふるとアルバが首を振る。クナル班の個性的な面々はやる気があるソニアとやる気のないベップ、アルバの両極端に別れていた。

 

(彼女も大変みたいね)

 

 そもそもとして彼らは服装からして変だ。大事な懇親会なのに、ベップは上着を腰巻きにして、スラックスの第二ボタンを開け放っている。アルバにしても民族ターバンを巻き、襟詰の下には鎖帷子のようなものを着込んでいる。かたやナンパ直前、もう片方は戦時下の格好と頭がおかしい。

 

 自分たちも廊下で立ち往生していることも忘れ、深くソニアに同情した。

 

「どうします、エマさん。もうリカルド隊長は放っておいて入りますか?」

 

「主催はニコラスよ。リカルドなしで弱みを見せたくないわ」

 

 もう少し時間がかかりそうだと考えたエマは、廊下で待機している彼らに近寄った。向こうもこちらの存在に気付いていたのか、両者とも隊長がいないということで同調し、挨拶そこそこに情報交換を行うこととなった。

 

「ええっ、まだ六人目が見つかっていないの?」

 

「私もずいぶん探したのですが」

 

 ソニアはずいぶん意気消沈した様子で力なく首を横に振った。彼女が新人探しにどれほど尽力したのが透けて見える。六体六の小隊戦で人数が足りないなど狂気的なハンデだ。

 

「どうして? 結構有名だから、入りたい人は居るんじゃない?」小声でソニアにだけ聞こえるよう尋ねた。

 

「隊長の意向で、弱い奴はいらない、と」

 

「あー、言いそうね」

 

 頭の中でクナルのイメージを思い浮かべる。三年も同じクラスに属しているが、いまだ理解できない変人だ。

 

「でも皆和気藹々としてるみたいでよかったじゃない。ほら、クナル隊長って結構おっかなそうだし」

 

「そんなことありません」

 

 ソニアは強く否定した。彼女の語るところによると、どうやら外からの見た目に反して、上位下達が徹底されているらしいのだ。

 

 たとえばベップである。ソニアにナンパをしてみたり、アルバに絡んでみたりと騒がしいように当初は思えたのだが、よく観察すると決してそれ以上に広がることはないのである。終始無言のアルバも例外ではなく、決して好いているようには見えないベップにしか話しかけない。次に重要なのは、彼らの主体性のなさだった。何かを申しつけるとき、必ず「参加者は?」と尋ねる。そして、彼ら以外が参加しないと聞けば必ず拒否するらしいのだ。

 

「それは、大変ね」

 

 意外だ。エマは本心からそう思った。

 

 リカルドの知り合いであるアンヘルが参加できたり、どちらかといえばあまり出世に興味がない人物で構成されていると思っていた。一般的にやる気のない班は内情も温いことが多い。

 

 これは大事なことを聞いた。もしかしたらクナル班は小隊演習の台風の目になるかもしれない。

 

 嫌な予感をおぼえたとき、窓の向こうに士官学校の敷地塀を乗り越えようとする人影を見つけた。

 

 ――今日にかぎってっ!

 

「エマ副隊長っ?」

 

「ごめん。あとで懇親会の内容を教えて」

 

 エマは班員の一人に頼み込むとその人影の後を追った。同じように塀を乗り越え、無断で士官学校外へと飛びでる。閑静な郊外の街並みの向こうに、追っている男の人影がちらりと映った。

 

 何事もなかったかのように足を早め、男の後を追ってゆく。角の先を曲がった瞬間全力疾走し、その背中を捉える距離まで詰めた。

 

 男は規則正しい歩行で道の端を歩き、一直線に商業区へと向かっている。すでに陽が落ちかけているいま、このまま往復すれば帰りは深夜になるだろう。

 

 明日も厳しい訓練が控えている候補生がなぜこそこそと街中へ。巷に流れる噂が真実味を帯び始めていることに恐怖していた。

 

(やけにウロウロする、結局どこへ向かうの?)

 

 かなり長い間尾行が続いた。途中で男の着替えを挟んだとはいえ、何度も同じ道をぐるぐると回っているせいか、時が過ぎるのははやい。警戒心はありえないほど強かった。

 

 と、突然男が酔っ払いどもの集団に紛れ込む。あまりの急な出来事にエマはびっくりして走り寄った。

 

「あの、すみません!」

 

「なんだい嬢ちゃん?」

 

 酔っ払いどもを掻き分けた先には、十字路が広がっている。夜の闇に紛れているのか、どの方角に男が向かったのかわからない。

 

 こちらの杜撰な尾行など気づかれていたのだ。

 

 エマは大きく舌打ちをした。酔漢どもの好色な目が、怒りに満ち溢れた音でさっと逸らされる。

 

 今日こそ何かが掴めるかと思ったのに。大きな歯軋りを鳴らしながら帰途へとつこうとすると、背後から物々しい音がした。

 

 得物が鞘から解き放たれる音。誰かが剣を抜いたのだ。

 

 ひやりと流れ落ちた汗。それを感じる前に男の一人が質問した。

 

「憲兵のディアゴだ。こんな夜更けに候補生が何をしている」

 

 なんだ憲兵かと振り返ると、首元に長剣の鋒が突きつけられた。

 

「動くな、外出許可証を見せろ」

 

 うっと喉が詰まった。エマは現在、無断で塀を乗り越えた候補生の尾行をしていた。許可証もなければ、動機も信用されまい。とんでもない事態になった。

 

 眼球だけを左右に動かしてみるが、三人組の憲兵たちが囲んでいる所為で観衆が輪を作っている。皆職人なのか、助けの手を差し伸べてくれそうな人はいない。酔っ払っているせいか暴言が聞こえてくるくらいだ。

 

 紺の制服に身を包んだ男たちが、グッと近寄ってきた。まずいと思って、反射的に身をよじった。

 

「貴様っ、抵抗するなら逮捕する!」

 

 ディアゴの長剣が閃いた。一直線に無防備な喉へ向かって突きが繰り出される。

 

 エマはあまりの恐怖に目を閉じた。

 

 一瞬、死すら覚悟した。

 

 ガキン。鉄の弾ける甲高い音が響いた。

 

「クソ、仲間かっ!」

 

 目を開いた時、こちらの喉を突き破っているはずだった長剣をディアゴは地面に落としていた。近くに転がっているのは一本の矢。誰かがこちらを援護して、刀身を弾いてくれたのだ。

 

 これ幸いとばかりにエマは右側の男に足払いをかけると、転がるのも見届けずに街路を駆けた。

 

 観衆の拍手と憲兵の怒声を耳に全力で走り抜ける。自慢ではないが、エマの走力は弓使いだけあって群を抜いている。所詮憲兵の中年には、一度開いた差が縮まることはなかった。

 

「はぁ、はぁ、さすがに、つかれた」

 

 エマは近くの路地裏で壁に寄りかかりながら、荒い息を吐いていた。

 

 これだけ距離をとれば、さすがの憲兵も追ってこれないだろう。どっどっと早鐘を打っていた心臓が落ち着いてくると、さきほどの援護が気になってきた。

 

(誰が助けてくれたんだろ。知り合い? でも弓使いに知り合いなんて……)

 

「無事だったみたいね」

 

 突然、闇の中から声がした。それは美しい声だった。エマは路地裏の闇の奥に目を据えた。

 

 コツコツと規則的な足音が響いてくる。かすかに月明かりが照らす場所に姿を見せたのは、エマと同じ制服に身を包んだ少女だった。

 

 女は片手を頬に当てながら、慈悲を見せる女神のように微笑んでいる。稲穂のような金色がかった茶髪を後ろに束ね、長いまつ毛を瞬かせている。歳の頃は一つ二つしただろうと思うのだが、やけに艶冶な雰囲気を持つ。

 

 白い指の嫋やかさと細くて折れそうな手足。内からの滲む力の奔流。清流の清らかさと洪水の荒々しさを持つ彼女は、まるで闇から滲み出てきたような神秘性を持ち、はらからの人間であるとは微塵も思えなかった。

 

「誰、あなた」

 

「ふふふ、そういえば名乗っていなかったわね。私はテリュス。一回生の後輩に当たるのかしら?」

 

 闇の中であっても自ら光を放ち、輝いているような少女だ。身動きできないエマの肩をポンと叩き、耳元で囁いた。

 

「感謝はいいのよ。だって、当然の役目ですもの」

 

「……」

 

「感動して声もでない、といったところかしらね」

 

 くすくすと笑いながら、少女は表通りのほうに去ってゆく。

 

 ミステリアスで電波な彼女。そこらの酔っ払いにでも絡まれたような、不可解さだ。

 

 何もないところで出会ったら、間違いなく頭のおかしい人間だと思うだろう。

 

 なのに。言っていることはなにも理解できないのに。エマが感じているのは、間違いなく共感であった。

 

「よかった、あなたがいてくれて。ご主人さまも喜ぶわ」

 

 ――ねえ、そう思うでしょう?

 

 彼女の影には、他よりも明らかに月明かりの降り注ぐ量が多い。エマにはそれが、後光のような荘厳で神聖なものにしか見えなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「へー、昼休みの間に会ったのか?」

 

「だからそうだって言っているでしょ。しつこいわよ」

 

 結局それから半刻ほど。なんだかんだ泥仕合になり、最終的にリカルドが勝利を収めた。

 

 そろそろ遅い時間ということになり、お開きになる。

 

 濃緑色の棚に軍議盤を仕舞い込んだとき、談話室の引き戸が音を立てて開け放たれた。

 

「こんな所でヒソヒソ練習とは、下手の横好きにも困ったものだ」

 

「……ヴァレリオット」

 

 エマたちは声のした方角に振り向いた。忌々し気にリカルドが名を呟く。不快感を押さえつけるよう歯を食いしばっていた。

 

 ぞろぞろと小隊を連れて入ってくる。その先頭ヴァレリオット・アウレリオ・ラブロックは、側面を刈り上げ前髪の長い、端正な顔つきで笑っていた。

 

 下級貴族、それも行政官族と武官族を往復する一族で、どちらかといえば力のある貴族らしいことは風の便りで聞いていた。歴史や伝統を重んじ、決闘の習いである白手袋を常に身につけ、瀟洒な指輪で着飾っている。序列は四位。実践偏重のラファエル班とは違い、正統なリカルド班のライバルといえた。

 

「何の用?」エマは無表情で尋ねた。

 

「いやいや、今度の開幕戦。君たちの様子はどうかと思ってね」

 

「お前たちには関係ないだろ」

 

 リカルドが吐き捨てるようにして、顔を背ける。

 

「行くぞ」

 

「おいおい、つれないな。俺たちは学友だろう。放課後に語り合ってこそだ」

 

「ふざけるな。お前たちの妨害行為を忘れるとでも思ったのか?」

 

 そう言い捨てて、リカルドは彼らの真横をすり抜けてゆく。アンヘルもそれに続こうとする。

 

 が、彼の体がふわりと宙を舞った。

 

 足をかけられ、地面に鼻を打つアンヘル。ぎゃっと間抜けな音が聞こえた。

 

 ――アンヘルくんっ。

 

「貴様、何をやっているっ!」

 

 エマに先んじて怒鳴り声が響いた。予想外の援護にアンヘルが「え、そっち?」と素っ頓狂な声をあげている。

 

 怒鳴ったのはヴァレリオットだった。縮こまる取り巻きを押しのけ、アンヘルを助け起こした。

 

「済まないな。これで鼻血を拭きたまえ」

 

「えっと、ありがとう、ございます?」

 

「礼を言われるようなことはしていない。此方の教育不足だ。少ないがこれを、新品に替えてくれ」

 

 ヴァレリオットは懐から金子を取り出した。

 

「あ、はい、どうも」

 

「本当にすまないな――リカルドくん。今回、私たちの不手際もあるから退くが、次はこうもいかないと思ってくれ」

 

「貴方のやっていることは非道だわ」

 

「勝つための悪虐と言ってほしいな」

 

「――さすが口は回るな」

 

 更なる追加にエマたち、ヴァレリオットたちも振り向いた。そこには引き戸に手を掛けて、気軽そうに笑う男の姿があった。後ろには女性候補生。どちらも見覚えがある。

 

「よう。おもしろそうなことやってるじゃんか。俺たちも参加させてくれよ」

 

 召喚師ラファエル。

 

 ヴィエント家の派閥筆頭株にして、この士官学校における召喚師の一人である。剣に長け、学問はほどほどと奇跡の世代代表の一人といっても過言ではない。背後に序列八位のフェルミンを引き連れた彼は眉上で切りそろえた前髪を触りながら、颯爽と机に腰掛けた。

 

「何の用かな?」ヴァレリオットが静かな声で尋ねた。

 

「別に何もない。ただ気になっただけさ」

 

「ほう、君ほどの実力者が意外と暇なんだね」

 

「それはそっくりそのまま返すぜ」

 

 肩をすくめたラファエルは、異常なほど好戦的な眼をしていた。

 

「しっかし、あのヴァレリオットも打倒リカルドってことか。いやいや、ちょっと寂しいね」

 

「ラファエル、結局お前は何がしたい?」

 

 リカルドも相手の戦意に乗せられて気が昂っていた。

 

 机から飛び降りたラファエルはゆっくりと室内を歩き、ピタッと両派のど真ん中で立ち止まった。

 

「宣戦布告さ」

 

「なに?」

 

 リカルドの声が険しくなる。ヴァレリオットもただならぬ表情を浮かべた。

 

「去年、結局俺は実技ではリカルドに負け、筆記ではヴァレリオットに負けた。しかも総合では四位だ」

 

 言葉とは裏腹にラファエルがにやりと笑う。彼の自信は一切減じていない。そう伺わせる表情だ。

 

「だが、それは今まで規定のルールで戦っていたからさ。小隊戦では召喚術も許可される。今年は俺が一位になる、という宣言に来たのさ」

 

「自信過剰ね」

 

 目に余る態度を見かねて、つい口を挟んでいた。

 

「おいおい、エマちゃん。今は俺たち三人の頂上決戦だぜ。いくら君でも口出ししないでくれよ」

 

「ラファエル隊長、そういう言い方は……」

 

「いてて。ああ、そうだな。すまんすまん」

 

 背後のフェルミンにつねられた彼は片手で謝罪ポーズを作った。けれども、目は一切笑っていない。あくまでも形だけだ。

 

(すごい自信。噂に聞くロヴィニ紛争や小隊親善試合で相当自信を付けたのね)

 

 例年通り、新学期早々三回生上位と五回生上位との間で小隊戦の親善試合が行われた。これは厳しい基礎訓練が待っている新候補生への見せ物でしかなく、大抵の場合五回生が胸を貸してやる程度の催し……のはずなのだが、この男ラファエルは五回生序列二位に圧勝した極め付けの化け物であった。

 

 じわりと冷や汗が流れ落ちる。三方から発される圧力に、エマらは知らず部外者のようになっていた。

 

「君が強いのはよく知っているよ。無論、軽んじたつもりもない。明日には君のところに伺うつもりだったさ」

 

「それが気に入らないんだよ。こっちが一番じゃなきゃな」

 

「お前はそこまで順位を気にするタイプだったか?」リカルドが不思議そうな顔をした。

 

「キャラじゃないんだが、ちょっと上にアピールしときたいんでね」

 

 不甲斐ない自分を自嘲するように首をすくめると、大きく威圧するように目を見開いた。

 

「ロヴィニ紛争もあってよ、あれには本当に苦労させられた……」

 

「隊長っ」

 

 フェルミンが目の色を変えて叱責するが、今度のラファエルは取り合わなかった。

 

「それでよ、一応対策の為に出回っている情報を精査してみたんだよ。経典を読んだり、事件を調べたりな。ああ、五月蝿いのはなしな。危険思想にのめり込んだわけじゃないからさ」

 

 周囲の勘ぐりを鬱陶しそうに手で払った。バアル教団は召喚師崇拝の教理である。外に漏れると異端視されるような行動だ。

 

「教義には興味がないんだが、一個だけおもしろいモンがあってね」

 

「それは何かな?」

 

「召喚師っていうのは、実は見た目ほど強い奴らじゃない。無制限に召喚できるようで、主人の能力によって呼び出せる数、種族や力に限りがある。だから大抵の場合、召喚主のほうが強かったりして眷属は補助にしか使わないこと多いんだよ」

 

「だからなんだ。そんなことは俺でも知ってる」

 

 苛立ったようなリカルドの声。ラファエルは慌てんなとジェスチャーした。

 

「けど、ある時点からそれは転換する。二度の進化を経た眷属、もしくはそれに匹敵する能力を持つ眷属。それと契約できた召喚師を経典では『覚醒者』って言うらしいぜ」

 

 ――覚醒者。二度の進化した眷属を持つものたち。

 

 彼はこの前の親善試合にて、一度進化を果たした龍「ホワイトドランゴン」を従わせていたが、その姿は入学以来長い間変わっていない。

 

 それがもしかしたら、この一ヶ月の間に――

 

 召喚師としての極みに達しつつあるのかもしれない。そんな考えが心の中に湧く。恐れからか、無意識のうちに指先が震えていた。

 

「こんな話を今した理由、是非考えてほしいもんだな。ライバルさんたちよ」

 

 言ったとおり、これは宣戦布告だ。しかも絶対に負けないという自信を持った、相手を動揺させるための前哨戦でもある。去年以上にラファエルは強敵だ。エマは熾烈化する小隊戦を予期した。

 

 じゃあな、と手を振りながら去ってゆく。と思ったのだが、何を思ったのか後ろ歩きで戻ってきて予想外の人物に注目した。

 

「それにしても……」

 

「ラファエル隊長、どうしたんですか?」

 

 フェルミンが不自然な動きをする彼を尋ねる。彼はなんと、胡散臭気にアンヘルを見つめていた。

 

 じっくりと舐めまわすように見つめると、馬鹿げた考えだといわんばかりに頭を振った。

 

「いや、まさかな――悪いね、なんか巻き込んじゃったみたいで」

 

 今度こそヒラヒラと手を振って去ってゆく。詰まっていた空気が解放されたような感覚すらあった。

 

「なかなか油断ならないようだな」

 

 ヴァレリオットも疲れたように肩を落とした。

 

 ――勝つ為ならどんな手も使ってくるヴァレリオット班。

 

 ――召喚師として真の能力を発揮してくるであろうラファエル班。

 

 ――そして、同班に序列一桁の上科を二人揃えたリカルド班。

 

 今年の小隊演習は例年とは別格の騒ぎになる。エマの胸中にそんな予感があった。

 

「そこの君、巻き込んで申し訳なかった。医務室に行くことをオススメする」

 

 気勢がそがれたのだろう。ヴァレリオットたちはアンヘルにもう一度謝罪すると、すぐに去っていった。

 

 急に静かになった部屋で、エマはヘナヘナと椅子に座る。疲れたぁと伸びをした。

 

「はぁ、ラファエルって本当にガキね。フェルミンの苦労が偲ばれるわ」

 

「……」

 

「ねえ、聞いてる? リカルドってば」

 

 エマが振り向いたとき、リカルドは凄絶に笑っていた。歯をむき出しにして、まるで好敵手でも見つけたように。

 

 こいつもガキだったわ。

 

 でも助けるんですよね? フェルミンの声が幻聴になって聞こえてきたような気がした。苦笑いしながら彼の背中を叩く。

 

「リカルド、聞いてんの?」

 

「っああ、どうした?」

 

「どうせあんたのことだから、これから鍛錬するんでしょ。アンヘルくんは私が付き添うから、行っていいわ」

 

 渋るアンヘルを一言で黙らせてさっさと帰り支度をする。

 

「だが……」リカルドはバツの悪そうな顔をした。

 

「長い付き合いだからわかるって。ほら、こっちは任せといて」

 

「あ、ああ、悪いな。アンヘル」

 

 何度も謝りながら去ってゆくリカルド。エマは苦笑いしながらも、いつも自分を引っ張ってゆく彼の力強い背中にぬくもりを感じていた。

 

(それにしても……)

 

 ちらりとアンヘルを見る。彼は興味なさそうに、というよりは医務室に行きたくなさそうな顔をしているだけだった。

 

(あんなことがあって、とぼけたような顔って変な子ね。ニブイってもんじゃないでしょ)

 

 草食動物でももっと敏感だろう。エマは呆れ混じりに医務室へと向かう。結構渋ったアンヘルだったが、最終的には肩を落として向かった。

 

 その後である。問題なしのお墨付きを医師からもらったあと、二人して寮に戻ろうとすると彼が唐突に言ったのだ。

 

 エマさん、僕と付き合ってください、と。

 

 

 

 

 

「じゃあ、明日の昼に」

 

 気づいたときには、すでに遅かった。男は無理やり手を掴んでくると、ぶんぶんと嬉しそうに振る。草食系だと思っていたが、消極的承諾をしてしまえば、流れるようにデートプランを取り付けられてしまった。

 

 これ以上は。エマは早めに相手の手を振りほどき、用事があると端的に告げた。

 

 気遣いや社交辞令に含有させる嘘。

 

 しかし、アンヘルはその言葉を聞いた瞬間、気を抜いていれば分からぬほどの一瞬だけ、喜色に富んでいた目の色を変えた。

 

 ぞっとする輝きだ。鋼の鈍さと泥沼の深淵さがない混ぜとなっているようであった。

 

 それも一瞬のこと。男はさきほどの鋭さがなかったかのように、再び満面の笑みを浮かべてにっこりとした。

 

「用事、頑張ってください」

 

 どこか照れ臭そうに言った。

 

 今度こそ自然な笑みを浮かべる。自分の幼馴染であるリカルドの親友。彼が信頼しただけあって、性根はとても気遣いのできる優しい子である。無論、自分にとっても背景関係なく好ましい人物である。

 

 競争意識が強く、また時勢により思想が加熱する軍においては得難い縁であることは間違いない。

 

 ――それでも付き合うっていうのは想像できないな。

 

 いつか、今日先延ばしにした結末を告げる日がやってくる。その時の彼を想像すると、胸が苦しくなる。でもそれが、思いを告げられた者の責任だと分かっていたから。

 

 女は踵を返して男に背を向ける。ふと彼の言動を思い返す。告白されたときには当惑し、気にしている余裕はなかったが、よく考えれば如何にも意味が通らない。男とはリカルドとの親交から繋がった縁であり出会った当初は会話も交わさなかった。であるのならば、一目惚れなど……

 

 背後から大きな声が響いてきた。

 

 ――明日の昼、大広場の戦女神像で待ってますから。

 

 現実に引き戻された女は、忘れさろうとしていた心の憂鬱を表面に映し出してしまう。振り返らない。この顔を見せて、男を無意味に悲しませる趣味はなかった。

 

 振り返らず、ただ、声だけで応えた。

 

「楽しみにしてる。アンヘルくん」

 

 

 

 

 

 エマが背を向けて去ってゆく。楽しみにしていると言わせてしまった己に嫌悪感を覚えながら、それを消すようにじっと拳を握った。

 

「結局泣き落としですか、先輩」

 

 背後から声がかかる。声変りしていない少年の甲高い響きだ。振り返らずとも、アンヘルにはそれが誰か判っていた。

 

 柱の影から滲み出るようにして現れた男は、ゆっくりと真横に並び冷笑を浮かべた。

 

「結果オーライですが、見てる方が恥ずかしくなりますよ」

 

「ガイルス、君は僕の補佐だ。口出しはやめてくれ」

 

 アンヘルの声は先刻よりもずっと冷えていた。

 

 並んだ男は童顔かつ彫りの深い顔立ち。生白い肌に赤みがかった茶髪を片目だけ隠すようにした髪型、すらりとした体型。士官には見えないが、意思の強い瞳が彼の学者的印象をガラリと変えた。

 

 ガイルス・グリックス。

 

 一級下にして機構では同僚にあたる彼は、ポケットに両手を突っ込みながら口の端を歪めていた。

 

「まあ、そう興奮なさらず。先輩思いの後輩、その献身だと思ってくださいよ」

 

「僕達は遊んでいるわけじゃない」

 

 ガイルスは猫のようにしなやかな身体をすくめてみせて、ニタニタ笑う。アンヘルはその態度に歯軋りをした。

 

「聞いていたかもしれないけど、報告だ。明日の正午、彼女と共に街を見てまわる。身辺調査準備は?」

 

「これですよ」

 

 待っていました、と言わんばかりにガイルスが書類を渡してくる。

 

 受け取って文字列に視線を走らせる。書類には士官候補生エマの詳細な経歴が書かれていた。

 

 好み、交友関係、親族。思想や宗教観、能力や成績に社交性。すべてが見えるわけではないが、ある程度は把握できる内容。

 

 そして、空白になっているところ。平民派過激思想「救国主義」との関わり、そして『サイレール密売』関与の証明。それこそ、アンヘルが行なっている任務の目的であった。

 

「明日の内偵、汚名返上できるよう祈ってますよ」

 

 ガイルスはそう言い捨てると、踵を返し去っていった。

 

 ――秘密警察機構の実地研修。特務随行員アンヘルの任務は、サイレール密売の容疑が掛かるエマを調査することである。

 

 それはつまり、倫理を無視したスパイ活動であった。

 

 

 



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PHASE1-2:ボーン・サモナー

 どうしてアンヘルが秘密警察に属することになったのか、その説明をしなければならない。そもそもの始まりは告白の二か月前に遡る。

 

「久しぶりのオスゼリアスですが、年々ここは物騒になりますね。アンヘルさまも後期試験は御壮健でありましたか?」

 

 帝国内で領地保有が認められた五大貴族家の一門ヴィエント家の次期当主、ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエントは頬杖をつきながら、ケーキを口に運んだ。

 

「いえ」

 

 アンヘルは出入り口から飛んでくるハーヴィーの視線に慄きながら、小さく否定を口にした。

 

 第二回生後期試験が終わった翌日。

 

 士官学校は試験が終わっても訓練が継続される。例年は休暇申請して遠方の実家に帰る候補生も、今年ばかりは小隊編成のため学内に残っていた。

 

 そんな雪解けも始まっている季節、アンヘルは士官学校内の物々しい雰囲気には似つかわしくない応接棟、通称貴族館のテラスに招かれていた。

 

「ルトったら全然居なかったからね。ボクちょっと寂しかったよ」

 

 丸テーブルの一角、中性的な声でクロエ・シルウィア・エル・オスキュリアが頬を膨らませる。三白眼が猫のように動き、ラドック人特有の砂塵色の指がルトリシアの脇腹を突いた。

 

「ちょっと、クロエさん」

 

「にひひひ。こういうのも久しぶりだねぇ」

 

 ちょっと艶かしい声がルトリシアから漏れる。アンヘルは横目でそれを見て、クロエの揶揄い混じりの瞳に咎められるという行為を繰り返した。

 

 ロヴィニ村の一件は、政治的には兎も角、士官学校内ではある程度の収束を見せていた。

 

 帰還当初の反響は大きかった。バアル教団の本格的侵攻の気配や五大貴族家の子息たちを狙った犯行、それに合わせた平民派オウルの反逆など、遠征演習から帰還した第一中隊の面々はてんやわんやの事態となった。ルトリシアら貴族は勿論のこと、アンヘルたち士官学校側も三十人近い死者と罪人を出したということで、聞き込みや調査で帰還後一ヶ月ぐらいは気の休まる日はなかった。

 

 不憫だと思ったのは、騎士ハーヴィーの扱いである。彼はルトリシアをオスゼリアスまで送り届けると、サイレール製造や邪竜討伐の件で再び蜻蛉返りし、もう一度帰ってくると今度は勲章を授与されていた。休む暇なく飛び回り痩せ細る彼を見ていると、英雄の早死にを想像して心底同情したのだった。

 

 ちなみにそれを揶揄ってやると、夜中に閃光弾をぶち込まれるという暴挙に及ばれたので、二度と茶化すのはやめようと思っていたりする。

 

 そんなアンヘル側の心情は兎も角、ようやく事態は収拾の兆しをみせ、ルトリシアも領地から帰還したところでお茶会がなったということだった。

 

「それにしてもねぇ――」

 

 クロエの猫っぽい悪戯好きの瞳がこちらを捉える。ダラーンと軟体生物のような柔軟さで机に倒れ込むと、腕を立てて半目になった。

 

「な、なんでしょうか?」

 

 アンヘルは若干狼狽しながら、半笑いをつくった。

 

「べつに、ルトがボクとのお茶会に誰かを呼ぶなんて珍しいと思っただけー」

 

「そうでしょうか? たとえそうだとしても、人は斑気なものですから。偶々ですよ」

 

「ふーん。ま、いいけどね」

 

 という割に、口元のにやにや笑いが消える気配はなかった。

 

「それよりルト。これからはずっと居られるの?」

 

「ええ、そうなりますね。もう少しすれば元老院主催の全州議会の時期ですから。それまでは此方に腰を落ち着けないといけないでしょう」

 

 彼女はすでに貴族としての役割を継いでいるため、時折領地に帰ることもあるほど多忙だ。ただ、今年はバアル教団の対策を練るための全州会議がオスゼリアスで開催されるので、少しの間釘付けになるらしい。

 

「ふーん。忙しいんだねぇ」

 

「クロエさんこそ、お仕事をなさっては?」

 

 優雅に脚を組みながら淑女らしく膝の上で手を揃え、美しい笑顔を浮かべた。でも、ちょっと笑顔が黒い。それを受けて、引き攣った顔のクロエがそっぽを向く。

 

「ボク、そういうの得意じゃないし」

 

 長い間疑いの眼差しで見たルトリシアは、最終的に大きなため息をついた。

 

 アンヘルはこっそり闘茶の残りを飲み干す。今回は事前調査が使えずかなり難問だったが、たまたまアリベールに貰った茶葉と同じだったのが功を奏した形であった。

 

「こんなダメダメさんは置いておいて、アンヘルさま。最近の爆破事件について何かご存知ですか?」

 

「えぇー、ルト。そんなつまんない話はやめようよぉ」

 

「ですからね、クロエさん。私はこれから全州会議に挑まなくてはならないのですよ。危険を排除しておくのはもはや義務なのですから」

 

 呆れたようなため息を吐きながら、ルトリシアはかぶりを振ってみせた。

 

「私たちが狙われる可能性もありますから、情報収拾には気を使って――」

 

「ボクには関係ないよ」

 

 今までのどこか腑抜けた雰囲気ではなかった。帽子の庇の下で、クロエは三日月のような笑みを浮かべる。

 

「君もそうなんでしょ。たしか、アンヘルくんだっけ?」

 

「……どういう意味でしょうか?」

 

「あはは、隠してもわかるって。ルトが気に入る理由もね」

 

 貴族子女にはあまり相応しくない動きでバシバシと背中を叩いてくる。オスキュリア家の護衛が苦い顔をしていた。

 

 さて、とクロエは立ち上がった。

 

「じゃあボクはいかないと」

 

「公用ですか?」

 

 ルトリシアが意外そうに尋ねた。

 

「ううん。家のことだから。ほら、ボクってラドック人だからさ、色々あって」

 

 ラドック人の故郷は、現在民族紛争で大忙しだ。クロエの特異な出自もあって難しい問題なのだろう。

 

 バイバーイと手を振りながら、気楽な雰囲気で去っていった。

 

 それからアンヘルは、ルトリシアと取り止めもない話をした。

 

 平民派と思われる爆破事件のこと。

 

 学内の問題。

 

 それから個人的な成績について、など。

 

 お茶の時間にしてはかなり長い時間を過ごした。そろそろ去るべき時間だろう。アンヘルは一言添えてから立ち上がったとき、ルトリシアがふと思い出したように言った。

 

「そうそう、忘れるところでした。ハーヴィー」

 

 ルトリシアが顔を上げて呼びつける。騎士は苛立ちを前面に立たせながらも言った。

 

「貴様の担当教官殿が用事だそうだ。リースフォール公園で待っているらしい」

 

「公園です、か?」

 

「私に聞かれても困る。雑事係に伝言を頼まれただけだからな」

 

 なぜに公園だ。用があるなら学内で済ませればいい筈なのに。アンヘルは釈然としないながらも、伝言に沿った。

 

 

 

 

 

 

 そのままの足で外出許可を取ったアンヘルは、ジブリーン橋を渡って士官学校からほど近い公園に赴いていた。

 

 後任教官ベルモンドは黒髪の若い男で、北方戦線で任に就いた後、教官として赴任したらしい。あまり面識がなく、細々とした噂話を聞いたばかりであった。

 

 公園には疎らに子供とその母親らしき人物がいるのみであり、職業軍人らしい地肌が見えるほど刈り込んだ若い男の姿はまるで見つからない。

 

 時間指定されていないので、恐らく早く着き過ぎたのだろう。アンヘルのような軍服姿では目立って仕方がない。何気ない仕草であたりを見回す。散歩途中なのか、一人の老人らしき人物がベンチで休んでいた。

 

 ちょうどいい。貴族との会話で疲れていたとろこだった。老人に一言告げると反対側、ベンチの端に腰を下ろす。

 

 伸びをしながら、そっと公園を流れる川に視線を流した。子供たちが水を掛け合って遊んでいる。微笑ましい光景に頬が緩む。

 

 和やかな時間が流れていたとき、真横から、碩学らしい茫洋とした声が響いた。

 

 ――この前は助かったよ。アンヘルくん。

 

 隣に座っていた老人から発された、その強烈に覚えのある声に立ち上がっていた。

 

 全身を貫く恐怖と戦慄が脳髄を凍結させ、かわりに生理的反射として震えという現象を齎す。今見ても唯の老人であることは間違いないが、声はそれを否定してくる。

 

 ――あなたはっ。

 

 ドミティオス・ガウス・マリアウス

 

 震える唇が、彼の名前をつぶやいた。

 

 老人は深い帽子で表情が伺えないものの、口元だけ淡い微笑をつくる。

 

「座りたまえ。せっかく変装しているのにこれでは目立ってしょうがない」

 

 突然立ち上がったことで周囲の子供達が奇異の目を向けている。親たちも、青年と老人の間の剣呑な雰囲気に気付き始めた。

 

 さああ、と風に乗って落ち葉が舞い上がる。ぎりぎりと知らぬ間に奥歯を噛み締めていた。

 

 この男に逆らうのは得策ではない。アリベールという弱みを握られているうえ絶大な権力を持つ。アンヘルは不愉快さを押し殺し、ベンチに座り直した。

 

「……猊下は西部紛争に集中しなければならないのでは?」

 

「此方にも事情があるのさ」

 

 ドミティオスが帽子のツバを右手で上げて見せる。チラリと見覚えある素顔が覗いた。

 

「ここから見える景色は平和そのものだね。私が何のために来ているのか忘れそうになるよ」

 

 この男に倣って正面を向いたまま動かなかった。ドミティオスは周囲を欺くための演技だろうが、アンヘルはただ単に顔を見たくなかったからだった。

 

「けれど、この平和もたった一人の死によって壊れてしまうかもしれないと君は知っているかな?」

 

「……第一次カルサゴ戦争のことですか?」

 

「さすが候補生だ。勤勉といって差し違えない。帝国……といいながら、その時代はまだ共和国か。トレラベーガ共和国とカルサゴ教国との周囲属国を巻き込んだ大決戦が、まさか名もない零細貴族の無礼打ちから始まっているとは古代人も想像だにしなかっただろうね」

 

 第一次世界大戦がセルビア少年兵のたった一発の銃弾ではじまったことは、現代人なら多くが知っていることだ。薄氷の上の平和など、ほんの小さな火薬で吹き飛んでしまうのは歴史が証明している。

 

「何が仰りたいので?」

 

「君はせっかちだな。いきなり本題に入るのは子供ぐらいだよ?」

 

「ならば子供で構いません」

 

「勝手に子供の定義を変えないで欲しいな。帝国では成人を十五と定めているだろう?」

 

 アンヘルは血走った目で睨め付ける。ジリジリと照らす太陽が、頭に巡った血を加熱させた。

 

 しょうがないな。ドミティオスは薄笑いを浮かべながら、小さく嘆息した。

 

「君は最近の事件について知っているかな?」

 

「テロ活動のことでしょうか?」

 

「それもあるんだが、もっと大きなことについてだ。そもそもロヴィニ紛争のことをどの程度把握しているのかな?」

 

 問われた内容が不明瞭であったので、アンヘルは無言で応えた。苦笑いをしたドミティオスは代わりに話を続ける。

 

「ロヴィニ村で発見された――」

 

 彼が語ったのはアンヘルも知っている事件の全体像であった。

 

 バアル教団のカオスと呼ばれた邪竜が部下の魔軍を使ってヴィエント・リエガーという帝国の五大貴族殺害を企み、それを阻止するため決死の大将特攻を試みたのは記憶にも新しい。が、実際ところ其れ程単純な事件ではないのである。

 

 ロヴィニ村では高品質ドラッグ『サイレール』が製造されており、その撤退跡からあそこは教団の資金源であったと判明している。また、邪竜カオスには眷属特有の召喚紋が刻まれており、教団の遠大な計画の一部が露呈したに過ぎないことがより鮮明になったのだ。

 

 ドミティオスはそのことについて一度整理してみせたあと、本題を述べた。

 

「君は軍人だから、単純化するダブロイド思考はお手の物だろうが、世界をそう皮相的に考えてはいけない。複雑なことを複雑なものとして捉えることこそ、事態の認知閾を上昇させる」

 

「意味がわかりません」

 

「君はあのロヴィニ村にしか『サイレール』製造工場が存在しないとでも本当に思うのかい? いや、そもそもあの村だけで年間十数トンという量を誰が消費していると思うのだね」

 

 そう問われて、もう一度事件を整理してみた。

 

 サイレールはかなり純度の高いドラッグで、末端価格はかなり高額になる。ロヴィニ村の衛星都市セグーラの街ごとき資産では到底消費し切れない量だ。

 

 となれば、どこか大都市に供給されていると見るべきである。帝都や西方の五大貴族領は南部から距離がありすぎる。しかも大抵は治安が安定していたり、市民の資産が十分でない可能性もある。となれば、唯一条件が合致するのは――

 

「まさかオスゼリアスに供給されていると? しかし、そこまで流行の兆しは……」

 

 エセキエルが時折漏らしていた雑談を思い出す。あくまで、末端の売人が摘発される程度のシロモノであり、そのような国家規模の問題であるとは微塵も考えられなかった。

 

「ないね、今のところは。一見そう見える」

 

 チラリと横目で見ると、ドミティオスは口を結び、警戒感を露わにしていた。

 

「先週のことだが、オスゼリアスで大量のサイレールが発見された。それも数トン規模になる。

 流通側が注力するのは流通ルートの確保だ。違法ドラッグを安全に用意するため君ならどうする?」

 

 海路(正確には湖路)、陸路。どれも警戒が厳になればそう簡単な話ではない。極少数なら兎も角、大量に運び込むのは困難を極める。

 

 輸送は現実的に不可能だ。そう考えたとき、脳裏に閃きが走った。

 

「まさか」

 

「その通り、前もって大量に仕込んでおく以外に方法はない。これが密売の常套手段だ。警戒前なら検問を抜けるのは簡単だし、一度中に入れれば探すのはほぼ不可能だ。オスゼリアスの内情は複雑で、平民派の活動もあれば商人の利権もある。元締めの元老院すら一枚岩ではないしね」

 

 帝都などはある程度強権を振るってもいいが、オスゼリアスは今や帝国の火薬庫と化している。流通の中心でもあるのだから、狙い目としては十分に考えられた。

 

「そのためにここへ?」

 

「私はお礼をしに来たんだよ。これは雑談さ」

 

「多忙な貴方が、まさかそれだけのために?」

 

 ドミティオスが立ち上がる。アンヘルは座ったまま男の背中を睨みつけた。

 

「だといったら、どうする?」

 

「巫山戯ないでください」

 

 一瞬、風が下から吹き上げ、アンヘルの髪を煽り立てた。立木の葉が擦り合わされゆらりとゆれる。

 

「言っただろう。お礼だ、とね」

 

「必要ありません」

 

「いや、君は受け取っておくべきだ」

 

 ドミティオスは懐から鞘入りの短剣を取り出して、放り投げる。アンヘルは右手で鞘を掴み取った。

 

「君は見たはずだ、あの『バアル教団』の悪辣さを。彼らは本当に手段を選ばない。この帝国を滅ぼすためならなんでもする」

 

 ドミティオスは一転して熱の籠った目を向けた。

 

「『バアル教団』の策略をなんとしても阻止しなければならない。サイレールが無秩序に流れ、教団の資金となれば……いや、彼らが流通させている理由を突き止めなければロヴィニ村の再来がここで起きるだろうね」

 

「それは……想像にすぎません」

 

「やめてくれたまえ、君も本当はわかっているんだろう? もしもこのまま手をこまねいていれば、君が士官学校に入った理由を諸々踏み潰してゆくだろう。守りを抜かれた市街地での虐殺は、この世の地獄といっても過言ではないよ?」

 

 ロゴス村の光景がフラッシュバックした。迷宮から溢れ出た地獄の軍団の濫觴が、このオスゼリアスで現実のものとなる。ブルリと身体が震えた。

 

「その短剣は君に権力を与える。君はその権力で大事なものを守る。悪くない取引だと思うがね?」

 

「……」

 

 そこだけ街から切り取られたように静寂を保つ。小さく鳥の鳴く音が虚しく響いた。

 

「細事に拘泥できないことは、君がよくわかっているはずだ」

 

 反抗心からの反論を、ドミティオスの目が見透かしてくる。

 

「我々は北方、西方と戦線を二つも抱えている。このオスゼリアスに向ける戦力など存在しない。だというのに、まさか君は座して待つのかね?」

 

 アンヘルは震える手に収まる短剣を見た。

 

 黄金に輝き、七つの剣が円環となっている。意匠は凝っており、嫌でも権威や歴史を感じさせた。

 

 ドミティオスはうっすらと笑みを浮かべる。

 

「軍内に秘密警察が組織される。主に政治犯を捉えるためだが、一部は今回の事件に回す予定なんだ。特務随行員という立場を君に用意した。示された場所へ行けば、君は諜報員としての立場を得るだろう」

 

 小さなメモを投げ渡される。二日後、街中の一角を示す地図が描かれていた。

 

「君がどう使うかは自由だ」

 

 もう一度、メモを見た。

 

 目を通している間に、ドミティオスはすでに眼前から消え、舗道の向こうへと歩み去っていた。

 

 ――頼んだよ。

 

 そう、小さく聞こえた気がした。

 

 

 

 §

 

 

 

 ドミティオスに指定されたのは、周囲と何一つ変わらない建物だった。赤塗りの煉瓦と黒屋根の三階建て、周囲はこぢんまりとした商会に挟まれているから、注意深く観察したところで違和感など微塵もない。

 

 扉を叩いて中に通され、受付らしき中年と会話しても何一つ其れらしさは感じなかった。物語の中で想像していた薄暗さや冷たさは一切なく、むしろ日差しを良く取り込んだ廊下である。

 

 中年に案内された部屋で、その男に会うまでは。

 

「貴様、馬鹿か」

 

 壮年の男が開口一番そう言った。伸ばした髪を後ろに撫でつけ、所々白髪が入っている。上背こそそれ程ではないが、肩幅が特別広く大きい。頬には薄い傷があり、地味目な背広を着用している。

 

 大きな黒檀の机を挟んだ向こうで、その男が教官のような厳しい声を上げた。

 

 条件反射のように敬礼するアンヘル。それを見て、壮年の男はより顔を歪めた。

 

「まさか軍服で来て、そのうえ敬礼までする阿呆とはな。猊下も何を考えているのやら」

 

 アンヘルはその意味に気づいて、すぐ格好を崩した。

 

 低い声で恫喝するように呟く。何一つ変哲のない場所で佇むその男は、まるで生まれた場所を間違えたような違和感がある。

 

 それを肯定するかのように男の右腕側の背広はごっそりと抜け落ちている。アンヘルは男の雰囲気に呑まれていた。

 

「まあ、猊下の考えを覗いてみるのも一興、か」

 

 独り言のように呟いた男は、アンヘルに紙束を投げつけると、ゆっくりと両手を机について立ち上がった。

 

「明日から選定を行う。貴様にも参加してもらうぞ」

 

 隻腕の騎士ユーシンとの出会いと秘密警察機構への入隊。養成校に入ったのは、ちょうど告白の二月前のことだった。

 

 

 



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PHASE1-3:ジェームズ・ボンドに憧れて

 第一期諜報員選抜試験。

 

 即ち、素養の感じられる人物の選定から立ち会っていたことになる。

 

 言葉を飾らなければ、誠に奇妙極まりない試験内容であったといえよう。アンヘルには次の内容が課された。

 

 ――出入り口から試験会場である借用した建物の部屋までの段差の数。

 

 ――誰でも解ける筆記試験の後、その中に書かれていた特定の文字の数。

 

 ――到底不可能な桁数の暗算など。

 

 明らかに無理難題である。

 

 いずれも受験者第一号であるアンヘルには解けなかった。いや、大凡「馬鹿にされている」としか思えない内容ばかりである。結局、問題は適当に流しながら、胡乱な視線を教官に送るしかなかった。

 

 それから随行員として試験官側に参加したアンヘルは――大神祇官に推薦されたため、彼の合格は既定路線である――覆面を被りながら、不可解な試験内容に半ばあんぐりとした選抜者がお祈りメールを受け取る光景を眺めていた。

 

 選抜者はほとんどが候補生であり、一部兵卒の連中が混じっているくらいであった。見知った顔の同期も無惨に散ってゆく。

 

 約三十人。一日掛かって進捗のない試験を見届けるも、誰一人合格に値する人間は居なかった。時間の浪費だと思った翌日、異常事態が発生した。

 

 二日目の五人目である。平凡極まりない相貌の男だったが、驚いたことにこの途方もない質問――不可能極まりないもの――に平然と回答した。

 

 いや、それどころかそれ以上の能力を示して見せたのだ。

 

 建物の段数を聞かれたにもかかわらず、それ以外の壁のひび割れ、歩数、小物について指摘しはじめる。

 

 筆記試験の中の文字数を尋ねられたが、一千にも及ぶ文字列をそらで暗唱してみせた。

 

 暗算については簡単すぎると吹いた。

 

 多種多様な試験内容にもかかわらず、彼はいとも容易く踏破した。しかも信じられぬことに、このような人物がちらほらと現れたのだ。

 

 アンヘル側の認識は兎も角、世間一般において軍国主義国の候補生とは、日本における名門大学に入学した、いわば選良民のような存在である。

 

 一角の剣客として多少の選民意識を持つアンヘルから見ても、この試験を悠々と突破した彼らの能力は一般という尺度から大きく逸脱していた。

 

 こんな奴らがいるなんて。一体、どこに。

 

 正体に検討がつかなかった。士官候補生には見えず、年若い連中ばかりである。急遽の招集に応じられるのだからオスゼリアス在住であろうと判断できたが、それ以外の一切が不明。後になって、彼らは士官学校でも、魔導院でもなく、学術院や私塾に通う者たちで占められていることを風の便りで聞いた。

 

 その中でも、とくに強烈な印象を齎した人物が居る。あの隻腕の騎士ユーシンも多少の驚愕をみせた。

 

「たしか新三回生の伍科アンヘル候補生でしょう。あなたが試験官とは驚きですね」

 

 試験中、ガイルス・グリックスは退屈そうに言った。

 

 士官学校二回生上科の序列一位であり、グリックス商会の次男。あの天才グリックス兄弟の片割れだ。

 

 魔道具研究者の卵――シルバーなんちゃらシリーズのフリークである――エルサに天才と言わしめた彼は、こちらが覆面をしているのにもかかわらず正体を見破ってみせた。曰く、一度見たものは忘れないらしいが、化け物としか形容し難い能力を持っていることは事実だった。

 

 厳しい選抜の末、ユーシンはさらに三日かけて七人選び出した。

 

 選ばれた者たちは、当初指定された何一つ変哲のない建物で訓練を受けることになった。

 

 そこで、アンヘルは化け物たちの真価を見ることになる。

 

 

 

 

「見つかるな、戦うな、もしものときは逃げろ」

 

 歴戦古兵の鏡のようなユーシンが言ったのは、想像上の諜報員とはかけ離れた内容であった。

 

「世には届かぬ領域があり、必要のない領域がある。我らの任務とは情報を得ることであり、戦うことではない」

 

 一月に及ばないほど短い時間。アンヘルは彼らの訓練に随行員として参加しながら、現実の諜報員がどういうものか見てきた。

 

 訓練内容は多岐にわたる。

 

 数カ国におよぶ外国語、その文化や宗教について。それに付随する医学、心理、哲学などが講義された。士官学校の内容も同じで、基礎戦術などはたった一週間で一、二年の間に習った内容を追い越してしまった。

 

 それと並行して、鍵破り、変装、変わったところでは色事に密事など多忙極まりない訓練が行われた。

 

 まったく付いて行けない。そのうち、アンヘルは聞いているだけになっていた。

 

 彼らの唯一人間らしい所と言えば戦闘能力ぐらいで、そこぐらいしか学術院育ちの人間らしさを認められなかった。

 

 朝から体力訓練に励み、昼からはさまざまな知識を学び、夜には暗号や実演を兼ねた特訓が施されたのである。

 

 生物の限界の一歩先。そんな訓練が行われていたが、彼らは悠々と踏破するどころか、夜になると繁華街へ繰り出した。

 

 起床時間に酒と女に溺れて帰ってくる彼らは、寝ぼけ眼のまま暗号を読み解き、命令書を速読暗記する術を身につけ、夕方には小難しい戦術論を語って見せながら、再び夜の街に繰り出す。こんな日々が繰り返された。

 

 実施される訓練に疲労困憊となりながら、彼らを畏怖の目で見送る毎日。そんな中、なぜかある男と組まされる機会に恵まれた。

 

「先輩、早くしてくださいよ。そんなんじゃ日が暮れますって」

 

 冷笑を浮かべたガイルス――養成校ではガイという偽名を名乗っている――は体内連結式爆破魔道具の模擬装置解除に手こずるアンヘルを押しのけた。

 

 四半刻近く手こずっていた雑魚とは違い、数分で木造人形の胴体に巻きつけられた装置を解体する。工具を適当に放り捨てたあと、彼は組み合わせを決定する教官を睨んだ。

 

「いつもいつも、どうしてアルス(アンヘルの偽名)さんと組ませるんですか?」

 

「貴様はいちいち上官の命令を疑うのか?」

 

「いえいえ、単純な好奇心ですよ。単純な、ね」

 

 飄々としているが、ガイルスの目は笑っていなかった。

 

「必要なことだ」

 

「意味がわかりませんね」

 

「貴様に教える必要を見出せない」

 

「ハア、わかりましたよ。上官どの」

 

 青白い顔を歪めたガイルスは、そのまま背を向けて去っていった。

 

「貴様も質問か?」

 

 ユーシンは居残り組の胡乱気な目を見咎めた。

 

「い、いえ。ですがその。どうして彼とばかり組ませるのですか? 効率を考えても、私はあまりその訓練に――」

 

「ついて行けてない、か?」

 

「は、はい。その通りであります」

 

 当然だという表情で首肯するユーシンに、当初から抱いていた思いをぶつけた。

 

「その、私の能力不足であることは分かっていますが、できれば進度を落としていただかなければ。それか、私だけ別のカリキュラムで」

 

「許可しない」

 

 その疑念を把握していたのか、ユーシンはあっさりと否定した。

 

「貴様に課せられた任務は訓練を受けることではない。ゆえに、貴様への優遇処置など必要ない」

 

「ですが、それでは諜報員として――」

 

「勘違いしているようだな」

 

 ユーシンはぎこちない動きで椅子に座ると、顎をしゃくって見せた。

 

「貴様は選抜試験で明らかに落第だ。そんな貴様が追随できるはずもない。推薦した猊下もそんなことに期待していないだろう」

 

「なら、私はどうして此処に……」

 

「私は猊下に恩義がある。よって猊下に指示されれば従うが、それ以外はその範疇にないのだ。当然、貴様の処遇など考慮に値しない。私はただ有用だと思える方向に使うだけだ」

 

 愕然とするアンヘル。ユーシンは意外にも厳しい顔つきを少しだけ緩め、助言してきた。

 

「貴様の目的はなんだ? まさか言えないのか? ――三流とは、言われたことしか出来ない人間。二流とは言われたことを上手くできる人間。ならば一流とは、言われなくともできる人間を指す。貴様は猊下に目を掛けていただきながら、いつまで三流のつもりだ?」

 

「……それは」

 

「はあ、一つ例を出してやる。貴様らはなぜ士官学校で魔法の概要を学ぶ。大半の候補生は魔法を使えないのだぞ。何の意味がある?」

 

 問われたアンヘルは唸るしかなかった。

 

 多くの候補生にとって、学ぶ魔法概論、魔法戦術論、魔道具工学論などは基本的に意味がない事柄だと思っていた。強いていうならば平均点と科目数を増やす悪魔だと思っているぐらいであり、ただ暗記を繰り返すだけである。

 

 ――いつか使うかも知れないから?

 

 ふと湧いたそんな予測は、直ぐに否定される。魔道具は兎も角、魔法について学ぶ意味はない。後天的に素質が生まれる可能性は研究で否定されていた。

 

「相手が使ってくる可能性があるからだ。士官学校で敵対勢力が使ってくる戦術、戦法、道具は網羅する。軍の基本だ」

 

 ユーシンは健在の左腕の指を一つ立てた。

 

「”カウンターマジック“。元は反魔法の総称だが、現在はあらゆる対処動作を指す。貴様には諜報に対するカウンターマジック要員として研修させられていると思えばいい。それで気が楽になるのならな」

 

 猊下の考えていることなど何もわからぬ。ユーシンはそう最後に言い捨てて、部屋を去っていった。

 

 どこか釈然としない所はあれど、自身に納得をつけるしかなかった。

 

 

 

 

 ある時、こんな事件が起きた。訓練が開始されて二週間ほど経った時である。

 

 その日は偶々、教官の都合で訓練が休みになった。まだ昼間であり、遊びに行く許可も降りておらず、かといって何もすることのない訓練生、出された課題をさっさと終了させるとゲームに興じていた。

 

「Eの六、竜」

 

 ガイルスという男の能力はずば抜けていた。唯一の士官候補生であり、体力、戦闘力でも群を抜いていたが、頭脳においても明らかに抜きん出た存在だ。

 

 彼は目を瞑ったまま声だけで指示する。ナキアという男(これも偽名)が駒を動かす。これが繰り返され、ガイルスが勝利した。

 

 ――軍議盤に存在しうる盤面総数は大体十の百二十乗ですが、ある程度の実力者が作る盤面はもっと少ない。定番の定石、詰めの盤面、これらを暗記し、終局図まで補完する思考瞬発力が問われる。これが軍議盤の本質ですよ。

 

 退屈そうな彼に対し、軍戯盤で挑むのは愚か極まりないことなのだろう。結局、訓練生はカードで遊ぶことにしたようだった。

 

 その頃漸く課題を終えたアンヘルは、カード勝負に参加させられた。

 

 実はアンヘル。軍議盤と違ってカードには結構自信があった。あまり楽しいとは思わないが、負けたことはほとんどない。

 

 敗色の濃いとき、なんとなく勘が囁くのである。絶対の勝利こそ望めないが、大きく負けたことはなかった。

 

 そうやって意気揚々と遊戯に参加するも、最初こそいい勝負ができただけで、後は驚くほど大負けした。

 

 レギュレーションは一般的なものだ。参加者は手元二枚のホールカードとディーラーの五枚のコミュニティカードで役を作って勝負する。一般的なポーカー勝負だった。

 

 手は悪くなかった。一度は<ストレート>も出た。

 

 けれど、驚くほど大負けした。

 

 良い手が来たときは絶対に降りられ、悪い手の時は決まって高い金額で勝負させられた。勘は激しく働いた。しかし、負ける時はわかっても勝てる勝負が見つからなかった。

 

 ディーラーが代わり、プレイヤーが代わっても、ほとんど勝負にならなかった。

 

 貧すれば鈍すると言うやつで、博打というモノは負けが込むほど泥沼に嵌ってゆく。アンヘルが有り金をすべて吐き出した時点で本日の不運を呪った。

 

 ――こんな日もあるか。結局、博打だし。

 

「運が悪い、そう思ってませんか。先輩?」

 

 にやにやと笑っているガイルスは負け続けたタネを明かした。

 

「どういう意味?」

 

「まだわかりませんか?」

 

 ガイルスは先ほどまで軍議盤でやり込めたナキアと頷き合う。片手の指を変えたり、手首を返したりすることで何かしらの信号を送っていたことを示した。

 

 ――イカサマだ。

 

 アンヘルはあまりのことに一瞬、卑怯とすら思わなかった。

 

「嵌めたの?」

 

「ギャンブルの必勝法は誰を下げるか、ですよ。手や確率で勝負するわけじゃありません」

 

 冷笑する相手にアンヘルは低く唸った。周囲の学生の目はひどく冷ややかだった。

 

 一発ぶん殴ってやろうか。そう何度も思いながらも、なんとか堪えた。

 

 翌日である。一晩寝て冷静になると所々に違和感を覚えたアンヘルは、ナキアに事情を尋ねた。

 

「昨日の話を聞かせてほしいんですか?」

 

 彼らが不正をしていたのならば、アンヘルの勝ち目はない。しかし、実際には所々で勝利を重ねていた。その点がどうも奇妙だったのである。

 

「軍議盤でガイ(ガイルス)に負けたとき、手紙を渡されましてね」

 

「どんな内容?」

 

「先輩をハコにしたらちょっと話を合わせてくれって内容ですよ。今更ですか? あれは先輩を揶揄っただけですよ。正真正銘、僕たちは本気で勝負してましたから」

 

 そこでようやく、周囲が顔を見合わせて冷笑した理由がわかった。アンヘルは昨日完全に実力で敗北したにもかかわらず、相手が適当に作った出鱈目に騙され、勝手に憤慨していたのだ。さぞ間抜けに見えたことだろう。

 

「ま、先輩も年長者なのはわかりますがね。世の中は実力主義なんですから、あんまりイキがらないでください。正直、見てて情けないですよ」

 

 それ以来、アンヘルは彼らが何かをしていても決して近寄らなかった。

 

 彼らと自分とでは、生きている場所が違う。

 

 国の為の軍人でもなければ、金のために命を賭ける探索者でもない。真理を追い求める科学者でもなければ、利益を追求する経営者でもない。

 

 類稀なる頭脳を持つ自分だけを信じた虚無主義者。

 

 あのドミティオスに通づるところがある化け物たち。

 

 得体の知れぬ不気味な連中に、アンヘルは一人恐怖していた。

 

 

 

 

 

 

「私が、ですか?」

 

 アンヘルは呆然と聞き返していた。

 

 訓練が始まってから三週間ほど。ユーシンが告げた言葉には、訓練生全員に大きな驚愕を齎した。

 

「何か問題が?」

 

「そういうわけでは、ありませんが」

 

「ならば任務に取り掛かれ」

 

 士官学校に蔓延る救国主義者、倒院論者たちの密売ルートを探れ。アンヘルに下された任務は、実地訓練という名の繰り上がりであった。

 

 秘密警察の任務には、多種多様な内偵能力が必要とされる。政治結社や思想団体に潜り込むとなれば、頭脳的側面以外にも、多少なりとも腕っぷしが必要となる。

 

 サイレール密売も喫緊の問題であるとはいえ、半年程度は訓練が必要だろうと考えていたのだが。

 

「補佐はガイ。貴様だ」

 

「承知しました」

 

 アンヘルたちはたった三週間ほどの訓練を終え、晴れて内偵任務に就くこととなった。内容は士官学校内に内在する平民派の監視で、上科の中でも比較的灰色から白に近い人物が目標となっている。

 

 これまでの外部調査によれば、彼らの周辺で『バアル教団』の違法薬物が供給されていることが確認さている。軍と憲兵の仲は魔剣紛争以来最悪で捜査の手が入りづらく、候補生ゆえの自由から流通に都合がいいらしい。

 

 よって、候補生という立場を利用し、学内で彼らに接近することが内偵への近道であることから、繰り上がり採用が決定されたらしい。

 

 午後。教官の元に集められたアンヘルたちは、最後の確認を行っていた。

 

 重点は学内での横の繋がり。平民派の温床である東方流は勿論、三都東方流、金剛流に雑流までもしらみ潰しにする。学外は教官に長年付き従う部下や訓練生の援護を期待できるが、それ以外では単独任務となる。

 

 それを聞かされたあと、ガイルスは静かに不満を漏らした。

 

「なぜ先輩が主任になるんですか?」

 

「調査対象の多くは三回生に固まっている。貴様は二回生で学内の事情には詳しくない。対照的にアルスは新隊編成がある。周囲を嗅ぎ回るには十分な身分だ」

 

「先輩は伍科生ですし社交性も低い。私のほうが知名度もあって、声は掛けやすいと思いますけどね」

 

「貴様のその自信、嫌いではないがな」

 

 ユーシンは眼光を鋭くした。

 

「諜報員としてはまったく不要だ。いつか貴様の過信が己の足を掬うことになるだろう」

 

「だから補佐だ、と?」

 

「意味のないことをするのは趣味ではない。どうしてアルスと組ませ続けているのか、よく考えるんだな」

 

「ですが――」

 

 ガイルスはギラギラとした目で此方を睨んだ。

 

 目線を下にやると、彼は右拳を充血するほど握りしめている。それほどまでに悔しいらしい。

 

 それを認めたユーシンは会話をやめ、扉のノブに手を掛ける。

 

「黙って仕事をこなせ。それが将来のためだ」

 

 扉の閉じられる音が大きく響いた。ガイルスが歯軋りをして、その背中を睨みつけている。退出後、小さく舌打ちをした。

 

「ま、先輩、ここはどうかお手柔らかに」

 

 ガイルスは右腕を差し出した。アンヘルもその手を握り返す。

 

 その手は、ひどく冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 諜報には、ロマンやスタイリッシュさなど微塵もない。

 

 アンヘルは任務開始数日で、そのことを嫌と言うほど叩き込まれた。

 

 どこかの007など論外、類まれな容姿やセクシャルアピールで情報を引き出す美人局ですら夢物語という事実は、諜報員の内実を知れば知るほど当然かと思う反面、少しばかり寂しいのが真実だった。

 

 戦国時代、あの有名な甲賀忍者の主任務は行商人に扮して噂を聞き込むことだったという。一般に流布する派手な、あるいは超人的な総見とは異なり、諜報任務は科学者のような見地の積み重ねにある。

 

 中でもアンヘルたちの任務は身辺調査。目立たず、相手の交友関係を調査する。相手も警戒しているし、その上調査していることが判明すれば偽りの情報を流されたり、最悪逃げ出される可能性もある。絶対に発見されない幽鬼のような存在であることが寛容だった。

 

「ヴァレリオットはどう?」

 

「流儀こそ金剛流ですが、それよりも門閥派の意を汲む傾向が強そうですね。北方領土戦線や西方軍に親族は居ませんし、思想も救国主義や軍人至上主義とは程遠いです。確実でこそありませんが、学内での調査は切るべきかと」

 

「これで五人目、か。調査しなければならないのはやっぱり……」

 

 アンヘルの視線が一人の男の名前をなぞった。

 

「前みたいに気取られないでくださいよ」

 

「分かってる」

 

 腰かけ椅子の反対側、口を動かさないガイルスは、頬杖をついたまま明後日の方向の川を眺めている。

 

「軍議盤で仲良くなれたみたいですが、人間関係は洗えそうですか?」

 

「今やってるよ」

 

「早くしてください。今回ばっかりは先輩が頼りですから」

 

 捜査線上に浮上したのは、三回生序列第一位のリカルドだった。最近薬物事件で摘発された過激派の中に彼の家の道場出身者が居たのである。

 

 現状では過激派の犯行が目立っている。教団を忘れるわけにはいかないが、もしかしたら密売の目的は教団の資金確保なだけの可能性もある。とりあえずの治安維持措置。全州会議のことも鑑みて、アンヘルたち学内調査組も過激派の禁止薬物摘発に心血を注いでいた。

 

 ――だけど、あのリカルドがそういう性格だとは到底。

 

 休日、金剛流を学びたいと頼み込んで、彼の実家の道場に赴いた。

 

「いやいや、ようこそいらっしゃいました」

 

 出迎えてくれたのは、道場主にしてリカルドの父エドゥアルドだった。彼は少々禿げ上がった額に手をやりながら、優しそうな微笑みを浮かべた。

 

「アンヘル君と申しましたかな? 休日でも訓練とは、さすが候補生ですね」

 

 リカルドの性格は軍議盤で大方予想できていた。

 

 彼はオスゼリアスの名流、金剛流ドモン道場の次男に生まれ、幼少期から怪物的才能の剣で大きく名を馳せた。

 

 身分的には平民だが、かの道場は帝国西方軍に大きなパイプを持ち、当主エドゥアルドは爵位を持たないものの親族には多数の名誉爵位、勲章を持つ者がいる。その影響力は生半可な下位貴族を上回るものだった。

 

 母親と姉はすでに故人だ。義理の兄が一人居るらしいが、二年ほど前から引き篭っているらしい。

 

 幼い頃に闘技会で優勝してからはもっぱら幼馴染のエマと探索者家業に精を出し、交友関係が広い。大らかだが強引。この辺りは武力が重要視される探索者業の影響だろうという見込みだった。

 

 こう見ると一見単純な脳筋候補生だが、意外に強かな面も持ち合わせていた。

 

 アリベールから聞いた話だが、彼と接触後、スリート商会に彼の友人達が聞き込みに来たらしい。これが彼の手なのか、それともエマら参謀の仕事だったのは判然としなかったが、この時勢で急に近寄ってきた男の経歴ぐらいは調査するようだ。

 

 ――けど、陰謀とかには向いてないと思うな。

 

 見た目で決めつけるのは論外だが、身辺調査で決定的な証拠が明らかになることはなかった。勘だけで言えばシロに近い。

 

 金剛流の体験を終えたあと、アンヘルは再び定期報告に赴いていた。

 

「どうでしたか?」

 

「リカルドが関わっている可能性は低い、と思う」

 

「確証はありません。むしろ状況証拠だけ見ればクロに近いでしょう」

 

「そう、なんだよね」

 

 リカルドを捜査線上から外せないのには理由があった。調査を進めることで彼がクロ寄りになってゆくのである。

 

 一つ、禁止薬物の出所が、憲兵の手も出しにくい士官学校中心であること。

 

 二つ、リカルドの実家が筋金入りの軍人家系、救国主義予備軍であると看做されること。

 

 三つ、リカルドの身辺には夜中に徘徊する怪しい人物が多数存在すること。

 

 リカルドの友人、同門、その親族など「サイレール密売」に関与している証拠こそ掴めないものの、なんらかの活動に関与していることは確実だった。

 

 その上、彼らの家の特権階級のような立ち位置が捜査を複雑にする。

 

 彼らのような軍人家系は内輪に多数の門弟を抱え、オスゼリアス各地に複数の拠点を保有している。夜な夜な彼らを尾行しても、彼らの敷地に入り込まれれば中で何をしているのか調査することは不可能だった。

 

 この世界では「土地」に関する意識はアメリカ並みに強く、無断で敷地に侵入すれば斬り殺されても文句を言えないぐらいなのである。

 

 しかも相手方はバレンティア治安維持隊にも影響力を持つ。非正規の秘密警察では、逆に捕まってしまう可能性もあった。

 

 あれこれ状況証拠を鑑みれば、リカルドの容疑を否定することはできない。むしろ、中心人物の可能性すら浮上する。

 

 しかし、まったくの無関係であったり、囮の立場であった場合、彼を引っ張ることはむしろ相手への警戒を招くことになる。

 

 焦りが募る。このままでは手がかりを得ることはできない。アンヘルはすでにリカルドたちと直接軍議盤でやり取りし、実家まで押しかけている。事態が逼迫しているとはいえ、諜報員としては例外とも言えるべき状況だった。

 

「捜査対象を広げるべきかもしれません」

 

「それは……」

 

「気が乗りませんか?」

 

 喫茶店の灯りの下、珈琲を飲んでいたガイルスはそう問いかける。

 

 気乗りはしない。相手に聞き取られない程度の音量で小さくつぶやいた。

 

「やるよ」

 

 机の上の新聞に目を通す。デカデカと描かれているのは『天罰』という文字。爆破事件に対する表明として、元老院に送られてきた手紙の一部だった。

 

 手をこまねいては居られない。アンヘルは決意を固めることにした。

 

「まずはエマ。彼女から調査を始める」

 

 彼女はここ近日、リカルドの元を離れて行動している。証拠を確保するために行動するべきだ。

 

 それが、エマへの告白三日前である。

 

 

 



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PHASE1-4:デート・インポッシブル

 照りつける太陽が雲ひとつない大空で燦々と輝いている。建物の明るみから前へ逆さに照り返されて、威厳を帯びた戦女神の銅像が黒いシルエットとなって地面に落ちていた。広場へと続く並木道では、梢の影が切り細やかで、まるで女神の親衛隊になったかのようにやはりシルエットとなっている。

 

 時刻は昼下がり。集う群集であたりはごった返している。遠方から小さな影がひとつ現れた。晴れやかな衣装を纏う少女がお上りさんのように首を振っている。アンヘルは銅像の下で大きく手を振り回し、居場所を大きくアピールした。

 

 こちらに気づいた少女――エマが雑踏を抜け、パタパタと駆ける。淡い水色のワンピース姿を認めて、不謹慎にも緊張する自分に嫌気が差した。

 

「ごめんなさい。待たせちゃったかな?」

 

「いいえ、僕も今来たところですから」

 

 はにかんで笑うと、エマは気まり悪気な顔をした。

 

「じゃあ、行きましょう」

 

「え、ええ。そうね」

 

 告白の翌日。彼女の視点に立つなら、士官学校四天王の内、三者が一同に会したあくる日だ。

 

 本日の逢引は、日頃何度となく士官学校を無断外出している彼女の思考を追うに絶好の機会である。失敗するわけにはいかない。

 

 アンヘルは男女間の通例にならい手を伸ばそうとしたが、寸前で引き留めた。緊張感が伝わっては問題である。真横に並んで混雑する群集の群れから抜け出した。

 

 彼女はいつもとは違って長い髪を下ろし、前髪を小さなピンで分けている。雲母を薄く引き延ばしたような、太陽に照らされた白いワンピースの縁は、今流行の薄い水色のグラデーションになっていた。

 

 足元には可愛らしい黒革のブーツ。趣味も大衆的であるのか、開演中の演劇細工をポーチにつけていた。身辺調査結果とも合致する嗜好、ミーハー的な押しの弱さを感じさせる出で立ちだ。

 

「よく似合ってますね。新作ですか?」

 

 アンヘルは訓練校で学んだ誑しの手管を思い返した。

 

「あ、うん。ありがと。去年買ったんだけど、あんまり着る機会がなくって」

 

「士官候補生って意外と忙しいですから。でも、長期休暇で着たりしなかったんですか?」

 

「一回は着たんだけどね」

 

 エマはちょっと俯きながら低い声で唸った。

 

「誰にも気にしてもらえなかったとか?」

 

「そう、そうなのよ。リカルドったら、私がせっかくおしゃれしてきてるっていうのに『戦い難いだろ?』とか言い出すのよ。あり得る? ――あ、ごめん。せっかくのデートなのに他の人の話なんかしちゃって」

 

 はっとしたエマは、目を少しだけ伏せて謝った。

 

 アンヘルは苦笑いしながら、手を顔の前で振った。

 

「いえいえ。それよりランチでもどうですか? お昼はまだですよね?」

 

「うん。そうだね――あ、その、アンヘルくんも似合ってる、よ」

 

「あ、ああ、ありがとうございます」

 

 ちょっとだけ頬を染めながら、エマはお返しにと褒めてくれた。

 

 アンヘルのコーディネートは、周囲の人間に溶け込むような軽い格好だが、良くみるとそこそこ名店のモノで固めてあった。普段着など探索者用の衣装以外は制服しか持っていなかった――入学以来、身長が伸びて昔の服は捨てた――ので、機嫌の悪いアリベールに無理やり用意させた形だった。

 

(はあ、別にデートじゃないって言ってるのに)

 

 二人は近くの喫茶店に入って簡単な軽食を頼んだ。向かい合いながら、たわいない雑談をする。間も無く料理が運ばれてくると、アンヘルはスプーンとフォークを回して、パスタを頬張った。

 

 食膳のスープを掬っていたエマは、その仕草を見てふふっと笑った。

 

「その食べ方、おじいちゃんみたい」

 

「えっ! 上品じゃないの?」

 

「なに言ってんのよ。そんな食べ方、今時老貴婦人くらいしかしないよ」

 

 緊張が取れてきたのかケタケタと笑いはじめた。アンヘルは憮然としてスプーンを放り出す。その態度が余計に笑いを誘ったのか、エマは目の端に涙を溜め、腹を抱えた。

 

「あはは、そ、その、ごめんなさい。私、ちょっとお手洗いに」

 

 バッグを手に取りながら、エマは化粧室に消えていった。廊下の先に消えるまでくすくすと笑い声が漏れている。

 

「彼女の言う通りですね。先輩はいつの時代に生きているんですか?」

 

 突然、背後の席から声が聞こえてきた。

 

 ガイルスだ。

 

 いつの間にいたのか。顔を見られないよう帽子を被って紳士を装っている。手元の珈琲からは湯気が立っていた。

 

「くだらない茶々を入れに来たのか」

 

「それでもいいんですがね。そのまま顔を動かさないで、目だけで右の細工屋を見てください。そう、あの固そうな男ですよ」

 

 黙って窓の外の眺望の良い風景を伺った。群集の中に混じって、此方に背を向けてチラチラ振り返っている男の姿がある。明らかに監視者の出で立ちだ。よく観察すると、他にも怪しそうな人物がちらほら見受けられた。

 

「何者?」

 

「さあ? でも推測が立てられないってわけじゃありません。彼の顔はとても日焼けしていますし、不摂生しているようにも見えません。つまり、日中よく歩き回る仕事です。それから、よく観察すれば一様に左足が発達している。つまり左の腰に帯剣しているという事です。そんな男たちが尾行しているとなると、答えは一つでしょう?」

 

「憲兵、つまりバレンティア騎士団か」

 

「御明察。目的は恐らく彼女でしょう」

 

 ガイルスは化粧室を一瞥してから、周囲に聞こえるほど大きなため息を吐いた。

 

 ――これだから、素人は。

 

 身辺調査の目的とは、その奥に潜む本命の情報を探ることにある。このようなすぐバレる中途半端な尾行はむしろ標的に疑念を抱かせ、本命への繋がりを絶たれるだけである。

 

 憲兵のほうもしびれを切らして動き始めたというのは本当らしい。アンヘルが随行する機構は、元は政治犯摘発の為に結成されたのをサイレール事件のために転向させている形だ。他機関と協力関係にあるわけではないため、厄介な事態に陥っている。

 

「眼を逸らすことはできる?」

 

「此方も身分的にはただの候補生ですから、真っ向から職務質問を受ければ止められませんよ。ま、努力はしますがね」

 

 エマが化粧室から出てくる。ほぼ同時にガイルスが席を立って店の外に出ていった。

 

「ごめんなさい。ちょっと笑いすぎたわ」

 

「いえ。それよりも行きましょうか」

 

 割り勘を渋る彼女とやり合いながらなんとか金の支払いを済ませると、ドアベルを鳴らしながら外の風を浴びた。

 

「これからどこに行くの?」

 

「そうだなぁ。エマさんって、休みは何を?」

 

「いつもはお気に入りの喫茶店とあとは道場とか、かな。あとは射的場にも顔を出すけど」

 

「そっか。えっと、どうしよっかなぁ」

 

「えー、何も予定を決めてないの?」

 

 非難の声が上がってアンヘルは一人苦笑いをするが、知らずのうちに頬を撫でる指が冷たくなっていた。

 

 ――射的場。

 

 これは摘発された男の密売所と重なる。ここ数日ユーシンたち外部調査係が心血を注いだ結果を鑑みると、エマに不利な情報ばかりが出てきている。

 

(となると、藪を突いてみるしかないか)

 

「僕、エマさんの弓術見てみたいなぁ」

 

「ええっ! この格好で?」

 

 エマは自身の格好を見下ろす。

 

「そもそも道具を持ってないし」

 

「じゃあ取りに行く? ここから実家って遠いかな?」

 

「ええ、でも……」

 

 エマは消え入りそうな声で反論した。

 

「二人で行ったら、勘違いされちゃうかも……しれないし……」

 

「一度だけでいいから、ダメ?」

 

 お願いと両手を合わせながら尋ねる。エマはそれをじっくりと見合わせて、最後にはあと息を吐いた。

 

「強引よね、アンヘルくんって」

 

「男ってのは、強引な方がモテるんだよ」

 

「優しい方が私は好きだけど?」

 

「そういう人も居るかもしれないけど、それが真理なら世の中は聖人君子しか居ないだろうね」

 

 アンヘルはニヒルに笑ってみせると、彼女はプッと噴き出した。

 

「変なこと言った。僕?」

 

「ううん。全然似合ってなかっただけ。はいはい、わかったわかった。道具を取りに行くから、付いてきて」

 

 そのまま実家の方向に向かってゆく。実家は把握しているが、それを告げればストーカーと判断されるだろう。アンヘルは彼女の後ろに付き従った。

 

 昼下がりの街並みは陽気な風が吹いていて、とても気分がいい。わいわいと街角で出店が騒がしかった。

 

「おい、二人とも待て」

 

 少しばかり歩いていたところで、背後から声を掛けられる。ピタリと動きを停止させるアンヘル。エマは自分が声を掛けられたと思っていないのか呑気に鼻歌を歌っていた。

 

「聞こえているのか、そこの候補生」

 

(そんな言い方じゃ、監視していたと自白するようなものじゃないか)

 

 小さく舌打ちしながら、ゆっくりと彼らに向き直る。エマが怯えたような青い顔で憮然としていた。

 

「何の用ですか?」

 

「身体検査だ。手荷物を此方に預けてくれ」

 

「急に出てきて何なんですか、あなたたちは!」

 

 エマはらしくない苦い顔をしながら焦った声で怒鳴った。

 

「ふん、よくもぬけぬけとそんな口を利けるな。すぐにその化けの皮が剥がれないことを祈るよ」

 

 心底苛立たしそうにいったのは、中年の男だった。先刻細工屋で見かけた人物である。彼は渋面を浮かべてにじり寄ってきた。

 

(なんだ、なんでこんなに攻撃的なんだ?)

 

 憲兵と軍は魔剣騒動以来、相当仲がこじれている。しかし、それはあくまで上層部の話であり、末端の末端、それも候補生との間に不信感の募る原因が思い居たらなかった。

 

 とはいえ、両者とも引っ込みつかぬほどいきり立っている。アンヘルは両手を広げて、素っ頓狂な声で宥めた。

 

「ちょっと待ってください。僕たちはオスゼリアス士官学校に通う候補生です。身体検査を要求するのであればご存知かと思いますが、軍役に就く場合手続きが必要です。書類はお揃いですか」

 

 先頭の男は顔に苛立ちを浮かべると、懐から書類を取り出した。ざっと目を通して、必要事項の確認を済ませる。

 

「これで問題ないな」

 

「あります。僕は兎も角、彼女は女性です。こう云う場合、同性しか検査できない決まりの筈です」

 

「なんだとっ」

 

 屈強な右の男が怒気を露わにする。

 

「今回の話、正式に抗議させて頂きます。責任者の名前を教えてください」

 

「バレンティア騎士団第三隊、ディアゴだ」

 

 苦虫でも噛み潰したような表情で男がうめいた。

 

「ありがとうございます。正式な手続きを踏んでいただければ我々も応じますので、その時に」

 

 アンヘルは慇懃に頭を下げる。その瞬間、右の屈強な男が爆発した。

 

「こっちが下手に出てればいい気になりやがってっ。このクズがっ!」

 

 頭を下げていた所為で反応できなかった。男の右こぶしが頬に突き刺さる。よろよろ後退すると、すぐさま左の男が飛びかかってきた。

 

「アンヘル君!」

 

「手を出さないでっ」

 

 地面に組み伏せられながらも必死に叫んだ。ファイティングポーズを取ろうとしていたエマの動きが固る。

 

「向こうの狙いはしょっぴくことだ。絶対に抵抗しないでっ!」

 

 アンヘルは上目で直立する憲兵を睨みつけると、怒気混じりの声でいった。

 

「軍と敵対するつもりですか?」

 

「そんなつもりは、ない」

 

「ならすぐ解放してください。本当にタダでは済みませんよ」

 

 苦い顔をしたディアゴは絞り出すように「引け」と命じた。上に乗っていた男の体重が消える。すぐさまエマが駆け寄ってきた。

 

 アンヘルは土埃を払いながら、厳しい顔で睨んだ。

 

「お前たちが薬の密売に関わっていることは間違いない。いいか、絶対に俺はお前たちを逃さないぞ」

 

 ディアゴはゆっくりと去っていった。

 

 ふうと肩の力が抜ける。ヘナヘナと地面に座り込んだアンヘルの頬にエマが手を添えた。

 

「いたたた」

 

「だ、大丈夫? ちょっと切ってるよ」

 

 組み伏せられたとき、頬を石で切ったのか。小さな切り傷がついていた。エマの指先が傷口をなぞる。

 

「いつっ」

 

「あ、ごめんなさい。すぐ手当を」

 

 そういってガサゴソとバッグを漁りだすと、エマは消毒液とガーゼを取り出して、手当してくれた。

 

「大丈夫、ひりひりする?」

 

「問題ないですよ。それより、いつも救急箱を持ち歩いているんですか?」

 

「あ、うん。リカルドっていつも怪我するから、なんか癖になってて」

 

 照れたようにはにかむエマ。アンヘルは救急箱を受け取って自ら手当てすると立ち上がって裾の埃を払った。

 

「アンヘル君って、実は頼りになるんだね」

 

 エマは背側で手を組みながら、ちょっとだけ上目遣いに言った。

 

「いい意味に聞こえないんですけど」

 

「あ、ごめんなさいっ。ってそういうわけじゃなくて……急に身体検査なんて言われて、あんな風に書類の不備をつくなんて誰でもできることじゃないから」

 

「ああいうやり口で強盗する連中が居るって聞いたことがあるだけですよ」

 

 真実は特殊警察機構の訓練で、憲兵のやり口を学んだからだったが。

 

「ううん、それでもだよ。正直、ちょっと頼りないかなって思ってたけど、本当はできる子なんだね。あーあ、そっかだからクナル班なのか。騙されてたなぁ」

 

 成長した弟を嘆くような、微妙なニュアンスが含まれた声でエマは遠くを見た。

 

 立ち上がりながら、彼女に手を差し出す。

 

「行きましょう。あんまりのんびりしていると、騒ぎを聞きつけた人が来るかもしれません」

 

 ざわざわと曲がり角の向こうが騒がしい。エマも目の色を変えて手を取ってくれた。それから一気に道を急いだ。彼女の実家で道具を取り、射的場に急ぐ。到着したときには、すでにおやつタイムに入っていた。

 

「いやぁー、なんか緊張するなぁ。誰かと来るってあんまりないし」

 

「そうなんですか?」

 

「うん。私の道場ってあんまり弓をやる人居ないんだ」

 

 彼女は背丈ほどもある巨大な大弓を取り出しながら、寂しそうに語った。

 

 中世で人をもっとも殺した武器は弓だと言われているが、この世界ではそれほど猛威を振るう存在ではない。強化術は武芸者の身体能力を大きく向上させるため、通常の鏃程度では刺さりもしないのだ。

 

 よって弓を強化しなければならないのだが、肉体の延長線上として捉えやすい近接武器とは違って、打ち出す矢と弓両方を強化する必要があり、難易度が幾何級数的に上昇する。使える人間は居なくもないが、弓を本命に訓練する人間極めて少ないのが現状だ。

 

 エマは慣れた手つきで胸当てを着ると革の弓掛けを装着し、弦を軽く弾いて感触を確かめていた。

 

 射的場はエマの実家からほど近いところにある酒場の路地にあった。彼女曰く、酒場の店主が弓道大会好きで、酒を賞品に大会を開いているとどんどん拡大し、遂には横の店を買い取ってまで巨大な弓道場にしてしまったらしい。

 

 目の前に小さな柵があり、その奥に円形の色付き的が等間隔に並んでいる。的までは大凡四〇メートルほどだろうか。彼女は慣れた手つきで受付に挨拶すると、練習用の矢を受け取った。

 

「って、エマちゃん。どうしたんだいその格好? おめかししてるじゃねえか」

 

「もう、からかわないでっ!」

 

「もしかして彼氏とデートか? リカルドの野郎もすみに置けねえなぁ……っておい、誰だお前?」

 

 強面の受付に睨まれて、アンヘルは苦い笑いで挨拶する。受付の態度が周囲に伝播したのか、急にやっかみが飛んできた。

 

「誰だあの男っ。エマちゃんと一緒にいやがる」

 

「ふざけやがって、俺たちのアイドルと」

 

「ぶっ飛ばしてやる」

 

 先ほどまで熱心に練習していた男たちも唾を飛ばしながら、罵声をあげてきた。

 

 エマは顔を真っ赤にさせながら、アンヘルの腕を引っ張ってレーンの近くの椅子に座らせた。

 

「外野は気にしないで、皆馬鹿ばっかりだから」

 

「愛されてるんだね」

 

「そんなんじゃないっ。昔から通ってるから、遠慮がないのっ」

 

「やっぱり、そっちが素?」

 

 より親しくなるため、一歩踏み込むことにした。

 

「口調。お姉さんっぽく振る舞ってたけど、結構崩れることも多かったから。喋りやすいほうでいいよ?」

 

「別に、そんなことないし…」

 

「一応今日はデートだから。楽なほうで、ね」

 

 アンヘルがにっこり微笑むと、エマは口をパクパクさせてから、

 

「知らないっ」

 

 と叫んで、レーンに向かっていった。

 

(ちょっと狙いすぎだったかな)

 

 任務目標は、仲良くなってサイレール密売関与の証拠を見つけることである。やはりアンヘルの青春ラブコメは間違っているのだ。諜報員――正確には随行員だが――として感情移入しすぎないためにも、この程度で留めておくのが得策だろう。

 

 ひとりごちながら伏せていた顔をあげ、彼女が精神統一を図ってゆくのを見届けた。

 

 エマが凛々しい動きで弓を構える。清廉とも言えるほど静かだ。鳥の囀りと、木の葉の掠れる音だけが響く。

 

 街の喧騒が切り取られ、神でも降ろしたように神聖な気配を纏う。彼女がゆっくり深呼吸し、弓を引き絞り始めた。

 

 時が止まったような静寂。ギリギリと引き絞られた弓が軋み、弦が限界まで引き絞られる。

 

 その緊張が解き放たれるように、彼女の矢を持つ右手が開かれた。

 

 空間を駆ける一筋の閃光が、まるで糸にでも引っ張られたように的の中央に吸い込まれる。マグナム弾でもぶち込んだようなけたたましい音を奏でた。

 

 エマは止めていた呼吸を再開してから、ゆっくりと振り返った。

 

「どう、かな?」

 

「……」

 

「えっと、聞いてるの?」

 

「あ、ああ、うん。見てた、すごいね」

 

「何? その生返事」

 

 エマは気恥ずかし気に笑いながらも、満足したように首肯した。打ち尽くすつもりなのか、矢筒から一本矢を取り出した。

 

 息ができない。いや、神聖なものを穢してはいけない気分になったのだ。

 

 なぜ周囲の男たちが一斉に喋るのをやめたのか、わかった気がした。正直に感動した。射的場の内情を探ろうとやってきたが、彼女の神技に見惚れて何一つ身動きできなかった。

 

 そっと息を漏らす。それが真横に座った女と重なった。

 

「すごいね、今の」

 

「え、ええ、はい。そう、ですね」

 

「ボク、びっくりしちゃった」

 

 女性にしては中性的な喋りだな。しかも、聞き覚えがある声だ。表情を横目で伺う。

 

 金髪のボブに碧眼。その横には護衛らしき人影がある。誰だこの人、と思った瞬間、彼女の姿が幻のようにぶれた。

 

「あなたはっ――」

 

 クロエ・シルウィア・エル・オスキュリアだ。アンヘルは仰天してひっくり返りそうになった。

 

「はいはい、騒がない騒がない」

 

 あははと軽い調子で言った彼女は、濃紺の髪と砂塵色の肌を塗り替え元の金髪の姿に変えた。

 

「君ってばこんな所でデートしちゃって、ルトに怒られるよ?」

 

「あ、そのオスキュリア様も……」

 

「名前は禁止、ここでは代名詞で呼んでよ」

 

 茶目っ気たっぷりにウインクして見せると、彼女は大袈裟に伸びをして見せた。

 

「意外にモテるんだねぇ。ま、ルトが気に入るんなら当たり前かぁ。あ、しかもあれエマちゃんじゃない。やるな、このこの」

 

「あ、ちょ、やめてください」

 

「うーん? ボクに逆らうのー?」

 

 マジで死ぬから。護衛が死ぬほど冷たい目で見てるから。アンヘルは心で悲鳴を上げながら、小突いてくるクロエに耐えた。

 

 ようやく飽きたのか、からかいが止む。アンヘルは息も絶え絶えとなって肩を落とした。

 

「どうして、このような場所に……」

 

「うーん。暇つぶしってのもあるんだけど、ちょっと用事かな?」

 

 クロエは静かに周囲を見渡した。

 

「これから領地に帰らないといけないんだけど、その前にやれることはやっとこうかなって。ルトが怪我したら嫌だし」

 

 ハッと息を飲んだ。クロエはそれを認めて、いつもの猫っぽい悪戯気のある笑みではなく、獲物を狙う猫科の鋭い眼光を瞳に宿した。

 

「これだけでわかるってことは、君も同じなのかな。それじゃボクが居てもムダだよね。護衛のせいで悪目立ちしちゃってるし」

 

 すっと立ち上がる。クロエはパンパン肩を叩きながら、元の軽い調子で笑った。

 

「それじゃルトによろしくね。アルヘンくん」

 

「あ、はい」

 

 ――アンヘルだけど。

 

 手を振りながら、彼女が射的場の外に消えていくのを見送った。

 

 しかし最近、変装してる奴ばっかりだな。そんな風に思っていると、ふと目の前に立つ憤怒を纏った女性を発見した。

 

 というかエマだった。

 

「へえー。折角真剣に披露してるのに、どっかの誰かさんはそっちのけでナンパですか。そうですかー」

 

「げっ」

 

 極寒を瞳に携えながら、エマが髪を逆立たせてこちらを睨んでいた。もちろん、周囲の男たちは熱気を伴ってブチギレている。

 

 ――ああ、これはやばいかも。

 

 アンヘルは空を見上げながら、あの天真爛漫系貴族を呪った。

 

 頭上林檎射的大会をなんとか拒否するため、小一時間土下座を交えて抵抗したのはどうでもいい余談だ。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「とっても楽しかったです」

 

「そう? 私が知ってる場所ばっかり連れ回しちゃったけど」

 

「いえいえ、僕がお願いしたことですから」

 

 男はそう言いながら、ふっと和やかに微笑んだ。

 

 エマたちは待ち合わせした広場に戻ってきていた。すでに日は傾いている。空は夕焼けに染まり、人通りもまばらになっていた。

 

 落ち着いた雰囲気になると、途端に交わすべき言葉を見失う。勢いと熱に浮かされていた頭が冷静さを取り戻し、現実のしらべを送ってきた。

 

 ふう、と呼気が大きく漏れ出る。今日こそは。そう小さく呟いた。

 

 ――ここで言わないと、本当にずるずるいっちゃう。

 

 ずきんと心臓が痛む。先延ばしにすれば、この痛みはさらに大きくなるだろう。今日一日、短い間だったが、彼に抱いていた親愛の情が膨れ上がってゆくのを自覚していた。

 

 優しかった。

 

 楽しかった。

 

 こうやって気楽に遊べたのはいつ頃なんだろうか。懐古しても、そうすぐには思い出せそうにない。士官学校ではいつも競ってばかりだった。それが悪いとは思っていない。だというのに。

 

 ふっと指先が伸びる。「また明日」と言えれば簡単だ。けれど、目の前に立つのは望んだ黒髪の中肉中背の男ではなく、エマにとってまだ何も知らない人物でしかない。

 

「どうしたんですか?」

 

 割り込まれる。心の奥底にしまった筈の、たった二人の思い出に彼は入り込んできた。このまま外堀を埋められ、流されてしまったら。もうそれは、身を任せるのと同じだ。

 

 このままでは最果てまで行ってしまう。

 

 たった一言。「今日で終わりにしよう」それで終わり。それが捻りだせない。昨日の再現のようだった。

 

 唇が乾く。舌が固まる。身体が震えて、でも、心は全然傾かなくて。

 

 鼻の調子が変だ。ぐすっと鼻水を啜った。見っともない動きに気恥ずかしさを覚えるが、それを感じる心が嫌になった。

 

 言わないと。太ももの肉を無理やり摘んで、痛みで己を叱責した。

 

 先延ばしが一番、悪いから。

 

 ぶわっと巻き上げるような春風が身を包む。一瞬、その涼やかな風に煽られて雑踏のざわめきが止まった。

 

「あ、あの、今日で――」

 

 ――終わりにしよう。

 

 けれど、云い切ることは叶わなかった。今までとは別の意味でエマの心臓が跳ねた。

 

 アンヘルの顔、その奥に見覚えのある姿を発見したのだ。その男は俯いた表情で癖と思われる爪を噛む仕草のまま、暗い表情で裏路地に入って行った。

 

 はっとアンヘルを押しのけて、彼の姿を確認する。痩身に黒のザンバラ髪。背中は昔の凛々しかったものではなく、どこか薄暗い所に身を窶した者の気配を漂わせていた。

 

 ――イーサク、にい?

 

 そんな馬鹿な。恋愛じみた先刻のやり取りを忘却の彼方に追いやり、身体を震わせる。

 

 そんな筈はない。兄がこんなところにいる筈がない。口の中でなんども呟くも、目に映るのは決して幻ではなかった。裏路地の角にその姿が消えてゆく。

 

「あの、どうしたんですか?」

 

 アンヘルが怪訝な顔をしている。

 

 脳裏にあるのは先ほどまでの告白ではなくなっていた。エマは弓の道具を彼に預けると走り出す。

 

「ごめん。それ、学校で返してくれればいいから」

 

「え、あの、ちょっと」

 

「また明日っ!」

 

 戸惑う彼に叫びながら、エマは路地裏に消えていった影を追った。

 

 幅一メートルほどの薄暗い路地に足を踏み入れると、壁へ寄りかかるようにして乞食が屯していた。臭気のような暗がり者特有の非日常が漂う。

 

 エマは彼らに小さく詫びを入れ、かき分けて進んだ。

 

 小さな角を曲がって、さらに折れる。この辺りの商業区は都市計画整備されていないせいで、中心区以外はかなり乱雑な作りをしている。裏道の中に建蔽率を無視した置物が積まれ、道そのものも九十九折りの迷路だ。日が落ち始めたのもあって、薄暗い道を進んでいればまるで迷宮に迷い込んだような感覚を齎した。

 

「はぁはぁ、やっと?」

 

 煉瓦壁に手をつきながら、肩膝立ちで角越しに兄の様子を伺う。

 

 日は完全に落ち、オスゼリアスは夜の街並みを映し出している。エマの追跡はそれほど長くにおよび、ようやく港区にたどり着いていた。

 

 兄が足を止める。港区の廃倉庫だ。ゴンゴンと規則正しく大きな扉を叩くと、中から扉が少しだけ開かれた。

 

 何かやり取りをしている。角に隠れているエマにボソボソと声が届いてきた。一言二言会話すると、扉は一人がギリギリ入れるほど小さく開き、イーサクは中に身を滑り込ませた。

 

 角に隠れていたのをやめ、身をばっと乗り出した。急いで扉の前まで進む。扉は施錠され、無理やり破壊するしか入る方法はなさそうだった。

 

 ――イーサク兄、なんで。

 

 わからない。家から出られるような状態じゃない筈なのに。ぐるぐる、ぐるぐる頭の中で思考が巡り、混乱が進む。

 

 嫌な予感がする。どくんと心臓が鳴った。アンヘルの時とは違う、恐怖の鼓動だった。

 

 最近の周囲で起きている状況を鑑みて、エマの脳裏に最悪の将来が予見されてしまう。そんな筈はない。兄だけは絶対に無関係だと思っていた筈だったのに。

 

 そっと扉に手を添える。破壊するか、それとも――

 

 視線を周囲に散らしていると、ふと壁の端に小さな小窓が付いていることに気がつく。

 

 幅は五〇センチもない。小柄な女性ならばなんとか、といったところだろう。窓柵は腐食しており、力を込めれば外せそうだった。

 

 ――勘違いだったら、謝ればいいだけだから。

 

 エマは廃材を積み上げ、二階へ繋がると思われるそれに手をかけた。窓柵を思いっきりひき剥がす。枠ごと取り払い、すっと身体を滑り込ませる。弓術有利ながら、あまり女性の豊さに恵まれていない肉体にはじめて感謝した。

 

 くるくると回転しながら着地したエマは、さっと周囲の風景に目を凝らす。大量の木箱が乱雑に積まれており、物陰に身を潜めるのは簡単そうだった。

 

 先ほどの窓はどうやら二階部へ繋がっていたのではなく、換気のために備え付けられたものだったらしい。差し込んでくる月明かりを頼りに少し歩みを進めてみる。

 

 どうやら定期的に掃除されているのか、廃小屋にしてはそこまで不衛生の感はなかった。

 

「……囮…………魔剣………………」

 

(なに? この声?)

 

 闇の奥、蝋燭の明かりに照らされたところで人の声がした。それも、どこかで聞いたことがあるような。ゆっくりと木箱伝いでにじり寄ってゆくと、兄の姿を発見した。

 

「……援軍を頼…………剣士と召……」

 

 兄は男の話を聞いて、神妙に頷いている。ここからでは話し相手の姿は伺えない。これ以上顔を出すと発見される危険性が高まる。エマは年配の優しい声にどこか既視感を覚えながら、よく耳を澄ませた。

 

 もう少し。兄が何も関与していないとわかれば、笑い話で済むことだから。

 

 わかりきっている未来から目を逸らすかのように、エマは両耳に手を当てた。

 

「……襲撃を決行する……元老院に裁きの鉄槌を……」

 

「はい。自由、平等、忠国しからずんば死を」

 

 そこだけ、はっきり聞こえた。

 

 ばくんと心臓が高鳴る。嘘だ。そんな筈は。エマは顔を蒼白にしながら、一歩二歩と後退った。

 

 元老院への襲撃。ということは、最近頻発しているテロ事件の首謀者はまさか――

 

 そのとき、近くの廃材を踏んで音を立ててしまった。

 

「誰だお前はっ!」

 

 背後の闇から声が響いた。

 

 しまった。前ばかり気にして、後ろを警戒していなかった。反射的に振り向いてしまう。

 

 半分だけ振り返った時、顔の目の前に巌のような拳が迫っていた。衝撃。振り抜かれた瞬間、腹部に重い衝撃が走った。

 

「がはっ」

 

 唾を吐いてうずくまる。意識は流され霞んでゆく。誰かが近くに走り寄ってくる。間遠に密談を聞いた。

 

 ――つけられましたね。外の様子はどうです?

 

 ――見張っている奴がいます。もう、囲まれているかも。

 

 ――……仕方ありませんね。ここは放棄します。

 

 ――エマはどうしますか?

 

 ――始末してください。彼女も納得してくれるでしょう。

 

 ――ですが……。

 

 ――これも革命の為の犠牲です。気にやまないでください。

 

 そこで、意識はぷっつり途切れた。

 

 

 

 

 

「早く起きて」

 

 ペチペチと頬が叩かれる。薄ぼんやりした世界が瞼を開くことで明確になっていった。

 

 暗い。うっすらと開いた目が瞳孔の拡散と収縮を繰り返し、光を調整しようとする。遅れて、腹部の痛みが神経を襲った。

 

「いたっ」

 

 ようやく目が慣れてくる。エマを叩き起こしたのは、今日一日過ごした茶髪の男アンヘルだった。さらに周囲を見渡すと、大量の木箱が積まれていた。

 

 手首がヒリヒリと痛んだ。周りを見渡すと切られたロープの残骸がある。手を縛られていたのか。エマは得心するとガラガラ声で尋ねた。

 

「こ、ここは?」

 

「港区の廃工場だよ」

 

 意識が覚醒したことを確認したアンヘルはすぐさま立ち上がった。声が酷く冷たい。エマは知らず身震いした。

 

「どうして、ここに?」

 

「様子が変だったから尾行したんだ。それより、これは……」

 

 楽しく逢引していたとは思えないほど冷酷な顔で、木箱を片っ端から開けてゆく。

 

 無理やりこじ開けているのか、周囲にぱらぱらと木屑が飛び散った。

 

「なに、してるの?」

 

 そう尋ねたとき、指先に触れるぬめりとした感触。そういえば、鉄の生臭い匂いも。嗅ぎ慣れない、嫌な匂いだ。

 

 悪寒に支配されながら辺りを見渡す。そこで違和感の根源である物体を発見し、エマはギョッとした。

 

「レンズ、カリストっ! どうして」

 

 知り合いの道場生が首から血を流して倒れていた。エマは飛びつくようにして二人に駆け寄り、首元に手をやる。すでに脈はなかった。

 

「酷い、誰がっ!」

 

「そんなことよりこっちを見て」

 

 アンヘルが切羽詰まったように叫んだ。木箱の中を指し示す。

 

「何がそんなことよりよっ」

 

「気にしている場合か。これを見ろっ!」

 

 身体が無理やり引っ張られると、木箱を正面から覗かされた。

 

「え、え、何よ、これ」

 

「しらばっくれるんじゃない。これは『サイレール』だ!」

 

 中からは袋に包まれた真っ白の錠剤が大量に出てきた。彼が中身をひっくり返すと、そこいら中に散乱する。それが、大凡十箱以上。たった一握りでも末端価格は家が立つほどだ。

 

 絶句しているとアンヘルが怒気を噴出させる。彼が手を振り上げた。

 

 ――殴られる。エマは咄嗟に目を閉じた。

 

 そのとき、倉庫の外から大きな音が響いた。

 

 轟音と烈風。爆破だ。遅れて手榴弾の破片のような鉄片が足元に突き刺さる。エマが構えようとして身体をこわばらせると、さらに大きな扉が吹っ飛ばされてきた。

 

 続くのは整った軍靴の音。濛々と立ち登る白煙の中、三十人規模の人が流れ込んでくる。皆一様に帽子をかぶり、腰元に剣を下げていた。

 

「武器を捨て腹這いになれ! 貴様たちはすでに包囲されている!」

 

 何度もそう復唱しながら突入してきたのは、憲兵ディアゴだった。

 

 携帯魔導灯の光がまるでサーチライトのように照らしてくる。数十人のそれが二人へ焦点を合わせる。

 

 眩しさでエマは咄嗟に腕で目を覆った。

 

「待ってくださいっ。僕たちはここに囚われていただけで――」

 

 アンヘルはさらっていた禁止薬物から慌てて手を離すが、すでに遅い。

 

「問答無用だ。ついに正体を表したなこの外道どもめっ!」

 

「違う、待ってださい!」

 

 アンヘルが必死に叫んでいるが、憲兵隊らしき男たちは容赦を見せる様子はなかった。男たちが抑えようと飛びかかってくる。

 

 灯が走り寄ってくると、いきなり体当たりを喰らわせられる。かはっと息を吐くと途端に地面へ押し倒され、腕を捻られた。

 

 訳もわからぬまま床面に顔をつけアンヘルの方を伺う。霞む視界の中で叫びながら押さえつけられていた。

 

 歯を食いしばりながら、頭上のディアゴを見た。

 

「貴様らの悪行、必ず暴いてやるからな」

 

 殺意の篭もった視線を浴びて、エマはゾワリとした悪寒に支配されていた。

 

 

 

 士官候補生アンヘル。士官候補生エマ。

 

 両者は、第一級禁止薬物密売の現行犯で逮捕される運びとなった。



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PHASE2-1:逃亡生活のはじまり

 縛の身となって騎士団詰所に護送されているとき、ふとこんな事を思い出した。

 

 真冬の厳しい季節だった。吹き荒ぶ風が窓を叩き、一歩でも外に出ようものなら、ツンドラの彼方にでも連れ去ってしまいそうな日だった。

 

 物悲しい教会の風景。献花された花にパイプオルガンの音色が溶け込んでいる。うすぼんやりとしたステンドグラスが、彼の収まった棺を照らしている。

 

 何度来ても葬儀は実に侘しいものだった。

 

 参列者は同じ班の者たち、そしてエルンストだけ。皆、どんな顔をしていいか分からないという様子だった。遺体は故郷に返し、形だけの儀式に意味などないように思えた。

 

 翌日の遺品整理は一人だった。

 

 アンヘルは私物を一つづつ箱に放り込み作業を終わらせた。アタッシュケース一つ分くらいの荷物しかない部屋はどこか虚無的ですらあった。

 

 本当に何もない。人の部屋にはその人の人生や性格が出ると聞いたことがある。部屋が綺麗に見えて押し入れがぐちゃぐちゃならナルシストの気があるらしいし、チリ一つない部屋なら潔癖症の気があるらしい。が、この部屋はそのどれにも当てはまらない、怖気すら感じさせる空虚さだった。

 

 最後、棚の中を整理したとき、たった一つだけ手紙を見つけた。二重底の下に隠してあったそれには、こう書かれていた。

 

 

 

 自分は許されない罪を犯した。

 

 許せないと思っていた母と同じ罪咎を犯していた。それ以上の悪徳を積んでしまった。友とその彼女を裏切り、いまものうのうと生きている。

 

 何度も自殺しようかと自問した。その度に躊躇した。怖かった。けれども、今は生きていることも怖い。

 

 死を想い、生を望む。今の自分は生ける死者でしかないことを知りながらも、誤魔化しながら生きてきた。

 

 自分が堕ちていった原因は今でもわからない。

 

 正義だけを信じているはずなのに、気づいた時には堕ちていた。

 

 外道に堕ち、救国を願った自分が正しくある方法は、未だわからない。

 

 だが、予感だけがある。自分のような外道には相応しい最後が待っているだろう。

 

 そして、その最後は決して遠い話ではない。

 

 これを誰かが読んでいるということは、自分の予感は外れていなかったのだ。恐らく存知のことだろうが、自分の運命は尽きている筈だ。

 

 それで構わないと思う。自分に相応しい最後だ。

 

 だが、そんな自分にも後悔がある。これを読む者にそれを残したい。自分のようにならない為に。

 

 裏切るな。

 

 友、恋人、家族。何者も裏切るな。

 

 どれだけ勝利したとしても、裏切りの先には虚しい未来が待っている。空虚で色を失った未来が待っている。

 

 もしも過去に回帰できるのであれば、自分に言い聞かせたい言葉を、これを読んでいる君に伝えたい。未来ある候補生の君に訓戒として。

 

 君に素晴らしい人生があらんことを、心の底から祈っている。

 

 

 そして願わくは、この手紙が友だった者に届かぬことを。

 

 

       ホアン・ロペス

 

 

 

 移り行く情景を認めながら、アンヘルはそんな事を考えていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 屋根から落ちる水滴が規則的な音を奏でている。夕刻の通り雨が地面を深く濡らし、歩いた人々の足跡が街路の縁を大きく汚していた。

 

 耳にするのはガタガタと窓を叩く湖からの風の音、それを大きく上回る男女の艶声。薄い壁をものともせず、鼓膜に直接叩き込む喘ぎが一際大きく響く。

 

 そんな最中にあっても、部屋の住人は誰も身動ぎ一つしなかった。この雰囲気の中では使われるはずもない、場末の連れ込み宿に相応しい二人掛けのボロ寝台は、物悲しそうに佇むだけだった。

 

 窓から差し込んでくるあわい月明かりが二人の影を伸ばす。その美しくも儚い光は、地面に映し出されたシルエットを裁く刃に思えた。

 

「最低!」

 

 柏手を打つような乾いた音が鳴る。鋭く走る痛み、それをまるで他人事のように感じながら、アンヘルはそっと頬に手をやった。

 

 ヒリヒリと痛む。手の熱がその痛みを和らげてくれるも、身体の芯にまで突き刺さるような楔は抜ける気配がなかった。

 

「なにか、あるでしょう。なにか!」

 

 目の前に立つ少女の手がさらに動いた。今度は肉を打ったような鈍い音。裏拳を振るったのだ。

 

 一歩、二歩と痛みに喘いで後退する。遅れて、鉄の生臭い味が口腔にいっぱい広がった。衝撃によって口内を切った。舌を動かすと、苦い味わいがさらに深まる。

 

 ひどく落ち着かない。しみったれた床の木目が、まるでぎょろりとした眼球のようだ。お前を監視している、お前を見張っているぞと言わんばかりの目玉。妄想はさらに悪化し、百の目を持つアルゴスに見つめられる状態。そんなありもしない幻覚に苦しむ。

 

 しかも、身体中の節々が痛んだ。長いこと動いていないときのような、濁った感触が神経を蝕む。ずっと長い間拘束を受けていたのだ。全身荷物でも背負ったように重く、脇腹や腰のあたりは尋問時の暴行でずきずき痛んだ。

 

 眼球だけを動かして、正面を見る。

 

 手を振り抜いた少女は、肩を激しく上下させながら一時も瞬きせずじっと此方を睨みつけている。眦の端には大粒の涙を溜め、さらにもう一度頬をぶち抜いてやろうと虎視眈々狙いを定めていた。

 

 冷たい顔にもかかわらず、怒りを押し込んだような熱い瞳。擦り切れた衣服の端から覗く肢体は大きく汚れていて、それでも立ち向かってくる意思を思うと、どれだけの悪行を為したのか証明されているようだ。

 

 怒れる少女――エマはヒステリックに陥ったように激しく絶叫しながら、汗と汚れで萎びた黒髪を振り乱した。

 

「最初から騙してたのね。私たちに近づいたのも、私に告白したのも。全部うそ。それで平然とした顔を晒すなんて、許せない!」

 

 再びエマの手が作動する。大きく振られた手に遅れて、乾いた音が響く。口の中の血が床に散った。地面に点々と散ったそれを眺めるしかない。

 

「その辺で止めたらどうです?」

 

 腕を組んで壁に凭れるガイルスが、激昂するエマの手を掴む。

 

「先輩は一応なりとも助けてくれたんですよ。感謝しろとは言いませんが、話ぐらいは聞いたらどうなんですか?」

 

「貴方もコイツと同類よ。指図は受けない」

 

 細められたエマの目には業火の炎が宿っている。

 

「咎めたいのは此方側なんですがね」

 

 軋む音の鳴る二階の床版を確かめながら、ガイルスは嘆息する。どうやら不衛生すぎて落ち着かないらしい。冷ややかに彼女を一瞥すると木椅子に腰を降ろした。

 

「それで先輩、どういう経緯でこうなったんですか?」

 

 アンヘルたちが憲兵に逮捕され、そして決死の脱出劇を繰り広げてから早くも半日。日はとうの昔に傾き、オスゼリアスの闇が顔を出す時間となっていた。

 

 ここはエマ提案の隠れ家「女王蜂」である。アンヘルたちはそのボロ宿でいったんの休息を取っていた。

 

 ここは貧民街近くの寂れ系ラブなホテルだ。環境としては劣悪極まりないのだが、受付時の顔見せを必要としない都合上、指名手配されている今にはうってつけの場所だった。あくまでも、緊急措置としてはだが。

 

「まず把握しておきたいことがある」

 

 アンヘルは打たれた頬を撫でながら、氷の眼差しを送るエマを真正面から見据えた。

 

「エマさん……貴方はなぜあの廃倉庫に行ったんですか?」

 

「言う必要はないわ」

 

「ではもう一つ。あの大量のサイレールはなんですか」

 

 あの夜、廃倉庫で確認した木箱は十箱程度だったが、そのすべてに大量のドラッグが収められていた。末端価格にして日本円で数十億規模。平民派の軍事資金になると考えれば恐ろしい額になる。

 

「知らないわ」

 

 エマは凍った眼差しで臆面もなく答えた。

 

「なら、最近の不審な動きはなんだったんですか?」

 

「……それは」

 

 ここではじめて、エマの返答が淀んだ。一歩踏み込みながら彼女を見下ろす。

 

「言えないことなんですか?」

 

「プライベートなことよ」

 

「それを聞いています」

 

 そっぽを向いて気まず気に答えたエマ。アンヘルは彼女の胸ぐらを掴み上げて、ぎゅっと真正面にまで引き寄せた。

 

「君はこの数日間。それも夜になってから常に外出していた。三日前には戦闘の痕跡も発見されている。言い分は?」

 

 息が届くほどの至近距離で相手の瞳を覗き込んだ。エマは眉一つ動かさず、此方を睨みあげてくる。

 

「恫喝のつもり? 似合ってないわ」

 

「質問に答えろ」

 

「プライベートだと言ったはずよ」

 

 強行姿勢が反対方向に作用したらしい。先刻までディアゴらに受けていた尋問からすれば、アンヘルの生温い質問で口を割らせるのは不可能だろう。

 

 舌打ちしてから、突き飛ばすように彼女を解放した。

 

「憲兵に何を聞かれましたか?」

 

「……」

 

「何か話しましたか?」

 

「……」

 

「答えてください」

 

 エマは口を一文字に結んで一向に話そうとはしない。ただじっくりと此方を見据え、今にでも殴りかかってきそうな怒りを内に溜め込んでいる。

 

 これはだめだ。かぶりを振って背後のベットによろよろと腰を下ろす。ボフンと埃が舞うと、寂れた安宿特有の硬い寝具の感触が伝わってきた。

 

 一息つくと緊張を堰き止めていたダムが決壊し、すべてを洪水の彼方に消し去ってしまいそうな感覚になる。

 

 もう丸二日眠っていないのだ。昨日はデート。その晩憲兵詰所に勾留されて、夜通しで尋問を受けた。翌日、ガイルスの手引きによりプリズン・ブレイクを果たしたあと、こうやってこの安宿にいる。精神も体力も限界だったのか、座り込んだだけで泥のように眠ってしまいそうだった。

 

「埒があきませんね。そもそもどうしてこの女を救出したんですか?」

 

 ガイルスは気だるそうに頭を掻いた

 

「それは……」

 

 口ごもりながら、その理由について思考を巡らせる。

 

 同情心があったとは思う。まだまだ職務に徹しきれているかと問われると怪しい部分は大であるし、秘密警察機構の随行員である自分はそもそも諜報員ではない。

 

 だが、たった少しの間ではあったが仲を通じ合せ、ある程度性格は把握できていた。経歴や動きも密売や平民派の活動に関与していた可能性は低い。

 

 何よりエマは廃倉庫で囚われ、あともう少しで殺されるところだった。助けに入らなかった場合、彼女は殺されていただろう。つまり、現状でエマは平民派の可能性は低く、尚且つ何かしらの情報を掴んでいるかもしれないのだ。現状、二人は指名手配の身である。総督令の恩赦か冤罪を晴らさない限り、死罪が確定する。協力の余地はあると思っていた。

 

「どうなんです、先輩?」

 

 苛立ったガイルスがつま先で地面を叩く。アンヘルはゆっくりと留置場脱出の経緯を語り始めた。

 

 

 

 

 

 

「いいかげんにしやがれってんだ。一日中そうやって黙り込みやがって」

 

 憲兵ディアゴは薄暗い尋問室の木机をぶっ叩いた。

 

「いいか、俺が最初から説明してやる。お前はあのエマって女と一緒になって、日中憲兵が把握している密売所を回ったあと、ドラッグの調達のためあの廃倉庫に向かった。

 あそこを夜通し調査したが、大量の『サイレール』が発見されている。証拠は揃ってる。どうだ、なにか違うか?」

 

「……」

 

「そうやって黙りこいて居られるのも今のうちだぞ」

 

 ディアゴは厚い胸板の筋肉を膨らませると、強烈な声量で怒鳴った。

 

「何か言ったらどうなんだ!」

 

 荒々しくスツールに座り込んだディアゴは机の上に力の入った拳を置き、ぷるぷると怒りに震わせていた。背後からも同僚と思われる憲兵から刺々しい視線が突き刺さる。

 

 連れてこられた尋問室には剣呑な空気が漂っていた。

 

 バレンティア騎士団のダンジョン――地下留置所――の壁はまるで坑道のように土が露出しており、排泄物の不衛生な匂いが薄ら染み付いているような感覚になる。狭い室内には数人の男たちが控えていて、暴れようものなら一瞬で切りかかってきそうなほど緊張が高まっていた。

 

 ここには日差しなど差し込まない。魔導灯のぼんやりした光を背景に押し問答を重ねたのは、果たしてどれほどか。瞼が落ちそうになるところを鑑みて、おそらく日は回っただろうと結論づけた。

 

 首を回すため肩の力を抜く。そしてゆっくりと頭を振ると、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。焦点の合っていない目で見渡すのが気に触ったのか、後ろの男の沸騰したのだ。

 

 横目で流し見ると、唾を吐く男が拳を振り上げていた。

 

「舐めやがって!」

 

 顔面に拳がめり込んだ。手枷が机に繋がっている所為で吹っ飛ばされてから元に戻ってしまう。ふーふーと荒い息で男が詰め寄ってきた。

 

「てめえみてえな悪党はよ、こうやってぶちのめしてやらねえと気が済まねえ」

 

 膝が顔面にぶち込まれる。ぐわんと視界が揺れると口から赤い血が飛んだ。衝撃で机ごと持っていかれる。

 

 腕だけ机に括り付けられた状態で椅子から転がり落ちる。追い討ちとばかりに、男の爪先が突き刺さった。

 

「がはっ。はぁはぁ」

 

「しぶてえ野郎だ。どこまでその痩せ我慢がもつか楽しみだなぁ、おい」

 

 激怒を身体中から放出させた男に胸ぐらを掴まれる。荒い息が顔に当たるほど近い距離で凄まれた。

 

 だんまりを決め込みすぎたか。情報を与えないために閉じていた口が痛みで開きそうになる。

 

 ――だめだ。憲兵団には平民派が潜り込んでいる可能性も。それに、相手の捜査力は信用できない。

 

 痛みを堪えながら必死に自制心を働かせて、なんの感情も浮かべない虚無の瞳で男を見つめる。相手の歯ぎしりが聞こえてきそうだった。

 

「やめろ」

 

 静かな声でディアゴが止めた。

 

「ですが隊長」

 

「この野郎、大したタマだよ。さすが候補生なだけはある」

 

「巨漢でも指の一本や二本折れば口を開きます。こいつもそうやってやれば――」

 

「見た目と精神力ってのは、比例しないもんだ。こういう奴は油断できねえ」

 

 ディアゴは舌打ちしながら貧乏ゆすりをした。

 

「でも、あともうちょいで」

 

「お前の馬鹿力じゃ口が聞けなくなんだろ。こいつは町中で横行するテロ事件の最重要人物だ。元老院どころか教会からも身柄の保護を指示されている。もしも尋問で廃人にしちまったら、こっちの首が飛ぶぞ」

 

 暴行を加えていた男が此方を突き飛ばしながら元の位置に戻る。いつでも飛び掛からんと歯を剥き出しにしていた。

 

 鼻骨を折ったのか、息が上手くできない。ぐいと鼻下を押してから現在の状況の整理をはじめる。

 

 生温い尋問の理由は外部の力。全州会議の時期が迫っている今、治安維持は憲兵目下の最大目標だ。相手はアンヘルの背後関係を徹底的に洗いたいのだろう。

 

 現代の警察と違って、この世界の尋問は荒っぽいを通り越し殺人的だ。これほど重大事件となれば、あらゆる拷問にかけられて然るべきだろう。そうなれば事情を吐かない自信はなかった。

 

 しかし逆に考えれば、尋問の過激化には未だ猶予があるある。その隙に脱走できるかもしれないと霞かけていた意識が再浮上した。

 

 手首を廻しながら手枷の具合を確かめ、胡乱気に天井を見上げる。赤茶の土壁が切迫感を募らせるが、まだ焦る場面じゃないと心に言い聞かせる。

 

(憲兵は召喚術のことを知らない。一瞬、一瞬だけでいい。この部屋の人数が一人か二人なら召喚術で逃げられる)

 

 まだチャンスはある。じっと感情を潜めた。

 

 唾を吐き捨てながら、ディアゴはもう一度身を乗り出した。

 

「もう一度だけ聞いてやる。他の奴の拠点はどこにある? お前がただの使いパシリだってことは承知の上だ。素直に吐きさえすればお前の恋人は解放してやる」

 

(そうか、忘れていた)

 

 反射的に顔を戻してしまう。ディアゴの表情が一変した。

 

「さすがに恋人のこととなりゃ気が変わるか?」

 

 しまった。弱みを見せてしまった。背中に冷や汗が落ちる。

 

 ディアゴは冷ややかな声で部下に「女の尋問をさらに強めろ」と指示すると、ドスの利いた声色で続ける。

 

「お前の恋人はドモン道場の親戚だからな。殴ったり拷問したりはできねえ。だが、うちの留置所には便所なんて碌なモンはねえからな。あの年頃の嬢ちゃんには酷な仕打ちだと思うがねぇ」

 

 ――くそ、せっかく手がかりを掴んだのに。

 

 アンヘルはこっそり歯噛みした。

 

 まだ半日くらいの尋問だが、こうやって同じ質問を繰り返されるだけでもかなりの疲労感を覚える。尋問のセオリーである、繰り返すことによる矛盾点の突き合わせは理屈としてわかっていても、かなりの徒労感を引き出してきた。

 

 エマは何らかの情報を握っている可能性が高い。それを憲兵が掴み、大掛かりに調査してしまえば、相手側も警戒して尻尾をくらますだろう。

 

「聞こえてるのか!」

 

「……」

 

「この野郎、完全に舐めきってますよ」

 

 ディアゴの眉が傾く。さすがに痺れを切らしてきた頃か。内心の焦燥感を隠しながら能面を保つ。

 

(当番弁護士でも居れば外部と連絡ができるのに)

 

 弁護士ドラマ見過ぎ脳でくだらない妄想が降ってきた。武器がない今、反抗は愚策。しかし、ただ待つのはそろそろ限界か。

 

 どうする。廃倉庫の現場を見る限り、事態は喫緊だ。

 

「どうしても吐かないつもりだな」

 

 思考を彷徨わせているのを察されたのだろうか。ディアゴは冷たい目でこちらを見据えていた。

 

「いいだろう。こちらも根気勝負だ。お前が音をあげるまで、ずっとこの留置所に留めておいて――」

 

 その瞬間、ズシンと建物全体が揺れた。それが数回、まるでトラックでも突っ込んできたような大きな爆発音が連続する。

 

 ――まさか、ガイルスか?

 

 座っていたアンヘルとディアゴ以外は、衝撃でヨロヨロとよろめいた。

 

「なんだ、何が起きてやがる!」

 

 ディアゴが怒鳴った。部下が悲鳴のような声音で返答する。

 

「わ、わかりません」

 

「ちっ、またテロか。くそ、セイ。お前が残っていろ! 絶対に目を離すんじゃないぞ」

 

 そういってディアゴたちが尋問室から消えてゆく。

 

 チャンスだ。脱出路を確保して、次にエマを救出しなければ。尋問室には一人。目的を明確にしてからアンヘルはこっそり呟いた。

 

「召喚」

 

 

 

 

 

「憲兵詰所を爆破するなんて思い切ったね」

 

「倉庫を爆破しただけですから、大した労力は掛かってませんよ。それより先輩こそどうやって脱出したんですか?」

 

 ガイルスは珍しく興味深げな表情だった。

 

「上からの指示だったので従いましたが、普通騒ぎを起こしたくらいじゃ脱出できないと思いますけどね」

 

「監視役が減るよ?」

 

「手枷はどうするんですか? 大抵の勾留所は妨害魔道具が働いていますし、ああいうのは強化術でも破壊できないよう作られています。それで脱出できると思われているなんて、よほど信頼が厚いんですね」

 

「失敗すれば見捨てるだけでしょ」

 

「なるほど。上はそう考えそうだ。ただ、まさかまさか同行人まで助けるとは予想外でしたが」

 

 チラリとガイルスはエマに視線を送る。彼女は部屋の端で体育座りをしていた。

 

 鋭い視線も今は弱くなっている。気合いで眠気を鎮めているようだが、激情は萎んでいるらしい。

 

 かっこんかっこんと椅子を傾けていたガイルスはピタリと動きを止めた。深刻そうに声を潜める。

 

「これからどうしますか?」

 

「任務に変更はないんじゃないの?」

 

「状況は大きく変わっています。先輩はオスゼリアス中で指名手配の身だ。今までのようには動けませんよ」

 

 顎を摩りながら、思考を深める。

 

 秘密警察機構は未だ公表されていない組織だ。現状アンヘルの身分は一般の民間人に過ぎない。もし憲兵に捕まり、略式裁判にでも掛けられることになれば、助けなど来ない。

 

 だが、もしかしたら――

 

(サイレールというドラッグが関与している以上、これがバアル教団の差金である可能性は否定できない。となれば……)

 

 そっとエマの様子を伺った。すでに意識は朦朧としているのか、うとうと船を漕いでいた。

 

「彼女を見つけたとき、廃倉庫で殺されそうになっていたことは言ったよね」

 

「ええ、聞きましたが」

 

 これはピンチではない。むしろチャンスだ。

 

 エマは何かしらの情報を握っている。それが意図的なものなのか、それとも想定外のことなのかはともかくとして、手がかりを一つ掴んだことになる。

 

 あの調子では憲兵に漏らした可能性も低い。それを聞き出せれば、状況が改善される可能性はある。

 

 情報の引き出し方にも手はある。ストックホルム症候群のような長い緊迫状態が続くことによって、仲を急速に縮めるのだ。特殊警察機構の随行員であるアンヘルとは違って、エマは正真正銘の容疑者だ。事態解決に協力するしか、死罪を免れる方法はない。

 

 ということは、このままエマに協力するフリをすれば、彼女の協力を引き出し、どうしてあのような行動を取ったのか把握できるかもしれない。

 

 結論は決まった。

 

 自分はあのとき切り札を切ったのだ。バアル教団という邪悪を祓うため、神意という悪に手を染めた。ドミティオスの指示ではない。ホアンやマリサのためでもない。己の意思で決断を下したのだ。

 

 そう思えば、迷いなどなかった。

 

 アンヘルは立ち上がって、ボロ木扉のノブに手をかける。

 

「行動を共にすれば手掛かりが見つかる可能性は高い。捜査続行だ」

 

「ま、それが先輩の決断なら構いませんがね。今は全州会議に向けて多くの議員や護衛団が流れ込んでますから、多少は誤魔化しも効くでしょう」

 

 憲兵は身辺警護に駆り出されるでしょうから。そうガイルスは続けた。

 

「どこに行くんです?」

 

「まずは武器だよ」

 

 ゆっくりと扉を開く。外から冷ややかな夜の風が吹き込んできた。振り返らず静かに告げる。

 

「ここからは荒事メインになるからね」

 

 アリベールに怒られるな。後の借金を想いながらも、アンヘルはいつものウィルキン武器店に向かっていった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 事態は少し巻き戻る。

 

 アンヘルたちが留置所から脱走したすぐ後の出来事だ。

 

「エマが脱獄、だと?」

 

 震える声でリカルドは呟いた。ライバルから告げられた言葉を認識した瞬間、地面が崩れてゆくような光景を幻視する。

 

「それは、なんの冗談、だ」

 

「すべて真実だ。これは少し前の報告だが、騎士団東本部詰所が爆破されたらしい。その地下に収監されていたエマ候補生は騒ぎに乗じて姿を消した。それ以上詳しいことは上がってきていないが……」

 

 いつもとはうって変わって気の毒そうに報告したヴァレリオットの言葉も、耳から抜け落ちてゆく。

 

 自分の指先がフルフルと震え、血の気が引いているのがはっきりと映る。

 

 最悪の事態だ。まさかこんなことになるなんて。

 

 エマが最近、なにやらコソコソとやっていることは知っていた。心配しないでと言うから無視していたが、それがまさか密売の関与などと。

 

 現在、サイレールの密売は救国主義者の主要資金源として看做されており、捕まった場合死刑が確定する。今朝エマが逮捕されたという情報が入って以来、リカルドはなんとかしようと駆け回っていたところだった。

 

 父親のエドゥアルドにはすでに口が擦り切れるほど助けを乞うた。知り合いのバレンティア騎士団に務める連中にも掛け合った。だが、すべて徒労に終わった。

 

 超一級犯罪。そう見込まれるエマを助ける方法など存在しない。可能性があるのなら、総督令による恩赦ぐらいだ。

 

 ギリギリと唇から血が出るほど強く噛み締める。

 

 視界が朦朧として揺れる。いや、違う。揺さぶられているのだ。ヴァレリオットが肩を掴んでいる。

 

「しっかりしろ」

 

「ヴァレリオット……」

 

「君がしっかりしなくてどうする。彼女が冤罪だと信じているんだろう? だったら、なすべきことを成せ」

 

 リカルドはハッとした。真正面からライバルの男を見る。

 

「私もエマ候補生が密売に手を染めていたなどとは信じられない。上科の候補生はそれほど暇じゃないからな」

 

「あ、ああ」

 

「なら冷静に聞きたまえ。私は知っての通り、バレンティア騎士団副団長ファブリツィオの甥だ。多少は憲兵を動かせる」

 

 必死に冷静さを保ちながら、リカルドは話を聞く。

 

「今回の事件で一番不味い状況は何だ?」

 

「エマの冤罪が晴れないこと、か?」

 

「それもあるが、一番怖いのは逃走中に殺害されてしまうことだ。憲兵の連中も脱走騒ぎで怒り狂っているらしい」

 

「なら――」

 

「まずはエマ候補生を確保するしかない」

 

 リカルドは驚いて顔を上げた。確保だと、何を言っているのだ。睨みつけるとヴァレリオットは静かに首を振った。

 

「落ち着け。今回の脱走も外部の手の物が関与していた可能性は高い。同じく逮捕されたアンヘル候補生も脱走している。君が言う通り、エマ候補生が脱走を企んでいないなら彼が主犯ということになる。まず確保して、これ以上罪を重ねないよう努めるべきなのは理解できるだろう?」

 

「だが、まさかアンヘルが……」

 

「この際誰が犯人などは関係ないんだ。まずは事態の収集。それから真相の究明だ。エマ候補生が犯行に及んでいないのなら絶対に無罪となる。違うか?」

 

「あ、ああ。そうだな」

 

 諭されて、ようやく普通の視界でヴァレリオットの顔を見上げた。彼はいつも通り不敵に微笑んでいるだけだった。

 

「これは何かの罠か?」

 

「おいおい。私は勝つためならどんな悪虐でも尽くすが、非道に身を染めたことはないと思うがね」

 

 そっと肩に手が置かれる。労っているような優しい表情だった。

 

「我々は競い合う敵同士だが、軍内にあっては同僚でもある。違うかな?」

 

「ああ、すまない」

 

 リカルドは顔を久方ぶりに綻ばせた。憲兵に繋がりのある彼なら、より詳しい情報を発見できるかもしれない。ようやくエマを助ける道筋を見つけた気がした。

 

「よし、なら俺は何をすればいい」

 

「そうだな、まずは……」

 

 ヴァレリオットは顎をさすりながら、一つ提案してきた。

 

「エマ候補生の行き先はわかるか? もしくはアンヘル候補生でも構わないが」

 

「ああ、それならたしか……」

 

 いくつか候補を述べる。エマは絶対に死なせない。自分の中に宿る強い意志を信じた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

(なにが『さすがはヒモだ』だよ。やんなっちゃうなぁ、もう)

 

 ウィルキン鍛冶屋で武器を調達したアンヘルは、項垂れながら部屋の扉をノックした。手には新造の剣とエマ用の弓と短剣。深夜価格ということもあり、目が飛び出るような額を請求された。

 

 もし彼が指名手配を知っていたら、さらに桁違いの額を請求されただろう。あの薄汚いウィルキンの顔を想像すると頭がどうにかなってしまいそうだった。それプラス、アリベールにつけた借金の件もある。事件解決後に領収書で落ちないと地獄を見る事態だ。

 

「どうぞ」

 

 規定のノックをすると、中からゆるやかにドアが開かれた。部屋の中に滑り込んでフードを取る。中には眠りこけたエマと退屈そうなガイルスが居るだけだった。

 

 しょうがないのだが、士官学校の自室に戻って武器を調達するのはリスキーだった。借金と借用主の心情さえ考慮しなければ、ウィルキン鍛冶屋は最善の決断であろう。

 

「尾行は大丈夫ですか?」

 

「寄り道はしてないから」

 

「あの距離で見つかる心配はありませんか」

 

 ガイルスが無用の心配をしたと嫌味に笑う。この広い都市で監視カメラもなしに個人を見つけるのは困難を極めた。

 

「今日の見張りは僕がしますよ。先輩もお疲れでしょうし――」

 

「ガイルスっ!」

 

 最近の癖で窓の下を覗き込んだとき、無意識の内に怒鳴っていた。偽名を呼び合うことも忘れ、身体中に緊張を張り巡らせる。

 

「ここの居場所を誰かに教えた?」

 

「そんなわけないですよ」

 

 ガイルスはすぐさま立ち上がり駆け寄ってくる。窓の下では大勢の影が蠢いていた。

 

 その数、見えるだけでも数十。規定の制服に帽子、腰には長剣。

 

 バレンティア騎士団。つまり憲兵だ。

 

「尾けられた――訳ありませんね。短時間で集められる量ではなさそうです。もしかしたら張られていたのかもしれませんね」

 

「原因を探っている場合じゃない。逃げるよ」

 

 くそ、またか。アンヘルは弱る心を叱咤し、近くにあった手荷物を握りしめる。剣を腰に佩いてすぐさま脱出する。

 

 ――そう思った瞬間。

 

 駆けだそうとする二人を嘲笑うかのように、部屋の扉が強く叩かれた。ぎくりとして男二人揃って扉を見る。心臓の鼓動が激しくなり、呼吸が途絶する。

 

 ノックの音が止んだ。一時の沈黙の後、扉の向こうから険しい男の声が聞こえてきた。

 

「こちらバレンティア騎士団だ。身元を改めたい。すぐさま扉を開くんだ」

 

 

 



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PAHSE2-2:裏切りの罪咎

「こちらバレンティア騎士団だ。身元を改めたい。すぐさま扉を開くんだ」

 

 階下に望む制服姿の憲兵たちは、皆一様に物々しい雰囲気で抜剣している。ごくりと何かを嚥下する音がする。眼球が乾砂のように水分を吸い込み、瞬き一つで神経が苛まれる。アンヘルは凍りついた身体で、ただ間抜け面を晒して扉の叩かれる方角を見つめた。

 

「此方に宿泊者がいることは把握している。指示に従わない場合、強制連行の措置を取る構えだ」

 

「……」

 

「十数える間に出てこなければ強行突入するぞ」

 

 強まるノックに身体が強張った。次いで、一、二と憲兵の男が数を唱える。アンヘルは外の相手を刺激しないよう小声でささやいた。

 

「僕とエマさんが二人で騒ぎを起こす。君はその隙に脱出しろ」

 

「先輩が、ですか? ここは全員一致協力したほうがいいのでは?」

 

「君の面は割れていない。相手方に人数を誤認させたほうが後々いいと思う」

 

「納得はできますがね」

 

 ガイルスは若干不服そうだった。

 

「何か手でもあるんですか?」

 

「なんとかする」

 

 説得している時間はない。アンヘルは寝ぼけているエマに駆け寄り、無理やり腕を引いた。

 

「捕まりたくなかったら付いてきて」

 

「ふざけないで。信用されるとでも思っているの!」

 

「死にたくはないでしょ」

 

 グッと右手を握ると体を捻りながら左耳の元にまで拳を近づける。握りしめた拳の力を解放するように手を開き、思いっきり腕ごと薙いだ。

 

 ――召喚。

 

 青白い燐光が迸り、狭苦しい部屋には似つかわしくないゲートが二つ出現する。人形大の円形の奥から少しづつその姿が露わになる。

 

 その姿は有り体に言って奇妙だった。その形は異様と形容して詮無かった。

 

 まず目に付くのは血のように紅い尾。浅葱と乳白色の混じり合う体色には合わず、禍々しくも物々しい。手足は歩くことを放棄したのか極度に退化し、飾りのようにぶら下がっているだけだ。代替進化と思われる歪な翼が広げられ、まるで植物人間のような半龍半人のような歪さは、根源からの怖気を誘った。

 

「な、に…………これ?」

 

 エマは瞼を瞬かせ、恐怖に慄くように一歩二歩と交代する。縫い付けられたように眼前の怪物へと視線が注がれていた。

 

 ――いくよ。ラディ

 

 天使のようでいて、龍のようでもある。自然界に発生した生物とは思われぬ歪な化け物が、今ここに現出した。

 

 種族名ラディウス。

 

 アンヘルは無言でエマの手を引っ張りながら、眷属の大きな尻尾に掴まった。

 

 もう一方から出てきた燃え盛る甲冑を纏う剣士「炎の魔剣士」に、床版を剣鞘で叩いて指示した。

 

「僕たちは上空から脱出する。騒がしく逃げ回るから、君はこっそり床をぶち破って一階に逃げて」

 

 当然のことだが、所詮機構の同僚にすぎぬ以上、召喚術の仔細など告げていない。士官学校五学年含めても数人しかおらぬ召喚士が、まさか同僚だと思いもよらないはずだ。だが、ガイルスは目をぱちくりさせた程度で、すぐに納得の色を浮かべた

 

「なるほど。大人しくしていれば一般客と紛れられるってことですね」

 

「連絡方法は?」

 

「明日の深夜、もう一つの隠れ家で会いましょう」

 

 静かに首肯するとラディが羽を揺らす。ふわりと宙に浮かんだエマが絶叫した。

 

「きゃ、何、なによ! ちょっと、変なところ掴まないで」

 

「やれ」

 

 炎の魔剣士が指示に沿って、天井と、ついでとばかりに床に向かって炎を振りまいた。衝撃と炎で天井が崩れ落ちる。すぐさまガイルスが階下に飛び降りた。

 

 エマの腰を強く抱く。彼女は必死に拒否するが、膂力では男に敵うはずもない。羽ばたくことすらなく、重力を忘れたようにラディが浮遊した。

 

 空高く舞い上がる。夜風の涼やかさが焦りで火照った身体を冷やした。慌ただしい憲兵たちがゾロゾロと追ってくる姿を小粒の大きさで捉えた。炎の魔剣士を召還しながら、必死に抱きついてくるエマを咎めた。

 

「ゆ、揺らさないでください」

 

 腕一本でラディに捕まっているせいで、状態はひどく不安定だ。この高さから落ちたら即死なので必死に宥める。

 

「ちょ、ちょっと! やめて、どこ触ってんのよっ」

 

「暴れないでって。あ、もう」

 

「ひ、た、高」

 

「下見たらダメだって! 言うことを聞いてってば」

 

「触らないで、ってだからやめて。下を見せないで! ああ、高いぃ。いやぁぁぁぁぁあ!」

 

 耳元で大きく悲鳴を上げられ、ぐらりと姿勢が傾く。それでさらにエマの悲鳴が高く弾ける。ラディがうざそうな視線をくれた。

 

 ――ああ、見つからないといいな。

 

 憲兵たちの姿が見えなくなるまでアークライトに向かって進んでゆく。

 

 闇の帳を下ろしたオスゼリアスの上空を飛んで、アンヘルたちは空の彼方へと旅立っていった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ファッション・ホテルから客が飛び出してくる様子は、そこら一帯を包囲していた憲兵ディアゴの目にもはっきり見えた。次いで、囲んでいた現場武装兵からけたたましい警笛が鳴らされると、赤い炎が立ちのぼり始める。

 

「ディアゴ隊長っ!」

 

「わかってる」

 

 見晴らしの良い場所に佇む部下が、上空に舞う塊を指差す。やはり脱獄の手段は召喚術か。にわかには信じられなかったが、こうやって直視してしまえば信じざるを得ない。

 

 唇を噛み締めながら、吐き捨てるように指示する。

 

「まずは消火だ。それから宿泊客や店員に怪我人がいないか確認しろ」

 

 慌ただしい部下の後ろ姿を眺めながら、士官学校の報告書から受ける印象と大きく違う犯人に対し、危険度をさらに上昇変更した。

 

 ――なんとも躊躇のない奴だ。

 

 被害はないだろうが、普通の人間なら泊っている宿に放火などしないだろう。脱獄の手段もそうだ。倉庫の爆破ゆえ死者こそ出なかったが、一歩間違えれば大惨事だったのだ。

 

 主張が下手、能力的には落第寸前、武芸にもそれほど優れていない。報告書を端的に纏めるとこの通りだ。

 

 だが、憲兵としての長い経験が、この男は数多くの修羅場を潜った戦士であると告げていた。こういう手段を選ばない輩ほど厄介な相手はいない。

 

 あのエマとか云う上科生と較べれば、なんと可愛げのないことか。

 

 これまでにない強烈な敵に対し、ディアゴは己の中の強い正義感を高ぶらせる。

 

 腰に佩く騎士団の誇り、それに手を添えながら、強い決意を示すように息を吐いた。

 

 ――この俺が牢獄にぶち込んでやる。

 

 その真横。逃げ惑う客に紛れた細身の男には、最後まで気が付かなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「落ち着きましたか?」

 

 水辺の側で青い顔をしているエマに飲み物を差し出す。目元は少しばかりの腫れが認められ、頬は紅潮している。上空という場所で失態を晒したのがかなり堪えたらしい。

 

 チュンチュンと小鳥の鳴き声を断続的に聞きながら、ゆっくり彼女の隣に腰を下ろす。小川の水が涼やかな音を奏でて、時折バシャンと魚が飛び跳ねた。

 

 夢にまで見た朝チュンを体験しながら、アンヘルはオスゼリアス外縁区の橋下にて、朝日が作り出す陰影を眺めていた。

 

(さあ、これからどうする、か)

 

 手を後ろについて息を吐いていると、か細い声が聞こえた。

 

「その……ごめん、なさい」

 

「いえ、ああいう体験ははじめてでしょうし」

 

 意識が曖昧にぼやける。現実と夢の境を彷徨っているように思考が定まらない。時折白線が視界を遮り、壊れたブラウン管のように途切れ途切れの映像を脳内に投射してくる。

 

 身体の感覚は靄を掛けられたように気怠く、だというのに目は興奮で異常に冴えた。腕を上げて伸びをすると、関節の弾ける音と共に疲れが僅かばかり消える。何度となく繰り返した気休め、その場かぎりの行為に縋りたくなるほど、疲労は蓄積していた。

 

 そのまま背後に倒れ込む。土で服が汚れるが、もはや如何でもよかった。

 

「すいません。服を買ってくれば」

 

「ううん」

 

 彼女の服装を横目で確認する。裾が擦り切れたボロのワンピースは、当初の爽やかな印象など見る影もない。生々しい肢体が端々から覗いていて、大通りを歩かせることは憚られる姿だった。

 

「後で調達に行きます、なにか希望でもあれば」

 

「なんでも、大丈夫」

 

 エマは体育座りした膝に顔を埋めながら小さく呟く。その瞳は小川を流れてゆく落ち葉を眺めていた。

 

「そうですか」

 

「……」

 

「お腹空きましたか?」

 

「……」

 

「昨日から何も食べてないですよね?」

 

 気まずい静謐が支配する。小粋なジョークでもと思って、咄嗟に親父ギャグが出た。

 

「朝食が取れなくて、超ショック……すいません」

 

 瞳に鋭い光が宿ったのを見てすぐ謝罪する。結局、事務会話に徹した。

 

「僕たちの事情は昨日説明した通りです。現在、我々は組織立って、サイレールの摘発に注力しています。私が貴方にやったことを許していただけるとは思っていませんが、それも陰謀阻止のためのことでした。これはエマさんにとっても益の多いことです。協力の暁には減刑をお約束しますし、国家のためにも意義あることだと思います」

 

「……」

 

「協力は、していただけませんか?」

 

「……」

 

「あの……」

 

「……一つだけ、聞かせて」

 

 静かに聞いていたエマだったが、ゆっくり腰を浮かせて距離を取る。

 

「貴方、一体何者なの? 如何して私たちを調査していたの?」

 

「説明したと思いますけど?」

 

「誤魔化さないで」

 

 彼女は肩膝立ちとなり、さらに警戒を強めた。

 

「述べた通りです。僕たち秘密警察機構はバアル教団が流通させている『サイレール』を調査していました」

 

「それは聞いた。私が知りたいのはそんな建前じゃない」

 

「調査した原因はサイレール摘発のための学内平民派の監視でした。ヴァレリオットさんも調査しましたし、リカルドさんも調査しました。その結果貴方が浮上しました」

 

「それも聞いたわ」

 

 エマの目に剣呑な光が宿り始める。

 

 思考を遮っていた眠気を気合で吹き飛ばして、険しい表情で睨んだ。

 

「なら何が知りたいんですか?」

 

「貴方の正体よ」

 

 すっと短剣が抜かれた。鋭い銀光が入ってきた。彼女は逆手で抜いた短剣を真正面でクロスさせながら、特殊部隊の隊員のように近接格闘術の構えを取った。

 

 それを受けて、ぶっきらぼうな口調に変える。

 

「士官学校ではクナル班所属。特殊警察機構においては特務随行員の立場。これ以上に隠し事はしていない」

 

「そんなことを聞いてるんじゃないの!」

 

 エマが両拳に力を込めながら、ヒステリックに叫んだ。

 

 ビリビリと鼓膜が震える。エマは汗と汚れでヘタれた髪を激しく振り乱しながら、目の端に大粒の涙を浮かべた。

 

「貴方は何なの! 一体何者なのッ? 私は学内にいる召喚師なんて数人しか知らない。ラファエル、ガルバロ、オービス。皆超有名人よ。アンヘルなんて名前、聞いたことない!」

 

「それは……」

 

「何が起きているのかわかんないのよ! いきなり逮捕されて、次の日には脱走して、それから告白してきた男の子がまさかスパイ? ぜんっぜん意味わかんないの!」

 

 バシャンと一際大きな水の飛沫が飛び散る。地面を叩くエマの足が地面の振動をもたらし、畔に落ちていた石が川へと沈んだためだった。

 

「リカルドとずっと話してた。いい奴だな、優しい奴だなって。気弱で、おっちょこちょいで……でも、芯のある奴だって! それが――」

 

 エマが血走った目で短剣の先を見据える。ゆらりと戦闘態勢になった。

 

「全部、ぜんぶウソ。リカルドと楽しく話していたのも、私に告白したのもぜんぶウソ!

 あいつはね、君のことを友達って呼んでた。あいつが士官学校の同期をそんな風にいうところはじめて見た。寂しいことだけど、士官学校ってそういうところだから。でも、いつか私にもそんな友達ができたらって思ってたの!」

 

 ボロボロと涙が溢れてゆく。彼女は涙を拭うこともせずキッと睨み続ける。

 

「なのに、なんで!」

 

「すみません」

 

「――今更謝ったって!」

 

 顔を泣き腫らしながら、エマが突っ込んできた。

 

 涙ながらも鋭い殺気を伴う動きに身体が反応する。しゃがみ込むと短剣を躱す。こめかみの横を通過した短剣がくるりと反転。鋒が脳天を狙っている。

 

 肘で相手の腕ごと刃を阻止すると、すぐさまエマがサマーソルト。脇腹を狙った足を強化で防ぎ、そのまま掴んで投げる。

 

 ゴロゴロと地面を転がったエマは、立ち上がりながら絶叫した。

 

「なんなのよ貴方はっ! こんな力があってずっと――」

 

 右ストレートを首だけで躱す。彼女はそのまま飛び上がると、下段、上段、大上段と連続で回転蹴り技を繰り出す。着地した彼女の額には大粒の汗が浮かんでいた。

 

「こうやって、強いくせに皆を騙して。それで優越感に浸っていたのね」

 

「僕は貧民だ、だから――」

 

「だったら、自分が見下してないって言い切れる? 嘲笑っていなかったって言い切れるのっ!」

 

 エマが大きく跳躍。逆手に構えた短剣を両手で持ち、飛び上がりながら突き刺してくる。

 

 その手首を必死に掴む。勢いを殺しきれず地面に押し倒された。腰元にのし掛かったエマが、渾身の力で鋒を突き刺そうと力を込めてくる。

 

 殺意と嫌悪の篭もった瞳が揺れている。目元から溢れる雫がアンヘルの頬を濡らした。

 

「僕だって好きでやっているわけじゃない。すべてはバアル教団の陰謀を暴くためだ」

 

「便利な免罪符ね、それっ」

 

「どういう、意味だ」

 

 鋭いナイフにドクンと心臓が高鳴った。息もできず、嘔吐するように反駁する。

 

「なんでもしていいんでしょう? 建前があれば、友情を裏切って、恋心を踏み躙って問題ないんでしょうっ!」

 

「君には悪いことをしたと思ってる。けど、しょうがなかったんだ!」

 

 ギチギチと鋒を止める腕から筋肉の軋む音。力比べでは勝てそうにないと判断した彼女は、短剣を持つ両腕に体重を乗せた。

 

「そうやってずっと言い訳してきたんでしょう。心を弄んで、ずっとずっと――」

 

「僕だってやりたくなかった!」

 

「ウソよっ――貴方はそうやって周りを利用してきた。ええ、そうよ。貴方は天性の嘘つき。人でなしよ。貴方を好きになった女の子が、不憫でならない!」

 

「――ッ君になにがわかるっ!」

 

 魂まで切り裂くような糾弾にたまらず絶叫する。彼女の顔に軽蔑が強く浮かんだ。

 

「何もわからない。知りたくない。けどね、貴方みたいな人は周りを不幸にする。過去を振り返ってみなさい。皆不幸だったでしょ! 皆を不幸に、したんでしょ!」

 

「黙れ!」

 

 過去を揶揄するような発言に怒髪天をついた。過去の記憶が掘り起こされてゆく。心の奥底に封じたはずの塗炭の苦しみが引き出されてゆく。

 

 マカレナ、イズナ、テリュス、ホアン、オスカルにユーリ。あらゆる顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。

 

 頭がガンガン揺れる。魂が引き裂かれるような痛みを覚える。心臓を貫かれたような叫びをあげる。

 

 壊れる。

 

 壊れそうだった。

 

 これ以上言わせてはならない。気付いたとき、反射的に身体が動いていた。

 

「僕のことが、君なんかにわかってたまるものか!」

 

 必死に抑え込んでいた短剣を右にそらすと、エマの脇腹を思いっきり殴りつけた。痛みに喘ぐ彼女へ頭突きを食らわせて、身体の上から退ける。背筋だけで跳ね上がるように立ち上がると、駆け出して彼女の右脇腹を蹴り付けた。

 

 はぁはぁと荒い息を吐く。激憤に染まった声を放った。

 

「僕は今まで最善を尽くしてきた。努力してきた。君みたいに平穏な暮らしをしているやつが、僕を非難するな!」

 

「言うじゃない、劣等生の分際で」

 

 肩袖で口元の血を拭いながら、エマが吐き捨てる。

 

「いくらでも言ってやるわ。貴方の所為で周りは不幸になっていくのよ!」

 

「君にだけは言われたくない!」

 

 アンヘルは闘牛のように突撃の態勢を作ると、クラウチングスタートの要領で掛け出した。

 

 エマがカウンターとして突きを繰り出す。その瞬間を見計らって、両手の力だけで地面を叩き進路をずらした。

 

 刹那の合間で創出した隙に思いっきり突っ込む。肩にエマの腹部が衝突して、彼女は肺の空気を残らず吐き出した。

 

 そのままトリケラトプスのような突進でエマを持ち上げると、畔の傾斜を転がって小川の中に彼女の身体をぶち込む。

 

 相手の捲れ上がったスカートも気にせず膝で片腕を押さえ込むと、近場の木の枝を眼球の真上に添えた。さらさらと流れる水に浸した男女は、田舎の川で遊ぶ和気藹々とした雰囲気はまるでなく、さながら血の河で切り結ぶ勇者と魔王だった。

 

「これで、満足? なら殺しなさいよ」

 

 エマが力を抜いて水面に全身を委ねる。怒りで突きつけた枝がフルフルと震えた。

 

「たとえ力では敵わなくても、永遠に怨念を吐き続けてやるわ。貴方の所為で皆不幸になる。貴方は不幸を呼び寄せる男なのよ!」

 

「なら、君こそどうなんだ!」

 

 女の頬を空いた手で思い切り張った。胸倉を掴み上げて怒鳴り散らす。

 

「君のやっていることはなんだ! 周りを騙して『サイレール』密売に手を染めている。たしかな証拠はなくても現状推定有罪だ!」

 

「そんなの知らないって言ってるじゃない!」

 

「そんなわけないだろ! 君のことはずっと調査していた。夜に出歩く君の姿、リカルドの周りで怪しい人間が彷徨いていたのは確認されている。君こそリカルドを騙す一人なんじゃないのか!」

 

「そんなわけない! 私は――」

 

「なら、なんであの廃倉庫にいった! 君が追っていたあの男は誰だ!」

 

「それは……」

 

 アンヘルは枝を放り捨てて、唇に接吻するほど近い距離で見つめ合う。自分の激怒が相手の瞳に反射して映る。

 

「サイレール密売は超一級犯罪だ。君こそまわりに迷惑を掛けているだろ」

 

「だから、知らないって……」

 

 エマの声が弱々しくなってゆく。さらに頬を張った。

 

「そんな言い訳が通じると思っているのか!」

 

「わかんないったら、わかんないの!」

 

 悲鳴のような絶叫が劈く。エマの瞳に戦意が戻った。

 

 彼女は川の中に落ちていた石で頭を殴りつけてきた。脳震盪によって視界がぶれる。ゴロゴロと転がり、小川の中で両手をついた。

 

「私はリカルドの周りに起きている変な事件を調べていただけ。だから夜中に抜け出していたの!」

 

 水を吸った服の裾を絞りながら、エマが立ち上がる。額を石で切ったのか鮮血を滴らせているも、その戦意に翳りはない。

 

「密売所を回った理由もそれか」

 

「そうよ。何かが行われているみたいなのは掴んだの!」

 

 ゆらりと幽鬼のように立ち上がる。転がった際に抜けた肩を無理やり嵌めて、バシャバシャと小川を進んだ。

 

「なら、あの廃倉庫を見つけた理由はなんだ!」

 

「兄さんを追いかけたの!」

 

 ――にい、さん?

 

 一瞬、予想外の返答に判断を見失った。飛びかかってきたエマの回し蹴りがテンプルに直撃する。神経を抜き取るような衝撃にたたらを踏んだ。

 

「家族が心配だったの!」

 

 更なる追撃に血を撒き散らす。

 

「兄さんはずっと、ずっと引きこもってた! だから、外に出歩いて大丈夫か心配だったのよ!」

 

 脇腹に右踵がめり込んだ。膝をつきながら、必死に後ろへ跳ぶ。エマはさらに激昂した。

 

「それの何がいけないって言うのよ!」

 

「――ちょ、ちょっと待って」

 

 突如として降ってきた情報によって、まるで血中に液体窒素でも流し込まれたかのように思考がクリアになる。

 

 彼女の手を掴み取りながら慌てて尋ねた。

 

「兄さん、ってもしかして君のお兄さん? 五つ上のイーサクお兄さんで間違いない?」

 

「そうよ!」

 

 険しい顔のエマが必死に抗っている。アンヘルは両腕を脇に抱え込みながら、額を寄せた。

 

「イーサクさん。つまりエマさんのお兄さんで、リカルドの義理のお兄さんでもある。今はリカルドの実家で家業を手伝っているって調査にはあったけど……」

 

「だから何なのよ」

 

「お兄さんは外出の形跡がなかった。けど、実はあった。そういうこと?」

 

「そうよ!」

 

 ――繋がった。

 

 リカルドの周囲で起きる事件の数々。金剛流や東方流など、平民派と繋がりの強い人物が中心にいると考えられていた

 

 だが、リカルドが怪しいとは考えにくかった。彼はそういう陰謀とは程遠い性格であるし、上位陣としのぎを削る以上、活動に力を注ぐことはできなかった。

 

 親族というのは盲点だった。一応父親エドゥアルドに関しては調査したが、時間が足りずガイルスはシロと断定。イーサクは「貧民街の獣」事件以来、半引きこもりのような生活をおくっているらしく、調査早々標的から外されたのだ。

 

 もしも彼が中心人物であれば、リカルドの知り合いに怪しい動きをするものがいても不自然ではない。

 

 やっと『サイレール』撲滅の筋道が開かれた。あのバアル教団の陰謀を潰せる。

 

 あとは彼女を説得するだけだ。なんとかして、彼女を――

 

「このままじゃ、リカルドが死ぬぞ!」

 

 静謐の支配する朝焼けに怒声が響いた。怒りで我を忘れていたエマの瞳に理性が戻る。

 

「どういう、こと……」

 

「そのままの意味だ」

 

 掴んでいたエマの腕を振り回して投げる。綺麗に着地しながらも、動揺を隠せないエマの顔を見つめた。

 

「君は忘れているようだが、超一級犯罪における首謀者は連座が通例だ。君の兄イーサクさんがサイレール密売の首謀者、もしくはそれに近しい人物なら、義理の弟であるリカルドも必ず罰を受ける」

 

「でも、イーサク兄がやったと決まったわけじゃ」

 

「そんなことを言っていられる場合じゃない」

 

 エマは目を伏せたまま、苦悶に眉をゆがませた。

 

「現状では裁判制度に期待などできない。憲兵や司法は全州会議に向けて事態の沈静化を必死に図ろうとしている。冤罪でも、略式裁判で死刑になる可能性は十二分にある」

 

「でも」

 

「拙い言い訳はやめてくれ」

 

 彼女の中に燻っていた炎が消えている。落ち着いた声でゆっくり語りかけた。

 

「君は現状、推定死罪だ。君の追っていたイーサクさんがもし見間違いでも、それは変わらない。脱獄、捜査妨害、不審行動。捕まれば、君はほぼ確実に死刑宣告を受ける」

 

「それは貴方がっ」

 

「現状から目を逸らすな!」

 

 その怒声にエマは肩を震わせる。血の気が引いたように顔を青ざめさせていた。

 

「君が留置場に留まっていれば、嘘の自白を強制されていた。僕もそうだ。非正規秘密警察に属する以上、任務失敗は見捨てられるのと同義だ」

 

「そんなの、わかんないじゃない」

 

「そう思うなら、今すぐにでも捕まってみたらどうだ。でも、少しでも周りのことを考えられるなら、冷静に行動してくれ。これはチャンスなんだ。あの廃倉庫で、君は殺されそうになっていた。つまり、何かしらの事実を掴んでいる可能性があるんだ」

 

「そういって、誤魔化すのね」

 

「もしもその情報によって事態の収拾が図られれば、総督令恩赦によって、君の死罪は免れる。お兄さんが首謀者だとしても、彼の罪を島流し程度に減罪できるかもしれない」

 

「……」

 

「僕を許せないなら、好きなだけ恨めばいい。好きなだけ殴ってくれていい。でも、君にとっても協力することは最善だ」

 

 エマが感情を凍らせた瞳で立ち尽くす。しばらくの間、無言で互いの瞳を見つめ合った。息積もる沈黙。服から滴る水滴が、小川の流れに飲み込まれていった。

 

 長い沈黙の後、彼女は絞り出すようにいった。

 

「あなたを、信じられない」

 

「信じる必要はない」

 

 エマは返す言葉を失っていた。静かに小川をかき分け、彼女に手を差し出す。

 

「僕たちは友人じゃない。無論、恋人なわけでもない。互いに目的が合致しただけの、利用し合うだけの関係だ」

 

「ビジネスライクってこと?」

 

 小さく首肯する。アンヘルにとって彼女の兄の罪など如何でもいいことだ。それは相手も同じで、サイレール摘発など知ったことはないだろう。

 

 此方は情報を手に入れる。相手は恩赦を期待して協力する。ただ、それだけの関係。そこに信頼などあろうはずもない。

 

 少し前、紛いなりにも男女の友好を交わし合っていたのは幻だったのか、つくづく皮肉な状況だった。

 

「僕が死んでも君は目的を果たせばいい。君にとって僕は路傍の石と変わらないんだ。当然、僕も同じように動く」

 

「非道ね」

 

「自覚はある」

 

「……わかった、わ」

 

 エマは無表情だった。静かに此方の手を取る。その手は意外にも熱かった。

 

「貴方のためじゃない。自分の為、兄さんが関係ないと証明するため。それが、協力する理由」

 

 それでいいと頷く。人が協力するために必要なのは情じゃない。利害だけだ。それは、男女であっても変わらない。

 

 握手を交わして合意した。その手を離そうと引くが、彼女はそれを許さなかった。むしろ引っ張り込まれる。

 

「けど、約束して」

 

 気付いたとき、黒髪に隠れた瞳が此方を睨みあげていた。

 

「私はあなたが最低だって知ってる。私たちを騙していた人でなしだって」

 

「そう、だね」

 

「――でも、リカルドは違うわ」

 

 とん、とエマが身体を押した。深瀬に足を取られて、身体がよろめく。

 

「リカルドは何も知らない。だから――」

 

 彼女の黒髪が綺麗に舞った。

 

「だから――いつかどんな形でも謝ると、約束して」

 

 エマの身体が沈み込む。深瀬に取られていた足を払われて、身体が重力に引かれるだけになった。視界の端に彼女渾身の右フックが映る。

 

 ――やばっ。

 

 鼻先から爆竹でも食らったような熱が広がる。一発くらいは仕方ないか。その痛みを甘んじて受け入れたアンヘルだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「相変わらず美しい光景だ」

 

 光悦を浮かべた男は巨躯をかがめ、狭苦しい店内に足を踏み入れた。

 

 三尺もない、狭い陳列棚の合間を縫う。両脇の武具は鈍色の光を放ち、今にでも血を吸いたいと叫んでいるように見えた。物々しい品から曰くのありそうな妖刀まで、逝かれた収集癖を証明するかのようだ。禍々しい愛刀もこの中に入っては埋もれてしまうやもしれぬと、男は一人頬を緩めた。

 

 鋼のような美貌を持つ男――クナルは、店内を横切り、さらに奥の鍛造所まですすむ。炉に火も入れず椅子でうたた寝している男を叩き起こした。

 

「おお、テメェか。相変わらずデケェな」

 

「私の愛刀はどうなった」

 

「完成してるぜ。ちょいと待て、あんなバカでけえモン俺一人で運べないんだよ」

 

 店主であるウィルキンはゆっくり立ち上がると、受付や店舗護衛らと一緒に身の丈ほどある大曲刀を運んできた。

 

 クナルはそれを受け取って、刀身をゆっくり撫でる。漣を打ったような波紋に重厚感。輝く鈍色の刀身を受け、妖艶に微笑む。

 

「おい、絶対にここで素振り――」

 

 するなよ、と忠告される前に振っていた。周囲の大気を巻き上げるように鋼が降る。遅れて暴風のような闘気が迸った。

 

「て、てめぇ」

 

「素晴らしい出来だ。この感触こそ愛刀よ。無論、レイシャルも悪くないがな」

 

 大曲刀を背負う。ビビった様子の護衛と怒り心頭のウィルキンを発見した。ちなみにだが、レイチェルというのはサブ長剣の名前である。

 

「店をぶっ壊しやがったら、十倍にして弁償させるからな」

 

「その時は間抜けに請求しておけ」

 

「……金貸しの俺がいうのもなんだがよ、てめぇ絶対ロクな死に方しねえぞ」

 

「屠殺場よりは上等な死地を迎えると思うが?」

 

「……まさかと思うが、俺が豚と同じ死に方をするって言いたいのか? ふん、俺はそんな醜くもなけりゃ、飼われるような弱さは持たねえよ」

 

「知らぬのか? 豚は三匹も揃えば狼も喰らうほど凶暴であるうえ、意外に綺麗好きだぞ」

 

 鼻白む店主を無視してクナルはさっさと踵を返す。

 

「金を払うまで一歩も店の外には出さねえぞ!」

 

「間抜けにツケておけ」

 

「本当にロクな死に方しねえぞ――ってちょっと待ちやがれっ」

 

 ドタドタと駆け寄ってきたウィルキンは、肩をむんずと掴んだ。

 

「待て待て。アイツにツケはもう効かねえよ」

 

「なぜだ?」

 

「テメェ、知らねえのか? 今日商工会ギルドのほうから連絡が回ってきたが、あの野郎憲兵どもに手配書回されてやがる――っち、昨日知ってたら請求額を上乗せしたのによ」

 

「だからどうした」

 

「……アイツから回収できねえんだよ。そら、アリベールの嬢ちゃんも今までの借金くらいは支払ってくれるだろうが、これからの分支払うとは限らねぇ。つまり、テメェは金を出すしかねえのさ」

 

「ふむ、道理だな」

 

 クナルは一度だけ振り返って、しかし何もせず踵を返した。

 

「おい、テメェ」

 

「ヴィエント家に間抜けの名でツケておけ。あの女ならなんとかするだろう」

 

「はぁ? ヴィエント家っておい。意味わかってんのかっ!」

 

 完全に無視して店の外に出た。街角は昼時の飯を求めて彷徨う人ばかりで熱気が鬱陶しい。初夏に差し掛かりつつある証拠に湿気が髪を粘着かせた。

 

 周囲の女性から向けられる黄色い歓声を、まるで路傍の石でもみるような無機質な目で無視し、一人先ほどの発言を振り返っていた。

 

(っち、あの間抜けめ。一人で愉快なことに巻き込まれているとは腹立たしいな)

 

 それと引き換え、クナルに予定されているのは大して面白味のない小隊戦である。ラファエルだか、なんだかが宣戦布告に来たような、来なかったような。そんな記憶を掘り起こした。

 

(不幸吸引機がないと、事件もそうそう起きん)

 

 アンヘルが聞いたら「それはそっちだろ」とブチギレそうな発言をしながら、雑踏の中を眺める。

 

 そこに二つの人影を認めて立ち止まった。背中の大曲刀に手を伸ばす。

 

 二つの人影も同じように立ち止まった。周囲の人々が左右を通り抜けてゆく。しかし、クナルと二つの人影だけは別の空間に切り取られたように静寂を保っていた。

 

 猛禽のような鋭い笑みを浮かべた男が進み出た。

 

「報告を聞いたときもしかしたらと思ったけれど、本当に同郷だったのね」

 

 やけに高い声だ。女性的な長い緑の黒髪に褐色肌。上背は一八〇以上ある。肩が露出し、胸元の大きく開いた服を纏っている。筋骨隆々とした肉体からは、奔流のようなエネルギーが渦巻いていた。

 

 背中にはクナルと同じ巨大な大剣。同族、それを強く意識した。にやりと口を歪める。

 

「アルトゥール。ここで騒ぎを起こすつもりか?」

 

 後ろにいた男が詰問した。神経質そうな男で黒いローブを纏っている。司祭のような風貌だが、前髪が長く陰湿そうで、どこからどう見ても真っ当なミスラス教徒には見えなかった。

 

「いいじゃない。標的を見つけたのよ」

 

 アルトゥールと呼ばれた男が小さく駄々をこねる。

 

「根拠はなんだ?」

 

「強いて云うなら、勘かしら」

 

 返答を鼻で笑うと僧服の男は踵を返しながら「行くぞ」と高圧的に告げるが、一向に動こうとしない相棒を見て苛立ちを露わにした。

 

「まさかと思うが私に逆らうのか?」

 

「そんなつもりはないのだけれど、下手人を見つけたのよ。何もしないでいいの?」

 

「お前は私に従えばいい」

 

 アルトゥールと呼ばれた男はお手上げとばかりにハンズアップ。僧服の男はさっさと雑踏の向こうに消えていった。

 

「ふふ。また会えるのが楽しみね色男さん。同族のコレクションなんて三体目かしら。こんどは血の沸く戦場で――ああ、お仲間の使徒さんにも宜しくね」

 

 チャイナ服のようなスリット深めの服を翻し、男が去ってゆく。雑踏の中にはクナル一人だけが残された。群衆は誰一人気付いていなかったのか、何気ない元通りの街角が戻ってくる。

 

 その中で、クナルは鮮烈に笑っていた。

 

(あの邪龍からの連環か。間抜けがまたネギを背負ってきたな)

 

 強く匂い立つ戦いの気配を感じて、退屈だった日常が色付いてゆくようだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 正午になって、アンヘルたちはようやく行動を開始した。

 

 古着屋で調達した麻の上下はいかにも貧民といった装いで、デートのときの初々しさは消し飛んでいた。無論、二人の間に漂う空気が変わってしまったのも一因ではあるのだが。

 

 人通りの多い街角を進みながら、輻射熱による微かな陽炎をみる。隣では、帽子を被ったエマが視線を慌ただしく散らしていた。

 

「エマさん、あんまり周囲を見ないで。いつも通り胸を張って歩けば大丈夫だから」

 

「でも、こんな真昼だし」

 

「精巧な写真があるわけじゃないし、憲兵は不審者を職質するものだよ」

 

「写真?」

 

 アンヘルは手をひらひら振りながら忘れてと返す。興味を失くした彼女は少しの間言いつけ通り真正面を向くが、すぐに警戒を始めてしまう。

 

 自意識過剰だ。他人というのは凶悪犯の人相より箪笥に小指をぶつけることを心配する。此方側に気を払っていないのだから斟酌するだけムダだ。アンヘルは首を回しながら、確認を重ねる。

 

「君が廃倉庫で聞いた話だけど」

 

「また? もう隠し事なんてしてないわよ」

 

「情報の整理こそが肝要だよ」

 

 手を立てて頼み込む。押しに弱いのか、下手に出られた彼女は嫌そうな顔をしながら説明を開始した。

 

 あれから一悶着あったものの、アンヘルはなんとか事情を聞き出すことに成功していた。仮の逢引の別れ際、実兄らしき人物を見かけたこと。廃倉庫で不穏な情報を聞いたこと、などを話してくれた。

 

「その“自由、平等、忠国しからずんば”っていうのは、救国主義のキャッチコピーだね。あと神罰、もしくは天罰とか言ってれば確実だと思うけど」

 

「襲撃とか、元老院はどう云う意味?」

 

「それはまあ、いつか議員を襲撃するんじゃない?」

 

「じゃないって、適当ね」

 

「僕らの目的はサイレールだから。あとはまあ、追々って感じかな」

 

 肩をすくめて見せると、エマは失望したような顔をした。国の狗のくせして忠誠心に薄いのがムカつくらしい。

 

「あとはどう? 援軍とか、魔剣だとか言っていたけど」

 

「現状じゃなんとも。襲撃のための戦力急募ぐらいしか想定できないなぁ……それよりも、イーサクさんの関与についてはどう?」

 

 頬を掻くエマが気まず気に目を逸らした。アンヘルの脳髄にイヤな予感がよぎった。

 

「あれだけやり合っておいて恥ずかしいけど、正直イーサク兄かどうかわかんないのよね」

 

「え゛、そうなんですか?」

 

「なんで敬語なのよ」

 

 気味の悪そうな顔で彼女が一歩引いた。

 

「だってしょうがないじゃない。兄さんって引きこもってるから一年近く会ってないし。そもそも暗かったし、別人って言われても納得できるわ」

 

「それは、不味いなぁ」

 

 乾いた笑いが漏れた。もしもイーサクが無関係ならば、現状、無意味に指名手配されていることになる。ちょっと笑えない状況だ。

 

 二人して話し合っていると、ようやく目的地に辿り着いた。アンヘルは門の前でそれを見上げる。

 

「本当に行くの?」

 

 エマが不安そうに尋ねた。

 

「虎穴に入らずんば虎子を得ずっていうでしょ?」

 

「貴方って諺で返すの好きよね。それが格好いいと思う年頃なのかもしれないけど、一々話の腰を折っているだけってこと、知っておいた方がいいわ」

 

 ぎくりと顔を強張らせる。

 

 もしかして、馬鹿の一族格言帳披露癖が移ったのだろうか。それなら死にたいほどの屈辱である。洋風袴でも捲ってやろうかと内心思った。彼女はズボンなので意味ないが。

 

 そんな葛藤を無視して、エマは慣れたように屋敷の扉に手を掛けた。

 

 庭の外側に張り巡らされた白塗りの煉瓦壁。高さ六尺程のそれは、一般的な小学校の校庭ほどの敷地を囲んでいる。中に聳え立つは木造と煉瓦造りの入り混じった家屋。質実剛健と言わんばかりのそれは、ところどころ黒の柱が埋め込まれており、岩のように厳しい。

 

 別になんでもない住宅地区にある建物。門の横には闊達な字で「金剛流道場ドモン道場」と書かれている。リカルドの実家の道場は、二度目にもかかわらず気圧されるような荘厳さがあった。

 

 ぎいっと門の横に備え付けられた勝手口を開き、エマが顔だけを覗き込ませる。気勢の乗った雄叫びが道場の方から飛んでくる。彼女はその反対側、家人たちが暮らす屋敷の方角を伺った。

 

「誰もいないわ」

 

 ちょいちょいとエマが手招きする。二人はそっと敷地の中に滑り込んだ。

 

 壁伝いに庭内を見物し、時折現れる門弟らを茂みの中でやり過ごす。西日が差し込む縁側にまでゆくと、広い洋風庭園に辿り着いた。

 

 暖色の赤煉瓦の路に映える花々。時節に合わせたそれらは丁寧に手入れされているのか、剪定に跡がそこかしこに見受けられた。路の端には小さな如雨露が落ちている。先ほどまで誰かが水をやっていたのだろう。

 

 目的の人物はその庭園の中にひっそり佇んでいた。

 

「何者ですか?」

 

 アンヘルたちが忍び寄ると、背を向けたまま鋭く警告した。

 

 壮年だが、やけにはっきりした声だった。その男がゆっくりと振り返る。

 

 年老いており、髪は側頭部を残して禿頭になっている。優し気な風貌にきらりとした頭はどこか冴えない先生のようだが、ピンと伸びた背筋は、武に長ずるものであることをはっきりと示している。

 

 その物腰、知性に武威。失礼ではあるが、テリュス家の道場主とは別格のカリスマが伺える。

 

 リカルドの父エドゥアルド。

 

 彼は招かれざる客の姿を認識して、意外そうな顔をした。

 

「あなた方は……」

 

「ご無沙汰しています。エドゥアルドさん」

 

 エマが静かに頭を下げる。エドゥアルドは戸惑いを引っ込めると、優しい微笑みを浮かべた。

 

 ふわりとした花の香りが立ち籠める。頭を上げたエマは彼の目をじっと見つめた。

 

「イーサク兄のことを、伺いに参りました」

 

 

 



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PHASE2-3:先達の事実

「いつか、こんな日が来ると思っていました」

 

 昼間の閑静な住宅地区からは人々の騒めきなど響こうはずもない。道場から届く気合いの雄叫びも今日はどこか侘しい。あでやかなほどに豊かで美しい沙羅の木が、白い花を咲かせていた。

 

 縁側に腰掛けたエドゥアルドは、屋敷西に張り出して設けられた板敷状の通路に腰を下ろし、美しい庭園が一望できる場所で息を吐いた。

 

「アンヘル君、と仰いましたかな? 娘のブリヒッテのことはすでにご存知で?」

 

 同じように縁側へと腰掛けたアンヘルは首を縦に振る。真横に座るエマは膝を整え、沈鬱といった雰囲気で固く組んだ両手を見つめていた。

 

 ブリヒッテ。

 

 エドゥアルドの娘にして、リカルドの五つ上の姉。エマと似て――というよりはエマが憧れて伸ばしている――長い黒髪を持ち、穏やかな性格の持ち主であるらしい。今二十二歳となるその人はエマの実兄であるイーサクの婚約者でもあった。

 

 もしも彼女が生きていれば、の話だが。

 

「そうですか。私としても繰り返したくはない話なので、助かります」

 

 二年前。つまり、ブリヒッテが二十の頃だ。イーサクと婚約していた彼女は、彼の師範代昇段に合わせ結婚式を一ヶ月後に控えていた身だった。

 

 彼女は敬虔なミスラス教徒であった。祝日は教会へ奉公に出かけ、貧民街の炊き出しに参加することも多かったらしい。彼女は誰に対しても分け隔てなく接し、弱者に手を差し伸べるような清き心を持っていた。誰もが彼女を愛していた。

 

 けれど、悲劇の暗がりは容赦なく彼女を襲った。

 

 晴れた日だったらしい。いつも通り、イーサクは敬虔に奉仕する彼女を見送った。貧民街はいま危険だから。そう忠告したが、「神様が助けてくれるわ」そう返したそうだ。神父や護衛に囲まれる炊き出しで問題など起きないだろう。そう信じたのが、間違いだった。

 

 人生の絶頂期にある筈の彼女を引き裂いたのは、アンヘルにも関係の深い魔の凶手。マカレナと共に解決した悪魔祓い、その名も「貧民街の獣」であった。

 

 一夜の捜索虚しく、翌日、彼女は惨たらしく凌辱された状態で発見された。

 

 亡骸の前で跪くイーサクの慟哭は、もう見ていられなかったほどだったらしい。自らの頬を爪で引き裂き、無限に叫び続ける彼の前には、彼女と身に宿した愛の結晶があった。

 

 事件はあっさりと貧民街の獣の一件として片付けられた。それどころか、女ひとりで貧民街などを歩くからだなどと誹謗中傷の限りを尽くす人まで現れたそうだ。

 

「もう古い事件なので覚えていらっしゃらないかもしれませんが、実は不可解な点がいくつかあったのです。息子イーサクは独自調査し何度も憲兵に直訴いたしましたが、犯人の発見には至りませんでした」

 

 貧民街の獣が標的としたのは茶髪の、それも身分の低い商売女ばかりだった。一方、ブリヒッテは黒髪で、上流階級に生まれた信徒だった。

 

 イーサクは憲兵の欺瞞を疑い、必死に一人で犯人を追走した。

 

 貧民街の獣が犯行に及んだ可能性も視野に入れ、日夜貧民街に張り込み続けた。何日も何日も、安宿に泊まり込んでは町中の監視を続けた。

 

 二ヶ月経ち、執行者の手によって獣討伐の報が届き、さらに数ヶ月経ってなんの手掛かりも得られなかった。彼に残ったのは、調査で得た貧民街の縁だけだった。

 

「引きこもっていたんじゃ、ないんですか?」

 

 顔を上げたエマが震え声で尋ねた。

 

「彼を癒やしたのは、私たちの励ましではなかったのです。忌々しい現世を忘れ、美しい過去の思い出に、縋ってしまった」

 

 イーサクは薬に溺れた。

 

 記憶の中の美しい夢に縋るしかなかった。

 

 今流行りの禁止薬物ではなく、品質の悪い薬に手を染めた。覚えている思い出、ブリヒッテとの楽しい思い出だけを糧に息を繋いだ。それを義父として止められなかったらしい。

 

「私は彼にお金を与え続けました。ブリヒッテを事件に巻き込んだのは蝶よ花よと育てた私の責任ですし、私自身、彼の主張を信じていました。憲兵の調査は杜撰だ、その主張を……これも言い訳ですね。私は結局、娘を思い出させるイーサクを遠くに追いやりたかった。道場を経営し、調査させていれば、辛いことを思い出さずに済んだ」

 

 それが半年。イーサクの放蕩は長く続いた。名門の婿ということもあり、醜聞は避けたい事情もある。家人を心配させまいと最初は病気療養、後に引きこもりという理由を作って周囲を欺いていたらしい。

 

 当のイーサクは、徐々に帰宅する頻度が減っていった。最初は抜け殻のようだった身体や心が、ふと気付いたときには別人のようになっていたらしい。

 

「もう手遅れでした。イーサクは、どっぷり思想に浸かり込んでいました」

 

 突然帰ってきたイーサクは、声高にこう唱えたそうだ。「世の中が悪いのは元老院の政治の所為だ」「憲兵は国の狗だ」「司法は金の言いなりだ」それは流行の救国主義と同じである。

 

 己を癒す過程で、事件を解決に導かなかった憲兵や国家を憎む思想に共感した。

 

 そうして、愛しい人と共に生きる師範代は変貌し、革命を目指す救国の志士が誕生したのだ。

 

「人が変わったようでした。彼の憲兵への怨念はもはや、恨み骨髄に徹するほどです。私がどれほど言っても動かすことはできませんでした。憲兵が諸悪の根源などではないのに……」

 

 一際強く風が流れた。この庭園は、今は亡きブリヒッテが手掛けたものだったらしい。そこに咲く一輪の花が風に煽られ、茎ごと地に落ちる。

 

 それを見ていたエドゥアルドは、その老齢といっていい身体を折り曲げ、うっうっと嗚咽を漏らした。

 

「これは、私の不徳ゆえ引き起こしてしまったことです」

 

 イーサクは変わってしまった。

 

 道場内で俄かに流行り始めていた思想の種を見つけると、すぐさま声を掛けたそうだ。不幸は山のように転がっている。エドゥアルドは見つけるたび何度もやめさせようとしたが、過激な思想を持つ輩を何人も勧誘して、半年前から家に顔を出すこともやめてしまったらしい。

 

 涙ながらに老翁はそう後悔した。イーサクの苦しみを、執心をわかってやれなかったことを。ただ一人、息子の苦しみをわかってやらず、道場の経営に向かったことを。

 

「現し世は不条理の塊です。権力の魔手から運命の御告げまで、多種多様な蜘蛛の巣が我々無辜の民が落ちてくるのを手ぐすね引いて待っています……私はもう年老いた。若い頃夢見た軍統治を諦め、そんなこともう当然のことだと受容していたのです。だから彼の憎しみ、情熱をわかってやれなかった。私は、指導者失格です」

 

「エドゥアルドさん……」

 

 苦しそうにエマが呟いた。彼女が背中を撫でると、白髪混じりの禿頭を何度も下げた。

 

「本当に、申し訳ありませんでした。私にできることがあれば、なんでもするつもりです。ですから――」

 

 涙に濡れたその男が顔を上げた。苦悩に満ちた瞳がアンヘルをじっと見つめた。

 

「息子を、イーサクのことを、宜しくお願い致します」

 

 

 

「一つだけ宜しいですか?」

 

「なんでしょう?」

 

 事情を伺った後屋敷から辞そうと縁側でブーツの踵を叩いたとき、エドゥアルドは声を掛けてきた。

 

「他にわかっていることはないのですか?」

 

「他、ですか?」

 

「ええ」

 

 といって、エドゥアルドは俯いているエマを見た。彼女は衝撃的な事実に目をうつろにして、意味のある言葉を紡ぐことはできそうになかった。

 

「現状ではイーサクさんらしき人物が発見されたことしか手がかりはありません。いえ、本当のところイーサクさんだったのかも判明していない状況です」

 

「他には?」

 

「ええと、どういう意味でしょう?」

 

「彼女から、何か聞いていないのですか?」

 

「え、ええ。エマさんは兄のイーサクさんを見ただけだと……ああ、もしかして発見された元道場生の方のことですか?」

 

 エマを助ける際、元ドモン道場の門弟にして、イーサクに過激思想を吹き込まれたと思われる者二名を斬り殺している。新聞や役人の御触れが矢鱈めったらにアンヘルたちの犯行を訴えているから、それを聞き及んだのだろう。

 

「お悔やみ申し上げます。ですが、その……」

 

「え、ええ。その通りです。不幸ではありますが、公権に逆らったのですから。言いにくいことをすみません」

 

 胸をなでおろした顔のエドゥアルドは、過去道場に所属していた過激派志士候補の名簿を渡してくれた。

 

 彼の姿を背後にエマと共に屋敷を辞す。帰り道は彼が手配しただけあって、あっさり敷地の外に出られた。

 

 中心街のほうに向かってゆくと、いつもの騒がしい喧騒が戻ってくる。全州会議が近いからか、どこかお祭りムードすら漂っていた。

 

 今まさに、天地を揺るがす大事件の最中とは伺わせない日常。その中にあってアンヘルたちは平和を壊す異物に他ならない。

 

 根本に宿る動機は違えども、紛いなりとも平穏のため身を尽くすアンヘルたちが、こうやって追い回されるとは皮肉なものだ。自分たちを追い越してゆく群衆を、ただ虚な瞳で眺めるしかなかった。

 

「ブリヒッテ姉さんが死んだとき、世の中にはこんな悲しいことがあるんだって思ったわ」

 

 気がつくと真横に並んでいた筈のエマが居ない。声のした方角へ振り向くと、彼女は感情の抜け落ちた顔で立ち尽くしていた。

 

「でも、兄さんからしたら、私の悲しみなんて大したことなかったのよね」

 

「エマさん……」

 

「忘れて。貴方には何一つ関係ないことよね」

 

 髪を後ろに束ねた少女は、まるで世界に楽しいことなど一つもないのだとといわんばかりの能面で呟いた。

 

 アンヘルは閉口した。何一つ励ますことはできなかった。

 

 少女の、しかし、その年では深すぎる闇を背負った彼女の無機質な表情を、ただ見つめるしかなかった。

 

「エドゥアルドさんの為にも、兄さんを止めるわ」

 

 彼女は此方を斟酌せず置いてゆく。その孤立無援の背中を見てしみじみ感じるのは、なんとしてでも事件を解決してやるという決意だった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「さってと、後はニコラスの所に行くか」

 

「まだ遣るんですか? 全方向を敵に回しますよ」

 

「それで首席を取ってこそ、ってね」

 

 ニヤリと男らしく笑った男――ラファエルは、腕組みしながらピューピュー口笛を吹いている。子供っぽい仕草にため息を吐きつつも、文句を語る口を噤んだ。

 

 隣からはやる気のある声。どうやら自分とは違って、その人物はラファエルの全面対決姿勢を歓迎しているようだ。まあ、こういう好戦的な態度を含めて採用したのは事実なのだが……

 

「楽しそうね」

 

「モチのロンやっ――やなくて、そう、です。フェルミン隊長」

 

 ガッツポーズしながらも拙い敬語に訂正したのは、今季新たに採用した旧七八エルサ班のユウマだった。彼女は括った唐紅の髪を揺らしながら、戦意揚々と瞳に強い光を宿している。

 

 子守がもう一人増えた。頭を押さえながらがっくり肩を落とすも、隣のユウマは心労を察することはなかった。

 

 現在、超重量級の大槌を使うユウマの為、士官学校御用達の小隊戦専用の武器を仕入れる店の帰りである。その他雑事が細々、旧班とは大きく様変わりした陣容によって、フェルミンに休まる暇はない。

 

(はあ、やっぱりラファエル隊長の所に入れて貰えればな)

 

 班の面子が大きく入れ替わったのは、晩秋のロヴィニ紛争の一件で裏切り者が出たことを端に発する。連中に対するルトリシアの怒りは相当のものであり、略式裁判の後、串刺し刑へ処された。フェルミンとしても一切同情はしていないのだが、唯一裏切らなかった一名以外――しかもその一名は実力不足で追い出そうと思っていた――全取っ替えとなってしまい、編成に苦労していた。

 

 ただ、そこで湧いた淡い期待。もしかしたらラファエルとの合同班がなし崩しに実現するかも考えていたが、新年度に入って梯子を外されたのだった。

 

 ――だって、フェルミンと俺が組んだら絶対首席になっちまうだろ?

 

 どうやら彼は真っ向勝負に拘るところがあるらしい。その根源には、ハーヴィーの偉業が関係しているようだ。

 

(ルトリシアさまに憧れるのはわかるけど、絶対無理に決まってるのに)

 

 実現不可能な夢と個人的願望が相まって、近日は苛立ちが募ってしょうがない。それでも助けてしまうのは、惹かれた者の性だと割り切るしかなかった。

 

「クナル班みたいに相手にされませんよ。ニコラス君いつもクールですし」

 

「いや、アイツはなんだかんだプライドが高いタイプだ。内心では食いついてくるだろ」

 

「そうですかね?」

 

「それよりもクナル班だな。クナルを筆頭にベップ、ソニア、それから……」

 

 彼は静かに全員の名前を述べる。ラファエルが全員を把握してる小隊など数える程しかない。宣戦布告時、クナルの眼中になしといった態度といい、序列一桁のフェルミンでも、どこか別格と気圧される雰囲気があった。

 

 ラファエルはベップと同門であり、成績以上の能力を持つことも知っている。邪竜の烙印を見抜いたアルバ、エルサ班の立役者ソニアと一人一人が油断ならないなことは、しみじみと感じていることだ。そしてもう一人、ラファエルが個人的感情から気にしている人物のことも。

 

「そらもうウチらの班長やからね。やなくて、元班長ですので」

 

「あー、良いって。実力で評価してるから、敬語はいいよ」

 

「ダメです。私たちは候補生なんですから」

 

「固っいなぁ。でもユウマ、そんなペラペラ仲間のこと喋って良いのか?」

 

「ウチらは親友と書いてライバルと読むんよ。そやからぜえったい手加減なんかせえへんの」

 

「そんなもんかねぇ」

 

「だからユウマさーん!」

 

「あ、堪忍やって隊長」

 

 どうやら怒気が漏れていたらしい。青い顔でユウマがペコペコ頭を下げていた。

 

 ラファエルが気楽そうに笑っている。彼はこういう豪胆な所があるから、周囲に喧嘩を吹っかけても問題にならないのだろう。しょうがないなと再びため息を吐き、士官学校への道を辿る。

 

「へえ、これが噂の使徒さまなのかしら? 顔はまあままだけれど、あまりオーラはないわねぇ」

 

「条件に合致するのはコイツだけだ。黙って働け」

 

 唐突に気温が下がった。

 

 街角の一角から姿を現したのは、僧服の男とクナルに似た褐色の大男であった。

 

 あきらかに堅気の者ではない。ラシェイダ族、にしては銀髪ではないが、褐色の大男は一族特有の魔物狩り用の大刀を持ち、筋骨隆々といった肌を惜しげもなく晒している。魔道具による産業の革命が始まった現在、衣服は文明の証明だ。諸肌を晒すのは、帝国人的に卑しい身分を証明するに足る。間違いなく、特異部族出身者だろう。

 

 僧服の男はさらに陰気、といった印象か。いや、殺伐だろうか。右手にボードを持ち、眼鏡をかけているところからは一種官吏に思えるが、とげとげした口調からは全人類を見下すに足る何かを持っているようにうかがえた。

 

 能天気ムードだったラファエルの顔にヒビが入る。しかし、それで済んだのならマシだろう。フェルミンの身体は凍結したように動かなかった。

 

「何者だっ!」

 

「あらあら、怒っちゃって可愛いわねぇ。でも、やっぱり違う気しかしないわ。だって子猫ちゃんみたいなんですもの。せめて豹ぐらいはないとねぇ」

 

「その婉曲した言い方をやめろ。アルトゥール」

 

「はいはい。ま、一撫でしてあげましょうね」

 

 身を乗り出す大男は、ゆったりと背中の大剣に手を回し、ぐぐっと持ち上げてゆく。巨大な鉄塊を持ち上げるため、肉塊といって筋骨隆々の腕に筋が浮かんだ。

 

 男が大きく一歩を踏み出した。その瞬間、強烈な闘気が迸った。

 

 知らず気圧され、のけぞっていたフェルミン。ラファエルは抜剣こそしたものの、初動は鈍い。

 

 そのとき、真横から一つの影が飛び出した。ユウマだ。彼女は巨大な模擬戦用の戦鎚で襲い掛かった。

 

「あら?」

 

「ウチがまず相手やっ!」

 

 弾丸のような速度で飛び込んだユウマは、戦鎚を大きく旋回させて戦鎚で殴りつけた。実力的には小隊内で一番とは言えぬが、瞬間火力だけならラファエルすら上回る戦槌。その一撃が相手の頭上に降った。

 

 背後から見ていたフェルミンの目に、無防備な体躯へ打ち込む姿が映る。そして轟く衝撃波。びりびりと波濤のように広がるそれを感じてから、その結末がどうなっているのかを直視した。

 

 あのユウマの一撃を受けたのだ。絨毯爆撃でも受けたような惨殺死体が広がっている。そんな想像をしたが、現実は驚嘆すべきものだった。

 

 ユウマの大槌がピタリと動きを止めている。涼しい顔をした大男と事態を受け止められないといったユウマの顔。まさに想像の埒外としか形容しきれぬものだった。

 

 大男は片腕で巨大な戦鎚を受け止めていたのだ。

 

「ウソ、や。ウチの“ぐるぐるタイフーン”を真正面から……」

 

「逃げろユウマ! お前の敵う相手じゃないっ!」

 

 呆然と呟いたユウマ。妖艶に微笑んだ大男はぺろりと舌で唇を舐めた。

 

「せっかちなお嬢さんねぇ。あんまり節操のない子は、お仕置きされちゃうわよ」

 

 目にも止まらぬ一撃だった。片腕で戦鎚を跳ね除けるとその巨体を沈め、大きく飛び上がるように無防備なユウマの脇腹にその拳を埋めた。ごっと肉を打つ鈍い音に骨を砕くような高い音。口から血を吐きながら彼女の身体が浮き上がる。

 

 何があっても柄から離さない彼女の戦意を、たった一撃で折った。地面に蹲りながら血反吐を撒き散らすユウマを巨躯が見下ろす。彼の手がギロチンの刃を掲げた。

 

「退屈ねぇ」

 

「くそっ!」

 

 巨大な大剣が振り下ろされる寸前、ラファエルが駆け出した。

 

 凡人には視認すら難しい速度。解き放たれた矢のような素早さで駆け抜けると、呪文を唱えながら猛進した。

 

 一瞬、視界が稲妻で埋め尽くされた。金属の打ち合わされる高い音と鋭い火花。同時に後方から眷属が出現し、火の粉を飛ばした。

 

 炎の小悪魔、パイロデーモン。小さな体躯に赤色の体表の割合可愛らしい姿だが、邪悪な性格と炎がまったく愛らしくないラファエルのナンバーツーである。主人と従僕による阿吽の連携を受けて、大男は不気味に微笑んだ。

 

「下がってばかりの腰抜けじゃなくて良かったわ」

 

 引き抜いた大剣で一撃を受けた大男は、繰り出された火の粉を身を翻して躱す。続けざまに地を蹴って飛び上がると、大剣を軸に回し蹴りを叩き込んだ。

 

 爪先がラファエルの胸骨に埋没すると勢いそのまま眷属ごと弾く。紙切れのようにすっ飛んだ主従は空中を一回転して仰向けに転がった。

 

 小悪魔から仄かに立ち登る燐光。規定以上の負傷によって異界に送還される証であった。

 

 肋骨が肺に突き刺さったのか、激しく痙攣しながら血反吐を吐くラファエルは、憎々しげに肘を立てなんとか起きあがろうとした。

 

 大男はユウマの髪を掴み上げながら、興味の失せた瞳で大剣を肩に担いだ。

 

「得体の知れぬ相手に対して、戦力の温存は下策と教わらなかったかしら? それとも、もしかして全力だったの?」

 

 素面と変わらぬ態度の大男を見て、背中に氷塊でも落とされたような戦慄が走った。

 

 思い出されるのはオウルらの姿だ。フェルミンにとって人相手の実践といえば、彼らがはじめてになる。彼らは悪虐にして非道の徒であったが、戦端を開いたとき、高揚感や殺伐とした内心が漏れ出ていた。

 

 だが、この男たちの雰囲気はまるでお使いにでも行くような、気負いのないモノなのである。

 

 生か死か。

 

 殺し合いの最中にあっても平常を維持できる彼らは、実力云々以前に只人ではない。

 

 なんとか気合いで引き抜いた長剣の鋒が恐怖で震えるのを止められなかった。

 

 ぽいとユウマを投げ捨てると大男がラファエルへにじり寄ってゆく。かちゃりと鍔が鳴った。

 

「舐めんじゃ、ねえ!」

 

 地に伏せたままだったラファエルが吠えた。鼻筋に獰猛な皺を寄せて唸ると、頭髪を逆立てんばかりに咆哮したのだ。

 

「俺は士官学校で首席になる男。こんなところでくたばって居られるかっ!」

 

 召喚。ラファエルは啖呵をきった。

 

 再び開かれるは極大の門。ラファエルの相棒にして巨大な赤龍ティラノスは、小さな小屋ほどもある体躯を縮めながらのっそりと姿を顕した。

 

 大きく広げられるは巨大な翼。地響きがなるほど破壊的な咆哮。爪の一本一本が、耕運機の爪のように鈍く光る。地面を鋤くのもやすいのだ。人肉など簡単に穿つ。煉獄の龍鱗と重量級の身体は、まさしく竜種に相応しい威容である。炎の息吹を吐きながら、大地を揺らして炎龍が歩んだ。

 

「ほう、三段階目の姿か。感じる力から考えて進化してすぐだな」

 

「あら、お眼鏡に叶ったみたいね?」

 

「アルトゥール、お前は言語も理解できんのか? 私は進化したばかりだと言った筈だぞ。コイツがカオスを倒せるわけがない」

 

 僧服の男が巨大な炎龍を見上げながら、陰鬱といったばかりの細面を縦に揺らしている。

 

「調査はまだ継続だが……この男、火属性に龍とデーモンを従える能力は珍しい。総召喚数が一体とはいえな。洗脳するから確保しろ」

 

「あらあら、興醒めね」

 

「私に逆らうのか?」

 

 極度に冷たい空気が僧服の男から吐き出される。アルトゥールはひょうきんな表情で戯けて見せた。

 

「はいはい。仰せの通りに」

 

 巨躯を沈めると、一直線にラファエルへ駆けた。

 

 まるで獣だ。一見剛力の戦士だが、速度でもこちらを上回る。

 

 フェルミンの目には小さな影が蠢いたようにしか感知できなかった。そして気付いた時、ラファエルは首を支点に釣り上げられていた。

 

 ラファエルの口から苦悶が漏れる。ニタリと微笑んだアルトゥールは大剣の鋒を眷属に向けた。

 

「ほら、召還なさいな。じゃないと死んでしまうわよ?」

 

「だ、だれ、がッ」

 

「あら、死ぬよりはマシだと思うけれど?」

 

 何よりも獰猛な筈の炎龍はピタリと動きを止めが、送還される気配はなかった。

 

 わかっているのだ。送還してしまえば勝機はない。寸でのところで睨み合う両者。

 

 脅しつけるよう、その厳しい手が食い込む。ラファエルは顔を真っ赤にしながらも、血走った目で戦意を失わなかった。

 

 そのときである。けたたましい警笛が辺りに響き渡った。

 

「御用、御用っ!」

 

「過激派の襲撃だっー!」

 

 周囲が急に騒々しくなる。警邏隊や憲兵の笛が激しく鳴らされ、ドタドタと武装兵の足音が耳に届く。視界の端には列を成して走ってくる集団が見えた。

 

「引くぞ」

 

 僧服の男が静かに告げた。

 

「あら、いいのかしら?」

 

「こんな遊びで計画を台無しにはできん。この男はあとで回収に来ればいいだろう」

 

 騒ぎを聞きつけた周辺住民が通報したのか。他勢に無勢と感じた二人はラファエルを放り投げると身を翻した。

 

「隊長っ!」

 

 倒れ込むラフェエルに駆け寄って抱き起こす。彼はギリギリのところで堪えて居たのか、プツンと意識が途切れた。

 

 呻くようなユウマの声が聞こえる。何か恐ろしいことが起きようとしている。フェルミンは昂る恐怖と闘いながら、二人の去りゆく方角を睨み続けた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 吹き荒ぶ風が木々の葉を擦れ合わせ、ざぁとした音を奏でる。枝の合間からは煌々と輝く星空が覗いていた。

 

 ぶるりと身体を震わせる。全身はヒンヤリと冷えていた。

 

 夜の川水は痛いほどの冷たさで、こうやって服を着ても身体の芯は凍ったままだ。

 

 向こうでは今頃エマが水浴びをしているのだろう。想像上の生々しい肢体が脳裏に描かれるが、その魅惑的な妄想に取り憑かれることなく腕組みして木に凭れかかっていた。

 

「報告は?」

 

「ご主人さまったら、いつもいつも性急ですね」

 

「……報告は?」

 

「はいはい。仰せの通りに」

 

 エドゥアルドとの面会を終えて五日。アンヘルたちの捜査はとくに進展があるわけでもなく、夜な夜な逃げ回る日々を送っていた。

 

 食事も満足に取れず、身だしなみを整える時間もない。今日は三日ぶりに汗を流した所だった。

 

 街を気軽に出歩けないというのは不便なものである。日に日に疲弊してゆく精神を鑑み、イズーナを物資調達係兼調査係として使っていたのだった。

 

「――ということです。サイレールを取り扱っている者たちは見つかりませんでしたわ、ご主人さま」

 

「そう。やっぱり、彼女に頼むしかないか」

 

 しな垂れかかるイズーナを払い退けて、独り言のように呟いた。

 

(くそ、この忙しいときにガイルスは何をしているんだ)

 

 手に入れた名簿やイーサクの話を聞いたガイルスの反応は、どこか素っ気なかった。しかもそれ以来、連絡の回数が減っている。此方にまで情報が降りて来ていないため判然としないが、全州会議に合わせて侵入してきた武装勢力の特定、もしくはそれ以外の別件に心血を注いでいるらしい。なにやらナキアが失敗を犯し、その対処に追われているようだが。

 

(もう少しで敵の尻尾を見つけられるそうなのに)

 

 思考に耽っていると眼前に居たイズーナの気配が消えていた。背後からざっざっと草木を踏み音が聞こえる。その足音は近くで止まった。

 

 振り返ると、しっとりと髪を濡らしたエマが険しい顔で腕を組んでいた。

 

「覗いてないでしょうね」

 

「してないよ」

 

「どうだか。信用できない」

 

「協力者でしょ?」

 

「貴方の劣情まで面倒は見ない」

 

「だからあれはわざとじゃないって」

 

 この態度にはある事件が関係している。前回の水浴びの際、エマが物陰に隠れていた蛇を踏んで大声を出したのだが、それを敵襲と勘違いしたアンヘルは立ち入り禁止を無視して突入してしまったのだ。

 

 目にしたのは、月光に照らされる白い肉体。小ぶりといって差し支えない胸部に淡い蕾。滴り落ちる水が鎖骨に溜まり、やけに艶かしかったのをよく覚えている。

 

 辛うじて下着は着用していて事なきを得たものの、二日ぐらいは完全無視されるほどの事態となった。

 

「寒くなかった?」

 

 幾度も繰り返した逃げの手を打つ。

 

「誤魔化したわね」

 

「……問題ないんだったら行くよ」

 

「待ちなさいよ」

 

 無視して歩き出すと、エマが走り寄ってきて横に並ぶ。結局寒かったのか、鳥肌がうっすらと立っていた。

 

「本当のことを言ったらどう? 覗いてましたって」

 

「だから違うって。僕、君にあんまり興味ないし」

 

「はぁ? なによそれ?」

 

「脈なし胸なしにはアプローチしない派なの」

 

「覗いた時のこと思い出してんのね!」

 

 頬を染めたエマが両手で胸を隠した。どうやら変な妄想をしていると思われたらしい。ちがうと首を振って否定する。

 

「やっぱり気にしてるんだ」

 

「どういう意味よ?」

 

「この前見たよ、夜中一人でマッサージしてるの。一応言っておくけど、揉んで大きくなるっていうのは迷信だから」

 

 エマの拳がプルプルと震える。怨念のように言霊を吐き出した。

 

「起きてたのね」

 

「周りの動きには敏感な方だから。もし続けるなら、これからはもっと静かにやったほうがいいよ」

 

「死ね!」

 

 突き出された拳を掴み取る。悔しそうにエマが地団駄を踏んだので、意地悪く笑ってやった。

 

 彼女はふんと鼻を鳴らしてそっぽをむく。相当機嫌を損ねたのか、のっしのっしと今日の寝床に向かっていった。

 

 ――脈なしは否定しないんだね。

 

 その背中を見て、少しだけ寂しさを感じる自分が情けなかった。

 

 わかっていたことだ。

 

 悪夢を見てうなされる時、彼女はいつも彼の名を呼ぶ。ふとしたときに見せる、辛そうな顔もそうだ。彼女はそれを隠すようにそっぽを向く。こうやって憲兵から逃げ回るのがどれほど苦痛なのか。男のアンヘルには痛みを半分もわかってやれない。だというのに、自分は何もしてやれない。

 

 彼女の心に入ってゆくことはできない。彼女とリカルドの間にある絆の中には。

 

 それを知ってもなお、ゼロにはできない心の動きには嫌悪しか覚えなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 リカルドが送迎用馬車の扉を勢いよく開くと、梅雨のじめっとしたぬるい風が煽られ、雨の匂いがすっと鼻腔に吸い込まれる。

 

 馬車が停車したのは、貴族系の高級宅地が居並ぶ一角だった。

 

 眼前の知り合いが住む館は、用があっても訪れたい場所ではなかったはずだった。しかし今、現実として此処にいる。今更ながら、いがみ合っていた過去が嘘のようだった。

 

 どこから現れたのか、主人の帰りを知った使用人たちが一目散に駆けてきた。同じように馬車から降りたヴァレリオットは、

 

「客人はどこかな?」

 

 と慣れたように指示する。先導する使用人を追って、リカルドたちは屋敷の応接間に入る。保守派らしい宗教画と豪華な蝋燭台の飾られた部屋の中には、男が一人暖炉前の椅子に手を組んで座っていた。

 

 その中年の男は此方の入室に気が付くと、立ち上がって一礼してみせた。ヴァレリオットは軽く挨拶すると、男を紹介してくれる。

 

「こちらバレンティア騎士団第三隊のディアゴ副隊長。現在、現場武装隊を率いていて、エマ候補生ら容疑者を追跡する任に当たっている」

 

 おっほん、とディアゴが大きく空咳をした。

 

「今は隊長に任ぜられております」

 

「ああ、これは失礼を」

 

 ヴァレリオットは白皙の顔を微妙に歪めると、その後軽くリカルドを紹介してから着席を促した。使用人から茶請けと紅茶が出てくる。部屋の主人が一口飲むと、ここに集まった本題がはじまった。

 

「それでディアゴ隊長。取り敢えず捜査の進捗状況を教えていただけるかな?」

 

「はあ、あまり部外者には立ち入らせたくないのですが……」

 

「これは貴方にとっても益のある話だ。そうは思いませんか?」

 

 リカルドは示し合わせたように頷く。緊張からか、手先からは血の気が引いている。

 

 その折れぬ意思を確認したディアゴは、ぼやくように語り始めた。

 

「まあ、報告も行っているのでしょうが、あまり状況は宜しくありませんね。初日の夜こそ貴方の情報で補足できましたが、それ以降は目撃情報が上がるぐらいで、一度も邂逅できとりません。中々厄介な連中ですよ」

 

 目撃情報が上がった場所、泊まっていたと思われる宿は確認したが、すでにもぬけの殻。監視対象である平民派の志士とも接触した様子はないことを説明する。

 

 アンヘルたちの立場は、平民派というよりはむしろ憲兵側に近い。ガイルスら秘密警察機構の援助を知らぬとあって追跡は困難を極めた。

 

「じゃあ、エマを見つける手立てはないってことなのかっ!」

 

 怒鳴り声を浴びたディアゴが目を丸くしている。

 

「落ち着くんだ」

 

「だが」

 

「焦っても結果はついてこない。まず冷静になるんだ」

 

 席に座り直す。ディアゴは気まずそうに腕組みしていた。

 

「手がないってわけじゃないんですがね。どうも貴方がたの情報と違って、エマって云う候補生主導では動いとらんみたいですな」

 

 ディアゴが説明するところによると、提供したエマの行き先はあまり機能していないらしい。アンヘル側主導で行動していることを懇切丁寧に説明した。

 

「というわけで、情報が全然集まっとらんのですよ。言い訳するようで申し訳ないんですがね」

 

「それは妙だな」

 

 ヴァレリオットは白い顎を摩りながら、小首を傾げた。

 

 これまでの憲兵からの報告によれば、アンヘルに平民派の影は確認できなかった。ということは両者共に巻き込まれているだけの筈である。能力、性格を鑑みてもエマが主体となって動いていると推測していたところだった。

 

「あまり上官の御子息に講釈を垂れるようなことはしたくないのですがね。私は士官としての能力と厄介さというのは別物だと思っとります」

 

「ふむ、そうなのかな?」

 

 納得していないヴァレリオットを諭すよう、神妙に頷く。

 

「世の中怖いのは強い奴でもなく、凶暴な奴でもなく、歯止めを忘れられる奴なんですわ。一見普通に見えて、いざってときは迷わず突っ走ってくる。士官学校じゃどうか判りませんが、憲兵にとっちゃ厄介な奴ですよ」

 

 世には家族の為、恋人の為ならなんでもできると嘯く連中は多いが、実際に手を染められる連中は少数である。人間どれだけ切羽詰まったとしても、できるのは銀行強盗ぐらいで結局、殺人には躊躇する。さらに非道な道、親友の妻を誘拐したり、娘を奴隷商人に売り飛ばしたりは早々できまい。

 

 ディアゴは犯罪捜査において、そういう見境のない連中がもっとも厄介であると述べた。

 

 部屋に掛けてあった古時計が時間に合わせて鐘を鳴らす。荘厳な音が室内に響き渡った。

 

 序列主義に染まっているヴァレリオットは納得こそしないものの、そんなことは細事とこの面談を持った本題に入る。つい先日、リカルドらで相談した内容を実行に移そうというのだ。

 

「ディアゴ隊長。何人増員できれば、見つけられますかな?」

 

「はい? ……まあ五十、いや余裕をもって百も居れば」

 

「ふむ。ではリカルド、私が八十出す。君は二十集められるんだったな」

 

「あ、ああ」

 

 現在、全州会議に集まった議員や使節護衛のため、憲兵の多くはアンヘルたち追跡に人員を注ぎ込めない状況だ。それを解決せんがための一手。リカルドたちは人脈を使って、捜査に協力しようというのだ。

 

 年齢的には若く、捜査能力もないが、戦闘能力だけなら憲兵を優に上回る。それが百名。それを聞いたディアゴは仰天した。

 

「だが、いいのか?」

 

 算段をつけるヴァレリオットに尋ねた。

 

「言っただろう。君が小隊戦で一度敗れてくれればいい。これは取引だ」

 

「いつもいつも徹底しているな」

 

「ふ、言ったはずだがね。君に勝つならどんな手でも使って見せると。これは、その一手に過ぎないんだよ」

 

 ニヒルに笑いながら、ヴァレリオットは胸を張った。

 

 強烈な既視感にリカルドは吹き出す。やっていることも、言われたことも同じ。だが、あの時とは違って、確かな友情を彼に感じたのだった。

 

 ――待ってろ、エマ。絶対、俺が助けてやるからな。

 

 

 

 




〇わかりにくい家族構成

・リカルド家

父: エドゥアルド
母: 故人
長女:ブリヒッテ
息子:リカルド

・エマ家

父: ミカルゲ
母: リスナ
長男:イーサク
娘: エマ

ブリヒッテとイーサクが幼馴染で婚約者
リカルドとエマが幼馴染


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PHASE2-4:パーティー会場を見つけたら

「こんなとき、どんな顔をすればいいのかしら?」

 

 その声は地底に響くように冷え冷えしていた。

 

「笑えばいいと思うよ」

 

「頭がおかしくなったの?」

 

「そこはにっこり微笑む場面だよ」

 

 眼前の女性は冷たい目で見据えるだけだった。おそらくだが、こういわれて微笑む奴はファンか綾波ぐらいだろう。

 

「馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたのだけれど、まさか逮捕されるほどだとは私も思っていなかったわ」

 

 闇に溶かしたような濡烏の髪を靡かせる女性――アリベールは手に持っていた決済用の羽根ペンを置き、気怠そうに前髪をかきあげた。

 

 人間性を減らすような寒いセクハラをかました翌日、アンヘルたちは高級住宅地に聳える屋敷、スリート商会邸宅にやってきていた。

 

 部屋は相変わらず瀟洒で、黒檀の執務机の上には大量の書類。応接用と思われる革のソファは先日の寝床より遥かに心地よいだろう。壁際の書棚には難解なタイトルが並ぶ。知能指数が下がりそうな少女趣味の本が混じっているのはご愛嬌といったところか。

 

 眼前にはアリベールの他に護衛の男が二人。片方はイマノルで、もう一人は記憶になかった。両者とも極度に顔の神経を張り詰めさせ、こちらの一挙手一投足に反応を示している。むず痒い態度に襲われ頭の後ろを掻くと、促されるまま応接椅子に腰掛けた。

 

「それで、そちらの彼女は……」

 

 アリベールの目がエマを見据える。アンヘルを見た時の呆れたような視線ではなく、非常に刺々しいものだった。

 

「その、すみません。お世話になります」

 

 恐縮したようにエマが頭を下げる。眉を顰めたアリベールだったが、荒々しく腕を組んだだけだった。

 

「……まあいいわ。それで、なんの用かしら」

 

「少しお願いが」

 

 気まずい内容に声のトーンが下がる。アリベールが深いため息を吐いた。

 

「また借金? そろそろ破産させるわよ」

 

「そこをなんとか」

 

「はぁ、わかったわ。言ってみなさい」

 

 立ち上がって懐の書類を取り出す。とそこで、護衛二人が険しい顔つきでアリベールまでの道筋を遮ってきた。

 

「何やってるの、貴方たち」

 

「いえ、ですがお嬢さま」

 

「貴方たちも知り合いでしょう。彼は暴れたりはしないわ」

 

 護衛たちは顔を見合わせる。渋る彼らの言い分はこうで「いつもと人相が違っているから」だそうだ。

 

 それはそうだ。伸ばしっぱなしの無精髭はだらしないし、満足な食事を取っていないから頬は痩けているかもしれない。日中は隠れ忍んでいるから、肌は日焼けが抜け、けして健康的とは言い難いだろう。そこまで考えて、ある思考から逃げている自分に気づいた。

 

(そういう意味じゃないな)

 

 恐らく、彼らが言いたいのはアンヘルたちが纏っている雰囲気のことだろう。隠れながら反撃の手を伺う今の顔つきは、顔見知りでも気圧されるような凄絶さがあるのだ。

 

「いいから邪魔よ。それとも出ていくのかしら?」

 

 雇用主からの最後通牒を受けて、二人は引き下がった。さくっと手渡して元の位置に戻る。アリベールは受け取った書類を見て苦い顔した。

 

「これ、本気なの?」

 

「無茶なのはわかってる。けど、どうしても必要なんだ」

 

 書類に書いたのは、「ジオグラフィカル・トレーサー」と呼ばれるグリックス商会製の最新式魔道具だ。直径三十センチほどの円形で、それと連携する拳大の魔道具に現在位置を知らせる発信機である。

 

「これが十個、ね。返す当てはあるんでしょうね」

 

「なくは、ない」

 

 ルトリシアから借りて、それを返済に当てよう。もし彼女から返済を迫られれば、今度はアリベールから借りよう。そんな無限錬金術を想像した。人はこれを自転車無操業と呼ぶ。

 

「三日頂戴、それまでに準備しておくわ。受け渡しはどうするの?」

 

 こちらが折れないことを確認したアリベールは再度深いため息をついて、小さく頷いた。

 

「君が貸してくれた隠れ家に運んでおいて」

 

「そう、わかったわ」

 

 背凭れに大きく腰掛けたアリベールは、それっきり仕事に戻った。さっさと出ていけという合図らしい。

 

「ありがとう」

 

「お礼なんかいいわ」

 

(心配なんかしてないか)

 

 ちょっと冷たいその態度。いつもと変わらないその態度が今は無性に心を癒した。寂しさがあるのも事実だが、普通の態度が一番助かる。もう一度礼を言ってから立ち上がった。

 

「絶対になんとかしなさいよ」

 

 感情の籠った声に振り返る。声の主は羽根ペンを持ったまま、しかし、その手をまったく動かさず机の一点を見ている。怜悧だった瞳が大きく潤んでいた。

 

「――じゃないと、許さないから」

 

 ほとんど掠れて聞こえなかった細い声が、アンヘルの心臓を掴んだ。ぎゅっと絞り込まれるような痛みが呼吸を途絶えさせる。どくんと心臓の鼓動が響いてきた。

 

「じゃないと……」

 

 彼女の頬を雫が伝ってゆく。ぽろぽろ溢れるそれが、机の上に滴り落ちた。

 

 ――ごめん。

 

 その泣き姿を見ないよう、足を動かす。先ほどの軽率な自分を恥じた。何が少し寂しいだ。その浅慮に死にたくなるぐらいだった。

 

 大商会をこの年で動かすアリベールにとって、自分は唯一といってもいい友人である。その人物が指名手配されて平然としていられる筈がない。

 

 なに軽口を叩き合っているのだ。もっと余裕そうな笑顔を見せてやるべきだった。深い後悔が頭を占領する。くそ、くそと手のひらを強く握りしめた。

 

「ねえ、ちょっと」

 

「なに?」

 

「なにって」

 

 付いてきたエマが袖を引いてくる。鋭い目でアンヘルは振り返った。

 

「付いてあげなくて良かったの? あんなに泣いてたのに……」

 

「君が気にすることじゃない」

 

「そんなっ――」

 

 拒絶しながらも、脳内を占めたのはアリベールのことばかりだった。

 

 泣かせてごめん。心配させてごめん。胸の奥からそんな想いが溢れてくる。その身体を抱きしめて慰めてやるべきなのに。今は、留まることすら危険だ。

 

 ゆっくりと、自分の中に炎が宿ってゆく。

 

 心の奥底に封じられた種火の弾ける音がした。閉じた世界に新しい息吹が吹き込まれ、身体中が燃え盛ってゆくのを感じていた。

 

 アンヘルは目蓋を閉じて、ゆっくり深呼吸した。

 

 ――大丈夫。絶対、なんとかして見せるから。

 

「行くよ……どうしたの?」

 

 口元を抑えて立ち尽くしているエマに向き直る。窓から差し込む光が、彼女の半顔だけを照らしている。静かに佇む彼女の瞳には強い憐憫が宿っていた。

 

「すごく寂しいのね、あなたって」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 建物の庇に立って雨宿りするアンヘルたちの目に、朝からどんよりするような小糠雨が降り注いでいる。

 

 眠たげに瞬かれたエマの瞳は退屈といった様子を全面に立たせ、此方のやる気まで奪っていきそうだ。彼女からしても同じことが言えるのだろうが。

 

 アリベールから荷物を受け取った翌々日、アンヘルたちはエドゥアルドの名簿片手にアジト追跡作戦を続けていた。

 

 作戦は割合シンプルで、まずは夜中に町中を駆け回り、すでに道場を辞めた過激派志士候補を発見する。それから受け取った追跡魔道具を相手の荷物に混入させることで、アジト特定を試みるというものだった。

 

 先日の見つけた二人の候補はどちらも外れ。もう一人は風態こそ怪しかったものの、ただの風俗通いだった。

 

 この四人目はリストに載っていない人物だが、たまたまエマが記憶していた人物だ。どうやらエドゥアルドからもらった名簿、抜けがあるらしい。この追跡でなんとか結果を出したい。基本的に数打ちゃ当たる戦法なので、試行回数を増やすことが肝要である。

 

「中々出てこないわね」

 

「そう、だね」

 

 物陰に身を潜めながら、一つの勝手口を見張り続ける。こうやってずっと待ち続けていると、裏口から脱出してしまったのではという猜疑心が湧き上がってくる。それを必死に宥めるため、アンヘルは深呼吸した。

 

(アジトが発見できれば、僕たちは晴れて逃亡生活からおさらばだ。なんとしても成功を……)

 

「ねえ、ねえってば」

 

 思考の海を漂いすぎて、肩をエマが叩いていたことに気づけなかった。猫が毛繕いするように咳払いした。

 

「どうしたの?」

 

 と、視線を勝手口に注いだまま尋ねる。エマは見張っているのとは逆方向を指さした。

 

 地肌が見えるほど刈り込んだ、いわゆる軍人刈り。季節らしい半袖を纏う彼は、行動の一つ一つがハキハキしていて軍人臭さがプンプンしている。エマは苦い顔で指摘した。

 

「ねえ、あれ。私たちの同期じゃない?」

 

「えっと、そうだっけ?」

 

「あれはレブナントね。結構有名だと思うけど?」

 

「誰だっけ?」

 

 エマはパクパク口を閉口させると、呆れたように両手を腰に添えた。

 

「貴方って、全然まじめに学校通ってないでしょ」

 

「そんなことないけどなぁ」

 

「いいえ、絶対にそう。やる気がないって、こういうことね」

 

(学校のことにはあんまり真面目じゃなかったかなぁ)

 

 ドミティオスの一件、遠征演習の一件と仕方ない面が多くあるのも事実だが、一方でやる気が大きく欠如している感は否めない。

 

「実力があるのはわかったけど、油断してるとホントに留年するわよ」

 

「あはは、気をつけます」

 

 一先ず頭をちょこんと下げた。筆記はかなり全力なのだが野暮だろう。呆れを漏らすエマを尻目に、キョロキョロ周囲を見渡している候補生を眺めた。

 

「何してるんだろ? 今、講義中じゃない?」

 

「そうね。もしかして平民派なのかしら」

 

「それだったらあんなに周囲を観察するかなぁ」

 

 挙動不審すぎる。むしろ平民派の調査をする憲兵、といった方がしっくりくる。そう思っていると、アンヘルたちはさらに身を縮めることになった。向かいの路地からさらに二人、人員が追加されたのだ。

 

 ――あれは憲兵だ。

 

 尋問室でアンヘルを痛めつけたエイという憲兵が、候補生らと何か深刻そうに話し合っている。一言二言話し合うと、彼らは四方八方に散っていった。

 

(候補生を動員したのか? だけど、そんな情報一つも……)

 

「ねえ、あれって私たちを探してるんじゃないわよね」

 

 恐る恐るといった様子で呟くエマ。彼女の震えが緊張を伝えてきた。ひどく嫌な予感がする。

 

 なにか分からない力が働いている。でなければ、こうポンポン邪魔が入るわけはない。臍を噛むようにして歯を食いしばると、手のひらに人という字を書いて飲み込んだ。

 

「落ち着いて。大丈夫、此処にいれば見つからないから……たぶん」

 

「そこは言い切ってよ」

 

「物事に絶対はない」

 

「理屈っぽい男は嫌われるわよ」

 

「物事に絶対はないこともないかも?」

 

「歯切れの悪い男も嫌われるわ」

 

「僕は一体どうすればいいの?」

 

 半分涙目で尋ね返すアンヘル。突如、その目が、ゆっくりと開く勝手口を認めた。標的マージルの姿だ。

 

 彼はコソコソと倉庫の大扉を開くと、中から木箱の大量に入った荷台を出す。荷台の上にはいくつもの木箱がある。遅れて武装した男二人が付き従う。

 

 エマに声を掛けてから、そさくさと移動を開始した。背負った籠の中には結構大きめの木箱に入った魔道具があった。

 

 その荷台が動き出したのを見て、建物の影に隠れながら追跡を開始する。雨が降っているのもあって、人通りが少なく尾行の難易度は高かった。

 

(スパイ映画だと、傘を差せる雨の日のほうが尾行日和って言ってたのにな)

 

 無情なり異世界。この世界の住人は雨の日でも気にせずゆく。というか、傘なんて上等な物はない。

 

「それで、どうするの?」

 

 後ろから付いてくるエマが濡れた髪を鬱陶しそうに払っている。標的は港区を抜け、西の郊外に向かっていた。

 

「取り敢えず……これください」

 

 出店の前で立ち止まったアンヘルは、出店のおっさんに向かって串焼きを指さした。オスゼリアス名物のピックル鳥の串焼きだった。

 

 まいど、という威勢のいい声で返事をした店主。エマは見事といって差し支えないタレ塗り、ひっくり返しの技術を眺めながら、アンヘルの暴挙に対し口をあんぐりと開いていた。

 

「貴方ねぇ」

 

「はい、代金です」

 

 さっさと受け取って追跡を再開する。ちょうど振り返っていた標的たちに良い目眩しとなったのだが、エマはあまり納得してなかった。

 

「わざわざ買い食いする必要はないじゃない?」

 

「そうかな? 腹が減っては戦はできぬというし、尾行のカモフラージュになる。一石二鳥だと思うけど」

 

「だからねぇ。ああもう、なんでもいいわ――あ、ちょっと、タレ溢さないでよ、みっともない」

 

「あ、ごめん」

 

 エマがハンカチで口元を拭ってくれる。くすぐったくて手を口元にやると、相手と手が触れ合って頬が紅潮した。

 

「ご、ごめんなさいっ」

 

「い、いえ、自分でやりますから」

 

 ハンカチを受け取って勝手に拭う。エマは目を伏せながら、小さく縮こまっていた。

 

 気まずい空気が流れる。屋根から流れる水滴が、水溜りに落ちてぴちゃんと弾けた。

 

「ね、ねえ、追いましょ」

 

「そ、そうですね」

 

 テンプレラブコメから気を取り直して、足を早める。狭い川沿いの路地を抜けたあたりで、前方からの人影に気づいたアンヘルたちは小道に飛び込んだ。

 

「ねえ、あれって」

 

「うん。候補生だ」

 

 名前は出てこないが、見覚えはある。エマは顔だけを出して、前方から迫ってくる男が標的とすれ違うのを見た。

 

「ベルナルドじゃない。早くどっかに行ってよ」

 

「ちょっと待ってエマさんっ!」

 

 飛び込んだ路地の奥に人影が映った。先ほどやり過ごしたはずのレブナントが背後からやってきたのだ。エマの肩を叩いて背中を向けさせる。

 

「おい、そこの君たち」

 

 静かに顔を伏せてやり過ごそうとするが、無情にもレブナントが声を掛けてくる。低く響く声にびくりと身体が硬直した。

 

 ――ねえ、どうするのよっ。

 

 ――こうなったら最終手段しかない。

 

 ――ねえ、ちょっと待って、何する気なのっ?

 

「男女の二人組にその背格好、もしかしてエマ候補生、か?」

 

 レブナントの手が肩に掛かる。ぞわりと悪寒が広がった。

 

 もうだめだ、やるしかない。手に持っていた先ほどの串焼きの棒を逆手に握ると、強化術を発動させた。

 

「待って――」

 

 エマの静止を振り切って、身体は相手を無力化しようと動いた。肩に置かれた手を払うと、相手の口を左手で塞ぐ。そのまま強化した串を相手の無防備な膝の横に突き込むと、強制的に閉じられた口から苦悶が漏れ出た。

 

 さっと後ろに回って、首に腕を回した。全力で腕の筋力を引き絞ると、絞められて呻く男の声が小さく漏れ出た。

 

「それじゃ死んで――」

 

「エマさんは路地の外を見張っててっ」

 

 男の抵抗が徐々に弱まってゆく。エマの恐怖と戸惑いに満ちた表情を見ながら、男が地面に崩れ去ったところで力を抜いた。

 

「はあ、はあ」

 

 アンヘルは近くにあった樽の蓋を取り外すと、気を失っている男を中に詰め込んだ。少なくとも二、三時間は目を覚まさない怪我だ。

 

 詰め込み終えて顔を上げたとき、エマは苦い顔をしていた。

 

「やり過ぎよ、貴方」

 

「今は手を選んでいられなかった」

 

「だとしてもよ。彼に何の罪もないわ」

 

「わかってる」

 

 エマを置き去りにして、アンヘルは路地から顔を出した。候補生の追跡人はどこかに立ち去っている。標的もまだ通りの向こうに姿を見つけた。

 

「そろそろ住宅地区だ。手筈通り頼む」

 

「……わかったわ」

 

 まだ言い足りなそうなエマ。彼女を置いて、魔道具の入った籠を背負いなおした。

 

 

 

 

 

「せーので行くよ。準備はいい?」

 

「……任せるわ」

 

 渋い声のエマ。やっぱりさっきのは悪手だったかと思いながらも、アンヘルは魔道具を渡し、近くの樽を持ち上げた。

 

 ゴロゴロと荷台の音が近づいてくる。それがもっとも近づいたとき、一気に路地から走り出た。

 

「う、うわぁ」

 

 どんがらがっしゃんとけたたましい音を立て、荷台の荷物と持っていた樽が転がる。ぶつかった衝撃で地面に倒れながら、アンヘルは大袈裟に足を抑えた。

 

「い、いたたたたた。足、足がぁ」

 

「てめぇ、飛び出してきやがって何都合のいいことをいってやがるっ!」

 

「折れた、絶対折れたよぉ。おかあさーん」

 

「け、何がおかあさーんだ。マジで叩き切ってやろうか、あ?」

 

 護衛の内の一人が凄んでくる。その背後でエマが魔道具入りの木箱を持って様子を伺っていた。

 

「ホントに痛いんですよぉ。ほら、見てください、絶対曲ってますから」

 

「あ? どこがだボケ」

 

「えぇ、ちゃんと見てくださいよ。ほら、ここに」

 

 といいながら立ち上がる。男は額に青筋を浮かべた。

 

「てめぇ、今やってることを冷静に振り返りやがれ」

 

「えーと、どういうことでしょう?」

 

「てめぇの足は折れたんだろ? ならなんで立てるんだ?」

 

「……気合い?」

 

「マジで叩っ斬るぞ、この当たり屋やろうっ!」

 

 男の右腕が霞むと、巌のような拳が頬にめり込む。その瞬間、衝撃を殺すように後ろに飛んだ。

 

「やめろっ!」

 

 荷台を運んでいた男が怒鳴った。

 

「いつまで遊んでいる。さっさと荷物を積み込め」

 

「だ、だがよぅ」

 

「俺たちには優先すべき任務がある。そんなくだらん浮浪児に構うな」

 

(浮浪児って……)

 

 確かにボロの古着を着ているが、それだってもう少し言い方ってものがあるだろう。そう思いながら、エマが後方の路地で合図したのを見て、ピューと風になって遁走した。

 

 めたくそに走り抜けた後、エマと合流したアンヘルは肩で大きく息をしていた。

 

「首尾はどう?」

 

「ばっちりよ。貴方の拙い演技以外わね」

 

「……そんなに下手だった?」

 

「大根役者っぷりはすごかったわ。人をイラつかせる反応もね」

 

 エマは空元気ながらも小さく笑みをこぼした。色々あったが、作戦は取り敢えず成功を見たことになる。

 

 それから二日間。

 

 このようななんちゃって演技を重ね、計三人の荷物の中に追跡魔道具を紛れ込ませることに成功。アンヘルたちの任務は終了し、ガイルスたちの強行突入を待つだけの身となった。

 

 ――その筈だった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ――ガイルスは一体何をしているんだっ。

 

 ギリギリと歯軋りの音がする。知らず気が立っていたのか、左足が貧乏ゆすりをしていた。

 

 決死の演技(笑)によって、過激派と思われる人物の荷物に追跡用の魔道具を忍び込ませたのがここ二日の出来事。現状、めぼしい人物はすべてあたり終え、これ以上の捜査続行は不可能な段階に来ていた。

 

(エドゥアルドさんから貰った名簿はほとんど役に立たないし、ガイルスは全然姿を見せない。どいつもこいつも肝心なときに……)

 

 あれからガイルスは姿を見せない。貰った名簿はどれもハズレで、エマが記憶を辿った人物だけしか過激派らしい人物は見つからなかった。

 

 そのうえなぜか増員された候補生たち。さらに強まる憲兵の警戒など、此方の包囲網がどんどん狭まっているのを感じる。気を抜いた瞬間、強い恐怖が湧き上がってくるのを止めることはできなかった。

 

 落ち着けと大きく深呼吸する。焦ってもいいことはない。現状を整理するよう、手元の魔道具を眺めた。

 

 黒い長方形板なそれにはソナーのような波が表示されていて、明々と点が点滅している。それが三台。今日になってようやく停止したその点は、どのボードにも同じところに位置しているように思われた。

 

「ねえ、これからどうするの?」

 

 彼女の目の下には濃い隈。日中は捜査、夜半は警戒と限界まで身体を酷使した生活を送っている。女性の身だけあって、その体力は限界に近い。

 

 橋の下から夜空を見上げる。煌々と光る星空も、今日に限って積もった雲が遮るせいでどんよりと濁っている。今にも雨が降り出しそうな天候だ。

 

(これから、どうする)

 

 仕込んだ魔道具はまだ作動しているが、見つかってしまえばそれまでだろう。あまり広まっていない魔道具なので勘違いするかもしれないが、それは希望的観測といったものだ。

 

 いや、答えはわかっている。ガイルスが居ない以上、アジトに潜入できるのは自分たちだけだ。それを危険だと逃げ道を探しているに違いない。

 

 ぎゅっと拳を握った。果たして辿り着けるのか、この状態で――

 

「もう決まってるんでしょ?」

 

 エマがこちらの袖を引っ張っていた。なにもかもお見通しか。

 

 女は強しだな。アンヘルは沈鬱な表情で小さく頷くと、静かに闇へと繰り出していった。

 

 

 

 

 

「ここが、そうよね」

 

 目的地は意外にも都市部の近くにあった。最初はなんでもない住宅地を指しているのかと思ったのだが、エマが、

 

「ここってたしか、昔地下貯水計画がされたところじゃ」

 

 ということを述べて、地下施設の存在を推測した。そこでアンヘルたちは、近くの地下につながる通路を探し、地下につながるマンホール――という名の石の蓋――を開いた。

 

 絶えずごぉぉと唸るような風の音が響いてくる。アンヘルたちはぬかるむ地下に降りると、旧貯水計画があったらしい煉瓦壁に沿ってゆく。

 

 道は幾重にも分岐しているが、魔道具のお陰で道を見失う心配はなかった。

 

「ねえ、地面に車輪の跡があるから魔道具要らなかったんじゃない?」

 

「やめて、絶対に必要だったんだって言い訳してるんだから」

 

 一人づつ最後まで追跡すれば、いつか辿り着けたかも。彼女の疑問を考えないようにしながら、縋り付くように魔道具の点を追った。

 

「と、あそこね」

 

 召喚師した「炎の魔剣士」の炎を頼りに進んでいたのだが、遠くに人工の火を発見する。仄暗いそれは、魔導灯の灯りにおもえた。

 

「反応はどう?」

 

「うん、位置は一致してる」

 

 二人して頷き合うと、さっと身を躍らせた。

 

 物陰に身を潜めながら、敵のアジトらしき場所へ潜入。

 

 警備はまばらだ。地下の空間ということもあって、完全に油断しきっているのか。それとも人員を減らすことで隠密性を高めているのか。兎に角、アンヘルたちには好都合である。

 

 数人の警備を闇夜でやり過ごし、さらに奥へ潜入する。じんわりと汗の滲んだ掌が緊張を伝えてきた。

 

 アンヘルはぐるりと周囲に視線を巡らす。そこにはうず高く積まれた木箱の山があった。

 

「これが全部、ドラッグなのね……」

 

 顔を真っ青にして肩を抱えているエマは震え声で呟いた。無理もない。アンヘルにしても同じ気持ちだった。

 

 これだけの量。もし全部街に流れれば、アヘンを流された上海のようになるだろう。

 

 バアル教団。

 

 カオスのやり口を見てその悪辣さを知っていたつもりだったが、ここにある悪意はその比ではない。身が凍りそうになる思いだ。

 

 ただ、疑問になることもある。今まで先延ばしにしていたことだが、よく考えると理屈が合致しないのだ。

 

(平民派はどうして協力しているんだ?)

 

 過激な面が見られる彼らだが、紛いなりとも国を憂う志士なのである。それがなぜ、サイレールの大量密売による国家転覆に繋がるのだろうか。まったくもって理解不能だ。

 

 サイレールを資金源とするなら理解できるが、サイレールで人々を陥れるなんて、ただの蛮行としか――

 

 アジトの中央にあった幔幕、その中からボソボソと声が聞こえた。アンヘルは口の前に指を一本立ててジェスチャーすると、会話に耳を凝らした。

 

「……準備…………魔道具……」

 

「…………イーサクさんの指示はどうなって……」

 

「……援軍…………見取り図……魔剣……」

 

(なんだ、何を言っているんだ?)

 

 ボソボソとした声で何を言っているのか判然としない。回り込んで相手の顔を伺っていたエマがフルフルと顔を振る。どうやらイーサクではなかったようだ。

 

 どうにも不気味だ。もっと情報を。

 

 アンヘルがそう思った瞬間、幔幕の向こうから狂気の滲む意気込みが轟いた。

 

「我らを虐げる元老院に裁きの鉄槌を!」

 

 ガシャンと手に持っていた杯を地面に叩きつける音が届く。エマはびくりと肩を震わせていた。

 

 幔幕の向こうで男たちが去ってゆく気配がした。これ以上こうやっていても、情報など入手できないだろう。

 

「どう、なにか聞き取れた?」

 

「いや――」

 

 エマと会話しながら、不可解なことが膨れ上がってゆくのを感じていた。

 

 ――我らを虐げる元老院に裁きの鉄槌を?

 

 ――我らを虐げる民衆に、ではなく?

 

 今彼らがやっているのは、民衆に対する攻撃だ。あれほどのサイレールが撒き散らされれば、困窮するのは民衆に他ならない。だが、ドラッグの危険性を理解している元老院に大したダメージは与えられないだろう。

 

 過激派は頭がイカれてしまったのか。いや、相手を過小評価するのは最低最悪の下策だ。もしも、今やっていることが元老院への鉄槌に繋がるとなれば。

 

(いや、無理だ。どうやってもサイレール如きじゃ元老院には被害が出ない。数年単位なら兎も角、あの意気込みはもっと直近の……)

 

 ここまで考えてある思考に陥った。今考えていることの何か、前提条件が間違っているのだ。

 

 云うならブラック・スワン理論。あり得ないと思っていた前提を覆すことで、予期できない事実が現れる。

 

 此処までの情報はサイレール、救国主義、バアル教団。そんなモノが頭を流れてゆく。

 

「ねえ、ねえってば」

 

 思考に耽っているとエマが肘で小突いてきた。

 

「あ、うん。どうしたの?」

 

「早く逃げたほうが良くない? いつまでもいたら捕まっちゃうよ」

 

「そう、だね。もう、任務は終わったし」

 

 任務は終了している。この長かった一週間の逃亡生活はサイレール保管所を見つけることで終わりを告げたのだ。

 

「あ、そっか。私たち、“サイレールの保管所”を見つけたんだもんね。イーサク兄さんは見つからなかったけどこれで恩赦か。なんか、ちょっと呆気ない終わり方だね」

 

 疲れたようにエマが呟く。そのとき、悪魔のような閃きが脳内を走る。

 

「ま、さか……」

 

 アンヘルはよろよろと歩き出していた。周囲の確認もおざなりに、ゆっくりと近くの木箱に手を掛ける。

 

 木箱の上蓋に短刀を差し込んで、無理やり引き剥がした。物音と共に木屑が周囲に飛び散る。

 

 その中身を見て、全身から血が引き抜かれたような気分になった。

 

「ねえ、あんまり煩くすると――」

 

 此方の表情を見たエマは身体を凍りつかせていた。今、自分がどんな表情をしているのか想像したくない。多分、恐怖と憤怒と絶望に濡れた表情をしているのだろう。

 

 手の戦慄きが、今見えている光景を現実だと教えてくれる。これが、嘘偽りない現実なのだと。

 

 心底恐怖した。バアル教団と救国主義者のその情熱に。一体彼らの何が、この行為へと駆り立てるのだろうと。

 

 間違っていた前提条件。

 

 それはサイレールの輸送だ。

 

 アンヘルたちは、標的にした人物がサイレールをこのアジトに運び込んでいるのだと思い込んでいた。

 

 無意識の内。彼らが荷物を運ぶものなど、それくらいしかないと。

 

 だが、冷静に考えれば一箇所に集約する必要など微塵もない。分散して保管しておけば、摘発の際ダメージを抑えられる。

 

 ならどうして、この警戒が険しい時期に物資を輸送させたのか。都市中心に近い、秘密の地下施設に運んだのはどうしてなのか。

 

 答えはたった一つしかなかった。

 

 ――輸送していたものが、サイレールじゃない。

 

 開いた木箱の中にあったのは大量の魔道具。火薬、魔力充填式爆破具、体内連結式の自爆魔道具。それが夥しいほどに詰め込まれていた。

 

 戦争を企むような武器の山。それが、箱一杯に積め込まれていたのだ。

 

 元老院を狙った作戦。サイレール密売資金を元にして、今の時節にしか成し得ない目標などたった一つしかなかった。

 

「彼らの狙いは――」

 

 ――元老院議員、使節、皇族までが一斉に集まる、『全州会議』だ。

 

 

 



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PAHSE3-1:Do You Hear The Isak Sings?

 皆様、本日はご多忙の中、私たちの結婚式へご列席いただきありがとうございます。この場をお借りして、日頃は伝えられない、私を育ててくれた父への感謝の手紙を読むことをお許しください。

 

 お父さん、二十二年間、育てていただきありがとうございました。無事今日という日を迎えることができたのも、お父さんのおかげだと感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 子供の頃、はじめて喧嘩したことを覚えていますか? 私が教会のシスターを目指すといったとき、お父さんは見たことないくらい怒鳴りましたね。あのときは許せませんでしたが、今は私のことを想って、叱ってくれたんだとわかります。

 

 こんな頑固さはお父さん譲りですね。若い頃、軍の改革に熱を上げたこと、皆さんからよくお聞きしました。融通の利かない私をここまで育てて頂き、ありがとうございました。

 

 大切に育ててくれたお父さんの元を旅立つ寂しさはありますが、これからはイーサクさんと二人三脚、しっかりと進んゆきたいと思います。どうぞ、神様と一緒に暖かく見守りください。

 

 イーサクさんのお父さん、お母さん、そしてエマちゃん。本当の家族、姉妹になれて本当にうれしく思います。一日でも早く馴染み、仲の良い家庭を築いて行きますので、これからもよろしくお願いします。

 

 こうして今日を迎えることができたのも、ご列席くださった皆様のおかげです。未熟な私たちではありますが、どうぞ暖かくお見守りくださるようお願い申し上げます。

 

 

 

      エドゥアルドの娘ブリヒッテ。

 

 

 

 何度となく読み返した文章。紙切れの端はヨレ、何度もこぼしてしまった涙の跡が残っていた。

 

 そのたった一つの思い出を封筒に仕舞い、壊れ物のように懐へ戻した。これだけが、幾度となく折れそうになった自分を支えてきたものだった。

 

「イーサクさん、いつもその手紙を見てますね。何が書いてあるんですか?」

 

「メルクリオ、か。いや、何もないよ」

 

 気さくに声を掛けてきた、五つ年下の同門。人懐っこい性格で、イーサクもそんな彼を弟のように可愛がっていた。

 

 だが、彼も立派な救国主義者の一人である。一見優男風の見た目の下に、恐ろしいほどの怒りを溜め込んでいることは、よく知っていた。

 

 倒院、そして憲兵機構の是正。

 

 不幸を越えた男たちの情熱は、一点に収斂されていた。『あの人』が唱えた革命。その日は目前に迫っている。

 

 熱意が膨れ上がりすぎたのだろうか。がたがたと足が無意識のうちに揺れている。イーサクは強く爪を噛んだ。

 

「イーサクさん、これを」

 

「あ、ああ」

 

 メルクリオからモノを受け取り、それを口に含んで嚥下する。これで大丈夫、まだ俺は戦える。彼の肩に手を置いて、軽々しい足取りで皆が集う場所へ向かう。

 

 薄暗い室内に揃うのは数十人の勇士たち。皆覚悟を決めた顔つきをしている。たとえ作戦が成功を収めたとしても、自分たちの命がないと知らされているからだ。

 

 だが、すべて承知の上だ。

 

 自分たちの屍を踏み越え、必ずや『あの人』が革命を成し遂げてくれるはずだ。想いを継ぎ、必ずや世界を正してくれる。そう信じていた。

 

 イーサクは勇士たちの前に立ち、雄々しく微笑んだ。男たちも粗野な笑みを返す。言葉にせずともわかっている。そんな暗黙の了解に目の奥が熱くなった。

 

「皆、しっかり休んでくれ。そして、帝国の素晴らしい明日を願って」

 

 さあ、これからが革命の始まりだ。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「うそ、嘘よこんなのっ! イーサク兄がこんなことに加担してるだなんて、そんなのッ――」

 

 部屋一杯に悲鳴が轟く。一人の女が首を激しく振って慟哭していた。

 

 ガタガタと激しく窓を叩く風の音。大きな紗で掩うたかと思うように薄い陰翳が夜空を包んでいる。いつもなら星燈でうっすらと見える連峰が、罩めた灰色の積雲のせいで影も形も伺えない。

 

 慣れてしまった場末の連れ込み宿。ギシギシと煩い床版に響きわたる喘ぎ声。汚れの染み付いた椅子は自重で軋みをあげている。ぼんやりと淡く光る蝋燭。その時折掻き消えそうに揺らめく炎は、まさに自分たちの運命を暗示しているようですらあった。

 

 バアル教団と救国主義者。彼らを追った捜査は一応決着を見せた。

 

 長い、長い調査であった。

 

 約一ヶ月。友人を装って接近し、身辺を洗いざらい調べた。人間関係、弱み、好意、思想。そのすべてを詳らかにした。

 

 続く逃亡生活。エマになじられながら憲兵の執拗な追跡を躱した。幾度となく折れそうになりながらも踏みとどまった。

 

 名も知らぬ候補生を叩き伏せ、信頼してくれたアリベールを利用した。塗炭の苦しみ、そのすべてを近日で味わった。

 

 その末辿り着いたのは、元老院議員全員が集まる帝国議会への襲撃計画であった。

 

 大量の兵器を発見してからの記憶はほとんど残っていない。全身の血が凍結したように冷え、手足は感覚を失ったかのようだった。絶望するエマの手を引いて、必死に地下を脱出した記憶がぼんやりとある。

 

 冗談ではなかった。オウルのような遊び半分の手口ではない。本当に国家転覆を目論んだ陰謀であったのだ。

 

 心底恐怖した。

 

 その執念に、信念に。命を賭けてでも変えてやろうとする、情熱に。

 

「先輩、そろそろ報告をお願いしますよ」

 

 魂の抜け切った顔つきで見る。機構の同僚としてサイレール撲滅を任務としているガイルスが、ポケットに手を突っ込んだまま冷笑を浮かべていた。

 

「それで、どうなったんです? 敵のアジトに潜入したんですよね」

 

「そう、だね――」

 

 アンヘルは今までの経緯を語った。リカルドの父エドゥアルドから、過激派に身を窶したと予想される人物の名簿を貰ったこと。彼らを追跡するため、アリベールから追跡用魔道具を融通してもらったこと。名簿こそ役に立たなかったものの、エマの記憶を頼りに魔道具を荷物へ忍ばせたこと。一部すでに報告したことが混ざってはいたが、敵のアジト発見までの経緯を漏らさず話した。

 

「なるほど、敵のアジトで何か見聞きしましたか?」

 

「どういう意味? 大量の武器を発見したぐらいしか――」

 

「いえいえ。他に何か見聞きしてないのか、という意味です」

 

 他の情報といえば。都市の地下にある敵のアジトで救国主義者が語ったことを、アンヘルは記憶の海から探し当てた。

 

「“援軍”や“見取り図”って言っていたような」

 

「他にはどうです?」

 

「……“魔剣”って、聞いた気もする」

 

(そういえばエマさんも言っていたような……どういう意味なんだ?)

 

 見取り図や援軍はおそらく議事堂襲撃の話なのだろうが、魔剣というのはどこにも繋がっていない。

 

 ふと、ガイルスが一人笑っていた。

 

「もしかして、君は何か知っているの?」

 

「いえいえ、何でもありませんよ。それより先輩所属の班長を紹介するって話、どうなってます?」

 

「クナルのこと? 今はそれどころじゃないでしょ」

 

「思い立ったが吉日というでしょう。こっちは普通に学校もありますから、縁は繋いでおかないと」

 

 と言いながらも、ガイルスは笑いながらカッコンカッコンと椅子を前後に揺らめかせている。

 

 アンヘルは顔を顰めながら、部下のベップにこちらの指示だと伝えれば取り計らうだろうと告げた。

 

「それで、君はどうしてここ数日姿を現さなかったの?」

 

「別件ですよ、別件」

 

「この調査以外に優先すべき任務があると?」

 

「まあまあ、そうカリカリしないでくださいよ。先輩と違って他に二つも掛け持ちしてるんですから――ああ、そうだ。先輩も内一つは聞いておいたほうがいいですよ」

 

 ガイルスが指を一本立てた。

 

「先輩が聞いた”援軍“という話なんですがね、実は見当がつきますよ。なんでも、不審者が先輩の同期であるラファエルさんらを襲撃したとか」

 

「それってヴィエント家の?」

 

「ええ。襲撃したのは『僧服の男』と『剣士』の二人組だったそうですが……先輩はバアル教団の教典をご存知で?」

 

 ぶんぶんと首を振った。アンヘルは召喚師としての能力を持つ身、召喚師至上主義を唱える教理に興味を示すのは不味い。そういう特異思想は調べることすら奇異に映るものである。

 

 否定に対して鳩のように頭を前後させたガイルスは、召喚師と剣士がペアになることが習慣付けられている事実を述べ、白昼堂々と犯行に及んだ事実から危険性にも注釈した。

 

「彼らは高い確率で教団の人間でしょう。なぜラファエルさんらを襲撃したのかは不明ですが」

 

 愉快犯の可能性もあるので要警戒です。そう一言付け足したガイルスは、懐から一枚の紙を取り出してパンパンと手を打ち鳴らした。

 

「はいはい、ちゅうもーく」

 

 泣き崩れていたエマが泣き腫らした目元のままゆっくりと顔を上げた。その瞳には強い虚無が宿っていた。

 

「何するつもり?」

 

 長い前髪の間から覗く双眸に嗜虐の色を見つけ、アンヘルは慌てて肩を掴んだ。

 

 ガイルスは一瞬戸惑ったような顔をしてから、すぐさまにやりと笑った。井戸端で他人の不貞を論うような、悪趣味代表のような笑みだった。

 

「ああ、もしかして惚れました?」

 

 アンヘルは胸倉を掴み上げ、薄笑いを浮かべる口から息が届くほどまで詰め寄った。

 

「冗談ですよ。謝りますから離してください」

 

 舌打ちしてから突き飛ばす。ガイルスは一、二歩たたらを踏んでから乱れた襟を正し、エマに向かって一枚の紙を突きつけた。

 

 真っ白な羊皮紙に描かれるのは美しく達筆な文字だが、どこか事務的な匂いが漂う。遠目から見たそこには、小さく細々とした文章の上に「恩赦状」としたためられていた。

 

「これ、は?」

 

「貴方のこれまでの罪。脱獄やらなんやら含めて、すべて無罪になりました」

 

 ――サイレール密売に関しては、ね。

 

 どこか含みのある声音。それに気づかないエマは、ゆっくりと震える手を恩赦状へ伸ばした。

 

 そろりと指先に紙が触れる。

 

 その瞬間、ガイルスは届かぬよう上に持ちあげると、そのまま両手でビリビリに破いた。

 

 恩赦状は原型も残さず幾重にも千切られた。舞い散る紙吹雪。何が起こったのかわからない、そんな表情でエマは残骸が地面に落ちるのを眺めていた。

 

「どう、して」

 

「貴方には恩赦が適用されない、それだけのことです」

 

 冷徹な目でガイルスが恩赦状の残骸を踏み躙る。

 

「先輩には黙っていましたが、貴方の実兄イーサクは過激派の救国主義者としてマークされていた人物です。傘連判状では最上位に位置し、組織の中心人物と目されていました」

 

「……最初から、わかっていたの?」

 

「先輩方が指名手配されてからではありますがね」

 

 上司であるユーシンは、エマの廃倉庫発見の経緯から周囲に過激派の影があることを鑑み、親族知人の徹底的な洗い出しを検討したらしい。その結果、イーサクがなんらかの活動に関与していることを掴んでいたというのだ。

 

「国家転覆を目論んだ者が親戚内にいる。多少協力したぐらいで恩赦の沙汰がくだる筈もないでしょう?」

 

 陰鬱な表情を浮かべたエマ。アンヘルはいたたまれなくなって目を逸らすしかできなかった。

 

 誰もが口を噤み、真実から目を逸らしていたこと。その事実。

 

 元老院襲撃が成功した暁には、エマは死ぬ。リカルドも死ぬ。エドゥアルドも死ぬ。

 

 すべては消えてなくなる。大衆は限られた情報から革命の真相を探る頭脳を持たない。感情的にも、帝国を混乱の最中へ導いたものたちを悪逆非道の徒の罪咎を糾弾するだろう。しかし、戦いの末に残る生贄は数が足りない。その下請けを、何も知らない親族が引き受けるというのは合理的帰結である。

 

 そして、革命はなしえない。

 

 帝国は一枚岩ではない。皇帝派、元老院派、平民派。単純化した派閥だけで三つある。

 

 全州会議に出席するのは元老院やその関係者、そして五大貴族だろう。つまり、全州会議で関係者を運よく全滅させることができても、皇帝派はまるまる残ることになる。

 

 そうなれば、大神祇官は弱った元老院属州を直轄領にして、民衆の支持を得るために危険分子を一掃するだろう。よくぞ門閥派を一掃する手筈を整えてくれた。そう、ほくそ笑みながら。

 

 結果は利益を得たドミティオス、帝国を弱体化させたバアル教団、元老院に復讐できた過激派たち。そして――

 

 瓦礫となったオスゼリアスに彼女の墓標が残るのだろう。

 

 誰の陰謀でもなく。

 

 集団の意見の相違の果てに。

 

「まだ手はあるっ!」

 

 気付いたとき、アンヘルは拳から血が出るほど強く握りしめ、何度も振りかざしては絶叫していた。

 

 未だ負けたわけではない。計画は実行に移されていないのだ。発見したアジトの襲撃や構成員の撃破など、多用な方法論を説く。

 

「ま、悪くはない考え方ですがね」

 

「なら――」

 

「ですが、先輩だって本当は理解しているんでしょう? これだけ大規模に準備しているんです。先輩が発見した場所だけしか存在しないと本気で思いますか? と云うかそもそも、相手が武器を失わせただけで計画を実行しないと思いますか?」

 

 ガイルスは呆れたと首を振った。

 

「標的が一斉に集まる機会なんです。多少の障害くらいモノともしないでしょう」

 

 彼が足を払うと恩赦状の残骸がふわりと舞い上がり、そして霧散した。どうやっても根本から探し出すことは不可能だ、そういう証明であった。

 

「まだ、まだやれる――」

 

「もういいっ」

 

 エマが地面に蹲って叫んでいる。伏せた顔は伺えずとも、涙の滴り落ちた痕を見れば、そのかんばせの推察はたやすかった。

 

「家族の罪は、誰かが償わないといけないんだから。だから……」

 

 それを見て、アンヘルの中で得もしれぬ感情が湧き上がっていた。

 

 最初に浮かんだのは、自分が助けられなかった少女の顔である。彼女は同じように、家族の不始末の責任を取るようにしてこの世を去っていった。短い生を儚むこともできず、自身の幸せの為ではない不条理で、運命という名の星はついえた。

 

 人の繋がりは歯車のようなものだ。誰かが力強く駆動すれば、周りもそれに追い立てられ回転する。だが、どこかか一箇所でも大きく欠損すれば、砂上の楼閣のように崩れ去るのである。

 

 彼女に訪れたのは、まさにそのようなものであった。

 

「そんなことないっ!」

 

 身体は無意識のうちに走り出していた。彼女の肩を抱いて起き上がらせる。月明かりが差し込む窓の方角を無理やり向かせた。まるで、救いの希望を直視させんばかりに。

 

 認めてなるものか。なんのために士官学校を志した。家族の不始末を一身で受け止めた少女、その理不尽を再び起こさぬために力を求めた。

 

 こんな結末を再現しては、結局なにも成長していない事実を認めてしまう。それだけは、悪魔に魂を売っても許せなかった。

 

「これも神様の、お告げなの……私の人生はここまでだって」

 

「神なんていないっ!」

 

 思いっきり壁に拳を叩きつけた。

 

「神なんているはずはない! あんなものが神だなんて、僕が認めないっ!」

 

「あんへる、くん?」

 

「あいつらは悪魔だ。あいつらのアガペーは僕らに何も益しない。人の心も理解できないような奴らが、神であっていいはずがない! 僕たちを助けるのは、僕たち自身。一人で立たなきゃ、誰も助かりやしないんだ!」

 

 あの時とは違う。無力に転がされてばかりだった過去の自分とは違う。戦って、戦って、その先の未来を掴むため、ここにいる。

 

 胸を張れ、剣を取れ、一歩一歩進み続けろ。それこそ、自分の目指した姿のはずだ。

 

 身体が燃える。力強いなにかが全身を駆動させた。燃え上がるような熱が脳を焼き、全身を焦土と化し、心を灰に変えた。それでも残った熾火が、アンヘルの身体を突き動かす。

 

 無理やりエマを引っ張り起こす。深い諦めを宿した目など気にもせず、血走った目でガイルスを見つめた。

 

「襲撃が失敗すればいいんだろ?」

 

「ええ。元々この情報はバレンティア騎士団にでも流して警備を強化させるつもりですから」

 

「僕らが首謀者を捕らえたら、どうだ?」

 

 そこでガイルスがおやっという顔を見せた。

 

「僕たちも議会に潜入する。そこで首謀者を捕らえる、もしくは殺害する。それで解決だ」

 

「そんな、私のことはもう――」

 

「君は黙ってろ! 諦めない、僕は絶対に勝ち残って見せる」

 

「く、あはははっ。いや、さすが先輩ですね」

 

 なぜかガイルスは腹を抱え、目を瞑りながら大笑いした。

 

「何がおもしろい?」

 

「いえいえ、本当に想像通りの行動をするなと思って」

 

 ガイルスは懐からもう一枚紙を取り出した。

 

「先輩はここで任務から降りられるんですが、指名手配の身で議会に潜り込むとなれば機構も庇えません。いいんですね?」

 

「……」

 

「待って、それじゃあなたは――!」

 

 エマが静止するも、それ以上の速さで抜刀。白銀が一筋の光となる。ハラハラと分断された紙が地に落ちた。

 

 指をぱちりと鳴らすと、横から炎の魔剣士が現れて残らず燃やし尽くす。それを見たガイルスは肩を大袈裟にすくめた。

 

「これで先輩とは縁が切れました。捕まるなり、阻止するなり、勝手にしてください」

 

 ひらひらと手を振りながら彼は扉の向こうに消えていった。

 

「アンヘルくんってさ、バカだよね」

 

 俯いているエマの声は小さかった。ふるふるとそのまつ毛は震え、涙に浸かったよう光っている。赤く腫らした目元は痛々しく、その奥の海のように深い瞳が孤独を憐んでいるように思えた。

 

 否定はできない。アンヘルの頭には今までの不器用な過去が投射されていた。

 

 苦い笑いを浮かべようとしたとき、エマがぱぁっと弾けたような笑顔を浮かべた。

 

「でもね――ありがと」

 

 その微笑みは、汚れなく美しかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 苦い顔をした男に屋敷の中へ通される。有名な詩になるほど美しさを称えられた、翡翠の髪を漉く女がテラスの外の風景を眺めていた。

 

 客人の入室に気付いたところで、部屋の主人が振り向く。宝石のように透き通った瞳の瞼が下ろされ、その微笑みは陽光に照らされてキラキラと輝いていた。

 

 豪奢な家財で埋め尽くされた客間はもう慣れたものだった。部屋の角のティーカップ、飾られた宗教画に大きな時計。テラスへつながる窓のカーテンは、風に煽られてゆらゆらと揺れていた。

 

 何度となく無茶振りされた部屋。客人であるアンヘルが静かに頭を下げると、深みのある絨毯が映り込んできた。

 

「ご無沙汰であります。ヴィエント侯爵令嬢さま」

 

 客間の主人――ルトリシアは、予想外の珍客に顔を綻ばせた。

 

 

 

 ガイルスの無慈悲な通告を受け取った後、アンヘルたちはどのような方法で襲撃阻止を試みるか算段を立てていた。

 

 勝利目標は首謀者、もしくは実行部隊長の確保。それ以外の襲撃は憲兵ら護衛集団に任せる。あくまでも、エマの恩赦を得るための手柄確保が主目的だ。

 

 ここで、一つの賭けに出た。首謀者をイーサクおよびその周辺人物に絞ったのだ。多数の護衛たちが開場を固める会議。過激派とて真正面から犯行に及ぶ可能性は低い。遠いところで標的を発見できれば、被害を限りなく低くできる。エマの視力、そして兄イーサクの人相を知る。その観点から、これしかないという判断だった。

 

「でも、イーサク兄が首謀者じゃなかったら?」

 

「ガイルスの情報から見ても過激派の中心人物である可能性は高い。それに……」

 

 当日の計画自体は割合早く決まったのだが、問題はどうやって会場に潜り込むか、という点へと絞られた。憲兵に追われる身、行政区の議事堂周辺には近づくこともできないだろう。

 

 そこで閃いたアンヘルは、一人の人物を頼った。犬猿の仲、というよりは蛇蝎の如く嫌われている騎士ハーヴィーである。

 

 時折、主人のわがままで彼が街を駆けずり回ることは知っていた。一人街を駆け回る彼を羽交い締めにして、路地裏へ連れ込む。背後から抑えつけられたハーヴィーは苦悶と歯軋りを漏らした。

 

「借りを返してほしい、だと?」

 

「そのとおりです」

 

 主人であるルトリシア救出、邪竜討伐の功。とくに後者は、近年稀に見る大功から功二級シャングリラ殊勲十字章が授けられている。名誉を重視する騎士には無視できないと目論んだ。

 

「何が目的だ」

 

「ヴィエント侯爵令嬢さまにお目通りしたいのです」

 

「ふ、不可能だ」

 

「騎士に二言はないと言いませんか?」

 

 相当の葛藤が脳内で繰り広げられていた。逡巡の後、憎悪の宿った瞳でハーヴィーは了承した。

 

「……いい、だろう。だが、私にできるのはお話を通すだけだ。ルトリシアさまがお会いにならぬと判断されれば面会は実現せぬぞ。それから――」

 

 壁で呻くハーヴィーは目を鋭くさせた。

 

「それから?」

 

「一発殴らせろ」

 

 

 

「まったく、予定にない人物の来訪かと思えば、まさかそれが現在指名手配中の有名人ですか。人生とは数奇なものですね」

 

 客間のソファに席を移したアンヘルたちは、呆れたような視線を送るルトリシアに対し、居心地悪く身を縮めていた。

 

 優雅に茶を啜る彼女の目がアンヘルとエマを見比べる。そのついでに騎士ハーヴィーもちらりと一瞥。彼は極寒の視線にぶるりと身体を震わせた。

 

(すみません、スキピオさま。骨ぐらいは拾います)

 

 巻き込んどいてあれだが、ちょっと気分のいいアンヘルであった。

 

「それで、犯罪者のアンヘルさまはどのような御用件で?」

 

「三日後の全州会議のことで伺いました」

 

 詳細は後日通達されるであろうことを前置きし、アンヘルたちが置かれている現状、バアル教団――というよりは救国主義者――の陰謀、エマの恩赦を勝ち取るため首謀者の確保を画策していることなどを説明した。

 

「会場で憲兵に扮し、護衛したいと考えております。我々が潜入できるよう手を貸していただけませんか?」

 

「あ、その、よろしくお願いします」

 

 カチカチと時計が動く音だけが響いている。秒針が一周しただろうか。ようやくルトリシアが切り出した。

 

「なぜ私が協力を?」

 

「……邪竜討伐の際、ヴィエント侯爵さまはこう仰っておりました。いくつ報酬を望みますか、と」

 

「あのとき限りの報酬です。シュタール家への攻撃を止め、ロペス候補生の脱走疑惑を解除、見舞金まで拠出させた。つまり計三つも願いを叶えたのです。それでもまだ足りぬと?」

 

「恥知らずの行為をしているとは存じております。ただ、その三つの報酬とでは……」

 

「邪竜討伐の功とは釣り合わぬ、そう仰りたいのですか?」

 

 こくりと頷く。冷え切った表情で、ルトリシアは背もたれに体重を預けた。

 

 困惑したようにエマがきょろきょろ視線を散らせる。まったく説明していない弊害だが、貴族の前でこの態度は頂けない。礼儀作法が全然身に付かないアンヘルの言では、まるで説得力がないが。

 

「それに功績のこともあります。我々が譲った邪龍討伐の功。騎士スキピオとヴィエント家の勇名は響き渡ったはず。これに対する報酬はいただいても構わないのでは?」

 

 がちゃりと背後から得物を握った音がした。先ほどと同じ内容で主人と取引したから、騎士ハーヴィーが怒気を放ったのだ。

 

「ハーヴィー」

 

「はっ」

 

 苦虫を大量に噛み潰したような顔でハーヴィーが剣から手を離し、数歩下がって元の位置に着く。

 

 ルトリシアの手がそおっと空のカップの淵をなぞった。白く細い指が一周すると、すううと透き通った音が流れる。

 

「エマ候補生を信頼できる理由はなんです? アンヘルさまの説明では彼女が救国主義者でない理由にはなりませんが?」

 

「……それは私も同じことです。根拠はなく、信頼していただくしか――」

 

「いえ、アンヘルさまがこの事件に関与していないのは既知のことですから」

 

 あんぐりと口を開けて愕然とするしかなった。説明するところによると、指名手配された段階で、アンヘルが何かしらの調査活動に関わっていたことを掴んでいたらしい。

 

(それを知ってて犯罪者とか呼んでたのかよ)

 

「ですが、それはアンヘルさまだけです。エマ候補生が計画の一員でないと言い切れますか?」

 

「そんな、私はっ」

 

 エマがハッと顔を上げて猛然と噛み付いた。

 

「貴方に発言の許可を与えた覚えはありませんよ」

 

 ルトリシアが冷たい声で遮った。ハーヴィーを見る目とも違う、冷徹な目で彼女を見据えた。

 

「全州会議には門閥派が一堂に集う場です。それが私の手で破談になれば、家はお取りつぶしになるでしょう。邪竜討伐の功績とヴィエント家の去就、釣り合いが取れていませんね」

 

 にこりと微笑んだルトリシア。その言葉に反論することはできなかった。

 

 家と功績。それを天秤にかけることはできない。貴族は家の名誉なら命すら安い。誇りで食って生けぬとは至言だが、名を売る時代ゆえ、誇りや名誉で人は暮らせる。

 

 彼女の命を一度救った程度では一考にすら値しない。エマの潔白を訴えるのも手だが、それを証明するのも事だ。絶対の確信が無ければ彼女は納得しまい。

 

 机の下で拳を強く握った。俯いたエマの横顔をちらりと流し見る。

 

 かんばせにのぞく瞼は強く閉じられ、口は一文字に結ばれていた。

 

「どのような交換条件なら、飲んでいただけますか?」

 

 アンヘルが決意を固めてカードを切ると、ルトリシアは待っていましたとばかりに頬を緩めた。

 

「夏季休暇の際、自領で候補生を紹介する機会があり、全学年から大体六小隊、計三試合披露していただくことになっています。其処には、フェルミン、リンガード……」

 

 ルトリシアは指を折り、上科の候補生をあげてゆく。五本目を握り終えた時、手に注いでいた視線を上げた。

 

「そしてラファエル。彼の出番は最終戦。五回生首席のリンガードと対決する予定です」

 

「なりませんルトリシアさま――」

 

「黙りなさい、ハーヴィー」

 

 諫言を無視して一度咳払いをすると、困惑を深めるエマを一瞥した。

 

「ご存知の通り、今の士官学校には、三回生以外でラファエルに勝利し得る小隊は存在しないでしょう。予定調和のような戦いは家の者にも退屈でしょうし、ラファエルにとっても経験を奪ってしまうことになります」

 

「私が参加して、邪魔せよと?」

 

 瞬かれた琥珀の瞳の奥には獲物を捉えた蜘蛛の貪欲さが秘められていた。

 

「晴れ舞台を潰すと奴に恨まれますぞ。それに、負傷中の奴を鞭で打たなくとも」

 

「あら、ハーヴィー。貴方はラファエルが勝つと思っていないのですか?」

 

「そ、それは……」

 

「意外に評価が高いのですね。ま、確かに小隊戦ならラファエルの実力は群を抜きますが……現実を知らねば。最近の彼は目に余る所が多い」

 

 ふふと口元を手で隠しながら微笑む貴人。騎士は苦い顔のままがっくりと肩を落とした。

 

「ただし、おバカ隊長以下を使うことは禁止とします。それだと本当に勝負になりませんから。残りは……」

 

 そういってエマを指差す。

 

「私、ですか?」

 

「彼女を中心とした五人とアンヘルさま。それでラファエルに勝てるというなら、協力しても構いません」

 

 エマはキョトンとした顔のまま此方の顔色伺っている。今ここに至って旧隊を脱隊したくないとは言わぬようだが、あの召喚師ラファエルに勝てるものかを問いたいらしい。

 

 まあ、言わんとすることは理解できなくないのだが。

 

(本当の目的は、エマさんだな)

 

 勝利など結局どうでもいいのである。エマの勧誘。それこそが目的だ。事件解決の暁には、エマを自領の御前試合に出場させ、所属を鮮明にさせる。もしかしたら、さらにリカルドの勧誘を見据えたことなのかもしれない。アンヘルの参加は嫌がらせか何かだろう。恐らく、だが。

 

 生きるか死ぬか、切羽詰まった状況で派閥もクソもない。此方が問題ないと示してやれば、エマはただ頷くしかなかった。

 

「また明日いらしてください。その時までに憲兵の制服や配置図などを用意しておきますから」

 

 

 

 憲兵の制服と配置図を受け取りに行った翌日である。帰り際、ルトリシアは珍しく不安そうな顔をしていた。

 

「アンヘルさま。成功の可能性はどのくらいなのですか?」

 

「正直に申せば、半分を上回れば良い方だと思います」

 

「……そうですか」

 

「心配して頂けるので?」

 

「あら、生意気な口をききますね」

 

 むっと頬を膨らませながら腕組みをすると、豊な胸が強調された。こういう態度はあまり見ないので小さく笑みが溢れる。

 

 なんとなしにいらぬお節介が働いて、口をついた。

 

「会議にはご出席なさるのですか?」

 

「当然でしょう。私はヴィエント家の当主代理です」

 

「……今回の事件は危険も多いと思われます。態々危険を押してまで出席される必要はないかと。たとえ弱腰と取られても、ご欠席を決断されるべきだと私は考えます」

 

「家の問題に首を突っ込むとは、不遜ですね」

 

 獲物を見つけた鷲のように目が鋭くなる。家や政治に絡むのはご法度であると理解していたが、礼儀として話を続けた。

 

「脅威に屈することはできないと理解はできますが、事情にもっとも通じる私の言葉を信じて頂けるならならば頭の片隅にでも……」

 

「あくまでも助言である、と?」

 

「はい、これまで幾度となく助けて頂いた恩ゆえ、無礼ながら申し上げております」

 

 静かな沈黙が流れる。エマのキョドキョドした態度が目の端に入った。

 

「今回の無礼は不問にします。早く去りなさい」

 

 アンヘルは静かに頭を下げた。

 

 眉尻を下げたルトリシアは、そっぽを向くと早く解決するよう言い捨てた。

 

 二人してヴィエント邸を辞した帰り道、明後日に控えた会議について思考を巡らせた。

 

「準備は大丈夫? って、準備するほどの物はないか」

 

「そう、だね。私たちって、ほとんど身の着のまま飛び込むことになるから」

 

「でも、なんとか成功させないと……」

 

 手を差し出す。なんとしてでも相手の陰謀を打ち砕いてやる。そんな決意を持って。

 

 エマは、ちょっと照れたように目を伏せながら手を取った。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 静かに身を潜める。震えながら今か今かとそのときを待ち続けていた。

 

 時折強い風がビューと吹き付ける。自分の髪が煽られ、頭皮に強い負荷がかかる。

 

 心を沈めるため、ずっと壁に付け続けた手のひらから汗がじんわり滲んでいる。そのせいでそこだけ薄く変色していた。

 

 戦友が落ち着けとふるふる首を振る。促されるまま大きく深呼吸し、目的の場所を監視し続けた。

 

 街路に敷設された魔導灯がちかちかと明滅している。路地には人通りなどまったくない。閑静な高級住宅が居並ぶ地区だけあり、時折警備兵が通るくらいだった。

 

 ここはさる貴族の邸宅。そこから角をふたつほど曲がったところにある細い路地だ。そこからは鋼鉄製の柵の中に堂々と聳え立つ門が伺えた。

 

 どれほど待っただろうか。ようやく、目的の二人組が姿を見せた。

 

 その二人の背中が向こうの路地へと消えてゆく。待ち伏せていた男は仲間の二人と頷き合い、駆け出した。

 

「動くなっ!」

 

 待ち伏せしていた男――リカルドは、仲間達の目撃情報をもとに張り込んでいた場所を飛び出し、二人の人物を捉えた。

 

「エマを解放しろ、アンヘルっ!」

 

 ゆっくりとアンヘルが振り返る。その手はエマの手を掴んでいた。

 

 

 



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PHASE3-2:革命前夜

 標的を貴族街周辺で発見した、という報告が入ったのはリカルドたちの追跡がうまくゆかず、やきもきしているときであった。

 

 動員した候補生の負傷、進展せぬ捜査状況。逸りに逸った心が、その一報で爆発した。

 

 すぐさま剣を取ったリカルドは、仲間を二人連れ、そのときを今か今かと待ち構えていた。

 

「エマを解放しろ、アンヘルっ!」

 

 そのときを待ちわびたと、躍り出る。閑静な路地のど真ん中、魔導灯がちかちかと明滅する光の下で二人の男女と対峙した。

 

 男の一人が腕を掲げ制する。もう一人の女を庇うような姿勢。自然と下がった女を見て、胸の奥がじくじくと痛んでいくような気がした。

 

 眼に入るのは女――エマだけだった。それ以外は映らない。

 

 記憶の中の彼女を思い出していた。長く括った黒髪、いつもくだらない冗談に眉を顰めながらも最後には優しく笑ってくれる。押しに弱く、頼み込めば大体助けてくれる。そんな幼馴染。

 

 いつもそばにいてくれる。それが傲慢なことだと気付いたのは、会えなくなってからすぐだった。

 

 失ってから気付く、その存在の大きさ。

 

 その存在に手を伸ばすよう、一歩を踏み出していた。

 

「エマっ!」

 

 エマが声に誘われて前に踏み出そうとすると、長身の男が視界を遮った。リカルドは怒りのまま剣の柄に手を掛ける。

 

「なんの、つもりだっ」

 

「君とエマさんを会わせるわけにはいかない」

 

 アンヘルがちらりと後方のディアゴを一瞥すると、ボソボソとエマに耳打ちした。すると、エマは腕一本が間に挟まっているだけにもかかわらず、ただ顔を俯かせた。

 

「どうしたんだ、なぜ帰って来てくれないっ!」

 

「……今は、行けない」

 

 エマは首を小さく左右に振った。

 

「なんでっ!」

 

「ごめん、なさい。でもね、これがみんなのためなの」

 

「どういう意味だっ! もしかしてアンヘルになにかっ」

 

 ぞわりと胸の中で高まる疑惑心が言葉尻を激しくした。頭の中で襲い掛かられ、従うしかない状況を想像してしまう。血走った目でアンヘルを睨み付けた。

 

「違うの、アンヘルくんは何もしてない」

 

「なら、なんで」

 

「ごめん。でも、信じて」

 

 心のままに握った剣の柄が震えていた。リカルドはエマを追って一歩踏み出す。それに合わせるようエマが一歩下がる。

 

 このままではエマが行ってしまう。腕を伸ばし、自らの幼馴染を掴むよう五指を開いた。

 

「迂闊だ、リカルド」

 

 ヴァレリオットが肩を叩いた。

 

「だが」

 

「ディアゴ殿から警戒を怠らないよう言われた筈だろう? 心配するな、我々三人ならば相手に勝ち目はない」

 

 腕を引いて静止してきたヴァレリオットが隣に立つ憲兵ディエゴとこくりと頷き合い、佩刀を抜剣した。

 

 召喚師。二年もの間、ラファエルと同じ能力を隠し続けてきた男だ。決して油断できる相手ではないことなどリカルド自身百も承知である。

 

 だが、関係ない。

 

 金剛流ドモン道場免許皆伝。たとえラファエルに匹敵する実力を備えていたとしても、敗北など微塵も考えなかった。

 

 壁のように聳え立つアンヘルに向かって、厳しい一歩を踏み出していた。

 

「待ってリカルドっ!」

 

 ――今、おまえを助けてやるからな。

 

 リカルドは気迫の籠った咆哮を上げると一気に距離を詰めた。寝かせた刃が灯に照らされてキラリと光る。

 

 だらりと自然に構えていたアンヘルが鯉口を切った。沈み込むように膝を抜くと、胴を薙ごうとした剣戟を鞘から僅かに抜いた剣で迎撃する。

 

 凄まじい勢いで衝突した鋼は火花を撒き散らした。

 

 遠くから見たものには、一瞬花火でもあげたような激しい閃光を想像させただろう。

 

 試しや誘いなど必要としない。今の一撃で実力は理解した。つま先からてっぺんまで振り絞った全力で突き進む。リカルドは強く歯を食いしばりながら、旋風のように回転した。

 

 ごうと風を切り裂く音が響く。アンヘルは苦い顔をしながら後方に跳躍した。

 

「ヴァレリオットっ!」

 

 魔法には、二つの分類がある。

 

 基礎三大属性こそ至高である、と謳うガウス学派魔法。光と闇の人間の本質にある、と謳うオイラー学派。

 

 ヴァレリオットの学んだオイラー学派は、威力、範囲こそず抜けているものの、難易度という点ではガウス学派を凌駕する。そのハードルを才と努力で踏破した彼の秘技は、上級生と遜色ないどころか上回っている。

 

 呪文を唱えていたヴァレリオットの指先から閃光が迸る。紫電の光は四つの線となってアンヘルに殺到する。

 

 相手はギリギリで躱したものの、地面に着弾した衝撃でゴロゴロと地面に転がってゆく。

 

 それを見たリカルドは大上段に構えた。上段、火の構え。激烈な一撃を信条とする金剛流の中でもさらに極端な攻勢剣術。一対一では敗れたことのない構えを取る。

 

 緩めた手首がゆらりと剣を漂わせる。大きく跳躍して必殺の一撃を繰り出そうとする。

 

 片手を突いて立ち上がったアンヘルはその剣を地面に這わせ、大きく振り上げた。

 

 歯を横にして煉瓦の石畳の破片を飛ばしてくる。はっと目を瞑った瞬間、脇腹に強烈な痛みを覚えた。

 

 回し蹴りだ。内臓が破裂したような痛みに膝をつく。さらに膝蹴りが顔面に飛んできた。

 

 激しく呻きながら仰向けに倒れる。鼻が歪んだのか、鼻腔から血が滴り落ちてきた。

 

 意識を刈り取らんと迫る剣、ごろごろと横に転がりながらギリギリで回避した。

 

 地面に剣を叩きつける甲高い音。直後、ヴァレリオットの風魔法が炸裂した。

 

 アンヘルが顔を庇いながら大きく吹き飛ばされる。彼は地面に剣を突き立て、なんとか突風に耐え抜いた。

 

 ゆっくりと膝をつきながら立ち上がる。背後に居た二人が駆け寄ってきた。

 

「すまん。俺は戦力になれそうにない」

 

 ディアゴがしょんぼりと肩を落とす。彼の中年らしい肉体ではこの高速戦闘についてこれまい。

 

「いや、大丈夫です。それよりも、アンヘルの奴……」

 

 ぐいと鼻を押しながら鼻骨を戻し、一瞬前のやり取りを思い返す。

 

 瓦礫を利用した目眩し。すぐさま蹴り技を繰り出す体術。魔法を避け切った判断力。剣の実力は兎も角、戦い慣れていることはよくわかった。

 

(探索者あがり特有の戦い方だ)

 

 技術が劣るならそれ以外で対処するしかない。剣に固執しないのは、魔物相手の探索者家業ではありふれた戦い方だ。

 

 こういう遣り手が重視するのは、なによりも巧さである。命の遣り取りで極限まで集中力、精神力を摩耗させるのだが、野生に生きる魔物相手では人間ほどの消耗を望めない。だから彼らは息を抜いたり、うまく隙を作りだす術に長けている。

 

「行けるのか」

 

「動きはもう見切った」

 

 ヴァレリオットの心配を置き去りにして、再度必殺の構えを取った。ゆらりとした頭上の刀身。それは流星のように降った。

 

 金剛流の剛剣。その必殺の一撃を防ぐには、出鼻を挫くか、予備動作で太刀を挟むか、間合いから逃がれるしかない。動き出してからの対処は不可能、だから必殺なのだ。

 

 渾身の力で放った袈裟斬りだった。

 

 神域の剣技に目の色を変えたアンヘルは、必死の形相で剣を真横に掲げ、受けた。きっさきが肘に食い込む痛みを堪えつつ、石畳の上を滑って後退する。

 

 さらに一撃。鋭く放たれた突きが頬、耳を裂いて真っ赤な花を虚空に咲かせる。赤く尾を引いた剣線が薙ぎ払われる。

 

 ――止めだ。

 

 真横に薙いだ。澄み切った夜空を割るように甲高い金属音が鳴り響いた。

 

 アンヘルは手で鞘を引き上げると、胴体ギリギリで受けた。強化術の賜物か、鞘をぶった斬ること叶わず弾き飛ばすだけに終わった。

 

「やめてリカルドっ!」

 

 エマが叫ぶが、止まる気はなかった。

 

 無我夢中で追撃して、長剣を振り下ろした。

 

 ――召喚。

 

 アンヘルが渋面で呟く。

 

 剣が相手の首に吸い込まれる直前、真横から現れた青白い燐光の溢れるゲートから剣が差し出された。

 

 燃えるような赤い剣。それが振り下ろした剣と噛み合う。頭上ギリギリで止められた。

 

 吹き飛ばされていた男の目に力が宿った。

 

「リカルド、引けっ!」

 

 後方からヴァレリオットが叫ぶ声ぶ。

 

 一手遅い。アンヘルの口がそう模った。

 

 ゲートから現れた炎纏う剣士が競り合う剣ごと大きく薙いだ。鋒から膨れ上がる炎、それが津波のように迫る。

 

 ――しまっ。

 

 制服の上着を取り出して頭に被った。皮膚の焼け爛れる匂いがする。姿勢を低くして耐えるしかできなかった。

 

 ふわっと炎が消滅する。立ち上がったアンヘルが駆け出していた。背後からもヴァレリオットの気配。

 

 けたたましい金属音が意識をクリアにする。アンヘルとヴァレリオットは互いに至近距離で見つめ合いながら、激しく鍔迫り合いをしていた。

 

「私とリカルドが二人で掛かってなお苦戦するとは、想像以上の強さなようだ」

 

「それは、どうも」

 

「勝ち誇るのは構わないが、勝敗が決したわけではない」

 

 ヴァレリオットが至近距離で魔法を発動させた。手のひらから放射状に放たれる炎。アンヘルは炎の魔剣士を盾にしながら、時計回りに避けた。

 

「君は彼を。私は眷属を相手にする」

 

 小さく頷くと、飛び起きて走った。お返しとばかりに剣を返す。

 

 壁際に追い詰めるよう位置を変え、剣で牽制した。

 

 背中を壁につけたアンヘル。正眼に構えるとその鋒を向けた。

 

「お前の負けだ、アンヘル」

 

 眷属はヴァレリオットの相手で手一杯だ。彼方の手札はすでに把握した。この位置からでは此方の剣を防ぐことはできない。

 

 男の額からひやりと汗が流れ落ちる。真っ向勝負における彼我の実力差は格下の相手がより理解しているだろう。構えられた剣から力が抜ける。

 

 だが、この絶望的な最中にあって男は意外にも笑った。

 

「……それは、どうかな」

 

(まだ何か奥の手を?)

 

 アンヘルが左腕を柄から話すと、ぎゅっと握りしめる。口元が静かに呪文を口ずさもうとする。

 

 油断ならない濁った目に柄を握る拳が震える。その瞬間であった。

 

「リカルドやめて。じゃないと、この人を殺すわ」

 

 エマの声が背後から響いた。彼女はディアゴを仰向けにして、その足を胸に置いて短剣をつきつけていた。狼狽し切った表情だが、鋭い眼光が鋒を見つめている。

 

「俺を気にせずやってくれっ!」

 

 横隔膜を圧迫されているのか、掠れ声を絞り出したディアゴ。リカルドたちは全身が凍りついたように固まるしかなかった。

 

「ごめん。でも、しょうがないの」

 

 剣を握った指一本一本から力が抜け落ちてゆくようであった。気づけばからんと剣を落としていた。

 

 ぐっと唇を噛む。ディアゴは必死に自分のことを気にするなと叫んでいるが、そうするわけにはいかない。このまま彼を喪えば、憲兵への協力という大義を失うことになる。

 

 リカルドの脳裏からあらゆる思考がデリートされ、ただ絶望が支配した。

 

 眷属を召還したアンヘルが加速し、地面に叩き伏せられる。彼は腰に体重を掛けながら耳元で囁いた。

 

「ここは引いてほしい」

 

「お前っ、エマを奪っておいてよくそんな口をっ!」

 

「静かに。憲兵には聞こえないようにして」

 

 アンヘルは大きな声でヴァレリオットとディアゴに武器を捨てるよう指示を出すと、ゆっくり距離を取らせた。その距離が数百メートルほどになると、説明を再開した。

 

「僕たちは今、エマさんの冤罪を晴らすために動いている」

 

「それは此方のセリフだ。お前がやっているのは周りを混乱させるだけだ!」

 

 彼らが犯した罪は当初の禁止薬物密売に加え、脱獄、公務執行妨害、候補生への暴行、街中での騒動など多岐に渡る。これ以上放置していては冤罪が認められても死罪になりかねなかった。

 

 アンヘルは小さく謝罪しながらも、顔を押さえつける腕に力を込めた。頬の地面の感触がひどく冷たい。

 

「この事件、君の義兄さんであるイーサクさんが関与している」

 

「なにっ?」

 

 まったく想像していなかった名に一瞬呼吸も忘れて瞠目した。ぽつりぽつりと小糠雨が降り注ぎ、降水時の匂いが漂う。

 

「彼女は君の為に動いている。邪魔はしないでほしい」

 

「なにを根拠にそんなことを」

 

「僕は平民派を監視する役目を請け負っていたんだ」

 

 すっと上に乗っていた体重が消え去る。顔を上げるとアンヘルが此方を見下ろしていた。

 

「もう一度言うよ、これ以上邪魔はしないでほしい」

 

「お前を、信頼しろというのか?」

 

「……」

 

 冷たい顔をした男に一歩も身動ぎできなかった。悲しそうな顔をしたエマが俯いたまま身を翻す。二人は闇の中に消えていった。

 

 膝から崩れ落ち、後悔が吐き出される。どうして、どうしてと。蹲りながら二人が去って行った方角に腕を伸ばした。

 

 なんでエマは俺を頼ってくれないんだ。

 

 もしアンヘルの言葉が本当だったとしても、なぜ。

 

 自分ではなく、別の男を。

 

 気づいたとき、眼前が歪んでいた。頬が濡れている。泣いていたのだ。

 

 人前で泣いたことなどもう思い出せそうもない。姉のブリヒッテの葬式ですら、こうやって号泣した自信はなかった。

 

 けれど、今指先の隙間に消えてゆく人影を見ていると、涙がこぼれ落ちるのを止めることはできなかった。

 

 霞む視界の先で蠢く男は、姫を攫ってゆく魔王の姿そのものにしか見えなかった。

 

 何が、魔王だ。

 

 正義は、勇者は必ず勝つ。

 

 正しいのは、おれだ。

 

 四肢に力を込める。幼馴染を取り戻せ。そう言霊のように呟いた。

 

「やめるんだ。今行けば、私たちの誰かが死ぬことになる」

 

 ヴァレリオットの細剣が眼前に立ち塞がるよう突き刺さっていた。

 

 そんなことはわかっていた。苦い顔で見送るディアゴやヴァレリオットも逃したい訳ではないだろう。

 

 再び視線を眼前に戻す。残ったのは人影が絶えた街路の闇。エマを求めて伸ばしたままの手が震えていた。

 

 彼女は自分を信頼してくれなかった。長年の幼馴染である自分ではなく、つい最近知り合ったばかりの男の手を取った。

 

 それはわかっていても。

 

 今は苦くて堪らなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 さらさらと沢辺を流れる緩流の音が耳に届き、星明かりに照らされた水面が鋭く光っている。

 

 夜空では薄く積もった雲が半月を覆い、時折こぼれ出る月光が地面を照らしている。

 

 郊外の川辺には人の声どころか街あかりすら届くことなく、ただひっそりとした蛙の鳴き声が響いているだけである。

 

 全州会議を翌日に控えた夜。アンヘルたちはいつか二人で争い合った橋の下に居た。それも丸一日。その間、エマはずっと膝を抱え虚な目で小川を眺めるだけであった。

 

 アンヘルは調達したパン――盗んできた――の一つを彼女に差し出し、もう一つを口に運んだ。

 

「眠れ、ませんか?」

 

「……」

 

「会議は明日ですから、休まないと」

 

「……うん」

 

 覚束ない手つきで食料を受け取ったエマは、ボソボソと岩でも食べるようなスピードで齧った。

 

 アンヘルは静かに土手へ腰を下ろした。日中雨が降ったからか、湿度が上昇していて微かに肌がベタつく。気温以上に感じる不快なその暑さ、眉を顰めながら蓄積された疲労を息に籠めて空に溶かした。

 

 長い、長い夜だ。

 

 言葉もなく、目的もなく過ごすには長い時間。

 

 愛ある男女ならば暖かみある行為に耽って、その疲れを癒やし合うことができるのかもしれない。

 

 けれど、アンヘルとエマの間にあるのは協力関係でしかない。

 

 エマは、イーサクという家族の為。リカルドという幼馴染のため。アンヘルは、エマを通して友人だったマカレナを重ね合わせて。

 

 どれ程仲が進展しても、傷を舐め合う獣にしか成れない二人の間。それは決して縮まることのない心の距離であった。

 

「僕は寝ます。おやすみなさい」

 

 と腰を上げようとしたとき、袖を引かれた。エマは俯いたまま、指先を衣服の上からすっとすり合わせた。

 

「なにか?」

 

「……ううん。なんでも、ない」

 

 弓師の繊細な指先がゆっくりと離れてゆく。アンヘルはにっこり微笑みながら、腰を再び降ろした。

 

「そういえば、エマさんってどうして弓を使っているんですか?」

 

「……今更、どうして?」

 

「身の回りのことは聞いたことがなかったので。言いたくなければ構いませんけど」

 

「……」

 

 なんとも寂しげな風情に耐えられなくなったのだろうか。それとも最後の戦いが迫って怖気付いたのか。彼女はぽつりぽつりと自分の身の上を語り始めた。

 

「私の家はね、リカルドとは違って本当はただの農民なんだ」

 

 エマの実家は、元々が帝国南岸の漁師の束ねであり、近在ではもっとも栄えていた土豪であった。それが武芸に通じ、上流階級への一歩を踏み出したのは祖父の代からであったらしい。

 

 軍国主義国家における武芸の重要性は語る必要もないが、同時に金の力がまったくないことを意味しない。身を立てることを決意し、脇差一本で野に下った祖父の冒険は困窮を極めたそうだ。

 

 東奔西走。陣借りの傭兵として戦場を渡り歩き、やっとのこさ家を持てるほどの戦功を打ち立てたときには齢四十を超えていたそうだ。

 

 孫であるエマが生まれたとき、すでに祖父は没していたらしいが、その苦労は幾重にも日記に綴られていた。

 

「だからね、うちの家……っていうほど伝統ある家じゃないんだけど、すごく剣に対する拘りが強くてさ」

 

 弓を撫でながら呟くエマには、強い哀愁が漂っていた。

 

 彼女の語る所によれば、弓を学ぶ迄に紆余曲折あったらしい。二代目――つまりエマの父――は士官学校に入るほど余裕がなく、紛争で知り合ったエドゥアルドのドモン道場にて師範の座に付き、財を蓄えた。そして漸く長年の結実、学問を習えるような身になってからの子供イーサク、エマは掌中の玉である。そんな存在が、邪道とも言える弓を極めるというのは禁忌にも近かった。

 

「弓は、軍ではあまり好まれませんから」

 

 弱者の武器。前世中世における人をもっとも殺した兵器といえば弓であるが、強化術という超常の力がある以上武芸者の反応速度、防御能力の前には無力であり、南部騎馬異民族の乗馬弓術の勇名のせいか、どこか卑怯という印象すら付き纏っている。剣一本、槍一本で戦ってこその軍人、武人という精神が帝国にはあるのだ。

 

「だからね、私が弓をやりたいって言った時、すっごく反対された。父さんはずっと口を聞いてくれないぐらいだったし、道場の人もそう。でも、イーサク兄とエドゥアルドさんだけが後押ししてくれたんだ」

 

 イーサクは恐らく兄の欲目だったのだろう。エドゥアルドの心意は不明であったが、一人ぐらいは賛成してやらねばと思ったに違いない。渋る両親を跳ねつけ、なんとか弓に漕ぎ着けたエマはしがみつくように励んだそうだ。

 

「どうして弓に拘ったんですか?」

 

「あはは、つまんない理由なんだけどね」

 

 幼い頃の話。エマの幼馴染であるリカルドは、すでに金剛流道場にて$ーーー$の座にあった。同時期のホアンと比べても遥か上、余人では生涯を賭けても辿り着けぬ領域である。

 

「だからね、私が剣を学んでも追いつけない。横に並んで、一緒に戦うのは無理だろうって思った時、弓を見つけたの。これだったら後ろから援護できるんじゃないかって。幸い、才能はあったみたいだしね」

 

 スポンジが水を吸い込む如く成長したらしい。それから一年でオスゼリアス中の大会を総なめにすると、若くして今与一の名を得るに至る。あとは身辺調査の通り、探索者として腕を磨き、士官学校の上科候補生となった。

 

「それなのに、どうしてかな」

 

 今まではどこか楽しげな雰囲気すら漂っていたエマの表情が陰る。淡い星あかりに照らされた半顔はひどく暗かった。

 

「今なんで、なんで私って、その力をリカルドに向けてるんだろってさ」

 

 彼女は強く膝を抱えて、その中に顔を強く埋めた。嗚咽のようなしゃっくりが静かに響く。

 

 アンヘルは肩に手を伸ばそうとして下すことを繰り返した。

 

「エマさん……」

 

「明日失敗したら、もう会えないのかな。あんな、終わり方なのかな。そんなの、イヤだよぉ」

 

 エマの苦しみの声が涙まじりに落ちていった。

 

 突然、川の向こうから突風が吹き渡った。夜空にはうっすらとした雲と宇宙の闇が溶け合っている。ふと月が雲に隠れ、世界が深い闇に沈んだ。

 

 アンヘルは突然立ち上がって土手を駆け降りると、小川の中に靴を脱いで入り、大きく手を広げて振り返った。

 

「こういう時は楽しい話をしましょう。ほら、いいませんか? 雲の上はいつも晴れだって」

 

 裸足のまま駆け上がると座り込むエマの手を引いて無理やり小川まで引っ張る。

 

 ばしゃばしゃと激しく水を掻き分けながら、戸惑う彼女に問いかけた。

 

「僕はこうやって友達と川で遊んだことなんてありませんでした。小学校のときは勉強ばかりでしたし、中学校のときは部活。此方に来てからはずっと戦ってばかりでした」

 

 エマは引かれるまま小川の中に足を踏み入れた。アンヘルの語る「学校」や「部活」という単語に困惑し、それ以上に迫る涼やかな水の感触にあたふたとしていた。

 

「でも、前に川で戦った経験はあって。実は川辺の戦いは経験があって、寂しい人生だなって思ってたんです」

 

 イズーナとやり合ったときの事を微かに思い浮かべる。クナルと揃って激情に走り、郊外の河川で感情を叩きつけた記憶だ。未だその記憶は熱と痛みを持って消え去ることはない。

 

「エマさんの場合、結構扇情的な格好だったのでいい思い出に入るかもしれませんが」

 

「ちょ、なに言ってるのよっ」

 

 エマは両腕で身体を隠すと頬を赤く染めた。

 

 彼女を放ってさっさと小川を進んでゆくと、小石が積み重なっている上に乗った。涼やかな風が駆け抜けてゆく。

 

 こうやってプライベートなことを話し合うのははじめてだなと、ふと思った。

 

「エマさんは何か、ないんですか? 別に楽しい話じゃなくてもほら、明日上手くいったらコレ遣りたいとか、ココに行きたいとか」

 

「そんな急に言われても」

 

「なんでもいいんですよ。一つくらいありません?」

 

 今まで、二人の間で日常に関する話題などありはしなかった。互いに何も知らない。身辺調査の無味乾燥としたプロフィール、そして取り繕った仮初の趣味しか。

 

 ぐずるエマに向かって優しい微笑みを向けた。彼女はいったん俯いてから、絞り出すように答えた。

 

「お花見に、行きたいわ」

 

 想定外の回答に一瞬ポカンとする。一応ながらこの異郷の地でもお花見行事は存在するのだが、往来で飲酒――というより酔っ払い――が好まれない世界事情ゆえに、どちらかと云えばマイナー行事である。

 

 その疑問が分かったのだろう。エマは静かに首を振ると微笑んだ。

 

「私はね、普通にお花を見たいの。あんまりお酒とか呑んで騒ぐのはね……」

 

「へえ、なんだか乙女な趣味ですね」

 

「悪い?」

 

「いえいえ。でも、もう桜は咲いてませんよ」

 

 日本で考えれば、現在は五月並みの気候である。桜もほとんどが散り、残り滓のような物悲しい雰囲気が桜の木からは漂っている。

 

「私が見たいのは桜じゃなくて、梅。それだったら、まだ咲いているところあるからさ」

 

「梅の時期ってとっくに終わってませんでしたか?」

 

 エマは苦笑いしながら夜空の向こうを見つめた。

 

「祖父が植えたらしいんだけどね、家の梅の木、狂い咲きって言われるぐらい開花が遅いの」

 

 身振り手振りでその大きな梅の木のことを説明する彼女は、それだけが農民であった名残であることを教えてくれた。

 

 それらを黙って聞き終えたアンヘルは、どうして梅の木が見たいのかを尋ねた。

 

「えぇー、そこまで説明するの?」

 

「桜が好きって人は多いですけど、梅が好きっていうのはあんまり聞かないので」

 

「そうかなぁ」

 

 恥ずかしいのかポリポリと頬を掻く。あーとかうーとか唸りながら、俯いたり顔をあげたり忙しない。

 

「言えないことですか?」

 

「そういうわけじゃないけど……」

 

「なら、いいじゃないですか」

 

「強引よね。アンヘルくんって」

 

「あの時は演技ですけど」

 

「それ以外のことも、だと思う」

 

 彼女は無理やり弓道場に誘われたことを思い出しているのだろうか。それとも、押しに弱い性格を悩んでいるのだろうか。

 

 幾ばくかの逡巡の後、エマは態とらしくため息をつくと、覚悟を決めたように前を向いた。

 

「ブリヒッテ姉の受け売りなんだけどね、梅の花って春の一番最初に咲くらしいの。私、昔から春が一番好きだったから、それを告げるなんてすごく素敵だなって。だから、好きになったんだ……何、変だったら変って言ってよ」

 

「ロマンチックですね」

 

「馬鹿にしてるでしょ」

 

 ぷっくりと頬を膨らませたエマは気恥ずかしげにそっぽを向いた。

 

「だから梅が好きなの。これでわかった?」

 

「ええ。ただまあ、春を告げる花という意味では福寿草がすでに在りますし、梅の咲かない熱帯地域では適用されない事柄ですが」

 

「……アンヘルくんってさ、ホントに空気読めないよね。そういう理屈っぽいの、絶対嫌われるよ」

 

 ぎくりと身体が固まる。もしかして童貞な理由はここにあったのだろうか。

 

 エマは静かに微笑んだ。

 

「でもね、ありがと。励ましてくれんたんだよね」

 

 それ以上、言葉にする必要はなかった。

 

 アンヘルが掛けたのは励ましの言葉であり、エマが返したのは空元気の痩せ我慢でしかないことは、ふたりともわかっていた。リカルドとの衝突で彼女が今までにないほど憔悴していたことなど明白である。そして、それに付ける薬がないことも。

 

 笑顔も心の底から浮かべているわけではないのだ。振り切れない想いが泥のように底へ溜まっている。気を紛らわせるのが、所詮場当たり的な対処であることを痛感させられた。

 

「エマさん」

 

「もう言わないで、寝ましょう。イーサク兄の為にも、明日は頑張らなきゃ」

 

 そういってエマは小川を上がっていった。虫の音が小さく聞こえる。全身で春の風を感じながら、明日の成功を強く祈った。

 

 そして審判の日を迎える。

 

 エマ、そしてアンヘルの人生を決める、闘争と裏切りの一日が幕をあげる。

 

 

 



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PHASE3-3:レ・ミゼラブル

 ――帽子の庇をしっかり引いて、逆に胸は堂々と張って。大丈夫、絶対になんとかなるから。

 

 今朝確認したアンヘルとの打ち合わせを思い返す。廊下脇の警護兵へ敬礼を返し、エマは議事堂の中を一直線に進んでいた。

 

 白亜の議事堂の壁面は無骨ながらもどこか気品があり、帝国の長い伝統を感じさせる。頂点にまで登った陽が真っ直ぐに降り注ぎ、帝国を二分する建造物を神々しく照らしていた。

 

 議事堂は巨大な長方形の建造物で、三階建てになっている。前方部は広く庭園や馬車寄せに取られており、大きな議題の後には民衆が集まれるような広間の前に幅広のきざはしがある。中は中央玄関があり、その前には議場に繋がる通称「開かずの扉」が控える。その脇に伸びる廊下から五百席ある巨大議場に入れ、さらに休憩所や事務局がある。これはヴィエント家から齎された情報通りだった。

 

 各廊下には二名ずつの警備兵が控えており、重装騎士の姿もちらほら伺える。予定通りの厳重警備の中、ヴィエント家麾下、ロスチャイルド家の連中に紛れながら議事堂二階へ潜入したエマは、客間や控室がメインとなる三階に向かっていた。

 

「身分証の提示と目的を」

 

「報告になかったかしら? 三階からの見張りを増やすらしいわ」

 

 無言で身分証の提示を求める警備兵。元老院議員が集まる議事堂警備の練度は高く、軽く揺さぶっても引きさがる様子はない。渋々懐から身分証を取り出した。

 

「行け」

 

 慇懃に敬礼したエマは、無感情な警備の顔を横目にそっと息を吐いた。

 

 ――これは警備の者に配られる身分証です。が、所詮は偽造。中央本部と照会されればひとたまりもありません。決して過信しないよう。

 

 ルトリシアは議事堂潜入の為、想像以上に骨を折ってくれた。警護兵には珍しい女のエマが潜入できるよう手筈を整え、身分証を用意し、内部構造まで詳細に語ってくれた。今回の潜入。彼女の協力無くして此処までスムーズに事が運ぶことはなかっただろう。

 

 なぜ此処まで協力的なのか検討がつかない。去り際の不安そうな表情を振り返りながらも、同時に向こうから出された提案を思い出していた。

 

(それだけ私をスカウトしたいってこと? でも、それにしては……)

 

 手が混みすぎている。何かそれ以上のモノを穿って考えてしまう自分がいた。あり得る筈のない妄想が顔をだす。ぶんぶんと首を振りながら、くだらない想像を消し去った。

 

 三階になって急に人影が絶えた。無論零ではないが、減っている。エマは静かに足を早めると、議事堂の入り口が見渡せる正面窓の右端にたどり着いた。

 

 そっと鍵を開け、眼下の光景を眺める。三階建てとはいえ、一階一階が大きい議事堂の眺めは広々としていた。

 

 小さな黒い人影が、庭や敷地を区切る塀の向こうで蠢いている。あの軍帽と装備は憲兵だろう。一方、大広間や階段の下で続々と入ってくる議員団を護衛するのは帝都東方軍所属の精鋭兵や私設騎士団だろう。アンヘルの報告通り、外部を憲兵、内部を軍の精鋭で固めているようだ。

 

 ――ガイルスたちが報告を上げれば、バレンティア騎士団は総力を上げて警護を増やす。けど、帝都東方軍にだって面子があるから内部の警備は任せないと思うんだ。

 

 ――そうなの? 危険を前にしても派閥争いするのかな?

 

 ――議員の判断はわからないけど、この二つの勢力は魔剣のこともあって不仲なんだ。よほどの理由がなければ、棲み分けをするはず。

 

 想定は外れていなかった。身を隠しながら複数回窓を開けたり閉じたりを繰り返し、広間で待機するアンヘルに向かってサインを送る。これでエマが所定の位置にたどり着いたことを知らせることができた筈だ。窓の縁に陣取ると、階下をそっと覗き込んだ。

 

「絶対、イーサク兄を見つける」

 

 エマは鋭い目で周囲を見渡す。その瞳は鷹の目のように鋭利だった。

 

 ――後はどうやって相手を発見するか、だけど……

 

 ――それは任せて。議事堂に入るには絶対中央玄関を通らないと行けないでしょ。私が監視する。

 

 ――過激派を見つけるにはエマさんの記憶頼りなのは事実だけど、一階で見晴らしが良い所ってなると……

 

 ――三階で大丈夫。忘れた? 私って弓使いなんだから。

 

 弓使いに求められる能力の一つに、遠くを見る「眺視」が挙げられる。アフリカのタンザニアに暮らす民族は、遊牧や狩猟のために高い視力が必要で、日本人の十倍近く優れているらしい。強化術を加えたエマの視力は、可視光外すら捉えられるほど鋭敏なモノだった。

 

 時折背後を通ってゆく警備兵の足音に留意しながらも、眼下の人々を注視する。知っている顔、挙動が怪しい人物、何より兄イーサクの姿を探し続けた。

 

 かなり長い時間が経った。もうすぐ正午であろうか。すでに到来する議員の姿はなく、警護兵だけが庭に点在している状況である。

 

 エマは目頭を軽く抑えながら、塵一つ見逃さぬよう目を凝らした。

 

(さっきから兜を被った人が増えた。ああもうっ、せめて目庇を上げてよ!)

 

 目元だけから人相を把握することは「見当たり」と呼称され、高度な訓練が必要とされる。特別な訓練も受けていないエマは疲労困憊となっていた。

 

 炎天下の中、一階で探し回るアンヘルのことも心配だ。彼はある程度潜入に慣れているようだが、所詮は付け焼き刃だとも言っていた。焦れば焦るほど、視界が狭まってゆく感覚に陥る。

 

 太ももの肉をツネって冷静に成れと言い聞かせる。大丈夫、絶対に見逃さないと何度も唱えて、大きく深呼吸した。

 

 苦しいときは楽しいことだけを思い浮かべる。先日アンヘルが言っていたことだ。

 

 家の庭に咲く狂い咲きの梅をアンヘルくんと一緒に見る。

 

 エドゥアルドさんの為に、イーサク兄を止める。

 

 それで、あとは……

 

 ハッと顔をあげる。視界の端に疾走する馬車を複数認めたからだった。

 

 馬車は十台。いずれも二頭の馬が引いており、馬鎧を纏っている。全面は鉄板で固められているのか、もはや戦車の装いだ。それが敷地を区切る塀の向こうの大通りから一直線に向かってきている。

 

 いの一番に気付いたエマは窓から大きく身を乗り出し、大声で叫んだ。

 

「アンヘルくんっ! 正面入口!」

 

 敷地の警備に当たっていた憲兵の一部が慌ただしくなるが、それよりも先に馬車から複数の人影が顔を出す。辛うじて見えた鈍色の塊に、血の気が引いた。

 

 拳大の魔道具――充填式爆破魔道具、素早い武芸者に当てるのは兎も角、妨害魔道具下にて建造物を破壊するにはうってつけの兵器。それが襲撃者の手に握られていたのだ。

 

 馬車から身を乗り出した男たちは、その兵器を塀に投げつけた。同時に盛大な火炎が立ち登る。悲鳴と怒声、爆発の衝撃波が耳に届き、濛々と白煙が舞った。

 

 警備に当たっていた者たちの視線が集中する。まったく奥を見渡せない土埃の中から、微かに蠢く影を認めた瞬間だった。

 

 中から煙を掻き分けるよう嘶き。蹄鉄の鳴らす音が地震のように響いた気がした。それに続き、くろがねの馬車が躍り出てくる。

 

「敵襲っ、敵襲っ!」

 

「テロリストどもの襲撃だぁ!」

 

「であえ、であえぇぇぇぇぇええ」

 

 護衛兵たちの鬼気迫る蠢きの中に、チラリと見覚えのある茶髪の男を発見する。どうやらアンヘルも無事だったらしい。

 

 なんとしてでも彼らを議事堂には近づけない。こっそり忍び込ませた短刀を抜き、広間の戦いに参入しようと意気込む。

 

 その時だった。馬車が通り抜けた向こう側から、三人一組の憲兵風の男たちを発見したのは。

 

 外周警護の連中に紛れ踏み入ってきた男たちは、皆一様に帽子を深く被り、胴体が奇妙に大きい。議事堂に向かう姿は正しい姿に思えるが、馬車から飛び降りる男たちに向かう気配もない様子を見て、エマの中に一つの疑念が浮かんだ。

 

 三人組の中心人物、その男が議事堂をゆっくり見上げたとき、エマの中にあったそれが確信に変わった。

 

(ゴメン、アンヘルくん。正面は任せたから)

 

 エマは身を翻し、一人中央玄関に向かった。これは自分の役目だ、そう言い聞かせながら。

 

 

 

 

 

「アンヘルくんっ! 正面入口!」

 

 聞き覚えのある悲鳴が空から降ってきた瞬間、アンヘルは即座に行動を開始した。が、待機地点が悪く、すぐ駆けつけることはできなかった。

 

 エマと違って議事堂内に潜入する必要がなかったアンヘルだったが、実は彼女以上に警備から怪しまれていたのである。

 

 一応なりとも前日身だしなみを整えたのだが、何日も逃亡生活を送っていたせいか、どうやら非日常の雰囲気が香るらしい。胡散臭げに見られながら場所を変え、中庭の外れから必死に駆けて馬車を追った。

 

(絶対に阻止しなければならないのは、議事堂の爆破。それだけはなんとしてでも)

 

 エマの恩赦獲得に向けて、最低条件となるのが議員や使節団の安全である。もし首謀者を確保できたとしても犠牲者が出れば吹っ飛んでしまう。直接の襲撃は勿論、建物崩落による生き埋めも防がなければならない。

 

 集まってきた憲兵たちと列を並べながら、アンヘルは議事堂の正面入口すこし手前で、バリケードでも作るよう即席の隊列を組んだ。

 

「絶対にテロリストの侵入を許すなっ!」

 

 指揮官らしき男の怒号があがると、そこかしこから呼応の雄叫びが轟く。前方に意識を戻すと、激突間近といった場所に馬車三台が迫っていた。

 

 隊列の端で剣を構える。すると、衝突寸前になって中から過激派の志士たちが転がり出てきた。

 

 ――やばいっ!

 

「退避」と指揮官の絶叫が響いたが、時すでに遅し。鋼鉄で補強された馬車は隊列を薙ぎ払うように突っ込みながら停車すると、中がぐにゃりと膨張した。

 

 アンヘルが必死に跳躍したのと同時。轟音と共に爆炎が広がった。肉の焼ける匂いが鼻腔にすっと入り込む。ごろごろと転がりながらも手をついて立ち上がると、眼前にはヒンノムの谷が顕現していた。

 

 溶けたような肉と逆巻いた肌。とうとうと流れ落ちる血からは鉄の匂いが強く漂っている。衝撃波で耳鳴りのする鼓膜は地獄に喘ぐ憲兵たちの声を遮断した。

 

 白くぶれる視界の端にいち早く離脱した志士の姿が映る。彼らは一様に平青眼へ構えると、倒れている憲兵たちに止めを差し始めた。

 

「我らは国を守る騎士だっ! 断固たる決意と柔軟な思考を持ってすればテロリストどもなど弱兵にすぎん!」

 

 根性論のような指示を辞世の句としながら、指揮官は討ち死にした。帝都東方軍の精鋭たちが入口の階段下で壁を作りはじめる。しかし、遅い。敷地塀からは新たに十台近い馬車が突入してくる。議事堂周辺には数千人規模の護衛が詰めているはずだが、自爆覚悟の戦法により、局所的ではあるものの数の利が覆されようとしていた。

 

 飛び出してきた男たちの数は約二十。アンヘルが今まで相手にした中でも相当上位の数だ。しかも練度はかなり高い。それが議事堂に取り付けば夥しいほどの被害が出る。

 

 後続に備える為にも、敵をできるだけ短時間で片付ける必要がある。

 

「動ける人は死んでも目の前の敵を離さないでっ!」

 

 近くに居た憲兵二人を助け起こすと、剣を振りかざして志士に襲いかかった。

 

 アンヘルの長剣が鋭く舞った。突然襲いかかられたからか、男の動きが鈍る。それを見て相手の得物を払うと、素早く突きを繰り出した。

 

 斜め下から突き上げるよう、男の胸板を深々と差し貫く。そのまま一歩二歩と推し進めて、力強く剣を引き抜いた。

 

 噴き出る血流が顔を濡らす。服を紅く染め上げながら、ぶつかるようにして真横の胸元へ飛び込んだ。

 

 剣というのは構造上、鍔元は意外に切れないものだ。貫手で男の喉仏を打ち抜くと、引き倒しながら刃を走らせる。男の喉からはどっと血潮が溢れた。

 

 男が持っていた剣を拾って投げつける。ギリギリで弾かれるも、アンヘルが瞬く間に二人斬り殺したことで一方的だった流れが止まった。

 

 そもそも数は此方が優っているのである。時間が経てば蜜に集る蟻のように味方の援護が期待できる。相手の勢いだけを一瞬削げればそれで十分だ。

 

 注目を集めたからか、四人一斉に踊りかかってくる。

 

 アンヘルは怒号を上げながら、もはや型もなしに無闇矢鱈と剣を振り回した。

 

 右斜めの男の顔を真っ二つに割る。流れるままに隣の男の籠手を叩き割ると、膝下が熱くなった。

 

 かくんと右足の力が抜ける。もう一人の男の刺突が素早く走った。必死に横へ躱そうとするが、肩を掠める。片手と片足の力で飛び上がると、剣を振り上げて男の顎を叩き割った。

 

 後方ダイブの要領で無防備に転がる。残った最後の男が剣を振り上げるのが目に映った。

 

 ――やばい、死ぬ。

 

 一瞬諦めの想念を浮かべたとき、敵の腹から剣が突き出る。敵の背後から憲兵の一人が突いたのだ。ごふりと血を吐きながら地面へと沈んだ。

 

「大丈夫か、あんた!」

 

「え、ええ。ありがとうございます」

 

「いや、礼をいうのはこっちのほうだ。さっきは助かった……うん? あんた――」

 

 助かったと息吐く暇もない。敵兵は後続の馬車と一緒になって再び突撃を繰り出そうとしている。

 

 アンヘルは敵の衣服を無造作に破くと、ぱっくりと割れた脛を縛りなんとか立ち上がった。

 

 ぐっぐっと右足を踏んで、感触を確かめる。鋭い痛みが神経を伝うが、出血は酷くない。ゆっくりと走り出すと、敵集団に吶喊した。

 

 激しい攻防。相手の剣術は今まで相対したどの剣客よりも優っていた。

 

 激しく散る火花が視界を焼く。衝撃で金属の破片が飛び散り、頬を鋭く裂いた。瞳孔が働かないのか、まるで世界に闇の帳が落ちたように光が消える。

 

 まるで深海にでも入り込んだように、闇が深まる。

 

 冷静に対処されれば、此方の拙い剣術では危険だ。相手を撹乱するように走り回ると、長剣を水平に動かした。

 

 脇腹を狙った動きは相手が弾く。だが、そこからの組み手が狙いだ。隣から降り注ぐ斬撃を組みついた男の頭蓋で防ぐと、胴体を貫通させて奥の敵を打ち抜く。

 

 串刺しにした男たちを纏めて地面に寝かせ、足をかけて引き抜く。男の喉からは、ゲッと蛙の鳴き声がもれた。

 

 朦朧とする視界の中で、アンヘルは大きく雄叫びを上げた。

 

 まさに壮絶だった。

 

 持った長剣からは血を滴らせ、全身に何箇所も手傷を負っている。

 

 顔は返り血を浴びて真っ赤で、白目まで濁り切らせている。

 

 ここが正念場と戦うアンヘルの姿は、どこかネジ一本外れた狂戦士そのものであった。

 

 ふと、潮が引いたように男たちの勢いが止まった。反撃の狼煙をあげるのに十分な隙だ。

 

「今がチャンスだ! 相手は怯んだぞっ!」

 

 新たな指揮官が怒号をあげると集ってきた憲兵たちが一斉に踊りかかった。数にして三倍、これまでの鬱憤を晴らさんが如く、数を頼みに敵を打ち倒した。

 

 瞬く間に敵兵が打ち取られてゆく。相手は最後の抵抗とばかりに手榴弾を飲み込んで突撃したり、潰走を始めた。

 

 前方を見ると、後続の馬車も討ち取られつつある。一度奇襲が失敗すれば、あとは数任せに惨殺されるだけだ。

 

 アンヘルは近くの木に手を掛けながら、大きく息を吐いた。漆黒の闇に光が差し込み、壊れそうなほど跳ねていた心臓が落ち着きを取り戻す。こっそりリーンを木陰に召喚し、己を治療させた。

 

(これで佳境は乗り切った、のかな?)

 

 ゆっくりと周囲を見渡す。まだ油断はできないが、どの戦況も優勢である。入口付近の防御が固まりつつある今、多少負けている箇所が出ても問題あるまい。

 

 体力が少しづつ戻ってくる。そういえばエマさんはどうしたんだ。そう思ったとき、不思議な集団を発見した。

 

 その集団は三人組の憲兵らしき者たちだった。一見して何もおかしいところはないのだが、彼らだけが人波に逆流して議事堂へ向かっているのだ。

 

 これだけの激戦に目も呉れず、一目散に議事堂へと向かう姿。その意味を一瞬考えたとき、ふとある結論に辿り着いた。

 

 ――もしかして、今までの突撃は囮?

 

 リーンを送還しながら、アンヘルは彼らを追うため駆け出した。

 

「止まれっ」

 

 背後から聞き覚えのある声が引き留めた。首筋に添えられた鉄塊。ぞろぞろと複数の足音が響いた。

 

 ちらりと後方を疑う。十人を超える憲兵の中央には、中年の渋い顔。彼らも激闘をくぐり抜けた形跡を残しながらも、その戦意は一ミリも衰えてはいなかった。

 

 憲兵ディアゴ。彼の熱意は本物だ。

 

「さっきの戦い、部下が世話になったようだな。だが、お前の容疑が晴れるわけじゃないぞ。観念するんだな」

 

 舌打ちを鳴らす。三人組の男たちは混乱に乗じ、帝都東方軍の脇を抜けて正面玄関へと消えてゆく。

 

 迷っている暇はない。だが、ここで憲兵を相手にしては、アンヘル自身が過激派の志士として狩られることになる。

 

 絶体絶命のピンチに強く拳を握った。召喚術も剣もダメ。この形相を見るに、低レベルな話術も通用しそうにない。

 

 八方塞がりだ。どうしようもない。

 

 歯噛みするしかないアンヘルの膝が蹴られ、地面へと押し倒される。年貢の納め時だという台詞と共に数人にのし掛かられた。

 

 ――あと、もうちょっとなのにっ。

 

 視界が滲む。必死の弁明も空に溶けるばかりだった。

 

 

 

 

 

 ――皆の勇姿は見届けたぞ。

 

 三人組の憲兵服に身を包んだ男たち。その中心人物――イーサクは、散っていった仲間たちの姿を脳裏に描きながら、逸る心を押さえ込もうとしていた。

 

 計画は成った。自分たち不至を叶えようとしている。内部の警備担当は外の援護に向かっている。制服に身を包み、まっすぐ議場へ向かう者たちを静止するものなど現れまい。

 

 暖色のシャンデリアが灯る中央玄関を抜け、一トン近い重量のブロンズ扉、通称「開かずの扉」に手を掛ける。ゆっくりと開かれた先には、白黒のタイルの上に敷かれた真っ赤な絨毯。それが階段の先にまで伸びている。

 

 厳かな空気が漂う。傍には無数の燭台と歴代の議長の油絵が並び、当代の為に用意された額縁もある。都市の歴史に由来する戦女神の意匠が柱や壁面に彫られていた。

 

 連れ立つ二人の同志が大判の扉を完全に開ききった。

 

「見ていてくれ、ブリヒッテ」

 

 感慨深く、議事堂へ繋がる扉を見上げる。階段を登り切った先には、帝国に巣食う寄生虫どもが跋扈しているのだ。夢にまで見たその光景。イーサクは同志たちと頷き合い、腰の長剣に手を掛けた。

 

「――いーさく、さん。てき、です……」

 

 ドサリと同志メルクリオが地面に沈む音がした。一瞬、イーサクは何が起きたのかまったく理解ができなかった。

 

 遅れてもう一方の同志が倒れ込んだ。信じられないと彼らを視界に収める。その脳天には、一本の異物が貫いていた。

 

 敵襲。そう思った時、背後から聞き覚えのある声を聞いた。

 

 長い間、聞いていなかった声。ゆっくりと振り返ると彼女は震える声で名を呼んだ。

 

「……イーサク兄」

 

 自らの実妹エマは、自分と同じ濃紺の憲兵制服に身を包み、観賞用に飾られている大きな弓を手に此方を睨んでいた。

 

 

 



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PAHSE3-4:帝国議会の落日

 武芸とは帝国人を人たらしめるもの、と両親に聞かされてエマは育った。

 

「弓って、そんなにダメなことなのかな」

 

 弓術に関して天才的な才能を持っていたエマだが、決してその道を極めることに悩みを持たなかったわけではなかった。

 

 祖父の遺志を継ぐ父に違わず、あの優しい兄イーサクも剣と槍以外の道へ進むと告げた時、苦い顔を隠そうともしなかったのは未だ鮮明に残っている。

 

 下級兵や猟師衆こそ親しみを持って接してくれたものの、道場生、肉親に根付いている近接至上主義は根強かった。子供は大人が思う以上に敏感である。決意したこととはいえ、挫折しそうになったことは数えきれなかった。

 

 リカルドは人間関係にひどく疎いところがある。孤独だったエマに味方はほとんど居なかったといっていい。

 

 例外は、ブリヒッテぐらいだった。慈愛を体現した彼女は、教会奉仕の合間をぬって一緒に過ごしてくれたのだ。

 

「ブリヒッテ姉、今日は何するのー」

 

「ふふ。だめよそんな言葉遣い。ブリヒッテお姉さんと呼びなさい」

 

 武人として幼少期を過ごしたエマにとって、市井の女の子らしい思い出というのは皆無に等しかったが、唯一、ブリヒッテが本を朗読に耳を澄ませたことは覚えている。彼女はどこか夢見がちな部分を残しており、決まって騎士物語を好んだ。読み耽っている間に、ヒロインに自己を投影していまうのだ。

 

「ねえ、この騎士様ってかっこいいでしょう。大きくなったら、エマもこういう人を旦那さまにするのよ」

 

「えぇー、そうかなぁ? あんまりカッコよくないよぅ」

 

「そうかしら。すごくステキだと思うけれど、エマは何が気に入らないの?」

 

「だって、このお話の騎士さま、すっごく頼りないよ。あんまり強くないし、バカにされてるし。お姫様との約束をほっぽりだしたりして、好きになれる部分なんてなーい」

 

「エマったら結構強引なタイプの男の子が好きなのねえ。ふふ、もしかして弟の影響なのかしら。

 でもね、男の子ってこういうお間抜けさんのほうが可愛げあるじゃない? 頼りにならなくても、本当に大切なことには一直線。お姫様も自分も捨てて、平和の為にすべてを賭けるの。中々そういう人はいないと思うわ、使命の為に命を捨てられる人って」

 

 そういえば、交際破棄を賭けてエマとイーサクの間を取り持ったのもブリヒッテだった。もしかしたら、エドゥアルドを説得したのも彼女だったのかもしれない。

 

 今更、どうしてこんなことを思い出すのだろうか。

 

 抜刀しながら振り返る兄の姿を見て、哀切のような感情が膨れ上がる。気を抜くと膝から力が抜け落ち、ヘナヘナとへたり込みそうだった。

 

 そんな心を奮い立たせ、矢筒から一本の鏃を引き抜き、番える。藤頭の先に兄イーサクの姿を据えた。

 

「こうやって顔を合わせるのは、二年ぶりか? 大きくなったな、エマ」

 

「……イーサク兄」

 

 久方ぶりに再開した兄の顔は、意外にも穏やかなものだった。ぱっと見の印象こそ痩せたようだが、微笑み方一つとってしても記憶と何一つ差異は見当たらなかった。

 

 だが、それこそが異常なのだと、はっと我にかえる。革命運動に命を燃やす志士が、熱に浮かされたような面を見せない。内面の炎がありとあらゆる普通を燃やし尽くし、異常を偏在化させたのだ。

 

 きらりと光る澄んだ瞳。幼い頃に憧れた兄の真っ直ぐな眼差しは、帝国を闇に葬り去る灯へと変わっていた。

 

「イーサク兄、こんなことしてもブリヒッテ姉が喜ぶわけない。お願い、投降、して」

 

「昔よりずっと弓の構えが様になっている。そういえば、短剣術はちゃんと磨いているのか? 体術はあんまり得意じゃなかっただろ」

 

「……イーサク兄の気持ちはわかるつもり。けど、こうやって皆を巻き込むようなやり方は賛成できない。エドゥアルドさんも、ブリヒッテ姉も悲しんでるよ」

 

「そういえばもう三回生か。小隊戦も近いんじゃないか? はは、あれは盛り上がるからなぁ。俺も帝都御前試合には興奮したものさ」

 

「――話を聞いてよっ! イーサク兄!」

 

 怒鳴りつけられたイーサクは、一瞬ポカンとした顔でエマの顔を見つめると、癇癪を起こした妹を慰める優しい笑顔を浮かべた。

 

「今更説得なんてしようとするな、エマ」

 

「なんでそんなっ」

 

「俺はブリヒッテの為に行動しているわけじゃない。彼を信じたから、立ち上がっているんだ。俺たちが語るのは、これだけだろ」

 

 イーサクは痩けた頬を僅かに歪ませると、ポンポンと刀身で掌を叩いた。外の戦いの音が間遠に響いている。落ち着き払ったその態度からは、彼の決意が強く表れていた。

 

 彼を後押しする強い信念。さらに磨きの掛かった剣術。立ち会う前からぶるりと背筋が震えそうになる。

 

 もはや、これまでか。

 

 エマは血が滴るほど強く唇を噛み締め、身体に眠る力の根源を叩き起こした。

 

 死を覚悟した。自分、そして兄の死を。

 

 自分の恩赦とブリヒッテの慈愛、エドゥアルドの想い、そして幼馴染リカルドの為。

 

 相手の信念がなんだ。自分にだって譲れないものがある。ここで元老院への襲撃を許せば、自分たち家族友人すべてが虚しく露へと消えるだろう。負けすなわち破滅を意味するのである。

 

「イーサク兄。いえ、志士イーサク。私が、貴方の企みを阻止します!」

 

「強く成ったな、エマ。それでこそ俺の妹だ」

 

 静かに微笑んだイーサク。彼の掲げた剣に灯の光が反射したとき、開戦の合図は切って落とされた。

 

 だらりと刃を寝かせるようにして地面を滑ったイーサクが迫る。エマは番えていた矢を極限まで振り絞り、相手の呼吸に合わせて放った。

 

 一筋の閃光。死が男に走った。

 

 かつて、兄が口酸っぱく語った言葉を思い出していた。

 

 ――戦いは、どちらがどれだけ冷静かどうかだ。

 

 イーサクは刹那まで見切らんと目を凝らすと、直撃ギリギリで剣を蛇のようにくねらせた。カランと矢の転がる音がする。それと同時に発達した大腿筋を折り曲げて、大きく一歩を踏み出した。

 

 素早く次の矢を番える。間合いは三十尺(約十メートル)。射られるのは、あと一射か二射。

 

 一直線に駆け抜ける男の胴体を狙って矢を放つ。今度はさらにギリギリ、弾いた矢が頬を掠めてゆく。だが、相手の視線は一時も切れない。

 

 距離が縮まって防ぐのは難しくなっている。次の一矢こそ勝負だ。エマは呼吸を止め、必殺の矢を放った。

 

 イーサク一瞬の逡巡。エマ渾身の一擲が空間を駆け抜けた。

 

 鏃と剣の接触する音。相手の視線が鏃に吸い込まれる。

 

 弾けるような火花が散った。

 

 下から振りあげた長剣が渾身の一撃を弾いたのだ。

 

 完全に勝負は決した。

 

 イーサクは振り上げた剣を返すと、両手でギロチンの裁きを落とす。

 

「俺の勝ちだ、エマ」

 

 勝利の確信を得た台詞だ。けれども勝利の女神は彼に微笑まなかった。

 

 エマはすぐさま懐の短剣を引き抜くと、矢を弾いた反動で一瞬硬直を余儀なくされたイーサクの脇腹へ突き出した。

 

 狙い澄ました一撃。顔色を変えたイーサクは左手を犠牲に紙一重で躱すと、使い物にならなくなった腕をだらりと下げた。

 

「最初から、読んでいたのか?」

 

 真正面から兄に勝てるなどと驕ってはいない。弓を使うという先入観を利用した。士官学校で必要に迫られた戦術。一対一における弓を囮とした短剣術こそ、二年の間に磨き上げた武術であった。

 

 血が滴る短い刀身を虚な目で見つめた。そうでもしなければ、自分を保てそうになかったからだ。

 

 エマは短剣を構え直すと、大きく叫んだ。

 

「もうやめて! 勝ち目はない!」

 

「俺がそんな簡単に諦めないこと、よく知ってるだろ?」

 

 剣を杖に再び歩き始めた。俯きながらも歩みを止めない彼の顔は黒く陰になっていた。

 

 背後の玄関口からドタドタと複数の足音が鳴った。やけに殺気付いている。イーサクが表情を微かに変えたのを見て、首だけで振り返った。

 

「エマさんっ、無事ですかっ!?」

 

 大量の憲兵拘束隊を引き連れたアンヘルが、両手を拘束されたまま叫んでいる。向こうの戦いも壮絶であったのか、闖入者一様にズタボロであった。

 

 無理やり説得して連れて来たのか。「開かずの扉」が開くさまを見つけた憲兵たちは、負傷の身を引きずりながらジリジリと囲いを作った。

 

「兄さんの、負けよ。これ以上、私に剣を振らせないで」

 

「……」

 

「イーサク兄っ!」

 

 嗚咽混じりの悲鳴を受けて、イーサクはカランと剣を落とした。幽鬼のような足取りでフラつくと流れる血も気に留めず両手で髪をかきあげ、がくりと腰砕けになった。

 

「わかって、くれたの?」

 

「……ふ、ふふ……ふははははっ!」

 

 駆け寄ろうとしたとき、彼の口から怨念のように低い笑い声が漏れてきた。両手を大きく広げながら、天に向かって唾でも吐きつけるように大きく吠えた。

 

 狂気の滲んだその笑い声にピタリと身体が硬直する。ステージライトに照らされた悪役のように光が照らした。

 

「まいったよ、まさか妹のお前に邪魔されるとは思いもよらなかった。完敗、降参だよ」

 

 兄の平然としていた瞼が儚げに瞬かれる。澄み切った瞳の奥には確かに強い炎が宿っていた。

 

「だがな、我々の計画は成った。我々の革命はすぐそこに迫っているっ。我らの、勝利だ!」

 

 兄の宣言に底知れぬ恐怖を覚え、己の腕を掻き抱く。イーサクはまるで世界のすべてが滑稽だといわんばかりにケタケタ哄笑をあげた。

 

「まったく察しが悪いな。すべては茶番、今まで起きたことすべてが我らの掌の上だったのさ。これほど大規模な襲撃計画。たとえエマたちの捜査がなくとも、いずれ露呈してしまうことは了承済みの話だった。謀は密なるを貴ぶというだろう? それぐらいの用心深さがなくては、この腐った帝国をひっくり返すなど夢のまた夢。我らの信念を甘く見てもらっては困る。

 稀しくも、こうやってエマたちが目の前に現れてくれたお陰で、計画の成功を確信できた!」

 

 考えてみれば、エマたちが手に入れた情報の中でまだ繋がりないモノがいくつかあった。たとえば援軍であるラファエルを襲撃した者たちの行方だ。いや、それ以上に何か忘れていることがある。イーサクの言を信じたというよりも、こうやって事実を振り返ると不安で肌がささくれ立った。

 

「だからそれは何なんだっ」

 

 取り押さえられているアンヘルが鋭く叫ぶ。

 

「うん? たしかお前は報告にあった……そんなことはどうでもいいか。そんな身になってまで必死だな」

 

「聞いているのかっ!」

 

「コラ、貴様! 動くんじゃない!」

 

 取り押さえられながらも罵声をあげる男に、憐れみを湛えた瞳でジッと見つめていた。

 

「どうやら状況が飲み込めていないらしい。国の狗として脳に支障をきたす程洗脳されているのか? すまないな、俺はお前を解放してやれそうにない」

 

 静かに懐の短剣を取り出した。

 

 きらりと刀身が照らされる。まだやるのか。そうエマが思った瞬間、くるりと持ち主に向けて刃を反転させた。

 

 寂しそうなイーサクの微笑みが浮かんだ。

 

 自害だ。

 

 絶対に殺させるなと誰かが叫んだような気がしたが、エマの体は一歩も動かなかった。

 

 コマ送りのようにその刀身が兄へと迫る。

 

 完全に閉じられた瞳が、物語の終わりを告げた。

 

「じゃあな、エマ」

 

 小さな別れの言葉を聞いた。

 

 その瞬間、議場へと続く最後の扉がゆっくりと開かれた。

 

 

「――彼らの目的は“魔剣の強奪”ですよ。先輩」

 

 

 聞き覚えのある声。ゆっくりと真っ赤な絨毯を降ってきたのは、ポケットに両手を突っ込んだ痩身の男だった。

 

 背後から突如として表れた男にイーサクは突き刺そうとしていた短剣を取り落とし、余裕なく狼狽した

 

 ガイルス・グリックス。

 

 彼はニヒルに笑いながらチッチッチと人差し指を振って見せると、計画の全貌について語り始めた。

 

「彼らの目的は“議会襲撃”と見せかけて、手薄になったバレンティア騎士団本部の魔剣を強奪することなんですよ」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ハシュドルベルの十指。

 

 宗主を除けば、その義理の兄である大司祭ハシュドルベル・バアルを頂点とし、彼を支える十本指が教団を統括している。

 

 その目標は、教団の理念に真っ向から歯向かい、教団誕生以前から虐げられてきた宗敵トレラベーガ大帝国であった。

 

 大陸最大の邪教の徒であるジョルダーノ・ファラー・アット・アルトゥールは、背中の中心にまで届く長い黒髪を梳きながら、無機質な瞳で護衛対象であるセルゲイ・シャフィコフを凝視していた。

 

「作戦はうまく運んでいるようね」

 

「当然だ。この私が手ずから考えたのだぞ」

 

 セルゲイは赤いレンガ造りのバレンティア騎士団本部を見上げた。

 

 いつもは物々しい警備で埋め尽くされている本部も、今日ばかりは議事堂の警備に駆り出されていて、数えるくらいにしか人影は見えない。

 

 対して、こちらの人数は五十近い。セルゲイの召喚術を併せれば、あっという間に平らげてしまう人数だ。

 

 つまりは予定調和。歯応えのない作戦に、アルトゥールは失望のため息をこっそり吐いた。

 

 今回の事件の始まりは、すべての能力を兼ね備える幻の十八魔剣の一報を聞いた事に端を発する。

 

 州担当の準十本指であるセルゲイは、騎士団内の警備を薄く出来ないかと目論み、オスゼリアス内に蔓延っていた志士らと接触を図った。教団内で製造が開始されたサイレールの提供を行い、彼らと共同して本部に保管されている魔剣強奪の計画を立てた。

 

 のだが、結局幻の十八魔剣は虚偽であったことが判明。目論みは潰えることになるかと思われたが、セルゲイは方針を変更。オスゼリアス内に内紛の種を撒きつつ、残った六本と封印中の魔剣「蘇芳」が保管される憲兵本部襲撃計画を立案したのだった。

 

「配置に着きました……協力者どの」

 

 不審そうな志士の一人が声を掛けてくる。向こうもまた、利害が一致しているからといって、こちらを信用しているわけではなかった。

 

(まだこっちにほうが食い甲斐はあるのかしらねぇ。やだやだ、こんなブサイク。私は珍味好きじゃないのだけれどねえ)

 

「突撃しろ」

 

 不遜にセルゲイが指示すると、志士側の指揮官が渋々頷く。解き放たれた兵士たちは一目散に赤塗りの本部へ駆け込むと、お飾りとばかりに残されていた残兵を瞬く間に斬り殺した。

 

「行けっ、我が眷属よ」

 

 その中でも水際だった活躍をしたのは、セルゲイが召喚した二匹の眷属であった。

 

 闇の番人。

 

 巨大な円盾を手に、これまた巨大な鏡のように光る大剣を携えている。兜の両脇からは歪な角が飛び出しており、中には何が入っているのか想像するのも恐ろしかった。

 

 番人は剣で盾を打ち鳴らしながら、入り口の扉を粉砕し、まるで稲穂でも刈るような無造作さで人の命を摘み取った。

 

 作られた屍の道を、まるで王のように歩く。

 

 そう、セルゲイは召喚師である。それも、極めて優秀な。

 

 総眷属数は七体。同時召喚数は力のある眷属なら二体、抑えれば三体までを可能とする。

 

 練達した召喚師に並び立つ才能を示し、次期十本指にもっとも近いと噂されていた。

 

 当然、奇襲を受けた憲兵本部の兵たちは皆殺しの憂き目にあった。

 

 セルゲイ一人ならなんとかなったかもしれない。だが、周囲をアルトゥールが固め、歴戦の志士たちが走り抜けてゆく以上、戦いはワンサイドゲームの様相を呈した。

 

(退屈ねぇ)

 

 アルトゥールは恐慌で前後不覚になった男を叩き斬ると、ふぁさっと髪をかき上げた。

 

 不意に悲鳴が絶え、志士たちが得物を降ろす。敵が居なくなったのだ。アルトゥールたちは本部の奥へ、屍を乗り越えて進んだ。

 

「フハハ。私もこれでついに十本指か、ほら、もっとゴミどもを殺せ」

 

 高笑いをあげる男の横顔が、今日はやけに心をささくれ立たせる。いつもは弱者をいたぶる下衆な嗜好も嫌いではないのだが、退屈な今となっては不快の根源に思えた。

 

 すでに立ち塞がる者たちは消え、志士たちが魔剣を保管している場所を忙しなく探して始めた。

 

 アルトゥールたちは少し待つと、戻ってきた志士の一人に案内されるまま、目的地に足を早めようとした――ところで、ある一点の影にジッと目を凝らした。

 

 地下に繋がる扉には、楷書で「地下保管室」と書かれている。通常なら降りてしまいたいのだが、廊下の奥にふと違和感を覚えた。

 

「おい、早くしろ」

 

「ちょっとお待ちなさい。出てきなさいな、そこにいるんでしょう?」

 

 アルトゥールは影に向かって問いかけた。

 

 すると、長い廊下の向こう、から見覚えのある男が鼻を鳴らして現れた。

 

「ふん、生意気な奴の誘いであったから信用はしていなかったが、掛かった獲物は大きかったようだな」

 

 アルトゥールと同じ褐色の肌に輝くような銀髪。巨躯といって差し支えない隆々とした筋肉に取り回しの悪そうな大剣。

 

 ラシェイダ族。その男が背後に仲間を連れ立って現れたのだ。

 

「なん、だと。なぜコイツらが此処に現れる?」

 

「計画がバレたのね。この様子を見ると、ここは囲まれているわね」

 

「なにっ! くそ、貴様らの誰かが漏らしたのかっ!」

 

 セルゲイが志士の一人に詰め寄った。

 

「我らが裏切るわけなかろう!」

 

「ならどうして計画が読まれている! 私の計画は完璧だったのだぞ! 貴様らが裏切った以外にあり得るものか!」

 

「なにおぅ!」

 

 セルゲイの瞳が暗く増悪で塗りつぶされてゆく。彼にとってこの戦いは、大司祭に認めてもらうための大事な聖戦である。羽虫のような者たちに汚されるなどあってはならないことだった。

 

(醜いわねぇ)

 

 アルトゥールはチラリと退路を見ると、セルゲイの襟をぐっと掴んだ。

 

「逃げるわよ」

 

「なっ! ふざけているのかっ! ここまで来て逃げるなどと――」

 

「よく考えなさい。魔剣がここにある保証はない。地下には罠が仕掛けられているかもしれないわ」

 

「お前は私にしたがっていればいいんだ。口答えするな!」

 

「あのねぇ……」

 

 アルトゥールが腰に手をやって軽蔑の視線を送ると、クナルが感心したように剣を抜いた。

 

「一人ぐらいはまともな奴がいるようだ。おい、雑魚どもの相手は任せるぞ」

 

 クナルは同じように若い男女――ベップとアルバ――の二人に指示すると、獣のような皺を顔面にいくつも刻み、唸りながら迫った。

 

 針鼠のような鋭い闘気の奔流に、近くの志士たちは反射的に反応した。

 

「貴様ら数人如きが増えたところでぇぇえええ! 我らの正義の前に屈せよっぉぉぉおおお!」

 

 銀髪の下に隠れていた口元が、ふっと歪んだ。

 

 意識はしていない。ただ本能がヤバい、と叫んでいた。

 

 クナルは冷酷な瞳で向かってくる志士たちを一瞥した。狭苦しい廊下の中で、巨大な大剣が槍のように構えられる。そしてそれは閃光となった。

 

「逃げなさい!」

 

 大曲刀が命を狩らんと鎌首をもたげた。

 

 志士たちは皆目を見開くと、一瞬心臓を鷲掴みにされてように戸惑い、流されるまま鋼の一突きを受けた。それだけに止まらない。その刺突は見えぬ光となって、間合いの外まで駆け抜けた。

 

 透明な刀身がその場に存在したかのような、一撃。

 

 達人にしか成しえぬ「飛ぶ斬撃」を浴びて、半数近い人間が地面に沈んだ。

 

「たった、一撃で……だと?」

 

 指揮官の男が剣を構えたまま、化け物の類を見てしまったような掠れ声でつぶやいた。

 

 数人でアンヘルを苦戦させた歴戦の志士十数人を、たとえ躱せないほど狭く長い廊下であったにせよ、ただ一突きで葬ったのだ。

 

 指揮官の男は恐怖に駆られて怒号をあげると、仲間を引き連れて、遮二無二突撃を開始した。

 

「あああああ!」

 

 意味はなかった。どこから現れたのか、クナルの背後から複数の人影が姿を見せたのだ。いや、それは前方だけではなく、後方からもであった。

 

 飛んで火に入る夏の虫と化したアルトゥールたちは、前門後門を挟まれたのだ。

 

(狭いところでこの数はしんどいわねぇ。セルゲイも役に立たないし)

 

 騒ぎ立てているセルゲイを見下ろす。

 

「ちょっと手荒くなるわ」

 

 アルトゥールはバカの首筋に手刀を落とした。意識のない彼を脇に抱えながら、壁に向かって走った。

 

「こういうのは別に退路を作ろうってね」

 

 渾身の力で壁を踏み抜くと、その先に新たな部屋が現れた。さらに続けて向こう側の壁も蹴り抜く。アルトゥールは怒号を背景に本部詰所を駆け抜けた。

 

 どれほど走り抜けただろうか。

 

 いつの間に集まったのか、敷地をぐるりと囲んでいた兵士数人を薙ぎ倒し、狭い路地へとたどり着いていた。

 

 久方ぶりの窮地に熱い汗が流れ落ちる。その口元は妖しく歪められていた。

 

「う、うん?」

 

 脇に抱えていたセルゲイがもぞもぞと動きはじめた。彼は自力で足を地面に着けるとゆっくり立ち上がり、此方を睨んできた。

 

「お前、私に逆らったなっ!」

 

「いやねぇ、助けてあげたのに」

 

「ふざけるな。それよりここはどこだっ! 早くもどれっ!」

 

「あのねぇ、そんな自殺行為できないでしょう?」

 

「私に逆らうんじゃない。いいか、お前の背信はあとで追及するからなっ!」

 

 そう言い捨てるとセルゲイは背中を向けた。

 

 アルトゥールは次期十本指の護衛剣士ではあるが、召喚士至上主義の教理を持つバアル教団に至ってはその地位は然程高くない。神の御意思に背いた「背教者」として訴えられれば、粛正され、血の海へと沈む羽目になるだろう。

 

 所詮は雇われの剣士の身。一族に失望し、闘争の渦中に身を注いだ自分には相応しい最後であるのかもしれないが――

 

「それは困るわねぇ」

 

 思考を置き去りにして、身体は動いていた。

 

 考えるまでもない。人生とは、自分だけのものである。アルトゥールは己の相棒を強く握りこむと、セルゲイの無防備な背中に電光石火の勢いで振り下ろした。肩口から食い込んだそれは、まるで据えもの斬りのように叩き割り、地面に黒々とした血潮と内容物を吐き出させた。

 

「……どう、して」

 

「あらやだ、やっちゃったわ。まあでも、ちょうどよかったのかしら?」

 

 小さく喚く頭部を踏みつけにしながら、大剣に付着した汚い血を拭い、その解放感から空を見上げた。

 

 狭い路地から見える空は、ここにあっても澄みきっていた。

 

 アルトゥールはぺろりと舌で唇を舐める。その瞳はさらに歪んでいた。

 

「さあ、これからどうしましょうかぇ」

 

 こんなつまらぬ計画など、無に帰したところで大した痛手ではない。それよりも、自分の求める血はいずこにあるのか。美しい血が流れる闘争の場とは、いったいどこに。

 

 解き放たれた獣は、次の獲物を探していた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 すべてお見通しだ。狙いも、何もかも。

 

 それは終幕を告げる合図であった。ガイルスの言葉を聞きおえたイーサクは、喉奥から狂人同然の絶叫を放った。

 

「ばかなぁぁぁぁああああ!」

 

 血が抜けて蒼白に成った身体を振り乱し、髪をぶちぶち引きちぎりながら立ち上がる。口内から血泡を吐きながら短剣を振りかざした。

 

 なぜだ。どうしてだ。我らの計画は完璧だったはずだ。あの人が描き出した、帝国を膿をすべて焼き尽くす正義の戦い。決して負けるはずのない聖戦の炎がついえてしまった。

 

 信じられるはずもない。今まさに死したメルクリオだけではなく、吶喊作戦を敢行した志士百人以上すべてがむだ死にとなったのだ。視界が闇に飲まれ、一寸先の未来も見えぬほど真っ暗となった。

 

「嘘だ嘘だ嘘だうそだうそだぁぁああああ! まちがうはずない。うそに決まってる、お前らおれを騙そうとしているんだろっ。

 そう、ちがう、ちがうんだ。ありえない。あり得るはずがない。ひ、ひひ。ちがう、あの人はぜったいに正しいんだ」

 

 喚き立てながら子供の癇癪のように短剣を振り回した。混乱する、頭が正解を導き出せない。なぜ、なぜこんなことになっている。がたがたと膝が震える。狂ったように全身が痙攣する。

 

「醜いなぁ。さあ、取り押さえてくださいよ」

 

 ガイルスの後ろから、続け様に護衛たちが姿を現す。算段良く中にも子飼いの兵隊を残していたらしい。精鋭兵が抜刀して向かってきた。

 

「近づくなっ!」

 

 イーサクは首筋に手を掛けてビリビリと服を破り捨てた。彼の奇妙に膨らんでいた胴には、細長い筒状の魔道具が括り付けられ、その先から伸びるチューブが体内に繋がっていた。

 

 体内魔力式、爆裂魔道具。

 

 通称「自爆魔道具」と呼ばれ、自身の魔力を起爆剤として魔道具内に貯蔵された魔力を発動させる兵器である。

 

 女の息を呑むような鋭い悲鳴が上がった。

 

「一歩でも近寄ったら、ばくはつするっ! ひ、はは、そうだ、しょせんお前らにそんな覚悟ないんだろ。はは、ははは、そうだ。おれの正義が、こんなところでおわるはずがない!」

 

「――テロリスト風情がつけあがるな」

 

 警備兵の一人がさらに一歩進めた。迷いもなく、剣を横青眼に構える。彼らの目には、絶対に議場へ通すものかという強い意志があった。

 

「我ら帝都東方軍っ。テロリストの要求に屈することなどないっ!」

 

「待ってっ!」

 

 エマの静止は警備兵たちの雄叫びに掻き消された。

 

 黒い波が一斉にイーサクへと迫る。たった一瞬の動揺が、自爆魔道具を起動させる時間すら奪っていた。

 

 無情な鈍い鋼が黒髭危機一髪のように突き込まれた。

 

 ずん、ずん、と。

 

 肉を穿つ音が立て続けに響いた。

 

「かぁ、はっ」

 

 くぐもった蛙のような悲鳴が流れた。憲兵ら決死の攻撃は、イーサク最後の炎へ向かって無情にも水をかけた。

 

 剣を突き立てた男たちがゆっくりと離れてゆく。

 

 イーサクは夢遊病患者のようにふらふらと地面をうろつくと、血の染み込んだ紅い絨毯へ沈んだ。

 

 なぜ、こうなった。そう思えばある一つの思い出が降ってくる。

 

 春の涼しい日だった。

 

 湖畔から流れてくる風は町中の皆を癒してくれる。春の真昼間、優しい日差しが照りつけていた。

 

 少年の身体は傷だらけだった。祖父の大望を叶えんとする両親の指導は厳しかった。永遠と続く鍛錬に身体中の水分は蒸発した。

 

 優しかった父の形相は鬼そのものだった。水も飲めず、ただ身体を虐め抜く指導はまだ幼い少年には過酷にすぎた。理由は単純だ。道場の試合に負けて以来、父は失望を露わにすると激しく少年を打ちのめした。疲労と睡眠不足、脱水症状で時折ぐらりと視界が白濁した。

 

 水が欲しい。道場側の木陰で打身を癒す少年はただそれを願った。いつもであれば、近くの井戸で喉を潤せるが、父に禁止されている身とあっては不可能だ。いや、そもそも其処まで歩けそうにもない。記憶にある川遊びの思い出が、少年を余計に荒ませた。

 

 すぐ戻らなければ。道場の柱に手をつき、生まれたての鹿のように立ち上がる。少年の眼には、なんの感情も浮かんでいない。暗い闇だった。

 

「ねえ、大丈夫?」

 

 声、優しい少女の声だった。

 

 少年はボロ雑巾になった身体を無理やり動かし、その人物を見た。

 

 知っている。通っている道場の娘で時折差し入れを持って来たり、試合の応援に駆けつけた。雇われ剣客の息子である少年にとって、主筋の令嬢のような存在だ。

 

 慈善行為に熱を上げ、武芸を磨こうとしない少女を両親は蔑んでいたが、一度道場で会えば「ブリヒッテちゃん」とペコペコ頭を下げていることを少年は知っている。

 

 身分こそ同じなれど、二人の間に聳える壁は大きく高く。

 

 仰ぎ見るだけの存在であった少女は、静かに微笑んだ。

 

「喉、渇いてるの?」

 

 少年は知らず、こくりと頷いていた。少女は待っててと言い残すと、屋敷から小さなコップを抱えて戻ってきた。

 

「はい、どうぞ」

 

 身体が硬直した。隠れて水を飲んだと知れれば、また殴られる。少女はそんな内心を見透かしたのか、「黙ってればバレないから」と、なみなみ注がれたコップを握らせた。

 

 もう止められない。どこから湧いて来たのか、枯れた筈の涙をポロポロ溢しながらむしゃぶりついた。

 

 同時に虚しくなった。父が武芸を遣らせるせいで、こんな目にあっている。つまり、自分に武芸を押し付ける原因、その娘であるのに。

 

 ただただ悔しかった。

 

 幼気な弱々しい少女にすら同情される、自分の情けなさが。

 

 ふと、聞いたことのある小さな歌声が、空から降ってきた。礼拝堂の賛美歌だ。微かに残る天使の彫像を思い出す。

 

 子供の歌だけあって上手くはなかったのだろうが、その時の少年には世界にこれよりも神聖なものなどないのだと、心の底から信じて疑わなかった。

 

 気づいたとき、少年は身を震わせて蹲っていた。世界の苦難から解き放たれた開放感と、奇妙な幸福感に支配されていた。

 

「泣かないで、ね?」

 

 柔らかい手が自分の手に重ねられる。再び彼女見た時、その真っ黒な髪と雪の様に白い肌がまるで女神にすら思えた。

 

「お名前、教えてくれる?」

 

 少年は、そのとき少女に恋をした。

 

 少女の貴き笑顔を、何が何でも守って見せると。

 

 それが、すべてのはじまり。それだけが、少年イーサクの願いだった。

 

 ――なんで、こんなところに来てしまったんだろう。

 

 なあ、ブリヒッテ。

 

 

 

 

 

 ピタリと頬にイーサクの血が付着した。倒れたときに飛び散ったのだ。

 

 その瞬間、アンヘルの脳内にイーサクの幼き記憶が流れ込んできた。凄まじく後味の悪い結末であった。

 

 召喚師の感応。

 

 いつからか身についた力は、戦いの最期、すべての因果を知らせる能力であった。

 

 妄想と断じてしまうことはできない。幼馴染である二人の、生々しく儚い出会い。いつも見えるわけではないが、時折こうやって他人の人生が自分と重なり合う。

 

 こんなときこそ思う。召喚師の能力など、欲しくはなかったと。

 

(くそっ)

 

 ぎりりと唇を噛み締めた。徹頭徹尾、最後の最後まで後味の悪い結末であった。

 

 男に突き刺さった刃からは、夥しいほどの命が溢れている。その瞳はカッと見開かれ、なんとしてでもブリヒッテを救わんと叫び続けているようであった。

 

 目を逸らすことは許されない。どんな理屈があろうとも、相手を容赦なくへし折った勝者には、その死を背負う責務がある。

 

 アンヘルは枷をつけられたままエマへ近寄ると、手の中の短剣を取り上げた。

 

 顔色は病院のように白く、唇は溺死体のように青紫だった。意識があるのか、ないのか。彼女の眼球は景色が進んでいこうとも、動くことはなかった。

 

 唖然と兄の最後を見続けたエマは、ゆっくり一歩進むと、やがて両膝から崩れるように座り込んだ。

 

 微動だにせず虚な目で遺体を見つめる。目尻には大粒の涙が盛り上がってゆき、肩は呼吸に合わせて鋭く上下した。

 

 次いで、アンヘルに向き直る。言いたいことなど、すぐにわかった。

 

 静かに首を真横に振った。

 

 イーサクの骸に駆け寄って、泣きじゃくることは許されなかった。歩けばすぐ。しかし、その距離は永遠だ。死体を検分しようと警備兵が取り囲む。エマは彼らを詰るよう、嗚咽混じりに涙した。

 

 アンヘルは戒められ、彼女を慰めてやる手段を持たなかった。じっと見届けるしかできない。幼馴染の悲劇の結末、それを細部の細部まで覚えておくことしか。

 

「さすがは先輩と褒めておくべきでしょうか? 外では獅子奮迅の活躍だったようで」

 

「ガイルス……」

 

「おっと、そう責めないでください。我々は諜報員。騙し騙されこそ日常でしょう?」

 

 ガイルスは何かしらの書類を憲兵たちに見せると、アンヘルの両手に嵌る手枷の鍵を受け取った。

 

 後ろ手で縛られていた枷が外されると、ディアゴが苦い顔で首を振り両脇で抑えていた男らが消える。

 

「彼女の恩赦も心配ないでしょう。自分はあと一仕事ありますが、先輩は一度休んで大丈夫ですよ」

 

 ヒラヒラと手を振っている。最後の最後まで気に食わない男だ。小さく舌打ちをこぼすと、エマの腕を引いた。

 

「あんへる、くん?」

 

「もう行きましょう。ここに居ては邪魔になります」

 

 戸惑う彼女の手を引いて、議事堂の敷地を脱した。

 

 街は奇妙なほど静けさを保っていた。すでに議事堂で大規模の戦いがあったことは知れ渡っているのか、周辺には多数の野次馬が集まっていたものの、街は人影が失せた廃墟のようであった。

 

 アンヘルとエマの間に、会話らしい会話はなかった。俯いたまま歩く二人は敗残兵そのものだった。

 

「今まで、ありがとう。アンヘルくん」

 

 彼女の実家にたどり着こうとしたときである。エマは淡々と礼を述べた。

 

 整理を付けたという風ではなかった。兄の結末を心の中で飲み下せぬまま、ただ虚なままで言葉を紡いだようにしか見えなかった。

 

 結局のところ、何が解決したのだろうか。そう自問するハメになる。

 

 アンヘルがやったことなど、妹に兄を殺させる手伝いをさせたに過ぎない。感謝を述べられるだけで、鬱屈とした感情で心が澱んでゆく。

 

「お兄さんのこと、残念でしたね」

 

「……うん」

 

「遺体の方は早めに返すよう努力します。辱めを受けることないよう、しますので」

 

「……うん」

 

「恩赦状は明日にでもお届けします。ほとぼりが冷めるまで、家でじっとしていることをオススメします」

 

 春の涼やかな風が流れるも、傷を負った二人には身体中を嬲る颶風にしか感じ取れなかった。

 

 突然、目の前から怒鳴り声が聞こえてきた。声高い声は少年のもので、次いでさらに年若い少女が泣きべそを掻き始めた。

 

「だからこんなところで走るなって」

 

「だってぇー」

 

「もうしょうがないな。ほら、掴まれって」

 

「ありがとぅ、お兄」

 

 どうやら町民の子供らしい。兄とおぼしき少年は、転んだ少女を背負いあげると暢気な鼻歌を歌い始める。痛みでぐずる妹らしき少女の顔は徐々に綻びはじめた。

 

「イーサク兄……」

 

 ぽつりと呟きながら兄弟を見つめるエマ。彼女が何を考えているかなど、手に取るように理解できた。

 

 心底羨むような表情、目の端からすっと涙が一筋流れた。押し殺したような彼女の叫びに、アンヘルは痛々しくて堪らなかった。

 

 なんでこんなに世界は無常なんだろう。

 

 家族という、たった一つの関係にすら、世界はたやすくヒビを入れる。欠陥住宅のように軽々と。まるで、人間という生物そのものが欠陥であると突きつけんばかりに。

 

 妹に兄を殺させる。不条理が作り出す神様の悪戯をただ呪った。

 

「リカルドにエマさんの安全を伝えましょう」

 

 むりやり張り切った声で、彼女の顔を覗き込みながら、沈み切った両手を掴み上げる。

 

 思考も出来ぬほど、忙しない日常に戻してやれ。自身の経験から覚えた痛みへの特効薬を処方した。

 

「エマさんは家の前で待っててください。僕が一走り士官学校まで行ってきます」

 

 有無を言わせぬまま頷かせる。アンヘルは腰の長剣を預けると、彼女の背中を押してから走り出した。

 

「じゃあ、また後で」

 

 アンヘルは痛む身体に鞭打って、士官学校までの道のりを駆けた。

 

 の筈だったのだが……

 

 四半刻後。とぼとぼと反対方向に戻ってゆく男の姿があった。

 

(当たり前だけど、服めちゃくちゃボロボロのままだった)

 

 士官学校へ入ろうとすると、警備兵に止められた。この世界の情報伝達力は原始時代のままだ。指名手配が解除されたことなど数日待たねば広がるまい。

 

 とはいえ、この格好で士官学校に潜入すれば瞬く間に制圧されるだろう。信頼できる友人が一人でも居ればと後悔することになった。

 

 ということで、仕方なくエマの元に虚しく戻っているところだった。果てしなくダサいが、少しの辛抱である。甘んじて軽蔑くらいは受け入れよう。

 

 角を曲がってエマの実家へとたどり着く。彼女は家の前で自分――というよりはリカルド――の帰りを待っているはずだ。

 

 さも急いだとばかりに最後だけ走る。彼女が待つはずの場所に辿り着いたとき、ふと違和感に襲われた。

 

「あれ、エマさん?」

 

 きょろきょろと周囲を見渡す。彼女の姿はなかった。

 

 もしかして家を間違ったのか。デート時の記憶と建物を見比べるが、間違っているとは思われない。家の標識を確認してから扉を強くノックした。

 

「どうしたん、だろ……」

 

 家の中にも人の気配はない。家人が出かけていても不思議ではないが、エマが居ないというのは理解できない。

 

 そう思ったとき、信じられないものを発見してしまった。

 

 膝をついて、それを拾い上げる。無造作に打ち捨てられていたのは、アンヘルが渡した筈の長剣だった。

 

 周囲には点々と血痕が連なっている。

 

 地面の砂を掌でかき分け、じっと目を凝らす。何度確認しても真実は一つしかなかった。

 

 強く踏み込んだ、争ったような跡。引き摺られた痕跡。

 

 意味するのはたった一つだ。

 

 ――エマさんは、誘拐された。

 

 まだ事件は終わっていない。その事実を認識して、すべてが崩落してゆくようであった。

 

 

 



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PHASE4-1:ポーカーフェイス

途中で確率計算が出てきますが、しっかり計算できているか自信がありません。あくまでもお話の添加物だと思ってお楽しみください。



 我らの碧血を流した都市連合国家群紛争より今日に至るまで艱難辛苦に在りながらも帝国の趨勢に懊悩し、再起を希望した。然れど、強く逞しい国家興隆の唯一の途は帝国成立初期の軍政独裁官復活にあるも其国民大部分は依然として沈淪した皇帝制度、門閥主義、世襲制の迷夢から未だ覚醒せず。

 

 人民いずれも帝国臣民たることが何物たるを知らず、祖先代々より継ぎし軍国主義を忘却し、貴族、官僚、皇族等地位ある者らの民意ありと語る言葉を退けられぬものなり。これら打破する方法なくば、しからずんば国家を蝕む貴族性の維持なりて、官僚体制の維持となる。これでは永久に改革の兆しなく、斜陽の帝国を保持するものなり。

 

 彼等内に巣食う者たちを没落せしめることは、自然の作用なりと知らしめねばならぬ。地方、奴隷の供給減により生産品供出不可能に達すれば、虎視眈々と狙いを定めん各国が鬣犬のごとく群がるであろう。

 

 依って我らアッグア領にて偉大なるかのカルノサ永久独裁官以来の方策を以て、全体主義かつ統制主義を国家全体に浸透せしめることで、人民の真たる帰属意識を昂揚せんとするものなり。そして革命の暁には、門閥派、佐皇派、平民派を一掃し、誠正常なる国家組織を形成せんと確信に相至る。

 

 尊き碧血を流したロウウィートの英霊たちを救わんが為、我ら晩秋の時節にて蜂起せん。万難を排し戦いに当たるも、卑劣な魔の手に屈せん可能性は零に至らず。もしも敵を討ち果たすこと叶わぬならば、我が古き友に後続として遺志を継ぐことを願う。

 

 屍山血河を共にくぐり抜けた友エドゥアルドへ。

 

 

     帝都西方軍第三歩兵師団将軍ティトウス・アリバレーノ

 

 

 

 

 

 アンヘルを待っていると、エマは襲いかかってきた男たち数人によって袋叩きに合い、馬車へ詰め込まれた。両手両足を縛められ、目隠しをさせられた状態。抵抗できず抱えられて運ばれる。リカルドの心配そうな顔とアンヘルの苦悩に満ちた顔が浮かんでは消えた。

 

 奴隷商人にでも売り払われるんだ。そんな妄想していると時間は経って、ようやく目隠しが外された。

 

 薄暗い廃倉庫の一室。突然、ぼっと明かりが一斉に灯される。エマは反射的に瞼を閉じた。

 

「そんなに顔を顰めないでください。私たちは一心同体の身なのですから」

 

 緊張をほぐそうというのだろうか。優しく落ち着きのある声音がエマの耳をついた。

 

 聞き覚えのある声に煽られてゆっくりと瞼を上げると、その男の正体に、身体の芯から端まで極限までの寒気を覚えた。

 

 信じられない。エマは血を抜き取られたかのように蒼白になりながら、目を大きく開き、そして瞬かせた。

 

 党首は穏やかな微笑みを顔に貼り付け、後ろで手を組んだ状態で、芋虫のように転がるエマを見下ろしていた。

 

「うそ、よね。エドゥアルド……さん?」

 

 ちらりと周囲をうかがうと、エマを取り囲むようにして目を鋭く尖らせた男たちが屯している。中央に立つ男が何を意味するか、彼らの瞳が物言わずとも、応じていた。

 

「やはり何も知らぬ、のですか。それがどうして、我らの遠大な計画を阻止できたのか。狼の妹は狼、血は争えぬということでしょうか」

 

「うそよ、そんなわけないっ! だって、エドゥアルドさん、道場であんなに兄さんのこと、謝ってくれた!」

 

「しかし知能は愚昧と言わざるを得ないようですね。こと此処に至って事態を把握する術を持たないとは」

 

 エドゥアルドは眉を曲げながら、伺うようにエマの双眸を覗き込んだ。

 

「……最初から騙していたのね。役に立たない名簿を渡したのも、私たちの捜査を妨害するために」

 

「あなた方が尋ねて来られた折りは肝を冷やしました。なんと言っても連れの方。アンヘルと申しましたか? 巧妙に隠し通しているつもりかもしれませんが、影者特有の匂いは消しきれていない」

 

「――日陰に生きてるのは貴方よッ!」

 

「我々は陽の当たらぬ場所で過ごすことを義務付けられているのです。それを思えば、彼も不幸だ。民草皆欺瞞に踊らされ誤った方向へ走らされている。それを正すため、我々は立ち上がった。イーサクもそうだったでしょう?」

 

「違うっ! イーサク兄は憲兵機構を、治安維持機構を是正しようとッ」

 

「それが誤りだと、私が教えたのです。すべての諸悪は国家に通ずるのだと、ね。だからこそ私は金を融通し続けた」

 

「っまさか……!」

 

「この薬は良い。地獄に苦しむ彼や、未だ迷う同志の背中を押してくれる。副作用もなければ、余計なものが削ぎ落とされたように思考が研ぎ澄まされる。値は張るのが欠点ですがね。ほら、貴方も一袋どうです? 特別サービスで送って差し上げましょう」

 

 老人は狂気と光悦の混じり合って濁った瞳で、薬袋を無防備な懐に差し込んだ。

 

 エマは苦く淀んだ唾を、まるで汚泥でも飲み込むように嚥下した。

 

「彼は真に悩んでいた。娘のブリヒッテを失った悲しみから、自傷を繰り返し、さらには酒に溺れて無為なときを過ごすばかりだった。そして帰ってきてみれば、憲兵機構に対する不満を述べた。私は理解に苦しんだ。たとえ憲兵を排除しても、卑しい者たちは同じような統治構造を産むでしょう。私はただ、物事の根幹を理解し、適切に切除せねばならぬという道理を説いただけです。彼も感謝しているでしょう」

 

「狂ってる。あなたは狂ってるわ、エドゥアルド!」

 

「理解の及ばぬ範疇をすべて狂っているで済ませるとは、まさに愚劣。腕っぷしだけが能なのですか。まあそれも、これから失われるのですが、ね!」

 

 ごっと頬に熱い感触が到来した。すぐにやってきた衝撃で地面に叩きつけられる。しばらくしてやってきた頬の痛みにエマは、何が起こっているのか信じられずただ呆然としてしまった。

 

「え、なんで」

 

 顔色ひとつ変えず、無造作に殴られた。

 

 先ほどの悲鳴はどこへやら、肉体的な痛みよりも、知り合いからの殴打という日現実感に思考が停止した。

 

 遅れて、底から全身を支配する震えのような恐怖が登ってきた。目尻に涙が込み上げてくる。

 

「立たせなさい」

 

 取り巻いていた男の一人が無理やりエマの髪を掴んで立たせる。怒気を瞳の奥に宿らせたエドゥアルドは、まるで虫けらでも見るような眼差しで指示した。

 

「この女を好きなだけ痛めつけてやりなさい。我ら最後の突撃のときまで、血族の絆を裏切ったこと、骨の髄まで後悔させてやるのです」

 

「いいんですか?」

 

「やりなさい」

 

 割れるような怒声を耳にして、エマは恐怖に身がすくんだ。一度瞬きすると、後ろから髪を思いっきり引っ張られ、ぶちぶちっと抜ける音がした。

 

「我らの痛みを思い知れ」

 

 腹部にハンマーで撃たれたような衝撃が広がった。なすがまま男たちの輪に飛び込まされる。これから迫る地獄に、エマは深く絶望した。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 轟々と荒々しい風が耳元で唸っている。唸りは街並みの谷間で収束し、一際強くなって全身を突き刺した。

 

 夜は更け、繁華街の喧騒は戻っている。帝国を根本からひっくり返すような大事件、そんなものがあたかも空想だったかのような日常である。

 

 足は歩き詰めで、棒と化していた。斬られた傷口からは血が滲み、少しづつ体温が下がってゆくような感覚に陥る。焦燥感で脳は焼け、喉の奥に泥団子を詰めこまれたかのように呼吸不全となった。

 

 あまりの痛苦にどこを探し回ったのか覚えていない。ただ、体力の限り町を駆け回った記憶だけがある。

 

 ふと、エマの涙を思い出した。

 

 どうしてこんなことに。あのとき彼女の元を離れた申し訳なさで、アンヘルのこころはいっぱいだった。

 

 視界の向こうの街並みは、モヤがかかったように歪んでいる。何も知らぬ、酔っ払いたちの陽気な鼻歌が耳に届いた。

 

 苛立つ内心、遮二無二に走り抜けた。泥だらけになりながら、破傷風になることも構わず駆け続けた。

 

 流されるようにして進み続けたとき、見覚えのある風景に変わっていた。

 

「どうしたんです、先輩?」

 

 飾り気のない煉瓦造りの建造物。手頃な大きさの扉が人の入れる隙間だけ開いている。アンヘルに諜報員としての基礎を叩き込んだ場所だった。

 

 扉を開くガイルスが嫌味に笑う。彼はどうしてエマが居ないのかすら聞かず、憔悴した様子を見るとひとり得心するように深々と頷いた。

 

「へぇ、そういうことですか」

 

「新たな進展があったのか」

 

 奥から出迎えた教官ユーシンは、世間話もなしに本題を切り出した。他の同期も勢揃いしている。どうやら報告待ちだったらしい。

 

「これから報告しますよ」

 

 ガイルスは同期をアゴで使うと、会議室を用意させた。

 

「まずことの顛末ですが――」

 

「元老院や使節など重要人物の被害は極小で――」

 

「現段階をもって検挙の主導権は彼らに移るだろう。今後は――」

 

 流されるまま、ただ右から左へ抜けてゆく報告を聞いていた。さして興味のない議事堂襲撃の顛末である。もはや議員に犠牲がでなかったかどうかなど、大して意味のない話だ。エマが失われた今となっては。

 

 交わされる報告会の中で、アンヘルはただ一人彼女の寂しい微笑みを思い出していた。義父の意思を受けて、ただひたすらに努力した彼女の空元気。兄に起きる最悪の未来を予見しながら誤魔化し笑うその様。そして、幼馴染を想う憂いの顔も。

 

 ひどい、鬱々とした鈍麻が脳内を襲った。それは一時の喪失感より遥かに軽やかだが、時計の針のように脇目もふらず淡々と動き、純粋に身を蝕む、裸で鋭敏な痛みとなって降り注いだ。

 

「残った志士どもはどうする」

 

「――残党は一箇所に集まっていて、どうやら最後の突撃を敢行するようです」

 

 という言葉が、アンヘルを現実の世界に引き戻した。そして、どうしてガイルスが満身創痍の自分を見て得心したのかも。

 

「とはいっても、戦力のほとんどは議事堂襲撃と魔剣強奪で死亡しています。雇った情報屋に周囲を探らせましたが、残り数十人程度でしょう」

 

「待ってガイルス。今さっきなんて……」

 

「本名で呼ぶのは禁止ですよ。これだからもう」

 

 ガイルスは態とらしく頭を振った。

 

「そんなことはどうでもいい。敵はどこにいる?」

 

「言うわけないでしょう? もっと頭を使ってください」

 

「御託はいいっ。彼女の居所を言うんだ!」

 

 机に拳を叩きつけて、アンヘルは立ち上がる。

 

 同期の注目を集めながら、ガイルスは大きく肩をすくめた。

 

「先輩の鶏頭っぷりにはうんざりですよ。よく考えてください。相手の居所がわかっているんですよ。あとは憲兵にでも囲ませて決着でしょう?」

 

「いいから言うんだっ!」

 

「話が通じないなぁ。そもそも居場所を知ったところでどうするんです。どうせ死んでますよ」

 

 困り果てたようにガイルスは仲間たちと顔を見合わせてから嘲笑うと、つまみ出せとばかりに手をひらひら振った。

 

 激しく脳内回路が起動した。どうやったらこの男を納得させることができる。いや、相手の口を割らせるにはどうすればいいのか。

 

 ガイルスという男の忍耐力は桁違いだ。対拷問用の訓練を丸三日受けてもケロッとしている。知能指数が忍耐力と相関関係にあるというのは、決して間違ってはいないらしい。

 

 この場で全員を薙ぎ倒し、拷問したところで絶対に情報は吐かないだろう。だが、弱点がないわけじゃない。彼の底にあるプライド。それは彼の自信を支える根拠であり、そして最大の弱点になりうると思っていた。

 

「僕と勝負しろ」

 

「は?」

 

「聞こえただろ。ポーカーで勝負だ」

 

「……もしかして薬でもやってますか? 前後関係が意味不明ですよ」

 

「負けるのが怖いのか」

 

「はぁ。しかもその挑発、ちょっと陳腐過ぎると思いますがね」

 

 といいながらもガイルスの額には苛立ちのようなものが浮かんでいた。乗ってこない冷静さはあるようだが、不快な部分をくすぐったらしい。さらに言を紡ごうと身を乗り出した。

 

「やれ。私が許可する」

 

 ユーシンは顔色一つ変えず同意した。

 

「冗談でしょう?」

 

「私は冗談を好まない。これはどちらにとっても有益な勝負だ」

 

「この勝負、こちらに何の得があるんです」

 

 教官は決して折れない。そしてガイルスはなんだかんだいいながらも、かの隻腕の騎士の諜報員の能力を密かに尊敬している。アンヘルはその事実を強く認識していた。

 

 これは賭けだったが、部の悪い話ではないと思っていた。彼は殊更己の能力をひけらかす部分がある。とくに仲の悪いアンヘル相手ならば、完膚なきまでに叩きのめしたがるだろうと確信があった。

 

 それにしても、ユーシンの本心がよくわからない。訓練生の自主性に任せる気風や、ガイルスを高く評価している態度から反対するとは思わなかったが、ここまで協力的だと逆に不気味である。

 

「アルスに負けるのが怖いのか?」

 

「そういうわけでは」

 

「なら構わないだろう。随行員本来の目的は、我が機構の査察だ。貴様の実力を見せてやれ」

 

「そんなものですかね……ディーラーは誰がやるんです?」

 

 ガイルスは致し方なしといった様子で尋ねた。

 

「ナキアが勝敗を決定する。勝敗が決まれば教官が結果を僕に教える。それでいい?」

 

「問題ありません……けど、そうですね。こっちもなんのリスクを追わないってのは不公平だ。たしか相当な業物を持ってましたよね、先輩。あの魔剣、賭けてくださいよ。ま、無理だとは――」

 

「いいよ」

 

「……」

 

 二つ返事を聞いたガイルスは数瞬戸惑うと、肉食獣のように獰猛な笑みを浮かべた。

 

「結構、ゲームスタートといきましょうか」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ――先輩に勝ち目なんか、あるはずないんですけどね。

 

 ポーカーのルールは単純だ。参加者は二枚の札が配られる。つぎに、卓上に三枚の札が開かれる。一枚、一枚と札を追加してゆき、計五枚の札が出揃ったところで勝負となる。札が一枚開かれるごとにチップをベットし、掛け金が釣り上がる。プレイヤーはテーブルの上の五枚の内三枚を選択、自分の手札二枚と組み合わせて最高の手段を作ったほうの勝利だ。

 

 このゲームが愛される理由は、確率に強い人間ならば相手の手札を推測できる点にある。一対一の勝負なれば、確率の意味するところはさらに大きい。一度目、二度目の勝負は手が悪く、早々に降りたところであった。

 

 三度目の勝負。ガイルスは自分の手札を見下ろしてから、開かれたアップカードにもう一度目をやる。

 

 配られた手札は、〈市民〉と〈司祭〉のAだった。テーブルの三枚は〈騎士〉のAと二枚の〈商人〉――八とQ――であるから、今現在考えられる最高の手を持っていることになる。しかし、まだ序の口。ガイルスはあらゆるパターンを想定しはじめた。

 

 こちらの手役。Aのスリーカードを超える手役となると、ストレート、フラッシュ、フォーカードぐらいしかないが、現実的な可能性が残るのは商人のフラッシュだろう。

 

 一種のカードは全部で十三枚。相手が商人を二枚持っている確率は六パーセント。テーブルに残るカード九枚が出る確率は三十六パーセントなので、合わせると二パーセントの計算だ。当然、それ以外で手を作ろうとすれば確率はもっと下落する。

 

 ストレートも可能性は残るが、フラッシュ以下。成立は小数点以下になるだろう。当然、それ以上の手など考慮にも値しない。

 

 さらに、対面に座る対戦相手の顔色をうかがう。一般的にカードでは相手のブラフを厳密な変数として定量化できないが、深く調査した人間ならば傾向として思考を読み取り、必勝へと導くなど造作もないことだった。

 

(先輩の性格は、大体わかってるんですよね)

 

 服装は帝国人らしいものや制服を好み、休みの日には稀に教会へ赴くこともある。が、実際には、まるで忠誠心や信仰心などは持たない。

 

 ここから見て取れるのは、典型的な保守を装っているということである。成り上がり者の傾向として、保守をこれみよがしに主張する点があげられる。休日にも徹底した装いをするのは、一種病質的なものを感じざるをえず、前身をことさら隠蔽したいような印象を受けた。

 

 軍議盤における得意戦術は基本的に犠牲前提であり、肉を斬らせ骨を断つ戦法を好む。一撃打破を望むタイプだ。一見考えなしだが、かといって勘働きは侮れず、不可視の罠をギリギリで回避するところもある。

 

 つまり、ガイルスから見て、成り上がり者かつ勘が冴え渡る典型的な戦士思考の男であった。

 

(統計を鑑みれば、良い手のときはイケイケ、悪いときはすぐに降りる、と。どうして三連続で勝負を挑んできたんだか……)

 

 もう一度卓上を見る。ここでAをもう一枚か、他二枚がペアになれば勝利は確定である。その確率約三割。ガイルスは「レイズ」と宣言しながら、机の上の金額を二倍にした。

 

「コール」

 

 アンヘルが同額まで揃えてきた。勝負続行、ディーラーが一枚札を捲る。そこでガイルスは歓喜に包まれた。

 

 カードの絵柄は雪の積もる連峰より美しく、歴史と伝統ある皇居よりはるかに荘厳だった。見えたのは〈商人〉のA。

 

 つまり、手役はフォーカードだ。

 

 これに勝利するのは、ストレートフラッシュしかありえない。だが、商人のK、J、十が手札と新しく捲られる手札に必要となる。その確率など一万分の一以下だ。

 

 勝利は確定的。人生でここまで強い手札を引いたのははじめてかもしれない。ガイルスに求められる任務は、どれだけこの手を釣り上げられるかだった。

 

 ガイルスが「チェック」と宣言した途端、相手が「レイズ」と釣り上げた。

 

「へえ、先輩も手札が良さそうですね」

 

「……」

 

(性格から考えて、手はフラッシュでしょう。中々手札がいい)

 

 ちらりとディーラーの動きをうかがう。ガイルスにとって、無能な対戦相手よりもこちらを蹴落とそうとする同期の方が厄介だ。もしかしたら、負けさせるためにイカサマを仕掛ける可能性がある。

 

 一度目は〈フルハウス〉、二度目は〈スリーカード〉、三度目が〈フラッシュ〉となれば不正は決定的だが。

 

(ナキアは手先が不器用ですからね。可能性は低い、ですかね)

 

 長丁場になることを見越しているかのよう大袈裟に椅子の背へ凭れかかると、チップの山を積み上げた。

 

「レイズです、先輩。これでチップの約半分ですね」

 

「黙ってろ」

 

 アンヘルの声は、今まで聞いたなかでもっとも滑らかだった。まるで勝利を確信しているような。ハッタリをかましているだけのはずなのに、憮然とした態度はいかにも何かあり気な雰囲気だ。

 

 そこではじめて、ガイルスは自分の計算が間違っているのではないかと不安になる。コインを触る手がひりついていた。

 

「レイズ」

 

 さらにアンヘルが掛け金を釣り上げる。ガイルスは涼しい顔の下で、もう一度手の確認を取った。

 

(フォーカードを七枚のカードで作るとすれば、大体二十万。そもそもの手役は一億と三千万通りだから、確率的には小数点一パーセントぐらい。ストレートフラッシュはさらに十分の一以下。同時に出るはずがない)

 

 そんな確率を超越した手役がぽんぽんと現れるはずはない。計算に誤りはないはずなのだ。

 

 ――その部分において、貴様はアルスと比べて明確に劣っている。

 

 いつかユーシンに言われた言葉がぶり返した。いや、そんなはずはない。頭脳こそが物事を決定づける一因なのだ。こんな無能に劣っている部分など存在するはずがない。ましてや、知能がすべてを支配するゲームにおいて。ガイルスは生まれたときからの信念を強く信じた。

 

 勤めて冷静な声で同額を卓上に吐き出したが、出る言葉一つひとつがクリームのように甘く粘っこかった。

 

 ディーラーが最後のカードを捲った。〈商人〉のK。さしものガイルスも引き攣るような思いで凝視した。

 

 いまや卓上には、〈商人〉のA、K、Qが並んでいる。誰が見ても、ストレートフラッシュの匂いは否定しがたい。

 

 あり得るはずがないのだ。相手の手が、ちょうど〈商人〉の十とJを持っている確率など天文学的な値である。だが、相手の平然とした顔を見て、自分の考えが間違っているのではないかと錯覚しそうになる。動きもしない巨大な壁を相手にしているようで、まるで手応えがない。

 

「おい、ガイ?」

 

 ナキアの声がした。

 

「上げるのか、それとも維持なのか宣言してくれ」

 

「考えているんですよ」

 

 ガイルスはできる限り平静に言うと、さらに追求されるよりも前に卓上のチップを押し出した。

 

「オールイン」

 

 アンヘルは推し量るような目で見つめることもなく、ただ無感情にすべてのチップを吐き出した。

 

 しばし間を置いてから、その理解できない行動に固まってしまう。今自分に浮かんでいるのは、ポーカーフェイスではなく動揺だろう。

 

 確率的にはあり得ないストレート・フラッシュ。相手ははったりでこちらを負かそうとしているのは明白でも、突き刺さるような雰囲気が最後のコールを押しとどめている。

 

 もしも、相手が本当に最強の手札を持っていたとしたら。

 

 妄想が顔を出しては消えるを繰り返す。勝てば勝利、降りれば今までの掛け金を失うことになる。どうする、どうする。答えは決まっているはずだ。ガイルスは一人深く懊悩した。

 

「コールするなら全賭けだぞ、ガイ。降りるのか、賭けるのか?」

 

 ナキアはニヤニヤと笑っている。こんなブラフに掛かってどうすると言いたいのだろう。舐めやがって。ぎりっと唇を噛むと、大きく「コール」を宣言した。

 

 知らず、湿った息が漏れ出ている。すべてのチップが積み上がったそれを見つめ、ガイルスはディーラーの宣言に合わせて札を捲った。

 

 おおっと周囲で伺っていた訓練生たちの動揺が耳を突く。

 

「おいおい、そんな手で悩んでたのかよ」

 

 つまらない合いの手を無視する。ガイルスはわざとらしい微笑を浮かべながら、

 

「さあ先輩、手を晒してください」

 

「アルスさん、貴方の番ですよ」

 

 周囲全員が身を乗り出した。アンヘルが本当にストレートフラッシュを作るのに必要な〈商人〉の十とJを持っているのか。それともはったりなのか。

 

 アンヘルは手札を一枚ずつ表に向けた。最初の一枚は、本当に〈商人〉のJ。ガイルスのときよりもさらに大きい歓声があがり、そして自らの敗北を強く予感した。

 

 ありえない、あり得るはずがない。確率はゼロも同然だ。震えるような手先がかたかたと机を小刻みに叩いている。ゆっくりと最後の一枚が捲られた。

 

 それを見た時、ガイルスはそっと安堵のため息をついた。

 

 周囲から、深い失望のため息が漏れる。

 

 奇跡は、起きず。

 

 最後の手札は、まったく何も関係ない〈商人〉の『三』でしかなかった。

 

 ストレート・フラッシュは成らなかった。その事実を認識したとき、いつもより乾いた笑みを漏らしていた。

 

「やっぱり出なかったか。でも、さすがにガイも肝をひやしたんじゃないか?」

 

 ナキアの茶化しも気にせず席を立った。やはりはったりか、驚かせやがって。愚行に及んだ相手の無能を論うような目で見下ろした。

 

「どこ行くの?」

 

 アンヘルの冷酷な声に一瞬唾を呑んだ。

 

「はぁ? 勝負は終わったでしょう」

 

「まだディーラーの宣言は聞いてない」

 

「拘りますね。そんなルールに」

 

 一応の規則としては、ディーラーが認めたところで勝負ありとなる。だが、そんな細かい事に囚われる人間は少ないだろう。

 

 諦めの悪いバカを見下ろしながら、ディーラーに向かって顎をしゃくった。指示されたナキアは仕方なしとばかりに宣言した。

 

「聞こえなかった。もう一度」

 

「……貴方の負けです。諦め悪いですよ」

 

「ナキア、聞こえない」

 

 ナキアは何かを言おうとした。恐らくだが、無能が縋り付くのをばかにしようとしたのだろう。どこからどう見ても、ガイルスの勝ちは揺るがないのだ。しかしなぜか、彼は何も口にしなかった。

 

「往生際が悪いですよ、先輩……」

 

 代わりにガイルスは無能極まりない先達を見下ろして、なにか一つ嫌味でもつけてやろうと思った。だが、言葉は音声にならず空へ溶けるばかりだった。

 

 なぜなら、アンヘルがこう呟いたからだった。

 

 ――召喚、と。

 

 まるで神の信託のように、ガイルスの台詞は遮られた。次いで、鋭い恐怖に見舞われる。津波が街をすべて攫ってゆくような、鋭く激しい恐怖が。

 

「ふふふ、おもしろいところに呼んでくれたみたいね、ご主人さま」

 

 ナキアの背後に佇立していたのは、美しく、そして神秘的な少女であった。

 

 少女が影のように動く。ナキアは反応できなかった。無抵抗だった。

 

 黄金の髪を持った美しく妖しい少女は、きらりと鈍く光る短刀を片手に男を後ろから羽交い締めにした。

 

 宝石のように美しい瞳に宿る、嗜虐の色。人を人として思わぬ冷然さが彼女の瞳に閉じ込められていた。

 

「ナキア、僕の手はなんだった?」

 

 アンヘルは座ったまま、腕を大きく開いて自らの手元に視線を集中させる。むろん、手役が変わっているわけがない。卓上の札は〈商人〉の三だ。

 

「何のつもりです、先輩?」

 

「君には聞いてない――ナキア、この手はなんだ?」

 

「かっはっ、脅しの……つもりですか」

 

 ナキアが憎々しげな瞳で召喚主を睨んでいた。

 

 絶対に吐くものかという信念が見て取れたが、アンヘルは嘲笑うように命令を下した。

 

「はい、ご主人さまの仰せの通りに」

 

 少女は首元に突きつけていた短剣を振り上げると、恐るべき速度で机の上に乗るナキアの手に突き立てた。

 

 木霊す男の絶叫。遅れて生物特有の悪臭が肌すべてから侵入し、血管を流れて脳髄すべてを満たした。今まで幾度か嗅いだ匂い。鉄の生臭い、生き物の死の匂いだ。

 

 黒いニスを塗った机へ、まるで絵の具でもぶちまけたように赤黒い液体が広がる。津波のように机のチップを飲み込むと、二人の手札を微かに汚した。

 

「ナキア、もう一度聞く。僕の手札はなんだ」

 

「お、お前っ!」

 

「答えろ」

 

 女がナキアの頭を掴むと、眼球にくっつくほど近くまで卓上の手札を覗き込ませた。

 

 バタバタと動くたび、女の持つ鈍色の獲物が肩あたりを凌辱する。血走った目で男は絶叫した。

 

「君が答えないなら、次のディーラーに答えさせる。ダメならその次だ。候補はいくらでもいる」

 

 返り血を顔に浴びながら佇む召喚主に、ナキアは怯えたようにぶるりと震える。音にもならないようなか細い呟きを漏らし、パチパチと瞬きを繰りかえした。

 

「こんな真似をして許されると本気で思っているんですか?」

 

「誰が許さない」

 

 アンヘルはあたりを見渡しながら、静かに問い返した。

 

「誰がどうやって僕を咎める」

 

「ここにいる全員が先輩を許しませんよ」

 

 ガイルスは無表情のまま、自らの得物の鯉口を切った。さも自信満々。そんな雰囲気である。

 

 だが、内心まったく逆であった。

 

 カードでまるめこまれそうになった、はったり。それを今度はガイルスが使う側になっている。音もなく佇んでいた少女の正体、そしてさらに潜む数々の眷属を思えば、大した訓練をしていない同期など何の役に立とうか。

 

 そもそも、果たして真っ向勝負ですら太刀打ちできるのだろうか。

 

 ガイルスは眼前の男に対し、一度も劣っていると考えたことはなかった。知識、機転はもちろん、戦闘においても手段さえ選ばなければどうとでもなると思っていたのだ。

 

 ガイルスの近接戦闘能力は、士官学校二回生においても上の下程度を彷徨うだろう。学内の模擬戦であっても、百戦百勝とはけして言い難い。当然、奇跡の世代で上位に食い込むアンヘル相手では分が悪い。

 

 だが、戦いとは強者が勝つのではない。魔法の才でも、剣術の才でも、ましてや召喚術の才でもない。頭脳を使って相手の弱点を突き、相手を出し抜き、勝てる勝負にだけ挑めばいい。一個の能力など、勝敗には一要因程度の意味合いしかないのだ。

 

 だから、ガイルスは頭脳を使った。類い稀なる才能を信じた。それで勝ってきた、筈なのに。

 

 カードとは違って、完全に勝率の定まった勝負。ひやりと冷や汗が流れ落ちる。恐怖に慄いたように手がいうことを聞かない。

 

 ユーシンは腕組みしたまま微動だにしない。この凶行を我々だけで処理せよと言うのか。はじめてこの男相手に歯噛みした。

 

「君にしては、らしくないはったりだ」

 

 アンヘルは見たこともないほど陰惨に笑う。静かに席から立ち上がるとナキアの肩に手を置いた。

 

「これが最後の質問だ。僕の手札はなんだった?」

 

 僅かに魔導灯のあかりがゆらめいだ。地面に落ちるアンヘルの影はまごうことなき人でなしであり、鬼となり、怪物へと変貌し、龍へと至った。

 

 只人では争いようもない。まっさらな深海の瞳に見据えられて、震えながらナキアは、最強の手役を絞り出した。

 

「こんなくだらねえことで命をかけられっかよっ!」

 

 イズーナが適当に男を放り出すと、ナキアは地面を這いずり回りながら、建物の奥に消えていった。

 

「エマさんはどこにいる?」

 

「……こんな勝敗、認めませんよ」

 

「ルールに則れば僕の勝利だ」

 

「なにがルールですかっ。あんなの成り立つはずがない!」

 

「成り立つよ。ディーラーが宣言し、君たちはそれを認めた」

 

 アンヘルが一歩踏み出した。囲みが男の前身に合わせて歪んだ。

 

 集団の動きは、強い反抗の意思を見せながらも、実は単なる服従に過ぎぬことをわかっていた。強き者には逆らえぬという、隷従ゆえの行動。客観的に見て、そうとしか思えなかった。

 

「倉庫街の三番地だ」

 

 沈黙を保っていたユーシンは準備した資料を手に取りながら、過激派が拠点としている場所を述べた。

 

 アンヘルは無感動に感謝を述べ、まるで何事もなかったかのように背を向けて去ってゆく。得体もしれぬ女に見据えられた身とあっては、身じろぎひとつできなかった。

 

「まて、アルス」

 

 騎士ユーシンが光り輝く黄金の何かを放り投げた。宙を駆けるそれは、キラキラと灯りの光を反射し、ちょうど振り返ったアンヘルの手元に収まった。

 

「これは?」

 

「貴様は機構の随行任務を解任とする。それは証だと思っておけ」

 

 アンヘルはやけに仰々しい一本の剣が象られた短剣の鞘を眺めたあと、ふところにしまって今度こそ駆けだした。

 

 女の姿がまるで煙にでも溶けたようにして掻き消えた。もののけにでも化かされたのかと思えるが、人がたしかに落とした血の生臭さが嘘偽りにはさせてくれない。

 

「結局、猊下の仰られたとおりあの男には勝てなかったか」

 

 ぽつりと、ユーシンがぼやくように言った。

 

「負けたわけじゃない!」

 

「いや、貴様の負けだ。諜報員の分際で戦闘員の土俵で戦った貴様のな」

 

 ――世には届かぬ領域があり、また必要のない領域がある。我らの任務とは情報を得ることであり、戦うことではない。

 

 相手の狙いはディーラーだった。まっとうな勝負では勝つことができず、力づくでも聞き出せないとわかっていた彼は、諜報員でありながらどこか利己的な部分を残すナキアを狙い撃ったのだ。阻止できない、力という武器を使って。

 

 そういう意味では、相手はどの部分で戦うのかという選択を徹底してきた。読み合いという部分で完敗を意味する。

 

「諜報を生業にする我らと違い、あの男は戦いに身を窶してきた戦士。そのことを貴様は知っていたはずだ。今一度、貴様に問う。組ませ続けた意味が本当に理解できなかったのか?」

 

 いかにも平素でありながら、その冷淡な声はガイルスの心に眠っていた感情を沸きたたせた。

 

 卒業を意味する短刀の鞘。おそらくあれは、どちらか一方に渡されるものだったのだろう。完璧に隠された素性のユーシンだが、前身をかすかに掴んでいたため、鞘の授与が意味するところをなんとなく察していた。

 

 帝国を守る剣として、どちらが相応しいか。戦闘員アンヘルと諜報員ガイルスの一騎討ち。両者を組ませ、争わせることで力量を計っていたのだ。

 

 結論は出た。

 

 徹頭徹尾相手を侮ったガイルスは常に優勢でこそあったが、最後の最後、負けてはならぬ決戦で敗北してしまった。

 

 生まれてはじめての覆せない負け。しかも、自らに土をつけた男は興味なさげに去っていった。

 

 強く、強く唇を噛んだ。歯肉に滴った血が染み渡るほどに。

 

「先輩っ」

 

 鋭い眼光が、アンヘルの消えた闇を眺め続けていた。

 

 

 



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PHASE4-2:怪獣大決戦 上

「そうか、やっぱりそうだったのか」

 

 リカルドは気色満面で、今から小躍りせんばかりに椅子から飛び上がった。

 

 ヴァレリオット邸で行われた憲兵ディアゴの説明は、簡潔ながらも望んだ結末そのものだった。

 

 本日正午、町中を震撼させる前代未聞の襲撃事件が発生したこと。護衛に犠牲者多数を出しながらも、すんでのところで招聘した使節や議員に一切の被害がなかったこと。そして、それを成した第一功がエマであること。それらはすべて、別離の最中告げられた秘密作戦が真実であったことを物語っていた。

 

「やった、やったぞ。やっぱりアンヘルのことは信じてよかったんだ」

 

「……よかったですな」

 

「ああ、ああっ。ありがとう、ディアゴさん。それにヴァレリオットも。本当に感謝する。皆が居てくれなければ、俺はここまで来られなかった」

 

「……ああ」

 

 ヴァレリオットは両手を膝に置いて、ただぼんやりと地面を見つめていた。

 

 飛び上がった所為で、シャンデリアの中央飾りに髪が触れ合う。使用人に見咎められたので、リカルドはいそいそと席に戻った。

 

「なあ、エマの指名手配はいつ解除されるんだ」

 

「ええ、直ぐにでも手配しましょう。もう、時間がありませんからな」

 

 かちかちと動く針の音が閑寂な部屋に響いている。

 

 なんだ。リカルドは奇妙な雰囲気に当てられ、徐々に喜びが萎えてゆく。ヴァレリオットは冷え切った声を地面に放った。

 

「父上の処遇はどうなりそうだ」

 

「私はそう上の事情に通じとるわけじゃありませんが、副団長は責任を問われはせんでしょう。なにせ、あの襲撃を議員方に被害を出さなかったんですから。いや、もしかしたら自責の念で騎士団長が職を辞するかもしれませんから、団長職に就くかもしれません」

 

「そうか。ならば一抹の希望になるやも」

 

「難しいでしょう。副団長は責務に煩い方。ことの顛末が終幕するまで、自ら座を引くことはないでしょうし、それに……」

 

「そう、だろうな。すまない、わかっているんだ」

 

「おいおい、ヴァレリオット。なにをそんなに沈むことがある? ぜんぶ元通り、すべて解決したんだ。こんなときはパーっとパーティでもしようぜ」

 

 リカルドは景気づけと叫びながら、手で杯を傾ける仕草をした。

 

「すまないリカルド。今はそんな気分じゃ」

 

「もしかして、取引のことを心配してんのか。心配すんな。今回の恩は忘れない。ちゃんと試合では負けて――」

 

「そんな心配はしていないよ」

 

「なら良いけどよ。あ、でも、もしそっちがラファエルに負けて、こっちがラファエルに勝っての優勝は勘弁してくれ。いや、そういえばクナル班があるか。アンヘルが本気で来たら、もっとおもしろくなりそうだな」

 

 リカルドの頭の中には、新たに登場したライバルの姿が克明に映じられていた。

 

 正体不明、意味不明の美貌の剣士クナル。能力をひた隠しにしてきた友人アンヘルに、癖の強そうな仲間数名。油断はできない相手だ。

 

 怪我をしたラファエルのことも心配だ。こっちの事情で完全に忘れさっていたが、いずれは見舞いに赴く必要もあるだろう。後はニコラスか。彼は上位陣が学内に居ない現在、相当に威張り散らしているらしい。プライドが高い割にみみっちい奴だ。それをぶちのめすのはどんなに気持ちがいいか、想像で愉悦に浸れるほどであった。

 

 ヴァレリオット、ラファエル、ニコラス、そしてクナル。東西から南北まで天才を集めたとしても、此処までの面子が集うことはあるまい。リカルドは今後に想いを馳せていた。

 

「そういえば、アンヘルはいつから秘密警察なんかやってたんだ。その組織、最近できたんだよな?」

 

「え、ええ。若い衆が働かざるを得ない状況から考えて、恐らくそう長い年月は経っていないでしょう」

 

 奥歯に物が挟まったような言い方。憲兵ディアゴはあまりそのことに通じていない、ということが察せられた。

 

「ふうん……でもどうやってエマが協力することになるんだ?」

 

「恐らくエマ候補生が逮捕されたときだろう。ディアゴ隊長と同じように、彼がマークしていたのも彼女だったのだろう。逮捕翌日に協力を要請という秘密警察側の報告と照らし合わせれば――いや、待て。もしかして」

 

 ヴァレリオットは突如として立ち上がると、憲兵の報告書の束を漁り始めた。聞き迫った表情で神を捲る音が響く。時折勢い余って紙くずが舞った。

 

「写しとはいえ、これは重要書類ですぞ」

 

 ディアゴが血相を変えて詰め寄る。

 

「ディアゴ隊長、報告書は事実ですかな。エマ候補生が、詰所の尋問で何も吐かなかったというのは」

 

 ヴァレリオットはある一点に目を止めると、細い指先で文字をなぞった。

 

「何か不自然な点でも?」

 

「いや、責めているわけではない。もしかしたら突破口になるやもと思ってな」

 

「はあ」

 

 コンコンと閉ざされていた扉がノックされた。ヴァレリオット家の燕尾服を纏った執事は一礼すると、感情を感じさせない声で告げる。

 

「ディアゴさま、部下の方が報告に参りました」

 

「なんだ」

 

 上司であるディアゴを差し置いてヴァレリオットが直接問いかけた。部下は上司が後追いで頷いたのを確認して報告を始めた。

 

「機構から続報が到着いたしました。港区の倉庫街で――」

 

「待て」

 

 ヴァレリオットは立ち上がり、部下の報告を耳元で囁かせた。ほう、ほうと鳩のように頷きながら、打って変わって満面の笑みを浮かべた。

 

 そのまま座していたディアゴに耳打ちする。それを聞いた彼も、おおっと歓喜の声をかすかに漏らし、すっと立ち上がった。

 

「どうしたんだ」

 

「いや、こちらの話だ。私も立場ある身、たとえ未熟であろうと始末をつけねばと思ってな――ディアゴ隊長、構いませんな」

 

「それしかないでしょう。が、どうなるんです、相手は?」

 

「後で減罪するしかないでしょう。恩赦もある、最悪、死罪にはならないと祈るしか」

 

「それが最善、ですかな」

 

「絶対のババを引くよりは余程いい」

 

 ヴァレリオットは王者のように使用人へ指示を繰り出し、持ってこさせた武具を身に纏った。剣に胸当て、一眼で貴種とわかる陣中服。ディアゴは部下のように控えていた。

 

「どうしたんだよ」

 

「そんなに心配しないでくれ。どうやら残党が最後の襲撃を計画している様子。私も父の御代として、協力したほうがいいだろうという判断さ」

 

「そう、か。なら、俺も」

 

 腰を浮かしかけると、ヴァレリオットは肩を押さえながら首を振った。

 

「君はまだ候補生。そんな身分で憲兵に参加させれば、私が父上に叱られてしまう」

 

 そのまま身体をソファに押し付けると、肩が軋むほどの握力を込め始めた。

 

 痛い、けれど想いの詰まった。引き剥がすことは許されない想いの結晶であった。

 

「心配するな。私が、すべて解決する」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 長い憤りの吐き出しは、女の意識が途絶えたことでひとときの休息を迎えた。

 

 行為に及んだ男たちの瞳には、皆一様に燃えるような怒りがあった。

 

 今は亡き革命闘志イーサクの妹であることを斟酌する者など一人もいない。男たちが手にした鞭や棍棒には出血の赤が染み付いている。

 

 それほど苛烈だった。女の声などすぐに絶えた。男たちの燃え上がった怒りは、小さな肉体に降り注いだ。

 

 それをただ見据える老人の目は狂気染みていた。微笑むだけでも周りの志士を怯えさせる、ねじり狂った意思が佇むだけで伝わってくる。

 

「楽にしてやりなさい、国のためです」

 

 たった一人、苦い顔を浮かべているエマの父親に指示した。老人は本心から、最後の始末をつけてやることが優しさであると確信していた。

 

 それも当然か。エドゥアルドの中にあったのは、裏切られた、という感だけである。

 

 元々革命云々何も伝えていない、などといった思考はどこかへ消し飛んでいる。血の繋りを持つくせに非業の死へと追いやった憎しみと、正しさを理解せぬ愚か者への蔑視だけしか残っていない。頑迷と謗られようとも、家族を超える絆など存在しないと心底から信じているのだ。

 

 斥候の報告によれば、議事堂および憲兵本部襲撃の生き残りはゼロであり、また芋づる式に街の中の同志たちが討ち取られつつあるとのことであった。

 

 襲撃という反撃の名目を与えた今、憲兵どもの追撃は苛烈さを増すばかりであり、時が経ち、混乱が落ち着けば包囲の網は狭まるばかりであろう。

 

 最後の砦であるこの場所がいつ見つからんとも限らないうえ、あろうことか命惜しさに陣営を抜け出す同志も数を増やしている。

 

 甘く見ていた。まさかエマとあの腑抜けた男の二人が、まさか何重にも張り巡らせた作戦を悉く粉砕してくるであろうとは思いもよらなかった。こんなことなら多少不審視されようが、門弟を総動員して刈り取ってやるべきだったのだ。

 

 そのうえ、議員に一人すら天罰を下せなかったのも痛かった。今回死した志士は二百を優に上回る。皆志高く、力のある勇者ばかりだった。その死がなんの道標も残せぬなどあってはならぬことだ。

 

 エドゥアルドの顔には強い憂悶が浮かんでいた。

 

 今から街を脱することはできない。かといって、元老院議員を一人でも道連れにできるかといえば、確率は紙のように薄いだろう。

 

 行くも帰るも地獄。

 

 戦いの基本は正面の敵を一つずつ撃破することであるが、すでに基本を貫くことはできず、敗色濃厚である。握りしめた手のひらは変色し、嫌な軋みをたてるようになっていた。

 

「あらあら、八方塞がりといったところかしら」

 

 憲兵本部襲撃隊から唯一帰還したアルトゥールは、どうしてか最後の戦いに参加すると居残っていた。エドゥアルドとて信用したわけではなかったが、情報を伝えてくれた恩義ゆえに願いを叶えてやっているだけであった。

 

 別にいい。どんな事情があれ、ひとりでも悪を多く撃ち、国を正すことができるのであれば。

 

 窓から差し込む月明かりを眺めた。夜は更けた。時は亥の刻限。最後の宴には相応しい。

 

 未だ渋るエマの父親を押しのけ、腰に下げた太刀を引き抜いた。未練を断ち切り、正しい道へと導いてやるのも役目だろう。

 

 地面へと倒れ込んだエマの頭に足を乗せ、その刃を振り下ろそうとしたとき、廃倉庫の扉が大きく弾け、遅れて見回りの志士が飛び込んできた。

 

「ふふ、真打の登場ね」

 

 扉の奥から現れたのは、不思議な生物だった。龍のようでいて、天使のような神聖さを持ち、羽ばたくでもなく浮遊している。生まれついて空に浮かぶことを義務とする雲のような存在だ。

 

 身体は小さいが、それは眷属のスケールで見た話。体重など人間の数倍は軽く上回り、体躯も倍に匹敵する。

 

 比較的大柄であった見回りの志士など、その化け物と比べれば子供のようなものである。

 

 尻尾の一振りで紙吹雪のように吹き飛ばされるのは当然の帰着である。辛うじて意識の残っていた男は、只人には永劫届かぬ神の領域を垣間見て、激しく身体を震わせた。

 

「に、にげてください、エドゥアルドさま」

 

「何があったのです?」

 

「アレは――バケモノだ」

 

 一人の男が足を踏み入れた。その瞬間、全身から放たれる強烈な殺気に身を強張らせた。

 

 戦場では心のざわめきひとつが命取りになる。だというのに、驚くなというのは不可能だった。

 

 音もなく佇立していた男は、大した人物ではないと思っていたにもかかわらず、巨大な山脈のような存在感を伴っていたからだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 突然、ずしんと建物が揺れた。エマはぼやけた視界でそれを確かめた。

 

 ぼんやりした頭が、微かに囁かれる動揺を認める。それは永遠繰り広げられた、痛みの伴う打音ではない。いうなら悲鳴。理解不能な災害に直面したようだった。

 

 頭に乗っていた何かが退けられたことで、エマはようやく思考の海へと潜れるようになる。

 

 でも、もうなにもわからなかった。

 

 なんでこんなことになっているのか。誰のせいで私たちは不幸になっているのか。犯罪を止めるために奔走して、指名手配されてからは常に狙われて。

 

 ずっと駆け抜けてきたはずだ。最善の道を。自分の為ではなく、誰かの為に。

 

 なんで、どうして。そんな思いが渦巻く。

 

 悔しい。自分は何もしていないのに。

 

 兄は死んだ。あんなに無惨に、目の前で。けれども看取ってやることもできず、死してからも駆け寄ることすらできなかった。

 

 不意に目頭が熱くなる。けれど、もう涙は落ちてこない。

 

 睡眠不足と疲労。脱水症状も混じっている。拷問の所為で捻られた指が苦痛を伝えてきた。

 

 なんで私が殴られてるの。集団の中には見知った顔がいくつもあった。その中には自分の肉親である父親もあった。肉親や、門弟として剣を交えた彼らに殴られるのはこたえた。

 

 誰か、誰かがわかってくれるはず。

 

 そう信じていた。

 

 でもそれも、折れそうだった。

 

 辛うじて女としての尊厳は守られたが、生物としての権利は失われそうになっている。生きとし生ける者に与えられる生への渇望ですら、すでに奪われそうだ。

 

 ベタつく髪と吐きたくても内容物のない胃が自分の不調を訴えてくる。

 

 こんなのは嫌だ。

 

 お願い。誰か。誰か助けて。

 

 居るはずのない男の幻想を思い浮かべる。

 

 強引で偉そう。いつも見栄を張って、軍議盤で負けてやればすぐ得意になる。でも、誰よりも強かった自分の幼馴染。最後の最後は伝説の将軍みたいに助けてくれた。

 

 ――エマ、大丈夫か、って。

 

 だから、自分も手を伸ばす。助けてって。自分は此処にいるって。

 

 濛々と白煙が立ち上っている。冷静な頭であれば、これが襲撃だと気づいただろう。だが、朦朧とする意識は妄想の産物に手を伸ばすことしかできなかった。

 

 ――助けて、私は此処にいる!

 

 祈りを捧げるように、強く願った。喉は掠れていて、こひゅっというような小さな音が漏れるだけだ。それでも確かにエマは強く願ったのだ。

 

 そしてそれは――

 

「エマさん、大丈夫ですか!」

 

 力強く手が握られた。真横には迷宮でしか見ない龍が気焔を吐いている。夢だろうか。頭がおかしくなったのだろうか。でも、そんな違和感はどうでもよかった。

 

 ああ、ああ。願いが通じたんだね。エマは滂沱の涙を流しながら、その手を強く握り返した。

 

「****、来てくれたんだね!」

 

 

 



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PHASE4-3:怪獣大決戦 下

 アンヘルは眷属ラディから飛び降りると、エマが囚われているだろう港区の廃倉庫まで駆けた。

 

 闇夜に光るラディの姿は奇異に映ったのか。数人の志士たちが剣を手に走り寄ってきた。昼間は苦戦させられた相手。如何に召喚師の能力が対多数戦に優れるとはいえ、油断はできない。

 

 ラディが宙を舞った。地を這う蛇より素早く駆けると、凄まじい動きで流れた。羽根が光芒を描く。血飛沫が宙で弾けた。風切り羽根のように、人肉をたやすく割いた。人間では及ばぬ、戦闘に特化したゆえの業。アンヘルは手にもつ長剣を震わせながら、種族特性として人を鏖殺するに長けた舞踏を見入るしかなかった。

 

「あいつもだ」

 

 ラディが扉の前で右往左往していた敵兵を尾で跳ね飛ばすと、堂々と正面から廃倉庫に足を踏み入れた。

 

 屯している集団の中に、横たわっている無惨な女と、それに足をかける老人の姿を見た。それは、アンヘルが残した最後の一線すらぶち抜いていった。

 

「その足をどけろ!」

 

 アンヘルは地を蹴って疾風のように駆けると、長剣をエドゥアルドの顔面にぶち込んだ。

 

 凄まじい轟音が廃倉庫の中を流れた。

 

 エドゥアルドはギリギリで刃を受けた。激しい火花がまるで閃光のように散る。凄まじい膂力に怯んだ顔面へ、身体を傾けて渾身の回し蹴りを叩き込んだ。

 

 つま先から甲に向かって、骨のへしゃげるような感触が伝わってくる。転がった老人へ向かってアンヘルは大きく跳躍した。

 

「結構やるけど、あんまり好みの顔じゃないわねぇ」

 

 大人しく見守っていた大男が横合いから走り込んできた。激しく噛み合った剣が音を立てる。

 

 武器といい、容姿といい、クナルを想起させる姿だ。刀身から伝わってくる膂力に、真っ向からの剣術勝負ではあぶないと直感が囁く。

 

(コイツがガイルスの言っていた)

 

 パチリと指を打ち鳴らす。ラディの特殊能力ヒールバリアが展開され、結界のように相手を押し留めた。

 

 タイミングを合わせて、リーンがエマを抱えて逃走する。建築資材が積み上げられている広間の中央で彼女を降ろし、その肩に手を当てた。

 

「あ、んへる、くん?」

 

「エマさん、わかりますか。今回復を」

 

 彼女の背中や腹部は皮膚が破れ、赤い血がべっとりと流れている。目も眩むような怒りで視界が真っ赤に染まった。

 

「また、助けられちゃったね」

 

 エマは虚な目のまま指先を小さく動かし、そして静かに微笑んだ。

 

「こんなの当然のことです」

 

「やさしい、ね。アンヘル、くんってさ」

 

「エマさんが捕まったのは、僕のせいです」

 

 アンヘルは痛々しい姿に目を伏せるしかなかった。

 

「ふふ、真面目だね――あの、さ。もう一つ、お願いしても、いいかな」

 

「なんでも言ってください。どんなことでも叶えてみせますから」

 

「ならね、この子を、貸して。あと、武器も」

 

 エマのか弱い手が緑の獣を掴んだ。定まらない意識の最中にあっても、この獣が回復の力を持つことを分かっているのだろう。

 

 言葉の意味を理解して、アンヘルは拒絶するように頭を大きく振った。

 

「なに言ってるんです、こんな怪我で」

 

「エドゥアルドは、私が止める。だから、武器を、ちょうだい。立ち上がるための、刃を」

 

「ですが」

 

「邪魔が入らないように、して。できる、よね。アンヘルくんなら、さ」

 

 喉を締められたような苦しみが襲った。エマがゆっくりと身体を起こしてゆく。

 

 一度進化したリーンの回復能力は跳ね上がっているが、重症を瞬時に癒すような力はない。彼女は根性だけで立ち上がっているのだ。

 

「私と、一騎討ちよ、エドゥアルド」

 

 弱弱しい足を震わせながら立った彼女の後ろ姿は、アンヘルの胸に訴えかけるなにかがあった。

 

 呼応するように、迫りつつある集団の中から頬を裂いた老人が姿を見せた。負傷した様子はない。一目で業物とわかる鉄塊を引き抜いている。

 

 鼠の逃げる間すらないほど執拗に囲まれた。志士たちの準備も万端だ。

 

 奇襲作戦ではなく、真正面から立ち向かわねばならぬ。そのうえ、一人一人がそう易々とくだせそうにない相手である。それが三十。戦意は昂っている。集団はエマの宣言を無視して、数頼みの圧殺陣形を取った。

 

 やはり総力戦か。そう思ったとき、陣営で唯一の部外者が異論を唱えた。

 

「別にいいじゃない。あんな手負いの子は党首さまがやれば」

 

 今にも躍り掛からんと力を蓄えていた志士たちに水を浴びせたアルトゥールは、野性味に溢れた戦士の微笑みのままに、どんと党首を突きだした。

 

「部外者が口を出すなっ!」

 

「忠告は聞いておいたほうがいいわよ。あの子、ぜっんぜん美しくないけど多分一筋縄じゃいかないわ」

 

 ぺろりと大剣を舐める病的な仕草をかますと、志士たちはうっと唸るように黙り込んだ。

 

「まじめに戦うので」

 

 党首であるエドゥアルドが異貌の男に問いかけた。

 

「当然。ようやくのお目当てかもしれないのだし、セルゲイの仇も取らなくてはね」

 

「わかりました。みなさん、あの召喚士を葬ってあげなさい」

 

 エマがゆっくり距離を取ると、それに合わせて老人の影も追随した。

 

 残ったのは奇妙な静けさと鬼気を持った戦士たちだった。

 

「貴様が報告にあった、我々の正義を妨害したものか? たった一人で来るなどいい度胸だ」

 

 ナンバー二と思われる壮年の男が怒りで剣を震わせた。

 

「……」

 

「ふん。恐怖で口も聞けないか、国の狗よ」

 

 数は今までで最多。質も革命の志士、クナルと同じラシェイダ族の武人と桁違いだ。

 

 黙りこくっていると、相手から侮りのような空気が流れる。

 

 いくら召喚士といえども、孤兵。アンヘルの剣の腕は二人同時に相手取れれば良い方だろう。

 

 真正面から戦端を開いて、勝てる確率は一割をゆうに下回る。それも万全の体制を整え、最高の精神状態を持ってしてだ。

 

「しっかし噂のカオスをやった男がこんな冴えない男とはねぇ。ホントに合ってるのよね?」

 

 唯一、興味深げな表情を浮かべる男であっても微塵も敗北の可能性など考えてはいまい。多勢に無勢というのが、この場を正しく表す言葉であろう。

 

 援護など呼ぶ余裕はなかった。正真正銘、ここにいる戦力はアンヘルたったひとりである。

 

 男たちの居並ぶ姿が見えていないわけではない。ただひとり敵本営に突っ込んで生き残れるなど、常軌を逸している。

 

 たとえエマの嬲られた光景を見て、脳内が怒りで煮えたぎっていたとしても。胸の奥に消えることのない炎が立ち上がっていたとしても。全身が力に満ち溢れていたとしても。

 

 意思の力は戦闘力には決してなり得ない。怒って強くなるのは、空想上の話である。

 

 だというのに、普通感じるはずの恐怖や気後など微塵もない。アンヘルの魂は絶対に負けるはずがないという確信とともに燃え上がっていた。

 

 全能感が全身を貫く。

 

 気力は横溢している。

 

 明らかに条理を外れたことながら、その確信はけして的外れではなかった。

 

 

「召喚」

 

 

 手を右方に振り切った。

 

 青白い燐光が迸り、狭苦しい廃倉庫には収まらない巨大なゲートが出現する。異空間につながっているとしか思えない禍々しい闇の奥から覗いたのは、真紅の龍鱗を持つ恐懼の化け物だった。

 

 煉獄のような燃える顎門がゆっくりと露わになる。ぎらついた濃緑の瞳は宝石のように美しくも獣の凶暴さが滲んでいる。青白いゲートを切り開かんと現出する落ち葉色の爪は、人を突き刺そうものなら容易く人肉バーベキューすら可能なほど鋭利だ。極めつきには怪物の象徴たる皮膜の翼。城ほどもある体躯を羽ばたかせる巨大なそれは、狭苦しい広間に収まらんと小さく閉じられるも、見る人を恐慌させるに足る迫力を持っていた。

 

 一歩、龍が足を動かした。それだけで大地が震えた。

 

「だい、四段階?」

 

 人前でこの力を解放するのははじめてだった。

 

 アルトゥールが瞼を瞬かせ、恐怖に慄くように一歩二歩と交代する。その視線は縫い付けられたように、龍の双眸へ引き寄せられていた。

 

 種族名メテオボルケーノドラゴン。

 

 轟々と燃え盛る火炎の吐息を撒き散らしながら、屋根をぶち破って聳えるその姿。いつかの邪竜と同じ、見た者を跼天蹐地へと追い遣る龍の威容そのものだ。

 

 今までずっとひた隠しにしてきた、力。

 

 周囲の抑圧から逃れる為、隠蔽してきた能力。

 

 だが、一際強大な手駒であるフレアが第四進化形態となったとき、アンヘルの世界は一変した。

 

 経典によれば、覚醒者。

 

 第三進化形態もしくはそれに比肩する眷属を有する、単独でいくさ場の色地図を塗り替える者たち。それを、さらに一つ超えた。

 

 それは召喚師として、そして古の論理使いとして、手のつけられぬ怪物へのまごうことなき一歩に違いなかった。

 

「薙ぎ払え、フレア」

 

 一瞬、生物皆息も途絶する、火山の噴火したような轟音が夜空に轟き渡った。巨大な顎門が食料どもに据えられると、狩られる側へ回ったことを察した彼らは、身をすくませた。

 

 しかし、それだけで命取り。恐怖の巨龍が、火砕流のように敵陣へと迫った。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「冗談じゃないわ!」

 

 遁走、という判断は素早かった。アルトゥールは凶悪極まりない顎門を双眸で捉えたとき、大剣を背負ったまま反射的に踵を返していた。

 

 本能的に宙を舞ったのは大正解だった。

 

 出現した巨大龍の進撃は、生物の頂点に相応しい威力だ。

 

 あと一歩遅かったら、逃げ遅れた志士と同じようにバターのごとく切り裂かれていただろう。

 

 巨龍へ立ち向かった者に尊敬の念を送った。無論、その勇気は蛮勇に類するものであろうとも。巨龍は志士の得物を小枝のようにへし折りながら、ただの一振りで挽肉状に散らかし、絶命させる。痛苦に染まった眼球は白目を剥いて、壮絶だった。

 

 風圧で地面を転がりながら、改めて異形を視界に収める。筋繊維を引き裂くような痛みよりも、まず相手の威容に心を縫い留められた。

 

 巫山戯ている。化け物と相対したアルトゥールは、普段のお遊びのような戦闘から跳ね上がったことに恐怖を禁じえなかった。

 

 あまりにも隔絶しすぎている。セルゲイや、いたぶった士官学校の子猫とは。

 

 まず、なんといってもその巨躯。デカい。デカすぎる。

 

 翼を広げていないにもかかわらず、戸建て二つ並べたぐらいは軽くある。翼は幾分小さめだが、相手が滑空や地上戦に優れると仮定すれば、まあ理解できなくもない。

 

 世界最大の飛行恐竜ケツァルコアトロスの最大翼長は約十メートルと大型バス並みだが、その体重はあくまでも二百五十キロ程度に収まると見られている。

 

 だが、目の前の龍は明らかにトン単位だ。もしこの化け物が空を駆けるというなら、それは流体力学を超越した魔術的なにかが作用しているのであろう。

 

 アルトゥールは自らの経験則から、見たこともない巨大な化け物への推測を、そう立てた。

 

 出身ラシェイダ族は、帝国成立初期に合併された魔物狩りを生業にする一族であるが、そのもっぱらの相手は「龍」に絞られた。

 

 簡潔に述べるなら滅龍の一族なのである。道半ばで出奔したアルトゥールもその知恵はきちんと磨かれている。その対処法も。

 

 脳がめぐり出したときにはすでに駆け出していた。

 

 回れ右、入りくねった倉庫街のほうにである。龍が興味を失ったように視線を逸らす。味方が生きながらに食われ絶叫するのを耳に、一人路地裏で息を吐いた。

 

 逃げて、隠れて、やり過ごす。少なくともアルトゥールにやれることはそれしかない。こんな相手は死んでもごめんであった。

 

 龍は本当にぞっとするような、凶暴きわまりない目付きをしていた。

 

 ぶるりと身体を震わせながら、その目を覗き込んだことを思い出す。まるで毒か電波でも吐き出されているような瞳だ。

 

 人にはおよびも付かぬ領域がある。それは自然であり、運命であり、魔物でもある。龍はまさに人智及ばぬ象徴だ。人を本当に矮小な存在へと変えてくれる。ラシェイダ族の格言には「鷹は自分より大きい獲物を狙わない」というものがある。負ける戦いには挑まないとは孫子にも通づる故郷の掟が、絶死の最中に蘇ってきたのだ。

 

「いたたた。あの龍、マジでイカれてるわね」

 

 わずかに掠っていたのか。抑えた脇腹からは鮮血が滴っている。苦い顔で服を破り捨てると強く巻き、付着した親指の血液を舐めとる。心臓はけたたましく鼓動が鳴るが、焦ってはならぬと火照る身体を必死に諌めた。

 

 相手はもっとも警戒すべき属性だ。教団で学んだ基本事項を思い返す。

 

 相関関係に十分な根拠があるとは言い切れないが、教団内では眷属の各属性に召喚主の性格を表しているものと考えられている。

 

 大体次の通りだ。

 

 木は、優しさ。

 水は、清廉さ。

 火は、熱意。

 

 これはイメージにも合うが、各属性にはもう一つ裏の意味といえるようなものがある。

 

 木は、鈍感さ。

 水は、冷たさ。

 

 何事にも裏があるという通り、良い面もあれば悪い面も持つのである。

 

 中でも危険視されているのが、火属性。

 

 第一印象で熱血ではない人物が、火属性を得意とするような場合、細心の注意が必要とされていた。

 

 火属性が意味するのは、怒り。

 

 あの龍の力の根源は残虐性から鑑みても、怒りに違いない。だからこそ龍は、こちらを手負いのまま見逃した。見逃したときに映り込んだ瞳の色が、狩人の機知に満ちたものではなく、相手を嬲る嗜虐に通づると物語っていた。

 

 そう思えば、背負う大剣がちゃちなおもちゃに思える。百人斬りという異名を持ち、今まで一千に迫るほど血を啜ってきた妖刀ですら、である。

 

 じっとりとした汗が全身へとぷつぷつ湧いてきた。アルトゥールは自分の鼓動が鐘を打つことに嫌気がさした。

 

 絶望的、といって差し支えない状況だ。

 

 あんな化け物と正面からやり合うのはまっぴらごめん。なんとか弱い本体を相手取りたいところなのだが。

 

(最悪なことに召喚主が居ないのよねぇ)

 

 召喚主の男は飛行生物に捕まって夜空の空高くに留まっている。こちらから手は届かないくせして、周到に空から魔法を落とす。徹底的に召喚士の能力を生かしてきているのだ。

 

「ひぃぃぃぃー!」

 

「たすけ、助けてくれーー!」

 

「あぢい、あちいよぉ」

 

 隣の建物が炎の息吹によって建物ごと薙ぎ払われた。本当に見境なしだ。巨龍のしぐさは子供が駄田を捏ねているようで一種可愛げすらあるが、こうも出力が違うと勝負ならない。かの邪龍カオスが優しげに思えるくらいだ。

 

 濛々と周辺から嫌な匂いと共に大炎が巻き上がる。火の粉と悲鳴。傭兵のときに赴いた北方紛争を想起させる、まさに火の池地獄の様相を呈した。

 

 放っておけば、今隠れている路地裏も火の海と化すだろう。逃げたところで空から追ってくる。手があるとすれば湖なのだろうが……。

 

(あっちもねぇ、なんだか嫌な予感がするのよね)

 

 静かに波を立てる暗黒の湖畔を眺めた。そらに浮かぶ月を水面に映し、ひっそりとたゆたう湖の中は、業火の炎に巻かれている倉庫街とは対照的なまでに落ち着いている。泳ぎも苦手ではないアルトゥールからすれば、水中への逃亡も悪い選択肢ではない。

 

 それでも二の足を踏むのは、戦士の勘というものだろうか。火山龍、飛行生物、女を治癒する生物と相手はすでに三体も召喚している。通例召喚師は二体、もしくは力の弱い眷属三体が限度だろうと言われている。普通なら水中の四体目など考慮にも値しない思考だ。だが、もし自らの勘が正しければ、という考えにとらわれ続けていた。

 

 判断がつかない。相手は高い実力を持ちながら、まったくの無名である。召喚術を隠し、己の剣一本で成り上がったのだろう。世俗の評価を気にするには武芸者一様に通ずる想念ゆえ、経験の中に類似する人間が思い当らない。

 

 圧倒的ともいえる恐竜大行進と平凡そのものの風貌が交互にチラつく。相手の思考がまったく想像できない、というのは不利に過ぎた。

 

 途方もない声量の雄叫びが轟いた。

 

 雑魚どもすべてを飲み切ったという合図だろう。隠れていたとしても、いつかは見つかって喰われる。決断のときは迫っていた。

 

「教団がどうなろうと知ったことじゃないけれど、古巣が負けた相手に滅ぼされるってのは愉快じゃないわよねぇ」

 

 アルトゥールは覚悟を決めて己の内に眠る力を最大限まで解放した。

 

 みるみるうちに体表面が真っ黒へと変色してゆく。皮下に通っている血中魔力が鉄のように硬化し、馬力と防御力を人外の領域まで押し上げる。

 

 呪術、黒龍化。

 

 幼少期から血中物質の性質を変える変異誘発剤を日常的に服用し、試練と称される儀式を乗り越えたものたちだけが扱える秘術である。

 

 生存率は純血かつ氏族の子孫でも八割を切る。半分ラドックの血を受け継ぐアルトゥールが生き残れたのはまさに奇跡の産物であるが、全身強化には半端者ゆえに大きなリスクを孕んでもいる。

 

(そういえば「あの子」に似てたわねぇ)

 

 ふと、街中で出会った同族と古い記憶の人物が被った。自分が一族を出奔する原因となった、歴代最強と呼ばれる氏族の天才。その彼女の顔を。

 

 そう考えると、これは運命なのだろうか。はじまりと終わりが連環している。アルトゥールはぐっと相棒を握りしめた。

 

「運命かどうか、確かめてみましょうか」

 

 路地の先に巨大な龍の瞳が映り込む。狂気の笑みを浮かべながら、アルトゥールは死地へと飛び込んだ。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「なんだ……これは」

 

 憲兵のディアゴは戦慄くようにして、遠くで繰り広げられる怪獣大決戦を眺めていた。

 

 陸では王者のように翼をはためかせる火山龍、水中からは支配者のように顔を出している水龍が雁首を揃え、ちっぽけな一匹の人間に襲いかかっていた。

 

 相対する男も只者ではない。全身から夥しいほど血を流しながら、狂気の笑みを浮かべて雄叫びをあげる姿はこの世の生物とは決しておもえなかった。

 

 間にある人工物の行方などお構いなしだ。残るのは更地と燃え滓、高波で流された跡地だけ。関係ない一般市民――脛に傷の一つぐらいは持つが――たちが逃げ惑うのを助けてやることもできない。

 

 幼い頃、ディアゴも勇ましい勇者に憧れたことがあった。巷ではやる物語に触れては、いつかは自分もそういう世界の住人になりたいと。

 

 剣一本で身を立て、国を守るために信念を貫いた騎士の物語。

 

 卑しき身分ながら、類稀なる頭脳を武器に宮廷社会を成り上がった物語。

 

 最強の魔法師として、あらゆる敵を薙ぎ払う物語。

 

 そんなもの冗談じゃない。今は本気でそう思える。

 

 もし生まれ変わるとしても、地を這う虫かなにかで十分だ。

 

 あの高みに登るまで、彼らはどんなことを犠牲にしてきたのだろう。私生活、友情、愛。片方の当たり障りない来歴しか知らないが、あの若さで至った過去を思えば憐憫しか湧いてこない。

 

 すべてを捨て、努力を積み重ねた先にあるのが運命だとすれば、自分は踏みつけられながらも気楽に生きられる虫でいい。

 

 だってそうだろう。人間自由じゃなければ、生きてる価値なんてない。

 

 冴えなかろうと、つまらなかろうと。

 

 選択権があってこその、人間だ。

 

「っと、いけねぇ。俺らも仕事で来てるんだ」

 

 ディアゴはパンパンと両頬を打ち、背後で固まっている部下たちに喝を入れた。孤軍で戦い抜く男の動きを見るに、終幕は目前である。もたもたしていてはことを仕損じる可能性もあった。

 

 問題ない。狙いは怪獣大決戦ではなく、もう一箇所だ。

 

「準備はいいですかな」

 

 確認をするため一度振り返った。臨時ではあるが、今現在は自分たちの上司である若い男は短く頷いた。

 

 作戦決行。

 

 長きに渡った戦いの収束は目前だ。

 

 ディアゴはようやく訪れる休暇に思いを馳せながら、炎が立ち登る倉庫街へと足を踏み入れたのだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「ふう、あちらでも戦いが始まったようですね」

 

 エドゥアルドが疲れたようにため息を吐くと、遠方の倉庫街で立ち上がる火炎を眺めながらそう呟いた。

 

 遠く離れた埠頭では、漣が打ち付ける音だけがかすかに響いている。空には満天の月。かすかに掛かる雲が月光の直射を翳らせる。

 

 突如、どかんと巨大な爆発音が轟いた。アンヘルの語った「遠くで戦って欲しい」という台詞が、決して大袈裟ではなかったのだ。士官学校で手を抜き過ぎだろうと、場違いの呆れが思考を支配してしまった。

 

 フルフルと頭を振って思考を集中させる。エマは集中治療で疲れ切った緑の獣をひと撫でし、貰った短弓と矢筒を確認した。

 

「私たちも、もう終わりですね。これほどの騒ぎを起こせば憲兵が集まってくるのもすぐでしょう」

 

 エドゥアルドはお仕舞いとばかりに両手をかかげ、大仰にかぶりを振った。

 

 エマは幽鬼のような朧の目で、ゆらりと老躯を中心に捉えた。

 

「イーサク兄は、死にました」

 

「知っていますよ……なんです、その目は」

 

「詫びのひとつでも言ったら、どうなんですか」

 

「罪を贖うのはそちらのほうでしょう。血の繋がった家族でありながら、正義に横槍を入れ、その意思を簒奪したばかりか、命まで潰える結果を齎した。貴方は真の裏切り者です」

 

「……あなたのせいで、イーサク兄は死んだ。あなたが、兄さんに改革という欺瞞を植え付けたから」

 

「私は彼に正しき道を示してあげただけなのです。貴方こそどうして気が付かないんですか? 正義は元老院にあるはずもなければ、国家にあるわけもない。我々が、真に国家を憂う軍人こそが、統治するに相応しいのです」

 

「それが目的なの! そんな、くだらない理由が」

 

 この老人は狂っている。まさに頑迷の極まった老害だ。

 

 惨たらしい最後を思い浮かべる。兄は決してあんな死に方をして人間ではなかった。師範代として、剣客として高い実力と教養を備えていた。人好きのする性格だった。ブリヒッテにも好かれる好青年だった。

 

 それが変わってしまった。兄は洗脳されたのだ。

 

 己が恋人の死に際して、弱り切った心に改革という耳障りの良い種を植え付けられた。乾いた砂に水が染み込むよう思想へ恭順し、そして殉教した。

 

 これの何が正義か、改革か。

 

 幼馴染であるブリヒッテへの想いを、まさか義父に利用されたのだ。怒りが自らの状況と重なり合って、抑えきれないほどに募る。

 

 こんなやつの所為で、家族は離散した。父は諾々と指示にしたがって討ち取られるだろう。母はどうなったのだろうか。もしかしたら、父は最後とあって心中させた可能性もある。すべては崩落だった。

 

 エマは黙ったまま短弓の弦をぴんと弾いてから、師を見る目ではない剣呑さで矢を引き抜いた。

 

 エドゥアルドからうすら笑いが引っ込む。老獪な薄目がさらに細められ、相貌からは熱が抜け去った。

 

 いつもの自分なら戦えなかっただろう。ブリヒッテの、そしてリカルドの父親である。自分も弓の教えを乞うた、まさに恩師である。

 

 しかし、今は違った。怒りが脳内を満たした。イーサクの無念が倍になって膨れ上がるようだった。

 

 一際大きな波が埠頭へ立ち、飛沫を上げながらきらきらと月光に照らされた。地面を濡らす。その瞬間、じゃらんとエマの脳髄で銅鑼が鳴り響いた。

 

「エドゥアルド、あなたは私が討ち取ります!」

 

 エマは半身になって弓に矢を番ると、心を水面のように落ち着けた。身体に突き刺さる痛みと辛苦が大海の凪となる。何も感じないわけではない。痛みや悲しみは友として真横にある。ただそれに追随せぬだけなのだ。

 

 金剛流青嵐弓術。何事にもこころ揺らさず、動じず。常に心掛けてきた奥義だ。だが今は奇妙なほどに心が従う。脳内では青白い怒りの炎が宿るというのに。ペンキで上から塗り潰したようでもなく、ただただ平静だった。

 

 ステップ、相手までの射線を作り出した。見えた一条の筋。完璧だ。ここまで一切の手ぬかりがない。エマは心のまま弓を引き絞った。

 

 矢は溶け、風のようにさああっと流れた。闇夜に紛れたそれは不可視、かつ空気の乱れひとつ起こさない。それこそ、まさに弓術の秘奥であった。

 

 エドゥアルドは顔色を変えて、剣を盾にした。今ほどは長剣至上主義ではなかった時代、彼の得物は長さこそないが、肉厚である。死神を辛うじて退かせたその体勢は、大きく崩れた。

 

 このとき、エマには敵の弱点となる部位が光って見えた。古代、伝説の弓使いは眺視に優れるばかりか、相手の呼吸、筋肉の細動をつぶさに観察し、深い闇の向こうからでも弱みが手にとるよう分かったという。

 

 今彼女がその領域にあるか定かでないが、歴戦の古豪は年若い少女の掌で転がされていた。

 

 エドゥアルドは苦い顔で舌打ちした。早く立ち上がれと足を空いた手で叩くが、それより早く鏃が飛翔した。老躯は大きく後方へ飛びずさるが、鋭い先端が頬を抉った。

 

 くぐもった悲鳴が流れる。

 

 時折舞う飛沫の中でエマは相手を観察し続けた。距離は十メートル。年老いて瞬発力は落ちたが、練達の技は錆びていまい。近寄られれば必死である。

 

 さらに一矢投じた。エドゥアルドが無理やりに身体を捻り、埠頭の横の桟橋に足を掛けた。ぐらりと姿勢が揺らぐ。

 

 ――それは、大きすぎる隙だ。

 

 エマはここまでの最速で弓を引き絞った。

 

 回避など許さない。相手に許されたのは利き腕ではない側の、蜥蜴が自らの尻尾を切るような防御だけだった。

 

 手のひらから肘まで、骨が入ったかのように貫通する。食いしばるような悲鳴が漏れ出る。エドゥアルドは憎々しげにエマを睨んだ。

 

「強く、なりましたね」

 

「……師範、ぶらないでください」

 

「ふふふ、現代戦において不利と言われた弓使いが、相手を近寄らせないまでの領域へ至るとこうなるのですか」

 

 エドゥアルドはすこし誇らしげに笑うと、血の滴る腕をさすり、腕が動かないことを確認した。

 

 ちらりと老獪な目が周囲に視線を飛ばす。

 

 何を探っているんだ。エマがもう一本矢をつがえた瞬間、エドゥアルドはぐっと唇を噛み、大きく叫んだ。

 

「ですがね、貴方には経験が足りない。力を十全に生かすという、弓士にとって必要な地の利の経験が!」

 

 エドゥアルドの身体がぐらりと傾くと、そのまま湖の中へと一直線に落ちた。

 

 エマは慌てて敵の落ちた水面を伺う。相手は痛みに喘いで落下した風ではなかった。むしろ逆。自分から飛び降りた形である。

 

 水面は衝撃でおおきな波紋が立っている。深い闇の中では水中の影など形もない。よしんば居所が掴めたとしても意味はなかった。一般的に銃弾は水面付近で弾ける、もしくは威力を減衰させられ人肉を穿つほどの武器になり得ない。水中で有効なのは魚雷のような爆発兵器だけなのだ。

 

 どうする。エマは一歩退いた。その戸惑いを水中の刺客は見逃さかった。

 

 飛魚のように躍り出たエドゥアルドは、激しく吠えながらその長剣を振りかざした。

 

 まずい。エマは弓を投げ飛ばしながら、必死に懐の短刀を引き抜いた。逆手に持った刀身が老躯の刃と絡み合う。ガキンと硬質な音とともに火花が散った。

 

 重い。重すぎる。相手は上段。此方は支えるだけと、重力の分相手に利する体勢ではあるが、それだけでは説明できぬ重さである。激しい鍔迫り合いで、短刀を握る両手が真っ白になった。

 

 押し返せ。ぐっと足腰で踏ん張った。

 

 しかし、その判断に後悔する。見透かされたように相手の剣から力が抜けた。エマは強かな相手の技量につんのめると、無防備に晒された胴体へ鋭い膝蹴りが撃ち込まれた。

 

「がはっ……!」

 

 エマは勢いのまま地面を転々とする。衝撃で短刀などどこかへ飛んでいった。両手をつき、満身創痍といった老躯の立ち姿を見上げる。

 

「どうやら私の勝ちのようですね。さあ、これで冥府に送って差し上げましょう」

 

 ずずっ、と老体を引きずるざらついた音が響いた。掲げられた刀身に月明かりが反射し、鈍く光り輝く。

 

 エマは苦痛を堪えながら、祈るように腰の矢筒へ手を伸ばした。

 

「弓はもうありませんよ」

 

 目を閉じる。エマに届いたのは、キャウンという物悲しげな獣の声だった。

 

 緑の獣、眷属リーン。アンヘルから託された獣は、主人の元に帰ることなく、停泊する船舶に身を潜め、今際の際まで機会を伺っていたのだ。

 

「まだ居たのですか、この害獣が!」

 

 エドゥアルドが剣を薙ぎ払い、纏わりつく獣を一蹴した。

 

 ありがとう。そう心中で呟く。獣は光となって元の世界へと旅立った。

 

 力の限り矢を引き抜くと、肩を鞭のようにしならせて打ち出した。まるで身体自身が弓になったような感覚。流星のように流れた矢は、無防備なエドゥアルドの腕に突き刺さった。

 

 ぎゃああ、という悲鳴を耳に地面を転がった。手は投げ飛ばした弓を拾い上げる。最後の一矢。それが狼狽する老人の胸に据えられた。

 

 ――そうです。あなたには兄イーサクと違って、弓使いの資質があるのかもしれませんね。

 

 ――ふふ。二人は本当の姉妹みたいですね。

 

 ――すばらしい。あなたはまさに今与一だ。

 

 いつかの記憶が脳内で再生される。視界が汗や湖の水ではないもので滲んだ。

 

 なんでこんな記憶が。憎い、憎いはずなのに。思想に狂った老躯が、純真な兄を誑かした。

 

 なのに。自分を教え、導いてくれた姿は決して嘘ではなく。

 

「どうしたんです、今ここに至って怖気付きましたか? でしょうね。所詮、あなたの正義が、我々の貴き誓いに敵うはずもない!」

 

 とんとん、ともはや剣を握ることも叶わないエドゥアルドだったが、まるで怨念を背負っているかのようによろよろ駆けた。

 

 もう、相手は間合いの中だ。

 

 撃ち抜くしかない。だというのに、つがえた弓はガタガタと震えた。まるで狙いが定まらない。

 

 力が入らない。いや、抜けてゆく。そういえば、どうして自分は戦っているんだろう。今どうして、怒りに打ち震えているのだろう。

 

 そう、兄イーサクのことだ。彼は兄を騙くらかし、無惨な死へと導いた。その報いとして、自分は戦っている。

 

 しかし、彼は私たちを育ててくれた。歪んだ思想だったのかもしれないが、それでも空虚な日々を送る兄を助けたのは眼前の老人だ。であるならば、その意思は決して間違っているとは言い切れない。

 

 仇なんて、別にいいのかもしれない。エマはそう思った。

 

「エマ、最後まで諦めんなよ」

 

 間違いなく幻聴だ。いつも隣から発される、自信満々の声。

 

 しかし、エマはその言葉を受けて、はっと意識を浮上させた。

 

 ――私は、もう一度。

 

 瞳に意思が戻る。引き絞った弓から、一直線に星が流れた。

 

 運命という流星が。

 

 もはや防御をかなぐり捨てたエドゥアルドの胸に矢は立ち、貫いた。傷口から血がドロドロと流れ、老躯はよろめきながら地に伏した。

 

 勝敗は、決した。

 

 終幕を迎えた。

 

 老翁に勝利の女神は微笑まず。そして。少女に敗北の死神が迫りはしなかった。

 

 これで、最後。エマの勝利だ。

 

 しかし、甘い勝利の美酒に耽溺することはできなかった。襲ってきたのは、毒酒を無理やりあおらされたような、敗北に類する苦い勝利であった。

 

「は、はぁはぁ、ふふ。あなたの勝ちみたいですね。リカルドは才能があると思っていましたが、あなたの才能も決して劣ってはいない。さすが、私の弟子です」

 

「エドゥアルドさん……どうして……」

 

 彼の眼には、さきほどまで宿っていた狂気が消え去っていた。いつもと同じ、道場で穏やかに門弟を見守っていた双眸である。

 

 いまさっきのやり取りが、夢か幻かと思わせんほどの空気感。そこに、エマは吹き消えそうな命の灯を見た。

 

 エドゥアルドはレッスンとばかりに、駄々をこねる生徒へ首を振った。

 

「何も言わないでください。すべて過去のこと、すべてが潰えた後なのですから」

 

 エドゥアルドは語った。

 

 加熱する世情、戦を知らぬ門弟たちを逸らせぬため、一党を指揮するしかなかったこと、過去の戦友から死後を託され、革命の旗を掲げるしかなかったこと。

 

 現状から、彼は自らを騙した。若き頃掲げた軍の正常化。出身者の政治参戦に貴族階級社会の解体。死んでいった英霊の遺志を絶やさないため、戦うしかないと嘯いた。嘯くしかなかった。

 

 それが、いかに破滅的な未来を招くか知っていながら。

 

「所詮私は妄執に取り憑かれた老害です。ただ固執し、愚直に戦うことしか選択できなかった。貴方やリカルドを誘わなかったのは必然です。世界を変えるには、正しく未来を憂う若者の自立しかありえない。だから、私は悪の総領府へ通うことを許した。世界を広く観て欲しかったから」

 

 世界が間違っていることは、誰もがわかっていた。誰が彼を責められよう。国家が老人のように衰え、そこかしこが限界間近で軋みをあげていることを誰もが知っていたのだ。

 

 やり方が間違っていたか? 否とは言えずとも、誰にも是とは言えない。諾々とお上のやり方に添い、疑問を抱かずに日々を生きるには楽ではあれど、それは自ら口を塞いで沈没するような行為に他ならない。

 

 彼らは自らの生命を打ち捨てて、未来に賭けたのだ。たとえ、逆賊やテロリストのそしりを受けても。

 

 エマはスルスルと尻餅をついた。もう光を映さないエドゥアルドの瞳は、どこか憑き物が落ちたように晴れやかだった。

 

「今更ですがね、あのとき語ったことは、けっして嘘ではありません。私にはできなかった。苦しむイーサクに、革命という断頭台への道のりを示してやることでしかできなかった。

 薬を使うのは悪かったと今も思います。しかし、彼はもう壊れていた。憲兵機構の是正を訴えたと言いましたが、濁さずいえば、それは薬物中毒の狂乱そのものだった。それなら、もう一度壊した方が幸せかもしれないと思ったのです。けれど、それは欲目ですね。娘が居なくても、一人に欠けたとしても、陽の光の当たる道を歩いて欲しかったという、叶わぬ夢を見た私の」

 

 老人は涙を見せなかった。ただ、目を細めただけ。そんな些細な仕草だけが長い戦いに疲れた老戦士の悲しみを表すものだった。

 

 萎びた体躯は枯れ木のように生気がない。衣服を濡らす湖水はしたたかに地面を濡らす。それは彼の身体から命が溢れ出ている証左であった。

 

「歳は、取りたくないものです、ね。もっと若ければ、未来ある彼に、もっと良き道を示せた」

 

 すっと、蝋燭の火がかききえるように。

 

 音もなく、老人は息を引き取った。

 

 死の淵に至り、朦朧とした意識の中、彼は過去のすべてを回顧した。

 

 彼の語る通り、止まれなかったのだろう。立場と能力、人生のすべてが老人を革命という炎の中へ追いやった。

 

 葛藤があったはずだ。懊悩にあったはずだ。自分の指示一つで死んでゆく同胞の姿を見て、何も思わなかったはずはない。

 

 けれども立った。彼は走るしかなかった。仲間を連れ、同志を連れ、同胞を連れ、きり立った崖へ走るしかなかった。

 

 なんの益もなく、なんの価値もないと知っていても。狂老と化し、雄叫びをあげるしかなかった。

 

 伏せられすでに黒く濁った瞳は、過去の妄執に囚われることなく、ただ未来を指し示す灯となるのだろう。そう、願うしかない。もう、今となっては。

 

 エマはそっと老人の手を握った。ひび割れ、かさかさとした弱い手のひらだった。

 

 強く胸に抱いた。壊れ物のごとく大切に、けれど、熱を伝えるように強く。

 

「あっぁぁぁあぁあああ!」

 

 喉から言葉にもならない嗚咽が溢れ出てきた。

 

 なんで、なんで。

 

 どうして。

 

 エマは地面に蹲った。

 

 和やかな過去が脳裏を過った。

 

 エドゥアルド、ブリヒッテ、イーサク、リカルド。皆が道場で腕を磨いた。ブリヒッテだけは料理の腕だったが、そんなことはどうでもいい。

 

 美しい夢のような過去だった。

 

 そして、もう叶わぬ世界だった。

 

 エマは顔を覆って喉を大きく震わせる。

 

 闇の帳に轟く声。女は一人、業火の炎立ち登る港を背景に、陰鬱な跪く姿をみなもに映す。月下のあえかなる湖風がさらさらと悲鳴を流した。

 

 痛切な慟哭は、世界の崩壊を切り取ったかのように、長く、長く続いた。

 

 

 

 

 

 帝国暦315年。

 

 帝国全土を震撼させ、臣民すべてを恐怖の渦へと叩き込んだ未曾有の大事件。その解決に、未だ士官にもならぬ少女が家族を討ち、師を討ってまで国家を救ったことは誰にも知らされることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エマ、さん」

 

 こときれた狂老の手を抱き、現世の為す史実になすすべなく項垂れる少女。業火に照らされたその横顔は沈鬱で、この世に生持つものではなかった。

 

 炎の翳りにおあられ、姿は闇の中に溶け込むよう消えては現れを繰り返す。存在は希薄で、まるでそこに存在していないかのようだ。

 

 燃え尽き、灰と化しても許せぬ世界を戦いに戦い抜いた老躯の亡骸と、慕いながらも食い止めるしかなかった弟子の最後。本当に、許されうる結末はこれ以外になかったのか。答えの出ない問いにぐるぐると脳がかき混ぜられる。

 

 山積した疲労でもなく、蛮族決死の一矢でもなくて。アンヘルは沼に染み込むような足取りの重さによろめいた。

 

「アンヘル、くん……?」

 

 足音に気付いた少女が、静かに涙を流している顔をあげた。戦いに染まり、魂魄の隅々まで警戒を叩き込まれたその姿勢に、もの言えぬ冷たさのようなものが心衷に入り込む。

 

 彼女を抱き抱える必要性と、求められる人間が自分ではないことに懊悩し、ただ声もなく立ち尽くした。

 

 やり場のない虚脱感。一言で表すならまさにこれである。

 

 妹に願いを踏み躙られた兄イーサク。

 

 弟子に阻まれた師エドゥアルド。

 

 正義の為と心を偽ったが最後、選択の余地なく彼らを葬り去ることになったエマ。

 

 そして、すべての賛同を受けられずとも、己の命を投げ打ち、胸に抱く正義へ殉じた数多の命。

 

 願いを摘み取った罪禍が、楔のように深く、深く埋め込まれた。

 

「帰りましょう……もう、終わったんです」

 

「……うん」

 

 すべての幕引き。国家の平穏、ほんのひとときのそれに踊らされた人々は、決して語られることはない。だがそれでも、正義はあったのだ。彼らなりの、彼女なりの。

 

 いつか救われるときが来るだろう。時計の針は決して止まることがない。チクタク、チクタクと無限に進み続ける。時の洪水が、彼女の地獄を押し流してしまえることを、アンヘルは願わずにいられなかった。

 

「……なに、あれ?」

 

「どれのことですか」

 

「あれ、なんだけど……」

 

 夜目の効くエマがいち早く指摘した。

 

 炎の端に、闇を切り裂く人工的な光が蠢いている。時を置かず、それは組織だったものであるとアンヘルの目にも判断できるようになった。

 

 アンヘルは飛び上がると、鬼気迫る表情で抜剣した。エマの動揺が空気に沿って流れている。目視で影を捉えたとき、悪しき予感は現実のものとなった。

 

 五十を超える量産の魔導灯。皆揃ったような紺の制服に身を包み、左腰に帯刀している。頭には軍帽。

 

 憲兵、バレンティア騎士団。

 

 彼らは散開し、アンヘルたちを取り囲むように輪を作った。しかし、その雰囲気は今までと大きく異なる。どこか遣りきれない、そんな雰囲気を強く醸し出していた。

 

「すまない、エマ候補生」

 

 包囲を掻き分けるよう進み出たのは、白皙の美丈夫――ヴァレリオットだった。

 

「君には、リカルドの為、生贄になってもらわないといけないんだ」

 

 未だ癒えぬ傷跡に、塩を塗り込んだのは悪魔の言葉。暗がりという運命の魔の手は、エマを掴んで離さない。

 

 

 



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PAHSE5-1:あり得た未来のエピローグ

 これはいつかの記憶。

 

 もういつのことだったのか忘れてしまった思い出の話。

 

 幼馴染の剣術バカには珍しく、外のことに興味を示したからだったか。どうして自分たちが厳しい訓練を抜け出し、街中で走り回っていたのか定かではない。ただ、無限遠点まで続いているような田舎道を、二人並んでいたことを微かに覚えていた。

 

「ゆめって、あるー?」

 

「あー、なんかあっかなぁ」

 

 少年はぷすぷすと頭から煙を出して唸る。少女は年相応に笑った。

 

「そうだ。おれはすごいな将軍になる」

 

「むりだよー」

 

「いいや、なれる。おれはすごいんだ」

 

 少女は子供っぽいその夢に口先を尖らせる。もっと現実的な、と考えるのは少女であろうとも女だということか。

 

 けれど、少年の満面の笑顔は眩しかった。輝かしく、清廉で。現実的な願いに比べ、ひどく清らかに思えたのだ。

 

 仕方なしとばかりにため息を吐く。そして少女は、茜色に染まる坂で少年にこんな約束をした。

 

「なら、わたしが後ろでささえるから」

 

 遠い、遠い思い出。

 

 今はもう叶わない、夢の切れ端だった。

 

 

 

 

 

「エマ候補生。君には生贄になってもらわなくてはならない。何よりも君が想うリカルドのために」

 

 眼前に立つヴァレリオットは、どんな批難でも受け入れるといわんばかりに堂々と宣言した。そこには過去の遺恨などは微塵も窺えない。ただ、真にエマの行く末を儚んでいる。そんな憐憫溢れる眼差しであった。

 

 生贄、イケニエ。その意味を理解することを、脳は拒んだ。だめだ、何があろうとも、それだけは。

 

「な、何を言っているっ。エマさんは恩赦になったはずだ」

 

 アンヘルは怒鳴った。怒声が瓦礫と化した倉庫街に虚しく反響する。

 

 ヴァレリオットは気の毒そうに目尻を傾けると、顎をゆっくりと縦に振った。

 

「君の言う通りだ、私の提案にはなんら正当性はない。そして、君は拒否する力を持っている――だからこれは願いだ、エマ候補生。君の力でリカルドを助けてやってくれないか」

 

 エマはか弱い震え声で尋ねる。

 

「どういう、意味なの」

 

「やめろ、聞くんじゃない」

 

 全方位を警戒するように両手を広げると、アンヘルは子供を守る狼のように叫んだ。隊長であるディアゴは、怒気に反応してざわめく憲兵たちを諌めた。

 

「連座制だよ、お二人さん……アンタらの仕事っぷりはわかってるし、邪魔して悪かったとは思ってる。しかし、嬢ちゃんの目的は自分の恩赦以外に、リカルドの坊ちゃんの無罪にもあったわけだろ。それが叶わなくちゃ意味がねえはずだ」

 

「君たち所属の機構から連絡を受けた。義兄イーサク、実父エドゥアルド。両者が首謀者となれば、事件解決に協力したエマ候補生はともかく、リカルドは連座で死罪を宣告されるだろう」

 

 アンヘルははっと表情を変え、背後の少女の相貌を両の目で捉えた。少女の顔からは色彩が失せ、氷像のように熱を失っていた。

 

「しかし、それを回避する術はある。君の犠牲があれば」

 

「ぎ、セイ?」

 

 ヴァレリオットは防御の姿勢を取らなかった。ひどく無防備で、抜刀するアンヘルとは数歩の間合いにまで寄る。斬られてもよいという自己犠牲が滲んでいた。

 

「君は一度逮捕されたとき、廃倉庫へ向かった理由を吐かなかった。これは冷静に考えれば辻褄が合わない」

 

 エマは憲兵からの尋問に対し、たまたまそこに立ち寄ったの、知らず存ぜぬで通した。

 

 一見不自然さはない。本当に何も知らぬ候補生であればその回答が妥当であるし、すべての事情を把握した諜報員であれば秘密保持という言い訳が聞くだろう。当時の彼女は強引な捜査をする憲兵に不信感を持っていた。特段問題視する行動ではないだろう。

 

 エマ候補生が脱獄翌日に協力要請を受けた、という事実が秘密機構側に記されていなければ。

 

「重箱の角を突くような行為にどんな意味がある!」

 

「事実を捏造することができる」

 

 ヴァレリオットは護衛の身体を右手で除き、エマの蒼白となった顔の前で跪く。もはや踏み込みで一歩の距離。剣を抜き、ただの一太刀で首を刎ねられる距離だ。

 

 彼がアンヘルを警戒していないなどは考えられない。貴族にとって召喚師は最悪の敵である。その彼がここまで自分を晒して懇願することに、本気度を察してしまった。

 

「君は実兄の関与を知っていた。そして実兄に調査機関の内偵を頼まれ、二重スパイとして秘密警察機構に潜り込んでいたことにしてくれないか」

 

 意味を理解したアンヘルは、狂乱したように頭を振ると、声にならない悲鳴をあげた。

 

 まさか、それは。この男は、まさかそんなくだらない理由で彼女の将来を。

 

 巌のような、戦いをくぐり抜けた戦士の手が、柔な肩を握り潰さんと掴んだ。ヴァレリオットは抗議するでもなく、ただ、哀れな少女を仰ぎ見るだけだった。

 

「リカルドが、エマ候補生の二重スパイに気が付いた。そんな筋書きだ。そうすれば彼も恩赦を受けられる」

 

「そんなまねをすればエマさんは」

 

「もちろんそれも考えている。リカルドは君たちと相対した戦いでエマ候補生と対話し、父親と義兄に無理やり働かされている事実を突き止めた。しかし、リカルド必死の説得により、エマ候補生は改心。そこからは本当に協力をはじめる。この筋書きならば、情状酌量の余地がないとはいえないし、死罪にはならないだろう。もしも世論や元老院が強行するなら、我々も脱獄を手助けする」

 

 ヴァレリオットは感情を失った少女の手を握りしめた。神聖なものかとみがまうほど恭しく頭上に掲げ、神具を授受された信徒のように奉った。

 

「君しか、頼れる人はいない」

 

「騙されるな、これは詭弁だ! 別にこんなことをしなくても、リカルドが無罪になる可能性はある」

 

「そのとおり。だが、彼のキャリアは失われる」

 

 ヴァレリオットは、少女を谷底に蹴り落とした。

 

「きゃり、あ? リカルドの……?」

 

 彼女の瞳に感情が宿り始める。それは鋼のように冷たく、荒野のごとく乾燥した感情だった。

 

「前代未聞の政治敵対行為。リカルドになんらかの成果がなければ、このまま士官学校で上科に居ることは難しい。あれほどの才能が埋もれてなくなるのだ。副官の君なら、それがどれほど惜しいかわかるだろう」

 

「それのなにが問題だ。彼女は投獄を賭けるんだぞ。多少のキャリアぐらいどうでもいい」

 

「上科のキャリアというのは命を賭けてでも守るべきものだ」

 

「そんなわけないっ!」

 

「あるのさ。君には理解できなくとも、エマ候補生ならわかるはずだ」

 

 上科生のキャリアの意味、それをエマは理解していた。否、アンヘルもわかっていた。なぜ、人は戦いに赴くのか。それは戦闘狂だからでも、規則だからでもない。軍人として戦い、名誉を勝ち取る。それこそが帝国人として規範となる生き方であり、命を賭して戦いに赴く唯一のリターンである。

 

 その最高峰が上科生なのだ。キャリアを失わぬためなら、友を裏切り、師を見捨ててでも惜しくはない。そう言われる社会。エマにとっては自分よりも大切な存在となれば、さらに判断は複雑である。

 

 アンヘルは最初からわかっていた。最終的に解決したとしても、すべてが丸く収まらないことは。そして、エマがどんな判断をするのか。自らと彼を天秤に賭け、どちらが傾くのか。

 

 だからこそ、ずっと黙っていた。ヴァレリオットは、その点に気が付いていたのだった。

 

「わたしが、捕まれば、リカルドは助かる、の?」

 

「そうだ、君が助けるんだ」

 

 エマは頷きかけている。それを理解した途端、脳髄が沸騰した。

 

 ちらりとヴァレリオットが一瞥。同時に、背後の憲兵たちが襲いかかってきた。拳も使わぬ捨て身の特攻。この地を火の海に変えたのが誰かをわかっていながらの行動。懇願の含まれた囁きがアンヘルの闘争心を奪ってゆく。

 

 眼前が霞んでゆく。この場の誰もが、間違った現実に誘導しようとしている。

 

 しかし、その誘導されている当人が、自ら誤った方向へと落ちてゆくのを見て、悄然とするしかなかった。

 

 のしかかってくる憲兵を召喚術で跳ね除けようかと決心するたびに、すまないという懺悔が囁かれる。これではもう、聞くなと叫ぶしかなかった。

 

「絶対に君を殺させるような事態にはならない。だから、黙って身を委ねてくれないか」

 

「わ、私は――」

 

 祈るような気持ちでヴァレリオットは目を閉じた。

 

 イブを唆す、サマエルの姿。まさしく悪魔の契約を目にしているかのようであった。

 

 それを演じる二人の役者の顔は、両者とも希望には満ちていなかった。

 

 岸に巨大な波が打ちつけられると、飛沫が焼け残った残骸に降り注ぐ。それは、宙を舞う涙であった。少女は一度俯き、手のひらを固く握りしめ、そして口を開いた。

 

 その瞬間、夜空ですっと流れ星が降った。

 

「召喚!」

 

 青白い虚空のゲート。顔を見せたのは奇妙な乳白色の生物であった。

 

 ヴァレリオットという悪魔と純真な少女を引き裂いたそれは、主人を取り押さえていた憲兵すべてを弾き飛ばし、空へと舞い上がった。

 

 アンヘルは立ち尽くすエマを抱き抱えながら、舞い上がるその尾に掴まる。瞬く間に加速すると、風となって夜空を駆けた。

 

「あんへる、くん?」

 

「しゃべらないで」

 

 眼下に転がった憲兵たちとヴァレリオットの姿。どの顔にも、ホッとしたような眼差しが覗くのは、決して気のせいではないのだろう。

 

 だからこそ救いがない。青ざめた顔で震える少女を抱き抱えることで、これが夢でないことに絶望した。

 

 呆然と空を眺める。夜空に輝く星々。それは、闇にとらわれた虜囚であるようにしか思えなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 アンヘルがエマを背負って宿に辿り着くと、すでに零時を過ぎた頃になっていた。

 

 彼女は宿に着き、寝台に座らせてから半刻の間、何一つ身動ぎせず一点を見つめていた。

 

 もはや生きる屍である。彼女は誰が見ても生きる気力を失っていた。時折アンヘルが声を掛けるも、生返事ひとつ返ってくることはなく、彼女はただ空気を吸って吐くを繰り返した。

 

 窓から外の風景を眺めた。暗がりの連れ込み宿の対面など、博打かいかがわしい酒屋ぐらいだ。客引きを行うポン引きや嬢の姿を見つけ、その生き生きとした活力をただ眺めた。

 

 彼女は、自らを生贄に捧げる道を選ぶのだろうか。答えの分かりきっている問いを投げかけ続ける。

 

 光明は、エマは死なないというぐらい。いや、それも確実ではない。数年単位の投獄が、いかに彼女を地獄へと誘うか。男女の区別もなければ、規律もくそもない監獄でこの年頃の少女がどんな目に合うか。

 

 理解ある憲兵ばかりという可能性も望めまい。ヴァレリオットのあの口ぶり。彼の願いはあくまでもリカルドの無事を祈るためのもの。エマの安全など、二者択一となれば考慮などしないのだろう。

 

 狂っている。こんな結末など、狂っている。

 

 アンヘルは荒い息を吐いた。もはやそれが、彼にできることのすべてだった。

 

「ねえ、アンヘル、くん」

 

 唐突に、エマの低い声がした。

 

「私は、どうすればいいかな。犠牲になるべき、なのかな」

 

「……無視する、べきです」

 

 エマはほのかに光る灯りを浴びて、その顔をかすかに綻ばせた。

 

 彼女は片膝を立て、膝小僧にキスするかのように口を近づけた。悩み、というのが今の一言で取り払われたようである。顔を上げ、ゆっくりと掌を開閉し、冷たくなった指先に息を吹きかけると言うそれらの仕草は、もはや決意を固めたあとの凪であった。

 

「諦めないでください、なんとしても」

 

「どうして、そんなことを言うの」

 

「すべてが悲しく思えたって、いつかはそれを忘れさせてくれる何かに出会えます。今見える景色すべてが、エマさんの世界じゃない。いつか必ず、幸せになれる時が来ます」

 

「やさしいね、やっぱり」

 

 静かな微笑みは楚々としていて、彼女の黒髪にとても映えた。

 

 エマは寝台から飛び降りると、自らの懐から袋を取り出した。袋の口を広げて、少女はしばし表情を無くす。瞳からは色が失せていた。

 

「アンヘルくん」

 

 突然、エマは表情を変えた。作り過ぎて歪んだ媚を全面に立たせ、窓際の椅子に座っていたアンヘルの胸元に飛び込んだ。

 

 少女は、もはや抑えきれぬと全身で震えて泣き声を高くした。

 

 アンヘルの手が、彼女の小さな身体を抱きしめようかと宙を彷徨う。すっぽりと収まってしまう小さな身体。世界はなぜ、小さな少女にここまでの痛苦を与えたのだろう。もっと優しくできたはずだ。もっと幸せにできたはずだ。歯車の一つがすこし違っていれば、その未来が。

 

「生きて、ください」

 

 意味がないとわかっていて紡がれる言葉は、ひどく空虚だった。エマの微笑みは、鋼鉄のように冷たかった。

 

「家族と師匠を殺して、そのうえ、リカルドを見捨てても?」

 

 アンヘルは唾を呑んだ。見下ろす彼女の眼差しは雲のように儚くて、とても美しい。

 

 けれども、少しでも掴もうとすれば霧散してしまう曖昧さだった。

 

「それでも、諦めないでください」

 

 エマはゆっくりと顔をあげた。大粒の涙が視界に大きく映し出される。

 

「なら、証明してみせてよ」

 

 エマは先ほどの袋を口につけると、喉を大きく動かせた。とろんと目が正気を無くす。彼女は裾を持って上へ捲り上げると、アンヘルの胸の中で裸になった。

 

 小さな灯りが、火照った白い肌をあわく照らしている。

 

「私のこと、好きなんでしょ。私も好き……優しい貴方が」

 

 エマの頬を銀色の涙がひとすじ流れた。

 

 はっと息が止まる。動きが止まったのを見計らって、彼女は細い腕を首の後ろに回し、のし掛かるように唇を押し付けてきた。

 

 柔らかい感触と、ざらついた舌が入り込んでくる。歯肉を撫でられる感触に背筋がぞわりとして、思わず拒絶の言葉が口を吐く。

 

 その瞬間、彼女の口から得体の知れないモノが流れ込んできた。

 

 長い長い接触。すべてが喉の奥に流れ込むと、エマは息継ぎするように唇を離した。

 

「エドゥアルドさんから、もらったの。効き目はどうかな」

 

 途端に平衡感覚を失い、あらゆる視界に靄がかかった。椅子から無様に転がり落ちる。敏感になった感覚が昂り、情緒のようなものが転がり落ちていった。

 

「こんな方法になっちゃったけど、アンヘル君頑固だから。生きる意味、教えて。ね、いいでしょ?」

 

 蕩けた彼女の瞳。もう、正常な世界に戻ることは叶わない。

 

 徐々に理性が溶けてゆく。非道徳的なのに、彼女の姿を見るだけで激しく己が昂った。

 

 待って、とも何も言えない。流し込まれた嘘が抵抗を消し去ってゆく。白濁した視界で、与えられる快感に震えるしかできない。

 

 少女は目の前で踊った。

 

 乱れた髪を額に張り付かせ、首に手を回したまま踊った。

 

 それは、愛も何もなく。見つめた瞳の奥には、深い深淵が広がっていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 長い月日が経った。

 

 流れた年月を想いながら、女は、山稜から一望できる都市同盟軍を視界に収めていた。

 

 彼らが攻めるこぢんまりとした砦には、いまにも崩れ落ちそうな帝国の国旗が掲げられている。射かけられる矢で兵がばたばたと息絶え、すでに陥落寸前といった様子だ。包囲のときは長く、内部はもはや沈没寸前の船である。

 

 女はにやりと口の端を歪め、大岩の上に足を掛けた。

 

「団長、本当にやるんですかい」

 

「ふん、なんか文句でもあるかいね。ほら、ぶつくさ言ってないでさっさと配置に付いた付いた」

 

 性を捨てたとみがまうほど短く切った髪、奇妙な仮面を付けたなりと、帝国人の模範的淑女とは大きく異なる女は、粗雑な口ぶりの割に細かった。

 

 身体には分不相応な大弓片手に、部下の戦意を引き上げる雄々しい雄叫びをあげた。

 

「いいかい、これはアタシらの天王山。勝てば官軍、負ければ奸賊。ここ一番の大勝負だよ。たとえ死んだって化けて出て、殺して殺して殺しまくりな!」

 

「うおぉぉぉぉぉーーー!」

 

 セヴィリア地方ブルータング砦は、西部へ睨みを利かせる大砦の補給路警備のため、増築されたものである。四方の門に備えられた大弓は古く、建材も対魔法ではない。そのうえ、配置されている兵は各門五百に満たず、一門の防衛に手間取る始末であった。

 

 他方、包囲する都市同盟の総兵力は一万を上回る。背後で魔法大国リヒテガルドと手を結ぶかの国の魔導兵器は、斜陽の帝国とは比べ物にならない。後方人員含めて数千の砦は、あと数刻も持つまい。

 

 それを救うのは傭兵団長エルマその人である。彼女の麾下一千は、飢えた獣のように山を下った。

 

「狙うは大将首だけさね。あとの雑兵は犬にでもくれてやりな!」

 

 完璧な奇襲。見事なエルマの用兵は、油断しきって間延びした大軍の土手っ腹に突き刺さった。混乱に拍車を掛けるのは手ずからに育てた長弓兵。率いる彼女の腕前は、神域に手がかかるほどだった。

 

 さらに言うならば、鷹の目傭兵団はどこか普通の傭兵とは趣が違っていた。無論、例に違わず構成員は粗野だし、男ばかりでむさ苦しい。されど、ところどころに正規軍のような規律が垣間見え、軍略戦術に通ずる識者が各所に配置されているとなれば、有象無象と看做すのはまこと危険であった。

 

 傭兵の練達さと正規軍の厳粛さ。両者の良い部分だけを取り込んだ軍団は、鷹と長弓の異名を大陸全土に轟かせていた。

 

 エルマが弓を引いた。死の風が大将を刈り取った。軍団が潰走した。そして、それを見て部下は光悦に浸った。

 

 無知な民衆は、仮面の下は醜く焼け爛れた痕があるという。口がさない傭兵は、醜女だから隠すという。部下は盲信している。立ち振る舞いは粗雑で、口調もざっくばらんとしているが、団長は徐人と異なる風格があった。

 

 戦場を駆ける貴人。たとえ顔一つ知らず、過去の行いを存ぜぬとも、彼女に率いられる部下たちは彼女に心酔しきっていた。

 

「リカルド将軍、相手は奇襲で総崩れ。今こそ反撃のときです」

 

「うむ。全軍、出陣だ」

 

 帝国軍の将軍は生き残った兵を結集させると、傭兵団に応じて隙だらけの陣営に組み付いた。恨み骨髄、袈裟まで憎し。土地を侵犯された兵の恨み深く、草木が風に靡くよう戰模様は一変した。精鋭の長弓兵と帝国随一の騎馬隊、ティラノス竜騎兵の挟撃は、おもしろいように俄仕込みの軍勢を打ち破った。

 

 都市連合の弱みは、連合軍ゆえの指揮系統の脆さである。ひとたび纏め役が討たれれば、あとは烏合の衆。稲穂のごとく敵は地に落ちた。

 

 夕刻。両軍協力し、あらかたの残兵を狩り尽くしたところで、エルマは馬上の将軍に面会していた。

 

「そなたが団長のエルマ殿か。このたびの救援、我にとっては砂漠でオアシスを見つけたような心地であった。この恩は決して忘れぬ」

 

「は、もったいなきお言葉」

 

「陣中ゆえ大したもてなしもできぬが、貴公らは誉高き英雄。ゆるりと旅塵を落としてゆくがいいだろう。ふむ、誰か人は――」

 

「おとーさん」

 

 解放された門から一つの影。家族と思われる幼い男の子がリカルド将軍に飛びついた。

 

「はは、こらこら。まだ戦の最中。出てきてはならんぞ」

 

「はーい。ごめんなさい」

 

「それでよい。だが、ここまで来られたのは勇者になる資格を持つな。将来は俺を超える大将軍だ」

 

「だいしょうぐんー」

 

 リカルド将軍は宝物のように地面へと子供を下ろした。遅れて出てきた妻らしき妙齢の女性がたおやかに微笑む。

 

「すまないな、エルマ殿。長い間包囲されていての、やっとの解放なのだ。周りも騒がしいが、許してくれ」

 

「……いえ、至極当然のことと思います。私も長丁場で疲れました。今後のことは翌朝で」

 

「そうか、それは呼び止めてすまない。案内は部下にさせよう」

 

 家族と喜びを分かち合う者、戦友と勝利を味わう者。エルマはひとり顔を俯かせ、必要最小限の指示だけ部下に送って床についた。

 

「ねえ、おかーさん。朝だよー」

 

「――ん。あんたねぇ、団長と呼びなって言ってるだろ」

 

「ごめんなさーい。でも、偉い人がー」

 

「ちい、もうそんな時間かい」

 

 翌朝、齢九の娘に叩き起こされたエルマは、助勤に導かれるまま軍司令本部へと出向いた。

 

「おお、エルマ殿。よく眠れたかな? 申し訳ないが我らは苦境の最中にある。あと少し辛抱すれば、本営と連絡も取れるのだが」

 

「こちらも事情は把握しています。元々、閣下を最後までお助けする所存。途中で放り出すようなことはありません」

 

「そうか、こちらとしては助かるが……なぜ、そこまで助力してくれる」

 

「奇貨はとくと賭けよ、昔からそう申します。さらなる飛躍のため、一世一代の大勝負というわけです」

 

 予想もできぬ回答だったのか、側近のものたちは目をあんぐりと開け、リカルド将軍にいたっては豪快に笑い飛ばした。

 

「さすがは天下に名高き傭兵団、いうことが違うな。よし、そなたには私の配下として、帝国防衛網に加わってもらおう。まずは情勢だが――」

 

 帝国暦325年。現在から九年前に勃発したオスゼリアスの戦いから、帝国苦難の歴史は幕を挙げた。

 

 第三次カルサゴ大戦を指揮した大宗主と、神聖七騎士筆頭の最終決戦「ザマの戦い」。名誉騎士スキピオ二世は使徒としての能力を発揮しきれなかったため、盟友の剣王、指導者の大神祇官とともに命を落とした。

 

 増長した新カルサゴ教国は、無尽蔵の資金力から西方の都市連合、北方諸国に武装提供し戦火を拡大。重しが消え去ったことで内乱の種が再び芽吹いた南方奴隷解放戦線の起爆。これらは肥え太った帝国を内部からぐちゃぐちゃに掻き回した。

 

 さらにはこれを機と見た平民派の台頭。元老院議員を撃滅すると、共和制を皇帝に訴える。しかし、狂帝スッラは尽くを拒否。国土を分割し、首都の遷都を敢行することで未だ終わりの見えない戦いを続けている。

 

 しかし、それももう限界が見えていた。大陸に覇を唱えた帝国の版図は、すでに全盛期の五分の一にまで減少。諸国の攻撃はいまだ衰えることなく、すべての領土が切り取られようとしていた。

 

「我々は苦境にある。だが、希望を捨ててはならない。ヴィエント家の嫡子は十にならぬほどだが、すでに初陣を挙げ、その才を全土に知らしめている。まだ、戦えるのだ、我らは! 皆の者、我ら子孫に平穏な明日をもたらすためにも、屍になるそのときまで戦い抜こうではないか!」

 

 エルマの、そして鷹の目団の戦いが始まった。

 

 春、雪解け水流れる山河を血で紅く染めた。

 

 夏、向日葵の咲く景色一面を屍で埋め尽くした。

 

 秋、収穫の季節に合わせ、敵の首を刈り取った。

 

 冬、積雪の多い山を登り、油断し切っている砦を攻め落とした。

 

 戦った、戦った。

 

 一年、二年、三年。

 

 娘が成人を迎え、召喚師としての頭角を現しはじめても、永遠に戦った。戦い続けた。

 

 鷹の目傭兵団はいつか正規軍へと変貌し、弓使いエルマの名は、ティラノス竜騎兵副官の代名詞となっていた。

 

「なあ、エルマ」

 

「なんだい。そんなに改まって」

 

 二人っきりの幔幕の中で、リカルドはエルマの粗雑な物言いにケチをつけることなく、伸ばし始めた髭をこじった。

 

「俺たちは、いつまで戦うんだろうな」

 

「知らないよ。そんなの皇帝にでも聞いとくれ」

 

「不安にならないのか。この、終わりの見えない戦いが」

 

「そんなみみっちい考えはとうの昔におさらばしちまったのさ。アタシはアンタに付いてく。それでいいだろ」

 

「なあ、エルマ。おまえっ」

 

 リカルドははっと身体を起こすと、エルマの細い両手首を握り、想いを遂げる男女のように身を寄せた。

 

「っなんだい! アタシを手篭めにしようってのかい」

 

「もしかして、お前」

 

 真上から覗き込むようなリカルドに、エルマは顎を引きながら見あげる。相手の瞳に反射して写り込んだ自らの相貌に羞恥を覚え、そっぽを向いた。

 

「そんな熱っぽい目はやめとくれ。アタシらもう三十を回ってんの。今更子供みたいに惚れた腫れただのごめんさね」

 

「だが」

 

「――やめてったら、やめてよっ」

 

 リカルド少年の若い想いのたけを遮ったエルマは、仮面の奥に潜む瞳を潤わせながら、少女のような声高い声で拒絶した。

 

「私たちは、隊長と副長。それ以上でも、それ以下でもない。それだけ、それだけなんだから」

 

「そんな」

 

「私はエルマ。あのとき、あの場所でエルマになった。あなたの知っている人とは、違うの」

 

 閑寂とした空間に姦しい笑い声が入り込んできた。天幕の外から仲の良さそうな声で話し合う一組の男女が、入り口から顔を覗かせた。

 

「おかーさんっ、イーサク君がなんかエッチな目で見てくるのー。叱ってぇー」

 

「は、はあ? 俺、そんなことしてねえし。なあ父ちゃん。俺はそんなことしねえっていってやってくれよ……どうしたんだ、父ちゃん」

 

「おかーさんもどーしたの? すごく怖い顔をしてる」

 

「なんもないさね。ちょっと軍略で熱くなっちまってね。ほら、アンタら子供は寝る時間だろ」

 

「えー、私たちも一人前だよー」

 

 娘のブリヒッテはエルマと同じく細っこい二の腕を掲げると、ぐっと力瘤が浮き出るよう食いしばった。

 

「全然でてないじゃないのさ。ほら、ガキどもはねんねの時間だよ」

 

「ちぇ、ほらブリヒッテ、行こうぜ」

 

「手なんか繋がなーい」

 

「あ、こら、待てよ」

 

 ぱたぱたと子供たちが駆け出してゆく。エルマは穏やかな目で彼らを見届けながらも、ひどく陰鬱な声音で呟いた。

 

「アンタには家族がいる。アタシにも娘がいる。アタシらの間には何もない、あっちゃいけないんだ。そんなこと、もう大人なんだからわかるだろ」

 

「……ああ、わかってる」

 

「ならいいさ。こんなことは、もうやめとくれよ」

 

「……」

 

 一年。戦いはまだ続いた。

 

 防衛線はさらに後退し、主要要塞や僻地以外はほぼすべて陥落。軍の被害は激烈だ。オスキュリア家は子だけを逃し、全滅。狂帝は服毒自殺し、長年国を支えたヴィエントの姫もこの世を去った。

 

 もはや政略的には何の価値もない帝国。しかし、新カルサゴ教国は侵攻の手を緩めなかった。

 

 独裁官、ヴィエント家が嫡子にしてスキピオ三世は、残った一般市民を都市同盟に逃し、大人はすべからく侵攻を遅らせる盾とすることを決定した。

 

 リカルド、そしてエルマのティラノス竜騎兵が担当した中央山脈防衛戦。十日の遅滞防御の後には、たった十人ほどの人員しか残らなかった。

 

「まだだ、まだ持たせないと。この真冬の登山、一般市民はまだ都市同盟にたどり着けていない。ティラノス竜騎兵の意地を見せてやれ!」

 

 最後の一日。エルマは壮絶に戦った。

 

 穿って、切り裂いて、殺した。

 

 守るんだ。

 

 自らが叶えられなかった夢を。希望を。

 

 もはや息もできぬと倒れ込む。積雪の山中、リカルドとエルマはたった二人、薄暗い洞穴の中で最後のときを過ごしていた。

 

「逃げ切れたかな」

 

「心配ないさ。アタシの娘は召喚師、そうそう負けやしないよ」

 

「へ、俺の息子だって剣じゃそうそう負けないさ」

 

「ブリヒッテは弓も使えるよ」

 

「大事なのは数じゃねえ、質さ」

 

「はいはい、相変わらず負けず嫌いだねぇ」

 

 隣り合って岩壁にもたれ掛かっていたエルマは、ふと苦い顔をしているリカルドを見つけて、掌を重ね合わせた。

 

「どうしたんだい。そんな暗い顔をして」

 

「もしも、もしもあいつが生きていたら、こんな風にはならなかったのかな。こんな、最後には」

 

「……やめなよ。彼はよくやってくれた、身を捧げてまで、戦い続けてくれた。責められるのは、何もできなかったアタシらみんなさ」

 

「けどっ、こんな――」

 

 エルマはぎゅっと手を握りしめた。

 

「私は、幸せだった。リカルドは、違う?」

 

「エ、ルマ」

 

 無言で、エルマは男の方に寄りかかった。少女のように。無垢なまま。

 

 寄りかかられたリカルドは体を固くした。少年のように。純粋なまま。

 

「私は幸せだった。後ろで、ずっと鍛えた弓で、あなたを助けられた。たとえ私たちの間にあったのが愛や友情なんかじゃなくても、それで幸せだった。他の未来は、娘や孫が、紡いでくれる。それでいいじゃない」

 

「おれは、それでも――」

 

「そんなわがまま、もう言わないで。私たちは凡人。あの人とは、違うのよ」

 

 エルマは優しく男の頭を抱きかかえた。少年へと帰ったリカルドは、少女の胸の中で大粒の涙を溢した。

 

 洞穴の中で。まだ、遅くはないと。長く過ぎ去ったときを巻き戻すように。最後の最後、たったひとときでも、昔の感情を取り戻すかのように。

 

 それはとても、純な心のありようだった。

 

「と、来たわね」

 

「下がってろ、今度は俺がおまえを――」

 

「これが最後よ。一緒に、果てましょう」

 

「……ああ、そうだな」

 

 執拗な追跡はたった二人になっても終わらないのか。いや、二人の勇名が轟きすぎたのだろう。明らかに過剰戦力が投入されていた。

 

 ふたり手を繋ぎながら、武器を取る。洞窟の入り口を睨み続けた。

 

 最初の一人ぐらいは道連れに。エルマは弓を構えた。

 

「とうさん、エルマさん。ここに居るのか」

 

「アンタたち、無事だったのかい」

 

 二人を出迎えたのは、救出部隊のイーサクとブリヒッテだった。

 

 期せず、二人は息を繋ぐことになった。

 

 そこから、さらに半年が過ぎ。

 

「えーと、皆さん。本日は新郎イーサクと新婦ブリヒッテの結婚式にお集まりいただきありがとうございます。式は間も無く開幕しますので、もうしばらくお待ちくだ――」

 

 初夏のこと。

 

 あの長い戦いは、終わりを告げた。

 

 夥しい戦死者を出した最終戦争は敗北で終えた。帝国の崩壊。巨人の最後を背中に、エルマは都市同盟への亡命を果たしていた。

 

「夢、みたいだな」

 

「ええ。子供たちが幸せで、本当によかった」

 

 席から見えた二人の姿は、まさに亡き兄のようであり、そして、自分たちが成しえなかった夢そのものに思えた。

 

「あ、あれ、おかしいな。そんな、つもりじゃ――」

 

「はは、エルマお前、めっちゃベソかいてるぞ」

 

「は、あんただって。もうボロ泣きじゃない」

 

「へ、おれは別に泣かないって決めたわけじゃねえからな」

 

「負けず嫌いなんだから、ほんと」

 

 眩しかった。綺麗だった。

 

 純白のドレスを身に纏い、愛しい人と寄り添いあって歩く娘の姿は、ステンドグラスから差し込む光やヴァージンロードの背景がなくとも、自ら恒星のように光を放っていた。

 

 エルマは泣いた。泣き崩れた。

 

 これまでの道は、決して楽なものではなかった。苦しみに溢れ、痛みに満ち、壮絶な絶望が身を襲った。

 

 けれど、たとえどんな過去があろうとも。

 

 こうやって、最後はハッピーエンド。それさえあれば。何もかも、許せる気がした。

 

 エルマは心の筆を取った。選ばなかった、彼に向けて。

 

 

 貴方は今も天国で見守ってくれていますか?

 

 貴方の言葉にしたがって、私はこんなにも幸せです。生きていればいいことがあるって、本当のことなんですね。

 

 もし生まれ変わるなら、今度は私が貴方を助けます。こんな幸せをくれた、貴方を。

 

 ね、アンヘルくん?

 

 

 新郎側の父として座るリカルドと視線が交錯する。周囲も憚らず少年のように泣く彼を、エマは同じ泣き顔で見つめ続けた。

 

 

 

 

 

 ――そう、これもあり得た未来ね。けれど、私たちは違う道を選ぶ。だってそうでしょう? それが、私たちに課せられた使命なんですもの。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ふと、目蓋の先から熱のような明るさを覚えた。のぼりはじめた太陽が世界を醒まさせる。悪徳の屋敷も、埃に乱反射した光で色付きはじめた。

 

 泥の中に沈んだ思考が少しづつクリアになってゆく。女のとけたかんばせと、熱の残滓のようなものだけが身体に焼き付いていた。

 

 昨日は、たしか。

 

 数瞬の逡巡。白い肉体を組み敷く、黒髪が地面に広がっていた、そして本能のまま絡み付いて。

 

 過去に何が起きたか、脳が巡るたびにその光景がフラッシュバックした。そう、自分は昨日ここで、彼女を――

 

 そこで胸元に居るはずの少女が居ないことに気が付き、血の気が引く。アンヘルは掛けられていたシーツを跳ねのけた。

 

 膝下の感覚がいまだ不正常なのか、よろめいてチェストに手をついた。からんと何かを倒した音がする。音に釣られて視線を前方へと向けた。

 

 ゆらり、ゆらり。

 

 窓の隙間から入り込む風が、部屋に備え付けられた机の前のカーテンを僅かに揺らしている。蝋燭のように揺られる陽光は、腕を枕にして目を閉じる少女の頬を照らしていた。

 

 穏やかに、そして優しく微笑む女の横顔。天使のように清らかで、ありとあらゆる苦しみから解放された晴れやかさが満ちている。

 

 綺麗であった。神聖であった。何者にも代えがたい美しさであった。

 

 しかし、それは人形のように無機質でもあった。

 

 膝から、がらがらと崩れ落ちた。地面に手をつき、溺れたあとのように身体の中のモノを吐き出した。喉を焼くそれは、地面の赤色と混ざりあって酷く不快な匂いがした。

 

 女の右手は、だらんと地面に力なく垂れさがっている。そこから滴り落ちる水。命の水が、女の中からとめどなく流れ出ていた。

 

「あ、あぁ、ああ、あああぁああっ」

 

 枕代わりの女の左腕。手の中には羽ペンが、腕の下には一枚の手紙がある。味気のない、簡素な文字が並べられている。

 

 ――遺書。

 

 そこには、こう綴られていた。

 

 

 



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PHASE5-2:貴方に宛てた言葉が出なくて

 あはは。えーと、なんかこうやってちゃんと文章にするのって、すごく恥ずかしいね。でも、最後だから、こうやって残させてもらおうと思います。

 

 まず、最初に母さん。

 

 いつも、家では優しく微笑んでいるだけだったけど、本当は私たち兄妹が武芸を習うのが嫌なこと、わかってたんだ。

 

 でも、ごめんね。私、ほとんど家に帰らなかった。家事なんてつまらない、って思ってた。

 

 だから、料理とか全然できなかったけどさ。今は、すごく勉強したいな。

 

 時を戻せたら、教えてね。あんまり飲み込みが早いほうじゃ、ないけど。

 

 

 次に、父さん。

 

 父さんはずっと弓をやることに反対してたね。ずっと剣をやれ剣をやれって、何回喧嘩したんだっけ? あはは、忘れちゃったや。

 

 でもね。これだけは忘れてないよ。私が最初に優勝した時、一番最初に駆けつけてくれたのは父さんだったね。

 

 あのときは言えなかったけど、認めてもらえたって気持ちになったんだ。

 

 すっごく、すっごく嬉しかった。ほら、だからそれからよく剣の訓練をしたでしょ。剣も大事なんだって、分かったから。父さんのおかげだよ。

 

 こういうのはね、披露宴の時にしたかったんだけど、もうそんなのないから。

 

 だから、こんな形でごめんなさい。父さんのこと、恨んでないよ。最後も、結局苦しそうな顔で見てるだけだったもんね。傷つけあって、お互いさまだから。

 

 育ててくれて、ありがとうございました。

 

 

 それから、イーサク兄。

 

 私、謝らないとね。ずっと悩んでるなんて、知らなかったんだ。

 

 ずっと、ずっと。悩んでたんだね。

 

 ブリヒッテ姉さんが死んでからずっと。もう、全部壊したくなるくらい。

 

 気付かなくって、ごめんなさい。

 

 言ってくれなきゃわからないって皆言うけど、それって言い訳だと思うんだ。言わなくても、分かってあげられるのが家族だよ。だから、ごめん。

 

 けどね。兄さんを止めたのは後悔してないんだ。

 

 もしかしたら、兄さんのほうが正しくて、私のほうが間違ってたのかもしれないけど。けどさ、あんな麻薬を使ったりするのが正しいとは、思えないんだ。

 

 自分勝手な妹で、本当にごめんね。

 

 もしかしたら、私なんか要らないっていうかもしれないけど。

 

 でも、さ。

 

 来世があったら、また兄妹になれるといいね。

 

 神様の誰かが叶えてくれるといいな。

 

 兄さんもそう思ってくれるかな? 知りたいような、知りたくないような。答えは神のみぞ知るって、これ言ってみたかったんだ。

 

 

 それから、アンヘルくん。

 

 君にはこの一週間、すっごく助けてもらったね。

 

 最初出会ったときのことを告白するとね、正直どうやって士官学校でやってこれたんだろって思いました。自分でも酷いなって思うんだけど、アンヘルくんの軍戯盤を見てたら心配になるくらいだったり。

 

 それからは、変な子だなって思うようになったよ。ちょっと強引なところもあって、やっぱり男の子なんだなって見直したり、でもあーあって思わされたり、すっごく不思議だった。

 

 でもね、今は違うんだ。

 

 こうやっていっぱい助けてもらったらね、君のいいところが分かってきたの。

 

 すごくぼんやりしてるように見えて、実は繊細だっていうのも知っているし、困ったときには絶対負けないって強い意志を持っているのも。

 

 昔、君にはこう言ったよね。「だからクナル班なんだって」。たしか、こんな感じだったかな?

 

 けど、今はこう思うんだ。「君こそがクナル班、ううんアンヘル班なんだ」って。

 

 ちょっとほめ過ぎかな? けど、君のことかっこいいと思ってる人はたくさんいるんじゃないかな。あ、私もその一人。贔屓目っぽいけど、助けてくれた時の君はすごく頼もしかったよ。

 

 ホント、ありがとうございました。こんな私を助けてくれて。

 

 一つだけ聞きたかったんだけど、君が助けてくれた時、私って劇のヒロインみたいじゃなかった?

 

 自分だとあんまり実感湧かないんだけど、君からみたらすっごく可憐だったのかなぁ。

 

 ふふふ。何言ってんだろ。私。馬鹿みたいだね。

 

 あ、そうそう。一つ忠告。

 

 アンヘルくん。あんまり女の子を悲しませたらだめだよ。たとえばアリベールちゃん。あの子、絶対君の事が好きだから。だから、今の想いは絶対ダメ。それは永遠の片思いとして秘めておいて。

 

 その想い、成就させてあげて。彼女のためにも、君のためにも。

 

 私の、代わりに。

 

 あはは。私って、ホント馬鹿だなぁ。何いってんだろ。

 

 あ、でもでも、もしかしたら私たちお似合いだったのかな。だったら、アンヘルくんもメロメロかぁ。悪いことしちゃったかも。

 

 勘違いだったら、つまんない妄想だって思ってくれていいよ。

 

 けどさ、やっぱり。

 

 アンヘルくんは、私の特別な人ってことになるからさ。

 

 だから、ちょっとは特別に感じたいんだ。

 

 あのね、長生きしてね。私の分まで。

 

 これ、約束だから。

 

 短い間だったけど、楽しかったよ。

 

 本当にありがとうございました。

 

 

 

 最後に、リカルドへ。

 

 いっぱい書きたかったんだけど、思いつかなくて。

 

 でもさ、たぶん書きたいことってこれだけだから怒らないでね。

 

 

 

 一緒にいられなくて、ごめんね。

 

 

            エマより

 

 

 

 § § §

 

 

 

 アンヘルの意識は、薄ぼんやりした灯りで覚醒した。

 

 目に映るのは煤けた地下尋問室の天井。身体は水分が抜けたように乾いていた。空虚、すべてが空虚であった。もはや何も感じず、何をするのも億劫であった。

 

 あれから結局、何が起きたのか。ずっと天井を眺めていた。

 

 埃っぽい最後の宿の天井。歩いているときの青々とした空。それから、今の土色の天井。すべてが色を失って、ただ砂のように流れていった。

 

 もう長いこと、こうやって椅子に座っている。

 

 土塊に還った気がする。アンヘルは目を閉じた。優しい、優しい彼女の微笑み。それがつぶさに蘇る。

 

 もう涙も流れない。動く感情はガラスのように飛び散った。振り切ってしまった秤は、もう悲しみを呼び起こすことはなく、砂の楼閣のように崩れてゆくしかない。

 

 鼻の奥につんとした痛みが湧き上がった。ぼんやりと天井を眺める。痛みは消えた。何度となしに繰り返した、穴を掘っては埋めるだけの作業だった。

 

 がたりと目の前で椅子が引かれる。アンヘルはぼうっと口を開き、視線を向けることもなく目を瞑った。

 

「どうして、死んだんだ?」

 

 静かな地下室に中年の声が反響した。どうして、どうしてだったのか。わからない。問われている意味もよくわからなかった。

 

 目を瞑って、強く彼女の容貌を思い浮かべた。彼女は、実家の梅の木にもたれ掛かっている。木陰の下で、風に揺られている。ちらり一枚、白い梅の花びらが彼女の黒髪に舞い落ちた。

 

 優しい微笑みが、アンヘルを見ている。彼女は何かを囁いている。なんて、なんて言ってるの? それを尋ねようとすると、頭の後ろが痛くなった。それで、視界がぼやけてゆく。

 

 強く瞼を閉じた。力を込めれば、よりはっきりと彼女が現れると思ったからだった。視界は暗くなったが、よりその姿は霞んでいった。

 

「嬢ちゃんがなんで死んだのか、わかるか?」

 

 耳障りな声だった。聞き流すには不快すぎる声だった。

 

 なぜか、そんなことは判り切っている。アンヘルは顔を手で覆い、口の端をにやりと歪めた。

 

「……襲ったんだ」

 

「……」

 

「無防備だったから、弱っているところに漬け込んで、嬲った。そうしたら、自殺したよ」

 

 彼女を思うままに蹂躙した。無理やり地面におさえつけて、嫌がる彼女にのしかかった。

 

 果実にむしゃぶりついて、汚れなき白に歯を立てた。自分のものでもないのに、浅ましく痕を残して、奴隷だという自覚を叩き込んでやった。

 

 彼女はずっと悲鳴をあげていた。自分はそれを愉しんでいた。りかるど、りかるどと泣き叫ぶ姿はどれほど愉快であったのか。

 

 そして超えた最後の一線。それだけはと懇願する意思を無視し、植え付けてやった。

 

 白い靄の中に浮かんでくる光景。何度頭を振っても、振り払っても、振り払っても、卑しく昂ってしまうのが嫌でしょうがない。

 

 机を両手で持って、何度も頭を打ちつけた。頭蓋が割れて、脳漿が飛び散ってもいいほどに打ちつけた。激しく、激しく。自我が消えて無くなるほどに。

 

 死にたい、消えてなくなりたい。憲兵たちに取り押さえられても、怒りに狂って暴れた。額から伝わる血が自らの罪禍を強く見せつける。血は青く、まさに悪魔の色彩であった。

 

「自分を傷つけるためだけの嘘は、よせよ」

 

 憲兵ディアゴは首を横に振った。

 

「遺書には、お前に対する恨言なんか一切なかった。むしろ感謝が書かれていたぐらいだ」

 

「違うっ! 僕は本当に――」

 

「俺たちはお前を裁きたいわけじゃない。事情を聞きたいだけなんだ」

 

 ディアゴはもう一度説明を繰り返した。血の匂いがするという近隣住民の報告で、エマと遺書を見つけたこと。リカルドとヴァレリオットに報告するため、詳細をアンヘルに尋ねていること。どうでもいい、もう何度となく聞いた説明を。

 

 事情なんて知らない。ただ、罰して欲しい。裁いてほしい。

 

 これほどの大罪。想う人がいる少女を無理やり辱め、死へと誘ったこの自分を。悪だ、罪なのだ。地獄に突き落とし、煉獄の炎で身を焼いてもまだ足りぬ極悪を背負ったのだ。

 

 断頭台でも、拷問でも足りない。世界は自分を罰せねばならない。はやく、早くしてくれ。自分が誰かを不幸にしてしまう、その前に。彼女を、死なせる前に。

 

 息すら、呼吸すらしていることに恥じた。生命を持っていることに恥じた。のうのうと生き長らえていることに恥じた。

 

 世間はなぜ何も言わないのか。こんな愚か者を庇ってどうする。殺さねばならないだろう。自分を、悪を。

 

 ぎちぎちと爪で頬を引き裂いた。鋭い痛みだけが心を癒してくれる。肉を抉って、抉って。失血に意識が朦朧とすれば、召喚すればいい。回復して、無限に痛みをあたえよう。それしかない。それしか。

 

 組み付く憲兵を吠え立てる。悪を斬り殺さない憲兵どもを怒鳴る。叱責する。憐れみの視線をくれるディアゴに噛み付く。

 

「もう、だめだな。仕方ない、坊ちゃんに報告を――」

 

 理解できていないのはお前らだ。正義を、正義を為さねばならない。そう叫び続けた。去ってゆくディアゴの背中を永遠と詰る。

 

 もう何度も繰り返した言葉。

 

 それは古びたドアが闖入者により開かれたことで遮られた。

 

「ああ、ご主人さま。ここにいらっしゃったの」

 

 冷ややかな、鈴のような声が開かれた扉の奥から聞こえた。金色の髪を靡かせ、冷酷な顔つきの少女は、いつもとは違う優しい微笑みを浮かべている。

 

 眷属、双星の女神イズーナ。

 

 少女は両手でなにかを持っている。いや、それは理解し難かっただけだ。もちろんその何かは知っている。

 

 モノだ。今は無機質なモノ。

 

 しかし昔は、そうではなかった。脈打ち、息をしていた。美しい心を持っていた。魂のある、誰にも侵せぬ清らかさを持っていた。

 

 少女エマ。

 

 その遺体を、イズーナは大切に抱き抱えていたのだ。

 

「おい、アンタ。何モンだよ」

 

「退きなさい、人間」

 

 アンヘルはすべてを忘れて立ち上がっていた。

 

 いやでも忘れられぬ記憶。あらゆるすべてが連結した瞬間、悲しみを上回る激情が噴いた。

 

 だが、イズーナの歓喜のほうが早かった。

 

「さあ、ご主人さま、御喜びになって。復活のときよ」

 

 それはいつかの巻き戻し。夢の中でゼウスがマカレナを再生させたときのように、エマの身体が巻き戻ってゆく。

 

 流れた血がキラキラと輝き、冷たくなった命の灯を再現する。白くなった肌は赤みを取り戻し、燃えるような熱をその体に吹き込む。

 

 神の御業。復活のとき。

 

 エマの身体は元の姿を取り戻してゆく。死した肌は赤みを差し、胸が再び動き出す。ぱちりと瞼が動き、長いまつ毛が揺れる。開かれた目は、抜けるような蒼穹であった。ゆっくりと視線を交差させる。

 

 すべてが元通り。見た目がほんの少し、変わっただけでしかない。ほんのちょっとした違いだけ。

 

 でもそれは、致命的なまでに違っていた。

 

 イズーナが高らかに叫ぶ。神々しい光の環が浮かび、清廉そのものな水の衣が周囲を取り巻きはじめる。

 

「これが、こんなことが許されるのか……」

 

 アンヘルは幽鬼のように呆然とつぶやいた。

 

 覚束ない動きで辺りを彷徨い、狂乱の目つきで高笑いをはじめる。

 

「ご主人さまったら、どこが可笑しいの」

 

 可笑しい? それは可笑しいさ。どんな喜劇よりも愉快だし、どんな道化師よりも滑稽だ。誰もが笑えるだろう、この光景を見ればな。

 

 アンヘルは凍りつく憲兵どもの中央で、劇の主役のように大声で笑い転げた。

 

「こんなことが現実に起きているんだ。笑わなくてどうする! 笑えなくてどうする!」

 

 一人一人を指差しながら笑う。それしか、それしかできない。観覧席で凍りつく彼らを指さして絶叫した。

 

「お前も、お前も笑えるだろう。すべて許されるんだ。神意さえ、神意さえあればな! それさえあれば何を成しても構わないんだ!」

 

「どうしたのご主人さま。御喜びになって」

 

「ふざけるな、貴様らは悪魔だ! これで喜べるやつがどこにいる、これこそ、これこそ……」

 

「アル?」

 

 蘇ったエマ、いや、イズンは可愛らしく小首を傾げた。少女の柔らかい感触が全身を襲う。男を刺激するその感触は、自らが一度味わったものにもかかわらず、魂の底までを極寒に誘うものでしかなかった。

 

 純真で、無垢で、何の汚れもなく神聖で。目の前の彼女に比べれば、エマなど汚れも汚れた只人に過ぎぬだろう。

 

 けれど。

 

 アンヘルの目には少女が、もはや汚物と等しく映った。

 

「アルなのですー。久しぶりなのですー」

 

「こら、イズン。ご主人さまの御前よ。もっと敬意を払いなさい」

 

「はーい姉さま――あれ、アルどうしたのです」

 

 狂ってる。イカれている。乾いた笑みの中に、自分がおかしくなった可能性だけを願い続けた。

 

 おかしい。おかしいだろう。この結末は。

 

 誰が得をするんだ。誰が利益を得るんだ。ありえない。現実感がなさすぎる。

 

 いや、違う。利益を得る人物がたったひとりだけいるじゃないか。そう、たったひとりだけ、身近に。

 

 そう考えればすべての辻褄があう。あらゆる目的が、因果が一点に収束してゆくのだ。

 

 つぶらな瞳で主人を見つめる眷属たち。彼らは、どんなことをしてでも主人様の願いを叶えるためにいるのだろう。

 

 ――使徒は、愛を力に変える。

 

 その事実を思い返したとき、アンヘルの口から狂ったような笑い声が込み上げてきた。

 

 そう、この物語は自分のためにあったのだ。使命を達成するため、使徒に遣わされた力の結晶。それを実現するための器に、エマはなったのだ。

 

 それはつまり、この物語が喜劇的なまでにある人物へと収斂してゆくことを示していた。

 

 アンヘルは笑った。天井を見上げながら、狂ったように笑った。

 

 この物語は僕のためにあったのか。僕に眷属を与えるため、僕に力を与えるため、神が試練を与えたのか。

 

 数多の魂と。

 

 幾重にも重なる情熱と。

 

 少女の虚しき絶望を、ただそれだけのために。

 

 なら、これで満足だろ。笑え。笑えよ。思い通りなんだろ。なら、笑えよ。

 

 望み通り、使徒として力を持ったさ。最強の召喚師に、一歩近づいた。なら、いいだろ。

 

 何とか言えよ。なんとか。

 

 お涙頂戴を見て、感動したって。お前たちが見せてくれたショーは最高だったって。

 

 言ってくれよ。運命のように、彼女たちの命には意味があったんだって。

 

 頼むよ。頼むから。お願いだから。

 

 彼女に、そう言ってくれ。

 

 死んでよかったなって。

 

 よくやったって。

 

 そうじゃなきゃ、報われないじゃないか。

 

 そうじゃなけりゃ……

 

 

 

 § § §

 

 

 

「もう一度、言ってみやがれ!」

 

 頬に脳天まで揺さぶるような、強烈な一撃が入る。アンヘルは歴史ある士官学校校舎の三和土床に転がって、黄ばんだ柱に手をつきながら手の甲で出血を拭った。

 

 殴りつけたのは、士官学校三回生主席のリカルドだった。彼は肩を怒らせ、もはや極悪人を見る血走った目でアンヘルを見つめている。炎天の校舎を凌駕する、強烈な殺意であった。

 

 背後には、彼の同班と思しき人たちや、彼をリーダーと仰ぐ若武者たちが集っている。皆一様に敵意を漲らせ、今にでも抜刀しそうな勢いだ。周囲で見守っている群衆たちも、彼らを止めようとはしない。この場の全員がアンヘルの敵であった。

 

 それでもアンヘルは堂々と腕を組んで、口を大きく歪めた。

 

「エマは君に愛想を尽かして、僕に傅いたんだよ。君はあまりにも釣った魚に餌をやらなかったみたいだからね」

 

「……お前は、それが目的で俺に近づいたのか」

 

「いい具合だったよ。どうして食べてしまわなかったんだい? あんなに、熟れてたのに」

 

「殺すっ」

 

 左拳がこめかみにぶち込まれた。アンヘルは壁に背を打って、肺の空気を残らず吐き出す。涙すら浮かべたリカルドが胸ぐらを掴んだ。

 

「もしかして本当に好きだったのかい? それなら悪いことをしたね。けどほら、飽きたらくれてやるからさ」

 

「お前は、エマのことをなんだと思って――」

 

「所詮孕み腹だ。いや、性欲処理機かな」

 

 ぎりぎりというリカルドの歯軋りが鼓膜を打った。言葉を紡げば紡ぐほど、心臓が抉られるようであった。

 

 口を開くたび、目を開くたびに憎悪が倍になって返ってくる。それでも、言わねばならない。自らが成した悪行を裁き、エマが望んだ未来を実現するため。

 

「エマに会わせろっ!」

 

「無理だよ。彼女は僕の故郷に帰した。なにせ、親族皆死んでるからね。身重の彼女に一人は辛い」

 

「……なら、どうしてお前が近くにいてやらない」

 

「いやだなぁ、そんなの簡単じゃない。僕には軍人として学ぶことがたくさんあるんだから。エマとキャリア。取るのはキャリアに決まってるでしょ」

 

「おまえぇっ!」

 

 リカルドは半ば発狂したように泡を吹くと、思いっきり頭突きを見舞った。そのまま馬乗りになると両拳を振り回した。

 

「お前にとって、エマはなんなんだ! 都合のいい女か!」

 

「聞かなくても、わかるでしょ」

 

 悪魔のような問いに、リカルドは電力を失ったロボットのように動きを止めた。充血した目とは裏腹に、蒼白となった顔面が罪悪を責め立てていた。

 

「エマはね、意外と口技が上手いんだ」

 

 ――キスはドラッグの味しかしなかった。

 

「意外と淫乱だしね。ほら、下着も大人びたやつだったよ。あんな幼女体型なのに」

 

 ――そんなこと覚えてない。

 

「君には、ずっと愚痴ばかりだったよ。ほんと、どんなに悪いことばかりしたんだよ。呆れるね」

 

 ――一度だって、君の愚痴なんか聞いてない。

 

 言いたくない。こんなこと、言いたくないんだ。言葉一つが、神経をずたずたに引き裂いてゆく。言わねばならないとわかってはいても、辛くて辛くて仕方がない。

 

 見上げるリカルドの顔は奇妙に歪んでいた。

 

 もっと、もっと憎んでほしい。この悪鬼を。君の想い人を奪った、大罪人を。

 

 その資格がある。あらゆる復讐が許されるだけのそれが。アンヘルは卑しい笑みを浮かべながら、内心で懺悔を唱え続けた。

 

「だからほら、君も忘れなよ。所詮一匹のメスだ」

 

「殺す、殺すっ、殺すぅぅ!」

 

 リカルドはもう正気を失って拳を振り回した。強化術も体術も使わぬ、本能的な暴力。いかに武術的素養の高い彼でも、そんなチンケな技では候補生に大した痛みを与えられるわけもない。

 

 それでも、その一撃一撃は身体の芯まで響き渡った。痛みを通り越し、それは快感にまで至る。それが、どれだけ汚らわしいことなのかに気が付き、より深い痛みが全身を突き刺した。

 

 ――ごめん、リカルド。

 

 ――僕だって、叶うことならエマさんに会わせてあげたい。

 

 ――でも、エマさんのあの姿を、変わってしまった姿を君に見せるわけには……

 

 無限にも続くかと思われた殴打は、断罪人の息切れで幕を下ろした。エマという名前を何度となく繰り返す男。地面にへたり込んだ彼を、同情する者たちが助け起こした。

 

「こんなクズ相手に手を汚すな、リカルド」

 

「心配すんな。この先、俺たちが生きていることを後悔させてやる」

 

「いこうぜ」

 

 同行人たちは、思いのまま寝転がるアンヘルを打ち据えてゆくと、唾を吐き捨てながら去っていった。

 

 どんな痛みよりも、去り際のリカルドの目が一番苦しかった。これが、ホアンの経験した苦しみなのか。

 

 永遠に続く。まさに地獄のような日々だ。

 

 アンヘルは軽蔑の視線に晒されながら、痛む身体を引き摺った。その姿はまさに敗残兵であった。

 

「君って、サイテーだね」

 

「オスキュリア、さま」

 

「名前は呼ばないで。いくら君がルトの知り合いだからってね」

 

 物陰から姿を見せたクロエは、裏表ない辛辣な声で非難した。さっと割れるように人がはけてゆく。アンヘルは罵声を背景に帰路を急いだ。

 

「アンヘル」

 

「……シュタール、さま」

 

「失望した。いや、それがお前の本性だったとはな」

 

 角で待ち伏せていたエルンストは、怒りをそのままに腕を組んでいた。ユースタスを睨むときと同質の感情が瞳に秘められていた。

 

「一度は戦列を共にした身、弁解があるなら聞こう」

 

「……やってみたかったんですよね」

 

「何をだ」

 

 アンヘルはにやりと口角をあげた。

 

「寝取り、ですよ」

 

 ぐわんと視界が揺れた。後頭部をしたたかに打ちつけ、ちかちかと世界が光で満ち溢れた。唾を吐き捨てながらさってゆく彼の侮蔑が、とてもしんどかった。

 

 身体を引きずって歩く。死者の念が絡みつくような姿だった。

 

「あそこまでやる必要はあったのか」

 

「ヴァレリオット、さま」

 

 寮の前で待ち構えていたのは、すべての事情に通づるヴァレリオットだった。エマの依代化については伏せているものの、ディアゴと同じく大まかな顛末を知っているものの一人であった。

 

「君があそこまで背負う必要はなかっただろう」

 

「そう思うなら、隠蔽は徹底してください」

 

「ああ。君の献身には感謝する――エマ候補生の死は、誰にも漏れない。無論、リカルド恩赦の詳細もだ」

 

「礼は、言いませんよ」

 

「むしろ私が言うべきなのだろうな」

 

「……」

 

「ありがとう。こんなことではなんの慰めにもならないのだろうが」

 

 返事はしなかった。深海を進むかのように、のろのろと地面を這った。自室の部屋にまでたどり着く。扉に凭れ掛かるよう相棒が目を閉じて待っていた。

 

「わざわざ貧乏くじを引いてきたのか?」

 

「……」

 

「奴に言ってやればよかったであろう。貴様が無能だから、自分の女が地獄に堕ちたのだとな」

 

「……」

 

「ふん、愚かだな」

 

 そのまま、アンヘルは寝台に飛び込んだ。目を閉じれば、すぐさま夢の世界へと旅立たせてくれる。それはもう、美しい夢へ。

 

 ――あはは、あはは。アンヘルくーん。

 

 ――ありがとね、私を、助けてくれて。

 

 ――兄さんを、エドゥアルドさんを、助けてくれて。

 

 ――リカルドを助けてくれて。

 

 ――アンヘルくん、だーいすき。

 

 アンヘルは布団を頭に被せて、うめくように何度も何度も身体を震わせた。彼女の鈴のような声が頭にリフレインする。

 

 何よりも助けたかったはずの彼女。夢に潜れば、それが叶うように思えたから。

 

 そして再び朝が来る。決して彼女が生きていない世界線。その現実から逃れるよう、アンヘルは深い夢の世界へと逃避を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜風に身体を浸しながら、ルトリシアは大きくため息を吐いた。夏日の蒸し暑さは、最新式の冷房器具でも茹だるような気温である。

 

 いや、それよりも。呼気から失望が流れ出てゆく。渋い顔で告げる騎士の報告は、これまでの計画をご破産にするものであった。

 

 ――これは良くない思考ですね。

 

 候補生エマの死。優秀な手駒の損失以上の感傷に浸ることは許されない。貴族として、身分ある者として愚かしい感情を消し去り、開け広げられた窓の外を見上げる。

 

 これからはさてどうするか。自分が内密に援助してきた者の悪評は、士官学校内に轟きわたっている。その共同姿勢は派閥や思想を超える勢いだ。いかに名家とはいえ、大ぴっらに援助の姿勢を見せるのは如何なものか。

 

 ルトリシアは頭の中で幾度も問答を重ねた。灯もつけずこうやって思考を巡らすのは、時間に厳しい彼女には珍しいことだった。

 

 延々答えのでない問いを繰り返していたとき、コンコンと扉がノックされる。ルトリシアは訝しみながらも立ち上がった。

 

(こんな時間になんでしょうか)

 

 淑女であるルトリシア相手に、こんな夜半に部屋を訪ねるなどもっての外である。数年前、陣中視察の緊急の一度以外は記憶になかった。

 

 大した用じゃないなら首にしてやろう。思考を遮られた恨みもあって過激な考えに囚われていたルトリシアだったが、扉を開け広げた先には誰も見当たらなかった。

 

 先ほどのノックは聞き間違えとは思えない。気味の悪い事態に眉を顰めながら、再び扉を閉めた。

 

 とん、と何かが着地するような音がする。ルトリシアは、ばっと振り返った。

 

「あなた、は」

 

 窓から侵入してきたらしき男が、目の前に佇立していた。その目は、ひどく暗い。深淵を覗き込んだような深い闇だ。ルトリシアは見上げながらも、大きな男の存在感に一歩二歩と退いた。

 

 男がぐっと両手を掴むと、なすがまま頭の上で交差させられた。壁に押さえつけられたルトリシアは、緩い夜着の隙間から入り込む男の手に身を固くした。

 

 まずいと思うも遅かった。男の手中に収まってしまった女には、抵抗の手段などありはしない。ただ、喰まれる感触に身震いしながらも、鼻をくすぐる茶髪に、これから起こる行為を想像するしかできなかった。

 

 

 



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五章あとがきと登場人物紹介

 はい、というわけで、第五章にお付き合いいただきありがとうございました。

 

 激しい展開が続く第五章。そんな印象になりましたでしょうか。

 

 各フェーズごとに事件が起きるシステムや、主人公の活躍する場面を増やしたのは、感想欄でのご指摘を作者なりにかみ砕いた結果だったのですが、どうなんでしょう。続きが気になる作品へ仕上がっていれば大満足です。

 

 良い点悪い点を上げて頂けると、作者のモチベーションおよび腕の上昇につながりますので、お時間が空いた時にでもちょろちょろと感想をいただければと思っています。

 

 とまあ、堅苦しい挨拶はこのあたりにいたしまして、恒例のどうでもいい話に移らせていただきます。

 

 まずは登場人物に関してですね。主だった登場人物は少女エマと青年リカルドでしょうか。第二章からちょくちょく顔を見せてはいたのですが、実は彼等、第三章登板予定が伸びに伸びた結果でした。

 

 それは、ひとえにいきなり意味不明だろうという作者の独断です。結構ナイス判断だったと思うのですが、皆様どうでしょう。両者の微妙な立ち位置と、内面がうまく描けていれば作者としても感無量、といったところです。

 

 とくにエマは作者のお気に入りで、書いていて「可愛い」と唸る場面が何度もありました。手紙では都合二度登場しましたが、どちらも書き直しは一回二回にとどまりません。最終話のほうは作者的に結構良い出来なので、暇だったら褒めていただけると嬉しいなぁと思っています。

 

 書簡、という部分は予告でもあったとおり、集中的に取り組みました。中には結婚式のスピーチがあったり、意味わからん軍文書(かなり苦労した部分なので、あまり読み飛ばさないでほしいです泣)があったりと、挑戦的な第五章でした。ちなみに作者、性別男なので、結婚式のスピーチなんか書く機会はありません。レアな経験ですね。青春、に関しても嘘はついてないと思います。序盤だけだけど、ちゃんと青春してたよね。大丈夫だよね?

 

 とまあ半分サギっぽい本作ですが、今後の更新は未定とさせてください。少しの間オリジナル作品の投稿に専念したいので、あまり時間が割けなくなります。あと数章で完結の予定ですが、遅れてしまうことをお伝えしておきます。

 

 次の主役は、第三章から引っ張り続けてきた彼女です。かなり時間の空く投稿になりますが、そのときはぜひお付き合いいただけるようお願い申し上げます。

 

 

 

 ■メインキャラクター

 

 

 

〇アンヘル 主人公

 

地獄、といっても差し障りないほどの第五章。二章並みのスーパーハードファンタジーが展開された。はず。某鉄塊の大剣を武器にするアイツとかに比べればマシだけど。変な組織に加入して知識は手に入れるが、実践はあんまりできない。ポーカーが強い。

 

 

・シィール(種族名:氷塊龍プレシオス)【眷属】

 

水・ドラゴンタイプの眷属。いわゆる御三家のひとつ。地の文にしか登場しない、初代相棒。可哀そうとしか言いようがない。

 

・リーン(種族名:エメラルドカーバンクル)【眷属】

 

最後ぶった切られるが、べつに死んだわけではない。元の世界に送還されただけである。

 

・フレア(種族名:メテオボルケーノドラゴン)【眷属】

 

昔小さくて可愛かった面影はどこへやら。厳めしい面で敵をバリバリ食い散らかす。主人でありながら、アンヘルは結構ビビってる。

 

・ラディ(種族名:ラディウス)【眷属】

 

小回りが利いて、かつ空を飛べる眷属。アンヘル的には超便利だと思っている。

 

・剣士(種族名:炎の魔剣士)【眷属】

 

眷属があまりに強化されすぎたため、アンヘルの中で癒し枠として採用されている。あだ名は剣士。彼は、「お前俺のこと好きじゃねえだろ」と思っている。

 

 

〇ユーバンク・アーバスノット・タフリン・クナル 同僚

 

地味過ぎる活躍。遅刻して、いいところだけさらって、最後に嫌味を言う。読者的には超嫌な奴に見えちゃうかも。ホントはいい奴なんだよ。という言い訳をする作者だった。

 

〇エマ ヒロイン

 

超健気でめちゃめちゃかわいいヒロイン。作者的にはこれまでの作中でもっとも女の子らしい女の子であると思っている。弓が非常に上手く、大会の賞を総なめにしてきた過去を持つ。

 

〇リカルド ヒーロー

 

士官学校主席にして、剣術的にはクナルすら上回る実力を持つ。勉学方面では下の上ぐらいだが、エマの協力でボロを出さずに乗り切ってきた。ただの平民だが、軍に太いパイプを持つため弱い貴族よりよほど強い力を持っている。派閥とか思想に興味がない。

 

〇ガイルス・グリックス

 

グリックス商会の次男にして、若くして魔導具を手掛ける天才。わかる人はわかるかもしれないが、イメージはお兄さま。性格や能力は全然似せてないけど。

アホみたいに相手の狙いを見抜いたりと、実は一番仕事をしている人物である。

 

〇隻腕の騎士ユーシン

 

アンヘルの所属する隊の上司。ガイルスの上司でもある。

 

〇ヴァレリオット

 

リカルドを敵視する一人。いわゆる士官学校奇跡の世代の四天王の一人。白皙の美丈夫。勉学方面ではリカルドを上回るが、直接対決では後れを取った。絶対に見返してやろうと牙を研いでいる最中。

 

〇ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエント

 

アンヘルを裏から支えた後援者。借金の対象を移そうかと思うが、あまり踏み込み過ぎると地獄を見るぞと二の足を踏んでいる。

 

〇イーサク

 

エマの兄

 

〇エドゥアルド

 

エマの師範。リカルドの父。

 

 

 

 ■サブキャラクター

 

〇ハーヴィ―・スペルト・スキピオ 護衛

 

体重を減らした忠誠の騎士。某誰かのせいで英雄に押し上げられ、辛い日常を送っている。しかも腹立つのが、それを感謝しなければならない現実である。日々恨みつらみを誰かに模した人形にぶちまけながら、良い顔を見せてゆく二重生活に悩んでいる。煽られたときは本当に殺そうかと思ったぐらいである。

 

〇ベップ 友達?

 

アンヘルのことを、「アンヘルさん」と呼んでいる元友達。あの事件以来上司部下の関係が構築され、昔の気安く話し合える関係は消滅した。今は新しく加入してきたソニアに気がある。

 

〇アルバ・エゴヌ 友達?

 

とくに何の出番もなければ、活躍もない。唯一の出番はソニアに合格通知を運んだことぐらいか。ちょっと活躍する場面が見当たらないというメタ的な事情で割をくった存在である。

 

〇ラファエル 仲間

 

超強い召喚士。奇跡の世代四天王の一人である。召喚能力を含めると頭抜けた実力を持つ。けどなんか、噛ませ犬っぽい雰囲気が出てきた。

 

〇フェルミン 仲間

 

ラファエル信者その一。

 

〇スリート商会のアリベール

 

とりあえず名前は出てきた。ルトリシアと同じ、主人公を支援する人物の一人。借金をため込んでゆくスタイルのアンヘルにぶち切れ寸前。実はカットするかどうかで悩みに悩み、感想欄を思い出してカットしなかった人物。

 



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就活編第二話:頑張ってるよユウマちゃん

本当は第五章前に投稿する予定だった就活編第二話。時系列的にはソニア編と同時期に当たります。


 ガキンガキンと薄暗い洞窟の中に、鋼鉄の打ち合わされる音が響いている。

 

 闇の中では黒い影が複数蠢いている。もう慣れた戦いの気配。身体は快調であったが、その一振りには若干の迷いがあった。

 

 ランタン型照明魔道具の仄暗い灯りを頼りに、ユウマは巨大な戦鎚を振り回した。

 

「てやぁぁあ、どっかーん」

 

 間抜けな掛け声から遅れて、周囲を巻き込む衝撃波が地面を伝って洞窟内に反響した。

 

 飛び散る血肉。手応えは抜群である。どうやらまとめて片付けられたらしいと、こっそり安堵の笑みを漏らした。

 

「ユウマ、あんまり派手にやるんじゃない」

 

 巻き上がる土煙に、一見腺病質っぽい痩身の男が非難の声を上げる。

 

「悪気ないねん、堪忍やー」

 

 軽口を叩きながらユウマは飛び散った塵埃を払う。候補生御用達の脚絆、革のブーツは高めすぎた身体能力のせいでかなり草臥れていた。

 

 最後に上着を振って血を落とすと、戦闘を終えた仲間たちが駆け寄ってくる。先行しての撃破はもう慣れたもので、ユウマたちより幾分か年若い候補生たちは文句を顔の端にすら滲ませなかった。

 

「お前なぁ、今回の教導演習の意味が分かってるのか」

 

 唯一の例外、眼鏡をかけた神経質そうな男――エセキエルが苦言を漏らした。

 

「ウチあんま細かいの苦手なんよ」

 

「そういうわけにいくか」

 

「ええ、かたっくるしいなぁ」

 

「はぁ、これもなあなあでやってた弊害か。俺たちの所為なんだろうな」

 

 がっくりとエセキエルが肩を落とす。馬鹿にされるのは慣れっこだが、こう繰り返されると心も萎えてくる。

 

「別に悪ないやろ」

 

「こういうのは指揮官の所為になるんだよ。ほらみろ、下級生が出番奪われてるだろ――ほんとすみません、デブログ隊長」

 

 エセキエルはこちらの頭を掴みながら、のっしりと現れた隊長に頭を下げた。

 

 デブログ。五回生のそこそこ優秀な士官候補生である。大柄な肉体に骨格、金髪に高い鼻梁とザ帝国人という風貌であった。

 

「いやいや、構わないよ。ユウマくんが安全を考えて先陣を切っているのはわかっているからね」

 

「えへへ、やりぃ」

 

「まったくお前は……」

 

 呆れたエセキエルの顔を見ながら、態とらしくガッツポーズ。彼の意見が正しいとはいえ、こうも頭ごなしに指示されてはストレスが溜まるものである。

 

 ちょっとやり込めた爽快感に包まれながら、ユウマは本日の迷宮探索の進捗に想いを馳せた。

 

 現在は士官候補生が待ちに待った春休み。

 

 ソニアのような例外を除けば、一回生から五回生まで心休まるひと時である。

 

 ある者は故郷へ戻ったり、オスゼリアス近郊に住む者なら穏やかな日々を送る。が、ここにいる彼らは平穏とは真逆の行いに興じていた。

 

 教導官制度、というものが士官学校には存在する。これは春休み期間、全寮制を取っているオスゼリアス士官候補生の一回生のために設けられたものであり、一年間の訓練で強化術の修練が十分でなかったと判断された者に課せられる。いわば補習だ。

 

 二回生からはあの悪名高き迷宮探索演習が行われる。実力が劣っていると、本当に死の危険に直面しかねない。士官学校側はその点を考慮して、休み期間中に暇な上級生を教導官として、低レベル迷宮での訓練を実施するというわけであった。

 

 エセキエルもこの補習訓練の実施者であったらしい。堂々と指揮する様――どうやらデブログは下級生の自主性に任せるタイプの士官らしい――は、そんな事実を微塵も伺わせないが、成長を思うとすこし笑えて来る。これまで歩んできたエルサ班の軌跡に、ユウマは頬が緩んでいた。

 

「何笑ってんだよ」

 

 気がつくと、エセキエルが訝しげな目を向けていた。

 

「何もないでー」

 

「変なやつだな、相変わらず」

 

「かっちーん。ウチ、激おこぷんぷんやで」

 

「それ、もう死語だぞ」

 

 こうやって私語をしながら迷宮探索をしていても咎める者は少ない。戦いに慣れれば慣れるほど軽口を叩きやすくなるとはいうが、どちらかといえば迷宮の難易度の関連が深かった。

 

 低層も低層、士官学校側の教官も叫べば到達できる距離で待機していると思えば、気が抜けるのも致し方なしなのだろう。

 

「しかし、ホントにモンスターが出ないな」

 

 エセキエルは泥水が跳ねるのは嫌らしい。バシャバシャと気にせず足を踏み鳴らす後輩に顔をしかめていた。

 

「しゃあないんちゃう。『蒼玉の洞窟』はめっちゃ不人気やし」

 

「ま、だからこそ教導用に選ばれているんだろうけどな」

 

「なんか文句でもあるんかいな」

 

「これで訓練になるかと言われれば微妙だろ」

 

「そうかもしれへんねぇ」

 

 言いたいことはわからないでもない。水気があって寒々しいのも、嫌気が差す原因の一つだろう。清い水で疫病の心配は必要ないことが唯一の救いである。

 

「っと、待ってくれ皆。御同輩だ」

 

 ずっと微笑を携えながら見守っていたデブログ隊長が声をかけた。

 

 視線の先には見窄らしい身なりの六人組。歳も人種も性別もバラバラだが、迷宮に得物を持って入ってくる連中は一つしかない。

 

 探索者。永遠の根無し草とも呼ばれるが、とりあえず迷宮の魔石採集を生業にする者たちである。

 

 ここは士官学校で習った最低限のマナーに乗っ取り、彼らが過ぎ去ってゆくのをただ待ち続けた。

 

「ちっ」

 

 エセキエルが苦い顔で舌打ちをした。歯に絹着せぬ物言いの彼だが、ここまで感情を露にするのはめずらしい。ユウマは尋ねていた。

 

「どうしたん」

 

「気が付かないのか。あいつらのあの格好」

 

「格好?」

 

 ユウマは彼らの身なりをつぶさに観察した。この寒々しい洞窟の中にあっても、麻の上下だけである。庶民のおしゃれとして、下履きの紐だけは高価な絹にするのが良いとされるが、それもない。

 

 足元には藁草履と、迷宮探索云々以前に町民としても少々見窄らしい格好であった。

 

「あんな格好で大丈夫なんかいな。いくらレベル低いからって」

 

 腰の差している得物もそうだ。鞘付きゆえ中身は伺えないが、あの見た目では決して業物とはいえない。それどころか木の棍棒を持っている者もいるぐらいだった。

 

「お前はもっと世間の勉強もしろ」

 

 その回答を聞いて、エセキエルは眦を下げた。

 

「なんよそれ、感じ悪いなぁ」

 

「いいか、今後は聞くなよ。あれは“強制探索”だ」

 

「きょうせい……えっと、なんやって?」

 

「奴隷を用いた強制探索業。帝国が産んだ闇の一つだよ」

 

 新聞社の息子であるエセキエルの思想は若干の偏りがあるものの、こういう社会差別の内容には熟練のルポライターのような見識を持っていた。

 

 彼の語るところによればこうだ。

 

 魔道具産業の中核を成す探索者家業の発展。それによって迷宮は一躍宝の山と化したものだが、すべてが稼げる場所であるわけではない。

 

 ウルカヌ火山のように環境が劣悪なもの、塔のように立地が悪いもの、稼ぎやすい場所というものがあれば、稼ぎの悪い不人気な場所があるのも必然だ。

 

 この迷宮もそれに該当する。街からの遠さと、迷宮の半分が水の下、そしてレベルも低いとなれば、人気が出るはずもない。

 

 しかし、だからといって放置していれば迷宮災害が発生しかねない。彼らはそれら諸事情を解決するために生まれた存在であった。

 

「奴隷。それも戦闘用の、死んでもいい奴らってことだ。時折富豪の奴隷に対する扱いで裁判になることもあるが、こいつらの存在は誰も見向きもしない。必要悪ってことなんだろうが、俺には納得できねえよ」

 

 犯罪奴隷や戦争奴隷などから構成される彼らは、武装もなければ、大した訓練も施されることなく迷宮に赴き、命を顧みず魔石を回収する役目を負わされている。

 

 五年もすれば解放される契約らしいが、一年間の生存率は一割を切るとなれば、夢も希望も持てない世界が広がっていることは想像にかたくなかった。

 

「そんなんひどいわ」

 

 無意識の非難。それを見たエセキエルは、険しい顔で首を横に振るばかりだった。

 

「俺たちはそういうのを踏みつけにして生きてるんだ。何ができるってわけじゃない。けど、そういうのを忘れずに生きなきゃならないってことを、覚えておいてくれ」

 

 情報に通ずる者として、彼は色々な世界を見てきたのだろう。政治に翻弄される者、軍に弄ばれるもの、世間に杭打たれる者。それを受け入れてう生きている彼の目は、ひどく澄んでいた。

 

 彼が大人びて見える事実に恥じ入り、ユウマは目を伏せた。

 

「そろそろ行こうぜ。人にはやれる範囲ってのは限られてるんだから」

 

「うん、そやね」

 

 自分はうまく笑えているのだろうか。

 

 ユウマは頬をさすりながら、足枷を嵌められた囚人のごとく、迷宮を潜る彼らを見つめ続けた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「はぁ、ようやく今日も終わりやねー」

 

「さすがに疲れたな」

 

「いっつも思うとるけど、ちょっと体力なさすぎやない?」

 

「誰のフォローで疲れてると思ってるんだ」

 

 額に青筋を浮かべたエセキエルが、やってられんと腰を下ろす。平均よりも下の水準にあるのはわかっているのか、苦い顔をしているのはご愛嬌だ。

 

「いやいや、今日は助かったよ」

 

 教官たちが設営していたキャンプからマグカップを二つ持ってきたデブログ隊長は、いつもの優しい微笑みを浮かべて労う。手渡されたカップからは、ココアの香りがかすかに立っていた。

 

 ユウマは戦鎚を磨いていた手を止めて、陣取っていた大岩から退いた。不承不承といった感は否めなかったが、デブログは元ユウマの席に腰を下ろした。

 

「それにしても、さすがは奇跡の二回生……ともうすぐ三回生か。一般の君たちも中々の腕自慢だな」

 

「いえ、トップ層には敵いません」

 

 エセキエルの口調に悔しさはなかった。個人戦にそれほど拘るたちではないと、一年の付き合いでよくわかっていた。

 

「上位層はバケモンだよ。まあ、俺たちにはちょっと関係ない人種さ」

 

「冷めているんですね」

 

「歳を食えば、領分って言葉が自然と身につく。ま、世の中それで済ませられない奴もいるが」

 

 デブログは空になったマグカップを最後の最後まで傾けると、ぐるんと振り向いた。

 

「諦めきれない、って感じだな」

 

「ウチは……」

 

「いや、わかるよ。今日ずっと見てたが、君はそっち側に足が届きそうだ」

 

「でもウチ、オウルにはぜんぜん敵わへんかった。やなくて、敵いませんでした」

 

 ユウマの声音には、抑えきれない悔しさがにじみ出ていた。

 

「君たちはあのロヴィニ紛争に?」

 

 意外、という顔でもなくデブログは尋ねた。

 

「とはいってもあまり大事な場面を任されたわけではありませんが」

 

「でも、忘れられへんことなんです」

 

 あれはユウマたちにとっても初の実戦。それも敗戦である。楽観的に話せというほうが無理なものだった。

 

「よかったら、事件のことを聞かせてくれないかな」

 

「緘口令が敷かれている範囲外でしたら」

 

 エセキエルは流作業のように事件の梗概を説明した。もう何度も話した内容である。ずっと隊を離れていたエルサ班には、目を引くような内容があるわけでもなかったが、デブログは興味深そうに何度も首肯した。

 

「ウチは、悔しかった。今まで、戦うってことには本気でやってきたのに、オウルにはぜんぜん敵わへんかった。それどころか、みんな一気に吹っ飛ばされて」

 

 ユウマにとって、まったく勝機の見えない敵というのはオウルがはじめてであった。

 

 無論、今まで敗北知らずで来たわけではない。士官学校の模擬戦でも負けはあるが、ああしていればという仮定が湧き上がるものである。しかし、あのオウルとの対戦では一切そのようなものがなかった。

 

 話を終えたとき、ぐずぐずと鼻がおかしくなっていた。大きく啜るように鼻を鳴らす。

 

 デブログは優し気な笑みを浮かべると、ぐりぐりと乱雑にユウマの頭を掻き混ぜた。

 

「悔しさを覚えていられるのが幸せなんだろうな。俺には、もう見上げるしかできないけどさ」

 

 哀愁の深い彼の目が瞬かれる。さて、と立ち上がると、「頑張りたまえ、若人たち」と一言残して立ち去っていった。

 

「ユウマ……」

 

 エセキエルはカップの中に視線を落とす。水面には漣が微かに立っていた。

 

「なんやの、そんな暗いのウチらには合わへんよ」

 

「いや、だけどな」

 

「いいねん、気楽にいこうな……あれ、どしたんやろ?」

 

 ユウマは洞窟の奥から響いてくる足音に耳を澄ませる。誰も注意を払っている様子はない。やはり自分は英雄症候群。聴力という点では群を抜いているのだ。

 

 と、ようやくエセキエルが足音を捉える。抜刀の構えを見せたので、それを押しとどめる。規則正しく、その軽い足音は敵性生物のものではなかった。

 

「モンスターは居ないのか?」

 

「そんな感じはせんなぁ」

 

「同業者ってことか」

 

 曲がり角の奥から顔を覗かせたのは、五人組の探索者たちだった。どの顔にも見覚えがある。記憶の海を漁って、それが探索前半で見かけた奴隷たちであることを思い出した。

 

「なんだなんだ。どうしたんだ」

 

「ちょっと捕まえて聞いてみよか」

 

 エセキエルが止める間も無く、ユウマは額に大粒の汗を浮かべた探索者の一人を捕まえた。

 

 首筋に奴隷の首輪を嵌めた中年は、明らかに身分の高い士官制服を見て身体をこわばらせた。

 

「あんたらなんでそんな急いどるん」

 

「あ、ああ。別になんにもねえよ」

 

「ウチらは新人の教育係なんよ。危険なモンスターが出たんなら、注意せんとあかんねん」

 

「なんもねえって。俺たちもういくぜ」

 

 士官候補生の集団を発見して落ち着きを取り戻した彼らは、けんもほろろに去っていこうとする。

 

 一人、二人、と麻服の探索者が入り口へと向かってゆく。最後の五人目が目の前を横切ろうとしたとき、ユウマはその肩を掴んでいた。

 

「なあ、あんたらもう一人はどうしたん」

 

「は、はあ? なんのことだよ」

 

「ウチ、あんたらのこと朝に見たけどな、そんとき確か六人やった。もうひとりはどこいったんや」

 

 男の角ばった顔がこわばる。感情の露呈を覆い隠さんと、鼻がピクピク蠕動していた。

 

「ケガ、しとるんやないよな」

 

「……そっちの見間違いだろ。もうほっといてくれよ」

 

 掴んだ腕を振り払って去ってゆく探索者たち。後ろで話を聞いていたエセキエルが、ハッと顔色を変えた。

 

「お前ら、生贄に置いてきたな」

 

 銀縁の眼鏡がキラリと光を反射させる。身体全体から怒気が放たれていた。

 

「なんやの、それ」

 

「よくある手さ。実力以上の敵に出会った探索者が、足止めとして仲間を置いていくんだよ」

 

 エセキエルが唾を地面に吐いた。それを聞いたとき、自然と壁に立て掛けてあった戦鎚を取っていた。

 

「おい、ユウマ。今更向かってももう――」

 

「班長に謝っといてや!」

 

 ランタンを拾うと、足の筋肉が引きちぎれんばかりに洞窟を駆け抜けた。

 

 足元は悪く、時折水が溜まっていてぬかるんでいる。なだらかな傾斜を降っていくせいもあって、走破には向かない地形であった。

 

 滑り出てきた小鬼の集団に突撃する。轟、と唸らせた戦鎚が頭蓋骨ごと弾く。割れた卵のように中身を露出させた死体を蹴り飛ばすと、翻した柄で突いた。

 

 ちょうど三匹団子状態になって地面に転がす。ユウマは三段跳びの要領で残骸を飛び越していった。

 

 ――たしか、あいつらはあっちの方にいったはずや。

 

 能力的に優れるユウマであろうと、迷宮に単独で潜行するのはリスクが大きい。冷静なソニアが居れば目を向いて怒鳴り散らす案件であった。

 

 頭の中で、今朝見た地図を浮かべる。地理関係の把握は士官として徹底的に叩き込まれる事柄。最底辺の成績であるユウマであっても、問題はなく進む。

 

 三又の分かれ道にたどり着く。どっちだというところで、ユウマは戦鎚の柄を地面につけた。

 

(右はたしか水路やったはずや。ということは二択。どちらにしようかな……)

 

 呪文を唱えながら、すっと占い棒から手を離す。重力か、それとも神の思し召しか。綺麗に倒れた戦鎚の先端は、中央の道を指し示していた。

 

 それから幾ばくか駆けた。短時間の走破では中々の記録、といったところで、ユウマは異臭に気がついて立ち止まった。

 

 血の匂い。それも、数匹ではない。十や二十を超える数。一般的に迷宮内で死亡した魔物は、どういう作用かすぐに地へ帰ってゆく。常識では考えにくい事態であった。

 

 もう一人以外にも犠牲者がいるのか。そんな想像をしながら突撃すると、眼前には驚くべき光景が広がっていた。

 

 うず高く積まれる死体の山。灯が照らす範囲には数えきれないほどの死体が積み重なっていた。

 

 湧き、いわゆるモンスターハウスと呼ばれる現象だ。それを誰かが喰らい尽くした。ユウマは非現実的な光景に言葉を失って立ち尽くした。

 

 闇の中で影のようなものが揺らめいだ。しかも大きい。ランタンでそこを照らしたとき、茶色の柔らかな腹のようなモノが見えた。

 

 野生の明らかに肉食と思える腹部の筋肉。体表は緑の鱗に覆われ、両手は鋭い爪が光を反射させている。徐々に光源を上へ向け、巨大な顎門を発見したとき、ユウマの顔から血の気が引いた。

 

「ど、ドラゴンっ!」

 

 疲れなど一気に吹き飛んで、ユウマは服を濡らすことに斟酌せず地面を転がった。

 

 一拍置いて、世界が光で押し流された。ガイアブレス。緑龍ドラゴネットの能力である。

 

 間一髪で避けた息吹は、唐紅の髪の端を焼きながら、奥の死体の山を一つを消しとばした。

 

(ちょいまちや、ここは水のダンジョンやで。なんで緑龍がおんねん)

 

 息吹のお陰で室内が炎で照らされる。ぼんやりした光が、身体二つ分はある巨大な龍と、その横でへたりこんでいる少年の姿を発見した。

 

 五人組の探索者と同じ服装。見窄らしい身なりに中程で折れた木刀が足元に落ちている。腹部には裂傷があり、服に朱色が滲んでいた。

 

 凄まじい戦闘があったのか。少年は戦闘人形のように感情を瞳から無くして、母親に縋るかのように緑龍の右足をさすっていた。

 

 場違いな属性。たった一人生き残っている少年。親しげなぐらいの挙措。世間に疎いユウマでも推察は容易だった。

 

 ――召喚師。

 

 その顎門は、こちらにロックオンされていた。

 

 ひやりと滴り落ちる冷や汗を認めながら、重い戦鎚の柄を握りしめる。ずしんと響くような一歩に身を竦ませながら、周囲に視線を走らせる。

 

(堪忍やで)

 

 決意は一瞬。同時に緑龍が宙を舞った。ユウマは大きく振りかぶると、地面を抉り取る必殺の技を放った。

 

「てやぁあああ、だいだい大爆発!」

 

 大仰な名に相応しく飛沫ごと地面を揺らすと、龍と地面の間に身体を滑り込ませて、そのまま死体の山の影に隠れた。

 

「驚かせて悪いなあ。けどウチ敵ちゃうんよ。ちょっとお話し聞いてくれんかなぁ」

 

 驚きは人に冷静さを取り戻させる効果がある。感情を無くし、全方位を敵視していた少年の瞳に理性が戻り始めた。

 

「お姉ちゃん、商会の人?」

 

「士官候補生、ゆうてもわからんやろし……そう、ウチは正義の味方や」

 

「せいぎの、みかた?」

 

「そやそや。怪我しとるみたいやし、悪いことせえへんから、そのお友達引っ込めてくれへんか」

 

「ウソつかないで、どうせ怖いところに連れていくんでしょ!」

 

「せえへんせえへん。ウチ悪いことしたことない……こともないけど、子供を連れてったりせえへんもん」

 

「ウソだ! グリが見つかったら、悪い貴族の人に捕まっちゃうって」

 

「そうなん?」

 

「お母さんが言ってたもん」

 

「心配ないて、そんなん聞いたことあらへんから」

 

 少年とのやり取りは長く続いた。喋り合っていてわかったことだが、少年はどうやら召喚師だと露見すれば、攫われるという教育を受けたらしい。

 

 ユウマはその辺りの事情がよくわからなかったので、とりあえず怪我を治すという一点で呼びかけを続けた。

 

「じゃあ絶対に迷宮から連れて行かへん。ほら、武器も捨てた。やから治療だけさせてくれへんかなぁ」

 

「う、うん」

 

「ありがとなぁ」

 

 両手をあげて、警戒させないようにユウマは少年に近寄ってゆく。あと数歩、というところで、少年は不安そうな顔をした。

 

「お姉ちゃん、痛くしないよね」

 

 ユウマは、少年の声で身体を硬直させた。

 

 何を隠そうこのユウマ、今まで治療らしきものすべてをソニアに押し付けてきた過去があった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「お前、いつか家業手伝わせるからな」

 

「あはは、ごめんて」

 

 目を釣り上げて怒りを露わにしているエセキエル相手に、ユウマはペコペコと頭を下げた。

 

 といいつつも彼の手捌きに淀みはない。腹部の裂傷を消毒し、針で縫い合わせる作業は見事だった。少年も痛みに顔を顰めることなく、あっという間の治療に胸を撫で下ろしていた。

 

 士官学校側の待機所はすでに撤収作業が開始されており、他の候補生は慌ただしく動き回っていた。

 

 ユウマが潜行している間、彼らも辺りを探し回っていたのだ。申し訳ないなという気分になって、もう一度深々と彼らに礼をした。

 

「それで、よく無事だったな。ああいや君じゃなくて少年のほうな」

 

 腕を組んで様子を見守っていたデブログ隊長が尋ねた。

 

「召喚師、やったみたいなんです」

 

「なんだと」

 

 包帯を巻いていたエセキエルがばっと顔を上げる。少年が怯えたような眼差しを注ぐ。

 

「ああいや、悪い」

 

 エセキエルが手をあげて謝罪した。

 

「あんまり怖がらせんといてや」

 

「はあ、お前はことの重大性がわかってないのか」

 

「なによ。ウチが何をわかってないいうんよ」

 

「呑気だな、ほら、もっとよく見ろ」

 

 顎で使われるまま、ユウマは少年の容姿に着目した。

 

 齢はようやく十を超えた、といったところか。栄養的に満足な食事を取れていないからだろうが、身体はかなり細い。髪は紺に近い黒で、肌は南方の褐色肌。ラドック人特有の姿である。

 

 あとは年の割に利発なくらいか、と思考を巡らせたところで、もう一度エセキエルの顔を見た。

 

「ラドック人やね」

 

「それで」

 

「召喚師やね」

 

「……それで」

 

「それだけやけど」

 

 エセキエルははぁと大きなため息をつくと、隣に居たデブログと顔を見合わせた。

 

「ラドック人の故郷は、今はオスキュリア家所領になってるのは知ってるか」

 

「知らへんけど」

 

「……わかった。なら、オスキュリア家が司どるのは何か知ってるだろ」

 

「知らへんけど」

 

「お前、本当にバカだな」

 

 少々長ったらしい注釈をつけて、彼は講義を開始した。

 

 五大貴族は、それぞれが各分野に精通した、帝国で唯一所領をもつことを許された貴族である。かのヴィエント家は軍事、リエガー家は農業と特色ある中で、オスキュリア家が司るのは魔法と召喚術であった。

 

 が、魔法はともかく、召喚術は血筋に由来しない力。もちろんオスキュリア家とて例外ではない。それを解消するため、かの領地では古来から脈々とある手法が執り行われてきたのだった。

 

 かの領地では幼い頃、「能力測定」なるものが全土で実施され、召喚師としての才が発覚すれば、家に召し上げられることとなる。そして徹底的な教育が施され、分家に養子として迎えられることになるのだ。つまりは、かの家が継続して召喚師を召し抱えられるのは、徹底した人攫い制度であった。

 

 アンヘルが徹底的に能力を隠しているのも、この辺りの事情が関係している。帝国成立初期に横行した召喚師狩りとオスキュリア家の子供強奪政策が、あまり世情を知らぬ民間からの隠れ召喚師産む土壌になっているのだった。

 

「へー、そうなんや」

 

「もっと世間に気をくばれ」

 

「ははは。ユウマくん、教官に聞かれたら怒られるから黙っておきなよ」

 

 半笑いのデブロッグは、穏やかだったがかなり本気の度合いが強い忠告を残した。

 

「僕は捕まっちゃうんですか?」

 

 少年が顔を伏せながらいった。

 

「それは大丈夫だ」

 

 エセキエルはしゃがみ込みながら、少年に目線を合わせた。

 

「どこの商会所属なんだ」

 

「メイ商会です」

 

「そうか、ならそこの連中にはバレないようにしろ。能力持ちだと知れれば、君は高値で売り払われるかもしれないからな」

 

「う、うん」

 

「今回は助けられたことにすれば問題ないだろ――ですよね、隊長」

 

「そう、だな。とくに報告でもする内容でもないし」

 

 デブログが鷹揚に頷く。

 

 それからの撤収は早かった。少年は士官候補生の集団に混ざりながら、街までの家路を共にした。

 

 もう夜も更けていたころ、メイ商会の近隣で大きく頭を下げた少年は、絞り出したというように言った。

 

「お姉さん、僕に戦い方を教えてくれませんか?」

 

 

 



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就活編第三話:頑張ってるんだけどユウマちゃん

お久しぶりです。オリジナル作品は大体完成して、今度レーベルに投稿する予定です。滑ったらそのままこちらに挙げるので、どうぞよろしくお願いします。


 ――お前に教えられるのか。

 

 という同期の疑問に、むかっ腹が立たないわけではない。優しく微笑むの隊長の顔も、心をささくれ立たせる要因の一つだ。それら悪意ある考えを払拭するため、彼女が啖呵を切ったのは必然といえよう。

 

 ユウマの意気込みはたしかなもので、人生を隅から隅まで見渡しても、ここまでパッションに満ちたときはないと云い切れた。

 

「剣をふるときはなぁ、こう、腰をぐっとして、腕をぶんとやって、それからずばっとやるんや」

 

「ええっと、こう?」

 

「ちゃうちゃう、ズバや。ばーんちゃうねん」

 

「お姉ちゃん、全然わかんない」

 

「ええぇー、おかしいなぁ?」

 

 首を傾げながら、ユウマは少年の太刀筋を確かめる。腰がぐっとしていないし、腕はぜんぜんぶんとなっていない。けれど、少年はその事実を理解してくれようとしない。頭が混乱しそうだった。

 

「なんだその説明……」

 

 苦い顔で見つめる眼鏡。屈折した世界の先には、呆れた瞳が二つ並んでいた。

 

「なんか文句でもあんの」

 

「あるだろ。というか、そんなんでわかるか」

 

 エセキエルは貸せと剣を取り上げ、軍隊剣術の基礎となっている袈裟斬りのお手本をはじめた。

 

「いいか。この技は、相手の肩口から水月(鳩尾)に向かって斬りつける技だ。だから、難しく考えるより、なんでこの技を使うのかっていう部分に集中しろ」

 

「う、うん」

 

「肩の鎖骨っては、骨の中でも柔い部分なんだ。そのうえ、その下には大きい動脈がある。それを切り裂くために、上段に構えた剣を左側に腰を捻りながら落として、体重を乗せたまま引く。そう、ちょうどノコギリで刃を返すときみたいなイメージだ。腰を捻って、肩に落として、引く。この三つを忘れるな」

 

「はい。先生」

 

「ははは、どうやらエセキエルの方が良い指導者になれそうだな」

 

 休憩用のハンモック――暇つぶし用に持ち込んだ――でぶらぶら揺られているデブログは、茶化すように笑っていた。

 

 柔い土壁の杭など果たして信用できるのか。そんな想いも込めながら、ユウマは暇そうにしている教導官任務の隊長を恨めしそうに睨んだ。

 

 三日連続で迷宮に潜り込んでいたユウマたちは、任務の受けまわりということで、入り口付近のキャンプで拠点警備の任についていた。

 

 周りからも同輩の候補生から視線を浴びているが、デブログは素知らぬ顔。どうやら彼はこういう事前活動をむだだと思わぬたちらしい。暇な時間、少年に稽古をつけてあげているユウマにとってありがたい話であった。

 

「よし、悪くない。モンスター相手となるとちょっと不安だが、基礎の運動神経は悪くなさそうだ」

 

「はい、がんばります」

 

「いいか、あの馬鹿の言うことを絶対魔に受けるなよ」

 

「かっちーん。あんた今、ウチを怒らせたで」

 

「お前の指導が俺を怒らせてるよ」

 

「……」

 

 別にウチが悪いんちゃうもん。言ってることは、ほとんどおんなじやし、それで良いかっこせんとって。

 

 ぐるぐるとそんな思考が渦巻くも、少年はエセキエルの教えに心酔しきっていた。

 

 名選手が名指導者になるとは限らない、という良い例であろうか。選手は自らの感覚で動きを再現すれば良いが、指導者の立場になれば、どうしても言語化能力が必要になってくる。天性の運動神経を持っていた彼女は、誰に教えられるでもなく、なんとなくで動きを再現する能力に長けていた。

 

 エセキエルが違うのはそこである。運動能力もそうだが、動きの再現を不得手とした彼は、あらゆる武芸者の動きを言葉にし、ロジスティックに分解することでしか落とし込むことができなかった。

 

 彼にとって、武芸とは見て覚えることではなく、理屈で自分に教え込むことからはじまる。教えるのが上手いとかそういうレベルではなく、そもそものスタートラインが違うのだ。指導力に差が生まれるのも必然だった。

 

「あ、お姉ちゃんの動きもすごかった、よ」

 

 少年の気遣いが多分に混じった瞳が、心に突き刺さる。眼鏡の棘のある眼差しがそれに拍車を掛けた。

 

「ふん、ウチのほうが強いもん」

 

「子供かよ」

 

「うっさいうっさい。ほら、実践するで」

 

 少年に剣を持たせると、打ち合いをはじめる。足腰立たなくなった時点で、ユウマは相手の模擬剣を叩き落とした。

 

「はあ、はあ、お姉ちゃん、強いね」

 

「年上やからねぇ。それより、どないして強くなりたいん?」

 

「それは……」

 

「ああ、ごめんて。そらそうよね、迷宮探索しとるんやし」

 

「あ、うん」

 

「それに男の子は剣を持ってなんぼやもんね。ほらほら、立った立った」

 

「うー、お姉ちゃん厳しいよう」

 

「泣き言はあかんで。そんなんじゃ強い男になれへん」

 

「うえーん」

 

「泣いたらあかん。いくでー」

 

 それから半刻。少年は大の字になって地面に寝転がっていた。周囲はその光景に飽きたのか、すでに興味を失って各々作業に没頭している。エセキエルは近場の同期に情報収集をかけていた。

 

「なあ、一個聞いてもええか」

 

「どうしたの」

 

「すごい意地の悪いこと言うけどな、こんな訓練せんでもええんちゃうか」

 

「え、なんでそう思うの?」

 

「ウチな、召喚師のことあれから一杯しらべてんけどな、たしかにオスキュリア家――って貴族さまのことな。もし召喚術がみつかってしもたら、売り払われてまうけど、買うんはそいつらやねん。だから、こんな危ないことせんでも、売り払われたほうがいいんちゃうの」

 

「それは」

 

「強制探索なんて、この世でいっちゃん危ないねん。それよりは、いくらかマシなんちゃう?」

 

 オスキュリア家の強引な政策は一般市民、とくに他領の人間には受け入れ難いのも事実だが、一方で、かの家に転がりこむチャンスを産むのも事実だった。

 

 平民ならともかく、彼は奴隷である。最下層ではない、だけにすぎないのかもしれないが、ユウマにとってはそれが最善に思われたのだ。

 

「それはできないよ」

 

 少年は力なく首を振った。

 

「どないして?」

 

「同じむらの女の子が、商会に居るんだ」

 

 頭をハンマーで殴られたような衝撃が走った。

 

 ユウマに語られたのは、奴隷の厳しすぎる現実であった。

 

 強制探索、というのは危険が多く、ほとんどが死に絶えるスーパーブラック事業だが、ときおり高い能力を身につけて生き残る人間がいるのも事実である。迷宮に真理を見出し、脱走奴隷として生き抜く力を与えてしまう。叛逆すら起こしかねないそれにストッパーが掛けられるのは、当然の成り行きだった。

 

 彼らは、恋人、家族そのいずれかを人質に取られている。少年の場合は、同じ村の女の子。名をエウフェニアといい、今は売春宿の雑用で働く傍、将来はそこで働くために女を磨いていた。

 

「ぼくたち、戦争でみんな死んじゃったから。だから、唯一の家族なんだ」

 

 まるで当然というように語る少年。厳しい社会の裏側に、ユウマの心は激しく抉られた。

 

「ゴメンね。ウチ、なんもわかってなくて」

 

「なんであやまるの。悪いのは逆らった僕らなのに」

 

「ちゃうねん。そんなこと、言わんといて」

 

 ユウマは少年を全身で抱きしめた。敗北した祖国が悪だとして、彼はずっと生きてきたのだ。

 

 文化洗脳。帝国に叛逆した者たちへ、悪のレッテルを貼る典型的な統治の手管。軍人としてわかってはいても、目から大粒の涙が溢れるのは止められなかった。

 

「ごめんな、ゴメンな」

 

「おねえちゃん、ちょっと痛いって」

 

 抗議の声を上げながらも、ちょっと鼻の下が伸びている少年。そんなことすら愛おしい。ユウマは、彼の小さな身体を、ぎゅっと抱き寄せ続けた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「おねえちゃーん」

 

 遠くから、耳に聞き慣れた言葉が入り込んだ。教導官任務最終日。疲れ果てて馬車で眠りこけている後輩から、声のする方角へと視線を移した。

 

 今は大半が休耕地となっている棚田の坂道。点々と放牧されている一角豚――帝国の牧畜主産業――に紛れて、少年がわずかに整備された砂利道を降っていた。

 

 五賢帝時代に敷設されたスカリウ街道とはいえ、もはやその叡智は過去の遺産である。ユウマの心配虚しく、少年は劣化で泥濘んだ地面に足を取られ、背負っていた藁かごの中身をぶちまけた。

 

「ああもう、そんなに急いでどないするんよ」

 

 後輩を押しのけて馬車の最後尾まで進んでゆくと、ぴょんと飛び降りた。慣性系からの離脱は姿勢制御を難しくするものだが、さすがの身体能力で手一つ付かず走り出す。

 

 ユウマが駆け寄ったころには、少年は赤くなった鼻を擦りながら、転がり出た魔石を集めていた。

 

 最後の一つを拾い上げながら、ユウマは言った。

 

「どないしたん?」

 

「えへへ。その、お姉ちゃん、今日が最後だっていうから」

 

「やから、追いかけてきたん」

 

「うん」

 

 彼の目には、ユウマが別れを告げなかったことに含みがなかった。ただ、「最後に一言」という子供の無垢な感情だけが珠のように輝いていた。

 

 ぐっと喉の奥が締め付けられたような感覚に陥る。

 

 デブログ隊長の厚意を放り投げても、少年の巣立ちを見届けなかったのは、その無垢さに痛みを覚えるからだった。

 

 士官として、上級民として、立場ある存在。だというのに、自分だけが良ければ構わないとして生きてきた過去。世界は広く、見識は狭い。その事実を認識すればするほど、己が如何にちっぽけな存在かと気づくのである。

 

 ユウマには、少年に投げかける言葉を持たないように思われたのだ。論理的ではなく、ただ感情的に。こんな自分を尊敬しないようにという、繋がりのない結論が。

 

 たった一週間の出来事だが、食料事情が改善されれば、肉付きは幾分ましになった。筋肉のつき方も悪くない。剣才に恵まれているとはいえないが、召喚術も合わせれば十分な実力を得ることになるだろう。

 

 それ以上は考えないようにした。そこまでが、ユウマの限界だった。

 

「剣、持っとるんやろ」

 

「え、うん」

 

「抜きや。最後の、試験や」

 

 ユウマは自分の得物を抜いた。模擬剣ではなく、得意の戦鎚である。ふううと堆肥の匂いが一陣の風と一緒に流れた。

 

 鉄塊を肩に担いだ姿を見て、少年はごくりと唾を呑む。動揺と困惑がありありとわかる。

 

 言語化できないだけで、ユウマの分析力はエセキエルの比などではない。指先の震え、顔の強張りひとつで何を考えているのか推察は容易であった。

 

「ちょ、ちょっと待ってよお姉ちゃん!」

 

「問答無用や」

 

 ユウマは激しく跳躍した。大地を蹴って、回転しながら振り下ろした戦鎚には、重力と遠心力がこれでもかと与えられている。少年を脅しつけるよう、反応ギリギリで叩きつけた。

 

 少年は転がって避けた。砂が見栄えの良くない麻服にこびりついている。砂塵を撒き散らしながら、ユウマは大きく一歩を踏み出した。

 

「ええか、戦いってのはな、いつも急に起きるもんなんや」

 

「う、うわ!」

 

 戦鎚の一撃と見せかけ、ショルダータックルがモロに入った。肺の空気を残らず吐き出し、空中へ弾き飛ばされる少年。見せかけの険しい顔で、大の字の彼を睨みつけた。

 

「最後まで、諦めんなや。やなかったら、絶対、生き残られへん」

 

 少年はパチクリと瞼を瞬かせている。まだわからないか。それは当然だ。ユウマ自身、何が言いたいのかまとまっているわけではない。それでも、内から溢れ出る何かが身体を突き動かしていた。

 

 草の中に埋もれて寝転がる少年。ユウマは、粉砕とばかりに戦鎚を思いっきり振り下ろした。

 

「召喚!」

 

 少年の悲鳴が世界を劈いた。戦鎚と腹の隙間に、眷属の尻尾が入り込む。

 

 横薙ぎの爪をスウェーで躱しながら、ゆっくりと立ち上がる少年に向かって吠えたてた。

 

「そうや、アンタの力はそんなもんやない。絶対に諦めたらアカンねん!」

 

「うわあぁぁぁああああ」

 

 少年の絶叫を浴びながら、ユウマは緑龍に吶喊した。龍の穏やかな、けれど、無機物を見るような昆虫的眼差しが背筋を震わせる。こういうとき、頭をカッカさせて突撃できたのは遠い昔に思える。

 

 怖い。怖い。負けるのが怖い。

 

 負けたせいで、誰かが傷つくのは怖い。

 

 でも、戦わなくても、負けてしまうことも知っていたから。

 

 緑龍の巨体とユウマの戦鎚が絡み合う。

 

 激しい咆哮を至近距離で浴び、耳の奥から血が流れ出す。足関節を粉砕しようと迫る戦鎚と、胴体を切り裂かんとする爪が音を奏でた。

 

 少年の涙ながらの顔が、脳に焼き付く。それでも、伝えるべきことがある。ユウマは激しく飛び回り、荒々しいダンスを続けた。

 

 一秒にも、一分にも、一時間にも。長く無限に感じられるが、それでいて一瞬のような時間。訓練は、龍特大のタックルで幕を下ろした。

 

 直撃を受けたユウマには、無防備に寝っ転がって、空を見上げることしかできない。

 

 青いなぁ。晴れ晴れした気持ちで、すうっと一筋光り輝くものを流した。

 

 ふと影が差す。少年が、恐々としながら見下ろしていた。

 

「おねえ、ちゃん?」

 

「アンタは、強いで。ウチに勝てるんやから。やからな、何があっても諦めたらあかん」

 

 これは御祝儀みたいなもの。いくら召喚術が協力とはいえ、所詮外部ツールみたいなもの。圧倒的速度と破壊力を誇るユウマ相手に、本体を守り切れるはずもない。

 

 最後の教導。その事実を悟り、少年は俯いて黙りこくっていた。

 

「ウチのことは忘れ。世の中には、もっとええ師匠がおる。アンタは羽ばたいていけるんやから」

 

「そんなこと、ないよ」

 

「あるんよ」

 

 ユウマは言い切った。涙で濡れている少年の顔を、そっと腕を伸ばして拭ってやった。

 

「戦わな、あかんで」

 

 少年は首を縦には振らなかった。仕方ないと思う。口下手な以上、上手く伝えられないことはわかりきっていたから。

 

 それでも、何か残せたはず。ユウマは微笑みながら、そっと草木に身を任せた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「ウチが欲しい、言うことか」

 

「ええ。それも、突撃の主攻として」

 

 士官学校での一幕。面識のないフェルミン隊長は、そこはかとなく疲れた様子で、そう言った。

 

 嬉しくない、と言われれば嘘になる。今は誰しも所属する班を選別する時期。より早く決まれば安心できるし、上位の班となれば迷う理由もない。

 

「不安かしら」

 

 即答しない様子を見て、フェルミンは言った。

 

「ありがたい、とはおもてます」

 

「ヴィエント様の麾下は気に入らない?」

 

「そういうわけや、ないけど」

 

 ユウマは俯いて、ブーツの爪先を見つめていた。

 

「仕方ないわね」

 

「すんません」

 

「いいわ。貴方はずっと派閥争いに関係なかったものね。いきなりウチ、というのに尻込みするのもわかる」

 

 フェルミンは理解のあるほうだった。どことなく、ソニアのような印象を受けるのは穿すぎだろうか。親近感を抱かせるなにかがある。

 

 頷いてしまおうか。そう何度も思ったが、身体は動かなかった。考えておいて、というフェルミンの言葉を最後に、ユウマは街路を歩いていた。

 

 居酒屋の前には暖簾が下げられている。そろそろ夕刻。街の職人衆が夜の店に繰り出すころだろう。オスゼリアスの夜の雰囲気は、住民の彼女にお馴染みだった。

 

 陽気な歌声が街中に響いている。軍人になったのは、決して間違いではないと確信できる。立ち止まった景色は、守りたかったすべてだとわかるのに。

 

 この悩みは、一体なんなのだろう。かき混ぜられるような感覚に、ユウマは煩悶とし続けた。

 

「火事だ、火事だ!」

 

「どこだ、くそ。人がいい気分のときに」

 

「あっちの商会屋敷が集まってるほうだ!」

 

 街火消の連中が慌ただしく街路を駆けてゆく。その先、北東のほうから濛濛と黒煙が立ち上っていた。

 

 なぜ、踵を返さなかったのかはわからない。なんとなしに、ひそひそと井戸端会議に勤しむ女衆へ声を掛けた。

 

「火事やいうとぉけどなぁ。ユティスさん、なんかしっとります?」

 

「わかりまへんけど、メイ商会って言うてますで。ウチはあっちのほう詳しくなくてなぁ」

 

「そっちもそないですの。煌びやかで憧れなんどすけどなぁ――ってお嬢はん。どこ行きますの!」

 

 ユウマは最後まで聞かずに駆けていた。違う、そんなはずはない。嫌な想像を振り払いながら、ひたすらに駆け続けた。

 

 空が夕焼けに染まっている。紅蓮から滴ってくる熱を浴びて、ユウマは立ち止まっていた。

 

「おねえ、ちゃん?」

 

 路地から顔を出した少年は、胸の中に事切れた少女を抱えていた。虚無の瞳と、力を失った首。だらんと垂れ下がった少女の頭からは、生気をまるで感じなかった。

 

 ユウマは、ごくりと唾を嚥下した。苦い空気が、胃のなかに溜まってゆくようだった。

 

「あはは、あはは、お姉ちゃん。お姉ちゃんだ」

 

「アンタ……」

 

「ねえ、見て、お姉ちゃんの言う通り、逃げてきたよ」

 

「……」

 

「ねえ、聞いてるの」

 

 無邪気な少年の声音。無垢だったあの頃とは違い、怖気を誘う寒々しさが混ぜ込まれていた。

 

「商会、燃やしてきたん?」

 

「うん、そうだよ」

 

「どないして?」

 

「お姉ちゃん、言ったじゃない。生きるために諦めるなって。あそこにいたら死んじゃいそうだから、逃げてきたんだよ」

 

「……」

 

「ほら、見てよ。エウフェニアはこんなに怪我させられちゃった。でも大丈夫。お姉ちゃんが教えてくれた技があったら、外でもやっていけるからさ」

 

 そういいながら、少女の頭を揺すっている。力なく揺さぶられ続ける彼女は、首に濃い青あざが浮かんで、まがってはいけない方向へと折れている。

 

 エウフェニア、いや、すでにモノへと帰った彼女が、どんな痛苦を受けたのか。想像すらしたくない。変態的行為の生贄になったのか、それとも癇癪を受けたのか。なんにしても、若き彼女には痛ましい最後が訪れたのだ。

 

 そして、少年は狂ったのだろう。現実と幻想の区別が付かず、服を血染めにしてもへらへら笑っていられる彼は、もう無垢だったあの頃の彼ではないのだ。その事実に、ユウマは虚しく佇むことしか許されなかった。

 

「何人、殺したん?」

 

「そんなの、わすれちゃったよ。別にどうでもいいでしょ」

 

「偉い人も、皆なんか」

 

「そりゃそうでしょ。悪い奴らなんだから」

 

 目を細めて、少しだけ見上げた。身体中の水分はすべてが蒸発して、涙の一滴も浮かんではこなかった。

 

 商会の代表、もしくはそれに近しい者を殺害したとなれば、少年の有罪は確定である。たとえ、庇ったところで意味はないだろう。

 

 奴隷の叛逆は、どんな理由があろうとも奴隷の罪に帰着する。彼に訪れるのは、避けられぬ死一択なのだ。

 

 どうしてバアル教団のような邪教が興隆するのか、今わかったような気がした。彼らのように絶望した者が、ありとあらゆる一切を破壊しようと門を叩くのだろう。少年と同じ境遇の、彼らが。

 

「ごめん、な」

 

「なんで謝るの?」

 

「ウチが悪かってん」

 

 ユウマは、店の前に転がっていた箒を手に取り、掃く側を手刀で切り落とした。

 

「お姉ちゃん、僕を助けてくれないの!」

 

「ゴメンな」

 

「……お姉ちゃんも、そっちの人だったんだね」

 

 少年の声は、暗い。すべてが信じられぬと、そう言っている声音だ。

 

「ならさ、死んでよ」

 

 召喚、という響き。少年の真隣に青紫の虚空が開かれ、そこから巨大な緑龍が姿を見せる。昆虫のような感情の失せた瞳。

 

 射竦められて、身体を緊張させるでもなく、ただ力を抜いた。

 

 何もせず、ただ目を閉じる。ごめんな、あの世まではウチが守ったるから。最後のひととき、そう心に誓った。

 

 けれど、身体を引き裂くような衝撃はいつまで経っても襲ってこなかった。

 

 代わりに少年の慄くような声。正面で何かが起きたのだ。ユウマはゆっくりと瞼を上げた。

 

「あんた、は」

 

 大きく細い背中、草臥れた制服に貼り付けた薄気味悪い笑顔。男は、特徴的な茶髪を鬱陶しそうに振り払いながら、首筋から血を噴水のように吹き出す龍を見下ろしていた。

 

「無事ですか。ユウマさん」

 

 制服姿の同期、アンヘルは気負いなく言った。

 

「あんたが、これやったんかいな」

 

「ええ」

 

 とくに感慨もない、と言った様子である。視線をくれることなく、じっと少年を見据えている。

 

「今、僕は憲兵……のようなものに属しています。彼がメイ商会の叛逆奴隷ですか」

 

 粒子となって異界へ帰ってゆく眷属を一瞥したアンヘルは、圧倒的簒奪者の雰囲気で少年ににじり寄った。

 

 返事は求めていない。そう背中で語る彼は、ユウマに注意を払わない。少年の悲鳴が路地に木霊した。

 

「う、うそだ。グリが、死ぬわけない!」

 

「死んだわけじゃない。送還されたんだ」

 

「な、なんなんだお前! そもそも、どうやってグリに勝ったっていうんだ!」

 

「眷属は、大抵の場合主人の警戒する方向しか見ない。どれほど強力だろうと、主人が弱ければ、奇襲を受けることになる」

 

 尻餅をついた少年はジリジリと後退してゆく。

 

 このままでは。思わず、男の肩を掴んでいた。

 

「邪魔するんですか」

 

「……そういうわけや、ない」

 

「なら離してください」

 

「それも、できへん」

 

 アンヘルは困り顔で微笑を浮かべた。

 

 これだ、こういう所だ。ずっと気に食わなかった、その理由。コイツは、こういう場面で笑える男なのだ。

 

 気に入らない。反射的に、ユウマは箒の棒を振り回していた。

 

「危ないですよ」

 

 アンヘルは剣を掲げて防御していた。その目は、恐ろしいまでに感情が失せていた。

 

 流れ込んでくる相手の感情。ユウマにとって、それは生理的嫌悪を感じさせる不気味なものだった。

 

「アンタ、冷たいなぁ」

 

「……」

 

「剣を合わせるとな、皆何考えとるんかわかるんよ」

 

「だから、なんです」

 

「心がない奴ってのは見たことある。闘うことになんの意味も見出せへん奴や。そう云うやつは、剣に向いてない。けどな――」

 

 アンヘルの無表情はぴくりとも動かない。模擬戦で初対戦した頃と同じ、壁を打っているような感触だ。

 

「頭おかしいで。人斬っても、何も思わんのやろ」

 

「勘違いですよ」

 

「いや、絶対にそうや。それも、斬りたいゆうて斬っとるんやない。イヤイヤ、やっとるんや」

 

「……」

 

「アンタんとこの、隊長と一緒や。気狂いやで、あんたら」

 

「僕が気に入らないから、逆らうんですか」

 

「ちゃうわ」

 

「なら、なんです」

 

「戦うのはウチの仕事や。キチガイは引っ込んどれ」

 

 アンヘルの手から刀剣を奪い取った。抵抗はほとんどなかった。それが、殊更気に食わなかった。

 

 怯えた表情で、尻餅をついている少年を見下ろす。意味はないと知っていても、心の中で何度も懺悔を繰り返した。

 

「お姉ちゃん、助けてくれるの?」

 

「そうやで、心配せんとってな」

 

 ユウマは跪きながら、少年の額を優しく撫でる。

 

 少年はうっとりと身を任せ、瞼を閉じた。安心したように少女と並んで座るその姿は、守りたかった尊き何かに思えた。

 

 ――お姉ちゃん、どうして僕たち死ななきゃいけないの。

 

 ――生まれてきたことが、悪いことなのかな。

 

 ――僕たちが生まれた意味って、なんなのかな。

 

 ――ねえ、お姉ちゃん。

 

 目を閉じて、深呼吸する。その感触一瞬一瞬、すべてを忘れぬために。

 

 一閃。

 

 ユウマは、少年の尊き碧血を、その身に浴びた。

 

 

 

 

 § § §

 

 

 

 春。涼しい風が髪を撫でてゆく優しい季節。

 

 少年が息絶えてから、それほど時を置かない時期のことだ。ボランティアを終え、新年を迎えるところとなったユウマは、期限が迫った返事をするため新たな上司の元に馳せ参じていた。

 

「あれから色々考えたん、です」

 

 閑寂とした士官学校訓練場を見下ろしながら、ユウマは長く語り続けた。辿々しい、決して論理的ではない語り口。適度に相槌を打ちながら、フェルミンは気長に頷き続けた。

 

「強くなりたいから、入る。そういうこと?」

 

「そう、です」

 

「私たちの班は高いレベルを要求される。ラファエル隊長とも連携していくつもりだし、貴方の望みは叶うわ。けど、どうして強くなりたいの?」

 

 どうしてか。それは、とても難しい問いであった。

 

 少年の最後を見たからか。それとも、自分の迷いに踏ん切りがついたからか。結局なんだったのか、いまだ言葉にはできない。

 

 あのとき手に残った感触を思い出す。指をこすり合わせると、今この瞬間であっても、ぬめりとした感覚が蘇る。

 

 唐突な最後だった。たぶん、これが本質なのだ。自分が追いかけてきた、自分が歩んできた道の行先は。

 

 生理的嫌悪を引き出す男は、たった一歩、自分より現実をわかっていた。だから、あんなにも冷たい感触を持ちえるのだろう。

 

 いつまで経っても好きにはなれない、あの感覚。でもそれは、少し前の自分が相対すれば、今の自分にそう感じるのだろう。

 

 ユウマはひっそり掌を眺めた。長く、息が続く限り眺めた。

 

「戦い云うんは、突然やってくる。やから、強くならなあかんねん、です」

 

「なにかあったの?」

 

「なんもない、やなくてないです」

 

「そう」

 

 フェルミンは隊証を手渡してきた。学年と番号が振られ、ヴィエント家の紋章である風と長剣の意匠が施されている。彼女が主人の重用されているのは明白、という証だった。

 

「胸襟につけておいて。なくさないようにね」

 

「わかったわ」

 

「あと、その言葉使いも直すように」

 

「あはは、きぃつけます」

 

 腰に手を当てて、怒りを全面に立たせたフェルミンだったが、ポーズだったのだろう。それほど拘らず先導をはじめた。

 

 彼女の背後に続きながら、ユウマは静かな廊下を進んでゆく。階下の庭に視線を下ろせば、新二回生と思しき若者が鍛錬を積んでいた。

 

「少し、印象と違ったわ」

 

 フェルミンは立ち止まると、ぽつりと背中を向けたまま言った。

 

「印象?」

 

「もっとこう、先陣を突っ切る……」

 

「考えなし、ってこと?」

 

「そう、ね。言葉を飾らなければ」

 

 今も言葉遣いがなっていないし、とフェルミンが続ける。

 

 ユウマは、いつも快活で満点の笑顔を浮かべている。だが、今日このときに限って、珍しく静かに微笑んだ。

 

「人は変わるもんなんよ」

 

 将来はわからない。今の決意が、たとえ下がることでも。前へ進むしかない。それが、今を生きる者の義務だから。

 

 ユウマもまた一人、旧エルサ班から道のりを別ち、新たな方角へと歩き始めたのだった。

 

 

 



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第六章:アポルォ双神殿
日常編第一話:小隊戦協奏曲


 雲一つない黄色がかった夏の空は、少しの皺もない、たいそう薄い膜のようであった。連峰の上で、金色がカッと輝いている。光の加減であろうか。観覧席で座す男は、燦々と照りつける太陽の眩しさに目を伏せていた。

 

 逸らした視線の先、伝統ある戦技場では肉と鋼、硝煙、それら非日常の血腥い匂いが渦巻いている。三十反の陸面には樹々が植えられており、端二箇所には土嚢の急造砦が聳えていた。これらは、ずっと候補生の成長を見守ってきたのだろう。でこぼことした地面の凹凸一つ一つが、過去を物言わずに語っていた。

 

 講義中の真っ只中に繰り広げられるゆえ、いつもはぽつりぽつりと閑散な客しか入らない公開試合だが、今日は低学年から卒業生まで勢揃いする。

 

 中でも、後期から始まる総当たり戦、プレミアムリーグのトップ五組で繰り広げられる争いは、所詮ダービーマッチと呼ばれ、凄腕の候補生を輩出した歴史を持つ。

 

 この度は、リーグ開幕前の部隊の練度を最終確認するプレシーズンマッチ。

 

 その、第三試合。

 

 奇跡の世代である三回生の筆頭、第一小隊リカルド班と第三小隊ニコラス班の決戦が繰り広げられていた。

 

『おぉーっと! これはリカルド小隊、奇策に打って出ました。中央で陣取っていた主力を迂回。敵本陣に襲撃を掛けます』

 

 通称ゴール裏と呼ばれる砦側の観覧席から、総勢五百人近い候補生が割れんばかりの歓声を沸き立たせた。

 

 基本、真剣の使用は禁じられているので、純粋に武芸の技を競い合わせる小隊戦は娯楽としてハイクオリティである。

 

 そのうえ、強化術を使った高速戦闘戦は、兵卒連中などとはレベルが桁違いだ。攻守の切り替えがシームレスで、組織的連動も一個の集団と成っている。その精度、例年と比肩できる類のものではなく、数百年の歴史を紡ぐ名門オスゼリアス校であっても群を抜いていた。

 

 すぅんばらしい、と背広に身を包んだ壮年の軍人が舌鼓を打っていた。横に並ぶ候補生などもしきりに頷いてはメモを取っている。

 

「完成度が高すぎるわね。迂回の速度、先頭を援護する連携。ありとあらゆるものが桁違いだわ」

 

 だが、どうやら例外もいるらしい。チャラそうな候補生などは、身体を背凭れに預けながらチューチュー果実水を啜っていた。

 

「そんなことよりこの後デートしない? 結構良い喫茶店を見つけたんだよなぁ」

 

 力余ってメモ用紙にペン先を貫入させた女性候補生は、くっきりとした青筋を浮かべた。

 

「少しでも情報収集するべきでしょう。折角五人組のお手本がいるのだから」

 

「意味ないって。隊長殿はやる気ないし、なによりアンヘルさんがあんな感じだし。ああ、そういや新人が入るって。だから六人ね」

 

「……聞いてないわよ」

 

 女性候補生はこめかみを抑えて耐えている。現在、二部にあたるチャンピオンズで不戦敗の山を築き上げている彼らの苦境は、一部でしのぎを削る自分にも届いていた。

 

 少々憂慮していたが、班員全員が気を病んでいるわけでもないらしい。裏で流通しているとまことしやかに囁かれるトトカルチョ片手に、チャラ男はターバンを巻いた候補生に耳打ちした。

 

「ってか、レベル高いか?」

 

「……技術は高い」

 

「そりゃ個人は頭抜けてるけど、組織は無理してるだろ」

 

 その瞬間、一層ボルテージが引き上げられた。一番槍を征く隊長リカルドが、魔道銃の牽制も意に介さず、閃光となって土嚢に取り付いたのだ。

 

 砦内のフラッグを占拠するか、敵小隊を全滅させることで勝敗が決する小隊戦では、前者の方がより好まれる。ドラスティックな展開であるうえ、攻略目標の占領は教官からの評価点が高いのだ。

 

 ヴァレリオットは一瞬だけ場の空気に呑まれ掛けたが、膝を握る手を慌ただしくさすって、大きく咳払いをした。

 

 ――リカルド、無理がすぎる。

 

 予感ではなく、何度となく戦術分析し続けた結果、導き出されたのは残酷な顛末であった。

 

 もう見ていられない。胸が苦しくなって鉄火場から目を逸らした。

 

『おっと、これはどういうことだ! 躱されたと思われたニコラス班がなんと引き返している。リカルド班ピンチ、占領目前で十字砲火を受けています』

 

 かの班の特徴は、剣術使いリカルド神速の吶喊攻撃である。そこを起点に浸透し、面制圧を成し遂げる破壊力は常軌を逸していた。

 

 いる、のではない。現在、その能力は著しく減退している。隊長の速度に誰も追随できないのだ。

 

 無論、下位を相手取ったときには露呈しない。圧倒的戦闘能力で諸々粉砕してしまうからである。だが、ニコラスほどのトップ層と争うとき、小さな欠点であっても致命傷に至ってしまう。

 

『ニコラス隊長、迂回突撃を読んでいたのでしょうか。包囲殲滅という形でリカルド班隊員を討ち取っていきます。美しい、なんと美しい戦術でしょう。リカルド隊長、なすすべがありません』

 

 伸び切った連携網に向かってカッと大火球が投げ込まれた。退路を塞がれ、六人の小隊員に包囲されたリカルドは、仲間の屍を背にジリジリと後退するしかない。

 

 誰の目にも絶体絶命と映る。そして、ニコラスの指先から放たれた電光で闘いの幕は降ろされた。

 

『あーと、ここで教官から終戦の笛が吹かれました。リカルド班は悔しい敗戦。ヴァレリオット班、フェルミン班に続いての上位層三連敗です。圧倒的優勝候補と謳われたその復調はあるのかぁ!』

 

 エマを失った彼の、迷宮の出口は未だ見えない。肩で息をする渦中の君を眺めながら、ヴァレリオットは寂しそうにため息をついた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 士官学校第一戦技場から程近く、歓声が降ってくるところに小隊員の集うロッカールームがある。といっても、弓吊りの木製天井が特徴な、あちこち軋む古小屋でしかないのだが。

 

 第四試合開演を知らせる銅鑼が耳を突いた。沸き立つ不安を踏み均しつつ、ヴァレリオットは意気消沈しているであろう敗者側の元に出向いていた。

 

 ユースタスの蛮行と並ぶほど受けた行状は悪辣で、彼自身の人柄と相まって多くの同輩から尊崇を集めている。人が捌けるまでときを要するだろうという推測は正しく、入り口が塞がるほどの人集りであった。

 

 ヴァレリオットが無言で最後尾に並んでいると、すすっと道を開けたことに、米粒ほどの悲しみを覚えた。

 

(それにしても注目が集まらないな)

 

 いつもならばモーゼのように人垣が割れるものだが、群衆の視線は内部に釘付けとなっている。どころか、嘲るような笑い声すらここまで届いた。

 

 ヴァレリオットは無理やり割って入ると、嫌そうな顔をした候補生の面相を記憶しながら、ひょいと入口から覗き込んだ。

 

「惨めな姿だなリカルドくん」

 

「……なんだと」

 

「僕を叩きのめすと啖呵を切ったあの気概、どうやら臆病風にでも吹かれて露と消えたようだね。まったく、犬畜生であっても、はじめた喧嘩の矛先はそう易々と収められぬものなのに」

 

 目にしたのは、軽侮の色を強く浮かべた、気取っている細面の男の姿であった。

 

 ――気狂いのニコラスか。飽きもせず嘲弄とは、性根が腐っているな。

 

 ヴァレリオットは、吐き気を催すような男の下卑た表情を見て苦虫を噛み潰した。

 

 ニコラス・オーウェンスは、人種の坩堝たる帝国において異彩を放つ思想、テンパレッド州外部を排するという考えを強く継ぐ、いわゆる純血主義者、であった。血管の浮く青白い肌と神々しすぎてどこか人工的にも映る金髪は、特徴的な金壺眼と合わさって、一見するだけで異相と断じるべき容貌であった。

 

 くい、といつも吊り上がる口の端は、その心胆を言葉なしに物語っている。自分とて勝つためには手段を選ばぬと言われるが、手段を選んだ末下劣な道を態と歩むニコラスに比べれば、多少マシであろうと思っていた。

 

 なんにしても、消沈する敗者を貶すなど褒められた話ではない。負けん気が強いリカルドなどは剣呑な空気を前面に立たせ、今にも激昂せんと滾らせていた。

 

「ニコラス。対戦後は気を遣って然るべきじゃないのか」

 

「三下は黙っていてほしいな。私は君の隊長にだけ用があるんだよ」

 

 纏うオーラが只人などと比肩できないという証なのか、異論を唱えた小隊員はうっと身を退かせた。

 

 ニコラスと彼とでは悲しいかな、格というものがちがうのである。

 

「リカルドくん、僕は実に残念なんだ。この士官学校で唯一敬服に値する君の実力が、こうも稲穂のように刈られるのを待つだけになってしまうとはね」

 

 注目を一身に集めることが快感であるのか、ニコラスはニヤニヤ笑いを浮かべながら、同質の魂を持つ部下たちと顔を見合わせた。

 

「俺たちを馬鹿にするためだけに来たのか」

 

「馬鹿にする? それは言い得て妙だね。そう、僕は君を嘲笑いにきたのさ。女を寝取られてメソメソと泣き喚くだけの、君のこと――」

 

 ニコラスの嘲笑に対し、リカルドは顔を沸騰させたかと思うと、徐に立ち上がって拳を振り抜いていた。そこに残心はない。荒々しく肩で息をするさまは怒りというより、悲哀を思わせた。

 

 場は、いっせいに動きを止めて顔色を失っている。エマに関する話題すべてが禁句であることを、身に染みて知っていたのであろう。ひっと息を呑んだ小隊員が身を退かせるが、爪先を椅子に引っ掛けてひっくり返った。

 

 がらがらと棚の荷物が雪崩れ込んでゆく瓦礫の中で、ニコラスだけがどもり気味の怒りを紡いでいた。

 

「き、き、き、貴様ぁっ。この僕の、僕の美しい顔をぶったな。これは許されざる行為だぞ」

 

「うるせぇ!」

 

 リカルドは膝を震わせながらロッカーに立て掛けてある模擬刀を手にすると、阿修羅のように目を見開いて怒鳴った。

 

「ちょ、ちょっと待て。殺す気か、そんなモン手にしてっ」

 

「邪魔すんな、離れやがれ!」

 

 トドメをさそうと摺り足で近寄るリカルド。彼の目はもはや怒りの大炎に呑まれており、しがみつく仲間のことなど眼中にない。ぐるりと周りを見渡すと、皆および腰でゴタゴタは御免だとばかりに沈黙を守っている。

 

「待ちたまえ」

 

 狂犬リカルドの前に割って入ると、仲間のバリケードで身を守っているニコラスを見下ろした。荷物に埋もれている彼はビクビクと肩を震わせている。煽っておいて相手が激憤すると恐怖に駆られる、という小心者なところもヴァレリオットは嫌悪している。

 

「ニコラス、君のやっていることは小隊戦のマナーに悖る。私の方から教官へ報告しようか?」

 

 瓦礫の中に埋もれていたニコラスは、頬を抑えながらのそりと立ち上がった。

 

「僕は殴られた側だぞ」

 

「私は儀礼と誇りを尊ぶ。敗者に鞭打つ行為を、君の先祖は是認してきたかな」

 

 ニコラスは長い間ぎりぎりと歯軋りさせてから、心の隅に残っていたであろう忍耐を酷使したのであろう、屈辱に顔を染めて去っていった。

 

 ハラハラとことの成り行きを見守っていた同輩たちは、ヴァレリオットを拍手喝采しながらも、選民思想を剥き出しにするニコラスに対して、

 

「は、ざまあみろニコラスのクソが」

「近親相姦野郎はひっこんでやがれ!」

「さすがはヴァレリオットさまですわ。イケメン、抱いて!」

「えっ、お前あっちの人だったの?」

 

 と侮蔑の嘲笑を浴びせた。多少変なのも混じってはいるが。

 

(あのような者が威張れるところではなかったのだがな)

 

 ヴァレリオットは、失われてしまった格式のようなものを懐かしみながら、ふうと小さくため息をついた。

 

 革命騒動以来、士官学校に通っていた平民派は表面上活動を取りやめた。貴族のお歴々が士官学校を思想の火薬庫として認定し、派閥のトップを僻地へ任官させたからである。今、士官学校で残っているのは、地方からの補充生ばかりで、派閥や思想に疎い連中ばかりである。

 

 これも士官学校の闇であろう。貴族階級の派閥システムが機能していれば、ニコラスのような異常者が日の目を見ることもなかったのだから。

 

「ま、けどよ。やっぱ、あそこまで遊ばれちゃおしまかもな」

「落ちたもんだぜ、リカルドも」

 

 ――ちっ、野次馬どもめ。

 

 琴線に触れる言葉を捉え、ヴァレリオットは、

 

「見せ物じゃないぞ」

 

 と邪魔者を散らした。その勢いは火を噴くドラゴンのようで、見物客は泡を食って逃げ出した。

 

 残された場は、葬式のように静まりかえっていた。ニコラスの言は醜悪でこそあったが、苦しみの狭間で彷徨う彼らの窮状を、これでもかと突いていたのだ。

 

「リカルド……」

 

「今は止してくれないか」

 

「だが」

 

「頼むよ」

 

 僅かばかりの感謝を告げられたヴァレリオットも、部外者には立ち入れぬ空気に遭い、建物の外に締め出された。

 

 どうしようもなく気になって、数人の野次馬たちと一緒になって聞き耳を立てた。

 

 今の自分は、果てしなく惨めだ。こんなこと細作でもやらない。家政婦や侍女の真似事である。それでも、ヴァレリオットは貝のようにじっと待機した。

 

 長いときが経ってから、エマの後釜である現参謀――壱科のグリード――が淡々とした声で切り出した。

 

「なあ、リカルド。人数を最大まで埋めないか? やっぱり五人だけじゃ勝てないって」

 

 機を見計らっていたのであろう。リカルドを慰めていたときと違って、表情に真剣味が差している。

 

「……その話は、もう終わったはずだ」

 

「け、けどよ。いつまでも引き摺っていられないっていうか。俺たちは進んでいかなきゃならないだろ」

 

「……」

 

「新しい人選は俺に任せてくれればいいからさ。ほら、心機一転ってやつだよ」

 

「……言いたいことは、それだけか」

 

 リカルドは、手にしていた模擬刀の鋒を仲間に向けた。般若のように怒らせた顔は、恐怖というより、哀愁を引き出す面持ちであった。

 

「あいつの代わりなんて居ないんだ! 誰にだって代われない。そんな存在、居ないんだ……」

 

 紡ぐ言葉を失ったように、リカルドは語気を無くしていった。彼の糾弾を受けたグリードは、ただ俯いたまま、「悪い」と謝罪の言葉を口にした。

 

 ヴァレリオットは耳を塞いで、その場を後にした。

 

 復活の兆しなどありそうもない。翌週、リカルド班がはじめて下位班に敗れたことで、噂は加速しはじめていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「ラブロックくん。この頃、自分の剣が曇っていることに気がついていて?」

 

 小隊、とは士官学校の肝となっている制度である。危険を察知し、能力を偏らせ、粘り強く耐え抜く。妨害魔道具圏内の、ありとあらゆる状況下で柔軟に単独行が叶うよう設計されている。

 

 それらエリートとされだしたのはいつ頃であろうか。上位小隊に個室が充てがわれている時点で、当初の理念を超えた特権が与えられていたことは事実であった。

 

 彼も、利益を享受する一人だ。暇を持て余したときなどは、決まって部屋を閉め切り、気散じに詩を書くことが多かった。

 

「はあ」

 

 墨を掃いていた筆を置き、ヴァレリオットはマスターキーを持つ人間の入室を認めた。扉が僅かに開いている。ドッキリ好きな悪趣味極まりない性格が発動して、音もなく侵入することを画策したのであろう。

 

 壁際で腕を組み、豊な胸をぐっと押し上げた女性は二十代から三十代ぐらいであろうか、どことなく自分と似た顔立ちをしていた。

 

「勝手に入らないよう言いつけておいたはずですが」

 

「あら、偉くなったわね。教官に命令できると勘違いしているのかしら」

 

「……教官と候補生には保つべき距離感があると思われます」

 

 第二小隊ヴァレリオット班の指導教官シラクサは、横に流した長い黒髪をかき上げながら背中側に回ると、耳元でふうっと囁いた。

 

「また縮めてみる?」

 

 青少年を揶揄う声音は、心底楽しくて仕方がないといった風であった。婚姻指輪を外しているようなところも用意周到である。ラブロック遠縁にあたる彼女は、剣と頭だけで成り上がった才女だ。が、色々弄ばれた経緯もあって苦手意識がつよかった。

 

 ヴァレリオットは無造作に椅子を引いて、顔を突き合わせて正対した。淑女としてはどうかと思うが、訓練校時代から浮名を流していた彼女は、男を手玉に取ることを得意としていた。理詰め以外の対話ではおもちゃにされるだけである。

 

「なんの用です」

 

 ふふっと微笑みに隠された内心は判然としない。むかしから、こうだ。面食いを自称して、伴侶として選んだのは容姿も能力も平々凡々とした地方軍人であった。考えること、喋ることすべて突飛で、そのくせ核心を突いてくるのである。

 

 ヴァレリオットが眉を顰めていると、シラクサは無言のまま窓に腰掛け、夏空の中に息吹を溶かした。視線は眼下に望む訓練場へと向かっている。

 

「昔から変わらないわね。そういうところ、すごく愛おしい」

 

「今更昔話ですか」

 

「歳を取れば人は昔を懐かしむものよ。それをしないということは、あなたもまだ若いのね」

 

 貴方もでしょう、という言葉を紡ぐことは憚られた。曖昧に塗り固めてきた箇所を穿るのは、ヴァレリオットにしても本意でなかった。

 

 シラクサは胸元から煙管を取り出すと、手慣れた風にマッチ棒で火を着けて、煙を更す。

 

「私は今のほうが好きよ。どうしたって色褪せるもの」

 

「……」

 

「過去に浸るのが、男は好きね」

 

 ふうと、夕焼けを眺めて黄昏れる彼女の横顔は、言葉とは裏腹に遠い過去へ旅立っているように思われた。

 

 誰の影響を受けたのか、気怠げに煙管を燻らせる彼女の姿は、知っている姉貴分とは違っている。

 

「でもね、その弱さを受け止められるのは女だけということ、忘れないで」

 

 シラクサは大人ぶって講釈を垂れるくせして、ほとんどを曖昧にぼかしたままだ。叱ったりはしない。いつだって、すべてを悟っているという顔をする。

 

 それが彼女なりの叱責であるということは、ヴァレリオットも分かっていた。

 

 その日の夕暮れ。候補生寮へと向かう集団に混じって、三和土造りの階段をヴァレリオットは降りていた。

 

 その表情は憂鬱そのものである。貴族寮に居を構えるゆえか、隣室の奔放な先達には迷惑していたのであった。どうやら市井の淫売を連れ込んでいる様子。これここに名誉ある士官学校の没落も極まったというところであろう。

 

 礼儀、伝統、格式というものを愚直に守る性格が直帰を遠ざけたのであろうか。無意識のうちに、足は訓練場へと向かっていた。

 

「リカルド……」

 

 言葉をかけたとき、男の意識はすでに消えかけているように思われた。リカルドは、水平に構えていた長剣をすうと足元にまで引くと、脱力した状態で轟然と横たわる巨岩を眺めていた。

 

 疲労は、すでにピークを通り越したのであろう。相貌には感情と思われるものが浮かんでおらず、ただ無心で構えを取っている。であるのに、剣を虚空に構えた姿は平素と寸分違わず、武術においてもっとも重要な姿勢を完璧に体得した姿であった。

 

 目を凝らすと、巨岩に数本の線が入っている。力を込めれば流れてゆくであろうバランスで、絶妙に起立しているのだ。護身剣として金剛流を嗜むヴァレリオットなどでは、想像の外の領域に達していた。

 

「ヴァレリオットか」

 

 真剣を鞘に納刀すると同時に、ずうん、と大岩が斜めにずれ、バラバラに分かれて倒れてゆく轟音が響き渡った。

 

「何か用か?」

 

「用ってほどじゃないが」

 

「なら放っておいてくれないか。剣を振りたい気分なんだ」

 

 長い間鍛錬に没頭していたのだろう。襟足から滴る透明な液体が首筋に伝っている。

 

 リカルドの実家、金剛流ドモン道場の親族はすべて牢獄に繋がれている。ゆえに彼を指導する人間はおらず、今は独流で腕を磨いている。

 

 だが、久方ぶりに見た素振りは、ヴァレリオットの記憶の中でも一際輝いているように思われた。

 

 剣に魂が乗っている、とでも形容しようか。身を包んで立ち登るような集中力が、極限にまで研ぎ澄まされて、剣気となっているのである。

 

 ヴァレリオットは息を呑んだ。その、生死の狭間で生きる迫力に。

 

 ヴァレリオットは世を儚んだ。その、悲哀極まる脆く弱いつるぎに。

 

 今の彼と肩を並べられる人間など、居ようはずもない。疾く、疾く駆けてゆく。すべてを置き去りにして。

 

 そして、遂には気がつくのだ。振り返ったとき、後ろに誰の追随もないことに。ぽつんと一人、立ち尽くしていることに。

 

 ヴァレリオットは黙した。そして、語る言葉を持てなかった自らを恥じた。

 

 その日、何の進展もなかったことを記そう。

 

 翌日、リカルド班参謀グリードが班から脱名したことを、風の便りで聞いた。

 

 

 



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日常編第二話:小隊戦狂騒曲

「リカルドはダメだな。ああも周囲にあたられちゃやってられん」

「だな、悲劇のヒーローってか。気取ってんのもいい加減にしろってんだ」

「付くなら安定感のあるラファエルかフェルミンだな、乗り換えるか」

「お前……あわよくば逆玉狙ってんだろ」

「男の夢だろ。美人、金持ち、貴族さま。最高だぜ」

「はっ、てめえなんかが相手にされるか」

「ちげえねえ」

 

 ゲラゲラと不快な笑い声に、ヴァレリオットは架空の魔法を詠唱した。

 

 人の性は男も女も変わらないのだろう。他人事、といった立場を取ってはいるが、声音は愉悦に浸っている。弱者のサクセスストーリーより、スターの転落がより快感を誘うのだ。声を潜めながらも残忍な好奇心で嘲笑っている。

 

 日を追うごとに、脱名者は数を増していった。すんでのところで決壊を押しとどめていたのは参謀グリードであったのだろう。ニコラスなどは下卑た顔つきを隠さず、ことあるごとにねちっこく絡んだ。

 

 リカルドは班員の公募を掛けたが、冷やかしのような弱者が手を挙げただけらしい。出場すら危ぶまれている現状を鑑みて、他所の指導教官などは、

 

「舎を代表しながらこの体たらく、誠に遺憾である」

 

 零落ぶりを論い、中には、エマの名を出して、下げマンなどと吹聴する輩まで現れた。堕ちた人間を徹底的に叩く。階級と成績に魂を捧げた学び舎の汚穢に満ちた本質であった。

 

「青くつめたき岩肌に

 すぎゆく日々を重ねゆく

 われらが肩にかかりしは

 花ではあらぬ薫衣草

 可愛らしい詩ね。咄嗟に出てきたの?」

 

「返せ」

 

「ごめんなさい。呼びかけても返事がなかったものだから」

 

 シラクサは微笑みながら詩の綴られた用紙を突き返すと、長机の上に腰掛けしなを作りながら妖艶に見下ろした。その目は、驚くほど冷えていた。

 

「まだ、閉じこもったままなの?」

 

 顎の下をすっとシラクサの細い指先が通り過ぎていった。その質感、量感は、心の奥底で封じていた官能の記憶を呼び起こした。女に、情感といった意図はないように思われた。憐れみの籠った目が凝視ている。

 

「女、弁えろ」

 

 手を振り払ったヴァレリオットの声には、冷たい拒絶が込められていた。反射的な動きであった。女は悲しむでもなく、微笑むでもなく、冷たい無表情で非礼を詫びた。

 

 謝罪の言葉もなく、ヴァレリオットは割り当てられている個室を後にした。後悔は必ず事後に生まれいずる。激しい懊悩にあった彼は、気のおもむくままに辺りを散策していた。

 

 いや、それは鬱病にありがちな迷走であったのかもしれない。

 

 重い。

 

 過去や人の想いというものが、カサになって肩にのし掛かっている。人間という、卑しくも尊い社会生物が創り出した因果に押し潰されそうだ。同輩たちの気遣いを疎かにしながら脚を回していると、敷地内のかたほとり、森林演習場前に辿り着いていた。

 

 ヴァレリオットは苔の生えた巨巌に手を添えた。開校当時から聳えるという由緒ある御岩さまは、変わらず雄大に歴史を眺めてきたらしい。僅かばかり、表面に刃傷がはしっている。悪戯心に駆られた未熟者の鼻っ面を、叩き折ってきたのだろう。

 

 ――本当に、そうか?

 

 暑さに焼かれたのであろうか。ヴァレリオットは肩に担いでいた荷を解き、構えを取った。すううと全身の力が血管を伝い、刀身に収斂されてゆく。心臓の鼓動に合わせて、今か今かと息が荒々しくなる。

 

 鯉口を切る。空に、ゆらり刀身を掲げた。

 

 夕焼けを駆けるような、火花が舞った。

 

 手応えは、なかった。視界を満たす閃光の中で、巨巌はかたときも揺るがず佇んでいた。

 

 得物を放り出し、ヴァレリオットは息を吐いた。強化の残滓で火照る身体を空からそそぐ風が撫でる。ぐるりと周囲を見渡すと、簡易的な井戸があった。釣瓶を落として水を汲み上げ、ちろりと中身を舐めた。澱んでいるような気配はない。柄杓ですくって喉を潤す。山際の端に紅を刷いたような夕日が眩しかった。それも、吸い込まれそうなほどに。

 

「――凡庸だな」

 

 ふと、巨大な影が視界を遮った。延びる先を追うと、鍛え上げた上半身を晒した鋼の男が姿を現した。

 

 クナルである。手には抜き身の大剣を携えたまま、ゆっくりとした動きで近寄ってくる。目の奥が窪み、どこか狂気に染まっているように思われた。無礼千万な科白であったが、心にはしみったれた苛立ちのようなものはなく、純粋に先をゆく稀代の戦士を目で追っていた。

 

「失せろ」

 

 三年釜を共にしてきたはずだが、彼の目付きは、初対面の羽虫を観察するものと同質であった。

 

「君に、占有する権限はないと思うが」

 

 クナルは頬をわずかに歪ませると、興味なさげに鼻で笑った。吹きつけた突風が彼の服をはげしくはためかせた。落ち着き払っている表情には、正面から反抗していることへの拘りすら見えない。油断も慢心もなく、奇妙なほど自然体であった。

 

「私など歯牙にもかけない、ということか。傲慢は身を滅ぼすぞ」

 

「一掴み幾らの裾物が喚くな」

 

「……驕りすぎではないかな。この私とて、剣技は伝位に及ぶ。魔の技を用いれば君も全力にならざるをえまい」

 

「貴様が、か?」

 

 クナルはくつくつと声をあげて笑った。悲しいことに、瞳には感情というものが失せていた。昆虫の目でヴァレリオットの全身を眺めた彼は、手にした大曲刀を天まで貫かんと大きく掲げた。

 

「雑兵、私の器は貴様如きで満ちぬ。狼とて群れる、獅子すら率いるのだ。羊にすら劣る貴様がどうして無為に挑む。束になってようやく人で在れるのだ。雑兵らしく、群れていろ」

 

 クナルは、驚くほど無造作に大剣を振り下ろし、いともたやすく巨巌を斬った。それは、リカルドが見せた剣技の秘奥や魂の気迫のようなものはなく、包丁で果実を切り裂くような、たわいのない何かであった。

 

 貴様らが競うのは、所詮凡夫の界である。若き天凛には、拒絶と思しき語り手としての力が秘められていた。

 

 彼我の距離はたった数歩。だが、そこには巨大な壁が聳える。血と死、悲劇で彩られた居壁。隔てられた境界線の向こう側で彼らは生きているのだ。

 

 時折、僅かばかり世界が交差する。決して繋がっているわけではない。憐れみのようななにかが、交わったそのときだけ恩寵となって落ちるのだ。こちらの世界に悲しみとなって、あちらの世界に幸せとなって。叶うのは、別世界のできごとをさも知ったように語るだけなのである。

 

 容赦ない糾弾に打ちひしがれながら、よろけた足取りで近くの木の根本に背を預け、荒い息を吐いた。落ちかかる夕日の残光が、斬られたように全身を朱で染め上げた。

 

(どうして、か)

 

 風が枯れ木を揺らし、瑞々しい葉を重力に引かせる。ひらひらと舞い落ち、掌に収まった落ち葉を眺めていれば、黙っていても現実を直視させられた。

 

 貴様は老いた枯れ木ではない。

 

 貴様は瑞々しい落ち葉でしかない、と。

 

 気がつけば、ヴァレリオットは鈍くうめいていた。蘇るのは、シラクサの横顔と裸体だけであった。記憶が、みるみるうちに忍び寄る闇の帷に包まれて見えなくなってゆく。手を伸ばしたとしても、もう遠い彼方の事物であろう。

 

 ヴァレリオットは涙を流さなかった。凍てつくような風が全身を震え上がらせた。

 

「リカルド……」

 

 呆然と彷徨った先には、当たり前のように男の姿があった。

 

 燃え尽きようとしているかのように、男は闇の中でも剣を振っていた。鋒から飛ぶ汗が、涙となって散っている。

 

 何かが誕生しようとしている。何かが死産しようとしている。没我の世界で孤独に歩む男は、どこか遠い世界に旅立とうとしている。過去と被る光景に、やり場のない後悔がヴァレリオットを襲った。

 

 絶望の末虚しい運命を辿ったエマ。

 

 迷うことなく汚辱に塗れる道を選んだアンヘル。

 

 弄ばれたことに蔑みを呟くでもなく、未練を断ち切るよう嫁いでいった恋人の姿。

 

 そして、望まれぬままに生を受け、いまもどこかで苦しみに喘ぐひとつの命。

 

 亡骸を冒涜することは許されない。朽ちた願いが、ヴァレリオットの背中を押した。

 

「なにか用か」

 

「ああ」

 

 そばにいてほしいと懇願したシラクサを、月の輝く夜に突き放した。守るため、よかれと思ってやったつもりだった。彼女を奪うことはいけないことだと、心の中で思い込んだ。

 

 本当はちがう。彼女は強い、そう妄信することで、すべてから逃避し、なにもかも終わったことにしていれば気持ちが楽だった。

 

 昔の自分は逃げた。身分や体面を気にして、彼女を拒絶した。

 

 今度こそは許されない。ヴァレリオットの双肩には、数多の願いが積み重なっている。悉く打ってきた逃げの手にすがって、安寧に微睡むなど選べない。

 

 男は吠えた。

 

 二本の足で雄々しく立ち、激しく吠えた。

 

「私を殴れ、リカルド」

 

 ――君の想いびと失われたのは、私のせいなのだから。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 思えば、昔から可愛げのない子供であった。ヴァレリオットは武官の名門ラブロック家に次男として生まれながら、幼きころはやんちゃばかりで、代官として一族が治めていた領地近郊では、無類の放蕩息子として知られていた。

 

 彼は、生来何かに縛られるのことを極めて嫌がる性質であった。

 

 理由などはない。物心着いた頃から常に変わらずそこに在った。推察するなら、聞こえこそいいものの、

 

「特権階級」

 

 に位置する家柄のせいか。平和な世にあって、能力など必要とされない。お飾りと名高い近衛騎士団や聖カトー騎士団などに身を捧げ、宮廷でのロビー活動が栄達を定める。つまりは、もう少し現場に近い家柄ならともかく、彼のような貴種が下々の生え抜きに混じって戦うことなどあり得ないのである。

 

 彼とて馬鹿ではない。腫れ物を触るように接する師範をひどく疎んだ。煽てられて鼻高々になる同年代とは著しく乖離していることは察していても、諾々と許容することはできなかったのである。

 

 そんな中、シラクサは唯一、ヴァレリオットに対して正面から接する人物であった。七つ上であった彼女は、籠の鳥である少年を憐れに思ったのであろう。身につけた剣技で躊躇もせず打ちのめした。

 

 幼きヴァレリオットは、意外にも、プライドだけは残っていた。無為な時間が彼の魂を犯し、立ち帰ったときには凝り固まらせていたのである。彼は激しく衝突し、何度も転がされては、狂乱とおぼしきまで憤った。当然であろう、齢十そこそこの少年が、隠された真実を直視したのだから。

 

 彼はあてつけのように蕩尽を繰り返した。類まれな容姿に託けては領内の女を引っ張り込み、気に入らない人間は有無も言わせず叩きのめしたのである。領内で高まる非難に対し、温和な父ブルーノ公こそ興味を示さなかったが、屋敷内での冷遇は日を増すごとに顕著となった。

 

 自然と外へと向かうことになるが、かといって、無辜の民を屠っていても心満たす何かが生まれることはなかった。心根は奔放でこそあったが、高みを目指すという剛毅さを欠いてはいなかったのである。黙ってオイラー学派の門を叩くと、護身剣と魔法を融合させ新たな技を体得した。

 

「シラクサ、もう一度勝負だ」

 

 魔法剣士ヴァレリオットと候補生シラクサの決闘は、勝利こそ前者に傾くことはなかったが、日毎に伯仲し始めた。愛想を尽かし切った家人たちの中にあっては、もはや熱中することは武術だけである。付き合っていた悪仲間とはとうの昔に縁を切っていた。彼の手には、剣と魔法しか残っていない。

 

 そんな荒み続ける幼きヴァレリオットを慰め、変わらぬ情熱でもって向き合ったのはただひとりシラクサのみであった。思えば、自身の過去と重ね合わせていたのであろう。伯父の従兄弟、一門の恥部として闇に葬られた気狂いガルナバルドが、侍女を無理やり孕ませた、その落とし胤である。望まれぬ命の申し子は、母の優しさ、父の厳しさを知らないことの辛さを身に沁みて知っていた。

 

 だからこそ、曖昧にぼやかしつつも本気で叱りつけ、精根を正そうとした。そこに、どのような感情が秘められていたのかヴァレリオットに知る良しもない。血を分かった家族を立ち直らせたい一心であったのであろうか。それとも、特別ななにかがあったのであろうか。少なくとも、小僧を揶揄ってやろうという、風情のない感情でないことは確かであった。

 

 そして、献身的に向き合う姿勢は、ヴァレリオットに怒り以外の何かを育ませた。厳しい戦いで、気遣いのような部分に癒されるのである。その頃からであった。自尊心をへし折った憎き敵ではなく、請い焦がれる何かへと転じたのは。気が付けば、ヴァレリオットにとっては彼女のみが人生のすべてとなっていたのだった。

 

 シラクサのすべてが、

 

 家族であり、

 

 恋であり、

 

 孤独なヴァレリオットを照らす道標であった。

 

「ふふ、強くなったわね坊や。ご褒美でも欲しいかしら?」

 

 秀才だった彼女と違って、ヴァレリオットはまごうことなき神童であった。

 

 雨が降り頻る夜、ついに模擬刀を顔の横に突き立てたヴァレリオットは、地面に寝そべる彼女へ口付けた。夜陰と興奮に乗じて、醸成された想いを果たした。シラクサは、驚くでもなく目をすっと細めると、妖美に微笑んで男を受け入れた。

 

 コトを為したヴァレリオットの瞳には、霧が晴れたように迷いがなかった。世間的に評価を上げたのはそれからである。はじめ、胡乱げに見ていた家人たちも、名門ラブロックに連なる武人を叩きのめし、得物のあざなに「人間無骨」と掘り込んだ稀代の剣士、シェフィールドを滅多打ちにしてからは、侮りの眼差しを底冷えした恐怖に転じさせた。

 

 唯一、喜んだのはシラクサであった。夜毎、寝台で男の腕に絡みついては、武勇伝を聞き願う彼女の歓びは、姉のそれというより、栄達を分かち合う女のそれであった。

 

 もちろん、ふたりは正式な婚姻などしていなかったが、愛情を深め合う中で徐々に心を通じ合わせていった。普通なら結ばれようのない身分だが、落とし胤であったシラクサはもちろん、武門の常として長子しか興味のない父ブルーノ公も、放蕩息子の行く末など干渉するはずはない。未来は万事うまく運ぶはずであった。

 

 決定的事件は、半年が過ぎてからであった。

 

「シラクサよ、申し開きはあるか?」

 

 久方ぶりの彼女の帰郷は、すべてを狂わせる序曲となった。

 

 古小屋で愛を語り合っていると、伏せられていた家人の手によって安々と捕縛され、当主の座す広間に引っ立てられた。なんの反応も見せなかった父ブルーノが、突如ふたりの仲を見咎めたのだ。

 

 ヴァレリオットは存ぬことだが、禁治産者ガルナバルド卿の後始末に奔走したのは、当時、次期当主候補であったブルーノであった。かの血にはなんらかの瑕疵があると信じてやまない彼は、妄信とも云える憎しみを抱いていたのである。

 

 貴族の顔で冷然と見下ろすブルーノに、シラクサは震え上がった。下されようとしていた沙汰は、女には受け入れ難いものであった。

 

「これが最後の機会だ、シラクサよ」

 

 当主としての判断は明快であった。

 

 一つ、誘ったのはシラクサ側であったと認めること。

 一つ、罪を贖うため、絶縁を受け入れること。

 一つ、事件を決して吹聴しないこと。

 

 そして、身に宿った生命を、父母を知らせることなく教会へ奉公に出すこと。

 

 これらを条件に、侍女として務める母やその他一才に責任を求めぬと明言した。

 

「ち、父上っ」

 

 思わずあげた反論に、父は一瞥しただけであった。じろりとした貴族の瞳は、感情と呼ばれるものはなく、自らを映す鏡のようであった。相手は問うている、自分の後ろに連なっている歴史に問うている。

 

 恐怖で戦いて目を逸らすと、自分の下に無数の屍が築き上げられていることを知った。貴種とは、数多の願いを踏み抱いて立っているのである。

 

 言葉を失って、ヴァレリオットは口を噤んだ。

 

 代わりに、シラクサが罪を告白した。

 

 荷物を背負って他所へと旅立つことになった女は、夜空に輝く下弦の月を見て、

 

「綺麗ね」

 

 と呟いた。応える言葉があろうはずもない。夜風に身をすくませながら、ひとりで立つこともできないのだ。力を失って見上げた男は、恨めしそうに月を睨んだまま無言で涙を流した。頬を流れる涙がこぼれ落ちる前、女の姿は闇に飲み込まれた。

 

 一月の謹慎を受けたヴァレリオットは、懺悔を幾度も繰り返した。変わらねばならぬ、成長せねばならぬ、と。

 

 弱いから、救えなかった。

 

 強ければ、救えたであろう。

 

 今まで受け入れらなかった伝統、格式に迎合し、遂には執着した。捨て去るならいましかない。無力だった自分と訣別するのは。

 

 いや、そうではない。それは嘘だ。要するに、逃げただけなのだ。あのときの自分でも、すべてを投げ出せば救えただろう。

 

 強くなれば救えると誤魔化し、弱さを悪と断じた。権威や地位がすべてを救うと、力だけを希求してきた。悪徳も不義も、すべては後から消し去れる。そう信じるしかなかった。

 

 簡単なことすら認められなかった。自分が可愛かった、咎が怖かった、ことを。

 

 だから、憧れた。

 

 自らを捨て去ったエマとアンヘルを。

 

 いつでも日輪のように輝く、リカルドを。

 

(ああ、思えば、意味のない旅だった)

 

 幻想から覚めたように目蓋を持ちあげると、そこには、雷に打たれた男が無音で佇んでいた。極度の緊張で筋肉が硬化していたのか、身体中に力が入らない。暗闇に煌々と輝く男の双眸を、恐ろしくないといえば嘘になる。だが、終えたのだ。長い長い、暗闇を彷徨う当てのない旅路を。

 

 ふっと笑うと、グツグツ底から感情が沸き立ってくる。ああ、自分はもう、ウォーカーではないのだ。彼らのようになろう。得難き人生の先達のように、光を示す道標となろう。そして、彼らが見ること叶わなかった行末を綴ろう。それこそが、自分の、真なる願いだ。

 

「来い、リカルド」

 

 あのときの男のように、女のように、今の自分は笑えているのだろうか。波紋に映る歪んだ唇はどうにも判断し難い。けれど、心は軽くなってゆく。

 

 抜き身の刃を、ヴァレリオットは閃かせた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 昼下がりのオスゼリアス士官学校癈兵院。学術院に属する医師見習いや、衛生兵として日々研鑽を積んでいる若人たちが闊歩している。ヴァレリオットは、彼らと患者たちが織りなす喧騒を、煩わしいと思った。

 

 いつもは見舞う友人として訪れるからであろうか。気にならなかったはずなのに、病室の壁沿いに屯する家族や友人の、迷惑を考えない勝手な声が、今日はやけに耳を突いた。石造りの天井は、開けた広場の吹きさらしより音が反響する。

 

 医師が出ていった病室の中で、包帯を取り替える音だけが響いている。腕と脚の包帯を棄ててから、後ろを向かされたヴァレリオットは瞳を閉じた。

 

「馬鹿ね」

 

 背中側に回ったシラクサは、ヴァレリオットの襤褸となった制服を捲り上げながら、慣れた手つきで軟膏を塗りつけた。

 

「ひどい言いようだ」

 

「殴り合いだなんて、馬鹿じゃないとできないわ。貴方は由緒ある御家柄でしょうに」

 

「褒めてくれないのか」

 

「褒める? 冗談が下手なのね」

 

 傷は、顔の腫れに較べればそう大きくない。それより目を引くのは、矢を雨霰と浴びたらしき古傷である。シラクサは、その傷一つ一つに手を這わせ、震える声で呟いた。

 

「でも……あなたに必要だったのは、女じゃなかったのね」

 

「俺は、変われたか」

 

「さあ。けれど、昔の貴方と同じぐらい私は好きよ」

 

 シラクサは、成長した弟を懐かしむよう、丹念に傷の一つ一つを摩った。時折、鼻を啜り上げる音が漏れてくるが、努めて振り返ろうとしなかった。

 

 シラクサとて、ぐちゃぐちゃに泣き腫らした顔なんて見られたくないだろう。ヴァレリオットは、空に浮かぶ太陽を眺めながら、ある誓いを思い出した。

 

 激しい剣戟の嵐は、空が白み始めるまで永遠と続いた。いつからか、剣を取り落とし、白目が濁っても拳を打ちつけては、相手を叩き伏せようとした。

 

 ――彼女はふさわしくなかった。

 

 ――将軍へと昇り詰める君に、相応しいパートナーではなかった。

 

 ――だから、あの男と結ばれるよう画策した。

 

 約束は、互いが互いを信じ合う契約だ。幼き頃そう伝え聞き、ずっと信じていた。

 

 だから、夫婦の契りを下半身の滾りで反故にし、法律を懐加減で覆してしまう父親に、ヴァレリオットは失望した。

 

 母が冷たいのも、父が約束を破棄して、遊びまわっているからだ。自分がいつもひとりぼっちなのは、約束を守らなかったからだと。

 

 いつも恨んでいた。温和で甘いだけの父を呪っていた。

 

 だから、いつか自分が大人になったときは誓いを、約束を守ろうと。

 

 一度は破られた。二度目も破られようとしていた。でも、過去はいい。どうやって変えられないのだ。なら、これからはどんな形になっても約束を果たそう。

 

 約束は絶対なんだ。だから、守る。理屈はそれだけでいい。

 

 経緯はどうであっても、エマの絶望とアンヘルの献身に誓ったのだ。彼を、必ず栄達に導いて見せると。引き上げる鎖が切られたとしても、支える土台が蹴り崩されたとしても、魂だけでもなんとかする。

 

 誰も知らない誓い。この誓いは自分だけのもの。

 

 誰も知らず、自分だけが知っている。自分は、自分自身が、自分を裏切らないと知っている。

 

 もしも、この誓いが破られたとき、自分は汚泥に沈んで腐ってゆく。

 

 それだけでいい。それだけ知っていれば。自分は、いつだって立ち上がることができる。

 

「なあ、シラクサ」

 

 背中を撫でていた手が、ふいに動きを止めた。感触に身を委ねていたヴァレリオットは、身体ごと振り返って跡の残る彼女の頬を拭った。

 

「……まだ、早いわ」

 

 シラクサは、嫌がる子猫のように顔を震わせた。

 

「何も言ってないぞ」

 

「貴方には人生がある、私にも……そして、あの子にも」

 

 反駁が突こうとした口を、シラクサの細い指が縫いとめた。首に手を回しながら彼女は耳に口寄せて、そっと呟いた。

 

「いつか必ず会いましょう。大きくなったとき、変わっていない貴方と、私と、あの子の三人で」

 

 それさえ懐かしく思える自分は、変われたのだろうか。姉の胸に抱かれながら、男は、燦々と輝く太陽を眺めていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 じゃん、じゃん、じゃんと銅鑼のなる音が、低く、遠く、彼方から聞こえてくる。合わせて、観衆の盛大な雄叫びが轟く。

 

 ヴァレリオットは模擬剣を構えると、林立する樹木の奥の急増砦を見据えた。何度だって見た景色。いつもと変わらない六人の敵が居て、その奥に落すべき目標がある。

 

 違うのは、自分がチームの主役ではないというだけ。開放感と緊張感の狭間、いわゆる集中状態に浸っていた。

 

 ついに、ここまできた。はじまってしまう。惜しいような、すぐに済ませたいような。喉に溜まった唾液をごくりと嚥下する。すべてがリセット。震えはこない。ヴァレリオットはゆっくりと青い空を見上げた。

 

「そんなのアリか?」

 

 疲れたように首を振る男が、頭上から降ってきた。悪魔にぶらさがる対戦相手ラファエルは、こちらの面々を眺めてから口をへの字に曲げている。

 

 これもパフォーマンスの一種だろう。煩わしい群衆のボルテージが高まった。それを嫌っていた自分はもういない。他人事、いや、事実自分の話ではなかった。

 

「落ち目って話だっただろ。どんな魔法使ったんだ」

 

 ラファエルの目は、自分を素通りして背後に立つリーダーへと向かった。

 

「なあ、リカルド」

 

 リーダーは陣形の中で雄々しく笑った。

 

「ズルだと喚き立てるか?」

 

「いやいや、そんなことはしないさ。は、はは、いいねぇ、熱くなってきた。ニコラスの奴じゃちょっと物足りないと思ってたのさ」

 

「お前の目的は、主家へのアピールだろ」

 

「ま、そういうこと。注目されるには食い出のある獲物が必要だからな」

 

 ラファエルが優雅に礼をした先には、大注目の一戦ということで足を運んだ有力者たちの貴賓席があった。とはいっても、主目的の御令嬢は取り巻きたちとの歓談に手一杯で、派手な振る舞いなど一切注目していないが。

 

 彼は軽度の近視である。ご満悦な様子を尻目に、新リカルド班は顔を見合わせて含み笑いをした。

 

 じゃん、と銅鑼の音が連鎖する。心臓の鼓動に合わさって高まってゆく集中。宙を舞って陣営に戻ってゆくライバルを見ながら、リカルドがぽつりと呟いた。

 

「俺は、まだお前を許したわけじゃない」

 

「……ああ」

 

「けど、お前の言う通り、こんなところで凹んでたってなにも変わらない。一時的に手を借りるだけだ」

 

「……ああ、それでいい」

 

 そう答えると、リカルドは軽くあごを反らした。傲慢な目つき、勝気な振る舞い。けれど、それこそ覇道を歩むつるぎだ。冷たくて、闇に輝く剣になどあってはならない。夢にまで見た光景に、ヴァレリオットは涙を流した。

 

「リカルド」

 

「なんだよ」

 

「綺麗だ」

 

「――はぁっ!?」

 

 ぞぞぞ、と手首から肩まで鳥肌がたってゆくのをはっきりと見た。勝利を見据えていた瞳は、一転して獣を発見した恐怖で戦いている。

 

「ちょっと待て、お前まさか」

 

「い、いや、そんなわけないだろう」

 

 慌てて手を振ったのだが、裏目に出たのだろうか。すすすっとリカルドが後退してゆく。長年付き添った仲間さえ、ぎょっと顔をこわばらせていた。

 

「ふ、っざけんな。なんだそのオチっ!」

 

「待て、試合はどうするっ」

 

「知るか。俺のケツを狙うんじゃねえ!」

 

 凄まじい身体能力で飛び去ってゆくリカルド。とき同じくして、試合開始の合図。新生リカルド班はヴァレリオット以外の戦線離脱で敗北することになった。

 

 プレミアムリーグ開幕戦。第一リカルド小隊の初陣は苦い記録となった。しかし、彼らが破竹の勢いでライバルたちを蹴散らすだろうことは、語るまでもないだろう。

 

 がんばれ、リカルド班。

 

 イケイケ、リカルド班。

 

 

 

 一方、反対陣営。

 

「おーい、試合はどうなんのー」

 

 試合を逃したラファエルの虚しい叫びだけが木霊した。

 

 

 



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日常編第三話:ベップ異文化交流記 その一

ギガ軽くて、エンドレス下品なので、苦手な人は注意です。



 帝国属州随一の都、オスゼリアス東側に位置するデンドロメード湖を南南東に進み、古今一度も活用されることのなかった大自然の要塞「中央山脈」を西へ迂回すると、狂ったように樹木の茂る帝国大森林が果てなく広がっていた。

 

 帝国中緯度一帯は一般にガスパエル海気候と呼ばれ、夏期のほとんどが日照りばかりだが、この辺りだけは連峰の影響か降雨が多く、大樹林を形成している。魔物も相まってほとんどが未踏地であり、一応なりとも帝国に臣従したが、他国のように隷従することない原住民たちの宝庫であった。

 

 とはいっても、観光地として価値があるわけではない。年中暑く蛮族も闊歩する魔境は、帝国広しといえども研究熱心な学者先生方か、もしくは敬虔な宣教師の興味をくすぐるぐらいであった。

 

 そんな僻地を、周辺住民たちは「盗賊の遺棄場」と揶揄するぐらいには疎んでいた。魔物被害が目に見えて多いからだ。加え、我の強い探索者はアテにならないので、常設の森林警備隊とは別に有志の自警団が組織されている。「ポーナ州では鍬で人を耕す」とは至言だが、無骨な農民たちは競って武芸を磨くほど武侠の色が濃かった。

 

 そんな地元民でも近づかない地雷原を、二つの影が縫っている。

 

 その一つ、第三〇クナル小隊所属のお調子者ベップ・リベラ・フォルチは、いつにない不機嫌なオーラを纏っていた。

 

「あぁ~何も見えて来ねえ。暇すぎる……なあ、アルバ。お前ってどんな女がタイプ?」

 

「……」

 

「なあ、おいって。……はあ、ちょっとくらい話せよな、もう二年の付き合いだぜ俺たち」

 

 黙ってばかりの同輩に口先を曲げて文句を呟きながら、柘榴の捩木に手をついて沼地を進む。森を彷徨って早半日。樹木と熱帯特有のキモい昆虫、不潔な魔物が跋扈する超未開の蕃地に、自他称シティボーイのベップには辟易していた。

 

「なあ、同期で気になるやつでもいいからさ。さすがにちょっとぐらい居るだろ」

 

「……」

 

「趣味なら聞いていいのか?」

 

「……」

 

「おーい、アルバさーん。生きてますかぁー」

 

 壁を打つような徒労感。ベップは葉が擦れ合うようなため息を吐いた。

 

 同部屋、同班でありながら、こうまで不仲な関係は珍しい。プライベートに至っては出身部族しか知らないのだ。隊長、実質的なリーダーについても思考を巡らせてから、やってらんね、と黒光する巨大兜蟲を叩き斬り、別たれた胴体に腰かけた。

 

(そりゃ悪いのは全部俺なんだけどさぁ)

 

 休憩しているのが気に入らないのか、アルバは無言で前に立ち、ターバンの奥に潜む猫目で睨んでいる。

 

 これなら、ソニアと来たほうが万倍マシだったろう。候補生とは寝ないという掟を破りそうで怖いが、細事には拘っていられない気まずさだった。

 

 ベップはガサゴソをバックパックを漁り、蜂蜜エールの入った皮袋を取り出した。それから乾パン一欠片をつまんでみる。

 

 と、そこで、靴底がぺらついているのを発見した。

 

 やはり制服と革靴などで入るのは無謀か。二人の格好は、森林警備隊などに見つかれば自殺を疑われかねない気狂い同然の軽装であった。

 

(マジでおっさんの忠告を聞いとけばよかったぜ)

 

 今更だが、開拓村べンドンバーンで森師の案内を無下にしたことが悔やまれた。

 

 勘違いされがちだが、身体能力と行軍能力は別物である。探索には、なによりもまず、地図と方位磁針といった道具の扱いが重要とされる。足拵えは、長距離移動に耐え得る厚い皮の長靴にするべきで、傾斜を登るための尖った鉄製の杖やアイゼン、ザイルなど諸々を備えておいた方が良い。それから数日分の食料。夜を越すための燃料や火打石なども必須である。これら物質的備えに加え、「沢を下ってはならない」などといった原則なども抑えておくべきであろう。

 

 候補生のくだらない、かつ、割とある死因が自然を舐め腐って餓死することである。超人的な身体能力は、雪山など夏着でも踏破できてしまう。脳筋候補生にありがちな傾向だった。

 

 一切れのパン、ナイフ、ランプを鞄に詰め込まない愚か者の行く末は如何に。当然、君を乗せることなどできない。家族に不名誉な死が届かぬよう、ベップは信じてもいない神に祈りを捧げた。

 

「なあ、まじないかなんかでどうにかできね?」

 

「……無理」

 

「そこをなんとか、さ。ほら、二人寄らば文殊の知恵っていうだろ」

 

「……期間は一週間、尻拭いは自分でしろ」

 

 第三十小隊は現在、マルマラ州のビーチで、護衛対象が揃うのを待っている。それまでに仕事を終え、トンボ帰りしなければとてつもない咎を負う羽目になるだろう。いや、精々置いていかれるぐらいだろうが。

 

 一方、小隊結成の経緯もあり、アルバは期限をなんとしてでも守ろうとするだろう。

 

 実に前途多難な旅路だ。

 

 完全に自分の所為ながらままならない人生に唾を吹き付ける。腰かけている死骸からけったいな悪臭が立ち始めたことで行軍を再開したベップは、どうしてこのようなことになったのか、経緯を振り返りはじめた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「やぁん、旦那様ったらお元気ですぅ」

 

「けしからんものを前にしちゃ黙っておれませんて。ああ、レイラちゃん、君の中にずっと埋もれていたい」

 

「あぁんもう、エッチなんですからぁ」

 

 相好を崩しながら手をワキワキさせている男。それが奇異に映らないのは夫婦の巣か、天下の遊里サンダカンの娼館街ぐらいであろう。

 

 いや、どちらにしても下品か。学園一の遊び人を自称するベップは、暑苦しい陽光で蒸し焼きになる中、桃色のカーテンが映える寝室で、いつもの相手レイラと馴れていた。

 

「それにしてもぉ、こんな真っ昼間に遊んでて大丈夫なんですか。小隊戦が始まったところだって、前のお客さんが言ってましたぁ」

 

「いいんだよ。俺たちは特別、いわばダークホスだからさ。あとで出て行ってびっくりさせるの」

 

「さすがですぅ。レイラ、キュンって来ちゃいます」

 

 二つの肉塊を両手で弄びながら金色の髪を喰む。漏れる心地よい艶聲を耳にしながら、ベップは窓の向こう、学園の方角を眺めていた。

 

 彼女とは初客であった縁から続いている。腰は程よくくびれていて、豊満な胸や吊り上がった尻肉と、風呂屋の芸妓やストリップバーのダンサァとは味わいがまったくちがった。

 

 元老院議員にも御得意が多いと噂される老舗サンダカンは、酒類や茶菓子も品があった。女性を全身で感じながら、豪の者らしくしゃぶらせる。これら、旧ヘラミム地方の葡萄酒を口にしながら耽るのは、世のしがらみを忘れさせてくれたのである。

 

(やっぱ女ってのはこうボン、キュ、ボンじゃないとなぁ)

 

 振る舞い茶屋のハンナ、それから製糸工場の次女レヴィン、未亡人も居ただろうか。遊んだ女は星の数ほどいれど、彼女ほど良い身体もなかった。

 

 帝国人らしい抜けるような肌は天下の花魁の名に相応しく、時折、詩を詠んでは深い教養を覗かせるのもポイントが高い。第二皇女に瓜二つ、などと巷では囁かれているようだが、頭アッパラパーな箱入り娘か、冷酷な女帝しかいない貴族女と一緒にしないでほしかった。

 

「ねえ、旦那様」

 

 存分に楽しんだあと赤ら顔で気の抜けた返事をすると、レイラは太客への媚びというより、女の哀願という面持ちで袖を引いてきた。

 

「今度はいつ頃いらっしゃいます?」

 

 目の奥には、縋るような弱い光が篭っている。彼女にとって、ベップははじめての男だ。売り時の今、馴染みの客に落籍してもらいたいという本心が透けていた。

 

(ま、そろそろ潮時なのかもな)

 

 遊郭とは一夜の幻、と心に刻んだつもりだったが、いつの間にか溺れていた。不義理は忍びない。彼女の鏡台に流れているほとんどが、アンヘルの持つ出元不明の資金であるから余計に。

 

 零細貴族に添うても不幸になるだけ。戦争で親を亡くし、なくなく身売りすることになった彼女こそ、市井に商いを持つ良人が相応しい。軍人の自分は、いつ黄泉に旅立つかわからないから。

 

 ベップは曖昧な笑顔のまま煙に撒くと、頬を緩みっぱなしにさせながら、ふらふら千鳥足のまま店先へと出た。

 

 懐はじゃらじゃらとまだ分厚い。見目が派手なのか、音が目立つのか。行く先々で屯する売春婦に両手を取られた。そうやって色街の隘路を彷徨っていると、まるで迷宮に入り込んだようであった。

 

 ――俺は(女の)迷宮王になる!

 

「って、地獄の切符と引き換えなんだけどさ」

 

 遊んでいられるのもあとどれくらいか。同期と連んで馬鹿騒ぎ、なんて長らくやってない。あの頃はよかった。金がなくて偉い奴にヘコヘコするのも楽しかった。

 

 それが今はどうだ。自分だけだろう、いつまでも遊び人でいるのは。

 

 いや、それもちがうか。

 

 すっと懐に潜りこんで来た手を、鋭い反応で捩じり上げた。

 

 筋張った慣れた手だ。ベップは、盗人の飄々とした細面を右手で張った。

 

「失せろ」

 

 壁に打ち付けられた盗人は、極度の恐怖にでも襲われたのだろうか。全身を震わせると、ご小水の蛇口を狂わせてしまった。うえ、きたね。

 

 鳥人並みの跳躍で周囲を驚かせると、喧騒など素知らぬ顔で酔っ払いを再開した。顔には現れやすいが、生まれつき肝臓が強く祝賀会の英雄と呼ばれていた。言い換えると店のカモだが。

 

(つか、男の失禁とか誰得だよ)

 

 汚染された記憶を塗り替えようと、やからに絡まれ、泣きながら奉仕するソニアを思い浮かべようとした。無理があって、女王様プレイに変更する。強引は好みじゃないのだ。

 

「おっ、あれはケーナちゃん」

 

 くだらない妄想で己を励ましていると、裏通りをすすっと横切ってゆくガールを発見した。ぴょこん、と頭から跳ねた耳が二つ折りになっている。茶毛の兎耳だ。

 

 なんということはない。フィルドラビット蛮族の小麦肌に囚われて、口説きまくった女の一人であった。

 

 あれほど致したあとだというのに、神槍ロンギヌスが戦闘態勢に入っている。

 

 暴れん坊な我が大槍身め。ふう、今宵もロンギヌスが泣いている。

 

 猛りに導かれて、ベップは不道徳を形にせんと動きだした。

 

「なあ、おっさん。そのボロ切れと鏡くれねえ?」

 

「あ、別にいいけどなんに使うんだ――っておい」

 

 露天商が売っていた布を頭に巻きつけると、細工の切れ端であろう細長い鏡を片手に、にやりと歯を剥き出しにした。

 

 変態仮面、ここに爆誕。

 

 酔っ払いの狂態だと思っているのだろう、往年の店主も奇妙な顔で唸っている。だからどうした。今の私は、温暖化から地球を守るトゥーンベリの愛弟子だ。

 

 さあ、ご散水を始めよう。

 

 路地の端っこで尻を振りながら歩いている女を見つけると、無言のまま襲いかかった。

 

「喋るな」

 

「ひっ」

 

 ドスの効いた声と、突然背後から抱きすくめられ、首元に光り物――さっきの鏡――を突き付けられたことで、女は身体を硬直させた。

 

 気付いてない、気付いてない。

 

 嫌がる女を路地裏にずるずる引き込みながら、壁に両手を付いて股を広げろと命令した。

 

「い、いや……うそっ」

 

 スカートをたくし上げて、外気に淡い水色のショーツを晒す。かちゃかちゃとベルトを外す音を聞いたのか、肉厚の尻を小刻みに震わせていた。

 

 後背位の作法は指圧であろう。華奢な腰から手を離し、おもむろに乳房を鷲掴みにした。

 

 小ぶりではあるが、沈み込むような柔らかさを掌全体で堪能する。ピンと爪で弾くと、全身の筋肉に緊張が走った。

 

(ってあれ、ケーナちゃんってこんなに小さかったっけ?)

 

 大きくなることはあっても小さくなることなどあるのだろうか。伝ってくる感触もいつもとちがう。なんというか、初々しくて勝気な彼女っぽくないのだ。

 

 ぶちまけ変態プレイで温暖化対策に貢献してから、じっとり火照らせてやるつもりだったが、身体は氷のように閉じている。

 

 奇妙な心持ちで湿りもしない中心を弄っていると、彼女はフルフルとまつ毛を震わせ、涙ながらに切願した。

 

「やめてっ、ください……はじめてなんです」

 

「は、じめて?」

 

 いやいや、ケーナちゃん。俺とヤる前からバリバリ遊んでたじゃん。つか君、元娼婦でしょ。

 

 演技の一環なんだろうかと下履きをずり下げたとき、背後から身震いするような怒声を浴びせられた。

 

「キサマッ、アンナさんから離れろっ!」

 

 強大な殺気を感じ取り、ベップは彼女を抱えたまま飛び退いた。

 

 ぶうん、と凄まじい風切り音を立てて、回し蹴りが通り抜けていった。当たっていたら首もげ案件である。

 

「何しやがるっ」

 

「それはこちらのセリフだッ。早く彼女を解放しろ!」

 

 ファイティングポーズを取ったスキンヘッドの男は、戦地さながらの闘気を放射し始めた。全身を総毛立たせる、ガチもん戦士の風格であった。

 

(あ、しかもこいつ、徒手空拳の使い手だわ)

 

 インファイトを得意とする傭兵だろうか。得物ありなら兎も角、上背のある大男に素手は苦戦しそうである。

 

「私の正義が真っ赤に燃える。お前を倒せと指が喚く。外道っ、灰になれることすらぬるいぞ!」

 

「ちょ、ちょっと待てよ。お前は根本的に何かを勘違いしてる。少し落ち着けよ」

 

 ベップは脇に抱えた女を片腕で弄んで、自分のものであると殊更主張した。

 

 ケーナは性に奔放で、常連の職人衆十人を同時に食った伝説もある。この若人も、清楚な見た目に騙された被害者であろう。

 

 が、粗雑な弁解は逆効果だったようだ。男は固めた拳を突き立て、フーフーと荒い息を吐いている。

 

「ことここに至って言い逃れとは、生きていることを後悔させてやる」

 

「だから、ちょっと待てって。すぐ事情を説明してやるから、な?」

 

 滝のような汗を拭いながら、腕の中で沈黙を守っている彼女と大男を見比べた。

 

 というか、早く顔を上げて弁解を助けてくれ。周囲から人が集まってきて、これでは本物の暴漢だ。

 

「俺と彼女は……そういう仲なんだ。これ以上、聞くだけ野暮ってもんだろ?」

 

「私には、無理やりに見える」

 

 と言いながらも、大男の額に脂汗が浮いて不安が漏れている。

 

「へ、へへ、快楽ってのはハードコアなほうが楽しめるって云うからよ。俺は、ちょっと工夫して楽しませてるだけっていうか。ま、そういうことだよ」

 

 言い訳すると焦って表現を誤ったのである。が、客観的に見て、今のロジックはどう考えてもエロゲェの陵辱敵キャラだった。

 

「う、うそ、ですよね。ねえ、アンナさん。アン、な、さん?」

 

 さっきから「アンナ」って誰だよ、と疑問に思っていると、腕の中の女がはらはらと涙を零し始めた。

 

 旅商いで失敗して、債務奴隷へと転じても明るく努めてきたのは、同じ身分の妹を助けるためであったらしい。寝物語に聞かされた身の上話の帰結は種族的強さというより、環境が育ませたということであったはずだ。

 

(って待てよ、妹ってたしか……)

 

 昔、酒屋の男と幼馴染を争って、ファイトクラブ騒動に発展したこととデジャブった。確かあのときも勘違いで……。

 

 肩を掴んで彼女を真正面から凝視すると、見覚えのない泣き黒子を発見してしまった。

 

 ――やっべ。別人だわ、これ。

 

 悪神が憑いているのか、時折、強烈な大事件を起こしてしまう。しかも今回、割と洒落にならない現行犯である。

 

「ゆ、許してくださいケインさま。私は、汚されてしまいました」

 

 目を伏せながら、ハンナは弱々しく呟いた。

 

 役者、というほどではなかったが、嗚咽混じりの懺悔は見るものの良心を燻らせた。

 

 拙いからこそ、よりリアルなのだろう。婚約者がいる身で暴漢に襲われた乙女。妄想が捗りそうな設定に神槍が鎌首をもたげはじめた。いや、普通に事実なのだが。

 

「き、き、き、き、き、きぃぃぃさぁぁまあああッ!」

 

 大男は、こんもりしたベップテントの膨らみを見て顔を真っ青にさせたかと思うと、一転赤龍もかくやとばかりに怒りを噴出させた。

 

 怒髪天を突いている。ハゲなのに。

 

「あ、あは、はは?」

 

 苦し紛れの愛想笑いに男は凶相を浮かべると、命の輝きとおぼしき魂の奔流をベップに浴びせた。過強化、の煌めきである。

 

 命を賭して囚われの姫を救わんと拳を掲げる。ディフェンディングチャンピオン、ベップは勝てば強姦魔、負ければ死亡。百パー自業自得だが、お縄になって手元不如意が最善にすら思えてくる次第だ。

 

「やめてください、ケインさま。私のような穢れのために傷つくなんて」

 

(さっきは喋れって思ったけど、今はマジで黙っててくれ。たのむ、ガチで死ぬから)

 

 集り始めた群衆が血の匂いに気付いて囃し立てはじめた。

 

「ぬ、抜けぇぇ! その格好、候補生であろう」

 

「あ?」

 

「貴様のような卑劣漢が世直しをほざくとは、誠狂った世よ。この私が成敗してくれる」

 

「い、いや、俺はそういうの興味ないってか」

 

「為らば尚のこと信念が欠けている。私は、ずっとアンナさんをお慕いしていた。彼女は誰も見向きもしない徒手空拳の使い手を、ただ一人励ましてくれた。この世に彼女ほど清廉な人は居ない。ゆえに、私は過去にどんなことがあろうとも気にしない。彼女の美しさは、その内面にあるからだ。ましてや、貴様のような寄生虫に噛まれたことなど、何の関係があろうか! 私の愛は、身分、過去、種族を超えたところにある。いま、それを証明してみせる!」

 

「け、ケインさま……」

 

 地面に崩れ落ちながらも両手を合わせ、キラキラした瞳で仰ぎ見るアンナ。場は、悪役令嬢のクライマックス並みに盛り上がりを見せた。

 

「おい、この男に剣を渡せ。これより、彼女を賭けた魂の決闘を申し込む」

 

「お、おいおい、このくらいでやめようぜ。謝罪ならするし、金なら――」

 

 言い方を完全にミスった。金、という単語を口にした途端、男は侮蔑の眼差しを浮かべると指抜きグローブを装着した。

 

「私は黒鷲傭兵団第三隊副長、赤指のケインだ。名を名乗れ、帝国人としての誇りも忘れた薄汚い拝金主義者め!」

 

「ベップだ」

 

 彼も立派な武官の生まれ。このような前口上にはめっぽう弱い。所属や家名を名乗らなかっただけ冷静さを残していたが。

 

「我が二つ名”赤指”は、故郷の名産品、巨大林檎を一握りで粉々にしたところから付けられた。私の指に捕まれば一巻の終わりであると覚悟せよ」

 

(……果てしなくだせぇ)

 

「今より神聖なる一騎討ち。間に割って入ることは許されぬ。皆の衆、良いな」

 

「こっちとしては法の裁きを受けるってのはやぶさかじゃないが、決闘ってなると手は抜けねえぞ」

 

「ふざけたことを。私のような平民では、わけもわからぬ理論で煙に撒かれるだけであろう」

 

「俺はそんないいところの出じゃ」

 

「臆したか、この卑劣漢めが」

 

「ケインさま、死なないで」

 

「はい、私ケイン。アンナさんのために、すべてを捧げます」

 

「もぉいいよ、なんか漫談みたいになってきた」

 

 ケインが恭しく騎士の礼を取ると、よくわからない憤りのようなものが燃え立っていた。無性に暴れたい気分だ。女郎屋の護衛から長剣を受け取ると、地面を思い切り蹴り付けて、弾丸のように駆け出した。

 

(物理的に戦えないんなら、地獄へ行かなくても済むかもな)

 

 隊長は人の心がなくて最悪だが、アンヘルの献身も十分終わっている。自己犠牲といえば聞こえはいいが、勘定に味方まで入っていない。

 

 そのうえ、呪われているのか頻繁に大事件が勃発するので、軽く死ねる。それと較べれば、よくわからない猿芝居など。

 

「俺のこの手が真っ赤に輝く! 敵を倒せととどろき叫ぶ! 必殺、○○○フィンガッー!」

 

 鞘に仕舞ったまま長剣を平正眼に構えると、その中心に標的を据えた。

 

 たちまち、男の眼つきが変わった。演説にわずかながら酔っていた頬が、針のような闘気に刺激されて緊張したのだ。

 

 ベップは無理やりながらも激戦を潜り抜けさせられた勇士である。そんじょそこらのお遊戯剣法とは一線を画した本格派だ。

 

 一瞬の油断が勝敗を決する。

 

 魅せの一手を上段から放つと、ベップはそのまま懐に潜り込んでショルダータックルを見舞った。

 

 こういう場合、重心の低い侏儒のほうが有利だ。鳩尾の下から担ぎ上げると、憐れケインは両手を放り出して吹き飛ばされた。

 

 気合は認めるが特別な才はねえな。立ち上がって猪のように向かってくるケインの喉元に、抜き手も見せず銀光を閃かせた。

 

「やめようや。嬲るってのは好きじゃねえ」

 

 低くドスの利いた声は、さっきまでのチャラい風を吹き消した。神速の居合術に男は凍り付いている。

 

「ほら、話し合いでケリにしようぜ」

 

「あ、アンナ殿……ああ、申し訳ない。あなたをお救いできず」

 

 宥めようと思ったのだが、ケインが跪いて懇願を始めた。いや、話聞けよ。

 

「も、もうやめてください。私ならどのようなことでもご奉仕致します。なにとぞ、ケインさまをお助けください」

 

 こちらはアンナだ。ベップの足に縋りつきながら涙を流している。谷間をぎゅううと寄せての上目遣いにぐっと来た。

 

「そ、そんな、そのようなことはやめてくだされ」

 

「いいのです。このアンナ、ケインさまの想いに迷いから解き放たれました。あなたとの思い出だけで、私は生きて行けます。毎日、あなたの居る方角に祈りをささげることだけ、お許しください」

 

「おーい、別にそんなつもりじゃ――」

 

「おお、おお。神よ、どうしてこれほどまでの試練を与えたもうた。私は毎日一善、近所の子供に飴をやっているのです。病床の母に毎月仕送りをしているのです。私は善人ではないのですか。私はこのような苦難に合わねばならぬほどの悪人なのですか」

 

「ああ、なんとおいたわしい。ケインさまには必ずや、私以上にふさわしい人が現れます」

 

「そんなことはありません。私にとって、貴方はフレイアです」

「ケインさま!」「アンナさん!」

 

 悲劇の主役を気取って、地べたで抱き合いながらわあわあ泣いていた。大根臭すぎて辺りの見物人などは白け切っている。犯罪者ベップも冷めきった目で凝視していた。

 

 それからのコンボを話そう。

 

 一、逃げ時を逃したベップはあえなく憲兵隊に捕縛され、牢獄にぶち込まれた。

 

 二、面会室にて、ヴァレリオット(呆れ顔)に保釈の準備を頼んだ。

 

 三、当然だが、アンナの姉ケーナに振られる。

 

 四、一週間臭い飯を食べながら、憲兵ディアゴに和解の条件交渉を頼む。

 

 五、いろんな大人が動いた結果、多額の慰謝料および奉仕活動で手を打つことになった。

 

 結果、奉仕活動として、アンナの故郷にお便りを運ぶことと相成ったのである。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 すでに日も暮れ、焚き火を囲んで夕餉をとる迷子一同。ベップなどは乾き切った皮袋をひっくり返し、卑しくもペロペロと舐めていた。

 

 本日のメニューは光沢を放つ昆虫の丸焼き。吐き気を催す味と節足が歯間に絡み付くのを無視すれば、タンパク質や微量栄養素は取れた。

 

 向かいで蹲踞するアルバは、スプーンを無言で動かし、くっちゃくっちゃと幼虫を咀嚼している。エゴヌ族は南部の指定保護部族だから、ゲテモノ食に忌避感がないのだろう。

 

 死んだ魚の眼で咥内の感覚を捨て去りながら、禍々しい料理を口に運んだ。

 

(あぁ~、ヤりてぇなぁ。この際、男でもいっかなぁ)

 

 その目は鎖帷子から覗く肉体に釘付けだ。穴があればなんでもいいのだろうか。リラックスすると途端に暴れ出す欲望が怖かった。

 

 飲んでは酩酊し、肉に溺れる。時折、自分が社会不適合者になってしまった錯覚に陥いる。

 

 喜び勇んでとはいかなかったが、家族の望むまま士官学校に通い、食い扶持を固めていたはずだ。地方の屯所長にでもなって、気立のよい伴侶でも探すのが終生の旅となるだろう、と。

 

 だが、なぜだろう。無性に気に入らない。小隊戦に心血を注ぐ同期を眺めていると、どうしようもなく滑稽に思えるのだ。

 

 訓練にどんな意味がある。兵隊なんてのは駒の一つ。特別ではない一兵卒など、訳もわからぬ理想を実現する為だけに存在する。野犬に衣装を着せたぐらいの価値しかないのに。

 

 だから、自分は女を抱くのだろう。荒涼な気分は包まれていれば露へと消える。現実など関係ない。誰もが無責任、感情のまま吐き散らかすのが現世である。

 

 降り始めた小雨がシューシューと炎を弱める。繁茂する森の中で陽射しを求めた大樹は、重みに負けてだらんと巨大な葉を垂らした。

 

「……寝る」

 

 徐に立ち上がると、アルバは慣れた手つきで焚き火に覆いを被せ、根の隙間に埋もれるよう膝抱えとなった。

 

 冷ややかな風がターバンを煽る。仄暗く照らされた横顔は、いつものように無であった。

 

「なあ、アルバ」

 

「……なんだ」

 

「なんで俺たちは此処に居る?」

 

「……」

 

 アルバは語らなかった。答えは二人とも分かりきっていた。

 

 いや、本質的には分かち合えていないのかもしれない。階級下位の間柄でも違いはある。部族の知恵と技を継ぐアルバと、ただの武官貴族の息子ベップの二人にも。

 

 追求することもなく、雨に打たれるまま空を仰いだ。眠るわけにもいかない。輝かしい宝石箱も積もった雲の向こうに隠れてしまった。薄暗い靄が視界を白けさせてゆく。心が霜焼けて身体の芯まで鬱々とする。濡れた制服を木の枝に吊るすと、根っこに腰掛けて転じる空模様を眺め続けた。

 

「あれ、は」

 

 月明かりに照らされた何かが、チカ、チカと反射するのを目に留めた。金属、それも鋼の輝きであろう。

 

 同時に、ぐぅと腹が鳴った。喉もカラカラに渇いている。人の気配に触発されて、生命としての欲求が息を吹き返したのだ。

 

 距離はまあまあある。ランタンや松明がないところを見ると夜目が利くのだろう。得物を引き寄せると、アルバに声を掛けることなく駆け出した。

 

(見間違いじゃなきゃやっとの脱出だぜ)

 

 目印がないから見失いやすい。闇の中だからか、距離感も狂っていたようだ。走れど走れども人影に出くわすことはなかった。

 

 グルグル彷徨っていると、どうやってたどり着いたかもわからなくなっていた。いつしか深い樹林の中で立ち往生して、蓬の木に手をついていた。

 

「くそっ、勘違いか?」

 

 巨大昆虫か、はたまた小鬼族の武器でも見間違えたのだろうか。帰還不可になったことも併せて、ぐっしょり濡れた額を手の甲で拭ったときである。

 

 気配に気付いたのは、ほとんど偶然であった。鋭い戦士の勘は闇の中であっても冴え渡る。ベップは、頭上から投射される影に反応し、反射的に横へと飛んだ。

 

(囲まれてやがるっ!)

 

 矢という予想に反して、投げ込まれたのは鉄網であった。歴戦の彼もさすがに魚の気分は知らない。無様に転倒して沼の中に埋もれる。足場が悪く、一向に立ち上がれそうにない。どころか、棘のような返しが網についており、動くだけで出血を誘った。

 

 狂乱の雄叫びが耳を劈いた。どこか、精神の在りどころを見失った素人っぽさが垣間見える。

 

 上から降ってくる鈍器の群れに耐えながら、ベップは頭を抱えて凌いだ。

 

 暗闇とこの体勢では反撃の糸口など見出せそうにない。火鉢に突っ込まされたような激痛を堪えながら、泥まみれの瞼を開き、意味もなく絶叫した。

 

 雲間からふいに月明かりが差し込み、自らに襲いかかる正体を認めた。その瞬間、かなりいいタイミングで後頭部に入った。

 

 どれほど身体を鍛えようとも、人体の弱点は依然としてある。血が噴水のように湧き出す感覚。視界が白濁して、痛みとも熱ともわからぬ何かが脳裏を占めた。耳鳴りがキーンと響く。

 

 ベップは、意識の線をぶちんと断ち切られ、泥の中へと沈んだ。

 

 

 



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日常編第四話:ベップ異文化交流記 そのニ

 ケイブラビット族、という種族について記述しておこう。

 

 この獣人種は、帝国成立以前からちょろちょろと登場するものの住処を大森林の一画だけにして、興隆も滅亡もない凪のような歴史を紡いでいた。

 

 身長は帝国人と大差ないが、全体的に痩せぎすで、白い肌と体毛を持っている。言語体系は帝国語だが、文字の文化はなく、知能は低いとされた。

 

 雑に語れば、臣従した獣人部族の一つだ。

 

 ケイブ、という名が示すとおり山野や森林を好んで洞窟をつくる。男は木の実や作物をあつめ、女は蚕に似た生物で織物をするらしい。これらは人種的特徴というより環境適応であろう。フィルドラビット族と呼ばれる、野を駆けずり回っては旅行商に励む種も存在する。

 

 ここまでを統括するとさも帝国人の毒牙にかかりそうだが、アルン人などとは違い見向きもされなかった。奴隷として絶望的に需要がないのである。

 

 なによりストレスに弱い。暴行とか以前に住居が変わるだけで病死する。そのうえ、顎のしたに臭腺と呼ばれるものがあり、気に入らないと刺激臭をはなつ。

 

 労働力としてはもちろん、愛玩生物としても価値が極めて低い。このあたり、フィルドラビット族は融通がきいたので、見過ごされるかたちになった。

 

 帝国人は自種以外をしたに見る傾向があり、毛深い種ほどそれは苛烈になる。そういう意味でも幸運であったといえよう。

 

 つまりは、あらゆる亜人種の中でもっとも脆弱であり、かつ狩られる理由がないということである。ゆえに、彼等は危険を察知すると野山に篭る。逃げ足だけは疾いので、天敵たちは態々追いかけなかった。

 

 生存競争においてはもっとも分のわるい種族ながら、今日まで絶滅の憂き目にあわなかったのは、偏に絶妙な無価値さであろう。生存には十分なちからを持ち、かつ、他種を刺激しないことが功を奏した。脅かされるたび棲家を変え、文化を変え、ようやく人類不踏の地を住居としたのである。

 

 というわけで、意思の疎通ができても、本質的な部分で合着できるわけではない。

 

 たとえばこんなふうに。

 

「これぇ、なぁにぃ? あたらしいお友達ぃさん?」

 

「ちち、ちがうよぉ、これは人間さんだよぉ」

 

「ニンゲンってなぁに。食べれるのぉ?」

 

「ダメですよ、お腹壊しますよ」

 

「わわっ、なんか動いた」

 

 喧騒で目を覚ましたベップは、一瞬、囚われの身だということを忘れて瞠目した。見渡すかぎり白のモフ耳がひしめいている。一、二と数えるだけで日が暮れそうだ。

 

 目を輝かせたちびっ子から皺がれた老婆までキャイキャイ騒いでいる。どいつもこいつも好奇心に溢れていた。

 

 ここは神殿であろうか。篝火をたよりに目を凝らすと、どうやら祭壇に転がされているようである。削り出された尖岩が背中に刺さる。戒められた手首を動かして、剥かれた身体の寒さに耐えた。

 

(なんだこれ、いったいどうなってんだ。郵便を配達していたら、得体の知れない神さんの供物になってやがる。つか、んな薄着でどいつもこいつも寒かねえのかよ)

 

 穢れのない純白ロングの髪から、ぴょこんと兎耳が飛び出ている。

 

 これはいいとして、冷気の籠る岩肌の中で、全身は恐ろしいほど薄着であった。秘部だけを申し訳程度に覆っているのは、蔦と葉を組み合わせた自然のビキニだ。

 

 白毛に透き通るような肌と対をなした色彩は、アマゾン奥地の民族ピダハンに遭遇したダニエル・エヴェレット司教以上の衝撃だろう。

 

 ガキからババアまですっぽんぽん。皺くちゃボディが目に入って、ベップは吐き気を催した。

 

「触るな。こいつは私が捕らえたんだぞ。こいつは私の奴隷だ」

 

 いつの間にか、側の壇上となっている所に凛々しい声の持ち主が立っていた。

 

 目の前でむっちりとした太ももが左右に揺れている。革靴から伸びる素足は暴漢に襲われたあとのようだ。痩身の集団に混じった、その肉感的な身体は一際輝いている。背中の毛並みもいい。ベップは応え甲斐のありそうな腰つきに釘付けとなった。

 

 視線を感じたのだろうか。ケイブラビット族の女はくるりと振り返った。

 

 帝国人に近いくりくりの瞳が、黒真珠のように輝いている。

 

 彫りは浅い。絵画的な美しさすら感じられる。厚ぼったい唇はむしゃぶりつきたいほどに官能的だ。ただ、歳の頃はよくわからなかった。ベップと同年代、もしくは少し下であろうか。

 

 美少女と美女の狭間、熟れる直前の彼女はなんとも形容し難い魅力を放っていた。

 

(エッロっ。やべ、勃ってきた……)

 

 顔を覗き込むため女がしゃがむと、フルンと肉が揺れた。犯罪者級の卑しい目付きで凝視する。彼は稀代のおっぱい星人だった。

 

「おい、お前」

 

「え、俺のこと――いっ、何しやがる。や、やめ、捻らないで」

 

「なにをおっ勃てている。埋められたいのか」

 

「これは生理現象だって、やめ、もげる。もげるから!」

 

「セイリ……? 知らん単語だ。どういう意味だ」

 

「ひ、人が生きていくうえで必ず起きる反応だ。男は寝起きに勃っちまうもんなんだよ!」

 

「そうか」

 

 女が手を離すと、ベップは祭壇の上で腰を引きながら想像を絶する痛苦に喘いだ。神槍ロンギヌスがゲイボルグに圧縮錬金されそうである。

 

「ち、千切れるかと思った……っふう、生で触ってんだからちょっとぐらい恥ずかしがれよ。どうだ、立派なもんだろ?」

 

 捕虜の身ながら、槍を無表情で掴まれては男が廃る。見栄っ張りベップはへへんと得意げに言った。

 

「粗末なモノで威張るな。さっさとしまえ」

 

 汚らわしそうな目付きで女は手を拭った。

 

「お前らが身ぐみ剥いだんだろ。つか、それ俺の靴っ!」

 

「奴隷のものは私のモノだ」

 

 女はツンと突き出た胸を張った。へへんと鼻も鳴らしている。

 

「ガキ大将かよ」

 

 ベップは呆れ返って、虜囚の身だということも忘れていた。やべ、と口を噤む。が、なぜか女は困惑している。

 

「……どういう意味だ。子供が今何の関係がある?」

 

「器が小せぇってことだよ!」

 

 今度こそ引けない事態だが、女は顰めっ面を晒して顎を摩っている。

 

「食器の話をしてどうする。お前はもしかして、バカなのか」

 

「……馬鹿はテメエだろ」

 

「なんだとっ!」

 

「ここで言う“器”ってのは度量とかのことだ。文脈を読み取れ」

 

 女は無言になると、感情という色を表情から消し去った。ふわりと飛び立ってモフ耳祭りの輪に立つと、ガキたちを集め高笑いを始めた。

 

「カサー、どうしたのー」

 

「どうもあのニンゲン、立場がわかっていないようだ。調教してやれ。私はあれを調べる」

 

 と言って、女は洞窟の奥に消えてゆく。わあっと歓声が湧き上がった。

 

「やったぁー」「ちょうきょー」

「ねえ、調教ってなあに?」「わかんなーい」

「あははー、カサの言うとおりだー」

「ねえ、誰がやるー」

「私やりたーい」

「私も私もー」

 

 ひそひそと姦しく少女たちが喚きたてると、足音を鳴らして、タップダンスのようなモノを踊りだした。次から次へと演者が減り、残ったタレ目の少女がどこかへ消えたと思うと、帰ってきてはトテトテと駆け寄ってきた。

 

 抱えているのは人参のような野菜である。ただし、いろは奇妙に青い。鼻先に設置すると十間ばかり距離をとった。少女から老婆まで、固唾をのんで見守っている。

 

(餌付けされてんのか、俺)

 

 毒性は強そうだ。だが腹は減っている。

 

 いや、冷静になれ、ベップ。子うさぎたちの目を見ろ。あれは、罠にかかるのを待つ漁師の目だ。

 

「知ってるのかなぁー」

 

「しっ。もうちょっと待とうよー」

 

 ハニートラップには弱いが、それ以外の耐性はある。虜囚の身にも慣れ、適当に欠伸をしていると、子兎たちは飽きて散開してしまった。

 

 生贄に捧げたいわけでもないらしい。一人残った視覚のテロリストは竹の器に水を汲んできてくれた。

 

「ここってどこ?」

 

 喉を潤したベップは、こっそり手首を捻って縄抜けを試みた。

 

「おうちよ。見たらわかるでしょう」

 

「……ならさ、連れを見なかったか。白いターバンを巻いた奴なんだけど」

 

「シロイターバン? おいしいのかしら?」

 

 祭壇の清掃を行う係なのだろう。中年の女は樹木の繊維で埃をはいている。厳しい監視もなく、身動ぎにさえ反応しない。

 

 ベップは好機とみて現状説明を要求するのだが、つかみを理解することさえ時間を要した。

 

 なにせ、言葉を知らないのだ。そのくせ、意味を曲解しつつも話を繋げようとするので、内容がとっ散らかったままになる。

 

 なまじ訛りがないだけに、そのトンチキさは強烈だった。薬ヤっているアバズレとはなしても、こんな気分にはなるまい。

 

 アルバのことは知らない。収穫班がベップを捕まえた。以上を聞きだすまでに料理、野草、匂い、石の色などに脱線した。どれそれの葉は着心地が悪いなんて、一生知らなくていい。

 

「それでそれで、あの子ったら水の中でアワアワ出すのよ。もう汚いったらありゃしないわ。ねえ、あなたもそう思うでしょう」

 

「あ、待て待て。取り敢えず俺は外に出たいわけよ、オーケー?」

 

「おうけい? ケイの木なら外に行かなくてもあるわよ。なんなら取ってきましょうか」

 

「違う違う。外に出たいの」

 

 ベップが身体を起こしてムズムズと肩を動かすと、何を勘違いしたのか、中年の女はポンと掌をたたき、

 

「なるほど、わかったわ」

 

 と言った。断言しよう、絶対にわかってない。

 

「シーシーしたいんでしょう。ずっとここに居るものねぇ。でも、出すなって言われてるし、何より今食事中だから」

 

 女は困ったわぁ、と頬に手をあてて考えこんでいる。なんで飯の話になる。頭をかち割って構造解析したい気分だった。

 

「なんて言われたんだ」

 

 丸出しにも慣れてきたベップは、開き直って堂々と大股開きになった。顔を赤らめた中年は、まぁ立派ね、とかほざいている。

 

「出すなって、カサが」

 

「漏れそうなんだよ。いいだろ、外に出るわけじゃないし」

 

「シーシーは身体から出すじゃない。もお、からわかわないで」

 

「……じゃあ散歩したいんだけど」

 

「あ、そうなの。それならいいわ。ほら、縄を解いてあげる」

 

 なんの邪気もなく言われると、脱走を試みているこちらが悪いようだった。じゃあね、と監督者としてあるまじき挨拶されて、ベップは居心地悪く神殿をあとにした。

 

 洞窟内は掘った跡がそこかしこに残っていた。集落とおぼしき部分は広大だが、通路は隙間がなかった。

 

 ゆえに逃げ場がない。よって他人と遭遇する度身体を緊張させるのだが、「どこいくのー?」と声をかけられて馬鹿らしくなった。

 

 いまではその辺のガキを捕まえて案内してもらっている。

 

 奇妙なことだが、彼らには捕虜が理解できないのだろう。そうだろうな、という情報はいくつもあった。

 

 中年の女は、決まって歳下を娘、年上を母と呼んだ。つまりは血縁という思考がない。序でに数も勘定もない。色を表す単語もない。奇妙な赤い果実をみて、「血みたいだ」と謂う。

 

 この事実は、ベップを心の底から戦慄させた。

 

 帝国人が考え得るであろう未開の蛮族、その遥か斜めしたである。唯一の娯楽は隠れんぼ。それをいい歳した大人が楽しんでいる。側から見ていると恐怖でしかなかった。

 

(アンヘルさんが来てたらグロッキーだったな。吐き気がするとか言いそう)

 

「カサはここに居るよぉ」

 

「ありがとな」

 

 頭を乱暴に撫でてやると、小娘はにへらと相好を崩してとたとた走りさっていった。ロリペドじゃないベップは意識の端にもとめない。ツルペタに興味はないのだ。

 

 原始的な集落は岩肌をくり抜いただけの簡素なものであったが、案内された先は意外なことに、飾り用である樫木の柱が乱立していた。

 

 まず驚いたのは仕切りだ。ここに来るまで、野ざらしで着替える女を幾度も見かけた。どうやら空洞が一部屋らしく、隠す文化がない。それだけあってか、文明の匂いがする場所は異質であった。

 

 ボロ臭い木戸を引っぺがすと、ベップは土足で入った。女と獣の混ざった生々しい匂いが香る。そこには、机に向かってうんうんと唸っている女の姿があった。

 

 ケイブラビット族の相談役カサ。元郵便配達員にして現奴隷ベップの身元引受人であった。

 

「そいつは俺のだぜ、返してくれよ」

 

 極限まで集中していたのであろうか。カサはびくりと肩を震わせると、全身の毛をゾワっと逆立たせた。

 

 振り向いたその肉体は、涎がでそうなほど豊満だ。久しくヤってないから、妄想で脳が焼ききれそうだった。

 

「お前っ、どうやってここに」

 

「散歩するって言えば出してくれたぜ。呑気なもんだよな」

 

「ちっ、馬鹿どもめ」

 

「形成逆転、ってやつだな。ほら、そいつを返しな」

 

「奴隷の言うことなど聞くものか」

 

 カサは反射的にであろう、クシャクシャと手紙を丸めた。突然の蛮行にベップは目を剥いて怒鳴った。

 

「おいっ!」

 

 慌てて飛びかかる。虜囚の身になってもここに居るのは何の為だと思っているのか。手紙の残骸を回収して一息付いていると、女の姿が消えていた。

 

「うっ、うっ……そんなおこらなくてもいいじゃないかぁ」

 

 濁声の主人カサは、部屋の隅っこで涙目になっていた。まやかしは言葉が過ぎるが、勝気と判断したのは早計だったのかもしれない。

 

 菩薩の心でしゃがみ込むカサの背中を撫でながら、ベップは心の中でため息を吐いた。

 

(どっかに草食だった名残りでもあんのかね)

 

 どれくらい時間が経ったであろうか。ドサクサに紛れてお触りしたベップは、頃合いをみて切りだした。

 

「それで、俺の荷物を返してもらおうか」

 

 いまだだ怯えが消えていないのか。とり繕うように髪を梳くと、ぷいっと素知らぬ顔で横をむいた。

 

「イヤだ、奴隷のモノは私のモノだ」

 

「おれは奴隷になったつもりはねえ。つか、いまはどっちかって言うとソッチのほうが不利だろ」

 

「むー、私はお前を捕まえたのだ。なら、お前は奴隷、一生奴隷なのだ。奴隷の分際でいちいち口答えするなぁ」

 

「いや、力のない主人は反逆に合うと思うけどな」

 

「そんなのしらないぞ。お前は奴隷、これ決定!」

 

「はぁ、わかったわかった。なら飯ぐらい出せよ。食料供給の義務は法律で決まってるだろ」

 

「むう、もっとわかりやすく言え」

 

「だーかーらー、飯は出さねえといけねえの。掟とかで決まってるの」

 

「ならそう言え……ほら」

 

 カサは立ち上がると、部屋の隅で積みあげられていた果実を放りなげた。毒はなさそうか。ベップが無造作に齧ると、無花果っぽい味が口内にひろがった。

 

「木の実じゃなくて肉はねえの?」

 

「あんなもの貰ってどうする。血がドバドバ出て汚いぞ」

 

「聞いた俺が馬鹿だった」

 

 ガリガリと頭を掻いたベップは、口の先を曲げて拗ねるカサに追加の食料を頼み、地べたにドスンと座りこんだ。

 

 手持ち無沙汰になって、手紙の皺をのばす。すると、代筆屋の文字に混ざって奇妙な形象文字らしきものをみつけた。

 

「もしかして、お前」

 

「ぎ、ぎくぎく。ち、チガウヨ、ワタシジャナイヨ」

 

「このアホ。子供みたいに落書きしてやがったな」

 

「ち、違うわッ。私はこれを解読しようと」

 

「はぁ?」

 

 ベップはまじまじと絵柄と文字を見比べた。絵ばかりで子供の落書きである。お世辞にも解読などといった高尚な真似事にはみえない。流れるような筆記体に対する冒涜であった。

 

「そんな怒るなよぉ。お前だって、できないことあるだろぉ」

 

 と、カサはまたもや涙目になっていた。

 

「いや、あるけどよ」

 

「私は今が、“男の巣篭もり”なんだよぉ」

 

(意味がわからん)

 

「なあ、もしかしてお前は文字が読めるのか」

 

「読めるけど」

 

「す、スゴイな。ちょ、ちょっとこれを読んでみてくれ!」

 

 しがみついてくるカサに鼻の下を伸ばしながら、ベップは手紙の内容を一字一句違えずに朗読した。

 

 読み進むにつれ、彼女は目をキラキラ輝かせ、終いにはお父さんと尊敬を露わにした。なんだろう、気持ちよくなっちゃうのでやめてくれません?

 

(年上とか知恵者は全部父なのね)

 

 欲望に塗れながらも、ベップは単語単語を区切りながら反応を注視していた。が、どうやら目的の一族と面識はないようだ。

 

 一言にフィルドラビット族といっても、その分布はかなり広い。彼らの多くは近縁種との旅行商を生業とするが、運悪く空振りだったようである。最悪に畳みかけるよう地名にも反応しなかった。現在地不明の知らせである。

 

「そろそろ行くか。完全なムダ足だったぜ」

 

「おい、お前。どこに行く」

 

「用事だよ。まったく無責任に連れ去りやがって――なあ、俺の服はどうした」

 

 バックパック、靴の中に衣服だけがみあたらない。さああ、と背中に冷や汗が流れおちる。無常にも、カサは興味なさげに言った。

 

「お前の服はばっちぃから捨てたぞ。葉っぱを巻きつけとけばいいじゃないか」

 

「しょ、しょんにゃぁぁ」

 

 人類は体毛を代償に服を手にした。裸のまま森を彷徨えば、破傷風でお陀仏だろう。

 

 腕づくでの帰還を諦め、とり敢えず身に纏う物をつくることになった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 その日、ケイブラビットの青年“大きな雄”は、収穫班の一つに混じって大森林の恵みをあつめていた。

 

 彼の名は冗句ではない。名付けという文化が、かの一族にはないのだ。頬が赤いやつとか、足が小さいやつとか身体的特徴で区別するなかにあって、彼は名のとおり巨大な身体を備えていた。

 

 実はこれ、ハンデである。ラビット族は一概にして線が細く、胴がみじかい。逃走と持久力に命をかける流れにあって、筋骨隆々という男らしさは、女に見下されることはあっても評価される部類の能力ではなかった。

 

 男とは疾く駆け、食料をあつめる。一種、奇形の細面の小男が賞賛される土地柄であった。

 

 男が上層、女が下層と区分けされているおかげか軽蔑の眼差しを浴びることはなかったが、代わりに男のなかで徹底的に虐められた。

 

 かけっこで敗れては野菜を取りあげられ、芋虫を喰らう毎日。虚しくもタンパク質が身体をより大きくさせた。収穫班、炭鉱班と序列がある中で“大きな雄”は最下級、名前もない残土を運ぶ係であった。彼の友達は常に虫であり、洞窟社会のなかで一際下段に位置する存在であった。

 

「おい、“黄色い耳”よぉ、ふざけてんのか。もっとたくさん集めてこいや!」

 

「す、すみません、すぐ行きますから」

 

「ならいつまで寝そべってやがる。ぶっ殺すぞ」

 

 中でも粘着質に揶揄ってきたのは、”黄色い耳“と呼ばれる小男だった。その耳介は一里先の足音を聞き分ける。一際巨大な耳を持つ彼は、成人に達していないのに雌から黄色い悲鳴を浴びるほどの人気があった。

 

 彼らは夜中、闇夜に紛れて食べ物を収穫し、昼間は住居づくりと息つくひまなく労働に勤しんでいる。そんなエリートの中のエリートだ。成人となれば、献上祭にて、いの一番に美貌のプリンセスと契るであろう。

 

 ケイブラビットの姫カサ。

 

 いや、部族には高貴な血筋などという概念はないが、便宜上そのような立場の乙女である。

 

 生まれつき頭が良く蜜蜂を好んだ彼女は、こちらも珍しく豊満な肉体を備えていた。洞窟から死ぬまで出ないため、健康な身体は女にとっておおきなきな利点とされた。

 

 行商人から得た叡智で益を齎し、頑強な肉体で子孫をもうける。女系が運営するにあって、若くして最高権力にちかいのが彼女である。

 

 結論として、器量が昔から一族の男衆に鳴りひびくほど有名な美女である、ということだ。“大きな雄”は仕事の特性上、女衆と出会う機会がおおい。チラリと遠目にしたことしかないが、彼にとってカサは、存在が女神のようなものであった。

 

 だが、それらは同時に深い虚しさを誘った。彼は生まれつき花形の外班に向かず、不器用なので穴掘りも落第点だった。不憫に思った大人たちにも、毒草の区別がつかなかったことで見捨てられた。

 

 カサという一族最高の美女には、それ相応の戦士でなくてはいけないのだ。脚が疾く、鼻が利かなければ。

 

 その事実に至ったとき、引きかえせぬほど巨大化した身体を呪った。

 

 日夜、全身を縮こまらせて眠る彼を、周囲はダンゴムシと嘲った。鼻息荒くして詰めよっても牽制されるだけ。颯爽とした男が好まれる文化で、腕っぷしなどなんの役にも立たない。

 

 献上品がなくては女が承諾するはずもなく。最上の娯楽にして栄誉ある祭、献上祭。ケイブラビット族の生き甲斐を前にして、

 

「お前には種を植え付ける権利などない」

 

 と揶揄われた、ある日のことであった。

 

 ――へえ、こんな重いモン運んでんのか。ご苦労なこって。

 

 ”黄色い耳“は外に運びだす予定の岩を担ぎながら、仲間たちと顔を見合わせて笑った。彼にとって、卑しい職務を嘲笑ったに過ぎないのだろう。しかし、彼だけは違和感を持った。

 

 ――これが重いのか。

 

 百六十を越えれば大柄なケイブラビットにあって、彼は上背百八十を超えていた。両腕は女の胴のように太い。その筋骨、長年鍛え続けた鍛錬の結露であった。

 

 彼はのそりと近寄り、真正面に立つ小男をみおろした。

 

 はじめての反逆。

 

 それこそ、変転の瞬間である。

 

 徐に掴んだ肩は軋みあがり、男の喉奥からは恐怖の吃りが反復した。自慢の足も逃げられねば意味がない。

 

 正確に顔面を捉えた右拳。残されたのは血反吐を撒き散らした虐めっ子と、隅でペタンと耳を伏せる家畜だった。

 

 ラビット族の魂に刻まれた、本能的な暴力への恐怖。その日以来、彼は秘めた凶暴さを解放した。

 

 最初こそいいのかなと戦々恐々していたが、諌めるはずの大人さえ怯えている。いつしか雑務を押しつけ、集落の入り口に陣取っては成果を搾るようになっていた。

 

 矛先となった“黄色い耳”たちは、成果の九割を捧げた結果、顔付きを落伍者特有の薄暗いものに変えていった。

 

「昨日みたいな奴を探せ。カサは捧げ物を大層お気に入りだったそうだ」

 

 支配者として振る舞いはじめたとき、何の気まぐれか、風鼬族襲撃に備えるため大枚を叩いて購入した鉄網が人族を捕虜にした。彼が持っていた鋼製の武器は、原始的な欲求を燻らせた。

 

 音をつぶさに収集する耳介がピクピクと反応する。功名心に長けた彼は、分取った長剣で天を突いた。

 

 卑しいと虐げられてきた種をのこしたい。草食であったはずの兎は、いつしか、小鳥を捕まえてはその血肉を喰らうようになっていた。

 

「もっとだ、もっとよこせ。俺に捧げろ」

 

 歴史上一度も誕生しなかったケイブラビット族の王。それが今、大森林の奥地で生まれ落ちようとしている。“大きな男”は、血の滾りを発露させながら、恋慕う少女とのひとときを夢想し続けた。

 

「し、ししし侵入者ですっ」

 

「どうやって入った。俺はずっとここにいたぞ」

 

「わかりません。それより早く、悲鳴が聞こえてきまさぁ」

 

 

 



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日常編第五話:ベップ異文化交流記 その三

 流されるまま残留する形となったベップだが、割合文句もなく、穏やかな集落に迎合していた。生来、上昇志向に疎い彼にとって、地方の閑職こそ天命であったのかもしれない。

 

「ねえニンゲンー、フットボォル教えてー」

 

「ふあ、分かった分かった。今行くよ」

 

「やったぁー」

 

 気楽な奴隷の毎日。ベップはチビ兎共に起こされながら起床した。洞窟住みゆえに太陽が恋しいが、まあそれだけ。日中、近場の沢で釣りをしていれば、一日二日などあっという間に時は流れていった。

 

 ケイブラビット族の村落には女しか居ない。いわばハーレムだ。

 

 実際のところ、帝国人のベップは雄としてカウントされていないという現実はあるが、それは野暮なはなしだろう。身も心も世俗のしがらみから解き放たれていた。

 

 一つ不満があるとすれば、宵毎に嘶く暴れん坊将軍のことだった。文字の習得をせがむカサに美しい兎たち。美肉を貪ろうとする獣性だけは抑え難かった。

 

「灯りは無ェ、本も無ェ、人もそれほど走って無ェ。酒は無ェ、ワインも無ェ、皆さんシラフでぐーるぐる、俺らこんな村いやだぁ、と」

 

「なに独り言を呟いている。はやく書け」

 

「はいはい、人使いの荒いご主人様ですこと」

 

 慣れた手つきで岩肌に文字を彫るベップ。カサの部屋は、壁面や地面に所狭しと書きつづられていた。

 

「えぇっと、“私はメス犬です”。なんだこれ、犬が喋るのか?」

 

「文字を勉強するにはいろいろ知る必要があるだろ。ほら、練習練習」

 

 洞窟のなかは昼夜関係なしに気温の変化がない。自然の着用は文明人として超えてはならぬ一線だと思っているので、遊び人らしく濡れ場の男を演じていた。

 

(ま、和やかってのも悪かねえか)

 

 いちおう奴婢に堕とされたはずだが、肝心のカサも意味をイマイチ理解していないようだ。食卓も同じで、仕事はない。野菜生活は御免なので、食料さえ賄えば暮らせた。

 

 食前と真夜中のお祈りだけがミスラス教の正式な形とは違ったが、本心では無神論者なので気にならなかった。かの蛮族の神マーニもミスラスの一柱に数えられているのは御愛嬌である。

 

 なんにせよ、成果を求められない扶養の身は心地良かった。

 

「で、いつになったら行商人が来るんだ。前はもうちょいって言ってたが」

 

 丸出しに慣れてしまっては社会復帰に支障をきたしそうだ。猥語を満足そうに眺めると、底から流れてくる冷気に身を震わせた。

 

「もうちょいはもうちょいだ。気長に待て」

 

「日数でいってくんね。もっと具体的にさ」

 

「もうちょっとはもうちょっとなの! もっと大らかに待てんのか、ウチの奴隷ときたらもぅ」

 

「これ、俺が悪いの?」

 

 色々と不便はある一族である。

 

 勉強を済ませたあと、唐突に訪れた一人の時間、ベップは久方ぶりに自分を磨くか悩んでいた。男は出さねば腐ってゆく。しかし、ひとり遊びは一般社会の通説として「悪」とされた。

 

 誰の目もないので憚る必要もないのだが、やはり魂に根差す社会的規範というのは重いのであった。

 

(ま、いっか。襲うよりはマシだろ)

 

 が、そこはベップクオリティ。その信念はコンドームより薄っぺらい。

 

 カサの艶姿をズリネタにして磨いていると、身体の中で澱んでいた毒素が集中しはじめた。うつ伏せになって岩肌へと差しこむと、熱河の氾濫が起こりそうになっている。

 

「どうだいカサちゃん、俺のロンギヌスは鋭いだろ。へへ、そろそろか、もうそろそろ行くか。俺はイケるぜぇ!」

 

「……行く」

 

「キタキタぁー、イク宣言キタァァー……ってはいいいいいぃぃぃ!?」

 

 ベップは闇の中からの返事にひっくり返った。

 

 懐かしい低音。数日振りだ。

 

 薄ぼんやりと光る青苔に照らされて、鎖帷子姿の候補生が影を伸ばしている。ターバンの奥には輝く猫目。暗視の呪術か、それとも特性か。仰向けになって天を突く様がしっかりと晒されてしまった。

 

 その瞬間、外道としての引き金が引かれた。

 

 同班の同僚にして、探していたはずの仲間。その顔に向かって、緊張と驚愕によって解き放たれた体液がぴゅぴゅぴゅっと放たれた。

 

「あ」

 

 脳を焼く快感に下半身がびくりびくり脈打つ。何を思うているのか。アルバは能面のまま袖で顔を拭うと、ゆらり鞘から得物を引きぬいた。

 

「あのーアルバさん。ここは穏便に、ね。ほら、久方ぶりの生存報告ですし」

 

「……」

 

「もしかして、怒ってます?」

 

「……死ね」

 

 強烈な風を股間に感じた。地を這う硬質な音。肌に接する面積は増えた気がする。

 

 イカ臭い洞窟の中で、ベップはだらだらと冷や汗を流した。

 

 三面六臂の阿修羅の出で立ち。立ち登る怒気を纏わせたアルバの闘気は、たちまち壁面を伝って洞窟内に伝播した。

 

 学術院にて男色趣味の変態野郎を廃兵院送りにし、性質をドMに変えた逸話を持つアルバ。ベップは伝説と視線が合うなり、

 

「これはやべえ」

 

 と察する。背後は岩壁の感触。しかも無手である。

 

(きょ、去勢されるッ)

 

 感情を唇の端にすら浮かべないアルバは、青白く輝く刃を水平に掲げた。

 

「……遺言は?」

 

「へ、へへ、ふへへへ、はははは。遺言ねぇ。いいことを教えてやろう、アルバ」

 

「……」

 

「三十六計逃げるが勝ちさ。喰らえ、ドラゴンブレス!」

 

 自慢の逸物をブルンとふると、乳白色の残り汁を撒き散らした。

 

 これにはアルバも表情を一変させた。肉厚の短刀で逸らす剣技も今は無情、後方宙返りを選択する。ときは来たりと、色んなものを振りみだしながら遁走をはじめた。

 

 九十九折の洞窟内を転がるように駆けた。地の利はこちらにある。なるべく広い通路を選んで走りまくった。

 

「ぎょぇぇえええ。アルバお前、そんな大道芸人みたいなことできんのかよ!」

 

 悠々と逃げきれると断じたが、あろうことかアルバは、壁を足場に追走してきた。段差や坂を縦横無尽に駆け回られるのでは勝負にならない。

 

 注視すれば、恐竜のような足跡が連続していた。一度村へ帰還し、スパイク付きの登山靴や食料を準備しているのである。が、そんなことを露ほど解さないベップは、無様に入り口へと逃げこんでいた。

 

「あああっ!」

 

「逃げてぇっ」

 

「風鼬族の襲撃だぁ!」

 

 逃げる途中可愛い兎たちを蹴散らしたからか、悲鳴が壁を打って反響している。防衛に来たのだろう雄兎たちと鉢合わせした。

 

 逃げ場を封じられ、ベップは立ち往生した。死神の足音が背後から忍びよってくる。諦観の想念を思い浮かべ、ゆっくりと振りかえろうとした。

 

「どけどけっ、んななまっちろい小僧じゃなくオレ様が相手をしてやる!」

 

 そのとき、ひとり怯えるオス兎を掻き分け登場した巨躯が、ベップを押し退ける形になった。

 

 ケイブラビットに似つかわしくない威容は、男衆収穫班の首領“大きい雄”であった。

 

 言葉を交わしたことはなかったが、顔は知っている。夜空で木の上から降ってきた刺客、その首謀者であった。

 

「このオレ様が居てどうやって入りこんだのかわからねえが、たった一匹で来るタァいい覚悟だ。おら、直々に相手をしてやる……あ? オマエ、風鼬じゃねえな。ってか、ニンゲンだろ」

 

 気がつくと、ベップは”大きい雄“の背中に匿われていた。悲しいことにいま現在彼は村の所有物、言うなら愛玩動物のようなものである。

 

 乙女であれば「頼りになる背中ね」と恋の予感に胸がときめくところだろう。が、背中の剛毛からたつ、目玉を突く獣臭に顔を顰めるばかりだった。

 

「まあ、切れ味ってやつを確かめるにはいい機会だ。泣き喚いて命乞いでもしてみろや」

 

「……どけ」

 

「けっ、生意気な口を聞きやがる。んな小さいナリで何ができんだ?」

 

 大きい雄は両拳を胸の前で打ちならすと、歯を剥きだしにして吠えた。部下などは頭を抱えて恐慌状態であるのに、その勇、まさに古強者であった。

 

(けど蛮勇ってこたぁねえよなぁ。俺ら治癒術使えねえぜ)

 

 余計なお世話だろうが、隙だらけの剣の構えに不安がよぎる。つか、アレ俺のだし。

 

 出方を窺うためか、アルバは円を描くようにして旋回した。猫目は血走っており、たたき殺すことに躊躇はなさそうだ。

 

 血の嵐が吹きすさぶ予感に身を固くすると、背後から腹の底から響くような女の声があがった。

 

「カサ様っ!」

 

「カサさまがお越しになられた」

 

「おお、なんとお美しい!」

 

 カサら女衆は、腕を組みながら駆けてきた通路から現れた。なかには、大酋長とも言うべき老齢の兎の姿もあった。

 

 香占いによって村の方針を定める重役である。安易に表舞台には立たない。

 

 それほど重大事ということだろう。ボソボソと話す大酋長に代わって、カサが堂々とした語り口で言った。

 

「“大きい雄”よ、なんだこの騒ぎは」

 

「は、ははぁ。自分はその、侵入者を捕らえようと……」

 

「意味がわからん。どうしてオマエは警告することなく、こうやって暴れ回っているんだ。侵入者が来れば知らせを送るのが掟だ」

 

「それは、その。カサさま、違うんです」

 

「見苦しい言い訳はやめろ!」

 

 カサがかっと一喝すると、大男はびくりと肩を震わせた。女衆の援護を受けて、両膝を突いて忠誠の姿勢に移行する。

 

 天敵の襲撃に備える警邏の役割を放棄したのだ。彼女らはかさになって“大きい雄”たちを非難した。

 

 女系優位の社会。俯いて拳をわなわな震わせる“大きい雄”を見て、ベップは得も知れぬ不安を抱いた。

 

 カサは慣れた風で事情聴取すると、仕事に戻れと指示した。大事件になって頭が冷えたのだろう、アルバも剣を納めている。半径五メートル以内には近寄ってこないが。

 

「どけっ」

 

 立ち上がった大男はベップの肩を掴むと、なぎ倒しながら外へと向かった。

 

 倒れたとき、岩が鼻にあたって血が逆流する。べっと唾を吐くと、地面に赤い華が広がってゆく。

 

「だ、大丈夫か」

 

 慌てて駆けよってきたカサに助けられ、ベップは上半身を起こした。彼女は鋭い目で“大きい雄”を睨んだ。

 

「へ、へへ。そんなに心配すんなって。俺は帝国一の快男児。怪我なんてへっちゃらだぜ」

 

「だけど」

 

「どうしてそんなに心配してくれんだ?」

 

「バカ、オマエは私の奴隷だろ!」

 

 目を潤せながら母性本能を全開にしている。ベップは健気だなと頬を拭ってやった。

 

「ニンゲン、テメェ……」

 

「いつまでそこに居るっ、早く行け。まだ罰され足りないのか!」

 

 立ち去った筈の大男が恨めしそうに睨んでいる。再びカサがかっと吠えると、今度こそ月の光が差す向こうに消えた。

 

 やっとこさの合流だが、まだ一悶着ありそうだ。豊な胸に抱かれながらも、珍しくまじめに思案していた。

 

 

 

 

 

「クソが、クソがっ。オレ様を見下しやがって」

 

 “大きい雄”は顔を般若のように歪ませながら、怒りのたけをぶちまけていた。

 

 矛先となった部下たちは、草むらの影で白目を剥いている。失策を犯すたび、胴体に青痣が残るまで打ち据えるのだが、現下に限っては桁が違っていた。

 

 むろん、彼とて反省の色がないわけではない。

 

 村の唯一の掟「逃げの鐘」の役目を放り出すなど、帝国法に照らせば処刑一直線ものの失態である。アルバの潜入能力も素因の一つだが、あとの対処は言い逃れできない。誰も口にこそしなかったが、評価を著しく下げたのは確実であった。

 

「俺はこの村を食わせてやってるんだぞ。なのにアイツら、何様のつもりだ」

 

 気に食わないのは、杓子定規に処断されたことである。実力を考慮すれば、鼠の一匹や二匹容易く屠れる。だというのに、難癖をつけられた。タダ飯を喰らう穀潰しの分際で、だ。

 

 許せなかった。憧れのカサに否定された、その一点。裏切られたような感覚すらあった。

 

 “大きい雄”は捕まえた小鳥を火鉢に突っこむと、丸ごと齧りついた。骨の硬い音と熱い感触が咥内を焼く。血と骨の残骸を吐きだすと、辛うじて意識の残る“黄色い鼻”の首を掴んだ。

 

「聞けテメェら。俺はあのニンゲン野郎がムカついてしょうがねえ。なんならバラして食ってやりたいぐらいだ。なあ、そう思うだろ」

 

「へ、へへぇ」

 

「よし、ならさっさと外に誘い出せや」

 

 いくら腹の虫が収まらないと云えど、女衆に逆らうわけにもいかない。彼の目的は種を残すことなのである。脚の遅い彼では、散り散りに逃げられては追いつけないだろう。

 

 だからこそ、拳のおろしどころが必要だ。何もすべてを破壊する必要はない。俺を侮った愚か者同様、地面に転がせば溜飲も下がる。あとはカサを征服すれば、すべて忘れられるだろう。

 

 草食が雑食へと転じる。覇者としての支配欲の発露であった。

 

「覚えてろよぉ、ニンゲン」

 

 喉を極められ泡を吹く過去の上位者。心地よい悲鳴を耳に、成りあがってきた道を回顧したのだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「なんだアイツ、一々一々逆らって。しかもだぞ、耳を伏せるくせに歯軋りをするんだぞ。あり得るかっ」

 

「まあまあカサちゃんそれぐらいで」

 

「これもそれもお前のせいだ。オマエは私の奴隷だろ。ならちゃんと言いかえせ!」

 

「そりゃないぜ」

 

 空が白々と明るみはじめた。侵入者騒動が終わってから長く経つが、カサなどは怒りおさまらぬと、腕を振ってぷりぷり怒りを吹いていた。

 

「大変だったわねぇ、カサったら乱暴だし。怪我はない?」

 

「怪我には慣れっこなんで」

 

「ま、よく走ってるのねぇ、偉いわぁ」

 

「……どうも」

 

 中年兎の思考は、駆けっこで鍛えたから怪我に強いなのだろう。一々訂正するのは面倒だった。

 

 祭壇に集合した女衆一同は、カサを先頭にして族長を募っている。年老いた族長の世話係たちも、同情的な雰囲気を隠そうとしていない。

 

「あんな乱暴者は村に相応しくない。だよな、“片目”様」

 

 ボソボソと萎びた声で族長が答える。その目はどこを見ているやら、目線すら曖昧であった。

 

「だが、奴は一番食料を運んでくる。次の献上祭で先頭を歩くでのう」

 

「でもっ」

 

「言いたいことはわかるがのう、カサよ。あやつが望むのはお主じゃよ。そんなに怒っておっては、せっかくの祭りが台無しになるでのう」

 

「けど、私はあんな奴と」

 

「ならん!」

 

 皺がれて椅子に眠りこけていた老婆は、かっと片目を見開いて怒鳴った。雷鳴が轟いたように若い女衆は騒ぐのを止めた。

 

「カサよ、その才に信じて色々任せてきたが、村のしきたりを破るというのなら話は変わるでのう。いいかい、黙って言うことを聞くのだ」

 

「女には断る権利がある」

 

 カサだけは気丈に言い返している。されど、地面に落ちる影はいつもよりも淡く、消えさりそうだった。

 

「あの男に逆らえるものか。よいか、カサ。大人になるのだ」

 

「なんで私だけっ」

 

「お主だけではない。稀にあのような聞かん坊が現れる。そのときはいつも、我ら長が鎮めてきたのだ」

 

 顔中に深く刻まれた皺は、古くから村の趨勢を見守ってきたのだろう。族長の表情は、非難の籠った眼差しに小揺ぎもしなかった。

 

 カサは力一杯に族長の座す椅子を叩くと、凄まじい勢いで走り去っていった。その頬には、きらりと光る涙が流れていた。

 

「追うてはならん」

 

 名を呼んで慰めに向かおうとした数人を、族長は制した。

 

「カサは次期族長。色んなことを知らねばならぬ年よ。それともお主らが代わろうというのか?」

 

 女衆たちは弾かれたように目を逸らした。実に吐き気がする。彼女らは慰めの言葉を吐きながら、裏では乱暴者を引き取ってくれたと感謝するのだろう。

 

 村社会とは厄介だ。外からは理解し難い力関係がある。完全な部外者に発言権はない。粛々と判断が下される中、ベップは寝床に向かった。

 

 翌日の話である。いつもなら文字習得をせがむはずの時間帯にカサの姿がなかった。なんとなしに不安で、集落の溜まり場に赴いていた。

 

「あー、ニンゲンだー。あそぼあそぼー」

 

「また今度な」

 

 そこは食料を保管する場所であった。もっとも洞窟内の話。高床式であったりはせず、野ざらしで放置されている。女衆はそこで鼠を警戒しながら、岩を削って工芸品を作る。時折訪れる行商人の交換材料にしては、極小数の日用品を手に入れるらしい。

 

 昨日、岩同士を擦り合わせる作業に石鑿とハンマーを作ってやったのだが、流行っている様子はない。効果を証明しても、技術は浸透しないものだ。

 

 昔ながらとは聞こえこそいいが、他所から来た人間を迫害する何かがある。ベップは慣れたように狭っ苦しい横道を這うと、縦穴に転がりおちた。

 

 足元は微かに湿っている。それから、僅かな腐敗臭。侵入者用の落とし穴をキノコ園と兼用しているのだ。出入りの難しさもあり、人と人とのべったり共依存村落には珍しい静寂が保たれている。そのことを、ちょっとした会話から耳に留めていた。

 

「よう、今日は勉強しなくていいのかい」

 

 背後から声を掛けられたカサは、慌てて目をゴシゴシと擦った。ベップは気付かぬふりをして、よっこらしょと隣に腰をおろした。

 

「なんの用だ」

 

「別に。お寝坊さんなカサちゃんを見に来ただけさ」

 

「ね、寝坊なんかしてない!」

 

「なら休むって一言くれよ。心配したぜ」

 

 ベップは腕をまわし、冷たい落とし穴の中で肩を寄せた。

 

 いつもは牙を剥いて怒鳴るカサも、今日は何も言わない。互いの息遣いが聞こえる距離で、寄り添いあっている。

 

「……おい」

 

「どうした?」

 

「こんなときに発情するなんて、お前は本当に頭がおかしいのか」

 

 若い男女が素肌を合わせている。それに、彼女の身体を覆うのは頼りない自然の草木だ。白毛に包まれているとはいえ、瑞々しい若い肉に活力が湧くのは仕方あるまい。状況的には極めて最低だが。

 

「って、痛ぇよカサちゃん」

 

「奴隷の分際で私を孕ませようだなんて。常識ってものがないのか。これだから奴隷は、もう」

 

 快楽の為にヤリたいベップと、子孫繁栄の手段と断じるカサのカルチャーギャップだった。

 

「絵本で読んだだけの知識でしょ。奴隷の常識どうこうわかんの?」

 

「知らん。が、オマエがおかしいのはわかる」

 

「そうかい」

 

「そうだ。って、だから触ろうとするな!」

 

 素知らぬ顔で実った乳房に手を伸ばすと、ぱしんと払われた。寂しくて死んじゃうよぉとか世間で云われるが、残念ガードは中々に硬かった。

 

「なあ」

 

「なんだ」

 

「まあ今更だけどよ、一個謝っとかなくちゃなって」

 

「早く言え、気持ち悪い」

 

「その、あれだ。なんて言うか、アルバを好き勝手させて悪かったな」

 

「別にいい。オマエと会うため来たんだろ」

 

「それだけじゃない。蔵ン中の布とか色々さ」

 

 アルバは今、一人ベップの服を製作している。当初は手伝う心算だったのだが、猛烈に嫌な顔をされたので、ほうほうの体で逃げ出した形だった。

 

「あとでアルバの話も聞かせてやるかさ。実はさ、かなり博識なんだぜ」

 

「いらない」

 

「は?」

 

「だからいらない」

 

「要らないってカサちゃん、なんで?」

 

 ぷいと顔を背けてしまったカサは、いじいじと口先を曲げて言った。閉鎖的で慣習的なケイブラビット族にあって、彼女は例外的なまでに知識欲が深い。鼻から遮断するような言い方は珍しかった。

 

「どうしてまた」

 

「アイツ、なんか気に入らない」

 

「なんだそりゃ」

 

「むう、気に入らないったら気に入らないの。わかったか奴隷!」

 

「へいへい、承知しましたご主人様」

 

「羞恥? どうして恥ずかしいのだ」

 

「ちがうちがう。分かったってこと」

 

「な、なるほどな」

 

 ベップはその頷くような仕草に強烈な保護欲が湧いて、ぐりぐりと耳ごと撫でた。カサは羞恥に襲われたのか、林檎のように赤くなって身を捩った。

 

「お、良い顔だ」

 

「ふざけるな」

 

「い、いてぇ。ちょっとカサちゃん、手加減を知らなさすぎるんじゃ」

 

「ふん、男のくせに力で勝てる訳ないだろ」

 

「それ普通逆じゃ……」

 

 ベップは慌てて口を噤んだ。カサはキョトンとした顔でまじまじ見つめると、訝しんだのかアヒル口になった。

 

 細かいことは気にしないたちなのか、キノコの繁殖に興味が移っている。

 

「あとで料理を教えてやるよ」

 

「料理?」

 

「そう、文明ってのは衣食住が基本だろ。衣は俺の服パクられてっから良いとして、次は食かなってね」

 

「ふうん。ま、別にいいけどな」

 

「おいおいちょいとは期待してくれよ。飯に興味ないアンヘルさんを唸らせたぐらいなんだぜ、俺の腕前」

 

「はいはい」

 

 ふたりは手を取り合って落とし穴から抜け出した。彼女はどうやって抜け出すつもりだったのだろう。やはりケイブラビット族の計画性に不安を抱いた。

 

 泥抜きしていた魚を回収して、アルバの嫌がる顔でも見に行くか。可愛いウサギたちに集られながら歩いているとき、目の前でカサの両耳がピンと起立した。

 

 洞窟の向こう、光の彼方から雷鳴のように一際巨大な鐘の音が鳴ったのである。村で引き継がれる唯一の文明物。それは、ベップもカサ直々に教わったものであった。

 

 ケイブラビット族の天敵、風鼬族の襲来を知らせる音色が鳴り響いた。

 

 

 



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日常編第六話:ベップ異文化交流記 その四

 蔑称風鼬族、帝国書簡に拠る正式名称で云うアパッチの彼らは、言わずと知れたケイブラビット族の天敵である。

 

 アルン人やラビット族など所詮亜人種と異なり、帝国人との差は身長だけである。彼らは体格を生かし、猿のように樹々の上を根城にしていた。

 

 分布こそ大森林全土に広がっているが、数は少ない。農耕文化は持たないが、黒曜石の加工技術を持っていたりと高度な知識を備えている。

 

 これらは、独特な文化が密接に絡んでいる。野に降ったはみ出し者が、時折、数学・天文の分野において名を馳せることでも知られていた。

 

 ここまでが俗世間の認識である。だが、非捕食者であるラビット族からの認識は大きくちがっていた。

 

 なによりもまず先にくるのは野蛮性。かつ、宗教観も大きく違っていた。彼らは南部農耕地帯リエガー領と同様、いやそれ以上に太陽崇拝を全面的に継承していた。

 

 つまりは、帝国領内では禁止されたはずの放血儀礼や人身供養を積極的に推奨しているのである。

 

 彼らの脳内では、主神ケツゥアコアトルの力の翳りが闇の訪れに直帰する。太陽が隠れるたび、占星術師たちはこぞって空を見上げ、太陽神に生贄を捧げよと命じた。

 

 中でも、“死の宴”と呼ばれる太陽暦七番目の月に行われる祭祀は、準備に半年を要する極めて盛況なものであった。神官によって選ばれた戦士たちは、祭りまでの間、従者たちとともに周辺部族を攻撃。最終的にもっとも成果を上げた者が分捕った若い女性たちを娶り、一週間神に等しい生活を送る。そして、神の如く崇められた勇者は自ら神殿に入り、その心臓を捧げるのである。

 

 このように敵対する部族は野蛮極まりない彼らを恐れている。勿論、ケイブラビット族も同様であった。

 

 恐怖は魂にまで染み付いているのだろう。警報の鐘が鳴らされた瞬間、カサは些細な蟠りなどなかったように駆けだすと、大人衆の集う祭場へと向かった。

 

 族長“片目”は、相手勢力が強大であると判断すると、棲家より南方約十キロにある古巣へ逃げる旨を通達した。

 

 村の中はてんやわんやの騒ぎだった。小学校高学年あたりの女児すら凄まじい形相で奔走している。ベップは裁縫をしていたアルバを回収すると、指示にしたがって逃走用の坑道を這った。

 

 日頃使いされていない通路は狭かったが、無腰で逃げ遅れたら絶命一直線だ。膝、肘を擦りむきながら、日の元にようやく出た。

 

 一足先に脱出口で陣頭指揮を取っていたのか、次期族長であるカサが側近に合図してから近寄ってきた。

 

「やっときたかっ、遅いぞ!」

 

「なんとかね。それで、村の皆は逃げきれたか」

 

「わからん。罠でどれほど時間稼ぎできるのか……」

 

 想像すら難しい重責を背負っているのか、カサは爪を噛みながら脱出口を眺め続けている。

 

 いまだ中年兎やその他ガキンチョどもの姿はない。数日の仲でしかないベップも、胸がキリキリと痛んでいた。

 

 上層組の男たちが続々と合流する。後続が途切れたことで、輿に載って瞑想していた族長は冷酷な決断を下した。

 

「矢印を残しておけ。あとはあやつらの運に期せよ」

 

 辛い宣告を受け、カサは大粒の涙を浮かべながらぎゅっと唇を噛み締めた。

 

 それでも、決して反論することはない。一分一秒が命運を握っていることは彼女とて分かっている。気丈に顔を上げると収穫班に声を掛けていた。

 

「カサちゃん……」

 

「慰めはいい。黙って走れ」

 

「強えなカサちゃんはよ。俺には真似できねえぜ」

 

「私は次期族長。強くなければならないんだ」

 

「けど――って危ねぇ!」

 

 ベップはカサを突き飛ばすと、遅れて、背中に鉄芯でも撃ち込まれた感触を覚えた。脇腹の皮膚に矢羽が食い込んでいる。

 起き上がったカサはすぐさま抱き起こしてくれた。その顔は、血の気を引き抜かれたように真っ青だった。

 

「だ、大丈夫か。ち、血が出てるぞ。それもいっぱい」

 

「心配すんな、こんなの慣れっこだからよ」

 

 痛みに喘ぎながら身体を起こすと、青々と茂る樹々の上に極彩色の羽を纏った男の姿があった。

 

 その瞬間、奇怪な雄叫びが連鎖した。

 

 小柄な身体から一体どうやって発声しているのだろうか。筋の浮いた剽悍な肉体が連続して降ってきた。

 

 腰蓑を巻いただけの晒された上半身。矢傷がいくつも走る歴戦の佇まい。数十にも及ぶ戦士団は、一匹も逃さぬとばかりに輪を作った。

 

 盆地に差し掛かった最中のことだ。やや高めの茂みがあるだけで、隠れるのは非現実的だった。なにより、樹上でも片手で扱える弩を手にしている。足自慢のケイブラビットでも女子供は逃げ切れまい。

 

 族長が眉を顰めたのはそのときだった。敵方の勇者が雄々しく吠えると、頭上に潜ませた射手へ合図を送ったのである。団子状態になっていたベップたちの頭上に、雨霰と矢が降ってきた。

 

「頼むアルバ!」

 

「……」

 

 神にも祈る思いで叫ぶと、アルバは樹々を足場にして跳躍すると、二本の短刀を手に中空で回転した。人力の竜巻は矢を弾き、一帯を死から救った。

 

 しかし、手の届かなかった範囲では黒き鋭牙があちこちで流れて、血潮が乾いた枯れ木を濡らしている。当たりどころが悪かったのか、あちこちで呻き声が漏れ響いた。

 

 あっという間に形勢が定まってしまった。黒曜石の鏃に混じって、骨矢がいくつも逃亡民を穿っている。殺傷よりも負傷に重きの置かれた武器である。脚を失って、一同絶望的な眼差しで侵略者を見やった。

 

「ふん、たわいない。これが逃げ兎どもか」

 

 ひれ伏す一同の前に颯爽と姿を現した風鼬族の勇者レヴドスキは、腰に佩く鎌を引き抜いた。

 

 その肉体、規格外といっていいほど長く、細い。骸骨が生きているとみがまうほどだ。彼はその軽量級を生かし、風に身を躍らせた。

 

 颶風となって頭上を駆けたかとおもうと、女子供を守ろうとした男衆の喉首を掻っさばいた。噴水のような血柱がそこかしこであがる。庇われた女等は、それを真っ青な顔で見上げた。

 

 牛蒡のようにほそいと思われた手足だが、樹々に捕まる際、くっきりと浮かんだ筋肉が彼の体重を支えている。これに加え、重力を加算させたスピードは鷹の滑空ともいえるべきものだ。一瞬の瞬発力ならば、武芸者たるベップの目にすら捉えるのは困難であった。

 

 荒れくるうレヴドスキの強さを垣間見て、従者たちは拍手喝采にわいた。我らが勇者に続けと、はいずる者たちを血の海に沈めている。

 

 勝負にすらなっていない。虐殺であった。

 

「おい、この中で俺に真正面から挑んでやろうっていう心意気のある野郎はいねえのか。いるわけねえよなぁ。狩られるだけのなっさけねえ兎野郎どもにはよ」

 

 勇者レブドスキは頭上から大袈裟に嘲った。

 

 凍りついている一族の苦境を読みとったのか、稀代の怪童が長剣を掲げ、前線に飛びだしていった。

 

「言いたい放題言いやがって。いいだろう、このオレ様が相手になってやる」

 

 一族最強にして、歴史上においても稀な戦士“大きい雄”である。隆々とした肉体は、ケイブラビットの血に連なるとはとんとおもえない。一陣の風が吹きすさぶと、血煙を巻きあげて戦場の雄二人をとり囲んだ。

 

「オレ様はさいっこうに強くて、一回も負けたことがねえ男だ。茎みてえに細え野郎が、このオレ様を舐め腐ってんじゃねえ」

 

 長剣を一直線掲げると、囲まれていることをおくびにも出さず、堂々と名乗りをあげた。ほう、と風鼬族の勇者も目の色を変えている。

 

「貴様はどうやら狩られるだけの畜生とは違うようだ。ま、決闘の流儀は知らぬようだがな。名乗れ、長耳の勇者よ。私はアパッチの勇者レブドスキである」

 

「“大きい雄”だ!」

 

 両者が名乗りをあげると、従者たちは一斉に矛を収め距離をとった。戦場における決闘は、古来からのいくさを信奉する原住民にとって神聖なる儀式である。

 

 ベップたち、そしてケイブラビット族の命運を握った一戦が幕を挙げた。

 

 

 

 

 

(見ててくれよカサ。オレ様の力はすべてを救うと証明してやる)

 

 一族の姫カサは、奴隷の右腕にしがみついては決闘を見つめている。真の英雄ならば、雌を不安になどさせぬものだ。“大きい雄”は鈍く光る長剣を風のなかに揺蕩わせた。

 

 先手を取ったのは、意外にも巨躯の彼であった。体重のない勇者レブドスキは待ちの不利を理解していたが、わざと見の体勢をとった。身長百九十を超える肉体は、異様な唸りをあげて白刃を閃かせた。

 

 勇者レブドスキの首鎌は柄に赤鬼の大腿骨、刃に黒曜石を拵え丹念に鍛え挙げた特注品だ。

 

 だが、都の名工ウィリアム・ハーシェルの手によって生み出された“七つ首切落鬼斬り”――アンヘルらに迷宮探索任務を強制させられたときの報酬――の切れ味は極めてするどい。

 

 太刀筋が立っていない力任せの一刀とはいえ、受けきることは不可能だ。レブドスキはたたらを踏むようにぐにゃんとのけ反った。

 

 定石で云えばから振らせた隙に懐へと飛びこむべきだったのであろう。が、受けられたことで反発を得た“大きい雄”は、続けざまに長剣を振りかぶった。

 

 のしかかるような態勢と反った態勢。勇者レブドスキは足を地面に落ちつけ、自慢の機動力を封じられている。頼りない鎌では薄皮を裂けようとも、致命傷には至るまい。

 

 勝負はあった。

 

 苦し紛れに繰りだされた鎌を空いた手で払いのけ、ガラ空きの脳天へと振りおろす。

 

 風が泣きそうなほどにうねっている。

 

 耳元を、びょう、と凄まじい音が切りさいていった。

 

 刹那の攻防。

 

 彼は真っ赤な花が咲き乱れるところを想像し、にんまりと笑みをうかべた。

 

「死ねぇぇぇえ!」

 

 仕留めた。全力を込めて振りおろした長剣が肩先へと吸いこまれたのだ。パッと散った血潮で確信へと変わる。“大きい雄”は勝利の余韻に浸った。

 

 だが、違和感は徐々にはいずりでた。切りはらおうとした長剣が微動だにしないのだ。勇者の気配は変わらずにある。いや、むしろ強大になっているように思われた。

 

「まだ勝負の潮合は極まっちゃいねえぜ」

 

 眼前の勇者は、地面へと倒れ込むことなく仁王立ちしていた。千切られた耳から舞った鮮血を長い舌でなめとっている。

 

 勇者レブドスキは信じられぬことに、振りおろされた長剣に対し真っ向から踏みこんだのだ。

 

 遠心力の加わらぬ鍔元付近は切れない。が、たとえ理性がそう訴えても、白刃へと突き進む胆力は並大抵のものではない。

 

「ひっ!」

 

 “大きい雄”は弱々しい悲鳴を挙げた。勇者レブドスキはそれを残忍に笑っている。

 

「いいか、長耳の。おまえのそれは匹夫の勇ってやつだぜ。真の勇者ってのはよ、相手の力量を一目で見定め、十全に引き出してからうち破るのさ」

 

 レブドスキは煙のように立ちきえると、器用な動きで鎌を走らせ、嬲るように腕部の関節をこじった。

 

 彼の拠り所は、所詮力だけが自慢の素人剣術だったのだ。“大きい雄”はみっともなく長剣を放りだすと、逃げ出そうとして脚をかけられ、無様に地面へと転がった。

 

「い、イヤだ、やめてくれ!」

 

「……おいおい、勘弁してくれよ。そんな風に神聖な戦いを穢してくれるな」

 

 恥も外聞もなく地面を這いずって泣きわめく“大きい雄”。そこには戦士の面影はない。あきれ果てたのか、勇者レブドスキは腰に体重をのせ、長耳二本を掴みあげた。

 

「う、うう、死にだくないっ」

 

「そりゃねえだろうがよ長耳の。お前はどこまで俺に泥を塗れば気が済む。根性なしってのはまさか、玉がねえからか」

 

「ひ、ひぃぃぃぃ!」

 

「よーし、いいだろう。そんなに気合が籠もらねえとほざくなら、俺がその気にさせてやる」

 

 勇者レブドスキはそう吐きすてると、啜り泣く“大きい雄”の背中を鋭利な鎌で毟りはじめた。宙に白い毛並みが血に混じって巻き上がる。肉を抉られるたび、切ない叫びが轟いていた。

 

 凄まじい光景。カサなどは嘔吐感を抑えている。

 

 これはケイブラビット族の零落を表す儀式であった。見た目以上に、全身の体毛は薄着でも身を守るための鎧だ。医者のない世界、ちょっとした擦り傷が死や病をもたらす。それがすべて毟られたとあっては、村の中では白眼視される厄介者だ。

 

「よぉし、これでてめえも引っ込みつかなくなるだろ。おら、立てよ。真の勇者に相応しいか、試金石になってくれ」

 

「いやだぁああ。もうやめます。ごめん、ごめんさない。許してください!」

 

「てめえふざけてんのか。一回も負けたことのねえ男つっただろ」

 

 レブドスキは腹の虫が収まらぬのか、青筋を額に浮かべて侮蔑の眼差しを浮かべた。拳が小刻みにふるえている。

 

 派手に戦い派手に散る。戦部族の理念などそういうものだ。周囲の従者などは、不甲斐ない決戦に主人への尊崇を取りはらい始めていた。

 

「誰か助けてぇぇええ。カサ。頼むお願いだよぉぉ。しにたくない、イヤだよぉおお。うえぇん、ああんんんぁぁあ!」

 

 “大きい雄”は、もはや我を忘れて泣きわめいた。が、誰に手を伸ばしても目を伏せたままである。カサだけははっと顔色を変えたが、ベップに手を引かれて沈黙した。

 

 憐れと見たのか、従者たちは助けてやれと喚きだした。

 

「ちっ、とんでもねえクソ野郎だぜ。まさか守るべき女どもに縋りつくとはよ。こんなんを獲物にしたとなりゃ、勇者としての名が廃る。――いいかこの根性なしども。よく聞きやがれ!」

 

 レブドスキは無様な決闘の帰着に憤懣やる方なしと怒鳴り、“大きい雄”の耳を無造作に引きちぎった。

 

 名誉ある決闘のはずが、批判の矛先になったのである。その怒りは赤龍もかくやといった怒気であった。

 

「今日のところは見逃してやる。だがな、明日、貴様らの血の匂いを追って再び聖戦を果たそう。いいか、明日までにだ。家畜のように狩られるか、それとも戦士として闘うか、覚悟を決めておけ!」

 

 命からがら逃げ出した“大きい雄”、そしてケイブラビット族一同。

 

 その命にタイムリミットが付けられていることを、誰もが予感していた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ケイブラビット族ら逃亡民は、一同皆暗い顔をして元の穴蔵へと戻った。

 

 その日、塩気の一切ないスープをかき込むと、血の匂いと苦痛の叫びが籠った部屋で看病をつづけた。誰もが皆、顔中から生気を取りはらっている。

 

 充てがわれた部屋に戻る途中、なんとなしに広場へでた。能天気な子供たちの笑い声を聞きたくなったのだ。

 

 見慣れているはずなのに、まるで色が抜け落ちたようで、集落は生活感が失われている。ベップは、いつも煩わしいと思っていたタップダンスが無性に恋しくなっていた。

 

 床に入ると、睡魔は驚くほどたやすく意識を奪った。半日経って目を覚ましたベップは、地下水の湧出する水場に足を運んだ。

 

 そうやって身なりを整えていると、不安気な様子のカサが忍び寄っていた。

 

「もう寝る時間だろ?」

 

「……ああ」

 

 帯水層の問題から、水場は棲家の奥深くにある。水分補給以外には足を伸ばす理由がない。ラビット族は長期の渇きに耐える肉体を持つので、目的が有って訪れたことを明示していた。

 

 どうせまた、とち狂った奴隷の心得を聞かされるのだろう。良い女ってのは我儘なもんで、どれだけ応えられるかが甲斐性だ。古い男性観を信奉するベップは、両手を突っ込んで顔いっぱいに冷水を浴びた。

 

 苔の青白い光が岩肌にあわく影を落としている。素足に冷涼とした水が染みこむ。水面に映る無精髭を生やした顔を眺めていると、背後から首に腕がまわされた。

 

「どうしたよ。人間の男には興味がないんじゃなかったか?」

 

 熱っぽい感触が心臓にまでつたわってくる。女はどうしてこう暖かいのだろうか。いつも奇妙におもう。そして、だから惹かれるのだ。

 

「……奴隷のくせに生意気だ」

 

「俺は生粋の自由主義者でね。ただの隷従身分ってのはあんまり賛同できないのさ」

 

「また難しい話をする、どうしてオマエはそうなんだ……もしかして違うのか、私がついていけてないだけなのか?」

 

「どうだろうな」

 

 正直に生きろと何度も文字にさせた。聡い彼女はそれ以上たずねなかった。

 

「なあ、みんなの中でオマエは普通なのか」

 

 珍しく気弱なカサに、ベップはガリガリと頭の後ろを掻きむしった。

 

「いや、そうじゃないな」

 

「なら特別なのか」

 

「……いや」

 

「結局どっちなんだ」

 

「どっち、か。そうだな、それはアヒルと白鳥みたいなもんさ」

 

「なんだそれ。よくわからないぞ」

 

 ベップは子供のようにグルグル水面を掻き混ぜると、掬いあげた水をおとした。

 

「俺ん家は結構貧乏でよ、銭の足しに家鴨を飼っててさ。見たことあるか? 黄色いやつから青黒いやつ、変わったやつだと赤いやつもいるんだぜ。ちょいと煩えのが玉にキズだけどよ、良い毛並みの奴はそれこそ白鳥にも匹敵するぐらい綺麗なもんさ」

 

「……」

 

「中でも真っ白な奴がいてさ、ユキって名付けてすげえ可愛がってたのよ。トコトコトコトコってついてきてさ、これが愛らしいのなんの。ま、結局は出荷しちまったからその程度の愛情だったのかもしれねえけど、な」

 

「なにか、あったのか?」

 

「なんもねえよ、可愛いやつだったさ。たぶん、俺が飼うのはこれからもユキ一匹だけだろう。けどよ……」

 

 強く絡みつくカサの腕を、ベップはぎゅっと握った。いまはどこまでも、温もりが恋しかった。

 

「一度だけ、大空へ飛び立つ白鳥に目を奪われちまった。そんときよ、ユキはガァー、ガァーて寂しそうに鳴いたんだ。上を見上げながらよ。

 恥ずかしい話忘れてたのさ。アヒルってのは、どんだけ綺麗だろうが、美しかろうが、空は飛べねえってことをよ」

 

「オマエ……」

 

「悪いな、小難しい話でさ」

 

 ベップはすっと立ちあがると、気恥ずかしげに頬をかいた。

 

「行こうぜ、今日も勉強しにきたんだろ」

 

「……っああ!」

 

 ふたりは数時間の間、何事もなく文字をかき綴った。彼女の最終目標は絵本ではない書物を読破することらしい。辞書もないのに、教えた言葉一つ一つをつぶさに暗記している。枕元にも文字を彫っているのだから、熱意は学士などとは比べ物にならない。

 

 自分は与えられたものを享受してきた。名のある家に生まれ、十分な教育を受けた。学も剣も困らない程度には。

 

 それに比べ彼女はどうだ。なにもない。金も家柄も文化もない。なのに、貪欲になにかを欲しもがいている。

 

 ベップは削られた岩肌に背をあずけて、ずるずるとへたりこむように腰をおろした。時折、疲れた表情をした子供たちが駆けよってきては、それこそどうでもいい世間話に花を咲かせてくれる。追いはらう元気もなく、乾いた笑いを口元に張りつけていた。

 

 平和だったはずの村。遠ざけたはずの影が、どこまでも追いかけてくる。

 

 逃げても、逃げても。

 

 それは、戦の炎ではない。カサや村人の暗い闇でもない。自分が蓋をした何かに、潰されそうになっていた。

 

 ベップの脳裏には、薄れていたはずの日々が強く明滅していた。人の温もりを感じているときだけが、自分を癒してくれる。痛む矢傷をさすりながら目を閉じると、暖かい温度を肌で感じた。

 

 子兎たちが身体をあずけている。気付かないうちに寒がっていたのであろう。ふと、影が差した。行方不明になっていた中年の女性が、毛皮を掛けようとしてくれていたのだ。

 

「もうおねむじゃないの?」

 

「ああ」

 

「そう。ならお友達のところにいってあげなさい。呼んでたわよ」

 

 いつになく冷たい声だった中年兎は、薄目で頷くベップから子兎を引きはがした。

 

 所詮は、部外者ということなのだろう。

 

 ベップだけが、ただ一人、場違いに屯している。

 

 おもえば、時折突き刺さるような非難を感じていた。もしかしたら、風鼬族の侵入を許した遠因だと思われているのかもしれない。盲目に信じてくれる子供たちとカサを除いては。

 

 潮時か。

 

 ベップは仲間の元へと向かった。仕切りのないくり抜かれた岩肌のなかで、アルバは一人正座をして、目を細めながら完成された衣服を眺めていた。

 

「……行くか?」

 

 アルバは目線一つくれず言った。

 

「ああ。俺たち部外者がいつまでも迷惑だろ」

 

「……そうか」

 

「ま、俺たちにも配達の仕事があるしな。さっさとしねえと俺たちがお陀っちまう」

 

 アルバは何も言わず、ただ無言で顎を引いた。

 

「お前も早く帰りたいんだろ。こんな辺境からよ」

 

「……そうだ」

 

「ちっ、なあアルバ、本当は異論があるんだろ。言えよ」

 

 壁を打つような返事に、ベップは苛立ちまじりの荒い息を吐いた。アルバの眼差しには何の変化もない。洞窟内に言葉だけが反響した。

 

「言えばいいだろ。怖くて逃げるのかって。ああ、そうさ、そのとおりさ。恐れをなして尻尾をまくるのさ。それの何が悪い」

 

「……悪くない」

 

「本音で言えよ!」

 

 ベップは顔を真っ赤にして怒鳴った。洞窟の壁が震えるような大声だった。

 

「……任務を果たせ」

 

 アルバはボソボソと口を動かした。

 

「なに」

 

「最優先は任務だ。それ以上は関係ない」

 

 冷淡な声はベップを現実に引きもどした。自分は帝国軍士官にして、武官貴族フォルチ家の人間である。負け戦に力を貸す意味などまったくない。

 

 冷めきった合理主義を相手にして、ベップは反論の言葉を持たなかった。

 

「悪かったよ」

 

 衣服を纏うと、踵をトントンと叩いた。アルバの予備ブーツを改造したものだが、見た目は悪くない。

 

 洞窟の青白い光が不意に乱れた。ゆっくりと振りかえる。そこには、険しい顔つきで睨むカサの姿があった。

 

「なにをやっている。オマエは私の奴隷だろ!」

 

 カサはふーふーと牙を剥いて、駄々っ子のようにベップをなじった。目尻の端に大粒の涙が浮かんでいる。彼女はその涙を拭うことなく、全身の毛を逆立てた。

 

「俺は行くぜ、カサ」

 

「ふざけるな。そんな勝手をやっていいと思ってるのか!」

 

 ベップは深いため息を吐くと、いきり立つ彼女の左肩に手をかけた。

 

「まだ死ぬわけにはいかねえ。悪いが、他人の畑のはなしなんだよ。俺には、俺の住処がある」

 

「見捨てるのか、この私を」

 

「そうなるな。……なあ、お前一人なら連れていける。一緒に逃げようぜ」

 

「私は次期族長。ふざけたことを言うんじゃない!」

 

 カサは腕を振り回して、無防備なベップの頬を思いきり打った。躱そうとおもえば躱せた。所詮、足がはやいだけのおなごである。が、彼は堂々と身動ぎ一つせず、甘んじて痛みを受けとめた。

 

「オマエはもう奴隷じゃない。好きにしろ。二度と帰ってくるんじゃない!」

 

「ああ、楽しかったぜ」

 

 それを最後の挨拶と受けとったのか、カサはくしゃっと顔を歪めると、大粒の涙をこぼしながら走りさっていった。

 

 いつものこと。

 

 自分は見上げられる存在なんかじゃねえ。カサのような才気のつよい女にはとくに。地べたを這いずって、諾々としたがうのがお似合いさ。

 

「行くか」

 

 アルバは無言で首肯した。

 

 心残りはただ一つ。女と別れるっては、いつもうまくいかねえ。

 

 彼はその度、悲しそうに微笑むのだ。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 狂ったように茂る樹木が、夜明けの残光にあぶられて紅に染まっている。

 

 強風に煽られ、葉擦れの音をかき鳴らしている。曇天の空に輝くいくつもの鈍色。強烈な殺気を浴びて、降りようとしていた小鳥たちが慌てて飛びたっていった。

 

 もう少しで開戦だろうか。歩みを進める足が、沼に沈みこんだように動かない。これで本当に後悔しないのか。ベップは何度も自問した。

 

 間違っていないはずだ。勇者レブドスキの力量は、士官学校の剣客気取りたちとは一線を画していた。得物を失った身では太刀打ちできない。

 

 いや、そもそもたった一人戦ってどうする。大将首を片手に、従者どもになぶられるのか。生き死の見定めこそ、命つなぐ唯一の綱であるのに。

 

 後ろ髪を引かれる思いを断ちきるため、ベップは力のかぎり叫んだ。声のすべてを持って、喉を潰すようにして。

 

 呼応するよう、背後で藪を揺らす音が鳴った。殺気はない。首だけで振り返ると、そこには毛を毟られた蒼白の大男が立っていた。

 

「あんた、何の用だ」

 

 それは、ベップを捕まえた過去の支配者“大きい雄”の姿であった。痛めつけられたあとだからだろう。小刻みに震えている。その背後には中年兎の姿もあった。

 

 道すがらの護衛として厄介者に声をかけたのだろう。“大きい雄”は沈黙を保っていた。

 

「どういうこったい。なんか恨みでも買ったか。それとも、そんなに俺が嫌いか」

 

「そんなのじゃないわ。忘れ物を届けにきたのよ。これ、貴方のでしょう」

 

 と、中年兎は黒銀鞘に収まった長剣を差しだした。戦場から回収したのか、血がそこかしこにこびりついていた。

 

「そいつはあんたらのだよ。俺は奴隷。取りかえそうなんざ思っちゃいねえさ。それに、戦の前に武器が一本でも欲しいところだろ」

 

「もういいのよ。こんなものが一つあったところで変わらないわ」

 

「おいおい、腐ってもこいつは名剣だぜ。そこそこの使い手なら骨すらバターみたいに斬れる」

 

「そうなのかしら。でも、カサが返して欲しそうにしていたから」

 

「アイツが、か?」

 

「ええ。渡しそびれたって言っていたわ」

 

「……おい、待てよ!」

 

 踵を返そうとした中年の肩を掴んだ。彼女の目には、カサなどとは比べ物にならないほど非難が渦巻いていた。

 

「アンタらはこれからどうするんだ」

 

「どうする? 決まっているわ」

 

「……戦うん、だよな」

 

「逃げるのよ」

 

「何を言ってんだ! あいつらの動きを見たのか。あいつらは血の匂いを追ってどこまでも追いかけてくる。アンタらの足がどれほどのもんか知らねえけど、逃げ切れるわけがねえ。……まさか!」

 

 ベップはその瞬間、頭の中に湧いたイメージを消しさることができなかった。風鼬族の脅威は、長年付きあっている彼らのほうが知っている。逃げきれぬことなど百も承知。老獪な族長がそんな生温い妥協を許すはずがなかった。

 

「ええ、そうよ。動けぬものたちと、カサたちが待っているの」

 

 視界のすべてを暗い闇が襲った。考えてみれば、思い当たる節は多々あったのだ。切羽詰まった戦の前夜、次期族長であるカサは呑気に文字遊びに興じていた。

 

 彼女はなんらかの用を持って、井戸で佇むベップに声をかけてきた。それは、別れを惜しんで切りだせなかった姿ではなかったか。

 

 最初から、生贄に捧げられることが決まってのお遊びだったのである。となれば、彼女の最後の糾弾は、ベップを後腐れなく送りだすための儀式だったのだろう。

 

 聡い。

 

 そして、自分はどこまで愚かなのだろう。

 

 裏切られたことへの恨みだと勘違いしていた。

 

 あれは、彼女なりの別れだったのである。

 

 ベップは受け取った鞘と鍔の隙間に、一枚の手紙が挟まっていることに気づいた。ヘッタクソな文字。彼女が大切にしていたはずの絵本を破って書かれたものだった。

 

「……なあ、アンタはもしかしてカサの母親なのか」

 

「え、ええ? 私たちはカサの母親よ」

 

「そういう意味じゃねえ、アンタはカサを産んだのか」

 

「ああ、そういうこと。ええ、私が産んだわ。それがなに」

 

「だから、アンタは怒っていたんだな」

 

「何のこと?」

 

「いやいい、忘れてくれ」

 

 村には血縁という概念がない。あまりにも閉鎖されすぎている所為で、近親婚が平然と起こりすぎるからだ。

 

 だが、腹を痛めて産んだ子供を想う心が露と消えたわけではない。彼女の目には、ベップは恩を忘却し見捨て去ろうとしているように見えたのだ。裏切られた、と感じているのは眼前の女であったのである。

 

 ベップは歩いてきた道を見やった。遠くで樹々がざわめいている。辺りでは、獣が意思を持って一方向から遠ざかっていた。

 

 血の乾ききっていない長剣を手にとると、腰にぶちこんだ。長らく収まっていなかったそれは、不思議にも身体に同化し重量を感じさせなかった。

 

 抜かれた鍔元からは、重力でも吸いこむような妖しい光が放たれていた。アルバの猫目がわずかに瞬く。

 

「止めるなよ。いや、止められたって俺は行くけどな」

 

「……任務以外はお前の勝手だ」

 

「へ、そういうことかよ。お前も話が下手くそだな」

 

 己の中の訳のわからぬ炎が立ちあがりはじめた。おもえば、自分はくだらないことに拘ってはいなかっただろうか。特別だとか、普通であるとか。

 

 ベップは嵐のような騒めきの中で、縫いあわされた外套を派手にはためかせた。自分には力がある。何かを成すための力が。

 

 顰めっ面のカサを思い浮かべた。今、彼女は苦しい心情を覆い隠しながらも、来るべき定めを粛々と待っているのだろう。

 

 それを許せるのか。ただひたすら自問した。

 

 ――なあ、ベップ。俺は立派な槍を持った男だろう。ならよ、足一本に成ったとしても立て。浮名を流して、女に背中をぶっ刺されて死ぬのがお似合いの男さ。なら、こんなところで死ぬわけねえだろう。召し捕った女を妻にする狂信者どもなんかには尚更な。

 

「なにが“サヨナラ”だ。喧嘩別れは許容したが、俺は泣き別れだけは許さねえたちなんだぜ」

 

 ベップは小高い崖のうえから跳躍すると、左右に長剣を閃かせた。一本筋の入った残光が藪を切りはらう。彼は逃走する獣たちの群れに逆らって、殺しあいの真っ只中に飛びこんでいった。

 

 

 

 

 戦士か家畜か。決断を迫られたカサたちケイブラビット族は、粛々と最後の別れを済ませ、僧侶のような眼差しで外へと歩みでた。

 

 森は開け、朝焼けの光が全身を包んでいる。夜行性であるケイブラビット族のカサは、朝日を拝むのははじめてだった。

 

 風鼬族の軍団は捧げ物として闘争と生贄を求めている。領土侵犯や怨みつらみというわけではないのだから、勇者レブドスキも不満を僅かに浮かべただけで、歩けない負傷者だったものを打ちすてた。

 

 逃げられたかどうか、という心配は必要ない。同族たちの脚力は山岳でも十分に発揮される。足手纏いが居なければ、比肩できる存在は限られていた。

 

「申し訳ありません。カサさま……」

 

「謝らなくていい。最後は笑って過ごし、精霊となって皆を見守ろう、な?」

 

「ううぅ、はい」

 

 ぴっと頬に赤い液体がとび散った。これもすべては村のため。カサは、無力感に包まれながらも膝を折って、両手を重ねあわせていた。

 

「殊勝な態度だ。が、お前ら女どもは死ぬ訳じゃねえぜ。俺の妻となって終生、俺に仕えるのだ。……ってくっせ! これだからお前らは襲いたくなかったんだ。そのくせ根性なしばかりでやってられねえぜ」

 

 鼻を摘まみながら友人たちを踏みつけにするレブドスキ。その態度が、カサの中の激情を高ぶらせた。

 

「ならなんで私たちを襲った。私たちは静かに過ごしていただけだ。お前たちが来なければっ」

 

「ほう、お前は男と違って鼻っ柱の強いな。ってやべえ、ガチ臭ええ。ちょ誰だよ、おえおえ」

 

 勇者レブドスキは、強烈な刺激臭にむせ返っている。戦場には多少コミカルに映るも、その足は切り落とされた首に掛かっていた。カサは大粒の涙を浮かべ、きっと睨みかえした。

 

「名はなんという、女」

 

「誰がお前なんかに」

 

「口を割らせるのも一興、というほど気長ではないぞ。俺はな」

 

 レブドスキは鎌を片手に長耳を掴みあげた。従者たちはそれを血の迸った目で見つめている。敗軍の習い。奴婢に落とされた烙印が刻まれようとしている。

 

 あの“大きい雄”に為された仕打ちは、魂を穢し尽くすほどの衝撃があった。むろん、舌を噛んで心を守るという手もあっただろう。

 

 だが、自分と一緒に生贄として残された女衆の中には、自決を選べぬ弱者もいた。刺激するから臭いを抑えろと言ったのに、すぐ忘れてしまう。自分が居なくてはどのような最後を迎えるか心配でならない。

 

「お前も俺好みに変えてやろう。そうしたら、少しは気も変わるかもな」

 

 耳元で囁くよう言ったレブドスキは、長耳の付け根に鎌をすえた。涙は絶対に見せない。今から待ち受ける苦痛に耐えるため、唇を噛みしめた。

 

「いぃ度胸だ。そのまま叫ぶなよ。俺は女だからと言って、泣き叫ぶような弱虫を心の底から毛嫌いしている。そう、それでいい。それこそ、太陽神の力となる俺に相応しい女だ」

 

 ひたひたと鎌から滴る血肉がカサの頭皮を濡らしてゆく。怖いと言ったら嘘だ。誰だって傷つけられるのは怖い。痛みから逃れる方法なんてものは、生命あるものには絶対にない。

 

 だからこそ、カサは笑顔を浮かべた。心の中に浮かんだのは、たったひとつ、喧嘩別れになってしまった奴隷の姿である。けれど、あれでいいのではないかと思っていた。ああいう性格なら、自分を見捨ててはいけないだろうから。

 

(オマエはいい奴だ。だから頑張れ。応援、してるからな)

 

 じくりと、刃先が食いこんだ。気絶なんかしてたまるものか。全身を這いまわる寒気にカサは耐えた。

 

「うん……? なんだ」

 

 戸惑ったような声があがったかと思うと、カサはどんと突きとばされた。処刑場と化していた平野の空気は一変し、従者たちなどは歯茎を剥きだしにしている。

 

 ばっと従者たちの密集地帯から血煙が高々と舞った。切りとばされた手首や刀剣が、地面に転がっていた。

 

 一際強い風が葉擦れの音を掻きたてた。

 

 屍肉を喰らおうとしていた鴉は一斉に羽ばたき、虫たちは慌てて草根に身を隠した。

 

 人垣が真っ二つに割れ、黒い影があらわれた。

 

 それは、カサがよく知る人物であった。

 

 死の鎌が自分から離れてゆく。胸の奥が激しく音を立てて、視界などは抑えも効かずに潤んでいる。頬は乙女のように紅潮し、純真なまままっすぐに見つめていた。

 

「オマエ……!」

 

 どうして戻ってきてしまったんだ。とか、そういう無粋な言葉が脳裏を駆ける。奴隷はあっちに行けと心を鬼にするべきなのに。

 

 なのに、言葉にならず立ちあがることもできない。

 

 カサは何もかも忘れて両手を合わせた。勇者レブドスキは心底嬉しそうだった。

 

「いよう、下等生物ども。テメエらにカサは勿体ねえ。俺がもらっていってやるぜ」

 

 衣服を風のなかに放りなげると、生まれたままの姿で、帝国一の快男児は剣を天に突きあげた。

 

 

 



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旅行編第一話:ベップ異文化交流記 その五

 血の海で嬲られるカサを見た瞬間、ベップの中で強烈な感情が噴火した。そして、彼女の身に悲劇が襲いかからなかったことを神に感謝した。

 

 絶叫しながら、剣をおどり狂わせる。

 

 まるで生命を与えられたように、名刀”七つ首切落鬼斬り“が妖しく輝いた。

 

 右、左と従者たちの喉から血が噴きだした。

 

 唐突な闖入者に驚きはまたたく間に伝播した。奇襲は誰しもが弱点だ。寡兵の戦いに慣れるベップは、勢いそのままに十人近くを血祭りにあげた。

 

 鍛えあげられた技を認めて、驕っていた勇者レブドスキの笑みが深まってゆく。ベップは小岩に脚をかけると、役者のように見得をきった。

 

「一騎討ちだ。犬っころ」

 

「ふ、今度は人族の傭兵といったところか。いいだろう、掛かってこい。……といいたいのだが、お前なんで脱いだ」

 

「あぁ?」

 

 レブドスキは戦意と呆れのない混ぜとなった、奇妙な表情をうかべた。

 

「てめえらの流儀に合わせたのさ。羽とペイントで誤魔化してやがるが、んな変わらんだろ」

 

「ふざけるなキサマ。これは代々伝わる戦化粧。それに下は隠しているっ」

 

「おいおい、男の嫉妬は見苦しいぜ」

 

 ベップは立派な分身を掴みながらぶるんと震わせた。近所の女の子に「どうして膨らんでいるの?」と尋ねられたとき「それはね、股間にドラゴンを飼っているからだよ」と答えたことを思い出した。やべぇ、俺ってもしかして召喚師かも。

 

 レブドスキは惚けたように頬を弛緩させると、その意味を悟り、顔を真っ赤にさせた。

 

「な、な、ななな、なんと破廉恥な男だ。神聖な決闘に挑む勇者として恥を知れ!」

 

「カサを性奴隷にしようとして何をいいやがる。おーら、テメエの小せえナニじゃ女を満足させられねえだろぉが。それともあれか、テクなら勝てんのか?」

 

「かかか、神に捧げられるべきこの俺の身を穢そうと誑かす悪魔め。妻はそのような邪悪極まりない行為に手を染めぬ。ただ、この俺を崇め、たてまつるのだ」

 

 勇者レブドスキは女子のように身体を抱えた。

 

「けったいな神さんに仕えてんだな。なんのために生きてんだ?」

 

 終生童貞の身分らしい。憐れになって、ベップははらりと涙を流した。

 

「我らが主神を愚弄するか」

 

「やべえ、同情心湧いてきたわ。ちょっとやめようぜ、そういう身の上話を持ちこむの」

 

「い、言いたい放題言いやがって。そっちが勝手にやったんだろ!」

 

「ストップ。情が移っても困るしな、こっからはコレで片をつけようぜ」

 

「……はじめたのは俺じゃないぞ」

 

 と、呟きながらも、レブドスキはぐっと表情筋を引き締めた。侮りの気配は一切なく、眼光だけが鋭く尖っている。強者を数多も屠ったのか、格下に対する余裕さえ伺える。

 

「だが悪くねえ、悪くねえぜニンゲン。てめえからはビンビン力が伝わってきやがる。ちょうど退屈していたところだ」

 

 レブドスキはすすっと鎌を動かすと、倒れた雄兎の眼窩から果実の種でも取りだすようにして、目玉を口に運んだ。

 

 耳を劈く絶叫が辺りにこだます。

 

 じっとりとした嫌な粘液が唇の端からこぼれ落ちる。ごきゅりと喉で潰すような音が連続すると、至福の味を堪能しているといったような表情で頬を染めた。

 

 常軌を逸した行為に絶望していた兎たちが息を呑んだ。止めとレブドスキが頚椎を粉砕する。穿たれた雄兎の眼窩は、あらゆる嘆きが渦巻いているかのように虚無であった。

 

「どうもこの女はお前に期待しているようだ。いいぜ、すばらしく良い舞台が整った。これであとは、この最高潮に高まった期待ってやつを、ポキっとへし折ってやるのが勇者たる俺の努めよ。なあ、そうだろう」

 

「あ、そう。で、一対一でいいんだよな」

 

「……どういう意味だ?」

 

 十分な闘気をぶつけたつもりだったのか、レブドスキは肩透かしに合って瞳を血走らせた。これほど殺気立つ陣中にあって、ベップが奇妙なほど自然体であったからだ。

 

「いや、仲間と一斉に踊りかかられちゃやべえと思ったのよ。そんな臆病者でなくて助かった。さ、かかってこいや犬っころ」

 

 構えた死の鎌が怒りで震えている。勇者レブドスキは悪鬼を思わせる相貌に変化すると、両目をかっ開いて全身から悍ましい気を放射した。

 

「最後の最後まで弄しやがって。上等だ、後悔するなよ!」

 

 ベップは長剣を振りかざすと凄まじい勢いで駆けた。

 

 同刻、レブドスキも鎌を逆手で構えると、目にも留まらぬ速度で跳躍した。

 

 速い。

 

 草木を踏みしめる音と杉の木を軋ませる音が連続する。

 

 森は暴風雨に悲鳴をあげていた。

 

 一際近くで、カッと乾いた音が鳴った。

 

 樹々の隙間から差し込む陽光が何かに遮られ、僅かばかり翳った。

 

 瞬間、反射的に身体を半身にして、剣を縦に構えた。

 

 ガキンという音に遅れ、激しい閃光が視界を埋めつくした。

 

「ほう、よく躱したな」

 

 勇者レブドスキは、さも感心したという風で木上から見下ろしている。鋭い三日月のような得物からは真っ赤な血が滴っている。一瞬のやり取りで、肩口を薄皮一枚裂かれたのだ。

 

 判断をミスれば首を飛ばされていただろう。速度という点では太刀打ちできそうもない。

 

(この蝗野郎が、犬らしく地面を這やがれ)

 

 ニタニタと笑う姿を見ていれば、彼が脚力に相当の自信を持つことは理解できた。カウンターで勝機を見出すのはむつかしい。かといって、持久戦も不利である。

 

「いくぜ、まだまだ楽しませてくれよぉ!」

 

 ベップが激しく思考を動かしていると、たたみ掛けるようレブドスキは襲いかかってきた。

 

 骸骨に等しい痩身だが、下半身最大の歯車、大腿筋はベップよりも太い。百七十近い肉体が弾丸のように打ちだされ、激しい勢いで飛来した。

 

 避ける、という選択肢はない。

 

 十貫程度しかない体重を反転させるのは、ベップが再び構えるより早い。

 

 注意深く観察すると、第一関節から先が枯れ木に貫入している。見た目には出ていない異常なまでに発達した指先が、無理な姿勢制御を成しえているのである。

 

 一瞬でも視線を切ればそのときが今生の別れとなる。とはいえ、勝機がないわけでもない。人間とは慣れる生き物だ。今は霞んで残像にしか映らぬとも、いつかは捉えられる。速度と旋回性能のために、相手も体重という戦闘最大の優位性を手放しているのだ。

 

 捉えるのが先か、首を刈られるのが先か。

 

 鼓膜が風を割くような鋭い音を掴む。

 

 十度目となる衝突に喘ぎながら、ベップは返しの太刀を想像しつづけた。

 

「よく躱しつづけられるな。だが、それで勝てるわけじゃねえぜ」

 

「アドバイスあんがとさん」

 

「口の減らねえ野郎だ。それがどこまで持つかな」

 

 ベップの身体能力はあくまでも常人の延長線上にある。耐久力、反応、速度。高いバランスで纏っているが、魔物や特殊能力に秀でた一点突破型には苦戦を強いられることがおおい。

 

 だからこそ、東方一刀流に近い剣の道へと逸れた。根ざした金剛流は忘れぬとも、人体を標的とした殺傷術では生き残れぬ。怪物や、それを打ち倒そうとする狂人どもと戦列を並べるためには、真っ当に闘うのでは足りない。

 

 だからこそ、自分の技に期待しない。要領の良さこそ唯一の武器。挑発、逃げの手、小細工、なんだって使った。使わねば生き残れぬことを学んだのだ。

 

 幾重にも剣戟を交えた。

 

 勇者レブドスキは衝撃を殺すためであろう、背中から藪の中に突っこんだ。金亀虫が舞う葉と一緒になって飛びたつ。腕部の筋肉を酷使したのか指先が震えていた。

 

「はぁ、はぁ、やるなお前。俺に真正面から立ち向かえた奴ははじめてだぜ」

 

「そいつはありがとよ。俺はてめえみたいな凡百、いくらでも見てきたがな」

 

「んだとぉ。お前のがズタボロじゃねえか」

 

「はっ、だからてめえは凡百なのよ」

 

「逃げまわってばかりのくせして吹きやがる。まさか、ニンゲンだからってだけで調子こいてんじゃあるめえな」

 

「勘違いすんな、犬っころ」

 

「あぁ?」

 

 ベップの鋭い啖呵に、レブドスキは特大の青筋を浮かべた。

 

「速えだけが取り柄じゃ、ど辺境でお山の大将を気取れるかもしれねえ。土着民族を好きなように痛ぶれるかもしれねえ。けどよ、そいつは井の中の蛙ってやつだ。いいか、お前ら劣等民族がどうして未開の蛮地に住処を移すことになったか、上級国民であるこの俺が教えてやる。そのみっともねえ武器をへし折りながらなぁ!」

 

 ベップは固唾を呑んで見守っている野次馬たちも一緒くたに、頬を吊り上げて嘲笑った。

 

 本来、風鼬族は帝国人の分派であり、血脈を辿れば同じ根源に至る同族である。が、長い分断と転戦の末、惨めにも辺境の帝国大森林に棲家を移している。彼らの語る、宗教観や風習の違いなど歴史上の敗者の言い訳に過ぎない。

 

 普段は帝国人に対し意識せずとも、部族民の深層意識には、無理やりに臣従させられ、生活を制限される側だという劣等感があった。

 

 このことを、ベップは昔付き合った北方人との経験から知っていた。些細なことでも、差別を受ける側からすれば激しくコンプレックスをくすぐる。帝国文化と袂を分かちつつも、高い文明を保ち、ニンゲンと下に見ようとするのは強烈な自負心から来ているのだ。

 

 勢い若者とは、親世代からきき齧った頑迷さを継承する傾向にある。世界を見る機会があるなら、改めることもあろう。だが、彼のように自己の武芸に心血を注いだ男は、歪な僻みを形成させていることがおおい。

 

 規格外の巨躯を誇る勇者レブドフキは、ベップの思惑通り激憤した。

 

「ぐぉぉぉおお、殺す、殺してやる!」

 

「あっははぁ、おら、かかってこい短小野郎!」

 

 爆発。

 

 煽りは大炎を燃えあがらせた。

 

 レブドスキの視野は狭窄と化し、顔色を目まぐるしく転じさせた。

 

 樹々を飛びまわり、回り込むのを基としたが、目も振らず一目散に突貫してくる。ぐおお、ぐおお、と唸る風の音は聞くだに寒気をもよおす。

 

 単純といえど侮りがたし。速度は倍にはならずとも、気迫は比べ物にならない。流れた残像さえベップの目に映らぬほどである。跳ね上げた森独特の土の匂いが辺りに漂った。

 

 ベップは初太刀を紙一重で避けると、素早く転がりながら斜面を降った。一層樹々が茂り、陽光が失われてゆく。

 

 ジグザグに駆けながら狙いをあいまいにして、レブドスキを狩人であると意識付けさせた。自分が死地へと誘導されている事実に思い至らぬよう。

 

 頃合いとベップは一息で反転して、猛進してきたレブドスキと対峙した。刃がウズウズと嘶いている。当惑する勇者が大きく映しだされた。

 

 たった一度の勝負。長剣を地に這わせながら、木の葉を巻きあげるようふるった。

 

 タイミングは完璧。いくら勇者レブドスキといえども空中で姿勢制御はできない。

 

 が、カウンターは想定内だったのか、すんでのところで鎌に阻まれる。

 

 ぱっと血潮が舞って、赤い尾を引いた。交錯の際、憤怒に染まった瞳が獣のように細められている。

 

 ベップは飛び抜けてゆくレブドスキの後ろ姿を見送った。

 

 その瞬間、落ちていた衣服を跳ねあげた。

 

 視線を切る恐怖は相手にもある。ターンすれば、相手は唐突に現れた壁に面食らうだろう。

 

 ベップは飛びさがって軽やかにかわした。

 

 直後、獣は目論見通り進路を変えられず、衣服の壁に飛びこんできた。衣服は彼を捉える網となる。ベップは無防備に空へと流れる勇者を両断した。

 

「がぁぁぁあ!」

 

 胴を捉えたはずの一撃は、速度に合わせることができず足首へとそれた。

 

 とばっと湯気の立つ鮮血が噴きでる。梢の木に頭から突っ込んだ彼は、失われた右足に手を添え激しくわめいた。

 

 致死の一撃とはならなかったが、脚は彼の戦闘能力を支える生命線である。

 

 勝負ありだ。野次馬たちが恐慌状態に陥ったのがわかった。

 

「なんで俺が服を脱いだかわからなかったか。お前の敗因はただ一つ、自分の能力を過信しすぎたな」

 

「さ、最初からこれを狙って……!」

 

 レブドスキは血色の失われた顔で、未練たらしく鎌を見つめた。いくら素早かろうと、空中では動けない。そこに視力まで失われれば、無防備を晒してしまうのは必然だった。

 

 類稀なる能力を盲信し過ぎた。人は誰しも、怒り猛ると制御が効かなくなってしまうものである。

 

「さあ、別れは済んだか」

 

「い、いやだぁ、助けてくれぇ。俺は、俺は!」

 

「てめえも惨めったらしく泣き喚くじゃねえか」

 

 あれほど敗北者を詰った彼も、同じ立場となれば、強者にすがりつく惨めな負け犬であった。

 

 これには、付きしがたっていた従者も失望を浮かべた。

 

「ベップ様の女にゃ手を出すなって、覚えとけ!」

 

 剣の峰で打ち据えると、激しく吠えた。

 

 レブドスキの出血する脚は、打撲であざだらけになってゆく。

 

 強烈な激痛に脳が意識を断ち切ったのだろう。白目を濁らせたレブドスキは、もはや王の面影などなかった。

 

「おまえ……!」

 

 すべてを終え、傷だらけのカサが駆け寄ってくるのが見えた。

 

 ベップはにやり男臭い笑みを浮かべると、空に向かって剣を突き立てた。

 

「へ、待たせたな」

 

 瞳が濡れて艶やかに光っている。自分のものだと言わんばかりに飛びかかってくるカサを抱きとめた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ベップは長剣を振るって血脂を落とすと、油断のない目で周囲を睥睨した。

 

 従者たちは未だ警戒感を強めている。ベップは疲れを隠しながら、刃を平青眼に構えた。

 

 いかに優れた勇者といえど、数十の兵隊に勝るほどの実力があるとはいえない。腕の中のカサは、猫のように頬を胸板に擦りつけた。

 

「もう心配いらないぞ」

 

 カサは鍔元に手を添えると、優しく耳元で囁いた。

 

 とき同じく従者たちが捌けてゆく。勇者を取り返しにくることもなく、実にあっさりしていた。

 

「あいつら掛かって来ねえのか」

 

「一騎討ちに勝ったんだぞ。これ以上戦っても勝てるわけがない」

 

「いや、こっちは一人なんだけど」

 

「そんなの関係ないぞ。それに、あいつらは強いほうだ。他の奴らなら大将が死んだってだけで逃げだすからな」

 

「メンタルざこっ。教官が知ったらブチギレるぜ」

 

「そんなに悪いことか? 私たちだって、自分の大将が居なくて、相手に居たら怖いぞ。それに、目の前であんなにみっともなく打ち取られたら、誰だって腰を抜かしてしまう」

 

「そんなもんかねぇ」

 

 ベップの認識では、軍とはイコール組織である。帝国軍では統率権が厳格に制定されており、上官戦死の際には速やかに権限が移譲される。また、決戦や決闘などといった「点」の戦闘はなく、小隊単位の「面」での浸透作戦が基本となっている。

 

 だが、風鼬族の軍とは古来の将軍システムに依拠するような、原始的なものである。そのようないくさでは、大将の武威、名誉といったものが極限まで重要視された。

 

 単純論、誰それだから付きしたがうのである。百獣の王は勝利者だけが群れを率いる。明快であるからこそ、勢力の趨勢は個人の勝敗に帰結した。

 

「それより、だな」

 

 と、尋ねたカサは目尻が下がっている。声の調子もいつもと違って弱々しい。そのしおらしい姿に、ベップは珍しくときめいた。

 

「なんだ」

 

「その……私がオマエの女ってのは、本当か?」

 

「ああ」

 

 ベップは断言した。カサはその態度に頬を赤らめると俯いて、言った。

 

「どうして……」

 

「悪いが拒否権はねえぜ、カサ。そっちが無理やり奴隷にしたみたいに、俺も許可を取ったりしねえ。いいな」

 

「う、うん。でも、いいのか?」

 

「なにが」

 

 カサは尋ねるのさえ怖いという風で、おずおずと切りだした。

 

「オマエは帰るところがあるんだろ。私は、村から出ていくことはできない。だから」

 

「わーってるよそんなの。当然、俺も村に残る」

 

「そんな。だってオマエは……」

 

「荒れ狂う帝国は合わねえ。それだけのことさ」

 

 ベップはがりがりと頭のうしろを扱くと、ふうと天を仰いだ。言葉にするとしっくりくる。カサの潤む瞳を真っ直ぐ見返して、にっと野生味のある笑みを浮かべた。

 

「だからこそ、ここが故郷だ。妻として俺を支えてくれ」

 

「うん!」

 

「俺より先に寝てはいけない。俺より先に起きてもいけない」

 

「うん」

 

「めしはうまくつくれ。いつも綺麗でいろ。できる範囲で構わないからぁ~」

 

「……馬鹿にしてるのか?」

 

「わり、これ教えてもらってよ。一回歌ってみたかった」

 

 ベップたちは大勢の歓声を浴びて、帰還したケイブラビット族に受けいれられた。逃亡先は古びていたのか、元の居場所に戻れたことを度々感謝された。次いで、族長は一族の危機を乗り越えたことで、祭りを開くと宣言した。

 

 献上祭。

 

 雄が雌を誘う儀式である。勿論、第一格は異人の剣客ベップ・リベラ・フォルチと相なった。

 

 祭りの喧騒は、質素を旨とする彼らには珍しく盛大なものとなった。民族舞踊であろう、タップダンスのようなもので情熱を伝える。これは実のところコミュニケーションの一つなのだが、雰囲気で大体伝わることもある。アピールをする若い兎に見惚れながら、カサに耳を引っ張られるということを繰りかえした。

 

 酒はない。けれど、そこには人情のようなものがあった。古き良き片田舎の名残のような。シラフでこそあったが、心温まるひとときであった。

 

 アルバが祭も半ば様子を窺いにきたが、こういう終幕になるとわかっていたのだろう。郵便を受けとり、少々非難の視線を浴びせながらも、文句一つ言わず頷いた。

 

 折りしも、フィルドラビット族の行商人がたどり着いたことも功を奏した。現在地は大森林の西方部に位置するらしく、沢を降ってゆけば街道筋に出られるそうな。目的の一族が商いの中心地としているサイカ村についても聞いたので、旅路は終わりを告げた。

 

「と、そっちで何してんだ。さっさと来いよ」

 

「う、うん」

 

 畏まらせてやってきたカサは、モジモジと身体の前で手を動かしていた。祭は大部分が終了し、気の早い若手衆などはさっさとしけ込んでいる。

 

 いくさの後で我慢するのは苦痛だったが、ガッつくのもなぁ、という謎の矜持がベップを泰然自若とさせた。

 

「さてと……」

 

「な、なあ」

 

「もう遅いぜ」

 

 ベップは、弱々しい抵抗を剥がすと、瑞々しい唇を吸った。やがて、覚悟を決めたカサが舌を触れあわせる。

 

 彼女の潤んだ瞳を眺めながら、そっとその場に押し倒した。

 

「んっあ。その、あのね」

 

「抱くぜ。言葉はいらねえ、だろ」

 

「でも、私はじめてだから。その、うまくできないかもしれないけど」

 

「心配すんな。むしろ光栄なくらいだぜ」

 

 横たえたカサの上に覆いかぶさる。相手の瞳に、自分が大きく映しだされているのを見た。

 

 その瞬間、腹からぐうと情けない音が鳴った。

 

 ベップは顔を真っ赤にして硬直した。カサは色っぽい雰囲気もなにもなく、大口を開けて笑っている。

 

「おまえ、こんなときに」

 

「笑うな。野菜ばっかで腹減ってんだよ」

 

「はふ、はぁ、やばい。死にそう」

 

「旦那様に向かって失礼だぞ」

 

「わかったわかった。ちょっと待て、私も少しお腹が空いた」

 

 盛大な祭とはいえ、急遽開催されたこともあってか十分な食料があったとはいえない。口に合わないこともあってか元々外で調達していたので、けったいな野菜ばかりの食卓では満足できないのである。

 

 保存食は大体出しつくしたはずだが、カサは迷いなく洞窟の奥へと向かった。上げ膳据え膳、彼女は指導部の人間で雑事に長けた印象はなかったが、祭りのときの動きを見るに小器用ではあった。野暮なことをいえば、火も通さないカット野菜だけだが。

 

(こいつはいい嫁さんを貰ったってことかね)

 

 肉厚の尻をふりふりさせる妻を見ながら、まだ見ぬご馳走に夢を馳せた。なんなら、故郷の餉を教えこませるのもおもしろいかも知れない。ついでにアッチの方も鍛えながら。と、勝手に暢気なことを考えていると、カサが唐突に言った。

 

「ちょっと待て。誰か出してないか見てくる」

 

「出す?」

 

 と、彼女はさっさと右手の穴に滑りこんだ。

 

 というか食うならともかく、出すって意味がわからない。

 

 ベップが頭を捻っていると、呼び声が壁を反響している。耳を澄ますと許可しているようだった。後に続こうとして身を屈めると、強烈な異臭が鼻を突いた。

 

 鼻が曲がりそう、というレベルを遥かに超えている。目や毛穴にすら入りこむ悪臭であった。

 

(いや、つかこの匂い、知ってるぞ)

 

 ベップは恐る恐る声の主人の元までたどり着いた。予感は確信へと変わってゆく。信じたくない、そんな想いは無惨にも踏みにじられたのであった。

 

 ――シーシーしたいんでしょう。ずっとここに居るものねぇ。でも、出すなって言われてるし、何より今食事中だから。

 

 ――何より“今食事中”だから。

 

 

 

 ここで、ある学者の言葉を引用しよう。

 

 一定の種には、健康維持に不可欠な栄養素を体内で吸収できないことがある。それらは、消化器官が弱かったり、特定の餌からしかエネルギーが補給できないからである。

 

 兎の場合、食物繊維を吸収するため、自分自身の糞を食べて補給することが知られている。とくに、盲腸の内容物であるとされるクリーム状の糞――軟糞――は、栄養素が多いとされる。

 

 愛玩動物である犬などの場合、病気を引き起こしたりする可能性があるので必ず躾をしなければならない。が、兎の食糞行動は生態状極めて自然なものなので、矯正は客観的に見て虐待にあたる。

 

 なお、これらの行動は獣人種である「ケイブラビット族」にも見られる。

 

 フィルドラビット族は文明に混じってゆく過程で消失したため心配しなくてもよい。

 

 以上、帝国学術院客員教授、生物学専門ジョーゼフ・スミス。

 

 

 

「なあ、どうした。めちゃくちゃ美味いぞ?」

 

 カサは天使のような笑顔で朗らかに微笑んだ。

 

 肥溜めのなかで顔中を茶色く染めあげながら、ベタベタと歯の隙間まで糞で塗れさせて。

 

「ぎょ、ぎょ」

 

「ぎょ?」

 

「ぎょえぇぇぇぇぇぇぇぇええええええ!!」

 

 おえおえ言いながら、めちゃくちゃに駆けた。一回、二回。合計接吻回数であり、ウンコを口にした回数である。

 

 ウンコを食う一族。ベップが娶ったのはそういう女である。

 

 異文化恐ろしや。

 

 ベップはすべてを放りだし、洞窟の外へと躍りでたのだった。

 

「そいつは無理ぃぃぃいいいいい!」

 

 いまだ彼の求める安息の地は遠い。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 夜色の底に埋もれながら、河原蓬の葉を動かす。微風もまるで知らないように、沈々と更けていた。

 

 しめやかで優しい川のせせらぎは、壁越しに聞く人の呟きのように密やかだ。遠靄の中には音も動きもない滝が小さく懸かっている。

 

 物言わぬ星空は、はるかな山々のうえで佇む。雲にかくれた月の周囲の闇、山嶺の紫に近い闇、大空を覆う輝く闇と、僅かな変化で塗り分けられた闇がベップを包んでいた。

 

(お、おれはまだ何もしてねえ。ヤったわけでも、結婚したわけでもねえ。ギリギリセーフだから)

 

 カサには申し訳ない気持ちもある。だが、それでもスカトロは無理だった。百戦錬磨の彼といえども、衆道と糞はごめんなのである。

 

(やべぇ、また吐きそう)

 

 カサ、イコール、ウンコ。

 

 女は当分、ミタクナイ。

 

 おえおえとえずく彼を励ますよう、雲間から差し込んだ月光が道を照らしている。何かに導かれるよう、梢が風もなく揺らめいた。

 

 唐突に、吹きすさんだ風が全身を嬲った。

 

 木の葉が大量に舞いあがり、視界に靄をかからせる。天にまで高く昇ったつむじ風は、ざぁぁと滝のようにおちてきた。

 

 鬱陶しくて目をつむった。葉擦れの音だけがしじまを覆いつぶす。風を顔中に浴びて目をあけると、急に視界が通った。

 

 漁をしていた湖畔にたどり着いたのだ。そこには、見慣れぬ人影がぽつんとあった。

 

 相貌を確認しようと木の股から顔をのぞかせる。

 

 そして、ベップは大きく目を見開いた。

 

 鋼鉄と茄子紺の溶けあった艶やかな髪が、淡い月明かりに照らされて輝いている。

 

 胸には、白い牡丹の蕾のような紅色を含んだ丸みが二つある。それらはシンメトリーに重みで下へ垂れ、それぞれ薄い陰翳を落としていた。

 

 水面からは股より上が顔をだし、遠目には白い小鳥のようなお尻がぷっかり浮かんでいるようだ。

 

 透き通る水中には可憐な脚が伸びている。細く長い脚は折れそうなほど華奢に見えて、竹のように嫋やかだった。

 

 何よりも見事なのは、肌の白さだ。

 

 新雪を固めた儚く美しい肌に、浴びた水滴一粒一粒が瑠璃のように煌めいている。

 

 みなもに片手を浸し、髪を絞るその仕草ひとつさえ、幻想的な森に佇む美少女のワンシーンのようだった。

 

「そ、そんな……」

 

 緊張で喉が震えて声をうまく発せない。気付けば、ベップは生唾を飲みこんでいた。

 

 アルバ・エゴヌ。

 

 二年屋根を共にしてきた同僚の艶姿を見て、はじめて心の底から、心臓を掴まれたような気持ちになった。

 

 酩酊状態のような気分でさまようと、足元から波紋が伝わる。アルバが闖入者にびくりと肩を緊張させた。

 

 彼女は胸を抱えて半身になる。むぎゅ、と押しつぶされた乳房の間に小さな谷間が生まれた。

 

 小柄で可憐な少女。ベップは水面を掻き分けながら、溺れるように呟いた。

 

「わ、わるい。覗くつもりはなかったんだ」

 

「……」

 

 何を白々しい、という目付きでアルバが睨んでいる。表情から感情を察せたのははじめてだった。

 

「けど、そのよ。ちょっと言葉が見つからねえんだけど……おまえってその、女だったんだな。すまねえ、気づかなくて。その月並みだけど、言わせてくれ。俺が見た中で、一番綺麗だ。いや、本当に。なんていうか、そのバステトみたいだ」

 

 と、ベップは震える少女の腰に手をまわした。臀部の重みを掌で感じる。指を蜘蛛のように這わせると、絹のように滑らかな肌触りが伝わってきた。

 

「……おい」

 

「へ、へへ、こういうのなんか照れるな。こんな寒空じゃ冷えるだろ。あっちに行こうぜ」

 

 やべぇ、やりてえ。めちゃくちゃやりてぇ。さきほどの騒動を忘れてムクムクと神槍が起立する。しかも、今宵は驚くほど硬かった。ベップの股間には、男娼も目を見張る巨大なテントが張られていた。

 

「心配すんなって。俺、優しいって評判なんだぜ」

 

 いつもは氷のように揺るがない瞳に、ぎらんと激しい炎が灯った。

 

「……しね」

 

 表情にはほとんど変化がなかったが、口の端が奇妙に強張る。筋繊維の一本一本が脈打った。腕の中からするりと抜け出すと、旋風のように回転した。

 

 一直線に振われたまわし蹴りが、無防備なベップの後頭部に炸裂した。ケイブラビット族の時とはちがう強烈な打撃に、視界が明滅した。

 

 続けざまに腹、顎と掌底をくらって、意識朦朧となって水面を漂う。

 

 夜空の半月がしろく輝いている。いまのベップには、それさえアルバのお尻に見えた。

 

「あ、ああ、とても綺麗だ」

 

 白濁とした意識は露と消える。

 

 意識が消える直前、ぶつぶつと怪しげな呪文を聞いた気がした。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 行商人の言葉通り、近在の沢を降ってゆけば、そこには延々とつづく荘園だけがあった。

 

 魑魅魍魎の怪物や民族の犇く大森林とはうって変わって、文明の匂いがつよく漂っている。

 

 今度は地図を持とう。法や倫理という、彼には縁遠かろう代物に心の底から感謝した。

 

「あ~しかし、俺はなんで森に行ったんだ?」

 

 ベップは頭をポコポコで叩きながら、靄の懸かる記憶に首を捻った。粗悪な量産魔道具にも負けない性能なのか、大まかな事情とやらも曖昧になる。これが若年ボケか、と一人ツッコミを入れた。

 

「……配達」

 

 斜め後ろを歩くアルバがボソリと呟いた。

 

「そうそう思い出した配達だ。色々あったなぁ。そういやカサちゃんともうちょいでヤレるとこだったような気が。違ったか?」

 

「……失敗した、か」

 

「なんか言ったかアルバ? ……ま、どうでもいいか。覚えてないってことは、どうせ脈がなかったてことだろ」

 

 ふうと安堵のため息を吐いたアルバは、ぷいとそっぽを向いた。その距離は開いている。なにやらかなり警戒されているようだ。

 

(俺、なんかしたか?)

 

 ぶっかけうどんをまだ恨んでいるのだろうか。小せえ奴だと、ベップは鼻を鳴らした。

 

「あ、あのですねおやびん。今日はあとどれくらい歩くんです?」

 

「そうだ。早く街を見たいぞ」

 

 背後で付きしたがっていた二人組が喚きだした。鼻の尖った片足痩身の男とうさ耳のごつ男だ。

 

「うるせえ。風にでも聞きやがれ」

 

 ベップは鬱陶しそうに手を払った。

 

 二人の共を引き連れる経緯は複雑だ。

 

 なんと、目を覚ましたベップのまえで、元勇者レブドスキと元覇王の”大きい雄“がおきあがり、仲間になりたそうにこちらをみている。仲間にしますか?

 

 ○はい←

 ○いいえ

 

 つぶらな目をしていて断れなかった。街まで同行するということで手を打ったのだが、おやびんと尊敬の念を露わにしてくる。面倒この上なかった。

 

 経緯は以上。アルバは興味も示さなかった。

 

 舗装路などはなく、農道らしき踏みかためられた道を進む。自然の囲まれているが、いまはもう懲りごりだった。遠景に民家らしきものがあるが、どうも農奴用の共有住宅らしく、街のまの字もない。

 

 彼ら愉快な郵便配達員が一休みできそうな街にたどり着いたのは、日が翳りはじめたころだった。

 

 南部行商の集積地、ポーキスである。狭い斜面の土地に、ひしめくように木造住宅がひしめいている。地方の宿場町に着いた一行は、すぐさま宿を取った。

 

 食文化が豊富で、パン食が主な東部と違って調理一つ繊細だ。不具者、兎、盗賊、遊び人のパーティーは豪勢な食卓に舌鼓を打った。

 

「つか、アルバって意外に健啖家よな」

 

「……」

 

 スパイスの効いた卵料理を〆に、ベップは酒精の混じったゲップを吐いた。ぼりぼりと腹を掻いていると、よこしまな欲求が高まってくる。するりと立ちあがった。

 

「どこに行くんです、おやびん」

 

 ”大きい雄“改めビッグンが尋ねる。彼ら愉快な仲間たちははじめての贅沢に顔を赤らめさせていた。

 

「ちょっと散歩に行ってくるわ。先帰ってくれていいぜ」

 

 千鳥足で歩きだしたベップの行き先はもちろん色街である。博打なんざ興味はなし。彼は生粋の帝国男児なのだ。

 

 ポーキスは行商人の宿場町として栄えているだけあって、そういう類の店は豊富にあった。また、勤める女たちはよく日に焼けていて、そそるほど健康である。

 

 道ゆく娼婦を冷やかしながら、ベップは己の経験を生かし、最高級の店を探しもとめた。

 

「と、ここにすっか」

 

 帝都風キャバレー「亀頭洗士ガンナメ」。大通りにでんと構えられた老舗である。恐らくだが、メガ粒子砲を撃つ店だ。毒電波を受け取りながら、禿頭の護衛二人組を横切った。

 

「ようこそいらっしゃいました。当店、歳は十五から三十まであらゆる好みにお応えできます。お客様のご希望がありましたら、なんでも仰ってください」

 

 支配人であろう油ぎった中年が営業スマイルを浮かべると、一斉に嬢たちが頭をさげた。色黒の美女に細身の美少女。金髪碧眼の貴族っぽいお嬢さんまでいた。

 

 なかでも一際目立つボンキュボンの美女。フィルドラビット族の彼女は、豊に実った胸を持ち上げるよう腕を組み、きっと釣りあがった目で睨んでいた。

 

 一番人気、白き導き手のセイラ。一等豪奢なドレスを纏っていて、どこかのお姫様にさえ見えた。

 

 あぁと感心したように支配人が頷いた。その顔には、にへらとした卑しい笑みが浮かんでいた。

 

「彼女は当店でも随一の人気でして。本日も予約がいっぱいなのです。代わりに彼女などはどうでしょう。愛嬌たっぷりで古馴染みが多いのです」

 

 元気溌剌としている芋っぽい女フラウが末尾から進みでた。明らかに人気のない枠である。

 

 中年はゴマでも擦るように両手を擦りあわせているが、表情の端には傲慢さがにじんでいる。纏う襤褸きれのせいもあり、副音声で金のねえ奴はお断りと聞こえた。

 

 舐められたもんだぜ。天下の遊び人たるこのベップさまがよ。

 

 ベップは懐の袋を開くと、大量の金貨をぶちまけた。

 

「色白のロリ系で」

 

 

 



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