悠々自適猫生活 (充椎十四)
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いけっキジトラ!スフィンクスに変身だ!

 我輩は猫である。名前はまだない。というのも私の飼い主は典型的な多頭飼育崩壊を起こし、なんと私以外にも猫ちゃんが二十二匹いた。個別の名前など付けられる訳もなかった。

 家の襖という襖、障子という障子は破壊され、壁にはいくつもの穴が空き、家全体にアンモニア臭や猫らしい獣臭さ、エサ独特の匂いが染み付いていた。地獄かな。

 

 何故この話が過去形かと言えば、我々二十三匹の猫ちゃんは既にボランティアに保護されたからだ。生後半年を過ぎていた私はすぐ避妊手術を受けることになり、ワクチンも打たれ、新たな飼い主の元に行くまでの期限付きの宿を得た。医者がボランティアに話していたことには、私はキジトラの雑種で、尻尾が長めの個体らしい。

 成猫に近くありふれた柄のありふれた猫にすぐ貰い手が付くはずがなく――私より月齢の低いキジトラはすぐに引き取られていった――私が人見知りな性格ではないこともあり、避妊手術の傷が治り次第、保護猫カフェに行くことが決まった。

 

 手術を受けてから数日が過ぎたが、とても腹が痒い。猫の手はお腹を掻けるようにできておらず、なんともじれったい。ぼりぼりと患部を掻きむしりたい。つらい。

 傷痕は舐めないようにするから周辺を舐めさせてほしい。包帯の腹巻きも外してほしい。猫になってからずっと全裸だった私には腹巻きが邪魔で仕方なく、患部も気になるため夜も眠れないのだ。代わりに昼に寝ているとはいえ、収まらぬ痒さにストレスが溜まってならない。お願いだから掻かせてくれ、掻いてくれても良い。むしろ掻いてくれ。無力な猫の舌では味わえぬ強さでゴシゴシと掻いてくれ。

 

 痒みで悶える私を温かく見守るボランティアに対して殺意を抱く日々があと何日続くのか、猫の身には知りようもない。つらい。痒い。

 そんな痒みを耐える毎日に鬱々としていた私だったが、今考えれば、保護猫生活は平和で平穏なものだった。後悔している。空腹を耐えるより痒みを耐える方が何十倍も良い。

 

 ――苛ついて水差しを殴ったら別世界に来てしまったなど、誰しも予想外のことだろう。

 

 気付いたら森の中だった。周囲を見回せば、すぐ横の木にでかい幼虫が貼り付いていた。体長は三十センチほどだろう。パンパンに筋肉が詰まった体は、その幼虫が貼り付いている木の幹ほどの厚みを持っている。繊細な私がそれに恐怖を覚えないはずがなかった。ギェェと小さく悲鳴を上げてその場から逃げた。

 

 それからも私の生活は散々だった。クワガタムシの成体と幼虫が合体したようなナニカが木の幹をへし折っている場面に遭遇するわ、夜になるとでかくて赤い目が怖いフクロウがホウホウ鳴いているわ、カラスにしては丸いフォルムで目が赤い変な鳥が他の奇妙な生物に喧嘩を売っているわ、毛並みが汚い大きなリスが突然木から落ちてくるわ、体長五十センチの歩き回るどんぐりがいるわ、川に浮いている丸い葉っぱが川から上がって歩き出すわ、ドロンジョみたいな猫っぽいナニカがパルクールしているわ、二足歩行をした水色のトカゲがシャドーボクシングしているわ……。この奇妙な奴らを見かける度にダッシュで逃げていたせいで、この珍妙不可思議な世界に来てからまだ二日だというのに、もう空腹で倒れそうになっている。

 

 ワガママは言わない、ネズミでも良い、何か食べるものがほしい。しかし私が食料にできそうな小動物はおらず、逆に私がやつらの餌にされそうだ。今は患部の痒さを気にしている暇も余裕もない。

 森を出たら人工物らしき建物が見えたので近づいたら廃墟であったため期待を裏切られたし、空腹だし、もう力がでない。ボランティアさんの元に帰りたい。つらい。

 

 ヒタチのCMを思い出す木の根本までようよう歩き、幹にもたれ掛かり丸まった。もう動きたくない……いや、それよりもっと悪い。もう動けない。木に登る気力も体力もないのだ。

 太陽はさんさんと明るいのに私の現状は散々だ。私は何か悪いことをしたのか? 畜生道に落とされるだけならまだしも、こんな事情が良く分からないまま死んで行かなければならないほどの悪人だったのか?

 そんなはずはない。ありふれた、善人とも悪人とも言えぬ、平凡な存在だったはずだ。なのに、どうしてこんな目に遭うのか。

 

 息をするだけで疲れる――そろそろ私は死ぬのだろう。こんなモンスターばかりの世界で、たった独りぼっちで死ぬのだろう。

 疲れた。

 

 

 

 夢うつつの中で、柔らかい手に拾い上げられたような気がした。

 

 

 

 私が目を覚ました場所は木のテーブルの上だった。私を覗き込んでいるのは二人。ピンクに染めた長髪をサイドでまとめ、灰色のワンピースに白いエプロンとナース帽姿の女と、語彙力のない私には金髪碧眼の色っぽい美人としか表現しようがない女だ。

 

 目を覚ました私に対して二人が声をかけてくるが、どうやらここは外国語圏らしい。彼女たちが何と言っているのやら全く分からない。

 奇妙な怪物に溢れた異世界の言語が日本語であるわけもないのだが、ちょっと期待していたのだ。

 

 ピンク髪の女に円筒型の茶色い何かを押し付けられたが、この茶色い物体からは炭水化物の匂いがする。猫ちゃんは肉食である。多少の炭水化物は摂れるが、大量に食べては毒になる。肉や魚が用意できないならせめて温い牛乳をくれてしかるべきだろう。

 肉がほしい。魚がほしい。ダメなら牛乳をくれ。きれいな水も飲みたい。そう声に出してみるが通じている様子はない。猫ちゃんの言葉が通じるわけもないのだから当然だろうが、一念岩をも通すという。求めよさらば与えられんとも言う。肉を、肉をくれ、と二人に必死に訴えた。

 

『可愛い……!』

『食べないようですね……どうしてかしら』

 

 結果は――宙に浮かぶ目玉の付いたスマホもどきに録画されるだけ、という理不尽なものだった。

 猫ちゃんは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の二人を除かなければならぬと決意した。猫ちゃんには政治がわからぬ。猫ちゃんは、ただの猫ちゃんである。壁で爪とぎ、兄弟と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、猫一倍に敏感であった。

 

 猫ちゃんの怒りが頂点に達するとき、猫ちゃんは怒った猫ちゃんに変身する……猫ちゃんはイナズマンにはなれないが爪は出せる。背中を高く丸め低く唸って二人を威嚇する。この女達に引っ掻き傷一つでも付けてやらねば、この沸騰せんばかりの怒りは収まらない。

 

 フシャーと声を上げてパンチを金髪碧眼の女へ繰り出した――その時だ。女の腰で何かが弾け、黄色くてでかい虫が飛び出してきた。体長が二十センチもある虫などおぞましいとしか言い様がなく、私は悲鳴を上げテーブルの上から逃げた。

 一目散に走れば屋内の中央なのに木があり、高い場所へ逃げるためそれに飛び付いて登る。

 

『おっと、なんだ』

 

 登ってみれば、私が登ったものが木ではないことが分かった。褐色だから勘違いしたが、ただ肌の色が濃いだけの人間だった。私が登ったのは体格の良い成人男性で、ちょうど良いことにフード付きパーカーを着ている。何かあればそこに潜り込めば良い。

 男の肩までよじ登り、ピンク髪の女と金髪碧眼の女に再び威嚇する。これだけ大きな人間だ、二十センチの虫でも握り潰してグシャリと殺れるに違いない。

 

『すっげー威嚇してるな』

『えっキバナさん!?』

『申し訳ありません、キバナ様。どうやら私たちがその子を怖がらせてしまったようです』

 

 私の分からない言葉が交わされている中、絶えず唸っていれば、金髪碧眼女がでかい虫をボールに閉じ込めた。掌に収まるボールに二十センチの虫が吸い込まれるという超常的な出来事に目が飛び出そうだ。なんだそれ。掃除機のデメちゃんか?

 どうなっているのか気になり身を乗り出したら男の肩から落ちかけた。

 

『モンスターボールに入らない未知のポケモンね……』

『はい。他の地方のポケモンの可能性も視野に入れて検索しましたが見つからず、今はボールに入らない新種と仮定しています』

『ふーん』

『目を覚ましてからポケモンフーズを与えたのですが食べようとしませんでした。その後は鳴いて何か訴え、ロトムで録画していることに気付くと威嚇し始め、トレーナーへの害意を感じ取ったアブリボンがボールから出たらカウンターから逃げてキバナ様に登った……という流れです』

『……目が覚めたら見知らぬ場所で、知らない存在から左右から覗き込まれ、怖がって威嚇したら強いポケモンで脅された。そう感じても仕方ないな……』

『はい』

 

 困った顔のピンク髪女や金髪碧眼女から隠れるように男の首の後ろに回れば、くすぐったかったのか男が笑い声を上げた。

 猫ちゃんだから男のポニーテールが気になってならず、ポニーテールにちょっかいをだしたら首の上をつまみ上げられた。

 

『くすぐったいぜ、君』

 

 男の胸元に連れていかれ、液体である猫ちゃんらしくデローンと伸びた状態で男を見上げれば、男はカッと目を見開いて口許をおさえた。

 男はオレンジのバンダナが似合う、薄水色の目をしたイケメンだ。

 

『ちっちゃ……レパルダスかペルシアンが小さくなった新種か? いや、模様が全く違うから別種だな。マジで小さいし軽い、やばい』

 

 何を言っているのかさっぱり分からないが、男が猫ちゃんの愛らしさにときめいていることは分かる。なにせ顔がデレデレに溶けているのだ。そうとも、猫ちゃんは可愛い。顔が崩れるのも仕方ない。

 この猫ちゃんに駄々甘そうな男ならお肉をくれるかもしれない。お肉がないなら牛乳をくれる可能性もある。猫ちゃんの甘え声でメロメロになるが良い。

 

 ナーンと鳴いたら男の顔面がでろんでろんに溶けた。

 

『声が高くて可愛いな。何か欲しいのか? ポケモンフーズを食べないならきのみかカレー……このサイズなら赤ん坊の可能性もあるよな。すまない、この子にモーモーミルクをやりたい。皿になるものはあるか?』

『少々お待ちください。奥に紙皿があるので取ってきます』

 

 私を両腕で抱き直しながら、男はピンク髪の女たちに何か指示した。ピンク髪の女は急ぎ足でスタッフルームっぽいところに引っ込み、帰って来た時には紙製の皿を持っていた。これは期待して良いかもしれない――そして男が鞄から出した牛乳瓶を見て、私はこの男に一生着いていくと決めた。

 お兄さん、私を引き取らないかい。今ならお兄さん限定で愛想倍ドンキャンペーン実施中、お買い得だ。

 

 紙皿に注がれたのは、ママのおっぱい(そのままの意味)のウン十倍美味しい牛乳だった。まさかこんなにも牛乳が美味しいものだったとは知らなかった。こんなに美味しいなら飼い主の元でもっと飲んでおけば良かった。

 鼻も突っ込んでベロンベロンと飲んでいれば、私の飼い主になるべきお兄さんが、目玉のついたスマホのような何かを私に向けて連写していた。そうとも、猫ちゃんは可愛かろう。写真を撮るのも当然だ。飼ってくれても良いんだぜ。

 

『舌ちっちぇー。やっぱり赤ちゃんなのか? だが赤ちゃんにしては脚が細いんだよなァ』

 

 皿の牛乳を一滴残さず舐めれば、飼い主予定のお兄さんに優しい手付きで頭を撫でられた。お礼を込めて指を抱えてペロペロ舐めたらまたスマホもどきで連写された。

 

『お腹一杯になったの? よかったね』

 

 しかし金髪碧眼女が何か言いながら近寄ってきたので、盛大に威嚇してお兄さんの後ろに逃げた。

 

『起きたときに怖がらせてしまいましたから……嫌われちゃったみたいですね』

 

 悲しそうな顔をする金髪碧眼女だが、私はこのお兄さんの家の子になると決めたのだ。絶対によその家の子にはならないし、なる可能性は芽から潰す。

 ピンク髪の女に対しても唸ったり逃げたりしたのが功を奏したのだろう、私はお兄さんに抱かれ連れ帰られることになった。

 

 計画通り……!

 

 そして褐色肌のお兄さんに連れられて来たのは、おおよそ一般人のお宅とは思えない邸宅だった。歴史的建造物と言うべきか、よく言えばアンティークで悪く言えば寒々しく古い。――太宰治が心を病んだ一因、石造りの建物だ。見た目からして既に寒々しい。

 立派な屋敷だから玄関が広い。一般家庭の玄関扉の倍の幅があり、天井も二メートル以上ある。外観ばかりでなく内装も古く、埃が溜まりそうなシャンデリアがいくつも天井から下がっている。

 入った部屋はリビングだろうか。端に簡易キッチンスペースがある以外には物が少ない。壁際に備え付けの棚があるものの、ちょっとサイズがおかしいペット用オモチャが置いてあるだけ。床にもいくつかの大きなクッションとローテーブルがあるくらいという物のなさだ。

 人の気配のなさからして一人暮らしだろうに、閑散とした室内に違和感が大きい。一人暮らしの男がこんな無駄にでかい家に住んでどうするんだ――もしや、この屋敷はお兄さんが先祖代々受け継いでいる家で、何らかの理由で両親と別居しているとか? または、両親その他は本宅暮らしをし、成人祝いにこの別宅を任されてお兄さんが住むようになった、とか。

 しかし、こんな豪邸を持つ金持ちなら使用人の十人や二十人くらいいてもおかしくないだろうに、お兄さん以外の人の姿も、匂いもない。代わりに、私が案内されたどの場所にも、濃い金属臭や酸っぱい臭いがうっすらと染みついている。

 

 板張りの床に下ろされたため、先ずクッションに突撃して匂いを嗅いだ。あまりに金臭かったためバックステップで逃げ、まだいくつもあるクッションを一つずつ確認していく。防水シート張りのクッションからは雑菌が繁殖したような酸っぱい臭いがし、顔がクシャクシャになるのを止められなかった。

 

『とりあえず今日は段ボールにタオルとクッション詰めておけば良いかな。明日は九時からジュンサーさんと一緒にマグノリア博士の研究所、調書作成とあのポケモンの健康診断で個体情報の確認。昼過ぎからジムで書類業務。……間に合うか?』

 

 顎に手を当てて何か悩んでいる様子のお兄さんの脚に、猫ちゃんの柔らかい体を擦り付ける。猫ちゃんの持つ癒しパワーがあればたいていの悩みなど溶けて消えるものだ。

 

『お腹すいたのか? ちょっと待ってなよ、ああ、良い子だ。ミルクを出してやろうな』

 

 お兄さんは長い脚を折り畳んで私の頭を撫で、何かを優しい声で伝えてくれたが、言葉の壁は高い。何を言っているのやらさっぱり分からない。

 しかし私は単なるそこらの猫ちゃんとは異なり、理性を持った知的な猫様だ。お兄さんの邪魔をしたりなどしない。お兄さんから離れてリビング探検を再開した。

 

 ――ところで、目の前に「さあ登ってごらんなさい」と言わんばかりなロッククライミング体験ができるスポーツセンターがあったとしよう。体験は無料で、落ちても怪我をしないことが保証されている。誰もが「それならば」とクライミングしてみたくなるものだろう。

 もちろん私は嬉々として登った。壁に掛けられた分厚いタペストリーに爪を立て、するすると上を目指した。なにせ吾輩は猫である、高い場所は大好きだ。

 

『ミルクが用意できたぞー……おーい、どこに行ったんだ?』

 

 お兄さんが牛乳の入った金属皿を手に室内を見回した。私は愛想良く「にゃーん」と返事し、ひょいと床に下りた。

 

『ははっ、やっぱ赤ちゃんでもポケモンだな。――ほら、ミルクだ』

 

 お兄さんは、牛乳に鼻を突っ込んだ私の背中を撫でた。はっきり言って食事の邪魔でしかなく迷惑だが、私は理性的な猫ちゃんだ。我慢して大人しく撫でられてやろう。

 しかし包帯に触るのは駄目だ。手術を受けてから一週間近く過ぎているうえ、この二日は屋外で走り回っていた。腹巻状の包帯は草の汁や砂で汚れていて不潔だ。

 

 汚いからメッ! とお兄さんの手が包帯に触れないよう気を付けていたが、お兄さんは私を宥めるような声音で何事か繰り返し言いながら、私の両脇の下を掴んだ。まだ飲んでいる途中だというのに何なのか。

 

『腹巻きはすっかり汚れてるから洗おうな~。毛並みの方は……お風呂に入る体力が戻るまでは濡れタオルで拭くか』

 

 そのままの姿勢でするすると剥かれた腹巻き包帯の下には、バリカンで毛を剃られ、避妊手術をされた跡がしっかり分かりやすく存在を誇示している。猫と交尾する気などなかった私は手術を受けられると知ったとき安心したものだ。

 代わりに患部の痒さで頭がどうにかなりそうだったが、それはそれ、これはこれというものだ。

 

 お兄さんが腹巻き包帯を持ってどこかに行きまた帰って来た時には、私は牛乳を飲み終えていた。濡らして絞ったタオルを持っているのは私の汚れた体を拭くためだろう。

 美味しい牛乳のお礼と、体を拭いてくれるならどうぞということで、お兄さんの足に喉を鳴らしながらすり寄った。

 

『足を拭こうなー。良い子だ、いーこいー……』

 

 巨大なクッションにはまりこみ私を胡座の上に転がして私の両足を拭こうとしたお兄さんは、私の腹部を見て動きを止めた。

 

『どう見ても縫合痕だよな……どういうことだ? こんな赤ちゃんポケモンの腹を開く必要性――それに傷跡が残っているのはどうしてだ? っと、先ずはきずぐすり使わないとな』

 

 お兄さんは壁の棚から救急セットらしき箱を持ってくると、消毒液だろうか、ピンクのボトルスプレーを私のお腹に吹き掛けた。濡れた所がひんやりする。

 

『治らないだと!?』

 

 お兄さんは何故か目を剥き、ガシガシと頭を掻いた。何に悩んでいるのか分からないが、猫ちゃんを撫でればたいていのお悩みなどフライアウェイだ。柔らかく温かなもふもふに癒されるが良い。

 ――私の出せる一番可愛い甘え声は、まだ生後一年過ぎていないお陰か、子猫のように愛らしい。成猫になってもこの声を出せるままでいたい。子猫ちゃんの愛らしさを兼ね備えた猫ちゃんでいたい。目指すは美空ひばりだ。

 

「みぁーん」

 

 さあ聞くが良い。この「心底あなたを信頼しています」「私、いとけない猫ちゃんなの」「この世の全てのラブリーが生き物になりました。分かりますか、それが私です」と言わんばかりの鳴き声を。こんな猫ちゃんが相手なら、公衆の面前でも猫吸いしたくなってしまうこと間違いない。私が引き取られなかった要因は単に、微妙な月齢とありふれた雑種であるからという点だけだったのだから!

 私の愛想の良さは世界一だぞ、泣いて喜べ!

 

 しかし、私の努力をお兄さんは理解してくれなかったらしい。悲しげな目で私を見下ろし、繊細な手つきで私の背中を撫でた。何故だ。もっと嬉しそうに笑み崩れてしかるべきではないか。猫ちゃん渾身の甘えだ、もっと有難がって尊べ。

 

『こんなに小さいのにな……』

 

 何故だ……可愛がられていると言うより、可哀想がられているような気がする。おかしい。

 

 手足を拭かれたと思えば、すぐにタオルとクッションを詰めた段ボール箱に入れられ、ポンポンと軽く体を叩かれた。節をつけて喋っているのはもしや子守唄だろうか? 何を言っているか全然意味が分からないとはいえ、途切れず喋り続けているのは歌に違いない。

 眠ってほしいようだから丸くなり尻尾で顔を隠せば、段ボール箱のふたが閉められた。

 

『ごめんな、待たせて。夕飯の時間だぜ』

「ぬめ~」

「ふりゃふりゃ」

 

 外で何が起きたんだ。突然気配が増えたと思えば、人類の声とは思えない鳴き声が聞こえてきた。段ボール箱の外で一体何が起きているんだ。

 粘着質な液体が垂れる音やら、金属が擦れ合う音、重い何かが床を這う音、四本足の何かがのっしのっしと歩く音――はっきり言おう、怖い。猫ちゃんの耳は小さな音でも良く聞こえるハイスペックなお耳のため、この家のリビングに突如現れた巨大な生き物たちの呼吸音が余すところなく聞こえているのだ。だいたいのサイズも分かる。

 ブウウウウンと羽音をさせている何かは二メートル以上の位置に鼻があるし、なにやら粘ついた音をさせているデカブツは二メートルくらいだろう。他のモンスター連中も似たようなもので、背が高くないのもいるが、横にデカいだろうことを推測させる呼吸音だから安心できない。

 

 室温は決して寒くないというのに、背筋が凍る様に冷たい。たっぷり牛乳を飲んだこともあり、おしっこが漏れそうだ。金髪碧眼女が連れていた二十センチの虫型モンスターは比較的常識的でマシなサイズだったようだ……このお兄さんに着いてきたことを、今、物凄く後悔している。

 両腕で耳ごと頭を抱え込み、がたがたと震えながら、この恐怖の時間が早く過ぎることを神に祈った。

 

 こんなところで過ごしていられるか!(フラグではない)……明日、隙を見て逃げるしかない。

 

 そう思っていたのだが。明くる朝、お兄さんはタオルを詰めたリュックに私を入れてどこかへ出発した。ジッパーなら内側からも開けられるはず、と期待していたのだが、紐で口を絞ってストッパーで留めるタイプだった。これでは逃げられない。

 ――気のせいだと思いたい空中遊泳っぽい感覚を覚えること数十分、リュックから出された場所は広い室内だった。リビングだろうか。

 

『……こんなに小さいポケモンに縫合痕なんて』

『気付いてすぐにきずぐすりを使ったんですが、治りませんでした』

『そうなの。――分かりました、この子の検査は私が責任をもって行います。安心してくださいな』

 

 上品そうな白衣姿の老婦人と緑色の髪をした警官っぽい服装の女が、お兄さんに脇腹を持たれて伸びた私を見下ろしている。猫ちゃんを怖がらせないでください。猫ちゃんは繊細な生き物なんだ。

 三人に囲まれては逃げ場がないので、頭上で何か言葉が交わされている中、借りてきた猫ちゃんらしく体重計らしきものに乗せられたりメジャーで体長やら腹回りやらを測られたりした。そこまではまあ実害がないので許容範囲内だったのだが、老婦人が壁際の引き出しから注射器を取り出したのを見て、私は迷わず逃げた。

 そんなに血を抜かれたら死んでしまう。そして針が太すぎる。殺すつもりか!

 

 私は逃げた。なにせ猫ちゃんは液体であるがゆえ、追いかけてくる人の手から逃げるなど簡単である。とはいえ逃亡防止のためか開放された窓はなく、ドアも閉まっている。そう簡単に捕まらない自信はあれど体力が続くかの不安がある。

 しかし、追いかけっこを十分もしただろうか、ドアの向こうからこちらへ近づく足音がした。これはチャンスだ。ぬるぬると人を避けてドアに走る。ドアノブが回る音が聞こえる。ドアが開く音がする。

 

 今だ!

 

『マグノリア博士、借りていた資料を返しに――』

 

 私はその場で跳ねるようにして棚の上へ飛び乗り、パーテーションに張り付いて精一杯背中を高く山にした。紫色のロングヘアの男と、オレンジ色のドラゴンがドアの向こうにいたのだ。

 ドラゴンから目を離さず警戒する。爬虫類らしいいかつい顔に、長い首と重心が低い体格、そして一対の翼。初めて見るはずのモンスターなのに、何故か見覚えがある気がする。どこで見たのだったか、確かテレビだったような。

 こんな怪物がニュースや生き物番組で放送されたことなどないはずだから、別の何かだ。ドラマとか、アニメとか――奇妙な物語系だったろうか。とりあえずゴジ○ではない。

 

『ばぎゅあ』

 

 ドラゴンの口の端から火の粉が散り、そうして私は思い出した。これはポケモンだ。このデカいオレンジ色のモンスターの名前は思い出せないが、主人公がサトシで相棒がピカチューのアニメに出てくるモンスターだ。間違いない。

 ポケモンの存在など信じたくないのだが、口から火の粉が飛ぶドラゴンを前にして現実逃避などできるはずがない。じりじりと後退るも、すぐにパーテーションの端まで下がってしまった。逃げ場はない。

 

『ダンデ! そのポケモンを捕まえてくれ!』

『この小さいレパルダスか?』

『そう!』

 

 お兄さんと何か言い合った紫色の髪をした男が私に手を伸ばす。私を捕まえて引き渡すつもりなのだろうが、捕まってしまえば失血死させられる未来が待っている。ギイギイという鳴き声で威嚇するが男はそれを気にすることなく、私の流水制空圏に手を突きいれた。

 ――私は爪を立てたはずだ。爪を剥き出しにして男の腕をひっかいたはずだ。だが、男の手は無傷だった。何が起きているんだ。

 

『はは、まだ弱いんだな。でもレベルを上げていけばちゃんと強くなれるぞ!』

 

 にこやかな笑顔の男に優しい声色で話しかけられたが、私の混乱は収まらない。この男の手にミミズ腫れ一つ付けられなかった……猫ちゃんの薄くて鋭い爪で怪我一つないなどありえないから、この男は人間のふりをした別の何かなのでは? もしや、ターミネーターのような生物なのではないか。

 考えたくもないが、この男だけでなく、この世界の人類全てがターミネーター(仮)の可能性もある。バトルもののアニメだからありうる。

 

 尻尾を膨らませながらも動けず、男のされるがままにされていれば、ドラゴンが男の横から私を覗き込んできた。近くで見れば見るほど怖い顔をしている。

 そして私のお腹に鼻先を寄せてきたドラゴンはなんと――私の腹のすぐ前でくしゃみした。飛び散る火の粉を間近で浴びた私は腹の底から悲鳴を上げ大暴れした。

 鬼か悪魔の所業だ! 熱い! 痛い! 酷い!

 

『はっ博士! キバナ! 小さいレパルダスが今のリザードンのくしゃみで火傷を!』

『火傷ですって?』

『はぁ!?』

 

 伸びたり縮んだり体を捻ったりとかなり激しく暴れたはずなのに男が私を離すことはなかった。流石はターミネーター(仮)、腹が立つほどスペックが高い。

 

『嘘だろ、毛が焦げてる』

『ただの火の粉だったでしょう? どうしてこんな……もしかしてくさタイプなのかしら』

『くさタイプには見えないぞ?』

『それを今日調べにきたんだよ』

 

 何が悲しくてこんな目に遭わねばならないのか。ドラゴンに火の粉付きのくしゃみを掛けられるわ、焦げた毛を採取されるわ、結局血を抜かれるわ、板に固定されてレントゲンを撮られるわ、口の中に綿棒を突っ込まれるわ、散々だ。気力が萎えて丸まっても、元気なばーさんに耳の先から尻尾の先端までじっくり調べられて昼寝を邪魔される。時計が十一時を指す頃にはもう疲労困憊でぐったりしてしまった。

 繊細な猫ちゃんをこんなに弄り回すなど、こいつらに人の心などないに違いない。ターミネーター(仮)ではなくターミネーター(真)だ。

 

『どうしてかしら、元気がないわ』

『この程度で疲れるわけがないだろうからお腹がすいたんじゃないか?』

『そうだな……モーモーミルク出すよ。ポケモンフーズは食べなかったんだ』

 

 暴れても押さえつけられ、逃げようにもマリア様ではなくドラゴンさんが見てる。火の粉で脅され、視線が私から外されることがない。

 休ませて欲しい。寝かせて欲しい。誰の目もない場所で静かに過ごしたい……辛い。猫ちゃんはね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで、静かで、豊かで……。ストレスフルなこんな環境など、猫ちゃんには向いていない。

 

 この三日というもの、個体の食べ物を口にしていない。昨日の夕方と今朝は牛乳を飲んだが、それくらいしか摂れていない。胃には何も入っていない――が、私は吐いた。

 私は外敵のいない、飼い主に半ば放置された環境で育ったイエネコだ。数時間ずっと絶えず視線を感じ、恐怖を与えられ、身体的にも精神的にも拘束されるなど初めてのことだった。お陰さまで胃が痙攣し、口から胃液が盛大に噴き出したのだ。

 

『……キバナさん、私にこのポケモンを預けてくださる? 病気なのかもしれないわ』

『お願いします!』

 

 猫ちゃんは繊細なので優しくしてください。

 そう祈ったのに……まさかこの元気なばーさんに引き取られて二十四時間監視されるとは、私は思いもしなかったのだ。

 

 それからというもの、おはようからおやすみまで監視され生活が始まり、そのストレスで毛が大量に抜けた。この十日間、ばーさんと、ばーさんと同居している若い女と、ポケモンなのだろう犬っぽい何かは入れ替わり立ち替わり私を監視し続けてくれた。お陰さまで機嫌も体調も毛並みも抜群に悪い。

 「汚い猫を拾ったので虐待した」の虐待(ネタ)ではなく、ニュースになるタイプの虐待(ガチ)を受けた気分だ……あちらに虐待の意図がないのは分かっているが、このような猫ちゃんへの対応は虐待だ。動物愛護団体がばーさん相手に民事裁判を起こせば間違いなく勝訴するだろう。この世界に動物愛護団体がいれば、の話だが。

 

 十日前、トイレのご用意がなかったため頑張って我慢したがどうにもならず、監視の目の前でさせられた。尿の採取が目的だったのだろうが、こんな屈辱は生まれて初めてだ。八日前、固形の食べ物が欲しくて牛乳を鼻で押しやったら聴診器を当てられた。違う、そうじゃない。七日前、毛が大量に抜け始めたなと思ったら、ばーさんが私の抜け毛を集めて密閉袋に仕舞いだした。羊毛フェルトと猫ちゃんの毛で人形を作るならまだしも、ばーさんの目的が別のところにあるのは明らかだ。三日前、腹の中でゴロゴロとして異物感がする毛玉を吐いたら精密検査された。毛並みも肉付きも貧相になっていることでか、ばーさんと同居の女が大騒ぎした。

 猫ちゃんは耳が良いから少しの音にも反応するし、猫ちゃんは繊細だから少々のストレスでも弱ってしまう生き物だ。お願いだから猫ちゃんに過剰なストレスを与えないでほしい。これでは死んでしまう。

 

 このままでは、ばーさん達のせいで猫種がキジトラからスフィンクスになってしまう。無毛のスフィンクスが可愛いか可愛くないという論争はさておき、ストレス性脱毛は体に良くない。冗談ではなく、本当に、ガチで死んでしまう。

 私をこの地獄に置いていきやがった相手だが、もはや救いを求められる先はあの褐色肌のお兄さんだけだ。ほぼ毎日夕方から会いに来るあのあの男しかいない――。

 

 そう思ったのに、そういう日に限ってあの男は来なかった。それも二日連続でだ。私は相手を二日も待つという懐の深さを見せたのに、男は二度も私の期待を裏切ったのだ。堪忍袋の緒が切れたのも仕方ない。

 

 まず、頭の良い猫ちゃんはゲージを脱出した。監視は十日も続けば緩むもので、月明かりふんわりしている夜は猫ちゃんが一人っきりな時間である。ばーさんや同居の女が牛乳を出し入れしている銀色の箱は間違いなく冷蔵庫だろうが、小型冷蔵庫の容量などたかが知れている。食べ物など入っていないだろうから他を当たる。

 薬品っぽい瓶が入っている棚はうっかり劇薬を落としたら怖いので除外、薬臭い流し台の下にあるのは洗剤だった。もはや耐え難い空腹もあり、ばーさん達に殺意を覚えた。

 

 ひたひたと走り回り隣の部屋に行けば、テーブルの上に果物か野菜らしきものがあり、大型の冷蔵庫があった。キッチン用品も並んでいるから、ここはキッチンで間違いない。これで私の勝利は確定だな……お菓子とか出汁の素とか、何かしら私にも食べられるものがあるだろう。ジャーキーや小魚といった乾物ならば棚にあってもおかしくない。

 肉っぽい匂いがする棚の扉の隙間に腕を突っ込み開けば、予想通り、ジャーキーの袋があった。袋に噛みついて床へ落とし、ちょっと固いビニールを噛み千切る。

 

 袋の穴から漏れる肉の匂いを胸一杯に吸い込む。美味い食べ物の匂いだ。この二週間、縁がなかった匂いだ。嬉しさのあまり涙が出た。

 

 っかー! ジャーキーうめぇわ! 天国の食べ物かな!? ジャーキーってやつは最高だぜ! ジャーキーをこの世に産み出した人ありがとう! ジャーキー、ああ、うまい、うまいぞ! 幸せってこんな味だったんだ!

 

 ジャーキーを腹一杯食べ、幸せな気分に浸る。ばーさん達の監視のせいでキジトラとスフィンクスの中間みたいな見た目にさせられてしまったが、ジャーキーに出会えたことについてだけは感謝したい。空腹に染み渡るジャーキー、ありがとうジャーキー。噛み締めれば味が湧き出るのはジャーキーで、俺の名前を言ってみろの人はジャーキーではなくジャギ。

 おにくおいしい。

 

 それから夜明けまでの私は自由だった。もはや我慢などしないし、するつもりもない。よくも今までやってくれたな、という恨み辛みを込めて食料品の類をぐちゃぐちゃにしてやった。パンの袋も引きずり回して床にポイだ。

 猫ちゃんは悪くない。悪いのは人間だ。こんな貧相な姿にされるまで我慢したのだから、むしろ私は偉い。

 

 日が射してきた頃にばーさんと同居の女の手が届かないカーテンリールの上に腰を落ち着ければ、朝早くに起きてきたばーさんが空のゲージを見て悲鳴を上げた。周囲を見回しながら隣室に入り、また悲鳴。

 

『あのポケモンはどこに行ってしまったの!?』

『何が起きたんですか、この惨状は!』

 

 今だけは悲鳴が心地良い――いや嘘だ、煩いから静かにしてほしい。

 しばらくするとカーテンリールの上にいるのがバレた。ばーさんの手が届かない位置だから杖を掲げてぶんぶん振られ、怒るばーさんに追いかけられることになった。

 

『こんないたずらをして! こら!』

 

 それから十分とせずに同居の女も一緒に私を追いかけ回し始めた。この二週間の運動不足やストレス性ダイエットが祟って動きづらいが、液体である猫ちゃんのすり抜けスキルは人間の反射能力を上回るのだ。時折、人間の手が届かない場所や人類には入れない隙間などに逃げ込んだりして休憩しつつ、ばーさん達との追いかけっこは半日に渡った。

 そして日が落ちた頃、家にノッカーの音が響いた。足音と気配からしてあのお兄さんだ――いまさら来たのかこの野郎、ふざけるな。

 

 背の高い棚の上に座っている私の姿を見て、お兄さんは数瞬呆けた顔をしたと思えば、ぶわりと大粒の涙を流し泣き出した。

 

『酷い、こんなに痩せちまって……! 毛も抜けて、どうしてこんな姿に』

『ここ数日、いっそう抜け毛の量が増えたんです』

『何かの病気かと思い検査を続けていたのですが……原因はまだ分かっていません』

『そう、ですか……。なぜゲージの外に?』

『昨晩ゲージから抜け出したようです。朝から捕まえようと追いかけているのですが、どうにも逃げるのが上手くて』

 

 ばーさんや同居の女と真剣な顔で話すお兄さんは放っておくことにして、棚を降り、隣室のテーブルの上に置かれたジャーキーをむしゃむしゃする。猫ちゃん専用ジャーキーより塩気が強いが、少々の塩で猫ちゃんは死なない。猫ちゃんに与えてはいけないのはネギ、チョコ、スパイス、海老やタコの類、サザエとかの貝類の肝で、これらを猫ちゃんが食べると死に至る可能性がある。

 つまり、ちょっとくらい塩が多かろうが猫ちゃんが死ぬことはないのだ。今日も元気だジャーキーが美味い。

 

『ジャーキーを食べてる……。ということは、この個体は赤ちゃんポケモンではなかった、ということかもしれないのね』

『そうね……。あのポケモンのいたずらは空腹の末の行動だったこかもしれないわ』

『うん。だとすると、私たちはあのポケモンから、飲み物しかくれない極悪な人間と思われてるかもしれない……どうしよう、おばあちゃん。あの子の体重が減った理由って、ご飯を食べてないからだったんじゃない?』

 

 扉のところでぼんやりと私を見ているお兄さんの横で、ばーさんと同居の女が何かぼそぼそと話し合っている。

 

『連れて帰ります』

『え?』

『あの子を今日連れて帰ります。俺が責任をもって面倒をみます』

『キバナさん、あのポケモンの毛が抜け、体重が激減した原因はまだはっきりと分かっていないのですよ。病気の可能性があります。考えたくないことですが、もしかすると……』

『分かってます。それでもです。一度面倒を見ると決めたポケモンを看取ってやれないなんてトレーナーとして失格ですから、俺がこの子の最期まで面倒をみます』

 

 なにやら三人が真剣な目で私を見ているが、お兄さん達が話している言葉が分からないので、とりあえずいつでも逃げられるように身構えた。とたんにお兄さんは泣きそうな目をし、なにやら優しい声で私に話しかけながら、ゆっくり近づいてきた。

 

『俺の家に一緒に帰ろう。ゆっくり、気ままに過ごそう。食べたいものを食べて、したいことだけして……』

 

 切々と訴えているお兄さんには悪いが、彼らの言葉が私の知る言葉と違うので、何を言っているのか全然さっぱり全くこれっぽっちも分からない。ただ、私に対して親切にしようと言う意思があることは声の調子や表情から分かる。

 

 もしやこの男、猫ちゃんの姿(瀕死)を見て「可哀想だから安楽死させてやろう」とか思っているのだろうか?

 現状のままでは私の命が儚くなってしまうのは確実だ。安楽死エンドにせよ、そうでないにせよ、男が親切心から何かしらしようとしてくれているのは間違いない。――ならば良し我が命運を預けてやろう。

 

 お兄さんが伸ばしてきた手に大人しく収まれば、お兄さんは湿った声で何か言った。

 

『大事にするからな』

 

 別れの挨拶っぽい雰囲気だ。安楽死で間違いないな。




ポケモン世界の人は何故自分も舞台に立つのか。ポケモンを後ろに従えて「ダイマックスだ!」なんて、ポケモンの技が自分に当たったり、ポケモンに踏み潰されたりの心配をしない不思議。
つまりポケモン世界の人はポケモンより強い。でなければバトル中に死ぬ。

追記
いわタイプ→くさタイプに修正。ミスです! 指摘ありがとうございます!


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【箸休め】スパイクタウンの幸せなぬこ

拾ったのがネズ氏だった版、番外編


 ネズがそれを見つけたのは、日が落ちたばかりの街中だった。定期的に手を入れているとはいえ、使わない家はすぐに朽ちていく――何年も前に閉店した店と、今もなおこの街にしがみつくように店を開き続けるレストラン、その間にある細い路地にきらりと光る双眸があった。

 ゴーストタイプのポケモンかと思い放置しかけたネズだったが、それがぬるりと動いたことで認識を改めた。ゴミ箱の中から、モルペコより一回りほど大きい程度のレパルダスが出てきたのだ。他地方のポケモンだろうか。闇に紛れる濃い色の体毛と薄汚れた腹巻の小さなレパルダスを見るのは初めての事だ。

 

 寂れた街の、と冠詞が付くとはいえネズはジムリーダーだ。ガラルに暮らすポケモンで知らない種類はないし、ガラル地方におけるポケモンの所有や持ち込みについての規則はそらで言える。

 あの小さなレパルダスはガラルのポケモンではない。そしてゴミ箱から出てきたこと、手入れがなされていない毛並みや腹巻からして、今現在トレーナーの手持ちではない。密輸か逃げられたか逃がしたか、何にせよジムリーダーとして見過ごせない事態だ。

 

「面倒なことをしてくれやがる奴がいたようですね……」

 

 溜息を吐き路地へ爪先を向けたが――小さなレパルダスは怯えた様子で奥へ逃げて行ってしまった。迷わずスカタンクを出し、小さなレパルダスを連れてくるよう指示を出す。

 五分も待つことなく戻ってきたスカタンクの口に、だらりと伸びた小型ポケモンがぶら下がっている。

 

「バトルしなかったんですか」

 

 スカタンクにも小さいレパルダスにも怪我一つない。レベル差があり戦意喪失したのかもしれない。

 何にせよ怪我がないのは良かった、とモンスターボールを当てた……が、何故か作動しない。誰かが手持ちとしているようには見えないのだが。

 

「今晩だけでも保護、ですかねぇ……面倒ですけど」

 

 スカタンクの頭を撫でて仕事ぶりを褒め、地味な色をした小さなレパルダスを逃げないよう腕に抱いた。体重は三キロなさそうだ。軽い。

 大きさに対して軽すぎるポケモンは、ネズの憐憫など知らぬ顔で、自らの口の周りをぺろりと舐めた。

 

 手持ちのポケモンもドラゴンタイプのような巨体でないし、兄一人妹一人の家は大きくなくて良い。流石にそれぞれ個室はあるがベッドが部屋の半分を占めるような広さで、お互いのプライバシーが守られることだけは長所と言えるだろう。まだ一桁の年齢の妹は日没が門限、ネズが帰宅した時には既に家にいた。

 

「帰りましたよ」

「お帰り兄貴――その子は?」

「ゴミ箱を漁っていたので保護しました」

「へえ……ちっちゃくて可愛い」

 

 この小さなレパルダスは生ごみに頭から突っ込んでいたのだ、触ったら汚いとマリィの手を避け、洗面台に向かう。ふわふわの体毛は寒さに弱いからだろう、蛇口から出る水がお湯に変わるまで待ち、洗面ボウルにぬるま湯を溜める。汚い腹巻を剥がせば――バリカンで毛を刈られた腹に縫合痕があった。

 訳有りは確定だ。顔をしかめ、この小さなレパルダスを清潔にすることが先だと頭を振る。泡で出るハンドソープを使い全身を洗ってやる間、小さなレパルダスは大人しくネズにされるがままになっている。洗われることに慣れているのだろう。

 よく動く耳はチョロネコと同じ三角形だが、体の形はレパルダスだ。肉球を押せば薄く頼りない爪がにゅっと出る。口の中を確認すれば、牙も貧弱と言う他ない。本当にポケモンなのか? これでは生まれたばかりのコスモッグの方が頑丈で屈強ではなかろうか。

 

 泡を落とし切ってドライヤーを構えれば、小さな生き物はネズの腕から逃げようとしてぬるぬると暴れた。

 

「濡れたままでは風邪を引きますよ! ええいナマズンのように滑るな、跳ねるな!」

 

 どうにか生乾きまで乾かしたが、この小さな生き物は小ささゆえに機敏らしい。ネズの胸を蹴ってダイニングキッチンの方へ逃げた。

 

「ちょっ! こら!」

 

 ドライヤーを置いて追いかければ、小さな生き物はソファーに飛び乗ったがそこで寝ているモルペコに驚いてクッションと共に床に落ち、じたばたと逃げてテレビ台の下にぬるりと潜り込んだ。マリィの姿がないのは部屋にいるからか。

 テレビ台の前にしゃがんで――あいにくとネズは行儀に厳しい家庭の生まれでも育ちでもないので、俗にいうヤンキー座りだ――優しく声を掛ける。

 

「……何も怖いものはありませんよ。そこは冷たいでしょう、出てきたらどうです」

「そこを出たら美味しいものをやりますよ」

「まだ生乾きでしょうが。ちゃんと毛を乾かしてからならいくらでも隠れて良いんですが」

 

 言葉を重ねても、テレビ台の下に隠れた小さな生き物が出てくる様子はない。ふうとため息を吐いて立ち上がり、先にこの生き物の食料と水を用意してやることにした。

 手持ちたちがまだ小さかった頃の水皿やフード皿は流し台の下にあった。レパルダスに似ているのだから肉っ気の強いポケモンフードが良いだろう――丁度良いことにネズの手持ちには肉食系が多い。水とフードをテレビ台の前に置いてやり、そこから数メートル離れた椅子に座った。

 

 数分待った。小さな生き物がテレビ台の下から頭を出し、耳をぴくぴくと動かしながら水皿に首を伸ばす。首を伸ばすだけでは届かないとなると一歩、二歩、と台の下から這い出て、隠れているのは後ろ脚と尻尾だけになった。勢い良く水を飲む姿はどこか哀れみを誘う。

 未だしっとりとしてボリュームのない小さな生き物の姿に、ネズはふむと考えた。ドライヤーが嫌なのは音か、それとも風の強さか。どちらの要素もないなら、逃げないかもしれない。

 

 玄関からダイニングキッチンに繋がる短い廊下、脱衣所の出入口の正面に小さな物置部屋がある。そこからネズが出したのは小さなハロゲンヒーターだ。デスク作業時の足元用に買ったが、まだ使う時期ではないから倉庫に仕舞っていたそれを、ダイニングキッチンに持ち込んでコンセントに繋げる。

 つまみを回して電源をつければ、ブーンと鈍い音を立てて白い電灯がオレンジ色に染まっていく。

 

 生き物が顔を上げ、ネズを見た。問うような目をじっと見つめ返せば、不機嫌そうに視線を外して――ハロゲンヒーターの前に転がった。

 山盛りのフードは、山の斜面が少し抉れ、減っていた。

 

 

 

 

 

 水差しにパンチしたら異世界トリップした――無機質な空の色と歴史を感じさせる日本ではない街並み、聞いたことのない言語と見た事のない文字の看板。平成原人はペットのクワガタに涙を落とせば帰れたが、私がペットな生き物な場合はどうすれば良いのか。困ったにゃん、と街の中をうろついて、嫌なことに気が付いた。

 私以外に野良猫がいない。野良猫はいないが、野良モンスターやペットのモンスターがいる。街の中でもペットのモンスターと野良モンスターが人智を超えたファンタジックな技を打ち交わして戦っている。

 

 あれらは私の知っている動物ではない。つまりそれが何を意味するかと言えば、巻き込まれれば私が死ぬ。

 鳴き声が静かな猫ちゃんで良かった。うっかり吠えたら目立ってしまう犬だったらどんな目に遭っていたか分からない。雄弁は銀、沈黙は金というやつだな。

 

 頭の良い猫ちゃんは黙ってその場から逃げ、レストランの残飯で腹を満たして生活すること約三日――髪の色のセンスが人智を越えた男に捕獲された。髪が横方向にモノクロボーダーとか正気か? 初めて見たぞこんな髪の色をした奴。こんな髪色を頼まれた美容師さんは大変だったろう。

 髪の色もそうだが、この男はこう、何と言おうか、病的だ。ひょろりとした体格で不健康に細く、顔色もちょっと悪い。全体的な雰囲気として、尖り過ぎてファンとアンチが極端なバンドマンっぽい男だ。

 

『今晩だけでも保護、ですかねぇ……面倒ですけど』

 

 なんだ、私を見てため息を吐くんじゃない。腹の立つ野郎だな。こんなに可愛い女の子をお持ち帰りするのだから、もっと嬉しそうな顔をするべきではなかろうか。

 

 病気一歩前バンドマンに連れ帰られた家には可愛い女の子がいた。未成年だし、この病気一歩前バンドマンが誘拐事件の犯人でなければ妹なのだろう。私を見て瞳を輝かせた顔が可愛い。

 生ゴミ漁りをしていたから汚い自覚はもちろんあり、洗面台で洗われる際は大人しく借りてきた猫ちゃんになった。ハンドソープの泡が薄く茶色っぽく染まる……たった三日でよくもまあこんなに汚れたものだ。

 

 予想よりも優しい手つきで洗われたのは良いが、ドライヤーは駄目だ。音がでかい。人間だった時の感覚で言うなら、解体工事現場に耳栓なしで入るとか、音量マックスのスピーカーが頭のすぐ横にあるようなものだ。

 液体である猫ちゃんの特性を生かして逃げようともがくも、男もさるもの、なかなか逃がしてくれなかった。どうにかこうにか逃げて飛び込んだ先は居間、なんとなく飛び乗ったソファーには変な色のカピバラが寝ていて焦った。最終的に私が隠れたのはテレビ台の下、液体である猫ちゃんでもなければ入れないような細い隙間だった。

 

『……何も怖いものはありませんよ。そこは冷たいでしょう、出てきたらどうです』

『そこを出たら美味しいものをやりますよ』

『まだ生乾きでしょうが。ちゃんと毛を乾かしてからならいくらでも隠れて良いんですが』

 

 男が、子供に言い聞かせるような柔らかい声で何か言っている。しかしいくら親切そうな声を出そうが、奴は私にドライヤーをかけようとしているから駄目だ。絶対に出ない覚悟をもって無視していれば男はまたため息を吐き、テレビ台の前を離れた。

 水の音やカリカリを出すような音がしたな、と思ったらまさしく予想通りで、男は水とカリカリっぽい何かを皿に出してくれていた。それに加え、私にこれらを出した後、離れた場所で座ったのだ。マナーの分かる奴だ。

 先ずは水――三日ぶりの奇麗な水をがぶがぶ飲む。不純物のない水の美味さに胸が撃たれる心地だ。

 そしてカリカリっぽい何か――肉が主成分であるようだが、雑穀の匂いも強い。家にあるものを出してくれたのだろう。ちょっとだけ食べたらやはり麦の風味が強く、えぐみを感じた。

 

 顔を上げれば、男がハロゲンヒーターを出していた。見上げれば見つめ返される――喧嘩を売ってるのか、この野郎。

 しばらく睨み合ったが男は目を逸らさず、仕方なく私が目を逸らした。私は負けたのではない。ハロゲンヒーターで温もりたかっただけだ。嘘ではない。

 

 そんな初日のベッドは台所用足元ぬくぬく電気マットと毛布で、二日目には足元マットが小型犬猫用サイズのペット用ヒーターに変わり、三日目には木製チップの敷き詰められた箱型トイレも室内に設置された。猫ちゃんが存在しない世界で猫ちゃんに必要な物を揃えられたこの男に花丸合格を与えたい。しかし言葉が全く分からないので、男の腕を抱え込み、爪を仕舞った脚で連続キックしてやった。男は不思議そうな顔をしていたが、そのうちこれが私の愛情表現の一つだと分かることだろう。泣いて喜ぶが良い。

 ところで私を家へ連れ帰ったこの男についてだが、不健康そうなバンドマンだと思っていたら、なんと本当にバンドマンだった。どうしてそれを知ったかと言えば、男と同居している妹がテレビをつけて私を抱きかかえたからで、テレビ画面では男がマイクを抱えて歌をがなり立てていた。イメージ通りで笑える。

 

 早朝に出かけた男が読みもせずテーブルに放り投げただけの新聞に、折り込み広告があった。休日なのか妹は十時近くまで寝ていたが、シリアルの朝食を済ますと新聞を開き広告を確認し始めた。

 スーパーの広告らしきものに牛乳だろう紙パックや野菜類にマジックで丸印をつけていく妹の横でそれを覗き――魚を見つけた。切り身ではなく煮干しだから塩分が少し気になるが、えぐみのあるカリカリもどきよりマシだ。

 ワーンワォーンと鳴きながら煮干しを前足で連打すれば、妹が苦笑いしながら煮干しに丸を付けてくれた。

 

『魚食べたいの?』

 

 次に私が目を付けたのは、ササミっぽい肉だ。解像度が悪い写真だからササミなのかどうかはっきりしないが、私がササミだと思ったからこれはササミで間違いない。私はササミが食べたい――誰よりも食べたい……凄く食べたい! ので、私はこのササミの写真を連打させることができる……たとえば断られても。

 胸肉でも良い。

 

 また妹はササミに丸を付けてくれたが、何故か外出する様子がない。どういうことなのか。私の舌は既にササミに染まっているから、早くササミを買ってきてほしい。ちょっとレンジでチンしてから冷ましたササミを食べたい。ササミを求めて胃が泣いている。

 ササミをくれと鳴きながら妹の足元をうろうろと回るも、妹は撫でてくれるだけで家を出ない。何故だ。

 

『兄貴がいなくて寂しいのかな……昼過ぎに帰ってくるよ』

 

 唸りながら家の中をうろうろ歩く。期待させておきながら買いに行きもしないとはどういうことなのか。水をがぶ飲みしても、このじりじりとした気持ちのささくれが治まらない。

 

『帰りましたよ』

 

 一時を回った頃に帰宅した男は買い物袋を持っていて、なんとその袋の中には出汁用煮干しと鶏のササミが入っていた。煮干しを袋ごと部屋の端へ持っていき袋を齧ろう――としたら袋を取り上げられた。

 

『目を離したらすぐとはね。開けてやるから待ちなさい。待て、です。待て。分かりますか、待てですよ』

 

 掌を向けられて繰り返される『待て』という言葉。もしや「待て」と言いたいのだろうか。ちゃんとくれるなら五分程度まで待ってやっても良い。足に擦り付きながらにゃんにゃん甘えれば、ご飯皿に煮干しが五尾も置かれた。

 うーんジューシーで最高。やはり煮干しは良い。もともと持っている塩分以外に塩が加えられていない、自然な味わいが素晴らしい。だが頭部は苦くて好かん。

 

『こら、頭だけ残さない』

 

 首から下だけ食べて逃げようとしたが、男に胴体を掴まれてご飯皿の前に戻された。顔を背けてもイヤイヤと身を捩っても男の手は動かない。

 

「うぅー……わぉーぅう」

『唸らない。身が食べられるなら頭部も食べられるでしょうが』

「うわうー!」

『我儘を言わない』

 

 しつこいので頭も食べ、苦かったので水を飲んだ。今回は仕方なく従ってやったが、猫ちゃんに言って聞かせても言う事を聞くと思うなよ。やってみせ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやっても猫は動かじと、かの山本五十六だって言っていた。猫ちゃんはブルジョワでグルメなのだ。この繊細な味覚に合わぬ物など食わぬ。

 

 恨みを込めて睨めば腕組みして見下ろされた。猫ちゃんを見下ろすとは良い根性だ。

 腹立ちまぎれにレースカーテンをバリバリやったら怒られたし、柱に飛びついてムササビの術をしたら無視されたし、食器棚に潜り込んだら摘まみ出された。男はそんな調子だが、宙に浮いたスマホがずっと私を追っているのは何なのだろう。走って飛びつこうとしても逃げられてばかりだ。

 

 廊下は短いし居間以外の部屋は全然広くないが、この家には猫ちゃんが上るのにちょうど良い棚や隠れるのに最適なテレビの裏などが揃っている。多少甘えても許される寛容も、猫ちゃんの生態を理解しようという意識もある。ここはなかなかの好物件だ。――好物件だが、だからと言って私は媚びぬ。猫ちゃんを飼いたければ跪いて乞い、自らが差し出せるものをアッピルするべきだ。バンドマンと妹が私にメロメロなのは魚とササミの件からも確定的に明らか、つまり猫ちゃんはこのおうちで幸せに過ごす。

 

 一生一緒にいてくれや。

 

 

 

 

 

 先日ネズが路地裏で拾った動物は、折れやすい爪に小さく攻撃力のない牙しか持たない。火を吹くわけでもなく、石礫を飛ばせるわけでもなく、濁流を出せるわけでもなく――野生で生きていくには向かない生き物だった。

 6番道路を根城にしているウカッツ博士に遺伝子や唾液の調査をお願いした結果、どのポケモンとも類似しないこと、レベルアップ等による進化をしないこと、人間と同じ胎生であること、肉食であることが分かった。

 

「じぶんはシャーレ上の調査はできるけど、生態調査は向いてないんだよね。これ以上のこと知りたいなら、この遺伝子の本体連れて他の研究者のところへ行きなよ。マグノリア博士とか。ジムリーダーなら伝手が有るよね」

「……ええ、そうします。調査していただき有難うございました」

 

 あの生き物はポケモンではないから、モンスターボールに入らなかった。胎生だから腹を開かれ調査された。なるほど嫌な話だ。

 アーマーガアタクシーでスパイクタウンに戻る途中、マリィからメッセージが届いた。帰りに買ってきて欲しいもののメモと、あの生き物の動画だ。

 

「うなーん、なあー」

「うんうん、兄貴いなくて寂しいねー」

「なあー、なあー」

「うちも寂しいよ。一緒」

「うなー」

 

 生き物がマリィの脛に頭を擦り付け、明らかに甘えている声で鳴いている。

 

「は? 可愛か……」

 

 マリィと小さな生き物の組み合わせが可愛すぎる。それぞれ単体でも可愛いのに、セットにすると可愛いの二乗倍だ。あまりに可愛すぎる動画に、ネズは天を仰いだり片手で目元を覆ったり工夫してみた……が、残念ながら全く効果がない。可愛さで胸が締め付けられるような心地がして胸元を掴む。

 この胸の苦しさは一人で抱え込むべきものではない、ということで、親のスーパーで経理をしている友人を呼びだした。呼び出したと言っても、マリィに頼まれた買い物をするためスーパーに来たのだから、そう大したことではないだろう。

 

「黙ってこれを見やがれ」

「突然呼び出して何なの!? マリィちゃんかわいか~……は? このポケモン何? どこの子? は? メロメロされてないのにメロメロになっちゃうんですけどこれ? かわ……語彙が溶ける……画面がマブい……」

「そうでしょう!」

 

 このカワイ子ちゃん達の動画をくれ、と言われたが、可愛い妹のマリィが映っている動画をくれてやるほどネズの心は広くない。小さな生き物単体の動画なら後で送ってやると約束して買い物をし、家に帰った。

 

「兄貴おかえり」

「留守番ありがとう、マリィ。少し遅いですが今から昼食を作りますから、あと三十分ほど待ってくれますか」

「うん」

 

 素直で可愛いマリィの頭を撫でて留守番の労をねぎらい、さきほど椅子の上に置いた買い物袋から冷蔵のものを取り出して仕舞っていれば、いつの間にか煮干しの袋が逃げていた。――小さな生き物が部屋の隅で煮干しの袋を齧っていた。

 先ほどネズと友人が約束したのを聞いていたからだろう、スマホロトムが真面目にその姿を録画している。

 

「目を離したらすぐとはね。開けてやるから待ちなさい。待て、です。待て。分かりますか、待てですよ」

 

 掌を見せて「待て」と繰り返し、袋を取り上げて封を切る。この小さな生き物の大きさと体重から考えて五尾程度が適量だろうか。

 皿に置いてやればがっつく様子で食べ始め、心のメモに「この小さな生き物は煮干しが好物」と書き留める。しかしこの小さな生き物、一尾はまるごと食べたくせに、残る四尾は器用にも頭だけ残して逃げようとした。

 

「こら、頭だけ残さない」

「うぅー……わぉーぅう」

「唸らない。身が食べられるなら頭部も食べられるでしょうが」

「うわうー!」

「我儘を言わない」

 

 逃げようとじたばた動く胴体を掴んで皿に体を向けさせ続ければ、ついに諦めたのか、見るからに嫌そうな態度で残る四つの頭を食べた。口直しと言わんばかりに水を飲んだのち、恨みのこもった目をネズに向ける。

 

「何ですか、文句が有るんですか。お前を拾ってやったのは俺ですよ」

「うぅー」

 

 手を離したからだろう、脱兎のごとくネズの足元から逃げた小さな生き物は、レースカーテンに爪を立ててバリバリと爪とぎをした。一度手を止めてドヤァと言わんばかりにネズを振り返り、また爪とぎを始める。

 

「こら!」

 

 叱れば広いとは言い難いダイニングキッチンを走り回り、椅子を踏み台にして柱に飛びついた小さな生き物にため息を吐く。ドヤァという顔をしているのを無視して生モノを冷蔵庫に仕舞った。

 ネズが昼食の皿を出すため食器棚を開けっぱなしにしていたら、いつの間にか小さな生き物が食器棚に入り込み、満足そうな顔で狭い隙間に座っていた。もちろん摘まみだした。

 

「悪戯しない」

「ぅううう」

 

 叱責など聞きませんとばかりに耳を後ろに向ける小さな生き物の動画がスーパーの友人経由でスパイクタウン振興会に流れることも、小さな生き物がスパイクタウンのイメージキャラクターに起用されることも――この時のネズは知らなかった。



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【箸休め】スパイクタウンの幸せなぬこ2

みじかめ。攻略本がないくせにトゥルールートを迷いなく進むゼブラカラー男。


 うちの街のポケッター公式アカウントのアイコンが、誰も見たことがないポケモンになっているらしい。中の人が伝説のポケモンに会ったとか、そんな億分の一だか兆分の一もありえないことが起きたわけがないだろう。だがまあその「未確認ポケモン」とやらを拝んでやろうじゃないか。

 幼馴染みからのリークを半分以上信じずにポケッターを開いた私は飲んでいたコーヒーを噴き出した。

 

「ぬこ様じゃん!?」

 

 スパイクタウン公式アカウントのアイコンは――なんとキジトラの子猫だった。写真の説明ポケートには「中央通り商店街の看板娘に就任しました。新種のポケモンである可能性があり、現在は調査結果待ちです」と書かれている。我が家はスパイクタウンの外れにあるから、中央通り商店街は少し遠い。でも自転車を使えばすぐだ。

 

「今すぐ行くチャリで走って行く、待ってろぬこ様」

 

 創作小説投稿サイトの「ポケモンがいない世界観」ジャンルで知り合った転生者で作るグループトークにスパイクタウン公式へのリンクを貼り付け、ぬこ様降臨とメッセージを打った。百三十七人が入っている大規模グループトークだから早速既読が八もついた。

 数十秒後には既読は二十を超え、メッセージがぽこぽこと増え始める。

 

――ガチのぬこ様で三度見した

――猫じゃん

――うぉぉぉぉぉぉぉぉネコチャン!!!!ネコヤチン!!!!!!!!!

――スパイクタウンisどこ?

――チケット予約しましたねこ様に会いに行きます

――生で見たい生で見たい生で見たい生で見たい生で見たい生で見たい

――ポケモンワールドよ、これが猫だ

――隣の街です、ありがとう神様ありがとう。私がこれまで功徳を積んできたご褒美ですね? 写真なら任せろ一眼レフ持っていくから

 

 そこに「こちらスパイク住みぬこ奴隷。今からぬこ様に会いに行ってくるけど捧げ物は何が良いと思う?」と書き込めば、ササミやらマグロやらちゅー○やらという返事でスパイクタウン公式ポケッターへのリンクが見る間に上へ流れていく。

 

 その間にイラスト投稿サイトで「妄想動物」「妄想動物と一緒」タグで縁ができた転生者グループトークにも同様のリンクを貼り付ける。こちらの知り合いは、ポケモンワールドでは既に犬や猫が絶滅したため存在しないにも関わらず『ぬこのきもち』や『私とわんこの日々』、『爬虫類はいいぞ』という漫画やらを投稿し続けている猛者ばかりだ。

 小説投稿サイトのグループトークとメンバーが一部被っているが、片方にしか加入していない人もいるのだ。

 

「無塩バター? ぬこ様ってバター舐めるの? えっつまり手のひらにバターを乗せたらぬこ様に手をペロペロして貰える……!?」

 

 ぬこ様にも好みがあるためバターを好むかは分からないが、手をペロペロしてもらえる可能性があるなら試さずにいられようか。

 我が家には普通のバターしかなかったためスーパーに寄って無塩バターを手に入れ、中央通り商店街をおのぼりさんみたくキョロキョロと見て回る。ぬこ様はどこだ、ぬこ様を出せ……。

 

「そこのお嬢ちゃん、何か探してるの」

 

 不審者に見えたのか、紅茶屋のおばさんが声をかけてきた。商店街の人なら誰でもぬこ様のことを知っているとは限らないだろうけど、とりあえずスマホを見せながらぬこ様のアイコンを見せる。

 

「あの、この公式アカウントの子に会いに来たんですけど」

「ああ! そのポケモンなら今の時間はスーパーゼブラにいるはずだよ」

「ほんとですか! ありがとうございます!」

 

 グループトークに「ぬこ様はスーパーゼブラ・スパイクタウン中央通り商店街本店にいらっしゃるという情報提供を受けた」とだけ送って商店街の入り口方向に向かう。

 スーパーゼブラはスパイクタウン内に三店舗、ナックルタウンに一店舗ある地元密着型スーパーだ。「彩りなくても美味けりゃいい」が売り文句のお惣菜は、見た目はちょっとアレだけどガラルで買える料理にしては美味しい類いに入る。私も週に何度かお世話になってるくらいだ。

 

 スーパーゼブラに着いたけどぬこ様の姿は見えない。店内だろうか。キョロキョロしながら店内に入り――見つけた! 野菜コーナーと魚コーナーの間に「スパイクタウン看板娘ちゃん休憩所(※よく寝る子ですので、睡眠中に撫でるなどしないでください)」って看板がある!

 早歩きでそこに向かい先ずは看板をパシャンコ、看板下のクッションの上で丸くなっているぬこ様をパシャンコ。

 

 近づいたらぬこ様はごろんと転がって体を伸ばし、ヘソ天しながら私を見やった。

 

「っはぁ~! ぬこ! ぬこ様! 地上に舞い降りしエンジェルか? ほえ~にくきうがピンクと黒のまだらですかぁ可愛いですねぇ。あっ無塩バターは如何ですか? へっへっへっ、こちら賄賂としてお持ちしましてね……黄金のお饅頭ならぬ黄金の無塩バターですよおててからペロペロしていただきたくて。あっ除菌手拭き忘れた」

 

 店内の衛生コーナーで除菌手拭きを買い、またぬこ様の前に戻る。

 

「お腹もふらせて頂いてもよろしいでしょうか? ふわぁぁぁもふもふ……そうとも、これが、これこそがぬこ様だ。気紛れなエンジェルが、ふとした時に甘えてくれるこの瞬間のために私たちは生きています。んぎゃわいいね~生きてて良かったくも○式。ぬこ様におててペロペロしていただけた日にはもはや我が人生に一片の悔いなし。愛を見失っていたこの人生に最後の彩りをありがとう」

 

 撫でてええんやで、と言わんばかりなお腹にこわごわ手のひらを乗せる。逃げたり身を捩ったりしない様子からして、触っても良いということだろう。

 ふわっふわの柔らかく温かなぬこ様の感触が手を押し返す。この満たされた気持ちに名前をつけるなら、そう――

 

尊い(てぇてぇ)……」

 

 エデンはここにあった。天井を仰ぎ幸福感を噛みしめ、この世の何よりも誰よりも弱い姿、つまりぬこ様の姿で現れた我らの救世主の御身に触れさせていただいた奇跡を全ての転生者で共有すべきという義務感が胸に湧いた。

 ポケモンも可愛いよ、知ってるよポケモンが可愛いって。私にも相棒ポケモンいるし。でもぬこ様はこう、別枠なんだよ。ぬこ様に爪を立てられても噛みつかれてもただ可愛いだけだけど、ポケモンに爪を立てられ噛みつかれたら大怪我だ。そういうところ全然可愛くない。

 

 虎が可愛くないとは言わないけど、虎とぬこ様の可愛さは別次元にあるんですよ分かりますか。ぬこ様はプリティーキティーおまんがエンジェル、ファンサして舐めて! その薄くて小さい爪でもちゃんと狩りができるもんね知ってる知ってるあー可愛い。

 ポケモンはネコ型ポケモンでも中身や攻撃力が虎。強いのに可愛いよ! 凛々しい! 素敵! 頼り甲斐があって可愛いよ!

 

 つまりぬこ様しか持たない可愛さに我々は餓えているわけだ。ネコチャンありがとう良い薬です。見て良し触って良し吸って良し鳴き声可愛しの、五感のうち視覚触覚嗅覚聴覚を満たしてくれるハピネスパワーの塊。つまりぬこ様は最強なんだ集中線。うぉぉぉぉぬこ!! ぬこ可愛いよぬこ!!!!

 

 我々はぬこ様をはじめ、前世にいた身近な生き物に餓えている。ぬこ、わんこ、ハムスター、ウサギその他……似ているナニカは存在しているのに、元になった動物がいない。

 ぬこを撫でさせろ! ぬこの奴隷にならせろ! ぬこを吸い、わんこに顔を舐められ、ハムケツをもふり、うさたんをだっこする。前世なら手の届いたそれらの快楽に、今生では全く手が届かない。

 しかし見ろ、このぬこ様を! 目と目が合った瞬間バトルが始まるポケモンと違い、目と目があったら瞬きして愛を囁くぬこ様を!――つまりぬこしか勝たん。ありがとうございました。~ハッピーエンド~

 

 こんなか弱くて可愛くてちっちゃい子を野生の殺意高杉君なポケモンワールドで放し飼いなんてできるわけがない。優しい飼い主にベロベロに甘やかされて暮らしてほしい。できるなら私が飼いたい。ぬこ様かわいいよぬこ様。

 

 ――ザリザリのんぎゃわいいベロでペロペロしていただけることを夢見て、無塩バターを手にのせて差し出してみる。緊張のあまり手の震えがやばい。スマホのバイブ機能と違い安定しない痙攣で腕は上下左右縦縦横横丸書いてチョン、古い洗濯機のごとく揺れまくっている。

 

「あなた、大丈夫ですか?」

 

 後ろから掛けられた声にキュウリ猫のごとく跳ねながらわたわたと言い訳する。

 

「アッ! アノ、ダイジョウブデス腕の封印が解けかかっているだけなので!!」

 

 鎮まれ我が右腕よ、暴走するには早すぎる。左手で右の二の腕をぎゅっと掴んでも震えは収まらず、かつて祖父により我が右腕に封印されし邪悪の竜・カオスドラゴン(デュエルではない)が暴れるがまま震えている。

 

「腕の封印……?」

「エッちょっまじかネズ=サン!? ネズ=サンなんでこんなところに」

「地元ですけど」

「アッ」

 

 愚問じゃんね。

 後ろにいたのは我がスパイクタウンが世界に誇るロックンローラー・哀愁のネズ。剣盾での最推しはカブさんだったのにでもネズさんってすごいよな、頭のてっぺんから爪先まで地元愛たっぷりだもん。スパイクタウンに生まれた私は流れるように推し変した。

 

「手のそれは――」

「アッ無塩バターです! そんな変な物をあげてるわけじゃなくてただこのカワイコちゃんに溶けたバターをおててからペロペロしていただきたいという癒しを求めた結果でしてハイ」

「欲望に正直でいやがりますね」

 

 呆れたと言わんばかりのネズ=サンに下手な笑顔を返すしかない。

 ぬこ様におててペロペロされる幸福がどれほどのものなのか、このイカしたロックンローラーは知らないのだ。舐めてくださって有難うございますと五体投地して感謝を捧げるレベルの幸福度なのだ。

 

「ストライプに……このポケモンに変なことしやがろうとしているのかと思いましたが、違ったようでやがりますね」

「ストライプ?」

「縞模様でしょう。だから名前をストライプと」

 

 可愛くない名前だな……命名した人はネーミングセンスがないに違いない。まあ正式な名前がストライプだというなら、ぬこ様をトラちゃんと呼んでも何らおかしくないはず。キジトラだもんね、ねートラちゃん!

 トラちゃんがミアと可愛いお声で鳴いた。流石ぬこ様だぜ鳴き声はまるで天使の笑い声のようだ。

 

「なんて可愛い声なの。鼓膜が喜びに震えてるよ! ほーらトラちゃんバターですよぉ」

 

 くるりとぬこ様に振り返ってバターの溶けかけた手を差し出せば、ウナーと一鳴きして……私の手を……私の手をだな、ぬこ様が舐め始めたのだ。

 ザリザリとした感触が手のひらを往復する。ここが天国だったのか。いつの間にか死んでいたんだな、私は。悔いが残っていないのかと言われれば悔いが残りまくりな人生だが、死ねばぬこ様におててを舐めて貰えるというなら悔いなど今すぐ消滅だ。

 

「うちのストライプに変な顔を見せないでくれやがりませんか」

「へ? うちの?」

「うちの子ですよ。昼間はこうしてスーパーに出勤ですがね」

 

 ポケモンワールド生まれポケモンワールド育ちのポケモンマスター(ジムリ)が我々の癒しエンジェルの飼い主だと……? 推しだとしてもそれはちょっと認められませんよ、ぬこ様は我々転生者の精神安定剤に必要不可欠なので。可愛がるからうちにくれ。

 

「娘さんをうちにください。幸せにします」

「は? お断りですよ。マリィと何歳差ですかあんた」

「誤解させてしまいましたね。ほしいのはネズさんの妹さんではなくてトラちゃんです。トラちゃんをうちの子にください」

「嫌です」

「何故でしょう。ぬこ様をポケモンの一種だと勘違いしているネズさんが飼うより、私が飼った方がこの子に合った快適な生活を提供できますけど」

「勘違い……?」

 

 ――いま、ポケモンワールドに犬猫はいない。「いま」は。「むかし」はいた。

 

「この子の種類は猫です。ポケモン……モンスターではなく、アニマル」

 

 攻撃力バリ高で縄張り意識が強く出会ったらバトルが始まるポケモンとの生存競争に、多くの動物たちが破れ、絶滅していった。ライチュウに気絶させられ、ゴースに倒されるインドゾウのように。

 ネズさんは目を見開き……詳しく話を聞かせて貰えますか、と私の腕を掴んだ。




ちなみに鼓膜が勝手に震えたら幻聴が聞こえる。


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