子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~ (hasegawa)
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プロローグ。

 

 

『わたしが死んでも、代わりはいるもの――――』

 

 

 前に、そう口にした事がある。

 当たり前のように、自然に呟いた言葉。

 

 

 私は私を、とても空虚な存在だと感じる。

 

 例えば生きる喜びや、意義や、執着。

 そんな誰しもが持っている当たり前の物が、私には無い。見出す事は出来ない。

 

 ただ、エヴァに乗る事だけ。

 自分に出来るのは、すべき事は、エヴァに乗る事だけ。

 それが全てだと感じるし、それで良いと思っている。

 

 それによってのみ、私は他者と繋がる事が出来る。価値を見出されると思う。

 他には何も出来ないし、何も知らない。何も持っていない。

 

 

 だいじょうぶ、私が死んでも代わりはいるから。

 私という、綾波レイという存在は、単一の物ですら無いのだから。

 

 いくらでも代えが効く、そんな軽い存在なんだから。

 

 

 

 ……けれど今、私はその言葉を口にする事に、強い抵抗を感じている。

 

 死んでも良い。代わりはいる。

 

 そんな"命"があるなんて、認める事が出来ずにいる。

 私の心の奥の部分が、そう言ってる。

 

 

 だって、この子が教えてくれたもの。この子が見せてくれたもの。

 

 

 この子は決して"価値の無い命"なんかじゃない――――

 

 だって私は、この子をとても愛おしいと、感じるもの。

 

 

 たとえ、目が見えなくても。

 耳が聞こえなくても。

 

 それでもこの子は、自分の命を精一杯に、生きたでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子ぎつねヘレン ~レイとヘレンの物語~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

「…………」

 

 カーテンから差し込む光の眩しさに、目を覚ます。

 打放しコンクリートの壁の、殺風景な部屋。そこでレイは一人朝の支度をし、いつものように学校へと出かけた。

 

 

「ねぇ! 今日帰りにカラオケ行かない?」

 

「おっ、いいねぇ~! いこいこ♪」

 

 教室では今、クラスメイト達の賑やかな声が聞こえている。レイは特にそれを気にする事無く席に座り、何気なく窓の外を眺める。

 今日の碇くんのお弁当は何だろう? そんな事を考えながら。

 

「あっ! 綾波さんも良かったら行かない? たまには一緒にさ?」

 

「……ちょ! アンタ!!」

 

 満面の笑みでレイに声を掛けようとしたクラスメイトの女の子。だが即座に彼女は数人がかりで取り押さえられ、凄い勢いで後ろに引っ張られていく。

 ワーとかギャーとか叫んでいるのも聞こえる。

 

「ごめん! ホントごめんね綾波さんっ! 気にしないでねっ!」

 

 グループのリーダーらしき女の子がレイの前にやってきて、両手を合わせて深々と頭を下げる。そして気まずそうに頭を掻きながら、スタコラ仲間達の下へ戻っていった。

 

「ちょっとアンタ……! 綾波さんが行くワケないでしょうがっ……!」

 

「分かるでしょそのくらいっ……! ほっといてあげなさいよバカッ……!

 あー焦ったぁ~……!」 

 

「え~。だってぇ~……」

 

 何やら向こうの方でボソボソと説教されているらしき、先ほどの女の子。

 

「…………」

 

 レイは暫しの間そちらを眺めていたが、やがて何事もなかったように視線を戻し、また窓の外を眺める。

 

………………………………………………

 

 

「うん! シンクロ率も安定してるわね~。上出来上出来♪」

 

「ええ。これなら何の問題も無いわね」

 

 学校が終わり、ネルフ本部。

 いつものようにプラグスーツに着替え、指示通りLCLに浸かる。

 

「お疲れ様~! 三人ともパーペキよん? いい調子じゃないのみんな♪」

 

「ホントですか? 嬉しいですミサトさん」

 

「あったりまえでしょ! あたしを誰だと思ってんのよ! ふふん♪」

 

「……」

 

 訓練が終わり、ミサトよりお褒めの言葉を貰う三人。掛け値なしの称賛にシンジもアスカも嬉しそうだ。

 そんな姿を見て、レイもほのかに胸が暖かくなる心地がする。

 

「まっ! 今回もあたしが一番だけどねっ!

 アンタ達にしてはよくやった方じゃない? まぁあたしには敵わないけどっ♪」

 

「あはは。アスカが凄いっていうのは、僕らも分かってるさ」

 

「すごいわ、弐号機の人」

 

「……ちょっとぉ! 少しは悔しがりなさいよ! 張り合いが無いでしょうが!

 いい? アンタ達もエヴァのパイロットなら、もっと向上心って物を持ちなさいっ!

 なんて言ったかしら……? そう! 意識高い系よ!

 これって日本の言葉なんでしょ? そんな感じでいくのよっ!」

 

 どれだけ喚こうとも、のほほんした雰囲気で受け流され、アスカの怒りは空回り。

 終いには「あたし達3人でチームでしょうが! チルドレンでしょうが!」とワケの分からない事を言い出すアスカを、みんなで微笑ましく見つめる。

 

「それじゃあ上がって頂戴ね。気をつけて帰るのよ~ん」

 

「はい、お先に失礼します。じゃあ帰ろっかアスカ」

 

「えっ? アタシの話はまだ終……もう! 分かったわよバカシンジ!」

 

 アスカがプンプンと怒りながら、ズカズカと先に扉を出ていく。

 

「それじゃあね綾波。また明日――――」

 

「ええ、碇くん。また明日――――」

 

 

 優しくレイに微笑みかけ、シンジがパタパタとアスカを追いかけていく。

 その後ろ姿を見送っていると、二人が行くのを見計らっていたように、リツコから声が掛かった。

 

 

「……レイ、碇指令がお呼びよ。いつもの部屋へ」

 

………………………………………………

 

 

 天井にも届こうかという、巨大な楕円形の水槽。

 その中に今、一糸まとわぬ姿のレイがいる。

 

「…………」

 

 LCLの濁った視界の先、ガラス越しの正面には、こちらを見つめている碇ゲンドウの姿がある。

 何を言うでもなく、ただじっとこちらを見つめている。水槽に浮かぶ私の姿を。

 

「…………」

 

 サングラスの奥、その表情は伺えない。感情を伺い知る事は出来ない。

 ただその瞳が、"私を見ていない"事は分かる。

 

 彼は私ではなく、私を通して誰か別の人を見ている――――ハッキリとそう感じる。

 

「――――」

 

 

 目を閉じ、LCLに身を任せる。

 

 ただ時が過ぎ去るのを待つように。

 もう何も考えずに、済むように。

 

 

 レイはただLCLに身を任せ……深く深く、意識を沈めていく。

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 退屈な学校と、ネルフでの訓練、殺風景な自室。

 学校、訓練、家。

 学校、訓練、家……その繰り返し。

 

 それに特に疑問を抱くでも無く、これが私の全てだとばかりに、ただ淡々とこなしていくだけの日々。

 

 そんな傍目から見れば味気ないであろう生活に、ほんの少しだけ変化が訪れたのは……きっとシンジがこの街にやってきてからだろう。

 彼がここに来て、そして自分に話しかけてくれるようになってから、次第に変化していったように思う。

 

 彼の声を聞くのが好きだ。

 彼の姿を見ると安心する。

 彼が笑いかけてくれると、ぽかぽかする。

 

 そう思うようになってから、レイの景色にほんの少しだけ"色"が付いた。

 何も無かったハズの日常に、ほんのりと彩りが生まれたのだ。

 

 空虚だった心に、まっさらだった白い画用紙に、一点の暖かな色が付いた。

 これはとても大きな変化なんじゃないかと、レイは思う。

 

 

「……でもここには何もないわ、碇くん」

 

 しかしながら、現在レイは少しばかりぶすっとした顔で、ひとり何もない道を歩いている。

 ここは眩いばかりの太陽の光に照らされた、のどかな田園風景の広がる美しい場所だけれど……ひとりで歩くにはどこか物足りない。

 もし隣に碇くんがいれば、きっとこの風景を「キレイだね」と言って、私に笑いかけてくれるのだろうけど……。

 

「……」

 

 綺麗だから、寂しい。

 分かち合える人がいないなら、寂しいだけ。

 

 レイはこの豊かな自然に囲まれた美しい光景を見ながら、思う。

 人込みの中でこそ孤独を感じるように、この素晴らしい景色の中にいるからこそ余計に寂しさを感じてしまうのだ。あぁつまらない。

 

『今度"旧北海道"でちょっとした実験を行う予定でね?

 それにレイとアスカには協力して貰いたいのよ~』

 

 先日そうミサトからそうお願いされ、現在レイはここ、旧北海道にやってきている。

 

 今回の作戦を統括するリツコ、そして同じくエヴァのパイロットとして実験に参加するアスカを伴って来てはいるが、ここにシンジの姿はない。

 いわく、パイロット全てを第三新東京市から離すのは、もし使徒が来た時に困るのだそうだ。シンジはネルフでお留守番なのである。

 

 今回の作戦は危険な物では無く、ただ純粋な実験だけなので、もう周りの大人達はのほほんとした物だ。ぶっちゃけちょっとした旅行の感さえある。

 参加出来ない……というか息抜き旅行に行けなかったミサトもグチグチと文句を言っていたし、シンジも少し残念そうにしていた。

 しっかり「お土産買ってくるわ、碇くん」と約束し、彼はとてもよろこんでくれたけれど。

 

 本当は、代わってあげたかった。

 特に自分は行きたいとは思わないし、シンジが楽しんでくれるならそっちの方が嬉しい。だからリツコにそう進言してはみたのだが、あえなく却下された。

 服だの、グルメ雑誌だの、動物園のパンフレットだのという荷物を旅行鞄に押し込みながら「レイ、遊びに行くんじゃないのよ? 分かってる?」と怒られたが、正直あれは理不尽だと思う。

 レイは人知れず、ちょっとだけプクッと頬を膨らませたものだ。

 

 

 そんなこんなで今、レイはこの広大で美しい旧北海道の風景を眺めつつ、地平線の彼方まで続く一本の道路を辿るように、ただトボトボと歩いている。

 

 今日の予定はもう終了しているので、後は全て空き時間。

 ここは第三新東京市ではないので、いつもの殺風景な自室に帰って寝る事も、ネルフで碇くんとまったりする事も出来ない。

 ようは何もする事がないので手持ち無沙汰となり、こうしてひとり散歩をしている次第なのだ。

 

 やっぱり碇くんと代わってあげれば良かった……。

 そうは思うけれど、もし代わってあげられたとしても、きっとあまり状況は変わらないんだろう。

 

 私がネルフにいて、碇くんがここ旧北海道に居る。それなら結局は彼と会えない。離ればなれだ。

 

 結局の所、自分はこうして一人、退屈を紛らわす羽目になっていた事だろう。

 そんな事を考えつつ、レイがせっかくのこの豊かな風景の中を、無表情に歩いていく。

 ただただ、この寂しさを紛らわすようにして。

 

 

「――――?」

 

 

 そんな時、ふと目をやった道路の脇に、何かがいるのを見つけた。

 

「?」

 

 草陰にいる、とても小さな生き物らしき影。

 何気なしにレイは、そちらにトテトテと歩いて行く。

 

「きつね? きつねの子供?」

 

 ピンと尖った耳、先っぽが白いフワフワの尻尾。

 そして、とても小さな身体。まだ生まれて間もない、柔らかそうな体毛。それがお日様の光に照らされ、キラキラと輝いている。

 

 この子は、野生のキツネだ――――

 いままでレイが本の中でしか見た事の無かった、キツネという生き物。その子供だった。

 

「……!」

 

 思わずレイは、辺り一帯を見回す。

 まわりには草原、田園、山、小川。しかしどこを見渡しても、この子の他には何もいない。

 この子の親キツネの姿は、どこにも見当たらなかった。

 

「あなた、ひとり?」

 

 何気なく子ぎつねの傍まで行き、屈んで目線を合わせる。

 顔を突き合わせる程に近づいても、子ぎつねは全然逃げる様子も見せない。ただただ大人しくその場に座り、どこを見るでもなく前を向いている。

 

「おかあさんを、待ってるの?」

 

 地面に腰を下ろし、ちょこんと子ぎつねの隣に座ってみる。それでもこの子は逃げようとしない。

 前足でクシクシ顔を拭ったり、愛らしく欠伸したりしているこの子を、レイは「じぃ~」っと見つめる。

 

「……」

 

 何気なしに、そっと子ぎつねを撫でてみる。

 こんなに小さな生き物に触れるのは初めてなので、出来るだけそっと、やさしく頭を撫でてみる。

 思った通りの、ふわふわした手触り。柔らかな感触が手に伝わった。ぬくもりと共に。

 

「……」

 

 なにやら今まで感じたことの無い感情が、どんどん胸に湧いてくるのを感じる。

 碇くんといる時のぽかぽかした気持ち、それととても似ているけれど、少し違うような……そんな暖かな感情がレイを包んでいく。

 

 この子は、とても大人しい子のようだ。

 こうして触れてみても逃げる事なく、今ものほほんと身を任せている。

 決して噛みついたり、暴れたりもしない。ただただその場で寛いでいるように見えた。

 まんまるのつぶらな瞳が、とても愛らしく感じる。

 

「あなたも、寂しい? 退屈してる?」

 

 レイはコテンと首を傾げ、子ぎつねに問いかける。

 

「……わたしと、遊ぶ?」

 

 いま子ぎつねが、ふぁ~と小さく口を開いた。欠伸をしたのかもしれない。

 それを「うん」の返事だと受け取り、レイはそっと子ぎつねの身体を持ち上げ、優しく抱きかかえる。

 

「……あったかい」

 

 

 

 いま腕の中にいる、小さな小さな生き物。

 そのぬくもりをしっかりと感じながら、レイが草原の中に入り、嬉しそうに走り出す。

 

 地平線の彼方まで続く、退屈だった一本道。

 それを外れた一人と一匹が、いまお互いの鼓動を感じながら、自由に草原を駆けて行く。

 

 

 その日、レイはひとりぼっちの子ぎつねに出会った――――

 

 

 



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まいごの子ぎつね。

 

 

 ――――大発見だ。世界とはこんなにも美しかったのか!

 

 さっきまでの仏頂面はどこへやら。レイはほんのり頬を赤く染めながら、この旧北海道の美しい田園風景を眺める。

 嬉しそうにトテトテと、どこまでも続く広い草原を歩いて行く。

 

 それもそのハズ。さっきまでとは違い、今はこの気持ちを分かち合える友達がいる。

「綺麗だね」「嬉しいね」と、そう笑い合える誰かいるのだから。

 

 いま自分の腕の中にいる、小さな子ぎつね。

 先ほど道路の傍で見つけた、とても小さな友達。

 

 レイは時折、子ぎつねの頭を優しく撫でてやりながら、のんびりと草原を歩く。

 見渡す限りの青い空に、美しい草木。広大な山々に、キラキラと輝く小川。

 

 さっきまで灰色だった景色が、今は鮮やかな色に溢れ、光り輝いて見える。

 ここにはもう、綺麗な物ばっかりだ! なんと素晴らしい事なのか!

 

 まぁ生来ポーカーフェイルな彼女であるから、その変化はとても傍目には分かりづらい物ではあるが……、きっとシンジくんが今の彼女を見たら「綾波、とっても機嫌良さそうだね♪」と声を掛けた事だろう。

 

 ふんすふんすと軽く息を荒げながら、ワクワクしながら歩く。

「ここに来て良かったなぁ」なんて、さっきまでと真逆の事を思ったりもする。とても現金なのだった。

 

「この景色、碇くんにも見せてあげたい……」

 

 なんとなしにそう呟き、やがてレイは高原の真ん中にある大きな木を見つけ、その傍に腰掛ける。

 そっと子ぎつねを地面に下ろしてやり、低く屈んでこの子と目線を合わせた。

 

「碇くんね? 来れなかったの。

 きっと貴方とも、いい友達になれたのに」

 

 リツコさんって人がイジワルなのと、赤木博士についての不名誉な印象を子ぎつねに吹き込んでいくレイ。

 

「碇くんはね? 優しいの。それにとても物知り。

 分からない事があったら、なんでも教えてくれるの。料理もすごく上手」

 

 分かっているのか、いないのか。子ぎつねもつぶらな瞳で、じっとレイの方を見ている。

 クリクリとした大きな目が、とてもかわいいと思う。不思議そうにコテンと首を傾げてはいるけれど。

 

「わたし、エヴァのパイロットなの。

 エヴァンゲリオン……知ってる?」

 

 ゴソゴソと鞄の中から、資料として持っていたエヴァ零号機の写真を取り出して、子ぎつねに見せる。

 

「これ。見た事ある? エヴァンゲリオン。

 わたし、これに乗ってるの。ファーストチルドレン」

 

 地面にちょこんと座り、代わる代わるエヴァの資料の写真なんかを見せていく。

 そのつどレイは解説を入れていくが、なんかどれもふわっした"レイフィルター"のかかった言葉なので、おそらく相手が子ぎつねじゃなかったとしても、聞きててよく分からなかった事だろう。

 だがそんな事も構わず、レイはとても楽しそうだ。子ぎつねも背中を撫でて貰い、気持ちよさそうにしている。

 

「これが碇くんの写真。青いプラグスーツを着てるの。

 その隣にいるのは、弐号機の人。……貴方はあまり近づかない方がいい。

 食べられてしまうかもしれないわ」

 

 そしてアスカについても誤った情報を吹き込むレイ。普段の唯我独尊な態度がそうさせたのかもしれない。

「もし出会ったら逃げて」と、意外と真面目な表情で子ぎつねを諭していた。

 相変わらず子ぎつねは「?」と首を傾げていたけれど。

 

 

「ここ、暖かいわ。とてもキレイ……」

 

 

 そんな風にして過ごす内、なにやらレイの瞼は重くなっていき、やがで木にもたれてウトウトとし始める。

 

 心地よい陽気、気持ちの良い風、暖かな気持ち――――

 

 それに誘われるようにして、レイは子ぎつねの隣で、静かに眠りに落ちていった。

 

 

………………………………………………

 

 

「……?」

 

 ペチペチと、なにか柔らかい物が頬に当たる感触がする――――

 

 ふとレイが目を開けてみると、すぐ傍には丸くなった子ぎつねの姿。どうやらこの子の尻尾がフリフリと揺れ、それが頬に当たっていたんだろう。

 

「……」

 

 寝ぼけ眼のまま、レイはそっと子ぎつねの背中を撫でる。

 未だ寝息を立てている子ぎつねは身じろぎしながらも、どこか気持ちよさそうにしているように思える。

 レイの胸に、また暖かな気持ちが溢れ出していく。

 

「……!」

 

 しかし今、もう随分と日が落ちてきている事に、レイは気付く。

 さっきまで真上にあったお日様が、今はもう随分と傾きつつある。恐らくはもう1時間としない内に日が落ちてしまう事だろう。

 つまり、もうレイは帰らなければいけない時間、という事だ。

 

「……」

 

 今もすぅすぅと寝息を立てている子ぎつね。その愛らしい姿に後ろ髪を引かれる想いをしながら、ゆっくりとレイは立ち上がる。

 

「じゃあ。また遊びましょう……」

 

 そっと声を掛け、子ぎつねに背を向けて、歩き出す。

 そうして暫くは歩いてみるものの……レイはすぐに子ぎつねの方を振り返ってしまう。

 

「――――」

 

 

 じっと子ぎつねの方を見つめ、そのまま立ち尽くす。

 

 しばらくの間、そうして葛藤していたけれど……やがてレイはその場から駆け出し、再びそっと子ぎつねを抱き上げた。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「落とし物?」

 

 広大な田園風景のど真ん中にある、寂れた様子の派出所。

 

「ええ。きつねのお母さんの」

 

「……あぁ、そう。……落とし物ねぇ~。……なるほど」

 

 レイは今、子ぎつねを抱きかかえて、おまわりさんの下を訪ねていた。

 

「困るんだよねぇ~。こういうのが一番……」

 

 情けない声を出し、ガックリと項垂れるおまわりさん。

 レイの方は「?」と首を傾げ、よく分かっていない様子だ。

 

「えっとね? 親が分からないんじゃ、迷子扱いにも出来ないしね?

 ちょっと僕も、どうして良いか……」

 

「?」

 

 なにやらとても困っている様子のお巡りさん。

 レイの子供のように真っ直ぐな瞳に見つめられ、今にも折れてしまいそうな感じだ。

 

「この子、お母さんとはぐれてしまったの」

 

「……うん、うん、分かるよお嬢ちゃん?

 僕もね? 何とかしてあげたいとは……思うんだけどね?」

 

 どうしたら……どうしたら良いんだコレは……。

 お巡りさんは頭を抱え、机に突っ伏してしまった。

 レイは今ものほほんと椅子に座り、優しく子ぎつねの背中を撫でている。とても純粋な子なんだろうなぁというのは分かる。

 

「と、とりあえずどうしたモンかなこれは……。

 お嬢ちゃん、お家の人は? どこに住んでるんだい?」

 

「第三新東京。ここには旅行で来たの」

 

「~~ッ!?」

 

 どうりで見ない顔だと思ったら、都会っ子のお嬢さん。しかも旅行で来ているときた。

 出来れば住所の分かる物を見せてもらって、親御さんに引き取って貰おうと思ったのだが……果たしてそれが出来るのかどうか……。

 ちなみにレイが旅行だと言ったのは、「もし誰かに訊かれたらそう言うように」と言い付けられている為である。

 今回の作戦の事は極秘なのだ。

 

「――――失礼。その子の関係者です。身元を引き受けに来ました」

 

「えっ?!」

 

 すると突然派出所にやってきた、黒服姿のいかつい男達。

 まんまテレビで観るような、どこぞのエージェントその物の姿だ。

 なにやら後ろの方で「対象を発見。これよりお連れします」と電話している声も聞こえてくる。

 

「さあ綾波さま、こちらへ」

 

「……」

 

「ちょ! ちょっとちょっとぉ!!

 あ、アンタ達はいったい……? この子をどうするつも……?!」

 

「お手数をお掛けしました、お巡りさん。

 後の事はお任せください。心配無用です」

 

 思わずお巡りさんは立ち上がって引き留めようとするが、そこを男達に阻止されてしまう。

 レイは俯き、トボトボと外に停めてある車へと向かっていく。その後姿を呆然と見送る。

 

「もし何かありましたら、こちらまでご連絡を。

 では我々はこれで」

 

「えっ……!? ちょ、これ! ……ネルフってぇー?!」

 

 名刺を受け取り、再び驚愕するお巡りさん。

 そんな彼を余所に、レイを乗せた黒塗りの車は走り去っていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 今回の実験は、数日に渡って行われる予定だ。

 その間レイたちの寝床となるのは、ネルフが借りてくれたお洒落なコテージ。

 電気ガス水道はもちろんの事、様々な設備が充実した、とても大きな建物である。

 

 黒塗りのいかつい車がその拠点へと帰還した時……レイを玄関先で出迎えたリツコとアスカが、もうビックリする位の悲鳴をあげた。

 まさしく「ぎゃー!」というような。

 

 

「――――こらっ! 大人しくしなさいッ!!」

 

「!? ?!?!」

 

 そして現在、レイは怒り狂ったアスカにより風呂場に叩きこまれ、おもいっきり身体をゴシゴシと洗われていた。

 

「動くな! 動くなって言ってんでしょうが! 大人しくなさいッ!!」

 

「?! !?!?」

 

 スポンジでこすられ、お湯をぶっ掛けられ、頭からシャワーを浴びせられ。

 もう前が見えない程の水攻めとスポンジ攻めを喰らい、レイは目を白黒する。

 

 寡黙な彼女は声こそ出さないものの、その驚愕にひん剥いた瞳で「なんて事をするんだ」と訴える。

 だがそんなレイの批難も気にする事無く、アスカはスポンジ片手にガンガン水を浴びせていく。

 

 レイはもうワケも分からないまま、必死に湯舟から逃げようと奮闘するが、何度やってもグイッと頭を押さえられ、またドボーンと湯舟に叩きこまれる。

 駄目だ、死んでしまう。このままではお風呂で死んでしまう。

 

「アンタ何てモン拾って来たよ! ホントどういうつもり!? アンタばかぁ?!」

 

「ッ!! !?!?」

 

 もう鬼の形相でシャワーを浴びせ、火の出るような勢いでゴシゴシするアスカ。

 その姿に一切の妥協も容赦もなく、人権すらも考慮されなかった。

 

 

………………………………………………

 

 

「はぁ。まったく何でこんな事……。私は獣医じゃないのよ?」

 

 ところ代わって、ここはダイニング。

 いまリツコがお湯を張った大きな桶で、子ぎつねの身体を洗ってやっていた。

 

「ま、この子が愛らしいのだけが救いね。

 虫とか爬虫類じゃ無いだけ、マシと思いましょうか」

 

 労わるように、優しく子ぎつねの身体を洗っていくリツコ。さっきのアスカとは大違いだ。

 

「リツコ、こっちは済んだわ。……まったくファーストったら、手間かけさせて!」

 

「お疲れ様アスカ。ちゃんと隅々まで洗ってあげた?」

 

「そらそうよっ! あのバカ、きつね触ったのよ?!

 洗わずにおくモンですか! 徹底的にやってやったわよ!!」

 

 まさに"泣こうが喚こうが"というヤツである。今ごろレイはソファーに突っ伏し、ぐったりとしている事だろう。

 

「そ。なら悪いけど、この子の方もお願い出来る?

 私そろそろ、本部の方に連絡を入なきゃいけないの」

 

「はいはい。毒を喰らわば皿までもってね。任されたわ」

 

 リツコがタオルで手を拭き、部屋を出ていく。

 それと代わるようにアスカが子ぎつねの前に立ち、柔らかい手つきで身体を洗っていく。

 重ねて言うが、レイの時とは大違いだ。

 

「……あぁそれと、その子がウンチしたら、保管しといてもらえる?

 寄生虫の検査に出しておくから」

 

「了解。まぁ必要よね。

 ……つかアタシにこんな事させるんだから、ディナーは奮発してよね?

 しょぼかったらタダじゃ置かないんだから!」

 

「分かってるわアスカ。それじゃあね」

 

 今度こそリツコが部屋を出ていき、この場にはアスカが子ぎつねを洗う音だけが響く。

 それはとても静かで、暖かな慈愛を感じさせる光景に思えた。

 

「……ん? 来たのアンタ?」

 

「……」

 

 そんな時、この場にレイが現れる。

 なにやら申し訳なさそうに、そ~っと物陰に隠れるようにしながら、じっとこちらを伺ってるのが分かる。

 

「はぁ……良いから入って来なさい。もう怒らないから」

 

「!」

 

 その言葉を聞いた途端、テテテとこちらに駆けよって来るレイ。

 嬉しそうに子ぎつねを見つめるその姿に、またため息が出そうだ。

 

「見るのは良いけど、邪魔すんじゃないわよ? ステイ!」

 

(コクコク)

 

 そう激しく頷きながらも、子ぎつねから決して目を離そうとしない。目線を外す事は無い。

 頬を上気させながら、じぃ~っと子ぎつねを見つめている。まるで宝物を見るかのようにして。

 

「まったく、こんなの拾ってきて。何考えてんのよアンタ」

 

「……」

 

 先ほどとは違い、アスカは静かな声で問いかける。

 レイはそれに答えられずにいるが、不思議と腹は立たなかった。この場にこの子がいるせいだろうか。

 

「こいつ、大人しいわね。……どっかで飼われてたのかな?」

 

 

 柔らかなタオルで身体を拭いてもらい、気持ちよさそうな様子の子ぎつね。

 そんなこの子を見つめながら、アスカが優しい声で呟く。

 

 いつもの勝気な彼女とは違う、とても柔らかな表情――――

 レイはそれを目に焼き付けていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「……飼いたい?」

 

 夕食時。テーブルに並ぶ料理の数々を前にしながら、席に着く事も無くレイが告げる。その姿にリツコが眉間を押さえる。

 

「――――駄目よ」

 

 ピシッと、冷たく言い放つ。

 そして話は終わりだというように、再び料理に口を付けていく。

 

「どうして……ですか?」

 

「あのね? きつねは野生動物でしょう?

 飼っちゃいけないっていう法律があるの。問題外よ」

 

 レイはじっと俯き、床を見つめている。そちらを向く事もせずにリツコは食事を進めていく。

 

「あの子を保護したのはね? 衰弱していたからなのよ。

 いうなれば入院と同じで、ごく一時的な物なの。ペットにする為じゃないわ」

 

「……」

 

「それにね? 何度も言うようだけど、私達は遊びに来てるんじゃないの。

 貴方はここに仕事として来ているんでしょう?

 子ぎつねと遊ばせる為に連れてきたワケじゃないわ」

 

 リツコは冷たい声で諭し、アスカは口を出す事なく食事をしている。

 そんな中、レイは何もいう事の出来ないまま、ただ俯くばかり。

 

「わかりました。……返してきます」

 

 やがてリツコの方を見ないまま、俯いたままでレイが踵を返す。そして部屋を出ていく。

 わがままを言うでもなく、恨み言を言うでもなく。とても小さな声で告げてから、二人の前から去って行った。

 

「……まったく。なんなのあの子。

 パイロットの自覚はある方だと思ってたのに」

 

 その姿に本日何度目かのため息を付き、リツコがクイッとお酒をあおる。彼女らしくない、少し乱暴な仕草で。

 

「――――朝になったら、骨になってるかもね。あの子ぎつね」

 

「……ッ」

 

 すると突然、いままで沈黙していたアスカが言い放つ。

 少し片眉を上げた何とも言えない顔。まるで試すような表情でじっとリツコの顔を見つめている。

 

「……ッ!」

 

 リツコはキッと睨み返すが、それでもアスカはどこ吹く風といった様子。じっとリツコの目を見つめている。

 

 

「……あぁもうっ!」

 

 

 バンとテーブルを叩き、ナイフとフォークを置いてから、リツコが席から立ち上がる。

 

 アスカのニヤニヤとした顔に見送られながら、ドシドシと足音を立てて部屋を出ていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「……」

 

 ギィッと玄関の扉を開け、レイが外へ出ていく。

 もうとっくに日も暮れ、真っ暗の中、子ぎつねを抱きかかえて歩いて行く。

 光の無い瞳をして。

 

「……」

 

 俯いた瞳が、腕の中にある子ぎつねの姿を映す。

 何も知らず、何も分からず、今も子ぎつねはレイに身体を預けている。とても大人しい、とても良い子だ。

 

 いま腕の中にいる、小さな命。

 それを想うと同時に、レイは自分の無力さを想う。

 

 何も持たず、何も言わず、何も出来ない。

 そんな無力な自分の事。

 

 

「――――」

 

 

 やがでレイの表情から、一切の感情が消える。

 少女のように泣くでも無く、怒りを宿すでもない、感情を失った何も映さない瞳。

 

 ただ何も考えず、足を進めていく。

 この子と出会った、あの草原に向けて。

 

 

 

「――――待ちなさい、レイ」

 

 そんな時、突然ガシッと肩を掴まれる。

 一瞬なんだか分からず、レイはただその場に立ち止まってしまう。

 

「貸しなさい」

 

 気づけば、腕の中にあったぬくもりが、消えていた。

 それに気付いたレイが、ハッと意識を戻し、慌てて俯いていた顔を上げる。

 そこには……なにやら苦い表情をした、リツコが立っていた。

 

「そんな抱き方じゃ、この子が可哀想よ。

 ちゃんとこうやって、身体を支えてあげないと」

 

 そうそっけなく言い捨てて、リツコが子ぎつねを抱いたまま、ズカズカと家の方へ戻っていく。

 レイは呆然としつつも、慌ててそれを追いかける。

 

「……どうして? 赤木博士……」

 

 消えそうなくらい、小さな声――――

 でも精一杯に絞り出した声で、リツコに問いかける。

 

「……言ったでしょ? この子はいま衰弱してるの。

 だから元気になるまでは……ここで保護をする。

 ちゃんと人の話は聞きなさい」

 

 プイッと顔を背け、リツコがさらに足早に歩いて行く。まるで照れ隠しのように。

 

「明日も実験はあるわ。

 ……この子の事ばかりじゃなく、しっかり仕事もこなすのよ? レイ」

 

 

 

 見えなくなっていく、白い背中。

 

 それにコクリと頷きを返して、レイも家の中へ入っていった。

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「いい? ファースト。

 リツコが良いって言うまで、あの子に近づいちゃダメだからね?」

 

 まだ少し肌寒い、旧北海道の朝。

 三人でテーブルに着き、モグモグと朝食を摂っている時、アスカにそう告げられる。

 

「……どうして? ……どうして近づいてはダメなの?」

 

「あのね……、きつねには"エキノコックス"っていう寄生虫がいる事があるの!

 それが人間にうつったら、病気になったり、最悪死んだりするのよっ!

 ……やっぱりアンタ、知らなかったのね」

 

 ショボーンと俯くレイを、やれやれといったように見つめるアスカ。

 先の拷問のような水攻めは、きつねに触れてしまったレイの身体を徹底的に洗浄する為だったのである。

 命があっただけ感謝して欲しい物だと思う。

 

「だから検査の結果が出るまで、ぜったいあの子に近づいちゃダメ!

 ……分かったわね?」

 

「……」

 

「――――ちゃんとハイって言いなさいよ! 言いなさいったら!」

 

「~~ッ!!」

 

 頬っぺをグイ~っと引っ張られ、悶絶するレイ。

 声は出さずとも、おめめはほんのり涙目だ。痛い痛い痛い。

 

 そんな仲が良いんだか悪いんだか分からない二人を眺めつつ、リツコは我関せずといったように朝食を頬張る。カリカリベーコンをモグモグするのに忙しいのだ。

 

「とりあえず二人とも、今日はこれから試験場の方に行って頂戴。

 また昼過ぎには終わると思うから、その後は好きにして構わないわ」

 

「了解! まぁバッチリこなしてくるわ! このアスカ様に任せておきなさい!

 その後はアタシどうしよっかな~?

 じゃあとりあえず、加持さんに車を出してもらってぇ~」

 

「……」

 

 仕事終わりの予定に想いを馳せ、なにやらニヘヘと気持ちの悪い表情を浮かべるアスカ。

 そんな彼女を余所に、レイはただ気配を殺して、じっと黙り込んでいる。

 先ほどの質問を、ぶり返されてしまわないように。

 

 

 わたし、言ってない。

 あの子の所に行かないなんて、言ってない。ウソはついてない――――

 

 

 そうさりげなく冷や汗をかきながら、このままアスカがさっきの話を忘れてくれるのを願うレイ。

 もう頭の中は、子ぎつねの事でいっぱいなのだった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 動物には、動物用のミルクがある。

 聞く所によると、私たち人間の飲むミルクは、動物には甘すぎて良くないのだそうだ。

 

 そんな話を仕事先の人から教えて貰い、レイはホクホク顔で動物用ミルクのパックを抱え、家に戻って来た。

 まぁ例によってポーカーフェイスであるから、ホクホクといっても極わずかな変化ではあるのだが。

 

 しかしながら、大切そうにギュッとミルクを胸に抱え、目を輝かせながらテテテと走って行く彼女の姿は、きっと誰が見ても微笑ましい物に感じる事だろう。

 

 ワクワクしながら、子ぎつねの下へ走って行くレイ。

 もう待ちきれないというように家の中へ駆け込んだ時……ふいに奥の方から、リツコの声が聞こえてきた。

 

「……はい、赤木です。出ましたか、検査の結果は」

 

 どうやら、リツコは誰かと電話をしているようだった。

 レイはリツコに見つかってしまわないよう、コソコソとしゃがんでイスの陰に隠れる。

 ちょっとしたスニーキングミッション。人生初のかくれんぼかもしれない。

 

「……あぁ、そうですか。……えぇ、薬ですね。分かりました。

 ……えぇ、やはり殺した方が良いですね(・・・・・・・・・・・・・)……」

 

 

 その言葉を耳にした瞬間、レイは抱えていたミルクを落とし、目を見開く。

 

 やがてケータイに耳を当てたリツコがこちらに歩いてきて、スタスタと玄関の方に消えていった。

 

 そのあいだ中、レイはずっと息を殺し、愕然とするばかりだった。

 

 

………………………………………………

 

 

 

「……ッ!!」

 

 柔らかな毛布で子ぎつねを包み、急いで抱きかかえる。

 そしてミルクも荷物も、財布すら持たずに……レイが家から飛び出して行く。

 

「……ッ! ……ッ!!」

 

 走る。息を切らして。

 彼女らしからぬ必死の形相で、ただこの場から遠ざかる為に。

 ここから逃げる為に――――

 

「ダメ……ダメッ……ダメッ!」

 

 さっき聞いた言葉が、頭の中でリフレインしている。

 やはり、殺した方が良いですね――――そんなリツコの冷たい声が。

 

「逃げなきゃ……ここから逃げなきゃ……!」

 

 遠くへ。少しでも遠くへ。

 そうしないと、この子は殺されてしまう!

 

 この愛らしい小さな命が、失われてしまう。

 

 いまレイの脳内には、まるで魔女のような恰好をしたリツコが「おーっほっほ!」とか言いながら、毒の入った注射を子ぎつねに刺すイメージが浮かんでいる。

 とんでもない恐怖だ。こんな恐ろしい人みた事ない。人間とは思えない。

 

 

「……ッ!?」

 

 ふと視界の端に、道端に停めてある自転車を見つけ、急いでそれに乗り込む。

 前カゴにタオルを敷いて子ぎつねを乗せ、出来る限りの速度で走り出す。

 

 

 もう何も、考えられない。何も分からない――――

 

 今はただ、ここから逃げ出す事だけ。

 

 ネルフや大人達の手から、逃げ出す事だけ。

 

 

 いま不思議そうにキョトンとしている様子の、愛らしい子ぎつね。

 この子を守ってやれるのは、自分だけなのだ。

 レイは汗をかきながら、必死で自転車を漕ぐ。

 

 

 そして二人で、どこか遠くで暮らそう。

 二人で生きよう。

 

 

 

 レイはそんな、とても出来もしないであろう事を……本気で思っていた。

 

 ただただ、この子ぎつねの為に。

 

 純粋な子供のように。

 

 



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家出。

 

 

 無我夢中で走る内に辿り着いた、見知らぬ原っぱ。

 長い草が生い茂る中、何故かそこにポツンと放置されている、古びた電車の車両。

 

 壊れたのか、不要になったのかは分からないけれど、いかにも子供たちが秘密基地にでもしそうなソレを見つけ、レイは即座に中へ駆け込んだ。

 その腕に、ちいさな子ぎつねを抱いて。

 

「…………」

 

 雨降ってきた……。すんごい雨降ってきた……。

 レイが自転車に乗って家を飛び出した途端、それを待っていたかのように突然空が曇り出し、ポツポツと雨が降り出してきたのだ。

 

 なんというタイミング。なんという不運だろう。

 せめて家を出る前に降り出してくれれば、傘のひとつも持ってこれたのに。

 レイはいじわるな神様の事を想い、ぶすっと頬を膨らませる。

 

「…………」

 

 本当は、今すぐにでもここを出たい。少しでも遠くへ行きたいのだ。

 でもこんな雨の中で移動は出来ない。自分はともかく、子ぎつねが濡れてしまうといけないから。

 なので仕方なしに、偶然見つけたこの電車の中へ逃げ込み、現在は雨宿りをしている所。

 少し濡れてしまった子ぎつねの身体を拭いてやってから、こうして座席に腰掛け、二人でただ雨音を聞いている。

 早く雨が止んでくれるよう、願いながら。

 

「……だいじょうぶ? さむくない?」

 

 レイの膝の上、タオルに包まってモコモコしている子ぎつね。

 今ものほほんとしているこの子の背中を、暖めるようにさすってやる。

 うん、機嫌良さそうだ。だいじょうぶ。

 

「ミルク、持ってこれなかった……。どこかで買わないといけないわ」

 

 慌てて飛び出して来たので、この子とタオル以外、何も持たずに来てしまった。

 だってすぐにでも逃げないと、この子がリツコに殺されてしまうと思った。もう荷物なんか気にしている場合じゃなかったのだ。仕方の無い事だと思う。

 

 ちなみにミルクを調達しようにも、レイは財布も持っていないのだが、まだそれに気付いていない。

 どこかでヤギさんでもいないものだろうか? お願いしたら分けて貰えないだろうか?

 

 クゥクゥとお腹が鳴り、レイはまだお昼ご飯を食べていなかったことを思い出す。

 確かに死活問題ではあるが、今はどうする事も出来ない。この雨が止まない内はどこへも行けないのだ。

 

 お腹が空くと、何やら気分も落ち込んでくる。なんだか悲しい気持ちになってくる。

 でも今は我慢我慢。自分はこの子を守らなくちゃいけないのだから。にんにくラーメンチャーシュー抜き。

 

「これから、どこに行こう?

 ねぇ、あなたはどこへ行きたい?」

 

 でもこうして子ぎつねを抱きしめ、愛らしい姿を見ていると、勇気が湧いてくる気がする。

 雨に降られ、お腹は空き、状況は決して良くないけれど……でもこの子が傍にいてくれるだけで、不思議と元気でいられる。

 

 レイはほのかに笑みを浮かべながら、キリリと意識を切り替え、これからの事を考えてみる事とする。

 これから二人で生きていく為には、どうすればいいのか。その計画を考えていこうと思う。

 

「まず、上の方にいこう。

 ここは旧北海道だから、上にいけばロシアがあるわ」

 

 以前見た世界地図を思い浮かべ、フムフムと考える。ちなみにレイの言う"上"とは、恐らく北の事だと思われる。

 

「たしか北海道の上には、点々とした小島がたくさんあったハズ。

 それを辿っていけば、ロシアに着くの」

 

 レイはいま自転車なので、船の問題、そしてパスポートの問題などが山積みなのだが、そんな事も気にせずに夢を膨らませていく。

 ロシアでは、コサックダンスという踊りが出来ないといけないの。いっしょに練習しましょう? そう子ぎつねに語る。

 

「あ、でもロシアまでいくと、少しさむいかもしれない……。

 なら途中の小島に家を建てて、そこで暮らしましょう?

 木の実やココナッツをとって食べるの」

 

 お魚なんかも獲れるかもしれないけれど、レイは肉や魚はあんまりなので、それは別にいいと思う。

 もしそこにヤギが住んでいれば嬉しいけれど、いなかった時の為にどこかでヤギを見つけて一緒に連れて行こう。これでミルクの問題は解決だ。

 

 私と子ぎつねとヤギ。その三人での新しい生活に想いを馳せ、レイの胸はぽかぽかしてくる。

 

「あ……でも碇くんには、連絡を入れないといけないわ。

 ちゃんとお別れを言いたい……」

 

 そんな時、ふとシンジの事が頭をよぎり、胸がキュッとする。

 もう彼と会えない……その事を想い、ズキリと心が痛む。

 

 でも仕方がない。これはどうにもならない問題なのだ。

 本当は碇くんにも一緒について来てもらいたいけれど……、でも彼がいないと使徒が来た時にみんな困る。いっしょには行けないのだ。

 

 だからいつか、彼にはちゃんとお別れを言わなければいけない。とてもお世話になったのだから、ちゃんと言っておかなければいけない。

 いつも気にかけてくれた、おいしいお弁当を作ってくれた、優しかった彼には。

 

『いままでありがとう。私はこの子とロシアに行くわ。さよなら』

 

 そう告げる時の事を想い、ポロリと涙が零れそうになる。

 どうか碇くんには許して欲しいと思う。私がこの子と共に暮らす事を。

 彼ならきっと私を応援してくれるんじゃないかって、そんな気もしている。どこかで公衆電話を見つけて、ちゃんと連絡しよう。

 

 他にもアスカやネルフの人達の事を想うと胸が痛むが、今は子ぎつねの事を一番に考えてあげたい。

 アスカはしっかり者だし、みんなは大人だから良いけれど、この子には私しかいないのだから。私が守ってあげないといけないのだから。

 

 そうしっかり意志を固め、レイは子ぎつねと生きていく決意をする。

 うむ、もう大丈夫だ。何の憂いもない。

 

「……やわらかい。モコモコしてる」

 

 頭の中を整理し、素晴らしい計画を立て終えた後、レイは膝の上の子ぎつねをよしよしと撫でてみる。

 どうやら色々と考え込んでいる内に、この子は眠ってしまったようだ。今もすぅすぅと寝息を立てているこの子の姿を見つめ、レイの胸に暖かな感情が湧いてくる。

 

「だいじょうぶ。わたしが守るもの――――」

 

 

 子ぎつねの愛らしい寝顔を見つめる内、次第にレイの瞼も重くなってくる。

 やがてレイは座席に身体を預けたまま、こくりこくりと船を漕き始めた。

 

 まどろみの中で、あの魔女みたいなリツコに「待ちなさぁ~い!」と追いかけられる夢を見た。

 あれは悪魔だ。とても人間とは思えない――――

 そう恐れおののきつつも必死に子ぎつねを抱いて逃げる夢を見て、ウンウンとうなされるレイだった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 レイがいなくなった。

 それはすぐに知れ渡り、この土地にいるネルフの関係者達は、一斉に捜索を始めた。

 

「……正直、ちょっと信じられないの。

 まさかファーストがこんな事しでかすなんて……バカシンジじゃあるまいし」

 

 リツコが電話から戻った時、ゲージから子ぎつねの姿が消えていた。

 レイのカバンも財布も置きっぱなしではあったが、あの子がいわゆる"家出"をした事はもう明らかだった。

 

 現在アスカとリツコの二人は、車で周辺の捜索を行っている。

 まだそう遠くへ行ったとは思えないが、この雨の降りしきる暗闇の中、いったいあの子はどうするつもりなのか。アスカの胸に不安な気持ちがよぎる。

 

「前からなに考えてるのか分かんない所はあったけど……、

 でもあたしから見て、あの子ってとても従順なイメージがあったのよ。

 言われた事には何でも従うし、訓練だって真面目にやってる。

 バカシンジの言う事も、素直にきいてたわ。

 ……だから、まさかあのファーストが、家出するなんて……。

 全部放り出すようなマネをするなんて、ちょっと信じられない気持ちよ」

 

 あの子ぎつねは、可愛かった。レイが可愛がるのも分かる。

 けれど、いきなりそれで家出? チルドレンの立場も、何もかも捨てて?

 アスカにはとても理解出来ないでいる。あの従順だったファーストが、そんな事をするなんてと。

 

「立場が人を変える……よく言うでしょ?」

 

 ただ前を見ながらハンドルを握るリツコが、ため息と共に呟く。

 

「あの子ひとりなら、これはありえない行動よ。

 でも今あの子の傍には、子ぎつねがいる。守るべき存在がいるのよ。

 従順で大人しい……そんな普段の自分のままではいられない。

 それでは守れない。守らなければいけない。

 そう必要に駆られたのなら……人はどんな事でもするわ。どんな風にでもなれる」

 

 激しい雨がフロントガラスを打ち付け、それを繰り返しワイパーが拭っていく。その音だけが車内に響く。

 

「あの子ぎつねの……為?」

 

「そ。あの子ぎつねの為」

 

「はんっ! ……ホントにもうっ! あのバカッ…!」

 

 言いたい事は沢山ある。アンタ使徒が来たらどうすんのよとか、チルドレンをなんだと思ってんのよとか。

 だが何故か、それを口に出す事が出来ない。無責任だと大声で罵る事が出来ない。

 

 なんとなく、分かってしまうから。

 ファーストが……あの子が何故こんな事をしたのか、分かるような気がしたから。

 

 きっとそれは、あの子だからこそ……。

 

「……とりあえず、またとっ捕まえて風呂に叩き込むわ! 話はその後よっ!」

 

「そうね。寄生虫どうこうより、この雨じゃ風邪をひいてしまうもの」

 

 

 気が付けば、少しづつ雨の勢いが弱まっているのを感じる。

 

 レイの行きそうな所……というよりも、家出をした子供が行きそうな所を考えながら、リツコは車を走らせていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「……?」

 

 薄い暗闇の中、レイは目を覚ます。

 一瞬ここがどこなのか分からずにいたが、すぐに自分達が雨宿りをしている電車の中だと思い至る。ぼんやりとつり革のような物が目に入ったから。

 

「っ!」

 

 目をパシパシさせながら暫くぽけっとしていたが、ふと膝の上を見れば、一緒にいたハズの子ぎつねの姿が見えない。

 レイは慌てて辺りを見回し、薄暗い中をおっかなびっくりと歩き、表へと出た。

 

「……あぁ、よかった……」

 

 すると出入り口を出てすぐ、草むらの所に子ぎつねがいるのを見つけ、そっと抱き上げる。

 身体は濡れていないようだし、今ものんきに「ふぁ~」っと口を開けている。問題はなさそうだ。

 

「ごめんなさい、寝てしまって。……退屈した?」

 

 この子は小さいのだから、今後はもっとよく注意していなければ。

 もし目を離した隙にどこかへ行き、何か危険な目に合いでもしたら、きっと自分は一生後悔をするだろう。

 そんな事にならないよう、レイはしっかりと今の事を心に刻む。

 もう私は自分ひとりではない。この子に対しての責任があるのだから。

 

「……?」

 

 子ぎつねを抱きしめ、そっと頬擦り。そうやって安堵していたのも束の間。

 突然遠くから車のエンジン音らしき音が聞こえ、そしてすぐに辺り一帯に光が差す。

 これは、沢山の車のライトだ。……取り囲まれている!

 

「――――ッ!!」

 

 慌てて駆け出そうとするも、車から飛び出してきた沢山の男達によって取り囲まれる。すぐに逃げ場などなくなり、レイは目を見開きながらその場に立ち尽くす。

 どこからか「対象を発見! 保護します!」という男性らしき声が聞こえた。

 

「だっ……だめッ!!」

 

 男達がジリジリとこちらに近寄って来る。黒いスーツに、夜だというのにサングラスをかけた怖い男達。

 レイは思わず子ぎつねを庇うようにして、地面に蹲る。まるでカメのような恰好で、必死に子ぎつねを守る。

 

「だめっ! だめっ!! ……この子を殺しては、だめッ!!」

 

 縋るような、絞り出すような声で、懇願する。

 身を固くし、ぎゅっと目を瞑り、必死で子ぎつねを抱きしめる。取り上げられてしまわないように。

 

「……おい、これ……」

 

「あ、あの……綾波さま……?」

 

「……だめっ! 悪いことしてないっ! ……だめッ!!」

 

 それを見る男達は、みな一様に困惑する。

 自分達はただレイを探すように言われ、連れて帰るよう指示を受けただけなのだが……。

 子ぎつねの事なんて知らないし、何をするつもりも無いのだ。

 

「おねがい……おねがいっ……! 殺さないで……! ……おねがいっ……!」

 

 でもレイは今、必死に子ぎつねを庇い、ひたすら身を固くして地面に蹲るばかり……。

 どんなに声をかけてもイヤイヤと首を横に振るばかりで、まったく話が通じない。……正直な所、とても困ってしまっていた。

 

 ただただ男達は、悲痛な叫びをあげてこの場に蹲る、少女を見つめる。

 

 

 

「……やれやれ、こんな所にいたの」

 

「ッ!?」

 

 やがてこの場に、遅れてやってきたリツコの声が響く。

 それを聞いた途端にレイは顔を上げ、即座にここから走り去ろうとするが、すぐに退路を塞がれてしまう。

 

 今リツコがスタスタと、ゆっくりこちらに近づいてくる。

 もうレイに出来るのは、少しでもという気持ちでジリジリと下がる事だけ。

 それと、腕の中にいる子ぎつねをギュッと抱きしめる事だけ。決して取り上げられてしまわないように。

 

「…………はぁ。なんて顔をしてるのよ貴方。まるで悪魔でも見るみたいに……」

 

 お言葉だが、もうレイからしたら正にその通りなのだ。

 いまレイは目を見開き、顔面蒼白という絶望の表情でリツコを見つめ、プルプルと首を横に振っている。

 この子を殺さないで――――そう必死で訴えるように。

 

「もういいから、早く車に乗ってちょうだい……お願いだから……。

 話は家に着いてから聞くわ……」

 

「ほらっ! 歩きなさいファースト! 歩くのよっ!

 ……分かってるわよもう! 取ったりしない! その子取ったりしないから!

 さぁ早くするっ!」

 

 

 やがてアスカにペシペシ肩を叩かれたレイが、オロオロしながら車に乗り込んでいく。

 ようやく迷子探しの任務を終え、三人を乗せた車が家に向けて走り出して行く。

 

 家に着くまでの間、レイはずっと縋りつくような瞳でリツコの方を見ていたのだが……、もう彼女は心底疲れ果てた顔で、黙って運転をするのみであった。

 

 

……………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「あのね……? 殺すって言ってたのは、"寄生虫"の事なの。

 貴方もその子に寄生虫が付いたままだと、困るでしょ?」

 

 いまレイの頭上に〈ズガーン!〉と稲妻が落ちるのを、アスカは幻視した。

 

「アスカにはああ言ったけれど、貴方もう少し落ち着きなさいな。

 感情で行動されても困るのよ私は……。ちゃんと理屈で行動して頂戴……」

 

 アイアム科学者なのよ。そうリツコは言って聞かせる。

 動物じゃなくて人間なんだから、考えて行動しなさいと。まるで子供に言って聞かせるように。

 リツコはまだ未婚ではあるが。

 

「さっき投薬もしたし、もうこの子に触っても大丈夫だから。

 餌やりでも水やりでも、なんでもして頂戴……」

 

「!」

 

 その言葉を聞いた途端、俯いていた顔をガバッと上げるレイ。なんとも現金である。

 

「あ、でもあんまり構いすぎるのはダメよ?

 ベタベタ触ってこの子のストレスにならないよう、ちゃんと気をつけなさい?」

 

(コクコク!)

 

 もう残像が見える程の勢いで頷くレイの姿に、リツコはまたため息をひとつ。

 これもパイロットのメンタルケアの一環だと思えば諦めもつく。もしそれでシンクロ率のひとつでも上がってくれるなら万々歳だ。もう嬉しくて涙が出そうである。

 

 ――――人類の平和は貴方にかかっているみたいよ? よろしくね子ぎつねさん?

 そんな馬鹿な事を考えつつ、リツコが子ぎつねの身体をタオルで拭いてやりながら、軽い診察をおこなっていく。

 

「こらファースト! アンタちゃんとリツコにお礼言ったの?!

 ちゃんとありがとうございますって言う! ほらっ、ごめんなさいって言うっ!」

 

「ッ!? ~~ッ!?!?」

 

 グイッと頭を押さえつけられ、レイは目を白黒させる。

 赤い鬼軍曹に促されるまま、レイは改めてリツコの傍に行き、ペコリと頭を下げた。

 

「ありがとうございます、赤木博士。……ごめんなさい」

 

「はいはい。もう怒ってないわ。この子と仲良くね」

 

「うわっ、甘ッ! リツコってこんなんだったかしら? もしかして偽物?」

 

 ジトォ~っと睨みつけてみるも、アスカは「フフン♪」と涼しい顔。

 またフゥとため息をつきつつも、どこかさっきよりも柔らかい雰囲気のリツコが、引き続き子ぎつねの診察をおこなっていく。

 

「貴方はいい子ね。あの赤い子とは大違い」

 

 頭をよしよしと撫でてやりながら、じっと顔を近づけて観察する。

 子ぎつねらしい小さな口に、パッチリ開いた大きなおめめ。

 こうして見ると、この子はとても美人さんなのかもしれないと思う。将来が楽しみな逸材だ。

 

「ふむ……ん?」

 

 しかしリツコは、少し子ぎつねの様子に、違和感を感じる。

 

「この子……大人しいわね」

 

「元々そうよ? アタシも身体洗ってあげたけど、ぜんぜん暴れたりしなかったもの。楽なモンよ」

 

「大人しすぎる……と思わなかった? この子は"野生動物"なのよ?」

 

 リツコの言葉に、一瞬言葉を無くす二人。

 やがてリツコが、子ぎつねの顔のすぐ前に両手を持っていき、そこで〈パンッ!〉と手を叩く。

 

「ッ!?」

 

「んひぃ!?」

 

 音にビックリしたレイとアスカが、ビクッと身体を跳ねさせる。

 ……しかし、いま目の前で音を鳴らされたハズの子ぎつねは……無反応。

 どこを見るでもなく、ただ前を向いているように見えた。

 

「ちょ……! リツコなにすんのよ……」

 

「――――静かに」

 

 そしてリツコが、子ぎつねの顔の前に手のひらをかざす。

 ゆっくりと右、左、右……そうやって手をフリフリとかざしながら、子ぎつねの反応を観察する。

 

 子ぎつねは、顔を動かさない。その瞳すらも。

 今もただ、何事も無かったかのように、じっと前を向いている――――

 

「貴方たち、この子が鳴いている所、見た事ある?」

 

 無い。

 二人とも、今まで一度もこの子が鳴いている姿を、見た事が無かった。

 

「……レイ、明日この子を獣医に診せに行くわ」

 

 さっきまでとは違う、真剣な声色。その様子に二人が目を見開く。

 

 

「詳しい事は、まだ分からない。

 ……でも恐らくこの子、視力も聴力も無い(・・・・・・・・)――――」

 

 

 アスカの身体が跳ね、持っていた鞄が床に落ちる。しかしその音がなっても、子ぎつねは無反応。

 驚く様子も、顔をこちらに向ける様子も無く、ただその場で佇んでいた。

 

 

「なんて事……まるでヘレン・ケラーじゃないの。

 目も視えず、耳も聞こえないだなんて……」

 

 

 

 

 リツコの重い呟きが、この場に響く。

 未だアスカは口を開く事が出来ず、ただその場で立ちすくんでいる。

 

 ……そんな中、レイがそっと子ぎつねの前に立ち、優しくその身体を抱き上げる。

 じっと、慈しむようにして子ぎつねを見つめ、小さく呟く。

 

 

「――――ヘレン」

 

 

 リツコとアスカが見守る中……レイは柔らかな笑みを浮かべ、子ぎつねを見つめる。

 

 

「この子は、ヘレン――――」

 

 

 

 

 

 

 ……やがて、嬉しそうに子ぎつねを抱きしめるレイの姿を見ながら、アスカが呆れたように呟く。

 

「アンタね……いま名前なんて……」

 

「ヘレン。あなたは今日からヘレン。ヘレンって呼ぶわ――――」

 

 

 いままで見た事がない、とても暖かな表情のレイ。

 目を閉じ、そっと子ぎつねに頬擦りをする、慈愛に溢れた姿。

 

 それを見て……二人はもう何も言えなくなってしまう。

 この美しい光景を壊す事が、出来ずにいる……。

 

 

「ヘレン、ヘレン?

 わたしは綾波レイ。貴方の名前はヘレンよ。ヘレン――――」

 

 

 やさしく背中を撫でられ、ヘレンがくすぐったそうに身じろぎをする。スリスリとレイの胸に頬擦りする。

 

 それはまるで、お母さんに甘えてるみたいに。

 

 

 



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サリバン先生。

 

 

「……」

 

 今回の実験が行われている施設の、休憩所。

 そこに今、眉をウムムと曲げながら本を読んでいるレイの姿があった。

 

「じぃ~」

 

 別に声を出して言っているワケではないけれど……、でも傍目から見たら本当にそう聞こえて来そうな程、レイの顔は真剣そのものだ。

 

 彼女が今読んでいるのは"奇跡の人"というタイトルの本。

 あのヘレン・ケラーについて書かれた物語だった。

 

 ぐっと本に顔を近づけ、前のめりになりながら、レイはフムフムと目で文章を追っていく。

 

『サリバン先生の熱心な教育のお陰で、ヘレンは世の中の物には全て名前がある事を知りました。そして次々に世界を広げていったのです――――』

 

 かの有名な偉人、ヘレン・ケラー。

 彼女は一歳の時に重い病気にかかり、視力と聴力を失ってしまう。

 目も視えず、耳も聴こえず、言葉を話す事も出来ないヘレン。そんな彼女の家庭教師として招かれたのが、アン・サリバンという若い女性だ。

 

 いままでずっと暗闇の中で生き、音の無い世界に生きてきたヘレン。そんな彼女と意志の疎通をする事は困難を極めた。

 何故ならヘレンは言葉を話す事も、聞く事も出来ない。それどころか、この世界に"言葉"という物がある事すらも知らないのだから。

 

 まるで動物のように暴れまわる彼女に悪戦苦闘しながらも、サリバン先生の試行錯誤の日々は続いていく。

 辛抱強く、そして愛を持って寄り添うサリバン先生の教育が実を結び、やがてヘレンは言葉を学び、名前を知り、そして世界という物を理解していく――――

 

 この本に書かれているのは、その過程。そしてヘレンケラーとサリバン先生の軌跡。

 美しい絆の物語であった。

 

「ヘレンも、目が見えない。耳が聞こえない。

 世界を、知らない……」

 

 それがどんな事なのか、レイには想像する事しか出来ない。

 けれどこの本を読んで、ヘレンケラーとサリバン先生の物語に触れて、いま心に思う事がある。

 

 

「やくそくしたわ。守るって。ヘレンのそばにいるって」

 

 

 

 まだ考えは、纏まらない。何をどうすれば良いのかも分からない。

 けれど、きっと私にも、出来る事がある――――ヘレンの為にしてあげられる事が、沢山あるハズ。

 

 この上ない愛をもって寄り添い続けた、サリバン先生のように。

 私も、やらなくてはならない。がんばらなくてはならない。そうレイはぐっと心に誓う。

 

 いま彼女の傍らに置かれているのは、カラフルな模様のネームプレート。

 先ほど加持さんに車を出してもらい、文房具屋さんで購入して来た小さなプレートである。

 

 いま、文字を自由に組み合わせて作るタイプのそれに書かれている名前は「ヘレン」

 

 帰ったら、ヘレンのケージに付けよう。あの子は喜んでくれるだろうか?

 そんな事を思い描きながら、レイは引き続き、ムムムと本を読み進めていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 本当に、レイを連れて来なくて良かった……。

 最近ため息をついてばかりのような気がするが、心からそう思いつつ、リツコは車を走らせていく。

 

 いま助手席にいるのは、ゲージに入ったヘレン。優しい車の振動や揺れが心地いいのか、何やら機嫌良さそうに寛いでいる。

 

 リツコ的には、「こちらの気も知らないで……」と思わない事も無い。

 こんな愛らしい子に当たり散らす気など更々ないが、それでも今のリツコはそう思わざるを得ない。

 それほどに、先ほど動物病院でしてきた会話は、リツコを疲労させうる物だったのだ。

 

「あんなの……とてもじゃないけどレイには聞かせられないわ……」

 

 朝から任務だという事で、レイは一緒には連れて行けなかった。

 子供のように喚き散らすのではなく、ただ無言で「じぃ~」っと見つめられるというレイ独特のゴネ方も、散々リツコの精神をゴリゴリと削ったものだが……。

 

 しかし、本当に連れて行かなくて正解だったと確信している。あの場にレイがいたら、いったいどんな面倒事が起こっていたのやら。

 

「さ、どうしましょうね?

 なるようになる……と言うには、これは大きすぎる問題だわ」

 

 なんで私がこんな苦労を……今頃グルメ雑誌を頼りに食べ歩きをしたり、のんびり温泉に入っているハズだったのに……。

 そんな事を思うも、現実は非情である。

 自分もセカンド・インパクト世代の人間だし、そんな事は身に染みて分かっているけれど。

 

 そうして本日何度目かのため息をつきながら、やがてリツコの運転する車が、家へと到着する。

 車を車庫に入れ、ヘレンのゲージをよいしょと抱えながら、玄関の扉を開けた。

 

 

………………………………………………

 

 

「おかえり、リツコ。どうだったの?」

 

 リビングに入ると、ソファーに寝そべりながらゲームをしているらしきアスカの姿があった。

 恐らく予定通りに実験が終わり、今日は遊びに行かず直帰してきたのだろう。のほほんと寛いでいるのが見て取れる。

 

「ただいま。……まぁひとつ言えるのは、ろくなモンじゃなかったって事ね。

 もう診察をしてもらうのも一苦労。

 ネチネチ、ネチネチ……思い出しただけでも腹が立つわ」

 

 キツネは野生動物だ。ペットを持ち込むのとはワケが違う。

 それは充分に理解していたつもりだったけど……、まさかここまで渋い顔をされるとは思ってもみなかった。

 

 ヘレンを連れて行った時、獣医の顔にはもうアリアリと「厄介事が来た。勘弁してくれ」と書かれていたのだ。

 

 野生動物というのは、法律上"無主物"という扱いになっていて、ペットにする事が法律で禁じられている。

 この子は誰の物でもない(・・・・・・・)。ペットとは違い、飼い主などいない存在なのだ。

 

 つまり、獣医師からしたら野生動物というのは「診療費が取れない厄介者」

 たとえ怪我をした野生動物を見つけて病院に持ち込んだとしても、その人にお金を支払う義務など発生しない。

 

 だから診察をするかどうかなど、獣医の意志ひとつ。当然"診察拒否"なんて当たり前だ。

 リツコが動物病院を訪れた瞬間、もうどれだけ困った顔でネチネチ言われた事か。

 正直リツコは、すこしキレそうになった。ああいった男は見ていて腹が立つ。

 

「ま、とりあえずは診て貰えたわ。散々拝み倒してね……。

 お金を払うって言った瞬間、クルッと手のひらを返してたわ、あの男。

 ……でもヘレンの症状を話した途端、またすぐ顔色を変えてたけどね」

 

 充分な経済力を持つ相手だと知り、獣医師はもう「どうぞどうぞ」と言わんばかりにリツコを中へ通した。

 しかし、少しヘレンの症状を聞いた途端、一瞬にしてその表情を曇らせる。

 

「獣医ではないけれど、私も職業柄、生き物の事には詳しいつもりよ。

 だからまぁ……彼が何を思っていたのかは、ある程度理解が出来るわ」

 

 先ほどまでの陰湿さでも、軽薄さでもなく……それは心からの"絶望"の表情。少なくともリツコにはそう見えた。

 

「……ねぇリツコ?」

 

「ん、何?」

 

「アンタ達がどんな話してたか、当ててみせましょうか?」

 

 アスカは相変わらずソファーに寝そべり、ゲーム画面を見つめたまま。

 

 

「――――安楽死(・・・)

 

 

 

 

 

 

 ……あの時、ヘレンの症状を診察し終えた獣医は、沈痛な面持ちで告げた。

 

『目が視えない事はともかく、キツネにとって耳が聞こえないというのは致命的です。

 仲間の声が分からないばかりか、敵の判別すら出来ない……。

 母親とはぐれてしまったのも、恐らくはそれが原因でしょう。

 この子には母親の声が届かず、母親を呼ぶ事も出来ないのだから』

 

 耳が聞こえない、それは「正しく声を出す事が出来ない」という事でもある。

 ヘレン・ケラーもそうだったが、彼女は別に喉が使えなくて話す事が出来ないのでは無い。

 自分の出す声が聞こえないからこそ、"声の出し方"が分からない。喋り方を学ぶ事が出来なかったのだ。

 

 そしてそれは、子ぎつねのヘレンも同じ。

 恐らくは「おかあさーん!」という鳴き声が出せなかった為に、ヘレンは母親を呼ぶ事が出来ず、はぐれてしまったのだろう。

 

『特に目立った外傷はないようですが……恐らくは何かしらの事故により、

 脳に損傷を受けたのだと思われます。

 私はもう何十年も獣医をしてますが、目も耳もダメな患者など、見た事がない。

 ……今まで診てきた動物たちが、全て軽傷に思えてしまう程だ』

 

 下を向き、リツコの顔を見れないまま、重い声で獣医師が語る。

 

『この子は幼い。手術をするにしても、それに耐えうる体力がありません。

 その手術すら、どれほど難しい物になる事か……』

 

『……そして聴力の無いキツネは、ひとりで生きていく事が出来ません。

 生きていけない事が分かっている……つまり助ける意味のない患者(・・・・・・・・・・)に対して、

 我々獣医の出番はありません……』

 

 リツコはただ、耳を傾ける。いま目の前で苦渋の表情を浮かべる男の話に。

 獣医という職業……この男が今まで、いったいどれほど同じような患者を診てきたのか。リツコには想像する事しか出来ない。

 しかしその度にこの男は悩み、耐えがたい苦しみを味わってきたのだろう。

 どうにもならない、助ける事が出来ない命を前に、心を削られて来たのだろう。

 ……それが男の表情から、見て取れる気がした。

 

『目が視えず、耳も聞こえない……。

 貴方であれば、それが生き物にとってどういう事なのか、理解して頂けると思います』

 

『命とは、かけがえの無い物です。私もそれを救いたいが為に、この仕事をしている。

 けれど……この子ぎつねにとって、生きる事は苦しみでしかありません(・・・・・・・・・・・)

 幸せに生きていく為の術が……この子には無いんです』

 

『生まれつき翼の骨が無いトビ、脚を失ったタヌキ……色々な患者を診てきました。

 けれど私が今まで"処置"をしてきたどの患者よりも、この子は重症なのです』

 

『……本当は、いつも逃げ出したくなる。なんで私の所に持って来るんだと……、

 こんな事をしたくてこの職についたんじゃないと、叫び出したくなる……。

 けれど……これも獣医という"命"を扱う仕事についた、私の役目なのだと思います』

 

 獣医の男は真っすぐ向かい直り、リツコの目を見つめた。

 

『安楽死させてやるべきと、判断致します。

 私でよければ、お引き受けします――――』

 

 

 

 

 

 

 ……あの時、リツコは判断する事が出来なかった。

 このまま獣医師に頼み、安楽死という処置をしてもらう事が正しいのか……その結論を出す事が出来なかった。

 

 今なら、もしかしたら傷は浅いかもしれない。

 出会って3日という今ならば、レイが心に負う傷も浅くすむかもしれない。

 

 このままヘレンを置いて家に帰り、後でレイに説明する。

 安楽死という処置が決して残酷な物でなく、ただただこれはヘレンの事を思えばこその処置だったのだと、そう言って聞かせる事も出来たかもしれない。

 

 考えるだけで気が重くなる……いや、ハッキリ言ってもう"恐怖"すら感じる事ではあるのだが、これでも自分は大人だ。

 しっかりと理由を説いて聞かせ、泣きじゃくるあの子を抱きしめ、そしてやがて元気を取り戻してくれる時まで優しく寄り添う。

 それが大人である自分の役目かもしれない、とは思う。

 普段まわりがどう思っているのかは知らないが、リツコにだってそのくらいの良識はあるのだ。

 

 しかし、もう一方の自分……決して切り離す事の出来ない"ネルフの科学者"としての自分が、頭の隅で顔を出す。

 今回の件で起こるであろう、エヴァのパイロットであるレイへの影響……どうしてもそれを考えざるを得ない。

 

 エヴァとはとても繊細な兵器だ。スイッチ押したら動くとか、レバーを入れたらビームが出るとか、そんな簡単な代物じゃない。

 もしもレイがヘレンの事で心に傷を負い、そして万が一にでも彼女のシンクロ率に影響が出るような事があれば、今後の使徒殲滅に影響が出るような事態となれば……これはもうひとりの少女の問題だけでは無くなる。

 

 有り体に言って、この世界に住む人類全てにとっての危機だ。

 よく考えれば、いま我々は、もうとんでもない危機に直面しているのだ。

 

 あの時、リツコが安楽死についての判断を下せなかった一因は、これにある。

 昨日は冗談で言ったけれど……いま本当に私たち人類の存亡は、ヘレンという子ぎつねの双肩にかかっていると言っても過言じゃない状況なのだ。

 

 ――――おおヘレン! ヘレンよ! 貴方はなんという事をしてくれたのでしょう!

 ――――――どんな子ぎつねよ貴方は! どれほど影響力のある小動物なのよ!

 

 これはもう、リツコが判断に困ってしまうのにも、頷けるという物だった。

 

 

 まぁ今は、世界の事はいい。

 決して良くないかもしれないけれど……とりあえずは横に置いておこうと思う。

 

 とにかくリツコは、判断をしかねていた。

 あの子ぎつねをどうするのか。そしてこれからどのようにすべきなのか。

 どのようにするのが、あの子たちにとって一番良い事なのか……。

 

 

 ひとりの人間としてヘレンの事を考えるならば、リツコはあの獣医が言っていた意見に賛同するだろう。

 

『この子ぎつねにとって、生きる事は苦しみでしかありません。

 幸せに生きていく為の術が、この子には無いんです――――』

 

 だから、安楽死という処置をとるべきと考える。

 安っぽくて中身の無いヒューマニズム。そんな物は唾棄すべき物だと考える。

 

 命という、誰もが素晴らしいと感じる物。不変の価値。

 そんな響きの良い言葉だけを見て、本質を考えず、無責任にただ「生きろ」と言う行為が、このヘレンという子ぎつねにとって、どれほどの苦しみとなる事か。

 

 そんな安っぽい考えが、勘違いの正しさが、いったいどれほどの"罪"であろう事か。

 どれほど沢山の命を、苦しめてきた事か。

 

 ……けれど、判断が付かない。どうすべきなのか。

 レイに今日の事を話し、そして納得してもらった上で、ヘレンの事を決めるべきなのか。

 それとも傷の浅い今の内に、無理やりあの子からヘレンという命を、取り上げてしまうべきなのか。

 

 その判断が、未だ付かずにいる――――

 

 

 

「参考までに……貴方はどう思うの?」

 

 今もゲーム画面の方を見て、こちらを向こうともしないアスカ。

 情けない、大人としてとても情けない事だけど……リツコはアスカにそう訊ねてみる。

 自分では判断しかね、どこか縋るような気持ちもあったのかもしれない。

 

「生かしておくのが、救う事になるの?

 私はただ苦しむだけと、そう判断するけれど……アスカはどう?」

 

 アスカが「フッ!」と鼻を鳴らし、ニヤッと口角を上げる。

 

「そんなのアタシが知るもんですか。ヘレンにでも訊いてみたら?」

 

「……」

 

 

 それが出来たら苦労しないでしょうよ……。

 リツコはギロリとアスカを睨んだ後、なにげなくヘレンの方に目をやる。

 

 今もゲージの中、丸くなってのほほんと眠るヘレン。

 その愛らしさに毒気を抜かれ、リツコはまたため息をついた。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「ヘレン、これは水。……みーず」

 

 夕方、何気なく外の空気でも吸おうと散歩に出かけたアスカは、水道の所でなにやらやっているレイの姿を見かけた。

 

「みーず。みーず。……水っていうの」

 

 ヘレンを抱きかかえ、前足をちょんと水道水に触れさせる。その繰り返し。

 ヘレンの方はレイの腕の中、愛らしくジタバタしている。ちべたい、ちべたいと。

 

「あっ、もしかしたら英語の方がいいかもしれない……。サリバン先生は英語だったもの。

 ……ヘレン、うぉーたー。これはうぉーたーよヘレン? うぉーたー」

 

「……」

 

 思わず真顔になり、ただただレイの方を見つめるアスカ。

 なんか色々間違っている気がするけれど、とりあえずお前はウォーター(Water)の綴りが書けるのかと問いたい。問い詰めたい。

 

 本家サリバン先生は、ヘレン・ケラーに水に触れさせた後、手のひらに指で文字を書いてやる事で言葉を教えていったというが……。

 それをやるならWaterをはじめ、Wood(木)やSoil(土)やGrass(草)など、もう沢山の英単語を書けなくてはいけない。

 

 アンタそれ出来んの? ネイティブな発音は? 無理せず日本語の方がよくない?

 ……というかその子きつねだし、言葉を教えるのって至難よ? きつねのキャパ超えてない?

 

 この一瞬のうちに数えきれないほどのツッコミ所を見つけ、アスカはその場に真顔で立ち尽くす。

 

 今ふとアスカの頭の中に「サリバン綾波」というプロレスラーみたいな響きの言葉が浮かんだが、すぐに忘れてしまう事とする。

 

 

 ま、ファーストが楽しそうならいっか!

 やがてそう思い直したアスカは、スタスタと散歩を再開した。

 

 

 ちなみに現在、家のリビングでは、いつの間にかヘレンのゲージにカラフルなネームプレートが取り付けられているのを発見したリツコが「もう手遅れかもしれない……」と、ダーダー冷や汗を流していた。

 

 



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ごはん。

 

 

「……やっぱり、おかしいわ」

 

 旧北海道の豊かな自然に囲まれたコテージ。その中の一室である、アスカに宛てがわれている部屋。

 

「野生動物なら、警戒するのが当たり前……。

 そうは思ってたけど、あの様子は異常よ」

 

 ボソリと呟いた声が、静寂の中へと消えていく。

 いまアスカは、ひとり薄明かりの中でデスクの席に着いている。彼女の周りには、動物医学やキツネの生態について書かれた本が、積み上げられている。

 これらは先日、アスカが地元の研究員の方に同伴を頼み、図書館から借りてきた物だった。

 

「目も耳も不自由……それは関係ない。

 キツネは元々視力の弱い動物だし、聴力が無い事も今はいい。

 そこは問題じゃないのよ」

 

 日本語には漢字という物があるし、それには若干手間取りはするものの、辞書が手元にあれば問題はない。

 どれほど難解な内容であろうとも、こういった本を読み解いていくのはお手の物。

 若干14才という若さで大学を出た彼女の頭脳は、お墨付きだ。

 

 しかしながら……アスカの表情は冴えない。

 今読んでいるのは、動物について書かれている本。あの子ぎつねヘレンについての調べもの。

 しかしどれだけ本を読み進めても、アスカの疑問に対する答えが見つからない。彼女の表情はさらに深刻になっていくばかり。

 

「あの子が変わり者? 特別臆病な子なの?

 ……そんなワケないわ。生き物にとって、生きる事は問答無用なのよ」

 

 静かに席を立ち、アスカは自室を出てリビングへと向かう。

 入ってすぐ、部屋の一角のスペースにヘレンのケージを見つけ、薄明かりの中じっと覗き込んでみる。

 

 充分な広さがあるゲージの中には、ヘレンの寝床となる可愛らしいサイズの小屋が入れられている。現在ヘレンはその中でスヤスヤとおやすみ中だ。

 

 そしてケージの隅には、エサやミルクの入ったお皿が置かれている。いつでもヘレンが食べられるようにと、レイが用意している物だ。

 

「……」

 

 見た所、お皿の中には充分な量のエサが入っているようだ。

 恐らくヘレンが踏み散らかしてしまったのか、多少のエサやミルクがその周りに散乱してはいるが……今もお皿には充分な量が入っている事が分かる。

 

「……」

 

 

 やがて無言でその場を後にしたアスカは、再び自室のデスクに着き、読書を再開する。

 

 夜は更けていく。けれどアスカは真剣な表情のまま、次々に本を消化していく。

 

 その夜、アスカの部屋から明かりが消える事は、無かった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「おはよう、ヘレン」

 

 早朝。いつものように「朝が待ちきれない……!」といった様子で早起きをしたレイが、トコトコとリビングにやってきた。

 早速ヘレンのケージの傍にしゃがみ、柔らかな表情でぐいっと中を覗き込む。

 

「ヘレン、おきてる。

 えらいわヘレン。早起き」

 

 本当はこうしてリビングではなく、レイの部屋で一緒に寝たかったのだが……それはリツコにより却下されていた。

 先日ヘレンは寄生虫を退治する為の薬を飲んだが、それが完全に外に排泄されるまでは、暫く時間がかかるのだ。

 

 子ぎつねはそこらじゅうにフンやおしっこを散らかしてしまうので、そこから人間に感染してしまう危険性もある。

 だから暫くの間は、しっかり新聞紙やビニールをしいて準備をしたこのリビングの一角にヘレンのケージを置くよう、リツコに言い付けられていたのだった。

 

 一応そろそろ大丈夫と言われているので、今夜からはレイの部屋にケージを運び、一緒に眠るつもり。

 ヘレンの事を気にしながらソワソワして眠る日々は、もう終わりだ。

 

 

 ヒョコっと檻から顔を覗かせ、まるで進〇の超大型巨人みたいな感じで「じぃ~」っと中を見つめるレイ。

 なにやら朝のヘレンの様子を観察しているようだ。

 

 ちなみに今ヘレンは、ゲージの中をお散歩中。

 子ぎつねらしい愛らしい動作で、ゆらゆらトテトテと、ゆっくり歩いているのが見える。

 

「あっ……」

 

 レイの見守る中、いまヘレンが〈コツン☆〉と柵に頭をぶつける。

 まっすぐに進んでいたヘレンは、どうやら目の前にある柵に気付く事が出来ず、そのままぶつかってしまったようだ。

 

「……!」

 

 レイは思わず手を伸ばそうとしたが、かろうじて踏み止まる。

 本当は「だいじょうぶ?!」と抱き上げ、痛いの痛いのとんでいけ~的な事をしてあげたかったのだが、その直前で手を止めた。

 

 何故ならゆっくり歩いていた事もあり、特にヘレンには痛がっている様子もなく、すぐにトテトテとお散歩を再開したからだ。

 

「……っ! ……っ!」

 

 レイがハラハラと見守る中、柵にぶつかったヘレンは右に進路を変え、またトテトテと歩き出す。

 そして暫くするとまた〈コツン☆〉と柵にぶつかり、そこでまた進路を右に変えて、再び歩き出す。

 

「……ヘレン、いたくない? だ、だいじょうぶ……?」

 

 ヘレンは目が視えない。目の前に障害物があっても、避ける事が出来ないのだ。

 まぁぶつかると言っても、本当にゆっくり歩いているので大丈夫なのだが、それでもレイは心配そうにヘレンを見守る。

 それはもう「あわわ……あわわ……」といった様子で、なんだか両手までワチャワチャ動かしている。今にもヘレンに手を伸ばしてしまいそうな様子だ。

 

「……あ」

 

 しかしレイが見守る中……いまトテトテと歩いているヘレンが、今度は柵にぶつからずに、その寸前でクルッと進路を右に変えてみせた。

 またそのままトテトテと柵まで歩いて行き、ぶつかる寸前でクルッと進路を変える。

 そうやって、なんと柵にそって歩き始めたのだ。

 

「……おぼえた? 柵までどれくらいあるかを、おぼえたの……?」

 

 やがてヘレンは一度も頭をぶつける事なく、ぐるっと柵のまわりを一周する事に成功する。

 目の視えないハズのヘレンは、こうして何度か繰り返す事でしっかりと柵までの距離を覚え、見事ぶつかる事なく一周してみせたのだ。

 

「すごい、すごいわヘレン。

 まだちいさいのに……ヘレンはこんなすごい事ができる」

 

 やがてお散歩に満足した様子のヘレンが立ち止まり、前足でクシクシと顔をかき始める。

 それを見たレイはそっとヘレンを抱き上げ、スリスリと頬擦りする。

 

「えらいわヘレン。こんな事わたしにもできない。

 ヘレンはとってもかしこい。すごい子だわ……」

 

 もしかしたらヘレンは、超能力者なのかもしれない。

 あ、でもヘレンはきつねだから、超能力きつねかも……。

 そんな事を思いつつも、レイは嬉しそうにヘレンの頭を撫でる。よしよしと褒めてやるように。

 

 

 目が視えなくても、耳が聞こえなくても、ヘレンは立派に歩いて見せた。世界を把握して見せた。

 

 その事にレイは深い喜びを感じ、そして心に希望の火が灯る。

 

 きっとヘレンなら、この世界で生きていけると。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「…………」

 

 レイが実験場へと出かけていった後……それと入れ替わるようにして、今リビングにはアスカの姿がある。

 

 今日は彼女は休み。任務の予定はない。

 恐らく、あれから一睡もしていなかったであろうその顔は、いつもの彼女らしからぬどこか生気のない物。心なしか目は座っているように見えた。

 

「……ねぇ? いつまでそうしてるつもり?」

 

 ただケージの前に立ち、静かな声で語り掛ける。

 いま目の前にいる、小さな生き物に対して。

 

「待ってるの? ママが来るのを。

 ……そうやって待ってたら、ママが迎えに来てくれるの?」

 

 ケージの中を一瞥し、状態を把握する。

 そしてアスカは、まるでつまらない物でも見るような目で、ヘレンを見つめる。

 

「ただ何もせず、じっと待ってたら……ママに会えるって? 助けてくれるって?」

 

 ただその場に座り、ぼんやりと遠くを見つめているヘレン。

 そんなこの子の身体をアスカが掴み上げ、乱暴にケージの外へ出す。

 

 

「――――来ないわよ、ママなんて。

 アンタこのまま、ひとりぼっちで死ぬのよ。そんな事してても」

 

 

 

 

 

 

 

 

 リビングに、子ぎつねの声が響く。

 

「ギャン! ギャン!」というヘレンの鳴く声が、幾度も辺りに響いた――――

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 夕方。送迎の車に乗って、レイが帰宅してきた。

 

 珍しく今日の任務は夕方までかかり、レイは一日中ヘレンの事が気がかりで、なんだかソワソワしながら過ごした。

 生来の責任感から、一応任された仕事は全てキッチリこなした物の、もう早く家に帰りたくて仕方ない。

 

 短く運転手に礼を言い、車から飛び出したレイは、急ぎ足でテテテと家に向かって行く。

 

「――――戻ったのねファースト。おかえり」

 

 靴を脱ぎ捨て、ドタバタとリビングに辿り着けば、そこにはソファーにねそべっているアスカの姿があった。

 ゲームのコントローラーを握り、こちらを見る事も無く、レイにおかえりの言葉を告げる。

 

「あぁ、もうこんな時間なのね。忘れてたわ。

 ファースト、こっちに来なさいな。ヘレンにエサをやるから」

 

 ダルそうに掛け時計を見た後、アスカは乱暴にゲームの電源を落とし、ソファーから起き上がる。そしてスタスタとヘレンのケージまで歩いていく。

 

「……?」

 

「ん? なにボサッとしてんのよアンタ。はやく来なさいよ」

 

 ギロリと、座った目つきでレイを睨みつけるアスカ。その声もどこか、苛立ちを感じさせる物。

 

「えさ? ヘレンのえさは、中に入ってるわ。

 お腹が空かないように、いつもたくさん入れてるの」

 

「はぁ? アンタばかぁ?」

 

 そう吐き捨てながら、アスカがヘレンを掴み上げる。そのどこか乱暴な仕草に、思わずレイが息を呑む。

 

食べるワケないでしょ(・・・・・・・・・・)! そんなもの!

 この子は野生動物、しかも子供なのよ?!」

 

 ケージの中からエサのお皿を取り出し、乱暴に置く。その衝撃で少しミルクが床へ零れる。

 

「いい、ファースト?

 アンタそこで見てなさい。あたしが全部やるから」

 

「……ッ」

 

 いまアスカが、床に胡坐をかいた姿勢で、ヘレンを膝の上に乗せた。

 その手荒な扱いに、ヘレンがジタバタと暴れる。それを意に介する事無く、強引に頭を押さえつける。

 

「ミルクをやる時は、このストローを使いなさい。

 いい? しっかり見てなさい。次からはこれ、アンタがやるんだから」

 

 次の瞬間、アスカが無理やりヘレンの口をこじあけ、手にしていたストローをねじ込む。

 その途端ヘレンが激しく暴れ出し、「ギャン!」という鳴き声を上げて必死で抵抗する。

 

「……ッ!!」

 

 どれだけ暴れようとも決して止める事なく、指で口をこじ開けて無理やりミルクを飲ませていくアスカ。

 前足でアスカの手を引っ掻き、必死に後ろ脚を蹴り出して逃げ出そうとするヘレン。

 その光景を目にして絶句していたレイが、縋りつくようにアスカの腕に飛びつき、懇願する。

 

「やめて……! ダメッ……! ヘレンをいじめてはダメッ……!」

 

 アスカは手を止めない。歯を食いしばり、目を見開いた形相のまま、ヘレンの喉にストローを押し込む。ミルクを流し込む。

 必死に暴れ、必死に吐き出そうとするヘレンの口元からミルクが飛び散り、どんどん床に零れていく。二人の服を汚す。

 

「――――邪魔をするなッ!」

 

 おもいっきり腕を振り、しがみついていたレイを弾き飛ばす。レイの身体が強く壁にぶつかり、そのまま床に倒れ伏す。

 

「見てろって言ったでしょうがッ!!

 次からはアンタがッ! アンタがこれをやんのよッ!!」

 

 憤怒の表情で、アスカがレイを睨みつける。

 

 

『――――こうしないと死ぬのよッ!!

 こうしないとコイツは、エサを食べられないの! 食べさせないと死ぬのよッ!!』

 

 

 手にしていたストローを投げつける。

 それはビシャリとレイに当たり、ミルクがその顔を汚す。

 

 

『食べられないのッ! お皿なんか置いてたって、コイツには食べられないのよ!

 それがエサだって、コイツには分からない(・・・・・・・・・・)ッ!!

 ――――食べ物なんだって、分からないのよッッ!!』

 

 

 

 

 

 

 

 アスカが立ち上がり、押し付けるようにしてヘレンをレイに渡す。

 そして顔を伏せたまま、ズカズカと音を立て、リビングから出ていった。

 

 

「…………」

 

 レイはヘレンを抱きしめたまま、未だ呆然としている。

 目を見開き、動く事も出来ぬまま、ただその場に座り続ける。

 

 今聞いた言葉が、何度も何度も頭の中で響いている。

 

 この子には、ごはんが分からない(・・・・・・・・・)

 食べさせないと、死んでしまうのだと。

 

 

「…………ッ」

 

 やがて、未だ虚ろな目をしたまま……レイがいま腕の中に居るヘレンへ目を向ける。

 

 暴れる事を止めたヘレンは、どこを見るでもなく、ただ遠くを見るようにぼんやりと抱かれている。

 

「……ヘレン……ヘレン」

 

 涙が滲む。レイの瞳はいつの間にか涙で滲み、視界がぼやけていく。

 世界が……輪郭を失っていく。

 

「……ヘレン、ミルク。

 ミルクよ……? 飲んで……」

 

 震える手でお皿を手繰り寄せ、ヘレンの口元へ持っていく。

 だがヘレンには何の反応もない。ただただ今もぼんやりと前を見つめ、ただじっとしているばかり。

 

 

「ヘレン……? いい子……いい子だから……。

 飲んで、ヘレン……ヘレン……」

 

 

 

 レイの目から涙が零れ、頬を伝っていく。

 ヘレンは今も、ぼんやりと前を見つめている。

 

 すぐ口元にあるのは、子ぎつねの大好物であるハズの、おいしいミルク。

 

 その匂いを嗅ぐ事も無く

 口を付ける事も無く。

 

 まるで目の前には、なんにも無いかのように。

 

 ただぼんやりと、世界を見つめている――――

 

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

「アスカ、平気?」

 

 

 家の傍にある、大きな木の下。

 リツコは突然家から飛び出して行ったアスカを追い、ここへやって来た。

 

「…………平気って、何がよ?

 アタシはちょっと、外の空気を吸いに来ただけなんだけど?」

 

 まるで縋りつくように、母親の胸に顔を埋めるようにして、木に額を当てていたアスカ。

 彼女はリツコがやって来た事を知り、ゴシゴシと乱暴に目を拭った後、腰に手を当ててそちらに向かい直った。

 

「……そ。ならいいの」

 

 静かにそう告げて、リツコは白衣のポケットからたばこを取り出す。

 ゆっくりとした動作でジュボッと火を着け、何気なく夜空を眺めながらスーっと煙を吐き出した。

 

 その様は、まるで何かを待っているように。

 ならいいと言いつつも、この場から動こうともせずに、静かに時を待つ。

 決してアスカをせかす事無く、のんびりたばこを吹かしながら。

 

「……最初はね? そういうモンかな~って、思ってたのよ」

 

 やがて、未だ目を伏せたままのアスカが、静かに口を開いた。

 

「エサを食べたがらないのも、無理ないって。

 だってあの子は野生動物で、しかもまだ子供なんだもの。

 しょうがないわねって感じで、ミルク飲ませてたの」

 

 野生の子ぎつねは、お皿に入ったミルクなんか飲まない。たとえそれが大好物であっても、どれだけお腹が空いていたとしても、そんなあげ方では飲んでくれない。

 

 野生動物の子供は、お母さんからエサをもらって食べるものだ。

 子ぎつねは、エサを持ってきてくれたお母さんの「ごはんよー」という声を聞き、それを合図に「わーい」とご飯を食べる。

 

 ようは、そのお母さんの合図が無いと、ごはんを食べられない(・・・・・・・・・・)のだ。

 

 だからケガで入院した野生動物の子供は、人間が「はいどうぞ」とお皿でご飯をあげても、決して食べてはくれない。見向きもされない。

 人は動物の声で「ごはんよー」とは言えないから、これがエサである事を、その子に教えてやる事が出来ない。

 

 だから獣医さんは、今日アスカがやったように、ストローなんかで直接ミルクを飲ませてやる。

 そりゃあ最初は「なにするんですか!」と暴れるし、怖い想いはさせてしまうけれど……そうしないと飲んでくれないから仕方ない。

 ご飯を食べないとケガは治らないし、元気にだってなれないのだ。

 

「でもね……? 何度やってもそうなの(・・・・・・・・・・)

 何回ミルクをやっても、その度に必死で吐き出そうとするの。

 どれだけお腹が空いてても……全然ミルクを飲もうとしないのよ」

 

 普通、こうして無理やりにでもミルクを飲ませなければならないのは、最初の一日目だけだ。

 たとえ怖い思いをしたとしても、一度ミルクを飲んでその味を覚えたなら、子ぎつねはそれが「食べ物なんだ」と知ってくれる。 

 そうすれば無理やりに飲ませる必要なんか無い。次からは尻尾を振りながら、喜んでミルクを飲んでくれるようになる。

 

 けれど――――ヘレンはそうじゃない。

 何度ミルクを飲ませても、その度にヘレンは激しく暴れ、必死に口に入れられたミルクを吐き出そうとする。

 それは、明らかにおかしい事だった。

 

「それだけじゃないわ。

 ……あの子、ケージの中に置いてるエサ、踏み散らかしてるでしょう?

 食べようともせず、ただの障害物みたいに」

 

「…………」

 

「別に、踏んじゃうのは良いのよ。

 むしろこっちは、踏んで欲しくて、いつも多めにエサを入れてる所あるしね」

 

 キツネは綺麗好きなので、足に付いた汚れをペロペロ舐めて綺麗にする習性がある。

 なのでわざとケージの中に沢山エサを置いておく事で、それを踏んでしまったキツネが足をペロペロ舐めてくれるので、自然と「これは食べ物なんだよ」と教える事が出来る。

 

「けれど、いつまでたってもあの子は、エサを食べようとはしない。

 いつも足に付いたのを舐めて、ちゃんとそれを口にしてるハズなのに……、

 自分の踏み散らかしてるソレが"食べ物なんだ"って、あの子には分からないのよ」

 

 ヘレンがこの家にやってきて、もう5日目になる。

 その間ずっとヘレンはケージの中のエサを踏み散らかすばかりで、決してそれを食べようとはしない。

 

 レイがケージの中のご飯が減っていない事に気付かなかったのは、アスカが人知れずヘレンに餌やりをしていたからだ。

 お皿に残っている中から綺麗な物を選び、それをヘレンに無理にでも食べさせていたからである。

 

 もし仮にアスカがそれをしていなかったら、あの子ぎつねはもう……とっくに死んでいる。

 

 

「おかしい事は、他にもあるの……。

 普通キツネは、頭を低く下げて歩くものでしょ?

 あの子達は視力が弱いから、嗅覚を頼りにして周りの状況を知るの。

 だからいつも地面の匂いを嗅ぎながら、頭を低くして歩く。

 ……でもヘレンは、それをしない。

 くんくん匂いを嗅ぐ事もなく、いつもただ、ぼんやりと歩いてる」

 

 ギリリと、アスカが歯を食いしばる音が聞こえた。

 

「……だからね、リツコ?」

 

 俯いていた顔を上げ、アスカがこちらを向く。

 真剣な……どこか耐え難い痛みに堪えているかのような、そんな表情で。

 

 

「ヘレンが不自由なのは、目と耳だけじゃないわ。

 ……多分あの子には、味覚も嗅覚も無い(・・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 あの子は、ご飯を食べようとしない。

 たとえ口に入ったとしても、それがご飯だと分からない。

 

 ヘレンにとってそれは、ただ口の中に入って来ただけの異物(・・)でしか無いんだから。

 

 

 

 リツコは無言でいる。何も言ってやることが出来ずにいる。

 

 いまアスカの脳裏に浮かぶのは、この数日のヘレンの姿。

 ヘレンが自分の腕の中で、泣き叫ぶ姿……。

 

 嫌がるあの子の口をこじ開け、無理やり喉にミルクを流し込み、エサを押し込んだ。

 幼いこの子の、胸が引き裂かれるような鳴き声を聞きながら。何度も何度も、それを繰り返した。

 

 アスカが今、涙で潤んだ瞳で、

 

 

 

「リツコ、食べてくれないのよ。

 どれだけお願いしても……食べようとしてくれないの。

 まるであの子、死にたがってるみたいに――――」

 

 

 

 

 



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わたしのかわいい子。

 

 

 あかん……これは非常にあかん……。あかんヤツや。

 

 リツコは使った事も無い関西弁で呟きながら、リビングで頭を抱えていた。

 

「レイだけじゃなく、まさかアスカにも影響が出るなんて……。

 ヘレン、貴方という子は……」

 

 現在夜の10時。子供たちはそれぞれ部屋に引っ込み、ここにはリツコひとり。

 普通なら今ごろ、「あー疲れたわー」なんて言いながらのんびりとお酒を嗜んでいる感じの時間だというのに。貴重な貴重なリラックスタイムのハズなのに……リツコの表情は冴えない。

 目の前にあるお酒に手を付けないだけでなく、もう両手で顔を覆ってしまっている。

 

 こんなハズじゃなかった……そう言わんばかりに。

 

「そっけないフリをしておいて……もう両膝までドップリじゃないの。

 あの子のあんな顔、初めて見たわよ」

 

 いかにも「興味ないわ」という風に、我関せずのように見えていたアスカだが、恐らく彼女は独学で動物の生態や飼育について勉強し、人知れずヘレンの世話をしていたのだろう。

 可愛がるばかりのレイでは足りない部分を、補ってくれていたのだ。

 

 しかしそれは、アスカの心に深刻なダメージを与える事となる。

 目と耳が不自由、そして味覚や嗅覚までも無いと思われる、獣医師でも匙を投げる程に重度の障害を持つ子ぎつねだ。

 そんなあの子の世話をするには、未だ少女の域を出ないアスカの心には、荷が重すぎる。

 

 見ているだけで心が和むような、愛らしい生き物。それを撫でたり抱きしめるのではなく、頭を押さえつけて無理やりエサを食べさせる。

 暴れる身体を押さえつけ、手にひっかき傷や噛み傷を付けられながら、それでも口に指を突っ込んでエサを喉奥に押し込む。

 子ぎつねの苦しむ鳴き声や、可哀想な姿を延々と見せつけられながら、何度も何度もだ。

 

 そんな行為に耐えられる14才の子供など、いようハズも無い。

 感受性豊かな時期の少女が、何も思わずにいられるハズも無い。心に傷を負わずにいられるワケがないのだ。

 

 ……アスカだって本当は、ただ子ぎつねを抱きしめ、優しく頭を撫でてやりたかったハズなのに。

 

「迂闊、だったわね……。アスカの境遇を考えれば、

 親を失ってしまったあの子を見て、何も思わないワケがないのに……」

 

 ただ母親に愛される為、喜んでもらう為に、エヴァのパイロットに選ばれる程の努力を重ねたというアスカ。その上で母親を失うという境遇。

 あの子がどんな想いでヘレンを見つめていたのか、リツコには想像する事しか出来ないが……。

 

 普段は唯我独尊に見えるアスカが持つ、愛情の深さ。彼女の本質的な部分。

 それを自分は、見誤っていたように思う。甘く見ていた。

 

「どうすれば良いのよ……。レイだけじゃなく、アスカまでなんて。

 もしヘレンに何かあれば、いったいあの子達にどんな影響が出るか……」

 

 

 こんな時ミサトでもいればと思うが、あの飲んだくれは今頃、空にしたビールの缶でほののんとタワーでも作っている事だろう。こちらの苦労も知らずに。

 

 なんだかんだありつつも、ミサトには立派にシンジの面倒を見ているという実績がある。

 未婚であり、今まで子供の世話など経験した事の無いリツコには、正直この事態は非常に荷が重いと感じる。まだ不安定要素満載のエヴァを相手にしていた方がマシだ。

 

 だから一度、ミサトにアドバイスでも聞けたらとは思うのだが……しかしヤツに弱みでも握られたらと思うと、なかなか気が進まない。

 

 

 本当に、なんでこんな事になったのかしら……? 誰かタスケテ……。

 

 ヘレンの"魔性の子ぎつね"とも言うべき前代未聞の影響力を想い、ただただテーブルに突っ伏すリツコであった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「ヘレン、ミルクよ? ……飲んで?」

 

 朝になり、ゲージからヘレンを出してやったレイは、すぐ顔の前にミルクの入ったお皿を置く。

 

「ヘレン、お腹空いてるでしょう? ……ね?」

 

 けれどヘレンは、ただぼんやりと何もない方を見つめるばかり。ミルクに口を付けようとはしない。

 レイはヘレンと目線を合わせるように床に伏せ、じっとその姿を見守っている。

 

「飲まないと、大きくなれないわ……。

 ね? たくさん飲んで、大きくなりましょう? ……ね?」

 

 時折よちよちと、どこかへ行こうとするヘレンを、そのつど元の場所に戻す。

 

「ここよヘレン? ここにミルクがあるわ。……ね? 飲みましょう?」

 

 辛抱強く見守り、何度も何度も声を掛けていく。たまにお皿の位置を調節したり、背中を撫でてやったりしながら。

 けれどヘレンは、ミルクには見向きもしない。

 アスカの言っていた通り、それがご飯だという事が分からないようだった。

 

「……っ!」

 

 だが、いつまでもこうしては、いられない。

 生き物である以上、ごはんを食べなくていい日なんて、ありはしないんだから。

 

 やがてレイは意を決してヘレンを抱き上げ、そっと自らの膝の上に乗せる。……その手に小さなストローを持って。

 

「……ッ!」

 

 昨夜の光景が、頭をよぎる。

 昨日の晩、その光景が繰り返し頭をよぎり、レイは一睡もする事が出来なかった。

 暴れるヘレンの姿。悲痛な鳴き声――――それを思い出す度に、レイの胸にズキリと痛みが走った。

 

 レイの手が震える。目は虚ろになり、歯を食いしばっているように見えた。

 その瞳が、じんわりと涙で滲んでいく。

 

 それでも、ごはんは食べなくてはいけない――――ぜったいに食べさせなくてはならないのだ。

 そうしなければ、この子は生きられない(・・・・・・)

 

 

「……ヘレンッ!」

 

 

 ヘレンの口元に指をかける。その途端、まるで烈火の如くヘレンが暴れ出す。

 

「……ッ! ……ッ!」

 

 必死に逃げ出そうとする。「痛い事をされる。怖い事をされる」と、ヘレンが前足も両足もピーンと前に出し、必死で抵抗する。

 

 それを力づくで押さえつけ……レイがストローを口の奥にねじ込み、ミルクを喉に流し込む。ミルクを飲ませていく。

 

「……ッ! ……ヘレン、おねがい……! おねがいッ……!」

 

 上手くいかない。今もヘレンは必死に首を振り、口からストローをどけようと暴れている。

 床にも、服にも、レイの顔にも……そこら中にミルクが散らばっていく。

 

 ヘレンは口に入ってしまった異物(・・)を、必死で舌で外へ追い出そうとする。

「いやだ。いやだ。やめて」、悲痛な鳴き声を上げて、力いっぱいに抵抗する。

 

 その姿に……レイの心は何度も折れそうになる。

 

「ヘレン……! ヘレンッ……!」

 

 細切れにした生肉を、ピンセットで喉の奥へ押し込む。その度にヘレンが苦しそうに鳴き、必死で吐き出そうともがく。

 

「……ッ!」

 

 ガブリと噛みつかれ、レイの指に赤い血が滲んでいく。それでも決してヘレンを離さずに、口をこじ開けてエサを食べさせていく。

 どんなにヘレンが、嫌がろうとも。指が痛もうとも。

 

 

 

 ……そんな二人の様子を、リツコは部屋の入口の所に立ち、じっと見つめる。

 

 今ようやく腕から解放され、「ギャン! ギャン!」と声を上げて怯えているヘレン。そして放心したように、ただその傍で座り込んでいるレイの姿を。

 

 いまレイは力なく項垂れ、まるで固まってしまったかのように、動こうとしない。

 その瞳はもう……何も映していないように見えた。

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 時刻は昼時になり、再び二階の方からヘレンの悲痛な鳴き声が、絶え間なく聞こえている。

 いまも必死に暴れ、もがき苦しんでいる声が聞こえてくる。

 

 そんな中、リビングではアスカが感情の見えない表情のまま、ソファーに寝そべって雑誌をめくっていた。

 

「さっき動物病院に連絡を入れてね?

 今からヘレンを連れて、行って来ようと思うの」

 

 キッチンで紅茶の用意をしながら、リツコがそう声を掛ける。

 

「ふーん。……で?」

 

「先生が言うには、いま雌のキツネが一匹入院しているそうなの。

 一度その子とヘレンを会わせてみたらどうかって、勧められてね。

 よかったらアスカもどう?」

 

 紅茶を手渡しつつ、努めて普通の声色で話しかける。

 リツコは本当になんでもない事のように、サラッとアスカに訊ねてみた。

 

 まぁ昨夜の事もあったし……。未だどんな風に接すればいいのかを決めあぐねているリツコだ。

 不自然になってなければいいけれど、と自嘲する。

 

「なんでアタシが行くのよ。必要ないでしょ?」

 

「……そ」

 

 まぁプライドの高い彼女の事だ。昨夜リツコに弱音を吐いた事は、おそらくアスカの中では黒歴史となっている事だろう。

 リツコは藪をつついて蛇を出さぬよう、黙ってテーブルに着き、紅茶を一口すする。

 うん美味い。掛け値なしに。心がホットだ。

 

「……キツネってね? 誰の子供でも、分け隔てなく可愛がるの」

 

「ん?」

 

「たとえ自分の子じゃなくても、そんなの関係なく育てる。

 まれに子供のいない雌が、余所の巣穴から子供を盗っちゃう事があるくらい……。

 それくらいキツネって、愛情が深い動物なのよ」

 

 こちらを向く事もせず、雑誌の方を見たままで、アスカは呟く。

 

「だから、良いと思うわ。会わせてみるの。

 その雌のキツネも、きっとヘレンを見て大喜びするハズよ?」

 

 なにやらぶすっとした顔。しかしどこか照れ臭そうに、アスカがそっぽを向く。

 

「アタシは、チャンスはあると思ってる。

 もしヘレンが体力をつけて、ちゃんと治療を受けられれば……。

 少しでも聴力が回復して、ちゃんと鳴き声さえ、出せるようになれば……。

 他のキツネ達と一緒に、暮らせるかもしれないわ。

 ……適当な巣穴に放り込んどけば、後は勝手に育てて貰えるんだしね」

 

 ミルクを飲ませてる時の反射的な物じゃなく、仲間や母親を呼ぶ為の"声"。キツネという動物の言葉。

 これさえちゃんと出せるなら、ヘレンも仲間と共に生きていく事が出来るかもしれないと、アスカは語る。

 

「分かったわ。ありがとうアスカ」

 

「ふんっ!」

 

 その後、あからさまに「いま雑誌読んでるの!」という感じを出し始めたアスカによって、会話は終了。

 もう見事なまでのツンデ……いやアスカらしい振る舞いに、リツコはほんのり関心してしまった。流石アスカだと言わざるを得ない。

 

「それじゃあ、行ってくるわね。

 とりあえず……レイがミルクをやり終わったら」

 

 けれど……いまアスカの言葉を聞いたリツコの表情は、冴えない。

 アスカの心遣いに、その期待に応える事が出来るかどうかは、まだ分からないから。

 

 自分がこの後、決して彼女が望まない方法を選択せざるを得ない可能性も、充分にあるのだから。

 

 

 やがて二階からしていた鳴き声が途絶え、ようやくヘレンのエサやりが終わった事を知る。

 軽いため息をひとつ付いた後、リツコはレイを呼びに行く為、重い足取りで階段を上っていく。

 

 

 アスカは今、そっぽを向いている。

 だからリツコは、いま自分がしているであろう、とても酷い顔……それを見られていない事を幸運に思った。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「この子は足を悪くしていまして。

 もう随分長いこと、ここで面倒を見ているんです」

 

 二人が連れられて来たのは、獣医さんの自宅。母屋というヤツだ。

 案内されるままに部屋の入り口をくぐると、そこにはゲージの中に入った美しい雌のキツネの姿があった。

 

(どうやらアスカ博士の見解は、間違いなさそうね……)

 

 リツコは、隣に立つレイの方を見る。

 今もレイの胸にちょこんと抱かれ、ぼんやりとしている様子のヘレンを観察する。

 

(匂いを探る事もせず、何の反応もしない……。これは有り得ない事よ)

 

 この部屋には、雌のキツネがいる。その匂いが染み付いている部屋だ。

 ならば野生のキツネであるヘレンが、それに反応しないハズが無い。

「自分以外の動物がいる!」「大人のキツネがいる!」と分かれば、必ず何かしらの反応をする筈なのだ。

 

 しかしヘレンは特に変わった反応を見せる事も無く、ずっと明後日の方を向いている。

 

 やはりヘレンには、ここにいる雌キツネの事が、分かっていない。

 その匂いを感じ取る事が、出来ないのだった。

 

「さ、ゲージの中に入れてあげて下さい。

 この子も嬉しくて仕方ないみたいですから」

 

 それに対して雌キツネの方は、もうヘレンがこの部屋に来た途端にソワソワとし出した。

「はやくこっちにきて!」とばかりに、せわしなくワチャワチャ動きまわっている。

 愛らしい子ぎつねと出会えた事に、喜びを隠しきれない様子だ。

 

「大丈夫、この子はとっても優しい子ですから。

 もうヘレンちゃんと遊びたくって、ウズウズしてるんですよ」

 

「……はい」

 

 獣医さんに促されるまま、レイがゲージの方へと寄っていく。そして両手に乗せたヘレンを、そっと雌キツネに差し出した。

 

「クックック。クックック」

 

 ちょこんと座るヘレンのもとに、雌キツネが鼻を近づけていく。その優しい瞳と、慈しむような仕草に、レイ達はただ目を奪われている。

 

 いま雌キツネが、ヘレンの耳元にフッと息を吹きかけた。

 子供と遊ぶように、コミュニケーションを取っているのだろう。

 

 するとその時、ヘレンの耳がピクリと動く。

 

「おぉ……」

 

「あら」

 

 獣医さんとリツコが、思わず声を漏らす。

 いまヘレンが、耳を小さく動かし、尻尾をフリフリと動かしているのだ。

 

「ヘレン……」

 

 レイも今、その姿に見入っている。愛らしく尻尾を振るヘレンの姿に。

 キツネはイヌ科の動物だ。犬同様に感情が尻尾にもあらわれる。嬉しい気持ちの時は尻尾を振るし、その気持ちが大きければ大きい程、その回数も増える。

 

 小さな尻尾がいま、可愛くフリフリと揺れている。

 今までレイの腕に抱かれ、いつもただぼんやりとしているばかりだったヘレン。そんなこの子が初めて見せた"感情"だった。

 

「クック。クック」

 

 それに大喜びしたのは雌キツネ。いま彼女はパタパタとケージの中をまわり、興奮気味に床をカリカリ引っかいたり、柵をトントン叩いたりしている。

 

「あぁ、エサを探しているのでしょう。

 きっとヘレンちゃんにエサをあげたくてあげたくて、仕方ないんですよ」

 

 もう雌キツネは「なにかないかしら? なにかないかしら?」と大騒ぎだ。きっと親キツネにとってエサを与える事は、愛情を与える事と同義なのだろう。

 

 ヘレンの様子は相変わらずで、少し雌キツネの走り回る振動にビックリしてしまってる感じではあるが、この微笑ましい光景に、なにやらリツコは頬が緩んでくるのを感じる。

 

 獣医さんがいったんこの場を離れ、すぐに細切れ肉の入ったお皿を持って戻って来る。

 そして「どうぞ」と前に置いてもらった途端に、雌キツネはお皿の中身を全部パクッとくわえ、喜び勇んでヘレンの方に向き直った。

 

「クゥー、クゥー」

 

 これは親キツネが、エサを運んで来た時に出す声だ。

 子供たちに「ごはんですよー」と伝える、とてもやさしい鳴き声。

 雌キツネはとても嬉しそうに、お肉で口をいっぱいにした顔を、ヘレンに近づけていく。

 

「クゥー、クゥー」

 

 でもヘレンは、それに反応しなかった。

 いくら雌キツネが「ごはんだよー」と鳴き、すぐ近くに顔を近づけて行っても、それに反応を返す事も無く、ただその場に座るばかり。

 喜ぶどころか、オロオロしている感じすら見受けられる。

 

「……あぁ」

 

「…………」

 

 獣医さんが、静かに声を漏らす。リツコはただ無言で見守るばかり。

 

 いま雌キツネがドサッと口の中のエサを置き、ヘレンに「ほら」とあげようとした。それがペチョッとヘレンの鼻先にひっついた。

 その途端、ヘレンは驚いた様子で、ジリジリと後ずさりし始める。雌キツネから離れようとする。

 

「ガッガッ! ガッガッ!」

 

 これは、キツネが怒った時に出す声。レイ達も初めて聞く"ヘレンの怒っている声"。

 どれだけ雌キツネがクゥクゥ鳴こうとも、ヘレンは後ろへと逃げ、怒りを露わにするばかり。

 

 

「なんて……なんて事……」

 

 リツコの呟いた声が、静かに部屋に響く。

 いま目の前にあるのは、何度もエサを咥え直しては与えようとする雌キツネの姿。そしてそれを懸命に拒んでいる、小さな子ぎつねの姿……。

 

 

『まるでこの子、死にたがってるみたいに――――』

 

 

 脳裏に、昨夜のアスカの姿が浮かぶ。

 彼女が血を吐くように、縋りつくように口にした言葉……。

 

 いまリツコの目の前には、どうしていいのか分からずに途方に暮れている様子の雌キツネがいる。

 彼女は困り果て、オロオロとヘレンと接する。そして悲し気な声で鳴き続ける。

 

「ごはんよ」

「ごはんよ」

「ほら、たべて」

「わたしのかわいい子」

 

 その声は、決して届かない。

 ヘレンはそれを、受け取る事が出来ない――――

 

 

 

 レイの瞳から、一筋の涙が流れ、頬を伝っていく。

 

 感情の薄い表情。自分が泣いているなんて、まるで気づいていないような泣き方。

 それでも、確かに彼女の心は涙を流し、それが頬を伝って落ちていく。

 ポタリ、ポタリと、床に沁み込んでいく。

 

 

 そんなレイの姿に、もはやリツコは、目を逸らすしか無い。

 それしか出来る事がもう、見つからなかった。

 

 

 

 

 

 子供を愛する、生きて欲しいと願う気持ち――――

 そんな、生物の親として当たり前の気持ちが、伝わらない――――

 

 

 こんな事が、あっても良いのか。

 

 生き物にとって、こんなにも悲しい事が、あるのか。

 

 

 

 

 

「……レイ、先に車に行ってなさい。

 私は先生と、少し話をしてから行くから」

 

 

 そうレイに告げ、先に戻らせる。

 それからリツコは、未だ沈痛な表情のままの獣医へと向き直った。

 

「帰ってあの子を説得してみます。……少しだけ、時間をもらえますか?」

 

 

 もはや、打つ手はない。

 あの子たちにこの子は……ヘレンという命は、あまりに重すぎる。

 

 

 目も視えず、耳も聴こえず、匂いも分からない。

 食べ物を探す事も、食べ物だと知る事も、母親の愛を受け取る事も……出来ない。

 

 

「安楽死しかないと、私も思います」

 

 

 

 この子にとって、生きる事は苦しみ以外に、ない。

 

 そう自分に言い聞かせながら、リツコは踵を返し、レイのもとへ戻っていった。

 

 



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きねんび。

 

 

「あらレイ、指が傷だらけじゃないの。大丈夫?」

 

 このクソ重たい空気をなんとか出来ないものかと、リツコは必死で言葉を絞り出した。

 

「たくさん噛まれちゃったのね。でも獣医さんなんかでは、

 そういうのって日常茶飯事みたいよ? 気にする事ないわ。

 ……あ、ちゃんと消毒はした?」

 

「……」

 

 現在リツコはレイを助手席に乗せ、家までの道を運転中だ。

 ……少しでも、少しでもなんとかなんないもんかと思い、慣れない笑顔なんかを駆使して話しかけてはみるのだが、相変わらず車内の空気は重い。

 いまフロントガラスには、笑顔というか引きつっているリツコ自身の顔が映っていて凹む。

 

「そ、その手だとハンバーガーなんかは、食べづらいかもしれないわね。

 ……って、レイはハンバーガーなんて食べないわよね……。

 なら昼食は、何にしましょうか? レイは何が食べたい?」

 

「……」

 

 そういえばこの子は、お肉が駄目だった。失念していた。

 いつもうさぎのようにパリパリと野菜を齧るか、味気ない大豆食品を無表情でモソモソ食べている事を思い出し、苦笑いなんぞをしてみる。

 案の定フロントガラスに映る顔が凄い事になっていて、更に凹む。

 

 レイは今も大切そうにヘレンを抱き、じっと俯いている。

 もうギュッという音が聞こえそうな、しっかり両腕で抱きしめるその姿は、何があってもヘレンを手放さない事を暗示しているかのよう。

 今のこの子からは、たとえテコを使ってもヘレンを取れそうにない。なんかそんな風に感じてしまい、タラリ冷や汗をかく。

 

「たとえば麺類……おそばとか、うどんとか?

 ここは北海道なんだし、ラーメンも良いかもしれないわね。何がいい?」

 

「……」

 

 タスケテ。たすけてミサト。

 貴方のその無駄に楽観的な思考を分けて頂戴。今だけでいいから……。

 

 そんな風に思うも、ここにあの飲んだくれはいない。「ちょっちだけよ~?」とか言って笑いかけてはくれない。

 すなわち、自分でなんとかするしかないのだ。

 

「あ、ヘレンのエサやりなんだけど……その指じゃ大変そうだし」

 

 リツコは覚悟を決め、軽いジャブを出してみる事とする。

 自分はこの後、もう考えるだけでも鬱になりそうな話を、この子達にしなければならないのだ。

 責任ある大人として、是が非でもこの子達を説得しなくてはならんのだ。

 現在のレイの状態を探る為、ここはひとつジャブ的な物を繰り出してみようと思う。

 

「私が代わりましょうか? 私も一度ヘレンと

 

「ダメ」

 

 ――――斬ッ!!

 ほほう……これがいわゆる"一刀両断"というヤツですか。成す術も無く斬り捨てられたわ。

 

「わたしがやります。わたしの役目だもの」

 

「……そ、そうね」

 

 

 ブゥ~~ン! ブゥゥ~~ン!

 ……ただただ車を運転する音だけが、周囲に響く。

 

 あー綺麗だわー。北海道の景色はー。

 リツコは軽く現実逃避しつつ、この窓から流れていく美しい景色を、ぼんやりと眺める。

 

 

 ――――大人を、逃げるな。

 

 何気なく、昔観た事がある某CMの言葉を思い出しながら、リツコは車を走らせていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「貴方には、先に伝えておくわ。

 ……今日獣医さんと話をして、判断したのだけど」

 

 家に着き、レイがヘレンを抱えてトテトテと階段を上っていった後。

 リツコはリビングで出迎えてくれたアスカに対し、真剣な顔で向き直る。

 

「ヘレンを、獣医さんの方で預かって貰おうと思うの。

 ……いえ、貴方相手に取り繕った言葉は、通用しないわね」

 

「……」

 

 アスカは感情の見えない瞳で、リツコを見ている。

 せめてもの誠意として、それを逃げずにしっかりと見返し、ハッキリした言葉で告げる。

 

「――――安楽死の処置を取るわ。

 これが最善だと、判断したの」

 

 理由は、今更説明するまでもない。

 この状況は、自分などよりアスカの方が、よほど深く理解しているハズだから。

 

「貴方も知っての通り、あの子には手術に耐えられる体力は無い。

 たとえそれが出来たとしても、良くなる可能性は、極めて低い。

 この先あの子が生きていく事は、出来ないと判断する。

 ……恨んでくれても構わないわ。理解して頂戴」

 

 

 アスカと、リツコ。

 静かに見つめ合う時間が、しばらく続いた。

 

「そう、分かったわ」

 

 やがてアスカが目線を切り、短く言葉を返す。

 

「これからファーストにも言うんでしょう? 手助けは必要?」

 

「……いえ、私が話すわ。

 そう判断した以上、最低限の筋は通さなくてはいけない。

 責任という物がある」

 

 軽く目で会釈をし、リツコはこの場を離れる。

 これ以上付け加える事も、ダラダラ話す必要もない。

 安っぽい同情や、言い訳じみた言葉など……決してアスカは許しはしないだろうから。

 ただ、ありがとう。

 貴方のその潔さに、心遣いに、最大限の感謝を――――

 

 リツコはレイの部屋に向け、階段を上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 …………やがて彼女の姿が見えなくなり、この場にはひとり、アスカだけが残される。

 

「責任……ね」

 

 

 ふと、母親の顔が脳裏に浮かぶ。

 

 少女時代の、自分の事。

 ただ振り向いて欲しくて、必死に走っていた。そんな幼い頃の自分を想う。

 

 

「どんなだって、愛してほしい。

 愛されたいって……そう思ってるのに」

 

 

 

 

 その呟きは、静寂の中に消える。

 

 あても無く、どこを目指すでもなく。

 アスカは静かに扉をくぐり、外へと出ていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 澄み渡る空。豊かな森林。色とりどりの花々。気持ちの良い空気。

 このベランダから眺める景色は、まるで別世界のように美しい。心が洗われるような風景だと思う。

 

「今日ね……獣医さんとお話をしてきたの」

 

 手すりにもたれながら、静かに口を開く。

 少し外で話さない? というリツコの提案に、当初は大変に難色を示されたものだが……二人はいま二階のベランダにいる。

 

 胸に抱いたヘレンを離そうとしない事には大変難儀したが、それでもリツコの真剣な雰囲気を感じ取ったのか、最終的にレイは部屋にあの子を置き、ここに出てくる事を了承してくれた。

 

「知っての通り、ヘレンの症状は、とても重い物よ。

 ……内緒にしてたけれど、最初にあの子を診せに行った時、

 もうそのまま預けてしまおうかと考えた程なの。獣医さんにも、そう勧められたしね。

 ……私たちには、とても手に負えない。

 ヘレンの抱えている障害は、そんな甘い物じゃないの。

 たとえ、どれだけ飼いたいって気持ちがあったとしても、ね」

 

 レイはいま、外の景色を見つめながら、じっと話を聞いている。

 包帯を巻いた手をちょこんと手すりに乗せ、ただ前を向いている。

 

「レイ、貴方はどう思ってる?

 この先ずっと、手に噛み傷を作りながら、ヘレンの世話をしていく?

 暴れるあの子を押さえつけ、無理やりご飯を食べさせていく?

 それを可哀想と……ヘレンにとってそれは、とても辛い事だって、思わない?」

 

「…………」

 

「ヘレンは、エサを食べられない。それがエサだって判断する事も出来ないの。

 あの雌キツネだって、ヘレンにごはんを食べさせる事は出来なかった……。

 レイとは違い、同じキツネである、あの子にも。

 ……これはね? ヘレンは野生の環境下では、生きていけないって事なの」

 

 たばこをもみ消し、リツコはレイの方に向き直る。

 今もただ前を向き、こちらを見ようとしないレイへと、真剣に語りかける。

 

「レイ、貴方の気持ちは分かる。……あんなに愛らしい子だもの。

 守ってあげたい、一緒にいたいって気持ちは、痛い程よくわかるわ。

 ……でもね? 今は自分の気持ちより、あの子の事(・・・・・)を考えてあげて欲しいの」

 

 恐らくもう、レイは今リツコが何を言おうとしているのか、理解しているハズだ。

 

 安楽死。

 その決断を告げようとしている事を、ちゃんと理解している。

 なぜなら、レイこそが一番長くヘレンに寄り添い、誰よりも長く見てきたんだから。

 

 

「ヘレンにとって、生きる事は苦しみでしかないわ。

 何がヘレンにとって、一番いい事なのか。

 何が"幸せ"なのかを……よく考えてみて欲しいの」

 

 

 自分でも、卑怯なやり方だと思った。

 その気持ちよりも、ヘレン自身の事をまず考えろ、だなんて……。

 自分で言っていても虫唾が走るような、そんな汚いやり口だった。

 

 けれど、こう言えばレイは必ず頷いてくれる。その確信があった。

 優しいこの子は、自分よりも何よりも、まずヘレンの事を想うから。

 

 ゆえにこう言えば、けしてこの子は拒む事をしない。これがヘレンの為なのだと言えば、どんな事だって受け入れる。

 

 たとえそれで、壊れそうな程に心が痛むとしても。

 この優しい少女は……何よりもヘレンの事を大切にするハズだから。

 

 

「……ふぅ」

 

 汚い仕事だった。本当に嫌になるくらいに、キツイ役目だった。

 けれど今、しっかりと役目を果たし終えたのを感じる。言うべき事をしっかり伝え終えた実感がある。

 

 それを終えたリツコは、再びたばこに火を着ける。

 レイと並び、何気なくこの美しい景色を眺める。

 

 もうすべき事は、何も無い。何も必要は無い。

 今はただ、この子と共に、この景色を感じていよう。静かに寄り添っていよう。

 

 そう、思っていた。

 

 

 

 

「……幸せ、って?」

 

 けれど、レイは――――

 

 

「"幸せ"って……なに?」

 

 

 静かに、その口を開いた――――

 

 

「…………レイ」

 

 ただじっとこちらを見る、無垢な瞳。

 リツコはそれに呑まれたかのように、動く事が出来ない。

 

 

「わからない、幸せ。

 わたしは目も耳もあるのに……わかりません」

 

「……なにが、幸せ?

 わたしはなにが、幸せですか? はかせ……」

 

 

 

 

 

 

……………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

 あれから暫くした、夕暮れ時。

 レイはいま自室の床に座り、腕の中のヘレンを見つめている。

 

「…………」

 

 こうしてペタリと床に座ったまま、もう随分と経った気がする。

 レイは何もする事なく、ただヘレンと共に、こうして過ごしている。

 

「わたしの、しあわせ……?」

 

 腕の中、目を閉じで眠るこの子を見ながら、レイは呟く。

 あのベランダでの会話が終わってから、ずっとレイは考え続けている。

 

 自分にとって、幸せとは。

 いったい何が、自分の幸せなのかと。

 

「ない……。

 ないわ、そんなの……」

 

 しかし、どれだけ考えようとも、頭に浮かぶ物は無い。

 生まれてからの数年間、自分はそんな物を感じず、考える事もなく生きてきたのだから。

 

 あるのは、役目だけ。

 人の意志によって産み出され、誰かに言われるがままに訓練を重ね、エヴァに乗って来た。

 そんな自分の生きた時間に、"幸せ"などあろうハズがない。

 あるのはただ、義務や役割だけ。そのように思う。

 

 

 なら……自分の幸せすら分からない私が、ヘレンの幸せを?

 この子にとって、何が幸せなのか……それを理解出来る?

 

「…………」

 

 ない。もう考えるまでも無い。

 きっと、私には出来ない。そんな事わかるハズがない。

 

 だって、無いから。私の中に"喜び"が。

 今まで生きてきた日々は、全て色の無い景色の中だった。

 そこに喜びを見出した事など、いままで一度だって……。

 

「……ッ!」

 

 ――――いや、ある。

 私にも"嬉しい"が……心がぽかぽかした瞬間が、ある。

 

 

「――――碇くん」

 

 

 人生を楽しむ事も、食べる喜びも、自分には無い。

 けれど……嬉しいと感じる事がある。

 彼と一緒にいる時間を楽しいと。心が暖かいと感じた事が、ある――――

 

「碇くんといるのが、楽しい。

 碇くんといる事が……幸せ?」

 

 誰かと寄り添う事。笑顔を向けられる事。

 そして、一緒に居るぬくもりを感じる時……私は"幸せ"を感じる。

 心が、ぽかぽかしてくる――――

 

 

「ヘレン、あなたも? ……あなたも、そう?」

 

 

 

 たとえ目が視えなくても、耳が聞こえなくても。ヘレンは感じているハズだ。

 誰かのぬくもりを。

 こうして寄り添う誰かの体温を。その暖かさを。

 

 目が視えないからこそ……全身で。強く強く。

 誰かと一緒にいる、この時を――――

 

 

「……ッ!」

 

 跳ねるように顔を上げ、壁の掛け時計を見る。

 時刻は18時。ヘレンにごはんをあげる時間だ。

 

「……!」

 

 

 ヘレンを床に置き、冷蔵庫のあるキッチンまで走る。

 

 レイはもうドタドタと音を立てながら、必死で走って行った。

 

 ヘレンに、ごはんを食べてもらう為に。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「……もう夜の10時よ? あの子なにやってんの?」

 

 リビングで、アスカが不機嫌そうな声を出す。

 

「部屋にはいるんでしょ?

 夕飯にも出てこないで、いったい何やってんのよ」

 

「……ええ」

 

 ソファーに寝そべり、なにやらイライラしながら雑誌をめくっているアスカ。

 その相手をしながらも、机にあるお酒に手を付ける事無く、心配そうな表情のリツコ。

 

「話したのよね? ……なら落ち込むのも当然だけど、

 ごはんくらい食べに来いっつの。明日も任務あるでしょうが。

 こちとらチルドレンなのよ!」

 

「ええ……私もそうは思うのだけれど」

 

「私情を挟むなんて、プロ失格よ!

 なんなら引っ張り出してくる?」

 

「いえ、それは流石にね……。いましばらく、そっとしておいてあげて」

 

 プリプリと怒るアスカを、リツコは力なく宥める。

 レイにはご飯を食べて欲しいし、顔だって見せて欲しいのだが……先のベランダでの出来事を思い出すと、どうにも尻込みしてしまうのだ。

 

『それを探していく事も、人生だと思うわ。ゆっくりやりなさい――――』

 

 あの時、リツコは最後にそんな風な事を言ったように思う。

 ただそれは、極々一般的な良識から出た言葉。リツコ自身の中から出た物でないそれが、レイの胸に届くとは思えない。

 

 あの時の、レイの質問。最後にされた「幸せとは何」という疑問。

 それに言葉が詰まり、何か言わなければと苦し紛れのように吐いた言葉。それ以上でも以下でもない。

 

(恐らく、最低の悪手だったわね……。

 探していく事も人生だなんて……ならヘレンはどうするのよって話だもの)

 

 もし自分が子供の立場なら、もう烈火の如く反論した自信がある。それほどに拙い言葉だったと思う。

 レイはただ耳を傾け、じっと聞いてくれてはいたけれど……彼女が胸の内で何を想ったのかなど、もう想像もしたくない。

 

 言いたかった。上手にあの子を諭し、納得させてあげられる言葉が欲しかった。

 ひとりの大人として、それをしてあげられなかったリツコの自己嫌悪は、もうとんでもないレベルだ。

 今すぐにでも部屋に籠り、ミサトのように飲んだくれたい。酔いつぶれてしまいたい。

 

「ま、仕方ないか! じゃあ今回だけ特別に、

 アタシが部屋までごはん持ってってあげるわ!

 アスカさまの優しさに感謝する事ね!」

 

「えっ」

 

 そう言った途端パタンと雑誌を閉じ、なにやらキッチンの方でゴソゴソし始めるアスカ。

 野菜だのパンだのの入ったお皿を大きなトレーに乗せ、満面の笑みで意気揚々と階段を上がっていく。

 

「ちょ……! ちょっとアスカ?!」

 

 あまりの事に呆けていたが、リツコも即座に追い、階段を上がっていく。

 

 なんかもう、アスカに任せてたらデストロイな未来しか見えない……。

 そうならないよう、スリッパをパタパタさせて追いかけていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「えっ……!」

 

「……っ!」

 

 もう「邪魔するわよ!」とばかりに、バーンと扉を開け放ったアスカ。

 食事を持っていくと言っていたから、てっきり扉の前にでも置いておくのかと思いきや……もうおもいっきりズカズカ部屋へ踏み込んでいった。

 リツコも驚愕しつつ、慌ててアスカの後に続いたものだ。

 

 しかし、そんな彼女たちが見たのは、

 

「ヘレン……あんた……」

 

「……レイ!」

 

 いまアスカたちの目の前には、慈愛に溢れた顔でヘレンを膝に乗せる、レイの姿がある。

 

 手にあるは、ミルクの入ったお皿。

 それに口を近づけたヘレンが今、ペロペロとミルクを飲んでいる(・・・・・・・・・)のが見えた。

 

 

「……やっと、飲んでくれたの。

 ヘレン、いい子ね……」

 

 

 ペロペロと愛らしくミルクを飲むヘレンを、レイが優しく見守る。

 よく見れば、彼女達の周りはミルクだらけ。床や家具や服など、もうそこら中にミルクが飛び散った跡がある。

 

 それでも今、ヘレンはミルクを飲んでいる。

 頭を押さえつけて、口をこじ開けられて飲むのではなく、ちゃんと自分からお皿に口を近づけ、自らの意志でミルクを飲んでいるのだ。

 

「アンタ……いままでずっと、これしてたの?

 ご飯も食べに来ないで、ずっと……?」

 

「? ヘレンがたべないなら、わたしもたべないわ?」

 

 まるで「なにを当たり前のことを」とでも言うように、キョトンとした表情。

 恐らくは夕方から、レイがずっとヘレンにミルクを飲んでもらおうと、試行錯誤していた事が見て取れる。

 

 無理やり飲ませるのではなく、こうして自分で飲んでくれるまで――――

 どうやったらこの子が、ミルクを飲んでくれるか? それをこの時間になるまでずっと試していたのだろう。

 自分の食事の事も忘れ、ただずっと寄り添っていたのだ。

 

「だっこして哺乳瓶であげるのも、ダメだったわ。

 ヘレンはカリカリかじるだけで、のんでくれなかったの。

 ……でも、鼻の先についたミルクを、ヘレンがぺろって舌をだして舐めたの」

 

 そこで、レイは閃いた。

 こうやって抱っこをしたまま、ヘレンの口元にミルク皿を近づけたらどうかと。

 

 ヘレンはきっと、だっこが大好きだ。こうしてだっこされてる時は、いつもとても機嫌良さそうにしている。

 だから床にいるヘレンの頭を押さえて、皿に押し付けるようにするのではなく……こうして抱っこで安心させてやりながら、ミルク皿を近づけてあげようと思った。

 

「鼻の先が入るくらい、ミルク皿を近づけてみたの。

 さいしょはパタパタあばれて、嫌がったけれど……、

 すぐに鼻先についたミルクをペロって舐めて、キレイにしたわ。

 それをくりかえしてたら……のんでくれるようになったの」

 

 きっと鼻先に付いたミルクを舐めるうちに、「これは怖いものじゃない」という事を覚えたのだろう。

 

 これは嫌な物じゃなく、自分の喉を潤してくれる物。良い物なんだ――――

 

 それを覚えたヘレンは、こうしてレイの膝の上、自分でミルクを飲んでいる。

 以前のような怯えた顔じゃなく、怒った顔じゃなく、とても嬉しそうにミルクを飲み続けている。

 

 それを見たアスカは、もう口を「アンガー!」と開けている。まるで腹話術の人形みたいに。

 

 隣にいるリツコも、目を見開いて絶句している。

 あのヘレンが、ミルクを飲めている……あんなにも幸せそうな顔で(・・・・・・・)

 

「赤木博士」

 

「……ッ?! な、なにかしらレイ?!」

 

 唐突に、いま優しい顔でヘレンを見つめているレイが、リツコの名を呼んだ。

 一瞬反応が遅れ、ワケがわからないまま返事をする。必死で。

 

「幸せ……わかりません。

 まだわたしも、ヘレンも……」

 

「……っ」

 

 一瞬レイが、僅かに悲しそうな顔をし、俯く。

 リツコは、これがベランダの続きなのだと気付き、僅かに息を呑む。

 

 

「でも、なにが幸せかは、きっとヘレンがきめる(・・・・・・・)――――」

 

 

 俯いていた顔を上げて、レイがまっすぐにリツコの顔を見る。

 

「しあわせ、さがします……。

 ヘレンはこれから、たくさんしあわせを、さがします。

 "それが人生"……ですか?」

 

「~~~ッッ!?!?」

 

 レイが可愛くコテンと首を傾げ、とても純粋な瞳でリツコを見つめる。

 それに対し、もうリツコはグゥの音も出ない。いま〈ボッキィー!〉と心が折れる音を聞いた。

 

「ふ~ん。それが人生、ねぇ……。

 まぁ良いんじゃない? なんか、いかにも薄っぺらい大人が言いそうな言葉だけどっ!

 ねっ、リツコ?」

 

「……んぐぉっ?!」

 

 ニヤリと音が聞こえてきそうな顔で、アスカが「ふっふーん♪」と笑う。リツコは変な声が出た。

 

「ちょっとアンタぁ~、どーいうつもりぃ~?

 アタシん時はぜんぜん飲まなかったのにぃ~。そんなにママがいいの~?」

 

 なんかもう「貴方がオスカーよ!」と言いたくなる程の演技かかった声で言い、アスカがパタパタとヘレンの方へ寄って行く。

 いつもの彼女からは想像もつかない程、とても優しい手つきでヘレンを撫でてやる。ヘレンもご機嫌そうだ。

 

「……ママ? わたしはおかあさんじゃないわ?」

 

「何言ってんのよ。アンタばかぁ?

 アンタがごはんあげて、アンタが育ててんだから、ママに決まってるじゃないの!

 アンタはこいつのママなの! その自覚を持ちなさい!」

 

「~~~~ッッ!?!?!?」

 

 またリツコが目をひん剥いて絶句している。

 それに対し、アスカは絶好調だ! もうとても良い笑顔でレイを煽っていく。

 

 大人への反逆、復讐――――

 これは尾〇豊の精神か。バイクを盗んで走り出すのか。

 ちなみにアスカは14才。思春期も反抗期も真っ盛りである。ヨロシクゥ!

 

 

「……ママ? わたしがヘレンの、おかあさん?」

 

 

 やがてミルクを飲み終わり、レイの膝の上ですやすやと眠るヘレン。

 その幸せそうな顔を見つめながら、レイはいま、胸がぽかぽかしている事を、感じていた。

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

『そっか。じゃあ今日がヘレンの"ミルク記念日"なんだね』

 

 受話器の向こうから、シンジの声が聞こえる。

 久しぶりに聞く、彼の優しい声。

 

「きねんび?」

 

『うん、ミルクを飲めるようになった、記念日。

 綾波もヘレンも、今日はすごく嬉しかっただろう? だから記念日なんだ。

 この次は、初めてお肉を食べられた記念日だね』

 

 現在夜の11時。こんな時間にも関わらず第三新東京市にいるミサトから電話がかかり、リツコはプリプリしながらも、どこか嬉しそうに話し込んでいた。

 そして暫くすると、レイに受話器をバトンタッチ。その向こうにいたのは碇シンジ。「ひさしぶり」と言ってくれた声が嬉しかった。

 

「碇くんは、物知り」

 

『あはは。でも色々あったんだね、綾波。

 そっちでそんな事があったなんて……。ぼくもヘレンと会ってみたいなぁ』

 

 シンジにヘレンの事を報告すると、まるで自分の事のように真剣に聞いてくれた。

 レイのそれは、とてもつたない話し方だったかもしれない。しかしシンジはレイの気持ちに寄り添うようにして、優しく話を聞いてくれたのだ。

 

 それに深く感謝をすると共に、いまレイにはもうひとつ、彼に報告したい事がある。

 

 

「碇くん。わたしヘレンの、おかあさんになる――――」

 

 

 

 一瞬驚いたような、シンジの雰囲気。でも彼はすぐに笑顔を取り戻し、レイの言葉に賛同する。

 心から応援をしてくれる。

 

 

『うん、きっとなれる。綾波なら大丈夫さ』

 

「ええ……ありがとう」

 

 

 

 

 

 その日、リツコの「早く寝なさい! あとご飯も食べなさい!」というカミナリが落ちるまで、二人の楽しい電話が終わる事は無かった。

 

 

 



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しゃしん。

 

 

「――――朝日よ、昇りなさい!

 ふぅ、どうやら昇ったみたいね。おはよう」

 

 旧北海道の清々しい朝。アスカは自室で目を覚ます。

 

「カモン、サンシャイン! ついてきてアタシを照らし続けなさい!」

 

 そして意気揚々とリビングへ降りていく。

 満面の笑みを浮かべ、元気良く腕を振り、ノシノシと歩く。

 

「あら、今日はリビングにいるのね。

 おはようヘレン。世界を感じてる?」

 

 先ほどからアスカの口調が若干おかしな事になっているが……これは彼女が今ハマッているデレ〇テというゲームの影響だ。

 何気なしに始めたゲームの中に"ヘレン"という名のキャラクターを見つけ、それに親近感を覚えてプレイしていく内に、影響を受けていった物と思われる。

 

「ハッ!? この毛並みと艶は!? ……ふふっ、ヘレンあんた、世界を知っているわね」

 

 ぐいっとケージに顔を近づけ、なにやら芝居がかった口調で子ぎつねちゃんに語りかける。彼女は絶好調だ。

 

 ちなみにヘレン(子ぎつね)の方は、現在よちよちとお散歩中。

 今もゲージの柵にそって、ゆっくりとクルクル歩いている。とても愛らしい。

 

「……ほう、今日は左まわりなのね。昨日は右まわりだったのに」

 

「やるわねヘレン」というように、腕を組んでウムウムと頷くアスカ。誰も居ないリビングでひとりご機嫌だ。

 

 ちなみにヘレンは、その日によってお散歩の仕方が違ったりする。

 同じケージ内の散歩でも、その日の気分によって右周りだったり左周りだったりする。

 そして、そのどちらであっても〈コツン☆〉と柵に頭をぶつけずに歩く事が出来るのだ!

 これはヘレンの賢さ、能力の高さを表しているんじゃないかとアスカは思っている。とってもお利口さんなのだ。

 

「完成形でありながら、それを凌駕する。

 常に新しい自分に生まれ変わり続ける……世界レベルの新陳代謝!」

 

 絶賛するアスカ。

 さっきから「世界レベル世界レベル」とうるさいが、これも全部あのゲームキャラの影響だ。

 朝っぱらからダンサブルである。

 

「目指さずともトップ。

 でも、目指し続けるベスト――――そういうものよ」

 

 勝気でプライドの高いアスカと、自信に満ち溢れた性格であるヘレン(ゲーム)の思想は、もしかしたら親和性がとても高いのかもしれない。

 このキャラクターの紡ぐ言葉は、まるで自分の物のようにしっくりくる……! その心地よさを感じる。

 大変愉快な気分だ。言っててすんごい気持ちいい。非常に楽しい。

 

「よし。アンタが歩くのなら、アタシは踊るわヘレン!

 止めてもムダよ。アタシが踊り出したら……プレジデントでも止められない!」

 

 アスカがご機嫌な様子で「ヘーイ!」と踊り出す。

 ダンスなんてやった事はないけれど、とりあえずは知っているモンキーダンスみたいなのを頑張って踊る。ようは気分なのだ。

 

「心が躍る、本能が叫ぶ……。

 すると人は、踊り出す! このアタシのようにね!」

 

 まぁ踊るっていったって、腰を落として両腕をブンブン振っているだけなのだが……重ねて言うがこんなのは気分だ。楽しければオッケー♪

 

「どうヘレン!? 世界レベルを感じる?!

 魂の躍動を感じたのなら、アンタはもう、世界の片鱗を見ているのよ!

 誰もアタシを……アタシ達を止められない! 心までダンサブル!」

 

 

 あぁ愉快! 愉快よねヘレン! とっても楽しいわ!

 

 腕を上下するのに加え、ノッてきたので頭もブンブン振ってみる。いわゆるヘッドバンキングというヤツだ。

 アスカとヘレン。いま一人と一匹が共にこの瞬間を楽しみ、共に世界を感じ、生を謳歌している!

 

 そして汗だくになりながらリビングで踊っている姿を、忘れ物を取りにきたレイにバッチリ見られている事に気付くのは、その数秒後の事であった――――

 

「なにしてるの」

 

「 !? 」

 

 ピタッとダンスを止め、硬直するアスカ。

 その様をただ「じぃ~」っと見つめているレイさん。

 

「…………」

 

「…………」

 

 ギギギギ……っと首を動かし、アスカがゆっくりそちらを向く。

 今もレイはとても無垢な瞳で、じ~っとこちらを見ている。無言で見つめ合う二人。

 

 

「こ……心まで、ダンサブル……」

 

「…………」

 

 

 

 

 

 ……やがてアスカは謎の言葉を残し、スゴスゴとこの場から立ち去っていく。

 彼女は自室に戻り、パタンと扉を閉めたその途端……もうジタバタと枕に顔を埋めて暴れた。

 

 

「こころまで、だんさぶる」

 

 

 わからない。わからないけれど……なんだか胸がぽかぽかする言葉だわ。

 

 そんな事を想いつつ、レイはヘレンをひと撫でして、再びお仕事へと出かけていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「アスカが部屋から出てこないんだけど、どうすれば良いと思う?」

 

『知らないわよ、そんなの』

 

 実験施設の休憩室、現在リツコはミサトと電話中である。

 

「昨日から部屋に籠りっきりなのよ……何かあったのかしら」

 

『実験にはちゃんと参加してるんでしょ?

 じゃあまぁ、いいんじゃない? 暫くそっとしといてあげれば』

 

 二人して「うむむ」と唸るも、心当たりは無い。なので暫くは様子を見る事とした。

 

『まぁアスカの事はいいとして、そっちは今どんな感じ~?

 実験は順調にいってる~?』

 

「うーん……順調とは言い難いわね。予定より時間がかかるかもしれないわ。

 そっちこそどう? 使徒の出現は無いみたいだけど、問題なくやれてる?」

 

『あーだいじょぶだいじょぶ。最近シンちゃん調子良いしね~♪

 たとえ使徒が来たとしても、一人でやっつけちゃうんじゃないかしら?

 安心してちょーだいな』

 

 旧北海道と、第三新東京市。二人はお互いの近況を報告し合う。

 もうリツコ達がこちらに来てから1週間ほど経つし、本来これほどの期間、チルドレン達を第三新東京市から離しておくのは良くない事なのだが……。

 まぁ使徒来襲などの緊急時には、飛行機飛ばせば1時間足らずで帰還出来るのだけれど。

 

『最近シンちゃん、熱血や鉄壁をおぼえた~って言ってたわ』

 

「鉄壁……? なによそれ」

 

『知らないけど、なんか"精神コマンド"? とかなんとか。

 すごくパワーアップしたのよシンちゃん。頼りになるわぁ~』

 

「ホントに? 大丈夫なのそれ……?」

 

 なにやら知らない間に、シンジくんは未知の力を手に入れたようだ。

 ネルフとしては心強い事この上ないが、リツコはその得体の知れなさに眉をしかめる。

 

『あと最近、ガンタ〇クも凄く乗りこなせてるしね。まるで自分の身体のように』

 

「ちょっと待ちなさい。なんでガ〇タンクに乗ってるの」

 

 この度ネルフは、エヴァの他にも新たな決戦兵器を開発していた。

 

『あ、ごっめ~ん! ……乗っちゃダメだった? 倉庫の鍵が開いてたから、つい♪』

 

「なにしてるのよ貴方! あれは私が内緒で開発してたヤツなのに!

 バレバレじゃないの!!」

 

 ネルフの潤沢な資金を使い、赤木博士は自分の趣味全開の兵器を、勝手に開発していた。

 きっと帰ったら、碇指令にしこたま怒られちゃう事だろう。そんな未来が見える。

 

「台無しよ! 貴方のせいで私の計画が台無しよ!

 ……もうアダムとかいう気持ち悪いのでロボット作るのは嫌なのッ!

 私はそんな物を作る為に科学者になったワケじゃないのよ!

 ガンタ〇クとかガ〇キャノンを作りたいのよ!」

 

『作るのはともかく、ちょっち趣味が渋すぎない……?

 これってシンちゃん達の世代に分かるのかしら?』

 

「そんなの関係ないわ! 私は自分の好きな物を作るの!

 子供に夢を与えたいのなら、まずは大人が夢を持たなければいけないのよ!

 そうでしょうミサト?!」

 

 リツコのよく分からない情熱に押され、ミサトはタラリと冷や汗をかく。

 ガ〇タンクを倉庫で見つけた時は「わ~いガンタ〇クだ~♪」とテンションが上がり、ネルフ職員総出でおもいっきり遊んでしまったものの……リツコの異様なまでの様子に、なにやら嫌な予感がしてきたミサト。

 恐る恐るという風に、リツコに問いかけてみる。

 

『というか、まさかアンタが今回やってる"実験"って……。

 そっちでガンキャ〇ンでも作らせてるんじゃないでしょうね?』

 

「!?!?」

 

 何気なく、本当に何気なく言ってみた言葉。

 それによってリツコは言葉を失い、二人の間に長い沈黙が訪れる。

 

「……」

 

『……』

 

 ちょ……嘘よねリツコ? この人類が滅ぶか滅ばないかって瀬戸際の時に、アンタまさか、そんなしょーもない事してないわよね? 全力で趣味に走ったりしてないわよね?

 ミサトは祈るような気持ちで、リツコの次の言葉を待つ。

 

「……」

 

『……』

 

 なんか言って? なんとか言って頂戴? ……リツコ?

 電話越しではあるが、二人の間に重い空気が漂う。

 

「――――貴方のような勘のいい女は嫌いよ、ミサト」

 

『 何してんのよアンタッ!! 今すぐこっちに戻ってらっしゃい!! 』

 

 アカンかった。私の親友は私利私欲に走っていた。マッドな科学者に成り下がっていた。

 大声にびっくりしているネルフ職員達にも構わず、ミサトは声を張り上げる。

 

「嫌よ、まだガ〇ダムもホワイ〇ベースも完成していないんだもの。

 連邦のMSが全部揃うまで、私は帰らない」

 

『だから何してんのよ!! なにコンプしようとしてんのよ!!

 北海道で何してんのよアンタ!!』

 

「ミサト、私は今とても充実してるの。

 こんな気持ち生まれて初めてなのよ。がんばって科学者になって良かった」

 

『知らないわよそんなの!!

 とにかくアンタすぐに帰って来なさい! エバどーすんのよ!』

 

「駄目よ、私は帰れない。

 だって帰ったら、怒られてしまうもの」

 

『そらそうでしょうよッ!!!!

 勝手に血税使ったら、怒られるに決まってるでしょうよ!

 あたしだったらぶん殴ってやるわよ!!』

 

「――――人の域に留めておいたエヴァが、本来の姿を取り戻していく。

 人のかけた呪縛を解いて、人を超えた神に近い存在へと変わっていく。

 天と地の万物を紡ぎ、相対性の巨大なうねりの中で、自らをエネルギーの凝縮態に」

 

『 アンタ突然なに言ってんの!? しっかりしなさいよ!! 』

 

 とりあえずなんか難しい言葉を並べて誤魔化そうとしたけれど、失敗したようだ。

 ミサトはバカだし、これでけむに巻けるかな~と思ったが、そんな事はなかった。非常に残念な事だ。

 

『なんで?! なんでそんな悪びれずにいられるの?!

 なんで素直にゴメンって言わないの?! どーなってんのよアンタの人間性!!』

 

「あ、そういえばこっちで、野生の子ぎつねを保護したのだけどね?

 これがもう可愛いったらなくて」

 

『――――まだ話は終わってないでしょうがッ!!!!

 えっ……なんでそれでイケると思うの?! なんで誤魔化せると思ったのよ!

 科学者って皆そうなの?! みんなイカれてるの?!』

 

 なにその鋼のメンタル。その強固なATフィールド。

 リツコの大人らしからぬ精神性に驚愕しつつも、やがてなんやかんやで話は子ぎつねの話題に移っていく。……もう面倒くさくなったともいう。

 

『あ~、その子がシンジ君の言ってたヘレンちゃんなのね~。

 今レイが飼ってるっていう』

 

「そ。まぁ野生動物だし、あくまで“保護“という名目だけど。

 ヘレンは少し身体的に問題がある子でね?

 野生の環境下で生きていく事は困難なのよ。

 だから現状、野に帰す事が出来ない状態なの。まだ幼くもあるしね」

 

『ふ~ん。まぁ保護でもなんでも、動物と接するのは良い事だと思うわよん。

 レイの情操教育ってワケじゃないけれど、いい経験になるんじゃない?』

 

 正直この言葉を聞き「こちらの気も知らないで……」と思わない事もない。ここ数日リツコの心労はとんでもないレベルだったし、何を呑気なと思わないでもない。

 ヘレンの症状についてはそちらには詳しく説明していないし、まぁ仕方の無い事ではあるけれど。

 ……しかしリツコは、ミサトの言っている事も、少し分かる気がするのだ。

 

 実際ヘレンと出会ってから、レイは見違えるほどに変わった。

 ただ子供のように可愛がるばかりでなく、最近はヘレンのおかあさん(?)としての責任感も芽生えたようだし、彼女にとってとても良い変化があったように思う。

 

 アスカだってそうだ。彼女がヘレンと接する時の柔らかな表情は、今までネルフの大人達が見た事の無い物だった。

 あんなにも優しい顔が出来るのかと、リツコもちょっとビックリしちゃった位なのだ。

 

 聞く所によると“動物セラピー“という物もあるというし、アニマルパワー侮りがたし。恐るべし。

 まぁ以前から危惧している通り、もしヘレンになにかあった時に、その反動が怖くはあるのだが……これに関してリツコはもう「なるようになれ!」と開き直っていくスタンスだ。

 うん、私はもう知らん。知らんぞ。

 

 ……と言うよりも。現在リツコは「あの子たちを信頼してみよう」という気持ちでいたりする。

 無理やりヘレンを取り上げるのではなく、あの子達に任せてみたい。そんな気持ちでいるのだ。

 

 

 何度も言うように、ヘレンの持つ障害は並大抵の物では無い。それは獣医師やリツコといった大人達が安楽死こそ最善だと判断する程に、とても重い物だ。

 けれどあの夜……ヘレンがミルクを飲んだ夜に、リツコの心情は変化した。

 あの子がレイの膝で幸せそうにミルクを飲んでいる、あの美しい光景を目にした時に、不思議とリツコの頭から安楽死という選択肢は消えていたように思う。

 ……まぁこれにはアスカのおこなった“反逆“の効果も、多分にあるのかもしれないが。

 

 ただ、「任せてみたい」、そう思ったのだ――――

 

 きっとこの先、沢山の困難が待っている。

 苦悩、悲しみ、心が引き裂かれるような想いを、あの子達は味わうのかもしれない。

 どれだけ力を尽くそうとも、どうにもならない。そんなこの世界の理不尽さ、容赦の無さを痛烈に思い知るのかもしれない。

 

 そして……悲しい結末を迎えるかもしれない。

 命という物の“重さ“。それに打ちのめされる日が、やって来るのかもしれない。

 大人であるリツコには、そんな非情な現実がハッキリと視えている。

 

 けれど、あの子達に任せてみたい。信じてみたいのだ――――

 

 痛みも、苦しみも、涙も、それは決して無駄な事なんかじゃない。

 たとえ今回の事がどんな結末を迎えようとも、その経験はきっとあの子達の心を育み、大切な思い出となり、人生の宝と成るハズだ。

 

 大人として、あの子たちをただ守ってやる事は出来る。そんな辛い経験をせずにすむようにと、ただ苦しみから遠ざけてあげる事は出来る。

 ……だが、それは違うと思う。それをしてはいけないのだと思う。

 だってあの子達も自分と同じ、一個の“人間“なのだから。

 

 たとえ子供であっても、彼女たちには自分で物を考え、困難に挑み、そして失敗をする権利がある。そうやって様々な経験をしていく権利があるのだ。

 それこそが、あの子達の人間性を育む。決して取り上げてはならない大切な権利だ。

 

 大人がしてやれるのは、きっとあの子達を、信じてやる事。

 悩み、苦しみ、それでも頑張っているあの子達を、応援してやる事。

 きっと乗り越えられると信じて、見守ってあげる事――――

 

 あの夜、嬉しそうにヘレンに寄り添うあの子達を見て、リツコはそう心に決めたのだった。

 

 

(ようは、尻ぬぐいなのよ。大人の役目っていうのは。

 ……どーんと任せて、おもいっきりやらせてあげて、

 そのフォローや尻ぬぐいをする事なのよ。私がすべきなのは)

 

 “子供を導いてやる“……そんな偉そうな事、とても自分には出来ない。

 私はまだ未婚だし、そんなご立派な人間ではない。……そもそも私の親や、今まで出会った学校の教師達だって、決して完全無欠のご立派な人間では無かった。

 ――――ハッキリ言って、中にはクソ野郎と呼ぶべきヤツらも沢山いたッ!

 うん、心から軽蔑してるわ!

 

 ……だからもう、「勝手に育て(・・・・・)」と言いたい。

 貴方たちはもう勝手に頑張り、物を考え、沢山の経験し、勝手に成長していきなさいな。

 時にそれにアドバイスをしたり、フォローをしてやる事こそが、大人の役目なのよ。

 結局の所……それくらいしかないのよ。きっと。

 

 子供を信じる――――それはきっと“子供を尊重する“という事だ。

 

 貴方たちを一人の人間として認め、尊重する。

 そして、その上で傍に寄り添い、しっかり守ったるしかないやろがい!!

 

 エヴァとかシンクロ率とか、そんなモンもう知るか! 後で私が必死こいてなんとかしてやるわよ! 全部!

 それが大人の役目ってモンでしょう!? それでいいんでしょう!? ふーんだッ!

 

 

 ……リツコはもう完全に開き直り、やけくそ気味にそう思うのであった。なぜか関西弁も混ざった。

 

 

 

『でもキツネかぁ~。けっこう意外な所できたわね~。

 レイって素直な子だし、どっか犬っぽい所あるじゃない?

 だからあたし的には“レイは犬派!“ってイメージなんだけどな~』

 

 暫し自分の世界に入っていたが、リツコは受話器からの声により、この場に意識を戻す。

 

「いえ……あの子が犬っぽいのと、キツネのお世話をするのは、

 全然関係ないと思うのだけれど」

 

『え~。その点で言えば、リツコって猫っぽいわよ? そんであんた猫好きでしょ?

 なんか惹かれ合うモノがあるんじゃないの~?』

 

「なんだかよく分からない理論だけれど……そういえばキツネは、イヌ科の動物ね」

 

『え、そうなの!? ほらぁ~やっぱり惹かれ合うのよ~! こういうのって!

 いよっ、似た者同士ぃ!』

 

「ところで貴方、ペンギン飼ってるけど……その点についてはどうなのかしら?

 葛木ミサトはなんかペンギンっぽい、という事でOKなのね?」

 

『!?!?!?』

 

 まぁそんな馬鹿な会話をしつつ……そろそろリツコの休憩時間が終わりに近づき、彼女達が別れの挨拶を交わす時間となっていく。

 ……定期報告のワリに、あんまし仕事の話をしてなかった気がしないでもない。正直。

 

『そんじゃね~リツコ。今度ペンペンとヘレンちゃん戦わせて、

 どっちが強いか勝負しましょうよ』

 

「なんでよ。どうするのよそんなの決めて。なんの頂上決戦よ」

 

『あ、ちなみにヘレンちゃんって……もふもふ?

 もしかして、触るとすんごい癒されたりする?』

 

「もふもふよ。私はいつも癒されてるわ。それじゃあねミサト」

 

『――――ちょっ、ズルいわよリツコ! あんたばっかり!

 あたしだってキツネもふもふしたり、そっちで温泉入ったりし……』

 

 プチッ! ……ツーツー。

 リツコは無慈悲に通話を切り、ケータイをポケットにしまい込む。そして仕事を再開すべくスタスタと歩いて行く。

 

「貴方はいつも、シンジくんに甲斐甲斐しくお世話されてるでしょうに。

 なにを癒される必要があるの。それ以上は罪よ」

 

 いつもシンジくんの手料理を食べ、挙句の果てに家事までやってもらっているのだ。あの飲んだくれは。

 あんなにも良く出来た子と一緒に住んでいるのだから、貴様はそれ以上を望むべきではない。それ以上の幸福は許さん。

 

 リツコ(未婚、独り身)はなんかよく分からない義憤を燃やしながら、再び実験場へと入っていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 夕方。

 リビングにて、レイはヘレンとの穏やかな時間を過ごしていた。

 

 床に寝そべって目線を合わせ、ふたりで見つめ合うように顔を突き合わせる。レイの視界いっぱいにヘレンの顔がある。

 うん、可愛い。とっても美人さんだヘレンは。

 

 時折ヘレンがレイの存在を確かめるように、おててでレイの顔をてしてし触ったり、スリスリと頬ずりしたり、がんばって頭の上によじ登ろうとしてみたりする。

 それに対し、レイの方は成すがまま。

 ただただヘレンの愛らしい姿を眺めながら、ずっとこの子の好きなようにさせている。

 

 耳をカプカプされても、鼻をペロッと舐められても、頭の上に乗られても微動だにしない。まるで人間アスレチックといったように、その身をもってヘレンの遊び道具と化していた。

 

 まぁたまにヘレンがズルッと滑り落ちてしまってアワアワと慌てたり、〈てしっ!〉とヘレンパンチが目を直撃して「~ッ!?!?」となったりしもしたので、まったく微動だにしてなかったワケではないのだが……それでも出来る限り動かないようにはした。根性で。

 

 でも良く見れば、レイの足が僅かに〈パタパタ♪〉と動いているのが、傍目に分かった事だろう。

 これは無意識なのだろうが、レイの内面の気持ちを表すように、機嫌良さそうに足がパタパタしているのだ。まるでヘレンの尻尾のように。

 

 ふたりで過ごす、暖かな時間。大切な時。

 

 それを容赦なくぶち壊す大声が響いたのは――――玄関の方からであった。

 

 

『にゃーー!!』

 

「 ?!?! 」

 

 

 ビックリしすぎて、思わず〈ビクゥ!〉と逆エビぞりになる。ヘレンの方はのほほんとしているけれど。

 

「おー! ここがみんなの住んでるコテージかぁ~。

 すんごいオシャレじゃーん! いいなぁ~!」

 

 驚愕しているレイをよそに、ズカズカと部屋に入ってくる人物の気配。

 急いでそちらを振り向いてみると、そこにはレイと同じエヴァのパイロット、真希波・マリ・イラストリアスの姿があった。

 

「おっすファーストちゃーん! どもども! お邪魔するよぉ~!

 あれ? どうしたのそんなトコで寝そべって。目をひん剥いてからに」

 

「……」

 

「背筋? え、筋トレしてたの?

 北海道に来てまで、そんな汗かいてトレーニング?

 ちょーっと真面目すぎないかにゃ~ファーストちゃん。

 人生もっと楽しい事、いっぱいあるよ?」

 

「……」

 

 レイは無言のまま立ち上がり、そっとヘレンを抱きかかえる。

 そのままマリに背を向け、スタスタと階段の方へ歩き出す。

 

「ちょ……! 無視はダメだよぉファーストちゃん! 傷付くよぉ~!

 ほらファーストちゃん、私を見て? マリだよ?

 ワレワレハ、ナカーマ! エヴァ友だよ?」

 

「……」

 

 しかし、あえなく回り込まれる。逃走失敗。

 真希波・マリ・イラストリアス。彼女はコミュ力のモンスターであった。

 

 レイが少しぶすっとしながら「じぃ~」っと見つめるも、マリには一向に怯む気配が無い。

 さすがエヴァのパイロット、第4の子供。彼女のATフィールドもうとんでもない。

 

「ほーらファーストちゃん、アメをあげるよ!

 甘いのは好き? おいしいよ? 食べる?」

 

「……たべる」

 

 まるで大阪のおばちゃんの如く、懐からアメちゃんを出して子供に与えていくスタイル。

 まぁレイも喜んでいるし、なんだかんだと話を聞いてくれる姿勢になってくれた。

 うん、飴玉を常備しておいてよかった。

 

「……赤いメガネの人、どうして……?」

 

「うん、ちょっと姫が部屋に閉じこもってる~って、小耳に挟んでねー。

 第三新東京市からジェット機飛ばして、来てみましたっ!

 まぁ任務もあるし、今日中には戻らないといけないんだけどにゃ……。

 でも姫の事は、私に任せといてちょーだい♪」

 

 レイは無表情で飴玉をコロコロしつつ、耳を傾ける。

 どうやらマリは、アスカの事を心配してここに駆け付けてくれたようだった。なんという行動力。

 

「ちなみにさっき、蟹とかラーメンとか食べて来たよ! 堪能したね!

 北海道の綺麗な景色も撮れたし、それだけでも来た甲斐があったにゃ~♪

 ……あ、ファーストちゃんも見る? 面白い写真いっぱい撮れたよ!」

 

「?」

 

 マリが鞄からデジカメを取り出し、レイの隣に来て肩を寄せる。

 そして手慣れた操作で、今日撮った写真の画像を見せていく。

 

「ほらっ、これ見て! キツネの親子だよ!」

 

「!」

 

 沢山の綺麗な景色や、動物の写真。その中の一枚に、野生のキツネの親子の写真があった。

 レイは思わずデジカメを〈はしっ!〉と掴み、大きく目を開いて覗き込む。

 

「これね、海で撮ったんだよ~。

 砂浜の近くの草むらに、たくさん野生のキツネが住んでるの」

 

「……!」

 

 これは、幼いきつねの子供が、おかあさんに甘えている姿。

 愛らしい子ぎつねと美しいキツネが寄り添う、とてもあったかい写真だった。

 

「この子も、生後2週間って所かにゃ~? ヘレンちゃんと同じくらいだね♪」

 

「ええ、そうだと思う……」

 

 きっと同時期に生まれたのであろう、ヘレンと同じ子ぎつね。その写真にレイは見入る。目を離せずにいる。

 

「……」

 

 ふと、レイはいま腕の中にいる、ヘレンの事を想う。

 

 写真のこの子と、ヘレン――――

 この子はお母さんといっしょに暮らしているのに、ヘレンはひとりぼっちだった。

 この子は仲間達と共に自然を駆けまわっているけれど、ヘレンにはそれが出来ない。

 同じ時期に生まれた、同じ子ぎつねであるハズなのに……その違いを想い、レイの胸はキュッと痛む。

 

 ヘレンは悪くない。なんにも悪い事なんかしていない。……なのにヘレンだけが背負わされている、この違い。

 

 いったい何故なのか。

 何が、誰が、いったいなんで。どうしてヘレンだけが。

 

 それを想うも……答えは出ない。この理不尽に対する答えは、どれだけ考えようとも、見つからなかった。

 けれど……。

 

(ヘレンがごはんを食べられるようになって、体力が付けば、治療を受けられる。

 そうすれば、自然の中で暮らせるようになるかもしれない。

 仲間のきつね達と暮らせるように、なるかもしれない……)

 

 これは、あのミルク記念日の夜に、アスカが教えてくれた事だ。

 今の幼いヘレンでは無理でも、この先しっかりと成長し、そして手術を受けられるようになれば、可能性はあると。

 ヘレンがこの世界で生きていける……幸せを掴めるチャンスはあるのだと、そうアスカはレイに教えてくれた。

 この上ない真剣さと、優しさをもって。

 

 ――――治る。ヘレンは身体を治し、しあわせを掴む事が出来る。

 仲間たちと一緒に暮らせる日が、きっと来る。

 

 その為に私は、出来る事をしよう。ヘレンの為にしてやれる事を、精一杯しよう。

 それがレイの誓い。“おかあさん“の役目だから。

 

 

「リツコちゃんに聞いたけど……ヘレンちゃん身体を悪くしてるんだってね……。

 でもきっとこの子みたいに、元気に走り回れるようになるよ!

 だってファーストちゃん、すんごい頑張ってるもん!

 だいじょぉぉーぶ! 私が太鼓判押してあげる♪」

 

 いまマリがレイの顔を覗き込み、もうとびっきりの笑顔をくれた。

 それを受け、レイの胸は暖かくなる。心に勇気が湧いてくる。

 

「ありがとう、赤いメガネの人――――」

 

「!?!? にゃ……にゃはははっ!

 まーまたなんかあったら、いつでも言ってちょーだい!

 マリ・イラストリアスが、ジェット機飛ばして来るかんねっ!」

 

 思わずドキッとしてしまうような、とても純粋な笑顔。それに見つめられたマリは顔を真っ赤にし、思わず照れ笑いする。

 ……ヤバかった。キュン性ショック死するかと思った。

 なんだ、この胸が締め付けられるような笑顔は。やだこの子プリチー。やばたにえん。

 

(あっ……)

 

 しかしふと、この幸せそうな子ぎつねの画像を見ながら、レイは気付く。

 ヘレンにもいつか、この子と同じように、自然の中で暮らす日が来る。

 お別れの日(・・・・・)が、いつかはやってくるという事を。

 

(ヘレンは治ったら、また自然の中で暮らす。……いっしょには、いられない……)

 

 ここ数日、レイには大変な事も多かった。だから今のいままで、それに思い至る余裕が無かったのだ。

 けれど、いつか必ず、やってくるのだ。

 ヘレンとの、別れの時が――――

 

 

「ヘレンも、とって……」

 

 

 突然の、縋るようなレイの声。マリは少しびっくりし、キョトンとした顔。

 

「ん? とるって、写真のことかにゃ?」

 

(こくり)

 

 真っすぐにマリの顔を見つめ、必死にお願いする。

 ヘレンを、この子の写真を撮って下さい。思い出を下さい、と。

 

「……ん~、それは別にいいんだけどぉ~。

 でもそれなら、もっと良い方法があるよ?」

 

 まるで慈しむように、優しい顔でレイを見つめるマリが……そっとデジカメを差し出す。

 

 

「――――撮ってごらん? ヘレンちゃんの写真。

 ファーストちゃんが撮るの」

 

 

 ポスッと、手にデジカメを乗せる。レイはぽけっと放心する。

 

「私は今から姫の面倒みなきゃだし、今日中に帰らないとだしね。

 だからそのカメラ、君にあげる。

 いっぱいヘレンちゃんの写真とって、また私に見せてよ♪」

 

 

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「ん? なにアレ? あの子なにしてんの?」

 

 翌朝、キッチンでぐびぐび牛乳を飲んでいるアスカ。

 

「ああ、写真を撮ってるのよ。

 マリからデジカメを貰ったみたいでね? ヘレンを撮影中」

 

 ボウルにサラダを盛りつけながら、ほんのり笑みを浮かべたリツコが応える。

 現在レイは「ムムム……」っと眉を八の字にしながら、カメラと格闘中。彼女の前にはよちよちと歩き回るヘレンの姿がある。

 

「デジカメぇ? そんな安い物でもないでしょうに。

 まったくコネメガネったら……、ファーストを甘やかして!」

 

「ふんっ!」と鼻を鳴らし、再びアスカは牛乳をあおる。

 

(貴方も散々、マリによしよしと甘やかして貰ったでしょうに……)

 

 そうは思うも、口に出す事はしない。リツコは大人なのだ。

 とりあえず、アスカが部屋から出てきてくれて本当に良かった。マリに感謝である。

 

「じぃ~」

 

 そして二人が見つめる中、いまレイが床に座ったり寝そべったりしながら、ヘレンの写真を撮っている。

 あーでもない、こーでもないと、パタパタ動き回りながら撮影をおこなっている。

 なんか被写体であるヘレンよりも、よっぽどコミカルな動きをしているように見える。

 

「じぃ~」

 

「……うん、なんだかシュールねコレ」

 

「……どうでもいいけど、パンツ見えるわよアンタ?」

 

 時にシュタッ! っとばかりに跪いてカメラを構えたり、シュバババッと反復横跳びめいた動きをしながらシャッターを切ったり……普段のレイからは想像出来ないほどの機敏な動き。

 なにやら見ていて、すごく面白い事になっている。きっと気分は敏腕カメラマンなのだろう。

 

 

 そして二人が見守る中……レイのカメラに、たくさんの写真が保存されていく。

 

 これは、フローリングの床をツルツル滑りながら歩いているヘレン。

 歩きにくくはあるんだろうが、でもなにやらそれが面白いらしく、楽しそうによちよち歩いている所。

 

 これはテーブルの上で、備え付けのティッシュにいたずらをしているヘレンだ。

 パクリと飛び出ているティッシュを咥え、よいしょよいしょと次々に引っ張り出している。

 沢山の白いティッシュに囲まれ、ヘレンがモコモコしていた。

 

 これはヘレンが、ソファーに寝そべっているアスカのもとに遊びに来たところ。

「ん~?」って感じで片方の眉を上げたアスカが、ヘレンと鼻をくっつけて向かい合っている。

 嬉しそうなヘレンの顔と、慈愛を感じさせるアスカの表情。それがとても印象的な一枚だ。

 

 そしてこれは、外の庭で楽しそうに駆け回っているヘレンの写真。

 沢山の草木と花にかこまれたヘレンが、じゃれるように自然と戯れている。

 赤い花、青い花、黄色い花。そして美しい緑色の草。その中で無邪気に遊ぶヘレンの姿。

 

 レイは夢中になってシャッターを切っていく。

 たくさんの思い出を、カメラに収めていく――――

 

 

(なぜ人が写真をとるのか、わかったような気がする……)

 

 以前まで、興味なんてなかった。全然わからなかった。

 クラスメイトの女の子たちが、なんであんなにもパシャパシャと写真を撮りたがるのか。レイにはどうしても理解できなかったのだけれど……。でも……。

 

 

(きっとこの世界には、つかまえておきたい瞬間っていうのが、ある……)

 

 

 

 

 この時を、大切にしたい。

 いつまでもおぼえていたい。ギュッとはなしたくない。大切に胸にしまっていたい。

 

 そんな瞬間が、きっとあるんだと思う――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーあ。こんなトコで寝ちゃってぇ」

 

 しばらくして、何気なくキッチンまで紅茶を淹れにきたアスカが見つけたのは……、くぅくぅと絨毯の上で寝息を立てているレイの姿だった。

 

「まぁ、張り切って撮ってたみたいだしね。

 遊び疲れて寝ちゃった~ってトコかしら」

 

 ほのかな笑みを浮かべながら眠っているレイ。その胸元に大切そうに抱えられているのは、同じく愛らしい寝息を立てているヘレンだ。

 なにやらとても幸せそうに、ふたりでスヤスヤと眠っている。

 

「寝た子は起こすなってね。そっとしときましょっか。

 ……あ、でもその前にぃ……」

 

 カシャリと、静かにシャッター音が響く。

 

「これは、さっき勝手に撮ってくれた お れ い!

 乙女の不用意な顔を撮りやがった罰よ」

 

 

 

 

 

 いまアスカの手にあるデジカメの画面に、レイとヘレンの姿が映っている。

 ふたりが寄り添って一緒に眠っている、幸せに満ち溢れた写真だ――――

 

 

「いつ気付くかしら? ファーストのビックリする姿が目に浮かぶようだわ」

 

 

 そう「クスッ♪」と笑ってから、アスカがそっとデジカメを返し、リビングを後にしていった。

 

 

 





※追記。

 今回のお話の中、ミサトさんのセリフに「とにかくアンタすぐに帰って来なさい! エバどーすんのよ!」という物がありましたが、これは意図的な物です。
 エヴァではなくエバ(・・)と表記しているのは、ミサトさんの発音の悪さを表現しておりますw

 何回指摘してもミサトさんはエヴァを「エバー」と言ってしまう……全然なおらない……昔そんなテーマの名作SSが存在していたくらい有名なネタであります。

 実は先ほど誤字報告でご指摘を頂きまして、作者としてはネタとして書いていたものの「やっぱ分かりにくかったかな~」と若干反省しております。

 まぁ当作品においては今後も機会があれば、ミサトさんのみエヴァを「エバー」と書いてやる気でおりますので、コンゴトモヨロシク。



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よろこび。

 

 

「ヒトフタマルマル……時間よファースト、作戦を開始するわ」

 

 そう告げて、アスカはスッと椅子から立ち上がる。レイもコクリと頷きを返し、その背中に追従する。

 

「対象の状態を確認後、所定の位置に。……そうね、そこらへんで良いわ。

 よし、やりなさいファースト。援護はしてあげるわ」

 

 作戦地域……というよりもレイの部屋にイソイソやってきた二人。

 軽くケージ内の状態を確認後、レイはヘレンをよいしょと抱き上げ、陽当りの良さそうな場所にペタンと座る。うむ、お日様の光がポカポカと心地よい。

 

 アスカがお皿の乗ったトレイをレイの足元に置き、少し下がった場所でカメラを覗き込む。

 そして意味も無くハンドサインで「GO」の合図を出した。

 ……別に声を潜める必要も、気配を消してじっとする必要も無いのだが、まぁこういうのは気分だと思う。何事も楽しんでいこう。

 

「ごはんよ、ヘレン。おにく」

 

 軽くヘレンをよしよしと撫でて、本日の作戦が開始。

 いま二人がおこなっているのは“お肉アニバーサリー作戦“。先日よりすでに数度に渡って実行されている、ヘレンにお肉を食べて貰う為の試みである。

 

「ヘレン、ここよ? さぁ、たべて?」

 

 先日、ヘレンは自分でミルクを飲めるようになった。これはヘレンにとって、そしてレイ達にとって凄く大きな出来事であった。大いなる前進と言えよう!

 ……しかしながら、それだけでは足りない。この子の身体の大きさを考えると、どうしても栄養的にミルクだけでなく、お肉なども食べていく必要がある。

 そうでないと大きくなれないし、元気にだってなれないのだ。

 

 それに生き物にとって、やはり“食べる事“というのは、きっと何よりの喜びだと思うのだ。

 動物病院の先生いわく、たとえどんなに人嫌いで暴れん坊な子でも、ごはんを食べている時だけはとても幸せそうな顔をしているという。

 

 あの雌キツネがヘレンにエサを与える事で愛情を示そうとしたように、やはりごはんというのは特別な物であり、きっと幸せの象徴なのだ。

 だから食べる喜びを、ヘレンに知って欲しい。まごころを君に。

 

 レイは優しく膝の上にヘレンを乗せ、食べやすいサイズに切った生肉を、口元にもっていく。

 

「おにくよヘレン? ほら。おいしいから」

 

 レイのお膝で機嫌良さそうにしているものの、一向にお肉を食べようとしないヘレン。しかしレイもアスカも辛抱強く見守っていく。

 よしよしと撫でて落ち着かせてやったり、安心出来るようにしっかり身体を支えてやりながら、ヘレンの口元にお肉の乗った皿を近づけていく。

 いまヘレンの鼻の先に、ペトッとお肉が引っ付いた。

 

「あ」

 

「……」

 

 さっきまで無駄に息を潜めていたアスカが、思わず声を出す。

 ヘレンが「なんかひっついちゃった!」とフルフル首を振った途端、それでお肉がポーンと飛んで、レイのほっぺたに直撃したからだ。ペチャっとくっついている。

 レイは暫く硬直した後、無言でほっぺのお肉を取り、そっとお皿に戻す。

 

「……ヘレン、おにく。たb

 

「あ」

 

 プルルッ! ポーン。 ぺちゃり。

 再びヘレンが大きく首を振り、お肉がレイのおでこにくっつく。

 アスカはその様子を、ただただ見守っている。真顔で。

 

 そんな空気の中……カシャリという音が辺りに響く。

 

「……なぜ、いまシャッターをきったの」

 

「いや、一応撮っとこっかな~って思って……」

 

 おでこに肉をくっつけたままのレイが「じとぉ~」っとアスカを見る。抗議をするように。

 写真に撮るべきは、ヘレンの成長記録。お肉を食べた記念すべき瞬間である。決してお肉がくっついた私の顔では無い。遺憾の意を表明する。

 

「ヘレンをとって。わたしはとらなくてい

 

「あ」

 

 また膝元でプルルッと音がした瞬間、レイの頭にポトッとお肉が乗った。

 アスカは真顔のまま、カシャリとシャッターを切る。

 

「……なぜとるの」

 

「あ……なんかこう、ついね?

 何気ない日常をこそ、って」

 

 なんか心の奥の方で、「チャンス!」という謎の声が聞こえ、思わずシャッターを切ってしまった。

 これはアタシの中で、カメラマンとしての魂が芽生えつつある証拠かもしれないわ。うん、センスあるかもアタシ。

 アスカは満足そうにうんうんと頷くも、レイの視線はもう氷点下だ。

 

 レイは無言のまま立ち上がり、何故かトテトテと歩いて来て、アスカのすぐ傍に座る。そして再びヘレンにお皿を近づける。

 

「ちょ、アンタ! なんでそんなトコで……!」

 

 プルルッ! ポーン! ……ぱくっ!

 生肉が宙を舞い、なんか上手い事アスカの口に入る。

 

「 も゛っ……!! 」

 

 何やら面白い声を出した後……アスカはペッペと生肉を吐き出し、ティッシュで口元を拭う。

 その様を、レイは「じぃ~」っと見つめる。とても冷たい目で。

 

「…………あのね、アタシはそれ食べないの。

 全部アンタのよヘレン」

 

 若干レイの視線に居心地の悪さを感じつつ……、わしわしとヘレンの頭を撫でてやるアスカ。

 ヘレンの方は「?」といった感じの表情だ。可愛いから腹立つ。

 

「とりあえずアンタ、アニマル駆使して湾曲的に復讐すんのやめなさいよ。

 悪かったわよホント」

 

(こくり)

 

 

 その後も二人は「わー!」とか「ぎゃー!」とか言いながらも奮闘したが、なかなかヘレンに食べて貰う事は出来なかった。

 試しにミルクの中にお肉を混ぜておけば、ペロっと飲んだ時に一緒に食べてくれないかな~と思ってやってみたりもしたが、これも成果は芳しくなかった。

 

 残念ながら今回も、ヘレンのお肉記念日はならなかった。子ぎつね道は厳しい。一日にしてならずである。

 

 

「やっぱ“飲む“よりも“食べる“の方が難易度高いわね。

 嗅覚も味覚も無い、そんなこの子に食べ物を教えるのは、とても難しい事だわ」

 

 そしていつものように……レイに抱っこされたヘレンの口に、ピンセットで生肉を押し込んでいく。

 指で口をこじ開け、噛まれる痛みに耐えつつ、無理にでも肉を食べさせる。

 ……その作業をこなしながら、アスカはギリリと歯を食いしばる。

 

「覚えなきゃいけない事、やらなきゃいけない事……ヘレンには沢山あるわ。

 生きていく為に必要な事が、この子には山ほどある。

 この子は毎日、世界と戦ってる――――全部が真っ暗な、何も分からない世界と」

 

「……」

 

「けど、ヘレンはすごく賢い子よ? アタシでもたまにビックリしちゃうくらい。

 ……だから、分かってるわねファースト?

 ヘレンが頑張ってんだから、アンタも気張りなさい――――

 アンタこの子のママでしょ?」

 

 

 やがてお皿にある生肉を食べ終わり、ヘレンの身体は解放される。

 その途端テテテと向こうに走っていき、必死に「ガッガッ!」と声をあげる。

 きっとレイやアスカに対し「なにするんですか!」と怒っているのだろう。

 

「上手くいかないのは当たり前。そんなのハナから分かってんのよ!

 だから……何度もやるしかないわ。

 工夫して、色んな事を試して、毎日少しづつ。

 サリバン先生もそうだったでしょ?」

 

 怒りを露わに、抗議の声をあげるヘレン。レイは悲しそうにその姿を見つめる。

 けれど今、アスカがポンと肩を叩き、ニカッと彼女らしい笑顔をくれた。

 レイの心に暖かな気持ちが溢れる。勇気の火が灯っていく――――

 

「あ、でもアンタ……そういえば肉キライじゃなかったっけ?

 それってどうなのかしらねぇ?」

 

「!?」

 

 さっきまでのぬくもりはどこへやら。レイは〈ピシリ!〉と音を立てて固まる。

 

「ヘレンに食べさせようとしといて……アンタは肉を食べない。好き嫌いをする。

 それってママとしてどうなの? 示しが付かないんじゃない?」

 

「~~ッッ!!」

 

 さっきまでの暖かいヤツじゃなく、とても〈ニッタァ~!〉って感じで笑っているアスカ。

 レイはダーダー汗をかく。

 

「ヘレンは毎日がんばってるけどぉ~? アンタはどーなのぉ?

 まっ、アタシだったら嫌かな~♪ ママずっるーい! 幻滅しちゃーう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………その後、夕食時。

 

「あらレイ、ハムはよけなくて良いの? 食べてみる?」

 

(コクコク)

 

 テーブルに着き、みんなの分のサラダを取り分けていたリツコは、レイの意外な行動に少し驚いた声を出す。

 

「珍しいわね、あまり食には関心がなかったのに。

 ……でもエライわ、レイ」

 

 何気なく、本当に何気ない仕草で……リツコがレイをよしよしと撫でてやる。

 これは考えての事ではなく、きっとリツコの心から出た行動。だからそれはとても自然に見えた。

 

 普段リツコはこんな事をしないし、レイだってされた事は無い。

 でも不思議と二人は、それを気にする事はなかった。それ程にこれは、自然な行為だったように思う。

 

「人によって好みやアレルギーという物があるし、仕方のない部分はある……。

 でも色んな物を食べてみる、挑戦してみるのは、とても大切な事よ?

 少しづつでいいし、駄目なら駄目で構わないの。だからチャレンジしてみなさい。

 きっとそれが、貴方の人生を豊かにしてくれるわ」

 

「はい……赤木博士」

 

 レイがコクリと頷き、とても愛らしい笑みを見せてくれる。子供のように純粋な笑顔だ。

 リツコも暖かな気持ちで頷きを返し、ハムの乗ったサラダをレイに手渡してやる。

 

「~~ッ!」

 

 やがてレイが「えいやっ」とお箸を口に運び、ハムをひとくち食べる。

 ギュッと目を瞑り、なにやらモグモグ音が聞こえそうな必死さだが……レイは今、初めてお肉という物を口にしたのだった。

 

 今まで“生き物を食べる“という事への嫌悪感から避けていたが……始めて勇気を出して食べてみたハムは、どこか優しい味がした。

 今までずっと味気なく感じていたサラダに、突然パッと色が着いたように感じる。とても鮮やかな印象に変わったのだ。

 

「……っ」

 

 ――――おいしい。おいしいかもしれない……。

 

 レイの頬にほのかな赤色が差す。その表情は少しの驚きと共に、どこか喜びの色を感じさせた。

 それを眺めていたアスカが、楽しそうに「フフン♪」と鼻を鳴らす。

 

「まぁ肉にも色々種類があるし、またちょっとづつ試していけばぁ?

 とりあえず、お肉記念日おめでとうファースト。

 きっとヘレンのもすぐよ」

 

 なにやら満足気な顔をしつつ、アスカはハンバーグを頬張り、ソーセージにかぶりつく。そしてせっせと唐揚げを口に運んでいく。もぐもぐ。

 

「どうでも良いけれど……貴方は少し野菜も食べなさいな。

 レイを見習ったらどう?」

 

「んぐッ?!」

 

 

 

 その後食卓では、なにやらバツが悪そうにモシャモシャとサラダを頬張る、アスカの姿が見られた。

 

 

 






※後書き、レイの肉嫌いについて


 原作エヴァの設定において“レイが肉を食べない理由“は、もしかしたらアレルギー、もしくは彼女の身体的な理由もあるのかもしれません……。
 レイの身体の作りは、恐らくは少し特殊な部分があると思われますので。

 私は原作のアニメ、そして現在公開されている範囲の映画の知識のみで当作品を書いておりますので、公式設定におけるレイの肉嫌いの理由については存じ上げません。

 ですので当作品においては、独自の設定として「生き物を食べる事への生理的な嫌悪があった」という事でいかせて頂ければと思います。
 どうかご了承下さいませ。にんにくラーメンチャーシュー抜き。





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ヘレンのせかい。

 

 ヘレンがやってきて、10日目となる日の午後。

 この日は風も無く、ポカポカと暖かい陽気となった。

 

「ドライブというのも良い物ね。どう? レイも楽しい?」

 

(こくこく)

 

 カッコいいスーパーカーの運転席で、サングラスをかけたリツコが機嫌よく鼻歌を口ずさむ。

 地平線の彼方まで、どこまでも続く北海道の道を、景色を楽しみながら勢いよく駆けて行く。

 

 その助手席に座るのは、ヘレンを抱っこしているレイだ。彼女も心なしか柔らかい表情を浮かべ、内心ウキウキしているのが見て取れる。

 優しく揺れる車の振動が心地良いのか、今もすぅすぅと寝息をたてているヘレンの背中を、時折そっと撫でてやる。

 

「良い天気。絶好のピクニック日和だわ。

 ほんとアスカも来れば良かったのに。ねぇ?」

 

(こくり)

 

 ちなみにアスカさんは、現在お家でお休み中。

 よほど午前中の実験で張り切り過ぎたのか、〈ぐったり!〉とソファーに突っ伏していた。ほのかなサ〇ンパス臭を漂わせて。

 

 エースパイロットの誇りを胸に、なにやら気合を入れて試験機のテスト操縦に臨んでいた彼女だが……まさか自分が搭乗していたのがエヴァでは無くガ〇キャノンのコックピットだとは、夢にも思うまい。

 リツコも教える気は無い。あわよくば最後まで内緒にしとこうと思う。ご協力感謝。

 

(まぁバレたとしても、何とでも言いくるめられるわ。

 ガンキ〇ノンって赤いんだし、「赤好きでしょ貴方?」とか言って。

 それでOKよ)

 

 リツコのグラサンが〈キラーン☆〉と光るが、幸運にもその悪い顔はレイに見られずに済んだ。

 ちなみにレイが実験と称して乗せられているのは、内緒だけどガ〇ダムである。青と白だし。

 重ねてになるが、人類存亡の危機に何をしとるのか。

 

「人間も動物も、たまにはお日様の光を浴びないと、どうにかなってしまうもの。

 今日は風も無いし、気温も暖かい。きっとヘレンも喜ぶわ」

 

 キツネという動物は主に聴力を頼りに生活するので、あまり風が強い日は嬉しくない。周りの音が聞こえづらくなくなってしまうし、匂いの問題もある。様々な危険があるのだ。

 同じ晴れの日であっても、動物さんにとって“お散歩びより“という物がある。今日なんかが正にそうだ。

 

「海岸近くの砂丘……きっとヘレンも、そこで生まれたのね。

 今日は里帰りを兼ねた、ちょっとしたリハビリって所かしら?」

 

「はい。きっと必要だとおもって」

 

「ええ、良いと思う。今度あの動物病院の……確かメンコちゃんだったかしら?

 あの雌キツネの子も、一緒に連れて来てあげましょうか。

 また先生に話をしてみるわ」

 

 気が付けば、もうかすかに潮風の香り、そして波の音がしてきている。

 今レイたちが車で向かっているのは、マリが写真を撮ったという海岸近くの砂丘。数多くの野生のキツネたちが住む、ヘレンの故郷である場所だ。

 

 自分はセカンド・インパクト世代の人間なので、あまり良い思い出は無いが……でも海を見るのは一体いつ以来の事だろう。

 リツコは自分の心が、ほのかに高鳴っていくのを感じる。

 

「あ、そういえばキツネとタヌキって、別々の場所に住んでるのを知ってる?」

 

「?」

 

「キツネは砂丘近くの草原、明るくて開けた場所が好きでしょ?

 でもタヌキは森の中。薄暗い森林に住んでいるの。

 どちらも同じイヌ科の動物で、本来とても近い生き物なのだけど、

 でも住んでいる場所が全然違うのよ」

 

「どうして……ですか?」

 

 コテンと首を傾げる、レイの愛らしい仕草。リツコも暖かい笑みを浮かべる。

 

「きっと、譲り合ったんだと思うわ。

 キツネは日中に活動するけど、タヌキは夜に活動するの。

 そんな風にして……お互いケンカをせずに済むよう、住み分けていったのね。

 一生懸命努力したあとが見えるの。生きていく為に」

 

 

 

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 波の音を聞きながら、二人並んで歩く。

 片方はトテトテと。もう片方はそれに合わせるように、ゆっくりと。

 

 オホーツク海に面した海岸。

 ここは原生花園と呼ばれる、砂丘の草原がある所だ。

 

 いま目の前には、見渡す限りの広大な海。それを地平線で隔てた青い空には、とても大きな雲が浮かんでいる。

 それ以外には、何も無い。

 

「…………」

 

 大きい。広い。すごい。

 そんな当たり前の言葉が、幾度も幾度も頭の中に浮かぶ。それしか考えられないくらい。

 

 そして、きれい――――

 

 目の前の光景に圧倒されながらも、強く想う。

 これは決して、話に聞くセカンド・インパクト前のような青い海では無い。透き通るような透明さも無いのに。

 けれど……キレイだと思う。この空気と打ち寄せる波の音を、とても心地よいと感じる。

 

 広くて、静かで、なんにも無くて……。

 そんな寂しい場所のハズなのに、孤独を感じない。物悲しい光景なのに、心が満ち足りていく。

 

 ただただレイは、その心地よさだけを、感じている。

 

 

(ふふ。やっぱり来て正解ね。レイのこんな顔が見られるなんて。

 それだけで来て良かったわ)

 

 どこかポーッとしながらトテトテ歩くレイを見守りつつ、リツコはのんびりと歩みを進める。

 良い気分だし、本当はタバコでも吸いたいのだが、それはもう少し後。歩き終わってからにしよう。

 レイは別に気にしないだろうが、この子に煙を吸わせてしまうのも嫌だし。我慢我慢である。

 

 そしてしばらく海岸沿いを歩いていく内、やがて砂丘の草原の中に、植物があまり生えていない開けた場所があるのを発見。

 ここでならのんびり座れるし、荷物も降ろせる。ヘレンも存分に遊び回る事が出来るだろう。

 

「よし、じゃあこの辺りで座りましょうか。

 ビニールシートを広げるから、少しだけヘレンと待っていて頂戴ね。

 お弁当にしましょう」

 

 今日のランチは、リツコお手製のサンドイッチ。自信作である。

 いくつかはハムも入れてみたので、レイにも是非チャレンジしてみて貰いたいものだ。

 

 そんな事を考えつつ、リツコが荷物を下ろし、イソイソと準備に取り掛かっていった。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「ヘレン、あそんでくる?」

 

 遠くに海を眺めつつ、微かな波音を聞きながらの、穏やかな食事。

 やがてそれを終えたレイが、胸に抱いていたヘレンを、そっと地面に降ろしてやる。

 

 ここはくぼ地となっていて、風も無い。加えて草木もあまりない開けた砂地なので、安心してヘレンを遊ばせる事が出来る。

 

 この場所は夏の間、キタキツネたちが一番好んで子育てをする場所なのだそうだ。

 きっとかけっこが大好きな子ぎつね達にとって、ここは自由に走り回る事の出来るグラウンドのような物なのだろう。

 

「リフトオフ。子ぎつねヘレン、はっしん」

 

 なにやらおかしな事を言いながらも……レイは穏やかな表情で見守り、そっとヘレンから手を離す。

 ヘレンが今、生まれ故郷の砂丘の砂を、しっかりと自分の脚で踏みしめた。

 

 

「……?」

 

 するとレイ、そして少し離れた場所でたばこを吸うリツコが見守る中……なにやらヘレンがズリズリと後ずさりをし始める。

 レイの手が離れた途端、前足を力いっぱい「うーん!」と踏ん張り、そしてズルズルと後ろに下がる動作をしているのだ。

 

「ヘレン? どうしたの?」

 

 やがてすぐ後ろで座っているレイの膝に、ヘレンのおしりがポスッと当たる。行き止まりだ。

 コテンと首をかしげながら、レイはヨシヨシと背中を撫でてやる。「大丈夫だよ、ここにいるよ」と伝えるように。

 

 きっと今までと違う感覚……平らでは無い地面と砂の感触に、少し戸惑っているのだろう。

 ヘレンはそのまま、しばらく考え込んでいるようだった。しかしやがて意を決したように一歩、また一歩と、そろりそろり前へ進み始めた。

 

「…………」

 

 無言ながら、どこか嬉しそうにレイが見守る中……次第にヘレンの足取りが軽やかになっていく。

 トコトコ、トコトコと、砂地を歩いて行く。今日はどこにもぶつかる物がないので、自由に歩き回る事が出来た。

 

 ヘレンの動きは、円を描いているようだ。

 いつもゲージ内をお散歩する時のように、円を描いて歩みを進めていくスタイルだ。そしてその円は次第にどんどん大きくなっていく。

 

 なんてったって今日は、邪魔な物がなにもない! いくら歩いても〈コツン!〉と頭をぶつけてしまう事がない!

 そんなとても広い場所にいるんだから! やった!

 

 それがもう嬉しくて仕方ないというように、ヘレンは元気にお散歩する。いつもよりずっと早足で、のびのびと故郷の砂地を歩いて行く。

 

「ヘレン、たのしそう。よかった……」

 

 来て良かった。赤木博士にお願いしてみて良かった。

 こんなにも嬉しそうなヘレンを見られて、よかった。

 レイは快く付き合ってくれたリツコに感謝しつつ、優しい顔でヘレンを見つめる。

 

 よし。ではひとつ、私もヘレンと一緒に遊んでみよう。一緒にお散歩してみようではないか。

 例えばヘレンの後ろに続き、匍匐前進をしてみるのはどうだろう? 仲良く行進してみてはどうだろうか?

 

 ヘレン隊長と、綾波一等兵――――

 上官の指示のもと、私はどこまでもついて行くぞ。さぁこの砂丘を探検だ。サーイエッサー。

 

 そんな愉快な計画をうんうんと思い描き、「さぁ私も」とレイが立ち上がろうとした、その時……。

 ふいにヘレンが枯れ草に足をひっかけ、コテンと転んでしまった。

 

「……っ」

 

 中腰のまま、レイはヘレンを観察する。

 突然の事で少しビックリしたが、これは決して怪我をするような転び方じゃない。ヘレンの方もすぐに立ち上がってくれたので、心配は無い事が分かった。

 けれど……。

 

「!」

 

 まるで飛び上がるように立ち上がったヘレンが、「ウッ! ウッ!」と怒った声を上げながら、グルッと一回転する。

 両足をバタバタと動かし、歯をむき出しにして突然暴れ出したのだ。

 

「……ヘレン? ヘレン……」

 

 いま足になにか触れたのか、それに向かって必死に唸り声をあげる。そして噛みつくようにしてガッと砂に頭を突っ込み、〈ガッガ! ガッガ!〉と後ろ脚で蹴りつける。

 そしてとうとう、ゴロンと地面にひっくり返ってしまった。

 

「ッ!」

 

 四本の脚が上を向き、それでも必死にジタバタともがき続ける。

 カッと目を見開きながら、歯をむき出しにして怒った声を上げ続ける。まるで狂ったように……。

 

「ヘレンッ! ヘレン!」

 

 レイが駆け寄る。

 今も必死に暴れるヘレンを落ち着かせようと、抱き上げてやろうと足に触れたその途端……ヘレンがレイの手に噛みつく。

 刺すような激痛が親指に走り、思わず顔が強張る。

 

「――――レイ、下がりなさい」

 

 親指の付け根の辺りから、赤い血が噴き出す。

 そんなレイの肩をそっと抱き、リツコが後ろに下がらせる。ヘレンの傍から離すように。

 

「……こういう時は、手を出しては駄目。

 ヘレンはいま興奮状態なの。貴方の事も分からない」

 

 ポケットからハンカチを取り出し、傷口に当ててやる。

 その処置をしながらも、リツコはじっとヘレンの状態を観察する。

 

 

 ……ヘレンは今、もう暴れ回るようにそこら中の物に噛みついている。

 突然ケンカの相手が消えてしまったのが気に喰わないのか、唸り声を上げながら暴れ続ける。

 

 近くにあるゴボウムギの穂にガブリと噛みつき、必死に四本の足でそれを蹴飛ばす。何度も何度も蹴りつける。

 すると茎が突然ちぎれてしまい、その勢いでヘレンは後ろにひっくり返ってしまう。ドテンと身体を打ち付ける。

 

 ――――だれだ! いまやったのは! どこだ!

 

 しかしそれさえも……ヘレンには敵の攻撃(・・・・)に見えている。

 見えない誰かが自分を攻撃したと、そう見えているのだ。

 

 ――――まただ! またやられた! どこだ!

 ――――――ぼくはいま、みえない敵におそわれてるっ!!

 

 

 

 喚き、頭を振り回しながら、見えない敵と戦い続けるヘレン。

 

 敵から、

 痛みから、

 そして「分からない」という、その恐怖から……自分を守る為に。

 

 

 

 

 

 

 ……やがてリツコがヘレンの傍に行き、手にしたタオルをそっと掛けてやる。

 ヘレンは暫くの間ジタバタしていたが、そのままリツコによってそっと抱き上げられ、そして腕の中でゆらゆらと優しく揺らされているうちに、次第に大人しくなっていった。

 

 やがてヘレンは、そのまま眠りに落ちる。

 たくさん怒って疲れてしまったのか……力を使い果たしたように、すやすやと眠る。

 

 その安らかな寝顔は、さっきまで暴れていたのが、嘘だったかのよう。

 狂ったようにキバをむき出しにした、あの恐ろしい顔が……、まるで嘘だったかのように。

 

 

 やっと、安心できる場所をみつけた――――

 

 レイには、ヘレンがそう言っているように思えた。

 

 

 

……………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 ヘレンを膝に乗せ、波の音を聞く。

 レイは静かに目を閉じ、じっと波音に耳をすませる。

 

 ここは、静かな世界だ――――とても心が落ち着く。

 

 けれど……ヘレンには、そうじゃない。

 ヘレンはこの優しいお日様の光も、遠くからする波の音も、知らない。

 感じる事が、出来ない。

 

 

「……赤木博士」

 

 あれからしばらく経ち、レイとリツコは今、穏やかな時を過ごしていた。

 手の怪我を診て貰った後、リツコが淹れてくれた暖かい飲み物をもらい、二人でただ遠くの海を眺めて波音を聞いている。

 けれど、ふとレイがリツコの方を向き、静かな声で問いかけた。

 

「ヘレンは、どうして……?」

 

 のんびりと足を投げ出して座っていたリツコが、その声を聞き、スッと姿勢を正す。

 

「どうしてヘレンは、おこったんですか……?

 ヘレンは……なにをおもってたんですか……」

 

 この静かで何もない場所が、ヘレンにはいったい、どんな風に見えていたのだろう。

 ヘレンには、どう感じられたんだろう。

 ふとそんな風に想い、リツコに問いかける。

 

「……ふむ。そうね」

 

 レイに向かい直り、その顔を見つめる。

 先ほどはヘレンの様子にショックを受け、しばらく言葉もなく俯いていたが……、今のレイの瞳にはしっかりと力が宿っている。

 そしてヘレンの為に、ヘレンの事を知りたいと、しっかりと前を向く事が出来ている。

 

 それを確認したリツコは、まっすぐにレイの目を見据え、問いかける。

 

「知りたい? ヘレンの世界(・・・・・・)を。

 ヘレンが何を思っていたのか。ヘレンには世界が、どんな風に映っているのか。

 ……知りたい?」

 

 コクリと、迷いなく頷く。

 

「……わかったわ。

 レイ、こっちにいらっしゃい」

 

 

 リツコは「ふぅ」とため息をついてから、レイを自分の傍に来させる。

 そして持参した鞄の中から、包帯や脱脂綿など、いくつかの道具を取り出した。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 柔らかい感触が、レイの目を覆っていく。

 包帯が一回り、二回りとする度に、次第にレイの世界から光が失われていく。

 眩しかった太陽の光は、もうどこにも無くなってしまった。

 

「脱脂綿を詰めるわ。少しじっとしててね」

 

 そしてレイの耳に、栓がされていく。

 さっきまで聞こえていた波の音が遠くなり、今は自らの鼓動の音だけ。

 レイの世界から、全ての音が失われる。

 

「レイ、10分経ったら声を掛けるわ」

 

 耳元に顔を寄せ、リツコがそう告げる。

 そしてヘレンを胸に抱き、レイのいるこの場から、歩き去って行った。

 

「……」

 

 足音は聞こえない。けれどリツコがこの場から離れていった気配は感じた。この場にはもう、自分ひとりだけだ。

 レイはその場に佇み、ただ立ち尽くす。

 

「……」

 

 静かに心を落ち着かせ、周りに意識を配る。世界を感じようと試みる。

 けれど今のレイには、何も感じる事が出来ない。視界を完全に無くし、音すらも失ってしまったレイには。

 ――――何も分からない。それだけが今のレイに分かる事の、全てだ。

 

「……っ」

 

 ふいに、不安な気持ちが押し寄せる。

 何も分からないこの状況を恐れ、何とか周囲の状況を把握しなければと、心があせってくる。

 そんな中レイは、ふいに自分がこの場の景色の記憶を必死に思い出そうとしている事に気が付いた。

 目を塞ぐ直前に見た景色を、どんな風だったかと必死にたぐりよせようとしているのだ。

 

 ……けれど、それはズルだ。だってヘレンにはそんな物は無い。

 ずっと目の視えないヘレンは、そんな“見た記憶“なんて物に頼っていなかった。

 

 だからレイは意を決し、少しこの場から歩いてみようと思った。

 ほんの少しでもこの場から動けば、そこはもう、レイも知らない世界。どこに何があるのかも、どんな形をしているのかも分からない世界だから。

 

「……っ!」

 

 けれど――――足を踏み出せない。一歩も動く事が出来ない。

 いままで当たり前のように、思うだけで動いていたハズの脚が、まるで固まってしまったように動かない。

 強烈なブレーキが……心の奥から出る「危険だ」というサインによって、必死にこの場に留まろうとしているかのように。

 

「こわい……? わたし、こわいの……?」

 

 もしこの場から動けば、そこはもう、知らない世界――――

 今は立っていられる。けれどもし少しでもここを動けば、そこがどんな所かが分からないから。

 

 ここは大丈夫だけれど、そこは平らではないかもしれない。立っていられなくて転ぶかもしれない。

 ここは平気だけれど、そこには沢山の草があって、足に引っ掛かって転ぶかもしれない。

 もしかしたら大きな石があって、それに躓くかもしれない。

 突然どこからか、虫や動物が飛び出してくるかもしれない。怪我をするかもしれない――――

 

「……ッ!!」

 

 その瞬間、途轍もない恐怖がレイを襲った。

 咄嗟にその場にしゃがみ込み、思わず巻いている包帯に手を掛けそうになる。脱脂綿を外しそうとする。

 けれど……。

 

「だ……だめ! 外してはだめ……!」

 

 思いとどまる。咄嗟に手を下ろし、ブンブンと首を振る。

 だって、ヘレンにはそれも出来ない(・・・・・・・・・・・・)

 怖いからと言って、包帯を外す事も脱脂綿を外す事も出来ない。これから逃げ出す事なんて、ヘレンには出来ないんだから。

 

「……っ! ……っ?!」

 

 地面に蹲り、さっきと姿勢が変わった。ほんの少しだけその場から動いてしまった。

 けれど……たったそれだけで、もう何も分からなくなっていた――――

 

「……えっ? ……あっ!」

 

 気が付けばレイは、この場の記憶という安心も、平らだった地面の安全も、全て失ってしまっていた。

 

 ここはどんな地形だったっけ? 自分がいるのはどの辺りだっけ?

 お日様は? リツコはどっちの方角にいる? 海はどっちにある?

 どこまでが、安全?!

 

 分からない。何も感じられない。何も知る事が出来ない。

 

 そしてもう、何にも頼れない。

 なんにも分からなくなってしまった(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

「あぁ……! あああぁぁぁぁああああああーーーーッ!!」

 

 

 ――――叫ぶ。必死に声をあげる。

 けれど……その自分の声すらも遠い(・・)。自分の声すらも小さく、まともに聞こえない!

 

 私は声を出している……? 出した? 出したハズなのにっ……!

 でも聞こえない! ちゃんと自分の声が聞こえない! 分からない!

 

 ……その事に強烈な不安を感じ、どんどん心が闇に沈んでいく。心細くなっていく。

 

「赤木はかせッ! ……はかせっ!! ………………ヘレンッッ!!」

 

 どれだけ呼ぼうとも、届かない。どれだけ声を上げようとも、何も起こらない。

 当然だ、こんなか細い声では。

 私は今、自分がどんな声を出しているのかすら、ちゃんと出しているのかすら! 分からないんだから!

 

「……ッ! ……ッッ!!」

 

 ふとレイは、自分が今ズリズリと後ずさりをしている事に気が付いた。

 無意識に足を蹴り出し、おしりを地面に擦りながら必死に後ろへと下がろうとしている事に気が付く。

 

 元いた安全な場所に、帰ろうとしているのか。

 それとも、怖い物から必死に逃げようとしているのか……それは分からない。

 自分でも、よく分からなかった。

 

 けれど、確かヘレンも、こうしていた――――

 最初に地面に降ろしてあげた時、ズリズリとこうして後ずさりをしていた記憶がある。

 

 

 怖かったの、ヘレン? 知らない場所が、分からない事が怖かったの?

 ヘレンもあの時、こんな気持ちだったの?

 

 ……ヘレンはいつも(・・・)こんな気持ちでいたの?! こんな真っ暗な中で!!

 

 

 

「……はぁっ! ……はっ! ……はっ……!」

 

 ――――手をのばす。必死に暗闇の中で。

 気が付けばレイは這いずるようにして、必死に手を伸ばしながら、前に進んでいた。

 

「……はっ……はっ……! ……はっ……!!」

 

 四つん這いになって、動物のように。ヘレンみたいに。

 必死に手探りで地面を触りながら、少しずつ少しずつ、前に進んで行く。

 

 これは砂……すな。やわらかい。

 これは……草? 枯草? 石……? 尖ってる?

 

 痛くない? ……大丈夫?

 ここは……大丈夫なの……?

 

 必死で手を動かし、地面の形を確かめるようにしながら、四つん這いで前に進んで行く。

 少しでも情報を……! しっかりイメージを……! そう必死に心掛けながら身体を動かしていく。

 

「……あっ」

 

 レイは、いつのまにか自分が、円を描くように動いている事に気付く。

 最初は小さく、そこから少しずつ広げていくように、円を描いて進んでいる事に。

 

 安全な場所を探すように。安全を確かめるように。

 そしてそれを、だんだんと確保していくように――――円を描いて。

 

 ……これも、ヘレンと同じ(・・・・・・)だ。

 だからヘレンも、いつもこうして歩いていたんだ。

 

 

 

「……いっ……!」

 

 手に痛みが走る。

 たくさん体重を掛けていた手のひらに、突然なにかが刺さったのだ。

 

 ……これはきっと、コウボウムギの穂だ。先ほどヘレンが怒って噛みついていたのと同じヤツだ。

 

 レイは刺さったトゲを取ろうとするけれど、でも目が見えないので、取る事が出来ない。

 痛い場所はどこだか分かるけど、でも刺さったのはとても小さなトゲだ。それを摘まんで取り除く事なんて出来なかった。

 

 だからレイに出来たのは、痛い所をペロッとなめる事だけ。

 鉄っぽい味がしたので、ちょっとだけ血が出ている事が分かった。

 

「……っ……! ……うぅっ!」

 

 涙が出てくる……。

 怖くて怖くて、不安でたまらない気持ちでいるのに、怪我までしてしまった。とても悲しい気持ちになってくる。

 

 小さい怪我だけれど、でもすごく痛かった。血だって出てしまったのだ。

 それがなんだかすごく悲しくて、じわりと涙が滲む。

 

 でも泣いてなんかいられない。だってここにいたら、またコウボウムギのトゲに刺されてしまうかもしれない。

 さっきよりも更におっかなビックリ、痛む手のひらを庇いながら、一生懸命がんばって進んで行こうとした。

 ……けれど。

 

「――――ッッ!! うぅッッ!?!?」

 

 突然手に、まるでハチが群がったような激痛を感じた。

 その途端、手をかばおうとして動いたレイは、〈ズザァッ!〉と頭から砂の中に崩れ込んでしまった。

 

「あうっ!! ……ん゛っ!!」

 

 もう飛び上がりそうになる位の痛みを感じ、思わず「あっ」と開けた口の中に、沢山の砂が入ってきた。

 

 砂?! 手! 痛っ! ……ハチ!? 

 体勢を崩し、平衡感覚を失ったままで、必死に頭を回転させる。地面に転がりながらも、パニックを起こしそうになる心を必死に押さえつける。

 

「ちがう! ハチじゃない!」

 

 あれはハナマスの枝だ!

 ハチがいるんじゃなくて、ハナマスの枝が手に刺さっただけだ! 大丈夫なんだ!

 

「――――ハチじゃない! ハチじゃない! ……ハチじゃない!!」

 

 叫ぶ。

 ハチじゃないって、自分に言い聞かせるように。自分を落ち着かせる為に。

 

 でもそう声をあげたつもりなのに……いくら必死に声を出そうとも、それはまる暗い穴の中に吸い込まれていくように消えていく。

 自分でも分からないくらい、頼りなく消えてしまう! どこにも届かない!

 自分自身にすら!

 

 

「――――ハチじゃない! ハチじゃない! ハチじゃない!

 ハチじゃない! ハチじゃないッ!! ハチじゃないッッ――――!!」

 

 

 顔も、服も、髪だって砂まみれにしながら……レイは地面に蹲る。

 

 

 まるく、ギュッと縮こまるように。

 必死に自分を守るようにして、蹲りながら……声を上げ続ける。

 

 ただひたすらにレイは叫び、涙を流し続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……もう、動けない。

 ここから一歩も、動く事が出来ない……。

 

 だって、周りは敵だらけだ。ぜんぶぜんぶ、痛いものばっかりだ――――

 

 

 いま、自分のまわりにある物、全て。

 この世界、ヘレンの世界(・・・・・・)は………………敵だらけなんだ。

 

 

 なにも分からない。

 怖い物しか、ない。

 

 

 ヘレンにとって、この世界は。

 こんなにも怖い物で、あふれていたんだ――――

 

 

 

 

 

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「――――…っ! ――――――……っ!」

 

 

 遠くから、レイの叫び声が聞こえる。

 今も言葉にならない慟哭をあげ、レイが苦しんでいる声が聞こえている。

 

 その方向を、まるで睨みつけるように見つめながら。

 耐えるように歯を食いしばりながら、リツコは強く己の肩を握る。

 

 まるで、握りつぶすような強さで。皮膚が裂ける程に爪を立てて。

 すぐにでもレイのもとに駆け出しそうになる心を、必死で押し留める。

 

 

 

 ……やがて腕時計が10分の経過を示し、リツコはレイのいる砂丘のくぼ地に戻る。

 そこにあったのは、まるで必死に自分を守るようにして蹲る、可哀想な程に震えているレイの姿。

 

 リツコがそっと歩み寄り、優しくその肩にポンと手を置いたその瞬間……レイはバッと跳ねるように身体を動かし、リツコの胸に飛び込んだ。

 

「……えらいわレイ。包帯を外さなかった。

 よく頑張ったわね……」

 

 震える身体を支え、泣きじゃくるレイの頭を撫でてやりながら、リツコが目の包帯と耳の詰め物を取り除いてやる。

 ふと見れば、レイの手のひらから小さく血が流れ、腕や足などのそこら中に擦り傷がある事が分かった。

 

 

「――――ヘレンをなおしてっ!! ヘレンをなおしてくださいっ!!」

 

 

 包帯が外れ、リツコの顔を見た途端に、レイが縋りつく。

 目からたくさん、涙を流しながら。

 

 

「 いやっ! こんなのはいやっ!

 ……こんな、こんな世界は……いやっ!!!! 」

 

「 ヘレンを……! ヘレンをたすけて! はかせっ……!

  ――――ヘレンをたすけてあげてっ……!! おねがいっ……!!!! 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

 そして、帰り道……。

 

 リツコの運転する車の心地よい揺れを感じながら、レイはただ……窓の外を眺める。

 

 今日の事を。

 今日知る事の出来たヘレンの気持ち。ヘレンが抱えている不安や、恐怖や、悲しみ……それをじっと考え、思い返す。

 

 

(きっとヘレンも、そうだった……。だから……)

 

 レイは今日の、口の中に砂が入ってしまった時の事を、思い出す。

 自分はあの時、くちびるについてしまった不快な砂を、思わず舌を出して取ろうとした。そして口の中に入った砂を必死に舌で押し出し、ペッと唾を吐いて捨てたと思う。

 

 あの砂は、味の無い不快な物だった。

 とても邪魔で、困った物でしかなかった――――

 

 だから自分は、必死に口の中から追い出した。舌でグイッと押し出して、ペッと外に吐き出したんだ。

 

 それは、きっとヘレンも同じ……。

 ヘレンはいつも肉を口に入れられた時、それが不快で邪魔な物だったからこそ、一生懸命に吐き出そうとしていたんだ。

「いやだ、いやだ」と、ただただ味のない物を口に入れられたから、嫌がっていただけなんだ。

 今日の私と、おんなじ気持ちだったんだ――――

 

 

 

 今も腕の中ですぅすぅと寝息を立てるヘレン。

 その穏やかな寝顔を見つめながら、レイは思う。

 

 

 もっと知ろう、ヘレンの事を。

 

 わたしはもっと、ヘレンが何を思っているのかを、知りたい――――

 

 

 

 

「……あら、ふたりとも寝ちゃった?

 まぁ仕方ないか。レイもヘレンも、今日はすごく疲れたでしょうし。

 家に着くまで……ゆっくりお休みなさい」

 

 

 

 

 

 そして、考えてみよう。これからの事。

 

 わたしがヘレンに、何が出来るのかを、かんがえよう――――

 

 

 



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きつねのメンコ。

 

 

 砂丘のピクニックから、数日が過ぎた。

 あれからもヘレンの病状は、決して良くなったとは、言い難い。

 

「……っ。……っ」

 

 けれどレイは、一生懸命に考える。

 実験場の休憩時間や、ごはんを食べている時、夜ベッドの中にいる時……そしてこうして自室にいる時も。

 もうレイは一日中、ヘレンの事を考え続けている。

 

「……。むむむ……」

 

 目を瞑り、むむっとへの字口。

 床に胡坐をかいた姿勢で、お坊さんみたいに手を膝の上で組む。見よう見まねで瞑想なんかをしてみる。

 

(たしか、一休さんという人がやってたわ。

 こうすれば、いい考えが浮かぶの)

 

 脳内で〈ぽくぽくぽく……チーン♪〉みたいなBGMが鳴る。というかさっきから頭の中でエンドレスリピートしている。

 

 けれどこの〈ぽくぽくチーン♪〉は、もしかしたら問題があるかもしれない……。

 だって私は真剣に考え事をしているのに、このぽくぽくチーンをイメージしてると、なぜかだんだん口元が緩んでくるんだもの。笑ってしまうんだもの。

 

 もう悩み事どころか、どんどん愉快な気持ちになってくるではないか。ぽくぽくぽくチーン♪

 よくわからないけれど……これってとても面白いと思う……。

 

「いけない、ちゃんと考えなくちゃ。ヘレンのためだもの」

 

 レイはふるふると首を振り、イカンイカンと表情を引き締め直す。キリリとかっこよく。

 

 ……思えば座布団を敷くのを忘れてしまったので、さっきからちょっとお尻が痛い。ジンジンしてくる。

 でもこのおしりの痛みが、私の気を引き締めてくれるかもしれない。役に立つかもしれない。だからあえてこのまま我慢しようと思う。

 

 それに痺れや痛みに“耐える“のって……なんか非常に修行っぽくないだろうか? なんかこれ合ってるっぽくないだろうか? そんな気もしている。

 それにこうしてがんばっていれば、なにか良いアイディアが浮かびそうな気もする。

 よく分からないけれど、なんかそこはかとなく“やってる感“みたいなのも出るではないか。

 

 なのできっと、瞑想ってこんな感じでやるんだと思う。合ってると思う。

 一休さんもきっとこうしてたハズ――――おしりの痛みや足の痺れに「ぐむむ……」と耐えながらも、レイは確信するのだった。

 

 

 しかしその後、約1時間ほどがんばって瞑想をしていた所、突然よちよちとこちらに遊びに来たヘレンが「わーい」とばかりに足の上に乗ってきて、レイは悶絶する事となる――――

 

「ファースト、出前来たわよ~。ピザよ~……って、アンタなにしてんの?」

 

 アスカが部屋に来てみれば、そこには「~~ッ!!」と声にならないうめき声をあげながら、床にうつ伏せになって悶えているレイの姿。

 なぜかその背に、「?」と可愛い顔をしたヘレンを乗っけて。

 

「その、なんか大変なトコに来ちゃったわね……。

 とりあえず、ごはんだから。今日ピザだから。……じゃあね?」

 

 文字にすれば「ぬぅおぉぉ~~!!」って感じで悶えているレイ。それを余所に「~♡」とじゃれついているヘレン。

 そんな彼女を見捨て、アスカがスタスタと廊下を引き返していく。

 

「まっ、まって……! ヘレンをっ……ヘレンを背中からどけてっ……!」

 

 そう必死に手をのばすも、すでにアスカは去って行った後だ。

 いま床にうつ伏せの状態でヘレンを乗せ、しかも猛烈に足が痺れている状態のレイは、これで一体どうやってリビングに向かえば良いのかと、絶望の表情を浮かべる。

 動けん、動けんぞ! ……少しもこの場から動く事が出来ん!

 

 もしこの状態で動こうとするならば……もうレイはヘレンを背中に乗せたままズリズリと匍匐前進で進んだり、まるでホラー映画みたいに「おおぉぉ……!」と階段を這いずって降りなくてはいけない。

 それはもう流石に無理なので、とりあえずはヘレンが満足して背中から降りてくれるまで、この場でじっとしておくしかない。必死に足の痺れと戦いながら。

 

 今ヘレンは「ふわぁ~」っと大きなあくびをし、愛らしくお顔をクシクシしている。

 まぁレイには、それを見る事は出来ないけれど。

 

「レイ! レイッ!」

 

「あっ、赤木はかせっ……!?」

 

 その時、突然部屋に飛び込んできたリツコさん。

 レイはその姿を、まるで神様が現れたかのように感じた。「助かった!」と。

 

 

「――――出来たわよレイ! キツネ耳型インターフェイスヘッドセットよ!」

 

 

 リツコは満面の笑みを浮かべながら、床に寝そべっているレイの頭にケモ耳的な物をスポッと取り付ける。非常にプリチーだ。

 

「どう? これで貴方もきつねっ子よレイ!

 私も貴方たちを応援してあげたくってね……。頑張って作ってみたのよ」

 

 赤木博士が一晩でやってくれました。

 リツコは寝不足な目をパシパシしながらも、テンション高めでレイに語りかける。

 

「これでエヴァに乗っている時も、キツネの気持ちになれるわ!

 ヘレンの気持ちに近づけると良いわね!」

 

 そしてリツコは「いや~、いい仕事したなぁ~」みたいな雰囲気を漂わせつつ、ひとり満足気に部屋を後にする。

 

 

「まって……! はかせっ……!

 ヘレンをっ、ヘレンをどけてくださいっ……!!」

 

 

 そんなレイの声も、届く事なく。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 なんとか足の痺れから解放された、夕食後。

 レイはいつものように、ヘレンのケージの掃除に勤しんでいた。中に敷いている汚れた新聞紙を、せっせと新しい物と取り換えていく。

 ちなみに先ほどのキツネ耳はつけっぱなしだ。今日はずっとこれでいこうと思う。せっかくだし。

 

「……ウッ! ウッウッ!」

 

 しかし今ふと視界の隅で、ヘレンがコテンと転んでしまったのが見えた。

 レイが手を止めて観察してみると、どうやらヘレンはお散歩の途中、床で滑ってしまったのであろう事が分かった。

 ……ところがヘレンの方はそうだとは思わず、どうやら誰かに転ばされてしまったと、勘違いをしているようだった。

 

「ウッウ! ウッウ!」

 

 怒った声をあげ、ズルズルと後ずさりをし始めるヘレン。「てきはどこだ!」と警戒しているのだろう。

 そして後ろに下がっていくうち、おしりがポスンと檻にぶつかる。その途端にヘレンはバッと振り向いて、「そこだぁ!」とばかりにガブッと檻に噛みついた。

 

「~~ッ! ウゥ~ッ!」

 

 怒った声を出しながら、必死に左右に首を振ろうとするヘレン。けれど檻はとても丈夫だから、小さなヘレンの力ではビクともしない。

 いくら一生懸命に噛もうともヘッチャラな檻に、その敵に……ヘレンはさらに腹を立てているようだった。

 

「…………」

 

 レイが見つめる中、ヘレンは一生懸命に「こんにゃろ! こんにゃろ!」と噛みついていく。

 噛みつきながら引っ張ろうとしたけれど、オリの方はビクともせずに、引っ張ったヘレンの方がゴロンと後ろにひっくり返ってしまう。

 するとヘレンはさらに怒って、また「こんにゃろう! えいえい!」と飛びかかって行く。

 もう床に敷いた新聞紙や、ヘレンのお部屋にしているダンボールの箱なんかにも噛みつき、ぐるぐる暴れまわる。

 

「……ヘレン」

 

 その様子を、レイがただ静かに見守る。

 今のヘレンから感じる、怒りや、悲しみや、悔しさ……そしてなによりも「怖い」っていう気持ち。それをじっと受け止めるように。

 

「そうね、ヘレン……。こわいわね……」

 

 もう「ムキャー!」と怒っているうちに、ヘレンは間違って自分の足をカプッと噛んでしまう。それにまた腹を立てて、どんどんどんどん「ムキィー!」っとなっていく。

 その姿を見たレイが大きなタオルを手に取り、今そっとヘレンの上からかけてやった。

 

「……っ? ガッガッ!」

 

 ヘレンは力いっぱいタオルに噛みつく。レイはちゃんと“噛みつける相手“を与えてやる事で、まずはこの子を安心させてあげたのだ。

 ちゃんと怒りをぶつけられる物を見つける事で、ヘレンは見えない敵への不安から解放される。しっかりと気持ちを発散できる。

 

 そして暫くさせてあげた後……レイはヘレンをくるっとタオルに包み、そのまま抱き上げる。

 レイの腕に抱かれ、優しくゆらゆらと揺らされているうちに、ヘレンは落ち着きを取り戻していった。

 

 

「だいじょうぶよ、ヘレン。

 ほら、もうこわくないわ――――」

 

 

 

 不思議な事にヘレンは、いつもこうしてレイに抱っこをされると、まるで今までの怒った顔が嘘だったかのように消えて、すぐに大人しくなる。

 そしていつも、とても安らかな顔で眠るのだ。安心しきった顔で。

 

 こういった場合にはアスカやリツコも同じ事をするのだが、でもなんとか落ち着かせる事は出来ても、なかなか同じようにはいかないのだった。

 きっとヘレンには、ちゃんとレイの事が分かるのだろう。

 

「ヘレン、いい子。いい子ね――――」

 

 

 

 

 

 あの、砂場で目と耳を塞いだ時に感じた気持ち……。

 レイはそれを思い出しながら、そっとヘレンを抱きしめ、優しく頬擦りする。

 

 この子の心に、寄り添うようにして。

 

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 胸のすくような晴天に恵まれた、風の少ない日。

 今日は二度目となる、ヘレンのピクニックの日となった。

 

「あー。潮風がベタつく。家で大人しくしとけば良かったかしら」

 

 遠くに見える海を眺めつつ、ここ砂丘のくぼ地に座るアスカが呟く。

 どことなくぶすっとした表情をしながら。

 

「ま、仕方ないか。

 たまにはアタシも付き合ってあげないとね。こういうのも良いモンだわ」

 

 風に揺れる白いワンピースのスカート、大きな麦わら帽子。アスカはそれを手で押さえながら「よっ!」っと立ち上がる。

 そして、いま目の前にいるヘレン達の方を、何気なく眺める。

 

「クゥー。クゥー」

 

 地面にペタリと座るレイの腕に抱かれ、じっと胸元に顔を埋めている様子のヘレン。

 いまそのヘレンのもとに、呼びかけるような声で鳴きながら、雌キツネのメンコが寄って行く。

 

「クゥー。クゥー」

 

 腕に抱かれたヘレンのまわりをクルクルと周り、メンコが「ほら、こっちにおいで?」と呼び掛ける。

 ヘレンはなにやら怖がっている様子なのか、じっとレイの胸に顔を埋めるばかりだが、それでもあきらめずに「クゥー。クゥー」と鳴き、ヘレンに呼びかけている。

 どうやらメンコは、ヘレンと遊びたくて遊びたくて仕方ないようだ。

 

「この場所は二度目だったハズだけど、随分怯えてるわね。

 前回はひと悶着あったっていうし……やっぱりよく知らない場所が怖いのね」

 

 今日のヘレンは、ずっとレイにひっついたまま。これは行きの車の中でもそうだった。

 恐らく車に乗せられた時、またどこか知らない場所に連れていかれるというのを悟ったんだろう。そこからじっとレイの腕の中で怯えているようだった。

 

 以前であれば、たとえどこであっても無邪気によちよちとお散歩していたものだが、今日はそうじゃない。なんだかとても用心深くなっているように思える。

 でもこれは、当然の事とも言える。だって本来キツネは、とても用心深い動物なのだから。

 だからこれは、ヘレンがだんだん“成長している証“でもある。喜ばしい事なのだ。

 

「……ほらヘレン? メンコがきたわ。あそんでおいで?」

 

 そっと地面に降ろされ、レイの手に支えてもらいながら、ヘレンが砂の地面に立つ。

 ここは平らじゃなくて、とても不安定な足場だから、ヘレンは時折つんのめりそうになるのを頑張って耐えながらも、じっとその場に立っている。

 きっとまだ、よく知らない所を歩くのが怖いんだと思う。

 

「クック。クックック」

 

 そんなヘレンのもとに、メンコが嬉しそうに寄って行く。

 そっと顔を近づけ、フッと軽く息を吹きかけ、優しくコミュニケーションをとっていく。

 

 メンコはヘレンのまわりをパタパタくるくると回り、「いっしょにあそびましょう?」と誘っているようだ。

 ヘレンの方はまだ「?」って感じで可愛く戸惑っている様子だけれど、それでも決して嫌がったりはしていない。前みたいに怒ったりもしてない。

 きっとよく分からないながらも、メンコがとても自分に優しくしてくれている事を、ちゃんとわかっているのだろう。

 メンコが顔にスリスリしても、鼻でチョンと軽く押されても、ヘレンは穏やかなままだった。

 

「あっ。あの子……」

 

 ふとアスカは、ヘレンがフリフリと小さく尻尾を振っている事に気付く。

 よく分からないながらも優しいメンコの存在を感じ、嬉しそうに可愛く尻尾を振っているのだ。とても機嫌良さそうに。

 

「クック! クック!」

 

 それに大喜びしたメンコさん。また嬉しそうにはしゃぎながら、ヘレンの周りをクルクルと周る。

 ヘレンの方もよちよちとゆっくりした足取りながら、メンコと遊ぼうと後を追いかけているのが見える。

 そしてメンコもそれに気が付き、パタパタと戻ってきてヘレンに寄り添うようにして歩く。

 時折コテンと転んでしまうヘレンを、鼻で「よいしょ」と起き上がらせてあげたりしながら、仲良く一緒に歩いていた。

 

 

「いやぁ、今日は来て良かったです。

 あんなに嬉しそうなメンコは、久しぶりに見ますから」

 

 ふと隣を見ると、そこには優しい顔でメンコたちを見つめる、あの獣医さんの姿。

 彼も今日はメンコを伴い、こうしてヘレンのピクニックに付き合ってくれていた。

 

 一番最初の印象こそ悪い所もありはしたが、今ではリツコもこの獣医さんの事をとても頼りにしているようだ。

 今日もレイに暖かく微笑みかけ、仲良く談笑している姿をみかけた。アスカから見ても、彼はとても気の良いおじさんに思えた。

 

「ヘレンちゃんも、嬉しそうで何よりです。

 こんなにも元気な姿が見られるなんて、僕は思いもしなかったから……。

 これも君やレイさんが、一生懸命がんばったからだ。

 君達と出会えた事は、ヘレンちゃんにとって何よりの幸運だと思います」

 

 二人で肩を並べて、嬉しそうに遊ぶヘレン達を見守る。

 獣医さんは、とても優しい瞳であの子達を見つめているように思った。

 

「ねぇ、先生?」

 

 そちらを向く事無く、ただ目の前のヘレン達を眺めながら。

 

「あの子……どうしてメンコは、後ろ脚が無いの(・・・・・・・)?」

 

 

 

 

 

 何気なく……本当に静かな声色で、アスカは訊ねる。

 その表情を、変える事の無いまま。

 

 今も嬉しそうにパタパタと駆けまわっている、あの雌キツネ。

 二本の前足だけ(・・)を使い、お尻を引きずるようにして砂地を駆けまわる……あのメンコの事を。

 

「……メンコはね? 生まれつき後ろ脚が無かったんじゃありません。

 無くしてしまったんです」

 

 獣医さんも、ただ前を見つめながら、静かな声て語る。

 

 ……ふとアスカは、事故のせいなのかと思った。

 車や電車による事故。人間によって傷つけられた野生動物の話は、アスカも度々耳にしている。

 だからこれは、そういう話なのかと思った。

 けれど――――

 

 

「メンコは小さい頃、おかあさんに噛まれたんです(・・・・・・・・・・・・・)

 自分を守ってくれるハズの存在に……酷く傷つけられてしまった」

 

「それでメンコは、心を病んでしまいました――――

 親はもとより、仲間のキツネが傍に近づくだけで怯え、

 パニックを起こすようになった」

 

 

 今アスカの目の前で、慈愛に溢れた仕草でヘレンに寄り添っている、メンコ。

 とても優しい顔をした、美しい雌キツネ――――

 

 

「メンコは、自分の脚を噛むんです(・・・・・・・・・・)

 誰かが近寄って来たら、その度に必死で自分の脚を噛んで、傷つけた」

 

「きっと……怖かったのだと思います。

 おかあさんに噛まれたトラウマから、また誰かに傷つけられるのが、

 怖くて堪らなかったんだと思います。

 ……だからメンコは後ろ脚を噛んで、自分で自分を傷つけて、必死に許しを請うた」

 

 

『―――私はこんなにも傷だらけだから、どうか許して下さい。傷付けないで下さい』

 

 

「……そうやってメンコは、後ろ脚を無くしてしまいました。

 仲間と共にいる事が、母親と一緒に暮らす事が……メンコには出来なかった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………………………

………………………………………………

 

 

 

「こんにちは、キツネさん。調子はどう?」

 

 やがて空は茜色に染まり、時刻は夕暮れ時。

 今日はたくさん遊んで疲れたのか、ヘレンはレイのお膝ですやすやと眠る。どこか満足気な表情で。

 そんなこの子のお守りという大役を立派に果たし終えたメンコが、ひとり元気に砂場を駆け回っている。

 そして今、アスカがゆっくりと歩みを進め、メンコの傍に立った。

 

「今日は楽しかった?

 良かったわね、ヘレンと遊べて。あの子もすごく嬉しそうだったわ」

 

 目線を合わせるようにして座り、メンコの鼻のすぐ前に、両手を差し出す。

 これが私の匂いだよ、とメンコに教えてやるようにして。

 

「……ねぇメンコ? ちょっと、お願いがあるんだけど」

 

 クンクンと匂いを嗅いでから、「?」とアスカの方を見るメンコ。

 アスカはどこか寂し気な笑顔のまま……じっとメンコと向かい合い、静かに見つめ合う。

 

 

「抱っこしても、いいかな……? メンコ」

 

 

 

 

 

 

 ……地面にペタリと座り、そっとメンコの身体を持ち上げて、ギュッと抱きしめる。

 

 お互いの頬を合わせ、慈しむようにメンコを抱きしめる。

 そうしてアスカは暫くの間……涙を流す。

 静かに、声をかみ殺して。

 

 幼かった頃の自分――――そしてメンコを想いながら。

 

 

 

「……ん?

 ちょっとアンタぁ。別に気をつかわなくて……いいのに」

 

 

 今、まるで泣いているアスカを慰めるかのように……メンコがアスカの顔をペロッと舐め、その涙を拭った。

 

 

「ありがとね、メンコ」

 

 

 

 

 

 

 

 

………………………………………………

 

 

 やがて涙を止めたアスカがメンコを伴い、リツコ達が待つ車の方へと駆けて行く。

 帰り支度を終えた大人達が、こちらに向かって朗らかに手を振ってくれているのが見えた。

 

「じぃ~」

 

「……ん゛ッ?!」

 

 そしてそこには、ヘレンを優しくだっこするレイの姿もある。

 

「なによアンタ! こっち見てんじゃないわよ!」

 

 なにやら不思議そうにコテンと首を傾げているレイの傍を……負けじとメンコを抱いたアスカが「ふんっ!」と顔を背けつつ、スタスタ通り過ぎていく。

 

 

「弐号機の人…………メンコと、なかよし?」

 

 

 その顔を、照れ臭そうに赤く染めて。

 

 

 



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しんらい。

 

 

 そのニュースは、突然だった。

 アスカが自室でヘッドホンを付け、ベッドに寝ころびながら「ふら~いみとぅざ~むーん♪」なんて口ずさんでいる時に、突然やってきた。

 

「――――ッッ!!」

 

 いま〈バンッ!!〉と結構な音を立ててレイが入室してきたけれど、のんびり「~♪」と寛いでいるアスカは気が付かない。未だに機嫌よく足をパタパタさせている。

 

「ッ!! ……ッ!!」

 

 入口に立っているレイが、ゼーハーと肩を上下しながら目をひん剥いている。そして手をワチャワチャさせて何かを訴えているけど……アスカは相変わらず「ふら~いみとぅざ~むーん♪」だ。

 無駄に発音も美しい。あいらみっぷれ~い♪

 

「……ッ!! ……ッッ!!!!」

 

「え゛っ?! キャッ! ちょ……なにごと?!?!」

 

 ドタバタと駆け寄り、必死にアスカの肩を掴んでグワングワン揺らす。

 まるで「寝たら死ぬぞ!」と身体を揺らされる雪山で遭難した人の如く、アスカの身体が激しく上下に揺れる。

 アスカは〈ビックゥ!〉と飛び上がるくらい驚き、思わずヘッドホンを外してそちらに振り向くものの……なんか物っ凄い目をひん剥いて必死の形相をしてるレイの様子に、再びビックリしてしまう。なによアンタその顔。

 

「あわわ……! あわわわ……!」

 

「えっ、何があったのよファースト? ちょっと落ち着きなさいよ。

 ……あと『あわわ』は口で言わなくて良いヤツだからね?

 アタシそれリアルに言ってる人はじめて見たわよ」

 

 何かを伝えようと必死なのはわかるのだけど、レイはさっきからアスカの肩をパシパシ叩いたり、言葉もなく口をパクパクしたりで、どうも要領を得ない。正に「あわわわ……」の状態だ。

 

 とりあえずアスカはテーブルに置いてあったいちごミルクのボトルをガボッと口に突っ込み、もがもがしているレイに無理やり飲み物を飲ませ、落ち着かせていく。

 うむ、やはり甘い物の力は絶大だ。偉大だ。

 なにやら「ほぅ……♪」と安堵の表情をするレイを見つめ、アスカはうんうんと頷く。

 

「へ……ヘレ! ヘレヘレ!」

 

「落ち着けと言ってるのよアタシは。もう一本いっとく?

 ……で、なによ。ヘレ? ヘレンの事?」

 

(こくこく!)

 

 レイが「我が意を得たり」と、ブンブン首を上下する。

 アスカはようやくヘレンに何かがあった雰囲気を感じ取り、片膝を立てて腰を浮かせる。

 

(バッバッ! バババッ!)

 

「えっとぉ~、なになにぃ~?

 ヘ、レ、ン、が、に、く、を…………って手旗信号やめなさいよアンタ。

 アタシだから分かんのよ? ただのラッキーよ今の? たまたまよ?」

 

 日頃の訓練が実を結ぶ。知識は身を助けるのだ! 若いウチは何でも覚えておくと良いぞ諸君。いつか役に立つ。

 

「ファースト、いっかいビンタしとく? それで落ち着ける?」

 

(ふるふるふる!)

 

 とりあえず痛いのはイヤなので、涙目で必死に首を振る。

 そしてレイは「すぅ~!」っと大きく深呼吸した後……、ハッキリした声で告げる。

 

 

「ヘレンが……ヘレンがじぶんで肉をたべたの……!」

 

「――――ぬぅあーーんですってぇーーーーい!!!!」

 

 

 もう「よしきた!」とばかりにレイを小脇に抱え、ドタバタと部屋を出ていくアスカ。

 ……まぁ実は手旗信号の時点でうっすらと察してはいたので、レイが何を言うのかも、この後どう行動するのかも、しっかり事前に決めていたのだが。

 

 とにかくアスカは「キリッ!」と意識を切り替え、「?!」みたいな顔をしているレイを抱えたまま廊下を爆走する。

 

 何事も、緩急が大事だ。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 話によれば、それは本当に唐突だったという。

 何も特別な事はなく、いつも通りの日常の中で起こった。

 

 

 今日もレイがお肉を食べる練習をさせるべく「よいしょ」とヘレンを膝の上に乗せて、そして何気なく口元に生肉を近づけてやった、その途端……。

 まるでなんでもない事かのように、当たり前の事かのように……ヘレンがそれを「ぱくっ」と食べてしまったのだそうだ。

 自分でお肉を差し出しておいてなんだが、レイはその瞬間、もう飛び上がる程におどろいた。

 

 おちつけ、まだ喜ぶのは早い……とばかりに、その後もレイはいくつかのお肉をヘレンの口元に持っていったが……その悉くをヘレンは「ぱくり」と食べてしまった。

 まるで今までの苦労が何だったのかと言う程に……あっさりと自分からお肉を食べて見せたのだという。

 

 

 

「ちょっと! それはないでしょうヘレン! そんな殺生な!」

 

 後に話を聞いて部屋にすっ飛んできたリツコが、おそるおそるヘレンの口元にピンセットでお肉を差し出すも……それは決して食べようとしない。まったくの無反応だ。

 そもそもヘレンには視力も嗅覚もないのだから、お肉が口元に来たって分からないのは当然なのだが……もうワクワクと胸を高鳴らせていたリツコの心は〈ボッキリ!〉といった。

 

「赤木はかせ……見ていてください」

 

 すると次にレイがヘレンを抱き寄せ、そっと自身の膝の上に乗せて、お肉を差し出してやる。

 その途端、またしてもヘレンが「よっと!」とばかりに、パクリとお肉を食べて見せた。

 

「えっ……これは私がヘレンに嫌われているという……そういう事?

 一応私、いつもヘレンの診察したり、身体を洗ってあげたりしているのだけど……」

 

「大丈夫よリツコ。そういう事じゃないの。

 というか、多分アタシがやっても同じだから」

 

 ポンポンと肩を叩き、絶望に打ちひしがれる彼女を慰めてやるアスカ。

 

「見てて分かったんだけどね? これ多分、ヘレンが“覚えた“んだと思うのよ。

 ファーストってごはんをあげる時、いつもヘレンを膝に乗っけてやるでしょう?

 だからヘレン、こうやって抱っこされた時にごはんが貰える(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)って。

 きっと毎日やってるウチに、そう覚えちゃったのね」

 

 よく観察してみると、ヘレンはレイにこの姿勢で抱っこをされたら、その途端にペロッと舌を出して口元を舐めるような仕草をしていた。

 試しに一度床に降ろし、そしてまた同じように抱き上げて膝に乗せてみると、またヘレンは「♪」って感じでペロペロと舌を出し始める。

 

 それはまるで、今から何かを食べる事が分かっているかのように。ごはんをもらえるのを待っているかのようにだ。

 

「つまり、レイにお膝だっこをされたらごはんの時間って……そういう事?」

 

「そゆこと。だから肉を食べ物だと認識して食べてる、というより……、

 こうしてファーストに抱っこされてるから食べる。今はごはんの時間なので食べる。

 そんな感じね♪」

 

「……なんと」

 

 リツコは驚愕の目でレイを見つめる。

 彼女は今も慈愛に満ちた表情でのほほんとしているが、レイのやった事は、成した事は決して普通の事じゃない。

 それは決して、簡単な道ではなかったハズだ。

 

 アスカに支えて貰いながらも、レイは毎日必死に知恵を絞り、様々な事を試し、そして手に噛み傷やひっかき傷を作りながらも、決して諦めずにヘレンと向き合い続けた。

 それが今、ようやくこうして実を結んだのだ。

 

 その二人の美しい姿、二人の素晴らしい成果を……リツコは目に焼き付けていく。

 

「ヘレンは、すごく賢い子よ? アタシに負けないくらいエライ子なんだから!

 ……でもこうして肉を食べられたのは、間違いなくファーストのおかげよ。

 もう四六時中ヘレンの事を考えて、ずっと寄り添ってたあの子だからこそ、

 信頼を勝ち取れた」

 

 片方の眉を上げた得意げな顔。アスカは優しい声で呟く。

 

「たとえ無理やり肉を口に入れられても、

 この人は自分を守ってくれる人だ、だからこれは大丈夫な物なんだって……。

 そう思えたからこそ、ヘレンは肉を食べた。食べられるようになったのよ」

 

 そしてアスカはスタスタと机の所に行き、そこに置いてあるデジカメを手に取って、レイの方に向き直る。

 

 

「ヘレン、ファースト、お肉記念日おめでと――――

 後でこの写真、バカシンジとコネメガネにも送っといてあげるわ」

 

 

 

 優しい顔で微笑むレイ、そして嬉しそうにお肉を食べ続けるヘレン。

 

 いまアスカが二人をフレームに収め、パシャリとシャッターを切った。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 それからの日々は、あっという間だったように思う。

 まるで歯車がガチャリと噛み合ったように、目まぐるしく日々が過ぎていった――――

 

 

『写真みたよ~ファーストちゃん!

 おめでとうっ、頑張ったね二人とも! 今度お祝いしに行くからね!』

 

 遠く第三新東京市にいるマリに電話をもらい、レイも静かな声で、心からお礼の言葉を返した。

 

 

 

「この子がヘレンちゃん? うわぁ~……小さくてかわいいっ……!

 レイ、触っても大丈夫? 抱っこしてもいい?」

 

 赤木博士の助手として(リツコに会えない寂しさに耐え兼ねて)こちらの様子を見に来たオペレーターのマヤさんも、感激しながらヘレンを抱っこしてくれた。その成長を喜んでくれた。

 

 話によると、例のオペレーター仲間の二人も、ヘレンの写真を撮ってくるよう散々マヤにせがんでいたらしい。

 どうやら知らないうちに、ヘレンはネルフでも沢山のファンを持つアイドル的な存在となっていたようだ。アニマルパワー恐るべし。

 

 ネルフをたつ前「マヤくん、少し待ちたまえ」と呼び止められ、「これで羽でも伸ばして来たまえ」と結構な額のお小遣いをくれた冬月副指令も、もしかしたらヘレンのファンなのかもしれない……。

 なんか普段とは違う、得も知れぬ雰囲気を感じたし、「……わかっているね?」みたいなプレッシャーも感じた。

 これは気合を入れてヘレンちゃんの写真を撮って贈呈しなければと、若干へんな冷や汗をかいたマヤだった。

 

 

 

 

「せんせい……こんにちは」

 

「こんにちは先生! メンコと遊んでも良い?」

 

「はいこんにちは、レイさん、アスカさん。

 もちろん良いですよ。メンコも喜びます」

 

 あれから時間のある時に、レイとアスカはよく先生の動物病院に遊びに行くようになった。

 もちろんヘレンを連れて、メンコに会いに行く為だ。

 

 キタキツネの面目躍如か、とても鼻が良いメンコにはすぐ彼女達が来た事が分かるらしく、もう部屋に入る前の階段のあたりから、メンコがドタバタとゲージ中を駆け回る音が聞こえてくる。

 もう「はやくきて!」とばかりに、ワチャワチャとすごく喜んでくれる。

 

 ヘレン、そしてアスカやレイと会える事は、きっとメンコにとっても何よりの楽しみなのだろう。

 

 

 

 

「――――にんにくラーメン、チャーシューましまし」

 

「おぉ! ついにチャーシュー抜きから卒業するのねファースト!

 しかもマシマシて! 意外とチャレンジャーねアンタ!」

 

 夕食時には、毎日少しずつお肉に挑戦していくレイの姿も見られた。

 今ではハムに加え、ラーメンに入ったチャーシューだって食べられる。チキンサラダの鶏肉だって食べられるようになったのだ!

 

 レイの日々の食事に、ちょっとした冒険とドキドキが加わり、鮮やかな色が着いた。

 

 

 

 

「……1250、1260、1270ぐらむ……」

 

 そして日課である、毎朝のヘレンの体重測定。

 レイによる、ありふれたキッチン測りで行われるそれは、日を追うごとに熱を帯びた物になっていく。

 

「……1310、1320……1330ぐらむ……!」

 

 自分の力でごはんを食べられるようになったヘレンはすくすくと成長していき、そしてその体重も、レイたちが目標としていた数値に近づいていく。

 そして……。

 

「――――1350! 1350ぐらむになったわ……!」

 

 

 

 

 ヘレンが治療を受けられる数値……。

 その小さく幼かった身体が、手術に耐えられると判断できるまでの大きさに、ついに辿り着いたのだった――――

 

 

 



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おかあさん。

 

 

『おめでとう綾波。本当によかった』

 

 受話器から、シンジの優しい声が聞こえている。

 

『これでヘレンも元気になれるね。おもいっきり外を駆けまわれるようになるよ。

 すごいよ綾波。こんな事……きっと他の誰にも出来ない。

 綾波だったから、ヘレンは手術を受けられるようになったんだ』

 

 彼の声を聞き、心がぽかぽかと暖かくなっていく。

 心からの祝福を受け、少しだけ目がうるっとしてしまう。このぬくもりを噛みしめるように、レイはそっと目を瞑り、ギュッと手を握りしめる。

 

 その受話器の向こうで、シンジは思う。今言った言葉を頭の中で反芻する。

 綾波だったから――――そう強く思うのだ。

 

 

 たとえば、可愛かったから。それが当然だから。

 ……そんな事だけで、このヘレンという命を守ってやる事は、決して出来はしなかっただろう。

 

 小さいから。弱いから。そうすべきだから――――

 そんな理由だけで動けるのならば、誰もがレイと同じ事をすると言うのなら……この世には身勝手な理由で飼い主に捨てられる動物など一匹もいなければ、自ら産んだ子供の育児を放棄する親など存在しなくなる。

 

 そんな理由だけで自分の生活を崩し、多大なリスクを負い、全てをあげるようにして献身的に寄り添う事が出来る人間が、いったいどれ位いるのだろう。

 

 それはレイのような子供ではなく、常識的な大人であればある程、そうだろう。

 きっと上手に理由を見つけて「自分には出来ない」と判断し、さっさと誰か別の者に任せてしまうか、見てみぬフリをするだろう。

 

 あまりにも簡単に「仕方ない」と決め、「ごめんね。きっと誰か良い人が拾ってくれるよ。幸せになってね」と、そんな言葉を吐きながら動物を捨てた人間が、この世界にどれほどいる事だろう。

 身勝手に命の前から去っていった人間が、どれほどいる事だろう。

 

 

 幼少の頃に遠い親戚のもとに預けられ、親のぬくもりを知らずに育った自分。

 シンジは今のレイの姿を、とても眩しく思う。

 見事にヘレンを育て、おかあさんになった大切な友達を、誇らしく思うのだ――――

 

 

 

『それで、相談って何? 綾波、何か悩み事があるの?』

 

「ええ、碇くん」

 

 暫し思考の中にいたシンジは気を取り直し、改めてレイに要件を訊ねる。

 どうやらいつも二人がおこなっている近況報告だけじゃなく、今日は相談事があるようなのだ。

 レイは自分なりのペースで、ゆっくりとシンジに話を打ち明けていく。

 

『そっか、ヘレンが退院したら、か……。

 元気になったヘレンに、どんな事をしてあげたら良いか。それを悩んでたんだね』

 

(こくこく)

 

 電話越しなので(こくこく)はしても意味が無いのだが、そんな事も気にせず二人は話を続けていく。

 ヘレンの快気祝い。身体が治ったお祝い。それに想いを馳せていく。

 

「げんきになったら、いろんな所につれていってあげたい。

 おいしい物も、たくさん食べさせてあげたいわ」

 

『うん、良いと思う。きっとヘレンも喜ぶよ』

 

「碇くん……ヘレンに料理、つくってくれる?」

 

『えっ?! ……いや、それはもちろん良いんだけどっ。

 でも人間と動物って、食べる物がぜんぜん違うよ?

 ぼくの料理って、ヘレン食べられるかな……」

 

「……だめ? 碇くんの料理、とてもおいしい。

 ヘレンにもたべさせてあげたいの」

 

『う~ん。……よし、分かったよ綾波。今度までに動物用の料理を勉強しとく。

 きっとヘレンに、美味しい物を作ってあげるね』

 

 なんてったって、これはヘレンの“はじめてのお祝い“になる。

 いままで目が視えなかったヘレンに、沢山の綺麗な景色を見せてあげる事。

 そしていままで味覚が無かったヘレンに、たくさん美味しい物を食べさせてあげる事。

 それはきっと、なによりの喜びになる。とっても幸せな“はじめて“になる。

 だからレイもシンジも、一生懸命うんうんと考える。ヘレンに沢山の素敵なはじめてを、あげられるように。

 

『あとは、耳だよね。ヘレンは音を聴けるようになるんだから……。

 あ、そうだ! ぼくチェロを弾こうか?

 あまり人前でやる事もないし、上手かどうかは分からないんだけど。

 でもヘレンに“音楽“を聴かせてあげるのって、どうかな?』

 

「!?」

 

 なんというアイディア! なんという発想!! レイは〈ピシャーン!〉と雷に打たれたように感銘を受ける。

 音楽! あぁ音楽! ミュージック! なんて素晴らしい事だろう!

 

「すごい……やっぱり碇くんはすごい。ネルフのてんさいしょうねん」

 

『あはは。あんまり期待されたら、ぼくちょっと困っちゃうんだけど……。

 でも頑張ってみるよ』

 

 碇くんに相談してみて、本当に良かった。心から感服致したッ!!

 レイはふんすふんすとそこはかとなく興奮しながら、彼に心からの賛辞を贈る。

 これはきっとヘレンへの、一番のプレゼントになる!

 

『……あ、そうだ。

 ヘレンの入院は明日からで、退院までにしばらく時間がかかるんだよね?』

 

「? えぇ、赤木博士がそういってたわ」

 

 ふいにシンジが、どこか弾んだ声を出す。

 まるで、素敵な思い付きをしたみたいに――――

 

 

『なら綾波も、一緒にやらない?

 チェロの独奏もいいけど……それだと少し寂しい気がするんだ。

 どんな楽器でも構わないし、短いパートだけでも良い。

 だから綾波も、一緒に演奏しようよ』

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「ん? あの子なにやってんの? また何か始めたワケ?」

 

 いまアスカがいるリビングでは、二階からの〈ぷぴぃ~♪〉という不思議な音色が聴こえてきている。

 

「ああ、確かフルートだったかしら? 練習しているのよ」

 

 のほほんと雑誌をめくるリツコの耳にも、先ほどからレイの奏でる〈ぷぴぃ~♪〉という音色が聴こえていて、なにやら微笑ましい気持ちになってくる。

 

「でぇ? なんでまた楽器なんかを?

 そんなモン吹かなくたって、五円玉でもピーピーしてりゃーいいじゃない」

 

「今度シンジくんと一緒に演奏するんだって。今朝、嬉しそうに話してたわ」

 

「えっ、バカシンジと?! ……という事は、アイツはチェロか。

 ……何? ふたりで仲良く二重奏(デュエット)する為の練習?

 はんっ! バッカじゃないの!? 色気づいてんじゃないわよエロシンジ!!

 あのすけこまし!」

 

「そうじゃないの。

 おそらくは、ヘレンが帰ってきたら聴かせてやるつもりなんでしょう。

 耳が治ったお祝いに、ね」

 

「っ!?」

 

 その言葉を聞き、なにやら爪を噛んでブツブツと呟き始めるアスカ。

 とても小さな声だったが、「……ここら辺に楽器屋って……」という言葉がリツコの耳に届く。

 

「あ、アタシちょっと街の方まで出てくるわ!

 確かウェットティッシュとかファブリーズ切らしてたわよね?」

 

「そうね、是非お願いするわ。

 ……あとついでに、駅前のビルにも寄って来て貰える?

 そこの楽器屋の隣に(・・・・・・)、美味しいケーキ屋さんがあったと思うの」

 

「もぉ~! しょーがないわねぇーリツコったらぁ~♪ 甘党ぅ~♪

 よし! それじゃあ行ってくるわっ!」

 

 なんか満面の笑みでソファーから立ち上がり、イソイソと玄関を出ていくアスカ。

 心の声が漏れだしているのか「ばいおりんっ♪ ばいおりんっ♪」と呟きながら、嬉しそうに歩いて行った。

 

 その後ろ姿を見送ってから……リツコはどこか物憂げな表情で、何気なく二階の階段の方を眺める。

 

「……」

 

 今も二階から、レイの調子っぱずれながらも頑張っているのが感じられる笛の音色が聴こえている。

 

「あの子……嬉しそうだった……。

 本当にこれまで、よく頑張ってきたもの」

 

 

 

 

 

 憶えている。

 あの朝、手術を受けに行く為に車に乗ったヘレンを、いつまでも見送っていたレイの姿を。

 遠ざかっていく車に向けて、一生懸命に大きく手を振っていた、レイを。

 そしてその後ろ姿を、険しい顔で見守っていたであろう、自分自身の事を。

 

 

『ネルフの赤木博士。

 もし貴方からで無ければ、これは断っている類(・・・・・・)の話です――――』

 

 あの時、出発の直前。車でヘレンを迎えに来た高名な獣医大学の教授は、苦い顔をしながらボソリとリツコに告げた。

 

『容体を聞く限りですが、これは極めて治療が困難な、見込みの無い患畜(かんちく)だ。

 一応は診てみますが、どうか過度な期待はしないで頂きたい――――』

 

 リツコは言葉なく、黙って頭を下げた。それを見た教授はため息をつき、ダルそうに車に乗り込んでいった。

 

 

 

「今日あたり、検査の結果が出るでしょう。

 ま、今の内に、心構えだけでもしておきましょうか……」

 

 あの子の泣き顔、罵倒、怒り――――

 それを受け止めてやるのは、レイに一番近しい大人である、自分の役目だ。

 それがあの子の為にしてやれる、自分の精一杯の事。

 

 

「……あら、もう結果報告のお電話かしら?

 つくづく人生は情け容赦ないわね。心の準備もさせてもらえない……」

 

 ふとこの場に意識を戻せば、リビングの電話がうるさい程にリツコを呼んでいる音が、聞こえていた。

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 数時間後。

 街での買い物を速攻で済ませ、意気揚々と帰宅して来たアスカが見たのは……なにかリツコが険しい顔で電話をしているらしき、その姿だった。

 

『――――独断行動だ、赤木博士。いったい何を考えている?』

 

「……!」

 

 思わず壁を背にして隠れ、アスカはかすかな電話の声に耳を澄ませる。

 これは……碇指令の声。リツコの上司たる、ネルフのトップからの電話だ。

 

『レイにはチルドレンとしての使命、そして計画の為の重要な役目がある。

 野生動物になど、構わせている暇は無い』

 

「ですがっ……! 碇指令っ!」

 

 リツコがらしくもなく声を荒げ、必死に何かを訴えている。だがそれが届くハズも無い。

 当然だ。相手はネルフの総責任者。人類を背負って戦う組織の長なのだから。

 

『その治療も不可能な(・・・・・・・)重度の障害を持つ子ぎつね、とやらのせいで、

 レイの精神にもし悪影響が出れば、どう責任を取るつもりだ。

 ――――すぐに引き離せ。レイにそんな物は不要だ』

 

 強い言葉。ハッキリとした声が、アスカの耳にも届く。

 聞く耳を持たぬという断定の言葉が、静かに辺りに響いた。

 

「しかし……! 今のレイには、あの子が必要なんです!

 あの子と出会ってから、レイの心には目覚ましい変化がっ!

 私が責任を持って監督します……。ですので碇指令、どうかっ……!」

 

 悲痛な声で、リツコが喰らい付く。必死にあの子達を守ろうとしている事が、アスカにもひしひしと感じられる。

 

 

『不要だ――――レイはただ、我々に従順であれば良い。

 変化は望まん』

 

 

 だがその言葉によって、リツコの身体は凍り付く。

 

 

『例の獣医大学の教授には、そのまま処分(・・)をするよう、話を通しておく。

 ――――もう君は何もするな。話は以上だ』

 

 

 

 

 

 

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「――――ッッ!!!!」

 

 バイオリンを、ベッドに叩きつける。

 今しがた大切に抱え、ウキウキしながら持って帰ったハズのそれを、感情のままに。

 

「……ハァ! ……ハァ! ……ハァ!」

 

 息を乱し、自室のドアに力なく背中を預ける。やがてアスカは、そのままペタリと床に腰を下ろす。

 

「治療も不可能……? 引き離す……?

 あの子を…………処分……?」

 

 整理が追いつかない。頭の中がクシャグシャで、何も考えられない。

 ……けれど、ひとつだけ分かっている事がある。

 

 ヘレンはもう、二度と帰ってはこない――――

 その事実だけが、グルグルと頭を周る。

 

「……ッッ!! ……くッ!!」

 

 吐き気がする――――目の前が白に染まる――――

 視界はボヤけ、頭が重く、まるで誰かに揺らされているかのように、平衡感覚を失っていく。

 そのままもう、床に倒れ込んでしまうかと、思った。

 

 

「――――ッッ!?」

 

 

 けれど……突然アスカは身体を起こし、目を見開いて自室の壁の方を向く。

 

 薄い壁。たった今、かすかに聞こえてきた笛の音色(・・・・)の方を、歯を食いしばりながら睨みつける。

 

「……あんのっ……バカファーストォーーッッ!!!!」

 

 飛び出すようにして、部屋から出る。ワケが分からないままの頭で廊下を走る。

 そのままアスカは、怒りにまかせてレイの部屋のドアを、開け放った。

 

 

………………………………………………

 

 

「……っ!」

 

 ドアが壊れる程の大きな音。

 それに驚いたレイが、身を固くして扉の方を見る。

 手にしたフルートを、思わずギュッと抱きしめたまま。

 

 

「……へぇ~。流石よねぇファースト……。

 今朝までロクに吹けなかったのに、もう綺麗な音が出せるようになってる……。

 あんたヘレンの為だったら、なんでも出来ちゃうってわけぇ?」

 

 そこには、憤怒の表情を浮かべてこちらを睨みつける、アスカの姿。

 やがて驚いているレイを余所に、アスカがズカズカと部屋に押し入り、突然レイの手からフルートを取り上げる。

 

「っ!? なにをするのっ……」

 

「 ――――うるさいっっ!!!! こんなモン吹いたって、何の意味もないのよッ!! 」

 

 壁に叩きつけられたフルートが、聞くに堪えない音をたてて、床に転がる。

 怒りより、疑問より、レイは信じられないという想いで、アスカの顔を見る。

 いままで沢山支えてくれたこの人が、こんな事をするハズが無いと。

 

 

「 帰ってこないっっ!! もうヘレンは帰ってこないのよっっ!!

  身体は治らない! 手術も出来ない! もう二度と会えないのッ!!!! 」

 

 

 とても高い、乾いた音が鳴る。

 力いっぱい振り抜いたアスカの手のひらが、レイの頬を強く打ち付けた。

 

 

「 ――――行きなさいよファーストッ!!!!

  さっさとリツコ問いただして、ヘレンのトコに行きなさいッ!!

  なにグズグズしてんのよッッ!!!! 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大粒の涙を流し、グシャグシャになったアスカの顔。

 

 それを見た瞬間、レイは跳ねるように部屋を飛び出した。

 

 

 

 

……………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「休憩かね、初号機のパイロット」

 

「あっ、冬月副指令」

 

 自動販売機が沢山並ぶ、ネルフの休憩所。

 そこでひとり水分補給をしていたシンジに、冬月が声をかけた。

 

「はい、これから訓練なので、何か飲んでおこうと思って」

 

「そうか、いつもご苦労だな。

 君のその努力と献身に、私を含めた数多くの人間が救われている。

 もっとも大人としては、少々情けない気もするが」

 

「いえっ、そんな。自分で決めた事ですから」

 

 柔らかく微笑む冬月。このように会話をする事はとても稀だったので、シンジはどこか恐縮しながら、それを誤魔化すようにジュースに口を付ける。

 

「時に、少年よ?

 これから訓練だと言うが……すまないが少し時間を貰えるかね?」

 

「時間……ですか? ぼくは構わないですけど、どうしたんですか?」

 

 キョトンとした顔のシンジ。コテンと首を傾げる愛嬌のある姿に、冬月が軽く苦笑する。

 

 

「いやなに、少し君に伝えておきたい事があってな。

 これを聞いてどうするかは、全て君の自由だ。

 少年…………いや、碇シンジよ」

 

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

 

 潮時――――

 

 その言葉が今、幾度もリツコの頭の中を巡っている。

 

 これは碇指令の命令、の事だけじゃない。

 数時間前に受けとった、獣医大学からの連絡を聞いての事でもあった。

 

 

『精密検査の結果、この患畜には手の施しようが無い(・・・・・・・・・)と分かりました。

 残念ながら、我々に出来る事は、ありません』

 

 

 システムキッチンのコンロ台。その換気扇の前で、リツコは疲れた顔で静かにタバコを吹かす。

 

 

『今日の朝、患畜が発作を起こしました。

 まるで見えない敵と戦うように暴れ、脳挫傷から来る痛みに苦しんでいました。

 ……これは一度きりの事では無く、患畜はここに来てから、

 何度も発作を繰り返しています。

 残念ですが……おそらくはもう、数日の内かと』

 

『正直、驚きましたよ赤木博士……。

 ここに来るまでにも、患畜は何度も発作に襲われていたハズだ。

 そしてその度に、狂ったように激しく暴れ回っていたハズですよ?

 ……そんな我々でも手を焼くような患畜の世話を、

 本当にまだ中学生の子がやっていたんですか?

 少々信じられない気持ちですよ……』

 

『とにかく、お伝えした通り、この患畜の治療は"不可能"と判断しました。

 加えてこの患畜の余命は、もうあと数日といった所でしょう』

 

『流石にその子も、これから死にゆく動物の世話(・・・・・・・・・・・・・)までは、荷が重いでしょう。

 ですので非常に珍しい個体ですし、こちらとしてはこのまま引き取っても良いと、

 そう考えています。

 サンプル、といっては何なのですが……この個体を研究する事は、

 今後の獣医学の更なる発展に……』

 

 

 

 こちらが科学者だと知っての事なのか、もうズケズケとデリカシーの無い言葉を、嫌と言うほどぶつけられた。

 もう何度、衝動的に受話器を叩きつけて切りそうになった事か。

 私が激昂しそうになる心を押さえ、必死に歯を食いしばっていた音は、どうやら受話器の向こうまでは聞こえていなかったようだ。リツコはそう苦笑する。

 

 

「終わりね。完全に。

 たとえ指令の命令が無かったとしても……ヘレンを戻らせる事は出来ない。

 私たちにあの子の命は、あまりにも重かった。

 こんなの、最初から分っていたハズなのに……」

 

 

 いつもそう。

 分かっているのに、こうして取り返しの付かない失敗をし、後悔をする。それを繰り返す。

 

 そして自分は後悔の念に身を焼かれ、これから正に、その断罪を受けるのだ。

 

 他ならぬ、この子の手によって――――

 

 

 

 

「レイ、階段を走っては駄目よ?

 もし怪我でもしてエヴァに乗れなくなったら、貴方どうするつもり?」

 

「――――っ」

 

 気だるい仕草でたばこをもみ消して、後ろを振り向く。そこには思っていた通り、レイの姿がある。

 大きく肩で息をし、まるで縋りつくような目で私を見つめている、レイが。

 

「赤木……はかせ。……ヘレンは……?」

 

「あぁ、伝えるのを忘れていたわ。ごめんなさいね。

 ……さっき獣医大学から連絡があってね?

 検査の結果、ヘレンが治る見込みは無いのだそうよ。

 だから、そのまま引き取ってもらう事にしたわ。

 ……もういいでしょうレイ? 子供のお遊び(・・・・・・)はここまで。

 満足したでしょう?」 

 

 まるで別人のように、昨日までの優しい顔が嘘だったかのように、リツコが冷たい声で告げる。

 まるでこれがなんでもない、つまらない事かのように。

 

「……なおら、ない……?

 でもはかせ、手術をすればって……。

 そうすればヘレン……げんきになるって……」

 

「可能性はゼロじゃない、という話だったでしょうに。

 何度も言っているけど、貴方は人の話をちゃんと聞いているの?

 随分と都合のいい耳をしているのね。……これは話をしても無駄かしら?」

 

 気だるそうにそっぽを向き、リツコがこの場を立ち去ろうとする。その途端、レイが飛びつくようにしてリツコの白衣を掴む。

 

「 ……うそつきっ! 赤木はかせのうそつきっ!! 」

 

 その顔は、見られない。

 けれどリツコには、今ハッキリとレイが涙を流している事が分かる。

 

「なんのために、ヘレンは体力をつけたの……?!

 においも味もしないミルクを飲んで……肉もたべさせられてっ……!

 手術をすれば、治るって……だからヘレンはっ、あんなにがんばってっ……!」

 

 身体を揺らされる。

 レイのそれは決して強い力ではないが、いま必死にリツコに縋りつき、あらん限りの声を振り絞っている事を感じる。

 リツコはそれから、目を逸らす事しか出来ない。

 

「手術をしても、良くなる見込みが無いの。治らないのよ。

 ……だから、獣医大学の附属病院に引き取ってもらう。

 私達のような素人じゃなく、ちゃんと専門の人達にね」

 

「……なぜ? ここにいればいい……!

 治らないのなら、わたしたちといっしょに……」

 

「――――貴方に何が出来るのッ!!!!」

 

「……っ!」

 

 

 目を見開き、強い声でレイの言葉を遮る。

 何も出来ない子供に対し、大人の強い言葉を暴力のように、その胸に突き刺す―――

 

「言ってごらんなさい、何が出来るの。

 ここにいて! 貴方のような子供が傍にいて! それでどうなるの!!」

 

「……っ」

 

「レイ、入院でも安楽死でもなく、

 ヘレンがここに戻ったら、いったいどうなるのか……教えてあげましょうか?

 ……あの子はね? 苦しみ抜いて死ぬわ(・・・・・・・・・)

 苦しんで、苦しんで……あの子がだんだん弱っていく姿を見ながら、

 それでも何もしてあげられない……。どうにも出来ない……。

 ――――その辛さが分かる?! 貴方に想像出来る?!」

 

 

 この子のこんな顔……今まで見た事が無い。可哀想な位に、震えてしまっている。

 

 私のこんな顔……見せた事がない。こんなにも純粋で良い子に、こんな顔をして……。

 

 

「……諦めなさいレイ。私達にあの子は重すぎた。

 こうするのが、一番良い事なの。……言う事を聞きなさい」

 

 

 酷い。もう目も当てられない位に、酷い――――

 これも私が、判断を誤ったから。あの時決断する事が、出来なかったから。

 

 せめて、恨んで。

 私を恨んで頂戴、レイ。

 

 眼に滲む涙を見せるのは、卑怯だと。それは決してしてはならない事だとレイから顔を背け、リツコはこの場を去ろうとする。 

 いま白衣にかかっているレイの手を外そうと、そっと手を添えた。

 

 しかし……。

 

 

 

「……ヘレンは、ミルクをじょうずに飲める。飲めるの……」

 

 

 まるで呟くようなレイの言葉が、リツコの耳に届く。

 

 

「……肉だって、ちゃんとたべられる。……おさんぽだって、上手にできるの……」

 

 

 その声に、思わずリツコが、レイの方を向く。その顔を見つめる。

 

 

「…………できないって、ヘレンには無理だって……いわれてた。

 はかせは言いました……。この子には何もできないって。しかたないって……。

 でもヘレンは……ちゃんと出来るように、なったでしょう…………?」

 

 

 大きな瞳から、涙がこぼれていく。

 

 感情表現が下手な、とても薄い表情……。

 それでもこの子が今、懸命に自分の気持ちを、伝えようとしている――――

 

 

「できない事より……できる事のほうが、おおいです……。

 ヘレンは、とてもすごい子です……とてもすごいんです、はかせ……。

 びょうきだって…………きっときっと、治ります……」

 

 

 今にも消えてしまいそうな、震える声で。

 

 

「だから……そばにいさせてください……。

 ヘレンのそばに、いさせてください。

 いっしょにいたい……です。はかせ――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「――――何の用だ、シンジ」

 

 巨大な窓と、広い空間。そこに大きなデスクがあるだけの、指令室。

 碇ゲンドウの部屋。

 

「呼んだ憶えはない。何をしに来た、ジンジ」

 

 その他人を拒んでいるような、威圧的な雰囲気が漂う部屋に、今まっすぐに父の顔を見つめるシンジの姿がある。

 

「冬月……どういうつもりだ」

 

 そしてその後ろには、まるでシンジの決意を支えるようにして、薄く笑顔を浮かべる冬月が付き添っている。

 

「いやなに、少年が自らの殻を破り、今まさに一人の男になろうとしている。

 それを後押ししてやりたいと願うのは……大人として至極当然の事だろう。

 お前は違うのか、碇?」

 

「貴様……」

 

 また軽く苦笑してから、冬月はそっと後ろに下がる。

 碇シンジに、出番を告げるようにして。

 

 

「父さん――――」

 

 

 

……………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「○○獣医大学よ……。行って来なさい――――」

 

 ふうとため息をつき、そっぽを向いたリツコが、静かにそう告げる。

 

「私は今から、もうネルフだの獣医だのと沢山交渉しなくてはいけないの。

 ……誰かさんのおかげで忙しくなるから、付き合ってあげられないわ。

 バスでもタクシーでも使って、早く行ってらっしゃい」

 

 リツコが白衣のポケットからサイフを取り出し、ぽけっとした顔のレイに握らせる。

 

 

「レイ、後悔しないわね?

 貴方が今から迎えにいくのは、"命"よ。

 その重み……しっかり受け止められるわね?」

 

 

 

 

 

 

 リツコのサイフをしっかり胸に抱き、レイはもうパタパタと家から飛び出した。

 

「……バスっ! バス停に……!」

 

 急いで家の前に停めてあった自転車に鍵を差し込み、「~っ!」と勢い良く乗り込む。

 前カゴには、いつもヘレンを乗せる為に敷いているモコモコしたタオルがある。愛らしいデザインのそれを見て、なお一層ヘレンへの想いが募る。

 すぐにヘレンのもとに向かわなければ!

 

 

「――――はいよ、おまっとさんだレイ君!

 さぁ乗って。ちゃんとシートベルトを締めるんだぞ?」

 

「っ! 加持、さん……?」

 

 そこに突然現れたのは、スポーツカーに乗った、ニヒルな無精ひげのお兄さん。

 レイはあまり話した事はないけれど、たしか赤木博士や碇くんと仲が良かった気がする。葛城三佐とはいつも喧嘩ばかりしているみたいだけど……。

 

「お客さんどこまで? ……と聞くまでも無いな。

 今から例の獣医大学まで飛ばすから、着くまでのんびりしててくれ。

 あ、ドリンクホルダーに飲み物があるぞ? ガムは食うか?」

 

「加持さん……どうして……?」

 

「なぁに、さっき葛木から連絡が来てね?

 こうして馳せ参じたってワケさ。ナイトの真似事だな」

 

 レイは目をまんまるにしながらも、言われるままに助手席に乗り込んで、しっかりシートベルトをする。大変素直な子なのだ。

 

「まぁ礼を言うなら葛木……いやシンジくんか。

 親父さんを説得し、俺に連絡するようアイツに頼んだ、シンジくんに言うと良い」

 

 そう告げた途端、加持が勢いよく車を発進させる。一気にアクセルを踏み込む。

 レイの身体はギューッとシートに押し付けられ、思わず上にある持ち手にしがみつく。かなり必死に。

 

 

「いいボーイフレンドじゃないか、レイ君!

 料理が出来て、気も利いて、その上男気もある。

 おまけにエヴァのパイロットで、甘いマスクときた!

 今からしっかり捕まえておけよ? きっと損は無いぞ!」

 

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 なぜか全部UCCコーヒーという不思議な自販機が並ぶ、ネルフの休憩所。

 

「お疲れ様、シンジくん。……緊張した?」

 

「あはは……。はい、ちょっとだけ」

 

 ケータイをポケットに仕舞いながら、ミサトがシンジのいる休憩所に戻ってくる。

 なにやら気疲れしてグッタリしているシンジに、缶コーヒーを手渡して労ってやる。

 

「冬月副指令がすごく褒めてたわよ? 『久しぶりに良い物を見た』って。

 ……なぜかあたしも褒められたのよね……。シンジくんの保護者として」

 

「そうなんですか? ミサトさんが褒められるのは、ぼくも嬉しいですけど……。

 それにしても、ちょっと驚きました。

 冬月副指令って、綾波やぼくらの事、すごく気にかけてくれてたんですね」

 

「そうね。あの方はとても尊敬出来る人よ。職員の中にもファンが多いの。

 まぁ今回に限って言えば……副指令がヘレンのファンだった可能性もあるけど……」

 

「?」

 

 ミサトはシンジに聞こえない位の声で、ボソッと呟く。

 これはシンちゃんは知らなくても良い事だ。うん。

 

「とりあえず、色々と大丈夫だった? 仮にも指令に担架を切っちゃったワケだし。

 もし何かあるようなら、あたしも出来る限りフォローするわよん?

 シンちゃんの為だもの♪」

 

「あ、大丈夫は大丈夫なんですけど……。

 でもお願いを聞いてもらう代わりに、ちょっと言われた事があって」

 

「ん、言われた事? 何かの命令?」

 

 はてな? と首を傾げ、ミサトが続きを促す。

 シンジはどこか困ったような、戸惑っているような、そんな不思議な顔をしている。

 

「なんか父さん、『ならばお前が面倒を見て来い』って……。

 綾波とヘレンをサポートしに、お前も北海道へ行けって」

 

「は?」

 

「父さん、怒ったのかな? しばらく僕の顔は見たくないって事なのかな?

 ここにはマリさんもカオルくんもいるし、ぼくは全然いいんですけど……」

 

 

 可愛く「はてな?」と首を傾げるシンジくん。それに対して固まっているミサトさん。

 

 碇指令……それ罰でも何でもないです。

 めんどくさい大人の分かりづらい優しさに、ヒクヒクと苦笑いのミサトだった。

 

 

……………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

「ん、どうしたのかなお嬢ちゃん? 誰か探してるの?

 ……え、ヘレン? そんな留学生いたかなぁ~」

 

「教授ぅ? いや、ここ教授は沢山いっけども。

 何学部の教授か分かっか? どんなヤツ? ……なにぃ! きつね泥棒ぅ?!」

 

「ちょ、ちょっと君ぃ! 勝手に入って来ちゃ駄目だってぇ!

 君まだ子供でしょ? ここは獣医大学……って、ちょっとちょっとぉーー!!」

 

「おい! 子供が紛れ込んでるぞ! 追えーっ!」

 

「あぁっ! 牛舎から牛が逃げたぞぉーー!」

 

「……っ! ……っ!!」

 

 走る。ただひたすらに走る――――

 獣医大学のカレッジに乗り込んだレイは、必死に建物の中を走り回る。

 まぁ、たまに関係ない所にも行ってしまっているが。

 

「誰だ! 七面鳥を解き放ったのは! 廊下が鳥だらけだ!」

 

「マウスがっ!? 実験用のマウスがぁぁーーーっ!! 大行進ですぅぅーーー!!」

 

「犬達を鳴き止ませろっ! 落ち着かせるんだ!

 おーよちよち! おー♪ 可愛いですねぇ~~♪」ワシャワシャ

 

「出入り口を塞げ! 封鎖しろぉー!! 急げぇぇえええーーーッ!!」

 

「待って私のPちゃん! かむばっく! 戻ってきてぇぇーーっ!!」

 

「……っ! ……っ!!」

 

 なんかもう大騒ぎになっているけど……とにかくレイは必死に走る。

 目につく限りの扉を開け、そこら中の部屋に入り、ヘレンを探す。

 事務員さんや生徒さん達に追いかけらながら、隠れたりしながら、時に動物たちを引き連れて大行進したりしながら、パタパタと校舎を駆けていく。

 

「……どこ? どこなのヘレンっ……! どこっ……?!」

 

 こんな広い建物で、右も左も分からず、ひとりぼっち……。

 あまりの心細さに、涙がじわりと滲んでくる。心が潰れそうになる……。

 

 それでも必死に勇気を出して、まるでお守りのようにリツコのサイフをギュッと抱きしめながら、レイは一生懸命に廊下を駆けて行く。

 ただひたすら、大好きなあの子の姿を求めて。

 

 

………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

「……見て分かる通り…………極めて重篤な…………広範囲に渡り……」

 

 レントゲン写真を前に、教授の男が静かな声で講義を行っている。

 

「……脳挫傷、及び外傷性の…………このような例は………極めて……」

 

 その説明を聞き、目の前の見た事も無い症状のレントゲン写真を見て、思わず生徒たちが声を漏らす。

 

「なんだこれ……何で今まで生きてられたんだ……?」

 

「ひどい……こんなのって……」

 

「五感のうちの四つって……マジかよ」

 

「外傷性……事故で? 言っちゃなんだけど、そのまま死んでた方が……」

 

 薄暗い教室に、生徒たちのざわめきが響く。

 教授はそれも当然の事と、構わず症状の説明を行い、講義を進めていく。

 少し離れた場所にある長机……そこに置いたケージの中で眠っている子ぎつねの方を、ちらりと一瞥して。

 

 

「――――」

 

 教授、そして生徒たちは気付かない。いま静かに教室のドアを開け、中に入ってきた少女の事に。

 

「世界的に見ても例が無く、おそらくこの患畜の余命は…………ん?」

 

 今、レントゲン写真を指差し講義をしていた教授が振り向くと、そこには音も無くその場に立っている、レイの姿があった。

 

「君は、赤木博士の所の……」

 

 数日前の朝、子ぎつねを迎えにいった時に見た、あの儚げな雰囲気の少女。

 いま静かに己の目の前に立たっているその少女を、教授の男は目を見開いて見つめる。

 

 

「ヘレンを……かえして――――」

 

 

 小さく震える、今にも泣きそうな声。

 そのあまりにも純粋な瞳に見つめられ、教授の男は言葉を失う。

 

「いったの、まもるって。

 いっしょにいるって……やくそくしたの。

 ずっと、そばにいるって……」

 

 男は、何も言えずにいる。それはこの場の生徒たちも同じ。

 けして動く事が、出来ずにいる。まるで時が止まったかのように。

 

 

「ヘレンを、かえしてください。

 いっしょに、いさせてください……。

 ……わたし、もっとがんばる。がんばるから……」

 

 

 ポタリと、涙の雫が落ちた。

 大きな瞳から、沢山の涙がこぼれた。

 

 その光景の前に、この場の者達はただ立ちすくむばかり。

 しかし……そんな静かな時間が、突然出入り口から響いた声によって壊される。

 

「オイいたぞ、あの子だ! 捕まえろ!!」

 

「待てっ! 動くんじゃない!!」

 

 即座に教室に押し入り、レイを取り押さえる男達。

 レイは髪を振り乱し、涙を流しながら必死に抵抗する。けれど、とても大人達の力には敵わない。

 

「何をしている! やめないかっ! そんな子供にっ!」

 

「教授っ?! し、しかし……!」

 

 生徒も事務員も入り乱れ、この場はもう取っ組み合いの様相。

 その子を離せとばかりにしがみ付いてくる生徒達に、事務員たちはもうどうしていいのか分からず困惑するばかり。

 

「ヘレン! ヘレンをかえしてっ! ヘレンっ!」

 

 両腕を押さえられながらも、必死に抵抗するレイ。泣きながら懇願するその声は、大人達の声にかき消されていく。

 

 けれど――――突然その場に響いた"鳴き声"に、この場にいた全ての者が、動きを止めた。

 

 

『 キョオォォォーーン! キョキョオォォォーーン! 』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……しばしの沈黙が、辺りを包み込んだ。

 この場にいる誰もが手を止めて振り向き……そこにあるケージの方を見た。

 

「――――母親を、呼ぶ時の声だ……」

 

 ボソリと、生徒の一人が呟く。

 

「教授っ、鳴きましたっ! あの子鳴きましたよ?!」

 

「ありえないっ……!」

 

 またひとり、またひとりと、生徒たちが声を上げる。

 教授はただその場に立ち尽くし、放心したように子ぎつねを見ている。

 

 

「ヘレン……?」

 

 そんな中で、ただ一人……。

 今もおかあさんを呼ぶ声を上げている子ぎつねの方へと、ゆっくりと歩いて行く少女。

 

 

「ヘレン、わかるの……?

 わたしのことが……わかる……?」

 

 

 

 

 

………………………………………………

 

 

 やがて、その場の者達が見守る中……レイがヘレンのもとに辿り着き、そっと身体を抱き上げる。

 

 

「ごめんなさい、ヘレン。……さびしかった?」

 

 

 優しい顔。

 慈しむような、優しい仕草。

 

 

「いいの。そのままのヘレンで、いい……。

 ヘレンがいっしょにいてくれれば…………いい」

 

 

 その存在、命をも包み込むようにして。

 今、しっかりとヘレンを、抱きしめる。

 

 

「ヘレン、おかあさんよ。

 おかあさん、きたわ――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レイの頬を伝う、暖かい涙。

 

 それが今、安心したように眠るヘレンのほっぺに、ポトリと落ちた。

 

 

 

 



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太陽の下。

 

 

 モコモコした柔らかいタオルの上に、ヘレンを乗せる。

 

 自転車の前かご。痛くないように、居心地が良いようにと敷き詰められたタオルに包まれたヘレンが、可愛らしい顔でレイの顔を見ている。

 

 それに微笑みを返し、優しく頭をひと撫でしてから……レイは自転車に乗り込み、そっとペダルをこぎ始める。

 いつものコテージを後にし、柔らかなカーブを描く森林の中の道を、ゆっくりと進んで行く。

 

 

「――――」

 

 澄んだ空気。森林の匂い。気持ちの良い風。

 暖かく照らす、おひさまの光。その眩しさに目を細める。

 

 やがて二人を乗せた自転車は森林を抜け、大きな一本道に出る。その途端に一気に視界が開けた。

 

 遠くに見える山々。どこまでも広がる透き通った青空。フワフワと浮かぶ大きな雲。

 柔らかな陽気が照らす、北海道の美しい景色。

 

 この見渡す限りの草原に囲まれた、長い長い道は、海へと続いている。

 

「ほらヘレン、海が見えてきたわ」

 

 景色を楽しみながら。自転車は進んでいく。

 遠くに見える海を目指し、穏やかな坂道を、下っていく。

 

 

「空、光、風……」

 

 

 身体中で世界を感じながら……そのひとつひとつを、言葉にする。

 

 ゆっくりと、優しく。

 この子に教えてやるように。

 

 

「海――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふたりで、同じ方を向いて。

 

 どこまでも進んで行く。

 

 

 

 

 

 

…………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 その後の話をしよう。

 

 あの獣医大学から連れ帰ってきた日。それ以降ヘレンの病状は、日に日に悪くなっていった。

 目や耳か効かない事からの癇癪ではなく、レイの目から見ても明らかな"発作"だと分かる症状。それが日を追うごとに増えていったのだった。

 

 

 ある日ヘレンは、横になった状態から立ち上がる(・・・・・・・・・・・・・・)事が、出来なくなっていた。

 いつものようにリラックスした状態で、四本の脚を投げ出してお昼寝をしていたヘレンは、目を覚まして起き上がろうとしても、ただ床の上でジタバタともがく事しか出来なかった。

 

 横に寝そべった状態から、まっすぐ身体を起こして、立ち上がる。

 その極自然な当たり前の動作が、ヘレンには出来なくなった。

 

 目を覚ました途端に「ここがどこだか分からない、自分がどうなっているのか分からない」、そんな風に床の上で暴れ出す。

 起き上がれない、何も分からないという恐怖に抗うように暴れ、そこら中にある物に噛みついていった。

 

 まわりに噛む物が何も見当たらなかった時は、さらに大変だった。左右に頭を振りまわし、その場でバタバタと周りながら、もう必死に攻撃の出来る対象を探した。

 空振りをし、なにもない空間にガチリと噛みついてしまえば、そこからパニックに陥った。

 

 もう手あたり次第というように、次々に何も無い空間へと噛みつき、ひたすらに暴れ続ける。

 壁や檻に突進し、そこで頭や鼻にぶつかった物に、なんでも噛みついていった。

 

 

 これは明らかに、ただ「起き上がるのを誰かに邪魔されたと思い込んで怒っている」……というような物では無い。

 脳や神経の一部に問題があり、それによって引き起こされている"発作"だ。

 その様は以前とは比べ物にならない程に、常軌を逸していた。

 

 その日以降、ヘレンのこういった発作は、何度も出るようになる。

 日に3度も4度も発作が起こり、その度にヘレンはそこら中の物に狂ったように噛みつき、突進しては頭をぶつけていった。

 

 

 そうしている内に、ヘレンは口から血を出すようになった。

 興奮して何度も見えない物に噛みついていく内に、自分の舌を噛んでしまうのだ。

 もう発作を起こす度に、ヘレンが口から血を出してしまうのが、当たり前になった。

 

 その為に家の者達は、いつも脱脂綿を巻き付けた割り箸を、傍に置いておくようになった。

 ヘレンが発作を起こす度に、それをいち早く口の中に入れてやり、噛ませてやる。口の中を怪我しないようにしてやる。

 そうでもしなければ、もうどうしようもない状態になっていた。

 

 

 レイは、身体中にたくさん傷を作った。

 これは発作を起こしたヘレンが、無意識に噛んでしまって出来た物だった。

 

 ぐっと足を伸ばし、身体を弓のように曲げながら、ヘレンが時々襲ってくる小さな発作の痛みに、ただじっと耐える姿も見られた。

 

 

 ヘレンの病状は、間違いなく脳に異常がある事を告げている。

 

 あの教授が告げた精密検査の結果を、ハッキリと証明していくようにして。

 ヘレンの状態は、日に日に悪化していった――――

 

 

 

 

「ヘレン、これはタンポポ。タンポポの花」

 

 しかし、たとえどんなに激しい発作でも、耐えがたい痛みに襲われても。

 ヘレンはこうしてレイの腕に抱かれ、そして優しく揺らされると、穏やかさを取り戻した。

 

 たとえそれが一時的な物にせよ……ヘレンはいつも安心したように身を任せ、子ぎつねらしい愛らしい表情を浮かべて、レイの胸で眠るのだ。

 

「タンポポは、花がおわると、フワフワの羽でせかいじゅうを旅するの」

 

 辺り一面に咲く、広大なタンポポ畑。今レイとヘレンは、その中にいる。

 黄色と白の綺麗な花に囲まれた、美しい景色。胸いっぱいに広がる、緑と花の匂い。

 

 それを感じながら、レイは今も穏やかに眠るヘレンを膝に乗せ、そっと語り掛ける。

 花の名前、木の名前。この世界に溢れる沢山の名前をヘレンに教えてやりながら、レイは静かにその瞳を閉じた。

 

 

「きれいね、ヘレン。

 ここは、とてもきれい――――」

 

 

 

 

 何気なくタンポポの花を手に取り、そっと息を吹く。

 

 沢山の白い羽が舞い上がり、風にのって空に飛んでいった。

 

 

……………………………………………………………………

 

 

 三日、四日と、日々は流れていく。

 レイは一日中ヘレンに寄り添い、ヘレンと共に過ごした。

 

 あの獣医大学の件の、次の日。シンジが自分達の住む北海道へと来てくれた。

 そのおかげでレイは任務に手を煩わされる事無く、全ての時間をヘレンの為に使えるようになった。

 

 彼はそれに加え、リツコと共に家事全般を請け負ってくれた。

 レイを元気づけるように、毎日の食事がとても華やかな物になった。美味しいごはんがすごく嬉しかった。

 

 そして、いつもレイを気にかけてくれた。

 時に眠る事なくヘレンの傍に付き添うレイの為に、夜食を用意してくれた。仮眠を取っている間、ヘレンの面倒を見ていてくれた。

 いつも体調を気遣い、その心を支え、優しく寄り添ってくれた。

 そんなシンジに深く感謝しながら、レイはヘレンの為に力を尽くしていく。

 

 

 薬は、次第に効かなくなっていった。

 ヘレンが酷い発作を起こした時に、リツコが安定剤を注射して症状を落ち着かせてくれるのだが、それも効果が薄くなっていった。

 痛みに耐えて苦しむヘレンの姿を見て、歯を食いしばっているアスカの姿も見られた。

 

「安楽死は無しよ、リツコ」

 

 発作の後、力なく横渡るヘレン。日に日にやつれていくレイ。

 そんな彼女たちを見て苦悩するリツコに、アスカは告げる。

 

 

 

 

「ヘレン、もうすぐたくさんの花が咲くわ。

 夏になったら、もっとたくさんの花が咲くの」

 

 近頃のヘレンは、ずっとレイの膝の上にいるか、その腕の中にいる事が多くなった。

 そうしていれば、ヘレンは穏やかでいられた。たとえ発作の痛みに苛まれようとも、レイの存在を感じて安心する事が出来た。

 

 

 症状が落ち着いている時……レイはよくこうして、散歩に出かけている。

 ヘレンを連れて、高原や砂丘やタンポポ畑に出掛け、二人でのんびりと景色を眺める。

 

 風、光、花の匂い。身体中で世界を感じる。

 

 誰にも邪魔されず、静かに。ゆっくりとした時間を、二人で過ごす。

 

 

「たのしみね、ヘレン。……きっとキレイ。

 そしたらまたお弁当をもって、ピクニックにいくの」

 

 

 優しく語り掛けながら、レイはヘレンを抱き上げ、この子の耳の後ろや、首の後ろをちょこんと摘まむ。

 するとヘレンは仰向けになって、機嫌よく前足と後ろ脚をパタパタと動かす。

 

 症状が落ち着いている時、よくレイはこうしてヘレンと遊ぶ。

 こうして触れる事で、ヘレンとちょっとした会話をする事が出来た。気持ちを交わす事が出来るのだ。

 

 楽しそうにパタパタと動いている足を、軽く握ったり離したりしてやる。

 するとそれに合わせて、ヘレンがまた足を動かす。

 パタパタ。にぎにぎ。パタパタ、にぎにぎ。そうやって二人でじゃれて遊ぶ。

 

 たまにヘレンがあぐあぐと口を開けるので、そっと指を中に入れてやる。

 するとヘレンはそれを軽く噛みながら、ふりふりと楽しそうに首を振る。

 

 ちゃんと弱い力でしてくれるので、指の方はぜんぜん痛くない。

 赤ちゃんが哺乳瓶を咥える感じで甘えているので、むしろペロペロとくすぐったい心地だ。

 

 まぁだんだんヘレンが楽しくなってくると、ちょっとずつ噛む力が強くなっていったりもするけれど……、おおむね問題はない。どんとこいだ。

 

 たとえやってる内に興奮してきても、いつもこうやってゆらゆら優しく揺らされると、ヘレンは今までの興奮を忘れたように、すぐに落ち着いた。

 そしておかあさんの胸で甘えるように、安心してスヤスヤと眠るのだ。

 

 ヘレンとレイにとって。

 こんな風にして二人で過ごす時間が、一番幸せな時だった――――

 

 

「ピクニック、いこうね。

 たくさんキレイな花を、ヘレンにみせてあげる。

 夏に、なったら……」

 

 

 

………………………………………………………………

 

 

 ヘレンの愛らしかった顔は、次第に失われていった。

 

 ある日の深夜。発作に襲われて苦しむヘレンの顔を見て、レイははっと息を止める。

 

 恐ろしい顔だった――――

 額には何重もの皺が寄り、まん丸だった愛らしい目は、後ろに引っ張られるように細く尖っていた。

 唸り声をあげて、歯をむき出しにし、その唇は耳の方に大きく引き寄せられている。

 そして身体はブルブルと震え、時折歯がカチカチと音を鳴らしている。

 

 痛みと苦しみと、恐怖。

 それに必死に抗うように、近づく物があれば噛み殺すと言わんばかりに、ただじっと構えていた。

 

「ヘレン、痛いの?! どこなのっ? どこが痛いのっ?!」

 

 レイの胸に抱かれて優しく揺らされているヘレンを覗き込み、アスカが涙ながらに声を掛ける。

 そして慈しむようにして、あちこちをさすってやる。

 

 そうされた事で、ヘレンの表情が穏やかな物に変わっていく。

 身体中の緊張が抜けて、愛らしい元の子ぎつねの顔に戻ていった。

 

 レイの腕の中、ぐったりと力なく抱かれるヘレンが……とても小さくフリフリと尻尾を動かす。

 

 キツネという動物の感情。"嬉しい"という気持ち……。

 それをレイ達に伝えようとするように。

 

 

 しかしその安らぎも、10分と続かなかった。

 すぐさま次の発作がヘレンを襲い、その耐えがたい苦しみによって、その表情は恐ろしい物へと変わる。

 見ていられない程の、痛ましい姿だった。

 

 

「綾波、少し眠らないと駄目だ。綾波が倒れちゃう。

 ぼくが代わるから、今日はもうベッドに入りな?」

 

 イヤイヤと首を振るレイの手を握り、しっかりと目を見つめて、シンジが言い聞かせる。

 君まで倒れたら、ヘレンはどうなるのさ? いつもそう優しく説いて、寝かしつけてやった。

 

 

 

「 ――――なんでよっ! あんまりよこんなのっ!

  ヘレンがいったい何したって言うのよッ!! 」

 

 リツコの白衣を掴み、アスカは問い詰める。

 八つ当たりなのは、分かってる。……でもそうせずにはいられなかった。

 

「 誰よやったのは!! ……人間なんでしょ?!

  誰がヘレンを撥ねたの! 誰がこんな風にしたのよッ!! 」

 

 縋りつくようにして声をあげ、アスカが涙を流す。

 

「……なんでっ……なんでよっ……。

 なんでこの子がっ! …………こんなっ……!」

 

 

 崩れ落ちるように、アスカの力が抜けていく。

 リツコはただ、こうしてその身体を抱きしめてやる事しか、出来ずにいた。

 

 

 

 

 

 今もレイに見守られながら、静かな寝息を立てるヘレン。

 

 いつも発作の後、ヘレンはこうして死んだように眠った。

 疲れ果て、まるで全ての力を使い果たしたみたいに、力なく身体を横たえていた。

 

 

 さっきまでの顔が、まるで嘘だったみたいに、穏やかな顔――――

 

 ヘレンにこの優しい時間が、いつまでも続きますように。

 

 そうレイは、神様に祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

 

「あぁ! それならあそこが良いよ! いま画像を送るねっ!」

 

 

 受話器から、マリの元気な声が聞こえている。

 

 窓からお日様の光が差し込む、早朝。

 ある日の朝、遠く第三新東京市にいる彼女が、レイに電話をかけてきてくれたのだ。

 

「えっとね? この前そっちに行った時に、見つけた場所なんだけどね?

 そこがも~凄いのっ! 楽園って感じだった!

 きっと気に入ると思うよ♪」

 

 

 やがてお礼を言って電話を終えた後……、レイは書斎にあるパソコンを起動し、マリから貰った一通のメールを確認する。

 そこには彼女が言っていた場所の所載な地図と行き方が書いてあり、そしてマリが撮ったであろう、一枚の写真の画像が送付されていた。

 

 

「……っ!」

 

 その写真の画像を見た途端、レイは目を見開く。

 

 ここだ――――

 レイが頭に思い描いていた場所……そのままの風景が、そこにあったのだ。

 

 暫くの間レイはポ~っとし、画像の風景を見つめていた。

 やがてレイは胸元で手をギュッと握り、「うん」と確認するように、強く頷く。

 

 しかし、その時……

 

 

「――――綾波っ! ヘレンがっ! 早くリビングに!!」

 

 

 シンジの緊迫した声を聞いた途端、レイは飛び出すように部屋を出ていった。

 

 

……………………………………………………………

 

 

「綾波っ、こっちだ! ……ヘレンがっ!」

 

 階段を下り、リビングに駆け込むと、リビングの惨状が目に入る。

 床には沢山の小物、そして沢山の綿が散乱している。

 ……それはヘレンがいつも抱き枕にして一緒に眠っていた人形、その喰い破られた中身である事が分かった。

 

 シンジの声を頼りに近寄ってみると、そこには狂ったようにその場で跳ねまわるヘレンの姿。

 暴れる、というよりも、この上ない痛みにもがき苦しんでいるように思えた。

 

「……ヘレン」

 

 その顔は、まるで以前TVで観た"夜叉"のようだった。

 誰よりも愛らしかったヘレンの顔が、恐怖を感じてしまう程の恐ろしい顔に変貌していた。

 

 これまでに無い程、もうとても見るに堪えない程の……酷い姿。

 ヘレンが己に迫ってくる逃れられない運命に対し、心から怒っているような……そんな悲しい光景に見えた。

 

「ヘレン……苦しい? 苦しいの……?」

 

 放心したように、レイがフラフラと寄って行く。

 シンジが止める間もなく手を差し出した途端、ヘレンはそれにガブリと噛み付く。

 

「綾波っ! 駄目だッ!」

 

 慌てて引き剥がし、ヘレンから距離を取らせる。

 噛まれた指から、止めどなく赤い血が流れていく。

 

「――――レイ、シンジくん、下がりなさい」

 

 廊下から、注射器を持って来たリツコとアスカが現れ、ヘレンのもとに近づいていく。

 

「安定剤を打つわ。……もう気休め程度だけど」

 

 リツコ達が必死にヘレンを押さえつけながら、安定剤を注射する。その様子を、レイがただ目を見開いたまま、じっと見守った。

 

 

 

「…………アスカ、これまでよ。

 もう私達がしてあげられる事は……何も無い」

 

 狂ったように見開いていた目が、ゆっくりと閉じていく……。

 ヘレンはぐったりと床に寝そべっており、その呼吸音とゆっくりした腹の動きだけが、この子がまだ生きているという事を皆に知らせている。

 

 その姿を見つめながら、力の無い声でリツコが告げる。アスカは黙ってその場に座るばかり。

 

「もう、楽にしてあげましょう……。

 ヘレンは、精一杯がんばった。精一杯生きたわ」

 

 

 一度だけ静かに目を閉じた後、リツコはその場から立ち上がり、廊下に向かって歩き出す。

 

 部屋にある、安楽死の為の薬を取りにいく為に。

 

 

 

 

「……………………綾波?」

 

 

 ふと、シンジの声に足を止める。

 リツコが振り返ると、そこにはそっとヘレンの身体を抱き上げる、レイの姿があった。

 

「綾波っ! どこ行くの……?」

 

 優しく、慈しむようにしてヘレンを抱きかかえたレイが、玄関の方に向けて歩いて行く。

 

 

 

 今レイが、ゆっくりとシンジに振り返る。

 

 思わず見惚れてしまう程の、柔らかな表情……。

 

 柔らかな声で……

 

 

「ヘレンに、夏をみせてあげるの――――」

 

 

 

 

 

 そう、微笑みを返した。

 

 

 

 

………………………

………………………………………………

…………………………………………………………………………………………

 

 

 

 

 

 暖かな太陽が照らす、北海道の広大な草原。

 

 それを二つに割るようにして、地平線の彼方までまっすぐに続く道を、駆けて行く。

 

 ヘレンとふたり、自転車に乗って。

 風を身体に受けながら、心地よい日差しを感じながら。いつものように、走っていく。

 

「――――」

 

 

 何度も、この道を通った。

 ヘレンとふたりで、いつも自転車で走った。

 

 流れていく景色。

 美しい山々。風に揺れる草花。キラキラと輝く小川。

 ヘレンと出会った草原のくぼ地。いつも一緒にお昼寝をしていた、あの大きな木。

 

 そのひとつひとつに、思い出がある。

 二人で一緒に遊んだ、大切な思い出が。

 

 

 

 それを眺めながら走るうちに、やがて自転車は、海へとたどり着く。

 

 ここは、みんなと一緒に来た浜辺とは、少し違う場所にある所。マリからメールで教えてもらった場所。

 どこか寂しいような、寂れたような……そんな雰囲気のある、静かな場所だった。

 

 

「あっ、あそこ……」

 

 レイは浜辺に自転車を止めて、目の前に現れた小高い丘を見つめる。

 

 海の反対側にある、豊かな草が生い茂る丘。

 その奥には……赤や黄色や紫といった沢山の花が咲く、とても綺麗な場所があった。

 

 本当はまだ少し早いハズの花々。まるでそこだけ夏が訪れたような、美しい花畑が姿を現したのだ。

 

 

「ヘレン、少しまってて?」

 

 今も静かに眠るヘレンをそっと地面に降ろし、レイはひとり丘に向けて駆けて行く。

 

 木の柵をよいしょと乗り越え、ジャンプして降り立つ。

 そしてテテテと小さく走り、がんばって丘の上に登っていく。

 

 

「っ……」

 

 そして辿り着いたのは、思わず驚嘆の声が漏れる程に、美しい光景。

 視界いっぱいに広がる、色鮮やかな花々。

 

「っ!」

 

 レイは「よし!」とばかりに腕まくり(の仕草だけを)して、この場にある色とりどりの花々を摘んでいく。

 ちょこんとしゃがみ、その顔にほのかに笑みを浮かべながら、よいしょよいしょと花を集めていく。

 

 やがてレイの上着の上に乗せた花々が、溢れんばかりに一杯になった時……

 

 

『 キョォォォーーン……! キョキョオォォォォーーン……!! 』

 

 

 レイの後ろ。

 ヘレンの待つ浜辺の方から、鳴き声が聞こえてきた。

 

 

…………………………………………………………………………

 

 

「ねぇ、あれ……」

 

「レイを……呼んでるんだわ」

 

 車に乗り、この場に駆けつけた三人は、遠くから聞こえるヘレンの声を聞き、驚愕の表情を浮かべる。

 

 ヘレンのいる浜辺から少し離れた丘の上で立ち止まり、今も"おかあさん"を呼んで鳴いているヘレンの姿を、ただじっと見つめる。

 

 

 

 

「ヘレン――――」

 

 その鳴き声を聞き、レイは急いで花を包んだ上着を抱え、浜辺へと引き返す。

 途中おっとっとと転びそうになったが、なんとか一生懸命に踏み止まり、ヘレンのもとに戻っていった。

 

「ヘレン、おまたせ」

 

 そしてこの場に戻った途端、レイはヘレンの傍にペタリと座り、上着に包んでいた花々をせっせと取り出していく。

 

 赤、青、黄、紫、白――――沢山の色鮮やかな花をヘレンのまわりに並べる。

 

 やがてヘレンのいる場所は、一面の綺麗な花畑になった。

 

 

「ヘレン――――夏だよ」

 

 

 

 

 

………………………………………………………………………………

 

 

「ヘレンは……良い親に恵まれたよ」

 

 遠くにある二人の姿を見つめながら、シンジが柔らかく微笑む。

 リツコもアスカも、ただ目の前の美しい光景から、目を離せずにいる。

 

 

 

 沢山の花に囲まれ、無邪気に遊ぶヘレン。

 レイは両手に花びらを持ち、それをヘレンの上にフワッと降らせていく。

 沢山の色鮮やかな花びらが、まるでヘレンを祝福するように舞っていく。

 

 パクッと食べてみたり、お花の絨毯を転がってみたり、かけっこをしてみたり。

 

 ヘレンは、心から嬉しそうに遊ぶ。

 

 レイのプレゼントした"夏"を、元気よく駆けまわっていく――――

 

 

 

 

 

「ほらヘレン、おいで……?」

 

 

 そんな風にして遊ぶうち、やがてヘレンがレイの足にスリスリと身を寄せ、「だっこして」という意思表示を見せた。

 レイはヘレンをそっと持ち上げ、いつものように抱きかかえて、ゆらゆらと揺らしてやる。

 

 おかあさんが子供にするように。

 優しい揺り籠のように。

 

 

「ヘレン? ほら」

 

 安心したように瞳を閉じる、ヘレン。

 その小さな前足をそっと握ってやり、ヘレンに「遊びましょう?」と語り掛ける。

 

 言葉なんか、いらない。

 レイにはもう、ヘレンの気持ちが手に取るように分かる。

 

「ほら、ヘレン。今度はこっち」

 

 レイの動きに合わせて、ヘレンも前足をふりふり動かす。

 じゃれるように、甘えるように。大好きなおかあさんと遊ぶ。

 

「ずっといっしょに、遊んでいようね」

 

 にぎにぎ、フリフリ。

 にぎにぎ、フリフリ。

 

 この子と会話をするように。この時を、胸に刻みつけるように……。

 レイはヘレンと遊ぶ。

 なにげない二人の時間を、共に過ごしていく。

 

「ほら、ヘレン? ……ヘレンの番よ?」

 

 ウトウトと目を閉じていくヘレンに、やさしく語り掛ける。

 そっと握ってやると、またヘレンがゆっくりと前足を動かしてくれる。

 

「……ヘレン? ほら、遊びましょう?

 ヘレンの番」

 

 やがてヘレンの反応はだんだんと遅くなっていき、その瞼がゆっくりと閉じていく。

 

「ヘレン……どうしたの? ほら……」

 

 にぎにぎ。

 …………にぎにぎ。

 ……………………にぎにぎ。

 

 交代でしなくちゃいけないのに、ふたりでする遊びなのに、だんだんレイの番ばかりが増えていく。

 フリフリをする間隔が、どんどんどんどん、長くなっていく。

 

 そして――――

 

「ヘレン? ほら、ヘレンの番よ。………………ヘレン?」

 

 

 

 

 

 

 ――――――ぱたっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とても安らかな顔で、幸せそうに瞳を閉じて。

 

 その小さな前足が、最後の音を立てた――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………………………………………………………………………………

 

 

 

「……ッッ!」

 

 リツコが手で口を覆い、目線を外す。

 耐え切れずと言ったように。…………そして、目に滲む涙を隠すようにして。

 

「ファースト……」

 

 アスカは、ただ見つめ続ける。

 まるで見入ってしまったように、動けずにいた。

 

 

 

 

 今、沢山の花に囲まれた中で……

 その胸にヘレンを抱いたレイが、そっと空を見上げる(・・・・・・)――――

 

 

「――――」

 

 静かな表情。感情の視えない顔で。

 ただじっと、レイが空を見上げている――――

 

 

 

 透き通るような、空。

 

 広くて、大きくて、胸がすくような、青空。

 

 どこまでも続くような、決して手が届かない、遠い空。

 

 レイはそれを、ただじっと見上げ続ける。

 大好きなこの子を、その胸に抱いて。

 

 

 

「当たり前だ……綾波は分かっていたんだもの。

 最初から全部分かってて……その上でヘレンと一緒にいたんだもの」

 

 シンジは最初、レイは泣くんだと思っていた。

 ヘレンの死を悲しみ、子供のように大きな声を上げて、泣くのかと。

 

 ……けれど、それは違う。

 だってレイは、全てを覚悟した上で、ヘレンと一緒にいた。

 

 いつか別れがくる。こうなる日がやってくる。……それを全て分かった上で、ふたりで歩んで来たんだから。

 

 

 一週間と生きられない、そう言われていた。

 獣医も、まわりの大人達も、ただ首を横に振っていた。

 

 それでも頑張って、ふたりで歩いてきた――――

 この一か月という時を、ふたり一緒に乗り越えてきた。

 

「綾波が頑張ったから……ヘレンも頑張れた。

 綾波はヘレンを育てたけど、ヘレンも綾波を育てた」

 

 

 その言葉に、リツコの視界が滲んでいく。

 零れ落ちていく涙を拭う事も忘れ……リツコは遠く眼前の、眩いばかりの太陽の光に照らされたレイの姿を見つめる。

 

 

 

 

 涙は、流さない――――

 でもレイは、ただじっと、空を見上げる――――

 

 

 それは、"受け止めている"ように見えた。

 いま腕の中にある、命を……しっかりと受け止めるように。

 

 同時に、"問いかけている"ようにも、見えた。

 空の上。そこに住むとても偉い誰かに、「どうして」と。

 そうじっと、神様に問いかけているようにも見えた。

 

 

 

 

 子供のように純粋な目が、まっすぐに空を見つめている――――

 

 

 その光景を……三人はいつまでも、見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………………………

………………………………………………

………………………………………………………………………………………………

 

 

 

 

『わたしが死んでも、代わりはいるもの――――』

 

 

 前に、そう口にした事がある。

 当たり前のように、自然に呟いた言葉だ。

 

 

 ……けれど今、私はその言葉を口にする事に、強い抵抗を感じている。

 

 死んでも良い。代わりはいる。

 そんな"命"があるなんて、認める事が出来ずにいる。

 私の心の奥の部分が、そう言ってる。

 

 

 だって、この子が教えてくれたもの。この子が見せてくれたもの。

 

 

 この子は決して"価値の無い命"なんかじゃない――――

 

 だって私は、この子をとても愛おしいと、感じるもの。

 

 

 たとえ、目が見えなくても。

 耳が聞こえなくても。

 

 それでもこの子は、自分の命を精一杯に、生きたでしょう?

 

 

 

 

 

 

……………………………………………………………………………………

 

 

 

『多分、わたしは三人目だと思うから』

 

 

 そう碇シンジという少年に言い捨てて、綾波レイは自分の部屋に戻った。

 

「――――」

 

 誰とも話さず、言葉を交わす事も無く、自宅までの道をただ漠然と歩き、この部屋に戻って来た。

 

「……」

 

 扉を開けたそこは、打ちっ放しコンクリートの壁に囲まれた、殺風景な部屋。

 家具も無ければ、白と灰色以外の色も無い。

 締め切られた窓もカーテンも開ける事はせず、ただ今日する事は全て終わったと言うように、ベッドの上に腰掛ける。

 そこから長い時間、綾波レイは何もする事無く、ただそうしていた。

 

 

 

「……?」

 

 ふと、何気なく見つめた視線の先。

 そこに綾波レイは、ベッドテーブルに置かれた、シンプルなデザインの写真立てを見つける。

 

「……これは、なに?」

 

 何気なく手に取り、それを眺める。

 当然の事だが、綾波レイはその写真に心当たりなど無い。

 これは恐らく、自分の前の"二人目の綾波レイ"の持ち物。誰が撮影したのかは分からないが、それを彼女が写真立てに入れ、こうして大切に枕元に飾っていたのだろう。

 

 綾波レイはその表情も変える事無く、ただじっと手にある写真を、見つめ続ける。

 

 

 

「――――っ」

 

 ふと、足元からポタリという音が聞こえる。

 床に目をやってみれば、そこにはたった今落ちたのであろう水滴らしき跡がある。

 

 何かはわからない。だが綾波レイが何気なく自分の顔に手を持っていくと、自分の頬の辺りに水滴がある事に気が付く。

 そしてそれは、今も自分の瞳から零れ落ち続ける"涙"である事を、知った。

 

 

「……ないてる? 泣いてるの? ……私……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、綾波レイと小さな子ぎつねが、寄り添い合って眠っている光景。

 

 お互いの鼓動を感じながら、ふたり一緒にスヤスヤと眠る。

 

 そんな、とても幸せな写真――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――fin――

 

 

 



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