彼は、英雄とは呼ばれずに (トド)
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第一章 エルマイラムの冒険者
① 『事件』


 今回の事件でも、私にできることなんて何もありませんでした。

 

 そんな自分が悔しくて、恨めしくて仕方がなくて……。

 

 けれど、そんな気持ちを押し殺して、私は笑顔を浮かべます。

 

 この言葉を伝えることだけが、今の私にできる精一杯。

 

 だからその一言に、この胸から溢れ出しそうな気持ちをすべて込めました。

 

 ほんの僅かでも労いたかったんです。

 

 精一杯頑張ったあの人を、せめて、私達だけでも……。

 

 

 

 

第一章 『エルマイラムの冒険者』

 

 

 

 お世辞にも広いとは言えないこの料理店にこだましていた、料理を絶賛する自警団の男たちの声が、次第に少なくなっていく。

 皆、美味しい料理をお腹にためて幸せそうな顔をしていたが、店を出る頃には表情を引き締め、しっかりとした足取りで石畳を踏みしめて出ていくのだ。

 

「イルリア。後のことは頼む」

 自警団のメンバーに少し遅れて、最後に店を出ていこうとするあいつが、珍しく私に声をかけてきた。

 わざわざ言われなくても、この店を守ることくらいは私にだってできるのに。

 

「そんなに念を押さなくても大丈夫に決まっているでしょう。あんたこそ、バルネアさんとメルを泣かせるようなことにならないようにしなさいよ」

 私の棘のある言葉にも、あいつは無表情で「ああ」と返事を返すだけ。

 

「ジェノさん、気を付けて……」

「無理はしちゃだめよ、ジェノちゃん」

 メルとバルネアさんの言葉にも、あいつは小さく頷いただけで、そのまま出かけて行った。

 

「私じゃあ足手まといにしかならないのは分かっているけれど、こういう扱いをされるのは、やっぱり面白くないわね」

 自警団の団員達が空にしていった皿を下げるのを手伝いながら、私は心のうちで文句を呟く。

 

 私が今いるこのお店の名は<パニヨン>という。エルマイラム王国でも名うての料理店だ。だが、あまりの人気と料理人が一人しかいないことから、昼過ぎには仕込んでいた食材が底をついて閉店してしまうことでも有名な店だ。だから当然、今のような夕方には普段なら客の姿はないはずだった。

 

 しかし、この数日は、夕方も自警団の団員のために料理を供給している。それもこれもあの事件のせいだ。

 

「イルリアさん、お皿はそこに置いておいてください」

 

 栗色の髪のおとなしそうな雰囲気の少女が、厨房に皿を運ぶなり私にそう声をかけてくる。この女の子の名はメルエーナ。私はメルと呼んでいる。歳は私やあいつと同じ十七歳なのだけど、家事全般が得意な心優しい人間だ。……私なんかとは正反対に。

 

 だが、そんな似つかわしくない相手同士なのが幸いしたのか、またはメルが他人に打ち解けやすいのかは分からないが、付き合いは短くても私とメルの仲は良好だ。それこそ、親友と呼んでも差支えがないほどには。

 

「うん、うん。みんな綺麗に残さず食べてくれたわね」

 メルの隣で空になった鍋を確認し、満足げにバルネアさんが頷いている。

 

 金色で長い髪を編んでまとめたコックコート姿のこの女性が、この店のただ一人の料理人、バルネアである。

 

 若作りであり、実際に歳もまだ三十代の半ばくらいのはずなのだが、名だたる料理人達を抑え、その料理の腕はこの国の国王様から、『我が国の誉れである』とまで讃えられたほどなのらしい。

 もっとも、気さくすぎるほど気さくな人柄のため、良いか悪いかはわからないが、そんな凄い人にはまるで思えない。

 

 そんな彼女にウエイターのジェノとウエイトレスのメルエーナを加えた三人が、この料理店<パニヨン>のメインスタッフだ。

 

 メルもジェノも、親達がバルネアさんの知り合いらしく、今は社会勉強という形でこの家に居候し、同じ屋根の下で暮らしている。

 二人共、調理の筋がいいとバルネアさんがよく言っているのを聞くので、私は一緒に料理人の道に進めばいいのにと心から思う。

 

「それはそうですよ。バルネアさんの料理ですから。自警団の皆さんも、バルネアさんの料理が食べられることだけが楽しみだと言っていましたよ」

「ええ。メルの言うとおりですよ。あっ、皿洗い、私も手伝います」

 メルに同意し、腕まくりをして皿洗いを手伝うことにする。

 

 私は手際よく次々に皿を洗っていく。自分で言うのもなんだが、ずいぶんと皿洗いも上達したと思う。ついこの間まで食器を洗ったこともなかった人間にしては。

 

「お皿洗い、上手になりましたね、イルリアさん」

 そんな私の心を読んだように、皿を洗う手は動かしたまま、笑顔でメルが話しかけてくる。

 

「まぁね。慣れね、こういうのも」

 最初は皿を落として割ってしまったら大変だと恐る恐るやっていたが、最近になってようやくコツをつかんできた気がする。

 

「そうですね。ですが、確かに慣れももちろんありますけれど、イルリアさんが頑張ったからですよ」

 メルに褒められて、こそばゆいような、面映いような気持ちになってしまう。

 

「ふふっ。メルちゃんの言うとおりよ。丁寧な仕事だから安心して任せられるわ」

「もう、やめてくださいよ。バルネアさんまで、そんな事を言うのは……」

 私の抗議の声に、しかしバルネアさんは、メルエーナと一緒に楽しそうに微笑むだけだ。

 

 まったく、こんな平和な会話を続けていると、今が『非常時』だということを忘れてしまいそうだ。

 

「さてと、それじゃあ、私は夜食の準備をしなくちゃね。頑張っているみんなが少しでも元気になれるように」

 バルネアさんはそう言って、食材を取りに貯蔵室に向かって行った。

 

 いつもどおりに料理店を営業しているだけでも大変なのに、さらに夕食を作り、その上夜食までも作り続けている。バルネアさんがバイタリティに溢れた人間なのは分かっているが、こんな日がさらに何日も続いては、さすがに身が持たないだろう。

 

「……早く解決するといいですよね」

 私の思いが顔に出ていたのだろう。バルネアさんが厨房を離れるとすぐに、メルが私に声をかけてくる。

 

「そうね……」

 メルの言葉に同意しながらも、しかし私はこの事件がすぐに解決するとは思えなかった。

 

 

 

 ――この事件の始まりは、二週間前に遡る。

 

 街灯の明かりがようやく灯った夕暮れ時、一組の親子が『そいつ』に襲われた。父親は背中を深く切裂かれ重体で、今もベッドから起き上がれないのだという。そして彼の子供は、まだ十歳にもならない幼子だったが、幸い父親が庇ったため外傷を受けることはなかった。

 

 目撃者であるその子の証言では、父親を襲ったのは、人の背丈よりも大きな巨大な猿のような化け物だった。

 

 しかし、その幼子の言葉は、父親が襲われたことにショックを受けて幻覚を見たのだろうと推測された。

 

 このナイムの街は、エルマイラム王国の首都である。その警備も厳重なものだ。

 

 そもそも、船での入港の際には厳しいチェックが行われているし、陸路では、昼夜を問わずに見張りが駐在する三か所の門からしかこの街には入ることができない。そんな警備を抜けて、幼子が言うような化け物が街に侵入するはずがないと誰もが思った。

 

 しかし、第二、第三の犠牲者が発生し、目撃者からも巨大な猿の化け物の証言が何例も報告されては、この街の治安を守る自警団にとっても放っておくことができない重要案件になっていった。

 

 そして、毎晩のように新たな犠牲者の死体が発見され続け、いっこうに犯人の手掛かりは掴めていないのが現状だ。

 

「冒険者ギルドに自警団から依頼されているから、あいつに首を突っ込むなとは言えない。それに、万が一、あの時みたいなことになったら……」

 私は皿を全て洗い終わり、心の内で呟いて小さく息をつく。

 

 

 <冒険者>と呼ばれる職種の人間がいる。その名のとおり、様々な未開の地などを旅し、冒険をしながら生計を立てる人間だ。

 もっとも、この街の広場に巨大な像が祀られている、かの冒険者の英雄と名高いファリルの時代ならともかく、彼の存命だった時代から数百年も経ったこのご時世に、この広大なエルマイラム王国でも未開の地などそう残っているものではない。

 

 冒険譚に出てくる、大空を覆いつくすほどの巨大な竜などはすべて伝承にその名を残すのみで、様々な古代の魔法品や財宝が眠る神殿などは、この数百年でそのほとんどが発掘され尽くしてしまった後だ。

 

 そのため、今でも冒険者を名乗る人間など、定職に就かずに叶いもしない夢を追っている馬鹿な人間くらいにしか私は思ってはいなかった。

 

「まったく、そんな私が、兼業で見習いとはいえ、冒険者になってしまうなんてね」

 

 私はメルに他にできる仕事がないか確認し、エプロンを外して厨房近くの客席の一つに腰を下ろす。

 

 手持無沙汰に、横目で食材を手に戻ってきたバルネアさんとメルが料理の味付けで何か話をしているのを見て、本当に仲のいい親子のようだと思い苦笑する。

 そうすると、自然とこの二人を心配させるあのバカな男の顔が脳裏に浮かび、私は不愉快な気持ちになる。

 

「そもそも向いてないのよ。私以上に、あんたが冒険者なんて……」

 思わず文句が口に出てしまったが、幸いなことにメルたちの耳には届かなかったようだ。

 

 

 実際に、冒険者の仕事に携わってみて分かった。その仕事が無意味なものではないことが。

 

 おとぎ話に出てくる時代とは比べるべくもないが、今も魔物と呼ばれる人間に仇なす存在が確認されている。そんな化け物に対抗できる術を持たない人々にとって、それらと戦うことができる冒険者はありがたい存在だ。でも……。

 

「集落から集落への行き来の護衛。害獣の駆除。そして、今回のように街の自警団だけでは人手が足りない場合も駆り出される。結局は、ただの何でも屋じゃないの」

 

 必要上、誰かが冒険者という仕事をやらなければいけないのかもしれない。でも、あいつじゃなくてもいいはずだ。

 

「分かりなさいよ。誰かが必要とする冒険者なんてものは代わりがいるけれど、メルとバルネアさんにとっては、あんたは……」

 

 苛立ちに沸騰しそうな頭を落ち着けようと、私は静かに息を吐いて窓の外に視線を移す。

 すると、窓に映る、短い赤髪の目つきのよくない女の姿が見える。何ということはない自分の顔だ。

 

 肩で切り整えられた赤い髪。そして、私の気の強さがにじみ出たようなツリ目。よく綺麗だなどと言われるが、私は自分のこの顔が大嫌いだ。

 ジェノ以上に腹立たしく、嫌悪する存在を思い出してしまうから。

 

「ああっ、もう!」

 ついに堪えきれなくなって、私は声を上げて、テーブルを両手で軽く叩く。

 

「まったく、なんで私がこんな思いをしなければいけないのよ!」

 あの馬鹿の事で、イライラしている自分自身が腹立たしい。

 

 そんな憤懣遣る方無い私に、やんわりとした声が耳に入る。

 

「イルリアさん、お茶が入りましたよ」

 いつの間にかそばまでやってきていたメルが、苦笑交じりに声をかけてきたのだ。

 

「あっ、ええ。ありがとう、メル」

 何とか笑顔を作ってお礼を言うと、メルはお茶を手渡してくれて、私の向かいの席に座る。

 

「イルリアさんも、ジェノさんのことを考えていたんですね」

「ええ。考えたくもないけれど、あの馬鹿のことを考えていたわ」

 私の答えに、メルは黙って微笑んだけれど、その手が彼女の首飾りに伸びる。

 

 それは、彼女がジェノを心配するときの癖だということを、私は知っている。だから、また怒りがこみ上げてきてしまう。

 

「あいつは、いつも厄介事に自分から首を突っ込む。メルやバルネアさんが、あいつが出かける度にどれくらい心配しているのかも分からずに……。本当に馬鹿よ。大馬鹿よ」

「私とバルネアさんだけではないはずです。イルリアさんが抜けていますよ」

「もう、やめてよ。下衆の勘繰りをする連中だけで、そういうのは沢山だから。いつも言っているでしょう。私はあいつに返さなければいけない借りがあるだけよ。あんな馬鹿なんて、まったく私の好みじゃあないわ」

 

 私はよくジェノと一緒に行動している。だがそれは、同じ冒険者仲間としてだけだ。それ以上の感情など持ち合わせてはいない。

 

「メル。私はね、貴女にあの馬鹿の手綱を握るようになってほしいと思っている。そのためだったら、いくらでも協力するつもりだから」

 

 しかし、メルはまた困ったように微笑む。私は心からの素直な気持ちを口にしているのに、どうしても私があの馬鹿に特別な思いを抱いていると考えてしまうようだ。

 

「本当に、私は辟易しているの。ああいった馬鹿は、見ているだけで腹が立って仕方がないのよ」

 もしも、借りがなかったら、こんな風に一緒に冒険者見習いになんてなっていない。

 

 そう、私はあいつが大嫌いなのだから。

 

「イルリアさん。ジェノさんは一生懸命なので、今は他のことを気遣う余裕がなくなってしまっているだけなんです。本当は、すごく優しい人なんです。それは変わっていません。

 ですから、ジェノさんのことをあまり悪く言わないで下さい」

 

 あまりにも一途にあの馬鹿のことを信じるメルの言葉に、私は少しだけ呆れた。恋は盲目と言うのは間違いではないようだ。

 

 そして、あんな奴を庇うメルが、不憫でならない。

 

「分かったわ、メル。ただ、今日はそろそろ休みなさい。私が起きているから」

「はい。ありがとうございます」

 

 こんなに可愛くて一途に自分のことを思ってくれている女の子がいるのに、それをないがしろにするなんてどうかしている。自分を大切にしてくれる人を第一に考えるべきだ。

 

 そう。血の繋がった家族でも、心が通い合えないこともある。それが見も知らぬ他人ならば尚更なのだ。それなのに……。



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② 『自警団の誇り』

 しかたがない。

 

 そう、しかたがない。レイは頭ではそのことを分かっている。

 

 人手不足の自分たち自警団の人間だけでは、街をくまなく警護することなどできない。そのため、少しでも犠牲者を出さないためにも、冒険者なんて連中の手も借りなければいけないことも理解している。

 

 だから、ひと目で自警団の関係者と分かるようにと、自分達と同じ格好をさせるのも仕方のないことなのだろう。

 

 だが、それでも納得はできない。便宜上の理由だけで、無関係の人間が自分達の誇りであるこの制服に袖を通すことには、怒りを禁じ得ない。

 

 何故なら、それは冒涜だからだ。

 

 自分達現役の自警団員だけではなく、職に殉じて平和の礎となった先人たちをも穢す行いに他ならないのだ。

 

「くそっ……」

 金色の髪の鋭い目つきが印象的な少年――レイは、自警団の詰所の古ぼけた椅子に座り、不機嫌極まりない雰囲気を漂わせていた。

 

「レイさん、見回りの準備ができましたよ」

 だが、そんな手負いの獣のようなレイに、物怖じせずに声をかけてくる者がいる。

 

 後輩のキールだ。

 レイはその声に、静かに立ち上がる。

 

「おう、分かった。……あの野郎、ようやく来やがったのか」

「いや、レイさんが早すぎるだけで、まだ時間前なんですけどね」

 

 自分が不機嫌なことを分かっていながら、そんな嫌味を言ってくるキール。だが、レイはそのことに怒りを覚えることなく、逆に頭に上っていた血が引いていくのを感じていた。

 

「うるせぇよ。ほらっ、さっさと行くぞ」

「ええ。今日こそ片付けないと」

 

 キールの言葉に、レイは「ああ」と小さく応え、ランプを手にして「見回りに行ってきます」とぶっきらぼうに詰所の仲間達に告げる。

 

「ああ。気をつけて行ってくるんだよ」

 

 副団長達の言葉を背に受けて、レイは自警団の詰所の出入り口の扉を開ける。

 するとすぐに、一際目を引く少年の姿が目に入ってきた。

 

 港街ということもあり、他国との交流が盛んなこのナイムの街には、様々な人種の人間が暮らしている。だが、その中でも珍しい、黒髪と茶色の瞳が印象的な若者だ。

 名は、ジェノ。歳はレイと同じ十七歳。顔立ちが非常に整っているのだが、愛想というものがまるでない。

 もっとも、愛想がないのは、レイ自身にも言えることだが。

 

「ちっ、行くぞ。遅れずについてこい」

 レイはジェノを一瞥し、それだけ言って彼の横を通り過ぎる。すると、「ああ」と短い返事だけを返して、ジェノはレイとキールの後ろを歩く。

 

「くそっ。相変わらず何を考えているのか分からねぇ奴だな、お前は」

 レイは憚ることなく悪態をついたが、ジェノは何の反応も示さず、仏頂面のままだ。

 こんな奴が、自分達と同じ様にこの白い制服を身につけている。それだけでも、腹立たしくて仕方がないというのに。レイの不快感はいや増していく。

 

「レイさん。一時とはいえ、仲間なんですから、そんなふうに言わなくても……」

 レイの言葉に反応を返してきたのは、ジェノではなく、先頭を歩くキールだった。

 

「いいからお前は前を向いていろ。それに、俺はコイツを仲間だなんて思ったことはねぇよ。今までも、これからもな」

「はいはい。分かりましたよ。でも、団長達に叱られるときには、こっちにもとばっちりが来るんですから、程々にしてくださいよ」

 

 キールも、何も反応を返さないジェノを快く思っていないのだろう。それ以上文句は言ってこない。

 だが、キールが言葉をかけてくれたおかげで、レイは少し落ち着きを取り戻すことができた。

 

 キールとは物心がついた頃からの付き合いだ。気心がしれている。今の言葉も、注意するより頭を冷やした方がいいと気遣ってくれたのだろう。

 

 彼は人懐っこい顔立ちが特徴で、歳はレイの一つ下の十六歳。剣の腕前もそこそこで、頭はそれ以上に回り、抜け目がない。

 

 形式上、先程は注意をしたが、今も自分の言葉に応対はしていても、その眼は注意深く周りに向けられている。

 頼りになる相棒だ。そして、数少ない後輩の一人でもある。

 

「もう少し、うちにも団員がいればな……」

 ジェノに愚痴が聞こえるのが癪で、レイはその言葉を飲み込んだ。だが、本当に、この人手不足はどうにかしなければならない。

 

 自警団員の誰もが、そのことは痛いほど分かっている。だが、平和が長く続いた弊害で、仕事内容が過酷な上に給金も決して良いとは言えない、この街の自警団に率先して入ろうとするものは少ない。

 

 王侯貴族連中はもとより、この街に住む市民の多くも、毎日を平和に暮らせることが当たり前で当然なことだと思っている。

 それを守るために、自分達のような存在が日夜努力していることを知らずに。

 

「まったく、報われない仕事だぜ」

 レイは何度思ったかわからない言葉を飲み込み、見回りを続ける。

 

 夜間の外出禁止令が出ているため、まだ宵の口だと言うのに、街を歩く人間の姿はほとんどない。そして、大通りの街灯が灯る頃には、それさえも消えていた。

 

 稀に人を見かけることもあるが、レイ達が外出は控えるようにと注意すると、大抵の人間は言うことに従う。表面上では。

 

「はぁ。まったく、本当におとなしく家に帰ってくれればいいんですけどね。この間みたいなことにならないことを祈りますよ」

 キールが心底嫌そうな顔でこぼした愚痴に、「ああ、そうだな」と、レイは同意する。

 

 先週のことだ。

 

 夜間の外出禁止を破り、泥酔しながら歩いている男女数人に、早く家に帰るように注意したのだが、彼らはこちらを馬鹿にした態度で言うことを聞こうとはしなかった。

 

 立場がなければぶん殴ってやりたかったが、レイ達は怒りを抑えて何度も注意をし、見回りに戻った。

 だが、それから十分もしないうちに、助けを求める悲鳴が聞こえたのだ。

 

 慌てて駆けつけたレイ達が見たのは、パニックになって泣き叫ぶ女達と、「友達がいなくなった。きっと化け物に襲われたんだ!」と自分達にすがりついてくる男。

 

 キールがなんとか宥めて、何があったのかを尋ねると、先程まで一緒に連れ立っていた友人が闇に消えたというのだ。

 

 その知らせに、レイ達は呼笛を吹いて仲間を呼んだが、調べてみると件の化け物は全く関係なかった。

 酒が回り眠くなった男が、途中で力尽きて、少し離れた道の真ん中で眠りこけていただけだったのだ。

 はた迷惑この上ない事件だった。

 

 

 そんなことを思い出しながら、レイは巡回を続けていたのだが、とある角を曲がったところで、不意に何人もの人影を見つける。

 

 その人影は、みんな女だった。

 若い者もいれば、歳を重ねた女もいる。だが、彼女たちに共通しているのは、まだ肌寒い中だと言うのに、露出の多い服装をしていること。

 

「どうします、レイさん?」

「……ひとまず奥まで行く。そして、戻ってくるだけでいい」

 

 レイの苦々しい言葉に、キールは「ええ。そうですね」と返事をするが、その声は心持ち重い。

 

 この区画は歓楽街。普段であれば夜は飲み屋に人が溢れ、賑わっているはずの場所だ。

 そして、そういったところには、彼女たちのような一晩の恋を売る娼婦たちもいるのだが、件の化け物騒ぎのせいで、ここを歩く男の姿は殆どない。

 

「ねぇ、そこのお兄さん」

「安くしておくよ。それに、サービスも……」

 

 努めて明るい声で話しかけてくる女達を無視して、レイ達は巡回を続ける。その代わり、彼女たちの商売を止めはしない。

 

 それがよくない行為だということは分かっている。だが、それ以上に、彼女たちにも生活があるのだと知っているから。

 

 娼婦などという商売は、社会通念上、決して褒められたものではないだろう。だが、だからといってそれを行う人間全てを侮蔑するほど、レイ達は物を知らないわけではない。

 

 この肌寒い中、誰が好き好んで、こんな薄着で死傷者が出ている街中に立っているというのだ。糊口をしのぐためにやむを得ずに行っているのだ。

 

 幸いなのだろう。レイは彼女達ほど生活に困窮したことはない。だが、寄る辺ない気持ちは理解できるつもりだ。

 

「……くそっ……」

 レイの口から、思わず声が漏れる。

 それは、やるせない気持ちの現れだった。

 

 顔は見えないが、キールも自分と同じような顔をしているのは想像に難くない。

 

 しかし、ふと背中に視線をやると、自分達とは対照的に、この状況に眉一つ動かさない男の仏頂面が目に入ってきた。

 

「やっぱり、俺はこいつが大嫌いだ」

 

 レイは拳をきつく握りしめて、早くこのいけ好かない奴との巡回が終わることを願うのだった。



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③ 『遭遇』

 時間を掛けて丁寧に巡回をしたレイ達だったが、結局、件の化け物の手がかりは一切得られなかった。

 

「今回も、駄目でしたね」

「ああ。腹立たしいことにな……」

 自分たちの詰所が視界に入ってきて、レイは悔しさに拳を手近の壁に叩きつける。

 

「まぁ、とりあえず詰所に戻って交代しましょう。ジェノ、貴方もそれでいいですよね?」

「ああ。分かった」

 キールの言葉に、ジェノはようやく口を開く。

 無口にもほどがあるだろうと、レイは呆れる。

 

 結局、何の収穫もないまま、レイ達は詰所に戻り、交代の人間に簡単な報告を済ませた。

 

 そして仮眠をとるキールと別れて、レイはしぶしぶジェノと共に再び詰所を離れて外に出る。

 ジェノと連れ立って歩くなど嫌で仕方がないのだが、仕方がない。今日はレイ達が「当番」なのだから。

 

「…………」

 ランプを片手に、会話もなく目的の場所まで足を進める。向かっているのは今日も夕食を食べた料理店<パニヨン>。そこの料理人のバルネアが、厚意でレイたち自警団のために毎晩夜食を作ってくれている。

 

 だが、女性であるバルネアに夜道を歩かせるわけにはいかない。そうなると当然、誰かが店まで夜食を取りにいかなければならなくなり、それを当番制にしているのだ。

 

「早いとこ、今回の事件の犯人を捕まえないとな」

 心の内で呟くと、自然とレイの拳に力が入る。

 

 夕食、そして夜食にとバルネアさんの美味い料理を食べられるのは嬉しいが、それが彼女の負担になっていることは分かっている。だから、絶品な料理を食べても心から満足できない。バルネアさんのことが心配になってしまう。

 

「……待て」

 不意にジェノが口を開き、停止を促す。「なんだ」と口にしようとして、レイは異変に気が付いた。

 

 血の臭いがする。これはわきの裏道からだ。

 

 今歩いている大道には要所に街灯の明かりがともされているが、そこから一本でも道を離れると、明かりは月明りだけになってしまう。だから目ではよく見えない。だが、臭いがする。気配がする。呼吸音がする。そこに何かいる。人間ではない巨大な何かが。

 

「ジェノ、俺の明かりを持っていろ。そして、薄布をかけて後についてこい」

 

 レイはジェノにランプを押し付け、静かに腰の剣を抜いた。横目で確認すると、ジェノもランプを片手に剣を抜く。

 

 音をたてないように、相手に気づかれないよう慎重に、けれどどんな事態にも対処できるように身構えながらそいつに近づく。そしてもう少しで相手に斬りかかれるところまで足を進めたところで、レイは薄布越しのランプのわずかな明かりを頼りに、そいつの姿を確認した。

 

 巨大な猿と最初の目撃者である子供は説明していたが、なるほど的を射た説明だと思う。しゃがみながら何かをクチャクチャと食べているその後ろ姿は、確かに大きな猿のようだ。けれどその大きさは、自分の想像を超えていた。

 

 しゃがんでいるだけでレイの腰よりも高い。そして幅もある。立ち上がればおそらく二メートルは超えるだろう。だが、レイはその巨大な猿が手を伸ばす物体を一瞥し、

 

「照らせ!」

 

 そうジェノに指示を出すのと同時に巨大猿に斬りかかった。

 

 布が取り払われたランプの明かりが、闇を照らす。

 

 突然明かりに晒されて、巨大な猿はビクッと体を硬直させて素早くこちらを振り返ったが、遅い。レイの剣は振り返った巨大猿の体を切り裂いた――はずだった。

 

 ガツッと、まるで石を斬り付けたかのような音がして、レイの渾身の一撃は、振り返りざまに巨大猿が振り回した腕に当たって止められてしまった。そしてその腕に押されて、後方にふっ飛ばされる。

 

「くそっ!」

 

 体勢を崩すことなく着地したのはいいが、巨大猿の腕のあまりの硬さに、剣を握っていた両腕が痺れてしまった。何とか落とさずに済んだが、剣を構えるのがやっとで、すぐに追撃をすることができない。

 

「なんだ、こいつは……」

 ランプで照らされたそいつの姿を視認し、レイは恐怖を覚えた。

 

 確かに目の前にいるのは、体が薄茶色い体毛でおおわれている巨大な猿のようだったが、その顔が猿とは大きく異なり、いくつもの目を持つ醜悪な蜘蛛のような顔をしていた。そして、醜いその顔は赤く染まっている。それは、今まで食べていたものの血の色。人間の血の色だ。

 

 その化け物は、レイたちを睨みつけると奇声を上げてこちらに向かって突進してくる。

 

「明かりを頼む!」

 後方にいたジェノがその言葉と同時に飛び出し、レイと化け物の間に割り込んでそいつを迎え撃つ。

 

「剣で防ごうとするな! 半端じゃない硬さと腕力だ!」

 レイは知りえた情報を伝えて、ジェノが地面に置いたランプを確保し、しびれる手をなんとか動かして、化け物を照らす。

 

 ジェノは突進してきた化け物の体に向かって剣の一撃を放つ。だが、化け物はそうはさせまいと、レイの時と同様に腕でそれを薙ぎ払おうとする。

 

 ジェノの剣と化け物の腕がぶつかるように見えたが、ジェノは素早くその攻撃を止めて、自身を狙う長い腕を掻い潜って躱して、敵の後方に抜けた。いや、それだけではない。彼は、すれ違いざまに化け物の足に浅くだが一撃を加えていた。

 

 怒りによるものか痛みによるものかはわからないが、化け物が奇声を上げる。

 

「ちっ、また強くなっていやがる」

 いけ好かない男が腕を上げていることに苛立ちを覚えるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 

 レイは化け物の注意がジェノに移っていることを確認すると、感覚の戻ってきた手を動かし、剣を地面に突き刺して、首にかけていた呼笛を鳴らす。まだ詰所からそう離れていない。すぐに応援が駆けつけるはずだ。だが……。

 

「ジェノ、ほかの連中が来る前に片づけるぞ」

 ランプを地面に置き、レイは両手で剣を構える。

 

 腕のしびれももう殆どない。ジェノに協力を頼むのは癪だが、戦力には十分なり得る。これ以上犠牲者が出る前にこいつを斃すと心に誓う。

 

 幸い、ジェノが攻撃をかわして化け物の後方に移動したことで、挟み撃ちの体制になっている。状況は有利だ。

 

 化け物はきょろきょろとレイとジェノに視線を移し続けたが、やがてジェノに狙いを定め、前傾姿勢を取った。当然、レイに無防備な背中を晒すことになる。

 

「くたばれ、化け物!」

 

 その隙を逃すつもりはなかった。レイは全力で化け物の背に剣の一撃を放とうとする。たとえ石のように固かろうと、両断する気持ちで。しかし、

 

「罠だ! 攻撃をやめろ、レイ!」

 

 今まで聞いたことがないジェノの大声に、彼は不穏なものを感じて斬りかかろうとしていた体にブレーキをかける。

 

 次の瞬間、レイの目の前を何かが通り過ぎて行った。そして、路地を区画する石の壁が、轟音とともに崩れ落ちた。

 

 ……腕だった。

 

 それは間違いなく化け物の腕だった。だが、その腕は、化け物の左右の腕ではない。背中から突然生えてきた、三本目の腕だった。

 

「…………」

 あまりのことに言葉が出ない。レイはわずかの間だが呆然としてしまった。そして、その瞬間を狙っていたかのように、化け物が身を翻してレイに向かって突進してくる。

 

「レイ!」

 ジェノの言葉に我に返る。

 

 迫る化け物の両腕を、レイは地面に体を転がして、それを寸でのところで通り抜けて躱すことができた。だが、化け物の攻撃はまだ終わっていない。こいつには背中にも腕があるのだ。

 

 体勢が整わず、無防備なレイの顔めがけて、化け物の背中の腕が迫ってくる。

 

「……ちくしょう……」

 レイは死を覚悟した。

 

 しかし、その腕が彼の頭を薙ぎ払うことはなかった。

 化け物の腕は切り落とされたのだ。ジェノの一撃によって。

 

「惚けるな! 死ぬぞ!」

 ジェノの言葉に、レイは慌てて体制を立て直して立ち上がり、剣を構える。

 

 だが、背中の腕を切り落とされて絶叫する化け物は、顔だけ振り返ってレイたちを一瞥すると、地面においてあったランプを破壊し、そのまま大道に向かって走り出す。

 

「逃がすかよ、化け物! ジェノ、残ったランプを持ってついてこい!」

 レイとジェノは急ぎ化け物の後を追って大道に出たが、その時には化け物は、凄まじい跳躍を見せて、民家の屋根に飛び乗っていた。

 

「待ちやがれ!」

 慌ててそれを追おうとしたが、化け物は住宅街の家の屋根を飛び移って逃げていく。

 

 全力で追いかけたが、道を歩くことしかできず、そして一つのランプと大道の明かり以外に明かりのない状況では、すぐに追跡は不可能なものになってしまった。

 

「……完全に捲かれたな。これ以上は追っても無駄だ」

 背後から聞こえた淡々とした声に、レイはゆっくりと足を止めて振り返る。

 

 自分の全速力に合わせて走り続けていたはずなのだが、ジェノは息を乱していない。こいつは真面目にあの化け物を追っていたのだろうかと疑いたくなるほどだ。

 

「そんなこと、お前に言われなくても分かっている!」

 

 街灯の薄明かりに浮かぶ、相変わらず無表情なこの男に怒りを覚える。

 こんなのは八つ当たりだと分かっている。だが、抑えきれない。それに、こいつには問い詰めなければいけないことがある。

 

「何故、お前はそんなに涼しい顔をしていられるんだ! 逃がしてしまったんだぞ、あの化け物を! そのせいで、また無関係な人間が襲われるんだぞ!」

 

 レイの怒声にも、ジェノは眉一つ動かさずに、

「そうだな。だが、不明だった今回の事件の犯人の姿を確認できた。この情報を急いで上に報告して、包囲網を敷くことが、今は重要だろう」

 そう言ってレイに背を向けて、走ってきた道を戻り始める。

 

 ジェノの言っていることは正論だ。失敗を悔やんだところで何も得るものはない。だが、レイは苛立ちを抑えられない。

 

「こいつには、自責の念と言うものが微塵もないのか?」

 

 失敗した、だから次にそれを生かせばいい。そんな生易しい仕事をレイ達はしているわけではない。だから、悔やみもすれば怒りもする。

 

 無論、ジェノは自警団の人間ではない。だが、無辜な人間が襲われて殺され続けているこの現状に、何一つ感情を抱かないのであれば、そんな奴を人間だとは思わない。

 

「待てよ、ジェノ。一つだけ質問に答えろ。さっきの戦いで、どうしてあの化け物が俺に背中を向けたときに、その行動が罠だと分かったんだ?」

 レイの問いに、ジェノは足を止めた。

 

 今晩、レイはジェノに命を救われた。悔しいがそれは事実だ。そのことに感謝をしていないわけではない。だが、そんな事実があっても、彼はジェノに気を許せない。

 

 業腹だが、今のところはジェノの剣の腕が自分よりも上なのだとレイは理解している。だが、先ほどの戦いでは、あまりにもジェノの動きは良すぎた。まるで、初めから相手の攻撃手段を理解していたかのような巧みさだった。

 

「……さあな。とりあえず、今は他の人間と合流するのが先だ」

 ジェノは振り向きもせずに、それだけ言ってまた歩き始める。

 

「くそっ。やっぱりお前は気に食わねぇ!」

 自分の未熟さに歯噛みし、レイはそう吐き捨てた。

 

 だが、ジェノが振り返ることはなかった。



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④ 『帰還』

 空が白み始める少し前に、ジェノが店に戻ってきた。

 

 裏口のカギを開けて戻ってきた彼は、店の客席で毛布を羽織っているイルリアに気がつくと、静かに彼女に近づき、

 

「助かった。礼を言う」

 そう短い感謝の言葉を口にする。

 

「別に。わざわざ礼を言われるほどのことはできてないわよ」

 自分がしたことなど、心配でなかなか休もうとしないバルネアさんとメルに、少しは休むように言って部屋に押し込めたことくらいだとイルリアは思う。

 

「でっ、その服についた血はなに? 今回の事件の犯人を突き止めたわけ?」

 ジェノの身につけた自警団の制服に、わずかに赤黒い血痕が付着しているのをイルリアは見逃さなかった。

 

 加えて、ジェノが夜食を受け取りに来なかったことで、イルリアは何かあったであろうことは分かっていた。もっとも、そのせいでバルネアさんとメルがいつも以上に心配していたのだが。

 

「ああ。間違いない。あの時と同じ化け物だ」

 その言葉に、イルリアは自身の顔から血の気が失せていくのが分かった。

 

 まずい。最悪の事態だ。急いで皆をこの街から避難させないと、大変な……。

 

「落ち着け。リットにその辺りのことは調査をしてもらっている。今のところ兆候はないそうだ」

 イルリアの表情で察したのだろう。ジェノはそう告げる。

 

「……そう。まぁ、あいつが言うのなら間違いはないんでしょうね」

 

 リットと言うのはジェノの知己で、イルリア達と同い年の男だ。そして、イルリア達の冒険者見習いチームの最後の一人である。人間的にはかなり問題のある男なのだが、こと魔法というものについては、おそらくはこの街のだれよりも精通している人間だ。その男の言葉ならば信用せざるを得ない。

 

「イルリアさん。ジェノさんが帰ってきたんですか?」

 ふいに背中から声がかかった。奥の部屋からメルエーナが出て来たのだ。

 

「ええ。怪我一つなく帰ってきたから安心しなさい」

 こんなすぐにジェノの帰宅に気づいたことから、ほとんど寝ていないことを察し、イルリアはメルエーナを安心させるように言う。

 

「メルエーナ、まだ起きていたのか?」

 部屋に戻ってきたジェノが、そんなふざけたことを言う。

 

「あんたを心配して起きていたんでしょうが!」

 まだ眠っているであろうバルネアさんを起こさないような声でだが、イルリアは文句を口にする。

 

「店の掃除はしておく。朝食まで少しでも眠っておけ。体が持たないぞ」

 イルリアの言葉など意に介さず、ジェノはメルエーナに一方的に言う。それがこの男なりの思いやりなのはわかるが、言葉が足りなすぎる。

 

「あんたね、もう少し言葉を考えなさいよ! ほらっ、メルもこの馬鹿にガツンと言ってやりなさい!」

 イルリアの言葉に、しかし、メルエーナは小さく首を横に振った。

 

「大丈夫ですよ。私、頑丈ですから。ジェノさんこそ、こんな時間までお仕事をして疲れているはずです。掃除と朝食の準備は私がしますので、早く休んで下さい」

 健気なメルエーナに、ジェノはしかし何一つ表情を崩さずに、無言の視線を向け続ける。

 

「どうしてそこで優しい言葉の一つもかけないのよ! メルはあんたのことをずっと心配して……」

「いいんです、イルリアさん。分かりました。少し眠ります。ですが、ジェノさんもあまり無茶はしないで下さいね」

 

 無理に笑顔を作って応えるメルエーナの姿に、イルリアは怒りに任せてジェノの顔を引っ叩きたくなる。だが、そんなことをしたらまた彼女を心配させてしまう。

 

「分かった。朝食の時間になったら声を掛ける」

「はい。おやすみなさい、ジェノさん、イルリアさん」

 メルエーナはもう一度微笑んで静かに部屋に戻って行った。

 

「おやすみ、メル」

 小さく「ああ」としか頷かないジェノに代わって、極力優しい声でイルリアは言葉を返した。

 

 そして、メルエーナが自室に戻って部屋のドアを閉めたのを確認した彼女は、振り返りざまに朴念仁を睨みつける。

 

「どうしてあんたは人の気持ちが分からないのよ! メルもバルネアさんも、ずっとあんたのことを心配して……」

 イルリアの文句の言葉に、しかしジェノはその言葉を遮って口を開いた。

 

「犯人の手がかりは掴んだ。今晩にでもけりをつける。だが、この店からさして離れていない距離で今回も犠牲者が出た。すまないが、もう一晩だけバルネアさんたちのことを頼めないか?」

 

 勝手な要求だと思う。でも、ジェノは彼なりにはバルネアさんとメルエーナを気にかけていることはわかるので、イルリアも文句は言いにくい。

 

「私は、今回の事件でも何も役に立てていない。それはわかっている。だから、それぐらいのことはやるわよ。でも、一つだけ交換条件があるわ」

 

 イルリアの突飛な提案にも、ジェノは気にした様子もなく、「何だ、交換条件というのは?」と尋ね返してくる。

 

「この事件が解決したら、メルとバルネアさんに何か埋め合わせをしなさい。自分で何をすればいいのかしっかり考えて、出来る限りのことをしなさいよ」

「……分かった。何か考えよう」

 本当に分かったのかとイルリアが疑いたくなるほど、淡々と言い、ジェノは静かにロッカーから用具を取り出して掃除を始める。

 

 

「はぁ。あんたと話していると疲れるわ」

「そうか。なら少し客室で眠っておけ。空は白み始めたが、まだ安全とは限らない。朝食も用意しておくから、それを食べてから帰るといい」

 

 イルリアの嫌味にもジェノは眉一つ動かさない。

 本当に、本当に腹が立つ。

 

「ああ、そうですか! それじゃあ、私も休ませてもらうわよ。それと、まずい朝食を作ったら散々文句を言ってやるから、覚悟しときなさいよ」

 イルリアはそんな捨て台詞を吐いて、踵を返して借りている奥の客間に向かう。

 

 もっとも、彼女はジェノの料理の腕を知っている。自分が文句をつけられるようなものを作りはしない。徹夜で見回りを続けてきた後でも、掃除も料理も全力で仕上げるだろう。疲労など二の次にして。

 

「……この馬鹿。どうしようもないほどの大馬鹿。少しは自分の体を労りなさいよ」

 

 イルリアはそんなことを思いながらもそれは口には出さない。それは、自分の役割ではないと分かっているから。



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⑤ 『家族』

「よし。今度こそ、あの化け物を……」

 

 団長と副団長に掛け合い、なんとか非番を返上して今晩も見回りを任せられることになった。ただ、少しは休めと言われ、レイは仕方なく家路に就くことにする。

 

 東の空に太陽が登り始めている。今後の作戦会議の後に、団長たちを説得するのに思ったより時間が掛かってしまったようだ。

 

「家に帰っても、セインの奴は眠っている時間だな。何処かでパンでも買って帰って、朝飯。そして少し剣を振るってから、風呂。その後はひたすら眠る」

 簡単にこれからのスケジュールを決めながら、レイはナイムの街の大道を歩く。

 

 街の中心にある大時計で時間を確認すると、ちょうどもう少しで馴染みのパン屋が開店する頃だ。

 

「今回のような失態は起こさない。もう二度とあいつに助けられるようなヘマはしない」

 

 一度だけ今回の屈辱を思い出し、レイはその気持ちを心の奥へと仕舞い込む。

 失敗を悔やむことはある。だが、それは一度で十分だ。悔やみ続けていてもなんの解決にもならないのだから。

 

「今晩はジェノの奴は非番だ。どうにか今晩のうちに決着をつけてやる」

 そう決意し、まずは腹ごしらえだと先程立てた予定通りにパン屋に行こうとしたレイだったが、

 

「あっ、良かったわ。行き違いにならなくて」

 

 不意に聞こえた女性の声に、レイはそちらに顔を向ける。そこに立っていたのは、彼の予想通りの人間だった。

 

 レイと同じ金色の髪。そして、とても温和そうなその人は、優しい笑みを浮かべていた。

 生きていればレイ達の母親と同じ位の年齢らしいのだが、傍目にはとてもそうは思えないほど若々しくみえる。二十代だと言われても納得してしまうだろう。

 

「……バルネアさん」

 レイは、その女性の名を口にした。

 足を進めるうちに、いつの間にか彼女の店の近くまで来ていたらしい。

 だが、近くとは言っても、少し距離がある。手荷物を持ちながら、わざわざ自分のことを待ってくれていたようだ。

 

「ふふっ。おはよう、レイちゃん。朝までご苦労さま」

「あっ、ああ。おはよう……ございます……」

 レイのなんとも間の抜けた挨拶に、しかしバルネアは何が嬉しいのか一層笑みを強める。

 

「聞いたわよ。昨晩は大忙しだったんですってね。夜食も食べている暇がなかったって。それでね、簡単なものだけれど朝食を作ったの。良かったら、食べてちょうだい」

 バルネアはそう言って大きなバスケットを手渡してきた。

 

 上には布巾がかけられていたが、そこから垣間見えるのは小型の鍋とサンドイッチなどだ。出来たてのようで、食欲を誘ういい香りがレイの鼻に届いた。

 

「そっ、その、あっ、ありがとな、バルネアさん。セインの奴もきっと喜ぶと思う」

 思いもしなかった出来事に、レイは呆気にとられてそれ以上の言葉が出てこない。

 

「ふふっ。自分で言うのもなんだけれど、結構美味しくできたと思うから、冷める前にセインちゃんにも食べさせてあげてね。野菜と果物も入れておいたから、好き嫌いをしては駄目よ。『朝食は金、昼食は銀、夕食は銅』って言うくらい、朝ごはんは大切なんだから」

 バルネアは満面の笑みでそう言うと、空いているレイの左手を両手で優しく握る。

 

「レイちゃん。いつも、私達を守ってくれて、本当にありがとう。でも、無理はしないようにしなくては駄目よ」

「あっ、ああ。分かっているよ。でも、俺よりもバルネアさんこそ無理をしないでくれよ」

 

 レイの言葉に、バルネアは苦笑する。

 

「私は大したことはしていないわ。心配しないで。それと、夜勤明けだから今日はお休みだと思うけれど、レイちゃんとセインちゃんの分も夕食を作っておくから、よかったら食べに来てね」

「いや、その……。分かった。助かるよ。ありがとう、バルネアさん」

 

 自分達の身の上を知っているバルネアの気遣いに、レイは深々と頭を下げ、「それじゃあ、俺は帰るから」とだけ告げて踵を返して足早に家路に就く。

 

「ええ。しっかり休んでね、レイちゃん」

 背中から掛けられた声に、しかしレイはその言葉とは反対の事を考えていた。

 

「これ以上、バルネアさんに迷惑をかけられない。この事件は今晩にでも終わらせてやる。俺達の手で」

 レイは深くそう心に誓った。

 

 

 

 

 

「帰ったぞ」

 鍵を開けて家に入ったレイは、一応帰宅を告げる。

 

「ああっ、おかえり、兄さん」

 まだ、眠っているだろうと思って、起こさないように控えめの声にしたのだが、返事が帰ってきた。

 

「なんだ。もう起きていたのか」

「うん。なんだか目が冴えてしまって」

 

 レイにそう言って答えるのは、彼の弟のセイン。レイと同じ金髪だが、顔はあまり似ておらず、どちらかと言うとおとなしそうな雰囲気の少年だ。

 歳はレイの五つ下の十二歳で、今は学校に通っている学生だ。

 

「まあ、起きているのなら丁度いい。バルネアさんが俺たちのために朝食を作ってくれたんだ。温かいうちに食べようぜ」

「えっ、バルネアさんが?」

 セインの顔に笑みが浮かんだことに、レイも笑みを浮かべる。

 

「俺は着替えてくるから、先に食べていていいぞ」

「ううん。待っている。一緒に食べようよ。僕が用意しておくから」

「おう。頼む」

 レイはバスケットをテーブルに置き、後のことをセインにまかせて別室に行って着替えを済ませる。

 

 そして、居間に戻ってくると、きちんと料理が配膳されていた。

 

「これは美味そうだな。さすがバルネアさんだ」

 

 サンドイッチの具材は定番のハムの他に、鳥肉か何かが挟まれたもののほか、ポテトサラダや卵などバリエーションが豊富で、しかも量も多い。食べざかりの自分達のことを気遣ってくれたのだろう。

 

 そして、色鮮やかな新鮮な野菜と果物のサラダ。さらに、先程から鼻孔をくすぐる素晴らしい香りは、白いスープ料理のようだ。だが、シチューとは香りが違う。

 

「さぁ、食べようよ、兄さん」

「おう」

 レイとセインは食事前の祈りを口にする。

 

 兄弟二人だけの食事。だが、レイの家族はこれで全員だ。

 母はセインを生んでまもなく病気で他界した。それからは父が一人でレイたちを育ててくれたが、その父も三年前に亡くなった。

 

 父が死んで日が浅い時期は、違和感と悲しみに心を痛めていたが、人間はそういった環境にも慣れていくものだ。今は、二人での食事にもすっかり日常になってしまった。

 

 祈りを終えて、レイ達は食事を始める。

 

「サンドイッチも気になるけれど、まずは……」

 そう言ってスープに匙を伸ばす弟に倣い、レイも同じようにそれを味わうことにする。

 

「はぁ~。美味しい」

「ああ、最高だな……」

 レイも思わず口角を上げてしまう。

 

 たくさんの野菜の旨みと貝の旨味が合わさった熱々のスープが、体だけでなく心も温めてくれるのだ。

 

「バルネアさんのメモ書きによると、『クラムチャウダー』って料理みたいだね。作り方まで書いてくれているよ」

「なに、レシピまで書いてあるのか?」

 

 良くも悪くも全然すごい人には見えないバルネアだが、彼女はこの国でも著名な料理人なのだ。そのレシピとなると、金を出してでも知りたいと思う輩はたくさんいるはずだ。それなのに、こんな簡単に……。

 

 そんな事を考えたレイだったが、このあっけらかんとした気取らない感じが、いかにもバルネアさんらしいと思い、苦笑する。

 

「兄さん、このサンドイッチも凄いよ。食べ慣れた具材のはずなのに、全然美味しさが違う」

「ああ。どれもすごく美味い。だが、この鶏肉を焼いたのも食べてみろ、さらに驚くぞ」

 

 心から嬉しそうに笑って食事を楽しむセインの姿に、レイは笑みを強めて、心のなかでバルネアに深く感謝する。

 弟のこんなに嬉しそうな顔は久しぶりだ。

 

 件の化け物の一件で、レイもなかなか弟のための時間を取ってやることができなかった。きっと寂しい思いをさせてしまっていたのだろう。

 

「はぁ、美味しかったぁ」

 綺麗にバルネアの料理を完食し、セインは幸せそうに笑う。

 

「セイン。実はバルネアさんに夕食に呼ばれているんだ。学校が終わったら、まっすぐ家に帰ってこいよ」

「えっ? 僕も食べに行ってもいいの?」

「ああ。俺は今晩もそのまま仕事に出るが、帰りは誰かに送らせるから安心しろ」

 

 バルネアさんの店<パニヨン>から、この家までは大した距離があるわけではない。それぐらいは仲間たちも協力してくれる。

 

「兄さん、夜勤明けなのに、今晩も……」

 バルネアの料理をまた食べられる事に喜んでいたセインの顔が曇る。

 

「すまんな。だが、ついに今回の事件の犯人が明らかになったんだ。休んではいられない」

「……うん。分かった」

 セインの絞り出すような声に、レイは頷いて彼の頭を撫でる。昔、自分が父にしてもらったように。

 

「大丈夫だ。だから、お前はしっかり勉強をしてくれ。そして、偉くなって、俺達みたいな人間が、少しでもいい生活ができるように頑張ってくれ」

 何度も弟に言い聞かせてきた言葉を、レイはまた口にする。

 

 レイと異なり、おっとりとしたおだやかな気質のセインには荒事は向いていない。だが、こと勉学については光るものがある。

 

「兄さん、僕、頑張るよ。だから、必ず帰ってきてね」

 

 稼ぎ頭の父が居なくなったことで、レイは十五歳で弟を養うために自警団に入団した。

 そのことは微塵も悔やんでいない。父が人生を捧げ、殉職したこの仕事を自分が継いだことに誇りを持っている。

 だが、できることならば弟には、自分に向いた仕事について欲しい。そして、幸せになってほしい。

 

「ああ、大丈夫だ。安心しろ」

 

 同じ立場になってようやく分かる。

 今のセインと同じ言葉を口にする自分を、父がどんな思いで見つめていたのか。

 

 常に死と隣り合わせの仕事をしながら、家族も守ろうとした男の気持ちが、痛いほどに……。



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⑥ 『違和感と困惑』

 十分に睡眠をとったレイは、身支度を整えて自警団の制服に袖を通す。

 今晩こそ、この事件を終わらせるという決意とともに。

 

「お待たせ、兄さん」

「おう。それじゃあ、少し早いが行くとしようぜ」

 学校から帰って来たセインと一緒に、レイはバルネアの店<パニヨン>に向かう。

 

「バルネアさんの料理だから、きっと何でも美味しいと思うけれど、一体何を食べさせてくれるんだろうね、兄さん」

「さぁな。だが、期待していいと思うぞ。俺達自警団のための夕食も、毎回メニューを変えてくれているが、どれも絶品だったからな」

 

 そんな他愛のない会話をしながら弟と連れだって歩いていたレイだったが、ふとすれ違った相手に驚き、慌てて視線をそちらに向ける。

 

「……ジェノ? なんで非番のはずのあいつが自警団の制服を着ているんだ?」

 向こうはこちらに気づいていないようだが、あの顔を間違えるはずがない。帯剣までしていたが、自警団の詰所とはこちらは正反対の方向だ。自分のように休みを返上して仕事に出るつもりではないのだろう。

 

「どうしたの、兄さん?」

「いや、何でもない」

 

 あいつに関わっても苛つくだけだ。レイはそう考え直して足を進める。

 

 

 

 まだ少し早い時間だったので、他のメンバーは来ていなかったが、店にやってきたレイ達をバルネアは歓迎してくれた。そして彼女の厚意に甘え、いつもの客席でセインと一緒に夕食を御馳走になった。

 

 予想通り、その夕食も絶品で、レイ達は心から楽しい時間を満喫することができていた。

 

 ……その音が聞こえるまでは。

 

 不意に、レイの耳に笛の音が届いた。自警団の団員が持つ、特徴的で大きな笛の音が。

 

 それを理解した瞬間、レイの顔がこの街を守る男の顔に変わる。

 

「バルネアさん、すみませんが、セインを頼みます!」

 レイは一方的にそう頼むと、バルネアの店を飛び出して、何度も繰り返し鳴り響く笛の音の元に駆け出す。

 

 いつも事件が起こるのは日が落ちる頃になってからだったが、どうやら今回は違うようだ。

 

「何があった! 例の化け物か?」

「おお、レイ。そうだ。あの化け物が現れた。西区の住宅街の屋根を渡って逃げている。今、副団長達が追っている。お前も……」

 

 同僚の言葉を最後まで聞かずに、レイは西区に向かって走った。行き交う人々に退けるように大声で指示をしながら。

 

「今度こそ、今度こそ片を付ける。俺達の手で……」

 走り続けるレイは、やがて視界に件の巨大な化け物の姿を捉えた。間違いない。昨日の晩に見かけた奴だ。

 

 化け物は家の屋根を巧みに跳んで逃亡を図っているが、レイは化け物が逃げていく方向を理解して、ほくそ笑む。

 

「さすが副団長達だ。いい方向に誘導している」

 

 あの方向に追い込んでいけば、居住区から化け物を追い出せる。そして、居住区を超えた先は、すでに廃棄された旧住宅区だ。あそこには高い建物は殆どない。

 

 仲間たちの作戦を瞬時に理解したレイは、道を代えて旧住宅区に向かう。

 

 今更追い立てる役が一人増えても意味がない。おそらく旧市街にも仲間たちが迎撃のために控えているはずだ。そちらに合流してともに戦う方が望ましい。

 

「よし、予想通りだ」

 武器を手に化け物を待ち構える仲間たちの姿を確認し、レイは彼らに駆け寄り、自分も剣を抜く。

 

「レイ。よく来てくれた」

 精悍な顔つきの壮年の男が労いの声を掛けてきた。団長のガイウスだ。

 

「はい。しかし、五人、俺を加えても六人ですか……」

 レイは乱れた呼吸を整えながら、少しずつこちらに誘導されてくる化け物を睨みつける。

 

「もう少し数がほしいところだが、呼笛を使うわけにはいかない。レイ、なんとか俺達でくい止めるぞ」

「はい!」

 レイは気合の入った声で応え、化け物が追い立てられて逃げて来るのを待つ。

 

 決して逃したりしない。この街の平和を脅かすものは俺達が許さない。

 レイは自身の不安や恐怖する心の弱い部分を、その信念で上書きしていく。

 

 皆の予想通り、隅の建物に追い詰められた化け物は、屋根の上から飛び降りて、こちらに向かって突進してくる。

 

「散開! 初撃は俺がやる!」

 

 ガイウス団長の腕は自警団一だ。決して化け物に遅れを取りはしない。そう信じるレイ達は、彼のサポートに回る。

 

 団長の一撃に怯んだ隙きに、残ったメンバーで周りを囲む。そして、勢子の役割をしてくれた副団長達の部隊と合流した後に仕留める。

 

 それは、現状において最良の作戦だった。

 

 ――そう、『だった』のだ。

 

 事が順調に進めば、間違いなく化け物を包囲殲滅できるはずのその作戦は、結果として失敗した。

 それは、レイ達自警団のメンバーが、最初の一手を間違えてしまっていることに気づけなかったためだ。

 

「……なっ……」

 

 レイは思わず驚愕の声を上げる。

 迫りくる化け物に対して繰り出されたガイウス団長の一撃は、飛びかかってきた化け物の顔を捉えたかに見えた。

 だが、その鋭利で正確な一撃は、化け物の体を素通りしてしまった。何の抵抗もなく、団長の剣は空を切って振り下ろされたのだ。

 

 そして、その瞬間に、化け物の姿が消えて無くなった。始めから、そのようなものなど存在しなかったように。

 

「……馬鹿な。これはいったい、何だ? まるで蜃気楼のように消えて無くなったぞ」

 

 信じられなかった。

 たしかにあの化け物は今しがたまでたしかにここに居たはずだ。あの威圧感、重量感、存在感。どれをとっても幻などとは思えなかった。

 

 だが、辺りに視線をやっても、やはり化け物の姿はない。

 

「気を抜くな! 注意を怠らず、周りを確認しろ」

 団長の声に、レイ達は注意深く辺りを探ったが、徒労に終わった。

 

 やがて副団長達の部隊が合流したが、彼らも突然の事態に戸惑うばかりだ。

 

 そして、念の為に、皆で辺りの捜索も行ったが、やはり化け物の姿は影も形もない。

 

「幻だった……。そう考えるしかないですね」

 副団長の言葉に、ガイウス団長は苦々しく頷く。

 

「そうだな。信じられん話だが、そう考えざるを得ない。とりあえず、持ち場に戻れ! これがあの化け物の魔法ならば、我々は裏をかかれたのかもしれん!」

 

「裏をかかれた? あの化け物に? だが、昨日の戦いでは、あいつは魔法など使わなかった」

 レイはそこまで思ったところで、不意に一人の男の顔が浮かんだ。

 

 非番であるにも関わらず、自警団の制服を着て、帯剣していた男の顔が。

 

「まさか、まさか、あいつが……」

 そう考えると、レイは黙っていられずに他の皆を置いて走り出した。

 

「レイ、どうしたんだ!」

 副団長達の声が背中で聞こえたが、レイは足を止めずに走り続ける。

 

「あいつ自身は魔法を使えないはずだ。だが、あいつには魔法を使う仲間がいる。なら、先程の化け物を作ったのは……」

 

 何の確証もない。だが、レイは走る。心臓が悲鳴を上げても構わずに。

 

「俺達と反対方向に奴は歩いていた。あの先にあるのは、倉庫街だけだ。奴はきっとそこにいる。そして、あの化け物も……」

 

 レイは自分の直感を信じ、ただ倉庫街に向かうのだった。



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⑦ 『裏切り』

 懸命に走り続けて、港の倉庫付近まで走ってきたレイは、倉庫の屋根を走る化け物の姿を見つけた。

 化け物は、空中に不意に現れては襲いかかってくる鋭利な氷の塊に追われて、逃げ回っている。

 

「くそっ! やっぱり、あいつらの仕業か!」

 怒りで頭が沸騰しそうになるレイ。

 

 だが、あの化け物を倒すことが先決だと思い直し、レイは化け物を追おうとした。

 しかし……。

 

「なっ、なんだ、これは?」

 大道に突然炎の壁が現れて、レイの進行を阻む。

 

 炎は凄まじい熱量で近づくものを阻むが、決して建物などを焼くことはない。

 魔法に疎いレイにも分かるほどの馬鹿げた魔法技術の高さ。

 それが誰の仕業なのかは明白だった。

 

 ジェノの仲間の魔法使い、リットだ。

 

「おいおい、邪魔をするなよ。これから良い所なんだからな」

 遠くにいるはずなのに、何故か頭の中に軽薄そうな男の声が聞こえてきた。その事でレイは自分の考えが正しかったことを確信する。

 

「ふざけるな、リット! 今すぐにこの炎を解除しろ! あの化け物は俺たちが懸命に追い詰めたんだ。あれを倒すのは俺達だ!」

「はっ、嫌なこった。お前らは、そこで指を咥えて待っていろよ。すぐに俺達が終わらせるからな」

 

 その言葉を最後に、リットの声は聞こえなくなった。

 

「させるか、そんな事! あいつは、俺達が懸命に見つけ出したんだ! 俺達が仕留める。仕留めなければいけないんだ!」

 

 レイは裏道に回り込み、倉庫街に向かおうとする。この街の土地勘ならリットより自分のほうが上のはずだ。

 

 そして、ついに炎の壁がない道を見つけた。

 レイはすぐさまそこに駆け寄るが、やはりそこにも炎の壁が現れてしまう。

 

「はい、おつかれさん。あいにくと俺は空を飛べるんでね。お前の動きなんて丸見えなんだよ」

 また声が聞こえる。その人を小馬鹿にした声に、レイは悔しさで歯噛みする。

 

 だが、そこでレイは、建物の上に立つ人間の姿を視界に捉えた。

 

 リットではない。

 倉庫の屋根の上に立っているそいつは、自分達と同じ制服を身にまとった黒髪の少年だった。

 

「くっ……。ジェノォォォォッ!」

 

 レイはありったけの怒りと怨嗟を込めて、その名を叫ぶ。

 その声に気づいたのか、ジェノは静かにこちらを向く。

 

「何のつもりだ、ジェノ! さっきの化け物の幻も、お前とリットの仕業か!」

「そうだ。お前達は下がっていろ。後は俺がやる」

 ジェノはそれだけ言って、再びレイに背中を向ける。

 

「裏切るのか。裏切るのか、お前は! 手柄を独り占めするために、お前は!」

 

 レイの激情に、しかしジェノは振り返りもせずに、

 

「お前は、俺を仲間だと思っていないと言っていたな。……俺も同じだ。お前たちを仲間だと思ったことはない」

 

 その言葉を残して炎の先に消えていった。

 

「ふざけるな。……ふざけるな!」

 絶叫するレイ。だが、彼にできるのはそれだけだった。

 

 何人も近づけぬ業火の壁の前で、レイは自身の無力さを噛み締めて、何度も大地に拳を叩きつけるのだった。

 

 

 

 

 

 一時間後、炎の壁が消えると、レイと彼を追ってきた自警団のメンバーは倉庫街に突入した。そして、彼らはすぐにそれを発見した。

 

 血の池に沈み、事切れた巨大な猿のような化け物の死骸を。

 

 頭部に剣を突き刺された痕がある。どうやらそれが致命傷のようだ。

 しかし、すでにこの化け物を倒した人物の姿はなかった。

 

「…………」

 自警団のメンバーは誰も言葉を口にしない。感情を押し殺して、ただ現場を確認、調査する。

 口を開いてしまうと、怨嗟の言葉が漏れてしまうから。

 

「俺は、俺はあいつを許さねぇ……」

 レイは血が滲むほどに両拳を握りしめて、そう決意する。

 

 この場から立ち去ろうと、あいつの住処は分かっているのだ。この落とし前は必ずつけさせる。

 

 それは、レイだけではなく自警団のメンバー全員の思いだった。



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⑧ 『制裁』

「あらっ、レイちゃん。おかえりなさい。セインちゃんも奥で待ってい……」

「ジェノは何処ですか?」

 バルネアの店に戻ってきたレイは、笑顔で出迎えてくれたバルネアに端的に用件を告げる。

 

 幸いなことに客は居ない。普段の営業時間ではないのだから当然だ。自警団のメンバーのためだけに、バルネアさんは店を開けてくれているのだから。

 

「どうしたの、レイちゃん?」

「…………」

 バルネアの問にも、レイは答えない。返事をする余裕もなかったのだ。今は怒りを押し殺すだけで精一杯だった。

 

 そして、

「俺ならここにいる」

 店の奥からジェノが出てきた。自警団の制服を脱いだ、簡素な私服姿で。

 

「……面を貸せ」

「分かった。裏口から少し歩いたところに空き地がある。そこでいいか?」

「ああ」

 レイが頷くと、ジェノは踵を返して店の裏口に向かう。

 

 ジェノの後頭部を殴りたい気持ちを押し殺して、レイはそれについて行く。そして、すぐに目的の場所にたどり着いた。

 

「それで、何のようだ?」

 振り返りざまに呟かれたその言葉を聞いた瞬間、レイの中でプツンと何かが切れ、気がつくと全力でジェノの頬を殴り飛ばしていた。

 

 ジェノは倒れこそしなかったが、口の中を切ったのか、唇の端から血を流す。だが、レイの怒りはそんなもので治まりはしない。

 

 相変わらず無表情な顔にもう一度全力で拳を叩き込む。今度は踏ん張ることができず、ジェノは地面に倒れた。

 

「お前は、自分が何をしたのか分かっていないのか!」

 怒りに拳を震わせながらレイは叫ぶ。だが、ジェノは全く気にした様子はなく、静かに立ち上がった。

 

「俺がギルドから請け負った依頼は、たしかに自警団に協力することだ。だが、非番の時までお前たちに付き合う義理はない」

「そんな詭弁が通るとでも思っているのか! お前は俺達からあの化け物の情報だけを盗み、仲間と結託して俺達をはめた! 手柄を独り占めにするためにな!」

 

 ジェノがしたのは間違いなく裏切りだ。そのことを許すわけにはいかない。こんな、こんな非道な行いが許されていいはずがないのだ。

 

 だが、ジェノは静かに手で口元を拭い、

「手柄? そんなものに興味はない。俺は別の依頼を遂行しただけだ」

 そんな事を口にする。

 

「どういうことだ? 何を言っているんだ、お前は!」

「俺は冒険者見習いだが、それを提示した上で依頼されれば、正規の冒険者と同じように依頼を受けることができる。そして、二つ以上の仕事を請け負った場合、期限を破らなければ、どちらを優先するかは俺の判断で決めることができるんだ」

 

 ジェノが何を言わんとしているか分からない。レイは冒険者のルールなど知らないのだから。だが、ジェノが自警団への協力依頼の他に、別の依頼を受けていたことだけは理解できた。

 

「依頼の内容は、お前たち自警団に先んじてあの化け物を殺す事だ。報酬は大銀貨十枚と少し。割の良い仕事だったので、そちらを優先した。それだけだ」

 ジェノは悪びれた様子もなく、そんなふざけたことを当たり前のように言う。

 

「……そうか。つまりお前は、金のために俺達を裏切ったということか!」

 

 大銀貨十枚。たしかに大金だ。レイの月給の五ヶ月分以上だ。だが、そんな理由で簡単に依頼主を裏切る奴など、最低のクズだ。

 

「ああ。だが、俺はルールに沿った行動をしただけだ。これ以上文句があるのであれば、冒険者ギルドに苦情を入れるんだな」

 

「貴様!」

 レイは完全に頭に血が上り、ジェノを殴りつける。だが、その一撃は空を切った。

 

「これ以上、殴られてやる理由もない。まだ続けるのなら、俺もただでは置かない」

 そう言って、ジェノは拳を構える。

 

「上等だ。その仏頂面を泣き顔に変えてやる!」

 

 そこからレイとジェノの殴り合いが始まりそうになったが、

 

「止めてください! 二人共!」

 

 そんな女の声が二人を止めた。

 

 声を上げたのは、いつの間にかやって来ていたメルエーナだった。そして、彼女の隣には、ひどく悲しそうな顔で今にも泣き出しそうなバルネアもいる。

 

「ジェノちゃんもレイちゃんも、どうして喧嘩なんてしているの?」

 そう言って涙をこぼすバルネアの姿に、レイは怒りを懸命に飲み込んだ。

 

「バルネアさん……。くそっ!」

 殴り足りない。だが、バルネアさんをこれ以上悲しませたくない。

 

 レイは握っていた拳を下ろす。

 

「……ジェノ。今日はここまでだ。だが、俺はお前を許さん」

「そうか」

 ジェノもそう言って拳を下ろした。

 

「レイちゃん……」

 泣き止まないバルネアに、レイは「すみません」とだけ言って彼女の横を通り過ぎる。

 

 とりあえず、セインを連れて帰らなければならない。

 レイはモヤモヤする気持ちを押し殺して、セインを連れて帰ろうとバルネアの店に向かう。だが、そんな彼の背中に女の怒声が響く。

 

「どうして、どうして貴方はこんなひどいことをするんですか!」

 振り返ると、キッとした表情でこちらを睨んでくる少女の、メルエーナの姿があった。

 

「何も知らねぇのに、余計な口を挟むな! こいつは殴られて当然のことをしたんだ!」

 レイの怒りの声にも、メルエーナは怯まない。

 

「何も知らないのはどっちですか! 貴方がジェノさんの何を知って……」

「メルエーナ!」

 ジェノは大声でメルエーナの言葉を遮る。

 

「……すみません。ですが……」

 まだメルエーナはなにか言いたげだったが、ジェノに睨まれて言葉を噤んだ。

 

「…………」

 レイは何も言わずにその場を後にする。

 

 どうしてバルネアとメルエーナがこんな最低の男の身を案じるのか、レイには理解できなかった。



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⑨ 『隠し事』

 裏口からジェノ達が戻ってきた。

 

 店の入口近くの席に腰を下ろしていたイルリアは、それを横目で確認して嘆息する。

 

 店にやってくるなり店番をメルエーナとバルネア任され、ひとりで留守を守っていたのだが、先程、怒りを隠そうともしないレイが弟を連れて帰っていった。

 そして、ジェノは頬を腫らしている。何があったのかは考えるまでもない。

 

 バルネアとメルエーナは、手当をしなければいけないと何度も言っているのだが、ジェノは「たいしたことはない」とだけ言ってそれを断り、こちらに歩み寄ってくる。

 

「イルリア、来ていたのか。だが、すまんが、今晩の……」

 

 ジェノの言葉はそこで止まる。その代わりに、乾いた音が店中に鳴り響いた。

 話しかけてきたジェノの腫れた頬を、イルリアが全力で引っ叩いたのだ。

 

「私に話しかけてくる暇があったら、後ろを見なさいよ。バルネアさんとメルが、手当をしないと、って言っているのが聞こえないの?」

「……手当が必要なほどの怪我はしていない」

「あんたの判断なんてどうでもいいわ。私は、これ以上二人を心配させたらただではおかないって言っているのよ。それとも、手当を受けないといけないような大怪我をしたいわけ?」

 

 イルリアはそう言うと、腰のポーチから銀色の薄い板を取り出した。青白い光を放つそれは、凶器だ。人間一人ならば殺せるほどの雷がそこに封じられているのだから。

 

 だが、それを見ても、ジェノは眉一つ動かさない。目の前のこの板が凶器だと知っているにも関わらず。

 

「選びなさい。大怪我をするか、おとなしく手当を受けるのかを」

 そう言ってイルリアはしばらくの間ジェノを睨みつけていたのだが、今回は珍しくジェノの方が折れた。

 

「……分かった。だから、それをしまえ。暴発でもしたら店がただではすまない」

 ジェノはそう言うと、メルエーナが手にしていた薬箱を手に取り、自分で手当てを始める。

 

 そのことで、少しだがバルネア達は安堵の表情を見せたので、イルリアは先程の板をポーチの中に戻した。

 

 自警団とひと悶着があったのだろう。彼らとジェノが顔を合わせないようにというバルネア達のはからいで、イルリアは店の奥の居間に案内された。

 

 そして彼女は、テーブルを挟んでジェノと一対一で話を始める。

 バルネアとメルエーナは、自警団のメンバーが来たときの接客のために店で待機をしているためだ。

 

「それで、あんたはいったい何をしたのよ。レイのあの顔、普通じゃあなかったわ」

 ジェノの手当が終わると、イルリアは単刀直入に尋ねる。決してごまかしは許さないという強い気持ちを込めて。

 

「今回の事件の犯人を、自警団から横取りした。そして、そいつを俺が殺した」

 あまりにも端的な説明に、イルリアは呆れるしかない。

 

「だから、今回の一件はもう片がついた。来てもらって申し訳ないが、今晩の依頼はない。だが、お前の時間を奪ったのは確かだ。その詫びを含めて報酬は払わせてもらう」

 決定事項の確認のような一方的な物言い。だが、イルリアは腹を立てはしなかった。

 

 なんだかんだと一年以上この男との腐れ縁は続いているのだ。こういった相手を怒らせる物言いをするときは、決まって何かを隠そうとするときだとイルリアは知っている。

 

 だが、それ以上に、この男の口の堅さも理解している。いくら自分が尋ねても決して真実を話はしないだろう。

 

「報酬なんていらない、といってもあんたは押し付けてくるのは分かっているから受け取るわ。そして、これ以上の追求をしても無駄だから諦める。でも、一つだけ正直に答えなさいよ」

「何だ?」

「みんなに恨まれることくらい分かっていたんでしょう? それでも、あんたにはやりたいことがあったという事なの?」

 

 その問いかけに、ジェノは「質問の意味がわからんな」と答えたが、一瞬言葉に詰まったのをイルリアは見逃さなかった。

 

「そう。でも、私は分かったわ」

 イルリアはそれだけいうと席を立つ。

 

 これ以上、この腹が立つ男の顔を見ていたら、また頬を引っ叩いてしまいそうだったから。

 

「イルリア。今回の件は俺の独断。お前は何も知らなかった被害者だ。誰かになにか尋ねられても……」

「それ以上なにか言ったら、本気でアレを叩き込むわよ」

 

 イルリアはそれだけいうと、ジェノに背を向けて部屋を後にした。



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⑩ 『邂逅』

 あの化け物騒ぎが一応の解決を迎えてから、一週間が過ぎた。

 

 人を無差別に襲う謎の化け物が討ち取られたことにより、ナイムの街には平和が戻った。

 夜間の外出禁止令も解かれ、街は以前の活気を取り戻しつつある。

 

 だがレイは不機嫌な顔で、昼の巡回を行っていた。その傍らには、相棒のキールの姿もある。

 

「ああっ、面白くねぇ!」

「まったくもう。何度同じことを言っているんですか、レイさん」

 キールに呆れ顔をされても、レイは苛立ちを抑えきれない。

 

「団長も苦渋の決断だったと思いますよ。自警団の体裁を保つ必要があるのは、レイさんだって分かっているでしょう?」

「分かっているに決まっているだろう、そんなことは。だが、ジェノの奴が余計なことをしなければ、こんな鬱屈とした思いをしないで済んだと思うと、腹が立って仕方ねぇんだよ」

 

「まぁ、僕もそれは同じですけれどね……」

 怒気を含んだキールの呟き。

 態度と表情に出さないだけで、キールが自分と同じように怒っていることを知り、レイは少しだけ落ち着きを取り戻す。

 

 

 今回、ジェノが起こした背信行為に対して、自警団団長のガイウスは冒険者ギルドに対して抗議を行なった。

 それに対して、この街の冒険者ギルドの最高責任者オーリンは、ガイウスに頭を下げた。だが、彼はジェノの主張の正当性も否定はできないとし、自警団に対して提案を持ちかけてきたのだ。

 

 それは、今回の事件で何人もの人々を殺めた怪物を倒した手柄を全て自警団に譲る代わりに、ジェノと彼の仲間達の罪を不問にしてほしいとのことだった。

 

 正直、ふざけた提案だとレイは思う。

 

 もともと、あの化け物の手がかりを掴んだのは自分達だ。生憎とその場に自分は居合わせることはできなかったが、あの日の夕刻に現れた化け物を発見したのも自警団の仲間たちだったのだ。

 

 仲間たちは人々を避難させ、その化け物と剣を合わせて戦ったのだという。つまり、その時点では、あの化け物は間違いなく本物だったのだ。

 だが、戦いの最中に突如眩しい光が巻き起こり、目がくらんでいる間に化け物は逃亡を始めたのだという。

 

 その光というのは、おそらくジェノの仲間の魔法だとレイ達は睨んでいる。そして、化け物の幻覚を作り出して自分たちを謀ったのだろう。

 

 もっとも、どうやって化け物を一瞬で他に移動させたのかは分からない。

 

 魔法という力は、数百人に一人程度の割合で発現する特殊な才能のこと。もっとも、それが仮にあったとしても、かなり厳しい修練をしなければ、その力を使用することはできないのだという。

 その反面、魔法を修める事ができれば、常識的な物理法則を無視した力が手に入るらしい。

 

 だが、生憎と魔法を使える者は自警団にはいないため、そんな漠然とした知識しかレイ達は持ち合わせていない。だから、ジェノの仲間――リットが何をしたのかは知りようもないのだ。

 

「それでも、あいつらが俺達から手柄を奪っていったのは紛れもない事実だ。何日も掛けて皆が懸命に走り回って、情報を集めて包囲網を引いて追い詰めた成果を、あいつは……」

 レイは喉元まで出かかったその言葉を飲み込む。

 

 結果として、自分達の団長は冒険者ギルドからの提案を受けた。だからこのことは、各員の胸に留めておかねばならないのだ。

 

『すまない。納得などできるはずがないことは分かっている。だが、堪えてくれ……』

 

 拳を震わせながら、皆の前で頭を下げたガイウス団長の姿を思い出すと、レイはやるせない気持ちになる。

 どれほどの激情を飲み込んだ末の決断だったか、痛いほど分かったからだ。

 

 非常事態ということで、仲間たちは懸命に頑張った。だが、そんな過程などは、自分達の給金を決める議会のお偉いさんは評価してくれない。

 

 まして、今回の非常事態への対応ということで金が掛かっている。それなのに、何の結果も出せませんでしたなどと報告するわけにはいかないのだ。

 

 そんな事をすれば、間違いなく団長達は無能の烙印を押されて職を辞さねばならなくなる。そして、他の自警団メンバーも役に立たずの烙印を押され、ただでさえ少ない自警団の給金が更に削減される。

 

 そんなことになれば、皆の生活が立ち行かなくなってしまう。

 だから、仲間たちは誰一人として、団長の決断を責めなかった。だが、団長にこんな辛い決断をさせるきっかけを作った、ジェノに対する怒りはいや増すばかりだ。

 

「ちょっと。ねぇ、ちょっと! そこの自警団のお兄さん!」

 不意に自分達を呼ぶ声が聞こえ、レイとキールは立ち止まって振り返る。

 

 そこには、酷く激昂する老婆と彼女を宥める夫らしき老爺。そして、おそらくは孫なのだろう。幼い少年が、酷くばつが悪そうな顔で立ち尽くしていた。

 

「はい。どうしましたか?」

 人当たりのよいキールが、レイに先んじて笑顔で応対するが、老婆は不機嫌な態度を変えることなく話し始める。

 

「ねぇ、<パニヨン>って名前の店が何処にあるのか教えて頂戴! この子にいくら聞いても教えてくれないのよ!」

 

 思いもしない単語が聞こえ、レイは少し驚く。あの店の名前を怒り混じりで尋ねるとは、一体何があったのだろうと興味を惹かれる。

 

「ああっ、あのお店は大通りから少し離れているんで、分かりにくいんですよね。よければ、僕たちがご案内しますよ」

 

 キールも自分と同じ気持ちなのだろう。老婆にそう申し出て、こちらに無言で合図を送ってくる。

 レイは静かに頷き返す。

 

「あら、助かるわ。……ああっ、それと、迷惑ついでに、少しだけでいいから立ち会ってくれないかしら? もしかするとトラブルになるかもしれないから」

「トラブル? それは穏やかではありませんね。ここからあのお店までは、少し距離があるので、よければ何があったか、歩きながら僕たちに話してくれませんか? お力になれるかもしれませんから」

 

 キールの申し出に、老婆は「ええ。是非お願いするわ」と少し表情を和らげたが、それとは対象に、少年が老婆の前に立ちはだかり、両手を広げて前進を阻止しようとする。

 

「待って! 止めてよ、お婆ちゃん」

「コウ、そこをどきなさい。私は絶対にその男を許さないわ。私の可愛い孫を危険な目に合わせるなんて、許せるものですか!」

 コウと呼ばれた少年の懸命な訴えは、しかし老婆の怒りを増加させるだけだった。

 

「この子を、危険な目に? いったいだれがこんな小さな子にそんな酷いことをしたというのですか?」

 キールのやんわりとした声での問いかけに、しかし老婆は激昂したまま答える。

 

「ジェノとか言う男よ。そいつが……」

 老婆の口から出た思わぬ単語に、レイとキールは目を見開く。

 

 そして、道すがら老婆達の話を聞いたレイは、三人のことをキールにまかせて、<パニヨン>に走り出すことになるのだった。



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⑪ 『無作法への対応』

 今日のイルリアは、久しぶりに機嫌が良かった。

 

 それは、彼女がずっと前から競り落としたいと思っていた商品を見事に手に入れることができた事に加えて、その仕事の帰りに<パニヨン>に寄ったところ、思わぬ幸運に巡り会えたからだった。

 

「ああっ……。もう言葉が出ないです。美味しすぎて……」

 今日のまかない料理、バルネア特製オムライスを口にして、イルリアは至福の時間を過ごしていた。

 

 卵のトロトロとした食感と、バターライスのコクとデミグラスソースの深い旨みが口の中で一体となった味を、イルリアは上手く表現することはできなかったが、昨日までの鬱屈とした気持ちが吹き飛んだ。

 

「そう。良かったわ、リアちゃんが喜んでくれて」

 イルリアの賛辞の言葉を聞き、彼女の向かいの席に一緒に座るバルネアが嬉しそうに微笑む。

 

「相変わらず、バルネアさんの料理は、このバランスが素晴らしいのよね」

 料理の美味しさには、穏やかなものと鮮烈なものの二種類があるとイルリアは思う。

 

 穏やかな美味しさは、普段の食事の味。飽きのこない味わいである反面、感動が薄い。それとは逆に、鮮烈な美味しさは、料理店の味。強烈な美味しさを口いっぱいに広げるが、飽きやすい。

 

 バルネアの料理は穏やかな味をベースにしながら、鮮烈な美味しさも味あわせてくれる。

 

 今回のオムライスの場合は、このデミグラスソースが鮮烈な味だ。じっくりコトコトと長時間かけて作られたであろうそれは、家庭で再現することが難しい専門店の味。だが、オムライスという一つの料理になると、それが卵とバターライスの穏やかな美味しさと相まって、鮮烈さを持ちながらも飽きのこない味に仕上がるのだ。

 

「イルリアさん。お茶のお代わりはどうですか?」

「ええ。もちろん頂くわ」

 バルネアの隣で一緒に食事を楽しんでいたメルエーナに、冷たいお茶を注いでもらう。そしてそれを口に運び、イルリアは満面の笑みを浮かべる。

 

 ジェノはこれから出かけるらしく、先にまかないを食べ終わっていたので、今、イルリアと共に遅い昼食を味わうのは女性陣だけだ。

 この幸せな時間に水を差す顔を見なくていい事が、さらにイルリアを上機嫌にさせる。

 

「ああっ、今日は久しぶりにいい一日だわ」

 そんな事を思い、まだ半分も残っている最高のオムライスにスプーンを伸ばしたイルリアは、しかし、そこでその幸せな気持ちを台無しにされる事になってしまう。

 

 店の入口のドアが、突然乱暴に開かれたのだ。

 正面には、『本日の営業は終了いたしました』と書かれた大きな掛看板が吊るされていたはずなのに。

 

「ジェノはいるか!」

 挨拶の一つもなしに、大股で店の中に入ってきた男――レイは、開口一番に叫び、視線を忙しなく動かして目的の人物を探す。

 

「せっかく、いい気持ちで食事を楽しんでいたのに……」

 イルリアは憤慨して文句を口にしようとしたが、彼女よりも先に、メルエーナが口を開く。

 

「なんですか、いったい! いきなり入ってきて大声で叫ぶなんて、非常識にもほどがあります!」

 激しい剣幕のメルエーナに、イルリアは驚く。普段の彼女は温厚で控えめな性格だ。ここまで激怒した姿は見たことがない。

 

「そんなことはどうでもいい! ジェノはどこだ!」

 しかし、レイも激昂している。ただ事ではない。先の一件をただ蒸し返すといったことではなさそうだ。

 

「俺ならここにいる」

 自分の部屋で支度をしていたジェノが出てきた。すると、レイはつかつかとジェノに歩み寄り、彼の胸ぐらを掴む。

 

「……この間の続きをするつもりなのか?」

 ジェノのその言葉に、レイは怒りのためだろう、体を震わせ、空いている方の手で拳を握る。

 

「ああ、それもいいな……」

 レイの顔が剣呑なものに変わる。

 

 それを確認したイルリアは、止めに入ろうとするバルネアさんとメルエーナの前に手をかざして抑え、自分は一触即発の二人の元に歩いていく。

 そして、素早く腰のポーチから薄い銀色の板を取り出すやいなや、それを二人に向かって投げつけ、自分は下を向いて目を閉じた。

 

 次の瞬間、その板からまばゆい閃光がほとばしる。

 

「なっ! ぐっ……」

 突然の激しい光に、レイは目をやられて顔を抑えてその場に膝をつく。だが、ジェノは素早く目を腕で守ったようで、わずかによろめくだけだった。

 

「ふん。あんたはタネを知っているものね。少しは苦しい思いをすればいいと思っていたのに、残念だわ」

 イルリアは面白くなさそうにジェノに言うと、地面に落ちた板を回収した。

 

「ああ、ごめんなさい、バルネアさん。メルもごめんね。すぐに治すから」

 

 馬鹿な男どもにはもう用はないと言わんばかりに、彼らに背を向けると、イルリアは顔を抑えるバルネア達のもとに駆け寄り、またポーチから別の銀色の板を取り出して掲げる。

 

 今度の板は穏やかな光を放つと、目を押さえて苦しそうにしていたバルネアとメルエーナの表情が和らいだ。

 

「あっ、あら?」

「これは、いったい?」

 

 驚くバルネア達に微笑みかけると、「馬鹿な連中は放って置いて、私達は食事にしましょう」と言ってイルリアは食事を再開する。

 

 目が眩んで苦悶するレイと、そんな彼を見て、どうしたものかと嘆息するジェノを一瞥し、イルリアは少しだけ胸がすく思いだった。



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⑫ 『紐解かれる真実』

 悠々と美味を楽しむイルリア。そしてジェノに、「いいから、食事を続けてくれ」と言われて食事を再開したメルエーナとバルネアが、昼食をすべてを食べ終わった頃に、その客たちはやって来た。

 

 連れてきたのは、自警団のキール。

 彼も入り口の掛看板は見たはずなのだが、やはり店の入口から入ってきた。

 

 もっとも、レイとは異なり、ノックをしてこちらの返答を待ってからだったので、イルリアは手荒な真似はしない。

 

「こちらの方たちが、ジェノに会いたいと仰るので、お連れしました」

 ようやく視力が回復してきたレイが憮然として壁を背に立っているのを不思議な顔で見たが、キールはそう慇懃に要件を皆に伝える。

 

 彼が連れてきたのは、老夫婦とその孫らしい。だが、イルリアは、彼らがジェノとどういう接点を持っているのか想像がつかない。

 応対しようとするジェノを客席から見ながら、彼女は耳をそばだてる。

 

「なんなの、この人達は?」

老夫婦の、特に老婆の怒りの形相をみて、イルリアは思わずそう小声で口走ってしまった。

 

 ジェノは無愛想なだけで、年寄りや子供に危害を加える人間ではない。だが、老婆はひどく腹を立てていて、彼を睨みつけている。孫らしき少年は顔をずっと俯けたままだ。いったい何だと言うのだろう。

 

「失礼。私は、この街の北区に住んでいるリウスというものなんだが、家内が、どうしてもジェノと言う奴に文句を言わねば気が済まんと言って聞かなくてな」

 温和そうな老爺が会釈をして名を名乗る。

 

「君が、ジェノで間違いないかな?」

「はい」

 ジェノがそう答えると、我慢の限界が来たのか、老婆が口を挟んで来た。

 

「あんたがジェノなんだね! 冒険者だかなんだかしらないけれど、私達の可愛い孫を、コウを危険な目に合わせたっていうのは本当なの!」

 その言葉に、イルリアは驚く。それは彼女と同席しているバルネアとメルエーナも同様だった。

 

「ジェノちゃん。皆様を奥の席にご案内して」

 すっと立ち上がったかと思うと、バルネアはそう言い、老婆達の前に足を進ませて頭を下げる。

 

「はじめまして。この店の主人で、この子の保護者のバルネアと申します。お話が長くなりそうですので、どうかお席にお座り下さい。私も同席させて頂きますので」

「これはご丁寧に。いや、助かります。孫の説明だけではどうも要領を得ませんで。保護者の方がご一緒頂けるのでしたら、非常にありがたいです」

 バルネアの応対に、リウスは安堵の表情を浮かべる。

 

「バルネアさん、これは俺の問題……」

「いいから、席にご案内して」

 

 強い口調ではなかったが、譲歩する気がないバルネアの言葉に、ジェノは悔しそうに歯噛みする。彼のそんな表情を、イルリアは見たことがない。

 

 そして、イルリアは悟る。きっとこの事柄が、先の一件でジェノが隠そうとしていた事柄なのだと。

 

 それを理解して、イルリアは行動に出た。

 

「待って下さい。ジェノと同じ冒険者仲間のイルリアと言います。仲間のことです。私もご一緒させて下さい。邪魔は決してしませんので」

「あっ、ああ。それは構わないが……」

 リウスの戸惑う声。だが、そこにレイが口を挟む。

 

「それだと、そちらの人数が多くなり、こちらの二人が萎縮してしまう可能性がある。だから、俺も同席させてもらおう。もともと、こちらのご婦人もそれを希望されているからな」

 

 その言葉に、イルリアはレイも同じ気持ちでいることを悟る。

 レイも、ジェノが隠している先の事件の真実を知りたいのだ。

 

「メル。この子の相手を頼めるかしら? 長くなりそうだから」

「……はい」

 メルエーナは頷いたが、彼女は酷く悲しげだった。

 

「ごめん、ごめんなさい、お姉ちゃん。僕、僕……」

 そして、コウという名の少年がメルエーナの元に駆け寄ってきて、涙を流して謝るのを目の当たりにして、イルリアはようやく理解した。

 

 事実を隠していたのは、ジェノ一人ではなかったことを。

 

 そして、奥の席で行われた話し合いで、イルリア達は先の事件の隠された事実を知ることになるのだった。



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⑬ 『思わぬ来客』

「昼食なら私が作ります。ジェノさんは今晩もお仕事なんですから、ゆっくりしていて下さい」

 栗色の長い髪の優しい顔立ちの少女――メルエーナが、エプロンを身に着けてそう申し出たが、ジェノは首を縦には振らなかった。

 

「いや、今日は俺の番だ。俺が作る」

 ジェノはそう言うと、自分も青いエプロンを身に着けて調理に取り掛かる。

 

 せめて手伝いだけでもしたいと思っていたメルエーナだったが、無駄のない動きで手際よく食材の下準備をしていくジェノの姿に、自分に協力できる事はないと悟らざるを得なかった。

 

「ジェノさん、また腕を上げて……」

 

 バルネアさんとは流石に比較にならないが、ジェノの調理の腕はかなりのものだとメルエーナは理解している。だが、何より彼の凄いところは、決して自分の腕に驕らずに日進月歩で成長を続けていくことにある。

 

 料理人の道に進むと決めているメルエーナにとって、近場に同い年のライバルがいることはいい刺激になる。だが、彼女にとってジェノは、競合する相手でいて欲しい存在ではないのだ。

 

 しかし、現実は厳しい。

 バルネアの提案で、店の営業が終わった後の時間を利用して、メルエーナはジェノと交代で昼食を作って批評しあっている。だが、彼女はなんとかジェノとの腕の差を広げられないようについて行くのがやっとで、まだ彼と同格の腕も持ち合わせていないのが現状だ。

 

 そして、もう一つ。絶望的な事実がある。

 

「今日は、バルネアさんが用事で出かけているので、私達だけなのに……」

 二人きりだということをメルエーナは強く意識してしまう。それは、彼女がジェノに好意を抱いているからだ。

 

 だが、ジェノは何も感じてはいないのだろう。いつもと何も態度が変わらない。

 きっと、自分のことを異性と見てくれていないのだろう。

 

「……私、席で待っていますね」

「ああ。すぐに完成させる」

 厨房にいても邪魔にしかならないので、メルエーナはエプロンを所定の場所に戻し、厨房に一番近い客席に静かに座る。

 

 いったいどうすれば、この人に振り向いてもらえるのだろうと思い、メルエーナは思いため息をつく。

 

「お母さん。私は、どうしたらいいんでしょうか?」

 あまりの絶望感に、メルエーナは心の中で故郷にいる母に尋ねる。もちろん、それで答えが返ってくることはない。しかし、今は藁にもすがりたい気持ちだった。

 

 メルエーナの母は、昔から彼女に言い聞かせていた。料理の腕を磨くようにと。いつか好きな男の子ができた時に、絶対に役に立つからと言って。

 

『男の子の心を掴むには、胃袋を抑えるのが一番手っ取り早いわ!』

 

 昔、バルネアさんと同じ職場で働いていたというほどの、料理上手で豪快な母のそんな言葉を真に受けたわけではないが、メルエーナは研鑽を続けた。

 

 母のような料理上手になりたいと思い続けて、メルエーナはずっと頑張ってきたのだ。

 

 そして、初めて好きな人ができて、その腕を振るうときが来たと思ったのだが、彼女が好意を抱くことになった男性は、自分よりもずっと料理上手だったのだ。

 

「それに加えて、ジェノさんは家事全般が得意ですし、裁縫まで自分で……」

 料理と家事以外に特に得意だといえることが思いつかないメルエーナには、八方塞がりな状態だった。

 

 落ち込むメルエーナだったが、入口のドアに付けられたベルの音が店内に鳴り響いた。

 お客様がいらしたようだ。

 

 メルエーナは接客のために、店の入り口に向かう。

 

「今日はバルネアさんが留守なので、鍵をかけておかなければいけなかったのに……」

 自分のミスを後悔しながらも、今はお客様に事情を説明してお帰りいただくしかない。

 

「申し訳ございません、お客様。食材が尽きてしまいまして、本日の営業は終了させて頂いております」

 メルエーナは、お客様と思わしき初老の男性と幼い男の子に頭を下げ、事情を説明する。だが、初老の男性は、

 

「ああ、それは残念。だが、わしの要件はそれだけではなくてな。ジェノの奴に仕事を持ってきてやったんだ。ジェノはいるかい?」

 

 温和な笑みを浮かべてそう要件を伝えてくる。

 

「あっ、はい。少々お待ち下さいませ」

 メルエーナはお客様に一礼をして、厨房に足を運ぶ。

 そして、調理をしているジェノに来客を告げた。その際に、男性の容姿を伝えたのだが、ジェノはそれを聞くと小さく嘆息する。

 

「すまんが、今は手が離せない。何処か手近な席に案内しておいてくれ。すぐに向かう」

「はい。分かりました」

 

 オーブンからいい匂いがしていたので、料理がもう少しで完成するところまで行っていたのだろう。

 

 メルエーナは店に戻り、ジェノの指示通りに、初老の男性達を近くの席に案内した。

 

 男性は「おお、そうか」と笑みを浮かべると、男の子の頭にポンポンと優しく触れて、二人一緒に椅子に腰を掛ける。

 

 だがその際に、メルエーナは男の子の顔を見て驚いた。

 まだ十歳にも満たないであろうその幼い男の子は、酷く疲れ切った顔をしていたのだ。目の光が何処かうつろで、クマらしきものも見える。ただ事ではない。

 

「少々お待ち下さいませ」

 メルエーナはそう言って、お客様に頭を下げ、再び厨房に戻る。そしてお冷とオレンジを絞ったジュースをコップにそれぞれ注ぎ、それを男性と男の子に給餌した。

 

「あっ、あの、僕、お金が……」

 男の子が初めて口を開いた。だが、やはりその声にも元気がない。

 

「大丈夫です。これはサービスですので、お金はいただきません」

 安心させるために、メルエーナは男の子に微笑みを返す。

 

 少しの間戸惑っていたが、男の子はやがて静かにジュースを飲み始めた。喉が渇いていたのだろう。あっという間にコップは空になった。

 

「お代わりをお持ちしますね」

 メルエーナはそう言って会釈をし、もう一杯、ジュースを少年に給餌する。

 

「オーリンさん。今日は、いったい何の用です?」

 調理が終わったのだろう。ジェノが厨房から出てきて、初老の男の名前を口にし、来訪の理由を尋ねる。いつもの仏頂顔だが、どこか不機嫌そうに見えるのはメルエーナの気の所為ではないだろう。

 

「おお、ジェノ! 喜べ。お前にぴったりな仕事を紹介してやるぞ」

 ジェノとは対象的に、オーリンと呼ばれた初老の男は心底愉快そうに笑う。

 

「だが、ジェノ。なにかすごくいい匂いがするな。いや、他意はないんだが、わしもこの子も昼食がまだなんで、まずは腹を満たしたいと思っていたんだ。いや、本当に他意はないんだがな」

「俺の作った素人料理を、お客様に出せるわけがないでしょう」

「おお、ならば試食ということにしてやるから、出してくれ。よかったな、坊主。この優しいお兄さんが昼食をご馳走してくれるようだ」

 勝手に話をすすめるオーリンに、ジェノは小さく息を吐く。

 

 メルエーナはあまりのことに言葉が出てこずに、成り行きを見守ることしかできなかった。



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⑭ 『幼子』

 幸い、というべきなのだろうか?

 今日のまかないとしてジェノが作ってくれたのは、海老のグラタンだった。

 

 子供にも人気のある料理なので、オーリンが連れてきた子供も、そしてオーリン自身も本当に美味しそうに熱々のグラタンを頬張り、満面の笑みを浮かべる。

 

「すまない。すぐに代わりを作る」

 自分とメルエーナのまかないを、突然の来訪者に出してしまったことを謝るジェノ。だが、メルエーナは気にしないでくださいと言って微笑む。

 

「ジェノさんはお話をして下さい。私がなにか作りますから」

 さらにそう提案したが、ジェノは首を横に振る。

 

「どうせ食べ終わるまで時間がかかるだろう。少し多めに作ったから、もう一人分はある。あとは焼くだけだから、それほど時間はかからない。待っていてくれ」

 きっとそれは外出しているバルネアさんの分だったのだろう。だが、ここで意固地に断っては気遣ってくれたジェノに悪いと思い、メルエーナは「はい」と頷いた。

 

 ジェノは「すぐに作る」と言って厨房に戻っていく。

 

「おお。それなら、嬢ちゃん……え~と、たしかメルエーナだったな」

「えっ、はい。メルエーナと申します」

 

 まさか自分の名前を初対面のオーリンが知っているとは思わず、少し驚いたが、メルエーナは笑顔で再度挨拶をする。

 

「うんうん。わしはオーリンという。この街の冒険者ギルドの最高責任者で、ジェノの上役と言ったところだ。そして、この坊主はコウという名前だ」

 

 ジェノ達が所属している冒険者ギルドというものの事をよく知らなかったメルエーナだったが、オーリンの説明で、ようやくこの初老の男性とジェノの関係が理解できた。

 

「ところで、さきほど言いかけたことなんだが……」

「はい」

「これからジェノの奴に、この坊主の依頼を説明しなければいけないんだが、よければお嬢ちゃんもそれに参加してくれないか?」

 

 あまりにも突然の申し出に、メルエーナは再び驚く。

 

「いや、何もなにか発言をしてほしいということではない。ただ、わしもサポートはするが、ジェノと一対一では、この坊主が萎縮してしまうのではないかと心配でな。ほらっ、あいつは無愛想この上ないからな」

 芝居めいた口調で、「まったく困ったもんだ」と言って笑うオーリン。

 

 その笑顔がとても柔らかく、心安い雰囲気のものだったので、メルエーナはついつられて笑ってしまった。

 

「なぁ、坊主。この優しいお姉さんが一緒に話を聞いてくれたほうが、お前さんも話しやすいだろう?」

 グラタンに夢中になっていた少年――コウは、フォークを置いて少し考えていたが、やがて小さく頷いた。

 

「というわけだ。申し訳ないが頼まれてくれないか?」

 オーリンの申し出に、メルエーナは二つ返事で「はい」と頷いた。

 

 もちろん、この幼い男の子のためになりたいと言う気持ちもあった。だが、それと同じくらいに、自分の知らないジェノの仕事を知りたいという好奇心も刺激されたのだ。

 

「感謝する。ありがとう、メルエーナ」

 オーリンは礼の言葉を口にすると、食事を再開する。そして、本当に美味しそうな顔で料理に舌鼓を打っていた。

 

 

「待たせたな」

 少し時間をおいて、ジェノがメルエーナの分のグラタンを運んできた。

 

 だが、そんな彼に、メルエーナは自分の顔の前に右手の人差指を置いて、静かにしてくれるようにジェスチャーで伝える。

 グラタンを綺麗に完食したコウは、ジェノを待っている間に、睡魔に負けて眠ってしまったのだ。

 

 酷く憔悴していたのが顔色で分かっていたメルエーナは、奥に行ってタオルを持ってきて、彼に掛けて上げた。

 

「疲れたんだろうな。まぁ、子供の足では、北区から冒険者ギルドまではかなり距離がある。無理もないだろう」

 オーリンは穏やかに寝息をたてるコウに、好々爺然とした優しい笑みを向ける。

 

 寝付いたコウを起こさないようにと、メルエーナ達はテーブルを移すことにする。

 そしてジェノとオーリンは向かい合って座り、コウが起きてくるまでの間に情報交換を始めようとしたのだが……。

 

「ああ、構わんから、嬢ちゃんも一緒に座ってくれ。食べながらでいいから話を聞いて欲しいんだ」

 メルエーナはジェノが作ってくれたグラタンを受け取って、奥に引っ込もうとしたのだが、オーリンにそう言われてしまったので、無作法だと思いながらも食事をしながら話を聞くことにする。

 

「メルエーナまで巻き込まないでくれ。彼女はギルドとは無関係なんだぞ」

「ああ、それはすまないと思っている。事が済んだら、お嬢ちゃんにも詫びはするから許してくれ」

 オーリンの言葉に、ジェノは嘆息する。どうやら本当に彼はこのオーリンが苦手なようだ。

 

「それで、俺に紹介する仕事というのはいったいなんなんですか?」

「ああ。まず、あの坊主の名前はコウという。そして……」

 

 ようやく話の本題に入ろうとしたそのときだった。

 

「うっ……あっ、あっ……」

 静かな寝息を立てていたコウが、突然うなされだしたのは。

 

 怖い夢でも見てしまっているのだろうか? そう考えたメルエーナだったが、コウの苦悶の声は次第に大きくなっていく。

 

「あっ、あああああああああっ! くっ、来るな! 来るなぁぁぁっ!」

 

 やがてそれは絶叫に変わり、メルエーナは慌ててコウのもとに駆け寄って、彼を抱きしめて宥める。だが、コウは半狂乱になりながら手足を動かして抵抗する。

 

「大丈夫。大丈夫よ、コウくん」

 メルエーナはコウに顔や体を殴打されながらも、決して手を離さなかった。

 しばらくの間コウは暴れていたが、やがて目を開いて覚醒すると、次第に落ち着きを取り戻していった。

 

「……あっ、ああ。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 コウは自分がメルエーナに抱きしめられていることに気づいたのか、涙で顔を濡らしながらメルエーナに謝罪する。

 

「大丈夫よ。謝らなくてもいいの。怖い夢を見たのね……」

 メルエーナはコウの顔を胸に抱き、彼の頭と背中を優しく撫でてあやしていく。

 

「オーリンさん。一体この子は?」

 少し怒気を含んだジェノの問に、オーリンは静かに答えた。

 

 この坊主は、今起こっている通り魔事件の、最初の被害者の息子だ、と。



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⑮ 『契約』

 なんとか落ち着きを取り戻したコウの顔を、メルエーナはタオルで拭いてあげた。すると、コウはお礼とお詫びを言って彼女から離れて、オーリンの隣の席に座る。

 年の割にずいぶんとしっかりとした少年だとメルエーナは思い、自分も彼と同じテーブルで対面に座ることにする。

 

 しかし、コウの憔悴した顔を見ると、メルエーナは胸が締め付けられそうになる。この少年が、毎晩のように先程の悪夢にうなされているであろうことが容易に想像できたから。

 

「大丈夫か、坊主?」

「はい。大丈夫です」

 疲れ切った顔で、けれどそう答えるコウ。メルエーナは、隣に座るジェノが静かに拳を握りしめたことに気づく。表情に出さないだけで、彼もこの少年のことを心配していることがよく分かった。

 

「坊主、わしが大まかな話はしてやる。だが、もしもこのお兄さんに頼むことを決めたのなら、自分で頼むんだ。できるか?」

 オーリンの言葉にコウは頷く。

 

「話して下さい、オーリンさん」

 少しでも早く要件を知り、そしてコウを緊張から開放したいと思っているのだろう。ジェノがオーリンに話をするように促す。

 

「ああ、分かっている。先にも言ったように、この坊主は今回の通り魔事件の最初の被害者男性の息子だ。その被害者は大工でな。坊主は父親の仕事を見学に行っていたんだそうだ。ちょうど十日前の話だ。

 そして、仕事が終わって父親と家に帰る途中で、猿に似た巨大な化け物が、近くの家の屋根から飛び降りてきて、坊主に襲いかかってきたんだそうだ」

 

 オーリンは震えるコウの頭を撫でて、話を続ける。

 

「幸い異変に気づいた父親が坊主を庇ってくれたらしい。だが、父親はその化け物の一撃を背中に受ける事になってしまった。

 他の人間が近くにやって来る気配を感じたのか、化け物はそれ以上の攻撃は加えずに逃走したらしい。坊主は軽いかすり傷で済んだ。そして、発見が早かったため、坊主の父親も一命はとりとめた。もっとも、無事とはいい難いがな……」

 

 言葉を選んでいるであろうことは、メルエーナにもよく分かった。コウの父親はかなりの重症のようだ。

 

「なるほど。この子供の置かれた境遇は分かりました。それで、俺に紹介したい仕事というのは?」

 

 ジェノの問に、オーリンはコウの背中をポンと叩いて後押しする。

 

 するとコウは立ち上がり、ポケットの中から何かを取り出す。そしてそれを両手に乗せてジェノに差し出した。

 

「お願いします! 僕の、僕のお父さんの敵を取って下さい! その、これ、僕が持っている全部のお金です。お願いします!」

 

 コウがジェノに差し出したのは、小銅貨が五枚だった。この店で一番安い定食代にも足りない微々たる額。だが、それを見たメルエーナは涙が溢れてきそうになった。

 コウの懸命な表情に、彼がどれだけの思いを込めてこのお金を差し出しているのか分かってしまったから。

 

「……コウ、だったな。隣にいる男から何を聞いたかは知らないが、俺は正式な冒険者ではない。それは分かっているのか?」

 ジェノは、少しゆっくりとした声でコウに話しかける。

 

「はい。でも、他の正式な冒険者って言う人達は、みんな僕の話を聞いてくれませんでした。だから、僕は……」

 コウの瞳から涙がこぼれ落ちた。

 

 ここに来るまでに何があったのかは考えるまでもない。誰一人として、この少年の真摯な願いに向き合ってくれる人は居なかったのだろう。

 

「コウ。俺も含めた冒険者ギルドの人間は、今、この街を守る自警団に協力して、お前の父親を襲ったものを懸命に捜索している。

 この街の自警団は優秀だ。そう遠くないうちに、今回の犯人は見つかって処罰されることになるはずだ。それを待ってはいられないのか?」

 

 ジェノの問は正論だろうとメルエーナも思う。だが、コウは首を横に振る。

 

「僕に色々話を訊いてきた自警団の人も、必ず敵を討つって言ってくました。でも、僕だって、僕だって、お父さんの敵を討ちたいんです! 僕には何の力もないけれど……」

 

 何もできない自分に歯噛みしながら、コウはずっと父親の仇を取る方法を考えたのだろう。そして、冒険者というお金を払えば魔物と戦ってくれる存在に行き着いたのだ、きっと。

 

「大丈夫だ、坊主。このお兄さんは弱いものの味方……そう、正義の味方ってやつなんだ。坊主の頼みを断ったりしないさ」

「勝手なことを言わないでくれ。正義の味方なんて都合のいいものが、現実にいるわけがないだろう」

「それなら、お前はこの坊主を見捨てるのか?」

 オーリンの問に、ジェノは言葉に詰まって、やがて嘆息する。

 

 悪いとは思いながらも、メルエーナは口元を綻ばせてしまった。

 オーリンは、ジェノの性格をしっかりと理解しているのだ。彼がこの少年を見捨てはしないことを知っているのだ。

 

「オーリンさん。俺は今、ギルドからの命令で自警団に協力している身です。なのに、あなたはこの仕事をそんなに俺に受けさせたいんですか?」

「おお。そのとおりだ。自警団の連中が頑張っているのは知っているが、我々『冒険者』だってこの街の治安を守る協力をしているんだ。奴らは軽んじているようだがな。

 その鼻を明かしてやれたら、さぞ爽快だろうさ。それに、この坊主との契約が結ばれれば、言い訳はいくらでも効くだろう。それがわからないお前さんではないだろう?」

 

 意地の悪い笑みを浮かべるオーリンに、ジェノは頭痛をこらえるように頭を片手で抑える。

 

「それと、もしも自警団に先んじて、その猿みたいな化け物をお前が倒せたなら、ギルドからも報奨金を出してやる。そうだな、大銀貨十枚でどうだ?」

 大銀貨十枚。かなりの高額だ。だが、ジェノはさしてその事に興味はないようで、「金額は好きに決めて下さい」と言って、コウを正面から見つめる。

 

 ジェノの視線に少し物怖じしながらも、コウは視線をそらさなかった。

 

「俺とは大違いだな……」

 小さくジェノが呟いたが、あまりにも小さすぎてそれを聞き取れたのはメルエーナだけだったようだ。だが、その言葉の意味をメルエーナが尋ねるよりも先に、ジェノは口を開く。

 

「分かった。条件付きで良ければ、その依頼を受けよう」

「んっ? 条件付きだと?」

 コウではなく、オーリンが怪訝な顔をして口を挟む。

 

「ああ。それが飲めないのであれば、依頼は受けられない」

「……条件って、なんですか?」

 コウの問に、ジェノは条件を口にした。

 

 それは、過酷な条件だった。思わず、メルエーナが口を挟んでしまったほどの。

 

 だが、背に腹は変えられなかったのだろう。コウはその条件を飲むと答えた。

 そして、ジェノとコウの契約が成立したのだった。



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⑯ 『軽薄な男』

 昨日もジェノは、夜通し自警団のメンバーと一緒に巡回に参加していた。

 帰ってきたのは夜明けころになってから。それなのに、彼は僅か数時間の仮眠を取ったかと思うと、すぐに出かけてしまった。

 そして、昼食時も過ぎても帰ってこない。

 

 メルエーナは店の掃除をしながら、ジェノの事を案じていた。

 

 昨日、冒険者ギルドの最高責任者であるオーリンに仲介されて、ジェノがコウと契約を交わした。だが、そのことは秘密にしてほしいと頼まれていたため、彼女はバルネアとイルリアにも何も相談できず、ただ一人で心配を募らせる。

 

 もちろん、ジェノの気持ちは分からない訳ではない。

 父親が怪物に襲われた時のことが頭から離れずに、悪夢に怯える幼子の憔悴しきった姿を目の当たりにしたのだ。一日も早く彼の依頼を達成して安心させてあげたいと思うのは当然だろう。でも、だからといって、自分の身が削られる事を厭わない彼の行動は、メルエーナには痛々し過ぎる。

 

 どうにかコウを救う方法があればいいのだが、現状、打つ手がないのが現状なのだ。

 

 メルエーナの故郷の小さな村とは大違いの、大都市であるこのナイムの街だ。いくつもの神様を祀る神殿が多数あり、信奉する神様の司るものの差異はあっても、人を癒やす魔法を使える者がそこには存在するという話をメルエーナも聞いたことがあった。

 

 だから、昨日、コウがオーリンに連れられて家に帰ったあとに、それをジェノに提案してみたのだが、彼は首を横に振った。

 

「コウの傷は肉体的なものではなく、心の傷だ。だが、心を癒やす、つまり精神を安定させる魔法というのは精神が未熟な子供に使うのは危険らしい。後々思わぬ障害を生むこともあるそうだ。だから、それは最後の手段だろう」

 それが、ジェノの考えだった。

 

「でも、それでも、あの子に、コウ君にこれ以上無茶をさせるよりは……」

 先にジェノがコウに突きつけた交換条件を思いだし、メルエーナは堪らなくなって、テーブルを拭いていた布巾を握りしめてしまう。

 

 どんな意図がジェノにあるのかは分からない。メルエーナが尋ねても、彼は説明をしてくれなかったから。けれど、あれはいくら何でも危険過ぎる。

 

 メルエーナがそんな事を考えていると、店の入口のドアが開かれる。

 来店を告げるベルとともに店に入ってきたのは、ジェノと彼の仲間の男だった。

 

 その男の名前はリット。淡い茶色の髪と青い瞳が印象的。ジェノと並んでも遜色が無いほどその顔立ちは整っている。

 服装は白地のシャツにスイングトップとズボンという、取り立てて珍しいものではないが、最近の流行りも取り入れた配色でコーデされた格好は非常に決まっている。ただ、いつも口元に浮かべている笑みのせいで、何処か軽薄な感じが拭えない感じだ。

 

 彼はジェノと同い年の幼馴染らしい。そして、類まれなる魔法を操る事ができる凄腕の魔法使いだとイルリアに教えてもらった。

 だが、それ以上に、大切なことをメルエーナはイルリアに教わっている。

 

『いい、メル。絶対にリットに近づいたり、心を許したりしては駄目よ。孕まされてから後悔しても遅いんだからね』

 

 冗談でも何でもなく、真顔でそうイルリアに注意されたこともあり、メルエーナは極力彼に話しかけたりはしていなかった。

 また、リットもたまにしかこの店を訪れないので、あまり彼のことは知らないし、知りたいとも思わない。

 

 だが、彼の悪い噂は、枚挙の暇がないほどメルエーナも知っている。

 そして、その噂の殆どが女性絡みだ。

 

 結婚まで間近だったカップルから女性を奪って、玩具にして捨てただの、恋を知らぬ生真面目な女性神官をたぶらかし、彼女は元より彼女の所属する神殿の若い女性全てに手を出しただの、本当に悪評ばかり聞く男なのだ。

 

 どうしてジェノが未だに彼と交友があるのか、メルエーナには理解できない。

 

「久しぶり、バルネアさん。なにか美味しいものを食べさせてよ」

 

 リットは、店の奥で食材の仕込みをしていたバルネアに気安く声をかける。かと思うと、

 

「おお、また可愛くなったな、メルちゃん。都会での生活を続けていくと、垢抜けしてくるもんだな。いいねぇ、うん、いい感じだ」

 

 そんな軽口をメルエーナにも掛けてくる。

 

 不躾にこちらを値踏みするような視線に、メルエーナは顔をしかめる。

 

「あらっ、リットちゃん、久しぶりね」

 だが、そんな彼女とは異なり、人が良すぎるバルネアは、笑顔でリットのもとにやってきて、彼を歓迎した。

 

「残り物を使ったおまかせ料理になってしまうけれど、それでも大丈夫?」

「ええ、それはもう。バルネアさんの料理なら、美味いこと間違いなしだからさ」

 そんな調子のいいことを言ってバルネアに微笑みかけるリットに、メルエーナだけではなくジェノも顔をしかめる。

 

「軽口はそのあたりにしろ、リット。仕事の話があると言ったはずだ」

「分かっているよ、ジェノちゃん。でも、<パニヨン>にやってきてバルネアさんの飯が食えないなんて、拷問以外の何物でもないぜ」

「リット……」

 ジェノの声が低くなる。すると、リットは肩をすくめて苦笑する。

 

「はいはい。仕事ね。まぁ、俺も退屈していたから、話くらいは聞きますよっと」

 そう言って、手近な席に腰を下ろすリットに、ジェノは嘆息して彼の正面の席に座る。

 

「でっ、わざわざこの俺の力を借りたいほどの仕事っていうのは、なんなんだい?」

 バルネアが料理のために厨房の奥に行ったのを確認し、ジェノは口を開こうとしたが、不意にリットが「待った」と口にしてそれを止める。

 

「ジェノちゃん。メルちゃんはいいのかい? 仕事の話を聞いてもさ」

「ああ。オーリンの爺さんのせいで、メルエーナも巻き込まれてしまったんでな」

 ジェノの答えに、リットはさも楽しげに笑う。

 

「へぇ~。あのオーリンが関わっているのか。そいつは面白そうだ。まぁ、そういうことなら、ここに座りなよ、メルちゃん」

 リットはそう言って自分の隣の椅子を引いてそこに座るように促してきた。だが、メルエーナは「いえ、ここで」と言ってジェノの隣に座る。

 

「やれやれ、つれないねぇ」

 リットは苦笑して椅子を戻す。

 

「事の経緯は順序立てて話すが、その前に言っておく。俺は自警団を出し抜かなければいけない。一応犯罪にならないように手を打つことにはするが、汚名を着ることは間違いない。

 それを嫌うのであれば、この話を聞かずに断ってくれ」

 ジェノはそう前置きをしたが、リットはより興味深そうに話に食いついてきた。

 

「ほうほう。お上品なジェノちゃんが誹りを受けることになってもやりたいことか。いいぜ。話を聞こう」

 ジェノは簡潔に今までの経緯を説明した。そして、これからの作戦も提示する。

 

 話を一通り聞いたリットは、さもおかしそうに喉で笑い、やがて堪えきれずに声を上げて笑う。

 

 ジェノがコウのためにしようとしていることを笑われて、メルエーナはカチンときてしまった。だが、ジェノが何も言わないので、自分も文句は口にしない。

 

「なるほど。こいつは大掛かりな作戦だな。やりがいがありそうだ。それに、自警団に喧嘩を売るってところも気に入った。いいぜ。この天才魔法使いのリットさんが力を貸そう」

 

 リットは簡単に協力を了承し、「ところで、バルネアさんの飯はまだかな?」とすぐにこの話から興味を失ったように、厨房の方に視線を移す。

 

 そんないい加減な態度にメルエーナは不安を覚えたが、ジェノは彼女とは対象的に安堵の表情を浮かべていたので、メルエーナは何も言わなかった。



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⑰ 『笑みと涙』

 リットはナイムの街を飛び回る。そう、文字通り彼は宙を舞っているのだ。

 もっとも、下にいる人間には鳥にしか見えないように魔法で偽装しているので、それを知るものはいない。

 

「しかし、どうしてこんなに他人の事を気にかけるのかねぇ」

 リットは呆れた口調でそう言いながらも、口元には笑みを浮かべる。

 

 こうしてリットが空を飛んでいる理由は、単純なものだ。

 昨日、ジェノに協力することを決めた彼だったが、去り際に更に頼み事をされたのだ。

 そばに居るメルエーナにも聞こえないような小声で、「街に異変が起きていないか調べてくれ」と。

 

 その一言と、先の話で聞いた猿に似た化け物という単語で全てを理解していたリットは、快くジェノの頼みを引き受けた。

 もしかするとまた楽しいことが起こるのでは、という期待感があったからだ。

 だが、残念ながら今回は空振りのようだ。

 

「う~ん、少しだけ期待はしたんだけれど、別段おかしな魔力の流れはないか……。ああ、残念だ。またあの時みたいに、大量の化け物が現れでもしてくれれば、面白いんだけどなぁ」

 物騒な冗談を口にするリット。そう、今のは冗談だ。半分くらいは、だが。

 

「仕方がない。この事を報告して、後はジェノちゃんが化け物を見つけるのを待つとしますか。ああ、待つのって、本当に嫌いなんだけどなぁ」

 リットはそうぼやいたが、すぐにまた楽しそうに口角を上げる。

 

「さてさて。幸運の女神様は微笑んでくれるかな? 怪物を倒すだけではなく、さらにガキまで救いたいと願う、強欲な正義の味方なんかにさ」

 ジェノの無茶な作戦を思い出し、リットはさも楽しげに笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 今日はバルネアの店の定休日。

 そして、偶然にも自警団との巡回も休みだった。

 だからメルエーナとバルネアは、できることであれば、ジェノにしっかり休んでほしいと思っていた。だが……。

 

「すみません。遅くなりました」

 そう言ってジェノが家に戻ってきたのは、どっぷりと日が暮れてからだった。

 彼は今日も朝から晩まで街を巡回し、今回の事件の犯人だという化け物を探し続けていたのだ。だが、手がかりはまだ何もないらしい。

 

「ジェノちゃん。無理をしては駄目よ」

「そうです。少しは休んで下さい」

 

 随分と遅い夕食を食べるジェノに、バルネアとメルエーナが心配して声をかけると、しかしジェノは「ええ。明日は自警団との巡回があるので、もう一度、近くを周ったら休みます」と答える。

 

「ジェノさん、このままでは倒れてしまいます。本当に、少しは休んで……」

 懇願するメルエーナに、しかしジェノは首を縦には振らない。

 

「昨日の晩は、ここの近所で被害者が出た。じっとしている訳にはいかない」

 ジェノはそう言うと、残っていた夕食を手早く平らげ、席を立つ。

 

「メルエーナ。家の中なら大丈夫だとは思うが、警戒は怠らないでくれ」

 ジェノはメルエーナにそう言うと、今度はバルネアに頭を下げる。

 

「すみません、バルネアさん。事後報告になってしまいましたが、明日の晩から念の為、イルリアにきてもらおうと思っています。

 バルネアさん達も気を使わなくていいでしょうし、それに、あいつなら俺も安心してここの守りを任せられ……」

 

 ジェノの言葉は最後まで続かなかった。

 

 それは、バルネアが彼を不意に抱きしめたからだった。

 

「ジェノちゃん。これがジェノちゃんのお仕事だというのはよく分かっているわ。でもね、私達のことはいいから、少しは自分のことも大事にしてちょうだい。

 そうしてくれたほうが、私もメルちゃんも嬉しいの。ジェノちゃんが無事に帰ってきてくれることが、私達には一番嬉しいの。それを忘れないで……」

 

 バルネアの瞳から涙がこぼれ落ちた。

 

 ジェノは少しの間動かずに居たが、すぐに「すみません」と謝り、バルネアの腕から離れる。

 

「俺は大丈夫ですから。それに、バルネアさんこそ疲れているはずです。どうか早く休んで下さい」

 

 ジェノはバルネアに背を向けて、

 

「すまないが、バルネアさんを頼む」

 

 そうメルエーナに言い残し、再び暗い夜に飛び出していってしまうのだった。



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⑱ 『魔法使い』

 バルネアの店が開店する二時間ほど前に、リットは<パニヨン>を訪れた。

 

 相変わらず、この店の入口は開店時間前だというのに空いていることに苦笑しながらも、リットは店内に足を踏み入れる。

 するとすぐに、この店のウエイトレスの格好をしたメルエーナがやって来た。

 

 これが普通の客であれば、まだ開店時間前だと説明して謝るのだろう。だが、彼女はリットの姿を見るなり、何も言わずに店の奥に引っ込んでしまう。

 

「やれやれ、少しからかい過ぎたかな」

 そんな事を思いながらも、彼はまったく反省しない。

 

「今回は、メルちゃんじゃあなくて、ジェノちゃんに用事だったんだけどねぇ」

 リットはそう言って肩をすくめると、立っている必要もないなと思って、近くの椅子に腰を下ろす。

 

「リット。ちょうどよかった。もう少ししたら、お前を探しに行こうと思っていたんだ」

 数分もしないうちに、ジェノがメルエーナと一緒に奥から出てきた。

 

 どうやら、メルエーナは自分を嫌って逃げたのではなく、ジェノを呼びに行っただけだったようだ。

 まぁ、彼女が自分に好印象を持っていないのは間違いないだろうが。

 

「手間が省けた」

 いつものポーカーフェイスで隠そうとしているが、声のトーンに明らかな疲れが聞いて取れる。かなりジェノは疲労しているようだ。

 

 その事を理解したリットは、さも楽しそうに笑うと、

 

「よう、ジェノちゃん。おめでとう。ついに化け物を見つけて、傷を負わせることができたみたいだねぇ」

 

 そう言葉を続けて、ジェノの健闘を讃える。

 

「心にもない言葉は言わなくていい。とっとと本題に入らせてもらうぞ」

 ジェノはそう言うと、リットの正面の席に座る。

 

「俺があの化け物に手傷を負わせたことを、すでにお前が知っているということは……」

「ああ、化け物が何処にいるかはすでに分かっているということだよ、ジェノちゃん」

 

 リットの言葉に、ジェノは「そうか」と呟き、安堵の息をついた。

 

 ジェノが立案した今回の化け物を倒す計画に置いて、最も難しかった事柄が達成できたのだ。息をつきたくもなるだろう。

 

「まぁ、この部分に関しては、作戦なんてとても呼べないただの力技だったんだがな。それでも幸運の女神様は、ジェノちゃんに微笑んだってわけか」

 

 リットがジェノに依頼されたことはいくつかあるが、リットは昨日まで、街の見回り以外には、たった一つの事柄しかしていない。

 そしてその事柄というのは、ジェノの剣にとある魔法を掛けたことだった。

 

 そのリットが使った魔法は、<追跡>と呼ばれる魔法。

 これは、魔法を直接対象者に浴びせるか、今回のように魔法を付加した物体で傷を負わせるかをすると、その対象の位置を術者が把握できる様になるというものだ。

 それ以外は何の協力もしていない。

 

「くっくっくっ、知らなかったよねぇ。俺ならこんな面倒な魔法を使わなくても、化け物の位置を把握するなんて簡単だったってことをさ」

 リットは気づかれぬように下を向き、そんな事を胸中で思いながら、嘲笑めいた笑みを浮かべる。

 

 魔法という能力は、それを持たない人間にとっては未知なるものだ。だから、その力でどれほどのことができるのかは、無能力者には分からない。ゆえに、何かを依頼するときにも、『こういった事はできないか?』と探りを入れて、その判断を、能力を有している者に委ねなければならないのだ。

 

 『魔法使い』と呼ばれる、魔法の専門家は数が極端に少ない。

 『魔法の資質を秘めている者』であれば、少ないながらもそれなりの人数になるのだが、そこから『魔法をなんとか発現させられる者』になると数が半分以下に減る。更にそこから、『二種類以上の魔法を使えるもの』となると、それがまた半分以下に減る。

 だから、いくつもの魔法を自由自在に使いこなせる人間というものは、非常に稀有な存在だ。

 

 ゆえに、無知なる依頼者のためにどの程度まで魔法を使ってやるかは、『魔法使い』のさじ加減ひとつ。全力で協力してやってもいいし、虚偽を伝えてできないと突っぱねてやるのも思いのままだ。

 

 もっとも、リットは神に誓ってジェノに嘘は吐いていない。

 

 今回はジェノに、

 

『一番の問題は、化け物が何処に潜んでいるのかを自警団より先に掴む必要がある。だから、以前にお前が使った、魔法を掛けた武器で傷を負わせると、相手の位置がわかる魔法を使って貰いたい』

 

 と頼まれたので、

 

『ああ、その方法なら、うまくやれば追跡可能だな』

 

 と正直な気持ちを口にした。

 

 この言葉には嘘偽りはない。ただ、それよりも簡単な方法があることを教えなかっただけだ。

 

「それで、今回の作戦の一番の難関だった部分は突破できたわけだけど、決行はいつにするんだ?」

 

 リットの問に、ジェノは即答する。

 

「今日だ。できれば、日が落ちきる前が良い」

 

 その答えに、リットは笑みを強める。

 この馬鹿は、こんな疲れきった状態で、他人のために命をかけて戦おうとしている。それがたまらなく面白かった。

 

「はいよ、了解。だが、自警団の奴らを誘導するなら、人通りが少なくなった頃のほうがいいい。夜間の外出禁止令の影響で、夕方になると人通りが極端に減る。そこがベストじゃあないか?」

「そうだな。わかった。それなら、俺はこれから下見をして……」

 

 立ち上がろうとしたジェノに、リットは「それは駄目だ」と言って、彼を止める。

 

「ジェノちゃんを立てて、今日まで退屈を我慢して待ってやったんだぜ。ここからは俺が楽しませてもらう。まぁ、安心してくれ。手はずどおりに舞台は整えてやるからさ」

 リットはニヤリと笑い、席を立つ。

 

「メルちゃんが、さっきからずっと心配しているのに気づいていないわけではないんだろう? 準備が整ったら連絡するから、少し眠っておけよ、ジェノちゃん。ジェノちゃんがしくじったら、全て台無しになってしまうんだぜ」

 

 リットは嫌味ではなく、本心からジェノを気遣うようなことを言ってしまった自分に驚く。だが、言ってしまったものは仕方ないので、彼は更に言葉を続けた。

 

「なにより、この天才が力を貸したっていうのに、そんな結果になってしまったら興ざめだ。万全とは言えなくても、体調は整えておきなよ」

 

「……分かった」

 おそらく、限界だったのだろう。ジェノはリットの提案を素直に受け入れた。

 

「ああ、そうか。まだまだ、こいつには楽しませてもらいたいからな。今壊れてしまったら、楽しみがなくなってしまう。それを俺は嫌ったってわけだ」

 

 リットはさきほどの自分らしくない言葉に、そう理由をつけて<パニヨン>を後にした。



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⑲ 『あの日の出来事』

 リットから、すべての準備が整ったとの連絡があった。

 もっとも、それはジェノの頭に直接語りかけてくるもの――リットの<遠距離会話>の魔法によるものでだった。

 リット自身はすでに配置に着いて、決行の合図を待っている。

 

 自警団の制服を身に着けたジェノは、一人倉庫街まで足を運んだ。

 事前の打ち合わせどおりに、倉庫街に人影は見えない。夜間の外出禁止令が出ている夕方近くの時間帯だ。それも当然だろう。

 さらに、リットが『舞台は整える』と言ったのだ。この一帯にいる人間は自分以外にいないことをジェノは確信していた。

 

 ジェノは静かに呼吸を整えると、未だに繋がっている遠距離会話の魔法でリットに作戦開始を告げる。

 

「はいよ、了解」

 生き生きとしたリットの返事が聞こえた。

 

 きっとリットは作戦通りに、件の化け物の幻覚を作り出して自警団の人間たちを集めて誘導してくれるだろう。

 

「後は、俺次第か……」

 いい加減な言動や態度が目立つリットだが、やると決めたことに対しては手を抜く人間ではない。物心がついた頃からの長い付き合いだ。それくらいは分かる。

 

「よーし、作戦通りに食いついてくれたぜ、ジェノちゃん。安心してくれよ。今回の魔法は、特別性だ。質量さえ魔法で再現しているから、幻というよりは複写体の作成だ。

 だから、この化け物の攻撃を受けたら、リアルにダメージを受ける。最悪、死ぬことになるはずさ」

「リット……」

「分かっているよ。不審を抱かれない程度の抵抗しかしないって」

 

 リットの声に自分をからかう響きを感じ、ジェノは苦笑いする。長い付き合いはお互い様かと思いながら。

 

「リット、すまんが、後のことは頼む」

「あいよ。不測の事態なんてものが起こっても、この天才にかかればそんなものは障害になりえない。大船に乗ったつもりで、ジェノちゃんはどんと構えておきなよ」

 

 やはり、リットの声は生き生きしているように思える。

 魔法という力を持たない自分には分からないが、その力を持つがゆえの悩みというものもあるのだろう。だが、それでも、ジェノはこう思ってしまう。

 

「俺も魔法が使えれば……」

 何度そう思ったことかわからない。だが、魔法は先天性的な才能なのだ。努力で後から身につけることは決してできない。

 

「愚痴を言っている場合ではないな。……今日で全てを終わらせるんだ」

 ジェノはそう心に決め、自身の弱い心を胸底に沈めるのだった。

 

 

 

 

 

 

「そうか。コウ。今日は母さんのシチューか。それは楽しみだな」

「うん。だから、迎えに来たんだよ」

 

 コウの父の今の仕事現場は、彼の家からそう距離があるわけではない。だから、祖父に許可をもらって、コウは一人で父親を迎えに行ったのだ。

 帰り支度をしていた父は、コウが迎えに来たことに驚いていたが、嬉しそうに微笑んでコウの頭を撫でてくれた。

 

 そして、コウは父と一緒に、手を繋いで家に帰る。

 とりとめのない話をしながら歩いていれば、すぐに家にたどり着き、コウと父は熱々のシチューを楽しむことができるはずだった。

 

 だが、そこで思いもよらなかった事が起きた。

 コウが何とはなしに見上げた前方の建物の屋根の上に、何か大きな生き物が居たのだ。

 

 それは、絵本で見たことのある、猿のような外見をした大きな生き物。だが、その顔にはいくつもの赤い瞳が蠢いていた。

 

「あっ、あああ……。おっ、お父さん!」

 コウは父の手を引っ張り、震えながらその生き物の方を指差す。

 

「どうした、コウ? ……なんだ、なんだあれは?」

 父もその生き物に気づいた。だが、その瞬間に、それはコウに向かって飛びかかってきた。

 

 コウは恐怖で体が動かずに、何もできなかった。

 だが、彼の父がそんなコウを抱きかかえて、今まで来た道を逆走し始めた。

 

 コウの父は懸命に走る。だが、赤い目を忙しなく動かしながら、巨大な猿の怪物が凄まじい速度でそれを追ってくるのが、父の肩越しに見えた。

 

「あっ、ああ! くっ、来るな! 来るな!」

 声の限りに叫ぶコウだったが、怪物は足を止めてくれはしない。

 

 怪物は突然跳び上がった。そして、上からコウ達に襲いかかってくる。

 

「お父さん、危ない!」

 コウは父に危険を告げたが、正面を向いて逃げることに必死な父は背後で起こっていることに気づけなかった。

 

 次の瞬間、コウの体が宙を舞った。そして、石畳の地面に倒れる。

 

「うっ……」

 その衝撃で背中を打ったコウは、一瞬息が詰まった。

 

 苦しさに目を閉じたコウが、なんとか再び目を開けると、そこには悪夢のような光景が広がっていた。

 

 うつ伏せに倒れる父。そして、父の背中からは大量の血が流れ出して、石畳を赤く染めていく。そして、そんな父の後ろには、あの怪物が立っている。

 

「あっ、あああ! お父さん! お父さん!」

 叫ぶコウに、父は何とか口を動かし、「逃げるんだ」と言う。

 

 しかし、コウは動くことができなかった。

 ただ、目の前の怪物が怖くて、恐ろしくて。

 

 このまま、自分もお父さんと一緒に殺される。そうコウは思ったが、

 

「どうした! 何があった!」

 突然、男の人の声が、遠くから聞こえてきた。

 

 それは、先程のコウの叫び声が、たまたま近くを巡回していた自警団の人間に届いたからだったのだが、コウにはそんな事を考える余裕などなかった。

 

 怪物は動きを止めると、再び跳び上がって近くの家の屋根に着地する。

 そして、コウを一瞥し、明後日の方向に逃げていった。

 

「あっ、あああああっ……。うわああああああああっ!」

 大怪我をした父に駆け寄ることもできなかった。

 コウはあまりの恐怖であらん限りの声を上げて、ただただ泣き叫んだ。

 

 やがて、自警団の者が駆けつけて、コウは保護をされた。父親も治療魔法が使える者がいる近くの神殿に運ばれることになった。

 

 結果として、コウは僅かなかすり傷を負っただけで、彼の父も一命は取り留めることができた。だが、それは幸運と呼べるものでは決してなかった。

 

 コウの父は後で意識を取り戻したものの、背中を深く切り裂かれた後遺症で、今後は立つことができないと診断されてしまったのだから。

 

 そして、コウは深い傷を心に負うこととなってしまい、この日から彼は悪夢にうなされ続ける事になってしまったのだから。



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⑳ 『勇気と絶望』

 父の仇を討ってくれるようにと依頼した冒険者のジェノ。その友人と名乗るリットという人が、突然コウを訪ねてきた。

 それも、玄関ではなくコウの部屋の窓をノックして。コウの部屋は二階であるにも関わらずにだ。

 

「お前がコウだな? 迎えに来たぜ。ああ、安心しろ。俺の名はリット。ジェノの親友なんだ」

「……ジェノさんの?」

 驚くコウにリットは微笑む。すると、鍵を掛けてあったはずの大窓がひとりでに開き始めた。

 

「これから、ジェノが化け物を倒す。だから迎えに来た。化け物を倒すときには、お前も一緒に戦うこと。それが、依頼を受けたときの条件だったはずだよな?」

 

 そう。ジェノは仕事を受けてくれる代わりに、そんな条件をコウに提示したのだ。

 

「どうする? 俺と一緒に来るか? それとも、ここで震えているか? 好きな方を選べ。俺はどっちでもいい」

 リットはコウに、そんな選択を迫ってくる。

 

「……行きます」

 体が震える。怖くて仕方がない。でも、どうしても自分はお父さんの仇を討ちたい。

 コウは懸命に自分を叱咤して、足を動かし、窓の外のリットに歩み寄る。

 

「ほう。いい根性だ。気に入ったぜ」

 リットはそう言うと、コウに向かって掌を向ける。すると、コウの全身を温かで優しい光が包み込んだ。

 

「あっ、あれ……」

 光が消えたと思った瞬間、コウの体から疲れが消えていった。

 

「癒やしの魔法だ。戦う前に倒れられたら困るからな」

 コウは驚きながらも礼を言おうとしたのだが、リットはそれよりも早くに口を開く。

 

「さて、化け物を追い込む作業も同時にやらなければいけないから、とっととジェノのところに転送するぜ」

 

 その言葉が終わるやいなや、コウの視界が一瞬灰色になった。

 そして、それが終わったかと思うと、彼は見知らぬ高い場所に立っていた。

 

「えっ? えっ? ここは、どこ?」

 自分は何処かの建物の屋根の上にいるようだ。そして、同じような建物がいくつも並んでいる。

 

 そこから落ちないように気をつけながら、辺りを見渡していると、背後に炎の壁が何の予兆もなく現れた。

 

「ひっ、火で出来た壁? これって、いったい……」

 あまりに突然な事態の連続に、コウは情報が処理できなくなって呆然とする。だが、

 

「来たか、コウ」

 

 声が聞こえた。その聞き覚えのある男の声に、コウはそちらに視線を移す。

 そこには、白い服を身にまとったジェノが立っていた。

 

「ジェノさん。そっ、その、ここは、いったいどこなんですか? リットさんという人と話していたら、突然ここに居て……」

 困惑するコウの頭に、ジェノはポンと手を置く。

 

「乱暴な招待になってすまなかった。ここは、ナイムの街の倉庫街だ。これからここで、お前の父さんを襲った化け物と戦う」

「……あの、怪物と?」

 

 まだコウは状況がはっきりとは理解できていない。だが、これからお父さんの仇と戦うということが分かれば十分だった。

 

「来るぞ」

 

 ジェノの声が聞こえるとすぐに、大きな氷の塊に追われる巨大な猿のような生き物が、コウの視界に飛び込んできた。間違いない。あの時の怪物だ。

 それが、自分達の立つ建物のすぐ下に着地したかと思うと、こちらを睨みつけてくる。

 

「あっ、あああっ……」

 コウは眼下の化け物の姿に、体を震わせる。

 

 だが、そんなコウの頭に、温かで優しい感触が伝わってきた。またジェノが頭に手を置いたのだ。

 

「お前の出番は最後だ。それまでは、俺が戦う」

 ジェノは腰に帯びた鞘から長剣を抜き放つ。

 

 化け物は、武器を手にしたジェノに向けて、耳を劈くほど大きな奇声を上げる。

 その声に、ここまで勇気を振り絞って何とか立っていたコウの精神力が途切れた。

 

「うっ、うあああああああっ!」

 コウは悲鳴を上げ、その場で腰を抜かして尻餅をついてしまう。

 

 無理だ。あんな怪物に勝てるわけがない。ジェノさんも僕も、あの怪物にやられてしまう。

 そんな絶望に、コウの心は侵食されていく。

 

 しかし、その時だった。

 

「コウ! 大丈夫だ。心配はいらない」

 ジェノの勇ましい声が聞こえたのは。

 

 コウには、自分に背を向けて怪物と対峙するジェノの顔は見えない。だが、掛けてくれた言葉の力強さに、コウは少しだけ冷静さを取り戻すことが出来た。

 

「……何のために俺がいる。俺に任せておけ」

 ジェノはそう言い残し、倉庫の屋根から跳んで怪物に斬りかかる。

 

 コウは呆然としながらも、ジェノの背中をじっと見つめ、恐怖を抑えながら彼の戦いを見届けるべく立ち上がるのだった。



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㉑ 『不安と期待 そして、決着』

 頭部を狙う重力を利用した一撃を、猿に似た化け物は両手を交差させて防ごうとする。

 だが、ジェノは硬い腕との激突を避け、剣の切っ先を上手く腕に当てて、毛に覆われた化け物の腕の皮膚を切り裂いた。

 

 その痛みに、化け物は大きな奇声を上げて、腕のガードを下げる。

 ジェノはその隙きを見逃さない。着地をするとすぐに、化け物の喉に剣の切っ先で突きを入れる。

 

 浅くだが、化け物の喉の部分から血がこぼれ落ちた。

 

 化け物は血を見て逆上したのか、両腕と背中から生えてきた腕を回転しながら振り回し、ジェノを吹き飛ばさんとする。

 だが、すでに彼は化け物の攻撃範囲から飛び退いて離れている。

 

 そして、逆にジェノは拳一つ分ほどの距離で彼の体に届かなかった左腕の掌部分に、カウンターで斬撃を食らわせて切り飛ばした。

 

「ほ~う。また腕を上げたようだな、ジェノちゃん」

 仕事を終わらせたリットが、魔法の力でコウの隣に瞬間移動して現れ、そんな軽口を叩く。

 

「おい、コウ。そんなに前のめりになっていたら、転げ落ちるぞ」

 この屋根の上にはリットが魔法を掛けていて、あらゆる攻撃を防げるようにしている。だが、ここから落ちてしまえば守るものはなにもない。

 

「ははっ。聞こえちゃあいないか」

 コウは瞬きをするのも忘れたかのように、じっとジェノと化け物の戦いに魅入っていた。

 その瞳には不安と期待感で溢れている。先程までの絶望感はまるで感じられない。

 

 化け物はジェノに向かって突進する。質量の大きさを利用して吹き飛ばすつもりなのだろう。

 

「ジェノさん!」

 心配するコウの声が響き渡る。

 

 だが、ジェノはそれを難なく横に交わすと、続きざまに化け物が横に振り回す腕を搔い潜り、三撃目の背中から生えた腕の一撃を下からの斬り上げで見事に両断した。

 

 しかし、ジェノの攻撃はまだ続く。突進をかわしたことで無防備になった化け物の左足のふくらはぎ部分に一撃を叩き込んだ。

 化け物は悲鳴とともに、バランスを崩して前につんのめって転倒した。

 

「…………」

 ジェノは無言で剣を構えて、倒れた化け物に近づいて行く。

 

 化け物はうつ伏せの状態から仰向けになる反動を使って腕を振り回したが、やはりその攻撃はあと少しのところでジェノに届かない。そして、再びその先端部分が無情に斬り飛ばされる。

 

「すっ、すごい。あの化け物が、全然相手にならない……」

 あまりにも一方的な展開に、コウは驚きながらも興奮していた。自分が依頼した冒険者のあまりの強さに。

 

 だが、そんなコウとは対象的に、ジェノはただ冷静に化け物の攻撃を交わし、カウンター攻撃を繰り返し続ける。

 

 化け物の武器である腕が使い物にならないほど短くなっても、距離を取りながら、攻撃の瞬間だけ距離を詰める、ヒットアンドアウエイを続けて、確実に化け物の気力と生命力を奪い取っていく。

 

 そして、ジェノの一方的な攻撃がしばらく続いた後に、化け物は力なく正面に倒れ込んだ。

 

 最後の抵抗であるかのように、その醜悪な蜘蛛のような顔をジェノに向けるが、すぐさまそこに連続して斬撃が叩き込まれ、化け物の命運は尽きることとなった。

 

 ジェノは化け物がもう動けないことをしっかり確認すると、

 

「コウ! お前の出番だ!」

 

 化け物から目を離さずに、そう叫んだ。

 

「えっ、あっ、僕?」

 

 驚くコウの頭に、リットはポンと手を置く。

 

「さぁ、クライマックスだ。エスコートはしてやるから、頑張れよ」

 リットはそう言うと、魔法の力で自分とコウの体を宙に浮かせて、ジェノの元に向かって飛んでいく。

 

「わっ、とっ、飛んでいる?」

 驚くコウだったが、化け物の姿が近づくにつれて、その顔に恐怖が浮かんでいく。

 

 そして、リットに連れられて、コウはジェノ隣に立ったのだが、恐怖で化け物を直視することが出来ずに居た。

 

「コウ。目を背けるな! これから、俺とお前でこいつにとどめを刺すぞ」

 だが、そんな彼に、ジェノは酷なことをさせようとする。

 

「僕が……。止めを……」

「お前の父さんの仇を取るんだろう! それをやるのはお前だ。お前でなくてはいけないんだ!」

 震えるコウを、ジェノは叱咤する。

 

「……ジェノさん。僕、僕は……」

 コウは恐怖を堪えて顔を上げ、ジェノの顔を黙って見上げた。

 ジェノは小さく頷き、

 

「俺の手の上に掌を重ねるんだ。決して手を離すな。そして、こいつから目も離すな」

 

 そう告げる。

 

「はい!」

 コウはそう答えると、剣を怪物の顔に突き刺さんとするジェノの掌に自分の小さなそれを重ねる。

 

 次の瞬間、ジェノの掌がわずかに動かされた。コウは手を離すまいと腕を伸ばす。

 

 ジェノとコウが一緒に放ったその一撃を顔に受けて、化け物猿は力なく顔を俯けて動かなくなった。

 

「あっ、ああ……。僕、僕は……」

 掌に伝わってきたなんとも言えない不快な感触。そして、目の前で消えていく命。それらが激情となって込み上げてきて、コウは泣き出してしまう。

 

 そんなコウを、ジェノは優しく抱きしめた。

 泣いて、泣いて、コウの涙が止まるまで、ジェノは彼を優しく抱きしめ続けた。

 

 そして、コウが泣き止むと、ジェノは体を離して優しい微笑みをコウに向ける。

 

「辛い思いをさせてしまったな。だが、お前は父さんの仇を取ったんだ。恐ろしい化け物を倒したんだ。だからもう、怯えなくてもいいんだ……」

 

 そう何度もコウに言い聞かせるように言い、ジェノは彼の頭を優しく撫でるのだった。



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㉒ 『悪夢の終わり』

 気配を感じてコウが振り向くと、暗い闇の向こうから、いくつもの赤い瞳がこちらを見ている。

 そしてそれは、少しずつコウに近づいてくる。しかも、近づくにつれて速度がだんだん速くなってくる。

 

 やがてその赤い瞳をしたなにかの姿が、コウの目でも視認できるほどの距離になる。

 それは、巨大な猿のような外見をしているのに、その顔にはいくつもの赤い目がある怪物だった。

 

「あっ、ああ……」

 恐怖のあまり後ずさるコウの足に、何かが当たった。

 

 それを確認しようと視線をそちらに向けると、それが血の池に沈む、父の腕だったことに気づく。

 

「おっ、お父さん……。お父さん!」

 

 コウは倒れた父にすがりついて体を揺らすが、「逃げろ、コウ……」という言葉を残して彼は動かなくなってしまう。

 

 迫ってくる。怪物が迫ってくる。

 

 逃げないといけない。逃げないと殺される。

 

 それが分かっているのに、コウは恐怖で動けない。そして、もたもたしている間に、怪物は目の前までやってきてしまった。

 

「くっ、来るな……。来るなぁぁぁぁっ!」

 

 あらん限りの声でコウは叫ぶ。しかし、そんな言葉を怪物が聞いてくれるはずがない。

 怪物は、大きく腕を振りかぶる。それが振り下ろされれば、自分は殺される。

 

「助けて……。 誰か、助けて……」

 懸命にコウは願う。でも、いつもその願いは叶わない。

 コウは無残に体を切り裂かれて死ぬ。そう、それはいつも変わらない結末。

 

 しかし、このときは違った。

 

「大丈夫だ、心配はいらない」

「えっ?」

 

 不意に、頭上から男の人の声が聞こえた。

 コウがそちらに視線をやると、白い衣を身に着けた黒髪の男の人が空から降りてくるのが見えた。

 

 そしてその人は、そのまま怪物を、手にしていた長い剣で切り裂く。

 

 怪物は血を吹き出しながらも、奇声を上げて腕を振り回し始めたけれど、その腕は全て男の人の剣で弾き飛ばされていく。

 

「コウ! 俺の手の上に掌を重ねろ! 俺とお前でこいつを倒すんだ」

 いつの間にか、男の人はコウの隣にやってきて、コウにそう命じる。

 

「はい!」

 コウは頷き、言われるがまま、男の人の手に自分恐れを重ね合わした。

 

 すると、男の人の剣が眩しい光を発した。

 その凄まじい光に照らされて、怪物の体がみるみるうちに消えていく。

 

「……消えた。あの怪物が……」

 驚くコウの頭に、ポンと手が置かれた。

 

「大丈夫だ。もう、怯えなくてもいいんだ」

 

 男の人は優しくコウの頭を撫でて微笑む。

 その笑顔に、コウも微笑みを返した。

 

 

 

 

 ――この夢を最後に、コウは件の怪物の夢を見ることはなくなる。

 

 けれど、コウはこの夢の終わりを、自分を救ってくれた、白き服の黒髪の剣士の姿をずっと忘れることはなかった。



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㉓ 『守れなかった約束』・㉔ 『男には分かるもの』

 僕は約束をしていた。

 

 そう、自分を救ってくれたあの人と、ジェノさんと約束していたんだ。

 決して、今回の依頼のことは他の人には喋らないって。

 

 でも、僕は我慢できなかったんだ。

 

 だって、みんなが言うんだもの。

 お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、友達も、友達のお母さんたちも。

 

『仇を取ってくれた、自警団にしっかりと感謝しないといけないよ』って

 

 違うのに。

 僕を救ってくれたのは、自警団の人たちじゃあないのに。

 

 僕を救ってくれたのは、『冒険者』だ。

 冒険者のジェノさんなのに……。

 

 我慢をした。約束を守ろうとした。

 

 でも、それでも、許せなかったんだ。

 ジェノさんのことを隠して、自分達が怪物を倒したと言っている自警団の人たちのことが、どうしても。

 

 だから、僕はついお爺ちゃんとお婆ちゃんに言ってしまったんだ。

 

 あの怪物を倒したのは、ジェノさんと僕なんだって!

 

 必死に、僕は何度も何度も、本当のことをお爺ちゃんたちに話した。

 

 最初は信じてもらえなかったけれど、何度も言ううちに、次第にお爺ちゃんは難しい顔をし始めて、お婆ちゃんは怒り出してしまった。

 

 

 ……僕は、馬鹿だ……。

 

 この時の僕は、自分のしたことが、ジェノさんに迷惑をかけることになるって分かっていなかった。

 

 本当に、僕はなにも、分かっていなかったんだ……。

 

 

 

 

 

 

 ジェノは全てを話したわけではないのだろう。

 そして、なるべく簡潔になるように分かりやすく要点を伝えていたようだが、コウの祖父母たちに必要な事実を話し終えるには、それなりの時間が必要だった。

 

「……以上が事の顛末です。俺はこの子の、コウの依頼を受けて、怪物と戦いました。そして、その戦いにコウを巻き込みました」

 ジェノは淡々と事実を説明したかと思うと、念を押すように、もう一度自分のしたことを強調して伝える。

 

 それをイルリアは、何も言わずに聞いていた。内心、腹が立って仕方がなかったのだが。

 

「なるほどな。つまり、コウの言っていることは正しかったというわけだね。自警団ではなく、君が今回の通り魔事件の犯人を見つけて倒した。それで間違いないかな?」

 

 リウスのその問いに、ジェノは「一つだけ違っています」と断り、話を続ける。

 

「俺は、あの日は非番でしたが、自警団に協力する身でした。ですから、直接手を下したのが俺なだけで、その功績は自警団のものです」

 

 ジェノのその言葉に、レイは面白くなさそうな顔をするが、口を挟んでは来ない。

 そして、以前ジェノは、今回の事件の犯人を自警団から横取りして殺したと言っていた。それとは正反対の主張を今する理由は一つしかない。水面下で自警団と何らかの取引をしたのだろう。

 

「なんで……。なんでこの子にそんなに危険な事をさせたの! 一歩間違ったら、この子は、コウは怪物にまた襲われたかもしれないのよ! この子は、まだ八歳なのに。それなのに、どうしてそんな危ないことを!」

 

 老婆は怒りのあまりに体を震わせながら、ジェノを睨みつける。

 

「それが、契約の内容だったからです」

 淡々と答えるジェノに、老婆の怒りは爆発した。

 

「何が契約よ! こんな幼子にそんな難しいことが分かるはずがないじゃない! 私達の息子も大怪我をして動けなくなってしまって、どうしたものかと悩んでいるというのに。これで、これで、コウにまでもしものことがあったら……」

 怒声を発したかと思えば、今度は涙を流して泣き始める老婆。しかし、ジェノはただ表情を変えずに黙っている。

 

「ふむ。契約かね。そう言えば、そのあたりのことを君は私達に話していないな。『コウとの契約で仕事を受けて、その仕事をこなした』としか私達は知らない。その契約内容を、詳しく説明してくれんかね?」

 妻とは正反対の落ち着いた口調で、リウスはジェノに契約内容を開示するように促す。

 

「依頼内容は、『コウの父親の仇を取るためにあの事件の犯人を倒すこと』です。報酬は小銅貨五枚。期限は、特に設けられてはいませんでした。そして、俺はその依頼を、『自分と一緒に犯人と戦うこと』を条件に受けました」

「ほう。小銅貨五枚……。いや、うん。あの子に出せるお金はそれが精一杯だろうな」

 

 リウスはジェノの答えに小さく頷く。そして、質問を続ける。

 

「私は<冒険者>という方たちの仕事の相場を知らない。だが、そんな金額で命をかけて戦うことがないことくらいは分かる。それなのにどうして、君はあの子の依頼を受けたんだね?」

「自警団よりも先に今回の事件の犯人を倒すことができれば、冒険者ギルドから、大銀貨十枚がでる事になっていました。だから、俺は金になる依頼を受けた。それだけです」

 

 ジェノは相変わらずに淡々と答える。

 だが、そこでリウスは微笑み、楽しそうに笑い始めた。

 

「あっ、あの、リウスさん?」

 それまで無言で話を聞いていたバルネアが、心配して声をかけると、リウスは笑うのを止めて静かに椅子から立ち上がる。

 

「ジェノ君。この質問だけでいい。君の本当の気持ちを口にしてくれないかね?」

「…………」

 

 ジェノは何も言わなかったが、リウスの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

 

「君と一緒に怪物を倒したというコウは、それからまったく悪夢を見なくなった。これを君は見越していたのかな?」

 リウスはそう問いを投げかけた。

 

 そしてそれを受けたジェノは、少しの間沈黙していたが、やがて口を開く。

 

「……見越していたわけではありません。ただ、そうなってくれればいいと思っていただけです」

 

 ジェノの言葉に、リウスは「そうか」と頷いて、

 

「ありがとう。君の優しさ、思いやりに感謝するよ」

 

 感謝の言葉とともに、笑顔をジェノに向ける。

 

 そしてリウスは、今度はバルネアに声をかける。

 

「バルネアさん、でしたな。突然押しかけてしまい、貴女にもご迷惑をおかけしてしまいました。大変申し訳ありませんでした」

 リウスは深々とバルネアに頭を下げる。

 

「あっ、あなた! 何をしているんです! この女は私達の可愛い孫を危険な目に合わせた子の保護者なんですよ。そんな人に頭を下げるなんて……」

 老婆が食って掛かるが、リウスは静かに首を横に振る。

 

「お前にはまだわからないのかい? いや、うん。わからんだろうな。女のお前には……」

「何を言っているのです! その子は、私達のコウを危険な目に……」

 老婆が文句を言うが、その気持ちはイルリアにも少し理解できた。

 

 男はこういった女を蔑視したようなことをよく口にする。それが自分に向けられたものでなくても不快だ。

 

「ああ、そうだ。危険は間違いなくゼロではなかっただろう。お前の言うような最悪な事態というものが起こる可能性もあっただろう。だがな、そんなすぐに想像がつく事柄を、このジェノ君が分かっていなかったと思うのかね?」

 

 リウスの言葉を聞き、イルリアも他のみんなと同様に、彼が再び口を開くのを待つ。彼の言わんとしていることを彼女も理解できずにいたからだ。

 

「どういう事よ! 説明して、あなた!」

 老婆が再び文句を言うと、リウスは苦笑し、「ああ。説明するよ」と言って再び席につく。

 

「ジェノ君。君にも言いたいことはあるだろうが、大筋で間違っていなければ、黙っていて欲しい。いいかな?」

「……分かりました」

 ジェノの同意を受けて、リウスは話を始める。

 

「ジェノ君が、危険を承知でコウを怪物と戦わせたのは、コウがその怪物に襲われたことで受けた、心の傷を乗り越えさせるためなんだよ」

 リウスはそこまで口にして、ジェノの方を一瞬見たが、ジェノが何も言わずにいることを確認すると、話を続ける。

 

「少し考えてご覧。もしも単純に冒険者ギルドから出される報酬だけが目的ならば、彼にはコウを戦いの場に連れ出す理由はないんだよ。

 ただ、怪物を倒すところで冒険者ギルドの誰かに立ち会ってもらうだけでいい。そして、後は倒したことをコウに伝えれば見事に依頼達成だろうからね」

 

 やはりジェノは何も言わない。それは、リウスの言葉が正しいからに他ならない。

 

「本当に、この馬鹿は……」

 思わず声に出そうになって、イルリアは慌ててそれを飲み込み、話の続きを待つ。

 

「けれど、ジェノ君はあえてコウにチャンスを作ってくれたんだよ。コウ自身に、父親の仇を討たせるチャンスをね。

 自分が多大なリスクを背負うのに、何の見返りもない事をしてくれたんだよ」

 

 そこまで説明を受けても、イルリアにはリウスの言わんとしていることが理解できない。

 それは、老婆も同じようで、リウスに再び食って掛かる。

 

「チャンスですって! 何を言っているんですか! あの子はずっと父親を襲った怪物に怯えていたのよ! 毎晩毎晩その事を夢に見て! それなのに、そんな子供にまた怪物を引き合わせるなんて!」

「ああ。強引なやり方だろうさ。だがな、あの子は、コウは男の子なんだ。いつかは心の傷を克服して、立ち上がらなければいけないんだ。

 そして、心の傷というのは、時間を置けば癒えていくとは限らないのだ。時間が経つことによって傷が根深くなることもあるんだよ」

 

 穏やかに、言い聞かせるようにリウスは言うが、他の方法もあったはずだとイルリアは思う。時間の経過が悪い方向に行くとも限らないではないかと言いたくなってしまう。

 

「理解できないだろうな。男の世界で生きたことがないお前には」

「分かるわけがないでしょう、そんな無茶苦茶な話!」

 

 激昂する老婆に、リウスは目を細めて微笑みを向ける。

 

「そう。分かるわけはない。私は男で、お前は女だからな。長く連れ添った我々でも、相互理解は出来ない部分がある。

 それを無理やり理解してくれとは言わない。だが、そういった理解できない部分があるということは、知っておいて欲しい」

 

 そこでリウスは視線を妻から移す。そして、その目がイルリアと合った。

 

「ふふっ。お嬢さんも妻と同じ気持ちのようだね。だが、一つ誤解しないでほしいのは、私は別に女を馬鹿にしているわけではないんだよ。

 君たちには女の世界というものがあるのだろう。そして、その世界で生きたことがない私達男には、それを理解できないであろうことは知っているんだ。

 もしも、男なのに女の全てを、女なのに男の全てを分かっているなんて思っているのなら、それこそ傲慢以外の何物でもないと思わないかね?」

 

 顔に出てしまっていたのだろうか、とイルリアは後悔したが、今更そんな事を気にしても後の祭りだった。

 

「言いたいことはあると思う。だが、ジェノ君はコウのために懸命に努力をしてくれて、その結果、コウは立ち直ることが出来た。

 今はこの事実を受け入れてもらえないか? 危険も確かにあったのは間違いないが、彼が頑張ってくれなければ、コウの苦しみはまだ続いていたのだからね……」

 

 理解できずに文句を口にしていた老婆だったが、段々とその勢いは衰えていき、やがて不承不承ながらも、夫の言葉を受け入れた。

 

「すまなかったね、ジェノ君。そして、君のおかげで、孫は救われた。感謝する。このとおりだ」

 そう言って深々と頭を下げるリウス。

 だが、ジェノは「止めて下さい」とそれを受けるのを拒否する。

 

「俺は、コウの、お孫さんのために何かをしたつもりはありません。ただ自分のためだけにわがままを通したんです。

 報酬もすでにお孫さんから頂いています。これ以上は何もいりません」

「いいや、それは違う。君がどんな理由で事を始めたかは関係ないんだ。君のおかげで結果として孫が救われた。それだけで頭を下げるには十分な理由なんだよ」

 

 それ以上の反論が思い浮かばなかったのか、ジェノはただ黙ってリウスの謝辞を受け取った。

 

 ほっと胸をなでおろすバルネアさんの姿が目に入ったが、イルリアはまだ納得がいかなかった。

 

 そして、もう一人、この事柄に納得していない男がいることも彼女は分かっていた。



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㉕ 『報われない仕事』

 話が済んだことで、リウス達が帰ることとなった。

 

 バルネアとメルエーナ、そしてジェノが一緒に、彼らを見送るべく店の出入り口に並ぶ。

 一応、話を共に聞いた身なので、イルリアもそれに参加することにした。

 

「ご迷惑をおかけしました。このお詫びは、いずれさせて頂きます」

「いいえ。お詫びなんて必要ありません。ですが、よろしければ今度は食事をしにいらして下さい。私が腕によりをかけて作りますので」

 

 リウスはバルネアと握手を交わす。そして、バルネアの隣に立つジェノに一礼をして踵を返した。

 

 リウスは笑顔だったが、彼の妻は仏頂面だった。そして、コウは終始申し訳無さそうに下を向いて、何かを言い出したくてたまらないのに、何も言えずに、祖母に手を引かれて帰っていく。

 

 途中、コウが振り返ったが、ジェノは何も声を掛けない。

 メルエーナが何か言いたげな視線をジェノに送っていたが、彼は気づかないのか、結局最後まで何も言わなかった。

 

 やがて、リウス達の姿が見えなくなると、イルリア達は店の中に戻る。

 だが、戻るなりジェノに声をかける男が一人。レイだ。

 

「ジェノ……」

「なんだ?」

 

 返事を返すや否や、レイの拳がジェノの頬に叩き込まれた。ジェノは倒れこそしなかったが、体をよろめかせる。

 

「なっ、何をしているんですか、貴方は!」

「レイちゃん!」

 メルエーナとバルネアが非難の声を上げるが、レイはそんな事は気にせずにジェノの胸ぐらを掴む。

 

 イルリアは何も言わず、ただ成り行きを傍観する。

 

「お前、何様のつもりだ? 俺達は、お前の掌の上で踊らされていたってことかよ……」

 殺気すら含んだレイの声に、皆が声に詰まる。

 

「お前は、一人であの化け物を仕留めたんだろう? やっぱり、俺と一緒にあの化け物を見つけたときには手を抜いていたんだな。あの化け物を逃せば、さらなる犠牲者が出る可能性があったことを知りながら……」

 

 レイは怒っている。だが、それは正当な怒り。義憤だ。

 どんな理由があったにせよ、ジェノは化け物を見逃した。その事実は変わらない。

 

「もう一度訊くぞ。お前は何様のつもりなんだ? お前には、救う人間を決める権利でもあるって言うのか?」

「そんな権利などあるはずがない。だが、それでも、俺は……」

 ジェノが力なく答えると、レイは面白くなさそうに彼を掴んでいた手を離す。

 

「お前のしたことを、俺は決して許さない。俺はお前のことが大嫌いだ」

「そうか……」

 

 ジェノは殴られて口の端からこぼれた血を静かに手で拭き取り、それ以上は何も言わない。そして、レイもそれ以上は何も言わず、店を出ていった。

 

「ジェノちゃん、とりあえず手当をしましょう」

「そうです。あんなわからず屋な人の事なんて、気にしないで下さい」

 バルネアとメルエーナが、ジェノに優しく微笑みかけて治療しようとしてくれたのだが、ジェノは「大丈夫です」と言ってそれを断る。

 

「冒険者ギルドで話し合いをする必要が出来たので、少し外に行ってきます」

 ジェノはさらにそう言って、自分も店を出ていこうとする。

 

 そこで限界が来た。イルリアの我慢の限界が。

 気がつくと彼女は、全力でジェノの頬を殴っていた。

 

 人の顔面を殴ったことなどないため、イルリアの手にも痛みが走る。

 だが、そんなことは、今の彼女にはどうでもいいことだ。

 

「この大馬鹿! こんな目にあっても、まだ他人のために自分を犠牲にしようとするの、あんたは!」

 あまりの怒りに、イルリアの瞳には涙さえ浮かんでしまう。

 

「なんなのよ、あんたは! 今回はたまたまリウスってお爺さんが許してくれたから良かったけれど、それがなかったら、ただ非難されて、責任を追求されて終わりだったのよ!

 いいえ、そもそも! コウの事が明らかにならなかったら、どうするつもりだったのよ、あんたは!」

 

 もう、イルリアは自分を止められなかった。

 

「ずっと自警団に恨まれ続けることが望みだったの? コウが笑顔を取り戻せたから、自分のことはどうでもいいって言うの? ふざけるんじゃあないわよ!」

 

 イルリアは両手でジェノの服の襟を握りしめる。

 

「見ず知らずの他人なんかのために、どうしてそこまで自分を犠牲にするのよ! そのせいで、あんたを大切に思ってくれている人を悲しませているのよ!

 身を粉にして頑張っても、自分に優しくない他人なんてものは、それを認めてはくれない。それくらいのこと、いい加減悟りなさいよ!」

 

 感情が高まりすぎて、イルリアの瞳から涙の粒がこぼれ落ちた。

 

「あんたの性格は分かっている。今回のことだって、一切手を抜かずに無茶をしたってことだって想像がつくわ。でも、でも、結果として、あんたは沢山の人に恨まれて、レイと私には殴られて……。こんなの、あまりにも割りに合わないじゃあないの。報われなさすぎるじゃあないのよ。それなのに、あんたはまた他人なんかのために……」

「…………」

 

 イルリアは涙を流しながら嗚咽する。

 だが、ジェノは優しく彼女の手を自分の服から離させると、

 

「すまない。これで、今回の件は終わりにする」

 

 そう言い残し、イルリアに背を向けて店を出て行くのだった。

 

 

 

 

 バルネアの店を後にして、自警団の詰所に戻る途中、レイはキールに再開した。

 

 ただでさえ人手不足な自警団だ。そのため、キールは先の老夫婦とコウとの話し合いには参加せずに、一人、見回り仕事に戻ってくれていたのだ。

 だから、事実を伝えなければいけない義務が自分にはあるとレイは思う。それが、酷く腹立たしい内容であったとしても。

 

「レイさん。その様子だと、やっぱりいい話ではなかったみたいですね」

 表情で察したのだろう、キールは苦笑する。

 

「ああ。腹立たしい内容だった。また、ジェノを殴り飛ばしてしまうくらいにはな。だが、一応、あいつの行動も……。なんだ、盗人にも三分の理、だったか?  それがあることは分かった。本当に業腹だがな」

 

「団長には報告するんですか?」

 きっと、話の内容を知りたいはずなのに、キールは追求はせずに、レイに判断を任せてくれる。本当によくできた後輩だ。

 

「ああ。事実は事実として報告するさ。俺が聞かなかったことにしていい話ではないからな」

「はい。了解しました。ただ、団長たちへの報告には、同席させてくださいよ」

 人懐っこい笑みを浮かべるキールに、「ああ」と答えて、レイは彼と二人で詰所に戻る。

 

 なんとも腹立たしい結末だが、自分達の仕事は大体こんなものだと、レイは自分を納得させる。

 

「まったく、報われない仕事だぜ……」

 そうぼやきながらも、レイの顔は自警団の男の顔に戻る。

 

 次の事件も、いつ始まるかわからない。

 いつまでも過去を引きずる余裕など、自分達にはないのだから。



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㉖ 『回想 失われた温かな手』

 私には、優しいお父さんがいた。

 

 大商会の跡取りだというのに、商才はあまりない人だったらしい。でも、幼い私にはそんなことは分からなかったし、それはどうでもいいことだった。

 いつも笑顔で、私をとてもよく可愛がってくれる、そんなお父さんのことが、私は大好きだったのだから。

 

 特に、お父さんと手をつないで散歩するのが好きだった。温かくて大きな手に、自分の小さな手が包まれていると、すごく安心していたのを覚えている。

 

 家に帰れば、優しいお爺ちゃんとお婆ちゃんがいて。そして、たまにしか帰ってこられないけれど、私達家族のために一生懸命働いてくれるお母さんもいた。

 

 私は、自分がこの上なく幸せな女の子なんだって思っていた。

 

 ううん、違う。本当に幸せな女の子だったんだ。あの日までは……。

 

 

 

 それは、いつもと同じように、昼食までの時間を使って、お父さんと散歩をしていた時のことだ。

 そろそろ夏になるということもあり、その日は海まで足を伸ばしたのだ。

 だが、これが運命の分かれ道だった。

 

 突然、女の人の悲鳴が聞こえた。

 

「何があったんだろう?」

 お父さんは、私の手を引いて声のする方向に歩いていく。するとすぐに、若い女の人がお父さんの元に駆け寄ってきた。

 

「どうなさったんで……」

「助けて下さい! 私の、私の娘が!」

 お父さんの言葉を遮り、その女の人は目の前の海の方を指差す。

 そこには、私と同じくらいの女の子が溺れていた。

 

「気がついたら、あんな遠くまで流されていて……。お願いします、助けて下さい! 私、泳げないんです!」

 女の人は、私のお父さんにそんな事を言う。

 

 お父さんは私の顔を見て、私を抱きしめた。

 

「……イルリア……。ここで待っているんだ。お父さんはすぐに戻ってくるから」

 そう言い残し、お父さんは海に向かって駆け出していく。

 

 私はお父さんが私を置いて走り出した瞬間に、嫌な予感がして声の限りに叫んだ。

 

「お父さん、だめ、行かないで!」

 

 でも、私のその言葉を聞いても、お父さんは止まってくれなかった。

 

 

 そして、私の悪い予感は当たってしまう。

 

 お父さんは、それほど泳ぐのが得意でもないのに、懸命に見ず知らずの女の子を助けようとした。

 その結果、なんとか女の子は、後から助けに来た別の男の人に託して救うことが出来たものの、自分は体力を使い果たして、溺れて……。

 

 私は、その日、大好きなお父さんを永遠に失ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 お父さんが死んでしまって数日が経っても、私はしばらくの間それを受け入れることが出来ずにいた。

 朝、目を覚まして隣を見ても、お父さんの姿がない。ぬくもりがない。

 お爺ちゃんとお婆ちゃんが代わりに私と一緒に寝てくれたけれど、やっぱり、違う。

 私はただ泣いて毎日を過ごした。

 

 私がいくらお父さんの生きていた時に戻りたいと願っても、時間はそれを許してくれない。時間は冷徹に前に進んでいくだけだ。

 

 そして、お父さんのお葬式が行われた。

 私は、棺にすがりついて、何度も何度も、お父さん、って叫んだけれど、決して返事は返ってこない。

 

 そして、涙も枯れ果てた私の前に、一人の女の子が花を持って歩いてきた。

 私はその女の子の顔は覚えていなかったけれど、彼女と一緒にいる女の人には見覚えがあった。

 父に助けを求めてきた、あの時の女の人だ。

 

「この人が、お前を助けてくれたんだよ……」

 きっと、この女の子のお父さんだろう。若い男の人がそう言って、女の子に花を手向けて礼を言うように促す。

 

 女の子は言われるがままに花を手向けて祈るような素振りを見せたが、飽きたのか、すぐに立ち上がって父親の元に戻り、彼の手を握る。

 

「…………」

 その時に、心に湧き上がってきた気持ちが何だったのかは、幼い私には理解できなかった。でも、許せないと思った。

 

 どうして、どうしてこの子には、お父さんがいるのだろう? 

 私にはもういないのに……。もう、あの温かな手を握ることは出来ないのに……。

 

 この子が溺れたりなんてしなければ、お父さんは死んでしまうことなんてなかったのに。

 それなのに、それなのに……。

 

「返して……。私のお父さんを返してよ!」

 

 気がつくと、私は女の子に掴みかかっていた。

 女の子は私の剣幕と叫び声に泣き出したが、そんなことは知ったことじゃあなかった。

 

「どうして、どうしてよ!」

 私はそう叫びながら、何度か女の子の頬を引っ叩いた。

 すぐに大人たちに取り押さえられてしまったが、私は「どうして」を繰り返して、暴れ続けた。

 

 

 私が別室に隔離されている間に葬儀は進み、棺は地中に埋められて、その上に墓石が置かれてしまっていた。

 

 私は、お母さんとお爺ちゃんとお婆ちゃんの四人で、改めてお父さんの冥福を祈る。

 そして、四人で帰ろうとしたのだが、そこに一人の男の人が現れた。

 

「シャーナ様。すみません、このような時に……」

「……時と場合を……。いえ、いいわ。すみません、お義父様……」

 お母さんはお爺ちゃんに頭を下げる。

 

「仕方がない。気にせんでくれ。むしろ、こんな時に申し訳ない」

 お爺ちゃんはそう言うと、お母さんは頭を下げてその男の人と一緒に、教会の中に入って行ってしまう。

 

「イルリア。少しだけお母さんを待っていようね」

 お婆ちゃんが優しく私の頭を撫でてくれる。

 

 そして、私達はしばらくお母さんを待っていたが、なかなか戻ってこない。

 

 私は、堪えきれなくなって、お婆ちゃんの元を離れて、お母さんの居る教会に走り出す。

 

「あっ、イルリア!」

 

 お婆ちゃんとお爺ちゃんは私の名前を呼んだが、追いかけては来なかった。

 父親を失った私には、母親のぬくもりが必要だということを分かっていたからだろう。

 

 でも、私はその教会の前で、信じられない言葉を聞いてしまったのだ。

 

 

 

「はい。そういう訳ですので、今回の契約は……」

「痛いわね。この契約のために、何年も下準備を進めて……」

 母は教会から出てこようとしていたようで、歩きながらこちらに近づいてくる。

 

 だが、小さな私が動かなかったことで、母も男の人も私が近くにいるとは理解していなかった。だから、あんな事を言ったのだ。

 

『まったく、よりにもよってこんな大事な時に死ぬなんて、使えないにもほどがあるわ』

 

 母の口から漏れたその言葉に、私の思考は凍りついた。

 そして、それが動き出した瞬間に悟った。

 

 お母さんは……。いや、この女は、お父さんの死を微塵も悲しんでいないことを。

 

 私は母に背を向けて祖父母のもとに駆け出す。

 

 ……この日、私はお父さんに続いてお母さんも失った。

 

 

 

 

 それから数年間は、件の女の子と彼女の家族は献花に訪れていたが、ある時を境にプッツリと来なくなった。

 別段、引っ越しをしたなどという理由ではない。

 向こうはまったく覚えていないようだったが、私は何度もあの子とその家族の姿を街で見かけたことがある。

 

 だけど私は、今更それを恨むつもりはない。

 命を救われようが、所詮は他人の事だ。あの人達にとってはそれだけのことだったのだろう。

 

 そう、所詮は他人のことだ。愛を誓いあって私を生んだはずの女すら、その事を微塵も悲しんでいなかったのだから。

 

 私は、私を生んだあの女を絶対に許さないと決めている。

 

 そして、私はお父さんのことも許せないでいる。

 

「どうして、あの時、私の手を離して他人なんかを助けに行ったの?」

 

「どうして、私を残して死んでしまったの?」

 

 その問に答えてくれない限り、私はお父さんのことも許せない……。

 

 

 

 他人のために何かができるなんて、素晴らしいことなんかじゃあない。

 

 自分を犠牲にしてまで、見知らぬ誰かを救う価値なんてない。

 

 そして、そんな自己犠牲の行いは、本当にその人を大事に思っている人こそを悲しませてしまうのだから。

 

 

 だから、私は……。



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㉗ 『女には分かること』

 温かな紅茶を口にしたイルリアが大きく息をつくのを確認し、同じテーブルを囲むメルエーナは、優しく話しかける。

 

「落ち着きましたか?」

「ええ。ごめんね、メル……。みっともないところを見せてしまったわね」

 

 イルリアの謝罪に、メルエーナは首を横に振る。

 

「いいえ。そんな事はありません。私も、イルリアさんの言葉が間違っているとは思えませんでしたので……」

「……そう。ありがとうね、メル」

 イルリアの感謝の言葉に、メルエーナは微笑む。でも、その笑顔は何処か寂しげだった。

 

「メル。その、信じてもらえないかもしれないけれど、私は本当にあいつの事が大嫌いなの。あんな馬鹿のそばに居たら、私の胃に穴が空くわ。だから、変な心配はしないでね。

 私は、見ず知らずの他人のために、自分の命をすり減らすような馬鹿な男が大嫌いなだけで、それに我慢がならないだけだから……」

 イルリアの気遣いに、しかし、メルエーナは悲しく微笑むことしかできなかった。

 

「メル。少し話を聞いてくれない? 幼い頃の私の話。誰にも話したことがないことだけれど、貴女には知って置いて欲しいの。これを聞けば、私があの馬鹿を嫌う理由もわかってもらえると思うわ」

 イルリアはそう言って、メルエーナの瞳をしっかりと見つめてくる。

 

 ただ事ではない事を悟り、メルエーナは頷いて、イルリアの話を聞くことにした。

 そして、話を一通り聞いた彼女は理解する。イルリアがジェノに腹を立てる理由を。

 

「そんな、そんなのって……」

 淡々とイルリアは語ってくれたが、その内容はとても重い内容だった。

 

「もう、十年以上前の話なんだけれどね。まだ私の中でお父さんのことを整理できていないの。だから、あの馬鹿を見ていると、どうしてもね。……って、何も泣かなくてもいいじゃあないの」

 イルリアはそう言うが、メルエーナは涙が溢れるのを堪えられなかった。あまりにも、イルリアの境遇が悲しすぎて。

 

「心配しないで。私には、お爺ちゃんとお婆ちゃんがいてくれるから。二人共、今もすごく元気だしね。

 それに、私に良くしてくれるバルネアさんのような人もいるし、友達もいる。特に、こうして私のことで泣いてくれる貴女もいるわ。だから、私は大丈夫よ」

 力強い笑みを浮かべるイルリアの姿に、メルエーナも涙を拭う。

 これ以上泣いていては、気遣ってくれる彼女にさらなる心配を掛けてしまうから。

 

「はい、お待ちどうさま」

 そう言って、バルネアが厨房から出てきた。

 彼女は料理を手にイルリアの前にやって来て、できたての一皿をイルリアの前に配膳する。

 

 その皿の上には、真っ白なライスで出来た島があり、それを囲むように、茶色いソースの海が広がっている。そしてそのソースの一部に、白いクリームのようなものも掛けられていた。

 

 これは、メルエーナも知らない料理だ。だが、茶色のソース――ドミグラスソースの重厚で奥深い香りが、メルエーナの鼻孔もくすぐり、胃を刺激してくる。

 

「あっ、あの、バルネアさん。この料理は?」

「ふふっ。もう夕食時ですもの。お腹が空いたでしょう?」

 バルネアは笑顔でそう言うと、スプーンをイルリアの前に配置する。

 

「あっ、その、ありがとうございます」

 恐縮してお礼を言うイルリアに、バルネアは笑みを強めた。

 

「お礼を言うのは私の方よ。ジェノちゃんのために怒ってくれて、叱ってくれて、本当にありがとう。ジェノちゃんは本当に無茶をしすぎるから、私がお灸をすえなければと思っていたのだけれど、リアちゃんにそれをさせてしまったわね」

「あっ、いえ。私が我慢できなくなって、勝手にやってしまったことで……。その、騒がしくしてすみませんでした」

「謝ることなんてなにもないわ。さぁ、温かいうちに召し上がれ。この料理はビーフストロガノフという料理なの。お肉を食べると元気が出るから、作ってみたわ」

 

 バルネアに促されて、イルリアは食事前の祈りを捧げて早速料理を口に運ぶ。

 

「……はっ、ははははっ。もう、もう、笑ってしまうくらい美味しいです」

 イルリアはそう言って、本当に嬉しそうに笑みを浮かべる。

 

「そう。良かったわ」

 バルネアの言葉は、メルエーナの気持ちでもあった。

 イルリアが嬉しそうに微笑むことで、自分も救われたような気持ちになる。

 

「あらっ? メルちゃん、目が赤いわよ。大丈夫?」

 料理以外のことだと、普段はどこか、ぼーっとして見えるバルネアだが、意外なところで目聡い。もっとも、お客様を相手にする商売をしているのだから、それも当然なのだろう。

 

 本当に、普段は全然そんなようには見えないのだが。

 

「あっ、いえ、これは……」

 イルリアの過去を話すわけにもいかず、なんと説明しようかと回答に困るメルエーナ。

 だが、そこでイルリアが口を開く。

 

「いえ。メルが私に、どうすればあのジェノの朴念仁に振り向いてもらえるのかを一緒に考えてほしいと、泣きながら言ってきまして」

「なっ!」

 メルエーナは驚き、反論するのが遅れてしまった。そのため、バルネアは「あら、そういうことだったのね」と嬉しそうに笑う。

 

 メルエーナは恨みがましい視線をイルリアに向けたが、彼女はどこ吹く風で美味しそうに料理に舌鼓を打っている。

 

 自分がジェノに好意を抱いていることが公然の秘密なのは分かっているが、やはりこう直接的に言葉にされると、恥ずかしくて仕方がない。

 だがその一方で、まったく自分の想いを理解してくれないジェノに対して、もう少し恥ずかしい気持ちを堪えて行動に出なければいけないのではとも思う。

 

「あっ、あの、バルネアさん」

 覚悟を決めたメルエーナは、折角の機会だと思い直すことにして、バルネアに相談を持ちかけることにする。

 

「どうしたの? メルちゃん」

「その、一つ教えて下さい。バルネアさんは、今回の事件の事を聞いて、ジェノさんがコウ君を危険な目に合わせてでも、自分の手で仇を討たせようとした理由が分かりましたか?」

 

 メルエーナのその問いかけに、バルネアだけでなく、イルリアも食事の手を止めて沈黙する。

 

 質問が抽象的すぎて回答に困っているのだと思い、メルエーナは補足をする。

 

「リウスさんは、『女にはわからない』と仰っていました。そして、その言葉どおり、私には理解できませんでした。

 そもそも、ジェノさんがコウ君に一緒に戦うように求めたときにも、私はどうしてそのような危険なことをさせようとするのか分からなかったんです。

 コウ君が心に傷を負っていたのは知っていましたが、それを癒やすには、時間を掛けてゆっくり治して行く方が良いと考えていました」

 

 メルエーナの言葉に、バルネアではなく、イルリアが口を開いた。

 

「あのお爺さんが言っていることは、私にも分からなかったわ。そして、私もメルと同じ気持ち。時間を掛けて心の傷と向かい合って解決していったほうが良かったと思う。

 あいつが、あんな無茶を幼い子供にさせた理由が分からないわ」

 イルリアはそこまで言うと、食事を再開する。

 

 やはり、イルリアにもリウスの言葉の意味は分からなかったようだ。

 

 普段、誰よりも人のことを第一に考えるジェノが、わざわざコウを危険な目に合わせた理由が分からない。いつもの行動と矛盾しているように思えてしまう。

 

「メルちゃん。私の答えを言う前に、逆に一つ質問をさせて。

 その理由が理解できれば、もっとジェノちゃんの事も理解できるかもしれないと思うのかしら?」

 バルネアの問に、メルエーナは「はい」と頷く。

 

 それを聞いて、バルネアは苦笑し、思ったことを言葉にしてくれる。

 

「そう。それなら答えるわね。私にもリウスさんとジェノちゃんの気持ちは分からないわ。でもね、それは仕方がないと思っているわ」

 バルネアの答えに、メルエーナもイルリアも怪訝な顔をする。

 

「私にも夫がいたからわかるの。男の人と女の人では、どうしても分かり合えない部分もあるんだって。でも、それは仕方のないことなのよ。だって、お互い別の人間なんだし、考え方だって違うんだもの。その上、そこに男女の違いまで加わるのよ。それで完全に分かり合いなさいという方が無理な話だわ」

 

 メルエーナは何も言えず、ただバルネアの次の言葉を待つ。

 

「だから、お互い相手の主張は尊重して、我慢できるところは我慢をしたわ。でも、どうしても納得できないことについては、私はずっと夫と話し合った。

 そして、なんとかお互いが納得できる着地地点を模索したの。それを、何度も何度も繰り返したわ」

 

 そう言って、バルネアはメルエーナの隣の席に座る。

 

「メルちゃん。相手のことをよく知りたいと思っても、どうしても理解できない部分もある。そのことは忘れないで。それに、触れられたくないこともあるっていうことも、覚えておかないと駄目よ」

「……はい」

 

 バルネアの言わんとしていることが全て分かったわけではない。けれど、男女の間には顕著に、『分かり合えない部分もある』 そして、『触れては行けない部分もある』 ということだけはなんとなくだが理解できた。

 

 少しでもジェノに振り向いてほしいと思い、きっかけを作りたいと思っていたメルエーナは、自分の浅慮を恥じて顔をうつむける。

 けれど、そこで、彼女はバルネアに頬を指でツンツンと突っつかれた。

 

「バルネアさん?」

「で・も・ね。逆に、『男の人自身が分からなくても、女の人には分かる』という部分というものもあるのよ。それは、長いこと繰り返されてきた男女の駆け引きから、女の人が学んだ知恵。もちろん、これを過信するのも危険だけれど、効果はあると思うわ」

 そう言って、バルネアは悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「色々とあったけれど、今回の一件は今日で本当におしまいだと思うの。だからね、まずはジェノちゃんを二人で労って上げましょう。そして、私が男の子をドキッとさせる方法を教えてあげるから、その後に、それをジェノちゃんに試してみて」

「そっ、そんな方法があるんですか?」

「ええ。いい? ジェノちゃんが眠る前に、とびっきりの笑顔で……ただその時には……」

 

 思わぬバルネアからの助言に、メルエーナは驚きながらもしっかりとそれを聞いて心に刻んでいく。

 

「あの鈍感馬鹿に通じるんですかね、それ?」

 イルリアはそう呆れていたが、メルエーナは実行に移そうと心に決めた。

 

 何故なら、バルネアのアドバイスを受けて、自分が伝えようとする気持ちは、告白ではなく、労いの言葉だったからだ。

 正直な話、告白などという大それた事をする勇気は今のメルエーナにはない。でも、この一言ならば伝えられるし、伝えたいと思う。

 一生懸命にボロボロになるまで頑張って、コウ君を救ったジェノさんのことを、少しでも肯定してあげたいから。

 

 気合を入れるメルエーナに、イルリアは苦笑して、「何で、そんなにあんな男がいいんだか」と苦笑する。

 

「よし、馬に蹴られたくないから、私はこれを食べ終わったら帰るわね。まぁ、メル。なけなしの色気を使って頑張りなさいよ」

 イルリアの辛辣な励ましに、メルエーナはまた恨みがましい視線を彼女に向ける。

 

「……なけなしの色気って、酷いです」

 そう文句を口にするメルエーナだが、自分に色気がないことは自覚しているので、あまり強くは否定できない。

 イルリアの様なスタイルの良さが自分にもあればと、彼女を羨ましく思ってしまう。

 

「それでも、バルネアさんの言うとおりに裸で迫れば、あの朴念仁も反応くらいはするかもね。一応、眉くらいは動かすんじゃあない?」

「誤解を招く言い方をしないで下さい! 服を脱ぐつもりなんて有りません! というか、眉を動かすだけって……」

 落ち込む自分の姿など目に入らないように、イルリアは食事を続ける。

 

「ほらっ、あいつが返ってくる前に、いろいろ準備をするんでしょう? 私のことは良いから、頑張りなさい」

 

 今度は優しい笑顔で言うイルリアの言葉を受けて、メルエーナはバルネアの手伝いをすることにした。



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㉘ 『報酬』

 いつもが賑わっているとは決して言えないが、ここ数日の冒険者ギルドの過疎っぷりは酷いものだった。

 先の通り魔事件が終わり、それに関わった冒険者ギルドメンバーに報酬が支払われたため、懐がいくらか温まった彼らは、仕事をせずにつかの間の休暇を楽しんでいるのだ。

 

 まぁ、それもあと数日のことだろう。すぐにまた、金使いの荒い奴らから順番に、糊口をしのぐための手頃な依頼がないかと物色しに現れるはずだ。

 

 オーリンは、職員数人と冒険者ギルドで仕事をしていたが、正直暇を持て余していた。だから、そこに思わぬ客がやって来たのは僥倖だった。

 

「おお! よく来たな、ジェノ」

 一応はこのギルドの最高責任者だと言うのに、オーリンは事務所の奥から冒険者見習いの少年に歩み寄っていく。

 

「オーリンさん。相談しなければいけないことが出来てしまったので、少し時間を取ってもらえないでしょうか?」

「おお、かまわん、かまわん。暇を持て余しとったところだからな。……だが、その頬はどうしたんだ?」

「別に、特段説明するようなことではありません。それよりも、話を……」

 どうやら頬の怪我には触れられたくないらしい。オーリンはそう悟り、客室にジェノを招き入れる。

 そして、ジェノの口から、先の通り魔事件の裏事情が漏れたことを聞かされた。

 

「ああ、なるほどな。だが、心配には及ばんぞ。もう自警団があの化け物を退治したという話が流布しきった後だからな。あれから一週間以上経って別の噂が流れても、すでに皆の関心は離れてしまっている。そう大きな騒ぎにはならんさ」

 オーリンはそう言って笑う。

 

「ですが、自警団からまた抗議が来るのでは?」

「ああ、それもない。奴らはすでに裏取引に応じた身だ。今更その事を蒸し返したくなどないに決まっとるよ」

「そうですか……」

 ジェノが安堵の表情を浮かべたのを見て、オーリンは苦笑する。

 

「まったく、お前の人の良さも困ったもんだな。そんなことでは、悪い人間にいいように扱われるぞ」

「俺は別にお人好しではありません。ただ、今回の一件で、誰かさんにいいように使われたので、少しは気をつけようと思いますがね」

 ジェノがそう返してきたことに、オーリンは声を上げて笑う。

 そして彼は鞄から小さな革袋を取り出し、それをジェノの前に置いた。

 

「ほれ、受け取れ。誰かさんは悪いやつかもしれんが、約束は守るぞ。大銀貨が十枚入っている。確認してくれ」

 オーリンが促すと、ジェノは革袋を開けて中身を確認し、またそれを革袋に戻した。

 

「ジェノ。分かっているとは思うが、冒険者の原則は忘れておらんだろうな?」

「ええ。依頼を達成したのであれば、提示された報酬は受け取ります。それが、仕事に見合わない高額報酬だろうと」

 

 その言葉に、オーリンは頷く。

 ジェノの性格を考えれば、受け取らないことも予想していたので、先に釘を刺して置いて良かったと思う。

 

「すまなかったな。だが、あの子のことを頼めるのはお前しかいなかったんだ」

「もう終わったことですし、依頼を引き受けることを決めたのは俺です。オーリンさんが謝る必要はないはずです」

 

 ジェノはそう答えて立ち上がる。

 

「報告は以上です。報酬もたしかに受け取りました。ただ、あまり長居もしていられないので、すみませんが、ここで失礼します」

「そうか。長いことお前を借りていたから、バルネア達にも迷惑をかけてしまったな。それと、あの嬢ちゃん、メルエーナにも後日にお詫びとお礼に行くと伝えておいてくれ」

「分かりました」

 

 ジェノは一礼して客室を出ていった。

 オーリンはそれを見送り、苦笑する。

 

「ジェノのような奴こそが、民衆が求める英雄なんだろうがな。いかんせん、あいつは人が良すぎる。下手に名前が売れれば、悪人に利用されかねん」

 オーリンはそう呟いて嘆息したが、すぐにまた笑みを浮かべる。

 

「だが、それでも期待してしまうんだよ。あいつがいつか、伝説の英雄、冒険者ファリルのように、歴史に名を残す英雄になるのではないかとな」

 

 オーリンは誰にとなく言い、笑みを強めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「よう、ジェノちゃん。こんなところで会うなんて奇遇だねぇ」

 リットは冒険者ギルドから出てきたばかりのジェノに話しかける。

 

「何が奇遇だ。俺に要件があるんだろう?」

 ジェノは苦笑し、そう返してきた。

 

「ああ。実はそうなんだ。これから夜の街を楽しもうと思ったんだが、少し金に困っていてね。良ければ、今回の件の報酬を貰いたいんだけれど」

「ああ、それならば丁度いい。たった今、お前に払う報酬を手に入れたところだ。というか、どうせそれを何処かで覗き見でもしていたんだろう?」

 

 ジェノはそう言うと、リットの前に歩み寄ってきて、革の袋をまるごと手渡してきた。

 

「今回の報酬だ。とてもお前のしてくれた仕事に見合うものではないが、受け取ってくれ」

 ジェノはそう言うと、そのままリットの横を通り過ぎて歩いていく。

 

 あまりにもあっさりと、そしてさもそれが当たり前であるかのような行動に、リットは笑いを堪えられずに吹き出す。

 

「おいおいおいおい、ジェノちゃん。なんだよ、この金は?」

 リットは振り返り、ジェノを呼び止める。

 

「今回の報酬だ。そう言っただろう?」

「ああ、それは聞いたぜ。だが、冒険者としての報酬は、山分けっていう約束だっただろう?」

 振り返ったジェノにそう返し、リットは革袋をジェノに放り投げて返す。

 

「変なところで律儀だな、お前も」

 ジェノは革袋を空中で手に掴む。そして革袋の紐を解こうとしたが、それよりも速くに、リットはジェノに向かって掌を差し出すポーズを取って口を開く。

 

「報酬は全額で小銅貨五枚だっただろう? それの山分けだから、まぁ、小銅貨二枚でいいぜ」

 さも楽しそうに笑いながら、リットは報酬の請求額を明示する。

 

「リット。どういうつもりだ?」

「どういうつもりも何も、今回の仕事はあのコウってガキの依頼の手伝いだっただろう? 何やらオーリンの爺さんと悪巧みをしていたみたいだが、俺にはそんなことは関係ないぜ。

 それに、『提示された報酬は受け取る』のが冒険者の原則なんだろう? 逆に言えば、提示されていない報酬を受け取る義務はないわけだよな?」

 その言葉に、ジェノは苦笑する。

 

「金に困っていたんじゃあないのか?」

「ああ。小銭が少し不足していたんだ」

 一瞬の間もなくそう返すと、ジェノは嘆息し、懐から別の革袋を取り出す。そして、そこから小銅貨を取り出して、リットの差し出した手にそれを置いた。

 

「おいおい、三枚あるぜ」

「小銭が不足していたんだろう? 取っておけ」

 ジェノが珍しく笑みを浮かべて、そう返してくる。

 

 リットは肩を竦め、「はいはい、わかったよ」と答えて、小銅貨を握りしめた。

 

「何かあれば、<パニヨン>に来てくれ」

 ジェノはそう言い残して、踵を返して去っていった。

 

「くっ、くくくっ。いや~っ、『正義の味方』っていうのは格好いいねぇ。力がないくせに突っかかってくる馬鹿な自警団の奴らには恨まれて、殴られて。自分の価値観を押し付けてくる自己中な女にも罵倒されて、殴られて。う~ん、俺だったら消しているね、そんな奴ら」

 

 レイの馬鹿が糾弾していたが、『正義の味方』のジェノがそのあたりに手抜かりをするはずがないのだ。

 

 彼は、化け物に魔法の剣で一撃を加えた後のことは事前にリットに頼み込んでいた。これ以上被害を出さないようにしておいてくれと、頭を下げて頼んでいた。

 だから、リットは頼まれたとおりに、化け物が傷を負うと、すぐにそれを追いかけて魔法の力で閉じ込めておいたのだ。

 だから、あれ以上の被害など出るはずはなかったというのが真相だ。

 

「それなのに、言い訳の一つもしないなんて。いやぁ、本当にジェノちゃんも馬鹿だねぇ。でも、それがたまらなく面白いんだけどな」

 

 リットはそう言うと、再び掌を開いて、三枚の小銅貨を確認する。

 

「俺にとってはただの小銭なんだけれど、ジェノちゃんにとっては、そうではないんだろうなぁ。あのガキが懸命に集めた、願いがこもったものだとか思っているんだろうねぇ」

 

 その大切な小銅貨を、一枚余分に渡された。

 それが、リットには借りを作ってしまったようで少し面白くない。

 

「ああ、やっぱり借りたままっていうのは気分が落ち着かないなぁ。手っ取り早く、この借りは返すとしようか。それに、そのついでになら、少しくらいの悪戯をしても許されるだろうし」

 

 リットはさも面白そうに笑い、

 

「くっくっくっ。どんな反応をするか楽しみだ」

 

 そう言って魔法の力を使い、その場から姿を消すのだった。



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㉙ 『特別な笑顔』

 ジェノは、夜道をランプ片手に歩く。

 その表情は相変わらずの仏頂面なのだが、彼は懸命に思考を巡らせ続けていた。

 

「リットが報告をしてこなかったということは、まだ手がかりは掴めていないということか。……今回も、駄目なのか……」

 悔しいが、リットに見つけられないものを自分が見つけられるとは思えない。

 結局、今回の事件の黒幕も、あの化け物が何処からこのナイムの街に入ったのかも、全て不明なままだ。

 

「どこの誰だ。あの化け物を作り出した奴は……」

 ジェノの表情に怒りの感情が浮かぶ。

 その瞬間、路地裏にいた猫が二匹、大慌てで逃げていった。

 

 逃げていく猫達を見て、ジェノは感情を抑える。この程度なら問題はないはずだが、用心に越したことはない。

 

「こんなところをイルリアに見られたら、また余計な気を使わせてしまうな」

 自分を殴りつけて罵倒し、泣き崩れた少女の事を思い出し、ジェノは嘆息する。

 

「あれは、俺のミスだと何度も言っているんだがな……」

 

 イルリアが自分に負い目を感じていることはよく知っている。だが、ジェノはその事で彼女を責めるつもりはまったくない。

 自分のミスでなるべくしてなったことだ。それに、リットのおかげで日常生活を送る分には何も支障はない。

 

 イルリアのことを思い出していると、不意に先程彼女に言われた言葉が思い出された。

 

『この大馬鹿! こんな目にあっても、まだ他人のために自分を犠牲にしようとするの、あんたは!』

 

 という彼女の言葉が。

 

「別に、俺は自分を犠牲にしているつもりはない。今回の一件も、完全に俺が自分の我儘を通しただけだ」

 

 そう、コウを助けたいと思ったのは自分の我儘だ。依頼を持ってきたのはオーリンだが、それを受けることを決めたのは自分自身だ。ならば、その責任は全て己にある。それを誰かのせいにするつもりはない。

 

「だから、レイが怒るのも当たり前だ。俺があいつと同じ立場だったら、同じことをしていたはずだ」

 レイ自身が言っていたように、彼はジェノのことを嫌っている。けれど、ジェノ自身はレイに悪感情を持ってはいない。

 

「だが、それでも、俺は……」

 レイの立場に立って物事を考えていたはずなのに、ついそう言葉を続けてしまう自分に、ジェノは苦笑する。

 

 本当に、自分は利己的だとジェノは思う。

 オーリンやリットが、時折、自分の事を『正義の味方』と言ってからかうが、そんなものは的外れも良いところだ。

 

「正義の味方なんて、いやしない。そんなことくらい、誰もが知っていることだろうが」

 ジェノは考えながらも、足を進める。

 

 やがて自分の下宿先である店が、<パニヨン>が見えてきた。

 すると、自然とジェノの脳裏には、バルネアとメルエーナの顔が浮かぶ。

 

「……最悪の結果は起きなかった。今はそれで良しとするしかないか」

 ジェノはそう自分を納得させて、少し足を早めて裏口に向かう。

 

「まずは、二人にしっかりと謝らなければな」

 ジェノはそんな事を考えながらドアをノックしようとしたのだが、それよりも早く、ドアがひとりでに開かれた。

 

「おかえりなさい、ジェノさん」

「おかえりなさい、ジェノちゃん」

 メルエーナとバルネアが、ジェノを満面の笑顔で出迎えてくれた。思わぬ出来事に、彼は驚いたが、表情には出さずに、「ただいま戻りました」と帰宅の挨拶を口にする。

 

「お腹が空いたでしょう? 早く手を洗っていらっしゃい」

 バルネアの言葉に頷き、ジェノはドアを締めて洗面所に向かう。そして手をきちんと洗い、居間のテーブルに向かおうとしたところで、メルエーナに呼び止められた。

 

「ジェノさん、今日はお店の方で食べましょう。バルネアさんが、たくさん料理を用意してくれたんですよ」

「……そうか。分かった」

 

 怪訝な思いをしながらも、ジェノはメルエーナに案内されるまま、店の一番奥の客席に足を運ぶ。そして、彼は目を見開いた。

 

 店のテーブルを二つ重ねた上には、たくさんの料理が並べられていた。いろいろな種類の料理だが、ジェノはすぐにそれらの料理の共通点を理解する。

 どれもこれも、自分の好物ばかりなのだ。

 

「バルネアさん、これは、いったい?」

 

 早速料理を切り分けているバルネアにジェノが尋ねると、彼女は悪戯っぽく微笑み、

 

「ふふふっ。決まっているじゃない。ジェノちゃんが無事にお仕事を完了したお祝いよ。時間があまりなかったから、簡単な料理ばかりだけれど、味には自信があるわよ」

 

 そう答える。

 

 バルネアさんが作った料理が不味いわけがない。だが、今はそれが問題なのではない。

 

「いえ、そうではなくて。俺は、貴女に迷惑をかけてばかりで……。特に今回は……」

「ジェノさん、折角の料理が冷めてしまいますよ。ほらっ、とりあえず座って下さい」

 

 ジェノが言葉を発しようとするのを遮り、メルエーナがジェノの背中を押して強引に席に座らせてくる。

 

「メルエーナ。俺は、お前にも……」

「はい、お飲み物です。今日はすごく良いお茶にしてみました。きっと、バルネアさんの料理に合うと思いますよ」

 

 ジェノに何かを言う暇を与えずに、メルエーナはお茶を彼に手渡して、自分も席に座る。

 すると間髪をいれずに、バルネアもジェノの前に切り分けた厚切りの肉を給餌して、自分の指定席に座った。

 

「ですから、こんな事をしてもらう理由が……」

 ジェノはなんとか言葉を言おうとするが、メルエーナはジェノの口の前に自分の人差し指を立ててくる。

 思わずジェノは言葉を飲み込んでしまう。

 

 そして、そんな僅かな隙きを突いて、女二人で畳み掛ける。

 

「いいじゃないの。私とメルちゃんが、ジェノちゃんの無事を祝いたいのよ。だから、ね?」

「バルネアさんの言うとおりです。ですから、ジェノさんも観念して、お祝いされて下さい」

 

 強引過ぎると思ったジェノだったが、これは自分のために善意でしてくれた行動なのだ。まして、料理はもう出来上がっている。これを意固地になって食べないほうが失礼この上ない。

 

 ジェノは完全に逃げ道を塞がれていることを理解し、降参した。

 

「分かりました。いや、違うな。ありがとうございます、バルネアさん」

 ジェノはまずバルネアに頭を下げ、

 

「感謝する、メルエーナ」

 メルエーナにも感謝の言葉を述べる。

 

 二人は簡素なジェノの礼の言葉に、しかし満面の笑顔を浮かべる。

 

 

 それから食事前の祈りを捧げ、ジェノは二人と、少し遅い夕食を楽しむ。

 

 予想通り、いや、予想以上にバルネアの料理は絶品だった。

 そして、その料理を楽しみながら、何気ない会話を二人と交わしていると、更に料理が美味しくなるのは何故だろう。

 

「ジェノさん、お茶のお代わりです」

「ジェノちゃん、次はこれを食べてみてね。一見すると普段と変わらないでしょう? でもね……」

 

 笑顔の二人が、何故か嬉しそうに笑みを強める。

 その理由に心当たりはなかったが、ジェノは自分だけではなく彼女たちも喜んでいる事が嬉しかった。

 

 結局、ジェノは気づかなかった。バルネアとメルエーナの笑顔に釣られて、自分も笑みを浮かべていることに。

 

 

 

 

 

 

「ですから、皿洗いくらいは、俺が……」

 上げ膳据え膳ではあまりにも申し訳なく、ジェノはそう申し出たのだが、バルネアとメルエーナはそれを許してくれない。

 

「駄目よ。ようやくお仕事が終わったんだから、今日はしっかり休みなさい」

 バルネアにそう言われては、ジェノも意固地になるわけにはいかない。

 

 心苦しかったが、その言葉に甘えるしかなかった。

 

「分かりました。ですが、バルネアさんも無理はしないで下さい」

「大丈夫よ。いいから、今日はそのまま眠ってしまいなさい」

 

 笑顔のバルネアに頭を下げ、ジェノは自室に向かおうと踵を返したのだが、そこでメルエーナと目があった。

 

 おやすみなさい、と就寝の挨拶が続くのだとジェノは思っていたのだが、メルエーナは微笑み、

 

「お疲れさまでした、ジェノさん」

 

 そう言って、満面の笑顔を浮かべた。

 

 それは、何気ない一言。

 それは、見慣れたはずの笑顔。

 

 だが、ジェノは少しの間、呆然とその笑顔をただ見つめていた。

 

「……あっ、ああ……」

 自我を取り戻したジェノは、なんとかそう返し、足早にメルエーナの横を通り過ぎて自室に戻る。

 

 何故かはまるで分からない。だが、ジェノは、メルエーナの今の笑顔を見てしまったことに、罪悪感と言うか、気恥ずかしさを覚えてしまったのだ。

 

 まるで、一糸まとわぬ彼女の裸身を覗いてしまったかのような気持ちだった。

 

「お休みなさい、ジェノさん」

 だが、続けて背中から掛けられたその言葉は、いつもの聞き慣れた言葉だった。けれど、ジェノは振り返るのを躊躇い、

 

「ああ。お休み……」

 と背中を向けたまま答えるのがやっとだった。



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㉚ 『回想 勇敢だった僕の友達』

 自室に戻り、ベッドに腰掛けて息をつく。

 

「……何だったんだ、さっきのは?」

 ジェノは頭を振ると、静かに深く呼吸をする。

 そして、気持ちが落ち着くと、先程のことは忘れようと思い、考えないことにした。

 

 すると、次に浮かんでくるのは、やはり今回の事件のことだった。

 

「俺程度の浅知恵では、上手くいかないな」

 

 事件に携わった皆が納得できる結末などないのは知っている。だが、もう少し事を穏便に運べなかったのだろうかと考えずにはいられない。

 

「あの依頼を受けたりせずに、自警団に協力してあの化け物を倒す。そして、コウのことは、コウの家族に任せる。それが、おそらく一番波風が立たなかったんだろうがな」

 それは分かっている。だが、ジェノはそれを選べなかった。

 

 レイの言葉ではないが、客観的に自分の行動を思い出してみると、本当に何様のつもりだろうとも思ってしまう。

 

「だが、それでも、あんな思いは、もう誰にもさせたくなかった……」

 

 ジェノは静かに目を閉じる。

 夢に見ることはなくなったが、あの傷は今も残っている。

 もう血を流すことはなくても、思い出すと痛むのだ。幼き日の傷跡が。

 

 

 

 

 

 

 暗い森の中を、幼いジェノは走っていた。

 

 いつもならば歩きなれた道のはずなのに、辺りが薄暗いとこんなにも勝手が違う。

 それに、まだ春になったばかりで、日が落ちるにつれてだんだん気温も低下していくのが分かり、ジェノは一層不安に押しつぶされそうになる。

 もしも今、友達が一緒にいてくれなければ、ジェノは怖くて動けなくなってしまうところだった。

 

「でも、早く帽子を見つけないと。真っ暗になったら帰れなくなってしまう。ごめんね、ロウ。お腹すいたよね? 帽子を見つけたら、すぐに帰ってご飯にしてもらうから」

 ジェノは自分の懐にいる真っ白な猫に声をかけて、彼の頭を撫でる。

 そうすると、ロウは嬉しそうに鳴き、それを聞いて、ジェノも少し気持ちが落ち着く。

 

 ロウは、この白くて可愛らしい猫は、ジェノの一番の友達だ。

 物心ついた頃からいつも一緒に遊んで、食事も眠るときも、いつもそばにいてくれる親友。

 人間ではなくても、ジェノにとってはかけがえのない存在なのだ。

 

 そう、大切な存在だ。

 自分にこんな酷いことをする人間より、ずっと! 

 

 

 夜に森に入ることの危険性は、子供でも知っている。けれど、ジェノには無理をしてでも森に入らなければいけない訳があった。

 

 その訳とは、至極単純で、自分の大切な帽子を取り戻すためだった。

 

 

 街に遊びに来ていたジェノに、同年代のいじめっ子が悪戯をして、彼の大切な帽子を奪って逃げたのだ。

 

 ジェノは時間がかかったが、何とかいじめっ子を見つけ出し、帽子を返すように懇願したのだが、そのいじめっ子は悪びれた様子もなく、

 

「へっ、あの帽子は、森のいつもの遊び場の木に掛けてきたぜ。だけど、もうすぐ日が沈む。臆病なお前には、今から取りに行くことなんてできねぇだろう」

 

 そう言い、更にジェノの頭を思い切りゲンコツで叩いて、再び逃げていってしまった。

 

 頭を襲う痛みに、ジェノは涙を瞳いっぱいに溜めたが、帽子のことが何より気がかりで、彼は無謀にも愛猫のロウと一緒に、こうして森に入ってしまったのだ。

 

 あの帽子は、ペントが、ジェノの母親代わりの女性が毛糸を編んで一生懸命作ってくれた大切なもの。それをなくしたなんて知ったら、ペントが悲しんでしまう。

 

 その一心で、ジェノはロウと一緒に森を駆け進む。

 

 何とかまだ日が沈み切る前にいつもの広場にたどり着くことができた。そして、目的の帽子も発見した。幸い、穴なども空いていなかった。

 

「よかった」

 ジェノは安堵し、帽子を被る。

 

「ロウ、後は帰るだけだから」

 ジェノはロウに話しかけて、すぐさま来た道を引き返す。

 

 もう、日が沈みきるまで時間がない。真っ暗になったら帰れなくなってしまう。

 ジェノは懸命に走る。

 

 息が切れるのも構わずに走ったことが功を奏し、ジェノは日が沈み切る前に森の入口まで戻ってくることができた。

 

 街の出入り口の松明も見える。

 こっそりと城壁の小さな穴を通り抜けて街の外に出たことを怒られるだろうけれど、衛兵さんに事情を話せば、街に入れてくれるはずだ。

 

「……よかった。もう大丈夫だよ、ロウ」

 その事に安堵し、ジェノは少しだけ立ち止まって息を整える。そして、それから歩き出そうとした。だが、その瞬間。ジェノは何かを背中に感じた。

 

 慌ててジェノが振り返ると、そこには真っ赤に光る四つの光が浮かんでいた。

 だんだん、その光は近づいてくる。そして、それらが森の木々の影を抜けると、その正体が明らかになった。

 

 それは目、だった。醜悪としか言いようのない、子供の背丈ほどの二足歩行の化け物の目。

 

 幼いジェノには、その化け物が何なのかは分からない。だが、目の前の二匹の化け物は、手に錆びた短剣を持っていて、こちらに近づいてくる。明らかな殺気を放って。

 

「あっ、ああっ……」

 

 緑の肌に大きく避けた口。歯はボロボロで、口からは引っ切り無しに唾液を垂らしている。

 その化け物の姿を目の当たりにして、ジェノは腰を抜かしてその場に座り込んでしまう。

 

 もう少し、あともう少しだけ走ることができれば、衛兵が気づいてくれるかもしれないのに。しかし、ジェノはもう恐怖で立ち上がることもできなかった。

 

「ああっ、兄さん。助けて……」

 ジェノは後ずさりさえできずに、目を閉じて祈る。

 

 動かなくなったジェノに、緑の肌の化け物達の錆びた刃物が迫る。

 そして、苦悶の声が上がった。

 

 だが、それはジェノの悲鳴ではない。

 悲鳴を上げたのは、醜悪な化け物の一匹だった。

 

 ジェノが怖さを堪えながら目を見開くと、自分の目の前に白い猫が立っていた。化け物たちからジェノを守るように、懸命に威嚇の構えをとり、うめき声を上げて。

 

 さらに先を見ると、ロウが引っ掻いたのだろう。化け物の一匹が片目を押さえている。

 

「ロウ! 駄目だよ、危ないよ!」

 ジェノは懸命に叫んだが、ロウはジェノの方を振り向くことなく、化け物二匹に向かって駆け出していく。そして、片目を抑える化け物の顔を爪でひっかく。

 

 その攻撃に、化け物は怯んだ。

 だが、ロウの攻撃はここまでだった。

 

「ロウ!」

 無傷のもう一匹の化け物が錆びた剣を横に振ると、ロウは真っ白な毛を自分の体から溢れでた鮮血で染めて、力なく地面に倒れ落ちたのだ。

 

「やっ、止めて! ロウ、ロウ!」

 ジェノは懸命に叫んだが、化け物たちがそれを聞くはずもなく、すでに力を失っていたロウの小さな体を短剣で滅多刺しにしていく。

 

 そして、ロウはピクリとも動かなくなった。それを確認し、化け物二匹は、ジェノに視線を移す。

 

「あっ、あああっ。くっ、来るな、来るなぁぁぁぁっ!」

 ジェノの悲鳴が響く。

 

 そして、彼はあまりの恐怖に意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 迫ってくる。赤い目が。

 真っ赤な血に濡れた短剣が。

 今にも、この体を突き刺そうと。

 

「来ないで! 来ないでよ! 兄さん、兄さん、助けて!」

 ジェノは懸命に兄に助けを求める。だが、その声は届かない。

 

 緑色の肌の化け物が、醜悪な顔に笑みを浮かべて近づいてくる。

 そして、ジェノの前にやって来たそいつらは、ジェノの顔に向かって短剣を突き刺す。

 

 

 

「うっ、うああああああああっ!」

 ジェノは悲鳴を上げて、目を見開いた。

 涙で顔をベチャベチャにして、ジェノは目を覚ましたのだ。

 

「あっ、あれ? なっ、何で、僕……」

 ジェノは、いつもと同じ自分の部屋のベッドで目を覚ました事に驚く。

 さっきまで、自分は街の外にいたはずなのに。

 

「ジェノ坊っちゃん! 良かった。目を覚まされたんですね!」

「うわっ!」

 

 状況を理解できずに居ると、恰幅のいい女性に抱きしめられた。

 この声とぬくもりと匂いを間違えるはずがない。ペントだ。

 

「良かった。気を失っているだけとは言われたが、心配したぞ、ジェノ」

 そして、いつも聞いている優しい穏やかな声が聞こえた。兄さんの声だ。

 

「ペント。兄さん。僕は、僕は、いったい……」

 ジェノの言葉に、椅子に座っていたジェノの兄は、立ち上がってジェノの元まで歩いてきた。

 

「お前が無事で良かった。もしも、私が駆けつけるのが、あと少し遅かったら……」

 ジェノは兄にも抱きしめられ、ようやく自分は助かったのだと理解できた。

 

「兄さんが、助けてくれたの?」

「ああ。いつまで待っても帰ってこないのを心配して、お前の友達に行方を尋ねたんだ。そうしたら、まさか森の入り口でゴブリンに襲われているなんて……」

「ごぶりん……」

 兄の言うその単語が、あの緑色の化け物のことだと理解したジェノは、奴らにめった刺しにされた友達のことを思い出す。

 

「兄さん。ロウは? ロウは、何処に居るの?」

 いつもなら、側に寝ていて、ジェノが目を覚ますと真っ先に向かってくる友達の姿が見えない。

 

「……すまない。私がゴブリンを倒した時には、もう……」

 兄はそう言うと、テーブルの上から白い包みを持ってきて、それをジェノの前で開いた。

 すると、事切れて目を閉じたままの友達の姿が、ジェノの瞳に映る。

 

 ロウは、ジェノが物心ついた頃にからずっと一緒の大切な友達だった。

 かけがえのない家族だった。

 

 だが、もうロウは目を覚まさない。

 動けないジェノを守るために、その小さな爪を武器に懸命に戦い、そして命を落としたのだ。

 

 『死』と言うものが分かっていなかった幼いジェノは、もう命のぬくもりを失ったロウの亡骸をみて、初めてそれを理解したのだった。

 

 

 

 

 

 

「あれから、もう十年か……」

 ジェノは幼い頃の自分を思い出し、そう呟く。

 

 大切な友人との突然の別れ。

 それは、とても悲しくて辛いものだった。

 

 けれど、ジェノの苦悩の日々は、その後にこそ始まったのだ。

 

 ずっと、赤い目の化け物に追われる悪夢を見続けた。そして、その度に目の前で大切な友人が殺され続けていく。

 

 強くなろうと、剣を学んだ。

 けれど、懸命に努力をして腕を磨こうと、夢の中での自分は無力な子供のままで、化け物にはまるで刃が立たなかった。

 

 そして、現実で剣の腕を上げる度に後悔するのだ。どうして、あの時に自分は今の力を持っていなかったのだと。

 

 そんな事は無理なのは分かっている。けれど、時を戻せるのであれば、あの時間に行ってロウを救いたくて堪らなかった。

 

 

 そんな願いが、今回のコウの依頼をジェノに受けさせた。

 

 十二歳の時に、ジェノは兄と一緒に隣町まで行く途中で、ゴブリン五匹に襲われたが、剣術をある程度取得していた彼は、それを兄と一緒に倒した。

 

 初めて、剣技を使って生き物を殺した。

 その日の夜は体が震えて眠れなかったのを覚えている。

 けれど、それを境に、ゴブリンに追われる夢を見ることはなくなった。

 

「コウは、ゆっくりと心を癒していくべきだったのかもしれない。だが、もしもあの時の俺と同じ苦しみを味わうのだとしたらと思うと、俺は……」

 こんなことは言い訳にもならない。それは分かっている。だが、抑えられなかった。

 

「本当に、俺は利己的だ。身勝手だ。自分の過去をあの子供に見て、それを傲慢にも救おうとするなんて……。こんな事をしても、過去は変えられないのに……」

 

 ジェノは、大きく嘆息し、ベッドに体を預けることにした。

 

 しばらく、ジェノはそのまま天井を見上げていたが、だんだんそれが歪んでいくのを感じた。

 ただ横になっただけなのに、満腹感と一緒に疲労が込み上げてきたようだ。

 

 ジェノは、睡魔と戦いながら、何とか掛け布団の間に自分の体を入れる。

 そこで不意に、メルエーナの先程の言葉を思い出した。

 

『お疲れさまでした、ジェノさん』

 

 というシンプルな労いの言葉を。

 

「ああ、そうか。俺は疲れているんだな……」

 ジェノは自分の疲労をようやく自覚することができた。

 

「そう言えば、イルリアとの約束があったな……。バルネアさんとメルエーナに、何か……」

 

 そこまで考えたところで、眠りに落ちる。

 過去を思い出して自嘲していたジェノだが、その表情は安らかなものだった。



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㉛ 『違う道を歩む、君へ』

 頬の痛みと突っ張った感じがあっという間に消えていく。

 魔法の力というものはやはり便利だと思う。だが、それはそれとして、ジェノは目の前の男に尋ねずにはいられなかった。

 

「それで、何を企んでいるんだ?」

「いやだなぁ、ジェノちゃん。俺はただ単に、昨晩、ジェノちゃんのあまりの正義の味方っぷりに痺れてしまって、頬の傷を治していなかったことを思い出しただけだぜ。

 たまたま通りかかる用事もあったから、こうして足を運んであげたわけよ。他意はないぜ」

 

 調子のいいリットに、ジェノは嘆息する。

 どんな用事があったかは知らないが、この男がわざわざ他人の傷を治してやるために足を運ぶ人間でないことはよく知っている。絶対にこの行動には裏がある。

 

「もう、リットちゃん。本当に、お昼ごはんを食べていってはくれないの?」

「ああ、ごめんね、バルネアさん。昼はもうほかの店で済ましてしまったんだ。付き合いで仕方なくさ。だから、また今度にさせてよ」

 

 その上、客が居なくなる時間帯を狙ってきたのに、バルネアさんの作る昼食を断るのだ。これは絶対に怪しい。

 

「それに、この後すぐにお客さんが来ることになるから、そいつらになにかご馳走してやってよ」

 リットは、片目をつぶってバルネアに意味深なことを言う。

 

「待て。本当に何をしたんだ、お前は!」

「よ~し、準備は完璧だな。主役が顔に怪我していたら、せっかくのいい場面が台無しになるからな。それじゃあ、後の事はよろしく、ジェノちゃん」

 

 そこまで言うと、リットはわざわざ転位の魔法を使ってこの店から姿を消した。

 

「なっ、何だったんでしょうか?」

 訳がわからないと言った顔をするメルエーナ。だが、それはジェノも同じだ。

 

 いったい誰がこの店を訪ねてきて、何が起こるというのだろう?

 考えていても埒が明かないので、ジェノは店のテーブルの拭き掃除を再開する。

 

 そして、ジェノが拭き掃除を終わらせる頃に、その客はやって来た。

 

「すみません。もう営業が終わっていると書かれているのは見えたんですが、どうしても会いたい人がいるので、お尋ねしてもいいでしょうか?」

 聞いたことのない若い男性の声。姿を見ても、やはり会った覚えはない。だが、その男性と一緒に入ってきた幼い少年は、ジェノの見知った顔だった。

 

「コウ君!」

 メルエーナもその姿を確認して、声を上げる。

 

「いらっしゃいませ。余った材料を使った簡単な料理ならお出しできますので、よろしければお席にどうぞ」

 バルネアは笑顔でそう言い、メルエーナが案内しようとしたが、コウの隣りにいる男性は「いえ、私はジェノさんという方に用事がありまして」と言って、首を横に振る。

 

 ジェノは何も言わずに、布巾をテーブルに置いて、男性の前に足を進めた。

 

「コウ。この人がジェノさんかな?」

「……うん」

 コウはずっと俯いたままだったが、男性の問に頷く。

 

「初めまして。私の名前はマリクと言います。今回の一件で貴方のお世話になった、コウの父親です」

「初めまして。ジェノです」

 ジェノはそう答えながらも、内心では少し動揺していた。

 

 コウとの距離感から、父親だろうかとも考えはしたが、コウの父親は先の事件で大怪我を負ったはずだ。なのに、目の前の男は自分の足で立っている。まるで怪我などしていないかのように。

 

「立ち話もなんですので、やはりお席にどうぞ」

 バルネアとメルエーナの二人に促されて、マリクとコウは手近な席に腰を下ろす。ジェノもマリクの向かいに座る。

 

「その、ジェノさん。まず、大変遅くなってしまったが、私からも貴方に礼を言わせて頂きたい。ありがとうございました。私が留守にしている間に、この子がとてもお世話になってしまい、申し訳ありません」

 マリクの礼と謝辞を受け取り、ジェノは頭を下げる。

 

「ご丁寧にありがとうございます。ですが、ご存知でしょうが、先の一件は、息子さんの依頼契約を遂行しただけに過ぎません。報酬もすでに頂いていますので、この件はここまでにさせて頂ければと思います」

 

 ジェノは慇懃ながらも淡々とそう告げるが、マリクは顎に手を当てて少し考えると、再び口を開く。

 

「その、貴方が私達にしてくださったのは、本当にそれだけなのでしょうか?」

「……すみません。質問の意味が分かりません」

 ジェノは思ったままを口にしたのだが、マリクは手にしていたカバンから、何かを取り出し始める。

 

「その、私は昨日の晩まで少しも起き上がることが出来なかったんです。治療をしてくださっていた神官様からも、もう自分の足で立ち上がることは諦めるようにと言われていたくらいで……。

 ですが、今朝目覚めてみると、体の痛みがまったくなくなっていたんです。そして、立ち上がって歩くことが出来たんです。走ることだってできるほどに、体が元通りになっていたんです」

 

 少し興奮気味に、マリクは言う。そして、カバンから取り出した紙切れをジェノの前に差し出した。

 

「神様の奇跡としか思えないと神官様達は仰っていましたが、私はこれが神様のおかげだとは思えませんでした。なぜなら、私の枕元に、この紙が置かれていたからです」

 

 ジェノは嫌な予感がしながらも、差し出された紙切れに視線を移す。

 するとそこには、

 

『正義の味方に感謝しろ』

 

 という文字が記されていた。

 

 

「……くそっ。リットの奴」

 ジェノは悪友の親切心と悪戯に、心の中で文句を言いながら歯噛みするしかなかった。

 

「ああっ、やっぱり、貴方だったんですね。コウにこの事を話したら、きっとジェノさんがお父さんを救ってくれたんだっていうものですから……」

 ジェノが否定しなかったことでそう判断したのだろう。

 マリクは涙さえこぼしながら、ジェノに頭を下げる。

 

「あのまま私が動けないままだったら、家族を養っていくことができなくなっていました。

 貴方がどのような方法で私の傷を癒やしてくれたのかは知りませんし、余計な詮索はしません。ただ、お礼だけは言わせて下さい。本当に、本当にありがとうございました」

 

「どうか、顔を上げて下さい。……その、それと、この件はどうか内密にして頂ければと思います」

「はい。決して他言はしません」

 

 いつまでも顔を上げようとしないマリクに、ジェノは困り果てる。

 自分がしたことでもない事柄で感謝されるというのは非常に気まずい。だが、今更事情を説明したところで、話がこんがらかるだけなのは目に見えている。

 

「あっ、あの、ジェノさん……」

 渋面のジェノに、マリクの隣に座っていたコウが、席を立って近づいてきた。

 

「その、誰にも話さないようにって言われていたのに、約束を破ってごめんなさい。それと、お父さんも助けてくれて、ありがとうございました」

 コウはしっかりと謝罪とお礼を言って頭を下げた。その姿に、ジェノは苦笑する。

 

「……これ以上は、関わらないほうが良いと思っていたんだがな」

 そうは思っても、ジェノはやはりコウの事を放っては置けなかった。

 

「コウ。その事はもういい。だから、顔を俯けるな」

 ジェノは優しくコウの頭を撫でる。すると、コウは顔を上げて、嬉しそうに微笑んだ。

 

「その、ジェノさん。僕ね、大きくなったら、ジェノさんみたいになりたい! 誰かを助けてあげられる、強い剣士になりたいんだ!」

 突然のコウの宣言に、しかしジェノは驚きながらも首を横に振る。

 

「それは違うぞ、コウ。俺はただあの化け物と戦っただけだ。お前のことを、身を挺して助けたのは、お前のお父さん、マリクさんだろう?」

「えっ? うっ、うん。そうです。お父さんは、僕を助けてくれた。守ってくれました。でも、僕は……」

 

 ジェノの言葉に、コウは納得がいかないようなので、彼は更に言葉を続ける。

 

「俺に最初に剣術を教えてくれた先生の言葉なんだが。お前と同じくらいの時に、俺はその人にこう言われた。『強い剣士である前に、強い人間になりなさい』と」

「強い人間? でも、ジェノさんはすごく……」

 その言葉に、またジェノはポンと軽くコウの頭を叩く。

 

「違う。強い人間というのは、腕力があったり、剣を使える人間の事ではないんだ。心が強い者のことを、強い人間と言うんだ。俺はその事に気づかずに、ただ剣技を鍛えただけの弱い人間だ」

「でも、でも、ジェノさんは!」

 

「もしも、お前が大きくなって、剣術を学びたいと思うのならば止めはしない。だが、目標にするのは俺のような奴では駄目なんだ。

 お前のことを命がけで救ってくれた人を、心の強い人を手本にするんだ。そうすれば、お前はきっと強い人間になれる。俺なんかよりもずっと強い人間にな」

 

「……わからない。わからないよ、そんなの……」

 

 コウが文句を言うのを見て、ジェノは口を開く。

 

「俺も、お前とまったく同じことを先生に言った。だが、ようやく今頃になって少しだけ分かるようになった。先生の言葉の正しさを。

 だから、俺の事を少しでも評価してくれているのであれば、この話を忘れないでいてくれ。いつか、お前にも分かる時が来るはずだ」

 その言葉にも、コウは納得しない。

 

 だが、ジェノはそんなコウに笑みを向ける。

 めったに見せない、年相応の少年の笑顔を。

 

「贅沢を言うな。俺には、手本にできるような父親はいなかった。だから、お前が羨ましいくらいなんだぞ」

 

 彼のその笑みには、羨望が込められていた。憧憬が込められていた。

 

 それは、いくら願っても自分が辿ることができなかった道。

 その道をこれから歩むことができる者に対する、ジェノの正直な気持ちだった。

 

 きっと、そんな心の機微はコウには理解できなかったと思う。

 けれど、頭では理解できなくても、感じるものはあったようで、コウはそれ以上文句を言わなかった。

 

「我ながら、下手くそな説得だな。だが、俺にはこれが精一杯だ」

 ジェノは心のうちでそうこぼす。

 

 心からの言葉をぶつけるという方法でしか、自分の気持ちを相手に伝えられない。

 そして、結局自分は、この目の前の幼子が自分と同じ不幸な経験をせずにすむように願うしかないのだ。

 

 

 それから、バルネアのはからいで、コウ達は昼食を食べてから帰ってもらうこととなった。

 それが良かったのだろう。不機嫌だったコウも、帰り際には笑顔になっていた。

 

「本当にありがとうございました」

「ありがとうございました」

 そっくりな笑顔で礼を言う親子の姿に、ジェノは目を細める。

 

「ジェノさん。良かったですね。きっと、コウ君は大丈夫ですよ」

 コウ達を見送るジェノの横で、メルエーナがそう言う。

 

 それを気休めとは思わなかった。

 メルエーナの言葉には、信じたくなるような強さがあった。

 

「ああ、そうか。昨日もそうだったんだな」

 メルエーナの言葉が昨日から随分と心に響く理由を、ジェノはようやく悟った。

 

 それは、先程自分がコウにしたことと同じことを、彼女もしているから。

 

 偽りのない心からの言葉を、自分にぶつけてきているのだ。

 何の装飾もない裸の心を。

 

「困ったな。イルリアとの約束を達成するのが難しくなった。ここまで力を借りてしまった埋め合わせとなると、何をすればいいのだろうか?」

 

 ジェノはそんな事を思いながら、コウ達が見えなくなるまで彼らを見送り続ける。

 

 事件は今度こそ終わったかに思えたが、最後に大きな問題が残ってしまった。

 だが、その悩みは、とても幸せなものだった。

 

 

 

 

 

 

「さぁて、今頃、ジェノちゃんは大慌てだろうな」

 リットはナイムの街を歩きながら、満面の笑みを浮かべる。

 

 自分らしくないとは思う。だが、心のなかでこの結末を楽しんでいる自分もいるのだから仕方がない。

 

「俺はひねくれ者だから、欲しいというやつには何もしないで、何も望まない奴にこうしておせっかいをするんだよ。だが、これくらいは受け取れよ、ジェノちゃん」

 リットは心のうちでそういい、喉で笑う。

 

「俺は舞台を整えただけで、人々を襲う化け物は、ジェノちゃんが一人で倒したんだぜ。本来であれば、それだけで英雄と呼ばれるはずなのに、ジェノちゃんはそれを蹴って、あのガキのための正義の味方であることを選んだんだ。それなら、この結末は受け入れざるをえないだろう?」

 リットはこの場にいないジェノに同意を求める。

 

 もちろん、ジェノがそれに答えることはないのだが、誰もがこの結末であることを否定はしないはずだ。

 

 そう、これは昔から決まりきった結末なのだ。

 

 正義の味方が頑張った後は、ハッピーエンドと相場が決まっているのだから。



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第二章 その出会いに、名をつけるのならば
① 『首飾り』


 どうしてなのかは、今も分かりません。

 けれど、あの時、あの人と出会って、私は懐かしいと思ったのです。

 ずっと会いたいと願っていた人と、ようやく巡り会えたような気持ちでした。

 

 私を見たあの人も、目を大きく見開いていました。

 普段はあまり感情を表に出さないあの人が……。

 

 ですが、きっとただの偶然に過ぎないのでしょう。

 あの人も、私に似た誰かを思い出しているかのようでした。

 だから私に、よその街に行ったことがないのかを尋ねたのだと思います。

 

 そうです。きっとただの偶然。

 けれど、この街であの人と再会した時に、私は図々しくも思ってしまったんです。

 

 この人との出会いは、きっと……。

 

 

 

『その出会いに、名をつけるのならば』

 

 

 

 古着屋といっても、この店で扱う商品の質は非常に高い。場所によっては本当に一度洗濯しているのかさえ怪しい店もあるが、ここの商品は新品と見分けがつかないほどだ。

 古着を見に行きたいのでおすすめの店をと友人のイルリアに相談をすると、ここならば間違いないと太鼓判を押してくれたのだが、その言葉に偽りはなかった。

 

「う~ん、もう一着となると、予算的にスカートと上着のどちらかしか買えないなぁ」

 少しタレ目な黒髪の少女――リリィが、残念そうに呟き、息をつく。

 

「なるほど。ですが、足りないと言っても僅かな差ですよね。それならば、私も一着買おうと思っていますので、会計を一緒にして、少し交渉してみましょうか」

「えっ? 交渉って……」

「私にこのお店を紹介してくれた人が言っていました。値札の通りの金額で買うようでは甘いと」

 メルエーナは、心配そうな黒髪の少女にニッコリと微笑み、彼女の買おうとしていた服を預かり、自分のそれを加えて店員の女性に相談をする。

 

「……はい。ええ。ですので、この服に手直しは必要ありません。ですから、こちらの上下二着の金額から、その分を……」

「はい。構いませんよ。どうか、今後とも、当店をご利用下さいませ」

 

 メルエーナも阿漕に値引きをしてもらおうとは思っていない。先程試着した服がほとんど手直しのいらないサイズだったので、その分の手間賃を連れの服から値引いて貰っただけだ。

 

 けれど、これでお店は服が一着売れるわけで、それほど損があるわけではない。これくらいのお願いは許されるだろう。

 もっとも、イルリアには、まだまだ甘いと言われてしまうだろうが。

 

「あっ、袋は二枚お願いします」

「はい。畏まりました」

 メルエーナはさしておかしな事をお願いしているつもりはない。店員さんもにこやかに応対してくれている。だが、リリィはポカンとした顔でメルエーナを見ていた。

 それを怪訝には思いながらも、メルエーナは支払いを済ませてリリィと一緒に店を後にした。

 

 その後は、当初打ち合わせていたとおり、近くのオープンカフェで一休みすることにしたのだが……。

 

「あっ、あの、メル。私、もうあまりお金が……」

「大丈夫ですよ。実は、バルネアさんから少しお金を預かっているんです。リリィさんと何か食べてきなさいと言ってくれて。ですから、心配いりません」

 メルエーナの言葉に、リリィは恐縮する。

 

「本当に、メルとバルネアさんには迷惑を掛けっぱなしね」

「そんな事はないですよ。それに、今日はリリィさんの新しい門出のお祝いなんですから、気にしないで下さい」

 

 メルエーナ達がリリィと知り合ったのは、彼女がこれからの進路に迷って一つの事件を起こしてしまったことがきっかけだ。

 彼女は魔法というものを学ぶために専門の学校に入学しようとしていたのだが、二年間頑張ってもそれは叶わなかった。だが、それでも魔法を使えるようになることを諦めきれなかった彼女は、この街の数少ない魔法使いの一人に弟子入りすることに成功したのだ。

 

 それを聞いたメルエーナ達は我が事のように喜び、新生活のための買い物にこうして付き合っているのだ。

 

「うん。ありがとう。いつかきっと今までのお礼をするわ。魔法が使えるようになれば、きっと生活も楽になると思うから」

「ですから、気にしないでください。私達がおせっかいでやっているだけですから」

 そう言って微笑むメルエーナに、リリィは微笑みを返す。

 

 やがて、混んでいたためようやく注文取りに来た店員に、メルエーナたちは飲み物と軽食を頼む。

 

「ここの店のサンドイッチが絶品だと噂なんですよ。私も初めて食べるので楽しみです」

「う~ん、やっぱりメルはすごいわね」

「えっ?」

 思いもかけない言葉に、メルエーナは驚く。

 

「だって、料理にも詳しいし、作るのもお手の物。それに、さっきのお店での買い物上手なのをみていると、すごいなあって思ってしまうわよ。私は、あんな交渉なんて怖くてできないから……」

 しゅんとするリリィに、メルエーナは苦笑する。

 

「いえ、私なんて、料理も買い物もまだまだですよ。ただ単に、私にそれらを教えてくれた人たちが凄いだけですよ」

「むぅ。本当に?」

「はい。私程度ならば、すぐにリリィさんは追い抜けると思いますよ」

 メルエーナは微笑み、言葉を続ける。

 

「先週から、魔法の先生の家に住み込みで働き始めたんですよね? それならば、すぐに覚えますよ」

「うん。そうね。きっとそれは覚えなければいけないこと。苦手だなんて言っていられないわね。何としても私は、魔法を使えるようになるんだから!」

 そう言って胸の前で拳をギュッと握るリリィに、メルエーナは笑みを強める。

 

「そういえば、メル」

「はい?」

「貴女の、その首飾り何だけれど……」

 

 メルエーナは、リリィの視線が自分の胸元に向かっていることに気づく。

 そこには、チェーンで繋がれた二つに分かれた金の小さなペンダントが。

 

「いつもそれを身に着けているわよね。いえ、似合っているからいいのだけれど、どんな服でも代えようとしないのを不思議に思っていたの」

「あっ、これですか? はい。意識的にこれをずっと身につけています。その、願掛けみたいなものです」

「願掛け? ……あっ!」

 リリィは何かを悟ったようで、頬を朱に染めて、ニヤニヤとした笑みをこちらに向けてくる。

 

 その笑みに嫌な予感がしたが、もう遅かった。

 

「もしかして、ジェノさんからのプレゼントなの? だから、片時も離したくないとかいうわけかしら?」

「いっ、いえ、その、違います」

 

 メルエーナは否定の言葉を口にしながらも、自分の頬が熱くなるのを抑えられなかった。

 自分では、ジェノの事を想っていることを隠しているつもりなのだが、あまりにも分かりやすいようで、出会う人出会う人に看破されてしまう。

 けれど、肝心のジェノはまったくその事に気づいてくれないのだから、メルエーナとしては何ともやるせない。

 

「でも、ジェノさんの話をする時には、きまってその首飾りに触るじゃあない。怪しいなぁ~」

「いえ、その、本当に違うんです。これは、お婆ちゃんから貰った、うちの家に代々伝わる物なんですよ」

 まさか、自分の癖まで見抜かれているとは思わずに、メルエーナは慌てる。

 

「代々伝わる? かなり古いものなの?」

「はい。ですが、あまり価値のあるものではないそうです。金ですが、見てのとおり小さいですから」

 メルエーナはそう説明したが、まだリリィは訝しげな視線を向けてくる。

 

「でも、それならどうしてジェノさんの事を話す時には、決まってそれに触れるの? それに願掛けって……」

 そこまで言ったところで、リリィは自分がプライベートに踏み込んでいることに気づいたようで、頭を下げてくる。

 

「ごめんなさい。つい調子に乗ってしまって。私は男の人を好きになったことなんてないから、その、羨ましくて……」

「あっ、いえ。謝るようなことはなにもないですよ。ただ、そうですか。私は、ジェノさんのことを話す時に、そんなにこれに触れていたんですね。少し注意をしないと」

 メルエーナはそう自分を戒めたが、リリィが未だに興味深そうな視線を自分に向けていることに気づく。

 

「……もう。そんなに知りたいんですか?」

 メルエーナは恨めしげな視線をリリィに向ける。

 

「その、うん。できれば知りたいわ。後学のためにも……」

 リリィの言葉に、メルエーナは小さく嘆息する。

 

「その、笑わないって約束してくれますか?」

「えっ? うん、うん。もちろん。笑ったりなんかしない。それに、他言もしないから」

 

 興味津々なリリィに、メルエーナは観念して話すことにした。

 

 きっと、心の何処かで彼女自身も誰かに打ち明けたかったのだろう。この事柄は、イルリアにもバルネアにさえも話したことがなく、ずっと心のうちで溜め込んできたものだったから。



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② 『黒髪の少年』

 リムロ村。

 それは、メルエーナが生まれてからずっと暮らしてきた村の名前。

 

 エルマイラム王国南部の人口が千人ほどの小さな村で、主だった名産品と言えば、良質なワインくらいしかない。それも一部の好事家たちにこそ愛されるものの、一般的にはさして有名なわけでもないのが現状だ。

 人々は基本的に自給自足で生活を営んでおり、商店も平時は一軒だけしかない。それと、月に二回だけ近くの町から行商人が珍しいものを売りに来るだけだ。

 

 しかし、ここ数日は、この小さな村が活気づいていた。

 その理由は、突然の外からの団体客の来訪である。しかも五人や十人ではない。百人を超えるほどの大団体だ。

 

 

 ことは、三週間前に遡る。

 激しい雨の日に、とある貴族様の荷を載せた馬車が山道から滑落し、森に落下してしまったのだ。

 

 その荷の中身は、娘の結婚に際しての持参金や家財だったらしく、おいそれと代えの効かないもので、その貴族様は馬車が落ちたと思われるこの村の近くの森に、自らの私兵団を捜索隊として派遣した。

 だが、森に不慣れな貴族様の私兵団は、土地勘のない自分達だけでは捜索は困難だと判断し、この村の人間に協力するように命じたのだ。

 

 けれど、森はあまりにも広く、一週間が過ぎてもいっこうに目的のものは見つけることができなかった。

 それに業を煮やした貴族様は、最後の手段として<冒険者>と呼ばれる人々を使うことにしたのである。

 

 そのため、貴族の私兵の他にその<冒険者>と呼ばれる人間たちがこの村に滞在することとなったのである。

 

 村のほぼ唯一にして最大のイベント――ワイン作りの際の来訪者には流石に及ばないが、それでもこんなチャンスを放っておく手はない。

 いつもとは違い、行商人も村にしばらくの間滞在して商いをするらしいが、村の人々も負けていない。みんな、このチャンスに収入を得ようと頑張っている。

 

 メルエーナも、観光客シーズンと同じ様な対応に追われる宿屋の手伝いをして、家計の手助けと少しばかりのお小遣いを手に入れようと思っていたのだが、父に外出は必要最低限にするようにきつく言われてしまった。

 

 メルエーナは抗議をしたが、父のコーリスは決して首を縦には振ってくれなかった。それならばと、頼りになる母のリアラにも頼んでみたが、今回ばかりは彼女も父に賛成のようで、メルエーナは活気づく村の人々の蚊帳の外に置かれて、いつもと変わらない日々を悲しく享受している。

 

「お母さんだけ宿の調理の手伝いに行って、ずるいです」

 メルエーナはそんな恨み言を口にして、小さく嘆息する。

 編み物をするのは好きだが、外に出ることもできずに、ずっと家で家事仕事とそればかりをしていてはさすがに辟易してしまう。

 

「料理もお母さんが宿の残りを貰ってくるから作る訳にはいかないですし、うううっ……」

 幼い頃から母親に仕込まれた料理の腕は、こんな時にこそ役立てたいのに。

 

 宿で手伝う事もできない。疲れて帰ってくる両親を労う料理も作らせてもらえない。将来はかつての母と同じ様な料理人になることを夢見るメルエーナには、この料理が作れない時間はとても辛いものだった。

 

「行商人さん達も毎日来ているみたいですし、せめて商品を見ることができればいいんですけれど」

 そんな事を思っていると、ますます外出したくてたまらなくなってくる。

 そんな思いを堪えて、編み物を続けていたメルエーナだったが、何日もこんな日々が続いたこともあり、やがて彼女にも限界がやって来た。

 

「もう、お父さん達は心配しすぎです!」

 メルエーナはついに堪えきれなくなって、声を荒げる。

 

 彼女が家の外に出られない理由は、冒険者とかいう得体のしれない者たちに、年頃の娘を引き合わせたくないというだけの理由なのだ。

 

 もちろん、両親が自分のことを大事に思ってくれることは嬉しいが、自分のような地味な田舎娘が、都会に住む男の人に相手にされるはずがないと思う。

 

「……ううっ、それはそれで悲しいですけど」

 母はスタイルがいいのに、自分にはそこはあまり遺伝しなかったようで、自分の小さめな胸を見て嘆息する。

 

 もっとも、メルエーナのこの自己評価は、第三者からの評価とは大きく異なることを彼女は自覚していない。

 村の年頃の男の子たちの多くが、彼女の気を引こうと躍起になっているのを知らないのだ。

 

 背中まで伸びた栗色の美しい髪も、整った愛らしい顔立ちも、そして家事全般が得意な家庭的なところも、全てが異性にも同性にも、魅力的であり、羨望の的になっていることを理解していない。

 

 それは過保護な父親が、頑として男の子たちを近づけないようにしている事が原因でもあるのだが。

 

 メルエーナはもう一度嘆息し、いつも首にかけている首飾りを外して手に取る。それは、二つに分かれた金の小さなペンダントを首飾りにしたもの。

 高価なものではないらしいが、彼女の大切な宝物だ。

 

「この村の人は、誰も……。でも、他の街の人ならば……」

 幼い頃からずっと不思議に思っている事柄が、この首飾りには隠されている。

 もっとも、誰にその事を話しても理解してもらえないので、メルエーナはもうあまりその事を口にしなくなってしまったのだが。

 

 

 ぼんやりと首飾りを見ていたメルエーナだったが、不意に物音が聞こえたので、慌ててそれを身に着けて、玄関に向かう。

 まだ昼を過ぎたばかりだ。父も母も帰ってくる時間ではないはずなのだが。

 

 一瞬、物取りを想像してしまったが、やがて玄関の鍵が静かに開けられて、入ってきたのが母のリアラだと分かり、メルエーナは安堵する。

 

 自分と同じ栗色の髪を肩で切りそろえた母は、娘の贔屓目を抜きにしても綺麗だと思う。そして、自分のような大きな子供がいるのに、未だにスタイルがいい。

 どうしてこういう部分が遺伝しなかったのかと、先程のことを思い出して悲しくなるメルエーナ。

 

「ただいま、メル」

「おかえりなさい、お母さん。今日は随分と早……」

 心配させまいと、笑顔で帰宅を喜んだのだが、言葉が終わらないうちに、母に両肩をがっしり掴まれ、メルエーナは言葉に詰まる。

 

「どっ、どうしたんですか、お母さん?」

 驚く娘に答えることなく、リアラは娘の顔をじっと見つめ、そして頭から足元まで視線を走らせる。

 

「うん。服も地味な色だし、これなら大丈夫でしょう」

「あっ、あの、お母さん?」

 

 母は一人で納得しているが、メルエーナには何が何だかさっぱりわからない。

 

「さぁ、お母さんと一緒に外に行くわよ。こんなチャンスはめったに無いんだから」

「えっ? えっ? あっ、あの……」

 あまりにも突飛な母の言葉に、メルエーナはついて行けない。

 

 だが、結局、家の外に出かけたかったメルエーナは、母親に言われるがままに外出することになるのだった。

 

 

 

 

 

 

「おっ、お母さん。どうして、こんなにコソコソする必要があるんです?」

 村の数少ない家の影に隠れるように進む母に、メルエーナはそう尋ねずには居られなかった。

 

「もう。それは前にも話したでしょう。貴女は私の娘なのよ。当然可愛いの。そんな可愛い娘が、冒険者とかいうよく分からない人達の前に出ていったら、目をつけられてしまうわ」

 さも当たり前のようにいう母に、この性格は似なかったことを神様に感謝する。

 

「ですが、それならばどうして……」

「素晴らしい逸材が居たのよ。たまにはああいった子を見て、目の保養と美的感覚を磨いておかないと、いい料理人にはなれないわ」

 説明にまったくならない事を言うと、母は身を隠している家屋の端から、慎重に顔を半分だけだして周囲を確認する。

 

 もしも、背後からこんなところを誰かに見られたら、自分達が不審者扱いされるのではないかと不安になるメルエーナ。だが、そんな彼女の心配など知らず、母が手のジェスチャーで、自分にも同じことをするように促してくる。

 

 どうか誰にも見つかりませんようにと願いを込めて、メルエーナは母の影から顔を僅かに出して前を見る。するとそこには、村長さんと話をする二人の男女の姿があった。

 

 歳は自分と同じくらいだろう。まだ成人していないに違いない。

 女の子は赤い髪で、目つきが少し鋭いもののとても綺麗な顔立ちをしている。だが、それ以上にメルエーナの目を引いたのは、黒髪の少年の方だった。

 

「…………」

 メルエーナは言葉が出なかった。けれど、胸の鼓動が瞬間的に激しくなってくる。

 黒髪に茶色の瞳。顔は男の人に使う言葉ではないかもしれないが、すごく綺麗だった。

 背も高く、スラリとした体型。

 けれど、その姿を見ていると、綺麗だと思う以上に、別の感情が胸からこみ上げてきてしまう。

 

「ねっ、凄いでしょう? 私もいろいろな男の子を見てきたけれど、あの子は別格だわ。なんというか、綺麗なだけではなくて品があるというか、一本筋が通って……」

 母が何かを言っているようだったが、メルエーナの耳にはもう何も入ってこなかった。

 

「あっ、メル!」

 母親の静止の声も聞こえなくなっていたメルエーナは、黒髪の少年のもとに駆け寄る。

 

「おっ、おお、メルエーナ。どうしたんだい、そんなに慌てて?」

 人の良さそうな初老の村長が突然駆け寄ってきたメルエーナに驚き、話を中断して声をかけてくれた。だが、メルエーナにはその言葉も届かなかった。

 

 ただ彼女は、真っ直ぐな瞳を黒髪の少年に向ける。

 すると、彼女と目があった少年は大きく目を見開き、驚きの表情を浮かべる。

 

 不躾だと考える余裕もなかった。

 メルエーナは少年のその反応に、何かを感じて尋ねた。

 

 『何処かでお会いしたことはありませんか?』 と。



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③ 『気配』

「あの、何処かでお会いしたことはありませんか?」

 

 自分は何を言っているのだろう、と今更ながらにメルエーナは思ったが、発してしまった言葉を戻すことはできない。

 

 もう手遅れだった。

 絶対に変な娘だと思われたに違いない。

 

「村長さん、この子は? 今回の依頼に関係があるのですか?」

 黒髪の少年はメルエーナから顔をそらし、村長に尋ねる。

 その顔からは、すっかりと驚きの表情は消えていて、感情がまるで読めない。

 

「あっ、いえ、この娘は、メルエーナと言いまして、今回の案内人の娘です。普段はとてもおとなしい娘なんですが……」

 メルエーナが突然声をかけておかしな事を口走ってしまったことを、優しい村長は庇ってくれる。

 

「……メルエーナ?」

 黒髪の少年はそう自分の名を口に出すが、やはり感情の変化が顔に出ないため、メルエーナには彼が何を思っているのかまったく分からない。

 

「すっ、すみません。うちの娘がお話の邪魔をしてしまいまして」

 駆け寄ってきたリアラが、そう言って村長達に頭を下げた。メルエーナも慌てて「突然、すみませんでした」と非礼を詫び、母に倣う。

 

「いえ。謝罪は結構です。私はジェノと申します。そして……」

「イルリアです」

 名前を聞いてしまったからなのだろう。黒髪の少年と彼の隣にいた赤髪の少女が挨拶をしてくる。

 

「これはご丁寧に。リアラと申します。そして、こちらが娘のメルエーナです」

 母に改めて紹介されて、メルエーナは再び頭を下げた。

 

「さて、自己紹介も済んだところで、話を戻してもよろしいですかな?」

「はい」

 村長さんがそう切り出して、それにジェノが同意したことから、リアラとメルエーナ達は、「失礼します」と断って、家に戻ることにする。

 

 

「もう。驚いたわよ。貴女があんな大胆な事をするなんて思わなかったわ」

 距離が離れて、誰にも声が聞こえなくなってから、リアラが話しかけてくる。

 

「そっ、その、ごめんなさい、お母さん」

 メルエーナは謝ったが、リアラはにんまりといった笑みを浮かべた。

 

「何を謝ることがあるのよ。うん。あの出会い方はありよ、あり。インパクトは十分。それに大丈夫よ。貴女みたいに可愛い女の子に声をかけられて、不快になる男の子は居ないわ!」

「あっ、あの、お母さん。私は別に、あの人……その、ジェノさんに対してそんな下心があったわけじゃあないです。本当に何処かで会ったことがあるような気がしてしまって……」

 メルエーナは先程の自分の考えなしの行動を反省する。

 けれど、実際に会って声を聞いてしまったら、その気持ちはますます強くなってしまった。

 

「出会ったことがある気がする、ね。でも、ずっと貴女はこの村から出たことはないわよね?」

「それは……」

 母の言うとおりだ。自分は生まれてからずっとこの村を離れたことはない。でも、それでも……。

 

 過去に体験したことがないのに、同じような体験をしたことがある感覚。それは『既視感』と呼ばれるもの。だが、メルエーナはその言葉を知らない。そのため、自分の胸のその気持ちが整理できず、何とも収まりが悪い。

 

 顔を俯けるメルエーナに、リアラは微笑み、口を開く。

 

「なら、こう考えたらどうかしら。きっと、この出会いは運命なのよ」

「うっ、運命? そっ、そんな! 今日、初めて出会ったのに……」

 そうは思いながらも、自身の頬が熱を発するのを抑えられない。

 

「あらあら。顔を真っ赤にしちゃって。これは完全に一目惚れね、一目惚れ」

「ちっ、違います。本当に、何処かで会った気がするんです!」

 メルエーナはそう言ってぷいっと顔を横に向ける。

 

 リアラはそんなメルエーナに微笑みを向けていたが、不意にそれが消えた。

 

「ねぇ、メル。さっき、村長さんが貴女のことを紹介したときに、変なことを言っていなかったかしら?」

「変なこと? ええと……。あっ、そうです。私のことを案内人の娘と言って……」

「うん。そうよね。どういうことなのかしら? あの子達も例の貴族様の荷物の捜索に来たのなら、うちの人が案内人になることなんてありえないわよね?」

 村の近くの森のことであれば、父のコーリスも精通しているが、件の山近くの森までとなると、流石に距離がありすぎて管轄外だ。

 

「まぁ、いいわ。流石にこれからすぐに森に入ることはないでしょう。帰ってきたら聞いてみるわ」

 まだ明るいとはいっても、これから太陽は沈んでいく一方だ。母の予想は正しいとメルエーナは思う。

 

「メル……。私の顔から視線を逸らさないで」

「えっ? はっ、はい」

 不意に真顔になったリアラが、メルエーナだけに聞こえる大きさでそう言う。

 

「このままのペースであの角まで歩くわよ。でも、角を曲がったら全力で家まで走るわ」

「はっ、はい」

 ただ事ではないことを悟ったメルエーナは、母と談笑をしている様に見せかけながら、言われるがままに歩き続ける。

 

「今!」

 角を曲がったリアラと一緒に全力で走り出す。後ろを振り返ることなく真っ直ぐに。

 それが良かったのか、メルエーナ達は何事もなく自分たちの家に帰り着くことができた。

 

「はぁっ、はあっ。おっ、お母さん。いっ、一体何が……」

 家に入るなりドアを施錠する母に、息も絶え絶えのメルエーナが尋ねる。

「もっ、もう。だっ、駄目よ。あんなに分かりやすい気配に気づかないなんて」

 リアラも息を整えながら、メルエーナを嗜める。

 

「私達、いいえ、間違いなく貴女を追いかけてくる人が居たわ。逃げる最中に確認したら、ちょっと小柄の男の人だったわね」

「えっ? 私を?」

 驚くメルエーナに、リアラは嘆息する。

 

「まったく、あの人が過保護に育てたものだから、こういったところが少し抜けてしまっているのよね。貴女は。

 いいかしら? 何度も言っているように、貴女は可愛いの。だから、男の人が放っておかないのよ。ただ、そういった貴女に向けられる感情が、必ずしも好意的なものとは限らないの。その辺のことをしっかり自覚しなさい」

 リアラはそう言うと、メルエーナの頭を叩く真似をする。

 

「自分の身は自分で守らないと駄目よ。嫁入り前の大切な躰なんだから。その辺りの教育は、私が付きっきりでしっかりしてきたでしょうが」

「はっ、はい……」

 一般教養としてだけではなく、自分の身を守るためにと、メルエーナは母から性的な知識を教えられている。

 

 ただ、その、何がとは言わないが、あまりにも実践的な内容も多かったので、メルエーナは羞恥のあまりそれを思い出すと赤面してしまう。

 基本的な知識だけで十分なのに、どうしても自分の母の場合、普通の家の娘以上のものを教え込もうとしている気がしてならない。

 

「恥ずかしがらないの! 大事なことよ。自分を守るためには。そして、貴女が全てを委ねたいと思える人が現れたときにも、あの知識は役に立つわ。私達がいつも側についていられるとは限らないのよ」

「はっ、はい。分かりました」

 メルエーナはリアラにそう答え、頷く。

 

「それなら、早く手を洗ってきて準備をしなさい。今日は久しぶりに料理を見てあげるわ」

「はい。お願いします!」

 母の言葉に元気を取り戻したメルエーナは手を洗うために水場に向かう。

 

 だが、これからの調理のことで頭が一杯になっていたメルエーナは気づかなかった。

 母であるリアナが、顎に手を当てて何かを考えていた事に。

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに料理ができるということで、メルエーナは嬉しかった。だから、一生懸命に家族のための夕食を作ることにする。

 

「うん。これなら大丈夫ね。ただ、もう五分程煮込みなさい」

「はい。あと、この魚料理なんですけれど……」

 メルエーナの家での調理は、他の家で行われているであろう、母と娘で楽しく料理を作るといったものではない。

 

 少し前までは、もちろんメルエーナも母と楽しく料理をしていた。しかし去年、メルエーナが十五歳の誕生日を迎えたときからそれが一変する。

 料理人を目指したいという彼女の意思を汲み、母のリアラは、調理場限定でメルエーナの『先生』になった。

 

 料理店のシェフの経験があるリアラに、メルエーナがそうしてくれるように頼んだのだ。

 そして、それ以来ずっとメルエーナは先生の厳しい指導を受けて料理作りに精進している。

 

「うん。まぁ、及第点ね。ただ、前から言っていることだけれど……」

「はい。あっ、そのとおりです。気をつけます」

 

 ただ、メルエーナは母の厳しくも優しい指導を受けて切磋琢磨を続けてきたが、流石に最近は限界を感じてしまっていた。

 

 彼女の調理技術の進歩が頭打ちになってきてしまったのがその理由。

 原因は分かっている。一つは、調理に掛ける時間が少ないこと。もう一つは調理環境が整っていないこと。

 

 時折、村の宿屋を手伝うこともしているメルエーナだが、それも流石に毎日という訳にはいかない。だから、どうしてもこの台所でできる技術しか勉強できないのだ。

 もちろん、元専門家のリアラが設計を頼んだ台所だ。一般家庭のものとは比較にならないくらい調理器具は充実している。だが、それでも流石に専門店の設備とは比較にならない。

 

 もっと料理を本格的に勉強したい。その気持ちが膨らんでいく。

 

 しかし、そんな事を思いながらも時間は過ぎていってしまう。

 メルエーナは何とか全ての料理を完成させて、リアラの許可を得てそれを食卓に並べる。

 そして、一通りの準備を整えた頃に、

 

「今帰ったぞ」

 

 ガッシリとした体躯の男性――父のコーリスが帰宅した。

 濃い茶色の髪を短くまとめた筋骨隆々な姿は、とても迫力がある。

 

「おかえりなさい、お父さん」

「おかえりなさい、あなた」

 メルエーナたちの出迎えを受けて、コーリスは相好を崩した。

 

「おお。リアラも今日は早くに上がってこられたのか」

「ええ。というわけで、今日は可愛い娘の美味しい手料理が食べられるわよ」

「おお、それは楽しみだ。いや、宿の残りも十分美味しいから文句はないんだがな」

 コーリスはそう言って外套を脱ぐと、リアラがそれを受け取って所定の位置にかける。

 

 そして、父が手を洗ってきて、久しぶりに普段と同じ夕食の時間が始まった。

 

「そうだ、リアラ。明日の朝早くに森に入らなければいけなくなってしまったんだ。簡単なものでいいから、朝食と弁当の用意を頼む」

 メルエーナ達が尋ねるまでもなく、コーリスが話を切り出してきた。

 

「あら、やっぱりそうだったの。」

「んっ? やっぱり?」

 スープを口に運ぼうとしていたコーリスが、怪訝な顔をする。

 

「村長さんと話をしたの。そうしたら、冒険者とかいう人たちと話をしていてね。あなたを案内人にするとか言っていたから」

「ああっ、そういうことか。そうだ。実は、ハンクの奴が茸を取りに行くと言って森に入ったきり帰ってこないんだ。そこで、明日の朝から捜索隊を出さなければならなくなってしまったんだ」

 コーリスはそこまで言うと、スープを口に運び、「美味いぞ、メル」とメルエーナに笑みを向けてくれた。

 

「ハンクが? またなのね。まったく人騒がせねぇ」

 母の呆れの響きの入った声に、メルエーナも思わず同じことを思ってしまう。

 

 ハンクとはメルエーナの二つ上の男性なのだが、一つの物事に没頭しすぎる性格で、茸やら山菜やらを探しに行っては、必ず年に一度はこうして捜索が必要になる困った人物なのだ。

 

「ああ。まったくだ。だが、放っておくわけにもいかない。しかし、普段なら村の者を集めて探しに行かなければならないんだが、みんな、この冒険者の来訪への対応で忙しくてな。

 そこで、冒険者見習いの何人かに村長が声をかけて、捜索を手伝ってもらうことにしたんだ。そして、その案内人に俺が指名されてしまったわけだ」

 コーリスは渋面でそう言ったが、メインの魚料理を口に運び、とても嬉しそうに笑顔を浮かべる。

 

「なるほどね。ところで一つ聞きたいのだけれど、その冒険者見習いの人たちは、全員仕事を受けてくれたの?」

「んっ? いや、声だけ掛けて、明日の朝に現地に集合した何人かを連れて行くだけだ。報酬も捜索後に払うらしい。まぁ、村長の話だと、まだ若い黒髪の坊主と赤髪の嬢ちゃんは参加することを確約したそうだから、俺一人で山に入ることはなさそうだがな」

 

 父の言葉に、メルエーナの胸が高鳴った。

 黒髪の少年と赤髪の女の子がそんな多くいるとは思えない。間違いなくあの時の二人だろう。

 もう一度、あの黒髪の少年に会いたい。話をしてみたい。そんな気持ちが溢れてくる。

 

「そう。それは好都合だわ。ねぇ、あなた。一つお願いがあるのだけれど」

「好都合? お願い? なんだなんだ。話がまるで見えないぞ」

 戸惑うコーリスに、リアラは思わぬことを口にした。

 

「その捜索に、メルも連れて行ってほしいの」

 

 それは、メルエーナにとっても青天の霹靂以外のなにものでもない言葉だった。



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④ 『再会』

 しっかりと暖かな格好をしてきたが、肌寒さを感じる。

 もう何時間か経てば、逆に暑くてたまらなくなってしまうのだろうが、早朝の空気はやはり冷たい。

 寝付けないのではと不安だったメルエーナだったが、昨晩は久しぶりに料理作りを頑張ったおかげか、ぐっすりと眠ることができた。

 今日は森の中を歩き廻らなければいけないのだから、十分に睡眠を取れたのは喜ばしい。

 

 そして、まだ日が昇らない時間に目を覚まし、母と一緒に父と自分たちの分の昼のお弁当を作ったメルエーナは、かなり早めの朝食を食べ、父親のコーリスと一緒に村の広場で、冒険者(正確には見習いらしいが)の人達が来るのを待っていた。

 

「いいか、メル。絶対に父さんから離れるんじゃあないぞ」

「はい。分かっています」

 父は何度も何度も念を押してくる。

 けれど、それは自分のことを心から心配してくれているからに他ならないことは、メルエーナも分かっている。

 

 昨日の晩、母のリアラに、父と一緒に村人の捜索に行くようにと言われたときには驚いた。

 

 リアラは、昨日のあの帰り道に、自分たちの後を付けてきたらしい人物がまた娘を狙って来る可能性を考えて、家族の中で一番頼りになる父親と一緒の方が安全だと判断したのだ。

 

「撒いたつもりだけれど、最悪、この家に入るところを見られていたかもしれない。そんな中で、この娘を一人で家に置いておくのは危険だわ。それに、私と一緒にいても、私一人では守れない。

 だから、あなた。大変だけれども、メルのことをお願いしたいの」

 最愛の妻に頼りにされて、父はその提案を快諾した。

 

 本当に、いつまで経っても仲のいい夫婦で嬉しいとメルエーナは微笑む。

 そして、将来の話だが、いつかは自分もこんな風に信頼し会える素敵な男性と出会いたいと思う。

 

 そんな事を考えていると、こちらに向かってくる赤髪の少女と黒髪の少年の姿が見えた。

 その黒髪の少年――ジェノの姿を見て、メルエーナは自分の鼓動が早くなっていくことに気づく。

 

 だが……。

 

「えっ?」

 思わずメルエーナは、そんな言葉を発してしまった。

 

 母がいた。

 いや、別にまだ村から出てもいないのだから、母がいるのは別におかしなことではないのだが、朝食を食べ終わった後に、少し出かけると言って出ていったはずの母が、どうしてあの二人と一緒に仲良く歩いているのか理解できなかった。

 

「お待たせ、あなた。メルエーナ。見送りに来たわよ」

「おっ、お母さん。どうして、その、こちらの方たちと?」

 メルエーナのもっともな質問に、リアラは微笑む。

 

「別に何もないわよ。ここに向かう途中で、偶然出会ったの。そうよね、ジェノ君、イルリアちゃん」

 リアラのその言葉に、ジェノは頷き、イルリアは「ええ」と小さく答える。

 

「じぇっ、ジェノ君……」

 まだ自分はきちんとした自己紹介さえもしていないのに、どうして母がこんなに親しげなのか、メルエーナには訳がわからない。

 

「あっ、その。おはようございます。ジェノさん。イルリアさん」

 メルエーナが挨拶をすると、イルリアはニッコリ微笑み、「ええ、おはようございます」と返してくれる。

 だが、ジェノは「ああ」とだけ言うと、メルエーナには目もくれず、彼女の父のコーリスの前に歩み寄って頭を下げた。

 

「おはようございます。冒険者見習いのジェノといいます。今日はよろしくお願いします」

「おっ、おう。こちらこそ、よろしく頼む」

「まだ他の者が来ていないのですが、私が冒険者見習いたちの取りまとめをすることになりました。そこで、軽く出発前に情報確認をお願いできませんでしょうか?」

「わっ、分かった」

 ジェノは、早速今日の捜索についての話を父と始めてしまった。

 

 もちろん、それが今回の目的なのだから、当たり前のことだ。

 けれど、正直なところ、メルエーナは寂しさを感じてしまう。

 

「ああっ、ごめんなさいね。あの馬鹿は愛想っていうものがまったくないのよ。行方不明の……ハンクさん、だったわよね? その人をどうやって見つけるかで頭がいっぱいなわけ」

 イルリアはそう言って肩をすくめる。

 

「そうなんですか。いえ、その、頼もしいです。今日はどうかよろしくお願いします」

 メルエーナが頭を下げ、そして顔を上げて微笑むと、イルリアは感心して頷く。

 

「うんうん。なるほどなるほど。物腰も柔らかだし、こんなに可愛いんだもの。仕方ないわね」

「えっ? どうなさったんですか?」

 メルエーナの問に、イルリアはニッコリ微笑む。

 

「改めて、イルリアよ。歳は十六歳。今日の捜索では女は私と貴女しかいないみたいだから、良かったら仲良くしてくれないかしら?」

 そう言って差し出された手の意味に気づき、メルエーナは慌てて自分も名乗る。

 

「メルエーナです。その、私も十六歳です。よろしくお願いします」

 そう言ってイルリアの手を握ると、ガッチリと握手をしてくれた。

 

「で、あの無愛想な馬鹿が、ジェノ。歳は私達と同じ。剣の腕は良いんだけれど、いつも仏頂面で何考えているのかよくわからないの。まぁ、悪人ではないから、そこだけは信じてやって」

「あっ、はい。ですが、同い年なんですね、ジェノさんも……。年上かなって思っていました」

 メルエーナの素直な感想に、イルリアは苦笑する。

 

「あいつは、なんか年寄りくさいのよ。若さがないのよ、若さが」

 イルリアの言いようがあまりにも芝居がかっていて、メルエーナは悪いとは思いながらも微笑んでしまう。

 

「うんうん。貴女とはやっぱり気が合いそうだわ」

 イルリアは本当に嬉しそうに言ってくれた。

 

 ジェノが父と打ち合わせをしている間、メルエーナはイルリアとの他愛のない話を楽しむ。

 もちろん、これから行方不明の村の仲間を捜索するのだから、気を抜きすぎてもいけないが、気を張り詰めすぎても良いことはないと自分に言い訳をして。

 

 それから、父とジェノが話し合いを終えたのを確認し、メルエーナとイルリアは二人のもとに歩み寄る。

 そして、今回の探索の方針を皆で確認し合う。

 

「それでは、俺が先頭で道案内をしよう。後は、今指定した箇所にたどり着いてから、範囲を広げて捜索する。とは言っても、娘を入れても四人では、そう大した捜索はできそうもないがな」

 コーリスは頭を掻いて嘆息する。

 だが、メルエーナも父の気持ちが分かる。人を捜索するのならば、最低でもこの倍の人数は欲しいはずだ。

 

「すみません。私達と同じ冒険者見習いには全員声をかけて、あと五人は来る予定だったのですが……」

 ジェノが何も言わないためだろう。イルリアがそう謝罪する。

 

「いや、嬢ちゃん……ええと、イルリアさんだったな。あんたのせいではない。気にしないでくれ」

 コーリスはそう言い、説明に使った地図をリュックにしまう。

 

「ありがとうございます。それと、私のことはどうかイルリアと呼んで下さい。この無愛想な男もジェノと呼んで頂ければ結構ですので」

「そうか? 分かった。そう呼ばせてもらうことにしよう」

 父が笑顔なのを見て、メルエーナは微笑む。

 

 少しとっつきにくいところがある父だが、最初から今回の捜索にやる気を見せたジェノと、礼儀をわきまえたイルリアには好印象を抱いたようだ。

 

 その後、集合時間まで待ったが、結局ジェノとイルリア以外の冒険者たちは姿を見せなかった。

 

 そのため、やむを得ずに四人で森に入ろうとした時だった。

 

 三人の男達が、遅れて広場に姿を見せたのは。



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⑤ 『遅参者達』

「ああっ、眠みぃ。なんだって、こんな朝早くから起きなければいけねえんだよ」

「仕方ねぇだろう。貴族様のお宝は、正規の冒険者様に遅れをとっちまっているんだから。俺たちは、あぶく銭でも稼がなけりゃあ、餓死しちまう」

「そうそう。雀の涙ほどの報酬でも、貰えるものは貰っておかないとな」

 

 嫌々といった様子を隠す気もなく、男達が三人、広場にやってきた。

 彼らは村の人間ではなく、全員ジェノ達と同じ様に、森に入るための格好をしている。そのことから、彼らも冒険者なのだろうとメルエーナは察する。

 

 そして、彼らにさらに遅れて、初老の男性――村長が大慌てで走ってきた。

 

「村長。見送りにはこなくていいと言ったのに……」

 コーリスは、そう言って苦笑する。

 

 今回の冒険者達の滞在で、村は大忙しなのだ。必然的に村を統括する村長の負担も増えている。だから父は、今回の件は自分がすべて引き受けることにしたと言っていた。

 それなのに、人のいい村長さんは、こんな早くに起きて見送りに来てくれたようだ。

 

「でも……」

 

 どうして、村長さんも遅れてやってきたのだろう? あと一歩遅ければ、自分たちは森に入ってしまっていたのに。

 メルエーナは当然その事を不思議に思う。

 

 村長さんはいつも誰よりも早くに仕事に来て、誰よりも遅くに帰る人なのに。

 

「はぁ、はぁ。よかった、間に合って」

 のろのろと歩く三人の男たちを追い越して、村長は父コーリスの元にやってきた。

 

「村長。どうしたんですか? 見送りは必要ないと言ったはずですよ」

「いや、そういう訳にはいかんよ。それに、念の為に冒険者見習いの皆さんに朝の挨拶に行ったら、みんな突然都合が悪くなったと言って、たった二人しか捜索に参加できないと言われてしまったんだ。

 そんな人数では見つけられるものも見つけられない。だから、なんとか交渉して、追加で彼らに来てもらったんだよ」

 村長さんはそう言って、ようやくやってきた三人の冒険者見習い達を見る。

であるコーリスに挨拶の一つもしない。無論、集合時間に遅れた詫びの言葉もない。

 

「おっ! イルリア。その可愛い娘は、誰だよ?」

「おお、おお。すげぇ。とても田舎の小娘とは思えねぇなぁ」

 それなのに、その男達はメルエーナとイルリアにいやらしい視線を向けて、話しかけてくる。

 

「まったく、これだから男って……」

 イルリアは文句を口にして、メルエーナの前に手をやり、後ろに下がるように合図する。だが、メルエーナが行動するよりも先に、彼女の母が動いた。

 

「あらっ、うちの娘に何か御用ですか?」

 今まで黙って夫と娘たちの打ち合わせを見守っていたリアラが、男たちの前に笑顔で歩み寄る。

 

「へぇ、あなたがこの嬢ちゃんの母親。いやぁ、母娘揃って凄い美人ですねぇ~」

「まぁ、それはありがとうございます。それで、貴方達は、こんな中途半端な時間に何をしに集まったのでしょうか? 他の冒険者の方は、もう今日の打ち合わせを終えて、これから森の中に入るところなんですよ」

 リアラは満面の笑顔で嫌味を言う。

 

「いやぁ、これは手厳しい。ですがね、俺達の代わりにあの黒髪の坊主が話をまとめる役目なんですよ。俺たちは実働部隊で」

 三十代の前半くらいだろうか? 長身の男が笑みを浮かべてリアラに言い訳を言う。

 さらにその男の視線が母の胸に集中していることに気づき、メルエーナは不安気に父のコーリスを見る。

 

「今頃何だ、お前らは! 時間を守れないようないい加減な人間が一緒では、捜索がかえって難しくなる。とっとと帰れ!」

 予想通り、父は怒っていた。そして怒気を含んだ大声で遅れてきた男たちを罵倒する。

 

「まぁ、待ってくれコーリス。彼らには無理を言って来て頂いたんだ。捜索にはやはりある程度の人数が必要だろう。仲良くしてくれないか?」

「……村長がそう言うなら」

 不承不承、コーリスは村長の提案を受け入れる。確かに捜索の人数が増えるにこしたことはないからだ。

 

 

「そういう訳だ。よろしくな、おっさん」

 小馬鹿にした笑みを浮かべて、二十代後半くらいの背の低い男の人がコーリスに言う。

 だが、そこで、思わぬ声が響く。

 

「いいかげんにしろ。仕事に遅れてきた上にその態度は何だ。お前達は謝罪と自己紹介もできないのか」

 そう言ったのは、今まで黙っていたジェノだった。

 

 ジェノの言うことはもっともだとメルエーナも思う。こちらは仕事を依頼する側だが、それでも最低限の礼節は守って欲しい。

 

「なんだ、ジェノ。先輩に向かってその口の利き方は?」

「ずいぶんな態度をとるな、おい」

 長身の男と小柄な男は、怒りを顕にしてジェノを睨む。

 だが、ジェノは相変わらず仏頂顔のままだ。

 

「お前らと口論をしている暇はない」

 ジェノはそう言って、男たちを無視してコーリスに話しかける。

 

「あの長身の男がクイン。小柄なのがポイ。そして、一番後ろの男が、ローグという名前です。彼らを連れて行くかの判断はおまかせします。ですが、隊列に関して、一つ提案があるのですが……」

 ジェノは何かをコーリスに話すが、声を落としたため少し離れているメルエーナの耳には聞こえない。

 だが、ジェノとなにかを打ち合わせた後、父は頷いた。

 

「仕方がない。お前たちにも協力してもらう。だが、時間が惜しい。説明は歩きながらだ。それと、俺はお前たちよりこの森のことをよく分かっている。俺の判断には従ってもらうぞ」

 筋肉質で身体の大きなコーリスの迫力のある声に、クインとポイという名前らしい二人は「わっ、分かったよ」と応えた。

 

「メル……」

 不意に、リアラがメルエーナに耳打ちしてきた。

 

「お母さん?」

「あの三人の男達に決して気を許しては駄目よ。さっきからずっと貴女とイルリアちゃんを舐め回すように見ているわ」

 母に言われ、メルエーナは気づかれぬように目だけを動かして、男たちを見る。

 

 確かに、クインとポイという名の男たちがチラチラと自分を見ている。それに、その二人の奥にいる三十代くらいに見える男、ローグは、隠そうともせずに下卑た笑みを浮かべている。遠目でもこちらに厭らしい目つきを向けているのが分かり、メルエーナは怖くなってしまう。

 

「ここで捜索を抜けようとしても、あいつは間違いなく貴女を狙ってくるわ。だから、お父さんと一緒にいなさい。いいわね」

「はい。分かりました」

 母の言葉に頷き、メルエーナはコーリスの元に駆け寄る。

 

「それでは、出発する。村長。行ってきます」

「ああ。大丈夫だとは思うが、くれぐれも気をつけてほしい」

 人のいい村長は、そう言って微笑んでくれる。

 

 そして、リアラもメルエーナと父に微笑んで手を振ってくれたので、メルエーナも手を振り返して父の後を付いていく。

 

 捜索は半日程度で終わる予定のもの。

 しかし、メルエーナ達は、結局この日は村に戻ることはできないことをまだ知らないのだった。



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⑥ 『役立たず』

「村長には悪いが、こいつらを連れてきたのは大間違いだった」

 父の怒気を含んだ声を背中に受けるメルエーナ。しかし、彼女も内心で父と同じことを思っていた。

 

 森に入ったというのに、遅れてきた件の三人は仲間内でぺちゃくちゃお喋りをし、ただ先頭を歩くジェノの後を着いて歩いているだけなのだ。彼らが行方不明のハンクを探そうとしているとはとても思えない。

 

「はぁ。しっかし、何が悲しくて野郎の尻を追いかけねぇといけねぇんだろうな。若い娘がいるのによ」

「まったくだ。おい、おっさん、俺が最後尾を代わってやろうか?」

 たしか、ポイという名前だったろうか? 小柄な男が下卑た顔でコーリスに馴れ馴れしく声をかける。

 

「黙って歩け!」

 コーリスが怒声を上げるが、「おお、怖い、怖い」と戯けた態度をとって仲間たちだけで笑い合う。

 

「ごめんね。こいつらさえいなければ、もっとスムーズに進めるのに」

「いいえ。謝らないで下さい。イルリアさんとジェノさんがいてくれて、本当に良かったです」

 気を使っての言葉ではなく、メルエーナは心からそう思う。

 

 メルエーナ達は森を一列になって進んでいる。先頭をジェノが務め、その後ろに三人組。そして、イルリア、メルエーナと続き、殿にコーリスという隊列だ。

 当初の予定では、コーリスを先頭にし、間にメルエーナとイルリア。そしてジェノが殿の予定だったのだが、三人が新たに加わった際に、ジェノがこの隊列を提案してきたと、先程父に聞かされた。

 

 もしも当初の予定通り、自分があの男たちの前を歩かなければいけなかったらと思うと、身の毛がよだつ。

 たとえ、今はスカートではなく探索用にズボンを身につけているとはいっても、どのような目で見られるかと思うだけで怖くて仕方がない。

 

「ああ。娘の言うとおりだ。君たちがいなかったら、俺の胃に穴が空いていたところだ。まったく、何だって村長はこんな奴らを……」

 コーリスもメルエーナ達に歩み寄ってきて、小声で愚痴をこぼす。

 

「本当なら殴り飛ばしてやりたいと思っているんだが、そんな事をしたら捜索がまた遅れちまう」

「……お疲れさまです。でも、私も頑張りますから、お父さんもどうか堪えて下さい」

 父に労いの言葉を掛けて、メルエーナは微笑む。

 

 やがて、肌寒かった早朝の空気が温かくなる。

 さらに歩き続けていることもあって、それを暑いと感じるようになった頃に、最初の捜索場所にたどり着いた。

 今までは人が一人通るのがやっとの道も多かったが、ここからしばらくは開けているので窮屈な思いはしなくても良いのは幸いだ。

 

「……疲れたわね」

「はい……」

 イルリアに同意し、メルエーナは肩を落とす。

 女とはいえ、山育ちのメルエーナにはそれほど体力的にきつい距離ではなかったのだが、精神が疲れてしまった。

 

「ここまで、この茸の群生地を遠いと思ったことはなかったぞ」

 コーリスも疲れたようで、そういって重いため息をつく。

 

「ああっ、ようやく着いたのかよ。まったく、かったるい」

「全然代わり映えのない景色で、面白くも何ともないしな」

 長身と小柄のクインとポイがまだ文句を言う。

 

 先程からずっと文句ばかりを口にしながら歩いていたにもかかわらず、まだ文句が言い足りないような二人に、メルエーナの疲労は増していく。

 

 喋りながら歩くというのは体力を消耗するのだが、残念なことに二人はまだまだ余裕があるようだ。

 

「コーリスさん」

 今まで先頭を歩いていたジェノがこちらにやって来た。

 メルエーナはそのことに緊張したが、彼はこちらには目もくれずに、横をすり抜けて父の元に行ってしまう。

 

「ここで『お疲れ様』の一言を掛けられないのが、あいつなの。気にしないで」

 隣のイルリアが、メルエーナにそう言葉を掛けてくれる。

 

「いっ、いえ。まだ最初の捜索地点にたどり着いただけですし」

 今はハンクさんを見つけ出すのが先決だと自分に言い聞かせ、メルエーナは答える。

 

「そうね。もう一箇所、廻らなければいけないのよね」

 イルリアはそう言って、自分の水筒から水を一口飲む。

 自分も喉が渇いていたことを思い出し、メルエーナもそれに倣う。

 

 そして、二人で目を合わせて、メルエーナ達は微笑んだ。

 

「メルエーナ。まぁ、気楽に頑張りましょう」

「はい。あっ、イルリアさん。よければ私のことはメルと呼んで下さい。その方が呼びなれていますので」

「あらっ、それなら私も呼び捨てでいいわよ」

「あっ、ですが……。その、やっぱりイルリアさんと……」

 

 父とジェノの打ち合わせを横目で見ながら、メルエーナはイルリアとの会話をはずませる。

 すると、不意にジェノがメルエーナ達の方に顔を向ける。そして、

 

「コーリスさん。すみませんが、二人の事を見ていてもらえませんか? この場所を中心として、まずは俺たち四人で周りを探索しようと思います」

 

 突然そう言い出した。

 

「待て。そういう訳にはいかんだろう。下手をするとお前たちが遭難する可能性だってあるんだぞ。森を甘く見るな」

「いえ、甘く見ているつもりはありません。見習いとはいえ、我々は冒険者です。それ相応の訓練は受けています。それに……」

 

 ジェノはつまらない話をしているクインとポイ。そして、木に背中を預けながら、メルエーナ達を露骨に見ているローグを一瞥し、小さく息をつく。

 

「我々は報酬を貰う身です。その分は働きます。そして、働かない人間は無理矢理にでも働かせます。娘さんのこともありますし、どうか許可をして頂けないでしょうか?」

 ジェノはコーリスに頭を下げて懇願する。

 

「うん、まぁ、そういうことなら……。正直、あの足を引っ張ってばかりの三人にただ報酬をくれてやるのも業腹だな。分かった。ただ、決して遠くには行くなよ。この辺りは段差が大きく、崖になっているところもあるからな」

 

 コーリスが許可したことで、ジェノは「ありがとうございます」と言うが早いか、踵を返して三人の冒険者見習いたちに歩み寄る。

 

「聞こえていたかは知らないが、これから俺達四人で辺りを捜索して遭難者を探すことになった。協力してもらうぞ」

 ジェノは有無を言わさぬ低い声で、男たちに告げる。

 

「お前、何を仕切っているんだよ?」

「本当に生意気だな、こいつ。おい、クイン。少し口の聞き方を教えてやったほうがいいんじゃあねぇか……」

 クインとポイの目に剣呑な光が宿るが、ジェノはやはり動じない。

 

「忘れたのか? お前たちが俺に、この依頼の総括を任せたんだ。だから、リーダーは俺だ。指示には従ってもらう。それでも腕力に訴えるつもりなら、こちらも容赦しない。その覚悟があるのなら、やってみろ」

 ジェノの脅しに、クインとポイは悔しそうに睨みつけるだけで何もできない。

 

 だが、そこで不意に今まで黙っていたローグが口を開いた。

 

「おい、待てよ。確かにジェノの言うとおりだ。俺たちも少しは働かねぇと、後で報酬を減額されちまうかもしれねぇ。ここは素直に従おうぜ。リーダー様の指示にな」

 嫌味たっぷりの声で言い、ローグはクイン達に顎で合図する。

 すると、しぶしぶクインたちもジェノの指示に従う。

 

「あっ……」

 ジェノを見ていたメルエーナだったが、視線を感じそちらを向くと、ローグと目が合ってしまった。

 その獲物を見るような目に、メルエーナは体を震わせる。

 

「大丈夫よ。私がついているわ」

 イルリアがそう言って肩を優しく叩いてくれたが、メルエーナはしばらく震えを止めることができなかった。



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⑦ 『提案』

 騒がしい三人組をジェノが連れて行ってくれたおかげで、メルエーナ達はようやく人心地がついた。

 父のコーリスがリュックから大きめの敷物を取り出して引いてくれたので、メルエーナは父と一緒にそこに腰を下ろす。

 イルリアにも声をかけると、彼女も「ありがとう」と言って座る。

 

 日差しは少々きついが、森の中は涼しい。

 村から距離は離れているものの、この茸の採取場所へは村の人達と何度か来たことがある。見知った場所にたどり着けた安堵感が、今頃になってやって来た。

 

「メル。しっかり休んでおけよ。あいつらが戻ってきたら、今度はもう少しだけ奥に行くからな」

「はい。でも、何もしないのは悪い気がします」

「お前に捜索を手伝わせようとは思っていない。お前は、ただ帰りの体力を回復しておくことだけを考えていればいいんだ」

 

 父はそう言ってくれるが、ジェノは先頭をずっと務め、その上ほとんど休むことなく今もハンクさんを捜索してくれているのだ。メルエーナは本当に申し訳ないと思ってしまう。

 

 少しの間、メルエーナ達は言われたとおりに休憩していたが、不意にイルリアが「お話があります」と父と自分に顔を近づけて話しかけてきた。

 小声で話しかけてきた事から、状況を察し、メルエーナ達も黙って頷く。

 

 そして、彼女の話を聞いたメルエーナとコーリスは絶句した。

 

「本当に、あいつらはそんな事をしたのか?」

「証拠はありません。ですが……」

 イルリアの表情は硬い。それは、苛立つ気持ちを懸命に抑えているためだろうことは容易に想像できた。

 

 当初、今回の捜索はメルエーナたちの村の村長からの依頼で、可能な限りの冒険者見習いに参加して欲しいと頼まれていた。

 

 報酬はお世辞にも多いとは言えない額だったが、正規の冒険者達に随分遅れてこの村にやってきた見習い達二十人弱は、件の貴族の依頼を自分たちが達成するのは無理だと判断していたので、ほぼ全員が参加するつもりだったらしい。

 だが、ジェノとイルリア以外は、何故か約束の時間まで待っても誰もやって来なかった。

 

「少なくとも、昨日の晩に、私達は信用できる他の冒険者見習い五人に声をかけていたのです。それなのに、彼らさえこの捜索に参加しようとはしませんでした。見習いはなかなか仕事を得る機会が少ないので、今回のこの捜索は、渡りに船だったにも関わらずに」

 

 イルリアの話すとおりならば、他の冒険者見習い達に、今回の捜索に参加しないようにと圧力をかけた誰かがいるということになるのだろう。

 そして、その誰かが、あの三人だと彼女は推測しているのだ。

 

「そんな……。人の命に関わることなのに……」

 メルエーナには信じられなかった。そんな酷いことを平気でする人間がいることに。

 

「なんで、あいつらはそんな事を?」

「おそらくは、自分たちの報酬を高額にするために、他の見習い達を恫喝したのだと思います。人数が少ない中で仕事をしたのだから、色をつけろとでも言うつもりだったのかと」

 イルリアの説明を聞きながら、しかしメルエーナは一つの疑問が浮かんだ。

 

「ですが、イルリアさん。今お話して下さったとおりだとしたら、どうしてあの人達は真面目に捜索をしようとしないのでしょう? 父からその事を村長さんに報告されてしまったら、報酬は減額されてしまうのではないかと思うのですが」

「朝、村長さんが遅れて見送りにやって来たわよね。あの時、冒険者の皆さんに挨拶に行って、今回の探索に参加してもらえるように交渉したと言っていた。だからきっと、そこであいつらはそれなりの前金を貰ったんじゃないかと私は思っているわ」

 

 イルリアの答えに、コーリスが「ああ、あのお人好しの村長なら有り得そうな話だ」とため息をつく。

 

「コーリスさん。今日出会ったばかりの私の言葉をすぐに信用はできないと思いますが、提案させて下さい。ジェノ達がハンクさんを見つけられずに帰ってきても、捜索を中止して一度村に戻ったほうがよろしいと思います」

 イルリアの提案に、コーリスは少しだけ考えてから頷いた。

 

「そうだな。あいつらがおかしな事をしでかさないうちに戻るべきだろう。このままではうちの娘や君の身が危ないかもしれない」

 その言葉に、メルエーナは微笑む。

 どうやら父も、イルリアには好印象を持っていることがその言葉で分かったから。

 

「ありがとうございます。ですが、コーリスさんは娘さんを守ることだけに集中して下さい。私はなんとでもなりますので」

 そう言って、イルリアは微笑む。

 その笑顔は力強くも綺麗だった。

 

 

 やがて、ジェノ達が捜索に行ってから一時間近くは経った。しかし、彼らはなかなか帰ってこない。

 

「遅いな」

「ええ。まだ誰も帰ってこないなんて……」

 父とイルリアの言葉を耳に、メルエーナも心配していた。だが、それから程なく、ジェノが一人で戻ってきた。

 

「よかった。ご無事だったんですね」

 メルエーナがジェノに笑顔で声をかける。しかし、相変わらず彼は「すまない。遅くなった」と言っただけで、にこりともしない。

 

「ああ、こういう奴なの、本当に。この朴念仁は」

 聞こえよがしにイルリアが文句を言うが、ジェノは二人には目もくれず、座っているコーリスに頭を下げ、彼に自分の捜索した箇所の報告をする。

 

「……なるほど。それは時間がかかるはずだ。だが、あの役立たず達はどうしたんだ?」

「途中までは一緒でしたが、散開してある程度範囲を広げました。不測の事態に備えて、私が一番ここの近くを探索していたので、彼らも時期に戻ってくると思います」

 ジェノがそう答えると、コーリスは頷き、ジェノに少し休むように言う。

 

「いえ。もう少しで昼ですので、休息はその時にでも」

「いいから、少しは休みなさいよ。あんたに何かあったら、みんなが困るんだから」

 イルリアにまでそう言われ、ジェノは「そうか。分かった」と言い、敷物の端に腰を下ろす。

 

 歩き詰めだったジェノがようやく休んでくれたことに、メルエーナはホッとする。

 どうもこの人は、自分のことをないがしろにする傾向があるようなので心配だ。

 

 同じ敷物に座り、ジェノの顔を近くで見て、メルエーナはやはり自分はこの男の人を知っている気がしてならない。

 待ち望んでいた人に、ようやく巡り会えたような気持ちなのだ。

 

 けれど、どこで自分はこの人と出会ったのだろう?

 自分は村から出たことがないのに。

 

 メルエーナはそんな事をずっと考えていた。

 

「どうかしたのか?」

 不意に、ジェノがメルエーナに声をかけてきた。

 そこで、メルエーナは、自分がずっとジェノのことを見つめ続けていたことに気がつく。

 

「あっ、いえ。そっ、その……」

 メルエーナは言葉に詰まる。聞きたいことは山ほどあるのに。

 

「メルエーナ。お前がいては、彼もゆっくり休めないだろう。すこし、父さんと辺りを歩こう!」

「えっ、あっ、でも……」

 メルエーナはジェノと話がしたかったのだが、父に強引に連れられて、辺りを散策することになってしまう。

 

「あっ、あの、お父さん?」

「……」

 メルエーナはコーリスに手を引かれ、ジェノと距離を置かれる。

 前を歩く父の顔は見えないが、不機嫌な顔をしていることは間違いない。

 

「もう、いつもこうなんですから……」

 メルエーナが少し村の男の子と話をしただけで、父は不機嫌になる。

 娘のことを大切に思ってくれているのは分かるが、流石にもう少し自分のことを信じてほしいと思う。

 

「足元に気をつけろ。踏み外すと危険だ」

 進行方向の右側に高い段差がある場所に差し掛かり、父はそれだけ告げる。

 自分の言いたいことだけを言ってこちらの声を無視する父に、流石にメルエーナも我慢の限界が来た。

 

「もう、お父さん!」

 何度声を掛けても無反応な父に、メルエーナは声を荒げる。

 

「……なんだ?」

「なんだ、じゃないです。どうして、ジェノさんに失礼な態度を取るんですか? あの人は一生懸命私達のために頑張ってくださっているのに」

 振り向きもしない父に、メルエーナはそう文句を言う。

 

「あいつが、あの三人とは違うのは俺にだって分かる。だが、可愛い娘に色目を使うのならば、話は別だ」

「あの人は色目なんて使っていません。ほとんど会話もしていないじゃあないですか」

「それでもだ!」

 全く理由にならない事を言い、父は手を離して振り返る。

 

「いいか、メルエーナ。あいつは確かに顔はいいかもしれないが、冒険者なんて言う根無し草、しかも見習いなんだ。お前にはふさわしくない」

「ふさわしい、ふさわしくないなんて、今は関係ありません。ハンクさんを捜索してくださるだけではなく、私達にも気を使って下さっている方に対して、あの態度はあんまりだと言っているんです!」

 メルエーナの怒りの声に、コーリスはたじろぐ。

 

「うっ、うるさい! いいから、お前は父さんの言うこ……」

 コーリスの言葉は最後まで続かなかった。

 

 メルエーナは、不意に父の肩から何かが生えてきたかのように見えた。

 しかし、それは大きな間違いだ。

 彼は矢を肩に打ち込まれたのだから。

 

 矢の勢いが強く、肩を撃たれたコーリスの体制が崩れる。そこに、もう一本の矢が飛んできて彼の足を射抜いた。

 そして、完全にバランスを失った彼は、絶叫しながら高い段差から落ちていく。

 

「…………」

 メルエーナは唖然とすることしかできなかった。

 いま、目の前で起こった事柄が、現実なのだと理解することができない。

 

「……いっ、いや……。いやぁぁぁぁぁっ!」

 数秒後、メルエーナはその場に座り込んで絶叫した。

 

 だから、彼女は気づかなかった。

 今度は自分の足を狙って矢が放たれたことに。



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⑧ 『静かな怒り』

 矢は正確に、メルエーナの太ももに向かって飛んでいた。

 しかし、それは突然の突風によって曲げられ、明後日の方向に飛んでいく。

 

「メル! しっかりしなさい! 狙われているわ!」

 イルリアの声が聞こえる。

 メルエーナが力なくそちらを向くと、彼女が必死の形相で駆け寄ってくるのが見えた。

 

「……イルリアさん……。おっ、お父さんが……。お父さんが……」

 ショックから立ち直れないメルエーナは、ただそう言うことしかできない。

 

「上だけは見ないで!」

 イルリアはメルエーナのもとに駆け寄ると、彼女の顔を胸元に抱き寄せ、銀色の薄い板を天に掲げて自分も下を向く。

 

 瞬間、凄まじい光が巻き起こる。

 それは、下を向いていたメルエーナにも分かるほどの光量。闇夜の落雷を彷彿とさせるような眩しさだった。

 

「イルリア。風の魔法はいつまで持つ?」

 ジェノの声が聞こえた。

 そのことが、メルエーナに冷静さを取り戻させた。

 

「あと二、三分くらいしか持たないわよ」

「そうか。それなら、癒やしの魔法をあるだけ貸してくれ」

「あんた、何をするつもりなのよ?」

「悠長に話している暇はない! 早くしろ!」

 ジェノ怒声が聞こえ、メルエーナはそちらを向く。

 

 先程の眩い光はもう治まっており、ジェノとイルリアが切迫した状態で言葉を交わしている。

 

「メル、動ける?」

 メルエーナが顔を上げている事に気づき、イルリアが声をかけてくる。

 

「はっ、はい!」

 そう返事を返すと、イルリアは少しだけ安堵の表情を浮かべたが、すぐに険しい顔をする。

 

「ジェノ、私達はどうすればいい?」

「……メルエーナ。この絶壁の下まで、迷わずに歩いていけるか?」

 ジェノはイルリアではなく、メルエーナに声をかけてきた。

 

「はっ、はい。大丈夫です」

 メルエーナが答えると、ジェノはすぐに二人に指示を出した。

 

「イルリア、あれを使って敵の視界を遮ってくれ。俺はロープを使って先に下に降りて、コーリスさんの手当をする。お前たちは、あれが効いているうちに、歩いて下まで移動しろ」

「それしかないわね。分かったわ!」

 イルリアは腰のポーチから銀色の薄い板を取り出して、それを三枚ジェノに手渡す。そして、更にもう一枚、同じ板を取り出した。

 

 ジェノは背負ったリュックの横に掛けていたロープを手に取り、それを手近の大木に結びつける。

 

「ジェノ! 風の魔法がもう持たない!」

 イルリアの切羽詰まった声。ジェノは大急ぎでロープを大木にしっかりと結びつける。

 メルエーナは、ただ二人が作業を終えるのを待つことしかできない。

 

「よし! 頼む、イルリア!」

「分かったわ。メル、すぐに追いかけるから、貴女は走って!」

「はっ、はい!」

 

 まだ心の整理はついていない。だが、今はジェノとイルリアを信じるしかない。

 メルエーナは、二人に背を向けて走りだす。

 

 一度だけ背後を振り返ると、イルリアが銀の板を再び掲げているのが見えた。

 そして、次の瞬間、彼女の前に真っ黒な空間が現れた。

 

 闇だった。

 森の一部分の空間──発生源から近すぎたためメルエーナには規模を知覚できなかったが──五十メートルほどの球状の闇が、イルリアの前方に現れたのだ。

 

 それは森の規模を考えれば、ほんの僅かの変化。だが、肉眼でこの闇を見通すことはできない。ゆえに、遠距離から狙撃は不可能になる。

 もちろん、この闇の中に入り込んできても、光を一切通さないこの空間で方向感覚がなくなってしまうので、追手を撒くには最適の魔法なのだ。

 欠点は、持続時間が三十秒ほどと短い事だけ。

 

「メル、足を止めないで!」

「はっ、はい!」

 こちらに向かって走ってくるイルリアに言われ、メルエーナは再び走る。

 

 足場の傾斜はそれほどでもないが、下り坂で走りにくい。

 しかし、そんなことを気にしている暇はない。

 

 一体何がどうなっているのだろう? 

 お父さんは大丈夫なのだろうか?

 

 困惑と戸惑いと悲しみと不安。

 いろいろな感情が溢れて、涙がこみ上げてくる。でも、今は走るしかない。

 メルエーナは涙を堪えて、ただ父が落下していった場所を目指して足を進ませる。

 

「メル。ストップよ。流石にここからは、走ったら足を挫く可能性高いわ」

 息を切らしたイルリアが、走るメルエーナに追いついて、そう言葉を掛けてくれた。

 

「はぁ、はぁ……」

 メルエーナは少しずつ走る勢いを弱めて、息を整えながら足を止める。

 そして、呼吸が少し落ち着いたのだが、そこで我慢していた涙が溢れてしまう。

 

「ごめん。辛いときに無理をさせて。でも、私はこの場所に詳しくない。貴女が進んでくれなければ、コーリスさんの所にたどり着けないの。だから、もう少しだけ涙は堪えて!」

 イルリアは息を切らしながらも、そう言ってメルエーナを叱咤してくれた。

 

「……はっ、はい! こっちです!」

 メルエーナは涙を拭いて、イルリアを案内する。

 

 そう。まずはお父さんを助けないと。

 

 自分に懸命に言い聞かせ、メルエーナはイルリアと一緒に、コーリスが落下した場所に向かう。

 

 落下すれば一瞬の距離だが、人が歩ける道を迂回して回り込むと時間がかかる。

 メルエーナ達が、大きな木の陰で横になっているコーリスを、そして先に彼のもとに駆けつけたジェノを見つけたのは、事が起こってから二十分ほど経ってからだった。

 

「お父さ……」

 そう呼びかけたメルエーナの口を、イルリアの手が抑える。

 

「メル。声を出さないで。最悪、上から狙われている可能性があるわ」

 イルリアの小声の注意に、メルエーナは黙って頷いた。

 

 ジェノもこちらの接近に気づいていたようで、何も言わずに、ハンドシグナルで周りの木々に身を隠して近づいてくるように指示する。

 

 走れば十秒ほどで着く距離を、メルエーナはイルリアに手を引かれて、ゆっくりと彼のもとに近づいた。

 

 そして、倒れている父のもとにようやくたどり着くと、

 

「大丈夫だ。一命はとりとめている」

 

 ジェノは、メルエーナが一番言ってほしかった言葉を口にしてくれた。

 

 もう我慢することができずに、声を押し殺して涙をこぼすと、イルリアが何も言わずに優しくメルエーナを抱きしめてくれた。

 

「……後五分だけ待つ。その間に、呼吸を整えてくれ。これからのことを話したい」

 ジェノはそれだけ言い、黙り込んだ。

 

 ジェノの声は、酷く冷たい感情のこもらないものだった。

 だが、涙拭き取ったメルエーナが一瞬だけみた彼の横顔には、強い怒りの感情が浮かんでいたのだった。



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⑨ 『認識共有』

 意識が戻らない父の大きな右手を両手で握る。

 そこに確かなぬくもりを感じ、メルエーナはそのことに安堵した。

 

 高さがそれほどではなかったことに加え、木々が密集していたので、その枝がクッションになったのが幸いしたとジェノは言っていた。だが、それでも癒やしの魔法というものがなければ危うかったらしい。

 そして、まだ魔法の効果は父の身体の中で続いているらしく、目覚めるまではこのまま眠らせておいたほうがいいとのことだった。

 

「全部使い切った」

 ジェノが薄い銀色の板を返すと、それを受け取ったイルリアは、「そう」と短く言い、それをポーチに戻す。

 

 メルエーナは魔法というものを今まで見たことがなかった。だが、それが常識では考えられない強力なものなのだということは理解できる。

 父に刺さっていた矢も抜かれていたが、服に穴が空いているだけで、傷はもう塞がっている。本当に、信じられないほどすごい力だ。

 

「イルリア、メルエーナ。今後のことを話すぞ」

 先程一瞬見せた怒りの表情は影も形もなく、ジェノはいつもの無表情な顔のまま話を切り出す。

 メルエーナ達は頷き、彼の言葉を待つ。

 

「まず認識を共有しておきたい。コーリスさんに矢を放ったのは、ローグ達三人だ。……それ以外に該当する者がいない」

 ジェノの言葉に、メルエーナはショックを受ける。

 

 あの三人が不真面目で今回の捜索に協力的でなかったのは確かだが、どうして父が彼らに矢を放たれて、命を狙われなければいけないのかまるで分からない。

 父の物言いは強いものだったかもしれないが、だからといって逆恨みをされて命を狙われる程のことはしていないはずだ。 

 

「そんな……。どうして、あの人達がお父さんを……」

 メルエーナは未だに意識が戻らないコーリスの顔を見て、また瞳に涙を浮かべる。

 

「……話を続けるぞ。この辺りにも人間の武器を奪い、それを使う魔物はいるのかもしれないが、正確に肩と足を射抜くほどの精度は、生半可な練習では身につかない。素人ではない」

 そこまで言うと、ジェノは背後に置いていた矢を取り出して、メルエーナ達に見せる。

 

「それは、この矢にしっかり手入れが行き届いていることからも明らかだ。さらに、これだけの腕があるのに、コーリスさんの急所を狙わず、敢えて崖下に落下させたのも、保険をかけるためだったのだろう」

「保険? どういうこと?」

 イルリアが口を挟む。

 

「次に狙う相手の注意をコーリスさんに向けるためと、俺達がコーリスさんを助けようとするのであれば、矢を撃った自分を発見される危険性を減らすことができるということだ」

 ジェノの言葉に、メルエーナは全身の震えを抑えられなかった。自分や家族に対して、こんな殺意を向けられたことなどないのだから、それもやむを得ないことだった。。

 

「メル……」

 イルリアは心配して手を握ってくれたが、ジェノは淡々と話を続ける。

 

「奴らの狙いは、お前たち二人を手篭めにすることだろう。ただ、目的はそれだが、奴らは更にお前たちの命も狙っていることを理解してくれ。

 降伏は無意味だ。あいつらは、邪魔者の俺とコーリスさんはもちろん、目的を果たした後、自分たちの保身のために必ずお前たちも殺す」

「……死人に口なしってことね」

 イルリアの顔に怒りが宿ったのが分かった。だが、メルエーナは怒ることもできない。怖くて仕方がない。ただ恐怖だけが胸に渦巻く。

 

「俺たちが助かるためには、何とか奴らを掻い潜って村に逃げ戻るか、捜索隊に見つけてもらうことだろう。だが、後者はあまり当てにできない」

「あいつらを全滅させるっていうのは?」

 震えるメルエーナを優しく抱きしめながら、イルリアはそんな物騒なことをいう。

 

「それができれば最上だ。だが、俺たちには弓がない上に機動力もない。下手に奴らを索敵しようと出ていけば、そこを襲われて終わりだ。もっとも、奴らがわざわざ距離の有利を捨てるほどの馬鹿であれば話は別だが……」

 

 ジェノはそこまで言うと、小さく嘆息し、

 

「いや、馬鹿なのは間違いないか。俺ならばこんなリスクが高い賭けはしない。雇い主――この場合はリムロ村がそれに当たるが、その案内人を殺そうとしたことがバレたら、間違いなく極刑だ。こんな裏切りをするなど、リスクとリターンが全く釣り合わない」

 そう続ける。

 

「あら。言ってくれるじゃあないの。私とメルを好きにできるというのは、あんたにとっては全く魅力的ではないっていうわけ?

 聞いた、メル。この朴念仁は、あいつらが血眼になってまで欲しいと思っている私達に全く興味がないって。目が腐っているんじゃないかしらね」

「自分の価値など自分で決めればいいだろう。俺がどうこう言うことではない」

「本当に馬鹿ね。女の価値は男が決めるものよ。そんなことも分からないから、あんたは駄目なのよ」

 

 突然とりとめのない口論を始めたイルリア達に、メルエーナは驚いて俯けていた顔を上げる。すると、そこには優しく微笑むイルリアと、わずかに口元を緩めたジェノの顔があった。

 そこまでしてもらって、ようやくメルエーナは気を使われたことに気づく。

 

「メル。私達が必ず貴女とコーリスさんを村まで送り届けるわ。だから、私達を信じて」

 イルリアはそう言って、メルエーナの頭を優しく撫でる。

 

「……イルリアさん、ジェノさん……」

 メルエーナの胸に渦巻いていた恐怖が、二人の笑みで薄らいで行く。

 

「メルエーナ。状況的には俺たちが不利だ。だが、手がないわけではない。力を貸してくれ」

 ジェノはまた仏頂面に戻っていたが、その声色が少し優しく聞こえた。

 

「はっ、はい」

 メルエーナは勇気を振り絞って、優しい二人にそう応える。

 すると、二人はまた微笑んでくれた。もっとも、ジェノのそれは非常に分かりにくいものだったが。

 

「メルエーナ。早速一つ教えてほしいことがある。今日、俺達が通ってきた道以外に、村に戻る方法はないか?」

 ジェノに問われて、メルエーナは考える。

 

「……村の裏に回る道はあります。ただ、遠回りになってしまいますので、かなり時間が掛かってしまいます」

「そうか。だが、同じ道を戻るよりは危険が少ないだろう。奴らは恐らく俺達が今まで通ってきた道の何処かで待ち伏せをしているはずだ」

「あいつらが、私達を追ってきている可能性は考えないの?」

 イルリアの指摘に、ジェノは「それも考えてはいる」と答える。

 

「だが、あいつらには土地勘がない。それに、ここらは木々が密集していて射線が通りにくい。希望的な観測も含まれているのは否定しないが、どちらにしろ、コーリスさんが目覚めるまでは俺たちは動けないのだから、それを気にしても仕方がない」

 その言葉に、メルエーナは少しだけ安堵する。

 せっかく二人のおかげで助かりそうな父を、再び危険な目に合わせたくない。

 そして、もちろんジェノとイルリアにも危険な目にあってほしくない。

 

 ジェノは、父が目覚めるまでは動けないと言ってくれた。

 メルエーナは、震える自分の手を握り続けていてくれる。

 自分たち父娘を、二人が懸命に救おうとしてくれているのがよく分かった。

 

「今のうちに、昼食にしよう。食欲などないかもしれんが、無理にでも食べておけ。いざというときに空腹で動けないことがないようにな」

 とても食事をする心持ちにはなれなかったが、ジェノに言われて、メルエーナ達は各自持参した昼食を食べた。

 母と一緒に作ったこのお弁当は自信作だったのだが、今は全く味がわからない。

 けれど、それでもメルエーナは何とかそれらをすべて胃に収めた。

 

 昼食後、コーリスが目を覚ました。

 そして彼に状況説明をした後、メルエーナ達は行動に出るのだった。



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⑩ 『限界』

 あっという間に体力が奪われていく。

 単純に往路とは異なり長距離を歩いていることもあるが、それ以上に、いつどこから矢が飛んでくるのか分からない恐怖が精神を蝕み、それが疲労となってのしかかって来る。

 さらに、いくら森の中が涼しいとは言っても、強い日差しと気温が、疲れに拍車をかける。

 

「大丈夫か、メル? もう少し歩けば、美味い飲み水が湧いているところがある。そこまで頑張れるか?」

「はい。大丈夫です」

 もう身体は悲鳴を上げていたが、メルエーナは先頭を歩く父に笑みを向ける。

 

 大怪我が治ったばかりなのに先頭を務める父や、ずっと辺りを警戒しながら殿を務めてくれているジェノ。そして、自分のすぐ前を歩いて頻繁に励ましてくれるイルリアに、これ以上迷惑はかけられない。

 

 途中に小休止を何度か挟んだが、メルエーナ達は本来ならばもう村にたどり着いているはずの距離以上を歩いている。だが、これでも行程の三分の二にも満たない。

 この道が廃れた理由は、単純にこの長さにあるのだ。

 

 それでも、コーリスの言う湧き水やキノコや山菜の隠れた群生地があるということで、少人数だがこの道を利用している村人がおり、人の手が入っている。それがなければ、とても歩けたものではなかっただろう。

 

 メルエーナ達は懸命に歩き続けて、どうにか目の前に小さな人工物を見つけた。小屋とも呼べない小さな屋根は、湧き水に葉っぱ等が入らないようにと、リムロ村の人間が建てたものだ。

 

「メル、もう少しだから……」

「はい……」

 息も絶え絶えながらも、メルエーナは懸命に歩き、目的の場所までたどり着いた。

 

「うん、お疲れ様。頑張ったわね」

 手を引いてくれていたイルリアが微笑み、すぐに敷物を敷いてくれた。

 メルエーナは無言で、そこに倒れ込むように座る。

 

「メル、よく頑張った」

 周りを警戒していたコーリスが、メルエーナに駆け寄ってくる。

 

 メルエーナは父に笑顔を向ける。それが精一杯の返答だった。

 

 今はもう口を動かすのも辛い。

 父はまだ体力に余裕がありそうだが、申し訳ないが自分はもう歩けそうにない。

 

「イルリア、どうだ?」

 ジェノが、最後にやって来た。

 汗こそかいているものの、彼は呼吸を乱しておらず、相変わらずの無表情だ。

 

「うん。大丈夫。この水は安全よ」

 イルリアはまた薄い銀色の板を湧き水の前でかざし、そう断言する。きっと、また何かの魔法なのだろう。

 

「ジェノ、イルリア。今のはなんだ?」

 初めてイルリアが魔法を使っているところを見たコーリスが、不思議そうに尋ねる。

 

「水に毒素が入っていないかを確認していました。万が一ですが、あの三人がここに先回りしている可能性もありますので」

 イルリアは端的に答えると、荷物から木のコップを取り出して湧き水を汲む。そして、それを動けないでいるメルエーナに手渡してくれた。

 

「呼吸が落ち着いてからでいいから、ゆっくり飲んで」

 イルリアはそう言って微笑む。

 彼女も疲れているはずなのに。その優しい気遣いに、メルエーナはありがたくて涙が出そうだった。

 

「ジェノ。ここまで来れば、村までもうひと頑張りだが……」

「日も傾いてきました。これ以上進むのは危険だと思います」

 

 きっと、ジェノ達と父だけであれば、まだ日が昇っているうちに村までたどり着けるのだろう。明らかに、自分が足を引っ張っていることをメルエーナは自覚している。

 

 父は娘である自分を心配してくれている。そして、ジェノも自分のことを気遣ってくれていることがよく分かった。

 二人共、決して、私のためだとは口にしないでいてくれるのだから。

 

 メルエーナ達は水を飲んだり、敷物の上に腰を下ろしたりして休息をする。

 ジェノは相変わらず立ったまま辺りを警戒し続けていたが。

 

「ジェノ、どうだ? あいつらからの襲撃はこれまで一度もない。撒いたと見ていいのだろうか?」

 メルエーナたちから少し離れたところで、コーリスがジェノに尋ねる。

 

「……何とも言えません。我々には、ローグ達がどこにいるかを知る手段がありませんので。ただ、地図を確認していて気づいたことがあります」

 ジェノはそう言うと、腰に帯びていた剣を静かに抜いて地面に何かを描き始める。

 

 何を描いているのか気にならないわけではないが、今のメルエーナには腰を上げる力も残っていない。

 

「必要なことなら、あいつは後から説明するわ。私達はとにかく体力を回復させないと」

「はい」

 メルエーナは何とか返事を返す。

 

 そして呼吸を整え、イルリアが汲んでくれた水を口にする。

 その水は甘く、歩き通しで水分を失った全身に染み込んでいくようだった。

 

「簡単な図ですが、ここが現在地です。そして、村がここ。そして、このまま進むと、往路とぶつかる部分があります。もしも、あいつらが待ち受けるのであれば、ここの可能性が高いのではないかと思います」

「……なるほどな。だが、奴らがこの道を知っているとは思えない。少し警戒し過ぎじゃあないか? それに、この場合、ここの……」

 ジェノと父の会話で、地図を描いて二人でこれからのことを相談している事を理解したメルエーナは、イルリアに言われたようにそのまま座って体力回復を優先する。

 

「イルリア。すまんがこっちに来てくれ。お前にも相談をしておきたい」

 ジェノが、そうイルリアに声を掛けた。

 

「もう、分かったわよ。ごめん、メル」

 談笑していたイルリアは、そうメルエーナに詫びてジェノのもとに駆け寄っていく。

 メルエーナは笑顔でそれを見送った。

 情けないが、自分はまだ動けない。それに、これからのことを打ち合わせるのは大事なことだ。

 

 メルエーナは只ぼんやりと、ジェノがまた何かを地面に描いてイルリアに説明するのを、見るとはなしに見ていたが、やがて三人の話が終わる頃には、彼女の体力も少しは回復してきていた。

 

 そのため、野営の準備をするというジェノとイルリアに、なにか協力できることはないかと思ったのだが、二人と父にまだ休んでいるように言われてしまい、メルエーナは少し寂しい思いをするのだった。



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⑪ 『焚き火』

 ジェノとイルリアがテキパキと動き、父がその手伝いをし、野営の準備は進んでいく。

 だが、野宿をした経験さえないメルエーナには、何もできない。何をすればいいのかも全く分からない。

 

 結局、皆が一通りの作業を終わらせるまで、メルエーナはただ座って足を休ませていることしかできなかった。

 

 ジェノ達は、水場から少し離れた所を野営地に選んだ。何故そこにしたのかは分からないが、きっと襲撃に備えてなどの理由があるのだろう。

 

「一晩なら、薪はこれで足りるだろう」

「ええ。ありがとうございます、コーリスさん」

 父が近くで木の枝をたくさん拾ってきて、火を起こしているジェノに渡す。

 

「乾いているものを選んだつもりだが、煙が……」

「それは大丈夫です。木の水分を抜く方法がありますので」

 イルリアも二人の会話に参加する。

 

 やはり、何も分かっていないのは自分だけのようだと、メルエーナは肩を落とす。

 だが、そんなことよりも深刻な問題に彼女は気づく。

 

 くぅ~っと、メルエーナのお腹が鳴ったのだ。

 幸い、皆とは少し距離が離れているので聞かれてはいないと思うが、何も働かずに空腹を訴えるなど恥ずかしいことこの上ない。

 

 もう少しで日が沈む。昼食を食べたのも随分前だ。皆も空腹で頑張っているのだから、自分も我慢しないとと自身に言い聞かせる。

 

 やがて焚き火がつく。まだ辺りは明るいが、火の明かりがあることにメルエーナは少し安堵を覚える。

 

「メル、火の近くにいらっしゃい。暑いけれど、獣よけにもなるから」

「はい」

 イルリアに促されるまま、焚き火の近くに寄って、彼女の隣に座る。

 焚き火を挟んだ向かいには父が座っており、その横にはジェノが座って……。

「ジェノさんは、一体何を?」

 ジェノは石を積み上げた上に、木を二本置いて、更に小型の鍋を置いた。

 

「ああ、簡易的なかまどを作っているのよ。お腹が空いたでしょうけれど、もう少しだけ待っていてね」

 イルリアに笑顔で言われ、メルエーナは、いや、彼女とコーリスは二人揃って驚く。

 

「いいのか? それは、お前たちの食料だろう?」

「もともと、遭難者を見つけた際に必要かと思い用意していたものです。それに、私達だけでは食べきれませんから。……そうよね、ジェノ」

「ああ」

 二人はあたり前のことのように、メルエーナ達にも食事を振る舞おうとしている。その優しい心遣いが嬉しかった。

 

「作るのはこの無愛想な男ですけれど、そんなに味は悪くないと思いますので」

 イルリアの言葉に、メルエーナはまた驚く。

 

「ジェノさんが作るんですか? 男の人なのに、料理を……」

 例外がないわけではないが、基本的にメルエーナが住んでいるリムロ村では女性が食事を作るのが一般的だ。

 だからメルエーナには、男性であるジェノが進んで料理をしようとしていることが不思議に思えてしまう。

 

「腹が空くのに、男も女もないだろう。ただ、口にあうかどうかは分からんぞ」

 ジェノは相変わらずの仏頂面でそう言うと、かまどに火を入れて水の張った鍋を熱し始める。

 

「ジェノさん、よければなにかお手伝いを……」

 今まで何もできなかった埋め合わせをしたいと思い、メルエーナはそう申し出る。

 

「必要ない。材料の下準備はできている。後はただ煮込むだけだ」

 しかしジェノは、にべもなく彼女の助力を断る。

 

「あんたはもう少し言葉を選びなさいよ! そんな言い方をする必要はないじゃあないの!」

 イルリアがジェノの態度を嗜める。だが、ジェノは気にした様子はない。

 

 大丈夫ですから、と怒るイルリアを宥めるメルエーナ。

 だが内心では、何もできない自分が恨めしくて仕方がない。

 

 コーリスも娘の事を気遣ってなにか言葉をかけようとしているようだが、どう声を掛けたものかと思いあぐねているようだ。

 誰も何も言葉を口にせず、沈黙が訪れる。だが、それを破ったのはジェノだった。

 

「……メルエーナ」

「はっ、はい!」

 

 知らずに少し顔を俯けていたメルエーナは、ジェノに突然名前を呼ばれ、慌てて顔を上げる。

 

「俺達は、<冒険者>だ。旅には慣れている。こういった作業は俺たちに任せてくれ。

 ただ、村に戻ってからはお前とコーリスさんの二人に、今回のことをしっかりと証言してもらわなければいけない。それは、俺とイルリアには出来ないことだ」

「ジェノさん……」

「自分も何かをしなければと思う気持ちもあるだろう。だが、まだお前が活躍する状況ではないだけだ。やってもらいたいことはある。だから、今は体を休めることだけを考えてくれ」

 ジェノはそこまで言うと、視線を逸して鍋に具材を投入し始める。

 

「ふふふっ。柄にもないことを言って、照れているのよ、あいつ」

 イルリアがメルエーナにそう耳打ちをする。

 

「…………」

 出番を取られたことと、娘を馴れ馴れしく『お前』呼ばわりされたことが面白くないコーリスは、しかしこれまでジェノ達に助けられているため文句は口にはしなかった。

 

 表情でその事が分かり、メルエーナは苦笑する。

 そして、胸のつかえが和らいだ彼女は、父に話しかけて機嫌を取っておく。

 

 思えば、命を狙う相手に追われている状況で、自分が何も出来ないなどと考えるのはおかしいのだろう。だが、ジェノ達はメルエーナの想いを理解した上で、それを叱責したりはしない。

 

「……駄目だな。非常事態だと言うのに、少し気が緩んでしまったようだ」

 父も同じことを思ったようで、そう言って嘆息する。

 

「どんな状況でも、緊張感を維持し続けるには限界があります。気を抜きすぎるのも問題ですが、少しくらいの余裕は必要ですよ」

 イルリアはそう言って、コーリスに微笑みかける。

 

「そう言ってもらえると助かる。いや、君たちがいなかったらと思うと、背筋が冷たくなる。ありがとう、このとおりだ」

 コーリスはイルリア達に頭を下げる。メルエーナもそれに倣う。

 

「コーリスさん。礼の言葉は、無事に村についてからで結構です」

「そうですよ」

 

 ジェノとイルリアはそう言うが、コーリスは首を横に振る。

 

「無事に村についた際には、改めて礼を言わせてもらうさ。今の礼は、ここまで俺たち父娘を救ってくれた礼だ」

「お父さん……」

 どちらかと言うと取っ付きにくい性格の父が、出会って間もない人にここまで砕けた話し方をするのは珍しい。

 

 自分と同じ様に、心からジェノ達に感謝していることを理解したメルエーナは、嬉しそうに微笑むのだった。



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⑫ 『気遣い』

 神様へのお祈りを済ませ、メルエーナは木製の深皿に盛られたスープをスプーンで口に運ぶ。そして、目を大きく見開いた。

 

「美味しい……。すごく美味しいです!」

 メルエーナは満面の笑顔をジェノに向ける。

 

 正直、男の人が作る料理と言うものに不安な気持ちもあったのと、ジェノが味見を二度して塩加減を調整していたこともあり、メルエーナは自分が味付けを代わったほうがいいのではとさえ思ったのだが、それは全くの杞憂だった。

 いや、それどころか、こんなに美味しいスープを果たして自分が作れるだろうかと心配になってしまうほどの出来だ。

 

「これは驚いた。まさか、こんなに美味いものが食べられるとは思わなかった」

 コーリスもジェノが作ってくれた具沢山のスープを口にして、その味に舌を巻いている。

 結婚してからずっと、料理上手な母の料理を食べている父までも絶賛しているのだから、ジェノの料理の腕は並大抵のものではない。

 

「好評じゃない。良かったわね」

 自分もスープを一口飲んで、笑顔でイルリアがそう話しかけたが、ジェノは相変わらず表情を変えない。

 

「ああっ、もう、可愛くない! 褒められているんだから、嬉しそうな顔しなさいよ!」

「乾燥肉と干し野菜を煮込んだだけだ。褒められるようなものではない」

 ジェノは無表情でスープを口に運ぶ。美味しいと思っているのかどうかも傍目には判断がつかない。

 

「いいえ。私が同じ材料で作っても、これほど美味しいスープは作れません。下処理や塩加減がしっかりしているからこその味です」

 メルエーナは素直に思ったことを口にする。

 こんなに美味しい料理をご馳走してくれた人に反論するのは失礼だとは思うが、料理人になることを夢見るメルエーナは、口を出さずにはいられなかった。

 

 ジェノが調理している過程を思い出してみると、辺りに気を配りながらも、彼はアクの処理なども丁寧だった。それに、この野菜や肉のカットも食べやすくも触感が楽しめる大きさに切り分けられている。

 味見をする際にも、別の小皿を用意してそこに取り分けてから味を確認していた。普段からジェノは料理をしっかりする人間なのだということは、それらのことから明らかだ。

 

「娘の言うとおり、このスープは絶品だ。保存食を使ってここまで旨い料理を作れるとは大した腕だ。誇ってもいいと思うぞ」

 コーリスまでも手放しにジェノの料理の腕を称賛する。

 

「空腹だったことと、汗をかいたから、塩気のあるものが旨く思えているだけですよ」

 ジェノはただそう答える。

 

 そして彼は早々にスープを食べ終えると、「念の為、周りを見てくる」と言い残して、見回りに行ってしまう。

 

「まったく、あの馬鹿は……。もう少し愛想よく出来ないのかしらね」

「嬢ちゃん、苦労しているんだな」

 怒るイルリアとそれに同情するコーリス。

 けれど、メルエーナは先程のジェノの言葉を思い出し、笑みを浮かべる。

 

「メル、何を笑っているの?」

 怪訝な顔をしたイルリアに尋ねられ、メルエーナは自分が気づいたことを口にする。

 

「いえ。ジェノさんは本当に優しい方なんだなと思ったんです」

 そう言って笑みを強めると、「どこがよ?」とイルリアは呆れた顔をする。

 

「このスープの味付けで分かるんです。ジェノさんの優しさが」

「んっ? スープの味付け? どういうことだ? 確かに美味いスープなのは間違いないが……」

 コーリスもイルリアも分かっていないようなので、メルエーナ解説をする。

 

「このスープはとても美味しいですけれど、日常の食卓にこのスープが出されても、これほど美味しいとは思わないはずです。何故なら、普段食べるものよりも塩分が強めだからです」

「んっ? そうか? いい塩加減だと思うが……」

 スープを一口口に運び、コーリスは不思議そうな顔をする。

 

「気づきませんでしたか? ジェノさんは、スープを作っている途中で味見をして塩加減を確認して小さく頷いたんですが、そこで何かを考えて、もう少し塩を加えたんです」

 少々不安だったこともあり、メルエーナはずっとジェノの調理を注意深く見ていたからその事をしっかり記憶している。

 

「あっ、そっか。だから、あいつはさっき……」

 イルリアは気づいたようなので、メルエーナは小さく頷く。

 

「ジェノさんも汗をかいていましたが、私やお父さん、そしてイルリアさんほどではありませんでした。だから、自分の舌で感じる適量の塩加減に、少しだけ塩を足してくれたんです。

 ジェノさん自身が言っていましたよね。汗をかいたから、塩気があるものが美味しく思えると」

 そこまで説明すると、コーリスもメルエーナの言わんとしていることが理解できたようで、スープを見つめながら、「ふむ」と呟く。

 

「でも、偶然の可能性もあるんじゃあないの?」

「はい。それは否定できません。でも、私は母から、料理は、その人の人柄が出るものなのだと教わってきましたので、どうしてもそう思えてしまうんです」

 メルエーナはそう言って、また微笑む。

 

「ふぅ。メルの言うとおりだとしても、あいつが無愛想すぎるのは変わらないわ。まだ、お前らのためにしてやったと言われる方が、分かりやすい分ましだわ」

「まぁ、困った性格なのは事実だな」

 苦笑して食事を再開する二人に倣い、メルエーナもスプーンを動かす。

 だが、その木のスプーンを見て、彼女は鈍い自分に苦笑した。

 

「そもそも、自分たち以外の人の分までの食器をわざわざ持ち歩いている時点で、ジェノさんは優しい人だと気づくべきでした」

 

 メルエーナはそう誰にも聞こえないように呟き、先程自分が想像したジェノの気遣いが、間違っていないことを確信するのだった。



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⑬ 『唯一の手段』

 メルエーナが食事を終える頃に、ランプを片手にジェノが戻ってきた。

 特に成果はなかったらしい。

 

「ジェノさん、ご馳走様でした。本当に美味しかったです」

 メルエーナが笑顔で礼を言うと、しかしジェノは「そうか」と返してくるだけだ。

 

「この、へそ曲がり! 少しは嬉しそうにしなさいよ」

 イルリアの叱責にも、ジェノは何も反応らしい反応をせず、先程まで座っていたコーリスの隣に腰を下ろす。

 

「そんなことよりも、明日の相談を全員でしたい。コーリスさん、メルエーナ。疲れているでしょうが、少し話を聞いて下さい」

 ジェノがそう提案したため、イルリアは不満そうな顔をしながらも、口を閉ざす。

 

「分かった、聞こう」

「はい」

 父と共に、メルエーナも頷いてジェノの言葉を待つ。

 

「夕食前にコーリスさんと打ち合わせをしたんだが、この道をもう二時間ほど進むと、先に通った道――往路と接近する箇所がある。

 向こうが上でこちらの道が下だということもあり、ローグ達が待ち伏せするには絶好の位置だ。俺達がこの道を通っている事をあいつらが理解していれば、間違いなくここで攻撃を仕掛けてくるだろう」

 ジェノは地図に印をつけて、それをメルエーナとイルリアに見せる。

 

「だが、この箇所を通る以外に村まで戻る手段はない。だからどうしても強行突破をせざるを得ない。ここまではいいか?」

 皆が頷いたのを確認し、ジェノはイルリアの方を見る。

 

「イルリア。すまんが、アレの説明をするぞ。知っておかないと、危険が……」

「いいわよ、そんな確認を取らなくても。非常事態だもの、仕方ないわ」

 ジェノの言葉を遮り、イルリアはジェノに説明を続けるように言う。

 

「イルリアは魔法を使える道具を腰のポーチに入れています。銀色の薄い板上のそれには、一枚につき魔法を一回分だけ溜めておくことができるのです。コーリスさんの傷を癒やすことができたのも、これのおかげです」

 

 ジェノの言葉に合わせて、イルリアはポーチからその銀色の板を取り出す。

 

「魔法か……。さっきの水の確認はよく分からなかったが、矢が刺さて転落したのに、こうして普段と同じように動けるのだから、すごい力なんだな」

「ええ。そして、この『魔法が使える』というのが、我々の数少ない優位性です」

 ジェノはそこまで言うと、少し押し黙り、「ですが……」と呟く。

 

「この中には、あと一枚分の魔法しか残っていないんです……」

 ジェノに代わって、イルリアが自身の腰のポーチに触れながら渋面で答える。

 

「……すみません。私達を助けるために、たくさん使わせてしまったせいですよね」

「そうか。本当に君たちには色々迷惑をかけていたんだな。すまない……」

 メルエーナ達が謝罪すると、イルリアは「そんな事はありません」と言って微笑む。

 

「こんなときのためのものなんですよ、これらの魔法は。だから、謝らないで下さい。私達が勝手に使っただけなんですから」

 本当に、イルリアさん達はいい人だと、メルエーナは感動すら覚えていた。

 この優しくて頼もしい二人がいてくれて、本当によかった。村に戻る事ができたら、できる限りのお礼をしなければいけない。

 

「それに、この一枚は本当のとっておきで、今までの魔法とは違い、相手を攻撃する大きな雷が封印されているんです。これを受けたら、普通の人間は絶対に無事ではすまないほどの威力があります」

 イルリアはそういい、ジェノに視線を移す。彼は小さく頷き、口を開く。

 

「銀色の板に溜め込まれた魔法は、それを持つ人間が使おうと思えば、それだけで発動します。そして、これは誰でも使用が可能です」

「俺やメルでも魔法を使えるということなのか?」

「はい。ですので、これを敵に奪われてしまうようなことになれば、大変なことになります。だから、この話は他言無用でお願いします」

 ジェノにそう言われ、メルエーナは恐怖で体を震わせる。

 

「大丈夫よ。私が肌身放さず持っているから。それに、このポーチに入れている間は、絶対に魔法は発動しない仕組みだから、安心して」

「はっ、はい……」

 人を簡単に傷つけられるものが近くにあることは怖くて仕方がないが、メルエーナはここまで自分たちを守ってくれたイルリア達を信じる事にする。

 

「危険性はありますが、使い方を誤らなければ、これほど有効な武器はありません。さらに、この魔法は有効範囲がかなり広いため、先に言った往路との接近地点で待ち伏せしている奴らを一網打尽にできる可能性もあります」

「だが、どうやって敵がどこに潜んでいるかを判断するんだ? 一度しか使えないのだろう?」

 

 コーリスのもっともな問に、ジェノは何も躊躇うことなく、

 

「俺が囮になります。そして、俺に向かって矢が放たれたら、その飛んできた方向に向かってイルリアに魔法を使わせる予定です」

 

 そう告げる。

 

「馬鹿を言うな! そんな事をしたら、お前は奴らに射抜かれて死ぬんだぞ! それに、その魔法とやらは、よく分からんが大きいんだろう。それなら、もしも矢が急所を外れても、お前はどちらにしろ魔法に巻き込まれるだろうが!」

 コーリスの指摘に、ジェノは頷く。

 

「おそらくそうなるでしょう。ですが、隠れてこちらを狙ってくる奴らを相手に、他に有効な手段はありません。

 コーリスさん達は、魔法の効果が終わったのを確認して、かまわずイルリアと一緒に逃げて下さい。この地点を超えれば、村まではそう遠くは……」

 

「そんなことはできません! どうして、ジェノさんが犠牲にならなければいけないんですか!」

 黙って聞いていられなくなり、メルエーナは思わず叫んでしまった。

 

「メル……」

 涙さえ浮かべて怒るメルエーナに、イルリアは言葉を失う。

 

「落ち着け。これは、最悪のケースの話だ。奴らが俺の読みどおりに待ち伏せしているとは限らない」

「ですが、それを確認する方法はないんですよね? それなら、ジェノさんはその場所についたら、やっぱり自分を犠牲にして、あの人達がどこにいるのかを……」

 メルエーナはジェノを睨む。それは、そうしないと泣き崩れてしまいそうだから。

 

 どうしてこの人は、簡単に自分の命を捨てようとするのだろう?

 そのことが腹立たしくて仕方がない。

 

「俺も、娘と同じ気持ちだ。ジェノ、その案はなしだ」

 コーリスはそう言ってジェノを睨みつける。

 

「ジェノ。やっぱり、他の方法を考えましょう。まだ夜が明けるまで時間があるわ」

 イルリアもメルエーナ達に賛同してくれた。

 

「……話はここまでだな。明日は早い。みんなは早めに休んでくれ。俺は火の番をしている」

 しかし、ジェノはそう言ったきり、考えを変えようとはしなかった。



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⑭ 『既視感』

 ……目が覚めてしまった。

 疲れ切った体はまだ睡眠を欲しているのだが、頭が妙にはっきりしていて眠れそうにない。

 

 メルエーナの隣では、イルリアが静かに寝息を立てている。

 気丈に振る舞っていたが、やはり彼女も疲れ切っていたのだろう。

 

 イルリアが彼女のテントに入れてくれたおかげで、安心して睡眠を取ることが出来た。その上、ジェノの無謀な提案に取り乱してしまった自分が寝付くまで、彼女はずっと楽しい話を聞かせてくれた。落ち着かせてくれた。

 本当に、いくら感謝しても感謝しきれない。そして、迷惑をかけ通しの自分を反省する。

 

「…………」

 どうしようか迷ったが、自分の精神が少し落ち着きを取り戻していることを悟ったメルエーナは、イルリアを起こさないように注意し、テントの外に出ることにした。

 

 月がまだ高い。

 眠ってから、まだそれほど時間が経過していないのだろう。

 

「眠れないのか?」

 火の番をしているジェノが話しかけてきた。

 

「……いえ。少し眠りました」

 自然と声が固くなってしまい、メルエーナは自分の失敗を悔やむが、ジェノは気にした様子はなく、「そうか」とだけ口にする。

 

 考えないようにしようと思っていたのだが、ジェノの顔を見てしまうと、我慢ができなかった。

 メルエーナは黙って歩み寄り、火を挟んでジェノの向かいに座る。

 

 無言だった。

 

 ジェノは何も言わない。メルエーナも何も言葉を口にしない。

 そんな時間が、何分か続いた。

 

 ジェノは無言のまま、手を動かし、荷物から取っ手のついた木のコップを取り出す。そして、夕食のスープを作った簡易かまどで熱していた小さな鍋の液体を、そこに注ぐ。

 

「飲めるのなら飲んでおけ。気持ちを落ち着けるお茶だ。水分補給にもなる」

 ジェノは立ち上がってメルエーナの側に来ると、そのコップを彼女の前に置く。

 

「……頂きます」

 メルエーナがそう言ってコップを手に取ると、ジェノはまた元の位置に戻って腰を下ろした。

 

 メルエーナはお茶に息を吹きかけて冷ますと、一口それを口に運ぶ。

 複雑な香りが入り混じっているが、口当たりが良くて飲みやすい。

 

「美味しいです。ハーブティーですね」

「ああ。俺が世話になっている料理人が作ってくれたものだ」

 

 ジェノのその言葉に、「そうなんですか」と頷いたメルエーナだったが、そこでジェノの変化に気づく。

 

 ジェノは自分から積極的に話そうとはしない。そしてこちらが話しかけても、返事も、「ああ」とか「そうか」と言った一言ばかりだった。

 だが今は、少しだが個人的な、私的なことを話してくれた。彼なりに、無言のまま何も言えずにいる自分が話しやすいようにと気を使ってくれているのだろう。

 

 メルエーナは苦笑する。

 この人は本当に無愛想で分かりにくい。

 

「料理人さんですか?」

 ジェノの気遣いを無下にしないように、メルエーナは彼の優しさに甘えることにする。

 

「ああ。俺に料理を教えてくれている」

 ジェノはそう言って、自分もお茶を口にする。

 

「羨ましいです。私も、将来は料理人になりたいと思っているんです。でも、私の育った小さな村では、なかなか思うような修行が出来なくて」

 メルエーナがそう言うと、ジェノは少し間を空けてから口を開いた。

 

「セインラースという街に行ったことはないか? エルマイラム王国とは別の大陸の街なんだが……」

「セインラース? いえ、名前も初めて聞きました。その、恥ずかしいことなんですが、私はこの村から出たことがないんです。ですから、行ったことはありません」

 ジェノのあまりにも突飛な問に驚きながらも、メルエーナは正直に答える。

 

「そうか。おかしな質問をしてすまなかった」

「あっ、いえ。ですが、どうしてそんな事を?」

 そう尋ね返すと、ジェノは少しの沈黙の後に口を開く。

 

「その街で、俺はお前によく似た……。いや、きっと俺の思い違いだろう。随分昔の話だからな」

 ジェノはそう言って、一人納得してお茶を口にする。

 

「ジェノさんも、私に会ったことがあるような気がするんですか?」

 意を決して、メルエーナはジェノにそう尋ねる。

 

「……ああ。だが、俺は十年近く前に、今のお前と瓜二つの姿の人間に会ったような気がするだけだ。きっと、他人の空似だろう」

 仮に十年前だとすると、メルエーナはその時六歳だ。流石に成長した今とは姿形が違いすぎる。

 

「ふふっ。不思議ですね。私も、ジェノさんを初めて見かけたときに、どこかで会ったような気がして仕方がなかったんです。どうしてなんでしょうね?」

「さぁな。まるで見当もつかん」

 

 メルエーナは微笑んだが、ジェノは相変わらずの仏頂面だ。

 だが、ほんの少しだけジェノの口角が上がっていることにメルエーナは気づく。

 もう少しその顔を見ていたかったが、そろそろ本題に入るべきだと思い、メルエーナは真剣な眼差しをジェノに向ける。

 

「ジェノさん。明日のことですが、やはり私は、ジェノさんが犠牲になるような方法を取って欲しくありません」

 メルエーナの真摯な言葉に、ジェノは無言でまたお茶を口にする。

 

「そもそも、おかしいです。どうして貴方は、そんなに私達を守ろうとしてくれるんですか? 命をかけようとするんですか? 私達は出会ったばかりだというのに……」

 メルエーナの当然の疑問に、ジェノはコップを静かに地面に置いて口を開く。

 

「仕事だからだ。それ以上でも以下でもない。特に今回は、同じ冒険者見習いが不祥事を起こした。それを放置しておくわけにはいかない」

 彼の答えは、まったくメルエーナには理解できないものだった。

 

「そんな理由で、貴方は命を捨てようとするんですか? そんなの絶対におかしいです!」

「……俺は俺の考えで行動している。それをとやかく言われる筋合いはない」

 怒るでもなく、ジェノはただ淡々と言い、

 

「もう休め。眠れなくても、横になって目を閉じておけば、少しは体力も回復するはずだ。辺りが明るくなり次第出発する。明日が本番だ」

 更にそう続けた。

 

「ジェノさん!」

「お前の体力が万全でなければ、リスクが増す。それは分かるだろう?」

 

 メルエーナの悲痛な声にも、ジェノは眉一つ動かさず、ただ事実だけを彼女に突きつける。

 

「……分かりました。休みます」

「ああ。そうしてくれ」

 ジェノはそう言うと、それ以上は何も言わずに黙り込んだ。

 

 メルエーナは溢れ出そうな涙を堪えながら、テントに戻るしかなかった。



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⑮ 『困惑』

 なかなか眠ることができなかったが、メルエーナはジェノに言われたとおり、横になって目を閉じて少しでも体力を回復させることに努める。

 

 途中、気を失うような感覚で思考が落ち、そしてまた覚醒するというサイクルを繰り返す。自分が思うよりも、疲れが溜まっていたようだ。

 

 快眠とはとても言えないが、体力を回復させるためだと、みんなの足を引っ張らないようにするためだと、自分に言い聞かせてそれを続けた。

 

 外から聞こえる声に、何度目か分からない短い睡眠をから目を覚ましたメルエーナは、それが父の声だと理解して耳を傾ける。

 

「ジェノ。少しは休め。俺が見張りを代わる」

「ですから、それは不要です。いざというときに自分が動けなければ、対応が遅れます。大丈夫です。徹夜には慣れています」

「だが……」

 

 コーリスが相手でも、ジェノは決して自分の考えを曲げない。

 彼の言うことが正しい事は、メルエーナにだって分かる。

 父も腕力には自信があるが、弓矢を使って攻撃してくる相手と戦った経験などあるはずがない。

 

 しばらく父とジェノの声が聞こえたが、やがて静かになった。

 テントの入り口を僅かに開いて外を見ると、ジェノが一人でまた火の番と見張りをしているのが見えた。

 

 何もできない自分が恨めしくて恥ずかしい。ただ、ジェノにだけ重い負担を掛けてしまうことが申し訳なくて仕方がない。

 

 そうメルエーナが忸怩たる思いに体を震わせていると、

 

「……メル」

 

 背後からイルリアの声が聞こえた。

 

「イルリアさん……。ごめんなさい。起こしてしまいまして」

「ううん。さっきから、眠ったり起きたりの繰り返しよ。だから、気にしないで」

 イルリアはそう言うと、小さく嘆息する。

 

「あの馬鹿のことを気に病む必要はないわよ。何度かこんな風に野宿することになったことがあるんだけれど、私がいくら休むように言っても、あいつが言うことを聞いたことなんてないんだから」

「……ジェノさんは、いつもこうなんですか?」

「ええ。いつもこう。私はその度に、あいつの顔を引っ叩いてやりたくなってしかたないわ」

 

 テントの入口の隙間から入ってくる焚き火の明かりしか光源がないため、イルリアの顔は見えないが、きっと彼女は苦笑しているのだろうとメルエーナは思った。

 

「メル。なかなか寝付けないとは思うけれど、なんとか休みましょう。明日に差し支えるわ」

「……はい。おやすみなさい、イルリアさん」

「ええ。おやすみ、メル」

 

 メルエーナは再び目を閉じて休むことにする。

 イルリアと少し話ができたことがよかったのか、メルエーナは少し深めの睡眠を取ることができた。

 

 

 

 

 

 

 メルエーナが目を覚ましたのは、日が昇り始めた頃だった。

 隣で眠るイルリアの寝息も聞こえる。どうやら彼女も寝付けたようだ。

 

 テントの入口を少し開けて外を確認すると、焚き火がかなり小さくなっていた。そして、その傍らで、ジェノが座ったまま体を僅かに傾かせている。

 

 眠っているのだろうか? 

 そう思い、外に出ようとしたメルエーナだったが、そこで思わぬ事が起きた。

 

 ジェノの顔の横に、何かが現れた。細長い棒状の何かが突然現れて、空中で停止したのだ。

 それが矢であることをメルエーナが理解するには、数秒の時間が必要だった。

 

「メル! 外に出て! 今すぐ!」

 眠っていたはずのイルリアが、突然そう大声で指示をしてくる。

 

「はっ、はい!」

 訳がわからないが、今はイルリアのいうことを聞くことが最良だと判断し、彼女の言うとおりにテントの外に出る。

 

「イルリア! 二人を頼む!」

 ジェノはメルエーナ達がテントの外に出るや否や、大声でそう叫び、朝日の登る方向に走り出していく。

 

「ジェノ! 距離のとり方から、そいつ一人だけが弓使いよ!」

 そんなジェノに、イルリアが大声でそんな事を告げる。

 

 何が起こったのかまるで分からない。

 でも、先程の矢は……。

 つまり、あの冒険者達が襲って……。

 

 思考を巡らせた結果、事態に気づき恐怖に震えて自分の肩を抱くメルエーナ。

 そんな彼女を、イルリアが片手で抱きしめる。

 

「大丈夫。私達の勝ちよ」

「……えっ? イルリアさん……どういう意味……」

 メルエーナがイルリアに言葉の意味を問う前に、父のコーリスもテントから転がるように出てきた。

 

「大丈夫か、メル!」

「はっ、はい!」

 父に無事であることを告げる。

 

 そして、メルエーナは再度イルリアに説明を求めようと思ったのだが、そこで父に向かって何かが飛んできた。

 

 それは、短剣だった。父の胸めがけて放られたであろうそれは、しかし先程の矢と同じように、父に当たる前に空中で停止してしまう。

 

「……なるほど。これが魔法か。本当に訳がわからないほどにすごい力だな」

 コーリスは驚きながらも、空中に止まった短剣を避け、メルエーナ達に駆け寄る。

 

「出てきなさい! この一帯を結界で囲んだわ。この中では一切の飛び道具は役に立たないし、もう逃げることはできない」

 イルリアが木の茂みに向かってそう叫ぶと、そこから小柄の男とにやけた笑みを浮かべた男が武器を片手に出てきた。間違いなく、あのポイとローグと言う名前の冒険者だ。

 

「なんで、なんで俺達がここにいると分かった?」

 怒りで顔を赤くしながら、ポイは尋ねてくる。

 

「言ったでしょう。結界を張ったって。あんた達が馬鹿で本当に助かったわ」

 答えにならない答えを言い、イルリアはポーチから銀色の薄い板を取り出していつでも使用できるように構える。

 

「へっ、よく分からねぇが、飛び道具でなければいいんだろう? それなら何の問題もねぇ」

 ポイは短剣を構えてイルリアに近づいてくる。

 

 それをコーリスが阻もうとしたが、イルリアは、「下がっていて下さい、コーリスさん」と言って、自分が前に出る。

 

「何だよ、イルリア。なるべくならお前のことも傷つけたくなかったのに、少し痛い目をみないと分からないようだな」

 にやけた笑みを消すこともなく、ローグはそう言い、

 

「へへっ。本当に最近のガキは発育が良いよな。革鎧の胸の部分の大きさで、中身の大きさがよく分かるぜ。待っていろよ、その邪魔な男を片付けたら、楽しませて貰うからなぁ」

 

 イルリアの胸を凝視して舌なめずりをする。

 

「ローグさんよ。メルエーナとかいう嬢ちゃんは俺にくれよ。村で見かけたときから目をつけていたんだからな」

「ああ、いいぜ。俺は胸がでかいほうが好みだからな」

 勝手な約束を取り交わし、二人の男は武器を構えてにじり寄ってくる。

 

「下品な顔。そして、おめでたい頭ね。私に勝てると思っているの?」

「へっ。ハッタリは効かねぇよ。この結界とやらの魔法を先に使っていた事には驚いたが、その手に持っているものには、もう魔法は残っていないんだろう?

 あの雷の魔法ってやつは、有効範囲が広すぎてここでは使えない。下手をしたらお前たちも巻き込まれるだろうからな」

 ローグはそう言って声を上げて笑う。

 

 どうして、イルリアさんの魔法がもう残っていないことを知っているのだろう? しかも、雷の魔法のことまで……。

 メルエーナはその事を疑問に思いながらも、コーリスに促されて、彼の背に隠れる。

 

「ジェノが戻ってくる前に片付けるぞ、ポイ」

「ああ。クインがやられちまう前に片付けて、この嬢ちゃん達を攫おうぜ」

 武器を持った男二人が近づいてくる。

 

 ジェノは、もう一人の冒険者を追ってこの場にはいない。

 武器もない。そして、頼みのイルリアの魔法も使えない。

 万事休すだ。

 メルエーナはただ怯えることしかできない。

 

 しかし、イルリアは違った。

 

「そう。最低のクズね、あんた達は。なら、容赦はしない!」

 イルリアは銀色の薄い板を、躊躇なくローグ達に向けてかざした。

 

 次の瞬間、光り輝く鎖が地面から何本も現れて、ローグとポイをまたたく間にがんじがらめに拘束する。

 

「なっ、なんだ、この魔法は?」

「なっ、なんで、魔法が残って……。もう、魔法は雷以外残っていねぇはず……」

 全く予想外だったのだろう。ローグとポイは驚愕の表情を浮かべる。

 

「あっ、コーリスさんとメルはもう少しこいつらから離れて下さい。危険ですので」

「ああ、分かった。下がるぞ、メル」

「えっ? あっ、はい」

 メルエーナは何が何だか分からないが、父に言われるままに後ろに下がる。

 

 どうして、イルリアさんは魔法を使えるのだろう? 

 彼女が嘘をついていた? でも、どうして?

 訳が分からなすぎて混乱してしまう。

 

「ふざけるな! お前はもう魔法が残っていないはずだろう?」

「そうだ、雷の魔法しかないって……。おっ、俺たちを騙したのか!」

 鎖で拘束されながらも文句をいう二人の冒険者に、イルリアはポーチからまた別の銀色の板を取り出す。

 

「あんた達、さっきから雷の魔法、雷の魔法ってうるさいわね。そんなに見たいのなら見せてあげるわよ。それと、依頼人を裏切ったあんた達に文句を言われる筋合いはないわ」

 イルリアは自分も少し距離を取ると、動けない男二人に向かってまた板をかざす。

 

 瞬間、横に走る稲光がローグとポイに襲いかかった。

 そして、苦悶の声を上げて、二人は仲良く気絶する。

 

 おかしい。雷の魔法は範囲が広いと言っていたのに、今の雷のようなものはそれほど大きなものではなかった。

 あの話も嘘だったのだろうか?

 

「ああ。この雷の魔法は、昨日話したのとは別なだけよ。ジェノが戻ってきたら説明してあげるから、少しだけ待っていて」

 メルエーナの心を読んだように、イルリアはそう言って少し意地悪な笑みを浮かべるのだった。



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⑯ 『責任』

 程なくして、ジェノが戻ってきた。

 長身の男――クインを連れて。

 

 クインはロープで腕を体に縛りつけられて、ジェノにそのロープの先を引かれて連行されている。

 恐らく、戦闘があったのだろう。クインの鼻はおかしな方向に曲がり、鼻血が流れたままになっている。

 

 ジェノには怪我らしい怪我もないようなので、メルエーナは安堵した。

 

「そちらも方がついたようだな」

 メルエーナ達のもとに歩み寄ってきたジェノは、雷の魔法の直撃を受けて気絶している二人の冒険者を一瞥すると、力を込めてロープを引き、そこに縄に縛られたクインも座らせる。

 

「イルリア。二人の相手をさせて済まなかったな。助かった」

「万が一にも弓を使う相手を逃せないことくらい、私でも分かるわよ」

 珍しく謝罪の言葉を口にするジェノに、イルリアはそっけなく返す。

 

「そいつらの体に触れたくないから、拘束はあんたがやってよね。そろそろ<鎖>の魔法が解けちゃうから」

「ああ。三人纏めて縛っておく」

 ジェノはすぐに作業を開始し、ローグ、ポイ、ケインの三人の冒険者見習い達は、大木の根本に縛り付けられた。更には口にもロープが巻きつけられる。

 

「ジェノ。こいつらをどうするつもりだ? 村まで連れて帰るのか?」

 コーリスのもっともな問に、ジェノは頷く。

 

「こいつらは、案内人である貴方を殺そうとしました。然るべき裁きを受けさせなければいけません。ですが、まずはお二人の安全確保が最優先です。まずは四人で村に戻りましょう。その後で、こいつらを回収します」

「それくらい、他の冒険者に頼みなさいよ。村についたら報告書を作らないといけないでしょう。少しは休みなさいよ、この馬鹿!」

「それはそれだ。同じ依頼を受けた冒険者見習いの一人として、同業者の不始末は最後まで責任を持たなければいけないだろう」

 イルリアの気遣いにも、全く聞く耳を持たないジェノ。だが、そこでイルリアはにんまりと笑う。

 

「そう。そうよね。責任は大事よね。それじゃあ、メルにもきちんと責任を取って、全部説明してあげなさいよ。

 あんたがメルにだけ今回の作戦を説明しなかったことは、もう全部話してあるから」

 イルリアはそう言うと、今まで無言だったメルエーナを手招きして招き寄せる。

 

「ジェノさん……」

 メルエーナはジェノに真っ直ぐな視線を向ける。

 

 ジェノが自分に作戦というものを教えなかったのには理由があると思う。けれど、せめて説明はしてもらいたい。彼の口からしっかりと。

 そうでなければ、流石に納得がいかない。

 

「時間が惜しい。これから朝食の準備をする。話は朝食を食べながらでいいか?」

「はい」

 メルエーナは頷き、ジェノが話してくれるのを待つことにした。

 

 

 

 

 

 

 朝食はまたスープだったが、昨日のものとは味も見た目もまるで違った。

 乾燥させたトマトから出汁をとったスープは、メルエーナが初めて口にする、酸味と旨味が口いっぱいに広がる素晴らしい味わいだ。

 最悪、朝食は抜きになるものだと思っていたメルエーナは、ジェノ達に感謝する。

 だが……。

 

「……約束だったな」

 スープを一口だけ飲んだジェノは、もの言いたげな視線を投げかけるメルエーナに説明を開始する。

 

「俺がローグ達三人の行動に違和感を覚えたのは、コーリスさんが崖に転落してから意識を取り戻すまでの間に、一度も俺達を探し出そうという素振りが見えなかったからだ」

「素振り、ですか? ですが、あの時はイルリアさんが魔法で辺りを暗くして……」

「俺は手近な木にロープを巻き付けて、崖下に降りたんだ。生憎とそれを回収する手段はなかった。魔法の効果が切れたあとに俺達を追いかけようとする奴らが、それを見落とすはずはない。

 だから、奴らは俺達が崖下方向に行ったことは分かっていたんだ。ここまではいいか?」

 ジェノの言葉に、メルエーナは頷く。

 

「コーリスさんが目を覚ますまで動けなかったあの時、パニックを起こすことのないようにと、お前たちには気にしても仕方がないと言ってはいたが、俺は内心では、奴らが必ず追ってきて、そこで戦闘になると思っていた。……だが、奴らは俺達に攻撃を仕掛けてこなかった。そこが引っかかった」

 ジェノの説明を聞けば、確かにと思うが、メルエーナは意識が戻らない父のことで頭が一杯で、そのようなことを考える余裕はまったくなかった。

 

「ローグ達の立場で考えてみると、俺達の姿を見失うことは自身の破滅に繋がる。村に無事に戻られてしまったら終わりだ。だが、奴らには焦りが見えなかった。まるでいつでも俺達を見つけられるとでも言わんばかりの行動に思えた」

「……なるほどな。そこまで考えていたのか」

 父が感心したように言う。どうやら、父もこの辺りの経緯は聞かされていなかったようだと、メルエーナは理解する。

 

「では、奴らが俺達をいつでも見つけられると思っているのは何故だろうか? そこで俺は、あいつらがイルリアのような魔法が込められた道具を持っているのではと推測した」

「まぁ、それくらいしか考えられないわよね」

 イルリアはそう言い、スープを口に運ぶ。

 

「そこで、次はその魔法の道具とはどのようなものかと考えた。一番厄介なのは対象者が個別にどこにいるのか分かるものだが、そんな高性能なものが今の時代に残っていて、冒険者見習いが手にしているとは考えにくい。

 それに、もしもそんなものがあるのであれば、あいつらはそれこそ機会を待たずに、崖上から俺に向かって矢を射掛けていたはずだ」

「それでは、ジェノさんは、あの人達がどんな道具を持っていると考えたんですか?」

 メルエーナの問に、ジェノは「声を認識する道具だ」と端的に答えた。

 

「声、ですか?」

「ああ。視覚的なものでないとしたら、聴力的なものだろう。だが、漠然と音を探るだけでは、あまりにもその種類が多すぎる。だから、人間の声だけを拾う道具ではと考えた」

 そこでジェノは視線をメルエーナの手元に移した。

 それが、手が止まっているという意味だと分かり、彼女は食事を再開する。

 

「確証はまったくなかった。だが、その可能性が否定できなかった俺は、まずコーリスさんにこの可能性を伝えた」

「えっ? 声を出したら聞こえてしまうのでは……。……あっ! あの時の相談ですね」

 この水場にたどり着いたときに、ジェノが剣を使って地面に何かを描いていた。あの時に文字として父に伝えたに違いない。

 

「ああ。地面に地図を描き、今後の予定を相談するまねをした。そしてその横に文字を書いてこの事を伝えたんだ。それはイルリアにも同様だ」

 そこまで聞き、メルエーナはやはり自分だけが蚊帳の外であったことを再認識する。

 

 もちろん、あの三人にこちらが探索方法に気づいていることを悟られるわけには行かなかったのは理解できる。だがやはり、やるせない気持ちになってしまう。

 

「ジェノさん。その、私が足手ま……」

「待て。お前に話さなかった理由は、すべてを話してから説明する」

 言葉を遮り、ジェノは話を続ける。メルエーナは力なく「はい」と頷いた。

 

「昨日話したことだが、この道を先に進んだ箇所で往路と合流する。俺はそこで奴らに強襲される可能性を潰したいと思った。

 更に欲を言えば、『どこに潜んでいるのか分からない』という相手の最大の武器を潰したかった。だから、罠を仕掛けた」

「罠? それが、イルリアさんの言っていた、ケッカイというものですか?」

「ああっ、ちょっと違うわね。確かにそれも罠の一つだけれど、こいつが言いたいのは、それらを含めた『誤った情報』その物のことよ」

 事情がまだ分かっていないメルエーナに、イルリアが助け舟を出してくれた。

 

「そうだ。だから俺はイルリアに、こちらに残っている魔法が、『威力は強いが、範囲が広くて使いにくい雷の魔法』しかないと、あえて言わせた。そして、俺が玉砕覚悟で奴らを巻き込むつもりだと口にしたんだ」

「あいつらは軽い気持ちで、私とメルを襲おうと考えていただけ。あんたと刺し違えるなんてことはしないと思ったって訳ね」

「ああ。そうだ」

 

 ジェノとイルリアの話を聞き、メルエーナもようやく話の全貌が見えてきた。

 

「そして、馬鹿な奴らは、一番の脅威である魔法がもうおいそれとは使えないと思い込んで襲撃を仕掛けてきたわけよ。

 こっちは野営の準備の最中に、すでに飛び道具無効の結界を用意して待ち構えていたのにね」

「なぁ、そのケッカイというのがいまいち分からないんだが、なんなんだ、それは?」

 早々にスープを食べ終わったコーリスが、イルリアに尋ねる。

 

「説明が少し難しいですけれど、無茶なことができる空間ですね。限られた範囲かつ発動条件が難しいのですが、その分強力な魔法なんです」

「まぁ、よく分からんが、実際に空中で停止した短剣を見たからな。すごい力だってことだけは分かった」

 コーリスはそう言って苦笑する。

 

 同じように不可思議な現象を目の当たりにしたメルエーナは、百聞は一見に如かず、という言葉は正しいと思った。

 

「ここまでの説明で、分からないことはあるか?」

「いいえ。分かりました……」

 メルエーナは力なくジェノに微笑む。

 

 やはり、足手まといにしかならないから、ジェノが自分に何も話さなかったことが分かってしまった。

 本当に、自分は駄目だなと思ってしまう。

 

「メルエーナ。ここまで説明すれば分かったかもしれないが、俺がお前にこの事実を伝えなかった理由は一つ。お前に協力してもらうためだ」

「……えっ?」

 思いもしないジェノの言葉に、顔を俯けていたメルエーナは、慌ててジェノの方を向く。

 

「俺達は、『誤った情報』を奴らに聞かせ、それを信じ込ませる必要があった。だが、慣れていない人間に、いきなり演技をしろと言ってもできるものではない。

 下手をすると、こちらの意図を読まれてしまう可能性もある。だから、俺はあえてお前にこれらのことは一切伝えずに、素のままでいてもらった」

 ジェノはそう言い、メルエーナに頭を下げた。

 

「すまなかった。俺はお前を利用した。だが、言い訳にしかならないが、それがなければ、奴らは恐らく俺達の誘いには乗ってこなかったはずだ。

 あの時の俺の無謀な提案に、コーリスさんが真っ先に反対してくれたが、申し訳ないが演技っぽさが出てしまっていた。だが、次に続いたお前の言葉は演技でもなんでもなかった。それが幸いしたのだと俺は思っている」

 頭を下げたまま、ジェノはメルエーナに詫びる。

 

「そっ、その、頭を上げて下さい。ジェノさんが私に謝ることなんてないじゃあありませんか……」

「いや。これは謝罪しなければならないことだ。お前が俺達に協力したいと思ってくれている気持ちを踏みにじった。どうか、詫びさせて欲しい」

 

 いっこうに頭をあげようとはしないジェノに、メルエーナは困ってしまってイルリアに目で助けを求める。

 だが、イルリアは、「少しくらいは反省させときなさい」と言って食事を再開してしまう。

 

 父の方をみると、自分の演技にダメ出しをされたのがショックだったようで、なにやら落ち込んでぶつぶつ言っている。

 

「ああっ、もう。分かりましたから、頭を上げて下さい!」

 メルエーナはジェノに逆に懇願する事になってしまう。

 

 だが、その反面、メルエーナは無意識であったとしても、ジェノ達の役に立てていたことが少し嬉しく、救われた思いだった。



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⑰ 『愚痴』

 幸い天気にも恵まれ、メルエーナ達は順調にリムロ村への帰路を順調に進む。

 早朝に出発したこともあり、このペースならば昼前には村にたどり着ける予定だ。

 

「コーリスさん、そろそろ休憩にしませんか?」

 先頭を歩くジェノが、間にいるメルエーナとイルリアの頭越しに、殿のコーリスに話しかける。

 

「ああ、そうだな。ここまで来たら、あともう少しだ。無理に強行軍をする必要はないだろう」

 コーリスがジェノの提案を受け入れ、僅かに開けた場所で休憩をする。

 

 少し疲れが出てきていたメルエーナは、その提案に救われる。

 イルリアが敷物を敷き、座るように言ってくれたので、メルエーナはそれに甘えることにした。更にそこに、後からやって来たコーリスが座る。

 

「ジェノ。お前も座って休んだらどうだ?」

「いいえ、結構です」

 ジェノはコーリスの誘いを断る。そして、三人から少し離れた所で木に背を預け、立ったまま休息する。

 

「すみません。本当に融通の効かない馬鹿でして」

「いや、もう慣れた。それに、あいつは、俺達に何かがあった時に即座に動けるようにと考えているんだろう?」

 後半部分は声を押さえて、コーリスはイルリアに尋ねる。

 

「はい。きっとそうです。いくらなんでも心配し過ぎだと思うんですが……」

 ため息交じりに言うイルリアに、しかしコーリスは「まるで警戒心が無いよりは、ずっといいさ」と笑う。

 

「まぁ、しかし、ジェノの奴にだけに良い格好をさせておけるほど、俺も老けてはいないつもりだ。少しあいつと村までの行程について打ち合わせをしてくる。お前達はゆっくり休んでいてくれ」

 さらにコーリスはそう言って、腰を上げてジェノのもとに歩み寄り、地図を広げて何かを打ち合わせし始める。

 

「ふふっ。あんなにはしゃいでいる父を見るのは、久しぶりです」

「そうなの? あいつの変なところが感染らなければいいけれど……」

 イルリアはそう言って嘆息する。

 

「仲が良いんですね。イルリアさんとジェノさんって」

 メルエーナはただ単に思ったことを口にしただけなのだが、イルリアの顔がこの上なく嫌そうな顔に変わる。

 

「はぁ~。あのねぇ、メル。私はあいつと同じ冒険者見習いチームの仲間だけれど、全然仲はよくないわよ」

「えっ? ですが、とても息が合っていますし……」

 そんなメルエーナの言葉に、イルリアは再びため息をつく。

 

「あいつはね、最初は分かりにくいけれど、すごく分かりやすい性格をしているのよ。だから、あいつが考えそうなことは、少し付き合いがあればすぐに分かるようになるのよ」

「そうなんですか?」

 ジェノはあまりにも感情を表に出さないので、メルエーナには彼が何を考えているのかまるで分からない。

 

「ええ、そうよ。だから、あいつと仲がいいなんて気持ち悪いことを言わないで。私だって、好きであいつと冒険者見習いをやっているわけじゃあないんだから」

 イルリアの言葉を、メルエーナは怪訝に思う。

 

「イルリアさんは、自分の意志でジェノさんの仲間になった訳ではないんですか?」

「…………」

 メルエーナの問に、イルリアは何も答えない。

 そこでメルエーナは、彼女のプライベートに土足で踏み込んでしまっていたことに気づく。

 

「すみません、イルリアさん。不躾に根掘り葉掘り尋ねてしまいました。本当にすみません」

 メルエーナは心から謝罪する。

 

「いいわよ、謝らなくて。私が余計なことを口に出してしまっただけだから、気にしていないわ」

 イルリアは笑顔で明るくそう言うと、水筒に口をつけて水を飲む。だが、彼女は水を飲み終わると、少し悲しげな表情を浮かべた。

 

「……ごめん、メル。私も疲れているから、我慢ができなくなっているみたい。悪いけれど、少しだけ私の愚痴に付き合ってくれない?」

「えっ? あっ、はい。私で良ければ……」

 思わぬ申し出だったが、メルエーナはイルリアの頼みを了承する。

 

「私はね、ジェノを見ていると腹が立って仕方がないの。あいつは、他人のために平気で自分を犠牲にしようとするから。今回だって、あの馬鹿は……」

 イルリアはそう言うと、コーリスと話をしているジェノをキッと睨む。

 

「確かに、ジェノさんは私達のために色々と無茶をされていましたよね。それに、いくらあの冒険者見習いの男の人達を欺くためとは言え、自分の命を簡単に捨てるようなことを口にするのは、良いことではないと私も思います……」

 理由を知ってホッとしたものの、あの時のジェノの言葉はあまりにも真実めいていた。本当に自分の命を平然と投げ捨てようとしているように思えてしまった。

 

「……あいつ、本気だったのよ」

「えっ?」

 イルリアの怒りのこもった表情に、メルエーナは彼女が嘘を言っていないことが分かってしまった。

 

「魔法の中には、相手の嘘を見抜くというものもあるの。そして、ジェノはあのローグとかいう奴らが持っているであろう、『声を探知する道具』にその魔法もかかっていることを危惧していたのよ」

「……ですが、それだと……」

 

 おかしい。矛盾している。

 ジェノは、あの三人に『誤った情報』を与えなければいけなかった。けれど、嘘を付けないのでは、そんな事ができるはずが……。

 

「思い出してみて。私は、『魔法があと一つしか残っていない』とは一言も言っていない。私は、このポーチに触って、『この中には、あと一枚分の魔法しか残っていない』と口にした。巨大な雷の魔法を封じ込めた板以外を、全部ポーチから抜き取ってからそう言ったの」

 

 説明を受けて、ようやくメルエーナも理解できた。

 確かにその方法であれば、嘘を見抜く魔法がかかっていても問題ない。口にしているのは嘘ではないのだから。

 

「……で、ですが、それって……」

 昨夜のジェノの言葉を思い出し、メルエーナは自分の体が震えて来るのを抑えられなかった。

 

 ジェノは嘘を見抜く魔法を警戒していた。だから、彼は嘘を口にしていない。

 それは、つまり……。

 

「あの三人がおびき出されてこないで、あの場所で待ち伏せをしていたら、例の作戦を本気で実行するつもりだった。私に、自分を殺させるつもりだったのよ。最低よ、あいつは……」

 イルリアは拳を震わせている。目の端には怒りのあまりに光るものがにじみ出ていた。

 

「……どうして、そんな……」

「私にもわからないわ。でも、あいつは自分の命を軽く考えすぎなのよ。だから、私はあいつが大嫌いなの」

 イルリアはそう言うと、拳を開き、掌を見て苦笑する。

 

「でも、私はあいつに大きな借りを作ってしまった……。だから、それを返済するまでは、利子としてあいつに協力すると決めているの。私があいつと一緒に行動している理由は、それだけなのよ」

 そう言ってイルリアは口元だけで微笑んだ。

 

 気にならなかったと言えば嘘になる。だが、イルリアの言う『借り』がどのようなものかを尋ねてはいけないことは、メルエーナも分かっていた。

 

「……誰か、心から大切と想える人のために命を懸けるのならばまだ分かる。でも、あいつはそうじゃあない。誰に対してもそうなのよ。死にたがりなわけではないけれど、必要と思ったら命を捨てる覚悟をすぐにしてしまうの。そんなの……おかしいわよね?」

 無理におどけたように言うイルリアに、メルエーナは掛ける言葉が見つからない。

 

「私は、あいつに誰か大切な人が、他人よりも大切な誰かが出来て欲しいと思っているの。そうすれば、少しは……。でも、それはきっと、わ……」

 イルリアは何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。

 そして、メルエーナの頭にポンと手を置く。

 

「ああっ、ごめん、ごめん。長々と愚痴を言ってしまったわね。なんか、メルって話やすいものだから、つい……」

「いいえ。私は、イルリアさんが話してくれて嬉しかったです。ありがとうございます」

 

 メルエーナがそう礼を言うと、

 

「もう、それは私のセリフよ。ありがとう。貴女がいてくれてよかったわ」

 

 イルリアはようやく、心からの笑みを見せてくれたのだった。



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⑱ 『謝罪』

 村の裏門が僅かに視界に入って来る頃だった。

 メルエーナ達が、村人と冒険者見習い数名の一隊と合流することが出来たのは。

 

 二重遭難と判断した村長が、冒険者見習い達に頭を下げて、捜索隊を五部隊も組織したらしい。

 そして、念の為にと、この旧道の方にも捜索隊を出してくれたことが幸いした。

 

 もともと冒険者見習い達は、当初に村長が提案したハンクという名の村人の捜索依頼を喜んで受ける心持ちだった。

 だがそこに、年長者だということを傘に来て、ローグ達に仕事を引き受けないように脅されていたから受けられなかっただけ。

 だから、邪魔者がいない状況での依頼であれば、彼らは喜んで依頼を受けてくれたらしい。

 

 ジェノとイルリアが顔なじみの見習い仲間に事情を説明し、ローグ達が、事もあろうに依頼主であるはずのリムロ村の住人を殺害及び暴行を行おうとしたことが公になった。

 

 話し合いの末、ローグ達の回収は、その冒険者見習い達が引き受けてくれた。

 ジェノはメルエーナ達を村に送り届けた後に、自分は一人戻ってその手伝いをしようとしていたようだが、イルリアだけでなく、メルエーナとコーリスにも説得されて、彼も村で休むことを了承した。

 

 コーリスの、「お前がまた無理をするかと思うと、俺達は安心して休めない。俺達のために、お前も休んでくれ」という言葉が決め手だったようだ。

 

 そして、メルエーナ達は、予定どおり昼前に村に戻ってくることができたのである。

 

「メル!」

 村の裏門を潜るとすぐに、メルエーナの母であるリアラが駆け寄ってきて、愛娘を抱きしめた。

 

 先程出会った冒険者見習いの一人が、ジェノ達を発見したことを先に村に伝えに戻っていたので、こちらから娘たちが戻ってくるのを、リアラは知っていたのだろう。

 

「お母さん……」

 ほんの一日だけ離れていただけなのに、とても長い時間離れていたかのような心持ちになってしまったメルエーナは、母の胸で涙を流す。

 無事に帰ってくることが出来たのだと、ようやくそこで実感することができた。

 

「リアラ。心配をさせてすまなかった」

「あなた……。無事で良かったわ」

 リアラはメルエーナを抱きしめたまま、コーリスに笑みを向ける。

 

「ジェノ、イルリア。本当にありがとう。お前達が俺と娘を救ってくれた。心から感謝する」

 頭を下げる父の姿に、メルエーナも母の胸から離れて、それに倣う。

 

「ありがとうございました。お二人がしてくれた事を、私は絶対に忘れません」

 メルエーナも心からの感謝の言葉を述べる。

 

「いえいえ。こちらこそ、同業者がご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」

 イルリアはそう言って顔を上げるように言ってくれた。

 だが、ジェノは何も言わない。

 

 その事を不思議に思い、顔を上げたメルエーナは、そこで思わぬ光景を目にした。

 

「申し訳ありませんでした。依頼を完遂することが出来ませんでした」

 ジェノは何故か母に頭を下げて、そう謝罪をしたのだ。

 

「どうしてそんな事を言うの? メルも、うちの人も無事に帰ってくることができたわ。貴方達は私の依頼をきちんと果たしてくれたじゃあないの」

 母はそう言って、怪訝な顔をする。

 

「お母さん。どういうことですか?」

「リアラ。依頼って……いったい何のことだ?」

 メルエーナとコーリスは、揃ってリアラに尋ねる。

 

「ああ、ごめんなさい。二人には話していなかったけれど、昨日の早朝に、ジェノ君とイルリアちゃんに私が依頼をしたの。貴方達二人を守って下さいって」

「はっ、初耳だぞ! なんでそんな事を黙っていたんだ!」

「だから、話していなかったって言っているじゃないの。それに、いざという時の保険だったの、ジェノ君達は」

 全く悪びれた様子もなく、リアラはそう言って微笑む。

 

「おっ、お母さん。どうしてジェノさん達にそんな依頼を? 昨日初めて会ったのに……」

 メルエーナは頭が混乱してしまう。

 

「ふふっ、それはね。直接会うのは初めてだけれど、私の後輩が手紙で何度も教えてくれていたから、私はジェノ君の事を知っていたのよ。

 って、そんなことよりも、どういう事か説明して、ジェノ君」

 

 そう話を中断されて、メルエーナは何とも言えないもやもやした気持ちを抱いてしまう。だが、確かに今はジェノの説明を聞くことが先決だろう。

 

 母に依頼されていた事にはびっくりしたが、ジェノとイルリアは自分達父娘をしっかりと守ってくれて、村まで無事に送り届けてくれた。それなのに、依頼を完遂できなかったというのは訳がわからない。

 

「リアラさん。貴女から受けた依頼は、『夫と娘を、今日一日守って欲しい』というものでした。ですが、自分の不注意で旦那さんに重症を負わせることになり、そして、帰還がこのように遅くなってしまいました。これは、明らかな失敗です」

 ジェノは頭を下げたまま、そう報告をする。

 

「待て、ジェノ! お前達はずっと俺達を守ってくれただろうが!」

「そうです! それに、今日もしっかり私達を守ってくれました。依頼以上の事をして下さったのに、そんなことは言わないで下さい」

 父娘でジェノに抗議するが、彼は顔を上げようとはしない。

 

「ジェノ君。夫と娘は、ああ言っているわよ?」

「いいえ。それらはただの失敗の埋め合わせです。そんな事をしたからと言って、任務を失敗したという事実は変わりません。本当に申し訳ありませんでした」

 

「そっ、その、申し訳ありませんでした」

 ジェノが頭を上げないため、イルリアも彼と同じように頭を下げて謝る。

 

「おい、ジェノ! いくらなんでも、お前は頑固すぎ……」

 普段は人一倍頑固なコーリスが文句を言おうとしたが、リアラが手を彼の前にやってそれを制する。

 

「……ジェノ君、イルリアちゃん。貴方達はあくまでも依頼を完遂できなかったというのね。それなら、私の提示した報酬は受け取らないつもりなの?」

「はい。受け取れません」

 間髪をいれずに、ジェノは返事を返す。

 

「そう。分かったわ。でも、頭を下げて謝罪するだけでは、私は不満だわ。だから、追加で一つ依頼を受けて。……当然、受けてくれるわよね?」

 リアラは声を低くして、ジェノとイルリアに酷いことを言う。

 

「お母さん! ジェノさんもイルリアさんに、そんな言い方をしないで下さい!」

「黙って、メル。これは、依頼主である私と、それを請け負ったジェノ君とイルリアちゃんの問題よ。貴女に口を挟む権利はないわ!」

 

 他に村人が、更にいえば声をかけるタイミングを逸して、どう声をかけたものかと慌てている村長さんまでいるのに、リアラは大声で言い放つ。

 

「……依頼の内容を教えて下さい」

 ジェノは頭を下げたまま、リアラに説明を求める。

 

「そう。殊勝な心がけね。それでは、依頼内容を説明するわ」

 リアラは不機嫌そうに腕組みをしてそう言うと、

 

「とりあえず、お風呂に入って眠りなさい。その上で、私達の家に夕食を食べに来ること。ご馳走を作るから、しっかりお腹を空かせてくのよ。……いいわね?」

 

 そう明るい声で依頼を口にし、破顔した。



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⑲ 『口惜しさ』

「ありがとうございます。いいお湯でした」

 イルリアは、満面の笑みを浮かべてお風呂場から出てきた。

 革鎧や機能性を重視した無骨な旅の格好から、年頃の女の子らしい衣装に着替えた彼女は、同性のメルエーナから見ても驚くほど綺麗で魅力的だ。

 

 美しい赤髪に、それ勝るとも劣らない美しい顔立ち。

 瞳には力強い光が宿り、とても頼りがいがありそうな強さと美しさが両立されている。

 それに、何より……。

 

「ごめんね、メル。先に入らせてもらって」

「いいえ。気にしないで下さい。お客様優先です」

 メルエーナはにっこりと笑顔を返したが、隣で洗濯をしていた母のリアラは、「ほほう、これは……」と興味深そうに、イルリアの豊かな胸に不躾な視線を向ける。

 

「う~ん、メルにもこれくらい胸があればねぇ。色気で完全に負けてしまっているのが悩みどころね」

「訳のわからないことを言わないで下さい! イルリアさんに失礼です!」

 メルエーナは怒って、母に文句を言う。

 

「あらっ? 男の子はみんな、おっぱいが大好きなのよ? 由々しき問題じゃない」

「ですから、そういう事を平然と言わないで下さい!」

 

 あまりにも開けっぴろげな性格の母に、年頃のメルエーナは、怒りと羞恥で顔を真っ赤にさせて抗議する。

 

 どうしてメルエーナが自分の家で、彼女の悩みの種でもある体型をイルリアと比較されているのかというと、全てこの困った母が原因だった。

 

 自分と父に内緒で、ジェノとイルリアに護衛を依頼していたかと思えば、今度は突然彼らを夕食に招待すると言い出したリアラ。

 だが、彼女は更に、イルリア一人を先に家に招待すると言い出したのだ。

 

『こんなに可愛い上にスタイルの良い女の子が、一人で公衆浴場に行ったり、無防備に宿で眠ったりするなんて危険だわ! 私の家に来なさい! 大丈夫、ベッドに空きがあるから。ああ、もちろん洗濯物も全部持ってくるのよ』

 イルリアは驚き、遠慮したが、結局は強引な母に押し切られて、家にやってくることになってしまった。

 

 いや、たくさんお世話になったイルリアを家に招いて、お風呂と安全な寝所を提供することには、メルエーナも賛成こそすれ反対するつもりはなかったのだが、あまりにも母が強硬に家に来るように言ってしまったことが申し訳ないのだ。

 

 申し訳ないと言えば、父には更に悪いことをしたと思う。

 

『というわけで、あ・な・た。ジェノ君と二人で公衆浴場に行って、体をしっかり洗ってきて。そうね……二時間くらい掛けてゆっくりしてきてね。それまで、我が家は男子禁制よ』

 

 イルリアを家に招くことを決めると、母は父に、お願いという体裁をとりながらも拒否を許さない笑顔でそう告げた。

 結果、父は物悲しそうに公衆浴場に向かって行った。

 

 一瞬だが、あの普段感情をあまり見せないジェノが、哀れみの表情を浮かべていた気がしたのは、見間違いではなかったのかもしれない。

 

「メル。その、なかなか凄いお母さんね……」

「すみません、イルリアさん……」

 苦笑するイルリアに、メルエーナは心底申し訳無さそうに謝る。

 

「でも、羨ましいわ。いいお母さんね」

「えっ?」

 少し寂しげな表情をしたように見えたが、イルリアはすぐに微笑んだ。

 

「メル、貴女もお風呂に入りなさい。分かっているの? 今の貴女は、年頃の女の子が決して男の子に見せてはいけない顔をしているのよ。

 イルリアさんには先に昼食を食べてもらって休んでもらうから、貴女も体をしっかり綺麗にして、食事と睡眠を取らないと!」

「はっ、はい」

 昨日は水場でタオルを使って少し体を拭いたものの、入浴はできなかったので、メルエーナもお風呂に早く入りたい。

 

「イルリアちゃん。服の洗濯は、貴女が眠っている間に全て終わらせておくから安心して。大丈夫、裏庭に干しておけば、誰の目にも止まらないから」

「……何から何まですみません。ありがとうございます」

 イルリアは頭を下げて、リアラに感謝する。

 

 やはり、女性が旅をするというのは、いろいろと大変なようだ。

 けれど、それでも……。

 

「いいのよ。私の大切な家族を守ってくれたお礼なんだから。ほらほら、遠慮しないで。昼食の用意も、ベッドの用意もばっちりできているから、食べたらしっかり休んでね」

「はい。お言葉に甘えさせてもらいます」

 イルリアが母に促されるまま食卓についたので、メルエーナは浴室に向かうことにした。

 

 

 

 

 

 

 髪と体をしっかりと清めた。それから湯船に体を浸すと、思わずメルエーナの口から安堵のため息が漏れた。

 母に見られてしまったら、また色気がないと怒られてしまいそうだが、それを抑えることはできなかった。

 

 本当に、大変だった。

 こうしてみんな無事に帰ってこられたことを、後でしっかり神様に感謝しておかないといけない。

 もちろん、改めてジェノさんとイルリアさんにも。

 

「……怖かった……」

 あの三人の冒険者見習いが、自分に向けていた視線を思い出すだけで、メルエーナは体が震えてしまう。

 

 今まで、過保護な父の事を少し煩わしく思っている部分もあった。

 だが、あの下卑た笑みと欲望を自身に向けられて、メルエーナは自分がどれほど父に守られていたのかを理解した。

 

 冒険者達がこの村にやってきた頃から、外出を禁止されていたことをずっと不満に思っていたが、今なら父と、そして母の気遣いが分かる。

 自分は、何も分かっていない子供だったのだ。どれほど愛されて守られているかさえ理解できずにいたのだから。

 

「それに、私は何もできない……」

 いざという時に自分を守ることもできない。いや、それどころか、何をすれば良いのかさえ分からなかった。

 

 そして、自分はそれなりに料理が得意なつもりだったが、野営の際に料理を作る事もできなかった。簡易的なかまどの作り方など全く知らなかったのだ。

 さらに、ジェノの料理を口にして、その素晴らしさに驚き、喜ぶのと同じくらいに、別の感情がメルエーナに芽生えていた。

 

「……悔しいです。ジェノさんは、私と同じ年で、男の人なのに……」

 自分は料理人になると決めている。だが、どれほど自分が未熟で物を知らないのかを、嫌というほど見せつけられてしまった。

 それは、母の真似事を少しできるだけで自惚れていた自分の殻をたしかに壊してくれたが、口惜しい気持が抑えられない。

 

「私はもっと料理を、いいえ、それだけではなく、いろいろなことを学んで身につけたい」

 ずっとメルエーナの心のうちで燻っていた気持ちが、今回のことで燃え上がった。

 

 できることならば、村を出て、もっと勉強をしたい。

 でも、自分はあまりにも世間知らずすぎる。

 

 それに、村を出てどこで暮らす事ができるのだろう?

 お金の蓄えなど殆どない。

 いや、そもそもこの村を出ることなど、父も母も許してはくれないだろう。

 

 ……現実は残酷だった。

 結局、自分はこのままずっとこの村で暮らしていくしかできないのだ。

 

「メル……」

 不意に、母の声が聞こえた。

 

 そちらに視線を移すと、お風呂場の入り口のドアを一枚隔てたところに母が立っているようだった。

 

「はい」

 メルエーナが返事をすると、リアラは、

 

「良かった。お風呂場で眠っていないか心配だったのよ。イルリアさんももう眠ったから、貴女もそろそろ上がって、お昼を食べて休みなさい」

 

 そう優しい声で言ってくれた。

 

「……あの、お母さん。少し相談したいことがあるんです……」

 母の優しい声につられて、メルエーナは思わずそう口にしてしまった。

 しまったと思ったが、もう遅かった。

 

「そう。やっぱりね。そんなことだろうと思っていたわ」

 てっきり、いいから早く休むようにと言われると思っていたが、リアラはそう言ってくれた。

 

「お父さんには相談できないものね……」

「お母さん……」

 娘の気持ちを察してくれた母に、メルエーナは心から感謝する。

 

「大丈夫よ。貴女は私の自慢の娘なんだから。だから、安心して。私は何があってもメルの味方よ」

「……ありがとうございます。……お母さん……」

 優しい母の言葉に、メルエーナは涙さえこみ上げてくる。

 

「だから、大丈夫! 胸くらいすぐに大きくなるわ! なんせ私の血が流れているんですもの!」

「…………えっ?」

 母の言葉に、メルエーナの涙は引っ込んでしまう。

 

「それに、仮に大きくならなくても大丈夫よ。私がしっかり指導してきたから、形はものすごく良いんだから。清楚な貴女が見せる、その美しい胸を見て、男の子が黙っていられるはずがないわ!」

 

「そんな事は聞いていません!」

 メルエーナの怒声が、浴室に響き渡る。

 

 母に相談しようとした自分の愚かさを呪い、メルエーナはお風呂から上がることにするのだった。



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⑳ 『ささやかな宴』

 疲れて帰ってきたのに、家に入れず、二時間以上公衆浴場で時間を潰していたはずの父だが、機嫌はとても良い。

 まぁ、抜け目のない母のことだ。きっと上手くフォローを入れたのだろうとメルエーナは推測する。

 

 コーリスとリアラも、あの二人が来るのを楽しみに待っている。

 もっとも、イルリアは少し前までこの家で眠っていたのだから、戻ってくる、の方が正しいのかもしれない。

 

 睡眠をしっかり取ったイルリアは、ジェノを迎えに行っている。

 安全の為、父が同行を申し出たのだが、やんわりと断られた。『まだ何種類か魔法が残っているので心配ありません』と言われては、彼女の魔法に何度も助けられた父は、それ以上何も言えなかった。

 

「……しかし、まったく人騒がせな奴だな、ハンクの奴は。村長に、もうあいつを茸取りに行かせるなと言っておかなければならんな」

「そうね。こう何度も立て続けでは、流石にねぇ……」

 

 父と母の言葉に、メルエーナは苦笑せざるをえなかった。

 

 何でも、メルエーナ達がハンクの捜索に出発してから半日も経たないうちに、彼は自分の足で無事に村に戻ってきたのらしい。

 だが、その事を伝えたくても、捜索隊――つまり自分達は、すでに茸の群生地にたどり着いた頃だったので、村長さんたちもただ帰ってくるのを待つしかなかったようだ。

 

 父と母は話に花を咲かせるが、メルエーナはそわそわしてしまい、会話に参加しようとは思えなかった。

 

「ふふっ。大丈夫よ、メル。今の貴女は、すごく可愛いわ」

 突然母にそう言われ、メルエーナは頬を朱に染める。

 

 ただ、ジェノとイルリアをゲストに迎えて、みんなで食事を食べるだけなのに、こんなに落ち着かないのは何故だろう?

 

 どうして、早く来てくれないものかと、待ちきれない気持ちになるのだろう?

 

 それに、出かけるわけでもないのに、何故、一番のお気に入りの服を着ているのだろう?

 

 分からない。でも、そうしたい。

 あの人には、できれば一番綺麗な自分を見て貰いたい。

 

「……ぬぅ」

「あなた。そんな怖い顔をしては駄目よ」

 すごく不機嫌そうな顔をする父と、それを嗜める母のやり取りにも気づかずに、メルエーナはただその時を待っていた。

 

 やがて、家のドアをノックする音が聞こえると、メルエーナは椅子から立ち上がって玄関に向かう。

 

 声を確認し、鍵を開けて「どうぞ」と口にすると、イルリアがドアを開けて笑顔を見せてくれた。

「遅くなってすみません。そして、改めまして、お招きいただきありがとうございます」

 イルリアは笑顔で言い、頭を下げる。

 

 そして……。

 

「すみません、遅くなりました」

 黒髪の端正な顔つきの少年――ジェノが、慇懃に頭を下げて挨拶をする。

 

 彼は当然森に入るときとはまるで違う格好をしていた。

 とは言っても、白いジャケットを黒いシャツの上にはおっているだけで、下は紺のズボンというとてもシンプルな服装だ。

 

 だが、初めて見るジェノの私服姿に、メルエーナは思わず見とれてしまった。

 

「う~ん。モデルが良いと、何でも似合うわねぇ」

 後から出迎えに来たリアラも、そんな感想を口にする。

 その言葉にはメルエーナも全面的に同意だったのだが、母はにんまりと笑みを浮かべると、

 

「ジェノ君。うちの娘を見て、なにか一言ないかしら?」

 

 突然そんな事をジェノに尋ねる。

 

「おっ、お母さん……」

 メルエーナは大胆な母の行動に驚く。

 しかし、母の言葉に、ジェノが真っ直ぐな瞳を向けてくるのが分かり、頬が熱くなってくるのを止められなかった。

 

「ゆっくり休めたようだな。だいぶ顔色が良くなった」

 しかし、ジェノは相変わらずの仏頂面で、ただそれだけを口にする。

 

「あっ、その、はい……。ありがとうございます」

 メルエーナはがっかりしながらも、お礼を言う。

 

「あんたね。もう少し気の利いたこと言えないわけ?」

 そんなメルエーナを不憫に思ったのだろう。イルリアがジェノを嗜めた。

 

「どういうことだ?」

「……本気で言っているの? いや、本気ね、あんたの場合」

 イルリアは呆れて嘆息する。

 

「メル、これは強敵ね。でもね、貴女の顔色の変化に気づいているってことは、全く貴女に興味がないと言うわけではないはずよ」

 母が、そっと耳打ちをしてフォローしてくれたので、なんとかメルエーナは笑顔を浮かべる。

 

「まぁ、立ち話も何だ。二人共、上がるといい」

 そんなメルエーナとは対象的に、何故か父は上機嫌でジェノとイルリアを歓迎する。

 

 そして、『依頼』という名の宴が始まった。

 

 

 

 

 

 

 母の料理は大好評だった。

 あのジェノでさえ、「素晴らしく美味しいです」と言って驚いていたほどだ。

 

「そうだろう、そうだろう。リアラの料理は最高だからな」

 普段寡黙なジェノに愛妻の料理を褒められて、コーリスは上機嫌でワインを飲みながら食事を楽しんでいた。

 

 だが、メルエーナはそんな母を誇るのと同時に、やはり自分は何も分かっていなかったことを再認識する。

 

 母の料理は、料理上手のジェノが驚愕するほどのものなのだ。

 だが、普段からそれを食べ慣れている自分には、その凄さが理解できていなかった。

 自分の調理技術がどれほど未熟であり、真似事ができるようになったと錯覚していた母の料理が、どれほど高い次元のそれに裏打ちされたものなのかを痛感する。

 

 ただ、せっかく家に来てくれたジェノとイルリアを心配させないように、その気持ちに蓋をし、メルエーナは積極的に二人に話しかけた。

 

 イルリアは流暢に楽しく、ジェノは端的ながらも話してくれる。

 特に、二人が話してくれた何気ない日常の話がとても興味深かった。

 

 しかしその話の中で、メルエーナは思わぬ事を知ることになる。

 

「何? 明日には村を出るのか?」

 驚きの声を上げるコーリス。

 声にこそ出さないが、メルエーナも驚いた。

 

 ようやく仕事が終わったばかりだと言うのに、そんなに急いで帰らなくてもいいのにと寂しく思ってしまう。

 

「ええ。冒険者見習いが雇い主を殺害しようとした事実を冒険者ギルドに報告する必要があります。ですが、殆どの正規の冒険者が、件の貴族の積み荷探しに出払っているので、自分達が代わってナイムの街まで罪人を送り届けることになりました」

 ジェノは淡々と事実を語る。

 

「でも、今日ようやく仕事を終えて帰ってきたばかりなのに、それは酷すぎない?」

「そうです。少しは休まないと」

 母のリアラと一緒に、メルエーナは抗議の声を上げる。

 それが無意味なことだと分かっていても。言わずにはいられなかった。

 

「ありがとう、メル。でも、私とこいつがやるしか無いのよ」

「ああ。ローグ達は、他の冒険者見習い達に恨みを買っている。そんな恨みを持つ人間にこの仕事を任せるわけにはいかない」

 

 ジェノはそれ以上口にしなかったが、父は全て分かったようで、頷いた。

 

「なるほど。他の見習い達が怒りに任せて、あの三人を殺してしまうことを危惧しているんだな。もしもそんな事態になってしまったら、今回の一件が有耶無耶になってしまう可能性がある、と」

 

 父の言葉に、イルリアが頷く。

 

「はい。そのようなことになれば、皆さんに対する賠償もなくなってしまうかもしれません。

 それに、最悪の場合、あの三人の仲間が他の見習いの中に紛れている可能性もあります。その仲間の手引で彼らが脱走し、逆恨みからこの村に害を及ぼさないとも限りませんので」

「……そうか。すまんな。お前たちにばかり貧乏くじを引かせてしまっているな」

 父は申し訳無さそうにジェノ達に頭を下げる。

 

「これが俺たちの仕事です。ですから、どうか顔を上げて下さい」

 ジェノはそう言いって顔を上げさせると、「明日も早い。そろそろ……」とイルリアに声をかける。

 

「そうね。すっかり遅くなってしまったわね」

 イルリアもそれに同意し、帰り支度を始める。

 

「ねぇ、あなた……」

「分かっている」

 父は母にそう答えると、奥の寝室に行き、革袋を手にして戻ってきた。

 

「ジェノ。イルリア。これは、今回のことで迷惑をかけたお前達にと、村長が用意した金だ。それに、リアラが払うはずだった報酬も加えてある。どうか、これを受け取ってくれないか? 頼む。このままでは俺達の気持ちが収まらん」

 父はそう懇願したが、二人は首を縦には振らない。

 

「お気遣いはありがたいですが、私達にも今回の一件の迷惑料ということで、それなりの金額が支払われますので、ご心配には及びませんよ」

 イルリアは苦笑し、同意を求めるようにジェノを見る。

 

「イルリアの言うとおりです。それに、金銭を頂いてしまっては、今回の責任の所在が分からなくなってしまいます。今回のことは完全に冒険者ギルドの落ち度です。それを明確にしておかねばなりません」

 

 ジェノもイルリアに同意し、

 

「依頼を完遂できなかったにもかかわらず、このような歓待をして頂きました。俺達にはそれで十分過ぎます」

 

 そう言って頭を下げる。

 

 父と母は、それでも二人にお金を渡そうとしたが、二人はどうしても受け取ろうとはしない。

 

 そして、やがて二人は踵を返して帰ろうとしてしまう。

 

「ジェノさん……。イルリアさん……」

 二人が自分達のためにしてくれたことを思い出し、メルエーナは堪らず叫ぶ。

 

「待って下さい!」

 メルエーナの呼びかけに、ジェノ達は振り返ってくれた。

 

「その、せめて、これだけでも受け取って頂けませんか?」

 自分の首にかけていた、二つに分かれたペンダントの首飾りを外して、メルエーナはそれをジェノに強引に手渡す。

 

「その、売っても大した金額にはならないと思いますが、私の宝物です。お金を受け取れないのでしたら、せめて感謝の気持ちとして、これを、どうか……」

 

 幼い頃からずっと大切にしていた首飾り。

 けれど、命を助けてもらったうえに、自分達一家とこの村のために更に頑張ろうとしてくれる、この優しい二人に、何かで感謝を伝えたかった。

 

 ジェノは少しの間首飾りを見ていたが、「いや、これも受け取れない」とメルエーナに返そうとする。

 

「ねぇ、そこまで頑なになることはないんじゃあないの? メルが言うとおり、金銭でなく、高価な品でないのなら、少しくらい……」

 流石に何度も断るのは悪いと思ってくれたのか、イルリアはそう言ってくれた。だが、ジェノは考えを変えることなく、メルエーナに首飾りを返してよこす。

 

「……すみません。迷惑でしたよね。こんなものを渡されても……」

 気落ちするメルエーナ。

 しかし、ジェノは首を横に振る。

 

「自分の名前を刻むほど、大切な品なんだろう? そんな思いの込められた物を手放させるわけには行かない。それだけの話だ。心遣いはよく分かった」

 ジェノはそう言い、口の端を僅かに上げて微笑む。

 気持ちは充分伝わったと、その笑顔が語っていた。

 

 だが、メルエーナには、それを気にしている余裕がなかった。

 

「……えっ? よっ、読めるんですか、この文字が?」

「どういうことだ? 共通語だ。子供でも読めるはずだが?」

 怪訝な顔をし、ジェノが尋ね返してくる。

 

「いえ、その、そうではなくて……。あっ、あの、それでは、もう片方のペンダントにはなんと刻んであるか分かりますか?」

 メルエーナはそう言って、もう一度首飾りをジェノに手渡す。

 

「……『ラーフィン』と刻んであるな。これがどうかしたのか?」

 ジェノは当たり前のようにそう答え、また首飾りを返してきた。だが、それを受け取ったものの、メルエーナはあまりのことに言葉を失う。

 

「ジェノ君。イルリアちゃん。あなた達の気持ちが変わらないことは分かったわ。引き止めてごめんなさいね」

「リアラ。しかし……」

「これ以上話を続けても、ただ単に二人の睡眠時間を削ることになるだけよ」

 

 父と母の会話で我に返ったメルエーナは、「すみません、おかしな事をさせてしまって」とジェノに謝罪する。

 ジェノは気にする必要はないと言って、今度こそ踵を返して玄関に向かっていく。

 

「昨日、少し話しましたが、後日、冒険者ギルドの運営に関わる人間が、皆さんに聞き取り調査を行いますので、その際にはどうかご協力をお願いします。では、お世話になりました。俺達はこれで」

「起こったことをありのままに伝えて下されば結構ですので。それでは、おやすみなさい。本当にありがとうございました」

 ジェノとイルリアは一礼して帰っていってしまった。

 

 それは仕方がない。二人はこの村の人間ではないのだから。

 けれど、メルエーナはもっと話をしたかった。

 特に、この首飾りに刻まれた文字を読んだジェノのことが、今まで以上に気になって仕方がない。

 

 どうして、あの人はこの二つに分かれたペンダントに書かれている文字を読むことができたのだろう?

 

 今まで誰に聞いても、自分以外には読める人はいなかったのに。

 

 父と母でさえそれは同じだったのに……。

 

 初めてあの人を見た時の、どこかで出会った事があるような気持ちといい、いったいあの人は何なのだろう?

 

「ジェノさん、貴方はいったい……」

 メルエーナはそう小さく呟き、手の中の首飾りを握りしめた。



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㉑ 『別れ。そして……』

 翌日、メルエーナ達は家族総出でジェノとイルリアを見送った。

 縄で縛られた件の三人を馬車に押し込めたジェノは、去り際にこちらを向いて軽く頭を下げてくれた。イルリアはにっこり微笑み、手を振ってくれた。

 

 そして、それが最後の別れになるものだとばかりメルエーナは思っていたのだが……。

 

 

 ジェノたちと別れてから十日ほど経ったある日。

 とある冒険者の一行が、事の発端だった貴族様の荷を見事に発見し、その翌日から、冒険者達は続々とこの村を去っていってしまった。

 そして数日後には、リムロ村はいつもどおりの平穏さを取り戻した。

 

 そしてまた普段の日常が始まる。

 メルエーナは、平和だが刺激のないこの生活を、これからもずっと続けていくのだと、少し物悲しく思っていた。

 

 だが、それから数日後のことだった。

 

「メル。お父さんとも話し合ったのだけれど、私達は、貴女を他所に料理修行に出そうと思っているわ」

 夕食の後片付けが終わった後の家族の団らんの最中に、突然、母のリアラがそんな話をメルエーナに打ち明けた。

 

 最初は意味が分からなかった。

 それが、あまりにも突然のことだったから。

 

「期間は二年間。場所は、このエルマイラム王国の首都であるナイムの街。そこに私の昔の職場の後輩がいるの。彼女の所で修行をさせてもらうつもりよ」

 リアラは真剣な表情で一方的に条件を口にしたが、唖然とするメルエーナを見て、微笑みかける。

 

「メル。貴女も十六歳。あと二年経ったら大人の仲間入りをしなければいけない。でも、私達が一緒だと、貴女は心のどこかで私達に頼ってしまうでしょうし、私達もつい甘やかしてしまうわ。

 でも、それではいけないのよ。貴女も、いつかはお母さんになるのだから。都会での生活と料理をしっかりと学んでもらいたいの」

「おっ、お母さん。私……この村を出てもいいんですか?」

 母の言葉の意味を理解し、メルエーナは体を歓喜で震わせる。

 

「ええ。もちろん。と言うよりも、出て行きたくないと言っても追い出すわよ。だから、覚悟を決めて、しっかり花嫁修業をしてきなさい!」

 リアラはそう言って力強く微笑む。

 

「だけどな、メル。どうしても行きたくないのなら、行かなくても良いんだぞ。都会は危険だ。この間のような悪い男達がたくさんいて……」

「あ・な・た。このことはあれだけしっかりと話し合いましたよね? それとも、新婚時代のように私と二人で生活することに、なにかご不満でも?」

 コーリスは、娘が村を出て生活することに反対のようだが、強い妻に押し切られて、結局口を噤んだ。

 

「お母さん。ありがとうございます。私、ジェノさんとイルリアさんに出会ってから、ずっと、この村を出て学びたいって思っていたんです……」

 メルエーナは感極まって涙をこぼす。

 

「ふっふっふっ。そんな事、お母さんはとっくにお見通しだったわよ。でも、ごめんなさいね。本当ならもっと早くに貴女を村の外に出して勉強させてあげたかったんだけれど、お金の都合がつかなくて……」

 リアラは申し訳無さそうな顔をするが、メルエーナは首を横に振る。

 

 この村からナイムの街まではかなり距離がある。その旅費だけでもかなりの金額になることは想像に難くない。

 その上生活費までとなると、おいそれと用意できる金額でないことくらいはメルエーナも理解していた。

 

「お父さんとお母さんが、頑張ってくれていたこと分かっています。私のために、ずっと……。本当に、ありがとうございます」

 メルエーナは、涙ながらに優しい両親に心から感謝をする。

 

「メル。なれない都会での生活で戸惑うこともたくさんあると思うけれど、心配しないで。貴女は、私とお父さんが育てた自慢の娘。きっとどんなことも乗り越えられるわ」

 リアラは立ち上がって、涙が止まらないメルエーナを抱きしめる。

 

 そして、諸々の準備を終えたメルエーナが、生まれて初めて村を出たのは、それから一ヶ月後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 リムロ村を出て、乗り合い馬車に揺られること五日。

 いよいよ眼前に見えてきたナイムの街のあまりの大きさに、メルエーナは目を大きく見開く。

 

 村を旅立ってからというもの、少し大きな町に着いただけで驚いていたメルエーナだったが、それらがまるで比較にならないほど、ナイムの街は巨大だった。

 

 森の動物避けに、リムロ村の周りにも木でできた柵はあったが、この街では、それを何十と積み重ねたくらいの高さの石の壁が広範囲を囲っている。

 一体どれだけの大きさなのか、見当もつかない。

 

「う~ん。いつ見ても圧巻よね。流石は首都だわ」

 付き添いで来てくれたリアラが、乗合馬車の窓から見える景色に気圧されるメルエーナの横で、そんな感想を口にする。

 

「メル。今回は私が付き添ったけれど、帰ってくる時には、私を当てにしては駄目よ」

 外の景色に目を奪われていたメルエーナは、リアラのその言葉に居住まいを正す。

 

「はい。お母さん。きちんと一人でできるようになってみせます」

 今回の旅行の間は、母が全て手続きをしてくれた。だが、いつまでもそれに甘えているわけにはいかない。

 そうメルエーナは思ったのだが……。

 

「違うわよ! 私が言いたいのは、帰ってくるときには、きちんと貴女のことを守ってくれる、素敵な男の人と帰ってきなさいと言っているのよ!」

 他の乗客がいるので、声は大きくなかったが、リアラはそんなとんでもないことを口にする。

 

「分かっているの? ナイムの街には、ジェノ君も暮らしているのよ。あの時はあまりにも時間がなかったけれど、今回は違うわ。しっかりとアプローチをして、素敵な婿を手に入れるのよ!」

「むっ、婿って。そんな……。話が飛躍しすぎです……」

 メルエーナは頬を赤らめ、胸元の首飾りに手を伸ばす。

 

 けれど、あの日別れてからというもの、ずっと気なっていた。

 あの人のことが。ジェノという自分と同い年の男性のことが。

 

 ジェノに初めて会ったあの時に、どうして自分は懐かしいと感じたのだろう?

 どうしてあの人は、この首飾りに刻まれた文字を読めるのだろう?

 

 未だにその理由がわからない。

 

「そっ、それに、ジェノさんがあの街で暮らしているとはいっても、ものすごく沢山の人達があの街にはいるんですよね? それならば、会う機会なんてそうそうあるものでは……」

 声に出して事実を口にすると、何故か胸が痛くなってしまう。

 

 どうしてだろう? 体調が悪い訳でもないのに。

 

「……そうね。でも、会える可能性はゼロではないわよ」

 リアラの言葉に、メルエーナは「はい」と小さく頷く。

 

 やがて、乗合馬車は門を超えてナイムの街に入る。

 石畳が敷き詰められた道路に、メルエーナは驚き、そして疑問を抱いた。

 

 自分の住んでいた村と比較して、あまりにも土がなさすぎる。

 いったいこの街は、どこで畑を作って食べ物を作っているのだろう?

 

 そんな疑問を母に尋ねようと思ったメルエーナだったが、それよりも早くに、停留所に到着してしまった。

 

「着いたみたいね。メル。忘れ物をしないようにね」

「はい。分かっています」

 メルエーナは大きなカバンを手に持ち、母と一緒に馬車を降りた。

 

 石に囲まれた街並み。少し先には海もある。

 何から何まで、リムロ村とは違う。

 けれど、これから二年間。この街が自分の暮らしていく場所になる。

 

 今後のことを考えると、少し不安になってしまったが、メルエーナは気持ちを切り替えて、リアラに付いて歩く。

 

「久しぶりね、バルネア」

 ほんの少し歩いた所で、リアラは足を止めて、金色の髪を後ろで纏めた若い女性に話しかけた。

 

「えっ? こっ、この人が……バルネアさん?」

 メルエーナは小さな声だったが、思わずそう口に出してしまった

 

 母の話では、母より五つ下の女性ということだったが、目の前の女性はそれ以上に若く、二十代と言われても納得してしまうだろう。

 それに、すごく人当たりの良さそうな温和な女性にしか思えなくて、この人が名うての料理人だとは思えない。

 

 勝手な想像だが、もっと気難しそうで威圧感のある女性を思い浮かべていたメルエーナは、ただただ驚くしかなかった。

 

「お久しぶりです、リアラ先輩。遠いところをよく来て下さいましたね」

 優しい声でバルネアは言い、笑顔を浮かべる。そして、メルエーナの方を向いてまた微笑む。

 

「貴女がメルちゃんね。流石先輩の娘さんね。こんなに可愛い女の子は、この街でも珍しいわ」

 

 温かな笑顔を向けられて、一瞬言葉に詰まったメルエーナだったが、

 

「初めまして。メルエーナと申します。どうかよろしくお願い致します」

 

すぐに我に返り、慇懃にそう挨拶を返す。

 

「ふっ、ふ~ん。可愛いでしょう? 私の娘ですもの、当然よね」

 そんな娘の頑張りを台無しにする母の得意げな姿に、メルエーナは苦笑するしかなかった。

 

 けれど、バルネアは気にした様子もなく、「そうですね」と穏やかに微笑む。

 メルエーナは、いよいよこの女性が名うての料理人には見えなくなってきてしまう。

 

 しかしここで、メルエーナを驚かせることが起こった。

 

「お久しぶりです。リアラさん。長旅、お疲れさまでした」

 聞き覚えのある声が聞こえた。

 もう一度会いたいと思っていた、男の人の声が確かに聞こえた。

 

 声の方に目をやると、黒髪の背の高い少年が、母から荷物を受け取って肩に担いでいた。

 

「えっ? えっ? ジェノさん……」

 メルエーナは思わず間の抜けた声を上げてしまう。

 

「久しぶりだな、メルエーナ」

 ジェノは相変わらず無愛想な表情のまま、そう挨拶を返してきた。

 

 一体何が何だか全く分からず、ただただ困惑するメルエーナ。

 そんな彼女に、リアラがわざとらしくポンと手を叩いた。

 

「あら。そういえば言っていなかったわね。貴女はこれから、このバルネアの家で暮らすのよ。ジェノ君と一緒にね」

 全く悪気のない笑顔で、リアラはそんな驚きの事実を口にするのだった。



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㉒ 『願い』

 メルエーナの話を聞き終えたリリィは、感動に体を震わせる。

 

「すごい……。すごすぎるわ! まさしく運命の出会い! 悪い人たちから命がけで自分守ってくれた素敵な男性との別れ。そして再会なんて。そんなこと物語のヒロインでないと普通は体験できないわよ!」

 興奮で鼻息を荒くするリリィに、メルエーナは困ったような笑みを浮かべる。

 

「いいえ、その……。そんなにいいことではありませんでしたよ。今でこそこうやってお話できますが、その時はものすごく怖くて仕方がなかったですし、何もできない自分がただただ不甲斐なくて仕方がなかったですから」

 メルエーナはそう言うが、恋愛どころか異性を好きになった経験さえないリリィには、それは贅沢な話だとしか思えない。

 

 しかも、相手はあのジェノだ。

 バルネアの店で偶に食事を食べる度に、あの黒髪の男性を見かける。そのあまりにも端正な容姿に、初めてみた時は、リリィも思わず見惚れてしまった。

 しかも、今までのメルエーナの話を聞く限りでは、口数が少ないが決して悪い人ではなく、むしろ優しい性格なのだと推測できる。

 

「でもね、メル。その首飾りをずっと身につけているってことは、やっぱりジェノさんとの出会いは特別なものだと思っているんでしょう? 願掛けっていうのも……」

 リリィがニヤニヤとした笑みを向けると、メルエーナは顔を真っ赤にして頷いた。

 

「はっ、はい。その、図々しい話なんですが……。私も、この街でジェノさんに再会できた時に思ってしまったんです。ジェノさんとの出会いは、きっと……」

「きっと?」

 ワクワクしながら、メルエーナの次の言葉を待つリリィ。

 だが、メルエーナはそこでいっそう顔を真っ赤にして俯いてしまった。

 

「いっ、いえ、その、なんでもありません……」

「もう! そこまで言って、最後まで言わないのはずるい!」

 抗議の声を上げるリリィに、メルエーナは手つかずにしていた飲み物を口に運ぶ。

 

「でっ、ですが、考えてみると、あの困った母にすべてお膳立てされていただけな気もしますし……」

「でも、その首飾りの文字が読めるかどうかは違うんでしょう?」

「そっ、それはそうですが……」

 メルエーナは顔を俯けて、ついには黙り込んでしまう。

 

「ああっ、ごめんなさい。ちょっとからかい過ぎてしまったわ……」

「いっ、いえ。大丈夫ですから」

 メルエーナが許してくれたので、ホッとするリリィ。

 

 だが、そこでリリィは、話を聞いてからずっと気になっていた、彼女の首飾りを近くで実際に見せてもらいたいと思ってしまう。

 

「メル。ごめん。良かったらなんだけれど、その首飾りを近くで見せてもらってもいい? きっとその首飾りには、特定の人しか読めないような魔法が掛けられているんじゃあないかと思うの。

 その、私、お師匠様にまだ早いと言われて、座学だけで、実際に魔法の掛かった品物に触れたことがないの。だから、魔力を持つ私がそれに触れたらどんな風に感じるのか気になって……」

 図々しい頼みなのは分かっているが、メルエーナの話に出てきたペンダントの文字を、自分が読めるかどうか確認してみたい気持ちもあり、リリィは頼み込む。

 

「ええ。いいですよ。これに魔法がかかっているのかどうか、私も気になりますし」

 メルエーナは笑顔で快諾してくれて、首飾りを外し、それをリリィに手渡してくれた。

 

「ありがとう、メル」

 笑顔で礼を言い、首飾りを丁寧に確認していく。

 

「文字は彫られているのよね? でも、どこにもそれらしきものは見えないし、手触りでもそんな形跡はまったく分からないわね……」

 メルエーナが嘘を言っているとは思わないが、この二つに割れたペンダントに名前が彫られているとは考えられない。

 

「あれっ? でも、何だか、少し熱く……」

 分かれたペンダントの片方を触っていると、何故かそれが少しだけ熱を持ったような気がした。そして、そうリリィが感じた次の瞬間だった。

 

 何かが、リリィの体を通過していった。

 そう、彼女の体を目に見えない何かが通り過ぎて行ったのだ。

 

 それが何だったのかは分からない。ただ、リリィの胸を一つの感情が、激情が襲った。

 

「あっ、あれ……」

 不意に、リリィの瞳から大粒の涙がこぼれ落ち始めた。

 

「リリィさん、どうなさったんですか?」

 メルエーナの心配そうな声。

 それに、大丈夫だと答えようと思ったが、際限なくこみ上げてくる悲しさに、リリィはついには声を上げて泣き出してしまう。

 

「お客様? 何かございましたでしょうか?」

 大慌てで店の店員が駆け寄ってきたが、リリィにはそれを気にしている余裕などなかった。

 

 この負の感情がまぜこぜになった感情を、何と修辞すればいいのかわからない。ただ、悲しくて、辛くて、腹立たしくて、切なくて、涙が際限なくこぼれ落ちていく。

 

「リリィさん」

 メルエーナが泣きじゃくる自分を抱きしめてくれた。

 だが、それからしばらくの間、リリィは泣き止むことができなかった。

 

 

 

 

 

 

 日が西に沈んでいく。

 赤い輝きに染まるナイムの街をメルエーナと二人で歩き、リリィは今の自分の住処、魔法のお師匠の家の前にたどり着くことができた。

 

「その、ごめんね、メル。お店でさんざん迷惑をかけただけじゃあなくて、送ってまでもらって……」

「いいえ。気にしないで下さい。帰り道とそれほど離れていませんから」

 メルエーナは笑顔を絶やさない。

 さんざん迷惑をかけてしまったのに、優しく微笑んでくれる。

 

「本当に今日はいろいろありがとう。……そっ、その……迷惑かもしれないけれど……」

「はい。リリィさんがよければ、またお買い物に行きましょう」

 こちらが言いたかったことを察し、メルエーナはそう言ってくれた。

 

「あっ、ありがとう、メル。その、ジェノさんと上手くいくように、私も応援しているから、頑張ってね」

 他に何を言えばいいのか分からずに、リリィはそんな言葉をメルエーナに贈る。

 

「……はっ、はい。その、頑張ります」

 顔を赤くしながら、メルエーナは顔を俯かせてそう答え、更に言葉を続ける。

 

「あのお店では恥ずかしくて言えませんでしたけれど、私も、ジェノさんとの出会いはきっと特別なものだと思っています。

 もしかすると、ただの偶然が重なっているだけなのかもしれません。でも、その……」

 そこまで言うと、メルエーナは顔を上げる。

 そして、恥ずかしそうに、けれどはっきりと笑顔で言った。

 

「私は、偶然ではないといいなって、ずっと思っているんです」

「…………」

 沈みゆく朝日よりも輝いてみえるその笑顔に、リリィは言葉を失った。

 

 綺麗だった。この上なく。可愛かった。誰よりも。

 そのあまりに魅力的な笑顔に、ドキッとしてしまった。

 

 誰かを心から好きになると、こんな風に女の子は笑えるのだと初めて知った。

 

 いつか自分もこんな笑顔ができるほど、思い焦がれる男性に出会えるのだろうか?

 

 ……出会いたい。

 私もこんな風に笑えるようになりたい。

 

「そっ、それでは、失礼しますね」

「あっ、うん。ありがとう。またね、メル」

「はい」

 

 メルエーナはいつもの顔に戻ったので、リリィは普段どおりに彼女を見送る。

 そして、彼女の姿が見えなくなると、リリィは今日買った服の入った袋を片手に、家に戻るのだった。

 

 

 

 

 

 

 リリィは叱られた。

 思いっきり、叱られた。

 

 目の腫れがまだひいていなかったから、お師匠様に何事かと尋ねられて、リリィは正直に話すしかなかった。

 

 何故なら、リリィが誰かに虐められたと早とちりしたお師匠様が、怖い顔をして、「私の可愛い弟子を虐めるなんて、何処のどいつだい! 丸焼きにしてやるよ!」と鼻息を荒くしていたので、ごまかすわけにもいかなかったのだ。

 

 リリィは、椅子に座る白髪の老婆――エリンシアの向かいの席で、ただただ頭を下げ続けることしかできなかった。

 

 一通りのお説教の後に、顔を上げるように言われて、リリィは言われたとおりにする。

 

「リリィ。何度も言ったはずだよ。あんたが魔法の品に触れるのはまだ早いと。それは、何も意地悪で言っていたんじゃあない。危険だからなんだ。あんたの場合は、特に……」

「私の場合、ですか?」

 

 エリンシアはリリィの言葉に頷く。

 

「いいかい。増長してしまう可能性と、好奇心から魔法の品に触れようとしてしまう危険性があったから内緒にしていたが、あんたには一つだけ稀有な魔法の才能があるんだよ」

「えっ? わっ、私に、そんな才能が!」

 目を輝かせたリリィは、しかし、老婆に杖で頭を叩かれてしまう。

 

「話は最後までお聞き。あんたの才能というのは、すごく厄介で扱いにくいものなんだ。それは、『魔法の品に込められた感情を読み取る』という才能だからね」

 

「感情を読み取る才能、ですか?」

 叩かれた頭を擦りながら、オウム返しにリリィは尋ねる。

 

「これは使いようによってはいい才能なんだ。例えば、魔法の品物がどのような性質のものかがなんとなくだが把握できる。憎悪がいっぱいにこもった魔法の品なんてろくでもないことくらいは、あんたでも分かるだろう?」

「はっ、はい。それがきっとよくないものだとは思います」

 

 リリィの言葉に、エリンシアは頷く。

 

「ただね、この能力は制御できないと、あんたの精神のほうが魔法の品の感情に引っ張られてしまうんだよ。最悪、その感情に支配されて、あんたの精神が壊れてしまうかもしれない」

 エリンシアの言葉に、リリィは自分がした行動の浅はかさにようやく気づく。

 

「……すみませんでした、お師匠様」

 リリィが心からの謝罪をすると、エリンシアは「分かればいい。私がいいと言うまでは、もう魔法の品に触れようとしては駄目だよ」と優しく言ってくれた。

 

 だが、リリィの脳裏に、満面の笑顔を浮かべた大切な友人の顔が浮かんだ。

 

「あっ、あの、お師匠様!」

「うん? どうしたんだい、そんなに慌てて」

 詰め寄らんばかりの勢いのリリィに、エリンシアは驚く。

 

「その、特定の人にしか文字を読めなくする魔法って、きっと存在しますよね?」

 リリィの突飛な質問に、エリンシアは顎に手を当てて少し考える。

 

「あんたの言うとおりだよ。たしかにそういう魔法は存在する。だが、どうしていきなりそんなことを聞くんだい?」

「その、私が触れてしまったのは、私の友達とその娘の大切な人しか文字が読めない首飾りなんです。でも、その娘はすごく幸せそうで……。だから、私があんな悲しい思いをするなんて……」

 感情ばかりが先走って、上手く言葉にできない。

 エリンシアに落ち着くように言われて、リリィはもう一度事の経緯を詳しく説明する。

 

「……なるほどね。それは妙な話だね。特定の人間にしか文字がわからないようにする魔法は、その当事者しか読めないはず。だが、代々伝わって来たその首飾りの文字を、お前と同い年の子供が読めるというのは……。それに、涙が止まらなくなるほどの悲しい気持ちが宿っていたというのも謎だねぇ」

 エリンシアはそういうと、心配そうな顔をするリリィの頭を優しくなでた。

 

「そんな顔をするもんじゃあないよ。たまたまその文字が読める条件に、あんたの友達が当てはまっただけだろうさ。それに、その首飾りはかなり古いものなんだろう?

 人から人へ渡る間に、とある持ち主の強い感情がそれに込められてしまったんだろう。少なくとも、今の持ち主とは関係ないはずだよ」

「……はい。ありがとうございます、お師匠様」

 

 リリィはエリンシアの気遣いに礼を言い、その言葉を信じることにした。

 

 あの幸せそうな笑顔を浮かべていたメルエーナと、彼女が大切に思うジェノに、不幸なことが起こらないでほしい。

 

 リリィは心の中で、そのことを神様に強く願うのだった。

 

 

【挿絵表示】

 



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第三章 誰がために、彼女は微笑んで
① 『世界を憎んだ少女』


 この世界の始まりは、一本の大樹でした。

 

 世界樹と呼ばれるその大きな木が、この世界のありとあらゆる物を作り出していったのです。

 

 それは、この大地も、水も、光も、空気も、生物も、神様さえも生み出しました。

 そして、この世界は世界樹の管理下で、完璧な秩序が保たれていたのです。

 

 ですが、いつまでも続くと思われたその秩序にも終わりがやって来ます。

 本当に気が遠くなるほどの長い年月を生き抜いてきた世界樹にも、寿命がやって来たのです。

 

 世界樹は自らが終わってしまう前に、二つの種子を残しました。

 あまりにも強大になってしまった自らの力を、二つに分けたのです。

 

 もしも、この種子が二つとも無事に芽吹いていたのであれば、この世界には再び完璧な秩序が生まれるはずでした。

 

 ですが、残念ながら種子の一つは芽吹くことがなかったのです。

 

 だから、今のこの世界は不完全なのです。

 そして、私達人間も、一つしか種子が芽吹かなかったこの不完全な世界で生まれた存在であるため、また不完全なのです。

 

 だから、この不完全な世界には、こんなにも悲しみが満ちているのです……。

 

 

 

 

 これは、子供でも知っているこの世界の成り立ちの物語。

 どの神様を奉じる神殿でも、この教えは絶対なものとなっています。

 

 私は子供の頃にこの話を聞かされて、怖がった事はあっても、この世界を憎んだことはありません。

 ですが、あの人の話に出てきた女性は、女の子は、この世界を憎んでいました。

 

 神に仕えるその女の子は、それまでの人生を捧げてきた神様を恨むことは出来なかったのです。だから、彼女は、この世界を恨むしかなかったのでしょう。

 

 私は、その女の子に会ったことはありません。

 ですが、あの人の話を聞いているうちに、涙を堪えきれなくなってしまいました。

 

 それは、あまりにも過酷過ぎる、無慈悲な運命でした。

 

 第三者の私でも、このような気持ちになってしまうのです。

 実際に、その女の子と一緒に旅をして、彼女を懸命に守ろうとしたあの人の心の痛みを思うと、私は胸が張り裂けそうになります。

 

 でも、最後にその女の子は、あの人に……。

 

 

 

 

 第三章 『誰がために、彼女は微笑んで』

 

 

 

 昼食時も過ぎて、食事を楽しんでいたお客様達も帰られた。

 そして、いつものように、メルエーナは『本日の営業は終了いたしました』と書かれた掛け看板を入口にかけておいたのだが、また今日もそれを見ずに入店してきた人がいた。

 

 もういつも、店主のバルネアさんが居る間は、夜の六時までここが開いていることを常連さんは知っているのだ。

 ただ、今回に限っては、その入店してきた人が問題だった。

 

「まったく、お前という奴は。いいか、結果としては確かにお前の思惑通りに行った。だが、一歩間違えれば……」

「……ですから、それはもう分かっています」

 店の一番奥の席で、ジェノと向かい合って座り、くだを巻いている壮年の男性。彼がこの街の自警団の団長、ガイウスである。

 

 精悍な顔立ちで、普段では威厳のある人なのだが、今はかなりお酒が回っているようで、その片鱗さえ見えない。

 

 このお店、料理店<パニヨン>ではお酒類は提供していないので、何処か他の店でかなり飲んで来たようだ。

 彼の相手をさせられているジェノが、不憫でならない。

 メルエーナとバルネアは、別の席でお茶を口にしながら、そう思っていた。

 

「まったく、最近は大きな事件はないが、相変わらず俺達の仕事場は人手不足だ。俺がこうやって休暇を取るのだって、一ヶ月ぶりなんだぞ。そこを分かっているのか、ジェノ?」

「……先日の俺のやったことで、ガイウスさん達に迷惑をかけたことは分かっています。ですが、先程から言っているように、あれは冒険者の決まりを破ったわけでは……」

 ジェノがもう何度目かわからない説明を口にしたが、ガイウスは一人で頷き始める。

 

「おお、そうか! 分かってくれたか! じゃあ冒険者なんか辞めて、うちの自警団に入れ! お前のやったことを快く思っていない連中は多いが、それを乗り越えてこそ、真の団結力が生まれるんだ!」

 バンバンとジェノの背中を叩きながら、ガイウスは豪快に笑う。

 本当に、ジェノが不憫でならないとメルエーナは思った。

 

「もう、団長さん。ジェノちゃんをあんまり虐めるようなら、奥さんを呼びますよ」

 流石に見かねて、バルネアがガイウスに文句を言う。

 怒った顔が何処か微笑ましく、そして全然迫力のない声だったが、それを聞いたガイウスの動きがピタリと止まった。

 

「……すみません、バルネアさん。それだけは止めて下さい」

 傍目にはそうは見えないが、バルネアの方がガイウスよりも歳上である。

 その意見に耳を傾けないわけにはいかなかったのだろう。だがそれ以上に、どうやらガイウスは奥さんが怖いらしく、すっかりと酔いが覚めてしまったようだ。

 

「団長さん。久しぶりの休みだからといって、羽目を外しすぎないようにしないと駄目よ。それに、どうせお酒ばかり飲んで、おつまみくらいしか食べていないんでしょう? 

 すぐにお腹にたまるものを作るから、おとなしく待っていなさい」

「はっ、はい。ですから、あいつを呼ぶのだけは……」

 

 剣の腕ならばジェノも敵わないと言っていたはずの男性が、ここまで恐れる奥さんというものに、メルエーナは少し興味を惹かれてしまう。

 

 バルネアが調理のために厨房に入っていったのを確認し、ガイウスはほっと胸をなでおろす。

 

「ガイウスさん。そろそろ、俺の方からも一ついいでしょうか?」

 ジェノは話を切り出す。

 

 ガイウスが店にやってくるなりジェノは彼に話をしようとしていたのだが、酔っぱらい相手には正論が通じずに、ここまで話ができずにいたのだ。

 

「なんだ? お前の方から俺に用事があるなんて珍しいな」

 ガイウスはそう言い、すっかりぬるくなってしまった水の入ったコップに口をつける。

 

「実は、二週間後にカーフィア神殿の神殿長である、セリカ卿がこの店を訪ねてこられることになりまして……」

「んっ? カーフィア神殿のセリカ卿? だが、それが俺に何の……」

 そこまで言ったところで、ガイウスは口を閉じて、忌々しげな顔をして拳を握る。

 

「……ジェノ。それは、あの嬢ちゃんのことか?」

「はい。その人は、彼女の実の母です」

 メルエーナも、バルネアからその話は聞いているが、偉い人がご来店されるとしか思っていなかった。

 だが、どうやら自分が知らない何かがあるようだ。

 

 ガイウスは面白くなさそうな顔でコップの中身を全て口にし、それを叩きつけるようにテーブルに置く。

 

「もう一年以上前の話だぞ! 今頃になって、何をしに来るっていうんだ!」

「……それは俺にも分かりません。ですが、娘の恩人として、ガイウスさんにもお会いしたいと言っています」

「何が恩人だ、ちくしょう」

 ジェノの言葉に、ガイウスは乱暴に自分の髪を掻く。

 

「断る、と立場がなければ言いたいところだが、そうもいかないだろう。分かった。予定を入れておく」

「助かります」

 ジェノはガイウスに頭を下げ、当日の細かい日程を彼に伝える。

 

「はい。お待たせ。団長さん」

 あっという間に料理を作ってきたバルネアが、ガイウスの前に料理を並べる。それを見て、メルエーナもお冷のおかわりを運ぶ。

 

「すごい音がしたけれど、どうしたの?」

「ああっ、すみません。少し腹立たしい事を思い出してしまったもんで……」

 ガイウスはバルネアに謝罪し、それから食事前の祈りを口にする。

 

 そして、ガイウスは遅い昼食を口にする。

 不機嫌な顔をしていた彼だが、バルネアの作った料理がことのほか美味しかったようで、すぐにそれが笑みに変わる。

 やはりバルネアさんの料理は素晴らしいとメルエーナは感心した。

 

「団長さん。その時の話を私とメルちゃんにも聞かせてくれないかしら? 私もあの女の子――サクリちゃんと一回しか会ったことがないし、ジェノちゃんに訊いても、彼女は亡くなったとしか教えてくれないのよ。

 事の経緯がわからない中で、歓待する料理を作るというのはすごく難しいの。だから、お願いできないかしら?」

 

 バルネアは突然そう言い、ガイウスとジェノが座るテーブルの席に腰を降ろす。さらに、メルエーナに手招きをして、同じ様に座るように言う。

 話の蚊帳の外におかれていたメルエーナは、バルネアさんの言葉に甘えて、彼女の隣に座る。

 

「……ジェノ。バルネアさん達には話していなかったのか?」

「ええ。知る必要がないと思ったので」

 ガイウスはジェノの言葉に、大きく嘆息する。

 

「そうだな。知る必要はない。それどころか、知らないほうがいい話だな」

「はい。ですが……」

 てっきり、話の流れから、詳細は教えてもらえないと思ったのだが、ジェノはバルネアを見て、口を開く。

 

「すみません。今まで話さなかったのは、バルネアさん達を危険に巻き込みたくなかったからです。ですが、先日の化け物騒ぎとも関係のある話ですので、近いうちに二人にだけは話そうとは思っていました。丁度いい機会です。話を聞いて下さい」

 ジェノの思いもかけない言葉に、メルエーナは驚く。

 先のコウ君と彼のお父さん達を襲った化け物の話が、そのサクリさんという女の子とどう関係しているというのだろう。

 

「ちょっと待て。俺もそれは初耳だぞ! 先日の化け物と何の関係があるっていうんだ?」

 ガイウスも、ジェノの言葉は意外だったようで、驚き、ジェノに説明を求める。

 

「店の入口に鍵をかけてきます。万が一にも、他人に知られてはいけない話です。もっとも、こんな話を信じる人間がどれだけ居るか分かりませんが……」

 ジェノはそう言って店の入口の鍵をかけて席に戻ってきた。

 

「さぁ、ジェノ。話せ」

「ガイウスさん。サクリと出会ったのは、貴方の方が先のはずです。それをまず、二人に話して頂けませんか?」

「んっ? あっ、ああ。そうだな。分かった」

 本当は今すぐにジェノから話を聞きたいのだろうが、ガイウスはメルエーナとバルネアのために話をしてくれた。

 

 それは、あまりにもやるせない話だった。



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② 『慟哭と偽善』

 雨が強くなってきた。

 だけど、私はそんなことはお構いなしに、地面を這って進む。

 

「……カルラ……。レーリア……」

 もう一人ではまともには歩けない私が、力尽きて倒れた二人に近づくには、この方法しか残されていなかった。

 

「……カーフィア様。お願いします。私から、これ以上奪わないで下さい。もう、私に残されたものは、大切な友人だけなのです……」

 動くのに精一杯で、声を発する力もない私は、懸命に心のなかで懇願する。

 

 地面を這いずり進む私の姿は、それは無様で気味の悪いものだったのだろう。けれど、私は他人の目など気にする余裕はなかった。

 

 

 私が悪かったのだろうか?

 

 大切な友人にさえも全てを明かさなかったから。

 嘘を口にしてしまったから。

 

 だから、女神カーフィア様は私にこのような罰を与えたというのだろうか?

 それとも、司祭様達が言うように、これも私に与えた試練だというのだろうか?

 

「……お願いします。私は、お勤めも満足にできない役たたずです。しかし、カルラとレーリアは、貴女様に誠心誠意奉仕をしていた熱心な信徒だったではありませんか。どうか、どうか……」

 懸命に祈り、私は手近だったカルラの元に何とか辿り着くことが出来た。

 

 けれど、そこで私が見たのは、目を開いたまま動かなくなっている親友の姿だった。

 

「……カルラ……。カルラ……」

 親友の死に顔があまりにも痛々しくて、私は堪えきれずに涙をこぼす。

 

 つい少し前まで、いつものように明るい笑顔を浮かべて、冗談を言って笑っていたはずのカルラが、死んでしまった。

 

 こんな私を守ろうとしなければ、レーリアと一緒に生き残ることが出来たかもしれないのに。

 

「……どうして、動かないの……」

 懸命に手を動かそうとしたが、ここまで這いつくばって来るのに体力を使い切ってしまった。もう腕に力が入らない。

 カルラのまぶたを閉じてあげる力さえ、今の私には残されていなかった。

 

「あっ、うぁあああああああああっ!」

 かすれる声で叫んだ。

 それは、私の精一杯の怒りの声。

 

「……カーフィア様。貴女は、私の最後の願いさえ叶えては下さらないのですか! 私から、カルラとレーリアさえも奪うのですか!」

 声の限りに叫んだはずなのに、私の言葉はただのうめき声にしかならない。

 もう、大声で叫ぶ力も、私には残されていないのだ。

 

 雨が次第に激しくなってくる中、私はただずっと事切れた親友の側で泣き続けた。

 それしか、私にできることはなかった。

 

 

 

 

 

 

「くそっ、酷い有様だな……。 レイ! キール! 警戒を怠るな。まだ賊が何処かに潜んでいるかもしれん」

 

 乗合馬車が賊に襲われている。

 旅人が急ぎ知らせてくれたその一報から、ガイウスは部下二人と共に馬を走らせて、現場に急行した。

 

 しかし、彼らがたどり着いたのは、全てが終わってしまった後だった。

 

 ガイウス達が到着すると、半壊した馬車を中心に、無事だった乗客四人が集まっていた。

 雨が激しくなってきたので、体温を奪われないようにと身を寄せ合っていたらしい。

 

 彼らの周りには、賊と思われる男たちが三人地面に倒れていた。微かにだが息はしているようだ。

 

 そして、賊と乗客の間に倒れている少女が二人と、その少女の側で泣く、フードを深めに被って顔を隠している者がいる。

 残念ながら、二人の少女はすでに事切れていた。

 少し離れた所で発見された、御者と思われる男と同じ様に。

 

 乗客の話だと、ナイムの街に近づいたため、馬車がスピードを落としていたところを賊に襲われたのだという。

 馬が殺され、御者が賊に斬られた。そして、馬車はバランスを崩し横転。

 だが、少女二人が、メイスという金属でできた短い棍棒を手に、賊十数名を相手に応戦したのだという。

 

 結果として、彼女たちの奮闘のおかげで、賊は撤退を余儀なくされたらしい。

 だが、彼女達も若い命を散らせることとなってしまった。

 

「雨がひどい。すぐに代わりの馬車が来るはずだが、君も他の乗客と一緒にいた方がいい」

 事切れた少女の元から離れようとしないフードの人物に、ガイウスは声をかける。

 

「……いいんです。もう、すべてが終わってしまったんです」

 声を聞いて、ガイウスはフードの人物が女性だと分かった。

 

「すまない。何と言えばいいのか分からない。だが、このままでは凍えてしまう……」

 ガイウスはそう言って、フードの女性の前に移動して、その目を見て話そうとした。

 

 だが、そこでガイウスはその女性の顔を一瞥して、言葉を失ってしまった。

 

「……それに、私のような女と一緒では、みなさんに迷惑がかかります。どうか、このまま私をここに置いていって下さい」

 かすれる声でそう言うと、女はそれ以上何も言わなくなってしまう。

 

 しかし、ガイウスは代えの馬車がナイムの街からやって来ると、このフードの女、いや、少女を、それに無理やり搭乗させた。

 

 何であれ、彼女はまだ生きているのだから。

 そう自分に言い聞かせて。

 

 それが、どれほど残酷なことかを理解しながら。

 ただの自己満足のための偽善だと思いながらも。

 

 

 ……けれど、彼のこの行動は、やがて歴史を変えるきっかけとなる。



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③ 『依頼』

 今回も失敗だった。

 イルリアは、苦労して手に入れた今回の魔法アイテムでも駄目だったことに、がっくりと肩を落とす。

 

 バルネアに見つからないようにと、<パニヨン>の裏庭にジェノを呼び出して、杖型の魔法アイテムをためしてみたのだが、まったく効果がなかった。

 いや、それどころか、使用した魔法アイテムの出力を最大にしすぎた弊害で、杖に亀裂が入り、壊れてしまった。

 これでは、下取りに出すことも出来ない。

 小金貨二枚以上払って競り落としたというのに、大損もいいところだ。

 

「イルリア。もうこんなことは止めろ。何度も言っているだろう。あれは俺のミスだ。お前が気にすることじゃあない」

 ジェノがいつもと同じ言葉を口にしたので、イルリアは不機嫌そうに彼を睨む。

 

「うるさい。何度も言っているのは私も同じ! あれは私の失敗。あんたには大きな借りを作ってしまったの。それを返すために私が勝手にやっているんだから、あんたに心配される筋合いはないわ」

 無茶苦茶なことを言っている自覚はあるが、イルリアは叫ばずにはいられなかった。

 ジェノの、被害者の厚意に甘えるなど、最低だ。自分の不始末に責任を持てない人間に、イルリアは成るつもりはない。

 そう。被害者ぶって、全てを投げ出すあんな奴らと自分は違う。

 

「頑固だな」

「あんたにだけは言われたくない!」

 ジェノのふざけた一言に文句を言い、イルリアは壊れてしまった杖を再び布に包む。

 

「ジェノちゃ~ん。ジェノちゃ~ん、どこ~」

 不意に、間延びした女の人の声が聞こえてきた。間違いなくバルネアの声だ。

 

「ふっ、あはははははっ。ほら、バルネアさんが呼んでいるわよ。ジェ・ノ・ちゃ・ん」

 珍しく渋面のジェノに、イルリアは普段の仕返しとばかりに彼をからかう。

 

 温厚で天然なバルネアさんが相手では、ジェノも強くは出られない。

 あの人にかかれば、女はもとより、男も全て『ちゃん』づけで呼ばれる事となるのだ。

 

 ジェノは小さく嘆息し、家の中に戻って行く。

 イルリアもそれに続く。

 

「ああっ、よかったわ。リアちゃんと裏庭にいたのね」

 裏口から戻ってきたイルリア達を発見し、バルネアは嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。

 本当に、この人は三十代半ば近くにはまったく思えない。少なくとも十歳は若く見える。

 

「ええ。ですが、バルネアさん。俺のことはどうか、ジェノと呼んでくれませんか?」

「どうして? ジェノちゃんの方が可愛いじゃない。って、それよりも、お客様よ。自警団の団長さんと、カーフィア神殿の神官様らしいわ。ほらっ、早く、早く」

 天真爛漫な笑顔で、バルネアはジェノの背中を押す。

 本当に、この人が相手では、あの朴念仁も形無しだと、イルリアは微笑む。

 

「冒険者としての仕事なら、私も行かないとね。……それくらいの利子は払うわよ」

 イルリアは小さく呟き、ジェノを追いかける。

 

 

 店の方の、一番奥の席に座っていたのは三人。

 白い制服を纏った、顔見知りの自警団の団長ガイウス。そして豪華なローブを身にまとった四十代半ばくらいの女神官。そして、フードを深めに被って顔を俯ける人物が一人。小柄なことから、女性だろうか?

 

「ジェノ。おお、イルリアもいたのか。これはちょうどよかった。お前達に頼みたいことがあって訪ねてきたんだ」

 ガイウスは、そう言って笑みをこちらに向けてくる。

 

 しかし、腕の立つジェノに用事があるのは分かるが、たいした事ができない自分にまで用があるというのは不思議な話だとイルリアは思う。

 

「まさか、これを私が手に入れたことを知っている? いや、それはないわよね」

 イルリアは最近手に入れた秘密兵器が入った腰のポーチに手をやる。

 

 今までは、ジェノの足を引っ張るだけだったが、これがあれば自分も戦える。けれど、これが悪人の手に渡ったら、大変なことになる。

 この存在は秘密にしておかなければならない。だから、イルリアは顔なじみで信用が置ける魔法使いにしかこの存在を明かしていない。

 

「まぁ、とりあえず座ってくれ」

 ガイウスの言葉に、ジェノは頷き、三人の対面の席に座る。イルリアもジェノの隣に座る。

 

「団長さん。皆さん、昼食はもうお済みですか?」

 バルネアが、お客様と同じ様に、イルリアとジェノの前にお冷を置き、笑顔でガイウスに尋ねる。

 

「あっ、ああ。俺は済ませました。神官様は?」

「私も済ませています。ですが、この娘は朝から何も食べていませんので、消化の良いものを少量出して頂けませんか? かの有名な貴女の料理ならば、食が進むかもしれません」

 神官はそう言って、隣に座るフードの人間――少女なのだろう――を一瞥し、バルネアに笑みを向ける。

 

「……なんなの、この人?」

 思わず声が出そうになり、イルリアは慌ててそれを飲み込む。

 

 言葉こそ丁寧だが、この神官からは傲慢さが溢れているように思える。

 フードの少女に向けた目が、慈しみではなく哀れみに見えた。そして、その哀れな少女に施しをする事に陶酔しているように見えるのは邪推だろうか?

 

「はい。承りました」

 しかし、バルネアは気にした様子もなく、笑顔で応えて厨房に行ってしまう。

 

「それでは、神官様……」

「はい。分かりました」

 ガイウスに促されて、女神官が立ち上がる。

 

「自己紹介が遅れてしまい申し訳ありませんでした。私の名はロウリア。女神カーフィア様に仕える神官の一人です。

 ジェノさん、でしたわね? この度、貴方達にご依頼したい事があり、こうしてお訪ねした次第です」

 ロウリアと名乗った神官は笑顔で言うが、やはりイルリアは彼女の目があまり好きにはなれない。明らかに、あれはこちらを見下している目だ。

 

「これは、カーフィア神殿からの正式な依頼です。ですので、報酬はお一人につき小金貨一枚をお約束致します。ジェノさん達は三人のチームとのことですので、小金貨三枚ですわ。もちろん、移動費などは全て別にお支払い致します。これは、破格の……」

 ロウリアの話は突然遮られることになった。

 

「もういい。この依頼は受けられない」

 ジェノがそう言って、席を立ったのだ。

 

「まっ、待って下さい! これは、カーフィア神殿からの正式な依頼です。この上なく名誉なことなのですよ! それを何故断ると言うのですか!」

 恐らく依頼を断られるとは微塵も思っていなかったのだろう。ロウリアは驚き、そして怒りを顕にする。

 

 ジェノはそんなロウリアに対して、冷たい視線を向ける。

 

「まだ、報酬が足りないとでも言うのですか? 正規の冒険者ですらない貴方達に、これ以上の報酬を支払えと?」

 的はずれなことをいうロウリア。

 向かいで頭を抱えているガイウスを見て、イルリアは彼も自分と同じ気持ちなのだと察して同情する。

 

「あんたは高額な報酬を提示した。仕事の内容も告げずにな。冒険者見習いなら、高額報酬をチラつかせれば思うように動くと思ったのか? そんな不誠実な依頼主の仕事を受けるわけには行かない」

 ジェノはそう言い捨てると、ロウリアに背を向ける。

 

「待ってくれ、ジェノ。神官様が言葉足らずだったことはすまなかった。だが、ここは俺の顔を立ててくれないか? これは、けっしてお前たちに不利益な話ではない。そして、俺達自警団と、神殿関係者だけでは対応ができないことなんだ」

 ガイウスの説明に、ジェノは振り返る。

 

「ガイウスさん。それならば、見習いの俺達ではなく、正規の冒険者に頼むべきではないでしょうか?」

「いや、俺はお前たちに頼みたいと思っている。理由は三つ。一つは、お前達のメンバーにはイルリアがいるからだ」

 ガイウスは、そう言い、イルリアの方を向く。

 思いもかけない展開に、イルリアはただ驚くしかない。

 

「こちらのフードの嬢ちゃんを異国のとある村に送り届けるというのが、大まかな内容だ。しかし、この嬢ちゃんは病を患っている。他人に感染する類の病ではないが、日常生活が一人では困難なほど重篤な状態なんだ。そのため、どうしても女手が必要になる」

 ガイウスの説明に、ジェノは再び席に座る。

 

「……続けて下さい」

 神官であるロウリアには目もくれず、ジェノはガイウスに続きを促す。

 

「もう一つは、リットの存在だ。病に直接効果があるのかは、門外漢の俺には分からんが、癒やしの魔法が使える者が同行するに越したことはないだろう。

 だが、魔法の使い手は希少だ。この街のカーフィア神殿にも、その使い手は五名しかいない。だから、何週間もその使い手をこの嬢ちゃんに付き添わせることは出来ないそうなんだ」

 そこまで聞き、イルリアは納得する。

 なるほど、確かにこれほど今回の仕事に適した冒険者のチームはいないだろう。

 

「そして、最後の一つはもっともシンプルな理由だ。俺が信頼をおける冒険者が、ジェノ、お前しかいない。だから、俺はお前達を神官様に推薦したんだ」

 ガイウスの言葉に、ジェノは「分かりました。詳細を教えて下さい」と返す。

 

「おっ、送り届ける場所は、セラース大陸の山奥の村。かの高名な聖女、ジューナ=ハルネス様がいらっしゃる村ですわ」

 自分を無視されて話が進むことに業を煮やしたのだろう。ロウリアが、二人の話に割り込んでくる。

 

「……聖女、ジューナ様……」

 イルリアはその名前をよく知っている。

 銅貨一枚払わずとも、ありとあらゆる病人に分け隔てることなく神の奇跡を施し、数多の病める人々を救っていると言われる人物だ。

 しかも、その魔法の力は歴史でも類を見ないほど素晴らしいものだと言う。

 

「ジューナ様なら、こいつの事も……」

 ジェノの顔を一瞬見て、イルリアは心を決める。なんとしても、かの聖女様に彼を治してもらおうと。

 

 それに、ジューナ様も、女神カーフィアに仕える身分だ。同じ信徒を遠方より送り届けてきた人間を無下にはしないだろう。もしかすると、直接お会いできるかもしれない。

 そうすれば、チャンスはある。

 

「はい。お待たせしました」

 イルリアがそんな事を考えていると、バルネアが料理を持って皆が座る席にやって来た。

 料理は、シンプルなパン粥と野菜のスープ。そしてデザートのゼリー。

 特段珍しい料理ではないのに、どうしてこんなにいい香りがするのか、不思議でならない。

 

 バルネアはそれをフードの少女の前に配膳する。

 

「……あっ、あの……」

 フードの少女が、料理を前にしながら、何かをガイウスに伝えたそうに口ごもる。

 そう言えば、この少女の名前をまだ知らない。

 分かったことは、この少女さえ、ロウリアよりガイウスを信頼しているということだけだ。

 

「……サクリ。どうせ分かることだ」

 サクリと呼ばれたフードの少女は、しばらく考えた後に、小さく頷いた。

 それを確認し、ガイウスはそっとサクリのフードを脱がせて後ろにやる。

 

「っ!」

 思わず、イルリアは声が出そうになった。

 サクリという名の少女の見た目は、それほどまでに衝撃が大きかった。

 

 骨と皮だけ。本当に、心無い例えだが、その表現が一番的をいているだろう。

 目の周りの頭蓋骨の穴の位置が分かりそうだ。どこが骨で何処が筋肉かの境界さえあやふやの程にやせ細った顔。

 髪は肩の辺りで切りそろえられているものの、色素を失い老人のような白髪で、だいぶ痛みが酷い。

 

「ジェノ。彼女に残された時間は少ない。どうか、この娘を聖女様のもとまで送り届けてくれないか? 聖女様ならば、彼女を救えるかもしれない。頼む、このとおりだ」

 ガイウスは深々と、ジェノに頭を下げる。

 

「……詳しい話を聞かせて下さい」

 ジェノの表情は変わらない。だが、イルリアは彼がこの依頼を受けることを確信した。

 

 それなりの付き合いがある。ジェノが即答をしないのは、自分の見た目を哀れんでの行動だと、サクリさんに思わせないための配慮なのだ。

 

 そして、話し合いの結果、イルリアの予想通り、ジェノはこの依頼を受けることを決めたのだった。



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④ 『恨むべきものは』

 今後の話し合いが終わった後、馬車でこの街のカーフィア神殿に戻ってきたサクリは、先程まで一緒だったロウリアという名前の神官に案内され、お客様用の寝室に案内された。

 

 かなり上等な部屋だ。それに、体が思うように動かない自分のためにと、二十代半ばくらいの若い神官の女性を一人付けてくれた。

 地方の神殿の神官見習いの一人でしかないサクリには、破格の高待遇と言ってよいだろう。

 

 もっとも、それは、サクリが健常者であればの話だが。

 

「治療室を貸して頂けるとまでは思っていなかったですけれど……」

 サクリはベッドに横になり、心のなかでそう愚痴を口にする。

 

 この朽ちていくだけの体を少しでも長く持たせるためには、数時間おきの癒やしの魔法が必要だ。だが、自分の世話をするというこの神官の女性が、魔法をまったく使えないのは明らかだった。彼女からは魔法の力の片鱗を感じなかった。

 それに、サクリをベッドの上に横たわせると、布団をかけて彼女は部屋を出ていってしまったのだ。

 

「……私が地方とは言え、神殿長の娘だから、最低限の体裁を取っているだけ……」

 あのおせっかいな自警団の男性に連れられて、この神殿にやって来たばかりの自分に向けられた視線を、サクリは覚えている。

 

 見苦しい者を、直視したくない者を見る目。

 あれこそが、このような心無い上辺だけの気遣いをする、あのロウリアと言う名前の神官の気持ちなのだろう。

 

 重病の自分が死んでも、自分たちは取るべき処置をしっかりとしていたと言い訳ができるようにしているだけだ。

 

「……このままなら、私は早くに死ねるのかな?」

 今の自分には何も残っていない。

 大切な友達を失った自分には、何も残されていないのだ。

 それならば、このまま楽になりたい。

 そう思ってしまう。

 

「……でも、何もかもを放り投げて死んでしまっては駄目。命の限り生きようとしない者を、カーフィア様は楽園に導いては下さらないから……」

 

 大切な友人を目の前で失ったあの時、サクリは彼女達と運命を共にしたいと思った。

 だが、そんな彼女が考えを変え、生きようとしたのは、ただただ、天国での再会を願ったからだった。

 

「私を守って、カルラもレーリアも勇敢に戦った。だからカーフィア様は絶対に、二人を天国に導いて下さったはず。だから、私も天国に行けるように頑張らないと……」

 もうサクリには、この世に望むことはない。

 ただ、死後に大切な友人に再会することだけを願い、それだけを希望に生き続ける。

 

「カーフィア様。貴女様をお恨みしたことを、なにとぞお許しください。私は、貴女様の教えを最後まで守り、生きることに努めます。この苦しみにも耐えます。ですから、どうか私が死んだら、あの二人のもとに導いて下さい……」

 

 そう、カーフィア様をお恨みするなど、失礼この上ない話だ。

 自分がこんなに不幸なのは、カーフィア様のせいではない。

 だって、カーフィア様は私にあの二人との再会する方法を教えてくださっているのだから。

 

 ……では、私は誰を恨めばいいのだろう?

 

 十五歳の若さで不治の病に侵された。

 そしてずっと、苦しんで、苦しんで……。

 

 最後の思い出にと、自分の命よりも大切に思っていた親友二人と旅をしていただけなのに、そんなささやかな願いさえ奪われたこの身の不幸は、一体誰のせいだというのだろう。

 

「……ああっ、そうなのですね……」

 

 子供でも知っていることだ。

 この世界は、もともと不完全な世界なのだ。だから、こんなにも悲しみに溢れている。

 だから、自分はこんなにも不幸なのだ。

 ささやかな望みさえ奪われるのだ。

 

「この世界が悪いのですね。私から奪うばかりのこの世界が……。それならば、こんな世界なんて、なくなってしまえばいいのに……」

 そんな事を願いながらも、サクリは微笑む。

 

 ようやく、見つけることが出来たから。

 自分が唯一、恨んでもいい存在を。



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⑤ 『懺悔』

「ふっふっふっ! まさか私達が、こんなところから忍び込んでいるとは、あの鬼婆でも気づくまい!」

 華麗に床に着地したカルラは、そんな失礼この上ない事を言いながら、悪い笑みを浮かべている。

 

「カルラ。静かにしないと駄目だよ」

 私は、カルラに注意を促し、彼女と同じ様に厨房に着地する。

 

 私達が通り抜けてきたのは通気孔。

 普段はどちらも細い目の網で蓋をされているのだが、これはただ納まっているだけで、少しずらしてやると簡単に外れるのだ。

 

「ああっ、ごめん、ごめん。目的の物とご対面できるかと思うと、ついテンションが」

「もう。見つかったら大変なんだから。早く貰うものを貰って、逃げないと」

「ふっ。サクリちゃんも悪い子になってくれて、私は嬉しいわ」

 カルラはメガネのブリッジ部分を中指で少し上げて、また悪い顔をする。

 

 金色の髪を短く切りそろえた、眼鏡がトレードマークのカルラは、黙っていればすごく知的で可愛い女の子に見える。

 いや、可愛いのは本当だ。そして、知的ではある。ただ、主にその知恵は、悪戯などの悪い事のためにのみフル活用されるのだ。

 

「だって、ケーキだよ、ケーキ。しかも、あの名店、<天使のため息>の季節の限定品!」

「そうよね。せっかく商人さんが、『皆さんでお食べ下さい』って言ってたくさん買ってきてくれるのに、いつも司祭様や神官様達がお代わりまでして食べるせいで、私達にはほとんど回ってこないもんね。

 そのような悪辣非道な行いが許されていいのか! 言い訳がない!」

 私はカルラと目で通じ合い、頷いて作戦を遂行する。

 

 カルラは厨房の入口のドアの前に移動し、耳を当てて足音を確認する。そして、慎重にドアを開けて目視で廊下にも誰もいないことを確かめる。

 そして、カルラが廊下を見張りながらも、左手で私に向かって親指と人差指でマルを作ったのを確認すると、魔法で作った氷によって冷やされている、小型の簡易氷室のドアを開ける。

 

 そこには、肉類の他に、白い大きな箱が置かれていた。

 これだ、間違いない。<天使のため息>の印が押されている。

 私はそのずっしりと重量感のある箱を両手で持ち上げて、にんまりと微笑む。

 

 本当なら、全部持っていって、自分たち神官見習い達で思う存分食べてしまいたいところだが、流石にそれをしてしまったら後が怖い。

 素早く、この持参した容器に入る分だけ入れて、貴重な甘味をみんなで分け合うのだ。

 

 私は簡易氷室から取り出した箱を素早く調理台に置き、嬉々として箱を開ける。

 

「…………えっ?」

 箱の中には、純白のクリームがたっぷりの、カットされたケーキが入っているはずだった。

 だが、そこには、ケーキなどではない、おぞましいものが入っていた。

 

 それは、赤ともオレンジとも見える中途半端な色の忌むべきもの。

 その大きささえも、毎日のようにやらされている、自衛のための訓練で使うメイスを彷彿とさせる最悪の存在だ。

 

「サクリちゃん、早く詰めないと!」

 放心して固まっている私のもとに、カルラが駆け寄ってくる。だが、彼女も私と同様に、箱の中身を見て、言葉を失う。

 

「なっ、なんで、人参が入っているわけ?」

「わっ、私にも分からないよ!」

 戸惑う、カルラと私。

 

 だがそこで、ガタッと、入口近くの調理台の一つが音を立てた。

 そして、その調理台の下の収納スペースが内側から開かれ、ひとりの少女が突然這い出てきた。

 

「……みぃつぅけぇたぁわぁよぉ!」

 地獄の底から響いてくるような怨嗟のこもった声。

 私とカルラは、お互いに抱きついて悲鳴を上げる。

 

 顔にかかった紫色の長い髪をかき分けて迫ってくるのは、私達と同じ十四歳の女の子。

 若輩の神官見習いながらも、その類まれなる調理の腕と情熱から、この調理場の管理を任されているレーリアだった。

 

「現行犯よ。言い逃れは出来ないわ。おとなしく投降しなさい! 悪いようには……するけれど、手心を少しだけ加えてあげてもいいわ」

 普段は温厚で、それでいて頼りになる優しい友人の面影はそこにはない。今の彼女は、明らかに激怒している。

 

「くっ、出たわね、鬼婆!」

「だれが、鬼婆よ! 私はあんた達と同い年でしょうが!」

 カルラの言葉に、レーリアは声を荒げる。

 

「くっ、この迫力! 流石は、神官見習いのみんなに聞いた、『あいつ絶対サバを読んでいるだろうランキング』一位なだけはあるわね!」

「わけのわからないこと言っているんじゃあないわよ! 神官様達のお菓子を盗もうとするその悪行! カーフィア様の信徒として、恥ずかしいと思わないの!

 おかげで私は、神官様や司祭様達から、お前が盗み食いしたんだろうという冷たい目で見られているのよ!」

 カーフィア様の名前を出しながらも、私怨たっぷりにレーリアは言う。

 

「まっ、待って、レーリア。確かに私達の行いは褒められたことではないけれど、これは何も私利私欲のためにやっている訳ではないのよ!」

 私は懸命にレーリアの説得を試みる。

 

「へぇ~。面白いことを言うわね、サクリ。いいわ。言い訳くらいはきいてあげようじゃあないの」

 腕組みをして、レーリアはそう言ってくれたが、目がまったく笑っていない。

 私はつばを飲み込んで、何とか口を開く。

 

「レーリア。カーフィア様は仰っているわ。『恵みは、みんなで分かち合うべきものだと』けれど、神官様達はその教えを守ろうとはしていないわ!

 だって、私達神官見習いには、ケーキの欠片すら回ってこないのよ! いつも一人に一個は当たってもいい数を頂いているのに!」

「そうよ! サクリちゃんの言うとおりだわ! それに、私達は成長期なのよ。しっかりとした栄養を取らなければいけないのよ!

 それなのに、神官様達は自分たちの欲望を満たすためだけに、一つ、また一つとケーキを貪り、私達の貴重な甘味を奪っている! つまりは、私達若者の健やかな成長を阻害しているのよ! こんな、こんな非道をカーフィア様がお許しになるはずがないわ!」

 私とカルラは、二人でレーリアを懸命に説得する。

 

「ねぇ。貴女達。そんな言い訳が、本気で通じると思っているの? 神官様達に多少の非はあるとしても、盗みをしようとすることの方が、カーフィア様がお許しにならないとは思わないの?」

 レーリアは体を震わせながら、引きつった笑顔を私達に向けてくる。

 

「……ねぇ、サクリちゃん。私達、もしかして火に油を注いじゃったのかな?」

「あっ、はははっ……。そうみたい……」

 私達はお互いを見つめて頷くと、その場にひれ伏した。

 

「すみませんでした、レーリアお母さん!」

「許して下さい。神官見習いのみんなが、甘味に飢えているのは本当なんです。だから、今回の事も、今までも、例えるならば、新鮮な死肉を貪りたくなるグールのような耐え難い衝動に負けてしまっただけなんです!」

 

「誰がお母さんよ! そして、カルラ! そんな修辞を神殿関係者が言うんじゃあないわよ!」

 

 私達は心から謝罪をしたが、結局許してはもらえなかった。

 司祭様たちにまで私達の悪事は報告されて、大目玉を食らったことはもちろんの事、私は一週間、大嫌いな人参のフルコースを食べさせられることとなったのだった。

 

 

 

 

 

 

 目を覚ますと、見慣れない天井が視界に入ってきた。

 そして、先程までのように体を動かそうとしても、体がまったく動いてくれない。

 

「ああっ、そうか……。夢を見ていたんだ……」

 サクリはそう呟き、力なく笑う。

 

 それは、一番楽しかった頃の思い出。

 まだ、この体が病魔に蝕まれる前のころのかけがえのない記憶。

 

「あの頃は、当たり前のように走り回っていたのに……」

 もう、今の私には、あの頃の面影はない。

 自分でも鏡を見たくないほどの、醜い姿に変わってしまったのだから。

 

「でも、それでも……。カルラとレーリアが一緒だったら、私はそれだけでも幸せだったのに……」

 

 病状が悪化するにつれて、私に対する周囲の反応は変わっていった。

 母は厳格な人なので、特別扱いをされたことなどないのだが、周囲の人間はそうではなかったことを私は思い知った。

 

 それまで仲がいいと勝手に私が思っていた友人たちも、一人、また一人と減っていった。そして、優しくしてくれていた神官様達の一部は、あからさまに私を嫌悪し始めた。

 

 分かっていなかった。

 私がそうだと思っていなかっただけで、みんな私を神殿長の娘としてしか見ていなかったことを。

 

 私と最後まで一緒にいてくれたのは、カルラとレーリアの二人だけだった。

 私の本当の友人は、あの二人だけだったのだ。

 

 ……私は、もう自分が長くないことを知っている。

 だから、懇願した。

 大切な、本当に大切な親友二人と、旅をしてみたいと。

 

 そして、条件付きながらそれを、母は……、いいえ、神殿長様は認めてくださった。

 

 でも、でも、その結果が……。

 

「ごめんなさい。カルラ、レーリア……。私が旅をしたいなんて言い出さなければ、貴女達は死ななかったのに……」

 サクリの瞳から涙がこぼれ落ちる。

 

「死ぬのは、こんな私だけで良かったのに……。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 サクリはそれからずっと懺悔の言葉を繰り返した。

 

 けれど、彼女の懺悔の言葉を聞き入れ、それを許してくれる者はいないのだった。



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⑥ 『その店は……』

 船の出発は朝の十時。

 港までそう距離が離れていないこともあり、待ち合わせは九時でも問題はないのではとサクリは思う。だが、あの冒険者見習いのジェノという男性が指定してきた時間は、七時半。

 いくらなんでも早すぎるのではないだろうか?

 

 もっとも、サクリは船に乗ったことがないので、船に乗るための手続きにどれほど時間がかかるのかを知らない。

 

「サクリ。貴女に、カーフィア様のご加護がありますように」

 同じ馬車に同乗し、昨日の料理店前に到着すると、神官ロウリアは、満面の笑みでそうサクリに言葉を掛けてくれた。

 

 ああ、そうだろう。笑顔にもなるはずだ。

 これで、私が旅の途中で死んでも、責任を負わずにすむのだから。

 

 サクリは内心ではそう思いながらも、「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べる。

 

 その言葉に笑みを返しながらも、ロウリアは、席に座ったまま立ち上がろうとしない。向こう側にも出入り口があるのに。

 

 ただ、サクリが馬車から降りる手助けをするようにと、同伴してきた神官見習いの少女に命令するだけで。

 

 この国の首都にある神殿で神官として働いているから? それとも魔法を使う事ができるから? 

 理由はわからないが、何処をどうすればこれほど心無い行いを平然とできるのだろう。

 

 あのおせっかいな自警団の団長さん……ガイウスさんだったろうか?

 あの方がどうしてこの街の神殿に私の身柄を預けるのを止めて、自分の知り合いの冒険者に私の護衛を任せようとしたのかを、この人はまったく分かっていない。

 

 そう、分かっていない。

 私を預かることを渋り、のらりくらりと話を逸らしてガイウスさんを激怒させたというのに、彼が冒険者に任せると言った途端、「そうして頂けると助かりますわ」と笑顔で言ったのだ、この人は。

 

「あっ、あの、失礼します……」

 フードを被っているとはいっても、サクリの容姿はもう知られてしまっている。だから、神官見習いの少女は、明らかに嫌そうな顔で、サクリの背中に回り、両脇に腕を入れて彼女を馬車から下ろす。

 

 こんな扱いをされても、自分で馬車から降りることさえ出来ない事に、サクリは歯噛みする。

 いつも感謝はしていたが、カルラとレーリアがどれほど自分のために良くしてくれていたのかを再認識し、サクリは顔を俯けた。

 

「あっ!」

 きっと、一瞬でも早く腕を離したかったのだろう。神官見習いの少女は、サクリがきちんと地面に足をついて体重を足に移す前に腕を離してしまった。

 そのため、サクリはバランスを崩して顔から地面に倒れていく。

 

 地面にぶつかる。そうサクリは覚悟して目を閉じたが、いつまで経っても衝撃はなかった。

 不思議に思い、サクリが目を開けると、自分の体が空中に浮いていることに気づく。

 

「危ないなぁ。俺がいなかったら、大事故確定だったぜ」

 淡い茶色の髪と青い目の少年が、そう言って口の端を上げる。

 

「まぁ、本来君はエスコートをされる側だからな。それも仕方ないか。まぁ、後は俺に任せておきなよ」

 その少年は、神官見習いの少女に満面の笑みを向ける。

 すると、宙に浮いていたサクリの体が勝手に体制を変え、足から綺麗に地面に着地する。

 

「イルリア、後は頼むぜ」

「言われるまでもないわよ」

 いつの間にか、店の前に出てきていた赤髪の少女、イルリアがサクリの体を支えてくれた。すると、今までまったく感じなかった自重が戻ってきて、サクリはイルリアに抱き支えられる。

 

「今のは、魔法? でも、こんな魔法なんてまったく知らない……」

 今はもうまったく使えないが、サクリも健康だったときには魔法の才能を周囲から認められ、期待されていた。

 だから、かなり魔法には精通しているつもりだったが、空中で対象を止めて、意のままに動かす魔法などというのは聞いたこともない。

 

「あっ、あの、荷物は……」

 神官見習いの少女は、目の前で置きたことに驚きながらも、はたと自分の仕事を思い出したのだろう。

 サクリの荷物を両手で抱え、それをどうするべきかサクリ本人に尋ねてくる。

 店の中まで自分で運ぶつもりはないようだ。

 

「俺が預かる」

 ジェノが少女から荷物を受け取り、馬車の中から動かないロウリア神官を睨みつける。

 

「引き継ぎはこれで終了だ。後は、仕事が完了したら報告に行く。これ以上何か確認しておくことがあるか?」

 

 ジェノの怒りのこもった声にも、ロウリアは、

 

「ええ、それで結構です。確かにお渡ししましたよ」

 

 と笑顔で答える。

 

 そして、彼女は神官見習いの少女と御者に命じ、とっとと神殿に戻って行った。

 

「……まずは、店に入って下さい。朝食は摂りましたか?」

 馬車を睨みつけていたイルリアが、表情を一変させて、笑顔でサクリに尋ねてくる。

 

「あっ、いえ、食欲がなかったものですから……」

 サクリは正直に答える。

 ただ、それよりも、いつまでも彼女に支えられていることが申し訳なくて仕方がない。

 

「ジェノ。やっぱり朝食は食べてないって」

 しかし、イルリアはサクリを抱き支えているというのに、嫌悪の表情をまるで浮かべていない。

 

「分かった。バルネアさんに言っておく。リット、まずは手はずどおりに、彼女に癒やしの魔法を」

「はいはい。了解、ジェノちゃん」

 ジェノ、そしてリットと呼ばれた少年は、サクリが何かを言う前にテキパキと自分の仕事をこなすべく店の中に入っていく。

 

「さぁ、ゆっくりでいいですからね。ああっ、自分の足で歩くのが辛ければ言って下さい。力が有り余っている男連中に、お姫様抱っこで運ばせますから」

「えっ?」

 驚いてサクリがイルリアの顔を見ると、彼女は笑っていた。

 そのことで、サクリは冗談を言われたのだと気づく。

 

 こんな姿になってしまってから、カルラとレーリア以外の人に微笑みかけられたのは初めてだ。

 

 イルリアの肩を借りて、サクリは足を進め、店の入口近くの席に足を進める。すると、先に待っていたリットが椅子を引いてくれた。

 

「失礼。ここからは俺がエスコートさせて貰うぜ」

 また先程の魔法を使ってくれたようで、イルリアの手からサクリの体は離れて少し浮き上がり、静かに椅子に腰を降ろすこととなった。

 

「さて、サクリさん……。いや、歳は近いみたいだから、サクリちゃん、って呼ばせてもらってもいいかな?」

「さっ、サクリちゃん?」

 サクリはあまりの事に驚くしかない。

 

「馴れ馴れしいわよ、リット。そんな事はいいから、さっさと魔法を使いなさいよ」

 イルリアの文句を受けて、リットは「へいへい」と肩をすくめて、サクリの頭の上に右手をかざす。

 すると、次の瞬間、イルリアの体が温かな光に包まれる。

 

 すぅーと胸の苦しさが軽くなっていく。完全に苦しさが無くなったわけではないが、今までとは雲泥の差だ。

 

「すっ、凄い。胸が軽くなりました。こんな癒やしの魔法を使えるなんて、貴方はいったい?」

 旅の間はずっとレーリアがいやしの魔法を定期的に掛けてくれていたが、それよりも遥かに高位の癒やしの魔法のようだ。

 しかも、それをこともなげに使ってみせるなんて……。

 

 サクリが驚いてリットを見る。すると、彼は微笑み、

 

「失礼、自己紹介が遅くなってしまったね。俺はリット。自他ともに認める天才魔法使いなんだ。目的の村に着くまでの間、サクリちゃんの健康管理は俺に任せてよ」

 

 そう言って片目をつぶってみせる。

 

「ああっ、こいつのことは気にしなくていいですから。ただの女ったらしです」

 イルリアはそう言って、外れそうになっていたフードをかぶり直させてくれる。

 

「改めまして、私の名前はイルリア。歳は十六歳。まぁ、こいつもジェノも、みんな同い年なんですけどね。

 船旅の間は、サクリさんと同室で過ごさせてもらおうと思っていますので、どうかよろしくお願いします」

 イルリアはにこやかに微笑む。

 

 何故だろう?

 リットさんはともかく、自分の醜い容姿を知っているはずのイルリアさんが、自分に笑みを向ける理由が分からない。

 

「は~い。お待たせ。今日はリゾットにしてみたわ。これから長い旅をするのだから、無理をしない範囲で、しっかり食べてね」

 店の主らしき女性――バルネアが笑顔でトレイを片手にサクリの座る席にやって来る。

 

 そこで、改めて彼女の名前を思い出すと、サクリは何処かで聞いたことのある名前だと思った。

 

「あっ、そう言えば……」

 今回の旅の経路を打ち合わせしていた時に、レーリアができることなら行きたいと言っていた料理店があった。

 たしか、<パニヨン>という名前のお店で、その料理人の名前がバルネアだったはずだ。

 

 そうだ、だから久しぶりに美味しい料理だと思って、いつもより食が進んだんだ。

 だって、この人は、料理上手なレーリアが憧れ続けていた凄腕の料理人なのだから。

 

 昨日はそんな事を思い出す余裕もなかったが、この店こそが……。

 サクリは涙がこみ上げてきそうになる。

 できることならば、カルラとレーリアの三人でこの店を訪れたかった。

 

「さぁ、ゆっくりでいいから食べてみて。美味しく出来ていると思うから」

 バルネアは、顔を俯けたサクリの頭を優しく撫でて、食事を勧めてくれる。

 

「飲み物を置いておく。足りなければ言ってくれ」

 ジェノがそう言って、柑橘系の香りのする飲み物の入ったコップを配膳してくれた。

 

 この街のカーフィア神殿とは異なる温かな対応に感極まって、サクリは思わず落涙してしまうのだった。



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⑦ 『堕落』

 サクリは、小盛りの五種類のリゾットを少しずつ味あわせてもらった。

 

 キノコのリゾット、トマトのリゾット、あさりのリゾット、野菜のリゾット。どれも美味しかったが、一番驚いたのは、チーズリゾットだった。

 チーズの香りを嗅いだときには、クドいのではないかと危惧したが、一口食べてみると深いチーズの旨味とコクは感じるのに、クドさはまるで感じなかった。

 

 サクリはこのチーズリゾットは完食する事ができた。そして、他のものも僅かに残しただけ。

 もしも食べられるのであれば、残さず食べたかった。そう思うほど、どのリゾットも絶品だった。

 

「すみません、少し残してしまいました。ですが、その、とても美味しかったです」

 ちょうどデザートまで運んできてくれた料理人のバルネアに、サクリはお礼を言う。

 本当は笑顔でお礼を言いたかったが、今の自分がそんな事をしても気味を悪く思われてしまうだけだと思い、それは自重する。

 

「良かったわ。サクリちゃんに気に入ってもらえたみたいで。今すぐには食べられないでしょうけれど、まだ時間はあるわよね? 口直しのゼリーも、食べられそうなら食べてみてね」

 満面の笑みを浮かべるバルネアを見て、本当に感じの良い人だとサクリは思う。

 

 名声を得た人というのは、得てして自尊心が高くなるものだが、この人からはそういった感じを受けない。

 あまりにも受けなさすぎて、本当にこの人がこの料理を作った高名な料理人なのかと疑いたくなってしまうほどだ。

 それに、三十代の料理人だと聞いていたが、あまりにもこの人は若く見える。

 

 そんな事を考えながらも、サクリは休憩をはさんでデザートも美味しく頂いた。

 

「すまないが、少し話を聞いて貰ってもいいだろうか?」

 黒髪の少年――ジェノが、サクリに話しかけてくる。

 

「はっ、はい」

 サクリはそう答え、フードを被り直す。

 

 食事中はずっとフードを外していたので、今更であることは分かっている。だが、こんな凛々しい顔立ちの同年代の異性を前に、いつまでも醜いこの顔を晒すことをサクリは嫌った。

 

「これからの行程を簡単にだが説明しておきたい。もちろん、これは決定ではないので、なにか要望があれば出来得る限りの配慮はするつもりだ。まず、これから何のトラブルがなくても、十日間は船の上での生活になる。そこで……」

 ジェノはサクリがフードを被ったことには何も言わず、これからの旅についての説明をしてくれた。

 

 簡単に話をまとめると、サーフィア神殿で予約していた部屋を変更し、簡易な浴場とトイレのついた部屋を、向かい合う形で二部屋取っているらしい。そして、その一室にサクリはイルリアと一緒に寝泊まりすることになるのだそうだ。

 食事は基本的には、食堂に行って食べるのが一般的らしいが、その辺りはすでに交渉済みで、部屋まで毎回ジェノ達が運んでくれるのだと言う。

 

「……あとは、定期的に、一日三回、朝昼夜の食事前にリットが魔法を掛けに行く。それで病状は安定するだろう。ここまでで質問はあるだろうか?」

 

 非常に丁寧かつ端的で分かりやすい説明を、ジェノはしてくれた。

 そして、その細やかなないように、サクリは驚く。

 

「いいえ。お話はよくわかりました。後のことは、皆さんにお任せいたします。ですが、よろしいのですか? そこまでして頂いて……」

 サクリは話を聞いていて、申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。

 

「貴女を無事に送り届けるまでが、俺達の仕事だ。何も気にすることはない。それでは、あと十五分ほどしたら船に向かう」

 ジェノは端的にそう言い、静かに立ち上がる。

 

「リット、イルリア。持ち物の再確認を忘れずにしておいてくれ」

 ジェノは仲間たちに告げると、奥の部屋に行ってしまった。

 

「はいはい、了解、了解」

 リットは軽い口調で答えて、一人取り残される形になったサクリに、顔を向けて苦笑する。

 

「すみません、無愛想な奴で」

 イルリアは申し訳無さそうに声をかけてくれた。

 

「あっ、いいえ……」

 そう口ではいいながらも、サクリは、どこか事務的な口調で喋るジェノのことを少し怖いと感じた。

 リットとイルリアが友好的に接してくれる分、ジェノの態度は冷たく思えてしまうのだ。

 

「ですが、あの神官様よりは、ずっと……」

 そう考えたサクリは、そこで自分が堕落してしまっていることにようやく気づいた。

 

 

 私は、これから死ぬのだ。

 そして、その瞬間までは懸命に生きようとしなければいけない。

 そうしないと、カルラとレーリアに再会することが出来ないのだから。

 

 だから、他人の優しさに甘えて、堕落をしてはいけない。

 何故なら、私は罪人だから。

 私のせいで、二人は死んでしまったのだから……。

 

 その上、私は、また罪を重ねようとしている。

 

 私は、大切な友人二人にさえ、本当のことを言えずにいた。

 そして、こんな私に、優しくしてくれようとしているこの人達にも……。

 

 

 

 リットとイルリアが、別のテーブルで荷物の確認をし始めたので、サクリはその間に、懸命に腕を動かして祈りの姿勢を取り、目をつぶって祈る。

 

「ああっ、カーフィア様。どれだけ苦しんで死ねば、私はカルラとレーリアに会えるのですか? どうか、私に罰をお与え下さい。それで、私の罪が許されるのであれば、私は喜んでそれを受け入れます」

 

 そうだ。今の自分は、気落ちしていたところで人の優しさに触れたものだから、勘違いをしてしまったのだ。

 もう、この世界には、自分は何も期待していない。

 いや、それどころか、こんな悲しみに溢れた世界を恨んでいる。

 

 私が苦しむのも、大切なものを奪われるのも、全てはこの不完全な世界のせいだ。

 

 そう、こんな世界なんて大嫌いだ……。

 

 

「サクリちゃん」

「はっ、はい」

 祈りが終わると、不意にバルネアがサクリに話しかけてきた。

 

「体が治ったら、また食べに来てね。まだまだ食べてもらいたい料理が、たくさんあるんだから」

 バルネアは微笑み、フードの上から優しくサクリの頭を撫でてくれた。

 

 本当に、ただ真っ直ぐに自分に向けられたその優しい言葉に、サクリはどうしていいのか分からない。

 

 ただ、涙が溢れてきてしまった。

 

 駄目なのに、自分は苦しんで死なないといけないのに……。

 

 

 サクリは何も言えずに泣き続けた。

 そんな彼女を、バルネアは優しく抱きしめ続けてくれたのだった。



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⑧ 『親友』

 代わり映えのない景色だとサクリは思った。

 

 つい半年前までは、当たり前のように走り回っていた庭をこんなにも遠くに感じることになるとは、サクリは微塵も思っていなかった。

 

 まだ十五歳になったばかりのサクリは、病が発覚してしばらくの間は、早く体が治ってくれないかと願っていた。

 そう、この時、彼女は知らなかったのだ。

 自分が侵された病が、不治の病であることを。

 

 だんだん体力が失われていく。

 ベッドから起き上がることも出来ないのだから、それは仕方がないと思っていた。

 体が良くなれば、また徐々に体を慣らしていけばいいのだと、軽く考えていた。

 

 自分をつきっきりで見て下さる司祭様も、薬師の方も、すぐに良くなると言ってくれていたから。

 

けれど、病はサクリの体を少しずつ、けれど確実に蝕んでいった。

 

 そして、それは、病に侵されて一年が経つ頃には、顕著になった。

 

 背中まで伸びた自慢の金色の髪は、色を失ってボサボサになっていく。

 食事は食べているのに、顔は痩せこけていくばかり。そして、次第に食事もあまり喉を通らなくなっていくと、それはいっそう加速していった。

 

 若くて健康的だったサクリの体は、急速に弱っていったのだ。

 

 それまで自分の専属だった司祭様や薬師が、この部屋を訪ねてくることもなくなった。

 心配をして、この病室に頻繁に来てくれるのは、カルラとレーリアだけになってしまっていた。

 

「ああっ、そうか。私は、このまま死ぬんだ……」

 もう分かりきっていたことを、サクリはある日、一人きりの部屋で口に出した。

 すると、少しだけ気持ちが楽になった。

 治るかもしれないという、儚い希望を捨てたことで、ようやく死を迎え入れるしかないのだと観念することができた。

 

 しかし……。

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、カルラ、レーリア。いままで、こんな私のためにありがとう。でも、これからは私の部屋には来なくていいよ。どうせ、私はもう助からないから……」

 病を発症してから一年半程が経った、私の十七回目の誕生日。

 

 それを心から祝ってくれた二人の親友に、私はそう切り出した。

 

 これが最後の誕生日だと、私は理解していたから。

 もう、体が殆ど動かない。そして、私の姿はとても人に見せられないほど醜くなってしまっていた。

 私が十七歳になったばかりだと言っても、誰も信じないだろう。

 私自身が、鏡を見たくないと思うほど、この体は老衰しきった老婆のような外見なのだから。

 

 それに、カルラとレーリアに申し訳がなくて仕方がなかった。

 二人が、懸命に神殿のお勤めを頑張って、時間を作ってまで私に会いに来ていることは知っている。

 

 これでも、神殿長の娘だ。

 年に応じて、仕事が大変になることくらい分かっている。

 

 それなのに、二人は今までと変わらぬペースで私を訪ねて来てくれている。それは、彼女達が懸命に頑張っているからに他ならない。

 

 

 余命幾ばくもない私のために、カルラとレーリアが苦労するのはおかしな話だ。

 

 私の世話を押し付けられた神官見習い達の中には、聞こえよがしに、『早く死んでくれないかしら』と、『こんな死に損ないのせいで、カルラさんとレーリアさんが苦労をされるなんて』と言うものさえいる。 

 しかし、彼女達の言うことは間違っていない。

 私は、これ以上生きていても、他人に迷惑を掛けるだけの厄介者に他ならないのだから。

 

 カーフィア様が自殺を禁止していなければ、私はとっくの昔に自らの舌を噛み切っていただろう。

 いや、それさえも、もう今の私にはできそうもないのだが……。

 

 

「ふざけないで! 何を言っているのよ、サクリちゃん!」

 いつも笑顔を浮かべているカルラが、私に向かって大声で叫んだ。

 

 物心ついた頃からの長い付き合いだが、こんなに激怒したカルラを見たのは初めてだった。

 

「そうね。私も流石に、今の言葉は許せないわ。こんなに長い付き合いなのに、貴女は、私達がどうしてこの部屋に来るのか分かっていないの?」

 レーリアは静かに立ち上がって、私の額をコツンと軽く叩く。

 

「なんで、大好きな友達のところに遊びに来るのを、やめなくちゃいけないのよ。私達が貴女に会いに来る理由は、貴女に会いたいから。ただそれだけ。

 それに、絶対に貴女の病は私達がなんとかしてみせる。そう言ったでしょうが」

 レーリアの言葉に、カルラも頷く。

 

「そうだよ! 私達はサクリちゃんに会いたいの! お話するのが楽しくて仕方がないの! 何? また誰かになにか言われたの? それなら、すぐに誰に言われたのか教えて。

 私のサクリちゃんを苦しめるとは許せん。八つ裂きにしてくれる!」

「だから、そんな物騒なことを口走るな! 貴女は、神官見習いとしての自覚を持ちなさい!」

 鼻息を荒くするカルラを、レーリアが大声で嗜める。

 

 それは、ずっと変わらないやり取り。

 それに気づいた私は、ふと、あの頃のことを。元気だったころの自分の姿を、この二人と笑い合っていた幸せな時間を思い出すことができた。

 

「……大丈夫よ。私達がついているわ」

「そうそう。私達がサクリちゃんとずっと一緒にいるから」

 知らぬ間に涙をこぼしていた私を、レーリアとカルラは優しく抱きしめてくれた。

 

 もう、私に迷いはなかった。

 最後の瞬間まで、この二人と一緒に生きていこう。

 

 私の死は避けられないけれど、それでもレーリアとカルラが一緒なら……。

 

 

 

 

 だから、久しぶりに会った、お母……いや、神殿長様に今回の話を持ちかけられたときには、私は嬉しかった。

 

 だって、旅に出ることができるのだ。

 かけがえのない親友と一緒に。

 

 

 ……私は、全てを受け入れると、神殿長様に答えた。

 

 

 すると、神殿長様は、私に儀式を施してくれた。

 魔法を使える神官様や司祭様達を総動員して、私の体が何とか旅に耐えられるようにして下さったのだ。

 

 おかげで、苦しいながらも少しだけ体が動くようになった。

 涙が出るほど嬉しかった。

 

 そして、カルラとレーリアに手伝ってもらいながら、私は懸命にリハビリに努めた。

 楽しかった。本当に楽しかった。

 体が少しだけでも動けるようになるのは。

 

 カルラとレーリアも本当に喜んでくれた。

 私が、杖を使いながら、部屋から神殿の入口まで一人で歩きついた時には、涙を流しながら喜び、抱きしめてくれた。

 

 そして、これから始まる旅に、三人で胸をときめかせた。

 

 あそこに寄ろう、ここに寄ろう。食事はあの店が良さそうだ。

 船旅での揺れは大丈夫だろうか? 路銀は足りるだろうか? 

 

 そんなとりとめのない会話が、何よりも楽しくて、幸せで……。

 

 幸せで……。



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⑨ 『痛心』

 エルマイラム王国を出港してから二日が経過した。

 船は今、大海原を進んでいる。

 

 乗船している客達は、景色を楽しんだり、海風を感じたり、釣りに興じる人もいるらしい。

 

 だが、病に侵されたサクリには関係のないことだった。

 ただ今朝も、自分達に割り振られた船室の小さな丸窓から、代わり映えのしない空と海面を見つめるだけで。

 

「……イルリアさん、すみません……」

 日に何度か、サクリは同室のイルリアに頼んでトイレに連れて行ってもらう。

 

 本当に、申し訳なくて恥ずかしい。

 この程度のことすら自分一人で出来ないことが、恨めしくて仕方がない。

 

「はい。分かりました」

 イルリアは嫌な顔ひとつせずに、サクリに肩を貸してくれる。

 それは本当にありがたいことなのだが、これで自分はいいのだろうかとサクリは不安になる。

 

「こんなに他人に甘えてばかりの私を、カーフィア様は楽園に、天国に導いてくださるのだろうか? もっと頑張らないと。もっともっと苦しまなければいけないのではないだろうか?」

 そのことが不安で仕方がない。

 

 出港前に、あの<パニヨン>という店で、他人の優しさに触れたあの時に抱いてしまったあの感情。

 それは、絶対に抱いてはいけないものだった。

 

 だって、カルラとレーリアが死んでしまったのは私のせいなのだから。

 それに、それは、絶対に叶わない願い。

 私は、もう……。

 

 サクリは一日中、罪の意識と自分の死後に痛心する。

 

 どうすればいいのだろう?

 イルリア達の助けを断って、自分で全てをする方がいいのだろうか?

 だが、そんなことは、この体ではできそうにない。

 それに、それは生きる努力を放棄してしまうことになるのではないだろうか?

 

「分かりません。分からないのです、私には……。カーフィア様、お教え下さい。私が罪を雪ぐ方法を……」

 懸命にサクリは心の中で、信仰する女神カーフィアに願う。

 だが、カーフィアは何も応えてはくれない。

 そのことが、いっそうサクリを苦しめる。

 

「……そうですよね。私のような罪深い人間に、愚か者に、カーフィア様がお言葉を掛けて下さるはずがないですよね。

 そうだ、もっともっと考えよう。考えないと……。私は天国に行けない。私はカルラとレーリアに会うことができない……。嫌だ、それは嫌だ……」

 

 出口のない思考の迷路に迷い込んだサクリは、心のうちでずっと、不甲斐なく罪深い自身を罵り、傷つけ、体だけでなく心まで病んでいく。

 

 だから、サクリは気づかない。

 そんな自身を、同室のイルリアがどのような思いで見ているのかを。

 

 

 

 

 

 

 いつものようにリットが癒やしの魔法をサクリに掛けてくれた。

 そして、いろいろと話しかけてくれたが、心ここにあらずと言ったサクリは、適当に頷くことしかしなかった。

 自身を責め続けることに懸命な彼女には、それが精一杯だった。

 

 やがてリットが部屋を去り、サクリはベッドに腰掛けながら、ずっと思考の迷路の中を一人で彷徨い続ける。

 傍らで椅子に座るイルリアに、話しかけることはおろか、視線を向けることさえしない。

 

「イルリア、交代だ。朝食を食べてきてくれ」

「……ええ。そうさせてもらうわ」

 ノックをして部屋に入ってきたのだろうが、サクリはジェノが部屋にやって来たことに気づかなかった。

 だが、サクリには別にどうでもいいことだった。

 

 この醜い顔をもう晒しているのだ。異性だからといって、今更何を恥じるというのだろう。

 

「サクリさん、朝食を食べてきます。すぐに戻ってきますので……」

「ええ」

 思考し続ける事に疲れたサクリは、イルリアの言葉にようやく反応する。もっとも、彼女の視線はぼんやりと上を見たままだったが。

 

 イルリアが座っていた椅子に、ジェノは無言で座る。

 虚空を見つめるサクリも無言だったので、先程までと同様に、無言の時間が続いた。

 だが、不意にジェノが口を開く。

 

「食欲がないのか?」

 そう問われ、サクリは視線を彼には向けず、「すみません」と謝る。

 

 今朝、サクリが目覚めると、すでに朝食の用意がされていた。

 それを彼女はイルリアに促されるままに口にしたのだが、デザートのゼリーを半分食べて、パン粥はほんの一口しか口にしなかった。

 

 別段、料理が不味かったわけではない。いや、むしろ美味しかった。

 しかし、だからこそ、サクリはそれ以上食べようとは思わなかったのだ。

 

「別に、俺に謝るようなことではないだろう。だが、無理にでも食べて置かなければ持たないぞ」

「……すみません」

 サクリはやはりジェノと視線を合わせずに、また謝る。

 

「何か食べたいものはないか? 船に備蓄されている食材で作れる範囲ならば、用意する」

 ジェノの言葉に、サクリは小さく嘆息する。

 

「いいえ。私には、そんな贅沢な事を頼む資格はありませんから……」

「資格? どういうことだ?」

「……死んでしまった人は、もう何も食べられないんです。それなのに、私だけが……」

 サクリの答えは答えになっていなかったが、ジェノはそれ以上、何も訊いてはこなかった。

 

 

 

 

 

 夕食も、サクリはほんの少し手を付けただけで、それ以上は食べようとはしなかった。

 朝食よりは食が進んだようだが、このままでは体が衰えていく一方だ。

 

 リットの魔法の効果で、病状はかなり安定しているものの、このまま手をこまねいているわけにはいかない。

 

 ジェノは自室で一人思考する。

 自分の今までの経験から、何を食事に出せばサクリが口に入れるのかを考える。

 夕食は、バルネアに倣ってリゾットを出してみたが、やはり自分程度の腕では、サクリの食指を動かすには至らなかったようだ。

 

 しばらく考え続けたジェノだったが、そこで旅に出る前に、バルネアに渡された物のことを思い出す。

 それは、この船の厨房を使わせてくれるようにと書いてくれた紹介状と一緒に渡された少し大きな布巾着。

 

『困った時に開けてみて。何かの役に立つかもしれないわ』

 あのバルネアさんがそう笑顔で渡してくれたものだ。もしかすると、サクリが食事をするきっかけになるものが入っているかもしれない。

 

 情けないとは思うが、自分のプライドなどどうでもいい。今は、藁にもすがりたい気持ちだった。

 

「……これは、種?」

 薄茶色の外皮に包まれたそれは、何かの果物の種のようだった。

 だが、果物の種をバルネアが渡した意味が、ジェノには分からない。

 

 しかし、布巾着の中には、種だけではなく、折られたメモ紙が入っていた。

 ジェノはそれを開く。

 

 そして、目に入ってきたのは、『バルネアさんのお料理教室♡』と丸っこい字で大きく書かれた文字だった。

 

「……やはり、バルネアさんの思考は、俺程度には理解できないな」

 ジェノは頭痛をこらえるように頭に手をやり、しかしそのメモを読み進める。

 

 呆れ顔だったジェノの顔が、次第に真剣なものに変わる。

 そして、「流石はバルネアさんだ」と、彼はバルネアを称賛し、早速、メモに書かれた事柄を実行することにするのだった。



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⑩ 『叫び』

 何も変わらない。

 

 今日も、私はただ生きる。

 

 死んで、天国に行くために。それだけを目標に。

 

「イルリア、交代だ。お前も昼食を食べてきてくれ」

「……そう。分かったわ」

 

 そんな会話が耳に入ってきた。

 だが、別にどうでもいい。ただ、今が昼だということが分かっただけだ。

 

「昼食を持ってきた。少しでもいいから、食べたほうがいい」

 ジェノがそう声をかけてきた。

 

「……ええ」

 サクリはそう答え、ベッドに腰掛けたままでも食べられるように設置された、移動式のテーブルの上のトレイに視線を移す。

 

 食べないと死んでしまう。だから食べよう。

 

 でも、美味しいと思ってはいけない。そんなふうに、食事に喜びを感じてはいけない。

 だって、もう、カルラとレーリアは食事を楽しむことも出来ない。それなのに、私だけが食事を楽しむなんて、そんなこと許されない。二人に申し訳がたたない。

 

 そして、きっとカーフィア様もそんな事はお許しにならないはずだ。

 

 私は、天国に行くんだ。それだけが希望。それだけが、今の私の願い。

 

「……これは……」

 食事にもう興味はないはずだった。

 だが、サクリはトレイの端の小皿に盛られた、真っ白い物体に心を惹かれてしまう。

 

 見たこともない料理だ。こんな純白の柔らかそうな物体は初めて見る。

 

「すごく変わった香り……。甘いようで爽やかな……」

 小皿を手にとって顔に近づけると、独特の香りがサクリの鼻孔をくすぐる。

 

 サクリはトレイの一番小さなスプーンを手に取り、その純白の物体を掬う。

 ゼリーよりも柔らかいそれは、たやすくスプーンで切れた。サクリはそれを口に運ぶ。

 

「……あっ……」

 優しい甘みと爽やかな香りが、口いっぱいに広がる。美味しい。こんなに美味しい甘味を食べたのは初めてだ。

 サクリはあまりの美味しさに、スプーンを動かし、二口、三口と食べ進める。だがそこで、彼女は自分のした事を理解する。

 

「あっ、ああっ……」

 サクリは小皿とスプーンを力なくトレイに戻す。そして、顔を俯けて涙をこぼす。

 

「すみません、すみません。カーフィア様。どうか、どうか、お許しください。私は、私はなんてことを……」

 胸のうちに留めておくことが出来ずに、サクリは声を上げて女神カーフィアに許しを乞う。

 

「……お願いします。私を見捨てないで下さい。どうか、私を天国へ……」

 涙ながらに懇願するサクリは、近くにジェノがいることさえ忘れて取り乱す。

 

 不意に、ダン! という床を叩く大きな音が聞こえた。

 その大きな音に、サクリは驚いて祈りの言葉を中断する。

 

 音のした方を見ると、ジェノが椅子を手にとって、それを床に置いた音だったことが分かった。

 彼は椅子から手を離し、サクリの元に歩み寄る。

 

「サクリ。何を怯えている。どうして、食事をするだけのことで、お前は神に許しを乞う必要があるんだ?」

 ジェノはサクリの目を見て、尋ねてくる。

 

「……いいえ。その、なんでもありません……」

「そんなわけがないだろ。……話してくれ」

 ジェノは視線をそらさずに、無言のサクリを見つめ続ける。

 

 本当は、何も言うべきではなかったのだろう。

 しかし、サクリの心はもう限界だった。

 助けを求めていた。悲鳴を上げていた。彼女の心は砕ける寸前だったのだ。

 

「……駄目なんです。このままじゃあ、私は天国に行けない! カルラとレーリアに会えなくなってしまう! だから、だから、私はもっと、もっと苦しまないと! 嬉しいとか、幸せを感じては駄目なのです!」

 サクリは叫ぶ。心のうちに溜め込んでいたものが、溢れ出してしまった。

 

「……ゆっくりでいい、もう少し詳しく話してくれ」

 ジェノは静かに椅子を手繰り寄せて、そこに腰掛ける。

 

 一度溢れ出してしまった気持ちは抑えられない。サクリは感情の赴くままに秘めていた思いを吐露する。

 それは決して分かりやすい話ではなかったが、ジェノは黙って話を聞いてくれた。

 

「……はぁっ、はぁっ……」

 あまりにも勢いよく喋り続けたことで、サクリは呼吸を乱す。

 けれど、話を聞いてもらえたことで、少しだけサクリは冷静さを取り戻す。もっとも、この行為にさえ、彼女は罪悪感を覚えてしまうのだが。

 

「なるほどな。大変だったんだな」

 ジェノの答えはあまりに素っ気ないものだった。

 だが、サクリはもともと彼から大した言葉が返ってくるのを期待してはいなかった。

 

 顔は綺麗だが、冷たい雰囲気のこの少年に、サクリはあまり好感を持っていなかったのだ。

 

 あの時も、ガイウスさんが丁寧に事情を説明してくれて、自分の護衛を依頼してくれた時にも、この少年はなかなか首を縦には振ってはくれなかった。

 船に乗るあの日の朝も、バルネアさんや、イルリアさんやリットさんの様には接してはくれなかった。

 

 いや、そんなことを他人に求める事こそ、堕落の極みだ。

 それを考えれば、自分の気持ちを吐露した相手が、この冷たい少年で良かったのかもしれない。

 

 そうサクリは思ったが、ジェノはそこで更に言葉を続ける。

 しかし、彼が発したのは、信じられない言葉だった。

 

「同情する。酷い友人を持ったんだな。いや、友人と呼んでいいのかすら分からん。そんな連中だけでも大変だろうに、さらにろくでもない女神を信仰しているとは……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、サクリの思考は停止した。

 何を言われたのか瞬時には理解できなかった。いや、きっと頭が理解するのを拒んだのだろう。

 しかし、その言葉の意味を理解した瞬間、サクリの心を支配したのは、激しい怒りだった。

 

「何を、何を言うんですか、貴方は! カーフィア様を愚弄するだけでなく、私の大切な親友を……。カルラとレーリアを!」

 怒りのあまりに体を震わせるサクリ。

 しかし、ジェノは眉一つ動かさない。

 

「何をと言われても、俺には理解できない。病に苦しむ信者に、さらなる苦しみを求める非情な女神なんぞを好き好んで信仰する気持ちも、死後もお前が苦しむことを願う者達を大切に思う気持ちも、まるで分からん」

「なっ……」

 

 何を言っているのだ、この男は。カーフィア様は、大地と人々の交流を司る慈愛の女神。そして、カルラとレーリアは、ずっと、私のそばにいてくれた。私を励まし続けてくれた。そして命を賭して私を、こんな私を助けてくれた最高の親友だ。

 それを、それを!

 

「くっ!」

 その無表情な顔を引っ叩いてやりたい。だが、サクリにはそんな力はない。

 だから、サクリができるのは、ジェノを睨むことだけだった。

 

「何だ、その目は? 違うのか? 俺の言っていることは間違っているのか?」

「違う! 違うに決まっている! 私がこんな目にあっているのは、この世界が不完全だから! カーフィア様は悪くない! カルラとレーリアの事を何も知らないのに、適当なことを言わないで!」

 サクリは叫ぶ。あらん限りの声で。

 

 すると、ジェノは「そうか」と言って微笑んだ。

 もっとも、微笑んだと言っても、ほんの少し口元を緩めただけなのだが、サクリにはそれだけで随分と雰囲気が違って見えた。

 

「それなら、もう自分を責めるのはやめろ。女神カーフィアも、お前の友人たちも、決してお前が苦しむことを望んでいるわけではないのだろう?」

 

 ジェノのその言葉に、サクリは何も言い返すことができなかった



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⑪ 『悔しさ』

「すっかり食事が冷めてしまったな。まだ食べられそうか? それならば代えを運んでこよう」

 ジェノはまた冷たい無表情に戻ったが、そう提案をしてくる。

 

「いいえ。結構です。冷ましてしまったのは私の責任ですから、これを頂きます。食べ物を粗末にするのは、カーフィア様の教えに反しますので」

 ジェノの提案を受けいれるのが腹立たしくて、サクリはそれを断り、再び白くて甘いデザートに匙を伸ばす。

 冷めてしまったパン粥などとは対象的に、このデザートは温くなってしまった。そのため味が少し落ちてしまったのだが、それでもサクリはそれを美味しいと思った。

 

 ジェノは何も言わない。

 ただ、彼はこちらの食事の邪魔をしないようにと思ったのか、サクリのベッドから離れ、入口近くの壁に背中を預ける。

 

「……」

 サクリはそんな彼を一瞥し、冷めてしまった他の料理も、少しずつだが口に運ぶ。

 

 腹が立つ。

 そう、これは、ほとんど交友のない他人に、自分の心を見透かされてしまったことへの羞恥からくる怒りだった。

 

 ――すみません、カーフィア様。私は、貴女様を他人に侮辱させるきっかけを作ってしまいました。

 

 信奉する女神様に対して、私はなんと不敬だったのだろう。

 

 ――ごめんね、カルラ。レーリア。私は、いつの間にか、貴女達を汚してしまっていたのね。

 

 何よりも大切な親友たちを、私はいつの間にか、不甲斐ない自分を苦しめるための言い訳にしてしまっていた。

 

「……悔しい。悔しいよ……」

 サクリは涙をこぼしながらも、食事を続ける。

 

 カーフィア様は、苦しんで死ななければいけないなんて仰っていない。

 カルラとレーリアは、最後まで私の味方だった。ずっと変わらず、私のことを心配してくれて、気にかけてくれていたのに……。

 

 どうして、どうして私は、他人に言われるまでその事を忘れてしまっていたのだろう。

 

「あっ、あああっ……」

 サクリは懸命に涙を堪えていたが、やがてスプーンを手から落とし、顔を両手で抑えて、嗚咽まじりに涙で顔を濡らす。

 

「……無理をするな」

 いつの間にか、ジェノが側にやってきて、サクリの落としたスプーンを拾ってトレイに戻す。そして、彼は、泣きじゃくるサクリの肩に優しく手を置いた。

 

「サクリ。俺達の仕事は、目的の村までお前を送り届けるだけで終わりだ。だが、お前はその村にたどり着いてからが本番だ。だから、自分を責めている余裕はない。今は力を蓄えて置くべきだ」

 ジェノの声は、別人のように優しかった。

 

「……でも、どうせ、どうせ私は、もう……」

「何を言っている。お前は病を治すために旅を続けているんだろう? そのために、これから聖女に会いに行くんだ。初めからそんな弱気でどうする」

 ジェノの言葉に、サクリが顔を上げる。すると、彼は微笑んでいた。

 

 サクリはその笑顔を見て、呆然としてしまう。

 それがあまりにも優しかったから。

 

 この人は、私の病が治ることを、心から願ってくれている。それがその笑顔で分かった。

 

「……ああっ、そうか。この人は、本当はとても……」

 サクリはジェノの優しさに気づいたが、それを嬉しくは思いながらも、一つのことを女神カーフィアに誓う。

 

 この旅の間は、もう自身を責めるのは、やめると。

 

 そう。それくらいのことはしなければ申し訳が立たない。

 

 ……自分は、この優しさを裏切ることはできても、報いることは決してできないのだから。



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⑫ 『取引』

「あんた、一体何をしたのよ?」

 部屋に戻ってきたイルリアは、サクリの変化に気づき、椅子に座るジェノに尋ねる。

 

 つい先程まで、彼女は生きる気力を完全に失っていた。しかし今は、目に生気が宿っているように見える。

 

「疑問に思ったことを尋ねただけだ」

 しかし、ジェノは仏頂面で答えにならない事を言うと、椅子から腰を上げて、サクリの食事が乗せられたトレイを手に持つ。

 

 ほとんど手付かずだった今までと違い、どの料理にも匙を伸ばした形跡があるのを、イルリアは見逃さない。

 さらに、デザートが入っていたであろう小皿は、空になっていた。

 

「イルリア、後を頼む」

 ジェノはそう言い残して、部屋を出ていった。

 イルリアの問に明確な答えを返さずに。

 

「ああっ、腹が立つ! 必要なことくらい話しなさいよ!」

 イルリアは片手で自分の額を掴み、怒りを口にする。

 

「サクリさん、あの馬鹿に、何か失礼なことをされませんでしたか?」

「えっ? いえ、そんなことは……」

 サクリが今までとは異なり、すぐに返事を返してきたことから、やはりジェノがなにかしたのだと、イルリアは確信する。

 

「……あの、イルリアさん。その、申し訳ありませんでした。私は、優しくしてくれる貴女に、酷い態度をしていました。どうか、許して下さい……」

 サクリがそう言って頭を下げたことに、イルリアは驚く。

 

 何が彼女を変えたのかは分からないままだが、こうして歩み寄ってくれるのであれば、こちらも対応の仕様がある。

 

「いいえ。何も気にしないで下さい。私は、別になんとも思っていませんから」

「ですが……」

 本当に申し訳無さそうな声でいうサクリに、イルリアはしばらく困っていたが、そこで妙案が浮かんだ。

 

「あの、サクリさん。よければ、私と個人的な取引をしてくれませんか?」

 藪から棒に、イルリアは話しを持ちかける。

 

「えっ? とっ、取引? それは、一体どういう意味でしょうか?」

 言葉の意味がわからずに困るサクリに、イルリアは細かく説明を始める。

 

「サクリさんは、これが私の仕事だと言っても、いつも私にものを頼む時に、すまなそうな顔をして遠慮しています。ですが、私はもっと気軽にあれこれ言って頂けたほうが、気が楽です」

 イルリアは包み隠さず、本当の気持ちを口にする。

 

「その、すみませんでした……」

 サクリが謝罪の言葉とともに顔を俯ける。

 

「ですから、謝る必要なんてないんですよ。でも、そうは言ってもなかなか割り切れないと思います。ですから、私はサクリさんと取引がしたいんです」

 サクリが顔を上げてこちらを見たので、イルリアはにっこりと微笑んだ。

 

「サクリさん。私は貴女に個人的にお願いしたいことが一つだけあります。そして、もしもそれが叶うように力を貸してくださるのなら、私も今まで以上に、貴女のために尽くします」

 

「……ええと、その……」

 サクリはこの提案がまだ理解できないようだ。そこで、イルリアは更に詳しく説明する。

 

「私は、個人的な理由で、これから行く村に居られる聖女ジューナ様にお会いしたいと思っています。ですが、生憎と私には伝手がありません。そこで、貴女を村まで送り届けた際に、私が聖女様にお会いしたいと願っていると、お付きの方に伝えて頂きたいのです」

 イルリアはまず、自分の要求を伝えた。

 

「あっ、はい。私程度の口添えがどれほどの効果があるかは分かりませんが、そのくらいのことでしたら問題ありません。ですが、それくらいのことでしたら、取引などと言われなくても……」

 サクリが気遣いをしてくれようとしたが、彼女の口の前に右手の人差指を置き、イルリアはそこで話を区切る。

 

「そうですか。では、取引は成立と言うことにさせて頂きます。よろしいですね?」

「えっ? あっ、はい……」

 サクリから言質を取ると、イルリアはにっこり微笑んだ。

 

「よし。これで、サクリさんは私に遠慮する必要はなくなりましたね」

「えっ? あの、やはり、仰っている意味が……」

 サクリの言葉に、イルリアは悪戯っぽく微笑む。

 

「サクリさん。私は、悪い女なんですよ。すでにカーフィア神殿から提示された報酬を貰うつもりなのに、さらに、貴女にまで報酬を要求しているのですから」

 イルリアはそう言って、ニヤニヤとした笑みを作る。

 

「……あっ! それは、つまり……」

 サクリもようやく話が見えてきたようだ。

 

「ですから、私は、善意で貴女に力を貸すのではありません。自分の望みを叶えるために、貴女に打算的に尽くすんです。だから、サクリさんは、私に何の遠慮も必要ありません。

 むしろ、『お前の望みを叶えてやるんだから、せいぜいしっかり働け』くらいの気持ちでいて下さい」

 イルリアはそう言って満面の笑みを浮かべる。

 

「……ですが、それは、あまりにも……」

 サクリがなにか言おうとしたが、イルリアはそれを遮る。

 

「はい、残念。もう取引は成立してしまっています。女神カーフィア様は、人々の交流を司る神様。その交流の中には、契約も含まれていたはずです。

 その信徒であるサクリさんが、契約を破棄するなんてことを今更言うはずがありませんよね?」

「うっ……。それは……」

 イルリアは、言葉に詰まるサクリに畳み掛ける。

 

「それと、私に敬称も敬語も不要です。『イルリア』と呼んで、普通に話して下さい。その方が、頼むのも楽でしょうし、遠慮も減るはずです」

「……分かりました。いえ、その、分かったわ……」

 サクリは言葉を言い直し、苦笑する。

 

「イルリア。その代わり、私のことも呼び捨てにして、普通に呼んで。その、二人だけのときでいいから……」

 サクリのその願いに、イルリアは嬉しそうに頷く。

 

「そんなの、お安い御用よ。改めて、よろしくね、サクリ」

「……ええ。イルリア」

 イルリアはそっとサクリの手を握り、握手を交わす。

 

 そして、それからイルリア達は、少し打ち解けて話をする。

 女同士の気安さもあって、あっという間に距離は縮まった。

 

 そして、二人は、やがてデリカシーのない黒髪の男への文句を口にし合うのだった。



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⑬ 『不快感』

 夕食の時間になり、ジェノは夕食を持って、再びサクリ達の部屋を訪れる。

 すると、部屋のドア越しにイルリアの声が聞こえてきた。

 

 サクリの声は小さいので、どうしてもイルリアの声のほうが耳に入ってくる。しかし、彼女の声が楽しそうな響きをしていることから、サクリもきっと会話を楽しんでいるのだろう。

 

 ドアをノックすると、イルリアが出てきた。別にそれは今までと変わらないのだが、何故かジェノの顔を見て、ニンマリと意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「……なんだ、その笑いは?」

「さぁね。それじゃあ、私は夕食を食べてくるんで、後はよろしくね」

 イルリアはそう言うと、サクリに「ちょっと夕食を食べてくるわ」と気安い口調で言い、ジェノと入れ違いに部屋を出ていく。

 

「夕食を持ってきた」

 ジェノは端的に用件を告げて、ベッドに座るサクリの元に歩み寄る。

 

「ありがとうございます」

 サクリは礼を返してきた。昨日とは違う反応に、ジェノは心のうちで安堵する。

 

 夕食時ということを考慮し、イルリアが移動式のテーブルをすでに準備してくれていた。そのため、ジェノはそこに静かにトレイを置く。

 

「嬉しい。また、この白いゼリーを作ってきて下さったんですね」

 デザートの皿をみて、サクリは口元を緩める。

 

「……イルリアか……」

 イルリアが、サクリの食事を誰が作っているか話したようだ。

 ジェノは小さく嘆息する。

 

「ジェノさん。食事をする前に教えて下さい。この白いゼリーは、何という料理なのでしょうか?」

 きっとイルリアとの話が楽しかったのだろう。サクリは明るい声で尋ねてくる。

 

「アプリコットの種で作った、アーモンドゼリーだ」

「えっ? これが、アプリコットの種から出来ているんですか?」

 ジェノの答えに、サクリは驚く。

 

「ああ。アプリコットの種を割り、その中の白い部分を取り出して加工して、砂糖とミルクをあわせて作ったものだ」

 ジェノは端的に説明する。

 

「そうなんですか。アーモンドゼリーなんて言葉は初めて聞きました。アプリコットの種にこんな有効利用法があったなんて……。

 すごいですね。ジェノさんは料理が上手なだけではなく、物知りなんですね」

 サクリの賛辞に、しかしジェノは「違う」と口にする。

 

「俺も今まで、このゼリーを作ったことはなかったし、名前も初めて聞くものだった。バルネアさんが、お前に食べさせてあげてほしいと、俺にレシピと材料を預けてくれていた。俺はただ、その言葉に従っただけだ」

 

 正直、この料理がなければ、まともにサクリと話をすることも出来なかっただろう。

 そして、サクリはあのままろくに食事を取らなかった可能性が高い。

 普段はついつい忘れがちになってしまうが、やはりバルネアさんは素晴らしい料理人なのだと、ジェノは彼女を心のなかでもう一度称賛する。

 

「ですが、どうして私が、ゼリーが好きだと分かったのでしょうか?」

 サクリが不思議そうに疑問を口にする。

 

「初めて店にやって来た時に、バルネアさんの料理を食べただろう。その時にゼリーだけは食べきっていた。だから、少なくともゼリーが嫌いではないことをバルネアさんは知っていたんだ」

 ジェノはそう言うと、入口近くの壁に移動して、そこに背を預ける。

 見られていては食べにくいだろうという配慮だった。

 

 サクリは女神カーフィアに祈りを捧げ、食事を始める。

 ゆっくりと、だが昨日までとは異なり、彼女は食事を楽しんでいるようだ。

 

 ジェノはただ無言で、彼女が食事を終えるのを待った。

 

「とても美味しかったです。その、全部は食べ切れなかったですが……」

「俺に謝ることではないと言ったはずだ。それに、昨日よりずっと食が進んでいる。いい傾向だ」

 申し訳無さそうに言うサクリに、ジェノは仏頂顔で答える。

 そして、彼はサクリの食事が終わったことを理解して、トレイを回収するために動く。

 

 トレイを近くのテーブルに置き、移動式のテーブルを片付ける。

 食事のための上半身を起こしているのも大変だろうと思い、ジェノはそうしたのだが、サクリは横になろうとはしなかった。

 

「ジェノさん。その、イルリアさんが帰ってくるまで、少し話し相手になって頂けませんか?」

 サクリの思わぬ申し出に、しかしジェノは「分かった」とそれを了承し、イルリアが座っていたベッド横の椅子に腰掛ける。

 

「その、ありがとうございました。ジェノさん。貴方に指摘してもらわなければ、私はカーフィア様に不敬を働いていたことにも気づかず、カルラとレーリアを貶めてしまっていた事にさえ気づきませんでした」

 礼の言葉を口にするサクリに、ジェノは首を横に振る。

 

「そんな事をしたつもりはない。俺はただ、お前のただならない様子が気になって、その理由を話すように言い、それに個人の感想を口にしただけだ」

 そのジェノの答えに、サクリは苦笑する。

 

「本当に、イルリアさんの言うとおりですね。貴方はどうしてそう人のお礼を素直に受け取ってはくれないのですか?」

「……俺は、よく知りもしない女神カーフィアとお前の大切な友人を侮辱したんだ。それを恨まれるようなことはあっても、礼を言われるようなことはしていない」

 ジェノがそう言うと、サクリはクスクスと笑う。

 

「そうですか。では、そういうことにしておきます。そして、それならば、私の大切な友人を悪く言った責任を取ってくれるんでしょうか?」

 サクリの言葉の巧みさに、ジェノはイルリアが間違いなく彼女に入れ知恵をしたことを理解する。

 

「何が望みなんだ?」

 ジェノが嘆息混じりに言うと、サクリは口を開く。

 

「私の大切な友人の、親友の話を聞いて下さい。もっとも、話とはいっても、ほとんど自慢話ですから、聞いているのは苦痛ですよ」

 言葉とは裏腹の、真っ直ぐな瞳でこちらを見てくるサクリに、ジェノは「分かった」と頷いた。

 

 それから、サクリは親友の話を、カルラとレーリアと言う同い年の少女たちの話をし続けた。

 それは、イルリアが部屋に帰って来てからも。

 

 彼女は楽しそうに、嬉しそうに親友のことを語っていた。

 

 

「ふふっ、熱弁ね」

 だから、話を聞いていたイルリアは、サクリが元気を取り戻してくれたようだと思ったようだった。

 

 だが、ジェノはどうしてか、彼女がカルラとレーリアのことを話すのは、自分に気を使っているように見えた。

 

 彼女達を侮蔑した自分に対して、免罪符を与えようとしているように思えてしまったのだ。

 

「……何故、俺に気を使う必要がある」

 ジェノはその事を不快に感じた

 なぜ、そう感じたのかは、ジェノ自身にもわからなかったのだが……。



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⑭ 『贈り物』

 朝食後に、いつものようにリットがやって来て、サクリに癒やしの魔法を掛ける。昨日までならリットの話にも上の空だったサクリも、今日はその話を楽しそうに聞いている。

 

 今朝は朝食もほとんど残さなかった。それに、だいぶ明るくなった。

 ジェノが随分と酷いことを言ったらしいが、しかし、それをきっかけにサクリが立ち直れたのだから、文句は言わないでおこうとイルリアは思う。

 

「う~ん、いいね。こんなふうに明るい声で話してくれるのであれば、俺も少しサービスをしたくなってしまうな」

 サクリと話していたリットは、にっこり微笑んで、怪しげなことを言う。

 

「ちょっと、リット。サクリ……さんに、変なことをしようとしているんじゃあないでしょうね?」

 イルリアの指摘に、リットは肩をすくめる。

 

「酷いなぁ。俺は、サクリちゃんに贈り物をしたいだけだぜ」

 リットはそう言って立ち上がると、ベッドに座るサクリに自らの掌を向ける。

 サクリが驚いて体を固くしたが、「大丈夫だよ。サクリちゃん」とリットが微笑むと、彼女は小さく頷いた。

 

 次の瞬間、サクリの体が穏やかな光りに包まれる。その光はすぐに消えたが、別段サクリに変わった様子はない。

 

「あっ、あの、リットさん? いったい何をされたのでしょうか?」

 サクリ自身も何が起こったのか自覚できていないようだ。

 

「サクリちゃん。少し、体を動かしてみなよ」

 リットの言葉に、サクリは静かに右手を横に動かした。そして、「えっ?」と驚きの声を上げる。

 

「そっ、そんな……」

 サクリは少しずつ体を大きく動かし始める。今までのゆっくりとした動きが嘘のように、彼女の体はキレよく動く。

 

「サクリちゃんの筋肉を少し強化させてもらった。動くのはだいぶ楽になるはずだ」

 リットは気障ったらしい笑みをサクリに向ける。

 

「魔法による一時的なものだが、この天才の魔法ならば一日は持つぜ。癒やしの魔法と一緒に、これからはこの魔法も掛けることにしようと思う。だから、少し歩いて体を鍛えたほうがいいよ。そうすれば、魔法なしでも多少の無理は効くはずさ」

「リットさん……。ありがとうございます」

 サクリは感激し、リットに礼を言う。

 

 しかし、イルリアは不満だった

 

「ちょっと、リット。そんな事ができるんなら、どうして最初からその魔法を使わなかったのよ?」

 イルリアのもっともな指摘に、しかしリットは悪びれた様子もなく笑う。

 

「俺は、サクリちゃんに癒やしの魔法をかけてほしいとしか頼まれていなかったんでね。それに、いくら女の子が相手でも、自分の意志で前に進もうとしない人間には、俺は力を貸したりはしないってだけさ」

「何よ、それ!」

 気障な声で訳がわからない事を言うリットに、イルリアは怒声を浴びせるが、彼は気にした様子はなく、「それじゃあ、俺も朝飯に行ってくる」と言って部屋を出ていこうとする。

 

 ただ、去り際に、

「ああっ、もしも甲板に出たくなったら、声をかけてね、サクリちゃん。俺が優しくエスコートするからさ」

 とふざけたことを言う。

 

「いいから、とっとと食べて来なさいよ!」

 イルリアの怒声を喉で笑い、リットはドアを締めて部屋を出ていった。

 

「まったく、あの女ったらしのろくでなしは……」

 怒りが治まらないイルリア。だが、そんな彼女を見て、サクリはクスクスと笑う。

 

「もう、笑わなくてもいいじゃあないの」

「ふふっ、ごめんなさい。でも、おかしくて。イルリアも苦労しているのね」

「まぁね」

 イルリアはサクリと顔を合わせて笑いあう。

 

「でも、リットさんて凄いわよね。あの若さで、あれ程の魔法を使えるなんて。いったい、どれほどの努力をしたのかしら?」

「う~ん、ごめんなさい。アイツのことって、自分を天才と自称する、度し難い女ったらしってくらいしか分からないのよね。まぁ、分かりたいとも思わないけれど」

「えっ? 同じ冒険者仲間なのに?」

 サクリのもっともな問に、イルリアは頬を掻く。

 

「ジェノと二人で仕事することの方が多くて、アイツと仕事したことはあまりないのよ。つまらない仕事はしたくないってふざけた考え方をしている、いい加減な奴だから……」

 イルリアは事実を口にしたのだが、サクリは口元に手をやって、意味ありげに微笑む。

 

「へぇ~。ジェノさんと二人きりなことが多いんだ。いいなぁ、あんな格好いい男の人とだなんて。ということは、もう、その、進んでいるの?」

「何を想像しているのか分かるけれど、まったくの誤解だから。だれがあんな馬鹿とそんな関係になるもんですか。私は、仕方なくあの馬鹿に協力しているだけ。それ以上はなんにもないわよ」

 イルリアは心外だと言わんばかりに言葉を返す。

 

「なぁ~んだ、残念。せめてそういう話くらいは聞いてみたかったのに。カーフィア様の信徒は女性ばかりだから、みんなそういう話題に飢えているのよ」

「そうなんだ。まぁ、その辺りの話題が求められるのは、どこも同じよね」

 サクリとイルリアはそう言って笑いあう。

 だが、ここでイルリアは悪巧みをを思いつく。

 

「ねぇ、サクリ。リットの言葉に従うのは癪だけれど、少し歩く練習をしてみない? そして、もしも歩けそうなら、甲板に出てみましょうよ」

「えっ? でっ、でも……」

 サクリは顔を俯けるが、イルリアはそんな彼女の頭を優しく撫でる。

 

「大丈夫よ。人がいない時間を見計らうから。それに、一度くらいは甲板からの景色を見ておかないともったいないわよ」

「……でも、私……」

 震えるサクリを、イルリアは優しく抱きしめる。

 

「ごめんね。強制はしないから安心して。甲板から見る夕日はすごく綺麗なの。だから、よかったら見てほしいと思っただけだから」

 イルリアの言葉に、サクリは小さく頷いた。

 

 そして、イルリアはサクリの歩く練習を手伝ったが、思った以上にリットの魔法は効果があった。

 サクリは最初こそ慣れるためにイルリアの助けを必要としたが、それ以降は自分だけの力で歩けるようになったのだ。

 

「どうする、サクリ? 別に今日ではなくてもいいけれど、明日には補給のために港町による予定だから、景色は今日の夕方が一番いいと思うけど?」

 イルリアの提案に、サクリは今日、夕日を見ることを願った。

 

 それを笑顔で受け止めながら、イルリアは心の中で少し意地悪な悪戯を企てるのだった。



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⑮ 『夕日』

 夕食前に、サクリは部屋を出て、目的地まで歩くことにする。

 

 自分の足で歩くことができる。

 

 旅に耐えられるようにと、神殿長様に儀式を施して頂いた効果もだんだん弱ってきてしまった。だから、もう歩くのは無理だと諦めていたが、このやせ細った足でも自重を支えて前に進むことができる。それは、とても嬉しいことだった。

 

 ただ、サクリは高ぶる気持ちを自重することに努める。

 何故なら、この優しさを受ける資格は、本当は自分にはないのだから。

 

 だから、私は彼らの優しさに感謝をし、喜んでいる姿を見せるという最低限のお返しをする。それくらいしか、私には返せるものがないのだから。

 

 自分を責めるのを止めたのも、この気持ちから。

 そうしないと、申し訳が立たないから。罪の意識に苛まれてしまうから。

 

「結局、私は自分のことばかり。それなのに……」

 サクリは、壁伝いに懸命に歩く。船上ということで少し揺れるのだが、その程度の揺れならば問題なく進める。

 けれど、こうして前にだけ集中して歩けるのは、直ぐ後ろにイルリアがいてくれるから。

 

 イルリアは時折、励ましの声を掛けてくれながら、ゆっくりと進むサクリを見守ってくれる。それは、こちらに視線を向けたまま、前を歩いてくれているジェノとリットも同じだ。

 

 つい数日前まで、見も知らぬ他人だった病人に、彼らが優しくしてくれるのかサクリには分からない。

 こんな姿の自分を憐れむではなく、ただそうすることが当たり前のように接してくれる。

 それが、とてもありがたくて、嬉しくて、そして申し訳がなかった。

 

 サクリは揺れる通路を何とか歩ききり、ついには甲板に上がる階段の前までやって来る事ができた。

 だが、まだ最後の難関である、この少し眺めの階段が残っている。

 サクリは息を整え、フードを深く被り直し、それに挑戦しようとする。だが……。

 

「はい。お疲れさま。階段は危険だから、ここからは力が有り余っている男連中に運んでもらうことにするわね」

 不意に、イルリアが思わぬことを口にした。

 

「えっ? えっ? どういう事?」

 戸惑うサクリに、イルリアはニッコリと微笑む。

 

「まぁ、もう少しいい男の方がいいだろうけれど、今回はこの無愛想な朴念仁で我慢してね。リットにやらせると、何をするか分からないから」

「おいおい、イルリア。俺は基本的に女の子には紳士だぜ?」

「どの口が言っているのよ! いいから、あんたは上がって、いざという時のフォローをしなさいよ」

 イルリアに言われ、リットは「へいへい」と口にして階段を上がってく。

 

「あっ、あの、イルリア。私、何も聞いていないんだけれど?」

「そうね。言っていなかったもの。でも、よくよく考えたら、貴女一人で甲板に立たせるのは危険だし、これが一番だと思ってね。まぁ、見た目だけは悪くない男だってことは、貴女も認めていたし、いいわよね? うん。そうよね」

 イルリアは勝手に一人で納得して頷いている。

 

「ちょっと、私は何も言っていないわよ!」

 サクリが、顔を朱に染めて抗議の声を上げる。だが、イルリアはニヤニヤと笑う。

 間違いなく、朝方にジェノとの関係をからかった異種返しだ。

 

「あらっ? ここまできて部屋に戻るの? 残念だわ。せっかく皆でここまでエスコートしたのに……」

「くっ……。分かりました。お願いします……」

 すでに退路が断たれてしまっていることを悟り、サクリは観念するしかなかった。

 

「うんうん。喜んでくれて嬉しいわ。ほらっ、ジェノ。くれぐれも丁重にしなさいよ」

「分かった。だが、きちんと物事は相手に説明しておけ」

「あ~ら、ごめんなさい。いつも独断専行する、誰かさんの行動が感染ってしまったみたいね」

 イルリアはジェノにも嫌味を言う。

 

「サクリ、すまんが、そのまま立っていてくれ」

「えっ? あっ、あの、背中に背負うのでは……」

「それだと、落下の恐れがあるから駄目よ」

 そう指摘するイルリアの声は楽しげだ。

 

「あっ、その、待ってください。まさか…」

 ジェノはサクリの膝辺りに右腕をやったかと思うと、左手で彼女の腰の少し上を持って軽々と抱き上げた。

 

「わぁっ! なっ、こっ、これって……」

「ほらっ、サクリ。腕をちゃんとジェノニの首に回さないと危ないわよ」

 そんなイルリアのからかいの声も耳に入らないほど、サクリは慌てに慌てる。

 ジェノがサクリを持ち上げたのは、俗に言うお姫様抱っこの姿勢だったのだ。

 

「階段を上がるまでの辛抱だ」

「はっ、はい……」

 お互い息の掛かりそうな距離でジェノに言われて、サクリは顔を真っ赤にして頷くしかなかった。

 

 ジェノはサクリを持ち上げたまま階段を上がっていく。

 

「…………」

 サクリは何も言わずに、整った顔立ちのジェノに見惚れてしまう。

 こんな素敵な男性に、まさか自分が抱きかかえられることになるとは思いもしなかった。

 そして、ただジェノの顔を見ている間に、サクリ達は甲板に到着した。

 

 出入り口にいては通行する人の邪魔になると危惧したのだろう。

 ジェノはサクリを抱きかかえたまま、甲板の中央付近まで歩いていく。

 だが、サクリはただ眼前の景色に見惚れてしまい、下ろしてということすら忘れてしまっていた。

 

「すごい……」

 大海原に太陽が沈もうとしている光景が目に入ってきた。

 太陽はオレンジ色に輝き、空をその色で照らすだけではなく、水面に光り輝く道を作り出している。

 

 綺麗だとサクリは思った。

 この上なく綺麗だと。

 だが、それと同時に、胸が締め付けられた。

 

「……カルラとレーリアにも、見せたかった……」

 サクリは思わずそう心を吐露してしまった。

 もう、イルリア達に迷惑を掛けないようにしようと思っていたのに。

 

「そうか……」

 ジェノはただ一言そう言い、サクリに微笑みを向けた。

 それは、とても優しい笑みで。それが、とても嬉しくて、でも、切なくて……。

 

「あっ……」

 サクリの頬を涙が伝う。

 まったく意識しなかった。ただ自然とこぼれ落ちた涙。

 それを意識した途端、サクリの心を支えていた何かが決壊してしまった。

 

「あっ、うぅぅっ……。あああっ……」

 サクリは声を上げて泣き出した。

 自分を支えてくれるジェノの体に抱きついて。

 

「どうして、ここにカルラとレーリアがいないの? 私だけなの……。皆で、この景色を見たかった。だって、これが最後の旅なんだから……」

 サクリは幼子のように泣きじゃくる。

 

「……死にたくないよ。もっと、もっと、私はカルラとレーリアと一緒に生きたかった。でも、でも、私はもう助からない。だから、最後に、みんなで……。それなのに、どうして二人のほうが先に死んで……。私のせいで……」

 

 サクリは心のうちに溜まった想いを吐露する。

 自分の不幸な境遇を、周りの目など気にする余裕もなく口にする。

 

「違う。お前のせいではない」

「でも、でも! 私が、私が旅になんて出ようとしなければ……」

 ジェノの言葉を否定するサクリ。

 すると、サクリを支えるジェノの力が少しだけ強まった。

 

「お前達を襲った野盗どもが、お前の大切なものを奪ったんだ。お前が悪いわけではない」

「でも、でも……。私は、二人にも嘘を……。もう、助からないのに、元気になったらまた旅をしようって嘘を……」

 サクリは自分でももう、何を言っているのかわからない。けれど、ジェノはそれを黙って聞き、反応を返してくれる

 

「それは、嘘ではないだろう。それは願いだ。そうなりたいと思う気持ちだ。願いを持つのは当たり前のことだ」

 ジェノはそう言うと、静かに踵を返す。

 

「イルリア……」

「うん。分かっているわ。そのまま部屋まで戻れる?」

 ジェノは小さく頷き、慎重に階段を降りて船内に戻って行く。

 

 サクリは泣きじゃくったまま、ジェノに抱きついていた。

 ジェノはそんな彼女を黙って優しく見守る。

 

 

 ただ、一人甲板の上に残ったリットが、一言呟く。

 

「これは、まずいな……」

 

 と。



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⑯ 『警告』

 食べやすい様に、飲み込みやすいようにと、食材に目立たぬように切れ込みを入れる。

 バルネアさんに教わった隠し包丁。まだまだものにできているわけではないが、練習をしておいて本当に良かったとジェノは思う。

 

 デザートにはいつものアーモンドゼリー。ただ、同じものばかりでは飽きが来てしまう。

 しかし、今日は港町に立ち寄ったことで、新鮮な果物が入ってきた。

 

 ジェノは金銭を支払い、それを少し分けてもらってそれでソースを作る。淡白な旨味のアーモンドゼリーには、間違いなく苺やキウイの酸味と甘みがあうはずだ。

 あとは、今日のメインを何にするかだが……。

 

「あいかわらず、手が込んだことをしているねぇ、ジェノちゃん」

「リットか。どうした?」

 他の料理人達が休憩している間に、ジェノはこうして船内の厨房を借りているのだが、まさかここにリットがやって来るとは思わなかった。

 

「いや、たいしたことではないぜ。ただ、はっきりしておいたほうがいいと思ったわけよ」

 リットの答えは答えになっていない。

 

「意味が分からん。言いたいことがあるのならば、はっきり言え。俺も暇ではないんだ」

 

 まだ、副菜を作っている途中だ。肝心のメイン皿が決まっていない。

 せっかく新鮮な食材が手に入ったのだから、今日はそれを生かした料理を考えなければいけないのだ。無駄な時間はない。

 

「そうやって何事にも一生懸命に取り組むのは、ジェノちゃんの長所だねぇ。だが、今回は少々度が過ぎている。過保護だとでも言い換えれば分かるか?」

 リットの言葉に、調理をしていたジェノの手が止まる。

 

「リット……」

「おいおい、ジェノちゃん。そうやって俺を睨む時点で、入れ込み過ぎているってことに気づけよ。いつものジェノちゃんなら、もう少し依頼人とは距離を取っていたはずだぜ」

 リットはジェノの鋭い眼光を、まったく意に介さない。

 

「なぁ、ジェノちゃん。俺は言ったはずだぜ。あのサクリって娘はもう助からないって。それなのに、もしかして、噂の聖女様ならば救えるかもしれないとか考えていないよな?」

「…………」

 リットのその問に、ジェノは答えを返すことができなかった。

 

「そんなことだろうと思ったぜ」

 リットはそう言い、ジェノの側まで来ると、フルーツソース用にヘタを取っておいた苺を一つ取って口に運ぶ。

 

「まぁ、長い付き合いだから、サービスだ。もう一度断言しといてやるよ。俺でも、もうサクリちゃんを救うことはできない。

 そして、件の聖女様は、噂の百倍くらいすごい魔法が使えたとしても、俺には及ばないんだぜ」

 リットの実力を知らない者には、自意識過剰な言葉か、頭がおかしい発言にしか思えないだろう。だが、ジェノは目の前の男の言葉が真実であることを理解してしまっている。

 

「現実を見ろよ。その上で、サクリちゃんに優しくするのならば止めはしない。だが、今のジェノちゃんは、それから目をそらして、いい加減な慰めをしようとしているんだぜ」

 リットはそう言って喉で笑う。

 

「とは言っても、別に、俺はどっちでもいいぜ。あの女がどんなふうに死のうが正直興味がない。俺は厚意で、ジェノちゃん達に合わせてやっているだけなんだからな」

「……それなら、何故わざわざ俺に、そのことを言いに来たんだ?」

 ジェノの問に、リットは肩をすくめておどけたポーズを取る。

 

「なぁに。ただの気まぐれだよ。船の上での生活っていうのはいかんせん娯楽が少なくてさ。こうやって、ジェノちゃんでもからかわないと、退屈で仕方がないわけよ」

 リットはもう一つ苺を取って口に運ぶと、踵を返して厨房を出ていこうとする。

 

 ジェノは何も反論する言葉を持たなかった。

 

「さてさて。正義の味方はどうするのか、楽しみに見させてもらうぜ、ジェノちゃん」

 リットは背を向けたまま、楽しそうにそう言い残し、厨房を去っていった。

 

「…………」

 ジェノはしばらく無言で立ち尽くしていたが、やがて再び調理に取り掛かる。

 そして、彼はずっと、リットに言われたことを考え続けた。

 

 だが、何もいい考えは浮かばなかった。

 

 もっとも、それは仕方がないことだろう。

 これは、正解などない事柄なのだから。



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⑰ 『心』

「……ちゃん。……サ……。サク……リ……、サクリちゃん」

「サク……。サクリ。いい加減起きなさいよ!」

 私を呼ぶ声が聞こえる。

 聞き慣れた声。幼い頃からいつも聞いていた声。

 

 大好きで大切な友達の声。

 私は眠気を何とか堪えて、瞳を開ける。

 

 すると、そこには、眼鏡が印象的な金髪の可愛い女の子と、紫色の髪の落ち着いた雰囲気の女の子が、私の体を揺すっていた。

 

「あっ、ごめん。つい眠ってしまっていたみたい」

 私は困ったように笑い、カルラとレーリアに謝罪する。

 

「まったく、もう。もうすぐナイムの街に着くんだから、忘れ物がないかしっかり確認しておきなさいよ。明日からは初めての船旅になるんだから、浮かれていては駄目よ」

 レーリアはそう言うと、コツンと私の頭を軽く叩く。

 

「いやいや、レーリア。あんたも落ち着きないのが丸わかりだから。そんなに、例の店に早く行きたいの?」

「例の店? ああっ、確か<パニヨン>という名前の店よね」

「そうそう。なんでも、レーリアの憧れの料理人さんがやっているお店らしいのよ」

 カルラと私の会話に、レーリアの顔が朱に染まる。

 

「いっ、いいじゃないの。他の行程は、貴方達の要望を殆ど取り入れたんだから。私だって、一つぐらいわがままを言ったって!」

 自分の意見を無理に通すようなことはしないレーリアが、頑なに寄ることを譲らなかった料理店。一体どんな料理が食べられるのか、今から楽しみで仕方がない。

 

 そして、しばらくカルラとレーリアと談笑していると、エルマイラム王国の首都、ナイムの街に到着した。

 

 

「ようやくたどり着いたわよ! ナイムの街!」

 馬車から降りるなり、カルラは肩腕を上げて力強くポーズを取る。

 

「止めなさい! 馬鹿だと思われるから!」

 そんなカルラの頭に、容赦ないレーリアの平手打ちが飛ぶ。

 

「いいから、サクリを降ろすのを手伝いなさい!」

「ううっ、暴力婆め。でも、たしかにサクリちゃんを下ろすのが先決ね」

 カルラとレーリアは、馬車の座席から動けない私を、二人がかりで下ろしてくれた。

 

「サクリ、歩ける?」

「うん。大丈夫。今日は随分と体調がいいみたいだから……」

 心配するレーリアに、私は明るくそう応えて微笑む。

 

「いやいや、無理をしちゃあ駄目だよ。愛しのサクリちゃんに何かあったら、私、泣いちゃうんだから」

「だから、誤解を招くような発言をするんじゃあないわよ! ほらっ、そっちの肩は頼むわよ」

「はいはい。分かっていますよ」

 私は二人に肩を借りながら、たどたどしく歩く。

 

 二人には、いつも迷惑をかけて本当に申し訳ない。

 でも、こんなに大変な私の介助をあたり前のことのようにやってくれる、カルラとレーリアがとても誇らしかった。

 

 乗合馬車の停留所の中でも、もっとも目的のお店に近い停留所で降りたものの、店までは結構距離があった。けれど、私達は頑張って歩く。

 

 時々休憩もはさみながら、大通りから少し外れた小さな店の前にたどり着いたときには、皆で喜んだ。ただ、そこで私達は絶望する。

 店の入口のドアには、『本日の営業は終了しました』と書かれた掛け看板が掛けられていたのだ。

 

「えっ? えっ? なっ、ちょっと待って! まだ店を閉めるような時間じゃあないでしょう! 今日が定休日でないこともきちんと確認してきたのに!」

 レーリアが、普段は絶対あげない甲高い声で文句を口にする。

 

「あっ、あの、レーリア……」

「あっ、あああっ……。そんな……」

 私の言葉も耳に入らないようで、レーリアは力なく地面に倒れ込む。道行く人達の目など気にせずに。

 

「サクリちゃん、ちょっと、私と一緒に店の入口まで行ってみない?」

「えっ? ええ。でも、レーリアが……」

「いいから、いいから。その、なんだか、営業が終わったと言う割には、中が明るい気がするのよね」

 カルラの言うとおり、たしかに入口ドアのガラス部分から見える店内は、明るい様に見える。普通、店が完全にしまっている場合は、もっと暗いはずだ。

 

「あっ、開いている……」

 物怖じしないカルラが、私に肩を貸しながらも、反対の手でドアを開けてしまう。

 

「なっ、何! 開いている? 開いているの!」

 カルラの声は小さかったにもかかわらず、レーリアは耳聡くそれを聞いて、私達の元に駆け寄ってくる。

 

「おっ、落ち着いて、レーリア」

 目が血走るレーリアは、少し怖い。こんな姿は今まで見たことがない程だ。

 

「まぁ、遠路はるばる来たわけなんだし、事情を説明して、何か作ってもらえないか相談してみようよ」

 カルラは気楽にそう言うが、流石にそれは我儘が過ぎると私は思う。

 

「でも、流石にそれは図々し過ぎると思……」

「そうよね! カルラの言うとおりだわ! 最悪、料理が食べられなくても、せめてバルネアシェフのお姿だけでもこの目に焼き付けたいわ!」

 いつもなら、私達三人のブレーキ役であるレーリアが、私の言葉を遮って、鼻息を荒げる。

 ああっ、これは私が何を言っても止まりそうにない。

 

「さぁ、行くわよ、二人共!」

 カルラが手にしていた入口ドアの取っ手を奪い取るように掴み、レーリアがドアを開ける。すると、来店を知らせるためであろうベルの音が鳴り響く。

 

「あらっ、いらっしゃいませ。生憎と食材が切れてしまいまして。ですが、簡単なありあわせの料理でしたらお出しできますが、よろしければいかがですか?」

 穏やかな雰囲気の金髪の若い女性が、笑顔で店のカウンター越しに話しかけてきた。

 

「あっ、その、はい……。ぜひ、ぜひ、お願いします!」

 レーリアは、緊張のあまり上ずった声を上げて答える。

 

「はい。承りました。それでは、お好きな席へどうぞ」

「わっ、分かりました!」

 ビシッと背筋を伸ばして、レーリアは答えると、「二人共、一番カウンターに近い席でいいわよね? というか、それ以外ありえないわ」と言って、私に肩を貸して、目的の席に突進しそうになる。

 

「だぁ、落ち着きなさいよ、レーリア。サクリちゃんはゆっくり運ばないと駄目でしょうが! こっちは私一人でも大丈夫だから、いいからあんただけ席に行きなさいよ」

「……ごっ、ごめんなさい。そういうわけにはいかないわ。少し気持ちを落ち着けるためにも、一緒に運ばせて」

 レーリアは私達に謝罪し、丁寧に私を目的の席まで運んでくれた。

 

「いらっしゃいませ」

 店の奥から、黒を基調とした制服を身にまとった黒髪の少年が現れた。きっと私達と同じくらいの年頃だろう。

 彼は、トレイを持ち、そこにはお冷が三つと手拭き用のタオルが乗っている。

 

「うわぁ~。すっ、すごいわ……」

 カルラが、その黒髪の少年をひと目見て、目を輝かせる。

 非常に端正な顔立ちのその少年の姿に、目を奪われてしまったようだ。

 

「どうぞ」

 しかし、黒髪の少年はこちらの視線を気にした様子もなく、私達のテーブルにトレイの中身を丁寧に置いて、一礼して店の奥に戻ってしまう。

 

「みっ、見た、見たわよね、サクリちゃん。凄い格好いい男の人だったわ。さすがは都会。洗練された見目麗しい男性がいるのね。うんうん、眼福だわ」

「うっ、うん。確かに格好いい人だね。背も高くてスラッとしていて……」

 私が同意すると、カルラは「そうよね、そうよね」と嬉しそうに微笑む。

 

「……素敵……」

 だが、不意に私の向かいの席から聞こえたその声に、

 

「「えっ?」」

 

 私とカルラの声が重なった。

 

 金髪の女性――随分と若く見えるが、おそらく、この人がバルネアさんだろう――の調理に見惚れていたはずのレーリアが、頬を赤らめて、潤んだ瞳で、ぼぉーっと黒髪の男性が戻っていった店の奥を見つめている。

 

「あっ、ああ。そういえば、レーリアって……」

「うん。貞淑そうに見えて、すごい面食いなのよね。美形にものすごく弱くて、すぐに運命を感じてしまう妄想癖もあるし……」

 私とカルラが若干引き気味に話していたが、レーリアの耳には入らない。

 

「ジェノちゃん、小皿をお願い。あと、デザートの用意もお願いね」

「はい」

 青いエプロンを身に着けて、厨房に入った少年が、バルネアの指示を受けてキビキビと動く。

 

 レーリアは、バルネアの調理とジェノと呼ばれた黒髪の少年をせわしなく交互に目で追う。正直、かなり怖い。

 

「ああっ、ジェノさんと仰るのですね。料理にも造詣がお有りのようですし、これはもう、カーフィア様が私をお導きくださったとしか……。

 ああっ、でも、私は神殿に仕える身。ですが、愛のためならば、きっとカーフィア様もお許しになられるはず……」

 頬を赤らめて、体をくねらせるレーリア。そんな彼女の頭に、カルラの手刀が炸裂する。

 

「落ち着きなさいよ、レーリア。そんなふうに美形に見境ないから、あんたは婚期を逃しているのよ」

「いっ、痛いわね。それに、婚期を逃しているって何よ! 私はまだ成人前の十七歳よ」

 二人のいつもの仲の良いじゃれ合いを見ながら、私は苦笑するしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 静かにまぶたを上げると、景色が一変していた。

 おかしい。私は、カルラとレーリアと一緒に、ナイムの街の<パニヨン>という名前のお店に……。

 

 しばらく不思議に思っていた私は、やがて、先程までの事柄が、夢だったことに気づく。

 

「……なんて、なんて、残酷な夢なの……」

 私は力なく微笑み、涙を流す。

 

 そう、カルラとレーリアは、あのお店に行くことはできなかったんだ。もしも、賊に襲われたりしなければ、今の夢のようなやり取りをしながら、笑いあえたはずなのに。

 

 そう、馬車が襲われたりしなければ……。

 

『大丈夫? サクリちゃん』

 馬車が横転した際にも、カルラは身を挺して私を抱き支えてクッションになってくれた。

 

『待っていて、今、傷を治すから』

 レーリアは自分の体の方が傷を負っていたのに、真っ先に私に癒やしの魔法を掛けてくれた。

 

 そして、二人は、恐怖に震える私に、笑顔を向けてくれた。

 

『大丈夫だよ。私の愛しいサクリちゃんには、指一本触れさせないから』

『ええ。待っていて。すぐに、私達が蹴散らすから』

 

 多勢に無勢だった。

 それなのに、二人は私を守るために命をかけて戦って、そして命を落とした。

 

 もうすぐ終わることが決まっている私の命なんて、守る必要なんてなかったのに。

 

 

 ……私が本当のことを話していたら、二人は私を見捨ててくれたのだろうか?

 

 ううん。違う。だって、二人は最後の瞬間まで、こんな私を心配してくれていたのだから。

 

 きっと、変わらず……。

 

 

『……生きて、サク…リ…ちゃ……』

 賊が退散していった後に、事切れるまえに、カルラは私にそう言い残して絶命した。

 

 レーリアは言葉を発する力は残っていなかったけれど、地面に倒れたまま、私に向かって微笑んでくれた。

 

 

「……ごめんね、カルラ。レーリア。私は生きることはできないの。だから、もう少ししたら、貴女達と同じところにいくわ。その時に、私のことを二人で叱って……」

 サクリはそういうと、ニッコリ微笑んだ。

 

 この体は、もうどうなるかは決まっている。

 だが、この心はまだ自由だ。残された時間が、もう僅かしかなくても……。

 

「カーフィア様。迷ってしまい申し訳ありませんでした。この身は貴女様の御心のままに。ですが、どうか、この心は私が思うままに振る舞うことをお許し下さい」

 

 最後に残ったこの心は、自分の心を救ってくれたあの黒髪の少年のために使いたい。

 

 私は全てを隠し、全てを受け入れて、彼らの厚意にただひたすらに感謝しよう。

 

 ジェノ達には、これ以上は何も知らないでいてもらいたい。

 

「こんなことしかできなくて、すみません。ですが、これが私にできる精一杯です」

 サクリはジェノ達のことを思い浮かべ、一人、部屋で謝罪の言葉を口にするのだった。



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⑱ 『願いと決意』

 船旅の間、ずっとこのボロボロの体が小康状態を保ち続けることができたのは、リットさんの魔法のおかげだ。

 それだけではなく、彼はいつも軽妙にいろいろな話を聞かせてくれた。

 さらには、神殿生活の禁忌に触れるギリギリの話を聞かせてくれて、ついつい聞き入ってしまうこともあった程だ。

 

 まぁ、イルリアに彼が窘められるまでがいつものパターンではあったけれど、でもそのやり取りがとても楽しかった。

 

 そう、イルリア。

 同室であることと、同性の気軽さもあって、彼女とは一番多く会話をした。更に、彼女は本当に手厚く私の介助に努めてくれた。

 

 私が、リットさんの魔法のおかげで、なんとか一人で物事をできるようになっても、彼女は甲斐甲斐しく私を助けて、そして見守っていてくれた。

 

 感謝の言葉を述べると、しかし彼女は、「そういう取引でしょう。気にしないでよ」と言って笑う。

 でも、いくら俗世に疎い私でも分かる。この献身的な介助は、彼女の優しい心根があってこそのもので、他の人がおいそれと真似できるものではないと。

 

 そして、ジェノ。

 いつも私のために美味しい食事を作ってくれた。

 そして、私の大きな過ちに気づかせてくれた恩人。

 

 寡黙だけれど、こちらが話しかければしっかりと応えてくれる。そして、無愛想な態度なのに、その中に温かみがあることが今はもう分かっている。

 

 もしも、狙ってこんな話し方をしているのであれば、ジェノはリット以上の女ったらしなのだろうが、彼はどうやら天然でこういう話し方をしているようだ。

 

 しかし、何故だろう。

 彼は、無理に冷たい人間を演じようとしているのではと思えてしまうのは。

 

 私は、カルラとレーリアと一緒にこの船に乗りたかった。けれど、彼女達の代わりに私と寝食を共にしてくれたのが、彼らで本当に良かったと思う。

 

 彼らの恩義に、優しさに応えるためにとは思いながらも、この十日間の船旅は本当に楽しかった。

 私だけが楽しい思いをしてと、カルラとレーリアに申し訳なく思う気持ちもあるが、それでも、彼女達は羨ましがることはあっても、私を恨んだりしないことはもう分かっている。信じられる。

 

 あと少しで、この旅は終わる。

 それは、私の命が終わりに近づくということだ。

 

 けれど、後悔はもう……。

 

 

「……駄目ね」

 そこまで思ったところで、私は苦笑した。

 

 後悔はもうないと思いたかった。

 けれど、私は、今頃になって何かを残したいと考えるようになってしまっていた。

 

 私という人間。カルラという人間。そして、レーリアという人間。

 成人を迎えることができず、十七歳で死んでいくことになる私達を、誰かに覚えていてほしいと願ってしまったのだ。

 

 何かを、私は、私達は、残せないだろうか?

 それは、形に残らないものでもいい。

 ただ、誰かに、私達という人間がいたのだと覚えていてもらいたい。

 

 ……それは、悲しい記憶でしかなかったとしても……。

 

 そんな事を考えていると、部屋のドアがノックされた。

 どうぞ、と応えると、イルリアが部屋に入ってくる。

 

「サクリ。他の乗客は皆下船したようだから、私達もそろそろ行きましょう」

 私は何もお願いしていないのに、彼女達は私が人前にこの醜い姿を晒したくないことを理解し、こういった配慮をしてくれるのがとても嬉しい。

 

「サクリ。降りる時は特に危険だから、しっかり私に掴まっていてよ」

 私に手を差し伸べて、イルリアは微笑む。

 

「ええ。お願いね、イルリア」

 私の返事を聞くと、彼女は意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「サクリ。貴女さえ良ければ、またあの朴念仁にお姫様抱っこをさせてもいいわよ」

「それは嬉しいわね。お願いしようかしら?」

 私がそう返すと、イルリアは驚いた顔をする。

 

「ふっ、ふふふっ。冗談よ。私をからかおうとしていたみたいだから、反撃させてもらったわ」

 私がそう明るい声で言うと、イルリアは「してやられたわ」と少し悔しそうに言う。

 けれど、すぐにどちらとなく笑みを浮かべて笑いあう。

 

 本当に、彼女達と旅ができて良かった。

 

 私はその思いを胸に、イルリアと一緒に十日間過ごした部屋を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 空気の匂いが違う。

 気温も、エルマイラムより涼しい気がする。

 別の大陸にやって来たのだと、イルリアは体でその違いを感じ取る。

 

 ここは、港町ルウシャ。

 ナイムの街とは比較にならないが、流石に港町だということもあり、生活に必要な施設は全て整っていることは調査済みだ。

 

 だが、呑気に物見遊山をしている暇はない。

 早く目的を果たして、サクリの元に帰らなければ。

 

 長かった船旅もようやく一段落し、イルリアは、目的の村のあるセラース大陸の地を踏みしめる事となった。

 だが、ここからが本番だ。

 

 今回の依頼である、サクリの護衛がまだ続いていることもそうだ。だが、イルリアには他に、是非とも聖女ジューナに会わなければならない理由がある。

 

「まずは、銀行にいかないと……」

 念のため、お金はかなり多めに持ってきている。だが、いざという時に後悔しないように、小金貨をもう一枚用意して置いたほうが良いだろう。

 

 相手は、高名な聖女。『銅貨一枚支払わずとも、病める人々に救いの手を差し伸べる』と謳われている。

 だが、文明的な生活を送る上で、金銭が介在しないということはありえない。

 病人のための施設を維持するだけでもお金はかかり続けるのだ。

 

 下衆な考えだと思うが、そこが付け入る隙きだとイルリアは考えている。

 

 まず、サクリに自分のことを目的地である『聖女の村』の関係者に紹介してもらう。そして、寄付の話を持ちかける。何とも単純な方法だが、これに勝る手段は生憎と考えつかなかった。

 

 ただ、寄付と一口に言っても、イルリアは小金貨を五枚寄付するつもりでいる。

 小金貨は、大銀貨十枚分の価値。

 

 あくまでエルマイラム王国での基準だが、ナイムの街の一般的な世帯の平均月収が、大銀貨二枚程度なことを考えると、彼らの年収の二年分以上の金額を寄付するこの行為は、決して無下に扱えるものではないはずだ。

 

 イルリアにとっても、おいそれと動かせる金額ではない。だが、これで悩みのタネが解消されるのであれば安いものだと彼女は思う。

 

「……お願いします。どうか今度こそ、あいつへの借りを返させて下さい」

 誰にとなく、イルリアは心のなかで祈る。

 

 自らの犯した罪を思えば、もっと自分は苦しむべきなのかもしれない。

 けれど、それは同時にあいつを、ジェノを苦しめることにも繋がってしまう。

 

「捉えようによっては、あんたのほうがサクリよりも重体じゃない……。それなのに……」

 サクリのことを優先し、ジェノは自分の体のことをまったく気にした様子はない。

 何処までも他人が優先で、自己のことを顧みないあいつに、腹が立ってくる。

 

 あまりにも腹が立って、涙が溢れそうになった事に気づき、イルリアはそれを腕で乱暴に拭う。

 

「泣いている場合じゃあない。私は自分の失態は自分で挽回する」

 イルリアは決意を込めて自らの頬を両手で叩いて気合を入れると、小走りに繁華街に向かって走り出すのだった。



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⑲ 『壁に囲まれた村』

 明日は、早朝に馬車で聖女の村に向かう予定であるため、この宿での夕食が、今回の旅で腰を落ち着けて食べられる最後の食事。

 

 宿の一階の酒場。そこの一番奥の席で、サクリとジェノ達四人は皆で同じテーブルを囲んで夕食を楽しんでいた。

 

 サクリ達のテーブルに並べられた数々の料理。港町ということもあり、魚介を使った料理がメインのようだ。

 船旅の間に、徐々に固形物に慣れるようにジェノが配慮してくれたため、サクリも僅かな量でこそあったが、この土地の味を堪能することができた。

 

 けれど、サクリは少し残念に思うことがある。

 それは、デザートが柑橘系の果物を食べやすい大きさにカットしたものだけだったこと。

 

 ジェノが作ってくれた、あの白いアーモンドゼリーがついつい恋しくなってしまう。

 

「サクリ。甘いものならまだ食べられる?」

 別段、不満を顔に出したつもりはないし、仮に出ていたのだとしても、フードを被っているので分からないはずだ。

 それなのに、イルリアはサクリに笑顔で尋ねてくる。

 

「はい。ですが……」

「うん。別にこの果物を追加しようと言うわけではないわよ。ジェノに頼んで、サクリの大好物を作っておいて貰ったのよ。宿の人に無理を言ってね」

 イルリアはこちらの考えを全て見越したように答え、片目をつぶって微笑む。

 

「サクリ。無理をしなくてもいいぞ。連日同じものでは、流石に飽き……」

「いっ、いいえ! その、是非お願いします!」

 はしたないとか考えるよりも先に、そう返事をしてしまい、サクリは顔を赤らめて下を向く。

 

「ジェノちゃん。サクリちゃんがこんなにも楽しみにしているんだ。早く用意してあげなよ」

「そうだな。分かった」

 リットの言葉に同意し、ジェノは席を静かに立ち上がる。

 そして、少しした後に、彼は大きなガラスの器に入った真っ白な柔らかいゼリーをトレイに乗せて持ってきた。

 

「待たせたな」

 ジェノは大きなガラスの器からお玉で柔らかなアーモンドゼリーを掬い、小さな深皿にそれを盛り付けて、サクリとイルリアの前にそれを配膳する。

 

「何? 私にも?」

「ああっ。材料の残りが中途半端だったので、全部使ったら少し量が多くなってしまった。悪いが、付き合ってくれ」

 ジェノはそう言い、自分の席に戻る。

 

「ジェノちゃん。こんなにあるんだったら、俺にも分けてよ。どうせなら、皆で食べようぜ」

「そうですね。ジェノさん、皆さんで一緒に食べませんか?」

 リットの言葉に、サクリが同意する。

 

 それを聞いたジェノは、「そうか」とだけ言い、再び厨房に行って小皿を借りてきた。

 そして、皆にゼリーが行き届いたところで、一緒に食事を再会する。

 

「うん。やっぱり美味しいです。この爽やかな香りと優しい甘さが素敵で……」

「なるほどね。正直、サクリが毎回美味しそうに食べるから、味が気になっていたんだけれど……。これは素直に美味しい。普通のゼリーほど固くないけれど、崩れはしない。そして、この蕩ける舌触りもいいわね」

「うん。甘ったるくないのが非常にいいな。これは確かに毎日食べても飽きが来ないかもしれない」

 イルリア達の感想に、サクリは今まで彼女もこのゼリーを食べたことがなかった事実を初めて知った。

 

 ジェノが本当に自分のためだけに作ってくれていたのだと思うと、ついつい嬉しく思ってしまいそうになり、サクリは自分を戒める。

 

「でっ、自分で作った料理の感想はどうなのよ?」

 黙って静かにゼリーを口に運ぶジェノに、イルリアが尋ねる。

 

「別に何も……。ただ、俺ではなくバルネアさんが作れば、もっと美味かっただろうにとは思うが」

 ジェノの言葉に、サクリは苦笑する。

 

 なるほど。たしかにレーリアが憧れていた、あの優しい料理人さんなら、もっと美味しく作れるのかもしれない。けれど……。

 

「ジェノさん。そんなことは仰らないで下さい。今の私にとっては、このゼリーの味こそが至高です。旅の最後の夜に、こんな素敵な料理を食べられて、私はとても幸せです」

 サクリはフードを深くかぶり直し、正直な気持ちを口にした。

 

「……そうか」

 恥ずかしくて顔を俯けていたサクリは、この時のジェノの顔を見ることができなかった。

 けれど、彼の声色はとても優しい響きだった。

 

 

 

 

 

 

 翌朝早くに馬車に乗ったイルリア達は、特段問題もなく、目的地である『聖女の村』に辿り着こうとしていた。

 ただ、街の噂で小耳に挟んでいた事柄が現実であったことを理解し、イルリアは怪訝な気持ちになる。

 

 険しいとまでは言わないまでも、山の奥に作られたその村は、明らかに交通の便がいいとは呼べない。かの有名な聖女様が、病める人々のために作った村にしては、立地条件が悪すぎる。

 

 けれど、そんなことは些末な事柄だった。

 

 村を覆い囲う巨大かつ広大な白い壁を目の当たりにし、イルリアは噂が真実であったことを理解する。

 かの誉れ高い『聖女の村』は、ナイムの街に匹敵するほどの大きな壁に囲まれた特殊な村だったのだ。

 

「……凄いわね」

 隣に座るサクリのことを慮り、イルリアは言葉を選んで感想を言う。

 本来は、『場違いにもほどがある』と言葉を続けたかったのだが、それは飲み込んだ。

 

「ああっ、たしかに凄いな」

 リットが何故か嬉しそうに口の端をあげて、イルリアに同意する。

 

「悪政を敷いていた、この国の国王、ガブーランが、聖女ジューナ様に出会うことで改心し、彼女のためにこの村を作ったらしいけれど、これは明らかに聖女様のイメージとは真逆の村ね」

 事前に調べておいた情報を思い出し、イルリアは嘆息する。

 

「……ええ。ですが、村の中の生活は非情に質素なものらしいですよ」

 サクリは小さくそう答え、フードを被り直す。

 

 もうすぐ旅が終わることに寂しさがあるのだろうか? 今日の彼女は昨日よりも元気がないように思える。

 もっとも、これから長い闘病生活が始まるのだ。それも仕方がないことだろう。

 

「大丈夫か、サクリ?」

「ええ。大丈夫です……」

 ジェノの声掛けにも、サクリはやはり覇気のない答えを返す。

 

 だが、そんなサクリを心配している間に、馬車は目的地まで無事に到着した。

 長かった今回の旅も、ようやく終点にたどり着いたのだ。



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⑳ 『笑顔』

 村の前にたどり着くと、やはり村を囲む大きな白い壁が、否が応でも目に入ってしまう。

 その壁のせいで村の中は一切見ることができない。

 村に入るには、ただ一つの入口である、眼前の大きな門を潜らなければいけないらしい。

 

 どのような村であっても、村の境界には害獣などの侵入を防止するための柵等を設置しているが、この警戒は並大抵のものではない。

 いや、そもそも、『聖女の村』という名前を付けている割には、この立地条件などには疑問しかないのだが。

 

 防犯上の理由があるのは分かるが、こうして馬車を降りて、村に入るためのチェックを受けなければいけないことも、少々大げさな気もする。

 まあ、かの高名な聖女ジューナが暮らしている村なのだから、やむを得ないのだろう。

 

 乗合馬車の他の乗客が降りた後に、ジェノはサクリよりも先に馬車を降りて、彼女が馬車を降りる手助けをする。

 サクリの後ろにはイルリアがついていてくれる。さらに、リットもいるのだ。大事はないだろう。

 もっとも、ジェノはそのことで気を緩めるつもりはないが。

 

 風が少し強い。

 この風だけで体制を崩すほどではないと思うが、用心に越したことはない。

 

「さぁ、サクリ……」

 ジェノは先に馬車を降りて、サクリの手を引くために優しくそれを握りしめる。

 けれど、そこで違和感に気づく。

 

 震えていた。サクリの手が小刻みに。

 緊張? いや、それだけでここまで震えるものだろうか?

 

 サクリの表情を確認しようとしたが、フードを深く被っている彼女の表情は分からない。

 ジェノは怪訝に思いながらも、サクリが馬車から降りるのを助ける。

 

「どうした? なにか不安なことがあるのか?」

 ジェノは彼女の介助をする際に、サクリに耳打ちして尋ねる。

 

「いいえ。大丈夫です」

 やはり体を震わせながら、サクリはそう答えて、顔を俯ける。

 

「ジェノ。どうかしたの?」

 イルリアもサクリの様子を怪訝に思ったようで、サクリが自分の足で大地を踏みしめたのを確認し、尋ねてくる。

 だが、ジェノは何も言葉を返せない。彼も何がサクリを震えさせているのか分からないのだ。

 

「はいはい、目と目で通じ合っている、お二人さん。とりあえず、俺達の番が来るまで座って待っていようぜ。サクリちゃんを立たせておくのは厳しいだろう?」

 最後に降りてきたリットが、そんな軽口を叩きながら、ジェノとイルリアの頭にポンと手を置く。

 

「触らないでよ。あんたに触られると、それだけで妊娠させられそうで嫌なのよ」

 イルリアはリットの手を、心底嫌そうに手で払う。

 

「ひどいなぁ。俺が珍しく親切をしてやったのにさ」

 リットはジェノからも手を離し、肩をすくめて首を横に振る。

 

「サクリ。とりあえず、門の前の長椅子まで行くぞ。歩けるか?」

「……はい。大丈夫です」

 先ほどと殆ど変わらない返事しかしないサクリを、イルリアと協力して、門の入口の順番待ちの者のために設営されたらしき椅子まで運ぶ。

 

 そこにたどり着くと、ジェノは荷物から小さな敷物を取り出し、それを椅子の上に敷いてからサクリを座らせる。

 だが、その手助けをしているときにも、やはり、サクリが震えていることが分かった。

 だが、その理由がわからない。

 

「サクリ。いったい何を……」

 ジェノは意を決してサクリに尋ねようとしたが、そこで村への訪問者を巡回して確認していた、二十代半ばくらいの若い神官服を纏った女が口を挟んできた。

 

「サクリ? 今、そう仰いませんでしたか?」

 肩までの短い金髪のその神官は、慌てた様子で、ジェノに駆け寄ってくる。

 

「……そう言った。だが、それが何だというんだ?」

 ジェノは無作法な相手に、少し苛ついた声で答えてしまった自分に心のうちで驚く。こんな強い口調で言うつもりはなかったのだが、何故かこうなってしまった。

 

「あっ、その……。たっ、大変失礼いたしました。私は、この村の神殿の神官で、ナターシャと申します。どうか、お名前を聞かせて頂けませんでしょうか?」

 丁寧に礼をして、再度尋ねられては、ジェノも答えないわけにはいかない。

 

「ジェノと申します。そして……」

「初めまして、ナターシャ様。サクリ=リンデリスと申します」

 サクリはジェノの静止も聞かず、懸命に立ち上がり、一礼をする。

 

 ナターシャと名乗った神官の目が、大きく見開かれた。

 サクリに続いて、イルリアとリットも自己紹介をしたのだが、おそらくナターシャの耳には入っていないことは想像に難くない。

 

「やはり、貴女が……。ですが、確か他の神官二人とこちらにいらっしゃる予定だったのではないのですか?」

 ナターシャのその問いに、サクリは口ごもる。

 

「ナターシャ神官。彼女は病を患っています。それなのに、このようなところで話をさせようとするのが、貴女達のやり方なのですか?」

 ジェノが文句をいうよりも早く、イルリアがナターシャに食って掛かる。

 

「いっ、いいえ。すみません、取り乱しました。すぐに手続きを終わらせて、村の中にご案内致します」

 ナターシャはイルリアたちに謝罪し、小走りに門の入口に向かっていく。

 サクリはそれを確認し、再び長椅子に腰を降ろした。

 

「どういうことだ?」

 ジェノはナターシャ神官の態度に訝しげな視線を向ける。

 

 サクリが地方のカーフィア神殿の神殿長の娘であることは、彼女自身から話してもらったので知っているが、それだけで、サクリがこの村にやって来たことを、これほど非常事態のような対応をするとは思えない。

 それに、サクリの震えも気になる。

 

 

 ジェノは今度こそサクリに尋ねようとしたが、またそこで邪魔が入ってしまう。

 

「ようこそ、聖女の村へ!」

「ようこそ、おいでくださいました。お花をどうぞ」

 ジェノ達の耳に入ってきたのは、幼い子供の声だった。

 

 五、六歳くらいの男の子と、更に幼い女の子が、歓迎の言葉を口にして、この村を尋ねてきた皆に、可愛らしい小さな花を配っている。

 

 その愛くるしい無邪気な笑顔に、村に入るための順番待ちでやきもきしていた者達の顔にも、ついつい笑顔が浮かぶ。

 

「……可愛い……」

 サクリはそう呟き、門に近い者達から順番に花を配る子供たちが自分の元に来るのを心待ちにしているようだった。そのため、ジェノはまた言葉を掛けるタイミングを逸してしまった。

 

「はい、お花をどうぞ!」

 いよいよ自分の番になり、サクリは「ありがとう」と言って花を受け取ろうとした。だが、そこで、少し強めの風が吹いた。

 方向が悪かった。その風は、サクリのフードを剥がし、彼女の顔を幼い女の子と男の子に晒してしまったのだ。

 

「あっ、ああ!」

 サクリは慌ててフードを戻したが、もう遅かった。

 女の子は、言葉を失って絶句する。それは、隣にいる男の子も同じ。

 

「サクリ……」

 ジェノは半狂乱になりそうなサクリを、立ったまま優しく抱きしめる。

 彼女は震えていた。先程までよりも強く。だが、ジェノは何と声をかければいいのか分からない。

 

 しかし、サクリの顔を見た女の子は、にっこりと微笑んだ。

 

「……お姉ちゃん。ご病気なんだね。でも、大丈夫だよ。この村には、聖女様がいるから。きっと、すぐに良くなるよ」

 その言葉に、サクリは驚きながらも、女の子の方を見る。

 

「そうそう。聖女様って凄いんだ。俺と妹の病気もあっという間に治して下さったんだ。だから、大丈夫」

 男の子もそう言って笑った。

 

 兄妹らしき幼子二人の笑顔に、サクリは呆然としていた。だが、彼女の体の震えが止まったことに、ジェノは気づく。

 

「はい。お花をどうぞ」

 先程までと変わらぬ笑顔で、花を差し出す女の子。

 その花を受取り、サクリは「ありがとう」と応えた。

 

 サクリの言葉に、女の子達は嬉しそうに笑みを強め、「またね」と言い残して、村の門の方に駆け出していった。

 

「……大丈夫か、サクリ?」

 ジェノが尋ねると、サクリは、「ええ」と短く答える。

 そして、ジェノの腕を離れると、彼女は再び立ち上がった。

 

「サクリ、無理をするな……」

「いいえ。その、私、きちんと皆さんにお礼を言っておきたいのです」

 サクリは静かにフードを後ろにやり、素顔をジェノ達の方に向けて、頭を下げた。

 

「ジェノさん。イルリアさん。リットさん。少し早いですが、私をここまで連れてきてくれてありがとうございます。

 ……落ち込んでいた私は、この世界は、悲しみに満ちているから、私が不幸なのも仕方ないと思っていました」

 

 サクリの言葉に、ジェノ達は何も言葉を返せない。

 彼女の言葉は、とても神聖で侵し難い雰囲気を纏っていたのだ。

 

「でも、カルラやレーリア以外にも、皆さんのような優しい気持ちを持っている人がいることがこの世界にはいることが、分かって、私はこの世界を、嫌いにならずにすみました。

 本当に、本当にありがとうございました。

 皆さんに出会えて、私は本当に幸運でした。そして、私が感謝していたと、どうか、あの自警団のガイウスさんと、バルネアさんにもお伝え下さい」

 

 サクリはそう言うと、微笑んだ。

 その笑顔は、病に冒されきった少女の力ない笑顔ではなかった。

 

「…………」

 その笑顔にジェノは見惚れた。

 本当に、綺麗だと、美しいと彼は思ったのだ。

 

「私は大丈夫です。あの子供たちが私に勇気をくれましたから」

 サクリは、胸の前で静かに女神カーフィアの印を組む。

 

「どうか、皆さんに女神カーフィアのご加護がありますように」

 サクリはそう言ってもう一度微笑む。

 

 その笑顔は本当に綺麗で、美しくて……。そして、何故か悲しかった……。



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㉑ 『交渉』

 順番を先んじて、簡単な手荷物検査が行われ、イルリア達の入村が認められた。

 

 どのような意図がその行為にあったのかは分からないが、サクリが重病人なのは間違いない。

 さらに、神官のナターシャが、重病人を優先する旨を入村希望者たちに説明したこともあって、さしてトラブルにはならなかった。

 

 だが、イルリアは門をくぐり、この『聖女の村』に入った瞬間、違和感を覚える。

 

 何がどう違うのかは自分でも上手く理解できないが、空気が違うような気がする。

 なんだか、大気が少し重たいような感覚といえばよいのだろうか?

 

 巨大で厚さもかなりあるが、同じ土地なのだ。ただ壁を一枚隔てて中に入っただけで、どうしてこんな感じがするのかまるで分からない。

 

 だが、どうやらこんな感想を抱いているのは自分だけのようで、サクリも、ジェノ達も、特段気にした様子はない。

 しかし、男連中はどうでもいいが、サクリの体に差し障りがないようなのはありがたい。

 

 自分達の後から村に入ってきた人たちも、別段そのような違和感を覚えていそうな人間はいないようだ。

 

 イルリアは困惑したが、今はサクリの事が大事だと頭を切り替える。

 

 とにかく、目的の治療施設、この村の神殿に運ぼうと思ったのだが、それよりも早くに、先程の神官、ナターシャが数人の神殿関係者らしき若い女数人を引き連れて、自分たちの前にやって来る。

 

「担架をご用意させて頂きました。後は我々が患者を治療施設までお運びします」

 ナターシャはそう言い、イルリア達に頭を下げる。

 

 その申し出は嬉しい限りだ。そして、重病人を運ぶ方法としては最善の手だとも思う。

 だけど、このナターシャが、サクリを見る目が癪に障って仕方がない。

 

 彼女の目から感じる感情は、病人に対する慈しみでもなければ、憐憫でさえない。

 隠そうとはしているが、あれは好奇の目だ。そして、何故か嬉しそうに見える。

 

 どうして、これから治療を施す患者にあんな目を向けるのか分からない。だが、こんな目をする人間がいる神殿とやらに、サクリを預けたくはないと思ってしまった。

 

「ナターシャ神官様。私のような者にご配慮頂きありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます」

 しかし、当の本人であるサクリが、そう決めてしまっては、自分達に拒否する権利はない。

 

「サクリ」

 どうやら、ジェノもこのナターシャを快く思っていないようで、サクリに声をかける。

 けれど、サクリは困ったように笑うだけだ。

 

 更に彼女は、ジェノに小さく一礼をし、今度はイルリアの方を向いて微笑む。

 

「ナターシャ様。私は、この方たちにお世話になりました。特に、同じ女性ということもあり、こちらのイルリアさんにはとても良くして頂いたのです。

 そして、彼女は聖女ジューナ様にご相談したいことがあるとのこと。私程度が口を挟めることではないことは承知しておりますが、どうかご便宜を図って頂けませんでしょうか?」

 

 船の中で一度約束を交わしただけで、念押しなどはしなかったのだが、サクリは船の上でのやり取りをしっかり覚えていてくれた。

 そのことが、イルリアはとても嬉しい。

 

「そうでしたか。分かりました。それでは、まずは神殿までご足労下さいませ。大したおもてなしはできませんが、ご要望に応えられるよう、最大限努力致します」

 にっこりと笑みを浮かべ、玉虫色の返事をするナターシャに、イルリアの彼女に対する評価がまた下がる。

 

 だが、サクリが作ってくれたこのチャンスを無駄にはできない。後は、自分ができることをするだけだ。

 

 イルリアはそう心に決めて、神官たちに案内されるままに、この村の神殿に向かって行くのだった。

 

 

 

 

 

 

 この村は、壁に囲まれていることと、村の規模に似つかわしくない大きな神殿があること以外は、特筆することがない村だった。

 村の中には畑もあり、基本的に自給自足の生活を営んでいるようだ。

 

 そして、神殿も規模こそ大きいものの、決して華美ではない。

 ナターシャ神官の話によれば、患者を治療、収容する施設が巨大なだけらしい。

 

 サクリは、早急にベッドに移す必要があると言われ、ろくに分かれの挨拶もできずに神殿の入口で分かれることになってしまった。

 寂しくないといえば嘘になるが、ここでの治療を受けるためにサクリは旅を続けていたのだ。今は、彼女が無事にたどり着けたことを祝福するべきなのだろう。

 

 そして、ナターシャ神官の案内で、イルリア達三人は客間に通された。

 そこで、まずはこれまでの経緯を聞かせてほしいと言われたのだが、ここで一つのトラブルが起こった。

 

「どうぞ……」

 客間の席に着くと、殆ど間を置かずに、お茶を神官見習いらしき少女が運んできてくれた。

 イルリアはお礼の言葉を口にしたのだが、どうも自分の言葉は耳に入っていないらしく、その少女は、ジェノとリットを見つめたまま硬直してしまったのだ。

 

「……カリン。早く、お客様にお茶をお出ししなさい」

 カリンと呼ばれたその少女は、ナターシャに言われて、慌ててお茶をジェノ達の前に出したものの、また見惚れて動けなくなってしまう。

 

 ナターシャの何度目かの咳払いで、カリンは慌てて退室していったが、それから話を少し進める度に、別の少女が頼まれてもいないだろうに、代わる代わるお菓子などを運んできた。

 

 流石に、四人目がノックとともに入室してきたところで、ナターシャはこめかみを引きつらせながら、「すみません、少し席を外します」といい、四人目の少女の襟首を掴んで部屋を出ていこうとした。

 だが、どうやら廊下にもたくさんの神官見習いの少女達がいたらしく、ナターシャは部屋の扉を締めていても聞こえるくらいの大声で、お説教を始めてしまった。

 

「ジェノちゃん。俺達って罪な男だよなぁ」

 リットは、三人目の少女が持ってきてくれたお菓子を口に運び、うん、うんと頷いている。

 

 ちなみに、イルリアの前にはお菓子は置かれていない。

 

「……お前の言いたいことは分からんが、こんなところにサクリを預けるのが不安だ」

 ジェノはそういい、小さく嘆息する。

 

 まったくの同感で、イルリアは冷めたお茶を口にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 そんな馬鹿げた事柄が一段落し、戻ってきたナターシャ神官に、ジェノがこれまでの経緯を説明した。

 そして、くれぐれもサクリのことをよろしくお願いする旨をジェノが釘刺し、神殿が用意してくれた宿に移ることになったのだが、イルリアは一人残ってナターシャと二人で交渉を開始することとなった。

 

 一時間ほどの交渉となったが、寄付をチラつかせたことが功を奏したのだろう。

 明日の午後からであれば、イルリアに直接お会いしてくれる旨の約束を取り付けることができた。

 

 寄付は、小金貨二枚ということで話がついたので、イルリアの交渉術の勝利と言っていい。

 もっとも、上手く事が運んだ末には、残りの小金貨三枚も寄付しようと彼女は思っている。

 

 上手くことが進んだが、イルリアはそれを顔には出さずに、ナターシャ神官に求められるまま握手をし、先に宿に行ったジェノ達を追いかけるべく、客間を後にした。

 

「ふぅ、まずは第一関門突破ね。後は、あのバカも一緒に……」

 イルリアはポーカーフェイスのまま歩き、これからのことに思考を巡らせる。

 

 だが、あまりにも事が自分の有利に進みすぎたことへの違和感を、この時のイルリアは感じることができなかった。

 

 そのことを、後にイルリアは悔やむ。

 だがそれに気づくのは、最悪の事態が発生した後。

 

 ……どうして気が付かなかったのだろう。

 話がうまくいったと、ほくそ笑んでいたのは、自分一人ではなかったことに。



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㉒ 『譲歩』

 宿まで案内をしてくれた少女達に礼を言い、ジェノは宿で割り当てられた部屋のベッドに腰を掛け、息をつく。

 そして、ジェノは手持ち無沙汰に部屋をざっと確認する。二階ということもあり、窓からはこの村の様子がよく見える。

 

 壁に囲まれているはずのこの村で、何故か遠くに森の木々も見える。これは、森のかなりの範囲まで、壁の中に囲われているからだと、案内をしてくれた少女達が、聞きもしないのに教えてくれた。

 

 けれど、風光明媚と呼ぶには取り立てて心惹かれる自然があるわけではなく、かといって、建築物も神殿を除けば、取り立てて特徴のない家屋しかない。

 畑作や養畜も村の中で行っているらしいが、それはどの村でも行われているものだ。もっとも、件の壁のせいで、日当たりはよくないだろうとは思うが。

 

 やはり、集落の規模とは不釣り合いな巨大な壁に囲まれていること。そして、場違いな大きな神殿の存在が、あまりにもこの村に適合していない。

 

 案内してくれた少女達が話してくれたので、この村の歴史を知ることができた。だが、それを知ったことで、ますますこの村が不穏なものに思えてしまう。

 

 まず村があった。取り立てて特徴のない、人口が千人にも満たない小さな村が。

 だが、十年以上前に、この国の暴君が、聖女ジューナの誇り高い献身的な姿に心を打たれ、もっと人々のために役立ちたいと願う彼女のために、この村に神殿を作った。多数の病める人々を治療できる大施設を普請したのだ。

 

 その際に、聖女様を守るためにと強固な壁でこの村を囲ったのだという。だが、この話はあまりにも言い訳じみて聞こえる。

 

 聖女の活動を後押ししたいだけであれば、他に神殿を作るのに適した場所などいくらでもあったはず。それなのに、こんな山奥に治療施設を作ったのは何故だ。どんな思惑が底にあったというのだろう。

 

「……依頼はもう達成した。後はイルリアの用事が終われば、俺達はこの村を出ていく。こんなことを考えても何の意味もない」

 ジェノは自分に言い聞かせるように言うと、ベッドに体を預ける。

 

 だが、そう思っても、ジェノはサクリの事が気がかりだった。

 あの、ナターシャと言う名の神官が、サクリを見た時の表情を思い出すと、心がざわつく。

 隠しているつもりだったのだろうが、あの瞬間の醜悪としか思えない酷薄な笑みは、決して病人に向けていいものではない。

 

「……サクリは、何かを知っているようだった」

 ジェノは自分が横になりながらも、無意識に手をきつく握りしめていた事に気づく。

 

「どうしたんだ、いったい。俺達の仕事はもう終わった。それなのに、何故、俺は……」

 今、この胸に宿る気持ちが何なのかは理解している。

 

 腹立たしさだ。

 

 だが、この感情が何に向けてのものなのかが、ジェノ自身にも分からない。だから、余計に苛立ちが募る。

 

 思考の海に沈みそうになったジェノだったが、そこで聞こえてきたドアをノックする音で我に返る。

 

「ジェノちゃん。起きているかい?」

「ああ」

 ジェノがそう答えると、ドアが開かれ、声の主であるリットが、無遠慮に部屋に入ってくる。

 

「どうかしたのか?」

 ジェノが尋ねると、リットは「いや、少し出かけてくるって伝えておこうと思ってさ」と軽い口調で言う。

 

「……神殿の女絡みならば、自重しろ。ようやく仕事が終わったんだ。トラブルは困る」

 ジェノがそう言うと、リットはさも可笑しそうに笑う。

 

「そんな暇つぶしじゃあないぜ。久しぶりに面白そうなことを見つけたから、今はそれに夢中なんだよ、俺は」

「どういうことだ?」

「言葉通りだよ、ジェノちゃん。それと、たぶん俺達は、もう何事もなくこの村を出るのは難しいと思うぜ」

 リットはそう言って喉で笑う。

 

 自分だけが答えを知っている。その状態で、答えを知らない者をからかうのがリットの悪い癖だ。

 

「……あれっ? 『何を隠している!』とか訊かないの? つまらないなぁ」

 リットはジェノが無言でいることに、口を尖らせる。

 

「俺が尋ねても、答えるつもりはないだろうが」

「はいはい、御名答。付き合いが長いと、ノリが悪くて俺は悲しいよ」

 リットは大げさに肩をすくめてみせたが、不意に真剣な目でジェノを見た。

 

「なぁ、以前に俺は警告したよな。サクリちゃんに入れ込みすぎるなと。だが、ジェノちゃんはそれを聞かなかった。もっとも、どのような判断をするかは自由だから、俺がどうこう口出しすることじゃあないがね」

「すまん。お前の警告を……」

「いや、だからいいって。俺は人に強制するのも、されるのも大嫌いだからな。自由に選べばいいさ」

 リットはそう言って微笑む。だが、目がまったく笑っていないことにジェノは気づく。

 

「だが、ジェノちゃんとは長い付き合いだ。その誼で、大サービスをして最後のチャンスをやるよ。今日一日だけ考える時間をやる。その間に、この村を立ち去るかどうかを決めろ。

 もしも、立ち去るのならば、俺がお前と、ついでにイルリアも助けてやる。だが、そうでないのなら、俺は自分の楽しみを優先し、勝手にこの村で暗躍する」

「……それが、お前の今回の最大限の譲歩ということか」

 ジェノの問に、リットは「そのとおりだぜ、ジェノちゃん」と言って笑みを浮かべる。

 

「分かった。だが、おそらく俺の考えは変わらん」

 ジェノの答えに、リットは再び肩をすくめる。

 

「了解だ。まぁ、一応、明日の朝に答えを聞くぜ」

 話は終わりだと言わんばかりに、リットは踵を返して部屋を出ていこうとする。ジェノはそれを無言で見送っていたが、リットは不意に立ち止まった。

 

「ああ、そうだ。絶対に森には入るなよ。珍しく親切になっている、リットさんからの忠告だ。……これくらいは守れよ」

「分かった」

 ジェノの答えを聞いたリットは、無言で部屋を出ていった。

 

「最後のチャンス……」

 リットとは長い付き合いだが、基本的にあいつは嘘を言わない。その代わり、部分的にしか情報を教えようとはしない。

 何とも扱いに困る人間だが、ジェノもリットとの付き合いは長い。どうして、リットがそういう行動を取るのかは理解している。

 

「そして、森か……」

 この村を覆う壁のもう一つの疑問点。 そう言えば、案内をしてくれた少女達も、森には近づかないようにと言っていた。

 

 その場所に気が惹かれないと言えば嘘になる。

 だが、リットが入るなというのだ。それは、近づいては命に関わるということ。

 

 しばらくあれこれ考えていたジェノだったが、あまりにも今は情報が少なすぎる。

 

「……じっとしていても、何も変わらんな」

 ジェノは静かに立ち上がり、村で何かしらの情報を集めようと思い、剣を腰に帯び、部屋を後にすることにした。



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㉓ 『最初の事件』

 ジェノは村を散策する。

 だが、やはり得られた情報は少なかった。

 

 リットに散々言われたので、森に入るつもりはないが、その近くまでは足を運んでみた。

 結果、森の前には大きめの柵が設けられていて、さらに数名の神殿関係者らしき人間が見回っている事を確認した。やはり、あの森には何かがあるのだろう。

 

 けれど、村の様子は平和そのものだった。

 

 村の人間は笑顔で畑仕事をしている。

 辺りを駆け回って遊ぶ子供たちの顔にも、笑顔が浮かんでいた。

 そして、人々の口からは、『聖女様』という言葉がよく上がる。

 

『こんなに大きな芋が取れるなんて珍しい。聖女様に献上して、召し上がってもらいたいなぁ』

『カーフィア様と聖女様のおかげで、すっかり腰も良くなった。お前達、聖女様への感謝の祈りを忘れてはいけないよ』

『私は、大きくなったら聖女様のお手伝いをするよ』

 

 笑顔で聖女の名を口にする村人たちは、誰もが幸せそうだった。

 だが、ジェノはそこにうすら怖さを感じる。

 

 女神カーフィアは神だ。それは、当然信仰する人々の崇拝の対象となるべきものだろう。だが、まだ会ったことはないが、聖女と呼ばれる女性は人間だ。その事を、この村の住人は忘れているのではないだろうか?

 

 一人の人間に傾倒する思想は、ある種の危険性も含んでいる。

 何が正しく、何が間違っているのか。それを自らで考えることを放棄した人間ほど暴走しやすいものはない。

 幸せそうなこの光景が、ひどく危ういバランスで成り立っていることに、ジェノは恐怖を覚える。

 

「なんだ?」

 思うままに足を進ませていると、村の中央の広場に人だかりができていた。何かと思い、ジェノはそこに足を進める。

 

「はい、どうぞ。きちんと子供たちにも飲ませて下さいね」

「お薬はきちんと欠かさずに飲まないと駄目ですよ。そして、バランスの良い食事と適度な運動です。怠けてはいけませんからね」

 どうやら神殿の関係者数人が、村の住民に薬を配布しているらしく、村の人々は感謝をしながらそれを受け取っている。

 

 村人たちは感謝しながら薬が入っていると思われる紙袋を受け取り、家路に就く。だが、なかなか人の列が途絶えることはない。

 

 村をいくつかの区画に分けて配布しているのだと思うが、それにしても少ない人数で村人たちにきちんと行き渡るように薬を配るのは大変だろう。

 そんな事を心配しながらも、ジェノは違和感を覚える。

 

 薬には、多かれ少なかれ、主の作用以外に副作用というものもある。だから、突発的な症状に対する胃薬などの簡易な内服薬品、そして、擦り傷等の治療のための軟膏等の外用薬品は別として、ナイムの街などでは、日常的に常時服用または使用する薬は、必ず薬師が患者の症状を見て随時調合する。

 

 無論、薬師のいない小さな村等はこの限りではないが、この村は治療施設が主たる目的の村だ。この村に薬師がいないとは考えにくい。

 

 一人一人の症状を診ないで配布する薬。しかも、子供にも飲ませている。栄養剤の類か? いや、それでも誰にでも飲ませるなんて、雑な対応にも程がある。

 

「何で、こんなところに突っ立っているのよ?」

 ジェノはしばらく思考していたが、聞き慣れた少女の声に、それを中断する。

 

 赤髪の気の強そうな少女。イルリアがジェノに話しかけてきたのだ。

 

「いや。村を散歩していただけだ。お前の方こそ、話は終わったのか?」

「ええ。明日の午後に、聖女様にお会いできることになったわ。当然、あんたも一緒に行くんだから、忘れるんじゃあないわよ」

「……分かった」

 

 イルリアは珍しく、笑顔をジェノに向ける。よほど、話が上手くまとまったことが嬉しいのだろう。だが、リットにできないことを、その聖女様ができるとは思えない。

 だが、一度聖女と呼ばれるジューナという名の人物には会っておきたいとジェノも思っていた。この話は、渡りに船ではある。

 あとは、ジューナが、サクリを安心して任せられる人物であるといいのだが。

 

「しかし、案内を付けてはくれなかったのか?」

「ああ。なんだか忙しそうだったから断ったわ。大まかな位置さえ教えてもらえば、迷うほどの村ではないし」

 イルリアはそう言うと、ジェノが見ていた薬の配布している姿に目をやって首をかしげる。

 

「なんなの、この人だかり?」

「俺にもよく分からんが、薬を……」

 ジェノの言葉は途中で途切れた。

 

 それは、彼の耳に悲鳴が聞こえたからだ。

 

 微かだが、たしかに聞こえた。男の叫び声だ。

 ジェノはすぐさまその声がした場所に向かって走り出す。

 

「ちょっと、私達はよそ者なのよ!」

 イルリアの声が聞こえたが、ジェノは構わず走り続ける。

 たしかこっちは、森の方角だ。なにかが、やはりあの森にはあるのだろう。

 

 だが、ジェノは森に辿り着く前に、村の大道の片隅に立つ、その化け物の姿を視認した。

 そう、化け物だった。

 

 やや長身な自分を軽く超える背丈の巨大な猿のような、毛むくじゃらな生き物。だが、その顔にはいくつもの赤い目があり、蜘蛛の顔を彷彿とさせる。

 そして、そんな化け物から少し離れたところで、腰を抜かしながら後ずさる中年の男性の姿があった。

 

 ジェノは腰に帯びた長剣を走りながら抜剣し、化け物と男性の間に入って、男性を守るべくその化け物と対峙する。

 

「あっ、ああっ……。テッドが……。テッドが……」

 横目で後ずさる男性を見ると、化け物の左後方を見ながら、そんな言葉を繰り返している。

 ジェノが男の視線に目をやると、そこには血の水たまりができていて、子供のものと思われる手足が、散乱していた。

 

 ジェノの持つ剣に一層の力が込められる。

 状況がまだつかめない。だが、この化け物が子供を襲ったのは間違いないだろう。

 

 化け物はしばらくキョロキョロと周りを見渡していたが、辺りにジェノ達しかいないことを確認すると、口の端を上げた。

 化け物でも、感情が分かるものもいる。こいつは確かに、今、こちらを嘲笑った。

 

 大きな奇声を上げながら、化け物は長い腕をジェノめがけて横薙ぎに振ってくる。ジェノはそこに剣の一撃を合わせ、腕を断ち切ろうとした。

 

「ぐっ……」

 硬い。想像以上に化け物の腕は強固で、僅かに化け物の腕を僅かに傷つけるのがやっとだった。

 もう片方の腕で攻撃される事を危惧し、全力で剣を振るわなかったことが幸いした。

 もしも、全力で振っていたら、最悪、剣が砕けていたかもしれない。仮に砕けなくても、腕がしびれて剣が持てなくなってしまっていただろう。

 

 こういう未知の相手と戦う場合は、基本的に距離をとったほうがいい。だが、生憎とジェノの背後には男性が動けずにいる。彼を見捨てるわけにはいかない。

 

「……それなら、手は一つ……」

 ジェノは覚悟を決め、前傾姿勢を取る。

 

 そこに、化け物が、今度は両腕を振り回して来た。

 ジェノはその瞬間、あえて化け物目掛けて突進する。

 

 攻撃対象の位置が急に前にずれたため、化け物は慌てて腕の軌道を変えようとするが、遠心力がついた腕の軌道は簡単には変わらない。その上無理な力を加えたことで、バランスが大幅に崩れる。

 

 ジェノは化け物の両の腕の攻撃を、姿勢を低くすることで交わし、相手の横を通り抜けて背後を取ると、そのまま化け物の背中に剣を突刺さんとした。

 

 背中は死角。そのはずだった。だが、ここで化け物の背中の一部が裂けて、そこから何かが噴出してくる。ジェノは攻撃をやめて、剣の腹を使って防御を試みる。

 

「腕だと……」

 ジェノの剣に押し当てられた、化け物の背中から生えでたものは、腕だった。

 

 渾身の力を込めてその一撃を防ごうとしたが、圧倒的な膂力でジェノの体は吹き飛ばされ、宙を舞う。

 それでも、幸い手傷を負うことはなく、意識を失わずに済んだ。ジェノは何とか剣を握ったまま体制を整え、地面に着地する。

 だが、化け物と距離が離れてしまった。

 

「やっ、やめろ! やめてくれ!」

 背後のジェノの方を振り返らず、化け物は、眼前の男に向かって突進する。

 

 ジェノも化け物を止めるべく、全力で走り、背後から再び攻撃を仕掛けたが、また背中から生えた腕に邪魔をされてしまう。

 

「逃げろ!」

 ジェノにできたのは、そんな陳腐な言葉を男に言うことだけだった。

 

 そして、男は化け物の腕の攻撃で原形もなく潰される――はずだった。だが、ここで思わぬことが起きた。

 

 眩い光が突然起こったかと思うと、化け物が黒焦げになったのだ。

 

「ジェノ! 今のうちに、止めを! きっとまだ倒せていない!」

 背後から聞こえたのは、間違いなくイルリアの声だった。

 彼女が魔法を使えるという話は聞いたことがない。だが、今はそんなことよりも、この化け物を仕留めることが先決だ。

 

 ジェノの攻撃に、化け物の背中の腕が再び迎撃しようとしてきたが、その動きは遅かった。

 腕を躱し、放たれたジェノの突きが化け物の背中から胸を貫通した。

 

 ジェノはすぐさま化け物から剣を抜き、次の攻撃に備える。だが、化け物は力なく前に倒れ、自らが流した血の海に沈んでいった。

 

 幸い、倒れた化け物の体は腰を抜かした男の体を押しつぶすことはなかった。

 だが、相変わらず男は放心仕切った目で、体を震わせている。

 

「ジェノ!」

 化け物の首に念の為一撃を入れ、完全に事切れたことを確認したジェノは、背後から聞こえるイルリアの方を向く。

 

「何かは知らないが助かった。礼を言う」

「ふざけるんじゃないわよ! 何でまた一人で突っ走って危ない目にあっているのよ!」

 イルリアは文句を言うが、ジェノは「すまん、文句は後で聞く」といい、腰を抜かし続ける男のもとに歩み寄る。

 

 

「大丈夫ですか? いったいこの化け物は何処からやって来たのですか?」

 ジェノは片膝をつき、顔を少し近づけて、ゆっくりとした声で男に尋ねる。

 

「テッドが……。テッドが……」

 しかし、男はそう言葉を繰り返すだけだった。

 

「すみません。もう少し早くに……」

 ジェノは沈痛な面持ちで謝罪の言葉を口にしようとしたが、不意に男がジェノの胸ぐらをつかんだ。

 

「違う! 違うんだ! テッドが、テットが!」

 ただ事ではない男の錯乱ぶりに、ジェノがとりあえず彼を落ち着かせようと思ったその時だった。

 突然、男が意識を失って倒れたのは。

 

「申し訳ありません。我々の到着が遅くなってしまったために、ご迷惑をおかけいたしました」

 そうジェノに声をかけてきたのは、神官のナターシャだった。

 

 彼女の傍らには、五人の神官らしき者がいる。そして、その一人が魔法の杖の先端を、気を失った男の方に向けている。彼女が魔法で男の意識を失わせたのだろう。

 

「……何のまねだ?」

 ジェノは静かにナターシャ達に尋ねる。

 

「はて? 何のまねとは、どういう意味でしょうか? こちらの男性が錯乱されていたようでしたので、部下に命じてひとまず眠らせただけですが」

 ナターシャは微笑んで答えた。

 

 人が、子供が死んでいると言うのに、微笑みをむけてくるその姿に、ジェノは冷ややかな目で彼女を睨みつける。

 

 この出来事が、ジェノ達がこの村で遭遇した、最初の事件だった。



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㉔ 『檻』

 ジェノはナターシャを睨み続けたが、彼女はにっこりと微笑み、優雅に一礼を返してくる。

 

「ジェノ様、イルリア様。お二人の勇気ある行動によって、村人の犠牲が最小限で済みました。この村の治安を預かる者として、ご協力に心から感謝致します」

 何処か芝居がかった慇懃な礼に、ジェノは一層不信感を募らせる。

 

 さらに、ナターシャは、騒ぎに気づいて多数集まって来ていた村人達の方を向く。

 彼らは、突然村の中に現れた化け物に驚き、それと交戦した余所者のジェノを不審がっていた。

 だが、そこに朗々としたナターシャの声が響き渡る

 

「皆さん。こちらの方々は、ジェノ様とイルリア様とおっしゃいます。この方たちは、遠い国から、カーフィア様にお使えする、病める信徒を護衛して、この村まで連れてきて下さったのです。

 その上、こうして村の危機にまでお力添えをして下さいました。どうか、皆さん。この村に彼らが滞在なされている間、感謝の気持ちを忘れずに接して下さいますようお願い致します」

 

「…………」

 ナターシャの言葉に、ジェノは意識を失った男を静かに横たわらせて、彼女の方に近づく。いや、近づこうとしたのだが……。

 

「らしくないわね。何を熱くなっているのよ!」

 腕を引っ張られ、ジェノはイルリアに小声で叱責された。

 

「……すまない。どうかしていた……」

 ジェノは小声で答え、顔を俯ける。

 

 ナターシャがどのような意図を持って、こんな猿芝居をしているのかは分からない。だが、この女は、サクリの事をわざわざ口に出した。

 自分のことならどう言われようと構わない。だが、こいつは、サクリの名を何かに利用しようとしているようだ。それが、許せなかった。

 

「待ってなさいよ。聖女様にアレを治して貰うから。それからなら、いくらでも……」

 イルリアの声は低い。そして、村人たちに一席ぶっているナターシャを睨んでいる。

 彼女も、心底腹を立てていることがジェノにも分かった。

 

「村人をお預かり致します」

 ナターシャの取り巻きの神官らしき若い女が、ジェノが地面の上に寝かせた男を丁寧に背中から抱き起こす。

 もちろんコツはあるのだろうが、大の男一人を軽く持ち上げるとは、かなり体を鍛えていることは間違いない。

 

「こんな化け物が、頻出するのか? この壁に囲まれた村で……」

「……失礼ながら、私にその事をお答えする権限はありません」

 若い女神官は、それだけを言い、他の仲間といっしょに、男を運び始める。すでに、地面に無残に巻かれていた子供の手足も、彼女達が片付けている。

 

「村人も、初めてこの化け物を見たという感じではないな」

「……そうね」

 ジェノとイルリアは短く言葉を交わす。

 

「人が集まりすぎた。とりあえず宿に行くぞ」

 その言葉にイルリアが頷いたのを確認し、ジェノはナターシャ達に背を向けて宿に向かって歩き始める。

 方向の関係で、まだ熱弁を振るい続けるナターシャの横を通る事になったが、ジェノ達は一瞥もせずに通り抜ける。

 

 だから気づかなかった。

 ナターシャは、ジェノ達の態度に気分を害した様子はなく、むしろ笑みを強めたことに。

 

 

 

 

 

 

 

「……そうか。先程の雷は、その魔法の品の効果だったのか」

 ジェノと一緒に宿に戻ったイルリアは、彼の部屋のベッドに腰掛けて、簡単に自分の持っている武器の、銀色の板の説明をする。

 

「ええ。それと今は、<沈黙>の魔法をこの部屋にかけているから、私達の声は外には漏れないはずよ」

「助かる。この村の人間は、全て神殿の味方だろうからな」

 向かいの小さな机に付属した椅子に腰掛けたジェノはそう言い、小さく息をつく。

 

「話し合いをしておかないといけないことが、多すぎるわね」

「ああ。だが、一つ明らかなことがある。この村は危険だ。リットに警告されるほどにな」

 ジェノはそう話を切り出すと、リットが彼にした話をイルリアにも聞かせてくれた。

 

「……森が危険なのね。まぁ、最初から近寄るつもりはなかったけれど、覚えておくわ。そして、今日一日を掛けて、あいつに守られて村を脱出するかどうか決めろと言うわけね。

 まったく、あいつの思考ってどうなっているの?」

「さぁな。それなりに長い付き合いだが、あいつの気まぐれな思考はよく分からん」

 真偽は確かではないが、ジェノは答える。

 

「あんたはリットの言葉を全面的に信じているみたいだけれど、本当に、この村を出ることがそんなに大変なの?」

「あいつは、基本的に嘘は言わない。本当のこともなかなか言わないのが問題だがな」

「でも、急用ができたと言って出ていこうとしても、神殿の関係者は私達を止めようとするというの? まぁ、さっきの態度から、私達を何かに巻き込もうとしているのは分かったけれどね」

 いったい何に、ただの冒険者見習いに過ぎない自分達を巻き込もうとしているのか分からない。

 

「その方法は実行したくない。最悪、罪状を捏造されて捕まる可能性も否定できないからな。そうなってしまったら、打つ手がなくなる」

「そんなことまで、わざわざするっていうの? 私達なんかに?」

「あくまでも可能性だ。だが、可能性は低くないと俺は思う」

 分からない。私達に何の利用価値があるというのだろう。

 

「だが、イルリア。俺は、お前だけ……」

「ああ、『お前だけでもリットと一緒に村を出ろ』っていうのは却下するからね。論外だわ。そもそも、リットが指定した期限は明日の朝までなんでしょう? それじゃあ、あんたを聖女様に診てもらうことができないわ」

 わざわざこんな遠い国まで足を運んだ一番の理由を果たさないうちに、帰るわけにはいかない。

 

「しかし、この村は明らかに異常だ。」

「それは分かっているわよ! なんだかこの村に入ってからというもの、空気が重たい気がして仕方がない。でも、あんたは残るつもりなんでしょう? だったら私も残るわ」

 イルリアはそうピシャリと言う。

 

「ほらっ、不毛な口論をしている余裕はないから、私もここに残る前提で話を進めなさいよ」

「……そうか」

 ジェノはどうやらこちらの説得を諦めたようだ。

 

「サクリの事、この村を覆う巨大な壁の事。この辺りの事が知りたいが、いきなりこれを考えても現状では情報が少なくて頓挫することは目に見えている。

 だから、今は他の疑問点から考えていく。ここまではいいか?」

 イルリアは頷く。

 

「まずは、先程の巨大な猿のような化け物についてだ。これが一番情報も多い、実際に体験したことだ」

 部屋に戻る前に、宿の人に頼んで用意してもらった水を一口して、ジェノは話をする。

 

「あの化け物が何なのか? それはすぐには分からない。だが、先程の村人たちの驚きの程度から察するに、今回の出現が最初だとは思えない。

 もっとも、村の厳戒態勢の緩さから、そう頻繁なものでもないと推測されるがな」

「どこから、この村に入って来たのかは、予想がつくの?」

「まず間違いなく、壁の中の森の部分からだろう。俺が見かけたのも、森の近くだった」

 ジェノはそう断言する。

 

「あの化け物の能力をくわしく知っている訳ではないが、この村を覆う巨大な壁を、あの質量の生物が飛び越えて侵入してきたのだとしたら、もっと地響きなどがするはずだ。それなら、もっと多くの村人が異変に気づいていたはずだ

 それに、そもそもこんな入りにくい村に入る理由がない。餌なら、村の外の森のほうがいくらでも獲物がいるだろうからな」

 

 ジェノの説明を聞き、イルリアも水を口にする。

 柑橘系の香りがついた水は、飲みやすくて美味しかった。

 

「この仮定のもとに話を続ける」

 ジェノは紙を一枚取り出し、この村の簡易図を書いた。

 

「森の部分の規模が分からないからその部分を省略して考えると、この村の中央部分に神殿がある。ちょうど、この村の入口から真っすぐ進んだ位置。

 そして、森は村の西方向の奥。そして、森と神殿の中間距離くらいに、この宿があるわけだ」

 イルリアは黙って頷く。

 

「俺達が合流したのがここ。そして、化け物と戦ったのがこの辺りだ。そして、戦いが終わるとすぐに、ナターシャが俺達の前に現れた。

 たまたま、あの女がこの付近の巡回を行っていた可能性は否定できないが、あまりにも駆けつけるのが早すぎる。まるで、その場所で何かが起こることを初めから知っていたのではと思えるほどに」

 

「ああ、そういえば。私との話を終えたナターシャ神官は、部下らしき人から報告を受けて、なにか慌ただしくし始めたのよね。

 だから、私は手近な人に宿の位置だけを聞いて、そこに向かって歩いている途中に、あんたを見つけたのよ」

 イルリアの説明に、「そうか、やはりな」とジェノは頷く。

 

「ここで、一つの疑問が浮かぶ。俺があの化け物と遭遇したのは、男の悲鳴を聞いたからだ。だが、俺よりも先に何かが起こる情報を得ていたはずの神殿の関係者が、俺達よりも後に現場に到着するのはおかしい」

「そうね。確かに変ね」

 イルリアも顎に手をやり考える。

 

「そして、先程の猿芝居。俺達が、化け物を倒したのだと露骨に喧伝していた。ナイムの街の自警団もそうだが、真摯にその場所を守ろうとしている者は、それなりの自負心もあるし、余所者の力を借りるのを嫌う傾向にあることが多い。だが、ナターシャの取った態度は真逆だ」

 ジェノの言葉に、イルリアは思考を巡らせる。

 だが、どうしても、あの女が何を企んでいるのかが皆目見当がつかない。

 

「……私達を見張っていたということ? でも、私達を見張る意味なんてあるの?」

「普通に考えればない。俺達は、サクリ達が不運にも賊に襲われてしまったため、急遽、彼女の護衛を務めただけの冒険者見習いの一党にすぎない。

 だが、俺も同意見だ。ナターシャ達は、俺とお前を見張っていたと考えている」

 ジェノの答えに、イルリアはますます頭がこんがらかってきた。

 

「どういう事よ? 偶然、この街を訪れた私達を見張る意味はないんでしょう?」

「ああ、ない」

 ジェノは答え、喉を鳴らしてコップの中身を飲み干した。

 

「イルリア。お前が大きな商談を無事に成功させようとした場合、綿密な計画を練り、それ相応の時間を掛けるだろう?」

「えっ? ええ。それはもちろん」

 突然話題を変えられたことに驚きながらも、イルリアは頷く。

 

「その計画がいよいよ詰めの段階に入ったときに、お前は不確定要素をその計画にあえて入れて、更に利益を出そうとするか?」

「……ありえないわね。そんな欲をかいて、全てが台無しになったら目も当てられないもの」

 イルリアの答えに、ジェノは頷く。

 

「この村で、誰が何を起こそうとしているのかは皆目見当がつかない。だが、あの『化け物』。この村を覆う『巨大な壁』。理由を知っている『神殿』。『聖女』。これらが一つの壮大な計画によって集まっているのだと仮定してくれ。

 そのうえで、先程の長い年月と労力を掛けてきたこの計画の首謀者が、俺達のような不確定要素を入れようとすると思うか?」

 そこまで言われ、イルリアはジェノが言いたいことを理解した。

 

「なるほどね。誰かが何かを長い年月掛けて計画している。そして、それはナターシャではない誰かの計画だろうと、あんたは推測するわけね」

「ああ。そして、ナターシャは、その首謀者のためにと、余計なことをしようとしているのではないかと思う。明確に計画を頓挫させるつもりならば、やはり俺達のようなものを利用しようとはしないだろうからな」

 

 ジェノはそう言うと、静かに窓に視線をやった。

 イルリアがそれに倣うと、嫌でも無機質な壁の一部が視界に入る。

 

「今の情報で推測できるのはここまでだな」

「ええ。そうね」

 イルリアもジェノも、しばらく無言で外の景色を見ていた。だが、

 

「まるで、檻の中のような村だな。いったい、この村で何が……」

 ジェノが小さく呟いたその一言に、イルリアは身震いを抑えられなかった。

 



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㉕ 『口論』

 宿での夕食は、一階の食堂で提供される方式だった。ジェノとイルリアは二人でテーブルを囲んで、食事を味わう。

 一応、先ほど飲んだ水は、イルリアの魔法を封じている銀色の板を使って薬等が入っていないことは確認したが、魔法の数は有限である事に加え、ここでこちらの手の内を晒すような愚を犯すことはできない。

 

 少量ずつ出された食事を口に運んで味を確認したが、違和感はなかった。無味無臭の薬だった場合はどうしようもないが、いつまでも食事を取らないではいられない。

 

 ジェノは、味は悪くないが、さして特筆することのない素朴な夕食を静かに口に運びながらも、思考を巡らせる。

 もっとも、傍目には、無表情で食事をしているようにしか見えないのだが。

 

「ねぇ、もう少し美味しそうに食べられないの? 店の人が心配そうにあんたを見ているわよ」

 イルリアに注意され、ジェノは小さく嘆息する。

 

 マナー違反をしているわけではないのだ。他の客と同じ様に放っておいてくれと思う。

 自分を監視しているのかもしれないと思ったが、それならばこんな露骨な態度は取らないのではと思う。

 

「それで、何を考えていたのよ?」

 シチューを口に運び、イルリアが小声で尋ねてくる。

 

「ああ。逆を考えていた」

「はっ? 逆ってなによ?」

 イルリアのオウム返しに、ジェノは口を開く。

 

「先程の俺がした話が、まったくの見当違いだった場合を考えていた」

 流石に人の目と耳があるため、それ以上、ジェノは言葉にしない。

 

「ふーん。でっ、その可能性って有り得るの?」

「おそらくない。できれば、そうであってほしいが……」

 ジェノはそこまで言うと、また食事を開始する。

 

 先程のイルリアとの話では、あえて言わなかったが、『化け物』『巨大な壁』『神殿』『聖女』これらの他に、もう一つの事柄が関係していると考えた方が、ナターシャのあのときの態度も説明がつく。

 

「そうね。本当に杞憂であってほしいわ」

 イルリアもその事に気づいているのだろうが、自分が言わないため、あえて口にしない。

 

「ああ」

 ジェノは短くイルリアに同意する。

 この一件と、サクリは無関係であると思いたい。

 

 ジェノ達がそんな会話をしていると、宿屋にリットが戻ってきた。

 彼はひどく上機嫌なようで、ジェノ達を見つけると、こちらに歩み寄ってくる。

 

「ほう。悪くなさそうな夕食だな。お姉さん、俺にも同じものを」

 ウエイトレスの女性に注文をし、リットはイルリアの隣の席に腰を降ろす。

 イルリアは心底嫌そうな顔で、腰を少し浮かせて椅子を彼から遠ざけて座り直す。

 

「リット、何処に行っていたんだ?」

「んっ? ああ、野暮用、野暮用。これでもいろいろ駆け回って腹が空いているんだ。そのあたりの話は後でするよ」

 リットはそう言うと、運ばれてきたお冷を口に運ぶ。

 

「お前に話しておく必要があるかは分からんが、こちらでもいろいろあった」

「ああっ、だろうな」

 その思わせぶりな回答に、イルリアはジト目でリットを見る。

 

「リット、あんたはいったい何を……」

「止めておけ。絶対にこいつは口を割らない」

 ジェノは、イルリアの問を遮る。

 イルリアは不承不承ながらも口を噤み、食事を続ける。

 

「……リット。少し早いが、回答だ。俺とイルリアは、明日の午後にジューナ神殿長に会う約束になっている」

「はいはい、了解、了解。最後のチャンスも棒に振るわけね。いいぜ、それはそれで面白そうだ」

 リットは至極軽い感じで答え、ヘラヘラと笑う。

 

 先に部屋に戻るとイルリアが席を立ったが、ジェノはリットの食事が終わるまで同席した。

 

「すまなかった。お前に気を使わせたのにな。だが、俺は、やはり……」

 ジェノがそう言うと、リットは嘆息する。

 

「だから、別にいいって。ただな、選んだからには後で後悔はするなよ、ジェノちゃん」

 リットはそう言うと、デザートを食べ終わり静かに席を立つ。

 ジェノもそれに倣い、席を立って部屋に戻ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 部屋で休んでいると声がかかり、イルリアはジェノの部屋に足を運んだ。

 そして、リットを交えて、再び今日の出来事をジェノがリットに説明する。

 

「なるほどね。猿に似た化け物に子供が襲われ、更に犠牲になりそうだった男を、正義の味方のジェノちゃんがさっそうと現れて救ったというわけだ。

 物語なら犠牲になる人間が逆の気がするが、そういう話も斬新で悪くないかもな」

「茶化すな。人が死んでいるんだ」

「そうだな。確かに死んでいるな」

 分かっているのか、いないのか。リットはそう言って笑みを浮かべる。

 

「そして、その化け物を倒すと、タイミングよくナターシャ神官たちが現れたわけね。そして、ジェノちゃん達の活躍を大々的に宣伝した。そのことが引っかかっているってわけだ」

「ああ。そして、その際に、化け物に襲われそうになっていた男が、何かを俺に伝えようとしていたことが気になる。生憎と、邪魔をされてしまったせいで、それが何なのかは分からないままだ」

 

 ジェノの言葉を聞き、リットはさも面白そうに喉で笑う。

 その行為が、イルリアには腹立たしくて仕方がない。

 

「リット! あんたは何がおかしいのよ! 一人だけ何もかも分かっているって顔をして! この一件には、サクリも関わっているかもしれないのよ!」

 イルリアの怒りの声に、しかしリットの笑みは消えない。

 

「それがどうかしたのか、イルリアちゃん?」

「どうかしたのかってなによ! 分かっている事があるのなら教えなさいよ! 自分一人で情報を握っていて、分からない私達が苦しんでいるのを見るのがそんなに楽しいわけ?」

 イルリアはリットを睨みつける。

 

「イルリア」

「あんたは黙っていなさいよ! 何なのよ! なんでこいつにそんなに気を使っているのよ! こいつは今回の事件を殆どわかっているのでしょう? だったら……」

 話に割り込もうとしたジェノにも噛み付くイルリア。

 

 だが、そこでリットは声を上げて笑う。

 

「いいねぇ、いいねぇ。その自分勝手な物言い。分からない事を自分で調べようとせずに、知っている人間から教えてもらえるのが当たり前だと思っているわけだ」

「何でもかんでも訊いているわけではないでしょう。ただ、この一件は人の命が掛かっているのよ!」

「それで? 命が掛かっているのならば、俺は常にお前達に自分の情報を話さなければいけないルールでもあるのか? 俺は自分の意志もなく、お前達に有益な情報を与える便利な本だとでもいうのか?」

 

 リットは口元の笑みを崩さない。だが、その目が笑っていないことにイルリアは気づく。

 

「イルリア、お前の苛立ちも分かるが、少し静かにしていてくれ」

 ジェノに言われ、イルリアは文句の言葉を飲み込む。

 

「リット。教えられる範囲でいい。答えてくれないか?」

「いいぜ。それで、何を訊きたい?」

 ジェノに問われると、リットは再び笑みを浮かべる。

 

「すまないが、三つ教えてくれ。一つ目は、俺とイルリア、そしてお前は、この村で行われようとしている何かに巻き込まれようとしているということだな?」

「ああ」

「二つ目だ。その何かを解決するには、俺とイルリアでは手に余るということか?」

「そのとおりだぜ」

 そこまでリットの回答を聞き、ジェノは少し間をおいて、最後の質問を口にする。

 

「三つ目の質問だ。サクリは……」

「その質問には答えられない。ただ、前にも言ったように、サクリちゃんはもう助けられない。それが答えられる全てだ」

 

 イルリアは黙って二人の会話を聞いていたが、サクリを助けられないという話は初耳だった。

 

「なぁ、ジェノちゃん。ここまで分かったのなら、考えを変える気にはならないか? この村に残ったところで、サクリちゃんは救えない。そして、イルリアちゃんは淡い期待を抱いているようだが、ジェノちゃんのアレを聖女様が治すこともできない。

 それなのに、この村に残る必要なんてないはずだぜ?」

 

「どうして、どうしてあんたに、聖女様が治せないって分かるのよ!」

 我慢できなくなって、イルリアは再びリットに文句を言う。だが、リットは涼しい顔で、

 

「俺が治せないからだよ。天才の俺にできないことが、凡人にできるわけが無いだろう?」

 

 と言って笑う。

 

 納得がいかない。そんな自己陶酔な発言で、納得できるはずがない。

 かの有名な聖女様を、無名の魔法使いが根拠なく侮辱しているようにしか思えない。

 

 それに、サクリの事を話せないというのはどういうことだ?

 この男は思わせぶりなことを適当に口にしているだけで、本当は何も分かっていないのではないだろうかと、イルリアは勘ぐってしまう。

 

「リット。イルリア。すまんが明日の朝まで時間をくれ。少し話を整理したい」

 ジェノがイルリア達の間に入り、そう声をかけてきた。

 リットは「いいぜ。もともと明日の朝までの予定だったしな」とそれを受け入れ、イルリアも特に拒む理由もなかったので受け入れた。

 

 そして、この日は解散となった。

 

 けれど、結果として、翌朝になっても、ジェノの考えは変わることはなかったのだった。



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㉖ 『聖女』

 この村、『聖女の村』で一晩を明かした。

 やはり、空気が重い感覚が消えてくれないことに加え、リットの身勝手な行動が腹立たしくて仕方なく、イルリアはよく眠れなかった。

 

 だが、さして今はできることはないので、朝食を食べた後に、イルリアはベッドに横になって体力回復に努めた。

 午後からが本番だ。醜態を晒すわけにはいかない。

 

 ジェノは、結局リットの提案を受け入れなかった。

 きっとそれは、サクリの事を見捨てられないからだろう。もう、彼女をこの村に送るという契約は終わっているのに。

 

 相変わらず、他人にはとことん甘く、自分のことをないがしろにする男だ。馬鹿としか思えない。

 

「リットの言うことを、あいつは全面的に信用している。それなのに、あいつは私を納得させるために、聖女様に会うことを了承した」

 そして、ジェノがこの村に留まるのを選択した理由の一つが、自分のためだと分かることから、余計にイルリアは腹立たしい。

 

「聖女様なら……。それだけが今の私の希望」

 高価な古代の魔法が掛けられた品を手に入れ、ジェノにそれを使用したが、結果として全て徒労に終わった。

 商人の端くれとして、それらの品を転売することで損はしていない。しかし、自分は未だに一番の負債を返済できないままなのだ。

 

 そう、あいつがもしもこんなお人好しでなかったら、私は多額の賠償金を、一人の人間が一生をかけて稼ぐ金額以上を請求されてもしかたがない立場なのだ。

 お金ではなくても、もし、この体を要求され、生涯を奴隷として尽くすように命令されても、文句は言えない。

 それほどのことを、私はしてしまったのだから。

 

「あいつが、そんなことを要求する人間だったら、どれだけ楽だったのかしらね」

 イルリアは力なく微笑む。

 

 もしも、自分に多額の金銭や肉体関係程度を要求する男であれば、イルリアはジェノを軽蔑することができた。自分に否があるとしても、それを盾に無理やり何かを要求してくる相手であれば、こちらも恨むくらいのことは許されると思う。

 でも、あの馬鹿は、ジェノは、あの時こう言ったのだ。

 

『全て俺の責任だ。お前が気にすることではない』

 

 と。

 

 

 それは、残酷な言葉だった。

 何も要求してはくれない。恨み言を言ってはくれない。私の罪を罪と認めてさえくれない。ゆえに、罰してもくれない。

 

 分かっている。あいつは、全てを忘れろと言っていたのだ。

 でも、それでも私は、そんな無責任な女ではいられない。

 

 罪を罪と思わず、己の傲慢さを振り返ることがない。

 それは、この世で最も嫌悪するあの女と同じになってしまうことを意味する。

 

 家族を裏切り、その事にまったく心を傷めない、あの最低の女と同じになんてなりたくない。

 

 

 ……最低だ。

 結局、私は自分がそうしたくないから、罪を償おうとしているだけだ。

 

 そのために、結局、ジェノにさらなる迷惑を掛けている。

 そして、心の何処かで、そうしてくれるのが『当たり前』だと思っている自分がいることに気づく。

 

 だって、私はこんなに頑張っているのだもの。

 だって、私はただの女の子なのに、ここまでやっているんだもの。

 だから、そんな健気に頑張る私に、少しくらいは、協力してくれてもいいわよね?

 

「……吐き気がするわ。なんて、身勝手で図々しい女なの……」

 

 リットに言われた言葉が胸を刺す。

 知っている人間から教えてもらえるのが当たり前だと思っている、と言われたあの言葉が。

 

「でも、自己嫌悪なんていつでもできる。とにかく、私はなんとしてもジェノに借りを返済するのが先決。そして、もう一度あいつに心から謝ろう……」

 こみ上げてくる涙を拭い、イルリアは決意を固めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 ジェノとイルリアは、宿を訪ねてきてくれた神官見習いの少女の案内で、神殿奥の部屋に通されたのだが、その荘厳さに驚いた。

 

 華美ではないが、調度品一つとっても気品にあふれている。おそらく、この神殿でもかなり重要な来客を迎えるための部屋なのだろう。

 先に案内された、ナターシャ神官と話をした部屋とはまるで違う。

 

 ジェノはイルリアと一緒に、勧められるまま椅子に腰を下ろしていたが、程なくして、部屋のドアがノックされて、ナターシャ神官が部屋に入ってきた。

 

 そして、四十前後だろうか? 純白のローブを身にまとった品のいい女性がそれに続く。

 ベールを身につけているだけで、他の神官達の服装と差異はないはずなのだが、彼女自身が身にまとう、穏やかな雰囲気に自然と目が奪われてしまう。

 

 ひと目で、この女性が<聖女>と謳われるジューナ神殿長だとジェノもイルリアも理解した。二人は席を立って会釈をする。

 すると、女性は穏やかに微笑み、深々と頭を下げた。

 

「この神殿で神殿長を任されております、ジューナ=ハルネスと申します」

 優しい声で、ジューナはジェノ達に自己紹介をする。

 

「イルリア=セレリクトと申します」

「ジェノと申します」

 イルリアに倣い、ジェノも名乗るが、ファミリーネームは口にしなかった。

 だが、その事に眉をひそめたのは、ジューナの後方に控えるナターシャ神官だけで、ジューナは顔を上げて、上品に笑う。

 

「イルリア様に、ジェノ様ですね。この度は、信徒サクリを、このような遠方まで無事に送り届けて頂き、心より感謝致します。さぁ、どうぞお座りくださいませ」

 ジューナはジェノ達に先に座るように勧め、ジェノ達が座ってから、「失礼致します」と言って静かに椅子に腰を下ろした。

 

 何気ない所作にこそ、その人物の人柄というものが現れるものだが、ジューナは、年若い自分達にも深く敬意を払ってくれていることがよく分かった。

 

 イルリアの話だと、それなりの金額の寄付を約束しているらしいが、この女性は、寄付の有無で態度が変わるような人物には見えない。

 いままで、女神カーフィアに仕える人間に好印象を持ったことはなかったが、ジェノは素直に目の前の女性に好印象を抱いた。

 

 すぐに、先に出されていたお茶の代わりが運ばれてきた。

 そのタイミングで、イルリアが口を開く。

 

「この度は、私共のためにお時間をお取り頂きありがとうございます。聖女と名高いジューナ様に、どうしても見て頂きたい者がおりまして、無理を通させていただきました。なにとぞ、お力をお貸し下さい」

 イルリアは、眼前のテーブルに額を付けんばかりに平伏し、ジューナに訴えかける。

 

「どうか、お顔をお上げください、イルリア様。我らが信奉する女神カーフィアは、大地と人々の交流を司る慈愛の女神です。病める方が居られれば、自ら進んでその治療に当たることが我ら信徒の責務。

 されど、我らの力不足により、このような場所に自ら足をお運び頂かなければ、その使命を果たせません。ご足労をおかけしたことを、お詫び申し上げます。そして、微力ながら、私の力がなにかのお役に立てるのでしたら、これに勝る喜びはございません」

 ジューナはそう言い、逆にジェノ達に頭を下げた。

 

「そして、『聖女』などという呼称は、私のような未熟者には不相応なものです。どうか、ジューナとお呼び下さいませ」

 頭を下げたまま、言うジューナに、イルリアは顔を上げるタイミングを失ってしまったようだった。

 そのため、ジェノが「どうか、お顔をお上げ下さい」とジューナに顔を上げてもらう。

 

 ジューナが顔を上げたのを確認し、イルリアも顔を上げた。

 だが、そこでイルリアと目があったジューナは、微笑ましげに笑みを浮かべる。

 穏やかなそれにつられて、イルリアも思わず微笑む。

 

「なるほど、聖女か……」

 ジェノは言葉には出さずに、眼前の女性が<聖女>と呼称される理由を垣間見た気がした。

 

「さて、それでは、早速症状を確認させて頂きましょう。ナターシャ神官。用意をお願いします」

「はい、ジューナ神殿長」

 もったいぶる様子もなく、ジューナはナターシャに命じ、部屋の隅に別の椅子を用意させる。

 

 事前に、イルリアが患者を連れて行くと話していたことから、連れのジェノが患者で有ることは分かっているのだろうが、傍目には健常者にしか見えないはずの彼の様子に怪訝な表情を浮かべることもなく、ジューナは微笑む。

 

「さて、ジェノ様。それでは、あちらにお座り下さいませ。大丈夫です。何も怖くはありませんよ」

 まるで幼子を安心させるような物言いだが、ジューナに言われると、腹立たしい感じはまるでしない。むしろ安心感すら覚えてしまう事に気づき、ジェノは少し戸惑った。

 

 そして、ジェノがナターシャの用意した椅子に座ったところで、<聖女>ジューナの診察が始まった。



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㉗ 『診察』

 何も言わずに、ジェノは言われたとおりに背もたれのある椅子に深く腰掛ける。

 イルリアは、診察の邪魔にならないように、それを遠巻きに見ているしかないと思っていた。

 

 だが、ジェノの胸の前に手をかざしていたジューナが、イルリアに話しかけてきた。

 

「イルリア様。事の経緯を、分かる範囲でよろしいので、ご説明下さい。

 ああ、ジェノ様はそのままお座りになっていて下さい。私の魔法の力を流し込んでいますので、どうかリラックスしたままで。なんでしたら、お眠りになっても構いませんよ」

 ジューナは笑顔を崩すことなく、イルリアとジェノに話しかける。

 

「分かりました。私がお話します。事の起こりは、半年ほど前に遡るのですが……」

 イルリアは、なるべく分かりやすい説明ができるよう努める。

 途中、ジェノが話に割り込もうとしたが、「いいから、あんたは寝てなさい!」と言って黙らせた。

 

「ふふっ。仲がよろしいのですね」

 そんな事を言いながらも、ジューナはイルリアの話をしっかりと聞き、ジェノに魔法を浸透させていく。

 

「……なるほど。症状としては、<獣憑き>に属するもの。ただ、ジェノ様に施されているこの魔法でも、抑えられない可能性があると仰るのですね?」

「はい。彼に魔法を掛けた高位の魔法使いが、完全には抑えられないと言っておりました」

 イルリアは、先にジェノと打ち合わせていたように、リットのことは伏せた。

 ジェノに掛けられている魔法が、自分たちの仲間によるものだと、そしてその使い手がこの村にいることを知られないように。

 

「半年前という短期間で、完全に融合してしまっている。あまりにも適合しすぎていますね。それなのに、ジェノ様は自らの意識を失ってはおられない。

 この施術を施した魔法使いは、素晴らしい力と知識を持たれた方のようですね」

 

 ジューナがリットの魔法を褒めたことから、イルリアは彼の魔法は、聖女様も驚愕するほどのものだと理解する。だが、リットの魔法がかかった状態で、ここまで的確に症状を言い当てたのは、ジューナが初めてだ。どうにか、ジェノの症状を改善させてほしい。

 

「先に施してある術を回避しながら、私の魔法を流してみましたが、分かるのはこれくらいです。あまりにも隠蔽とその隙間が的確すぎて、封じられている対象を、魔法を介してこれ以上認識するのは不可能なようですね」

「……隙間、ですか?」

 いまいち、その言葉の意味が理解できず、イルリアは尋ねずにはいられなかった。

 

「まず、魔法による<獣憑き>の基本的な治療方法をお話しましょう」

 ジューナは分かりやすく、魔法に疎いイルリアに説明してくれる。

 

 それによると、人の心に侵入した獣の霊魂を魔法により密閉して包み込み、分断した後に浄化魔法で叩くのが普通なのだという。

 

「ですが、ジェノ様の心に住み着いた存在――便宜上、『獣』と呼ばせて頂きますが、その獣と本来のジェノ様の心が、完全に融合してしまっています。そのため、この方法は使えません。無理をすると、ジェノ様の心も死んでしまいますので。

 ですが、このまま放置しても、獣と意識が混ざり、ジェノ様の心は失われてしまいます。そのため、この施術を施した魔法使いは、感情の供給を調整しているのです」

 

「感情の供給ですか? それが『隙間』と呼ばれるものに関係しているのでしょうか?」

 まだ、イルリアには、ジューナの言わんとしている事が分からない。

 

「心には、感情が生まれます。その感情がジェノ様にのみ伝わるように、融合している心のなかでも、ジェノ様の意識が強い部分にだけに感情が伝わるように、微細な穴を開けているのです」

「感情が人間であるジェノにしか伝わらず、獣には伝わらない。という認識でよろしいでしょうか?」

 イルリアの言葉に、「ええ。そのとおりです」とジューナは笑みを強める。

 

「霊は、人の負の感情を糧にして、取り付く相手の精神を乗っ取ろうとします。ですが、感情が何も伝わらなければ、動くことが出来ません。兵糧攻めと言ったほうがわかりやすいでしょうかね?」

「はい。よく分かりました」

 イルリアはそう答え、そこでこの話を終える。終えようとする。

 これ以上は、聞かれたくない話だからだ。

 

 ジューナの気遣いを感じ、イルリアは頭を下げる。

 彼女はあえて聞かないでくれた。

 どうやって、当初に取り憑こうとした獣の力を抑え込んだのかを。

 

 ただ、相談に乗ってほしいと言えば、間違いなく話を聞いてくれるだろう。そう思える温かさが、この女性にはある。

 

「話を戻しますね」

 ジューナはそう前置きをし、話を続ける。

 

「私は、ジェノ様の心の様子を観察するために、魔法の力をその隙間に通して認識しようとしました。ですが、絶妙なバランスで成り立っているがゆえに、一つの隙間を通すのがやっとでした。それ以上を行ってしまうと、ジェノ様の心に支障をきたす恐れがありましたので」

 ジューナは、ジェノの胸にかざしていた手を降ろす。

 

「誠に申し訳ありませんが、私に分かるのはこれだけです。そして、私の力では、治療もままならないでしょう」

 

「ジューナ様……」

 今まで黙って立っていたナターシャが、不安げにジューナに声をかける。

 そして、それを見て、イルリアの顔に失望の色が浮かぶ。

 

 ジューナは、結局、リットの魔法に封じられたものがどれほど危険なものかさえ読み取れなかったのだ。

 それは、あのいい加減な男の言葉が正しかったことに他ならない。

 

「ですが……」

 肩を落とすイルリアの耳に、ジューナの穏やかな声が聞こえてきた。

 

「別な方法での干渉はできるかもしれません。ですが、その方法を実行するには、少しお時間が掛かってしまいます。

 どうか、二日、お時間を頂けませんでしょうか? そうすれば、ジェノ様をお救いできる可能性があります」

 ジューナの優しい声に、イルリアは安堵した。

 

 どうしてだろう?

 この女性の声には、人を安心させる効果でもあるかのようだ。

 

「ほっ、本当に、そのような方法があるのですか?」

「はい。どうか、私におまかせ下さい」

 ジューナは、イルリアに頭を下げる。

 

「イルリア様、ジェノ様。ジューナ神殿長の気持ちを、どうかお受けとりを」

 ナターシャも、ジューナに倣い、頭を下げた。

 

「頭を下げて貰う必要はありません。どうか、顔を上げて下さい」

 イルリアが懇願すると、ジューナ達は顔を上げる。

 

 返答をどうしようかと思い、ジェノに視線を移すイルリア。

 しかし、ジェノはただ黙ってナターシャに冷たい視線を向けていた。

 

「ジェノ?」

「ああ。俺は、この申し出をありがたく受けたいと思う」

 ジェノはそう言うと、静かに椅子から立ち上がった。

 

「ありがとうございます。お心遣いに感謝致します」

 ジューナの心からの笑みに、イルリアも思わず笑顔を返す。

 だが、ジェノは会釈をするだけで、にこりともしない。

 

「今日のところは、宿に戻らせてもらうことにしよう。いくぞ、イルリア」

「ちょっ、ちょっと、ジェノ!」

 無愛想ながらも、礼儀はしっかりしているはずのジェノが、こんな行動に出るのは珍しい。

 

 だが、ジューナは穏やかな笑みを崩さずに、「それでは、三日後に使いの者を向かわせますので」と、再び頭を下げた。

 

「えっ?」

 それは一瞬だった。

 だが、頭を下げるジューナの姿を一瞥したナターシャが、ジェノをすごい形相で睨んだのをイルリアは見逃さなかった。

 

 もっとも、ジェノが不意に足を止めて振り返ったときには、そんな顔はおくびにも出さなくなっていたが。

 

「サクリは元気でしょうか?」

 ジェノは、ジューナに向かって尋ねる。

 

「小康状態ではあります。ですが、予断を許さない状況です。申し訳ありませんが、面会は……」

「いえ、その事が分かれば十分です」

 ジェノはそう言うと、部屋を後にする。

 いろいろと気になることはあったが、イルリアもそれに続く。

 

 

 まだ、ジェノを治す手段はあるかもしれない。

 それは喜ばしい情報だ。

 だが、結果として、イルリア達は、更に三日間この村に滞在することとなってしまった。

 

 そして、この延長した期間で、イルリア達は深い傷を負うことになる。

 それは、体以上に、心に……。



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㉘ 『第二の事件(未遂)』

 神殿の出入り口を抜けて、周囲の目がなくなったところだった。

 イルリアが、声をかけてきたのは。

 

「ねぇ。流石にあの態度は酷いんじゃあないの? ナターシャ神官はともかく、ジューナ神殿長は、真摯にあんたを診て下さったんだから」

 イルリアの声には、叱責する響きを含んでいる。

 

「ああ。そうだな。だが、おかげで二つのことが分かった」

「どういうことよ?」

 ジェノの返しに、イルリアの声のトーンが低くなる。

 

「一つは、ジューナ神殿長は嘘をついてはいなかったことだ。今の所だが、サクリが無事だということが分かったのは大きい」

 ジェノはズボンのポケットから、薄く小さな木の板を取り出した。

 

「何よこれ? ただの板にしか見えないけれど」

「ああ。ただの木の板だ。だが、リットがお前の持っている魔法の品を見て、暇つぶしに作ったもので、<嘘感知>の魔法が込められている」

「はっ? そんなものを作っていたの、あいつ。今日は朝から姿が見えないと思ったのに、いつの間に……」

 

 リットは、今朝、ジェノが彼の提案を受け入れないことを告げると、「そうか。それじゃあ、俺は好きにやらせてもらうぜ」と言って、朝食を食べるとすぐにいなくなってしまった。

 だが、昼前に戻ってきて、ジェノにこの板を渡してきたのだ。

 

 リットが何故これを渡してきたのかは分からないが、役に立ちそうなのでこうしてジェノは携帯している。

 

「魔法の効果は、残り二回。それと、お前の持っている品とは違い、使い捨てらしい」

「そりゃあ、そうでしょう。こっちは大金積んで手に入れたものなのよ。そこでまであいつの手慰みのような手作りの品に負けたら、立つ瀬がないわ」

 イルリアは文句を言いながらも、声が明るいものに変わる。

 

「すると、あと三日待てば、あんたのあの症状を治療できるというのも本当ということよね?」

 嬉しそうなイルリアには悪いと思ったが、ジェノは「いや、そうとはいえない」と思った事を口にする。

 

「『治る可能性がある』と言った事柄が嘘ではないだけだ。それがどの程度のものかは分からない。それに、治せると思い込んでいるだけかもしれない。それならば、嘘をついていることにはならないからな」

「……あんたねぇ。自分の体のことなのよ! もう少し真剣になりなさいよ!」

 瞬く間に不機嫌になったイルリアの言葉を背に受けても、ジェノは足を止めない。

 

 イルリアが「この、愛想なし!」と悪態をつくのが聞こえた。しかし、ジェノは構わず歩きながら口を開く。

 

「もう一つは、タイムリミットだ。その二日間準備がかかるというものが、おそらくこの村で行われようとしている計画に関係している」

「えっ? どうしてそうなるわけ? だって、あんたの体の治療のための準備なんでしょう?」

 イルリアの問に、ジェノは足を止めた。

 

「ジューナ神殿長は、リットの魔法には敵わず、現状では治療もままならないと自白した。だが、二日間あれば、俺を救うことができる可能性があると口にした。

 つまり、あと二日経てば、敵わないはずの魔法でさえ出来ないことが可能になると言っているんだ」

「魔法って、大人数で大掛かりな儀式を行って効果を上げることができるって聞いたことがあるわよ。だから……」

「それでも、リットの魔法に匹敵するとは思えない。そして、俺なんぞのためにそこまでする理由もない。だから、俺の治療ができる可能性というのは、なにかの副産物に過ぎないのではと、俺は考えている」

 ジェノはそこまで言うと、振り返り、イルリアを見る。

 

「イルリア。お前が俺に負い目を感じているのはよく分かっているが、何度も言っているように、あれは俺の失敗だ。お前が無理をする必要はない。

 これまで、俺に高価な魔法の品を使って症状を治そうとしてくれたことも、俺の仕事に協力してくれたことにも感謝している。だが、もう十分すぎるほど謝辞は受け取った。だからもう……」

 ジェノの言葉に、イルリアは顔を俯ける。けれど、彼女はすぐに顔を上げると、ジェノの顔を引っ叩いた。

 

「あんたは、まったく私の気持ちを理解していない。だから、私もあんたの気持ちなんてどうでもいいのよ。

 どう? これならおあいこでしょう? これが気に入らないのなら、私の命でも代償に要求しなさいよ。そうしてくれた方が、私は正直気が楽だわ」

「……もう少し、自分を大切にしろ」

「あんたにだけは言われたくないわ」

 イルリアはそう言って、ジェノを睨みつけてくる。

 

 ジェノは嘆息し、イルリアを再度説得しようと思ったが、そこで気配に気づく。

 いや、気配だけではない。これは殺気だ。

 

「イルリア、あの板を構えておけ!」

 ジェノは、端的にイルリアに命じ、近くの民家の納屋に向かって全速力で駆け出す。

 

 納屋の入口に近づいた瞬間、そこから小さなナイフの切っ先がジェノに伸びてきた。

 しかし、ジェノは軽々とそれを躱し、ナイフを持つ手を掴んで、逆に相手の関節を極める。

 

「くっ、いっ、痛ぁぁっっ!」

 細くて短い腕だとジェノは思ったが、ナイフを手にしていた人間の苦悶の声に、それが少女の声だということに気づいた。

 

 ボロボロの短い金髪の少女。十歳をいくつか超えたくらいだろう。

 服もいたるところがほつれて破れ、体も汚れている。

 

「何のまねだ? どうして俺にナイフを向けた?」

 ジェノは少しだけ力を緩め、少女に尋ねる。

 

「うっ、うるさい! その腰の剣を渡せ! 私は、ジューナを殺して、みんなの仇を取るんだ!」

 

 少女の叫びに、ジェノは一瞬、言葉を失った。



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㉙ 『約束』

 思わぬ襲撃者を返り討ちにしたジェノは、その襲撃者である幼い少女を諭し、自分達が滞在している宿屋とは別の宿に彼女を運んだ。

 あまりにも酷い身なりであったため、イルリアが宿の女将に頼んで、お風呂を使わせてもらった。

 その際に、ジェノは子供用の古着を用立ててもらい、ダブルの寝室を一つだけ取ると、その三倍以上の金額を手渡した。

 

 金を受け取った女将は、「私は何も見ていないという事ですね」と下卑た笑みを浮かべ、仕事に戻っていった。

 人として褒められたものではないし、その言葉がどれほどあてになるかは分からない。だが、少しでも今は時間が欲しかった。

 この村の現状を知る手がかりをようやく見つかったのだ。神殿の関係者に通報される前に、必要な情報は集めておきたい。

 

 この村で何が起こっているのかを、ジェノ達は聞き込みを行ったが、村の人間の多くは、余所者である自分達には詳しく話してはくれなかった。

 信奉する聖女様の不利益になるような話は口に出したくないのだろう。そして、おそらく神殿から、この村での事柄を余所者に話さないようにとの命令が出されているのだ。

 

 

 二階の部屋で一人待ち、これからのことを考えていたジェノだったが、やがてドアをノックする音が聞こえてきた。

 返事をすると、ドアが開かれ、イルリアと幼い金髪の少女が部屋に入ってくる。

 

「戻ったか」

 ジェノは立ち上がり、イルリアの隣で彼を睨んでいる金髪の少女に視線を向ける。

 

「どう? 見違えたでしょう?」

 イルリアの言葉どおり、少女は体を清めて服を取り替えたことで、子供らしい愛らしさが垣間見えるようになった。だが、その目が、歳不相応な剣呑なものであることは変わらない。

 

「食事は?」

「女将さんにスープを出してもらって食べさせたわ」

 イルリアの答えに、ジェノは頷き、二人に木製の椅子に座るように促し、自分は大きなベッドの端に座り直す。

 

「俺の名前はジェノと言う。事の経緯は、そこのイルリアから聞いているとは思うが、俺達は、この村で何が起こっているかを調べている」

「……イース。その、私の名前。でも、どうして、この村のことを余所者の貴方達が調べようとして……」

 イルリアが入浴の手伝いをしている際に、事情をしっかり話しておいてくれたようだ。話が早い。

 

「俺達の知り合いがこの村の神殿で病を治すための治療を受けているんだが、どうにもこの村からは良からぬ気配がする。そして、その良からぬことに、俺達を巻き込もうとしている者が神殿にいるようなんだ。

 このまま何もせずにいては、そいつらの思うがままにされてしまう。だから、今はこの村のことについて情報がほしい」

 ジェノは子供相手にも、自分達の置かれた状況を包み隠さず伝える。

 

「もしも、私が話したら、その剣をくれるの?」

「イース。悪いがお前の腕力ではこの剣の鞘を持つことも出来ない」

 ジェノは真実を告げ、話を続ける。

 

「だが、ここで一つ提案がある。俺達は冒険者と言われる職業の人間だ。話を聞いて、お前の仇討ちというものが真実なら、俺が力を貸す。お前の代わりに、俺が戦う事を約束する。それでは、話してもらえないだろうか?」

「話を聞くだけ聞いて、やっぱり止めたって言うつもりじゃあないの?」

 イースは疑いの眼差しを向けてくる。

 

「話の途中で、そう思ったなら、悲鳴を上げろ。外に聞こえるようにな。すぐに神官たちが駆けつけるはずだ。そうすれば、俺は捕まるだろう」

 ジェノは立ち上がり、部屋の窓を開ける。

 

「……いいよ。どうせ、私一人じゃあ、もうどうにもならないし……」

 イースは諦めたように言い、話し始めた。

 

 

 

 

 

 

 イースは、父と母、そして妹の四人家族。

 何処にでもある、普通の家族だった。

 

 まだ、イースが幼い頃に、母が重い病に冒されて、この村でジューナ神殿長にそれを治して貰ったことが切掛で、この村に移り住むことにした。

 

 父と母は、口癖のように、ジューナ様のお役に立てる大人になりなさいとイースと妹のファミィに言って聞かせていた。

 そのため、イースも大きくなったらこの村の神殿で働くことが夢になっていた。それは、妹も同じだった。

 

 だが、つい一週間ほど前のこと。

 妹が、ファミィが、突然熱を出して倒れた。

 父と母は、神殿から配られている薬を飲ませたけれど、一向に妹の熱は下がらなかった。

 

 村を定期的に回診して下さっている神官様の一人に診てもらっても、妹はなかなか良くならない。

 そのため、神殿に妹を運んで、つきっきりで治療をしてもらうこととなってしまった。

 

 でも、イースは仲の良い、大切な妹と離れるのが嫌だった。

 この三ヶ月ほど、子供が熱を出す症状が頻繁に起こっていて、その治療のために神殿に入った子供は、まだ誰も家に帰って来ないことを、イースは知っていたのだ。

 

 だから、イースは妹が神殿に連れて行かれる前日に、ひたすらにカーフィア様に祈った。どうか、妹を助けてくださいと。

 

 その願いが聞き届けられたのだろう。

 翌朝、ファミィの熱はすっかり下がっていた。

 

 妹を迎えに来た神殿の神官様達は、妹の回復に驚きながらも、もう神殿に運ばなくても良いと言って下さった。

 その時、イースは妹と抱き合って喜んだのを覚えている。

 

 だが、その日の夜のことだった。

 イースの家に、何者かが侵入したのは。

 

 

 その日も、イースはファミィと同じ部屋で眠っていた。

 だが、物音で目を覚ますと、何故か、消したはずのろうそくの明かりがついている。

 

 そして、自分の寝るベッドの隣。妹のベッドの前で、黒い布で顔を隠した二人の人間が何かをしているのが見えた。

 

 お父さんでもお母さんでもないことに気づいたイースは、悲鳴を上げた。

 すると、布で顔を隠した二人は、ビクッと体を震わせる。

 

「お父さん! お母さん!」

 イースは、無我夢中で叫んだ。

 父も母も、まだ起きていたため、その声を聞きつけて駆けつけてくれた。

 

「イース! ファミィ!」

 父は、護身用の剣を手にしていた。母は、明かりを、ランプを手にしている。

 

 昔は大きな街の自警団員だった父は、未だに鍛錬を欠かさない人間だった。

 そのため、ドアを開けて入ってくるとすぐに状況を理解し、侵入者二人に斬りつけた。

 

 だが、その鋭い一撃は躱されてしまう。

 

「いっ、いや……。ファミィ! ファミィ!」

 突然、母が悲鳴を上げたことに気づいたイースは、そこで見てはならないものを見てしまった。

 

 ……妹の、ファミィの顔と首がなかった。

 

 ベッドは大量の血で染まり、ファミィの体だけがそこに横たわっている。

 イースは悲鳴を上げた。もう、頭がおかしくなってしまいそうだった。

 

「貴様ら!」

 敵と退治している父は、妹の様子を確認はしなかったが、何が起こったのかを悟ったのだろう。怒りの声を上げて、再び斬りかかる。

 

 しかし、その一撃も一人の短剣に止められてしまい、その隙きをもう一人の侵入者に突かれ、短剣を胸に突き刺されてしまった。

 

「いやっ、お父さん!」

「貴方!」

 イースと母の悲鳴が重なる。

 

 父は苦悶しながらも、最後の力を振り絞って、剣を動かし、自分の胸を刺した相手の顔に斬りつけた。

 その一撃も、相手に傷を負わせることは出来なかったが、顔を覆う布を斬り裂いた。

 

 そして、イースは見たのだ。

 妹を、そして今まさに父を殺したものの顔を。

 

 

 

 

 

 

「……そして、お母さんが私の手を引っ張って、『逃げなさい』と言ってランプを渡してくれた。そこからは、後ろを振り向かないで走って、近くの家に駆け込んだ。そして、そして、私、私……。でも、でも、誰も信じてくれ……」

 

 過呼吸めいた症状が出始めたため、ジェノは「もういい、十分だ」とイースを止める。

 

「ごめんなさい。辛いことを思い出させてしまって」

 イルリアは席を立ち、涙を流しながら震えるイースを胸元で抱きしめた。

 

「ジェノ。私は、この娘が嘘を言っているとは思えないわ」

「ああ。俺も同意見だ」

 ジェノはベッドから腰を上げ、『横になって休ませてやってくれ』とイルリアに頼む。

 

「…………」

 情報が増えたのは進展だが、未だに全容が見えてこない。

 

 もう少し、イースからこの村の状況を確認しなければいけない。

 だが、今の彼女にそんな体力は残っていないだろう。

 

 ではどうするか?

 ジェノは苛立つ気持ちを懸命に抑えて、これまでのことを整理する。

 

 現状、力を貸すことを約束した少女の回復を待つしかないのだ。



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㉚ 『発熱』

 日が傾いてきた頃に目を覚ましたイースが、ベッドの端に、チョンと腰掛けて、椅子に座るイルリア達に話を聞かせてくれる。

 

「うん。私は近所の知り合いの家に逃げ込んだんだけれど、私の言うことを全く信じてくれなくて……」

「そうか。しかも、神殿の連中に言われるがまま、お前の家族を襲ったのは、大きな猿のような化け物の仕業だと言いふらしたんだな」

「うん。そして、みんな私を神殿に連れて行こうとしたり、神官たちに引き渡そうとしたりするから、怖くなって、一人でずっと森に隠れていたんだ」

 

「森? 貴女、森に入ったの?」

 壁に囲まれたこの村で、壁の外の森に行くことは出来なかったはずだ。であれば、イースの言っている森は、壁の内の、リットが行くなと言っていた森以外にはない。

 

「私の家は森の近くだったから……。妹と一緒に森にこっそり入って野苺や茸を取ったり、湧き水を飲んだりしていたから、神殿の見回りに見つからないで、森に入る方法は知っていたんだ」

 いくら細やかに見回りをしていても、子供の好奇心を抑えるのは難しい。いや、隠そうとすればするほど、かえって子供は知りたいと思い、大人の考えもつかない行動をするものだ。

 

「なるほど。だが、イース。その事も気になるが、先に別のことを教えてくれないか?」

「いいよ。何が知りたいの?」

 イースはイルリアに答える時よりも、ジェノに答える時の方が素直だ。

 まぁ、自分よりも男であるジェノが頼りになると思っているのだろう。

 

 それから、ジェノはイースにいくつかの質問をし、その答えを聞いて少し目を閉じて沈黙する。

 

 そして、静かに目を開けると、

「これから簡単にこの村で起きていることを順番に話す。それを聞いていて、なにか間違いがあったら教えてくれ」

 そうイルリアとイースに前置きをし、ジェノは口を開いた。

 

「まず、猿に似た大きな化け物は、この村ができた頃から、存在が確認されていた。そして、村人は、神殿の人間と一緒に、その駆除をしていた」

 ジェノの言葉に、イースは頷く。

 エルマイラム王国でも、森の奥深くに入れば、ゴブリンと呼ばれる肌が緑色の残忍な魔物と遭遇することもある。

 この国では、あの巨大で不気味な猿のような魔物がそれに当たるのだろうと、イルリアはなんとかその話を飲み込む。

 

「うん。近所のお爺ちゃんたちが話しているのを何度も聞いたから、間違いないよ」

 イースの言葉に、ジェノは「分かった」と答える。

 

「だが、ここ数年、発見される化け物の数が多くなった。そして、それと同じころから、村の子供たちの中に、原因不明の高熱を発する者が数人出るようになってきた。

 そのため、神殿は薬を村の人間に配るようになった。そしてそれは、必ず決まった量を決まった間隔で誰もが飲まなければいけないものとして、村人たちは、その教えを守って……」

 ジェノの言葉が最後まで言い終わらないうちに、イースが割り込んでくる。

 

「みんな、聖女様の言う事ならって言って、騙されているんだよ! 私にはよく分からないけれど、きっとあの薬はよくないものだと思う」

「ジューナが命じて配らせているからか?」

「そう。それに、私は何日も薬は飲んでいないけれど、病気にも何もなっていないよ」

 イースの言葉に、ジェノは顎に手をやり少し考える。

 

 だが、生憎とイルリアもジェノも、薬学には明るくない。

 せいぜい、薬草になるものと毒のある植物を少し知っている程度だ。

 

「済まないが、ひとまず話を続けるぞ」

 ジェノも考えても結論が出ないと思ったのだろう。そう言って話の続きを口にする。

 

「だが、薬を飲んでいるにも関わらず、この三ヶ月ほど前から、熱を出す子供の数が増えた。そして、その治療のために神殿に預けられた子供たちは、まだだれも家に帰っては来ていない」

「……仲の良かった私の友達も、神殿に行ったままなんだ。その子のお父さんとお母さんも、心配して何度も子供に合わせてくれるように頼んだらしいんだけど、会わせてもらえなかったって話だよ」

 その話を聞き、イルリアは怪訝に思う。

 

「ねぇ、イース。いくらなんでも、三ヶ月近くも子供と会わせてもらえないなんて、どんな呑気な親でも慌てるんじゃあないの?」

 イルリアの問に、イースは顔を俯けた。

 

「……死んじゃったんだ」

「えっ? 死んだ? いったい、誰が?」

「その子のお父さんとお母さんだよ。神殿に何度も、せめて一回、子供の顔を見させてくださいと言っていたんだけど、二人共、あの怪物に襲われたって話だよ。

 でも、きっと、私のお父さんとお母さん、そしてファミィと同じように……」

 

 イースが力なく顔を俯けるのを見て、イルリアは、「ごめんなさい」と彼女に謝る。

 

「いいよ。こうして私の話を信用して聞いてくれたのは、お兄さんとお姉さんだけだから。でも、それ以来、聖女様を疑うから天罰が下ったなんて言う人達も現れて、それから、みんな、子供を連れて行かれても、文句を口にできなくなっているみたい……」

 涙を溢すイースを、イルリアは椅子から立ち上がって彼女に近づき、優しく彼女を抱きしめる。

 

「面会を拒否され、会いたいと言っても会わせてもらえない、か」

 ジェノのその呟きが、サクリのことを指しているということをイルリアは察した。

 しかし、ここで、イルリアは違和感を覚えた。

 

「ねぇ、イース。貴女、熱があるんじゃあないの?」

 抱きしめた少女の体が随分と熱いことに、イルリアは気づく。この熱さはただ事ではない。

 

「えっ? 熱? 私も、ファミィみたいに……」

 イースの顔がだんだん赤くになっていき、瞳が潤んでいく。そして、目もうつろに見える。

 熱によるものか恐怖からかは分からないが、イースは体を震わせ始める。

 

「イルリア。すまんがこの娘を頼む。おれは、リットを探してくる」

 この村の神殿関係者が信用できない現状では、魔法を仕えるリット以外に、この娘を助けられるものはいないだろう。

 それは正しい。だけど……。

 

「駄目よ。私がリットを探してくるから、あんたがここに残って。もしもこの娘を狙って神殿の人間が来たら、私じゃあどうしようも出来ないから」

「……そうだな。わかった。まずは、元の宿屋に顔を出してみてくれ」

「ええ」

 イルリアはイースをベッドに寝かせて、部屋を後にしようとしたが、

 

「それには及ばないぜ。お二人さん」

 

 という、聞き覚えのある男の声が部屋の中に響き渡る。

 そして、次の瞬間、入口のドアの前に、探そうと思っていた男がいつの間にか立っていた。

 

「まったく、わざわざ別の宿を取ったから、てっきりジェノちゃんとイルリアの二人でしっぽりと楽しむのかと期待していたのに、話をするだけなんて、健全すぎて退屈だったぜ」

 開口一番、ふざけたことを言う奴だと、イルリアは憤慨する。

 

 まぁ、イルリアの発案で、偽装するためにこんなダブルベッドの部屋を取ったのだから、非はこちらにもあるのだろうが、だからといって、覗き見をしていいという理由にはならない。

 

 イルリアはリットに駆け寄り、引っ叩こうと思ったが、今はイースの事が最優先だと思い留まる。

 

「さて、それで、この天才に何のようかな? 話を聞くだけなら聞いてやってもいいぜ」

 そんなイルリアの努力をあざ笑うかのように、リットはにやけた笑みを浮かべて、そう口にするのだった。



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㉛ 『残された時間』

 突然、宿の部屋に現れたリットに、ジェノは頭を下げる。

 

「リット。頼みがある。お前の提案を蹴った上で図々しいが、どうにかこの娘の、イースの熱を……」

「いいよ、いいよ。今日の俺は機嫌がいいんだ。久しぶりに、憂さ晴らしができたんでね。いいぜ、熱を下げればいいんだろう?」

 

 正直、『憂さ晴らし』という物騒な単語が気になるが、今はそれよりも先に、イースを救うことが先決だ。

 

「ああ、頼む」

 下手に出るジェノとは対象に、リットは上機嫌に、熱にうなされてベッドに眠るイースに近づいて、彼女の頭の近くに手をやる。

 するとすぐに、イースの顔が和らぎ、穏やかな寝息を立て始める。

 

「ほい。熱は下げたぜ。それと、サービスで安眠させてあげた。朝まではぐっすりだろう。う~ん、俺ってばやっぱり紳士だねぇ」

 リットはそう言うと、ジェノ達に向かって茶目っ気のある笑みを向ける。

 

「助かった。礼を言う。だが、お前はこれ以上の協力をする気はないのだろう?」

「ああ。でも、今まで居た宿屋に、ジェノちゃん達が戻って来たかのような幻を作って、宿に戻ったように偽装してあるぜ」

 リットの思わぬ言葉に、ジェノは怪訝な顔をする。

 

「どういう風の吹き回しだ? お前が、頼まれてもいないにも関わらず、協力をするとは」

「酷いなぁ。俺達は幼馴染の大親友じゃあないの」

「心にもないことを言うな」

 嘆息するジェノ。だが、彼とは対象に、イルリアが怒りの形相で、リットに詰め寄る。

 

「リット。何人もこの村で人が死んでいる。それでも、あんたは私達に事実を教えるつもりはないの?」

 イルリアの問に、リットは「ああ、ないぜ」とシンプルな答えを返す。

 

 怒りに身を震わせるイルリアとニヤけるリットの間に入り、ジェノはリットに視線を向ける。

 しかし、リットは笑みを強めて口を開く。

 

「言ったはずだぜ。『後悔はするなよ』ってさ。ジェノちゃん達は選んだんだ。この村に残ることを。その責任は取れよ」

 

 ジェノは憤る気持ちを抑えるために一瞬目を閉じてから、

「……そうだな」

 と短く答える。

 

「ジェノ!」

 イルリアは何かを言いたそうに、ジェノの名を呼ぶ。だが、ジェノはそれ以上何も言わない。

 

「……なぁ、イルリアちゃん」

 しかしここで、何故かリットの方からイルリアに声を掛ける。

 

「何よ!」

 イルリアは不機嫌そうに返す。

 

「いや、一応は仲間だからな。ジェノちゃんにだけ二度目のチャンスを与えるのは不公平だと思ったんだよ。だから、イルリアちゃんにも最後のチャンスをやるよ。

 このまま全てを投げ出して、ジェノちゃんと一緒にこの村から逃げるのであれば、俺が助けてやる。だから、これからどうしたいのか、今すぐに答えてくれよ」

 思わぬ提案にイルリアも驚いたようだが、彼女以上にジェノは驚いていた。

 

 長い付き合いだが、リットが前言を撤回する所など初めてみた。

 

 だが、そのことで、ジェノは明確に理解する。

 それほどまでに、この村で今起ころうとしていることは危険なものなのだと。

 

「この娘を、イースを置いていけっていうの? それに、サクリも……」

「ああ。それが条件だ。それを飲めるのなら、助けてやる」

 そう呟くリットの口元から笑みが消えていたのだが、イルリアはそのことに気づかない。

 

「そんな提案、受け入れられるわけないじゃあないの!」

 だから、イルリアは即答してしまった。

 

「はいはい。了解。なら、この話は無しってことでいいんだな。ただ、くれぐれも後悔はしないでくれよ」

 ジェノが口をはさむ暇もなく、リットは話を締めくくる。そして、ジェノの方を向くと、人差し指を立ててそれを横に振る。もう遅いという事だろう。

 

「それじゃあ、俺はここまでだ。あとは二人で頑張ってくれ」

 リットはジェノ達に背を向け、右手を肩のあたりまで上げて、ひらひらとそれを動かして立ち去ろうとする。

 

「あんた、本当にこれ以上は何も手伝わないつもりなの?」

 イルリアの声を背に受けても、リットは振り返りもしない。

 

「さぁな。だが、タネの分かった手品ほどつまらない物はないんでね。期待はしないほうが良いと思うぜ」

 人を馬鹿にした口調で言うリットだったが、不意に足を止めた。

 

「ジェノちゃん。まだ何が起こっているのかを理解できていないようだが、相手はそんなことは知ったことじゃあない。……もう時間はないかもしれないぜ」

 最後にそう言い残し、リットは魔法を使って、部屋から瞬時にいなくなった。

 

 ジェノ達は、リットが居た空間をしばらく無言で見ていたが、やがてジェノが口を開く。

 

「だいぶ日も傾いてきた。とりあえず俺達は夕食にしよう。それと、イースが寝ている間に相談したいことがある」

 ジェノは努めていつもと同じ口調で、イルリアに話を振る。

 

「ええ。分かったわ。下に行って貰ってくるから、イースのことをお願いね」

 イルリアも気持ちを切り替えたようで、ジェノの提案を受け入れて、部屋を出ていった。

 

 リットは軽口を叩くが、基本的に嘘を言わない。それを理解しているが故に、ジェノは焦燥感に駆られそうになる。だが、今は数少ない材料で考えて答えを出す以外に方法はない。

 魔法が使えない自分には、何も分からないのだから。

 

「俺が魔法を使えれば……」

 詮無きことだとは思いながらも、ジェノはそうこぼすのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 部屋で食事を食べると言うと、この宿の女将が意味ありげに笑ったが、イルリアはそんなことは気にしない。

 二人分の食事と飲み物を手渡され、そして、イースが夜に目を覚ました時にと思い、小さなパンを二つ貰った。

 

 当然、宿には他の客もおり、イルリアに声をかけようとする男も居たが、そこは女将が気を利かせて追い払ってくれた。

 

 自分とジェノとイース。この三人で一つの部屋に泊まる。

 そのことから、何を勘違いしているかは想像がつくが、イルリアは、今は余計な時間を取られずに済んだことに感謝しておくことにする。

 

 部屋の前まで戻ると、音を聞いたのだろう。ジェノが何も言わずにドアを開けてくれた。

 

 そして、眠っているイースのベッドの横のテーブルで、イルリアはジェノと無言で食事を摂る。

 食事はそれなりに美味しかったが、五里霧中と言った現状を考えると、それを楽しむ余裕はなかった。

 

 会話の一つもない食事を済ませたイルリアとジェノ。

 そして、イース用のパンが盛られた皿以外の食器類を下の食堂に返却して戻ってから、イルリア達は話し合いを始める。

 

「それで、イースが眠っているうちに相談しておきたいことってなによ?」

 リットの言葉を信じるのなら、もう時間も少ないのだろう。イルリアは、単刀直入にジェノに尋ねる。

 

「イースの話で、この村のおおよその状況は分かったが、どうしても二つ、引っかかるところがある」

 ジェノは少し声のトーンを落とし、話を続ける。

 

「一つは、何故、<聖女>とまで呼ばれているジューナが、イースの家族を自ら殺害したのかということ。もう一つは、イースの妹、ファミィの首を落としたことだ」

 予想以上に重い話になり、イルリアは自然と拳を握りしめる。

 なるほど、これはイースが起きている間は話せない内容だ。

 

「一つ目は、殺害の動機?」

 イルリアが尋ねると、ジェノは「違う。直接殺害したことだ」と補足を入れる。

 

「あの、ナターシャが最たる例だが、あの神殿には、ジューナを心酔する人間は多いことは間違いないだろう。だから、あの女の命令であれば、どんな事でもする輩はいるはずだ。

 イースの家族を殺すことで何をしようとしているのかは分からないが、この村で一番顔が知れ渡っているジューナ本人が、わざわざ出向いてその手を血に染める理由が分からない。リスクばかりが高すぎる」

 ジェノの説明を聞き、なるほどとイルリアは思う。

 

「そうね。そのせいで、イースに顔を見られてしまったのだから、迂闊としか思えないわね。それに、イースに逃げられてしまっているわけだし」

「母親が庇ったのもあるのかもしれないが、どうして、子供の足で大人から逃げられたのかも謎だ。だが、それはひとまず置いておく」

 イルリアは頷き、ジェノの次の言葉を待つ。

 

「イースは、妹の、ファミィの首から上がなかったと言っていた。当然、ジューナ達がやったのだろうが、何故そんな事をしたのかが不明だ。

 殺すだけなら、刃物で喉を突くか掻っ切れば十分だ。わざわざ時間を掛けて切断した意味がまるで分からない。そして……」

 顔をしかめるイルリアに、ジェノは少し間を置く。

 

「いいから、続けなさいよ」

 イルリアは声を絞り出し、続きを促す。

 

「……イースは、妹の首から上が『なかった』と言った。『斬られていた』とか、『切断された』とかではなく。

 もちろん、事態が事態だ。パニックになって見落とした可能性は大いにあるが、殺害された妹を一瞥した範囲に、その頭部はなかったと思われる」

 ジェノはあえて感情を込めない、事務的な口調で言う。

 

「……どういうことよ? まさか、イースの妹の頭部を、ジューナ達が持ち去ったというの?」

「ああ。理由はわからないが、状況的にそうとしか考えられない」

 ジェノの表情が、一瞬、怒りの形相に変わったのを、イルリアは見逃さなかった。

 

 ただ、ジェノのあの症状を治したくて、聖女を頼ったのに、話が全く予想のつかない方向に転がっていったものだと、イルリアは歯噛みする。

 

 だが、そこではたとイルリアは気づく。

 

「ちょっと待ちなさいよ。それって、その、イースがまだ狙われている可能性もあるという事? 理由は分からないけれど、ジューナ達は、人間の首を集めているのよね? それだったら……」

「どういう基準で、誰の首を集めているのかが分からん以上は断定できないが、その可能性は高いと思う」

 ジェノはそこまで言うと、小さく嘆息する。

 

「いや、正直に言って、もうこれしかリットが言っていた、『時間がない』と言う言葉の意味が分からない。

 このままでは、神殿の連中がここに押しかけてくるなりしてしまい、イースが奴らに捕まってしまうという事を指していると考え、行動するしかないのが現状だ」

「つまり、イースを神殿の人間から守りながら、しびれを切らしてジューナ本人が出てくるのを待つしかない。そして、それを返り討ちにして捉えるしかないわけね」

「そうだ」

 

 ジェノは絶望的な現状を隠さずに説明してくれた。

 しかし、そんな場合ではない事は分かっているが、そのことが少しだけイルリアは嬉しかった。

 

 ようやくジェノが自分のことも戦力と考えてくれた。

 いつもジェノの仕事について行っても、何の役にも立てないことばかりだった。だが、今回は自分にも武器がある。このポーチに入れてある、魔法の力を封じてある道具が。

 

「まぁ、なんとか頑張るしかないわね」

「ああ。すまんが、頼む」

 

 ジェノの殊勝な態度に、イルリアは心のうちで気合を入れる。

 

 そんな気持ち程度では、どうしようもない事柄が、絶望が、もうすぐそこまで迫っていることに気づかずに。



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㉜ 『そして、その時が……』

 あまりにも痛々しくて、見ていられなかった。

 

 目の前で、大切な友人達が理不尽に命を散らせてしまったことに、彼女は心を痛めていた。

 そして、その罪悪感から自身を苛み続けていた。

 

 その身を苦しめることを友人への贖罪とし、信奉する女神にただただ許しを乞う。病魔に侵され、明日をも知れぬ身であるにも関わらずに。

 

 この世界が不完全だからと、彼女は言っていた。

 だから、自分はこんな目にあうのだと。

 

 他に恨めるものがなかったのだろう。

 子供でも知っているこの世界の成り立ちのおとぎ話。それを憎むことを、心の寄る辺としていた彼女の気持ちを考えると、あまりにもやるせない。

 

 

 きっと、自分は彼女に、サクリに同情していたのだろう。

 それが、懸命に生きている彼女に対する冒涜だとしても、俺は彼女の力になりたいと思うようになっていた。

 

 俺達は、決してサクリの大切な友人の代わりにはなれない。

 それでも、少しでもあの村までの旅を楽しいと感じてもらいたいと柄にもなく考え、イルリアとリットにも協力してもらった。

 

 もっとも、心根の優しいイルリアは、そんなことを頼むまでもなく、彼女と友好的に接してくれただろうが。

 

 サクリはもう助からない。

 リットの言葉が真実だとしても、その生命が終わるまでの時間が、少しでも彼女に安らぎを与えられるものにしたかった。

 

 ……傲慢な考えだ。それは分かっていた。

 だが、それでも、もう少しくらいは、サクリにも幸せだと思える時間があってもいいはずだと考えた。

 

 あの村の入口で、サクリが俺達に礼を言って微笑んだ事を思い出す。

 それはとても綺麗で、美しい笑顔。けれど、悲しさを感じさせるものだった。

 

 彼女は何かを隠している。あの時の自分もそれは察していた。

 そしてそれは、サクリの事を尋ねた際に、リットが答えなかったことから確信に変わった。

 

 けれど、もしもあの村が、ただの療養施設があるだけの村であれば、自分はこんなに気持ちを乱すことはなかっただろう。

 彼女の隠し事も特段気にせず、この街に、ナイムの街に戻っていただろう。

 

 だが、あまりにもあの村は、『聖女の村』は異常すぎた。

 

 だから、あの村を包む異質さの正体を探ろうとした。あのままサクリを置いて帰るのは躊躇われたから。

 

 そんな理由で、俺はリットの提案を蹴った。

 この体に封じられたアレを治療したいと願う、イルリアの思うようにさせたいと思う気持ちもあったが、それが主な理由だ。

 

 だが、あの時の俺は理解していなかった。

 俺のこのちっぽけな手は、剣を握って戦う程度のことしか出来ないのだと言うことを。

 

 俺は、未熟な剣士だ。そして、ただの十六歳のガキに過ぎなかった。

 物語に出てくる英雄などでは決してない。

 

 何も出来ない。守れない。そしてその事を理解さえしていなかった。

 だがそれを、俺はあの時に思い知ることとなったのだ。

 

 たくさんの死とともに……。

 

 

 

 

 

 

 

 イースを狙った襲撃があるのであれば、夜の闇に乗じてだとジェノは考えていたのだが、この晩は空が白み始めるまで待っても、何も起こらなかった。

 

 やがて、日が昇ってイルリアが。それからイースが目を覚ます。

 イースの体調を確認したが、彼女はすっかり体調を取り戻したようで、顔色も良い。

 

「あっ、おはよう……ございます」

 昨日、熱を出して倒れたことを申し訳なく思っているのだろう。イースは遠慮がちに挨拶をしてくる。だが、そんな彼女に、ジェノは控えめに、イルリアは隠すことなく笑顔を向ける。

 

「ああ。体は良くなったようだな」

「おはよう、イース。まずは、顔をしっかり洗いましょう。女の子は身だしなみに気を使うものよ」

 イルリアはそう言うと、準備をしてイースを連れて一階に降りていこうとするので、ジェノもそれに就いていく。

 

 女将さんに断って、ジェノは宿の裏の井戸から水を汲む。そして、念の為、自分が最初にその水を手で汲んで顔を洗う。

 流石に井戸に毒を流すようなことはしないとは思うが、用心するに越したことはない。

 

「ほらっ、イース」

「あっ、うん。ありがとう」

 その後、イルリアとイースが顔を洗い始めたので、ジェノは少しだけ彼女達から離れて、終わるのを待つ。

 

 イルリアは水を汲み桶から容器に移し、そこに小瓶から取り出した液体を少し入れてかき混ぜる。そして、その効能をイースに話しているようだ。

 イースは興味深そうにそれを聞いている。幼くても、やはり女なのだとジェノは思う。

 

 女のおしゃれの話を聞くのも躊躇われたが、いつ襲撃があるかも分からないので、ジェノは宿の建物に背を預けて、辺りに気を配ることにした。

 

「さて、朝食にしましょう。イース。何か食べたいものはある?」

「あっ、その……」

「遠慮しなくていいわよ。病み上がりなんだから、しっかり美味しいものを食べないとね」

 

 イルリアはすっかりイースの心を掴んだようで、二人は笑顔で会話を弾ませている。

 もともと面倒見の良いイルリアだが、何故かはしらないが、昨日から随分と機嫌がいいようだ。

 

 イースの笑顔を見て、できることならば、彼女にこうした笑顔をもっと浮かべられるようになってほしいと思う。

 けれど、家族を殺された恨みを忘れることなど出来はしない。

 

 だから自分は約束をしたのだ。

 この力を持たない幼子に変わって戦うのだと。

 せめて、彼女が無垢なる手を血に染めることがないようにと。

 

 一階の食堂で食事を取る。

 今日のメニューは、パンと目玉焼きとウインナー。そして、オニオンスープだった。

 育ち盛りのイースは、今まであまりまともなものを食べられなかったこともあって、パンを二回もお代わりしていた。

 それを嬉しそうに見守るイルリアを横目に、ジェノは相変わらずの無表情で思考を続けていた。

 

 やはり、イースが嘘を言っているとは思えない。すると、『聖女』と呼ばれるジューナが、裏で何人もの人間を殺しているのだということになる。

 だが、この体の治療に当たっていたジューナは、とても謙虚で穏やかな優しい女性に思えた。人には裏の顔というものがあることくらいは分かっているが、彼女はあの時、嘘をついていなかった。

 

 二日準備の時間を貰えれば、治せるかも知れないと彼女は言っていた。

 その二日というのが、ジューナの何らかの目的を果たすための時間なのだとしたら。おそらく今晩が一番襲撃される可能性が高い。

 

「ジェノ。部屋に戻ったら、あんたも休みなさいよ。きっと、今晩が重要になるわ」

 どうやらイルリアもジェノと同じ考えのようで、一睡もしていないジェノに言葉をかけてくる

 

「ああ。分かった」

 ジェノは静かに頷く。

 

 だが、ジェノとイルリアの予測は外れることとなる。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 仮眠をとったジェノが起き、イルリアはイースと三人で昼食を済ませ、部屋に戻った。

 最悪、長期戦になることも覚悟し、ジェノは今までと同じように、部屋の椅子で一人仮眠を取ることにするらしい。

 

 ベッドを使うように言ったのだが、いざというときに反応が遅れるという理由で拒否された。

 

 ジェノが眠ってしまったので、イルリアはイースと大きなベッドの上で話しをし、時間を潰していた。

 昼食後ということもあり、眠くなってしまうが、ここで眠るわけにはいかない。

 

 イルリアは軽く頬を叩き、心配そうなイースの頭を撫でる。

 

 ふと眠っているジェノの顔を見ると、とても穏やかに見えた。

 だが、閉じられていたジェノの目が、不意に開かれた

 

「イルリア! 窓から離れろ!」

 目を覚ますなり、ジェノが指示を口にする。

 

 イルリアはイースの手を取って、ベッドから離れ、ジェノの方に移動する。

 次の瞬間、窓ガラスを叩き割る音が聞こえたかと思うと、黒い布で目の部分以外の顔を覆った人間が窓から侵入してきた。ここが、二階であるにも関わらず。

 近くの建物の屋根を伝ってきたのだろうが、それにしても、呆れるほどの身の軽さだ。

 

 全身も黒いブカブカの服を身にまとっているため、男女の区別もつかない。

 ただ、右手に抜身の短剣を握っていて、イルリア達に向かって駆け寄ってこようとする。

 

「イルリア、俺の後ろに!」

 ジェノはその言葉とともに、黒ずくめの侵入者に剣を抜いて斬りかかる。

 しかし、侵入者はその一撃を後ろに飛んで躱す。そして、懐からこぶし大の白い塊を取り出し、それをこちらに向かって投げつけてくる。

 

 ジェノは正体不明のその塊を剣の腹で叩き落とす。

 斬って良いものかの判別がつかなかったためだろう。だが、ジェノの剣に触れただけでも、その白い塊は、一瞬で真っ白な粉を部屋中に撒き散らした。

 

 辺りが真っ白に染まる。イルリアは粉を吸い込まないように口に手を当てる。そして、開いている方の手で、イースの口を塞ぐ。しかし、そんな程度では粉を完全に吸い込まずにはいられない。

 

「ごほっ、ごほっ!」

 イースが苦しそうに咳き込む。イルリアも同じように咳き込んでしまう。けれど、イルリアはイースを抱きしめて、彼女を守ろうとする。

 

 白い粉でチカチカして、目が効かない。だが、音が聞こえる。

 この粉の中で動く音と、剣戟の音が。

 

 ジェノはこの中でも、戦っているようだ。

 きっと粉が舞った瞬間に、敵との距離を詰めたのだろう。

 そうすれば、粉の影響は少ないのだろう。

 

 イルリアは咳き込みながらも、ジェノ達の姿を確認しようと前を向く。だが、そこで、イルリアは異変に気がつく。

 

 イースの咳き込む音が、不意に聞こえなくなっていた。

 聞こえるのは、自分のそれだけ。

 

「いっ、イース?」

 少し粉が収まってきたので、イルリアはイースに声をかける。

 だが、イルリアの目に入ってきたイースは、明らかに様子がおかしかった。

 

 何より、青かったはずのイースの両方の瞳が、赤に変わっている。そして、体を軽く揺すっても、まるで反応しないのだ。

 

「イース! どうしたの、イース!」

 イルリアは懸命に声をかける。

 

 

 だが、そこで、イースの体が内部から膨れ上がり、破裂した。

 そう、破裂したのだ。

 その衝撃で、イルリアは後ろにふっ飛ばされ、背中を部屋の壁に打ち付ける。

 

 彼女の顔と四肢は飛び散り、彼女が居た場所には、別の異形が、あの猿の化け物が立っていた。

 

「えっ? なっ、なによ。何が起こったのよ!」

 イルリアは状況がまるで理解できずに、パニックに陥る。

 

 しかし、そんなイルリアになどお構いなしに、猿の化け物が彼女に向かって迫ってくる。

 

「いっ、いや、嫌ぁぁぁぁぁっ!」

 イルリアは身構えることも出来ず、悲鳴を上げるしか出来ない。

 

 だが、そこで化け物猿に向かって剣が振り下ろされた。

 化け物猿は、その一撃を躱しきれず、肩を深く斬り裂かれる。

 

「イルリア! あの板を構えろ!」

 ジェノの叱咤する声が聞こえた。

 

「でも、でも! ジェノ、それは、イース……」

「いいから構えろ! 侵入者は逃げた! まずはこの化け物を片付ける!」

 

 明らかに怒りが込められた声に、イルリアはポーチから銀色の板を取り出す。

 

 一体何が起こっているのだろう?

 どうして、イースがこんな化け物になって。

 

 イルリアはそんな疑問を飲み込み、涙を堪えて化け物と対峙するのだった。



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㉝ 『追跡』

 迷う心を懸命に押し殺し、ジェノは剣を構える。

 今は、この猿のような化け物をどうにかしなければいけない。

 それがたとえ、つい先程まで会話をしていた少女が変貌したものだとしても。

 

 目の前の化け物は、イルリアに殺気を向けていた。そして、今は斬りかかったこちらに向かってそれを放っている。

 

 侵入者と対峙しながらも、ジェノはイルリアとイースの状況も確認していた。だから、この化け物がイースの中から現れたことも知っている。

 

 この撒き散らされた粉が、イースを変貌させたというのか? 

 だが、それならば、自分とイルリアが無事なのはどういう事だ? そもそも、一瞬で人を化け物に変える薬など存在するはずがない。

 

 いや、余計なことを考えるなとジェノは自身を嗜める。

 今は、この化け物を仕留めることが先決だ。これ以上犠牲を出すわけにはいかない。

 

「イルリア、俺の後ろに回れ!」

 ジェノはイルリアに指示を出し、化け物に向かって踏み込んで剣を横薙ぎに放つ。だが、化け物は後ろに飛んでそれを躱す。

 

 それから、化け物はそれからこちらを向いたまま後ずさりをするが、部屋の入口のドアに背をぶつけた。

 

 迷うな。こいつはイースじゃあない。

 床に飛び散った幼い少女の四肢を目の端で確認し、ジェノは両腕に力を込める。

 

 しかし、ジェノが覚悟を決めるためには、ほんの僅かだが時間が必要だった。それが更なる犠牲を生む。

 

「お客さん! 一体何の騒ぎですか!」

 ドアを叩くノックの音とともに聞こえてきた、女の、この宿の女将の声。

 

「ドアから離れろ!」

 ジェノは叫ぶのと同時に今一度踏み込み、上段から剣を真下に振り下ろす。

 

 ジェノの一撃は、化け物が硬い腕を交差して受け止めたために防がれてしまう。そして、化け物はジェノの方を向きながらも、木製のドアを破壊した。あの背中から生えた腕を使ったのだろう。

 

 くぐもった声が聞こえたかと思うと、化け物は背中から生えた長い手を右肩越しにこちらに向けてくる。真っ赤な鮮血に染まった腕を。

 長さから判断すると、それが全面に攻撃として繰り出される可能性は低いだろうが、油断はできない。相手は人間ではないのだから。

 

 ドアの向こうから、不意になにか重量があるものが床に倒れた音が聞こえた。それがこの店の女将だということは見るまでもなく分かってしまう。

 

 握る剣に力を込めながら、化け物猿をジェノは睨む。だが、そこで化け物猿は間違いなく口角を上げた。

 笑った。こいつは、人間を殺したことに悦になっている。

 

 それを理解した瞬間、ジェノは全身全霊の力を込めて、化け物の腕を剣で叩き潰す勢いで押す。

 化け物が、ジェノに負けまいと力を込めて押し返そうとするよりも一瞬早く、ジェノは自ら大きく後ろに跳んだ。

 ジェノは後方に綺麗に着地すると、両足を使って、立ち上がる勢いも加えてすぐさま前方に突進する。

 化け物は、両腕を前に空振りした勢いで、両腕が壁にめり込んでしまっている。その瞬間を狙って、ジェノは剣の切っ先を化け物の喉に突き刺した。

 

 ジェノは突き刺した剣を両腕で力任せに横薙ぎして引き抜く。

 化け物は首から大量の血を吹き出し、前のめりに倒れ込んだ。

 

 床が血に染まっていく。

 だが、それでもジェノは安心しない。

 

「イルリア、外を見張っていてくれ」

 ジェノは振り返らずにそう言い、イルリアの気配が窓の方に行くのを確認してから、化け物の背中から剣を突き刺し、首と胴を切断した。

 

「……これは、いったい何なんだ」

 ジェノは怒りを懸命に堪え、剣を鞘に戻す。

 

「何故、こんな化け物が……」

 

 ジェノはその言葉を押し留めて置くことが出来ず、声に出す。

 けれど、ジェノ達に、ゆっくり考えている時間はなかった。

 

「ジェノ! こっちに来て! あいつがいる!」

 イルリアの叫びに、ジェノは慌てて窓の方に駆け寄る。

 

 彼女の言葉通り、この宿から少し離れた家屋の屋根に、あの黒ずくめの人間が立っていた。

 黒ずくめのそいつは、右手の掌を上に向けた状態で前に突き出し、指を動かしてこちらに来るよう挑発してくる。

 

「イルリア。姿を消す魔法があると言っていたな? それを俺とお前に使ってくれ。このままでは、下に降りただけで捕まってしまう」

「……でも、あれは明らかに罠よ」

「分かっている。だが、あいつを放っておけば……」

 そこまで言うと、不意にジェノの頬に痛みが走った。

 イルリアが、ジェノを引っ叩いたのだ。

 

「魔法でもなんでも使ってやるわよ! でも、少し落ち着きなさい。このままだったら、あんたはまた……」

 イルリアの声に、ジェノは自分が冷静さを欠いていたことを思い知る。

 

「すまん。だが、もう大丈夫だ。魔法を使ってくれ。下に降りてあいつを追いかける」

 地の利が相手にある状態で、屋根を走って追いかけるのは愚策だろう。

 一階に降りてから追いかけるしかない。

 

「分かった。でも、一分も持たないことだけは覚えておいて」

 早くしないと、誰かがこの部屋にやってくる。

 そのことをイルリアも分かっていたようで、すぐに銀色の板をかざして魔法を使ってくれた。

 

「とりあえず、この宿を脱出する」

「ええ。分かったわ」

 ジェノは姿の見えないイルリアに告げて、化け物の死体を跨ぎ、ドアの前で胸を突かれて死んでいる女将を一瞥して走っていく。

 

 途中、宿の宿泊客らしき人間とすれ違ったが、なんとかうまく躱すことができた。

 そして、阿鼻叫喚の光景を前にした者の声を背に受けながら、ジェノ達は黒ずくめの人物を追いかけるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 すぐに姿を消す魔法は効果を失ってしまい、大道を走るジェノの姿は、屋根の上にいてこちらを見下ろしている黒ずくめに見つかってしまった。

 黒ずくめは、ジェノ達に気づくと、一定の間隔を保ちながら、屋根伝いに逃げていく。

 

 だが、それは想定内だ。

 下手に姿を隠して、あの黒ずくめが姿を隠してしまうことの方が問題なのだから。

 

 ジェノ達は何も分かっていない。

 誘われていると、罠だと分かっていても、今はあの黒ずくめしか手がかりが残されていないのだ。

 

 疑問はいくつも浮かんでくる。だが、その答えがまるで分からない。

 

 何故、人の目がある昼間に襲撃してくる必要がある?

 

 イースの話では、相手は二人組だったはずだ。今は一人。これはどうしてだ?

 

 イースを化け物に変貌させたのは、あの粉なのか? それとも別の要因なのか?

 

 あの、子供の名前を連呼していた男は、先ほどのイースと同じ現場を目撃していたのではないか? そして、子供が化け物に変わったという事実を自分に伝えようと……。

 だが、そう考えると、子供の首を集めているのではという推測は間違っていたのか?

 

 考えればきりがない。

 だが、ジェノは思考を止めずに走り続ける。

 思考を放棄しては、相手の思うつぼなのだから。

 幸い、イルリアの速度に合わせて走っているので、ジェノには体力的に余裕がある。

 

「ジェノ、この方向は!」

「間違いない。神殿に向かっている。だが、何故こんなあからさまな事をする」

 ジェノは未だに相手の思惑がわからないことに歯噛みする。

 

 これでは、神殿があの化け物と関係していると自分達に吐露しているのと同じだ。

 

 何が目的だ?

 何故、たまたまこの村にやってきた自分達に、この村で隠匿しようとしていたであろう事実を見せるのだろうか?

 

 黒ずくめは、途中から地面におりて逃げ続けると、やがて予想どおり、神殿の建物にたどり着く。

 ただ、そこは入り口からは遠く離れた外壁部分。そこで立ち止まると、黒ずくめは再びジェノ達を手招きする。

 

「くっ……。ふっ、ふざけるんじゃあないわよ!」

 イルリアが怒りを顕にするが、息がもう完全に上がってしまっている。

 宿からここまで、ずっと走り続けたのだから無理もない。

 

「イルリア。お前はここに残ってくれ。魔法で自分の身を守ることを優先するんだ」

「ばっ、馬鹿を、いっ、言わないでよ。こっ、これくらい……」

「俺が、一人で追いかける。お前は、俺が神殿の人間に取り押さえられたときに、事情を証言してくれ。二人共掴まっては、それができない」

 ジェノは理由を取ってつけて、イルリアにここに残るように言い、一人で黒ずくめを追いかける。

 

 イルリアは追いかけようとしたようだが、もう体力が限界のようで、地面に倒れ込む。

 

 待ち伏せを考え、イルリアと歩調を合わせていたが、自分だけなら構わない。

 ジェノは全速力で、黒ずくめを追いかける。

 黒ずくめは、外周の石壁にあった、大人一人がぎりぎり通り抜けられそうな縦穴を抜けて神殿内の敷地に入っていく。

 他に方法がないため、ジェノも同じ方法で敷地内に侵入した。

 

「今の穴は、経年劣化してできたものではない。どういう事だ?」

 ジェノは自分が通った石壁の穴が綺麗だったことに違和感を覚えた。

 

 しかし、もう遮る物体はない。そして、単純な足の速さならばジェノの全力の方が早い。

 今は、あいつを捉えることが重要だ。

 

 ジェノはそう切り替えて、神殿の外周の庭らしき部分を全力で走る。

 だが、そこで、異変が起こった。

 

「なっ!」

 突然、ジェノが纏っていたジャケットの一部が光りだしたのだ。

 

 そこに何を入れていたのかをジェノは瞬時に思い出す。

 

「リット……」

 ジェノは追いかける足を少しずつ休め、やがて停止する。

 そして、ジャケットのポケットから、光り輝く木の板を取り出した。

 

「何だ? リットが、俺に何かを伝えようとしているのか?」

 あと少しのところで黒ずくめを逃したのは惜しいが、もう関わらないようなことを言っていたリットがこちらに合図を送るのであれば、ただ事ではない。こちらのほうが重要だ。

 

 光り輝く木の板は、不意に自分の意志を持ったかのように、ジェノの手から離れ、宙に浮かび上がる。そして、凄まじい勢いで、神殿の建物の一箇所に激突した。

 

「これは、いったい‥…」

 

 轟音を立てて、木の板がぶつかったところが崩れていく。

 そして、そこには、地下に向かうための階段が隠されていた。

 

「リット、ここを降りていけということか?」

 ジェノは虚空に向かって尋ねたが、返事は返ってこない。

 

「くそっ! だが、手がかりはもうここしかない……」

 ジェノは返事をしないリットを苛立たしく思いながらも、現れた階段を注意深く降りていく。

 

 そして、ジェノは目の当たりにするのだ。

 地獄のような、その光景を。



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㉞ 『儀式』

 石の階段を、音を立てないように慎重にジェノは進んでいく。だが、あまり悠長にもしていられない。先ほどまで追っていた黒ずくめが、今度は自身を追ってこないとも限らないのだから。

 この階段の入口を、件のリットの魔法が込められた板が破壊した音は、間違いなく中にも響き渡っているはずだ。当然、様子を見に来るだろう。

 

 先ほどまでならば、黒ずくめの人間を追跡していたと言い訳もできるかもしれないが、もうこれは完全に不法侵入以外の何物でもない。

 まぁ、どんな理由があるにしろ、この神殿自体が何かを企んで、それに自分達を巻き込もうとしているのだ。多少の言い訳ができたところで意味はないのだが。

 

「多いな。十人以上居る」

 気配を感じ取れただけでも、かなりの人数だ。きっとこの下には、大きな部屋になっているのだろう。

 

 ジェノが曲がりくねった階段をある程度降りていくと、予想どおり、眼下に広い空間が広がっていた。

 そして、そこには、照明だけの目的とは思えない数の蝋燭が大量にかつ変わった配置に設置されている。何かの儀式を行っているようだ。

 

 カーフィア神殿の着衣を身に纏った神官達だろう。彼女らは、大量の蝋燭の間に分かれて立っており、何かの言葉を異口同音に口にしている。

 おそらくは魔法を発動する言葉なのだろう。

 

 生憎と、階段の角度の問題で、部屋の奥がよく見えない。だが、それらの儀式に参加せずに後方で見守っている神官達五人ほどが、儀式の邪魔にならないように配慮した速度でこちらに向かってくるのが見えた。

 

 その瞬間、ジェノは撤退も考慮に入れたが、もう一度確認のために儀式を行っている者達を一瞥した際に、蝋燭の近くに置かれたボール状の何かを見て、それが何であるかが分かってしまった。

 

 その瞬間、ジェノの頭から撤退の二文字は消え失せた。

 

 それは、愚かな行為だった。

 少し考えれば分かる。多勢に無勢だ。一人でこれだけの人数を相手にできるはずがない。だが、それでもジェノは目の前で行われている吐き気を催すほどの醜悪な儀式が何なのか、問い詰めなければいけない衝動に駆られた。

 

 目がなれてきた今なら分かる。蝋燭の間に置かれているのは、人間の、子供の頭部だったのだ。

 

 希望的観測だが、儀式に参加しているものがあの場を動けないとすれば、相手は五人。力量は分からないが、不意を打てばなんとかなる可能性もある。

 ジェノはもう音を立てることを厭わずに、階段を駆け下りていく。

 

 腰の剣を抜き、階段を降りて床に降りる。そして、そのまま速度を落とさずに、こちらに向かってくる神官達の先頭の一人に剣の腹で一撃を加えた。

 

 その一撃を受けた神官は、後ろに吹き飛び、床に倒れる。

 その吹き飛んだ神官に他の者達の視線が向かう。それを、ジェノは見逃さない。

 手近に居た神官の一人の軸足に蹴りを入れて転倒させると、その無防備な腹部を踏みつけた。

 くぐもった声を上げ、その神官は腹部を押さえて悶絶する。

 

 これであと三人。

 

 だが、相手もすでに臨戦態勢に入った。不意打ちはもう行えない。

 ジェノは剣を構え、三人の神官と対峙する。

 

「何をしているんだ、お前たちは!」

 子供の首を並べてこんな怪しげな儀式を行うなど、明らかにまともではない。

 

 ジェノの問いかけに、神官たちは何も答えない。そして、こちらに向かってメイスで殴りかかってくる。

 

「問答無用か。それならば、俺も容赦はしない」

 ジェノは相手を斬る覚悟をする。

 

 三対一だったが、戦いはジェノが優勢だった。

 剣とメイスのリーチ差を生かして、ジェノは神官たちの手を狙って攻撃を仕掛けていったのだ。

 それにより、一人の神官がメイスを握れなくなり手から落とすと、更に状況はジェノの有利に傾く。

 

 だが、こんな戦いをしているにも関わらず、まるでその事を意にも介さずに、怪しげな儀式を続けている他の神官達が不気味で仕方がない。

 

「くそっ、はやくあの儀式を止めなければ!」

 内心ではそう思いながらも、ジェノは決して相手から注意をそらさない。

 

 イースの話を思い出す。

 やはり、この神殿の連中は子供の頭部を集めていたのだ。

 

 この儀式が何なのかはまるで分からない。だが、それでも、無辜な子供の命を奪って行うものなど、碌なものではないはずだ。

 

「っ!」

 不意に後方からの殺気を感じ、ジェノはそちらに体を振り向けて、剣でその一撃を防ぐ。

 それは、刃物での、短剣での一撃。

 既のところでなんとか防いだものの、凄まじいほどに鋭い一撃だった。そして、それを放ったのは、先ほどまでジェノが追いかけていた黒ずくめに他ならなかった。

 

「まさか、この場所に気づくとは誤算でした。ですが、これはこれで好都合」

 黒ずくめがそう言った。

 その声を、ジェノは知っている。

 

「そうか……。お前が、お前がイースを!」

 ジェノは短剣を力で押し返そうとしたが、それよりも先に、黒ずくめは後ろに自ら跳んで距離を離す。

 

 そして、もう顔を隠す意味合いがないと思ったのか、黒ずくめは顔を覆っていた黒い布を取って、放り投げた。

 その顔は、ジェノの予想通りの人物。

 短い金髪の神官のナターシャだった。

 

「イースの家族を殺したのも、お前とジューナか?」

 ジェノは一足飛びで間合いを詰め、ナターシャに斬りかかる。

 

 だが、ジェノの一撃は、ナターシャの短剣が滑るようにそれを逸らせ、綺麗に受け流されてしまう。

 腕力の差を理解した巧みな短剣さばきに、ジェノは警戒を強める。

 

「ええ。そのとおりです。私達が殺しました」

 ナターシャはそう言って笑みを浮かべる。

 

 その笑みが、こちらをあえて怒らせるものだと分かっていても、ジェノは湧き上がってくる怒りを抑えきれなかった。

 

「……イース。すまない。俺はお前を守れなかった。だが、約束は守る。この外道達は、必ず俺が戦って倒す」

 

 ジェノは剣を握る手に力を込め、再びナターシャに斬りかかる。

 だが、やはりその一撃もナターシャの短剣で受け流され、体勢が崩されてしまう。さらに、ナターシャは短剣を持った方の腕の肘で、ジェノのみぞおち部分に一撃を入れてきた。

 

「ぐっ……」

 ジェノは予想以上に重いその一撃を受けて、危うく剣を落としそうになったが、なんとか反撃をする。それはナターシャに当たりはしなかったが、距離を離すことには成功した。

 

「なるほど。その年にしてはかなりの腕ですね。今の一撃も、僅かに体をそらして致命傷は避けるとは」

 ナターシャの言葉に、ジェノは何も答えない。

 

 いや、答える暇がなかった。

 今のジェノには、この力量が上の相手にどう勝つのかを考えるだけで精一杯だった。

 

 それでも、今がチャンスとばかりに自分の後方に回り込もうとした神官たちに、ジェノは剣の切っ先を向けて威嚇をする。

 

 しかし、ジェノはここで一つの失敗をしていることに気づかない。

 

「なっ!」

 不意に、ジェノの後方に、何かが出現した。

 後方を威嚇した直後であり、それによって神官たちが距離を離したことから、後方はひとまず大丈夫と思った不意を突かれてしまったのだ。

 

 ジェノは慌てて振り返ったが、後方に突如現れたその相手の重く鋭い膝蹴りをみぞおちに受けてしまう。

 意識が飛びそうになるのを、なんとか堪えるのが精一杯で、ジェノは反撃もままならない。

更にそこで右腕を掴まれたかと思うと、そのまま関節を極められ、抵抗する間もなく、腕をへし折られ、体勢を崩して膝をつく。

 

「――っ!――」

 激痛がジェノを襲うが、腕を折るなり相手が離れたことで、ジェノはようやく自分を襲った相手が誰だったかを理解した。

 

「……ジューナ!」

 脂汗が浮かぶなか、それでもジェノは自分の腕を折った者の名を叫ぶ。

 

「どうして貴方がここに居るのかは存じ上げませんが、私達の邪魔はさせません。ナターシャ。貴女達は、その人を押さえつけておいて下さい。もう、時間がありませんので」

 以前の温和で温かみのある笑顔はなく、ジューナは端的にナターシャ達に命令をして、一瞬でその場から居なくなる。

 

 それが、リットのよく使う<転移>の魔法だと、ジェノはようやく理解した。

 

「くっ! くそっ!」

「静かになさい!」

 ジェノは立ち上がろうとしたが、ナターシャに後頭部を蹴られ、顔面を石の床に叩きつけられてしまう。そこに他の神官達がジェノの左腕を拘束し、馬乗りになって動きを封じてくる。

 

「ぐっ、うううっ!」

 ジェノはなんとか頭を動かして、脱出を試みるが、完全に極まってしまった拘束を振り払うことはできない。

 

 そんな中でもなんとか動く首を動かし、ナターシャを睨みつけようとしたが、彼女がジェノには目もくれずに、謎の儀式を行っている方を向いていることに気づく。

 

 いつの間にか、神官達の謎の言葉が終わり、静まりかえっていた。

 そして、その神官達の前にある石の大きな台の前に、いつの間にかジューナが立っていた。

 

 ジューナは何も言わず、右手を高々と上げて、一言二言何かを呟く。すると、土台の上に何かが虚空から現れ、石の台に静かに着地した。

 

 それは、白い薄衣を纏った人間だった。

 だが、そう呼ぶにはあまりにも細くやせ細った体躯。そして、ボロボロの髪。けれど、ジェノはその人間に、少女に見覚えがあった。

 

「……サクリ……。何故、サクリが……」

 あまりにも予想外のことの連続で、頭がついていかない。

 

「サクリィィィィッ!」

 ジェノは声の限りに叫んだ。

 だが、サクリは目を閉じたままピクリとも動かない。

 

 ジェノは腕を極めている神官に、更にきつく関節を可動域とは逆にねじあげられて苦痛に顔を歪める。だが、それでも、ジェノは目をそらさない。

 

 立って何かを呟いていた神官たちが、一斉に膝立ちになって祈りを捧げる。

 それを確認したジューナは、神官の一人が手渡した鋭利な刃物を手にすると、石の台の上に横たわるサクリの胸に近づける。

 

「……やっ、やめろ……。やめろぉぉぉぉぉっっ!」

 ジェノの叫び声がまるで合図であったかのように、ジューナは大きく刃物を上に振りかぶり、それをサクリの胸に突き刺した。

 

 ジェノは一瞬、目の前が真っ白になった。

 

 それは、ジェノの態度に業を煮やした神官が左腕もへし折ったからだったのだろうか?

 それとも、目の前で起こった事実を、ジェノが認めるのを拒否したために見えた幻覚だったのだろうか?

 

 だが、それがどちらでも結果は同じだった。

 

 真っ白な世界に、赤が流れていく。

 サクリの背中から大量の赤い液体が流れ落ちていくのだ。

 腕の痛みなど忘れて、ジェノはその光景を呆然と眺めていた。

 

 大量の、人とはここまでの量が流れているのだと思うほどの血が流れ、石の台を、そして床石を染めている。

 

 サクリは、死んだ。

 殺された。

 

 目の前で。

 また、自分の目の前で、命が弄ばれた。

 

 化け物に変えられたイースを自分は救えなかった。

 そして、その悪い相手と戦っても、簡単に返り討ちにされてしまった。

 

 何もできなかった。

 何もできない。

 何も守れない。

 

「皆さん! 術は確かに成功しました!」

 ジューナの声が聞こえる。

 

 厳かな声だ。サクリを殺した直後であるにも関わらず。

 

「おっ、おめでとうございます! ジューナ様!」

 ナターシャを始め、神官達が口々にジューナに喜びの言葉を述べる。

 

 ……オメデトウ、ダト。

 サクリヲ、イースヲ、コドモタチヲ、コロシテオイテ……。

 

 ジェノは自分の意識がちぎれ飛びそうになる感覚を久しぶりに味わった。

 

 だが、どうでもいい。

 何故なら、自分の中にいるソレと、今の自分の気持ちは同じなのだから。

 

 こいつらを、みなごろしにしてやる。

 コイツラヲ、ミナゴロシニシテヤル。

 

 ここで、ジェノの意識は完全に途絶える。

 

 そして、彼が懸命に繋ぎ止めていたものが、再び自由の身となり、放たれることとなるのだった。



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㉟ 『殺戮』

 ジェノに残るように言われたイルリアだったが、神殿の外壁に開いた穴からすでに神殿の敷地の中に侵入していた。

 

 神殿の関係者全てが敵なのだとしたら、自分ひとりが証言したところで何の役にも立たないと判断したのだ。

 ただ、誰かに見つかって捕まってしまっては、ジェノの足を引っ張るだけなので、イルリアは見つからないように慎重に神殿の外庭を進んでいく。

 

 結果として、イルリアのその慎重な行動が、彼女をジェノ達がいる神殿の地下へと導くことになる。

 彼女が地下の入口付近を通りかかった際に、そこから声と音が聞こえてきたため、彼女はそこに降りていく事を決めたのだから。

 

 けれど、聞こえてきたのは、阿鼻叫喚の悲鳴と、猛る獣の咆哮のような声。

 彼女が二度と聞きたくなかった声。

 

 そして、地下に降りた先では、更に地獄のような光景が繰り広げられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 それは、別離を意味する。

 けれど、ナターシャは、敬愛する<聖女>ジューナ様の偉業達成が誇らしかった。

 

 絶望。

 そう、この村の真実を知った者は、ただただ絶望するしかなかったのだ。

 けれど、自分達にはジューナ様が付いていた。

 

 いつも身を粉にして人々のために尽くす、あの気高き存在が居てくださったからこそ、みんな懸命に頑張ってこられた。

 どんなにこの手を血に染めようと、自分達が神の教えに反する事となっても、私達は……。

 

 私があの方に返すことができるものなど何もない。けれど、私は何かをして差し上げたかった。

 

 生涯を他人のために捧げたジューナ様の名が、汚れる事などあってはならない。

 この方は、人々の憧憬と崇拝を集める存在として後世まで語り継がれていくべき存在なのだから。

 

 ジューナ様は私の行いを快くは思わないはずだ。

 それは分かっている。

 だが、それでも……。

 

 

 

 

 

 

「皆さん。今までよく協力してくださいました。このジューナ。心より感謝致します」

 ジューナは皆に頭を下げて感謝の言葉を述べる。

 それを見ていたナターシャは、目頭が熱くなってしまう。

 

 ジューナ様の、これまでの長い苦難の道程がようやく終わるのだ。

 誰よりもこの村の現状を悲観し、絶望し、けれどそれに抗い続けた<聖女>の戦いの日々が。

 

「皆さん、後はよろしくお願い致します。そして、そちらのジェノ様にも癒やしの魔法をお掛けして、少し落ち着かれてから、事情を……」

 ジューナの言葉は、突然遮られる。

 

「いっ、いやぁぁぁぁっ!」

 それは、一人の女神官の悲鳴が響き渡ったからだ。

 

「どうしました、ラーシャ!」

 ナターシャは素早く武器を構えて振り返って声をかける。

 すでに両腕をへし折られたあの少年が暴れただけにしては、声があまりにも逼迫しすぎていた。

 

 振り返ったナターシャは言葉を失った。

 

 視線の先には、黒髪の少年が、ジェノが立っていた。

 背中に乗って動きを封じていた神官の腹部を、ジューナに折られたはずの右腕で貫きながら。

 

「件の<獣憑き>ですか? ですが、この威圧感は、いったい……」

 ナターシャは、自分の体が震えていることに気づく。

 ジューナには及ばないまでも、武芸を人並み以上に習得したという自負がある自分が、目の前の少年に取り付いた何かに恐怖を感じている事実に、彼女は呆然とする。

 

 端正な顔立ちの少年だったが、今はそんな面影は微塵もない。

 目つきがまるで違う。人のものとは思えないその目は、ギョロギョロと次の獲物を物色しているようだ。

 開かれた口からは呼吸音が漏れ、口の端から唾液が垂れている。それが、飢えた肉食獣を彷彿とさせる。

 

 腹部を貫いた神官の体から腕を抜かずに、ジェノはその腕を乱暴に横に振った……様に思えた。早すぎて、腕が瞬間移動したようにしか、ナターシャには見えなかった。

 

 だが、その刹那、少年の腕に刺さっていた神官の体が宙を舞い、ナターシャのわずか横を通過し、広いこの地下の祭壇の反対の壁に叩きつけられる。

 無意識に、飛んでいった神官の体を目で追うと、石でできた頑丈なはずの壁が、神官の体がぶつかった箇所でへこみ、それを中心にして放射線状にひびが入っていた。

 

「皆さん! 構えなさい!」

 ジューナの緊迫した声を聞き、ナターシャは現実に戻る。

 あまりにも予想外の事態に、思考が完全に停止してしまっていた。

 

「キリア! 私が食い止め……」

 未熟な後輩を逃がそうと、ナターシャは声を掛けたが、そのときにはもう遅かった。

 

 なかったのだ。

 キリアの、上半身が……。

 

 横に、腰から横に真っ二つにされ、キリアは上半身と下半身に分けられていた。

 彼女自身、何が起こったのかわからないようで、下半身は立ったままで、上半身は床に倒れて、彼女はきょとんとした眼差しをしている。

 

 ナターシャは、今度はなんとか目で動きを追うことができた。

 左腕。こちらの腕も折られていたはずなのに、それを横に振るい、ジェノが指の先を猫の爪のように立てて斬り裂いたのだ。

 

「なっ、何が起こっ……ぷっで!」

 ジェノはキリアの上半身に駆け寄り、無慈悲に彼女の顔面を踏み潰した。

 そう、踏み潰した。全体重を一度にかけてもここまで潰れないと思えるほど、原型を全く留めない、血と肉片の塊に変えた。

 

 そして、ジェノは口角を上げる。

 楽しそうに、獲物を殺すことが楽しくて仕方がないといった酷薄で、残忍な笑みを浮かべた。

 

「……きっ、貴様!」

 ジェノの行為に激怒したナターシャは、短剣を構えてジェノに斬りかかろうとするが、そこで、ジェノは吼えた。

 

 人間のものとは到底思えない大きな咆哮に、ナターシャの体は竦み上がってしまう。

 それは、他の神官たちも同様で、中には呼吸がままならなくなってしまうものまでいた。

 

 けれど、窒息死する方がまだマシなのかもしれない。

 これから始まる、殺戮を見なくて済むのならば。いつ自分の番が来るのかと怯えながら死ぬよりは。

 

「くっ! みんな、散りなさい! 固まっていたら、一気にやられる! 離れて魔法で拘束するのです!」

 ナターシャは、震える自分の足を左手で強く叩いて気合を入れ、みんなに指示を飛ばす。

 そして、魔法を使えない自分は、他の仲間の盾になるべく、ジェノに捨て身の特攻を仕掛けた。

 

 一瞬でも良い。この目の前にいる<獣憑き>の化け物を止められれば、後は仲間がどうにかしてくれるはずだ。

 

 それは、献身だった。

 仲間のために、尊敬する人のために、自らの命を懸ける尊い行為。

 だが、その気持ちが何のくもりもない崇高なものであろうと、尊いものであろうと、そんな気持ちだけで戦況は覆らない。

 

「……なっ……」

 一瞬で、ジェノはナターシャの横を駆け抜けていった。彼女は逃すまいと、体を反転させようとしたところで、転倒する。

 

 何故自分が体勢を崩したのか分からなかった。しかし、ナターシャは足に懸命に力を入れて、短剣を持っていない左手を支えに立ち上がろうとする。けれど、彼女はまたあらぬ方向に転倒してしまう。

 

 分からない。どうして、自分は立てないのだろう?

 

 そう考えながらも、ジェノを目で追ったナターシャが目にしたのは、何か長い物体を齧っているジェノの姿だった。

 そして、その物体が、何なのかを理解した彼女は、ようやく自分の体の異変に気づく。

 

 右の肩から先がなかった。

 先ほどすれ違いざまに、ジェノの指で切り裂かれていたのだ。

 

 血が滴り落ちる自分の右腕の残骸を見ながら、ナターシャは悲鳴を上げた。

 

 人の体は、普段、四肢がある状態でバランスを取っている。だが、それが欠落すると、バランスが完全に狂い、重心の位置を変えなければ立つこともままならなくなってしまう。

 

 知識としてはその事を理解していても、不意に自分の体がその状態になってしまっては、いくら武術の心得があるナターシャも立つことができない。

 

「あっ、ああっ……」

 ナターシャは、自分の右腕が食われていく様を震えながら見つめるしかなかった。

 

 信念があると、自分にはジューナ様を守るための忠義があると自負していたが、そんなものは、絶対的な力の前では無意味だと思い知らされ、ナターシャの心は折れた。

 

「やっ、やめろ。……やめろ! 私の腕を食べるなぁぁぁぁっ!」

 ナターシャは混乱して、自分でも訳のわからないことを口走る。

 その言葉が通じたわけではなかろうが、ジェノは興味が失せたとばかりに、ナターシャの右腕を床に捨てて、彼女の方を向いた。

 

「あっ、だっ、駄目だ。こっ、こっちにくるなぁぁっ!」

 心が折れたナターシャは、悲鳴を上げる。

 

 だがそこで、思わぬ声が上から、地上に向かう階段から聞こえてきた。

 

「ジェノォォォォォォッ!」

 それは、女の声。

 

 ナターシャが声の主を見ると、それが、ジェノと一緒にいた赤髪の少女、イルリアであることに気づく。

 

 あの娘も、ジェノと一緒に自分を追いかけてきていた。

 姿が見えないとは思っていたが、騒ぎを聞きつけてここに降りてきたのだろう。

 

 それはほんの一瞬の時間だった。

 だが、ジェノの注意もイルリアに向けられた。

 

 その隙きを突いて、動く者がいた。

 

「ぐっ、がっ……」

 だがそこで、不意に、ジェノの体に光の輪が三つ現れ、彼の腕と胸、そして腹部、脚部を拘束しようとするのが見えた。

 

「皆さん、早く束縛の魔法を! そして、近くの人は、ナターシャ神官に癒やしの魔法を!」

 ジューナの凛とした声が、ナターシャの耳に入る。そのことで、彼女は冷静さを取り戻す。

 

「私は大丈夫です! 魔法が使えるものは、ジューナ様に協力して、あの<獣憑き>を拘束しなさい!」

 ナターシャはみんなに命令を飛ばす。

 

 ジューナとナターシャの二人の声に、他の神官たちも魔法を使用し、ジェノを雁字搦めに拘束していく。

 

 だが、それもほんの二、三秒の間だった。

 

 ジューナの魔法もろとも、皆が放った拘束魔法を、ジェノは力で強引に引きちぎったのだ。

 

「魔法を腕力で引きちぎられるはずが……」

 魔法に干渉できるのは、魔法の力だけのはず。それなのにどうして……

 

 右腕の出血部を左手と体を使って抑えながらも、ナターシャは考える。

 少しでも、皆が助かる方法を。

 

「まさか、この化け物も、<霧>の影響を……」

 その結論に達したナターシャは、しかし何もできなかった。

 

 動くこともままならない彼女は、ただ、階段を降りてくるイルリアを視界に納めることと、仲間たちの悲鳴を聞き続けることしかなかったのだ。



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㊱ 『贖罪』

 なんとか階段を駆け下りてイルリアが見たのは、まさに地獄そのものだった。

 

 薄暗い地下の巨大な祭壇のような場所には、いたるところに蝋燭と子供の首が並び、そして、祭壇の奥の石の台の上には、胸に深々と刃物を突き刺された少女が寝かされている。

 そんな凄惨な場所で行われているのは、一匹の獣と化したジェノによる虐殺だ。

 

 神殿の人間達は二十人以上いるようだったが、瞬く間に誰もが見るも無残な姿に変えられていく。

 戦おうとした者も、逃げようとした者も、状況を未だに理解できずに戸惑うものも、目にも留まらぬ速さで駆け回る、ジェノの体を操る獣の攻撃によって、手足を切断され、じわじわとなぶり殺されていくのだ。

 

 目にも留まらぬ速さで走り回る獣相手には何の気休めにもならないが、イルリアは獣の攻撃が離れている間に、床に倒れながらもまだ意識がありそうな人物のもとに駆け寄り、スライディングして自分も彼女のように身をかがめる。

 

 あの獣は、立っているものを優先的に襲ってくるという数少ない知識を利用しての行動だった。

 

「おっ、お前は?」

「ああっ、やっぱり貴女ね。ナターシャ神官。聞きたいことは山ほどあるけれど、今はそれどころじゃあないのは分かるでしょう?」

 イルリアは言うが早いか、腰のポーチから銀の板を取り出して、それをナターシャに向ける。

 すると、穏やかな光がナターシャの体を包み、腕の出血を瞬く間に止めた。

 

 ナターシャの黒ずくめの格好から、自分達を襲撃し、イースを化け物に変えたのはこいつだ。だが、今は少しでも情報がほしい。

 希望的観測だが、まだあの獣の中に、ジェノの心が少しでも残っていると仮定して動くしかない。

 

「あの化け物には、普通の攻撃魔法は通用しない。ただ、間接的な魔法なら効果は望める。貴女、<閃光>の魔法は使える?」

「……いや、すまない。私は魔法が全く使えない」

 ナターシャの回答に、イルリアは歯噛みする。

 

「すると、私のこの板に込められている魔法だけ……。しかも一枚しかない。こっちを向いた瞬間に使わないと、はずしたら間違いなく殺される」

 ジェノを止めなければという一心で、この場所まで降りてきたが、これならば助けを呼んだ方がまだマシだった気がする。

 

 しかし、今更後悔しても遅い。

 それに、仮に神殿の残っている人間達が、いや、この村の人間全てが協力したところで、今のジェノをどうにかできるとは思えない。

 

 イルリアはどうしたものかと思案するが、そんな時間も、もう残されてはいないようだ。

 

 獣は、絶望の表情を浮かべる神官二人の頭をそれぞれの手で掴み、簡単にそれを握りつぶした。

 あまりにも惨たらしいその光景に、辺りが蝋燭の明かりだけで暗かったことを幸いに思う。

 いまは、恐怖している暇も、嘔吐している暇もない。

 もう、この場に立っているのは、獣と一人の人物、神殿長のジューナ一人なのだから。

 

「どうして、私を最後まで残したのですか! 殺すのでしたら、私をいの一番に殺すべきでしょう!」

 そう怒りの声を上げるジューナは、まだ五体満足な状態だった。

 偶然ではないだろう。獣が、あえてそうしたとしか思えない。

 

「……コロ……シタ……。サク……リ……」

 獣は、片言ながら人の言葉を口にし、祭壇の石の台の上を見つめる。

 

 死臭漂う静寂の中、その声はイルリアの耳にも確かに聞こえた。そして、大量の血を流しつくし、息絶えている少女の姿を彼女は目にする。

 

 遠目にも、白髪でやせ細ったその少女が、自分の友人のサクリだとイルリアは理解した。

 

「あんた達、サクリを殺したの? ジェノの目の前で……」

 イルリアは化け物に視線を戻し、そばにいるナターシャに殺意を込めた声を向ける。

 

 あいつが、ジェノがあの獣になってしまったのも当たり前だ。

 ジェノの心が、殺意にまみれて、獣と同化してしまった理由が今わかった。

 

 本当なら、今すぐこの場で、ジェノの代わりに残ったこいつらを殺してやりたい。

 だが、その気持ちを懸命に押し殺し、イルリアは<閃光>の魔法を封じた、銀色の板を怒りに震える手で構える。

 

「…………」

 ナターシャは何も答えない。

 

「万に一つでも生き残ることができたら、事情を話してもらわないといけないと思っていたけど、気が変わったわ。死になさい。あんた達に、生きている資格なんてないわ」

 それが、肯定の意味だとイルリアは理解し、この最低の人間達を唾棄して助けることを放棄する。

 

 ジューナが襲われる前に、背後から声を掛けてこちらを振り返らせてから<閃光>の魔法で目を晦ませる。そして、残っている攻撃魔法の全てを使い、この地下の天井を破壊して落盤させて押しつぶす。

 攻撃魔法が通じない以上、それが現状考えられる最善の策。

 ほぼ間違いなく、自分も落盤に巻き込まれて死ぬだろうが、攻撃魔法の量をうまく調整すれば、僅かだか生存の可能性もあった。

 

 けれど、イルリアは、右手に閃光の魔法を持ち、左手に攻撃魔法が封じられた札を全て構えた。

 

 ジェノがあんな獣になるきっかけを作った自分は、やはりこの命で罪を雪ぐしかないのだ。

 

「ごめん。ごめんね、ジェノ。サクリの仇は討たせてあげる。だから、私と一緒に……」

 イルリアは、獣がジューナに襲いかかるのを傍観する。

 

 獣は、咆哮をし、ジューナの腹部を右腕で貫いた。それを受けたジューナは吐血し、体をくの字に曲げて倒れ込む。

 

 チャンスは、今しかない。

 

「ジェノ、こっちを向きなさい!」

 イルリアが叫ぶ。

 

 すると、ジューナを串刺しにしながら、獣はこちらを向いた。

 

 その瞬間、イルリアは<閃光>の魔法の封じられた銀色の板を投げようとしたが、突如眼前に現れた男の手によって視界を遮られて千載一遇の好機を逃してしまう。

 

「いいねぇ。自分の命もろともジェノちゃんを止めようとするなんて。その身勝手な行動、俺は好きだぜ。見直したよ、イルリアちゃん」

 この切羽詰まった状況に全くそぐわない、のんきな声が聞こえる。

 

 その声の主が誰なのかを理解し、イルリアはその男の名を口にする。

 

「リット……」

「はいはい。そのとおり。天才魔法使いのリットさんだ。まぁ、後は俺に任せておきなよ」

 

 にやけた笑みを浮かべるリットは、そう言ってイルリアに背を向け、獣と対峙するのだった。



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㊲ 『魔女』

 突然、現れた。

 そう。文字通り、何もない空間から現れた茶色い髪の軽薄そうな少年は、ナターシャも一度顔を合わせたことのある存在だった。

 

「いやぁ、別に狙ったわけではないんだけれど、最高のタイミングだねぇ」

 目の前に死を生み出す化け物がいるにも関わらず、人を小馬鹿にしたような余裕のある笑みを口元に浮かべ続けているその少年は、信じられない事に、<転移>の魔法を使ったようだ。

 

 世界中の、女神カーフィアの信徒の魔法使いを集めても、片手の指ほども使用できる者がいない大魔法を、事も無げに使用している。まだ成人もしていないであろう子供が。

 

 リットを見ていたナターシャだったが、不意に、重量のあるものが硬い床面に落下する音が聞こえた。

 

 そちらに視線をやると、それが、化け物の手によって腹部を貫かれたジューナ神殿長だと理解する。

 ジェノは、まるでゴミでも扱うかのように、腕を払い、ジューナの体を床に叩きつけたのだ。

 

「くっ、この、化け物……」

 敬愛する人に対するあまりにもひどい仕打ちに、ナターシャは怒りの声を上げる。だが、彼女にできるのはそれが精一杯だった。

 

 体が震えて動かない。

 眼前の化け物には敵わないと、すでに心が認めてしまっている。

 たとえ右腕を失っていなかったとしても、もう自分は戦えない。その事を理解してしまった。

 

 ジェノが、自分達に狙いを定めた。そして、彼の姿がかき消える。

 ナターシャは、数秒後に自分達が殺されている未来を刹那に予見し、目を閉じた。

 

 けれど、目を閉じてからしばらく経っても、自分の意識がかき消えないことを不思議に思い、ナターシャは恐る恐る目を開ける。

 

「えっ、これは…」

 ジェノは、十数個の光の輪に体を拘束されて地面に倒れていた。

 手負いの獣のように暴れて、先ほどのように拘束を引きちぎろうとしているようだが、リットが作り出したであろうそれは、びくともしない。

 

「おいおい、獣ちゃん。お前じゃあ俺には勝てないよ。この間もボコボコにしてやったのを忘れたのかよ?」

 リットは桁外れな威力の束縛の魔法を使っているはずなのに、つまらなそうにそう言って、頭を掻く。

 

 ナターシャは、魔法は発動させるよりも維持をするほうが大変だと、魔法が使える同僚が言っていたのを思い出す。

 これほど強力な魔法を維持するとなると、精神力があっという間にすり減るはずだ。だが、この男はそれを呼吸する程度の気軽さで行っているようにしか見えない。

 

「あの<獣憑き>を事も無げに……」

 ジューナ様と数人の神官達が放った魔法を引きちぎったジェノが、まるで相手にならない。

 なんなのだろう。このリットという男の魔法は。常識外れもいいところだ。

 

「おいおい、ジェノちゃん。涎で、折角のいい男が台無しだぜ」

 リットはそう軽口を叩き、ジェノの近くまで歩を進める。そして、掌を、床に倒れるジェノの方に向ける。

 

「なるほど。あまりにもジェノちゃん自身も怒っていたから、化け物の感情に潰されずに済んでいるみたいだな。それに、まだ完全に獣が体を乗っ取りきれてなかったのも幸いしたという訳か」

「リット! ジェノは、戻れるの?」

「ああ、問題ないはずだ。俺が治療すれば、すぐに戻るだろう」

 呆気にとられるナターシャをよそに、リットとイルリアが会話を交わす。

 

 だがそこで、不意に別の人間の声が、ナターシャの耳に入ってきた。

 

「なるほど。貴方が、ジェノ様にあの施術を施したのですね……」

 腹部に穴を開けられ、床に叩きつけられて絶命したと思っていたジューナが、立ち上がり、こちらに向かって歩いて来たのだ。

 

 

 

 

 

 

 自らの身体に、癒やしの魔法らしきものを掛け続けながら、ジューナがイルリア達の元にたどたどしい足取りで近づいてくる。

 

「ジューナ様!」

 状況を忘れて、立ち上がろうとしたナターシャは、再びバランスを失い、顔から床に倒れる。

 

「しぶといわね。いいわ。ジェノの代わりに、私が……」

 イルリアは<閃光>の魔法が閉じ込められている銀色の薄い板をポーチに戻し、<雷>の魔法が封じ込められたそれを取り出して構える。

 

「いいえ。それには及びません。私の命は、もう長くはありませんので……」

 ジューナはそう言い、穏やかに微笑む。

 

 こんな、こんな地獄を作り出すきっかけを作った、無辜の子供たちを殺し、サクリまでもを殺した、狂人のくせに。

 

 イルリアは、その笑顔に殺意を覚える。

 

「……止めときなよ、イルリアちゃん。聖女様の言うとおりだ。もう、彼女は長くない」

「何が聖女様よ! こんな女、聖女でもなんでもないわ! これだけ、これだけ沢山の人がこいつのせいで死んだのよ! ジェノだって、こいつが余計なことをしなければ……」

 イルリアは怒りに任せて魔法を発動させようと板を持った方の腕を振り上げたが、そこで再びジューナの笑顔を見てしまい、腕を震わせるだけで攻撃に移れない。

 

「そうです。貴女の仰るとおり。私は、聖女などではありません。血塗られた魔女だったのです。そして、貴女方は、その人殺しの恐ろしい計画を阻止した英雄です」

 ジューナはそう言うと、なんとか体勢を立て直して顔を上げる事ができたナターシャに、「いいですね、ナターシャ」と言って、彼女にも笑みを向けた。

 

「……はっ、はい。ジューナ様」

 ナターシャが応えると、ジューナは笑みを強めた。

 

「恐ろしい魔女は、英雄の手によって討たれるのが本来ですが、私程度の命で、皆様の手を煩わせる事はありません」

 ジューナはそう言うと、癒やしの魔法を使うのを止めて、自らの首元に右手を当てる。

 

「イルリアさん。貴女達は間違っていません。どうか、その真っ直ぐな気持ちを忘れないで下さいね……」

 ジューナはそう言い、イルリア達に背を向ける。そして次の瞬間、風切り音がイルリアの耳に聞こえた。

 

 そして少し遅れて、ゴトッと重い音が聞こえた。

 

 それは、ジューナの頭が首から切り離され、床に落ちた音。

 彼女は自らの首を、自らの風の魔法で切り落としたのだ。

 

 ジューナの胴体も、前に倒れ、夥しい血が床をまた染めていく。

 

「あっ、あああっ……。いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 イルリアは、思いもしなかったジューナの行動に悲鳴を上げる。

 

 

 

 なんなのだろう、いったい。

 何故、こんなにも人の命が失われなければいけないのだろう。

 

 沢山の命が失われていった。

 自分達の目の前で。

 

 訳がわからない。

 どうして、どうして、こんな事に自分達は巻き込まれるのだろう。

 

 いくら考えても、結論は出ない。

 それは、イルリアが何も知らないから。

 

 

 ……未知を人は恐怖する。

 だから、知りたいと思う。

 そして、安心したいと願う。

 

 けれど、世の中には、知らないほうがいい事柄というものも存在する。

 

 無理な話だった。

 最後に、聖女が、ジューナが残した魔女と英雄の話を受け入れて納得するなど。

 

 けれど、後にイルリア達は思い知ることになる。

 その無茶で陳腐な英雄譚が、ジューナの残した気遣いだったのだと。



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㊳ 『後悔』

 自分のものか、他者のものかも分からない怒りに囚われていた意識が段々と引き上げられていく。

 激しい炎のような感情が急速に冷めていくのと同時に、自分がその感情に任せてやった行為が鮮明な記憶として流れ込んで来た。

 

 目を開けると、暗い闇が広がっていた。

 要所に立てられていた蝋燭の明かりもまばらになり、この広い地下室が一層暗く感じる。

 

 どうやら自分は拘束されて、床の上に横に寝かされているようで、動こうとしても体がまるで動かない。

 

「よう、ジェノちゃん。目覚めはどうだい?」

 声のした方を見ると、腐れ縁の幼馴染の顔が視界に入ってきた。

 

「……最悪だ」

 ジェノがそう答えると、拘束が一瞬で消えた。

 

「また、お前に助けられたな。感謝する」

 ジェノはリットに頭を下げると、ガタガタの体に力を入れて立ち上がる。

 リットは何も言わずに微笑むだけだった。

 

 リットの後ろで顔を俯けているイルリアを発見したが、ジェノはその横を通り過ぎる。「すまなかった」というただ一言を残して。

 

 床に転がっているナターシャの存在にも気づいていたが、ジェノはあえてそれを視界に入れないことにした。

 まだ、完全にあの獣が活動を止めたわけではない。また下手に感情を乱して、この体を乗っ取られるわけにはいかないからだ。

 

 ジェノは一人で歩いて地下室を出ていこうとする。

 

「ジェノ! すまなかったってなによ! 私のせいで、また、あんたは!」

「来るな!」

 イルリアが自分を追いかけようとしてきたので、ジェノは思わず声を荒げてしまった。

 そんな大声を上げるつもりはなかったのだが、心が弱っていたようだ。

 

「……頼む。まだ、うまく制御ができそうにない。俺に、お前まで殺させないでくれ……」

 さらにジェノは、イルリアにそう懇願してしまった。

 その言葉が、彼女を苦しめることになると気づきながらも、本心を隠すことができなかった。

 

「ジェノちゃん、送ってやるぜ。少し外の空気を吸って体を休ませときなよ。この村の事は、後で俺がしっかり話してやるからさ」

 リットのそんな声が聞こえたかと思うと、ジェノの視界が一瞬で真っ白に代わり、そして更にそれが芝生に囲まれた景色に変わる。

 

 ここがどこかはわからない。

 おそらく、神殿の庭の一角だと思うが。

 

 自分がどれほど意識を失っていたか分からないが、日が傾いてきたようだ。

 しかし、そんな景色に感慨を抱くよりも先に、ジェノは体勢を崩してその場に顔から倒れてしまいそうになり、なんとか手をついて体を支えようとする。

 

「ぐっ、うっ……」

 強烈な吐き気がこみ上げてきて、ジェノはそのまま胃が空っぽになるまで嘔吐する。

 胃液さえも吐き出しながら、全身を襲う強烈な痛みを懸命に抑え込む。

 

 体がバラバラになりそうだった。

 あの獣は、ジェノの体を無理やり動かし続けていた。

 折られた両腕は獣の力で治されたが、その後はジェノの体が軋もうが傷もうが、獣は好き勝手に暴れまわっていた。筋肉がいたる所で裂けているようで、骨もヒビどころか骨折している部分もありそうだ。

 

 しかし、今回復魔法を使用してしまうと、封じ込めた獣にまでエネルギーを与えてしまう。

 それを危惧したからこそ、リットは回復魔法を掛けなかったのだ。

 

 嗚咽が漏れそうになるのを懸命に堪えながらも、ジェノは七転八倒する。

 堪えきれる痛みではなかった。だが、転げ回れば回るほど、更に体が傷んでいく。

 

 ジェノは延々と苦しみ続けた。

 だが、気絶する寸前のところで、不意に痛みが消えていった。

 

 顔を上げると、リットが目の前に立っており、自分に癒やしの魔法を使っているのが見えた。

 

「いやぁ、すごいねぇ、ジェノちゃん。悲鳴を上げずにここまで耐えるとは。まったく、呆れた意思の強さだ」

 驚きと呆れが半々といった顔で、リットは苦笑を浮かべる。

 

「……イルリアは、大丈夫か?」

「おいおい。そんな状態になっても、他人の心配か? いやぁ、正義の味方って奴は大変だねぇ」

 リットは楽しそうに笑い、手を下ろす。

 すると、ジェノの体の痛みは、嘘のように消えてなくなっていた。

 

「まぁ、イルリアちゃんは一応元気だぜ。あのナターシャって神官を引っ叩くくらいには。

まぁ、それは置いといて、どうだった? この村を出なかったことを後悔したか?」

「後悔も何も、分からないことだらけだ」

 ジェノはそう言うと、立ち上がり、リットと対峙する。

 

「約束だったな。後でこの村のことを話すとお前は言っていた。説明してもらうぞ。お前が知っていることを」

「くくくっ。いいのか? これを知ったら、今度こそ後悔するぜ。あのジューナっていう女が悪者で、ジェノちゃん達がその陰謀に気づき、正義の裁きを下した。

 そんな陳腐な話で納得しておいた方が幸せだぜ」

 

 こちらがなんと答えるかを知りながら、リットは勿体つける。

 

「いいから話してくれ」

「あいよ。いいぜ。あのナターシャって神官がいろいろ親切に話してくれたおかげで、詳細も明らかになったし、事細かに話してやるよ」

 リットは、それから淡々と話してくれた。

 

 後悔はしないつもりだった。

 だが、ジェノは結局、その思いを貫くことができなかった。



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㊴ 『炎』

 ジェノが、リットの魔法で姿を消した。

 彼が消えた虚空を見つめて涙を堪えていたイルリアは、目尻に溜まったそれを強引に手の甲で拭く。

 

「……説明しなさい。あんた達は、私達を何に巻き込もうとしていたの!」

 イルリアは振り返り、床に倒れているナターシャの襟首を掴んで強引に顔を上に向けさせる。

 

「…………」

 ナターシャは顔を俯けたまま、何も答えようとはしない。

 

「答えなさい! どうしてあんた達は、イースを化け物に変えて、その上サクリまで殺したのよ!」

 イルリアは本気で怒っていた。

 返答次第では、このまま自分がこの女を殺そうと想うほどに。

 

「まぁまぁ。待ちなよ、イルリアちゃん。とりあえず場所を変えようぜ。こんな血の臭いがする死体だらけの場所で、話し合いもなにもないだろう?」

「……待って。サクリだけでも埋葬を……」

 イルリアはそう提案したが、リットは首を横に振る。

 

「それは後で、この神殿の連中にでもやらせるといいさ。女の子が、殺された人間の死体なんか見るもんじゃあないぜ」

「馬鹿なこと言わないで! サクリは私の友人よ! せめて私が……」

 イルリアの抗議に、リットは困ったように頭を掻く。

 

「友人ねぇ……。まぁ、それだったら、なおさら今回の事柄の真実を知ってからにした方がいいと思うけど。サービスで、この地下には誰も入れないように結界を作って、死体が傷むこともないようにしておくから、まずは場所を変えさせてもらうぜ」

「ちょっと、待ちなさい!」

 

 イルリアの静止の声が聞こえないのか、聞く気がないのか、リットは右手の中指と親指をこすり合わせて、パチンと音を鳴らした。

 

 普段は何も動作をせずに魔法を使うリットだが、今回は一動作を加えている。

 魔法というものに対する知識は浅いが、それが高位の魔法を使うために必要な事とは思えなかった。きっと、ただ格好をつけているだけだろう。

 

 一瞬、世界が真っ白に変わった。

 そして気がつくと、イルリア達三人は何処かの建物の部屋に居た。しかし、この部屋は見覚えがある。

 

「リット。私達ごと、何処に転移させたのよ?」

「この村の神殿の客間だよ。さっきも言った様に、血の臭いがするところで、話し合いもなにもないだろう?」

 リットは悪びれた様子もなく、笑みを浮かべる。

 

「ああっ、なるほどね。だから見覚えがあったわけね。……あれっ? でも、なんだか以前とは違う気が……」

 部屋の内装が変わっているとか、そういった類の変化ではない。

 ただ、前にこの部屋に案内された時に感じていた。いや、違う。この村に入った時から感じていた、重たい空気を感じなくなっているのだ。

 

「ほう。魔法の才能があるのは知っていたが、この違いを感じられるとはね。将来有望だな、イルリアちゃん」

 リットは周知の事実のように言うが、イルリアは自分に魔法の才能があるなどというのは初耳だった。

 

「まぁ、いいわ。そんなことよりも、私はこの女に聞かなければいけないことがあるから」

 イルリアは静かにそう言うと、絨毯の上で上半身だけ起こして無言を貫くナターシャの頬を引っ叩く。

 ただでさえ片腕を失ってバランスを保てないナターシャは、イルリアの平手打ちを頬に受けて、力なく崩れるように倒れた。

 

「ふざけるんじゃあないわよ。いつまで黙っているわけ?」

 イルリアの声が、普段とはまるで違う低いものに変わる。

 

 しかし、イルリアが激昂している事に気づいているであろうに、ナターシャはわざわざ再び上半身を起こし、顔を俯ける。

 

 好きなだけ叩けばいい。だが、お前達に屈するつもりはない。

 

 その態度が無言でそう主張していることを理解し、イルリアは怒りに任せて再び彼女の頬を引っ叩く。

 だが、やはりナターシャは倒れた後に再び上半身を起こす。

 

「なにか答えなさいよ! 本当に殺すわよ!」

 イルリアは叫ぶと、銀色の板を構えた。

 それを見たナターシャは、不敵な笑みをイルリアに向けて、更に煽ってくる。

 

「こっ、この……。 そんなに死にたいのなら、望み通り……」

「ああ、それがいいんじゃあないか。間接的にだが、サクリちゃんの仇だと大義名分もあるし、この神官を殺せばスッキリするだろう。それに、知らない方がいいことから、目を背けることができるぜ」

 

 完全に頭に血が上りきったイルリアは、銀の板に封じられた雷の魔法をナターシャに向けて放とうとした。だが、リットの軽口を聞き、彼女はそれを思い留まる。

 

「……くっ……」

 イルリアは、怒りに震える手をなんとか理性で留め、銀の板をポーチに戻す。

 

「あらっ? どうしたの、イルリアちゃん。この女は、サクリちゃんとイースちゃんの仇なんだろう? いいのかい、殺さなくても?」

「……本当に、嫌な奴よね、アンタって」

 イルリアはリットを睨み、侮蔑の言葉をぶつけるが、彼は全く気にした様子はない。

 それに、会ったことがないはずなのに、リットはイースの事も知っているようだ。

 

「この女は、死にたがっている。私に真実を話さずに死のうとしている。それが気に食わないだけ。こんな最低の女が望むことなんてしてやるものかと思った。だから、殺さないの」

「へいへい。そりゃあ、お優しいことで。だが、その選択を後悔しないようにな」

 リットは軽口を叩いていたが、何故か嬉しそうに笑みを浮かべる。

 

「いいぜ。自分で決断をできる人間は嫌いじゃあない。それじゃあ、イルリアちゃんは助けてやるよ」

 リットがそんな訳のわからないことを言った瞬間、彼の体から凄まじい炎が巻き起こった。

 

 瞬く間に炎は部屋に燃え広がっていく。

 

「なっ、何をするつもりなのよ!」

 あまりの熱量に、イルリアは炎の中心であるリットから距離を離そうとしたが、すぐに自分の周りには、両手を広げられるほどの大きさの透明な膜のようなもので覆われていることに気づく。

 

 その膜は、炎が自分に触れるのを防いでくれているようだ。けれど、熱気は完全には遮らないようで、イルリアは全身を襲う熱量に膝をつき、滝のような汗を流す。

 

「ぐっ、ううう……」

 ナターシャの体に火がつき、彼女の体を燃やしていく。

 懸命に嗚咽を堪えているようだが、全身を生きたまま焼かれる苦しみに、うめき声を抑えきれていない。

 

「ぐっ……」

 人の肉が焼ける臭い。そして、ナターシャの体が焼かれていく無残な光景に、イルリアは思わず目をそらす。

 

「リット! 何処まで燃やすつもりよ! このままだと、この神殿、いえ、この村全てが炎に巻かれて……」

「んっ? ああっ、安心しなよ。ジェノちゃんにも同じ魔法を掛けてあるから大丈夫だぜ。他の連中は皆焼かれて死ぬだろうな。えも、他の誰が死のうが俺には関係ない。そもそも、俺は大嫌いなんだよ。自分で考えることを放棄して、他人に縋ろうとする連中がさ」

 リットは笑顔をイルリアに向けてくる。

 

 その笑顔に、イルリアは戦慄した。

 

 怒りも、狂気も、まるで感じられない、満面の笑顔だった。

 そうなるのが当たり前。だから、死ぬのは当然。その笑顔は、そういう笑顔だった。

 

「いままで、聖女様、聖女様と持ち上げていたんだ。その相手が実は悪人だったというのなら、その罪の一部は背負うべきだ。

 騙されていた? 知らなかった? そんなのは理由にならない。自分の頭を使わない怠惰な屑なんて、この世からいなくなるべきだ」

 

 無茶苦茶なことを口にしながら、リットは更に炎の勢いを増し、それに加えて爆発も起こる。

 

 天井は吹き飛び、そこから炎が空に舞い上がる。そして、上空高く舞い上がる炎は、火の雨となって再び大地に降り注がれる。

 

「……め……ろ……」

 炎に焼かれ、体が炭と化したはずのナターシャが声を上げた。

 その無残な炭と肉の塊が動く姿に、イルリアは口元を両手で抑えて、悲鳴を懸命に飲み込む。

 それでも耐えきれなくなってしまったイルリアは、ナターシャから目をそらす。

 けれど、そらした先も、また地獄だった。

 

 部屋が燃え尽くされ、壁がなくなると、村中が炎に包まれている光景が目に入ってきたのだ。

 聞こえるのは、人々が泣き叫ぶ声。壁に囲まれたこの村では逃げ道がない。

 老若男女を問わず、無慈悲な炎が人々を焼き殺していく。

 

 リットを止めようとしても、炎が更に熱を増し、言葉を発することもできない。

 ただただ、人々が死んでいく光景を見せつけられる。

 みんな、みんな燃えていく。燃えて、燃えて、死んで、死んでしまう……。

 

 

 

「止めろぉぉぉぉっ!」

 不意に、はっきりとした女の声が、ナターシャの声が聞こえた。そして、次の瞬間、パチンと指を鳴らす音が耳に入る。

 そして、そこでようやく、イルリアは自分が、燃える前の部屋に立っている事に気がついた。

 

 全身が汗にまみれて気持ち悪い。

 人々の悲鳴が未だに耳に残っている。

 まぶたを閉じると、あの無残な姿のナターシャの姿が思い出されてしまいそうだ。

 

 イルリアは過呼吸になりそうなほど、小刻みに呼吸を繰り返す。

 体が、心が、恐怖で思うように動いてくれないのだ。

 

 それは、ナターシャも同じようで、懸命に酸素を体に取り入れようとしている。

 

「ああっ、少しやりすぎたか。ごめん、ごめん」

 リットは全く反省していない口調で言うと、イルリアとナターシャに向かって掌を向ける。

 すると、あっという間にイルリア達の呼吸は正常になった。

 

「なっ、何をしたんだ、お前は……」

 呼吸こそ整ったものの、ナターシャは体を震わせながら、リットに尋ねてくる。

 

「ああ、大したものじゃないよ。ただの幻覚だよ。<幻覚>の魔法を使っただけさ。ただ、俺がやるとリアリティが高くなりすぎてしまうんだよねぇ」

 リットはそう言うと、ナターシャの前に歩み寄り、彼女の前で膝をつく。

 

「まぁ、お詫びをするから、これで許してよ」

 リットは、震えるナターシャに向かって片目をつぶり、再び指を鳴らした。

 すると、ナターシャの失ったはずの腕が一瞬で再生した。

 

「安心しなよ。その腕は幻覚じゃあないぜ。あの地下室にあった貴女の腕を瞬間移動させて、貴女の腕につけて上げたのさ。まぁ、欠損していた部分や血なんかはもう一度再生させたけれどね」

 リットは何でもない事のように言い、にこやかに笑う。

 

「……こっ、この……」

 イルリアは文句を口にしようとしたが、体の震えが未だに治まらないため、上手く言葉を紡ぐことができない。

 

「さて。どうかな、ナターシャさん。貴女が知っていることを全て、イルリアちゃんに話してくれないかな?」

 リットの明るい声での頼みに、ナターシャはイルリアが相手のときのように顔を背けようとした。しかし……。

 

「……それとも、さっきの光景を、現実にしてやろうか?」

 低い声で続けられたその言葉に、彼女は逆らえなかった。

 

「わっ、分かった。話す……」

 震えるナターシャに、リットは、「嫌だなぁ。冗談だよ、冗談」と笑ってみせる。

 

 けれど、ナターシャ自身も、それを聞いていたイルリアも、その言葉を全く信じられないと思うのだった。



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㊵ 『汚染』

「逃げはしません。どうか、そこの席に座って下さい」

 ナターシャの口調が、敵に対するものから客人に向けられるものに変わっている。

 

「……ええ。分かったわ」

 イルリアはその事を理解し、ナターシャが視線を向けた先の客人用の椅子に座る。

 

「はいはい。聞かせてもらいましょうかね」

 リットが自分の隣の席に当たり前のように座り、笑みを浮かべているのが腹立たしいとイルリアは思う。

 けれど、この男がいなければ、万全な状態に戻ったナターシャを自分一人で御すことができないことは分かるので、そこは渋々我慢する。

 

 失った腕を取り戻したナターシャは、今までが嘘のようにすんなり立ち上がると、リットの向かいの席に座った。

 

「まぁ、私よりも、リットを警戒するわよね」

 イルリアはその言葉が喉元まで出かかったが、そんな嫌味を言ったところで、話を聞くのが遅くなるだけだと思い、それを飲み込む。

 

「どのように話せばいいでしょうか? 貴方達の質問に答えていく方法がよろしいでしょうか? それとも、長くなってしまいますが、一から全てをお話した方がよろしいでしょうか?」

「おっと、俺に確認を取らないでくれ。話を聞きたいのはイルリアちゃんだぜ」

 リットは視線をイルリアに向けてくる。

 

 どちらを選ぶかは自分で決めろと言っていることを理解し、イルリアは後者を、一から全てを話す事を求める。

 

 

 ――長い話を聞き終えたイルリアは、分からなくなってしまった。

 そう、何が正しかったのか、どうすればよかったのかが、まるで分からなくなった。

 

 なにより、真に断罪すべき者にこの手が届かない歯がゆさに、彼女はただ怒るしかない。

 

 悔しさに歯噛みし、涙し、『そんな理由』で死んでいった友人の、人々の魂の安らぎを祈る。

 

 そして、またあの馬鹿が、ジェノが心を痛めるであろう事に、イルリアは血が出そうなほど自分の小さな手を握りしめるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 それは、絶望だった。

 あまりにも、あまりにも救いのない、この世の地獄だった。

 

 人々が死んでいく。目の前で死んでいく。

 それが、寿命なら、不治の病ならば、まだ受け入れることができた。

 だが、これは違う。

 

 魔法の才能がないこの身が、ただただ恨めしい。

 あの化け物に襲われ、深手を負った人々が神殿に運ばれてきても、癒やしの魔法が使えない私には、救いようがない。

 

 この神殿にも魔法の使い手は何人かいるが、深手を治せるものは、片手の指ほどしかいない。けれど、すぐにでも癒やしの魔法での治療が必要な患者は、倍以上いる。

 

 魔法が使えない私達は、それでも手を動かして止血をしようとする。そんな小手先のことでどうにかならない深手であることを知りながら。

 目の前でこぼれ落ちていく命を、少しでも救いたくて。

 

「皆さん、怪我人から離れて下さい。大きな魔法を使います!」

 すでに疲労困憊の体に鞭を打ち、ジューナ様が多人数への癒やしの魔法を使用する。

 その力は強大で、ベッドで死を待つだけとなり息も絶え絶えだった重症患者十名以上が、あっという間に穏やかな呼吸を取り戻す。

 

 しかし、それとは正反対に、ジューナ様は顔面を蒼白にし、力なく前方に倒れそうになる。

 

「ジューナ様!」

 私は慌ててジューナ様を助けようとしたが、ジューナ様は手にしていた杖を支えにして地面との激突を回避する。

 

「大丈夫です……。皆さん、まだ大勢の怪我人が治療を待っておられます。疲労困憊なのは重々承知しておりますが、もう少しだけ皆さんの力を私に貸して下さい!」

 ジューナ様の声に、誰もが「はい」と返事を返す。

 

 けれど、けれど、みんな分かっている。

 このままでは、ジューナ様が、私達の最後の希望が絶たれてしまう。

 

 だが、今の私達にできるのはこれだけなのだ。

 この村を蝕む呪いを、根治できる方法などないのだから。

 

 

 

 ――剣の腕を磨いた。

 魔法が使えない私には、こんなことでしか、ジューナ様のお手伝いをすることができないから。

 

 私がこの村にやってきて七年。

 物心つく頃からやってきたものの、好きではなかった武術の訓練。けれど、私は心を入れ替えて、懸命に一日も欠かすことなく激しい鍛錬を続けた。

 

 あの化け物が現れた際に、私がすぐにあれを打ち倒すことができれば、皆の、ジューナ様の負担が減ると信じて。

 

 年若い未熟な神官見習いだった私も、正規の神官となり、化け物共に遅れを取ることはなくなった。

 

 けれど、少しずつ、でも確実に、あの化け物の出現頻度は上がっていく。

 この村の呪いが、次第にまして行っているのだ。

 それは、無辜の村人や病症人が苦しむ事を意味する。

 

 何も知らず、この村に、<聖女>ジューナ様に最後の望みを託してやってくる人々が、村の者たちが、死ぬだけではなく、あんな、あんな化け物に……変貌してしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 リットの話を聞いていたジェノは、そこで口を挟まざるを得なかった。

 

「ナターシャは、『化け物に変貌してしまう』と言ったのか?」

「ああ。そのとおりだ」

 

 リットの答えを聞き、ジェノはイースが化け物に変貌してしまったときのことを思い出す。

 自分達が無事なことから、あの時、侵入者であるナターシャが巻いた粉がイースを化け物に変えたとは思えなかった。

 やはり、あれはただの目くらましだったのだろうか?

 いや、もしかすると……。

 

「リット。この村の神官たちが、定期的に村人に薬を配っていたようだが、あれの正体は分かるか?」

「ああ。あれは、本当に薬だぜ。体力増進の薬草を混ぜたものに、おまじない程度の抗魔力を上げる力を込めたものだ」

「抗魔力? 魔法に耐性を得る力ということか?」

 言葉の響きから、ジェノは聞き慣れない単語を推測する。

 

「ああ。俺がジェノちゃんとイルリアちゃんに掛けたものの、何万分の一にも満たない、ちゃちなもんだけどな」

「俺とイルリアに、その抗魔力を上げる魔法を掛けていたというのか? いったいいつ、何のため……」

 ジェノは懸命に思考する。

 

「そうか。この村に入る前に、お前は俺とイルリアの頭に触れたことがあった。あの時だな、俺達に魔法を掛けたのは。

 そして、わざわざお前が対象に触れるという動作が必要なほど強力な魔法を描けた理由は……。この村が危険だったからだ」

「うんうん。いいねぇ。ジェノちゃんは自分で考えようとするから、話が早くて助かるよ」

 リットはさも嬉しそうに笑い、話を続ける。

 

「この村は、汚染されていたんだよ。魔法に似た力にな」

「魔法に似た? 魔法とは違うのか?」

「ああ。違う。けれど、その辺りは順を追って話すさ」

 リットが話を切り上げたので、ジェノは思考を再びイースの事に戻す。

 

「イース……といっても、お前は知らないだろうが、幼い少女を俺達が保護してい……」

「その辺りの説明は不要だぜ。俺はあの嬢ちゃんを知っている。まぁ、バラしてしまうと、あのイースって嬢ちゃんをジェノちゃん達に引き合わせたのは俺だからな」

 思いも寄らなかった言葉に、ジェノは驚く。

 

「おいおい。驚きの連続でそんな暇はなかったのかも知れないけれど、少し思い出してみろよ。明らかにおかしいだろう?

 なんで森に隠れていたあの子供が、わざわざ村の中央付近まで戻り、ジェノちゃんの剣を奪おうとするんだ? あれは俺の仕込みだよ」

 リットは苦笑し、解説する。

 

「信じなくてもいいが、あの嬢ちゃんも手遅れだった。森の中に長く居すぎたせいで、全身が汚染されていたんだ。

 ただ、ジェノちゃん達にこの村の真実を知ってもらうにはいいなと思って、癒やしの魔法を掛けて、ジェノちゃんの剣を奪いたいと思う気持ちを一時的に付加した。ついでに、ジェノちゃん達に見つかるまでの限定で、<隠蔽>の魔法も掛けておいた。神官たちに見つかったら、そのまま殺されるのは明らかだったからな」

 

「……リット……」

「おいおい、怖い顔しないでくれよ、ジェノちゃん。あの嬢ちゃんも、死ぬ前に温かな飯が食えたんだろう? 何もなく化け物に変わるよりは、少しはマシだったと俺は思うけどね」

 怒りは覚えたが、今は話を聞くのが先決だと自分に言い聞かせ、ジェノは口を開く。

 

「答えろ。この村は、魔法に似た力で汚染されていた。そして、その影響で、人間が化け物に変わる現象が起きていたと言うわけか。そして、その元凶は、この村の中の森にあるんだな。そしてそれは、神殿に属する者の仕業ではなかった、という事なのか?」

「優等生だね、ジェノちゃんは。理解が早い。ああ、そのとおり。聖女様達は、発端はどうあれ、この村のこの現状を救おうとしていたんだ」

 

「……そうか。だが、それが、サクリを殺し、イースの妹達を殺して、子供達の首を集めたこととどういう関係があるんだ? そもそもだ。何故こんな危険な場所に村があるのかが分からん。聖女に救いを求めて人間がこの村にやってくる度に、犠牲者は増えてしま……」

 そこまで口にしたところで、ジェノは一つの可能性に気づいてしまった。

 

「この村は、この国の国王であるガブーランという悪政を行っていた男が、聖女ジューナに出会うことで改心し、彼女のために作った村だったはず。 だが、それが違うのだとしたら」

「うんうん。そうだねぇ。人間、そう簡単に心を入れ替えることなんてできなし、そもそもしようともしないもんだ」

 リットはそう言うと、「まぁ、立ち話も何だから座ろうぜ」とジェノに声を掛けて、芝生の上に腰を下ろす。

 

 ジェノもそれに倣って腰を下ろすと、リットは再び話を再開するのだった。



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㊶ 『人質』

 この刃は、どうしてこの手が届く範囲しか斬る事ができないのだろう?

 

 あの外道の喉笛を断つ事ができない自分に、私は歯噛みする。

 あの男さえ、国王ガブーランさえ殺すことができれば、多くの命を救うことができるというのに。

 

 

 この村への配属が決まった私は、希望に胸を高鳴らせていた。

 敬愛するジューナ様のもとで、病に苦しむ人々の手助けをすることができる。

 それは、女神カーフィア様の信徒として、この上なく名誉なことで、私の幼い頃からの夢に他ならなかったからだ。

 

 今でもはっきりと覚えている。

 流行病に苦しむ私達の村にわざわざ足を運ばれて、ジューナ様は、その強大な魔法で、私を含む村人三百名の命を救って下さった。

 

 その上、懸命に病と戦っていたが故に、自らも病に冒されてしまった私の父と母が、自分たちの不甲斐なさを悔いて謝罪すると、あの方は私の両親を優しく抱きしめてくださり、

 

「カーフィア様の教えを守り、この村だけで病を食い止め、自ら病魔に冒されながらも人々を懸命に救おうとした皆さんの献身。私は何よりも尊く思います。

 ありがとうございます。皆さんの頑張りのおかげで、多くの命が救われました」

 

 そう言って、優しく微笑まれたのだ。

 

 父と母は落涙して、その場に泣き崩れた。

 側でその話を聞いていた幼い私も、止めどなく流れ落ちる涙を堪えることができなかった。

 

 命を賭して人々を救おうとした父と母の努力を、この方は認めて下さったのだ。

 

 この方のお力になりたい。

 いや、必ずお力になる。役に立ってみせる。

 

 そう幼い私は誓いを立てた。

 

 それが叶う機会が訪れた私は、本当に希望に胸を膨らませていたのだ。

 何も知らなかった、あの頃の私は……。

 

 

 

 この『聖女の村』の神殿に転属になって一週間が経ち、ようやく勝手を掴み始めた頃に、私はジューナ様の私室に呼ばれてその事実を知った。

 

「ナターシャ。貴女に話して置かなければいけないことがあります」

 

 この大地は、汚染されている。

 その事実を聞いた私は、我が耳を疑った。

 しかし、ジューナ様の悲痛な表情に、私はそれが事実だと理解する。

 

 そして、もう自分には、いや、自分達には救いはないのだと理解してしまった。

 

 ジューナ様の姿に心を打たれた国王ガブーランは、人々を救うために奔走する聖女のために、新たに村を作り、そこに大きな神殿を建てた。人々を救うための巨大な施設を。

 

 だが、それは表向きの理由だった。

 

 この地は、以前よりガブーランの命令で、未知なる力の研究が行われていたのだ。

 その力は、魔法に非常によく似た、けれど魔法とは異なるエネルギーなのらしい。

 

 便宜的になのか符丁的な意味なのかは分からないが、そのエネルギーは、<霧>と呼ばれ、ずっと研究が進められていたのだ。

 

 その<霧>は、生物に注入することで効果を発揮するのらしいが、その力を使いこなせる者は現れることはなかった。

 十年以上研究は続けられたらしいが、何の成果も挙げられなかった事により、その研究は破棄されることとなった。だが、そこで事故が起こった。

 

 厳重に管理されていた<霧>が、大量に漏れ出したのだ。

 

 霧は、またたく間にこの地に広がり、その上、少しずつだが確実に増殖していくことが明らかとなった。

 このままでは、この山奥の施設だけでなく、山全体に広がり、やがて麓の港町ルウシャにも汚染が広がることを危惧したガブーランは、ここでその対応に当たらせる人物を見つけ出した。

 

 それが、聖女と名高いジューナ様だった。

 

 ガブーランはジューナ様を騙し、汚染された土地に村を作り、そこにあの方を招いたのである。

 

 もちろん、聡明な上に凄まじい魔法の力を持つジューナ様は、この地が汚染されていることに気づき、ガブーランを糾弾した。

 

 だが、すでに手は打たれてしまっていたのだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 反吐が出る。

 それが、ジェノの抱いた感想だった。

 

「それで、どうしてジューナはガブーランの言いなりになったんだ?」

 感情を殺し、ジェノはリットに尋ねる。

 

 事実を人々に伝え、避難するのが最善の策のはずだ。だが、こんな誰でも思いつく方法を取らなかったのには、それなりの理由があるのだろう。

 

「なぁに、シンプルな理由だぜ。人質だよ。ガブーランは、人質を取ったんだ」

「人質? ジューナや神殿の関係者の肉親などの命を握っていたのか? だが、それだけでは……」

 

 ジューナ達が、どうせ人質も生かされ続ける保証がないと思い、反旗を翻した途端、そんなものは何の意味もなくなる。

 まして、かの高名な聖女を敵に回せば、世論は間違いなく聖女に傾くだろう。あまりにもリスクが高すぎる。

 

「うんうん。そうだよねぇ。だから、国王様はもっと大きなものを人質にしたんだ」

「勿体つけるな。ガブーランは何を人質にしたんだ?」

 ジェノの叱責に、リットは「へいへい」と全く反省していない態度を取る。

 

「まぁ、たしかにもったいぶることではないよな。簡単だよ。この国の全てだ」

「この国の全て?」

 ジェノには漠然としすぎて、その言葉の意味がわからない。

 

「そうそう。件の<霧>を研究していた施設は、この国だけでもまだ何か所かあるんだとさ。その<霧>を国内にばら撒くと脅したのさ」

「馬鹿な! 自分の国を弱めるだけだろう。なぜ、そんなことを……」

「さぁね。ただ、シンプルな思考だと思うぜ」

 リットは口の端を上げて、楽しそうに笑う。

 

「国王様は、何よりも自分が可愛いんだろうさ。だから、自分を害する、自分を認めない国なんてものには興味がないんだろうぜ。

 その証拠に、ジューナ様の故郷は、すでに<霧>っていうものが巻かれてしまったらしい。いやぁ、分かりやすい小物だねぇ」

 その言葉に、ジェノは拳を握りしめる。

 

「というわけで、聖女様はこの村だけでなく、この国の人間全てを守るために今まで懸命に頑張ってきたんだよ」

「……そうか」

 ジェノは静かにそれだけ答え、リットの目を見る。

 

「あっららぁ。てっきり、『俺はそんな人間を殺してしまったのか?』か言って、苦悩するジェノちゃんが見れると思ったのに、残念だなぁ」

 リットはそんな軽口を叩いたが、ジェノは何も言わず、微動だにしない。

 

「はいはい。わかったよ。話を続けますよ」

 リットは面白くなさそうに嘆息し、再び口を開く。

 

 そして、ジェノはようやく自分達がこの事件に巻き込まれた理由と、サクリが隠していた事柄を知るのだった。



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㊷ 『禁呪』

 生き地獄だった。

 本当に、そうとしか呼べない苦悩の日々だった。

 

 この村は汚染されている。<霧>に汚染され続けている。

 

 力の弱い老人や子供達が化け物に変わっていく。けれど、その事実を村人達に知られてはいけないのだ。

 

 口を封じなければいけない。

 そうしないと、監視者に密告されるから。

 

 ――とある商人に、この村に化け物が出没するということが漏れたことがあった。

 

 けれど、彼は心からジューナ様を敬愛し、協力を約束してくれていた。こんなひどいこの村の実情を知っても、彼は私達の力になると言ってくれたのだ。

 

 だが、その商人は、村を出る前に監視者の一人に殺されてしまった。

 私の目の前で、私の……、私の同僚の神官に殺されたのだ。

 

 後悔の涙を流し、けれど、家族を守るために、私の同僚はジューナ様を裏切った。

 

「すみません。今度は、私の番だったんです。もしも、もしも、事実が少しでも漏れたら、私の家族と、愛しいあの方を殺すと言われて……」

 

 村には、私達神殿に仕える者の家族からの手紙が来ることがあった。

 常に心をすり減らし、娯楽などもないこの神殿での生活で、その手紙がどれほど皆の助けになっていたか計り知れない。

 だが、ガブーランは、その僅かな希望さえも利用した。

 

 偽造は言うに及ばず、家族に無理やり手紙を書かせて、神殿内に裏切り者を、自分の連絡役を作り、私達を常に監視しようとしたのだ。

 

 もちろん、こんなことはすぐに対応できる。

 手紙は全て本人以外の第三者が内容を確認することとした。

 

 けれど、そのことが何か別の手段でガブーランに漏れた。

 

 それを知ったガブーランは激怒し、結果、ジューナ様の故郷が、あの男の命令で<霧>に侵食された。

 

 少しでも自分に反抗する行動は許さない。

 もしも、逆らうのであればこうなる。

 

 あの外道は、国王などと名乗る資格のないあの屑は、その見せしめのために、ためらいもなく自国の民を苦しめるのだ。

 

 

「……もしも、この村の秘密が漏れる恐れがある場合は、報告をして下さい。私が対処致します」

 あのジューナ様が、聖女と呼ばれるあの方が、そう決断し、自らの手で救うべき無辜なる人々を手に掛けることを決めた。

 

 その覚悟に、何も知らない年若い神官見習い達を除き、この村の真実を知る私達は全てを捨てて、聖女様と運命を共にすることをカーフィア様に誓った。

 

 こんな不敬な誓いなど、決してあってはいけない。

 

 だが、この地に顕現されることができないカーフィア様の代わりに、私達がこの国を、人々をあの暴君の手から守るのだと。

 そんな言い訳でもなければ、私達は立ち上がることもできなかったのだ。

 

 人々を救うべき私達が、カーフィア様の信徒が。

 罪のない人々を、ただ知ってはいけない事実に触れてしまったというだけの理由で殺めなければいけない。

 

 聖女様を慕い、その名に最後の救いを求めて村にやって来る人々。

 けれどそれは、新たな<霧>の犠牲者を増やすことにも繋がる。

 

 運よく、<霧>の悪影響を受けずにこの村を去る事ができるものもいた。それは、私達が、ジューナ様が懸命に治療と体調管理に努めたから。

 けれど、そんな助かった人々の噂が、また新たな犠牲者をこの村に連れてくるのだ。

 

 これが、地獄でなければ、何だというのだ?

 

 

 ――それでも懸命に、ジューナ様は人々を、そして私達を救う方法を探し続けて下さった。

 

 そして、ようやく私達は、希望を見出すことができたのだ。

 

 ……たとえそれが、禁呪と呼ばれる、外道の魔法であろうとも。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 イルリアは体が震えるのを抑えられなかった。

 だが、その震えは恐怖ではない。それは、怒りによるものだった。

 

 しかし、話をするナターシャはそんなイルリアを気遣うことなく、口を開く。

 

「その禁呪というものであれば、この村を汚染する<霧>を浄化する事ができるとジューナ様は仰いました。そして私は、ジューナ様と一緒に禁呪を使用するために必要な触媒を集めたのです。それが……」

「それが、子供達の首と、サクリの……命だったというの……」

 声を絞り出すイルリア。

 

 できることであれば違ってほしいと思いながらも、これまでの話をまとめると、その結論しか出てくれない。

 

「正確に言えば、禁呪の使用に必要な触媒は四種類です。魔法を行使する者がその手で殺めた幼子の首が十二個。行使者以外の者の膨大な魔法力。生贄として類まれなる魔法の力を秘めた乙女の命。そして、最後に行使者の命をも捧げることで、禁呪は完成するのだと……」

 ナターシャはそう言うと、顔を俯けた。

 

「……そんな、そんなの……」

 嘘だと言いたい。だが、この村に入ったときに感じたあの不快な感じが、今は全くなくなっている。

 

 その事実が、イルリアの二の句を繋げさせない。

 

「貴女達が、あの少女を、サクリさんを無事にこの村に送り届けてくれたことには心から感謝致します。ですが、誤解なきように。

 サクリさんは、この事実を知りながら、自らの命を、この国の人々のために捧げると、女神カーフィア様への献身とすることを決めていたのです。決して、私達が唆したのではありません」

 

「……そんな……そんなことって……。ふざけないでよ! それじゃあ、私達は、サクリを……。違う。違う! 私は、サクリに助かってもらいたかった! でも、あの娘は最初から……」

 拳をテーブルに叩きつけ、発せられるイルリアの言葉は気持ちばかりが先走り、支離滅裂なものになってしまう。

 

「私達は、懸命に人々を救うために魂をすり減らしていたのです。敬愛するジューナ様を失うことを覚悟しながら。それなのに、それなのに、貴女たちは、何も知らず、私の仲間たちを!」

 ショックを受けるイルリアは、ナターシャの怒りをただ受け入れるしかなかった。

 

 だがそこで、リットが口を挟む。

 

「おっと、その言い方はフェアじゃあないな。一から全てを話すって約束だろう? ナターシャさん」

「……リット、どういう事?」

「んっ? 不思議に思わないのか? まだ、誰がどうして、こんな大事な事柄に俺たちを巻き込もうとしたのかの説明がされていないだろう?」

 

 その説明を聞き、イルリアは、はっとする。

 そうだ。まだ、どうして自分とジェノがいる宿を、この女が襲撃したのかが不明だ。

 

 すでに儀式が行われていたことから、触媒とやらは足りていたはずだ。

 となると、イースの首を狙ったという事はない。まぁ、ジューナがあの場にいなかったのだから、どちらにしろ触媒にはならなかったのだろうが。

 

「……それは……」

 ナターシャは言葉に詰まる。

 それを見て、リットは嘆息した。

 

「やれやれ。興醒めだ。ジューナ様のためとか言いながら、結局はお前も自分が可愛いんじゃあないかよ」

 最低限の礼節を持っていたリットの口調が、侮蔑に変わる。

 

「リット。どういうことよ?」

「んっ? まだ気づかないの? やれやれ。それじゃあ、ただ話を聞くのも飽きてきたから、ネタばらしをしてしまおうか」

 リットはそう言うと、ナターシャを指差す。

 

「この女は、聖女ジューナが禁呪を使ったという事実を隠したいと考えたんだよ。せめて、聖女の名が美しく後世に伝えたいという我儘な理由でな。

 おそらく、ジューナ様はそんなことは望んでいなかっただろうにな」

 

 そこまで言われ、イルリアもようやく話を理解することができた。

 

「ああ、なるほどね。私達を利用しようとしたって訳。聖女様が死んだ理由は、私達が原因だとするつもりだったのね」

 そう考えれば、いろいろ辻褄も合う。

 

 村に現れた化け物をジェノが倒したことを、この女は喜んでいるようだった。それは、村の人間に私達の存在を深く認識させることに成功したから。

 

 昼に奇襲を仕掛けてきたのも、賊を追いかけながらとはいえ、神殿に向かって私達が武器を手に向かっていった事実を衆目に晒すため。

 

「ええ。そのとおりです。私は、貴女達をジューナ様を殺害した犯人に仕立てるつもりでした」

 悪びれることもなく、ナターシャはそう言い切った。

 

 けれど、それを聞いたイルリアは、何故かさほど怒りがこみ上げては来なかった。



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㊸ 『平行線』

 椅子を立ち、イルリアが自分に向かってくるのを、ナターシャはただ默まって見ていた。

彼女がゆっくりとした動作で、ナターシャの頬を二度叩くまで、ずっと。

 

「避けないの? 私なんかのこんな攻撃、体がもとに戻った貴女なら、簡単に避けられるでしょうに」

「……避けるまでもありませんので」

 ナターシャがそう返すと、イルリアは「そう」と興味なさげに言い、踵を返す。

 

「今のビンタは、イースとサクリの分よ。あんた達が弄んだ命の代償としては軽すぎるけれど、もう私はあんたの顔も見たくない。あんたとはどこまで話しても平行線のままだと理解したから」

「弄んだ? 私達が、命を弄んだですって!」

 ナターシャはイルリアの聞き捨てならない言葉に、怒りの感情を顕にする。

 

「私達がどのような思いで、この手を血に染めたと思っているのですか! 生贄にすることとなった子供たちも、すでに汚染が手遅れな段階まで進んでしまった子を仕方なく殺め、生贄の乙女も、もう余命幾ばくもない者を対象にしました。

 これ以上のいい方法があったとでもいうのですか? 貴女なら、もっと良い方法が取れたとでもいうのですか!」

 ナターシャの怒りの声に、しかしイルリアは振り返りもしない。

 

「そんなこと、私にはできないわよ。でもね、その人の命は、死んでしまうまで、ずっとその人のもののはずよ。理由がどうあれ、あんた達はそれを奪って、自分の都合のいいように利用した。

 ……仕方がなく、と言っていたわよね。すごいわね。貴女達は生殺与奪の権利を持っているというわけね」

「化け物に変わってしまった子供は、他の村人たちを襲う。それ以上の被害を生じさせないために必要な対策です。他に方法などなかったのです!

 貴女はきっとその手を汚したことがないのでしょうね。だから、そんな綺麗事を言えるのです!」

 

 ナターシャは拳を強く握りしめる。

 この理想論で物を語る小娘は、何も理解していない。あの地獄の日々を知らないから、こんな的はずれなことを言えるのだ。

 

「人を殺したことがあるのが、そんなに偉いことなの? 誇るようなことなの? 貴女こそ、『仕方がない』という言葉を盾にして、殺される側の事をまるで考えていないだけではないの?」

「違う! 私は……」

 

 イルリアの言葉に、ナターシャは反論しようとしたが、イルリアが先に口を開く。

 

「それに、ナターシャ。あんたは私達も殺すつもりだったわよね? <聖女>ジューナを殺めた犯人に仕立て上げようとしたのだから。当然、私達は死罪になる。それを分かってあんたは私達を嵌めようとしたのでしょう?」

 イルリアのその問いかけに、ナターシャは言葉に詰まる。

 

「悔しいけれど、リットの言うとおりね。あんたは自分が可愛かったのよ。自分の理想であり敬愛の対象である聖女様が汚名をかぶることがどうしても耐えられなかった。

 だから、偶然この村にやってきたよそ者の私達を利用して殺そうと考えたってわけね。まったく、大した仕方なさだわ」

 

 イルリアの言葉は正しい。だが、ナターシャはそれを認めるのを拒絶する。

 

「貴女達に何が分かるというの! 全てを魂さえすり減らしながら人々のために尽くしたジューナ様の苦悩を見たこともないくせに!」

「知らないわよ、そんな事。でも、それはお互い様でしょう? 貴女にサクリ達の気持ちが分かるというの?」

「サクリさんも、イースという娘も、カーフィア様の信徒。人々を救うためならば、喜んでその生命を捧げるでしょう」

 

 そう、もしもこの体に魔法の力を有していたのであれば、自分は喜んでジューナ様の<禁呪>の供物になりたかった。

 同じカーフィア様の信徒であれば、誰もが……。

 

「あんたは、サクリとろくに話もしていなかったようね。そうよね。あんたにとってはあの娘は、ただの魔法の触媒だものね。

 やっぱり、あんたとは理解し合うことなんてできないわ」

「どういう事ですか?」

「いいわよ、分からなくて。分かって貰いたいとも思わないから」

 イルリアは振り返らずにそこまで言うと、部屋の出入り口まで無言で足を運ぶ。

 

「……それなら、貴女達はどうだというのですか? あのまま<霧>に侵された男を放置しておくつもりなのですか? いつ他人に被害を与えるかもしれないあの化け物を放置し続けている貴女達に、私を糾弾する資格があるとでもいうのですか!」

 

 ただの難癖に過ぎなかった。それは、その言葉を発したナターシャが一番良く分かっている。だが、その言葉に、部屋を出ようとしていたイルリアの足が止まったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 リットの話を聞き終えたジェノは、「なるほど」とだけ言うと、静かに自分の両手を動かす。

 

「リット。ジューナが発動させた<禁呪>の効果の範囲はどれくらいなのか分かるか? それに、俺の中にあの<獣>がまだ存在しているのは何故だか教えてくれ」

 ジェノの懇願に、リットは苦笑して答える。

 

「禁呪の範囲は、この壁に囲まれた村を超えるこの山全部だ。安心しなよ。<霧>というエネルギーにしか効果がない魔法なのは確認している。

 それと、この魔法は<霧>とやらを消滅させる魔法なんだけど、生憎とジェノちゃんの中にいる獣は抵抗力が強すぎたみたいだ。全く弱体化していないぜ」

 リットはそう言うと、静かに立ち上がる。

 

「なぁ、ジェノちゃん。もしかしてだけど、この神殿の神官達を殺した罪を償おうとか考えてはいないよな?」

 リットの問に、ジェノは默まって立ち上がるだけで、何も答えない。

 

「おいおい。正義の味方ってのはこういう時に融通がきかないのが困りものだな」

 リットは呆れたように片手で頭を抑えて、もうだいぶ日が傾いてきた天を仰ぐ。

 

「止めとけよ。今回の一件については、ジェノちゃんは巻き込まれた側で、降り掛かってきた火の粉を払っただけだ。

 それに、ナターシャも、ジューナ様の遺言は守るつもりのようだから、ジェノちゃんが出頭でもしてしまったら、話がこじれるだけだぜ」

「遺言とはなんだ?」

「ああっ、すまん。そこは話していなかったな。ジェノちゃんがあの<獣>に操られて、ジューナ様に重症を負わせたんだが、彼女は自分に回復魔法を使って立ち上がり、最後に遺言を残した。

 それが、血塗られた魔女であるジューナが、この村の人々を影で苦しめていたことに気づいたジェノちゃん達、正義の英雄が見事に彼女を討伐したっていう陳腐な筋書きなんだよ」

 

 リットの説明に、ジェノは拳を握りしめる。

 

「この村の真実を、国王ガブーランがした悪行の全てを被り、魔女として死んでいくというのか」

「そうだな。でもまぁ、俺達には関係のない話だぜ。……そういう事にして置かなければ、聖女様も浮かばれないぜ、ジェノちゃん」

 リットはそう言うと、ジェノは「そうか」と頷いた。

 

 そして、長い沈黙の後に、ジェノが口を開く。

 

「リット。お前は、いつからサクリが、魔法の触媒にされることになっていた事に気づいたんだ?」

「ああ。もちろん、出会った瞬間だよ。魔法の触媒に、生きた人間――特に魔法を有した乙女を使うなんていうのは定番なんだ。だが、多くの場合、その対象に魔法で儀式への繋がりを作っておく必要がある。

 で、サクリちゃんの体には、びっしり儀式用の魔法が掛けられていたのさ。まぁ、その魔法のおかげで、なんとか歩くこともできていたみたいだけどな」

 リットの説明を聞き、ジェノは自分の浅慮を恥じる。

 

 病に冒されて長い間ベッドから立ち上がることもできなかったと、サクリの話を聞いて知っていたのに、どうして自分は、今の彼女が歩くことができたのかを疑問にさえ思わなかった。

 

「儀式用の魔法っていうのは、ある種の<呪い>なんだよ。掛けられた者が死ぬことでしか開放されない。まぁ、儀式の成否は関係ないけどな。

 この天才なら、その魔法を解呪することは簡単なんだが、それをしたら間違いなくサクリちゃんは死んでいた。なんとかその<呪い>で命を保っている状態だったからさ」

「お前でも、もうサクリを救う事ができないと言った理由は、それなのか?」

「ああ。だから、警告したんだよ。まぁ、無駄になったけどな」

 リットは軽い口調でそう言い、笑みを浮かべる。

 

「……この村に入ってから、お前はどこにいたんだ?」

「森の中だよ。<霧>とやらの実験施設を見つけて、そこをいろいろ調べていた。まぁ、大した成果はなかったけれど、実験体にされた化け物がまだ居たんでね。久しぶりに手加減少なめで魔法を使って、施設ごと全てを破壊しておいた」

 リットの魔法の力ならば、<霧>とやらの侵食も問題はないのだろう。だが、自分やイルリアではそうはいかない。だから、森には近づくなと言ったのだろう。

 

「……リット。済まない……」

 ジェノは顔を俯けて、リットに謝罪する。

 だが、リットは薄ら笑いを浮かべるだけだった。

 

「わざと分かりにくく言ってからかったのは俺なんだし、何も謝らなくてもいいぜ、ジェノちゃん。それなりに長い付き合いだろう、俺達は」

「ああ。長い付き合いだ。それなのに、俺は、お前の苦悩がまるで分からない」

 ジェノのその言葉に、リットの顔から笑みが消えた。

 

「俺には魔法の力がまったくない。だから、物事の結末など分かるはずもなく、手探りで前に進むことしかできない。それを恨めしくも思うが、逆にお前のように何でもすぐに分かってしまう人間の気持ちが分からないし、考えようともしなかった。

 お前は、俺達の立場になってアドバイスを何度もしてくれていたのに、俺は何もしようとはしなかった」

 そこまで言うと、リットは大げさに嘆息する。

 

「おいおい。ジェノちゃん。優しい正義の味方は、サクリちゃんやイース。それに、聖女様のことでも胸を痛めているんだろう? 俺のような外道のことを考えている暇があったら、そっちに思考を使いなよ」

「俺は、正義の味方なんかじゃあない。それに、俺はお前のことを外道などとは……」

「はいはい。お優しいこって。そんなんだから、正義の味方って言われるんだよ」

 リットは不機嫌そうに言うと、ジェノに背を向ける。

 

「もう、聞きたいことはないよな? それじゃあ、俺も、イルリアちゃんのように、一足先に宿に戻る。そして、明日の朝一でこの村を発つべきだ。魔女ジューナを討った英雄は、謎に包まれていたほうがいい」

「ああ。分かった」

 ジェノがそう答えると、リットは背を向けたまま、バツが悪そうに頭を掻く。

 

「安心しろ。ジェノちゃんとイルリアちゃんが、イースと一緒に泊まっていた方の宿は直してあるし、あの店の女将さんの傷も治して、元気になっている」

「……そうか」

 自分のしたことには責任を持つ。リットらしい配慮だと思ったが、ジェノは敢えてそれを口にはしない。

 

 自分達がナターシャの襲撃を受けた際にも、リットはきっと近くに隠れていたのだろう。分かりにくいが、この男は、決して外道ではないことをジェノは知っているのだ。

 

 やがて、リットの姿が消えると、ジェノはもう一度芝生の上に腰を下ろす。

 

「……サクリ……」

 そして、ジェノは絞り出すように、死んでしまった少女の名を口にするのだった。



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㊹ 『サクリ』

 サクリは、自分が<禁呪>の触媒となることを知っていた。

 それは、彼女がこの旅を最後に、自らの生命を終わらせることを決意していたということだ。

 

 ベッドの上で力が衰弱して死んでいくよりも、僅かな時間でも、大切な親友と、カルラとレーリアとの旅をしたい。

 それは、健常者から見ればささやかな願いかもしれない。けれど、サクリにとっては自分の命と引き換えにしても叶えたい願望だった。

 

 だから、彼女は自分を供物とすることを受け入れた。

 そして、自分に掛けられた呪いじみた魔法の力を使い、病める体に鞭を打ち、懸命に旅をする事ができるために努力をしたのだ。

 

 もしも、何事もなくその旅が終われば、彼女は自らの結末を受け入れられたのだろうか?

 

 いや、きっとそれは、幸せな終わり方だったのだろう。

 

 最後の願いを叶え、大切な親友達に別れを告げて、その短い生涯にも納得ができたかもしれない。

 

 だが、現実は非情だった。

 自分の未来を全て捨てて、手に入れた幸せな時間は、わずか数日で終りを迎えた。

 

 賊に乗っていた馬車が襲われ、その際、サクリを守るために、カルラとレーリアは戦って若い命を散らしたのだ。

 

 ……こんなひどい話があるだろうか。

 大切な、本当に大切な親友が、余命幾ばくもない、すでに死神と約定を交わしていた自分よりも先に死んでしまったのだ。

 

 サクリはその時点で、何もかも失ってしまった。

 この世に生きる意味を。病に苦しみながらも、前に進む理由を。

 

 だから彼女は死後の世界で、天国で親友と再会することを願うようになった。

 そのために、自らを罰しながら、苦しんで死んでいこうとしたのだ。

 それだけが、カルラとレーリアに再会できる道と信じて。

 

 

 サクリは、この世界を憎んでいた。

 いや、違う。それしか、憎めるものがなかったのだ。

 あまりにも残酷な現実の前に、彼女が恨みの発露にできるものが、……それしかなかったのだ。

 

 

 ――だが、俺は、そんな彼女に……。

 

 

 あの時の俺の言葉は、サクリにとってどれほど陳腐なものだったのだろう。

 

『何を言っている。お前は病を治すために旅を続けているんだろう? そのために、これから聖女に会いに行くんだ。初めからそんな弱気でどうする』

 

 何も知らない俺は、そんなことを口にした。

 死出の旅を続けているサクリの気持ちをまるで理解せずに。

 

 俺は、サクリが自分に気を使っていることに気づき、それをどこか不快に思っていた。

 もっと、自分達を頼ってほしいと傲慢にも思っていた。

 

 あまりにも馬鹿げた話だ。

 サクリは、ずっと俺達のために真実を明らかにしなかったのだ。

 俺達の無責任な励ましの言葉を受け入れ、彼女は無理をして笑顔を作っていたのだ。

 

 

 ――ふと、顔を上げると、沈みゆく夕日が見えた。それが、あの日の船の上での夕日に重なる。

 

 

 サクリはあの時、死にたくないと言った。

 もっと、もっとカルラとレーリアと生きたかったと。

 

 あの時こぼれ落ちたあの時の気持ちこそが、サクリの本当の心だったのだ。

 

 それ以外は、全て俺達に気を使った言葉だった。

 自分がこれから死んでいくというのに、サクリはずっと俺達のことを気遣ってくれていたのだ。

 

 俺はサクリを助けているつもりだった。

 だが、真実は真逆だった。

 何も知らない俺は、彼女に助けられていたのだ。

 

 

 俺は愚かだ。そして、あまりにも無様で、何よりも無力な自分に怒りさえこみ上げてくる。

 

 

「んっ?」

 不意に、こちらに近づいてくる気配を感じ、俺は立ち上がり、そちらを向く。

 剣を構えようとしたが、それはあの地下の祭壇に置かれたままだったことに気づく。

 

 もっとも、その気配は殺気を纏ってはいない。ただ、不思議なのは、神殿の建物ではなく、その反対方向からこちらに向かってくることだ。

 

 俺はいつでも対応できる体制を取り、二つの気配が目に見える位置まで来るのを待った。

 

「はぁ~。良かった。無事に帰ってこられたぁ」

 そんな子供の声が聞こえたかと思うと、幼い少女が茂みから顔を出した。

 

「まったく、お前が奥まで行ってみようって言うから、道に迷ったんだぞ」

 続いて、五、六歳くらいの男の子も茂みから出てくる。

 

「あっ! あの時の格好いいお兄さんだ!」

 幼い少女はそう言い、こちらに駆け寄ってくる。

 その姿に、俺はこの二人の子供のことを思い出す。

 

 この村に入る時に、皆に花を配っていた子供達だ。

 

「良かった。すっかり遅くなってしまったから、渡せないかもしれないと思ったんだ。でも、明日になったら弱ってしまうから」

 幼い少女はよく分からないことを口にして、手にしていた籠から何かを取り出す。

 

「はい。これ、あのご病気のお姉ちゃんに渡して下さい。うちのお兄ちゃんと一緒に私が作ったんだよ」

 幼い少女が差し出してきたのは、花冠だった。

 

「その、ごめんなさい。うちの妹が、どうしてもあの病気のお姉さんにこれを作って渡したいって言ってきかなかったんです。

 森に入れないから、花を探すだけでも時間がかかってしまって、その……」

 物怖じしない妹とは異なり、兄の方は申し訳無さそうに詫びる。

 

「……そうか。サクリのために、花を探して作ってくれたのか……」

 俺はそう言うだけで精一杯だった。

 いろいろな感情がこみ上げてきて、それを抑えるのに必死だった。

 

「うん。一生懸命作ったんだよ。早くご病気が治りますようにって、カーフィア様にお祈りしながら」

「はい。ですから、どうかあのお姉さんに渡してあげて下さい」

 子供二人の笑顔に、俺は懸命に笑顔を作る。

 

「分かった。間違いなく渡しておく」

 その言葉に満足したのか、幼い兄弟は、「それじゃあ」と言い残して、家路に就いていった。

 

 まだ、日が昇っているとはいっても、万全を期すのであれば、二人を途中まででも送っていくべきだったのかもしれない。

 だが、俺はただその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

 あの時の、最後の別れの際に、サクリはなんと言っていたかを思い出し、俺はせっかく子供達が作ってくれた花冠を握りつぶしてしまう。

 

 ……彼女は、こう言っていた。

『私は大丈夫です。あの子供たちが私に勇気をくれましたから』と。

 

 サクリは、あの子供達を救うために、自らが生贄になることを覚悟したのだ。

 自らの死を受け入れたのだ。

 

 そして、真実を語らずに死んでいった。

 

「……俺は、何もできなかった……。いや、それどころか……」

 自分を今更攻めたところで、何の解決にもならない。それは分かっていたが、俺はしばらくの間、そこから動くことができなかった。



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㊺ 『瞳』

 イルリアは一人、最初に神殿で手配された宿に戻って、ジェノの帰りを待っていたが、じっとしていられなくなり、宿の受付にでかけてくる旨を話し、夕日に染まる、この村の中を適当に歩くことにした。

 

 リットが先程戻ってくるなり、ジェノの長剣を部屋に置いていったから、今頃はあの地下の部屋の結界とやらはもう解かれているのだろうか?

 ということは、すでにジューナが首をはねられて死んでいる現場を、他の神殿関係者達も見ているのだろうか?

 

 でも、それは私達には関係のないことだ。

 

 聖女と名高いジューナ様は、その実、自らの魔法の研鑽のために、多くの人体実験を行っていた、<魔女>だったのだから。

 そして、彼女はその事実を知った旅の英雄に討ち滅ぼされ、この地を包んでいた呪いは見事に解かれた。

 これで、もう無辜なる人々が犠牲になることはないのだ。

 

 

「こんなちっぽけな作り話を誰が信じるというの? でも、ナターシャはジューナの最後の意思を尊重すると言っていたから、これで通すのよね」

 関係ないとは思いながらも、イルリアは歩きながらつい考えてしまう。

 他に何か方法がなかったのかと。

 

『イルリアさん。貴女達は間違っていません。どうか、そのまっすぐな気持ちを忘れないで下さいね……』

 

 ジューナが最後に残した言葉。

 サクリを、そしてイース達を無残に殺した女のそれが、しかし今、この沈んだ気持ちを少しだけ楽にさせてくれている。それが、イルリアには、何ともやるせない。

 

「それにしても、<霧>か……」

 ナターシャが口を滑らせ、彼女を問い詰めた結果、あくまでも推測だが、ジェノの中にいるあの<獣>も、この村を汚染していた<霧>という未知なる力によるものではないかという推測ができた。

 だが、それが正しいのかどうかはわからない。

 

 リットの話によると、結果として、ジューナが使った『禁呪』とやらでも、ジェノの中にいるあの<獣>を消滅させるには至らなかったらしい。

 そういえば、ジェノを診断したジューナが、あと二日時間が欲しいと言っていたことから、彼女も、ジェノの仲の獣に、<霧>とやらの痕跡を感じていたのだろうか?

 

 しかし、リットの話だと、件の『禁呪』は、大抵の悪しき魔法も解呪するらしいので、ただ単に、その副次的な効果でジェノの症状も治せると思っていただけの可能性が高いような気がする。

 

 もっとも、ジューナはもうこの世にはいない。

 その答えは永遠に分からないのだ。

 

「このままだと、あいつもあんな化け物に変わってしまう可能性があるというの?」

 

 昔の恩師とその助手の誘いに乗って、ジェノとリットを雇って、あんな遺跡に行かなければ。

 事故めいた事象だったとしても、あのおかしな容器を壊したりしなければ。

 そうすれば、こんな苦しい思いはしなくても済んだはずなのに。

 

 そんな弱気な気持ちになってしまった自分に気がついたイルリアは、辺りに人がいないことを確認して、両手で力いっぱい自分の頬を引っ叩く。

 

「何を被害者ぶっているのよ。私は加害者。その罪の償いは必ずするって決めたじゃない。私は、あんな無責任な連中とは違う!」

 

 ジェノが封じられていた<獣>に乗っ取られて、遺跡を破壊し尽くした。

 幸い、リットがジェノを捉えてくれたので、私と恩師達は怪我をせずに済んだ。

 

 だが、そのあまりにも人間離れした力に乗っ取られたジェノを、そしてそれを軽々と抑え込んだリットを恐れて、無責任なあの女二人は泣き出し、自分達は悪くないと主張したのだ。

 

 リットは呆れて、「それなら、記憶を消してやるよ」と言い、魔法で二人を眠らせて記憶を消した。だが、私はそれを拒んだ。

 自分のしたことには責任を持つ。

 それができないほど、私は子供ではないつもりだったから。

 

 そんな事を考えながら、イルリアは歩いていたが、日がかなり落ちてきた事に気づき、宿に戻ることにした。

 

 明日の朝一でこの村を出ていく。

 今日は、夕食を食べたらすぐに眠らなければ。

 

 明日の予定を考えていたイルリアだったが、

 

「わぁぁぁぁっ! ごっ、ごめんなさい、どいて下さい!」

 そんな情けない男の声が聞こえたかと思うと、大きな物体――犬と人間が、彼女に向かって突進してきた。

 

 イルリアは慌てずに、ぶつかる寸前のところで身を躱す。すると、男はバランスを崩し、顔面から地面に激突してしまった。犬は男が持っていた手綱から手が離れたことで、勢いそのままに走り抜けて行く。

 

「…………」

 あまりにも突然の、思いもしなかった出来事に呆然としながらも、イルリアは仕方なく、倒れた男のもとに歩み寄り、「大丈夫ですか?」と声をかける。

 

「あっ、痛たたたたっ。すみません。大丈夫です」

 顔面を強打した男は、そう言って顔を上げる。

 

 年はイルリアと同じくらいの少年のようだ。

 淡い栗色の髪の少し小柄なその少年は、平凡な容姿のため、すぐにでも記憶から抜け落ちてしまいそうな印象を受ける。ただ、一点を除いて。

 

 イルリアは、少年の容姿よりも、その特徴的な瞳が気になって仕方がなかった。

 その少年は、右目と左目の瞳の色が異なっている。左目は茶色だが、右目は宝石のようなライトブルーなのだ。その右目を見ていると、引き込まれそうになる。

 

「あっ、その、すみませんでした。いきなり、大柄の男の人に、犬を少し見ていてくれと手綱を強引に持たされたんですが、犬が突然暴れだしてしまって……」

 何故かその少年は、顔を真っ赤にして、イルリアが聞いてもいないことを説明する。

 

「……災難でしたね。それでは、私は宿に戻るので」

 ついつい少年の右目に見惚れていたイルリアは、そう言って踵を返す。

 だが、それから、少し歩いたところで、イルリアは背中から声を掛けられた。

 

「僕は、ゼイルって言います。また会いましょう、イルリアさん」

 その言葉に驚き、イルリアは後ろを振り返ったが、そこにはもう誰もいなかった。

 

 名乗ってもいないはずの自分の名前を口にし、左右の瞳の色が違う少年は、忽然と姿を消したのだった。



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㊻ 『そして、今に戻り』

 もう、日が沈もうとしていた。

 昼過ぎからずっと話し続けても、これほど時間がかかってしまった。

 

「すみません。随分、長話になってしまいました。俺の話は、これで終わりです」

 途中、自分の中にいる<獣>の話をあえて省略し、さらに要点をまとめて話したつもりだったが、随分と長くなってしまったことをジェノはガイウス達に詫びる。

 

 だが、ガイウス達は、誰一人反応を示さない。

 

 少しでも口を開くと、怒号が漏れてしまうのだろう。ガイウスは怒りを懸命に堪え、震える拳を握りしめていた。

 

 メルエーナは涙を流し、同じ様に涙をこぼすバルネアに座ったまま抱きしめられている。

 

 ジェノは皆が落ち着くのを待つことにした。

 

 

 ややあって、ガイウスが口を開いた

 

「ジェノ。お前は以前、あの嬢ちゃんは、聖女の居る村に着くとすぐに亡くなったと俺に言っていたな。その村のカーフィア神殿内のゴタゴタに巻き込まれて、ろくな治療も受けられずに死んだと。だから、お前はその事が気に入らず、依頼の報酬を受け取らなかったと……」

 ガイウスの鋭い眼光がジェノに向けられる。

 

 その視線は、何故、今までこんな大事なことを言わなかったかの追求だ。

 

「エルマイラム王国とは遠く離れた、シュゼン王国の、外国での出来事です。こんな話に関わらないですむのであれば、何も知らないでいる方が良いと考えました。」

「……ああ。そうだな。それで終わるのであれば、この話は誰にも知られないほうが良い。だが、お前の話に出てきた化け物が、先日、この街で無差別殺人を起こした、あの大猿に似た化け物とほぼ同じだったと言うことが問題なんだな?」

 ガイウスの言葉に、「はい」と頷き、ジェノは言葉を続ける。

 

「風貌、攻撃のパターン、背中から腕を生やす特徴。どれもが合致していました」

「つまりだ。あの化け物は、お前が話していた<霧>と呼ばれるものに汚染された人間の成れの果てだというのか?」

「俺はもちろん、リットもまだ<霧>というものが何なのかは正確に把握していません。ですが、そう考えたほうが良いと思います」

 ジェノはガイウスに説明すると、不安げなバルネアとメルエーナに、先日の事件の際に、リットに頼んでこの街に、『聖女の村』のような異変が起きていないか調べてもらっていたことと、幸いそのような予兆は何もないことを告げる。

 

「……ジェノ。どうして俺にまで、この話を聞かせたんだ? 正直、この話は自警団なんていう小さな組織でどうこうできる案件ではない。それが分からないお前ではないだろう?」

 ガイウスの問に、ジェノは少しの沈黙の後に口を開く。

 

「経緯はまるで分かりません。ですが、このエルマイラム王国の首都であるナイムにも、あの化け物が現れました。これが、外部の人間の仕業なのか、この国にも<霧>とやらを利用しようとする輩が潜んでいるのかも分からない。そして、今のところ、俺には何の手の打ちようもありません。

 ですが、いざ事が起こった際に、この街の人々を守るのはガイウスさん達の自警団です。その自警団が、この情報を知っていれば、一人でも多くの人を救えるかも知れないと考えました」

 ジェノは真っ直ぐにガイウスを見て、言葉を口にする。

 

「ははっ。簡単に言ってくれるな。まったく、俺達はただでさえ忙しいと言っただろう? それなのに、こんな厄介なことまでやらせようというのか?」

 ガイウスは苦笑しながら言葉を紡ぐが、その目は微塵も笑っていなかった。

 彼の目は、この街を守る男の鋭い眼光に変わっていたのだ。

 

「情報が入り次第、ガイウスさんにも報告します。ですから、どうか力を貸して下さい。

 俺は、何も知らず、ただ感情のままに突き進んでしまい、結果として多くの命が失われる結果になってしまいました。ですが、もう、あんな事を起こすわけには……」

 ジェノは席を立ち、ガイウスに頭を下げる。

 

「おいおい。頭を下げるのは俺の方だろうが。情報提供に感謝する。俺達に何ができるかは分からないが、悪いようにはしない。約束する」

 ガイウスは力強く笑うと、ジェノに倣い、静かに席を立つ。

 

「だが、今の話を他言するなよ。この街を脅かそうとする敵が、どこにいるのか分からない。それに、普通の人間なら、今の話を信じようとはしない。狂人扱いされるのが関の山だ」

「分かっています。ですから、ガイウスさんに話しました」

「ほう。どうして俺なんだ?」

 ガイウスは、楽しそうに尋ねる。

 

「貴方が俺を信用してくれているからです。その証拠に、俺のこんな話も真実として聞いて、手を打とうとしてくれる。そして……」

「そして?」

 

「貴方が、この街の平和が奪われることを、絶対に良しとしない人間だからです」

 ジェノのその言葉に、ガイウスは「そうか」と言って口角を上げると、「バルネアさん、ご馳走様」と言って、食事の代金をテーブルに置き、店を後にしようとする。

 

 だが、ジェノの横を通り過ぎる時に、ポンと彼の胸を軽く叩き、

 

「俺は諦めんぞ。お前をうちの自警団に入れてみせる」

 

 そうガイウスは言い残して行った。



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㊼ 『終わった事』

 少し遅めの夕食。

 バルネアが作ってくれる料理はやはり絶品なのだが、食事中、メルエーナ達はいつもよりも言葉が少なめだった。

 重い空気の中、続く三人の食事。だが、不意に、ジェノが口を開いた。

 

「すみません。バルネアさん、メルエーナ。面白くない話を聞かせてしまって。ですが、いざという時のために、どうしても話して置かなければと……」

「違うわ。ジェノちゃんが謝ることではないでしょう。話を聞きたいといったのは、私なのだから」

 バルネアはそう言うと、心配そうな眼差しをジェノに向ける。

 

「正直、サクリちゃんのことは驚いたわ。そして、ものすごく悲しかった。あの娘がどれほど辛かったのだろうかと考えるだけで、胸が締め付けられてしまうわ。

 でも、でもね、私はジェノちゃんの事も心配なのよ。ずっとこんな辛い話を心の奥にしまい込んで一人で耐えていたのでしょう? そして、それをまた思い出させてしまって……」

 

 バルネアの気持ちは、メルエーナのそれと同じだった。

 けれど、メルエーナはそのことを口にしない。いや、できない。

 

 何故なら、自分はサクリさんという人にあったことがないから。そんな自分が、本当の意味で、ジェノさんの気持ちが分かるはずがないと思ってしまうから。

 

「心配をかけてすみません。ですが、俺が、バルネアさん達に話を聞いてほしいと思ったから話しただけです。それに、もう終わった事ですから……」

 ジェノが珍しく微笑む。

 けれど、それが、どうしようもない悲しみがこぼれ落ちているからに思えて、メルエーナの瞳が涙に濡れる。

 

「メルエーナ……。すまない。話を聞かせるべきではなかったな」

 ジェノが心配そうにこちらを見て、声をかけてくれた。

 

「いいえ、違います。こんな大事な事を、私にも話してくれて嬉しかったです。ですが、あまりにも悲しくて、腹立たしくて……。

 すれ違いは起こってしまいましたが、ジェノさん達も、サクリさんやジューナさん達も、人を助けようと懸命になって、苦しんで……。それなのに、一番悪い人はそんなことも知らずに平然としているなんて。そんなの、そんなのおかしいです!」

 メルエーナの心には、深い悲しみとともに、諸悪の権化であるシュゼン王国の国王、ガブーランに対する怒りが灯っている。

 

 どうして、そんな悪行がまかり通っているのだろう。王様だから? 力を持っているから? そんなのはおかしい。

 そんな人のために、罪のない人々が苦しんで死んでいった。その事に、どうしようもない怒りが溢れ出てしまう。

 

「……優しいな、お前は……」

 その言葉にメルエーナは驚き、ジェノを見る。

 こんな優しい声色でジェノが話すのを聞いたのは初めてだった。

 彼は寂しげに口元だけの微笑みを作っていた。しかし、それはすぐに消える。

 

「だが、これは終わった話だ。ガブーランはすでに死んでいる。だから、お前が心を痛める必要はないんだ」

「えっ?」

「何があったのかは知らないが、俺達が<聖女の村>から戻って来た頃に、突然死んだらしい。そして、それと時を同じくして、ジューナの故郷の<霧>の汚染もなくなったそうだ」

 ジェノはいつもの仏頂面に戻り、そう教えてくれた。

 

 けれど、事も無げに言っているが、外国のことだ。その情報を集めるだけでも苦労したに違いない。

 ジェノはこの国に戻ってからも、懸命にシュゼン王国の情報を集めていたのだ。ずっと、何か自分にもできることはないのかと思い続けていたに違いない。

 

 その心中を察して、メルエーナは深い悲しみを抱く。

 

『何もできなかった』という思いに、ジェノはずっと、そして今も苦しんでいるのだ。

 

 メルエーナは自分が信じる神に祈る。

 どうか、ジェノの心が一日も早く癒やされるようにと。

 

 この悲しい出来事が、すでに終わってしまった話であるのならば、いつまでも彼がその事に胸を痛め続けることがなくなる日が来るようにと。

 

 

 ……けれど、ジェノ達が心を痛める事柄は、まだ終わっていない。

 それが、悪意ではなく、優しさによるものだとしても……。

 

 

 

 

 

 

 

 長い二週間だったとメルエーナは思う。

 けれど、ジェノ達にとってはもっと長かっただろう。

 

 何度も話し合いをし、バルネアの指示で、ジェノは給仕から外された。セリカ卿を前にして、冷静に接客は難しいとバルネアが判断したのだ。

 バルネアがそんな事を言うのは初めて聞いた。だが、ジェノは默まってそれを受け入れて、今は別室で、イルリアとリット、そしてガイウスと待機している。

 

 ここは料理店だ。美味しい食事を提供することが第一。

 そのため、すべての食事が終わってから話をする運びにしたいと、ガイウスがカーフィア神殿に申し入れをしてくれたらしい。

 今回の食事は、遠方から旅をしてきたセリカ卿を歓待する目的でもあるため、幸いなことに、その提案は受け入れられた。

 

 営業日の営業時間中は、よほどのことがない限り貸し切りにはしないバルネアが、貸し切りにする旨を伝えたことも大きかったのかもしれないが。

 

 

「メルちゃん。今日は大変だけれど、力を貸してね」

「はい!」

 まもなく正午になろうという頃に、一台の馬車が、この店の前に止まった。

 メルエーナはすぐに店の入口に向かいドアを開ける。

 

 そして、本日ただ一組のお客様が来店されたのだった。

 

 

 

 

 

 

 メルエーナが奥の席にご案内し、お客様達は席に着かれた。

 そして、バルネアが厨房から出てきて挨拶をする。

 

 派手なローブを身に纏った四十代くらいの女性――おそらく、この人がロウリア神官だろう――が、バルネアのお辞儀する姿に満足そうに頷いている。

 どうして、人が頭を下げるのを見て、これほど嬉しそうな顔をするのか、メルエーナには分からない。

 

「それでは、お食事をお楽しみ下さい」

 バルネアは笑顔でそう締めて、厨房に戻っていく。

 メルエーナも、食事が出来上がるまではお客様の邪魔にならないように距離を取る。

 

「セリカ様。この店の料理は素晴らしいのです。かの有名な……」

「ええ。国王様が絶賛されただけではなく……」

 ロウリア神官と、他の齢をある程度重ねた女性二人が、この店の料理の素晴らしさを伝えようとする。だが、肝心の歓待を受ける女性は、ニコリともせずに「そうですか」と短い感想を口にするだけだ。

 

 白いローブを身に纏い、美しい金色の髪を短く肩の辺りで切りまとめた、三十代後半くらいのその女性は、見るからに厳格そうで、硬い表情を崩そうともしない。

 彼女がセリカ卿。

 来店を感謝する旨をメルエーナが伝えた所、『セリカと申します。本日はよろしくお願い致します』と丁寧に挨拶を返してくれた。だが、彼女は全く笑みを浮かべていなかった。

 そして、それは今も……。

 

 イルリアから聞いていた、人を見下したような態度を取るというロウリア神官が、自分よりも年若いであろうセリカ卿に懸命に媚びている。

 神殿の力関係は、部外者のメルエーナにはまるで分からないが、よほどセリカ卿は強い力を持っているのだろう。

 

 話を、サクリさんの事を知っているため、メルエーナも彼女に言いたいことがないわけではないが、それは自分が口にしていいことではないことは理解している。

 そして、彼女に対してきちんとした接客を自分ならできると判断してくれたバルネアの期待に応えるためにも、メルエーナは自分の仕事を完遂することだけを考えることにする。

 

 色々と心配なことは尽きなかったが、バルネアの料理が完成し、お客様がそれを口にしてからは、さしたる問題は起こらなかった。

 セリカ卿も、相変わらず硬い表情を崩すことはなかったが、「素晴らしい味ですね」とバルネアの料理を賛辞していた。ただ、あまりにも美味しかったためだろう。

 

「ロウリア神官。貴女方は、普段からこのような美食を食べつけているのですか?」

 と詰問めいた言葉をセリカ卿に掛けられ、ロウリア達は冷や汗をかいていた。

 

 食事はつつがなく進み、最後のデザートをお出しした。

 デザートは桃のコンポート。

 メルエーナも事前に少し味見をさせて貰ったが、間違いなく絶品だ。

 

 当然、お客様たちにも好評だった。ただ、何故かセリカ卿だけは、それにスプーンを伸ばさない。

 

「……セリカ様?」

 心配する神殿の関係者に、「何でもありません」と答え、ナプキンで上品に口元を拭う。

 

「さて、ロウリア神官。食事はもうよろしいのではないでしょうか? 私は、ただ食事をするためだけにこの店に足を運んだわけではありません」

 鋭い眼差しを向けられたロウリア神官は、引きつった顔でメルエーナにジェノ達を連れてくるように頼んできた。

 

「はい。少々お待ちくださいませ」

 メルエーナは慇懃に礼をし、店の奥に戻って、待機していたジェノ達に声をかける。

 

「分かった。今行く」

 けれど、ジェノの声に強張りを感じ、メルエーナは不安になる。

 

 リットは普段と同じ様にニヤけた笑みを浮かべていたが、ジェノも、イルリアも、ガイウスも、険しい顔のまま足を進ませる。

 

 けれど、メルエーナは、彼らに掛ける言葉を見つけられなかった。



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㊽ 『価値も資格もなく』

 ジェノ達がセリカ卿の前に横並びに並び立つ。

 だが、薄ら笑みを浮かべるリット以外は、誰もニコリともしない。

 

 メルエーナはジェノ達から少し離れた位置で、バルネアと一緒に姿勢を正し、固唾を飲んで成り行きを見守ることにする。

 

 流石に剣呑な空気を感じたのだろう。ロウリア神官が、わざとらしく咳払いをし、

「皆さん。こちらにいらっしゃるのは、女神カーフィア様に……」

 厳かな口調でセリカ卿を紹介し始める。

 

 けれど、そのセリカ卿自身が「ロウリア神官。私はそのような紹介を頼んだ覚えはありません」と彼女を嗜めた。

 ロウリア神官は、引きつった笑顔で頭を下げて口を閉じる。

 

「初めまして。セリカと申します。この街の自警団長のガイウス様。冒険者のジェノ様、リット様、イルリア様。本日は私のために貴重なお時間を割いて頂き、感謝に堪えません」

 セリカ卿は静かに立ち上がり、頭を下げて慇懃な挨拶を口にした。

 しかし、場の空気は相変わらず物騒なままだ。

 

「本来であれば、もっと早くに皆様にお会いし、我が信徒を助けて頂いたお礼をさせて頂くべきでした。ですが、それもままならず、誠に申し訳なく思っております」

 頭を下げたまま続くセリカ卿の謝辞は、丁寧でこそあるものの、どこか冷たい印象をメルエーナは感じていた。

 棒読みでこそないものの、感情が込められていないように思えるのだ。

 

 そう感じたのは他の皆も同じようで、ジェノにいたっては、きつく拳を握りしめている。

 

 セリカ卿をいつまでも頭を下げたままにして置くことを嫌ったのだろう。

 ガイウスが一歩前に進み、テーブル越しにセリカ卿に頭を下げる。

 

「これは、ご丁寧にありがとうございます。ご存知のようですが、私がガイウスです。しかし、私は自分の職務を遂行したに過ぎませんので、そのような謝罪は結構です。

 それに、セリカ卿ご自身が仰ったとおり、もう一年以上前の話です。今更、あの時の事柄を持ち出される理由が、私にも、後ろにいる彼らにも理解できません」

 

 慇懃無礼とまでは思わないが、ガイウスの棘のある言葉に、メルエーナは彼の内心の怒りを理解する。

 

「ごもっともなご指摘です。このように時間がかかってしまった事につきましては、ただただ謝罪をし、皆様のお許しを願うことしかできません。誠に申し訳ございませんでした」

 よほど、このセリカ卿という女性がこのように下手に出るのは珍しいのだろう。ロウリア神官達は、彼女がいつまでも頭を上げないことに戸惑っているようだ。

 

 ガイウスは困ったように頭を掻いて、

 

「先程も申し上げましたとおり、私には貴女の謝罪を受け取る理由がありません。ですので、後のことは、彼らに任せます」

 

 と言って、後ろに下がる。

 それを合図に、代わりにジェノが前に出る。

 

「冒険者見習いチームのリーダー、ジェノと申します」

 ジェノは普段以上に淡々とした声で挨拶をする。

 それが懸命に感情を押し殺そうとしているがゆえだと分かり、メルエーナは胸を締め付けられた。

 

「セリカ卿。貴女の訪問理由がこの謝罪だけでしたら、もう結構です。私達も、今更、貴女の謝罪を受け取るつもりはありません。どうか、このままお引取り下さい」

 ジェノはにべもなく告げる。

 

「セリカ様に何という口の聞き方を!」

 年若いジェノが、確かな地位にある人物に無礼な言葉を口にしたということで、ロウリア神官達が顔を真っ赤にして文句を口にする。

 

 だが、

 

「黙りなさい!」

 

 鋭いセリカ卿の叱責の声に、彼女達は一瞬でおとなしくなった。

 

「……大変失礼を致しました。そして、私の謝罪をお受け取り頂けないことも理解いたしました」

 セリカ卿は静かに顔を上げて、ジェノを正面に見据える。

 

「ですが、本日、皆様にお集まり頂きました理由は、他にもあるのです。図々しいことは承知しておりますが、どうか私の話をお聞き頂けませんでしょうか?

 これは、皆様に大変お世話になりました、神官見習いであるサクリの最後の願いでもあります。なにとぞ、お話だけでも……」

 

「サクリの願い?」

 ジェノの口から、驚きの言葉が漏れる。

 

「はい。つい先日、私の元に彼女から手紙が届きました。そして、その中には、皆様に宛てた個別の手紙が同封されていたのです。それを、まずはお納め頂けませんでしょうか?」

 セリカ卿のその言葉に、ジェノ達は怪訝な顔をする。

 

 それは当然のことだ。

 サクリさんは、一年以上前に亡くなっているはずだ。それなのに、どうして手紙が今頃届くのだろう。

 メルエーナは困惑しながらも、セリカ卿の次の言葉を待つ。

 

「驚かれるのは当然です。サクリはすでにカーフィア様のもとに召されておりますので。ですが、この手紙は、一年が過ぎてから投函するようにと、以前は『聖女の村』と呼ばれていた村の神殿の神官に、彼女が頼んでいたものなのです」

 セリカ卿の言葉に、ジェノ達は言葉に詰まる。

 あのリットの顔からも、笑みが消えていた。

 

「どうか、お納め下さい」

 セリカ卿は小さな鞄から封書をいくつか取り出し、自分の足でジェノの前まで進んで、それをジェノの前に差し出した。

 

「……分かりました。この手紙は受け取ります」

 ジェノは手紙を受け取り、そこに視線を移して黙り込む。

 その痛々しさに、メルエーナは体が震えてきてしまう。涙もこみ上げてしまう。

 

「お受け取り頂き、ありがとうございます。これで、サクリの願いを果たすことができました」

「貴女に感謝をされる理由がありません。そのような言葉は不要です」

 ジェノは顔を上げて、にべもなく応える。

 

「……はい、分かりました。私の用件はこれで終わりです。皆様、ありがとうございました」

 皆にもう一度慇懃に礼をし、セリカ卿は、連れの者たちに「お暇させて頂きましょう」と声をかける。

 

「待ちなさいよ!」

 そこで、それまで默まっていたイルリアが声を上げた。

 彼女は忌々しげにセリカ卿を睨みつける。

 

 その無礼な態度に、またロウリア神官たちが文句を口にしようとしたが、セリカ卿が無言で、背後の彼女たちを手で制した。

 

「言いたいことはそれだけなの? 貴女はサクリの母親でしょう? それなのに、貴女は自分の娘の事を、信徒だとか神官見習いとしか呼んでいない。母親として、私達に何か言いたいことは、言うべきことはないの?」

 イルリアの怒りの込められた声。けれど、セリカ卿は眉一つ動かさない。

 

「イルリア様。貴女様の仰ることの意味は分かります。ですが、何もありません。私は、サクリの母親を名乗る資格がないのですから」

「どういう意味よ……」

 イルリアの問に、セリカ卿は少し目を閉じ、そして、それを開いてから話し始めた。

 

「父親を早くに亡くしたサクリは、物心ついてすぐに、私と同じく、女神カーフィア様に仕える道を選びました。その時から、私はあの娘を他の信徒と同様に扱うと決めたのです。

 ですので親子ではなく、私達の関係は、『神殿長』と『神官見習い』になりました。ですから私は、サクリに自分のことを母と呼ぶことを禁じ、生活もずっと別々にしてきました」

 セリカ卿の淡々とした声に、イルリアだけでなく、ジェノ達も彼女を睨む。

 けれど、気にした様子もなく、話は続く。

 

「あの子が病に冒されてから、二回、神殿長としてお見舞いには行きましたが、それ以上のことを私は何もしていません。今、昔のことを思い出そうとしてみましたが、私が覚えているのは、あの子が甘いものが好きで、人参が嫌いだったことくらいです。

 そんな私に、母親を名乗る資格はありません。おそらく、あの子も私のことを親とは思っていなかったはずです」

 

 セリカ卿の言葉に、メルエーナは自分の耳を疑った。

 どうして、この人はこんなにも無感情に血の繋がった娘のことを話せるのだろう。それがまるで理解できない。

 

「ふざけるんじゃないわよ! あんたは……あんたは、そこまで何もしなかったの? 病に苦しんでいる娘を可哀想とさえ思わなかったっていうの!」

 激昂したイルリアが叫ぶ。あらん限りの声で。

 

「可哀想とはどういう意味でしょうか? あの子は、天性の魔法の素質を持ち、将来を有望視されていたにも関わらず、病に冒されてしまいました。ですが、それも信徒に対してカーフィア様が与えた試練だと私は考えています。

 それに、そんな中でもあの子は、最後にその命を使って多くの人々を救う道を選び、見事にそれを成し遂げました。私は同じカーフィア様に仕える人間として、彼女の献身を尊く思います」

 

「何が選んだよ! あんたがサクリにあんな下劣な魔法を、儀式の魔法とかいうものを施したのは知っているのよ! あんたは、余命幾ばくもないサクリを、実の娘を利用した。僅かな時間を、最後の思い出となる時間をチラつかせて!」

 

「なるほど。やはりナターシャ神官の報告のとおり、そこまでご存知なのですね。ですが、それならば分かるはずです。あの子以上に、あの儀式に適任の者はいなかったことが。

 魔法の使い手は貴重な存在です。おいそれと犠牲には出来ない。ですが、あの子はもう普通の方法では、カーフィア様の役には立てなかった。

 だから、私が最後に献身の道を提示したのです。それが主です。その副産物で、彼女は時間を手に入れたのです。貴女様の仰っていることは、あべこべです」

 

 あくまでも淡々と無感情にいうセリカ卿に、イルリアは我慢の限界を迎え、腰のポーチに素早く手を伸ばし、薄い銀の板を取り出す。

 

「駄目です、イルリアさん!」

 メルエーナが静止の言葉を口にしたが、その時にはもう事は起こってしまっていた。

 

 

「セリカ様!」

 ロウリア神官たちの悲鳴じみた声が店中に響き渡る。

 

 しかし、それはイルリアの魔法がセリカ卿を襲ったからではない。

 彼女は、殴り飛ばされたのだ。ジェノの拳を頬に受けて。

 

「……カーフィア様の役には立てなかっただと? サクリの命を何だと思っているんだ、お前は!」

 ジェノは怒りに震える声で、倒れたセリカ卿を睨みつける。

 

「この無礼者が!」

 ロウリア神官たちが激怒してジェノに掴みかかろうとしたが、リットが指をパチンと鳴らすと、彼女たちは光の輪に体を拘束され、口も猿ぐつわのように塞がれ、床に倒れる。

 

「お前達の出る幕はないぜ。うるさいから、そこで默まっていろよ」

 リットはそう言うと、笑みを浮かべて、セリカ卿の反応を待つ。

 

 セリカ卿は默まって立ち上がった。相変わらず、その顔には何の表情も浮かべていない。

 

「貴方様達には、私の考えは理解できないと思います。そして、私はそれを無理に理解して頂こうとも考えておりません。

 ですが、私は貴方様達を先の一件に巻き込んだ人間の一人です。ゆえに、その怒りをこの身に受ける責任があります。どうぞ、好きなだけ私を痛めつけて下さい。ですが、私にはまだやらねばいけないことがあります。ですので、どうか命だけは……」

 セリカ卿は、ただジェノをまっすぐに見据える。

 

「娘を見捨てておいて、自分は命乞い? ふざけないでよ! 責任を取ろうとするのなら、まずは母親としての責任を果たすべきでしょうが! 自分の子供を簡単に見捨てるのなら、子供なんて生むんじゃあないわよ!」

 銀色の薄い板を手にしたままのイルリアが、再び叫ぶ。

 

「私は、母親を名乗る資格がないと申し上げたはずです」

 セリカ卿はそう言うと、メルエーナとバルネアの方を向いた。

 

「すみません。騒ぎを起こしてしまいまして。店の中だということを失念しておりました」

 セリカ卿はバルネアに頭を下げる。

 

「……いいえ。こちらこそ、うちの子がご無礼を働き、申し訳ございませんでした」

 頭を下げ返して言ったその言葉に、メルエーナは、尊敬するバルネアに少し失望してしまった。

 

 確かに、ジェノの行動や発言は料理店の従業員として、行ってはいけないものだった。けれど、メルエーナは、ジェノの気持ちが痛いほど分かってしまう。

 そして、それはバルネアも同じだと思っていたのに。

 

 けれど、バルネアの言葉はまだ終わりではなかった。

 

「ですが、セリカ卿。私はもう、貴女様に心から喜んで頂けるようにと思って、料理を作ることは出来ません。どうか、この店に、今後は立ち寄られないようにお願い致します」

 

 驚いてメルエーナがバルネアの顔を見ると、彼女は怒っていた。

 普段の温厚な表情しか見たことがなかったメルエーナが怖いと思うほど、バルネアは激怒していたのだ。

 

「はい。分かりました」

 セリカ卿は静かに頭を下げ、再びジェノの方を向く。

 

「私の事が許せないと思います。ですから、いつでもかまいません。私を痛めつけたいのであれば、ご連絡を。私は、いつでも……」

 

「黙れ」

 ジェノはそう吐き捨てた。

 

「これ以上、お前には殴る価値もない。二度と俺達に関わるな」

「はい。分かりました」

 

 全く同じ返事と一礼をして、セリカ卿は店を後にする。

 それに、リットの魔法が解除されて、這々の体で退散するロウリア神官たちが続く。

 

 やがて、セリカ卿達が完全にいなくなってから、ジェノがバルネアの前に歩み寄り、頭を下げた。

 

「申し訳ありませんでした、バルネアさん。店に迷惑を……」

 ジェノの言葉を遮り、バルネアは彼を抱きしめる。

 

「ジェノちゃん。いいから、ゆっくりと休んで頂戴。ジェノちゃん達には、今は休息が必要よ」

 バルネアは涙を零しながら、ジェノ達に休むように促す。

 

 メルエーナもジェノ達に何か言葉を投げかけたかったが、それは叶わなかった。

 ジェノの話でしかサクリ達のことを知らない自分に、言葉をかける資格はないのではと思ってしまったから。

 

 けれど、何か少しでもジェノ達の力になりたい。

 メルエーナのその気持ちは、募っていく一方だった。

 

 

 

 

 

 

 

 セリカは、帰りの馬車に揺られていた。

 ロウリア神官たちが、あの者たちに罰を与えるべきだと主張してきたので、彼女はそれを激しく叱った。そのため、四人乗りのこの馬車は、気まずい沈黙に包まれる。

 

 静かになった馬車の中で、セリカは鞄から一枚の紙を取り出し、そこに目を走らせる。

 それは、初めて貰った、娘からの手紙だった。

 

 事務的な報告が続く、その手紙の最後には、こう記されていた。

 

 

 

 ……どうか、お礼を言わせて下さい。

 カルラとレーリアとの悲しい別れはありましたが、彼女達にはもうすぐ会えると信じておりますし、私は新たな友人を作ることが出来ました。

 

 病に冒されて死を待つだけだった私に、このような幸運が訪れたのは、神殿長様が私に機会をお与え下さったおかげです。

 

 そして、なにより……。

 

 ……すみません、ご無礼をお許し下さい。

 

 

 お母さん。私を産んでくれてありがとう。

 

 少し短い人生でしたが、お母さんのおかげで、私はいくつもの綺麗なものを見ることが出来ました。かけがえのない友人に出会うことが出来ました。

 そして、自らの命を懸けるべき使命に気づくことが出来ました。

 

 ですが、やはり、私はどこか抜けているようです。

 この旅で出来た友人達に手紙を書いたのですが、生憎と住所が分かりません。

 

 最後まで迷惑をかけてすみませんが、どうか、この手紙をナイムの街の『パニヨン』というお店に送って下さい。

 

 これが、私の、最初で最後のお母さんへの我儘です。

 どうか、よろしくお願いします。

 

 ……私は、お母さんの娘とは思えないほど不出来な娘だったと自覚しています。

 ですが、私は、お母さんの娘に生まれて幸せでした。

 

 多忙な中で難しいとは思いますが、どうかお体に気をつけて下さいね。

 

 

 貴女の娘より、感謝を込めて。

 

 

 

 

 目を閉じ、手紙を丁寧に折って鞄に戻す。

 

 そして、セリカは外れてしまいそうになった無表情の仮面を被り直す。

 

 あの子にお母さんと呼ばれる資格などない。

 自分の行いを後悔する資格もない。

 涙を流して罪悪感を薄める資格もない。

 まして、死ぬことでこの罪から逃れるなど以ての外だ。

 

 この罪を背負い、最後の瞬間まで苦しみ続ける。

 

 それだけだ。

 それだけが、この愚かな女にふさわしい末路なのだから……。



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㊾ 『それは、「罪」などではなくて』

 ガイウスやイルリア達が帰った後、バルネアとジェノと自分の三人で店の後片付けを終えたメルエーナは、今日の夕食を作ろうかと考え始めていた。

 

 いつもならバルネアが厨房で、『今晩は、何が食べたいかしら?』と聞いてくるのだが、彼女は自室から出てこない。

 それはジェノも同じで、今日はいつもの鍛錬を休み、部屋に籠もっている。

 

 きっと、サクリさんからの手紙を読んで、やるせない思いに心を痛めているのではないかとメルエーナは察する。

 それならば、一番元気な自分が食事を作って、二人に食べてもらおうと思う。

 

 だが、いざ調理に取り掛かろうとしたところで、バルネアが部屋から出てきた。

 

「ごめんなさいね、メルちゃん。気がついたらこんな時間になってしまっていたわ」

 いつもの優しい笑顔のバルネア。けれど、メルエーナは普段とは違うことにすぐに気づく。

 

「バルネアさん。目が赤いですよ。無理はなさらないで下さい。その、下手な料理で申し訳ありませんが、今日は私が夕食を作りますので」

「ありがとう、メルちゃん。……駄目ね。何度貰っても、亡くなった人からの手紙というものは、悲しいわ……」

 バルネアは寂しげに笑う。

 

 何度貰っても、と言う言葉が気になったが、それが触れてはいけないことであることは、メルエーナにも理解できた。

 

「でも、少し泣いたらスッキリしたわ。というわけだから、夕食は一緒に作りましょう。私よりもジェノちゃんの方がずっと辛いはずだから、元気がでる料理を作ってあげないとね」

「はい。分かりました」

 メルエーナはバルネアの提案を受け入れ、ジェノが元気を出せるように、普段以上に一生懸命に料理に取り組んだ。

 

 結果として、夕食時、ジェノはメルエーナ達の料理を美味しいと言ってくれた。

 だが、それだけだった。

 

 もともと言葉が多い方ではないが、ジェノは普段以上に寡黙だった。

 バルネアの様に目を赤くすることもなかったが、彼がショックを受けているのは間違いない。けれど、自分達に心配をかけまいと、努めて普段どおりを演じようとしているのが痛々しかった。

 

 やがて食事が終わり、ジェノは入浴を済ませると、再び自室に戻って行ってしまった。

 掛ける言葉を見つけられないメルエーナとバルネアは、彼を引き止めることができなかった。

 

 ジェノに続いてバルネアにお風呂に入ってもらうことにしたメルエーナは、皿洗いなどを終えて、一人厨房で考え事をする。

 

 何か、自分にできることはないだろうかと。

 傷ついたジェノの手助けはできないかと。

 

 長い時間考えた。バルネアが入浴を終えて、お風呂を勧められた。そして長風呂をしながらも考えた。しかし、なにもいい考えは浮かばない。

 

 入浴を終え、メルエーナは厨房の明かりを消そうと思ったが、そこで厨房に人影がある事に気づく。

 

 バルネアが何かしているのかと思ったが、厨房に居たのは、ジェノだった。

 

「ジェノさん。どうしたんですか?」

 メルエーナが声を掛けると、ジェノは静かにこちらを向いた。

 

「……大したことじゃあない。やり忘れていたことに気づいて、厨房に寄っただけだ」

 ジェノはそう言うと、手にしていた金型を静かに調理台の上に置いた。

 

 その金型の中には、真っ白なかたまりで満たされている。

 話を聞いていたメルエーナは、それがサクリさんの好きだったという、アーモンドゼリーだと気づく。

 

「ジェノさん。これは……」

「ああ。昨日の晩に作って、冷やしていたのを忘れていた。このままでは邪魔になるから、処分しようと思ってな。だが、一人で食べるには多すぎると困っていたんだ。

 メルエーナ。すまんが、協力をしてくれないか?」

「はい。私で良ければ」

 ジェノの思わぬ申し出に驚くメルエーナだったが、すぐに笑顔を浮かべて快諾する。

 

「助かる。待っていてくれ、すぐに取り分ける」

 ジェノがそう言って自分に背中を見せたのを確認し、メルエーナは口を開いた。

 

「ジェノさん。ひょっとして、そのアーモンドゼリーは、セリカ卿にお出しするものだったものですか?」

 こんな事は訊かない方がいいのかもしれない。けれど、メルエーナは嫌われることを覚悟で、敢えてそのことを尋ねた。

 

 ジェノの動きが止まる。そして、彼はしばらくの沈黙の後に口を開く。

 

「……さぁな。俺にもよく分からん。なんとなく、これを作っていた。あの時から、一度も作っていなかったんだが……」

 ジェノは振り向かずに言う。

 

「ジェノさん……」

 メルエーナが声を掛けても、ジェノは振り返らない。

 

「いや、おそらくお前の言うとおりだろう。俺は、サクリの母親に娘の好物を食べてもらうことで、救われたいと心のどこかで思っていたんだ、きっとな。まったく、自分の浅ましさが嫌になる……」

 自身への怒りのこもった言葉に、メルエーナは堪えられなくなり、ジェノの背中に縋り付く。

 

「……どうした、メルエーナ?」

「どうした、じゃあありません。それは私の台詞です。どうして、ジェノさんはそうやって自分を責め続けるんですか! ジェノさんは懸命にサクリさんを守ろうとしただけです。

 それなのにずっとその事で許せずに、自分を傷つけようとしています。そんなの、見ていられません!」

 メルエーナは感情を爆発させる。

 

「あのセリカ卿が悪いのではないんですか? 自分の生んだ子供に愛情の欠片さえ向けず、魔法の触媒にしたあの人が! ジェノさんに罪なんて、何も……」

 

 涙がこみ上げてくる。悲しくて。悔しくて。

 どうして、あんな親の資格もない女の人のせいで、ジェノさんが苦しまなければいけないのだと怒りを覚える。

 

「……優しいな、お前は。本当に……」

 ジェノは優しい声色でそう言ったが、更に言葉を続ける。

 

「だが、違うんだ。あのときは、頭に血が登って分からなくなっていたが、あのセリカという女は、わざと自分が俺達に恨まれるような態度を取ったんだ。行き場のない怒りの矛先を、自分に向けさせるために……」

「えっ……」

 メルエーナには、ジェノの言葉が信じられない。

 

「あの女は、冷徹なふりをしていただけだ。だから、店の中だということを忘れて、自分を痛めつけろと言った。セリカはあの時、冷静ではなかったんだ」

「そんなことだけでは分からないじゃあないですか! ジェノさんは優しすぎます!」

 メルエーナの指摘に、しかしジェノは「違う」と口にする。

 

「俺は優しくなんてない。ただ、サクリの手紙を読んで、自分の罪を誰かのせいにして逃げる訳にはいかないということに、ようやく気がついただけだ」

「……罪? 手紙で、サクリさんが何かジェノさんに文句を書いていたのですか?」

 信じられない。だって、サクリさんは笑顔でジェノさん達と別れたはずなのに。

 

「いや。何も文句は書かれていなかった。書かれていたのは、あの『聖女の村』での生活の事。そして、病状が次第に悪化してきたため、この手紙が届く頃には、自分はもうこの世にいないだろうという事。その上、最後は俺に対する感謝の言葉で〆られていた」

 ジェノの声は、ひどく重かった。

 

「……そんな。でも、サクリさんは、『聖女の村』についてすぐに……」

「ああ。儀式の触媒として殺された。だが、心配を掛けまいと、ありもしない未来の事柄を書いた。そして、この手紙は一年以上後に俺達の手元に届くようにしていたんだ。

 もう間もなく尽きる自分の人生の最後の時間を、自分のために使うべきそれを、俺達のためにサクリは使った。……使わせてしまったんだ……」

 

 ジェノの悲痛な声に、メルエーナはジェノの上着をきつく掴む。

 

「俺は、何も分かっていなかった。そして、無責任な言葉をサクリに言い、さらなる負担を強いてしまった。これが、罪でなければなんだというんだ……」

 

 ジェノの言葉は感情の吐露だった。

 答えが返ってくることを期待したものではなかった。だが、

 

「違います。それは『罪』ではありません。『優しさ』です」

 

 メルエーナははっきりとそう口にする。

 

「……どういうことだ?」

「言葉通りです。ジェノさんのサクリさんへの行動は、『優しさ』です。そして、ジェノさんに送られたその手紙の内容も、『罪』ではなく、『優しさ』です」

 

 メルエーナは静かにジェノの背中から離れる。

 すると、ジェノが振り返り、メルエーナの方を見る。

 

「ジェノさん。誰のせいにもできない事柄だからといって、自分を責め続けるのは間違っています。なぜなら、その行為は、サクリさんの『優しさ』を踏みにじることに他ならないからです」

「…………」

 ジェノは何も言わずに、ただメルエーナの言葉を待つ。

 

「サクリさんが最後に残した手紙は、ジェノさん達を心配させないようにとの優しい気持ちから書かれたものです。

 結果として、ジェノさん達はあの『聖女の村』での真実を知ってしまっているので、やるせなく思い、それを『罪』にして自分を責めようとするのだと思います。ですが、サクリさんはそんな事を望んでいません」

 

「……どうして、お前に分かるんだ?」

「簡単です。私も彼女も、『女』だからです」

 ジェノの問に、メルエーナは表情一つ変えずに答える。

 

「馬鹿な。そんな事が理由に……」

「なりますよ。男の人には分からないでしょうが」

 メルエーナは断言し、話を続ける。

 

「サクリさんは、その手紙を書いているとき、幸せだったんです。だって、最後に手紙を残せる、自分の生きた証を渡せる人がいたのですから。

 大切な友人を二人も失い、絶望して死を望んでいたサクリさんが、そのような気持ちになれた理由がわかりますか? 

 それは、ジェノさん達と出会えたからです。最後の時間を使ってでも、今後を気遣いたいと思えるほどの人に出会えたからです」

 

 メルエーナはそこまで言うと、にっこり微笑んだ。

 

「サクリさんとは笑顔でお別れしたんですよね? もしもサクリさんがジェノさんのことを少しでも恨んでいたのならば、笑顔でのお別れなんてできなかったはずです」

 

 これが、無理のある説得だというのは分かっている。

 今話した事柄がサクリさんの真意なのかは分からない。自分は、一度もサクリさんに出会ったことがないのだから。

 

 だから、先の事件のときに話題になった、男女の思考の違いを利用した。

 自分とサクリの唯一の共通点であり、決してジェノには分からない、『女』という事柄を盾にしたのだ。

 

 でも、本当に、彼女は幸せだったと思うのだ。

 なぜなら、きっと彼女も、ジェノさんのことを……。

 

「……そうだな。サクリは、俺達のことを気遣って手紙を残してくれた。そのはずだ」

 ジェノはそう言うと、口元を緩めた。

 

「温くなってしまうな。すぐに取り分ける」

 そう言うと、ジェノはアーモンドゼリーを別の器に盛り付ける。

 そして、それをいつものテーブルに運んで、二人で少し多めのゼリーを食べた。

 

「美味しいです」

 メルエーナは笑顔を浮かべる。

 そんなメルエーナに、ジェノは珍しく微笑んだ。

 

「……ありがとう、メルエーナ」

 その優しくもどこか悲しい響きに、メルエーナは自分の嘘をジェノが分かっていることに気づく。

 

 だが、彼女は笑みを絶やさない。

 大切な、大好きな人の笑顔のために、メルエーナは微笑むのだった。



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特別編
特別編『先輩と後輩と特別稽古』(前編)


 昼間こそ太陽の熱で温かいものの、夕暮れとなってその恩恵が薄れてくると、秋の風が身に染みる。

 けれど、いや、だからこそ、美味しい料理というものもある。

 

「う~ん、これは脱帽ね。美味しいわ。すごく美味しい」

「本当に。体もすごく温まりますし」

 料理を口にして、嬉しそうに微笑むバルネアに、メルエーナも同意する。

 

 ここはエルマイラム王国の首都ナイムの街の繁華街の外れ。

 申し訳程度の街灯に照らされた屋台の前だ。

 そこで、メルエーナ達は至福のひとときを過ごしていた。

 

 けれど、そんな女性陣とは対象的に、男性陣は、なんとも言えない顔をしている。

 

 一人は、三十代後半くらいの男性で、この屋台の主。

 今、目の前で自分の作った料理を食べている女性が、この国の国王様から、『我が国の誉れである』とまで讃えられた凄腕の料理人であることを知り、不安な表情だ。

 料理の最初の一口を褒められて少し安堵しているが、いつ何か文句を言われないだろうかと冷や汗をかいている。

 

 あとの二人は黒髪で茶色い瞳の若人。ジェノと、彼の通っている修練場の先輩であるらしい、二十歳手前のシーウェンという男だった。

 顔は全く似ていないが、彼もなかなか精悍な面持ちをしている。武術をかなりやっているらしく、ただ座っているだけでも品がある。

 それと、『シーウェン』という名の響きは独特で、このエルマイラム王国ではあまり聞かない名前の構成だ。ジェノに以前聞いた話によると、何でも生まれは東方の別大陸なのらしい。

 

「あぁ。俺たちの安らぎの場所が……。ひどい話だよな、ジェノ」

「…………」

 シーウェンは聞こえよがしに文句を言う。ジェノは相変わらず無言だが、小さく頷いたのをメルエーナは見逃さなかった。

 

「もう、ジェノちゃんもウェンちゃんも、こんなに美味しいお店を私達に教えてくれないなんて酷いわよ。私が問いたださなかったら、ずっと秘密にしておくつもりだったんでしょう?」

「バルネアさんの言うとおりです。ジェノさん。どうして教えてくれなかったんですか?」

 こっそりと先程頷いていたジェノに、メルエーナが不満そうに問い詰める。

 こんなに美味しい料理を自分達だけで食べて、仲間はずれにするなんて酷いと思う。

 

「……すまん」

「待った。ジェノを責めないでくれ。男には、気心の知れた男仲間とだけ楽しめる場所が、隠れ家が必要なんだよ。それと、この店を黙っているように言ったのは、俺だ。文句は俺に言ってくれ」

 無言のジェノに代わって、シーウェンがメルエーナに答える。

 

 男同士の連帯感を見せつけられ、メルエーナはそれ以上文句が言えなくなってしまう。

 

「このトッピングもいいわね。シンプルそうに見えて奥が深い料理だわ」

 バルネアは、具材一つ一つをしっかりと吟味するように丁寧に咀嚼し、うんうんと何度も頷いている。

 

 美味しそうに食べるバルネアを見て、メルエーナも食事を再開する。

 味が落ちる前に食べなければもったいない。

 

「親父さん、俺達にもいつものを出してくれ。ジェノ、今日は、お前も大盛りでいいだろう?」

「ああ、それで頼む」

 相変わらず言葉少ないジェノだが、その表情が家にいるときと少し違うことにメルエーナは気づく。

 

 なんと言うか、普段よりも砕けていると言うか、張り詰めている感じが薄い気がする。本当に些細な違いなのだが。

 

 屋台は一列に並んで椅子に座る形式なので、屋台に向かって左から、バルネア、メルエーナ、ジェノ、シーウェンの順番なのだが、ジェノはもっぱらシーウェンと店主に視線を向けている。

 それが少し、メルエーナには寂しい。

 

「ああ、そういえば、もう一年くらい前だな。お前をこの店に連れてきたのは」

「そうだな。それくらい前だ」

「いつもは、バルネアさんが料理を作ってくれているからって、お前は小盛りばかりだったからな。一年目にして、ようやく腹いっぱい親父さんの飯を堪能できるわけだ」

 そんな取り留めのない会話を交わす、年の近い男同士。

 それは、なんとも言えない気楽さと楽しさが見て取れた。

 

 メルエーナも、友人たちと食事をしているときは女同士、気軽に会話を楽しんでいるが、なんとなくだが、自分達の、女の会話とは何かが違うように思える。

 何と言うか、距離が近いと言えばいいのだろうか?

 とにかく違う気がする。

 

 これも、以前に聞いた、男女の違いによるものなのかもしれないと、メルエーナは絶品のスープを口に運びながら思う。

 

「そうか、あれから随分とお前も腕を上げたもんだな」

「まだまだだ。何より、一度もお前に勝ち越せたことはないだろうが」

「そりゃあそうだ。俺もまだまだ後輩に抜かれてやるつもりはないさ」

 そう言ってシーウェンとジェノは鋭い眼光をぶつける。

 

 もしかして喧嘩になるのではと危惧したメルエーナだったが、それは全くの杞憂だった。

 

 シーウェンは楽しそうに笑いだし、ジェノも口元を緩めたのだ。

 やはり、男の子の思考というものはよく分からないとメルエーナは思う。

 

「だが、ジェノ。最近、またお前はあの時の様になりつつあるぞ。そこだけは気をつけておけ」

「……そうか。忠告、感謝する」

 今度は急に真剣な表情をしだした二人は、また二人だけが分かる内容を口にする。

 

 やっぱり、メルエーナには分からない。

 男の子というのは、複雑なようだ。

 

「ウェンちゃん。一年前って言うと、ジェノちゃんが少し鍛錬に身を入れすぎていた時期よね? もしかして、ウェンちゃんが助けてくれたの?」

 バルネアが、物怖じせずにシーウェンに尋ねる。

 

「そんな大げさなことではないですよ。ただ、無愛想だけど、俺にとっては可愛い後輩なんでね。少しおせっかいをしただけです」

「シーウェン。その話はしなくてもいいだろう」

「おっ、柄にもなく恥ずかしがっているようだな。だが、あれは誰もが通る道だ。それは決して恥ずべきことではないぞ」

「バルネアさん達に話す話でもないだろうが」

 ジェノが抗議の声を上げたが、メルエーナもその話とやらがすごく気になり始めた。

 

 メルエーナがバルネアに視線を向けると、彼女はニッコリと微笑んでくれた。

 

「ジェノちゃん。ウェンちゃん。その時のお話を聞かせて頂戴。こんなに素敵なお店を隠していたんだから、私のお願いを聞いてくれてもいいわよね?」

 バルネアのその言葉に、二人はお互いの顔を見て、仲良く嘆息した。

 

「……ジェノ、すまん」

「……仕方ない。それに、お前に助けてもらったのは事実だからな」

 こうして、観念したシーウェンの口から、メルエーナは過去のジェノの話をまた知ることとなるのであった。



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特別編『先輩と後輩と特別稽古』(後編)

 勝てなかった。

 そう、勝てなかった。

 

 自分が強いなどと思ったことはない。

 だが、そうなるための訓練を欠かしたこともない。

 けれど、まるで歯が立たなかった。

 

 相手の方が年長者だったから。

 自分よりも長い時間、武術に関わってきたから。

 そんなことは理由にならない。

 

 俺が弱かったせいで、何も守れなかった。

 それどころか、余計な犠牲を増やしてしまった。

 

 後悔はした。

 だが、それは一度だけで十分だ。

 

 前に進まなければいけない。

 もう負けないように。

 

 あんな悲しい結末はもう見たくない……。

 

 

 

 

 

 

 考えろ。どうすれば、先に一撃を叩き込める。

 彼我の戦力は明らかに劣勢。

 あの時と同じだ。

 

 あの時は、自分は感情に揺れ動かされ、戦力差を考えなかった。

 だが、今は違う。

 

 ジェノは静かに呼吸を整えて、対峙する男に向かって行く。

 前後左右、どちらに相手が動いても、対応ができる様にイメージを作っている。これならば……。

 

 ジェノはそう考えていた。

 だが、眼前の男は、シーウェンは、いきなりその場に座り込んだ。

 

 完全に予想外の行動に、ジェノは面をくらって足が止まってしまう。

 

 その瞬間だった。

 シーウェンは座った体制から瞬時に立ち上がるのと同時に、全身をバネのように使ってジェノに飛び蹴りを仕掛けてきたのは。

 

 腹部に重い一撃が突き刺さり、ジェノの体は後方にふっ飛ばされる。

 

「思いのほか綺麗に入ったな。ジェノ、大丈夫か?」

 倒れたまま咳き込むジェノに、シーウェンは心配そうに近づいてくる。

 

「だっ、大丈夫だ……」

 口ではそういいながらも、ジェノは咳き込み続けて立ち上がることができない。

 

「無理をするな。少し休んでいろ」

 シーウェンはそう言い、他の者を指名して、稽古を続けようとする。

 

 だが、ジェノは悲鳴を上げる体に鞭を打って、懸命に立ち上がった。

 

「まだ一本目だ。俺の番だ。もう少し付き合ってくれ」

 脂汗を浮かべながらも、構えるジェノに、シーウェンは苦笑する。

 

「俺はまだ……」

 ジェノは構えを崩そうとはしなかったが、「他のみんなの迷惑だ。休んでいろ」と師範に言われ、ジェノは仕方なく修練場の端に移動して腰を下ろす。

 

「……くそっ」

 シーウェンの動きは全くの予想外だった。

 完全に虚をつかれてしまった。

 駄目だ、こんなことでは。これでは、また……。

 

 ジェノは呼吸が整うと、立ち上がって練習に参加しようとしたが、そこにシーウェンがやってきた。

 

「ジェノ。もう少し休んでいろ」

「大丈夫だ。体も動く」

 ジェノがそう答えると、シーウェンは再び苦笑する。しかし、

 

「師範! そろそろジェノにも特別稽古をつけてやりたいと思うのですが、よろしいでしょうか!」

 

 不意に、シーウェンはジェノに背中を向け、真剣な表情で師範に大声で伺いを立てた。

 

「……良いだろう」

 四十代手前の無口なライエル師範が、鋭い眼光をジェノたちに向けて、そう答える。

 それを確認すると、シーウェンは相好を崩した。

 

「そういうわけだ。後でしっかりと稽古をつけてやる。だが、特別稽古は秘伝だ。ここでは行えない。お前は先に着替えて、家に帰りが遅くなると連絡してこい」

 シーウェンはそう言うと、ジェノの肩をポンと叩き、他の者との稽古に戻っていってしまう。

 

「…………」

 ジェノは無言だったが、自然と口元が緩んだ。

 

 特別稽古というものがどんなものかは分からない。

 だが、秘伝と言われるまでの稽古というものを受けられるのは行幸だ。

 どんなに苦しい稽古でも耐えてみせる。

 そのためなら、体がどうなろうと構わない。

 

 ジェノはシーウェンに言われたとおり、他のみんなよりも先に、稽古着から普段着に着替え、一旦パニヨンに戻ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 バルネアさんに訳を説明すると、食事を作って待っていると言ってくれた。

 申し訳なく思い、断ろうとしたが、珍しいことにバルネアはそれだけは頑なに譲らなかった。

 

「ジェノちゃん。最近は特に無理をし過ぎよ。きちんと美味しい夕食を作って待っているから、きちんと怪我をしないで帰ってこないと駄目よ」

 そう言われてしまい、ジェノは「はい」と答えざるを得なかった。

 

 

 ジェノが修練場に戻った頃には、二十人程の関係者はみな帰っていた。

 ただ一人、シーウェンを除いて。

 

「待っていたぞ、ジェノ」

「すまない。遅くなった」

 少しでも早くに稽古をしたくてジェノも走ってきたのだが、少し待たせてしまったようだ。

 

「ああ、洗濯した代えの稽古着を持ってきたのか。だが、それは中に置いておけ。少しでも身元を明らかにするものを持っていくわけには行かない」

「分かった」

 ジェノは言われたとおりにし、「よし、行くぞ」というシーウェンと並び立って歩く。

 

 普段は陽気に話しかけてくる彼も、今日は一言も喋らない。

 特別稽古というものは、それほど緊張感を持たなければならないものなのだろう。

 だが、それはジェノにとっては望むところだ。

 

 しばらく歩き、ジェノ達は繁華街の奥へと進んでいく。

 あまりこちらの方向には来たことがないが、一体この先に何があるというのだろうか。

 

「ここだ」

 シーウェンがそう言って足を止めたのは、一見の小さな屋台の前だった。

 

「…………」

 ジェノは周りを見渡す。区画を区切る壁に囲まれたこの場所には、その屋台以外はなにもない。

 地下になにかあるのかとも考えたが、そんな形跡も見当たらない。

 

「親父さん、今日も頼むよ」

 シーウェンは慣れた様子で屋台に近づいていく。

 わけが分からないが、ジェノもそれに倣う。

 

「ああ、いらっしゃい」

 最後の希望として、この屋台の主が武術の達人なのかと思ったが、どう見ても素人の立ち姿だ。

 

「……シーウェン。どういうことだ?」

 自然と、ジェノの声は低くなる。

 

「んっ? ああ。今から俺の故郷の料理をご馳走してやる。いいから、席に座れ」

「……どういうことだと訊いているんだ!」

 ついに堪えきれなくなり、ジェノは大声で問いただす。

 

「はっ、ははははははっ。いいな、その反応。ライエル師範にこの店を紹介された時の俺と全く同じだ」

 シーウェンはさも可笑しそうに笑う。

 

「ふざけるな。稽古をつけてくれるという話ではなかったのか? ライエル師範も同意していたはずだ。まさか、二人揃って俺をおちょくっていたのか!」

 怒りを顕にするジェノに、シーウェンの顔から笑みが消えた。

 

「まだ気づかないのか? お前は、明らかに冷静さを失っているんだ。今日だけじゃあない。少し前の長旅から帰ってきたあの時から、ずっとな」

「……どういうことだ?」

 ジェノには、シーウェンの言葉の意図が分からない。

 

「今日の稽古の結果を思い出してみろ。お前は俺の不意打ちを受けたな。だがな、以前のお前なら、あんな攻撃は喰らわなかったはずだ」

「……なんだと……」

「ああ、分かっていないようだからはっきりと言ってやる。お前は、以前よりも弱くなっている」

 シーウェンの言葉が、ジェノの心に深く突き刺さった。

 

「言い古された言葉だが、心技体の三つが揃わなければ武術というものは成り立たない。そして、今のお前は、一番大切な心が伴っていない。心が焦ってしまっているんだ」

「心……」

「そう、心だ。だから、特別稽古だなんて話に踊らされて、ここまでやってきたんだ。今更、言い訳はしないよな?」

 シーウェンに退路を絶たれ、ジェノは言葉に詰まる。

 

「お前が何を焦っているのかは知らん。だがな、一足飛びで強くなる方法なんてないんだ。

 以前のお前は、それを理解していたはずだ。だが、今はそれを忘れてしまっている。心が乱れてしまっているんだ」

 シーウェンの指摘に、ジェノは何も返す言葉はない。

 

「だがな、それは良い迷いでもある。あとは方向性を正しい向きにしてやれば、その気持ちは強くなるための糧になるはずだ。……って俺も何年か前にライエル師範に言われた」

 そこまで言うと、シーウェンはニッコリと笑った。

 

「俺と同じ様に?」

「ああ。壁にぶち当たってどうしたら良いのかと思い悩んで、お前と同じ様に心ばかりが焦っていたところに、この『特別稽古』の話を、ライエル師範にされた。そして、お前と同じ様に引っかかった」

 シーウェンは照れくさそうに笑う。

 

「ジェノ。昔の俺も、今のお前も、一人で何もかも抱え込み過ぎなんだよ。何でも人に頼るのは論外だが、全く頼ろうとしないのも論外なのさ」

 シーウェンはそう言うと、「いいから、まず座れ」とジェノに席を勧める。

 

「お前の体捌きや剣技だって、人から教わったものだろう? それを忘れて、今更、一人の力で解決しようなんてのはおかしな話だ。まったく、少しは先輩を頼れよ」

「……だが、これは俺が……」

「だから、良いんだよ。自分だけで乗り越えなければいけないなんて考えなくて。まぁ、直ぐに分かれとは言わない。俺も飲み込むまで、そして理解するまで時間がかかったからな」

 バンバンとジェノの背中を叩き、シーウェンは笑う。

 

「ジェノ。まずは腹を満たそうぜ。お前も大盛りでいいか? 大丈夫だ。味は保証する。間違いなく食べ切れるはずだ」

 その言葉に同意しそうになったジェノだったが、バルネアが料理を作って待っていることを思い出し、自分は量を少なくしてもらうことにした。

 

「いいか、ジェノ。この店は他の奴らには内緒にしておけよ。バルネアさんにもだ。同じく、武術を修めようとする者の秘密だ。いいな?」

「……分かった。秘密にする」

 ジェノはそう言って笑った。

 

「おお、いい笑顔だな。それで良い。これから、なにか相談したいことがあれば、『特別訓練』をしたいと俺に言え。それがこの店に来る合図だ。だが、もちろん、俺もお前を同じ様に誘うこともあるからな」

「そうか。可能な限り、その時は予定を空けることにする」

 ジェノが答えると、シーウェンは破顔する。

 

「へい、お待ち」

 店の主が、大きな器にスープと麺を入れた料理をジェノとシーウェンの前に置いた。

 更に麺の上に、豚肉のハムのスライスに加え、野菜と半身の卵が乗っている。

 

「これは、初めて見る料理だ」

「そうだろう? 俺の故郷の料理で、拉麺という。ライエル師範が修行時代に俺の故郷に寄った際に気に入って、この親父さんに作り方を教えたらしい。って、能書きはあとだ。麺が伸びる前に食べるぞ、ジェノ」

「ああ、そうだな」

 シーウェンと並んで、ジェノは未知なる料理を口に運んだ。そして、戦慄する。

 

「これは、美味いな」

「ふっ、だろう」

 自分が作ったわけでもないのに、シーウェンが得意げに言う。

 

「いいか。絶対に俺達だけの秘密だぞ。気軽に食べられなくなったら困るからな」

「そうだな。これは秘密にしておきたい味だ」

 そう言い、ジェノとシーウェンはお互い笑いあった。

 

 

 

 それから、しばらくはこの屋台のことは、ジェノ達だけの秘密だった。

 だが、最近、『特別稽古』に行く度に、同じ料理の匂いがすることをバルネアとメルエーナに気づかれてしまった。

 

 ジェノは頑なに口を割らなかった。

 だが、先日、シーウェンにもバルネアの尋問の手が伸び、彼は仕方なくこの屋台のことを白状したのである。

 

 

 

 

 

 

 すっかり温まった体が冷えてしまわないうちに、メルエーナ達は帰路に就く。

 

「ああっ、美味しかったわ。なるほど。こんなに素敵な訓練だったら、私達もたまには受けたいわよね、メルちゃん」

「あっ、その、はい。すみません、ジェノさん。偶にでいいので、私達も誘ってください」

 申し訳無さそうに、メルエーナもバルネアに同意する。

 

 いかんせん街外れなので、女だけで歩くのは少し躊躇われる場所だ。

 またこうして連れてきてくれたら嬉しいと思う。

 

「ただ、本当に内緒にして下さいよ」

 シーウェンの念押しに、メルエーナ達は「はい」と頷く。

 

 途中の分かれ道で、シーウェンと別れることとなった。

 

 シーウェンは、バルネアとメルエーナに丁寧に別れの挨拶を口にしたが、

 

「じゃあな、ジェノ。また明日も待っているぞ、後輩」

 

 ジェノにはそんな気軽な挨拶をする。

 

 するとジェノも、「ああ、先輩」と短く言って微笑む。

 

 ジェノがこんなに他人と打ち解けているところは初めて見た。

 メルエーナは、少し悔しい気もしたが、でもそんな友人がジェノにいることが嬉しくもあった。

 

 そして、もしも自分がジェノの事を「先輩」と呼んだらどんな顔をするだろうかと思い、メルエーナは明日にでも実行してみようかと思うのだった。



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特別編 『日頃の感謝と一緒に』(前編)

 それは、ほんの四日前のこと。休日を使って友人のイルリアと買い物に出かけた帰り道のことだった。

 

「……バレンタインデー、ですか?」

 

 最近、周りの女性からチョコレートの話題を耳にすることが多くて疑問に思っていたのだが、そのことをイルリアに打ち明けると、簡潔に説明してくれた。

 

 なんでもその日は、女性が好意を寄せる男性にチョコレートを贈る日なのらしい。

 田舎暮らしの長かったメルエーナは、そんな習慣を初めて耳にした。

 

「まぁ、知らなくても死にはしないわよ、そんなもの」

 さも詰まらなさそうに言うと、イルリアは「まったく、なんでこんな面倒な行事があるのかしら」と言い、嘆息する。

 

「ですが、イルリアさんも先ほどチョコを買っていたのでは?」

「ああっ、あれね。あれは、うちのお祖父ちゃんによ。『義理チョコ』っていうものもあってね。まぁ、本当に面倒な行事なのよ、まったく……」

 

 イルリアはブツブツと文句を言っていたが、

 

「ところで、メル。今の話を聞いて、あんたはどうするつもり? あいつにチョコをあげるの?」

 

 不意にメルエーナに尋ねてくる。

 

「えっ? ……あっ、そっ、そうですね。いい機会ですし、私も……」

 

 イルリアが言っている「あいつ」とは、メルエーナと同じ家に住んでいる同い年の少年のことだ。

 その名をジェノと言う。出会って以来、彼女がずっと憎からず思っているのだが、まったくと言っていいほどその思いに気づいてもらえない相手でもある。

 

「ああっ、聞くだけ野暮だったわね。……まったく、こんな可愛い子にここまで慕われているのに、どうして、あのバカは……」

 イルリアの声のトーンが少し落ち、剣呑な声色になる。

 いつもこうだ。ジェノの話題になるとイルリアは途端に不機嫌な顔になる。メルエーナにはそれが不思議でならない。

 

「その、イルリアさんも、もしかしてジェノさんに、チョコを?」

「はっ? なんで私があんな奴にチョコを渡さなくちゃいけないの?」

 心外といった顔でまた不機嫌な顔をするイルリア。そこには嘘も偽りもないように思える。

 

「いっ、いえ、すみません」

 そう謝罪の言葉を口にするメルエーナに、イルリアは小さく嘆息し、足を止めて彼女の頭をコツンと小さく叩いた。

 

「まったく。あんたはもう少し自分に自信を持ちなさい。あんたくらいに可愛い子なんてそうそういないんだから。その上、家庭的で料理上手。男にとってこんなに理想的な女の子なんていないわよ。

 いくらあのバカがどうしょうもない朴念仁の大馬鹿でも、男であることには変わりないんだから、少なくとも気に入ってはいるはずよ」

 イルリアの励ましの言葉に、メルエーナは「はい、ありがとうございます」と感謝の言葉を口にするが、さらに、

 

「ですが、私なんかよりもイルリアさんのほうが素敵だと思います」

 

 笑顔で思ったことを口にする。

 

 綺麗な情熱的な赤い髪に、宝石のような青い瞳。そのうえスタイルだって優れていることをメルエーナは知っている。もっとも、あえて体の線がでにくい上着と地味な色のズボン姿というラフな姿のため、それはおそらく外見からでは分かりにくいだろうが。

 

 もしも、イルリアが髪を伸ばし、美しいドレスを身に纏ったのであれば、だれもが見惚れる姿になることは想像に難くない。正直、同い年の女の子としては、メルエーナはイルリアに羨望を抱いている。

 

「はぁ、馬鹿なこと言ってないでとっとと帰るわよ」

 イルリアは興味がなさそうにそれだけ言うと、踵を返して歩き始める。メルエーナは慌ててそれを追いかけた。

 

 イルリアは自分の容姿に関心が薄く、異性に対して興味が少ない。それは間違いないだろう。でも、だからこそメルエーナは不思議に思う。

 仕事仲間だからということを差し引いても、イルリアはジェノに対しては心を動かす。それが嫌悪に近い負の感情のようなものであっても、あまりにもその感情は強すぎる気がするのだ。

 

「……考えすぎ、ですよね」

 大切な友人に向ける感情ではないと思い、メルエーナは不安な気持ちを頭から追い払う。

 

 それよりも今はチョコレートだ。

 いつも勇気が出せなくて自分の想いを口にできない自分だが、心を込めたチョコレートを渡せばこの気持ちもジェノさんに伝わるかもしれない。

 

 メルエーナはそう考えを新たにし、家に帰ったらさっそくチョコレート作りに取り掛かろうと決意した。

 

 

 

 

 

 

「やっぱり、甘さはこのくらいで……。でも、固まってからのことを考えると……」

 湯煎したチョコレートを相手に試行錯誤を繰り返し、もう十回近く試作を続けているが、なかなか自分の思ったような味になってくれない。期限までもう二日しかないというのに。

 

 イルリアからバレンタインというイベントを聞いたメルエーナはこの二日間、仕事の合間を使って、ジェノに隠れて店の厨房の片隅で、チョコレート作りに没頭していた。

 

 市販のチョコレートを溶かして形を変えるだけならば簡単にできるのだが、それではあまりも手抜きが過ぎる。それに、普段から美味しいバルネアの料理を食べて舌が肥えているジェノは、きっとその程度のチョコレートでは喜んではくれないだろう。

 

それ故に、メルエーナは買ってきたチョコレートづくりの本と、にらめっこをすることになっているのである。

 

「……ううっ、お母さんから、もっとお菓子作りのコツを聞いておくべきでした」

 いまさらそんなことをぼやいても、何も改善しないことは分かっているが、メルエーナの口から思わず後悔の言葉が漏れた。

 

「困っているようね、メルちゃん。私で良ければ協力するわよ」

 だが、そんなところに、救いの手が差し伸べられた。

 この上なく、頼りになる人から。

 

「バルネアさん……。ううっ、すみません、力を貸して下さい」

 将来は料理人になることを夢見る身としては、助けを求めるのは情けないし、そんなことでは駄目だと思う。ただ、もう時間がないのだ。

メルエーナは瞳に涙を溜めて、助けを求める。

 

 ジェノが自分からのチョコレートを期待しているとは思えないが、折角のチャンスである。全然察してもらえない自分の気持ちに、気づいて貰いたいし、そんな下心だけではなく、いつもお世話になっているので、そのお礼として美味しいチョコレートを贈って食べてもらいたい。

 

「任せて、メルちゃん。リアラ先輩にも、力になってほしいと手紙で頼まれているし、全力で美味しいチョコレートの作り方を教えてあげるわ」

「……えっ? 母から手紙が来たんですか?」

 バルネアが助けてくれるのは、百万の味方がいるよりも頼りになる話だが、そこに思いもかけない言葉が続いたことに、メルエーナは驚く。 

 

「ええ。先程届いたのよ。この荷物と一緒にね。あっ、メルちゃん宛の手紙も入っていたわよ。まずは、そっちを確認してみて」

 

 バルネアはそう言うと、視線を一番近くの客席のテーブルの上に移す。そこには、少し大きめの木箱が置かれていた。

 どうしたものかとメルエーナが悩んでいるうちに、バルネアが運んでくれたようだ。

 

 メルエーナは厨房を出て、バルネアに促されるままに木箱の中身を確認する。

 そこには、特徴的な形の薄緑の瓶が三本と、『親愛なる娘へ』と書かれた封筒が入っていた。

 

 それが母の字で書かれたものである以上、もちろん自分宛てなので、メルエーナは封筒を取り出し、その中の手紙に目を通す。

 

 遠方で暮らす母からの手紙だ。嬉しくないはずがない。

 元気にしているかどうかの確認から始まり、お父さんも『メルは元気にしているだろうか?』ばかり言っていると書かれていた。

 そして、今年で十八歳になる自分のために、故郷のリムロ村の名産である、ワインを三本も贈ってくれたのだ。

 

 メルエーナは両親の温かな愛情に、胸がジーンとしてしまった。

 

 ……そう、ここまでは感動していたのである。だが、手紙には続きがあった。

 

 

『メル。お酒は成人するまでお預けなんて、私は硬いことは言わないわ。バレンタインデーも近いことだし、チョコレートと一緒に、ジェノ君と楽しみなさい』

 

 その内容に、メルエーナは苦笑する。

 

 母は、自分が十五歳になったときに、「お父さんには、ないしょだからね」と村の名産のワインを一口だけ味見させてくれたのだ。

 それから、たまに父がいないときを見計らって、少しずつ味見をさせてくれるようになったのだ。

 

 法律的に言えば、このエルマイラム王国での飲酒は、十八歳以上からとなっている。

 

 だが母は、

 

「雁字搦めに規制した反発で、興味本位で無謀な飲み方をするより、こうして慣らしていったほうが良いのよ。まして料理の道を志すのであれば、お酒の味も知っていないと駄目」

 

 という教育方針であったため、メルエーナも実はワインが好きなのだ。

 

『それと、流石にバレンタインデーの話は友達なんかから聞いているだろうけれど、しっかり、ジェノ君にアピールしなくては駄目よ! 応援しているわ!』

 

 母のおせっかいに、メルエーナは頬を赤らめて顔を俯ける。

 遠く離れていても、自分の考えを母には全てお見通しだったようだ。

 

 メルエーナは頬を薄っすら朱に染めながらも、笑顔で手紙を読んでいたが、最後の三枚目の手紙に目を通す。

 

『それと、私も早く孫の顔が見たいから、チョコレートとワインだけじゃなくて、勢いのままに貴女自身もジェノ君に食……』

 

 そこまで読むと、メルエーナは顔を真っ赤にして、手紙をクシャクシャに握りつぶしてしまう。

 

「ばっ、バルネアさん。すっ、すぐに手を洗ってきますんで、チョコレートの、つっ、作り方を教えて下さい!」

「あらっ? 慌てなくてもいいわよ。それに、メルちゃん、顔が真っ赤よ。大丈夫?」

 

 心配するバルネアに、「大丈夫です」と答え、メルエーナは手洗い場に向かって駆け出す。

 

 手だけではなく、火照る顔も洗わなければと思うメルエーナだった。



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特別編 『日頃の感謝と一緒に』(後編)

「よぉーし、みんな、準備はできたわね。久しぶりの『バルネアさんのお料理教室』を始めるわよ。今回は、年に一度のバレンタインチョコレートの作り方よ」

 バルネアは心底楽しそうに、笑顔で料理教室の開始を宣言する。

 

「はい!」

 エプロン姿のメルエーナはしっかりとした声で応え、

「はい! やってやります!」

 同じくエプロン姿のリリィは、少し興奮気味に応える。だが……。

 

「……あの、私も参加しないと駄目なんですか、これ?」

 一人のりが悪いイルリアが、嘆息混じりにバルネアに尋ねる。

 

「もちろん参加してもらうわよ。もう、私、聞いちゃったのよ。リアちゃんが、お爺さんへのチョコを買って済ませようとしているって」

 バルネアはそう言って、頬を膨らませる。

 

「日頃、私のお料理教室に参加している生徒さんには、きちんと手作りチョコを作れるようになってもらいたいの。やっぱり、市販のものを貰うのと、手作りのものを貰うのでは、嬉しさが違うもの。

 それに、リアちゃんのお婆さんにも、『花嫁修業として、是非やらせて欲しい』とお願いされたんだから」

 バルネアは得意げに胸を張る。それが、なんとも言えず可愛らしい。

 本当に、この人が母と大差がない年齢だとは、メルエーナには思えない。

 

「ああ、なるほど。お婆ちゃんが、『今日のお仕事はお爺さんが張り切ってやるから、メルちゃん達と遊んできなさい』と言っていたのは、そういうわけですか……」

 まんまと祖母の術中にハマり、<パニヨン>に来るや否やバルネアに捕まったイルリアは、自分の置かれた状況を理解して、再び嘆息する。

 

「すでに退路も塞がれているわけですか、そうですか……」

 イルリアは渋々、一人だけ手に持ったままだったエプロンを身につける。

 

「もう、そんな顔しないの。大丈夫よ。市販のチョコレートを使った簡単なレシピだから。でも、味は保証するわよ」

 バルネアは楽しそうに笑顔で言うが、イルリアはやはり乗り気ではないようだった。

 

 しかし、そこで思わぬ人物がイルリアを窘めた。

 

「駄目ですよ、イルリアさん! バレンタインは戦場です! そんな気持ちでは大怪我をしますよ!」

 そんな声を上げたのは、黒髪の少女、リリィだった。 

 

「どっ、どうしたんですか、リリィさん?」

「えっ? ちょっと、リリィ、何をそんなに鼻息を荒くしているのよ?」

 リリィの迫力のこもった声と表情に気圧されながらも、メルエーナ達は尋ね返す。

 

「いいですか? もう一度言いますが、バレンタインは戦場です。その日、その場所で役に立つのは、チョコレートという武器だけです! 自分の運命を預ける武器の手入れを疎かにしていいわけがないじゃあありませんか!」

 リリィはそこまで言うと、バルネアの方を向く。

 

 正直な話、その鬼気迫る表情をメルエーナは少し怖いと思ってしまった。

 

「バルネアさん、いえ、バルネア先生! どうか、どうか私に、バレンタインでも強く生きるための武器を、絶品のチョコレートの作り方を教えて下さい!」

「ええ。もちろんよ。やっぱり、バレンタインは、女の子にとって重大なイベントですものね」

 

 噛み合っているような、そうでもないような返答をし、バルネアは嬉しそうに微笑む。

 

 何か、自分だけこの会話の行間を読めていないのではと不安になったメルエーナだったが、イルリアの方を見ると、彼女も困惑した表情を浮かべていたので、少しだけ安心した。

 

「ええ、重要なイベントです! 今後の人生を変える可能性のある戦いですから!」

 リリィは気合が入りすぎるほど入っている。

 

「どうしたのよ、リリィ? 貴女らしくもない。もしかして、シアさんに何か言われたの?」

 イルリアは心配して声をかけたのだが、その一言に、リリィの体が小刻みに震え始める。

 

「ははっ、そうですよね。私の場合、誰か好きな人ができたとか考えられないですよね。お師匠様と何かあったと思われるのが先ですよね。……あはは……。そのとおりだから、何も反論できないんですけどね」

 リリィは乾いた笑いを浮かべ、がっくりと肩を落とす。

 

「いったいどうされたんですか、リリィさん?」

 普段では考えられないあまりの奇行に、メルエーナが心配してリリィに歩み寄る。すると、彼女は、メルエーナの胸に飛び込んできた。

 

「メル! 私も彼氏が欲しい! そして、お師匠様を見返してやりたいの!」

 そして、リリィは心からの叫びを口にしたのであった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 朝から晩まで魔法の勉強と雑務に追われるリリィは、毎日を懸命に頑張っている。

 今も、年の割に健啖なお師匠様のために、夕食を真心込めて作っていた。だが、そんな彼女に、料理を手伝いもしようとせずに、ただ完成を食卓のいつもの席に座るこの白髪の老婆――エリンシアは、

 

「華がないねぇ~。年頃の娘が、年に一度のイベントにも参加しないなんて、私以上に枯れているとしか思えないよ」

 

 聞こえよがしにそんなことを言うのである。

 

「ああ、寂しい青春だねぇ。私が同じ年頃のときは、たくさんのロマンスが、それこそ枚挙の暇もないほどあったっていうのに」

 と嘆息混じりに言うのである。

 

 それらを懸命に聞き流していたリリィだったが、あまりにもグチグチ続くエリンシアの嫌味に、流石に我慢の限界を迎えた。

 

「ああっ、もう。いいじゃあないですか! 私は魔法の勉強とお師匠様のお世話で忙しいんです! それに、あのイルリアだって、まだ彼氏の一人もいないっていっていたじゃあないですか!」

 イルリアは、師匠伝いに知り合った友人である。

 

 なんでも、彼女に頼まれて、魔法を溜めておく事ができる魔法道具に、定期的にお師匠様が魔法を込めているのだとか。

 

『ありがたいお得意様さ。若いのに、金払いもいいからね』

 と、エリンシアにとっては一番の上客であるらしい。

 もっとも、リリィは「あんたにはまだ早い」と言われ、魔法を込めているところをみたことはないのだが。

 

 まぁ、そのおかげで、自分にもメルエーナに続いて新しい友人ができた。

 それに、驚いたことにイルリアは、メルエーナともすでに友人だったのだ。そのおかげで、たまの休日に三人で買い物にでかけたり、遊んだりする仲のいい友人同士になることができたのである。

 

「あのねぇ。あのイルリア嬢ちゃんは、いいよってくる男が多いけれど、『あえて』彼氏を作っていないだけなんだよ。あれほど器量良しでスタイルもいいんだ。そりゃあ、男たちが放っておかないだろうさね。でも、あんたの場合は……」

 エリンシアは、リリィの頭から足元まで一瞥し、「ふぅ~」とため息をつく。

 

自分が、容姿もぱっとしないばかりか、イルリアのような魅惑のプロポーションを持っていないことは重々承知の上だが、流石にこういう態度は腹が立つ。

 

「余計なお世話です! 私が異性にモテナイのは自分がよく分かっています! いいじゃあないですか。私は魔法を使えるようになるという目標に向かって、脇目も振らず頑張っているんですから!」

「それじゃあ、駄目なんだよ。そういった逃避は、性格を捻じ曲げる原因になってしまうんだ。それが分からないようでは、まだまだ魔法の基礎の練習にも進ませられないよ」

 

 お師匠様の駄目だしに、リリィは「そんな!」と抗議の声を上げる。

 しかし、エリンシアは腹の立つ笑顔で、

 

「悔しかったら、好みの男にチョコの一つでも渡してみるんだね。まぁ、あんたには敷居が高すぎるかもしれないけどね」

 

 そう言って、「ああ、我が弟子ながら情けない」と天を仰ぐ。

 

 ……ぶちっ、と頭の部分の何かが切れたような気がした。

 

「いいですよ! チョコの一つや二つ、渡してみせますよ!」

 リリィは調理の手を止めて、お師匠様に啖呵を切る。

 

「ああ、義理チョコを渡して、ハイ終わりってわけだね。……って、あんたは、そもそも義理チョコを渡す相手さえいないんじゃあ……」

「私を馬鹿にしすぎです! 義理でもなんでもなく、本命チョコを渡したい相手くらいいます!」

 憐憫の目を向けてくるエリンシアに、リリィは激怒する。

 

「ほう、それは意外だね。それじゃあ、あんたの覚悟を見せてもらおうじゃあないか。本当に、そんな相手がいるんならね」

 リリィにとって、そう言って笑うお師匠様の顔は、憎らしことこの上なかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「それは、辛かったですね、リリィさん」

「ううっ。私にだって、チョコレートを渡したい相手くらいいるもん……」

 メルエーナに抱きしめられながら、リリィは全てを吐露し、涙を瞳に溜める。

 

「……いや、その、なんかごめんね。貴女にとってそこまで切羽詰まっているものだとは思わなかったから」

 話を聞いて、思わぬところで自分の存在が、ここまでリリィを追い詰めるきっかけになっていたことを知り、イルリアが謝ったが、「そんな、イルリアは悪くないわ」とリリィは首を横に振る。

 

「そう。そんな事があったのね」

 今まで見守っていたバルネアが、リリィに歩み寄り、彼女の頭を優しく撫でた。

 

「大丈夫よ。私がついているわ。こうなったら、貰った相手が感激してしまうようなチョコレートを作って渡すことにしましょう、リリィちゃん」

「うっ、うううっ、バルネアさ~ん」

 リリィはイルリアから離れ、今度はバルネアに抱きついて涙を流す。

 

 そして、リリィが泣き止むのを待ち、簡単なレシピでの絶品チョコ作りは変更された。

 

 メルエーナ、イルリア、そしてリリィは、それぞれ別の、少し難度の高いチョコ作りをすることに変更となってしまったのだ。

 だが、メルエーナ達はそのことに不服はなかった。

 

 何故なら……

 

「で、誰にチョコレートを上げるつもりなのかしら? 教えてくれないと、どんなチョコレートがいいかわからないわ」

「そうよ。言い辛いとは思うけど、ここには私達しかいないんだから、安心しなさい。他言はしないわ」

 さも優しくさからだと言わんばかりな声色で尋ねる、バルネアとイルリア。

 

 けれど、それを見ていたメルエーナは、二人が好奇心からリリィがチョコレートを渡す相手を知りたいのではないかと勘ぐってしまいそうになる。

 

 だが、正直、メルエーナ自身も気にならないと言えば嘘になるので、止めはしない。

 

 バレンタインと恋の話は切っても来れない関係なのだと、メルエーナは理解したのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 バレンタインデー当日の午後。

 イルリアは、一人歩いてその場所に来ていた。

 

 平日の午後ということもあり、他の人はほとんどいない。

 もともと、この場所が賑やかになるということはない。何故ならここは、墓地なのだから。

 

 今朝、お爺ちゃんにチョコレートを手渡すと、お爺ちゃんは涙を目に溜めながら喜んでいた。

 普段、あまり料理をしない孫の手作りということが、それほど嬉しかったのだろう。

 

 作るのは大変だったし、苦労もした。けれど、あれほど喜んでくれるのであれば、頑張ったかいもあったというものだ。

 

「…………」

 イルリアは目的の墓石の前にたどり着くと、周りの掃除をし、花を供えた。

 普段であれば、後は、神様に祈りを捧げるだけで終わりなのだが、今日は違う。

 

 イルリアは、カバンから取り出した紙の包みを墓石の前に置いて、それを開く。中身は、お爺ちゃんに渡したものとは違うチョコレートが少し入っていた。

 

「……お父さん。私ね、初めてチョコレートを手作りしてみたんだ。だから、お父さんにも食べてもらいたいなって思って……」

 墓石の前に食べ物を供えるなど不作法もいいところだが、幸い周りに人はいないし、年に一度のバレンタインなのだ。神様も大目に見てくれるに違いない。

 

「初めてのバレンタインチョコがこんなに遅くなってごめんね。お父さん、甘いものが好きだったのに……」

 イルリアはそこまで口にすると、後は心のなかで最近の出来事を亡き父に報告した。

 いつもと同じ、一方的な報告。でも、イルリアにとって、この時間はとても大切なものだ。

 

 やがて、イルリアは近況を報告し終え、父の墓石に背を向けて家路に就こうとした。

 

 だがそこで、不意に少し強めの風が巻き起こった。

 イルリアは思わず目を閉じてしまった。

 

「なんなのよ、いったい」

 父との会話の余韻を楽しんでいたイルリアは、しかしそこでとあることに気づき、振り返る。

 

 彼女は、供えたチョコレートが散らばってしまっているのではと危惧したのだ。

 

「えっ……」 

 チョコレートは無くなってしまっていた。けれど、何故かそれを包んでいた袋だけが、墓石の上に残っていた。

 明らかに重量の軽い包み紙だけが残って、チョコレートだけが無くなっていたのだ。

 

 辺りを探しても、どこにもチョコレートは落ちていない。そのことを確認したイルリアは、にっこり微笑んだ。大粒の涙を、ボロボロと零しながら。 

 

「また来年も、チョコレートを作ってくるからね、お父さん」

 イルリアはそう約束をし、踵を返して今度こそ家路に就くのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 お得意様の依頼ということで、自ら足を運んで仕事をしてきたエリンシアが帰ってきた。

 

「やれやれ。疲れたねぇ。お昼を食べている暇もなかったから、お腹も空いたし、散々だよ」

 エリンシアは愚痴をこぼしながらコートを脱ぎ始めるので、リリィは、「おかえりなさい、お師匠様」の言葉とともに、それを手伝う。

 

「もう少しで夕飯ができますから、それまで待っていて下さい。それと、テーブルにお菓子も置いてあるので、お腹が空いているようならそれを食べていて下さい」 

「おやっ? なんだいなんだい。今日はやけに親切じゃあないか。あっ、もしかして、約束のチョコを意中の相手に渡せなかったのかい? それで、機嫌を取ろうと……」

「違います! ちゃんと本命のチョコは渡しましたし、相手も喜んでくれました。その、今まで女の子に手作りのチョコを貰ったことがなかったみたいで、思った以上に喜んでくれて……」

 リリィは顔を朱に染め、尻窄みの声で答える。

 

「いいから、お師匠様は大人しく食事ができるのを待っていて下さい!」

 恥ずかしさから、リリィは少し怒ったように言い、台所に戻る。

 

「おやっ? お菓子っていうのは、このチョコレートの事かい?」

「そうですよ。言っておきますけど、本命に渡したチョコレートの残りとかではないですからね。お師匠様用に作ったものです」

 リリィはそっけない声で言う。

 

「……ああ、これはいいねぇ。ブランデーが入っているんだね」

「ええ。お師匠様、そのお酒が好きですから、バルネアさんに相談して作ったんです」

 リリィはやはり怒ったような声色で言う。

 

「いいねぇ。うん」

 エリンシアは嬉しそうにチョコレートを味わっているようだったが、リリィは何も言わない。

 

「いいかい、リリィ。そのまま手を休めないでいいから、お聞き」

「……はい、お師匠様」

 リリィはエリンシアに背中を向けたまま答える。

 

「何度も言っているが、魔法というものは、特別な才能なんだ。それを使える人間は、今の時代ではほとんどいない。だから、そのことを鼻にかけたり、魔法を使えない人間を下に見る輩も多いんだよ」

 エリンシアの声は普段よりも低かった。

 

「それとは逆に、魔法を使える存在を忌避する人間や、それを滅ぼそうなんて考える輩もいる。けれど、私達みたいな魔法を生業にしている人間はね、そういった連中とも上手く付き合っていかなければいけないのさ」

「付き合っていく、ですか?」

 リリィの問に、エリンシアは「ああ、そうさ」と頷く。

 

「顔を合わせないようにするというのも付き合いの一つだ。今言ったような、魔法を使える人間を滅ぼそうなんて考える輩とは、接触しないに越したことはない。でもね、それだけでは、この世の中で行きていくのは難しいんだよ」

「…………」

 リリィは何も言わずに、鍋をかき混ぜ、その中身を少し味見皿にとって味見をする。

 

「あんたが、魔法を学びたいと一心不乱に勉強していたことも、生活費を稼ぐために働きづめで友達を作る暇がなかったのも知っている。

 だが、今は少しは時間があるだろう? 私だって、あんたに無理はさせないように気をつけているんだよ。これでもね」

「はい。それは、分かっています」

 リリィの答えに、エリンシアは目を細めた。

 

「私の言っていることの意味は、今はわからなくてもいい。だが、あんたはもっと、いろいろな経験をする必要があるんだよ。友達もたくさん作りなさい。恋もしなさい。それは、魔法を学ぶ上では遠回りに思えるかもしれないが、後で必ず役に立つのだから」

「……はい。お師匠様」

 

 リリィは今晩の料理であるシチューを皿に取り分けて、それをエリンシアの前に配膳する。

 そして、自分の分も用意したリリィは、エリンシアの向かいの席に座る。

 

「お師匠様……。私……」

「ふふっ。私が何を言いたいのか、分かったようだね。あんたも少しは大人になろうとしているのかもしれないね」

 エリンシアはそう言うと、リリィの口の前に、人差し指を立てる。

 

「いいよ。何も言わないで。分かってくれたのならそれでいいさ。さぁ、食べようか、リリィ」

「はい、お師匠様。……ありがとうございます」

 

 リリィの感謝の言葉に、エリンシアは口元を僅かに綻ばせて、美味しそうにシチューを頬張る。

 

 そんなお師匠様の姿を見て、リリィも瞳に涙を浮かべながらも微笑むのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 中々タイミングが合わず、このままでは渡せないのではと危惧をしたが、夕食後、『今日は、私が後片付けをするから、メルちゃん達は休んでいて』とバルネアが助け舟を出してくれたので、メルエーナはついにその機会を得た。

 

「じぇっ、ジェノさん!」

「どうした、メルエーナ?」

 部屋に戻ろうとするジェノを呼び止めて、メルエーナは背後に隠していた小さな箱を前に差し出す。

 

「その、これを! いつもお世話になっていますし、その、あの……」

 勢いのままに自分の気持ちを伝えたいと思ったメルエーナだったが、やはり言葉が出てこない。

 

 今の関係を壊してしまうのが怖くて、拒まれるのが怖くて。

 でも、勇気を出さないと行けないと思いながらも、不安な気持ちがどんどん増大していって、体が震えだす。更には、涙さえ浮かんできてしまう。

 

「……そうか。今日はバレンタインデーだったか」

 いっぱいいっぱいのメルエーナとは対象的に、ジェノは普段と変わらぬ口調で言うと、静かにメルエーナの手から、チョコレートを受け取った。

 

「ありがとう。大切に食べさせてもらう」

 ジェノがそう言ってくれたことに、メルエーナは安堵した。だがそこで、緊張の糸が切れてしまい、メルエーナの瞳からポロポロと涙がこぼれ落ち始める。

 

「どうした! 大丈夫か、メルエーナ?」

「あっ、その、こっ、これは……」

 メルエーナは何とか大丈夫であることを口にしようとしたが、涙が止めどなく溢れてきてしまい、うまく言葉がしゃべれない。

 

「駄目よ、ジェノちゃん。メルちゃんを泣かせてしまったら」

「あっ、いえ、バルネアさん。俺にも、何故泣いているのか……」

 いつの間にか、台所から近くにやってきたバルネアが、ジェノを窘める。

 

「もう。ジェノちゃんは、もう少し女の子の気持ちを勉強しないと駄目ね。というわけだから、はい、これを受け取って」

 話がつながっていないようにしか思えないが、バルネアは、ジェノに少し大き目の箱を渡した。

 

「これは?」

「ふふふっ。私から、ジェノちゃんとメルちゃんへのバレンタインチョコレートよ。それと、お店の方の奥の席に、ワインなんかも用意しているから、そこでメルちゃんとしっかりと話し合いなさい」

 バルネアはそんな事を言って、ジェノの背中を押す。

 

「その、メルエーナ。大丈夫か?」

「はっ、はい。すっ、すみません……」

 メルエーナもなんとか喋れるようになったが、やはりバルネアに背中を押されてしまう。

 

「ほらほら、早く二人共、奥の席に。私は、洗い物が終わったら先に休ませてもらうから、二人でしっかり話し合いなさいね」

 自分が言いたいことだけを言って、バルネアは再び厨房に戻っていってしまう。

 

 メルエーナはジェノと二人で呆然とするしかなかった。

 

 けれど、せっかくバルネアさんが作ってくれた機会なのだと、弱気な自分に気合を入れて、メルエーナはジェノに話しかける。

 

「ジェノさん。その、せっかく、バルネアさんが用意してくれたわけですし、よければ一緒にチョコレートを頂きませんか?」

 精一杯の勇気を振り絞ってジェノを誘うと、ジェノは苦笑し、「ああ、そうだな」と頷いてくれた。

 

 

 ……夜は更けていく。

 年に一度のその日も終わりが近づく。

 

 

「ジェノさん、私が作ったチョコレートは、実はこのワインを少し入れてあるんですよ」

「なるほど。これはいいな。味もさることながら、香りも素晴らしい」

 

「さすがに、バルネアさんのチョコレートは格別に美味しいですね」

「ああ。だが、俺は……」

「えっ? あっ、その、嬉しいです……」

 

「以外でした、ジェノさんのことですから、他にも……」

「……申し訳ない話なんだが、見知らぬ……」

 

「ジェノさん、私……私は……」

「メルエーナ。来月、必ずこのお返しはさせてもらう。受け取って……」

「はい……」

 

 

 普段の夜は客席に明かりが灯っていることがない<パニヨン>だったが、年に一度のその日だけは、夜遅くまで明かりが灯り続けていた。

 

けれど、その理由を知るものは、当事者たち以外は誰もいなかった。



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特別編 『少女達の戦利品報告』

 一ヶ月前のこの日は、十四日は、リリィ達にとって重大な一日だった。

 そう、言うまでもない、決戦の日、『バレンタインデー』だったのだ。

 

 リリィは居候先の魔法のお師匠様である老婆、エリンシアに焚き付けられて、少し気になっていた雑貨店のトムスという、同い年の優しげで朴訥な男の子にチョコレートを手渡した。

 生まれて初めて渡した本命チョコは、彼の驚きと満面の笑顔という、この上ない結果を出した。

 

 その上、『初めて、女の子から貰ったよ。その、すごく嬉しいな』と、彼に現在のところは女の影がないことも分かり、リリィは大満足だったのである。

 

 だが、それはそれとして、ひと月後のこの日、ホワイトデーでのお返しはやはり貰いたいなぁ、と思ってしまうのが人情、いや、乙女心というものだろう。

 

 少し不安はあった。

 ホワイトデーのお返しを貰えるのかどうか。

 

 この一ヶ月間、お師匠様のお使いで雑貨店に行くたびに、トムスとは親しげに挨拶を交わすようになり、お互い呼び捨てで名前を呼び合うようになれたが、それでも不安なものは不安だったのだ。

 

 けれど、それは杞憂だった。

 

 ドキドキ、ソワソワしながら今日も雑貨店に足を運んだリリィに、トムスは他のお客さんがいなくなるまで待ってほしいと言ってきた。

 そして、お客さんがいなくなると、店の隅で、彼は綺麗に包装された小さな箱をリリィに手渡してくれたのだ。

 

「その、君が作ってくれた、あの美味しいチョコには敵わないけれど……」

 トムスは顔を真っ赤にして、申し訳無さそうな、けれど何かを期待するような視線をリリィに向けてくる。

 

「ううん。すごく嬉しい。私も、男の子からチョコのお返しを貰うのは初めてだから。本当に、本当に嬉しいわ」

 本当はもう少し大人な対応をして、余裕のあるところを見せたかったのだが、胸が一杯になってしまい、そうとしか言えなかった。

 

 そしてお互いを見つめ合い、リリィとトムスは恥ずかしげに微笑みあったのだった。

 

 

 

 

 バルネアの店に、<パニヨン>に着くと、リリィは『本日の営業は終了しました』という内容の書け看板を確認し、そのままドアの取っ手を掴んでそれを開けて店の中に入る。

 根本的に間違っている気がするが、この店の常連客は、みんな同じことをするので問題はないだろう。

 

「あらっ、リリィちゃん。いらっしゃい」

「こんにちは、バルネアさん」

 来店を歓迎してくれるバルネアに挨拶をすると、彼女と同じ客席に座っていた、メルエーナとイルリアも声をかけてくれた。

 

「いらっしゃいませ、リリィさん」

「へぇ~。その嬉しそうな顔からすると、あんたも大成功だった感じかしら?」

 二人の友人、そしてバレンタインデーを共に戦った戦友の笑顔に、リリィはグッと、白い包装紙に包まれた戦利品を見せつける。

 

「ふふっ、良かったわ。さぁ、リリィちゃんも座って。いま、みんなに美味しいお茶とお菓子を用意するから」

 バルネアは我が事のように喜び、厨房に向かっていく。それと入れ替わる形で、リリィは席についた。

 

「イルリア。貴女とメルもいい結果だったのね」

 リリィが尋ねると、イルリアは、

 

「私は、お爺ちゃんから老舗の限定チョコを貰っただけよ。でも、わざわざ私のために、店に並んで買ってきてくれたのは嬉しかったかしらね」

 

 と満更でもない様子だ。

 

 だがそれ以上に、顔を真っ赤にして俯くメルエーナのことが気になって仕方がない。

 

「メル、貴女もジェノさんからチョコレートを貰えたんでしょう?」

 興奮気味に尋ねるリリィに、メルエーナは「はっ、はい」と答えて顔を更に真っ赤にする。

 

「なに、なによ、そんなに嬉しい贈り物だったの?」

「リリィ、あまり聞かないほうがいいわよ。甘すぎて口から砂糖を吐き出しそうになるから」

 イルリアの忠告は、余計、リリィの好奇心を刺激するだけだった。

 

「ほらっ、一緒にチョコレートを作った仲でしょうが。隠さないで教えてよ」

 赤面して黙ったままのメルエーナに、リリィはグイグイ食い込んでいく。

 

「あっ、あの、その……。ジェノさんから、手作りのチョコレートケーキを貰いました……」

 メルエーナは恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに微笑んだ。

 

 同性だと言うのに、その笑顔のあまりの可愛いさに、リリィは一瞬言葉に詰まってしまう。

 本当に、恥ずかしいけれど嬉しくて仕方がないといった表情だ。

 

「へぇ~。さすがジェノさんね。手作りのケーキだなんて」

 ジェノの料理の腕はメルエーナから聞いて知っているが、まさかケーキまで手作りすることができるとは思わなかった。

 

「その、内緒にするために、わざわざ他所のお店の厨房を借りて作ってくれたんです。私なんかのためにそこまでしてくれて、私、もうどうしたらいいのか……」

 メルエーナは瞳の端に涙さえ浮かべている。

 

「ぬぅ、凄いわね。いやぁ、メルは大切にされているわね。少し羨ましいわ。でも、私だって……」

 つい張り合って、そう口に出してしまったリリィは、しまったと思ったがもう遅かった。

 

「あら? なに、あんたも砂糖を吐きそうなくらい甘い展開だったの? これはしっかり聞かせてもらわないといけないわね」

「私も、知りたいです!」

 イルリアとメルエーナの期待のこもった視線を向けられ、今度はリリィが尋問される番になってしまった。

 

「いや、その、流石にメルのところみたいに、手作りではないんだけれどね。でも、トムスは、ホワイトデーで女の子にチョコを送るのは初めてだと言っていたの。つまりね、その……」

「ああ、なるほどね。自分が初めての相手だと言いたいのね。結構独占欲が強いのね」

 リリィの気持ちを読んで、イルリアが呆れたように言う。

 

「でも、それだけではメルのところの甘さには敵わないわよ」

「イルリアさん、その話はしないで下さいって……」

 メルエーナが慌ててイルリアの口をふさごうとするが、もう遅い。

 

「えっ、なになに、まだあるの、ジェノさんからの贈り物って」

 再び攻守が逆転し、メルエーナが尋問されることになる。

 

「ほらっ、言っちゃいなさいよ、メル」

「ううっ……」

 メルエーナは顔を真っ赤にし、両手の指を忙しなく動かしながら、か細い声で言った。

 

「その……二人で今度、<蜃気楼の城>で夕食を食べようと誘われました……」

 

 耳を澄ましていたおかげで、何とか聞き取れたほどのか細い声だったが、リリィはそれを聞き漏らさなかった。

 

「ええっ、それってデートよね! しかも、<蜃気楼の城>といえば、高級なお店じゃない」

「それだけじゃあないわよ。あそこは宿屋が本業なんだから、きっと、その後……」

 イルリアが意味ありげな笑みを浮かべる。

 

「うわぁ、メルってば大胆!」

「なっ、何を想像しているんですか! わっ、私は、ただ、ジェノさんと食事を……」

 メルエーナはそう自己弁護をするが、そこに再びイルリアが口を挟む。

 

「でも、メル。あんたはその誘いを受けたのよね? 『はい、喜んで』とか言って」

「うわっ、うわっ、うわぁ~。なによ、メルってば、やっぱりそのつも……」

 リリィの言葉は最後まで続かなかった。

 

「違います! 私は、ただ純粋にジェノさんと一緒に食事を楽しみたいと思っているだけです!」

 それは、メルエーナが真っ赤になりながらも否定の言葉を大声で口にしたためだった。

 

 しかし、そこで思わぬ声が入る。

 

「大丈夫よ、メルちゃん。私はその日は、いつもより早くに寝て、朝は日が昇る前に起きることにするつもりよ」

 お菓子とお茶をトレイに乗せてやって来たバルネアが、口を挟んできたのだ。

 

「さすが、バルネアさん。話がわかりますね」

「保護者が許可する朝帰り……。メル、一足先に大人の階段を登ったら、感想をぜひ聞かせてね」

 さらにイルリアとリリィがそう駄目押すと、メルエーナは流石に憤慨した。

 

「ですから、そんなつもりはありません!」

 メルエーナが怒ってへそを曲げてしまったので、リリィ達はそのご機嫌取りに苦労することになってしまった。

 

 そして、メルエーナの機嫌がようやく戻ったところで、リリィは席に座ったバルネアに、感謝の言葉を述べる。

 

「バルネアさん。バルネアさんのおかげで、私は、いいえ、私達は素敵なホワイトデーを迎えることが出来ました。本当にありがとうございました」

 席を立って頭を下げて言うリリィに倣い、メルエーナとイルリアも立ってバルネアに頭を下げる。

 

「もう、そんな風にかしこまらなくていいわよ。私はただチョコレートの作り方を教えただけ。こうして、みんなが楽しい気持ちでホワイトデーを迎えられたのは、みんなが素敵な女の子であったから。そして、送った相手が素敵な男性だったからよ」

 バルネアは笑顔でそう言い、みんなに座るように促す。

 

「貴女達みんなが、幸せそうに笑っている。私はそれだけで満足よ」

 バルネアのそんな優しい言葉に、リリィ達は改めて感謝をして微笑むのだった。

 

 

 ……今年のホワイトデーも終りを迎える。

 けれど、来年も笑顔でこの日を迎えられるように頑張ろう。

 

 リリィはそう決意を新たにするのだった。



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第四章 あの日憧れたあの人のように
① 『すれ違う思い』


 それは、とても微笑ましい話でした。

 あの人の幼かった頃の話は、ぜひ私も知りたいと願っていた事柄でしたので、余計にそう思ったのだと思います。

 

 まだ年端もいかなかった頃のあの人は、素直に喜怒哀楽を顔に出していて、そして少し引っ込み思案な所もあったのだと知ることが出来ました。

 

 あの人のお話に出てきた女性は、あの人の先生は、とても魅力的で素晴らしい方だと私も思います。

 だからこそ、年月を経ても、あの人はずっと先生を尊敬し続け、人生の指針の一つにしているのでしょう。

 

 本当に、この時、あの人が話してくれたのは、とても楽しい話だったのです。

 

 だから、私はその話の裏を読むことを怠ってしまいました。

 幼い頃とは異なり、どうして今のように無口で感情を表に出さなくなったのかを考えようとしなかったのです。

 

 本当に愚かだと思います。

 

 きっと尋ねても、この時のあの人は教えてはくれなかったと思います。

 それは、あの人にとって触れられたくない事柄だから。

 

 でも、もしもあの人に尋ねていたら、私が知っていたらと思わずにはいられません。

 そうすれば、後のすれ違いは防げたはずなのですから。

 

 

 ……過去は、現在に続いています。

 あの人の話に出てきた人達も、物語の登場人物ではなく、今も私達と同じ時間を生きる人間なのです。

 

 それなのに、どうして私は……。

 

 

 

 

 第四章 『あの日憧れた、あの人のように』

 

 

 

 短い冬が終わり、だいぶ気温が高くなってきた。

 今は温かという表現ですんでいるが、もう少しすると暑い夏がやってくる。

 

 もっとも、この街で暮らし続けるイルリア達の話によれば、海が近くにあるので、メルエーナが暮らしていた山奥の村よりは過ごしやすいらしい。

 

 メルエーナがこのナイムの街にやってきたのは、昨年の夏の終りから秋にかけてだったので、もうすぐこの街で暮らして一年が過ぎようとしている事になる。

 

 今日の仕事も一段落し、メルエーナは拭き掃除をしながら、あっという間に過ぎていった時間を思い返してそんな感慨に耽けていたのだが……。

 

 相変わらず、『本日の営業は終了しました』という掛け看板の意味はなく、パニヨンの入口の扉は開かれ、来店を告げるベルの音が店内に響き渡った。

 

 今日は誰が来店したのだろうかと、もう日常となってしまった営業時間外の来訪者に「いらっしゃいませ」の言葉を口にしたメルエーナは、驚きのあまりに言葉を失ってしまった。

 

「ふっふっふっ。来たわよ、メル!」

 大きなリュックを背負って来店してきたのは、自分と同じ栗色の髪を、短く肩の辺りで切りそろえたスタイルの整った女性。

 

 それは、メルエーナの母であるリアラその人だった。

 

 

 

 

 奥の居間まで招き入れ、旅で疲れているだろう母からメルエーナは荷物を預かる。

 

「驚きましたよ。何の連絡もなく、先輩が訪ねて来られるとは、思っていませんでしたから」

 バルネアがそう言いながらリアラに席を勧め、自分も彼女の向かいの席に腰を下ろす。

 メルエーナも母の荷物を客間に運んで戻ってくると、空いているバルネアの隣の席に腰を下ろした。

 

「あははっ。ごめんなさい。突然やってきた方が、ありのままの娘の姿を見られると思ってね」

 リアラは全く気にした様子もなく豪快に笑う。

 

「お母さん。少しはバルネアさん達の迷惑も考えて下さい!」

 反省する気がない母をメルエーナが嗜めると、それまで笑っていたリアラが真剣な眼差しに変わる。

 

「迷惑をかけることは分かっていたわ。でも、もう貴女がこのナイムの街に来て一年が経とうとしているのよ。

 手紙では順調だと聞いていたけれど、やっぱりこの目で確認しなければ駄目だと思って、一人でわざわざここまでやってきたのよ」

 リアラはメルエーナをじっと見つめてくる。

 

「メル。貴女が去年までとは違うということを、この一年間の成果を私に見せなさい!」

 母の射抜くような瞳をまっすぐに見つめ返して、「はい」と力強く返事をする。

 

「たしか、豚肉が残っていたはず。お母さんも好きな素材ですし……」

 メルエーナは何を料理して母に出そうかを頭で懸命に考える。

 自分のこの一年間の料理修行の成果を、今こそ見せなければ。

 

 そう気合を入れていたメルエーナだったが、そこで思わぬことを母が口にした。

 

「バルネア。この時間なら、ジェノ君は留守よね?」

「えっ? ……ええ。今日も稽古に出かけていますけれど……」

 突然話を振られて、バルネアは驚きながらもリアラの問いに答える。

 

 メルエーナには、母が何故ジェノの動向を訊くのか分からない。

 

「そう。予想どおりだわ。メル。さぁ、ジェノ君の部屋の鍵を貸しなさい。貴女がどのくらいジェノ君の心を掴んでいるかは、部屋を見れば分かるわ!」

 自信満々に言う母の言葉が、頭に入ってこない。同じ言語を使って話しているはずなのに。

 

「もう。プライバシーがどうとかはなしよ。未来の息子の部屋を母親が見て悪い理由はないわ。もちろん、貴女が彼の部屋の掃除もしているのよね?」

 やはり、メルエーナには、リアラが何を言っているのか分からない。

 

「どっ、どうして、お母さんがジェノさんの部屋に入ろうとするんですか! それに、私が掃除なんてしていません! ジェノさんは身の回りのことは全部自分でしますし、それに、その、私もジェノさんの部屋に入ったことは、まだないですし……」

 口にしていて悲しくなってきてしまい、メルエーナの言葉は尻窄みになってしまう。

 

「…………えっ?」

 リアラは信じられないことを聞いたかのように、固まってしまう。

 

「えっ? は私のセリフです!」

「だって、貴女、ジェノ君との関係もいい方向に進んでいるって、手紙に書いていたじゃあないの!」

「それは、その、たまに一緒に食事にでかけたり、二人で料理を合作で作ったりとか……」

 メルエーナは恥ずかしそうに説明をするが、リアラは納得しない。

 

「ええい、私はそんな娘に育てた覚えはないわよ。一年近くも同じ屋根の下で生活していて、何をやっているのよ、貴女は! もしかしたら、『その、お母さん、孫が出来てしまいました……』とか言うサプライズがあるんじゃあないかと期待していたのに!」

「成人前の娘に、何を期待しているんですか!」

 

 メルエーナとリアラの親子の言い争いはしばらく続き、それを見ていたバルネアは、「いいわね、親子って」と嬉しそうに微笑むのだった。



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② 『手紙』

 メルエーナとリアラの親子の不毛な言い争いが一段落したところで、ジェノが稽古から帰ってきた。

 彼はリアラが訪ねてきたことにもあまり驚きはせずに、「お久しぶりです」と慇懃に礼をして、社交辞令的な会話を少し交わしただけだった。

 

「すみませんが、汗をかいていますので」

 ジェノはそう言うと、頭を下げて、自分の部屋に戻って行こうとする。

 

「ジェノさん。お風呂を沸かしてありますので……」

「そうか。いつもすまない。感謝する」

 メルエーナの言葉に、ジェノは振り返って短く感謝の言葉を口にしたが、それ以上は何も言わずに部屋に戻って行った。

 

「メル。どうしてそこで、『お背中を流しましょうか?』って言えないのよ」

「言えるわけありません、そんな端ない事!」

 真っ赤になって母に抗議するメルエーナ。しかし、リアラは真剣な表情でメルエーナを見つめてくる。

 

「あのねぇ、メル。私の言っていることは、確かに少しだけ端ないかもしれないけれど、『私は、貴方に好意を持っています』という気持ちをまったく相手に伝えようとしないのは、清純派を気取った、ただの怠惰よ」

「……それは……」

 前半の、少しだけ、という言葉に納得は行かないが、後半の話はそのとおりだと、メルエーナも思ってしまう。

 

「何も、本当に背中を流さなくてもいいのよ。ジェノ君がもしも貴女の話に乗ってきたら、『もう、冗談ですよ。本気にしないで下さい』って言ってもいいの。

 ただ、その一言で、私は貴方を異性として見ていますよと伝えることができるわ。もちろん、やりすぎると誂われているだけだと思われるから、加減が必要だけどね」

 母のその指摘は、グサリとメルエーナの心に突き刺さった。

 

 メルエーナは常日頃、ジェノが自分のことを異性だと見てくれないと嘆いていた。けれど、母の言うとおり、自分はジェノの事を、男性として見ているという事をまるで伝えていなかったことに気付かされたのだ。

 

「メル。貴女がこの街に居られるのは、あと一年程だけ。それは長いようで短いわ。その間に、貴女はジェノの心を掴まなければいけない。そうしなければ、一生後悔するわ。

 だって、貴女からの手紙に、ジェノ君の近況が書かれていなかった事はないでしょう?

 それだけ貴女は、ジェノ君が好きなのよ」

 母に断言されて、メルエーナは気持ちを新たにする。

 

「お母さん、ありがとうございます」

「うん。分かればいいわ。ただ頭でこの事を理解するだけでは駄目。行動することが重要よ。

 だからまず、相手のことを、つまりはジェノ君の趣味嗜好を貴女はもっと理解する所から始めましょう。そこで、提案があるんだけど……」

 リアラは椅子から腰を上げ、メルエーナに顔を近づき耳打ちをする。

 

「えっ! いきなりそんな事を頼んだら、ジェノさんに引かれてしまいます!」

「大丈夫よ。その辺りは私がフォローするわ。いい? 男の子の心情を理解するには、この方法が一番なのよ。だから、勇気を出しなさい」

 リアラの説明を聞き、顔を真っ赤にしたメルエーナは、しかし力強く頷く。

 

 そして、母の訪問を歓迎する夕食を作っているバルネアを手伝い、その時を待つことにするのだった。

 

 

 

 

 

 

「俺の部屋を? 別に構わないが、理由を聞いてもいいか?」

 メルエーナが意を決し、食事中にジェノに彼の部屋を見せて欲しいと頼んだところ、当然の問が返ってきた。

 

「ああ、ごめんなさいね、ジェノ君。うちの娘は男の子に対する免疫がなくてね。親としては心配なのよ。そこで、まずは身近な男の子であるジェノ君の部屋を見せてもらって、男の子ってどういうものが好きなのかとかを学ばせたいのよ。申し訳ないけれど、協力してくれないかしら」

 リアラがそう援護をし、ジェノに頼み込む。

 

「……自分の部屋を見ても、あまり学べるものはないと思いますが、構いませんよ」

 予想外に、ジェノがあっさりと認めてくれた事に、メルエーナは驚く。

 

 先程の母との話では、男の子は部屋にあまり他人に見られたくないものを隠していることが一般的らしい。

 けれど、ジェノは全く動じた様子がない。

 

「ふふっ。良かったわね、メルちゃん」

 バルネアが優しい笑顔をメルエーナに向けてくれたので、「はい」とメルエーナは笑顔で返す。

 

「そう言えば、ジェノ君。娘から聞いたわよ。あと一週間で十八歳になるそうね」

「はい」

「ふふっ。これでジェノ君も大人の仲間入りね。大っぴらにお酒を飲んだりもできるようになるわね。でも、大人になったら、色々と大変なこともあるのよ。

 大人としての責任を負うことになる。それは、税金の増加のような事柄の他に、家庭を持って独り立ちすることも次第に求められるようになるわ」

 リアラはそこまで言うと、にっこり微笑んだ。

 

「ねぇ、ジェノ君。ジェノ君には気になる女性はいないの?」

「いません」

 ジェノは間髪をいれずに断言する。

 

 その事に、メルエーナは安堵するのと同時に寂しく思ってしまう。

 

「そう。まぁ、今はまだそれでもいいわね。ただ、ジェノ君は格好いいから、きっと女の子が放っておかないだろうけれど」

「……自分にはよく分かりません」

 ジェノが今度はなぜか少し間をおいて答えたことに、メルエーナは気づく。

 

「ジェノさん、その……」

 メルエーナがジェノに声をかけようとしたが、それよりも早くにジェノは静かに席を立つ。

 明らかに、これ以上この話を続けたくない様だ。

 

「ごちそうさまでした、バルネアさん。食器は俺が……」

「私がやっておくから大丈夫よ。それよりも、メルちゃんにお部屋を見せて上げるんでしょう? メルちゃんも食べ終わっているみたいだし、早速見せてあげたらどうかしら?」

 バルネアはそうジェノに提案し、こっそりメルエーナの方を向いて片目を瞑る。

 

「それは別に構いませんが。メルエーナ、それでいいか?」

「はっ、はい!」

 メルエーナはなんとかそう応えて、静かに席を立つ。

 

「あっ、私もいいわよね。男の子の部屋って興味あるのよね」

 リアラまでがそう言って席を立つと、「あら、それなら私も」とバルネアまでもが楽しそうに立ち上がる。

 

「全員で見るような部屋ではないと思いますが」

 ジェノは小さく嘆息し、部屋に向かって足を進め、その後を、メルエーナ達が付いていく。

 

 そして、メルエーナは初めてジェノの部屋に足を踏み入れるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「綺麗な部屋ね。……綺麗すぎるくらいに」

 リアラがそんな感想を口にした。

 少し失礼な感想だと思うが、メルエーナも同じ感想を胸に秘めていた。

 

 間取りはメルエーナの部屋と変わらない。

 窓が二箇所あり、そこにベッドと作業机と椅子とクローゼットが置かれているのも同じだ。

 差異は調度品の色が違うことくらいだろうか。

 

 塵一つ落ちていないフローリングの床。机の上も整理が行き届き、その上に本が数冊本立てに収納されているだけだ。

 ベッドもきちんと整えられており、本さえどこかに移動してしまえば、そのまま別の入居者が来ても全く問題がないと思えるような綺麗さだ。

 

 けれど、メルエーナはこの部屋を見て怪訝に思う。

 あまりにもこの部屋には、生活感がない。なさ過ぎるのだ。

 

「そっ、そうだ。ジェノ君はどんな本を読んでいるの?」

 あまりにも特筆することのない部屋に、話をするネタがなかったからだろう。リアラが、ジェノの机の上の本の背表紙を確認する。

 

 メルエーナもそれに倣うと、そこに置かれていた本は、料理の本と剣術の本だけだった。

 

「あれ、ジェノさん、何かがここに挟まっていますよ?」

 メルエーナは、背表紙が付いていない古ぼけた本の隙間から、何かの厚めの紙が出っ張っていることに気づく。

 

「触らないでくれ!」

 不意に、ジェノが声を上げた。

 それほど大きな声ではなかったが、全く喋っていなかったジェノが突然声を発したことで、メルエーナ達は驚く。

 

「……驚かせてすまない」

 ジェノは謝罪しながら机に近づくと、古ぼけた本を手に取り、そこから紙を、いや、便箋らしきものを取り出した。

 

「あっ……」

 メルエーナは、その便箋には、『親愛なるジェノへ』と書かれ、その封に、ハートマークのシールが使われていることに気づく。

 

「大事な手紙なんだ」

 ジェノはそう言うと、その便箋を机の引き出しに仕舞う。

 

「…………」

 メルエーナは何も言えなかった。

 ただ、心臓がバクバクと忙しなく鼓動を刻む。

 

 今の便箋に書かれていた宛名。ハートマークの封。そして、ジェノが大切な手紙だと言った。その事がグルグルと頭の中で回転し、メルエーナは何も考えられなくなってしまう。

 

「あらっ? もしかしてラブレターかしら? さっきは気になる女性は居ないと言っていたけれど、本命の彼女がいるの?」

 冗談めかして尋ねるリアラ。だが、その声は少し硬い。

 

 そしてリアラがそう尋ねたことで、一層メルエーナの心臓は早鐘のように鼓動し、胸が痛くなってくる。

 

「ジェノちゃん。私も気になるわね。話してくれないかしら?」

 バルネアもジェノに手紙の内容を話すように促す。

 

 二人がジェノに手紙の内容を話すように言っているのは、自分のことを気遣ってのことだとメルエーナは理解している。

 

 でも、怖い。怖くて仕方がなくて、耳を塞ぎたくなってしまう。

 もしも、ジェノさんに好きな人がいたらと思うと、苦しくて仕方がない。

 

 メルエーナは耳を塞ぎたくなる衝動をなんとか堪えて、ジェノが口を開くのを待った。

 

「これは、自分が幼い頃に大切な人に貰った手紙です。ただ、あと一週間は封を切るわけにはいかないので、つい声を荒げてしまいました。すみません」

 ジェノはそう説明してくれたので、メルエーナは、ほっと胸を撫で下ろす。

 

 けれど、一週間は封を切れない手紙というのはどういう事だろうか?

 安心すると、そんな疑問が湧いてくる。

 

「あと一週間? それって、ジェノ君の誕生日よね?」

「はい。この手紙は、自分の誕生日に封を切る約束になっているんです」

 ジェノの説明を聞いても、メルエーナ達はやはり意味がわからない。

 

「……ジェノちゃん。その話、詳しく聞きたいわ。普段、ジェノちゃんは自分のことを話してくれないから、すごく気になるの」

 バルネアがそう口火を切ると、リアラもそれに賛成する。

 

「そうね。私もすごく気になるわ。メル、貴女も気になるわよね?」

 更にはメルエーナにも同意を求めてくる。けれど、メルエーナも確かに気になるので、「はい」と頷いた。

 

「せっかくリアラさんが、遠くから来て下さったんだ。積もる話もあるんじゃあないのか?」

 ジェノがそう言っても、メルエーナ達はジェノの話が気になると異口同音に口にする。

 

 ジェノはそれでも話をしたくないようだったが、そこでパンッと、バルネアが両手を叩いた。

 

「すぐに片付けをしてしまうから、いつものテーブルで話をしてもらいましょう。私特製のとっておきのおつまみもあるから、楽しみにしてね」

 バルネアの中ではジェノが話をするのは決定事項のようで、そう宣言する。

 

「いや、バルネアさん。聞いても面白い話では……」

 ジェノはそう食い下がったが、バルネアはいたずらっぽく微笑む。

 

「あらあら、困ったわ。ジェノちゃんが話してくれないと、私とリアラ先輩とメルちゃんだけで話すことになるわ。でも、男の人と違って、女のお喋りって長くなるから、おつまみを食べる量も増えてしまいそうよ」

 バルネアのその言葉に、リアラも企みに気づいたようで、ニンマリと微笑んで口を開く。

 

「そうよね、バルネア。ついつい食が進んで、太ってしまうかも。それに、美容にも良くないわ。それに、嫁入り前のメルまでもそんな事になってしまったら、もうその一因を作ったジェノ君に責任を取ってもらうしかなくなるわよね」

 

「おっ、お母さん……」

 あまりにも理不尽な要求をする母に、メルエーナは困り、そっとジェノの方を見る。すると彼は、深いため息を付いて、こちらに視線を向けてくる。

 

「あっ、その……。すみません、私も気になります。ですので、話して下さると嬉しいです」

 メルエーナは申し訳なく思いながらも、素直な気持ちを口にする。

 

「……分かりました」

 結局、ジェノは降参し、後片付けが終わるとすぐに、彼の子供の頃の話を皆で聞くこととなったのだった。



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③ 『先生』

 春の温かな日差しが心地いい。

 けれど、そんな中でも、ジェノは自宅の裏庭で毎日の日課を繰り返していた。

 

「えいっ!」

 威勢のいい掛け声とともに、ジェノは木剣を振り回す。

 だが、まだ八歳になったばかりの幼い体は、木剣の一振りに体勢が崩れて、毎回つんのめってしまう。

 

 その事を歯がゆく思いながらも、ジェノは木剣を振り回し続ける。

 

「やぁ!」

 ジェノはいろいろな姿勢から木剣を振る。唯一の手本である、兄の動きを少しでも真似できるようにと。

 けれど、その都度バランスを崩してしまい、木剣は手をすっぽ抜け、顔から地面に転倒してしまった。

 

「くそぉっ……。どうして、上手くいかないんだ!」

 ジェノは地面から顔を少し上げて、地面を右手で悔しそうに叩く。

 この三ヶ月程、懸命に木剣を振っているが、全く上達しない。その事に、ジェノは苛立ちを押さえられない。

 

 理由は分かっている。

 自分は誰からも剣術を教わっていないからだ。

 

 本当は街の道場に通いたい。きちんとした先生から剣を習いたい。

 

 でも、ペントは自分が危ない事をするのを嫌がる。それに、剣術を習うとなればお金も掛かる。

 いつも自分のために頑張って働いてくれている、ペントと兄さんにこれ以上お金を出してなどとは言えない。

 

 ジェノは首を左右に振り、重い気持ちを吹き飛ばして立ち上がると、少し離れたところに落ちてしまった木剣を拾う。

 

「強くなるんだ、僕は。大切な友達を、家族を守れる男になるんだ!」

 もう握力が殆ど残っていない手で懸命に木剣の柄を握る。そして、それを振り被ろうとしたときだった。

 

「坊っちゃん。ジェノ坊っちゃん! また、そんな無茶をして!」

 背中から、聞き慣れた声が聞こえてきた。

 そして振り返ると、想像通りの人間がそこに立っていた。

 

「ペント……」

 丸メガネを掛けた恰幅のいい初老の女性の名前を、ジェノは口にする。

 

 本当は、彼女の名前はペンティシアと言う。それは一応ジェノも知ってはいるが、物心ついた頃からずっと『ペント』と呼んでいるのだから、今更この呼び方を変えるつもりはない。

 

「ああっ、手の皮が剥けているじゃあありませんか! ばい菌でも入ったら大変です。今、お薬を持ってきますから、もう剣のおもちゃで遊ぶのはおやめ下さい」

 ペントは、ジェノに駆け寄って来るなり木剣を捨てさせて、ジェノの小さな手のひらを見て慌てる。

 

「大丈夫だよ、これくらい。それに、僕は遊んでいるんじゃあない。僕は強くなりたいんだ。だから、剣の練習をしているんだ!」

 ペントが心配してくれているのは分かったが、ジェノは少しムッとして言う。

 断じて、これは遊びなどではないのだ。

 

「坊っちゃん……」

 けれど、ペントが目の端に涙を溜めて懇願してくるのを見て、ジェノの胸は痛む。

 

「……ごめんなさい。ペントに心配をかけてしまって。でも、僕は強くならないと……」

 ジェノは涙を浮かべるペントに、頭を下げて謝る。

 

 すると、ペントは嬉しそうに微笑み、ジェノをその大きな体で抱きしめた。

 

「ジェノ坊っちゃん。坊っちゃんはまだ子供です。そんな風に無理をして強くなろうなどとしなくてもいいのです。私が、ペントがついております。それに、兄上様もおられるのですから」

 ペントの温もりが心地良い。けれど、ジェノは頭を振る。

 

「でも、ペント。僕のせいで、ロウは死んじゃったんだ。僕の大切な友達で、家族だったのに。だから、僕は強くならないと……」

 ジェノには物心ついた頃から大切にしていた友達が、家族が居た。

 その家族の名前はロウ。

 真っ白な綺麗な猫で、ジェノといつも行動をともにしていた。

 

 けれど、三ヶ月程前にゴブリンと呼ばれる魔物にジェノが襲われそうになった際に、ロウは彼を庇って殺されてしまったのだ。

 

「お優しいジェノ坊っちゃんが、ロウの事で未だに心を痛めていることは、ペントも知っております。けれど、いつまでも悲しんでいては、ロウも浮かばれません。ロウの事を思うのならば、坊っちゃんが笑顔にならなければいけませんよ」

 そう言いながら、ペントは優しくジェノの頭を撫でる。

 

 その行為はずっとジェノを安心させてくれる。

 でも……。

 

「ペント……。それでも、僕は……」

 ジェノはこみ上げてきそうになった涙を懸命に引っ込める。

 

 ロウのお墓の前で、自分は誓ったのだ。

 強くなると。もう泣いたりしないと。

 

「坊っちゃん。今日は坊っちゃんの大好きなポトフですよ。さぁ、お家に入りましょう」

「……うん」

 

 これ以上何を言っても、ペントを困らせるだけだと思い、ジェノはペントの言葉に従う。

 けれど、ジェノの心には、強くならなければいけないという気持ちが溢れそうになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 季節が暑い夏に変わった。

 けれど、ジェノは勉強やお手伝いの時間以外は、もっぱら木剣を振り続けていた。

 

 それは、その日も同じだった。

 炎天下の中でも、ジェノは木剣を振り回す。

 やはり未成熟な体では、遠心力の加わった木剣の重さに耐えることが出来ず、何度もバランスを崩してしまう。

 

 強くなりたい。

 でも、強くなるために何をすればいいのか分からない。

 今できることは、何度か見せてもらった兄さんの動きを、記憶をたどって真似することだけだった。

 

 けれど、仕事が忙しいため、兄さんとは冬からもう顔を合わせていない。

 だから、お手本を見せてもらうわけにもいかない。

 

 せめて見るだけでもと思い、街の道場を覗いたことも何度かあったが、同年代の子供の姿はなかった。

 そして、その道場の関係者に見つかって、「君にはまだ早い」と言われてしまった。

 元々、お金もないので通えないのだが、そう言われたショックは小さくなかった。

 

 八方塞がりだった。

 強くなりたいのに、その方法が分からない。教えてくれる人もいない。

 

 でも、この胸の思いは日増しに大きくなるのだ。

 強くならなければいけない。

 今度は、僕が守れるようにならなければいけないのだと。

 

 

「坊っちゃん、ジェノ坊っちゃん!」

 いつものように、ペントが走って来た。

 ジェノは、今日の稽古はここまでにしないとけないと思った。

 

 だが、ペントは思わぬ事を口にした。

 

「坊っちゃん。坊っちゃんの、剣術の先生が来てくださいましたよ」

 満面の笑みを浮かべて、ペントが言ったその言葉の意味を、ジェノはしばらく理解することが出来なかった。

 

「ペント? 今、なんて言ったの?」

 ジェノが尋ねると、ペントは笑みを強める。

 

「ふふっ。ですから、坊っちゃんの剣術の先生が来てくださったんですよ。私が相談したところ、デルク様が、ジェノ坊っちゃんのためにと先生を雇って下さったのですよ」

「えっ……。ほっ、本当なの! 僕のために、兄さんが?」

「ええ。本当ですとも。デルク様は先日も大きなお仕事を成功させたとのことで、ペントの他にも人を雇えるようになったのです。

 先生には、ジェノ坊っちゃんの剣術の先生と護衛をお願いすることになりました。今日から私達の家に一緒に住んで頂くことになりますので、仲良くしてくださいね」

 ペントが涙を浮かべながら嬉しそうに言う。

 

 ジェノもあまりの嬉しさに涙がこみ上げてきてしまったが、なんとか堪えた。

 

「ペント。その先生は、もう家の前にいるの?」

「ええ。坊っちゃんをお待ちですよ」

「うん。分かった!」

「ああ、坊っちゃん! ペントを置いていかないで下さい!」

 

 ペントの声も耳に入らなかった。

 やっと、やっと剣術を学べる。その嬉しさで頭が一杯で、ジェノは早く自分の先生を一目見たくて仕方が無くなってしまったのだ。

 

 いかにも達人といった雰囲気のお年寄りだろうか?

 それとも、厳しそうな人だろうか?

 もしかすると、意地悪な人かもしれない。

 

 でも、関係ない!

 

 自分は強くならないといけない。

 そのためなら、どんなことでも乗り越えてみせる。

 

 ジェノはそう決意を新たにし、家の入口に走る。

 

 一体どんな男の人だろう?

 期待と不安を両方持ちながら、ジェノは裏庭の角を曲がった。

 

 けれど、そこでジェノは困惑する。

 家の入口には、一人の女性が立っているだけだったのだ。

 

 見間違えではない。

 兄さんと同じくらいの、十五歳くらいの女の人。

 

 紫の髪を肩の辺りで切りそろえて、黒い上着の上に、短い白いジャケットを身に着けている。

 その開かれたジャケットから分かる大きな胸の膨らみは、間違いなくその人が女の人だということを表していた。

 

「はぁ、はぁ、坊っちゃん、速すぎです……」

 ようやく追いついてきたペントが、呆然とするジェノに声をかけてくる。

 

「ペント……。あそこには、女の人しかいないよ。その、先生はどこにいるの?」

 ジェノはなにかの間違いであって欲しいと思い、ペントに尋ねる。

 

 けれどペントは不思議そうな顔をし、

「ええ。あの女性が坊っちゃんの先生ですよ」

 笑顔でそう言った。

 

 ジェノの高揚感は、音を立てて崩れていく。

 

 だが、そんなジェノの胸中など知らず、紫髪の若い女性はこちらに向かって歩いてきた。

 

「へぇ~。ペントさんが可愛い男の子だと言っていたけれど、本当に可愛いのね」

 女性は腰のスカートのベルトに剣を差している。

 どうやら、ペントの言うことは間違いないようだ。

 

「初めまして、ジェノ。私の名前はリニア。先生って呼んでくれると嬉しいわ」

 愕然とするあまり言葉を失うジェノに、リニアと名乗った少女は、満面の笑みを向けてくるのだった。



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④ 『赤い線』

 ジェノはすぐにでも、新しくやって来た剣術の先生の実力を知りたいと思っていた。

 理由は単純で、先生が年若い女の人だったから。

 

 ジェノの認識の中では、剣術とは男のものという固定概念があった。

 ペントに昔、読み聞かせをして貰った騎士物語などでも、騎士は全て男の人だ。

 それなのに、自分の先生は女の人。

 

 その実力をジェノが懐疑的に捉えてしまうのは、一般常識と照らし合わせても仕方のないことだった。

 

「坊っちゃん。まずはリニア先生をお部屋にご案内致しましょう。二階に登ってすぐ右側の部屋をご用意しておりますので」

 けれど、ペントにそう言われてしまい、ジェノは渋々、ペントと一緒に部屋を案内することにせざるを得なかった。

 

「その、お部屋にご案内します」

 ジェノは考えられる限りの丁寧な言葉をリニアに掛け、踵を返すと今まで走ってきた行程を戻り、屋敷の裏口に向かおうとする。

 目の前に、屋敷に入るためのドアがあるにも関わらず。

 

「申し訳ありません、リニア先生。当家は少し複雑なことになっておりまして……。申し訳ありませんが、裏口にお回り下さい」

「ええ。それは構いませんが……」

 リニアはそう言ったものの、その声には困惑が感じられた。

 

 ジェノはその事で、ますますこの女の先生のことを疑わしく思ってしまう。

 

 あのデルク兄さんが、うちの事情を話していないはずはない。それなのに知らないということは、兄さんの説明をきっと聞いていなかったのだろう。

 

 少しだけ歩き、屋敷の裏口から中に入る。

 そして入ってすぐの階段を登り、目的の部屋に向かう。

 

「すごいお屋敷ですね」

 その言葉に顔を少し後ろに振り向けると、リニアは興味深そうにキョロキョロと辺りを見ている。

 やっぱりジェノには、この人が強い人にはとても見えない。

 

「ここです。先生の部屋は……」

 ジェノは階段を登ってすぐの部屋に案内をした。

 

 すると、リニアは「わぁー、すごいわ」と言って、部屋の中に入っていく。

 

 その子供じみた行動に、ジェノは小さくため息をつく。

 駄目だ。この人は全然、自分が理想とする先生ではない。

 

「生活に必要なものは一通りご用意しておりますが、何か不足しているものがありましたら、このペントにお言付け下さい」

「はい。ありがとうございます」

 

 部屋に入ってジェノがリニアの姿を確認すると、彼女はベッドの具合を手で確かめながら、満面の笑みを浮かべていた。

 ジェノは再び小さく息を吐く。

 

「ペンティシア!」

 不意に、ジェノ達の耳に、甲高い女性の声が聞こえてきた。

 その声に、ペントはリニアに一礼をして部屋を出る。それに、ジェノも続く。

 

「申し訳ありません、キュリア様。ペンティシア。ただいま参りました」

 ペントが、大理石の廊下の床に引かれた赤い線を超えて、ペントと同じ侍女服を纏った、三十代半ばくらいの痩せぎすな女性の前で跪く。

 

「何をやっているのですか、貴女は。私の命じた玄関の掃除がまだ終わってないではありませんか」

「いいえ、キュリア様。私は確かに掃除を終わらせました。そして、デルク様のお客様をお迎えに出るとお伝えしていたはずですが?」

 

 ペントはこの屋敷で一番長く働いている侍女であり、仕事を誰よりも分かっている。

 そんなペントが仕事を放り出すなどということはありえない。

 ジェノはその事をよく分かっている。

 

「ですが、玄関を確認してご覧なさい。お客様が来られた際の土が残っています。今回は突然のご来訪でしたが、いついかなる時も対応できるように、貴女は常に待機しておくべきなのです。

 私の命令は主の命令。ご子息の命令とどちらを優先させるべきかは、当然分かっておりますね?」

「……はい。申し訳ございませんでした。すぐに、掃除をいたします」

 ペントは深々と頭を下げて謝罪をし、ジェノと部屋を出てきたリニアに一礼をする。

 

「ペンティシア! 早くなさい!」

 キュリアはその一礼は不要とばかりに、ペントを怒鳴りつける。

 ペントは早足で玄関に向かう。

 

 ジェノはその理不尽な行いに、怒りの表情を顔に浮かべる。

 

「ジェノ様。何でしょうか、そのお顔は」

 キュリアはツカツカと赤い線のギリギリまで歩み寄ってきた。

 

「ペントは兄さんと僕の専属の侍女だよ。それなのに、この裏口から一番遠い玄関の掃除の担当にするなんて、酷すぎるよ!」

 ジェノも怒りを隠そうともせずに、赤い線のギリギリまで足を進めて、キュリアを睨む。

 

「随分と、態度が大きくなりましたね。つい何ヶ月か前までは、ペンティシアの後ろに隠れて震えていただけだったお方が」

「僕は、今までとは違う! お前たちになんか負けるもんか!」

 ジェノは震えてくる自分の体を懸命に制御し、大声で宣言する。

 

「威勢がいいのは結構ですが、ペンティシアの働き方は、私に一任されているのです。それは、ジェノ様がどうこう口出しできることではありません。

 私にご命令できるのは、ヒルデ様――貴方のお父上だけです。なにか言いたいことがありましたら、お父上に直接お言いになってはいかがでしょうか?」

 慇懃無礼この上ない口調でキュリアは言い、口元を抑えながら笑う。

 

「丁度いいことに、お父上様は書斎におられますよ。お話に行ってはいかがですか? まぁ、この赤い線を超えて入ってきた時点で、不法侵入で自警団に突き出させて頂きますが」

「……くっ……」

 ジェノは自分の無力さを理解し、両拳を強く握りしめながら顔を俯ける。

 

「そうそう。ジェノ様はそうやって下を向いているのが大変お似合いですよ。それでは、私も仕事がありますので、これで……」

 形だけの侍女の一礼をし、キュリアはジェノに背中を向けて歩いていく。

 

 ジェノは悔しさに体を震わせる。

 そして、そこでようやく自分に向けられている視線に気づいた。

 

 

「ジェノ。どういうことなの? 説明してくれるかな?」

 そちらに視線をやると、リニアが尋ねてきた。

 

 けれど、ジェノは怒りの感情を抑え込むのが精一杯で、

 

「先生、僕たちの家は、一階も二階も、この赤い線よりもこっち側だけなんです。だから、あの線より向こう側には決して行かないで下さい。……詳しい話は、夜に、ペントがしてくれるはずですから」

 

 端的にそう説明した。

 

「僕は、やることがあるから!」

 それだけ言うと、リニアに背中を向けて、ジェノは一階に向かって走り出す。

 

 ジェノは、剣を振りたくて仕方がなかった。

 

 少しでも早く、強くなりたい。

 違う、強くなるんだ!

 

 その思いを胸に、ジェノはいつものように木剣を振るうべく、裏庭に向かうのだった。



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⑤ 『強いということは?』

 ジェノは木剣を振る。闇雲に、ただ自分の憤懣を晴らすために。

 

 腹が立つ。

 ペントを苛めるキュリア侍女長が。自分たちを蔑ろにするばかりのヒルデが。でもそれ以上に、何も出来ず、弱くて情けない自分自身に一番腹が立つ。

 

 強くなる。一日も早く。

 そうしないと、またロウの時みたいな事が起きてしまうかもしれない。

 だから、木剣を振る。これだけが強くなれる方法だと信じて。

 

 だが、そんなジェノに、

 

「はい。そこまで!」

 

 そんな女の人の声が聞こえた。

 

 ジェノが剣を振るのを止めて声の主の方を向くと、そこには笑顔のリニアが立っていた。

 

「こぉら、ジェノ。剣の練習をするのなら、このリニア先生に声をかけなさい。今日から私が貴方の先生なんだから」

 リニアは冗談めかした声で言う。それが、ジェノには不真面目な感じがして気に入らない。

 

「……ねぇ、リニア先生は強いの?」

 ジェノは思ったままのことをリニアに尋ねる。

 どう見ても、この目の前の女の人が強い人には見えないから。

 

「う~ん、どうかしらね。世界は広いから、私より強い人はいると思うな。でも、私も大抵の人には負けないと思うけれどね」

 なんともはっきりしない回答が帰ってきて、ジェノは苛立つ。

 

「僕は、強くならないといけないんだ! だから、強い人に剣術を教わりたい!」

「ふふっ。いかにも男の子らしい理由ね。うんうん。格好いいわよ」

 冗談めかしたような称賛に、ジェノは木剣を握り締めてリニアを睨む。

 

「でもね、ジェノ。一つだけ先生に教えてくれないかな?」

「なっ、何を?」

 突然の質問にジェノは驚き、リニアの言葉を待つ。

 

「君の言う『強い』って、単純に剣術や武術が優れている人ということだけなのかな?」

「……えっ? その、それは……。そっ、そうだよ。それが強いってことだよ!」

 ジェノは少し考えてそう答えた。

 

 するとリニアは、「なるほどね」と言って微笑む。

 

「……違うの?」

 不安になってジェノが尋ねると、リニアは首を横に振る。

 

「ううん。それもある意味で正解。でも、不正解でもあるわ」

 

 ジェノはその答えに、自分が馬鹿にされているのだと思った。

 

「ぼっ、僕をからかっているの! 正解だけど不正解って、意味がわからないよ!」

 激怒するジェノに、リニアは微笑む。

 

「私は、まだこの家の事情は知らない。でも、さっきペントさんは、君を守るためにあの意地悪そうな女性に頭を下げていたことくらいは分かるわよ。優しくていい人ね、ペントさんて」

 突然話を変えられ、ジェノは戸惑う。でも、ペントの事を褒められたのは我が事のように嬉しい。

 

「ペントは僕のお母さんみたいな人だもん。優しくて料理も裁縫も掃除も上手な、僕の大切な家族なんだから」

 ジェノは得意げに言う。しかし、そんなジェノにリニアは言った。

 

「でも、ペントさんは弱い人なのね。だって、武術をあの人は学んでなさそうだもの」

「えっ?」

 ジェノは驚きの声を上げる。

 

「だってそうでしょう。武術に優れている人が強い人ならば、それ以外は弱い人になるわよね?」

「……それは、その……。違うよ。ペントは……、ペントは……」

 ジェノは何とかリニアの言ったことを否定したかったが、いい言葉が浮かんでこない。

 

「うん。私も、今の君と同じ考え。ペントさんは強い人だと私も思う。武術に優れていなくても、とっても強い人だと思うな」

「……先生は、何が言いたいの?」

 ジェノには、リニアが何を言いたいのかまるで分からない。

 

「ふふっ。強いっていうのは、難しいって言うことよ」

 リニアはそう言って、ジェノの頭を優しく撫でる。

 

「よし、ジェノ。元気が有り余っているようだから、早速、このリニア先生が稽古をつけてあげるわ」

「えっ? ほっ、本当に?」

 まだこの女の人の実力は疑わしいが、稽古をつけてくれるのであれば、その実力が分かるかもしれない。

 

「でも、私の稽古は大変よ。耐えられるかしら?」

「大丈夫だよ! 僕は、負けないから!」

 

 きっと、これから自分は何度も先生に木剣で叩かれる事になるのだろう。

 けれど、そんな痛みなんかには決して負けない。

 強くなる。絶対に。

 

 ジェノはそう思い、木剣を握る手を強める。

 

 けれど、ジェノのその予想は、大きく裏切られることになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 足がプルプルと震え、全身から汗が吹き出る。

 日陰で行っているとは言っても、夏の暑さが加わり、ジェノの体は汗まみれだ。

 

「ほらっ、まだ五分も経っていないわよ」

 リニアは何やら木の棒を削りながら、にこやかな声でジェノを叱咤する。

 

「くっ、うううっ……」

 何か言い返したいが、足が今にもバランスを失って倒れてしまいそうで、ジェノは言葉を口にする余裕もない。

 

 ジェノはただ、リニアに言われたとおりに、腰を少し落とした状態で、手を前に出して立っているだけなのだが、それがこの上なく辛い。

 

「……あっ!」

 それでもジェノは懸命に頑張り続けたが、やがて足が限界を迎え、地面に倒れてしまった。

 

「はい、そこまで。やっぱり、足腰が弱いわね。ジェノ。君はもっと走り回って遊ばないと駄目よ」

 リニアは苦笑交じりに言う。

 

「……くっ……くそっ……」

 ジェノは何とかもう一度立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、立ち上がることが出来ない。

 

「無茶はしなくていいわ。少し休んでいなさい。これはすぐに改善できることではないから。でも、毎日続けていれば、必ず君の足腰は強くなるわ」

「どっ、どのくらい続ければ……」

 足全体をマッサージしながら、ジェノが尋ねると、リニアは「早くても三ヶ月くらいかしらね」と答える。

 

「足腰が強くなれば、剣術ができるようになるの?」

 ジェノが尋ねると、リニアはニッコリと微笑んだ。

 

「そうとも言えるし、そうでないとも言えるわね」

 またよくわからない回答をするリニアに、ジェノは頬を膨らませる。

 

「もう、そんな可愛く膨れないの。きちんと説明してあげるから」

 リニアは削っていた木の棒とナイフを置いて、ジェノを見つめてくる。

 

「ジェノ。君は今、座っているけれど、もしも剣を持って相手と戦おうとしたら、何をしないといけないか分かるかしら?」

 突然の質問に戸惑いながらも、ジェノは真摯にその答えを考える。

 

「ええと、まずは立ち上がって、それから……」

「はい、大正解よ! まずは立たないとね」

 ジェノの言葉を遮り、リニアは嬉しそうに拍手をする。

 

 少しの間、驚きのあまり呆然としていたジェノだったが、やがて自分が誂われているという結論に行き着いた。

 

「そんなの、当たり前だよ! 誰だって分かることじゃあないか!」

「でも、ジェノ。君はまだ立つことが出来ていない。だからまずは、立てるようにならないといけないの。剣術を学ぶのはそれからのお話。

 つまり、足腰が強くなった上で剣術を学ばなければいけないから、足腰が強いと言うだけでは剣を使えるようにはならない。でも、剣術を学ぶには、まず強い足腰がないと話にならないのよ。……って少し難しいかしら?」

 

 リニアに侮られ、ジェノは懸命に体に力を入れて立ち上がろうとする。

 今にも倒れそうだったが、何とか立ち上がることが出来た。

 

「僕は赤ちゃんじゃあない! 立つことくらいできるよ!」

 そうジェノが言うと、リニアは何故か嬉しそうに微笑み、自分も立ち上がる。

 

「残念だけれど、今の君のそれは、立てている内には入らない。『立つ』と言う意味が違うのよ。一般的な意味と武術的な意味とではね」

 リニアはそう言って、得意げに片目をつぶる。

 

「どういう事なの?」

「武術で言う『立つ』というのは、攻撃に対応ができる状態にあるということ。だから、私の立ち方が武術的な意味合いでの『立つ』ということ。そして、君の立ち方が一般的な意味での『立つ』ということ。この差は分かる人にしか分からないけれど、逆に言えば、分かる人には分かってしまうのよ」

 リニアは長々と説明してくれたが、やはりジェノには意味がわからない。

 それどころか、よくわからない理由をつけてごまかしているような気がする。

 

「まぁ、初日はこんなものね。とりあえず、今日から三ヶ月間は、朝食が終わったら、さっき教えた体勢を維持する修行を続けるわ。そして、休憩の後はお昼までお勉強。それから昼食の後は、外で思いっきり遊んでくること。いいわね?」

 リニアが今後のメニューを決めたが、ジェノにはそれが不満だった。

 

「その、先生」

「んっ? どうしたの?」

「本当に強くなれるんなら、僕はこの修業を頑張ります。それに、勉強も大事だから頑張ります。でも、遊んでいる暇があったら、僕は剣の修行をしたいです」

 ジェノがそう主張すると、リニアは苦笑した。

 

「こぉら。先生の決めたことはしっかり守らないと駄目だぞ。遊ぶことも大切な修行のうちなの」

「……分かりました」

 不承不承だが、ジェノは頷いた。

 

「はい。よろしい。それでは、本日はここまで」

 リニアが今日の修行の終わりを告げる。

 

 ジェノはそれに頷き、『ありがとうございました』と頭を下げる。

 

 

 こうして、ジェノとペントの二人だけだった生活に、新たにリニアという先生が加わった。

 

 けれど、実力が分からない女の人ということもあり、ジェノの不信感は少しずつ募っていくことになるのだった。



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⑥ 『子ども達の社交場にて』

 昼食を食べ終わったジェノは、しかたなく家を出て街に向かう。

 天気はとてもいいが、こんなことよりも剣術を学びたいとジェノは思う。

 

 二日目の今日も、ジェノは足腰を鍛えるための姿勢を続けさせられただけだったので、早く剣を振りたい。

 

「暑いなぁ……」

 ジェノは流れてくる汗を拭いながら、石畳の道を歩いて行く。

 

 ジェノの住むセインラースは、このルデン共和国の首都で大陸最大の都市である。歴史あるこの街は、千年も前から栄えてきた。

 

 海岸に面しているわけではないが、海が近いため交易も盛んだ。また内陸の土地は肥沃で、その大地の恵みが多くの人々の生活を豊かにし続けてくれている。

 戦争も、五十年ほど前に隣国との小競り合いが起こっただけで、平和な時代が続いていた。

 

 もっともそれは、誰もが幸せな時というわけではない。

 平和な時代だろうと、貧富の差は必ず生まれるし、差別というものはなくならない。

 人の世が長く続き、社会が発展していくことで、それを少なくしようとする活動もあるにはあるが、社会の発展がまた別の問題を生むことから、どの国でもイタチごっこが続いているのが現状だ。

 

「はぁ。またあいつらがいるんだろうなぁ」

 以前、こっそり街を抜け出して大変な目にあったジェノは、兄とペントに遠くに行くことを禁止されてしまっている。だからジェノが行く遊び場は、近所の子供達が集まる広場付近に限定されてしまう。

 

 比較的裕福な家が並ぶこの区域では、大きな店を構える商人の子供や下級貴族の子などが多い。だが、どんな家柄の子供であろうと、子供は子供だ。身勝手で我儘な子が多い。

 

 そんな中、ジェノのように比較的おとなしい性格の子供は、いじめの格好の的にされていた。

 まして、大きな家に住んでいるはずなのに、庶民と変わらぬ簡素な格好が多いジェノは、よくそのことをからかわれて、いじめられていたのだ。

 

 ジェノはそんな連中と顔を合わせることになるのが憂鬱で、あまりこの場所には来たくないのが本音だ。

 

「あっ、ジェノ! 久しぶりだね」

 だが、幸いなことに、真っ先にジェノを見つけて駆け寄ってきたのは、予想とは違う、彼と同年代の金色の長い髪の愛らしい少女だった。

 

 子供というものは愛らしいものだが、このマリアという少女は群を抜いている。将来は間違いなく美人になる。それが約束されているかのような可憐な容姿だ。

 それは、同年代の男の子の誰もが、彼女の気を引こうと躍起になるほどに。

 

「ああ、マリアか……。久しぶり」

 けれど、ジェノはさしたる興味もなさそうに、マリアにおざなりな返事をする。

 それが面白くなかったのだろう。マリアは頬を膨らまし、ジェノの右手を両手でギュッと握った。

 

「もう! 久しぶりに会ったのに、そんなどうでもいいような挨拶はなに? 私はジェノに会えなくて、寂しかったんだよ!」

 マリアは不満そうにジト目でジェノを見る。

 

「別に僕がいなくても、ロディやカールがいるから、遊び相手には困らないでしょう? マリアは女の子の友達だって多いし……」

「いやよ。私は、ジェノと一緒に遊びたいの!」

 マリアはそう言ってぷいっと顔を横に向けるが、その頬を少し赤く染まり、視線はジェノに向けられている。

 

「そうなんだ。それなら僕も暇だから、一緒に遊ぼうか?」

 だが、ジェノはそんなマリアの様子から何も感じることなく、淡々と言う。

 その言葉に、マリアは不満げに頬を膨らませる。

 

「もう! ジェノの馬鹿! 暇だからって何よ! 私と一緒に遊ぶのが楽しくないの?」

「いや、そんな事ないよ。マリアはロディ達と違って皆に優しいし、乱暴をしたりしないから、遊んでいて楽しいよ」

「……むぅ。少し不満だけれど、遊んでいて楽しいって言ってくれたから許してあげる」

「えっ? それってどういう事?」

 ジェノには、マリアが何を怒っていて、何を許すと言っているのかが分からない。

 

「ああ、もう! いいから行きましょう! 余計な邪魔が入らない内に、二人で」

「うん。それなら、久しぶりにリエッタさんのパン屋の方に行ってみない? 少しだけどお小遣い貰ったから、安いパンなら、二人で一個ずつ買えるよ」

「いいの! それじゃあ、別のパンを買って半分こにしましょう。食べるのは、公園の噴水の前が良いなぁ」

 マリアはそう言いながら、ジェノの手を今度は右手だけで握り、彼の左に並び立つ。

 

 パンが食べられることが嬉しいのか、笑顔になったマリアに、ジェノは笑みを返す。

 だが、そこに……。

 

「待てよ、マリア。ジェノなんかより、俺達と遊ぼうぜ」

 体の大きな少年と小さな少年の二人が、ジェノとマリアの前に立ちはだかった。

 

「ロディとカールか……」

 ジェノは心底嫌そうな顔をする。

 それは、マリアも同様だった。

 

「何だよジェノ。久しぶりだな。俺たちが怖くて一人で家での中で遊んでいたんだろう?」

 体の小さな少年――カールが、ニヤニヤとした笑みをジェノに向けてくる。

 

「相変わらず女みたいな顔しやがって。気持ち悪い奴だな」

 そう言って嘲笑う、大きな体のロディ。

 

「今日はマリアと遊ぶんだ。お前達は他所で、二人で遊べばいいだろう」

 ジェノは自分への悪口を無視して、はっきりとそう告げる。

 

「何だよ。随分と強気じゃないかよ、ジェノ。マリアの前だから、格好つけているのかよ?」

 カールがジェノを挑発するが、ジェノはそれも無視する。

 

「マリア、行こう」

「うん」

 ジェノは踵を返してマリアと目的のパン屋に向かおうとしたが、不意にロディに肩を掴まれて地面に倒されてしまう。

 幸い、ジェノが倒れるよりも先にマリアの手を離したので、彼女は倒れずにすんだ。

 

「無視しているんじゃねぇよ、ジェノ!」

 ロディは顔を真っ赤にして、さらに地面に倒れたジェノに蹴りを入れる。

 だが、ジェノは素早く体を起こして膝立ちになると、両手を交差させてそれを防いだ。体重差から少し後ろに体が下がったが、倒れはしなかった。

 

 

「この間も、そうやって喧嘩を仕掛けてきたよね。そして、泣いて帰ったのを忘れたの?」

 ジェノは静かな怒りの声とともに、ロディを睨みつける。

 

「うるせぇ! お前だってボロボロになっただろうが! あんなのたまたまだ。俺がお前なんかに負けるわけが……」

 ロディの言葉は最後まで言い終わらなかった。

 

 乾いた音がジェノの耳に聞こえた。

 そして、驚愕するロディの顔と、彼の頬を思い切り引っ叩いたマリアの姿が目に入ってきた。

 

「今日は、私はジェノとデートをするの! 邪魔しないで!」

 マリアはそう言って、ロディを睨みつける。そして、あっけにとられるカールの方を向いて、

 

「絶対に付いてこないでね。もしも付いてきたら、絶交だからね!」

 

 そう力強く言う。

 

 あまりの迫力に、カールは大人にするように、姿勢を正して「はい!」と答えた。

 

 マリアは鷹揚に頷くと、地面に膝立ちのままのジェノに手を差し伸べてくる。

 

「ほら、早くデートに行きましょう!」

「えっ? デートって?」

「いいから、早く! きちんとエスコートしてよね」

 怒っているためかは分からないが、マリアは顔を真っ赤にしてそう言い、ぷいっと顔を横に向ける。

 

 ジェノは呆然としているロディを一瞥だけし、マリアの手を取って立ち上がった。

 

「……マリアって、こんなに強かったんだ……」

 口に出したら怒られそうな気がしたので、ジェノは心の内でそう思う。

 

 そして、女の人は弱いという認識を改めるべきなのかもと考えるのだった。



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⑦ 『よく分からないもの』

 夕暮れに染まる石畳の道を歩いて、ジェノは自分の家に戻ってきた。

 いつもなら、家に入ってからペントに「ただいま」と挨拶をするのだが、今日はそれよりも先にその言葉を口にすることになった。

 

「おかえりなさい、ジェノ。ペントさんが、美味しい夕食を作って待っているわよ」

 ジェノを待っていたのか、リニアはそう言って嬉しそうに微笑む。

 

「うん。ただいま、先生」

 ジェノはそう言いながらも、何だか不思議な気がする。

 今まではほとんどペントと二人きりだったから、他の人に、「ただいま」と口にするのに違和感があるのだ。

 

「どう? 友達と遊ぶのは楽しかった?」

「うん。今日はね、マリアと一緒に遊んだんだ。あっ、マリアっていうのは、僕と同じ八歳の女の子で……」

 だが、こうやって今日の遊びの話をペント以外の人に話すのは、何故か嬉しかった。

 

 ジェノは家に入ると、手を洗って、ペントが作ってくれた美味しそうな料理が盛られた皿をテーブルに運ぶ。

 いつもは自分一人でペントの分も運ぶのだが、リニアも手伝ってくれた。

 だから、ジェノのお手伝いはすぐに終わり、あっという間に夕食の時間になった。

 

「それでは、食事の前のお祈りをしましょう」

 ペントに促されて、ジェノとリニアも神様に感謝の言葉を口にする。

 でも、ジェノはいつも神様だけではなく、美味しい料理を作ってくれるペントにも、心のなかで感謝をするのだ。

 

「はい。それでは、先生も、坊っちゃんも召し上がって下さい」

 待ち望んだペントの言葉に、ジェノはスプーンを手にとって、まずはシチューを味わう。

 

 優しい味がする。

 とっても美味しいだけではなくて、食べてほっとする味が。

 こんなに素晴らしい料理を食べられる自分は、この上なく幸せだと思う。

 

「ペント。すごく美味しいよ」

 ジェノは満面の笑顔で、ペントに料理の感想を言う。

 

「本当。昨日、夕食を頂いた時も思いましたけれど、ペントさんはとても料理が上手ですね。お店の味とは違うけれど、とても美味しくて、心が満たされる味です」

 リニアもシチューを口に運び、ペントの料理を褒める。

 

「いえいえ。素人料理でお恥ずかしい限りです。ただ、量は沢山作りましたので、よければおかわりをしてくださいね」

 ペントは嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに言う。

 ジェノも、大好きなペントが褒められて、すごく嬉しくて誇らしかった。

 

「そう言えば、坊っちゃん。今日はどんな遊びをしてきたんですか?」

 ペントがシチューを一口口にしてから尋ねてくる。

 

 こうやってペントが尋ねてきてくれて、ジェノがその日のことを話すのがいつもの展開だ。

 

「うん。今日はね、マリアと遊んだんだよ。あっ! でも、分からないことがあって、ペントに教えて欲しいと思っていたんだ」

「あら? いったい何が分からなかったのですか?」

 ペントは嬉しそうに目を細める。

 

「ねぇ、ペント。『デート』って、何なのかな?」

 無邪気にジェノは尋ねたのだが、その言葉を聞いたペントは、いや、横で聞いていたリニアも一緒に、目を大きく見開く。

 

「ぼっ、坊っちゃん。どこでそのような言葉をお知りになったのですか?」

「それは、私も知りたいなぁ」

 何故か、ペントは少し慌てたような声で尋ね返してきて、リニアは楽しそうな声でそれに賛同する。

 

「うん。今日、マリアが……」

 ジェノは今日の出来事を二人に報告した。

 

「……それでね、パン屋さんで、僕はクリームパンを買って、マリアはお砂糖のついたパンを買ったんだ。

 そして、公園の噴水まで二人で歩いて行ってベンチに座って二人で半分個にして両方食べようとしたんだけれど、そのときに、マリアが、口を開けて、パンを食べさせてって言ったんだ」

 ジェノはただ淡々と説明しているだけなのだが、ペントとリニアは、何故か食入り気味にこちらの話を聞こうとしてくる。

 

「僕は、『赤ちゃんじゃないんだから、自分で食べられないの?』って言ったら、マリアは顔を真っ赤にして怒って、『デートだからこれでいいの!』って言って……」

 

「そっ、それで、坊っちゃんは、どうなさったんですか?」

「そのマリアちゃんに、食べさせてあげたの?」

 

 いつもならのんびりと話を聞いてくれるペントも、どこか飄々としたリニアも、話の続きを言うように急かす。

 「デート」というものが分からなくて、教えてほしいのは自分の方なのにと思いながらも、ジェノは話を続ける。

 

「うん。食べさせてあげたよ。そうしたら、何故かマリアの機嫌が直ったんだ。でも、今度は、自分が食べさせてあげるって言ってきかなくて……。僕は自分で食べられるのに。

 その事を言うと、また怒り出して、『デートだから、こうやって食べないと駄目』って言うんだ。おかしいよね?」

 ジェノがそこまでいうと、ペント達に今度こそ「デート」とは何かを尋ねようとしたのだが、ペント達はますますジェノに顔を近づけてくる。

 

「坊っちゃんは、マリアちゃんに食べさせてもらったんですか?」

「うん。赤ちゃんみたいで恥ずかしかったけれど、食べたよ。でも、そうしたらマリアが……」

「何? ジェノ、マリアちゃんはどうしたの?」

 リニアに肩を掴まれて尋ねられたが、どうしてこんなに慌てているのか、ジェノには分からない。

 

「それがね、マリアは目をつぶって、口を僕に向けて来たんだ。ただ、残りのパンは僕のだよ、って言ったら、また怒り出してしまって……」

 ジェノの話をそこまで聞いたペントとリニアは、顔に手をやって天を仰いだ。

 

「あの、ペントさん。この国の女の子って、皆こんなに情熱的なんですか?」

「あっ、いえ。少なくとも私の若い頃は、そんな子はいなかったかと……」

 二人の会話の意味が、ジェノにはやっぱり分からない。

 

「その、ペントさん。少し早いかと思っていたんですが、あくまでも一般教養の範囲にしますので、この辺りのことも、他の勉強と一緒に教えてもいいですか?」

「ええ。お願い致します」

 リニアとペントはそう言うと、疲れた顔で食事を再開し始める。

 

 何も分からず、そして二人が何も教えてくれないので、ジェノも食事を再開し、無邪気な顔で料理に舌鼓を打つのだった。



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⑧ 『先生の実力?』

 ジェノの家に、新しい家族が出来て一ヶ月が経過した。

 

 新しい家族の名前はリニア。

 ジェノの先生となってくれた人。

 

 ジェノが熱望していたため、ペントが彼女のことを紹介するときに、剣術の先生だと言っていたが、それ以外の読み書きや数字の勉強もリニアが教えてくれることになった。

 今まではペントがジェノにそれらを教えてくれていたのだが、先生が来てくれたおかげで、ペントは自分の仕事に専念できるようになったようだ。

 

 この一ヶ月間、同じ屋根の下で生活をして、ジェノはリニアの事が少し分かった気がする。

 その結果として、彼女に対するジェノの感想は、『優しくていい人』だった。

 

 勉強の教え方はすごく丁寧でわかりやすいし、たまに彼女が話してくれる異国の話はとても興味深くて楽しい。

 そして、ジェノの置かれた境遇も理解してくれている。

 

 この広い屋敷の僅か五部屋だけが、ジェノ達家族が自由にできる空間だということも理解してくれた。そして、その理由を聞いて、理不尽なジェノの父親に対して怒りをあらわにしてくれたのだから。

 

 けれど、どうしても分からない事がある。そのせいで、ジェノは未だに心からこの先生のことを、リニアの事を信用できずにいた。

 

 それは、すごく単純な理由。

 人に武術の指導ができるほど、リニアが本当に強いのかどうかが分からないから。

 

 

「ほらっ、腰が高くなってきているわよ。キツイだろうけれど、もう少し頑張って」

 リニアに言われ、ジェノは腰を低く下ろす。

 

 まるで椅子にでも座っているかのような体勢をずっと続けるのは、かなり大変だ。だが、この一ヶ月間で少しは慣れてきた。

 

「よし、ひとまずそこまで!」

 リニアのその言葉に、ホッとしてしまい、ジェノは足の力が抜けて地面に尻餅をついてしまう。

 それでも、何とか震える足に力を入れて懸命に立ち上がり、ジェノは何でもないかのように姿勢を正す。

 

 そんな強がりをするジェノを、リニアは微笑ましげに見ると、

 

「よしよし。偉いわよ、ジェノ。五分は大体安定してできるようになってきたわね。うん、ご褒美に先生がぎゅっとしてあげよう!」

 

 そう言って抱きしめてくる。

 

「先生、暑いし苦しいよ」

 身長差の関係上、リニアの大きな胸が顔に当たって苦しいので、ジェノは文句を言う。

 

「もう。そんな事言わないの。……ああっ、本当に抱き心地が良いわね」

「だから、暑いし苦しいってば!」

 ジェノは怒ってリニアの手から力づくで逃れる。

 

「もう! 抱きしめられるのは、ペントだけで十分だよ」

 ジェノは口を尖らせる。

 

 昔からペントは、ジェノをよく抱きしめようとする。

 別にそれが嫌だというわけではないが、自分はもう八歳なのだ。言葉もはっきり喋れないような小さな子達とは違う。

 それに、そんな姿を誰かに見られたらすごく恥ずかしい。

 

「だって、そのペントさんが教えてくれたんだもの。君の抱き心地が良いって。まぁ、これも先生と生徒のスキンシップの一つよ」

 けれどリニアは反省した様子もなく、楽しそうだ。

 

「さて、冗談はこの辺りにして。ジェノ。君はこの練習を、空いている時間にこっそりと続けていたわね?」

 リニアは少し怒ったような顔で尋ねてくる。

 

「……はい。続けていました」

 叱られると思い、ジェノは罰が悪そうな表情を浮かべる。

 

「そう。素直なのは大変よろしい。そして、そうやって自分から努力しようとするのも悪いことではないわ。特にこの練習は、空いた時間を見つけて簡単にできるし、きちんとやれば健康にも良いから、どんどんやってもいいわよ」

「えっ! いいの?」

 ジェノが瞳を輝かせると、リニアは「で・も・ね」と言って、ジェノの頭に、ぽんっと手を置く。

 

「今度からは、先に先生に確認を取らないと駄目よ。これからやっていく修行の中には、やりすぎると体に悪影響を及ぼすものもあるから。特に君のように幼いうちはね」

「……はい」

 ジェノはそう答えながらも、心のなかで、もやもやとし続ける気持ちをこれ以上留めておくことができなくなってしまう。

 

「あの、先生……」

「んっ? どうしたの、ジェノ?」

 ジェノは思い切って、その気持ちをリニアにぶつけることにした。

 

「僕は先生が剣を使うところを見たことがありません。だから、その、分からないんです。先生が本当に強い人なのかどうか……」

 きっとすごく失礼なことを訊いているとジェノも思う。でも、尋ねずにはいられなかった。

 

「ああ~っ。ひどいなぁ。先生の力を疑うなんて駄目だぞぉ」

 リニアは冗談めかして言うが、ジェノは真剣な目で、「先生!」と声を掛ける。

 すると、リニアは苦笑した。

 

「ジェノ。君は心配なのね。このまま私の言うとおりに修行をしても強くなれないんじゃあないかって。そうでしょう?」

「はい、そうです。先生は僕の兄さんと同じくらいの歳で、その、女の人だから……」

 自分だけではなく、人々の多くが、剣を持って戦うのは男の人だと思っているはずだとジェノは思う。

 

「そっか。うん。それなら、今回は先生のとっておきの技を見せてあげよう。その代わり、先生の質問に一つ答えて欲しいな」

「えっ? 先生が剣を使うところを見せてくれるの? うん。それなら、何でも答えるよ」

 ジェノは嬉しそうに言う。

 

「契約成立ね。危ないから、少し離れていてね」

「はい!」

 ジェノは満面の笑みで返事をする。

 

 リニアが良いという位置まで下がり、ジェノはリニアを見つめた。

 絶対に先生の剣技を見逃さないようにと、瞬きもせずにじっと見つめ続ける。

 

「それじゃあ、やるわね」

 リニアはそう言った瞬間、素早く腰を落として前傾姿勢を取り、腰の剣を右手で握る。

 

 ジェノは固唾を飲みながら、リニアが剣を抜くのを待つ。

 

 ……だが、何故かリニアは、また元の体勢に戻り、

 

「はい、おしまい」

 

 と言って、ジェノに笑みを向けた。

 

「えっ? えっ? なんで?」

 ジェノには訳がわからない。

 

「ふふ~ん。見えなかったでしょう? 実は先生は、君に気づかれない速さで、すでに剣を抜いていたのだよ」

 リニアはそう言って笑うが、ジェノはそんな言葉では納得がいかない。

 

「嘘を言わないでよ! 先生は、剣を握っただけじゃあないか!」

 ジェノは激怒して言うが、リニアは首を横に振る。

 

「嘘なんて言っていないわよ。本当に剣を抜いたんだから。でも、残念なことに、修行不足の君の目にはそれが見えなかったというわけね」

 リニアは笑って言うと、膨れるジェノの元まで歩いてきて、宥めるように彼の頭を撫でる。

 

「よし。約束だったわね。先生が今から質問をするから、答えてね」

「ずるいよ……」

 ジェノは不服そうに、リニアをジト目で見る。

 

「もう、そんなに剥れないの。それに、これは正当な契約なんだから、きちんと守らないと駄目よ」

 リニアは茶目っ気たっぷりに片目をつぶって言うが、ジェノは釈然としない。するわけがない。

 

「早速、質問をさせてもらうわね」

「……うん」

 ジェノは面白くなさそうに応えたが、リニアの質問の内容に、真面目にならざるを得なかった。

 

 彼女はこう尋ねてきたのだ。

 

「どうして君は、そんなに焦って強くなろうとしているの?」

 

 と。



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⑨ 『理由』

 ジェノはリニアに話をした。自分が強くなりたい理由を。

 

 昨年に、ゴブリンと呼ばれる魔物二匹に殺されそうになったこと。そして、その際に一番仲良しの友達だった愛猫のロウが、自分を守るために戦い、ゴブリン達に殺されてしまったことを。

 

「なるほどね。そんな事があったんだ」

 リニアは同情するではなく、悲しむでもなく、そう言って頷いた。

 そして、ジェノに質問を投げかけてくる。

 

「ねぇ、ジェノ。もしも剣を使えるようになったら、君はそのゴブリンという魔物を沢山殺したいと思うのかな?」

「……えっ?」

 思いもかけない問に、ジェノは驚く。

 

「あら、どうして驚くの? 剣を使えるようになるっていうのは、上手く相手を殺せるようになるという事よ。そして、それはもちろん魔物だけではなくて人間相手でも同じよ。

 たとえば、君に嫌がらせをしてくる友達……ロディ君だったかしら? その子も殺せるわ。ああ、でも、それよりも優先する相手がいたわね」

 リニアは笑顔でとんでもないことを喜々として語る。

 

「やっぱり最初は、優しいペントさんを苛める、あのメイド長のキュリアさんかな? それとも、子供を愛そうともしないで、君とお兄さんとペントさんに嫌がらせをし続けてくるっていう、君のお父さんかな?

 まぁ、見つかったら大変だけれど、上手く見つからないようにやれば、自警団の人達も、幼い君が殺したなんて想像も出来ないはずだものね。だから、君は剣術を早く覚えたいと思っているのかな?」

 笑顔を微塵も崩さずに言うリニア。

 

 ジェノはそんなリニアを怖いと思ったが、勇気を振り絞る。

 

「違うよ! 僕は、そんな事を思っていないよ!」

 ジェノは大声で、リニアの発言を否定した。

 

「あらっ、違うの? でも、そういった理由で剣を学ぼうとする人も世の中にはいるのよ。おそらく、君が想像しているよりも沢山ね。

 そして、私はそういう人達も否定はしないわ。さっきも言ったように、剣術って上手く相手を殺すための方法なんだもの」

 リニアはやはり笑顔で言う。それが、どうしようもなく怖い。

 

 でも……。

 

「僕は剣を覚えたら、強くなったら、皆を守れるようになりたいんだ! もう、目の前で誰かが傷ついて死んでいくのを、ただ黙って見ているのなんて嫌だから」

 懸命に訴える。笑顔を崩さないリニアに向かって。

 

「僕が剣を使えるようになりたい理由はそれだけだよ。僕は、キュリアも、お父さんも嫌いだ。でも、嫌いだから殺すなんて間違っている! 誰だって、斬られたら痛いんだ。苦しいんだ。だから、僕はそんなことはしない!」

 ジェノは言いたいことをすべて言い、震える体に活を入れてリニアを睨む。

 

「……うん。そうなんだ。それが、君の考えなのね」

 リニアはそう言うと、楽しそうに微笑んだ。

 先程までの、怖さを含んだ笑顔ではなく、心から嬉しそうに。

 

「うんうん。格好いいわよ、ジェノ。その歳でそこまで言えるとは、先生驚いちゃったわ」

 嬉しそうにリニアはジェノに近づいてきて、ジェノの体を抱きしめた。

 

「まったく。君は自分の考えを内側に溜め込みすぎよ。もう少しだけでいいから、相手にも伝わるようにしなくちゃあ、分からないわよ」

 

 その言葉に、話したつもりでいただけで、自分は先生に何も伝えていなかったことに、ジェノはようやく気がついた。

 

「その、ごめんなさい……」

「ふふっ。素直でよろしい」

 リニアはジェノの体を離し、ジェノに片目をつぶって言うと、「それじゃあ、もう一つだけ先生に話してくれないかな」と言葉を続ける。

 

「えっ、何を?」

「君のお父さんとお兄さんのことについて。ペントさんから大筋では聞いているけれど、先生は君の口から聞きたいなぁ」

「はい。分かりました」

 ペントから聞いているのに、どうして自分の口から聞きたいのか分からない。しかし、ジェノはリニアの要望に応え、説明する。

 

 ジェノの父親であるヒルデは、一代で大商会を立ち上げるほど商才に溢れた人物だったが、人間的には決して褒められた人物ではなく、冷徹で、冷酷で、金にがめつい男だった。

 

 それでも、ジェノの母親であるイヨのことは、彼も少しは愛していたらしい。けれど、自分の血を分けた子ども達には愛情がまったくなかった。

 そのため、イヨが病で亡くなると、ジェノと彼の兄達を家から追い出そうとした。

 

 けれど、母のイヨと仲の良かったペントが、自分がこの子達を育てると名乗り出た。

 そして、せめてジェノがもう少し大きくなるまでは、母親の生活していたこの家に置いて欲しいと懇願したのである。

 

 ヒルデがどうしてそのペントの願いを聞き届けたのかは分からない。

 世間体をいまさら気にするような人間ではなかったので、おそらくは息子達の存在を商売敵に利用されるのを嫌ったのではないかというのがもっぱらの噂だ。

 

 だが、金にがめついヒルデは、ペントに家の部屋の使用料を毎月請求すると言ってきた。

 ベテランの侍女ということもあり、ペントもそれなりの給金を得ていたが、それでもかなり厳しい金額設定だった。

 

 ペントを助けるために、ジェノの兄デルクが、七歳でヒルデの商会の見習いになって仕事を始めた。二束三文の給金だったが、それでもかなり助かったらしい。

 

 さらに成長するにつれて、デルクはその才能を開花させ、十五歳になった今では、並の職員以上に仕事をこなし、誰からも一目置かれる存在になっている。

 ジェノの自慢でもあり、目標でもある大好きな兄さんだ。

 

 

「……なるほどね。君のお父さんはそんなことをしているのね。そして、ペントさんとデルクさんが頑張って、君を守ってくれているのね」

 決して上手い説明ではなかったが、ジェノの話をリニアは理解してくれた。

 

「はい。だから、僕は早く一人前になって、ペントと兄さんに協力できるようになりたい。

 本当は、兄さんはもう僕の歳の頃には働いていたんだから、僕も働きたいのだけれど、ペントも兄さんも、家のことは心配ないからって言って認めてくれなくて……」

 ジェノは顔を少し俯ける。

 

「その事が不満なの?」

「ううん。違うよ。ペントと兄さんが僕のために言ってくれていることは分かっているもん。だから、僕は今、勉強と剣術を頑張りたいんだ」

 満面の笑みを浮かべて言うジェノの頭を、リニアは優しく撫でてくれた。

 

「よぉ~し。ジェノ。君の気持ちはよく分かったわ。それなら、先生も今まで以上に協力しちゃう」

「えっ? 本当?」

「ええ。嘘は言わないわ。今日は午前中の勉強はお休みにして、先生のとっておきを教えてあげるわ」

 ジェノはリニアの言葉に目を輝かせる。

 

 ようやく、剣を握らせてもらえるのだろうか?

 うん。きっとそうだ。

 その上、とっておきと言うからには、すごい技に違いない。

 

 ジェノは高揚感を隠せずに、嬉しそうに両手を強く握る。

 

 ……けれど、ジェノのその期待は、また裏切られることになってしまうのだった。



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⑩ 『先生のとっておき』

 まただ。

 また騙された。

 

 ジェノは頬を膨らませて、リニアを睨む。

 だが、リニアはそんなジェノの膨らんだ頬をツンツンと突いて楽しそうに微笑んでいる。

 

 ジェノもおかしいとは思った。

 外での修行を切り上げて、わざわざ家の中に入るようにリニアに言われたときに。

 でも、それはきっと誰にも見せない秘密の技なのだろうと自分を納得させた。

 

 そして、家に入るとすぐに、手をしっかり洗うように言われた。

 外から帰ったら手を洗う。それは当たり前のこと。だから、それも受け入れた。

 

 全ては、先生が言う「とっておき」を覚えるために。

 今よりも強い自分になるための技を教わるために。

 それなのに……。

 

「ふっ。さすが私ね。サイズもぴったりだし、ばっちり似合っているわ」

 リニアは自分のセンスを自画自賛する。だが、ジェノはこんな物が似合っても嬉しくない。

 

 ジェノとリニアが今いるのは、家の台所。

 そしてジェノは、リニアに手渡された青いエプロンを身に着けている。リニアが身につけている白色と色違いの物を。

 

「というわけで、今日はこのリニア先生のとっておきの料理の作り方を教えてあげちゃう。だから、頑張って作りましょうね、ジェノ」

「……どうして、僕が料理を作らないといけないの?」

 ジェノは心底面白くなさそうに抗議の声を上げる。

 

「だって、君は料理を作ったことがないでしょう? それじゃあ強くなれないのよ」

「料理を作れるようになれば、剣術が上手くなるっていうの? そんなの信じられないよ!」

 ジェノが不満を口にすると、リニアはキョトンとした顔をし、

 

「もう。何を当たり前のことを言っているの? 料理を作れるようになっても、剣術が上達する訳がないじゃない」

 

 と言う。

 それがジェノには腹立たしい。

 

「僕は、先生が『とっておき』を教えてくれるって言うから楽しみにしていたんだ。僕の話を聞いて、協力してくれるって言ったのに……」

 ジェノは恨みがましく文句を口にする。

 

「こら。そんな風に文句ばかりを言って、いい加減な気持ちで取り組んだら、強くなれないわよ」

「だって、料理ができるようになったって、強くはなれないんでしょう? それに、僕は男だよ」

 乗り気ではないジェノ。だが、そんな彼に、リニアはまたおかしなことを言い始める。

 

「えっ? 誰が強くなれないなんて言ったの? 強くなれるわよ、もちろん。それと、料理をすることに、男だからとか女だからとか関係あるのかしら?

 あっ、もしかして、男の子はお腹が空かないのかな? そっかぁ、先生もそれは知らなかったなぁ~」

 リニアはさも驚いたという表情で、ジェノを誂ってくる。

 

「言っていることが無茶苦茶だよ! 先生が言ったんだよ! 料理ができるようになっても、剣術が上手くなるわけがないって!」

「ええ。そう言ったわね。でも、強くなれないとは言っていないわよ」

「えっ? えっ? どういう事?」

 ジェノにはリニアの言わんとしていることが分からない。

 

「これは、私がこの家に初めて来た時に、君に質問したのと同じ事よ。明日まで時間を上げるから、少し考えてみなさい。先生からの宿題よ」

 リニアはそう言って片目をつぶる。

 

 だが、ジェノは、いくら考えても、先生が言っていることの意味が分かりそうもない。

 

「こらこら、これは宿題だって言ったでしょう。時間がないから、早く料理づくりを始めるわよ」

「……はい」

 ジェノは不承不承頷く。

 

「だから、そんな顔をしないの。料理をする時も、一生懸命に心を込めてやらなければ駄目なんだから」

「……でも……」

 渋るジェノに、リニアは困ったように笑う。

 

「こ~らっ。君は私に教えてくれたじゃあない。『皆を守れるようになりたい』って。それなら、料理を覚えれば、少なくともペントさんを助けることはできるわよ」

「ペントを? どうして?」

「ペントさんはいつも頑張って働いて、その上私達の食事も作ってくれている。料理をした事がない君には分からないかもしれないけれど、これはとても大変なことなのよ。

 それに、ペントさんだって風邪などの病気になってしまうこともあるはずよ。そんな時に、君は体調の悪いペントさんに、料理を作らせるの?」

 

 その一言に、ジェノは驚愕した。

 

 今まで、ペントはずっとおいしい食事を作り続けてくれていた。でも、ペントだって体調が悪い時もあったはずだ。

 それなのに、ペントはずっと笑顔で自分を心配させないようにと頑張ってくれていたんだ。

 

「……僕は、そんなこと、考えたこともなかった……。どうして分からなかったんだろう」

 ジェノは自分の愚かさを恥じる。

 

「それは仕方がないわよ。君はまだ子供なんだから。でも、こうして一つずつでいいから、しっかりと学んで行きなさい。

 そして、学ぶためには、しっかり勉強をしなさい。体を鍛えなさい。そして思いっきり遊びなさい。学ぶというのは、勉強の時間だけする事ではないのだから」

 ジェノがリニアの言葉に頷くと、リニアは微笑む。

 

「よぉし。分かったところで、今日はペントさんが驚くような昼食を私達二人で作りましょう。先生のとっておきのメニューだから、すごく美味しい料理なのよ」

「うん。僕、頑張るよ!」

 ジェノは気合を入れて、自分の胸の前で、ぐっと手を握りしめるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「さぁ~て。それじゃあ、やっていきましょう。本当は生地を作る所から教えてあげたいんだけれど、今日は時間がないから、それは今度にして、私が昨日作っておいた物を使うわね」

「はい!」

 ジェノは気持ちを新たにし、真剣な表情でリニアに返事をする。

 

「うん。いい返事よ。それじゃあ、まずはこの生地を切っていくわね」

 保温庫から取り出した、太い棒状の真っ白い塊を、リニアは一センチ幅程度に綺麗に等分していく。

 

「そして、これを伸ばしていくんだけれど、まずはこの大きなまな板に粉を掛けておくことが大事よ。これは『打ち粉』というの。覚えておいてね」

「はい。覚えます」

 

 ジェノの声に満足そうに頷き、リニアは打ち粉をしたまな板の上に、先程切った生地の一つを置くと、それを掌で潰した。

 

「ふふん。ここからが先生の腕の見せどころよ」

 リニアはそう言うと、木の棒を使って、潰した生地を伸ばしていく。そして今度は生地を回転させてまた伸ばしていく。

 

「後はこれの繰り返しだから、仕上げてしまうわね」

 リニアはそう言うと、凄まじい速さで作業を行い、潰れて二センチ弱ほどだった生地を、あっという間に薄く伸ばして、四倍以上の大きさの綺麗な円状に伸ばしてしまった。

 

「すごい……」

「そうでしょう、そうでしょう。見た目の割に結構難しいのよ、これ。君もやってみたら分かると思うわ」

 リニアはそう言って、ジェノを手招きしてキッチンの中央に、まな板の前にこさせると、いつの間に持ってきたのか、彼を木製の台の上に立たせる。

 

「こんな時のために先生が作っておいた、ジェノ専用の踏み台よ。これなら手が届くでしょう?」

「はい。ありがとうございます」

 ジェノはお礼を言い、まな板にきちんと手が届くことを確認する。

 

「はい。それじゃあ、早速やってみましょう。大丈夫よ。最初は失敗して当たり前なんだから。思い切ってやってみなさい。」

 ジェノがその言葉に頷くと、リニアは生地の一つをまな板の上に置いて、それを潰した。

 

 生まれてはじめての作業に緊張する。

 けれど意を決して、ジェノは先程見たリニアの手の動きを思い出して、木の棒の左右を両手で持って生地を伸ばしていく。

 すると、生地は上手く均等に縦に伸びてくれた。

 

「おおっ! 上手。すごく上手よ、ジェノ。それじゃあ、次は生地を回転させるの」

「こうですね。そして、また伸ばして……」

「そうそう。あとはそれの繰り返しよ」

 

 ジェノは言われるがまま作業を繰り返す。

 すると、あっという間に、リニアが作ったものと遜色のない大きさにまで伸びた。

 

「すごい、すごい! 初めてとは思えないわ。ジェノ、もう一回やってみて。今度は潰す所からやってみましょう」

「はい!」

 

 リニアが褒めてくれたのが嬉しくて、ジェノはリニアがまな板の上においてくれた生地の一つを小さな手のひらで潰し、また生地を伸ばしていく。

 すると、先程よりも速い速度で生地を伸ばしきることが出来た。

 

「これは驚いたわ。手つきがすごくいい。一度見ただけで、ここまでできるなんて……」

 リニアのびっくりする顔が珍しくて、ジェノは微笑む。

 

「……うん。ジェノ、しばらくの間、生地を伸ばす作業をお願いしてもいいかしら? あらかじめ丁度いい大きさには切っておくから。その間に、私はその皮で包む中身を作るから」

「はい。頑張ります!」

「うん。頼もしいわね。でも、ゆっくりでいいからね。あまり調子に乗って頑張りすぎると、腕が痛くなってしまうかもしれないわよ」

 

 リニアの忠告に、「はい」と頷いたジェノだったが、リニアに頼りにされたのが嬉しかったため、ついつい張り切りすぎて、あっという間に、生地を全て綺麗に伸ばしてしまった。

 

「なっ! もう終わっている。ゆっくりでいいって言ったのに。後で痛くなっても知らないわよぉ」

 リニアはそう言ったものの、「でも、助かったわ、ジェノ」とお礼を言ってくれた。

 それがジェノは本当に嬉しかった。

 

「手はまだ動くかしら? それなら、先生が作ったこの中身、つまりは『餡』ね。これの包み方を教えてあげるから、一緒にやりましょう」

「はい!」

 ジェノは元気よく応えて、リニアの指示を仰ぐ。

 

 本当は少し腕が痛かったが、ジェノは生まれてはじめてする料理というものがとても楽しかったので、もっと続けたいと思った。

 

 そして、皮に餡を詰める作業も瞬く間に覚えてしまい、リニアから、「ぬぅ、私より上手いかも」と舌を巻かれることになるのだった。



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⑪ 『新たな誓い』

 餡をジェノが作った皮で包んだその料理は、リニアいわく、ギョウザと言うらしい。

 聞いたこともない料理だが、リニアのお母さんが東方の国の出身らしく、そこの料理なのらしい。

 

「お湯を入れるの?」

 火を使うのはまた今度ということで、リニアがフライパンを使ってギョウザを焼いてくれていたのだが、まさかお湯を入れるとは思わなかったジェノは、興味深そうに目を輝かせて尋ねる。

 

「そう。こうして蓋をして、『蒸し焼き』という焼き方で焼いていくのよ。ふふっ、面白いでしょう?」

「うん! ……あっ、その、でも、僕は剣術のほうが良かったけれど……」

 なんだか面白いと認めるのが悔しくて、ジェノはそう取ってつけたように言って口を尖らせる真似をする。

 そんな自分に、リニアが微笑ましげな視線を向けている事に気づくことなく。

 

「わっ! なんだか音がしてきたよ。パチパチって!」

「そこに気づくとは、偉いぞぉ、ジェノ。この音がしてきたら、水分が飛んだ合図。そして、皮が透明になっていることを確認するのよ」

「本当だ! 白かった皮が、透明になっている!」

 ギョウザが完成に近づくと、悔しさもどこへやら、ジェノは興奮を隠しきれずに喜ぶ。

 

「こらこら、そんなに顔を近づけたら危ないから、少し離れて。これから最後の仕上げをするんだから」

「はい」

 リニアに言われるがまま、ジェノは踏み台をずらして、少し離れた所からフライパンを見ることにする。

 もう、ジェノの視線はギョウザから離れない。

 

「水分を飛ばしたら、油を少し入れる。ただ、ギョウザには掛からないようにフライパンのフチから回すように入れるの。こうして、ギョウザをカリッと焼いていくのだよ」

「……すごくいい匂いがする」

 ジェノは思わずよだれが出てきそうになってしまう。

 

「もうすぐできるわよ。楽しみにしていてね」

「はい! ……あっ、でも、先生。ペントが仕事から戻ってきた時に、一緒に食べたいです」

 いつも食事は皆で食べるもの。ペントだけ仲間はずれにするのは絶対に駄目だ。

 

「大丈夫よ。これは味見。つまり、きちんと出来ているかの確認のために食べる分だから。それと、この料理は熱い内に食べないと、とても味が悪くなってしまうの。

 だから、ペントさんが戻ってきたら、それから皆で本格的に食べる分を焼くから安心して」

 

 自分が初めて手伝った料理がどのような味か、気になって仕方がなかったジェノは、「そういうことなら……」とすぐに納得する。

 

「はい。先生と生徒の合作、焼きギョウザの完成よ」

「うわぁ~。これが、ギョウザっていう料理なんだ」

 ジェノは皿に盛り付けられたギョウザに感嘆する。

 

「ちょっと行儀が悪いけれど、味見だから、このまま台所で食べてみましょう」

 リニアはそう言いながら、一番小さな皿を二枚出してきて、そこに見慣れない瓶に入った赤とも黒とも言えない液体を注ぐ。

 

「先生、これって?」

「これは、醤油。ギョウザを食べるときには、これにつけて食べるの」

「ショウユ?」

「ほらほら、説明は後々。せっかくの焼き立てを食べないともったいないわ」

 リニアは、「味見だからお祈りもなしね」と言って、二本の細い木の棒を手にしたかと思うと、それを器用に使い、ギョウザとギョウザを繋ぐパリパリとした部分を割っていく。

 

「さぁ、どうぞ。食べたら驚くわよ。でも、熱いから気をつけてね」

 全部のギョウザを個別に分けて、リニアはジェノに食べるように促す。

 

 ジェノは未知なる食べ物を口にする不安と期待を胸に、フォークでギョウザの一つを刺して、醤油という名の液体につけてから口に運ぶ。

 

「ふぁっ、あっ、あふっ……」

 口に入れた瞬間、熱さが最初にジェノの口に広がった。でも、それから肉と野菜の美味しさが、口いっぱいに広がってくる。

 それに、皮のカリッとした食感も噛んでいて楽しい。

 

「すごい! すごく美味しい!」

 ジェノは自分の正直な気持ちを口にし、満面の笑顔を浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 昼食時の少し前に、ペントが戻ってきた。

 ペントはすぐに料理を作りますと言ってくれたが、リニアがペントに今日の昼食は任せて欲しいと言ってくれた。

 

 ペントは驚いていたが、ジェノとリニアはお互いの顔を見合わせて、ニンマリと笑う。

 

 そして、あっという間にリニアがギョウザを焼いてくれて、いつもよりも早い時間の昼食となった。

 

「はい、ペント。これは、ショウユって言うんだよ。これにつけて食べてね。それと、すごく熱いから、気をつけないと駄目だよ」

 食事前のお祈りが終わると、先程教えてもらったばかりの知識を披露し、ジェノは自分の分を食べるよりも先に、ペントの前に醤油の入った小皿を給仕する。

 そして、ペントがギョウザを口に運ぶのを、今か今かと期待に満ちた表情で見つめ続ける。

 

「こぉら、ジェノ。そんなに見つめられてしまったら、ペントさんが食べにくいでしょうが」

 リニアにそう注意されたが、彼女もペントの感想が気になるようで、横目でペントを観察している。

 

 ペントはそんなジェノ達に苦笑しながらも、ギョウザをフォークに刺して、息を吹きかけて冷ましてから口に運ぶ。

 

「……ああ、これは、すごく美味しいですね。肉と野菜の味がすごく良く出ていますし、食感も素晴らしいです」

 ペントは満面の笑みを浮かべて、ギョウザを絶賛した。

 

「このギョウザという料理は、私の母の生まれ故郷の料理なんです。オリジナルのレシピでは、香りの強い野菜をたくさん入れるのですが、午後からの仕事もありますので、匂いがしないようにアレンジしています」

 リニアの説明を受け、ペントは「そうなのですね」と頷いて微笑む。

 

「そして、この料理は私だけが作ったものではありません。ジェノが協力してくれました」

「えっ? 坊っちゃんが?」

 ペントは驚き、ジェノに視線を向けてくる。

 

「うん。火を使うのは危ないから先生がやってくれたけれど、この皮は僕がほとんど作ったんだよ」

 ジェノは少し得意げに言う。

 

「ジェノ坊っちゃんが料理を……。そんな、料理はこのペントにお任せいただければ……」

「ううん。僕ね、皆を守れるようになりたいんだ。そして、その皆には、もちろんペントも入っているんだよ。

 ペントが病気になってしまったときには、僕が料理を作れるようになる。だから、今度、僕に料理を教えて。僕、頑張るから」

 ジェノが満面の笑みで言うと、ペントは顔を抑えて泣き出してしまった。

 

「ぺっ、ペント! どうしたの? お腹が痛いの?」

 ジェノは心配して席を立って、ペントに駆け寄る。

 

「いえ、いえ。大丈夫です……」

「本当?」

「ええ、ええ。こんなに美味しい料理は初めてで、ペントは感激してしまいました」

 ペントは涙を拭うと、「ペントは大丈夫ですから、坊っちゃんもお食べ下さい」と言って、ジェノにも食事をするように促してくる。

 

 まだ心配だったが、ペントが再びギョウザを口にしたので、ジェノも席に戻る。

 

「ジェノ、冷める前に食べなさい」

「はい、先生!」

 リニアに言われて、ジェノも食事を開始する。

 

 先程の味見でも思ったが、やっぱりすごく美味しい。

 そして、それを作るのを自分が手伝ったという事実が、さらに料理を美味しくしてくれる。

 それに、ペントと先生が美味しそうに食べているのを見ていると、もっと美味しく思えるから不思議だ。

 

「料理か……。うん。これも頑張ろう!」

 ジェノは新たな誓いを胸に、楽しい食事を続けるのだった。



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⑫ 『理不尽なこと』

 リニアがジェノの家にやってきて、二ヶ月が過ぎた。

 この国の夏は長いので、まだ暑い日が続いている。

 

 今日も剣術の修行をして、勉強を頑張り、ペントの作る昼食の手伝いを先生と一緒に行った。そして、広場に遊びに来たのだ。

 

 つい先程まで皆で鬼ごっこをしていたのだが、一緒に遊んでいた三人の兄弟が、母親に買い物に行くと言われて抜けてしまい、人数が一気に抜けて面白くなくなってしまったので、そのまま解散となってしまった。

 

 こればかりは仕方がないので、ジェノは涼しい公園の噴水まで一人で歩いてきて、こうしてベンチに座って休んでいる訳だ。

 

「先生が来てから、毎日が楽しいけれど……」

 

 日々、充実はしている。

 勉強はすごくためになるし、料理の手伝いも面白い。友達と遊ぶのだって、和を乱すロディ達のような奴らがいなければ楽しい。

 

 でも、剣術だけは物足りない。

 毎日毎日、同じ体勢で立ち続けるだけ。

 三ヶ月はこれが続くと言われていたので、あと一ヶ月頑張ればいいのだと自分を励ましてきたが、やはり早く木剣を振りたいと思ってしまう。

 

 少しでも早く木剣を持つ許可を貰いたくて、毎日お風呂に入る前に自主的に修業を続けている。

 そのおかげで、リニアに、「頑張っているわね。だいぶ良くなってきているわよ」と褒めてもらえた。そして、ご褒美だと言われて、別の立ち方を教えて貰った。

 

「……最初に教えて貰った立ち方と、新しい立ち方に何の違いがあるんだろう……」

 

 新しく教えてもらった立ち方は、足を前後に少し広げて、体重を後ろ足に集中させるというもの。

 だが、これに何の意味があるのか、まるで分からない。

 

「リニア先生はいい人だけれど……。先生が強いかどうかを僕はまだ知らない……」

 この二ヶ月間、ジェノはリニアが剣を抜いたところを一度も見ていない。

 

 毎日教えてくれる勉強はとてもためになるし、料理を教えてくれた事には本当に感謝している。だから、リニアを疑いたくはないが、まったく剣術がすごいところを見せてくれないと、やはり不安になってしまう。

 

 いろいろと知っているので、まったく剣術を使えない事は流石にないと思うが、以前に剣を抜いていないのに抜いたと嘘を言っていたことが、余計にジェノの不安をいや増していく。

 

「はぁ~。先生が強いところを見せてくれたら、安心できるんだけれど……」

 ジェノはため息を付いて、顔を俯ける。

 

 しかし、不意にジェノが見るとはなしに見ていた地面に、人の影が現れた。

 

「ジェノ。どうしたの、一人で」

 その声に顔を上げると、予想通りの女の子が、マリアが立っていた。

 

「マリア……」

 ジェノが名前を呼ぶとマリアは嬉しそうに微笑み、彼の隣に座る。

 暑いのだから、もう少し離れて座ればいいのにとジェノは思う。

 

 リニアから、

 

「君は、もう少し女の子の気持ちを理解しないと駄目よ!」

 

 と強く言われ、『女心』と言うものをたまに教わっているのだが、正直言って、ジェノはこの勉強はあまり良く分からず、好きではない。

 

「ジェノ。難しい顔で何を考えていたの?」

 マリアにそう興味深そうに尋ねられ、いくら考えても解決しない事柄を考えることに疲れていたジェノは、ついマリアに自分の悩みを打ち明ける。

 

「なるほど。ジェノは、その剣術の先生に意地悪をされているのね」

 ジェノの話を聞いて、マリアはそういう結論に行き着いたようだ。

 

「いや、意地悪だとは思っていないよ。きっと、先生には先生の考えがあるんだと思う。でも、やっぱり心配で……」

 ジェノはリニアを庇うが、マリアは「いいえ、意地悪よ」と断言する。

 

「どうして、マリアはそう思うの?」

「だって、私のお兄様の剣術指南の先生は、屋敷にやってくるなり、お兄様に剣を振るように言ったわ。体を鍛える意味もあるからと」

「素振り……」

 木剣を手にして何度もそれを振る姿を想像し、ジェノはつい「羨ましい……」と口に出してしまう。

 

「ふふっ。貴方はやっぱり少し変わっているわね。私のお兄様は、すぐに剣術の練習をサボろうとするのよ。体が痛くなるから嫌だと言って。

 お父様に、これも貴族に生まれた男子の義務だと言われて叱られることがなかったら、お兄様は絶対に剣を握ろうとしなかったはずよ。それなのに、ジェノったら」

 マリアは何が面白いのか、クスクスと笑う。

 

「むぅ。別に僕は変わってなんかいないよ。ただ、僕は強くなりたい。だから、一日も早く剣を使えるようになりたいだけだよ」

 ジェノは馬鹿にされたと感じて、そう文句を口にする。

 

 ただそこで、自分はまだリニア先生からの宿題の答えを出せないでいることを思い出した。

 

『料理を作れるようになっても、剣術が上達する訳がない。でも、強くなることはできる』

 

 リニアはそんなおかしな事を言っていた。

 でも、ジェノにはまだその意味が分からない。

 

 その事を素直に話すと、『それじゃあ、答えがでるまで考え続けなさい』と、リニアに言われていたのだ。

 

 ジェノはもう一度、リニアの言葉を考えてみる。

 

「もう、そんなに怒らないでもいいじゃあない」

 マリアの悲しそうな声に、ジェノは思考の海から舞い戻る。

 つい隣にマリアがいることを忘れて、考え込んでしまっていたようだ。

 

「ああ、ごめん、マリア。でも、僕は別に怒っていたわけじゃあないよ」

「本当?」

「うん。本当だよ」

 ジェノが笑顔で言うと、マリアも嬉しそうに微笑む。

 

「良かった。ジェノに勘違いされなくて」

「んっ? 勘違いって何?」

 ジェノがそう言うと、マリアは頬を赤らめて立ち上がり、ベンチに座ったままの彼を正面に見据えて微笑む。

 

「ふふっ。さっきの、貴方は少し変わっていると言ったことよ。勘違いしないでね。私は、そんな人とは違うジェノのことが、だい……」

 マリアが何かを言いかけたが、そこで別の人物の声が聞こえてきた。

 

「おーい、ジェノ!」

 その声は、膨らんだ籠を片手に持ったリニアのものだった。

 どうやら、買い物に来ていた帰りのようだ。

 

 ジェノはそれに手を振って応える。

 だが、そこで先程マリアが何か言おうとしていたことを思い出す。

 

「そう言えば、マリア。何を言いかけていたの?」

 ジェノは優しく尋ねたのだが、マリアはものすごく不機嫌そうに、「なんでもない」と言って、顔をぷいっと横に向けてしまう。

 何が何だか分からず、ジェノは首を傾げるしかなかった。

 

 そんなやり取りをマリアとしているうちに、リニアがジェノ達の前にやって来た。

 

「あら、ジェノ。お友達と一緒だったの?」

「うん。マリアとお話をしていたんだ」

 ジェノはベンチから立ち上がり、そう言ってリニアに笑みを向ける。

 

「あら、この娘が噂のマリアちゃんなのね。うん、これは予想以上に可愛いわね。将来はきっと、すごい美人になりそう」

 リニアはマリアを見て、満面の笑みを浮かべる。

 

「……ジェノ。この綺麗なお姉さんは誰なの?」

 しかし、マリアはニコリともせず、ものすごく低い声でジェノに尋ねてくる。

 

「うん。この人はリニア先生。二ヶ月くらい前から、僕の家で暮らしている、さっき話していた先生だよ」

 マリアの声が低いことに気づかずに、ジェノは笑顔で先生をマリアに紹介する。

 

「私、ジェノの先生が、女の人だって知らなかったんだけれど」

「ああ、そういえば言ってなかったね」

 ジェノはなんでもないことのように呟く。

 マリアの声が一層低くなっていることに気づかずに。

 

「ジェノ。君は、真面目に頑張るいい子だと先生は思っていたんだけれど、どうやらもう一度、しっかり教え直さないといけないこともあるみたいね……」

 リニアがそう言って、空いている方の手で頭を抱えるが、やっぱりジェノにはよく分からない。

 

「ジェノ! この先生は良くない先生よ! 剣術を学びたいのなら、私がお父様に頼んで、うちの剣術指南に教えてもらえるようにしてあげるわ!」

 マリアは大声で一方的に断言すると、ジェノとリニアの間に入り、リニアを睨む。

 

「もう。マリアちゃん、怒ってしまったじゃあないの。ジェノ。君のせいなんだから、責任を持ちなさい」

 リニアはそう言うと、「それじゃあ、頑張りなさいよ」と言って、逃げるように家に向かって行ってしまった。

 

 理不尽だとジェノは思う。

 どうして、マリアが怒っているのかがまるで分からない。

 それに、マリアの機嫌が悪くなったのは、先生が姿を現してからだ。どう考えても、原因は先生にあるはずなのに、どうして自分のせいになるのだろう。

 

 ジェノはそんな思いをしながら、こちらに背を向けているにも関わらず、明らかに機嫌が悪い事が分かるマリアに、なんと話しかければいいのだろうかと頭を悩ませる。

 

 だが、ジェノが声を掛けるよりも先に、マリアが振り向いて声をかけてきた。

 

「ジェノ!」

「うん。どうしたの?」

 とりあえず落ち着いて話を聞こうと思い、努めて普段と変わらない声でジェノは尋ねたのだが、どうやら逆効果だったようで、マリアは眉を吊り上げる。

 

「私のお母様も、親戚のお姉様も、みんな胸が大きいのよ。だから私だって、すぐにあの先生みたいになるんだから!」

 マリアはそれだけ言うと、「今日はもう帰る!」と言って、不機嫌さを隠すことなく、家に向かって歩いて行ってしまった。

 

 先生と友達がいなくなってしまい、一人で噴水の前に立ち尽くすジェノ。

 

「はぁ~。僕がいったい何をしたって言うんだ……」

 ジェノはやはり理不尽だと思いながら、がっくりと肩を落とすのだった。



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⑬ 『プレゼント』 

 ジェノが家に戻ったのは、いつもよりも二時間は早かった。

 まだまだ空は明るい。でも、なんだかとても疲れてしまったのだ。

 

「明日には、マリアの機嫌が直っていればいいけれど……」

 ジェノはそんな事を願いながら、家に入ろうとしたのだが、そこで背中から声がかかった。

 

「ジェノ。お帰りなさい。マリアちゃんとは、ちゃんと仲直りできたの?」

 声をかけて来たのは、庭へ向かう道に立っていたリニアだった。

 

「それが、あれからすぐに、マリアは怒って家に帰ってしまって……」

 訳を説明すると、リニアは「ああっ、マリアちゃんが可哀想」と言い、ジト目でジェノを見てくる。

 

「ううっ。でも、先生。僕は何も悪いことは……」

「し・た・の・よ。しかも、マリアちゃんだけでなく、私にもね」

「えっ?」

 ジェノは驚きの声を上げる。

 

 マリアが怒った理由だけでもわからないのに、自分はいつの間に、先生にまで失礼なことをしてしまったのだろうか。

 しかし、いくら考えても何をしたのか分からない。

 

「という訳で、先生は怒っています。だから、これから君にお説教をするので、庭まで来るように」

「……分かりました」

 ジェノは言われるがままに、リニアの後を付いて庭に行く。

 

 庭の中央付近まで行くと、リニアはくるりと振り返ってこちらを見た。

 ただその顔は、怒っているというよりは、拗ねているように思える。

 

「さて、ジェノ。先生がどうして怒っているのかを考えてみなさい」

「……はい」

 ジェノは素直に、リニアが怒っている理由を考える。

 

 最初に、マリアのことで先生も怒っているのではと考えたが、それだと、悪いことをしたのはマリア一人になる。先生に悪いことをしたことにはならない。

 

 それなら、先生は何に怒っているのだろう?

 先生と公園で話しをしたのは短い時間だ。それならば、マリアと一緒にいた時の会話の何かが、先生を怒らせたのだろう。

 

「あっ……」

 ジェノは少し考えて、一つの結論に至った。

 

「あの時、マリアは先生のことを、『良くない先生』と言った。でも、それは僕が……」

 リニア先生が強くはないのではないかと、自分は心のなかで疑っていた。だから、マリアにその事をつい話してしまったのだ。

 

「うん。そこに自分で気がついたのは偉いわ」

 リニアはそう言って鷹揚に頷く。

 

「ジェノ。君はマリアちゃんに、私の剣術の指導のことで不満を話したでしょう? だから、マリアちゃんは私に、『この先生は良くない先生』だって言ってきた。違うかしら?」

「はい。そのとおりです……。ごめんなさい」

 ジェノは素直に謝罪して頭を下げる。

 

「あーあ。こう見えても、先生は君をしっかり強くしてあげようと思って色々と考えているのよ。それなのに、君は信じてくれていない。先生、傷ついちゃったなぁ」

 リニアはどこかわざとらしい口調で言い、ぷいっと横を向いてしまう。

 

「その、ごめんなさい、先生。僕、先生が本当に強いのか心配になってしまって……」

 ジェノはもう一度心から謝罪するが、リニアはこちらを向いてくれない。

 

 どうしたらいいのだろうと、ジェノが困っていると、リニアは横を向いたまま、「本当に反省している?」と尋ねてきた。

 

「はい。反省しています」

 ジェノはしゅんとして応える。

 

「もう、先生を疑ったりしない?」

「はい。疑いません」

 

「地味で苦しい稽古でも、頑張って続ける?」

「はい。頑張ります!」

 

 ジェノはもともと、毎日の練習を止めたいと思ったことはない。

 ただ、不安だっただけなのだ。本当にこの先生に剣術を教わっていれば強くなれるのかどうかが。

 

「うん。分かったわ。それなら許してあげる」

 リニアはジェノに満面の笑顔を向けてくれた。

 

 その事にジェノが「よかった」と安堵の息をつくと、リニアはクスッと笑う。

 

「よし、素直に自分の間違いを認められるいい子には、また先生の凄いところを少しだけ見せてあげよう!」

「……今度は、どんな料理なんですか?」

 ジェノがそう言うと、リニアは意味ありげに含み笑いをする。

 

 そして、リニアはジェノに少し待っているように言うと、庭の端に設置されている物置に向かって行き、布に包まれた少し長い物を持ってきた。

 

「はい。一ヶ月早いけれど、頑張った生徒への先生からのプレゼントよ」

 リニアは笑顔で言い、ジェノにそれを手渡した。

 

「先生。これは?」

「布を外してみて」

「はい」

 ジェノは促されるままに、布を外す。そして、それが何なのかが分かると、ジェノの目はキラキラと輝いた。

 

 それは、木剣だった。けれど、以前にジェノが振っていたボロボロの木剣ではない。真新しい木剣だった。

 

「せっ、先生! これって、僕が貰っても……」

「もちろん。その剣は君のものよ。しかも、先生が愛情を込めて作った特別性なんだから」

 リニアは得意げに胸を張る。

 

「あっ、ありがとうございます。すごく嬉しいです」

 ジェノは涙が出てきそうになるのを堪えて、笑顔でお礼を言う。

 

 その反応に、リニアも嬉しそうに微笑んで、

 

「よぉーし。それじゃあ、約束どおり先生のすごいところを見せてあげよう。もうその布はいらないでしょうから、先生に貸して頂戴」

 

 ジェノの手から不要になった白い布を受け取り、それを何故か顔に巻きつけて目隠しをする。

 

「先生?」

 ジェノはリニアが何をしようとしているのか分からない。

 

「さて、ジェノ。せっかく新しい剣が手に入ったんだから、思いっきり振ってみたいでしょう?」

「えっ、あっ、はい……」

「うんうん。それなら、嫌って言うほど振らせてあげるわ」

 リニアはニンマリと口の端を上げる。

 

「今から私に向かってその剣で攻撃してきて。もちろん、剣だけでなく手足を使おうと、その辺の石を使ってもいいから、私に剣を当ててみなさい」

「そんな、危ないですよ!」

「こらこら。先生の心配をするなんて十年早いぞぉ。大丈夫よ。絶対に君の剣が当たることはないから」

 リニアはそう言うと、「それじゃあ、始め!」と言って、いつもの修行をするときのように開始の合図をする。

 

 ジェノは不安な気持ちを持ちながらも、木剣を握った。

 そして、もしも当たっても痛くないようにと、弱めに木剣を横薙ぎに振ってリニアの左手の甲を狙う。

 だが、あと少しで当たるというところで、リニアは左手を僅かに後方に動かし、その一撃を躱す。

 

「あらあら、随分と遅い攻撃ね。もしかして久しぶりに剣を持ったから、もう腕が疲れてしまったのかしら?」

 リニアは目隠しをしているにも関わらず、まるでジェノの一撃が見えているかのように言う。

 

「せっかく明日からは剣を使った修行も始めようと思っていたのに。これじゃあやっぱりあと一ヶ月間は、今までどおりの修行にした方がいいかしらね」

 リニアのその一言に、ジェノは焦る。

 ようやく木剣を持てるようになったのだ。それは困る。

 

「ほらっ、ジェノ。遠慮せずにどんどん打ち込んできなさい。私の心配なんてしなくていいから」

「はい!」

 ジェノは木剣をしっかりと握り、リニアに向けて勢いよく上から下にそれを振り下ろす。だが、やはり後少しというところで綺麗に躱されてしまう。

 

「ほらほら、一回一回剣を振るたびに固まっては駄目よ。上から下に振ったのなら、次は下から上に振るなりして、連続で斬りかかって来なさい」

「はい、先生!」

 そう返事をするジェノの声は明るかった。

 

 それは、ようやくリニアが、自分の先生がすごい人だと理解できたから。

 いくら子供の攻撃とはいっても、普通の人が目隠しをした状態でそれを避け続けるなんてできるわけがない。それくらいはジェノにも分かる。

 

 ジェノは連続でブンブンと木剣を振り回して攻撃する。

 けれど、リニアはそれを全てギリギリのところで全て躱してしまう。

 まるで当たる気がしない。

 それは悔しいこと。でも今はそれ以上に嬉しい気持ちが強い。

 

 ジェノはリニアの横や背中に回って攻撃をしてみたが、やはり攻撃はすべて空を斬るばかりだ。

 

 それから体力が尽きるまでジェノは攻撃を続けたが、結局彼の攻撃は全てカスリもしなかった。

 

「はぁ、はぁ。凄い、凄いよ、先生!」

「ふっふっふっ。先生の凄さが分かったかしら?」

 リニアはそう言うと、静かに目隠しを取る。

 

「でもね、ジェノ。先生の凄さはそれだけではないのよ」

「えっ?」

「もう、やっぱり気がついてないのね。ジェノ、君が以前に剣を振っていた時の事を思い出してみなさい」

「はい……」

 ジェノは二ヶ月ほど前の、自分の姿を懸命に思い出す。

 

「あっ!」

 以前の自分は、木剣を一振りするたびに体制が崩れて連続で剣を振ることが出来なかったはずだ。それなのに、今は連続で剣を……。

 

「よしよし。気がついたようね。以前の君は剣を一回振るたびにバランスを崩していた。その原因の一つは、君が使っていた剣の長さが、まるで君の体に合っていなかったことなの。

 でも、今、君が使っているその剣は君の体にピッタリと合っている。だから、バランスが崩れないの」

 その説明に、ジェノは歓喜で体を震わせる。

 

「そして、もう一つは、君の足腰と握力が弱かったことよ。でも、この二ヶ月間の修業でしっかりそれがついてきたから、剣をしっかり握れるし、体勢が崩れにくくなっている訳なのだよ」

 リニアは得意げに言う。

 

「せっ、先生。僕は同じ体勢で立っているだけだったのに、握力もついているんですか?」

「ええ、そうよ。必ず私は手を前に出させていたでしょう? そして、掌を少しだけ広げさせていた。実はあれにも意味があって、握力が自然と鍛えられるのよ」

 

 リニアの説明をそこまで聞き、ジェノは「ごめんなさい、先生!」と頭を下げた。

 

「先生はしっかり僕を強くしてくれていたのに、僕はまるでその事に気づいていませんでした。本当に、ごめんなさい」

 ジェノは心から自分の不敬を詫びる。

 

「もう。そんなに謝らなくてもいいわよ。君は不安に思いながらも、私の言うとおりの修行を頑張った。しかも、自主的に練習もしていた。その結果がこの成長なの。

 でも、まだまだ修行はこれからよ。そして、ますます修行は難しくて大変なものになっていくわ。

 これからもきちんと先生の言うことを聞いて、頑張れるかしら?」

 

 リニアに笑顔で問われ、ジェノは「はい。頑張ります!」と元気に答えるのだった。



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⑭ 『心の余裕』

 リニアから自分用の木剣を貰った翌日。

 ジェノは今朝も自宅の庭で修行を頑張っていた。

 

「よぉーし、そこまで。次は新しい体勢を教えるから、それも安定してできるようになりましょう。ただし、できるようになってきたからといって安心して、今までのものをおろそかにしては駄目よ。この三種類の立ち方を、偏りなく練習し続けること。もちろん毎日ね」

「はい、先生!」

 この立ち続ける修行の意味が分かったことで、ジェノの剣術への熱意は、より一層高まっていた。

 

「それじゃあ、一休みしましょう。次はいよいよ素手で相手を攻撃する技を教えていくからね」

「えっ? 剣での技ではないんですか?」

「ええ。まずは素手での技を覚えていきましょう。剣を持とうと持っていなかろうと、体の使い方はそう変わるものではないの。あくまでも手の延長上に剣があるというだけだからね」

 リニアはそう説明してくれたが、ジェノにはよく分からない。

 けれど、ジェノはリニアの言うことを信じると決めているので、「分かりました」と頷いた。

 

「心配しなくても大丈夫よ。素手の技に軽く触れたら、剣の正しい握り方と素振りの仕方も教えてあげるから。嫌って言うほど素振りもさせてあげる」

「はい! 頑張ります!」

 ジェノはすぐにでも始めたい気持ちだったが、リニアに「こらこら、休むのも修行のうちよ」と窘められ、芝生の上に座ることにした。

 

 ジェノが座ると、リニアも同じように座り、嬉しそうに微笑む。

 

「ジェノ。今日はいつも以上に気合が入っているわね。やっぱり、自分の剣を持つことが出来て嬉しかったのかしら?」

「はい。すごく嬉しかったです」

 ジェノは素直に自分の気持ちを伝える。

 

「うんうん。そこまで喜んでくれると先生も嬉しいわ。それじゃあ、この休憩中に、戦いにおける奥義――まぁ、つまりは最強の技を教えてあげるから、絶対に忘れては駄目よ」

「えっ? あっ、はい!」

 まさかそんなすごい技をいきなり教えてもらえるとは思わなかったジェノは、居住まいを正して、リニアの言葉を真剣に聞こうとする。

 

「うん。よろしい。それでは、教えるわね」

「はい!」

 ジェノは一言も聞き逃さないように集中する。

 

「まずはこれ。『危なそうなところには近づかないこと』よ」

「……えっ?」

 ジェノは予想外の言葉に驚き、がっかりしてしまった。

 

「せっ、先生。そういうことは、ペントや兄さんから何度も言われて知っています」

 ジェノは残念そうに言う。だが、リニアは、うんうんと頷く。

 

「そうね。きっと何度も言われていることよね。でも、君は本当にそれを理解しているかしら?」

「どういうことですか?」

 ジェノには、リニアの言わんとしていることが分からない。

 

「ジェノ。これから私が教える技はいくつもあるけれど、それは最後の手段なの。敵と戦いになってしまって、もうどうしようもない時に使うものよ。

 でも、そもそも敵に出会うことがなければ、そんな技を使う必要もないし、危険な目にも合わないで済む。ねっ、最強でしょう?」

「……なんだか、納得が行かないです……」

 ジェノは正直な感想を口にし、不満そうに口を尖らせた。

 

 しかし、リニアはそんなジェノを尻目に、話を続ける。

 

「次は、『危険な事に出くわしたら逃げること』よ。これも効果は同じね。相手につかまる前であれば、大声で叫んで助けを求めるのも効果的よ」

「……はい」

 ジェノは不承不承頷く。

 

「次もすごく大事よ。『できるだけ皆と仲良くすること』よ。君の周りが仲良しの人間ばかりになれば、争いは起こらない。これも最強よ!」

「……ううっ……はい……」

 ジェノは何とか頷く。

 

「そして、最後に『困った時は、自警団や大人を頼ること』よ。この街でも自警団の人達が日夜頑張ってくれているのだから、困ったら相談すること。一人で何かを解決しようなんて思い上がっては駄目よ」

「……はい。でも……」

 ジェノはどうしても納得がいかない。

 

 自分は、皆を守れるようになりたくて、強くなりたくて剣術を学んでいるのに、どうして自分の力で物事を解決しようと思ってはいけないのだろうか?

 

「先生、その……」

 ジェノは思い切ってその事をリニアに尋ねてみた。

 するとリニアは、困ったように笑う。

 

「うんうん。ジェノ。君のその疑問はもっともだと先生も思うわ。武術を学んでいるのに、それを使うのは最後の手段にしてしまったら、武術を学んでいない人と何も変わらないと思うのでしょう?」

「はい。せっかく学んでも、使うことがほとんどないのなら……」

 リニアの言うとおりなら、武術を学ぶ意味がほとんど無くなってしまうとジェノは思う。

 

「でもね、ジェノ。戦う手段を持っていることと持っていないことはまるで違うの。いざという時に自分の力で状況を変えられるということは、それだけ心の余裕が持てると言うことだからね」

「心の余裕?」

 リニアの言っていることは難しくて、ジェノにはよく分からない。

 

「ええ、そうよ。先生は、武術を学ぶか学ばないは、その人の自由だと思うわ。けれど、強くなるための努力というものは、みんながするべきだと思っている」

「強くなるための努力?」

「ええ。それは、戦う力という意味ではなくて、『心』を強くするための努力よ。それをしないと、心が弱いままだと、余裕がなくなってしまうの。それは、すごく危険なことなの」

 リニアはそこまで言うと、小さく息を吐く。

 

「先生は昔、旅の途中に剣の腕を買われて、とある商人の護衛の仕事をしたことがあるの。それで、その商人さんは友好的な人だったんだけれど、その奥さんが困った人でね。

 その奥さんは、武術を学ぶこと自体が、争う方法を身につける事が野蛮で恥ずべきことだと言う考えの持ち主だった。そんなものを学ぶ下卑た人間がいるから、争いが無くならないのだと。散々私に言っていたわ」

 

「……そんなの、おかしいよ……」

 ジェノはそう思い、つい言葉を挟んでしまった。

 

 争いごとというのは、武術を学ぶか学ばないかに関係なく起こる。

 自分の家がまさにそうだ。

 

 ペントはとても優しくて、武術なんて身につけていない。でも、ペントを苛めようとする父や侍女長のキュリアのような人間もいるのだ。

 武術を学ぶかどうかなんて関係ない。

 

 リニアはそんなジェノに優しく微笑み、話を続ける。

 

「護衛の途中で盗賊が現れた。人数が多かったので、何人かは取り逃がしてしまったけれど、私は他の護衛の人達と協力して賊を無力化して捉えたわ。

 その中にはまだ成人前の子どもも二人いたから、私達は、街の自警団に彼らを突き出すべきだと言ったの。

 でもね、賊が襲撃の際に放った矢が一本、幌馬車の中にいた商人さんの奥さんの近くに刺さっていたものだから、奥さんは顔を真っ赤にして怒って、その賊達を全員この場で殺しなさいと言ってきたの」

「…………」

 ジェノはなんと言えばいいのかわからない。

 

「勘違いしないでね。年若い人間がいるからとはいえ、賊達を斬ることが悪いというわけではないの。何らかの罰を与えないと、また別の人が襲われることになるのだから。

 でもね、人のことを野蛮だのと言っていたその人が、他人を、まして子どもを殺すことを私達に強要するのはおかしいと思うの」

 リニアはそう言うと、静かに立ち上がった。

 

「その奥さんは、心が弱かったと私は思う。だから、偏った考え方しかできないし、自分とは違う考えがあるということも受け入れない。そして、いざ自分に危機が迫ったら、考えなしに命を奪おうとする」

「…………」

 ジェノは何も言えず、リニアの言葉を待つ。

 

「ジェノ。心が弱いというのは、余裕がないということは、危険なの。それは、時として『罪』になることもあるわ。そのせいで、多くの人が不幸になってしまうこともあるのだから」

 リニアはそう言って悲しく微笑み、何も言えずにいるジェノの頭をポンポンと優しく触れる。

 

「ごめんなさい。変な話を聞かせてしまったわね」

「……いいえ。その、僕には難しくてよく分からない話だったけれど、でも、きっと聞いてよかったんだと思います」

 ジェノは立ち上がり、そう言ってリニアに「話してくれて、ありがとうございました」と頭を下げる。

 

 リニアは驚いた顔をしながらも、すぐにニッコリ微笑んだ。

 

「よし、それじゃあ休憩終わり! 修行の続きを始めるわよ!」

「はい!」

 ジェノも微笑み、元気に応えるのだった。



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⑮ 『秋のある日』

 リニアがジェノの家にやってきて、三ヶ月が過ぎた。

 暑さもだいぶなくなり、日が落ちると肌寒くなってきている。

 

 しかし、ジェノは日々を元気に過ごしていた。

 毎日がとてつもなく充実している。

 武術の練習も、勉強も、料理のお手伝いもすべてが楽しい。そして、それらが充実しているからこそ、外で皆と遊ぶのも楽しくて仕方がない。

 

 今日は男友達の皆でボールを蹴って遊んだ。

 ロディと取り巻きのカールがまた理不尽な事を言い出したけれど、ジェノがその事を窘めると、周りの皆がジェノに賛同してくれた。

 結果、渋々だがロディ達も従い、それ以上は和を乱すようなことはしなかった。

 

「ジェノ!」

 ボール遊びが一段落すると、マリアが笑顔で話しかけてきた。

 いつも彼女は男友達との遊びが一段落すると、いの一番に声をかけてくるのだ。

 

 ジェノはその事を別に不快だとは思っていない。マリアと遊ぶのも楽しいから。

 ただ、よく分からない『デート』というものに誘うのは止めてほしいとは思う。

 正直あれは、何が面白いのかよく分からない。

 

 分からないと言えば、リニア先生の言う、女心とかいうものは未だによく分からない。

 だが、『とにかく、マリアちゃんには、他の男友達より優しくしてあげなさい!』ときつく言われているので、ジェノはそれを実践している。

 

 そのお陰なのか、マリアの機嫌は以前より良いことが多くなったので、ジェノは安堵している。

 だが、自分とマリアが仲良くなるのが面白くない者もいることに、彼は気づかずにいた。

 

「なぁ、マリア。ジェノばっかりじゃあなくて、俺達とも遊ぼうぜ!」

 ロディが、ジェノとマリアの間に、大きな体を割り込ませてくる。

 その側には、いつものようにカールもいる。

 

 強引だなぁとは思うが、ジェノはそれ以上何も思わない。ただ、マリアは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「むぅ。ジェノとデートをしようと思っていたのに……」

 その言葉を聞き、ジェノはマリアに、ロディ達も仲間に入れて皆で遊ぼうと提案する。

 マリアは渋々だったが、「ジェノがいいのなら」と一応納得してくれた。

 

 そして、四人で遊ぶのならどんな遊びがいいだろうかと、ジェノは頭を捻っていたのだが、そこで思わぬ声をロディが発した。

 

「あっ! 見てみろよ、カール。あの女の人だ!」

「ああ、あの胸の大きな綺麗な紫髪のお姉さん!」

 さらにカールもそんな事を言う。

 

 ジェノは彼らが言っている人物に心当たりがあったので、彼らの視線の先を見る。

 すると、予想通りの人物が、リニアが街の通りを歩いていくのが見えた。

 ただ距離があるためか彼女はこちらに気づかずに、路地裏の方に向かって行ってしまう。

 

「先生、どこに行くんだろう?」

 ジェノは疑問を口にする。

 

 路地裏の方には決して子供は行ってはいけない。それがどこの家の親でも子ども達に躾けるルールだ。そして大人たちも、基本的にそこに足を運ぶことはないはずなのに。

 

「先生? 先生ってなんだよ?」

 ロディがジェノに問い詰めてくる。

 

「あの人は、僕の先生だよ。勉強とか剣術を教えてくれている、リニア先生だ」

 ジェノは簡単にリニアの事を説明する。

 

「ああっ? お前の先生? あんな綺麗な人が? ずるいぞ、お前だけ」

「そうだそうだ。マリアだけでなく、あんな先生がいるなんてずるいぞ!」

 ロディとカールの抗議の声に、ジェノは嘆息する。

 

「もう! あの先生のことはいいでしょう! ジェノ。早く遊びましょうよ」

 マリアはそう言って、ジェノの腕に自分の腕を絡ませてくる。

 

「うん。そうしよう」

 ジェノは早く遊びを始めようと思った。

 それなのに……。

 

「なぁ、あのリニアとか言う人のことを、追いかけてみようぜ。冒険だ!」

 ロディが突然そんな事を言いだした。

 

「駄目だよ! 子供だけであっちの方向に行っては駄目だって言われているだろう!」

 ジェノはロディの思いつきを窘める。

 

「なんだよ、意気地なしだな、ジェノは。あんな女の人でも一人で歩いて行けるみたいなのに、怖いのかよ?」

「そうだそうだ。最近調子に乗っているみたいだけれど、やっぱりお前は弱虫ジェノだ」

 ロディとカールは好き勝手なことを言う。だが、ジェノはそんな二人を懸命に説得する。

 

「先生はものすごく強いんだ。だから一人でも大丈夫なんだよ。でも、そんな先生が今日は剣を身に着けていた。だからそれは、危険があるってことだよ、きっと!」

 しかし、ジェノは説得することに熱中しすぎて、自分の腕からマリアが離れたことに気づかなかった。

 

「ロディ、カール。私も行くわ」

「えっ? マリア、何を言っているの?」

 てっきり自分の味方になってくれると思っていたマリアが、ロディ達の味方になってしまったことに、ジェノは驚く。

 

「ふん。なによ、先生、先生って。あっちの裏通りには、それは良くない店がたくさんあるって聞いたわ。そんなところに行っている女の人なんて、ろくなものじゃあないわよ! その証拠を、私が掴んでやるわ!」

「マリア、君まで何を言うんだ! 先生はすごく優しくて強い立派な人だよ! 馬鹿にしないで!」

 ジェノは尊敬するリニアの事を悪く言われ、ついカッとなってしまった。

 

 マリアはジェノの怒声に悲しい顔を一瞬したものの、すぐに「ふんっ!」と顔を横にそらしてしまう。

 

「弱虫なお前は、一人でここにいろよ! 行こうぜ、マリア、カール。早くしないと見失ってしまうぜ」

「ええ。行きましょう!」

「やぁ~い、マリアに怒られた」

 ロディを先頭に、マリア達はリニアを早足で追いかけ始める。

 

「だっ、駄目だって言っているのに!」

 ジェノはこの場でロディを殴ってでも止めようかと思った。けれど、先生には、習っている技を使って喧嘩をすることを禁じられているのだ。

 

 ジェノは自分から遠ざかって行く三人の背中を見ながら考える。どうすればいいのか。

 

 けれど、いいアイデアが浮かぶ前に、みんなの背中はどんどん離れていってしまう。

 

「……これしかない!」

 ジェノは懸命に考えた末に行動に出る。

 

 それは、ロディ達とは別の方向に走っていくことだった。



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⑯ 『裏通りにて』

 ジェノは走り、走り続けた。

 だが、ようやく元の遊び場に戻ってきた時には、やはりマリア達の姿はなかった。

 

「ただ待っている訳にはいかない。まずは、先生を探して……」

 ジェノは呼吸を整えると、リニアを追っていったマリア達を追いかけることにする。

 

 先生に言われていた、『危なそうなところには近づかないこと』を破ってしまうことに胸が痛んだが、今はマリア達のことが心配だ。

 

 初めて路地裏の通りにジェノは足を伸ばした。

 特段、表通りとの違いはないようだが、初めて歩く道でどこに繋がっているのか分からないことがジェノを不安にさせる。

 けれど、足を止めるわけには行かない。

 

「ちょっと、そこの坊や!」

 不意に、ペントくらいの歳の女の人に声をかけられた。洗濯物でいっぱいのカゴを持っていることから、きっとこの近くに住んでいる人だろう。

 

「はい。僕のことですよね?」

 ジェノは足を止め、その女性の方を向く。

 

「ああ、そうさね。その格好は、表通りの貴族街の坊っちゃんだろう? 悪いことは言わないから、早く貴族街に戻りな。この辺りは酒場もあるし、子供が一人で来る所じゃあないよ」

 ジェノの服装はいつもの代わり映えのないものなのだが、目の前の女性が身に着けている継ぎ接ぎだらけの服に比べればよっぽど上等だった。

 

「その、心配してくれてありがとうございます。でも、僕は人を探しているんです。体の大きな男の子と、小さな男の子。それと金色の髪の女の子を見かけませんでしたか?」

 警戒を解いたわけではないが、目の前の女性に害意はなさそうなので、ロディとカールとマリアの特徴を口にし、ジェノは彼らの居場所を尋ねる。

 

「んっ? ああ、それなら少し前に、この道をまっすぐコソコソと三人で歩いていったよ。

 顔は見えなかったけれど、なんか紫髪の女の人を追っていたみたいだったね。

 まったく、あたしは、その子達にも危ないから戻るように言ったのに、言うことを聞きやしないんだ」

 女性は腹立たしそうに言う。

 

「この道を真っ直ぐですね。すみません、ありがとうございました」

「あっ、ちょっと! 駄目だったら、この先は本当に危ないんだよ!」

 女性の静止の声が聞こえたが、ジェノは構わず道を奥に向かって走る。

 

「やっぱりこの辺りは危険なんだ。それなら、すぐにでも三人を連れ戻さないと」

 ジェノは息が切れない程度に走る。前に人が居ても、小さな体を活かして隙間をくぐり抜けた。足腰が鍛えられているため、そのようなことをして走っても、ジェノのバランスは崩れないのだ。

 

「あっ! そんな……」

 ジェノは眼前に十字路が見えたので、その手前で足を止めた。

 

 どの方向にマリア達が行ったのかまるで分からない。

 ジェノはそれぞれの道の先を確認したが、どの道もその終わりが見えないので判斷がつかないのだ。

 

「うん。とりあえずこっちに行こう」

 少し考えたジェノは、人通りの多い道に進む事を決める。

 まだ昼間だ。それなら人が多いところの方が安全だと考えた。

 

 だがそこで、

 

「わっ、ああああああっ!」

「まっ、待ってよ、ロディ!」

 ジェノが進もうと思っていた道とは逆の方向の横の小道から、ロディとカールの二人が泣き叫びながら飛び出してきた。

 

 だが、マリアの姿はない。

 

「ロディ! カール!」

 声をかけたが、二人はジェノの姿に気づかないほど錯乱し、彼の横を走り抜けていく。

 彼らを追いかけようと思ったが、ジェノは足を止める。

 

 あの二人の慌て方は普通じゃあなかった。きっとかなり怖い目に会ったのだろう。そして、マリアが居ない。これがどういうことなのかを考えた。

 

 怖くないと言えば嘘になる。でも、マリアに、友達に危険が迫っているのだとしたら、怖いのなんて理由にならない。

 

 ジェノは音を立てないように気をつけながらも、早足でロディ達が出てきた横道に近づく。

 そして、そこを覗き込むと、数人の大人の男たちに囲まれているマリアの姿を見つけた。

 マリアは体を震わせながら後ずさりをしている。これは、ただ事ではない。

 

 ジェノはもう構うことなく全力でマリアに向かって走っていく。

 幸い、男達はみんなマリアの方を向いていたので、ジェノが駆け寄ってくる事に気づくのが遅れた。

 

「マリア!」

 ジェノは叫ぶのと同時に、一番近くの男の脇腹に、全力の助走をつけた飛び肘打ちを叩き込む。

 子供の軽い体重でも、助走によって威力が増した肘打ちは、男を悶絶させた。

 

「ジェノ! 助けて!」

「こっちに来るんだ、マリア!」

 

 突然のことに驚いて呆然としている男たちの隙きを突き、ジェノは駆け寄ってマリアの手を掴み、その場から脱出を図る。

 だが、男達もすぐに我に返り、ジェノ達を捕まえようとしてくる。

 

「どいて!」

 ジェノはいったんマリアの手を離し、目の前に迫る一人の男に向けて右の拳を放つ。

 先生に教わった技を、先程と同じように躊躇なく繰り出した。

 

 幼いジェノの拳は、今度は助走による威力の増加がない。だから男の大きな手で簡単に防がれて、受け止められてしまう。

 後はそのまま拳を握られてしまっては、もう逃げることも出来ない。

 

 だが、ジェノが教わっていた技は、実戦を想定した技だった。

 

「があっ……」

 ジェノの拳を受け止めた男は、奇妙な声を上げて痛みに苦しみ始める。

 

 それは、ジェノが右の拳と一緒に繰り出した右足の下から上へのキックが、男の脛を正確に捉えていたためだった。

 非力な子供のキックだが、それでもジェノは足腰を鍛えている。それにキックを打つ前に一度地面に靴の、足の裏をこすらせることでタメを作って放つ一撃は、十分な威力があった。

 

 ジェノは再びマリアの手を掴むと、悶絶する男の横を駆け抜ける。

 そして、ジェノは踵を返して、マリアを背中の方向に逃がすと、彼女を守る壁として、男たちの前に一人で立ちはだかる。

 

「マリア! このまま逃げて! 早く!」

「でも、ジェノが!」

「いいから早くして!」

 ジェノはマリアにそう言うと、拳を構えて大きく息を吸う。

 そして、マリアが自分の側を離れたことを確認すると、

 

「このガキ!」

 自分を殴ろうと、捕まえようとする男達に向かって、

 

「誰か! 助けて!」

 

 大声で叫んだ。

 

 耳を劈く大声を受けて、男達は耳を抑える。

 

 ここまでは、ジェノの行動は全て運良く成功した。

 だが、彼には、もうこれ以上の手はなかった。

 

「このガキ!」

 男の一人が放った拳が、ジェノの顔面を捉えた。

 幼いジェノの体は、後方にふっ飛ばされて、宙を舞ったかと思うと、横道から飛び出して地面に激突する。

 

「ぐあっ……」

 背中を痛打したことで、呼吸ができなくなる。

 そして、それと同時に殴られた左の頬が焼けるように痛い。

 涙が出そうになる。

 

 だが、それでもジェノは涙をこらえ、体に力を込めて、何とか立ち上がろうとする。

 

 マリアの声が聞こえない。

 どうやら彼女はきちんと逃げてくれたみたいだ。

 それなら、後は時間を稼ぐだけでいい。誰かが、助けてくれるまでの時間を。

 

 しかし、ジェノの目論見は外れてしまう。騒ぎに気がついて人が集まってきていたが、男たちがひと睨みすると、彼らは怯えて次々と去っていってしまったのだ。

 

 絶望に打ちひしがれながらも、ジェノは少しでもマリアが逃げられるようにと、時間を稼ごうと考える。

 

「負ける……もんか……」

 ジェノは気合を入れて立ち上がったが、次の瞬間、男の一人に髪を掴まれると、そのまま上に持ち上げられ、顔面を地面に叩きつけられた。

 

「このクソガキ!」

 ジェノの肘打ちを受けた男が、逆上してもう一度ジェノの顔を叩きつけようとしたが、男の一人がそれを止めた。

 

 だがそれは、当然ジェノの体を気遣っての言葉ではない。

 その証拠に、無造作に手が離されただけで、ジェノはまた顔面から地面に激突する。

 

「このガキの身なりをよく見ろ、馬鹿が。このガキも貴族街のガキに違いない。殺すよりも、生かしておいたほうが金になる」

「だけどよ、このガキ、俺……腹を……」

「うるせえ。俺の言うことが……聞け……か」

 

 男達が何かを喋っているようだが、顔面を地面に叩きつけられたショックで、ジェノの意識は朦朧とし始めた。

 だが、ジェノは何とか顔を動かして前を見る。

 

 マリアが無事に逃げられたのか、それだけが気がかりだったのだ。

 

「だっ、駄目だ…よ、逃げて……」

 けれど、そんなジェノの視界に、一人の女の子の姿が見えた。

 

 マリアだ。マリアがまだ近くにいる。

 遠巻きに自分たちを見る人の輪の中に、彼女がいるのだ。

 

 ジェノはその事に気づき、自分の体に力を入れる。

 途切れてしまいそうな意識を懸命に繋ぎ止める。

 けれど、それが限界。ジェノは自分がもう立ち上がれないことを悟った。

 

 悔しかった。

 また、何も守れないことが。

 一生懸命頑張っても、まだまだ自分は何も出来ない弱虫だ。

 弱いままだ。

 

 ごめんね、ロウ。

 僕はやっぱり、強くなれないみたいだ……。

 

 ジェノが悔しさに涙をこぼしそうになったときだった。

 なにかの大きな影が近づいてきたかと思うと、不意にジェノの体が温もりに包まれた。

 

「まったく、無理をし過ぎよ、君は」

 そんな温かな声とともに、ジェノの体は優しく抱き起こされた。

 

 その声を忘れるはずがない。その顔を見間違えるはずがない。

 自分を抱き起こしてくれたのは、リニアだった。

 

「マリアちゃん。ジェノの事をお願いね」

 リニアはジェノをお尻からゆっくりと地面に座らせ、マリアにそんな指示を出す。

 

「ジェノ! ジェノ!」

 マリアは涙で顔を濡らしながら、座るジェノを抱きしめた。

 

 何が何だか分からない。

 でも、先生が来てくれた。

 

 それに、マリアも怪我はしていないみたいだ。

 ジェノはその事を確認して、ほっと胸を撫で下ろす。

 

「おいおい、随分と勇気のある嬢ちゃんだな」

 男たちのリーダー格らしき男が、リニアを睨みつけて凄みをきかせる。

 そして、男が手を挙げると、他の男達は、リニアとジェノ達を円状に包囲する。

 

「このガキ共は、嬢ちゃんの関係者か? それなら、嬢ちゃんには、このガキが暴れた落とし前をつけてもらわないとな」

 男たちはそんな事を言い、リニアの体をなめるように見つめ、下卑た笑みを浮かべる。

 

「それは、私のセリフよ」

 リニアは今までジェノが聞いたことがないほど低い声で言うと、素早く腰の剣の柄を握った。

 

「おっと、止めておけよ。その剣を抜いたら、俺達も剣を抜かざるを得ないぜ」

 男の一人がそう言って腰に帯びた剣を握ろうとした。だが、そこでようやく異変に気づく。

 

 ジェノの耳に、重いものが地面に落ちる音がいくつも聞こえる。そして、周りを見てみると、男たちが腰につけていた剣が鞘ごと地面に落ちていた。

 

「何を寝ぼけたことを。私が何回剣を抜いたのかさえ分からないの?」

 リニアの言葉とともに、男たちは思いもしなかった事態に唖然とする。

 

「覚悟はいいでしょうね? 私の生徒に手を上げた落とし前、きっちりとつけてもらうわ」

 リニアの迫力に、男たちは後ずさる。だが、そこでまた何かが地面に落ちた。

 

「痛てっ! なっ、何で!」

「なんだ、これは!」

「俺の、なんで……」

 後ずさっていた男たちは全員尻餅をついて倒れる。

 それは、音もせずに落ちたズボンに足をとられ、バランスを失ったためだった。

 

「随分余裕ね。呆けている暇があるなんて」

 リニアは剣から手を離し、手近の男の顔面を殴り飛ばす。

 女の膂力とは思えないほどの勢いで殴られた男は、宙を舞い、地面に激突すると、白目を剥いて力なく倒れた。

 他の男達は、その信じられない光景に言葉を失う。

 

「覚悟しなさい。一人一人、恐怖を植え付けてあげるわ。二度と私の生徒に手を出そうなんて思えなくなるくらいに」

 リニアはまた別の男の頭を掴むと、無理やり立ち上がらせる。そして、男の腹めがけて、全身のバネを使った肘打ちを叩き込む。

 

 リニアのその一撃は深々と男の腹に突き刺さった。

 今度の男の体は吹っ飛ぶことはなかったが、口から血を吐いて地面に倒れると、痛みにのたうち回る。

 

「なっ、なんだ、この女は!」

 リーダー格の男も明らかに異常なリニアの強さに恐怖し、仲間を置いて逃げようとしたが、他の男達と同じように、いつの間にか腰のベルトを切断されてズボンが足に絡まり、頭から地面に激突する。

 

「今度逃げようとしたら、躊躇なく首を飛ばす……」

 

 その声は凍えつくようで、ジェノとマリアは体を震わせた。

 だが、その言葉を告げられた男はそれ以上に体をガクガクと振るわせる。

 

「よし。それじゃあ、ジェノ、マリアちゃん。ちょっとこっちの端に移動しましょうか。そして、先生が良いって言うまで、二人共仲良く下を向いていてね」

 普段の明るいリニアの声に戻っていたが、ジェノとマリアは互いに体を震わせながら、指示に従い、男達から離れる。

 

「それじゃあ、下を向いていてね。先生は……」

 リニアの口調が明るかったのはそこまでだった。

 

「もう少し、この人達を懲らしめるから」

 また低い声でそう言い残し、リニアは男たちの方に足を進めていく。

 

 リニアがどんな技を使うのかが気になったが、ジェノの体はもう限界だった。

 

 怖さに震えるマリアに、「大丈夫だよ」と一言呟き、ジェノは意識を失った。



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⑰ 『帰り道』

 温かい。

 すごく優しい温もりを感じる。

 

 それに、いい匂いがする。

 ホッとするような甘い香りが……。

 

 ただ、少しだけ体が揺れるのが嫌だ。

 それがなければ、このまま気持ちよく眠っていられるのに。

 

 ジェノは夢心地の中でそう思い、温かな塊にギュッと抱きつく。

 すると、頭を優しく撫でられた。頭にも温かさを感じて、ジェノはいっそう笑みを強める。

 

「大丈夫よ。もう少し眠っていなさい」

「……えっ?」

 その声を聞いて、ジェノは目を開ける。

 すると、白いジャケットと綺麗な紫色の髪が目に入ってきた。

 

「せっ、先生……」

「あら、ごめんなさい。起こしてしまったみたいね。でも、心配しないで。もうすっかり暗くなってしまったけれど、今、家に向かっている途中だから。それに、ペントさんにも話はしてあるわ。

 家に帰ったら、ペントさんの美味しいご飯を食べて、ベッドでゆっくり休みましょう」

 ジェノはようやく、自分がリニアの背中に背負われていることに気づく。

 それに、あたりを見回して見ると、もう太陽がほとんど見えなくなってしまっている。

 

「先生! 僕、自分で歩きます!」

 赤ん坊のように扱われるのが恥ずかしくて、ジェノはそう言ったが、リニアに「無理は駄目よ」と窘められてしまう。

 

「君の体はボロボロで疲れ切っているの。君が気を失っている間に、近くの病院で診てもらったら、『大丈夫だと思うが、くれぐれも安静にしてください』って言われているんだから」

 リニアの言葉は本当で、ジェノは体に力を入れようとしたものの、思うように動けない。

 そして、これまで何があったのかを思い出したジェノは、慌ててリニアにあれからのことを尋ねる。

 

「先生! マリアは、それとロディとカールの二人は、大丈夫なんですか?」

 マリアは先生が近くに居てくれたから大丈夫だったとは思うが、ロディとカールはあの後どうなったのか分からない。

 

「安心しなさい。全員無事よ。あの後すぐに、ロディ君とカール君が、マリアちゃんのところの使用人達を引き連れて戻ってきてくれたのよ」

 その言葉を聞き、ジェノは胸を撫で下ろす。

 

「……先生、ごめんなさい。僕は、先生に言われていたことを……」

「うん、そうね。私は危険な所には近づかないようにって言っていたのに、君はそれを破った。その事は、反省しないと駄目よ」

「はい。ごめんなさい……」

 ジェノは素直に謝罪する。

 

 そして、少し無言の時間が続いた。けれど、やがてリニアが口を開く。

 

「あらっ? それだけなの? 君には君の言い分が、正しいと思ったことがあるんじゃあないの?」

 リニアにそう言われたが、ジェノは「いいえ。僕は、結局何も出来なかったから……」とだけ言い、言い訳をしない。

 

「う~ん、困ったわね。悪い子の相手も大変だけど、君みたいに良い子過ぎるのも考えものね」

 リニアは苦笑交じりにそう言い、片方の手をジェノのおしりから離し、彼の頭を優しく撫でた。

 

「ロディ君達が、マリアちゃんの家の使用人さん達を呼びに行ったにしては、現場に彼らが到着するのがあまりにも早すぎたわ。

 でも、使用人さん達と互いの状況説明をして分かった。君があらかじめマリアちゃんの家行って、門番の人に話をしてくれていたのね。マリアちゃんが、裏通りに入っていってしまったって」

 リニアの言葉に、ジェノは「はい」と小さく頷く。

 

 三人が危険なところに行こうとしているのを止める方法が見つからず、ジェノは自分の力だけではどうしようもないと思い、広場から一番近いマリアの家に走っていって、門番の男の人に状況を説明した。

 ただ、それだけでは心配で仕方がなくて、ジェノは一人でマリア達の後を追ったのだ。

 

「マリアちゃんが説明してくれたわ。『怖い大人の人に攫われそうになっているところをジェノが助けてくれた』って。まぁ、君が気絶してしまったから、マリアちゃんは『ジェノが死んじゃう』って言って、なかなか話を訊くのが大変だったんだけれどね」

 リニアはジェノの頭を撫でるのを止めて、再び両手で、背中のジェノの体を支える。

 

「君は、私の言いつけを一つ破った。でも、それ以外は立派だったわ。

 あの大人達に捕まりそうになった時に、私が教えたとおり、大声で助けを呼んだでしょう? そのおかげで、私は君たちが近くにいることが分かった。だから、マリアちゃんと合流できたし、君の元に駆けつけられたのよ」

 リニアはそう優しく言ってくれた。けれど、ジェノはその言葉を聞いてもまるで嬉しいとは思わなかった。

 

「いくら距離があったとは言え、振り返れば視認できる範囲の視線を感じられないとは、まだまだ修行不足ね、先生も。

 あっ、でも、もしも少しでも殺気が込められていたら、きっと先生も分かっていたはずよ。だから、先生の実力を疑ったら駄目だぞ、ジェノ君」

 

 おどけたようにリニアは言う。けれど、それが自分への気遣いだと言うことが分かる。

 ペントや兄さんの沢山の気遣いをずっと目の当たりにしてきたジェノには、分かってしまうのだ。

 

「……先生は、すごく強かった。あの悪い人達を、あっという間に一人で……」

「ごめんね。先生もつい怒ってしまって。きっと、怖かったわよね?」

 リニアの問に、ジェノは「そんな事ない!」と大きな声で反論する。

 

「先生はすごく格好良かった! 僕とマリアを助けてくれた! でも、でも、僕は、僕は何も出来なかった。ロディ達を止めることも、マリアを助けることも、何も出来なかった!」

 ジェノは悔しさのあまりにリニアの短いジャケットを強く握ってしまう。

 

「先生にいろいろ教えてもらっても、僕は、今回も何も守れなかった! 弱いままだ! それが悔しい。悔しくて、仕方がないよ……」

 ジェノ声は、震えていた。

 

 怒りがこみ上げてくる。

 弱いままの自分が許せなくて。悔しすぎて。

 

「……ジェノ。今日、マリアちゃんを誘拐しようとした人間のように、君はなりたいと思うかな?」

 突然、リニアは訳のわからない質問をしてくる。

 

「そんなの、なりたいわけないよ!」

 ジェノは怒りを顕にする。

 

「どうして? だって、あの人達は、少なくとも今の君より強いわよ」

「……それは、そうだけど……。でも、僕はあんな大人になりたくないよ!」

「うん。そうね。あんな悪い大人になってはいけない。だから、焦っては駄目なのよ」

「えっ? どういう事?」

 ジェノには、リニアの言っていることがわからない。

 

「……昔、あるところに、剣の道を極めようと、十年以上も山に籠もって一人修行を続ける男の人がいました」

 リニアはジェノの質問に応えずに、何故かお話を口にし始めた。

 

「先生、何を……」

 そう尋ねても、リニアは話を続ける。

 

 ジェノは訳が分からなかったが、静かにリニアの話を聞くことにした。

 けれど、そのお話は、幼いジェノにとっては、とても衝撃的で難しい話だった。



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⑱ 『お手本』

「昔、あるところに、剣の道を極めようと、十年以上も山に籠もって一人修行を続ける男の人がいました。

 彼は厳しい修行の末に、一瞬で獣の首を飛ばし、竜でさえも一人で倒せるほどの剣技を身につけることが出来ました。

 やがて、修行に一区切りをつけた彼は、山を降りて人里に向かいます。ですが、彼が訪れた村は、たくさんの魔物の襲撃を受けている最中でした。

 彼は今こそ自分の力を使うときだと思い、自慢の剣技であっという間に魔物たちを斬り殺し、村人を助けました。そのことに村人たちはたいそう感謝をし、彼を英雄だと讃えました」

 

 リニアの話をそこまで聞き、ジェノは今日始めてみた先生の強さを思い出した。

 そんな事を思っていると、リニアは更に話を続ける。

 

「村人達は、彼を村の一員として迎え入れました。そこには、彼が居てくれれば、村はもう魔物が来ても大丈夫だという狡い考えもあってのことでした。

 その目論見は成功します。彼が居てくれるおかげで、魔物達が何度襲ってきても、簡単に彼に撃退されました。

 村人たちは、よかったよかったと喜びました。やがて、魔物はどんどん数を減らしていき、村に魔物がやって来ることはなくなったのですから」

 

 リニアは息を吸い、また話を続ける。

 

「魔物がいなくなっても、村人は男の人に村に残って欲しいと懇願しました。もしもまた魔物がやって来た時の用心のためにと。

 彼はその願いを聞き届けてくれました。

 そのおかげで、村人たちは魔物に殺されることはなくなりました。

 今後も魔物に殺されることはないでしょう。

 なぜなら、村人たちは、ひとり残らず彼に斬り殺されて、命を失ってしまったのですから」

 

 話を最後まで聞き、ジェノはゾッとしてしまった。

 こんな話の終わり方になるとは思いもしなかったから。

 

「さて、ジェノ。君は今の話を聞いて、何故男の人が村人を斬り殺したのか分かるかしら?」

 リニアはいつもの穏やかな口調に戻りながらも、とんでもないことを質問してくる。

 

「えっと、それは……」

「なんでもいいわ。君が思ったことを言ってみて」

 そう言われ、ジェノは懸命に考える。

 

「……村人が、魔物を倒すために自分を利用している事に気がついて怒ったから……ですか?」

 自信がなかったが、ジェノは自分が思ったことを口にする。

 

「うん。もしかしたら、村人の誰かが彼のことを便利な道具のように思っていることを口にしたのかもしれない。そして、それを聞いて、彼は怒って村人を殺した。それも十分あり得る話ね」

 リニアは「なかなか、良い答えね」と言ってくれたが、ジェノは正直嬉しくない。

 

「他には、彼は魔物が村に来なくなったことで、斬る相手がいないことが不満だったっていう可能性もあるわね。それで、村人の頼みを聞くふりをして村に残り、村人を斬ることでその不満を発散した。これも有り得る話だと、先生は思うわね」

 リニアは何でもないことのように言う。

 

「他にもいろいろ考えられるわね。村人は残ってくれるようにと一度は言ったけれど、『もう魔物はいなくなったんだから、あんな刃物を使う危険な男は必要ない』という考えに変わって、彼を追い出そうとした、とも考えられるわ。それ以外にも……」

 

 リニアは更にいくつか考えられる可能性を口にしたが、ジェノには、この会話の意味がまるで分からない。

 

「さて、長々といろいろな可能性を話したけれど、ここまで聞いて、君はこのお話に出てきた男の人を『強い』と思うかしら?」

「えっ? 強いと思うかどうか?」

 ジェノは返答に困りながらも、懸命に考える。

 

 このお話の男の人は、沢山の魔物を一人で倒せるほどの剣術の使い手だ。

 そして、彼は一度も負けてはいない。魔物を斬り、最後に村人を全員斬っただけだ。

 それらの事から考えれば、『強い』という結論になるのだろう。

 ……でも、何かが引っかかる。

 

「先生はね、このお話に出てきた男の人は『強い剣士』だと思うな。でも、『強い人間』ではないと思うの」

 答えあぐねているジェノに、リニアが自分の考えを口にする。

 

「……『強い剣士』だけど、『強い人間』ではない?」

 けれどジェノには、リニアが何を言っているのか分からない。

 

「うん。彼がどんな考えで村人を斬り殺したのか、正解は分からない。でもね、彼は決して『強い人間』ではなかったと先生は思うの」

 リニアはもう一度そう言い、ジェノの頭を優しくポンポンと叩く。

 

「もしもこのお話に出てきた男の人が、『強い人間』だったなら、どうして村人と分かり合おうとしなかったのかしら?

 前にも言ったけれど、みんなと仲良く出来ていれば、それは最強なの。でも、彼はきっとその努力を怠った。だから、村人をみんな殺すような結果になってしまったのよ」

 リニアはどこか寂しげに言う。

 

「……でも、みんなが、仲良くしようとはしてくれないかもしれないよ……」

 ジェノは思っていることを口に出す。

 

 いくら危ないと、危険だと言っても、今回のロディのように、話を聞かない人間もいる事は、ジェノにだって分かるから。

 

「うん。そうだね。村は一つの共同体……う~ん、つまり仲間意識が強いから、それ以外の人に冷たい態度を取る事も多いわ。

 でもね、仲良くなれないと思ったのなら、彼は村から居なくなればよかったと先生は思うな。

 だって、彼は『強い剣士』なのよ。村人が束になっても勝てない強さは持っているのだから、簡単に村から出られたはずよ。それなのにそれをしなかったのは、初めから村人も斬るつもりだったのか、相手が何を考えているのかを考える頭がなかっただけよ」

 リニアはまた寂しそうに言う。

 

「初めから村人を斬るつもりなら、それは自分の欲望を制御出来ないということ。何を考えているのか分からなかったのなら、それは危機管理が出来ていないこと。それらが欠けている人を、先生は『強い人間』とはやっぱり思えないなぁ」

 

 リニアの話を聞いていて、ジェノは頭が混乱してしまう。

 

「先生。それなら、『強い人間』って、どんな人のことを言うの?」

 困ってジェノはリニアに尋ねる。

 

「そうね。先生は、心が強くて、他人の気持ちを考えられる人のことだと思うな」

「心が強くて……他人のことを……」

「うん。いろいろと辛いことがあっても、苦しい思いをしても、自分の意志を持って生きることができる人が、心が強い人。でも、それだけでは足りないの。他人の気持ちも考えられる余裕を持っていないとね」

 リニアは少しおどけたように言う。

 

「ジェノ。君は、強い剣士である前に、強い人間になりなさい。そうすれば、君は強くなれる。そして、みんなを守れるようになれるはずよ」

「強い剣士である前に、強い人間に……。分からない。分からないよ、そんなの。僕には難しすぎるよ……」

 幼いジェノには、リニアの言わんとしていることが理解できない。

 

「そうよね。難しいよね。……でも、君の周りには、お手本になる人がいるでしょう?」

「えっ? お手本?」

 ジェノが尋ねると、リニアは優しい声で、「ペントさんと君のお兄さんだよ」と言ってくれた。

 

「二人共、どんなに大変でも、苦しくても、自分の意志を持って頑張っている。それだけではなくて、君の事をいつも考えてくれているでしょう?」

「……はい」

 ジェノは笑顔で頷く。

 

「そういった心の強い人をお手本にして、ゆっくり頑張りなさい。ペントさんも君のお兄さんも、最初から心が強かったわけではないの。いろいろなことを経験して、学んで、時間を掛けて強くなってきたのよ。

 だから、見かけだけの強さに憧れて、簡単に強くなろうとしては駄目。マリアちゃんを誘拐しようとした人達や、お話の中に出てきた男の人のようになってはいけないのよ」

 リニアのその言葉に、ジェノはもう一度、「はい」と元気に返事をする。

 

「うん。よろしい」

 リニアは嬉しそうに頷く。

 

 それから、少しすると家が見えてきた。

 なんとか、太陽が沈み切る前に家に帰ってこられて、ジェノは、ほっとする。

 

 玄関には、ランプを片手にオロオロと忙しなくしているペントが見える。

 

「坊っちゃん! 大丈夫ですか!」

 ペントはこちらに気づいたようで、大きな体を揺らしながら走ってきた。

 

「うん。疲れたけど、大丈夫だよ」

 ジェノはリニアに背負われたまま、そんなペントに満面の笑みを返す。

 

「あらまあ、顔にお怪我を!」

「これくらい平気だよ。それより、僕、お腹が空いちゃった」

 ペントが心配してくれるのは嬉しいが、いろいろ今日は頑張りすぎて、ジェノはお腹がペコペコになってしまっていた。

 

「そうですね。まずはお食事です。すぐにご用意しますから!」

「うん。いつもありがとうね、ペント」

 ジェノは自分のお手本とするべき人に、改めて笑顔でお礼を言う。

 

「もったいないお言葉です、坊っちゃん」

 ペントは嬉しそうに微笑んで瞳の端に溜まった涙を拭って微笑んでくれた。

 

 だがそこで、ジェノはある事に気づき、リニアに声を掛ける。

 

「なあに、どうしたの、ジェノ?」

 そう優しい声で尋ねてくるリニアに、ジェノはにっこり微笑んで言った。

 

「先生。さっき先生は、ペントと兄さんの名前しか出さなかったけれど、僕は先生もお手本にします。今日は助けてくれて、本当にありがとうございました」

 すっかり遅くなってしまったお礼を言うと、リニアは何故か足を止めた。

 

「先生?」

 ジェノがその事を怪訝に思い尋ねると、リニアは、「まったく、私も修行が足りないわね」と少し鼻の詰まったような声で言うのだった。



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⑲ 『仲直り』

 ジェノは上機嫌でいつもの広場にやって来た。

 その理由は単純で、今日は武術と剣の修行が出来たからだ。

 

 マリアを誘拐しようとしていた男達との戦いの後、大事を取って安静にするようにとリニアに言われていたのだ。だが、今日からそれが再開となり、修行ができなかった事で溜まっていた鬱憤が吹き飛んだ。上機嫌にもなるというものだ。

 

 勉強も昼食の手伝いも終わらせ、三日ぶりに広場にやって来たジェノは、誰か仲のいい友達はいないだろうかと辺りを見渡す。

 すると、ひときわ目立つ金髪の愛らしい少女が、涙ながらにこっちに向かって走ってくるのが見えた。

 

「ジェノ! ジェノ!」

「マリア、久しぶり」

 ジェノが挨拶を口にしたが、マリアはそれに応えることなく、ジェノを力いっぱい抱きしめてくる。

 

「まっ、マリア! くっ、苦しいよ」

 そんな抗議の声も、マリアの耳には入らないようで、彼女はジェノの名前を繰り返し続ける。

 ジェノは仕方なく、マリアが落ち着くのを待つことにした。

 

 そして、やがてマリアが名前を呼ぶのを止めて泣きじゃくり始めたので、ジェノはポンポンと優しく彼女の背中を叩く。

 

「あっ……」

 マリアを宥めていると、酷くバツの悪そうな顔の少年二人がジェノ達に近づいてきた。

 

「ロディ……、カール……」

 ジェノが彼らの名前を呼ぶと、二人は顔を俯ける。

 

「よかった。二人も無事だったんだね」

 ロディもカールもまったく怪我をしているようには見えない。あの時は一瞬すれ違っただけだったので、もしかしてあの男達に殴られたりしていなかっただろうかと心配だったのだ。

 

「俺たちは、その、ジェノ……。お前が……」

「うん。お前が来るのを、その、待っていたんだ……」

 ロディとカールは意を決したように、口を開き始める。だが、そんな彼らを……。

 

「ジェノ! ロディとカールのことなんてどうでもいいわ! 二人共、悪い人に捕まりそうになったら、私を置いて逃げたんだから!」

 ジェノからようやく離れたマリアが、大声で二人を非難する。

 状況から察するに、きっとロディとカールは、マリアに口を聞いて貰えていなかったに違いない。

 

 マリアの非難に、ロディはきつく拳を握りしめ、カールにいたっては涙目になっている。

 それを見て、ジェノは口を開く。

 

「ねぇ、ロディ、カール。実は僕は、あの時の状況がよく分かっていないんだ。辛いことかもしれないけれど、どうしてあんな事になったのかを教えてくれないかな?」

 ジェノの言葉に、ロディとカールはお互いの顔を見合わせてから、ポツポツと語り始めた。

 

 彼ら二人と、それに割り込んできたマリアの話をジェノは頭の中でまとめる。

 

 リニアの後を追いかけた三人は、早々に彼女の姿を見失ってしまったらしい。

 それでも、今更戻るのが癪だったロディが、「このまま奥まで行くぞ」と言い、怖くなって来たため帰ろうというマリアの言葉を聞かないで、カールと歩きだした。

 そのためマリアも、二人を置いていくわけにも行かず、彼らと一緒に路地裏の奥まで行くことになってしまった。

 

 そして、あの十字路の辺りで、リニアを探し続けていた所、件の男達に声をかけられ、狭い通路に連れて行かれそうになる。

 だが、連れ込まれる時に、ロディとカールは怖くなって、力の限りに抵抗し、男達から逃げ出すことが出来たのだ。

 

 もっとも、男達がマリアを捕まえる事を最重要に考えていたから、彼らはなんとか逃げることが出来たのだろう。

 

「そうか。そのタイミングで、僕とすれ違ったんだ……」

 ジェノはようやく事の始まりを理解した。 

 

「そして、俺達は逃げている最中に、マリアの所の執事さんが、大人を何人も引き連れてやって来ていたから、事情を説明して……その、マリアを助けようと、一緒に……」

 ロディの声は力なく、だんだん尻窄みになってしまう。

 

「なによ、それ! 私を置いて逃げたくせに、今更そんなこと!」

 マリアは怒りを顕にしたが、ジェノは「そうなんだ」といって微笑んだ。

 

「ロディとカールが、マリアの家の人を案内してくれたんだね。ありがとう」

 ジェノの言葉が信じられなかったのか、ロディとカールは驚いて目を大きく見開く。

 

「ちょっと待ってよ、ジェノ。うちの使用人から聞いたわよ。貴方が門番さんに、私達が裏通りへ入っていってしまったって教えてくれたって。

 だから、それは全部ジェノのお陰よ。ロディとカールはただそれについてきただけじゃあないの!」

 怒りが収まらないマリアは辛辣なことを言うが、ジェノはそんなマリアを睨む。

 

「マリア。最初に裏通りに行こうとしたのはロディだけれど、それに君は反対しないどころか、自分からついて行こうとしたじゃないか」

「……それは、そうだけれど……」

 マリアは言葉に詰まる。

 

「それにね、ロディとカールだってものすごく怖い思いをしたんだよ。それでも、勇気を出してまた戻ってきた。それは、立派なことだと思うよ」

 ジェノはそう言って、今度はマリアに笑いかける。

 

「ジェノ……」

「ジェノ、お前……」

 ロディとカールにも、ジェノは微笑む。

 

「二人共、怖かったよね? 僕もすごく怖かった。だから、もう裏通りに行くのは止めようよ。皆で、この広場で遊ぼう」

 ジェノはそう言うと、マリアに、「だから、マリア。二人のことをもう許してあげてよ」と懇願する。

 

「……うん。ジェノがそういうのなら……」

 マリアは素直にジェノの願いを聞き入れ、ロディとカールを許すと言ってくれた。

 ロディとカールは心底ホッとした顔をする。

 

「それじゃあ、今日は何をして遊ぼうか?」

 ジェノが笑顔で尋ねると、マリアもロディもカールも、笑顔を浮かべるのだった。



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⑳ 『とある日の深夜』

 ジェノは尿意を覚え、深夜に目を覚ましてしまった。

 しかたなく、ランプに火を灯してトイレに向かう。

 

 用を足し、手を洗って自分の部屋に戻ろうとしたところで、ジェノは居間兼調理場付近から明かりが漏れていることに気づく。

 

 ペントが明かりを消し忘れたのだろうか?

 でも、ペントはいつもしっかり確認をする。だとしたら……。

 

 ジェノは一瞬、泥棒ではと考えたが、その考えはすぐに無くなる。何故なら、

 

「ジェノ。眠れないの?」

 と、よく知った声でドア越しに話しかけられたから。

 

 ジェノは静かにドアを開ける。

 すると、リニアが調理場で何かをしているのが目に入ってきた。

 

「先生こそ、何をしているの?」

 ジェノが尋ねると、リニアは「いやぁ、あははっ」と笑って誤魔化そうとする。

 

「先生、何か料理を作っているの?」

 ジェノはジト目でリニアを見る。

 

「いやぁ、先生も君と同じで、まだまだ育ち盛りだから。ちょっと夜中に起きたらお腹が空いてしまって……」

「もう。おやつは決められた時間にしか食べたら駄目なんだよ!」

 ジェノが注意すると、リニアは「そう固いことを言わないの」と言って苦笑する。

 

「ペントに叱られても知らないよ……」

 ペントは優しいが、躾には厳しいところもあるのだ。

 

「ふっ、先生がそんなヘマをするわけがないでしょう。それと、いい機会だから、ジェノ。君も一緒に作って一緒に食べましょう」

「えっ?」

 

 リニアはさも名案とばかりに言い、ジェノを手招きする。

 

「でっ、でも……」

 ペントから、夜に間食をするのは良くないと言われているジェノは、それを拒もうとする。だが、正直、リニアが何を作っているのかは気になるし、お腹が空いていないわけではない。

 

「あら、食べたくないの? これは先生の知っている甘いお菓子の中でも、特に美味しいものなんだけどなぁ~」

「おっ、お菓子を作ろうとしていたの? しかも、甘い……」

 ジェノも他の子供と同じように、甘いものは大好きだ。そして、それをこんな夜に食べるという背徳的行為に引かれるものがないわけがない。

 

「だっ、駄目だよ。明日の朝の食事が食べられなくなるから」

「ふっふっふっ、大丈夫よ。量も考えてあるから。さらに二人で食べれば更に量も減るわ」

 何とか邪念を振り払おうとするジェノの耳に、リニアの悪魔の囁きが心地よく聞こえてくる。

 

「これはね、簡単にできるのにすごく美味しいのよ。外はカリッと、中はもちもちしていて、甘さもとても上品なの」

「えっ? カリッとしているのに、もちもちって……」

 ジェノは、その料理がどんなものなのか想像がつかない。

 だが、想像してしまったことで、余計にどんな料理なのか気になってしまう。

 

 そんなジェノに、リニアは不意に真顔になって口を開く。

 

「ジェノ。君は歳不相応に大人び過ぎているわ。きっと、ペントさんやお兄さんに迷惑をかけないようにしないといけないという気持ちが強すぎるのよ。

 それが悪いことだとは言わないけれど、良いこととも言えない。絶対に譲ってはいけないものというものは確かにあるけれど、ただ単純に、決まりだから決まりを守るというのは頭が固すぎるの。そんなことでは、強い剣士にも、強い人間にもなれないわよ」

 

「えっ? それって、本当に……」

 ジェノはてっきり冗談だと思ったが、リニアの顔は真剣そのものだ。

 

「ジェノ。自分の考えだけが正しいという考えは危険よ。それは、思考の、考える範囲を狭めてしまうことだから。

 思い出して。私が君に最初に木剣をプレゼントした時に、私は目隠しをして、どんな手段を使ってもいいから剣を当ててみなさいと言ったわ。でも、君は木剣をただ振ることしかしなかったでしょう?」

「……はい」

「きっとそれは、心のどこかで、石を投げたりするのは卑怯だと思ったんじゃあないかしら?」

 リニアの言葉は、図星だった。そのため、ジェノは何も言えなくなってしまう。

 

「やっぱりね。君が石を使わないのは自由よ。でもね、これから君が戦うことになる敵は、ありとあらゆる方法を使ってくると考えなさい。

 実戦で、『そんなの狡い』は通用しないの。ありとあらゆる物を利用して勝つ。それも戦い方の一つなんだから」

 

 リニアは呆然とするジェノに畳み掛けて話しを続ける。

 

「一対一と言いながら、多人数で待ち伏せをする。人質を取る。これらは決して褒められたことではないけれど、そういう狡い方法もあるということはしっかりと覚えておかないと駄目。その上で、それらを破る方法を考える。これは、頭が固いとできない思考なの。

 そして、罪を犯した人間は裁かれるべきだけれど、杓子定規……ええと、なんでもかんでも、罪を犯したから同じ罰を与えるというのも駄目。世の中って、そんなに単純ではないのよ」

 

 リニアの言っていることは難しい。でも、間違ったことは言っていない気がする。

 ジェノはそう思い、「分かりました」と頷いた。

 

 すると、リニアはニンマリと笑う。

 

「よぉーし。それじゃあ、お姉さんが、少しだけ悪いことも教えてあげるわ。そういう事もちょっとは覚えないとね」

 リニアは嬉しそうに笑う。

 

 それを見てジェノは、リニアが本当に自分のことを考えてくれた上での言葉だったのか疑問に思う。

 

 しかし、先生と一緒に料理をするのは、やはり楽しく、また、作った『ゴマ団子』という料理は、とても美味しかった。

 胡麻の香りと上げられたそれの食感が楽しく、中のもちもちした生地とアンコと呼ばれる甘いものも絶品だった。

 それを夜中に食べる背徳感もたまらないものだった。

 

 ただ、次の日の朝、使った油は足してあったし、台所の掃除も完璧ではあったが、調理器具の僅かな位置の違いからペントに何か料理をしたことがバレて、リニアはペントに叱られた。

 

 シュンとするリニアを見て、やはり悪いことは出来ないのだと、ジェノは一つ大人になった気がしたのだった。



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㉑ 『遠ざかった赤い線』

 リニアがジェノの家にやってきてもうすぐ半年になる。

 季節はもうすっかり冬になってしまっていた。

 

 この国の冬はそう長くはなく、雪もたまに降る程度なのだが、やはり寒くて色々と行動が制限されてしまうこの時期を嫌うものは少なくない。

 ジェノも冬自体は余り好きではない。だが、普段忙しくて家を留守にしている兄が年の暮れには帰ってくるので、楽しみもある。

 

 けれど、今年は……。

 

「えっ? 兄さんは、帰ってこられないの?」

 夕食時にペントからの報告を聞き、ジェノはがっかりと肩を落とす。

 

「ええ。今年は普段以上にお仕事がお忙しいとのことで……」

 ペントが申し訳無さそうに言うのを見て、ジェノは「大丈夫だよ、ペント」と口にして笑みを浮かべる。

 

「ペントがいてくれるし、今年は先生も一緒なんだから。僕、寂しくなんてないよ」

 心配をかけまいと無理をしている部分もあるが、先生とも一緒に年を越せるのはとても嬉しいとジェノは心から思う。

 

「うんうん、可愛いな、君は!」

 隣に座るリニアが、満面の笑顔でジェノの頭を撫でてくる。

 その温かな手が、すごく心地よかった。

 

 ペントも嬉しそうに微笑んでくれる。

 ああ、なんて自分は幸せなのだとジェノは心から思い、神様に感謝する。

 

「坊っちゃん。デルク様はお戻りになられませんが、来週から、坊っちゃんの家が広くなりますよ」

「えっ? それって、また兄さんが頑張ってくれたの?」

「ええ。今度は何と、一階と二階に部屋が一部屋ずつも増えます。デルク様はまだ十六歳でありながら、支店の皆さんの信頼を得て、異例の高役職に就かれるとのこと。もう、ペントは嬉しくて、嬉しくて……」

 ペントは瞳に涙を溜めて喜ぶ。

 

 ジェノも、自慢の兄さんが皆に認められた事がすごく嬉しかった。

 でも……。

 

「ペント。広くなるのは、僕の家じゃあなくて、僕達の家。僕とペント、兄さんと先生。みんなの家だよ」

 思ったことを、ジェノはそのまま言ったのだが、ペントは立ち上がり、ジェノを大きな体でギュッと抱きしめる。

 

「ああ。坊っちゃん、坊っちゃん。本当にご立派に育ってくださって、ペントは、ペントはもう嬉しくて仕方がありません」

 ペントは涙を流しながらジェノを抱きしめ続ける。

 少し苦しかったけれど、ペントの温もりがすごくほっとする。

 

 小さな頃から、物心ついた頃からずっと一緒にいてくれた人。これを口にすると、『そんな、イヨ様を差し置いて恐れ多い』と言われるのが分かっているので口にはしないが、ジェノはペントを心のなかでお母さんだと思っている。

 

「ジェノ。新しい部屋が増えるのなら、先生と二人でお掃除をしましょう。ペントさんの仕事を増やさないためにも」

「うん。僕、頑張るよ」

 ペントは自分がやりますと言ってくれたけれど、ジェノは何とか彼女を説得した。

 

 きっと先生と一緒ならば、掃除も楽しい。

 ジェノはそう思い、来週を心待ちにするのだった。

 

 

 

 

 

 

 翌週になり、忌まわしいあの赤い線が、ジェノ達の居住空間から少し離れた。

 約束通り、ジェノはリニアと一緒に部屋の掃除をする。

 今日の剣の稽古はお休みだ。

 

「いい、ジェノ。掃除の基本は高い所から低いところよ。そして、家の中や部屋というものは、自分の心を映す鏡なの。これが汚れていると、心も荒んでしまうわ。常日頃から、整理整頓と掃除を欠かしては駄目よ」

「はい、先生!」

 

 ジェノはリニアがはたきで高い所から落とした綿ゴミを、箒を使って集めていく。

 それが終わったら、床の水拭き。

 冬の水拭きは手が冷たいが、ペントはいつもこれをやっているのだと思うと、やる気がどんどん出てくる。

 

「まったく。いくら使わない部屋だからって、少し汚れすぎね。……いいえ、きっとわざとね」

「うん。ペントは綺麗好きだから、この部屋も綺麗にしたがっていたんだ。でも、キュリアが……」

「自分が命じた仕事以外を勝手にするな。そもそも、その部屋はあなた達のものではないでしょう……とか言ってそうよね」

 リニアの言葉に、ジェノは頷く。

 

「でも、今日からはこの部屋も私達の家の一部。きちんと綺麗にして、ペントさんを驚かせましょう」

「はい!」

 元気に返事をして、作業を再開する。

 

「ジェノ様。ひどい格好ですね」

 一通りの仕事を終えて、休憩にしようと部屋を出たときだった。

 キュリアが話しかけてきたのは。

 

「ジェノ様とお客人に掃除をさせるなど、やはりペンティシアは侍女の何たるかを理解できていないようですね。まぁ、もっとも、ジェノ様にはお似合いのお姿かもしれませんが」

 新しい赤い線のギリギリに立ち、わざわざイヤミを言ってくるキュリアに、ジェノは不快感を顕にする。

 

 そして文句を口にしようとしたが、「ジェノ、ここは先生に任せて」とリニアに小声で言われたので、ジェノは怒りをぐっと堪える。

 

「あら、確か、キュリアさんでしたよね? もう半年近くも同じ屋根の下にいるのに、挨拶もないものですから、自信がありませんけれど」

 リニアは、はたきを片手に笑顔でキュリアに近づいていく。

 

「あら、それは失礼を。侍女長のキュリアと申しますわ。ですが、このお屋敷のお客人は、ヒルデ様が招き入れた方のみですので、お見知り置かれずとも結構ですわ」

「それは大変ありがたい申し出です。わざわざ嫌味を言うために、私達が部屋から出てくるまで、こんなところで突っ立って待っているような粘着質で陰険な人間の名前など、覚えたくもありませんから」

 リニアは満面の笑顔で辛辣な言葉をぶつける。

 

「それにしても、お暇なのですね。侍女長のお仕事ってそんなに楽なんですか? ああ、その分のしわ寄せを下の者に押し付けていらっしゃるのですね。貴女の下で働く皆様の苦労が分かりますわ」

 リニアは呆れたように、肩をすくめる。

 

「何を無礼な! 居候の分際で!」

 キュリアは顔を真っ赤にし、体を前のめりにした。

 その瞬間、キュリアの鼻の先には、リニアの手にしていたはたきの柄の先端が置かれていた。

 

「なっ……」

 キュリアには、いや、ジェノにも、リニアの動きはまるで見えなかった。

 気がつくと、リニアの手が伸びていたのだ。

 

 いや、それだけではない。

 キュリアの鼻の先から赤い線が走り、そこから血が垂れ始めたのだ。

 

「この線の中は私達の家。それは空間だってそうよ。そこに貴女は踏み込んだ。つまりは、不法侵入ね」

 リニアはにっこりと微笑みながら、キュリアに言う。

 

「私は優しいから、一回目はこの程度の警告で済ませてあげます。でも、次にこの線を超えたら、超えた部分を全て切り落としますよ」

 リニアはやはり笑顔だが、それがたまらなく威圧感がある。

 

「あっ、ああっ……」

 キュリアは腰が抜けたのか、その場にへたり込み、自分の鼻に手をやって、血が流れていることに気が付き、体を震わせる。

 

「それと、今後、私の生徒を侮辱したり、くだらない逆恨みをしてペントさんを苛めたりしたら……どうなるか分かりますよね?」

 リニアは最後まで笑顔で言って踵を返す。

 

「…………」

 キュリアは腰を抜かしたまま何も言えない。

 ジェノはそんなキュリアの情けない姿を見て、溜飲が下がる思いだった。

 

「さて、ジェノ。休憩にしましょう。今日は私が昼食を作るから、楽しみにしておいてね」

「はい、先生!」

 ジェノは元気よく応える。

 

 

 けれど、ここで幼いジェノは一つの違和感に気づくことが出来なかった。

 それは、キュリアがわざわざジェノ達に嫌味を言うために、なぜ廊下で待っていたかということ。

 

 本来であれば、キュリアにとってみれば、ジェノは雇い主の庇護を受けていない不肖の子に過ぎない。だから、見下しこそすれ、ただ単に嫌味を言いに来ることなど普通はありえない。

 

 それなのに、キュリアがこのような行動に出た理由を考えなかった。

 

「ジェノ。大丈夫よ。先生がついているから」

「えっ? 先生、どういう事? キュリアのことなら大丈夫だよ。僕は負けないから」

 無邪気に言うジェノに、リニアは微笑む。

 

「うん。そうね。よし! 手を洗って昼食を作るわよ。もちろん、君にも手伝ってもらうからね」

「はい!」

 何も知らないジェノは、元気な返事をして頷くのだった。



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㉒ 『武術』

 年が明けても、ジェノはいつもと変わらず、修行と勉強と遊びを繰り返す。

 こんなに楽しい時間がずっと続けばいいのにとさえ思うほど、ジェノは日々を楽しんでいた。

 

 勉強は少し高度の算術が加わってきた。難しいけれど、問題が解けた時の感動は何物にも代えがたい。それに、地理は先生がいろいろな場所を旅した話が聞けるから大好きだ。

 

「ジェノ。よく言われる言葉だけれど、知識はいくら持っていても重くならないの。だから、いろいろな知識を身につけておいて損はないわ」

 リニアの教えをよく聞き、ジェノは様々な知識を吸収していく。

 

 特に、図鑑を見て様々な薬草や毒草の知識を得るのが面白かった。

 

「暖かくなったら、実際に山に行って現地でテストをするから、しっかり覚えておくように」

 とリニアに釘を刺されていたが、ジェノは言われるまでもなく、どんどん本を読んで覚えていく。

 

 更に、スケッチも面白かった。

 言葉を使わなくても、それ以上に相手に意思を伝えることができる。

 リニアの絵が上手だったことに触発され、ジェノもだんだん絵にハマっていった。

 

 そして何よりもジェノが面白いと、大事だと思って勉強したのは、応急処置と緊急時の蘇生法のやり方だった。

 

「ジェノ。しつこく何度も言うけれど、こういった事を興味本位でやっては駄目よ。場合によっては命に関わるから。そして、近くに大人がいるのならば、その人に任せなさい。君のような子どもには、まだ無理なことも多いから。

 でも、周りに誰もいなくて、自分がそれをしないと相手が死んでしまうと思ったら、ためらわずにやりなさい。その見極めを間違えないようにね」

 リニアのその言葉を胸に刻み、ジェノはしっかりと知識をつけて、また簡単な実践も行っていく。

 

 そして、武術に関しては、少しずつだがリニアは新しいことを教えてくれるようになった。

 

 日々の基礎稽古の他に、新年になってから、ジェノはこの『型』という一連の動きを覚えることに努めた。

 

「何だか、一人でダンスをしているみたい」

 最初、型を見た時のジェノの感想はそれだった。

 

 素手で、そして時には木剣を持ったまま決まった動きをするそれを、ジェノはあっという間に覚えた。

 

 ダンスは物心がついた頃からペントに教わっていたので、それと同じだと考えれば覚えるだけならそれほど難しくなかったのだ。

 あまり好きではなかったダンスが、こんなところで役に立つとはと驚いた。そして、勉強だけでなく、運動も一通りやっておいたほうが良いのだとジェノは学んだ。

 

 

「うんうん。この『型』も、順番はきちんと覚えたわね。偉いわよ、ジェノ」

 リニアはそう褒めてくれたが、ジェノはこの『型』というものにどんな意味があるのか分からない。

 その事を尋ねると、リニアはにっこりと微笑んだ。

 

「よぉ~し、頑張っている生徒のために少しだけ教えてあげましょう。『型』というものの凄さを。それじゃあ、剣を持って、構えて」

 リニアは、ジェノに木剣を手にするように言う。

 

「さぁ、その剣で攻撃してきなさい。先生は、君に教えた『型』の動きだけで全てを躱して、逆に君を負かせてみせるから」

「はい!」

 ジェノは返事をするのと同時に踏み込み、木剣をリニアめがけて横薙ぎに振る。

 

「……なっ!」

 だが、不意にリニアの体が視界から消えた。

 

「はい、足元がお留守!」

 突如下から聞こえた声に驚いたが、それに気づいた時には、ジェノの体は宙を舞い、地面に仰向けに倒されていた。

 

「うんうん。きちんと頭を打たないように受け身をとったのは偉いわよ」

 リニアは満足そうに笑い、倒れたジェノに手を差し伸べてくれる。

 ジェノはその手を掴んで、立ち上がった。

 

「今のは、『型』の中にある、体を極限まで低くしてから一気に立ち上がる動作を利用したものよ。いきなり目の前から攻撃対象がいなくなると、人間の頭は軽いパニックを起こして反応が遅れてしまうの。

 そして、その状態の体はバランスが崩れてすごく弱い。攻撃の動作が終わっていない中途半端な状態だからね。後は簡単。私は君の体重がかかっている方の足に自分の腕を当てて、立ち上がるのと同時に、簡単に君を転倒させたという訳よ」

 リニアはこともなげに言うが、あの一瞬でそこまで考えて動ける事がジェノには信じられない。

 

「どうかな? こんな事をできるようになりたい?」

「はい!」

 ジェノは迷いなく頷く。

 

「よぉーし、それならまずは、もっともっと足腰を鍛えないと駄目よ。そして、『型』を徹底的に体に覚えさせないとね。それを一挙に解決する修行方法があるんだけれど、すごくきついのよね……。君に耐えられるかなぁ~?」

 リニアが茶化したような口調でジェノを挑発する。

 

「やります!」

「うんうん。君ならそういうと思っていたわ。それじゃあ、辛い特訓の開始よ!」

 リニアは嬉しそうに言うと、ジェノにこれからの修行の内容を告げてきた。

 だが、それを聞いたジェノはキョトンとしてしまう。

 

「あっ? ジェノ。今、大したことないと思ったでしょう?」

「あっ、その、はい……」

 ジェノは素直に応える。

 すると、リニアはニンマリと意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「それじゃあ、言われたとおりの条件で、後三回だけ、一番最初に教えた『型』をやったら今日はおしまいよ」

「はい!」

 ジェノは言われたとおりに、『型』を開始する。ただし、今回は『可能な限りゆっくりと』という条件の元で、だ。

 

「ぐっ……」

 動作を開始してすぐに、ジェノは自分の認識が間違っていたことに気づく。

 体にかかる負荷が、今までの何倍にもなっている。

 動作の開始は良い。動作の終わりも問題ない。だが、その二つの間の動きをゆっくりするというのが、これほど辛いとは思いもしなかった。

 

「手を下から上に挙げるという単純な動きでも、ゆっくりやると腕の負担が並大抵のものではなくなる。人間は普段はその一番辛い部分の動作を一瞬にすることで、体に掛かる負荷を減らしているの。そしてこれには、体の弱い瞬間を短くするという意味合いもあるわね。

 でも、そのままでは弱いままになってしまうから、そこを強くするのがこの修業の目的の一つよ」

 リニアは笑顔で説明をするが、ジェノはそれに返事をする余裕はない。

 

 まだ『型』の一回目の三分の一も終わっていないのに、この冬の寒さの中にも関わらず、全身から汗が吹き出てくる。

 

「ジェノ、腰を高くして楽をしようとしては駄目よ」

「……ぐぅっ。……はっ、はい……」

 ジェノは自然と高くなって来ていた腰を落とし、『型』を続ける。

 

 全身の筋肉が悲鳴をあげる。けれど、ジェノは何とか一回目の『型』を終わらせることが出来た。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 乱れてしまった呼吸を懸命に整える。そして、呼吸が落ち着くと、再び同じ『型』を開始する。

 

「うん。いい根性ね」

 リニアは満足げに頷く。

 

 そして、ジェノはフラフラになりながらも、ゆっくりと行う『型』を三回やり遂げた。

 ただ、リニアの「よし、そこまで」の言葉を聞いた途端、全身の力が抜けてしまい、その場に尻もちをつくことになってしまったが。

 

「うんうん。正直、初日は出来なくても仕方ないかなぁって思っていたんだけれど、見事にやり通したわね。偉いわよ、ジェノ」

「はっ、はい……。ありがとう……ございます……」

 息も絶え絶えに応えながらも、ジェノは破顔する。

 

「よぉ~し、今日の武術の修行はおしまい! 次は勉強の時間だけれど、その前に先生がマッサージをしてあげよう。明日の修行に支障が出ないようにね」

 リニアはそう言うが早いか、動けないジェノの体をひょいっと背中に背負う。

 

「せっ、先生! 僕、少し休めば歩けるよ!」

「駄目よ。今、君の体、特に足は疲れ切っているんだから。おとなしく背負われなさい」

 疲れ切った身体でリニアから逃げることができるはずもなく、ジェノは恥ずかしい思いをしながらも、落ちないようにリニアの肩を手で掴む。

 

「ジェノ。この『型』は実はものすごくたくさんの秘密が隠されている動きなの。だから、決して他の人の前で『型』を見せては駄目よ」

「はい。分かっています」

 最初に型を教わるときにも言われたことだ。ジェノはしっかり覚えている。

 

「それと、君が武術を使えることは、他人には隠しておきなさい。今の君なら、同年代の子供との喧嘩にはだいたい勝てるだろうけれど、ね」

「はい。でも、マリアが……」

「ああ。そうね。君が助けてくれたことを、自慢気に皆に話して困っているって言っていたものね」

 リニアはそう言って苦笑していたが、不意に真剣な声で、

 

「それでも、なるべく隠しておきなさい。もしも喧嘩になりそうなら、逃げたほうが良い。そうしないと、いろいろ大変だから……」

 

 と言ってきた。

 

「先生。どうして、そんなに悲しそうにいうの?」

 ジェノはリニアの言葉の端に、物悲しさを感じてしまった。だから、思わずそう尋ねてしまう。

 リニアは少し無言だったが、すぐに口を開く。

 

「う~ん、いろいろと大変だったからかな。周りの人より力があると、それをやっかむ人も出てくるし、腕だめしとばかりに勝負を挑んでくる人もでてくる。それに、この力を利用しようとする人もでてくるの」

 リニアは冗談めかして言うが、やはりその声はどこか悲しげに思える。

 

「それって、先生が前に話してくれたお話の、村人みたいな人のこと?」

「……うん。よく覚えていたわね。そのとおりよ。人の力を当てにするばかりで、自分は弱いのだから助けるのが当たり前だろうって考える、ひどい人も世の中には居るの」

 リニアはジェノの顔を振り返って見て、困ったように笑う。

 

「どうして、この人達は自分の事を自分でしようとしないで、人にばかり頼ろうとするのだろう? どうして、強くなる努力をしないのだろう? なんどもそう思ったわ」

「……それなら、何のために武術ってあるの? 頑張って身につけても、隠していないと大変な目にあって、良いことはない。先生みたいな凄い剣士でも、そんな悲しいことが多いのは、おかしいよ」

 その問に、リニアは優しくジェノの頭を撫でる。

 

「……うん。そうだね。武術を身につけるのはすごく大変なのに、あんまり報われない。それに、前にも言ったように、武術を使うのは最後の手段。それを使うことなんて、平和に暮らしていたらあまりないわ。本当、嫌になるわよね」

 リニアはそういうと足を止めて、空を見上げる。

 

「でもね。いざという時に理不尽な力に対抗できるのは、やはり力だけなの。それを身に着けていないと、一方的に奪われてしまう。自分の命も、大切な人の命も、財産も、何もかも」

「……はい。それは、よく分かります……」

 ジェノも目の前で大切な命を奪われた。理不尽な力によって。

 

「暴力なんて野蛮な事はいけない。話し合いで解決をするべきだ。なんて事をいう人がいるけれど、私に言わせたら平和ボケもいいところ。

 それは、その人の代わりに他の誰かが力を持ってくれていることで、たまたま自分が平和に暮らせていることを理解していない只の馬鹿よ」

 リニアの声には怒りが込められている。

 

 きっと、何か辛い過去があるのだろうと思うのと同時に、ジェノはリニアの事を殆ど知らない自分に気づく。

 

「ごめんなさい。やる気を削ぐようなことを言ってしまったわね。でも、今の私は……先生は、武術を学んで、身につけていてよかったと思っているのよ」

 リニアはもう一度振り返り、ジェノににっこり微笑んだ。

 

「それは、いったい……」

「ジェノ。君に出会えたからだよ。私は君に剣を、志を教えることで自分を見つめ直すことが出来た。そして、自分の剣が何のためにあるのかを理解できたの」

「僕が、何か先生の役に立てたの?」

「うん。君が私の初めての生徒で本当に良かった。私は、君に出会えたことを神様に心から感謝しているわ」

 リニアは笑いながら、ジェノの頭を撫でる。

 

「僕は、何も出来ていないよ……」

「ううん、そんなことはないよ。このまま剣の、武術の修業を続けていたら、いつか君にも分かる時が来るわ。きっとね」

 ジェノには抽象的すぎて分からない。けれど、リニアが笑ってくれたことが何故かとても嬉しかった。



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㉓ 『招待』

 リニアがジェノの家にやって来て、まもなく一年が経とうとしていた。

 

「うんうん、いい感じね」

「よかった。それじゃあ、もう一皿分も焼いてみます」

「ええ。ただ、火の扱いは注意しないと駄目よ。火が怖いものだという認識は常に持ち続けるように」

「はい。先生!」

 ジェノは元気よく応え、ギョウザを焼いていく。

 

 今回のギョウザはリニアに教わりながらではあったものの、皮から中身の餡まで全てジェノが一人で作った。さらに初めて火を使う許可も得て、こうして焼いているのである。

 

「坊ちゃんが料理を、こんなにお上手に……」

 ペントは涙を瞳に浮かべながら、ジェノの成長を複雑な顔で見ている。

 

「……本来であれば、もっとたくさんの使用人がいて、坊っちゃんのお手を煩わせることなどなかったはずなのに……」

「違うよ、ペント」

 ジェノはフライパンにギョウザを並べると、ペントに向かってにっこり微笑んだ。

 

「僕は、料理が好きなんだ。だから、こんな楽しいことを教えてくれる、先生とペントにすごく感謝しているんだよ。見ていてね。僕、もっともっと頑張って、美味しい料理を作れるようになるから」

「坊っちゃん……。ペントは、ペントは……」

 ペントはついには号泣してしまった。

 

「はい。火から目を離さない。ペントさんのことは、私に任せておきなさい。君は、焼くことに集中するように」

「はい、先生」

 ジェノはフライパンに水を入れ、ギョウザを蒸し焼きにしていく。

 

「今度、兄さんが帰ってきたら、僕も何か作ってあげたいな」

 ジェノの兄のデルクは、結局今年になってから、一度も家に帰ってきていない。

 その事はもちろん心配だが、先日手紙で無事を知らせてくれたので、少しだけ安心することが出来た。

 

 それに、デルクは素晴らしい成果を上げているようで、今年の春からは、更にジェノ達の家が広くなった。広い館の西の部分は、もう殆どがジェノ達の家となったのだ。

 これ以上はジェノの父であるヒルデが使用することを許可しないだろうとペントが言っていたが、ジェノにはもう十分だった。

 

 中央の入口に近づかない限りは、もうあの忌まわしい赤い線を見ることが無くなっただけでも安心する。

 

「うん。水分が飛んだら、油がギョウザに掛からないように……」

 ジェノはフライパンを上手に動かして油をフライパンに行き渡らせる。

 

 そして数分後、ジェノは満面の笑顔で、『追加分も出来ました、先生』と得意げに言うのだった。

 

 

 

 

 

 

 夏の日差しを浴びながら、ジェノ達はボール遊びに一生懸命になる。

 誰が発案したのかは分からないが、昔から知られた遊びで、五人ずつのチームに別れて、足だけを使ってボールを奪い合い、ボールをキープしたまま相手の陣地の一番奥までボールを運べば一点になり、先に三点を取ったチームが勝ちという単純な遊びだ。

 

 だが、子どもたちはこれに熱狂する。

 

「ジェノ、こっちだ!」

「うん、ロディ、お願い」

 ジェノは相手チームの頭を超えるように山なりにボールを蹴って、少し離れたロディにパスをする。

 身体の大きなロディはそのまま相手の陣地まで突き進むが、二人がかりで行く手を遮られてしまう。

 

「カール!」

「分かっている!」

 ジェノが言うまでもなく、カールは一人で前に、相手の陣地の最奥付近まで走り抜ける。そこにパスが通れば、決勝点の三点目は確実だ。

 

「いくぞ!」

 ロディは思い切り前に蹴るような体勢を取ったため、相手のチームはカールにボールをパスさせまいとそのコースを体で塞ぐ。

 だが、それはロディの思うツボだった。

 ロディは方向を変えて、誰にも気づかれずに右前に走ってきたジェノにパスをする。

 

「いけ! ジェノ!」

 ロディはわざと大声でそう叫ぶ。

 ジェノはその意図を悟り、直進ではなく少し斜めに走りながら、敵陣の奥を目指してボールを蹴りながら進む。

 

 そして、相手チームの多くが自分に集まったところで、再びロディにボールを返した。

 

「ふん!」

 ロディが力いっぱい蹴ったボールは見事にカールに渡り、そのままカールが敵陣奥までボールを運んで点が入った。

 ジェノ達のチームの勝利が決まった瞬間だった。

 

「よぉ~し、よくやった、カール!」

「本当。最高のタイミングで前に出てくれたよ」

 ロディとジェノに褒められて、カールは嬉しそうに微笑む。

 

「しかし、ジェノ。お前も俺の作戦によく気づいたな」

「長いこと同じチームなんだから、分かるよ」

 ジェノがにっこり微笑むと、ロディが手をかざしたので、ジェノも同じようにし、パン! とハイタッチをする。

 

「くそぉ、ロディ達のチームは強いなぁ」

「去年まではジェノがそれほど戦力になっていなかったのに、いまじゃあ二人がかりでないと止めるのも難しいからな」

 負けた相手チームの少年たちは、悔しそうだったが、すぐ笑顔になり、「次は負けないからな!」と言って笑顔を見せる。

 

 他のチーム同士の試合が始まり、今日は自分達の出番はここまでなので、ジェノはロディとカール達に抜けることを告げて、他のチームを応援する仲間たちと分かれた。

 

「ジェノ!」

 噴水の近くに足を運ぶと、マリアが笑顔で声をかけてきた。

 

「マリア。久しぶりだね」

 ジェノがそう言うと、マリアはどこか困ったように笑う。

 

 マリアとも今年の冬までは一緒に遊んでいたのだが、春になってからはめっきりこの広場に遊びに来ることが減ってしまっていたのだ。

 だから、今回もおよそ一ヶ月ぶりの再会だった。

 

「その、ジェノ。私がいなくて、寂しかった?」

 マリアは心配そうな、それでいて何かを期待するかのような様子で尋ねてくる。

 

「うん。もちろん。僕だけじゃあなくて、ロディやカール達も寂しがっていたよ」

 ジェノは素直な気持ちを口にしたのだが、マリアは、むぅっと不満そうに頬を膨らます。

 

「そこで、ロディとカールの話はいらないでしょう! ジェノが、私がいなくて寂しかったってことだけ言えばいいの!」

「あっ、そうなんだ。その、よく分からないけれど、ごめん。よく先生にも、『君は女心がまるで分かっていない』って言われるんだ」

 ジェノがそう言うと、一層マリアは頬を膨らます。

 

「もう! 私と話している時は、先生の話は禁止! ……でも、ジェノが『女心』が分からないっていうのはそのとおりだと思うわ!」

 何故かそう怒られて、ジェノはがっくりと肩を落とす。

 いろいろなことを覚えて頑張っているつもりだけれど、本当にこの『女心』というのは大の苦手だ。

 

「でも、ジェノが私に会えないことを寂しいって思ってくれていたみたいだから、許してあげる」

 マリアは不機嫌な顔をしていたかと思うと、そう言って笑顔になる。

 

「……本当に、女心ってなんだろう?」

 あまりにも理解できないものに辟易し、ジェノは天を仰ぐ。

 

 それから、二人でベンチに座ってとりとめのない事を話した。

 

 意外だったのは、マリアも剣術を学び始めたということだった。

 なんでも、去年、リニアに救ってもらったときから、自分も剣を使えるようになりたいと思ったのらしい。

 親には猛反対されたらしいが、それでも押し切ったのだという。

 

 ジェノも興味のある話題だったので、普段以上に話が弾んだ。

 

「ねぇ、ジェノ。来月のことなんだけれどね……」

「えっ? 僕と先生も?」

 ジェノが驚くのも無理はないことだった。

 

 マリアの誕生会が近いうちに行われるらしいのだが、それにジェノとリニアを招待したいというのだ。

 場所は、このセインラースの街ではなく、少し離れたところにある山奥の別荘らしい。

 

「ロディとカールも招待するつもりよ。でも、私はジェノにぜひ参加して欲しいの」

「……うん。ペントと先生に聞いてみるね。でも、できるだけ参加できるように説得してみるよ」

 貴族であるマリアの誕生会に招待されるのは初めてだ。

 だから、ジェノは参加してみたいと思ったのだ。

 

「うん! 絶対に参加してね! 招待状を送るから」

 マリアは本当に嬉しそうに笑う。

 

「あっ、マリア。僕の家は……」

「分かっているわ。西館の方に届けてもらうから大丈夫よ」

 幼馴染のマリアは、ジェノの家のことも知っている。

 

 そんな事を話しているうちに、日が暮れてきてしまった。

 

「さて、そろそろ私は帰るわね」

「うん。僕も、そろそろ帰るよ」

 ジェノとマリアは一緒にベンチから立ち上がり、そこで別れることにした。

 

 お互い、またね、と言って踵を返す。

 だが、そこで不意に、

 

「ジェノ」

 

 と名前を呼ばれたので、ジェノは振り返る。

 すると、マリアは小走りでこちらに近づいてきて、何の躊躇もなくジェノの頬にキスをした。

 

「……マリア……」

 ジェノは驚き、マリアの名前を呼ぶ。

 だが、マリアは顔を真っ赤にして微笑むと、「またね、ジェノ」と言って、足早に家に向かって行ってしまった。

 

 ジェノはしばらくの間動けなかった。

 

 それは、キスをされた驚きからではない。

 マリアは笑顔だったはずなのに、何故かとても寂しそうに思えたからだった。



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㉔ 『買い物』

 ジェノは夕食の時間に、ペントとリニアに誕生会に招待されたことを話した。

 特段、反対される理由はないので、二つ返事で許可が貰えると思っていたのだが、二人は困った顔をする。

 

「何か、まずかった?」

 不安になり、ジェノが尋ねると、ペントは不安げな表情で口を開く。

 

「いえ、坊っちゃん。男爵家から招待を頂くというのは大変名誉なことです。ですが、この街から離れたところで行われるというのが、ペントは心配で……」

「ああ、そうだね。でも、きっと馬車か何かを用意してくれると思うから、大丈夫だよ。それに、先生も一緒に招待されているし」

 ジェノはそう言って笑顔でリニアの方を向いたが、彼女は眉間に皺を寄せて何かを考えている。

 

「先生?」

 ジェノが心配して声を掛けると、リニアは小さく嘆息した。

 

「お貴族様のご招待って事は、断るわけには行かないわよね。困ったなぁ。何を着ていけばいいかしらね?」

 リニアはそう言って苦笑し、う~ん、と考え続ける。

 

「大丈夫だよ。先生なら」

「あら、ジェノ。どうして私なら大丈夫なの?」

 何気なく呟いたジェノの言葉に、リニアは表情を一変させて、嬉しそうに尋ねてくる。

 

「えっ、あの、その……先生は……」

「先生は、何かな?」

 リニアは満面の笑みで言葉の続きを促してくる。

 

「……ううっ。そっ、その、僕、お風呂に入ってくるよ。ペント。今日も美味しかったよ!」

 ジェノは少し残っていた料理を口の中にかっこむと、逃げるようにお風呂場に向かう。

 

 けれど、お風呂場に向かう途中で、リニアとペントの笑い声が聞こえて、ジェノは恥ずかしさのあまりに頬を真っ赤にするのだった。

 

 けれど、ジェノは知らない。

 彼がお風呂場に向かったことは、ペントとリニアにとって望ましいことだったことを。

 二人が険しい顔で、今後のことを話し合っていたことを。

 

 

 

 

 

 

 

 日常を重ねていると、あっという間に一ヶ月は経過した。

 そして、先日招待状が届いたマリアの誕生会まで、あと三日に迫っていた。

 

 まだ三日もあるのに、ワクワクした気持ちが溢れそうで、ジェノはベッドに横になりながらも、早くマリアの誕生日にならないものかと思っていた。

 

 もちろん、マリアの、貴族の誕生会というものがどんなものかという期待もある。

 だが、それ以外にも楽しみなことが、二つあるのだ。

 

 

 先日、ジェノは久しぶりに服を買いに出かけた。

 ジェノ自身は気づいていなかったのだが、この一年でジェノの背はぐんぐん伸びて、服を新調する必要が出てきたのだ。

 

 新しい服を着られるのは嬉しいが、ジェノはお金のことが心配で仕方がなかった。

 

 今まで自分の服の大部分は、ペントが布を買ってきて、彼女が夜なべして作ってくれるものがほとんどだったのだ。

 しかも、その布を買うお金も、ペント自身が働いて貯めていたお金を使ってくれていたことをジェノは知っている。

 

 けれど今回は、全てお店で買うというのだ。

 ジェノが心配になるのも無理からぬことだった。

 

「坊っちゃん、どの服もお似合いですよ」

「そうね。お世辞抜きで格好いいわよ、ジェノ」

 お店に付き添ってくれたペントとリニアが褒めてくれるのが嬉しかったし、お店の人に勧められるままに、いろいろな服を着てみるのは初めての経験で楽しかった。

 

「でも、ペント。お金は大丈夫なの?」

 ジェノは心配で仕方なくなり、沢山の服を買おうとするペントに尋ねた。

 

 するとペントは涙を浮かべながら、ジェノを抱きしめた。

 

「いつも私が不甲斐ないばかりに、私が作った粗末なお洋服ばかりしかご用意出来ずに申し訳ありませんでした。ですが、もう大丈夫です。デルク様が頑張ってくださっているおかげで、お金には余裕がありますので」

 ペントはそう言って涙をこぼす。

 

「そうなんだ。よかった。デルク兄さんに感謝しないといけないね。でもね、ペント。僕、ペントが作ってくれる服も大好きだよ」

 ジェノがそう言って笑うと、ペントは「坊っちゃん……」といって泣き出してしまう。

 

「うんうん。ジェノ。今のその気持ちを忘れては駄目よ」

 ペントには抱きしめられたまま泣かれて、リニアには頭を撫でられる。

 店の人達も、そんな自分達に笑顔を向けてくれていた。

 

 こうして、ジェノは真新しい服で誕生会に参加できるようになった。

 これが、楽しみなことの一つ目。

 

 そして二つ目は、更に楽しみなことだ。

 

 それはつい先週のこと。

 

「よぉーし、ジェノ。今日は朝の稽古はお休みにして、先生と二人で買い物に行きましょう」

「えっ? でも服はもう買ってもらったから……」

 ジェノは何を買いに行くのか皆目見当がつかなかった。

 

「ふっふっふっ。君がものすごく喜びそうなものを買ってあげるから、楽しみにしてついてきなさい。でも、浮かれすぎては駄目よ。前に行った裏通りの方に行くからね」

「裏通り……。分かりました」

 去年、悪い連中にマリアが攫われそうになった時のことを思い出し、ジェノは気を引き締める。

 

 そして、リニアと一緒に裏通りにやってきたのだが、「その前に、少し寄りたいところがあるから付き合って」と言われ、ジェノは『冒険者ギルド』と看板に書かれた店に足を運んだ。

 

 お世辞にも綺麗とは言えない店と、重い雰囲気に気圧されそうになったが、ジェノはリニアの後を追って店に入る。

 

「おお、久しぶりだな。リニア」

 カウンターの奥にいる、片目に眼帯をした厳つい中年の男が、リニアに話しかけてきた。

 

「すみません、ご無沙汰していました。親父さん、頼んでいた件についてなんですけれど」

「ああ。つい先日情報が入ったところだ。っと、たしかそっちの小僧は……」

「ええ。私の生徒です」

 リニアがそう言うと、男は嬉しそうに声を上げて笑った。

 

「こんなに小せえのに、お姫様を守るために、あのごろつき共に立ち向かったあの時の小僧か。うんうん。こりゃあ、将来が楽しみだな」

「ええ。私も楽しみです。それじゃあ、約束のお金です」

 リニアはそう言うと、革袋から大銀貨を二枚も取り出して、男に手渡した。

 

「あいよ。確かに。ほら、これがお前さんの知りたい事だ」

 リニアは数枚の紙を受け取る。

 とてもそんな紙切れが大銀貨二枚の価値があるとは、ジェノには思えない。

 

「……なるほど。助かりました、親父さん」

 リニアはその紙をジャケットのポケットに仕舞い、男に頭を下げて踵を返す。

 

「良いってことよ。これからも贔屓にしてくれよ」

 見た目とは裏腹に陽気な男に背を向けて、ジェノはリニアと一緒に店を後にする。

 

「先生、今のお店は、どんな店なんですか?」

「んっ? 冒険者ギルドのこと?」

「はい」

 ジェノはそんな店の名前を聞いたことがない。

 

「そうね、冒険者っていう、冒険や魔物退治をする人達のための組織のことよ。いろいろな国に支店があって、お金を支払えば、いろいろなことを調べてくれたりもするのよ」

「それって、さっき先生が……」

「うん。先生の故郷のことをちょっと調べてもらっていたのよ」

 リニアはそう言うと、ポンポンとジェノの頭を優しく叩いた。

 

 それが、それ以上は聞いてほしくないということだとジェノは悟り、それ以上は口にしない事にした。

 

「さぁ、着いたわよ」

「ここって……」

 ジェノは眼前の店の看板を見て、目を輝かせる。

 

「ふふふっ。冒険者ご用達の武器屋さんよ。今日は日々頑張っている生徒のために、先生が剣を買ってあげようというのだよ」

「えっ? えっ、本当! 本当に、僕に剣を?」

「ええ。本当だから、少し落ち着きなさい」

 リニアに笑顔で窘められ、ジェノは慌てて口を閉じる。

 

「親父さん、おはようございます。頼んでいた剣の持ち主を連れてきました」

 店の入り口の扉を開けるや否や、リニアは挨拶の言葉を口にする。

 

「おお。待っていたぞ。すまねぇな。なかなかない注文だから、どうしても最後の調整が必要でな」

 頭の禿げ上がった初老の男が、笑顔でリニアに話しかけてくる。

 

「で、そっちのガキが、俺の作った剣の持ち主になろうっていうんだな」

 男は値踏みするような視線を、ジェノに向けてくる。

 

 それに気圧されそうになりながらも、先の『冒険者ギルド』というところに一度行っていたことで、少し慣れたジェノは、不安な気持ちを振り払い、口を開く。

 

「初めまして。ジェノと言います」

「んっ? おお、大抵のガキは俺を見ると泣き出すんだが、なかなかいい根性しているじゃあねぇか。去年、大人に喧嘩を売ったのは伊達じゃあねぇようだな」

「親父さん。あれは、正当防衛です」

 リニアがそう弁護をしてくれたが、初老の男は「そうだな。ただ、その後のお前さんの暴れっぷりは、過剰防衛だったがな」と皮肉めいた笑みを浮かべて、リニアに言葉を返す。

 

「まぁ、そんな事はいいや。ジェノだったな。俺の名はガオンという。この国で一番の武器職人を自負している男だ。俺は、決して自分の仕事に手は抜かない。それが、お前のようなガキが使う剣だとしてもだ」

 ガオンと名乗った男は、ジェノを睨むように見つめてくる。

 ジェノは負けまいと視線をそらさずに見つめ返す。

 

「お前さん。剣を手に入れたら何をする? 魔物を殺すのか? 人を殺すのか?」

 ガオンは低い声で尋ねてきた。

 

「……僕は、本物の剣を持ったことがないので分かりません。でも、誰かを傷つけるよりも、大切な人を守るために、剣を使いたいと思います。僕を守ってくれた、先生のように」

 ジェノは素直な気持ちをぶつける。

 

「ふん。いかにも何も知らないガキ臭い答えだな」

 ガオンはそう言うと、呆れたように頭を掻く。

 

 だが、次の瞬間、頭を掻いていた手は、ジェノの顔面目掛けて振り下ろされた。

 

「はっ!」

 しかし、ジェノはその一撃を、自らの左手を回転させる事により流し受けて、ガオンのバランスを崩れさせると、前のめりになった彼の股間の手前で拳を寸止めにした。

 

「うんうん。よく今の攻撃に反応できたわね。偉いわよ、ジェノ」

 リニアは満足そうに笑う。

 

「ふっ、はっ、ははははははっ。まいった、まいった。俺の負けだ」

 ガオンは大声で笑い、降参する。

 

「リニア。お前はガキになんてことを仕込みやがるんだ」

「あら、最初はちゃんと寸止めするように言っておいた私に、少しは感謝して欲しいですけれど」

「馬鹿が。俺はこのガキの頬を引っ叩いて、剣で斬られるのはこんな痛さじゃあねえってことを教えようとしてだなぁ……」

「ご心配なく。その辺りは私がしっかり教えていますから」

 リニアとガオンはそう言って睨み合っていたが、やがてどちらとなく笑い出した。

 

「ジェノ、もういいわ。ガオンさん、君のことを気に入ってくれたみたいだから」

「ああ。お前さんの剣をすぐに持ってきてやる。だが、お前はまだまだ成長期だ。これから成長するにつれて調整が必要になってくる。

 いいか、絶対に他の店で武器を買おうなんてするんじゃあねぇぞ。俺が全部やってやる。格安でな」

 ガオンは笑顔で言い、店の奥に入っていったかと思うと、ジェノが普段持っている木剣くらいのサイズの剣を持ってきてくれた。

 

「凄い……。綺麗だ……」

 無骨な剣を想像していたジェノは、その剣の美しさに見惚れてしまった。

 刀身が綺麗なのはもちろんだが、柄の部分も装飾が施され、何もかもが洗練されている。そのフォルムだけで只の剣とは違うことが、素人のジェノの目にも明らかだった。

 

「さすが、親父さん。これならお貴族様のパーティに身に着けていっても問題ないわね」

「そりゃそうだ。そう見えるように作ったからな。だが、こいつの真価は実戦で使った時に明らかになるぜ。だが、最後の調整がしたい。ジェノ、この剣を握ってみろ」

 ガオンに促され、ジェノは「はい」と言い、剣の柄を握る。

 

「そのまま上から下に振ってみろ。そして、次は下から上だ」

 ジェノは言われたとおりに剣を振るう。それは、何十回にも及んだ。

 

「うん。どうだ、ジェノ。手と腕は疲れたか?」

「いいえ。大丈夫です」

 木剣よりも当然、鋼でできた剣は重量があるのだが、ジェノは疲れを殆ど感じない。

 

「うん。だいたい良いみたいだな。だが、少し重心が後ろにぶれているな。待っていろ。すぐに調整してやる」

 ジェノから剣を受け取ると、ガオンは店の奥に行ってしまった。

 

「ジェノ。少し時間が掛かるから、こっちのソファーに座らせてもらいましょう」

「はい」

 ジェノはリニアに言われてソファーに座ったが、やはり剣が気になって仕方がない。

 

「でも、先生。いいんですか、僕が剣を持っても」

「うん。少し早い気もするけれど、練習にも使いたいからね。それに、いざという時に自分達を守るために持っていなさい。ただし、取り扱いは細心の注意を払うこと」

「はい。分かりました。ありがとうございます!」

 

 ジェノはこうして自分の剣を初めて手に入れたのだ。

 

 

 刃物の管理は子供には危ないと言われ、修行の時の少しの時間しかまだ触らせてもらえないが、マリアの誕生会では、ずっと身につけていられる。

 ジェノは、新しい服と新しい剣を身につけるその時が、本当に待ち遠しくてたまらない。

 

 けれど、この時のジェノは知らなかった。

 誕生会で、早速その剣を実戦で使わなければいけなくなるということを。

 

 ……自分達の命が脅かされる事になる未来を、ジェノは知らなかったのだ。



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㉕ 『馬車』

 待ちに待ったマリアの誕生会の当日。

 ジェノはペントに手伝ってもらいながら、最後に真新しい上着に袖を通す。

 

「ああっ、坊っちゃん。誠に、誠に凛々しゅうございます。できることならば、イヨ様に一目でもこのお姿をお見せしとうございました」

「もう。大げさだよ、ペント。それに、この間も着替えたところを見ていたじゃあない」

 そうは言いながらも、ジェノも嬉しそうに笑う。

 

 イヨ――母との記憶がまるでないジェノには、ペントが自分の姿を見てくれるだけで十分嬉しい。

 

「後は、先生から……」

 一張羅の黒を基調としたこの服は、これだけでも格好いいとジェノは思う。けれど、更にこれにアレが加われば……。

 姿見で自分の姿を確認し、ジェノはリニアが着替えて一階に降りてくるのを、今か今かと待っていた。

 

「おおっ、やっぱり似合うわね、ジェノ。格好いいぞぉ~」

 いつもと同じリニアの声に、ジェノは声のした方を向く。だが、そこで言葉を失ってしまった。

 

 リニアは淡い水色を基調としたドレスを身にまとっていた。

 外見よりも機能性を重視しているようなシンプルなドレスだが、それでも若いリニアの元の美しさとスタイルの良さが合わさり、輝かんばかりの美しさだ。

 そして、普段はしない化粧をしていることから、ジェノの目にリニアは、いつもの先生とは違う別人に見えてしまった。

 

「まぁまぁ。リニア先生。大変お美しゅうございます」

「ペントさん、ありがとうございます。ドレスなんて久しく着ていなかったから心配だったのですが」

 リニアはそう言って苦笑するが、ジェノはあまりのショックに何も言えない。

 

「こぉ~ら、ジェノ。女の人が素敵なドレスを身に着けていたら、なんていうべきか教えたでしょう?」

「えっ、あっ、その、うん……。その、すごく綺麗です……」

 ジェノは何故かものすごく恥ずかしくて、そう言うと顔を俯けてしまう。

 

「おやおやぁ~。ジェノ君。何を赤くなっているのかなぁ~」

「なっ、なんでもないよ!」

 ジェノは怒ったように言い、ぷいっと顔を横にする。

 

「うんうん。先生、とっても嬉しいから、これ以上の追求はしないでおいてあげよう。それと、ほらっ、お待ちかねのものよ」

 リニアはそう言って、ジェノに白い鞘に納められた剣を渡してくれた。

 

「まぁ、まぁ、立派な、美しい鞘ですね」

「ええ。これなら無骨なイメージはないですよね?」

「ですが、先生。よろしいのですか? 貴族の催し物で、商家の者が帯剣しても?」

 ペントの問に、意気揚々と腰のベルトに剣を差そうとしていたジェノの手が止まる。

 

「大丈夫ですよ。私と一緒に帯剣する旨は、すでに許可を取ってあります。

 以前、私が結果的にマリアちゃんを攫おうとしていた、ならず者を捕まえた剣士だということは、あちらさんもご存知でしたので、私の教え子だからという事を主張したら、すんなり話が進みました」

 リニアはにっこりと微笑む。

 

「というわけだから、大丈夫よ、ジェノ。でも、剣を決して抜いては駄目よ。もし、不用意に抜いてしまったら、その場で斬り殺されても文句は言えないんだから」

 リニアの言葉に、ジェノは身震いがして、「はい」と頷く。

 

「うん。分かればよろしい」

 リニアは満足そうに頷くと、ジェノの頭を優しく撫でて微笑んでくれた。

 ジェノも嬉しくなって微笑む。

 

 全ての準備を終えて、迎えの馬車を待つまでの間、ジェノは少し浮かれていた。

 それは子供らしい姿で、年相応の反応だった。

 

 けれど、馬車に乗り込んだ後で、ジェノのその気持ちは霧散することになるのだ。

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと馬車は進んでいくが、それでも歩く速度よりずっと速い。

 それに、日差しも屋根が防いでくれるし、思ったよりも通気性も悪くないので涼しい。

 

「ふふっ。楽しそうね、ジェノ」

「はい。僕、馬車に乗った事がないので」

 ジェノが応えると、リニアは「実は先生も初めてなんだよね」と言って笑った。

 

 けれど、そこでリニアは真顔になり、右手の人差し指を立てると、静かに自分の口の前にそれを持ってきた。

 

 それが、御者に聞かれないように小声で話す合図だと悟り、ジェノは気を引き締めて、居住まいを正して頷いた。

 

「いい、ジェノ。最近、また悪い人達が悪さをしようとしているという噂があるの。それは、とある裕福な家の子供を攫おうとする計画よ」

「そんなことが……」

 ジェノには寝耳に水な事柄だった。

 

「そして、今回のマリアちゃんのこの誕生会。悪い人達が目をつけそうだとは思わない?」

「先生は、またマリアが狙われると思っているんですか?」

「いいえ、違うわ。危ないのは、ジェノ、君よ」

 リニアの言葉に、ジェノは大きく目を見開く。

 

「どうして、僕が? 僕はただの商人の息子です。それに、僕を攫っても、あの人はお金を出したりはしないのに……」

 自分達を冷遇する父親が、ヒルデが、自分なんかのために銅貨一枚でも払うとは思えない。

 

「そうね。今まではその認識で良かったんだけどね。君のお兄さん、デルクさんを妬む人達も出てきてしまったのよ」

「兄さんを?」

「うん。君のお兄さんは、君とペントさんを本当に大切に思っているのね。だからものすごく頑張ったの。その結果、君のお父さんの商会の店の一つを、成人前にも関わらずに実質的に手に入れたのよ」

 リニアの話に、ジェノは更に驚く。

 

「兄さんが……。そうか。兄さんはすごく頭もいいし、皆に好かれる人だから」

 ジェノは兄の功績が我が事のように嬉しかった。

 

「でもね、お兄さんは敵も作ってしまった。君のお父さんが一代で作り上げた商会が大きくなることを快く思わない人達も多い中、その跡取りとなる人間が非凡な……ええと、普通の人とは違うすごい力があることを知らしめてしまった。

 だから、君のお兄さんの弱みに付け込もうとする人達が現れたの。そして、その弱みというのが……」

 リニアの話を聞き、ジェノは理解する。

 

「先生。その弱みが、僕なんでしょう?」

「……そう。悲しいけれど、今の君はお兄さんの弱点になってしまっている」

 リニアの言葉に、ジェノは黙って拳を握りしめる。

 

「今日、私は君に難しいことを三つお願いするわ」

 リニアは少しの間を置いて、口を開いた。

 

「はい。教えて下さい、先生」

 ジェノは相変わらず何も出来ないのだと思い知らされたが、それでも先生を信じている。

 先生の言うことを守ることが、自分が兄さんのためにできる唯一のことだ。

 

「一つ目は、私から離れないこと。必ず私の目の届く範囲にいなさい」

「はい」

 ジェノは真剣な目で頷く。

 

「二つ目は、その剣。決して抜いては駄目だけれど、抜く場合の判斷は君に任せる。必要だと思ったら、迷うことはないわ。後のことは気にしなくていいから」

「はい」

 腰の剣を一瞥し、頷く。

 

「最後の三つ目はすごく難しいわ」

 リニアはそう言うと、ポンと優しくジェノの頭に手をおいて、それを優しく動かす。

 

「ジェノ。危険がどこにあるか分からないけれど、せっかくのマリアちゃんの誕生会よ。マリアちゃんを悲しませないようにしなさい。そして、君も……」

 リニアは最後まで言わなかったが、その優しくて悲しい笑顔が全てを語っていた。

 

「はい。僕も楽しみます。もちろん、先生の言いつけを守りながら」

 ジェノはにっこり微笑んだ。

 僕は大丈夫ですという気持ちを込めて。

 

「……安心して。私が必ず守るわ。子どもの幸せな時間さえ奪おうとするような外道には、指一本触らせないから」

 リニアの決意の込められた言葉に、ジェノはもう一度微笑むのだった。



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㉖ 『別荘』

 木々のおかげだろう。夏の暑さが和らいで心地が良い。

 馬車に揺られてたどり着いたのは、山中の別荘。

 流石は貴族の別荘ということもあり、非常に大きい。

 それでも、招待客はすでに到着している人間だけでも五十人を軽く超えているようなので、誕生会は庭を使って行われるようだ。

 

 マリアの家の使用人に案内をされて、ジェノとリニアは指定の席に着く。

 とはいっても、いざ宴が始まれば、どの席に移動しても構わないのらしい。

 

 招待客は同じ席になった人達と談笑し、宴の始まりを心待ちにしている。

 だが、その中に……。

 

「あの女性と子供は、なぜ剣を携えているのでしょうか?」

「商家の人間が帯剣するとは、分不相応ではないですかな。ましてこのようなめでたい席で無粋な」

「大丈夫ですわ。いざとなれば当家の護衛があんな下賤な者共など……」

「ははっ、そうですな」

 

 一部の人間だが、そんな、明らかにジェノ達を揶揄する発言が聞こえよがしに囁かれている。

 

 腹が立ったが、隣にいるリニアに、

 

「ジェノ。笑顔、笑顔」

 

 と言われ、ジェノは彼女の方を向く。

 

「でも……」

「君があまりにも格好いいから、嫉妬しているのよ。だから、笑って許して上げなさい」

 リニアはそう言って、ジェノの頭を撫でる。

 

「……そうだね。あの女の人より、先生のほうがずっと綺麗だもん」

 ジェノは軽口のつもりで言ったのだが、口に出したら恥ずかしくなってしまい、プイッとリニアから顔を背ける。

 

「おおっ、嬉しいこと言ってくれるわね。でも、それを恥ずかしがらずに言えないと、まだまだだぞぉ~」

 リニアは言葉とは裏腹に、すごく嬉しそうだ。

 だからジェノは、笑うことが出来た。

 

「おっ、ジェノ!」

「本当だ、ジェノだ!」

 今到着したのだろうか? おめかしをしたロディとカールが、ジェノ達を見つけて歩み寄ってくる。その後ろには、護衛と思われる男の人が二人立っていた。

 

「ロディ! カール!」

「おお。同じ席みたいだな。良かったぜ。知らない大人ばかりだったらどうしようかと思っていたんだ」

「そうそう。ロディったら、柄にもなく緊張していたんだぜ」

「うるせぇ、それはお前も同じだろうが」

 ロディとカールの軽口を聞き、ジェノもホッとする。

 

「こんにちは、ロディ君、カール君」

 微笑ましげに見ていたリニアが、二人に挨拶をする。

 するとロディ達は頬を赤く染めて、『こっ、こんにちは、リニアさん』と緊張した面持ちで挨拶を返す。

 

 去年のマリアの誘拐未遂の際に、リニアの実力の一端を目の当たりにした彼らは、彼女を尊敬するようになったらしい。

 それに、リニアが今日はドレス姿だということもあり、その美しさに目を奪われているようだ。

 

「…………」

 ジェノは、『どうだ、この人が僕の先生なんだぞ』という誇らしい気持ちと、ロディとカールが先生を見てデレデレしているのが腹立たしく思う、よく分からない気持ちが湧き上がってくるのを感じていた。

 つい、不機嫌な顔になってしまいそうで、ジェノは慌てて笑顔を作る。

 

「ジェノ、それ本物の剣なのか?」

 目ざといカールが、ジェノの腰の鞘に気づいた。

 

「うん。でも、ごめんね。見せるわけには行かないんだ」

「ええ、なんでだよ?」

「そうだぜ。お前ばっかり狡いぜ。せめて、少しだけでもみせろよぉ」

 カールとロディが不満を言うが、ジェノは首を横に振った。

 

「こんなに人がいる中で、剣を突然抜いたら取り押さえられちゃうよ。だから、ごめんね。今度、僕の家に遊びに来てよ。先生が一緒のときなら、見せてあげられるから」

「残念だけど仕方ないか。それじゃあ、今度家に招待してくれよ」

「ああ。絶対だぞ」

 二人に念を押されて、ジェノは困ったような笑顔で、「わかったよ」と応える。

 

 それからしばらく、ジェノはロディ達と話をした。

 いつもの友人との会話はやはり楽しく、周りの嫌味も気にならなくなった。

 

「皆様、本日は娘の誕生祝賀会にお集まり頂き、誠にありがとうございます」

 不意に、大きな声が会場に響き渡った。

 皆が声を発した主に視線を映すので、ジェノもそれに倣う。

 

 声を発したのは、豪奢ではないが品の良い衣装を身にまとった中年の金髪の男性。彼がマリアの父親なのだろう。

 

「初めて見た、マリアのお父さん」

「なんか、威圧感があるね」

 ロディとカールが声を上げるので、ジェノは「静かにしたほうがいいよ」と小声で注意する。すると、二人は慌てて口を押さえて黙る。

 

「我が娘マリアも、今日で九歳になりました。ここまで成長できたのも……」

 しかし、長話が続くにつれて、ロディもカールもだんだん退屈になったのだろう。「早く、うまい飯が食べたい」などとヒソヒソ話を始めてしまう。

 

 ジェノは困った顔で二人を見ていたが、すぐに彼らの視線は話し手の方に向くことになった。

 その理由は簡単で、今まで護衛の影に隠れていたマリアが姿を現したのだ。

 

 マリアは純白のドレスを身にまとっていた。

 その愛らしい姿に、ロディとカールの視線は釘付けになる。

 

「ふふっ。マリアちゃん、可愛いわね」

「うん。そうだね」

 リニアの言葉に同意すると、彼女は嬉しそうに、うんうんと頷く。

 

「いい傾向よ、ジェノ。君はもう少し異性に、女の子に興味を持ちなさい。もちろん、女の子のことばかり考えるようになってもいけないけれど、君はストイックすぎるからね」

「……別に、僕だって……」

 ジェノは心外だと言わんばかりに口を尖らせる。

 

 だが、そこで思いもよらぬ事が起こった。

 

「さて、本日は娘のたっての願いで、今日一日、娘をエスコートする騎士役をお願いしたい者がいる。ジェノ君、前に出てきたまえ!」

 マリアの父親が、不意にジェノを指名したのだ。

 

「えっ!」

 ジェノは驚き、助けを求めるようにリニアに視線をやるが、彼女も珍しく驚いていた。

 

 まずい。自分は誰かに狙われている可能性がある。だが、貴族であるマリアの父の決定を拒否する選択肢がないことくらいはジェノにも分かる。

 

「なんで、平民であるジェノに……」

 リニアはそう口走ったものの、すぐに冷静さを取り戻し、ジェノの背中を押してくる。

 

「これは完全に予想外だけど、大丈夫。先生がついているわ」

 そう掛けられた言葉を胸に、ジェノは意を決して前に足を進めるのだった。



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㉗ 『宴にて』

 マリアには何人もの大人が挨拶にやって来る。

 幼いとはいってもマリアも貴族としての教育を受けているので、慣れた様子で会話をしている。

 だが、彼女の傍らに立つジェノには、非常に居心地が悪かった。

 

 誰もジェノの事については触れないし、話しかけても来ない。

 それは、下賤な平民の子などに語る口など無いという意志の現れなのだろう。

 

「もう、失礼しちゃう。今日のジェノは、いつも以上に素敵で格好いいのに、どうしてみんな何も言わないのかしら!」

 招待客の挨拶を一通り終わらせたマリアは、一人憤慨する。

 

「マリア。僕は平民なんだから当たり前だよ。君の誕生会での護衛役なんて仕事、本当は僕なんかがやることではないから」

「……ごめんなさい。突然こんな事をお願いして……」

 そう言ってマリアは泣き出しそうな顔をする。

 

「いいよ。マリアも大人の人より、遊び慣れている僕の方が、きっと気が楽だったんでしょう?」

 ジェノはフォローを入れたつもりだったが、マリアの頬が、ぷくぅと膨らんでしまう。

 

「違うわよ! 私はジェノに護衛してもらいたかったの! 他の誰かじゃあなくて、絶対にジェノじゃないと駄目なの!」

「僕じゃないと駄目? それって、どういう意味?」

「もう!」

 マリアはなぜか怒り出し、ジェノの手を引っ張り、家屋の方にズンズン歩いて行く。

 

「マリア様、どちらに?」

「マリア様、いけません。本日の主役が、宴を離れるなど!」

 護衛の男と側仕えの侍女らしき大人が駆け寄ってくるが、マリアは「すぐに戻るから、誰もついてこないで!」といい、ジェノの手を引っ張って家屋に入ると、すっと扉の影に移動し、周りに人がいないことを確認する。

 

「マリア。護衛の人達から離れたら危ないよ。早く戻ろうよ」

「ジェノ!」

「えっ? なっ……んっ……」

 ジェノの言葉は最後まで続かなかった。

 彼の唇を、マリアが自分のそれを当てることで塞いだのだ。

 

「なっ、まっ、マリア……」

 それは一瞬のことだったが、ジェノは驚きのあまりに呆然としてしまう。

 

「これが、貴方じゃないとだめな理由よ! もう、ジェノの馬鹿! 私、初めてのキスは貴方からして貰いたかったのに!」

「……あっ、その、ぼっ、僕は……」

 珍しく慌てるジェノに、マリアは赤面しながらも、満足そうに微笑んだ。

 

「でも、最初からこうしておけばよかったのね……」

「マリア……」

 ジェノは何とか気持ちを落ち着かせ、突然顔を俯けたマリアを心配する。

 

「ジェノ。お願い。今日だけでいいから、私の騎士になって」

 マリアは突然顔を上げたかと思うと、笑顔でジェノの手を両手で包み込む。

 

 ジェノは断ろうと思った。

 自分は誰かに狙われている可能性がある。マリアをそれに巻き込むわけには行かない。

 

「あっ……」

 けれど、ここでジェノはリニアとの三つのお願い――言いつけを思い出した。

 

「うん。分かったよ」

「ありがとう、ジェノ! 大好き!」

 マリアはジェノに抱きついてきたので、ジェノは彼女を受け止める。

 

「嬉しい、ジェノ。本当に、本当にありがとう……」

「……マリア、どうしたの?」

 ジェノはマリアの顔を見て驚く。彼女は泣いていた。涙をこぼしていたのだ。

 

「あっ、その、ごめんなさい。あんまりにも嬉しくて……」

 マリアはジェノから離れると、涙を指で拭う。

 

 ジェノはそんなマリアに、どう声を掛けるべきか分からなかったが、どうすればいいか懸命に考え、マリアに手を差し伸べて微笑む。

 

「マリア。とりあえず皆のところに戻ろうよ。僕は今日、君とずっと一緒にいるから」

「うん!」

 マリアは満面の笑みを浮かべ、ジェノの手を取る。

 

 こうして二人は会場である庭に戻った。すると、すぐにリニアの姿が目に入ってきた。

 彼女は手をつないだジェノとマリアに、にっこり微笑みを向けてきた。

 

 先程のマリアとのやり取りも見られていたのかもと思うと、ジェノは気まずい気持ちになる。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 誕生会はつつがなく進んだ。

 とはいっても、あくまでも成長した娘を見せるという名目で、他の貴族たちと誼を持つことが目的のようなので、マリアはただ決まった席に座っていればいいだけだった。

 その結果、ジェノもマリアの隣で話をしたり食事を楽しんだりしたが、できればロディとカール、何より先生と食事をしている方が気楽だと思った。

 

「いいなぁ、ジェノの奴……」

「ジェノばっかり狡いよな!」

 カールとロディの怨嗟の込められた声が遠くの席から聞こえてきて、ジェノはそんなに羨ましいのなら代わってほしいのにと思う。

 

「ねぇ、ジェノ。これも美味しいわよ」

「うっ、うん。大丈夫だよ、自分で食べるから」

「駄目よ。ほらっ、あ~ん」

 フォークに茹でた海老の身を刺して、ジェノの口の前に差し出してくるマリア。

 

 どうして周りの大人は誰もマリアを止めないのだろう?

 ジェノはそれを疑問に思う。

 

 侍女の何人かが注意をしようとして、マリアに睨まれてすごすごと引き下がったのは分かる。けれど、貴族の娘と平民の少年が仲良くしているところを、貴族の集まる場所で見せることがいいこととは思えない。

 

「次は、私に食べさせて」

 仕方なくマリアの差し出してきた海老を口に運ぶと、今度はそう催促をされた。

 

 こんな落ち着かない食べ方なんてしたくない。ゆっくり味わって食べたい。

 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、ジェノは自分の皿の海老をフォークに刺し、マリアの口に運ぶ。

 

「う~ん。ジェノに食べさせてもらうと、格別に美味しいわ」

 マリアは満足げな笑顔で言う。

 誰に食べさせてもらおうと海老の味は変わらないとジェノは思う。

 

 困ったようにジェノは横目でリニアを見る。しかし、そこで彼女の顔が険しいことに気づく。

 ジェノは立ち上がり、周りに視線を走らせる。

 

「ジェノ、どうしたの?」

 マリアが心配そうに尋ねてきたが、ジェノにもまだ何が起こるのかわからない。だが、今はすぐに動ける体制になっておいたほうがいいはずだ。

 

「ジェノ、マリアちゃん。それに、ロディ君とカール君も、私のそばに来て!」

 周りのことなど気にしない大声で、リニアは子ども達に集合を掛けた。

 

「マリア、着いて来て! ロディ! カール! 二人も、先生の側に来て、今すぐ!」

 ジェノはマリアの手を取って、さらに友人たちに声をかけ、リニアの元に駆け寄る。

 ジェノのただならぬ雰囲気に、ロディとカールもリニアの元に駆け寄ってきてくれた。

 

「あの、いったいどうなされました?」

 心配して侍女の一人が話しかけてきたが、リニアは相手にしている時間はないとばかりに大声を出す。

 

「皆さん、急いでこの庭の中心に集まって下さい! 護衛の皆さんは、それらを守るように円陣を組んで!」

 リニアは大声で指示を出すが、皆驚くばかりで、目をパチパチさせるか、怪訝な顔をするだけだ。

 

「今すぐ言われたとおりにして下さい! 私達はもう包囲されてしまっています! このままでは、守りきれません!」

 リニアは懸命に訴えるが、参加者達は誰も行動に移ろうとはしない。

 

「護衛の皆さん! せめてあなた達だけでも武器を構えて! どうしてここまで接近されているのに、誰も気が付かないのですか!」

 リニアはそう言って剣を構える。

 

「リニア殿。いったいなにを言っておるの……」

 マリアの父がリニアに説明を求めたが、もう手遅れだった。

 

「いっ、いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 女の甲高い悲鳴が上がった。

 しかも、一箇所だけではない。何箇所からもだ。

 

「あれは……」

 庭のあちこちから、姿を見せたのは、四足歩行で歩く獣。

 ジェノも図鑑でしか見たことがない生き物、狼だった。

 

 十匹や二十匹ではない数多くの狼が、殺気をまといながらこちらに迫ってくるのだ。

 

「馬鹿な! 見張りは何をしていたのだ! 衛兵、早くこの獣を追い払え!」

「まずは、私を守りなさい!」

「何をしている、まずは我々の護衛が先だ!」

「子供の、マリアの守りが優先だ!」

 

 出席者達はパニックを起こし、好き勝手に声を発する。そのせいで、護衛の者たちに命令が上手く伝わらない。

 そのため、護衛の対応も遅れる。

 武器を抜いているのはまだましな方。未だに何をすべきか分からずに、おろおろしている者さえ居る。

 

「ジェノ。マリアちゃん達をお願い。そこから動いては駄目よ。大丈夫。あなた達には指一本触れさせないから」

「はい、先生!」

 ジェノはリニアに応え、震えて抱きついてきたマリアを安心させるようにポンポンと背中を叩く。

 

「ロディ、カール。二人も絶対にここから離れないで。そして、先生の後ろを二人で分担して見ていて。僕は左を見ているから、マリアは右を。なにかあったら、すぐに教えて!」

「おっ、おう」

「分かった」

「うっ、うん!」

 三人の返事を確認し、ジェノはリニアの左を、他の皆が集まっている方を見る。

 

「いい指示よ、ジェノ!」

 リニアは一瞬口の端を上げたが、すぐに真剣な表情になり剣を握る。

 

 周りを囲む狼の数はどんどん増えていく。

 ジェノはその事に恐怖を覚えながらも、今はただリニアを、自分の先生を信じることにするのだった。



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㉘ 『襲撃と犠牲』

 少し前までの和やかな食事風景は一変し、誰もが恐々となる。

 マリアの誕生会に集まった参加者たちは、ジリジリと迫ってくる狼の群れに後退りすることしかできない。

 だが、彼らの護衛の一人の大男が、大きな剣を片手に前に出る。

 

「狼ごときに遅れは取らぬ!」

 大男の勇ましい声に、他の護衛達の何人かも前に出る。そして彼らは、自ら狼の群れに突っ込んでいった。

 

「あなた達は護衛でしょうが! 守りに徹しなさい! これだけの数の狼が、何故集まっているかを不審に思わないの!」

 リニアが大声で指摘するが、男達の耳には入らないようで、彼らは思うがままに武器を振るう。

 

 しかし、流石に貴族の護衛を務める者たちである。その腕は決して狼に引けを取るようなものではなかった。

 

 そう、彼らは十分に勝つことができた。……この狼のからくりを知っていれば。

 

「ぬぅん!」

 大男の大剣がひと凪で三匹の狼の首を飛ばした。そして更に逆凪の攻撃で更に三匹の首を飛ばす。

 大剣を軽々と振り回す、凄まじい膂力だ。

 

 けれど、それを見ていたジェノは違和感に気づく。

 首を飛ばされた狼達は、ただの一匹も血を流してはいない。狼達は、一瞬にして、長方形の紙に変わったのだ。

 

「その紙も斬りなさい! 早く!」

 リニアの叫び声が響くが、雄叫びをあげて剣を振るう男達には届かない。

 それどころか、攻勢に転じたほうが有利と判断した他の護衛の二人も、彼らに加勢しようと前に出ていく。

 

 大男の剣は凄まじかった。一振りごとに狼を紙切れに変え、突き進んでいく。だが、彼は前だけを見すぎていた。

 自分が斬った狼が紙に変わったことを確認したものの、その紙が再び狼の形を取って襲いかかってくることに気づかなかったのだ。

 

「うがっっっっ!」

 大男のくぐもった声が響き渡る。

 彼の足首に、紙から狼に戻った数匹が噛み付いたのだ。

 

 狼を斬った時とは異なり、大男の足首からは血が溢れ出す。

 

「なっ、うっ、ああああああ!」

「そんな、コイツラは不死身な、あっ、うわぁぁぁっ!」

 

 大男に加勢に行った護衛達も先行しすぎた。そのため、紙から狼達に戻った数匹の牙を足首に受けて、その場に倒れる。

 後は、もう一方的な攻撃が、無慈悲な大量の牙が男達を襲っていくだけだった。

 

 狼達は執拗に男達の首や腹や股間を襲う。

 どこを攻撃すれば早く相手を殺せるのかを理解しているのだ。

 

 三人の男だったものは、見るに無残な肉塊に変わり、緑の芝生に赤い池を作り上げた。

 

 悲鳴があちこちで上がり、腰を抜かして動けなくなる者さえいた。

 護衛達は武器を構えながらも動けずに居る。下手に動けば、先の三人と同じ末路が待っているのだ。

 

 それはもちろん子供達も同じだった。

 

「あっ、あああっ……」

「うっ、あっ……」

 ロディとカールも後ろを見ているようにジェノが言っていたのに、悲鳴につられて護衛の人間が噛み殺されるのを見てしまったのだ。そのショックは大きい。

 体を震わせて、過呼吸ぎみな呼吸になってしまっている。

 

「いやぁぁぁぁぁっ!」

 マリアは泣き叫びながらジェノに抱きつく。

 ジェノは、そんなマリアの体を抱きしめ、震える自分に活を入れて、前を見る。

 

「先生。このままじゃあ、他の人達が……」

 ジェノはリニアに声を掛ける。先生なら、あんな狼達にだって負けないと信じているから。

 だが、リニアは前を向いたまま低い声で、

 

「……ジェノ。今は、自分達が助かる方法だけを考えていなさい」

 

 そう言って黙り込んだ。

 

「くっ……」

 ジェノは悔しさに拳を握りしめる。

 

 自分達がいなければ、先生は自由に戦えるのに。

 せめて自分がもう少し強ければ。こんな何人もの犠牲者を出さなくても済んだかもしれないのに。

 

 これでは同じだ。

 今でも夢に見ることがある、ロウが殺されてしまったあの時と。

 

「あっ、ああっ……。ジェノ! 狼が!」

 マリアの声を聞き、ジェノはそちらを向く。

 

 建物を周って来たのだろうか?

 狼が二匹、こちらに向かって襲いかかってくる。

 

 ジェノは腰の剣に手をやろうとしたが、マリアに抱きつかれているため、思うように体を動かせない。

 

 しかし、狼達はジェノ達の近くにやって来るとすぐに、紙に変化し、更にその紙が真っ二つに斬り落とされた。

 

「先生……」

 リニアは前を睨みながらも、一瞬にして狼達を斬り捨てたようだ。真っ二つにされた紙も、灰になって消えた。

 

「……ここまでするの。……あの外道は……」

 背中しか見えないが、リニアは明らかに激怒していた。

 ただジェノは、彼女の言葉に違和感を覚えたが、今はそんな事を気にしている場合ではないと頭を切り替える。

 

 周りの狼達は、また少しずつ距離を詰めて他の出席者達を追い詰めていく。

 このままでは、さらなる犠牲者が出てしまう。

 だが、無力な自分には打つ手がない。

 ジェノは悔しさに体を震わせる。

 

 しかし、ここで思わぬことが起こった。

 突然、狼達は一斉に参加者たちに背中を見せると、散り散りに逃げ始めたのだ。

 

「……逃げていく……。狼どもが逃げていくぞ!」

 貴族の一人の男性が上げたその声に、多くの者が安堵する。

 

 護衛の中には、何か別の攻撃があるのではと危惧しているものも居たが、狼達が去ってしばらくしてからも、それはなかった。

 

「マリアちゃん、お父さんのところに今のうちに移動を。ロディ君とカール君。護衛の人は無事? それなら、彼らのところに。ジェノ、君は私と一緒についてきて!」

 リニアは安堵する貴族達とその護衛をしり目に、子ども達に指示を出す。

 

 ロディとカールは頷いて、自分の護衛のもとに駆け寄る。

 しかし、マリアは、嫌々と言わんばかりにジェノから離れようとしない。

 

「マリア。僕は先生と行かなくちゃいけないんだ。お父さんのところに行って。すぐに戻ってくるから」

 そうジェノが言い聞かせたおかげで、マリアはなんとか彼から離れて、彼女を守るために駆け寄ってきていた、父親と護衛のもとに行く。

 

「皆様は、どうかこちらでお待ちを。私たち二人で、被害を確認してきます。くれぐれも油断はなさらぬようにしてください」

 リニアはマリアの父にそう言って頭を下げると、返事を待たずにジェノの手を引いて小走りに駆け出す。

 ジェノは無言で手を引かれるままに走る。

 

「くっ。やってくれたわね……」

 リニアは怒りを顕にする。

 

 別荘の入り口まで戻ってきたジェノたちが見たのは、無残な死体の山。それには、人間だけでなく、馬も含まれている。

 馬車用の馬と御者が全員、噛み殺されていた。

 

「ジェノ。ごめんなさい。本当なら子どもにこんなものを見せたくはないのだけれど、今は時間がないの。これから、別荘の中に入って生存者を探すから、手伝って!」

「はい、先生!」

 ジェノは恐怖や嫌悪感以上に、怒りを覚える。

 そのため、弱気になって体が動かなくなることはなかった。

 

 ただ、リニアに手を引かれて別荘に入る前に一瞬だけ振り返り、

 

「ごめんなさい。僕のせいで……」

 

 と心のなかで謝罪し、殺されてしまった者たちの冥福を祈るのだった。



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㉙ 『ノブレス・オブリジェ』

 別荘の中を探し回った結果、幸いなことにそこで仕事をしていた人たちは無事だった。

 リニアは訳がわからずパニックになりそうな人たちを落ち着かせて、今現在の食料と飲水の備蓄を聞いた。

 結果、食料はあと一食分程度は残っており、水は容器に溜めてあるものがあるため、こちらも一日は持つとのことだ。

 

「この水は持ち込んだものですか?」

「はい。生憎とこの山で水の湧くところはないようです」

 料理人の一人から話を聞いたリニアは、水を入れる小さな容器の存在を確認し、それに水を入れるように指示を出す。

 

 そして、それが終わったら庭に避難するように伝えて、リニアはジェノを連れて別荘の入口付近に戻る。

 

「ジェノ。これから私が言うことをよく聞いて」

「はい、先生」

 リニアが小声で言ったので、ジェノも小声で応える。

 

「一つは、ここに来るまでに話した、君が狙われているという話を決して他の人にしないこと。これが知られてしまったら、君だけではなくて、君のお兄さんとペントさんにも迷惑がかかってしまうわ」

「はい」

 ジェノは頷く。

 

「もう一つは、これから私がある提案をマリアちゃんのお父さん達にするけれど、決して口を挟まないこと。私がおかしなことを言っても、誰かが腹の立つことを言っても、黙っていて」

「はい、分かりました」

「うん。よろしい」

 リニアはそう言ってジェノの頭を撫でると、ジェノと一緒に庭に戻る。

 

「おお、どうだったのかね、被害の状況は?」

 護衛二人を同伴させて、マリアの父がジェノ達に歩み寄ってくる。

 それを見て、リニアが膝をついたので、ジェノもそれに倣う。

 

「はい。報告をさせて頂きます。まず、馬と御者が全員噛み殺されておりました。そのため、馬車はもう使い物になりません。そして、こちらは確認できておりませんが、この状況から、見張りの人間も同じような状況であると思います」

「ぬぅ、そうか……」

「幸い、家屋の中に居た方達は全員無事です。食料はあと一食分。水は、あと一日分は確保されております」

 リニアは淡々と報告を続ける。

 

「ですが、生憎と我々を襲ってきた、紙を狼に変える魔術師の姿や形跡は残っておりませんでした。襲撃の理由はわかりませんが、この誕生会を狙ってやってきたということは……」

「我が家に恨みを持つ者と考えたほうが良さそうだな」

 マリアの父はそう判断した。そう判断するようにリニアが話を持っていったのだ。

 

 周りの貴族達達の非難の視線が、マリアの父に向けられる。

 けれど、本来それは自分に向けられていたはずのものだとジェノは理解する。

 

「……」

 ジェノは黙ってリニアの話を聞いている。

 けれど、先程見た無残に殺されている人々や馬たちを思い出し、拳をギュッと握りしめた。

 

「私に一つだけ策があるのですが、それを皆様にご提案させて頂きたく存じます。どうか、ご許可を頂けませんでしょうか?」

 平伏したまま、リニアはマリアの父に伺いを立てる。

 

「ああ。構わん。話し給え」

「ありがとうございます。皆様に声が届くよう、立ち上がらせて頂きます」

「よろしい。許そう」

 何もできないのに、偉そうな態度をとるマリアの父に思うところはあったが、ジェノは決して口を挟まない。

 

「皆様、これより一つの策を提案させて頂きます」

 リニアはそう言って話し始めた。これからどのような行動を取るべきかを。

 

 それは、単純な作戦だった。

 簡単に話をまとめると、リニアとジェノの二人が単独で行動をして、助けを呼ぶために山を降り、ほかの人間はこの場に留まって救援を待つというものだ。

 

「私とこの子で助けを呼んでまいります。どうしてもこの役は必要です。これをしないと、先程の狼が助けに来た人間を襲い全滅させる可能性があります。そうなると、助けが更に遅れます。食料の備蓄が少ない中で、それは致命になりかねません」

 リニアは丁寧に説明をしたが、マリアの父以外の貴族から文句が上がる。

 

「お前たちのような平民の女と子供に何ができる。もっと優秀な者に助けを呼ぶ役を任せたほうがいい」

「所詮は女の浅知恵。そんなことをして時間を浪費しては相手の思うつぼだ。食料を持てるだけ持って、みんなで下山した方がいいに決まっている」

「一案としては検討しなくもないが、我々が平民の意見を聞かねばならぬ義理はない」

 今まで恐怖で口を噤んでいた貴族たちは、リニアの意見が出た途端、急に元気を取り戻し、口々に彼女を批判し始めた。

 

 ジェノは腹が立って仕方がなかったが、それを顔に出すまいと懸命に自分を律する。

 先生とした約束を守ろうと懸命に頑張る。

 

「恐れながら、私以上に優秀な方を助けを呼びに出すというのは、その分、ここの守りが手薄になるということです。

 大事な御身が危険にさらされるということ。そのようなことは決して望ましくありません」

「んっ、ぬぅ、たっ、確かに……」

 リニアはひとりひとり、批判をしてきた貴族たちの目を見て意見を述べる。

 

「また、皆で下山をする場合ですが、ご高齢なお方や女性も多数おられますので、これも難しいかと。加えて、四方八方からの攻撃に備えるには、護衛の数も心もとない状況ですので……」

「……くそっ!」

 面白くなさそうに悪態をつく貴族に、ジェノは歯を食いしばって文句の言葉が出ないように耐える。

 

「そして、仰るとおりです。私のような平民の戯言に、貴族の皆様が耳を傾けられる必要などございません。ですが、どうか、私めに、貴方様達の尖兵として働く名誉をお与え頂けないでしょうか? このとおり、伏してお願い致します」

 リニアは膝を地に付き、深々と頭を下げた。

 ジェノもそれに倣う。

 

「ふん。平民の、ましてや小娘に、何故、私達が栄誉を施してやらねばならぬというのだ? 思い上がりも……」

 貴族の男がネチネチと文句を言っていたが、その言葉を遮る者が現れた。

 

「ノブレス・オブリジェ……」

 そう口にしたのは、白髪の老紳士だった。

 一見すると小柄な好々爺といった風貌だが、彼が口を開いた途端、辺りが静まり返った。

 

「高貴なる者の義務。人の上に立ち権力を持つ者には、その代価として身を挺してでも果たすべき重責がある、という意味だ。

 まぁ、そちらの小さな騎士君にも分かるように簡単に言えば、普段偉そうにふんぞり返っているんだから、何か事が起こったときは働けという意味だね」

「レーナス侯……」 

 好々爺然としたその紳士の何が恐ろしいのかわからないが、文句を言っていた貴族の男は、彼の名前を呼んだきり黙り込む。

 

「本来であれば、こういうときこそ我々貴族の男子が、率先して危険を引き受けなければならない。だが、いかんせんワシは年を取りすぎた。正直、今のこの状況では、なんの役にも立てん。だから、これくらいのことで許しておくれ」

 レーナス侯がリニアの前に歩み寄ると、マリアの父も彼に道を譲る。

 

「エルマイラム王国が侯爵、ジュダン=レーナスの名において、リニア嬢、そなたに命ずる。見事この窮地をその剣で打ち払い、援軍を連れてまいれ」

 朗々たる声で、ジュダン=レーナス侯はリニアとジェノに命じた。

 

「はっ。必ずや使命を果たしてご覧に入れます」

 リニアは片膝立ちになり、その命令を承った。

 

 それを見たジュダン=レーナス侯は、また好々爺の顔に戻り、踵を返して他の貴族たちを見る。

 

「さて、この決定に異議のあるものはワシに直接言ってくるといい」

 そう言うと、彼はまた振り返り、ジェノの前に立った。

 

「ジェノ君だったね。平伏ではなく、膝立ちになり給え」

「はい!」

 ジェノははっきりと応えて、膝立ちになる。

 

「君は、今日限定ではあるが、すでにマリア嬢の騎士だ。彼女を救うためにも、リニア嬢の言うことをしっかり守り、彼女の手助けをしてほしい。できるかね?」

「はい。必ず!」

「ふっ、ふふふふふっ。その年で肝が座っておる。将来が楽しみだ」

 ジュダン=レーナス侯はそう言って笑うと、ジェノの頭を優しく撫でて微笑んだ。

 

「さて、皆の者、我々はここで気長に助けが来るのを待つとしよう」

 その呼びかけに、他の貴族たちは渋々ながらも「はい」と頷いた。

 

 こうして、ジェノとリニアは救援を呼ぶための使命を賜ったのだった。



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㉚ 『別れと出立』

 ジュダン=レーナス侯の計らいで、準備は滞り無く進んだ。

 ジェノとリニアは、いや、ジェノとリニアとあと四人は、別荘の厨房で貴重な水と食料の準備をし、出発の準備を終える。

 

「ジェノ、準備はいいか?」

「うん。大丈夫だよ。カールの方こそ忘れ物はない?」

「忘れ物も何も、水と食料を持つだけだろう」

「ロディ。その大事な水と食料を僕たちが持つんだから、しっかり確認しておかないと駄目だよ。食料は念の為だけれど、山を降りるだけでも二時間以上はかかるらしいから、水はどうしても必要になるんだよ」

「分かっているって」

 ジェノは友人たちと最終確認をする。

 

 当初はジェノとリニアの二人だけで下山して救援を呼ぶ予定だったが、ロディとカールの護衛二人が、リニアに同行させて欲しいと申し出てきたのだ。

 ロディとカールも平民であるため、苛ついた貴族たちの鬱憤の発散先にならないようにという配慮からの申し出だった。

 

 リニアはその申し出を受け入れた。

 そして、今は護衛の人間二人と打ち合わせをしている。

 

「ジェノ!」

 護衛の男を二人連れて、マリアが厨房にやってきた。

 

「……マリア」

 ジェノが名前を呼ぶと、マリアは人の目を憚ることなく、ジェノに抱きついてくる。

 

「ごめんなさい。貴方達をこんな危険な目に合わせてしまって。私が誕生会に誘ったせいで……」

「……それは違うよ。悪いのは、マリアの誕生会を台無しにした人間だよ」

 ジェノは泣きじゃくるマリアの頭をポンポンと優しく叩く。言外に、その台無しにした人間に自分を加えながら。

 

「大丈夫だよ。先生やロディとカール。それに、二人の護衛の人も一緒なんだから。必ず助けを呼んでくるから、少しだけ待っていて」

「……ジェノ……。ジェノ!」

 マリアは声を上げて泣き出してしまったので、ジェノは困ったように笑う。

 

「ちぇっ、いいなぁ、ジェノの奴ばっかり」

「……でも、仕方ないよ、ロディ。ジェノ、格好いいもん」

「そうだな……」

 先程のジュダン=レーナス侯とのやり取りを見ていたロディとカールは、そう言って嘆息する。

 

「マリア、そろそろ僕たちは行かないといけない。お願いだから、僕たちを信じて。そして、この事件が終わったら、また一緒に遊ぼう」

「……うん。約束よ。絶対にもう一度、私と遊んでね」

 マリアの約束に、ジェノは「うん」と頷いた。

 

 そして、ジェノ達はマリアを残して出発する。

 

 ……この日が、彼女との別れになることを知らずに。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「まったく、痛快でした。レーナス侯に窘められたあの貴族たちの顔といったら」

「本当に。何もできないのに文句だけを言う偉そうなあの態度に、私もイライラしていたのです」

 ロディの護衛を務める、ダンという名の二十代半ばくらいの青年と、カールの護衛であるローソルという三十前後の壮年の男が、別荘が見えなくなった頃を見計らって、先のジュダン=レーナス侯にしてやられた貴族たちへの文句を口にする。

 

 山を降りる隊列は、先頭にローソル。斜面に面した右側をダン。左側がジェノ。中央にロディとカール。そして殿にリニアという形で進んでいく。

 

「本当に。あの方が私達の行動を認めてくださらなかったら、実力行使するしかなかったので、本当に助かりました」

 リニアもそんな軽口を口にする。

 

「おお、怖い。とはいっても、私もロディ様から貴女の強さを知らされていたから、こう思えるのですが」

「私は、リニア殿が目にも留まらぬ速さで、あの狼もどきを斬り伏せて紙も斬るという離れ業を目撃しましたからよく分かります」

「嫌ですわ。私は非力な小娘ですのに……」

 リニアがしおらしい声を上げると、ダンとローソルは声を上げて笑う。

 

 周りの大人が笑っていることで、緊張しきっていたジェノ達も、少しだけ気を抜くことができた。

 

「ジェノは本当にいいよな。マリアだけじゃあなくて、こんな強くて綺麗な先生がいるなんて」

「おっ、ロディ君。君はよく分かっているぞぉ。ただ、『強くて綺麗』ではなく、『綺麗で強い』と言えたら満点よ」

 ロディにリニアが微笑みかけると、ロディは照れくさそうに微笑む。

 

「…………」

 ジェノは何故かは分からないが、少しだけ腹がたった。

 

「ねぇ、ローソル。僕たち、無事に山を降りられるかな?」

 カールが心の不安を口に出す。

 

「大丈夫です。私とダン殿、そしてリニア殿が一緒なのです。必ず無事におうちに戻れますよ」

 ローソルがそう言ってくれたが、カールはだんだん不安が募ってきてしまったようだ。

 

「カール君。君とロディ君には、私のとっておきのイヤリングを渡してあるでしょう?」

 リニアは不安げなカールに笑いかける。

 

 リニアは普段から身につけていたイヤリングを外し、カールとロディに一個ずつ貸し与えているのだ。

 魔法の力が込められたそのイヤリングは、魔法の攻撃を防ぐのらしい。それは、あの狼も例外ではないようだ。

 

「ただし、おそらく防げるのは十回くらいだから、過信は禁物よ。何度も言っているように、私達の指示に従うこと。あくまでも、そのイヤリングはお守り程度のものだと思っておいたほうがいいわ」

 リニアに言われ、カール、そしてロディは手の中のイヤリングをぐっと握りしめる。

 

「なぁ、ジェノ。俺と場所を代われよ」

「えっ? 危ないよ、ロディ」

「イヤリングを持っていないお前の方が危ないだろうが! その、少しくらいは俺にも格好をつけさせろよ」

「でも……」

 ジェノは困って、リニアを見る。

 すると、リニアはにっこり微笑んだ。

 

「そうね。体が大きくてイヤリングを持っているロディ君が左端に居てくれた方がいいわね。うんうん。男気があって格好いいわよ」

「そっ、その、あっ、当たり前だよ、これくらい」

 ロディは顔を赤面させて、ジェノと場所を代わる。

 

 リニアの指示だから従ったが、ジェノは何故か悔しい気持ちになってしまう。

 けれど、今は余計なことを考えている暇はない、と自分に言い聞かせた。

 

「先はまだ長いわ。ここで一休みしましょう」

 それから三十分ほど歩いたところで、小休止になった。

 

 ジェノ達は適当な石の上や地面に腰を下ろす。

 幸いなことに、ここまでは狼の襲撃はない。

 

「誕生会が昼で良かったわ。順調に行けば、日が沈む前に余裕を持って山から降りられるもの」

「まったくです。これで夜だったらと思うとゾッとします」

 リニアにダンが同意する。

 

「……カール、大丈夫?」

 ジェノは疲れた顔をしている友人に声をかける。

 いつ襲われるかという緊張感のなか、荷物を持って歩いているのだ。当然疲れもするだろう。

 

「あっ、ああ。平気だ。……でも、ジェノ。どうしてお前はそんなに落ち着いていられるんだ?」

 ジェノはイヤリングを持っていない。それなのに、落ち着いているのが不思議なのだろう。

 

「僕だって、すごく怖いよ。あの狼達が襲ってきたらって思うと、体が震えてきそうだ。でも、先生が一緒だから」

 ジェノはそう言って微笑む。

 その笑顔に、カールはため息をつく。

 

「無事に家に帰れたら、俺も父さんに頼んで、剣を学ぼうと思う。お前に負けているのは悔しいからな」

「別に勝ち負けなんてないと思うけれど、剣を覚えるのはいいことだよ」

 ジェノは微笑む。

 

「なぁ、ジェノ。カールだけじゃあなくて、俺も剣を覚えようと思う。でも、できればお前みたいにリニアさんから剣術を学びたいぜ。お前の方から、リニアさんに頼んでく……」

「嫌だ」

 ロディの頼みを、ジェノはけんもほろろに突っぱねた。

 

「なんでだよ!」

「リニア先生は、僕の先生だからだよ」

 ジェノはそう言って、面白くなさそうに、ふんっと横を向く。

 

「ずるいぞ、お前ばっかり!」

「なんと言われようと、駄目だよ。僕だけの先生なんだから」

 ジェノは絶対にそこは譲るつもりはない。

 

 リニア達はそれを微笑ましげに見ていたが、不意にリニアの顔が緊迫のある表情に変わる。

 

「みんな、急いで立ち上がって、さっきまでの隊列に戻って! 狼達が近づいてくるわ!」

 すぐさまリニアの指示が飛び、ジェノとロディとカールは、立ち上がって、言われたとおりにする。

 

 そして、待つこと十数秒ほどで、件の狼達が十匹ほど、上方から――つまりは殿を務めるリニアの方から現れ、襲いかかってきたのだった。



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㉛ 『総力戦』

 狼達が襲いかかってくるが、リニアが剣の柄に手をやった瞬間、次々に斬り裂かれていき、紙に変わった瞬間、それも両断される。

 

 襲いかかってきた十匹の狼は、瞬く間に消えてなくなった。

 だが、次から次へと狼達の増援が現れる。

 

「皆さん、私に構わずに、周りを警戒し続けて下さい!」

 リニアは狼達と戦いながらも、背中のジェノ達に指示を飛ばす。

 

「ダン! そっちから来た!」

 ロディの指摘どおり、斜面の方から五、六匹の狼達が現れ、ジェノ達に襲いかかってくる。

 

「おまかせ下さい! ロディ様達は離れて!」

 ダンは剣を使い、襲いかかってくる狼を相手にする。

 

「ダン殿!」

 それに先頭だったローソルが加わり、対応をする。

 二人の護衛は狼を相手に立ち回り、なんとか全てを斬り伏せて、紙も斬り裂いていく。

 

 更に数匹の狼が襲いかかってきたが、ダンとローソルの二人はなんとか全てを撃退した。

 

「ローソルさん、ダンさん。大丈夫ですか?」

 背後から襲いかかってきた狼を全て退治したリニアが、ジェノ達のもとに駆け寄ってくる。

 

「なんのなんの。タネさえ分かれば、この程度の相手」

 ダンは息を乱しながらも、そう言って笑う。

 

「しかし、リニア殿。貴女の剣技は本当に素晴らしいですね」

 ローソルの称賛に、リニアは微笑みを返す。

 

「ジェノ、ロディ君、カール君、大丈夫?」

 そう声をかけられて、ジェノ達は頷く。

 

 ジェノはダン達に加勢しようかと考えたのだが、狼の動きが速すぎて、それを目で追うのがやっとだった。

 

「ジェノ。君が戦わなければいけない時は、最後の最後よ。大人に任せられるところは任せなさい。前から言っているでしょう?」

 不甲斐ないと思うジェノに、リニアは笑顔で話しかけてくれた。

 

「……はい」

 ジェノは悔しい気持ちを押し殺して頷く。

 

「リニア殿の言うとおりです。三人とも、この状況で泣き出さぬだけでも素晴らしいですし、我々も助かっております」

 ローソルがそれに同意する。

 

「そうそう。私がロディ様くらいのときだったら、今頃泣いていましたよ」

 ダンはおどけた口調でいい、ロディの頭に手をやる。

 

「あっ、当たり前だ。俺達がびびったり、泣いたりするもんか。なぁ、カール、ジェノ」

「あっ、その、うん……」

「うん。負けないよ」

 カールはどこか不安そうに、ジェノは力強く答える。

 

「よし、それじゃあ、出発しましょう。私がまた最後尾を努め……」

 リニアは笑顔で言って最後尾に戻ろうとしたが、その瞬間、高速で何かがリニアに向かって飛んできた。

 

 それは、一枚の紙を棒状に丸めたもの。

 リニアはそれを空中で切り落としたが、その瞬間、宙に、十数枚の紙が、舞い上がる。

 そしてそれは、瞬く間に狼へと姿を変えて、彼女に一斉に襲いかかった。

 

 リニアは凄まじい速さでそれらの狼を斬り裂いたが、一匹だけ、一匹だけその斬撃の隙間をくぐり抜けた狼がいた。そして……。

 

 ジェノはその瞬間がひどくゆっくりに思えた。

 

 鮮血が舞った。

 リニアの左肩に、狼が噛み付いたのだ。

 

「リニア殿!」

 ダンがすぐさま剣でその狼を斬り、紙も斬った。

 だが、リニアは片膝を付き、左肩を押さえる。

 

 そこからは、赤い血が流れている。

 

「くっ、こんな手段が……。でも、今の一撃は悪手よ!」

 リニアはすぐさま立ち上がるのと同時に、紙が飛んできた方向に向かって駆け出す。

 

「ローソルさん、ダンさん。子ども達をお願いします。私は、狼を操っている人間を斬ります。そうすれば、狼達は全て紙に戻りますから!」

 リニアはそう言い残し、鞘から剣を抜き、それを手に凄まじい速度で山道を登っていく。

 

「先生!」

 ジェノは思わず声を上げてしまった。

 

 リニアが剣を抜いたまま手に持っているのを見るのは初めてだ。

 それは、左手が使えないためだろう。

 先生は強い。でも、今は大怪我をしている。

 

 不安な気持ちに押しつぶされそうになりながら、ジェノはリニアを見つめる。

 けれど、そこに。

 

「ローソル! また、また狼が!」

 カールの悲鳴じみた声に、ジェノ達は振り向く。すると、狼がいた。先程よりも多い。合計で十匹以上はいる。

 しかも、斜面から現れた狼達は、ジェノ達の行く先と来た道。更に横の斜面に姿を表したのだ。

 

「ロディ様! お友達を連れて、私とローソル殿の背後に!」

 ダンが大声でロディに指示をする。

 ロディは、近くで放心していたカールの手を引っ張り、ダンとローソルの背後に逃げ込む。

 

「ジェノ、お前も早く!」

 ロディが声をかけてくれたが、ジェノは二人に向かってにっこり微笑むと、彼らに背を向けて狼と対峙する。

 

 斜面の方はダンさんが守ってくれる。そして、前方はローソルさんが。けれど、先生がいなくなってしまった今、もう一人いないと、そこからロディとカールに狼の攻撃が届いてしまう。

 

 イヤリングの効果はあるかもしれないが、そんなものは狼が何回か攻撃されてしまったら効果がなくなってしまうと先生も言っていた。

 

 それならば……。

 

 ジェノは静かに腰の剣を抜いた。

 

 この狼達が自分を狙っているのだとしたら、真っ先に襲いかかってきて無力化しようとするのではないだろうか?

 逆に、自分を人質にするつもりであるのならば、自分が捕まれば他のみんなは助かるかもしれない。

 

 どちらにしろ、自分が原因であるのだとしたら、せめて友達だけには傷を負わせたくない。

 

「ジェノ君! 君も、カール様と一緒に!」

 

「僕が、ここを守ります! ローソルさん達は、それぞれの方向の狼をお願いします!」

 あの別荘で惨殺された人々や馬のことを、そして、肩を負傷した先生のことを思い出し、ジェノは震えそうになる体に喝を入れる。

 

「ジェノ。お前……」

「ジェノ……」

 ロディとカールのその呟きが合図だったかのように、狼達は一斉に襲いかかってきた。

 

 ダンとローソルもジェノを援護したいが、自分たちが警戒している方向から襲いかかってくる狼への対処で手一杯だ。

 

 ジェノは襲いかかる狼三匹の内の先頭の動きをよく見る。

 

 自分の拙い剣技では動く狼に一撃を決めることは出来ない。けれど、自分の足に、胴に、齧りつこうとする瞬間ならば。

 

 ジェノは自分の体を囮にして、狼と刺し違えることを選ぶ。

 

「ふざけるなよ、馬鹿野郎!」

 ジェノに狼の牙が届くよりも早くに、ロディがジェノの体を引っ張り、身代わりに狼達の前に出た。

 

 狼達は構わず、ロディ目掛けて牙を突き刺さんとする。

 しかし、バチン! という音とともに、狼達は見えない壁にでもぶつかったかのごとく、直前で停止した。

 

「……あっ、今だ!」

 ジェノは動きが止まった狼に向けて、剣を振る。その一撃は狼を紙に変えた。そして、もう一撃を繰り出し、さらに狼を紙に変える。

 

「ロディ! 踏んづけてでもなんでもいいから、紙を破って!」

「おっ、おう! 任せろ!」

 ジェノはロディに後処理を任せると、最後の一匹も斬り裂く。そして、その一匹が紙に変わると、その紙に剣を刺して、破き捨てた。

 

「ダンさん!」

 ジェノが悲鳴じみた声を上げる。

 狼四匹に飛びかかられ、二匹は斬ったものの、残りの二匹がダンの両肩に噛み付いたのだ。

 ダンはバランスを崩して、背中から地面に倒れる。

 その時に頭を打ったのだろう。ダンは意識が飛んでしまったようで、動かない。

 

 しかし、ローソルは他の狼四匹に苦戦し、助けられない状況だ。 

 

「あっ、うわぁぁぁぁっ!」

 しかしそこに、気合の声を入れてダンに駆け寄る影があった。それは、カールだった。

 

 カールの右手に握られたイヤリングが光ったかと思うと、また透明な壁ができたようで、狼二匹は、後方に吹っ飛ぶ。

 

「ジェノ!」

 ロディに声をかけられるまでもなく、ジェノは駆け出していた。

 そして、狼二匹を斬り、見事に紙に変える。

 

 そして、その紙は、後からやってきたロディが強引に掴んで破り捨てる。

 

 残すは、あと四匹。

 ローソルさんに加勢しないと。

 

 ジェノはそう考えたが、ローソルの攻撃で一匹が紙になったかと思うと、何もしていないにも関わらず、残りの狼達が紙に変わった。

 

「これは……」

 ローソルは怪訝な表情を浮かべたが、すぐに紙に近づき、それらを剣で両断していく。

 

「……どうやら、リニア殿がやってくれたようだな」

 ローソルはそう言い、負傷したダンの元に駆け寄ってくる。

 

 ジェノも、狼を操っていた者がリニアに倒されたことを悟り、息をつくと、ダンの様子を確認する。

 

 両肩の出血がひどい。

 ジェノは少し考え、自分の上着を脱ぐと、それを剣で切った。

 

「ジェノ君、何を……」

 ローソルが怪訝な表情をして尋ねたが、ジェノは応えている暇はないとばかりに、上着を手頃な大きさの布に変えていく。

 

「ごめんなさい。清潔とはいえないですけれど……」

 ジェノはそう言うと、痛みに苦悶するダンの傷口より上の部分に布を巻き付ける。

 

「ロディ、カール。手伝って。僕だけじゃあ、きつく縛れない」

「いや、私がやろう。君は、もう一枚布を作ってほしい」

 ローソルがジェノに代わり、ダンの傷の止血を始めてくれた。

 

「うん。もう片方も。ジェノ君」

「はい」

 ジェノはもう一度上着を切って作った布を作ってローソルに手渡す。

 

 右肩と同様に、左肩にも止血手当が行われ、なんとかダンの出血は止まった。

 

「みんな! 大丈夫?」

 リニアが息を切らせて駆けて戻ってきた。

 

 彼女はすでに剣を鞘に納めている。

 やはり、もう狼を操っていた人間を倒したのだろう。

 

 リニアの無事な姿に、ジェノはホッとした。

 

「先生。先生も傷の手当を。せめて血を止めないと」

 ジェノは自分の服を更に切り、布を作る。

 

「ジェノ……。うん、ありがとう」

 リニアはもう原型を留めていないジェノの一張羅を見て言葉に詰まりながらも、ニッコリと微笑んだ。

 

 気を失っているダンを除き、誰もがその笑顔に安堵した。

 終わったと、後は山を下るだけだと考えた。

 

 しかし、その安堵は絶望に変わる。

 

「なっ! みんな、ダンさんの周りに集まって!」

 リニアの指示が飛び、みんなは大慌てでダンのもとに集まる。

 

「……術者は、一人じゃあなかったっていうの……」

 リニアの重苦しい声に呼応するかのように、新たな狼が、三十匹以上、群れをなして山道をこちらに駆け下りてくる。

 

 それを見て、ジェノは恐怖を覚えた。

 もう、駄目だと心のどこかで思ってしまった。

 

 けれど……。

 

「こぉ~ら、ジェノ。何を弱気になっているの?」

 場違いなほど明るい声で、リニアは言い、ジェノ達に笑顔を見せた。

 

「先生……。でも、あの数じゃあ……。もう、勝てるわけ……」

「大丈夫よ。心配いらないわ」

 リニアは震えるジェノに向かって断言する。

 

「なんのために先生がいると思っているの? 先生に任せておきなさい」

 リニアはそう言ってジェノに背中を向けた。

 

 絶望の中、ジェノの目には、いつもと変わらないはずのその背中が、とても頼りがいのあるものに見えたのだった。



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㉜ 『気持ちでは覆らないもの』

 速い。

 狼達の動きも速いが、それ以上にリニアの剣撃が速い。

 三十を超えたであろう狼達は、瞬く間に両断され、紙になった瞬間にそれさえも真っ二つに斬り裂かれて消滅していく。

 

「ローソルさん。今のうちにダンさんを連れて崖側に移動して下さい! 背後から攻撃されないだけでも、かなり戦い易くなります! 他のみんなも、ローソルさんの側に!」

「分かりました!」

 ローソルはダンを抱えて、広い道の崖側に移動した。

 ジェノ達もそれに倣って移動すると、リニアも後ろを警戒しながら、ジェノ達に後ろ歩きで近寄る。

 

「まったく、大歓迎ね。斜面側に回り込んできているのが二十。正面から、五十ってところかしらね」

 リニアの言葉通り、また狼の大群が押し寄せてくる。

 

 斜面から、または更に回った狼が道の先から、そして大量の狼が来た道の方から襲いかかってくる。

 

「くっ、リニア殿、私も加勢を!」

「必要ありません! こちらの攻撃に巻き込まれないように、身を低くしていて下さい! 子ども達をお願いします」

 リニアはローソルの加勢を拒み、一人で狼達を斬り裂いていく。

 

「先生……」

 ジェノは己の無力を噛みしめる。

 

 リニアが剣を振るたびに、狼達の数は減っていくが、それと同時に、彼女の負傷した左肩から血が飛ぶ。

 まだ、血が止まっていないのに、リニアは剣を振り続けているのだ。無力な自分達を守るために。

 

 崖を背にしているジェノ達にはもう逃げ場はない。

 リニアが力尽きた時が、自分たちが殺されるときだ。

 

「くっ……」

 出血と疲労の蓄積のためだろう。まったく見えなかったリニアの剣筋がジェノの目にも見えるようになってきてしまった。

 狼達も多くが消滅したが、まだ十匹以上残っている。

 

 ジェノだけでなく、誰もがリニアの限界を悟っていた。

 けれど、彼女は決して諦めない。ただ剣を振り続ける。

 

 そして、激しく呼吸を乱しながらも、リニアの一撃は、最後の狼と紙を両断した。

 

「……みんな、今のうちに、逃げて……」

 リニアは振り返ってそう言うと、力なく前に倒れた。

 

「先生!」

「リニア殿!」

 ジェノとローソルが声をかけても、リニアはピクリともしない。

 彼女の肩からの出血も、未だに止まらずに流れていく。

 

 逃げるように言われた。

 けれど、ジェノにはそんな事はできなかった。

 

「先生! 先生! 嫌だ、死んじゃあ嫌だよ!」

 ジェノはリニアの肩に、先程は結べなかった布を肩に巻いて止血する。

 そんなことがもう気休めにしかならない事を分かりながらも、ジェノはリニアを助けようとする。

 

 先生が死んでしまう……。

 僕が弱いから。

 僕らを守ろうとさえしなければ、先生はきっと負けなかったはずなのに。

 

 あのときと同じだ。

 また、僕を守ろうとして大切な存在が消えてしまう。

 ロウだけでなく、先生も……。

 

「先生! 目を開けてよ、先生!」

 ジェノがいくら揺さぶっても、リニアの目が開くことはない。

 かろうじてまだ息はしているようだが、それだけだ。

 

「ああっ……。ローソル! あれ!」

 それまで恐怖に震えて口を利けなかったカールが、大声を上げながら、指差した。

 

 それは、ジェノ達が歩いてきた方向。

 そこから、二十匹以上の狼が現れ、こちらを見下ろしていたのだ。

 

「畜生! まだ、あんなに……」

 ロディの声も震えていた。

 

「カール様、お友達を連れてお逃げ下さい。少しは時間を稼ぎます」

 ローソルがそう言って剣を構えて、倒れたリニアの前に立ったが、その言葉が気休めにもならないことは、子ども達にも分かっていた。

 

「カールさん。俺達も最後まで戦うぜ。まだ、イヤリングの効果は切れていないしな」

「……そっ、そうだ。どうせ、やられるんなら……」

 震えながらも、ロディとカールは立ち上がり、ローソルの後ろに立つ。

 

 誰もが最後の抵抗を試みようとする中、ジェノは一つの覚悟を決めた。

 

「……ごめんなさい、先生。言いつけを破ります」

 ジェノは倒れたままのリニアにそう告げて立ち上がると、あらん限りの声で叫んだ。

 

「狼を使っている奴! お前の狙いは僕なんだろう! だったら僕だけを襲え! 関係のない人を巻き込まないでよ!」

 ジェノの声が山中に木霊する。

 

「ジェノ、何を言っているんだ?」

 ロディ達は怪訝な顔をするが、ジェノは構わず、狼達に向かって足を進める。

 

「僕を攫うことが目的なら、そうすればいい。抵抗はしない。ただ、他のみんなは助けてよ!」

 ジェノは自分の命を代価に、狼を操っているものに交渉を持ちかける。

 

 驚きの展開に、ローソルもロディもカールも言葉が出ない。だが、そんな中、男の声が聞こえてきた。

 

「ふん。何を言い出すかと思えば、そんなくだらん取引を持ちかけてくるとはな」

 狼達の横から、灰色のローブを纏った壮年の男が姿を現した。

 

「俺がお前の頼みを聞いてやるとでも思うのか? お前の先生とやらに、今まで仲間を何人も殺され、さきほど、弟まで殺されたこの俺が」

 ローブの男は憤怒のこもった声で言うと、ジェノを睨みつけてくる。

 

「先生が、お前の仲間を?」

「……所詮はガキか。今まで、何度お前を俺の仲間が攫おうとし、その都度あの女に邪魔をされ、殺されていたことにさえ気づいていなかったとはな」

「えっ?」

 ジェノは、男が何を言っているのか分からない。

 

 攫おうとしていた? 何度も?

 ジェノはまったく身に覚えがない。

 

「もういい。お前はなるべく傷をつけずに攫ってこいとの命令だったが、そんなものは知ったことではない。腕の一本でも残っていれば、交渉材料になるはずだ」

 男はそう言うと、紙を五枚懐から取り出し、それを投げる。

 すると、瞬く間に紙は、五匹の狼に変わった。

 

「弟の敵だ。なぶり殺してやる。特にジェノ。お前はあの女の罰を代わりに受けてもらうぞ」

「くっ……」

 ジェノは剣を構える。

 無駄な抵抗だと分かりながらも。

 

「俺が姿を現したのはそのためだ。遠隔操作ではうまく操りきれんが、目の届く範囲でならば、精密に操作できる。まずはお前の連れを噛み殺し、それからお前の手足を引きちぎり、苦しめて苦しめて殺してやる」

 男の怨嗟の込められた声に負けまいと、ジェノは男を睨みつける。

 

 

 ……気持ちだけで戦況は覆らない。

 

 気持ちが後押しになることはあるが、それは絶対的な戦力の差を埋めてはくれないのだ。

 

 故に、これから始まるのは一方的な虐殺だ。

 

  

 そう。気持ちだけでは何も変わらない。

 

 それが、どれほどの憤怒であろうと、恨みであろうと、憎しみであろうと。

 

 

 

 短い音が、ジェノの耳に入ってきた。

 それが風切り音であった事をジェノは理解できなかった。

 自分の顔の横を凄まじい速度で通り抜けていったそれが、ナイフだと言うことにも気づかなかった。

 

「ぐっうっっっ……」

 男は突然、肩を抑えて苦悶の表情を浮かべる。

 その肩に、ナイフが突き刺さっていた。

 

「余計なことを随分と話してくれたわね」

 その聞き慣れた声に、ジェノは思わず敵から目をそらし、声がした方を見てしまった。

 

「ちょっと予定とは違ったけれど、まあいいわ。私達の前に姿をわざわざ現した時点で、貴方の負けよ」

 

 立っていた。

 紫の髪の剣士が。先程までの疲労感もなく、肩の出血も止まっている状態で。

 

「先生!」

 ジェノは感極まった声で、その剣士を、そう呼んだのだった。



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㉝ 『友達』

 リニアは先程までとは異なり、不敵な笑みを浮かべている。

 傷は完全にふさがり、肩の血の跡が方とドレスに付着しているのみだ。

 

「馬鹿な……。すでに精魂が尽きていたはず……」

 男の驚愕の声は、まさしくジェノが抱いていた感想だった。

 

「貴方に手の内を明かしてやる義理はないわ。それに、知ったところで、誰にも話すことは出来ないでしょう?」

 リニアはその言葉とともに、男に向かって突進する。

 坂道を駆けているのに、その速度は狼達にも劣らない。

 

「くっ!」

 男は、出現させていた狼全てを襲いかからせる。

 けれどリニアの目にも留まらぬ剣撃が、瞬時にそれらと変化した紙を斬り裂いて消滅させていく。

 

 あっという間に距離は詰められ、男はさらなる狼を作り出そうと、懐に手を入れて紙を取り出そうとしたが、それはあまりにも遅かった。

 

 懐に入れた男の右腕は、肩の付け根辺りから、胴体と切り離されたのだ。

 

 痛みを感じるよりも早くに切り落とされたのだろう。

 男は、何が起こったのか理解も出来なかったはずだ。そして、それを理解するよりも先に、今度は反対の腕が切り落とされた。

 

「たしか、私の生徒の手足を引きちぎって、苦しめて殺すとか言っていたわよね?」

「くそっ!」

 全ての狼を失い、男はリニアを睨みつけることしか出来ない。

 だが、すぐさま両足を切断され、うつ伏せに倒された男は、それさえも不可能になる。

 

「うっ、あっ……」

 手足を奪われた男に立ち上がる術はない。

 男は土を齧りながら、絶望する。

 

「俺が……、女に負けるとは……」

「最後の言葉にしては、お粗末ね」

 

 リニアは背中から男の心臓を剣で突き刺す。

 その一撃で、男は絶命した。

 

「これで、本当に終わりだといいのだけれどね」

 リニアは剣を引き抜き、振って血を払うと、静かに鞘に収めた。

 

「先生……」

 ジェノが声をかけると、リニアは笑顔で山道を下ってくる。

 

「ごめんね、ジェノ。心配させてしまって。でも、相手の油断を誘うには、これしか方法がなかっ……」

「先生!」

 ジェノはリニアに駆け寄ると、彼女が言葉を言い切る前に抱きついた。

 

「僕、先生が死んでしまうと思った。……ロウみたいに、先生まで……」

「……そうよね。ごめんなさい。心配させてしまって」

 リニアはジェノの頭を優しく撫でる。

 

「リニア殿。いったい貴女は何をしたのですか? それと、先程のジェノ君の発言は……」

 ローソルは、ダンの事をロディとカールにまかせて、リニア達の元にやってきて尋ねてきた。

 

「ご心配をおかけし、申し訳ありませんでした。休憩がてら、そのあたりのことはお話しさせて頂きます」

 

 

 

 

 

 

 道の端に腰をおろし、休憩をする。

 

 やがて意識を失っていたダンが途中で目を覚まし、不甲斐なさを謝ってきたが、リニアは「いいえ。ダンさんがおられなければ、子ども達が危なかったです」と笑顔を返す。

 

「先生……。ダンさんが目を覚ましたら、話してくれる約束だったよね」

「ええ、そうね」

 リニアは隣に座るジェノの頭を撫でると、みんなに襲撃者の事を話し始めた。

 

「まずは、皆様にお詫びしなければいけないことがあります。私は、この誕生会でおそらく襲撃があるであろうことは予測していました」

 リニアは一人立ち上がると、皆に頭を下げる。

 

「襲撃を予想していた?」

「すると、ジェノ君が言っていたように、この襲撃は彼を狙ったものだと?」

 

 皆の視線が、ジェノに集まる。

 けれど、ジェノは目を背けない。先生の言いつけを破ったのは自分だ。これは、自分が受けなければいけない罰なのだから。

 

「半年ほど前から、この子を、ジェノを狙った襲撃が頻発しておりました。私は隠れてこの子を悪漢の手から守って来ましたが、その事に業を煮やした連中が、この人目の少ない別荘へ行く機会を見逃すはずがないと思っていたのです」

 リニアは当たり前のように言うが、ジェノはリニアに守られていたことなどまるで気づいていなかった。

 どれだけ自分が先生に迷惑を掛けていたのかを理解していなかった。

 

「なんと、それは……」

 ローソルが苦い顔をする。ダンも同じだ。

 

「言い訳にもならないことは承知ですが、私はこの子の母親代わりである方と何度も相談をし、今回の誕生会への出席を取りやめさせて頂けるよう、マリアちゃんの家にお伺いを立てましたが、あいにく受け入れて頂けませんでした。

 誘いを拒否するのは認めないとの一点張りで、なんとか帯剣を認めて頂くのがやっとでした」

 この話も初めて知らされることだ。

 先生とペントが、自分のために頑張っていてくれたことを、ジェノは知らなかった。

 

「この子が自分が狙われている事を知ったのも、今日の話です。私がそれまで秘密にしておりましたので。ですので、この子に罪はございません。全ては、私の至らなさが原因です。どうか、糾弾は私にお願い致します」

 リニアはもう一度頭を下げた。

 

「違うよ! 悪いのは僕だよ!」

 ジェノは我慢ができずに立ち上がる。

 

「ごめんなさい。僕のせいで、皆さんに怪我をさせて、怖い思いをさせてしまって。そして、たくさんの人や馬も犠牲になってしまって。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」 

 ジェノは頭を下げて、友人とその護衛達、そしてリニアに謝罪する。

 

「僕がいなければ、こんなことにはならなかったのに……」

「ジェノ! 馬鹿なこと言うなよ!」

 それまで黙っていたロディが、大声で言う。

 

「悪いのは、あの狼を使っていた奴らだろうが!」

「そっ、そうだよ! それに、お前は一生懸命みんなを守ろうとしたじゃあないか。僕は怖くて震えていたのに、お前は剣を抜いて、頑張って……」

 カールもロディに賛同する。

 

「ロディ……。カール……」

 ジェノには、二人のその言葉がとても嬉しかった。涙が出そうになるくらいに。

 

「……ローソル殿。もしもジェノ君を虐めたら、我々は雇い主に嫌われて、職を失うかもしれませんよ」

 ダンは苦笑し、少しおどけた声で言う。

 すると、ローソルも小さく嘆息し、苦笑する。

 

「カール様。我々は、マリア嬢の誕生会で、狼のようなものを操る謎の襲撃者に襲われました。そして、救援を求めるために、リニア殿とダン殿。そして、ロディ君とジェノ君を加えた六人で、襲撃者を逆に撃退し、救援にも成功した。……というのが、今回の事件の結末です。よろしいですかな?」

 ローソルがそう告げると、カールは「うん。そう父上達に話そう」と笑顔で頷く。

 

「皆さん、ですがそれでは……」

 リニアが口を挟もうとしたが、ダンが「いえいえ。ここはそういう話にしておきましょう」とそれを遮る。

 

「リニア殿は、その襲撃者に心当たりがあるようですが、一介の護衛風情が聞いていい話ではないでしょう? それに、聞いたところで、我々に不利益こそあれ、利益はなさそうだ」

「ええ。余計なことに首を突っ込まない。それが、護衛なんてものをやっている人間の処世術なのですよ」

 ダンとローソルはそう言って笑みを浮かべる。

 

「でも、それじゃあ……」

「いいんだよ! 俺達で悪い奴らをやっつけたって話だ。話を難しくするなよ」

 そう言ってロディは、バンバンとジェノの背中を叩く。

 

「ただ、怪我をして、疲労困憊だったリニア殿が完全復活したのは気になりますな」

 さらに、ダンがそう言って話題を変える。

 

「あっ、それは僕も気になります」

 それにカールが乗っかり、話は完全にそちらに移った。

 

「むぅ。そこまで求められては仕方ありません。乙女の秘密ですが、特別にお教えしましょう! ただ、長くなるので歩きながらにしましょう。山を降りなければいけないのですから」

「そうですね。そろそろ出発しましょう」

 ローソルも同意し、皆が立ち上がる。

 

「ジェノ。いいお友達を持ったわね」

 リニアは隣に立つジェノの頭を優しく撫でる。

 

「……うん」

 ジェノはそれに満面の笑顔を返すのだった。



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㉞ 『帰路にて』

 もう、夜の帳が落ちそうになっている。

 けれど、何台もの馬車が多くの護衛と松明に囲まれているので、進む速度は遅いものの、比較的安全に街まで行くことができるだろう。

 

 

 狼使いを撃退してからというもの、襲撃はなかった。

 ジェノ達は山を降りて、セインラースの街に向かおうとしたが、主人の帰りが遅い事を心配し、マリアの家臣が走らせる馬車と遭遇することが出来た。

 

 リニアは彼らに状況を説明し、同行している護衛の人間も当然騎乗していたので、彼らの一人に今後の手配を頼み、一足先に街に戻って新たな馬車を用意してもらうことにしたのだ。

 

 また、馬車は大きめの六人乗りのものであり、乗っていたのは一人だったので、ローソルが空いていた御者の席の片側に移動し、ジェノ達は馬車に乗せてもらって再び別荘に戻った。

 

 歩いて下る時はあれほど苦労したと言うのに、あっという間に馬車はジェノ達を別荘まで送り届けてくれた。

 そして任務を達成した旨を、ジュダン=レーナス侯に報告し、それから救援に来た新しい馬車に乗って、高位の貴族達から順番に下山していった。

 

 最後尾は主催者であるマリアの父達が乗る馬車が。ジェノ達は最後から二番目だ。

 けれど、ジェノは一番の功労者であるリニアと一緒であったため、多くのものが相席をする中、小さな馬車とはいえ、師弟二人だけで乗せてもらうことが出来た。

 

 そのため、ロディとカール達とは別荘で分かれた。

 そして、別荘では、何故かマリアの姿を見つけることが出来なかった。

 

 けれど、ジェノは疲れ切っていた。

 だからマリアには、明日以降にまた会って話せばいい。

 そう思っていた。

 

 それに、今は何より……。

 

「先生……」

 馬車に乗ってからというもの、無言だったジェノが口を開いた。

 

「んっ? どうしたの?」

 向かいの席に座るリニアは、笑顔で尋ね返してくる。

 

「僕は、先生みたいにはなれないんですか? いくら努力しても……」

「……そうね。私とまったく同じには、なれないわ」

 リニアははっきりとそう言いきった。

 

「それは、僕が、先生みたいな魔法使いになれないから?」

「うん。こればっかりは生まれ持った才能だからね。それと、私は魔法使いではなくて魔術師よ。似ているようで、その二つは違うものなの」

 リニアの言葉に、ジェノはがっくりと肩を落とす。

 

 先の狼との戦いの最中、リニアは傷を負い、体力を使い果たして倒れた。けれど、狼を操る人間が出てきた途端、彼女は瞬時に傷を癒やし、体力を回復させたことが不思議でならなかった。

 それは、ジェノと一緒に戦ったロディ達も同じで、リニアに説明を求めたところ、彼女は自分が魔術師であることを明かしたのだ。

 

「……でもね、ジェノ。私が魔術を使ったのは今回だけ。それも癒やしの魔術だけ。それ以外は全て、修練を重ねた剣技なのよ」

「はい。それは分かっています。けれど……」

 ジェノにとって、リニアはいつの間にか自分の憧れる姿になっていた。

 

 先生のような剣士になりたい。

 その気持ちがどんどん膨らんでいき、それが目標になっていた。

 

 だから、ジェノは努力すれば自分も同じことができるようになるのか尋ねた。だが、リニアの答えは、否だったのだ。

 

 自分では、決してリニアのようにはなれない。

 それが、たまらなく辛かった。

 

「……魔術の力を使えないのが悔しい?」

「はい。魔術というものが使えないと、先生のようには……」

 ジェノは素直な気持ちを吐露する。

 

「そっか……。うん。その気持ちはよく分かるわ」

「でも、先生は!」

 つい大声になってしまったジェノは、唇の前に人差し指を置くジェスチャーをして苦笑するリニアに無言で窘められてしまう。

 

「私は確かに癒やしの魔術を使えるわ。でも、下山の時に話したように、この一つしか使えないし、自分の体にしか使えないの。だから、これを身に着けて、魔法攻撃から身を守るようにしているの」

 リニアがそう言って指差したのは、ロディたちから返してもらったイヤリングだ。

 

「今回みたいに、この癒やしの術に救われたこともあるわ。でも、私は他人にも使える癒やしの魔術がほしいと何度も思い続けてきた。

 そうであれば、助けられた命がいくつもあったのにと、神様を恨んだわ」

 リニアは目を閉じ、少しの沈黙の後、口を開く。

 

「今回だってそう。私が他人に掛けられる癒やしの魔術を使えたら、ダンさんの傷を治すことも出来た。それに、なにより……」

 そこまで言うと、リニアは膝の上においていた拳を握りしめた。

 

「私が魔術師ではなく、いくつもの力を使いこなせる魔法使いであれば、自分が精魂尽きて倒れた芝居をし、貴方達を囮にして、狼達を操っている人間を探すなんて危険な手段を取らずに済んだのにって、悔しくて仕方がなかった……」

「……先生……」

 悔しさを顕にするリニアに、ジェノはなんと声をかけていいのか分からない。

 

「ジェノ……。結局、他人が羨む力を手に入れても、人間て強欲だから、もっと強い力がほしいと願うようになるの。だから、その気持ちは決してなくならないの。けれど、人間には限界がある。悔しいけれどね」

 そこまで話すと、ふぅっと小さく息を吐き、リニアは微笑む。

 

「でもね、ジェノ。私と同じ悩みを抱くのはまだまだ早いわよ。まずは、私と同じだけの剣技を身に着けてみなさい。

 剣技一つでも、救える命もある。そして、それを更に極めれば、新しい道も拓けるかもしれないわ」

 リニアの笑顔にジェノも少しだけ頬を緩める。

 だが、それも僅かな間のこと。

 

「はい。僕、先生のような剣技を身に着けられるように頑張ります。そうすれば、これ以上、先生や他の人達に迷惑を掛けないで済むようになれると思うから……」

 ジェノは、今日、目の前で失われてしまった命を悼み、自分の不甲斐なさを責める。

 

「ジェノ、それは違うわ」

「違わないよ。だって、僕のせいでたくさんの命が奪われてしまったんだから。それに、先生にもずっと大変なことをさせてしまっていたんだから……」

 ジェノは顔を俯ける。

 だが、不意に体を引っ張られ、心地いい温もりに包まれた。

 

「ごめんなさい。貴方が狙われていることを話したから……」

 リニアが、ジェノを自分の席に引き寄せて、抱きしめたのだ。

 

「ううん。先生は間違っていないよ。もしも最初に聞いていなかったら、僕はきっと戸惑うばかりで、何も出来なかったはずだもの」

「いいのよ、それで。貴方は子どもなんだから。それで良かったの。それなのに、私が余計なことを……。本当にごめんなさい」

 リニアの謝罪に、ジェノは「謝らないで。先生のおかげで、僕は大切な友達とダンさんとローソルさんを失わなくて済んだんだから」と言って微笑む。

 

 そして、子供らしからぬ悟ったような表情で、

 

「……先生。一つだけ正直に答えて。僕を攫おうとしている人って……僕のお父さんなんだよね?」

 

 そうリニアに問いかけるのだった。



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㉟ 『背伸びをやめて』

 少しの沈黙の後、リニアは口を開いた。

 

「ジェノ。どうして、そう思うの?」

「……やっぱり、そうなんだ」

 否定しないことを肯定と受け取り、ジェノは小さく嘆息する。

 

「僕なりに考えてみたんです。誰が、僕を攫おうとしているのか。そして、僕を攫って兄さんを困らせることで、誰が一番得をするのかって」

 ジェノはそっとリニアの腕から離れ、元の席に座り直した。

 

「それに先生は、ペントと話をして、なんとか今回の誕生会を断れないかマリアの家に聞いていたと言ってましたよね? それでも断ることが出来なかったって」

「ええ。そうね」

「でもね、心配性のペントが、そんな危険だと分かっている場所に僕が参加するのを認めるわけがないんだ。たとえ、貴族からの招待であっても、ペントは僕を守ろうと、なんとしても参加しない理由を作ってくれたはずだと考えたんです」

 ジェノはそう言いながら、ペントの優しい笑顔を思い出し、早く彼女に会いたいと思ってしまう。

 

「きっと僕が熱を出したとかいう理由をつけて、断ったと思う。でも、その場合、せめて誰か一人くらいは参加しないと駄目ですよね? すると先生だけが誕生会に参加することになる。

 それが、普通なら一番安全な方法だと思います。けれど、こんな僕でも分かることを、ペントと先生が考えつかないはずがない……」

 ジェノはそこまで言うと、悲しく微笑んだ。

 

「それでもマリアの誕生会に参加することを、ペントが認めた理由は一つ。『たとえ家であっても、先生がいなければ、僕が危険だから』」

 ジェノがそこまで言うと、リニアは小さく頷いた。

 

「なるほど。話の筋は通っているわ。まったく、子どもって、私達が思っている以上に成長が速いのね。

 でも、どうしてそれが、君のお父さんが、君を攫おうとしているっていう話に結びつくの? 他の誰かが家に押しかけてくるというのも考えられないかしら?」

 とぼける様子もなく、リニアは確認するかのような口調で、ジェノに尋ねてくる。

 

「誰が一番、僕を攫って得をするのかを考えたんです。僕の兄さんはすごく頑張ってくれているみたいだけれど、まだ一つのお店を任されるくらいで、別に商会の代表なわけではないですよね?

 うちの商会のライバル店が、そんな兄さんを困らせるためだけに、なんども僕を攫おうとするのかなぁっていうのが引っかかったんです。まして、今回みたいに魔法……じゃなくて、魔術とかいうすごい力を使える人を使って、貴族まで敵に回すようなことをして……」

「うん。そうね。おかしいわね」

 リニアは静かに頷く。

 

「それに、以前、僕たちの家が広くなった時に、侍女長のキュリアが、僕と先生が部屋を掃除していた時に嫌がらせを言いに来ていた事を思い出したんです。

 今まで、そんなことはなかったのに、わざわざ嫌味を言うためだけに僕たちが出てくるのを廊下で待っていた。あの時は意味がわからなかったけれど、あれって、きっと……」

「うん。君の予想は大当たりよ。そこまで分かっているのならば、先生もお話してあげよう」

 リニアはそれから、今の家の現状を話してくれた。

 

「今、君の家の商会の大部分が、君のお兄さんの味方になっているの。なんとか君のお父さん、ヒルデさんもそれを止めようとしているけれど、もう流れは止められなくなってしまっている。

 これは君のお兄さんのすごいところね。何年も掛けて、気付かれないように少しずつ味方を増やして行っていたのだから」

「さすが、デルク兄さんだ」

 ジェノは兄の偉業が誇らしかった。

 

「だから、ヒルデさんと彼の権力を笠に着ていた人達は大慌て。あのキュリアって侍女長も、このままでは間違いなく自分の地位が脅かされると思い、その腹いせにあんな事をしたんだと思う。

 そんな暇があるのなら、少しは自分の行いを顧みて、反省すればいいのにね」

 リニアは「やれやれ」といった感じで嘆息する。だが、すぐに表情を引き締める。

 

「ごめんなさい。できることならば、貴方を危険に巻き込みたくなかった。何も知らずに子供らしい生活を送ってほしかった。だから、陰ながらに君を攫おうとする連中と戦っていたんだけれど、それももう叶わなくなってしまった」

「そんな事を、言わないで下さい。僕は、今までずっと先生に守られ続けていた事も知らなかった。ありがとうございます、先生。僕を守ってく……」

 ジェノの言葉は最後まで続かない。

 それは、再びリニアがジェノを胸元に引き寄せて、抱きしめたからだった。

 

「ジェノ。そんな、背伸びをするのはやめなさい。辛い時は、辛いと言いなさい。泣きたい時は、素直に泣きなさい。

 誰でも、子どもの時は一度しかないの。その貴重な時間を子どもとして過ごせないなんて、そんな不幸はないわ」

「……先生……」

「大丈夫。先生が一緒だから。それに、君のお兄さんなら、今回の件も上手く使って更に優位に立つと思うわ。だから、もう少しだけの辛抱よ」

 リニアは優しくジェノの頭を撫でる。

 

「……でも、僕は、ロウに誓ったんだ。もう、泣かないって……。強くなるって……」

「泣いてばかりいることは確かに強いことではないかもしれない。けれど、本当に辛い時に、素直に泣けることもすごく大事なことだって先生は思うわ」

 

 優しい声と柔らかなぬくもりに包まれながら、ジェノは懸命に涙を堪えていた。けれど、リニアが「大丈夫。君は、泣いてもいいの」と言って背中を撫でると、懸命にこらえていた涙腺が決壊した。

 

「……うっ、うううっ、あああああっ……」

 ジェノは嗚咽を漏らしながら涙を流す。

 リニアは、黙って優しくジェノの頭を撫でる。

 

「悔しいよ。僕は……僕はいつまでも弱いまんまで……。今日もなんの役にも立てなくて……。その上、先生やペントに、兄さんに迷惑を掛けてばかりの悪い子で……。だから、きっとお父さんも、僕のことを嫌いなんだ……」

「そんなことはない。そんなことはないよ。君ほど優しくて、いい子を先生はみたことないよ。私は、君の先生でいられることを誇りに思うわ」

 泣きじゃくり弱音を吐くジェノを、リニアは優しく受け止めて、彼を慰めてくれた。

 

 久しぶりに、ジェノは心の底から弱音を吐けた。

 そのおかげで、ジェノはセインラースの街に戻るときには、いつもの笑顔を取り戻すことが出来たのであった。



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㊱ 『晴天の霹靂』

 馬車はジェノとリニアを家まで送り届けてくれた。

 

「坊っちゃん! 先生!」

 いったいいつから外で待っていてくれたのだろうか?

 ペントはこちらに気づくなり、ランプ片手に停車した馬車に駆け寄ってくる。

 

「まぁ、そのお姿は……」

 ペントはジェノ達の姿を見るなり、驚きに目を見開いた。

 

 ほんの数時間前まで新品だった服もドレスも、埃や血に汚れ、見る影もないのだから。

 

 リニアが御者の男性にお礼を言っていたので、ジェノもそれに倣う。もちろん、ペントも。

 

「坊っちゃんも先生も、まずはお家にお入り下さい。お風呂と食事をご用意しておりますので。お話は、その後にでも」

「ありがとう、ペント」

「助かります、ペントさん」

 ジェノはリニアと一緒にペントに礼を言い、家に入る。

 

 そしてジェノ達はまずお風呂に入って汗を流すと、ペントの作ってくれた夕食に舌鼓を打つ。

 普段から美味しいペントの料理だが、今日はさらに格別だった。

 

 ただ、大変な一日でクタクタに疲れていたことと、時間が遅かったため、ジェノはお腹が膨れると、すぐに眠気が襲ってくる。

 

「ジェノ。今日はもう休みなさい。大丈夫。私達がついているわ」

 リニアは船を漕ぎそうになっているジェノに、優しく言い聞かせる。

 

 ジェノは「はい」と頷いて、自室に向かうことにした。

 ただ、その前に……。

 

「お休みなさい、坊っちゃん」

「うん。お休み、ペント。それと、いつもありがとう。ペントのおかげで、僕は毎日、すごく幸せだよ」

 満面の笑顔で改めて日頃のお礼を言い、ジェノは微笑む。

 

「坊っちゃん……」

「僕ね、ペントのことも、先生のことも、大好きだよ」

 その言葉は恥ずかしかったので、ジェノは二人の反応を見ずに、自分の部屋に向かって駆け出す。

 

 知っているつもりなだけで、知らなかった。

 自分がどれほど大切にされて、みんなに愛されて育ってきたのかを。

 

 母はすでに亡く、父は愛情を向けてくれなくても、自分にはペントがいてくれる。兄さんがいる。そして今は、尊敬する先生もいる。

 

 馬車の中で思い切り泣いたおかげで、ジェノの心はすっかり軽くなっていた。

 

 また明日から頑張ろう。

 ジェノはベッドに横になると、すぐに穏やかな眠りにつくのだった。

 

 

 ◇

 

 

 マリアの誕生会から一週間が過ぎた。

 

 あれから、ジェノの兄であるデルクが本格的に動き、父であるヒルデから、商会の実質上の支配権を全て握ったのだとペントとリニアから聞いた。

 

 細かい内容は難しすぎて、幼いジェノには分からないことだらけだった。

 だが、家の赤い線が全てなくなり、屋敷を全て自由に動けるようになっただけでも、ジェノには嬉しい限りだ。

 

 とはいっても、いきなり広い家で暮らす必要を感じないジェノは、ペントと話し合って、兄が戻ってくるまでは今まで通りの生活をすることにした。

 

 ちなみに、ペントは正式にジェノの専属の侍女であり、屋敷の他の侍女とは別格とされることが、新たな商会の当主となったデルクから言い渡され、キュリア達は一切口を出せなくなった。

 もっとも、キュリアを始めとするヒルデにおもねっていた者たちは、自分たちから近々辞めると言い出しているようだが。

 

 この一週間は、ペントが忙しく、リニアもそれを手伝っていたため、ジェノは勉強も武術の修行も本格的には行えず、外に遊びにも行けなかった。

 

 それもなんとか落ち着いた今日、ジェノは久しぶりの鍛錬と勉強を終えて、広場に遊びに来てた。

 

 だが、そこで思いもしなかったことを聞かされることになった。

 

 広場のベンチに座り、ジェノはロディとカールから聞いたのは、マリアのことだった。

 

「そんな、マリアが……」

 青天の霹靂だった。

 あの誕生会が終わってすぐに、マリアがこの国を出ていってしまったというのだ。

 ここ数日、姿を見ないなとは思っていたが、そんな事になっているとは夢にも思わなかった。

 

「その、父上の話だと、マリアの家っていろいろな借金があったんだって。だから、マリアを養女に差し出す代わりに援助を申し込む事になっていたらしいよ」

 カールの言葉に、ジェノは愕然とする。

 

「この間の誕生会も、どの貴族がマリアを養女にするか決める席だったって言うぜ。まったく、大人って汚ねぇよな」

 ロディは怒りを顕にして、自らの拳で掌を叩く。

 

「その誕生会も、マリアが最後のお願いだと言って、俺達を参加させてくれたみたいだ。ローソルと父上が話しているのを聞いたんだ」

「まじかよ……。マリア……」

 ロディは憤懣やるかたない面持ちで、拳を握りしめる。

 

「……」

 仲の良かった友人との突然の別れに、ジェノは驚きを隠せない。

 

 だが、思い返してみると、あのときの自分の優遇は明らかにおかしかった。平民の自分がマリアの騎士役になるなど、普段なら絶対にありえないことだった。それなのに、そんな無茶が通ったのは、マリアが……。

 

 それに、自分が騎士役を承諾すると、マリアは泣いていた。あれは本当に最後の願いだったのだ。

 けれど、自分を狙う襲撃者のせいで、それは台無しになってしまった。

 

「……約束をしたのに。もう一度遊ぼうって……」

 ジェノは心にポッカリと穴が空いたような気持ちだった。

 

「カール。マリアがどこに行ったかは知っているの?」

「ああ。なんでも、エルマイラム王国ってところらしい。ほら、リニアさんを助けてくれた、お爺さんが居ただろう? あの人の養女になるんだってさ」

「エルマイラム王国……」

 ジェノはその国のことをよく知らない。

 せめて手紙でも書きたいが、住所もわからないし、平民の自分の書いた手紙が貴族であるマリアの手に渡る可能性は低いと思う。

 

 今までは、マリアが側に居て、一緒に遊ぶのが当たり前だった。

 けれど、貴族である彼女と同じ時間を共有できるということが、どれほど奇跡的なめぐり合わせだったのかを、ジェノは今更ながらに思い知らされた。

 

 

 ……幸せな時間というものは、あっという間に過ぎていく。

 そして、失ってしまった時間というものは取り戻せない。

 

 ジェノは悲しみに包まれる。

 けれど、別れは突然やってくるのだ。

 

 そう、突然やってくる。

 

 これから一ヶ月と経たないうちに、大切な家族だと思っていた先生から、リニアからも、ジェノは別れを切り出されてしまうことになるのだから。



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㊲ 『師弟』

 今日も朝の稽古を終えて、机に向かっていたジェノ。

 それはいつもの光景だが、勉強を一段落させたところで、リニアが神妙な面持ちでジェノに話しかけてきた。

 

「ジェノ。君に話して置かなければいけないことがあるの」

「どうしたの、先生? 改まって……」

 ジェノは不思議そうに尋ねたが、リニアの話を聞いて、泣き出しそうな顔になる。

 

「そんな! どういうこと! ここでの生活が嫌に……僕のことが嫌いになったの?」

 ジェノは慌てふためく。

 だが、それも無理のない話だ。リニアはジェノの先生をあと三日ほどで辞めると言い出したのだから。

 

「ううん。そんなことはないわ。私も、できることなら君がもう少し大きくなるまで先生でいたかった。けれど、どうしても故郷に帰らなければいけなくなってしまったの……」

「そんな……」

 ジェノは絶望し、力なく肩を落とす。

 

 まだ、マリアと別れて一ヶ月も経っていないのに、大好きな先生とも別れなければならないなんて、辛すぎる。

 

「私の故郷はこの国からずっと離れたところにあるの。本当は自然が豊かな素晴らしい国なんだけれど、馬鹿な人間も居てね……。近々、戦争が起こりそうなのよ」

「戦争……」

「そう、戦争よ。冒険者ギルドに定期的に情報を流してもらっていたから、いち早くこの情報を掴むことが出来た。……私は生まれ育った故郷を愛しているわ。だから私は故郷に戻ってそんな馬鹿な争いを止めないと行けないのよ」

 リニアはそう言うと、困ったように笑う。

 

「そんな! 戦争なんて危険だよ! 先生はものすごく強いけれど、それでもたくさんの人達を相手にしたら……死んじゃうかもしれない。

 それなら、安全なこの国に居たほうがいいよ! 僕は、先生に死んでほしくなんてない! もっと、もっと、僕にいろいろなことを教えてよ!」

 懸命にジェノはリニアの説得を試みるが、彼女は首を横に振った。

 

「ジェノ。ごめんなさい。君の気持ちは本当に嬉しいわ。でも、私は故郷が荒れ果てていくのを黙って見てはいられない。自分だけ幸せではいられないのよ。……損な性格だって、自分でも思っているんだけれどね」

 ポンポンとジェノの頭を叩き、リニアは苦笑する。

 

「……嫌だよ。僕は嫌だ! 先生と離れ離れになるなんて!」

「うん。私も嫌だよ。君と離れ離れになるのは。恩人である君にもっともっと剣を、いろいろなことを教えてあげたいと思うわ」

「えっ? 恩人?」

 リニアの口から飛び出た思わぬ言葉に、ジェノは驚く。

 

「覚えているかな? 私は、武術を学んで、身につけていてよかったと思っているって言ったときのこと。あれは私の心からの気持ち。

 君に出会えて本当によかった。私は君に剣を、志を教えることで自分を見つめ直すことが出来た。そして、自分の剣が何のためにあるのかを理解できたんだから」

「……先生……」

 ジェノはなんと言えばいいのかわからず、ただそう口にする。

 

「私は故郷を出て旅を続けていたけれど、その間、嫌なことばかりに出会ってきたわ。だから、私は自分の剣技を隠そうとしていた。厄介な揉め事に巻き込まれないように。

 君に剣を教え始めたときも、基礎だけ教えれば十分だと思っていた。それ以上は年齢的に言っても必要ないって思っていた。でも、一生懸命すぎるくらい一生懸命な君を見ていたら、私も幼い頃の自分を、剣術が好きで、その力を誰かを助けるために使いたいと願っていたあの頃を思い出せたの。

 だから、嬉しくなって、ついついあれもこれもと教えてしまったわ」

 リニアはそう言うと、恥ずかしそうに頬を掻く。

 

「でも、私の剣は、誰かを守るためにある。それにはもちろん君も含まれているけれど、私はこの剣を故郷の人々を守るためにも使いたいの。

 どうか、私のわがままを許して……」

 リニアはジェノに深々と頭を下げた。

 

「先生……それでも、僕は……。先生にもっと……」

 喉元までこみ上げて、漏れてしまった言葉。けれど、それ以上はもれないように、ジェノは言葉を飲み込む。

 

「君のお兄さんのデルクさんが、もうこの家も商会も実質的に手に入れた。これからは、おいそれと君を狙う人も現れないはずよ。

 そして、君の剣の修業だけれど、この街の道場の先生に話を通しておいたから通うといいわ。そして、君には先生のとっておきを渡そうと思うの」

 リニアはそう言うと、教科書の中から、一冊、背表紙のない本をジェノに手渡した。

 

「この本は?」

「これは、私特製の、君のためだけの秘伝の書。私の流派の修行方法が書かれているわ。本格的に剣を極めようとするのならば、道場での稽古の他に、ここに書かれている修行も行いなさい。言っておくけれど、これも他の人に見せては駄目よ」

「……秘伝の書……。はい。大事にして、決して他の人には見せません!」

 ジェノは涙を堪えて、元気に答える。

 

「うん。そして、これは先生からのラブレター……というのは冗談だけれど、愛情を込めて書いた手紙よ。でも、今すぐに開けては駄目。君が誕生日を迎えるたびに、一つ一つ開封して。

 君が大人に、十八歳になる時までの分を書いたから、楽しみにしてくれると嬉しいわ」

「こんなに、たくさん……」

 手紙の束を受け取り、ジェノは驚く。

 

「先生の魔術は、基本的に自分にしか使えないんだけれど、長い間身につけているものには魔術を少しだけ通すことができるの。

 だから、この手紙の文字は、魔術を流せるようにした愛用のペンで書いたから、もしも順番を飛ばして読んだりしたら、文字が読めなくなるからね。ズルはしちゃあ駄目よ」

「そんなことはしません!」

「うん。君なら大丈夫だと思うけどね。それと、その手紙には、この秘伝書の更に深い意味も書かれているわ。でも、修行をおろそかにしていたら、その意味がわからないと思うから、頑張って修行を続けるように」

 リニアは笑顔でそう締めくくったが、すぐにそれが崩れ始め、彼女はジェノを抱きしめた。

 

「ごめんなさい。君の修行に最後まで付き合うことが出来なくて……」

 リニアは涙を零していた。その事に気づいたジェノは、自分も涙を堪えきれなくなる。

 

「先生……。僕、僕は……」

「本当にごめんね。そして、ありがとう。君が私の初めての生徒で本当に良かった。どうか、その真っ直ぐな気持ちを忘れないで。私の言ったことも忘れないでいてね……」

 

 師弟は抱き合い、数日後の別れを惜しむように泣き続けたのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 秋めいてきたが、日差しは強く暑い。

 いい天気だった。

 雲ひとつない青空が広がっている。

 

 これが、今後の先生の旅路を祝福するものであって欲しいとジェノは願う。

 

「ペントさん。長い間、お世話になりました」

「いえいえ。何も出来ずに、申し訳ございませんでした」

 待たせている馬車に荷物を載せて、リニアはまずペントに深々と挨拶をする。

 

 本来ならば、ジェノの兄であるデルクも見送りに来る予定だったのだが、生憎と急な仕事が入ってしまい、それは叶わなかった。

 商会の若き新当主として多忙な日々を送っているのだから、それは仕方がないとリニアは分かってくれている。

 

「先生。今まで、本当にありがとうございました」

 ジェノはなんとか悲しい感情を顔に出さずに、お礼を言うことが出来た。

 

「うん。こちらこそありがとうね。君との生活は本当に楽しかったわ」

 リニアはそう言うと、にっこり微笑み、自分が身につけていたハーフジャケットを脱ぐ。

 

「ジェノ、修行も勉強も頑張りなさい。そして、それと同じくらいにしっかり遊びなさい。そして、無理はしないことよ」

 そうジェノに釘を差したリニアは、ジェノに自分のジャケットを羽織らせた。

 

「ははっ。まだぶかぶかだね。でも、すぐに君は大きくなって、着られないようになってしまうわね、きっと」

「……先生」

「こらこら、湿っぽいのは無しよ」

 そう言いながらも、リニアの瞳にも光るものが浮かんでいる。

 

「それじゃあ、またね、ジェノ」

「うん。またね、先生」

 リニアが笑顔で別れの挨拶を口にしたので、ジェノも涙を流しながらも笑顔でそれに応える。

 

 すると、リニアは少し体を屈めて、ジェノの額にキスをした。

 

「ジェノ。素敵な男性になりなさい……」

 優しいその言葉に、ジェノは号泣してしまう。

 

「うん。頑張れ、頑張れ、男の子。君はきっと、私よりも強くなれるはずよ」

 リニアは最後にジェノの頭を撫でて、馬車に乗り込んでいった。

 

「先生! 本当に、本当にありがとう! 僕、絶対に強くなるよ! 先生みたいに強い人になるよ!」

 ジェノはそう宣言し、馬車が見えなくなるまで、ずっとその姿を見つめ続けたのだった。



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㊳ 『憧れた貴女に誓うこと』

 長い話を終えて、ジェノは静かに息をついた。

 

「そういう理由があって、その手紙はまだ封を切ることが出来ないんです。……どうかしましたか?」

 ジェノは、バルネアとリアラとメルエーナの女三人の向けてくる視線に、眉をひそめる。

 三人は、まるで微笑ましいものを見るような笑顔を自分に向けているのだ。

 

「やっぱり、男の子って、綺麗な先生に憧れるものなのかしら?」

「うんうん。ジェノ君にも、そういう可愛らしい時があったのね」

「本当に、素敵な先生だったんですね」

 口々に好き勝手な感想を口にする三人に、ジェノは小さく嘆息する。

 

「ジェノ君。今のお話に出てきたリニア先生のその後の事は分かっているのかしら?」

「はい。先生の故郷では、長く続いた戦争もようやく終息に向かっているそうです。その理由が、紫髪の凄腕の剣士が第三勢力として介入し、人々の支持を受けているからだといいます。おそらくは、その人が……」

 異国の情報なので、その信憑性は当てに出来ない部分もあるが、ジェノは可能な限り、リニアの故郷の情報を集めているので、大筋では間違っていないだろうと思う。

 

「あっ。そう言えば、ジェノちゃんは基本的に、いつも白ベースのジャケットを身に着けているけれど、もしかして、それもリニア先生の影響なの?」

 バルネアに笑顔で尋ねられ、ジェノは言葉に詰まる。理由は単純で、図星だからだ。

 

「ジェノさんが男性なのに料理が上手なのも、リニア先生の影響ですよね? 剣術だけでなく、本当にいろいろな意味で先生なんですね」

 メルエーナも何が面白いのか、にこにこと微笑む。

 

「……ジェノ君。一つだけいいかしら? どうしても私から君に話しておきたいことがあるの」

 不意に低い声で、リアラがジェノに伺いを立ててくる。

 

「はい。どうぞ」

 ジェノが了承すると、彼女はひどく真剣な表情で話し始めた。

 

「ジェノ君。今までの話で、君の嗜好が分かったわ」

「……えっ? 嗜好……ですか?」

 会話を遮るのは無作法だが、ジェノはそう尋ね返さずにはいられなかった。

 

「いいの、隠さなくて。君は、年上のお姉さんが好きなようね。まぁ、たしかに、年上の女性はそれはそれで魅力的よ。母性も感じやすいしね。でもね、私はあえて同い年……いえ、年の近い女の子を薦めるわ!」

「……すみません、おっしゃっている意味がわかりません」

 ジェノは素直な気持ちを口にしたのだが、リアラの熱弁は止まらない。

 

「いい、ジェノ君! 一見すると、年の近い女の子には母性を感じにくいかもしれないわ。でもね、普段の気のおけない関係のなかで、ふと目の当たりにする大人っぽい仕草や母性こそ、何より男心に響くはずなのよ」

「……あの、ですから……」

 ジェノは言葉を挟もうとするが、熱の入ったリアラの演説は止まらない。

 

「それに、ジェノ君。君の家庭環境も今回の話でよく分かったわ。本当に苦労したのね。ペントさんという素敵な女性がいてくれたことは幸いだけれど、やはり貴方は母性に飢えているのよ。

 だから、いつでも私のことを『お義母さん』と呼んでくれていいわ。

 そして、安心して。うちの娘にも、そこはかとない色気を、母性を、自然に感じさせるような所作は仕込んであるから。ちょっと胸だけは物足りないかもしれないけれど、ちょうど今が食べごろだから、遠慮な……」

「お母さん! いい加減にして下さい!」

 顔を真っ赤にしたメルエーナの怒声が、リアラの演説を止める。

 

 それから親子の口論が始まったので、ジェノは嘆息し、静かに席を立った。

 

「あら、どうしたの、ジェノちゃん?」

「少し話しすぎました。今日はそろそろ休ませてもらいます」

 バルネアにそう告げて、口論をしている母と娘を一瞥し、ジェノは苦笑する。

 

 けれどその瞳には、呆れの感情は浮かんでいない。そこに秘められたものは、憧憬だった。

 

「分かったわ。お休みなさい、ジェノちゃん。今日はお話をしてくれてありがとう。とても面白いお話だったわ」

 バルネアはそう言うと、静かに立ち上がり、ジェノの頭を優しく撫でた。

 

「バルネアさん?」

 ジェノは不思議そうにバルネアを見たが、彼女は黙って満面の笑みを浮かべるだけだ。

 

 ジェノはリアラとメルエーナにも就寝することを告げて、部屋に戻る。

 仲良く言い争いをしている二人は、ジェノに「おやすみなさい」と言って、また口論を始める。

 

「……」

 ジェノはわずかに口の端を上げて、部屋に戻ることにした。

 

「なっ! どっ、どこを見ているんですか! やめて下さい! ジェノさんに見られたら……」

「何を言っているのよ! 女の下着なんて、男の人に見られてなんぼでしょうが! もう、またこんな色気のない下着をつけて!」

「だから、娘の下着をまじまじと見ないで下さい!」

「もう、埒が明かないわ。明日は下着を買いに行くわよ! 決戦の日はジェノ君の誕生日! そこで一足早く大人にしてもらいなさい」

「そんな恥ずかしい真似、できるわけないです!」

「ええい! 十歳にもならない女の子が、ジェノ君の唇を奪っているのよ! 貴女ももうすぐ十八になるんだから、もう少し危機感を持ちなさい! 誰かに盗られてからじゃあ遅いのよ!」

 

 ジェノはそんなやり取りを背に、苦笑しながら振り返ることなく自分の部屋に戻るのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 何もしなくてもいいですから、とジェノは言ったのだが、イベント好きなバルネアが聞くはずもなく、ジェノの誕生会が開かれ、大盛況のうちに終了した。

 

 ジェノは後片付けを手伝おうとしたのだが、バルネアとメルエーナに拒まれてしまい、こうして自室に戻ってきたのだ。

 

「……誕生日、か……」

 バルネアさんとメルエーナの作ってくれた、自分の誕生日を祝う夕食が美味しすぎて、少々食べすぎてしまった。 

 

 いや、料理が美味しかったのは、それだけでなく、みんなが心から祝ってくれていたからだろう。

 ジェノの誕生会には、バルネアとメルエーナの他に、イルリア、リット、リリィ、シーウェン達が参加してくれた。

 

 特にシーウェンには、その前に昼食に誘われて、馴染みの屋台の親父さんのところで、鶏肉をぶつ切りにして粉を付けて揚げた、唐揚げなる絶品の料理をごちそうになってしまった。

 そして、「ジェノ。今度は飲みに誘うからな」と言い、何が嬉しいのか、シーウェンは笑っていた。

 

「……誕生日プレゼントまで、もらう事になるとは」

 ジェノは机いっぱいに置かれているプレゼントの山を見て、苦笑する。

 だが、その笑みはすぐに消えてなくなる。

 

「少し前までは、考えられないことだ……。俺は、果報者だな」

 ジェノの目は虚空を見つめ、過去を思い出す。

 

「……正直、先生と別れてから、ろくな事がなかったな……」

 リニアと別れてからしばらくして、長年の無理が祟ったのか、ペントが病に倒れ、療養のために故郷に帰ってしまった。

 ペントは最後まで、「ジェノ坊っちゃんのお世話は私がします」と言ってくれたが、ジェノはペントに死んでほしくないと説得したのだ。

 

 敬愛する先生はいなくなってしまった。

 母親代わりの大切なペントもいなくなってしまった。

 そして、何よりもの自慢だった兄さんは、いつの間にか……。

 

 ジェノの兄のデルクが商会の当主になってから一新された屋敷の使用人たち。

 彼らは今までの使用人とは異なり、しっかりと仕事をこなし、ジェノにも敬意を払ってくれた。

 けれど、ジェノが欲しかったのは、そんな上辺だけの付き合いではなかったのだ。

 家族として一緒に過ごしてくれる人を失った悲しみは、デルクがたまに遊んでくれるだけでは満たされることはなかった。

 

 さらに、成長するにつれて見えてくる人間の負の部分に辟易し、ますます自分が失ってしまった何物にも代えがたい幸せだったことを理解する。

 

 新しい豪奢な生活も、ジェノにはひどく薄っぺらなものに思えた。その満たされない心は、ジェノの心を蝕んでいった。

 

「良かったことと言えば、リットに出会ったことくらいか。……まぁ、あれを本当に良かったことと言っていいのかは分からんが……」

 そう皮肉めいて呟いたジェノは、ふと一人の少女を思い出す。

 

 それは、先程まで自分を祝ってくれていたメルエーナと瓜二つの少女。まだペントがいてくれたときの、最後の幸せな記憶……。

 

 ジェノは首を横に振り、静かに机に行き、恩師であるリニアから渡された最後の手紙を手に取る。

 

 この手紙のおかげで、一年一年を頑張れた。

 先生の教えがあったから、嫌なことがあっても堪えて、武術に邁進できた。

 

「これで、最後だ……」

 ジェノは丁寧に手紙の封を切る。

 当初は、日付が変わった瞬間に中身を見ようかと思っていたのだが、もったいない気がして、ここまで遅くなってしまった。

 

 ジェノは静かに、噛みしめるように、手紙の内容をゆっくりと読んでいく。

 

 

 

 

『ジェノ。十八歳の誕生日おめでとう!

 

 いよいよ君も大人の仲間入りだね。とはいっても、これを書いている先生も、まだ十七歳だから、不思議な気持ちなんだけれどね。

 

 さて、この手紙を読めたということは、君は私の教えをしっかり守ってくれたということね。その事を、先生は嬉しく思います。

 

 そして、がんばり屋さんな君のことだから、武術も勉強も遊びも、一生懸命頑張ってきたことだと思います。

 ですから、私は君に、私の剣の流派を明かします。

 

 我が流派の名は『森羅』。天地の間に存在するあらゆるものを意味する言葉。

 そして、新たな技術とともに、その<中伝>を君に授けます。

 

 これから、流派を尋ねられたら、『森羅』と名乗りなさい。

 

 そして、以前の手紙に書いた、エルマイラム王国で武術を教えている、私の弟弟子(私よりだいぶ年上だけどね)のライエルさんから一本取れるように努力を重ねること。

 

 ライエルさんには、そのあかつきには、『森羅』の<奥伝>を君に授けてくれるように頼んであるからね。

 

 どう? 張り合いがあるでしょう?

 大変だろうけれど、頑張ってね。

 

 そして、もしも奥伝となったら、いつか私のことを尋ねてきなさい。

 その際には、厳しく採点をして、その力量が十分であれば、<皆伝>そして<極伝>を授けます。

 

 但し、私も腕を磨いているので、生半可なことでは手に入らないことは覚悟しておくように。

 

 そして、この手紙を最後まで読んでくれた君に、この言葉を贈ります』

 

 

『私を信じて、ここまで努力を続けてきてありがとう。君という生徒に出会えたことを誇りに思います』

 

                

 親愛なる私の最初の生徒に、感謝を込めて

 

 

 

 

 

 後半の武術的な技術の記載を読む前に、ジェノは目頭が熱くなってしまった。

 

 この人に、リニア先生に出会えたからこそ、今の自分がある。

 辛いこと、苦しいことばかりだったけれど、先生の教えがあったから、今の自分はこんなに幸せなのだ。

 

「先生。俺は、もっと頑張ります。正直、あの時の貴女の実力にも遠く及ばない不出来な生徒ですが、どうか待っていて下さい」

 

 ジェノは静かに感謝の言葉を口にし、幼きあの日に憧れた、あの強い先生のようになるのだと、心に誓うのであった。



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プレリュード
① 『それは、語られていなかった物語』


 氷だった。

 その日の夕方、シュゼン王国の謁見の間は、氷に包まれた。

 

 それは謁見の間に他の者が入れないようにするための手段であり、余計な犠牲を出さないための配慮でもあった。

 

 だが、謁見の間は、すでに多くの人間が絶命させられていた。

 

 多くの命を奪ったその力は、何十の鋭利な氷の槍を自由に操る力。

 そしてその槍は、最後に生き残った罪人の男を貫かんと、それを作り出した銀髪の少女の指示を待っている。

 

 十五、六程度の美しい少女に凄まれて、最後の生き残りである中年男は失禁し、何度も頭を下げて命だけは助けて欲しいと懇願する。

 

「ガブーラン、でしたね。この国、シュゼン王国の国王にして、あの力を弄んだ張本人」

 少女は罪状を読み上げる。その姿が、実年齢以上に少女を大人びてみせる。

 可愛らしいという言葉よりも、美しいという言葉が似合うのはそのためだ。

 

 銀色の長い髪は美しく、若さにあふれる瑞々しい肢体が、実年齢以上の色気を醸し出す。けれど、彼女はただの少女ではない。

 

 懸命に命乞いをするこの哀れな国王の側近であった勇猛な騎士五人と、お抱えの魔法使い一人を、すでに彼女は氷の槍を操って殺しているのだから。

 

「あの力を弄ぶことが、どれほど罪深いことか、貴方には分かっているのですか?」

 言葉こそ丁寧だが、少女の顔に怒りの表情が浮かぶ。

 

「なっ、何者なのだ、お前は! その左右で色の違う瞳は、いったい……」

 

 美しさ以上に目を奪われるのは、少女の瞳だ。

 左右の瞳の色が違う人間など稀有な存在だ。

 そして、左目は茶色のごく普通の瞳に思えるが、右目は明らかに異質な輝きを宿している。

 

「誰が、質問を許可したのですか?」

「まっ、待って、待ってくれ! わっ、我は……」

 少女の右目が、ライトブルーの瞳が輝いた瞬間、空中に停止していた槍の一本が、ガブーランの右肩に突き刺さった。

 

 ガブーランは悲鳴を上げ、痛みに悶える。

 

「ぐぅ、うううっ……。なっ、何故、抗魔力のアミュレットが効かない……」

 首にかけられた宝石を確認し、ガブーランはそれがまるで作動していないことに気づく。

 どんな魔法からでも身を守ると言われて、彼は肌見放さず持ち続けていたのに。

 

「本当に貴方は、あの力のことをまるで理解していなかったようですね。まぁ、それが嘘でも、どちらにしろ貴方は私に殺されるしかないのだけれど」

 少女は彼女自身が操る氷以上に冷たい視線をガブーランに向ける。

 

「ただ、私がこれからする三つの質問に答えるのであれば、命だけは助けて上げましょう。貴方は、これから私がする質問の答えだけを口にしなさい」

 少女の言葉に、ガブーランはコクコクと首を縦に振る。

 

「一つ目の質問は、貴方は誰から<霧>を提供されたか。答えなさい」

 少女の命令にガブーランは答える。

 だが、すでに絶命した魔法使いの男が知己より手に入れたと言って、紹介されたということしか分からなかった。

 

「二つ目の質問は、貴方が<霧>の研究を取りやめたのは、それを取り込んだ人間が、誰一人として人間の姿を保てずに、化け物になってしまったからで間違いないかしら? ただ一人の成功者もいなかったということね?」

 ガブーランは何度も首を縦に振る。

 

「最後の質問は、聖女と呼ばれたジューナという女性が使った禁呪について。それに関わる資料を貴方達は持っているか答えなさい」

 少女の問に、ガブーランは、「そのようなものは無い」と答えた。

 

「そう。それならば、あの事件の主要人物で唯一生き残っている、ナターシャという女を問い詰めるしか無いみたいね」

 少女はそう結論づけると、媚びへつらうような視線を向けている惨めな男を一瞥し、そこに全ての氷の槍を飛ばして突き刺した。

 

 はじめから少女は、ガブーランを助けるつもりなどなかったのだ。

 

「ジューナの故郷に撒かれた<霧>は、やっぱり……」

 今まで無表情だった少女は、そう呟くと苦虫を噛み潰したような顔をする。

 

「仕方がない。これ以上広がってしまったら、余計にあの人を……」

 血を吐くような気持ちで、少女はいつもの方法で<霧>を除去するしか無いという結論に達する。

 

 もしも、聖女ジューナが使った禁呪とやらが分かれば、子ども数名と術者の命程度で済むはずだったのに。

 

「……どういうこと?」

 少女はそこでようやく違和感に気がついた。

 殺したものだと思って氷を全て消したのだが、あるべき場所にガブーランの死体がなかったのだ。

 

「変わった魔法だねぇ。まさかこの俺に解呪できない魔法があるとは思わなかった。いや、魔法ではない力と考えたほうが良さそうだな」

 薄茶色の髪のにやけた笑みを浮かべた同い年くらいの男が、いつの間にか少女の近くに立っていた。そして、彼の近くには、殺したはずのガブーランが床の上で気絶している。

 

「どうやって、この部屋に入って……。いえ、そうですか。貴方も魔法使いですか」

「ああ、どうやら同業者のようだな。俺の名はリット。お嬢さん、良ければ名をお伺いしても?」

「……ビレリア」

 少女は端的に名を名乗る。

 

「おお、教えてくれるんだ」

「それで、貴方と余計な争いにならないのであれば、名を告げるくらい安いものでしょう」

「……なるほどね。相手の実力を分かるくらいの腕はあると。まぁ、そうは言いながらも、この天才魔法使いを前にしても、自分が勝つつもりなのは少し腹立たしいが、特にあんたを殺さなければいけない理由はないんでね。いいぜ、見逃してやるよ」

 リットと名乗った男は、あからさまに挑発をしてきたが、ビレリアはそれに乗るつもりはない。

 

「そうですか。私の用件は済みました。貴方がその男をどうしようが貴方の自由。私は、帰らせて頂きます」

「ああ、いいぜ。安心しろ、きちんと殺しておくさ。あんたに殺されたほうがマシだったと思える方法でな」

 リットが言葉を言い終えると、ビレリアは<転移>の魔法を使い、謁見の間から姿を消した。

 

 あの男が、ガブーランという名の大罪人が、どのような死に方をしようが、ビレリアには興味はないのだから。

 

 だが、ビレリアは思いもしなかった。

 このリットと名乗った男の仲間が、聖女ジューナの愛弟子をすべて殺したため、<霧>を消す禁呪を再現することができなくなったことを。

 

 そして、その人物こそが、やがて<霧>に対抗する術を持つただ一人の人間となることを。



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② 『侯爵令嬢の初恋』

 夏の暑さも一段落し、だいぶ過ごしやすくなってきた。

 とはいっても、これから寒い冬がやってくるのだと思うと、少々辟易もしてしまうが。

 

 最近買ったお気に入りのティーカップでお茶を飲み、ついでに、先日仕入れてきたチョコレートを机の引き出しから取り出すと、少女はニンマリと微笑んだ。

 

 その悪戯っぽい笑顔を見ただけで、世の男性は、いや女性さえも例外ではなく、見惚れてしまうほどの美貌を持ったその少女は、それだけではなく、瑞々しく若さに溢れながらも、女性らしい美しいスタイルも持ち合わせている。

 

 もしも、『美』というものを具現化したら、彼女になるのではないかと思わされる程の完璧な美しさを持つその少女は、いいことを思いついたと言わんばかりに、机の上に備え付けてあるベルを鳴らす。

 

 するとすぐにドアがノックされ、「お呼びでしょうか」と声がかかる。

 

「ええ。中に入って」

 そう命じると、少女と同い年の十七歳の侍女が、「失礼致します」と畏まって入室してくる。

 

「メイ。そろそろ休憩の時間でしょう? 美味しいお菓子があるから、一緒にお茶にしない?」

 自分に仕える侍女に対して、少女は友人のような気安さで声をかける。

 

 メイと呼ばれた小柄な侍女は、これ見よがしにため息を付いた。

 

「マリア様。また、公務を抜け出したんですか?」

「もう、違うわよ。この間、街の視察に行った時に、ちょっとだけセレクト先生に同行してもらって、買ってきただけよ」

「それを抜け出したっていうんですよ」

 メイも侍女という立場を顧みず、友人に対するような気楽さで、主である少女――マリアに言葉を返す。

 

「もう、いいじゃない。新しく出来た、<天使の口づけ>ってお店にどうしても行ってみたかったのよ。それに、こんな可愛らしいティーカップもついでに見つけられたしね」

 マリアは得意げに、愛らしい猫の形の取っ手のティーカップをメイに見せつける。

 

「ふふ~ん、いいでしょう?」

「……相変わらず少女趣味ですよね。もう少しで十八歳になって、大人の仲間入りをするのに」

「むぅ。いいじゃない。可愛いものは可愛いんだから!」

「駄目です。マリア様を一目見た殿方は、みなさん、気品あふれるティーカップで優雅にお茶を飲み、ふと儚げに嘆息する深窓の令嬢をイメージされているのですから」

 にべもなくメイにダメ出しをされて、マリアは頬を膨らませる。

 自分をどんな人間だろうかと勝手に想像するのは別に構わないが、こっちがそれに合わせて上げなければいけない理由がどこにあるというのだろうと思う。

 

「それと、お茶が飲みたいのでしたら私達にお命じ下さい。こっそり厨房に行って、自分でお茶を淹れる令嬢がどこにいるんですか」

「だって、みんな忙しそうだから、悪いなぁと思って」

「それが、私達の仕事ですから、遠慮なんてなさらないでくださいよ」

「は~い。分かりましたよぉ。だから、一緒にお茶にしましょうよ」

「……絶対またやるつもりですね。ですが、私も<天使の口づけ>のお菓子はまだ食べたことがないんですよね……」

 メイはニンマリ微笑むと、スススッとマリアの元に駆け寄る。

 

「ふふっ、メイ。貴女も悪い侍女ね。お茶は、私と同じものでいいわよね?」

 そう言ってマリアは、もう一つの猫のカップを背後の本棚に偽装した戸棚から取り出し、それをお湯で温め始める。

 

「いやいや、流石に淹れていただくのは恐れ多すぎます!」

「あら、嫌なの? それは、お菓子はいらないということね? メイの好きなチョコレートなんだけどなぁ~」

「あっ、お砂糖はいりませんから」

「うんうん。貴女のそういうところ大好きよ」

 

 気を使うことなく接してくれる同年代の友人のありがたさに、マリアは微笑み、メイの分の紅茶を用意し、二人で絶品のチョコレートに舌鼓を打つ。

 

「いやぁ、美味しいですね、マリア様」

「うん。これは確かに巷で話題になるのも納得だわ」

 メイは感激して、自らの頬を手で抑えながら味の余韻に浸っている。

 それを横目に、マリアはうんうん、と頷く。

 

「ですが、マリア様。ナイムの街には、更に素晴らしいデザートを出す店があるそうですよ」

「んっ? デザート? お菓子ではなくて?」

「ええ。なんでも、『パニヨン』という名前の大衆料理店らしいんですけれど、そこのコース料理に出てくるデザートの甘味が素晴らしいそうなんですよ」

 メイの話を聞き、マリアもその店の名前を思い出す。

 

「ああっ、たしか、国王様から、『我が国の誉れである』と讃えられた料理人さんのお店ね」

「そうです、そうです。しかも、先日実家に帰る途中でその店に立ち寄った侍女仲間の話だと、そこのウエイターさんがものすごい美形らしいですよ」

「あら、メイ。貴女もそのウエイターさんに興味があるの?」

「まぁ、ひと目見てみたいとは思いますけれど、私は分をわきまえていますので。私は、セレクト先生一筋ですよ」

 メイはそう言うと、はにかんだ笑顔を見せる。

 

 それを見て、マリアは羨ましいなぁと思ってしまった。

 

 幼い頃、自分も一人の男の子に恋をしていた。

 その子にファーストキスを捧げるほど、マリアはその男の子が大好きだった。

 

 けれど、もともと身分違いな関係だった。さらに、元の実家の都合で、その仲は数年で引き裂かれてしまったのだ。

 

「……ジェノ……元気にしているかしら?」

 マリアは思わず思っていることを口に出してしまった。すると、メイが怪訝な顔をする。

 

「あれっ? マリア様。私、ウエイターさんのお名前をお教えしましたっけ?」

「えっ? 何? 貴女の言っていたウエイターさんて、ジェノって名前なの?」

 マリアは目を大きく見開いて驚く。

 

「はい。ジェノって呼ばれていたと侍女仲間は言っていましたよ。黒い髪に茶色の瞳の素敵な男性だったって」

「……そう。でも、まさかね……」

 マリアは口では否定しながらも、そのジェノという人物に会ってみたいと思う。

 

「マリア様? どうなさったんです?」

「いいえ、きっとただの偶然よ。私の昔の知り合いに、同じ名前の男の子がいたの。その、私がわがままを言ったせいで、とんでもない事件に巻き込んでしまって、それを彼と彼の先生達が解決してくれたのに、結局お礼も言えてなくて……」

 今更会ってあの時の謝罪をしても意味がないことは分かっている。けれど、一度でいい。叶うのならば、もう一度会いたい。

 

「ぬぅ。あのマリア様が、恋する女の子の顔になっている」

「あのねぇ、『あのマリア様が』って何よ」

 心外だと言わんばかりに、マリアは眉をしかめる。

 

「だって、マリア様は求婚されるばかりで、自分からどなたかに思いを伝えるということをされてこなかったじゃあないですか。

 しかも、大旦那様と別居して、一人で生活する様になってからは、社交界にも滅多に足を運ばなくなりましたし」

 

「だって、面倒なんだもの。社交界で、歯の浮くような美辞麗句を言われるよりも、私は行動で気持ちを伝えてくれる殿方のほうが好みだわ」

 マリアはそう言うと、自らの腕をぐっと曲げ、

 

「そして最低限、私よりも強い殿方じゃあないと駄目ね」

 

 そう断言する。

 

 幼い頃に誘拐されそうになって以来、マリアは剣を嗜んでいる。

 その腕前は、並の男では太刀打ちできない程になっているのだ。

 

「でもまぁ、私も十八になるから、流石にいいかげんにしろとお父様に言われて、どこぞの高貴な家柄に嫁ぐことになるんじゃあないかしらね。私も貴族の家に生まれた人間ですもの。覚悟はできているわ」

 マリアは寂しげに微笑む。

 

「でも、メイ。その時は私の嫁ぎ先についてきてね」

「はい。もちろんですよ。セレクト先生と一緒に、夫婦でお仕えします」

「もう、気が早いわね、貴女は」

「大丈夫です。外堀はどんどん埋めていっていますから!」

 

 メイは「ふっふっふつ」と悪い笑みを浮かべる。

 マリアは正直それを少し怖いと思った。

 

 けれど、マリアのこの願いは、決して叶うことは無いことを、この時の彼女は知る由もなかったのだった。



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③ 『朝食とお寝坊さん』

 心から楽しめる食事というものは難しいとマリアは思う。

 

 ただ料理が美味しいだけではなく、その時の体調や一緒に食事をする相手、気温や気候。なにより雰囲気が大事である。

 ……それは知っていたが、今日ほどそう思ったことはない。

 

 マリアは侍女のメイが途方も無い手間を掛けて作ったであろう三色のパスタ料理を味わいながら、ものすごく気まずい気持ちになっていた。

 

 いや、このパスタは絶品である。一枚の皿の上に、普通の淡い黄色のパスタの他、野菜を練り込んだらしき緑とほんのり赤いパスタが綺麗に盛り付けられ、見た目にも鮮やかだ。

 

 そして、それらに合わせたソースも三種類掛けられており、どれも素晴らしい味だ。そして、やったらまず間違いなく怒られるのでやらないが、きっとこのソース全てを混ぜて食べても、味の調和が崩れることなく、それどころか更に美味しくなるであろうことは容易に想像できる。

 

 きっと侍女たちは、後でこの三つのソースを合わせたものを三色のパスタにかけて食べるのだろう。人の目を気にしないでいいから。

 まったく、自分達だけずるいと思う。

 

「……メイ。その、とっても美味しいわよ、このパスタ」

 口うるさい年配の侍女長が席を外したので、マリアは頑張って笑顔で話しかける。

 

 するとメイは、凄みのある笑顔をこちらに向けて「ありがとうございます」と事務的な声でお礼を返してくる。

 

 メイは笑顔を浮かべている。きっと、後で顔の筋肉が後でひきつるのではと思うくらい笑顔を作って、それを貼り付けている。内心ではこの上なく怒っていることが、容易に想像できた。

 

「……セレクト先生。よりにもよって今日、寝坊するなんて……」

 マリアはそう心のなかで嘆く。

 そして彼女は、自分の向かいの席に置かれた、冷め始めてしまった手つかずのパスタ皿を見て、嘆息せざるを得なかった。

 

 本来、主人が使用人と一緒に食事をすることはない。

 だが、来客用の長いテーブルで一人食事をすることを嫌ったマリアが、わがままを言って小さなテーブルを用意させて、セレクトという家庭教師の先生と一緒に食べるのが日課になっているのだ。

 

 だが、今日だけは、一人で長テーブルで食べている方が気が楽だっただろうと思う。

 

「し、メイ。セレクト先生、今日は遅いわね……」

 触れてはいけない話題だというのは分かっていたが、触れないわけにも行かず、マリアは緊張した面持ちでメイに話題をふる。

 

「……そうですね。部屋に鍵をお掛けになられておりまして、三回も起こしに伺ったのに、一向に起きてこられる様子がありません」

 溢れ出る怒気を完全には抑えられず、彼女は満面の笑顔のままそれを放つ。

 

 怖い。怖すぎる。

 マリアは絶品のパスタを食べながらも、それを楽しむ気持ちよりも、一刻も早くセレクト先生が来てくれることを切に願う。

 

 けれど、彼がやってきたのは、マリアがパスタを全て食べ終わる頃だった。

 

 走るではなく、ギリギリ早足の範囲で息を切らせてマリアの前にやってきたその男性は、二十代半ばくらいで深いブラウンの髪色の男性――セレクトだった。

 それなりに整った顔立ちではあるのだが、どこか抜けていそうな……もとい、親しみを持ちやすそうな柔らかな雰囲気の中肉中背の男性。

 メガネを掛けているが、伊達であるらしい。これは、少しでも年相応の威厳を出したいがためだと以前話してくれていたが、今、最低限の身だしなみを整えて入るものの、髪に寝癖が残ったその姿は、威厳とは程遠い。

 

「おっ、おはようございます、マリア様。すみません、寝坊してしまいました……」

 セレクトは、息を切らせながら、主人であるマリアに謝罪をしてくる。

 

 それは正しい行いだ。まず第一に主人に対して非礼を詫びるのが筋だろう。だが、彼の謝罪はそこで終わってしまう。

 マリアは少々呆れ気味なだけだが、彼が今日、寝坊した事を怒る存在が彼女の側に控えていることに気づいていない。

 

「……おはようございます、セレクト先生」

「んっ? ああ、おはよう、メイ」

 笑顔でこそあるものの、明らかに不機嫌であるメイに対して、セレクトは悪びれた様子もなく、笑顔で挨拶を交わす。

 正直、それを見ているマリアの方が胃が痛くなってきそうだ。

 

 だが、そんなセレクトも、自分の席についてすっかり冷めてしまった手の混んだパスタ料理を見て、自らの過ちに、罪に気づいたようで、だらだらと冷や汗をかき始める。

 

 普段は時間通りに、いや決められた時間の十分前には行動するセレクトのたまの寝坊だ。マリアは軽く注意はしようと思うが、大事にするつもりはない。だが、今重要なのは彼女の気持ちではない。

 

「セレクト先生。今朝のメニューは、先生が一度是非食べてみたいと仰っておられた、私渾身のパスタ料理ですわ。

 ええ、ええ。自分で言うのもおこがましいですが、朝早くから手間ひまをかけて作った珠玉の一皿です……」

 視線を伏せ、低い声でメイは料理の解説をする。その言葉を聞き、セレクトの顔から血の気が引いていく。

 

「昨晩、明日の朝食は、頑張って先生のリクエストに応えてみせますと、私、言いましたよね?」

「……うっ、うん」

 セレクトは青ざめた顔で頷く。

 

「ただ、先生がお寝坊さんでしたので、すっかり冷めてしまいました。でも、大丈夫ですよ。すぐに代えの皿をお持ちしますから。

 その愛情をたっぷり込めて作った一皿は、ゴミ箱にでも棄てますので」

「いや、その、大丈夫だよ。これを頂きます……」

「いいえ、そんな。気になさらないで下さい。昨日の晩から仕込んでおいて、セレクト先生が喜ぶ顔を想像しながら、今朝早くから眠いのを堪えて作った私の気持ちなど、先生にはどうでもいいことなのでしょうから」

「いや、本当にごめんなさい。お願いですから、これを食べさせて下さい、お願いします……」

 セレクトはメイに深々と頭を下げて、冷めきったパスタ料理を食べさせて下さいと懇願する。

 

「……そこまで仰られるのならば、仕方ありませんね。どうぞ、お召し上がり下さい」

 メイはそう言うと、笑顔で食べるように促す。

 

 冷めたパスタを食べなければいけないセレクト先生には同情するが、自分で蒔いた種なのだから、しっかりと責任を取ってもらわなければともマリアも思う。

 

「あっ、うん。冷めても美味しいね、このパスタ……」

 食事前の祈りを終えてパスタを口にするなり、セレクトは引きつった笑顔でメイの料理を褒める。

 冷たいパスタ料理で美味しいものもあるが、今、彼が食べているのは間違いなく熱いうちだけが美味しく食べられる類のものだ。美味しいはずがない。

 

「……見え見えのご機嫌取りを仰らなくてもいいですよ。料理にも美味しく食べられる時間というものがあります。それを過ぎてしまっては美味しいはずはありません」

「いや、それでも本当に美味しいと思うよ。ごめん、本当にこんな時に寝坊なんかしてしまって……。君の思いやりを無下にしてしまって」

 セレクトは心から反省しているようで、メイにもう一度謝罪をし、パスタを再び口に運ぶ。

 

「……分かりました。先生も反省なされているようですので、新しい皿をお持ちしますので、もうしばらくお待ち下さい」

 メイはそう言うと、セレクトに近づき、「失礼致します」と言って、パスタ皿を下げる。

 

「でも、メイ……」

「大丈夫です。この皿は温め直して私が頂きますから、無駄にはしません。先生には新しいできたてをお持ちしますね」

「メイ……」

 セレクトは、ようやく本当に心から微笑んでくれたメイに安堵する。

 

「ですが、先程も申し上げたとおり、何事にも美味しく食べられる時間というものがあります。その時間内に召し上がって頂かねば、それはそれを作った人間だけでなく、食材への冒涜です」

「うん。君の言うとおりだね」

 セレクトは頷き、笑顔を返す。

 

 ようやく重苦しい雰囲気が払拭され、マリアも安堵して食後の紅茶を口にする。だが……。

 

「というわけですから、私自身も、十六歳の今が旬ですので、しっかり今晩もしてくださいね」

 

 そう続いたメイの言葉に、マリアはお茶を吹き出してしまいそうになった。

 

「……あの、セレクト先生。食事中に申し訳ございませんが、私、主人として、先生に少しお話を聞かせて頂きたいのですが?」

 今度はマリアが笑顔を貼り付けて、セレクトに尋ねる。

 

「マリア様、誤解です! ものすごい誤解です! メイは、『今晩も授業をしてください』というのを、冗談でそんな言い方をしているだけです」

 セレクトは慌てて弁明するが、そこにメイの言葉が続く。

 

「ええ。先生の夜の個人授業は最高です。(無学で)何も知らなかった私に、あんなすごいこと(算術や一般教養)をじっくりたっぷり仕込んでくださって……。

 私はもう、一人(での勉強)じゃあ物足りないんです。こんなに教え込まれてしまっては、私、先生(の分かりやすい授業)でないと駄目になってしまいました」

 嘘をついていないが、メイは肝心な言葉を省略し、妙に体をくねらせて言う。

 当然、事情を知らないマリアは彼女の言葉を別な意味で捉えてしまう。

 

「セレクト先生? 確かにメイにも勉強を教えて欲しいと私は言いましたが、先生は一体何の勉強を私の侍女に教えていらっしゃるのでしょうか? 詳しく話して頂けますよね?」

 マリアは美しくも凄みの効いた低い声で言う。

 疑問を問うているのではない。話しなさいと命じているのだ。

 

「ですから、誤解です。神に誓って、何もやましいことはしていません! メイ、君も紛らわしいことを言わないで、マリア様にきちんと説明をし……」

「それでは、私はパスタを茹でてきますので」

 セレクトはメイに助けを求めようとしたようだったが、彼女は早々に退出していった。

 

「メイ、待って! 私が悪かったから、行かないでくれ!」

「セレクト先生!」

 マリアは情けなく懇願するセレクトに詰め寄り、誤解が解けるまで尋問を続けたのであった。



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④ 『予知と内助の功』

 ひどい目にあった。

 ようやく自室に戻り、セレクトは重いため息をつく。

 

 マリアの誤解が解けるまでの間、セレクトは懸命に彼女に説明をし、ようやく納得してもらえた。ただ、彼女は納得してくれたようだが、用事から戻ってきた侍女長にその場面を見られてしまった。

 

 侍女長は間違いなく優秀で、人柄にも優れた人物なのだが、噂話が大好きなのが玉に瑕なのだ。きっと今頃、この屋敷の侍女全てに、自分が教え子に手を出した男だと吹聴しているに違いない。

 

「まったく、メイにも困ったものだな……。いや、違う。今回は寝坊した私が原因だし、はっきりしない私が悪いな」

 教え子を悪く言う前に、自らの行いを反省するべきだと思い、セレクトはコツンと自らの拳骨で、頭を叩く。

 

 改めて食べることになった、メイ特製の熱々のパスタは絶品だった。彼女が自分のためにどれだけ頑張ってくれたのかが分からないほど、セレクトは愚鈍ではない。そして、真っ直ぐに自分に向けてくる好意も分かってはいる。

 

 けれど、セレクトはそれを少々軽く考えてしまっていたのだ。

 メイが自分に向けてくる感情は、恋に恋する少女の気持ちで、その発露に、たまたま手頃な男である自分が選ばれただけだと思っていた。

 だが、メイは一途に自分のことを好いているようだ。一人の男として、自分のことを……。

 

「私もそろそろ二十五になるし、身を固めるべきなのかもしれないけれど、私にとってメイは、あくまでも可愛い教え子なんだよなぁ……」

 セレクトはそう口にし、嘆息する。

 

 別段、セレクトは女性の好みにうるさいわけではない。没落してその称号を剥奪されてしまったが、これでも元は男爵家の人間である。

 結婚が自分の思い通りに行くなどとは考えられない環境で育ったので、好みがどうこうなどというつもりはない。

 

 けれど、教え子に手を出すのは人として間違っていると考えてしまうのだ。

 

 もっとも、そういった頭も身持ちも固いところが、メイの恋心に火をつけている事をセレクトは知らない。

 

「……駄目だ、少しは体を動かそう。お嬢様の授業の前に、久しぶりに屋敷の防犯魔法の確認でもしておこうかな?」

 セレクトは何気なくそう思い、重い腰を上げる。

 

 ただそこで、セレクトはふと違和感を覚えた。

 

「何故だ? 何故私は、今、屋敷の防犯魔法を確認しようと思ったんだ? そんなこと、もう何年もしていないのに」

 セレクトは自分自身の思考を、もう一度なぞってみる。

 だが、やはりおかしい。こんな事を突発的に行おうとするのは明らかに不自然だ。

 

 幼少期から時々ある。

 虫の知らせとでもいうことが。自分の身に危険が迫った時に、妙に勘が鋭くなることが。

 

『俺も勘は働く方だと思うが、先生のは予知に近いな』

 自分の教え子のなかで唯一の男子に指摘され、セレクトは自分のその能力を自覚した。 

 

「まずいな。今、この館にいる魔法使いは私一人。どこまで魔法を強化できるだろうか? この鼓動の忙しなさ……。今晩にも事が起こってもおかしくない」

 セレクトは大慌てでマリアの部屋に足を運ぶことを決める。

 

 今日の授業は中止にし、自分は魔法の強化をしなければならない。そして、お嬢様には最大限の警戒態勢を敷いてもらわねば。

 

 以前から、自分のこの能力はお嬢様には話してある。それに懸けるしか無い。

 

 セレクトが決して伴侶を持とうと、大切な女性を作ろうとしないのには訳がある。

 それは、この自分にだけ備わった二つの能力のためだ。

 

 一つ目の能力は危険を感知できること。けれど、それを覆せたことはない。にもかかわらず彼が今もこうして生きているのは、もう一つの忌むべき能力のせいだ。

 

「また、私だけが生き残るなんて結末は耐えられない……」

 セレクトのもう一つの能力。それは、どんなに周りがひどい目に会おうと、自分だけは何故か生き残ってしまう悪運の能力だった。

 

 自分だけは助かる。それはつまり、他の者は決して助からないということ。

 

 一回目なら奇跡だと思える。二回目なら運が良かったと思える。だが、三回も続くと自分を信じきれなくなる。そして、四回も続けば、それは呪いにしか思えなくなる。

 

 そして、今回、事が起これば、五回目だ。

 

「この三年間は平和だったから忘れてしまいそうになっていた。私は、周りを不幸にする存在だということを」

 セレクトは走る。五度目の悲劇を産まないために。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 慌ただしく屋敷の人間が走り回る。

 なんでも、今晩にでもこの屋敷に襲撃があるかもしれないということで、マリアを守るべく、使用人たちは忙しなく走り回っている。

 

 そのような理由から、メイ達は侍女長の命を受け、仕事をしながらでも食べられるようにと、料理のメニューをすべて変更し、サンドイッチなどを作る作業に追われていた。

 

「ふぅ、ふぅ。忙しい、忙しい!」

「ああ、無駄口をたたかないで! こっちまで疲れてくるから!」

 他の侍女達の口から、悲鳴じみた声が漏れる。

 

 いくらこの屋敷が、侯爵家の別宅としては狭いほうだと言っても、それを維持するための人間は、護衛なども含めれば八十人以上になる。

 

 そのすべての料理を作り直さなければいけないし、普段の仕事もこなさなければいけない。

 十五人程度の侍女達で手分けをして。

 

 なんとか昼食をみんなに配り終えた頃には、メイを含めた侍女たちは、全員疲労困憊で、厨房横の食堂で椅子に座り、机に突っ伏してしまっていた。

 

「つっ、疲れた……」

「ううっ、お腹も空いたけれど、立ち上がる元気もないわ……」

 メイと同年代の若い侍女たちも、しばらくは動く気力が湧かないようだ。

 

「ねぇ、知ってる? この忙しさって、セレクト先生のせいらしいわよ」

「えっ? あの先生の?」

 セレクトの名が侍女仲間の口から上がったことで、机に突っ伏していたメイは顔を上げる。

 

「そう。なんでも、悪い予感がするので、今すぐ警備を厳重なものにしてほしいって、マリア様にお伺いを立てたんだって」

「なにそれ? 悪い予感って、そんなはっきりしないもので、こんなに忙しい状況にしたの?」

「ええ。まぁ、決定したのはマリア様だけれど、セレクト先生が余計なことを言わなければ、こんなに忙しい事はなかったのに……。

 まったく、これで何も起こらなかったら、恨んでやるわよ」

 若い侍女二人の話に、他の侍女たちも「そうなの?」と話に乗ってくる。

 

 それを理解したメイは、疲れた体にムチを打って立ち上がる。

 

「さてと。私はまだなんとか動けますから、みなさんの昼食を用意しますね。その代わり、セレクト先生の悪口を言うのは止めて下さい」

 メイはにっこり微笑むと、厨房に向かおうとする。

 

「それは助かりますけれど……」

 年配の侍女がメイの申し出に微妙な顔をする。

 

 この不平不満が溢れそうな現状、できれば誰かを悪者にして愚痴の一つでも言い合ったほうが後々のためにいいと考えているのだろうと、メイは推測する。

 

 まさか雇い主であるマリア様を悪く言うわけにはいかない。それならば、悪者にしても波風が立たないセレクトがスケープゴートには最適だと思ったのだろう。

 だが、メイはその流れに、小さな体で立ち向かう。

 

「ええい、けれど、は無しですよ! 私の未来の旦那様の事を悪く言うのは、先輩たちでも許せません!ただ、夫の不始末は妻の不始末。ですから、皆さんの食事は私が作ります。それで、セレクト先生を悪く言うのは止めて下さい。い・い・で・す・ね?」

 メイは有無を言わさぬ声で、侍女たちから言質を取ると、

 

「それじゃあ、皆さんは休んでいて下さい!私がぱぱぱっと美味しい料理を作りますので!」

 

 そう言って足早に厨房に向かう。

 

「未来の旦那様って……」

「やっぱり、あの娘、セレクト先生のお手つきになったんじゃあ……」

「でも、あの先生、なんだかそういうことには奥手そうに見えるけれど……」

「いやいや、ああいうタイプほど、タガが外れると……」

 

 背中から聞こえてくる言葉が、セレクトに対する非難ではなく、自分とセレクトの関係を推測するものに変わったことに安堵し、メイは気力を振り絞って、厨房に立って料理を開始するのだった。



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⑤ 『準備と覚悟』

 セレクトは、魔法の起動箇所に直接出向き、自分の背丈ほどの愛用の棍を介してそれらの箇所に触れて、一つ一つを強化していく。

 

 普通の魔法使いならば、自分がかけた魔法の強化程度は距離がある程度離れていてもできるのだが、彼の魔法は特殊であるため、こうして自ら足を運ばなければいけない。

 

 セレクトは一人で、百箇所近い場所の魔法を強化するべく走り回る。無論それは、今この屋敷にいる魔法使いが彼だけということもあるが、疲労が溜まりながらも、屋敷の移動を誰かに手助けしてもらわないのには別の理由があった。

 

 それは、自分の魔法の特殊性を他人に知られないためである。

 

 セレクトの魔法の力は、型にはまった際の強さは群を抜く反面、かなり使い方が限定されるという扱いにくいものなのだ。

 その特性を知られるということは、自らの弱点を暴露してしまうことになってしまう。

 だから、彼はあまり魔法を人前で見せるようなことはしない。

 

「これで、ようやく終わりだな」

 セレクトはクタクタに疲れた体にそう言い聞かせ、最後の箇所の魔法を強化すると、棍を杖代わりにして、深く息をつく。

 

 この強化でどれほどの成果が得られるかは未知数だが、できることは全てやって置かなければならない。

 

「<お守り>も、もう少し用意しておいた方がいいだろうか?」

 そう考え、行動に出ようとしたセレクトだったが、魔力という魔法を使うための力が枯渇しているため、思うように体が動かない。

 

「もう、日が沈みそうになっている。そして、不安な気持ちがどんどん増していく。まずいな、間違いなく事が起こるのは今晩で、かなりの厄介事だ。くそっ!」

 セレクトは自分の厄介な能力に苛立つ。

 

 彼の予知の能力は、自分に迫る危機を感じ取れるものだが、いつもかなり危険が迫ってからでないと感じ取ることが出来ない。そして、不安感でいつ起こるのかとその危険度がおおよそ判断できるだけなのだ。

 

 そのようなことが分かるだけでもすごいと他人は思うかもしれないが、セレクトはこの能力も嫌っている。

 

 その理由は単純。大体が、すでに手遅れの状態になって分かることがほとんどだからだ。

 

 セレクトにしてみれば、『お前の周りの人間を近いうちに殺す。もう何をしても手遅れだ』と死神から宣言を受けているに等しい。

 

「この屋敷の人々は、マリア様は、こんな私に良くして下さった。今度こそ、私が悲劇からみんなを守ってみせる」

 セレクトはそう断言すると、草むらに落ちていた小さな石ころを拾い、それに自らの残り少ない魔力を通して、それを自分の上着のポケットに入れる。

 

「この一個が限界か。これ以上無理をしたら、暴発するかもしれない……」

 日頃からもっと<お守り>を作って保存しておければいいのだが、魔力のキャパシティをその維持に回さなければいけなくなってしまうので、下手をすると他の魔法がまったく使えなくなってしまう。それでは、本末転倒もいいところだ。

 

 セレクトは自らの魔法の特殊性を嘆く。けれど、時間はそんな嘆きを汲み取ることはなく、無情に流れていく。

 

「駄目だ。とりあえず部屋に戻って仮眠を取ろう。このままでは、事が起こった時に魔法が使えない」

 セレクトは重い足取りで自室に戻ることにした。

 焦る気持ちに蓋をして……。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 マリアは自室で不安な気持ちに押しつぶされそうになっていた。

 

 朝食時には、長いこと会いたいと願っていた男の子の情報らしきものを聞いて嬉しく思っていたのに、いきなりこんな事になろうとは。

 

「セレクト先生の嫌な予感は外れない。それは、お父様もハイラオン公も仰っておられた事……」

 今の育ての親であるジュダン様も、彼の親友であるラゼディブ=ハイラオン公爵も、セレクトに全幅の信頼を置いていた。それは、彼の能力も含めて、だ。

 

 そのセレクトが危険が迫っているといったのだ。できる限りの対策の指示は出したが、不安な気持ちは拭えない。

 

 マリアは腰の細身の剣の柄を握る。

 それが、不安な気持ちを落ち着ける彼女の所作だ。

 

 そして、思い出すのだ。

 幼い頃、絶望的な状況に置いても、逃げずに戦った少年の事を。

 

「ジェノ。私に勇気を貸して……」

 マリアはそう小さく呟くと、深呼吸をして覚悟を決めるのだった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 不安な気持ちを押し殺し、少しでも魔力が回復するようにと眠った。

 そして、次にセレクトが目を覚ましたのは、トントンと部屋のドアをノックする音が聞こえた時だった。

 

 セレクトは飛び起き、「どうぞ」とノックした相手に声をかける。

 眠りはかなり浅かったが、少しは眠れたので、魔力はそれなりに回復している事にセレクトは安堵する。

 

「失礼します」

 という声とともに部屋に入ってきたのは、小柄な少女。マリアの側使いの侍女であるメイだった。

 

「セレクト先生。夕食のご用意がまもなく出来ます」

 メイのその言葉に、セレクトは違和感を覚える。

 

 いつもならば、メイは「夕食のご用意が出来ました」と言う。それなのに、彼女はまだ食事までは少しだけ時間があると言っているのだ。

 

 けれど、セレクトはすぐにメイが何を求めているのかが分かった。

 彼女は体を震わせながら、こちらを見つめている。

 

 セレクトは不安に体を震わせる教え子の側に歩み寄ると、ポンとその頭に手をやった。

 

「メイ。大丈夫だよ。私やこの館のみんなも一緒だから」

 セレクトがそう言って笑いかけると、メイは彼の体に縋り付く。

 

「先生……。私、怖いんです。先生と離れ離れになってしまうような気がして……」

 メイは体を震わせながら、大粒の涙をこぼす。

 

「大丈夫だよ。そんなことにはならないさ。今晩が終わったら、きっとまたいつもの光景が、日常が戻ってくるはずだから」

 セレクトは心のうちで自嘲しながら、そんな気休めを口にする。

 

 迫っているのは、過去に経験したことのないほどの危機に違いない。だから、自分はこんなに不安になるのだ。

 

 自分の気休めの言葉では安心できないメイに、セレクトは自分のポケットから<お守り>を取り出して、それを彼女に差し出す。

 

「メイ。念のため、これを持っていて」

「これは、石ですか? でも随分と真ん丸ですね」

「ああ。私の魔力を込めてあるからね。もしも、君の身に危険が迫った時は、それを相手に向かって投げるんだ。そうすれば、どうにかなるはずだから」

 いくら教え子とはいっても、自分の魔法の特殊性を事細かに教えるわけにはいかない。

 そのため、曖昧な説明しかできなかったが、メイは涙を拭って微笑む。

 

「分かりました。私、肌見放さず持っています」

「うん。でも、使う時は遠慮なく投げるんだよ」

 セレクトはそう言ってメイの頭を撫でる。

 

 メイは気持ちよさそうに微笑んでいたが、手に持った石を見て、「あれ?」と驚いたような声を上げる。

 

「どうしたんだい、メイ」

「いえ、この石、なんだかおかしくないですか?」

 メイは手に持った石を見つめながら、それを反対の手で指差す。

 

「えっ、よく見せて! 万が一、ヒビでも入っていたら、大変なこ……」

 背の高さの関係で、セレクトは膝と腰を折り曲げて、メイの手にある石を注視しようとしたのだが、不意にメイが素早く動き、セレクトの唇に自分のそれを重ねた。

 

 柔らかな感触が唇に伝わってきた。そして、甘い少女特有の香りがした。

 セレクトは思いもしなかった事態に、言葉を失う。

 

「ふふふっ。この石のお礼ですよ。その、私のファーストキスなんですからね」

 唇を離し、真っ赤な顔で悪戯っぽく微笑むと、メイは「先生、そろそろ食事の時間ですよ」と逃げるように部屋を出ていってしまう。

 

 呆然としていたセレクトだったが、ようやくしてやられたことに気づいて、大きく嘆息する。けれど、そのおかげで、彼は焦燥感が薄れ、少しだけ落ち着きを取り戻すことが出来たのだった。



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⑥ 『特殊な魔法使い』

 夕食を食べた後、セレクトはマリアの護衛隊長のグンスと最後の打ち合わせをした。

 

 グンスはもう初老の域の男性だったが、セレクトの提案を快く受け入れてくれた。

 なんでも、彼も嫌な予感が胸から離れないのらしい。

 

 護衛の配置は全て彼に任せて、セレクトは屋敷の一階の踊り場で一人待機する。

 ここが一番、どのような事態にも対応がしやすい。

 

 マリアは自室で待機をしてもらい、彼女の護衛には、護衛隊の中でも腕利きのものが二人付いている。相手が武器での戦いを挑んでくるのであれば、彼らに任せておけば大丈夫だろう。

 

 ただ問題は、魔法を使う人間が相手にいるかどうか……。

 

 セレクトも魔法使いの端くれだ。魔法の恐ろしさはよく分かっている。

 一応、魔法使い相手用に、自分が考え得る最大の対抗手段を用意した。だが、効果が絶大である反面、その仕掛けに気づかれてしまうと、あっという間に破られてしまう物に過ぎない。

 

 相手の規模が分からない。目的も分からない。分かるのは、今晩、多くの命が失われるであろうということだけ。そして、きっとまた自分だけが……。

 

 そこまで考えたところで、セレクトは頭を振る。

 そんなことはさせない。自分の命に代えても、お嬢様とメイ達を、みんなを救ってみせる。

 

 相手にこちらが準備万端で待ち構えていることを悟られないように、明かりも普段と同じ最低限度のものしか点けていない。

 だが、各部屋に待機するみんなには、火種とランプを持たせてある。いざという時には、それを点けてもらい対応する。

 

「無防備に見えるはずだ。……頼むから、全員でこの屋敷に侵入してこい。一人でも頭が切れる者が待機してことの成り行きを見ていたら、私の立てた作戦はあっという間に見抜かれてしまう」

 

 セレクトは忙しなく鼓動する心臓の音を感じながら、踊り場の壁に背中を預けていた。

 そんな状態で、一時間が過ぎようとした頃。そう、時計の針が、夜の八時を指した頃に、それは起こった。

 

「グンスさん! 東門側から侵入者が三人。西門側から二人。正面からは五人が入ってきました!」

 セレクトは、自分がグンスに渡した<お守り>と呼称している魔力を通した石に向けて、声を飛ばす。

 

「正面は恐らくは陽動部隊。東門と西門からの侵入者の動きを逐次伝えていきますので、対応をお願いします」

 

『了解した!』

 今この場にいないグンスの声が、セレクトの頭に直接響いてくる。

 

 セレクトはその返事を聞き、今度は館で働く執事や侍女達の持つ<お守り>に声を飛ばす。

 

「皆さん、敵は西門と東門から侵入してきました。まだ距離があるので、慌てなくても大丈夫ですから、私のいる踊り場まで避難をして下さい」

 

『はっ、はい! 了解しました!』

『分かりました!』

 

 その返事を確認し、セレクトは頭の中でこの屋敷の敷地の地図を正確に脳内に広げて、リアルタイムで相手の動きを捉えていく。

 

 この手腕だけを見るのであれば、セレクトは凄腕の魔法使いである様に思える。いや、事実そうではあるのだが、彼の魔法は非常に特殊なものだ。

 

 彼が今、この屋敷の人間と会話を交わしたのは、事前に自らの魔力を通した石――<お守り>を介しての魔法だった。

 この<お守り>を介さなければ、セレクトは殆どの魔法を発現させることが出来ないのだ。

 

 その反面、彼は自分の魔力で管理できる範囲であれば、<お守り>がどこにあるのかを認識し、個別にそこに魔法を発現させることができるし、普通の魔法使いほどその維持に魔力を消費しない。

 

 そして今回、侵入者の存在を捉えたのは、敷地内の要所に埋め込まれた<お守り>のおかげだ。

 彼はそれらに<感知>の魔法を発現させ、相手の動向を感覚として認識している。

 

「グンスさん、東門から侵入した連中が、噴水近くにまもなく到着します。なんとかそれを抑えて下さい」

『了解した』

「相手が魔法使いだと判断した場合は、私に連絡を! そして、後は私の指示に従って下さい」

『了解! これより応戦する!』

 

 <感知>した侵入者三人と、グンスの部隊が交戦したことを把握し、セレクトは一旦、その情報に割く脳のキャパシティを他に回すことにする。

 

 計十人の侵入者が今どこにいるのかをセレクトは理解している。しかし、その全ての情報を捌くには、一人では難しい。

 だから、交戦が始まった箇所は、仲間を信じて任せることにし、他の部隊に<お守り>を介して指示を飛ばす。

 

 その結果、西門からの侵入者も護衛の別動隊が接敵し、交戦が始まった。

 さらに、正面の大人数の敵も正門を超えたところで、護衛隊と交戦し始めている。

 

 セレクトは仲間に侵入者のことを任せ、一旦すべての情報をカットし、もう一度、交戦が始まっていない場所に設置した、敷地全体の<お守り>に意識を集中する。

 

 今の侵入者全てが囮だった場合を危惧しての行動だった。

 

 できれば、これで終わって欲しい。

 杞憂であって欲しい。

 

 だが、得てして悪い予感というものは当たるものだ。

 

「……魔法使いが三人か……」

 魔法を使って正面から空を飛んで近づいてくる者をセレクトは感知した。

 

 すぐにでも罠を発動させるべきなのだが、あれは一度きりのもの。さらなる後続部隊が居た場合には、もう役に立たない。

 

 それに、空を飛んでいる奴らの『高さ』が問題だ。これでは必殺にならない。

 

 いろいろと不安要素はあるが、すでに飛行してくる者たちは、正門から屋敷まで半分ほどの距離に近づいてしまう。

 セレクトは、そこが限界だと判断し、罠を発動させた。

 

 事前に設置した庭に埋めておいた<お守り>が一斉に輝き出す。

 これはそこにセレクトの魔法の要が置かれていると周知しているのと同義だ。

 だが、それをしてでも代えがたい効果がこの敷地を包み込む。

 

 この瞬間、この敷地及び領空、土中を含めて、セレクト以外は魔法が一切使えなくなった。

 

 セレクトの最大の罠である、対魔法封じの<結界>と呼ばれる範囲指定魔法が発動したのだった。

 

 空を飛んでいた連中も魔法が使えなくなり、地面に墜落したのを確認した。

 だが、まだ生きているのが分かる。

 やはりあの高度からの落下程度では、致命傷にはならなかったようだ。

 

「だが、今が千載一遇のチャンス!」

 セレクトは駆け出し、懐に忍ばせておいた<お守り>に<光>の魔法を発現させ、屋敷を出て魔法使い三人が落下した箇所に向かう。

 

 一人で三人の魔法使いと相対する。

 普通であれば自殺行為であるが、今、奴らは魔法を使えない。それならば、このチャンスを無駄にすることは出来ない。

 

「そこの三人! ここがエルマイラム侯爵、レーナス侯の別宅と知っての狼藉か!」

 目的の場所にたどり着いたセレクトは、侵入者三人の姿を見て驚きながらも、はっきりとした声で警告する。

 

「投降しろ! これ以上罪を重ねるな!」

 そう言いながら、セレクトは墜落してきたであろう三人の姿を確認する。

 

 一人は、痛みに顔をしかめた十代と思える幼さの残る赤髪の男。もう一人は、セレクトと同じくらいの二十代半ばに見える金髪の痩せぎすの男。そして、最後の一人は、なんと十歳になるかならないかの黒髪の幼子だった。

 

「くそがぁ! てめぇの仕業かよ、この落下は!」

 言うが速いか、赤髪の少年がセレクトに向かって突進してくる。

 

 <光>の魔法を放つ<お守り>を持っているのとは反対の手で、懐から別の<お守り>を取り出し、セレクトはそれを少年に投げつけた。

 

 その投げつけた<お守り>から<氷>の魔法が発現し、少年の体を一瞬にして氷の中に閉じ込める。

 こうなってしまえば脱出する方法はない。

 呼吸困難で窒息死するはずだ。

 

 たとえ相手が子どもだろうが、相手が魔法使いであれば容赦はしない。そんな事をすれば、自分が殺される。

 それは、自分の主や教え子や仲間たちが危険にさらされる事に他ならない。

 

「お前達の魔法は全て封じている。最後の警告だ。投降しろ。この子供のように、氷漬けで死にたくないのであれば」

 セレクトの言葉に、しかし青年も幼子も、何故か笑い出した。

 

「聞いた、サディファス? こんなちゃちな氷で、フォレスを倒したつもりでいるよ、このお兄さん」

「やれやれ。私達の名前を相手に教えてあげる必要はないでしょうが」

 青年――サディファスという名前なのだろう――は、言葉では幼子を注意しながらも、さもおかしそうに喉で笑う。

 

「いいじゃない。あの女の人。ええと、マリアだったよね? それ以外は皆殺しにするんだから。死人に口なしだよ」

 子どもらしい無邪気な口調で笑うその姿に、セレクトは考えを改めた。

 

 危険だ。コイツラも今すぐに殺すべきだ。

 

 そして、セレクトは懐からさらなるお守りを取り出そうとしたのだが、そこで信じられないことが起こった。

 

「うざってぇ!」

 怒気を含んだ叫び声とともに、セレクトの作った氷が一瞬で蒸発したのだ。

 

「この野郎! 灰に変えてやる」

 赤髪の少年――フォレスと幼子は呼称していた――はまったくの無傷で、怒りに燃える目をセレクトに向け、その全身に炎を纏っていた。

 

「炎の魔法? 馬鹿な魔法は全て封じている。それに、あの瞳……」

 フォレスの纏う炎は、彼と彼の衣服には一切燃え広がる要素はない。明らかに魔法の炎だ。だが、どうして魔法が使えるのだ?

 

 そして、印象的だったのは、彼の瞳だ。

 彼の左目は茶色なのだが、右目だけがルビーを彷彿とさせるような真紅の輝きを有していた。

 

 いや、違う。彼だけではない。

 セレクトは横目でサディファスという名の男と幼子をもう一度見る。

 幼子は違ったが、サディファスの瞳も、左目が青で、右目がエメラルドを彷彿とさせるような深い緑色をしていたのだ。

 

「死んじゃう前に教えてあげる。魔法じゃないからだよ。これは『神術』っていうんだよ」

 幼子が得意げに言い、

 

「行こう、サディファス。僕、マリアって女の人に早く会ってみたいんだ」

 

 もうセレクトには興味がないと言わんばかりの口調で、セレクトの横を通り抜けようとする。

 

「行かせるもの……」

 セレクトは言葉を言い終わる前に、後ろに跳ぶ。

 

 次の刹那、彼が居た場所は炎の塊が立ち上っていた。

 

「なによそ見しているんだよ、この野郎。テメェは俺が殺す」

 フォレスは怒りを顕にし、炎の力をセレクトに向けて発射してくる。

 

 セレクトは<お守り>を炎に向かって投げつけ、フォレスの炎の霧散を試みたが、出来なかったため、再び後ろに跳ぶ。

 

「魔法ではない力だから、かき消すことは不可能なのか……」

 セレクトは別の<お守り>を出すと、

 

「お前達、これが防げるか!」

 と大声で叫び、<お守り>を地面に叩きつける。

 

 セレクトの言葉に、フォレスもサディファスも、幼子の視線もそれに集まる。

 その瞬間、眩いばかりの閃光に辺りが包まれた。

 

 セレクトは投げつけた瞬間、別の方向を見ていたため難を逃れた。

 だが、フォレス達は目がやられ、その場にしゃがみ込む。

 

 これが最後のチャンス。

 セレクトは懐から<お守り>を片手でつかめるだけ掴み、それを全て眼前の三人に向けて投げつけると、<爆発>の魔法を発動させたのだった。



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⑦ 『私のご主人様と私の先生①』

 爆発音が聞こえる。

 それと一緒に、この部屋の階下の踊り場に避難したであろう侍女仲間の悲鳴も耳に入ってくる。

 

 侍女の中でもマリアの専属であるメイは、主人であるマリアに請われ、一緒に主人の部屋で護衛の男性二人で待機をしていた。

 

 メイはナイフを護身用に手にしているが、まったく上手く扱える自信はない。だが、いざという時には、マリアを逃がすための盾になる覚悟だけは出来ていた。

 

 今こうして自分が生きているのは、マリアのおかげである。その大恩人である彼女のためならば、メイはいつでも命を投げ捨てるつもりだ。

 

「お二人共、狼狽えてはなりません。セレクト先生は優秀な魔法使いです。おそらくこの音は、先生の魔法によるものです」

 マリアは不安げな顔をする護衛二人を鼓舞する。

 

 この世のものとは思えないほど美しいマリアの厳かな声に、護衛達は「はい! 失礼致しました!」と応え、表情を引き締める。

 けれど、メイは分かっている。マリアも不安で仕方がないことを。

 

 セレクト先生は、確かに優秀な魔法使いなのだが、彼はあまりその力を使おうとしない。そんな彼が、爆発音がするほどの魔法を使わなければいけない程の相手。不安にならないほうがおかしい。

 

 マリアのすぐ隣に立つメイは、わずかに震えるマリアの手をこっそり握る。

 

「……メイ……」

「大丈夫ですよ。セレクト先生を信じましょう」

 マリアにしか聞こえない大きさの声で、メイは囁く。

 するとマリアは、「ええ、そうね」と小声で応え、手を握り返してくれた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 メイは、この街の職人の娘として生を受けたらしい。

 らしいというのは、彼女が物心つく頃には、父親は病で亡くなってしまっていたからだ。

 

 その後は母が、女手一つでメイを育ててくれた。

 生活は楽ではなく、そんな母を助けようと、メイも幼い頃から母を助けるために、針仕事や家事仕事などを手伝った。

 

 同年代の子が、綺麗な服を着ているのが羨ましかった。

 自分に与えられるのは、近所の子のお下がりで、ツギハギだらけの服がほとんどだったから。

 

 同年代の子が、外食を楽しむのが羨ましかった。

 自分は外食などしたことがない。そして家の食卓に並ぶものは、いつも粗末な料理ばかりだったのだから。

 

 同年代の子が、お父さんとお母さんに仲良く遊んでもらっているのが羨ましかった。

 父親という存在をメイは知らない。そして、母は生きていくためにいくつもの仕事を掛け持ちでこなしていたため、遊んでもらったことなどなかった。

 

 そして、そんな母も、長年の無理が祟り、メイが十二歳の時に病を患って働けなくなってしまった。

 

 稼ぎ頭であった母が倒れた。

 その時点で、メイの人生はもう詰んでいた。

 

 まだ十二歳の自分を雇ってくれる場所などない。

 そして、母の家族や知り合いもこの街には居ないし、母と親しくしてくれていた友人の家も、新たに子供一人を育てる余裕などなかった。

 

 あとは、この体を売るしか無い。

 だが、こんな薄汚い小娘を買ってくれる男性など居ないだろう。それならば、母のために奴隷として……。

 

 メイはそう考え、涙が出てきた。

 どうして私はこんな苦しい思いをして生きていかなければいけないのかと。

 

 生まれてきて、良かったと思えた事などなにもない。

 ただただ理不尽で、つらい日々が続いた。けれど、奴隷などになれば、更に苦しい地獄のような日々が待っているのは想像に難くない。

 

「ああっ、どうせこんなに辛いのならば……」

 メイは母親を殺して、自分も死のうと考えた。

 もう、自分達母娘が助かる道などないのだから。

 

 そう考えると、気が楽になった。

 そして、どうせ死ぬのであればと、母の教えで決して悪事は働かなかったが、一度だけ悪事を、盗みをしようと考えた。

 

 幸い、今日はこの街の新しい領主がやってくるらしいので、みんなその出迎えを行う。必然、店の防犯は甘くなるのだ。

 

「もう一度だけ、チーズを乗せた、柔らかなパンが食べたいな……」

 いつだったかの誕生日に食べさせてもらえた最大のご馳走を思い出し、メイは空腹を抱え、栄養失調でフラフラの体をなんとか動かし、家を出てパン屋に向かうことにした。

 

 目的の店まではすぐだった。

 そして、目論見通り、店の店主は店からでて、新しい領主様の馬車をひと目見ようとしている。

 

 メイは店の裏路地の方に回り込み、店主に見つからないように店に忍び込んだ。

 そして、目的のパンを掴み、店を素早く脱出しようとしたが、そこでカクンと足の力が抜けて、倒れてしまった。

 

 当然音がなり、店主が大慌てで店の中に入って来た。

 汚い身なりの女の子が、店の商品を手づかみで持って倒れている。現行犯だ。

 

「この悪ガキ! ウチのパンを盗もうとするとは!」

 店主は怒りの形相で近づいてくる。

 メイはもう逃げ道がないことを悟り、手にしていたパンにかじりついた。

 

 柔らかなパンだった。甘いパンだった。久しぶりに、心から美味しいと思えた。

 

 もういい。どうなっても構わない。チーズを食べられなかったのは残念だが、もう生きることに疲れてしまった。

 このまま自警団に突き出されて罰を受けよう。その前に、店の主人に殴られるのならばそれを受け入れよう。

 ……もう、どうでもいい。

 

 店主の男が近づいてくる。そして、肩まで伸びた髪を掴まれた。

 ああ、これから自分は殴られるのだと、メイは理解した。

 

 だが、そこで……。

 

「あの、すみません。これから、この街の新しい領主様の馬車が通るのですが、何かありましたか?」

 不意に、聞いたことがない男性の声が聞こえた。それと同時に、掴まれていた髪が離される。

 

 メイがそちらを向くと、ブラウンの髪の穏やかそうな風貌をした、二十歳前後の中肉中背の男性が立っていた。

 

「なんだ、あんたは!」

 泥棒に入られて気が立っている店主は、不機嫌そうに男性に尋ねる。

 

「ああ、すみません。私の名前はセレクトと申します。今日からこの街の領主になる方の家庭教師です」

「えっ? なっ、あっ、新しい領主様の関係者様ですか?」

 店主は驚き、態度を一瞬で改めて、背筋を伸ばして緊張した面持ちになる。

 

「それで、何があったのですか? まもなく馬車が通りますので、揉め事は困るのですが」

「あっ、いえ、その、この小汚いガキが、うちの店のパンを盗もうとしたんですよ。それで、捕まえようと……」

 店主はしどろもどろになりながらも、セレクトと名乗った男に状況を説明する。

 

「なるほど。事の経緯は分かりました。ですが、今日は特別な日です。まして、領主様の馬車が通る経路でのトラブルは困ります。ですから……」

 セレクトはそう言うと、腰につけた革袋から小銀貨を一枚取り出し、それを呆然とする店主に手渡した。

 

「これで、この子のしたことを許して頂けませんか? それと、この子に美味しいパンをお腹いっぱい食べさせてあげて下さい」

 セレクトはもう一枚小銀貨を取り出し、更に店主に渡す。

 

「まっ、待って下さい。領主様の関係者様からお金を巻き上げたなんて噂が立っては、ウチの商売が成り立たなくなってしまいます!」

 店主は慌ててお金を返そうとしたが、セレクトは苦笑する。

 

「なるほど、以前の領主が、皆さんに横暴な行為をしていたというのは本当のようですね。ですが、今日からこの街は生まれ変わります。新しい領主様は、街の皆さんと一緒にこの街を発展させていくことを望んでいますので」

 セレクトはそう言うと、倒れたままパンを抱えているメイに近づいてきた。

 

「ごめんね。おでこに触るよ」

 優しい声だった。そして、温かな手が額に触れたかと思うと、全身が温かな温もりに包まれた。

 

「うん。これで少しはマシなはずだ。ただ、栄養が足りなそうだね」

 セレクトは店主に、「先程のお金で足りなければ仰って下さい」といい、静かにメイの体を抱きかかえる。

 

「代金は払ってあるから大丈夫だよ。適当に選んでもいいけれど、君が食べたいと思うパンはどれか教えてくれないかな?」

 セレクトはそう言ってメイに微笑みかけてくれた。

 薄汚い格好をした自分を抱えたせいで、自らの服が汚れてしまうことも厭わずに。

 

「……チーズ……」

「んっ? ああ、チーズを食べたいんだね」

 セレクトはにっこり笑い、店主に頼んでチーズを使ったパンを選んでもらう。

 

 そんなことをしている間に、歓声が巻き起こる。

 どうやら、新しい領主様の馬車が近づいてきてしまったようだ。

 

「ああ、ごめん。流石に私が顔を出さないとまずいから、このまま外に出るよ。大丈夫。君はそのままパンを食べていていいからね」

 セレクトは、埃にまみれたパンの代わりに、チーズを挟んだ柔らかなサンドイッチを手渡してくれた。

 

 それからセレクトは、メイを抱きかかえたまま店の外に出る。

 

 メイには驚きの連続で、呆然とし、ただただセレクトのなされるがままにするしかなかった。

 

 しばらくすると、豪華な馬車がゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。綺麗な白い馬車に乗っているのは、絵本の中に出てくるような美しい少女だった。

 

 馬車はそのまま通り過ぎていくとメイは思っていたのだが、不意にその歩みが止まる。

 そして、お付きの人間が止めるのも聞かずに、美しい少女が馬車から降りて、自分とセレクトの前にやって来た。

 

「セレクト先生、その娘は?」

「前領主の、悪政の犠牲者です」

 少女の問に、セレクトはそう答えただけだった。

 パン泥棒だとは一言も言わなかった。

 

「なるほど。これは早急な対策が必要ですね」

 少女は静かにそう言うと、不意に笑顔になり、埃まみれのメイの頭を綺麗な白い手が汚れることも気にせずに撫でた。

 

「大丈夫です。これから、この街は生まれ変わります。貴女達がお腹いっぱい食べられる街に変えてみせますから」

 少女の笑顔は本当に優しかった。そして、それと同時に確かな強さを持っていた。

 

 こうして、メイは、セレクトとマリアの二人に出会ったのだった。



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⑧ 『私のご主人様と私の先生②』

 マリアとセレクトが来てから、このルーシャンの街は急速に変わっていった。

 

 もっとも、無学なメイに理解できたのは、朝昼晩の炊き出しを連日行ってくれたことと、病に苦しむ人間を、メイの母を含めた多くの人々を、お医者様に診てもらえるように手配してくれたことだけ。

 

 けれど、それで十分だった。

 メイ達親子はお腹いっぱい食べられるようになり、母も薬を分け与えられた。

 それだけで、メイはこの身を差し出しても足りないほどの恩義を、マリアとセレクトに感じていた。

 

 特に、あの日出会った縁で、セレクトは頻繁にメイの家を訪ねてくれて、母にこっそり癒やしの魔法を掛けてくれた。そのおかげで、一時は死の危険まで予感させるほど体調が悪かった母が、すっかり元気になり、仕事を再開できるようになったのだ。

 

「メイ。マリア様とセレクト様がして下さったことを、このご恩を、決して忘れてはいけないわよ」

 母は何度も口癖のようにメイにそう言い、毎晩、二人が暮らすお屋敷に向かって礼をすることが日課になった。

 

 けれど、ただ忘れないことと礼をするだけでは、メイの気持ちは満たされなかった。

 

 だからこそ、メイは母の病が完治すると直ぐに、セレクトに何度も頭を下げて、マリアのお屋敷で働かせてほしいと懇願した。

 どんなことでもするから、恩を返させてほしいと懸命に頼み込んだ。

 

 そして、その結果、メイは侍女見習いとして、お屋敷で住み込みで雇って貰えることとなった。

 

 

 それから、なんとか恩を返そうと懸命に頑張って、メイは仕事を覚えた。

 けれど、仕事を始めてからも、マリアもセレクトも優しくて、メイの恩義は増えていく一方。

 

 メイが読み書きと計算ができないことを知ったマリアは、礼儀作法の一環として、セレクトからそれらを学ぶようにと言ってくれ、時間があるときは自ら勉強を教えてくれた。

 そして、ある程度の教養が身につくと、自分の専属の侍女の一人に取り立ててくれたのだ。

 

 メイは心から感謝をしたが、マリアは恩に着せることなく微笑み、

 

「貴女が誰よりも頑張っているからよ。それに、ある程度年の近い侍女が居てくれたほうが、私も楽だからっていうのもあるけどね」

 

 そう言って頭を撫でてくれた。

 

 それからメイは、主人であるマリアが望む侍女になろうと決意し、一層努力を重ね、またプライベートの時間では気が休まるように、ある程度の砕けた話し方もするように努めた。

 もちろん、他の侍女仲間から嫉妬される部分もあったが、皆、最後にはメイの頑張りを認めてくれた。

 

 そして、長く付き合っていくうちに、マリアという女性のこともよく分かってきた。

 

 容姿端麗、頭脳明晰、それに優しくて、街の人々からは深窓の令嬢だの女神様だのと言われているマリアも、根は普通の女の子なのだ。

 もちろん、公務に手は抜かないが、少女趣味で甘いものと紅茶に目がなく、疲れているときは仕事を休みたいと不平を口にする。

 

 もっとも、それを知ったからと言ってメイの忠誠心はいささかも揺るがない。

 むしろ、素晴らしくも人間味のあるこの素敵なご主人様をますます尊敬、敬愛するようになった。

 

 メイにとってマリアは、誰よりも素晴らしいご主人様であり、命の恩人であり、姉であり、友人でもあるのだ。

 随分と複雑な関係かもしれないが、メイは恐れ多いとは思いながらも、この立場に要られることをこの上ない僥倖と思い、神に感謝をしている。

 

 そして、そんなマリアと同等かそれ以上に、メイが心を奪われて居る存在が、セレクトである。

 

 あの地獄のような日々に、一番最初に救いの手を差し伸べてくれた人。

 膨大な知識を持ったマリアの家庭教師であり相談役でもある人物で、その上、魔法使いで元貴族なのだ。

 ここまで聞くと完璧な人物に思えるが、実は結構抜けているところもある。

 

 大事な時に寝坊することもあるし、魔法の研究とやらに明け暮れてご飯を食べ忘れることもしょっちゅうだ。

 その上、空腹のあまり深夜にこっそり厨房に忍び込んで、侍女長達に不審者と勘違いされて、袋叩きにあったという悲惨なエピソードなども多い人なのだ。

 

 当初、メイにとってセレクトは、物語に出てくる白馬の王子様のような人物だった。だがそれが、どこか抜けているけれど、とても優しい先生に変わり、そして、自分を甘えさせてくれるけれど、自分がついていないと少し心配な人に変わっていった。

 そして、その過程で、メイは自分がセレクトに恋をしていることを自覚していった。

 

 それ以来、メイは事あるごとにセレクトにアピールをしていく。

 料理にとくに力を入れるようになったのも、これが理由である。けれど、セレクトは自分を子供扱いするばかりで、一向に自分の思いに気づいてくれない。

 

 メイは同じ年頃の女の子と比較すれば、抜きん出て可愛いわけではなく、背も小さいし、出てほしい部分もあまり……というか、出ていない。

 しかし、彼女はもう完全にセレクトに惚れきっていたので、いろいろな本を読んだり、耳年増な同僚の侍女や先輩侍女たちから話を聞き、あの手この手を駆使し、セレクトとの関係を深めようとしている。

 

 特に、先輩侍女に貰った、『奥手な彼氏をその気にさせる方法と実践時の注意』という本はメイの聖典であり、この知識をフルに利用して、着々と外堀を埋めている最中だ。

 

 だから、メイは思っていた。この幸せな時間がいつまでも続けばいいと。

 

 けれど、その終わりは、もう間近に迫っていた……。



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⑨ 『戦いと犠牲』

 渾身の<爆発>の魔法だった。

 使った<お守り>の数は五つ。つまりは、魔法使い五人分の魔法を一箇所に叩き込んだのと同義だ。

 なんの防御策もなく、これを防ぎきる事はできない。

 

 そう、そのはずだった。

 だが……。

 

「ふふふっ。見かけによらず、優秀な魔法使いなんだね、お兄さん」

 黒髪の幼子の声が聞こえた。爆発の魔法で木っ端微塵になっているはずなのに。

 

「サディファス、フォレス。僕に感謝してよ。僕が居なかったら、多分二人共死んでしまっていたよ」

 爆発によって巻き起こった粉塵が薄まると、硬そうな岩盤が、幼子達三人を守るように、ドーム状に折り重なっていた。

 

「…………」

 セレクトは、何も言わずに再びお守りを手に取る。

 しかし、内心では驚いていた。

 あの岩盤がどれほどの強度があるのかはしらないが、自分の放った爆発魔法を防ぎきれるほどの魔法とは思えなかったからだ。しかし、現実には岩盤にはヒビ一つ入っていない。明らかにおかしい。

 

「けれど、魔法じゃあ『神術』には干渉できないんだよ。残念だったね」

 その声と同時に、岩盤が一瞬で消えてなくなり、幼子が無傷で立っている。もちろん、その他の二人も無傷なようだ。

 

「その左目……」

 先程までは間違いなく黒色だったはずの幼子の左の瞳が、琥珀色に変わっている。

 

「ああ、僕は特別なんだよ。だから、右目じゃあなくて左目の色が変わるし、好きなように変えられる。こんなふうにね!」

 幼子の左目が、今度は真紅に変わった。その瞬間、セレクトに向かって巨大な火炎の渦が迫ってくる。

 

「<浮遊>!」

 セレクトは<お守り>の一つを相手の地面に向かって投げ、そこから巻き起こる反重力の力を利用し、三人を浮かせると、自分は体を低く屈ませて、術者である幼子が浮遊したことで、起動が上に変わった火炎の渦を避ける。

 

 屋敷に引火しないかだけが不安だったが、魔法は上空高くに舞い上がっていき、幸い屋敷には当たらなかった。

 

「ふっ、ふふふっ。あははははっ。面白い、面白い! 僕の『神術』を消せないから、術者である僕の方を動かすなんて。今まで、こんなにすぐに対応してきた魔法使いは見たことがないよ!」

 幼子は<浮遊>の魔法が切れて地面に着地すると、そう言って手を叩いて喜ぶ。

 

「でも、馬鹿だよね。いま、さっきの<爆発>の魔法を使っていれば、僕を倒せていたかもしれないのに」

「そうかも知れない。けれど、それをやったら、私もお前の炎の『神術』とやらで死んでいた。そして、後ろの二人を殺せなかった可能性があったのでね」

 セレクトは敢えて笑って応えた。

 お前たちの力など恐るるに足りないと。こっちは更なる奥の手を持っているのだと告げるように。

 

「ふふっ。いいね、殺すには惜しい気もしてきたよ。アレをもう一人分持ってこなかったことが悔やま……」

「舐め腐っているんじゃあねぇぞ、この野郎!」

 幼子の言葉を遮り、全身に炎を纏ったフォレスが幼子の影から飛び出してきて、セレクトに殴りかかってくる。

 

「<閃光>!」

 セレクトは<お守り>をフォレス達に投げつけ、自分は視線をそらす。

 フォレスはまばゆい強烈な光をモロに受けて、地面をのたうち回る。

 

「なるほど。分かってきたぞ、お前たちの術のことが。その目をどうにかすれば、力を使えなくなるようだな」

 目を押さえて地面を転がるフォレスの体は、すでに炎を纏っていない。故に、セレクトはそう結論づけた。

 

「うんうん。本当に優秀な魔法使いだね、お兄さんは。でも、同じ手を二回使っては駄目だよ。フォレスのような馬鹿なら引っかかるけれど、僕達には通じない」

 幼子は意味ありげに言うと、クスクスと笑い出した。

 

 その笑顔の意味に気づいたのは、セレクトが魔法の感知能力で、誰かが屋敷の入り口の扉まで迫っていることを理解した後だった。

 

 あの緑色の目が特徴のサディファスと呼ばれていた男が、閃光の光を避けるためにセレクトが目をそらした隙きをついて、彼の横を突破していたのだ。

 

「行かせるか!」

 セレクトはすぐさまサディファスを追いかけようとしたが、そこで、

 

「ざけてんじゃあねぇぞ、この野郎! 何もかも、燃やし尽くしてやるぜぇぇぇぇっ!」

 

 <閃光>の魔法から視力を取り戻したらしきフォレスが、体全体から先程とは比べ物にならないほどの炎を吹き出し始めた。

 

 セレクトは、ここで二者択一を迫られる。

 

 いま、こいつを放置したら屋敷が燃やし尽くされる。

 だが、こいつと戦っていては、マリア様たちが危ない。

 

 どちらかを犠牲にしなければいけないのであれば、当然マリア達を選ぶのだが、それを敵が許してくれるとは思えない。

 けれど、そこで思わぬ声がかかった。

 

「セレクト殿! 助太刀します!」

 他の襲撃者の相手をしていた、護衛隊長のグンスたちが駆けつけてくれたのだ。

 

「グンスさん、相手は魔法使いです! すみませんが、ここはお願いします! 私はマリア様をお助けしますので!」

「心得ましたぞ!」

 セレクトが言っていることは、残酷な頼みだった。

 

 熟練の魔法使い相手に、なんの対策もなく戦うというのは、自殺行為に等しい。

 

 それは魔法使いであるセレクトが一番わかっている。けれど、マリアを守るために、セレクトは敢えてそれを頼んだ。

 そして、グンスはそれを受け入れてくれた。

 

「また、私のせいで皆が……」

 そんな思いが胸をよぎるが、セレクトはその気持ちに蓋をして、屋敷に侵入したサディファスを追う。

 

 せめてマリア様達だけは救う。救ってみせる。

 そのためならこの命などくれてやる。

 死を周りに振りまくばかりの、こんな死神の命などいつでも捨てる覚悟はできているのだから。

 

 屋敷にセレクトが入った瞬間、彼の後ろに凄まじい炎の柱が立ち上った。

 そして、グンス達を始めとした護衛達は瞬く間に絶命したことが、この敷地に埋めてある<お守り>の探知魔法で、セレクトは理解する。

 

 だが、セレクトは悲しむことはなく、グンスが持っていた<お守り>に強烈な<爆発>の魔法を作動させて、幼子とフォレスに一撃を喰らわせる。

 

 その魔法を持ってしても、二人の敵を殺せなかった事を確認したセレクトは、急いで二階に、マリアの部屋に駆け上がる。

 

 一階の踊り場に避難していた使用人達が血の海に沈んでいることに立ち止まることなく、ただ足を走らせる。

 

 だが、後少しで二階にたどり着くところで、セレクトはメイに預けたお守りが彼女の手を離れた事を感知した。

 

 瞬間、セレクトは走りながら、<閃光>の魔法をその<お守り>から発動させる。

 

 攻撃魔法であれば倒せる可能性もあるが、下手をすればメイとマリアを巻き込んでしまう為、セレクトはこの魔法を選んだ。これで少しは時間が稼げる。

 

 それからすぐに、セレクトはマリアの部屋にたどり着く。

 部屋のドアは破られ、護衛の男二人は喉を斬られて絶命していた。

 

 幸い、マリアは無事だった。そして、侍女たちもほとんどが無事だ。

 そう、殆どが無事だった。

 ただ一人、短剣を腹部に受けて、血を流しているメイを除いて。

 

 それをした男は、何とか立っているものの、目を押さえて苦しんでいる。

 

「貴様!」

 気がつくと、セレクトはサディファスに向けて、<お守り>を投げて、それを氷の刃に変えた。

 

 おそらくメイに渡していた<お守り>から生じた<閃光>の魔法で目をやられていたのだろう。

 セレクトの放ったその刃は、サディファスの頭部には刺さらずに躱されたものの、彼の右耳を切り落とした。

 

「うっ、ううううっああああっ! わっ、私の耳が……」

 サディファスの苦悶の声が響き渡る。

 

 その隙をついて、セレクトはメイとサディファスの間に体を割り込ませる。そしてサディファスに向けて、拳を彼の胸に叩き込んだ。

 自らの手を一瞬だけ鋼鉄に変えて打ち込んだそれは、サディファスの胸部の骨を何本か砕き、彼を吹き飛ばした。

 

「メイ、大丈夫だ。この程度の傷なら……」

 セレクトはメイの体に触れて、瞬く間にメイの傷を癒やす。

 

「せっ、先生……。私よりも、マリア様を……」

 自分の身よりもマリアの身を案じるメイ。

 

「セレクト先生! 私も戦います! 心配はいりません。今は、メイを助けることを優先してください!」

 けれど、マリアはそう言って、剣を片手に前に出る。

 セレクトの一撃を受けても、まだ意識のある男にとどめを刺すために。

 

 しかしそこで、

 

「はい、それまでだよ」

 

 そんな声とともに、床から植物の蔦のようなものが急速に生えてきて、セレクトとメイ。そしてマリアと残った侍女達を拘束した。

 

「いやぁ、凄い凄い。まさかサディファスまでここまでやられるとはね」

 そう言って部屋の入口から姿を表したのは、先程交戦した幼子だった。

 

 彼の左目は、今度は淡い緑色に変わっていた。

 

「でも、遊びはここまでだよ」

 幼子はそう言うと、無邪気な笑みを浮かべたのだった。



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⑩ 『蹂躙』

 突如床から生えてきた太い蔦に腰を挟まれ、両腕も拘束されてしまい、マリアは身動きが取れない。

 唯一動く顔を動かして周りを確認すると、セレクトとメイも二人纏めて蔦に挟まれてしまっている。それは、残っていた侍女二人も同様だ。

 

「耳が、私の耳が、ない、なくなった、切り落とされた……。あああああっ!」

 ただ立っていればそれなりに風貌の整った男なのだろうが、セレクトの攻撃で右耳を失った左右の瞳の色が違うセレクトと同年代くらいの男は、ちぎれ飛んだ部分を手で抑えて発狂する。

 

「もう、うるさいなぁ~、サディファスは……」

 黒髪の幼子は心底嫌そうに顔をしかめる。だが、マリアの方を向くと、にっこり微笑んだ。

 

「うんうん。君がマリアだよね。噂通りにすごく綺麗な女の子だ」

 動けないマリアの元に幼子が近づいてくる。そして……。

 

「へぇ~、柔らかいね」

「くっ……」

 マリアは怒りと羞恥に顔を赤くさせて、幼子を睨む。この子どもは、身動きの取れないマリアの右の胸を不意に鷲掴みにしたのだ。

 

「わっ! そんな怖い顔しないでよ! 随分と大きなおっぱいだから、触ったらどんな感じなのか気になっただけだってば」

 悪戯を親に咎められたような反応をし、胸から手を離す。

 そこには、下卑た感情や嫌らしさはまるでない。本当に好奇心が優先な子供の反応だった。

 

「貴方達は何が目的なのですか! どんな理由があってこの屋敷を襲ったのです!」

 マリアは拘束されながらも、毅然とした口調で問いただす。

 

「う~ん、ちょっとしたお使いだよ。面倒なんだけれど、僕達がお世話になっている人に頼まれてね。『マリアという少女を仲間に引き入れてこい。それ以外の人間はみんな殺して構わない』って内容だよ」

 

 なんでもないことのように幼子は言う。

 

 マリアは、この幼子を改めて恐ろしいと思った。

 分別のつかない幼子が、強大な力を持っている。これほど危険なことはない。

 

「貴方は、何をするつもりなのですか? 目的が私だというのならば、私だけを狙えばいいでしょう! 他の者達は開放しなさい! そうすれば、私は貴方達についていきます!」

「マリア様、いけません!」

 セレクトの声が聞こえたが、マリアはそれを無視する。せめて、セレクトとメイ、そして残った侍女たちだけでも救いたい。それが、自分にできる最後の抵抗だった。

 

「もう、貴方、貴方って言わないでよ。僕には、ユアリって名前があるんだからさぁ」

 幼子――ユアリは、そう言って頬を膨らます。

 

「それならば、ユアリ! 私を連れていきなさい。その代わり、他のみんなは、開放しなさい!」

 マリアは改めてユアリに要求を突きつける。

 

「う~ん、そっちのセレクトって人も思いのほか頑張ったから、助けてあげたい気もするんだけれど……やっぱり駄目なんだ。ごめんね。

 でも、大丈夫だよ。寂しくないように、この街の人間もみんな殺してあげるからさ」

 ユアリは満面の笑顔で、とんでもないことを口にする。

 

「街の人を……。まさか、貴方達はこの屋敷だけでなく……」

 マリアの顔から血の気が引く。

 

「うん! いまごろ、フォレスが街のみんなを一人残らず焼き殺しているはずだよ。あっ、フォレスっていうのは、僕の仲間だよ」

「……止めて……、止めなさい! 私はどうなってもいい! ですから、せめて、無関係な街の人達とここに居るみんなだけは……」

 絶望に震える声を何とか制御し、マリアは他の者の助命を訴える。

 

「う~ん、まぁ、とりあえず必要なことをしてしまおう。もしかしたら、君が強くなって、僕たちを止められるかもしれないよ」

 ユアリはそう言うと、外套のポケットから、飴玉状の黒い塊を取り出した。

 

「頑張って耐えてね。君は綺麗だから、できれば、化け物になってほしくないから」

「なっ、なにを、おぁぁっ」

 別の蔦が伸びてきて、マリアの口を開いた状態で固定する。

 

 そして、ユアリはそこに黒い塊を放り込んだ。それと同時に、、口を固定していた蔦は消えてなくなる。

 

 異物が口から食道を通り体の奥に入っていく。そして、それがじんわりと体に浸透していくのが、マリアには分かった。

 

「うっ、ああああああああああっ!」

 全身を襲う強烈な痛みと激しい熱に、マリアは絶叫するしかなかった。

 

「ほらほら、頑張って! <霧>に負けちゃったら、化け物になっちゃうよ」

 ユアリは自分がマリアを苦しめるきっかけを作ったにも関わらず、マリアを心配げに応援する。

 

 だが、マリアにはそんな事を気にしている余裕はない。

 体がバラバラになりそうだ。熱で蒸発してしまいそうだ。でも、ここで意識を失ったら死ぬよりも恐ろしいことになってしまう予感めいたものを何故か感じた。

 

「マリア様! いや、いやぁぁぁぁっ!」

「くそっ、この蔦さえ破壊できれば……」

 メイの叫びと、セレクトの苦悶の声が響く中、マリアは懸命に苦しみに耐えた。

 

 それはほんの数分の出来事だったが、マリアには途方も無い長い時間だった。だが、ある瞬間を境に、急激に痛みと熱が一箇所に、彼女の左目に集中する。

 眼球が蒸発するのだとしたら、このような痛みなのだろう。マリアはたしかに自分の左目が消失した感覚を味わった。

 

 けれど、そこで急激に痛みも熱もなくなり、マリアは水面から打ち上げられた魚のように、パクパクと口を開いて、なんとか荒く乱れきった息を整える。

 

「あははははっ。左目だ! そうか、そういうことなんだね。君は僕と同じなんだ……」

 苦しむマリアを見ながら、しかしユアリは嬉しそうに微笑んだ。

 

「はぁ、はぁ……」

 マリアは何とか呼吸を整え、『両目』でユアリを睨みつける。

 消失したかに思えた左目は、変わらずマリアの意思で動き、視覚情報を彼女に伝えている。

 

「わっ…私に、何を…し……したの……」

 マリアは今にも途切れてしまいそうな意識を懸命に繋ぎ止める。

 

「ふふっ、いいことだよ。そして、おめでとう。君は僕たちの仲間になる資格を手に入れたんだよ。頑張ったね」

 ユアリはマリアに労いの言葉を掛けて、彼女の額にキスをする。

 

「よ~し、これで残すは、他のみんなを皆殺しにするだけだよ。サディファス。女の子は君が殺したいでしょう? いいよ、もう殺しても」

「そっ、そうか……。殺してもいいのだな、ユアリ!」

 耳の痛みに半狂乱になっていたサディファスという男は、歓喜の声をあげると、蔦に絡まれて身動きが取れない近くに居た侍女二人に向かって、手のひらを向ける。

 

 その瞬間、侍女たちの耳が、見えないなにかに斬り落とされた。

 

 侍女たちは何が起こったのか分からなかったようだが、斬り落ちたのが自分の耳であり、自分の顔から吹き出す血を理解して、絶叫する。

 

「ひっ、ひひひひひひっ。殺してやる。私以上の苦痛をあげて死んでいけ……。その後は、お前だ。男を殺す趣味はないが、お前にはこの女達以上の絶望を与えて殺してやるぞ、セレクト!」

 恍惚の表情を浮かべるサディファス。だが、マリアは今は声を出す元気もない。

 

「この卑怯者! そのユアリという子供の影に隠れなければ何もできないクズが粋がるな!」

 そんなマリアの代わりに、セレクトが叫んだ。

 

「なんだと、私をクズと呼んだのか、貴様は!」

 サディファスは激昂するのと同時に、侍女たちに向けていた手のひらを閉じた。

 瞬間、また見えない何かによって侍女たちの頭部はバラバラに切り裂かれて絶命する。

 

「……ひっ……」

 メイの短い悲鳴を聞き、セレクトは一層激しくサディファスを睨む。

 

「貴様にはクズでももったいないくらいだ。どうした、身動きが取れない私が怖くて近寄ることもできないのか? ああ、そうだな。戦闘能力を持たない侍女を殺すのさえ、私が動くのではと恐怖して近寄ろうとしなかったのだからな」

 セレクトはとことん人を小馬鹿にした口調でサディファスを挑発する。

 

「貴様!」

 サディファスは怒りの形相で、セレクトを突き刺さんと短剣を片手に詰め寄る。

 

 瞬間、セレクトは、ふっ、と口から何かを吐き出した。

 それは、彼が最後の手段として奥歯に仕込んでいた<お守り>だ。

 

「なっ!」

 サディファスが気づいたときにはもう遅い。

 

 小規模だが<爆発>の魔法が起こり、サディファスはそれに巻き込まれたのだった。



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⑪ 『思わぬ決着』

 小規模な爆発が起こった。

 それに巻き込まれたサディファスは、顔半分を真っ赤に染め、

 

「貴様ぁぁぁぁぁぁぁっ! 殺してやる、殺してやる!」

 

 憎悪を、殺意を込めたその言葉は、身動きが取れないセレクトに向けられる。

 

 しかしセレクトは、敢えて不敵に笑ってみせた。

 それは、もう打つ手がない事を悟らせないための虚仮威しに過ぎないのだが。

 

 奥歯に隠してあった<お守り>は、手が動かせない状況での最後の手段。だが、それも目の前の敵一人さえ絶命させるに至らなかった。

 

 ……万事休すだ。

 

 まただ。また、私は何も守れないのか。

 

 魔法を学び、身につけ、使いにくい特殊な魔法であることを嘆きながらも、懸命に戦い方を考えた。

 けれど、その程度の努力では、この身体に架せられた呪いじみた結果を変えることはできないのだろう。

 

 それでも、サディファスという名の男の憎悪は完全に自分に向いた。

 

 あいつに殺された侍女二人、そして、他のみんなには申し訳ないが、教え子よりも、メイとマリアよりも先に死ねる、殺されることができるのであれば――この呪いが解かれて死ねるのならば、少しだけ、ああ、少しだけ救われる……。

 

 

 そうセレクトは考えた。

 死の直前に、彼は利己的なことを、自分の事だけを考えた。

 それを、無責任だと責める資格が誰にあるのだろう?

 

 けれど……。

 

「セレクト先生……」

 一緒に蔦に巻き込まれていたメイが、セレクトの名を呼んだ。

 

 それで、彼は呪いからの開放を願う弱い存在から、教え子を守る男に引き戻す。

 

 考える。

 もう何も手段はない。

 それでも考える。最後の瞬間まで、教え子を助けることだけを考える。

 

 

 ……それが天に通じたのだろうか?

 

 そこで、突然、第三者の声が響き渡った。

 男の声だ。

 低く、凄みの効いた男の声。

 

「おいおい、この圧倒的有利な状況で、ここまでこっぴどくやられたんだ。今日のところはお前さんの負けだよ、<緑眼>よぉ」

 声は窓の方から聞こえたが、体を動かせないセレクトにはそちらを見る事ができない。

 

 けれど次の瞬間、拘束されていたセレクトとメイの床の前に、大きな黒い影が現れた。

 明らかに、この部屋を照らしている壁の多数の蝋燭の光源の向きでは合わない大きな影が。

 

 そしてその影から、鋭い眼光の男が浮き上がって来た。

 比喩ではなく、先程ユアリが蔦を発生させた時と同じように、一人の男が床から現れたのだ。

 

 少し白髪が混じった黒髪。顎に蓄えた髭が印象的な長身のガッチリした体型の男だった。

 

 黒で統一された服装は、暗殺者を彷彿とさせる。けれど、不敵なその笑顔は、どこか人懐っこい。

 一度見たらその顔を忘れなさそうな風貌は、暗殺者としては不向きだろう。

 

 その髭の男はセレクトとメイの前方に姿を表すと、サディファスの前に立ちはだかる。

 

「どういう風の吹き回しだい、アルバート? 君が僕たちの前に姿を表すなんて」

 それまで、ただただマリアを愛おし気に見つめていたユアリが、髭の男の方を向き、声をかけた。

 

「皆まで言わせるなよ、<濁色>。俺だって、おっかねぇお前の前に姿を現したくなんてなかったんだよ。でもなぁ、娘に頼まれては、親父は、はいはいと従うしかねぇんだよ」

 アルバートと呼ばれた男は、そう言って頭を掻いて嘆息した。

 

 が、次の瞬間、壁の、床の、天井の至る所に、拳大の円が無数に現れ、そこから真っ黒な刃物を持った黒い手が飛び出した。

 

「くっ!」

 無数の刃物を持った手に襲いかかられ、サディファスは後方に跳躍して躱さざるを得なかった。

 

「まったく、相変わらず汚いねぇ、君のやり口は」

 ユアリは左目を真っ黒に変えて、アルバートがおそらくやったように、自分の身体にいくつもの円を作り出し、そこから無数の武器を持った手を作り出し、斬撃を全て相殺する。

 

「おいおい、そりゃあねぇだろう。今日の俺は、正義の味方だぜ」

 アルバートはそう言って憎めない笑みを浮かべる。

 

 そして、彼の攻撃は、サディファスとユアリだけを狙ったわけではない。

 彼の攻撃は、ユアリが作り出した蔦を全て切り裂いたのだ。

 

「マリア様!」

 自由になったセレクトとメイは、気を失っているマリアに駆け寄る。

 もちろんセレクトは、<お守り>を構えて、ユアリとサディファスを牽制しながらだが。

 

「……メイ……。セレクト先生……」

 マリアは意識を取り戻し、気丈にも立ち上がる。

 

「どうだい、<濁色>、<緑眼>。お前達のとりあえずの『目的』は果たしたんだろう? それなら、ここは引けよ。それとも、まだ俺とやり合うかい?」

 アルバートはのんびりと煙草を取り出し、それにマッチで火をつける。

 

「なぁ、どうする? 俺は正直どっちでもいいんだぜ?」

 タバコの煙を吐き出し、アルバートは笑う。

 それは、強者の笑みだった。

 

「……僕のことを怖いと言っていたよね? それなのに戦うの?」

「ああ。それでも、うちの娘よりはおっかなくないんでね。それに、勝てないとは言っていないぞ、俺はな」

 アルバートは殺気を纏うでもなく、ただユアリを見て不敵な笑みを浮かべ続ける。

 

「アルバート、私の邪魔をするつもりか!」

 サディファスが激昂してアルバートに声を掛けるが、彼はユアリから視線を外さずに、

 

「これだけ殺し、その上『絶望』を仕込んでおきながら、まだ足りねぇと言うのか、<緑眼>? 正直、俺はお前の行動には頭にきているんだ。お前だけ、ここで殺してやってもいいんだぞ?」

 

 そう低い声で告げた。

 

「……絶望を仕込んだ?」

 セレクトには、アルバート達の言葉の真意が掴めない。

 

「ふん! 下らない。いいでしょう。私はここで引きます。ユアリ、後は任せますよ」

 アルバートを睨んでいたサディファスは、そう言ってセレクトに視線を向ける。

 

「セレクトでしたね。私らしくなく少々取り乱しましたが、改めて名乗りましょう。私の名はサディファス。仲間からは、<緑眼>のサディファスと呼ばれています。この私の耳を奪い、この顔を傷つけた貴方を、絶望に叩き込み、殺すことをここに誓います」

 芝居がかった礼をし、サディファスは微笑んだ。

 

「もっとも、貴方は私のことを忘れられなくなるでしょうがね。今以上に……」

「……強者の影に隠れなければ何もできない弱虫が、何を大物ぶっているんだ?」

 セレクトは静かな怒りの声で、<お守り>を構えて、前に出ようとする。

 

「ふっ、ふふふふふっ。私は若い女を殺すのが何より大好きなのですが、何も知らない馬鹿を見るのも存外楽しいですね」

 サディファスは心底楽しそうに笑い、ゆっくりと階下に歩いて行こうとする。

 

「…………」

 セレクトは歯噛みしながらも、その姿を目で追うことしかできなかった。

 いま、自分がここを離れるわけには行かない。

 守るべき存在が、まだ二人生きていてくれるのだから。

 

「うぅ~っ。せっかくマリアを仲間にするチャンスだったのになぁ~」

 ユアリはそう言うと、がっくりと肩を落とす。

 

「おっ、なんだ、本当に引いてくれるのか?」

「うん。なんだか面倒くさくなって来ちゃった。マリアがとりあえず<霧>を克服して、僕と同じになってくれただけで、今日のところはいいや」

 アルバートの問に、ユアリは拗ねたような声で言う。

 

「ああ、マリア。近いうちに僕は会いに来るからね。それじゃあ、またねぇ~」

 ユアリは笑顔で手を振ると、足早に駆け出して、サディファスの後を追った。

 

「…………」

 セレクトは、いや、マリアもメイも、それをただ見ていることしかできない。

 

「さてと、それじゃあ、俺もお暇するとしようかね」

 アルバートのその言葉に、「待ってください」とセレクト達の声が重なる。

 

「……だよな。ああっ、可愛い娘の頼みだから、仕方ねぇか」

 アルバートは面倒くさそうに頭を掻く。

 

「分かった。少しだけ話に付き合ってやるよ。ただし、マリアと言う名前だよな? そっちの嬢ちゃんは」

「はい。私がマリアです」

 マリアが応えると、アルバートは嘆息する。そして彼は女物のハンカチを上着のポケットから取り出すと、

 

「俺の娘が、あんたの大ファンなんだ。これにサインを書いてくれ」

 

 そんな思いもしないことを口にするのだった。



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⑫ 『ナイムの街を目指して』

「……マリア様。どうか、メイと一緒にお屋敷の中に」

「いいえ。亡くなった皆さんのお見送りをしないわけには行きません」

 セレクトは気を使ってくれたが、マリアはそう言って譲らない。

 

 マリアはセレクトに頼み、亡くなった屋敷の使用人とまだ遺体の残っている護衛の皆のそれを庭に集めてもらった。

 そして、これからその遺体を彼の魔法で焼いてもらう手はずになっている。

 

 メイには客間と飲み物の用意を命じて、席を外させている。

 こんな惨殺が行われた中、一人で部屋の準備をし、暗い厨房でお茶を淹れるのは酷だろうが、それでも、無残に殺された仲間の遺体を直視するよりはいいとマリアは考えたのだ。

 

「皆さん、申し訳ありません。侵入者への備えを怠った私の責任です。そして、このような略式での埋葬となることを、どうか……どうかお許しください。皆様の仇は、必ず私が取りますので……」

 マリアは亡くなった使用人達全員の名前を口にし、それから祈りを捧げる。

 

 それが一通り終わると、セレクトにお願いをし、亡くなった人々の遺体を魔法の炎で焼いてもらった。

 セレクトの魔法は凄まじく、全ての遺体は骨さえも残さずに灰になる。けれど、敷地自体は一切炎で焼かれることはなかった。

 

 本来ならば、一人一人、丁寧に埋葬したかった。

 けれど、今のマリア達にそのような時間はない。

 

「……終わったみたいだな」

 それまで屋敷の入口付近で事を見ていたアルバートが、マリアに近づいてきた。

 

「はい。お待たせしてしまい、申し訳ございません。客間の用意が出来ているはずですので、そちらでお話をお聞かせ下さい」

 マリアの顔に涙はない。代わりに、彼女の瞳には強い意志が宿っていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 マリアの済む屋敷の襲撃から……。いや、マリアとセレクトとメイの三名を除いた、エルマイラム王国のルーシャンの街の住民が皆殺しにされた事件から五日が過ぎた。

 

 セレクトは乗合馬車から降り、ひとまずの目的地であるナイムの街までの行路が、ようやく半分踏破出来たことに安堵する。

 

 襲撃の夜に、アルバートという男から話を聞いたのだが、彼はあまり詳しい内容を教えてはくれなかった。

 

 教えてくれたことは、彼がユアリ達と仲間ではないということと、再び彼らの襲撃の危険性があることから、急いで近場の大きな街に行き、マリアの現在の父である、レーナス侯にこの事態を知らせるのが懸命だというアドバイスだけ。

 

 マリアの身にユアリが何をしたのかといったことや、ユアリたちとの関係性や、『神術』というものについての説明も拒否されてしまった。

 

「悪いが、俺の一存でそこまで話すわけにはいかないんだ。すまんな」

 とアルバートは言い、ルーシャンの街から一番近くの村までの護衛を引き受けてくれたものの、村に着くとすぐに姿を消してしまった。

 

「……マリア様のお体。今のところは何もおかしなことはないとのことだが、これからもなにもないという保証はない。それに、アルバートがあの時言っていた言葉も気になる」

 

 絶望を仕込んだ。

 アルバートは確かに、あのサディファスという男の行動をそう指摘した。

 

 だが、セレクトにはなんの事か想像もつかない。

 

「セレクト先生、どうかなさいましたか?」

 フードを深くかぶったマリアが、メイに手を引かれて乗合馬車を降りてくる。

 

 幸いというべきか、今回自分達が乗った乗合馬車に他の搭乗者はいなかったが、いかんせんマリアの容姿は目立ちすぎるので、普段は顔を隠してもらっている。

 マリアには不便をさせるが、御者の口から噂が広がらないとも限らないので仕方がない。

 

 もっとも、マリアはその事に不平一つ言いはしないのだが。

 

「セレクト先生。早く今晩の宿を取りましょうよ。昨日から芋料理ばかりだから、今日は魚かお肉を出してくれるとありがたいですよね」

「……ははっ、たしかに。でも、そろそろ海も近いから、魚も食べられるかも知れないね」

 メイの軽口に、セレクトは同意して笑みを浮かべる。

 

「あら、それはいいですね。贅沢を言える立場ではないですが、私も同じような料理が続いて、少々変化がほしいと思っていましたので」

 さらにそれにマリアが参加する。

 

 事情を知れば、自分の統治していた街の住民を虐殺されたと言うのに、不謹慎だと思う人間はいるかも知れない。

 けれど、セレクト達はあえてこのような気楽な会話をするように心がけている。

 

 セレクトもマリアもメイも、大切な領民を、家族を殺された恨みを忘れてはいない。けれど、人を憎み憤り続けるというのは、とてつもなく体力を消耗するのだ。

 

 ……そんな気持ちは、夜に、寝る前に、一人の時間に嫌というほど味わっている。だが、そんな気持ちのままでは旅などとても続けられない。

 だから、三人でいる時には、極力明るい話題を口にするようになっていた。

 

 特に、メイが率先してムードメーカーになってくれるので、セレクトとマリアはとても彼女に感謝している。

 唯一の肉親である母親を失い、何より悲しいのは、辛いのは、メイのはずなのに……。

 

 セレクトはメイが生き残ってくれた事に心から感謝する。

 自分とマリアの二人だけでは、きっと重苦しい空気を変えることはできなかった。

 

 そして、この身に掛けられた呪いめいたあの力が、今回は自分以外に二人の生存者を出したことから、影を潜めていることも、セレクトは救われていた。

 

「セレクト先生……。私とマリア様をじっと見つめて、どうしたんです?」

 メイに指摘されて、セレクトは宿に向かって歩いている間、自然と二人の少女の顔を見てしまっていたことに気づく。

 

「ああ、ごめん。ただ、僕は君たちだけでも無事でいてくれて、よかったと……」

 セレクトは素直な気持ちを口にする。すると、メイとマリアはニッコリと微笑む。

 

 課題は山積みだ。

 けれど、少ないながらも、あのユアリ達の能力の性質が分かった。

 今度戦えば、遅れは取らない。

 そして、この教え子二人を守り抜いて見せる。

 

 セレクトはそう心に誓う。

 

 

 そう、この時の彼は、確かにそう誓ったのだ。

 

 けれど、その誓いは……。



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⑬ 『無力』

 異変に気がついたのは、ナイムの街まで馬車で後三日ほどの距離の村に向かう途中だった。

 

 自分達しか乗り合い馬車にいない場合は、いつも笑顔で話しかけてくるはずのメイの言葉にキレがなく、言葉も少ない事にセレクト達は気づいていた。

 最初は、旅の疲れが出てきたのだと考えていたのだが、村が近づくにつれて、メイは言葉をまったく喋らなくなり、ぐったりと椅子に座りっぱなしになってしまった。

 

「メイ、大丈夫? 顔色が……」

 マリアが心配して声をかけたが、反応がない。これはただ事ではない。

 

「メイ、おでこに触るよ」

 セレクトが熱を測るためにメイの額に手を当てる。すると、とても熱が高いことが分かった。そのため、すぐに<癒やし>の魔法を掛ける。

 

 普通であればこれで少しは落ち着くはずなのだが、メイは高熱で意識が飛んでしまったまま、目を覚まさない。

 

「セレクト先生?」

「もうすぐ村に着くはずです。御者の方に事情を説明して、少し急いで頂きましょう」

 セレクトは革袋から小銀貨を取り出し、馬車の前方に移動し、御者と交渉したところ、御者の男は快くそれを引き受けてくれた。

 

「メイ、もう少しで村に着くからね。そうしたら、ベッドで休んで、お医者様に診て頂きましょう」

 マリアは意識のないメイの手を握って、声をかける。

 

 けれどセレクトは、これから向かう村に医者がいる可能性は低いと思っている。だから、自分がメイの治療を行うことになるだろう。

 だが、<癒やし>の魔法がまったく効果を示さない以上、どういった手を打てばいいのか見当がつかない。

 それでも泣き言は言っていられないので、セレクトは考える。

 

 今、メイを苦しめている病はなんだろう? 風邪だろうか? しかし、今朝の食事時までは彼女は元気に見えた。それなのに、前触れもなくこんなに急速に発熱する病があるのだろうか?

 

 セレクトは考え、原因を探るために少しずつ時間を遡らせていく。そして、最悪の仮説に至ってしまった。

 

「……セレクト先生?」

 きっと険しい顔をしてしまっていたのだろう。マリアが心配そうにこちらを見ている事に気がついたセレクトは、「とりあえず、村に着いてからです」とだけ言い、黙り込む。

 

 主人に対して不敬だとは思うが、今は考えたかった。自分の至った仮説をどうにかして否定したかったから。

 

 マリアは何も言わず、意識のないメイを励まし続けてくれた。

 そのことは本当にありがたかったが、セレクトは一人で考えれば考えるほど、救いのない考えが浮かんでしまう。

 

 そして、そういった救いのない事柄ほど、外れることはないのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 村にたどり着いたセレクト達は、御者の男に礼を言い、運賃以上の金額を手渡した。そして、意識のないメイをセレクトが担いで、宿を探す。

 

 幸い、すぐに宿屋は見つかったので、セレクトはかなり多めの金額を宿の主人に手渡し、病人がいるので、医者の手配を頼みたい旨を伝える。

 

 あいにくと、医者はこの村にはいないそうだが、薬師であればいるとのことだったので、その人物に至急来て貰うように頼んだ。

 

 部屋を二部屋頼み、セレクトはマリアには休んでもらい、自分が治療に専念しようと考えたのだが、マリアは自分一人で休むなど出来ないと言って聞かなかった。

 

「メイ、苦しいかも知れないけれど、ごめん」

 メイをベッドに寝かせると、セレクトは彼女のお腹に手を当てて魔法を使用する。すると、

 

「うっ、あああああああっ……!」

 

 メイが悲鳴を上げた。

 けれど、セレクトはメイが苦しんでいるのを理解しながらも、魔法を掛け続ける。

 

「セレクト先生! メイが苦しんでいます!」

「分かっています! けれど、私の考えが正しいのであれば、こうしないと、さらに……」

 セレクトはマリアの静止の声を聞きながらも、魔法を掛け続けた。

 

 <癒やし>の魔法ではなく、<解毒>の魔法を。 

 

 まずい、まずい、まずい。

 このままでは、死んでしまう。

 メイまでもが、殺されてしまう。

 

 セレクトは懸命に魔法を掛け続けるあまり、周りの声が聞こえなくなっていた。

 

 だが、不意に自分の頬に感じた痛みに、セレクトは我に返った。

 

「セレクト先生! このままではメイが死んでしまいます! 薬師の方が来てくださいましたから、まずはこちらの方にも診断して頂きましょう!」

 マリアの平手打ちと叱責に、セレクトは我に返った。

 

「……申し訳ありません……」

 我を失っていたセレクトは、マリアに頭を下げた。

 

「謝罪は必要ありません。いったい、メイの身に何が起こっているのですか? 私にも分かるように説明して下さい」

 マリアの言葉は丁寧な物言いであったが、有無を言わさぬ力があった。

 

「はい、マリア様」

 セレクトはそう言うと、薬師だという老婆がメイを診察するのを横目に、マリアと一緒に部屋の隅に移動する。

 

「単刀直入に報告致します。メイは毒に侵されています。そして、それは先の屋敷を襲撃してきた、あのサディファスという男の仕業です」

「……毒、ですか。なるほど。そこまでは分かりました。ですが、貴方の先程の慌てようから察するに、ただの毒ではないということですね?」

 

 マリアは衝撃的な報告を受けても、動揺した様子はない。だが、付き合いの長いセレクトには分かっている。

 彼女はひどく動揺している。けれど、それを表情に出していないだけだ。

 年長者である自分が取り乱してしまったために、彼女に冷静に判断をする役を押し付けてしまった事を、セレクトは後悔したが、話を続けることを優先する。

 

「はい。私の<解毒>の魔法でも、メイの体に巣食っている毒は私の魔法の干渉を受けないようなのです。ただ、その大元以外の毒は中和が可能でした。

 そのため、私はメイの体に広がりつつあった毒素を中和し続けたのです」

 セレクトの説明は、魔法を使えないものには難解なものだったが、マリアはそれをすぐに理解してくれた。

 

「つまり、メイの体には、セレクト先生の魔法では中和できない毒があり、それが元凶となって、『あえて』中和できる毒素を作り出しているというわけですね」

 落ち着いた口調であるものの、マリアの声は低かった。

 

「仰るとおりです。また、その根源である毒が先日メイが、あの男に刺された腹部にあるようですので、まず間違いないかと」

 襲撃の際に見た、あの瞳の色が違う連中の能力――たしか『神術』と言っていた――は、あのユアリという幼子を除けば、一つだけなのではとセレクトは仮定している。

 

 そして、マリアの侍女を殺した際に見せた、あのサディファスの能力は、<風>ではないかと当たりをつけていた。

 

 思い起こしてみると、奴らの襲撃の際に一階の踊り場で殺されていた使用人達は、全て斬り殺されていた。

 

 サディファスが短剣をメイに突き刺していたことから、その短剣で使用人達を殺したのかと考えていたが、セレクトが屋敷に戻った時間は僅かだったことから、それは考えにくい。

 おそらく、<風>の『神術』を使用したのだろう。

 

 それなのに、何故、奴はメイをあえて短剣で刺したのか。

 他の者の様に、一瞬で殺せる力があるにも関わらず、あえて短剣で浅く刺した理由はなんだ?

 

 簡単だ。

 苦しめるためだ。

 いたぶっていたぶって、なぶり殺しにするためだ。

 

 そして、万が一、メイが逃げる事ができたとしても、確実に命を奪うことができる様に毒まで塗ってあったのだ。

 

 しかも、この毒は、誰か他の者の『神術』とやらで作られた……いや、恐らくはあのユアリという幼子だろうとセレクトは思う。

 

 『神術』というもので、今のところ分っているのは、魔法で干渉できないこと。そして、目を閉じさせれば、その能力が止まることだ。

 つまり、<毒>の『神術』使いがいても、その能力は続かない。

 

 だが、あのユアリだけは、<蔦>を操りながらも、アルバートと同じ様に<影>の『神術』も使用していたことから、そう推測できる。

 

「対策はありますか? 素人考えですが、毒に侵された部分を切除するという訳にはいかないのですか?」

 マリアの問に、セレクトは顔を俯け、

 

「魔法でおおよその位置はわかりますが、私に医術の知識はありません。それは不可能です。そして、この毒の元凶は少しずつですが大きくなっていっているようなのです」

 セレクトが先程、<解毒>の魔法を掛け続けていた理由がこれだ。

 魔法で広がった毒素を中和すればするほど、毒の勢いが少しずつ増していったのだ。

 

 そのことも合わせてセレクトはマリアに報告する。

 すると彼女は、「そうですか」と口にし、顔を俯けた。

 

 やがて、薬師の老婆の診察が終わったが、彼女もとりあえずの万能薬草を処方するくらいしか出来ないという回答だった。

 

「……これが、<絶望>か……」

 アルバートがあの時言っていた言葉の意味を理解したセレクトは、己の無力さに血が出るほど両手を握りしめるのだった。



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⑭ 『どうか、私を……』

 夕食時になっても、メイは目を覚まさなかった。

 

 セレクトが付きっきりで看病をし、徹夜も辞さない様子だったので、マリアは夕食後にすぐに仮眠を取り、セレクトと看病を交代した。

 彼は魔法が使える自分が起きていなければと言ったが、マリアはそこだけは譲らなかった。

 

 何かあればセレクトに声をかけると約束し、ようやく先程、部屋に行ってくれた。

 

 寝付けないかも知れないが、少し横になるだけでも体力は回復する。

 今、自分達の要はセレクトだ。彼に何かあれば、自分一人では何も出来ない。マリアはその事を自覚している。

 辛いだろうが、セレクトに今倒れられるわけにはいかないのだ。

 

「メイ……」

 何度濡れタオルで頭を冷やしても、すぐに温くなってしまう。

 せめて汗だけでも一度拭いてあげようと思い、マリアはメイの衣服を脱がせて全身の汗を拭くと、宿の女将さんに無理を言って借りた寝間着に彼女を着替えさせた。

 

 一時しのぎだが、いま、マリアがメイにしてあげられることはこれくらいのことしか無い。

 

「ごめんなさい、メイ……。私が貴女の街の領主になんてならなければ、貴女や貴女のお母様、使用人の皆さん、そして街の皆さんも殺されずにすんだはずなのに……」

 マリアは心のうちに留めておけず、気持ちを吐露する。

 

 あのユアリ達は、自分が目的のようだった。

 マリアには全く心当たりはないが、何か理由があるのだろう。そして、その巻き添えの形で、みんな殺された。そして、今、メイの命まで奪われようとしている。

 

 皆を殺したユアリ達が憎い。そして、必ず彼らには然るべき罰を受けさせる。けれど、どうしても思ってしまうのだ。

 

 自分さえいなければ……と。

 

 涙が溢れてくる。

 悔しさと、悲しさと、怒りによって。

 

 どうして、自分などのために皆が殺されなければいけなかったのかと、神を問いただしたくなる。

 

「……で……」

 微かだが、声が聞こえた。

 慌てて涙を拭い、彼女はメイを見る。

 

 するとメイは、目を開けて微笑んでいた。

「泣かないでください……マリア様……」

 か細い声で、けれどはっきりとメイは言った。

 

「メイ……。メイ!」

 マリアは優しくメイを抱きしめる。

 

「……すみません。足を、引っ張って…しまって……」

「そんな事を言わないで! 待っていて、すぐにセレクト先生を呼んできます!」

 マリアはメイを優しく寝かせると、隣の部屋にいるセレクトを急ぎ呼んできた。

 やはり眠れていなかったようで、セレクトはすぐに駆けつけてくれた。

 

「メイ!」

「わっ!」

 セレクトは、メイを優しく抱きしめた。

 

「良かった。意識を取り戻してくれて」

「……はい。なんとか、目を覚ます…ことが出来ました。そのおかげで、お二人に…きちんとお別れを……言えそうです」

 とぎれとぎれながら、メイはそう言って微笑む。

 

「メイ、何を言っているのです!」

 マリアは縁起でもないことを言うメイを窘める。

 

「そうだよ。マリア様の言うとおりだ。待っているんだ。すぐに私が魔法を使う。大丈夫。先程から考えていたんだ。<お守り>を全て使って、魔法の力を増幅させる。そうすれば、きっと……」

 セレクトはそう言ってメイの体を一先ず離そうとしたが、メイはギュッと彼の体を掴んで離さない。

 

「意識がなくても…聞こえて……いました。私は、毒を……。そして、それは魔法でも……治せない……んですよね?」

 メイはそう言うと、セレクトの体を掴んだまま顔をわずかに動かし、マリアの方を見る。

 

「マリア…様。すみません。私は…ここまでの……ようです。何一つ、恩を……返せず……申し訳…ありま……」

「何を言っているのです! 貴女は死んだりしません! 私とセレクト先生が、必ず貴女を救ってみせます!」

 なんの根拠もない身勝手な物言いだった。けれど、マリアはメイを失いたくなかった。大切な、大切な親友を失いたくなかった。

 

「……なんとなく…予感……がするんです。もう一度……意識を失ったら…もう、目をさます…ことが……できない…って……」

 メイはそう言うと、微笑んだ。

 

「マリア…様……。今まで、ありがとうござ…いました。私は…貴女に出会えて……御使いできて……幸せ…でし…た」

「いや、駄目! そんな事を言わないで、メイ!」

 マリアはセレクトと一緒にメイを抱きしめる。

 

 ひどい熱だった。

 メイの体は高熱に冒されていた。今こうして、生きているのが、会話ができているのが奇跡のようだ。

 

 メイはマリアの耳に、口を寄せて、最後の頼みを彼女に打ち明けた。

 

「お願いです。どうか、私を……」

 

 それは、とても悲しくて残酷な願い。

 

 けれど、マリアにできることは、もうその頼みを聞くことしかなかったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 この村は、何も特徴のない村だった。

 まして夜ともなれば、月と星が綺麗に見えることぐらいしかいい所はない。

 

 けれど……。

 

「星が綺麗です……。それに…夜風が……気持ちいい…ですね。セレクト…先生……」

「うん。そうだね」

 セレクトは、村の外れまでメイを担いで運んでいき、そこの草むらに二人で腰を下ろしていた。

 

 メイは座っているのも辛いようなので、セレクトが彼女の体を自分の体で支えている。

 メイはセレクトの胸に顔をうずめ、口を開く。

 

「覚えて……いますか? 以前にも、二人……で……」

「ああ。覚えているよ。あれは、君が一生懸命作ってくれたお弁当を……」

「はい。……二人で、私の…失敗作を……」

「でも、味は良かったよ。本当に」

「でも……悔しかったん…ですよ。セレクト先生に、苦笑い…をされて……」

 メイは拗ねたような声で言う。

 

「……ごめん」

「謝らないで…くださ…い。おかげ…で、なんとしても……セレクト先生を…見返して…あげるんだ…って……頑張れたんですから……」

 メイは微笑む。幸せそうに。

 

「そうなんだ。でも、それじゃあ、私ばかりが得をしているよね」

 セレクトは声が震えそうになるのを堪えて、普段どおりの自分でいようと懸命に努力をする。

 

「ふふふっ。いいん…です……よ。私の、将来……のためでも…あった……んですから……」

 メイはもうその体制も辛いのか、あぐらをかいて座るセレクトの太ももを枕にして横になった。

 

 メイは最後に、セレクトとデートがしたいと願ったのだ。

 そしてマリアも、それを了承してくれた。

 

 だから、セレクトは最後の瞬間を、自分との時間にしたいと願ってくれた少女と最後のデートを楽しむ。

 

 話題は尽きない。けれど、ゆっくりとだが確実に、時間が過ぎていく。

 

 だんだん、メイの言葉が少なくなっていくのが分かった。

 セレクトはそのため、優しくメイの頭を撫で、スキンシップで気持ちを伝える。

 

「……そんな顔を……しないで……。セレクト先生に……出会うことが…できな…かったら……。私は、とっくに……死んで…いた……んですから……」

「メイ……」

 セレクトの言葉に、メイは小さく頷いた。

 

「セレクト…先生、もう、限界みたい…です。どうか、マリア様のことを……」

 メイは限界だと言った。けれど、限界だったのは、セレクトも同じだった。

 

「あっ、んっ……」

 セレクトは、横になるメイの顔を上に向けさせて、その唇に自分のそれを重ね合わせた。

 

「……先生……」

「すまなかった、メイ。君の想いに気づきながら、私はそれに応えようとはしなかった。……ここまで……自分の命の最後の時まで、私との時間をもとめてくれるほど私のことを想っていてくれたなんて……気づかなかったんだ」

 

 セレクトは涙を流していた。

 もう、堪えきれなかった。あまりにも悲しくて。

 今、失われようとしている命が、あまりにも愛おしくて。

 

「でも、もう私の心は君のものだ。だから、最後の瞬間は私に、君の恋人である私に、本当の気持ちを聞かせて欲しい。もう、私とマリア様を気遣わなくていい! 君の、君の本当の気持ちを私に言ってくれ!」

 セレクトの言葉に、心からの絶叫に、メイは涙を流す。

 

「……死にたく…ない……。だって、私……。まだ……セレクト……先生の……お嫁さ…んに……なれて……な…い……」

 メイはそう言い、目を閉じた。

 

「……私のことを…忘れ……ないで……。そして……あの男なんかに……。毒なんかに……私を……」

 

 それが、メイの最後の言葉だった。

 その言葉を最後に、彼女は再び意識を失ったのだ。

 

「ああ。分かっているよ、メイ。君は、私のものだ。あいつにも、毒にも渡さない……」

 セレクトはメイに<眠り>の魔法をかける。

 万が一にも目を覚ましてしまわないように。

 

 そして、セレクトはお守りを一つ取り出して、それを刃に変えた。

 

「私はずっと君と一緒だ。そして、君の命を愚弄したあいつらに必ず裁きを与える。そして、それが終わったら、君のところに私も行くから……」

 

 セレクトは静かに刃を構える。

 

 そしてそれを使い、彼女の願いどおりに、彼女の命を奪ったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 もう少しでナイムの街にたどり着く。

 けれど、マリアの隣には、セレクトしかいない。

 

 マリアの大切な親友は、あの村で長い眠りについた。

 

 彼女が、メイが望んだのだ。

 セレクト先生に、自分を殺して欲しいと。

 

 それは、残酷な願いだった。

 

 けれど、あのまま毒に侵され続けて死ぬより、愛する人の手にかかって死にたいと願う気持ちを拒絶することが出来なかった。

 

 セレクト先生には本当に辛い役を押し付けてしまった。

 そして、自分は何も出来なかった。

 その事に、マリアは歯噛みする。

 

「マリア様。まもなくナイムの街です」

 セレクトは今までと変わらぬ穏やかな口調で、マリアにそう告げる。

 

「はい。街にたどり着いたら、至急お父様にも連絡をしなければいけませんね」

「ええ。それと、私の知り合いがあの街に住んでいるはずです。彼を頼ってみようと思います」

「分かりました。どうか、よろしくお願い致します」

 マリアはそう言うと、静かに目を瞑る。

 

 メイ、貴女達の仇は、必ず私達が……。

 

 マリアは誓う。

 亡き親友の魂に。

 

 けれど、彼女たちはまだ知らない。

  

 これから、更なる悲劇が待ち構えているということに……。



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予告編
予告編① 『私から、ここにいる貴方へ』


 いつもそうだ。

 あの人は、自分が傷つくことを厭わない。

 

 そして、ぼろぼろになって他人のために頑張って、物事を解決しても、御礼の言葉すらろくに受け取ろうとはしない。

 

 私はその事が悲しかった。そして、それと同時に腹立たしくも思っていた。

 

 でも、そんなあの人を叱る役は、いつもイルリアさんがしてくれている。だから、私はいつも黙っていた。

 

 けれど、そういった積み重ねは、私自身も気づかないうちに、私の中でどんどん膨れ上がってきていたようだ。

 

 ある日、朝の掃除をしようと部屋を出ると、すでにあの人が掃除を始めていた。昨日も夜遅くまで仕事をしていたのだから、今朝の掃除は自分が代わると言っておいたのに。

 

 ……正直、腹が立った。

 

 私の言うことを、あの人が聞いてくれないこともそうだけれど、それ以上に私を頼ってくれないことに。

 

「おはようございます、ジェノさん」

 私は少し怒気を込めた声で、朝の挨拶を口にする。

 

「ああ、おはよう」

 あの人は振り返って短くそう応えると、再び掃除に戻ってしまう。

 

「ジェノさん。私、昨日の夜に言いましたよね。今朝の掃除は私がしますって」

「……そうだったな。だが、俺は代わるとは言っていない」

 あの人は突き放すように言う。

 

「ジェノさん!」

 私が少し強い口調で言うと、あの人は再び手を止めて、振り返る。

 

「いいから、もう少し休んでおけ。先週は仕事で街に居なかったから、全てお前に任せてしまった。その埋め合わせだとでも思ってくれ」

「ですが、いつもジェノさんはそう言って……」

「今日は、午後からリリィ達と出かけると言っていただろう? せっかくの楽しい時間も、疲れが残っていたら台無しになるぞ」

 あの人は、そう言って僅かに口の端を上げる。

 

 本当に、この人は他人のことを心配してばかりで、自分のことを疎かにしすぎている。

 数日前に私が食事中に言った何気ない日程さえ覚えていて、そんな私を気遣おうとしてくれている。まだ、先週の仕事の疲れが残っているはずなのに。

 

 どうしてなのだろう?

 

 この人はめったに笑わない。

 笑うことが無いわけではないが、その殆どが他人が幸せな時に微かに笑うだけだ。

 

 他人の幸せが自分の幸せなのだと言わんばかりに、誰かの幸せを見ているだけ。自分はその幸せの輪に入ることを仕様とはしない。

 

 まるで、自分には幸せになる資格は無いとでも言わんばかりに。

 遠くにある幸せを眺める以上のことをしてはいけないと戒めているかのように。

 

 ……駄目だ。腹が立って仕方がない。

 

「いいですから! そのモップを渡して下さい!」

 私は言うが早いか、返答を待たずに、あの人の手からモップを奪い取る。

 

「メルエーナ。だから、掃除は俺が……」

「ジェノさん!」

 私は、そう言って、私の名前を呼んだあの人を睨む。そして、感情の赴くままに言葉を紡ぐ。

 

「ジェノさん! 貴方は、ここにいるんですよ!」

 私は常日頃から思っている言葉を口にした。

 

「……どういう意味だ?」

 あの人は怪訝そうな顔をしてこちらを見るが、頭に血が上った私は、一方的にまくしたてる。

 

「言葉通りです! なんですか、ジェノさんは! いつもいつも他人のために頑張るのに、自分はその輪に入ろうとはしないじゃあないですか!

 まるで、自分がその輪の中に入って幸せになることを拒んでいるみたいに!」

 声が大きくなってしまったけれど、私はもう止まらなかった。

 

「そんなの、おかしいです。貴方はいまここにいて、私達と同じ時間を過ごしているんですよ! それならば、もっと私達と時間を共有して下さい! 一方的に施すばかりではなく、こちらからのお返しも受け取って下さい! そうしないと、このままでは、ジェノさんが壊れてしまいます!」

 そこまで一気に言って、私は呼吸を荒げる。

 

 この人の前で、ここまで怒ってしまったのは初めてのことだ。

 

 そう、怒ってしまった。

 本当なら、叱るべきだったのに、感情のままに怒ってしまった。

 

 これがバルネアさんなら、きっとしっかりとこの人を叱れたはずだ。でも、未熟な私には怒ることしか出来なかった。

 

「……そうか」

 私のありったけの気持ちを聞いても、この人は短くそう応えただけだった。

 

 私の手に思わず力がこもる。

 駄目だ、このままだと私はこの人を叩いてしまいそうだ。

 

「済まないが、掃除を任せてもいいだろうか?」

 けれど、あの人の口から溢れたその言葉に、私は手を止めることが出来た。

 

「……あっ、はい。もちろんです」

 私は驚きながらも、なんとかそう答える。

 

「少し、休ませて貰う」

 あの人はそう言って、私に背を向けた。

 

 怒らせてしまったと思った。

 後悔の気持ちが湧き上がってくる。

 

 けれど、これだけはどうしても言って置かなければ行けなかったことだと思う。たとえ、この人に嫌われることになったとしても。

 

 でも、そんな私にあの人は、

 

「済まなかった。感謝する」

 

 そう言って、部屋に戻って行ったんです。

 

 

 それからというもの、あの人は、私からの掃除の交代などの提案を受け入れてくれることが多くなりました。

 

 その事はとても嬉しかったです。

 嫌われることを覚悟で、自分の思っていることを言って良かったと思います。

 

 ……できれば、もうこんな事はしたくはないですが。

 

 

 でも、この時の私は知りもしませんでしたが、この少し後に、もう一度だけあの人に対して思い切り怒ることになります。

 

 この時とは比較にならないほど、激怒することになるのです。

 

 その時に、私は後悔します。

 どうしてこの時に、もっとあの人の事をみんなが大切に思っていると伝えて置かなかったのかと。

 

 せめて私だけでも、この胸の気持ちを伝えておかなかったのかと後悔するのです。



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予告編② 『思春期少女の悩み』(前編)

 夕食の片付けを終えて、自室に戻り、後は眠るだけの時間となったのだが、メルエーナは珍しく起き続けていた。

 

 彼女は今、大きな悩みを抱えていた。

 

 ただ、その内容が非常にデリケートな問題であるため、誰にも相談出来ずにいたのである。

 

 けれど、だんだん暑くなってくるにしたがって、メルエーナは焦り始める。

 

「ううっ……。困りました……」

 もうすぐ十八歳になり大人の仲間入りをするメルエーナは、しかしその精神はまだ成熟しているとは言い難かった。

 

 メルエーナは、栗色の髪を背中まで伸ばした、若さあふれる愛らしい少女である。

 胸はあまりないが、背も平均ぐらいにはあり、その他のスタイルも悪くない。

 

 それに、温和な性格がにじみ出たような優しい顔立ちと家庭的な雰囲気で、彼女が務める大衆食堂である『パニヨン』というお店でも、看板娘になっているほどの人気だ。

 だが、彼女にも年頃の娘らしい悩みがある。

 

 年頃の娘の悩みといえば、色恋沙汰が多い。

 メルエーナもその例に漏れず、同い年の男の子に片思い中なのだった。

 

 その相手の名前はジェノ。

 港町ということで、多くの国の人々が交流するこの港街ナイムにおいても珍しい、黒髪に茶色の瞳の持ち主で、背が高く、非常に顔立ちが整った少年で、彼はメルエーナと同じく、大衆食堂『パニヨン』で共に働き、彼女と一つ屋根の下で生活する間柄だ。

 

 これだけ聞くと、いくらでもメルエーナには、意中の相手に振り向いてもらうチャンスがありそうに思えるだろう。

 けれど、彼女が好きになったジェノは、真面目で優しいのだが、女心をまったく察してくれない性格の男の子だったのだ。

 

 その上、メルエーナの長所である、家事が得意な家庭的な女の子である事をアピールしたくても、ジェノはメルエーナ以上に家事が得意であり、特に料理に置いては、かなりの差をつけられてしまっているのが現状だ。

 

「けれど、このままだと……」

 メルエーナはつい一週間程前に知り合った、金髪の少女の事を思い出し、ため息をつく。

 

 その金髪の少女というのは、マリアという名前の少女。なんでも、このエルマイラム王国の貴族の娘であるらしい。

 

 そのマリアは、メルエーナと同い年であるにも関わらず、非常に女性らしい艶めかしくも瑞々しい体つきをしている。そしてそれだけでなく、自分などでは比較対象にはならないと思えるほどの、輝かんばかりの美貌の持ち主だったのだ。

 

「その上、ジェノさんとは幼馴染で……、ジェノさんのファーストキスを……」

 

 ジェノは、『子供の頃の話だ』『身分が違う』と言い、再会を懐かしむマリアにもそっけない態度を取っていたが、あれ程の美人でスタイルもいい女の子に言い寄られたら、いくら彼でもそのうち……と心配になってしまうのだ。

 

「ううっ……。やっぱり、お母さんにアドバイスをされた、あの方法を……」

 メルエーナは悩み、追い詰められていた。

 そのため、真っ先に頭の中で却下した、大胆な母、リアラのアドバイスにさえ縋りたくなってしまう。

 

「でも、もしも失敗してしまったら、もうジェノさんに合わす顔がなくなって……」

 怖い。今までの関係さえ失ってしまうのが怖くて仕方がない。

 

 メルエーナは買ったまま、未だに未開封の袋が入ったクローゼットの方を一瞬見て、深いため息をつく。

 

「駄目ですね。今日はもう休みましょう……」

 メルエーナはこれ以上考えても無駄だと思い、ランプの明かりを消してベッドに入る。

 

「……お母さん。やっぱり私には無理です。そんな度胸は私には……」

 メルエーナはもう一度深いため息をつく。

 

「バルネアさんも、イルリアさんも、リリィさんも、相談したら、間違いなく、やるように勧められるのが目に見えていますし……」

 メルエーナは誰にも相談できない状況に困り果てる。

 

「……それに、もしも何かしらの奇跡が起こって、成功してしまったら、私は……」

 ふとそう考えたメルエーナは、顔を真っ赤にして両手でそれを押さえる。

 顔に血液が集中して、熱くなっていることがよく分かった。

 

「いっ、いけません! そんな、ふしだらな。……ですが、その、いいえ、嫌な訳では……ないのですが、やはりそういう事は……結婚してから……じっくり……。いいえ、そうではなくて! それに、じっくりってなんですか!」

 メルエーナは思わず口走ってしまった言葉に、自分で文句を言う。

 

「ううっ……。お母さんのせいで、すっかりと耳年増に……。ああっ、私はどうしたらいいのでしょうか?」

 メルエーナは信奉する、豊穣の女神リーシスに尋ねるが、当然答えが返ってくるはずもなかった。

 

 けれど……。

 

「あっ、リーシス様の神殿に務める、パメラさんに相談するのもいいかも知れません」

 メルエーナはふとそんなことを思いついた。

 

 パメラというのは、メルエーナより一つ年上の面倒見のいい友人で、この街のリーシス神殿の神官見習いをしている。たしか近々、正式に神官になると話をしていた。

 

 神殿で懺悔するには内容が流石に大げさだが、彼女なら自分の話を聞いてくれて、何かいいアドバイスを貰えるかも知れない。

 メルエーナは名案を思いつき、少し心が軽くなった。すると、自然と眠気が襲ってくる。

 

 明日の午後から相談に行こう。

 メルエーナはそう決めると、今日はもう休むことにするのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 いつものように午前中で、お店の食材が切れてしまったことから、メルエーナは事前にバルネアとジェノに話しておいたとおりに、一人で出かけることにした。

 

 日差しがだいぶ暑くなってきた。

 夏はもう間もなくだ。

 

 メルエーナは額に汗を浮かべながらも、しばらく表通りを歩き、目的地であるリーシス神殿にたどり着いた。

 

 神殿は大理石でできている立派なものだが、それほど大きな建物ではない。

それも仕方のないことで、豊穣の女神リーシスの信徒の割合は、このナイムの街ではかなり少ない方なのだ。

 

 神殿の前で門番の方に、名前を名乗ってパメラさんにお会いしたいと告げると、まだ年若い男性の門番は、もうひとりの門番の人間にここを任せ、すぐにパメラを連れてきてくれた。

 

「やっほー。久しぶりだね、メル!」

 淡い金色の髪を肩のあたりで短く切りそろえた、少し背が高めでスタイルもいい女性だ。けれどそれを鼻にかけることがない、気さくで面倒見が良い人物なので、他の年若い神官見習いなどからは姉のように慕われている。

 

「はい。お久しぶりです、パメラさん」

 この時間帯ならばある程度暇をしていると言っていたので、それに合わせて訪ねてきたのだが、なんの約束もなかったので、こうして会えたのは僥倖だった。

 

「その、まずはこれを。私が作ったものですので、お口に合わないかも知れませんが……」

 メルエーナは手作りのクッキーの入った小さなバスケットをパメラに手渡す。

 

「わぁー。嬉しい! ここのところ皆甘いものに飢えていてね。ありがたく頂くわ」

 パメラは満面の笑顔で言い、嬉しそうに言う。

 

「こんなに素敵なお土産を頂いてしまっては、こっちもなにかお返しをしないとね。その顔から察するに、ただ遊びに来たわけではないんでしょう?」

「……はい。その……」

「あっ、ちょっとまって!」

 

 メルエーナの言葉を遮り、パメラは笑顔のまま、門番二人に歩み寄る。

 

「こらこら。何を聞き耳を立てているのかね、君たちは? メルみたいな可愛い女の子が訪ねてきて浮かれているのは分かるけれど、自分たちの仕事をしっかりしなさいな」

「あっ、いえ、自分は何も聞こうなんてしていません!」

「そっ、そうですよ、気のせいです!」

 若い門番の男の子二人がそう否定の言葉を口にするが、パメラは笑顔のまま、『スケベ』と軽蔑するような声色で言葉を二人に突き刺し、メルエーナの方を振り返る。

 

「ここじゃあ、ゆっくり話せないから、近くの喫茶店に行きましょう」

「えっ、ええ。ですが、神殿を離れてもよろしいのですか?」

 メルエーナは、パメラの容赦のない言葉に傷ついている門番の男の子二人を、横目で心配しながら尋ねる。

 

「大丈夫よ」

 パメラはなんでも無いことのように言い、

 

「ねぇ、ランセル、ゴート。このクッキーを控室にいる皆に持っていってね。

 それと、もしも司祭様に私の行き先を聞かれたら、神殿に相談に来たお客様に、自分達が嫌らしい行いをしようとしてしまったので、お客様の方の気持ちを慮って喫茶店で話を聞くと言ってでかけたと言いなさいよ」

 

 そう門番二人に釘を刺す。

 

「そんな! あんまりです、パメラさん!」

「そうです! 私達は何も!」

 ランセルとゴートと呼ばれた二人は、文句を言ったが、もう一度パメラに、『い・い・わ・ね』と低い声で言われ、おとなしくなってしまう。

 

「あっ、あの、申し訳ありませんでした」

 メルエーナはランセル達に頭を下げる。自分が来てしまったせいで、二人に思わぬ被害を出してしまったことを心から侘びた。

 

「いいのよ。うちの神殿にだって私達のような女の子がいるのに、他所から来た女の子に鼻の下を伸ばすスケベたちのことなんて」

 けれど、そんなメルエーナとは対象的に、パメラはそう不機嫌そうに言い放つのであった。



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予告編② 『思春期少女の悩み』(中編)

 馴染みの喫茶店、<優しい光>亭に入り、メルエーナはパメラと一番奥の席に足を運び、向かい合って座った。

 そして、二人で紅茶を注文し、それが運ばれてきてから話を始める。

 

「パメラさん。その、わっ、私は……」

「うんうん、そんなに慌てて話そうとしなくても大丈夫よ。リーシス様は信徒の訴えを無下にはしないわ」

 メルエーナが意を決して話そうとしたのを、やんわりと止めて、パメラはニッコリと微笑む。

 

 流石、神官になる人は違うとメルエーナは感心し、深呼吸をしてから自分の悩みをゆっくりと打ち明けることにする。

 

 メルエーナの悩みは、ジェノのこと。

 自分が片思いをしているジェノの前に、ものすごく美人でスタイルの良い幼馴染の少女が現れ、いまも彼女はジェノを憎からず思っている節があることを話した。

 

「その、どう考えても、私なんかでは比較にならないくらい魅力的な女の子で……」

「なるほどね。金色の髪のものすごく綺麗な女の子の噂は聞いたことがあったけれど、それがメルの言うマリアちゃんなのね、きっと」

「……はい。恐らくはそうだと思います。あの美貌なら、噂になってもおかしくないはずですから……」

 メルエーナは絶望的な差を再確認し、がっくりと肩を落とす。

 

「それで、メルはどうしたいの? このまま指を咥えて、ジェノ君が取られてしまうのを見ているつもりはないわよね?」

「それは、その、もちろんです。ですが、私は何をしたらいいのか……。いえ、その、やっぱり違います。私は、もっと積極的にならなければいけないというのは分かっているんです! でも、私、恥ずかしくて……」

 メルエーナは顔を真っ赤にしてしまい、両手で顔を隠す。

 

「……あの、メル。ちなみに、貴女はジェノ君に何をするつもりなのか訊いてもいいかな?」

 顔を覆っているので気づかなかったが、パメラは席を立ち、食い入るようにメルエーナを見つめる。

 

「はっ、はい。どうか懺悔としてお聞き下さい。その、とても端ないことなのですが……」

 メルエーナは、行動に移そうか迷っている事柄を小声で打ち明ける。

 

「…………」

 パメラは黙って話を聞いてくれた。

 

 やがて時間を掛けて全てを話し終えると、メルエーナは少しだけスッキリすることが出来た。

 やはり一人で胸の中に仕舞い込んで置くのはよくない。こうしてただ聞いて貰うだけでも気持ちが晴れるものだ。

 

 メルエーナは、話を聞いてくれたパメラにお礼を言おうとして顔を上げたのだが、そこで目を血走らせている彼女の顔を見て恐怖に固まる。

 

「……あっ、あの、パメラさん?」

 正直怖くて仕方がなかったが、声をかけないわけにもいかず、メルエーナは名前を呼ぶ。すると……。

 

「おのれ、この幸せ者め! なんだ、なんだ、なんだぁ、それは! ろくに素敵な男性との出会いもなく、門番のちょっと冴えない男の子達でさえ、水面下で奪い合いをしている、私達神殿関係者に対する当て付けかぁぁぁぁっ!」

 パメラは取り乱し、メルエーナに食って掛かる。

 

「あっ、あの、パメラさん……。他にもお客様がいらっしゃいますので……」

 メルエーナはなんとか宥めようと試みたが、それは徒労に終わってしまった。

 

「こっちとら素敵な恋愛はおろか、粗食の期間でお肉さえ自由に食べられないというのに! なんだぁ、私達には睡眠欲以外満たしてはいけないとでも言うの? 

 それなのに、貴女は、ジェノ君のような美男子とそこまで進んでいるなんて……。羨ましすぎるわよぉぉぉぉぉぉっ!」

 血を吐くような声に、メルエーナは恐怖に震えるしか無い。

 

 それからしばらくして、パメラは冷静さを取り戻してくれた。

 ただ、後少しそれが遅かったら、自警団を呼ばれていたかも知れない。

 

「こほん。ごめんなさい、メル。少しだけ取り乱しました」

「あっ、はい。その、そうですね……」

 目を合わせずに、メルエーナは応える。

 

「それでは、メル。汝の懺悔をリーシス様は確かに聞き届け、貴女の罪を許されました」

 パメラは先程までの取り乱した様子はなく、穏やかに微笑む。

 

 その笑顔に、メルエーナはようやくほっと胸をなでおろし、「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べた。

 そして、すっかり冷めてしまった紅茶に口をつける。

 

 だが、

 

「そして、リーシス様は仰っています。『構わない、やりなさいと!』」

 

 思わずメルエーナは紅茶を吹き出しそうになってしまった。

 

「なっ、何を言っているんですか!」

「メルこそ何を言っているのよ! 自分がどれほど恵まれているのかまだ分からないの? 貴女は、あんな美男子を物にできるチャンスを得ているのよ!

 大丈夫よ! リーシス様は豊穣の女神。それは作物だけでなく、子宝も含まれているのよ。だから、きちんと子どもを成すのならば、何も文句はないわ!」

 自信有り気に、パメラは親指をぐっと立てる。

 

「子ども……」

 その言葉に、メルエーナの顔は再び真っ赤に染まる。

 

 メルエーナも将来的には子どもが二人は欲しいと思っている。だが、子どもというのは、その、つまりはそういう事をしないと生まれないわけなのだから……。

 

 メルエーナの頭はパニックを起こし、「あっ、ああ。そんな……。やっぱり私には……まだそんなこと……」と呟きながら、嫌々と首を横に振る。

 

 だが、そんなメルエーナに悪魔の囁きが聞こえてくる。

 

「大丈夫よ、メル。貴女は本当にジェノ君のことが好きなんでしょう? それなら、結婚してからかその前かの違いだけよ。いずれすることが少し早くなるだけよ」

 パメラは優しい口調で、メルエーナを諭す。

 

 正直、神官としてどうなのかと普段のメルエーナなら思うことができたはずなのだが、今の彼女には冷静な判断ができない。

 そして、それをいいことに、パメラは囁きを続ける。

 

「どんな綺麗事を並べようと、恋愛は競争なのよ。ジェノ君は生真面目だから、一度そういった関係になったら貴女に不義理はしないはずよ。

 そうすれば、マリアって娘にジェノ君を取られることはなくなるわ……」

 

「……でっ、ですが……。私みたいな貧相な体では、ジェノさんも楽しくないはずです……」

 メルエーナは顔を真っ赤にしながら、ずっと思っていたコンプレックスを口にする。

 

「私の先輩に、去年見事に結婚して神殿を退去して家庭に入った人がいるの。その人も決して豊満な体つきではなかったけれど、上手に男の人を誘惑したらしいわ」

「……えっ……」

 恥ずかしいと思いながらも、パメラのその言葉はとても魅力的な誘いに思えてしまった。

 

「後輩のためにと、その方法は私達に秘伝として伝えられているの。でも、いつもお世話になっているメルにだったら、それを教えてあげても、い・い・わ・よ」

 

 悪魔の提案だった。それは分かっていた。

 

 しかし、それはあまりにも魅力的な提案過ぎた。

 そして、メルエーナはその提案を受け入れてしまう。

 

 これから一ヶ月間、毎週一回、手作りお菓子を作って届けることを条件に。



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予告編② 『思春期少女の悩み』(後編)

 メルエーナは深夜に自室でソレを手に取り、しばらく眺めていた。

 だが、自らがソレに、ビキニタイプの大胆なデザインの白い水着に着替えた姿を想像し、頭から湯気が出そうなほど頬が熱くなる。

 

「無理です! こんな布切れだけの端ない格好をジェノさんに見せるなんて!」

 メルエーナはベッドの端に座っていたが、そのまま後ろに倒れて、ベッドに体重を預けると、水着を横に置き、真っ赤になってしまった顔を両手で抑える。

 

 そろそろ季節は夏になろうとしている。

 メルエーナが今まで暮らしていたリムロ村は山奥だったので、全くピンとこないが、このナイムの街の夏といえば海なのだという。

 

 そこでは、若い男女がひと夏の思い出を作り、そして少しの冒険をして見る時期なのだと言う。

 

 その言葉を真に受けたわけではないが、先日いきなり娘の様子を見にやって来た母のリアラの強引な勧めによって、メルエーナは水着を強引に決められ、購入することになったのだ。

 

 思ったよりも高価だったが、お金は母が出してくれたので財布は傷まなかったのだが、心が痛むのである。

 

「このままタンスの肥やしにしたら、絶対に怒られそうですし……。それに、パメラさんからも……」

 メルエーナはパメラから聞いた秘伝を思い出す。

 

『いい、メル。貴女は確かに胸は小さいかも知れないけれど、他のバランスは良さそうに見えるわ。そうであれば、それらをフルに利用して、男の想像力……いえ、妄想力を高める事を第一に考えなさい』

『……妄想力ってなんですか?』

『私達の年頃の男なんて、女の子の裸に興味津々なのよ。普段服で見えない部分も、きっとこうなのだろうと妄想して裸を思い浮かべているのよ』

『ええっ! ほっ、本当ですか?』

『男なんてみんなスケベなんだから、当然よ。でも、それだと胸が小さいというのはマイナス要素になることが多いわ。けれどね……大胆な下着……この時季なら水着でもいいわ。そういった露出の高い格好だと、小さくても十分な武器になるわ!』

 

 この水着に着替えたくない理由は、その露出度の高さにある。

 胸の先端付近こそ隠されているものの、胸の膨らんだ付け根部分を見せる事になってしまうのだ。

 けれど、パメラが言うには、それこそが武器なのらしい。

 

『貴女のお母さんの選んだ際どい水着とやらがそうなっているかわからないけれど、普段は服で絶対に見せない部分を男の子に見せてあげるの。

 すると、男の子は、想像し慣れていたはずの妄想上の女の子の裸がもっと複雑だということに気づくわ。だからこそ、隠れている部分をより見たいと思うのよ!』

『そっ、そうなんですか……』

『メル! 貴女、横の肉を寄せてあげたら、胸に谷間はできる?』

『えっ?』

『出来ないのなら、胸の付け根部分を見せた方がいいわね。男の子にはない体の特徴を見せつけるには、それが一番よ!』

『あっ、あの、パメラさん。他にもお客様がいらっしゃいますから、もう少し小さな声で……』

『それはもちろん、おしりもよ! とはいっても過度な露出はメルの清楚さを曇らせちゃうから駄目ね。となると、太ももとお尻の境目を……』

『おっ、お願いですから、もう少し声を落として下さい』

 

 公共の場とは思えないパメラの恥ずかしい熱弁を思い出し、メルエーナは顔を再び真っ赤にして手でそれを覆う。

 

「ですが、きっとここで諦めては駄目です!」

 顔から火が出るほど恥ずかしいが、メルエーナは覚悟を決める。

 

 横目で水着を見ると、パメラの言っていたこと全てを満たす水着がそこにあるのだ。

 パメラの伝え聞いた秘伝も、母の配慮の一つに過ぎなかったようだ。

 それならば、母の言う、男性を誘惑する手練手管は非常に優れたものであるのは間違いないのだろう。

 

 メルエーナは行動に出るべく、母のリアラに言われたことを思い出すのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 母が突然訪ねてきた翌日。

 メルエーナは一緒に水着の販売店に足を運ぶことになってしまった。

 

 言われた通りの、白い際どいカットの水着に着替えたメルは、試着室の姿見でその姿を見て、かぁーっと顔を真っ赤に染め、その場にうずくまる

 恥ずかしい。ある意味、全裸以上に恥ずかしい気さえする。

 

「もう、いつまで着替えに掛かっているのよ」

 そんなメルエーナの心情を知らずに、母のリアラが試着室のカーテンを開けて顔を突っ込んできた。

 

「なっ! のっ、覗かないで下さい!」

「ほう、これはなかなか……。うん。この水着にしましょう。下品にならず、メルの体の魅力がよく分かるわ」

「いいから、早く締めて下さい!」

 メルエーナは顔を真っ赤にして怒り、カーテンが閉まると速攻で普段着に着替えた。

 

 けれど、言葉通り母はその水着がベストと判断したようで、それを購入することを決めてしまった。

 母がお金を出してくれて、会計を済ましてしまったので、今更いらないとも言えず、メルエーナは渋々それを受け取った。

 

「でも、お母さん。私、こんな端ない格好で衆目の目に晒されるのは、耐えられません」

 帰り道に、横を歩く母にそう言うと、彼女はキョトンとした顔をし、

 

「何を言っているの。当たり前じゃあないの。貴女がこんな露出度の高い格好を皆の前でするのだというのなら、さすがの私でも止めるわよ」

 

 そんな訳のわからないことを言う。

 

「そっ、それでは、どうしてこんな高い水着を買ってくれたんですか! 私はもっと地味で安いもので良かったのに……」

 メルエーナがそう言って拗ねると、母はにこやかに微笑む。

 

「そういった水着は、作戦がうまくいってから、ジェノ君と買いに来なさい」

「作戦?」

「ええ、そうよ。今、貴女が手にしてる水着を着たところを見せるのは、ジェノ君一人だけよ」

 リアラの言葉は抽象的すぎて、やはり意味がわからない。

 

「もう。水着だからって、泳ぐ事を前提にしなければいけないわけでは無いでしょうが。そこは、私を悪者にするのよ」

「えっ? お母さん、どういうことです?」

 メルエーナには、何がなんだか分からない。

 

「ふっふっふっ。<パニヨン>に戻ったら教えて上げるわよ」

 そうリアラは言い、メルエーナに一つの策を授けてくれたのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 料理の本を読みながらも、そろそろ良い時間なので休もうとジェノは考えた。

 日増しに暑くなってくる季節だ。体調管理は普段以上にしっかりとしなければいけない。

 

 しかし、そこでドアを控えめにノックする音が聞こえてきた。

 

 もう深夜と言ってもいい時間だ。それなのに……。

 

「ジェノさん……。まだ、起きていますか?」

 声でそれがメルエーナだと分かり、ジェノはドアを開ける。

 

「どうしたんだ? こんな遅くに」

 ジェノはそう言いながらも、メルエーナの姿に驚き、僅かに目を大きくする。彼女は、体に大きなタオルを羽織っているのだ。

 

「その、すみません、こんな時間に……。でも、その……」

 今にも泣き出してしまいそうなメルエーナの声に、ジェノはただ事ではないと悟る。

 

「話を聞こう。俺の部屋でもいいか?」

「……はい」

 ジェノはメルエーナに椅子を勧め、自分はベッドの端に腰を下ろす。

 しかし、彼女は椅子に座ろうとはせずに、体を震わせている。

 

「どうした、メルエ……」

 ジェノの言葉は途中で止まった。それは、メルエーナが身に纏っていたタオルを、床に落としたためだった。

 

 メルエーナは白い水着を身に着けていたが、それは美しくも扇情的な姿だった。

 

 胸を覆う布は胸の先端とその付近を覆うものの、乳房と胸筋の境を顕にしており、普段の清楚な彼女とはまるで別人のように思えた。

 細いが健康的な腕。女らしい腰のくびれも、平らなお腹も、おへそまでも露出し、腰も布に覆われて入るものの、小さくて形の良いおしりがそこから溢れているのがなんとも蠱惑的だった。

 

「……ジェノさん」

「あっ、ああ」

 名前を呼ばれて、自分がメルエーナの姿に見とれていた事にジェノはようやく気がつく。

 

「すっ、すみません。貧相なものをお見せしてしまいまして……。ですが、その、母が、こういった格好をすれば、ジェノさんに興味を持ってくださるといって、無理やりこの水着を着るようにと……」

 メルエーナは顔を真っ赤にしながら、視線を下にうつむける。

 

「私は、あのマリアさんに負けたくありません。だから、少しだけ頑張ってみました。でっ、ですが、私、こんな格好をジェノさん以外の人に見せるのは耐えられません……。でも、私は……」

 泣き出しそうな声でいうメルエーナは美しくも愛らしかった。

 

「あっ……」

 メルエーナの驚きの声が部屋に響く。ジェノは気がつくと、メルエーナを抱きしめていたのだ。

 

「ジェっ、ジェノさん?」

「……メルエーナ。俺は……」

 ジェノは衝動を我慢できなかった。

 

 自分のために無理をし、着慣れない格好をしてまで気を引こうとしてくれたメルエーナの健気さが、羞恥を堪えて懸命に気持ちを伝えようとするそのいじらしさが、愛おしくて仕方がなかった。

 

「メルエーナ……」

 ジェノの視線とメルエーナのそれが交差する。

 すると彼女は恥ずかしそうに「メルと呼んで下さい」とだけ言って、瞳を閉じた。

 

「……メル……」

 優しくジェノはそう名前を呼ぶと、静かにメルエーナの唇に、自分の唇を重ね合わせた。

 

 長い口吻の後、ジェノは優しくメルエーナの頭を撫でた。

 

「メル。俺も、お前のこんな姿を他の連中に見せたくない」

「ジェノさん……」

「そして、もう、お前を手放したくない。……駄目か?」

「いっ、いえ。その、私……嬉しいです……」

 メルエーナがそう応えると、ジェノは彼女の体を軽々と抱え、静かにベッドの上に寝かせる。

 

「メル……」

「ジェノさん……」

 

 ジェノはメルエーナの瞳を見つめ、もう一度口づけを交わす。

 それが、これから始まる情熱的な一夜の開始を告げる合図であるかのように。

 

 

 

 

 

 

「あっ、ああああああっ! わっ、私は何を考えて!」

 メルエーナは、自分の浅ましい妄想の世界からようやく戻ってきた。

 

 母親に唆されたとはいえ、自分はなんてことを妄想しているのだと頭を抱える。

 

 こんな自分に都合のいいように話が進むはずがないのに、ついつい妄想を止めることが出来なかった。

 

「ううっ、私は、なんて端ない……」

 

 メルエーナが後悔をして頭を抱えていると、不意にドアがノックされた。

 

「はっ、はい!」

 メルエーナは慌てて返事をし、水着を掛け布団の中に隠して、ドアの前まで足を運ぶ。

 

「どうかしたのか? 大きな声が聞こえたが」

 ドア越しに声をかけてきたのは、ジェノだった。

 それが分かった途端、メルエーナの頬が朱に染まる。

 

「いっ、いえ、その、何でもないです」

「そうか。お前があんな大きな声を上げるのはめったに無いから、何事かと思ったんだ。いや、問題がないならば別にいい」

 ジェノはそう言って立ち去ろうとしたのが分かり、メルエーナはドアを開ける。

 

「その、すみませんでした、ジェノさん」

 立ち去ろうとしていたジェノの背中に小声で謝罪の言葉をかけると、彼は静かに振り返った。

 

「別に謝る必要はない。幸い、バルネアさんには聞こえていないようだからな」

 向かい合っているジェノとメルエーナの部屋とは異なり、バルネアの部屋は客間を挟んでいるため、声が届かなかったようだ。

 

「ジェノさん。その、今度、私に泳ぎを教えて頂けませんか?」

 メルエーナは意を決して、ジェノに頼み事をする。

 

「んっ? どうした急に? いや、そうか。お前は山育ちだったな」

「はい。ですので、全く泳げないのです」

「そうか」

 ジェノは短くそう言うと、何かを考えるように顎に手をやる。

 

「あっ、その、ジェノさんもお忙しいですよね。無理にとはいいません」

 つい申し訳なくて、メルエーナはそう言ってしまう。

 

「いや、それぐらいの時間を取ることくらいはなんの問題もないが、一つだけ頼みたいことがある」

「えっ? 頼みたいことですか?」

 メルエーナは思いもしなかった事態に驚く。

 

「ああ。普通ならこんな事を頼みはしないんだが、お前はどうも自分のことに無関心だからな」

 ジェノはそう言うと、更に言葉を続ける。

 

「どんな格好をするのもお前の自由だが、できればあまり人目を引きすぎる格好は自重してくれ。以前、お前の住んでいた村で、冒険者見習い共に目をつけられたことがあっただろう。あの二の舞になるのは避けたい」

「はっ、はぁ……」

 メルエーナはいまいちジェノが言わんとしていることがわからない。

 

「分かっていないようだな。お前はただ立っているだけで人目を引く容貌をしている。それに露出を伴う姿が重なれば、悪い連中に目をつけられやすいということだ」

「……えっ! あっ、それは、その、つまり……」

「少しは自分が他人にどう見られているかを理解したほうがいい。俺も気をつけるが、全てを防げるとは限らん」

 ジェノはそういうと、「おやすみ」と言い残して、呆然とするメルエーナを尻目に部屋に戻って行ってしまった。

 

 けれど、メルエーナは呆然として、しばらく思考が働かない。

 

 あのジェノが、自分に対して、人目を引く容貌だと言ってくれた。

 それはつまり、ジェノもそうだと思っていてくれるということだ。

 

 カァーとメルエーナの顔が真っ赤になる。

 

 先程までの妄想とはことなり、これは現実なのだ。

 

 メルエーナは夢見心地のような気持ちで部屋に戻ると、掛け布団の間に隠してあった水着を取り出すと、それはやはりタンスの肥やしにしようと決めた。

 

「ですが、お母さんとパメラさんの気持ちも無駄にはしません。ジェノさんに一緒に水着を選んで欲しいと頼んでみましょう」

 

 メルエーナは決意する。

 ものすごく恥ずかしいが、明日にでもジェノに話してみようと。

 バルネアさんも一緒のときのほうが、味方になってくれるはずなのでいいだろう。

 

「……私にはいきなり距離を縮めるのは向いていないみたいです」

 

 マリアが現れたことで、自分は焦りすぎていたような気がする。

 やはり、自分とジェノの関係はこうして少しずつ距離を縮めていきたいのだと、メルエーナは自分の気持ちを理解した。

 

 きっと、母やパメラさんのいうとおりに事が進めば、ジェノさんの気持ちは自分に向くかも知れない。でもそれは、本当の意味で愛されている状態ではないと思う。

 

 それでは駄目なのだ。

 それでは、自分もまたジェノさんの重荷になってしまうから。

 

 自分はあの人が好きだ。

 だから、一緒にいたい。これからもずっと。

 

 だからこそ、重荷ではなく、お互いがお互いを支え会える存在になりたい。

 それにはもう少し、時間が必要だと思うのだ。

 

 今のこの何気ない気遣いの発展した先に、それがあるとメルエーナは理解した。

 

「でも、マリアさんに先を越されてしまう可能性も否定はできませんから。そのあたりも注意しないと」

 あんな美人でスタイルのいい女の子と競い合うなど無謀もいいところだと他の人は思うだろう。

 けれど、これは自分自身の問題だ。

 他人は関係ない。

 

「私は、絶対に負けません!」

 メルエーナはそう心に固く誓うのであった。



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予告編(???)

 ――私は、許せないのです。

 

 これで二回目です。

 あの女が、私からあの人を奪っていったのは。

 

 いつも私が先なのに、後から出てきたあの女が全てを持っていく。

 大切なあの人を、何食わぬ顔で奪っていく。

 

 許せない。……許せるはずがない。

 

 どうして私ばかりが不幸になるのでしょうか?

 

 私は、あの人が隣に居てくれるだけで幸せなのに。

 

 なんであんな女が、あの人と……

 

 

 ◇

 

 

 (私は、許せません)

 

 これで三回目なのです。

 あの人に出会えたのは。

 

 今度こそ、私はあの人と添い遂げたいと思ったのです。

 

 それなのに、この三度目の奇跡さえ、あの人は邪魔をしようとするのです。

 

 私が憎いのならばそれで構いません。

 私も同じ気持ちですから。

 

 ……ですが、私だけでなく、あの人を不幸にした事は絶対に許せません。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――貴女では、あの人を幸せにできない。

 

 

 (貴女では、あの人を不幸にする)

 

 

 ――貴女は、ただ私から奪っただけ。

 

 

 (貴女は、ただ自分から失っただけ)

 

 

 ――貴女は、過去を知らないだけ!

 

 

 (貴女は、今を見ていないだけ!)

 

 

 

 

 ――ああ、そうですね

 

 (ええ、そうですね)

 

 

 

 『『私は、貴女が大嫌いです』』

 

 

 

 ◇

 

 

  ――これは、一体何の罰だというのでしょうか?

 

 私が何をしたというのでしょう?

 私はただ愛するあの人と幸せな時間を過ごしていただけ。

 

 それなのに……

 

 こんな姿になった私は、もうあの人の側に居られない。

 そう思って、私はあの人の前から姿を消しました。

 

 どこかで一人、ひっそりと生きていこうと思ったのです。

 

 でも、この切り刻まれた醜い顔では、それすらも叶わない事でした。

 

 人の視線の恐ろしさというものを、この時の私は初めて知ったのです。

 

 ……結局、私は心を病みました。

 そして、気がついたのです。

 

 私には、あの人しかいないと。

 あの人なら、こんな今の私でも受け入れてくれるのではないかと、それだけを希望に、彼を探しました。

 

 ああっ、あの人はどこにいるのでしょう?

 

「ねぇ、ラーフィン。貴方は、どこにいるの?」

 

 

 

 ◇

 

 

 

(どうして? どうして私はこんな目に合うの?)

 

 小さな村の事柄しか知らない私にとって、あの人はとても眩しい存在でした。

 

 あの人は、森の獣に襲われそうだった私を助けてくれました。村の男性が総出で戦っても勝てるかわからない巨大なあの熊を、あの人は事も無げに剣一本で斬り伏せました。

 

 けれど、あの人の心は壊れていたんです。

 懸命に自分を認めてくれる、受け入れてくれる誰かを探して彷徨っているように思えました。

 

 助けてもらったお礼にと、あれこれあの人の世話をするうちに、私はいつの間にか、あの人に好意を抱くようになっていました。

 

 私は全てをあの人に捧げました。

 すると、あの人は私を愛してくれるようになりました。

 

 女として、愛する人が自分に溺れてくれる事はこの上なく幸せで、何よりも幸福でした。

 

 そして、ある時彼は、私に本当の名前を教えてくれました。

 

 ずっと自分を嘲笑う為に名乗っていた偽名ではなく、本当の名前を教えてくれたのです。

 

 それなのに、私はあの人の名前を唱えながら、この命を自らの手で終わらせようとしています。

 

 だって、もう、あの人に合わせる顔などないのですから……。

 

「ああっ、ラーフィン。私の愛しい旦那様。どうか、私を許して下さい」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 目を覚ますと、私は涙をこぼしていました。

 理由は分かりません。

 

 きっと、夢見が悪かったのでしょう。

 その内容は全く思い出せませんが……。

 

 時計を確認すると、そろそろ起きなければ行けない時間でした。

 

 私は、起き上がると、大切なお守りである首飾りを身につけようとしました。

 

 けれど、今日は何故か、私はその首飾りを注視してしまいました。

 見慣れたはずの、この真っ二つに分かれたペンダントの部分を何故かじっと見てしまったのです。

 

 片方には、『メルエーナ』という私と同じ名前が刻まれています。

 もう片方には、『ラーフィン』という名前が刻まれています。

 

 この文字を読めるのは、認識できるのは、私と、私の好きな人……ジェノさんだけです。

 

 どうしてなのかは、未だに分かりません。

 

 以前、これに触れた私のお友達は、突然泣き出してしまいました。

 その事に不安がないと言えば嘘になりますが、それでもこれは私の宝物です。

 

 私とジェノさんを繋ぐ何かを感じられる、この首飾りが私は大好きなのです。

 

「さて、今日も頑張りましょう!」

 私は自分自身にそう言って気合を入れて、厨房の掃除に向かいます。

 

 そうです。あんな人に負けてはいられ……。

 

「……えっ?」

 私は、自分の心によく分からない気持ちが一瞬浮かんだことに違和感を覚えました。

 

 けれど、それはきっと気のせいです。

 何故なら、すぐにそれは霧散して、何だったのか思い出せなくなってしまったのですから。

 

 今日はまた、マリアさん達がこの店を訪ねてくることになっています。

 失礼のないようにしなければいけません。

 

 もっとも、それはどのお客様に対してもそうなのですが。

 

「…………」

 私は何故か不安な気持ちになり、首飾りを軽く握りしめて、深呼吸をします。

 

 よし。

 これで大丈夫です。

 

 さぁ、また一日が始まります。

 

 今日も笑顔で頑張りましょう!



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予告編②+ 『思春期少女とハプニング』(前編)

 メルエーナは、女神リーシスに許しを乞う。

 

 あれは事故だ。決して故意ではない。そのような浅ましいことをしようなどとは微塵も考えていなかった。

 だが、同じ屋根の下で暮らしていれば、そういった事故は起こっても不思議はない。……そう思いたい。

 

 けれど、いくら言い訳をしても、起こってしまった事柄は変えられないのだ。

 

 

 それは、夏の暑い日だった。

 その日は<パニヨン>の定休日ということもあり、メルエーナは友人と買い物を楽しんで昼過ぎに帰ってきた。

 

 バルネアは近所の付き合いで出かけていて、まだ帰っていないようだし、ジェノも稽古に行っているのでまだ帰ってくる時間ではない。

 そこで、すっかり汗をかいてしまったメルエーナは、お風呂の準備がてら軽く汗を流そうと考えた。

 

 ……言い訳をするのであれば、この時の気温はナイムの街としてはかなり高く、メルエーナも参っていた。そして、二人は出かけているという先入観があったのだ。

 それに、浴室も静かだった。

 

 だから、いつもなら確認する、入浴中を表す木札を確認するのを忘れてしまった。

 その結果……。

 

 メルエーナは何の気なしに浴室の脱衣所のドアを開けた。

 次の瞬間、メルエーナの視界に入ってきたのは、上半身が裸のジェノの姿だった。

 

「…………」

 完全に、メルエーナの思考はそこで停止した。

 けれど、初めて見るジェノの、若い男性の引き締まった体に目を奪われてしまう。

 

「どうかしたのか、メルエーナ?」

 ズボンは履いていたからか、ジェノはメルエーナが脱衣所に入ってきたことにも動じずに、いつもの無表情で尋ねてくる。

 

「……あっ、ああ……、ごっ、ごめんなさい!」

 メルエーナは大慌てで後ろを向き、ドアを締める。そして、顔を真っ赤にしてその場から駆け出し、自分の部屋に逃げるように避難する。

 

「あっ、ああ! 見てしまいました! ジェノさんの裸を、あんなに間近で!」

 ただでさえ暑さに参っていたメルエーナの顔は、一層の熱を持ち、思考がまるで纏まらない。

 

 そして、部屋に戻ったメルエーナは、ベッドに顔から飛び込み、枕に顔を埋めてパタパタと忙しなく足を動かす。

 

「うっ、ううっ……。なんて事をしてしまったのでしょうか、私は……」

 いろいろと反省することはあるのだが、今更詮無きことだ。

 

 それに、それに……。

 

 ジェノの鍛え抜かれた体の、しっかりカッティングされたたくましい上半身が頭から離れない。

 忘れようと思えば思うほど、鮮明に記憶が思い出されてしまう。

 

 メルエーナも、男性の上半身の裸を見るのは初めてではない。父であるコーリスや幼馴染の男の子のそれくらいは見たことがある。

 けれど、若いだけでなく、鍛錬に鍛錬を重ねているはずなのに全体のシルエットが細く、なのにきちんと男らしい筋肉に覆われているその肉体は、大好きな人の体は、あまりにも扇情的だった。

 

「うっ、腕がすごいことは知っていましたが、上半身もあんなに……でも、ゴツゴツした感じではなくて……。って、そうじゃあありません! 忘れなさい! 忘れないと駄目です、私!」

 メルエーナはまたパタパタと足を動かしながら、叫び声を上げたいのを懸命に堪える。

 

「でっ、ですが、やっぱり肩幅も広くて、すごく逞しいのにしなやかそうで……。もしも、あんな体に抱きしめられたら、きっと私……」

 駄目だと思えば思うほど、メルエーナの妄想は加速してしまう。

 

「きっと、私なんかでは、片腕で抱きしめられてももう抵抗できません。そして、そのまま……。って、だから、そういった事を考えては駄目です! 今のは事故、事故です!」

 メルエーナは懸命に煩悩を振り払おうとするが、結局、バルネアが帰ってくるまでの間、彼女はお風呂にも入らずに、自身の想像力と理性のせめぎ合いに苦悩するのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夕食を済ませたメルエーナは、一人で食器洗いをしながら重いため息をつく。

 いつもは、バルネアとジェノを交えた楽しい夕食なのだが、先の一件の気まずさがあって、メルエーナはあまり話をすることが出来なかった。

 

 もともとジェノは無口なので、話を振らなければあまり喋ってくれない。

 そして、その沈黙がよけいメルエーナが口を開くのを躊躇させた。

 

 それでも意を決し、件の事についてもう一度しっかり謝ろうとしたのだが、ジェノに「別に、謝ることではない」と先に言われてしまい、それも叶わなかった。

 

「ううっ、どうしたらいいのでしょうか……」

 いろいろとジェノの裸身を思い出して、妄想にふけってしまったことが、今頃、罪悪感になってメルエーナを苛む。

 

 メルエーナが後片付けを引き受ける旨を伝えると、バルネアも今日は疲れたのか、早々に自室に引き上げてしまったので、相談できる相手もいない。

 

 メルエーナはもう一度、重いため息をつく。

 

「……駄目ですね。お風呂に入って、少し気分を切り替えましょう」

 全ての片付けを終えたメルエーナは、そう考えて、自室に一旦戻り、準備をしてから浴室に向かうことにする。

 

 そして、脱衣所までやって来たメルエーナだったが、やはり先程の事故の現場ということもあり、もう一度あの時の光景をフラッシュバックしてしまい、顔を真っ赤にして両手でそれを押さえる。

 

 それでもなんとか衣類を脱ぎ、浴室に入ると、体をしっかり洗って、煩悩を払おうと努力をした。

 ……無駄な努力だったが。

 

 浴室に取り付けられた姿見で自分の顔と控えめな胸を確認し、メルエーナはがっくりと肩を落とす。

 いろいろと努力はしているのだが、母のようにはこの部分は育ってくれない。

 

 ジェノの嗜好がそうだとは断言できないが、一般的に男性は胸の大きな女性を好むという話を友人達から聞いている。

 すると、自分のような貧相な体ではジェノに興味を持ってもらえないだろう。

 

「ジェノさんの体は、本当に男の人らしい体でした……。それに見合うのはやっぱり……」

 メルエーナは裸のジェノに抱きしめられる、胸の大きな女性の姿を妄想する。そして、その妄想した女性が、見知った美しい少女の顔に、マリアのそれに変わり、慌てて頭を振ってその妄想を消す。

 

「……あんなに綺麗なだけでなく、胸まで大きいなんてずるいです……」

 メルエーナはそう言ってため息を付き、湯に体を委ねることにした。

 

 疲れは取れていくが、気分が一向に晴れない。

 ジェノに対する申し訳無さや、自分の浅ましさや、この体の貧相さ等で頭がぐるぐる回り、ため息ばかりが漏れる。

 

「ううっ、やっぱりこのままでは駄目です。でも、こんな事をバルネアさんに相談するわけには……」

 バルネアも実はかなり異性交遊に寛容だ。寛容すぎるほどに。

 考えてみれば、バルネアは十六歳で結婚して旦那さんも居たのだから、そうなるのも仕方がないのだろう。

 

 とは言え、こんな事を話そうものならば、自分の母並みに積極的にジェノとのことをプッシュされそうで、メルエーナは不安で仕方がない。

 

「やはり、友人に相談するべきでしょうか? となると……」

 パメラの顔が最初に浮かんだが、先の一件を思い出し、メルエーナは速攻で候補から外した。

 彼女にこんな事を話せば、どうなるかの想像はつく。

 

 あと、これほど重要なことを話せる相手となると、リリィかイルリアになるが……。

 

「明日には食事を食べに来ると言っていましたし、ここは、イルリアさんに相談してみましょう!」

 メルエーナは、イルリアに白羽の矢を立てた。

 

 リリィが悪いわけではもちろん無いが、イルリアの方がこういった事柄も淡々と意見をくれそうだと考えたためだ。

 

 メルエーナはそう決めると、少しだけ気持ちが落ち着いた。

 

 本当に、友人とはありがたいものだとメルエーナは痛感する。

 

 ……けれど、事はそう上手くはいかないのである。



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予告編②+ 『思春期少女とハプニング』(中編)

 どうしてこうなってしまったのだろう?

 

「で、どういうことなのかなぁ、メル」

「パメラさんのいうとおりよ。しっかり説明して、メル」

 

 パメラの青い目とリリィの茶色い目は、キラキラ……いや、ギラギラと輝いている。

 

「うっ、うう……」

 メルエーナは助けを求めるように、イルリアの方を見たが、彼女は「諦めなさい。タイミングがあまりにも悪かったのよ」とにべもない。

 

 ここは、パメラの勤めている神殿の近くの喫茶店<優しい光>の一番奥の席である。

 

 つい先程まで<パニヨン>に居たのに、メルエーナはここに連行されてきたのだ。

 

 こんなはずではなかった。

 そう嘆いても詮無きことだが、メルエーナは嘆くのを止められなかった。

 

 

 ◇

 

 

 当初の予定通り、<パニヨン>に少し遅めの昼食を食べに来たイルリアに、メルエーナは、食事が終わってから相談したいことがあると持ちかけた。

 そして、面倒見のよいイルリアはそれを快諾してくれた。

 

 ここまでは予定通りだったのだが、そこに、メルエーナ達の共通の友人で、女神リーシスに仕える神官であるパメラと、これまた共通の友人であるリリィが仲良く連れ立って店に食事に来たのだ。

 

「バルネアさん、お肉を食べさせて下さい! 私の体はお肉を求めています!」

 お客様が見知った顔しか居ないとは言え、パメラは店に入ってくるなり、神官にあるまじき俗っぽい注文をバルネアにする。

 

「いらっしゃい、パメラちゃん。お肉を食べてはいけない期間が終わったのね。任せて。美味しい料理を作って上げるから。豚肉、牛肉、鶏肉をそれぞれ使った料理を作るわね」

「はい! 今の私なら、牛一頭分のお肉を食べられそうです!」

 神殿で説法をしている時の凛々しい姿は、今のパメラにはまるで感じられない。ここにいるのは、肉に飢えた、食欲の権化の年若い女性だった。

 

「リリィちゃんも、同じでいい? それともあっさりとした物のほうがいいかしら?」

「私も同じものでお願いします。ここに来るまでに、パメラさんに肉料理の話を聞いていたので、すっかり口がお肉を食べる準備をしてしまいまして」

 少し恥ずかしそうに、リリィはリクエストをする。

 

 バルネアはにっこり微笑み、材料を取るために食料庫の方に向かっていった。

 

「いらっしゃいませ、パメラさん、リリィさん」

 メルエーナは、友人二人の来店を歓迎し、手近なテーブルに案内する。

 

「あら、こんにちは、メル。今日も可愛いわね。お姉さんは嬉しいわよ」

「こんにちは、メル。少しご無沙汰だったけれど、元気だった?」

「はい。私は元気です」

 メルエーナは内心の不安を隠し、笑顔で答える。

 

「そう、良かったわ。なんでも、ジェノさんを狙うライバルが現れたなんて話を聞いたから、心配していたのよ」

「……あっ、いえ、そんなことは」

 リリィに痛いところを突かれ、メルエーナの笑顔が曇る。

 

「あらっ、メル? その顔は、ジェノ君と上手く行っていないの?」

「そっ、そんなことはないですよ」

 メルエーナは笑顔でそう返したが、そこでパメラは「嘘ね」と断言する。

 

「こう見えても、私はリーシス様にお使えする神官。私に嘘は通じません。水臭いですよ。なにか困っていることがあるのであれば、真っ先に私に相談なさい。迷える者を救うことこそ、私の喜びなのですから」

 居住まいを正し、コホンとパメラは咳払いをしてよそ行きの笑顔を浮かべる。

 

 その笑顔には品があり、年若いながらも立派な神官に見えるだろう。

 ……先程の、肉を求める発言さえ聞いていなければ。

 

「あっ、いえ、その……」

「何ですか、信徒メルエーナ。もしや貴女は、リーシス様の教えに背く悪行を行っているのですか?」

「いっ、いえ、決してそのようなことは……。それに、あれはただの事故なので……」

 つい昨日の自分の失態を思い出し、メルエーナは余計なことを口走ってしまった。

 

 瞬間、パメラの、いや、リリィとイルリアの目にも好奇の光が宿る。

 

「どうやら、貴女は罪を犯してしまったようですね。大丈夫です。私はリーシス様に仕える神官として、貴女の懺悔を受け入れましょう。……昼食が終わってからになりますが」

「あっ、私も知りたい。後学のために!」

「まぁ、私には初めから話してくれるつもりだったのだから、参加しても問題ないわよね?」

 三人に迫られ、メルエーナは嫌と言うことが出来ず、彼女たちの昼食後に、馴染みの喫茶店に半分拉致されるように引っ張られて行くことになったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 馴染みの喫茶店、<優しい光>の最奥の席に陣取ったパメラ達三人が対面に座り、一人で彼女達の視線を受けるメルエーナは、まるで罪人になったようだと思った。

 

 そして注文した飲み物がやってくると、いよいよメルエーナは三人に詰め寄られ、泣く泣く昨日の一件を話さざるを得なくなってしまった。

 

「えっ? 浴室に押しかけて、ジェノ君の裸を覗き見したの?」

 一連の説明を聞いたパメラが、驚愕の表情で尋ねてくる。

 

「そんな不埒なことはしていません! ただの事故だと説明したじゃあないですか!」

 メルエーナはそれに断固として抗議する。

 

「そうよね。同じ屋根の下で暮らしていれば、そういうこともあるわよね。でも、ジェノさんの裸か……」

 リリィは何を想像したのか、顔を真っ赤にして「きゃあ~」と声を上げる。

 

「あのねぇ、メル。あの馬鹿はまるで気にしていないんでしょう? だったら貴女も気にしないで放っておけばいいじゃあないの」

 リリィとは対象的に、イルリアは冷めた口調で言う。

 

「いや、ちょっと待ちなさい、イルリア! メルがここまで悩んでいるのは、もしかして、メルが見たジェノ君の裸で、何か見逃せない事があったのかも知れないわ!」

「……えっ?」

 メルエーナには、パメラが何を言わんとしているのか分からない。

 ただ、彼女の鼻息が随分荒くなってきていることだけは分かった。

 

「……あの、パメラさん?」

「大丈夫よ、メル。無理に言葉にしようとしなくても。私が必要なことを質問するから、貴女はそれに答えるだけでいいわ」

 

「あっ、あの、ですから……」

 メルエーナは説明を求めようとしたが、パメラは「大丈夫よ、分かっているから」と一人で納得し、手をメルエーナの前において、何度も頷く。

 

「それじゃあ、メル。私の質問に答えて。その、ジェノ君てば、やっぱり、おっ、大きかったの?」

 鼻息の荒いパメラの問。何故かそれを聞いているリリィも、食入り気味にメルエーナに顔を近づけて詰め寄る。

 イルリアはつまらなそうに紅茶を飲んでいるが、耳がこちらを向いているような気がするのは気のせいだろうか?

 

「なっ、何を訊いているんですか!」

 メルエーナはジェノの逞しい裸を思い出してしまい、抗議の声を上げる。

 

「何を言っているのよ! すごく大事なことよ。相性ってすごく大事なんだから! そのせいで分かれるカップルの話は一つや二つではないのよ!」

 息を荒くするパメラの目は座っている。

 その目が、いいから答えなさいと言っているようで、メルエーナは恐怖を覚える。

 

 そこで、メルエーナは端ないと思いながらも、ジェノの裸をもう一度思い出す。あの、鍛え上げられて見事にカッティングされた男性らしい素晴らしい裸身を。

 

 そして、自分の貧相な女らしいとは言えない体をそれと比較し、がっくりと肩を落とす。

 自分は背も大きくなく、長身のジェノとはバランスが取れないのは確かだろう。そういう意味では、自分と比較してジェノの体は圧倒的に大きいといえる。

 

「……そっ、その、すごく大きかったです。私なんかとは比較にならないくらいに……」

 メルエーナは羞恥を堪えてそう答えると、パメラは「そっ、そんなに?」と上ずった声で尋ねてくる。

 さらに、リリィまで呼吸を荒くして、こちらを見ている。

 正直、かなり怖い。

 

 イルリアに目をやると、彼女は普段と変わりない様子だったが、その耳がぴくぴくと動いているのはどうしてだろうか?

 

「そっ、そんなに逞しいの、ジェノ君?」

「あっ、その、はい……。私のお父さんもすごいですけれど、ジェノさんは更に逞しくて……。それに、その、正直、素敵だと思ってしまいました。あまりにも立派でしたから……」

 

 鍛えに鍛え抜いた男性の体というものは、あれほど立派で美しいものとは知らなかった。

 

 メルエーナは恥ずかしくは思いながらも、あまりにも真剣なパメラにはっきりと答えなければと思い、正直な気持ちを吐露する。

 

「すっ、素敵? そっ、それに、りっ、立派! 立派なの?」

「メル、その辺り、もう少し詳しく!」

 息がかかる距離までパメラとリリィの顔が近づいてくる。気のせいか、座っているイルリアの体も先程より近い気がする。

 

「おっ、落ち着いて下さい! どうしてそんなに皆さん、怖い顔をしているんですか?」

「怖い顔なんてしていないわよ! こっ、これは、決して好奇心ではなくて、悩める信徒の懺悔を聞くために懸命になっているからよ……」

「そっ、そうよ。後学のためもあるけれど、私もメルの事を心配して……」

 

 鼻息の荒い二人に詰め寄られ、メルエーナは思わず椅子に座ったまま後退りする。

 だが、不意に彼女の椅子は動かなくなった。

 いつの間にか彼女の後ろに回ったイルリアに、椅子を掴まれて動きを封じられてしまったのだ。

 

「いっ、イルリアさん?」

「逃げ場はないわよ。いいから、全て話しなさい。子どもを産めるかどうかにも影響するんだから、しっかり相談しておいたほうがいいわ」

 イルリアの呼吸もやや荒くなってきている。

 

 その事に不安を覚えながらも、メルエーナはそこでどうして『子ども』などという単語が出てくるのかが分からなかった。

 

 何かが、根本的な何かがずれている気がする。

 メルエーナはようやくその事に気づく。

 そして、先程までの自分の会話と彼女達の、この興奮しきった状態から、メルエーナは一つの仮説に行き着いた。

 

 ……行き着いてしまった。

 

 瞬間、メルエーナの顔が茹でダコのように真っ赤になり、

 

「違います! 皆さんは、大きな誤解をしています!」

 

 そんな絶叫が、喫茶店<優しい光>に響き渡ったのであった。



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予告編②+ 『思春期少女とハプニング』(後編)

 あれから懸命に勘違いを正すべく説明をしたところ、パメラ達に呆れられてしまった。

 

 それでも優しいリリィは、

 

「まぁ、上半身だけとは言え、いきなり裸を目の前にしたら驚くよね」

 

 と擁護してくれた。

 

 しかし、パメラからは、

 

「相変わらずヘタレねぇ。そんなことじゃあ、ジェノ君を盗られちゃうわよ」

 

 と嫌味を言われた。

 

 更にイルリアからは、

 

「その程度のことでもやもやしていたの? 欲求不満なんじゃないの? というか、ムッツリスケベというやつかしら?」

 

 と酷いことを言われた。

 

 メルエーナは本気で泣き出したくなった。

 

「メル。お詫びというのは大げさかもしれないけれど、ジェノさんに何かお土産を買って帰るのはどうかな?」

 遠慮がちに、リリィは自分の意見を言う。

 

「お土産ですか?」

「うん。手作りだと重すぎるから、市販の少し良いケーキでも買って帰るのはどうかな? そして、それを手渡して昨日はすみませんでしたって謝るの。

 メルからのものなら、ジェノさんも受け取ってくれるだろうし、そうしたらそこでその話は終わり。……これが一番じゃあないかな?」

「それは、素晴らしいアイデアです!」

 リリィの助言に、メルエーナは笑顔を浮かべる。

 だが……。

 

「温い、温すぎるわ、リリィ!」

 そこに、パメラが口を挟んできた。

 

「あっ、あの、パメラさん? 何か不味い点がありましたでしょうか?」

 リリィはパメラの迫力に気後れしながら尋ねる。

 

「全部駄目よ! それではジェノ君の裸なんて、その辺りに売っているケーキと同じ価値に過ぎないと言っているようなものよ!」

「あんな奴の裸なんて、それだけ払えばお釣りが来ると思いますけど」

 熱弁するパメラと冷静なイルリア。

 

 メルエーナはどちらに同意も不同意も出来ず、言葉に詰まる。

 

「メル。『目には目を、歯に歯を』よ。裸を見てしまったのなら、こちらもお詫びに一糸まとわぬ姿を見せてあげるしかないわ!」

「できるわけありません、そんなこと!」

「大丈夫。大丈夫よ。今、リーシス様は私に語りかけて、「行け」と仰っているわ!」

「そんな事を、本当に女神リーシス様が仰っているんですか?!」

 本来、神官様の言葉は重みがあるのだが、今のパメラは明らかに興奮して我を忘れているように見えるので、信用できない。

 

「後はやることを二人でしっぽり楽しんで、子どもが出来たらリーシス様は万々歳よ! 更に子どもも信徒になってくれれば言うことないわ! ああっ、素晴らしきかな、女神リーシス様!」

 パメラは明らかに自分の言葉に酔っている。

 

「ねぇ、メル。私と同じ、商売の神様に信仰変えしない?」

「はっ、はい。正直、前向きに検討したいと思ってしまいました」

 イルリアの誘いを、半分近く本気で考えてしまったメルエーナは、重いため息をつく。

 

 その後もパメラは熱弁を続けたが、彼女がいつまで経っても戻ってこないために探しに来た先輩神官たちに見つかり、強制的に連れ戻されていった。

 

 そしてパメラは、期間が終わったにも関わらずに、大好きな肉食を一週間禁止されることになったと、後日、血の涙を流さんばかりの形相で野菜づくしの料理を<パニヨン>で注文しながら嘆いていたが、まぁ、それはどうでもいい話である。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夏なので、まだ日は傾いていないが、随分と長い時間を喫茶店で過ごしてしまった。

 

 結局、メルエーナはリリィのアイデアを採用し、ケーキの専門店で少し高級なケーキを買い、それを手にして<パニヨン>に戻った。

 

 すると、すでに帰っていたジェノが、「おかえり」と出迎えてくれた。

 バルネアさんは、厨房でなにか料理をしているようだ。

  

 ジェノはもう汗を流したようで、部屋着を身に着けている。

 それを確認し、メルエーナは意を決して、ジェノに話しかけた。

 

「じぇ、ジェノさん!」

「なんだ?」

 ジェノのそっけない返答に気後れしそうになりながらも、メルエーナは手にしていた袋を彼に向かって差し出す。

 

「そっ、その! 昨日は本当に申し訳ありませんでした! その、こんなものでお詫びにはならないかも知れませんが、受け取って下さい!」

 メルエーナは勇気を振り絞って、ジェノの顔を伺う。

 

 すると、ジェノは僅かに首を傾げ、「昨日? お詫び?」と呟いて怪訝な顔をする。

 

「そっ、その、脱衣所で……」

 またあの時見てしまった光景を思い出し、顔を真っ赤にしながらも、メルエーナは差し出した手を引っ込めない。

 

「……ああ、あれか。すまん。忘れていた」

 ジェノのその言葉に、メルエーナは体の力が抜ける思いだった。

 

「うっ、うう。その、私……」

 なんだか一人で悩んでいた自分が馬鹿のようで、メルエーナの目に涙が浮かぶ。

 

「まったく、律儀だな、お前は」

 けれど、ジェノは何故か優しい笑顔を浮かべ、メルエーナが差し出し続けていた袋を受け取った。

 

「ふっ、はははっ」

 何が面白いのか、めったに笑わないジェノが、袋を受け取ってからも笑っている。

 

 メルエーナはその事に気分を害するよりも、不思議な気持ちでいっぱいだった。

 

「ああ、すまない。失笑だった」

 ジェノはそう言って笑うのを止めると、いつもの無表情に戻る。

 

「だが、メル。男は裸を見られた程度でどうとは思わん。そんなふうに気を使いすぎるな。……しかし、まさか、あの程度でお詫びとは……」

 無表情に戻ったはずのジェノだったが、また口元を綻ばして小さく笑う。

 

「むぅ。ジェノさん。そっ、そんなに笑わなくてもいいじゃあないですか……」

 流石に笑い過ぎだと思ってメルエーナが抗議すると、ジェノは「ああ、すまない」と言いながらも、なかなか笑うのを止めない。

 

「だが、そこがお前のかわ……いや、良いところだな。分かった。侘びは確かに受け取った。もうこの話はここまでにしよう」

 ジェノは今度こそ無表情のいつもの顔に戻り、頷く。

 

「よかった……」

 メルエーナは、ほっとして、胸をなでおろした。

 

「メルエーナ。そろそろ夕食の準備だぞ」

「あっ、はい。分かっています!」

 無表情ながら、ジェノの声は優しかった。

 そのため、メルエーナも上機嫌でそれに応える。

 

 そしてそれからは、気まずさはなくなり、またいつもと同じ楽しい時間が戻ってきたのだった。

 

 

 ……だから、この時のメルエーナは深く考えなかった。

 どうして、ジェノが笑ったのかを。それもあんなに微笑ましげに。

 

 それをメルエーナが理解するのはもう少し先の話。

 ジェノの忌まわしい過去を知ってからのことだった。



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予告編③ 『神官とお肉の恩』

 それは、もう見た目から幸せに溢れている。

 熱々に熱されたその牛肉の塊から滴り落ちる油と、かぐわしい香り。

 

「……このセロリスティック、瑞々しいわね。青臭い匂いもしないし、美味しいわ……」

 

 少し厚めの方が好き。大好き。その方が、表面に振られたスパイスの旨味と、中から溢れ出る肉汁の旨味と合わさってたまらないから。

 

「……じゃがいも、甘いわね。スパイスも素敵だわ……」

 

 いや、贅沢は言わない。薄切りの豚肉も十分すぎるほど美味しい。

 それに、中毒性は牛肉以上だ。

 ただ、赤みだけでなく脂身も少しだけ加えて欲しい。

 赤身だけの方が味わい深い? 脂身は邪魔? 知るか! こっちとら粗食で脂分が不足しとるんじゃい! いいから脂もよこしなさい!

 

「玉ねぎの炒めもの……。ははっ、これも甘くて美味しいわ……」

 

 ああっ、ぶつ切りの鶏肉も食べたい。

 あの皮の脂身と肉の味わいが渾然一体となった味と言ったら……。

 タレもいいけれど、私は塩コショウが好きだ。

 

 少し濃い目の味付けのそれを主食と一緒に頬張るのだ。

 パンとの相性も悪くないが、個人的にはライスが最高!

 

 この暑い時期には濃い目の味付けが体に嬉しいし、美味しい。それを甘いライスと一緒に頬張る幸せと言ったらこの上ない。

 

「ああっ、夏の日差しが眩しい、体が塩分を欲するこの時期に、ヘルシーな野菜達とパンの食事は最高ね……」

 

 言葉とは裏腹に、バルネア特製の野菜料理を食べながら、パメラは生気のない目で力なく笑っている。

 

 

 

 

 今日も、他のお客様とは異なり、昼どきを少し外れた時間に<パニヨン>を訪れて来たのは、メルエーナの一つ年上の友人だった。

 彼女の名はパメラ。今は生気のない顔をしているが、豊穣の女神リーシスに仕える若き神官である。

 淡い金色の髪を肩のあたりで切りそろえた、少し背が高めの女性で、彼女が説法する姿に憧れて、神官を志す少女も後を絶たないらしい。

 

 ただ、そんな少女達の夢を壊してしまうので、こんな彼女の姿は他の人には見せられないとメルエーナは思う。

 

「ああっ、誰か私のことをお嫁に貰って、神殿から連れ出してよぉ。そして、私に毎日お肉を食べさせて……」

 パメラは力なくテーブルに突っ伏し、とんでもない発言をする。

 これが同じ神殿で働く人間の耳に入りでもしたら、ただではすまないだろう

 

 先日、メルエーナを喫茶店に連れ込んで仕事をサボっていた罰を受け、パメラは粗食の期間が終わったにもかかわらず、肉を食べるのを一週間禁止されてしまったのだと言う。

 

 ……ちなみに、今日はまだ二日目であるらしいのだが、もう完全に彼女は参っている。

 

「そもそも、リーシス様は肉食を禁じてはいないのよ。ただ、肉ばかりでなく野菜も食べなさいって教えを残しただけなのに、どっかの自分を追い詰めることに快感を覚える変態が、さも美談のように『粗食の期間』なんてのを作ったのが悪いのよ」

 パメラの発言は、だんだん過激になっていく。

 

「あっ、あの、パメラさん……」

 メルエーナも流石に心配になり、声をかける。

 

「ねぇ、メル? 貴方の家でお肉を食べてはいけない日なんてあった?」

 パメラはムクリと起き上がり、メルエーナに尋ねてくる。

 

「いっ、いいえ。ありませんでした……」

 奇怪な行動に驚きながらも、メルエーナがそう答えると、パメラは「そうよね! ないわよね!」と言い、何度も首を縦に振る。

 

「ううっ、リーシス様に仕えるのは私の天職、運命なのは間違いないけれど、お肉だけは食べたいの。どうしても食べたいのよぉぉぉぉぉぉっ!」

 頷いていたかと思うと、今度は泣き出すパメラに、メルエーナは困り果てる。

 

 下手な酔っぱらいよりもずっとたちが悪い。

 

「バルネアさん、何かいい方法はありませんか?」

 今、店にいるのは自分とパメラとバルネアだけなので、メルエーナはバルネアに助けを求める。

 

「う~ん。助けてあげたいのだけれど、お肉の代用料理は、もう大体パメラちゃんに食べてもらっているのよね。でも、イマイチだったみたいで……」

 バルネアは顎に手をやって何やら考え込んでいる。

 その目は、普段ののほほんとしたものではなく真剣そのものだ。

 

「ううっ、ごめんなさい、バルネアさん。バルネアさんの代用料理は素晴らしく美味しいんですが、肉の味に近いものを食べるほどに、本当のお肉が食べたくなってしまうんです」

 自らの肉に対する愛情の深さ故に苦しむパメラに、メルエーナもどうしたものかと考える。

 

 正直、バルネアさんほどの知識は自分にはない。だから、同じ発想をしては駄目だ。

 お肉の代用品を探すのではなく、どうにかしてお肉を食べた満足感をパメラさんに感じてもらわないと。

 

「……あっ……」

 メルエーナはふと悪いことを思いついてしまった。

 

 けれど、これを実行してもいいだろうか?

 お店に迷惑をかけることになるのではないか?

 

 メルエーナはそう悩んだが、テーブルに突っ伏しながら、「お肉ぅぅっ……」と嘆いているパメラを見て、覚悟を決める。

 

「あっ、あの、パメラさん。その、お肉を食べるのを禁止されている期間に、他所で食事にお呼ばれして、お肉料理が出された場合はどうされるんですか?」

「ううっ、その場合は、手を付けないわよ。もちろん、事前に宗教上の理由で食べられないことは伝えておくから、あまりそういったケースは少ないけれどね」

「もしも、スープにお肉が少し入っていた場合はどうですか?」

「……ええと、その場合は、流石に全く手を付けないわけではなくて、お肉を避けてスープだけを頂くこともあるわ。でも、私はお肉が食べたいの……。スープじゃあ、そんな肉汁を薄めたものじゃあ、悲しすぎるわ……」

 パメラはそう言って嘆くが、メルエーナはその答えに笑顔を浮かべる。

 

「バルネアさん。相談したいことがあるのですが……」

「あらっ、なにか思いついたみたいね」

 メルエーナの気持ちを察し、バルネアは笑みを浮かべている。

 

「ええと、その、ものすごく強引な方法なんですが……」

「なになに、聞かせて」

 メルエーナは自分の考えた無茶苦茶な方法をバルネアに話す。すると、バルネアは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。

 

「なるほどね。それは盲点だったわ。ついついお肉の代わりになりそうなものばかりを考えてしまっていたわ」

「ですが、これはかなりギリギリの方法というか、どちらかと言うとやってはいけないことだと思うのですが……」

「構わないわよ。私のモットーは、『料理は人を幸せにするためにある』だもの!」

 バルネアはにっこり微笑むと、素早く調理に取り掛かる。

 

「ああっ、この香りは、牛肉……。ああっ、芳しい匂い……」

 テーブルに突っ伏したままのパメラが、バルネアの料理の匂いを嗅いで、嬉しそうな顔をしたかと思うと、すぐに悲しそうな顔になって、涙を零す。

 

「メルちゃん、お肉は先にカットしてしまっても良いかしら? 肉汁が出てしまうけれど」

「はい。それでお願いします」

 メルエーナは笑顔で応え、パメラと同じテーブルの席に、向かいに座る。

 

「メル、貴女の今日のまかないは、まさか……」

「はい。牛肉が余っていたので、ステーキです」

 メルエーナが答えると、パメラは落雷が落ちたかのような驚愕の表情を浮かべて、固まる。

 

「なっ、なっ、ステーキ……。この私の前で、まさかそのまかないを食べようというの?」

「はい。一緒に食べましょう」

「うっ、ううっ。酷い! メルがこんな意地悪だなんて……。お姉さん、見損なったわよ!」

 パメラはぷいっと顔を横に向けて拗ねる。

 

「はい。おまたせ、メルちゃん。牛肉のステーキよ。パンも一緒に召し上がれ」

「わぁ、ありがとうございます、バルネアさん」

「ううっ、お肉……お肉……」

 ステーキが運ばれてくると、パメラは一層悲しそうな顔をする。

 

 しかし、それはすぐに驚きに変わる。

 

「そして、パメラちゃんには、これね」

 バルネアがそう言って、深皿いっぱいに入った米料理をパメラの前に配膳したのだ。

 

「バルネアさん、その、この料理は?」

 驚くパメラに、バルネアとメルエーナはにっこり微笑む。

 

「バルネアさん。これは、炒飯ですか? たしか、お米を油で炒めた料理ですよね」

「ええ。パメラちゃんの食が進んでいないようだから、これなら食べてもらえるかなって思ったの」

「いいですね。塩分も脂分もしっかり取れますしね」

「あっ、でも私ったらうっかり、メルちゃんのステーキを焼いたフライパンで作ってしまったわ。お肉の肉汁がたっぷり残ったフライパンで……」

「あら。バルネアさんがそんなミスをするなんて珍しいですね。でも、大丈夫ですよ。お肉そのものは一欠片も入っていないのであれば、肉を除いてスープを飲むのと大差はないですよ」

 

 呆然とするパメラを蚊帳の外に、メルエーナとバルネアは白々しい会話を繰り返す。

 

「そうですよね、パメラさん?」

 メルエーナが笑顔で尋ねると、パメラは眼前の炒飯とメルエーナたちの顔を交互に見つめ、その意図を理解してくれた。

 

「そっ、そうね。お肉そのものが入っていないのであれば、問題ないわね!」

 パメラはそう言うと、笑顔でバルネアから渡されたスプーンを手に取る。

 

「バルネアさん、メル。お二人の気持ち、しっかり味あわせて頂きます」

 片手で目の端の涙を拭い、パメラは炒飯にスプーンを伸ばして口に運ぶ。

 

「うっ、うううっ……。美味しい! 美味しいわ! お肉、お肉とお米と香味野菜のこの渾然一体となった美味しさ……。ああっ、生きていてよかった!」

 パメラは歓喜の声を上げたかと思うと、後は無言でスプーンを動かして食べ続ける。

 

 その幸せな姿を目にしながら、メルエーナはバルネアに向かって微笑み、少し肉汁が抜けてしまっているにも関わらず、それでも美味しいと思えるステーキを口にするのだった。

 

 

 

「本当に美味しかったです。ご馳走様でした」

 匂い消し……もとい、特製ハーブティーを飲み干したパメラは、先程までとは打って変わって満面の笑顔でメルエーナとバルネアにお礼を言い、会計を済ませる。

 

「お客さんが少ないと、また、私が失敗するかも知れないから、時間帯を見計らってきてね」

 バルネアのその言葉に、「はい」と満面の笑顔を浮かべて、パメラはバルネアの両手を握る。

 

「メル、ありがとう。貴女は、私の心を救ってくれたわ!」

「おっ、大げさですよ、パメラさん」

「いいえ。お肉の恩を私は絶対に忘れないわ。今度、貴女が困っていることがあれば、私は何があろうと貴女を助けるわ」

 パメラはそう言ってメルエーナの手もガッチリと握る。

 

「それじゃあ、午後からのお仕事を頑張ってきます!」

 普段の頼りになるお姉さんの顔に戻り、パメラは<パニヨン>を後にしていった。

 

 この時、メルエーナはバルネアと一緒に、パメラが笑顔になってくれたことをただ喜んでいた。

 

 だから、パメラがその後、この約束を本当に果たしてくれるとは思っていなかった。

 

 人生で一番の苦しみを味合うことになった時に、パメラの存在がどれほど救いになるのかを、まだこの時のメルエーナは知る由もなかったのだ。



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予告編④ 『夏のとある日』①

 夏の日差しを避けるように日陰に居たジェノは、見るとはなしにナイムの街の大通りの方を眺めていた。

 

 あれは、異国の衣装だろうか? あの馬車は、何を積んできたのだろうか?

 

 多くの人々が行き交うその通りを見ているだけで、様々な情報がもたらされる。

 

 普段から無表情なことが多いので誤解されやすいが、ジェノはこういった待ち時間は嫌いではない。むしろ、何も考えずに、様々な光景をただ眺めているのが好きなのだ。

 

「早いものだな」

 もう、この街に来て三年の月日が流れたのかと、ジェノは思う。

 ただ、年齢も十八になり、大人の仲間入りとなったのだが、まるで実感がわかない。

 

 あの十五歳の時の自分よりは、進歩しているのだろうかと不安になる。

 それくらい、ジェノは自らの進歩を感じることが出来ないでいた。

 

「ジェノさん、お待たせしました」

「いや。ほとんど待っていない」

 ジェノは端的にメルエーナに応え、彼女と一緒に歩きだす。

 

 メルエーナは白い半袖のシャツに灰色のスカートというシンプルな服装だった。それが、彼女の素朴な雰囲気に合っていていいと思う。

 

 だが、自分の感想などどうでもいいだろう。だから別段、口に出すべきことではない。

 

 ジェノはそう思い、メルエーナに何も言わなかった。

 

「ジェノさん。お店に行く前に、海の方に行ってみませんか?」

 メルエーナからの突然の提案に、しかし、ジェノは「分かった」と頷く。

 

 今日は、メルエーナに頼まれ、彼女の水着を買いに行く予定なのだが、寄り道をするくらいの時間の余裕はある。

 それに、いくらなんでも、目的の店にいきなり行ってものを買ってお終いという買い物が面白くないことくらいはジェノにも分かる。

 

(まぁ、俺に頼むよりも、女友達に頼んで水着は選んだほうがいいと思うのだがな)

 そんな気持ちを飲み込み、ジェノはメルエーナの歩幅に合わせてゆっくりと海の方に向かう。

 

「ああっ、潮風が心地良いですね」

「そうだな。今日は少し涼しくて助かる」

 メルエーナに話を合わせると、彼女は何が楽しいのか、ニッコリと嬉しそうに微笑む。それを見ているのは、悪くない。

 悲しむ顔を見るより、笑顔を見るほうがずっといいとジェノも思う。

 

「おっ! ジェノさん!」

「何、ジェノさんがいるのか?」

 前から男たちの声が聞こえたかと思うと、人相のあまり良くない二十代半ばの男二人と、三十代前半の男一人が、ジェノのもとに駆け寄ってきて、「お久しぶりです、ジェノさん」と声を揃えて頭を下げる。

 

「ああ……」

 ジェノは嘆息混じりに応える。

 

「あっ、すみません。デートの最中に野暮なことを」

「ああ、そりゃあ本当に申し訳ねえ。ただ、俺達もすっかりデリアムさんのところで性根を入れ替えて働いている所をお見せしたかったんで」

「本当に、ジェノさんには感謝しています」

 三人の男達は、年下のジェノにペコペコ頭を下げて、また海岸の船着き場の近くに戻っていった。

 おそらく今は、休憩時間なのだろうとジェノは察する。

 

「すまない。いきなりのことで驚いただろう?」

 ジェノは申し訳無さそうに、あっけにとられているメルエーナに声をかける。

 

「はっ、はい。随分と年上のお友達がいらっしゃるんですね」

 メルエーナは苦笑交じりに言う。

 

「正直、俺も困っているんだ。俺のようなガキに、あんな喋り方をしなくていいと何度も言っているんだが……」

「何だか、随分とジェノさんに謙っていましたよね、皆さん」

 メルエーナはそう言いながら、申し訳無さそうな表情をする。

 

 言葉を聞くまでもなく分かる。

 今の男達とジェノの関係を知りたがっているのだ。

 

「歩きながら説明してもいいか?」

「はい。お願いします」

 メルエーナはまた嬉しそうに微笑む。

 本当に、何がそんなに嬉しいのだろうかとジェノは不思議に思うが、決してその事が不快ではなかった。

 

 ジェノは簡単にあの三人の男達との出会いについて話す。

 

「あいつらは、俺がこの街にやってきた時に俺を迎えに来てくれていたバルネアさんにちょっかいを出そうとしていた連中だ」

「えっ? バルネアさんに? ……あっ、ちょっとまってください。もしかして、ジェノさんがバルネアさんを助けるために痛い思いをさせた男の人達というのが、あの人達なんですか?」

 おそらくバルネアさんに聞いたのだろう。メルエーナもその時の話を少しは知っているようだ。

 

「ああ。そして、性懲りもなく、その事を根に持って、俺に復讐をしようとしていたんだ」

「……ええと、どういうことですか?」

 メルエーナは困ったような顔をする。それが、面白くて、ジェノは口の端をわずかに上げる。

 

「いや、なんとも馬鹿らしい話なんだが……」

 ジェノはそう前置きをして、話をすることにする。

 

 それは、ジェノがこの街で、まだ右も左も分からない時期の話。

 まだ幼さが残る頃の、そしてやさぐれていた時期の話だった。



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予告編④ 『夏のとある日』②

 長い船旅から開放されたジェノは、久しぶりの陸での生活を楽しむでもなく、一時とはいえ拠点となる現在居候させてもらっている家の周りを散策し、これからの生活の基盤を確立しようとしていた。

 

 この街の冒険者ギルドにも立ち寄り、挨拶をしてきたのもその一環だった。

 

 だが、その帰り道で、ジェノはさっそくトラブルに巻き込まれることとなる。

 

「たっ、助けてくれ!」

 大通りを歩いていた自分に、狭いわき道から駆け寄ってくるなり、跪いて懇願してくる二十代くらいの男の姿に、ジェノは呆れる。

 いや、これが見も知らずの人間ならばそんなことは思わないのだが、その男の顔はジェノの見知った顔だったのだ。

 

 つい昨日、このエルマイラム王国の首都ナイムにやってきたジェノには、バルネアの他には見知った顔はほとんどいない。けれど、この男の顔は数少ない例外の一人だった。

 

「何故、俺がお前の頼みを聞かなければいけないんだ?」

 ジェノは昨日、バルネアにちょっかいを出そうとしていた三人組の男の一人に冷たく問いかける。

 

「あっ! お前は!」

 今頃になって、この男も自分が誰であるかを理解したようで、忌々しげな顔をする。

 大方、帯剣している姿だけを確認して、すがりよってきたのだろう。

 

 だが、男はすぐに泣き出しそうな顔に変わると、地面に頭を擦りつけて、「済まなかった。もうあの女にちょっかいを掛けたりしないから、助けてくれ」と再度懇願してくる。

 

「おい! 仲間を置いて逃げるなよ」

 わき道から、白い衣服を身に着けた金色の髪を短く切った少年が現れ、恐怖に震える男に殺気を向ける。

 

 年は自分と同じくらいだろうか、とジェノはその少年を見る。その歩き方をだけでも、武術の覚えがあることが分かる。

 

「ひっ、ひぃぃぃぃっっ……」

 男は金髪の少年の姿に腰を抜かしながらも何とか逃げようとするが、すぐに少年に後ろ襟を掴まれてしまう。

 

「待て」

「んっ? ああ、協力に感謝する。こいつらは、逆恨みから狼藉を働こうとしていた連中なんだ。逃さないでいてくれて助かった。だが、ここからは俺たち自警団の管轄だ」

 ジェノの静止の声に、金髪の少年は簡単な説明をし、そのまま男を連れて行こうとする。

 

「待てと言っているのが聞こえないのか? この男たちが逆恨みをしている相手というのは、おそらく俺だ」

「何? お前が? ……すると、お前がバルネアさんの家に転がり込んだとかいう奴か」

「そうだ」

 ジェノはそこまで言うと、金髪の少年を睨みつける。

 

「随分と手荒いんだな、この街の自警団の仕事は」

「……何が言いたい?」

「血の臭いがする。そして、お前の服に付いているのは返り血だ。もう戦意がない人間をこれ以上痛めつけるのは止めろ。それは、ただの私刑だ」

 

 ジェノの指摘に、金髪の少年の顔つきが険しいものになる。

 

「俺は的はずれなことを言っているか? それならば、この道の奥でお前が何をしたのか見せてもらえるか?」

「取調べ中だ。部外者は引っ込んでいろ」

 金髪の少年の声に怒気がこもる。図星のようだ。

 

「俺はこいつらを助けてやる理由はない。だが、お前にいたぶられるのを見過ごすつもりもない」

「もう一度言うぞ。取調べ中だ。一般人は引っ込んでいろ」

 金髪の少年のその態度に、ジェノは不快感を顕にする。

 

「どこにでもいるんだな。権力を笠に着る奴というのは」

「何だと……」

 ジェノの言葉に、金髪の少年の声が危険なほど低くなる。一触即発の雰囲気だ。

 

 だがそこで、不意に第三者から声がかかった。

 

「何をやっている、レイ!」

 そんな声を上げたのは、二十代後半くらいの精悍な顔つきの深い茶色の髪の男だった。その男は、金髪の少年と同じ白い制服を身に着けている。

 そしてその後ろには、目の細い二十代前半くらいの青年の姿も見える。

 どうやら金髪の少年――レイの仲間なのだろう。

 

「団長……副団長まで……」

 レイは罰が悪そうな表情を浮かべる。

 

「君。うちの自警団の者が失礼をしたようだな」

 団長と呼ばれた男は、ジェノにそう謝罪をする。

 

「俺は何もされていない。されたのは、いまそのレイとかいう奴が首根っこを掴んでいる男の仲間だろう」

 ジェノがそこまで言うと、団長の後ろに居た糸目の男が路地裏の道に足を運ぶ。

 

 そして、そこから出てくるなり、その目の細い男は、レイの頬に拳を叩き込んだ。

 

「レイ! 何をしたんだ、君は。我々の仕事はこの街の治安を守ることだ。必要以上の罰を科すことではない!」

「……はい。すみません……」

 レイは渋々といった感じで、糸目の男に謝罪をする。

 

「君、済まなかったね。彼はうちの新人なんだが、少々先走るところがあってね。特に今回は、懇意にしている人に害が及んだと聞き……」

「そんな説明はどうでもいい。これが、あんた達自警団のやり方なのか? 必要以上に相手をいたぶり、権力を傘にそれを隠蔽しようとするのが」

 ジェノは糸目の男の言葉を遮り、彼と団長と呼ばれた男に尋ねる。

 

「ふっ。まるで、そうであれば許さんといった感じだな。止めておけ。もしもその剣を抜くのであれば、俺も抜かないわけにはいかなくなる。

 それなりに剣を扱えるようだ。相手の実力が分からないわけではないだろう?」

 団長という男の言葉にも、ジェノは怯まない。それが、事実だと分かっていても。

 

「俺がお前に敵わないことと、俺が剣を抜く事に、なんの関係があるんだ?」

 ジェノのその言葉に、団長はニッコリと微笑んだ。

 

「いやぁ、今どき、その歳でここまで肝の座った奴がいるとは驚きだ。うん、一般人にしておくのはもったいないくらいだな」

 団長の憎めない笑顔に、ジェノはすっかり毒気を抜かれてしまう。

 

「大丈夫だ。お前が思っているような腐敗した組織ではない。俺たちはな。俺の名前はガイウス。この自警団の団長だ。この俺の誇りにかけて、彼らを不当には扱わないことを誓う。傷の手当もすぐにさせる。安心してくれ」

「そんなこと、口ではなんとでも……」

「ああ、そうだな。だから、心配ならお前もついてこい。うちは万年人不足でな。有望な新人に飢えているんだ。お前のように腕が立つ上に、義憤を覚えられるような男は大歓迎だ」

 

 ジェノは戸惑いながらも、レイに首根っこを掴まれていた男の懇願もあって、自警団についていくことになった。

 

 これが、ジェノが初めて自警団の面々と顔を合わせることとなったきっかけだった。

 

 

 

 

 ジェノが一通りのことを話すと、メルエーナは不機嫌そうに頬を膨らます。

 

「その頃から、レイさんは無茶苦茶なことをしていたんですね」

 先の猿に似た化け物がこの街に現れた事件以降、メルエーナはどうもレイを嫌っているようだ。

 誰に対しても人当たりがいい彼女にしては珍しいとジェノは思う。

 

「そう言うな。あいつはあいつなりに一生懸命なだけだ。特に、バルネアさんに深い恩義を感じている。だから、バルネアさんにちょっかいを出そうとしていたと聞き、そしてその連中が良からぬ企てをしているのを知って、過激な行動に出てしまっただけだ」

「ですが……」

「あの頃の俺なら分からなかったが、今の俺なら、あいつの気持ちは分かる。もしも今、バルネアさんに誰かが害を加えようとしていたら、俺も冷静で居られる自信はないからな」

 ジェノは苦笑交じりに言う。

 

「少し休もうか?」

 海岸付近に置かれたベンチに足を運び、そこにメルエーナを座らせる。

 

「ああっ、風が本当に気持ちいいですね」

「そうだな」

 ジェノはメルエーナの後ろに立ち、日陰を作って彼女を日光から守る。

 

「そういえば、ジェノさん。どうして先程の話の中で、レイさんは三人が悪巧みをしていることが分かったんですか?」

 メルエーナの問に、ジェノは苦笑する。

 

「その前に俺とひと悶着あった際に、この港を取り仕切るデリアムという男が、あいつらがまた良からぬことを企てそうだと思い、見張りを付けていたんだそうだ。そして、その見張りから情報が自警団に流されたらしい」

「なるほど。ふふっ。やっぱりバルネアさんは、皆さんに慕われているんですね」

「ああ。素晴らしい人だ、本当に」

 ジェノは誇らしげに微笑む。

 

「そして、あの三人の男の人は、すぐに改心したんですか?」

「ああ。レイにボコボコにされたことが功を奏して、すっかりおとなしくなった。ただ、俺が自警団の様子を確認して帰ろうとすると、あいつらが俺を止めるんだ。俺の目がなくなると、またひどい目に合わされるかもと言ってな」

 ジェノが苦笑交じりに言うと、メルエーナはクスクスと笑う。

 

「そして、紆余曲折があり、ろくな職業に就いていなかったあいつらは、デリアムさんのところで性根を叩き直してもらうことになった。だが、それまでの引け目からか、俺に対する態度はあのとおりなんだ。まったく、困ったものだ」

 ジェノはそこまで話、少し自分に戸惑う。

 

 自分はいつの間に、こんなにも何気ない話を人に聞かせるようになっていたのだろうと。

 

「あっ、あの、ジェノさん……」

「なんだ?」

 メルエーナは頬を少し朱に染めて、何かを話そうとする。

 熱にやられていなければいいがとジェノは不安になる。

 

「そっ、その、さきほど、バルネアさんに誰かが害を加えようとしていたら冷静では居られないと言っていましたけれど、その、もしも、私に……」

「んっ? お前に害を加えようとする者が居た場合も同じだ。当たり前だろう」

 同じ家に住む家族のような存在なのだ。そんなことは訊かれるまでもない。

 

「そっ、そうですか。あっ、当たり前なんですね……」

 メルエーナはいよいよ顔を真っ赤にして、顔を両手で覆う。

 帽子を被ってこなかった事が悔やまれる。一旦、家に戻ったほうが良さそうだ。

 

「そっ、それじゃあ、行きましょうか、ジェノさん」

 しかし、そんなジェノの心配をよそに、メルエーナは静かにベンチから立ち上がる。

 

「大丈夫か、メルエーナ。顔が真っ赤だぞ」

「だっ、大丈夫です。むしろ、このまま座っていた方が危ないというか、なんというか……」

「んっ? まぁ、体に異常がないのならばいい。ただ、なにかあれば、すぐに言ってくれ」

 ジェノは心底心配して言ったのだが、メルエーナはやはり真っ赤な顔で「大丈夫です」と言い、何故か嬉しそうに微笑むのだった。



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予告編④ 『夏のとある日』③

 海岸沿いを、ジェノはメルエーナと連れだって歩く。

 

「皆さん、楽しそうですね」

 立ち止まり、浜辺でビーチボールで遊ぶ若い男女を見て、メルエーナは微笑む。

 

「……そうだな」

 ジェノもメルエーナと同じものを見て、微笑む。

 けれど……。

 

「ジェノさん……」

「どうした?」

 メルエーナが物悲しそうな瞳を向けてくることに、ジェノは内心で戸惑うが、普段と変わらぬ無表情で対応する。

 

 自分でも嫌になる時があるが、幼い頃からの癖は抜けない。

 この無表情で気持ちを悟らせないというのは、幼い頃から周りにあふれていた、騙そうとする人間や取り入ろうとする下心に溢れた人間から自分を守るための、ジェノなりの処世術なのだ。

 

「いえ、その……。どうして、そんな悲しそうな顔をしているのか分からなくて……」

 メルエーナの言葉に、ジェノは驚いた。

 

「……そんな顔をしていたつもりはないんだが」

「あっ、すみません。でも、どうしてか私にはそう見えてしまったんです」

 メルエーナは申し訳無さそうに謝罪する。

 

「謝る必要はない。そう見えたのなら、きっとそうなんだろう」

 ジェノは意識して微笑む。

 

「ジェノさん……」

「飲み物が売っているな。丁度いい」

 道の先で露天が出ていた。飲み物の他にアイスクリームまであるようだ。

 ジェノ達はそこまでのんびりと歩いていく。

 

「メルエーナ。何が良い?」

「えっ? あっ、ありがとうございます。そうですね。飲み物もいいですが、容器が邪魔になってしまいそうですので、アイスにしませんか?」

「そうか」

 売り子の年配の女性に、ジェノはアイスクリームを一つだけ注文する。

 

「あの、ジェノさんの分は?」

「俺は必要ない」

 端的に言いたいことを言い、ジェノは店の人からアイスを受け取ると、それをメルエーナに手渡す。

 

「あら、お嬢さん。私ったら、うっかりしていたよ。はい、これも」

 年配の女性が、メルエーナに紙製の折って作るスプーンを手渡す。

 その際に、なにか目配せらしき事をしていたように見えたが、もしかするとメルエーナの知り合いなのかもしれない。

 

「行こうか、メルエーナ」

 コーンに乗ったアイスクリームならば、歩きながらでも食べられるだろう。ジェノはそう思ったのだが、メルエーナはその場を動こうとしない。

 

「あっ、あの、ジェノさん!」

「どうした? また顔が赤いぞ。大丈夫か?」

「はっ、はい! 大丈夫です! ですから、その、ジェノさんも一口食べませんか?」

 メルエーナは顔を真っ赤にしながら、アイスクリームを手渡されたスプーンで一口すくい、ジェノに向かって差し出してくる。

 

「いや、俺は……」

「こらこら、彼氏さん。こんな可愛らしい彼女がこう言ってくれているんだよ。一口ぐらい食べてみなよ。うちのアイスクリームは美味しいんだから」

 店の店員の女性まで、何故かメルエーナの行動を後押しする。まぁ、彼女も商売をしているのだ。顧客の確保は重要なのだろうとジェノは判断する。

 

(そもそも、彼氏でも彼女でもないんだがな)

 そう言いたかったが、それを口に出しても面倒なことにしかならないのは分かっているので、先程の三人組にデートだと勘ぐられたときと同じ様に黙っていることにする。

 

「分かった。すまないが、スプーンをもう一本もらえないか?」

「あら、生憎と在庫が切れちまったみたいだね」

 店の営業をしている人間にあるまじき管理のずさんさだとジェノは思ったが、人の店のことだ。部外者が文句を言うのは筋違いだろう。

 

「ほら、溶ける前に早く食べなよ」

 何故か、店員は少し怒ったような口調で言う。

 こんな接客態度で良いのだろうかと、本気で心配になってくる。

 

「分かった。メルエーナ、スプーンを……」

「どうぞ、ジェノさん」

 メルエーナは真っ赤な顔で、スプーンに乗ったアイスの方を差し出してくる。どうやらスプーンは今後も使いたいようだ。すると、必然的にスプーンに口を付けないでアイスだけを食べることが求められる。

 

「メルエーナ。スプーンを使い回すのは不衛生……」

「どうぞ!」

 メルエーナは真っ赤な顔で、アイスの乗ったスプーンを押し付けてくる。

 怒ったような顔をしているが、彼女の体はわずかに震えている。

 

 まずい。また熱で体に異常が出ているのかもしれない。

 

「分かった。食べる。だから、お前もすぐに口に入れろ」

 ジェノはそう言って差し出されたスプーンからアイスを口に運んだ。

 

 口の中に、バニラの香りとアイスの甘さが口いっぱいに広がる。なるほど、たしかに美味しい。

 だが、今はそんなことよりもメルエーナが心配だ。

 

「わっ、私も頂きます!」

 メルエーナはジェノに使ったスプーンで素早くアイスをもう一口分取ると、それを自分の口に運んだ。

 

「メルエーナ。そういう意味じゃない……」

 確かに、すぐに口に入れろと言ったが、それはスプーンを使わずにかじりつけばいいと思ったから言ったのだ。

 

「いいんだよ、こういう意味で。まったく、お嬢ちゃんも苦労するね」

 店員の年配の女性が、こちらを睨んだかと思うと、メルエーナには同情するような視線を向ける。

 どういうことだ? まったく意味が分からない。

 

「おっ、美味しいですね、こっ、この、あっ、アイス……」

 メルエーナは顔から湯気が出るのではと思えるほど顔を真っ赤にして、アイスの味を評する。

 ただ、しどろもどろで、本当に味がわかっているのか不安に思えるのは何故だろう?

 

「じぇっ、ジェノさん、そっ、それでは、いっ、行きましょう! わっ、私は、その、あっ、アイスを食べながら、いっ、行きますので……」

「あっ、ああ。しかし、大丈夫か本当に?」

 メルエーナの顔から湯気が出ている気がしてならない。熱射病でもこんな酷い症状は出ないのではないだろうか?

 

「だっ、大丈夫です! わっ、私は、大丈夫です!」

「そうか……」

 一抹の不安は消えないものの、ジェノはメルエーナを連れ立って歩く。

 

 その際に、アイスを売っていた年配の女性が、「お幸せに~」と背中に声を掛けて来た。

 本当によく分からない露天の店員だ。

 

 ただ、隣を歩くメルエーナが、顔をうつむけながらもスプーンでアイスを食べていたので、とりあえず体温は少しは下がるだろう。

 

 ジェノはそう考えることにし、普段よりも更に遅くなってしまったメルエーナの歩く速さに合わせて、目的の店に向かうことにするのだった。



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予告編④ 『夏のとある日』④

 この店<マーメイドの涙>は若い女性向けの衣類を扱う専門店で、メルエーナはこの店で水着を購入したいとのリクエストだった。

 

 ナイムの街にはいくつもの服飾店があるが、男性であるジェノは、完全に女性専用の店であるこの店には無論足を運んだことはない。

 水着を選んで欲しいと頼まれ、それを了承したので、ジェノもメルエーナと連れ立って店に入ったのだが、これはこれで何かの役に立つ経験にはなるだろうとジェノは思う。

 

 店の間取りや商品の陳列の仕方などをとっても、雑多な服飾店とは異なるようだ。

 

「あっ、あの、水着をいくつか見せて頂きたいのですが」

 メルエーナもどうやらこの店には行きつけにはなっていないようで、少しだけ緊張した面持ちで、店員の女性に来店した用件を告げた。

 

「はい。それではこちらへどうぞ。お連れ様もご一緒に」

 メルエーナはまた顔を真っ赤にして、緊張した面持ちで店員に付いていく。同じ側の手と足が上がりそうな勢いだったので、ジェノは少し落ち着くように声をかける。

 

「ふふっ。仲がよろしいのですね」

 二十代前半くらいのその店員の女性が、そう言って微笑みかけてくる。

 

 嫌味のない接客だが、その実、今のやり取りで自分達の関係を推測していることは想像できた。少なくとも兄妹ではないと当たりをつけたに違いない。

 

「やはり試着して頂いた方が間違いありませんので、お好みの水着を何点か選んで頂いた方がよろしいかと。それと、好みを言って下されば、私のセンスになってしまいますが、何点か見繕いをさせて頂きます」

「あっ、その、ええと……」

 メルエーナは困って、ジェノの方に視線を向けてくる。

 

「最初は見繕ってもらった方が良いだろう。俺も詳しいことは分からんから、ここは専門家の意見を聞こう」

「はっ、はい!」

 メルエーナの了解を取り、ジェノは店員に口を開く。

 

「彼女は初めて水着を購入するので、あまり派手ではないものを選んでもらえないだろうか?」

「なるほど。そうですね。お連れ様はとても可愛らしいので、それを引き立てる水着の方がよろしいかと思います。それと派手なものを選ぶつもりはありませんが、あまり露出を押さえることを優先してしまいますと、その良さが霞んでしまいますね」

 店員はプロの目になり、メルエーナを頭の天辺からつま先までを確認していく。

 

「あっ、あの……」

 メルエーナは恥ずかしそうに困った表情を浮かべるが、店員に「少しだけ動かないで下さい」と言われ、「はっ、はい」と応えて固まる。

 

 店員はメルエーナの体に軽く触れて、不意に何かを耳打ちをしたので、ジェノは少しだけ彼女達から距離を開け、後ろを向く。体のサイズの話を聞かれたくないということくらいは、さすがのジェノでも分かっている。

 

 後ろを向くと、他の店員が忙しなく働いているのが見えたが、ジェノは気配を感じることができるので、先程まで彼女達の視線が自分達に向いていたことは分かっている。

 けれど、一般の客ならばそのことには気づかないはずだ。悪くない接客態度だと思う。

 

「そうでしたか。初めての水着を選んで貰うのですね。ふふっ、羨ましいです」

 店員の話術が巧みなのか、メルエーナは今日の来店理由を話したようだ。まぁ、別段秘密にするようなことでもないので、それは別に問題はない。

 

「露出を押さえるのであれば、ワンピースの水着ですが、それよりも、やはりビキニタイプがお客様にはお似合いだと思われます。体系的にも肌を晒す上で何も問題はありませんし、きっとお連れ様もその方がよろしいのではないでしょうか?」

 店員が微笑みを浮かべて意味ありげにこちらを見てくるが、ジェノはいまいちそのリアクションの意図が分からない。

 

「メルエーナ、それでいいか?」

「はっ、はい……。がっ、頑張ります……」

 メルエーナは顔を俯けて、小さな声で応える。

 

 何を頑張るのかは分からないが、水着を着る彼女自身が良いのであれば問題はない。

 

「それでは、少々お待ち下さいませ。あっ、それと……」

 店員はジェノに向かって微笑み、

 

「このお店は女性の衣類の専門店ですが、お客様達のように男性を連れ立って入ってこられる方も少なくありません。ですので、どうか試着室の近くでお待ち頂き、何かしらのトラブルがあっても対処できるようにして頂いた方がよろしいかと存じ上げます」

 

 そう言って、一礼をし、水着を探しに行くためにこの場を離れた。

 

「どういうことだ?」

 ジェノはいよいよ訳がわからなくなり、つい口に出してしまう。

 

「あっ、その、ジェノさん」

「なんだ、メルエーナ?」

「その、店員さんが仰るとおり、試着室のすぐ側で待っていてくっ、下さい。そっ、その、水着姿が、他の人に見えないようにして頂けると助かります……」

 メルエーナは顔を真っ赤にしながら、懇願してくる。

 

「肌を晒すのが恥ずかしいのであれば、水着を代えてもらったほうが……」

「だっ、大丈夫です! わっ、私、ジェノさんにだけ……なら……」

「いや、待て、メルエーナ。水着は他の人間にも見られるんだぞ?」

「そっ、それは、分かっています! それは当日までには克服しますから。でっ、でも、その、これという一着を見つけるまでは、その、他の人には……」

 メルエーナは真っ赤になりながらも、そう言ってジェノの上着の端を心細そうにぎゅっと掴む。

 

「……分かった。更衣室の前に立てば、衝立の代わりにはなるだろう」

「はっ、はい……。よっ、よろしく、お願いします……」

 メルエーナは海岸沿いでアイスを食べた時と同じくらい顔を真っ赤にして、か細い声で応えるのだった。

 

 

 

 

 

「どっ、どうですか、ジェノさん? にっ、似合いますか?」

 メルエーナは静かに試着室のカーテンを少しだけ開けて、店員に最初に渡された、赤いビキニを身に着けて、ジェノに感想を問う。

 

「……ああ。似合っていると思うぞ。肩紐もしっかりしているし、泳ぎの練習をしても問題はないだろう」

 ジェノは、メルエーナが普段は露出しない腹部や足を顕にしていることに多少不思議な感じがしながらも、そう答える。

 

「どうでしょうか、お客様? 一応確認のためにお持ちしましたが、私の見立てでは、お連れ様には赤以外の色の方がお似合いかと思いますが」

 店員は、メルエーナではなくジェノに問いかけてくる。まぁ、先程自分が選ぶということをメルエーナが話したのだからそれは納得なのだが、何故か彼女がすごく楽しそうに見えるのは気のせいだろうか?

 

「そうだな。白の方が似合う気がするな」

 ジェノは素直な気持ちを口にしただけなのだが、店員はやはり嬉しそうに、「では、こちらを」と、メルエーナにハンガーに掛けられた白い水着を手渡す。

 

「白のほうが似合うとのことですよ、お客様。ふふっ。それでは、もう何着か白で見繕いますね」

「……はっ、はい……」

 メルエーナは顔を両手で抑え、「着替えますので」と言って試着室のカーテンを閉める。

 

 そして、ややあって、再びカーテンが僅かに開かれた。

 

「どっ、どうでしょうか?」

「ああ。赤より似合っていると思うぞ。だが、機能性は変わらない。同じ水着ならば、自分の好きな色を選んだほうが後悔はないだろう」

「いっ、いえ、白にします! 絶対に白です!」

 メルエーナは顔を赤らめながらも、そう断言する。

 

「そうか」

 何故頑なに白にするのかは分からないが、ジェノはそれ以上は何も言わない。

 

「他にもいくつか同じタイプの白の水着をお持ちしました」

 店員が二着、新しい水着を持って戻ってきたので、メルエーナはとりあえず最初に試着した赤い水着を彼女に手渡そうとする。

 

「あっ!」

 だが、緊張と羞恥心で体が震えていたメルエーナは、そこでバランスを崩して、前に倒れてしまう。

 カーテンに捕まる暇もなく、顔から倒れてしまったメルエーナは、しかし地面に激突せずに済んだ。

 

「なるほど。こういうときのためにも、たしかにそばに付いていたほうが安全だな」

 それは、ジェノがメルエーナの体を抱き支えたからだった。

 

「大丈夫か、メルエーナ?」

 ジェノが尋ねると、彼女は「はっ、はい……」と小さく頷く。

 

「そうか」

 ジェノはそれだけ言うと、優しくメルエーナの体制を元に戻す。

 

「ふふふっ。お客様。いかがでしょう? 今、ご試着頂いている水着に致しませんか? 他の水着を選ぶのは、しばらくは難しそうですので」

「はっ、はい……。こっ、これを頂きます……」

 メルエーナは心ここにあらずと言った様子で、今度こそ店員に赤い水着を渡し、カーテンを静かに閉める。

 

 その様子に、ジェノは少し心配になったが、メルエーナ自身がそれでいいというのであれば、特段反対する理由はない。

 

「ふふっ。とても素敵なものを見せて頂きましたので、料金は勉強をさせて頂きますね」

「素敵なもの?」

 ジェノは怪訝な顔をしたが、店員は笑顔で他の水着を片付け始める。

 

(……どういうことだ?)

 ジェノは一人わけが分からず、立ち尽くすことしか出来なかった。



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予告編④ 『夏のとある日』⑤

「ふふっ。美味しいですね、ジェノさん」

 水着を購入してからというもの、しばらくの間メルエーナはぼんやりしていたが、本屋や調理器具の専門店を覗きに行っているうちに、いつもの彼女に戻ってくれた。

 

 そして、ジェノはこうして、メルエーナが予約してくれた最近評判のレストランで夕食を食べ、評判の料理に二人で舌鼓を打つ。

 

「そうだな」

 ジェノはいつもと変わらない仏頂面で、一番人気のパスタを口に運ぶ。

 

「トマトピューレですか?」

 けれど、そんなジェノの態度にもメルエーナは笑みを崩すことなく、少し声を落として話しかけてくる。

 

「ああ。ついつい裏ごしをしっかりしてペースト状にしてしまいがちだが、こうして固形のトマトと合わせているのが面白いな。食感が一定ではなくなる分、トマトだけで食感の変化を楽しめるのは良い工夫だと思う」

 ジェノも声を少し落として応えた。

 

「そうですね。ただ、その分味の調整が難しそうですね。このクオリティに仕上げるまでに、かなりの試行錯誤があったのでしょうね」

「確かにな。その苦労が目に浮かぶようだ」

 メルエーナはそう言い、もう一口パスタを口に運んだので、ジェノもそれに倣い、フォークを動かす。

 

「敢えて均一ではなく偏りを作ることで、主となる味も際立ちますね。ただ単に味を足しているのではなく、その、表現が難しいですけれど、立体的な味と言えば伝わりますかね?」

「変わった表現をするな。だが、言い得て妙だ。味に対するこのアプローチの仕方は非常に面白いし勉強になる。メルエーナ。この店に誘ってくれて感謝する」

 ジェノが礼の言葉を口にすると、メルエーナは溢れんばかりの笑顔を浮かべる。

 

「いえ、そんな。私の方こそ、今日はありがとうございました。その、夢のような一日でした」

「そうか」

 メルエーナは本当に嬉しそうだ。自分などがどれほどの役に立ったのかは分からないが、この笑顔を見る限り、不快な思いはさせないで済んだようだ。

 

 あとは二人で残ったパスタを食べ終え、少し休んだあとに家路に就くだけだ。

 きっと帰りは、このパスタの話題で話に花が咲くだろう。こういう時に、同じ趣味を持っている人間とは話があうのが嬉しい。

 

 そんな事をジェノは思っていたが、ここで楽しい時間を台無しにする事態に遭遇してしまう。

 

「もう、気が利かないわね! 私は昨日の晩もパスタを食べたって言ったでしょう! それなのに、また同じものを勧めてくるなんて、貴方って本当に薄っぺらい人間ね!」

 女のヒステリックな耳をつんざく声が、静かだった店内に響き渡った。

 

 ジェノが声のした方に視線を移すと、二十代半ばくらいの金髪でウエーブのかかった女が、喚き散らしていた。どうやら、自分の連れに腹を立てているようだ。

 

 メルエーナが不安そうな顔をするのを確認し、ジェノは彼女に声をかける。

 

「メルエーナ。少し残っているが、この店を出るとしよう。これでは旨い料理が台無しだ」

「はい。そうですね」

 メルエーナが頷いて立ち上がると、ジェノは騒いでいる女とメルエーナの間に自分の体を置き、彼女を騒動から遠ざける。

 

 騒いでいる女は、連れの男に向かって喚き散らす。

 何がそんなに腹立たしいのか分からないが、文句があるのであれば黙って店を出ていけばいいだけだろうとジェノは思う。

 

 店の店員が二人、女を宥めるために悪戦苦闘しているようだ。

 まったく、いい迷惑だ。

 

「申し訳ございません、お客様」

 会計の男性が、ジェノ達に頭を下げてきた。

 だが、メルエーナが「いいえ、とても美味しいお料理でした」と笑顔で言ってくれたのが良かったのか、笑顔で「ありがとうございました」と言い、割引券をサービスしてくれた。

 

「また、寄らせてもらいます」

 ジェノもそう言い、店を後にする。

 

 だがその際に、先程の女の、ひときわ大きな声がジェノたちの耳に入ってきた。

 

『ああっ、もう! もうあんたとはこれで終わりよ! あんた程度の男、代わりはいくらでもいるんだから!』

 その何気ない一言を、ジェノは聞いてしまった。

 

 もう、平気だと思っていた。

 傷は癒えたと思っていた。

 

 だが、ジェノの胸に、その一言が突き刺さる。

 

「……ジェノさん?」

 歩みを止めてしまったことを怪訝に思ったのだろう。メルエーナが声をかけてくる。

 

「すまない。行こう」

 顔には出していないつもりだ。

 ジェノは何でもないことを装い、歩き始めるのだった。

 

 

 

 

 

 ランプを片手に、ジェノがメルエーナに少しだけ先行して歩く。

 

 帰りはあのパスタの話題を、と思っていたが、あの不快な客のことを思い出したくないし、メルエーナにも思い出させたくない。

 家につくまでの間、何の話題を振ろうかとジェノは考えて歩く。

 

「……酷い女性でしたね」

 だが、メルエーナが触れずにいようとした話題をジェノに振ってきた。

 そのため、ジェノは速度を少し落とし、彼女と並んで歩く。

 

「ああ、そうだな。店もいい迷惑だな」

 ジェノが同意をすると、しかしメルエーナは「お店のこともそうなんですが」と言い、話を続ける。

 

「あの女性と男の人の関係は分かりません。ですが、どんな関係にしろ、あんな言葉をかけるのは失礼にも程があります!」

 メルエーナは珍しく怒りを顕にする。

 

「あんな言葉?」

「あの男の人に、『代わりはいくらでもいる』と言ったことです! 人に対して、そんな言葉は決して言ってはいけないと思います。言われた方はもちろん、比較される方に対しても、あまりにも失礼です」

 メルエーナのその言葉に、ジェノは言葉を失う。

 

「もちろん、年齢や性別等の括りで人を判断することもあります。ですが、皆さん誰もが一人一人、意思をもった人間です。それなのに、あんな言い方……。私はすごく腹が立ちました!」

 憤懣遣る方無いといったメルエーナの姿に、ジェノは呆然としていたが、すぐに我に返り、微笑む。

 

「いつも思うことだが。お前は本当に優しいな、メルエーナ」

 ジェノはそう言って、ついメルエーナの頭に手をポンポンと置いてしまう。

 

「あっ……」

 メルエーナは驚いた様子で固まり、足を止めてこちらを見つめてくる。

 

「すまない。不躾だったな」

 ジェノが謝ると、メルエーナは顔を真っ赤にして「いえ、その、そんな事は……」と言って顔を俯ける。

 

「そうか。……ありがとう、メルエーナ」

 ジェノは不作法を許してくれた礼のように言ったが、その真意は感謝だった。

 

 間違いなく、メルエーナにその真意は伝わらない。

 でも、それでいい。

 

 

(俺は……最低の男だ……)

 ジェノは心からそう思う。

 

 どんな事情があったにせよ、自分は取り返しのつかない過ちを犯した。

 そして、その責任から逃れるために、この国に、この街に逃げてきた。

 後処理もせずに、兄さんに全てを任せて。

 

 だから、これはただの逃げだ。

 

 こんな自分のことを、メルエーナならば分かってくれるのではないかと思うのは、虫が良すぎる。

 そんな資格など、自分にはない。

 

「ジェノさん……。その、一つだけ我儘を言ってもいいですか?」

「何だ?」

 不意にメルエーナが頼んできたのは、とても他愛のない願いだった。それくらい、確認するまでもないほどの。

 

「ああ、それくらいどうということはない。それに、日が長いとは言え、やはり暗いからな」

「はい。ありがとうございます」

 ジェノが快諾すると、メルエーナは顔赤くしながら、ジェノ左手を右手で握る。

 

「……行こうか」

「はい!」

 ジェノはメルエーナの手を取り、帰路を歩く。

 

 特段、それ以降は家につくまで会話はなかったが、それを気まずいとは思わなかった。

 

 そして、しばらく歩いて<パニヨン>までたどり着くと、メルエーナはそっと手を離し、悪戯っぽい笑顔を向けて、ジェノの前に立つ。

 

「ジェノさん。今日はとても素敵な一日でした。その上、最後に我儘まできいて貰えて、すごく嬉しかったです」

「そうか。だが、あの程度の事は我儘とは言わないぞ」

「いいえ。あれは私の我儘です。ですから、たまにはジェノさんも私に我儘を言ってくれると嬉しいです。私ばかりがしてもらうのではなく、私も何かジェノさんにお返しがしたいです」

 メルエーナのその言葉に、ジェノはまた言葉を失う。

 

「私は大したことはできません。でも……」

「……メルエーナ……」

 

 メルエーナは困ったように微笑んでいる。

 その目が、その笑顔が、言っているような気がする。

 

 『私に、話してくれませんか?』と。

 

「……家に入ろう。バルネアさんも心配している」

 けれど、ジェノはそのメルエーナの無言の訴えから目をそらす。

 

 メルエーナの事を信じられなかったからではない。

 まだ、ジェノの心の傷が癒えていなかっただけ。まだ、それを他人に晒すのは早かったのだ。

 

「……だが、メルエーナ。もしも、俺が我儘を言いたくなったら……」

 最低だと思う。拒絶したくせに、こんな事を言うなんて。

 けれど、ジェノは口に出さずにはいられなかったのだ。

 

「……はい。私、待っていますから」

 けれど、メルエーナはやはり優しく微笑んでくれた。

 

 それは、夏のとある日の出来事。 

 

 けれど、ジェノとメルエーナにとって、この日は特別な一日となったのだった。



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予告編④+ 『魔法のスープ』

 エルマイラムの長く暑い夏は過ぎ去り、季節は肌寒い秋を迎えようとしていた。

 

 日がだんだん短くなり、気温が下がっていくこの時期は、やはり物悲しく感じることもある。特に数年前までの一人での生活を思い出すと、寂しさで泣き出したくなることだってある。でも、今は……。

 

「バルネアさん、味見をお願いします!」

 栗色の髪の可愛らしい少女が、バルネアに味見皿を差し出す。

 十八歳になって、法律上では大人の仲間入りをしたとはいっても、バルネアから見ればまだまだ子供だ。

 

 味見皿を受け取って、バルネアはそれを口元に運ぶ。

 ……優しい味がした。

 

 まだ改良の余地はあるだろうが、それ以上にこのスープに込められた想いが伝わってきて、幸せな気分にさせてくれる。

 この味の余韻と温かさ、幸福感こそ、バルネアが生涯をかけて極めようとしている料理の形の一端。

 それを愛弟子が、いや、家族であるこの少女――メルエーナが理解し、自分のものにしようとしてくれていることが、バルネアにはたまらなく嬉しい。

 

「うん。いい味ね。これならきっとジェノちゃんも大喜びよ」

バルネアが笑顔で太鼓判を押すと、メルエーナは嬉しそうに、はにかんだ笑みを浮かべる。

 

 今年の夏、メルエーナは、この家に住む同居人であり、想い人であるジェノと水着を選んで貰いに出かけた。そして、泳ぎにも出かけた。

 なかなか関係が進まなかった二人だが、それ以来、距離が少し縮まった気がする。

 バルネアとしては、それが嬉しくて仕方がない。

 

 ジェノの幼馴染で、この世のものとは思えないほど美しい少女、マリアが現れて心配していた。だが、バルネアは、やはりジェノの隣に立つのはメルエーナが似合うし、メルエーナの隣に立つのもジェノ以外はありえないと思うのだ。

 

「この鶏肉団子と白菜と椎茸に春雨のシンプルなスープは、リアラ先輩習ったのよね?」

 以前も、同じスープを作った時に、メルエーナがそう言っていたことを思い出し、バルネアは尋ねる。

 

「はい。母に教えて貰いました。そして、それをバルネアさんに教わった事を参考にして、改良して見たんです。……なんて、母に聞かれたら、『十年早い』と怒られてしまいそうですけれど」

 メルエーナは恥ずかしそうに言うが、そこには確かな自信も見て取れる。

 

 慢心はいけないが、自信をつける事は必要なことであり大事なことだ。

 それに、以前より格段に味が良くなっているのは間違いないのだから。

 

「そんな事をリアラ先輩は言わないわよ。ジェノちゃんに喜んでもらえるのならば、先輩はにっこにこよ。ジェノちゃん、以前食べたときも、このスープを美味しいって言っていたものね」

 意味ありげにバルネアが微笑むと、メルエーナは頬を朱に染めて、嬉しそうに微笑み返す。

 

 その幸せそうな微笑みを見ていると、バルネアは幸せな気持ちでいっぱいになる。

 やはり、ジェノと一緒になるのは、彼の未来の伴侶は、メルエーナだ。

 

今日は少し冷えることも考えて作られたこの一品には、何よりも重要な想いが込められている。食べる人に心から喜んでもらいたい。幸せになってもらいたいという気持ちが。

 

 やっぱり、あのマリアという少女にはジェノの事は任せられない。

 何故なら、あの娘は……。

 

「あっ!」

 トントンと裏口の扉をノックする音が聞こえて来ると、メルエーナは嬉しそうに足早でそこに向かう。

 

 そして、誰何の問いかけの後に、メルエーナがドアの鍵を開けて、嬉しそうに黒髪の少……いや、男の子の場合はもう青年と呼んであげた方がいいだろう。

 

 訂正。黒髪でやや長身の顔立ちの整った青年を出迎えて、メルエーナは嬉しそうに、花が咲き誇るような笑みを浮かべる。

 

「おかえりなさい、ジェノちゃん」

 今日はメルエーナ一人に出迎えを敢えて任せたバルネアは、少し遅れてジェノに声をかけた。

 

「はい。ただいま戻りました」

ジェノはそう言って一礼をすると、コートを脱いでそれを所定の場所に掛けると、手を洗うために水場に向かう。

 

 彼の隣では、コートを受け取りたかったメルエーナが、少し残念そうな顔をしていたが、すぐに気合を入れ直して、ジェノの後に続いて水場に向かって行く。

 そして二人で手を洗って仲良く戻ってくると、メルエーナはジェノに座っているように言って、上機嫌で厨房に戻ってきた。

 

「さて、それじゃあ、ジェノちゃんに食べてもらいましょうか」

「はい!」

 バルネアはメルエーナと一緒に、食事をいつもの四人用のテーブルに運ぶ。

 

 ジェノも手伝おうとしてくれたが、メルエーナがそれをやんわりと断る。

 彼女は、疲れて帰ってきたジェノを労いたくて仕方がない。そして、そんな彼に自慢の一品を出して喜んで欲しいのだ。

 

 今日のメインはバルネアが作った魚のムニエルの予定だったが、その座はメルエーナのスープに奪われる。

 けれど、もちろんバルネアはそんな事は気にしない。

 

 いや、それどころか、メルエーナ謹製の熱々のスープを口にして、少し分かりにくいが、幸せそうにホッとした笑みを浮かべるジェノの姿を見ているだけで、幸せな気持ちで胸が一杯になりそうだ。

 

「腕を上げたな、メルエーナ。以前も旨いと思ったが、更に味が洗練されている」

「そうですか? そう言ってもらえると嬉しいです。その、自分でも今回のは上手くできたと思ったので」

「ああ、そうだな。このシンプルな具材でここまで旨味を引き出せるのは素晴らしいと思うぞ」

 ジェノはそう言って、もう一口スープを口に運ぶ。

 そして、また口元を綻ばせた。

 

「メルエーナ。よければこのスープの作り方を教えてくれないか? これからは気温も下がる。野宿をする際に、このスープを作ることができるとありがたい」

 ジェノがこんな事を言うのは初めてだったので、バルネアは少し驚いた。

 

 普段から、料理の腕はメルエーナより彼の方が上だと思っていたのだが、よっぽどこのスープが気に入ったようだ。

 

「……その、ジェノさん。申し訳ないのですが……」

 しかし、メルエーナはジェノの珍しい頼みを断ってしまう。てっきり喜んで作り方を教えるものだと思っていたバルネアは、また少し驚く。

 

「いや、謝らないでくれ。レシピはその料理人の財産だ。それをおいそれと教えてくれとは、不躾だったな」

 ジェノはそう言って頭を下げる。

 

「そっ、そんな、顔を上げて下さい! その、あの、このスープが食べたい時は、いつでも言って下さい。私が腕によりをかけて作りますので……」

 申し訳無さそうに言うメルエーナの頬は朱に染まっている。

 それを見て、バルネアはメルエーナがジェノにこのスープの作り方を教えない理由を理解した。

 

「そうか。それはありがたい。だが、自分でも挑戦してみようと思う」

「いっ、いえ! その、挑戦しないで下さい! その、ですから、食べたい時は私に……」

「んっ? やはり秘密のレシピだからか?」

 ジェノは怪訝な顔をし、顔を真っ赤にするメルエーナを見る。

 

 そこで見かねたバルネアが、助け船を出すことにした。

 

「違うのよ、ジェノちゃん。このスープはね、魔法のスープなのよ」

「魔法、ですか?」

 バルネアの言葉に、ジェノはオウム返しに尋ね返してくる。

 

「ええ、そうなの。メルちゃんは決して意地悪をしてジェノちゃんに作り方を教えないわけではないの。このスープには魔法がかかっていて、ジェノちゃんが自分で作っても決して再現はできないのよ」

「……それは、腕が未熟だということですか?」

「いいえ。違うわ。でも、このスープは、メルちゃんがジェノちゃんの為に作っているからこれだけ美味しいのよ。それは技術ではない不思議なもの。つまりは魔法なの」

 バルネアはそこまで言って微笑むと、そっとメルエーナに目配せをする。

 

「そっ、そうなんです。これは、魔法のスープなんです。誰かに作ってもらうことでしか味わえない、特別なものなんですよ」

 バルネアの目配せに気づいたメルエーナは、そうジェノに説明をする。

 

「……そうか。そうだな。すまなかった。野暮なことを訊いてしまったな」

ジェノは、ようやくバルネア達が何を言いたいのかを理解したようで、苦笑し、もう一口スープを口に運ぶ。

 

「ああ。旨い。体だけでなく、心も満たされるようだ……。ありがとう、メルエーナ。確かにこれは魔法のスープだ」

 ジェノの感謝の言葉にメルエーナは顔を真っ赤にしながらも、「はい、ありがとうございます」と笑顔でお礼を返す。

 

 そんな二人の笑顔を見ながら、バルネアもスープを口に運ぶ。

 するとそれは、先程味見をしたときよりもずっと美味しい魔法のスープになっていた。

 

 その味と若い二人の笑顔を見ながら、バルネアも嬉しそうに満面の笑みを浮かべるのだった。 



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主要登場人物紹介
『主要登場人物紹介①』【第一~四章+予告編まで】


バルネア「メルちゃん、準備はいいかしら?」

メルエーナ「はい、大丈夫です」

 

バルネア「こほん。それでは、まずはご挨拶からね」

メルエーナ「ええ」

 

バルネア「皆様、私達が登場している小説、『彼は、英雄とは呼ばれずに』をお読み頂きありがとうございます」

メルエーナ「重ねて、第五章の投稿を大変長くお待たせしてしまい申し訳ございません」

 

バルネア「今回は、前回の予告編の投稿から一ヶ月近く経とうとしておりますので、何か更新したいと作者が思い、登場人物の紹介をすることとなりました」

メルエーナ「それならば本編を更新して欲しいと言われそうですが、第五章以降の話の構成を作るのに、作者が四苦八苦しておりますので、今しばらくお待ち下さいませ」

 

バルネア「さて、これから登場人物の紹介をしていきますが、ここにいる私、バルネアとメルちゃんは、本編の登場人物とは別の視点(いわいるメタ視点)を持っておりますので、この話の私達の理解と本編での私達の理解が同じではないことをご注意下さい」

メルエーナ「私もバルネアさんも、知らないことが多すぎますので、こうしないと情報が整理できないためです。ご容赦下さい」

 

バルネア「さて、前置きが長くなってしまったけれど、始めていきましょう」

メルエーナ「はい!」

 

 

 登場人物紹介 ①

 

 ジェノ=????(17⇒18歳)

 身体的特徴:黒髪で茶色の瞳。やや長身。着痩せするタイプで細マッチョ。

 性格:誤解されやすいが、おとなしめの性格で無愛想。

    あまり口数は多い方ではないが、話しかければ応える。

    基本的に自己評価が低く、褒められてもそれを素直に受け取らない。

 特技:剣術はかなりの腕前。

    料理については天性の素質を持っている。

 好きなもの:武術の鍛錬 料理修行 バルネアの料理

 嫌いなもの:理不尽な行い ????

 

 

バルネア「まずは、このお話の主人公である、ジェノちゃんの紹介ね」

メルエーナ「ですが、いきなり、「?」があるんですが……」

バルネア「ええ。これは、まだ本編でジェノちゃんの名字、ファミリーネームが明かされていないからね。一応、この名前にも意味が有るので、今のところは内緒。だから第四章でも、敢えてこれは明らかにされていないの」

メルエーナ「そうなんですね」

 

バルネア「本編の私は知っているけれど、ジェノちゃんの事を考えてみんなに教えていないわ。ジェノちゃん、あまり実家のことは思い出したくないだろうからね」

メルエーナ「……いったいどんな事が……」

バルネア「まぁ、それは今後で明らかになるから、少し待っていてね。では次に、『性格』を見ていきましょうか」

 

メルエーナ「おとなしめの性格だという事を私は知っていますが、周りの人からは、あまりそうだとは認識されていませんね」

バルネア「そうね。無愛想なところばかりが目につくからね。でも、これは敢えてジェノちゃんが、そういった人間を装っているからなのよね」

メルエーナ「第四章の時に話してくれた、過去のジェノさんは、明るくて表情豊かな子供だったのに……」

バルネア「それだけ、大商会の息子となると色々としがらみがあるの。でも、私達の前では、少しだけ本当のジェノちゃんを見せてくれているわね」

メルエーナ「はい。そのことはすごく嬉しいです!」

 

メルエーナ「自己評価が低いというのは意外でしたが、言われてみれば、確かにジェノさんは自慢をしたりしませんよね。それは謙虚さだと思っていたのですが……」

バルネア「そうね。ジェノちゃんは同い年の男の子と比較すれば、かなり優秀な方に入れると思うわ。もちろん、天性の素質は有るけれど、努力家だからね。

 でも、常に自分ではまだまだ足りないと思ってしまっている。これは、ある種の強迫観念ね」

メルエーナ「強迫観念、ですか?」

バルネア「ええ。向上心は必要なことだけれど、ジェノちゃんの場合は行き過ぎてしまっているわね」

メルエーナ「心配です……」

バルネア「そうね……」

 

バルネア「『好きなもの』は、あら、私の料理が入ってくれているのは嬉しいけれど、ここにメルちゃんの名前がないのは頂けないわね」

メルエーナ「ばっ、バルネアさん! そっ、それは……」

バルネア「大丈夫よ。ジェノちゃんはもともと女の子の気持ちに鈍感なところが有るけれど、メルちゃんの思いやりを理解できていないわけではないから」

メルエーナ「ううっ。そうだといいのですが。第四章でのマリアさんとのやり取りを見ていると、不安です」

バルネア「恋のライバルに無関心なのはありがたいけれど、自分の方も見てくれない気がしてしまうものね」

メルエーナ「……私なんかがライバルなんておこがましいですが、その、正直なところ、もう少し私を見てくれればと思ってしまいます……」

バルネア「そうね。(ナデナデ)」

 

バルネア「最後に嫌いなものね。漠然としているけれど、ジェノちゃんの性格を考えると、これはしっくり来るわね」

メルエーナ「ですが、また、「?」がありますね」

バルネア「う~ん。これは、一番のジェノちゃんの心の傷なの。本編の根幹に関わってくるほどのね。だから、ここには触れられたくない。でも、知ってほしいとも思っているの。この片鱗は、予告編を参照してね」

メルエーナ「それって、あの時の……」

バルネア「その傷には、私も触るわけにはいかないほどデリケートな事柄。でも、きっとジェノちゃんのその傷を癒やしてくれる娘が出てきてくれると信じているわ。ねっ、メルちゃん♡」

メルエーナ「……がっ、頑張ります!」

 

 

 

 登場人物紹介 ②

 

 メルエーナ=クリント(17⇒18歳)

 身体的特徴:栗色の髪で茶色の瞳。標準体型だが、胸は控えめ。

 性格:人当たりがよく、友人が多い。

    控えめな性格だが、明るい。異性には少し不慣れ。

    努力家で、料理人になることを夢見ている。

 特技:家事全般

 好きなもの:家族(父(コーリス)と母(リアラ)の他に、バルネアと

       ジェノも含む) 料理の勉強 編み物

 嫌いなもの:人の気持ちを慮ろうとしない人  

 

 

バルネア「はい。次は、我らがヒロインであるメルちゃんね」

メルエーナ「自己紹介って恥ずかしいですね」

バルネア「ふふっ、照れなくても大丈夫よ。メルちゃん、読者さんの間で人気があるんだから」

メルエーナ「えっ? えっ? それは恐れ多いですが、嬉しいです」

バルネア「ただ、作者がいい加減で、『あれっ? メルエーナの名字何だっけ? まぁ、書いてなかった気もするから、これにしよう』くらいいい加減な扱いなのは許せないけれどね」

メルエーナ「はっ、はぁ。そっ、そうなんですね……」

 

バルネア「さて、『性格』は明るくて控えめな性格ね。本当に人当たりがいいから、友達も多いわ。特に本編に出てきている、リアちゃん(イルリア)、リリィちゃん、パメラちゃんの三人と仲がいいのよね」

メルエーナ「イルリアさん達とは、よく買い物に出かけたりしますね。それと、イルリアさんの友人とも親しくさせてもらっています。その関係で、リリィさんもお友達が増えて喜んでいました。あと、パメラさんのところのリーシス神殿の神官見習いの方にも友達がいます」

バルネア「友達が多いことはいいことだわ。ジェノちゃんももっと交友関係を広げるといいのだけれど……。まぁ、それはおいおいね」

メルエーナ「?」

 

バルネア「『特技』は家事全般。お料理はもちろん、掃除もお裁縫も得意よね」

メルエーナ「いっ、いえ。ジェノさんは私よりどれも上手ですから、特技と言っていいのかどうか……。それに、バルネアさんとは比較するのが申し訳ないくらいで」

バルネア「もう、大丈夫よ。メルちゃんは家事上手よ。それに、勉強熱心だから、いいお母さんになると思うわ。ジェノちゃんも幸せね」

メルエーナ「そっ、それは、まだ気が早すぎます! ……そうなれたらいいですけれど……」

 

バルネア「『好きなもの』の中の家族に、ジェノちゃんだけじゃあなくて、私まで入れてくれて嬉しいわ」

メルエーナ「あっ、その、勝手に私がそう思っているだけですので……」

バルネア「うんうん。メルちゃんは本当にいい子よね」

メルエーナ「バルネアさん、そんな嬉しそうに……(恥)」

 

バルネア「『嫌いなもの』は、なるほどといった感じよね。特に、誤解を受けやすいジェノちゃんが絡むと、ね」

メルエーナ「それは……。あっ、その、ですが、私自身が、そうなっている時もありますので、これは自戒の意味もあります。ジェノさんの関係で、レイさんには冷たく当たってしまいましたし、特に第三章では……」

バルネア「そうね。セリカ卿はね……」

 

 

バルネア「メルちゃんの情報は基本的に開示されているけれど、予告編(???)の謎が残っているわね」

メルエーナ「あれは、正直、意味不明にしかならないので、書かないほうが良かったと思うのですが……」

バルネア「まぁ、そうね。でも、この『彼は、英雄とは呼ばれずに』の話の中で、一番重くて悲しい話に関係している事柄だから、ね」

メルエーナ「一番、重くて、悲しい……」

バルネア「ええ。でも、メルちゃんとジェノちゃんならきっと乗り越えられるはずよ」

メルエーナ「……バルネアさん。はい。どんな事が起きても、負けないように頑張ります!」

 

 

 

バルネア「とりあえず、今回はこの二人でおしまいです。また、近いうちに続きをやりますので、お楽しみにして下さい」

メルエーナ「次は、イルリアさんとリットさんの予定です」

 

バルネア「それでは、お読み頂きありがとうございました」

メルエーナ「また、次回もよろしくお願い致します。また、ご意見やご要望が有りましたら、お知らせ下さい」



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『主要登場人物紹介②』【第一~四章+予告編まで】

バルネア「バルネアと」

メルエーナ「めっ、メルエーナの……」

 

バルネア・メルエーナ「「主要登場人物紹介!」」

 

バルネア「ふふっ、こんな感じでいいかしら?」

メルエーナ「あっ、はい……(恥ずかしい)」

 

バルネア「皆様、私達が登場している小説、『彼は、英雄とは呼ばれずに』をお読み頂きありがとうございます」

メルエーナ「このお話も長くなってきましたので、第五章が始まる前に、キャラクターを一度整理して置こうという企画です」

 

バルネア「さて、これから登場人物の紹介をしていきますが、ここにいる私、バルネアとメルちゃんは、本編の登場人物とは別の視点(いわいるメタ視点)を持っておりますので、この話の私達の理解と本編での私達の理解が同じではないことをご注意下さい」

メルエーナ「私もバルネアさんも、知らないことが多すぎますので、こうしないと情報が整理できないためです。ご容赦下さい」

 

バルネア「さて、それでは今回も、始めていきましょう」

メルエーナ「はい!」

 

 

 登場人物紹介 ③

 

 イルリア=セレリクト(17⇒18歳)

 身体的特徴:赤髪で青色の瞳。平均より少し背は高めで、スタイルがいい。

       ただ、自分の容姿が好きではなく、あまり体の線が出ない動き

       やすい服装を好む。

 性格:勝ち気で言いたいことはズバズバ言う。だが、商売をしているので、

    接客等の対応は慣れており、礼儀作法はやろうと思えば一通り以上の

    ことはできる。

    姉御肌なため、同性(特に同年代や年下)に信頼されている。

 特技:物資相場や魔法道具の取引を利用したお金稼ぎ。

 好きなもの:祖父母 亡き父親 買い物 友達 バルネアの料理 

 嫌いなもの:自分を生んだ女(母親) 家族や友人を大事にしない人間 

       下品な人間 お金にだらしない人間

 

バルネア「今回はまず、リアちゃんの紹介ね」

メルエーナ「イルリアさんにはいつもお世話になりっぱなしです」

 

バルネア「『身体的特徴』についてだけれど、顔もすごく綺麗だし、スタイルもいいのでいいよってくる男の人が多いみたいだけれど、それを煩わしく思っているようね」

メルエーナ「そうですね。イルリアさんが髪を伸ばしてドレスを着れば、大抵の男の人は魅了されてしまうのではと思うのですが……」

バルネア「ふふっ。複雑そうね」

メルエーナ「……イルリアさんは、私がジェノさんといい仲になれるようにと応援してくれるんですが、どうしても思ってしまうんです。イルリアさんも、きっと、って……」

バルネア「そうなの。ふふっ、メルちゃんも大変ね」

 

 

バルネア「リアちゃんの『性格』は、確かに、勝ち気な面もあって、ちょっと大人びた雰囲気の女の子だけれど、私から見ると、無理して背伸びをしている感じがしてしまうわね」

メルエーナ「背伸びですか?」

バルネア「ええ。何でも一人で物事を解決しようとする節があるわね。人に頼まれたら嫌とは言わないんだけれど、自分から誰かを頼るのが苦手みたい。美味しそうに料理を食べている時くらいじゃあないかしら、年相応の顔をしているのって」

メルエーナ「ジェノさんに似ていますよね、そんなところは」

バルネア「そうね。って、リアちゃんに言ったら怒られちゃいそうだけれど」

メルエーナ「はい。そうですね」

 

 

バルネア「『特技』は本当にもうお見事としか言いようがないわね。リアちゃんのお祖父さんなんて、うちの孫は天才だとみんなに言っているくらいだもの」

メルエーナ「私と同い年なのに、普通の人の何倍もお金を稼いでいるらしいですからね」

バルネア「ええ。でも、リアちゃんは目的があってお金を稼いでいるから、いつか本当の意味で仕事を好きになれるといいのだけれど」

メルエーナ「お母さんの真似をすることに葛藤が有るみたいですからね」

バルネア「う~ん。リアちゃんのお母さんは自分の商才を試したくて仕方がない野心家なのだけれど、リアちゃんにはそれほどの野心はない。でも、商才だけは受け継いでしまったのね」

メルエーナ「そうですね。もう少しだけでも、イルリアさんのお母さんが家族を大切にする人だったら、イルリアさんも幸せだったはずなのですが」

バルネア「その分は、私やメルちゃん達お友達で、フォローしてあげないとね」

メルエーナ「はい!」

 

 

バルネア「好きなものは、お祖父さんとお祖母さん。そして、お友達も大切にしているわね。自分よりも他人を優先したお父さんの事を嫌っていた部分もあったようだけれど、その辺りは克服したのよね」

メルエーナ「ですが、嫌いなものの筆頭に、やはりお母さんが……。しかも、『自分を生んだ女』って言い方なんですよね……」

バルネア「リアちゃんの最大のトラウマだからね。なかなかこの傷は癒えないわ。誰か、リアちゃんを支えてくれる人が他にも現れてくれるといいんだけれど」

メルエーナ「はい、そうですね」

バルネア「それと、商売をやっている性質上、お金の管理はしっかりしているから、お金にだらしない人が嫌いみたい。お金持ちだと知って、下心ありで近づいてくる人間も多いみたいだから、余計にそうなってしまったようね」

メルエーナ「そういえば、イルリアさんは、基本的にお金の貸し借りは友達とはしないと言っています」

バルネア「それでいいと思うわ。お金はすごく大事なものだけれど、それをなしでは成り立たない友達なんて、友達ではないもの」

 

 

バルネア「リアちゃんは基本的に戦えないけれど、魔法を封じ込めた銀色の板を使うことでそれをカバーしているわね」

メルエーナ「そうですね。リリィさんのお師匠様のエリンシアさんが魔法を込めてくださっているそうです」

バルネア「お得意様だって、エリンシアさんも言っているようね」

メルエーナ「はい」

 

バルネア「これは少しだけ今後の展開のネタバレなんだけれど、実はリアちゃんは物語の後半で、かなり重要な立場になってくるので、お楽しみにね」

メルエーナ「えっ? そんなお話、私は知らないんですけれど……」

バルネア「ふふふっ。まぁ、それは今後のお楽しみということで。それじゃあ、次に行きましょう!」

メル「あっ、はい……」

 

 

 

 登場人物紹介 ④

 

 リット=ルースレット(17⇒18歳)

 身体的特徴:淡い茶色の髪に青色の瞳。整った顔立ちでやや高身長。(背は   

       ジェノと同じ程度)

 性格:いい加減で軽薄な快楽主義者。

    だが、密かに自分なりの美学があり、それを行動の指針にしている。

    自らのことを『天才魔法使い』と豪語するが、実際にその実力は常軌

    を逸している。

    女癖が悪く、その関係の悪い噂は枚挙の暇がないほど。

 特技:魔法 その時興味を持った事(やろうと思えば大抵の事はこなせる)

 好きなもの:見目麗しい異性 美味い料理 

 嫌いなもの:自分で行動せずに他人を当てにする人間 

       ???=????

 

   

バルネア「はい。次は、リットちゃんね」

メルエーナ「……申し訳ないですが、私はリットさんが苦手です」

バルネア「そうよね。悪い噂もよく聞くものね」

メルエーナ「バルネアさんは、他の人と同じように接していますよね」

バルネア「否がまったくないとは言わないけれど、基本的にリットちゃんは自分から暴力を奮ったり、嫌がる女の子をどうこうしたりしない子だって事を知っているもの」

メルエーナ「えっ? あっ、でも言われてみれば……」

バルネア「だから、ジェノちゃんともお友達なのよ(ニコニコ)」

 

 

バルネア「『性格』『特技』『好きなもの』『嫌いなもの』は概ね書かれているとおりね。でも、優しいところもあるのよ」

メルエーナ「ジェノさんに対しても、いろいろと試すようなことをしたり、仲間であるイルリアさんにも重要なことを教えなかったり、いい印象がありません」

バルネア「そうなのね。けれど、自分が助けると決めたときには、絶対にそれを曲げない自分なりの信念を持っているみたいよ、リットちゃんは」

メルエーナ「でも、それって、そう決めるまではいくらでも見捨てると言うことですよね?」

バルネア「そうね。でも、リットちゃんが第三章で少しだけ自分の気持ちを吐露していたけれど、『困った時には、力がある人が助けてくれるのが当たり前』という考え方をされることに辟易しているみたいよ」

メルエーナ「……それは、少し分かります。ジェノさんも……」

バルネア「そうね。ジェノちゃんはリットちゃんとは違って、助けられるのであれば、誰でも救おうとしてしまうものね。

 それは立派な面ももちろんあるけれど、自分を犠牲に他人のために何かをし続けるという姿を見ているのは辛いわ」

メルエーナ「はい……」

バルネア「リットちゃんは、ジェノちゃんのそういった部分を愚かだと思っているみたい。でも、それと同じくらいに、その愚直さを羨ましいとも思っているみたいよ」

メルエーナ「羨ましい、ですか?」

バルネア「ええ、そうなのよ。リットちゃんは頭がいいから、無理なことや、リスクとリターンが合わない事は割りに合わないと考えて、それ以上はやろうとはしない。まぁ、それが賢い人間の立ち回りなんでしょうね」

メルエーナ「……」

バルネア「一方、ジェノちゃんは、無理なことでもがむしゃらに進もうとする時がある。リスクとリターンなんて考えずにね」

メルエーナ「そうですね……」

バルネア「ジェノちゃんはきっと、リットちゃんのように何でもできる人間に憧れを抱いていると思うわ。でも、リットちゃんから見れば、それは無駄だと思うことや割に合わないことをしようとしていないだけなの。

 だから、自分はしないこと……できないことに、がむしゃらに突き進んでいくジェノちゃんを、愚かだと思いながらも、羨望を抱いているのだと思うわ」

メルエーナ「……ですが、やっぱり、リットさんはひねくれています」

バルネア「ふふっ、それはそうかもね。でも、ただ単に嫌わないであげてほしいわ。まだ教えてあげられないけれど、いろいろとリットちゃんも過去を背負っているのよ」

 

 

メルエーナ「そう言えば、リットさんの『嫌いなもの』にも?がありますね。これは、人の名前ですか?」

バルネア「そのとおりよ。そして、この人は、まさにリットちゃんの目の上のたんこぶのような人なのよ」

メルエーナ「リットさんにそんな人が? ものすごく意外です」

バルネア「そうね、以外よね。でも、その人に出会えばすぐに分かるわ。リットちゃんがどうしてその人が嫌いなのか。そして、ジェノちゃんも……」

メルエーナ「えっ、ジェノさんにも関係ある方なんですか?」

バルネア「ふふっ。これ以上は秘密ね」

メルエーナ「……ずるいです」

バルネア「ごめんなさい。でも、かなり重要なキャラクターだから、秘密にしておかないと駄目なのよ。大丈夫よ、メルちゃんも会うことになるから」

メルエーナ「……分かりました。いつか会える時を楽しみにしています」

 

 

 

バルネア「とりあえず、今回はこの二人でおしまいです。また、近いうちに続きをやりますので、お楽しみにして下さい」

メルエーナ「次は、セレクトさんとマリアさんの予定です」

 

バルネア「それでは、お読み頂きありがとうございました」

メルエーナ「また、次回もよろしくお願い致します。また、ご意見やご要望が有りましたら、お知らせ下さい」



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『主要登場人物紹介③』【第一~四章+予告編まで】

バルネア「バルネアと」

メルエーナ「メルエーナの」

 

バルネア・メルエーナ「「主要登場人物紹介!」」

 

バルネア「さて、早いものでこの人物紹介も三回目になりました」

メルエーナ「今回で一区切りになります」

 

バルネア「皆様、私達が登場している小説、『彼は、英雄とは呼ばれずに』をお読み頂きありがとうございます」

メルエーナ「このお話も長くなってきましたので、第五章が始まる前に、キャラクターを一度整理して置こうという企画です」

 

バルネア「さて、これから登場人物の紹介をしていきますが、ここにいる私、バルネアとメルちゃんは、本編の登場人物とは別の視点(いわいるメタ視点)を持っておりますので、この話の私達の理解と本編での私達の理解が同じではないことをご注意下さい」

メルエーナ「私もバルネアさんも、知らないことが多すぎますので、こうしないと情報が整理できないためです。ご容赦下さい」

 

バルネア「さて、それでは今回も、始めていきましょう」

メルエーナ「はい!」

 

 

 登場人物紹介 ⑤

 

 マリア=レーナス(17歳)

 身体的特徴:金髪で碧眼。誰もが一度見たら忘れられない美貌の持ち主

       で、背丈は平均くらいだが、スタイルもものすごく良い。

 性格:基本的に礼儀をわきまえておしとやか。そして、麗しい見た目から

    深窓の令嬢と思われているが、剣を嗜むなど、意外とお転婆な一面を

    持つ。

 特技:領地経営 剣術 紅茶を美味しく淹れる事 

 好きなもの:義父母 買い物 お菓子 可愛いグッズ 

 嫌いなもの:人を上辺だけでしか判断しない人 悪政を敷く人

       皆の仇である左右の瞳の色が異なる人達

 

バルネア「今回はまず、マリアちゃんの紹介ね」

メルエーナ「まだ本編のバルネアさんと私は、マリアさんとは出会っていないんですよね」

バルネア「そうね。基本的にプレリュードは顔出しで、第五章以降のキャラクターなので、どうしてもね」

メルエーナ「第五章以降は話の中心になっていくんですよね……」

 

バルネア「『身体的特徴』についてだけれど、顔がものすごく綺麗。男女を問わずに魅了するほどの美貌の持ち主。その上、スタイルもものすごくいいのよね」

メルエーナ「そうですね。胸もすごく大きくて……」

バルネア「メルちゃん、女の子の魅力は胸だけではないわよ」

メルエーナ「ううっ、ですが、私はあんなに綺麗ではないですし、剣術なんかもまるでできませんので……」

バルネア「でも、メルちゃんはマリアちゃんよりもジェノちゃんの好みを知っているでしょう? それに、二人で料理の話題で盛り上がれるのは、マリアちゃんにはできないわ」

メルエーナ「そうですね……。はい! 負けません! 頑張ります!」

 

バルネア「マリアちゃんの『性格』は、見た目通りにおしとやかなんだけれど、自分で自分のことはしたがるし、剣術も好きなお転婆なところもあるのよね」

メルエーナ「そうですね。そういったところも魅力的な女性です」

 

 

バルネア「『特技』の領地経営は、流石は貴族様という感じね。剣術の他に、紅茶を入れるのも得意というのは以外ね」

メルエーナ「普通の貴族の方とは異なり、自分の事を自分でしようとする方なんですよね」

バルネア「ええ。そういったところは好印象ね」

メルエーナ「はい。素直にそう思います」

 

 

バルネア「『好きなもの』は、義両親の他には、買い物やお菓子やかわいいグッズが好きという、年頃の女の子よね」

メルエーナ「そうですね。普段は貴族としての立場があるので、なかなか難しいようでしたけれど、あんな事件があったので、その結果自由になるというのはなんとも言えないです……」

バルネア「そうね。まぁ、その辺りは私達も気にかけてあげましょう。ただ、メルちゃん。メルちゃんは人が良すぎるから、敵に塩を送るのは程々にしないと駄目よ」

メルエーナ「いえその、別に敵とは思っていませんが……。いえ、その、分かりました……」

 

 

バルネア「『嫌いなもの』は、仇である左右の瞳の色が違う人達は別として、悪政を敷く人の他に、人を上辺でしか判断しない人というところが、マリアちゃんの潔癖さを表しているわね」

メルエーナ「そうですね。そう考えると、マリアさんの理想は高そうですね」

バルネア「そうね。ただ、ジェノちゃんって、メルちゃんの好みの性格に成長しているのよね」

メルエーナ「……そうですよね。美男美女でお似合いですし……」

 

バルネア「マリアちゃんはつらい経験をしながらも、前を向いて歩いていく強さを持った女の子。だから、メルちゃんも負けちゃあ駄目よ」

メルエーナ「ええ。頑張ります!」

 

 

 

 

 登場人物紹介 ⑤

 

 セレクト=カインセリア(24歳)

 身体的特徴:茶色の髪に伊達メガネ。そこそこ整った顔立ちでやや高身長。

 性格:温厚で人当たりがよく、たまに寝坊をする抜けた部分もあるが、癖が

    強いものの、本業の魔法使いとしてはかなりの逸材でもあるし、政治

    的な知識も豊富な知恵者。

 特技:魔法 誰かに知識を教えること 戦場での指揮

 好きなもの:教え子の成長を見守ること パスタ料理 安眠 

 嫌いなもの:自分の呪いじみた悪運 <緑眼>のサディファス

 

   

バルネア「はい。次は、セレクト先生ね」

メルエーナ「こちらの方も、まだ本編ではお会いしていませんね。」

バルネア「そうね。でも、マリアちゃん同様に、今後、重要な立場になる人なのよね」

メルエーナ「二十代半ばで、家庭教師的なことを生業に生活してきた人ですので、落ち着いた雰囲気をまとっています」

バルネア「教え子のことを本当に大切に思っている人だから、メイちゃんの事は本当に深い傷になってしまっているのよね」

メルエーナ「そうですね……」

 

 

バルネア「『性格』は本当に温厚な人ね。『特技』が誰かに知識を教えることというのも相まって、優しい先生のイメージがピッタリの人よ」

メルエーナ「今後、ジェノさん達に年長者としての立場から、いろいろアドバイスをしてくれそうですよね」

バルネア「そうなって行くでしょうね。ただ、教え子を本当に大切にしている人だから、その命を奪うきっかけを作った人達を絶対に許さないという復讐心も抱えているのよね」

メルエーナ「悲しいですよね。本当に……」

 

 

バルネア「『好きなもの』にパスタ料理があるわね。これは美味しい料理を作ってあげないとね」

メルエーナ「そうですね。それと、眠るのも好きみたいですね。時々、寝坊することもあるそうですけれど」

バルネア「そういうところも含めて、愛される先生みたいね」

 

メルエーナ「『嫌いなもの』は、やはりメイさんの仇である……」

バルネア「そうね……。それと、自分の悪運も大嫌いみたい」

メルエーナ「……辛いですよね。どちらも、セレクトさんが悪いわけではないのに」

バルネア「大人だから、その辺りの事を他人に見せようとはしないけれど、セレクト先生のそういった傷を理解してあげられる存在が必要ね」

メルエーナ「そうですね。……本当に、メイさんが生きていられたらまるで違ったはずなんですがね」

バルネア「そうね。そう思わずにはいられないわ」

 

 

バルネア「セレクト先生は優秀な魔法使いなんだけれども、欠点もあって、直接対象に触れるか、『お守り』と呼称している、予め自分の魔法の力を通した物体を介さないと魔法が発動できないのよね」

メルエーナ「リットさんのような事はできないということですね」

バルネア「そうね。ただ、これは長所にもなりえて、いくつもの対象に魔法を通しておけるから、本編でやっていたように、沢山の人と同時に会話を行えたりするわ」

メルエーナ「すごいですよね。これって、普通の魔法使いにはできないことなんですよね?」

バルネア「そうね。まぁ、リットちゃんならできるかもしれないけれど、他の魔法使いにはまず無理だと思っておいていいわ」

メルエーナ「すごいです、セレクトさんって」

バルネア「それに加えて、戦場での指揮も得意だから、かなりの逸材であることは間違いないわ。今後の活躍が楽しみね」

メルエーナ「そうですね」

 

 

 

バルネア「とりあえず、このシリーズはこの二人でおしまいです。今後は、また特別編を挟んで、いよいよ第五章の始まりになる予定です」

メルエーナ「お待たせして申し訳有りませんが、どうか今しばらくお待ち下さい」

 

バルネア「それでは、お読み頂きありがとうございました」

メルエーナ「ご意見やご要望が有りましたら、ご遠慮なさらずにお知らせ下さい」

 

バルネア・メルエーナ「「ここまでお読み頂き、ありがとうございました!」」



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特別編⑤ 『仮装と乙女心』(前編)

 風がすっかり冷たくなってきた。

 秋は食べ物が特に美味しい季節だが、これから冬が始まるのかと思うと、少々気が滅入る。

 

 メルエーナの故郷であるリムロ村では、ぶどうの収穫が終わり、ワインを作っている頃だろう。

 去年も里帰りをしていないから、もう随分昔のことに思える。

 

「ほら、メルもどっちがいいか選びなさいよ! 貴女の事を話し合っているんだから⁉」

「そうよね。メル。どちらを選んでも文句を言わないから安心していいよぉ。でも、私の案を採用してくれるって、お姉さん、信じているからね」

 

 現実逃避するように、生まれ故郷のことをぼんやり考えていたメルエーナは、しかし、イルリアとパメラの声に現実に無理やり引き戻されることになった。

 

(……お父さん、助けて下さい……)

 事の元凶である母親に助けは求められないので、メルエーナは遠い故郷の父に、心の中で助けを求めたが、いかんせん物理的な距離は縮まってくれないのだ。

 

 

 

 

 ハロウィンという行事をメルエーナが知ったのは、このナイムの街にやってきてからだ。

 とはいっても、あまり詳しい語源や意味は曖昧だ。

 

 ただ、この異国の文化があふれるナイムの町の人間は、雑多に他所の国の祭りを模すのが大好きらしく、十年程前から浸透し始めた、比較的新しいお祭りらしい。

 

 この日は、かぼちゃの幽霊のようなものが祀られ、飾られ、仮装した人間が街を練り歩く。

 料理もかぼちゃを使った物が多く提供され、仮装した子ども達が、『トリック・オア・トリート』と口にし、お菓子をねだってくるので、大人たちは常にお菓子を持ち歩かなければいけないので意外と大変なのだ。

 

 今年、めでたく成人したメルエーナは、大人として子どもたちにお菓子を配らなければと思い、クッキー作りに精を出す予定である。

 

 新しいものも敏感に取り入れるバルネアの店であるパニヨンも、当然ハロウィンの際にはカボチャ料理を提供するし、なんと仮装も行うのだ。

 

 去年はバルネアと二人で、かぼちゃをイメージしたスカートと黒を基調にした衣装で、魔女の格好をした。 

 ただ、ジェノが仕事でいなかったため寂しい思いをしたメルエーナだったが、今年は一緒にお店を手伝うことになっているので、一層気合が入る。

 

 それに、バルネアが昨日、「ジェノちゃんには、絶対これが似合うと思うの」と言って、外が黒で内が真紅のマントと、同じく黒と真紅が基調の服を渡し、吸血鬼の格好をさせた。

 これが本当に似合っていて、メルエーナは伝承の化け物がすると言われる<魅了>の魔法に掛かったかのように魅入られてしまい、ドキドキして昨日はあまり眠れなかったほどだ。

 

 そう。

 いよいよ来週に迫ったハロウィンを、メルエーナはお菓子を心待ちにする子供のように楽しみにしていた。

 

 だがここで、あの困った母から荷物が届いたことから悲劇が始まったのだ。

 

 

 

 

 いつものようにあっという間に仕込んでいた料理が底をついてしまい、午後から休業になってしまったパニヨンで、メルエーナは今月末のハロウィンの料理とクッキーをどんなものにしようか、バルネアと相談していた。

 

 客席には、少し遅れて昼食を取る、神官のパメラの姿もあった。

 

 そんな中、メルエーナの実家から荷物が届いたのである。 

 

「おっ、実家からの贈り物?」

 食事を食べ終えたパメラが、配達員から荷物を受け取って嬉しそうに微笑むメルエーナに声を掛けてくる。

 

「はい! きっとジャムか何かだと思いますので、パメラさんも少し持っていかれませんか?」

「わっ! いいの? 去年貰ったぶどうジャムが美味しかったから、お姉さん、すごく嬉しいなぁ」

 パメラは本当に嬉しそうに微笑んでくれる。

 

「ふふっ。リアラ先輩の作るジャムは絶品だものね」

 バルネアも笑顔でキッチンから出てきて、メルエーナが荷物を置いたテーブルに皆が集まる。

 

 バルネアが持ってきてくれたハサミを使い、梱包の紐を切り、底の深い、少し重量のある木箱の蓋を開けると、予想通り、いくつもの瓶にジャムが小分けにされて入っていた。

 

 そう、ジャムは入っていた。

 それはいい。封筒にいつものように手紙が入っていたのも嬉しい。だが、そのジャムの小瓶の横に、布に包まれた長方形の何かが入っていた。

 

「これは?」

 メルエーナはそれを手に取り、不思議に思ってその布を結んでいた紐を解き、布を取る。するとその拍子に、するっと何かが床に落ちた。

 メルエーナの手の中には、型くずれしないようにと入れられていたと思われる厚紙しかない。

 

「メル、なんか落ちたわよ」

「あっ、すみません、パメラさん」

 パメラが床に落ちてしまった何かを拾ってくれた。

 それは、黒い布切れのようで……。

 

「……えっ……。これって……」

「どうしたんです、パメラさ……」

 パメラの手にしている黒い布切れを見て、メルエーナの思考は停止する。

 

「まぁ、すごいわね」

 のんびりとしたバルネアの感想に、パメラも、

 

「いやぁ、大胆だね、メル。お姉さん驚きだぁ」

 

 とその布切れを伸ばして、頬を赤らめながらそれを見ている。

 

 パメラが手にしているものは、まさに布切れだった。布の面積が殆どない、その大部分が紐だけの……下着だった。しかも、下の方の……。

 

 それを理解した瞬間、メルエーナは悲鳴を上げ、大慌てでパメラの手からそれを奪い取り、先程の布にそれを乱暴に畳んでいれ、木の箱の中に戻し、蓋をした。

 

 だが、そんな事をしても今更遅い。遅すぎる。

 

「……メル。そうよね。マリアというライバルが現れた以上、うかうかしていられないものね」

 うんうんと、何もかも分かっているからと言わんばかりの微笑みを浮かべ、パメラがメルエーナの肩に手を置く。

 

「メルちゃん、その時が決まったら教えてね。私も、外に用事を作って外泊してくるわ」

 バルネアものほほんと微笑み、パメラとは反対の方の肩に手を置く。

 

「違います! 誤解なんです! 今のは何かの間違いで……」

 メルエーナは必死に誤解であることを訴えるのだが、二人の耳には届かない。

 

「ふふっ。いいのよ、メル。私と貴女の仲じゃあないの。でも、急いては事を仕損じるわ。明日はお店が休みでしょう? 三人よれば文殊の知恵。イルリアとリリィも交えて、いつもの喫茶店で相談しましょう」

「あら、それはいいわね。詳細が決まったら、私にも教えてね」

 パメラとバルネアは、二人で勝手に明日以降の予定を決めてしまう。

 

「ですから、私の話を……」

 メルエーナは懸命に声を上げたのだが、パメラは、

 

「大丈夫! 明日はなんとしても休みを取るわ! 可愛い妹分の未来のためだもの! バルネアさん、ごちそうさまでした!」

 

 そう言い残し、昼食代をテーブルに置いて店を猛烈な勢いで出ていってしまった。

 

「あっ、ああああっ……」

 もはや追いつくことなど不可能なことを悟り、メルエーナはがっくりと項垂れる。

 

「ふふっ。若いっていいわね」

 バルネアののんきな言葉が、気落ちするメルエーナの心にとどめを刺すのだった。



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特別編⑤ 『仮装と乙女心』(中編【パメラ案】)

『親愛なる私の娘へ

 

 メル。ジェノ君とはうまく行っている? 

 まぁ、奥手な貴女のことだから、きっとうまく行っていないでしょうけれど。

 

 もう少しで、ハロウインというお祭りがあるのよね?

 みんなで仮装して、かぼちゃを飾るお祭りが。ならば、そんなチャンスを見逃す手はないでしょう?

 

 というわけで、私が貴女のために少し色っぽい下着を作ってあげたから送るわね。

 これで、ジェノ君をゲットするのよ! いい報告を待っているからね!』

 

「…………」

 夕食後、メルエーナは自室のベッドの端に座り、自分だけに宛てられた手紙を読んで、肩を震わせる。

 無論、感動しているわけではない。彼女は、怒っているのだ。

 

「どうしてお母さんはこうなんですか! あんな下着なんて着られるはずがないです! まして、ジェノさんに見せるなんて論外です!」

 昼間の失敗を思い出し、怒りとは別に、メルエーナは恥ずかしさで顔を真っ赤にする。

 

「あれじゃあ、私がお母さんにあのようなはしたない下着を作ってくれるように頼んだと思われても仕方有りません! それをバルネアさんだけでなく、パメラさんにまで見られて……」

 メルエーナはベッドに仰向けに倒れ、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆う。

 

 しばらく羞恥に悶ていたメルエーナだったが、それでもジェノに見られるよりはましだったと、前向きに考えようとする。

 

 もしもあの場にいたのがジェノだったら、間違いなくドン引きされていた。

 あのような下着を好んで身につける、はしたない女だと思われてしまうところだった。

 

 ちなみに、あの下着は、布に丁寧に包んで、衣装入れの一番奥に封印してある。きっと、二度とその封印が解かれることはないだろう。

 

「……ですが、明日の昼から、パメラさん達と……」

 またいつもの喫茶店で、対策会議とやらが行われることになってしまった。

 

 はっきり言ってしまえば、ありがた迷惑ではある。だが、自分のために今日の仕事を早々に終わらせて、イルリアとリリィにも話を通してくれて、その事を夕方に報告に来てくれたパメラの思いを無下にはできない。

 

「ううっ……。私は、誰よりも間近で、ジェノさんの仮装を見られるだけで幸せだったのに……」

 メルエーナは重いため息とともに、そんな嘆きを口にするのだった。

 

 

 

 

 

 翌日の昼食時を過ぎた頃、喫茶店<優しい光>で、メルエーナは死んだ魚のような目で、目の前で繰り広げられる熱い議論を見ていた。

 

「いい? やっぱりここは王道で責めるべきだと私は思うの!」

「王道、ですか?」

 パメラの熱弁に、リリィが疑問の声を上げる。

 

「そうよ。ハロウィンでの女の子の定番と言えば、やっぱり魔女よ!」

「でも、メルは<パニヨン>の手伝いで、去年も魔女の格好をしていますよね?」

 リリィの問に、パメラは「そこがポイントよ」と力説を続ける。

 

「去年と代わり映えしない魔女の格好に、ジェノ君はきっとがっかりするわ! でも、今年は違うのよ、中身が!」

「中身?」

「そう。メルったら、実家のお母さんに頼んで、すっごい下着を準備してもらっているのよ! だから、そのギャップを利用するの!

 去年と同じ仮装を見せておいて、祭りが終わったら、ジェノ君の部屋を訪ねていくの。そして……」

 

 

 

 

 ハロウィンということで、普段とは異なり、夜も営業をしていたパニヨン。しかし、ようやく騒がしい祭りが一段落し、ジェノは息をつき、衣装を着替えようとした時だった。

 

 コン、コン! と遠慮がちに部屋のドアがノックされたのは。

 

「今開けます」

 バルネアだと思い、ジェノは着替えを止め、部屋の鍵を開ける。

 だが、部屋の前に立っていたのは、未だに魔女の仮装をしたままのメルエーナだった。

 

「こんばんは、ジェノさん」

 メルエーナはそう言って微笑む。だが、いつもより顔が赤い。

 

「どうした、メルエーナ? ……酒が入っているのか?」

「ふふふっ。大丈夫ですよぉ。ワインを少し頂いただけですからぁ」

 メルエーナの呂律が少し怪しい。どう考えても、少しの飲酒量とは思えない。

 

「かなり酒が回っているようだな。今日はもう休んだほうがいい」

「むぅっ。どうしてそんなつれない事を言うんですかぁ。ジェノさんは冷たすぎです。鈍感ですぅ!」

 泥酔しているようで、メルエーナは普段では考えられない絡み方をしてくる。

 

「というわけで、そんな薄情なジェノさんには、少しお話があります。部屋にいれてくださぁい」

 メルエーナは強引にジェノに迫ってくる。

 このまま部屋に帰しても、その後が心配なので、仕方なく酔いが覚めるまで、ジェノはメルエーナの相手をすることにした。

 

「本当に大丈夫なのか?」

 倒れても大丈夫なように、メルエーナをベッドの端に座らせて、ジェノは机の椅子を移動させてきて、そこに腰を掛ける。

 

「ふふふっ。ジェノさんのベッドですぅ……」

 何が面白いのか、メルエーナはクスクスと笑う。

 普段の真面目な彼女とはかけ離れた印象に、ジェノは戸惑う。

 

 魔女の格好もあり、メルエーナは祭りの空気に当てられてしまったようだ。

 

「ジェノさん、大切な質問ですよぉ~。嘘偽りなく答えて下さいねぇ」

 メルエーナはそう言いながら、ベッドに平行に倒れて、体を預ける。

 

「メルエーナ。やはり部屋に戻った方がいい」

「嫌ですぅ。私の質問に答えて下さい」

 普段は物分りがいいメルエーナの思わぬギャップに、ジェノはどうしたものかと戸惑う。

 

「わかった。それで、質問というのは何だ?」

 嘆息し、仕方なくジェノはメルエーナに付き合うことにした。

 

「ジェノさん。私に内緒で、このベッドに誰か他の女の子を寝かせたりしていませんか?」

「たちの悪い冗談だな。俺は基本的に、他人を部屋に入れたりはしない」

「むぅっ、本当ですか?」

「お前も知っているだろう。そもそもこんな殺風景な部屋に誰かを招き入れる必要などない」

 ジェノは呆れたように言う。

 

「……でも、私は入ってしまいましたよ?」

「同じ屋根の下で暮らしているお前を入れることくらいは、別になんともないだろう」

 ジェノはそう答えたものの、そこで違和感を覚えた。

 

 今まで酔いが回っていて、呂律がしっかりしていなかったはずのメルエーナが、はっきりとした口調で物を喋り、真剣な表情でこちらを見つめているのだ。 

 

「メルエーナ……」

「今日の私は魔女です。今日だけは、私は魔法が使えます。それは、恐ろしい吸血鬼が相手でも……」

 メルエーナは静かに立ち上がり、椅子に座ったままのジェノに熱い視線を向ける。

 

「外見は同じでも、今年は中身が違うんですよ。そして、今日はずっとこの格好だったんですよ。ジェノさんに見てもらいたくて。私を意識してほしくて……」

 そう言うと、メルエーナは自らのスカートをゆっくりとたくし上げていく。

 

「私は、二つの魔法を使いました。一つは、私自身が勇気を出せる魔法。もう一つは、貴方を魅了する魔法です……」

 

 メルエーナの肉付きの程よい太ももが顕になっていく。

 去年と変わらない衣装のはずなのに、いや、だからこそ、その中身がどう違うのか惹かれてしまう。

 

 そして、スカートはたくしあがり、さらに、彼女の僅かな布に覆われ……。

 

 

 

 

「ああああああっ! ストップです! そこまでです! 止めて下さい!」

 パメラの妄想を、自分のお葬式に参列するような気持ちで聞いていたメルエーナだったが、ついに堪えきれなくなり、パメラの口を両手で塞ぐ。

 

「もう、ここからがいいところだったのに!」

 武術的な心得のないメルエーナの行動は、普段から鍛えているパメラには何の効果もなく、簡単に逃げられてしまう。

 

「よく有りません! だいたい、魔女のスカートはそんなに長くないんですよ! それなのに、あんな下着を身に着けていたら……」

「そうね。店の手伝いをしている最中に豪快に転んで、下着が顕になったら、痴女認定待ったなしよね」

 それまで無言かつ呆れた顔で話を聞いていたイルリアが、淡々と事実を述べる。

 

「ほらぁ、そこは嘘も方便ということで、ジェノ君の部屋に行く前に着替えるとかあるじゃない」

「神官がそんな事を言ってもいいんですか⁉」

「ふっ。子孫繁栄のためならば、豊穣の女神であらせられるリーシス様は、細かいことには目をつぶってくださるわ!」

 自信満々に断言するパメラに、メルエーナはがっくりと肩を落とす。

 

「パメラさん。そもそも、あの鈍感朴念仁が、酔っているからという理由だけで、メルを部屋に入れることはないのでは?」

「えっ? いや、普通、メルみたいな可愛い女の子が部屋を訪ねてきてくれたら、嬉しいでしょう?」

「いいえ。あいつのことだから、メルが『部屋に入れて下さい』と言った途端、『いいから、今日はもう休め。明日に差し支える』と言い、ドアを閉めるに決まってます」

 イルリアの言葉は容赦がない。

 

 いくらなんでも、そんなことはしないとメルエーナは信じているが、イルリアの中でのジェノのイメージはそんな感じなのだろう。

 

「ぬぅ。一緒に旅をしているイルリアが言うと説得力があるわね」

「ジェノさんは言葉が少ないですが、優しいイメージだったんですが」

 パメラとリリィの呟きに、メルエーナは慌てて、ジェノの人柄を話し、イルリアの言うようなことはしないと説明する。

 

「なるほど。やっぱりジェノ君は優しいのね。……でも、どうしてそこまで相手のことが分かっているのに、関係が進まないのかね、貴女達は?」

 パメラの的確な問が、メルエーナの心に突き刺さった。

 

「でも、やっぱりジェノさんは優しいんだよね? それなら、ハロウインの仮装とはちょっと違うけれど、こんな方法はどうかな?」

 この四人の中で、唯一彼氏がいるリリィが、案を出してくれることになった。

 

 以前相談に乗ってもらった時も、彼女は良識のある意見を述べてくれたので、メルエーナは期待をする。

 

 だが、その期待は大きく裏切られることになるのだった。



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特別編⑤ 『仮装と乙女心』(中編【リリィ案】)

 この四人の中では唯一の彼氏持ちの、リリィが口を開く。

 しかも彼女は、パメラやイルリアよりも自分の心情を汲んでくれるので、メルエーナは期待して待った。

 

「メル。パメラさんのアイディアも悪くないと思うのだけれど、ハロウィンの仮装は去年と同じでいいと私も思うの。あっ、もちろん下着なんかも地味なものでいいと思うわ」

「そっ、そうですよね! なにかトラブルが起こったら、大変なことになりますし!」

 やはりリリィさんは癒やしだとメルエーナは思う。

 

 だが……。

 

「ええ。そんなことになったら、ジェノさんにだけ見せるという特別性が失われてしまうわ。だから、夜の仮装とは分けて考えましょう!」

「えっ? ……夜の仮装……ですか?」

 なんだか話が想像していた方向とは違い、明後日の方向に伸びようとしている気がして、メルエーナは尋ね返す。

 

「ええ。そうよ! やっぱり自分にだけ見せてくれるという特別性が大事だと私は思うの! というわけで、ここは、バニーガール衣装で行きましょう!」

「……ええと、バニーガール衣装ってなんですか?」

 リリィが熱弁する、バニーガール衣装というものが、メルエーナにはわからない。

 

「おっ! それもいいねぇ! お姉さんも、メルのバニーガール姿を見てみたい気がするよ!」

 パメラがリリィの案に同意するが、さっぱりどんな衣装なのかわからない。

 

 バニー――つまりは、うさぎのことだろうか? けれど、まさか着ぐるみというわけではないだろうから、全然想像がつかない。

 

「ああ、こんな感じのアホな衣装よ。あの馬鹿が特殊な趣味を持っているのなら、喜ぶんじゃあないの?」

 どうでもいいといった感じだが、イルリアは持ち歩いているペンで、テーブルに置かれていた紙ナプキンに、分かりやすいイラストを描いてくれた。

 

 そして、それを見て、メルエーナはそんな衣装を着た自分を想像し、顔を真っ赤にする。

 

「なっ、なんなのですか、この露出の多い衣装は。そして、頭になんでこんな長い耳のようなものがどうしてついているんですか?」

 メルエーナは頭から湯気が出そうになりながら、リリィに尋ねる。

 

「いや、そこはバニーガールだもの。ウサギ耳は必須よ!」

「訳がわかりません!」

「だって可愛いじゃあない、耳があった方が。そして、私は格安で売っている店を知っているの。あっ、生地はしっかりしているから、安心して。

 普段、メルにはお世話になっているから、言ってくれればすぐに用意するわ」

「えっ? ……えっ?」

 メルエーナは、リリィのとんでもない発言に、耳を疑う。

 

「どうして、そんな衣装を売っているお店を御存知なんですか?」

 思わぬ発言に、メルエーナは頭がついていかない。

 

「その、あのね……。お友達伝いに知ったんだけれど、トムスったら、女の子の足が好きみたいだから、その、ハロウウィンの仮装のついでに、私の足で良ければ、見せてあげようかなぁって」

 リリィは恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、どこか嬉しそうに微笑む。

 

 ちなみに、トムスというのは、雑貨店の男の子の名前で、彼がリリィのお付き合いしている人物である。

 

「おっ! おっ! なんだい、リリィ。メルの相談に乗る振りをして、惚気に来たのかなぁ~。ちくしょう、お姉さん羨ましいぞぉ」

 パメラが神官とは思えない口調で、リリィを誂う。

 

「りっ、リリィさんが、すっかり大人の女性に……」

 メルエーナはショックだった。

 自分と同じように奥手だと思っていたリリィが、自分よりもずっと進んでいることに、驚くとともに寂しい気持ちになってしまう。

 

「あははっ。その、私は別に惚気けているわけではないですよ。ただ、バニーガール衣装って、魅力の塊なんですよ。だから、大抵の男の人の嗜好を満たせるのではないかと思いまして」

「ほうほう。言われてみれば確かに。肩から胸の谷間までを露出をし、おしりの形はもちろん、脚線美も見せつけることになるわね。うん、フェチズムの塊だわ、確かに」

「そうです! それに、私もメルと同じで、胸自体は大きくありませんけれど、そこの上部を露出することで、服に隠された胸に興味を惹かせることができると思いまして……」

「なるほど。他が露出している分、そこ以外も見たくなるというわけね!」

 

 大人の会話を交わすリリィとパメラの話について行けず、メルエーナは顔を真っ赤にして黙って聞いているしかない。

 こんな事を続けているから、耳年増になるのだと自分でも思うのだが、後学のために聞いておいたほうがいい気もしてしまう。

 

「ねぇ、メルも勇気を出して、私とバニーガール衣装を着てみない? ジェノさん、喜んでくれるかもしれないわよ?」

「いえ、その、私は……」

「大丈夫よ。ハロウィンだもの! お仕事が終わった後に、『こんな仮装も用意していたんですよ』って言って、ジェノさんの部屋に押しかけるの。

 そして、潤んだ目で、『どうです、似合っていますか?』って尋ねれば、いくらジェノさんだって……」

 

 リリィはそう言って語り始める。

 メルエーナとジェノのハロウィン夜の秘密の逢瀬を。

 

 

 

 

 ようやく覚悟が決まったメルエーナは、服を脱ぎ、目の前の露出の高い衣装に着替える。

 肩も胸の上部も丸出しで、足も網タイツに覆われているものの、ものすごく薄いので、丸出しとかわらない。

 

 お尻の上部に、丸く白い膨らみがついているが、これはしっぽなのだろう。

 さらに、頭にピンッと伸びた二つの耳がついたカチューシャを付けて、メルエーナは自分の部屋の大きな姿見で、自分の姿を確認する。

 

 おかしなところはないだろうかと確認するが、メルエーナの感性では、そもそもこの格好がおかしいので、何が良くて悪いのかまるで分からない。

 

「ですが、これもジェノさんに私のことを意識してもらうためです!」

 メルエーナは軽く自分の頬を叩き、気合を入れて部屋を後にする。

 

 向かいのジェノの部屋まではすぐにたどり着くことができた。

 後は……。

 

 メルエーナは深呼吸をし、覚悟を決めてジェノの部屋をノックする。

 

「ジェノさん、少しよろしいですか?」

 そう声を掛けて、自らの逃げ道を塞ぐ。そうしないと、今すぐにでも自分の部屋に戻りたい心境だからだ。

 

 すぐに足音が聞こえ、ドアが静かに開かれた。

 出てきたのは、黒髪の顔貌の整った男性。

 

 まだ、仮装姿のままだったようで、メルエーナはその怪しげな魅力に頬を赤らめる。

 

「そっ、その、お疲れのところすみません! ただ、その、ジェノさんにだけ、その……私の用意した、もう一つの仮装を見てもらえたらなんて、思ってしまいまして……」

「…………」

 メルエーナは努めて明るい感じで話しかけたのだが、ジェノは何も言わずに、静かにこちらを見つめてくる。

 

 けれど、その表情には、困ったような様子も、呆れたようなものも感じられない。

 ただ、熱い視線がメルエーナを捉えて離さない。

 

「……っているのか?」

 ジェノがボソリと呟いた言葉が聞き取れず、メルエーナは「えっ?」と首をかしげる。だが、彼女は気づかない。その何も分かっていない表情が、一層ジェノの中に眠る気持ちを呼び起こしていることに。

 

「きゃっ!」

 メルエーナは不意にジェノに細い腰を掴まれ、抱き寄せられた。

 

「あっ、あの、ジェノさん……」

 メルエーナは不安げにジェノの顔を見上げる。すると、彼は真剣な表情をしていた。少し怖いと思ってしまうほどの顔をしていたのだ。

 

「分かっているのか? そんな格好で、夜に男の部屋を尋ねてくる意味が……」

 ジェノの言葉の意味をようやく理解し、メルエーナは顔を真っ赤にする。

 

「あっ、その、わっ、私……」

 メルエーナは驚いて離れようとしたが、すでに腰をがっしり掴まれて、離れることができない。

 

 魅了の力を持つ吸血鬼に、か弱いうさぎは抵抗するすべなど持たない。

 唯一の自衛手段である、逃走を封じられた今、うさぎはその身を吸血鬼に委ねるしかないのだ。

 

「メル……」

「はい……」

 うさぎは、吸血鬼の根城に引き込まれて行く。

 それが意味することを理解しながらも、うさぎは負の快感に身を委ねるのだ。

 

 全てを差し出すことの快感に。

 強い存在に、思うがままに蹂躙される事に悦を覚えさせられるしかないのだ。

 

 

「……といった感じで、二人は熱い一夜をともに過ごして……」

 リリィの解説に、メルエーナは顔をうつむけて恥ずかしさを堪える。

 

「うん。いいわね、そのシチュエーション! メル、悪くないんじゃあないかしら?」

「…………」

 パメラが声を掛けてくれたのは分かったが、メルエーナは恥ずかしさのあまり顔を上げることも、返事をすることもできない。

 

 ほんの少しだが。

 そう、少しだけだが。

 もしかしたらと考えただけだが、そんな展開になったらどうしようと思ってしまった。そうなったら素敵だとも思ってしまった。

 

 メルエーナは、そんなはしたない自分の欲望をただただ恥じる。

 

 しかし、そこで思わぬ声が上がる。

 

「あのねぇ、リリィ。あの朴念仁がそんな気の利いたこと言えるわけ無いでしょうが」

 イルリアが、そう言って嘆息する。

 

「ええ~っ。メルくらい可愛い娘が迫れば、いくらジェノさんでも」

 リリィが抗議の声を上げるが、イルリアは首を横に振る。

 

「確かに、そううまく行けば万々歳よ。でもね、この作戦は失敗した時のリスクが高すぎるわ」

「ほうほう。イルリアくん、続けたまえ」

 パメラが変な口調で、イルリアに話の続きを促す。

 

「いい? 最初のパメラさんの案であれば、ジェノが乗り気にならなくても、『お酒が入っていたから』ということと、『外見上は今までと同じ衣装』という保険がある。でも、リリィの案では、失敗した時にリカバリーが効かないのよ」

 イルリアの言葉に、メルエーナの浮ついた気持ちは吹っ飛ぶ。

 

「もしも、バニーガールの格好で部屋を訪ねて、あいつが引いたらどうするの? そんな格好をしている以上、言い訳は効かないわよ」

「そっ、それは……」

「リリィ。貴女がトムスに試すのは好きにすればいいわ。でも、メルの場合、次の日の朝からも、ずっとあいつと顔を合わせるのよ。その気まずさといったら、想像を絶すると思うわ」

 

 イルリアの言う最悪のビジョンがメルエーナの脳裏に浮かんでくる。

 

 意を決して身につけた恥ずかしい衣装にドン引きされて、自らの部屋に逃げ戻る自分。そして、明日からどんな顔で接すればいいのかわからなくなる。

 

 そして、せっかく頑張って着た衣装を泣く泣く着替えるのだ。

 

 ……惨めだ。

 

 ……哀れだ。

 

 ……救いようがない……。

 

 メルエーナは、今度は羞恥とは別の絶望感で、顔を俯ける。

 

 

「ううっ、いいアイデアだと思ったのに……」

 リリィが残念そうにシュンとなる。

 

「そうね。確かに失敗した時のリスクも考えておく必要はあるわよね。それじゃあ、それを踏まえた上で、イルリア、貴女の案を教えて頂戴」

 パメラが今度はイルリアに話を振る。

 

「私の案ですか? ああ、それなら……」

 イルリアは気乗りしなさそうな声で、話し始めた。

 

 それは、今までの二つよりも、もっと過激な案だった。



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特別編⑤ 『仮装と乙女心』(中編【イルリア案】)

 ようやくハロウィンの夜が更けていく。

 

 普段とは異なり、夜の営業もあったため大変であったが、普通の飲食店ならば、これが当たり前なのだ。

 昼食時の始まりで、仕込んでいる数はかなりのものなのに、料理が底をつくこの店が、<パニヨン>が異常なのだ。

 

 料理はもちろん、バルネアとメルエーナが作ったクッキーも配り終えた。そして、こうして店の後片付けも済んだ。

 クッキー作りを手伝えなかった分、先にバルネアさん達には休んでもらったジェノは、汗を流してから休もうと、浴場に向かうことにした。

 

 もう遅いので、いつもよりも早くに風呂を出て、ジェノはもう一度戸締まりを確認しようとした。だが、客席の辺りに明かりが灯っているのを見て、そちらに足を運ぶ。

 

「何をしているんだ、メルエーナ?」

 厨房に一番近い客席で何かをしていたのは、今年の仮装である、神官服を身に纏ったメルエーナだった。

 

 初めてみたときには、ジェノもあまりに本格的な衣装で驚いたが、それもそのはずで、この衣装はパメラ伝いで借りてきた、本物の神官服なのらしい。

 

「あっ、ジェノさん。お疲れさまでした。戸締まりは私が確認しておきましたので、大丈夫ですよ」

 メルエーナは答えにならないことを口にする。

 

「それはありがたいが、もう休んだほうがいい。明日も仕事が……」

「はい。それは分かっているのですが、祭りの後のせいか、気持ちが落ち着かなくて」

 メルエーナはそう言って苦笑する。

 

「そこで、寝る前に少しだけお酒を頂こうと思いまして。その、ジェノさんも良ければ少しお付き合いしてくださいませんか?」

 メルエーナはいたずらっぽく微笑む。

 

 酒の入った瓶の他に、一人で食べるには多すぎるチーズをはじめとした、つまみ。それに、グラスも二つ。

 どうやら、初めから自分のことも誘うつもりだったのだとジェノは理解した。

 

 ここまで準備をさせておいて、無下に断るのも申し訳なく思い、ジェノは少しだけ付き合うことにする。

 

「お疲れさまでした、ジェノさん」

「ああ。お疲れ様だ」

 客席に向かい合って座り、メルエーナが酒を注いでくれた互いのグラスを軽く合わせて、ジェノとメルエーナは互いを慰労する。

 

「……変わった酒だな」

「お口に合いませんか?」

「いや、驚いただけだ。甘みがあって随分飲みやすいな」

「ふふっ。イルリアさんに頂いたお酒です。すごく飲みやすくてオススメだそうです」

 メルエーナは嬉しそうに説明をし、自分もグラスに口をつける。

 

「おつまみもどうぞ」

 メルエーナに促され、ジェノは皿から薄く切られたチーズとサラミを口に運ぶ。

 

「……旨いな」

「ここのところ、カボチャ料理が続いたので、こういった塩気の強いものがいいかと思いまして」

 メルエーナの気遣いに感謝をし、ジェノは酒をゆっくりと飲み干す。

 

 本当に口当たりが良くて飲みやすい、その上、この上品な甘さが後を引く。塩辛いつまみがあれば余計に。

 

「ジェノさん、どうぞ」

 メルエーナは楽しそうに微笑み、ジェノのグラスにお代わりを注ぐ。

 

 普段とは違う神官服姿のメルエーナに違和感を覚えながらも、ジェノは喜んでそれを頂くことにした。

 

「……ああ、旨い」

「ええ、本当に。美味しいです」

 メルエーナはグラスを手で弄び、ゆっくりとお酒を口に運ぶ。

 

 その顔が酒精でほんのり赤く染まるのが、燭台の明かりだけでもはっきりと分かった。

 

「ふふっ、言いそびれてしまいましたが、ジェノさんの仮装、本当に素敵でした」

 メルエーナが不意にそんな話題を振ってきた。

 

「あれは、バルネアさんに渡されたものを着ただけだ」

「ですが、すごくお似合いでしたよ。本当に……」

 メルエーナは柔らかく微笑み、また、いつの間にか空になってしまっていたグラスにお酒を注いでくれる。

 

「しかし、吸血鬼に神官の組み合わせというのも、本職から見たらどうなんだろうな?」

 ジェノは珍しくそんな冗談めいたことを口にする。

 

「パメラさんには、きちんとジェノさんを退治しなさいって言われました」

 メルエーナもそれに笑顔で返す。

 

「そうか。過去には、そういった魔物と神官が命がけで戦っていたんだろうな……」

「そうですね。今の時代も魔物の驚異がまったくないわけではありませんが、それでも、平和な時代に感謝しないといけませんね」

「ああ。本当にそうだな。先人には、感謝を……」

 そこまで口にしたところで、ジェノは不意にメルエーナの姿がぼんやりとしてきたことに気づく。

 

 だが、別段彼女になにか異変が起こったのではない。

 おかしいのは、自分の視界の方だ。

 

 景色が回り始める。

 それが、今まで飲んでいた酒によるものだと理解したときには、もう遅かった。

 

 急速に回っていく酔いに抗おうと、ジェノはテーブルに手を付いてこらえようとしたが、それも無駄なあがきだった。

 

 程なくして、ジェノの意識はそこで途切れた。

 

 ただ、最後に顔を見上げた時に、なぜかメルエーナが微笑んでいたような気がした。

 

 

 

 

 そろそろ起きる時間だ。

 目覚まし時計をセットしなくても、体に染み付いた習慣はその事実を理解させてくれる。

 

 静かにジェノが瞳を開けと、見慣れた天井がまず視界に入ってきた。

 

 自分は、間違いなく自分の部屋のベッドに仰向けに寝ている。

 それはいい。だが、それ以外が問題だ。

 

「おっ、おはようございます、ジェノさん……」

 自分の無骨な右腕に、柔らかな感触と心地いい温もりを与えているその人物は、顔を真っ赤にしながら、遠慮がちにジェノに朝の挨拶を交わしてくる。

 

「……すまん、メルエーナ。俺は一体何をしたんだ?」

 恥ずかしながら、昨日の晩に、メルエーナと酒を飲んでからの記憶がまったくない。

 

 自分はそれなりに酒には強いつもりだったので、こんなことは初めてだ。

 

「……そっ、その……。やっ、やっぱり格好だけの神官では、吸血鬼には敵いませんでした……」

 メルエーナは一層顔を赤くして、顔を俯ける。

 

 婉曲的な答えに、ジェノは戸惑い、視線を動かすと、彼の左側、つまりは部屋の入口側の床に、衣類が散乱していた。

 

 ジェノのものではない。そこにあるのは、見慣れた神官服と、女物の下着類だった。

 

「あっ、その……。私、ジェノさんが眠ってしまわれたので、なんとかお部屋まで運んだんです。ですが、ベッドに寝かせようとしたところで……不意に私を抱きしめて……」

 メルエーナは顔を上げて説明してくれたが、そこまで言うと、目を伏せる。

 

「……酔った俺が、お前を……」

 ジェノは自分の行動が信じられなかった。だが、全くそのようなことをしなかったと断言などできない。

 

「そっ、その、大丈夫です。ジェノさんはかなり酔われていたので、さっ、最後までは……。ですが、その、ずっと一晩中、私を離してくださらなくて……」

 メルエーナの説明に、ジェノは頭から氷水をかけられたような気持ちになった。

 

「……ですが、私はもう、他の方のお嫁さんにはなれません……」

 そう言うと、掛け布団の中にメルエーナは隠れてしまう。

 

 しかし、ジェノの右腕には、確かに一糸まとわぬ彼女の生の肌の感触が伝わってくる。

 間違いない。自分は、酔った勢いでメルエーナを抱きしめただけでなく、衣類を脱がせて、ベッドに連れ込んだのだ。

 

 これが見ず知らずの女の発言ならば疑いもする。

 だが、あのメルエーナが言っているのだ。彼女が、そんな自分の価値を落とすような嘘をつく理由がない。

 

「すまん、俺は……」

 ジェノはそこまで言ったところで、首を横に振る。

 

「違うな。今更謝って許されることではない。メルエーナ。責任は取らせてくれ」

「……そうして頂けると嬉しいです。でっ、でも、あまり深刻に考えすぎないでくださいね。わっ、私も、いつかジェノさんとこういう関係になれたらいいなって、思っていたんですから」

 メルエーナはそう言って、健気に微笑む。

 

「そうか……。それなら、俺は一生をかけてお前を大切にする。それが、俺の」

「……そんなのは、悲しすぎますよ……」

「なにっ?」

 メルエーナの言葉に、ジェノは驚く。

 

「私は、ジェノさんとこういう関係になりたいと思っていたんですよ。それなのに、義務感で私を大切にしてくださっても嬉しくないです。そんなのは、悲しすぎます」

「……そうか。それなら、俺はどうすれば……」

 困るジェノに、メルエーナはにっこり微笑んだ。

 

「とりあえず、キスをして下さい。順番は逆になってしまいましたが、そこから始めていきませんか?」

 その提案に、ジェノは救われた気がした。

 

「そうだな。ありがとう、メルエーナ」

 ジェノはそこまで言うと、静かに瞳を閉じたメルエーナの体を抱き寄せ、彼女の小さくも可憐な唇に、自らの唇を重ね合わせるのだった。

 

 

 

 

 

 

「というわけで、既成事実をでっち上げてしまうのが一番簡単じゃあないですか?」

 イルリアのその発言に、メルエーナは、いや、パメラもリリィもドン引きした。

 

「イルリア、それはあまりにも夢がないわ! それに、なんでわざわざ神官服をメルに着せる必要があるのよ!

 いや、似合うだろうから、私のお古を貸すくらいのことは喜んでしてあげるけれど!」

 パメラがどっちつかずな反論をする。

 

「えっ? もちろん神聖な格好をしたメルを襲ったと思わせるほうが罪悪感が強いからですよ。あとは、そのまま本当に既成事実を作ってしまえば……」

「そんなのは、間違っています! そもそも、そんな方法でジェノさんの気を引いても、嬉しくありません!」

 メルエーナは頑なにイルリアの意見を否定する。

 

「まぁ、実行するもしないも貴女の自由よ。でも、これくらいのことをやらないと、あの朴念仁は、振り向いてはくれないと思うけれどね。

 それに、あのマリアって女に、ジェノを先に寝取られる可能性も忘れない方がいいわよ」

 イルリアは非難の言葉も何のそので、淡々と事実を言う。

 

「そっ、そうですよね。あのジェノさんが相手ですし、マリアさんにジェノさんが惹かれてしまう前に、関係を作っておくのも……」

 リリィがイルリアの説明に納得してしまい、メルエーナは少しだけ心が揺れてしまう。

 

「でも、やっぱり駄目よ! 女神リーシスの神官として、偽りで契りを交わさせようとすることは看過できないわ!」

「メルは確かに女神リーシスを信仰していますが、信仰が人間の行動の全てではないでしょう? ここは、素直にメルに選んで貰うのが一番ではないですか?」

「そうね。リリィの案はリスクが高すぎるから、私か貴女の案のどちらかね」

 

 イルリアとパメラは、座った目でメルエーナを見る。

 

「ほら、メルもどっちがいいか選びなさいよ! 貴女の事を話し合っているんだから⁉」

「そうよね。メル。どちらを選んでも文句を言わないから安心していいよぉ。でも、私の案を採用してくれるって、お姉さん、信じているからね」

 

 二人に詰め寄られ、メルエーナは後ずさりをするが、そんなことでは当然許してもらえない。

 

 ここまで話し合わせておいて、何もしないのは許さないと、二人の目が言っている。

 

 そしてメルエーナは、泣く泣くハロウィン当日に、ジェノに振り向いて貰うための作戦を実行することとなったのだった。



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特別編⑤ 『仮装と乙女心』(後編)

 夕食時を過ぎた頃。

 もう秋ということもあり、日は短いので、辺りは薄暗い。

 

 だが、今日この日に限っては、至るところに明かりが灯され、街全体が明るく華やかだ。

 

 そんな中、メルエーナは<パニヨン>の店先に作られた簡易調理台で、かぼちゃのスープを温め、それを配っていた。

 

 そう。配っていた。

 バルネアの意向で、こういった催し物の際には、いつも店を繁盛させてもらっているお礼にと、お金を取らずに料理を提供しているのだ。

 

 けれど、無料の料理とはいっても、そこはあのバルネアの料理である。一切の手を抜かずに作られたスープは絶品としか言いようがなく、本通りから少し離れたこの店にまで、お客さんがひっきりなしにやってくるのだから、その人気の高さはすごいものだ。

 

 去年と同じ魔女の仮装をしたバルネアとヴァンパイアの仮装をしたジェノとともに、メルエーナはスープを提供し続ける。

 

 やはりというか、必然というか、スープを貰いに来た女性客にジェノの仮装は大評判で、黄色い声が上がるたびに、メルエーナはなんとも言えない不安感を覚えてしまう。 

 

「トリック・オア・トリート!」

 かぼちゃのお化けに仮装した子どもたちが、楽しそうにお決まりの言葉を口にしてきた。

 

 バルネアとスープを配る役目を交代して、店の入り口に置かれた休憩用の椅子に座って一休みしていたメルエーナは、そんな子どもたちのために、ポケットに山程入れたクッキーの小袋を一つずつ渡してあげる。

 

「ありがとう、神官のお姉ちゃん!」

「ありがとう!」

「ありがとうございます!」

 子どもたちは笑顔でお礼をいい、次の得物目掛けて走っていく。

 そんな子どもたちを慌てて追いかける、親たちの苦労も知らずに。

 

(……本当に、私がこんな格好をしていていいのでしょうか?)

 メルエーナも当然仮装をしている。

 しかしその姿は、去年までの魔女ではなく、神官の姿だった。

 

 正しくは、神官見習いの服装なのだが、そんな細かな差異しかない衣装の違いは関係者以外は分かるはずもなく、メルエーナは今日一日だけは、リーシス神殿の神官様なのである。

 

 先日の、『話し合い』と言う名の強要で、イルリアの案に出てきた、神官の格好をしたメルエーナを見てみたいとみんなに言われ、強引にパメラのお古を借りることになってしまったのだ。

 

 神殿関係者でもないのに、このような格好をすることが許されるのか疑問……というか、絶対に許されないと思うが、神官様であるパメラが、

 

『可愛いから良し! これで、メルを目的に助平心を抱いた若い男の子が入信してくれば、リーシス様は大喜び間違いないわ!」

 

 と力強く言っていた。

 メルエーナは、自らの信仰する女神リーシスが分からなくなってくる。

 

(ですが、ジェノさんもバルネアさんも、似合っているって言ってくれましたし……)

 特にジェノが珍しく自分の服装を気にかけてくれたことが嬉しくて、メルエーナは服を貸してくれたパメラに感謝をし、この姿が見たいと言ってくれた友人二人にも感謝をする。

 

 自分はバルネアさんと交代してもらったが、ジェノがずっとスープを配り続けているので、メルエーナは彼と交代して休んでもらおうと思い、腰を上げた。

 

 だが、そこに思わぬ声がかかった。

 

「やっほー、メル。冷やかしに来たわよ」

 神官服を着たパメラが、あまりにも気安い口調で声を掛けてきた。

 

「パメラ! もう少し物言いを考えなさいよ」

 パメラの隣りにいる、彼女と同じ年頃の、メガネを掛けた短い金髪の神官服の女性が、パメラを窘める。

 

「ええっ~。いいじゃない。ハロウィンの、お祭りのときぐらいさぁ~」

「いいわけないでしょうが! 貴女も神官なのですから、自分の立場を考えなさい!」

「はーい。すみませんでした。ナーシャ様。以後気をつけまーす」

「全く反省していないわね、まったく、もう……」

 ナーシャと呼ばれた女性は、パメラの友人のようで、二人は軽口を交わしている。

 

「あっ、ごめんなさい。挨拶が遅れました。はじめまして。パメラと同じ、女神リーシス様にお仕えする神官で、ナーシャと言います」

 メルエーナのナーシャに抱いた第一印象は、少し気難しそうな女性だったが、笑顔を浮かべると途端にそれが親しみやすいものに変わった。

 

「はじめまして。私は、メルエーナと申します」

 メルエーナも慇懃に礼をし、挨拶を返す。

 

「なるほど、これは逸材ですね……」

「えっ?」

 メルエーナを見ているナーシャが、すっすっすっ、と左右に移動し、メルエーナをいろいろな角度から観察し始める。

 

「ふふ~ん。やっぱりメルは可愛いものね。どう? インスピレーションは湧きそう?」

「ぬぅ、これはいい! かなりいいですよ、パメラ!」

 ナーシャが興奮気味にメルエーナの手を取る。

 

「メルエーナさんでしたわね? どうでしょうか? 貴女は、お芝居に興味はございませんか?」

「えっ? えっ?」

 突然の申し出に、メルエーナは困惑する。

 

「ああ。このナーシャは、女神リーシス様を布教するための広報の仕事を主にやっている神官で、舞台なんかも手掛けているのよ。ただ、ここのところスランプ気味で、いいお話が考えつかないと悩んでいたから、可愛いメルの姿を見ればなにか閃くのではないかと思って、連れてきたのよ」

 パメラがそう説明してくれたが、メルエーナは「そっ、そうなんですか……」と言う他なかった。

 

「これは、間違いなく主役級の可愛さですね。そして、あちらの吸血鬼の仮装をした見目麗しい殿方が……」

「ええ。あの男の子がジェノ君よ。メルエーナのいい人になる予定の」

「ぱっ、パメラさん……」

 ジェノからは少し距離が離れているから聞こえることはないだろうが、それでも恥ずかしくて、メルエーナはパメラを窘める。

 

「……なるほど、可愛らしい神官見習いと吸血鬼。……神官見習いの少女に吸血鬼を退治させ……。ぬぅ、捻りが足りないですね。ここは、やはり……」

 一方、ナーシャは顎に右手を当てて、ぶつぶつと何かを呟いている。

 

「あっ! パメラさん、ナーシャさん。来て頂いてそうそうで申し訳ないのですが、ジェノさんが働き詰めなので、私、交代しようと思っていたんです。ですから……」

「ああ、大丈夫だから早く交代してあげて。本当に冷やかしに来ただけだし、ナーシャはこうなったらしばらく自分の世界から戻ってこないから。

 それに、今晩のためにも、ジェノ君にはしっかりアピールしないと駄目よ」

「すっ、すみません!」

 メルエーナは深々と二人に頭を下げ、急いでジェノの元に駆け寄る。

 

 もっとも、メルエーナは今晩、友人たちが期待するようなことをするつもりは微塵もない。もちろん、今身に着けている下着も、普段と同じものだ。

 既成事実の捏造は論外だし、捨て身のバニーガールのコスチュームも却下。そして、あの下着を見せるなどもってのほかだ。

 

「ジェノさん、交代しましょう。少しは休んで下さい」

 予想していたが、ジェノは交代は必要ないと言った。だが、メルエーナは強引に休むように説得をし、なんとか交代することに成功する。

 

 スープを配るのが、バルネアとメルエーナに変わったことで、一部の女性陣が露骨に嫌な顔をしたが、メルエーナは見なかったことにして、スープを配る事に集中する。

 

 それから、しばらくは忙しいながらも平和だった。

 スープのストックも減っていき、最後のお客様にスープを入れて、めでたく用意していたストックが空になった。

 

 予め、ストックの量から判断し、並んでいたお客様にも残りが少ないことをお知らせしていたので、駄目元で並んでいたお客様達も、残念そうにはしながらも、文句を言わずに解散してくれた。

 

 だが……。

 

「ちょっと待てや! なんで俺の分がねぇんだよ! せっかく並んでやっていたのに!」

 かなりお酒が入っているらしい、中年の腹の大きな男性が、怒りの形相で、メルエーナに詰め寄って来た。

 

「すみません。用意していた分が全て無くなってしまいまして……」

 メルエーナはそう説明をし、その男性に頭を下げる。

 

「そんなことは聞いていねぇよ! なんで残りが少ないのなら、先に言わねぇんだって言っているんだ!」

 事前にバルネアさんが、何度も何度もストックが残り少ないことを皆さんに伝えていたのだが、酔いが回りすぎているせいか、この男性はそれを聞き逃したか、覚えていないらしい。

 

「この落とし前はどうつけ……つけて……」

 男性は足元がおぼつかないらしく、フラフラと体を揺らし、地面に尻餅をつく。

 

「大丈夫ですか?」

 人の良いメルエーナは、カウンターを飛び出し、男性に駆け寄り、起こして上げようとしたが、そこで、違和感を感じた。

 

 それは、大きななにかが、神官服のスカートの上から、自分のおしりを撫で回す感触だった。

 

「きっ、きゃぁぁぁぁっ!」

 メルエーナの絹を裂く声が響き渡る。

 

「へへへっ、代わりに、神官の姉ちゃんがサービスをしてくれよ」

 それとは対象的に、男性は下卑た笑みを浮かべて楽しそうだった。

 

 その、わずか数秒だけは……。

 

 メルエーナが、「止めて下さい!」と口にし、手を払おうとするよりも早く、男の姿がメルエーナの視界から消えていた。

 

 その代わり、メルエーナの隣には、漆黒の衣装を纏うジェノが立っていた。

 何かを全力で蹴り飛ばした状態で。

 

「じぇっ、ジェノさん……。はっ!」

 メルエーナがジェノの前に視線をやると、鼻をへし折られたのか、顔を真っ赤にしながら、おしりを天につきだす無様な格好で倒れている男の姿があった。

 

「メルエーナ、大丈夫か?」

 ジェノの言葉に、メルエーナは頷く。だが、あの気持ちの悪い感触を思い出し体を震わせると、つい反射的に、ジェノに抱きついてしまった。

 

「……ジェノさん、わっ、私……」

 自分が取った思わぬ行動に戸惑うメルエーナだったが、ジェノは彼女を邪険に扱うことはなく、「大丈夫だ」と言って、頭を優しく撫でてくれた。

 

「よっ、よくも、やりやがったな、てめぇ……」

 ジェノに蹴られた男は、フラフラになりながらも、立ち上がろうとする。

 だが、そこで。

 

「はいは~い。そこで止めておいたほうがいいですよ。これ以上やるというのならば、貴女のお望み通りに、神官さんがサービスしちゃいますからねぇ」

 不敵な笑みを浮かべたパメラが、男の元に歩み出た。

 

「なっ、なんだよ……。こんなべっぴんさんなら、サービスされてぇ……」

 男の口は、そこで止まる。

 

 パメラの鋭い蹴りが、男の目にも留まらぬ速さで通り過ぎ、男の右頬に裂傷を作ったのだ。

 

「そうですか。それならば、私の可愛い妹分に手を出した罪も含めて、しっかりサービスをしてあげますよ」

 パメラは足を戻し、不敵な笑みを浮かべる。

 

「待ちなさい、パメラ」

 ナーシャがそんなパメラを止める。

 だが、もちろん男を助けるためではない。

 

「この騒動のおかげで、いいアイディアが浮かびました。お礼に、こちらの方には精一杯サービスをしてあげませんと。

 女神リーシスの神官服を纏った女性に手を出したらどうなるのか、しっかりとご理解頂けるように」

 ナーシャの低い声に、男は悲鳴を上げたがもう遅かった。

 

 

 メルエーナは、心配するバルネアとジェノに連れられて、店の中に入ったので詳細は知らないが、後日、この時の男がひどく怯えた様子で、菓子折りを持ってメルエーナにお詫びに来た。

 

 そのことから、よほど酷いサービスをパメラとナーシャにされたことは想像に固くなかった。

 

 そして、このハロウィンの夜。

 メルエーナはひどく不快な思いもしたが、バルネアが気を利かせて、

 

「ジェノちゃん。メルちゃんは怖い思いをしたから、しっかり慰めてあげてね」

 

 と言ってくれた。

 

 そのおかげで、メルエーナは悪いとは思いながらも、優しい吸血鬼の姿をしたジェノに思いっきり甘えさせてもらったのだった。

 

 

 

 

 

 

 さて、ここで終われば、それなりにいい話なのだろうが、まだこのお話には続きがある。

 

「というわけで、我らが女神リーシス様を布教するための、新しい物語ができました!」

 

 ハロウィンから数日後、メルエーナとパメラ。そして、リリィとイルリアは、いつものように喫茶店<優しい光>に集まったのだが、そこでパメラが自信満々にこの店に張ってもらうためのポスターをみんなに見せてくれた。

 

 そこには、『見習い神官と吸血鬼』というタイトルが書かれた、子供向けのイラストが描かれていた。

 

 紅茶を口に運んでいたメルエーナは、のどを詰まらせて咳き込む。

 

「わぁ、新作ができたんですね! 実は密かに私、リーシス神殿の劇のファンなんですよ! あれっ? でも、これって……」

 リリィが笑顔で言うが、メルエーナはそれどころではない。

 

「こほっ、こほっ……」

「大丈夫、メル?」

 イルリアが心配して背中をなでてくれる。

 

「うちのお抱えの脚本家……というか一人しかいないんだけれど、ナーシャの自信作よ!」

「どんなお話なんですか?」

 疑問に思う点よりも、話の内容に興味があるらしいリリィが、パメラに尋ねる。

 

「このお話は、一人の敬虔な女神リーシス様にお仕えする神官見習いの可憐な少女と、そんな彼女に恋をしてしまった吸血鬼の、笑いあり、涙ありの壮大なお話なのよ」

「吸血鬼をメインにしても大丈夫なんですか?」

「ふっふっふっ、そこらへんは抜かりはないわ。最後は、女神リーシス様の……って、ネタバレになるからなし! 十八歳以上の大人は、きちんとお金を払って見に来てね」

「ああっ、絶対見に行きます! トムスも誘って!」

「ふふっ、まいどあり~」

 

「ねぇ、そう言えば、メル。結局、ハロウィンの夜はどうだったの?」

 楽しそうなパメラ達の会話を聞いていたイルリアが、メルエーナに質問を投げかけてくる。

 

「あっ、その、抱きしめて貰うまではいきましたから、成功だと自分では思うんですが……」

「……こっちを向いて喋りなさい」

 メルエーナは逃げ出したかったが、イルリアに捕まり、洗いざらい白状させられてしまった。

 

 そしてその結果、メルエーナは見事に『ヘタレ』の称号を手にし、自分と想い人をモデルにしながらも、好意のベクトルが逆の話が世に出回ることとなったのだった。

 

 その上、この劇が思いの外好評となり、ナーシャから主役で出演してみないかというオファーがメルエーナのもとに届くという羞恥プレイが行われたが、彼女は速攻でそれを拒否したことは言うまでもないだろう。

 

 めでたしめでたし。



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第五章 『邂逅は、波乱とともに』
① 『それは、ある日の午後』


 どうしてなのでしょう?

 

 私はただの取り立てて長所のない平凡な人間です。ですから、当然好き嫌いはあります。

 それは食べ物などだけでなく、対人関係に置いても同様です。

 

 それでも、もう十八歳になったのですから、なるべく苦手な人とも、互いが不快にならないように接しようとはしていました。

 

 ……でも、駄目なんです。

 ひと目見たときから、あの人だけは、苦手意識が先立ってしまって……。

 

 理由は分かりません。

 あの人は、身分の違いを鼻にかけることもなく、物腰も柔らかで、誰に対しても温和に接する女性でした。

 

 それはもちろん、私に対してもです。

 

 だから、私は自分自身が嫌になります。

 

 

 ……もしかすると、私は嫉妬しているのでしょうか?

 

 容姿やスタイル、知識量、社交性。その他を比較しても、私があの人に勝っているものなんて何もありません。

 そんなすごい女性が私と同い年で、そして、彼女も、私が想いを寄せる男性に好意を抱いていそうだと分かったから……。

 

 でも、なんとかうまくやっていこうと思います。

 私も波風を立てたいわけではありませんから。

 

 それに、もうすぐ楽しみにしていた旅行に出かけるのです。

 それを励みにして頑張ろうと思います。

 

 

 しかし、このときの私は、この旅行が思いもしない出来事に繋がるなんて、考えてもいなかったのです。

 

 

 

 第五章 『邂逅は、波乱とともに』

 

 

 

 その日、メルエーナは上機嫌で、バルネアとジェノと一緒に皿洗いをしていた。

 まだまだ夏の暑い日が続く中だというのに、心からの笑みを浮かべて。

 

 それは、来週に迫った、小旅行の事を考えているからだ。

 

 泳ぎを教わるためにという名目で、メルエーナはジェノと海に行く約束をしていた。それは、当然近場の海でという話だったのだが、事情が変わった。

 

 先の化け物騒動により、このナイムの街の防犯機能を高めるべきだという声が住人達から上がり、それまで街灯が未設置だった箇所にも、議会主導で取り付けが行われることとなったのだ。

 

 もちろん、この広いナイムの街全てではないが、この<パニヨン>がある区画にも街灯が設置されることとなった。更には、老朽化してきていた石畳も更新するとのことである。

 

 非常にありがたい話だが、ここで一つ問題が。

 それは、工事の間、この区画は人の往来がかなり制限されてしまうということだった。

 

 この<パニヨン>は多くのお客様が開店前から長蛇の列を作る店なので、工事中は食事を食べに来てくださったお客様にかなりのご不便を掛けてしまう。

 そこで、店主のバルネアが、工事期間の一週間は、店を休業にすることを決めたのだ。

 

 そして……。

 

「ジェノちゃん、メルちゃん。どうせお店が休みなら、みんなで旅行に行きましょう! 少し距離はあるけれど、綺麗な湖があって、温泉とおいしい食事を楽しめる宿屋があるのよ」

 バルネアがそんな提案をしてくれたのだ。

 

 ジェノは仕事が入っていなかったので問題はなく、メルエーナももちろん賛成こそすれ、反対する理由がなかった。

 

「ふふふっ。メルちゃん。周りの目をあまり気にせずに、湖でジェノちゃんに手取り足取り泳ぎを教えてもらってね」

 とバルネアにこっそり言われ、メルエーナはいっそう旅行が楽しみになった。

 

 その上、旅行の費用は全てバルネアが出してくれるらしい。

 

 もちろん、毎月賃金を頂いている身として、お金は出そうとメルエーナもジェノもしたのだが、休業の届け出をすると、工事で営業ができない分の損失を見越して議会からお金が出るらしいので、気にしないでと言われてしまった。

 

「ああっ、家族旅行なんて久しぶりだわ。ジェノちゃん、メルちゃん。めいいっぱい楽しみましょうね!」

 誰よりもバルネアが一番楽しそうにしていたので、メルエーナとジェノは話し合い、今回はその厚意に甘えさせてもらうことにした。

 

 

「うんうん。二人共、ご苦労さま」

 皿洗いが終わり、バルネアの労いの言葉を受けて、今日の仕事は終わりになる。

 

 ジェノはいつものように稽古に向かうための準備を。そして、メルエーナは、遅れて店を訪れる人達のために待機をしながら、バルネアから調理技術を学ぶ事になっていた。

 

 だが、そこで、来店を告げるベルの音が店に鳴り響いた。

 

「あの、すみません。もう営業は終了しているとのことでしたが、どうしてもジェノという方にお会いしたくて、訪ねさせて頂きました」

 二十代半ばくらいで、温和そうな笑みを浮かべた眼鏡が印象的の茶色い髪の男性が、柔らかな物腰で来店理由を告げてくる。

 

 さらに、彼の後ろには、フードを深く被って顔を隠している人影が見えた。

 

「私がジェノです」

 ジェノはエプロンを取り、ウエイターの格好のまま、その男性の前に歩み寄る。

 

「ああ、貴方が。初めまして。私は、セレクト。セレクト=カインセリアと申します」

 セレクトと名乗った男性は、ラストネームまで名乗った。かなり格式張ったところ以外では、こういった名乗りは普通はしない。

 それでも名乗ったのは、年若いジェノにも敬意を払ってくれているからだろう。

 

「これはご丁寧に。ありがとうございます。セレクトさん。冒険者見習いの私に対する依頼と言うことでしょうか?」

 ジェノは単刀直入にセレクトに尋ねる。

 

「それが、少し違いまして……。まずは、私の主人の話をお聞き頂けますか?」

 セレクトは横に静かに移動し、代わりにフードの人物が前に出て、ジェノの前に立つ。

 そして、その人物は静かにフードを外した。

 

 その瞬間、メルエーナは、いや、バルネアも、あのジェノさえも息を呑んだ。

 

「……私は、マリア=レーナスと申します」

 そう名乗った女性は美しかった。

 

 金色の髪も、宝石のような碧眼も、その他の顔の造形一つ一つさえも完璧で、これほど美しい女性が存在するのかと思えるほどに。

 

「それとも、マリア=キンブリアと名乗った方が分かって頂けますか? ジェノ=ルディスさん」

 マリアは何故か親しげな笑みを浮かべ、ジェノの名前を呼ぶ。しかも、メルエーナも知らなかった、ジェノのラストネームを当たり前のように口にして。

 

 メルエーナはここで思い出す事があったはずだった。

 どこかで、聞いたことがあったのだ。『ルディス』という名を。

 

 だが、そんなことよりも、メルエーナは、自分と同年代のこんな美人が、ジェノに親しげに話しかけたことで頭がいっぱいで、それを思い出すことが出来なかった。



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② 『幼馴染』

「マリア=キンブリア……。そうか……」

 マリアの自己紹介に、目の前の黒髪の美青年は「知らない」とは言わなかった。

 

 ひと目見たときから間違いないと思っていたが、マリアは今目の前にいるのが、幼馴染の男の子だということを確信する。

 

 そして、きっと「久しぶりだな」と言ってくれるだろうと期待したのだが、

 

「バルネアさん。すみませんが、奥の席を借ります」

 

 彼は、この店の主人らしき女性に許可を取り、「奥で話を聴かせて貰います」と他人行儀の事務的な対応をする。

 

 その事を寂しく思いながらも、あれからもう十年が経っているのだから仕方がないと、マリアは自分を納得させる。

 それに、確かに今は昔を懐かしむよりも、先に彼と話をするのが先決だ。

 

 ジェノに案内され、マリアとセレクトは奥の席に足を運ぶ。

 そして、あまりにも暑かったので、マリアはそこでフードを脱ぎ、椅子にかけてから席に座る。

 この暑い中、この格好は拷問に等しい。

 

「どうぞ」

 席につくとすぐに、栗色の髪の女の子がお冷を三つ運んできてくれたので、マリアは「ありがとうございます」と笑顔でお礼を言う。

 

「いいえ。ごゆっくりどうぞ」

 その女の子は、気持ちのいい笑顔を向けてくれて、頭を下げて厨房の方に戻っていった。

 

 年の頃は自分と同じくらいだろう。

 随分と可愛らしい娘だ。ジェノとの関係が気にならないと言えば嘘になる。

 

 そんな事を思いながら、マリアはお冷を口にする。

 暑さで水分を失った体に染み渡るようで、ようやく人心地着くことができた。

 

 セレクトも喉が渇いていたようで、同じようにお冷を一口くちにし、コップをテーブルに戻す。

 そこで、ジェノが口を開いた。

 

「さて、それではお話をお聞かせ下さい。私どもの冒険者見習いチームに対するご依頼ではないとのことですが……」

 ジェノの言葉に、マリアが口を開こうとしたが、不意にセレクトの手がマリアの前に伸びてくる。

 

 ここは自分に任せておいて欲しいとのことだと悟り、マリアは口を噤む。

 

「単刀直入に申し上げます。私と私の主人は、ジェノさん達のチームに加入させて頂きたいのです」

 わざと突飛な物言いで、セレクトはジェノに用件を告げる。

 

「私達の見習いチームに? ですが、お二人は冒険者登録をなされておいでなのでしょうか? 私は頻繁に冒険者の登録情報を確認しておりますが、前回の登録試験の合格者にも、お二人の名はなかったように記憶しています」

 ジェノは眉一つ動かさずに、セレクトに問いを投げかけてくる。

 

「仰るとおりです。我々は、つい昨日、冒険者見習いの資格を『購入』したばかりですので」

「購入、ですか。なるほど……」

 セレクトが強調した語句を、ジェノは口にし、顎に手をやって少し考える。

 

「二つ、質問をさせて頂きたいのですが?」

「ええ。お答えできることなら、いくらでもお答え致します」

「いえ、二つだけで結構です。何の覚悟もなく、藪を突っつくつもりはありません」

 ジェノの答えに、マリアは少し嬉しくなってしまう。

 

 それは、子供の頃から、優しいだけでなく頭の回転も早く賢かったが、成長してからも変わっていないようだと、ジェノの事を理解したためだ。

 

「それでは、一つ目の質問です。冒険者見習いのことは、関係者以外にはあまり知られていない情報のはず。それなのに、何故、貴方達は私達のことをご存知なのでしょうか?」

 ジェノの問に、セレクトはにっこり微笑んで答える。

 

「私の教え子に、シーウェンという人物がおります。彼に、我々が困っていることを相談すると、冒険者ギルドに行ってから、冒険者見習いのジェノという人物を頼るといいと言われまして」

「……なるほど」

 ジェノはシーウェンの名前が出てきただけで、全てを察したようだ。

 

「それでは、二つ目の質問です。貴方達に『冒険者』の資格が必要なのは短期間だと推測されますが、それは一ヶ月以上ではあると考えてもよろしいのでしょうか?」

 ジェノの問に、マリアは思わず口元を緩めてしまう。

 本当に、彼は頭がいい。

 

「はい。一ヶ月以上在籍し、ギルドの依頼を一つ以上、五人以上のチームのメンバー全員でこなすことが、正規の冒険者に昇格する要件らしいですから、それは当然満たさせて頂きます」

 セレクトは変わらぬ笑顔だが、彼もジェノの判断能力に好感を抱いているようだ。

 

「その依頼の達成後、もしかすると、私達は止むに止まれぬ事情ができ、チームを抜けさせて頂かなければいけないかもしれません。

 万が一そのようなことになりましたら、迷惑料として、小金貨五枚をお支払いさせて頂きたいと考えております。無論、公正証書で冒険者ギルドを仲介にしての契約とさせて頂きます」

「……小金貨五枚ですか。つまり、それほどのことだと?」

「それは、ご想像にお任せ致します。無論、先に言いました通り、お知りになりたいのでしたらお話致しますが、それを貴方はまだ望まないでしょうから」

 セレクトの言葉に、ジェノは小さく頷く。

 

「私は、冒険者見習いチームのリーダーです。私の判断で他の仲間が危険な目に合うことになります。ですから、軽々には、お返事できません」

 しかし、ジェノはそう言ったものの、小さく息をつく。

 

「……と、言いたいのですが、あのオーリンギルド長が関わっているのであれば、断れない様に手を打っているはずです。時間の無駄は避けたいので、貴方達の切り札をお知らせ下さい」

「いやぁ、ここまで話が早いと助かります。私の主人の幼馴染だということだけでは、話すのが心配だったのです。けれど、貴方は私の教え子からも、冒険者ギルドのギルド長からも信頼が厚く、そして頭も切れるようだ」

 セレクトは笑みを浮かべる。

 交渉のための作り笑いではなく、本当に感心した笑みを。

 

「私達の切り札は、これだけです」

 セレクトはそこで話を切り、真剣な表情になってジェノを見据える。

 

「私達は、貴方が調べている<霧>というものの情報を持っています」

「…………」

 ジェノは何も言葉を発しなかった。

 だが、彼の眉が動いたのを、マリアは見逃さなかった。

 

「とある人間がこう言っていました。『<霧>に負けたら、化け物になってしまうよ』と」

 信憑性を増すためだろう。

 セレクトは、そう一言付け加えた。

 

 その瞬間だった。マリアの背筋が凍ったのは。

 

 無表情だったジェノの顔に、静かな怒りの表情が浮かび、殺気を飛ばしていたのだ。

 敢えてやっているのではないだろう。

 どうしても堪えていられなかったように思える。

 

「ジェノさん……」

 マリアとは異なり、殺気を感じながらもいつもと変わらないセレクトが、静かにジェノの名を口にする。

 

 すると、瞬時に殺気を感じなくなった。

 

「……失礼しました」

 ジェノは謝罪をし、頭を下げる。

 

「いいえ。これではっきりしました。貴方達とはしっかり情報交換をしたほうがいいことが」

「……こちらもです。お二人の加入については相談後になりますが、不義理は致しませんので」

「ええ。少しでも早く、我々は腹を割って話し合うべきでしょうね。お互いのためにも」

 セレクトはそこまで言うと静かに席を立った。

 それに、ジェノも倣う。

 

「改めまして、セレクト=カインセリアです。よろしくお願い致します」

「ジェノ=ルディスです。すぐに話し合いをしましょう」

 セレクトとジェノがガッチリと握手をするのを見て、マリアは慌てて立ち上がると、二人の大きな手の上に、小さく白い自分の手を重ねた。

 

「二人共。男の人同士で盛り上がるのは結構ですが、私のことも忘れないで下さいよ」

 マリアは怒った真似をして、二人に文句を言う。

 

 そのことに、セレクトは「すみません」と微笑んでくれたが、ジェノは「分かった」としか言わず、無表情のままだった。

 

 仕方がない。

 今は、自分たちの屋敷を襲ってきた連中の情報を集めることと、実家に戻ることが重要だ。

 

 けれど、久しぶりにあった幼馴染がニコリともしてくれないことに、マリアはどうしても寂しさを感じてしまうのだった。



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③ 『我儘』

 マリアとセレクトが帰って行った後、それ以降は珍しく<パニヨン>を訪れるお客様はいなかった。

 『本日の営業は終了致しました』と書かれた掛け看板が、珍しく仕事をしてくれたようだ。

 

 普段であれば、バルネアさんとジェノとの時間が取れることを嬉しく思うメルエーナだが、マリア達との話し合いの後、ジェノが険しい顔をしているのが心配で仕方がなかった。

 

 それから、普段より少し遅れてジェノが稽古に出かけたのだが、その際に、彼は『特別稽古に行ってくる』と言っていた。

 それは、ジェノが稽古先の兄弟子であるシーウェンと二人で外で食事を食べてくるから、夕食はいらないという意味だ。きっと、男同士の話があるのだろう。

 

 理由はわからないが、険しいジェノの表情を和らげたいと思い、夕食は気合を入れて作ろうと思っていたメルエーナは、とても寂しい気持ちになる。

 

 落ち込むメルエーナを、バルネアが気にかけて話しかけてくれたので、なんとか笑顔を浮かべ、二人で夕食を準備する。

 その際に、バルネアの提案で、季節の果物を使ったゼリーも作った。

 拉麺という味付けの濃い料理を食べてくる、ジェノの口直しのために。

 

「ごちそうさまでした」

「はい。お粗末さまでした」

 メルエーナはバルネアとの二人だけの食事を終えて、すぐに食器を台所に運ぶ。

 いつも食器洗いをするのは、メルエーナかジェノのどちらかだ。

 

 ただ、これはバルネアにそうするように言われたからではなく、メルエーナがこの家にやってくるまでの間、ジェノがそうしていたので、メルエーナも同じようにしている。

 ただでさえバルネアはこの店の唯一人の料理人としてお客様に食事を提供し続けている。それに加えて、空いた時間で、自分やジェノに丁寧に料理を教えてくれる。

 

 ジェノからそうだと聞いたわけではないが、そんなバルネアに対する感謝とせめてものお礼のつもりで彼が率先して洗い物を引き受けているのは明らかだった。だから、自分もそれに加えて貰ったのだ。

 

「バルネアさん。それでは洗い物は私がやっておきますので」

「いつもありがとうね、メルちゃん」

 バルネアは自分の分の食器を台所まで運んできて、優しく微笑み、感謝の言葉をかけてくれる。

 

 このエルマイラム王国の国王様から、『我が国の誉れである』とまで言われた料理人とは思えない腰の低さ。

 もう少し威厳を持っても良いのではと思わなくもないが、この朗らかさこそが、バルネアという稀代の料理人の魅力の一つなのだ。

 

(あっ……)

 メルエーナは食器洗いを開始するが、バルネアが部屋に戻らず、先程まで食事をしていたテーブルの席に戻るのを横目で見て、何か話があるのだと理解する。

 手を止めずに、メルエーナはバルネアの言葉を待つことにした。

 

「う~ん、メルちゃん。強力なライバルが登場してしまったわね」

「えっ? えっ?」

 不意に呟かれたバルネアの思わぬ言葉に驚き、メルエーナは皿を手から滑らせてしまいそうになってしまう。

 

「あのセレクトっていう男の人と一緒に居た、マリアちゃん。ものすごく綺麗な娘だったわ。しかも、ジェノちゃんのことを知っている口ぶりだったし……」

 バルネアの言葉に、メルエーナは恥ずかしそうにしながらも、自分がジェノの事を憎からず思っていることはみんなに知られているので、素直に「はい」と頷いた。

 

「あんな綺麗な女の子、初めて見ました。それに、給仕の際に見たら、スタイルもすごく良くて……」

 自らの慎ましい胸部を一瞥し、メルエーナは嘆息する。

 

「メルちゃん。これは、今度の旅行でジェノちゃんの気持ちをガッチリ掴まないと駄目ね」

「……はい。できればそうしたいのですが……」

 手を止めて俯くメルエーナに、バルネアは「大丈夫。メルちゃんは可愛いんだから」と言って微笑んでくれる。

 

 その言葉は嬉しかったが、メルエーナも流石に自分のような田舎娘では、マリアのような眩い美貌の持ち主とはまるで勝負にならないことは分かっている。

 

「大丈夫。抜かりはないわ。今回の旅行は、ジェノちゃんの気持ちをメルちゃんに向けさせるきっかけづくりの意味合いもあるのよ」

「えっ?」

 全く予想外のバルネアの言葉に、メルエーナは驚きの声を上げた。

 

「でも、そのためには、少しだけメルちゃんに勇気を出してもらわないと駄目よ」

「勇気、ですか?」

「ええ、そうよ。実は今度の旅行で行く宿には、特別な……」

 バルネアの説明を聞いているうちに、メルエーナの頬はだんだん紅潮していく。

 

「そっ、そんな……。でっ、ですが、それくらいしないとジェノさんには……」

「そんなに難しく考えなくても大丈夫よ。ただ二人っきりでお話をするシュチュエーションが特別なだけだから」

 バルネアは笑顔でいうが、メルエーナはそのことを想像するだけで恥ずかしさで頬が火照ってしまう。

 

「メルちゃんとジェノちゃんに足りないのは、スキンシップだと思うの。でも、なかなか普段の生活でそれを求めるのは勇気がいるわ。だから、これはその第一歩にしましょう。

 いくらジェノちゃんでも、旅先の開放的な気分にそんな素敵なシュチュエーションだったら、ねっ?」

 バルネアの提案に、メルエーナは覚悟を決める。

 

(そうです。自分から動かないと状況は変わりません。何としても、一人の異性としてジェノさんに見てもらえるようにならないと駄目です!)

 と心の中で自分を叱咤する。

 

 そんなことを思いながら気合を入れるメルエーナに、バルネアは微笑ましげな優しい眼差しを向けてくれる。

 やがて、洗い物を終わらせたメルエーナは、当日のためにとのアドバイスを受けて、バルネアから今度行く宿の構造等を教えてもらい、それをメモに取る。

 

 そして、現状できることはすべてやり終えたところで、ジェノが帰宅した。

 メルエーナ達は笑顔で出迎えたが、二人に話がありますとジェノは言い、いつものテーブルで話をすることになったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「それは駄目よ。認められないわ」

 バルネアはプンプンと少し怒った顔で言う。

 だが、正直愛らしさが先に来てしまい、怖いとはまるで思えない。

 

「……すみません。我儘なのは十分分かっています。ですが……」

 話を終えたジェノに返ってきたのは、予想外の答えだった。

 普段のバルネア性格を考え、「仕方がないわね」と言ってくれるのではと少し期待していたジェノは、己の見通しの甘さを後悔する。

 

「今更、宿をキャンセルなんてできないし、家族全員で出かけることに意味があるのよ。ジェノちゃんを置いて、私とメルちゃんだけで旅行なんて駄目よ!」

 バルネアだけでなく、メルエーナも寂しそうな顔を向けてくる。

 

 ジェノはシーウェンと話をし、件のセレクトという男のことを訊いてきた。

 シーウェンの話では、彼がまだこの国の言葉や文化に慣れていなかったときに、世話になった恩師で信頼の置ける人物だと言っていた。だから、そんな師が困っていたので、ジェノのことを紹介したらしい。

 

 その話全てを鵜呑みにはできないが、全く素性の知らない人間よりはマシだ。それに、シーウェンにセレクトがこの街にやってきた経緯も話していたので、それを聞き出すことができた。

 

 セレクトとマリアは、左右の瞳の色が異なる人間たちに襲われて、この街まで避難してきたのらしい。その際に、その襲撃者が<霧>のことを口にしたようだ。

 

 先日も<霧>によるものと思われる化け物が、このナイムの街にも現れた。そして、近場で<霧>の関係者と思われる人間が暴虐の限りを尽くしている。

 それを知ってしまった以上、ジェノはのんびりと旅行に出かける心持ちにはなれなくなってしまった。

 

 一刻も早くセレクトたちの話を聞きたい。こちらの情報と照らし合わせて<霧>に関わり不幸な目に合う人間を減らしたい。もう、サクリ達のような犠牲を生みたくはない。

 まして、それにバルネアさんとメルエーナが巻き込まれることなどあってはいけないのだ。

 

 そんな気持ちが溢れ出し、ジェノは理由を説明し、来週の旅行を辞退したいと申し出たのだが、バルネアにこうして却下されてしまった。

 

「事情は分かったわ。でも、駄目よ。今のジェノちゃんは冷静さを欠いているもの」

「……そんなことは……」

 ジェノは否定しようとしたが、バルネアだけでなく、メルエーナにも首を横に振られた。

 

「ジェノさん。そんな思いつめた顔で言っても説得力がないです。私とバルネアさんのことを気にしてくれるのは嬉しいですけれど、大事なときこそ少し冷静にならないといけないと思います」

「メルちゃんの言うとおりよ。それに、いつものジェノちゃんならば、約束を忘れたりしないはずよ」

 普段と同じ無表情にジェノは徹しているつもりなのだが、バルネア達にはなぜか通用しないらしい。それに、指摘されてようやく『約束』を思い出すという体たらくだ。

 

「すまない、メルエーナ。泳ぎを教える約束だったな」

「……はい」

 メルエーナは寂しそうに頷く。

 

「とはいっても、もう旅行まで時間がないわ。よくわからないけれど、あのセレクトさんとマリアちゃんとの話し合いは、すぐには終わらないのでしょう?」

「……ええ。それに向こうも急ぎのようですので」

 ジェノの言葉に、メルエーナは悲しそうな顔をする。そのことにジェノの胸は痛む。

 

「という訳なので、旅行を辞退するのは駄目。でも、無理に旅行に出かけても、ジェノちゃんは心あらずになってしまいそうね。だから、私から譲歩案があるわ」

「……話してください、バルネアさん」

 ジェノはバルネアに続きを促す。

 

 それからバルネアの譲歩案というものを聞いたジェノは、結果としてそれを受け入れることにしたのだった。



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④ 『思わぬ予定変更』

 待ち時間を潰しながら、セレクトは懸命に気持ちを落ち着けていた。

 焦る気持ちがとめどなく溢れてきそうになるのを押し殺し、普段と同じ自分を演じるために。

 

(まぁ、焦ったところで彼奴等との手がかりは、現状ではあのジェノという若者達しかないのだから)

 セレクトはそう何度も自分に言い聞かせ、背後の着衣室で着替えているマリアを待っている。

 

 ユアリと名乗った奇妙な幼子達の襲撃の際にも、幸いなことに衣類や金貨や宝石などは無事だったので、セレクト達は十分な着替えや資金を現在も有している。だが、それでもマリアが衣類を買いに来たのには訳があった。

 

「ふふっ。セレクト先生。どうですか、この水着は?」

 試着室のカーテンが静かに開かれ、白いビキニタイプの水着を身に着けたマリアがセレクトに感想を求めてくる。

 

「私に感想を求められても困りますよ。マリア様は何を着てもお似合いですから、その良し悪しなど私のようなファッションセンスのない男には分かりません」

「むぅ。少しくらいは考えてくださいよ」

 マリアが不満そうに頬をふくらませる。

 

 けれど、セレクトは別に適当なことを言っているのではない。マリアほど美しくて女性らしい蠱惑的なプロポーションを持つ少女は、世界中を探しても五人もいないと思う。

 だからこそ、何を身に着けても似合ってしまうのだ。

 まして、肌の露出が多い水着は、その肉体の美しさが求められるため、水着はその美しさを引き立てるものであれば何でも構わないのだ。

 

「いいですよぉ~。そういう事を言うのならば、逆にセレクト先生の水着選びには、私が徹底的にダメ出しをしますから。今日中に水着が決められたら行幸だったと思って下さいね」

「男の水着なんて、そんなに時間を掛けて選ぶものではないですよ」

「何を言っているんですか! ナイムの街で買うんですから、これ以上なくセレクト先生に似合ったものを見つけないと! 私とセレクト先生が水着になって泳ぐなんて機会が、今後もあるとは思えませんし」

 マリアはそう言うと、近くの店員に声を掛けて、セレクトの水着も見繕って欲しいと頼む。

 

「はっ、はい! かっ、かしこまりました!」

 マリアの魅惑の水着姿は、同性にも効果があるようで、女性の店員は顔を真っ赤にして水着を探しに行った。

 ただ、これはまだいい反応だ。

 

 マリアは聡明で公平で優しい性格の少女だが、たった一つだけどうしようもない欠点がある。それは、あまりにも美しすぎるということ。

 そのため、同性異性を問わずに注目の的になる。そして、本人は何もしていないのに、いらぬ嫉妬を受けてしまうのだ。

 

 そのため、マリアが寂しい思いをしているのをセレクトはよく分かっている。

 まして、一番心を許していた年の近い同性であるメイが、この場にいないのだから……。

 

「……セレクト先生。現状では手の打ちようがない以上、焦ってもいいことはありませんよ」

 マリアの落ち着いた声に、セレクトは主人に気を使わせてしまっていることに気がつく。

 

「マリア様……」

「ふふっ。折角のお誘いです。身分を隠して、お忍びでの旅行を楽しませてもらうことにしましょう」

 マリアは笑みを浮かべる。満面の笑みを。

 

 その笑顔に込められた気遣いを理解し、セレクトは「ええ、そうですね」と頷くのだった。

 

 

 

 

 

 

 昼を少し過ぎた頃、<パニヨン>に集まった仲間たちに、ジェノは事の次第を告げた。

 

「……なんでそうなるのよ?」

 イルリアのその問いかけは、至極まっとうなものだと思う。だが、ジェノはもう決定してしまった事柄を、彼女とリットの二人に説明するしかなかった。

 

「すまない。止むに止まれぬ事情があってな。俺達の冒険者チームに新たに加わる二人と一緒に、親睦を深めるために泊りがけの旅行に出かけることになった」

 これが、バルネアに提示された譲歩案。

 新しい仲間との打ち合わせで時間が取れないのならば、旅行先で話をすればいいじゃあない。という何ともシンプルな提案だった。

 

「なんともまぁ、急だねぇ、ジェノちゃん。もっとも、俺は退屈していたところだから文句はないぜ」

 リットはそう言いながら、少し遅めの昼食を、バルネア特製の料理に舌鼓を打っている。

 

「だいたい、うちみたいな、無愛想で気難しいチームリーダーのいるところに入りたいなんて言ってくる人間なんて怪しいでしょうが! それなのに、そんな胡散臭い連中と旅行なんて……」

「ああ。胡散臭い連中だ。冒険者見習いの資格を『購入した』と言っていたからな」

 ジェノの言葉に、イルリアは呆れた顔をする。

 

「冒険者見習いの資格を買ったですって? いよいよ怪しいじゃあないの!」

 イルリアは文句を言うが、リットは楽しそうに口の端を上げた。

 

「そして、その連中は、一ヶ月ほどうちのチームに在籍するが、それ以降はすぐにチームを抜ける見込みだ」

「はぁ? 何よそれ? いったいどういうことなのよ?」

 イルリアが説明を求めて来たが、ジェノは首を横に振る。

 

「それは、知らないほうがいいことだ。俺はそう判断し、それ以上のことは訊いていない」

「訊きなさいよ! そんな不審人物と一緒に旅をするのよ! 私達だけならともかく、バルネアさんとメルも一緒に!」

 激昂するイルリアに、「まぁまぁ、待ちなよ、イルリアちゃん」とリットが止めに入る。

 

「ジェノちゃん。オーリンの爺さんも一枚絡んでいるんだよな?」

「ああ。そうだ。だから、俺達が拒否する事はできないように逃げ道は封じられているはずだ」

「あの爺さんならやるだろうなぁ。でも、普段のジェノちゃんなら、こんな事をされたら黙っていないはずだろう? それなのに、どうして今回は従順なんだ?」

 リットの鋭い指摘に、ジェノは話の本題を口にする。

 

「その二人は、<霧>の情報を持っているんだ。俺たちの知らない情報を……」

 ジェノのその言葉に、イルリアは「<霧>の情報……」と言って忌々しそうに拳を握ってそれを震わせる。

 

「何にでも首を突っ込むべきではないと俺は思うぜ、ジェノちゃん」

「……先日、この街に<霧>に侵されたとしか思えない化け物が現れたんだぞ。それに、少し距離があるとはいっても、この国の中で、<霧>に関わる無法者の襲撃で多くの人間が殺されたらしい。これを指を咥えて見ているわけにはいかない。この街であんな事が起こるのだけは阻止しないと」

 ジェノの言葉に、リットは「はいはい、正義の味方は勤勉なことで」と言って肩をすくめる。だが、その表情は楽しそうだった。

 

「ちょっと待ちなさいよ! 二人だけで分かっているんじゃあないわよ! 私にも分かるように説明しなさい!」

 イルリアの怒りの声に、しかしジェノは「わかった」と短く答え、噛み砕いて話をする。

 

「本来、冒険者の資格はもとより、その見習いの資格も、金を積んでも購入することは出来ない。だが、それを『購入した』と今度の新メンバーの一人、セレクトという男は口にしたんだ。

 つまり、常識的で考えられる金額以上を積んだか、冒険者ギルドに無理を通せるだけの権力を持った存在だということがこのことから分かる。……ここまではいいか?」

 ジェノの確認に、イルリアは頷く。

 

「次に、一ヶ月という時間だが、これは、冒険者見習いが正規の冒険者になるための要件に合致する。まぁ、今更説明するまでもないと思うが、『一ヶ月以上在籍し、ギルドの依頼を一つ以上、五人以上のチームのメンバー全員でこなすこと』だな。

 本来であれば、こんな要件を、冒険者ギルドに圧力をかけられる人間が守る必要はない。だが、敢えてそれを守ろうとしている」

「……ああ、なるほどね。冒険者ギルド長のオーリンさんは、あんたを正規の冒険者にしたがっていたものね。これは、オーリンさんの意向というわけね」

 どうやらイルリアも話が読めてきたようだ。

 

「セレクトと一緒にいた俺らと同い年の女は貴族だ。その貴族にオーリンの爺さんが条件を出せるのは、そいつらが現状困っているからに他ならない。でなければ、一方的に命令をされて終わりだ。

 まぁ、あの飄々とした爺さんが、そんな事を命じられてただで従うとは思えんがな」

「つまり、この話はお互いそれほど損がない状況で結ばれた契約と考えたほうがいいということなのね?」

「ああ。当事者の俺達に内緒で裏取引をしているんだから、碌なものではないが」

 ジェノはそこまで言うと、静かにイルリア達に頭を下げた。

 

「イルリア、そしてリット。お前達にも都合があるだろうが、なんとかスケジュールを空けてくれ。このとおりだ」

 ジェノの行動に、イルリアは嘆息混じりに、リットは二つ返事で頷いた。

 

 こうして、思わぬ旅行が始まることになる。

 

 だが、この旅行のメインはジェノ達三人でなければ、マリアとセレクトでもない。

 この旅行のメインになるのは……。

 

 

 

 

 

 

 メルエーナにもようやく眠気が訪れた。

 楽しみにしていた旅行が、思いもせずに大人数になってしまったことに加えて、ジェノとマリアの事を考えると、ベッドに入ってもなかなか眠気がやってこなかったのだ。

 

 そして、メルエーナはその眠気に身を委ねて休もうと思ったのだが、そこで不意に腹部に重さを感じてうなされる。

 

 何かが自分のお腹に乗っている。大きな猫くらいの重さの何かが。

 メルエーナは首を上に傾けて、自らの腹部を見た。するとそこには、小さな人形らしきものが乗っていた。怖くなって声を上げようとしたが、何故か声が出せない。

 

「……うっ、うううっ……。あっ、貴方は、いっ、いったい……」

 なんとかそれだけ言葉を口にすると、メルエーナのお腹に乗っていた人形が、穏やかな優しい光を帯び始め、明るくなった。

 

「やった! やった! ようやく僕が見える人に出会えた!」

 人形は愛らしい二頭身の男の子のようだったが、それが突然話しだしたため、メルエーナは何が何だか分からない。

 

「お姉さん、お願い! 僕の頼みを聞いて!」

「えっ?」

 人形がお腹の上からどいてくれたので、メルエーナはようやく苦しさから開放された。

 

「僕はレイルンと言う妖精なんだ」

「よっ、妖精?」

 メルエーナは上半身を起こし、二頭身の愛らしい人形のような男の子を見る。

 

 そして、メルエーナはレイルンと名乗る妖精から、一つの依頼をされることとなってしまうのだった。



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⑤ 『妖精』

 お昼が過ぎる頃には、いつものように食材が底をついたため、店は閉店となった。

 そして、今日は賄いをジェノが作ってくれたので、メルエーナはバルネアと三人で少し遅めの昼食を口にする。

 

 今日のメニューはミートソースのパスタ。ありふれた料理だが、ジェノが作るととても美味しい。

 あのバルネアさんも、「いい味ね」と褒めていたのだから流石としか言いようがない。

 

「メルエーナ。少しいいか?」

 普段は話を振られないとあまり喋らないジェノが、メルエーナに声を掛けてきた。

 

「はい」

 普段どおり応えたつもりだったが、ジェノは気難しい顔をする。

 

「ここ数日はあまり眠れなかったのか? 随分と疲れている様に見えるが」

「えっ、あっ……。私、そんなに疲れた顔をしていますか?」

 メルエーナは申し訳無さそうに、ジェノ、そしてバルネアに視線を移す。

 

「そうね。私にオーダーを伝えに来るときに見ただけでも、少しだけ元気がなかったように見えたわ。私でもそうなんだから、同じエリアで接客しているジェノちゃんにははっきり分かったのではないかしら?」

 バルネアは怒るわけではなく、心配そうな視線をメルエーナに向けてくる。

 自分では全く普段と変わらないように接客していたつもりなのに、二人ともすごい洞察力だとメルエーナは感心する。

 

「その、ここ何日か、おかしな夢を見まして……。そのせいで少し睡眠不足で……」

 後二日で旅行なので、何とかそれまで誤魔化そうと思っていたのだが、これ以上はそれも無理だと理解し、メルエーナは二人に話をする。

 

「夢?」

 ジェノは怪訝な顔をすると、「夢か……」ともう一度呟き、少し逡巡したようだったが、口を開いた。

 

「メルエーナ。あまりプライベートに踏み込みたくはなかったので黙っていたが……。なにか動物を部屋に連れ込んでいるのか?」

「えっ? いえ、そんなことは……。ただ、その……」

 メルエーナは歯切れの悪い回答をするしかない。

 

「あらっ? それはどういうことかしら?」

 バルネアは、メルエーナではなく、ジェノに尋ねる。

 

「ここ数日、毎晩、何かの気配をメルエーナの部屋から感じていたんです。それに、少しですが騒ぐような音も聞こえてきていたので、そう推測しました」

 ジェノの言葉に、メルエーナは驚くのと同時に光明を見た気がした。

 

 あまりにも荒唐無稽な話なので、信じてもらえないのではないかと、頭がおかしくなったのではと思われてしまうのではないかと不安で、切り出せなかった話があるのだ。

 

「メルちゃん、ジェノちゃんはこう言っているけれど、その、どうなのかしら?」

 バルネアの問いかけに、メルエーナは目を伏せて、「少し、私の話を聞いてください」と話を切り出すことにしたのだった。

 

 

 

 

 

「妖精だと?」

「妖精って、あのおとぎ話にでてくる?」

 怪訝な顔をするジェノとバルネアに、メルエーナは頷き、話し始める。

 

 

 

 数日前の夜から、毎晩メルエーナの部屋には、大きな猫くらいの大きさの二頭身の人形の姿をした、妖精のレイルンが現れ続けていた。

 しかも決まって、メルエーナが寝付いた瞬間に、彼女のお腹の上に何処からともなく現れる。

 

 レイルンは人間の言葉を話せるのだが、その内容はいつも同じだった。

 

「お願いだよ、お姉さん! 僕の頼みを聞いて! この魔法の鏡を、レセリア湖の近くの洞窟に持っていって欲しいんだ!」

 そう言いながらお腹の上で跳ねるものだから、メルエーナはたまったものではない。

 

「でっ、ですから、もう少し待って下さい。もう少ししたら、みなさんとその湖の近くまで旅行に出かけますから……」

「ああっ、早く、早くして! この鏡を見つけるのにも時間がかかってしまったんだ! あの可愛い女の子に、僕と同じくらいの小さなレミィのお願いを、早く叶えてあげないといけないんだ!」

 メルエーナは毎回同じ説得をするのだが、レイルンは『早くして』の一点張りで、何度もお腹の上で飛び跳ね続け、そして少しすると突然いなくなってしまうのだ。

 そして、眠気がすっかり覚めてしまったメルエーナは、なかなか寝付けずに睡眠不足に陥っていた。

 

 

「その、信じられないでしょうが……」

 これらは全て嘘偽りない話なのだが、こんな話をジェノとバルネアが信じてくれるか不安でしかたがない。

 だが、二人の反応はメルエーナの予想の範囲を超えていた。

 

「どうしてすぐに相談しないんだ。妖精の中にはたちの悪い者もいるとなにかの文献で読んだことがある。リット……はまずいな。……そうだ、エリンシアさんに相談してみよう。リリィのお師匠様だし、女性だ。何かと都合がいいだろう」

「すごぉい! メルちゃんて、妖精が見えるの? いいなぁ、私も見てみたいわぁ~」

 真逆の対応をするジェノとバルネアの様子に面を喰らいながらも、メルエーナは二人に尋ねる。

 

「その、信じてくれるんですか? こんな話を?」

 その問いかけに、ジェノもバルネアも不思議そうな顔をする。

 

「お前が悪戯なんかで、こんな事を言う人間でないことは分かっている。俺も同行するから、すぐにエリンシアさんのところに行くぞ」

「そうね。メルちゃんはつまらない嘘なんて言わないわよね。さすがジェノちゃん。よく分かっているわ。よし、後片付けは私がやっておくから、メルちゃんはジェノちゃんと一緒にエリンシアさんのところに行ってらっしゃい」

 バルネアに後押しされ、ジェノが「お願いします」と話を決めてしまう。

 

「メルエーナ。慌てなくてもいいが、食事が終わったら出かける。準備をしてくれ」

「……はい……」

 自分の事を心から心配し、行動してくれる二人に心から感謝をし、メルエーナは残っていたパスタを少しだけ早めに口に運ぶのだった。



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⑥ 『気遣いと決意』

 家の入口までは何度か来たことがあるが、リリィの居候先ということで、メルエーナは遠慮してその中に入ったことはなかったので、何とも新鮮だ。

 

 お世辞にも大きいとは言えないレンガ造りの古い家には、書物やよく分からない骨董品らしきものが所狭しと置かれている。

 

 ジェノと一緒にエリンシアの家を訪ねたところ、運良く彼女もリリィも在宅だった。

 そして、こうしてリリィに案内されて、メルエーナ達は家の奥まで通された。

 

「こりゃあ珍しい。メル嬢ちゃんだけでなく、ジェノ坊やまで一緒かい」

 初老で白髪の長い髪と特徴的なローブを身にまとったエリンシアは、メルエーナ達に気がつくと、にっこりと微笑み、訪問を歓迎してくれた。

 

「ご無沙汰しています、エリンシアさん。今日は仕事をお願いに来ました」

 挨拶もそこそこに、ジェノが話を切り出す。

 

「おや? イルリアの嬢ちゃんではなく、坊やがこの老いぼれに仕事を依頼とは……。まぁ、座りなさい。リリィ、お客様達にお茶を頼むよ」

「はい、お師匠様!」

 リリィは笑顔で台所に向かっていった。

 

「さて、さっそく話を……と言いたいところだが、うちのバカ弟子も話の内容が気になるようだから、お茶が入るまで少しだけ待っておいておくれよ」

「はい。その、予約もなしに突然訪問をして、申し訳ありません」

 メルエーナは長めのテーブルを堺にエリンシアの向かいの席にジェノと並んで座り、突然の訪問を謝罪する。

 

「はははっ。そんな事を気にするもんじゃあないよ。こっちとら貧乏暇なしの魔法使いなんだから、仕事の依頼は大歓迎だよ」

 エリンシアは愉快そうに笑う。しかし、すぐにその笑みは消えた。

 

「けれど、少々変わったことが起こっているようだね。坊やが依頼をしたいと言っていたが、困っているのはメル嬢ちゃんの方みたいだしねぇ」

「……わかるのですか?」

 メルエーナは驚き、目を大きく見開く。

 

「はははっ。駄目駄目。メル嬢ちゃんは素直すぎるね。これは詐欺にでも引っかからないか心配だよ。

普段なら一人で家を訪ねてくるはずのお嬢ちゃんが彼氏と同伴で来た。そして、話を切り出したのは坊やの方。これだけでも、嬢ちゃんに何かあったのだろうと推測はできるさね」

 エリンシアはそう言って苦笑する。

 

「坊や。このお嬢ちゃんが悪い奴に騙されないように、しっかりついていないと駄目だよ。自分の大切な人くらいは守ってあげられないようじゃあ、男が廃るよ」

「からかうのはよして下さい」

 彼氏という言葉に気恥ずかしさと嬉しさを感じていたメルエーナだったが、ジェノのそっけない態度に少し悲しくなってしまう。

 

「なんだい、つまらないねぇ。こっちとら老いさらばえていくばっかりなんだ。少しは若返る話題を提供してくれてもバチは当たらないだろうに」

 エリンシアはつまらなそうに嘆息し、「嬢ちゃんも、苦労が絶えないねぇ」とメルエーナに同意を求めてくる。だが、メルエーナはなんと答えていいのか分からず、愛想笑いをするしかなかった。

 

 そんなとりとめのない会話をしていると、リリィがお茶を淹れて来てくれた。きちんと全員分。彼女自身の分も含めて。

 そして、リリィはエリンシアの隣の席に当たり前のように腰掛ける。

 

「こらっ。このバカ弟子。私はあんたに同席しろなんて言っていないよ」

 先程、リリィが来るまで話を聞くのを待っていたはずなのに、エリンシアはリリィに文句を言う。

 

「そんな意地悪を言わないでくださいよ! メルとジェノさんが困っているのなら、私だって友達として力になりたいんですから!」

 リリィは鼻息荒く、エリンシアに訴える。

 

「まったく、仕方ないねぇ……」

 渋々と言った感じでエリンシアは言うが、何処か彼女が嬉しそうにもメルエーナには見えた。

 

「それじゃあ、リリィ。あんたはこの二人を見て何か感じることはあるかい?」

「……そうですね。メルに何か魔法の残滓を感じます……」

 リリィは目を閉じ、メルエーナに右の掌を向けて告げる。

 

「ほう。坊やからは?」

「いいえ。ジェノさんからは何も……」

 リリィの言葉に、エリンシアは苦笑する。

 

「うん。魔力感知は少しはできるようになっているみたいだね。だが、まだまだ甘いねぇ。それじゃあ、この仕事は解決できないよ」

「ううっ、すみません……」

 気落ちするリリィだが、魔力などというものがまるで分からないメルエーナには、リリィの力は十分すごいと思う。彼女も日進月歩で成長しているようだ。

 

「エリンシアさん。まるでもう話が分かっているように聞こえるのですが?」

「ふっ。ジェノ坊や。私はこの年になるまで魔法を探求し続けているんだよ。あんた達二人が店に入ってきた段階で気づいていたよ。まぁ、妖精絡みの話というのは、私もあまり経験はないけれどね」

 エリンシアはいたずらっぽく微笑み、静かにお茶を口にする。

 

「妖精の事まで分かるのですか?」

「ああ。人が使う魔法と妖精が使う魔法は微妙に違うんだよ。そして、嬢ちゃんに掛けられているのは、<目印>の魔法と<門>の魔法だね」

 エリンシアは当たり前のようにメルエーナに掛けられている魔法というものを特定した。

 

「きっと悪戯好きな妖精が、嬢ちゃんに悪さをしたんだろう。そして、夜な夜な現れて悪さをしているんだろうね。ただ、この魔法を解除するのは簡単だし、解除すればおそらく妖精はもう現れなくなるはずだよ」

「その魔法を解除したことで、何かしら不都合なことはないのでしょうか?」

 こともなげに言うエリンシアに、ジェノが尋ねる。

 

「それは大丈夫。妖精というのはね、人間が住むこの世界とは別の世界で生きているんだ。その世界はこの世界とは何もかも違う世界らしい。そして、召喚魔法というものを除けば、二つの世界の境界が何らかの原因で歪んだときにだけ、妖精はこの世界にやって来ることができるが、そんなことは滅多に起こらないからね。

 だから、嬢ちゃんに掛けられている魔法を解いてしまえば、その妖精はもうこの世界にやって来ることはできなくなる。今、妖精は、嬢ちゃんに掛けた二つの魔法で何とかこの世界との通り道を確保している状況なんだからね」

 エリンシアがわかりやすく説明してくれたので、メルエーナもなんとなく自分に何が起こっているのかは理解できた。

 もっとも、魔法という力と縁がないので、未だに信じられない気持ちも大きいが。

 

「すぐにでも魔法を解くかい? 大丈夫時間もかからないし、体に悪影響はないからね」

「それはありがたいです。費用はどれくらいお支払すればよろしいでしょうか?」

「小銀貨三枚……と言いたいところだけれど、リリィの友達からそんなにもらえないからね。大銅貨五枚でいいよ」

 小銀貨一枚は大銅貨十枚の金額であるので、本来であれば大銅貨三十枚が必要なところを五枚に値引きしてくれるのだから破格も破格だ。

 ちなみに、大銅貨一枚で、大体<パニヨン>の定食一食分の金額である。

 

「よかったね、メル」

 リリィが笑顔で言ってくれたが、メルエーナはそこで顔を曇らせる。

 

 それは、あの人形のような妖精の必死の訴えを思い出してしまったから……。

 

「そっ、その、エリンシアさん。お気遣い頂いたのに申し訳ありません。その、私の話を聞いて頂けないでしょうか?」

 ここまでの気遣いをしてもらって、本当に悪いとは思うが、メルエーナは意を決して、自分の気持ちを正直にエリンシアに伝えることにするのだった。



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⑦ 『優しさと寂しさ』

 一通りの話をし、今後の方針を決めたものの、あれこれと話しをしているうちに、随分時間がかかってしまった。

 

 エリンシアの魔法屋から二人で家路に就くメルエーナは、先を歩くジェノに「すみません、我儘をいってしまいまして」と謝罪を口にする。

 

「何も謝ることはないだろう。お前がそう決めたのならば、それでいい」

 ジェノは振り返らずに、淡々と言う。

 

 それが突き放されたような気がしてしまい、メルエーナは歩きながら顔を少し俯ける。

 

 やはりジェノさんは怒っているのだろう。

 ジェノさんは自分のことを心配してくれて、エリンシアさんのお店まで同行してくれたのに、こんな我儘な事をしてしまって……。

 

 エリンシアさんとリリィさんもきっと怒っているだろう。

 格安で、安眠を妨害する妖精がもう現れないようにしてあげると提案してくださったのに、そのご厚意に後ろ足で砂をかけるようなことをして、無茶な頼みをしてしまったのだから。

 

(でも、私はあの妖精さんが……。レイルン君が私に悪戯をするために毎晩現れているとは思えないんです。だって、あの子はいつも必死に私にお願いをするだけで……)

 

 レイルンはいつも、以前出会ったレミィという小さな女の子の願いを叶えるために、『魔法の鏡』というものをレセリア湖の近くの洞窟に運んで欲しいと頼んできていた。その様子はすごく切羽詰まっていて、懸命に思えた。あれが悪戯だとはどうしても考えられない。

 

「メルエーナ……」

「はっ、はい!」

 考え事をしていた所で不意に名を呼ばれ、慌てて返事をするメルエーナ。そんな彼女に、ジェノは振り返り、

 

「お前は、本当に優しいな」

 そう言って苦笑した。

 

「えっ? その……」

 突然の言葉に二の句が続かないメルエーナは、どうしたものかとあたふたする。

 それを見て、ジェノは僅かに口角を上げた。

 

「だが、それは美点ではあるが、お人好しとも取れる。世の中、悪い輩も多い。何か行動をする前に誰か信用できる人間に相談することも覚えたほうがいいぞ」

 ジェノの嗜めるような言葉。しかしどうしてか、メルエーナはその言葉に、暖かさと少しの寂しさを感じた。

 

「……ジェノさん……」

 メルエーナが名前を呼ぶと、ジェノは彼女に背を向けて静かに歩きだしてしまう。メルエーナはそれに静かに付いて歩く。

 

 しばらく無言で歩いていると、あっという間に<パニヨン>に帰ってきてしまった。

 

 ジェノは裏口に回ろうとしたところで、メルエーナは意を決して口を開く。

 

「あの、ジェノさん」

「どうした?」

 振り返ったジェノに、メルエーナはニッコリと笑みを向けた。

 

「私は、やっぱりまだまだ都会で生活する上での心配りが分かっていないようです。ですから、困ったことがあったら、また相談させてもらってもいいですか?」

 メルエーナは体が震えそうになるのを堪えて尋ねる。

 

「……信用できる人間に、と言ったはずだ」

「はい。ですから、ジェノさんに相談させて頂きたいんです」

 ジェノの言葉に、一瞬の間も置かずにメルエーナは答える。

 

「……やはり、お前を一人にしておくと心配だな。夕方からの準備にも立ち会わせて貰ってもいいか?」

「はい。ジェノさんも居てくださったほうが心強いです」

 メルエーナは本当に嬉しそうに微笑む。

 

「それなら、まずはバルネアさんに説明だな」

「はい!」

 自分の満面の笑顔に、呆れたような顔をしていたジェノが、また僅かに口角を上げたように思えたのは、メルエーナの気の所為ではなかったのだろう。きっと……。

 

 

 

 

 

 

「いやぁ~。お店以外で、バルネアさんの料理を食べられるなんて、役得だわぁ」

「こらっ、端ないことを言うんじゃあないよ。まるで私が普段ろくなものを食べさせていないように聞こえるでしょうが」

「だって、夕食を誰かに作ってもらえるのなんて久しぶりだったんですよぉ」

 リリィとエリンシアのやり取りを、メルエーナ達は微笑ましげに見ている。

 

 何故、リリィ達がバルネアの店――もとい、家の方に来ているのかと言うと、メルエーナが依頼をしたためだった。

 

 先にエリンシアが提案してくれた方法では、妖精のレイルンがこの世界に来れなくなってしまう事を理解したメルエーナは、どうにかして彼のお願いを叶えてあげたいと、自らの気持ちを打ち明けた。

 

 ただ、今のままではメルエーナが睡眠不足で倒れてしまうので、エリンシアが彼女の部屋に泊まり、レイルンを説得しようか? と提案してくれたのだ。

 

 そして、メルエーナはそれを依頼したのである。

 

 一晩拘束することから、本来は別途その分の料金がかかるらしいのだが、バルネアさんの料理を弟子と一緒に食べさせてもらえるのならばいらないと、エリンシアは言ってくれた。

 

 そのことをバルネアに話したところ、彼女も喜んでお願いを聞いてくれたので、こうしていつもよりも大人数で夕食を食べることになったのである。

 

「エリンシアさん。その妖精さんを説得するというのは難しくはないのですか?」

 デザートを切り分けながら、バルネアがエリンシアに尋ねる。

 

「まぁ、それは私におまかせだよ。ただ、妖精は基本的に人の目に触れたがらないんだ。メル嬢ちゃんの部屋には、私とこのバカ弟子だけで待機させてもらうよ。私達は妖精に気づかれない方法があるからね」

 エリンシアはそう言い、切り分けられた美味しそうなレモンパイを見て目を細める。

 

「坊や。心配なのは分かるけれど、決して坊やは部屋から出てきてはだめだよ。坊やが近づくと、妖精が現れない可能性が高いからね」

「はい、分かっています。どうかメルエーナのことをよろしくお願い致します」

 バルネアの切り分けたレモンパイを皆の前に給仕し終えたジェノが、そう言って頭を下げる。

 

「まったく、そんな殊勝な態度ができるんだったら、メル嬢ちゃんにもう少しアプローチしてやりなよ」

 エリンシアは呆れたような口調でいい、メルエーナが淹れてくれた紅茶を一口くちにする。

 

「いいかい? 本来、妖精は微力でも魔法の力を持つ者の前に現れるんだ。けれど例外として、魔力を持たない若い乙女の前に現れることもある。これは、成長とともに子供を産む準備をしている乙女は、命を宿すために強いエネルギーを溜め込み続けているためなんだよ。

 つまりだ。坊やがメル嬢ちゃんを本当の意味で『女』にしていれば、今回のようなことは起こらなかったんだよ、まったく」

 エリンシアは文句を言いながら、レモンパイにフォークを伸ばす。

 

「……えっ? それって、その……」

 リリィが頬を赤らめながらも、ニヨニヨとした視線をメルエーナに向けてくる。

 

「いっ、今はそんな話ではなくて、今晩のことを話しましょう!」

 一瞬、エリンシアが何を言っているのか分からなかったが、彼女が何を言っているかに気づき、メルエーナは顔を真っ赤にしながら大慌てで話に割り込む。

 

「やれやれ。奥手ばかりでつまらないねぇ。誰か一人でも既成事実を作れば、すぐに他の嬢ちゃん達も続きそうなんだがねぇ」

 エリンシアはやれやれと言った様子で、レモンパイを口に運ぶ。

 

「ああっ、美味しいねぇ。バルネア、うちのバカ弟子にも、今度パイの焼き方を教えてやってくれないかい?」

「ええ。お安い御用ですよ」

 バルネアは終始笑顔で、楽しそうだ。

 

「ジェノ坊や。食事が終わったら少し話したいことがあるから、自分の部屋で待っているんだよ」

「話ですか? はい、分かりました」

 怪訝な顔をしながらも、ジェノは了承する。

 

 いったいどんな話をするのか気になるが、今晩の事に集中したほうがいいと思い、メルエーナは気持ちを新たにするのだった。



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⑧ 『夢への邁進』

 夕食後に自室にリリィを招いて談笑をしていると、ノックの音が聞こえた。

 

「メル嬢ちゃん、入っても大丈夫かい?」

 声でエリンシアだと分かったメルエーナは急いでベッドから腰を上げて、部屋のドアを開けに向かう。

 

「どうぞ、エリンシアさん」

 静かにドアを開けると、笑顔のエリンシアが、「お邪魔するよ」とメルエーナの部屋に足を踏み入れた。

 

「うんうん、いいねぇ。小物類や家具なんかの選び方といい、いかにも年頃の女の子の部屋って感じだ。まったく、うちのバカ弟子に見習わせたいよ」

 エリンシアはざっとメルエーナの部屋を見回して、にっこり微笑む。

 

 取り立てて珍しい物のない普通の部屋だと思うのだが、必要最低限のものしか置いていないジェノの部屋に行って来たばかりだから、普通の部屋を見て安心したのかもしれないとメルエーナは察する。

 

「むぅ~。お師匠様、私の部屋だって十分女の子らしいじゃあないですか!」

 メルエーナのベッドに腰を掛けているリリィが、エリンシアに文句を言う。

 

「あんたの部屋は品がないんだよ。それに、彼氏に見せるつもりなんだろうけれど、ベッドの上にあんな下品なタイツを……」

「わぁっ! その話は言わないで下さいよ!」

 仲の良い師弟のやり取りに、メルエーナはクスクスと微笑む。

 

「さて、馬鹿なことをするのはここまでだよ、リリィ。準備は終わっているんだろうね?」

 メルエーナの笑みに相好を崩していたエリンシアだったが、真剣な顔つきに変わる。

 

「はい。もちろんです!」

 リリィは静かに立ち上がり、手のひらより少し大きい、縦長の紙を何枚か肩掛けカバンから取り出し、エリンシアに渡す。

 

「うん。呪符の作り方はだいぶ良くなってきたね。もう少し頑張れば、店で販売できそうだ」

「ふふ~ん! それはもう、毎日努力していますから!」

「こらっ、そうやってすぐ調子に乗るんじゃあないよ。呪符は飽くまで初心者用の『魔術』に使う物だ。『魔法』を使いたいのなら、こんなものに頼らなくても火の一つでも具現化できるようになるんだね」

「ううっ、少しくらい褒めてくれてもいいじゃあないですかぁ~」

 

 二人のやり取りを聞いていても、門外漢のメルエーナには、『魔術』と『魔法』の違いというものがまるで分からない。

 かろうじて、以前ジェノが話してくれた昔話の中に、紙を使って狼を作り出している人が出てきたことを思い出すのがやっとだった。

 けれど、話を思い出して少し怖くなってきてしまう。

 

「あっ、あの、エリンシアさん! その紙が、狼に変わって噛み付いたりしないですよね?」

 不安にかられて尋ねると、エリンシアとリリィは驚いた顔をする。

 

「メル。そんな難しい『魔術』の事をどうして知っているの?」

「ああ。リリィの言うとおりだよ。今時、そんな魔術の存在を知っているなんて珍しいよ」

 二人に不思議そうな顔をされて、メルエーナはどうして知っているかを話さざるを得なくなってしまった。

 

「……へぇ~。ジェノさんの昔話に出てきたんだ」

 簡単に説明すると、リリィは納得してくれた。

 

「そうかい。ジェノ坊やも色々とあるんだねぇ……」

 エリンシアも納得してくれたが、一瞬物悲しそうな顔をしたのをメルエーナは見逃さなかった。

 でも、どうしてそんな顔をしたのかは分からない。

 

「まぁ、話を戻すよ」

 そう言い、エリンシアは笑顔で呪符というものを説明してくれた。

 

 それによると、この呪符というものは、様々な魔術を使うための道具なのらしい。

 

 メルエーナが知っていた使い方である、それ単独で獣に変化させることもできれば、何枚かを利用して、複雑な魔術を使用することもできるのらしい。

 そして、今回は後者の使い方をするのだという。

 

 エリンシアの指示で、リリィが部屋の壁に五枚の呪符を貼り付けた。

 糊も使っていないのに、何故かリリィが短く何かを呟くと、それはピッタリと張り付き、そして壁紙の色と同化していく。

 

「凄い……。凄いです、リリィさん!」

 魔法……いや、魔術なのだろうか? よく分からないが、普通の人間では不可能な事を当たり前のように行うことができる友人の姿に、メルエーナは感動する。

 

「ふふっ。普通は魔術や魔法を使っている所は見せないんだけれどねぇ。何をしたのか分からないというのもぞっとしないからね。今回は特別だよ。ただ、口外はしたら駄目だからね。このことも、そして、さっきのジェノ坊やの話もね」

 やんわりとだが窘められて、メルエーナはもう二度と、魔法や魔術に関することを他人に話さないようにしようと心に誓う。

 

「よし、これで完成です! どうですか、お師匠様?」

 リリィは得意げに満面の笑みを浮かべる。

 

「……隠蔽が少し甘いねぇ。ただ、さすがこの私が教えているだけのことはある。おそらく、アカデミーに通っている同い年の連中よりは数段上だよ」

 エリンシアはそう言って静かに瞳を閉じる。

 すると、リリィが貼った呪符は穏やかな緑色の光をまとったかと思うと、また壁紙と同化した。

 

「今回は妖精が相手だからね。用心を重ねたほうが良い」

「さすがお師匠様……。もう完全に魔術の痕跡が分かりません」

 二人のやり取りの凄さは分からないが、メルエーナは、友人が確かに自分の進みたいと思った邁進していることを理解し嬉しくなる。

 

 けれど、自分も負けていられないという気持ちになる。

 

(そうです。リリィさんはもう少しでお店に出せる商品を作り出せるほど成長しているみたいですから、私も負けられません! それに、リリィさんはその上、もう素敵な彼氏さんまで……)

 自分も頑張らないといけない。それは、一人前の料理人になることはもちろん、ジェノに振り向いてもらえるような女性になることも含まれているのだ。

 

「リリィさん、凄いです。私も負けないように頑張ります!」

「ははっ。メルにそう言ってもらえる日が来るなんて思わなかったなぁ。でも、正直、すごく嬉しい。お互い、これからも頑張ろうね」

「はい!」

 元気よく返事をするメルエーナと、はにかみながらも嬉しそうなリリィ。

 

「うんうん。若いってのは良いことだよ」

 そんな若い二人を、エリンシアは眩しそうに、そして微笑ましげに見ているのだった。



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⑨ 『守護妖精』

 すべての準備が整ったので、メルエーナは事が起こるのを寝たふりをして待っていた。

 だが、ここのところの睡眠不足があり、彼女は本当に瞼がどんどん重くなってきてしまう。

 

「……駄目。このままでは……」

 そう思ったものの、メルエーナはやがて静かに寝息を立て始めてしまう。

 

 そして、メルエーナの眠りが深くなったその時だった。

 

「あっ、うわあああああああっ!」

 バチン! と大きな音がした次の瞬間、子どもの悲鳴が聞こえ、メルエーナは飛び起きた。

 

「なっ、なにが……」

 空中で、壁から現れた五本の淡い光の束に雁字搦めにされる二頭身の人形のようなレイルンの姿に、メルエーナは困惑する。

 まさか、こんな大掛かりな仕掛けだとは思わなかった。

 

 あっけにとられるメルエーナ。

 さらに部屋のドアが開かれ、隣の客間で待機していたリリィとエリンシアが、ランプ片手に部屋に突入してきた。

 

「メル! 大丈夫! 私の後ろに隠れて!」

 リリィが呪符を一枚右手に持ちながら駆け寄ってくる。

 メルエーナは頷いて立ち上がると、リリィの言うとおり彼女の背後に移動する。

 

「ううっ! 何、この紐みたいのは! 離してよ!」

 レイルンは必死にもがくが、がっしりとした光の束の拘束はびくともしない。

 

「おやおや。本当に妖精だよ。こりゃあ珍しいね」

 ちょうどレイルンが拘束された位置が顔の高さであったため、エリンシアはまじまじとレイルンを観察する。

 

 レイルンは体を拘束する光の束とは別に淡い青い光を纏っており、頭には緑色の帽子をかぶり、服装も緑がベースの服とズボンを身に着けている。

 

 いつもお腹の上で暴れるので、しっかり確認したことがなかったメルエーナもつい観察してしまったが、そこではたと気づき、エリンシアに声をかける。

 

「エリンシアさん、悲鳴を上げていましたけれど、レイルン君は大丈夫なんですか?」

「ははっ。大丈夫。むしろ呪符に込められた魔法の力の影響で、この世界に居るのが楽なはずだよ。そうだろう、妖精レイルン?」

 エリンシアはメルエーナに顔を向けて説明してくれた後、レイルンに再び視線を移す。

 

「ううっ! 僕はこんな事をしている時間はないんだ! 早くレミィのために、この鏡を持っていってもらわないと!」

「こらっ。それはあんたの都合だろうが。メル嬢ちゃんはあんたの頼みを引き受けると言ってくれたんだろう? なのに早くするように言って迷惑を掛けるなんて、我儘がすぎるよ、まったく」

 エリンシアは幼子を嗜めるような口調でいい、妖精相手でも物怖じしない。これが年の功と言うものなのだろうかとメルエーナは考える。

 

「だって、もうかなり遅くなってしまったんだ! 早くしないと!」

「おだまり! これ以上我儘を言うのなら、あんたが掛けた<目印>の魔法と<門>の魔法を解除してしまうよ! これがなくなってしまったら、あんたはもうこの世界に戻ってこれなくなる。それでもいいのかい?」

 レイルンは一喝されて、困ったように黙り込む。

 明らかに落ち込むその顔を見て、メルエーナはつい可哀想になってしまう。

 

「あの、レイルン君?」

 リリィに「危ないよ」と注意されたものの、メルエーナはリリィの背後から出て、レイルンに近づく。

 

「……なに? お姉さん」

「その、レイルン君のお願いは私が頑張って叶えられるようにするから、もう少しだけ待って。あと数日で私達はレセリア湖の近くまで出かけるから。ねっ?」

 メルエーナは優しくレイルンに言い聞かせる。

 

「でも、もう時間が……」

 レイルンはそう言って悲しそうな目をする。

 

「妖精レイルン。あんたは、たまたま自分の姿が見える人間を見つけたからって、無理難題を押し付けているんだよ。それなのに、この優しいお姉さんはあんたの頼みを叶えようとしてくれているんだ。それなのに、あんたはまだ我儘を言うのかい?」

 エリンシアが話に割り込み、レイルンの頭をポンとやんわり叩く。

 

「……そうだね。その、ごめんなさい、お姉さん……」

 レイルンは理解してくれたのか、本当に申し訳無さそうな顔をして、メルエーナに謝罪する。

 

「うん。きちんと謝罪できる子は嫌いじゃあないよ。それじゃあ、いい子には少しだけ協力してあげようかね」

「エリンシアさん、一体何を?」

「まぁ、任せておきなよ。この妖精は弱っているんだ。このままでは消えてしまうくらいにね。だから、少し私の魔力を分けてやろうというだけさ」

エリンシアはそう言って、何かよく分からない言語を唱え始めた。

 

「あっ!」

 思わずメルエーナは声が出てしまった。

 レイルンを雁字搦めにしていた光が彼の体の中に吸収されるように消えていったのだ。

 

「これで、一週間は持つだろう。もちろん、妖精の世界とこちらの世界の行き来をしなければの話だけれどね」

 エリンシアが何をしたのかわからないメルエーナ。そんな彼女に、リリィが話しかけてくる。

 

「あの可愛い妖精に、私が呪符を貼る際に込めた魔法の力と師匠の魔法の力の一部を渡したの。それでしばらくはこの世界に留まることができるというわけ。

 それと、妖精の世界からこの世界に来るには、かなりの魔法の力を使うらしいの。そして、この世界に留まるのにも。だから、あの妖精はあんなに焦っていたんだよ。魔法の力が源で、実体を持たない妖精は、魔法の力が尽きると消滅してしまうから」

 その説明を聞き、メルエーナはようやくレイルンがあんなに焦っていた理由を理解した。

 

 自分が消滅してしまう可能性が高いのに、それでもレミィという女の子のお願いというものを叶えてあげたいとしているのだろう。この妖精の男の子は。

 

「妖精レイルン。あんたは事が済むまでこの世界に留まりなさい。一週間は私の魔力があれば持つはずだからね。そして、その間はこのお姉さんの守護妖精として過ごすこと。いいね?」

「……うん。わかったよ」

 レイルンは納得したようだが、メルエーナには寝耳に水の話だった。

 

「まっ、待って下さい、エリンシアさん。守護妖精っていったい?」

「なぁに、使い魔の一種だよ。とはいっても、魔法の力が少ないから何もできないだろうけれどね。普段は姿が見えないから、必要なときだけ心のなかでこの子のことを強く思ってやればいい。ただ、魔法の力の消費が激しくなるから、必要なときにだけ呼ぶんだよ」

 エリンシアはこともなげに言って笑うが、メルエーナには何が何だか分からない。

 

「すごぉい! 妖精を使い魔にする人間なんて歴史上数えるほどしかいないと思うよ!」

 リリィもそう言って感心するが、メルエーナは何よりも先に説明が欲しい。

 

「それじゃあ、パスを繋げるよ。動いては駄目だよ」

「いえ、その、少し待って下さい! 私にはなにがなんだか分から……」

 メルエーナの抗議の声が終わるよりも先に、エリンシアは何かをまた唱えだしてしまった。

 

 そして、メルエーナは自らの右手が淡い光を宿したかと思うと、そこに見えない糸のようなものがレイルンと繋がる不思議な感覚を感じることとなったのだった。



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⑩ 『普段と違う朝食』

 夜が明けて、朝食の時間になった。

 メルエーナを気遣い、朝の掃除や食事の用意はジェノとバルネアが行ってくれた。

 

 だが、そこで……。

 

「ふふふっ。レイルン君。こっちのサラダも食べてみて」

 バルネアは嬉しそうに、自分の隣に座る愛らしい二頭身の妖精にサラダを勧める。

 

「ううっ、わかったよ……」

 レイルンは困った顔で木のフォークをがっしり握り、サラダをソレに刺して口に運ぶ。

 けれど、すぐにレイルンの顔がパァーッと笑顔に変わった。そして彼はせわしなくフォークを動かし、サラダを口に運び続ける。

 

 バルネアの料理は、どうやら妖精の口にもあったようだ。

 レイルンと繋がりのあるメルエーナには、それが伝わってくる。

 

「いやぁ、流石バルネアの料理だね。この坊やも虜にするなんてさ」

「それはそうですよ、お師匠様。こんなに素晴らしい料理なら、人間以外だって美味しいと思うに決まっていますよ!」

 エリンシアとリリィの師弟も美味しそうに食事に舌鼓を打っている。

 

 メルエーナはそんな二人に恨みがましい視線を無言で向ける。

 

「もう。メルったら。そんな顔しないでよ」

「リリィの言うとおりだよ、メル嬢ちゃん。この妖精のお願いを叶えるには、こうするのが一番なんだよ」

 リリィ達は笑顔でいうが、むぅっと不満そうメルエーナは眉の根を寄せる。

 

「お二人の仰っていることは分かります。でも、先に説明してくれても良かったじゃあないですか……」

「もう、そんなふうに膨れるもんじゃあないよ。召喚士以外の人間が妖精を従えるなんて、そうそうあるもんじゃあないよ。むしろ貴重な体験だと思って置くといい」

 まだ不満げなメルエーナに、エリンシアがそう言って宥めてくる。

 

 昨晩、エリンシアに無理やりパスと言うものを繋げられてしまったメルエーナは、馴染みのない感覚になかなか寝付けなかった。

 自分の体と少し離れた所に体の一部があるような感覚は、いまだに慣れない。

 けれど、それもレイルン君の願いを叶えるまでだと自分に言い聞かせて、こうして朝食を食べている。

 

 レイルンは妖精であり、エリンシアから魔法の力を分けてもらっているので食事は必要ないらしいのだが、食べた分は微弱だが魔法の力の足しになるとのことだった。

 

 それに加えて、エリンシアさんから説明を受けたバルネアが、ぜひレイルンに会ってみたいというので、メルエーナはリリィの指導の元、彼を実体化させた。

 そして、バルネアはレイルンの愛らしい姿にすっかり魅了されてしまい、一緒に朝食を食べましょうと半ば強引に誘われ、今に至ると言うことである。

 

 レイルンとのやり取りで、深夜に大きな音がしたはずなのだが、バルネアさんもジェノも部屋を訪ねては来なかった。

 それは、エリンシアが音が外にもれない魔法をメルエーナの部屋にかけていたかららしい。

 

 

 それはそれとして……。

 メルエーナはいつも以上に寡黙に食事を続けるジェノに視線を移す。

 

 エリンシアの説明を聞いたジェノは、再度メルエーナの身に危険がないのかを確認していた。

 その気遣いは正直嬉しかったメルエーナだったが、何故かそれからジェノの機嫌があまり良くない気がする。

 

 それに、どうしてかレイルンもジェノの側には行きたがらない。まるで、何かを恐れているかのように。

 

(ジェノさん、妖精にも勘違いされてしまっているんでしょうか?)

 本当はとても優しい性格なのに、寡黙で愛想がないため勘違いされるのはもったいないとメルエーナは思う。

 

「ごちそうさまでした」

 ジェノは食事をいの一番に終えると、レイルンを愛でるみんなを尻目に台所に食器を運ぶ。

 

「あら、ジェノちゃん、もういいの?」

「十分頂きました」

 バルネアに短く答え、ジェノは自分の食器をさっさと洗い、「少し部屋に戻っています。開店準備の時間には戻りますので」と言い残して部屋に戻って行ってしまった。

 

「う~ん。メルちゃんにいきなりこんな可愛いお友達ができたから、ジェノちゃんてば少し複雑なのかしら?」

 パンを美味しそうに食べているレイルンの頭を撫でながら、バルネアが不思議そうな顔をする。

 

 もしもそんな風に自分のことをジェノが意識してくれているのならば嬉しいが、メルエーナにはそんな浮ついた話ではないように思えてならなかった。

 

 そして、レイルンという一時だけの家族が増えたものの、時間はあっという間に過ぎ、いよいよ旅行当日となったのだった。



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⑪ 『早朝の出会い』

 イルリアは指定の時間よりもだいぶ早くに<パニヨン>にやってきた。

 ここのところ何かとバタバタしていたので、旅の出発前にメルエーナとバルネアの二人と話でもしようと考えてのことだった。

 

 だが、まだ集合時間一時間前だというのに、<パニヨン>の入り口に立つ二人の人影が見えた。

 一人はジェノと同じくらい背が高い茶色髪の眼鏡の若い男性。そしてもう一人は、この暑い中、フードを頭から被った不審人物だった。

 

(あの二人が……)

 ジェノから聞いていた、冒険者見習いの資格を買った二人とは彼らのことで間違いないだろう。イルリアはそう判断すると、臆することなく二人に話しかけることにする。

 

「おはようございます。今日も暑いですね」

 差し障りのない挨拶を口にすると、二人の人物は振り返り、眼鏡の男性がニッコリと微笑んだ。

 

「おはようございます。そうですね、暑いですね」

 初対面の感想は、優しい雰囲気の男性と言った感じだ。だが、油断はできないとイルリアは気を引き締める。

 

「あっ……」

 思わずイルリアの口から感嘆の声が漏れた。

 それは、もう一人の人物がフードを取ったから。

 

 フードの下から現れたのは、まるで美の女神を具現化したかのような金色の髪の美しい少女だった。

 

「マリア様。早朝とは言え、人の目がありますから」

 眼鏡の男性がフードを取ったことを窘めるが、マリアと呼ばれたイルリアと同年代くらいの少女は、不服そうな視線を彼に向ける。

 

「セレクト先生。人にご挨拶をする際にこんなものを被ったままでいるわけにはいきません。それに、少しは今日の気温を考えて下さい」

 マリアの顔には大粒の汗が浮かんでいる。

 

 確かにこの暑い中、フードを被せられるのは拷問に近い。でも、セレクトと呼ばれた男性の気持ちもよく分かってしまう。

 あまりにもこのマリアという女性は綺麗過ぎる。故に、否が応でも人の注目を集めてしまうのだ。

 

 マリアは、コホンと小さく咳払いをし、こちらをまっすぐに見つめて微笑みかけてくる。

 その僅かな動作だけで、彼女の美貌は見たものを魅了する。

 

「私は、マリアと申します。失礼ですが、ジェノのお仲間の冒険者見習いの方でよろしいでしょうか?」

 優雅な所作で尋ねてくるマリアに気圧されながらも、イルリアも負けじと笑みを浮かべる。

 

「はい。イルリアと申します。どうかよろしくお願い致します」

 そう答えると、マリアは「はい。よろしくお願いい致します」と返してくれた。

 

「申し遅れました。私はセレクト。魔法使いをしております」

 セレクトも優雅に挨拶をしてくる。その堂に入った姿に、彼ら二人は平民ではないことは明らかだった。

 

 魔法使いだというセレクトのことも気になるが、それ以上に、やはりマリアの事が気になる。

 本当にありえないと思ってしまうほど美しい。それに、動きやすく線が出にくい服を選んで身につけているようだが、その抜群のプロポーションの良さがまるで隠せていない。

 セレクトが顔を隠そうとする理由が痛いほど分かってしまうが、生憎と本人はその事に気がついていないようだ。

 

(それに、この娘、アイツのことを気軽にジェノって呼び捨てに……)

 マリアとジェノの関係はよく分からないが、メルエーナに強力なライバルが現れたのではないかと危惧してしまう。

 

 ついまじまじとマリアを見つめてしまったが、どうやら向こうもこちらに興味があるようで、頭から足先までを見られてしまう。

 

「あっ、すみません。女性の方とは聞いていたのですが、こんなに素敵な方とは思わなかったものですから」

 マリアはそう言って慌てて謝罪をしてくる。

 

 こんな常軌を逸した美女に言われても嫌味にしか思えないが、マリアの気取らない物言いは悪くないとイルリアは思った。

 

「まぁ、暑い中外で立ち話もなんですので、裏口に回って入れてもらいましょう。水分を取らないと、マリアさんが倒れてしまいそうですし」

「ああっ、それは助かります。もう喉がカラカラなんです」

 イルリアの軽口に気分を害することなく、マリアは礼にっこり微笑む。

 

 うん。この態度だけで判断するのは危険だが、やはり悪い人間には思えない。

 

「本当に助かります。マリア様が早く行こうと言ってきかなかったものですから、こんなに早く店に着いてしまい、声を掛けて良いのか分からず困っていたのです」

「あっ、そういう事を言いますか、セレクト先生。先生の言いつけを守って、ずぅ~っと私は宿から出ないようにしていたんですよ。それがようやく外に出れる時が来たんですから、少々気が逸るのは仕方がないことではないですか!」

 セレクトの言葉に、マリアが心外だとばかりに文句を言う。

 

 きっとこのやり取りはわざとなのだとイルリアは理解していた。

 けれど、この行為の裏に隠されているのは、人に取り入ろうとするのではなく、早く打ち解けて仲良くなりたいという気持ちの表れに思えた。

 

 欲のために自分に寄ってくる人間を嫌っていうほど見てきたイルリアには、それが分かったのだ。

 

(メル、また苦労しそうね……)

 物怖じしてしまいそうな美貌を持つにも関わらず、初対面の人間に好感を抱かせるマリアの魅力に感服しながらも、イルリアは親友の苦労が増えそうだなぁと気の毒に思うのだった。



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⑫ 『馬車内にて』

 馬車が二台、土を固めた道路を走っていく。

 流れていく窓から見える景色を横目で見ながら、メルエーナは上機嫌でニコニコと笑みを浮かべる。 

 

 目的地であるレセリア湖には、朝一番の馬車に乗っても到着は夕方になる予定だ。

 ただ、今日は天気がいいし、爽やかな風も吹いている。

 もちろん夏なので暑くはなりそうだが、それでも快適な旅になりそうだ。

 

 それに、大人数での旅行になるとは思っていなかったので、メルエーナはジェノとあまり話す機会がなくなってしまうのではと危惧していたが、他の皆が乗合馬車であるのに対し、バルネアとジェノ、そしてメルエーナとレイルンの四人は、貸し切りの馬車に乗っている。

 

「リアちゃんやマリアちゃんたちには悪いけれど……」

 バルネアから、自分達だけ貸し切り馬車で移動と聞いたのは今朝のことだったので、メルエーナは驚いた。だが、こっそりバルネアに耳打ちをされ、「ジェノちゃんとしっかりお話しましょう」とアドバイスをしてくれたのだ。

 

 そのため、メルエーナはいつも以上に積極的にジェノに話しかけようと考えている。

 

(マリアさんはものすごく綺麗ですし、スタイルも素晴らしいです。でも、負けません!)

 今朝、あの女性にだらしないリットでさえ、マリアを一目見るなり驚いていた。それほどまでに彼女の美貌は群を抜いているという事。

 同性である自分から見ても、マリアは信じられないくらい綺麗だ。それに可愛らしい表情もする。異性からならばそれは更に顕著に映るはずだ。

 

 ただ、これは幸いなことにというのは失礼だが、ジェノのマリアに対する反応はそっけないものだった。

 今朝はお弁当の準備と後片付けをしていたということもあるが、マリアの笑顔の挨拶に事務的に挨拶を返しただけで眉一つ動かさなかったのだ。

 もしもジェノがマリアに何かしら好意があるのであれば、もう少し温かな応対をしたと思う。

 

 普通、マリアのような器量よしに話しかけられたら、男性は嬉しくなるものだとばかり思っていたが、ジェノは違うようだ。

 ……でも、それは今がそうだというだけで、油断はできない。

 

 今回の旅行の一番の目的はレイルンの頼みを叶えることだが、それが終わった後には、泳ぎを教えてもらう。そして、バルネアさんに教えてもらったあの場所にジェノを誘うのだ。

 メルエーナは隣の席に座るレイルンを見て、心配そうな彼の頭を優しく撫でる。

 

「今日中には、レセリア湖に到着しますからね」

「うん……。でも、レミィのこと、随分と待たせてしまったから、もう僕のことを忘れてしまっているかも……」

 不安げなレイルンを安心させようと、メルエーナはレイルンを優しく抱きしめる。

 

「大丈夫よ。ジェノさん達が依頼を引き受けてくれましたから」

 メルエーナはそう言い、視線をジェノに向ける。

 

 ジェノは「ああ。全力を尽くす」と短くだが応えてくれた。

 

 なんでもジェノ達は、冒険者として依頼を一つ受けたという実績が欲しいとのことだった。そのため、バルネアさんからの依頼という形を取り、レセリア湖までの護衛とその付近の洞窟の調査を受けてくれることになったのだ。

 

 しかも報酬は、この旅行の旅費と滞在費。そしてバルネア特製のお昼ごはんという信じられないほど破格の条件。

 なんだかバルネアにばかり負担させて、自分だけその恩恵を受けていることが申し訳ない。

 

 でも、人の良いバルネアは「よかったわね、メルちゃん、レイルン君」と言って微笑んでくれた。

 

 せめてものお返しにと、お弁当作りを精一杯手伝ったが、正直そんなことでは全然お礼にならないとメルエーナは心苦しく思う。

 そのことをバルネアに正直に打ち明けると、一つお願いをされた。

 

 それは、行きの馬車の中で、できるだけレイルンを実体化させておくということ。

 

「メルちゃん、次は私に抱っこさせて」

 バルネアは目を輝かせて、メルエーナが腕を離したレイルンを優しく抱きしめる。

 

「レイルン君、喉が乾いてないかしら?」

 バルネアはレイルンを膝の上に乗せて、水筒に入れたお茶を取り出すと、それを容器のコップに入れて彼に手渡す。

 

「うん。その、ありがとう……」

 レイルンはお礼を言い、お茶を静かに飲む。

 

 この数日で、バルネアは妖精であるレイルンの好みの味を理解し、すっかり餌付けに成功している。そのため、レイルンは自分以上にバルネアに心を開いている。

 それはそれでとても良いことなのだが、なんだか少し悔しい気がするのは何故だろう。

 

「ふふっ。いつか、メルちゃんとジェノちゃんの子どもが生まれたら、きっとレイルン君みたいに可愛いんでしょうね。ああっ、そのときには、私にも絶対抱っこさせてね」

 バルネアの爆弾発言に、メルエーナの顔が真っ赤になる。

 

「ばっ、バルネアさん! いくらなんでも、それは……」

 気が早すぎです、とは流石に続けられず、メルエーナはゴニョゴニョと言葉を濁す。

 

「……メルエーナ」

「はっ、はい!」

 ジェノに名前を呼ばれ、メルエーナは思わず座ったまま姿勢を正してしまう。

 

「すまないが、目的地に到着するまでに、もう一度レイルンから話を聞いておいてくれ。なにか思い出したことがあれば皆に伝えて置かなければ行けないからな」

 ジェノはまったくバルネアの振った話題には乗らず、要件だけを告げてくる。

 

 そんなジェノに、レイルンが怯えた顔を向ける。

 

「安心しろ。俺は少し眠る」

 ジェノはレイルンに端的に言い、静かに目を閉じ始めてしまう。

 

 何故かはわからないが、やはりレイルンはジェノを恐れている。

 ジェノは出会った時の反応こそ、どこか不機嫌でそっけないものだったが、それ以降は普段の彼に戻ってくれたにも関わらず。

 

 やはり初対面の印象が良くなかったのだろうかと、メルエーナは心配する。

 

 どうせならば、ジェノにもレイルンと仲良くしてもらい、旅の話で盛り上がろうとしていたメルエーナとバルネアは、残念そうな顔をする。

 

 けれど、やがてお昼になると、そんな静まり返った雰囲気は一変することとなった。

 

「わぁぁぁぁぁっ!」

 レイルンが驚きの声を上げる。

 それは、バルネアが作ってくれたお弁当があまりにも美味しそうだったから。

 

「すごいです、バルネアさん! そう思いますよね、ジェノさん!」

「ああ。正直これは驚いた」

 メルエーナの同意を求める声に、目を覚ましたジェノも驚愕の表情で同意する。

 

 大人数のお弁当ということで、バルネアと手分けをして他の皆のお弁当を作ったのだが、メルエーナとジェノよりもバルネアは早起きをして、二人の分とレイルンのお弁当をすでに作ってくれていたのだ。

 

 そのため、メルエーナ達は自分達のお弁当がどんなものか、お弁当箱を開けるまで知らなかったのだが、レイルンは野菜や果物とパンをメインにしたサンドイッチだが、様々な野菜の彩りが豊かで、ひと目見ただけでその色彩の美しさに魅了されてしまう出来だった。

 

 ジェノのは、やはり男性のお弁当ということで、肉や魚がメインのボリューム感あふれるお弁当だが、つい茶色になりがちなメニューにも関わらず、野菜と果物もふんだんに含まれていて、彩りも素晴らしい。

 この一つのお弁当箱が名画を描くキャンパスのような出来だ。

 

 そして、メルエーナのお弁当はというと……。

 

「これって、もしかして、僕なの?」

 レイルンが思わずそう言ってしまうのも無理はない。

 

 メルエーナのお弁当には、ライスと様々な具材の色を上手く取り入れられ、レイルンの愛らしい顔が描かれていたのだ。

 レイルンがいつも大事に持っている鏡の形と色合いをしたクロケットも入っており、食べる前から目でしっかりと楽しむことができる。

 

「ふふっ、喜んでくれて嬉しいわ。やっぱりお弁当は、蓋を開けるまで中身が分からないのが醍醐味だから、ちょっと張り切ってしまったわ」

 バルネアはしてやったりという表情で喜ぶ。

 

「まぁ、ジェノちゃんとメルちゃんの作ってくれたお弁当も美味しそうね。私の好きなものばかり」

 お返しにと、ジェノと協力して一生懸命バルネアのお弁当を作ったのだが、流石にこのお弁当の後だと見劣りしてしまう。

 けれど、バルネアは子どものような笑顔で喜んでくれる。

 

「それじゃあ、頂きましょうか」

 食事前のお祈りを済ませて、昼食を口にする。

 

 馬車の中なので揺れるため快適な昼食とは言えないが、それでも十分楽しかった。

 それに……。

 

「あの、お姉さん……」

 レイルンの視線が、自分のお弁当箱のクロケットに集中していることに気がついたメルエーナは、にっこり微笑んで、それを一つレイルンのお弁当箱に入れてあげる。

 すると、レイルンも、「それじゃあ、これをあげるね」と一口大のサンドイッチの一つをお返しにくれた。

 

 さらにレイルンは、ジェノのお弁当のミニトマトに視線が釘付けになる。

 

「食べるといい、レイルン」

 そっけない言葉だが、ジェノも視線にすぐに気がついてくれて、レイルンのお弁当箱に二つミニトマトを入れてくれた。

 

「そっ、その、これ……」

 おっかなびっくりと言った様子で、レイルンが差し出したサンドイッチをジェノは「ああ、ありがとう」と言って受け取った。

 

 そんな様子を見ながら、ニコニコと笑うバルネアを見て、メルエーナはようやく、それぞれのお弁当の中身に重複する食材が殆どないことに気がついた。

 

 こうやって分け合って食べることを想定しているのだ、このお弁当は。

 その上で、これだけのクオリティを維持しているのは流石としか言いようがない。

 

 レイルンがバルネアともおかずの交換をしようとしているのを見て、メルエーナはにっこり微笑む。

 

 ふと横を見ると、ジェノも僅かに口の端を上げているのがわかり、メルエーナは更に嬉しくなるのだった。



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⑬ 『レセリア湖、到着』

 レセリア湖が視界に入ってくると、メルエーナは思わず感嘆の声を上げてしまった。

 

 ナイムの街にやって来て初めて海を見たときにも驚いたが、レセリア湖は聞いていた以上に大きく、美しかったのだ。

 夕日が湖に映っているのが、何とも言えず神々しく、すごく神秘的だ。

 

 それに、ナイムの街とは異なり、この辺りは緑が多い。山育ちのメルエーナは、それだけでも嬉しくなってしまう。

 きっと、もう一年以上実家に帰っていないから、余計にそう思うのだろう。

 

 湖がよく見える窓側で良かったと考えたメルエーナだが、思い出してみると、馬車に乗る際に、ジェノにこちら側に座るように言われていたのだった。

 その気遣いはありがたいが、やはりジェノは一言足りないのだとメルエーナは感じる。

 

 そこだけを直せば、ジェノに対する周囲の反応は大きく変わるだろうにと思う。

 でも、そうすると今以上に異性にもモテるようになってしまう事は容易に想像できるので、少し複雑な気持ちもしてしまうというのが、メルエーナの偽らざる本音だった。

 

(ですが、やっぱりジェノさんの事を誤解する人が減ってくれた方が嬉しいです)

 メルエーナは自分の中の浅ましい気持ちを心の片隅に追いやり、そう思ってジェノに微笑みかける。

 

「メルエーナ、どうかしたのか?」

「いいえ。何でもありませんよ」

 言葉とは裏腹に、メルエーナは微笑みながら答える。

 

「……レミィ……」

 メルエーナの向かいに座るレイルンが、座席の上に立ち、険しい表情で湖を見ていた。

 

「レイルン君。宿に着いたら、私とレミィさんのことを従業員さん達に尋ねてみましょう。だから、到着までもう少しだけおとなしく座っていてね」

「……うん」

 レイルンはバルネアの優しく諭す声に頷き、席に腰を下ろす。

 

「良い子ね、レイルン君は」

 メルエーナも優しくレイルンを見つめる。

 

 この子は、本当はもっと早くにこの場所に戻ってきたかったのだろう。

 それは、メルエーナに魔法をかけて繋がりを持ってからという意味ではなく、レミィという名前の女の子と別れてからすぐにという意味で。

 

 レイルンの話だと、彼は以前、妖精の住む世界からたまたまこの世界と繋がった穴からやってきたのだという。

 そしてそこで、レミィという同じくらいの背丈の女の子に一目惚れをし、彼女と何日も遊んだらしい。そして、仲良くなったレイルンは、レミィのお願いを叶えたいと思ったのだという。

 

 その『お願い』が何なのかは、メルエーナは知らない。

 レミィから他の人には話さないでと約束をしたからという理由で、レイルンが話してくれないのだ。

 

 だから、レイルンが持つ『魔法の鏡』というものを、洞窟のとある場所に設置して欲しいということしか分からない。

 けれど、レイルンからは悪意をまるで感じない。決してそれは人に害をなす事柄ではないと、見えない繋がりがあるメルエーナには分かるのだ。

 

 

 湖が見えてから二十分ほどで、馬車は目的地である宿に到着した。

 まだ夕日が出てくれているので明るいが、あと数時間でこの辺りは真っ暗になってしまうだろう。

 

「レイルン君、ごめんね」

「大丈夫だよ。ただ他の皆から姿が見えなくなるだけだから」

 メルエーナは馬車が止まる少し前に、レイルンの実体化を止めた。

 

 妖精は珍しいので、余計な詮索を受けないようにするための配慮だ。

 

「ふふっ。お夕飯のときに、また会いましょうね、レイルン君」

 バルネアは姿が消えたレイルンに笑顔で話しかける。まるで、今そこにいることが分かっているかのように。

 

「降りましょう」

 それまで黙っていたジェノが、静かに停車した馬車から先に降り、バルネアが降りる手助けをしてくれ、さらにメルエーナにも手を貸してくれた。

 

 けれど、何故かメルエーナは、ジェノが複雑そうな顔をしている気がしてならない。

 何が? と尋ねられても返答に窮するが、何か今までとは少し違う気がするのだ。

 

 しかし、メルエーナのそんな疑問は、

 

「ようやく到着ね」

 後ろの乗り合い馬車から降りてきた、イルリア達の声で吹き飛んでしまう。

 

「うわぁー、素敵な宿ですね」

 マリアが眼前の宿を見て、忌憚のない感想を述べる。

 

 大きなこの宿は、丸太を何本も使ったログハウスで、かなり大きい。

 けれど、これはメルエーナの勝手な想像だが、貴族であるマリアはもっと大きな建物も見たことがあるはずだろうと思う。

 

 それなのに素直に心からこの宿に泊まれることを喜んでいるようだ。

 本当に、身分差を感じさせない気さくな素晴らしい女性だとメルエーナも思う。

 

「本当に素敵ですね。バルネアさん。改めて、このような素敵な申し出をして頂きありがとうございます」

 セレクトがお礼をバルネアに述べると、マリアも「本当に、ありがとうございます」と頭を下げた。

 

 以前、メルエーナの故郷であるリムロ村付近で嫁入り道具を無くして、冒険者を雇って探させるといった権力と財力を傘にきた行動を起こした貴族様とは大違いだと、二人を見ていると思ってしまう。

 

 マリアもセレクトも、すごく親しみやすいのに、確かな気品を感じるのだ。

 これがカリスマ性というものなのかもしれないなぁ、とメルエーナは考える。

 

「まぁ、立ち話はこの辺りにしておこうぜ。正直、俺は腹が空いてきた」

 最後に馬車から降りてきたリットが、そんな事を言う。

 

 その言葉に苦笑しながらも、若いメルエーナ達は、正直お腹が空いていた。

 

「ああ、そう言えば、バルネアさん。昼食に頂いたお弁当ですが、本当に素晴らしいお味でした」

「あらっ、マリアさんにそう言って頂けるのは嬉しいわ」

 バルネアが嬉しそうに微笑むが、マリアは少しだけ、う~ん、と考えたかと思うと、笑顔で口を開いた。

 

「あの、バルネアさん。その、これは飽くまでお願いですので、無理にとは言いませんが、よければ私のことも、『マリアちゃん』と呼んで頂けませんか?」

 突然のお願いに、バルネアは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐにニッコリ微笑んで、

 

「分かったわ、マリアちゃん」

 と言って微笑む。

 

「はい。ありがとうございます!」

 マリアは心から嬉しそうに笑う。

 

 花々が咲き誇るようなその笑顔に、馬車の御者を始めとした男性は見とれているのがわかり、メルエーナは改めてマリアの魅力の凄さに驚く。

 

「そうです! セレクト先生も、よければ可愛らしく呼んであげて下さい!」

 マリアは名案だと言わんばかりに提案するが、「それは、ちょっと」とセレクトが止めようとする。

 

「良いじゃあないですか。私達はこれから仲間になる予定なんですから!」

「いや、ですが、私にも立場が……」

 マリアとセレクトのやり取りに、思わずメルエーナとイルリアは相好を崩してしまう。

 

「それじゃあ、セレクトさんのことは、『セレクト先生』と呼ばせて頂いても?」

 セレクトが困っていたので、バルネアが助け船を出す。

 

「ああっ、それはありがたいですね。それでお願いします!」

「ええっ! セレちゃん、とかの方が可愛いですよ」

「拒否します、断固として」

 マリアとセレクトのやり取りは、宿に入るまで続いた。

 

 そんな事に気を取られていたため、メルエーナは気づかなかった。

 

 宿から少し離れた林の奥から、左右の瞳の色が違う人間が一人、こちらを見ていることに。



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⑭ 『話し合い』

 これから数日泊まることになる宿は、窓から巨大なレセリア湖が見渡せる素晴らしい立地条件だ。

 だが、それだけでなく、建物の内装もシンプルながらも整然として気持ちがいいし、従業員の対応もハキハキとしている。

 

 そして何より、料理だ。

 

 レストランの指定席に案内されると、程なくして湖で取れた魚料理、猪の肉料理、山菜の和え物など、素晴らしい料理の数々が出てくる。

 イルリアも他の皆と同様に、その美味を堪能する。

 

 恐らくだが、きっと今日の料理は普段以上に料理人が力を入れたのだろうとイルリアは思う。

 

 なんせ、あのバルネアさんがお客なのだ。この国の国王様から、『我が国の誉れである』とまで讃えられた人物に自らの料理を出す料理人のプレッシャーはとてつもないものだろう。

 

「う~ん、どの料理も美味しいわぁ。やっぱり<湖水の輝き>ね」

 しかし、そんな事はつゆ知らずと言った感じで、バルネアはこの宿屋の名前を口にし、メルエーナと料理とお酒をじっくり味わっている。

 

 初見では絶対に、この人がそんなすごい人に見えないところがバルネアさんの凄いところだ。

 

(ふぅ~。私もお酒も少し頂いて、汗を流してベッドに飛び込みたいわ)

 長時間の馬車の移動で疲れたことに加えて、お腹もくちくなると、そんな気持ちになってしまう。

 

 だが、バルネアとメルエーナ以外は、誰も酒精の入ったものは口にしていない。

 これから明日以降の打ち合わせがあるのだ。

 

「イルリア、リット」

 食事を食べ終わる頃を見計らい、ジェノが声を掛けてくる。

 

 イルリアは静かに頷いて、リットは「へいへい」と気の抜けた返事をして立ち上がる。

 それに気づいたマリアとセレクトも同様に立ち上がる。

 

 楽しい食事の時間は終わり、これからは仕事の話なのだ。

 

「すみません、バルネアさん。俺達はそろそろ……」

「あっ、もうそんな時間なのね。ええ、分かったわ。大部屋を一晩貸してくださるそうだから、そこでお話し合いをしてね」

 バルネアは少し寂しそうな顔をしながらも、笑顔で鍵をジェノに手渡してくれる。

 

「ありがとうございます」

 ジェノは頭を下げ、「セレクトさん、マリア」と二人にも声をかける。

 

「ええ。こちらも準備はできています」

「もちろん私も大丈夫よ。バルネアさん、メルエーナさん。すみませんが、先に失礼致します」

 マリアはにっこり微笑み、バルネア達にお礼の言葉を口にする。

 

 このマリアという女性は、いい意味で貴族らしくないとイルリアは思う。

 

「ええ。マリアちゃん、セレクト先生。ジェノちゃん達をよろしくお願いします」

「はい、分かりました」

 セレクトも微笑み、優雅に一礼して踵を返す。

 

 うん。やはりこの二人は悪人には見えない。

 けれど、これから始まる話し合いは、情報の引き出し合いだ。外見だけで判断するのは危険だ。

 

 ついつい警戒心を解いてしまいそうになることを戒め、イルリアもジェノの後を追い、バルネアが借りてくれた大部屋に向かうのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 円卓に皆が座り、話が続く。

 

 早いものでもう二時間が経過していた。

 だが、ジェノはそれが長いものだとは思わなかった。

 

「なるほど。つまり、君達は以前に左右の瞳の色が異なる人間に出会っているということだね」

「正確に言えば、イルリアが一人のところに話しかけてきた人物の特徴がそうだったということだけで、俺とリットは出会っていない」

 一時とはいえ、同じ冒険者チームになるのだからとマリアが言い、砕けた口調での会話になったことで、話し合いは順調に進んだ。

 

 だが、互いの情報を全て出しているわけではないとジェノは推測する。

 

 ジェノは自分の体に憑依している<霧>と関係しているらしい<獣>の存在を話していない。そして、おそらく向こうもまだ隠している事柄があるはずだ。

 

「そうかい。でも、君たちの話に出てきた『聖女の村』は、<霧>と呼ばれるエネルギーにより人体に害を及ぼしている所だった。そして、そこに私達の住んでいた屋敷を襲撃した連中と同じ身体的特徴を有していたとなると、少し引っかかるね」

 セレクトは至極落ち着いた様子で話しているが、その目が、話を聞く前とは明らかに異なる光を宿しているようにジェノには思える。

 

「イルリア。その左右の瞳の色が異なる人物の名前は分かるかな? 分からなければ、左右の瞳の色だけでも教えて貰いたいのだけれども」

 セレクトの問いかけに、イルリアがこちらを向く。ジェノは静かに頷いた。

 

「その人物は、ゼイルと名乗ってました。左目は普通の茶色でしたけれど、右目が引き込まれそうな程の青い瞳で……」

 イルリアの説明を聞き、セレクトは「なるほど」と頷く。

 

「しかし、どうにも腑に落ちない事柄があるんだけれど、少し質問してもいいかな、ジェノちゃん」

「ああ」

 ジェノの短い肯定の言葉に、リットがセレクトに尋ねる。

 

「なぁ、先生さん。俺達があんたから聞いた話は、ある日突然、左右の目の色の異なる数人が、あんたとマリアちゃんが住んで居た屋敷を襲ってきたという話だったが、いまいち納得が行かないんだよ。

 何の目的もなく貴族の屋敷を襲うのなんて、どう考えてもおかしな話だ。

 俺がそいつらの立場だったら、いくら溜め込んでいるかわからない貴族なんかより、裕福そうな商人の家を襲うぜ。その方が何かと後が楽だからな」

 リットは笑みを浮かべたまま尋ねる。

 

 たしかに、リットの指摘はもっともだとジェノは思う。

 セレクトの話では、マリアの屋敷を襲った連中は、金銭が目的だったのではと推測されると言っていた。けれど、確かに体面を気にするものが多い貴族に喧嘩を売るなど、後々のトラブルにしかならないだろう。

 

「……それと、先生さん。あんたは随分と変わった魔法使いなんだな。魔法の力は十分なのに、その流れがあまりにもただ一点に特化されている。だから、マリアちゃんに掛けている魔法も少々雑だ」

 リットのその言葉にも、セレクトは表情を変えない。それは、彼の主人であるマリアも同じだ。

 

 少しの間、部屋に沈黙が訪れる。

 

 けれど、やがてその沈黙を破ったのは、マリアだった。

 

「セレクト先生。残念ながら、私達の負けのようですね」

 マリアは苦笑し、静かに椅子から立ち上がる。

 

「ええ。すみません。私の力不足です」

 彼女の隣の席に座っていたセレクトも立ち上がると、言葉を言わずともマリアの意向を汲んで、彼女の左目の前に手のひらをやり、短く何かを唱えた。

 

「……」

 言葉こそ出さなかったが、ジェノは驚いた。マリアの青い瞳が、左目だけ赤い色に変わっていた。いや、それだけではなく、少しの間を置いて、左目は更に緑に変わり、また別な色にゆっくりと変わっていく。

 

「隠し事をして申し訳ありませんでした。ですが、決して皆さんを謀ろうとしていたわけではありません。皆様の身を案じての行動です」

 マリアは深々と頭を下げた。

 

「ですが、セレクト先生の魔法を見抜くほどの力を持った魔法使いがおられるのであれば、余計な気遣いは不要と思います。そして、大変身勝手な話ですが、私達にそのお力をお貸し頂けませんでしょうか?」

 頭を下げたまま、マリアはリットに頼み込む。

 

「いやぁ、こんな美人に頭を下げられたら、何にも言わずに協力したくなるけれど、生憎とうちのチームリーダーは俺じゃあないんでね。それはジェノちゃんに頼んでよ」

 リットは意味ありげな笑みをジェノに向けてくる。

 

 おちょくるようなその言葉に、しかしいつものことだとジェノは自分に言い聞かせ、冷静に考えて口を開く。

 

「俺達の身を案じる必要はない。真実を話してくれ。どちらにしろ、お前たちに協力せざるを得ない状況だ。それなら、せめて本当のことを知っておきたい」

 ジェノがそう言うと、マリアは頷き、すべてを話してくれた。

 

 耳をふさぎたくなるような残虐な蛮行の果てに、マリアとセレクトが失ったかけがえのない人達のことを含めて。



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⑮ 『ロビーにて』

 長い話し合いが終わった後、ジェノはあてがわれた部屋にすぐに戻る気になれず、ロビーの窓際に立ち、星々を見るとはなしに見ていた。

 

 魔法の光なのだろう。

 廊下の壁の所々に淡い光を発する燭台のようなものがあるため、ランプなしでも歩くのは問題ない。

 

 マリア達と互いに今までの事を話し合ったことに加え、明日からのバルネアの依頼――という形式をとっているだけだが――についても確認しあったので、もう少しで日が変わろうとしている。

 

「ジェノ。部屋に戻らないの?」

 背中から掛けられた言葉に、ジェノは静かに振り向く。

 そこには、マリアが立っていた。

 

「ああ。もう少ししたら戻るつもりだ」

「そう。それじゃあ、まだ少しここにいるつもりなのね」

 マリアは何故か嬉しそうに微笑み、ジェノの隣に足を進めてくる。

 

「何か、明日の事で質問でもあるのか?」

 ジェノは一番可能性がありそうな事を尋ねたつもりだったが、マリアは不機嫌そうに眉を寄せる。

 

「もう、相変わらずなんだから! 何年も会えなくて、それからもゆっくりお話する暇もなかったじゃあないの。だから、少しお話をしましょう」

「……話なら、さっき長いことしただろう」

「そういう話じゃあないわ! もっと他にあるはずじゃあない。まったく、再会をもう少し喜んでくれてもいいじゃあないの!」

 マリアは何故か不機嫌になる。だが、それも長くは続かず、彼女は顔を俯ける。

 

「それとも、昔のことを怒っているの? 何も言わずに貴方の前からいなくなってしまったことを……」

「……昔の、ましてや幼い頃の話だ。そんな事を怒ってなどいない。それに、古い話よりもこれからのことの方が重要だ」

 ジェノはマリアの顔を見る。正確に言えば、その左目を。

 セレクトが再び魔法を掛けたので、右目と同じく虹彩の色は青だが、それが偽りのものであることをジェノは知ってしまった。

 

「マリア。俺の知り合いに腕の良い魔法使いがいる。ナイムの街に帰ってからになるが、一度その人に左目を診て貰ったほうがいいだろう。都合がいい事にお前と同性だ。いろいろ相談もしやすいはずだ」

 ジェノがそこまでいうと、マリアはしばらく驚いた顔をしていたが、やがてクスクスと笑い出した。

 

「笑われるようなことを言ったつもりはないが?」

「ふふっ、そうね、ごめんなさい」

 マリアは謝罪しながらも、なかなか笑うのを止めなかった。

 

「でも、安心したわ。貴方はやっぱり私の知っているジェノだわ。冷たいふりをしても、どうしても人の良さが出てきてしまっているもの」

「馬鹿なことを言うな」

「あらっ、だてに貴方の幼馴染な訳ではないのよ。それくらい分かりますよぉ~だ」

 マリアはおどけたように言う。

 

「茶化すな。先程も言ったが、今はこれからのことを……」

「そうね。それが重要よね」

 ジェノの言葉を遮り、マリアは真剣な眼差しを向けてくる。

 

「貴方が私の心配をしてくれるのは嬉しいわ。でもね、私も貴方が心配なのよ」

「別に体の異常はない」

 件の<獣>の話はまだ話していないし、これからも話すつもりはない。だから、ジェノはそんな嘘をつく。

 

「そうね。昔から鍛えていたけれど、ずっと鍛錬を続けているみたいね。凄く逞しくて素敵だと思うわ。でも、私が言いたいのは、体ではなく心のことよ」

「……」

 ジェノは返答に窮す。

 

「ジェノ。貴方の話してくれたサクリさん達のことだけれど……。貴方は彼女達の死を引きずり過ぎているわ」

 マリアの当然の指摘に、ジェノは彼女を睨む。

 

「……お前に何がわかるというんだ」

「そうね。分かるのは、<霧>というものとそれに関わる組織を追い詰めたいのであれば、それは個人の手には余るということくらいかしら」

 マリアは物怖じせずに、ジェノの視線を正面から受け止める。

 

「私は交換条件として<霧>の事を貴方達に話したわ。でも、それは必要に迫られたから。貴方達の持つ情報を手に入れたかったから。決して、貴方やイルリアさんとリットさんが、あの左右の瞳の色が違う人間と戦ってほしいからではないわ」

「勝手な理屈だな」

「ええ。私もそう思うわ。でもね、冷静に考えて。<霧>というものを一国の王に提供し、<神術>という力を使える強力な人間を有した組織があるはずなのよ。

 貴方は、規模も不明なその組織に喧嘩を売ろうとしているの。それはただの無謀よ」

 マリアははっきりと断定する。

 

「この<霧>の件は、私、マリア=レーナスが責任を持って解明するわ。そして、必ず関係者に罪を償わせることを約束します。だから、貴方達はこの件から手を引いてほしいの」

「ふざけるな。俺は絶対に手を引くわけにはいかない」

 <霧>のせいで多くの人々が不幸になる。それをのうのうと見ていることなど自分にはできない。してはいけない。

 

 あの村で、『聖女の村』で<霧>を消し去るのにどれだけの犠牲が出たと思っている。そして、自分は愚かにも、人々のために手を血に染めた人間を虐殺した。

 その罪を雪がなければいけない。新たな<霧>の犠牲者を一人でも減らすことこそ、自分に課せられた罰だ。

 

「貴方達の存在は、すでに<霧>というものを利用している組織に知られているはずよ。これがどういうことか分かる?」

「それが何だ。俺はもう、あんな悲劇は……」

「残念だけれど、このままでは悲劇はこれから起こる。貴方の周りで」

 マリアの言葉に、ジェノは拳をキツく握りしめる。

 

「私が<霧>というものを使い、何かを企んでいる組織の長だとしたら、目障りな貴方をターゲットにするわ。でも、貴方は剣が使えるし、仲間の魔法使いも手強い。それならば、貴方の弱点であるバルネアさんとメルエーナさんを狙うわ」

 マリアは低い声で淡々と告げる。

 

「……」

 分かっていた、そんなことは。

 自分のせいでバルネアさんとメルエーナに危害が及ぶ事は。

 

 それなのに、自分は早急にあの家を出ていこうとしなかった。

 あまりにも幸せだったから。幸福だったから。

 だから、こんな事態になってしまった。

 

「ただ、まだ幸いなことに、敵は貴方に対して行動を起こしていない。つまり、まだ見逃してくれているのよ。でも、きっと次に何かがあれば、本格的に貴方は邪魔な存在になってしまうはずよ」

「……」

「ここが分水嶺よ。<霧>というものとその組織を追いかけるには力が必要だわ。そして、私には貴方よりも力がある。侯爵家の娘だという力が。たくさんの人間を動かせる力があるの」

 マリアは諭すように優しく話しかけてくる。

 

「私がお父様の領地に戻りたいのはそれが理由。私の大切な家族と領地の人々の命を奪った報いは必ず受けさせるわ。そして、これは提案なのだけれど……」

 マリアはそこで少し言葉を濁した後、再び口を開いた。

 

「ジェノ、貴方の評判は冒険者ギルド長であるオーリンさんから聞いているわ。だから、もしよければ、私がこれから作ろうと思っている、<霧>とその力を悪用する組織を調査し、壊滅させる部隊に入ってくれないかしら?」

「俺が、お前の作る部隊に?」

 全くの予想外の提案に、ジェノは驚く。

 

「ええ。そうすれば、貴方は<霧>を調査し続けることができる。そして、相手の組織のヘイトは、おそらくはその命令を出した私に向かうはずだわ。でも、私には常に護衛がつくから、おいそれと手出しはできないはず。どう、悪くはない提案でしょう?」

 マリアの言葉に、ジェノの心は揺れた。

 だが……。

 

「マリア。それは、そんな部隊をお前が作り上げるのが確定してから言ってくれ。お前がすぐに自分の親の領地に帰れない、もっというのであれば、護衛の一人も領地から送ってこないことから鑑みるに、そう簡単な話ではないのだろう?」

 ジェノがそう問いかけると、マリアはにっこり微笑んだ。

 

「そうよ。私も色々大変なの。でも、貴方が私に仕えてくれるかもしれないのならば、やる気もでるわ。ええ、それはもう、ものすごく」

 自分が隠し事をしていたことを悪びれもせずに、マリアは言う。

 それが、言外に、『秘密があるのはお互い様でしょう?』と言われているような気がして、ジェノはなんとも気まずい気持ちになる。

 

 だからだろうか。

 ジェノはここで一つのミスをする。

 

 自分の認識できる範囲外に、話し声だけはかろうじて聞こえる範囲に人がいたことに気が付かなかったのだ。

 

「ジェノさん……」

 その人物はそう短く呟き、ジェノとマリアに背中を向けて逃げ出すように走り去ったのだった。



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⑯ 『覚悟』

 走って自分に充てがわれた部屋の前に戻ってきたものの、今その部屋にはバルネアさんが来ていることを思い出し、メルエーナは目尻に溜まった涙を指で拭って深呼吸をしてから笑顔を作る。

 

ドアを軽くノックし、返事を待ってから部屋に入るメルエーナ。

 ベッドの端に腰を掛けたバルネアが、自分の膝の上にレイルンを乗せていた。どうやらまだ話をしていたようだ。

 

「おかえりなさい、メルちゃん」

「おかえりなさい、お姉さん」

 二人の言葉にメルエーナはにっこり微笑む。

 

 レイルンはバルネアさんの指導の元、すっかり挨拶もできるようになった。

 この数日でこの成果は凄いと思う。

 

「ジェノちゃん、まだお話し合いをしていたの?」

「あっ、はい。ロビーでマリアさんとお話をしていました」

 なんでもないことのように言い、「お茶を飲みませんか?」とバルネアに提案する。

 

「ええ。頂くわ。レイルン君も喉が乾いているかしら?」

「うん。僕も飲みたいなぁ」

 仲のいい親子のような会話に、メルエーナはお茶を手早く用意した。

 

 三人でお茶を口にする。

 お茶請けも欲しくなるが、時間が時間なので我慢しないと。

 

「……それで、メルちゃんは、ジェノちゃんとマリアちゃんが楽しそうにお話していたことが寂しいのかしら?」

 その言葉に、手元のティーカップからバルネアの顔に視線を移すと、彼女は優しく微笑んでいた。

 

「……いえ、その……。寂しいというのでは……。えっと、違いますね。そういった気持ちも確かにあるんですが……。その、もっと根本的なことで……」

 心が弱くなってしまっていたのだろう。ついバルネアの優しい微笑みにメルエーナは甘えてしまい、マリアがジェノに指摘した事柄を話してしまった。

 

「なるほど。確かにそれはマリアちゃんの言うことも一理あるわね」

 話を聞き終えたバルネアは、そう言って苦笑する。

 

「やっぱり、そうですよね。私達に危険が及ぶことを恐れて、ジェノさんはきっと……」

 メルエーナは寂しい気持ちになり、顔を俯ける。

 

「でもね。マリアちゃんは勘違いをしていることもあるわ」

 バルネアの言葉に、メルエーナは顔を上げる。

 

「それはね、私とメルちゃんを見誤っているということよ」

「見誤っている、ですか?」

「ええ、そう。きつい言葉を使うのなら、見くびっているのね」

 バルネアは話に付いてこれずに戸惑うレイルンを優しく背中から抱きしめる。

 

「こんな事を言ったら、ジェノちゃんのお母さんやリアラ先輩達に怒られてしまうけれど、私はジェノちゃんとメルちゃんを自分の子供のように思っているわ。

 それなのに、子供に危機が迫っている際に自分だけ安全なところに居ようとするなんて、子供を犠牲にしようとするなんて、親のすることではないじゃあないの」

「……バルネアさん」 

 メルエーナは、バルネアの力強い笑顔につい見惚れてしまった。

 

「エリザさんがよく話していたわ。『自分は、いつでも一人で子供を育てていく覚悟をしている』って」

「エリザさんが?」

 エリザというのは、ナイムの街の自警団長であるガイウスの奥さんの名前である。

 

 とても明るくフレンドリーで、けれど締める所はしっかり締める素晴らしい女性だ。どうしてジェノよりも強いと言われているガイウスが、この女性に頭が上がらずに苦手意識を持っているのか分からない。

 

「ガイウスさんは常に危険と背中合わせの仕事をしているわ。だから、エリザさんは、万が一のことが起こっても大丈夫なようにいろいろと準備をしているの。

 でも、そんな危険な仕事についている人と所帯を持っている人が不幸だとは私は思わないわ。もちろん、他の仕事をして欲しいと思うことはあるかもしれないけれど、誰かがやらなければいけない事だものね」

 バルネアはそこまでいうと、寂しそうに微笑む。それは、本当はジェノにも無理をして欲しくない気持ちの現れであることをメルエーナは理解した。

 

「メルちゃんは、どう? たとえば、もしジェノちゃんが仕事で大怪我をして体が動かなくなってしまったら、その後の面倒を見ることができる?」

 バルネアの問いかけに、メルエーナは頷こうとしたが、すぐにそれをやめた。

 

「……私にはそこまでの覚悟はありませんでした。でも、できる限りのことはしたいと思います」

 メルエーナの言葉に、バルネアは嬉しそうに頷く。

 

「ええ。今はそれでいいの。覚悟も決まっていないのに、適当なことをいうよりずっといい答えだわ。そこまでの覚悟は、所帯を持つ時にすれば十分だからね」

 バルネアはレイルンの頭を優しく撫でて、話を続ける。

 

「マリアちゃんの言うとおり、ジェノちゃんのお仕事の関係で、私達が何かしらのトラブルに巻き込まれてしまうことがあるかもしれないわ。でも、私は決してジェノちゃんを恨んだりしない。むしろ、私達のことを気にして一人でどこかに出ていこうとすることの方が問題よ。どうもジェノちゃんは自分のことを軽んじる所があるから心配だわ」

「……はい。そうです。私もそう思います!」

 メルエーナは力強く賛同する。

 

 バルネアの言葉を聞いて、今までの鬱屈とした思いはどこかに吹き飛んでしまった。

 

 そうだ。自分はジェノのことが好きだ。そして、いつかは一緒になれたらと思っている。

 それは、つまりは二人で苦労を分かち合うということだ。

 

(それを今から諦めてどうしますか! マリアさんがなんと言おうと、私はジェノさんの帰ってくる場所で有りたいんですから!)

 メルエーナは強い闘志が湧いてきた。

 

 負けない。相手がものすごい美人でスタイルの良い貴族様でも。

 自分のジェノを大切に思う気持ちは、それだけは絶対に負けるつもりはないのだから。

 

「ふふっ。そう。卑屈になっては駄目よ。メルちゃんには、今のジェノちゃんと一年以上ひとつ屋根の下で生活してきた実績があるんだもの。それは、決してマリアちゃんのジェノちゃんとの思い出に劣るものではないんだから」

「はい!」

 メルエーナはにっこり微笑んで返事をする。

 

 バルネアは笑顔だった。メルエーナも笑顔だった。

 けれど、レイルンが申し訳無さそうな顔をして口を開いたことで、それが消えてしまうことになる。

 

 レイルンはこう言った。

 

「でも、お姉さん。あのジェノってお兄さんは危険だよ。良くないものに取り憑かれてしまっているから」

 

 と。



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⑰ 『夢、そして朝』

 マリアと話が弾んでいるのか、それとも明日に備えて、早々に眠ることにしたのかは分からない。

 結局その晩は、ジェノはメルエーナに顔を見せることはなかった。

 

 バルネアも自室に戻って休むと言い別れた後、メルエーナはレイルンの姿を消し、自分も休むことにする。

 

 なんとか眠りについたものの、眠りが浅いようで、メルエーナは夢を見た。

 

 

「ねぇ、レイルン。どうして貴方の姿は、私以外には見えないの?」

 淡い紫の髪の愛らしい幼女が、花が咲き誇るような笑顔で尋ねてくる。

 

 幼女がそんな事を言うのは、その事が不思議だから尋ねているのではないようだ。

 むしろ、姿が見えるのが自分だけだということが嬉しくて仕方がないといった表情だ。

 

「それは……僕が妖精だから普通の人には見えないんだよ。でもレミィには魔法の才能があるから」

 レイルンがそう言うと、レミィはむぅっと不機嫌な顔になる。

 

「もう! レイルンは女の子の気持ちが分かっていないわ。私だけが貴方の姿が見えるのは、私がレイルンの特別な人だから。そして、レイルンが私の特別な人だからだもん」

 気分を害して、ぷいっと横を向いてしまったレミィに、レイルンは慌てて謝罪する。

 

「その、ごめん。でも、僕も君のことを大切に思っているよ」

「本当?」

「うん。本当だよ」

 なかなかこちらを向いてくれないレミィに、レイルンは困ってしまう。

 

「それじゃあ、私のことを貴方のお嫁さんにしてくれる?」

 そう言ってようやくこちらを向いてくれたレミィは、頬を赤らめながら尋ねてくる。

 

「うん。僕は本当に君の事が大好きなんだ。だから、僕のお嫁さんになって欲しい」

 レイルンも顔を真っ赤にしながら、レミィに、大好きな女の子に告白する。

 

「ふふっ。それじゃあ、なってあげるわ。レイルンのお嫁さんに!」

「わっ!」

 レミィに突然覆いかぶさられたレイルンは、頬に優しい感触を感じた後、それ以上に優しくて温かな感触を唇に感じた。

 

 唇と唇を軽く合わせた口づけ。それはレイルンとレミィの約束の印だった。

 

「ふふっ。これで後は指輪があれば、私は貴方のお嫁さんになれるわ」

「指輪? 指輪ってなに? それが必要なの?」

 レイルンは指輪というものを知らず、慌てる。

 

「指輪っていうのは、薬指にはめる輪っかで、小さいけれどすごく綺麗な石が付いているの」

「綺麗な石の付いた輪っか? それが必要なんだね」

「うん。お母さんの指輪には、エメラルドという緑色の綺麗な石が付いているのよ」

「その、エメラルドと輪っかが必要なんだね」

 レイルンは決意を固め、すぐにそれを探し出そうと思い立ち上がる。

 

「待って、レイルン。指輪の石は綺麗なだけじゃあなくて、そのお嫁さんが好きな石じゃあないと駄目なのよ」

「そうなんだ……。それじゃあ、君はどんな石が好きなの?」

 レイルンが尋ねると、レミィは少しの間考えたが、すぐに何かを思いついたようで、にっこり微笑んだ。

 

「あのね、レイルン。私は……」

 レミィの口は動いているのだが、音として聞こえたのはそこまでだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 それなりの時間は眠ったはずなのだが、メルエーナは少し疲れ気味だった。

 それもこれも、あのはっきりと覚えている夢を見たせいだろう。

 

 事前にエリンシアさんから言われていたのだが、妖精とパスというもので繋がっている状態では、その妖精の強い思いが流れ込んでくることがあるのらしい。

 

 エリンシアさんは、「その逆はないから安心おし」と言っていたが、相手の心の内を覗き見てしまうというのは何とも後ろめたい。

 

 けれど、頑なに『魔法の鏡』という物を『洞窟』に持っていってとしか言わないレイルンが、どうして必死にそんなことを訴えてきたのかの動機が分かった。

 彼は、あの可愛い女の子――レミィに結婚指輪を贈りたいと思っているようだ。しかも、彼女が望む石をつけた指輪を。

 

 けれど、それがどうして魔法の鏡を洞窟に持っていくことと関係しているのか、まるで分からない。

 もしかすると、冒険物語のように、この近くにある洞窟とやらに凄い宝石が隠されていて、それを手に入れるために鏡が必要なのだろうか?

 

 いくら考えても詮無きことなので、メルエーナは顔を洗い、身支度を整えることにする。

 いつもの癖で早朝に目を覚ましてしまったが、二度寝するわけには行かない。

 

 朝食の時間は決められているし、なによりジェノの事が心配で仕方がないのだから、早く彼の顔を見たかった。

 

 レイルンが昨晩言った事柄が、メルエーナの胸をざわつかせる。

 良くないものに取り憑かれてしまっているという言葉が。

 

 ジェノはそのことを知っているのだろうか?

 それとも気づいていないのだろうか?

 

 レイルンが嘘をついていないのはパスで繋がっている自分には分かったが、単純に勘違いの可能性も否定できない。いや、正直を言うと、そうであってほしいと願っている。

 

(……今日からジェノさん達はお仕事ですし、それが終わってからにした方がいいですよね……)

 そう心の中で思う、弱くて狡い自分に喝を入れるために、メルエーナは自分の頬を両手で少し強く叩く。

 

 バルネアさんがジェノさんを守ろうとする覚悟を聞いた。

 自分も、もっと強い気持ちを持って、覚悟を決めないと駄目だ。

 

「それに、私もバルネアさんと一緒に聞き込みをしないと」

 バルネアさんの友人がこの宿の持ち主であるため、彼女がレイルンを連れて色々と宿の人達にレミィという女の子のことを知らないだろうかと訊きまわってくれたのだ。

 

 結果として、知っている人はいなかったが、この宿に一番長く勤めている年配の男性から、以前にそんな名前をこの村で聞いたような気がする、という不確かな情報を得た。

 

 村の中央部からこの宿は少し離れているが、徒歩で十分行き来できる距離とのことなので、朝食を食べて一休みしたら出かけようと思っている。

 

(本当に、あのレミィという女の子は可愛かったですから、レイルン君が夢中になってしまうのも分かる気がします)

 メルエーナはそんなことを思いながら、部屋に用意された水と洗面器で顔を洗うことにする。

 

 そしてそれが終わったら、レイルン君の顔もしっかり洗ってあげないとと思うのだった。



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⑱ 『聞き込みの前に』

 朝食後、マリアは部屋に戻って身支度を整え、セレクトとともに宿のロビーに足を進める。

 

 動きやすく涼し気な半袖の服とキュロットを身に着けた彼女は、しかしそのようなラフな格好でも人の目を引く。それほどに美しく女性らしい魅力的な体型なのだ。

 

 けれど、マリアは細身ではあるが剣を帯びている。

 それがただの守られるだけの女ではないと自己主張をしていた。

 

 セレクトはこの暑い中でも長いローブとマントを身に着けている。夏用の薄い生地ではあるが、かなり暑そうだ。けれど、彼は汗をかいていない。

 

 彼の魔法の特性上、軽装になるわけにはいかないので、やんわりと魔法の冷気を発する石を、彼の呼称する『お守り』という物を懐に忍ばせているのだ。

 

 マリアも実は、それを一つ肌着の上の服の裏地のポケットに入れてある。セレクトが、「今日も暑いですから」と渡してくれたので、ありがたく使わせてもらっている。

 

 本当はジェノ達の分もあれば良いのだろうが、セレクトの頼みで、マリアは彼の能力をまだ明かさないつもりなので仕方がない。

 

「ジェノ」

 黒髪の若者がロビーで一人待っていることに気づき、マリアは声をかける。

 

「来たか……」

 ジェノは短くそれだけ良い、こちらに視線を向けてくる。

 

「あらっ? それだけなの? 私の姿を見てなにか一言くらい欲しいいのだけれど」

 マリアの言葉に、しかしジェノは「服の良し悪しなら、それが分かる奴に聞けばいい」とだけ言う。

 

「もう。相変わらずね、貴方って。女心がまるで分かっていないんだから」

 そう言って怒る真似をするマリアだが、すぐにそれは笑みに変わる。

 

 十年近い時間が経っても、彼が自分の記憶の少年のままであることが嬉しくて仕方がない。

 

「遊びに行くわけではないんだ。気を引き締めろ」

「ええ。分かっているわ。でも、余裕がなさすぎるのも問題よ」

 マリアはジェノに窘められても、笑顔で返す。

 

「セレクトさん。今日の情報収集について相談があるので」

「ええ、分かりました」

 セレクトが目で合図を送ってきたので、マリアは「ええ」と頷く。

 

 そして、ジェノはセレクトと二人で今日の聞き込みの相談を始める。

 

 いかんせん、四泊五日の旅行日程なので、後三日程度しか時間がない。

 早急に目的地である洞窟に関する情報を集め、それを管理している人に会って許可をもらわないと行けないのだ。

 

 幸い、ジェノ達が調べてくれたおかげで、洞窟の位置は分かっているし、管理している人の目星も付いてはいる。

 素人考えならば、それだけでもう十分だと思うかもしれないが、その場所に関する情報というものはあればあるに越したことはない。

 情報というものの大事さは、マリアもよく理解している。

 

「おはよう、マリア」

「あっ、おはよう、イルリア」

 赤髪の少女――イルリアに挨拶をされ、マリアは笑顔でそれを返す。

 

 貴族だけれど、どうか気を使わずに接して欲しいという願いに応えてくれているだけでなく、少し会話しただけで、すごく頭のいい人物だと分かり、マリアはイルリアに一目を置いている。

 

「後は、リットさんだけね」

 マリアがそう言うと、

 

「あらあら。もうみんな集まっているのね」

 と女性の声が聞こえた。

 

 そちらに視線をやると、鍔の丸い白い帽子と白いワンピースの服をまとったバルネアと、同じく白い半袖の服とスカート姿のメルエーナがこちらに向かってきた。

 

 事前の打ち合わせでは、聞き込みは自分達だけでする予定だったはずだ。

 それなのに、どうしてこの二人もロビーに集まってきたのだろうと、マリアは怪訝に思う。

 

「バルネアさん。メルエーナと出かけるんですか?」

 どうやらジェノも知らなかったようで、セレクトとの打ち合わせを中断して尋ねる。

 

「ええ。レイルン君の知り合いの娘を探してあげたいの。だから、メルちゃんと一緒に村の中心部まで行こうと思って。だから、ジェノちゃん達も、そこまでは一緒に行きましょう」

 バルネアはにっこり微笑む。

 

 ジェノもバルネアには頭が上がらない様なので、二人も途中まで同行することになるのだろう。

 

(それにしても、あの娘は本当に可愛いわね)

 マリアはバルネアから視線を移し、その後方で静かに微笑んでいるメルエーナを見てそう思う。

 

 女であるマリアは、客観的に自分の容姿が他人にどう思われるかは理解している。けれど、そんなマリアから見ても、メルエーナは可愛いのだ。

 それに、相変わらず女心に疎いジェノは気づいていないようだが、彼女がジェノにどんな気持ちを抱いているのかは一目瞭然だ。

 

 そんな彼女が素朴な愛らしさを全面に出せる白い服を身につけてジェノにアピールしているのだ。

 マリアには地味すぎて似合わないであろう衣装を身に纏っているのだ。

 

 その事に、マリアの胸はざわつく。

 

 分かっている。

 子供の時とは違うのだと。

 でも、再び出会えたのだ。

 もう二度と会えないと思っていた男の子に。初恋の相手に。

 

 自分は侯爵家の人間で、ジェノは平民だ。

 彼の実家の援助を得られるというのであれば話は別だが、どう考えても現状では身分違いも甚だしい。

 

(今は、実家に戻ることが大事。そして、メイ達の仇を打つのよ。そのためにも、私情は持ち込まないようにしないと)

 マリアは心のうちで自身を窘める。

 

 それから、集合時間ギリギリにリットがやってきて、大人数で出かけることになった。

 

 そう。マリアの『冒険者』としての本格的な活動が始まったのだ。



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⑲ 『人だかり』

 今日もいい天気だった。

 ただ、じりじりと照りつく太陽に汗が吹き出てくる。

 

 これだけ暑いと宿の近くの綺麗な大きな湖で泳ぎたいと思ってしまうが、イルリアは今は仕事中なのでその誘惑をきっぱり断つ。

 

 バルネアとメルエーナと別れて、小さなこの村――ミズミ村でイルリア達は聞き込みを始めた。

 

 観光地ということで人はそれなりに集まっているが、村自体はそれほど広いわけではないし、建物も垢抜けしないものばかりだ。ただ、宿泊施設や土産物屋の数は多い。

 

 イルリアはマリアと一緒にそれを行ったのだが、こちらが話しかけるまでもなく、マリアの美貌に惹かれて、男衆が集まってくる。

 イルリアもそれは予想していたのだが、まさか男どもだけでなく、年配の女性まで「いやぁ、凄く綺麗な娘さんだねぇ」と言って集まってくるとは思わなかった。さらに、人だかりが珍しいのか、子供まで集まってくる。

 

 人が集まってくる分、話は聞きやすい。しかし、それが有益な情報を得られる事とイコールではない。

 

「あっ、あの、ですから……。私達はこの村の近くにある洞窟……」

 マリアは何度も説明しようとしているのだが、その度に集まってきた皆は口々に勝手なことを言ってそれを遮る。

 

「いやぁ、なんて綺麗なお嬢さんだ!」

「本当にねぇ。いやぁ、こんなに可愛らしい娘、おばさん初めてみたよ」

「お姉ちゃん、すっごく綺麗……」

「むぅ、浮気者ぉ」

 

 わいのわいの騒ぐ村人達をよく観察し、人だかりの外側の、マリアに話しかけられずにいる人間にイルリアは話しかけ、情報を集めることにした。

 

 マリアに客寄せ役を押し付ける形になってしまったのは申し訳ないとイルリアも思ったが、適材適所と考えることにする。

 

 マリアとは比較にもならないが、自分のような者でも、若い女ということで話を聞いてくれる者はそれなりにいるのだとイルリアは知っているのだ。

 

 だが、それは流石に謙遜が過ぎると、嫌味かと思う女性は多いだろう。

 イルリアは気にしていないが、マリアを敵視するように見ている女性たちの視線が彼女にも確かに向けられているのだから。

 

 しかし、そういった女性達には、顔は良い三人組の男どもに任せておけばいいとイルリアは思う。

 

 ジェノとリット、それにセレクトの周りには女ばかりが集まっている。

 

 相変わらず黒髪の朴念仁は無愛想この上ないが、女ったらしのリットは女相手は手慣れたものだし、セレクトも人当たりがいいので上手く情報を聞き出しているようだ。

 

 思えばリットが居ないことも多いので、情報収集はジェノと二人でやることがほとんどだった。

 人数が増えると費用面などの大変なことも増えるだろうが、こうして仕事を分担してできるのは本当にありがたい。

 

 マリアには悪いことをしたが、情報収集は順調に進み、目的の洞窟の場所とその管理人というか調査を行っている人の名前も知ることができた。

 

 その人物の名前はキレース。学者らしいが、まだ二十代半ばほどの駆け出しなのらしい。

 なんでも、エルマイラム王国の研究院からの依頼で毎日のように洞窟に出向いて、それを調査しているのだという。

 

「さて、情報は手に入れたけれど……」

 イルリアは未だに人数が減らない人だかりを見て、すぐにそこに向かうのは難しそうだと苦笑する。

 

 特にマリアはどうにか助けてあげないと大変だ。

 愛を囁き出す輩まで出始めているのだから。

 

 そんな時だった。

 イルリアが視線を感じたのは。

 

 よくそういったものにさらされるため、不躾な視線には敏感なイルリアは、確かに誰かの視線を感じた。だが、その方向を見ても誰も居ない。

 

「誰なの? マリアではなく私を見ていたような……」

 イルリアは腰のポーチを僅かに開いておくことにする。

 

 害意は感じなかったが、じっと間違いなく誰かが遠くの家の影から自分を見ていた気配を感じた。

 

 しかし、少し待ってもそれ以降は視線を感じなかったため、イルリアはひとまずその事は心の内に止めておくことにするのだった。

 

 

 ◇

 

 

 暑い中を、メルエーナはバルネアと並び歩く。

 とっておきの服だったのに、生憎とジェノは何の反応も示してくれなかったが、通気性が良いので涼しいのがせめてもの慰めだった。

 

「う~ん、何度来てもいい村ねぇ。景色は良いし、湖で新鮮な魚も取れるだけでなく、山菜も美味しいのよ。それに、鹿料理なんかも有名なんだから」

 バルネアの、料理に偏った感想を微笑ましげに聞いていたメルエーナは、「そうなんですか」と微笑む。

 

 メルエーナとバルネア、そして姿を消してはいるがレイルンの三人は、このミズミ村の村長さんの家に足を運び、レミィと呼ばれる女の子の年格好と特徴を説明して知らないか尋ねてみたが、生憎と村長さんも知らなかった。

 村長さんの奥さんも、「この村の子供達の名前と顔は全員知っているつもりなんだけれど……」と申し訳無さそうだった。

 

「それにしても、村長さんともお知り合いなんですね、バルネアさんは」

 バルネアの交友関係の広さに、メルエーナは只々感心するばかりだ。

 

「ふふっ。以前、この村の名物料理を作りたいと相談を受けたことがあったのよ。そのときに少し協力させてもらったら、良くしてくれているの」

 なんでも無いことのように言うが、それはバルネアという稀代の料理人だからこそ繋ぐことができた誼だ。ついつい忘れてしまいそうになるが、やはりこの人はすごい人なんだとメルエーナは思う。

 

 村の中央広場には花壇が綺麗に整備されていて、美しい花々が咲き誇っていた。

 そこのベンチにとりあえずメルエーナとバルネアは腰を降ろし、少し休むことにする。

 

「はい、メルちゃん」

 バルネアはそう言うと、カバンから水筒を手渡してくれた。メルエーナはお礼を言って受け取る。

 

 広場で追いかけっ子をして遊ぶ子どもたちを眺めながら、メルエーナとバルネアは喉を潤す。

 

「困ったわねぇ」

「はい……」

 バルネアに同意し、メルエーナはどうしたものかと悩む。

 

 村のことに一番詳しいと言われている村長夫婦でさえ、レミィと言う女の子のことは知らないのだ。となると、土地勘すらないメルエーナにはもうできることがない。

 

「子ども達に聞いてみましょうか?」

「そうですね」

 ダメ元で、バルネアとメルエーナは静かに立ち上がり、まずは子どもたちを見守っている親御さん達に声をかける。

 そして、人探しをしていることを告げて、子ども達に話を訊くことを了承してもらった。

 

 見ず知らずの人間にすんなり許可を出してくれたのは、バルネアさんの人徳だとメルエーナは思う。

 身内びいきかもしれないが、バルネアさんは人の心を落ち着かせる雰囲気を纏っていて、誰もが彼女を見て笑顔になることはあっても、不快になることはないだろう。

 もちろん、バルネアがそれから名前を名乗ったのも大きいが。

 

「ごめんね。少し、おばさんに教えてくれないかしら」

 バルネアは手近なところに居た五、六歳くらいに見える男の子に、そう声を掛けた。

 

「……誰?」

 男の子は少しだけ警戒していたが、バルネアはにっこり微笑むと、バックから小さな袋を取り出す。

 

「私の名前はバルネア。料理人よ。……まぁ、つまりは、お料理を作る人なの」

「んっ? お料理?」

「ええ。いろいろな料理を作るの。もちろん、甘いお菓子もね」

 バルネアは小さな袋から、紙に包まれた一口大のものを取り出した。

 

 カラフルな紙に包まれたそれを、バルネアは笑顔で男の子に手渡す。

 

「えっ、あっ……」

 男の子は手渡された物とバルネアの顔を何度も見て、それから保護者らしき女性の顔を見る。

 

「いいわよ。頂きなさい」

 その女性が許可を出すと、男の子は嬉しそうに「ありがとう、おばさん」と言って、さっそく紙の包装を解いて、赤色の丸い塊――キャンディを口に運ぶ。

 

 すると、すぐに男の子の顔が満面の笑顔になった。

 

「美味しい! こんなに美味しいキャンディ、初めて食べたよ!」

 男の子の嬉しそうな声に、バルネアは笑みを強める。

 

 それまで何事かと足を止めていた子ども達も、そしてそんな子達の動きをみた他の子ども達も瞬く間に集まって、人だかりができてしまった。

 

「メルちゃん」

「はい」

 皆まで言われなくても、メルエーナはバルネアと一緒に子ども達にキャンディを配ることにする。

 

 そして、キャンディは十分に用意してあったので、皆に三個ずつは配ることができた。

 

「ねぇ、みんな。おばさん、レミィって名前の女の子を探しているのだけれど、知らないかしら?」

 子ども達が満足げに特製キャンディを舐めるのを微笑ましげに見ながら、バルネアは尋ねる。

 

 しかし、やはり子ども達は知らないと答えた。

 

「そう。ありがとう」

「ありがとう」

 バルネアとメルエーナは笑顔でお礼を言ったが、内心ではもう八方塞がりだと思っていた。

 

 だが、そこでメルエーナのスカートの端をクイクイっと引っ張る子どもがいた。

 てっきりキャンディの催促かと思ったが、その愛らしい金髪の少女は満面の笑みを浮かべ、

 

「私、知っているよ。レミィって女の子のこと」

 と確かに口にしたのだった。



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⑳ 『思いもよらない再会』

 金髪の少女――フレリアとその友達だという男の子、更にその男の子のお母さんの三人と一緒に、メルエーナとバルネアは村外れに向かって歩いていた。

 

「フレリアちゃん。レミィちゃんはこんな村はずれにいるの?」

 メルエーナが尋ねると、フレリアは振り返ってにっこり微笑んだ。その笑顔がこの上なく愛らしくて、思わずメルエーナとバルネアの相好が崩れる。

 

「うん。もう少しで着くよ。楽しみにしていてね」

 悪戯っぽく微笑むフレリアは、とても嬉しそうだ。

 

 メルエーナ達は、男の子のお母さんであるバニアーリさんにレミィという人物を知っているのか改めて尋ねもしたのだが、彼女もなにか気がついたのか、「まぁ、あの娘は嘘を言っていませんよ」と苦笑するだけだった。

 

 結局、バニアーリさんは息子の手を引きながら歩き、バルネアさんと世間話を始めてしまったので、メルエーナが必然的に、先頭を歩こうとするフレリアの手を握って歩くことにする。

 

 メルエーナがフレリアに「手を繋いでも良いかな?」と尋ねると、やはり彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 

「あれは……」

 あと少しで目的の場所に着くらしいのだが、そこでメルエーナの視界に、見慣れた黒髪の男性の姿が入ってきた。そして、そこにはイルリア達も皆居る。

 

 道はどうやら合流してから一本道のようなので、ジェノ達も自分達と同じ場所に向かっているのではないかとメルエーナは推測する。

 

「あっ、メル!」

 こちらに気がついたイルリアが、遠くから声を掛けてくれる。

 メルエーナは手を小さく振り、フレリアの歩く速さに合わせてゆっくりと進む。

 

 結局、向こうが道の合流地点で少し待ってくれて、メルエーナはジェノ達と再会した。

 

「どうした、メルエーナ。こんな村はずれにどうしてお前たちが居るんだ?」

「はい。実は……」

 メルエーナは簡単にこれまでの経緯を話す。

 ただ、バニアーリさん達を待たせるわけには行かないので、歩きながらになったが。

 

「……そうか」

 ジェノは短くそう応えただけだったが、そこで思わぬ声があがる。

 

「うわぁぁっ。お兄ちゃん凄く格好いい! お姉ちゃんの彼氏さんなの?」

 ジェノを見たフレリアがメルエーナの手を引っ張りながら、嬉しそうに尋ねてくる。

 

「なっ、何を!」

 メルエーナは思わず頬を赤らめてしまうが、ジェノは一言「違う」とだけ言う。

 あまりに迷いのないその一言に、メルエーナは悲しくなる。

 

「どうやら目的地は同じようだ。行くぞ」

 ジェノはそんなメルエーナに何のフォローもない。

 

 イルリアがジェノを窘めたが、彼は「行くぞ」とまた一言だけ口にして先頭を歩く。

 けれど、その歩みがいつもよりもずいぶんとゆっくりなことにメルエーナは気づいた。

 

 子どもが居ることを考慮した速度だった。

 

(今、ジェノさんの中で一番配慮する相手がフレリアちゃん達子どもだというだけです。負けません!)

 メルエーナは自分にそう言い聞かせ、ジェノの後ろをフレリアと一緒に歩く。

 

 でもそこで、

 

「お姉ちゃん、頑張ってね」

 とフレリアにまで言われてしまったことに、メルエーナはそんなに自分の感情は分かりやすいのかと更にショックを受けることになったのだった。

 

 

 ◇

 

 

 少し進むと、小さな小屋が視界に入ってくる。

 そしてその近くには、大きな地裂が、洞窟の入口らしきものまで見えた。

 

 そこで、フレリアがメルエーナの手を離れて走り出す。

 メルエーナも慌てて後を追うが、ジェノも同じように足を早める。

 

 幸い、フレリアは転ぶことなく小屋の入り口までたどり着いた。

 メルエーナが後ろを振る帰ると、他の皆も軽く早足で歩み寄ってくる。

 

 皆が集まるのを待っていたのか、フレリアはにっこり微笑み、小屋の入り口のドアを叩いた。

 すると、すぐに外開きのドアが優しく開けられる。

 

 そこに立っていたのは、朴訥そうな、気の良さそうな若い男性だった。

 金色の髪を短く切りそろえた彼は、二十代前半くらいに見える。

 

「お父さん、ただいま」

「ははっ、おかえり、フレリア。でも、ここは家じゃあないんだから、ただいまを言わなくてもいいんだよ」

「もう、駄目! お母さんが言っていたもん。帰ってきたら、必ず『ただいま』って言いなさいって」

「そうか。それもそうだね。……あれっ? フレリア。バニアーリさんとクエン君以外に、ずいぶんたくさんの人がいるみたいだけれど、どうしたのかな?」

 男性は不思議そうにメルエーナ達を見つめてくる。よほどこの場所に人が来るのが珍しいのだろう。

 

「私は、冒険者のジェノと申します。失礼ですが、キレースさんでよろしいでしょうか?」

「ぼっ、冒険者? いや、その、すみません。あまりにも聞き慣れない言葉だったので。その、はい。私がキレースです」

 そう名乗ったキレースの後ろにフレリアは回り込み、トタトタと小屋の中に入っていってしまう。

 

「どうか突然の訪問をお許しください。我々は、ここから見える洞窟への入場の許可を頂きたく、ナイムの街からやって来ました」

「ナイムの街から? わざわざ洞窟を見学しに、ですか?」

 キレースは年若いジェノに対しても柔らかな言葉遣いをしてくれる。メルエーナはその事で、このキレースという男性の評価が上がった。

 

「キレースさん。それとは別に、こちらの女性二人は、レミィと言う女の子を探していると言っていましたよ」

「えっ? レミィって……」

 バニアーリさんの説明まで加わり、キレースは更に困惑する。

 

 こんなにいろいろなことが起こっては、確かに混乱するだろうとメルエーナは思う。

 しかし、更にそこに追い打ちで、

 

「それと、こちらの金髪の女性は、国王様から『我が国の誉れである』とまで言われた料理人のバルネアさんです」

 そう言われ、キレースは「ちょっと頭を整理させてください」と言って、頭痛を堪えるように額に手をやる。

 

「……ええと、まず、そちらのジェノさん達が洞窟にはいる許可が欲しい冒険者の方で、そちらのバルネアさんとお嬢さんが、レミィに会いたがっているということですよね?」

「はい。そうです」

 みんなを代表して、年長者のバルネアが答える。

 

「うん。一つずつ片付けて行きましょうか。まず……」

 キレースがそう言ったところで、小屋の中からトタトタとした小走りのフレリアが出てきた。

 

「はい、おまたせ。レミィを連れてきたよ」

 そう言うフレリアの隣には、状況が分かっていなさそうな若い女性が立っている。

 

「こらっ、フレリア。お母さんをそんな風に呼ぶんじゃあありません」

 ポン、といった感じで優しくフレリアの頭に拳を乗せて、その女性は叱る。

 

「大変失礼を致しました。この娘の母で、レミリアと申します」

 その言葉に、メルエーナは言葉を失った。

 

 あの夢で見た幼い女の子と同じ紫の髪をした美しい女性がそこに立っていたのだから、それも仕方がないだろう。

 そして、レミリアという名前を短縮して呼ぶのならば、一般的にはレミィだ。

 

「だってぇ、このお姉ちゃん達が、レミィを探しているって言うから……」

 フレリアの言葉に、レミリアと名乗った女性は苦笑する。

 

「もう。それでも駄目。きちんとお母さんと呼ばないと、夕食を抜きにするわよ」

「えっ! やだっ! ごめんなさい、きちんとお母さんて呼ぶから許して!」

 親子の朗らかな会話が続いていたが、メルエーナはそれを聞いている余裕はなかった。

 

 目に見えないが、確かに繋がっているレイルンから強い悲しみの感情が伝わってきたことから、メルエーナはこの女性があの夢で見たレミィに間違いがないことを理解したのだった。



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㉑ 『忘却された思い出』

 エリンシアの言葉をメルエーナは思い出した。

 

『それは大丈夫。妖精というのはね、人間が住むこの世界とは別の世界で生きているんだ。その世界はこの世界とは何もかも違う世界らしい。そして、召喚魔法というものを除けば、二つの世界の境界が何らかの原因で歪んだときにだけ、妖精はこの世界にやって来ることができるが、そんなことは滅多に起こらないからね』

 

 何もかも違う世界……。

 それは、もしかすると時間の流れさえも違うのでは、この世界よりも流れが早いのではないだろうか?

 

 思い出してみれば、初めて出会ったあの時、レイルンは随分焦っていた。

 時間の流れが早い世界で、いつ繋がるか分からない状態でやきもきしていたのではないだろうか?

 

 そして、繋がっても自分の姿が見える人間がいなければ、レイルンはまた元の世界に戻らないと消えてしまう。

 だから、何度も何度もレイルンは奇跡のような低い確率をただひたすらに待ち続け、そして、この世界では長い月日が経ってしまっていたのだろう。

 

 メルエーナにレイルンの悲しみが伝わってくる。

 遅かったのだと。もうあの頃のレミィはいないのだという悲しみが伝わってきてしまうのだ。

 

「メルちゃん……」

 バルネアもまさかの事態に困惑する。

 

 だが、メルエーナは小さく深呼吸をし、一歩前に出て、レミィ――もといレミリアさんに頭を下げる。

 

「初めまして。私はメルエーナと申します。レミリアさんにお会いしたく、ナイムの街からやって来ました」

「はっ、はぁ……。私に会いに、ですか?」

 レミリアは困った顔をする。

 いきなり見ず知らずの人間が訪ねて来れば、こうなるのは仕方がないだろうとメルエーナも思う。

 

「その、私はレイルンという妖精に頼まれたのです。幼い頃の貴女のお願いを叶えるために、この村にある洞窟に連れて行って欲しいと」

 荒唐無稽な話に思われるだろうか? それとも頭がおかしいと思われてしまうだろうか? 

 そんな不安を抱きながらも、メルエーナは眼の前の女性がレイルンの事を覚えていてくれているよう願う。

 

「……レイ…ルン? その、すみません。私には心当たりはないのですが……」

 けれど、現実は残酷だった。レミリアは困った顔でそう答えたのだ。

 

 伝わってくる気持ちが痛い。

 レイルンはずっとあの時の約束を果たそうとしていたのに、その相手はすっかりその事を忘れてしまい、他の男性と結婚をして子どもまでいるのだから。

 

 あの夢で見た頃の幼い頃から、メルエーナよりも年上の姿に成長するまでの間、ずっとあの約束を覚え続けて忘れないでいて欲しいというのは無茶な話なのだとは思う。

 けれど、感情ではそれが納得できない。

 

 メルエーナは思わず文句の言葉を口走りそうになったが、そこで今まで黙っていた人物の一人が声を上げる。

 

「妖精だって! それも、この洞窟に用事があるというと、まさか鏡を持っているというのかい?」

 突然の事に、皆の視線が大声を上げたキレースに集まるのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 小屋には最低限の設備しかないとのことなので、キレース一家の自宅に案内されることになった。

 

 その際に、バニアーリさんと彼女の息子のクエン君とは分かれた。

 レミリアによると、何でも娘のフレリアを一緒に遊びに連れていってくれる近所の奥さんなのらしい。

 

 それに加えて、大人数で押しかけるのは申し訳ないので、代表してジェノとメルエーナ。そしてセレクトが参加する予定だったが、彼は「ジェノ君はリーダーなので仕方ありませんが、男性が二人もいると威圧感がありすぎますから」と言ってマリアが参加することになった。

 

 結果、マリアはジェノとメルエーナと一緒に居間の大きなテーブルを囲い、キレースの向かいに三人で並んで座る。

 

 そして、レミリアがお茶を入れてくれた後、ジェノがもう一度突然の訪問を謝罪し、メルエーナがこれまでの事の次第を話し始める。

 

 その話は、マリアも概要だけは聞いていたが、改めて話を聞かされると、これがこれがかなり稀有な事象であることを再認識させられる。

 

 このメルエーナという少女はいったいどういう人物なのだろう?

 妖精を従える人間など聞いたことがないし、ジェノとの関係も気になる。

 

 けれど、今は仕事なのだからと自分に言い聞かせ、マリアは話に集中することにした。

 

「なるほど。そうやって君は妖精と出会ったんだね。そして、守護妖精という形で契約をしていると」

 キレースは他の人間ならばバカバカしいと断じるであろう話を、目を輝かせて聞いている。

 

「信じてくださるのですか?」

 メルエーナが不安そうに尋ねたが、キレースは「もちろんだよ」と微笑む。

 

「私は何年も、あの小屋の近くの洞窟を調査していたんだ。そして、あそこに描かれている壁画から、妖精の伝承を知ったんだよ」

「キレースさんが、仰っていた『鏡』というものは?」

「ああ。あの洞窟は千年以上昔に造られたもののようなんだよ。妖精達が作ったらしい。そして、あの洞窟は妖精たちの何らかの儀式のために作られたようで、その儀式に必要なものが特別な『鏡』らしいんだ』

 キレースは子供のような顔で得意げにジェノに説明する。

 

「すみません、お待たせしました」

 それから、フレリアが疲れて眠ったと言い、レミリアが話に加わった。

 

 そこで、メルエーナは少し目をつぶり集中する。すると、緑の服と帽子を身につけた人形のような妖精が突然メルエーナの膝の上に現れる。

 けれど、彼は元気がなく、顔を俯けている。

 

「この子がレイルン君です。レミリアさん、微かにでも記憶はありませんか?」

 メルエーナは縋るような視線を向けて尋ねるが、レミリアは申し訳無さそうに首を横に振った。

 

「すみません。この可愛らしい妖精さんと私が会っていたと言われても、まるで記憶がないのです」

「……そうですか……」

 メルエーナはギュッとレイルンを抱きしめ、絞り出すように応える。

 マリアは、なんと声をかければいいか分からない。

 

「その、レミィ!」

 不意に、レイルンが顔を上げ、レミリアに声を掛けた。

 

「君が僕のことを忘れてしまっても、僕はしっかり覚えている。だから、あの時の約束を果たすよ」

「……約束? 私が、貴方と約束をしたの?」

 レイルンの決意も、レミリアはただ困惑するだけだ。 

 

 それがなんとも物悲しい。

 

「ええと、レイルン君。君は『鏡』を持っていて、それを使って何かをしようとしているのかな?」

 キレースは優しく尋ねたが、レイルンはプイッと横を向く。

 

 困った顔をするキレースに、メルエーナが、「はい。そのつもりのようです」と代弁する。

 

「そうか。それなら話は簡単だ。私も同行させてくれるのならば、君達があの洞窟に入る許可を出すよ」

「よろしいのですか?」

 ジェノが尋ねると、キレースはにっこり微笑んだ。

 

「もちろんだよ。正直、あの洞窟の調査も暗礁に乗り上げていたところだったんだ。それを解決するかもしれない可能性があるのならば、こちらからお願いしたいくらいだよ」

「ありがとうございます!」

 メルエーナを皮切りに、マリア達もお礼を言う。

 

「それじゃあ、君達の滞在時間も限られていることだし、善は急げだ。早速明日の早朝にでも……」

 キレースの言葉は、そこで遮られる。

 それは、彼の妻であるレミリアが、彼のシャツの端を引っ張ったためだ。

 

「あなた、明日は……」

 レミリアが口にしたのはその一言だけだったが、夫であるキレースさんはそれだけで全てを理解したようで、「ああ、ごめん。前々からの約束だったよね」と口にし、マリア達に頭を下げる。

 

「すまないけれど、明日は子供と一緒にピクニックに行く予定なんだ。その、娘が凄く楽しみにしていてね。だから、洞窟に入るのは明後日にしてもらえないかな? ああっ、大丈夫。一日あれば、最深部まで行っても帰ってこれるくらいの広さしかないから」

 キレースは申し訳無さそうに頭を下げる。

 けれど、その瞳がすごく暖かな光を宿していた。

 

 この人が、心から家族を大事にしていることがそれだけでもマリア達には理解できた。

 

「はい。もともと我々の勝手な都合でお願いしているのですから、そちらの予定を優先させてください」

 ジェノの言葉に、「すみません」とレミリアは謝罪したが、その顔は嬉しそうだった。

 

 この夫婦の笑顔を見ていると、すごく暖かな気持ちになる。それはきっとマリアだけではないだろう。

 

 けれど、レイルンだけは複雑そうな顔をしているのを、マリアは見てしまったのだった。



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㉒ 『良くないもの』

 夕日が沈んでいくのを、メルエーナは一人宿の部屋で開かれた窓から眺めていた。

 

 みんなには悪いと思ったのだが、キレース家から宿に戻るとすぐに、メルエーナは少し部屋で休みたいと言って、それからずっと外を、湖を眺めていた。

 

 明日は思わぬことで休みになったことから、バルネアさんの提案で、みんなで湖に泳ぎに行く事が決定された。

 

 今回の仕事の形式上の依頼人はバルネアだ。

 その依頼主の提案とあれば、ジェノ達も参加せざるをえない。

 

 幸い明日も天気はいいようなので、ジェノに泳ぎを教わるというメルエーナの望みが叶うことになる。この日のためにジェノと買いに行った水着も、今か今かと荷物入れの中で出番を待っているかのようだ。

 

 けれど、メルエーナの心には暗雲が垂れ込めていた。

 

「……レイルン君……」

 夕食時ということで、メルエーナは守護妖精を実体化させようとしたが、「今は何も食べたくないから」と断られてしまった。

 

 メルエーナには、レイルンの気持ちは痛いほど伝わる。

 もしもこれが自分とジェノの事だったらと思うと、胸が張り裂けそうになる。

 

 何のためにレイルンが、レミリア――いや、レミィの元から姿を消して、鏡と言うものを取りに妖精の世界に戻ったのかは分からない。けれど、彼はずっとレミィを大切に思い続け、それを手に入れるために奮闘しただろうことは、想像に難くない。

 

 それなのに……。

 

「僕は食べなくても大丈夫だけれど、お姉さんはお腹が空ちゃうよ」

 姿の見えないレイルンがメルエーナに語りかけてくるが、彼女は首を横に振った。

 

「大丈夫よ。それより、今はレイルン君と一緒にいたいの」

 妖精と人間が添い遂げる事が可能なのかどうかは、メルエーナには分からない。けれど、やはりこの結末はあまりにも悲しすぎる。

 

「……ありがとう」

 レイルンがそう言って実体化して膝の上に現れたので、メルエーナは優しく彼を背中から抱きしめた。けれど、悲しい思いが溢れてきてしまい、メルエーナの視界が歪む。

 

「ははっ。どうして、お姉さんが泣くの?」

 瞳からこぼれ落ちた涙がレイルンの頬を濡らし、彼はこちらを見上げて、苦笑してこちらを見つめてくる。

 

「……ごめんなさい……。でも……」

「……お姉さんは、優しいね」

 そう言ってレイルンは微笑む。けれど、彼の瞳からも大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていく。

 

 メルエーナはそこで堪えきれなくなり、レイルンをきつく抱きしめる。

 

 それから、二人は泣いた。

 メルエーナは声を押し殺しながら。レイルンは声を上げて。

 

 それからしばらく泣き続けたが、自分とレイルンが落ち着いたのを確認し、メルエーナはずっと考えていたことを尋ねる。

 

「ねぇ、レイルン君。本当にその鏡を洞窟に持っていくの? もうレミィちゃんは……」

「……うん。それでも、僕は約束を果たしたいんだ。もう、忘れてしまったみたいだけれど、僕はあの時のレミィのお願いを叶えて上げたい。僕はそのためにこの鏡を持ってきたんだから……」

 レイルンは小さなカバンに入ったそれを取り出す。真ん丸な形の鏡を。

 

「いったいその鏡で何をするつもりなの?」

「……ごめんなさい。これも、レミィと二人だけの秘密にする約束だから……」

「あっ、大丈夫。無理に話さなくてもいいわ」

 メルエーナは優しく微笑む。

 

「ありがとう。もう少しだけ僕に力を貸してね。その代わり、お姉さんにもお礼をするから」

「私のことは気にしなくてもいいわ。さぁ、少し遅くなってしまったけれど、夕食を食べに行きましょう」

「うん」

 レイルンが満面の笑みを浮かべたことに、メルエーナは安心して彼を抱きかかえて立ち上がる。

 

 だが、そこでふとメルエーナは、どうして自分のように、レミィに<目印>の魔法と<門>の魔法を掛けなかったのだろうと疑問に思い、彼に尋ねる。

 

「……掛けたけれど、解けてしまったんだ。少し前に、良くないものがこの世界に近づいた影響でだと思うんだけれど、それから僕の魔法が長くは持たなくなってしまったんだ」

「良くないもの? あっ、それって……」

 メルエーナは、レイルンがジェノに対して良くないものに取り憑かれていると言っていた昨日の会話を思い出す。

 

「うん。この世界と僕のいた世界を何度か行き来している時に見たんだ。この世界になにか良くないものが一緒になろうとしているって。今はまだ大丈夫みたいだけれど、少しずつこの世界にも影響が出ていると思うよ」

 レイルンが言っていることはよく分からないが、メルエーナはそこで以前ジェノが話してくれた、<霧>という未知なる存在を思い出す。

 

 だが、良くないものがジェノに取り憑いているという話と照らし合わせると、これではジェノも<霧>というものに……。

 

 体が震えた。

 以前に聞いた話では、<霧>というものの影響で人間が怪物になるらしい。それならば、ジェノもいずれそうなってしまうのだろうかと不安になる。

 

(でも、レイルン君が言っているものと<霧>が同じものとは限らないから、断言することはできない) 

 願うようにメルエーナはそう結論付け、とりあえず夕食を食べに向かうことにするのだった。



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㉓ 『水着と朴念仁』

 自分達の席に着くまでレイルンに姿を消してもらい、メルエーナは少し遅い夕食を食べるために向かうために部屋を出る。

 すると、自室の向かいの壁に背を預けているジェノの姿がすぐに目に入ってきた。

 

「ジェノさん。どうして私の部屋の前に?」

 メルエーナはジェノがここにいる理由がわからない。もしかすると、ずっと待っていてくれたのだろうかと申し訳ない気持ちになる。

 

「……その……大丈夫か?」

 普段の淡々とした口調ではなく、かなり言葉を選んでの問いかけに、メルエーナは思わずクスッと微笑み、頬を緩めてしまう。

 

「はい。レイルン君は大丈夫です。ですので、少し遅くなってしまいましたが、これから一緒に夕食を頂こうと思っています」

「……そうか」

 ジェノは短く言うと、静かに自分も食堂に向かって歩きだす。

 やはり自分達を待ってくれていただろうことを理解し、メルエーナはペースを合わせて彼の隣を歩く。

 

「メルエーナ。明日のことだが、レイルンはお前から離れても大丈夫なのか?」

「えっ? あっ、はい。よほど距離が離れない限りは問題はないとエリンシアさんから言われていますし、いざとなれば私の近くに来てもらうように強く願えば来てくれるそうです」

「……そこまで使いこなせるのか……」

 ジェノの言葉に、メルエーナは慌てて首を横に振る。

 

「いいえ、実際にやったことはないのでできるかどうかも分かりませんし、できることなら使いたくありません。レイルン君が私達の世界にいられる時間がかなり減ってしまうらしいですし……」

 メルエーナは思ったことをただ口にしたのだが、ふとジェノを見ると、彼は珍しく驚いた顔をしていた。そして……。

 

 鈍い音とともに、ジェノは自らの頬を利き腕の拳で突然殴った。

 

「じぇっ、ジェノさん! 何をしているんですか!」

 突然のことに驚くメルエーナだったが、ジェノは「行くぞ」とだけ言い残し、立ち止まったメルエーナを置いて歩いていってしまう。

 

「まっ、待ってください!」

 メルエーナは慌てて後を追うが、ジェノはそれからはずっと無言だった。

 

 

 

 

 

 

 この村での二日目の夜が明けた。

 今日も天気は快晴。そして気温も高い。

 

 窓を開けて早朝の清涼な風を部屋に入れて、イルリアは微笑む。

 

「まだ仕事が終わっていないけれど、休みは休み。きちんと切り替えていかないと」

 寝間着から服を着替え、イルリアは水着を旅行カバンから取り出す。

 昨日の夕食時にみんなで話し合い、今日は親睦も兼ねて湖で泳ぐことに決めたのだ。

 

「まぁ、嘘はいっていないわよね」

 親睦を深めるという言葉に嘘はない。

 ただ、新しく仲間に加わったマリアとセレクトと親睦を深めるのは、自分とリットとバルネアさん、そしてレイルンだけにする予定だ。

 

 イルリアの計画では、メルエーナとジェノの二人には、二人っきりでしっかりと親密度を高めてもらうつもりなのだ。

 

「マリアもいい娘だけど、お貴族様だからね。やっぱり平民のジェノに似合うのはメルしかいないわ」

 まだ付き合いは長くはないが、マリアもセレクトも良い人柄だと思う。

 この宿に到着するまでの長い馬車での移動の際にあれこれ話をしたが、そのことは伝わってきた。

 

「でも、分からないのよね。あいつに、どうしてお貴族様の幼なじみがいるのかしら?」

 おぼろげな記憶だが、たしか以前何処かで、商家の末っ子だと言っていたはずだ。

 

「それなりに長い付き合いなのに、全然自分のことを話さない。まったく、あの朴念仁は」

 イルリアは文句を言いながらも、窓際で眼前に広がる美しく広大な湖を眺めて笑みを浮かべる。

 

 レイルンのことなど、まだまだ問題はあるが、あの妖精にとっても少しは気持ちが晴れる一日にしてあげたい。

 上機嫌なイルリアはそんな事を考えていた。

 

 だが、そこで。

 

「んっ?」

 窓の外から視線を感じた気がして、イルリアはそちらに目をやる。

 だが、そこには低い芝生や木々があるだけで、誰もいない。

 

 女好きなリットがもしかしたら覗いているのではと考えたが、あれほど女癖の悪いことで有名な男が、覗きなどという行為だけで満足するはずがないと思い直す。

 

「変ねぇ……」

 綺麗だというのならば、マリアが。可愛いというのならば、メルエーナがいる。あの二人を差し置いて自分などのことを見ていたというのだろう?

 

「まぁ、気のせいね、気のせい。よし、少し早いけれど朝食に行くとしましょうか」

 そう結論付けて、イルリアはレストランに向かうのだった。

 

 

 

 

 

 湖の近くに着替えのための小屋があるので、そこでイルリア達は水着に着替えた。

 そこで、服の上からでも分かってはいたが、マリアのプロポーションの良さを目の当たりにして、イルリアは絶対にジェノとメルエーナを二人きりにしようと改めて思った。

 

「いやぁ~、これはなかなか良い目の保養だねぇ」

 女性陣が水着に着替えて小屋から出てくると、リットがいの一番に感想を口にした。イルリアは、お前の感想などどうでもいいと言わんばかりに露骨に嫌な顔をする。

 

「心にもないことを言うんじゃあないわよ。あんたは水着姿の女の子より、何にも身に着けていない女の子のほうが好きでしょうが」

「まぁ、それはそうだけれど、水着には水着の良さがあることも確かだしさ」

「ええい、変な目を向けてくるな、しっしっ」

 犬でも追っ払うかのような仕草で、イルリアはリットを邪険に扱う。

 

 イルリアもマリアと同じくらいスタイルがいい。胸もその年頃の平均よりも大きく、腰はくびれ、おしりもキュッと引き締まっている。

 それに彼女の燃えるような赤髪と、身につけているビキニタイプの水着の赤が白い肌に映えて、素晴らしい美しさを醸し出していた。

 

 だが、イルリアは自分のことはどうでも良く、おずおずとした感じでジェノに近づくメルエーナを見守る。

 

 ジェノと二人で店に行って買ってきたという白のビキニは、露出の割に下品な感じは全く無く、清楚な雰囲気のメルエーナにとても良く似合っている。

 さらに栗色の長い髪が非常にいいアクセントになっていて、同性であるイルリアでも可愛らしいと思ってしまうほどだ。

 

「あっ、あの、ジェノさん……」

「どうした?」

 けれど、そんな可愛いメルエーナに声を掛けられても、取り立てて特徴のない男用の水着を身に纏った唐変木は、ふざけた言葉を返す。

 

(だぁ、この鈍感男! どうしてそこで可愛いだとか、似合っているって言えないのよ!)

 イルリアが文句を言おうとしたが、それよりも先に、彼を窘める者がいた。

 

「もう、気が利かないわねぇ、ジェノったら。そういうところは昔からまるで変わっていないのね。女の子が水着姿を見せているのよ。それに対して褒めないのは失礼よ」

 ジェノに対して困ったように言ったのはマリアだった。

 

 金色の美しい髪と輝かんばかりの美貌に白い肌。それに腰は細いのに出るべきところはしっかりと出ている女性らしい美しいプロポーション。それにビキニタイプの水着の色は、メルエーナと同じ白だ。

 

「俺には水着の良し悪しはよく分からん」

「もう、違うわよ。一般的な評価を訊いているんじゃあないの。貴方がメルエーナさんの水着をどう思うかが大事なの」

 マリアは物わかりの悪い子供に言い聞かせるように言う。

 

「……そういうものなのか?」

「そういうものなのよ!」

「そうか……」

 ジェノはようやく理解したようで、少し考えたが、「ああ。二人共似合っていると思うぞ」となんとも面白みのない淡々とした感想を呟く。

 

「ああっ、もう! どうしてそこで二人まとめて評価するのよ、この馬鹿!」

 イルリアは我慢していられずに、ジェノに近づいて頭を引っ叩く。

 

「どういう事だ?」

「ああっ、もう、あんたと話していると腹が立って仕方がないわ! いいから、あんたはメルが泳げるようにつきっきりで指導して上げなさい。そういう約束なんでしょう! ほらっ、行きましょう、マリア」

「えっ、ええ……」

 イルリアは怒リながらも、マリアの手を握ってジェノから離す。

 これで、ジェノとメルエーナを二人きりにする言い訳がたつはずだ。

 

 そして、今後のスケジュールを話しているバルネアとセレクトにも声を掛けて、イルリア達は準備運動を始めることにするのだった。



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㉔ 『言葉にできない気持ちでも』

 暑い夏の日差しよりも頬が熱くなるのを感じながら、メルエーナは幸せを噛みしめる。

 

「そうだ。慌てることはない。顔を水につけることも抵抗はなく、体の力を抜いて浮かぶことも覚えられた。一度に慌てて全てを理解しようとしなくて良い。少しずつ確実にものにしていった方がいいだろう」

 ジェノのアドバイスを聞き、メルエーナは緩んでしまいそうな顔を引き締め、「はい」と応えて、体を動かして前に進む練習を繰り返す。

 

 両手をジェノに掴んでもらいながら行うこの練習は、彼に思いを寄せるメルエーナにとってはこの上なく楽しい時間だった。

 

「よし。水から出て休憩にしよう」

「あっ、そっ、そうですね」

 あまりにジェノと二人っきりでの指導が幸せで、そこに泳ぐという未知なる技能を身に着けていっている感覚にやりがいが加わり、すっかり時間を忘れて没頭してしまった。

 

「ふふっ。結構疲れるんですね、泳ぐ練習って」

 練習している時には気が付かなかったが、水から上がって歩くと体力の消耗を感じる。

 

 練習ということで水深の浅いところで行っていたのだが、足を滑らさないようにとの配慮なのだろう。ジェノは自ら出るまでずっと手を引いてくれた。それが嬉しくて堪らない。

 これだけでも、この旅行に来た価値があるとメルエーナはご満悦だった。

 

「メルエーナ。しっかり水分補給をしておいた方がいい。かなり汗をかいたからな」

 みんなの荷物を置いた敷物のところに戻り、ジェノが手渡してくれた水筒を受け取る。

 

 自身の水分補給よりも先に、こうして優先して飲み物を手渡してくれる優しさに感謝するのとともに、メルエーナは本当に自分はこの男の人が好きなのだと再認識をする。

 

 黒髪に茶色の瞳。整った顔立ちに、細いけれど男の人らしい筋肉質な体。

 少し前に、お風呂場で彼の上半身の裸を見てしまったことで罪悪感を覚えたが、今日のことで、少し恥ずかしいことに変わりはないけれど、流石に慣れた。

 ただ、そうなると、それ以上を求めてしまいたくなるのも自然なこと。

 

「どうかしたのか?」

 ぼぉ~っと、受け取った水筒を手に持ったまま、男性らしい体に見とれて、少しだけでいいからそれに触れてみたいと思ってしまっていたメルエーナは、ジェノのその問いかけに、「あっ、いえ、なんでもありません!」と慌てて応えて、水分補給をする。

 

 本当に節操のない自分のふしだらな心を反省しながらも、もしも目の前の人が、大好きな人が、自分を異性として見て、同じような気持ちを抱いてくれたらどれだけ幸せだろうかと考えてしまう。

 

「レイルンも楽しんでいるようだな」

 自分達とは少し離れたところで、ビーチボールで遊んでいる他のみんなを見ながら、ジェノはいつもの無愛想な表情でありながらも、少しだけ口の端を上げる。

 

「……ええ。少しでも気が紛れるといいんですが」

 メルエーナはジェノの優しさを好ましく思う。

 

 ずっと会いたいと願っていた女の子が、すでに大人になってしまい、他の男性と結婚して子供までいると知ってしまったレイルンの事も、この人はずっと心配し続けていてくれたのだ。

 

 そう、本当に好ましく思う。

 でも、どうしてもこう思ってしまう自分もいる。

 

 ――もう少し、貴方は自分のことを考えて下さい、と。

 

 

 いつもそうだ。

 この人は周りの人のことばかりを考えていて、自分のことをないがしろにするのだ。

 

 他の人の幸せこそが自分の幸せだと思っているのだ。この人は心から……。

 

 それは立派なことだ。でも、そのあり方は酷く歪にメルエーナには映る。

 

 誰かに優しくするためには、自分が幸せでないと続かないはずだ。

 それを無理にこの人は続けている気がしてならない。

 

 自らの精神を、肉体を、命を摩耗させて、他人に尽くすことにだけ尽力してしまっている。

 そんな事を続けていては、遠からず限界がやってきてしまう。

 

「私は、もっと長い時間を……」

 そこまで思わず声に出てしまい、メルエーナは慌てて手で口を抑える。

 

 それほど大きな声出なかったのが幸いしたのだろう。

 幸せそうに、そしてどこか寂しそうにレイルン達を見るジェノには、そ声は聞こえなかったようだ。

 

 ほっと胸をなでおろし、メルエーナは心のなかで言葉を紡ぐ。

 

(ジェノさん。私は、もっと長い時間を貴方と一緒に歩いていきたいです。貴方に見守られるのではなく、隣に立っていたいんです。

 

 ですから、私のことを欲しいと思ってくれませんか? 私を受け入れてくれませんか?

 

 そうしたら、そんな寂しい顔はさせません。

 

 ……貴方が誰かを守りたいのならばそれで構わないです。

 

 でも、自分を守ってくれる存在が欲しいと言ってくれませんか? 私に隣にいて欲しいと言ってくれませんか?

 

 一年と少しの間だけですが、私は誰よりも近くで貴方を見てきました。

 ですから、分かるんです。

 

 貴方が傷ついているのだということが。

 

 その理由を話せるほどには、私はまだ信用できませんか? 抱えている重荷を背負わせてはくれないのですか?

 

 私は何の取り柄もない人間ですけれど、誰よりも貴方が幸せになることを願っているんですよ)

 

 言葉にできない想いを、メルエーナはじっとジェノの横顔を見ながら、心で訴えかけた。

 いうまでもなく、言葉にしないそれは、相手には届かない。

 

 けれど……。

 

「……どうした、メルエーナ?」

 こちらの視線に気づき、ジェノが口にしたのはいつもと同じような言葉。

 

 だが、その表情が違っていた。明らかに。

 

 それはたまたまの偶然だったのかも知れない。

 

 でも彼は困ったように、けれど――初めて見せる裸の表情で、確かに微笑んでくれたのだった。



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㉕ 『視線そして追跡』

 ボールで遊びながらも、マリアがたまにちらっとジェノとメルエーナの方に視線をやっていることに気が付き、イルリアは自分の取った行動が正解であったことを理解する。

 

 メルエーナ、そしてマリア本人からも、彼女がジェノの幼なじみであることは聞いていたし、ジェノの事を気にしているのは、彼女の視線がよくジェノを探している事からも明らかだ。

 別段、ジェノが誰を好きになってどうなろうと知ったことではないが、親友だと思っているメルエーナの事を優先したくなるのは当然だろう。

 

 まぁ、そうは思うのだが、どう考えても異性に持てそうなあの二人が、わざわざあんな朴念仁に好意を向ける理由がイルリアには分からない。

 

 マリアはもちろん、メルエーナだって、他にいくらでもいい男を捕まえられそうなのにもったいないとさえ思ってしまう。

 

(そもそも、好きだとか惚れたとか、私にとっては面倒以外の何物でもないしね)

 イルリア自身も頻繁に男性に声を掛けられるが、正直その相手をすることに辟易していた。

 祖父と祖母を何よりも大切に思っているが、それは家族に対する愛情の気持ちにすぎない。

 

 今は仕事が楽しいし、懸命に惚れた男にアプローチをするなど、時間の無駄なような気さえしてしまう。

 

 そして、今の家族以外に自分は愛情を向けることはおそらく無いと思っている。

 友達、尊敬する相手への友愛や尊敬の気持ちは抱けても、誰かを好きになって家族となりたいとは考えられないのだ。

 

 それが幼い頃に母親に裏切られたトラウマからくるものだとは理解しているつもりなのだが、正直怖い。

 相手に裏切られるのが怖いのもそうだが、それ以上に、自分があの最低最悪の唾棄すべき女と、母親と以前呼んでいた輩と同じようなことをするのではとイルリアは恐れているのだ。

  

 母親とそっくりな姿に成長した自分の姿を鏡で見ただけで嫌になる。

 あんなふうにだけは決してなるまいと思いながらも、忌まわしいあの女の血がこの体に流れていることを認識させられるから。

 

 だから、自分は一生独身だろう。

 イルリアは若い身空で、自分の生涯をそう決めつけている。

 

 もっとも、ジェノがあの事の代償として自分の人生を求めてくれば話は別だが、それも考えにくい。

 となると、やはり自分は祖父母が求めているひ孫の顔を見せることはできそうにないと思う。

 

「……んっ?」

 しばらく体を動かしながらも考え込んでいたイルリアだったが、そこでまた視線を感じた。

 

 イルリア自身が望んだ成長ではないが、いかんせんスタイルの良い彼女は、異性の視線を受けることが多いためか、それに敏感なのだ。

 

 今までは気が付かなかったが、今は明らかに不躾な視線を感じる。

 特に、水着に隠れている胸元や臀部に。

 

 イルリアは少し休むとみんなに言って、水から上がる。

 そちらを目で追わないようにしながらも、気配も動いて来ているのをイルリアは感じていた。

 

 それは、少し離れた木々の茂みからだと横目で判断し、敷物のところで休んでいるメルエーナ達と軽いおしゃべりをしながら、体の水滴をタオルで拭く動作の影で、ポーチから銀色の板を一枚引き抜くと、それを気配のする木々の方向に向かってかざし、力を開放した。

 

 次の瞬間、男の情けない悲鳴が響く。

 

 珍しいことに、メルエーナの近くにいたジェノも男の気配には気がついていなかったようで、声を聞いてから素早く立ち上がり、そちらを警戒する。

 

「うっ、ああっ。ひっ、酷い……」

 ふらふらとした足取りで茂みから出てきた、自分と同年代くらいの痩せぎすな男の顔に、イルリアは微かだが見覚えがあった。

 

 いや、正確に言えば、彼の特徴的な青い右目の輝きを覚えていた。

 

「あんたはたしか、ゼイルだったわよね? 『聖女の村』で私に声を掛けてきた……」

 先のマリア達との話し合いの際に名前を出していたため、すぐにそれが頭に浮かんだ。

 

 ちょうどいい。

 できれば、もう一度会いたいと思っていたところだとイルリアは思う。

 

 マリアの話に出てきた左右の瞳の色が違う集団の手がかりがつかめるかもしれない。

 イルリアは先程とは別の銀の板を構えて、ゼイルに近づく。

 

「イルリア……」

 ジェノが注意を促してくるが、イルリアは「大丈夫」とだけ返す。

 魔法を使う相手ならば、自分の方がジェノより適任だろう。

 

 後ろを振り返っている暇はないが、水音が聞こえる。

 他のみんなも今の騒ぎに気がつかないはずがない。それならば、これは情報を得るまたとないチャンスだ。

 

「あっ、その、はい。イルリアさんが僕の名前を覚えてくれているなんて……」

 警戒するイルリアとは異なり、ゼイルは顔を赤らめてどこか嬉しそうに言う。そのことが、イルリアには不気味だった。

 

「あんた、今朝も私の部屋を覗いていたでしょう? いったい何のつもりよ!」

 イルリアの強い言葉に、ゼイルは申し訳無さそうに顔を俯けて黙る。

 

「しらばっくれるつもりね。いいわ、それなら話したくなるようにしてあげ……」

 イルリアの言葉の途中で、彼女の背の方からゼイルに向かってすごい速度でこぶし大ほどの何かが飛んでいった。

 

 そして、それはゼイルの目の前で、まばゆい光を放つ。

 

「くっ、<閃光>の魔法……」

 イルリアもよく使う魔法なので、それが何なのかは理解できたが、あまりに突然なことに、目をやられてしまう。

 

「セレクト先生、その男を逃さないで!」

「言われるまでもありません!」

 目がくらむイルリアの耳に、マリアとセレクトの声が聞こえた。

 どうやら、今の魔法はセレクトが使ったようだ。

 

「わぁぁぁっ、目が……。ううっ、仕方がない!」

 ゼイルの情けない声が続いて聞こえて来たかと思うと、それっきり彼の声は聞こえなくなった。

 

 やがて、視力が回復したイルリアの瞳に映ったのは、悔しそうな表情を浮かべるセレクトとマリアの姿。そして、自分を心配して歩み寄ってくるジェノだった。

 

「ジェノ! 今の男は、ゼイルはどこに行ったの?」

「<転移>の魔法らしきものを使って逃げたようだ。だが、リットが追っている」

 ジェノの説明を聞き、イルリアはおおよその事を理解した。

 

 そして、少しだが安堵した。

 リットはふざけた男だが、こと魔法においては凄まじい力を持っている。

 あいつが追っているのならば大丈夫だろうと。

 

 だが、しばらくした後に戻ってきたリットは、ジェノに困ったような笑顔で言ったのだ。

 

「悪りぃ、ジェノちゃん。完全に見失った」

 

 と。



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㉖ 『吐露と打ち合わせ』

 せっかく二人っきりでジェノに泳ぎの指導を受けていたメルエーナだったが、イルリアによって不審人物の存在が明らかになり、湖から急遽、宿に戻ることになってしまった。

 

 本当なら、一休みした後にも至福の時間を味わえたのにとがっかりするメルエーナは、宿の自室で、実体化したレイルンと話をする。

 

「レイルン君、ごめんなさい。せっかくみんなと遊んでいたのに……」

「ううん。大丈夫だよ。僕を元気づけようとしてくれていたのは、すごく嬉しかったから」

 言葉とは裏腹に、レイルンは寂しそうに微笑む。

 

 それは、遊べなくなってしまったことよりも、暇な時間が出来てしまったので、想い人であったレミィのことを思い出してしまっているからだろう。

 

 だろうというのは、メルエーナが意識的にレイルンの心が自分に流れ込んでこないようにしているため。誰だって心の中を覗かれたくはないはずという配慮だった。

 けれど、それでも伝わってきてしまうほど、レイルンの心は悲しみに支配されてしまっているのが分かり、メルエーナは彼を優しく抱きしめる。

 

「お姉さん、どうしたの?」

 レイルンは不思議そうに言ったが、メルエーナの行為を拒みはしなかった。

 

「ごめんなさい。私、自分のことばかりを考えて、レイルン君のことを蔑ろにしていました」

「……それは違うよ、お姉さん。だって、僕が無理やりお姉さんに頼んだんだもん。この場所に連れてきてって……。レミィに会わせて欲しいって……」

 レイルンは体を震わせる。

 

 メルエーナが下を見ると、レイルンの頬を透明な液体が伝って床に落ちるのが見えた。

 

「ははっ……。なんでだろう? お姉さんの体が僕よりも温かいからかな? なんだか涙がこぼれて……」

 レイルンの震え声を聞き、メルエーナは優しくレイルンの背中を撫でる。

 

「私がレイルン君のためにしてあげられることはほとんどありませんが、話を聞くことくらいなら出来ますよ。もしも胸の中にためておくことが辛い事があるのなら、よかったら話してください」

「でも……」

「つらい気持ちを一人で抱えているのってすごく苦しくて寂しいんですよ。だから、ねっ?」

 

 メルエーナがそう言うと、レイルンは体を一層激しく震わせたかと思うと、泣きじゃくり始め、やがてそれが慟哭に変わる。

 

「どうして! どうして僕のことを忘れてしまったんだよ、レミィ! 僕は、僕はずっと君のことだけを考えて、君との約束を叶えるために頑張ってきたのに!」

 レイルンの悲しみと怒りの込められた叫びに、メルエーナは心が締め付けられる。

 

 長い時間、レイルンは泣き叫び続けたが、最後に、

 

「でも、それでも僕は君との約束を守るから……。だって、そうしないと、全部が嘘になってしまう。あの日の、あのときの気持ちだけは本当だったって、僕は信じているから……」

 

 そう決意を口にすると、メルエーナの腕の中から離れた。

 

「ありがとう、お姉さん。なんだか気持ちが楽になったみたいだ」

「そう……。でも、辛くなったらまた言ってね、レイルン君」

「うん。ありがとう、お姉さん」

 レイルンはそう言って、ニッコリと微笑んでくれた。

 

 きっとその笑みには、まだ自分に対する気遣いもあったのだと思うが、けれど、それでも先程までの悲しい笑顔よりはずっといいとメルエーナは思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 先に打ち合わせをした宿の一室を再び借り、そこでマリア達はジェノに注意を受けていた。

 

「少なくとも俺達の仲間である以上は、俺の指示に従ってもらう。指示系統が一本化されていない状況では、いざという時の対処が遅れ、それが致命的なものになりかねない」

「ええ。それはそのとおりですね。すみません。今回のことは完全に私の独断専行でした。以後はこのようなことは決して致しません」

 ジェノとセレクトのやり取りを、マリアは黙って聞いていた。

 

 年長者が相手だろうと、ジェノの言葉は容赦がない。けれど、彼の言うことは何も間違っていないことは理解しているので、口を挟みはしない。

 

「イルリア、お前もだ。不審者がたまたま一人だったから良かったが、複数人だった場合は下手に相手を刺激することで危険を招いていた可能性もあった。俺に確認を取ってから行動しても遅くはなかったはずだ」

「……そうね。悪かったわ」

 イルリアも素直に自分の非を認める。

 

「今一度みんなに言っておく。こと魔法については俺は門外漢だ。だが、基本的には俺にまず情報を伝達してくれ。そして、俺がいない場合、または緊急時で魔法を使う必要がある時は、リットに話を通すことを徹底してくれ」

「おいおい。いいのかい、ジェノちゃん? 俺は追跡に失敗した情けない魔法使いだぜ?」

 言葉とは裏腹に、リットがニヤニヤと笑みを浮かべながらジェノの言葉に口を挟む。

 

「話を遮るな。それと、お前に追跡出来ない相手なら、誰が追いかけても無駄なことくらいは分かっている」

「まぁ、そりゃそうだ」

 ジェノがセレクトよりも、仲間であるリットを重要視したことを少し不快に思いもしたが、今回はマリア自身もセレクトを焚き付けたこともあり、黙ることにする。

 

「ああ、セレクト先生。もしも俺より自分の方が優れた魔法使いだというのなら言ってくれ。喜んで役目を代わるからさ」

 不快感を煽るようなその発言には、流石にマリアも頭に来る。だが、それでもそれを顔に出さないくらいの処世術は心得ている。

 

 それに……。

 

「ははっ。そこまで私は身の程知らずではありませんよ」

 セレクト自身がリットとの力の差を肯定するようなことを言い出したので、何も言えなくなってしまった。

 

 それからもジェノの話は続き、それは明日の最終確認に内容を変える。

 

「明日は予定どおりなら、洞窟に入ることになるだろう。今回は案内人であるキレース氏とメルエーナとレイルンが同行する。そして、洞窟は幅がそれほど広くはないことは確認していることから、先頭はキレース氏、ついで俺、イルリア、メルエーナとレイルン、マリア、セレクト、リットの順を基本とする」

 位置的に、自分も護衛対象のような配置だとマリアは思ったが、文句は言えない。

 経験のない自分が先頭を務めることは危険だ。更に重要な殿を任せることなど出来ないだろう。

 

「<光>の魔法はイルリアとセレクト。リット、お前は全体の警戒を頼む」

 ジェノは事細かに指示を出す。そして最後に彼は、

 

「危険な生物はいないということだが、くれぐれも油断はしないでくれ。全員が無事に戻ってくることが最優先だ」

 

 そう締めて話を終わらせた。

 

「一番無茶しそうな奴がよく言うわよ」

 小声で、イルリアが呟いたのがマリアの耳にも入ってきた。

 

 思わずマリアも納得してしまう。

 ジェノはびっくりするくらい成長したようだが、基本的な部分はあまり変わっていない。

 

 勝てもしない大人数人を相手でも、攫われそうな自分を助けるために無茶をしてくれた姿が昨日のことのように思い出される。

 

 するとどうしてか、少し不機嫌だった気持ちが晴れてくるのを感じ、マリアは笑みを浮かべるのだった。



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㉗ 『罪悪感』

「お父さん! お母さん! こっちこっち!」

「こらっ、フレリア。そんな風に後ろ向きで歩いているところんでしまうよ」

夫のキレースが注意しても、先頭を歩く元気でやんちゃ盛りの娘は、こちらを向きながら歩くのをやめない。

 

 私も夫と一緒に注意をするが、娘はニッコニコで笑っている。

 仕事で忙しいお父さんと久しぶりに遊べるのが嬉しくて仕方がないのだろう。

 

 夫は本当に仕事が、遺跡の調査が大好きだ。

 子供の頃に化石を自分で発見して以来、夫は過去の歴史を解き明かすことに魅入られてしまったらしい。

 

 けれど、そのおかげで私は彼に会えたのだから、彼の趣味には感謝している。

 

 

 ……今でもあのときのことは忘れられない。

 

 外部からこの村の洞窟を調査に人が来るということで、村長達は歓迎の宴を開催した。

 調査は十年以上はかかると言われていて、その間、村には協力金の支給がある。村長もこの村のますますの発展のためにも、決して話を潰される訳にはいかないとみんなに檄を飛ばしていた。

 

 調査員が若い未婚の男性が数名ということで、村の綺麗所の女性が集められた。その中に私も居たのだが、正直気乗りはしていなかった。

 

 村長の立場も分からないではないが、こんなやり方で気を引こうとするのは間違っていると思う。

 調査員の学者さんがどんな人かもわからないのに、こちらが下手に出すぎても良いことはないと思うのだ。

 

 年若いということは、駆け出しの調査員が仕方なくやってくるのかもしれない。ただ出世すをるためだけに仕方なく上司の命令でいやいやこの村に来るのかもしれない。

 

 この村には素晴らしい自然がある。

 古くは『妖精の踊り場』と呼ばれていたレセリア湖を始めとして、美しい風景が広がっているのだ。

 

 その素晴らしさを理解した上で、この地が妖精に愛された土地であり、人は彼らと仲良くすることでこの村を作っていったという伝承を信じて、妖精を祀ってきたこの土地の文化。

 それを理解しない人であったら大変なことになってしまうだろう。

 

 目先の欲に囚われてはいけない。

 長い時間が経って、人々の妖精信仰が薄まってきているとしても、私は、私だけは知っているのだ。

 

 本当に、この村には妖精がいるのだ。

 幼い頃の私が、大好きになった妖精が。

 

 たとえ、その妖精に裏切られたとしても……。

 私は、彼を大切に思い続けているのだから。

 

 

 それから、この村に彼がやってきた。

 そこで私は呆れた。

 

 当初の予定では三人の調査員がやってくる予定だったが、やってきたのは二人……。しかも、そのうちの一人は挨拶のために顔を見せただけで、実際にこの村に留まるのはキレースという名の若者たった一人だというのだ。

 

 私と同じくらいの年に見えるキレースという金色の髪の若者も、いかにも本を読むだけで物事を理解しているだけの、線が細い頼りない男性にしか見えない。

 しかも女に慣れていないようで、ものすごく緊張しているのが分かる。

 

 こんな頼りない人が村の洞窟を調査するなんて、不安以外の何物でもない。

 

「その、村への協力金は予定どおり支給されますし、このキレースは優秀な研究者ですから、ご安心を」

 付き添いの男性がそんな言い訳を村長にするのを聞き、私は呆れてため息を付いた。

 

「あの、キレースさん、でしたよね? とても優秀ということですが、この村の伝承にもお詳しいのでしょうか?」

「これ、やめないか、レミリア!」

 村長に注意をされたが、私は、私が近づいただけで恥ずかしそうに目をそらす、情けないこの男性が優秀だとは思えなかった。

 

「あっ、その、はい。興味があって調べていましたので……」

「そうですか。では無知な私に教えて下さいませんか? この村の妖精信仰はいつ頃から始まったのでしょうか?」

 もちろん、私はこんな当たり前のことは知っている。でも、敢えて知らないフリをして尋ねてやった。

 

「それは、レセリア湖が出来てから前期の信仰の始まりのことでしょうか? それとも、一旦信仰が途絶えた後、『妖精の踊り場』との別名で、レセリア湖が呼ばれる事となってからの後期信仰のことですか?」

「えっ?」

 私はキレースさんの言葉に驚きの声を上げてしまう。

 

「ああっ、すみません。もしかするとそれ以前に、<世界樹>から妖精が生まれた際に、後から生まれた人間を助けたという、創成期からの信仰の事を仰っているのですか? ということは、この村にはやはり、それを伝える口伝か何かが残っているのでしょうか?」

 今までのおどおどしていた態度が一変し、キレースさんは私に興奮気味に詰め寄ってくる。

 

「ぜっ、前期の信仰という分けをしないで下さい! 信仰は途絶なんてしていません。当時、魔女狩りが横行していたために、それを絶ったという話を流布させただけで、この村ではずっと妖精を崇め続けてきたんです!」

 創世記の話をされたことに戸惑いながらも、私は持てる知識を総動員して、反論する。

 

「ああっ、やっぱりそうなんですね! いえ、明らかに、後期の始まりと呼ばれる『妖精の踊り場』のエピソードがあまりにも有名すぎて違和感を感じていたんです。

 一度完全に途絶えてしまった信仰が、僅か百年程度で、最盛期まで勢いを取り戻すとは考えられなくて。やはり、妖精信仰が、自然崇拝主義の一種に過ぎないという定説は間違っているみたいですね」

 キレースさんは興奮気味に、うんうんと頷いているが、今、彼は信じられないことを言った。

 

「妖精信仰が自然崇拝主義の一種に過ぎないというのは、どういうことなんですか?」

 私は怒りを隠そうともせずに、キレースさんに尋ねる。

 

「いえ、貴女が、その、レミリアさんが怒られるのも至極当然の話だと思います。ですが、いまの学会での妖精信仰の捉え方は、今言ったとおりなんですよ」

「信じられません! 自然を崇拝する気持ちはもちろんありますが、妖精はもともとこの世界に先に存在していたにも関わらず、我々人間のために別世界に移住をしてくれたのです! その恩を忘れるなんて!」

「それは『イシレスの賢者』のお話ですね。かなり規模の小さな信仰ですが、たしかにあのエピソードと組み合わせると、辻褄が合いますね」

「なんですか、その『イシレスの賢者』というのは?」

「……ご存知ではないのですか? ということは、尚更この関係は信憑性が高いのでは……」

「何を一人で納得しているんですか! 私にも教えて下さい!」

「ああっ、すみません。このお話は……」

 

 私はすっかり彼の話に夢中になってしまい、周りの目も気にせずに話を続ける。

 

 そのあまりにも白熱した議論のやり取りに、他のみんなは呆然としてしまい、歓迎の宴は台無しになってしまった。

 

 私は後で村長さん達にガッツリお説教を受けることになったのだが、そのおかげでキレースさんと、今の夫と誼が出来たのだ。

 

そして、何度も彼と議論をし、そして彼の人となりを知っていき、女手がない彼の手助けをしていたら、いつの間にか彼に惚れてしまっていた。

 そして、彼が村に来てから一年も経たないうちに、世帯を持つこととなったのだ。

 

 自分でもこの上なくスピード婚だった自覚はあるのだが、友人はもちろん、両親にまで、『ようやく結婚か』と言われるくらい、私と彼の間柄は有名だった。

 

 そして、フレリアが生まれて、すくすくと成長してくれている。

 夫も調査の仕事をしながらも、私と娘をとても大切にしてくれていて、私はこれ以上ないほど幸せだ。

 

 そして、この幸せを私も守っていかないと行けないと思っている。

 

 

 

 ……でも、そんなときになって、あの子が、レイルンが戻ってきた。

 私との約束を果たしに戻ってきてくれたのだ。

 

 けれど、今更、私はレイルンに合わせる顔などなかった。

 だから私は、知らないふりをした。してしまった。

 

 酷いと思う。分かっている。

 けれど、もうあの時とは違うのだ。

 

(ごめんなさい、レイルン……)

 私は心のうちで、大好きだった妖精の男の子に謝罪をし、母に、そして妻に戻る。

 

 重い罪悪感とともに。



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㉘ 『洞窟へ』

 幸いなことに、今日もいい天気で晴れ晴れとしている。

 けれど、メルエーナはそれに浮かれることはなく、気を引き締めていた。

 

 メルエーナ達はバルネアさんも加えて、案内人であるキレースさんの家に歩いて向かう。

 もちろん、バルネアさんは洞窟までは一緒に入らないが、どうしても見送りをすると言うので、付いてきてもらったのだ。

 

「洞窟の中ってけっこう広いのよね?」

「はい。その規模から考えると、往復で最短でも半日はかかると思われます」

 心配するバルネアに、ジェノが答える。

 

 レイルンに話を聞いたところ、彼が鏡を持って行きたい場所というのは、洞窟の最深部なのらしい。

 そこまでたどり着き、帰ってくるのは体力を使う。メルエーナはしっかりと体力管理に努めようと心に決めている。

 

 幸い、ジェノ達からも、疲れたのなら遠慮なく言うようにと言われているので、無理はしないつもりだ。

 もっとも、故郷のリムロ村での習慣が抜けず、この街に来てからも体操の他にジョギングも欠かしたことはないので、少しは頑張れるつもりだが。

 

 あと、心配なのはレイルンの体力だが、彼はメルエーナとマリアが交代で抱っこすることになっている。

 もちろん、今のように姿を消していれば重さはないのだが、道案内を全てキレースさんに任せるより、レイルンが居てくれたほうが良いとジェノが判断したためだ。

 

 レイルンは軽いので、抱っこをしていてもそれほど苦にはならない。

 それに、料理作りは体力と腕力が物を言う部分もあるので、日頃の修行の成果の見せ所でもあるとさえメルエーナは思う。

 

「やぁ。よく来てくれたね。天気はいいし、絶好の調査日和だ」

 目的の家にたどり着くと、すでに家主であるキレースさんは玄関を出て自分達を待っていてくれた。

 温和で暖かな声。でも、その目は少年のように輝いているようだ。よほど、妖精であるレイルン達と洞窟に入るのが楽しみなのだろう。

 

「あなた、お弁当を忘れないでね」

「お父さん、お母さんが一生懸命作ってくれたんだから、忘れちゃダメ! 少しだけれど、私も手伝ったんだから」

 キレースの妻であるレミリアさんと、娘のフレリアがお弁当を手渡して微笑む。そして、「ごめん、ごめん」と嬉しそうにお弁当を受け取るキレースさんの姿がなんとも言えず微笑ましい。

 

 本当に仲の良い家族だ。

 メルエーナは羨ましくさえ思う。けれど、レイルンの事を思うと複雑だった。

 

 メルエーナの気持ちが伝わったわけではないだろうが、不意にレイルンが実体化してメルエーナの隣に現れる。

 

「レミィ。その、眠くても、今日だけは夜遅くまで起きていて! 君との約束を僕は果たすから!」

 レイルンは懸命にレミリアに訴えるが、彼女は困った顔をして、無言で夫であるキレースさんの背後に隠れるように移動する。

 

「あっ……」

 レイルンは絶望感で顔を俯けるが、それでも再び顔を上げて、

 

「君が忘れてしまっていても、きっとアレを見れば思い出してくれるはずだって信じているよ。だから、お願い、レミィ。今日だけは起きていて!」

 そう力強く宣言した。

 

「……レミィ。僕からもお願いするよ。この妖精の子の、レイルン君の願いを叶えて上げてくれないかな? きっとこの子は、君だけのために頑張ろうとしているのだから……」

「あなた……」

 夫に諭され、レミリアは「はい、分かりました」と頷いた。

 

 キレースさんからの言葉に頷いたことに、レイルンは複雑そうだったが、やがて笑みを浮かべ、よかったと微笑む。

 

 その意地らしい姿に、メルエーナは居た堪れない気持ちになってしまう。

 

「さて、それではそろそろ行こうか。こんな大人数での調査は初めてだから楽しみだよ」

 空気を変えるように、キレースはにっこり微笑む。

 

「どうか、案内をよろしくお願い致します」

 ジェノがそう言って頭を下げると、

 

「いやいや、畏まらなくていいよ。案内とは言っても、僕一人でも最深部に行けるような安全な洞窟だから。でも油断だけはしないでね。怪我でもしたら大変だよ」

 キレースはやはり人の良い笑顔で微笑むのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 狭いと聞いていた洞窟だったが、想像よりは道幅も広かった。

 マリアであれば、自分が三人横に並んでもなんとか歩けるほどの幅があり、高さも二メートル以上はある。それでも流石に二人で並んで歩くにはいろいろと不便であるため、当初の予定通り、キレースさん、ジェノ、イルリア、メルエーナとレイルン、マリア、セレクト、リットの順で縦長になって進んでいく。

 

 イルリアとセレクトの光の魔法のおかげで、視界がはっきりしているため、この洞窟の構造もよく分かる。

 

 通路も綺麗に整備されているし、壁も石ではあるものの、人の手が加わっているようだ。

 もう少しだけ不気味なものを想像していたマリアは、少し拍子抜けした気分だった。

 まぁ、それでも訳の分からない虫が這い回るようなジメジメした洞窟の中などを歩きたいわけではないので、これはこれで良かったと前向きに考える。

 

「もともと、この洞窟は、この土地に暮らしている人々の祖先が手を加えたものなんだよ。妖精は小柄な体型が多いから、最初はもっと狭かったんだと思うんだけれど、人々と交流が盛んになるにつれて、不便になっていったから、人間の力を借りて拡張したんだと考えられているんだ」

 先頭を歩くキレースの声は楽しそうだ。この洞窟のことを語りたくて仕方がないらしい。

 

「それでも少し窮屈だろうけれど、もう少し歩けば広い場所に出られるから頑張って。そこで少し休憩をしよう」

 キレースのその言葉に、前を歩くメルエーナがほっと息を吐いた様に思えて、マリアは微笑む。

 

 まだまだ交流が少ないが、マリアはメルエーナに好感を抱いている。

 見ず知らずの妖精のために力を貸すなど、なかなかできることではないし、荒事の経験などないだろうに、こうして洞窟まで付いてくるのだから大したものだと思う。

 

 もっとも、ジェノに好意を持っていることは間違いなさそうなので、マリアとしてもそこは少し複雑ではあるが。

 

「マリア様、足元にお気をつけてください」

「ええ、ありがとうございます、セレクト先生」

 背後のセレクトの注意に返事をし、マリアは足元の僅かな段差を跨ぐ。

 

 まさか、貴族の娘である自分が、冒険物語の登場人物のように、洞窟に潜ることになるなど思いもしなかった。『現実は小説よりも奇なり』という言葉は本当なようだ。

 

(ふふっ。これでジェノとの二人っきりの脱出劇だとかだったら素敵なんでしょうけれど)

 つい不謹慎にそんな事を考えてしまったマリアは、その邪心を心の隅に追いやり、注意深く周りを観察する。

 

 妖精の加護により、危険な生物はこの洞窟には居ないという話だが、油断は禁物だ。こんなところで怪我でもしてしまったら、大変な迷惑をかけることになってしまう。

 

 そうマリアが思ったときだった。

 不意に、左目に違和感を覚えたのは。

 

 痛みではない。疼きでもない。けれど、感じるのだ。誰かがこの奥で力を使ったのを。

 

 マリア自身も初めてのことなので戸惑ったが、確信があった。

 この洞窟の奥には誰かがいて、その人物が今、力を、<神術>を使ったのだ。

 

「ジェノ! 前方に誰かがいる! それに、その人物は何かをしたみたいだから、気をつけて!」

 突然こんな事を言っても戸惑うだけかと思ったが、ジェノは「キレースさん、そこで止まって、後ろに移動して下さい! 自分が前に出ます!」と言って隊列を変更してくれたようだ。

 

「とりあえず、前に進むぞ。この狭い通路では対処できない事柄が多い。リット! 後方は任せたぞ!」

「へいへい。了解了解」

 緊迫感のあるジェノの声と、それとは対象的なリットの声のやり取りが、皆を挟んで行われる。

 

 メルエーナが体を強張らせたのを見て、マリアは彼女に、

 

「大丈夫。私達がいるから」

 と声をかける。

 

「はっ、はい」

 メルエーナは振り返ってこちらを見てきた際には不安そうな顔をしていたが、すぐに表情を引き締めて小さく頷いた。

 芯がしっかりとした女の子だとマリアは感心する。

 

 そして、皆が警戒しながら洞窟を進むと、広い場所に出た。自分達が泊まっている宿の広めの食堂くらいは入りそうなほど開けた場所だ。

 

 そこにはいくつもの人影らしきものがあった。

 

 そう、らしきものだ。それは決して人ではない、骨だけの怪物。

 スケルトンと呼ばれる魔物たちだったのだから。



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㉙ 『戦闘、そして』

 そこに立っているのは、明らかに敵意を持った存在。

 人の骨格だけが自立して剣を構えている。

 

 本来であれば、筋肉がなければ動けるはずがないその骨格が、意思でもあるかのようにこちらに迫ってくる。それは、魔法の力でそれを補っているから。

 つまり、この魔物は自然発生したものではない。この洞窟に入った自分達に対する害意を持った誰かが作り出した罠の一種だということだ。

 

 ジェノ自身、『スケルトン』と呼称されるこの魔物と対峙したことはあるし、倒したこともある。

 

 だが、あのときはこの怪物は地面から現れていたはずだ。けれど、今は違う。

 あり得ざることだが、空間にヒビが入っていて、そこから一匹、また一匹と無尽蔵に湧き出てくるのだ。

 

「イルリア! 風の魔法を貸してくれ!」

「わかったわ! キレースさんは私の後ろに!」

 

 イルリアの了承の声を聞きながら、こちらに向かって剣を振り下ろそうと迫ってくるスケルトンを横に両断し、ジェノは洞窟の開けた箇所に自分達のための空間を確保する。

 このままでは、後衛の魔法の援護を受けられず、退却しか打つ手がなくなってしまうことを危惧しての行動だった。

 

 ジェノはわざと大ぶりに剣を振り、スケルトン達に敢えて攻撃を後方に移動して躱させる。

 それにより、前方にわずかだが距離が生まれる。一足飛びでは近づきがたい距離が。

 

「ジェノ、これ!」

 イルリアの声が聞こえた瞬間、ジェノは利き手とは反対の腕を後ろも見ずに伸ばす。するとすぐに、そこに薄い板のようなものが差し出されたので、ジェノはそれを受け取るや否や、前に向かってその板の中身を開放する。

 

 瞬間、突風が巻き起こり、眼前のスケルトン十体ほどが後方――ジェノから見ると前方だが――に吹き飛ばされて、壁に激突して粉々になる。

 

「みんな、今のうちに前に移動しろ! だが、俺が先頭だ。俺より前には出るな!」

 ジェノは空っぽになった銀の板をポケットに仕舞い、剣を両手で構える。

 

(残敵は四体、だが、速度は早くないが、次々とあのヒビからスケルトンが現れ続けている)

 ジェノは戦況を判断し、後方を確認し、皆がこの開けた部分に移動したことを理解する。

 

「セレクト! あのヒビをどうにか出来ないか?」

「……無理ですね。あれは、魔法ではない。おそらくは<神術>かと」

 セレクトはそう言いながらも、懐から石をいくつも取り出す。

 

「セレクト、後方の守りを頼む。イルリアはキレースさん達の護衛を。リット、お前はあのヒビをどうにかしてくれ。今残っている奴らは俺が片付ける」

「ジェノ、私も……」

 声を震わせながらも、マリアが剣を抜こうとするのを見て、ジェノは声を張り上げる。

 

「マリア、よけいなことはするな! お前もキレースさんを守っていろ!」

「……分かったわ」

 マリアは声を絞り出して応える。

 

「了解了解。あのヒビからスケルトンが出てこないようにすれば良いんだな」

 リットはさも簡単なことのように言って不敵に微笑む。

 

 そして、本格的な戦闘が始まった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 私は剣を構えていたものの、体の震えをこらえるのがやっとだった。

 相手が人間であればそれなりに戦えるつもりだったけれど、相手が不気味な骸骨の化け物では、どうしても恐怖心が先に来てしまう。

 

 どうしてこんなところにあんな化け物がいるのだろう?

 この洞窟は安全だという話だったのに。

 

 ……違う。

 セレクト先生が言っていた。

 あの骸骨が出てくるヒビは<神術>によるものだと。

 

 そうであるのならば、昨日現れた男と同じ様に、私を狙ってきたのだろうか?

 

 どうして、あの左右の瞳の色が違う集団が私を狙っているのかはわからない。私の目に何をしたのかも分からない。でも、彼らに一番襲われる可能性が高いのは私のはずだ。

 

 つまり、みんなは私のせいで危険な目にあっているということだ。

 

 ジェノ達を危険な目に合わせるのも、もちろん申し訳なく思っている。けれど、それ以上に、戦うすべを持たないキレースさんとメルエーナを巻き込むことは更に心が痛い。

 

 私は懸命に勇気を振り絞って、震えを堪えて微笑む。

 

「大丈夫ですよ。ジェノ達は強いですから」

 安心させるようにとの配慮よりも、自分がそう信じたかった気持ちが強かったと思う。

 

 でも、ジェノの剣の腕は知っているし、イルリアさんにも魔法がある。さらにリットさんは、あのセレクト先生も認めているほどの魔法使いなのだから、大丈夫に違いない。

 

 でも、そんな私の笑顔でも、キレースさんは、「わかったよ」と応えてくれた。

 けれど、メルエーナは何も言わない。

 

 怖くて震え、何も言葉を口にできないのではと思い、私は心配して彼女の方を見る。

 

 私の予想どおり、彼女は震えていた。

 武器を持った骸骨の群れに囲まれているのだから、それは仕方のないことだろう。

 

 けれど、彼女は骸骨など見てはいなかった。

 その胸に抱く、レイルンと言う名の妖精を見ているわけでもない。

 

 彼女はただ背中を見ていた。ジェノの背中を。瞬きも忘れたかのように。

 

(……この娘は、本当にジェノのことを……。それだけを……)

 こんなときに抱く感情ではないとは思う。けれど、私は自分の中から湧き上がってくる、何か黒い感情を抑えることが出来なかった。

 

「イルリア、援護の判断は任せる」

 私がそんな事を考えている間に、ジェノは骸骨に斬りかかる。

 そして、あっという間にそれらを倒していく。

 

 何をしたのかは分からないが、リットがパチンと指を鳴らした途端、ヒビから骸骨が現れるたびに消えていくようになった。

 これで、敵が増えることはない。

 

 そして、私の心配など杞憂だったようで、ジェノは残っていた骸骨を全て斬り伏せた。

 粉々になった骸骨は、その形を保てなくなったのか、塵とかしていく。

 

 正直、拍子抜けするほど、あっという間に戦いは終わった。

 

 だが、そこで……。

 

「……うっ、あっ……」

 けれど、そこでまた不意に私は左目に違和感を覚えた。

 しかも、先程までとは違う、痛みを覚えるほどの疼きだった。

 

 そして、次の瞬間、轟音が洞窟内に響き渡った。

 それは、これから私達が向かおうとしている方向から。

 

 誰かがとてつもなく大きな力を使ったのだろう。

 <神術>と呼ばれる力を。

 

 しかし、誰が何のために?

 

「みんなはいつでもここから退却できる準備をしておいてくれ! 俺は先を確認してくる」

 ジェノはそう言い残し、洞窟の奥に向かって足早に進んでいく。

 

「待ちなさいよ、ジェノ!」

「ジェノさん!」

 イルリアとメルエーナの声を背に受けても振り返ることなく、ジェノは一人で進んでいってしまう。

 

「ジェノ!」

 私も痛む左目のことも忘れて彼を呼び止めようとしたが、結局、彼が振り返ることはなかったのだった。 



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㉚ 『宝石のような瞳』

 何があったのかまるで分からない。だからこそ情報が必要だった。

 

 ジェノは愛用のカバンから簡易な魔法が込められた・ランプを起動させて、それを手にして足早に前に進んでいく。

 

 簡易と言っても、魔法の品だ。普通のランプとは単価が違う。

 ジェノのとっておきの品の一つ。だが、今こそそれを使うときだと判断した。

 

 魔法使いであるエリンシアに頼んで作って貰っていたこのランプには、三つの魔法がかけられている。

 一つは、<光>の魔法。もう一つは<隠蔽>の魔法。そして、<消音>の魔法。

 

 <光>の魔法は当たり前だが光源のために。<隠蔽>の魔法は、このランプ本体を持つ者にしか、先の<光>の魔法を認識させないため。消音は足音などを消すためだ。

 

 暗い中を単独で行動する際にしか役に立たない代物だが、こういった場面では何よりも頼もしい。

 ただ、相手も魔法使いの可能性が高いので、過信は禁物だ。

 

 しかし、頭ではそう思いながらも、ジェノは走る速度を緩めない。

 転倒する危険性はもちろん、発見される可能性が上がるリスクも度返しで足をだんだん早めていく。

 

(<神術>という力を使う連中は手がかりだ。あの忌まわしい<霧>と呼ばれるものの情報が今は欲しい)

 自分の体に眠るあの<獣>も、マリアの体に入れられたというものも、全ては<霧>と呼称される未知の物質が関係している。

 

 マリアの体にいつ悪影響を及ぼすのかも分からない。

 あのときの幼子のイースのように、化け物になってしまう可能性が否定できない。

 

 それに、サクリがその生命を差し出し、<聖女>と呼ばれたジューナが、自らの心を殺しながら手を血に染めてまで、多くの命の犠牲を払って打ち消したあの悲劇が、またどこかで起ころうとしている。

 そのことがジェノには耐えられない。じっとしていることなど出来ない。

 

(もう、あんな悲劇は起こさせるものか……)

 ジェノが懸命に進んでいくと、また広い箇所に出た。

 

 メルエーナ達が待っているであろう通路よりも更に広いその場所には、とある物が転がっていた。

 そう、奇妙な話だが『巨大な頭蓋骨が転がっている』としか表せない。

 大きさが人間の五倍はあろうかという頭蓋骨が、床に転がっているのだ。

 

 伝説上の生き物である巨人族の頭がこんなものなのかもしれないと、ジェノが思わず考えてしまったほど巨大なそれは、しかし、ジェノがそれを注意深く観察しようとするよりも先に、燃え上がり始めた。

 

 ジェノはそれに向かって炎を放った人物の方向にランプを向ける。

 そこには、淡い栗色の髪の地味な印象の男が立っていた。

 

 ただ一つ、その右目が、鮮やかすぎる青い輝きを放っている。

 まるで宝石。そうサファイヤを彷彿とさせるほど美しい輝きだった。

 

「……お前がゼイルだな?」

 イルリアがゼイルと呼んでいた男だと確認し、ジェノは剣を抜いて構える。

 

 しかし、先程のように骸骨に襲わせるつもりならば、何故頭蓋骨を焼いたのか分からない。

 ジェノは距離を取ったまま、相手が口を開くのを待った。

 

「ええ。僕がゼイルです。貴方は、たしかジェノさんでしたよね?」

 ゼイルは何故か悲しそう顔をしている。

 

「……っ!」

 ジェノはゼイルの背後に視線をやり、そこでようやく気がついた。

 ゼイルの背後に大穴が開いている事に。

 

 それは、自然に生まれたものでも、人が掘った物でもないだろう。

 

 穴の縁が溶けて、壁に黒い後が残っている。

 それに何より、高熱の何かで巨大な物体が焼かれたであろう痕跡を見つけた。

 

 それは巨大な骨格。先程の頭蓋骨と一対であろう、炭化している真っ黒な骸骨だった。

 

「……何をしたんだ? お前が俺達に、あの骸骨共をけしかけた訳ではないのか?」

 ジェノの問いかけに、ゼイルは困ったように頬を右手で掻く。

 

「すみません。皆さんの方も助けに行きたかったんですが、僕の力を万が一にも『視られる』訳にはいかなかったので……。それに、あのリットさんというおっかない魔法使いさんがいれば、僕の助けはいらないかなぁと思って……」

 ゼイルは答えにならないことを口にして、苦笑する。

 

「質問に答えろ。お前は俺達をつけ回していたんだろう。何故そんな事をした白状してもらうぞ……」

 ジェノは一歩、ゼイルとの距離を縮める。

 

「ああっ、その物騒な剣を向けないで下さい。それに、僕は貴方達をつけ回していた訳ではありません。その、イルリアさんが心配で……」

 ゼイルは何かをゴニョゴニョと口にするが、声が小さすぎて聞き取れない。

 

「イルリア? イルリアをつけ回していたのか?」

 ジェノの低い声に、ゼイルは「いや、その、あの……」となんとも歯切れの悪い言葉を口にする。

 

「とっ、とにかく! もう<霧>には関わらないで下さい! あんなものに関わっても、良いことなんて何もないんですから!」

 突然大きな声で叫んだかと思うと、ゼイルの体が瞬時に視界から消えてなくなる。

 どうやら<転移>の魔法を使ったようだ。

 

 完全に逃げられたことを理解し、ジェノは「くそっ」と苛立ちの声を上げる。

 そして、炭化した大きな骸骨をもう一度見て、ジェノは忌々しげに拳を握りしめた。

 

(またか……。また、俺の力ではどうしようもない出来事が起こっているのか……)

 サクリの最後の笑顔を思い出し、ジェノは絞り出すように怨嗟の言葉を口にしてしまう。

 

「何故、俺は魔法が使えないんだ……。どうして、こんなに無力なんだ……」

 ジェノは少しの間立ち止まっていたが、小さく意識して呼吸をして気持ちを落ち着けると、仲間たちのもとに戻っていくのだった。



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㉛ 『意外な一面』

 ジェノから、先程のスケルトンを仕掛けてきたと思われる相手と、あのゼイルと言う名の男はもう立ち去ったのだと報告を受けたイルリア達は、とりあえずその現場までみんなでやってきた。

 

 そして、壁に開けられた大穴の前で、案内人であるキレースさんが、

 

「そんな……。貴重な遺跡に、こんな大きな傷がっ……」

 そんな嘆きの声を上げて、大穴の空いた壁の前で崩れ落ちる。

 

 それはまるでこの世が終わったかのような嘆きっぷりで、瞳からは涙がこぼれていた。

 最初こそイルリアもキレースに同情的だったが、流石にそのあまりの嘆き様に、少し引き気味になる。

 

 ジェノはリットとセレクトとなにか打ち合わせをしている。

 おそらくこれからどうするかの相談なのだろう。ただ、必要以上に長い気がするので、キレースにどうやってやる気を取り戻してもらうのかが問題なのかもしれない。

 

「あっ、あの……、その……」

「その、キレースさん……」

 イルリアの近くにいるメルエーナとマリアは、なにか声をかけようとしてオロオロしている。なかなかいい言葉が浮かんでこないようだ。

 

 みんながどうしようかと思っていたのだが、しかしそこで、今まで殆ど口を開かなかった者が口を開いた。

 

「なんで、貴方がそこまで悲しんでいるの?」

 メルエーナに抱きかかえられていたレイルンが、そこから離れて着地し、キレースに近寄る。

 その顔は明らかに不満げだ。

 

「だっ、だって! 君たち妖精とこの村の先祖の交流の証なんだよ、この遺跡は!」

 キレースはまるで子供のような口調でレイルンに気持ちを吐露する。

 

「僕はね、いつかこの遺跡にもう一度妖精たちが戻ってくることを夢見ているんだよ。『貴方達、妖精との思い出の地はずっと我々が守ってきました。どうか、以前のような交流を持ちましょう!』って言いたいと思っていたんだ。僕が生きている間には無理かもしれないけれど、いつか、きっと……」

「…………」

 涙ながらの訴えを聞き、レイルンは絶句して驚きの表情を浮かべる。

 

「どうして……。この村には、もう長いこと妖精は来ていないのに……」

「……でも、君が……」

 キレースが口にした言葉に、レイルンの瞳が大きく見開かれる。

 

「僕がこの村に来ていたことを知っているの? それを知っているのは、僕とレミィしかいないはずなのに……」

「あっ……」

 キレースは自らの失言に口に抑えるが、すでに発してしまった言葉はなかったことには出来ない。

 

「……ねぇ、なんで……なんで知っているの? やっぱり、レミィは、僕のことを覚えているの? でも、どうして……覚えていないふりをして……」

「そっ、それは……」

 それだけ言って、キレースは口ごもる。

 

「ねぇ、答えてよ! ……僕が、僕がどんな気持ちでレミィのために……」

 レイルンの声は低くなる。そして、彼の小さい右手に何かが集まっていくのをイルリアは感じた。

 

「レイルン! 駄目!」

 それが風の魔法だと言うことを理解して、イルリアは慌てて止めようとしたが、レイルンはそれよりも早く、キレースに向かって魔法を発射しようとしていた。

 

 しかし、そこで不意に魔法の塊が消えてなくなる。

 

 レイルンが驚きの顔をしたことから、魔法が使えるリットかセレクトの仕業だと思いそちらを見たが、二人とも何もしていないようだ。

 

「なんで! なんで魔法が!」

 レイルンは何度もキレースに向かって掌を何度も向けるが、そこから魔法が出ることはなかった。

 

 戸惑うレイルンは悔しそうに涙目になるが、そんな彼をメルエーナが抱きしめる。

 

 そうだ。すっかり忘れていた。

 レイルンは『守護妖精』と呼ばれるものになっていた。

 

 だから、メルエーナが止めようと思えばレイルンの行動は制限されるようだ。

 

「落ち着いて、レイルン君。そんな怖い顔をしていたら、キレースさんも話せないわ。少し深呼吸をしましょう。ほらっ、ゆっくり息を吸ってみて?」

メルエーナは優しくレイルンに提案する。

 

強く命令すれば無理矢理にでも言うことをきかせる事ができるのだろうが、メルエーナはそうはしない。場違いなほど穏やかに微笑み、レイルンにお願いする。

 

「……うん」

 レイルンはその笑顔に負けて、深呼吸を始める。

 それを微笑ましげに見ていたメルエーナだったが、彼女はキレースの方を向き、静かに頭を下げた。

 

「キレースさん。誠に申し訳ありませんが、レイルン君の問に答えて頂けませんでしょうか? きっとご事情があると思いますが、妖精と人間の良好な関係のためにも、どうか宜しくお願い致します」

「……いや、その、あの……」

 キレースが戸惑っているが、メルエーナは何も言わずに頭を下げ続ける。

 

 いつもは気が優しくて控えめな性格なのだが、幼い子が関わってくると保護欲というか、母性本能が刺激されているのか、メルエーナは頭を下げた姿勢ながらも、一歩も引く気はないようだ。

 

(メルエーナって、案外、強いお母さんになるんじゃあ……)

 少しメルエーナへの評価が変わり、イルリアは驚いた。

 だが、彼女が強い母親になり、夫を尻に敷くくらいになればさぞ爽快だろうと考え、少しだけ驚いたような顔をしている、黒髪の未来の夫候補に意地の悪い笑みを向ける。

 

 残念ながらジェノはその視線に気づかなかったようだが、キレースがメルエーナの意思に根負けし、事情を話してくれることになったのだった。



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㉜ 『対等な関係』

 僕は真実を話さざるを得なくなった。

 

 自分の最愛の妻であるレミリアの秘密を話さなければいけない。

 でも、僕は心の何処かでこうなりたかったのだと、この状況を作りたかったのではないだろうか?

 

 だから、うっかり口を滑らしてしまったのかもしれない。

 

「そんな……。どうして! 覚えているのなら、どうしてあの時に嘘を付いたの? 僕は、ずっとレミィのために……。ずっと、ずっと……」

 僕の話を聴いて、レミリアが幼き頃のことを覚えているのを知って、妖精のレイルンが嗚咽混じりの言葉を口にする。

 

 その姿に罪悪感を覚えた。胸が傷んだ。

 でも、僕はこっそり深呼吸を小さくして気持ちを強く持つ。

 

 もしも、僕がレミリアに出会ったばかりの頃にレイルンが現れたのなら、身を引くことも考えられたかもしれない。でも、もう駄目だ。

 彼女は僕の大切な生涯の伴侶であり、僕らの間に生まれたかけがえのない娘の母親なのだから。

 

「レイルン。君はずっとレミィのためにと頑張ってくれていたんだということは分かった。でもね、レミィだって、ずっと君のことを待っていたんだよ。いつまでも戻ってこない君のことを十年以上も……」

 僕は諭すように目の前の妖精に語りかける。

 

「雨の日も、風の日も、どんな時でも、明日こそレイルンが帰ってきてくれるはずだって思いながら、ずっと待っていたんだ。何度も君と密会していた場所に足を運んでいたんだよ」

「それなら、どうして⁉」

 レイルンの言葉の裏にある気持ちを察し、僕は口を開く。

 

「……遅すぎたんだよ。十数年という月日は、言葉にする以上に重いものなんだ。特に、僕達短命な人間には。幼かった子供も、それだけの時間が経てば大人になってしまうからね」

 きっと、いつまでもレミリアが待ち続けてくれていることをこの妖精は期待していたのだろう。

 長命な者が多い妖精にとっては、十年という月日は短いのかもしれない。

 

 けれど、人間にとってはそうではない。

 

「でも、それでも僕は、一生懸命に早く戻ろうとしたんだ! でも、レミィに掛けていた魔法が解けてしまって……。目印がなくなってしまって、僕は、それでも……」

 レイルンは大粒の涙を零しながら言葉を紡ぐが、それがだんだん弱くなって行く。

 

「不幸な事故だったのだろうね。君が悪いわけではないと思う。でも、レミリアが悪いわけでもないよ。長い時間会えないことで、彼女は君に裏切られたのだと考えてしまっただけだから」

 

 成長していく中で、自分が裏切られたのだと判断したレミリアを誰が責められるだろうか?

 

 いや、違う。

 誰にも責めさせはしない。

 

 そんな事があっても、妖精との交流を実現しようと努力を続けていたレミリアを僕が守り続ける。

 

「……遅すぎた……。そうなんだ……。僕は……レミィを傷つけてしまったんだ……」

 レイルンは力なく洞窟の床面に崩れ落ちるように両手をつく。

 

「……レイルン君」

 それまで黙って聴いていてくれた、レイルンの主人であるメルエーナという少女が、優しく彼を背中から抱きしめ、ひどく悲しい表情をしながらも、僕に感謝の意を表すように小さく頭を下げてくれる。

 

 きっと残酷なことを平然と告げる僕に恨み言の一つも言いたかったに違いない。

 けれど、彼女は聡い娘なのだろう。

 

 もうこれは起こってしまった事柄なのだ。だから、今更何を言ったところで手遅れなのだと理解してくれているのだ。

 

「いいのかい、キレースさん? この出来事は、妖精と人間との良好な関係を育むための障害になるんじゃあないの?」

 魔法使いの……リットだったはずだ。彼が、口元に笑みを浮かべながら尋ねてくる。でも、これは質問ではないことくらいは僕にも分かる。

 

 これは、助け舟だ。

 

「そうだね。でもね、私は妖精と人間が対等な関係でありたいと思っているんだ。もちろん互いに譲歩しなければいけないところは出てくるだろうけれど、本音で語り合えない関係というのは、私の望む友好ではないからね」

 僕はそう言って、話を綺麗にまとめる事ができた。

 

「……対等な関係……」

 レイルンはそう呟くと、視線をこちらに向けてくる。

 

「ああ。お互いの思っている事を話し合える関係でありたいと私は思っているんだ。だから……」

 僕はニッコリと微笑む。

 

「レイルン。私は、君の大切な人を奪った男だよ。そんな私に言いたいことがあるんじゃあないかな?」

「……うん」

「そうだよね。それなら、その言葉をぶつけてくれないかな? ただ、私も言われっぱなしではないけれどね」

「えっ?」

 キョトンとした顔をするレイルンに、僕は微笑んで見せる。

 

「私は腕っぷしは強くないし、君のような魔法も使えない。でもね、一つだけ君に負けないことがある。それは、レミリアを誰よりも深く愛していることだ」

「待ってよ! それはおかしいよ! 僕だってレミィの事を大切に思っているんだ! 誰にも負けないくらい!」

 僕の見え透いた挑発に、レイルンは乗ってきた。

 

 そして、そこからどちらがより大切に思っているかの口論が始まる。

 

「……セレクト。念のため先を確認しておきたい。同行してくれ。イルリアとマリアはリットを先頭にして帰路の確認を頼む」

 黒髪の端正な容姿の若者――ジェノがそう言って二人を連れて離れてくれる。

 

 後はただの一本道で、さしたる距離がないはずだし、往路として来た道を再確認というのはいささか心配しすぎだ……などとは思わない。

 言葉にしなくても、こちらの意図を汲んでくれる若者に、僕は心のうちで感謝する。

 

「わかったわよ。メル、そう遠くは行かないから、ここは貴女に任せるわね」

「大変でしょうけれど、お願いします」

 女性陣も、肩をすくめるリットについてこの場から離れてくれる。

 

 ただ一人この場に残ったメルエーナも、何も言わず、僕達の口論をただ黙って見守ってくれる。

 

 大人気ないが、僕は本気でレイルンと口論をした。

 

 レイルンは怒り、文句を言ってくる。

 僕はそれに言い返す。そんなやりとりを続ける。

 

 そしてそれは、やがてレイルンからの質問に変わっていく。

 

「レミィは、貴方といつ出会ったの?」

「レミィは、お母さんになって大変じゃあないの?」

「レミィは、後悔していないの?」

 

 そんな質問が続き、だんだんレイルンの顔から怒りの表情がなくなっていき、ポロポロと涙を流しながら質問を続けてくる。

 

 そして最後に、

 

「ねぇ、レミィは今、幸せなの?」

 

 レイルン涙でびしょ濡れになった顔で尋ねてきた。

 

 そして僕は、その問いに、「もちろんだよ」と答えたのだった。



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㉝ 『二人だけの約束』

「ここだ。間違いない!」

 

 案内役のキレースが指摘するよりも先に、レイルンはその場所が目的地であることに気がついたようで、メルエーナの腕から離れ、ジェノ達の横を縫うように駆け抜けていく。

 

「レイルン、一人で飛び出すな!」

 ジェノが注意をしたが、彼の耳には入っていないようで、洞窟の先にある『光』に向かって進む。しかたなく、彼は隙間をうまく使って先頭のキレースと場所を変え、レイルンを追いかけて捕まえた。

 

「はっ、離してよ!」

「慌てるな。周りの確認が済んでからにしろ。あれ以降は敵襲はないが、ここが安全とは限らない」

 ジェノに窘められ、レイルンは「わかった……」と申し訳無さそうに言う。少しは反省しているようだ。

 

 後ろを振り返ると、後続の皆も、明らかにこれまでとは異なるこの場所に入ってくる。

 光がさしているこの場所は、通路よりもずいぶん広くなっている。だがそれよりも、その光景に皆は驚いているようだ。

 

「話には聴いていましたが、不思議な光景ですね」

 セレクトが皆を代表して感想を口にする。

 

「そうだな」

 先にキレースに説明を受けていたが、やはり洞窟内に陽の光が差し込むのは奇妙だとジェノも思う。

 これが長い月日によって岩が削れていった結果、この洞窟の最深部に光が漏れ込んでいるというのであれば奇跡だ。だが、その光は細く歪みのない直線としてこの場所に降り注いでいる。

 どう考えても自然にできたと考えるには無理があるだろう。

 

「不思議ですね。この光は、太陽の光なんですよね?」

 マリアの言葉に、キレースが子供のような顔で頷く。

 

「ええ。そうですよ。でも、僕にはどうしても分からなかった。この光が差し込む場所にどのような意味があるのかが。それが、ようやく分かるんですよ!」

「……別に、貴方に喜んでもらうためにやるわけじゃあないよ。レミィとの約束のためだからだよ」

 待ちきれない様子のキレースを見て、先程駆け出した本人とは思えないほど白けた目を向けるレイルン。

 

 惚れた腫れたという感情に疎いジェノでも、キレースとレイルンの間には、まだ納得がいかない部分があることくらいは分かった。

 

「お姉さん、少しだけ魔法を使うよ」

「ええ。大丈夫」

 レイルンはメルエーナに許可を取り、光の細い筋に近寄る。

 

 皆は好奇の眼差しを向けるが、ジェノは一人それを見ようとはせずに、辺りを警戒する。

 

 危険はないとは思う。何の気配も感じない。

 けれど、警戒は怠れない。

 

 ……そんな下手くそな嘘を己につき、ジェノはその光景から目をそらそうとした。

 だが、そこで、

 

(警戒は俺がしているから大丈夫だぜ、ジェノちゃん)

 不意にそんな言葉が頭に響いた。

 

 その声の主に、リットに顔を向けると、彼はいつものにやけた顔をしている。

 

(……そうだな)

 何事もお見通しな悪友の言葉に、ジェノは観念し、自らの心と向き合う決意をした。

 

「アムリ・センディル・カンシリア……」

 レイルンの口から意味の分からない言葉が紡がれていく。すると、陽の光を受けている箇所を中心として、床の一部が三十センチほどの正方形の大きさで光りだす。そして、その部分が隆起しはじめ、ジェノの膝ほどの大きさの台座に変わった。

 

 レイルンは魔法の力で浮かび上がると、その台座の上にゆっくりと膝から着地し、自らの懐から取り出した小さな鏡をその台座の中央部分に置く。

 

 それも魔法の効果なのか、鏡は台座に沈んでいき、初めからそうであったかのように台座と一体化した。

 

「これは、どういうことだ?」

 キレースのそんな驚きの声は、ジェノ達の誰もが思ったことだった。

 

 台座に取り込まれるまでは、鏡は太陽光を普通に反射していた。だが、今は違う。方向がおかしい。平らな断面のはずの鏡が乱反射をするかのように、この開けた部分の天井付近をいくつも指し、そこに新たな光が通る道筋が出来上がっていくのだ。

 

「……キンプ・ル・アルエク」 

 新たな光が差し込み、眩いばかりの光量となった鏡は、しかし、レイルンの言葉が終わるのと同時に不意に反射を止める。

 それは、鏡が台座の中に埋もれてしまったためだった。

 

 不可思議な現象であったが、結果としていくつかの光が差し込むようになっただけで、それ以外の変化は起こらない。正直、肩透かしな気さえする。

 

「その、結局、あの鏡を台座に置いたことで何が起こったんだい?」

 キレースは居ても立ってもいられないのか、レイルンに尋ねた。だが、そんな彼にレイルンは舌を出して「教えてあげない」と言ってそっぽを向く。

 

「レイルン君、意地悪をしなくても……」

 メルエーナが説得しようとしたが、レイルンは「絶対に嫌だ」と言ってきかない。

 

「確かに、今のレミィは貴方の奥さんかもしれないけれど、これは僕の大切な人だった時のレミィとの、二人だけの約束なんだ。だから、この後起こることは僕とレミィだけの秘密。ぜぇぇぇぇったいに教えてあげない!」

 レイルンはもう一度キレースに向かって舌を出し、メルエーナの後ろに隠れる。

 

 縋るような目でキレースがメルエーナを見たが、彼女は「すみません」とその無言の懇願を断った。

 メルエーナはレイルンの気持ちを慮っているようだ。

 

 人の意見に流されやすいかと思っていたが、どうしても譲れない場所ではしっかりと自らの意思を伝えることができるメルエーナの姿に、ジェノは内心で少し感心するのだった。



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㉞ 『主婦の悩み』

 なんとかバルネアさんをお茶に誘うことができた。

 夫たちが遺跡に向かっていった後、彼女が戻ってくるのを家の外に出て待っていた甲斐があったというものだ。

 

 ただ、非常に図々しいお願いだという自覚はあったので、ここからどう話を切り出そうと思っていたのだが、そんなことは杞憂だった。

 

「素敵な台所ですね」

 お茶を一口のんだ彼女――バルネアは、居間から見えるレミリアの家の立派な台所の話題を振ってくれたのだ。

 

「あっ、ありがとうございます。ですが、その、立派すぎて上手く使いこなせていないといいますか……」

「あら? 詳しくお聞きしてもよろしいですか?」

「はっ、はい。その、実は……」

 そこで、レミリアは自分の置かれている現状をバルネアに包み隠さずに話した。

 

 結婚前から、自分は料理がそれほど得意ではないことと、そんな拙い料理でも、夫であるキレースはたいそう喜んでくれるため、頑張ってお弁当などを作っていた。

 だが、夫は妻が料理上手だと誤解したようで、この新居を建てる際に、普通の家庭にしてはあまりにも素晴らしすぎる台所を用意してくれたのだ。

 

 レミリアは何度も普通の台所でよいと言ったのだが、夫が「料理上手な君の腕を存分に振るってほしいんだ」と目を輝かせていうので、結局こうなってしまった。

 

 それでも、家族だけで食事をしているのであれば特段問題はなかった。

 だが、娘が生まれて、しだいに大きくなるにつれて、同年代の奥さんとのご近所付き合いも増えてくる。

 

 このままだと、『あの家の奥さんは、台所はものすごく立派なのに、大した料理が作れない』と揶揄されるのではないかと恐々としているのだと相談した。

 

 するとバルネアはこちらの意図を理解してくれたようで、にっこり微笑み、

「私で良ければ、簡単で見栄えのする料理をお教えしますよ」

 と言ってくれたのだった。

 

 プロの料理人、更にはあの有名なバルネアシェフの教えを受けられる機会など、願っても叶わないことだ。レミリアは頭を下げて「お願いします」と懇願する。

 

 そして、娘がいつものようにご近所の奥さんであるバニアーリさんと彼女の息子と遊びに出かけた後、料理の特訓を続ける。

 

「と、ここまでは先ほどお話した料理と作り方は同じです。ですので、ここまでの過程を覚えておけば数種類の料理に応用が効くということですね」

 バルネアの説明はとてもわかりやすかった。

 それに、包丁の使い方のアドバイスまでしてくれたので、レミリアは心底ありがたかった。

 

「というわけで、ゆっくりやるとこんな感じですね。慣れるとスピードを上げることはできますが、最初のうちは正確さ重視で行きましょう。それと、これは基本中の基本ですが、味付けは最初は加減をして、薄ければ後から調味料を足していきましょう。当たり前に思われるかもしれませんが、新しい料理に取り組む際には、こういった基本を忘れがちですから」

 こちらのレベルに合わせた懇切丁寧な指導が、レミリアには涙が出そうなくらいに嬉しい。

 

「この料理本に載っている料理は、今までの調理方法でおおよそ作ることができるはずです。それと、これが私の家の住所です。もしも何か分からないことがありましたら、こちらに手紙を頂ければお答えいたしますので」

 その上、住所を書いたメモを渡してくれて、そんなことまで言ってくれた。

 

 あの有名なバルネアシェフの指導を受けられただけでも行幸なのに、誼を結ぶことまでできて、レミリアはこの幸運を神様に感謝する。

 

 それから、二人で楽しく談笑していると娘のフレリアが帰ってきた。

 楽しい時間というのは本当にあっという間だと、レミリアは実感する。

 

 そう。本当に楽しい時間というのは瞬く間に過ぎてしまうものだ。

 時はいつも静かに駆け足で進んでいくのだとレミリアは知っている。

 

「お母さん、凄く良い匂いがする!」

 食欲旺盛な娘が、家に入ってくるなりスンスンと鼻を鳴らして満面の笑顔を浮かべる。

 

 レミリアは、「お父さんが帰ってくるまで待ってね」と言って、玄関に向かい、いつもお世話になっているバニアーリさん達にお礼を言い、バルネアの指導のもとに自分が作った料理をおすそ分けすることにした。

 

「あらまぁ、美味しそう」

 とバニアーリは喜んでくれて、彼女の息子と家に帰って行った。

 

 レミリアは、よし! と一人ガッツポーズをこっそりとして、嬉しそうに居間に戻る。

 

 だが、そこで……。

 

「でね、でね! うちのお母さんはすっごく料理が上手なんだよ! おばさんは料理人かもしれないけれど、うちのお母さんには敵わないんだから!」

 自信満々にバルネアにそんな的はずれなことをいう娘の姿を発見し、血の気が一瞬で引いていく。

 

「ふっ、フレリア! バルネアさんになんて失礼な事を言うの! わっ、私の料理なんて……」

 慌てて娘の口を抑えようとしたレミリアだったが、バルネアに片手で待つようにジェスチャーをされてしまった。

 

「ふふっ、そうなの。料理が上手なお母さんで、フレリアちゃんは幸せね」

「うん! 料理が上手で優しいお母さんと、頭が良くて優しいお父さん! 二人がいるから、私はとっても幸せなんだよ!」

「うん、うん。そして、きっと、こんなに可愛いフレリアちゃんがいてくれるから、お父さんとお母さんも幸せなのよ。だから、お父さんとお母さんの言うことをきちんと聞いて、いい子にしないとね」

「はい!」

 元気よく返事をする娘の姿に、バルネアは目を細めて微笑む。

 

「ただいま。今帰ったよ」

 そして、まるでそのタイミングを見計らったかのように、夫が帰ってきた。

 

 いつもと同じ声にレミリアは安堵し、フレリアはバルネアに背中を向けて、お父さんを迎えに走る。

 

「キレースさんが帰ってきたということは、ジェノちゃん達も宿に戻ると思いますので、私はこれで失礼しますね」

「あっ、その、すみません。たいしたもてなしもできないどころか、教えて頂くばかりで……。それに、娘があんな失礼な事を……」

 レミリアの謝罪に、「いいえ」とバルネアは首を横に振る。

 

「私も料理がしたくてウズウズしていたので、本当にありがたかったです。それと、フレリアちゃんの言っていたことは何も間違っていませんよ。

 大好きなお母さんが作ってくれる美味しい料理ほど、子供が幸せになれるものはありませんから。どうか、このことも忘れないでくださいね」

 その言葉に、レミリアは感銘を受けて、しっかりと心に刻み、腕を磨くことを決意するのだった。



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㉟ 『別れのとき』

「大丈夫か、メルエーナ?」

「はい。夕食前に少し休んだので平気です!」

 レイルンは準備があるらしく姿を消しているので、薄暗い道を二人で手をつないで歩くメルエーナとジェノ。

 

 またあの左右の瞳の色が違う男の人達が現れるのではないかという恐怖も少しはあるが、ジェノとこうして連れ立って夜道を歩けるのは思わぬ役得だとメルエーナは思う。

 

 

 レイルンが鏡を設置した後は、何事もなく無事に洞窟を脱出することができ、メルエーナ達は、キレースさんの家を訪ねていたバルネアと一緒に宿に帰ってきた。

 けれど、レイルンがこっそり自分に話してくれた内容を信じるのならば、これからこそが重要らしい。

 

 ただ、レイルンがあまり多くの人にこれから行う儀式を見せたくはないと言うので、疲れているだろう他の皆には宿で休んでいてもらい、メルエーナは一番自分が信頼できて、側にいて欲しい人に同行を求めたのだ。

 

「俺にはよく分からんが、レイルンに力を分け与えているのだろう? 辛くなったらすぐに言ってくれ」

「はい。でも大丈夫です。まだまだエリンシアさんの力が残っていますので」

 メルエーナはレイルンと繋がっているが、力を奪われるような感覚はまったくない。

 

「……そうか」

 ジェノは短くそう言い、視線をメルエーナから逸して前を警戒する。

 それは自分のことを気遣ってくれているからこその行動だとメルエーナも理解している。けれど、ジェノの顔に憂いのようなものが見えた気がしたので不思議に思う。

 

 それから、ジェノは一言も言葉を発せずに歩き続ける。

 メルエーナは声を掛けようかと思ったが、ジェノがそれを嫌がっている気がして、結局何も言えず、星空が輝き始めた空の下をランプの明かりを頼りに二人で目的の場所まで無言で足を進めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 たどり着いた。

 目的地に。レセリア湖に。

 

 すると音もなくレイルンが姿を現した。

 そして、彼は静かに地面から足を離して湖水の上に浮かんだかと思うと、くるっと振り返り、メルエーナの方を向いた。

 

「お姉さん、ありがとう。僕のワガママをここまで叶えてくれて……」

 レイルンはそう言って微笑んだ。無邪気な少年のような、それでいて寂しげな表情で。

 

「これから僕は大きな魔法を使う。レミィとの約束を果たすために。でも、その魔法を使ったら、僕はきっとこの世界で存在を保てなくなると思うんだ」

「……そんな……。だって、まだレミィさんと……」

 メルエーナは突然の事態に驚く。

 

「ううん。いいんだ、もう。レミィには、もう僕以上に大切な人がいるみたいだから。僕がこの世界に残っても、きっとレミィを悲しませるだけだもん……」

 レイルンは微笑んだまま、大粒の涙をポロポロとこぼす。

 

「……レイルン君」

 なにか言葉を掛けようと思ったが、メルエーナは言葉が見つからない。

 

「ただ、僕はお姉さんに最後も迷惑をかけてしまうのを許して欲しいんだ。僕もなるべく自分の力と、あのエリンシアというお婆さんがくれた力だけで魔法を完成させるつもりだけれど、もしかすると少し足りないかもしれない。すると、お姉さんの魔法力も使わせて貰うことになってしまうんだ」

 レイルンは申し訳無さそうにメルエーナに告げる。

 

 魔法力というものがどのようなものかは分からない。けれど、メルエーナはレイルンのためにどんな協力も惜しむつもりはなかった。だから、その事を口にしようとしたのだが、それまで黙っていたジェノがそれを遮るように前に出た。

 

「レイルン。メルエーナの代わりに、俺から力を奪うことは出来ないか?」

「ジェノさん、何を!」

 メルエーナが驚きとともにジェノを見るが、彼はただレイルンを見つめて問うのみだった。

 

「……ごめん。それはできないんだ。お兄さんはまったく魔法力を持っていないから……。お兄さんの中の良くないものは魔法力を持っているかもしれないけれど、あれは負の力だから、魔法が汚れてしまうし……」

「……やはりそうか。すまなかった。忘れてくれ。ただ、メルエーナへの負担は……」

「うん。必ず最小限にするよ。それだけは、絶対に……」

 

 レイルンの言葉に、メルエーナの心はかき乱される。

 

 以前にもレイルンは言っていた。ジェノには良くないものに取り憑かれてしまっている、と。

 そしてジェノはその事を知っているようだ。

 

 それなのに、どうして当たり前のように、それが何事でもないかのようにしているのか分からない。自身のことよりも、私の事を何故心配してくれるのかわからない。

 

「どういうことですか、ジェノさん?!」

 メルエーナはそう問い詰めようとしたが、ジェノは顔を逸し、「別の機会に話す。今は、お前の体が心配だ」と言って口を噤んでしまう。

 

「ごめんね。僕のわがままでお姉さんを苦しめて……」

 レイルンが申し訳無さそうに言うので、メルエーナもそれ以上ジェノに追求することが出来なかった。

 

「でもね、約束は忘れていないよ。お礼をするから、楽しみに待っていてね」

 レイルンは笑顔でそう言うと、

 

「ありがとう、優しいお姉さん。それじゃあ、さようなら」

 そう言い残し、レイルンは湖面よりも少しだけ高く浮き上がったまま、スピードを上げて湖の奥に進んでいってしまう。

 

「レイルン君!」

 メルエーナは名を叫んだが、レイルンが振り返ることはなかった。

 

 そして、僅かの間を置いて、星々と月を映しだしていた鏡のような湖面が、不意にまばゆい光を放ち始めたのだった。



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㊱ 『譲れないもの』

『君が忘れてしまっていても、きっとアレを見れば思い出してくれるはずだって信じているよ。だから、お願い、レミィ。今日だけは起きていて!』

 レイルンは今朝、レミリアにそう告げた。

 

 そして、夫がそれを許してくれたので、夕食後に眠くなってしまった愛娘を寝かせたレミリアは、居間のテーブルに腰をおろして外を見るとはなしに見ていた。

 

 もっとも、昼とはことなり、明かりがないその方向を眺めても闇以外は何も見えないのだが。

 

 夫が寝室にこもっていてくれているので、本当に良かったと思う。

 罪悪感に押しつぶされそうな今の自分は、きっとひどい顔をしている。

 

 

 覚えている。

 幼かった自分が指輪をレイルンに強請ったことを。エメラルドではなく、他の輝く石を願ったことを。

 それは、幼く無知であったがために出たとんでもないお願い。

 けれど、私が大好きになった妖精は、レイルンは、その願いを叶えるためにずっと頑張り続けてくれていたのだ。

 

 でも、あれは幼い頃の、物を知らなかった無知な自分が願った無茶なお願い。

 いくら妖精のレイルンでも、叶えられるはずがない。

 

「裏切られたと思っていた。けれど違った。私がレイルンを裏切ったんだ……」

 幼き時の約束を守り続けることが出来なかった自分。そして、その後ろめたさから、レイルンが訪ねて来てくれたときにも、過去を忘れてしまったフリをしてしまった自分。

 

 それなのに、それなのに……。

 レイルンは一生懸命、こんな私のお願いを叶えようとしてくれている。

 

「……レミリア」

 涙を流しているタイミングで、夫のキレースがランプを片手に寝室から出てきた。レミリアは慌てて涙を拭う。

 

「あなた……」

 口から自然に出た、もうすっかり馴染んだ呼称にさえ、レミリアは不安になる。

 人間と妖精の共存を心から願っているこの人を、無垢な妖精を傷つけた、自分のような狡くて不義理な女が、そう呼ぶ資格があるのかと。

 そんなふうに考えると二の句が続けられなくて、顔を俯けてしまう。

 

「…………」

 キレースは何も言わずに、静かにこちらに歩み寄ってくると、ランプをテーブルの上に置いた。

 

「レミリア、そんな顔をしないでくれないかな。……君が悪いわけではないよ。もちろん、レイルンが悪いわけでもない。ただ、君達はすれ違ってしまっただけなんだ」

「……でも、私は……」

 レミリアの言葉を遮るように、キレースは俯いたままのレミリアを優しく抱きしめた。

 

「フレリアの前では話すことを躊躇われたから言っていなかったんだけれど、今日の洞窟探索の際に、僕はレイルンと口論をしたんだ。その内容は、僕とレイルンのどちらが君のことを大切に思っているかについてだった」

「……えっ?」

 レミリアは顔を静かに上げて、夫の顔を見上げる。

 ランプの明かりでもわかるくらい、キレースは耳まで真っ赤にしていた。

 

「結果は、僕の勝ちだった。僕がどれほど君のことを大切に思っているのかを、愛しているのかを伝えて、今の君が幸せだと伝えたら、レイルンは分かってくれたよ」

「……ごめんなさい。貴方に酷いことを任せてしまって。本当は私が言わなければいけないことなのに」

 レミリアの瞳から、再び涙がこぼれ落ちる。

 

 狡いと思う。卑怯だと思う。不義理をしていると思う。

 けれど、あの時と変わらない真っ直ぐな目をした一途なレイルンに、レミリアは向かい合うことが出来なかった。

 あまりにも残酷なことをした罪悪感に押しつぶされてしまいそうで……。

 

「それは違うよ、レミィ。僕と二人で口論をしたから、レイルンは君を諦めてくれようとしているんだ。もしも直接君から拒絶されたら、あの子はもっと深い傷を負うことになっていたはずだからね」

「……でも、私は……妖精を、レイルンを裏切って……。貴方は、ずっと人間と妖精のために……」

 端的で、要領を得ない言葉しか言えなかったが、レミリアの気持ちを、夫はきちんと理解する。

 

「うん。僕は人間と妖精の関係を改善したいと思っている。だけど、それは対等なものでなければいけないんだ。もちろん譲歩しなければいけないことはある。けれど、どうしても譲れないものだって互いにあるはずだ」

 キレースはそう言って、微笑んだ。

 

「僕にとっては、君とフレリアがそうだよ。たとえ初恋の相手だって、君を譲ることは出来ない。レミィ、僕は君を心から愛している……」

「あなた……」

 そこまでが限界だった。レミリアが声を押し殺して泣いていられたのは。

 

 レミリアは幼子のように声を上げて泣いた。

 ずっとずっと胸にためていたものを、吐き出すかのように。

 

 そして、レミリアがようやく気持ちを落ち着かせた頃だった。

 

「なっ!」

「えっ?!」

 真っ暗なはずの外から、光が差し込み始めたのは。

 

 時間的には、これから闇が深まることこそあれ、明るくなるのはもっともっと先のはずなのに。

 

「もしかして、これは、レイルンが……」

 レミリアの言葉に、キレースは頷く。

 

「お父さん、お母さん! お外がすっごく明るいよ!」

「フレリア……」

 隣の部屋から、幼い我が子が飛び出してきた。

 

 しかし、光で目が覚めたにしてはタイミングが早すぎる。

 きっと自分が大声で泣いてしまったから起こしてしまったのだろうとレミリアは後悔するが、今はそれよりも優先しなければいけないことがある。

 

「レミィ、フレリアを一人で家においておく訳にはいかないよ。外に出かける準備をして。僕もすぐに支度をするから!」

「……はっ、はい!」

 夫の指示に従い、レミリアは娘を急いで着替えさせる。

 

 この光はきっとレイルンが何かをしたからに違いない。

 それならば、事の当事者である自分が彼のもとに行かなければならない。

 

 そんなことで罪滅ぼしにはならないことは分かっているが、せめてそれだけはしないといけないのだ。

 レミリアはそう思いながら、娘の着替えが終わると、自分も服を着替え始めたのだった。



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㊲ 『宝石』

 それは、奇跡の光景としか言えないものだった。

 

 湖がまばゆく輝いたが、その明かりは目をくらませたのは一瞬だった。

 すぐに鏡面のような湖の水面には明るくも優しい、可視できる程の光に包まれたのだ。

 

 周りが明るくなったおかげで、かなり遠くにだが人影が、レイルンの姿らしきものが見える。

 

 メルエーナはその光景に目を奪われた。

 湖から光り輝く煌めきが、数え切れないほどの光の粒が湧き上がっていく様が、あまりにも幻想的だったから。

 

 レイルンは両手を広げている。そして、湖の明かりが彼に向かって収束しているようだ。

 そして、レイルンの前で光の粒は重なっていき、少しずつだがそれが合わさっていく。

 

「……あっ、うっ……」

 不意に、メルエーナの体から力が抜け始める。

 

「メルエーナ!」

 危うく頭から転倒しそうになったが、ジェノが既のところで抱き支えてくれたので、事なきを得ることが出来た。

 

「すっ、すみません、ジェノさん……」

 メルエーナは赤面しながら謝った。

 男性の、ましてや好意を抱いている人の逞しい腕と胸板に優しく挟まれるのは、メルエーナには刺激が強かったのだ。

 

「謝るな……」

 ジェノは短くそう言ったが、何故か彼は口惜しそうにしているように見えた。

 

(ごめんね、お姉さん。もう少しだから……)

 メルエーナの頭に、レイルンの声が聞こえた。

 

 だから、メルエーナもそれに応え、

(大丈夫。私は大丈夫だから、頑張って、レイルン君!)

 そうレイルンを応援する。

 

「何だ、これはいったい何なんだ?!」

「見ろ! 湖の水面に、なにか小さいものが浮かんでいるぞ!」

「もしかして、あれは……」

 不意に、第三者達の声がメルエーナの耳に入ってきた。

 

 夜に突然このような光があふれているのだ。

 それに村人たちが気づかないはずはない。そして、自分たちがいるこの場所が村から最も湖に近い箇所だ。そこに人々が様子を見に来るのは当然のことだった。

 

(ありがとう、お姉さん。妖精界から手伝いが来てくれた。だから、もうお姉さんから力を貰わなくても大丈夫みたい)

 レイルンはそうメルエーナに言葉を伝えてきた。

 

「手伝い? えっ、あっ……」

 メルエーナの体から力が抜けていく感覚がなくなるのと同時に、彼女とジェノの前に、輪郭こそ輝く緑色だが、ガラスのように透明な肢体の小さな少女が何体も周りを舞っていた。

 

「これも、レイルンと同じ妖精なのか……」

 あのジェノさえも呆然としている。

 

 しかし、それも無理の無いことだろう。

 湖の鏡面から、小さいけれど美しい姿の妖精たちが何体も現れてくるのだから。

 

「ありがとう、優しい人間さん。私達の王子様のお願いを叶えてくれて」

「ありがとう、皆さん。私達の住処を、あなた達との友好の証を守り続けてくれて」

 妖精たちは感謝の言葉を述べながら、光り輝く体で湖の周りを舞う。

 

 湖の光だけでなく、色とりどりの妖精たちが舞うその様は、絵にも描けないほどの美しくも幻想的な姿だった。

 

「王子様? レイルン君が?」

 メルエーナは思いもしなかった事態に驚く。

 

「ええ、そう。レイルンは、私達の王子様!」

「いたずら好きで、すぐに妖精の世界を飛び出してしまう困った子」

「でも、『あの鏡』を使いたいからと、王様の与えた試練を突破した!」

「それもみんな、大好きな女の子をお嫁さんにするため」

「でもお嫁さんは妖精じゃあなくて、人間の女の子」

「だから石が必要なの。星の輝を纏ったあの石が!」

 

 妖精たちは口々に歌うような様子でメルエーナ達に教えてくれる。

 

「さぁ、みんな、僕に力を貸して! 石を作るんだ! レミィのために、二つと無い綺麗な石を!」

 その言葉に、好き勝手に飛び回っていた妖精たちは、彼のもとに集まり、皆で両方の手のひらをレイルンの胸の前に集まった光の集合体に向かって何かを唱え始める。

 

 あまりの光景に、続々と集まってきた村人たちも呆気にとられて何も言葉を口にできない。 

 それは、メルエーナとジェノも同じだ。

 

 レイルンの胸の前に浮かんでいた光が、固形化して綺麗な形に整えられていく。

 そして、それがダイヤモンドカットと呼ばれる形になると、レイルンはこちらに向かってゆっくり飛んできた。

 

 いや、正確にはメルエーナの方に向かったのではない。

 彼はメルエーナにニッコリと微笑んでくれたけれど、彼女の横を通り過ぎて行ってしまったのだから。

 

 レイルンは、村人たちを飛び越えて、一人の女性の前までやってきた。

 そして、宙に浮かんだまま、その女性と自分の顔の高さを合わせると、静かに胸の前の優しくも温かな光を宿す石を、この世に二つと無い宝石を彼女の前に差し出した。

 

「……レミィ。遅くなってしまったけれど、これが君との約束の石だよ。あの時、君が願った宝石を持ってきたんだ」

 レイルンはポロポロと涙をこぼしながらも微笑む。

 

「……レイルン……。レイルン……」

 レミィは宝石を前に、両手で顔を抑えながら涙を流し続ける。

 

 そして、その光景を目にしているメルエーナも、二人につられて涙が流れるのを止めることが出来なかった。



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㊳ 『妖精はそう言い残し』

「ふふっ。これで後は指輪があれば、私は貴方のお嫁さんになれるわ」

 

「指輪? 指輪ってなに? それが必要なの?」

 

「指輪っていうのは、薬指にはめる輪っかで、小さいけれどすごく綺麗な石が付いているの」

 

「綺麗な石の付いた輪っか? それが必要なんだね」

 

「うん。お母さんの指輪には、エメラルドという緑色の綺麗な石が付いているのよ」

 

「その、エメラルドと輪っかが必要なんだね」

 

「待って、レイルン。指輪の石は綺麗なだけじゃあなくて、そのお嫁さんが好きな石じゃあないと駄目なのよ」

 

「そうなんだ……。それじゃあ、君はどんな石が好きなの?」

 

「あのね、レイルン。私は……あのお星さまみたいな石がいいわ」

 

「お星さまのような石?」

 

「うん。あんなふうに、綺麗で優しく光る石が欲しいの」

 

「……そうか。うん、わかったよ! 君をお嫁さんにするために、僕は必ずあの星の光を宝石にして君に贈るよ」

 

「えっ? 本当? そんな事ができるなんて、レイルンてすごい! さすが私のお婿さんね!」

 

「少しだけ待っていて。そのためには、『鏡』が必要なんだ。それに、父さんの許可も……」

 

「わかったわ。待っているから。だから必ず私を貴方のお嫁さんにしてね」

 

「うん。大好きだよ、レミィ」

「ええ。私も大好きよ、レイルン」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 頭に、幼い少女とレイルンのやり取りが流れ込んできた。

 レイルンの感情の爆発が大きすぎて、まだ魔法によって繋がっているメルエーナの脳裏にその時の光景が浮かんできてしまったのだろうと、メルエーナは推測する。

 

 幼かった頃のレミィ……レミリアとレイルンのやり取りは神聖で真剣な約束だったに違いないと思う。けれど、あの時と今では状況が違いすぎる。

 

 レミリアはもうキレースの妻であり、フレリアの母なのだ。

 あの頃と何も変わらないレイルンとは……。

 

 レイルンが手にしている優しく輝く宝石がどれほど大掛かりな魔法を行使して作られたものであろうかは、その知識が殆どないメルエーナにも察することができる程だ。

 でも、レイルンにそれを差し出されたレミリアは、顔を覆いながら涙を流し、「ごめんなさい、レイルン。ごめんなさい……」と繰り返し続ける。

 

 妖精が村に現れて、大掛かりな魔法の儀式のような事柄が行われたことに驚いていた村人たちも、せっかく妖精が差し出してくれている光の前で涙を流すレミリアを訝しみ始めてきたのが感じられた。

 

「どうして妖精様が、キレースの嫁さんに話しかけているんだ? それも親しげに……」

「そうだな。まるで妖精様の知己かなにかのように……」

 

 そんな無責任な言葉が聞こえてきて、メルエーナはどうしたものかと思ったが、未だに体に力が完全に戻らず、ジェノに体を預けた状態のまま動けないので、何も対応することが出来ない。

 視線を上にやると、ジェノもどうしたものかと思案しているようだった。

 

 けれど、そんな空気は、レイルンが口を開いたことで一変する。

 

「泣かないで、レミィ。僕は、君を苦しめるためにこの石を作ったのではないんだから」

「……レイルン……。でも、でも、私は……。貴方の気持ちに応えられない。……あんな幼い頃の約束を、貴方は守ってくれたのに……」

 そう言ってレミリアは再び顔を俯ける。

 

「それは、君のせいじゃあないよ。キレースさんから聞いたよ。君も僕との約束を覚えていて、待ってくれていたんだって。でも、僕が待たせすぎてしまったから……。君を傷つけてしまった」

「レイルン……」

「ごめんね。辛い思いをさせて……」

 レイルンは再び顔を上げたレミリアに、そう言いながらも微笑んだ。

 

「ねぇ、レミィ。キレースさんからも聞いたけれど、僕は君の口から聴きたい。君は今、幸せなのかな?」

 笑顔を崩さず、レイルンは尋ねる。

 

「ごめんなさい。でも、私は幸せよ、レイルン……」

 レミリアがそう答えると、レイルンは一層笑みを強めた。

 

「……よかった。これで、僕は心から喜んでこれを贈ることができる」

 レイルンはそう言うと、手にしていた、優しく光り輝く石をレミリアにもう一度差し出す。

 

「遅くなってしまったけれど、結婚おめでとう、レミィ。僕では君を幸せに出来なかったけれど、君が幸せであることが何よりも嬉しい。でも、約束だけは果たさせてほしいんだ」

「約束を? でも、私は……」

「心配しないで。僕は君をこれ以上望まない。その資格が無いから。でも、祈らせて欲しい。君のこれからの将来が明るいものでありますようにと。その想いをこの石に込めて、君に贈りたい。どうか、受け取ってくれないかな?」

 

 レイルンは笑顔だった。 

 ポロポロと大粒の涙をこぼしながらも、彼は笑顔だった。 

 

 そして、レイルンの気持ちを悟ったレミリアは、その行いを無為にしないために、レイルンの差し出した宝石を静かに両手で受け取る。

 

「レイルン……。ありがとう。私の大好きだった妖精さん……」

「うん。僕も大好き……だったよ……」

 レイルンはそう言うと、涙を袖で拭って微笑む。

 

「それじゃあ、お別れだ、レミィ」

「レイルン……。ありがとう、本当に……」

 レミリアの言葉に、レイルンはにっこり微笑んだ。

 

 そして、一瞬姿が消えたかと思うと、彼はレミリアの前に移動し、彼女の唇に口づけをする。

 

「なっ、レイルン!」

 驚くレミリアに悪戯っぽく微笑むレイルンは、目ざとくキレースを見つけると、勝ち誇った笑みを浮かべて、べぇーと舌を出した。

 

「こら、キレース! 僕は仕方なくレミィを譲ってあげるんだからな! レミィを悲しませたら、なんとしても人間界に戻ってきて、こてんぱんにしてやるから覚悟しろ!」

 レイルンはそう言いたいことを言い、空に舞い上がりながら消えていった。

 

 それに続くように、他の妖精たちも姿が消えていく。

 それからまもなく、湖の周りには村人たちの手にした明かりと、レミリアの手にした宝石の優しい輝きだけになった。

 

 村人たちは一体この騒ぎは何だったのだと、レミリアと彼女を庇うように立つキレースに向けられる。

 だから、気が付かれなかった。レイルンがまだ完全には消えていなかったことを。

 

(お姉さん、ここまで僕のために頑張ってくれてありがとう。これは、少しだけれど、お礼だよ)

 

「レイルン君!」

 聞こえた声に慌てて名を呼ぶメルエーナだったが、返事は返ってこなかった。

 

 そして、

 

「あっ、これは……」

 メルエーナのいつも身につけている首飾りの二つの断面に、それぞれ半分ずつ、優しく光る小さな石がついていた。レミリアの石とは違うようだが、手近なランプの明かりで見ても様々な色に変化する綺麗な石だった。

 

「……レイルンからか?」

 言葉は聞こえなかっただろうが、聡いジェノが訪ねてくる。

 

「はい。お礼だそうです……」

 メルエーナはそう言いながら、目の端に涙を浮かべる。

 

 果たしてこれで良かったのだろうか?

 

 そう考えないといえば嘘になる。

 けれど、レイルンは、ありがとうと言ってくれた。

 

 だから、きっとこの件はこれで良かったのだと、メルエーナは自分を納得させることにした。

 レミリアさんと同じように、本来はあり得ざる妖精との出会いと別れを経験した、もう一人の人間として、そう考えることにしたのだった。



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㊴ 『一夜明けて』

 メルエーナが目を開けると、昨日見たのと同じ天井が視界に入ってきた。

 しかし、まだ部屋が薄暗い。

 

 昨日は宿に戻って部屋のベッドに横になると、気を失うように眠ってしまったので、こんな中途半端な時間に目を覚ましてしまったのだろうと思う。

 

「……そうですよね。もう、レイルン君は……」

 最初は違和感があったが、だんだん自分以外の存在と繋がっている感覚に慣れ始めていたのに、それがぷっつりと無くなってしまったことに寂しさを覚える。

 

 枕元においていた、首飾りをみると、その二つに分かれたペンダントのような部分に、綺麗な石も半分個にされて付いている。

 カーテンを開け、登り始めた太陽の輝きに当てると、その石は光が当たる加減で様々な色に変化した。

 

 それはとても綺麗な、美しい輝き。

 レイルンがお礼にとくれた、とても希少なものであろうことは想像できた。

 

「……駄目ですね。レイルン君は納得したのですから、悲しい顔をしては失礼です」

 レイルンとの生活を思い出し、つい目の橋から流れていった涙を拭い、メルエーナは自身に言い聞かせる様に呟く。

 

 レイルンは想い人と結ばれることはなかった。

 けれど、彼は昔の誓いを果たした。

 

 幼いレミリアが、星明かりのような石が欲しいといった願いを賢明に叶えて、その石を作って手渡し、

恋敵であるキレースさんに彼女のことを譲って帰っていったのだから。

 

 この結末は、仕方がなかったのだとメルエーナも思う。

 レミリアさんは既に人妻で母親なのだ。レイルンがそれを引き裂いてレミリアさんを得ることは、人間の倫理観であれば認められることではない。

 

 けれど――。

 

 そう、けれど、だ。

 長い間、一途に一人の異性を大切に想い、愛し続けたレイルンがあまりにも報われないとも思ってしまう。

 

 長い年月を経たレイルンの想いと比較するのは失礼だと思うが、これは自分も異性に恋をしているからだろう。

 

 だから、報われてほしかったと思うのだ。

 自分も報われたいから……。

 

 利己的な自分の気持ちに気づき、気落ちするメルエーナは、しばらくレイルンの事を考えていたが、不意に控えめにドアがノックされる音を聞いた。

 

 こんな早朝にと思ったが、ノックの仕方で相手がバルネアであることを理解し、メルエーナは部屋の入口を解錠し、それを静かに開けたのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「おはよう、メルちゃん。ごめんなさいね、朝早くに」

「おはようございます、バルネアさん。いいえ、もう目を覚ましていたので大丈夫です」

 いつもと変わらないバルネアさんに、メルエーナは笑顔で応える。

 

「そう。でも、きちんと眠れたかしら?」

「はい。ぐっすりと。あっ、立ち話もなんですから、部屋の中にどうぞ」

 バルネアを招き入れ、備え付けの椅子を勧めたメルエーナは、自身はベッドの端に腰を下ろす。

 

「……あっ」

 当たり前のように、バルネアがメルエーナの右隣の空間を見て、小さく首を振ったのが見えた。

 その姿に、バルネアもまだレイルンが帰ってしまったことに慣れていないことを理解した。

 

 バルネアさんと一緒のときは、よくレイルンも加えて三人でお喋りや食事を楽しんでいたから、寂しい気持ちが湧き上がってしまう。

 

「ごめんなさい。レイルン君は帰ってしまったのよね……」

 レイルンは、メルエーナとジェノと一緒にレセリア湖に行く前に、バルネアさんにもお別れの挨拶をしていった。けれど、だからといってすぐに慣れるものではない。

 

「……はい。帰ってしまいました」

 メルエーナの言葉に、「そうよね」とバルネアは言い、嘆息した。

 

「すみません。せっかくの旅行なのに、こんな寂しい気持ちにさせてしまいまして……」

 メルエーナはそう謝罪したが、バルネアは「いいえ」といって首を横に振ると、パンパンと軽く両手で自らの顔を叩いた。

 

「メルちゃん、レイルん君のことを思うのは後にしましょう! 今はそれよりも作戦会議よ!」

 バルネアは不意ににっこり微笑み、メルエーナに指示を出してくる。しかし、これだけでは抽象的すぎて、意味が分からない。

 

「えっ? 作戦会議って、なんのですか?」

 もう依頼は解決したはずだ。それなのに作戦会議とは意味がわからず、メルエーナは困惑する。

 

 だが、そんなメルエーナに、バルネアは可愛い顔でぷくぅと頬を膨らます。

 

「もう、メルちゃんったら。最初に言っておいたはずよ。この宿にはアレがあるって説明しておいたじゃあないの」

 そこまで言われて、メルエーナもようやく思い出す。この旅行のもう一つの目的を。

 

「色々とこれからこの村は騒がしくなりそうだけれど、流石にみんなも疲れているだろうからと言って、ナイムの街に帰るのは明日の朝一の馬車に変更したの。だから、今日は自由時間になるはずよ。つまり最初で最後のチャンスよ!

 そして、『最初に来た者が最初に食べ物を与えられる』と言う諺のとおり、先手を取ることが大事よ。ジェノちゃんも普段ならもう起きている時間だから、すぐに今日、あの場所に行きましょうと誘わないと」

 バルネアはノリノリで一気にそこまで言う。だが、メルエーナはいきなり変わった話題に、まだ頭がついていかない。

 

「場所は聞き込みの際に確認しているから大丈夫よね?」

「えっ、あっ、その、はい……。でっ、ですが、私からジェノさんをそんなところに誘うのは端ない気が……」

 メルエーナは気後れしてしまうが、ジェノともっと会話をしたいと考えていたのもまた事実だった。

 

 昨日はレイルンと分かれた後に、ジェノの肩を借りてなんとか宿に戻ると、疲労からすぐに眠ってしまった。もっともっと、ジェノと話したいことがあったはずなのに。

 

「いいえ、ここで気後れしてはダメですよね! バルネアさんがせっかく作ってくださったチャンスですから、私、頑張ります!」

 レイルンとの別れで辛いはずなのに、第一に自分のことを優先して考えてくれている。そんなバルネアの思いやりに深く感謝をしたメルエーナは、弱気な心を押しやり気合を入れた。 

 

「そう。その意気よ! メルちゃんとジェノちゃんがもっと仲良くなれたら、この旅行は大成功なんだから」

 バルネアのその言葉に、メルエーナは一層決心を固めるのだった。

 

 

 ◇

 

 

 いつも通りの時間に目を覚ましたジェノは、静かにベッドから起き上がると、小さく息を吐いた。

 

 ミズミ村に妖精が現れた。

 

 その噂は昨晩だけで瞬く間に村中に広がっただろう。

 その上、妖精と、それに見初められた女性の悲しい恋物語は、尾ひれ背びれが付き、様々な脚色をされて広がっていく事は、今朝の食事時に、他の客が話している会話からも推測された。

 

 人の口に戸は立てられない、と言うが、本当にそのとおりなのだと実感する。

 きっと明日には近隣の村々にこの噂が広がり、すぐに自分たちが住むナイムの街にもそれが広がっていくのだろう。

 

 予想がついていたとはいえ、そのあまりにも大きな流れは怪物じみていて畏怖さえ覚える。

 

 バルネアと相談をし、明日の朝一番の馬車で帰路につくことになった。

 

 これからこのミズミ村は多くの注目を集め、沢山の集客が見込まれる。

 それは村が活気づくいいきっかけにはなるだろうが、気ままな旅行を楽しみたいと思っている既存の旅人の趣旨とは異なってきてしまうだろう。

 少なくとも、バルネアさんが思い描いていた旅行とは違うものとなってしまうことは間違いない。

 

 それに、別れの時が来ることは分かっていたが、この村にいるとレイルンのことを思い出してしまう。

 自分はかまわないが、、他のみんな――特にメルエーナとバルネアさんが辛いだろう。

 そう思うと、やはり早く普段の生活に戻った方がその寂しさを忘れられるのではと思えるのだ。

 

 バルネアさんには本当に悪いことをしたとジェノは心苦しい。

 自分とメルエーナに楽しい旅行をプレゼントしてくれるつもりだったのに、自分たちの仕事で台無しにした上に、このような大騒動に巻き込んで、悲しい別れを経験させてしまった。

 

 これでは恩を仇で返したも同然だ……。

 

 ジェノは今回の反省点を頭の中で考えていたが、そこで不意にノックの音が聞こえたのでそちらに視線をやる。

 

 まだ早朝と呼べる時間なのだが、ノックの音で、それがメルエーナのものだと分かり、ジェノはそこまで早足で向かい、ドアを開ける。

 

「どうした、メルエーナ?」

 ドアを開けると、メルエーナが一人立っていた。少し顔を俯けていたが、すぐに彼女は意を決したように顔をあげると、真剣な表情でこちらを見上げて、予想もしなかった言葉を口にした。

 

 そう、

 

「ジェノさん。今日は私と二人だけで、近くの温泉に行ってくれませんか?」

 

 と口にしたのだ。



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㊵ 『温泉にて①』

 今日も晴天で暑い中を、着替えとタオルを入れたカバンを持っているだけの軽装で、メルエーナ達は歩いていた。

 ただ、いつもならば無口なジェノに対し、メルエーナが気を使って話しかけることが多いのだが、今は二人の間に会話はない。

 

 それは、目的地が近づくにつれて、羞恥心が増していき、メルエーナが言葉を発せられる状態ではないからだ。

 

 長い気がしたが、宿から十分程歩くと、丸太の囲いと建物が見えてきた。

 

「あそこか、目的地は?」

「はっ、はひ! そっ、そのはずです!」

 不意に声をかけられ、メルエーナは上擦った声で奇妙な返答をしてしまい、一層顔を赤らめる。

 

「……メルエーナ。なにもわざわざ露天風呂に行かなくても良かったんじゃあないか? いや、行ってみたいという気持ちを否定するつもりはないが」

 ジェノの言葉はもっともだ。また不審者の襲撃がある危険性も否定出来ないので、安全を考えるのであれば、宿のお風呂で我慢したほうがまだ安全だろうとメルエーナも思う。

 けれど、それではこの旅行が悲しい終わり方になってしまう。

 

 もっとも、これからのことで一層悲しい結末になる可能性も否定できないが……。

 

「だっ、大丈夫です! わっ、私は大丈夫ですから!」

 何が大丈夫なのかわからないが、メルエーナはジェノと目を合わせずに、緊張のあまり意味不明な回答をしてしまう。

 

「……まったく、お前は……」

 ジェノが珍しく自分に対して反応したので、ちらりと彼の顔を見ると、口元が綻んでいるように思えた。だが、それは一瞬のことで、すぐにジェノはいつもの無表情になり、「どうかしたのか?」と尋ねてくる。

 

 メルエーナは「なんでもありません」と応え、顔を俯けながら、後少しに迫った目的地に向かう。

 

 もう分かりきっていたことだが、ジェノは同じ年の女の子と二人で温泉に行くということに何も感じないのだろう。自分は今にも心臓が飛び出しそうなほど緊張しているにも関わらず。

 メルエーナはそれが寂しくて仕方がない。いつまで経っても自分はジェノに異性としてみてもらえないのだ。

 

「あっ、ここですね」

 丸太の囲いに取り付けられたドアの錠に、宿で借りてきた鍵を差し込んで鍵を開ける。

 ジェノの方を見ると、彼は辺りを確認している様だった。

 

「周りに不審な気配はないようだが、念のため、中には俺が先に入ろう」

 中の小さなログハウスにも鍵があるのを理解しているのだろう。ジェノはメルエーナから鍵を受け取る。

 

「……ジェノさん……」

 その行動に、やはりこのような場所に誘ったのはただただ迷惑だったのだと思い、メルエーナは落ち込んでしまう。

 

「メルエーナ、中も問題ないようだ。入ってくるといい」

「はっ、はい!」

 声がかかったので、メルエーナは顔を上げってログハウスに入る。

 

「こっ、これは、その……」

「シンプルな作りだな。一応、浴槽も仕切られているようだが」

「そっ、そうですね。凄くシンプルです……」

 ログハウスの中は入口近くに二人用のソファがあるだけで、後は真っ直ぐ進むと二つの入口があり、着替えを置く籠が見える。そして、屋外の浴槽まで見えてしまっている。

 

 このシンプルな構造が意味することは、もしも着替えを覗こうと思えば簡単だし、相手の浴槽に侵入することも容易いということだ。

 

(……バルネアさん、流石にこのお風呂で二人で入浴というのは、難易度が高すぎます……)

 メルエーナはここにはいないバルネアに、心のなかで泣き言をいう。

 

「メルエーナ。俺は先に入っているぞ」

「えっ? あっ、はい……」

 ジェノはそう言うと、向かって右側の入口に入り、服を脱ぎ始めたので、メルエーナは大慌てで自分も左側の入口に向かう。

 

 脱衣所は本当に簡易なもので、衣類を入れる籠も一つしかない。

 奥には浴場とを仕切る横開きのドアがあるだけだ。

 

 言うまでもなく、ジェノの脱衣場とこの脱衣場を遮る木の壁はもちろんあるのだが、どうやら薄いようで、辺りが静かなこともあり、衣擦れの音さえ聞こえてしまいそうだ。

 

 しかし、ここまで来て帰ることはできないので、メルエーナは意を決する。

 

 ドキドキしながら衣類を一枚一枚脱いでいく。

 もしも、いや、決してないとは思うのだが、ジェノが入口側から覗いてきたら、こんなあられもない姿を見られてしまう。

 そう思うと、メルエーナの心臓が一層激しく脈打つ。

 

 一瞬、入り口の方を見たが、当然そこには誰もいない。

 そして、壁の向こうから、ガラガラと奥のドアを開ける音が聞こえ、ジェノが浴場に入ったことがわかった。

 

「そっ、そうですよね。ジェノさんに限って、そんなこと……」

 メルエーナは、ほっと安心したが、それと同時にがっかりとしてしまう。

 そして、自分の控えめな胸に視線をやり、

 

「……ううっ、やっぱり、こんな貧相な胸では、興味もわかないですよね……」

 メルエーナは悲しくなりながらも、衣類をすべて脱いでタオル等を片手に浴場に向かう。

 

 ドアを開けて浴場を確認すると、思ったよりも広い空間だった。

 隣の浴場とは、竹だろうか? 見慣れない植物でできた高めの壁で仕切られている。

 

 周りも壁で囲まれているのだが、そちらはあまり高くはなく、体こそ隠せるものの、少し上を見れば景色も見れるのが開放感もある。

 

 体を洗うスペースもあり、そこでメルエーナは髪と体を洗う。

 その間に、ジェノは体を洗い終えて、湯に入る音が聞こえた。

 

 髪を纏めてから、メルエーナも湯に身を委ねることにした。

 

 夏の暑さでかいた汗を流すのは心地いい。

 それに、温泉はやはり普通のお湯とは違って体の芯まで温かさが伝わってくる気がする。

 

「じぇっ、ジェノさん。その、いいお湯ですね」

 お互いが湯に使っていることが分かり、メルエーナは口を開く。

 

「ああ。そうだな」

 ジェノの返答に、メルエーナの胸は再びドキドキし始める。

 

 この敷居の向こうには、自分と同じ様に、一糸まとわぬ姿のジェノがいるのだと思うと、気持ちが落ち着かない。

 

「…………」

「…………」

 しばらく無言だったメルエーナ達だったが、不意にジェノが口を開く。

 

「メルエーナ、ちょうどいい機会だから言っておきたい。俺は、お前に謝りたいと思っていた」

「えっ? 謝らなければいけないことなんてありましたか?」

 メルエーナには、ジェノの言う事の心当たりがない。

 

「恥ずかしい話だが、俺は、嫉妬していたんだ」

「……えっ? 嫉妬、ですか?」

 断片的なセリフだが、メルエーナの鼓動は、温泉の効果以上に早くなる。

 

 もしかして、自分とレイルン君が仲良くしていることに……。そう考えて、メルエーナは顔を赤らめて、恥ずかしそうに俯く。

 

「ああ、嫉妬だ。俺は……お前に嫉妬していた……」

 ジェノのその言葉に、メルエーナはガックリと肩を落とす。

 けれど、やはり意味がわからない。ジェノが自分などに嫉妬する事柄など何があるのだろうか?

 

「俺は、魔法の才能を持っていない。こればかりは先天性のものだと分かっているつもりだったが、身近な人間が、お前が魔法の才能を持っていることを知り、その事に嫉妬してしまった。そして、お前の<守護妖精>とやらになったレイルンにも冷たく当たってしまった。これは謝罪し、改善が必要な事柄だ」

 ジェノの声は酷く申し訳がなさそうなものだった。

 

「ですが、ジェノさんはレイルン君のために一生懸命に頑張ってくれました」

「いいや。仕事なのにもかかわらず、私怨でお前とレイルンを不快な気持ちにさせたのは事実だ。そして、結局俺は、レイルンにそのことを詫びることもしなかった」

 そこまで聞き、メルエーナは反論の言葉が口に出そうになったが、少し気持ちを落ち着けて、考えてから言葉を紡ぐことにした。

 

「ジェノさんは生真面目で、頑固過ぎますよ。他人に何の感情も抱くことなく、淡々と仕事だけをすることができる人間なんていません」

「だが……」

「私たちは、良い事もすれば、悪いこともします。それらが入り混じったのが人間なのではないでしょうか? 当然、公平に接しようとする態度は必要ですが、人間ですから好き嫌いもありますし、失敗もします」

「それは、改善していかなければいけないことだろう?」

「ええ。改善は必要だと思います。けれど、ジェノさんはそれらを全くのゼロにしようとしている気がします。それは不可能です。だって、ジェノさんも人間ですから」

 メルエーナは努めて明るく言う。

 

「……人間……」

 ジェノはポツリと呟くと、

 

「なぁ、メルエーナ。もしも、それらをゼロにすることができる存在がいるとしたら、何だと思う?」

 そう問いかけてくる。

 

「そうですね。やはり、神様ではないでしょうか?」

「……神か……」

 軽い言葉のやり取りのはずなのに、何故かジェノの言葉は憂いが込められていたように思えた。

 

 また少しだけ沈黙が続いたが、今度はメルエーナがそれを破った。

 

「ジェノさん。私は心配です。貴方はいつも他人のことばかりを優先して、自分を蔑ろにしすぎています。もちろん、ジェノさんが優しいことは美点ですが、もう少しだけでも自分を大切にして欲しいです」

 ずっと思っていた気持ちを吐き出すメルエーナ。だが、彼女の耳にはジェノが大きくため息をつくのが聞こえた。

 

「前にも言ったはずだ。俺は優しくなんかない。それに、俺は他人のことを優先したことなどない。俺はいつも自分のことを第一に考えている。だから……」

「だから、なんですか?」

 ジェノが珍しく感情的になっていることで、メルエーナはかえって冷静になって尋ねる。

 けれど、次に続いた言葉で、メルエーナの目は、驚きで大きく開かれる。

 

「俺なんかとお前では釣り合わないだろう。お前こそ、もう少し自分を大事にしろ」

 それは、あのジェノがそう言ったからだった。



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㊶ 『温泉にて②』

 ジェノの言葉の意味を理解するのに、少しの時間が必要だった。

 

「……気づいていたんですか?」

 だが、数瞬後、メルエーナはすべてを理解する。

 

「昔から、先生にも女心が理解できないと言われてきたが、流石にここまでされれば俺にだって分かる」

「ジェノさん……」

 メルエーナの心臓が、バクバクと胸から飛び出しそうなくらい脈打つ。

 

「だが、やはり腑に落ちない。どうしてお前のような、器量も気立ても良い女が、俺なんぞにそんな気持ちを抱くのかが……。俺は地位も資産も、家柄も何も持っていないんだぞ」

 その言葉に、メルエーナは呆然としていた。

 

 ジェノが自身をずいぶん低く評価している事、そして自分をどの様な異性として見てくれていた事が分かり、メルエーナは驚きと嬉しさが入り混じって、どういう顔をすれば良いのか分からない。

 

「……ジェノさん。どうしてそんなに自分を卑下するんですか? その、ジェノさんはいつも女性からモテているじゃあないですか」

 パニヨンで働いているときも、いつもジェノに熱い視線を向ける女性陣が多いことは誰もが知っていることだ。

 

「モテている? どういうことだ? この黒髪が珍しくて、奇異の目で見られているだけだろう?」

 とぼけているのではなく、はっきりとそう言うジェノに、悪いとは思いながらも、メルエーナは苦笑してしまう。

 

「ジェノさんはやっぱり鈍いです。本当に……」

「……そうか」

 ジェノの声が少し悲しげに聞こえ、メルエーナはついクスクスと笑う。

 

「……私の気持ちに気づいてくれたのって、いつ頃ですか?」

「先日、二人でお前の水着を買いに行っただろう? あの帰り道でもしやと思った。そして、今日のこの温泉に二人だけで出かける様に言われ、確信した」

 ジェノの言葉に、メルエーナはもう一度苦笑する。

 

「ジェノさん。やっぱりジェノさんは鈍すぎます。私は貴方に出会った時から、ずっと好意を抱いていて、それを伝えようとしていたんですよ」

「……そうか。……すまん、全く気がついていなかった」

 ジェノの申し訳無さそうな声が珍しくて、メルエーナは笑っていたが、それが小さくなるに連れて、彼女は真剣な顔になる。

 

「ジェノさん。私は、貴方のことが好きです。一人の男性として好意を抱いています……」

 メルエーナは声が震えないように、爆発してしまいそうな心臓を抑えながら、ジェノに自分の気持ちを伝えた。

 

「……俺は、近いうちに<パニヨン>を、お前やバルネアさんの元から離れようと思っていた」

 ジェノは少しの沈黙の後、返答にならない言葉を口にした。

 

「……どうしてですか?」

 メルエーナは賢明に自分を落ち着かせて尋ねる。

 

「俺は、<霧>を追わなければいけない。だが、あのゼイル達のような連中が、今後は俺を邪魔者として排除しようとしてくる可能性が高い。今でももう遅すぎるかもしれないが、お前たちに迷惑をかける前に、俺は……」

「そうですね。たしかに危険です。ですから、私とバルネアさんも、外に出るときは一人にならないように気をつけますね」

 メルエーナはジェノの言葉を遮って自分の気持ちを伝える。

 

「待て! どうしてそうなる。俺が出て行かなければ、お前たちの身が危険なんだぞ! 少しは危機感を持て!」

 ジェノの怒気のこもった声に、しかしメルエーナは穏やかに反論する。

 

「危機感を持っていますよ。このままでは、ジェノさんが居なくなってしまうんですから」

 秘めていた気持ちを口に出したメルエーナは、もう完全に開き直っていた。

 

「それにですね、もう手遅れなのではないでしょうか? 私達の存在はもう知られてしまっているのでしょうし、そうであれば、私達が一緒に住んでいることもすぐに分かってしまうはずです。その上ジェノさんが居なくなってしまっては、私とバルネアさんの二人だけでは、何も抵抗することができません」

「……それは……そうだが……」

 正論を言われ、ジェノは言葉に詰まる。

 

「ジェノさん。私もバルネアさんも、ずっと貴方と一緒に暮らしたいと思っています。ただ、私の気持ちは、バルネアさんよりも重いですけれど……」

 メルエーナはそこまで言うと、一旦湯船から出て、浴槽の縁に腰を下ろす。火照りきってしまった体を冷やすために。

 

「ジェノさんも、一度湯から上がったほうが良いですよ。のぼせてしまいますから」

 その言葉への返事はなかったが、音でジェノが湯船から上がったことはわかった。

 

「……なんで、俺なんだ。お前ほどの女なら、大抵の男は好意を抱くはずだ。わざわざ俺を選ぶ理由が分からん」

 ジェノは先程もした質問を、もう一度投げかけてくる。

 

「その答えは言いましたよ。私は、貴方のことが好きだからです。他の誰でもない、貴方が大好きだからです」

 サイドの告白の言葉に、ジェノは大きく嘆息した。そして、

 

「俺は……お前に好意を抱いている」

 

 そう言葉を口にした。

 

「ジェノさん……。本当ですか! ジェノさんも、私に?!」

 メルエーナは自分の声が大きくなってしまったことに気づき、慌てて口を手で抑えるが、嬉しい気持ちを抑えることはできない。

 

「だが、その分からないんだ。お前にも言われたように、鈍い男だからな。この気持ちが、家族に対する物なのか、一人の異性に対する物なのか判別がつかない。

 そんなどっちつかずな気持ちで、お前の真っ直ぐな気持ちに応えるのは不誠実だと思うし、お前を傷つけることになるのではと思う」

 ジェノの心情の吐露を聞き、メルエーナは驚いたが、すぐにまた嬉しそうに微笑んだ。

 

「私のことを大切に思ってくださっていることが分かっただけで十分です。後は、これからを作っていきませんか?」

「作っていくとはどういうことだ?」

「日々の思い出と一緒に、お互いの気持ちを育んでいくという意味です。私、他の女の子に負けませんから。絶対に、私の方にしっかりと向いてもらえるように頑張ります」

 メルエーナは両手を握って決意を新たにする。

 

「……知らなかったな。お前がそんな悪趣味だったなんて」

 ジェノは呆れたように言うが、その声色は優しかった。

 

「そんな事はありません。ジェノさんの自己評価が低すぎるだけです」

 メルエーナも少し怒ったように言いながらも、その声色は明るい。

 

「ですが、まだ一年と少ししか私たちは一緒に生活していないんですから、知らないことがあるのは当たり前です。ですから……」

 メルエーナは勇気を振り絞り、その言葉を口にした。

 

「ですから、ジェノさん。私と付き合って……交際してくれませんか?」

 

 メルエーナが発したその言葉に、ジェノははっきり応える。

 

「分かった」

 

 と。



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㊷ 『温泉にて③』

 火照った体は、湯から出ただけで涼しい。入浴する前までは暑いと感じていたはずなのに。

 

 ジェノは少しその涼しさを味わうと、メルエーナに伝えて置かなければいけない事柄を口にする。

 

「メルエーナ。お前に話しておかなければいけないことがある」

「はい。何でしょう?」

 嬉しそうな声が返ってくるのを聞き、ジェノは少し気が重くなる。

 更には、どうしてこれを話す前に、メルエーナの申し出を受けてしまったのかと後悔した。

 

(いや、何を後悔しているんだ? これでメルエーナが俺との交際を諦めてくれるのならば、それはそれで……)

 少し湯に浸かりすぎたせいだろうか? どうも思考がおかしい気がすると、ジェノはそんな考えを抱いたのを湯のせいにし、言葉を続ける。

 

「俺の体には、例の<霧>と関係している化け物が封じられている」

「…………」

 先の<聖女の村>での一件を話した際には、敢えて口にしなかった事柄をジェノはメルエーナに話すことにした。

 

 荒唐無稽すぎる話に、メルエーナも戸惑っているのだろう。ジェノの声だけが、二人きりの小さな温泉に響き渡る。

 

 ジェノは分かりやすく、けれど要点を外さずに説明した。

 なぜその様な事になったのかも。過去にその<獣>の暴走で、多くの人間を手に掛けたことも。そして、今も危険であることを。

 

「……信じられない話だと思うが、これは真実だ。俺の感情などという不確かなものが発動装置になってしまっている以上、近くにいる人間を巻き込まない保証はない」

 ジェノはそこまで言うと口を噤む。そして、ただメルエーナの言葉を待った。

 

 メルエーナはどんな反応をするだろう。

 

 ふざけた言い訳を並べて、交際を有耶無耶にしようとしていると怒るだろうか?

 それとも、こんな仕打ちをされたことに泣いてしまうだろうか?

 いや、きっとただ呆れているのかもしれない。

 

 この温泉が静まり返って、メルエーナが口を開くまではそれほど長い時間だったわけではない。けれど、何故かジェノにはとても長い時間の様に思えた。

 

「実は、レイルン君が私に教えてくれていました。ジェノさんには、良くないものが憑いていると」

 メルエーナは静かに、ジェノの想像とは違う穏やかな声で言った。

 

「レイルンが?」

 レイルンは妖精だ。人間とは違う感覚を持っているのだろう。だから、この体に封印されているあの<獣>の存在にも気づいていたのだろう。

 

「はい。正直、私には漠然とし過ぎていて、何のことだか分かっていませんでしたが、今のジェノさんの話を聞いて納得しました」

「……そうか」

 ジェノは同意の言葉を返すだけだ。

 

「そして、いろいろなことが繋がりました。イルリアさんがジェノさんに負い目を感じている訳も、ジェノさんが普段から感情を表に出さないようにしている理由も……」

 メルエーナのその言葉に、何故か重い気持ちだったジェノは、それとは別の渋い顔をする。

 

「メルエーナ……。お前は一つ勘違いをしている」

「えっ?」

 メルエーナの驚く言葉に、頭が痛くなってくるジェノ。

 

「俺がぶっきらぼうで感情を表に出さないのは、ただの俺の性格だ。<獣>は関係ない」

「ええっ! そうなんですか? 私はてっきり、警戒をしているためだと……」

「正気を失いそうなほど激しい感情に流されそうになるときは気をつけるが、それ以外は素だ」

 ジェノは少し語気を強めてしまったことに気づき、気持ちを落ち着かせる。

 

 どうもメルエーナと話していると、他の人間の様に冷静に対応することができなくなる。こんな相手は、バルネアさんだけだと思っていたはずなのに。

 

「……そうなんですね。それがジェノさんの、()()素の性格なんですね」

「んっ? どういうことだ?」

 メルエーナの物言いが気になり、尋ねる。しかし、彼女は、

 

「いいえ。<獣>が原因でないことが分かって、少しホッとしただけです」

 

 そう何故か寂しそうに言う。

 

 メルエーナの言葉が嘘であることはすぐに分かったが、敢えて深く問いただすことではないと判断し、ジェノはいつものように、「そうか」とだけ口にするに留めた。

 

「ジェノさん、それよりも、これからのことを考えないといけません」

「これからのこと?」

「はい。私は魔法のことは良く分かりませんが、ジェノさんの症状が特殊なもので、リットさんでも根治できないというんですよね? でしたら、イルリアさんが行っているように、昔の凄い魔法の品物か、リットさん以上の魔法使いさんを探さないといけませんから。

 あっ、エリンシアさんは信用できますし、今回の報告がてら相談しにいきませんか?」

 メルエーナは普段と同じ口調と声色に戻り、困難なこと柄に当たり前のように取り組もうとする。

 

「待て、メルエーナ。これは俺の問題だ。お前にこれ以上迷惑をかけるわけには……」

「そんなの水臭いですし、何も手伝わせてくれないほうが私には辛いです。私の大切な人が困難な症状にあるのですから、それに手を貸したい、力になりたいと思うのは当たり前じゃあないですか」

 メルエーナの声は優しい。けれど、決して引かない強さも感じられ、ジェノは嘆息するしかなかった。

 

 どうもメルエーナは、好意を寄せた相手に尽くすタイプの人間なようだ。

 それは美点のようで、危うい点でもある。

 これがもしも、メルエーナが碌でもない男に好意を寄せていたら、彼女の人生がめちゃくちゃになっていたに違いないだろう。

 

 それを考えると心がざわつく。

 

(んっ? 何故だ? どうして俺は……こんなことを……)

 自分もその碌でもない男の一人であるのになと考え直し、ジェノは湧き上がってきたよくわからない何かを胸底に押しやることにする。

 

「メルエーナ。もう一度湯船に軽く入ったら、俺は出るつもりだが、お前はどうする?」

「はい。私もそうします」

 メルエーナは、そう言って自分に合わせてくる。

 

 それを理解し、ジェノはもう一度ため息をつくと、静かに湯に体を委ねる。

 

 そこで何故かは分からないが、先ほどとは違い、ジェノは肩の力が抜けて、温泉を心から楽しむことができたのだった。



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㊸ 『散歩中にて」

 夏の日差しを浴びながら、十歳前後の子ども達が湖に向かって平らな石を投げて、水面を何回石が跳ねるのかを競って遊んでいる。

 昨晩、妖精が出現したことで大慌てな大人たちをよそに、ことも達は無邪気なものだとイルリアは苦笑する。

 

 イルリアは普段とは異なる相手と二人でレセリア湖付近を散歩していた。

 

「ふふっ。そうなのね。相変わらず無意識に女の子をその気にさせているのかと思ったわ」

「誤解もいいところなんだけどね。でも、否定したら否定したで余計に怪しいとか思われるから、好きな様に言わせていたの。でも、最近はすっかり私とあいつが恋仲だなんて考える輩は減ったけれどね」

 イルリアの軽口に合わせて笑っているのは、マリアだった。

 

 同い年とはいえ、貴族と平民である二人がこのような会話をすることは本来はありえない。だが、先の馬車での移動の際から、マリアがプライベートでは敬語はなしにして普通に喋ってもらいたいと言っているので、このような会話が成立しているのだ。

 

 そんなマリアに好感を抱いているからこそ、イルリアは少しだけ罪悪感を覚える。

 

 朝食中に、イルリアがマリアを散歩に誘ったのだが、これは単に、一時とはいえ仲間になるのだからと親睦を深める事が主の目的ではない。彼女をジェノとメルエーナから遠ざけることこそが主目的だ。

 

 本当に偶然なのだが、朝早くに目が覚めて、宿の中でも見て回ろうかと思っていたところに、ジェノの部屋で、彼を温泉に誘うメルエーナの声をたまたま聞いてしまった。

 ついにそこまで覚悟を決めたのかと嬉しくなり、イルリアは邪魔者が割って入らないようにしようと画策した。その結果が、こうして温泉とは異なる方向にマリアを連れ出すことだったのである。

 

「それは、あのメルエーナっていう女の子のおかげね」

「ええ。メル本人はあれでも隠しているつもりみたいなんだけれど、一途に想っているのがバレバレでこっちが恥ずかしいくらいなの」

「そうよね。まだ出会って日が浅い私でも分かるんだもの」

 長く話が続く共通の話題がジェノのことくらいしかなかったので、こうしてジェノの話をしているが、マリアの喋り方や間のとり方で、彼女が未だにジェノに未練を持っていることを確信できたのは重畳だ。

 

 マリアも貴族の嗜みで腹芸を身に着けているようだが、ジェノの話題になると僅かに反応が遅れるのだ。

 客商売で目を肥やしているイルリアはそれを見逃さない。

 

 やはり、早くメルエーナには既成事実……は無理だと思うので、せめて何かしらあの朴念仁との仲を進めてほしいとイルリアは思う。

 

 それと、もし仮にジェノがメルエーナのアプローチを断った場合は、徹底的にしばき倒し、謝罪をさせるつもりでもある。

 あれだけ可愛い娘に一途に思われて、何が不服なんだと言いながら、現在銀の板に封印してある魔法を全て喰らわせて反省させるのだ。

 

 腹の中ではそんな事を考えながらも、イルリアはマリアとの散歩と会話を楽しむ。

 しかし、そこで不意に目の前に一人の男が音もなく現れた。

 

 そう。現れたのだ。なんの予兆もなく、何もない空間から。

 それは、イルリアと同年代くらいに見える全体的には印象に残らない感じのナヨっとした感じの頼りなさそうな男。だが、左右の瞳の色が違うという唯一にして絶対の事実が、男の存在を際立たせる。

 

「なっ! ……ゼイル……」

 イルリアは素早く腰のポシェットから、攻撃魔法を封じた銀の板を取り出して構える。

 マリアも無言で剣を抜く。その表情は笑みが消えていて、なまじ美人であるがゆえに恐ろしいほどだ。

 

「あっ、待ってください、イルリアさん。僕は争いに来たわけではないんです」

「そんな言葉を信じると思うの?」

「いや、その、でも、本当なんです。僕は謝罪に来ただけで……」

「謝罪?」

 イルリアには、ゼイルが何を言わんとしているのか分からない。

 

「はっ、はい。その、イルリアさんの水着姿が綺麗だったから、つい近くで見て見たくなってしまって……そしてそのまま出来心で覗き見をしてしまったので、その謝罪を……」

「……はぁっ?」

 話を聞いて、より一層イルリアは混乱する。

 

 だが、困惑するイルリア以上に感情を爆発させる者が一人――いや、二人いた。

 

「セレクト先生!」

 マリアは不意にセレクトの名前を口にすると同時に、ゼイルに向かって駆け寄り、剣を横に薙ぎ払う。

 

「わっ、わっ!」

 ゼイルはひどく驚いた様子で後ろに飛び退こうとする。だが、その瞬間、石がイルリアたちの後方から飛んできて、淡い緑色のガラス板のようなものがゼイルの後方に出現し、彼の動きを封じる。

 まったく気がついていなかったが、自分達をずっとセレクトが尾行していたのだろう。

 

 それにより、ゼイルはもうマリアの剣を避けられないはずだった。

 あとは、マリアの力加減一つ。生かすも殺すも自由自在だったのだ。

 

「うっ……」

 けれどそこで、マリアの動きがピタリと止まった。

 あとは剣を横に薙ぐだけで、ゼイルに致命の一撃を与えられるはずなのに、何故か停止したのだ。

 

「はい、そこまで」

 不意に、軽い男の声が、リットの声が響いた。

 そして、リットが姿を表す。ゼイルの後方から。

 

「はっ、はぁ……。助かった……」

 ゼイルは心底安堵したかと思うと、また瞬間移動をして、今度はイルリアの目の前に移動する。

 

 リットの利敵行為とも思える行動に加え、ゼイルが不意に距離を詰めたことに、イルリアは動転して銀の板を動かすことができない。

 

「その、すみません、イルリアさん。いろいろとあかせなくて……。でも、これだけは信じて欲しいんです。僕は敵ではありません。だから、その、貴女のことは僕が必ず守ります」

 ゼイルは何故か顔を真っ赤にしてそう言うと、また瞬間移動をして姿を消した。

 

 イルリアには何がなんだか一向にわからない。

 

 だが、いなくなってしまったものは仕方がないので、イルリアはもう一つの疑問を別の相手にぶつけることにした。

 

「それで、リット。あんたは何をしているのよ?」

 銀の板を構えたまま、イルリアはリットに尋ねる。

 

「何をと言われてもなぁ。見てのとおり、助けただけだぜ」

 リットはさも楽しそうに喉で笑い、パチンと指を鳴らす。

 

 すると、それまで停止していたマリアの体が動き、何もない空間を剣で横薙ぎにした。

 

「どういうつもりなのですか?」

 動きが自由になったマリアが、剣を手にしたまま鋭い視線をリットに向ける。

 

「それは、私も説明してもらいたいものですね」

 後方の茂みから現れたセレクトも、険しい表情でリットを睨む。

 

「おいおい、そんな怖い顔をしないでくれよ」

「場合によっては容赦しませんよ! あと少しで、あの左右の瞳の色が違う者達の情報をつかめるところだったのに、どうして邪魔をしたのか、きちんと説明しなさい!」

 マリアは本気で怒っている。

 

 マリアから聞いた、彼女とその従者や治めていた街の住民のことを考えるに、それは当然のことだとイルリアも思う。

 

「……容赦しないか……。それじゃあ、嫌だと言ったらどうするのか教えてくれないかな?」

 リットの声が低くなった途端、イルリアは、いや、イルリア達は体が全く動かなくなってしまった。

 

「なぁ、教えてくれよ。この程度のことで何もできなくなるお前らが、俺を相手に何をするって言うんだ?」

 リットの力の影響なのだろう、次第に体を拘束する力が増していく。骨がきしみを上げる。このままでは骨が全て砕かれる。だが、口も動かないので悲鳴をあげることもできない。

 

「彼我の戦力差も分からない奴が、一端のことを言うなよ、まったく」

 リットはそこまで言うと、つまらなそうな顔をし、指をまた鳴らす。

 

 瞬間、イルリア達の体は、嘘のように軽く自由になった。

 

「どうだい、頭は冷めたか? せっかく()()()()()()()()、俺に喧嘩を売るのは筋違いだぜ」

「助けてやった? それは、どういうことよ?」

 イルリアの問いに、リットは嘆息する。

 

「あのまま、あのゼイルって奴に攻撃を仕掛けていたら、お前達は死んでいたってことだよ。あいつの力はそれくらい危険なのさ。この天才のリットさんでも危なかったくらいだからな」

「……あんたが追跡できなかった言うのも……」

 イルリアが、先日、リットが言っていたことを思い出して尋ねると、

 

「ああ。俺は冗談入っても、基本的に嘘はつかないのは知っているだろう?」

 リットは口の端を上げて当たり前のように言う。

 

 そう言われてしまっては、それが事実だと知っているイルリアは信じざるを得なかった。



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㊹ 『質問と決意』

「すみませんでした。私達の浅慮を貴方がフォローして下さったというのは本当なのでしょう」

 セレクトはリットに頭を下げ、

 

「リットさん。先程の言葉から推測するに、貴方は、あのゼイルという男の<神術>がなんなのか知っていると考えてよろしいのでしょうか?」

 そう問いかける。

 

 セレクトがリットに尋ねるのを聞き、突然の状況の変化についていけなかったマリアは、そこでようやく正気に戻る。

 

「ああ、知っているぜ」

 なんでもないことのように言うリットは言い、「それと、俺のことはリットでいいし、普通に年下に喋るように話してくれよ、セレクト先生。堅苦しいのは性に合わないからさ」と、さらにそう続けた。

 

「それならば教えて欲しい。あのゼイルの能力が一体なんなのかを! 今後の対策にもなるし、未だにその全貌がわからない<神術>というものが理解できるかもしれないのだから」

 セレクトはリットの注文を聞き、尋ねる。

 

「……ふぅ~ん、聞きたいの? まぁ、教え子の敵討ちを成し遂げたいあんたには、喉から手が出るほど欲しい情報だよな」

 リットの無神経な物言いに腹が立ち、マリアは文句を口にしようとしたが、それよりも早くに、イルリアが口を開いた。

 

「そんな言い方はないでしょう! どうしてあんたはそう無神経なのよ!」

 イルリアは我が事のように怒り、文句を言う。

 そのあまりの剣幕に、マリアの怒りは霧散してしまった。

 

「そいつは失礼。生憎と、俺は何の見返りもなしに、人に何かを当然のように求める輩が大嫌いなんでね。つい口が悪くなってしまった」

 全く失礼とは思っていない口調で、リットはニヤケ顔で言う。

 

「……失礼致しました。たしかに、無償で貴重な情報を手に入れようとするのは虫が良すぎる話ですね」

「マリア様……」

 家臣であるセレクトの非礼を侘び、マリアは静かに頭を下げる。

 

「誠に申し訳ございません。貴方様の仰るとおりです。<神術>の情報は非常に有意義で、私共には必要不可欠な情報です。可能な限り貴方の望むものを融通いたしますので、なにとぞお教え下さいませ」

 どうしても情報が必要だ。

 敵の戦力も所在地も分からない今は、少しずつでも情報を積み重ねていくしかないのだから。

 そのためには、出し惜しみしている場合ではない。

 

「ほうほう。俺のような得体の知れない男に頭を下げる貴族様っていうのも珍しいな」

「珍しいな、じゃあないでしょう! 貴族のお嬢様にここまでされて、何も感じないわけ、あんたは!」

 リットとイルリアの言い争う声が聞こえるが、マリアは頭を下げたまま微動だにしない。

 

「おいおい。たかだか頭を下げるという行為にどれだけの価値があるっていうんだよ? 相手が貴族様なら、そんな動作にも価値が生まれるとでも思っているわけ? 結構、権威主義なんだなイルリアちゃんは」

「別に権威主義なんかじゃあないわよ!」

「そう怒るなよ、まったく。……それじゃあ、ありがたい貴族様が頭を垂れてくださったので、俺が望む物を与えてくれたら情報を教えてやるよ。だから、顔を上げなよ、マリアちゃん」

 リットに促され、マリアは顔を上げる。するとすぐに、腕を組んで思案顔のリットが見えた。

 

「しかし、困ったなぁ。俺の望むものと言っても、今は特にないんだよなぁ……」

「先に言っておくけれど、マリアの体を要求なんてさせないからね」

 イルリアの言葉に、マリアは自分自身を求められるなどとは思ってもいなかったことに気がつく。そして、それと同時に、何故かジェノの顔が頭に浮かんだ。

 

「ああ、それもお断りだ。こんな絶世の美女と一夜を共にしたい気持ちがないといえば嘘になるが、俺は望まない相手に無理強いさせるのは嫌いなんだ。紳士だからな」

「あんたが紳士なら、強姦魔だって紳士になるわよ!」

 プンプンと怒るイルリアに、マリアは少し救われた気持ちになる。

 

 それから少しの間リットは考えていたが、不意にどこか遠くを見て、「……水切りか……」と呟いた。

 

「水切り?」

 マリアはその言葉を聞いたことがないので、リットが何を言っているのかわからない。

 

「ああ、あそこの子供達がやっている遊びですよ。水面に石を投げて、石が何回跳ねたのかを競う遊びです」

 セレクトの指差す方を見ると、たしかに子供達が湖に石を投げているようだ。

 

「ですが、その水切りが何か……」

 マリアがリットの方を向いた僅かの間、まさに一瞬だった。リットが酷く寂しそうな表情を浮かべているように見えたのは。

 

 その普段とはあまりにも違う顔に、マリアは慌てて顔を背けた。

 見てはいけないものを見てしまった。何故かそう感じたから。

 

 リットはマリアには一別もせずに、湖の方に近づくと、足元の平らな石を突然拾い、それをサイドスローの体制で水面に平行になるように投げた。

 石は水面を低く、けれど連続で跳ねていき、多くの波紋を起こしてかっ飛んでいく。しかし、この大地には物を下に押し付ける力、重力があるため、やがて石は湖の中に沈んでいった。

 

「何よ、急に遊びだして」

 不機嫌そうに言うイルリアの言葉を無視し、リットはマリアとセレクトに視線を向けてきた。

 

「なぁ、マリアちゃん。俺の質問に答えてくれ。その答えに納得がいったら、情報は教えるぜ」

 

 突然の提案に面喰らいながらも、マリアはセレクトと視線を合わせ、互いに頷き合う。

 そして、覚悟を決めたマリアが問う。「どのような質問でしょうか?」と。

 

「なに、そう身構えることじゃあない。至極馬鹿らしい質問さ」

 リットはそう前置きをしいつものにやけた笑みを浮かべる。

 

「もしも、この水切りが下手くそで馬鹿なガキがいるとしよう。そしてもう一人、水切りが上手で、頭がいいガキがいるとするぜ」

「はい」

「ええ」

 マリアとセレクトはその前提に頷く。

 

「この二人が水切りをして競い合っても、いつもそれが上手で頭がいいガキが勝っていたんだ。しかし、下手くそで頭が悪いガキは、頭が悪いんでこう言い出したんだ。

『自分は努力をして、この湖の端から端まで投げられるようになって勝ってみせる』なんてな。

 それを聞いて、頭のいいガキは呆れて水切りで競い合うのをやめたんだ。頭がいいから、そんな事は不可能だということは理解できたし、これ以上、頭が悪いガキが進歩しても自分には勝てないということも分かっていたからな。

 だが、頭が悪いガキはいつまでも水切りを続けるんだよ。絶対にできないと誰もが分かりそうなことを認めようとはせずにな」

 リットはそこまで言うと、ふっと鼻で笑い、

 

「頭がいいガキは不可能だと理解した。だからもうそれ以上何もしない。一方、頭の悪いガキは不可能だと理解しようともしない。だから馬鹿みたいに水切りを続けると言うわけだ。

 それじゃあ、質問だ。『頭が良くて理解して行動するのをやめたガキ』と、『頭が悪くて理解できずに行動をし続けるガキ』愚かなのはどっちだと思う?」

 

 そんな哲学めいた質問を投げかけてきた。

 

「なによそれ! そんなの正解なんてあるわけないじゃあないの!」

 関係ないはずのイルリアが文句を言う。しかし、マリアもイルリアの言葉が答えな気がする。

 

「……リット。私もイルリアさんの答えに賛成です。その問いには正解というものはないでしょう」

 セレクトも同じ考えだったようで、イルリアに賛同した。

 

「はいはい。それじゃあ、この取引はなしだ。俺は、そんな当たり前の答えが聞きたかった訳ではないんでね」

 リットは踵を返し、マリア達に背を向ける。

 

「待ってください! まだ、私は……」

「ああ、マリアちゃんの答えを聞いていなかったか。……まぁ、どうでもいいや」

「良くありません! 貴方の提示した条件では、私にも回答権があるはずです!」

 マリアは手がかりを手に入れるべく、必死に訴える。

 

「まぁ、時間制限を設けていなかったのは俺のミスだな。それじゃあ、特別大サービスだ。答えるのはいつでも良いぜ。そして、俺がその答えに納得したら情報を教えてやるよ」

 リットはそこまで言うと、<転移>の魔法を使用し、この場から姿を消した。

 

「すみません、セレクト先生。マリア。あいつ、結局お二人を誂っていただけなんですよ、きっと」

 イルリアはそう言うが、マリアはリットがあの時浮かべていた寂しそうな表情が忘れられない。

 

 そして、マリアはこの日から、この問の答えを探し求めるようになるのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 翌日になり、メルエーナ達はナイムの街への帰路についた。

 帰りも同じ組み合わせで、メルエーナはジェノとバルネアの三人で小型の馬車に乗ることになった。

 

 ……いや、あの時とは違う。

 あの時は、もう一人、レイルンがいたのだから。

 

 メルエーナとジェノの向かいに座るバルネアは、寂しそうにメルエーナの隣の何もない座席の隙間に目をやっていた。

 だが、静かに首を横に振ると、顔を上げて、メルエーナとジェノに向かって微笑む。

 

「レイルン君が帰ってしまったのは寂しいけれど、仕方がないことだものね。あの子がこの村でやらなければ行けないことは全て終わったんだもの」

 そう、レイルンがずっと心残りにしていた事柄は、最愛の人に星の輝の宝石を贈るという目的は果たされたのだ。それが、悲しい終わり方なってしまっただけで。

 

「……そうですね。レイルン君とレミリアさんのことを考えると、少し複雑ですが、でも、レイルン君は納得してくれたと思います」

 メルエーナは、首からかけている首飾りの真っ二つに分かれたペンダント部分についている、二つの小さな宝石を見て、なんとか笑みを作る。

 

「そうね。それならば、私達がどうこう言うことではないわね」

 バルネアはそう言って微笑んでくれた。

 

「メルエーナ。そのペンダントを今後も身につけるつもりならば、人前でその宝石を出すな。高価そうに見えて物騒だし、今回の騒動の関係者である俺たちの話が、ミズミ村の人間の口から漏れるかわからないからな」

「大丈夫だと思いますよ。宝石はこんなに小さいですし、ミスミ村の方々も、みんな騒ぎに夢中で、私の方を見ている人はいませんでしたから」

「駄目だ。万が一の可能性も考えろ。ナイムの街に帰ったら、エリンシアさんに相談して、隠蔽する手段を考えた方がいい」

「……ええ。そうですね」

 少し過保護だと思うが、ジェノの発言は自分の安全を気遣ってくれていればこそのものなので、メルエーナはそれに従うことにした。

 

「うんうん。メルちゃんとジェノちゃんの仲が深まったようで何よりね」

 バルネアにそう言われ、メルエーナは今更ながら顔が赤くなる。対象に、ジェノは相変わらずの無表情だった。

 

 だが……。

 

「でも、メルちゃん。『スープが冷めない距離が良い』という諺があるわ。作ったスープを熱いまま届けられる距離が恋愛には一番いいということよ。だから、ジェノちゃんのことをしっかり離さないようにね」

「……はっ、はい。頑張ります!」

 バルネアの言葉に力強く頷くメルエーナに、ジェノは「少し眠ります」と言って目を閉じる。

 

 もしかすると照れてくれているのかもしれないと、メルエーナは嬉しくなる。

 

 

 思わぬ出会いから始まったこの一波乱も、ようやく落ち着きを取り戻すだろう。

 ナイムの街に戻れば、また明日から忙しい日々が始まるのだ。

 

(レイルン君、頑張ってね。私も頑張りますから!)

 メルエーナは料理修行もジェノのことも頑張ろうと、気合を入れるのだった。



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特別編 『付き合い始めの二人』(前編)

 夏の暑さも盛りは過ぎたが、それでもまだ秋までは時間がある。特にエルマイラム王国の夏は長いので、まだまだ誰もが暑さと共存しているのが現状だ。

 しかし、暑いということは別に悪いことばかりではない。暑い中だからこその楽しみというものもあるのだから。

 

「はい、お待たせ致しました。若鶏のスパイシー炒めと冷製パスタです」

 

 メルエーナはお客様に、バルネアが作った料理を運び、笑顔で応対する。

 

「おお、来た来た!」

「うわぁ~、辛そうだけれど美味しそうね」

「何だよ。食欲ないからそんなの食べられないとか言っていたくせに」

「でも、実物を見ると美味しそうなんだもん。メルちゃん、取皿一枚追加で!」

 

 自分よりも少し年上のカップルの微笑ましいやりとりに微笑み、メルエーナはすぐに取皿を運んでくる。

 

「メルエーナ。窓際の十番席のお客様がお帰りだ。お会計を頼む」

 

 トレーを両手に持った状態のジェノが、声をかけてくる。彼の額にも自分と同じ様に大粒の汗が浮かんでいる。

 

「はい。ジェノさん、五番席に取皿を一枚お願いします!」

 

 メルエーナとジェノは阿吽の呼吸で、仕事をこなしていく。

 

 あのレセリア湖での温泉での一件をきっかけに、メルエーナはジェノとの心の距離が確かに近づいた気がする。だからこそ、仕事も順調なのだ。

 しかし、こういったときこそ気持ちを引き締めないと思わぬミスを誘発するので、メルエーナは気を引き締める。

 

 それから、開店と同時に怒涛のように続いた忙しい時間が終わり、店の入り口に、『本日の営業は終了致しました』の看板をかけて安堵のため息をつくと、

 

「ご苦労さま。メルちゃん、ジェノちゃん」

 

 厨房から出てきたバルネアのねぎらいの言葉に微笑みを返し、メルエーナはジェノにも笑みを向ける。

 

「はい。お疲れ様です、バルネアさん」

 

 しかし、ジェノはバルネアに返事を返しただけで、すぐにテーブルの拭き掃除を始めてしまう。

 メルエーナは少し寂しくなる。

 

 自分とジェノはお付き合いを、交際をしているはずだ。

 周りから冷やかされることを危惧し、メルエーナの提案で、交際していることは秘密にすることにした。だから、ジェノはそっけないままなのだろう。

 

 だが、バルネアにはあの温泉の後に、二人の雰囲気が変わったとバレてしまっているので、メルエーナとジェノが交際を始めたことは話してある。つまり、今、この<パニヨン>には、交際を知らない他人の目がないのだ。

 であれば、もう少しだけ何かあっても良いのではと思ってしまうのは我儘すぎるのだろうか? とメルエーナは考えてしまう。

 

「もう、ジェノちゃん。メルちゃんが寂しそうな顔をしているわよ。もう他所様の目はないのだから、もう少し優しくしてあげたほうが良いわ」

 

 メルエーナが思っていることを、バルネアが代弁してくれた。

 すると、ジェノはテーブルを拭く手を止めてこちらを見てくる。

 

「メルエーナ。そういうものなのか? 周りに悟られないことを第一に考えるのであれば、思わぬところでボロが出ないようにしておくべきだと思うのだが……」

 

 ジェノは真顔で尋ねてくる。

 

 その表情から分かるように、彼には悪意はまったくない。ただ、自分がお願いした、交際を秘密にするということを実践してくれているだけなのだ。

 ただ、それでも少しは、軽い甘いやり取りや健全なスキンシップは欲しいという気持ちを理解してくれない。察してくれないだけで……。

 

「ううっ……」

 

 レセリア湖から帰ってきて二週間。

 メルエーナは、仕事以外でジェノとの進展を感じられない現状が悲しくて仕方がない。

 こんなことなら、秘密にしないでおいたほうが良かったのではと思ってしまうほどに。

 

「……すまん……」

 

 ジェノは申し訳無さそうに言い、謝罪してくる。

 全く悪気がないので、メルエーナはそれ以上何も言えない。

 

「もう。ジェノちゃんにも困ったものね。もうこうなったら、メルちゃんがこうして欲しいって直接伝えれば……。いえ、駄目ね。ジェノちゃんの場合は……」

「ううっ、そうなんです」

 

 もしもリクエストすれば、ジェノは確かにその通りに接してくれるだろう。だが、それはメルエーナの理想を演じてくれるだけ。

 長く同じ屋根の下で過ごしているからこそ分かるのだが、ジェノは自分というものを押し殺す傾向がある。だからこそ、メルエーナはジェノに演じてほしくない。自分の前では着飾らない素の状態でいて欲しいと願っているのだ。そうでなければ対等のお付き合いとはいえないのだから。

 

「ジェノさん、少しずつお互いのことを理解していきましょう」

 

 メルエーナは笑顔でジェノに言うが、やはり寂しい気持ちは隠しきれない。

 

「……ああ」

 

 その気持ちが伝わったのか、いつもの無表情ながら、ジェノの声は元気が無いように思える。

 気まずい空気が流れる中、パンッと、バルネアが手を叩く音が聞こえた。

 

「さぁ、昼食にしましょう。今回は私の番だから、腕によりをかけて作るわ」

「あっ、バルネアさん……」

「大丈夫よ。今晩はパメラちゃん達と女子会ですものね。あっさりとしたものにするわね」

 

 言わずとも全て理解してくれているバルネアに感謝をし、メルエーナはジェノに声をかける。

 

「ジェノさん、テーブル拭きを私も手伝います。終わらせてしまって、バルネアさんの美味しい賄いを一緒に食べましょう」

「……分かった」

 

 しかし、やはりジェノの声はいつもより暗く聞こえてしまうメルエーナだった。



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特別編⑥ 『付き合い始めの二人』(中編)

 今回指定されたのは、<魅惑の香辛料>と呼ばれるお店だ。

 当日の楽しみにと店のことを調べはしなかったが、パメラが選んでいるのだから、きっと肉料理が美味しいお店なのだろう。

 昼食を軽いものにしてもらったので、夕食時になった今、メルエーナのお腹はペコペコだ。

 

「私はまだ行ったことがない店だから楽しみ!」

「私もです」

 

 今回、メルエーナはリリィと一緒に会場まで歩いて向かっている。

 治安の良いナイムの街の表通りの店とはいえ、夜にそこまで女性一人で行くのは何かと物騒なので、メルエーナ達は必ず二人で行動するようにしているのだ。

 

 それからメルエーナ達は、談笑しながら目的の店についた。

 だが……。

 

「うわぁ~。凄い大きい店! ……って、ここであっているよね?」

「あっ、あっているはずです。ですが、高そうなお店ですね……。お金は大丈夫でしょうか?」

 

 店構えが立派なだけでなく、センスの良いガラス細工とレリーフが装飾されたドアが、いかにも高級店といった雰囲気を醸し出している。

 けれど、既に会費はパメラに渡しているので、メルエーナもリリィも、今はあまり持ち合わせがない。

 

「とっ、とにかく、入ろうか? きっとパメラさんとイルリアはもう来ているだろうし」

「そっ、そうですね」

 

 店の位置の関係で、パメラとイルリアの家の方が近い。二人共、待ち合わせ時間には早めに来るので、もう店の中にいるはずだ。

 あまりキョロキョロしないようにと気をつけながら、メルエーナ達は外見だけでなく、中も豪奢ながらも品のある店に足を踏み入れる。

 

「いらっしゃいませ、お客様。本日はご予約席のみとなっておりますが、ご予約はお済みでしょうか?」

 

 黒いタキシード姿の初老の男性が、穏やかな笑みを浮かべて尋ねてくる。

 

「はい。パメラという名前で予約しているはずです」

 

 リリィが少し気圧されそうになりながらも答えると、タキシード姿の男性はニッコリ微笑み、「席にご案内いたします」と言って誘導してくれる。

 メルエーナはリリィと一緒に後について行く。

 

 店の中は、本当に洗練された美しさだった。

 白い大理石の壁と廊下に惹かれた赤い絨毯が、まるでお話に出てくるお城の中を歩いているような錯覚を覚える。きっと、こういった非日常を体験できることが売りなのだろう。

 ただ、広い店内だとはいえ、ずいぶん歩くのが意外だった。歩いている途中でいくつもの席を通り過ぎていったが、自分達の席はまだ奥のようだ。

 

「ずいぶん奥の席みたいね」

 

 リリィも同じことを思ったようで、メルエーナに小声で話しかけてくる。

 

「そうですね。他の席は等間隔に並んで配置されているようでしたが、パメラさんが予約してくれた席は違うのでしょうか?」

「う~ん、どうなんだろう? ただ、パメラさんが凄く意味ありげに笑っていたから、期待して良いかもね」

 

 そんなことを話していると、タキシードの男性が優しい声で、

 

「淑女のお二人にご足労をさせてしまい申し訳ございません。ですが、もう少しですので、今しばらくご辛抱くださいませ」

 

 そう言ってくれる。

 本当に耳に心地よく、嫌味がない声だった。

 

 メルエーナとリリィは期待と不安が半々な状態で、タキシードの男性に付いていく。そして、店の一番奥と思われる場所に案内された。

 そこには、白い両開きのドアがあり、男性がノックをし、「失礼致します。お連れの方がお見えになられました」と部屋の中の誰かに声をかける。

 

「おっ、来た来た!」

 

 ドアの向こうから聞き慣れた声が聞こえたことで、メルエーナ達は安堵する。だがそんな余韻に浸る暇もなく、ドアが内から開かれて、声の主であるパメラが現れた。

 

「それでは、ごゆっくりお楽しみくださいませ」

 

 タキシードの男性は優しく微笑むと、優雅に一礼をして去っていく。

 話しかけて来たりもしてくれたが、決してしつこくない。その初老の男性の距離感の巧みさに、メルエーナは自らも見習わねばと思う。

 

「ほらほら、早く入りなよ、メルもリリィも。お姉さん、もう待ちきれないよ!」

 

 メルエーナの腕を取り、パメラは少し強引に彼女を部屋に引き入れ、奥の席に座らせる。すると対面にイルリアが我関せずといった感じで静かに座っていたので、メルエーナは挨拶をする。

 

「ええ、こんばんは。待ち合わせの時間よりも早くに貴女達が来てくれてよかったわ。後五分過ぎていたら、パメラさんの忍耐力が持たなかったものの」

 

 そう言われ、メルエーナは部屋の中を確認する。

 四人用のデザインの素敵な椅子とテーブルが並んでいるだけだが、広すぎも狭過ぎもしない部屋の広さとの対比でそれがちょうどよく感じる。そして、メルエーナとイルリアがドアから遠い席――いわゆる上座で、メルエーナの下座がリリィ、イルリアのそれがパメラという配置だ。

 

 だが、そんなことよりも目を引くものがメルエーナの横に広がっていた。

 きっと魔法による特殊加工をされているであろうそれは、大きな肉の塊が焼かれた煙に炙られているであろうに決して曇ることはない。

 

「こらこら、イルリア。お姉さんはこう見えても女神リーシス様に仕える神官さんだよ。いついかなる時でも冷静かつ公正で、自分を律せるんだよ」

「さっき、肉の味見してみるかどうか聞かれて、本気で泣きそうになりながら、紙一重でその誘惑をなんとか断ち切れた人が言っても説得力がありませんよ」

 

 イルリアの冷たい一言に、パメラは「うっ!」と口を閉ざす。

 

「なんだよ、なんだよぉ~。ちゃんと皆が来るまで我慢したんだから良いじゃあないか」

「とにかく、二人にも今日の趣向を説明するのが先じゃあないですか?」

「ううっ、たしかにそうだね。よし、お姉さんが説明してあげちゃうぞ!」

 

 パメラはすぐに元気を取り戻し、メルエーナとリリィに説明を開始してくれようとしたが、そこでこの部屋の奥のドアが開いた。

 

「ほらっ、説明は後々。せっかくちょうどいい具合に火が入ったから、まずは食べてみて」

 そう言って奥の部屋から出てきたのは、白いコックコート姿の三十代半ばくらいの女性だった。そして、メルエーナはその女性を知っていた。

 

「あっ、こんばんは、リーカさん。ご無沙汰しています」

「ふふっ、こんばんは、メル。でも、そんな硬い話は後々。最初のお肉がちょうどよく焼けたから、早速味わってみて」

 

 リーカは串に刺された大きな肉を運んで来て、それをテーブルに置かれていた四人分の皿に、ナイフで薄く切り分けてくれる。

 それは牛肉のようで、中心部分がほんのりピンク色の絶妙の焼き加減だった。

 

「メル。今日は私が専属で、皆が食べるお肉を焼くわ。普段はあまり口にすることがない希少部位ばかり用意したから、楽しみにしていてね」

「あっ、はい。ありがとうございます。ですが……」

「ほらほら、まずは食べた食べた」

 

 リーカがバルネアの友人で、頻繁に家を訪ねてきていたので、メルエーナもすっかり仲良くなり、買い物の情報などで盛り上がり、交友をしていた。その中で、彼女も料理人であることは知っていたが、このお店、<魅惑の香辛料>で働いているのは知らなかった。

 

「メル! お祈りをしましょう!」

 

 きりっとした顔で、パメラが食事前の祈りをするように促してくる。もっとも、口の端から唾液が漏れそうになっているので、いまいち格好良くなかったが。

 だが、たしかにイルリアもリリィも皿の上の肉に釘付けになっているので、すぐに祈りの姿勢を取る。

 

 こうして、飲み物が運ばれてくる前に食事が始まってしまった。だが……。

 

「うっ、うううっ! 美味しい! 美味しすぎる! ああっ、リーシス様に感謝を!」

「ぱっ、パメラさん、その、気持ちは分かりますが、端ないですよ」

 

 全身で美味しさを表すパメラと、そんな彼女を窘めながらも美味に舌鼓を打つリリィ。イルリアは冷静に肉を切り分けて口に運び、「これは赤ワインね」とこれから頼むお酒を考えているようだった。

 

「……すごい。焼き加減が最高です」

 他の皆に遅れてしまったメルエーナも肉を口に運んだのだが、柔らかく温かな肉の感触の後に、濃密な旨味の肉汁が溢れ出てくる。

 

「ふふっ。どうやら口にあったようね。すぐに飲み物も運んでくるから、次の肉も楽しみにしていてよ」

 

 リーカは得意げに言い、串を手に奥の部屋――間違いなく厨房だろう――に戻っていった。

 

「パメラさん、素晴らしく美味しい料理でしたが、その、大丈夫なんですか? こんな高そうなお店で個室を貸し切りにするなんて……」

「ああ、大丈夫よ。雰囲気に圧倒されるけれど、このお店は結構リーズナブルだから。それに、今日は特別な日だってリーカさんに説明したら、『是非個室を貸し切りなさい。差額は私が持ってあげるから』と言ってくださったのよ」

 

 パメラはそう言うと、残った肉を口に運び、幸せそうに微笑む。

 

「えっと、『特別な日』ですか?」

 

 しかし、メルエーナには話がまだ見えてこない。

 いつも大衆食堂で行っていた女子会が、今回だけこんな大掛かりなものになる理由がわからない。

 

「すぐに分かるから、冷める前に食べなさい。貴女だけよ、料理が残っているのは」

 

 イルリアに指摘され、メルエーナはとりあえず食事を楽しむことにする。

 そして、絶品の肉を楽しんだメルエーナが、再びパメラに尋ねようとしたタイミングで、再び奥の扉が開き、タキシード姿の若い女性が現れ、お酒を運んできた。

 

「私は赤ワイン。あまり重くないものが良いわ」

「かしこまりました」

 

 仕事の関係でこういったお店でも食べ慣れているであろうイルリアが、いの一番にお酒を頼む。

 

「あっ、その、私はよくわからないので、酒精が強くなくて、お肉に合うお酒をお願いしたいのですが」

 

 リリィが申し訳無く言うが、タキシードの女性はニッコリ微笑み、

 

「はい。それでは、こちらのお酒はいかがでしょうか? こちらは……」

 

 リリィにわかり易く丁寧にお酒を説明して勧めてくれる。

 良いお店だなぁとメルエーナは思い、リリィが決めたお酒をメルエーナも注文した。パメラはイルリアと同じ赤ワインのようだ。

 

「ああっ、夢だったシュラスコ式のバーベキューを貸し切りで楽しめるなんて最高ね!」

「もう、パメラさん。今日の主役はパメラさんではないんですから、少しは自重してください!」

「いいじゃあないの。美味しいんだから」

 

 パメラ、リリィ、イルリアの三者三様の反応を見ながら、やはりメルエーナは困惑する。

 リリィが言っている事柄が、引っかかって仕方がない。

 

「さて、飲み物も来たから、乾杯しましょう!」

「そうですね!」

「はいはい。ほら、メル。あんたも」

「あっ、はい」

 

 疑問はなくならないが、三人に促されてしまい、メルエーナは乾杯の姿勢を取ってしまう。

 するとパメラが音頭を取った。

 

「それでは、我ら女子会の……ではなく、今回はメルが見事ジェノ君とお付き合いを開始したことを祝して、乾杯!」

「かんぱ~い」

「乾杯」

 

 思わず同じ様に『乾杯』と口にしようとしてしまったが、メルエーナはなんとか気づくことができた。

 

「なっ、なんで、皆さんがそのことを!」

 メルエーナが顔を真っ赤にして尋ねたが、他の三人は何事もなかったように飲み物を口にするのだった。



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特別編⑥ 『付き合い始めの二人』(後編)

「ううっ、どうして皆さんがそのことを知っているんですか?」

 メルエーナはまだお酒を口にしていないにも関わらず、顔を真っ赤にしてパメラ達に再度尋ねるが、三人は優雅に飲み物を口にし、

 

「うわぁ、良い赤ワインねぇ。お姉さん、神官なのに、こんな贅沢して良いのかな?」

「個室を借りてバーベキューって時点で、今更だと思いますけれど……。あっ、このお酒、本当に飲みやすいですし、お肉に合いますね!」

「ええ。今更よね。でも、たしかにこのワインは良いですね」

 

 それぞれその味を口に出して喜んでいる。

 

「質問に答えてください!」

 

 恍ける三人にメルエーナは語気を強める。だが、そのタイミングで再びリーカが奥から串に刺した肉を持って現れた。

 

「もう、メル。せっかく皆がお祝いしてくれるんだから、そんな怖い顔をしてはダメよ。ほらっ、次はあっさりとしているけれど旨味がある『インサイドスカート』という部位よ」

 

 リーカの焼いてくれた肉はたしかにこの上なく美味しそうで、パメラ達……というかほぼパメラの歓喜の声が聞こえた。

 

「ああっ、ああっ! これは絶対美味しそう! というか、間違いなく美味しい!」

「インサイドスカートは、女性にも好きな人が多いハラミに近い味でもあるから、試してみて。あっ、パンとライスはおかわりは自由だから、好きな方を選んでね」

「ふっ。ここでパンを頼むのは初心者。敢えて、敢えてここはライス! リーカさん、私にはライスをお願いします!」

「えっ、パメラさん? お腹が膨れてしまうから、パンの方が良いのでは?」

「心配しなくても、パメラさんは私達の倍は食べるから大丈夫よ」

「はっはっはっ! お姉さん、今日はリミッター解除していくからね!」

 

 他の皆が盛り上がっているなか、メルエーナは呆然としていた。

 どうして、何故、自分とジェノがお付き合いを始めているのが公然の秘密とかしてしまっているのか分からない。

 ジェノが話すとは思えない。それはバルネアさんも同じだ。となると……。

 

「ねぇ、メル? まさかとは思うけれど、あいつと付き合い始めたのがバレてないと思っていたの?」

「えっ? あっ、その、ですが……」

 

 イルリアは当たり前のように言うが、メルエーナは、ジェノともう少し親密にお付き合いをしたいと思っていたのだが、その気持ちをぐっと堪えて、人前では今までと変わらない姿を見せているつもりだった。

 結果として、それにジェノの女心を理解してくれないことが加わり、メルエーナは寂しい思いをしていた。だが、それがまさか……。

 

「まぁ、私の場合は、先日の旅行であんたがあの馬鹿男を温泉に誘って二人だけで出かけた事を知っていたし、それからあんたの雰囲気が変わったから、これは一応成功したって分かったわけよ」

 

 リーカに肉を切り分けてもらい、イルリアはこの話は飽きたと言わんばかりに食事を再開する。そのため、メルエーナは泣き出しそうな顔で、リリィとパメラを見る。

 

「えっ? いや、だって、メルのジェノさんを見る目がぜんぜん違うんだもん」

「そうだねぇ。今までは、こっちに気がついてほしいなぁっていう視線だったのに、最近は無理にジェノ君を見ないようにして、でも、反応してほしいなぁってチラチラと彼に視線を向けているんだもん。

 これは、一定の進歩はあったけれど、まだ既成事実までは行ってないなぁと察するのは簡単ね」

 

 二人のさも当然という回答に、メルエーナはガックリと肩を落とす。

 その上、

 

「五日前に、久しぶりに<パニヨン>を訪れた私でも、『あっ、これはジェノ君と何かあったわね』て分かったんだから、お友達はとっくにお見通しだったはずよ」

 

 リーカにまでそう言われ、メルエーナは顔を真っ赤にして、恥ずかしさのあまりに涙をこぼす。

 

「そうですよね。それで、リーカさんが私に何があったのかを尋ねてきたので、その辺りの詳しい話を本人から聞こうという企画が、今回の飲み会なわけよ」

「そうね。ヘタレのあんたがあの朴念仁をどうやって落としたのかが分かれば、その事を武器に、あの無愛想なバカ男を誂うことができるからね」

「……ううっ、その、隠していてごめんね。でも、私も後学のために、知りたいなぁって思ってしまって」

「私もメルとジェノの関係にはやきもきしていたから、ようやく二人が一歩進んでくれて嬉しい限りなのよ! だから、私にも後で話を聞かせてね」

 

 

 メルエーナは自身の失敗を理解した。

 自分が賢明に周りに悟られないようにしていたことは全て無駄であったことを。

 つまり、ただただジェノと親密になれる機会をただただ減らしていただけであると。

 

 そして、この状況である。

 パメラもイルリアもリリィも、自分からジェノと付き合うようになった理由や現状等を聞き出すつもりなのだ。

 それを回避する方法は?

 

 ……ない。悲しいが、ない。

 こんな高級そうな店でお膳立てされているだけでなく、リーカが身銭を切ってこの部屋を借り切ってくれているのだ。その気持ちを無下にして帰宅することは許されないのだから。

 

「メル。貴女も食べて食べて」

 

 リーカが何も言わずに切り分けてくれた肉。食べないわけにはいかず、メルエーナはそれを口に運ぶ。

 柔らかく、噛むほどに肉の旨味が染み出してくる。

 本来、シュラスコ式のバーベキューは塩コショウのみのシンプルなもののはずだが、先程の肉も今回の肉も絶妙な味付けがスパイスにより加わっている。

 この店の名前である、<魅惑の香辛料>が表すように、もしかすると、シュラスコ式バーベキューに対するアンチテーゼなのかもしれない。

 

「味はどう?」

 

 懸命に現実逃避をして、肉の味だけを考えていたメルエーナだったが、その一言で悲しい現実に戻される。

 

「すっ、素晴らしく美味しいです」

「ふふっ、良かった。肉だけではなくて、パインやバナナを焼いたものも出すから楽しみにね」

 

 リーカは笑顔で言い、また厨房に戻っていく。

 

「さて、ライスやパンが来るまでに、そろそろ主役に語り始めてもらいましょうかね?」

「そうだね。お姉さん、メルとジェノ君のお話を聴きたいなぁ~」

「メル、ごめん。私も聴きたい!」

 

 そして、ついにその時が来た。

 

 退路は立たれている。

 

 では、どうすれば良いのか?

 悩んだが、メルエーナが取れる行動は一つしか残されていなかったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 裏の入口近くのテーブルにランプを置き、ジェノは一人で何をするともなく椅子に腰を下ろしていた。

 

 夜もだいぶ更け、そろそろ日付も変わりそうだ。

 いつもメルエーナはこんなに遅くなることはないのだが、きっと今回の女子会とやらは盛り上がっているのだろう。

 

 明日は<パニヨン>も定休日だ。それに、いくら酔っていても、あのパメラがついているのだから問題はないだろう。……だが、どうしても心配になってしまう。

 メルエーナは何度言っても、自分が周りからどう見えているのかを理解しない。それがジェノの悩みの種だった。

 

 メルエーナの思いを知り、彼女から告白されて交際することに同意した。

 だが、ジェノは不安になる。

 確かに自分はメルエーナを大切にしたいと思っているし、好感をもっている。だが、これが家族に対するものなのか、異性に対する物なのかが未だにはっきりしないのだ。

 だから、毎晩考えている。自分のようなはっきりとしない気持ちで、メルエーナの真っ直ぐなそれに相対してよいのだろうかと。

 

 そんな事を考えていたジェノだったが、この家に近づく数人の気配を感じ、メルエーナ達が帰ってきたことを悟り、裏口の鍵を開ける。

 

 そして、静かにドアを開けて、メルエーナを迎えようとした。だが、月と星明かりと街灯、そしてジェノの手にしたランプに照らされたその女性は、確かにメルエーナだったが、その表情と状態が想像外のものだった。

 

「あっ、ジェノふぁんです。ジェノふぁぁぁん……」

 パメラの肩を借りてなんとか立っていたメルエーナが、彼女から離れて自分に向かって頼りない足取りで向かってくる。

 地面に倒れそうなので、慌ててジェノは彼女を抱き支える。

 

「……メルエーナ。ずいぶん酔っているようだな」

「ふっ、ふふふふっ、酔っていますよぉ~。いっぱいお肉を食べてぇ……、たくさんお酒も飲みましたからぁ」

 メルエーナは泥酔しながらも、楽しそうに微笑む。

 

「ああっ、ジェノさんの胸って硬いんですねぇ。ですが、どうせ夢なら、このまま独り占めしちゃいますよぉ。うふふふふふふふっ」

 メルエーナは嬉しそうにジェノの胸に頬ずりする。

 

 ジェノは嘆息し、メルエーナを右手で抱き支えると、パメラ達の方を向く。

 

「パメラさん、メルエーナをここまで運んで来てくださりありがとうございます」

「……ジェノ君。こんな時間までメルの帰りを待っていたことは評価してあげましょう。ですが、お姉さんは怒っています!」

 

 パメラに睨まれたジェノは、しかし何が何なのか分からない。

 

「パメラさんの言うとおりです! ジェノさんはもっともっとメルの気持ちを察する努力が必要だと思います!」

 

 リリィは涙を浮かべながら、ジェノに対して文句を口にする。

 

「鈍感な朴念仁だとは思っていたけれど、メルエーナにここまで我慢をさせていたなんて。心底見損なったわ。あんた、仮にもメルエーナとお付き合いをしているんでしょう? つまりはあんたはメルエーナの彼氏なのよ! 彼女の事をもっと考えなさいよ!」

 

 イルリアにも睨まれたが、ジェノには何がなんだか分からない。

 

「一体どういうことだ?」

「どういうことじゃあなぁい! 酔ったメルが何を言っていたのか、聞かせてあげるから、早くメルをベッドに運んで来なさい!」

 

 完全に酔っているパメラに指示をされ、ジェノはメルエーナをベッドに運ぶ。

 

「……ジェノひゃん……。大好きですぅ……」

 

 運んでいる最中に、メルエーナがそんな言葉を漏らしたのを聞き、ジェノは小さく嘆息する。

 本当に、何故こんな愛らしい女が、自分のような者に好意を抱くのかがわからない。

 

 万一のためにと渡されていた鍵で部屋のドアを開け、丁寧にメルエーナを彼女のベッドに横たわらせると、ジェノは来た道を戻る。

 するとテーブルの椅子に腰掛けて、こちらを睨んでいるパメラとリリィとイルリアの姿が見えて、ジェノは思いため息をつくのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 メルエーナはいつもと同じ早朝に目を覚ました。

 だが、記憶がなかった。

 昨日、<魅惑の香辛料>で退路を絶たれてしまった自分が、お酒に逃げたことまでは覚えている、けれど、店からどうやって自分の部屋に戻ってきたのかまるで覚えていないのだ。

 しかも服を着替えていない。

 

「ということは……もしかして、ジェノさんが……」

 

 ジェノはいつも自分が帰るまで待っていてくれるし、メルエーナは意識をして欲しくて、彼に部屋の鍵を渡していた。

 それを使って運んでくれたのではないだろうかと推測したのだ。

 

 メルエーナは大慌てで服を着替え、居間に向かう。

 店が休みでも、ジェノは朝の掃除と料理修行を欠かさないからだ。

 

「じぇっ、ジェノさん!」

 

 目的の人物が調理をしているのを確認し、メルエーナは上擦った声で話しかける。

 

「ああ、おはよう。よく眠れたか?」

「あっ、その、おはようございます。はい。ぐっすり眠りました。ですが、その、私、昨日の記憶がまったくないんです……」

「……そうか」

 

 ジェノはそれだけ言うと、調理を続ける。

 

「ううっ、メル……」

「パメラさん! あっ、リリィさんとイルリアさんも!」

 

 普段と変わらぬ様子で料理を作っているジェノとは対象的に、パメラ達三人は、屍のようにテーブルに突っ伏している。

 

「なっ、何があったんですか?」

 

 メルエーナの声に、三人はなんとか顔を上げて、

 

「おっ、お姉さん達が全員で一晩中女心を説いたつもりなんだけれど、ジェノ君には全然伝わらなくて……」

「メルの苦労が分かったわ……」

「ううっ、ここが<パニヨン>じゃあなかったら、魔法をぶっ放しているのに……」

 

 そんな事を言いだした。

 そのため、メルエーナはジェノの方を見たのだが、彼は涼しい顔で鍋をかき混ぜている。

 

「三人ともかなり酔っていて、先程力尽きて突っ伏したので、今、胃に優しいスープを作っているところだ」

 

 ジェノはそう言い、パセリをみじん切りにする。

 しかし、メルエーナには何がなんだか分からない。

 

 仕方なく、メルエーナはジェノの調理を手伝おうと考えたのだが、すぐに料理は完成してしまったようで、ジェノがトレーに三人分のスープを乗せてこちらに向かってくる。

 

「メルエーナ。その、三人ともかなり酔っていたので、何を言っているのか分からなかったが……」

「はっ、はい!」

 

 突然ジェノに声をかけられ、何を言われるのかをドキドキしながらメルエーナは続きの言葉を待ったが、それは意味不明この上なかった。

 

「俺が鈍感なことだけは何となく分かった。だが、それでも流石に手順というものはあると思うんだが……」

 

 ジェノは心底言いづらそうに言い、メルエーナの横を通り、三人にスープを振る舞う。

 

「やかましい! メルの気持ちを考えなさいよ、この朴念仁!」

「そうですよ! メルだって年頃の女の子なんですから、それくらい普通です!」

「そうそう! お姉さん達はメルの味方だから安心して!」

 

 パメラ達が自分の味方をしてくれている事は分かるが、明らかにジェノは引いている。

 

「あっ、あの、皆さん。わっ、私、昨日の記憶がまるでないんですが、……何を言ったんでしょうか?」

 

 申し訳無さそうにメルエーナが尋ねたのだが、何故か皆が彼女から目をそらす。あのジェノさえも。

 

「えっ、えっ? おっ、教えてください! 私は何を言ったんですか?」

 

 メルエーナは涙目で尋ねるが、パメラ達は、『大丈夫、それくらい普通だ』としか言ってくれない。

 そして、結局誰も話の内容を教えてくれないため、メルエーナは一人悶々とした休日を過ごすこととなった。

 

 

 

 そして後日、バルネアを尋ねてきたリーカから、すべてを聞き、流石にあれは少し端ないと言われ、メルエーナはその日は一日中部屋から出てこなかったのだった。 

 

 メルエーナが何を口走ったのかは、彼女の名誉のために、それ以降は秘密になったことは言うまでもないだろう。



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特別編⑦『その日は過ぎてしまったけれど』(前編)

 夜が更けるまで、ジェノは自室でベッドに腰を下ろして考え事をしていた。

 それは、長く研究していた試作料理を出した今日の昼のまかないが、メルエーナだけでなくバルネアにも好評だったことが起因している。

 もちろん好評であっただけであれば、慢心しないようにしながらも、自身のスキルアップを感じて次に進む糧にできるのだが、バルネアは更にこう続けた。

 

『惜しいわね。もう少しで店のメニューに載せてもいい出来なのに』

 と。

 

 その言葉はジェノに少なからず衝撃を与えた。

 肯定的に考えれば、バルネアほどの料理人の店のメニューに載せても遜色がない程の品を作れたこととなる。だが、否定的に捉えるのであれば、自分の料理には何かが欠けているということだ。決定的な何かが。

 

 そして、更にバルネアは続けた。

 

「メルちゃんはこのジェノちゃんが作った料理を参考にして、技術を磨く必要があるわね。そして、ジェノちゃんは、メルちゃんの料理をしっかり研究してみなさい。そうすれば、二人ともさらなるレベルアップができるわ」

「分かりました」

「はい!」

 ジェノとメルエーナは返事をし、今後の料理修行の指針を決めた。

 

 しかし、これがなかなか難しいことだった。

 だが、バルネアは『研究してみなさい』と言うだけで、細かくは指摘してくれなかった。メルエーナには『技術』と限定しているのにだ。

 つまりそれは、メルエーナに足りないものは技術だけだが、自分は彼女から一言では表せない多くのものを習得しなければいけないという意味ではないだろうかと推測される。

 

 ジェノはメルエーナの料理を評価している。自分の料理にはない発想を入れた料理はとても刺激になるとも考えている。だが、心の何処かで、まだ技術が伴わない彼女を下に見ていたのではないだろうかと、自らを戒める。

 

(思い上がるな。俺とメルエーナの技術の差などバルネアさんから見れば大差ない。それに、メルえーナにはあって俺の料理にはないものが多々あると言われているんだ)

 ジェノはそう心の中で自らに言い聞かせると、料理修行の事柄を記載しているノートにこの事を書いておこうと机に向かう。

 だがそこで、机の上においてあるハート型の箱が目に入ってきた。

 

「そういえば、まだ残っていたな」

 夕食を食べてから時間が経っていたこともあり、口が少し寂しくなっていたジェノは、その箱を開けて、中から、一口の大きさで紙に包まれたものを取り出す。

 

 だが、何故かジェノはそれをしばらくじっと見つめた後、

「……未熟の極みだ」

 何故かそう呟き、拳を握りしめたのだった。

 

 

 

 

 

 

 今日は天気も良く、ジェノの稽古も休みの日だ。

 店も午後早くに終わったので、メルエーナはジェノを買い物に誘おうと思っていた。

 

 俗に言う買い物デートと呼ばれるもので、以前のメルエーナなら恥ずかしい気持ちが先立ってなかなか誘えなかったが、今は交際しているという免罪符がある。

 

 一応は伝えておいたほうが良いと思い、母であるリアラ宛の手紙で、ジェノと交際することになった事を伝えたところ、ものすごく厚い手紙が送られてきた。

 まだ交際に発展していなかった事への文句も書かれていたが、母はジェノとの交際を好意的に受け止めてくれて、この街での滞在時間が少ない以上、積極的に行くようにとの指示が書かれていた。

 もっとも、相変わらず母からの指示は過激なものが多いので、メルエーナは見なかったことにしたが、それでもジェノとの関係は積極的に進めていこうと思う材料にはなった。

 

 だからこそ、メルエーナはジェノに声を掛けようとしうたのだが、それよりも先に、ジェノが口を開いた。

 

「メルエーナ。今日の夕食時だが、時間は空いているだろうか?」

「……えっ? あっ、はい。大丈夫ですが」

 思わぬことに戸惑いながらも、メルエーナは笑顔で返す。

 

「そうか。突然で申し訳ないが、よければ二人で夕食を食べないか?」

「夕食をですか? あっ、はい。喜んで!」

「そうか。バルネアさんには伝えてあるから、午後六時に<微笑みの妖精>に出かけようと思う」

「わっ、<微笑みの妖精>ですか! 分かりました。楽しみにしています」

 誘われた店は、ナイムの街でも人気の料理店だ。生憎と予約がなかなか取れずにメルエーナもまだ足を運んだことがないのだが、評判はとても良い。

 

「そうか。五分前に声をかけるから準備をしておいてくれ」

「はい」

 メルエーナは幸せそうに微笑む。

 

「俺は時間まで少し外に出てくる。では、また後でな」

 ジェノはそう言って出かけてしまったが、メルエーナは信じられないほど幸福だった。

 

 だが、そこで……。

 

「いやぁ、これはまたすごい現場に出くわしましたね、パメラさん」

「ええ、リリィ。この甘々な空気だけで、お姉さん酔っ払ってしまいそうだよ」

 ジェノと入れ違いに、女友達であるリリィとパメラが店にやってきた。しかも口ぶりから察するに、今の話を盗み聞きしていたようだ。

 

「なっ! 二人とも、今の話を聴いていたんですか?」

「えっ? いやぁ、そんな。たまたまよ、たまたま」

「そうそう。遅めの昼食を食べに来たら、メルとジェノ君がいい雰囲気だったから、邪魔をしたら悪いと思って……」

 リリィとパメラはそう言うが、目が泳いでこちらと目を合わせようとしない。間違いなく盗み聞きをしていたようだ。

 

「しかし、<微笑みの妖精>か……。でも、あの店の近くって……」

「ふっ、そこに気がついてしまったかね、リリィ君。そう、あの辺りは雰囲気のいい宿屋が多いんだよねぇ。噂だと、<微笑みの妖精>と提携している宿屋もあるらしくて……」

「きゃあ~! やっぱりそうなんですか? ジェノさん、去年のホワイトデーには食事に誘っていたのに、今年はメルを誘わないのかなと心配していたんですが、これは間違いないですね!」

「うんうん。間違いない間違いない! <微笑みの妖精>で意中の相手に求婚する男性って多いらしいのよ。だから予約をとるのが難しいの。美味しい食事をして、そこで指輪を渡し……。もう、それ以上は神官である私の口からは直接言えないわよぉ~」

 

 勝手に盛り上がるリリィとパメラに、メルエーナは、ジェノさんに限ってはそんなことはないだろと思ってしまう。

 けれど、何度期待が裏切られても、もしかすると、と期待してしまう自分がいることに悲しくなる。

 

(いっ、一応、母の手紙にもこんな事柄を想定した記述があったはずなので、万が一のために読み返して置いたほうが……)

 ふとそんな邪な考えをしてしまったメルエーナは、自分の浅はかさに気が付き、顔を真っ赤にする。

 

「おおっ、メルもそのつもりなのかな?」

「なんだなんだ、なんだぁ、けしからんぞ、メル! いいぞ、もっとやりなさい!」

 そして、それをリリィとパメラに、更には奥から出てきたバルネアにも誂われたのだった。



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特別編⑦『その日は過ぎてしまったけれど』(中編)

「おっ、お待たせしました……」

 メルエーナはそう言いながらも、予定の時間よりも早くに部屋を出て、ジェノがいる居間にやってきた。

 これから行く店が高級店であることを鑑み、一張羅の白いドレスを身にまとい、バッグや靴やストッキングも選び抜いて精一杯フォーマルな装いに仕上げたつもりだが、所詮は田舎者のお上りさんの発想なので、ジェノの目にどう映るかが心配だった。

 

「いや、大丈夫だ。待っていない。すまんな。俺が部屋まで声をかけに行くつもりだったが……」

 しかし、ジェノはそう言うだけで、服装に触れてはくれない。

 メルエーナはそのことにがっかりしながらも、ドレスコードに問題があれば教えてくれるはずなので、おかしな格好ではないと自分を励ます。

 

「いえ、そんなことは。ただ私が待ちきれなくて……」

 それに、ジェノの正装を見る機会などそうあるものではないので、彼のタキシード姿に見惚れることにした。

 

「うんうん。二人共、とっても素敵よ」

 他の人に話すと意外に思われることが多いが、コーデの一番の先生であるバルネアがそう太鼓判を押してくれたことで、メルエーナは安心する。

 けれど服装が格式張ったものになればなるほど、その中身の質の差も顕著になる気がして、メルエーナはもう少しジェノに釣り合うような素敵な女性に成長したいと思わずにはいられない。

 

「あっ、ジェノちゃん。明日はお店は休みだし、私はなんだか今日は疲れた気がするから早く寝ようと思うの。それと、朝食は私が作るから気にしないで、二人はゆっくりしてきていいからね」

 バルネアは口元に手をやり、微笑ましげに言う。

 

「ばっ、バルネアさん!」

 バルネアの言わんとしている言葉の意味を理解し、メルエーナは頬を高調させて抗議のために名前を呼ぶが、ジェノは何も分かっていないのだろう。少し怪訝そうな顔で、「分かりました」と応える。

別段――それを望まないといえば嘘になるが――急いで関係を進ませたいわけではない。でも、こう自分を女の子として、異性として見てくれないのは悲しくなってきてしまう。

 

「ジェノちゃん。いい、今日は料理の勉強は二の次。メルちゃんをしっかりエスコートして楽しんでもらうことが一番。そして、自分も楽しむことが二番よ」

「そのつもりです」

 言わんとしていることを理解していなかったと判断したバルネアの念押しに、しかしジェノは凛々しい表情で断言した。

 その顔と言葉に、メルエーナの胸は高鳴る。

 念のため。飽くまでも念のためだが、その、万が一の時のために見えない部分も着飾っている。そんな事態になっても恥はかかない……と思う。

 メルエーナが、「まさかそんな、でも……」という思いを頭で

 

「そう遠い距離ではないが、慣れていない履物で長く歩くのは心配だ。だから、もう少ししたら馬車が来てくれることになっている」

「えっ? 馬車、ですか?」

 乗合馬車以外の馬車に乗ったことのないメルエーナには、家まで迎えに来てくれる馬車というのはこの上なく贅沢に思える。

 

「じぇっ、ジェノさん。その、そんな贅沢なことを……」

「そんな顔をするな、メルエーナ。店を予約した人間を迎えに来てくれるサービスの一つだそうだ」

「そっ、そうなんですか?」

「ああ」

 ジェノが嘘をついているようには思えないが、それが本当だとしても、フォーマルなドレスコードに加えて、そこまでのサービスをされる食事というものが、どれだけ高価なものか想像するだけで恐ろしい。

 

(まさか、本当に……)

 リリィとパメラに言われても、その可能性はないと思っていたが、今回限りのただ一回の食事に掛ける金額にしては高額すぎる。

 これがまだ誕生日や記念日、お祝いごとのある時なら分からなくもないが、今日はそのどれでもない。

 

 

『やっぱり、婚約指輪を贈ってくれようとしているんじゃあないかな? ジェノさん、そういった手順大事にしそうだし』

『ああ、ありえそう。<微笑みの妖精>で至福のディナー。そしてデザートが運ばれてくるまでの間に、指輪が入った箱を取り出して、それを開けて……』

『ジェノさんに、婚約をして欲しいと囁かれて……』

『メルは上がりながらも『はっ、はい……』と応えて、そのまま部屋を取ってあるというジェノ君に誘われるまま……』

 

 

 メルエーナは顔が真っ赤になっているのを隠すために、両手でそれを覆う。

 

「どうかしたのか、メルエーナ? 体調がすぐれないのか?」

「いっ、いえ! だっ、大丈夫です! わっ、私も、もう大人ですから!」

「どういうことかは分からんが、それだけ声を出せるのなら大丈夫だろう」

 そんなやり取りをしているうちに、店の前に馬車がやってきた。そして、笑顔のバルネアに見送られ、いつもどおりの無表情なジェノと、ものすごく緊張した顔のメルエーナはそれに乗り込むことにしたのだった。



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特別編⑦『その日は過ぎてしまったけれど』(後編)

 友人達や店を訪れる妙齢の女性客の口によく上がっていた、『微笑みの妖精』という超高級料理店。

 メルエーナも行ってみたいとは思っていたが、好意を寄せるジェノに誘われて二人で出かけることになるとは、今でも夢にしか思えない。

 馬車に乗ったメルエーナは、ジェノの隣に座りながら少し緊張していた。

 

 一体どうしてジェノが、急に食事に誘ってくれたのかが分からない。ましてや、超高級店に。やはり、これがただの食事のお誘いだけとは思えないのだ。

 パメラ達が言っていたように、自分と婚約をしてくれるのだろうか? でも、そんな素振りは今まで全く見られなかったので、その可能性は低いと思う。

 

「メルエーナ」

「ひっ、ひゃい!」

 ジェノに声をかけられ、驚きのあまり思わず声が上ずってしまい、メルエーナは顔を真っ赤にする。

 

「移動距離は短いが、下ばかり見ていると酔うぞ」

 しかしジェノはその事を咎めるでも嗤うでもなく、優しく微笑む。その表情に、メルエーナは少しホッとする。

 

「なかなか普段と同じ様にするというのは難しいかもしれないが、食事をしにレストランに行くだけだ。緊張するよりも、楽しむことを優先した方がいい」

「はっ、はい。ですが、こんな馬車で出迎えて貰えるなんて、お姫様にでもなったようで……」

「……そうか」

 ジェノはそう言うと、口元を緩め、

 

「本当に可愛いな、お前は……」

 

 そう続けた。

 メルエーナの顔が熟したトマトのように真っ赤になる。

 

「かっ、可愛いなんて、そんな……」

 メルエーナは恥ずかしそうに言うが、可愛いと言ってもらえたことが嬉しくて仕方がなかった。

 あまりジェノが自分のことを褒めてくれることがないので、余計に嬉しい。

 

「もう少しで店に就くが、あまり緊張しないでくれ。今日は精一杯エスコートをさせて貰う」

「はっ、はい。宜しくお願いします」

「いや、だから緊張しなくても大丈夫だ」

「そっ、それはそうなんですが、やっぱり不安で……」

 メルエーナは素直な気持ちを打ち明ける。すると、静かにジェノはメルエーナの手を握ってきた。

 

「大丈夫だ。俺が一緒にいる」

「はっ、はい……」

 ジェノの力強い笑みに、メルエーナは見とれてしまう。

 ただ、普段とはあまりにも違うジェノの態度に、きっと今日はただの食事では終わらないのだろうと、メルエーナは予感めいたものを感じるのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 目的地に付き、馬車が止まると、『微笑みの妖精』の従業員と思われる男性二人が駆け寄ってきて、馬車のドアを静かに開けた。

 ジェノが入口側だったので、先に彼が降りて、メルエーナに手を差し伸べてくる。メルエーナは喜んでその手を取り、馬車を降りた。

 

 思わず声を上げてしまいたくなるほど、『微笑みの妖精』は立派な建物だった。お話の中に出てくるお城のようだとメルエーナは思ったほどに。

 床には敷物が敷かれ、その上を歩くのだと思うと、緊張感で汗が溢れてくる。

 

 だが、そこでジェノが少し前に立ち、左腕を曲げて、メルエーナの前に差し出してくれた。

 その行動の意味が少し分からなかったが、「メルエーナ、腕を」とジェノが言ってくれたので、ようやくメルエーナは意味を理解し、彼の腕に自分の手を掛けてエスコートして貰う。

 

 本当に何から何まで初めてづくしで緊張の連続だったが、ジェノが一緒だというのはとても心強い。少し恥ずかしい気持ちもあったが、それ以上に嬉しかった。 

 

 店の階段を三階まで登り、席に案内されると、そこが窓際だと気づく。ナイムの街を一望できる席だ。このあたりの席の違いで金額が変わるのかをメルエーナは知らないが、きっとものすごく高価なのではと勘ぐってしまう。

 白いテーブルクロスの上に並んでいる食器類も高級そうだし、椅子もかなり立派だ。

 ここでジェノさんと二人で食事をする。そのことだけで、メルエーナの鼓動は激しくなる。

 

 やはり、これはあきらかに普通ではない。ここまでのシュチュエーションを整えられて、ただ食事をして帰るだけとは考えられないのだ。

 メルエーナは、ジェノにエスコートされて席につくと、同じく席についたジェノの顔を見る。

 

「メルエーナ。注文は俺に任せてもらってもいいだろうか?」

「はっ、はい! お願いします」

 話しかけようとしたところで先に声をかけられて、メルエーナは慌てて応える。

 

「そんなに畏まらなくても大丈夫だ。大声をあげなければ、普通に談笑して問題ない」

 各席が離れているので、会話はよほど耳を澄まさねば聞こえないようだ。メルエーナはジェノの気遣いに感謝する。

 そして、ジェノは慣れた様子で料理を頼んでくれた。

 

「ジェノさん、このお店に来たことがあるんですか?」

「いや、初めてだ」

「そっ、そうなんですか。ずいぶんと迷いなく注文されるものですから、来たことがあるのかと……」

「ただの慣れだ。実家にいた頃に、少しな……」

 ジェノはそう言うと、少しだけ憂いを含んだ顔になったが、すぐにそれを笑顔に変える。

 

 メルエーナは知っている。ジェノが自分の過去を話したがらないことを。けれど、それがメルエーナには悲しくて仕方がない。

 ようやくお付き合いをするようになったのに、まだまだジェノが話してはくれないことが多すぎる気がするのだ。

 もちろん、自分のことを気遣ってくれていることは分かっているつもりだが、それはメルエーナの求める関係ではないのだから。

 お互いのことをもっと気軽に話し合える仲になりたい。それが、メルエーナの偽らざる気持ちだった。

 

 やがて食前酒が運ばれてきて、赤ワインで乾杯をしてメルエーナは喉の乾きを潤す。

 ただ、この後味の良さといい、香りといい、かなり良いワインであることは想像に固くなかった。

 

「ジェノさん。どうして今日、私をこの店に誘ってくださったんですか?」

 絶品のオードブルを食べ終えたところで、メルエーナは真剣な表情でジェノに尋ねた。

 

「……それを明かさないうちは食事も心から楽しめないようだな」

 ジェノは苦笑し、ウエイターに料理を運んでくるのを遅らせるように頼んだ。

 

「食事が終わってから渡すつもりだったんだが……」

 ジェノは静かにメルエーナに視線を向ける。そして、背広のポケットから小さな箱を取り出し、テーブルに置いた。

 

「えっ、えっ? もっ、もしかして、それは……」

 メルエーナは声が大きくなりそうなのを懸命にこらえて、眼前の箱を凝視する。

 この大きさはきっと指輪だとメルエーナは思い、顔を真っ赤にする。

 

「いや、そう大したものではない。これはただのチョコレートだ」

「……えっ?」

 メルエーナはその言葉に、困惑する。

 

「これは、俺からの詫びの品だ」

「どういうことですか?」

 ジェノの表情が真剣そのものだったので、メルエーナは黙って話を聞くことにする。

 

「今年のバレンタインにお前からチョコレートを貰った。大きめな箱に入っているだけでなく、個別に包装をして食べやすいようにと。そして、長いあいだ味が劣化しないような工夫がされていた。だが、俺がホワイトデーに返したものは、去年と同じチョコケーキだった」

「えっ? 去年よりも更に美味しい、凄く上手で綺麗なケーキでした。私は凄く嬉しかったですよ」

 メルエーナはジェノが何を言いたいのか分からない。

 

「先日、バルネアさんに、俺はお前の料理を研究するように言われた。そして、俺はお前から送られたチョコレートを見て悟った。俺には、相手を思いやる気持ちが、心遣いが欠けているのではないかと」

「心遣い、ですか?」

「ああ。お前の料理には常にそれがある。その事を俺は見えなくなっていた。だから、技術だけのお返ししかしなかった。それで、いいだろうと安直に考えていた」

「ですが、私は十分に嬉しかったです」

「そう思ってくれたのならありがたいが、付き合いを、交際を始めてから初めてのホワイトデーのお返しとしては足りなかったと俺は考えた」

 ジェノはそこまで言うと、息をついた。

 

「ジェノさん。だから、私をこのレストランに誘ってくださったんですか? ……罪滅ぼしの意味で?」

 ジェノの話を聞いているうちに、メルエーナは悲しくなってきてしまった。

 二人で高級店で食事ができる。もしかするとそれ以上なこともなどと考えていた自分が愚かに思えた。

 それら全てがただの謝罪のつもりなら、埋め合わせにすぎないのならば、心から楽しみにしていた自分が滑稽すぎる。

 

「それは違う!」

 しかし、ジェノはメルエーナの言葉を否定する。

 

「俺は、お前に喜んでもらいたかったんだ。あんなお返し以上に喜んで、笑って欲しかった。その気持ちの中に、謝罪の気持ちがまったくなかったとは言わないが、お前を楽しませることが第一だった」

「ジェノさん……」

「まだこの気持ちが何かは断言できないが、俺はお前を大切に想っている。それだけは本当だ。あんな品で返してしまったが、俺は……」

 ジェノの言葉は理路整然としたものではなかった。けれど、それがメルエーナには嬉しかった。

 何故なら、それは言葉で言い表せないほど気持ちが先走ってしまっているからだと分かったから。それほどの気持ちを自分に向けてくれていると理解できたから。

 

「このチョコレートを帰り際に渡して、すべてを話すつもりでいた。だが、このままではお前に心から楽しんでもらえない。それが残念で、その、寂しくて仕方がなかった。だから、今話した」

 ジェノは静かにワインを口に運び、続ける。

 

「もう、今年のホワイトデーは過ぎてしまった。今更やり直しなどきかない。だが……」

「いいえ。喜んで受け取らせて頂きます」

 ジェノの言葉を遮り、メルエーナは微笑んだ。大粒の涙をこぼしながら。

 

「メルエーナ……」

「そこまで……そこまで私のことを考えてくださっていたんですね……」

 我慢ができなくなり、メルエーナはハンカチで目元を押さえた。

 

 自分を心から大切に考えてくれるジェノの純粋な優しさに、想いに触れて、メルエーナは自分が浅ましい想像をしていたことを恥じる。

 そして、メルエーナはなんとか気持ちを落ち着けて、微笑むことにした。それが、ジェノの真っ直ぐな気持ちに応える唯一の方法だと分かったから。

 

「ありがとうございます、ジェノさん。私、ここまでジェノさんに思って頂けて幸せです」

「……そうか」

 相変わらずそっけない言葉だが、ジェノは微笑み、箱をメルエーナに差し出す。

 それを受け取り、開けて良いのかを確認して、メルエーナは包装を解いた。

 

「あっ! ふふっ……。凄く可愛いです」

 メルエーナは思わず笑ってしまった。

 

 その箱の中から現れたチョコレートは、メルエーナの最近のお気に入りの、愛らしい猫のキャラクターの形をしていたのだ。

 これをジェノが精一杯作ってくれていたことを考えると嬉しいけれど、少し微笑ましく思える。

 

「そうか」

 ジェノはそう言うと、静かにウエイターをよび、食事を再開して貰ってくれる。

 そして、それからの食事は、メルエーナもジェノも心から楽しむことができたのだった。

 

 

 それはホワイトデーはとっくに終わってしまった、何気ない平日の出来事。

 けれど、メルエーナにとって、この日は特別な日になったのだった。



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特別編⑧ 『私は……』(前編)

 私はよく頑張ったと思う。

 泳ぎに一度行った以外は、こうして宿の部屋で読書ばかりしていたのだから。

 

 ……そう。二週間も。宿から一歩も出ることもなく……。

 

「あっ、あの、マリア様……」

「……何も言わなくても結構です」

 朝一で、手紙の返事を運送ギルドに確認に行ったセレクト先生の申し訳無さそうな顔に、私は今朝もレーナス家から連絡がないことを理解した。

 

 この街に入る前にも手紙を今の実家であるレーナス家に当てて出した。更にナイムの街に入ってからも五回も手紙を書いて郵送したのだ。けれど、一向に返事は来ない。

 そもそも、レーナス家の領地内の街が滅ぼされてしまったというのに、まるで実家は動こうとはしていないように思える。これは、間違いなく誰かが意図的にその情報を握りつぶしているとしか考えられない。

 

(まぁ、誰かは考えるまでもないのですが……)

 マリアの脳裏に、自分のことを病的に嫌う義兄のルモンの顔が浮かび、彼女は音もなく嘆息する。

 

 マリアの義父であるジュダン=レーナスの考えとは異なり、母方の祖父の影響なのらしいが、兄のルモン=レーナスは貴族というものの生活が万全であってこそ領民に平和が訪れるという、貴族第一主義を取っている。

 父はもちろん――出過ぎたことをしている自覚はあるが――義妹である自分も、兄にその考えは逆だと、民の生活があって初めて貴族というものが成り立つのだと言っても聞こうとはしないのだ。

 そして彼は、いつか自分の地位をマリアに奪われるのではないかと危惧しているため、彼女に敵対している。

 

 そんなことはありえないのに、とマリアは思う。

 どう考えても、自分は政略結婚の道具としてレーナス家に買われた身だ。そう。元の実家が経済的困窮を理由に、娘である自分を養女に出したのだ。

 もちろん、この十年近くのレーナス家での待遇は破格と言ってもいいほどの暖かなものであったことは理解している。教養をしっかり身に着けさせてくれただけでなく、一部の領地を実際に経営させてもらえる令嬢など稀有な存在だ。

 だが飽くまでもそれは、政略結婚の際に付加価値をつけるための側面も含んでいる。

 

 ただ、マリア自身、貴族の家に生まれた女として政略結婚の道具にされることは仕方のないことだと理解している。

 貴族とは血が、血統が必要であり、さらに其れを維持していくためには世継ぎを残さねばならない。そのため、女である自分は望まぬ相手とでも契りを交わし、子を生み育てていくのだ。その未来は決して変わらないのだ。

 

 マリアは高い教養だけでなく、人並み外れた美貌を有していたため、安売りをされずにすんだだけにすぎない。そして、成人してしまった以上、もう間もなく誰か有力な貴族の子息に嫁がされる身なのだ。 

 きっと、レーナス家に戻ればすぐにでも縁談が結ばれることだろう。そうなれば、ゆくゆくは間違いなくレーナス家は兄のものになる。それなのに、どうして義兄が自分を目の敵にするのか分からない。

 義兄は野心家ではあるが、教養のある人だ。そんなことくらいは分かっているはずなのに。

 

 

「はぁ~。困りましたね。いつまでもこの宿に逗留し続ける訳にはいかないのですが……」

 屋敷を出る際に路銀はしっかり持ち出してきたが、それとて無限にあるわけではない。それに何より……。

 

「セレクト先生」

「はい、なんでしょうか?」

「流石に、私も我慢の限界です。いい加減、外に出たいです」

 マリアは素直な気持ちをセレクトにぶつける。

 

「ですが、マリア様……」

「ですがも何もありません! もう限界です! 本を読んで食事をして一日を過ごす毎日は飽き飽きです! それに、この宿の食事にも飽きました!」

 自分を狙う左右の瞳の色が異なる者達から身を守るためだとセレクトに言われて我慢していたが、人間である以上、我慢の限界というものはあるのだ。

 

「少しは体を動かさないと、鈍って仕方がありません! もう! 私の顔が目立つのなら、先生の魔法で姿を変えてくださればいいでしょうが!」

「ですから、それは無理なのです。目の変化を隠すのに<変貌>の魔法のリソースを全て使用しているので……」

「分かっています! 分かっていますけれど! 私だって若い娘です。退屈にもなりますし、息抜きがしたくもなるのです!」

 子供のようなことを言っているのは理解しているが、一人で部屋に軟禁され続けていては文句の一つも言いたくなる。

 もしも、メイがこの場にいてくれていればまた違ったのだろうが……。

 

「……分かりました。たしかに、マリア様の仰ることもごもっともです。どうにかしましょう」

 マリアが文句をひとしきり言ったところで、セレクトはそう言って折れた。折れてくれた。

 そして、マリアは久しぶりに自由な時間を手に入れることになったのだった。

 

 

 

 

 

 昼時を少し過ぎたころ。

 この料理店<パニヨン>で、マリアは至福の時間を味わっていた。

 

「うっ、うううっ……。美味しい。すごく美味しいです……」

 マリアはあまりの美味に目頭を抑える。その端からは、僅かだが光る液体が、涙が零れていた。

 

 米と卵を油で炒めたものに、旬のプリプリの岩牡蠣の身を加えた料理が、マリアの心を奪ったのだ。

 

 そう、こういう料理が食べたかったのだ!

 格式張った見た目が美しい料理ではなく、これでもかと言わんばかりの旨味が口いっぱいに広がる豪快な料理を求めていたのだ。

 一粒一粒の米が卵でコーティングされているのだろう。パラパラの食感が堪らない。そしてそこに岩牡蠣の洪水のような旨味の汁が、口内に官能的とさえ思えるほどの感動を与えてくれるのだ。

 しかも、できたての熱々をハフハフ言いながら食べる。

 行儀が悪いことは理解していても、スプーンを止めることができない。

 

「ふふふっ。その様子だと、気に入ってくれたみたいね、牡蠣チャーハン」

 マリアはこんな料理が食べたいと、漠然としたイメージをバルネアに伝えたのだが、彼女はその意を見事に汲んでくれて、最高の料理を作ってくれた。

 

「あの、マリアさん、お茶をここに置いておきますね」

「ええ。ありがとう」

 メルエーナがそう言って置いてくれた事に感謝を述べ、マリアは静かにお茶を口にする。

 口内が冷たいお茶で冷え、油を流してくれるのがすごく心地良い。

 そして、再び口に牡蠣チャーハンを運ぶと、もう一度口内に幸せが広がる。

 

 それからマリアは心ゆくまで料理を堪能し、全てを食べ終えると満足げに微笑んだ。

 

「バルネアさん、ごちそうさまでした。大げさではなく、生き返った気持ちです!」

「ふふっ、どういたしまして。マリアちゃんもこれからは遠慮なくうちのお店に食べに来てね」

「はい。そうさせて頂きます!」

 先日のレセリア湖に行く道中で食べたお弁当も美味しかったが、あの料理でもバルネアという料理人の実力の断片に過ぎなかったのだということを、マリアはようやく理解することができた。

 

「いい食べっぷりね。お貴族様って、こういう料理は食べないと思っていたわ」

 隣の席でお茶を飲んでいたイルリアが、関心とも呆れとも取れる感想を口にしたが、マリアはそんなことは気にしない。

 

「そんなわけないじゃない。貴族だろうとそうでなかろうと、同じ人間よ。美味しいものは誰が食べても美味しいし、食べたいと思うものよ」

 マリアは上機嫌にそう言って微笑み、

 

「そして、私は可愛いものも好きよ」

 そう宣言する。

 

「はいはい。分かっているわよ。セレクトさんに頼まれたときは本当かどうか悩んだけれど、平民の娘が大好きな可愛い雑貨を扱う店に案内してあげるわ」

「ふふっ、嬉しい」

 マリアは今日の遊びプランを考えてくれたイルリア達に感謝する。

 そして、もちろん、彼女達に頭を下げて護衛兼遊び相手を務めてくれるように頼んでくれたセレクト先生にも感謝する。

 

 そんなセレクトは、ジェノと何やら打ち合わせをしている。

 気にならないといえば嘘になるが、『今日は、思いっきり羽根を伸ばしてください』と言ってくれたので、マリアはその辺りのことはすべて任せることにした。

 

 そして、マリアはこの日、久しぶりに楽しい時間を過ごす事となったのだった。



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特別編⑧ 『私は……』(後編)

 私が案内されたところは――そのお店は、私の心を鷲掴みにした。

 

『色褪せぬ童話』という名前のファンシーショップ。

 常々行って見たいと思っていた店で私は買い物を堪能した。

 

(私は淑女、私は淑女よ!)

 そう心のなかで唱えていないと歓喜の声をあげてしまいそうで、私は、『ああっ、こういった子供向けの可愛らしいのも悪くないわね』といった感じで大人の女性を気取ろうとするが、次々視界に入ってくる、可愛いデザインのグッズの洪水に、口元が緩むのを抑えきれなかった。

 

 お金はあるのだが、いかんせん今は旅の身だ。そんなに買っても置く場所もないし持ち運べない。

 私はこれまでの買い物の中でも一、二を争う程真剣に考え抜き、うさぎの形のレリーフが掘られたカップとコースターをいくつか買うに留めた。……断腸の思いで。

 

 もしも、ここにメイが居てくれたのであれば、もっと楽しかっただろうにと残念に思いながらも、私は久しぶりの買い物で大いにストレス発散ができたのだった。

 

 

 そして、少し休憩しましょうという提案を受けて案内されたのは、かなり小洒落た喫茶店。その名も、<罪なる甘味>というお店だ。

 そこで、私と他の女性陣が奥の席に皆で座る。

 おもえば、こんな風に、沢山の同年代の同性と行動を共にしたのはいつ以来だろうか?

 

「いやぁ、お姉さん、あのお店であそこまで鬼気迫る表情で商品を見ている人を初めて見たねぇ」

 私が身分は気にせずに話して欲しいとお願いしたとはいえ、金色の髪で年上風を吹かす女性の名は、パメラ。こう見えても、女神リーシス様に使える神官様なのらしい。

 すごく耳障りの良い声が特徴的で、話していると心安らぐ感じがする。きっと、それも神官としての努力の成果なのだろう。

 

「まぁ、田舎からのお上りさんでも、もう少し自重するわよ」

 チクリと人の痛いところを冷静に突いてくるのは、イルリア。

 けれど、陰湿な感じが全く無いので、不快な感情はまるで抱かない。そして、私と同い年なのだが、随分と落ち着いているように思える。

 いや、違う。私と『同じように』落ち着いているように思える。

 そう、忘れてはいけない。私はこれでも貴族の生まれで、街を治めていたのだ。それが素の私ではないとしても、少しは落ち着きのある出来る女性であるところも見せないと。

 

「まっ、待ってください! 確かに少し取り乱しましたが、私はこれでも……」

「いや、その、マリアさん。流石に、お店の人が声をかけても気づかないほどの真剣さでカップを選んでいるのは、少しとは言えないかと……」

 黒髪に茶色の目の大人しそうな女の子――リリィが、申し訳無さそうに私に言ってくる。いや、そんな風に言われると、余計に堪えるんだけれど……。

 

「まっ、まぁ、その話はもういいじゃあないですか。ほらっ、注文したものが届きましたよ」

 落ち込む私をフォローしてくれたのは、メルこと、メルエーナ。

 栗毛色の髪の大人しそうな女の子なのだが、非常に人当たりがよくて、一番私に気を使ってくれている女の子だ。

 

「わぁ!」

 私は思わず声を上げてしまった。

 運ばれてきたのは、『プリンアラモード』というデザート。大きく造形が美しいガラスの器に、プリン、つまりはカスタードプテイングと新鮮なフルーツと生クリームを見目美しく装飾した芸術。

『洗練されたもの』という意味の、アラモードと名付けるのも納得の出来だ。

 

 そして、そこで皆の視線が集まっていることに気が付き、私は今更ながら、コホンと小さく咳払いをし、静かにする。いや、もう手遅れなのは自分が一番分かっているのだが……。

 

 そんな私を皆、生暖かく見守ってくれて、私は悲しくなったが、それでもプリンアラモードは絶品だった。

 この街に住む皆は分かっていないようだが、貴族だってこんな洗練されている上に、流行を取り入れた甘味を味わうことなどできないのだ。ましてや、エルマイラム王国の首都から離れた地域に住む私のような辺境貴族は!

 

 そして、やがて私の食事が終わると、皆の視線が私に集まる。

 

 さて、気を抜きすぎていたために、恥ずかしいところを見せてしまった私だが、流石に気がついてはいる。

 彼女たちが、ただの親切心だけで私のストレス発散に付き合ってくれたわけではないことは。

 

「さて。それで、皆さんは私に何を訊きたいのかしら?」

 私の言葉に、皆の表情が強張る。

 うん。こういう態度こそが私には似合うはずだ……と思いたい。

 

「そう。それなら単刀直入に聞きたいのだけれど……」

 イルリアが何の躊躇もなく、話しかけてきた。

 

「ねぇ、マリア。貴女、ジェノの事をどう思っているの?」

 その問いかけに、私は驚いた。ただ、顔には出さない。どうだ、私だって交渉事は得意なのだ。

 

「どうとは? 彼は私の幼馴染で、久しぶりに再会したばかりなのだけれど?」

「そういった腹の探り合いをするつもりはないわ。言ったでしょう? 単刀直入だって」

 こちらをじっと睨むイルリアに、私は口元を綻ばせる。

 

「そうね。たしかにそう言っていたわね。でも、私がその質問に答えなければいけない理由ってあるのかしら? いえ、もちろん今日、私のストレス発散に付き合ってくれた事には感謝しているわ。でも、ジェノをどう思おうが、それは私の自由じゃあないの?」

「それじゃあ困るのよ。あいつには、もう付き合っている娘が……彼女がいるんだから、変な粉掛けをされると迷惑なの」

「えっ? 彼女? 誰が?」

 それまでのクールな態度もどこへやら。あまりに驚きが大きくて、私は再び素に戻ってしまう。

 

 だって、あのジェノよ。

 幼い頃とはいえ、私があれだけ積極的に好意を伝えようとしても反応のなかったあの男の子が。

 再会してからも、全然女っ気がありそうには見えなかったのに、彼女がいる?

 

「ここにいるわよ」

 イルリアはそう言うと、メルエーナを指さす。

 

「えっ? えっ? メルエーナ。貴女が、ジェノの彼女なの?」

 私の問いに、メルエーナは顔を真っ赤にしながらも、私の目を見て、

 

「はっ、はい! かっ、彼女、です……」

 そう断言した。

 

「えええっ! 本当に? あのジェノに……彼女が……。ねぇ、どうやって彼女になったの? やっぱり推し続けた? それともなにか奇抜な方法を……」

 もう驚きで私の喋るスピードはどんどん上がってしまう。

 

「ちょっ、ちょっと! メルが思考停止しているじゃあないの! なんなの? 貴女もジェノに気があったんじゃあないの?」

 肩を掴まんばかりに向かいの席に座るメルに詰め寄る私の肩を、イルリアが両手で抑える。

 

「えっ? それは気はあったわよ。私の初恋の男の子だもの。再会してみたら、すごく格好いい男性になっていたし。でも、私は貴族。それを忘れてはいないわ」

 そう言って、私は小さくため息をつく。

 

「もしも、もしもよ。何かしらの奇跡が起きて、ジェノが私と遜色ない身分になってくれたならばと考えたことはあったし、そういう働きかけもしようとしたこともあるわ。でも、分かっているの。

 やっぱり、身分の壁は超えられないんだってことは。だから、ジェノにもう良い娘がいるのならば、私は潔く身を引くわよ」

 なるべく辛気臭くならないように、私は苦笑する。

 

「もしも、ジェノが実家に今でも居て、ルディス商会の援助を対価にしてくれるのであればなんて思ったけれど、彼は自分一人の力で未来を切り開こうとしているのでしょう?

 それなら、私は彼の邪魔しかできない。それくらいは貴族世界でしか生きたことのない私でもわかるから」

「……マリアさん……」

 メルが申し訳無さそうな顔をしているのを見るのが辛くて、私は微笑む。頑張って。

 

「こらっ。諦めているとは言っても、失恋にはそれなりのショックがあるんだから、そんな顔しないでよ。もしも、『それでいいんですか?』なんて言ったら、全力で貴女の敵になってしまうわよ、私は」

「……そうですね。分かりました」

 メルエーナはしっかりと気を引き締めた表情に変わった。

 

 うん。そういう顔をしてくれたほうが救われる。泣かないでいられる。

 少なくとも、自分の宿の部屋に戻るまでは。

 

 本音を話し合ったおかげか、私とメル達はそれから楽しく話をすることができた。

 そして、その時間は楽しかった。

 うん。本当に楽しかったと思える。

 

 

 ……この日のことを私は忘れない。

 私の初恋の終わりの日として……。

 

 

 

 

 

 

 そうだ、忘れない。

 

 自分自身の気持ちを全く理解せずにいた日の、『戯言』として。

 

 だって、仕方がないじゃあない。分かっていなかったんだもの!

 

 ジェノはこれからも私を魅了するのだもの!

 好きにさせようとするんだもの!

 

 そして何よりも、ジェノとの彼女が、メルが、あの女だとは知らなかったんだもの!

 

 だから、だから、また私は……。



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特別編⑨ 『きっとあの人は……』

 夕暮れが少し早くなってきた気がする。

 エルマイラムの夏は長いが、それでも確実に時間は過ぎゆき、これから実りの秋へ、そして寒い冬へと切り替わっていくのだろう。

 

 黒髪を肩のあたりで切りそろえた、少しタレ目の少女――リリィは、そんなことを思いながら、お師匠様であるエリンシアと言う名前の白髪の老婆と一緒に、両手いっぱいの荷物を抱えて帰路に就いていた。

 

「もぉ~、お師匠様。流石に買いすぎたんじゃあありませんか?」

 バランスを崩したらこぼれ落ちてしまうほどの荷物を抱えたリリィが、エリンシアにジト目で文句を口にする。正直、年頃の娘にこんな労働を強要するのは酷いと思う。

 

「なにを言っているんだい。小麦がこんなに安かったのに買わない手はないよ」

「それならせめて配達してもらえばよかったじゃあないですか」

「冗談じゃあないよ。配達賃だって馬鹿にならないじゃあないか」

「むぅ、それくらいのお金をケチらなくてもいいじゃあないですか」

 リリィの言葉に、エリンシアはこれ見よがしにため息をつく。

 

「なんだいなんだい、お師匠様が老体に鞭打って節約に努めているっていうのに、この不肖の弟子は」

「私だって、お金の大切さは身にしみて分かっています! ですが、この量は流石に多すぎますよ!」

 リリィも、エリンシアに師事するまでは苦学してきたのだ。お金の大切さとありがたみはよく分かっている。だから、金銭的に不自由をしないようになり、両親に楽をさせてあげたい。そういう気持ちも、自身の夢である魔法使いになるという願望に込められているのだ。

 

「ほらっ、つべこべ言わずに頑張りな。重労働のあとの夕食は美味しいはずだよ」

「それって、私が作るんですよね?」

「当たり前だよ。どこの世界に、お師匠様に雑事をやらせようとする弟子がい……」

 エリンシアの言葉が途切れた。それは、彼女がバランスを崩して前につんのめってしまったからだった。

 リリィもすぐにその事に気がついたが、自身も両手が塞がっているので助けに入ることができない。このままではお師匠様が怪我をしてしまうと、リリィが目を瞑ったその時だった。

 

「危ないなぁ、エリンシアさん」

 どこか気障ったらしいような口調の男の声が聞こえたのは。

 

 リリィが目を開けると、そこには淡い茶色の髪の若い男がエリンシアを抱きかかえていた。

 さらに落下するはずだった小麦が入った袋は、何故か宙に浮かんでいる。それが魔法によるものだと理解するのに、リリィは少しの時間が必要だった。

 

「お師匠様! 怪我はないですか!」

 慌てて声を掛けるリリィに、エリンシアは「大丈夫だよ」と軽く言い、男の腕から離れて嘆息する。

 

「まったく、年は取りたくないねぇ。この程度のことで躓くなんてさ。その上、こんな小僧っ子に助けられるなんて」

「そう言わないでよ。エリンシアさん。レディが困っていたら、手を差し伸べるのが紳士のあり方なんだからさ」

「こらっ、リット坊。あんたが紳士を語るんじゃあないよ。これまで何人もの女を誑かしてきたんだろうが」

 エリンシアはそう言うと、両手で支える格好をして宙に浮いている小麦袋を見てから、リットに目で促す。

 

「酷いなぁ。俺は神に誓って、強引に誘ったことなんてないぜ。向こうから誘ってくるんだから仕方なくなんだよ。ほらっ、レディに恥をかかせるのは紳士として駄目だろう?」

「こらっ! そんな嘘八百をを言っている暇があるんなら、早く荷物をよこしな」

 エリンシアの催促に、リットはニヤリと微笑むと、不意に小麦の袋を消した。そう、消したのだ。まるでそのようなものなど存在しなかったかのように。更に加えて、リリィが抱えていた分までも。

 

「悪いね。今日もまたどこぞの正義の味方が格好いいことをしたのを目の当たりにしたんで、俺も真似したい気分なのさ。というわけで、家に荷物は全て運んでおいたよ。それじゃあ、気をつけて」

 リットはそう言って、驚くリリィの横を通り過ぎる。その際に、彼女に悪戯っぽい笑みを向けてきた。

 不覚にも、リリィは少しドキッとしてしまった。

 イルリアから、絶対にリットという男には気を許すなと言われていたことを思い出したにも関わらず。

 

「はん。余計なお世話だよ、まったく。それと、うちの可愛い弟子に色目を向けるんじゃあないよ! 手を出したらただじゃあ置かないからね!」

「おお、怖い怖い」

 振り返ってそう言ったものの、リットは気にした様子もなく、「じゃあねぇ、エリンシアさんとお弟子ちゃん」と背を向けたままひらひらと片手を振って去っていく。

 

「あっ、お師匠様! あの人、小麦の入った袋を返してくれていませんよ!」

 リットのよく分からないキャラクターに驚いていたため、リリィは彼が完全にいなくなってしまってからようやくそのことに気がつく。

 

「ああ、それなら大丈夫だよ。リット坊やが言っていただろう。家に荷物は全て運んでおいたって」

「えっ! 呪文の詠唱もなく、本当にそんな魔法を使ったんですか、あの人!」

 魔法はよほど熟練したもの以外は、呪文を唱えるのが一般的だ。それなのに、あの軽薄そうな男の人はそれもなしに物体を移動させたというのだろうか? 物体を移動させる<転移>の魔法は難度がものすごく高いはずなのに……。

 

「まぁ、こんなところで立ち話もなんだ。帰るよ、リリィ」

「わっ、待ってくださいよ! お師匠様!」

 信じられないでいる自分を置いてエリンシアが先に歩いて行ってしまうので、リリィは慌ててそれを追いかけるのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 トントントントンという音が一定のリズムで響き渡る。

 リリィが食材をきざんでいる音だ。

 

 いろいろと訊きたいことはあるが、今は夕食を作るのが先決だ。

 自分にそう言い聞かせて、リリィは今日の夕食、夏野菜一杯のミートソースパスタを作り上げていく。

 

「ほう。いい匂いじゃあないか。定期的に料理指導を受けているのは伊達じゃあないようだね」

 普段は絶対に台所に来ないはずのエリンシアがやって来て、そんな感想を口にする。

 

「それはそうですよ。こう見えてもバルネアさんのお料理教室には欠かさず通っているんですから。あっ、つまみ食いはダメですからね!」

「あのねぇ。あんたはお師匠様を何だと思っているんだい、まったく」

 エリンシアがそう文句を言うが、それから彼女は何をするでもなく、台所に立ち尽くす。

 リリィもそんなお師匠様に声をかけず、再び野菜を切るのを再開する。

 

 そんな時間が少し流れて、やがてエリンシアが口を開いた。

 

「やる気を無くしてはいないかい?」

 それは、優しい声だった。

 

「……まさか。私は絶対に魔法使いに成るんです。他の人がどうだとか関係ありませんから」

 精一杯の強がりを口にし、リリィはパスタを茹で始める。

 

 リリィたちが帰宅すると、家の居間のテーブルの上に小麦の袋が置かれていた。それを見て、魔法を学んでまだまだ日が浅いリリィでも、リットがどれだけ規格外なのか分かってしまったのだ。

 

「そうかい……」

 エリンシアはそう言うと、ポンと優しくリリィの頭に手を置き、何も言わずに台所から出ていった。

 

 やがて料理ができあがり、夕食が始まる。

 普段はリリィがお師匠であるエリンシアに積極的に話しかけるのだが、今日は無言だった。そのためか、エリンシアもしばらく何も言葉を発しない。

 

「……お師匠様。どうですか、このパスタソースは?」

「ああ。美味しいよ。あんたも腕を上げたね」

 褒めてくれたことは嬉しいし、我ながら今日の料理はよくできたとリリィは思う。けれど、あまり美味しいとは思えない。

 そして、またしばらくの沈黙が訪れる。

 

「……『衰退を忘れた魔女』……」

「……えっ? お師匠様?」

 エリンシアが突然訳のわからないことを言い出したので、リリィは怪訝な表情を彼女に向ける。

 

「全盛期の私の通り名だよ。いいかい、この二つ名は秘密だよ。もしもバレたら、良くてこの街を追放される。悪ければ、私もあんたも火炙りだからね」

「…………はい」

 エリンシアの言葉の重さから、リリィはそれが真実であることを理解した。

 

「私はね、魔法の才能が今の時代の魔法使いと呼ばれる人間たちの何倍もあったんだ。それこそ、ドラゴンが大空を駆け回っていた頃の魔法使いたちにも引けを取らないと言われるほどにね……」

 食事の手を止めて、エリンシアは語り続ける。

 

「魔法はその必要性が下がったこともあり、衰退の一途を辿っていたんだよ。けれど、私という魔法使いの登場で、再び魔法は隆盛期を迎えるのではないかと期待された。そして、私はそんな自分を特別な存在だと自惚れていたんだ」

「お師匠様……」

 リリィの声かけに、エリンシアは口の端を上げる。けれど、何故かリリィにはその表情が酷く悲しく見えた。

 

「いろんなことをしたね。人体実験には手を出さなかったけれど……。自分の肩にこれからの魔法の歴史がかかっている、なんて思い上がってね。でも、そのせいで私は全てを失った。家族も、恋人も、気のおけない友達も……。そして、平穏な生活もね」

 エリンシアは静かに己の掌をみて、静かにそれを握る。

 

「命を狙われたことも数え切れないくらいある。この長く続く平和な時代に、魔法という力は危険だと判断されてね」

「……そんな……」

 リリィはまったく知らなかった。お師匠様であるエリンシアがそんな過去を秘めていたとは。

 

「リリィ。あんたがあのリット坊やの力を見て、自分ではあの領域には達せないと判断してしまったのだろう? そして、その判断は正しい。決してあんたではあそこまでの魔法使いにはなれない」

「…………」

 エリンシアの言葉は、これから先に無限に広がっていると思っていた可能性を閉じるものだった。

 

「けれど、私はその方がいいと思っているんだよ。強すぎる力を持っているということは、良いことばかりではないからね」

「お師匠様……」

 リリィの目から、何故か涙がこぼれ落ちた。

 それは、未来を狭められた悲しみ? 悔しさ? それとも、師匠であるエリンシアの優しさが嬉しかったから?

 リリィ自身もその涙の理由が分からない。

 

「私は、なるべく魔法を使わないようにしている。今日小麦を買って運んだときだってそうさ。魔法で<転移>させれば簡単に荷物は運べる。でも、敢えてそれをしない。そうしないと、また昔の私になってしまう。ようやくこの年になって手に入れた平和を再び手放すことになってしまうからね。

 そして、リリィ。私はあんたにも、過去の私のような苦しみを味わって欲しくはないんだよ」

 エリンシアは静かに席を立ち、涙をこぼし続けるリリィを背中から抱きしめた。

 

「お師匠様……。私、私……」

「大丈夫。あんたはこの私のただ一人の弟子なんだ。この時代の魔法使いの中では一角の魔法使いに育てて見せる。それで良しとしておくれ。それ以上を求めれば自分を苦しめることになるから……」

 エリンシアの体も小刻みに震えていた。自分が泣くことで精一杯で、リリィはその顔は見えなかったが、きっとお師匠様も泣いているであろうことを理解した。

 

「力というものは、ありすぎても、なさすぎても辛いんだよ。あのリット坊がそうさ。私は、この時代では最高の魔法使いだと思っていた。けれど、あの坊やにあって、それが間違いだと気がついた。もしも全盛期の私でもあの坊やには及ばないと分かってしまったからね」

「そんな! お師匠様よりも、あのいい加減そうな人の方が……」

「ああ。もし私とあの坊やが戦ったら、間違いなく私が負ける。傷を少しでもつけられたら万々歳と言ったところだろうさ」

 ようやく涙が止まったリリィが師匠の顔を見上げると、彼女は悲しい目で口元を綻ばせていた。

 

 それが、自分以上の化け物がいることで、まだ自身が人間の側で居られることの安堵と、年若い男のこれからの人生を憂う、憐憫にリリィには見えた。

 

 リリィは師匠のぬくもりを感じながら、自身が恵まれていることに気づく。

 この人に師事できたことは、この上ない僥倖だったのだと思わされたのだ。

 

「お師匠様……。リットさんはどうして師匠とは間逆なことをしているんでしょうね? このままでは、あの人は……」

「さぁね。ただ、リット坊は自分の力をわざと周りに見せつけているとしか私には思えないんだよ。その上で、自分という存在を嘲笑っているように思えるんだよ、私には。

 まぁ、あの坊やにそんな事を言ったら、私程度の魔法使いに心配される云われはないと言いそうだけどね」

 エリンシアはそう言うと、リットとあまり関わらないようにしなさいとリリィに注意を促す。

 

「……強すぎる力……」

 リリィはそう呟き、少しだけ考える。もしも、自分がリットの立場ならと。

 けれど、想像が付かなかった。あまりにも未知の領域過ぎて。

 あまりにも理解できずに、怖いとさえ思ってしまった。

 

 リリィは分からない。そして、おそらく魔法を使えない人はより分からないだろう。

 ……だから、忘れることにした。

 

 それは、自分というものを守るための防衛手段のようなもの。

 

 もしも彼のことを理解できる人がいるとしたら、それは彼と同じ力を持つ人だけだろう。

 でも、この世界がいくら広いと言っても、そんな人が実在するのか?

 

 リリィはもう一度涙をこぼす。

 きっとあの人は、リットは、誰よりも孤独なのだと思えてしまったから……。



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特別編⑩ 『少しの勘違いと大切な思い』(前編)

 夏の盛りは過ぎたが、まだまだ暑い日は続いている。

 そんな中、ジェノは同じ道場で武術の鍛錬をしている先輩のシーウェンと一緒に『特別稽古』に来ていた。

 まぁ、この『特別稽古』というのは符丁に過ぎず、本来の意味は、『二人で夕食を食べる』と言った意味なのだが。

 そして、今日はシーウェンがオススメの、エルマイラムでも知る人ぞ知る隠れた名店にやってきたのだ。

 

「これは、驚いた……」

 ジェノは予想していなかった風味と旨さに言葉を失う。

 心地良喉越しの後にくるほのかな蕎麦の香りがなんとも言えない。

 それにこの清涼感! 暑気払いにぴったりだ。

 

「そうだろう! 俺も初めて食べた時には驚いたものだ」

 相変わらず自分が作った訳ではないのに、シーウェンは自分が褒められたかのように嬉しそうに言う。

 

「蕎麦の食べ方というと、クレープなどが一般的だと思っていたが、こうした麺料理にも出来るんだな。それにこの、つけダレの味の深さは並大抵のものではない」

「ああ。このタレは最高の鰹節とかえしで作られているらしいからな。それに、今は夏蕎麦の季節だから余計に旨いよな」

「んっ? かえし? かえしとは何だ?」

「ああ。かえしというのは……」

 ジェノはシーウェンの説明を聞いて納得したが、そこで今更ながらに兄弟子の料理に対する造詣の深さに驚く。

 

「俺が料理に詳しいのが意外か?」

「……ああ。すまんが料理をするとは聞いたことがなかった」

「こらこら、兄弟子を舐めるなよ。武術というものには常に戦いに身を置く、常在戦場の心がけが必要だ。となれば、生きていく上で欠かせない食事も自分で作れないのは致命的だろう?」

 言葉とは裏腹に、シーウェンは気分を害した様子はなく笑って言う。

 

「シーウェンさんたら、うちのお師匠さんにあれこれ聞いて、自分でそば打ちまで出来るようになったんですよ」

 この店の店員で、足を大きく露出した変わった服装の十四、五歳ほどの黒髪の幼い少女が、蕎麦湯というものを持ってくるなり、そんな事をジェノに告げ口してくる。

 

「こらこら、リャン。俺に振られたからって、ジェノに粉をかけようとするなよ。悪いが、そいつは彼女持ちだ」

「むぅ~。そんな風に、私が男漁りをしているように言わないでよ! なによ。シーウェンさんが私の旦那さんになって、このお店を継いでくれたら万々歳だったのに……」

 リャンはジェノに笑顔で蕎麦湯を手渡し、シーウェンに恨みがましい視線を向ける。

 

「悪いな。俺はもう少し肉付きが良いのが好みなんだ」

「もう! シーウェンさんのスケベ! ふん! だったらシーウェンさんは樽みたいな体型の女の人と一緒になれば良いんだわ! 私みたいなスレンダーで美しい娘を振るなんて、見る目のない人!」

 リャンはそう言って怒るが、本気で怒っているわけではなさそうだ。その証拠に、すぐにシーウェンにもたれかかり、

「ねぇ、シーウェンさん。私はまだまだ成長の余地があるんですから、今からでも考え直しませんか?」

 そんな事を言いながら、上目遣いに精一杯の誘惑をしているようだ。

 

「こらこら、これ以上なにかしたら、俺が親父さんに殺されちまう。ほら、俺たちは男同士の話があるから、あっちに言ってくれ」

「むぅ! 絶対に私は諦めないんだから!」

 リャンはプリプリ怒り、店の奥に消えていった。

 

「騒がしくしてすまなかったな」

「別に構わないが、あの娘の事はいいのか?」

「なに。後で土産の蕎麦でも買ってやれば、機嫌も直るだろうさ」

 シーウェンはそう言いながら、透明な酒を口にし、蕎麦を楽しむ。

 

「……シーウェン。この店では、麺状にした蕎麦を売っているのか?」

「ああ。それがどうかしたのか?」

 シーウェンが尋ねかえしてきたので、ジェノは自分の思っていたことを正直に彼に話す。

 

「なるほどなぁ。だが、必要なのか? 俺はとてもそうは思えないが……」

 話を聞き終わった後に言った、シーウェンの言葉は正しいと思う。

 

「俺も同じ意見だ。しかし、女の考えだ。男の俺たちには分からないのかも知れない」

 ジェノは更に続けて、「すまんが、この店のことを……」と申し訳無さそうに口にするが、シーウェンはさもおかしそうに微笑む。

 

「変わるもんだな。いや、そこまで想ってもらえて、あの嬢ちゃんは。いいぜ、この店のことを話しても。ただし、貸一つだ。こんどは、お前が隠れ家になる店を探しておけよ」

「ああ。わかった」

 ジェノはシーウェンと約束を交わし、蕎麦を口に運ぶのだった。



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特別編⑩ 『少しの勘違いと大切な思い』(後編)

 メルエーナは息を切らしながらも、料理店<パニヨン>の入り口まで無事に戻ってきて、最近始めた日課を今日も無事に終了させる。

 その日課とは五キロほどのジョギングなのだが、今日も友人二人と一緒に心地良い汗を流すことが出来た。

 まだ暑い日が続いているが、それでも盛夏を過ぎたことで、午後から夕方にかけて運動をするにはちょうどいい。

 

「それじゃあ、またね、メル」

「明日も、同じ時間でいいよね」

 別れ際に、イルリアとリリィの二人が笑顔で声をかけてくれるので、メルエーナも笑顔を浮かべる。

 自分一人ではこんなに楽しく続けることは出来なかったと思う。

 

 イルリアは、「ついつい仕事ばかりで運動不足になりがちだから、こちらも助かるわ」と言ってくれるし、リリィも、「美脚を維持するのはやっぱり筋肉。それには運動が欠かせないからね」と言い、積極的に協力してくれるのだ。

 

「……美脚、ですか……」

 二人が去った<パニヨン>の前で、メルエーナは難しい顔をし、自分の足を見て、そこに手をやる。

 リリィはもちろん自分の健康とスタイル維持のために運動をしている部分もあるが、それ以上に、彼氏が女の子の綺麗な足が好きだという事で、それを満たすために頑張っているのだ。

 

「やっぱりまだまだです。マリアさんみたいにはなれなくても、少しでも近づけて、ジェノさんに……」

 メルエーナは少し頬を赤らめながらそう呟いてから、右手をギュッと握り、<パニヨン>の裏口から店に入る。

 

「あらっ、おかえりなさい、メルちゃん。ご苦労さまね」

「ただいま戻りました、バルネアさん」

 家に入るなり、バルネアが声をかけてくれた。メルエーナは笑顔で挨拶を返し、水場で手を洗う。

 

「今日も、リアちゃんとリリィちゃんはもう帰ってしまったの? 飲み物を用意していたのに……」

「あっ、はい。<パニヨン>によると、つい飲み物だけでは済まなくなってしまうから、ということみたいです」

 手を拭いて戻ってきたメルエーナは、つまらなそうな顔をして少し拗ねているバルネアに、そう言って困った笑みを向ける。

 

 健康的に体を引き締めるのが目的なのに、バルネアさんが作ってくれる美味しい料理をお腹いっぱい食べてしまっては、元の木阿弥。いや、下手をすると体重が増加してしまう可能性さえある。

 ただでさえ運動後の食事は美味しいのに、それがバルネアさんの料理だと更に食欲が加速してしまう。みんなそれが分かっているのだ。

 

 だから今日も、メルエーナは鳥のささみ肉と野菜を中心にしたメニューを自分の分だけ作ろうと考えていた。バルネアさんの美味しい料理が食べられないのは正直寂しいが、これも将来のためだと自分に言い聞かせる。

 

「帰ったか、メルエーナ」

「ジェノさん! はい。ただいま戻りました」

 気配を感じなかったので気が付かなかったが、厨房にはすでにジェノが居て、何か調理をしていた。

 

「あれっ? 今日の夕食はジェノさんが作っているんですか?」

「ああ。三人分作っている」

 ジェノの言葉に、彼の手料理が食べられると一瞬喜んだメルエーナだったが、慌てて頭を振る。

 

「ジェノさん、その、私は……」

「おそらく、お前が食べても問題がない料理のはずだ。もう少し完成まで時間がかかるから、先に汗を流してくると良い。風呂から上がったらすぐに持っていくから、テーブルに座っていてくれ」

 メルエーナの断りを遮り、ジェノはそう指示を出してくる。

 

「……分かりました」

 ジェノが何を作ろうとしているのかは分からないが、メルエーナはその言葉に従うことにした。折角ジェノが作ってくれた料理なのだ。食べないのはもったいない。それに、いつまでも汗臭い格好でジェノの前にいるのは憚られた。

 

 やがてゆっくりお風呂場で汗を流し、バルネアと一緒にいつものテーブルで待っていると、直ぐにジェノがトレイに乗せて三人分の大きな器を運んできて、みんなの前に給仕する。

 

「へぇ~。これがジェノちゃんがお昼に食べたという……」

「これは、麺料理ですか?」

 湯気を出す薄い色のスープは透き通り、細い麺が見える。それだけなら、以前屋台で食べたラーメンという料理を思い出させるが、これは麺が淡い茶色であり、そしてトッピングが鶏肉とたけのこ、ネギだけだ。それに、香りがぜんぜん違う。

 

「ああ。そばを麺状にしたものだ」

「そば、ですか? あのガレットとかをつくる際に使う?」

「そうだ。今日、シーウェンにいい店があると言われて訪ねたのが、こういう食べ方でそばを提供している店だったんだ」

 ジェノはそう言うと、自分も席に座る。

 

「そばは栄養価が高く、ダイエットにもうってつけらしい。これなら、食べても問題はないんじゃあないか?」

 ジェノの言葉に、メルエーナは彼が気を使ってくれていたことが分かり、申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちが同時に湧き上がってくる。

 

「はい。お気遣いして頂き、ありがとうございます!」

 メルエーナが笑顔で感謝すると、ジェノはわずかに口元を緩めた。

 

「それじゃあ、伸びてしまう前に頂きましょう」

 バルネアのその言葉に、食事前の祈りを済ませ、メルエーナたちは箸を使ってそばを食べ始める。

 

「はぁぁっ~。美味しいです……」

 まだ暑い日が続く中だが、そんな中で熱い料理を食べるのも良いものだとメルエーナは思った。

 

 口に入れた時と、喉を通る際に、蕎麦の香りを感じられるだけでなく、その喉越しも良い。

 それにラーメンのような濃厚なスープではないが、このスープがこの上なく美味しい。

 魚介系のだしのようだが、くどさがまるでなく、かといって味が不足していることもない。確かな旨味を感じられるのに、キレが抜群に良いのだ。

 そして、そのスープが染み込んだ鶏肉とたけのこの細切りがアクセントとなって口にさらなる幸せを与えてくれる。

 シンプルなのに満足度の高い味わいの完成形だとメルエーナは思った。

 

「う~ん。良いわね。お出しの取り方が上手ね、ジェノちゃん。それと、この優しい甘みは砂糖だけではないわね」

「はい。みりんという調味料を使っています。それと醤油と砂糖を一度加熱した『かえし』と呼ばれるものがこの味の要です」

「うんうん。今度、私たちもそのお店に連れて行ってね」

 バルネアはそう言うと、美味しそうに、幸せそうにそばを味わう。

 

 メルエーナは楽しみながらそばを食べていたが、気がつくと器の中身は空っぽになってしまっていた。あまりの美味しさに、箸を動かすのを止められなかったのが原因だろう。

 

「よかったら、おかわりはどうだ? まだスープもソバも残っているぞ」

 ジェノがメルエーナに声をかけてくれた。

 

「あっ、はい。……いえ、やっぱり、結構です」

 思わずその言葉に乗ってしまいそうになったメルエーナは、そう言ってジェノの誘いを断る。

 正直、もう一杯食べたい気分だったが、それでは今日の努力が水の泡になってしまう気がするから。

 

「……無理にとは言わない。だが、メルエーナ。お前は十分健康的だし、過度な食事制限は必要がないと俺は思うぞ」

「えっ?」

 ジェノの言葉に、メルエーナは彼の方に視線を向ける。

 

「俺には、綺麗になりたいと思う気持ちはよく分からない。だから、お前の中でなりたい自分の姿があるのだろうと推測することしか出来ない。だが、ここのところお前が食べているものは、鶏肉のささみや野菜がほとんどだ。栄養価的には問題はないと思うが、それでは飽きが来てしまう。そして、そこからストレスがたまるのではないのか?」

 その言葉は的を射ていた。メルエーナはジェノが自分のことをよく見ていることを理解した。

 

「運動を頑張るのも良い。食事を多少制限するのも必要なのかも知れない。だが、その事でお前が苦しい思いをしているのだというのであれば、俺はその事が心配だ」

 メルエーナは、かぁ~っと自分の頬が赤くなって行くのを感じた。まさか、ジェノがここまで自分の事を心配してくれているとは思わなかったのだ。

 

「……その、ジェノさん。少し私の質問に答えてくれませんか?」

 ジェノの真っ直ぐに自分を心配する言葉に、メルエーナは正直に自分の胸に秘めていた事を話すことにする。

 

「なんだ?」

 ジェノは箸を置き、メルエーナを見つめてくる。

 

「そっ、その。じぇっ、ジェノさんも、やっぱり女の子は、胸が大きい方が好きですか?」

 メルエーナは顔を真っ赤にしながら尋ねた。

 

「んっ? すまん。質問の意味がわからない」

「ですから、そっ、その、マリアさんみたいに胸が大きい女性って、男性には魅力的に映ると聴いたことがありましたので……。ジェノさんも、そういう女性の方が望ましいのかなぁと……」

 メルエーナが更にそう言うと、何故かジェノは顎に手をやり、考える姿勢を取る。

 

「ああっ、シーウェンが言っていた、肉付きがどうのと言うのはこういうことか……」

 ジェノはそう独りごちると、

 

「ただ、俺はそんな事で異性の好みを考えたことはないな。眼の前に居る相手を見て、その人間を好ましいと思うかどうかだけだ」

 そう続けた。

 メルエーナはその言葉にガックリと肩を落とし、「そっ、そうですか」とだけ呟く。

 

「……なぁ、メルエーナ。どうしてお前は自分とマリアを比べるんだ?」

「えっ、あっ、あの、それは……」

 マリアがジェノに未だに好意を持っていることにジェノは気がついていないようだった。その絶望的な鈍さはどうなのだろうと思いながらも、メルエーナはその事に触れないように理由を説明する。

 

「先日、マリアさんを連れて、みんなで大衆浴場に行ったんですが、その時に見たマリアさんの綺麗で女性らしい体つきでしたので、その……」

 だが、説明を始めたものの、もしもマリアに迫られてしまったら、ジェノも彼女のことを好きになってしまうのではと危惧したからなどとは言えず、メルエーナは言葉に詰まってしまった。

 

「……お前はマリアと自分を比較して、その事をコンプレックスに思っていたのか?」

「はっ、はい……」

 ジェノの言葉は当たらずとも遠からずだったので、メルエーナは頷くことにした。

 

「……すまん、やはり俺には分からない……」

 ジェノのその言葉に、メルエーナは悲しくなる。

 少しでもジェノに振り向いてほしくて色々と頑張っているのに、それらすべてを否定されたような気持ちだった。

 

 だが、ジェノは更に言葉を続けたのだ。

 

「マリアとお前に、そんなに差があるのか?」

 っと。当たり前のように。

 

「えっ? えっ? どういうことですか、ジェノさん?」

 メルエーナはジェノの言わんとしていることこそ分からない。

 

「メルエーナお前は自分を良く分かっていないんじゃあないのか? 飽くまでも俺の私見に過ぎないが、お前は一般的な同性よりも綺麗だと思うぞ。それこそ、マリアと比較しても遜色ないほどに」

 ジェノは当たり前のことのようにそう言う。

 

「えっ、えええっ! そっ、そんな事ありません! いくらなんでもそんな、恐れ多いです!」

 メルエーナは慌てに慌てる。

 いくらなんでも、あの傾国の美貌とも言うべきマリアと、自分のような田舎娘では比較にならない。百人に聞けば、百人がマリアの方が綺麗だということは分かっている。

 

「いや、何も恐れ多くはないだろう。お前は綺麗だ。マリアと遜色がないくらいに」

 ジェノはまた差も当然とばかりに言うと、静かに席を立ち、メルエーナの使っていた器をトレイに乗せる。

 

「なんの気休めにもならないかもしれんが、俺は心からそう思っている。だから、無理はしないでくれ。まぁ、お前がそれでも自分が目指す姿になりたいというのであれば俺も協力はする。一人で抱え込むな。これでも、一応はお前の交際相手なんだからな」

 ジェノはそう言うと、「小盛りで良いからもう少し食べてくれ。お前がおかわりをしてくれないと、そばが残ってしまうからな」と続けて、厨房に行ってしまった。

 

 残されたメルエーナは顔を真っ赤にし、恥ずかしさのあまり顔を両手で抑える。

 

 そこに、今まで黙っていたバルネアがソバのスープを飲み干し、器をテーブルに置くとにっこり微笑んだ。

 

「ふふっ。ジェノちゃんにとって、メルちゃんは本当に綺麗な女の子なのね。マリアちゃんに負けないくらいの」

 バルネアにそう言われ、メルエーナは一層顔を赤くする。

 

「ジェノちゃ~ん。私のおかわりの分もあるのよね? 私にもおかわりをお願い! それと、メルちゃんもさっきと同じくらい、おソバを食べられるって!」

 バルネアが勝手にそう言ってしまうが、感極まってしまっているメルエーナは、それを止めることも出来ない。

 

「メルちゃんたら、愛されているわね」

 バルネアのダメ押しの言葉に、メルエーナは頭から湯気を出す勢いで全身真っ赤になる。

 

 ジェノが想像したメルエーナが綺麗になりたい理由は勘違いだ。けれど、そこに込められた彼女に対する想いは、優しさは本物で……。

 そして、それを知ってしまったメルエーナは、恥ずかしくて、幸せで、夢のようで……。

 

 メルエーナはこの日、ジェノが自分をどう思ってくれているのかを心から理解した。

 そして、そんな気持ちの中で食べる、二杯目のソバの味は、決して忘れられない味になったのだった。



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特別編⑪ 『憧れたあの人との約束を』(前編)

 カン! カン! カン! カン!

 金属がぶつける音が厨房に響き渡る。

 ジェノはその作業を長く続けていたが、渋い顔をして作業を止める。

 

「駄目か。やはり、無謀な挑戦なのか……」

 長い時間をかけて『調理』をしてきたが、結局本日三回目の挑戦も失敗のようだ。

 しばらくこの未知なる料理を作る事をしていなかったが、つい先日懐かしい夢を見て、それ以来、ジェノは暇を見つけては厨房を使わせてもらっていた。

 

 

 ジェノが見た夢は、毎日が充実していたあの頃の夢。

 

 武術の修行はもちろん、勉強も、友だちと遊ぶのも楽しくて。家に帰ってきたら、ペントと先生が居てくれて……。

 

 思えば、自分が料理をするきっかけを作ってくれたのはリニア先生だ。先生との出会いがあったからこそ、自分は今ここに居られる。

 道を踏み外しそうになったあのときも、先生の教えがあったから、毎年誕生日に先生の言葉が聞けると思えたから頑張れた。

 褒めてもらえたことが嬉しくて料理をかじっていたおかげで、こうしてそれが趣味になり、その上仕事にしたいとさえ思ってきているほどだ。

 

 本当にあの人は恩師だ。剣術だけでなく、人生の。

 だからこそ、思い出してしまったからには、先生が食べてみたいと言っていた料理を作れるようになりたい。いつか、もう一度先生に再会したときに味わってもらえるように。

 

「さて、この失敗作を食べてから、もう一度チャレンジだ」

 ジェノは鍋の中身を皿に移すと、それを箸を使って食べようとした。食材を無駄にしてはいけないと言うことは、先生はもとより、ペントにもしっかり言い聞かせられているから。

 だが、そこで……。

 

「あらっ、甘い香りがするわね」

「本当です。いい匂いですね」

 バルネアさんとメルエーナが裏口から家に戻ってきた。

 

 ジェノが時計を確認すると、もう十五時を過ぎてしまっていた。

 調理に没頭するあまり、時間がこんなに経ってしまっていることに気が付かなかったようだ。

 

「おかえりなさい、バルネアさん、メルエーナ」

「ええ。ただいま、ジェノちゃん」

「はい。ただいま戻りました」

 

 ジェノが声をかけると、二人は嬉しそうに微笑んで帰宅を告げる。

 

「ねぇ、ジェノちゃん。どんなお菓子を作っていたの?」

「私も気になります!」

 手を洗って戻ってきたバルネア達に尋ねられたジェノは、どう答えれば良いのか少し考えたが、正直に話すことにした。

 

「その、すみません。俺自身、どんな料理か分からないんです」

 その言葉に、バルネアとメルエーナが怪訝な顔をする。

 

「どういう事? ジェノちゃんのことだから、創作料理だとしても、完成形を考えずに適当に調理するということはありえないわよね?」

「そうです。それに材料は決まっているんですよね? それならば……」

「完成形のイメージはあります。ですが、そのイメージが正しいのかどうかもわからない状況でして……。いかんせん、俺はその料理を食べたことはおろか見たこともないので」

 ジェノがそう言うと、バルネアとメルエーナは不思議そうに首を傾げた。

 

「俺に最初に剣術を教えてくれた先生が作ろうとしてくれていた料理なんです。ですが、かなり難しい料理らしくて、先生もそれまでの人生で一度しか作る事ができなかったそうです。それで、俺は結局その料理を食べることはできなかったんですよ」

 ジェノは簡単に説明し、調理道具を片付けようとした。

 もう少ししたら夕食を作らなければいけないので、邪魔にならないようにと。

 

 しかし、そこで自分に向けられる視線に気がついた。

 

「その先生って、以前話してくれたリニア先生よね?」

「確か、剣術だけでなく、料理もお上手な先生だったはずですよね? その先生が一度しか成功したことがない料理ですか……」

 ジェノはバルネアとメルエーナの目が輝いていることに気がついた。

 未知なる料理というものは、やはり料理の道を志すものとして胸が高鳴るのだろう。

 

 ジェノは今更隠しておくことはできないと観念し、二人に話をする。

 

「リニア先生と別れた後、何ヶ月か経って一度だけ手紙が来たんです。そこに、この料理の作り方が書かれていました。先生は、剣術を最後まで教えられなかったことと同じくらい、俺をびっくりさせる不思議な料理を食べさせることが出来なかった事を後悔してくれていたみたいで、故郷の料理人に詳しい作り方を訊いてくれたんです。そして、俺ならば作れるかもしれないと期待してくれていたみたいなんですが、未だに成功したことが有りません」

 ジェノはそう言って嘆息する。

 

「ふむふむ、なるほどね。よ~し、ジェノちゃん、材料を教えて。そして、その料理の特徴も」

「バルネアさん……」

 ジェノが少しだけ戸惑うように名前を呼ぶと、バルネアはにっこり微笑む。

 

「大丈夫よ。その料理はジェノちゃんとリニア先生の約束の料理何でしょう? 私が代わって作ったりするような無作法はしないわよ。でも、私の調理経験からなにかアドバイスができるかもしれないと思ったの。そこに、アイデア料理が得意なメルちゃんも加われば、どうにかなるような気がしないかしら?」

「えっ、私も参加させてもらっても良いんですか? そっ、それなら、ぜひお手伝いさせてもらいたいです!」

 バルネアとメルエーナの嬉しそうな笑顔に、ジェノは今更協力を拒むことはできなくなってしまったことに気が付き、苦笑する。

 

 けれど、自分が困っていると手を差し伸べてくれるだけでなく、こちらの気持ちを慮ってくれる人がこんな身近にいることはとても幸せだと思った。

 

(……そういえば、先生にも言われていたな)

 友人や心を割って話せる人をたくさん作りなさいと。そして、そういった人が困っていたら自分も助けてあげられる人になりなさいと。

 

(成長した俺は、逆なことばかりしてきてしまったが……)

 ジェノはこの店に来るまでの荒んでいた自分を思い出していたが、首を横に振り、それを胸底に沈める。

 

「さぁ、それじゃあ早速始めましょう! 『料理人が多いとスープが不味くなる』とは言うけれど、私達ならきっと上手くいくわ!」

「はい。頑張りましょう!」

 すっかりやる気満々のバルネアとメルエーナの姿に口の端をわずかに上げ、ジェノは二人に「お願いします。力を貸してください』と頭を下げるのだった。



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特別編⑪ 『憧れたあの人との約束を』(後編)

 ポン! ポン! ポン! ポン! ポン!

 リズミカルにお玉が柔らかい何かを叩く音が台所に響き渡る。

 

 幼いジェノは背の低さを補うための台に登り、リニア調理する姿を見ているが、調理担当のリニアの顔がだんだん曇っていく。

 

「ううっ、駄目だぁ。また失敗……」

 リニアは、はぁ~とため息をつく。

 普段明るくて笑顔を絶やすことがない先生の滅多に見ない姿に、ジェノは驚く。

 

「ねぇ、先生、本当にこんな風に叩いているだけで、そんな不思議なお菓子ができるの?」

 けれど、リニアが話してくれた不思議なお菓子を食べるのを楽しみにしていたジェノは、少し恨めしげな視線を向けた。

 

「ひどいわね。先生は嘘なんて言わないわよ。ただ、これはものすごく難しい料理なの。私も一回しか成功したことがないのよ」

「そうなんだ。……う~ん。ペントなら作れるかな?」

 ジェノは自分の母親代わりの女性で、ベテラン侍女の名前を口に出す。

 

「難しいと思うし、それにこの料理はすごく作るのが大変だからお願いしない方がいいと思うわ。ず~っとお玉で叩き続けるのって意外と大変なのよ」

「うん……。ペント、毎日お仕事頑張って疲れているのに料理を作ってくれているもんね」

 ジェノはリニアの言葉に、ペントに頼むのは止めることにする。そして、残念そうなリニアの姿に、ジェノは決意した。

 

「先生、僕が作ってみてもいいかな?」

「えっ? 私でもできなかったのに、君がやるの?」

「うん。やってみたい。餃子を焼けるようになったんだから、試してみたいんだ」

 ジェノの提案に、リニアは紫色のサラサラな髪を片手でかいて悩んでいたが、やがて許可してくれた。

 

「うん。君はこと料理に関してすごい才能がある気がするし、それにかけてみよっか! でも、さっきも行ったように、すごく大変なのよ、お玉で叩き続けるのって」

「大丈夫! 僕、やってみる!」

 ジェノはそう言って真摯な目を先生に向ける。

 

「よぉ~し! なかなか格好いいじゃあないの!」

 リニアが許可してくれたことで、ジェノは意気揚々と調理方法を教わりながら料理を始めた。

 だが、すぐに腕が痛くなってきてしまう。

 鍛えているとはいえ、まだまだ成長途上の子供の体には重労働だった。

 それでもジェノは頑張って二回もチャレンジしたが、結局完成に至ることはなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ジェノは、バルネアとメルエーナに自分が作ろうと思っている不思議な料理の特徴と材料を説明する。

 話を聞いただけでは、正直自分が言うような料理ができるとは思えないだろう。

 ジェノ自身も、もう少し他に材料が必要なのではないかと思ったことが何度もある。

 

 だが、先生は確かに一度は成功させたと言っていた。その言葉を信じたい。

 

「なるほど……。材料は、 砂糖とでんぷんをいれた水、卵黄、そしてピ-ナッツオイルなのよね。それなら、ジェノちゃん、火加減は弱火で行きましょう。どう考えても、火を強めてしまってはその形状には持っていくことは不可能だと思うわ」

「そうですね。それと、叩くという行為には、熱を均一に伝えようという意図があるのではないでしょうか? であれば、お玉も温めておいた方が……」

「そうね。ジェノちゃん、それでやってみましょう」

 バルネアとメルエーナのアドバイスを受けて、ジェノは頷く。

 

 この料理を作りたいというのは、ただ単に自分のわがままだ。それなのに、当たり前のように力を貸してくれる。そして、完成を楽しみにしてくれる。

 ジェノはもう一度、料理を作るきっかけを作ってくれたリニア先生に心のなかで感謝する。

 そして、ジェノは疲れた腕に力を込めて、今一度調理に取り組む。

 

「ジェノちゃん。かき混ぜ方はいいと思うけれど、濾してみない?」

「ですが、先生は……」

「そう。濾していなかったのね。でも、私の経験上、濾したほうがいいと思うわ」

 ジェノは少しためらったが、バルネアの指摘に彼女の言うとおり、ピーナッツオイル以外の全ての材料をかき混ぜたものを濾すことにした。

 

(俺ごときの考えよりも、ここはバルネアさんの経験を信じよう)

 ジェノは、ピーナッツオイルを馴染ませた鍋に材料を入れて、弱火で熱し、お玉で叩きながら形を整えていく。そのお玉は、メルエーナの指摘を受けて温めてある。

 

 そして、バルネアとメルエーナが見守る中、ジェノは何度も何度も形を整えていく。額に汗をかきながらも。

 叩き続けるうちに照りが出てきて、そして粘着性も出てくる。

 飽くまで個人的な感想だが、普段よりもいい出来な気がする。

 

「メルちゃん、お皿の用意を。ジェノちゃん、あと三十秒したら、中身を皿に移して」

「はい!」

「分かりました」

 ジェノは言われたとおりに、メルエーナが用意してくれた皿に、鍋の中身を、金色の塊を移す。

 

 それは、なんとも奇妙な物体だった。

 固体であるはずなのに皿の上で広がる。けれど液体ではないので溢れることはない。

 

「ジェノさん」

 メルエーナが、チョップスティック、つまりは箸を手渡してくれた。

 ここで敢えて箸にしたのには理由がある。それは、この料理が完成したか否かを判断するのに必要だからだ。

 

 ジェノは受け取った箸で金色の絡まりの箸を掴み、持ち上げる。すると、その塊は粘性があるためか伸びていく。

 

「……ずいぶん粘り気があるな。だが、先生の言うとおりならば……」

 ジェノは箸で更に上まで持っていき、粘性の限界で切れたのを確認し、小さな塊にしてからそれを口に運ぶ。

 

 ジェノの口内に甘い味が広がる。けれど、それは材料からも想像ができた味だ。だが、このなめらかな舌触りと不思議な触感は。それに、粘着力があるのに、歯につかない。箸にも全く残っていない。そして、持ち上げたときにも、皿にもくっついていなかった。

 

「……これだ。これが、先生が俺に食べさせたかった料理……」

 ジェノはもちろんこの料理を食べるのは初めてだ。けれど、これこそが先生が作ってくれようとした料理だと断言できる。

 

 何故ならば、この料理の特性がこの料理の名前だから。

 料理の名前は、『三不粘(サンプーチャン)』という。

 粘性が有りながらも、箸、皿、歯の三つにつかないことがこの名前の由来なのだ。

 

「ねぇ、ジェノちゃん、私達も食べてみていい?」

 感傷に浸っていたジェノだが、バルネアさんとメルエーナが箸を手に許可が出るのを心待ちにしているのを理解し、「ええ。もちろんです」と了承する。

 

「へぇ~。これは面白い食感ね。優しい甘さだし、食べていて楽しいお菓子ね」

「本当に不思議です。粘り気があるのに、本当に箸にも皿にも、歯にもくっつかないなんて」

 二人にも好評のようで、ジェノは口の端を僅かに上げる。

 

 本当に、どうしてこの二人は当たり前のように力を貸してくれるのだろう。そして、あれほど成功しなかった料理が、こうして完成させることができるに経ったのだろう。

 

 ジェノは今更ながらに、自分に料理をする喜びを教えてくれた先生に感謝する。

 

「うんうん。美味しかったわ。でも、メルちゃん、もう少し食べてみたいと思わない?」

「はい。そうですね」

 バルネアとメルエーナが満面の笑みで、自分たちの皿をジェノに向けて差し出してくる。

 

 この三不粘(サンプーチャン)は、優しい甘さで少しでも満足度が高い。けれど、二人は敢えてそう言ってくれたのだとジェノは理解する。

 何故なら、ジェノはコツを忘れないうちに、もう何度か試作したいと思っていたのだから。

 

「ええ。二人共、少し待っていて下さい」

 ジェノは笑顔で材料を用意し始める。

 

 そして、もっと腕を上げていつでもこの料理を作れるようになり、いつかは恩師であるリニア先生に食べてもらいたいとジェノは心のなかで願うのだった。



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第六章 『そこに、救いなどなくて……』
① 『英雄ファリルの像の前で』


 どうして、私はついていかなかったのでしょうか?

 

 いえ、私がついて行っても足を引っ張るだけで迷惑にしかならなかったであろうことは分かっています。

 けれど、そう思わずにはいられなかったのです。

 

 全てを終えてなんとか帰ってきた、あの人達はボロボロでした。

 体だけでなく、心までも。

 それこそ痛々しすぎて見ていられないほどに。

 

 冷酷な人間達によって具現化された、この世の地獄がそこには広がっていたのです。

 

 

 

 

『そこに、救いなど無くて……』

 

 

 

 ふと気がつくと、窓の外が暗くなっていることに気が付く。

 ジェノは今日のところはこの辺りにしておこうと思い、手にしていた本を静かに閉じて席を立つ。

 

 ここはエルマイラム王国の公立図書館。文化レベルが高い先進国であるこの国では、誰でも自由に本を閲覧することができるのだ。

 この巨大な図書館の本を全て読破するにはどれほどの年月が必要なのかと思えるほど、その蔵書数は多く、億に届きそうなほどらしい。

 これは笑い話だが、田舎からこのエルマイラム王国の首都であるこのナイムの街に来たとある男性など、この図書館の巨大さと厳かで佇まいに、ここを王城と勘違いしてしまったという笑い話もあるくらいだ。

 

 静かに読んでいた本を所定の場所に返そうと足を進ませていると、不意に背中から声がかかった。

 振り返ると、金色の髪で特徴的な神官服を身に纏った、自分と同年代の女が近寄ってくる。

 

「ジェノ君じゃあないの。ここで会うなんて珍しいわね」

「そうですね、パメラさん。ご無沙汰しています」

 パメラはジェノの一つ上の年齢ながら、リーシス神殿の神官である才女だ。

 また、メルエーナたちの友人であり、よく<パニヨン>にも足を運んでくれているのだが、ジェノの稽古の時間と重なることが多く、ここの所、疎遠になってしまっていた。

 

「ああ、それは気にしなくてもいいわ。メルの口から貴方のことはしっかり訊いているから。全然久しぶりって気がしないもの」

「そうですか」

 パメラは口元に手を当てながらも、ニヨニヨとした笑みを浮かべていたが、ジェノは普段通りのポーカーフェイスで端的に言葉を返すのみだ。

 

「でも、ちょうどよかったわ。貴方に、いいえ、貴方達の冒険者グループ、『   』に依頼したいことがあったの。それで、これから<パニヨン>に行こうと考えていたところだったのよ」

「……依頼ですか?」

 予想外の言葉に、ジェノは思わず尋ね返す。

 

「ええ。私個人ではなく、リーシス神殿からの依頼ですよ。正直、あまり報酬の多い仕事ではないけれど、受けてくれたらお姉さん嬉しいなぁ~」

 最初こそ厳かな表情で言っていたパメラだったが、後半部分は友人に対する砕けたものだった。

 きっとこんな喋り方をしているところを他の者に見られたらまずいだろうに、パメラは茶目っ気たっぷりに言うのだ。

 

 わずか一歳しか違いがないのに妙に年上振るかと思えば、こんな表情も浮かべるこのパメラという女性だが、ジェノはこの女性のことが嫌いではない。

 それは他の者も同じようで、特に年若い女信者は彼女を神聖視する者も居るらしい。

 

「ジェノ君。もうすぐ閉館時間だから、これから<パニヨン>に戻るのよね? 私もバルネアさんから夕食に呼ばれているから、一緒に行きましょう。何かと最近物騒だから、お姉さんのボディーガードをしてくれると嬉しいなぁ」

「わかりました」

 ジェノはそう言いながらも、笑えない冗談だと内心で思う。立ち振舞で分かる範囲でも、パメラはかなり武術を嗜んでいることが分かる。少なくとも、未熟な自分では勝てるとは断言できない程には。

 

 それから、ジェノはパメラと一緒に、居候先である<パニヨン>に向かうことにした。

 パメラはジェノの少し後ろを歩いてついてくる。

 

 なんでも、『メルに勘違いされたら、お互い困るでしょう?』とのことだ。

 そんな気を使わなくてもいいと思うのだが、これもパメラの優しさだと考え、ジェノは頻繁に声をかけてくるパメラに、顔を向けずに応える。

 

「だんだん、日が短くなってくるのはなんだか物悲しいわね」

 パメラの呟きに、ジェノは「ええ」と頷く。まだ温かい日が続くが、少しずつ日が短くなってきたなとジェノも感じていた。

 

「あっ、ジェノ君。少しだけ待っていて」

 不意にパメラに足を止めるように言われた。その場所は、この街の救世主でもあり冒険者の英雄でもある、ファリルの石像の前だ。

 

「ごめんね。ファリル様にお祈りを捧げて行きたいの」

「ええ。構いませんよ」

「ありがとう」

 

  パメラはにっこり微笑んだかと思うと、ファリルの石像の前に跪く。

 

「ファリル様。先の通り魔騒ぎも落ち着き、このナイムの街には平和が戻りました。何卒、今後もこの街の平和を見守り下さいませ」

 厳かな声でパメラは、英雄ファリルに祈りを捧げる。

 その姿はさすが本職であり、堂に入ったものだった。

 

 少しの沈黙の後、パメラは静かに立ち上がると、ファリルの石像に頭を下げてからジェノの方に顔を向ける。

 

「お待たせしちゃったわね。それじゃあ、行きましょう」

 パメラはまた年相応の素の口調に戻り、ジェノに<パニヨン>に向かうように促すので、ジェノは再び足を動かす。

 

「パメラさん」

「んっ? 何かな、ジェノ君?」

「単純な質問ですが、女神リーシスに仕えるパメラさんが、冒険者の英雄であるファリルに祈りを捧げるのは何故なんでしょうか?」

 友人に対する気安さもあり、ジェノはパメラに疑問に思ったことを尋ねる。

 

「んっ? そんなに不思議かな? だって、この街を、もっと言うならばこの国を救ってくださった方なんだから、敬意を持つのは当然じゃあないの。それに、寛容なリーシス様は、他の男神、女神の教えを否定はしないもの」

 さも当たり前のようにパメラは答えた。それだけなら格好いいのだが、

 

「……まぁ、正直、リーシス様はマイナーだからね。自分のところの信徒を増やすので精一杯で、争いをしている場合じゃあないっていう事情もあるんだけれどね」

 彼女は苦笑してそう続けてしまう。だが、その正直なところも彼女の魅力なのだろう。

 

「そういえば、ジェノ君はイルリアと同じ、商いの男神であるカーキー様を信仰しているのよね?」

「熱心な信徒ではありませんが、そうです」

「別に熱心でなくてもいいじゃあない。神様の教えは胸の奥に置いて、それに恥じないようにするための試金石にするだけでいいの。邪神信仰なんて大昔の話だし、今現存している神様の教えならば、私はどれも大切にした方がいいとさえ思っているの。だって、どの教えも人が人と暮らしていく上で必要な事柄を説いているんだからね」

 パメラはそこまで言うと、「あっ、うちの神殿の皆には内緒ね」と茶目っ気たっぷりに付け加える。

 

 ジェノは口元を僅かに緩める。

 若くして神官となり、人格的にも立派なパメラと誼を結べたことは、行幸だったのだとジェノは思う。

 

「ジェノ君……」

 不意に、パメラの声が低くなった。

 

「頼まれていた資料なんだけれど……正直、君が望むような情報はなかったわ」

「……そうですか。こんな早く確認してくださり、ありがとうございました」

 ジェノは足を止め、後ろのパメラに頭を軽く下げる。

 

「ううん。私も本を読むのは好きだから、気にしないで。それより、力になれなくてごめんね」

「謝らないで下さい。それと、店についたら報酬を支払わせて頂きます」

「いらないわよ。お姉さんと君の仲じゃあないの」

 パメラはそう言って微笑む。

 

「ですが……」

 いくら読書好きとはいえ、リーシス神殿の蔵書の本を確認するのは骨が折れたはずだ。それ相応のお礼はしたい。

 

「いいから。私ね、友達間でお金のやり取りはしたくないのよ。それに、君が私に話してくれた情報は、有意義なものだったしね……」

 パメラの声は重い。

 

 先日、ジェノはパメラに相談をした。

 その内容は、<霧>について。

 何故パメラに相談したかと言うと、端的に一番可能性が高い事柄に関係しているからだった。

 

 それは、英雄ファリルの伝説に記されている事柄。

 

 数百年前、ファリルはこのナイムの街を覆わんとする<幻夢の()>というものを払ったと言われているのだ。

 同じ<霧>の名を関していることはもとより、その霧に触れたものは体が人の形を留めていられなくなり命を落としたと伝承で伝わっている。

 しかしながら、数百年という時間が経過してしまったことの弊害で、これにも諸説あるのだ。

 

 曰く、霧は、英雄であるファリルが光り輝く龍を呼び出し、それを消滅させた。

 

 曰く、霧は、ファリルが食い止めていたが、実際にそれを消滅させたのは、彼の弟分であるマイテルという人物である。

 

 曰く、霧というのは、魔物の大群の別称に過ぎず、後世の研究家が勝手に脚色した事柄に過ぎない。

 

 ジェノは、図書館の本でこのことを調べるだけでは解決しないと思い、パメラに相談をしてリーシス神殿の蔵書から<霧>に関するものを調べて貰ったのだ。

 これは、英雄ファリルの妻が、女神リーシスの信徒だったという情報に基づいて頼んだのだ。

 

 だが、いかんせん昔の事柄だ。

 少しでも可能性を上げたいと、藁にもすがる思いでお願いした事柄に過ぎない。 

 それが失敗に終わる可能性は高いとジェノも考えていた。

 

「だから、気にしないでいいからね。はい、お返事は?」

「……分かりました。ありがとうございます」

「うんうん。よろしい。ただ、私が一番信用している先輩神官が一度君から話を訊きたいって言っていたから、そのうち<パニヨン>に食事に行くことにするわ。そのときに、私にした話をもう一度話してね」

「はい」

 荒唐無稽としか思えないはずの、<霧>の話をパメラは信じてくれている。それが嬉しかった。

 

 事は公に喧伝することではない。

 正気かどうか疑われるのは些細なことで、この街にも<霧>を利用しようとしている人間に気取られてしまう可能性があるから。

 だが、何も準備をしておかない訳にはいかない。事が起こってからの対応では遅いのだから。

 

 事前に<自警団>には団長のガイウスさんを介して伝えているが、それだけでは足りないと思い、リットに相談して、パメラ達、リーシス神殿には話しておくことにしたのだ。

 それが、いざ事がこの街で起こったときに、どれほどの成果があるかは未知だが。

 

「ふふっ、そんな深刻な顔をしない、しない。君たちにはこのパメラお姉さんがついている。大船に乗ったつもりでいなさい」

「……ええ。期待しています」

 ジェノの言葉は、パメラの気遣いに応えるためのもので、本当に彼女が力になってくれることを期待したものではなかった。

 

 けれど、後に彼はこのときの判断が間違っていなかったことを痛感することになるのだ。



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