甲子園の空は、ただ蒼く。 (高任斎)
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1回戦:スリーベースヒット。

スリーベースヒットにはドラマがある。
というか、ホームランより貴重。


 息を吐き、空を見上げた。

 これが、甲子園の空か。

 

 ……まあ、変わんねえな。

 

 足元に目をやり、軽く蹴る。

 

 甲子園の黒土。

 砂って言ったほうが、らしいか。

 

 アニキの部屋に飾られている黒土を見て、『球場の黒土とそんな変わらねえじゃん』などと強がってはいたが……やっぱり別物だなと思う。

 

 息を吐き、吸った。 

 

「シッ」

 

 気合を入れ、両手で頬を叩く。

 ようやく、浮ついた感覚が消えてきた。

 

 バックスクリーンに目を向けた。

 

 相手チームのエースは、今大会で3本の指に入ると言われる好投手。

 ウチのエースもそこそこ評判が高い。

 新聞によっては、『1点勝負が予想される』なんてコメントがついていた。

 

 既に5回裏。

 スコアは0対3。 

 

 1回にエラーがらみで2失点。

 2回の1失点も、四球と記録に残らないエラーからだ。

 

 試合の展開も早い。

 開始からまだ40分が過ぎた程度……たぶん、ウチが浮ついている間に、さっさと試合を進めてしまおうって魂胆だろ。

 今思えば、3回以降の向こうの攻撃はどこか淡白だったしな。

 

 やだねえ、甲子園常連校のいやらしさってのは。

 

 まあ、うちも名門校ってポジションではあるが、4年ぶりの甲子園出場だからな。

 

『3年経てば、部員は全員入れ変わって、伝統や経験なんか残ってねえよ。だから今は、甲子園に3回出た俺の話を黙って聞いておけ』

 

 アニキの言葉を思い出す。

 

 春夏合わせて20回を超える出場経験があっても、部員は全員初出場だ。

 去年就任した監督も、甲子園の経験はない。

 前の監督は、3年連続で甲子園出場を逃した責任を取らされてクビになっちまったからな。

 

 ケチのつき始めは、試合前のジャンケンで俺が負けたことだ。

 それで、相手に先攻を取られた。

 

 攻撃のミスは、失点にならない。

 守備のミスは、即失点へとつながる。

 甲子園の雰囲気に慣れるため、まず先攻を……ってのがセオリー。

 

「荒木!」

「ハイ!」

「わかってるな、狙っていけ!」

「ハイ!」

 

 ほかの連中に聞かせるための、監督とのやり取り。

 それを受けて、チームメイトが声を出し始める。

 

『狙えよ!』

『1発頼みます!』

 

 威勢のいい言葉が続く。

 

 甲子園の声援に抗い、相手の捕手や投手に聞こえるぐらい声を張り上げる。

 

 ……まあ、この状況でホームランを狙うようなのは、素人だけどな。

 

 ホームランは野球の華だが、そこで一旦プレイが切れる。

 流れが途切れるから、勢いってのはつきにくい。

 

 好投手相手。

 3点のビハインド。

 

 ここで、俺がソロホームランを打ったところで、相手の気を引き締めるだけにしかならない。

 

 じゃあ、監督が何を考えて『狙っていけ』と指示を出したのかと言うと……ここまで完全に抑えられているチームを勢いづけるプレイを狙っていけってことだ。

 

 もう一度息を吸い、吐いた。

 

 最近はちょいと誤解されがちだが、4番打者ってのは状況に応じた打撃が求められる。

 馬鹿みたいにホームランを狙う長距離打者ってのは、高校野球では4番打者にはなれない。

 どんな打撃でもできる技術と、野球への深い理解。

 高校野球の4番打者は……古き良き時代の4番打者は、そういうものだと教えられて俺は育った。

 

 捕手の視線が俺に向くのを待ってから、素振りを一回。

 いつも通りの素振りだ。

 もう、駆け引きは始まっている。

 

 5回。

 3点差。

 打順は4番。

 

 バッテリーの第一目標は、当然俺を抑えること。

 ただ、四球と長打は防ぎたいってのが、第二目標だ。

 そうなると、バッテリーの配球は、外角低めに集められる。

 

 インコース、そして高めは長打が怖い。

 変化球はすっぽ抜けが怖い。

 

 まあ、ここできっちり変化球をコースに要求できるかどうか、そこに投げられるかどうかでバッテリーの評価が違ってくる。

 

 俺が狙うのはスリーベースヒット。

 

 ホームランと違って、プレイが途切れない。

 クロスプレイになりやすく、セーフになった時にチームの士気を上げやすい。

 走者として投手の視界に入ることで、リズムを崩す手段が増えること。

 

 スリーベースなら、右中間狙い。

 外角攻めは、こっちにも好都合。

 

 いいことづくめのようだが、当然そんなことはバッテリーも……少なくとも捕手は分かっている。

 

 ただ、ここでネックになるのが……相手投手の評判が高いってことだ。

 投手ってのはプライドが高い。

 プライドが高くなきゃ投手にはなれない。

『ホームランを打たれたほうがマシ』ってリードをすれば、当然機嫌を損ねる。

 機嫌を損ねれば、ここまで気分よく甲子園のマウンドを楽しんでいた投手のプレイに影響が出る。

 

 わかっていても、捕手は投手が気分良く投げられるリードをしなきゃならない。

 

 ちらりと、捕手に目を向けた。

 目が合う。

 

 捕手ってのは大変だよな。

 心の中でそう呟き、笑って見せる。

 

 バッターボックスに入り、ゆっくりと足場をならす。

 ルール的には、主審の『プレイ』の声が掛かっていれば、投手は打者のそれを待つ義務はない。

 しかし、回の先頭打者の初球に関してだけは、打者は主審に注意されるまでは自分のタイミングで時間を稼ぐことができる。

 

 まあ、好投手に気分良く投げられたらたまらないしな。

 ささやかな嫌がらせ。

 それを、チームで積み重ねていくわけだが……ここまで、俺たちはそんな基本すらできていなかった。

 

 足場を固めながら、横目で主審をチェック。

 後援会の人の情報によると、この主審は、選手に話しかける前にマスクを取る癖がある。

 つまり、マスクに手を伸ばすまでは、注意はない。

 

 主審の手が動く。

 その瞬間に、俺はすっとバットを構えた。

 

 わずかな間。

 主審の『プレイ』の声。

 

 

 さて、初球の入りは重要だ。

 

 打者の俺は、外角低めの速球だけを狙う。

 セオリーだけに、捕手もそれを承知。

 

 この、セオリーの状況で捕手が何を要求するか。

 

 外角低め、外にボール1つ外した速球を要求する捕手は、性格が悪い。

 変化球、特にインコースにスローカーブを投げさせる捕手は意外性を好む傾向が強い。

 

 前者は相手にミスをさせるタイプ。

 後者は相手をのんでかかるタイプで、投手のプライドをほとんど考慮しないから、投手に嫌われていることが多い。

 

 投手が振りかぶった。

 ゆったりとしたフォーム。

 しかし、昔に比べると小さなフォームが今は主流だ。

 球の出所をぎりぎりまで隠すために、腕をコンパクトにたたんで……しなりを使って投げる。

 時速を5キロ落としても、打者に打たれない球を投げるのが良い投手の条件。

 

 小さな違和感を胸に、タイミングを取る。

 

 投手の手を離れた白球。

 

 コースは真ん中よりの外角。

 高さも、太もも付近。

 

 心の中で、捕手に向かって罵倒を吐く。

 

 ボールにブレーキがかかったように見え、すっと斜めにスライドして逃げていく。

 

「ボール!」

 

 ……中途半端なリードしやがって。

 

 空振りさせるなら、きっちり外角低めに投げさせなきゃいけない。

 ひっかけて内野ゴロを打たせたいなら、コースはともかく、斜めじゃなく横のスライダーがベストだ。

 

 まあ、投手のコントロールミスって可能性もあるが……おそらくは、そうじゃない。

 俺を抑えてやろうという気持ちが感じられなかったからな。

 

 ボールでいいやってノリで投げた球だ。

 

 息を吐き、気を取り直す。

 

 相手投手のデータを思い出していく。

 

 スライダーの後の配球。

 確か、地区予選のデータだと、速球が7割、変化球が3割だったか。

 ウチの投手は、スライダーを投げた後は指先の感覚が狂うからあんまり投げたくないって言ってたが……たぶん、スライダーの投げ方そのものが違うんだろうな。

 

 

 ワンボールからの2球目。

 狙いは変わらず、外角低めの速球一本。

 

 手を離れた瞬間に、狙い球と違うことがわかった。

 

 キャッチャーミットに収まるまでをじっと見る。

 そんな俺を捕手がじっと見て、ゆっくりと投手にボールを投げ返した。

 

 これで、ワンボールワンストライク。

 

 投手を見る。

 特に表情は変わらない。

 かなり捕手が我を通したリードだと思うんだが……納得してるのかね。

 

 

 3球目。

 狙いは同じ、外角低めの速球。

 

 インハイのボール球が来た。

 外し気味とはいえ、危険なリードだ。

 俺の狙い球を探るという意味では、間違ってはいない。

 ただ、球種とコースをばらばらに要求するリードは、投手のコントロールの感覚を狂わせるリスクがある。

 

 

 4球目。

 初志貫徹。

 

 外角低め……から、ボールになるスライダー。

 

 反応してしまったが、バットが止まった。

 しかし、バットが止まらなかったとしても空振りするコース。

 

 息を吐いた。

 

 今一つ、バッテリーというか捕手の意図が読めない。

 目的もなく、ただ球を散らしているような……そんなイメージを受ける。

 

 ちらりとベンチを見た。

 監督と目が合う。

 

 監督が右腕を強く振る。

 ヒッティングの指示だ。

 

 カウントはスリーボールワンストライク。

 ストライクを入れてくるならヒッティングカウントだが……。

 

 一旦、バッターボックスを外した。

 

 素直に四球を選んだら……怒られそうだな、こりゃ。

 

 息を吐き、吸った。

 

 よし、腹を据えるか。

 

 俺は4番打者だ。

 1点を取るんじゃなく、勝ちに行く。

 そのためには、四球じゃだめだ。

 四球じゃ、チームに勢いが出ない。

 

 捕手の視線を感じながら、素振りを一回。

 

 ゆっくりと息を吐きながら構える。

 

 好投手の評判に隠れてはいるが、このバッテリーの主導権はおそらく捕手にある。

 根拠はない。

 根拠はないが……俺がスリーベースヒットを狙うためには、その仮定を推し進めるしかない。

 

 だから、狙い球は、外角低めのボール球だ。

 球種はスライダー。

 この打席だけで2球見たからな。

 イメージはしやすい。

 別の球種なら、ごめんなさいするだけだ。

 

 俺がベストのスイングをしたら届かない場所。

 たぶん、それがこの捕手にとって最も安心できるリード。

 ここまで完全に抑えているとか、投手のプライドや、機嫌とか、全部ぶん投げて四球でいいって配球だ。

 

 俺が無理に手を出せば凡打の確率が高くなり、手を出さずに四球を恵んでもらえば……試合の展開がウチの負けに向かって流れていく。

 

 届かないからと、スタンスや構えを変えたら、その意図に気づかれる。

 だから、それは変えられない。

 

 踏み込みと、ヒッティングポイントを前にずらすしかない、な。

 

 腰を入れたスイングはできない。

 そして、打球に角度をつける余裕もない。

 

 狙いはセカンドの頭上……そのちょい左ってとこか。

 高さではなく、速さで右中間にもっていく。

 

 そのためには……いつもと違うスイングをする必要がある。

 

 いつもと違うスイングで。

 狙った方向に打球を飛ばす、か。

 

 これを求められ、成功させなきゃいけないのが4番打者のつらいところだな。

 

 

 5球目。

 

 外。

 

 そう認識するよりも早く、深く踏み込んだ。

 

 腰から上。

 上体に軸を作り、腕を伸ばす。

 タブーとされるドアスイングを意識する。

 

 外へ逃げていくボール。

 それが逃げ切る前に。

 

 微調整。

 右手首。

 

 とらえた。

 

 そのまま。

 ボールの速度とバットの反発力だけで、払うように打つ。

 

 ミスった。

 打球が低い。

 

 が、セカンドの反応が遅れた。

 

 伸ばした腕。

 その、グローブをかすめて、打球が抜けていく。

 

 それを、崩れた体勢を立て直しながら見て、俺は走りだす。

 当然、3塁を狙うルート。

 

 2塁に最も早く到達するために走るルートと、3塁に最も早く到達するために走るルートは別物だ。

 

「みっつー!」

 

 一塁のランナーコーチの叫びを聞きながら、打球の行方を確認……一塁手が、俺の走塁を邪魔しないように距離を開け、それでいて俺の視界を遮りながら移動を始めている。

 

 チクショウ、これだから甲子園常連校ってやつはよぉ。

 

 まあ、俺らも、同じことするんだけどな!

 

 打球の行方を確認できないまま、ベースを蹴った。

 

 一塁手が視界から消える。

 しかし、打球は見ない。

 視線を向ければ、それで走る速度が落ちる。

 

 俺が見るのは、3塁のランナーコーチ。

 

 判断に迷っている。

 それがわかった。

 それしかわからない。

 

 迷ったら止まれ。

 それがセオリー。

 

 しかし、5回で3点のビハインドという状況がその選択を許さない……っていうか!

 

 迷ってないで指示出せや、こらぁ!

 何のためのランナーコーチだ!

 

 心の中で叫びながら、右中間に視線を向けた。

 そして、一瞬で視線を戻す。

 

 まだ、打球に追いついたところ。

 タイミングは微妙。

 

 自分の仕事しろぉぉっ!

 

 指示を出せなかったランナーコーチに向かって心の中で叫びながら、俺は2塁ベースも蹴った。

 

 塁間、約27メートル。

 時間にして、約3秒(願望)。

 

 この時点で、もう60メートルほど全力疾走してんだよ!

 速度ぐらい落ちるっての!

 

 時速140キロの送球で、1秒で約40メートル。

 時速110キロなら、1秒で約32メートル。

 右中間最深部からでも、ダイレクトなら3塁までは3秒とかからない。

 

 ただし、内野手の中継を挟むと約1秒の余裕が生まれる。

 捕球、送球動作、送球の3つ。

 コントロールミスも含めて、ギリギリのタイミングなら突っ込む価値があると言われる所以だ。

 

 しかし、2塁を蹴った俺にはもう確認ができない。 

 送球は、俺の背中からくるからだ。

 

 そのためのランナーコーチ。

 

 3塁に向かって爆走しながら、視線を向けた。

 

 アカン。

 あの反応、アウトっぽい。

 

 もう、遅い。

 止まっても2塁に戻れない。

 

 絶望に向かって走る。

 

 ……って、絶望してる場合じゃねえ!

 

 勝負だ。

 

 選択肢は2つ。

 

 俺の走塁ラインを3塁手の真正面にとって、その視界を遮ることで捕球ミスを誘うのがひとつ。

 しかしこれは却下。

 

 打球が飛んだコースと、外野手が追いついた位置をきっちり確認できなかったため、送球コースを正確に予測できない。

 だから、3塁手の視界を遮るための走塁コースがわからない。

 目立たないし話題になることもないだろうが、これは1塁手の目隠しプレイによる貢献だ。

 

 なら、もう一つの選択を。

 

 わずかに、俺は進路を外に膨らませた。

 これでまた、わずかだが時間のロスが生まれる。

 

 しかし、こうすれば3塁ベースに向かって急角度で斜めに滑り込むラインがとれる。

 これで、3塁への送球と、俺の走り込むラインをクロスさせられる。

 

 3塁手を見る。

 

 目線。

 グローブの位置。

 

 こんなクロスプレイの時、キャッチボールとは違う練習が必要になる。

 

 まずは、ランナーの身体から外れた位置にグローブを構えること。

 送球がランナーに当たることを防ぐためだ。

 

 だが、それは小学校レベル。

 

 相手の送球に対して走者がぶつかりにいくのは守備妨害だが、『偶然』ならこれは反則ではないとされる。

 

 繰り返すが、送球は俺の背中方向からくる。

 俺は、送球を見ることができない。

 見えないものに、ぶつかるなんてことができるはずないよね!

 だから、『自然な動き』の中で送球が身体にぶつかったとしても、それはすべて偶然でしかない!

 送球の方向にグローブを構えるなんて、カモでしかない。

 

 なので、中学レベルになると、受け手は逆の位置にグローブを構えて走者を騙す。

 走者に守備妨害をさせないためだ。

 あるいは、余裕がある状態なら走者がとることのできるラインから外れた位置に構える。

 走者が塁間で走っていいラインは、ルールに大まかな範囲が定められているから、そこを外れた位置に構えれば、たとえ送球が身体に当たったとしてもその時点で守備妨害だ。

 もちろん、クロスプレイのタイミングでそんな大きく外す余裕なんてものは生まれない。

 

 だが、今俺が、俺たちがやっているのは高校野球。

 それより一つ上のレベルが要求される。

 

 グローブの位置はギリギリまで動かさない。

 そこが標準。

 受け手がグローブを構えなくても、状況を判断してベストの位置に送球する。

 練習の積み重ねと、信頼。

 

 もう一度、ランナーコーチに視線を向けた。

 

 本来なら、ランナーコーチが送球を見て、その逆の方向にスライディングを指示する。

 タッチする距離が広がれば、それだけ時間がかかるからだ。

 

 今、ランナーコーチは、方向を指示せずにただ『滑れ!』とだけ指示している。

 これは、学校によってお約束が違うのだが、『タイミングがきわどい』を通り越して『ほぼアウト』の状況だ。

 

 送球を見ているランナーコーチが方向を指示すると、送球にぶつかりに行く指示を出したってのがばればれになるからね、仕方ないね!

 

 アウトのタイミングなのに送球にぶつかりに行くってことは、『多少』不自然な間合いでスライディング体勢を取らなきゃならない。

 偶然なら許されるが、故意なら許されない。

 

 1試合に1回どころか、高校球児としての3年間で多くて数回。

 そんな貴重なプレイのためにも、俺たち高校球児は練習を積み重ねていく。

 

 よりによって、甲子園の舞台でその成果を見せるチャンスが来ちまったか。

 

 視線を3塁手に戻す。

 もう、ランナーコーチはあてにはできない。

 ここからは、3塁手と走者である俺のタイマン勝負。

 

 歩幅を小さく、回転を速くする。

 いつでもタイミングを合わせられるように、だ。

 

 3塁手の目線、グローブの動きや仕草で送球の方向やタイミングを読み取る。

 そして、『偶然』を装って送球にぶつかるタイミングでスライディングに行く。

 それも、できるだけ不自然さを感じさせないように、だ。

 

 全部やらなきゃいけないのが、4番打者でキャプテンのつらいところだな。

 しかし、もうこれしかない。

 

 3塁に向かって走っていきながら、集中を高めていく。

 

 時間が凝縮されていく感覚。

 

 グローブは動かない。

 もう、送球が大きくそれているという可能性はない。

 

 3塁手に余裕を感じる。

 おそらく、ほぼストライク返球。

 

 まだ、間合いが遠い。

 しかし、タイミング的にはそろそろか。

 

 目標はベースの左。

 3塁手の目の前を斜めに横切るライン。

 

 ヘッドスライディングは却下。

 俺の背中で、送球を止める。

 

 タッチをかいくぐるフックスライディング?

 

 ダメだ。

 不自然過ぎる。

 

 なら……足じゃなく右手でベースをキャッチするスライディング、か。

 

 決めた。

 やるしかない。

 あとは、タイミング。

 

 3塁手を見る。

 

 目線。

 動いた。

 

 遠い。

 しかし、今。

 

 地面を強く蹴る。

 飛ぶ。

 見た目は下手クソなスライディング。

 そして、ベースをつかむ右手を大きく伸ばす。

 

 左手は伸ばさない。

 それは露骨すぎる。

 

 3塁手の表情が歪むのが見えた。

 

 勝利の確信と、左肩への衝撃が同時に来た。

 

 3塁ベースの左を通り過ぎながら、右手の手首をベースの隅にひっかけ、身体を回すようにして勢いを殺していき……最後は腹ばいに。

 体勢の立て直しに時間がかかるため、送球が後ろに逸れたとしても本塁突入は難しい。

 

 地面に転がったまま、ランナーコーチを見る。

 笑顔。

 

『上手くやったな』

『まだ、はええよ。つーか、お前のせいだよ!笑ってんじゃねえよ!』

 

 無言の会話。

 

 上手くやったつもりではある。

 しかし、審判の判定はまだだ。

 

 タッチプレイそのものがなかった以上、塁審はわざわざセーフのコールなんかはしない。

 つまり、守備妨害というコールが出るか出ないかだけ。

 

 俺はすぐに立ち上がり、ベンチに向かって高く右手を突き上げた。

 

 勢いだ。

 ここは、勢いで流す!

 

 盛り上がる観客席。

 

 この試合、チームの初ヒットがスリーベースヒット。

 

 もっと盛り上げるんだよ!

 塁審が『怪しいけど、3点差だし、盛り上がりに水を差すのもあれだな』と思ってしまうぐらい盛り上げるんだよ!

 おら、応援の1年と2年、もっと空気読め!

 

 何度も右手を突き上げながら、塁審と3塁手には視線を向けない。

 

 やがて、次の打者がバッターボックスに向かう。

 

 大丈夫だ。

 もう、大丈夫だ。

 守備妨害のコールは出ない。

 

 よしっ!

 

 黒く汚れた手で、そのまま頬を叩いて気合を入れる。

 さあ、ここから反撃だ! 




前半の格好良さから後半のバタバタ具合のギャップに笑っていただけたら嬉しいです。
まあ、打撃に関してはこれがコンスタントにできるなら、相手投手のレベルにもよりますが、たぶん超高校級ですからね。

相手チームの1塁手の動きは、たぶん経験者じゃないとわからないと思います。
それと、捕手がこういうリードをすると投手のモチベーションが下がることが多いです。


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2回戦:犠牲バント。

たぶん、このお話は好みがわかれます。


 地面に叩きつけられた打球が、高く、高く舞い上がる。

 

「走れ!」

「イケル!」

 

 ベンチからの声。

 1塁に向かって駆ける打者。

 

 ネクストバッターサークルで、僕はバットを握った。

 

 相手の3塁手の動きがいい。

 

 落ちてきたボール。

 それを素手でつかんで、そのままくるりと身体を回して送球。

 

「へぇ」

 

 つい、声に出た。

 

 思っていたより、送球が速い。

 いや、送球までの動作が早い。

 

 あのフィールディングで、数えきれないぐらい、内野安打になりそうな打球をアウトにしてきたんだろう。

 でもまあ、さすがにこれは無理。

 

 ただ、余裕の内野安打になるはずが、わりとギリギリになったのはすごいと思う。

 僕も守備には自信があるけど、あれは、一塁に送球するのを諦めるタイミングだ。

 

 でもまあ、ようやく……僕の前にノーアウトで走者が出た。

 僕の出番だ。

 

 立ち上がり、バッターボックスに向かう。

 

 バッターボックスに入る前に、バックスクリーンを見る。

 

 7回裏。

 スコアは2対0。

 

 ウチが勝っている。

 これを、『勝った』と過去系にするまで試合は終わらない。

 

 息を吐く。

 それにしても、と思う。

 

 甲子園ってのは、うるさい場所だなあ。

 

 ベンチから声をかけられているのがわかる。

 しかし、その声がスタンドからの声援にかき消される。

 

 まあ、聞こえなくても、分かるんだけどね。

 ここが甲子園だろうと、いつもと同じ。

 

『頼むぞ、バントの名手』

『きっちり決めろよ』

 

 そんなとこだろう。

 

 監督のサインを見る。

 

 はいはい、バントバント。

 重要なのは、その後。

 

 監督のサインが続く。

 

 僕にとっては見慣れたサイン。

 いつも通りだ。

 

 まあ、1回戦は、その『いつも通り』のサインが一度も出なかったんだけどね。

 

 僕の持ち味は、守備とバント。

 バッティングが得意だなんて、口が裂けても言えない。

 

 バントのサインってのは、走者がいなきゃ出せない。

 走者が出ても、二死ならダメ。

 

 軽く、やる気のなさそうな素振りを1つ。

 

 相手の捕手と目が合ったので、『バントだよ?』という感じに、バントの構えをして見せる。

『ホントかよ?』という表情をされたので、『ホントホント。僕嘘つかない』という感じに、もう一度バントの構えをする。 

 

 1回戦の僕の成績は、4打席で四球を一つ選んだだけの3タコ。

 地方大会の打率は、2割を切っている。

 

 調子が悪かったわけじゃない。

 僕のバッティングは、そんなもんだ。

 

 正直、攻撃重視の監督になってたら、レギュラーメンバーには選ばれなかった自信がある。

 そういう意味では、クビになった前監督に乾杯ってね。

 

 まあ、守備にはそこそこ自信がある。

 そしてバントに関しては……高校野球レベルなら、たぶん誰にも負けない。

 その程度のプライドがある。

 

 僕に出される送りバントのサイン。

 チームでは、僕にだけ出される、サイン。

 

『2ストライクまでは自由にやっていい。ただし、打つな。そして2ストライクになったらバント』

 

 この意味、分かるかな?

 

 2ストライクからバントを失敗してファールになると、3バント失敗で3振扱いになる。

 同じバントではあるけど、初球のバントと、2ストライクからのバントは圧力が全然違う。

 

 1球あれば十分さ。

 それが、僕のプライドであり、監督を含めたチームメイトからの信頼だ。

 

『ただし、打つな』って部分は、悲しい信頼だけどね。

 

 

 バッターボックスに入る。

 位置は、キャッチャーよりのベースより。

 

 そして、ためらうことなく最初からバントの構えをする。

 

 小学校なら、バントをするなら打席の前……投手寄りに立てって指導されることが多い。

 フェアゾーンってのは、ホームベースを起点に伸びていくから、『当てて転がす』だけなら前に立ったほうが角度を広く使えるからだ。

 

 ついでに言うなら、小学校レベルなら投手の球は大きくおじぎをすることがほとんど。

 キャッチャーよりに立つと、ボールがおじぎする分ストライクゾーンより下の高さを通過したり、時にはバウンドしたりするから前に立ったほうがバントをしやすいってのもある。

 

 これが中学校になると、打席の前に立つことは少なくなる。

 そりゃ、バントだからって立つ場所を変えたらそれでバントってばれちゃうからね。

 バントの構えからバットを引いてヒッティングに切り替える……なんて感じに、中学校になるとやることが増えるため、バントが苦手って人間が増えたりもする。

 

 バントの基本の構えをとると、プレイの幅が狭くなる。

 だから、基本じゃない構えでバントができなきゃダメってレベルになるせいだ。

 

 高校になると、バントを失敗すると周囲から非難を浴びる。

 あれかな、サッカーのPKみたいな扱い。

 決めて当然って感じ。

 

 ただ、高校になると単純にバントだけすればいいなんてことがなくなる。

 守備に対しての牽制。

 揺さぶり。

 守備を動かして、その動きを観察する。

 やることは多い。

 そして、中学校よりも投手のボールは速くなり、変化球も増え、キレも増す。

 挙句の果てに、失敗すれば馬鹿にされ、怒られる。

 

 心理的にも難易度が爆上げってやつだ。

 

 

 ホント、バントってのはやることが多いんだよ、と。

 

 横目で捕手を確認しながら、構えたバットの高さをその目線に合わせる。

 

 キャッチャーマスクってのは、捕手の顔面を守るために当然ボールよりも狭い幅しか空いてない。

 そして、視界を確保するために、目の上と下にガードがある。

 

 一度付けたらわかるけど……捕手の視界って、結構狭い。

 だから、打者が打つと捕手はまずマスクを外して視界を確保する。

 

 その、目の上と下をマスクの障害物で制限された捕手の視界をね、直径約7センチのバットで隠してあげるんだ。(笑)

 

 送りバントってのは、走者を次の塁に進めることが目的だからね。

 走者を次の塁に進めることができるなら、バントなんかする必要がないんだよ。

 甲子園は広い。

 ちょっと、捕手がボールを後ろにそらしただけで、走者は簡単に2塁に進める。

 

 まあ、こんなことは、甲子園に出るような高校ならどこもやってるからね。

 捕手だって慣れている。

 それでも、投手の球を受けるからには、自分の視界を確保する必要がある。

 

 つまり、バットの位置に対して、頭を上げたり下げたりして、ずらすわけだ。

 

 当然、その動きに合わせて追いかけるけどね。(笑)

 おまけに、ゆらゆらと上下に動かして、捕手の神経を逆なでしたり。

 

 ついでにいうと、捕手が落ち着きなく動くと、気にする投手は少なくない。

 コントロールミスに、集中力の低下。

 

 攻撃側としては、夢が広がる。

 

 おっと。

 捕手が、座る位置を後方へとずらした。

 

 バットが遮る視界を狭くして対応したか。

 基本通りの対応。

 

 レベルの低い学校や、捕手に慣れていない選手は頭を下げて前に出てきたりすることがある。

 そういう時は、バントの構えからバスターのふりをして、バットで捕手のマスクやミットを狙ってやればインターフェア(打撃妨害)で、僕は1塁に、1塁走者は2塁に進んでチャンスが広がる。

 

 もちろん、甲子園に出てくるようなチームで、これに引っかかるような捕手はまあいない。

 

 僕はゆらゆらとバットを揺らし、投球を待つ。

 動きを止めたり、また揺らしたり。

 とにかく、捕手の集中力を削る作業に終始する。

 

 ネクストバッターサークルで、先輩が笑っている。

 

 ……まあ、どこのチームもやることだけど、僕ほど徹底してやる選手は珍しい。

 大抵の選手はバッティングが大好きで、できることならバントじゃなく打ちたいと思っている。

 僕みたいに、自分のバッティングに見切りをつけている選手は、甲子園に出てくるレベルの選手では珍しい。

 

 ただ……僕のこれは、相手に嫌がらせしているだけじゃない。

 

 バントはやることが多い。

 しかし、捕手というポジションはバントとは比べ物にならないぐらいやることが多い。

 守備位置のチェックから、打者と走者のチェック。

 投手のリードから、相手ベンチの動きにまで気を配る必要がある。

 

 僕がバントをして、その打球を2塁に投げるか1塁に投げるか、指示を出すのも捕手であることが多い。

 

 つまり、捕手の気を散らせば、その集中をいくらかでも削げば、バントの成功率が高まる。

 だから、これは嫌がらせじゃなく、バントを成功させるための技術でしかない。

 

 

 さて、1球目は、何を投げてくるかな。

 

 セオリーとしては、高めよりも低めの方がバントをしにくいと言われる。

 一昔前なら、縦の変化球が一番難しいとされていた。

 最近は、打者の手元で動くボール……カットボールなどの変化球の回転数を調節して、失敗を誘うなんてレベルの投手もちらほらと。

 

 細かいことを言い出すときりがないけど、守備側の思惑は2つにまとめることができる。

 

 バントをやらせるか、やらせないか。

 そして、走者を2塁に進めることを許すか許さないか。

 

 たとえば、送りバントを初球にあっさりと決めたとしよう。

 こういう堅実なプレイを確実にできるチームは強いなんて言うけど、守備側としては『1球』で1アウトを確保できたともいえる。

 駆け引きで神経をすり減らす必要もない。

 2塁走者が捕手のサインを読んで打者に送るのが禁止されてから、いわゆるスコアリングポジションの得点率は下がった。

 そのデータをもとに、送りバント不要論なんてのがあるけど……サインのやり取りや声かけなどをはじめ、投手のリズムを崩すために躍起になっていた時代と今では、データの意味合いが違う。

 昔に比べると、今の野球はずいぶんとお上品になったとよく聞くけど、同感だ。

 

 僕は2ストライクまでバントなんかしない。

 2ストライクまでは、捕手に投手、そして守備側の精神をがりがりと削っていくのがお仕事。

 そういう意味では、オールドタイプかな。

 

 強打者じゃない僕のデータに注目する人間はほとんどいない。

『打率が低い』『送りバントが多い』この2つで、マークから外される。

 

 ちなみに、同じ地区の高校がこのケースになったら、ど真ん中に投げてくる。

『さっさとバントしてください』って。(笑)

 

 

 長いサイン交換が終わったのか、投手が頷いた。

 

 バットを揺らしながら、僕は待つ。

 

 投手がモーションに入る。

 1塁手のダッシュが視界に入った。

 

 3塁手は?

 

 動かず?

 

 ただ、プレッシャーをかけに来たのかな?

 あるいは、片側だけのシフト?

 

 セオリーなら、外角低めの速球で、僕にバントをさせる。

 

 バントはやることが多い。

 考えることはもっと多い。

 

 守備位置。

 球種。

 コース。

 それによって、転がすべき方向や強さが、全部違ってくる。

 

 ……へぇ。

 

 顔の近く。

 慌てず、そして避けず。

 静かに、バットだけを引く。

 

 危険球、ではない。

 バントの構えをしているから傍目にはそう見えるけど、ただのインハイのボール球。

 

 ちらりと、捕手を見る。

 目も合わせない。

 

 ……なるほどね。

 お返しってわけだ。

 

 1塁手だけを前に出させ、僕の視線を外に向けさせてインコース。

 気の弱い選手なら、慌てて避けるかもしれない。

 

 お上品に言えば、僕の身体をインコースで起こしに来た。

 下品に言えば、小細工せずにまともにやれって警告だ。

 

 ただちょっと失敗したな。

 静かに見送りすぎた。

 

 たぶん、バントをする気がなかったってのがばれたと思う。

 

 なので、バッターボックスを外して、ベンチに視線を向ける。

 次のサインを待ってますよというポーズだ。

 

 監督が、サインを出すふりをしながら笑いをこらえている。

 ネクストバッターサークルの先輩も笑っている。

 

 やられたらやり返す。

 これは、セオリー。

 

 

 2球目。

 僕は変わらず、バントの構え。

 ただし、バットを揺らすのはやめた。

 敢えて、捕手に視界を与えている。

 

 投手がモーションに入った瞬間、膝を曲げ、バットに顔を寄せ……本気の構えに変更。

 

 ……速球だといいな。(笑)

 

 来た。

 

 外角。

 やや低め。

 

 バントの構え。

 引き付けて……。

 

 ……捕手の目に向かってバットを引く。

 

 惜しい。

 ボールをはじいただけ、か。

 

 この捕手、コンバート組かな。

 少し経験が足りない感じだ。

 

 こぼしたボールを拾い上げた捕手が、じろりと僕をにらむ。

 笑顔を返す。

 言葉は出さない。

 

 

 なんにせよ、ストライクだ。

 

 またベンチに視線を向けた。 

 

 2球速球が続いた。

 カウントは1ストライク1ボール。

 リードしているのはうちのチーム。

 次を変化球と読んで盗塁ってのもありだ。

 

 まあ、サインは変わらないんだけどね。

 このケースでベンチのサインを確認しない方が不自然。

 

 

 3球目。

 当然の様に、バントの構え。

 

 揺らしはしないけど、何度も、位置を確認するように構えなおす。

 モーションに入っても、細かく動いて、投手と捕手の気を散らす。

 大きく動くと、ルール違反だからそこは気を付ける。

 

 

 捕手が動いた。

 ウエストボール。

 

 ……ふーん、外してきたか。

 

 盗塁警戒、かな?

 

 また、ベンチのサインを確認。

 

 相手チームの攻撃は8回と9回だけ。

 ここで追加点をとられて3点差に広がると、かなり厳しい。

 

 ……と、すると。

 さっきのウエストは、誘い、か。

 

 それとなく、3塁手を観察する。

 

 足元を確かめる仕草。

 気配は静かだ。

 

 ……来るな。

 

 たぶん、次はバントシフトで来る。

 それも、少しひねってくるか。

 

 確か……予選の準決勝の映像に、バントシフトがあった。

 3塁手と投手がダッシュする変則シフト。

 空いた3塁にはショートが入り、2塁はセカンドが入る。

 

 まあ、まだやらないんだけどね、バント。

 じっくり観察させてもらおうかな。

 

 

 4球目。

 

 投手がモーションに入ると同時に、1塁手が声を上げてダッシュ。

 そして、途中で止まる。

 

 外角低め。

 速球。

 

 3塁手。

 そして投手が1塁側にダッシュ。

 

 バットを引くのではなく、ギリギリのタイミングで下にずらして空振りしておく。

 

 捕手がちょっとだけお手玉をするのが見えて、笑いをこらえる。

 

 たぶん、バント空振り……なんてアナウンサーが言ってるんだろうな。

 ウチのチームの人間は、慣れたものだけど。

 

 基本、送りバントは走者がスタートを早めに切る。

 バントを失敗しちゃいけないってのは、これが大きな理由だ。

 だから、バットを引くときは早めに引いて、走者に『バントはしない』と教える必要があるし、バントの空振りは走者が反射的にスタートを切っているケースが多いので、捕手の送球が早ければ殺されることもある。

 

 ストライクならバント。

 ボールなら見送る。

 大抵は、この程度のお約束。

 

 それを利用して、高さはベルト、コースは外角にボール1つか2つ外したトリックプレイってのがある。

 一塁走者から見て、高さはわかってもコースは見えにくい。

 ストライクならバントって認識でいると、このコースは間違って飛び出してしまうってケースが生まれるわけで、捕手からの1塁牽制死を狙う、いわゆるピックオフプレイ。

 走者を騙してアウトにする、そんなプレイをそう呼ぶ。

 

 まあ、昭和の時代にこれが流行ったから……バントをしないときはすぐにバットを引くってお約束が生まれたわけで、歴史を感じるよね。

  

 ウチのチームの人間は、僕が2ストライクまでバントをしないってこと理解してるから、この空振りがただの揺さぶりだってわかってるから飛び出したりはしない。

 何気ないプレイだけど、『信頼』ってのは精神的な余裕を与える。

 

 ただ、相手チームは……僕がバントを失敗したって考えることだって十分にあり得る。

 そして、2ストライク。

 追いつめられて、プレッシャーを感じている……そう判断してもおかしくない。

 

 元の守備位置に戻っていく3塁手の背中を見つめながら、頭の中で整理していく。

 

 シフトの穴は球種とコースで埋めるパターン。

 

 素直に一塁側に転がすなら、投手が処理する。

 無理に3塁側に転がせば、3塁手が処理と。

 3塁手は中に切れ込むようにダッシュして、正面のボールも処理、かな。

 

 たぶん、3塁手と投手の守備能力を信用したシフトだろう。

 なら、セカンドを殺しに来る気持ちは強い。

 

 

 ベンチに視線を向ける。

 僕だけじゃなく、捕手も見ているのがわかる。

 

 監督が怒っている。

 大きな声を上げている。

 ベンチメンバーが、『しっかり決めろ』などと叫んでいるのがわかる。

 

 チーム全体で、『バント続行』のサインを放つ。

 

 それを鵜呑みにするか、バントからヒッティングへの切り替えと見るか。

 本格的な駆け引きの始まりだ。

 

 ウチがリードしている。

 追加点はやりたくない。

 

 逆に言えば、ウチが追加点を取れば試合はほぼ決まる。

 

 ヒッティングを警戒しつつも、バントを警戒しなきゃならない。

 バントはさせたくない。

 打者はあまりバントが上手くなさそうだ……と思ってくれたなら。

 

 バントシフトでプレッシャーをかけるか。

 しかし、シフトを取ればヒッティングへの対応が難しくなる。

 僕の打撃成績を考えれば、ヒッティングの可能性は低いと思える。

 

 と、まあ……2ストライクまでバントを我慢すると、選択肢が狭まることによって守備側には強いストレスがかかる。

 

 こういう目に見えない戦い方は、数字としてデータには出てこない。

 僕の打率は低いけど、僕の打席の後に、相手チームが大きく崩れたことはかなり多い。 

 

 

 ……うん。

 かなり、読みやすい……狙いやすい状況だ。

 

 息を吐く。

 

 中学に上がったばかりの頃に参加した野球教室。

 元プロの選手の指導というか、僕の質問に対する答えを、今もはっきりと覚えている。

 

『最高のバントって、どんなバントですか?』

 

 きっちりと走者を進めるバント。

 自分も生きようとする、セーフティ気味のバント。

 考えられる答えはいくつもあった。

 

『相手に、それも投手にミスをさせるバントかな。それが僕の考える、最高の送りバントだ』

 

 そう、笑顔で答えられた。

 

 性格にもよるけど、ミスをすれば精神的に後を引く。

 時間の経過とともに、落ち着きを取り戻すことはできるけど、野球では、投手は……投手だけは次のプレイから逃げられない。

 

 この、『投手にミスをさせる』って考えは……あの時の僕にとっては衝撃だった。

 ホームランを打つよりも、ミスをさせる方がダメージが大きくなる。

 

 ホームランを打てない、それを狙えない僕にとって、救いのように思えた。

 

 投手にミスをさせるバント。

 偶発的なエラーではなく、ミスを誘発するバント。

 

 間に合わないセカンドに送球させて、バントした僕も1塁へと生きる。

 フィルダースチョイス、日本語では野選。

 

 セカンドで殺せると思わせなければならない。

 同時に、1塁でセーフにならないといけない。

 投手にそれをさせないといけない。

 

 打球を殺すのがバントだ。

 それを、打球を殺し切らず、強く転がす。

 

 できれば、ランナーのスタートを遅らせたい。

 でも、これは、僕の個人プレイだ。

 だから、全部を計算して……1人でやる。

 

 バントを成功させるなんて当たり前。

 思った方向に、場所に、思い通りの強さで転がすのも当たり前。

 それができて、初めて狙える。

 

 見た目はただの送りバント。

 いや、失敗したバントだと思わせなきゃならない。

 

 本音を言えば、向こうがバントシフトをとってくるなら、プッシュバントでヒットを狙う方がよっぽど簡単だ。

 そして、その方が僕の打率も上がると思う。

 でもそれは、僕にできる『最高のバント』じゃない。

 

 

 深呼吸した。

 

 どうせ、野球選手としての僕のキャリアは、高校でお終いだ。

 プロにもバントの名手はいるが、プロ入りした時点では『子供のころからエースで4番』みたいな選手しかいない。

 高校レベルでバントの名手なんて言われる僕には、プロはおろか、大学からも声はかからない。

 

 来年もレギュラーでいられる保証だってない。

 チームのみんなが、監督が、僕のことを認めていたとしても、後援会やOB会の横やりで、チームの方針そのものがねじ曲げられることは普通にある。

 チームの方針が打撃重視になれば、僕は守備要員としての控えに回らされるだろう。

 そうなると、打席に立つ機会すら奪われる。

 守備固めで出場する試合展開で、送りバントを求められるケースはまれだ。

 

 バントヒットよりも、僕自身のプライドだ。

 ちっぽけなプライドのために、僕は最高のバントを狙う。

 

 もしかしたら。

 僕にとって『最高のバント』を狙える最後のチャンスになるかもしれない。

 相手のレベルが低ければ、そもそも狙うこともできない……そういうプレイだ。

 

 

 

 バッターボックスに入る。

 バントの構えをする。

 

 イメージを、固めていく。

 

 バントでプレッシャーを感じるなんて、久しぶりだな。

 

 もう一度、深呼吸する。

 

 5球目。

 それを待つ。

 

 投手のモーション。

 

 1塁手の動き。

 3塁手のイメージ。

 

 外角。

 低め。

 

 投手のダッシュのイメージ。

 セカンドに投げやすい体勢がとれる場所。

 

 方向と強さ。

 転がすというより、跳ね返す。

 

 左手を意識して、ボールを芯で捕らえる。

 

 球の方向、角度、強さ。

 僕の描いたイメージをトレースするように飛んでいく。

 

 完璧。

 

 微かな満足感とともに、スタートを切る。

 僕がセーフにならなきゃ、無意味。

 

 走者の位置を確認。

 ほぼイメージ通りのタイミング。

 

 いける。

 

 そう思った瞬間。

 

「ファースト!」

 

 甲子園の歓声の中、捕手の残酷な指示が聞こえた。

 

 

 

 

 ベンチに戻る。

 

「ナイスバント」

「仕事人」

 

 はは。

 ナイスバントか。

 

 評価はされても、理解はされない。

 別に、説明する気もない。

 

「おい」

 

 監督の呼ぶ声。

 振り向く。

 

「はい」

「今のバント、打球が死んでなかったし、なんか狙ったのか?」

「……投手の足元に強めに転がしたら、抜けるかな……と、ちょっとだけ色気を出したんですよ」

「なんとか転がすのでいっぱいいっぱいの連中に、聞かせてやりたい台詞だな」

「まあ、これしかできませんしね、僕は」

「お前みたいな選手がおらんと、チームは回らん。ちゃんと、オレは見てるから安心せい」

「はい」

 

 小さく頭を下げ、ベンチに腰を下ろす。

 

 まあ、監督の言葉は半分が本音、半分がフォローかな。

 チームにとっては便利な存在でも、選手個人として評価されないことに変わりはない。

 

 息を吐き……気分を切り替えた。

 

 1アウトで2塁。

 ウチのチャンスは続いている。

 

 試合はまだ、終わっていない。




なお、バットでキャッチャーの視界を隠すってのは簡単そうですが、自分がマスクをかぶり、位置や角度、距離などを計算して、繰り返し練習を重ねて身に着ける技術です。
ただ、高さを合わせるだけでは、ダメです。
この技術に俊足ランナーを組み合わせると、『捕手が後ろに下がる分』と『いつもの姿勢を崩される分だけ送球が乱れる可能性が増える』ので、盗塁が有利になり、凶悪なコンビになります。

こう、バッターボックスでピンと背筋を伸ばしたままベルトの位置でバントの構えをしている選手を見かけたら、『ああ、(たぶん)やってるな』と。
にやりとできる知識なので、機会があればどうぞ。

余談ですが、このレベルのバントを狙う選手は、『バントが下手』と噂されることがあります。
バントが巧いかどうかって評価は、それを評価する人がどういうバントが巧いかという基準次第なので……ギリギリを狙えば、『ちゃんと打球を殺してない。あいつは下手くそだ』みたいに認識されることがあるからです。

というか、このケースで私が捕手なら、ノータイムで1塁送球を選択します。
1アウト2塁にしてから、次の打者を敬遠して塁を埋めます。
1アウト1、2塁でそのまま攻撃するなら、ゲッツー狙いですね。
向こうがまた送りバントで2アウト2、3塁にしたら、敬遠で満塁にする、と。
昭和の時代の感覚だと、7回裏で2点ビハインドなら、追加点が1点だろうが2点だろうが致命傷には変わらないので、守備側の防衛ラインを1アウト満塁に設定して、それまでは何をやられても無関係と考えたでしょう。
たぶん、昭和の時代の人間なら、こう考える人間は多いと思います。
そういう意味では、この状況で『バントの名手』がバッターボックスに立つってのは、めぐりあわせが悪いです。

ただ、これが昭和の感覚じゃなく今の感覚に置き換えると、この舞台ががらりと変化するのが野球の面白いところです。
今の時代の高校野球なら3点差ってのはワンチャンスの感覚なので、攻撃側はここで必要な追加点は1点じゃなく2点以上という考え方をします。
なので、攻撃側も送りバントじゃなくエンドランを含めたヒッティングが主流でしょう。
この打者なら、セカンド方向にプッシュバント気味にバントエンドランが効果的だと思います。
そして守備側は、できる限り勢いをつけるためにクロスプレイかゲッツーでこの回の守備を終わらせようと考えます。
まあ、努力目標の話ですが、いわゆる『お約束』は時代とともに移り変わっていくということですね。

つまり、セオリー云々は、相手側の意図を読み取ってからでないと適用できないわけで、そこに駆け引きというか、読み合いと騙し合い、神経戦が活発になる要因があって、そのための手段も、ホワイトなモノからグレーなモノ、そしてブラックなモノまでと、開発されて現在まで生き残る技があれば、時代の中で消えていった技があり……野球ファンというか、マニアにはたまらない部分です。(目逸らし)


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準々決勝:牽制。

……正直、今の時代ではできないプレイです。
後が怖すぎるというか、相手チームより怖いのがネット社会。

この話も好みがわかれると思います。
この話のための、『アンチ・ヘイト』タグです。


 3回を終えて0対0。

 両チームともに、一人のランナーも出していない。

 

 試合のリズムはもちろん、先発メンバー全員が相手投手の球をじかに確認したことで、チームの方針やら作戦が明確になってくる大事な回だ。

 それだけに、このイニングの入り方は重要だった。

 特に、この回のトップバッターをどう処理するかは、本当に大事だったんだが……。

 

「やっちゃったぜ」

 

 などと、ウチのエース様が俺にボールを手渡してくる。

 

「……やっちゃったぜ、じゃねえよ」

 

 ため息を付きながら、ボールを受け取る。

 まあ、確かにやっちゃったものは仕方ないし、大事だとわかっていたから慎重にいきすぎて歩かしちゃったんだね、良くある良くある。

 

 どうも、近年はスターってやつの存在が求められているらしい。

 好投手やスラッガーは、大会が始まる前から特集が組まれて……映画のパンフレットよろしく、注目選手がとりあげられ、それを軸にして記事が書かれる。

『玄人好み』という言葉が免罪符のように使われる風潮もどうかと思うが、分かりやすさとインパクトを重視すれば、当然の様に取り上げられる注目選手の大半は、投手とホームランバッターに偏る。

 まあ、好投手と言っても色々あるはずなんだが、注目されるのは決まって速球投手で、百歩譲って技巧派まで。

 野球選手の立場からすれば、好投手ってのは相手に点を与えない投手なんだが、あの手この手で、のらりくらりと相手打線をかわしていく軟投派投手が話題になることは皆無だ。

 

 確かに、スターって存在は『一目でわかる』インパクトが重要なのはわかる。

 球も速くない、すごい変化球があるわけじゃない、ヒットは打たれるけど点はとられない……そういう投手を理解してもらうには、説明が必要になってくる。

 スターって存在には、見て感じられる瞬発力が必要だ。

 

 一昔前は、大会中のラッキーボーイ的な存在もその対象になったらしいが……最近ではおよびじゃないらしい。

 もう、努力と根性が無条件で称賛された時代とは違うってことだろう。

 努力と根性、そして勇気と知恵と計算でやりくりするしかない凡人には、やりにくい時代だ。

 

 

 ただ、好投手とホームランバッターばかり取り上げられると言っても、やはり例外はある。

 たとえば、ついさっき四球で出塁した、相手チームのトップバッターなんかがそうだ。

 

 甲子園の2試合で5盗塁。

 地区予選でも、7試合で稼いだ盗塁の数が21とか、冗談だろって言いたくなる成績を残している。

 プロフィールでは、50メートルが驚きの5秒7だ。

 

 まあ、野球部員が手動で計った記録をどこまで信用するかってな話になるが……『100メートルの日本記録保持者が持つ、50メートルの記録より速いわけないだろ!』ってな反論は、お門違いなのは間違いない。

 そもそも、手動計測と電気計測の違いを考慮しない時点で論外だし、100メートルの選手ってのは、100メートルを速く走るための練習をするし、その適性を持った選手が生き残る。

 人種によっても違うんだが、日本人の場合、陸上の短距離選手は50メートルの記録を2倍してから1~1.5秒をマイナスすると100メートルの記録に近くなるってのが少なくない。

 対照的に、野球選手の場合は50メートルの記録を2倍して、そこから0.5秒ぐらいマイナスすると100メートルの記録に近づくことが多い。

 

 つまり、トップスピードに入るのは早いが後半の伸びが足りない、あるいはトップスピードを持続できないのが野球選手に向いている資質ってことになる。

 というか、30メートル走あたりが一番向いていると俺は思う。

 そもそも、野球の塁間は約27メートルだからな、100メートルを速く走る練習なんかしない。

 

 だからまあ、50メートル走が5秒7って記録自体は、別にどうでもいい。

 野球選手にとって、注目すべきはベースランニングのタイムや走塁技術だ。

 

 ただ、こいつが前の試合でやらかしてくれた盗塁は……ちょっとばかりシャレにならない代物だった。

 

 クイックでのウエストボールを、捕手が素早くセカンドへ。

 ほぼストライク返球だったのに、余裕でセーフとか、頭おかしい。

 

 それを聞いて、慌てて映像を見ながらストップウォッチでカチカチ計測したんだが……どうも、盗塁の際のスタートから到達まで、3秒切ってるっぽい。

 この数値が間違っていなければ、日本のプロ野球どころか、メジャーのトップレベルの俊足ランナーとほぼ同等ってことになる。

 

 何度でもいう。

 こいつ、頭おかしい。(震え声)

 

 この、塁間というか、スタートから到達までが3秒を切るという意味が分からない人のために説明しよう。

 

 日本のプロ選手で、クイック投球が巧いとされるレベルで……動き始めから投球完了まで1.2秒程度。

 ちなみに、時速150キロの速球が投手の手を離れてから捕手のミットに収まるまで0.4秒かかる。

 150キロと仮定すれば、クイック投法のモーションが0.8秒ぐらいかかるってわけだ。

 まあ、実際はクイックだとボールの速度が少し落ちることが多く……モーションに0.7秒、それに投球がミットに到着するまで0.4~0.5秒ってのが妥当だろう。

 

 で、盗塁をアウトにするためには、捕手がセカンドに送球しなきゃいけない。

 捕手から2塁までの距離は、単純に投手から捕手までの倍の距離としておこう。

 そうすると、『平均』時速150キロの送球で、セカンドに届くまでは0.8秒かかるってことになる。

 ここに、捕手の投球動作……投手のモーション時間をそのまま当てはめたとすると、0.7秒から0.8秒。 

 

 投手の1.2秒と捕手の……まあ、1.6秒として、それを合わせると2.8秒だ。

 ちなみにこれ、捕手の補球動作や、セカンドが捕球して走者にタッチする時間が入ってない。

 

 スタートから到達まで3秒を切るという重み。

 つまり、普通の方法じゃ盗塁を阻止できないってことでファイナルアンサーよ。

 

 そもそも、平均時速150キロ送球とか、プロでも苦笑するレベルの計算だからな、高校野球にあてはめていい計算じゃない。

 

 とはいえ、この数字にはトリックというか少々欺瞞がある。

 人間ってのは、見て、反応するまで最速でも0.1秒かかると言われる。

 つまり、走者が投手を見て、スタートするかしないか。

 走者として、そのあたりの判断にかかる時間やタイミングが、この数値にプラスされるってのが正しい。

 

 ただし、投手のモーションが盗まれて、完璧にスタートを切られたらどうしようもないって結論だけは変わらない。

 

 高校野球では、ごくたまにこんな感じの自然災害のような選手が現れる。

 アマチュアの中にプロレベルが入り込むイメージ。

 正直、気にしたら負けのレベルなので、強打者なら敬遠、エースなら神経戦、俊足ランナーなら、ホームスチール以外は無視ってのがセオリーなんだが……ウチの監督は、立ち向かうことに決めたらしい。

 

『〇〇高校の、守備位置の変更をお知らせします……』

 

 エースが一塁に、そして一塁手の俺が投手に。

 

 プロならともかく、高校野球でのワンポイントリリーフってのは珍しい。

 それも、打者に対してではなく……実質、走者に対してのリリーフだ。

 

 俺は左投げ左打ち。

 中学時代は投手で、一応投手としてこの高校に入ったが……投手としての能力はそれほど高くない。

 ヒットを打たれても粘り強く要所要所を締め、終わってみれば3~4失点ぐらいでまとめるタイプの投手だ。

 先発投手としては計算しやすいが、1点勝負の試合では負け確定になるから使えない。

 結局、高校野球ではエースになれないのが、俺だ。

 

 というか、ウチの高校の捕手と絶望的なまでに相性が悪かった。

 めぐりあわせと言ってしまえばそれまでだが、球の速い好投手ばかりとバッテリーを組んできた脳筋キャッチャーじゃ、最速でなんとか120キロちょいの軟投派である俺の持ち味を発揮できるリード能力がなかった。

 

 配球に間合いの取り方、打者を焦らして力ませる方法など……脳筋キャッチャーのポンコツリードにそれを望むのは酷だったかもしれない。

 なのに、投手の俺が決めて投げるってのを受け入れられなかった挙句に、理不尽(俺主観)な罵声を浴びせられ、殴り合いに発展したあたり……なんというか、思慮の足りない人だったな、うん。

 まあ、そんな騒ぎを起こした俺が、一塁手にコンバートされてレギュラーポジションを奪い取れたってことは……監督の評価はそこそこ高かったんだろう。

 

 脳筋捕手の世代が引退してからは、投手としてもちょいちょい投げている。

 とはいえ、練習試合ばかりで……公式戦には投げていない。

 

 そんな俺に、昨夜のミーティングで監督から、このワンポイントリリーフの件を告げられた。

 

 まあ、俺はエースにはなれないが、左投げってことも含め、1塁ランナーに対する牽制に関しては、チームで一番巧い。

 頭一つどころか、二つ抜けている……そのぐらい、差がある。

 中学時代の恩師が『牽制とクイックは投手の基本』という、古いタイプの指導者だったから……そのせいだろう。

 

 そして、何よりも大事なことが……監督のこの一言に凝縮されている。

 

『お前の神経はワイヤーでできている』

 

 ははっ、そりゃどうも。

 

 公式戦初登板が甲子園とか。

 それも、準々決勝ときた。

 そして、一塁走者はメジャー級。

 

 無茶ぶり過ぎね?

 

 

 投球練習。

 キャッチボールのノリで3球だけ。

 余計な情報を与える必要はない。

 

 中学時代の恩師の言葉を思い出す。

 

『牽制は、走者じゃなく心を刺す』

 

 当時は『何言ってんだこのおっさん?』ってなもんだったが、高校に上がって、自分の投手としての基礎能力がそれほど高くないことを自覚してから、その言葉の意味を理解できるようになった。

 

 まあ、『自分を信じて、最高のボールを投げれば結果はついてくる』なんてのは、才能のある人間のための傲慢な言葉だ。

 

 才能のない投手は、自分なんか信じない。

 ただ、打者のリズムを、打ち気を、意識を……それを外すためなら何でもする。

 同じリズムどころか、同じフォームですら必要ない。

 

 二段モーションの禁止なんてのも、本来、二段モーションってのは打者のタイミングを狂わせるための工夫だった。

 その工夫を禁止するってことは、才能のない人間の努力を認めないってことだ。

 ただ純粋な才能を求めるってのが欧米文化で、それが世界基準と言われたらどうしようもないが……結局、甲子園でスターが求められる流れってのは、そこからも来てるんだろう。

 

 ルールはルールだから守りはするが、才能のない人間の努力や工夫を認めないなんて言われたらたまらねえよ。

 

 時速150キロのボールがミットに届くまで約0.4秒。

 時速100キロのボールなら、約0.66秒。

 人間が目で見て、反応及び判断するまで、0.1~0.2秒。

 

 つまり、時速100キロのボールでも、打者の、走者の意識をほんの0.3秒ほど奪ってしまえば、時速150キロ以上の速球に化ける。

 

 これは打者だけじゃなく、走者に対しても言える。

 

 盗塁を刺すんじゃなく、盗塁をさせない。

 スタートをきらせない。

 あの手この手で迷わせる。

 タイミングをずらす。

 

 俺に求められているのは、そういう役割だ。

 

 

 

 試合再開。

 内野に軽く声をかけ……サインを出しておく。

 

 左投げの俺がセットでマウンドに立つと……一塁側、相手チームの観客席をほぼ正面にとらえる。

 声ってのは空気の振動だから、それがそのままプレッシャーになる。

 甲子園の常連校ってのは、それがわかっているから、走者が出ると声援のリズムや音量を変えてくる。

 左投手なら真正面から、右投手なら見えない背中から、その圧力を受け続けるわけだ。

 

 捕手とのサインのやり取りもそこそこに、セットポジションに入る。

 そして、走者を見た。

 

 ……いきなり、リードでけえな。

 さすがに、誘いのリードだろう。

 

 まあ、判断が難しいってのは、行くか戻るかの、相反する判断が求められる時だ。

 リードを大きくとって、『牽制がくる』という前提でいれば、大きなリードってのは走者にとってそれほど苦にはならない。

 何かあれば、極端に言えば投手が動いた瞬間に塁に戻る……それでいいからだ。

 

 そうやって、ほかのチームメイトのために敢えて投手に牽制を投げさせて、そのフォームや癖を自分だけじゃなく、ほかのメンバーやランナーコーチに覚えさせるのがトップランナーや、チームで最初に出塁した選手の仕事になる。

 

 だからまあ……俺みたいな、公式戦のデータなり情報がない投手が出てくると、初球からいきなり走ってくるってのは、ほとんどない。

 もちろん、交代直後に揺さぶってくるってのもありなんだが……この場面でわざわざエースと交代させてきた投手だからな。

 これまでの試合の相手チームの監督の采配から考えると……まずは様子を見て、観察したいと考える、そういう傾向が強い。

 おそらく、ウチの監督もそこまでは想定済み。

 

 だからまあ、ここはギャンブルだ。

 その、ギャンブルに勝つ可能性を高めるためにも……相手に警戒させなきゃな。

 

 こいつ、何をやってくるかわからないって。

 

 セットポジションの構えでじっと走者を見つめながら、頭の中で、ゆっくりと数を数える。

 1から10まで。

 長い長い、異様な間合い。

 

 そこで、一度プレートから足を外した。

 

 走者というか、野球選手の呼吸に関しては2つのパターンに分かれる。

 息を止めてタイミングを待つか、息を止めずにタイミングを待つか、の2つだ。

 

 前者は、時間をかければかけるほど集中が途切れやすい。

 ただし、爆発力は高い。

 パワーヒッターなんかはこのタイプが多く……間合いを長くとれば勝手に崩れてくれることが多い。

 後者は、時間の経過が苦にならないタイプが多いが……息をするタイミングで隙ができることが多い。

 

 こいつは、後者だ。

 しかし、静かに、小さく呼吸を続けている。

 

 呼吸の隙をつくのは難しいな。

 なら、ちょいと揺さぶるか。

 

 投手と走者の駆け引きとか、戦いに見られがちだが……これはあくまでも野球の1部分でしかない。

 絶対的なエース、あるいは絶対的な4番打者の存在にチームメイトが依存することがあるように……絶対的な走者に対しても、チームメイトは依存する。

 

 指先でボールの感触を確かめ、握りを決めてから、セットポジションに。

 ただし、足幅は広め。

 

 入ってすぐに、体重移動だけのノーステップのクイックスローで打者に投球。

 それも、投手ではなく、野手のスローイングだ。

 

 せいぜい、時速100キロちょいってとこだろう。

 しかし、それでも捕手のミットに収まるまで0.6秒というわずかな時間しかかからない。

 

 気構えができてない打者は、中学生レベルのボールでも反応できずに見送るしかできない。

 どうせ、『待て』のサインが出てるんだろうしな。

 

 これで、1ストライク、と。

 

 俊足ランナーが塁にいると、大抵1球は牽制をする。

 そして、盗塁をさせなきゃって考えがあるから、初球から打ってくることはまずない。

 つまり、『初球から行くぞ』……なんて気構えができてない可能性は高い。

 そこを、念のために長い間合いからのクイックスローで、心を刺した。

 

 速い球を投げようとすると、モーションが大きくなる。

 ボールの速さではなく、別の要素で時間を奪う。

 奪ってしまえば同じことだ。

 

 あの手この手で打者を抑えるしかない軟投派の俺は、コントロールだけはいい。

 いろんなフォームで、いろんなリズムで、色んなタイミングでストライクが取れる程度に自信がある。

 打者のタイミングを外し、意表を突くことが前提なら、ストライクゾーンに球を投げ込むだけでいい。

 2度も3度も通じる手段ではないがな。

 

 捕手にボールを持たせたまま、内野に声をかけてまたサインを出す。

 

 ここも気をつけなきゃ、ディレードスチールがある。

 本来なら、内野の中央に位置する投手にすぐにボールを戻し、走者を警戒するのがセオリーだ。

 だから、投手のカバーも含めて、ショートが2塁ベースに張り付いて待っているし、捕手もすぐに送球できる体勢をとって走者を見ているように指示されている。

 

 

 捕手の送球を受け、すぐにセットに入った。

 打者が慌てて構える。

 もう、この時点で精神はぐらついている。

 たぶん、俺のセットの歩幅がさっきと違うことも分かってない。

 

 俺はゆっくりと数を数える。

 

 さっきとは逆に、走者ではなくじっと打者だけを見つめる。

 10まで数えて、またプレートから足を外してセットを崩した。

 

 みんなと同じ事をやって結果が残せるのは、才能と運があるやつだ。

 

 長い間合いとか、何故みんなやらないかって?

 

 そりゃあ……これをやると、打者だけじゃなく味方の守備のリズムもガタガタになるからだよ。(笑)

 打者のリズムをくずすってことは、守備のリズムを崩すのと同じだからな。

 

 だから、前もって『次は投げない』ってサインを出している。

 まあ、それでも焼け石に水なんだが。

 

 あと、こうやって間合いを使うと観客からブーイングが出ることが多い。

 無駄に待たされるストレスもあるだろうし、『正々堂々とやれ』などとクレームをつけられることもある。

 

 まあ、俺は気にならないけど。

 そんな柔な神経じゃあ、凡人はやっていけない。

 

 と、いうかだ。

『正々堂々とやれ』ってのは、『正々堂々と負けろ』ってことで、結局楽に勝ちたいとか、自分が見たいプレイをしてほしいとか、自分達の都合の言葉であることがほとんどだ。

 

 つまり、観客は……注目選手である走者の盗塁が見たい。

 そうした願望が、ブーイングを生む。

 

 以前、全打席敬遠が非難されたのも、結局はそれだろう。

 地方大会の成績を調べれば、4番打者が打つとチームが勢いづく……その傾向が明らかだったからな。

 つまり、あのチームは4番打者がチームのムードメイカーを兼ねていた。

 そのムードメイカーに何もさせずにチームを勢いづけさせないなんて、当たり前の駆け引きなんだが……そういう意見は、マスコミに徹底的に無視されてたからな。

 

 スター尊重主義ってのは、一般ファンを尊重し、阿るものだから……その中で、俺のような凡人は、踏みにじられていく。

 スターはプロの世界で輝いてくれ。

 俺のような凡人は、ここが、野球選手としては最後の舞台なんだ。

 

 かつて尊重され、称賛された凡人の努力は、もう、この甲子園の舞台では期待されていない。

 俺達に残されているのは、勝利しかない。

 

 ルールは守る。

 そのうえで、俺は好きにやる。

 主審から注意されるまでは問題なし。

 

 あらためてセットポジションに。

 一呼吸待ち、走者を見つめたまま、ゆっくりと右足を上げ……軽い牽制を1つ。

 

 当然、走者は余裕で塁に戻っている。

 

 左投手の1塁牽制の場合、この上げた右足が左足のラインにクロスすると打者に投球しなきゃならなくなる。

 これをクロスさせずに打者に投げることができれば、走者を牽制しながら投球できるんだが……重心移動が不十分になりやすく、球の速度が落ちる。

 

 さて、ここからだな。

 

 さっきの牽制は、見せるための牽制だ。

 普通の、誰もがやるような牽制。

 

 少しずつ、情報を小出しにしないと、『偵察?知るかバカ!』って感じに切れられたら、対応が難しくなる。

 

 

 セットで構える。

 歩幅は狭く、俺の視線は打者に向けている。

 

 投げる直前に走者を見て、視線で牽制してから打者に投げるってのが普通。

 だから、走者を向くタイミングで牽制したり、走者を見ずに打者に投球したりと、ここが駆け引きの肝になってくるが、まだそれは見せない。

 

 打者を見たまま、ゆっくりと数を数えていく。

 そろそろ、主審の反応も怖い。

 

 静寂からのざわめき。

 観客が、選手たちが、またかよ……と思い始めたそのタイミング。

 

 小さなステップでのクイックスロー。

 今度は、上体重視のクイックだ。

 

 打者の反応が遅れた。

 慌ててバットを振ろうとして、それを途中で止める。

 

 やっぱりな。

 ベンチから、『待て』のサインが出てる。

 

 絶対的な走者への依存が、チームというか、次の打者への歪みを作る。 

 

 その歪みを利用して、2ストライクをとった。

 これで、盗塁をするなら、打者を三振させなきゃいけないカウントだ。

 

 エンドランの可能性はあるが、絶対的な武器を持つ走者を殺すリスクをこの状況で背負うとは考えにくい。

 

 ここで、走者を優先するか、打者を優先するか……相手は選択に迫られる。

 しかし、俺はまだ1球も投手らしい投球をしてないし、まともな牽制もしていない。

 情報としてはまっさらな状態だ。

 

 クイック投法にも色々ある。

 

 腰の回転を使って投げるクイック。

 サイドから投げやすい分、戸惑わせることができる。

 

 腕の力で投げるクイック。

 これは、踏み出しが小さいから、早く投げられる。

 

 重心移動で投げるクイック。

 これは、打者がタイミングを取りづらい。

 

 色々仕込んでくれた中学時代の恩師に、心から感謝だ。

 俺1人に、ネチネチと走り込みと個人特訓してくれてありがとよ。

 

 

 走者を見る。

 目が合った。

 

 悪いが、俺はワンポイントのリリーフだ。

 いくら観察したところで『同じフォーム』や『同じリズム』では投げないぞ、と。

 

 自分の足を信じて、馬鹿みたいに盗塁を狙うのが唯一の正解。

 

 まあ、チームのために相手投手の癖や牽制を誘うのがトップバッターの仕事ではあるんだけどな。

 それも、心の隙ってやつだ。

 

 投手としての俺は、そういう心の隙や弱い部分をチクチク攻撃して、アウトを積み重ねていくしかない。

 

 さて。

 盛り上がってまいりました。

 

 息を吐き、騒がしくなってきた相手チームの観客席に視線を向けた。

 

 いいよね、ブーイング。

 これを聞くと、自分が根っからの悪役思考ってのが実感できる。

 

 甲子園の舞台だし、もしかすると、うちの学校にも抗議の電話が鳴ってるかもな。

 

 捕手の声。

 気のせいかと思ったが、ブーイングで聞き取りにくかっただけか。

 

 捕手からの送球。

 それを、わざとグローブではじいて取り落とす。

 

 もちろん、走者に進塁を許すような落とし方はしない。

 1塁側に近づく位置。

 マウンドから降りてそれを拾い上げる。

 

 こうして、ブーイングを浴びて、動揺している姿を演じておく。

 

 ん?

 

 走者がベースから離れている。

 その距離は、精々50センチほど。

 その視線は、観客席だ。

 

 おいおい、インプレー中で、投手の俺がボールを持ってる状態だってのに。

 

 50センチとはいえ、心の隙だ。

 

 次の打者の2球目で殺そうと思ってたが……作戦変更。

 

 マウンドに戻らず、ブーイングを受け止めながら、1塁側の観客席を見つめる。

 見上げる角度。

 俺がじっと見ているせいか、ブーイングが大きくなっていく。

 

 マウンドを降りた分、一塁までの距離は近い。

 10メートルちょっと。

 

 さりげなく。

 

 観客席を見上げたまま。

 

 また、さりげなく。

 

 そして、何でもないように、左手を挙げる動作で、1塁にボールを送る。

 

 ふわりと、弧を描いて1塁のエース様の元へ飛んでいく白球。

 エース様が捕球する前に、大きく息を吸う。

 

 おい、驚いてるんじゃねえよ!

 落としたら、殺す!

 

 捕球。

 そのタイミングに合わせて。

 

「ファースト!」

 

 ブーイングを切り裂く様に、腹の底から怒鳴る。

 

 走者が、驚いたように俺を見る。

 カウンターで、エース様がタッチ。

 

 よし。

 

 殺っちゃったぜ。

 

 

 

 

 

 

 ……で、終わればいいんだけどな。

 

 交代した投手ってのは、最低でも打者1人に対して投げ終わらなければいけないってルールがある。

 つまり、この2番打者を抑えるか、打たれるかしないと、俺は1塁に戻れないってことだ。

 

 

 2ストライクからの3球目。

 手を出してくれたら儲けものの、アウトコースのボール球を、奇麗にレフト前に運ばれました。

 この、地区予選レベルなら凡打になりそうなボール球を、普通にヒットゾーンにもっていかれるってところに、俺の投手としての限界が透けて見える。

 

 つまり、純粋な投手としての俺は……甲子園の準々決勝のマウンドに立てるような実力がない、ポンコツピッチャーってことだ。

 軟投派投手に分類される俺は、走者を背負うことに慣れている。

 しかし、その本質は……走者を出すことで打者の負担を増やし、駆け引きの選択肢を増やさないと打者を打ち取れない。

 

 高校野球ではエースになれない、それが俺だ。

 

 

『〇〇高校の、守備位置の変更をお知らせします……』

 

 

 俺は、エース様にボールを手渡す。

 さっきとは逆の立場。

 

 こう言うしかないよな。

 

「やられちゃったぜ」

「いや、まあ……走者が入れ替わっただけでも、助かるんだけどな。なんというか、お前さぁ……」

 

 エース様が、相手側の観客席に視線を向けた。

 さっきのブーイングから一転、盛り上がっている。

 

 まあ、俺が打たれてざまぁって感じだろう。

 そりゃあ、俺は1塁に戻るが……あの俊足ランナーが塁に出たら、またマウンドに戻るんだぞ、と。

 

 エース様からファーストミットを受け取り、俺はエース様のグローブと自分のファーストミットを取りに一旦ベンチに戻った。

 

「……お前さぁ」

 

 呆れたような監督の声を背に、俺は一塁に向かって全力ダッシュ。

 

 さあ、試合はこれからだ!




真凡人:「お前が凡人のわけないだろ!」
コイツ:「えっ?」
真凡人:「本当の凡人は、甲子園なんか出られないし、レギュラーメンバーになれないんだよ!」

と、まあ……人は自分中心にものを考えることから逃げられません。(目逸らし)
高校球児は、それぞれが自分だけの『甲子園』を想定して、白球を追いかけるのです。

さて、昭和の頃は、投手がセットに入ってから20秒以内に投球……という目安がありましたが、今は10秒に近い間合いは主審が試合を止める可能性が高くなってます。
これも70年代に、長い間合い、短い間合いを繰り返して打者を打ち取る作戦が広まりつつあったんですが、『迅速な試合進行』という建前で暗黙の了解的なルールがうまれたせいです。
野球そのものが複雑化して、試合時間が長くなることでテレビ放送やその他の影響が出始めたこともあって、『全力野球』とか『選手交代やイニングの切り替わりでの全力ダッシュ』などが『高校生らしさ』とか『溌剌プレイ』の美徳とされて、推奨された時代にすりつぶされた駆け引きです。
石油危機の頃は、ナイター照明をつけると1時間で(ピー)万円電気代がかかるなどと言われ、試合の速度アップが図られたそうな。

この、『速度アップ』の建前は平成の時代に入っても続き、タイムの回数の制限とか、伝令の制限とか……もう、『チーム全員で相談して頑張る』って昔ながらの姿勢の全否定に近いと思うんですけどね。
というか、とにかく視聴者からクレームが来そうなプレイに関して、ものすごく厳しくなったイメージです。

こうしたスター尊重主義が続く間は、ルールの隙間をつくような努力と工夫は、ルール改正で潰されていく流れかなと、個人的には思います。

なお、牽制には普通の牽制と言うか、見せるための牽制、通常使用する牽制、クイック牽制、そして試合に1回しか使えない、限られた状況でのみ使える1発牽制の4パターンがあります。
ただ、昭和の時代と違って、今は練習時間の効率も含めて、走者を殺す牽制は覚えないし教えようとしない学校が多いようです。
走者との駆け引きに必要以上に神経を使うぐらいなら、リズムよく守った方が好結果につながると割り切った感じですね。
なので、甲子園の舞台でサインプレイやトリックプレイがあっさりと決まったりすると、逆に話題になって情報が拡散し、『これ、数年はマークされて使えなくなるやつ』などと指導者が泣きを入れるとか。
チームの世代ごとに別のトリックプレイを仕込み、練習する……というのが、今の指導者のつらいところで、同じチームの出身なのに、教えてもらったサインプレイが異なるなんてのが普通(全国レベル)になってます。
情報化社会において、『秘密兵器』ってのは1試合に1回どころか、数年に1回しか使えなくなったのが、今の時代かもしれません。


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準決勝:語られない攻防。

これも……最近では問題視されるプレイかもしれません。

個人的には、私は2塁ランナーになるのがすごく嫌でした。
やることは多いし、プレッシャーはきついし、足は遅いし。(笑)

しかし、昭和の時代の少年野球とか中学軟式って、『ランナー』が投手に向かって『リーリー』とか、パンパン手を叩いて挑発しまくってたんですよねぇ。(遠い目)
ベンチからも、ランナーコーチも、投球中に大声上げたり、物音立てたり、ヤジ飛ばしたり、投手に向かって全員攻撃ですよ。(ルール違反です)
あれを経験してると、よっぽどのことじゃない限りマウンドで動揺なんかしませんわ。


 快音が響く。

 

 左中間に飛んだ打球。

 きわどい。

 

 観客席からの歓声。

 ベンチからの、声。

 

 後押しなんて信じない。

 

 手を伸ばすレフトのグローブをかすめて、白球が弾んだ。

 

 

「正木ぃ!」

「ハイ!」

 

 短いやり取り。

 監督との阿吽の呼吸。

 

 その、阿吽の呼吸になってしまったことに、正直、忸怩たる思いを感じている。

 

 8回裏。

 スコアは1対1。

 

 2アウトから長打が飛び出した。

 左中間を破るツーベースヒット。

 

 チャンスだ。

 ここで点を取って、9回表の敵の攻撃を抑えれば勝てる。

 

 代走として、俺はベンチから飛び出す。

 1ヒットで、あるいは1つのエラーでホームを狙う。

 

 守備はそこそこ。

 打撃もそこそこ。

 足は速い方。

 そして、走塁は上手い……と思う。

 

 レギュラーメンバーではなくとも、こうして出番があるだけ……俺は恵まれている。

 

 地区予選から、この甲子園の準決勝まで……俺の出場機会は3回で、これが4度目。

 過去の3回は、守備にはつけなかった。

 代走のみの出番だ。

 

 ただ、3回の内2回はホームを踏んだ。

 甲子園の1回戦では、サヨナラ勝ちを決めた走者になった。

 

 たぶん、俺の実力そのものより、ゲン担ぎみたいな面が強いと思う。

 

 それでも、ベンチから試合を眺める俺の視線は、思考は、代走をするためのモノになりつつある。

 

 内野の守備位置。

 外野の肩の強さ。

 

 相手投手の癖とか、捕手のリードの傾向とか、そういうことに向ける意識が薄れつつある。

 レギュラーを目指すならば、良くない傾向だ。

 代打にもなれない。

 

 2塁ベースの上に立ち、息を吐いて空を見上げた。

 

 考えなきゃいけないことは多い。

 それでも、今はただホームに戻ることだけを考えるべきだ。

 

 2アウト2塁。

 この状況だと、ベンチからサインが出ることはほとんどない。

 出るとしたら、盗塁とエンドラン。

 その程度。

 

 

 プレイが再開される。

 

 塁から離れる。

 2アウトだから、打った瞬間に無条件でゴーだ。

   

 ショートが、セカンドが、俺のリードを少しでも減らすように、スタートを切りにくくするために、交互に牽制してくる。

 

 投手の牽制が入り、帰塁する。

 息を吐き、センターおよび、外野の位置を再確認する。

 

 ショートとセカンドを気にしすぎると、センターがベースカバーに入ってくる……なんて可能性もある。

 リスクの高いプレイではあるが、地区予選と違って、甲子園の歓声がランナーコーチの声をかき消してしまい、走者がそれに気づくのが遅れる可能性が高いからだ。

 

 正直、1回戦で代走に出たときは、その感覚に驚いた。

 仲間の声が聞こえない。

 足音や、気配のようなものが感じ取れない。

 

 もちろん、自身の緊張もあったとは思うが……地区予選の観客席の応援と、甲子園のそれは完全に別物だと実感した。

 

 それは当然、守備における指示の声にも同じことが言えるんだろうが……俺にはまだそれを知る機会がない。

 

 皮肉なものだと思う。

 歓声が、仲間の声を断ち切る。

 選手たちを応援する声が、選手たちを孤独に誘う。

 

 練習を信じる。

 仲間を信じる。

 

 たぶん、甲子園であろうと練習通りにってのは……そういうことなんだろう。

 

 声が聞こえなくても、そこにいる。

 練習で積み重ねた連携を信じる。

 

 特別なことはしなくていい。

 むしろ、特別なことをしてはいけない。

 

 練習とは違うことをやった瞬間に、本当の意味で1人きりになる。

 

 それでも、仲間の声で支えられていたものを、自分でやる必要はある。

 

 練習通りに。

 練習とは違うことをする。

 矛盾だらけだ。

 

 使い古された言葉が、頭をよぎる。

 

 甲子園には魔物が住む。

 

 

 もう一度状況を確認する。

 

 8回裏の攻撃。

 2アウト2塁。

 スコアは1対1。

 

 攻撃でミスをしても負けるわけじゃない。

 走塁でミスをしても負けるわけじゃない。

 

 しかし、この状況で俺がミスをすると……それは、9回表の相手の攻撃に勢いをつけることになる。

 

 俺のミスは、勝負の天秤を負けに傾ける。

 

 ユニフォームの胸の部分。

 縫いつけられたお守りを、強く、強く握りしめ……俺は、静かに塁を離れた。

 

 リードを取りながら、足元をスパイクの刃で掘り返す。

 いつでもスタートを切れるように。

 

 そして。

 

 少しでもイレギュラーバウンドが起きる可能性を高めるために。

 

 地面を掘り起こし、上に砂をかぶせる。

 

 柔らかい場所。

 固い場所。

 それをランダムに作っていく。

 

 内野全体で見れば、ほんのわずかなスペース。

 ショートの守備範囲で見ても、ほんの少しの割合。

 

 それでも、何でもないゴロがバウンドせずに滑ったり、別の方向に跳ねたり、ショートが足を滑らせる可能性にだってつながる。

 

 練習と同じ。

 こうしたほんの少しの積み重ねが、勝利を手繰り寄せる。

 

 ショートが俺の背後を走る。

 それに合わせて、2塁ベースに身体を寄せる。

 

 ベースの手前で切り返したショートが、俺の目の前を通って視界をふさいだ。

 

 意識の空白。

 

 慌てて滑り込む。

 

 投手の牽制。

 それをセカンドが捕球し、滑り込んだ俺の手にタッチする。

 

 きわどい。

 しかし、先にベースに触れた。

 

 ただ、審判がアウトと言えばそれで終わり。

 

 セーフのコール。

 息を吐く。

 

 ショートに気を取られ過ぎた。

 

 心が浮ついているのがわかる。

 

 緊張。

 プレッシャー。

 

 自分が苦しい時は、相手も苦しい。

 

 息を吐く。

 

 相手も同じ。

 何としてでも、俺を2塁にくぎ付けにしておきたい。

 

 2アウト2塁。

 1ヒットでホームに突入のケース。

 

 俺が一歩リードを大きくとれば、それは相手チームの負けに一歩近づく。

 

 ほんの一歩。

 わずかな距離の差が、アウトとセーフをわけるかもしれない。

 

 もう一度、胸のお守りを握りしめた。

 

 牽制が激しいってことは、投球を考えていないってことだ。

 いざ打者に投げた時、ショートの守備位置がぽっかり空いていたら、ザルなんてものじゃすまない。

 

 ……わざと穴を作って、そこを狙わせていつもの打撃をできなくするなんて駆け引きもあるが、走者の俺が考えることじゃない。

 俺は、俺にできることをやるしかない。

 

 少しでも守備陣に、投手にプレッシャーを与えていく。

 牽制を考えさせ、打者への集中力を削っていく。

 

 走者にできる、打者への援護。

 

 ボールが投手に返ったのを確認してから、ベースを離れた。

 そしてまた、地道に地面を掘り返していく。

 

 ショートが、セカンドが、アメリカンクラッカーの様に、俺を牽制しては離れていく。

 

 俺も、小刻みに反応しながら、リードを広げたり、狭めたりして、プレッシャーをかけていく。

 

 ヒットだけじゃなく、1つのエラーが、チームの敗戦へにつながる。

 

 少し、リードを狭めた。

 

 気合を入れる動作。

 そう見せかけて、右手で太腿を叩いて音を出す。

 

 この声援の中じゃ聞こえないか。

 それでも、叩く。

 

 音の出る位置を変えて、投手に聞かせる。

 走者の位置を、音で知らせていく。

 

 リードが広がった。

 狭くなった。

 

 そうやって、投手の意識を走者である俺の方に引き付けていく。

 

 同時に。

 セカンドが。

 ショートが。

 

 投手を守るように、走者の俺に圧力をかけてくる。

 

 長い間合い。

 

 ショートが、俺の斜め後ろで止まる。

 動かない。

 

 嫌でも、その存在を意識してしまう。

 しかし、意識しすぎるとまたやられる。

 

 足元に砂をかけられた。

 その感触に、かすかにふくらはぎが震えた。

 

 スパイクで蹴るようにして、2度、3度と、足に砂をひっかけて、俺の気を散らしに来る。

 

 落ち着け。

 わかってはいても、直接身体に伝わる感覚は……強い。

 

 集中が乱れる。

 牽制への警戒。

 

 セカンドが、俺の視界から消えた。

 そちらを見る。

 

 後ろに下がっただけ。

 セカンドが、俺を見てにやりと笑う。

 

 俺の視界の範囲を探られた。

 唇を噛む。

 

 凡ミスだ。

 顔を動かしたせいで、それがばれた。

 

 セカンドが投手に近づきながら声をかけた。

 投手が、セットポジションを外す。

 

 俺もベースに戻り、落ち着こうと試みる。

 

 じりじりするような時間のかけ方。

 試合の行方を決める重要な場面。

 それが当然。

 

 また、外野の位置を確認する。

 本来は、ランナーコーチに任せる部分だが……自分の目で見ておく。

 

 セカンドが投手に向かって声をかけ、ショートにサインを送っている。

 

 俺は、横目で相手チームの捕手の様子を確認した。

 ウチのチームのベンチを見ている。

 

 ……なら、ブラフか。

 走者を殺すための2塁牽制は、大抵捕手がサインを出す。

 

 セカンドやショート、そして投手だけで決める牽制は、前もって時間を決めてのモノがほとんどだ。

 ただ、全員が同じ数を数えても、わずかにスレがでるリスクがある。

 

 

 また、投手がセットポジションに入った。

 

 リードをとる。

 少しでも、投手にプレッシャーをかける。

 

 さっきからずっと、ショートは俺の斜め後ろにいる。

 そして、同じようなリズムで繰り返し砂をかけてくる。

 

 蹴り返したくなるが我慢だ。

 

 ……いや、集中だ。

 

 捕手が、外角に構える。

 さりげなく、ライトの守備位置を確認。

 

 投げるコースから打球が飛ぶ方角を予想してチェックするのは当たり前のことなんだが、最近は特にサイン盗みがどうこうとうるさいからだ。

 こんな当たり前のことでも、『打者に合図を送った』などと騒ぎ立てる連中がいる。

 そもそも、捕手の気配と言うか、どっちに構えてるかなんて、捕手の近くにいる打者ならほとんどわかる。

 

 投手がモーションに入った。

 

 リードを広げる。

 

 打者のスイング。

 タイミングは合ってる。

 

 息を止め、重心を沈める。

 

 気を付けるのは、空振りからの捕手の牽制。

 

 真後ろへのファール。

 

 息を吐き、2塁に戻った。

 

 

 ベンチに視線を向ける。

 サインはない。

 

 打者は打つだけ。

 俺はホームを目指すだけ。

 

 1ストライクか。

 しかし、タイミングは合ってた。

 

 次は速球か。

 変化球か。

 

 それによって、スタートのタイミングが変わってくる。

 

 

 リードをとる。

 じりじりと広げていく。

 

 ショートは動かない。

 相変わらず、俺の斜め後ろにいる。

 

 しかし、セカンドが小刻みに牽制してくる。

 横の動きは少ない。

 そして、後ろに動いて、俺の視界から外れようとする。

 

 投手の動き。

 斜め後ろのショートの気配。

 そして、視界ギリギリでセカンドが動く。

 

 やることが多すぎる。

 全てに集中するのは無理。

 

 バランスよく、メインを投手に、集中を振り分ける。

 

 ショートも、セカンドも。

 守備位置を大きく外れないまま、俺に圧力をかけている。

 

 打者への投球を思わせる動きだが……何か気になる。

 怪しい。

 

 ……ん?

 

 勘というか、気まぐれのようなモノ。

 味方のベンチに視線を向けた。

 

 俺を指さしている。

 

 なんだ?

 

 投手。

 牽制の動きに入った。

 

 おい、ショートもセカンドも、ベースカバーには……。

 

 その意識が、俺の動きを緩慢にさせた。

 

 2塁を振り返るその動き。

 視界に飛び込んできたのは、ベースカバーに入るセンターだった。

 

 やられた。

 間に合わない。

 

 それを理解した瞬間、俺はそのまま回転して3塁に向かってスタートを切った。

 ギャンブルだ。

 

 センターが慌てて3塁に送球するか。

 それとも落ち着いて、アウトのタイミングまで待って3塁に送球するか。

 

 前者なら、間髪入れずの2塁へのターンで生還の目が出る。

 後者なら、送球を邪魔するように3塁に突入するしかない。

 

 時間はない。

 選べ。

 

 決めた。

 

 その瞬間。

 

 3塁のランナーコーチが目に入った。

 手を回している。

 

 何だ?

 何が起こった?

 

 理解できないまま、しかし、俺は止まりかけた体勢から再加速する。

 そのまま3塁を蹴った。

 

 ホームに向かう。

 相手の捕手が、呆然とセンター方向を見ている。

 

 つい、そちらに視線を向けたくなる。

 しかし、ブラフの可能性がある。

 

 紅白戦で先輩のそれに引っかかり、余裕でセーフと思って速度を緩めて殺された記憶が蘇る。

 

 走り続ける。

 全力だ。

 

 10メートル。

 5メートル。

 

 打者による、スライディングの指示はない。

 

 そのまま。

 駆け抜けろ。

 

 ホームベース。

 

 今。

 

 駆け抜けた。

 

 ネクストバッターサークルの先輩に飛びつかれた。

 頭をバシバシ叩かれる。

 

 ベンチに戻ると、監督に、先輩に、バシバシ叩かれた。

 尻を蹴られたような気もする。

 

 

 そのとき何が起こったのか。

 俺が全て……というか、一連の流れを理解したのは、試合が終わってからだった。

 

 

 センターが2塁のべースカバーに入るトリックプレイ。

 投手がボールを投げる瞬間、3塁に向かって走り出した俺を見て、手元を狂わせたらしい。

 

 誰もいないセンターの守備位置に向かって転がっていくボール。

 呆然とそれを見つめる捕手の姿。

 どこか滑稽な感じにホームを駆け抜ける俺の姿。

 

 テレビで、その光景が何度も流されていた。

 

 

 

 ……まあ、結果オーライとはいえ、俺のミスには変わりない。

 だからこうして、正座で監督の説教を受けている。

 

 正座って、野球選手にはよくないんじゃなかったんでしたっけ?

 

 

 明日は決勝だが……俺の出番、あるかなあ?




牽制で刺されてベンチに戻る……そんなラストも考えたんですが、こういう幕切れもいいかなと。
最初は2ランスクイズの走者目線とか、キャッチャーフライで本塁突入タッチアップとか書こうと思ったんですが、それは記事になるパターンや、と。
ごく当たり前の、セカンドランナーに対する守備のプレッシャーを走者目線で読み手に味わってもらうところに落ち着きました。

個人的には、『少しでもイレギュラーバウンドが起きる可能性を高めるために』とか、『こうしたほんの少しの積み重ねが、勝利を手繰り寄せる』という部分でクスリと笑って欲しいなと思います。
そして、経験者は思い当たる部分が多すぎて苦笑を浮かべる、とかそんな感じで。

ちなみに、ショートが砂をぶっかけるのは反則です。
土くれなどで、選手のプレイを阻害する行為の禁止ってのがあります……まあ、本来は地面をける音でランナーの気を引くってのが始まりだったっぽいですけどね。
甲子園の歓声だと、そういう音がかき消されるってことで、砂をぶっかけて気を逸らすという行為に発展したっぽいです。
それが広がって、地方でも使われ始めて……という経緯だったらしいですが、初めてやられた人間は、いきなり慣れてない感覚が足元を襲ったらびっくりしてそっちを見るよねって話です。
当然、そのタイミングに合わせて投手がクイック牽制をできなきゃ無意味ですので、牽制の技術が軽視されつつある現代では、こういう走者の気を引く技術そのものが廃れていく流れなんでしょう。
ただ、そういう行為が当たり前になってくると、今度は走者がなれてしまって……『走者をイラつかせて平常心を失わせる』ことがメインになってくるわけです。
もちろん、砂をかけること自体は反則ですけど、水掛け論ならぬ砂かけ論で、昔のカメラの性能じゃあどうにもなりません。(笑)
なので、カメラの性能が上がり、スーパースローなんかが導入されはじめると……消えていくしかない技術でしたね、と。

足元を掘りかえすのはいいのかって?
これは、足場をならしているだけです。(目逸らし)
2アウト1、2塁の時、わりと1塁ランナーが露骨に足場を掘り返すケースが多いので、興味があれば注目してください。(プロはやりません)


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決勝:校歌斉唱。

社会情勢的に仕方ないことですが、今春の選抜大会に関しては残念でした。
表も裏も、そして闇もある高校野球ですが、甲子園という舞台に憧れて野球を志す子供たちがいるのも事実です。
夏の大会が、無事に開催されることを祈って……この物語の締めとさせていただきます。



 あぁ、こういうことか。

 

 甲子園で準優勝の経験を持つ、母方の伯父さん。

 野球少年だった俺は、甲子園に出場し、準優勝までした伯父さんに憧れの想いを抱いて良く話をせがんだ。

 

 ノリノリで話してくれたモノもあれば、口を濁して話してくれなかったモノもあって……どこか切なそうに、しかし懐かしそうに話してくれたこと。

 それを思い出した。

 

 一昔前、ウ〇トラクイズって番組があったらしい。

 出場者同士で争いながら、アメリカのニューヨークを目指すという、大掛かりなクイズ番組。

 

 勝ては次のステージへ。

 負けたら罰ゲーム。

 視聴者を楽しませるのは、場所を変えていくステージの多彩さや、バラエティ感溢れる罰ゲームの数々。

 人気番組だったらしいが……大掛かりな内容だっただけに、予算が厳しくなって打ち切られたらしい。

 

 その罰ゲームだが……決勝における敗者だけは、罰ゲームがないらしい。

 ただ、喜びにあふれる優勝者をじっと見つめることこそが罰ゲームといえば罰ゲーム。

 

 

 

 春の選抜高校野球。

 その大会の、決勝が終わったのはついさっきのことだ。

 

 伯父さんが出場し、準優勝を果たしたのは夏の大会。

 場所は同じ甲子園。

 

 伯父さんは……伯父さんの甲子園準優勝の想い出は、ここで止まっているのか。

 

 

 子供のころから、毎年毎年見てきた甲子園のテレビ放送。

 今、テレビ画面でどんな映像が流れているのか、簡単に思い描くことができる。

 

 ホーム前に整列する優勝校。

 その背中方向から、バックスクリーンを映す構図。

 

 画面には、優勝校の校歌の歌詞が、白く描かれ……校歌が流れていく。

 

 すぐに、カメラの視点が切り替わる。

 

 選手の顔。

 ベンチ。

 そして観客席。

 

 

 子供の頃は、何の疑問ももたずにそれを見ていた。

 この、優勝校の校歌が流れている間、決勝で負けたチームはどうしていたんだろうなんて疑問を持つことはなかった。

 

 子供らしい、残酷な無邪気さ。

 ただ、勝者だけを見つめる、勝者だけに憧れ、自己を投影する。

 そんな、子供らしい残酷な無邪気さだけがあった。

 

 知識としては知っていた。

 伯父さんの話を聞いて、そういうものかとも思った。

 

 こんな形で、俺は伯父さんの話を、想い出を、追体験している。

 こんな形で、知りたくなかったことを、本当の意味で理解している。

 

 俺は、俺たちのチームは……敗者だ。

 出場校32校で、31番目に負けた敗者。

 この大会で、一番最後に負けた敗者だ。

 

 ベンチ前にきちんと整列し、ただ黙って、優勝校の校歌が流れるのを聞いている。

 

 涙が流れる。

 隣から鼻をすする音が聞こえる。

 それでも、優勝校の校歌を邪魔するような泣き声だけは出すまい。

 

 それが、敗者のプライドで……勝者への敬意。

 

 

 優勝校の校歌。

 子供のころから親しんできたフレーズだ。

 

 甲子園常連校。

 憧れの高校だった。

 憧れていた高校だった。

 

 何度も。

 何度も。

 その校歌を聞きながら、俺もあのユニフォームを着て甲子園の舞台に立つんだと夢想していた。

 

 憧れの校歌だ。

 覚えている。

 ソラで、歌うことだってできる。

 

 しかし、俺は……その、憧れた校歌を、黙って聞く。

 

 下を向くな。

 空を見て逃げるな。

 

 ただ、優勝校のメンバーを見つめる。

 

 俺は、伯父さんとは違う。

 

 俺には夏がある。

 俺達にはまだ、夏がある。

 俺達はまた、ここに来る。

 

 今と同じように、メンバーが並んで。

 同じように涙を流しながら。

 俺達の校歌を、歌い上げるんだ。

 

 

 校歌が終わる。

 優勝メンバーが、そろって礼をする。

 自分たちのベンチに向かって走り出し、観客席に向かって頭を下げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 甲子園の、サイレンが鳴る。

 

 試合開始と、試合終了の合図のサイレン。

 

 春が終わる。

 それは、夏の始まりだ。

 

 

 春が終われば、夏が来る。

 夏が終われば、春に向けた秋が来る。

 

 そしてまた、当たり前のように春がやってくる。

 

 試合が終わっても。

 大会が終わっても。

 

 春には春の。

 夏には夏の。

 球児たちの想いを受け止めて、甲子園はただそこにある。

 

 高校野球は、どこまでも続いていく。

 

 どこまでも蒼い、この空の下で続いていく。




強打者のホームランに、剛腕投手の奪三振ショーなどなど。
それに隠れて、取り上げられることの少ない走塁や駆け引きをメインに描いてきました。
甲子園の象徴ともいうべき行為でありながら、取り上げられることがほとんどない校歌斉唱のシーンを、敗者目線でお送りしたところでラストです。
かなり昔は、敗者はさっさと自分のベンチで片づけを始めていたらしいですが、いつからこうなったのかはわかりません。

全5話ということで……まあ、昭和中期の荒っぽいエピソードを言い出したら論文になるぐらいネタはあるんですが、プレイの結果で怪我をするのならともかく、怪我をさせることが目的のようなプレイは書きたくないですね。

ただ、それでも……ルールが改正されると、消えていく技術があります。
その消えていく技術は、覚えている人間がいなくなれば、伝える人間がいなくなれば、失伝しちゃうんでしょうね。
セカンドランナーが打者にサインを送る……サイン盗みなんて表現されるようになりましたが、私の世代の経験者にはサイン盗みってのは違う意味の言葉であり、意味が通じない表現でした。
『盗み』という言葉を使って、『悪いこと』と認識させるためのテクニックなんですが、経験者には意味が通じなくて会話が成立しないという。(笑)

このルール変更に関しても、当然消えていく技術があります。
打者にサインを送るためには、走者が捕手の出すサインを見る必要があり、自分でサインを出す必要があります。
その、『サインを見る』『サインを送る』瞬間に、ランナーの意識は投手から逸れます。
それを利用して、捕手がサインを出すタイミングをずらして牽制で走者を殺す……1970年代に形になったとされるサインプレイは、そのエッセンスはともかく、このまま失われてしまうんでしょう。
人が何かをしようとすれば、相手は当然それへのカウンターを用意する。
そうやって、人は技術を発展させていくと、昭和の古い人間は考えているのですが……世界基準を免罪符にする時代の流れに多少切なさを感じてしまいます。

そんな想いが書かせた、ちょっと黒いノスタルジックな作品。
読んでくださった皆様の心に何らかの感情を残せたのなら幸いです。


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