ゼロカラメシイルイセカイセイカツ (水夫)
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死に損ないと、狂人

「──サテラ!」

 

 傲慢なことに、死への恐怖はこれといって感じられなかった。

 血も力も熱も、何もかもが抜けてしまって空っぽの体だ。

 声が出せたのは、奇跡という他ならない。

 

 ──俺が必ず、お前を救ってみせる。

 

 そんな感慨だけが、胸の奥底を廻る。

 

 今にも死にそうなくせに、出来ることなど何も無いくせに。

 湧き上がる使命感に、衝動に、愛に。

 

 ──俺が、必ず。

 

 異世界で調子に乗らなければよかった。

 チンピラに歯向かわなければよかった。

 盗品倉に一人で入らなければよかった。

 大人しく死に終わっていればよかった。

 

 俺らしくしなければ。

 ナツキ・スバルらしくしていなければ、よかったのだ。

 もうナツキ・スバルは信じられない。

 

 ぎぎ。

 

 繋いだ手を焦がすように、余熱が月の光にたゆたう。

 そしてふと、伝ってきた気配。軋む音。

 床に触れた全身がその振動を掴む。何かが動いているようだった。

 

 一瞬目を眩ませたのは銀色の煌き。

 彼女だ。彼女が動いている。

 この手の温もりも、力強さも、愛おしさも。

 

 生きている。

 

「サテ──」

 

 サテラがこちらを向く。

 その首は、糸に引っ張られたかのように捩れていた。

 

「あ、ああぁあ、ぁぁああああああぁあぁあぁあぁぁぁああ────っ!?」

 

 血が沸き上がる。

 体が飛び上がる。

 脳が起き上がる。

 全てが反転し、ことごとくが覆され、あらゆるものが裏返しになった。

 

 俺のせい。

 俺が名前なんか呼んだから、本当は避けれたかもしれない攻撃を受けてしまった。

 俺がすぐ死ねなかったばかりに、自分勝手で無意味な抵抗に彼女を巻き込んでしまった。

 

 俺が、俺が、俺が、俺が、俺が、俺が、俺が、俺が、俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺がおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれがおれが──、

 

 

 †

 

 

「──おや、起きたのデスか?」

 

 開けた視界。意識の目覚め。

 夢を見ていた。とびきり底意地の悪い、悪夢を見た。

 

「……………………く、って」

「ハイ?」

「おれが……救って、みせるから」

「何を──誰を、デス?」

 

 だが手に残る余熱、これだけは夢じゃない。強く握り締めて誓う。

 他の何が運命の悪戯だとしても、この気持ちは、この愛だけは決して冷めない始まりの余熱だから。

 

 ──俺が、必ず、救ってみせる。

 

「──サテラ」

 

 その名前は、自然と口に馴染んでいた。

 

「なんという」

 

 気を落ち着けると、周りの状況が目に入ってきた。

 少しずつ情報を取り入れることで意識が晴れて夢心地から浮上する。

 

「なんという、純粋でひたむきな愛なのデスか……」

 

 眩しさで痛くならない、という意味では目に優しい環境だった。なぜなら、寝ていた時と今の視界の暗さに大差が無い。

 徐々に慣れて境目が露になると、粗い岩肌が四方を囲んでいた。部屋と呼ぶのもやや憚られる部屋模様、もとい洞窟模様には見渡せるほどの光源もなく、人の生活する空間でないことが窺える。

 

「響きました。響いたのデス。この胸に、心に、脳に! 愛が響いて震えるのデス! 脳が、震えるぅぅぅぅぅぅ!」

 

 スバルが寝ていたのは薄い布一枚敷かれた地面だ。おかげで背中が痛い。

 ふと思い出して服を捲れば、腹部にはうっすらと傷跡が残っているものの怪我自体は完治していた。異世界の基本的な医療技術がお約束通りに中世水準だと仮定した場合、この後処理を見るに魔法に類するもので治療された可能性が高い。

 

「その身に漂う濃密な魔女の寵愛……指先たちが偶然見つけて王都から拾ってきましたが、本当に驚きなのデス。これはこれは、よもや……いや、やはりデスね」

 

 急な再生能力に目覚めた訳でもなければ、と一縷の可能性を見出そうとしたところでようやく声に気付いて顔を向ける。未だに暗いせいでよく見えないが、ファンタジーらしい緑系の髪に黒装束を纏った男と目が合った。そういえば起きた時にもこの顔が至近距離にあった気がする。

 ただ、なぜだろう、今の今まで見えていなかった。

 

「あー、悪い。聞いてなかった。何か言ったか?」

「嗚呼、命の恩人を前にしてただひたすらに愛を呟くその『傲慢』さ。やはりアナタ、永き時の空席を埋める新たな敬虔なる信徒ではないでしょうか?」

「いや、本当に聞こえてなかっただけなんだ。結構ショッキングな夢を見たもんで……命の恩人を自称する人って現実で見たことなかったけど、じゃあ、この怪我治してくれたのは?」

「ええ、ええ。そうデスとも。ようこそいらしたのデス、寵愛の信徒よ。我らこそ──」

 

 ──魔女教。

 それが、盗品倉で倒れていたスバルを見つけ、こうして治療してくれた集団だと彼は──ペテルギウス・ロマネコンティは言い放った。名前からして恐らくは魔女を信仰する異世界独特の宗教団体。魔女というのが蔑称でなければ、魔法を発明したファンタジーの始祖とか、あるいは呪いを振り撒いた元凶だったりするのだろうか。

 万が一を思って確認したが、やはりスバルを地球から召還した美少女については心当たりが無いらしい。そもそも転移系の魔法自体があるかどうかも不確かなのだとか。歴史的な魔女が異世界から干渉したのでは、と抱いた希望は期待空しく即座に砕け散った。

 

 最終的に、あの状況で命を拾っただけでも本当に僥倖な方だと、スバルは割り切った。助けてくれた魔女教には恩を返しつつ、余裕があればさっきの悪夢が現実だったのかどうかの確認もしていきたい。

 

 ──首の捩れた、サテラの最期。

 正直な所、あれがただトラウマとしての演出だったのか、実際に目撃した記憶の再生だったのかは判別がつかない。重篤な状態で寝込んでいたこともあって頭が曖昧だ。スバルと一緒に致命傷を負ったことは確かだが、こうしてスバルが魔女教に拾われたように、彼女もまた魔法の力で九死に一生を得た可能性があるのではないだろうか。

 

「……ん? ちょっと待てよ。魔女教が俺を拾ったなら、サテラも隣にいたはずだ。……えっと、ペテルギウス、さん? 俺の隣に女の子は──他に、誰か見かけなかったか!?」

「女の子、とは?」

「天使みたいに可愛くて、鼠色の猫を連れてて、とにかく笑顔が可憐で……あと、銀髪で」

「────」

 

 反応は薄い。ここにいない時点で察しはついていた。

 ただ、銀髪と言った途端に、ぴくりとペテルギウスの眉が上がったのを暗闇の中でも感じ取った。思わず目線を移すと、彼は笑っておもむろに口を開き、

 

「アナタは、その銀髪の少女を探してどうするおつもりなので?」

「どうする……? どうする、か。そうだな」

 

 そう問うたペテルギウスに、スバルはすぐには答えられなかった。言われてみれば考えたことの無い質問だった。とりあえずは会うことが何よりの目的だったため、探してから更に何かをするとなると答えに窮する。

 サテラとは一方的に迷惑をかけた関係でしかない。彼女からすればスバルの存在は厄介者も良いところだろう。正直、謝ったところで許してはもらえまい。

 彼女を危険な目に遭わせたのはスバルだ。自分の命を脅かす切っ掛けをくれた人物なんかに、どうして情けをかけられようか。謝りたい思いは一杯でも、そうして彼女をまた傷つけてしまうかもしれない。そんな憂いが再会以上の行動を引っ込めていた。

 

「俺はただ、サテラに会いたい。──それだけだ。魔女教で俺に何かさせたいことがあるなら、言ってくれ。なんでもする。助けてもらった恩は必ず返すから、自分勝手なのは承知でサテラを探させてくれ……頼む」

 

 だから、胸の奥底に芽生えたこの想いは後回しだ。

 

「嗚呼。ああ、ああ、ああああ、ぁぁあああああぁ──」

「お……っ!?」

 

 暗い洞窟の中で、破れて血も付着したジャージ姿。格好はつかないが誠意を込めて頭を下げると、ペテルギウスは掠れた吐息に次いで呻き声を出し始めた。

 勢いよく膝を折り、何も無い天井を仰ぎ見る。虚空に伸ばした手は彷徨うように揺れ動き、かと思うと頭に爪を立て、血が滲むほどの強さで引っ掻いていく。ガリガリ、ガリガリと。手が下りるにつれ仰け反った首の角度も大きくなる。見ている方が痛ましい光景に、スバルは知らず息を呑んでいた。

 しばらくそうやって自傷を続け、やがて己の体を両腕で抱き締めながらガクンと首の位置を戻して彼が言う。その顔は傷すら霞む大量の涙で溢れていた。そしてこちらを向き──、

 

「──あぁ、失礼。そう身構える必要はないのデス。アナタの覚悟は伝わった。アナタの愛の深さは、しかとこの身に刻まれたのデス。どうぞご安心を。我ら魔女教は、全力を以てアナタに力を貸すでしょう」

「え……いやいや、そんな、さすがにそこまでしてもらうのは悪いっていうか」

「いえいえいえいえ。これは配慮や気遣いとは違うものデス。なぜならば、『嫉妬の魔女』サテラの再臨──それこそが魔女教の追い求めし悲願……つまり、アナタとワタシの目的は一致しているのデスよ」

「魔女……? 悲願……?」

 

 そう言って、大げさな動作で顔を近づけるペテルギウス。しかし挙動に反して態度自体にはどこにも嘘っぽさが感じられない。

 言っていることは、意味は何となく分かった。ペテルギウスたち魔女教も、スバルと同じくサテラを探しているのだ。

 ただ、告げられた言葉の一部はスバルの認識と齟齬があるようだった。嫉妬、魔女、再臨、悲願──それらが意味する答えを、スバルは知らない。

 好都合ではあるのだろう。命を助けてもらって、更にサテラの捜索も手伝ってくれるというのだ。異世界に関する知識と経験が致命的に足りないスバルにとっては、まさに幸運としかいいようがない。

 

「なあ、その魔女とか悲願ってのは──」

「──さて、それではではではではでは……『傲慢』宿りし新たな大罪司教よ。愛の印を。『福音』の、提示を」

「ぁ……あ? ふ、福音?」

 

 立て続けに、ペテルギウスの言葉が突き刺さる。有無を言わせない圧が鼻先に迫り、スバルは出し抜けに選択を強いられる。

 ──違う。選択ではない。スバルに選択肢など存在しない。

 サテラだけだ。サテラしか見えない。サテラ。サテラだけ。サテラにさえ会えるのならば、後はどうだっていい。

 使命感が、衝動が、愛が指し示すままに、得体の知れない確信が胸中に渦巻く。

 ゼロから始まった異世界生活で、サテラ以外は見る必要が無い。

 

 何も見えない。サテラしか見えない。

 彼の言う福音書を持っていないと主張するため、スバルは両手を挙げた。

 そして──、

 

「──何を、持っているのデス?」

「だから何も……ぁ?」

 

 ──その手には、白く光り輝く一冊の本が握られていた。

 

 

 †

 

 

 緑が整然と立ち並ぶ道を抜ける。

 竜車と呼ばれる異世界の移動手段──馬車より馬力もインパクトも強い地竜が、四つの脚で大地を踏み締めて疾走する様は爽快だ。当然ながら現代のような舗装がされていない山道にもかかわらず不思議と揺れは無く、追い抜かれた風は前髪すら靡かせない。

 荷台から身を乗り出し、スバルは長い一本道の彼方へと目を向けた。

 

 目的地は見えない。まだ、何も見えない。

 だがいるはずだ。生きているなら、サテラはきっとそこにいる。直感や虫の知らせなどは信じるべくもない。親友の勤勉さに従い、確かなしるべの指し示すままに進むのだ。

 そう、手元の白い福音書が告げていたのだから。

 

「──そろそろ到着です。ロマネコンティ司教、ナツキ司教」

 

 地竜の手綱を握った御者が横目に報告をくれた。スバルは無言で頷き、荷台の方へ振り向く。ペテルギウスを始めに、傷の治療を代わる代わる担当してくれたらしい魔女教徒の面々。全身を覆う黒装束のせいで顔は見えないが、全員スバルを救ってくれた命の恩人だ。

 そして今は頼もしい仲間でもある。サテラを見つけるために、スバルたちは一致団結したのだ。

 

 巨大な地竜が力強く踏み締めるこの地はメイザース領といい、ルグニカ王国の西方を統べるロズワール・L・メイザース辺境伯の領地だ。向かう先はその心臓部である本邸──ではなく、別邸。

 ペテルギウスと意気投合した後、スバルはサテラの服にあった鷹の刺繍を元に、魔女教の人脈に任せて調査を行ってもらった。少しして、それが先述した辺境伯の家紋だという情報を獲得。そしてメイザース辺境伯は現在、工業都市コスツール近隣の本邸を空けていることが分かった。結果的に突き止めた居場所は都市から遠く離れた別邸。まさに辺境というわけだ。

 

 サテラがわざわざ家紋を入れた装いだったのは、自身の出自や所属を表すためだろう。つまり、メイザース辺境伯ならば彼女について何か知っている可能性が非常に高い。

 思いの外簡単に手に入った手掛かり。出来るならこの機会を逃したくはなかった。

 

「待ってろよ、サテラ。俺が、必ず……」

「この坂を上ればあとは一本道ですね。……おや?」

「──ん?」

 

 その瞬間、奇しくも二人の声が重なった。それもそのはず、竜車の進路上に蹲る人影がいたのだ。前を見ていたスバルと御者が同時に反応するのも当然のことだった。

 そして恐らくは同じことを思ったことのだろう、様子を確かめようと地面に降りて大丈夫かと──問うより先に、彼は違う言葉を口にした。

 

「オットー! お前、オットーじゃないか!」

「ぅ、うう……っ、け、ケティ……さん、ですか? どうして、こんな所に……」

「こっちの台詞だろ。お前こそどうした。こんな所で何してる?」

 

 と、距離感の近い語調で話しかけるケティ。一方で蹲っていた方の男──オットは、灰色の髪に緑色の服という出で立ちだ。日本でこんな格好をしていたら派手な方に分類されるだろうが、ここ異世界だとそれも薄れて見える。強制召還されてまだ一週間も経っていないのに、ファンタジーな空気に随分と慣れてしまったものだ。

 それはさておき、問題なのは彼の状態だった。ケティの知人らしいオットーの服はあちこちが破れており、傍目にもボロボロと形容するに相応しい。傷の多く刻まれた彼自身の様子から見ても、明らかに攻撃されたとしか思えないほど痛んでいた。

 

 そして何よりも、全身を腕で抱いて震わせる姿は酷く寒そうだった。今日の気温はスバルのいた地球基準で十度以上あると思うのだが。

 ガチガチと歯を鳴らすのが見ていられず、スバルは着ていたローブをオットーに羽織らせてやる。

 

「おい、大丈夫か? これやるから着ろ。何があった?」

「あ、ありがとうございます……それが、僕はただ、通りかかっただけで……あ、あんなことになるなんて、フルフーが……」

 

 混乱してしどろもどろに語るオットーの目は焦点が合っていない。順序が滅茶苦茶な語りも彼の事情を察するには足りない部分が多く、結局、事情聴取は後回しにした。彼を竜車に乗せ、一応目的地まで同行することに。屋敷に着けばあとはスバルとペテルギウス、そして後ろの魔女教徒たちの仕事なので、その際ケティと一緒に離脱してもらう。

 横になってすぐ眠りに落ちた彼は、聞けばケティと商売仲間だったという。だがケティもこのような状態に心当たりは無いらしく、困惑しているのが見て取れた。

 

「まあ、とにかく道を急ごう。もう少しで着くんだよな?」

「ええ。途中、村を一つ経由しますが、なにぶん膨大な面積を誇る敷地ですので。遠目にも屋敷の形が見えましょう。ほら、あちらに……」

「ケティ?」

 

 今度の疑問は、彼一人のものだった。

 不意に目を見張った御者の返事は無い。スバルも同じ方向を見てみるものの、彼の言った屋敷らしきものは何も見えなかった。もちろんさっきのように誰かが道端に倒れているわけでもない。強いて言えば、細長い塔のようなものがあるにはある。しかしどうも不自然というか、建造物としての型が今まで見た町並みのそれとは明らかに違った。

 蛇のように曲線を描いた輪郭は、一般的な支柱で重さを分散させられそうにないほど構造が不安定だ。全体の色が薄いのも見た目をより曖昧にしており、ファンタジーの建築技術ならばあり得るのだろうが、もしそうだとしたら御者の驚く理由が分からない。

 

「なんだ。あの塔が、どうかしたのか?」

「塔……? いえ、あれはそんなものではありません」

「だったら……」

「ナツキ司教。落ち着いて、よく見るのデス。あれこそがメイザース辺境伯の屋敷デスよ」

 

 そう言って後ろから肩に手を乗せてきたペテルギウスに振り返り、首を戻して再度眺める。やはり先ほどと大して変わりはないように見える。しかしずっと目を凝らしていると、ふと冷気を感じた。加護とやらで揺れや風からは護られているはずの竜車内部に、冷たい風が侵入する。

 スバルは慌てて体を引っ込めた。同乗した魔女教徒たちに囲まれ、彼ら含むペテルギウスやケティがいつになく真剣な雰囲気であることに気付く。

 

 竜車が下り道に差し掛かり、僅かに加速したことで塔との距離がぐんと縮まる。そこでようやっと言葉の意味が分かった。

 なるほど、確かにあれは屋敷だ。聞いたとおり、とんでもない大きさを誇っている。しかし、この状態と大き過ぎる敷地はペテルギウスたちにも想定外だったのだろう。なにせ──、

 

「──屋敷丸ごと、凍ってんじゃねえか……」

 

 今は陽光の角度でその威容を分かりやすく現した氷漬けの屋敷──いや、もはや城とでも呼ぶべき場所だったのだ。

 ペテルギウスは微かに白い息を吐き、感化されたように腕を広げて叫ぶ。

 

「屋敷を呑み込んでなお余りある巨大な氷塊。並大抵の魔法使いでは、数十人集まろうとも実現不可能な規模に見えマスが……いやはや、このような状態になっているとは、驚きなのデス」

「一旦引き返しましょうか、司教様?」

 

 冷静な意見を挟むケティに、ペテルギウスは顎に手を当て、考え込む仕草を見せた。

 ケティの提案は妥当に思えた。ただでさえ何があるか分からない場所へ飛び込むのだ。不安要素をもう少し確実にするために、引き返せる時に引き返すのも一手だ。

 しかし──、

 

「──いえ。恐怖と怠惰を履き違えてはなりません。銀髪のハーフエルフがいるのなら、一刻も早く確認しなければならないのデス! 早急に、迅速に、勤勉に! 勤勉こそ我らが魔女へと続く征途である故に! このまま、進むの、デス」

 

 そう、言い切った。思わず拍手を送りたくなるほどに熱のこもった言葉だ。彼の横顔には微塵の迷いも無い。やはり彼とは気が合うと、スバルは内心考えた。

 己の愛に従う信徒を誰が止められようか。その信念を、どうして否定出来ようか。

 不安要素を抱えながらも、スバルたちは共通の目的の下、ただひたすらに突き進む。

 

 ──それからはケティの言った通り、数分もしない内に途中経過のアーラム村に到着した。幸い、氷漬けの被害は免れているようだ。屋敷に挑む前に、ここで出来る限りの情報収集をしておきたい。

 村の入り口に竜車を停め、ケティとオットーの二人を残してスバルたちは自分の足で地を踏む。連絡も無しにこんな大勢で入って大丈夫だろうかと心配したが、どうやらそれは杞憂だったようだ。

 

「お邪魔します」

 

 いざ入ってみると案外心配したようなことは無く、かといって温かい歓迎も無く──その村には何も無かった。

 

 一見したところ、召還された時の都市部とは自然と建築物の比率が真逆だ。草木や川を身近に置いた、いかにも田舎らしい風景を眺めながらスバルたちは道に沿って進む。奇妙なことに人間どころか動物一匹ともすれ違わない。

 一本道が途切れると、運動場のような広場が丸く仕切られていた。住む世帯の分だけ建てられたのだろう最低限の家々に囲まれ、しかし村を形成するのに最低限の人影も見えない中央広場に立ち尽くす。

 

「誰もいないな」

「これは……どういうこと、デスかね?」

 

 呟くスバルたちの声がやけに大きく響く。風の音も、人の影も、僅かな動きすらも、目に見える全てが生気に欠け、重く暗く冷め切った無人の村だ。時の止まった錯覚に眩暈がする。

 妙に寒気と薄気味悪さを覚えて振り返った。あまりここに長居したくない。ケティのところに戻ろう。竜車で一気に駆け抜ければ、こんな小さな村なんてあっという間に視界の向こうだ。

 まだ少し様子を見るらしいペテルギウスたちに目配せし、逃げるようにして来た道を戻る。次第に息苦しさも薄れ、一息吐いた。停めてある竜車はすぐ見えた。

 

「おーい、ケティ……オットー?」

 

 しかし、御者の席にも、覗き込んだ荷台の中にも誰一人いない。特にどこか行く予定はなかったはずだ。トイレにしては、村の前でわざわざ別の場所に行くのも不自然だろう。オットーが起きて落とした荷物でも拾いに行ったというのは、楽観的な考えだろうか。

 不気味な空気に、唐突な孤独。誰か連れて来れば良かったと後悔して目を巡らせていると、荷台の後ろに痕跡を見つけた。

 布切れが、黒と緑で二つ。竜車だけ見ていたから気付かなかったようだ。地面に浅く抉られた、足跡と思しきものを注意して辿っていく。すると、村の入り口に再度戻ってから広場へ向かう途中の角を曲がった。家屋の並んだ道の奥、川際の家へ。

 

「────」

 

 扉が開いていた。

 子供が体を横にして潜れる程度の隙間だ。内側に手を掛ける。そのまま扉を引くとバリッ、と剥がれるような音があり、予想していた軋みは無かった。

 建物は古びていない。誰かが少し前まで住んでいたように思えて仕方が無かった。

 天気は曇りで、扉を大きく開けても光が入らない。だが、中がどうなっているのかはすぐ分かった。

 

「──ぇ」

 

 掠れた音が喉の奥底から出た。今のは声に出ていただろうか。思い出せないくらいに、思考は他の事で一杯だった。

『え』が驚愕によるものなのか、『眼』や『ケティ』を言いかけたのか。判断を許さないくらいに、耳は暗闇に満ちた唸りを吸収していた。

 そんな意識の片隅で、冷静に状況を観察する自分がいた。

 

 ──ああ、光が無くて良かった。

 

 むせ返る血の臭いと引き寄せられる殺意に背を向けて、スバルは走る。

 スニーカーの足音と切れ切れの息。小刻みな音で恐怖が体を包み、振り返ることも許さない。

 ただひたすらに足を動かした。方向など考えずに、ただただ走った。走って走って、走りまくって、

 

「か、は……ぁがっ!?」

 

 一瞬の眩暈がした。それは、決定的な停滞だ。違和感を意識した途端に体中が異常を訴え、走りに集中していた分の返しで呼吸もままならない。

 どれだけ吸い込んでも肺を満たしてくれない淀んだ空気。酸素が行き届かなければ、思考はもちろん身体が自由を失う。目の前の空間が歪み、耳鳴りが脳に響いて平衡感覚がおかしい。何がどうなっているのか訳が分からない。さっきも感じた薄気味悪さが肌にひり付くことから、いつの間にか広場に戻ってきたのかもしれないと、かろうじて考えた。だとしたらペテルギウスや一般教徒たちがいるはず──、

 

「──アナタ、怠惰デスねぇ」

 

 一拍、乱れた歩調。躓いたように倒れるスバルの頭上を、何かが通り過ぎて行った。

 それを確認する暇も無く、すぐ背後で破裂音が弾ける。脳内に思い浮かんだのは風船が割れて一気に萎むイメージ。だがこのピチャピチャという瑞々しさは、どちらかというと果物を絞った時の音に近い。

 現に今、頭上から降り注いで頬を伝う赤い果汁は芳しい香りを放っている。いや、どうだろう。この香りはさっきも嗅いだ覚えがある。

 

 さっきも。先ほども。無人の家の扉を開けた、あの時から。

 あの時嗅いだ血の臭いが、ずっと張り付いていた。スバルの後をつけていた。

 

「う、うわぁあああ!?」

 

 振り返った鼻先に迫ったのは赤黒い眼。狼を髣髴とさせる獰猛な眼光がスバルを貫くが、今は曇っていた。その原因は捩れた胴体にある。雑巾のように捻り潰されてズタズタに破れた皮の向こうには、原型の跡形も無い臓器と粉砕した骨が見えた。狼の死骸が、空中に吊るされている。

 そして狼の牙はケティの脛に噛み付いたままだった。恐らくはその鋭利な刃に噛み千切られた彼の脚──下半身は狼の牙に引っかかって同じく吊るされており、上半身は地べたに這ってスバルの足首を掴んでいる。

 元は一つだった彼の身体を繋げるものは、今や切断面から滴る鮮血だけ。しかしそれも長くは持たないだろう。

 

 ──狼は、十を軽く上回る数で群れて、少し離れた場所でこちらを睨んでいた。そもそも本当に狼なのか。少なくとも、スバルの常識の範囲内には収まっていない。最初は似ていように見えた外見も、改めて眺めると頭頂部に生えた角がそれを全面的に否定していた。

 凶暴な捕食欲望と闘争本能に駆られた狼──もとい人を喰う魔の獣が、自分たちの仲間とケティの死骸を跳び越えて襲い掛かってくる。

 

 少し前まで無人だったはずの村はもはや騒乱の様相だった。

 血が噴出し、肉が飛び散り、辺りに死の臭いが蔓延する。

 乱闘とは言えなかった。闘いとして成立すらしていないから。文字通り肉の盾となって獣共から護ってくれる魔女教徒に、横目で謝罪と感謝の入り混じった叫びを撒き散らしながら、スバルは逃げる。人に身を投げ打ってまで護ってもらえる存在になれた、と喜ぶ気にもなれなかった。だって、そんな謂れは無い。心当たりが無い。

 

 彼らがなぜ自分のことをそこまで高く評価しているのか。

 あのモンスターはなぜこの村を襲ったのか。そして現在進行形で自分たちにまで攻撃してくるのか。

 自分の体はなぜ先ほどからこんなにも重く鈍いのか。

 状況が何も見えない中、なんとか合流したペテルギウスが走りながらそれらの答えを教えてくれた。

 

「──ナツキ司教、アナタ、マナ酔いになっていマスね?」

「あ……? マナ、酔い?」

「ええ、この村全体には途轍もなく膨大な量のマナが満ちているのデスよ。恐らく風上にある氷の屋敷……あそこから流れてきたのでしょう」

「じゃあ、あの獣は!?」

「魔獣のことデスか? あれは食事のためにマナを求めて来たが、予想以上の密度による過剰摂取で暴走している、といったところデスね。状態としてはアアナタと同じようなものデス。実はナツキ司教が戻って行った際に、別の方向からも来ていました。他に人がいない以上は逃げても無駄デス。我々の臭いを辿って追いかけてくるでしょう」

 

 マナ酔い。魔獣。

 ゲームや漫画のおかげで馴染みがあるファンタジー用語の登場に、緊迫した状況でもある程度の理解が得られた。だが解決策を考えるにはまだ足りない。まだ何も、見えない。

 スバルたちは村を抜け、木々の鬱蒼とした森へ進入する。後ろに付いて来ながら魔法らしき攻撃で魔獣を牽制する魔女教徒たちの数が段々と減っていく。最初に集まった人員の半数も残っているかどうか疑わしい。

 

「どうすればいい? あれが俺たちを追ってきてるんなら、迎え撃つしかないのか!?」

「見たところ、一度噛まれただけでも呪いが発生する類のようなのデス。ああ、実に忌々しい……我らが魔女教に仇名し、試練を妨害する害獣など駆逐して然るべき存在デスが……」

 

 ちらりと、ペテルギウスの視線がスバルの方を向く。意味が分からず同じ方向を見るが、胸元には何も無い。

 

「このような事になるとはワタシの福音書に書いてないのデス。アナタを拾った頃から、事態は記述と違う方向へ進んでいった……これはもしや、魔女が課したワタシへの試練ではないでしょうか。終ぞ揃った大罪の座を更に完璧なものにするため、すなわち魔女教を一丸とするための試練かもしれないのデス! 協同、結合、共助……勤勉なる我らの働きが試されるゆえに、ゆえにゆえにゆえにゆえにゆえにえにえにえにえにえにえにににににに……」

「し、試練?」

「最後に大罪を冠したアナタの福音書──そこに、真の答えがあるのではないデスか?」

「────」

 

 試練だと、そうペテルギウスは言った。その試練を共に乗り切るために、福音書の導きに従うべきだと。

 スバルは胸の高さに手を広げる。すると眩い光が掌と指を包み、ほどなくして白い装丁の本が現れた。これが福音書。これがスバルの──、

 

「──権能」

「嗚呼、やはり……やはり、ワタシにはいくら目を凝らしても見えないのデス。アナタだけが知り、アナタだけが扱い、アナタだけが感じられる『傲慢』な愛のしるべ。権能が福音書の形で具現化するとは驚きですが、それはアナタが魔女ただ一人を盲目しており、魔女からの愛を自分一人だけのものだと受け取っているからデス! 魔女が、その形すらもアナタにのみ見ることを許した唯一無二の寵愛……かつて、これほどまでに寵愛を直接的に請け賜った信徒がいたでしょうか! これほどまでに愛に素直な信徒がっ!」

 

 そう言って観測を促すペテルギウス。スバルはゆっくりと視線を福音書へと移し、内容を読み取ろうとする。その視線に反応するように福音書は自ずと開き、パラパラと頁を捲っていく。

 導き、しるべ。あるいは啓示。魔女なる存在がもたらす試練とその克服方法が、この手の中にあるのだという。

 状況を忘れてこみ上げて来た高揚感に、二人揃って固唾を呑んだ。それ故に──、

 

「──見つけた」

 

 その声が聞こえた時、即座に体を動かせたのは傍にいた魔女教徒だった。

 本に絞られていた視界が不意に開けて頭に入ってくる。瞬間、魔女教徒の背中が勢い良くぶつかってスバルは後ろに転んだ。強く尻餅をつき、地面に慌てて突いた両手から真っ白の福音書がふっと消える。だが、解除された権能を惜しむ暇は無いようだった。

 

 少女がいた。

 こちらを睨めつける、憎悪に歪んだ顔。前髪で片方が隠れた薄紅色の眼差しが魔獣ではなく確実にスバルたちを捉えており、かざした手には陽炎のような揺らめきが渦巻いている。その直線上、つまりスバルを突き飛ばした魔女教徒へ顔を向けると、彼あるいは彼女は胴体部分が斜めに切断されていた。

 魔獣の牙に食い破られたケティと違い、こちらは凹凸の無い綺麗な断面が見える。これを為した張本人こそ目の前の少女だとさすがに気付いた。しかし、白と黒で出来たボリュームのあるスカート──いわゆるメイド服が、殺意混じりの威圧感を途端に変質させる。

 

「お、女の子……っ!? 待ってくれ! 俺たちは──」

「落ち着くのデス、ナツキ司教。あれはツノナシの鬼──亜人デスよ。……アナタの福音書を確認できなかったのは誠に残念デスが、ならば何度でも挑めばいいのデス。何度でも、諦めない限り、勤勉に。さすれば、魔女は応えてくれる」

 

 その言葉に、少女は心からの嫌悪を舌打ちと一緒に吐き捨てる。

 

「凝りもせずに、よくもまあのうのうと現れて……生きて帰られるとは思わないことね。抵抗は無駄だから、素直に引き裂かれなさい、魔女教徒」

「いかにも。ワタシは魔女教大罪司教、『怠惰』担当、ペテルギウス・ロマネコンティなのデス。アナタは?」

「はっ。魔女教なんかに名乗る名なんてあると思うの?」

「それはいけません。いけないのデス。名前は己を示す何よりの枷であり印。愛に生きる信徒たる者、それを拒むということは自らを否定するということ、それすなわち──」

 

 会話に付いていけないスバルは聞く方に徹していた。すると、ペテルギウスの声が次第に低くなっていくのを感じた。そして一拍の沈黙、魔獣さえもが唸りを潜めたほんの僅かなタイミング。

 彼の一言だけが、妙に大きく森に響く。

 

「──怠惰、デスよ」



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傲慢の犠牲者と、一人ぼっちの少女

 直後、鼓膜を震わして轟然と鳴り渡る威嚇音。数人の魔女教徒が新たな餌食となった喧騒の中、すぐ傍のスバルには空気を切る音が聞こえた。

 何かを強く振った時に聞こえる、風のような鋭い音だ。それが耳元を通り過ぎたかと思うと、次は随分と遠い場所から響いた。

 同じ風切音、ではない。

 

「ぁ、く──っ!?」

 

 少女の呻き声と、何かが砕ける鈍い音。

 驚愕に見開かれた少女の目が己の胸を見やる。か細い柔肌を、刃物で抉り取ったらそうなるだろうか──薄い胸に、風穴がぽっかりと空いていた。支柱となる骨が乱雑に折れ、取り返しのつかないほどに損傷を来した筋肉と贓物。赤く染まり続けたそれが区別も出来なくなるのに時間はあまりかからなかった。

 それだけでなく、彼女の足は地を離れ、首元を軸に体ごと浮いていた。喉が圧迫されているのか、声もまともに出せずにえずく。あの惨状で意識を保っているのがスバルには不思議でたまらなかった。

 

「がっ、ぉ、ごほっ、ぇおっ……! ぁが、ぐ……」

「『見えざる手』。アナタの怠惰なる行いの、報いなのデス」

 

 悲しみを湛えた声音でペテルギウスが呟く。対して、スバルは何も出来ずにただ座っていた。

 苦痛に叫び散らすより、息を詰まらせてむせる方がよっぽど苦しそうだった。

 少女の舌は酸素を求めて動き回り、伸ばし切った腰と脚がビクンと小刻みに痙攣する。その揺れは捩れる前兆だ。血が浮かび上がると同時に、張り詰めた筋繊維がブチブチと千切れる。しばらくして「ひゅぅ」という空気の抜けたような音と共に、口からも血を吐き出した。

 まるで洗濯物でも干しているかのように、絞られて宙吊りにされた全身から赤い水が滴り始めた。

 

「おい……」

 

 なんだこれは。なんだよこれ。何が、どうなっているんだ。

 横にはスバルを庇って死んだ魔女教徒。前には今まさに死にかけている少女。どうしてこうなったのか、直前のことも思い出せない。視界が暗い。思考が塗り潰される。考えても考えても目の前の闇に呑まれてしまう。

 

 スバルは何を見ていて、見てきたのだったか。闇の中に感じるのは、ああそうだ、サテラのしなやかな、細い手──、

 

「──ナツキ司教! 教徒の懐からナイフを取り出して、あの少女に突き刺すのデス!」

「え、は?」

 

 どれくらいそうしていたのだろう。気絶でも、失神でもない。ただ途方に暮れて、沼底に沈んで、ぼーっとしていた。

 しかしスバルの意識外で時間は進んでおり、ふと、ペテルギウスの声で気を取り直した。数秒遅れて言葉の意味が脳に浸透し、処理し切れなかった疑問が口端から漏れる。

 

 ペテルギウスは、四肢を全て失って横たわっていた。四箇所から血を流し、動けずにそれぞれの血溜まりを作っている。傷跡はいずれも犠牲になった魔女教徒と同じく、平たい切断面が特徴的だった。

 そして、それをしただろう少女の姿もまた変わり果てていた。胸に空いた風穴はもう見えない。その位置にあるはずのない骨と贓物が穴を埋めていたからだ。彼女の肢体に正しい方向を向いた箇所はもはや見えない。

 

「突き刺すって、この子はもう……」

「マナの流れが激しく乱れていマス! 大規模な魔法の兆し……まだ、彼女は息絶えていないのデス! 反撃される前に! トドメを、刺すのデスよ! ワタシのことは気にせず、どうかアナタのために献身してくれた、敬虔なる信徒の仇を! 神聖なる試練を妨害する、悪しき鬼に鉄槌を」

「────」

「ナツキ司教! 愛に、報いるの、デス!!」

 

 あらゆる関節が歪み、折れ曲がってもなお少女の眼光は炯々と燃えている。そして血に塗れたその不完全な手を、こちらへ向けるのだ。未だ燃え尽きぬ闘志を以てこちらを射抜く双眸。もたついていたら、ペテルギウスの言った通り少女に反撃を許してしまうだろう。

 網膜を焦がす殺意に炙られて、目の奥が痛くなる。頭がおかしくなりそうだった。どうにかなってしまいそうだった。

 でも、自分の置かれた状況が分からなくても、一つだけ確かなことがある。それだけを頼りに、スバルは少女から目を逸らす。

 

 ──いつの間にか、地面に置かれた白い福音書。

 紙が捲れ終わり、開かれたその頁に文章が一つだけ書かれていた。

 

『殺される前に、殺すべきである。』

 

 不思議と、なぜとは思わなかった。

 

「ごめん」

「────」

「ごめんな。……ごめんな。俺のせいで、ごめんなぁ……」

 

 ナイフはすぐに見つかった。手の届く距離まで近付くと、少女の視線がこちらへ向いたのを感じた。視線を合わせればスバルの目が焼けてしまいそうな大熱。目蓋を閉じてもなお防ぎ切れない熱さだ。

 もう余裕も何もあったものではなかった。両手でナイフを持ち直し、一息に振り下ろす。せめて一撃で死んでくれと、心からそう願って──。

 

「ごっ」

 

 ──そのナイフが、唐突に手から弾かれる。

 何かが目の前を物凄い速度で通り抜け、トドメを防がれたのだ。金属同士の摩擦音に次いで空気を引き裂く破裂音。容易く手を離れたナイフは、そのまま木にぶつかって落ちる。持ち手だけが本来の形を残しており、粉々に砕けた刃の破片の一部は手の中を切り裂いていた。皮膚と血管の切れる音がした。血が吹き出る。

 

 呆然と見下ろしてふと思った。

 指まで一緒くたに千切られた音は、割と地味だったと。

 

「あ、あ、あああ!? お、俺の……ゆび、指が、ぁあっ!」

 

 左手の三本と、右手の二本。実感が湧かない指の喪失に、喉の奥から込み上がって来た悲鳴を吐き出す。

 痛い、痛い。熱い。痛い熱い熱い痛い痛い痛い痛い熱い痛い痛い。痛い。

 

「痛い、痛い、痛い、イタイ、イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ」

「ああ、あああぁぁ、ああぁぁぁあああああぁ────ッッ!!」

 

 それが、遠吠えのような金切り声に打ち消される。

 肩を震わせ、声が聞こえた方向へ首を回した。痛みよりも驚きが先行した原因は、二つ。

 

 一つ。半円を描いた黒い塊が森の木々を薙ぎ倒し、その向こうから小さな人影が出てきたこと。

 一つ。粗く削れた指の感覚がなくなり、傷跡からピキピキと罅割れながら凍り付いたこと。

 

「あ、ぁぁ、あ、あ、ああああ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あぁ……よくも、姉様を。よくも、よくも、よくもよくもよくもよくも、あぁ、姉様、を! ぁぁあああああっ、魔女教徒ぉ……魔女、ごっ、教徒ぉぉおおおおっ!」

 

 デジャブを思わせるメイド服の少女が、けれど今度は青い双眸に殺意を煮え滾らせて姿を現した。この世全ての怨嗟を取り込んだが如く鬼気迫った顔に血管が浮き上がり、激情は体内で荒れ狂い骨を軋ませる。

 特筆すべきは両手から垂れ下がった鎖だ。冗談みたいに長い鎖の先端に繋がった鉄球、その無機質な鈍色に血の赤が付着する様は想像に難くなかった。それが自分の血になるだろうことも。そして──、

 

「──角」

 

 そう呼ぶに相応しい突起物が少女の額から生えていた。魔獣と同じく禍々しい燐光を纏ったその角を中心に、ぶわりと旋風が巻き上がる。

 悪寒が全身を巡り、生暖かい違和感が肌にひり付くこの感じは、恐らくペテルギウスの言っていたマナの流れだ。目に見えない不可視の激流が辺りに吹き荒び、森を揺るがしているのが分かる。地響きも錯覚ではないだろう。

 だが、酔いは来ない。なぜなら、周囲のマナはスバルを素通りして一目散に角を持った少女へ──否、あれは鬼だ。

 

 青い鬼が、棘棍棒ならぬ棘鉄球を携えて他でもないスバルを射抜く。天変地異の災害すらその細い背に負って、ナツキ・スバルただ一人を狙っているのだ。

 咄嗟に視線を戻すが福音書は消えていた。スバルのしるべは、もうどこにも無い。

 故に、次の瞬きをする時間が許されたのは、彼女が倒れた薄紅色の少女に駆け寄ったからでしかない。

 

「姉様! 姉様!」

「…………れ、ぅ」

「はい、姉様のレムです。ですからもう喋らないで。いま、今治します。治します、から。だから、お願い……水のマナよ、おねが、ぃ、姉様を……姉様を助けて。死なない、で……しんじゃ、やだよ、おねえちゃん……っ」

 

 必死に、彼女は嗚咽に懇願を重ねて手をかざす。淡い光が薄紅色の少女を包み込み、遠目にも治癒をしていることが窺えた。

 それでもさすがにスバルを近付かせる気などあるはずもなく、半径数メートルを膨大なマナの渦が囲んでいた。魔法一つ使えないスバルには到底無理だ。この様子では、きっと話し合いも不可能だろう。

 疎通は諦めて藁にも縋る思いでペテルギウスを抱き起こす。手足を欠損した彼は軽く、抱き上げた体に命の熱は感じられない。魂以外にも多くのものが抜けたような喪失感が襲った。こちらには治癒の手段も皆無だ。蘇生など夢のまた夢。

 

「これ、お前がやったのか」

 

 目を向けたのは彼の背後に迫り上がった無骨な壁。道幅を大きく覆っており、魔獣の追っ手を食い止めるために土を固めて作ったのだろうが、今では退路を塞ぐ障壁と化していた。

 どちらにしろ、魔獣に喰い千切られるか鬼に八つ裂きにされるかの差だ。最期に迎えるのが碌な結果でないことは確実だった。

 姉と呼ぶ少女をマナでやさしく包んでから、鬼の少女が紅涙を絞って問い掛ける。

 

「……魔女教徒。答えても、答えなくても、出来るだけの苦痛を与えてから死んでもらいますが……一つだけ、聞きます。なぜ、また姉様を……いえ。ここに、何の用で来たんですか?」

「う、や、俺は魔女教徒だけど、お前たちと争うつもりはなくて……そう、サテラ! サテラに会いたいだけなんだ! 会って、話が出来れば他に何も要らない! 分かってくれ! 魔獣のせいでパニクったけど、本当に、これは何かの間違いで……」

「──この期に及んで、何を言うかと思えば」

 

 荒い息に言葉が乱れた言葉で、少女は声を震わせた。叫びたい衝動を精一杯抑え込み、ふたをした理性の裏側で憤怒が歯軋りしている。

 やがて危なっかしい足取りのまま体を起こし、低い姿勢で立ち上がった。影の落ちた表情が虚空を眺めている。自分と同じだから、スバルにはその瞳が何を見ているのかが分かった。

 

 何も見ていない。

 胸中を塗り潰した感情以外、何も見えていない。

 なぜなら必要がないから。

 他の何かに目を逸らす余裕なんて、あってはならないから。

 

「あ、ああああぁぁ、あ、あ、ああ!」

 

 張り詰めた空気に人の声域を越えた雄叫びが迸る。満を持して溢れ出したどす黒い殺意がマナと混じりつつ、気象をも捻じ曲げて黒雲を成していく。

 

「あああ、ぁああああぁぁあああああ、あぁ、あ、あ、あ、ぁ──」

 

 血の涙は突風に巻き上げられて角を濡らし、それの放つ光を濁った暗紅色に変える。見たところ、その角がマナを取り込む鬼の器官だ。ただでさえ異常な密度で溜まっていた村中のマナが一点に引き寄せられて、角は罅割れ、許容量を超過した血管は破裂する。

 

「あぁ、魔女教徒! 狂い死ぬまで……楽に死ねると思うなあァァッ!!」

 

 そうして文字通り身を削った彼女の頭上に現れる、氷の塊。血煙を纏い、不気味な輝きを内包したその魔法が黒雲を突き破って降下。乱暴な氷結に空気が悲鳴を上げ、狙い違わずスバルに影を落とす。影は所々から突出した棘によって歪な形をしていた。

 彼女はああ言っていたが、狂うまでもないだろう。掠っただけでスバルは死ぬ。

 死ぬはずだった。しかし──、

 

「──彼の狂気は、すでに本物デスよ」

 

 その影から伸びた手が、スバルの背を押してくれた。

 たたらを踏んで前に出ると、思いの外鬼は近くにいた。俯いていた顔を上げれば目が合う。突然のことに二人揃って愕然としていた。

 ただ、スバルのほうが若干背が高い。だから、目より上の角が──罅の入った角が、とてもよく見えた。

 

 特に何か考えていたわけではない。ここで殺されるのだと、直前まで諦めていた。

 でも不思議と、スバルは彼女との距離が近いことに気付いて、また気付く。

 

『殺される前に、殺すべきである』

 

 鬼の身体すら崩壊させるほどに膨大なマナ、その連結部分が壊れればどうなるかなんて、さしたる知識の無いスバルにも分かる道理だった。

 福音書は消えたが、それをしるべが無いとするのは誤解。

 しるべは、導きはまだ続いていたのだ。新たに示す必要性が無かっただけ。もう一度、さっきの言葉を刻み直せ。

 

「殺される前に」

 

 スバルは死ねない。何があってもサテラに会うと決めた。

 もしスバルが死ぬとしたら、それはサテラが死んだ時だろう。

 

「魔女きょ──」

「殺すべきである」

 

 血塗れたナイフの破片を、健在である三本の指で角の罅に刺し込み、そのまま力を込める。

 

 ケタケタ、ケタケタと。

 悪辣な笑い声が背後に聞こえた気がした。

 

 

 †

 

 

 酷い有様だった。

 森は隆起した土壁と抉られた裂傷、そして季節感を狂わす霜に蹂躙されていた。淀んでいたマナが乱雑に動き回り、近くに生き物などいないだろうにどこか騒々しい。頭上の黒雲は局地的な雪を降らせており、先ほどの嵐の激しさに反して雪が舞う速度は花びらより緩やかだ。

 

 そうして、この場を音の無い白に閉ざしていく。

 少女二人分に盛り上がった積雪を通り過ぎ、降雪地帯を抜けた先にスバルたちは立っていた。

 ここも嵐の影響を受けた箇所──氷が部分的に崩れて出入り可能になった、メイザース邸への通り道だ。

 

「入り口を探す手間が省けたのは僥倖……ただ、身体を失ったのは痛いデスね」

 

 そう言って悲しげに目を伏せる、一人の人物。両手を閉じたり開いたりしながら身体の感覚を確かめている。軽く揺らす彼女の身体は五体満足で、肌の艶や血行などを見るに健常者そのものといえた。

 しかし、聞き慣れた口調から思い浮かべる顔と実際の顔はまったくの別物だ。緑色の髪も痩せこけた肉付きも、性別までの全てが別人のそれに変わっている。

 

 事実として、彼女は別人といって差し支えない。

 だが当たらずとも遠からず、といったところだ。

 

「それと『憑依』の際、一帯のマナに直に触れて分かりましたが、これは精霊魔法なのデス。火の大精霊が造ったものでしょう」

「氷漬けなのに、属性は水とか氷じゃなくて火なのか?」

「ええ。生じる現象が同じであれば魔法名に区別は無く、属性の分類はその過程によって決められるのデス。この場合、別途に氷を製造する水魔法に対し、火の魔法は温度調節により対象自体を凍らせることが出来マス。もっとも、この精密さに規模となると、他の属性も扱える可能性が高いデスがね」

「なるほど……」

 

 魔法の説明はさておき、今しがた言及した『憑依』──それこそが、ペテルギウス・ロマネコンティ生存の秘密であり存在の根幹だ。

 彼女、もとい彼は『指先』という部下を複数人従えており、自らの肉体が使えなくなるとその内の一人に乗り移るのだという。つまるところは精神の移動と上書き。組織の利を使い、擬似的な不死を成しているのだ。

 

 だが正直言って、性別も声音も、それが聞こえる高さも違うと、いくら口調が同じでもこちらの感覚が狂う。鬼姉妹の襲撃を乗り切り、事情を聞いた今もまだ、スバルは彼女がペテルギウスの振りをした一般教徒ではないかという疑いを晴らし切れていない。無論心の中でのみだ。

 何度も命を救ってもらった立場で言いづらいが、これからまた命を預けることになる。どうせ後戻りは出来ないのだ。何も振り返らずに、進もう。

 

「それでは、最終確認をしマス。魔女からの『試練』を無事に乗り越えた我々は、ついに本命である半魔への『試練』を執り行うのデス。アナタが見つけた半魔が器として魔女を降ろすに相応か否か……ワタシは、今回が運命の時だと、そう感じているのデス!」

「魔女を、降ろす」

「そうデス! 魔女を、『嫉妬の魔女』を降ろす歴史的瞬間がすぐそこに! 悲願の成就! 勤勉の応報! 魔女教が長きに渡って追い求めてきた偉大なる魔女が、完全なる姿で再臨するのデスよ! 嗚呼、脳が、脳が、脳が脳が脳が脳がのうがのうがのうがのうがうがうがうがうがうがああああぁぁ……ふる、えるぅっ」

 

 話の内容はほとんど分からないが、サテラが生きていると信じてくれてみたいで安心した。

 彼の歓喜の叫びはまだ続く。

 

「長く遠い道のり……しかし、一瞬たりとも後悔や退屈を感じたことは無かったのデス! さあ行きましょう──この身を捧ぐことに一片の迷いもない、愛しき魔女に永遠のあらんことを!」

 

 適当に相槌を打ちながら、スバルは片手に福音書を確認する。ペテルギウスが言うには『傲慢』の証らしいそれを広げると、真っ白な頁に文章が浮かび上がる。彼に付いて行けば良いと書いてあった。

 いざ目の前にすると氷漬けの屋敷から放たれる威容が尋常ではない。薄着のせいで、より寒く感じられた。

 

「……そういえば、ローブどこにやったっけな」

 

 一時の安寧に思い浮かんだ疑問は、ペテルギウスの号令で消え去った。

 

 ──それから十数分が経った頃だろうか。窓の外を眺めながら二人は歩いていた。

 外の景色が氷で歪み、太陽の位置を写してくれない屋敷内部では時間の把握が難しい。外見通り広い廊下を黙々と進むスバルたちは、一階から順に探索して三階へ上っているところだ。

 

 屋敷の中は閑散としており、人っ子一人いない。明かりが点いていないため視界も暗く、まるで肝試しに心霊スポットを訪れている気分すらしてくる。

 状況としてはサテラのいる可能性がかなり低くなったが、スバルもペテルギウスも弱音を吐かずに探索は続いた。可能性の話をするなら、そもそもこんな氷漬けの建物で人探しをしている時点で無謀だろう。それでも挑む理由があるから挑んでいるのだ。

 確信と紙一重である妄信。期待というには不純すぎる欲望。俗に狂気と呼ばれるそれらが、原動力として二人の心に薪をくべていた。だが──、

 

「──また、二階だ」

 

 階段を上り切った先に見えた同じ高さの景色に、スバルは呟いた。

 その目に映る窓の外の景色は、今さっき痕跡無しと判断した二階からの展望と全く同じ。階段の位置や廊下の幅と長さ、部屋の配置などが同じなのはそういう構造だからと目を瞑っても、物理的な問題である以上高さは誤魔化しがつかない。

 上れど上れど三階に辿り着けない階段。ゲームならば条件を達成しない限り前に進めないシステムとして組み込めるが、この場合は都合が違う。有り体に言えば、魔法に類する超能力の関与だ。

 

「どうやら、空間が歪んでいるようなのデス」

「迷路を造る魔法もあるのか。こういうのって、闇雲に強行突破しようとしても意味が無いパターンだと思うんだけど」

「そうデスね……元となる術式や発動者を探して、根本的な原因を断ち切るのが賢明でしょう」

 

 つまり、誰かがこの屋敷にいるのだ。最低でもループ階段の仕掛け人、あるいは氷漬けの要塞内を迷宮にしてでも近付かせたくない保護対象か。実は何も無く足止めのための罠という線もあるが、考えただけで口にはしなかった。

 生憎と異世界の魔法に関して知識不足であるスバルは、現状、ファンタジーでのお約束や直感に頼るほかない。常識に囚われない考え方というものは極々限定的な状況下でのみ有用となる視点だ。素直にペテルギウスに任せるのが得策だろう。

 

 ここに来てから、正確には屋敷の中に入ってからスバルは僅かながら冷静さを取り戻していた。やけに体が軽い。濃密なマナの空間から離れたということもあるが、それとは別の安心感があった。

 なんというべきか、屋敷内のマナはスバルの肌によく合う気がする。

 

「あっ……」

 

 故に、その心地よさが基準を超えて過剰量に達した時、スバルは無意識に立ち止まった。前を歩いていたペテルギウスが振り返り、「どうしたのデス?」と訝しんで視線の方向を同じくする。

 そこには、扉があった。中央階段の一歩手前、廊下に並列した扉の一つだ。何の変哲も無く、もはや見飽きたそれをスバルは瞠目して眺めている。

 その先に何かがあると、見ても分からないほどペテルギウスは愚鈍ではない。ゆっくりと近付き、スバルの代わりにドアノブを捻った。

 

「──新しい、お客様が来たかしら?」

「ぇ、あ?」

 

 扉を開けた先に広がったのは、今まで見たどの部屋とも違う場所だった。面積も内装も全くの別。すぐ横には階段があるはずだが、外と内の大きさが合っていない。まるで、マップの表示上では小さいのに中身は数倍もあるレトロゲームの建物のようだ。

 そして、そのほとんどが本棚に占領された不可解な部屋の中に、一人の少女がいた。金色の特徴的な髪を両サイドに巻き、本片手にドレスを靡かせる少女。場所が場所なら幼女にも見えるだろう彼女は、しかしどこか荘厳ささえ感じる異様な佇まいで、じーっと目線と好奇心をこちらに向けている。

 

「ゲーム……空間の、歪み……じゃあ、もしかして」

「ナツキ司教、これは」

「ああ、さすがに俺でも分かった。つまりはあの子が──」

 

 ──ループ階段の仕掛け人。そう考えるのが妥当だろう。

 

「お前も、ベティーと一緒に遊んでくれるのかしら」

「あ、遊ぶ? よく分からないけど……この迷路を造ったのはお前か? だったら解いてくれ。俺たちは人を探してるんだ」

「ニンゲン探しなんて、ベティーが知ったもんじゃないのよ。それより、遊ぶ気がないならお前たちはベティーに何をしてくれるのかしら? どう楽しませてくれるつもりなのよ?」

「遊ぶだの、楽しませるだの、さっきから何を……」

 

 話が合わない。どうも、スバルと彼女とは今の状況における前提が異なるようだ。

 スバルはループの原因である少女に妨害を止めるよう頼み込むが、少女は二人が遊びに来たのだと思っている。階段のループ自体が彼女の遊びだったのかもしれない。だとしたら、原因を暴いたことは説得の材料にならないだろう。やり方を変えられるだけだ。

 

「アナタはどうやら勘違いしているようなのデス。これは遊びでなく試練……受け賜りし寵愛を返す運命の日! 我らの愛が証明されるかもしれないこの日に、いかなる譲歩も妥協もあってはならないのデス! 真摯に、真剣に、懸命に、熱心に、一途に、直向に、誠実に、勤勉ににににににぃぃぃぃ! ぁあ、怠惰の一切を排して執り行うべきが試練! 生半可な気持ちで臨むものでは、決してしてしてしてててて、無いの、デス!」

「騒がしい奴かしら。それに、無礼にも程があるのよ、ニンゲン。ベティーみたいな大精霊を前に……」

 

 ピタリと少女の言葉が止まり、そこで初めてペテルギウスをまともに見る。激昂する彼を蝶模様の瞳に映し、彼女は眉を顰めてから小さく吐息した。

 

「……はあ。随分と、馬鹿なことをやっているかしら。愛とも呼べない、そんな筋違いの感情を向けられる相手が可哀想ったらないのよ」

「────」

 

 見た目通り子供っぽかったそれまでとは打って変わって、声の調子を落とした彼女からは妙に貫禄が感じられた。脳が自然と聞き入り、スバルは息を殺す。

 しかし、ペテルギウスの沈黙は意味が別だった。

 

「ぁ……き、が──」

「ペテルギウス?」

「──半端な、精霊、ごときが……ワタシの、ワタシのワタシのワタシのワタシのワタシのワタシのぉっ! 愛を、この揺ぎ無き深愛を、穢れ無き純愛を、嘘偽り無き信愛を否定するというのデスか! 実に汚らわしい! 実に嘆かわしい! あぁあぁ、なんと侮辱的なことか! 権能、『見えざる手』ぇぇ!!」

 

 激怒が膨れ上がり、ペテルギウスは上半身を勢い良く後ろに反らせた。ただ、撒き散らしたのは怨嗟だけでない。屋敷に入る前にも聞いた、あの空気を切る音。それが幾重にも折り重なり、蜂の羽音を思わせる不快な振動となって少女の蝶の瞳を揺らす。

 ぶわっと全身の産毛が逆立った。あの時は鬼少女の姉が胸を貫かれた。だが今度は違う。その程度では終わらないという予感がスバルにはあった。

 

「その頭を地に擦り付けて、這い蹲って、平身低頭して謝るのデス! そして悔やむが良いのデス! 愛に怠惰であった己の過誤を、分不相応であった己の付け上がりを! ──現実を見ようとしない、己の盲目を!」

「────」

 

 高圧的なペテルギウスの言葉に少女の眉が微動する。しかし返事する暇も与えず、殺意が一直線に少女へ降り注いだ。

 儚く小さな身が血に塗れ、床を命の破片で汚す一秒後の未来をスバルは錯視した。思わず目を瞑る。視覚だけでも遮断しようと、惨状から目を逸らして──、

 

「……っ、ぁ、れ? 何も、聞こえない……?」

 

 スバルが恐る恐る目を開けると、そこには驚愕の光景が広がっていた。

 まず、直線が消えた。本棚も椅子も、何もかもふにゃふにゃにぐにゃぐにゃに揺らめいている。陽炎よりも激しく広範囲な空間の揺らぎ。この書庫そのものがふやけて硬さを失っていたのだ。

 まるで、陸から水の中の世界を見下ろしたかのよう。あるいは、二階から上階へ辿り着くのを拒んだ、あの迷路のような。

 

 言うなればそれは視覚と認識の迷路。

 迷彩とは微妙に違う。少女の姿は確かに見えているのに、そこに届くまでの距離、方向、速度、その全てがあべこべだ。

 自分の手を動かしても、本来の意思と目に見える結果がまるで合っていない。前に伸ばしたのに途中で直下し、引っ込めると右に折れる。自分自身の感覚と視覚情報のどちらを信じれば良いのか、スバルには判別が出来ない。もし出来たとしても片方に考えが引っ張られて翻弄されるだろう。

 

「なんと! 我が怠惰なる権能、『見えざる手』を見ずして防ぐとはとはとはははは! その技量、判断、敵ながら当に感服の至りなのデス!」

「お前が何をしようとしたのかは知らないけど、無駄かしら。その力がお前の感覚に依存する限り、この禁書庫でベティーには指一本触れられないと知るのよ」

「いえ! 油断、放心、それ即ち怠惰! 絶対なる寵愛の証に、触れられぬものなど無いのデス! なぜなら今、ワタシの手はあの魔女にさえ届こうとしているのデスから──!」

 

 両者の主張は激化し、ペテルギウスは一層声を荒げて言い返す。

 ペテルギウスの言う権能というものについて、スバルが知っていることはほとんど無い。あの白い福音書を彼は『傲慢』の権能ではないかと言っていたが、なぜそこでその単語が出てくるのかも、そもそもどうして自分にそのような力が宿っているのかも、スバルは知らないのだ。

 胸中に渦巻く感情に素直に従ってここまで来た。だが現状は、知らない尽くしの異世界で、魔法と権能の戦いに板挟みになっている。されるがままにいるのもさすがに限界だった。

 

 福音書を取り出す。しかし何も書かれていない。

 対して視界の錯乱は毎秒酷くなっていく一方で、もう立つことも困難になりつつあった。

 

「……サテラ」

 

 ぼそっと、スバルの口端からそれが漏れた。

 嘆願、諦念、悲哀──色々なものがない交ぜになった一言。

 

「サテラに会いたい。会って、話がしたい……お願いだ」

 

 結局のところ、スバルに出来るのはサテラへの想いを口にすることだけ。流れに付和雷同することを止めたという即席の達成感のせいで、今度は自己的で盲目的な私情を語っている自覚が曇っていた。どちらも意思疎通において最悪であることには変わりないと気付けず、無理やりエゴを押し付けようとする。

 ゆえに、少女は耳を塞いだ。

 

「もう、いい」

「え?」

「もういいかしら。みんなベティーに背を向けるのよ。──ベティーの手は、誰も取ってくれないかしら」

 

 屋敷での前進を許さず、けれど己への接近をも許さず。

 

「にーちゃは力を使い果たして、回復するまで屋敷の警護を頼んだけど……一度消えた大精霊が再び顕現するのにどれだけ膨大なマナが必要なのか、その準備と環境が整うのに一体どれだけの時間が必要なのか、ベティーはよく分かっているのよ。なのにそれまで待ってくれ、なんてあんまりかしら。ベティーはずっと待ってきた。でも手を差し伸べてくれる人はいなかった。『その人』も、にーちゃも、みんなみんな、ベティーを独りにするのよ」

 

 今の彼女には、声すらも届くことが許されない。

 

「もしにーちゃが帰ってきても、それからはあの娘に付きっ切りになるに決まっているかしら。一度死にかけたせいで、にーちゃの過保護は激しくなって、きっと、きっとベティーのことなんてすぐに忘れてしまうのよ。一番じゃないから。誰の一番にもなれないから、ベティーは独りかしら。誰も遊んでくれない。誰も一緒に待ってくれない。誰も選んでくれない。いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもずっと、ずっと待ち続けて──」

 

 共感も拒絶も必要としない言葉は当然、相手からの返事を前提として外していた。人に言い聞かせるのでもなく、自ら戒めるのでもなく、ただただ心の許容量を超えた感情が溢れ出る。

 視界が歪み、声が反響し、脳の代わりに鉛を詰め込まれたかのような頭は、肉体の自由を奪う重荷でしかない。そして、間近の経験から思考でなく直感によってその答えを暴く。

 

「……マナ、酔い」

 

 それは、異常量を感じて扉を開けた時から今までずっと。基準値を超えた少女の黒く暗いマナに晒され続け、スバルとペテルギウスを内側から蝕んでいたのだ。

 遅すぎる気付き。足の力が抜けて大きくふらついた体をかろうじて捻る。元々その方向だったのか、咄嗟の行動のおかげなのかも分からないが、スバルは倒れ込む形で扉を開けた。室内のマナと外の空気とが混ざり合い、僅かながら頭が軽くなった気がする。錯乱も和らいだ。

 いずれにせよ今がチャンスだ。ペテルギウスを呼んで、ここは一旦撤退を──違う。それも錯覚だ。

 

 この部屋の扉は内開きだった。廊下側から室内へ向かって押さなければ物理的に開かない。

 スバルの倒れた方向はその真逆。室内から廊下側へ、だ。つまり、

 

「──君かい?」

「────」

 

 反対側から扉を開き、丁度そこに滑り込んできたスバルを見下ろす一人の男。片手で扉を押し切った姿勢のまま、彼はそう言って影を落とした。

 薄暗い廊下の闇に紛れる暗色の長髪。やや前屈みにもかかわらず、随分と高さに差がある長身。左右の目を妖しく縁取った黄と青の瞳。全体が白く塗られた顔。

 それらの特徴を佇まいと雰囲気で道化に溶かし込み、返事の無いスバルを見ながら彼は再度口を開く。バタンと扉が閉められた。

 スバルには知る由も無いが、その閉鎖は世界からの隔絶を意味している。

 

「ベアトリスを泣かせる君かい? それともエミリア様を王にする君かい? ──今の君は、どっちかな?」

「は、ぁ?」

「重要なことだ。本当に、重要なことだよ。私にとっても、君にとってもね」



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全盲の囚人たち

 道化の問いに、スバルは雁字搦めにされた視線をなんとか動かし、無理解を示すしかない。

 ベアトリスも、エミリアも、スバルからしたら全く記憶に無い名前だった。だから泣かせるも王にするも、まるで理解の及ばないこと。状況を思い返して、迷路の原因であり孤独に泣き喚くあの少女がベアトリスだと仮定しよう。

 

 ならばエミリアとは何者か。王都、魔女教拠点、アーラム村、そしてこのロズワール邸に至るまで、そのような人名は耳にしなかった。スバルが今はっきりと思い出せるのは、サテラとペテルギウス、そしてメイザースの三名のみだ。

 道中何人か会ってはいたが、優先順位のせいか酔った頭では人物の想起が上手く固まらない。底の見えない沼に手を突っ込む感触。掴めそうで掴めない、ドロドロした気味の悪い手応えだけが返ってくる。

 

「こんなはずは! こんなはずでは! こんなはずではなかったのデス! たかが小賢しい精霊ごときを相手に、この怠惰なる『見えざる手』が届かないはずがないのにのにのにのにぃぃぃぃ! ワタシは魔女教大罪司教『怠惰』担当っ、ペテルギウス・ロマネコンティなのデス! 嗚呼、魔女よ! 愛しき『嫉妬の魔女』サテラよ! ワタシは、ワタシはこの愛を如何にしてお返しすればあああぁぁぁぁぁぁぁ……!?」

 

 その瞬間、男の意識がスバルから外れた。直後に信じがたいことが起きた。

 ペテルギウスが、全身から火を噴いたのだ。

 

「あ!? が、ぐばっ……ぁお、ごごぐぇっ! ご、ごぉ、ごぼぼぼぼぼおおおぉぉぉぉっ」

「ぺ、ペテルギウスっ!?」

 

 唐突に発火したペテルギウス。舌が燃え、喉が焦げ、唾液が蒸発し、歯と歯茎が溶けて血と共に混ざる。しかし、吐き出す余裕も抑える力も失くしたため、口の中の熔解物が喉に流れ込んで詰まってしまう。

 かと思えば喉も溶け始めたようで、顔を始点に、上半身の中身が溶けて下半身へ。既に声どころか音を発する構造も残っていない。聞こえるのは、かつて人だった肉塊が沸騰してボコボコと泡を立てる音が唯一だ。

 やがて爛れた皮膚が下部に溜まり、萎んだ風船のようになる。炎はそれだけで収まらず、ペテルギウスの身体を灰すら残らないまでに燃やし尽くしてから消えた。

 

「外野は黙っていろ。お前のような輩が、軽々しく愛を語るんじゃない──驕るなよ」

 

 その後付けの言葉で、今の惨状を彼が招いたのだとようやく確信した。

 急激な温度上昇に、いつ死に絶えたのかも分からないほどの激変を辿った死骸。時間として、一分かかったかどうかの僅かな間。

 視線ではない。ほんの一瞬、男の意識が向こうへ切り替わっただけだった。蚊の羽音に気付いた──例えるならその程度の意識の逸れで、彼は人一人を文字通り蒸発させたのだ。

 

「お、前は……」

「んーん、何かな?」

「お前は、何者だ」

 

 立ち上がったはいいものの迂闊に後ずさりすることも出来ず、スバルはやや屈んだ姿勢で問い掛けた。その言葉に彼はしばし考える仕草を見せてから、

 

「私の名はロズワール・L・メイザース。この屋敷の主だとも」

 

 と、サテラの関係者と思しき人物を名乗った。スバルが聞きたかったのは今さっきの行動を含む諸々についての説明だったが、そんなことを知ってか知らでか、ロズワールは空中に座るようにして続ける。

 

「さて、早々に本題に入らせてもらうよ。君の目的に関して、だ」

 

 スバルはこれに答えず、沈黙で次の言葉を促す。膝が震え、体が固まって動けないというのも理由の一つだった。

 スバルとしては、緊張であることを祈るのみだ。もし魔法なんかでも使われていたらこの会話はただの茶番に過ぎないのだから。

 

「私は、今、君の到達した場所がどこなのかを知りたい。さっきも聞いたよねーぇ。屋敷に侵入してベアトリスを泣かせるのと、エミリア様を王に仕立て上げるのと、一体どちらを求めて来たのかな?」

「意味が、分かんねぇよ。泣かせるとか、王に仕立てるとか、俺にはまるで理解出来ないことだらけだ」

「おっと、文字通りに受け取ってもらっても困るね。私の言い方が駄目だったのかーぁな? じゃあ言い直そう。君は、何をしにここまで来た? どうか──」

「俺はサテラに会いに来た」

「──具体的に、頼む、よ……ん?」

 

 それは、口を衝いて出た、という表現に最も近い反応だったと思う。それほど自然に、衝動的に、何なら聞かれる前から予感を持っていた気さえする。

 一方のロズワールは言葉が遮られたことで口をつぐみ、返答を聞いて更に戸惑っているようだった。それから眉間に皺を寄せて足を組む。

 

「サテラ、サテラだと? 銀髪のハーフエルフ……エミリアではなく?」

「さっきから何度かその名前聞いてるけど、悪ぃが知らない人だ。心当たりも、王様にするつもりも一切無い。そもそもこの国、この世界自体分からないことだらけだし……今、俺が探してるのはサテラ、ただ一人だ。あの悪夢から生き返ってくれれば上等、顔が合わせられればなお良しで、会話なんか出来たら最高だな。……ああ、そうだ。俺はサテラに会いたい。サテラに会いたい。会いたいよ」

「サテラが生き返ってくれれば、上等……ね」

 

 段々と焦点の沈んでいくスバルに、それを反芻するロズワール。彼の周囲には鬼火にも見えるマナの塊が浮遊していた。室内に淀んだマナを高密度で圧縮し、手玉のように扱う姿はまさにピエロだ。おかげで眩暈もかなり良くなった。

 しかし現在、彼の白化粧に滑稽さは感じられず、拭い切れない疑念が目元に表れている。それは両者における認識のズレによるものだ。この会話には、どうやら根本的なところで齟齬が生じている。

 

「……最後に、一つだけ聞こう。君は、大切な一人だけを想って、それ以外の全てを削ぎ落とすだけの覚悟があるか?」

「それ以外の、全て……ああ、そうだ。俺は他の何を失ってでも、サテラに会いたい。俺の手が届く範囲にいるなら、何だってするさ」

「それはつまり──」

「でも、一度失ったものは二度と取り戻せない。もし間に合わなかったら、もし一秒でも遅れたら、きっと俺は立ち直れなくなる。俺にはサテラしかいないから……それが、一番、怖い」

「────」

「だからお願いだ、メイザースさん。サテラのこと知ってるなら、会わせてくれないか。取り返しのつかなくなる前に。せめて居場所だけでも……」

 

 少女ベアトリスは迷路を解くつもりがない。これ以上の前進は不可能に近かった。

 ゆえに、ロズワールが手掛かりを得る最後の機会だとスバルは判断した。彼が情報を握っていれば僥倖、そうでなければ振り出しに戻ってしまうだろう。ペテルギウスを二度失った今、魔女教からの援助も期待しづらい。

 そうなればサテラの捜索は、スバル自身の生活が安定するまでしばらく中断せざるを得なくなる。場合によっては振り出しより酷い底の底に成り下がるかもしれない。その状態で生きているかどうかも不明な一人の少女を見つけるなんて、それこそ星を掴むような奇跡の域だ。

 

 無言が続いた。スバルは様子を窺いながら、己の命運を分ける返答が来るのを待つ。

 魔法の空気椅子から立ち上がり、足下を見ていたロズワールが近寄って来る。そして肩に手が置かれた。

 

 時間が彼女を奪う前に、どうか。

 そう念じたスバルの鼓膜を、待ち望んだ答えが軽く震わせる。

 

「──人違いだったようだ」

 

 小石を投げ込まれた湖面が如く粛然と浸透した言葉は、直後、全身の震えによって掻き消された。

 猛烈な寒気と強烈な熱気、相反する二つの衝撃がそれぞれ背筋と右肩に走り、スバルは歯を食い縛る。全身をくまなく襲った痙攣、声を出すには数秒遅かった。

 視界が傾ぐ。硬直した体は後ろに倒れていた。当然、受け身もままならず──、

 

「ぁ……」

「やはりお前も、ベティーに背を向けたのよ。──ウル・シャマク」

 

 ベアトリスの手のひらからどす黒い闇が放たれ、無防備なスバルを包んだ。

 霧でも煙でもないそれは、視覚的にも意識的にも光を閉ざす性質として、文字通りの様々な比喩を内包している。有り体にいうなれば、意識を肉体から切り離して常闇の中に放り込む──およそ自由意志に必須である二つの一方的な乖離。

 生を受けてから常に一体だったものが半身を失った。その果ては死と同義だ。

 

 ベアトリスとロズワールの眼下、二度と起きることのない健康体が転がっていた。中身が空っぽの抜け殻だ。数日も経てば、勝手に餓死するだろう。それまでの状態を生きているとするのも些か可笑しな話だが。

 黒髪黒瞳に、見慣れない服装。魔女教と行動を共にする割には、彼らと異なる狂気の色を纏っていた。戦闘面における素質も経験もまるで無く、ベアトリスのマナに一定の反応を見せていたが術式は問題なく通った。

 奇怪でありながら外面だけは平凡を着飾った少年。スバルに対する二人の印象は、そう締められた。

 

 死体のようだという表現が皮肉にもならないその抜け殻を見下ろし、若干の無気力さを感じるロズワール。

「そういえば」ともう一人、燃やし尽くした男をふと思い出した。愛だの魔女だの口を酸っぱくして言っていた狂人のことだ。あの時は、大きく開けたその口に火のマナを放り、体内で爆発させたのだった。

 約百年前より世界中に蔓延る不穏分子、魔女教の幹部格である『怠惰』の大罪司教、誅伐。結果として歴史的快挙を遂げた状況だ。しかしスバルの処理にマナを引き寄せようとした刹那、ロズワールは舌打ちした。

 

「さすがに、一筋縄ではいかないか」

 

 呟きが風に乗り、ロズワールは咄嗟に前へ飛び出た。遅れて元いた場所に何かがぶつかり、床を抉る。人よりも獣の爪痕に近いそれは前兆が無く、影も形も無い。ロズワールがベアトリスを抱いて離れると、そこも透明の爪の餌食となり引き裂かれた。

 

「──嗚呼。嗚呼、嗚呼、ぁ、あああああぁぁ……素晴らしい。素晴らしい身体なのデス」

 

 禁書庫に反響するのは狂人の声。一度のみならず、二度も命が潰えたはずの男の声だ。

 そして驚くべきは、声の主がスバルだということ。意識を放棄され抜け殻と化していたスバルが、声音はそのままに、ペテルギウスの口調で言う。

 

「信じられないデスね! これほどまでによく馴染む身体は初めてなのデス! なんと、なんと恵まれていることかかかかかか! 今度こそ違わない。今度こそ、ナツキ司教の分まで『怠惰』を返上させてもらいマス! アナタの『傲慢』も引き継いで、ワタシはやっと魔女に届くのデスから! 『見えざる手』ぇぇっ!」

「一緒に待ってくれないくせに、手を取ってくれないくせに、まだいたのかしら。目障りでしょうがないからさっさと消えるのよ。ウル・シャマク」

 

 吐き捨てた言葉を皮切りに、見えない何かが禁書庫の中で荒れ狂う。速度や色の問題ではなく、それ自体が不可視の性質を帯びた攻撃だ。それも十を下らない数で、常人の目には、いつどこからどれだけ襲い来るのかを知る術など皆無に等しい。

 

 ゆえに、大精霊ベアトリスと宮廷魔導師ロズワールの取った手段は常識を凌駕する。

 先述した通りあらゆる闇の具現化であるウル・シャマクだが、一応の外見上は黒い霧だ。光の介入を許さず距離感まで塗り潰してしまうので、影とも言えるだろう。

 ともあれ闇を含んだ魔法は相手への接触が前提であり、形状は可変性を持っているということ。その一点が本来の活用法からはやや外れた副次的効果をもたらす。

 

 ペテルギウスの見えざる手もまた、接触を必要とする力だ。ベアトリスとロズワールを攻撃するにはウル・シャマクの霧の中を抜けなければならない。霧は手の形を残し、そこだけ空洞になる。

 更に、ロズワールが己の周囲に浮かべていた手玉を前方に配置した。鮮やかな色彩に空気が染まっていく。術式に変換する前の純粋なマナの塊は、魚群を捉える網のように手の接近を察知し、それを着色した。

 結果、現れたのは色とりどりの腕。

 

「魔女教徒から道化師に転職かい? 先輩として一言だけ言わせてもらうと……精彩に欠けるね」

 

 不可視のベールが剥奪された。こうなってしまえば、完全に露出した腕を避けるなど造作も無い。二人の徹底した安全策に権能は根本から攻略され、逆にペテルギウスは文字通り魔法攻めに対抗する手を持たない。手の一部を防御に回してもジリ貧に過ぎず、いずれ押し負けることは火を見るよりも明らかだった。

 

「馬鹿な! これでもまだ、ここまでやってもなお、アナタには届かないというのデスか……魔女よ!」

 

 追い詰められたペテルギウスは、思わず胸元に手をやる。しかしそこにはスバルの奇妙な上着の感触だけがあり、いつものローブも、ましてや福音書も無い。

 往くべき道を見失った気分だった。魔女の導きが消え、一人ぽつんと取り残された戦場でかつてない絶望を感じる。

 権能が封じられ、魔法の才能も熟練度も二人には遠く及ばない現状。閉鎖された環境で戦力の増援は望むべくもない。

 

 ──しかしながら、そこで諦めるペテルギウスでもなかった。

 

「福音書なら、ナツキ司教が持っていたのデス」

 

 それも、とっておきを。一般的に教徒に配られる物と違い、無論ペテルギウスのそれともルーツの異なる特別製。

『傲慢』の権能と思しき、白く光り輝く不可視の福音書があるではないか。

 そう思い至ったのだ。

 

 見えざる手の全てを防御に集中させ、僅かな隙にペテルギウスは頭を回転させる。

 彼の精神は現在スバルの体内に宿っている。どこか遠くへ飛ばされたスバルの代わりに意識の操縦桿を握り、継承に成功した。

 ならば、権能の継承も同じく可能だろうか。スバルの福音書を、ペテルギウスでも見ることは許されるのだろうか。

 

 前例のない試みだった。願いの結晶である権能を他人が扱うなど、聞いたこともない。

 不透明なイレギュラー、それでも魔女の為ならば構わない。必死の攻防戦の最中、ペテルギウスは意識を内側に向けた。

 

「嗚呼──『傲慢なる怠惰』であれ」

 

 精神と肉体の親和を深める。空っぽになったナツキ・スバルの奥底へと沈んでいく。

 暗い暗い、暗闇があった。深い深い、深淵が見えた。

 そこは心の領域だ。本来なら他人の干渉などあり得ない場所がゆえに、当然侵入者に対して一切の配慮も施さない。一歩間違えれば帰り道は永遠に閉ざされるだろう。

 果てしない無明へ踏み込むのに逡巡、決意を新たにして挑む。

 

 ペテルギウスには見えていたから。

 奥底から覗く、愛しき魔女の手が。

 

「これは……福音書は、権能ではない? 他人の意思を代弁させて合理化するため、無意識に幻覚を見ていたようデスね。……しかし、彼に魔女因子があるのは確かなのデス。寵愛は確かに宿っている。ならば、本当の権能は一体……?」

 

 全ての根幹である心の理、願望へ手を伸ばす。

 

 そして理解した。

 

 真相を。

 

 狂気の所以を。

 

 魔女の愛の行方を。

 

 嫉妬の矛先の不条理の彼方の運命の観覧者の世界の遊戯の日陰の大罪の愛の愛の愛の愛の形の愛の愛の意味の言葉の愛のあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいのあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあい──。

 

 あいのまえでは、いかなるしょうがいぶつもひとつのせんたくしにすぎない。

 

「──それが、『死に戻り』デス」

 

 目を開けた時、ペテルギウスの目の前に死が突きつけられていた。

 向けられたベアトリスとロズワールの手のひら、そこに膨大なマナが渦巻いている。見上げるペテルギウスはいつの間にかうつ伏せになっており、見えざる手も消え、息をするだけで全身が軋む。

 それこそ虫の息にもかかわらず、二人はトドメを刺そうとしない。憑依を警戒しているのかとも思ったが、どうやら違うようだ。

 

「────」

「────」

 

 動きを止めたまま、じっとペテルギウスを凝視している。信じられないものを聞いたかのような反応。双眸に驚愕を湛えた姿は、どこか恐怖にも相通ずるものがある。

 とはいえ、ここは禁書庫だ。地の利から始まり何においても相手の優位は揺るがない。外界から隔絶した空間では、逃げ出そうにも逃げ出せなかった。

 しかし、

 

 ──コン、コンと。

 

 隔絶しているはずの部屋の扉を、誰かが叩いた。

 決して急かすつもりはないと感じられる強さと速さだった。もしこの屋敷が氷漬けでなければ、そして内包したこの禁書庫が異空間でなければ、単なる客人として接することが出来たかもしれない。

 魔獣はここまで辿り着く術を持たず、魔女教徒は悠長にノックなどしまい。

 

「……にーちゃ? にーちゃが来たかしら。にーちゃなのよ、違いないかしら! やっと、やっとにーちゃがベティーに会いに来てくれたのよ! 今すぐ開けるかしら。いま……」

「駄目だ、ベアトリス!」

 

 考えてみれば、運はずっと自分に味方してくれていた。

 ペテルギウスは得も言われぬ衝動に身じろぎし、混乱する二人の間を抜けて扉の方へと向かう。

 考えてみれば、とは言ったものの、実際のところ彼にまともな思考能力は残っていなかった。今の彼を動かすのが、スバルの深層に潜り込んで垣間見た愛なのか、ペテルギウスの執念なのか彼自身でさえ分からない。ただ、そうするべきだと信じて扉に手を伸ばす。

 

 その指が、鬼との戦闘で数本しか残っていなかった指が、背後から飛来した風の刃に細かく切り刻まれた。

 ドアノブを掴もうとした手が空振り、血をぶちまける。ガクリと姿勢の崩れたペテルギウスは無意識に反対の手も伸ばす。

 

 コンコン。

 手首が破裂する音に、やや速めのノックが聞こえなくなる。両手を失ったペテルギウスはしかし、視線を扉から離さない。

 ずるずると這いずる足が凍り付き、胴体が尖鋭な岩に貫かれ、闇に目が潰れてもペテルギウスは虚ろな顔で扉を見つめていた。

 

「……ぁ、ぁぁぁあ」

 

 そうして開いた口から、細長い影が飛び出した。

 待ち望んだ相手を迎え入れようと暴れるベアトリスも、扉の損傷を恐れて迂闊に攻撃できずにいたロズワールも、それを止めることは叶わなかった。

 影は小さな手の形を取り、血塗れのドアノブに指を絡める。ゆっくりと捻ってから引いた。

 

「さて、ラ……ぁ」

 

 その顔に、光が一筋──否。

 

 冷たく黒ずんだ影だった。影自体に温度などあるはずも無いが、それは確かに見る者を凍らせる何かを持っていた。

 影は気体にも似た変幻自在の性質を利用し、禁書庫の中に溢れんばかりに満ちる。煙、霧、雲。どれともつかない黒のインクが空気を染めながら、当て付けのように手の形をしてベアトリスの肩を掴んだ。ロズワールはその接近を完全に見逃した。いつの間にか行われて、気付けばもう終わっていた。

 

 そして彼女の瞳の内の蝶が影と同じ色に染まった時、ロズワールはただ、嗚呼、と息を零した。

 自分の両目も既に塗りたくられていることに気付いたところでどうにか出来るものではない。見えないということが見えるようになった彼の目には、もはや正常な世界は映らない。

 見る世界が変われば人も変わる。その人をそれまで支えてきたものが、全て崩れて新たなものへと形を変えるのだ。

 

「にーちゃ、ここは寒いのよ。ベティーが暖かい所に連れて行ってあげるかしら」

「ほら、ベアトリス。あんまり遠くに行くと、また怒られるよ」

 

 真に自由となった二人の視線があるはずの無い何かを捉える。

 心が呪縛から解き放たれ、温かいものに満たされて、どこか心地良い。

 

 盲いる目と書いて『盲目』。

 物事の影だけを見て、まるでそれが実体であるかのように認識し、誤解する。

 もしも世界が影で出来たのなら、そこでは見るもの全てが誤りだ。

 

 それは、夢を見る感覚に似ていた。

 波濤の如き影が押し寄せ、最後の光を閉ざしていった。

 

 

 †

 

 

 太陽が眩しい。

 清涼な空気を目一杯吸い込めば、自然と顔が空を向く。反らした胸を意識しつつ、目を閉じて徐々に息を吐いた。

 体の中を満たす清潔感。元いた地球よりも空気が透き通っていると思うのは、気のせいだろうか。

 

「にしても、まさか本当に異世界来ちまうとは……夢じゃねぇよな?」

 

 未だ心臓がバクバクと脈打ち、全身の力が漲っている。有り余ったこの体力をどう発散したものか。

 興奮を抑え切れず、意味もなしに動き回りながら頬を抓ってみる。痛い。頬も痛いし通行人の目も痛い。

 正直ラジオ体操第一でも踊ってやりたい気分だが、人通りの多い広場でそうする訳にはいかなかった。異世界に来て早々恥を晒すのは御免だ。

 

「つって、事前に確認しておかなかったせいでいざって時に魔法使えないのも困りもんだ。やはり多少の恥は忍ぶのが勇者なのでは?」

 

 誰に向けたのでもなく、強いて言うなら自分を戒めてそう呟く。言葉にすると期待が膨らむもので、根拠ゼロの自信がどこからか湧いてきた。

 しかし、敵もいないのに日中の繁華街で魔法ごっこするのは気が引けた。そこで人のいなさそうな路地裏に入る。暗くじめじめした空気が一気に雰囲気を変える。

 

「──そこのお前、痛い目に遭いたくなきゃ金目のモン出しな」

 

 変わったのは、雰囲気だけでなかった。場所を移せば通行人の傾向も当然変わる訳で、つまるところ日陰に住む人種──不良三人組が行く手を阻んでいた。

 

「おいおい、どうしたよ菜月昴。脚震えてんぞ。異世界だからって怖気づいてんじゃねぇ。日々の筋トレと妄想で鍛えた俺の戦闘力を信じろ。……それに、今ならチート付きだからな。軽く無双してサクッとチュートリアル終わらせてやるぜ!」

「何言ってんだ、こいつ?」

 

 冗談で場を和ませ、油断している隙に敵に近付き、拳を思いっきり振るう。これぞナツキ家に代々伝わる秘伝の奥義。

 骨と骨がぶつかる硬い音が鳴り、殴った拳にも痛みが走るが奇襲は成功だ。仲間の撃沈に、残り二人の不良が愕然とこちらを見ている。

 

 心の中でガッツポーズを決め、慌てず小柄な方に蹴りを入れる。見事回転蹴りが炸裂。相手の体は壁に激突し、そのまま倒れた。

 これはもしかして本当に転生ボーナスがあるのでは、そう調子に乗って最後の一人も片付けようとした瞬間だった。

 

 コン、コンと。

 

「ちぃっ!」

 

 懐から閃く鈍色の光。それがナイフだと気付いた頃には、すでに防衛本能が働いて土下座の構えに至っていた。手足と額の五点を地に擦り付け、自分でも何を言っているのか分からない哀訴嘆願を並べる。当然相手がそれを聞き入れてくれるはずもなく、なぜかダメージの無さそうな二人も加勢して袋叩きに。

 どこで間違えたのだろう。一分も経たない内に形勢が逆転していた。

 

 コンコン。

 本気で死ぬかもしれない、と思うほどに殴る蹴るの暴行を受けてからようやく静かになった。恐る恐る目を開けると、三人共どこかを見ては絶句している。もしや召還してくれた美少女ではないだろうかと、首を傾げて見やった。

 

「──愛してる」

 

 

 †

 

 

 意識が切り替わる。

 

 傾げた首は柔らかい何かの上に乗っていた。感触と目線の高さから推測するに膝枕──いや、いくらなんでもフワフワ過ぎる。膝枕は膝枕でも猫の精霊、パックの体だ。そしてすぐ隣には一人の少女が立っている。

 そういえば、不良に絡まれていたところを救われたのだった。状況を見るにどうやら看病までしてもらったようだ。

 

「悪いな。なんか、色々迷惑かけちまって。これからのことなんだけど──」

 

 そう言って起き上がろうとした瞬間、声が聞こえた。

 

「──愛してる」

 

 

 †

 

 

 意識が切り替わる。

 

 視界は相変わらず横に倒れており、茶色い床がその半分を占めている。かなり真っ暗な空間で、頭上から小さな光が差しているのが見えた。改めて起き上がろうとした時、力を入れた腹部に痛みが走った。

 思わず顔を顰めて確認すると、触れた手に暗闇でも分かる紅血が付着し、鼻を突く嫌な臭いと、口の中には鉄の味がじわりと広がった。死の予感と不快感が動悸を促し、衝動が喉を震わす。

 

「サテラ!」

 

 血の張り付いた喉から、自分のものとは思えないしわがれ声が出た。声は闇に霧散していき、次に口を出たのは更なる血液だ。息が詰まる。異臭が淀む。

 ──少女が倒れる。

 

 赤く汚れた手で、彼女の手を握る。まだ冷めていない熱が伝わってきた。まだ、まだ消え切っていない灯火が肌越しに熱を与える。

 今だから分かる。この熱はマナだ。彼女はスバルに、自分も後回しにしてマナを送ってくれていたのだ。

 

「────」

 

 月明かりがそれを照らし、余熱に胸を焦がしながら決意した。

 渦巻く感情が何なのかも自覚できないまま誓う。

 誓いが、口を衝いて出る。

 

「俺が、必ず、お前を──」

 

 繋いだ手から振動が感じられた。身じろぎする気配。

 ぎぎぎ、と軋む音。歯車が元の形を無視して緻密な構造に無理やりねじ込むかのような、そんな音がした。

 彼女の首が回る。

 人体の稼動域を余裕で超えていた。

 

 愛の前では、いかなる障害物も一つの選択肢に過ぎないと。

 死さえも通過点でしかないと。

 そう、諭すように。

 

「──愛してる」

 

 

 †

 

 

 意識が切り替わる。

 

 溺れてしまいそうな影の海に、スバルは漂っていた。

 もはや息もしていないのに、見方によっては生きてすらいないにもかかわらず、『溺れる』ということに関しての疑問は浮かばない。

 何故なら、ここは元よりそういう場所だ。

 

 精神世界、あるいは心象風景。いや、こここそが真なる異世界なのではないか、とそんなことを思うほど、この空間はスバルの知る現実から程遠く感じられた。

 既存の常識など通用しないが、この場所にはこの場所なりの理と秩序がある。

 違和感に思うものも、スバルという存在自体が異物であるための弊害だ。スバルはこの空間に来るべくして来た存在でなく、この空間もスバルを受け入れるべくして受け入れた場所ではない。

 

 スバルの精神は肉体から切り離され、遥か彼方のどこかに投げ出された。

 一方的に送りつけた張本人でさえ理解の及ばない領域だ。概念としての表面も底もないだろうに、奇しくも沈んでいくような感覚だけが意識を閉ざす。

 

 ──それを、良しとしないモノがいた。

 

 本来ならば有り得ない介入なのだろう。元いた場所やこの空間に限らず、世界を世界たらしめるために必要な『決まり事』を、知ったことじゃないと無理やりに破ってくる影があった。

 

 いつの間にか空間は影に染まり、どちらが元の色だったのか区別も付かないほどに満ちる影。それがスバルの意識に浸透し、染み付き、絡め取る。

 沈んでいたはずの意識が引き上げられていた。表面のないはずの空間に終わりが見えた。

 

 影の向こうに、また違う影がある。

 

 ──ふと、『洞窟の比喩』というものを思い出した。

 

 暗い洞窟の内部に縛り付けられた囚人。彼らは目の前の壁しか見られない。背後には火が灯っており、それが壁に映す影を見て囚人たちは今まで生きて来た。

 彼らの目に焼き付けられるのは影で出来た世界だ。洞窟の外にある太陽の眩しさは勿論、壁に影を落とす物の元の姿を知ることができない。知らないから、想像するという発想にも至らない。

 

 彼らにとってリンゴは丸くて黒い影であり、人間は細長くて黒い影でしかない。物事を一つの目線でしか見ることが敵わないのだ。

 リンゴが実際は赤く、時に青くも黒くもなるということを、光と影の両方を見る外の人間は知っている。それでも彼らは、無知ゆえ、盲目がゆえに、影こそが真実だと誤認する。

 

 ならば、今、スバルの目の前に広がった光景のように。

 世界から光という光が消え失せ、全て影に染まったなら。

 外の人間と囚人の見る世界に、何の差異も無くなってしまったとするならば。

 

『真実』とやらは、果たして誰に定められるのだろうか──?

 

 

 †

 

 

 意識が切り替わる。

 

 

 †

 

 

 意識が切り替わる。

 

 

 †

 

 

 意識が、切り替わる。

 記憶も切り替わる。感情も切り替わる。

 理屈が切り替わり、この世の仕組みが切り替わり、死の終わりと始まりが切り替わり、愛の形が切り替わり、ナツキ・スバルが切り替えられて──。

 

 

 †

 

 

 意識の覚醒は、沈んでいた顔を水面の上に出すような──出されるような感覚があった。

 

 ぱちりと目蓋を開くと、見えたのはまず白黒のタイルだ。何があったのだったか、と起き上がろうとして、何故か体が言うことを聞かない。

 

「……ああ」

 

 それもそのはず、スバルの体は四肢の全てが欠損していた。床を突く手も、立ち上がる足もない。

 だから顎を突き出し、肩を揺らして前に這った。しかし、重心がおかしいためか思ったように進めない。皮肉なことに、体重が軽くなったのが幸いだった。

 半開きの扉まであと一メートルといったところか。この速度なら十分以内には辿り着くだろう。

 

「待って」

 

 頭上から声が降りかかった。びっくりして身を捩ると、少女が立っていた。ただ、その青い瞳はスバルでないどこか遠くを見ている。

 廊下を颯爽と舞う蝶の後を、少女は追いかける。音も無く窓際に寄った蝶は、迷うことなく外に飛び出て行った。少女もそれに続く。

 しかし、窓の上に立って気付いたのだろう。それ以上進んだら落ちてしまう。何度か手を伸ばし、そこからでは届かないと知っておろおろと迷っているようだった。

 

 やがて数十分が経った頃だろうか。少女はとうとう口を開く。

 

「ベティーはお前を一人にしないから、お前もベティーを一人にしないで。一緒に行くから、置いていかないで」

 

 そう言って、力強く一歩を踏み出した。

 途端に少女の姿がスバルの視界から消えた。それきり何も聞こえることは無かった。

 

 しばし悩んだのちに、スバルは階段へ向かった。段差がある分、上るのには相当な体力を消費し、全身が痛みを訴えた。全身と言っても頭と体だけだが。

 

「ははは」

 

 全く笑えない話だったと思う。

 スバルは笑っていた。

 

 笑いながら芋虫のように這うスバルの傍を、長い時間が過ぎて行った。

 気付けば辺りは暗い。階段を上り終えた先に、僅かな光が見えたのでそこを目指した。顎を床に突き過ぎたせいか、歯が何本か折れて口端に零れる。だが、この状態で歯が折れることなど今更な話だった。

 

「はは」

 

 笑えない。

 スバルは笑っていた。

 

 そこだけに射した月明かりに、潰れた顎を乗せる。固まってボロボロと崩れる皮膚に冷気が当たった。

 

 氷だ。

 巨大な氷が、元は部屋の区切りがあっただろう壁を一直線に貫いて堂々と鎮座している。確認する気力は無いが、廊下の端から端まであるように見えた。

 

「────」

 

 その氷の中央には小さな人影が。

 銀色の煌きを幾重にも反射させた彼女の美しさに、氷越しでも思わず見惚れてしまう。大変な道のりだったが、来て良かったとスバルは思った。

 染み透る影が、スバルの引き攣った頬を撫でる。

 

「愛してる」

「は」

 

 スバルは、笑っていた。

 

 月明かりなどとうに消えて。

 彼女の黒い手がスバルの両目を覆い、そして、優しく閉ざされた。



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