頭ふっわふわな短編集 (サラダ豆乳パン)
しおりを挟む

TYPEMOON関連
fate セイバー、凛、桜、イリヤのハーレム(セイバー落ち)


サイトでリクエストしていただいたものを掲載しています


 衛宮邸、居間 

 

 

「お兄様。はい、あ~ん」

 

「あ~ん」

 

 

 容姿のよく似た兄妹が食べさせ合いっこをしている。妹である小さい方のイリヤが、兄である大きい方のシャドーにおまんじゅうを食べさせては、兄が妹であるイリヤをドロドロと甘やかしつつおまんじゅうを食べさせ返す。見た目は年の離れた兄妹であるが、本来は1つ違いでしか無いとは誰が分かるだろう。兄の方は最初から、“聖杯”を守る盾であり矛になるために作られたため肉体的スペックはサーヴァントを排除することはできないが撤退させるほどである。なにせ、父親である切嗣から射撃等を学んでいたため遠距離攻撃は勿論のこと近距離攻撃も某麻婆神父と互角にやりあえる。しかも、“聖杯”としては欠陥品だが、その魔力は一流であり魔術回路も申し分ない。容姿も母親であるアイリスフィールのような妖精の如き美を持ちながら、彫像のような固くも男らしさを持つ男。それが、シャドー・フォン・アインツベルンである。

 

 

「…………」

 

 

 微笑ましい兄妹の姿を見守る男一人と監視している三名の女性。セイバー、遠坂 凛、間桐 桜。この三人の目は、まるで目の前で浮気をされている女の目で兄妹を見ている。

 セイバーは、兄妹らと同じようなおまんじゅうがあるというのに手を付けずお茶を時折飲んでは監視を。凛は、シャドーが褒めてくれた長い髪を弄び、如何にも退屈してます感を出しながら監視を。桜は、いつでもお茶のおかわりをと準備しつつ何やら黒いものを少し蠢かせながら監視を。残りの男、士郎といえば遠い目をして亡き父に助けてと救援を出していた。

 

 

「イリヤ、美味しいか?」

 

「うん! とっても、美味しいわ!」

 

 

 実に和やかな様子である。小さな妹を膝に乗せ抱きかかえて団欒している。しかし、年齢差は僅か一つ。ただの誤差だ。仲がいいことはいいが、良すぎるという方向である。

 

 

「あぁ、イリヤ。あんこが口の横についてるぞ」

 

「えぇ~? どこ?」

 

「ここだ」

 

 

 左の口の端に少しあんこがついてしまったらしい。イリヤが他の誰よりも妹らしく可愛らしく甘えた声で態とわからないふりをする。それを分かっているのか分かっていないのか、相変わらずのこちらも甘い声でシャドーは自分の口元を指差してついている部分を教える。

 

 

 ここまでなら、戦争など起こらなかった。

 

 

 イリヤがシャドーの行動で気づき 自分で 側にある布巾なりテッシュなりで口元を拭うなり何なりしていれば。

 

 

「じゃあ、お兄様がとって?」

 

「しょうがないなぁ。ちょっと待ってろよ?」

 

「いいえ。お口で取って?」

 

 

 可愛らしくもあざとく、兄でも好きな人に、甘えながらアプローチする。

 

 

 開戦のラッパが鳴った。もしくは、終末のラッパが鳴った。

 

 

 士郎は、声にならない悲鳴をあげた。イリヤを除く女性陣の背後に嫉妬の炎(オーラ)を漲らせ勢い良く立ち上がったのだ。恐ろしい。養父に女の嫉妬ほど恐ろしいものはないと教えられ、義理の兄に当たるシャドーのとばっちりを受けてきた身は、どんなに鍛錬をしても容易くすくんでしまった。他の調停役、タイガーは学校。ライダーは、バイト。もうどうしようもない。非力な自分はなんとかいざという時助けられるよう、しばし存在感を消すことに専念するのみだ。居ても、流れガンド等ぶち当たる。逃げるのがいいはずだが、彼は正義の味方。どんなに恐ろしいものが前でも、守れるものがあるならその身を犠牲にしてでも守りたい。流れガンドを受けつつ義兄を守るのだ。自己犠牲者がいなくてもシャドーは余裕で自分の身は自分で守れるので心配も何も要らないが、自己満足でも誰かを守るべきという欲望に逆らえない哀れな男、衛宮 士郎。感謝の意や労いを義兄から受けるのが、己を犠牲にしても得られるものはそれしかなかった。だが、それだけでもいいと言えるのが士郎である。

 

 

「ちょっとそれはないんじゃな~い?」

 

 

 凛が引きつった口元と笑ってない目でイリヤに言う。

 

 

「イリヤちゃん、自分で拭けますよね? あぁ、私が拭いてあげますよ。えぇ、これで」

 

 

 桜は黒いもので優しく微笑みながらイリヤに圧をかける。

 

 

「シャドーはイリヤスフィールを甘やかしすぎです。兄離れしなければイリヤスフィールがダメになってしまいますよ」

 

 

 セイバーは真面目に忠告しているが言葉の中には嫉妬が深くあるのがあからさまだった。

 

 

「なによ、三人共。わたしは、お兄様に頼んでるのよ。ね? お兄様?」

 

「俺にシューマンのようになれみたいに聞こえた」

 

「兄妹の関係を超えたいのね!」

 

「シャドー!!」

 

 

 イリヤの本気なのかどうかわからない言は置いておいて、他の女性陣の圧が大変なことになっている。

 

 

「おいおい、上等なワインを床に流す真似はやめてくれ」

 

「そのワインに入っている毒は毒でもお薬よ」

 

「なら、なんて甘いお薬だ! 糖尿病になんかなってもいいから君達という甘味を味わいたいさ!!」

 

 

 イリヤを強く抱きしめて首元から甘さを撒く。イリヤはその甘さに引っかかり沈んだ。

 

 

 

「それほど甘いのかしらね?」

 

 

 凛が目を細め、まだくっついたままの二人を睨みつける。桜は笑っている。セイバーは、何故かシャドーの口元を見ている。士郎といえば、隙きを伺いなんとか助けようとしている。

 

 

「リン」

 

「なによ」

 

 

 手招きして凛を近寄らせるシャドー。凛の声は少々不機嫌気味だ。

 それもしょうがない。シャドー・フォン・アインツベルンと遠坂 凛の関係は奉仕愛誤だ。

 吊り橋効果、しかも向こうは意図していなかったがマッチポンプな危機的状況を退け、文字通り自分の身を斬ってまでの覚悟を見せて守ってくれた。同盟関係とは言え、シャドーの魔術を用いれば此方が一方的な従僕関係にすら慣れたと言うのに、それをせずひたすら共に戦い自身の限界が超えても守ってくれた。アインツベルンのホムンクルスだからと色眼鏡を使う前に、その魔力に魅せられた。纏うというより優しく包み込むという温かい魔力に。魔術師に必要のないそれに、唾棄すべきそれに。ただ、自分も包まれていたい。代価に遠坂 凛(貢物)を捧げる。奉仕することの愛に目覚め、その奉仕こそがシャドーのためになるという誤ちを凛自身が理解し納得している愛だった。それが、今、奉仕もできないのでは愛を示せない。それが気持ち悪く、嫌な状態なのだ。

 

 

「リン」

 

「だから、なに?」

 

「君の甘さは実に俺好みだ」

 

「……で?」

 

「端的にいうなら、そうだな…」

 

 

 もったいぶるように手招きした手を人差し指以外握って指を振る。凛は指を見てはシャドーを見てを繰り返す。そして、お茶会ではなく寝室に誘うような淫靡ま様子で口元に視線を誘われてしまう。

 

 

「リンを食べてみたい、だな」

 

「んなぁ!?」

 

 

 声に犯される。耳から入るシャドーの声に犯される。意味を理解し正常な判断をするべき冷静さを犯される。

 

 

「愛の甘さは深ければいい。そうだろう…?」

 

「ぅぁ…、あ……」

 

 

 甘さに一人沈んだ。

 

 

 

「シャドーさん!!」

 

 

 沈んだ姉を退けて隣に来た桜。セイバーは士郎に抑えられている。士郎から奉仕されるおまんじゅうとお茶にもてなされていた。食欲に負けたわけではなく、王としてもてなされれば、もてなし終えるまでもてなさらなければならない。正座し行儀よくお菓子とお茶を頂いている。だが、その目はシャドーから一切離さない。セイバーはひとまず抑えられている。

 

 

「どうした、サクラ?」

 

「深さなら私が一番ですよ」

 

「あぁ、そうだったな」

 

 

 間桐 桜とシャドー・フォン・アインツベルンの関係は重終絶愛だ。

 アハト翁の命により間桐家に訪問したのが最初の出会いであった。家族から引き離され間桐の魔術に馴染むための陵辱に心を食いつぶされかけた時に出会った、光、だった。目を射るようではなく、包み込むような光、そう感じたのだ。包み込むという表現を同じくするのは、彼女の中の遠坂の血がまだ生きていることを指していた。即ち、間桐 桜になりかけていたのを遠坂 桜に少し戻ったのだ。魔術の変容はどうしようもなく、それは間桐のもの。しかし、桜の本質が間桐から離れた。白い絵の具に黒を足し続け元の白い色がわからなくなった所に、また白い絵の具を混ぜた。汚い色だろう。灰色になろうとも黒色が強すぎる。でも、徐々に白を足していけばどうなるか。白に近くなる。真っ白とは言えないが白に近くなる。だが、汚い色であることはどうしようもない。自分を捨てた家族、間桐の人間への怨嗟、憎悪、負の感情を溜めに溜めた汚い物。それをシャドーに開示してみせた。助けてほしいからではない、お前もこうなれと乞うたから。五感を全て閉じたくなるような暗闇。それでも、シャドーはなんともなしに受け止めた。自身に降り注ごうものを全て飲み干してしまったほどに。桜は、どうすればいいのか、泣いた。解決方法がわからない。そもそも、何を解決すべきかもわからない。ただ、枯れたはずの涙を流す 桜 をシャドーは包み込んだのだ。それに感じ、思う。潰れるまで重く、終わりがなくとも絶てぬ愛があれば解決できると。間桐 桜でも遠坂 桜でもなく 桜 がはじめて見つけた解答。

 解答がバツならば問題文を解答に合うように書き換えなければと、(シャドー)を補填しようとしていた。できなければ、バッドエンド突入である。

 

 

「サクラ」

 

「はい」

 

 

 名前を呼ばれただけで嬉しそうに笑う。その彼女の頬に触れた。

 

 

「あ、あの…!」

 

「じっとして」

 

 

 身を乗り出すほど積極的だったくせに、仕掛けられると顔が真っ赤になり俯こうとする。だが、それは許されなかった。恥ずかしい。自分の全てなど、とうに見せたと言うのに。いや、だからこそ恥ずかしいのだろう。汚いところまで、全てシャドーは包み込んでくれた。だから、より解答が間違わないように気をつけねばならないのだから。

 

 

「綺麗な、目だ」

 

「!」

 

「それに、髪も綺麗だ」

 

「………」

 

 

 遠坂から間桐に変わったことを証明する物達、それに負が集中する。そんな桜を、優しく、見てくれた。

 

 

「俺の知ってるサクラの色だ」

 

 

 濁る視界に光が。

 

 

「俺の好きなサクラだ」

 

 

 覗き込まれる。深い所を。深淵を。汚濁としかいえないものを。ただ、優しく、見た。

 

 

「サクラ」

 

 

 目の中の甘さを味わい沈んだ。

 

 

 

 

「………………」

 

 

 沈んだ三人を部屋に寝かせ、セイバーとシャドーは外に買い出しに行く。タイガー分までおまんじゅうをい食べてしまったため、その補充と夕飯の買い出しだ。

 

 だが、会話はない。ムスッとしているセイバーを後ろに、シャドーは士郎からのメモをたよりに道をゆく。

 

 

「うーん…。おまんじゅうだけでいいのか?」

 

「………」

 

 

 セイバーに尋ねているようでもあるし、独り言を言っているようでもある。すれ違う人は、不思議そうに彼らを見るが一部を見ると微笑ましそうな顔をしたり苦そうな顔をしたりしている。そして、彼らが通り過ぎるとぼうっとその姿を見続けていた。

 

 

「セイバー」

 

「………はい」

 

 

 繋いでいる右手を支点にセイバーの方へ振り向く。

 

 

「まだお腹は空いているか?」

 

「え? 食べられるものがあるならば入りますが………」

 

 

 常人ならばお腹を壊すほど食べていたのに、まだ入るらしい。セイバーの腹の好き具合を確認すると、公園にある何かを指差した。

 

 

「アイスクリーム、さ」

 

 

 ベンチに座りアイスクリームを食べる二人。黙々と何段にも重なったアイスクリームを食べるセイバーを見つつ、二段重ねのアイスクリームを食べる。

 

 

「セイバー」

 

「んむ。 はい?」

 

「口についてるぞ」

 

 

 イリヤのときのように自分の口元を指して教える。それに、はしたないとアイスクリームが落ちないよう慌てつつポケットを探ろうとする。仕草まではいった。そこで止まる。

 

 

「………」

 

「セイバー?」

 

「…その」

 

「あぁ」

 

「とって頂けませんか…?」

 

 

 頬を染め口元を見せるセイバーにシャドーは少し目を瞬かせる。

 

 

「………口で?」

 

 

 冗談で言った。いつものような軽口だ。

 

 

「………はい」

 

「…………………………」

 

 

 まさかの返事に固まる。だが、アイスは溶ける。

 

 

「は、はやくしてください! アイスが溶けてしまいます…」

 

「いや、あぁ、うん。そうだが、いや…」

 

「は、はやめにお願いします」

 

「………」

 

 

 目を閉じられてしまい、まるで口付けのシーンのようで、困る。が、今までにも何度も、そして彼女に対してだけある、その衝動に抑えることなどできなかった。

 

 

「!!」

 

 

 ペロリと熱い舌の感覚。ぞわりとする。嫌悪ではない何かだ。唇に触れないよう、じっとり丁寧に動く。もう少し。あともう少しで唇に当たる。でも当たってはくれない。

 

 長い間、そうしたせいでアイスは溶け落ちた。

 

 

「セイバー…」

 

「………」

 

 

 シャドーから出される、甘い匂い。甘い声。甘い瞳。どれもが女を堕す。計算しているわけではない。そのように作られたから、意図せずできてしまっている。

 

 

『どうか、効かないで……』

 

 

 頭の片隅に深く根付いた声に意識を戻す。ここで、シャドーに負けてはいけない。

 

 

「シャドー」

 

 

 少し強く名前を呼ぶと、向こうも我に返ったのか食べ終えたアイスのコーンを持たない別の手で顔を覆い顔を離した。

 

 

 

 そして深呼吸。一回、二回、三回、四回、五回。

 

 

 シャドーと同じようにセイバーもする。

 

 

 そして、三分ほどだろう。落ち着いた様子で話す。

 

 

「すまんな、セイバー。これはどうしようもないのが、歯がゆいが…」

 

 

 いつもの涼しげな顔を歪め隣に声を聞かせる。

 

 

「いいえ。大丈夫ですよ、貴方のそれは正常です。お気になさらずに」

 

 

 頬をまだ染めつつ隣に声を聞かせる。

 

 

「こんな属性は少々困るんだがな………」

 

 

 父親である切嗣から引き継いだ【結合】と自らの特性の【誘惑】の性。心を迷わせて、さそい込み、逃げ出さないよう結び合わせる。淫魔と呼ばれるほどの魅了感は彼の属性、土と水の二属性だ。聖杯の器として生み出されたのでなく、聖杯の護り手として生み出された彼はイリヤスフィールと違って胎児段階に魔術的操作は行っていない。だが、調整はされていた。非凡な才能と容姿は、生まれる前からこうなると確実に決まっていた。特性を除いて。目で、声で、匂いで、体液まで、全て、誰を彼もを【誘惑】してしまう。対魔力が高ければいいとものでなく、生き物であれば老若男女問わず【誘惑】してしまうのだ。但し、条件はある。目を合わせなくてはならない、声を聞かせなければならないこういった制約があっても、自然と【誘惑】してしまうことがある。発汗し蒸発したものでも、彼はできてしまう。彼の性格が天性の悪魔のものであれば開き直りができる。だが、彼の中身は【善】だ。周りの様子に自分の力の制御に苦悩していた。根っからの【色情魔】なぞにはなれなかったのだ。ホムンクルスと言えど生き物の形をしている。【誘惑】が効かないものなど極少数であった。その中に、辛くも妹は含まれていなかった。

 胎児段階で、彼の特性に気づいたアハト翁はすぐさま抗体となる魔術を行使し何とかなったものの、それも効く相手が限られてしまう。そして、なによりすぐに効果が失くなってしまう。それが変異なのかどうかは分からない。だが、いつまでも【誘惑】が続くのかというと、そういうわけでもない。常に行使されてはいるが、中断することもできるのだ。中断だ。途中で断つ、だ。麻薬常習犯がなぜ完璧にやめられないのか、という話をしよう。麻薬は、簡単に止められるほうからスタートするのがほとんどだろう。いい気持ちが続く、ずっと続くわけではない、また味わいたいがために余計に麻薬に手を出す。これの繰り返しだ。“常習”なのだ。此処がポイントである。何度も繰り返して、習慣のようになっているのだ。習慣が崩れるとどうなるか、全ての崩壊である。大げさと思うだろうか。大袈裟ではないのだ。もし、もう息を吸ってはいけないとなったならどうだろう。そう、“死んでしまう”。定期的に彼の成分を摂取しなければ、良くて衰弱死になってしまうのだ。バイオテロにはもってこいの代物というわけだ彼は。

 だが、何処にも例外というものはある。

 

 

「どうにかしたいからどうにか頑張ってはいるが。やはり、シューマンみたいにはなれんのだろうな、俺は」

 

 

 こぼす言葉に苦々しさが混じる。好きでこのような特性になったわけではない。だが、諦めはしていない。もう何も見たくないと閉ざせばいい赤い瞳を地面に落ちたアイスを見ていた。

 

 

「私はなんとか戻れますが、どうしてでしょうね」

 

 

 真実の愛を誓ったカップルでさえ彼が近づいてしまえば、そんなものまやかしであったと証明されてしまうほどだ。どんなに愛が強くとも、どんなに愛が深くとも、どんなに愛が綺麗でも、意味がなくなってしまうのだ。

 

 

「ん、あぁ。それは……何故だろう」

 

「分からないのですか?」

 

 

 思いもよらない解答に隣を見上げるセイバー。シャドーは銃を使いすぎてできたタコを撫でつつ頷く。

 

 

「今まで、と言ってもそんな外には出ていないが、分からない」

 

 

 服の上からでも分かる筋肉は威圧を与えるだろうが、それもすぐに感じなくなる。

 

 

「英霊にも効く奴と効かない奴がいたな」

 

「ギルガメッシュとライダーとバーサーカーは効きませんでしたね」

 

 

 三英雄が同じく持っている特性とは何か。

 

 

「神性、か?」

 

「それなら、ランサーも入っているはずです。でも、すぐに解けはしませんでしたから違うのでしょうか?」

 

 

 ギルガメッシュは宝物庫に対応できるものがあったのかもしれない。ライダーは元は女神であるし、バーサーカーは十二の試練があるからなんとかなるのだろう。

 神性では無いが、セイバーには竜の血が混じっているので、それのおかげだろうか。だが、そんなつまらない話にはなっていない。

 

 

「基本的に女性であれば老若問わず強くやられる」

 

「はい」

 

「そして、俺が止めるまでやられたまま」

 

「はい」

 

「だけど、セイバーは止めなくても戻れる」

 

「そうなりますね」

 

 

 二人で考え込む。隣から来る異性の香りにお互い惑わされながら。

 

 

「セイバー」

 

「はい?」

 

「その、目を見てもいいか?」

 

 

 【誘惑】の特性がまた出たのかと思ったが、声に強制力はない。

 

 

「………」

 

 

 赤い瞳。アイリスフィールとイリヤスフィールと同じ赤い瞳。だが、深く愛されるようような感覚が脳まで浸透するような感じは彼だけだ。彼、だからだ。この感情を彼に打ち明けていいのか。【誘惑】のせいと嘆かないか。少しどろりと濁る。

 

 

「セイバー」

 

「! は、ぃ…」

 

 

 また沈みかけた。が、やはり戻ってこられる。ふと、意識を戻すと彼は何か得たのか、何度か頷いていた。

 

 

「分かりましたか?」

 

「あぁ、分かった。なんとも、まぁ、分かれば簡単。いや、色々と複雑、だな」

 

 

 そう言うと彼はベンチから立ち上がった。

 

 

「セイバー、どうかきかないでほしい」

 

 

 どれの意味だろうか。効く、か、聞く、か。だが、どちらもできない。片方は対処できないが、もう片方はする気はないのだから。

 

 

「アルトリア」

 

 

 負傷したシャドーの枕元で教えた真名を呼ばれた。どうしようもなく身体が熱くなる。心が歓喜で満ち騒ぐ。

 

 

「俺は」

 

 

 晴れやかな午後に、晴れやかなシャドーの声。

 

 

「君を愛しているんだ」

 

 

 ありえないくらいの衝撃が身体に走る。稲妻が落ちた、そのような感覚。

 

 

「きかないでくれたか?」

 

 

 そんなの。

 

 

「効いていませんし、聞いていました」

 

 

 そして。

 

 

「私もです」

 

 

 同じく立ち上がり、赤い顔のまま。

 

 

「私も、愛しているんです」

 

 

 私の言葉にしばし固まり、その後必死に私の目線まで顔を近づけながら中断をかけているシャドーに背伸びしてもう一度。

 

 

「シャドー、愛していますよ」

 

 

 効いていないし、聞いている。

 

 いつものクールな様子は何処へいったのか、子供のような無邪気な顔で。

 

 

「アルトリア」

 

「シャドー」

 

 

ちゃんと、きいている。

 

 

〘愛しています〙

 

 

私達の関係はは相思相愛。




主人公設定


・衛宮切嗣とアイリスフィールの実子にしてイリヤの実兄
・性格はクール(MGSソリッド・スネークのような感じ)
・父親譲りの射撃と言峰綺礼と互角の武術
・かなりの魔力をもっている

リクエストしていただいた方のお名前 シャドー 様


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月姫 アルクェイド・秋葉・シエル・翡翠・琥珀のハーレム(前編)

サイトでリクエストしていただいたものを掲載しています

こちらは前編となります


「おっ…」

 

 

 妹の秋葉と並んで登校する姿も、ようやく日常となった今日このごろ。教室に向かう途中で、幼い頃からよく知っている男の後ろ姿を見かけた。背は高すぎるわけでもなく低すぎるわけでもない中肉中背の青年だった。後ろ姿しか分からないが、今日は少し機嫌がいいようだ。遠野 志貴には要因までは分からないが、そのような感じだけはわかった。

 

 機嫌が良かろうが万が一がある。昔の過ちを繰り返さないように声だけかけた。

 

 

「よう、シャドー」

 

 

 ここは相変わらず周りがざわつくが気にしない。シャドー、と名を呼ばれた青年が振り返る。

 

 

「………」

 

 

 夜更かしのし過ぎだろう消えない目の隈の所為で更に近寄りがたくした顔の青年が無言でカバンを持っていない手をあげて返す。

 

 

「今日も秋葉と来たんだ」

 

「………」

 

 

 手を上げ返して、シャドーの隣に並ぶ。

 

 

「今日の朝、英語の小テストだろ? できそうか?」

 

「………」

 

「俺? ちょっと自信ないかな。文で来られると困る」

 

「………」

 

「文で来られると、単語の意味を考えて考えてで、今度はそれをうまくつなぎ合わせなきゃいけないだろ? それが面倒だよな…」

 

「………」

 

「英文は英文として読めって? どうしても日本語に変換しながら読んじゃうんだよなぁ」

 

 

 ここまで言葉を発しているのは志貴のみだ。だが、成立している。会話と言うには一方通行のようだが、シャドーは表情や手を細々と動かしているため一応、意思の疎通はできている。手は誰が見ても分かるが、表情の方を見るとよく分からない。微妙な変化なのだろう。傍から見ると勝手に喋る志貴がうるさいと手の動きで追い払おうとしているように見えるのだ。

 

 なにせ、シャドーという男。この学校で一部を除いて彼の声を聞いたものはいない。とんでもない美声だとか、顔に似合わず可愛い声とか色々噂されている。出欠確認でも喋らない。教科書の朗読などは目で教師らを威圧し指名を黙殺させる。元々喉に疾患があるとかそういうわけではないらしいが、まったくしゃべらない。声を出さない以外は素行良好、成績も高い所にいるため教師らは何も言わない。熱血教師などがなんとかしようと指導をしていたが、声を聞いたものはいなかった。

 

 

「………」

 

「ん。 体調は平気だ。お前は相変わらず心配症だな」

 

「………」

 

 

 教室の前までたどり着いて志貴の席で談話する。といっても話しているのは志貴だけだが。有彦は今日も遅刻のようだ。

 

 

「いや、カレーでこれは治らないから。タッパーを取ってこようとするな」

 

「………」

 

 

 どことなくしょぼんとした様子を醸し出しているシャドー。それに志貴はちゃんと礼を返した。

 

 

「気遣ってくれて有難うな」

 

「………」

 

 

 今度は誰でも分かる。気にするなという意思表示だ。

 

 

「ん? なんだ、これ?」

 

 

 ポケットから何かを取り出して志貴に渡す。長方形で包装紙に包まれている。

 

 

「ガム、か?」

 

 

 こくりと頷いて肯定の意を示す。そして頭を指差して、三回頷いた。

 

 

「へぇ、そうなのか」

 

 

 何がわかったのか分からないが志貴はシャドーを理解し、包装紙を開け口に含もうとして少し止まる。

 

 

「なぁ、シャドー」

 

「?」

 

 

 首を傾げ、どうした? と尋ねるシャドー。

 

 

「これ、何味だ?」

 

「…!」

 

 

 再び頷くだけのシャドー。嬉しいものをもらったのでおすそ分けしたかった、と表情と仕草で分かった志貴は困った。これがミントとかそういったメジャーな味でないことが分かったのとシャドーにこれだけ好意的に相手にされる人物からのものだということがわかったことと、シャドーは悪意も何もないということ。

 

 

「カレー、味か…」

 

 

 美味しいからはやく食べてみろ、と善意しかない目で言うシャドー。美味しいと感じる彼の舌と志貴の舌、それぞれの味覚が合っていればいいが。

 

 

「………」

 

 

 ためらう。どう考えてもネタ商品なゲテモノなそれを口に含むことにためらいが生じる。冗談で渡されたなら適当に濁して遠慮すればいいが、これは圧倒的善意からのものであるため断れない。

 

 また首を傾げ、どうした? と尋ねられる。全身から溢れる善意に志貴は意思を固めた。

 

 

「い、ただきます」

 

 

 翡翠の料理並でないことを願って口に入れて咀嚼した。

 

 

 味はわりかしイケた。

 

 

 

 一時限目の英語の授業は小テストから始まった。筆記用具を置いて志貴は小さく息をつく。黒板のとなりにある時計を見るとテスト終了の合図があるまで、いつもより時間があった。

 

 ガムを噛みながらシャドーのヤマを当てにした勉強は成果を出した。ガムを噛む事で顔と顎の筋肉を動かし、脳内の血液量が増えて脳の神経細胞が活性化して集中力が上がったため、テストの出来は中々よかったらしい。

 

 シエル先輩のものだろうアレはゲテモノではなかったらしい。あのカレーマニアのシエルのものなのだ。流石にゲテモノを渡すわけがない。彼女のカレーへの情熱ゆえもそうだが、好きな相手にゲテモノを渡す嫌がらせの行為を「いいひと」を地でいく彼女がするわけがない。

 シエルとは、お互いカレー好きなこともあるためシャドーの校内での数少ない好意的な交流がある一人だ。校外でも仲がいいのだが、仲の良さをアピールするときに限って混ざる人物が多くいるため。どのくらい深い仲なのかは、志貴にも他の生徒や教師もよく分からない。

 

 時間を持て余した志貴は、テストの解答を確認もせずに自身の斜め前に座るシャドーを見た。背を真っすぐ伸ばし手は行儀よく膝の上に置き目を閉じて、寝ていた。寝息は聞こえないものの寝ていた。その姿は武人が鍛錬の一環として精神を集中させるために瞑想しているような、そのような研ぎ澄まされて凛とした姿。だが、実際はただ寝ているだけだった。

 

「(相変わらず上手いなぁ…)」

 

 志貴は知らずに笑みを浮かべる。シャドーは彼にとってかけがえのない日常の象徴であり続けている。昔も今も。ただ一つ変わってしまったことは可愛げというものがごっそり抜けてしまったことだ。いや、年頃の男に可愛げがあっても気持ち悪いだけなので別にいいのだが。人間的に欠けつつも満ちているようにみえるのは何故か。そんなこと志貴は考えたこともない。執着が薄い志貴にとって、今も昔もいなくなったら凄く困る、そう口にも出させる稀有な存在。それは、堂々と居眠りをしている。

 

 

「よーし、終わりだ。エンピツおけー」

 

 

 教師が終了を告げる。クラスメイトは様々な様子で、達成感、絶望感、安心感、などなど身体や表情で表している。シャドーは、今目が冷めたであろうにそんなこと感じさせずにパチリと目を開けた。

 

 

「じゃあ、隣と交換して赤ペン持てよー」

 

 

 教師に言われた通り隣と交換する。シャドーが隣と言葉はいつも通りかわさない。志貴も特に隣とは話さなかった。

 

 

「まず、第一問の答えは――――」

 

 

 答えをまず言い丸つけをする。その後、答案用紙をそれぞれ返して教師がっぽい発音で英文を読んで解説する。

 

 

「(8割いったか…。サンキュー、シャドー)」

 

 

 解説を聞き流しながら自身の名前を書いた隣の欄の数字を見て心のなかでシャドーに感謝を言う。シャドーは綺麗な姿勢のまま黒板を見ては自身の答案用紙に何か書いている。真面目な彼のことだから落書きをしているのではなく、解説で気になったことをメモしたりしているのだろう。

 

 

「この問題は、定期試験でも似た感じで出すから覚えとけよー」

 

 

 集中力を途切らせてだらけていた連中が、はっとして答案用紙に印をつけたりした。志貴も彼らに習って印をつける。そこの問題は丸がしてあった。

 

 いくつか定期試験のヒントなどを言ってから昨日の授業の続きに入る。教科書の朗読は日付で決まるのが、この教師のマイナスポイントの一つだ。そして、その当番はシャドーである。

 

 

「じゃあ、ここを…。きょうはぁ、えっと……? あ」

 

 

 面倒そうにシャドーを見る教師。シャドーは気にしていないのか教科書を見たままだった。

 

 

「お前、読むか?」

 

「え? あたしですか?」

 

 

 シャドーの隣の席の女生徒に声をかけ読ませることにしたらしい。女生徒は大人しめな性格なので、嫌だとしても嫌と言えず横目でシャドーを睨むと立ち上がり英文を読み始めた。シャドーは動じず教科書の英文の朗読と同じスピードでエンピツの後ろでなぞる。志貴は苦笑いした。社会に出てシャドーは絶対苦労するな、と。

 そうして英語の授業は終わり他の教科も滞りなくすんで、昼食である。

 

 

「シャドー、学食行こうぜ」

 

 

 シャドーはタッパーと米だけ入った弁当箱を持って志貴の後に続く。

 

 

「お前料理創れるのにそれなんだな」

 

 

 悪いか? とでも言ってるのだろうか。よくわからないがシャドーは横目で志貴を見返す。

 

 

「いや、そのカレー美味いの分かるよ。そこらのカレーより美味いしハマるのは分かる。俺も好きだし」

 

 

 無言で左上あたりを見るシャドー。

 

 

「こう、普通は卵焼きーとか、えっと、きんぴらごぼうーとか色々考えないか?」

 

 

 視線を下に下げて片目を瞑る仕草をするシャドーにしょうがないと理解した。

 

 

「なるほど。面倒くさい、か。なら、しょうがない」

 

「あら、お二人とも学食ですか?」 

 

 

 階段上からよく知った声がかかった。二人は同時に後ろを向き軽く頭を下げる。

 

 

「こんにちわ、先輩。先輩も学食ですか?」

 

「ええ、そうです。ここのカレーも私は好きですから」

 

 

 と、そこでシエルはシャドーの手元を見る。

 

 

「もしや…、手作りcurryですか?」

 

 

 何故、若干本場っぽい発音でカレーといったのかは分からないがシエルがシャドーに問いかける。それにただ頷くだけで返す。

 

 

「分けて頂けたり…してくれますか?」

 

「先輩なら、いい」

 

 

 初めて今日シャドーの声を聞く。何故か人払いがしてあるので聞いたものはシエルと志貴しかいない。学校の伝説は守られた。

 

 平坦な声は年頃らしく変声期を迎えており志貴よりも声が低い。冷たいというよりも冷めているといった表現が似合う声質であった。

 

 

「本当ですか!? いや~、今日はなんていい日なんでしょう。シャドーさんとご飯を食べられるだけでなく、愛情もりもりのカレーまで頂けるなんて!」

 

「先輩先輩。俺、俺忘れてる。俺も入れて、抜かないで。せめて添えて」

 

「ふふふ。こうしてはおられません。電子レンジは割りと皆さん使いますから急がないといけません。急ぎましょう!」

 

「………」

 

 

 シャドーが転ばない程度に引っ張り急かすシエル。特に反対しないからか大人しくシャドーはついていった。

 

 

「やれやれ…。モテるってのは大変だ」

 

 

 志貴は階段を少し早く降りてついていく。

 

 

 

 

「あら、皆さん」

 

「うげ、秋葉…」

 

「こんにちわ、秋葉さん」

 

 

 シャドーは弁当を持ち上げて返答する。

 

 

「こんにちわ、シャドーさん、兄さん、シエルさん。ところで…、うげ、とはなんでしょうか、兄さん?」

 

「あ、いや、その…」

 

 

 思わず出た声に秋葉が半目で睨みつけ追求する。

 

 

「兄妹仲良くていいですね。さぁ、シャドーさん、私達には使命がります。電子レンジへ早く行きましょう」

 

 

 その声に頷き返し二人でレンジへ向かう。温めて帰ってくるまで席を確保した志貴は公衆の面前で説教を受け続けていた。

 

 

「ああ、お茶はそこの金色と青いのだけに淹れてくれればいいわ」

 

「ちょっと、妹」

 

「青い…」

 

 

 二人から自身らの扱いに文句が上がるが無視される。シャドーはぼんやりと皆を見ていた。

 

 

「え? ですが」

 

「私とシャドーさんは今喉が渇いていないの。欲しいときは淹れてもらうから、今はいいわ」

 

「はい。わかりました」

 

 

 習った手順通りに紅茶を淹れる。いい匂いだ。味も申し分ないだろう。何か仕掛けられてなければ。

 

 

「で? 妹、なんかあったの?」

 

「何の話です」

 

 

 唐突に話し出すアルクェイドに不機嫌なのを隠さないで返す。

 

 

「翡翠にさっき聞いたじゃない」

 

「特に話すようなものではありません。お気になさらずに」

 

「ふ~ん……。まぁ、いいや」

 

 

 本能的に何かを察したのか紅茶に手を付けずにシャドーの方を向くアルクェイド。

 

 

「ねぇ、知ってる、シャドー? 最近、子供がいなくなっちゃうんだって」

 

「あぁ、あの噂ですか」

 

「どんな話ですか?」

 

 

 いつもなら食いつきもしない秋葉が食いついた。アルクェイドが茶菓子をつまみながら話し出す。

 

 

「夜になると青い灯が灯るんだって」

 

「青い灯?」

 

「そう、なんかばーっと」

 

「一面にというより一部らしいです」

 

 

 それで と目でシャドーが続きを促す。

 

 

「灯る時は夜の十二時、ぐらいかな? そのぐらいに子供が泣き出すんだって」

 

「確か七五三ぐらいの年の子たちがなくそうです」

 

「そして、朝起きると子供がいない。家の中を探して回る。でも見つからない。それぐらいの子供だからそう遠くへは行けないはず、かといって誰かが連れ去ったあともない」

 

「ニュースとかでも最近子供が行方不明になっているのが流れてましたね」

 

 

 秋葉はアルクェイドの話の後、思い詰めた顔で言う。

 

 

「で、見つかったんですか?」

 

「見つかったわよ」

 

「何処でですか?」

 

「墓地」

 

 

 嫌な場所で見つかるものだ。

 

 

「正確には無縁墓地です」

 

 

 シエルが補足する。

 

 

「あぁ、最近そういう所に行く方が増えたと聞いたことがありますね」

 

「続けるけど」

 

 

 シャドーは翡翠が怯えてないか確認する。その翡翠はいつでも給仕ができるように秋葉の傍に立っていた。とくに怖がっている様子はない。シャドーの視線に軽く首をふることで返した。

 

「見つかったのはいいんだけど、ちゃんとしてなかったのよ」

 

「ちゃんとする、とは?」

 

「飾りになってたって」

 

「飾り?」

 

 

 秋葉はアルクェイドの次の言葉に期待した。別のものであってくれと。でないと面倒なことになっていると理解して対処しなくてはならないからだ。

 

 

「骨で作った飾り」

 

 

 確信して秋葉は頭が痛くなった。それをまったく見せずに、いつものすまし顔で話の続きを聞く。

 

 

「骨の飾り、ですか…」

 

「なんか丸いの」

 

「アバウトすぎますよ…。丸いとっても円状なんです。骨をくっつけて円状にして飾る、そして妙なのがまだあります」

 

「妙?」

 

 

 そこでシャドーがぽつりと言った。

 

 

「念仏」

 

「そうそう、なんだ知ってるんだ」

 

 

 アルクェイドが言葉を続ける。

 

 

「なんだっけ、なむあみだぶつ~ってのがびっしり書いてあるんだって」

 

「仏教関係…」

 

「宗教のものが出てきましたからね。界隈では色々問題になっています」

 

「噂というだけではないのですか?」

 

「筋では、本当にある事件だという話で進んでいますね」

 

 

 シエルの言葉に秋葉は頭痛と胃痛を感じた。そこで琥珀が戻ってきた。

 

 

「何をしていたの、琥珀」

 

「新しいヤク、いえ、お薬を調薬してまして遅れました。申し訳ありません」

 

 

 さらりと危ない言葉を言う琥珀。秋葉は呆れたように息を吐くことで自身の胸中の淀みを含ませて隠すことに成功した。

 

 

「喉が渇いたわ。琥珀、お茶を」

 

「はいは~い」

 

「お茶なら私が…」

 

「翡翠はいいわ。琥珀に給仕を代わってもらいなさい。立ちっぱなしで疲れたでしょう」

 

「でも」

 

「秋葉様のお言葉に甘えましょうよ」

 

「………翡翠、休め」

 

 

 ペットに命令するかのようなシャドーだが他意はない。

 

 

「じゃあ、淹れますね~。蒸らして~……、コポコポ~」

 

 

 秋葉とシャドー分の紅茶を入れ給仕する。他の二名は翡翠が淹れてくれたが一滴も減っていない。

 

 

「美味いな…。流石だ、家政婦」

 

「ふふ、ありがとうございます。ところで、シャドーさん。今日はお泊りになられますか」

 

 

 飲んで一息つき感想を言うシャドーに嬉しそうに答えて翡翠がずっと聞きたかったことを聞く。

 

 

「泊まるの? じゃあ、私も泊まる」

 

「なら、私も」

 

「部屋がありません。お帰り下さい」

 

 

 シャドーの返事はまだなのに手を上げていう二人に、秋葉はすげなく断る。

 

 

「こんな広いんだから空き部屋なんていくつもあるでしょー」

 

「貴女達を泊まらせる場所はないです」

 

「そこをなんとか」

 

「無理です」

 

「私は大丈夫ですよね?」

 

「貴女"達”です。貴女も泊まれるなんて思わないで下さい」

 

 

 ぶーぶー言い争う三人を無視し、琥珀が再び問いかける。

 

 

「シャドーさんのお部屋は確保してありますので。どうですか?」

 

「………」

 

 

 琥珀の横で翡翠が無言で泊まって欲しいとアピールする。

 

 少し考えた後、無言で首を振った。その様子に姉妹は残念そうに肩を落とす。

 

「そうですか。まぁ、いいです。もうしばらく此処に居てくださるだけだけでも嬉しいです。ね、翡翠ちゃん」

 

「! ……はい」

 

 

 シャドーは、姉の言葉につられて翡翠を見たため目が合ってしまった。それを慌ててそらし顔を赤くして頷いた。

 

 

「これぐらいまでいていいか?」

 

 

 学生服の袖をまくり腕時計を見せ指で数字を指す。長居するという時間ではなかったが、もうしばらく遠野邸に淹れる時間帯だった。

 

 

「はい。いつまでも居て下さい」

 

「家がある」

 

「ここを家にしましょうよ」

 

「自宅はあっちだ」

 

「ここを自宅に!」

 

「ここは志貴とアキと家政婦と翡翠の家であって、俺の家じゃない」

 

 

 ぽんぽん言い合って時間は流れた。翡翠はさり気なくシャドーが飲み干したカップにお茶を注ぎ自分のお茶も褒めてもらおうとし、秋葉たちはまだ言い争っていた。

 

 

 

 

→中編(スルー推奨)に続く



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月姫 アルクェイド・秋葉・シエル・翡翠・琥珀のハーレム(中編) ※スルー推奨

月姫 アルクェイド・秋葉・シエル・翡翠・琥珀のハーレムの中編です。

悲しいほどに残念な戦闘描写があります。見たくない方はご注意ください


  

 

 その夜、街を徘徊するシャドーの姿があった。彼は高校生。そんなものが夜中でウロウロするなど警察に補導されることは時間の問題だ。そして、一番問題なのは長いものを持っている。銃刀法違反に全力でアウトを宣告されるものである。剣道部らのように背中に竹刀袋等に入れて隠さず持っているのであればまだ怪しまれない。だが、堂々と左手で鞘に収めたそれをいつでも抜刀できるよう万全の準備がしてある状態である。

 

 真夜中、夜の中に十二時になりそうな時に、高校生とは言え子供が徘徊している。目的が無いわけではない、場所を特定していないからウロウロと彷徨う。今日も夜更かし。目はいつもと違う色合いであった。

 

 一人ウロウロと彷徨う。獲物は何処だ、と辺りを見渡す。害あるものはなんだ、害するものは誰だ、と睨む。そして、一つ深呼吸してこう呟いた。

 

 

 「送るのは俺だ」

 

 

 目を凝らす。

 

 

 

 

 

 その日は残暑が残っており、少々蒸し暑い日であった。子供を中心に親子三人で布団で寝ているが、蒸し暑さのせいで寝心地が悪いのか、そもそも寝相が悪いのか。子供はうつ伏せの姿勢で両手をそれぞれ父母の顔に乗せ、足は母の脇腹に乗せるという寝相の悪さ。子供の寝相の悪さの遺伝子のもとであろう父親は子供の手を顔に乗せつつ右手は目覚まし時計を倒し左手は絵本を読み聞かせるときにつけていたライトスタンドを倒して、いびきをかいている。母親は、それが煩いせいか、子供の手から伝わる体温が鬱陶しいのか、はたまた両方からかうなされていた。彼女は寝相が悪いというのではなく、父子の犠牲者であった。

 

 普段ならこのままぐっすりと朝まで起きない子はなぜか目を覚ました。寝ぼけ眼で両手を目にやりしょぼしょぼとする目をこすった。そして顔を左右に振る。右を見ては安心し、左を見て安心する。ちゃんと父母が居た。だが、それだけでは物足りないのか、それとも一人だけ起きている今の状況が寂しくてたまらないのか、原因はよくわからないがぐずりだす。

 

 

 「うぇ…っぐ、ふぅうん」

 

 

 泣きながら耳を抑えた。ぎゅっと。

 

 

 「うぇええ、ふぇ、ゔぅうん」

 

 

 耳を抑えながら泣き声を上げる。その声に先に起きたのは母親だった。

 

 

 「どうしたの、たーくん?」

 

 

 寝起き特有のぽやーとした声だが子供を心配しているのは分かった。眠気の残る体を起こし子供を胸に抱きしめ背中をぽんぽんと叩いて泣き止ませようとした。それのせいか、子供の泣き声は大きくなる。

 

 

 「ゔゔゔう、ひくっ、うぇえぇええ!」

 

 「ん~~、どうした~…?」

 

 

 その声の大きさに不快な様子を混ぜて父親が起きた。だが、身体は起こさず目も開けず声だけを出す。

 

 

 「うぇぇえええええ!!」

 

 「どうしたの、たーくん。眠れなくなっちゃったの?」

 

 「たか、どうした」

 

 

 更に大きくなった泣き声に父親も心配になり起き上がる。そして電気の紐を引っ張り青く灯る部屋から、昼間のような黄色い光になる部屋に変えた。両親が聞いても子供は耳を抑えて泣いたままで泣き止まない。

 

 

 「おい、どうした。耳が痛いのか?」

 

 「そうなのかな。たーくん、ちょっとおててとって」

 

 

 耳を確認しようと母親が子の両手に触り外そうとする。泣き声はまた凄まじいものになった。

 

 

 「中耳炎で耳痛いのかな? えっと救急病院」

 「びょういんやだぁぁあああああああ!!」

 

 

 父親の言葉に絶叫する。どうやら先程からの会話も聞こえているようだ。

 

 

 「でも痛くて寝れないんだよね? ずっといたいいたい思いしなくちゃいけなくなるよ? 大丈夫、怖くないよ」

 

 「おうた、が、うっく、きこえるだけだからいいのっ!」

 

 「歌?」

 

 

 母親のなだめに子供が変なことを言い出す。夫婦は揃って首を傾げた。

 

 

 「歌なんて聞こえないぞ、たか。さぁ、お着替えして病院行こう」

 

 「うそじゃないぃぃぃい!! きこえるもん! びょういんやだぁああああ!!」

 

 「う~ん…。ママとパパには聞こえないよ? たーくんには聞こえるの?」

 

 「おい」

 

 「ちょっと黙ってて」

 

 

 男女の違いで子供の接し方は違うのはしょうがない。どちらも子が心配なのは確かだが、子供を信じているのは母親の方らしい。泣き止まない子の頭を撫でて聞いた。

 

 

 「うん…」

 

 「どんなお歌?」

 

 「えっとね…」

 

 

 子供は歌い出す。

 

 幼いからが舌足らずだが、思いの外ちゃんと歌ってみせた。

 

 

 「幼稚園で習ったのか?」

 

 「だから、きこえるのっ!」

 

 「うーん。聞いたことあるような気もするなぁ」

 

 「いつ?」

 

 「たーくんが生まれる前」

 

 「関係ねぇじゃねぇか。あー、妊娠中に聞いてたのか?」

 

 「それよりもずっと前」

 

 

 子供は泣きやまない。ずっと聞こえると泣き止まない。父母は悩んだ結果、明日の朝に病院に連れて行くことにし今は気を紛らわせるため絵本を読み聞かせることにした。それは夜中の十二時の事。

 

 

 

 「………」

 

 「ままぁ…?」

 

 「お前が先に寝るなよ…」

 

 

 普段の育児と家事での疲れからか一番先に寝てしまう母親。父親は呆れたように溜息をつくと、少し収まった泣き声が大きくなりだしたので慌てて絵本の続きを読み聞かせる。

 

 

 「ねぇ、ぱぱ。ねれないよぅ、ねたいよぅ…」

 

 「あぁ、パパも寝たいよ」

 

 

 明日は朝早くに会議があるのに、心のなかで愚痴て子を寝かせようと努力する。

 

 

 「ぱぱ、おうたうたって」

 

 「え? んー、どんなやつ」

 

 「ぼくにさっきからきこえるの」

 

 「えーっとなんだっけ」

 

 

  よくよく思い出してみるが、歌詞が思い出せない。しょうがないので多分あっているであろう音程を鼻歌で歌った。

 

 

 「ぱぱ、じゅよずだね。ままよりはへただけど」

 

 「うるせ。まだ寝られないか?」

 

 「もっとうたって、そしたらぱぱのおうたできこえなくなるから」

 

 「しょうがねぇな」

 

 

  それから十分鼻歌を歌い続けようやく子供は眠った。父親は良かったと息を吐いて先程から感じていた尿意にトイレへ向かった。部屋を抜けても青い感じがする。だが、気にせず解消した後は自身も寝直すことができた。

 

 午前二時になる少し前のこと。

 

 

 

 

 午前二時の無縁墓地へまっすぐ影が向かっていた。腕には子を抱えている。子供を4人抱えている。影は歌っていた。子供達は寝ながらぐずっている。だが、起きる気配は微塵もなかった。

 

 歌を歌う。聞くに堪えないほど、優しい声だ。

 

 地面に優しく寝かせる。一人一人の頬を撫でて慈しむ。

 

 

 そして腕を振り上げた。草花がそれに伸び絡みつく。枯れ枝のような腕が太い腕に変わり指先は鋭利にとがる。腕の下で寝ている子供全員の肉を同時に容易く貫けるであろう。

 

 

「―――――――」

 

 

 影が歌以外の言葉を発した。だが、人ではなんと言っているのか分からずただの音であった。

 

 影は悲しい音を出していた。

 

 そして腕を振り下ろす。何の慈愛などなく、さきほどの慈しむ様子などなかったかのように、いきおいよく振り下ろした。が、瞬間に斬撃が影に迫った。

 

 

「―――!!」

 

 

 慌てて避けようと飛び下がる。影が剥がれ顔が割れた。

 

 口は耳まで裂け、目は限界まで見開き血走っており、そしてなにより一番目を引いたのは。額から突き出る、角。

 

 影は、鬼であった。

 

 

 カラカラと半ば折れた卒塔婆がなる。元々折れていたかどうか、いやそもそも折れたのか、そういう見た目になってた。折れるというより、斬られたような…。

 

 

「見つけたぞ…」

 

 

 シャドーが刀を携え現れた。目の色は違う。いつもの黒い目でなく、今日は隠れてしまっている月の色のような瞳であった。恐ろしく美しい。死に送られるならば、この目に魅入られて死ねるのなら本望であろうと思うほどに。

 

「――――」

 

 

 一息、といってもおよそ人間の肺で収まるはずのないほどの空気の量を吐き出し、そうして吸う鬼。なんともない、ただの呼吸であろうそれに一時も目をそらさずに右手で抜いた刀も僅か1ミリたりともずらさずに警戒する。

 

 

 しばし睨み合う。腕に絡みついた草花は今もまだ絡みつき、否、より太く恐ろしい形へ変えている。だが、鬼自体は動かない。シャドーは、刀を握る小指に更に力を込める。

 

 

 そして―――動いた。

 

 

 鬼はシャドーの目の輝きの残像を追い獣の如き速度で駆け出す。シャドーは子供達から注意をそらすよう無駄のない足運びで素早く彼らから離れた位置に駆ける。

 

 シャドーは人外ではない、走り方も型がある、姿勢を低くし這うような型だ。息をせず、かつ一息の間に遠くへ。駆けるというより飛ぶといった表現が会う走り方だ。だが、対する鬼は型など無い。草花で強化した両腕をバネに獣のようにシャドーを追う。さすが化物、不格好であるくせに速度は早く、距離など容易に詰めてしまう。

 

 裂けた口を大きく開ける鬼。その腕で殴り潰すなりしたほうが早いと言うのに、獣のような行動だ。だが、相手は化物。獣以上に獣である。戦い方を考えるなど理性を持った行動など期待していない。歯ではなくまさしく鬼牙。こんなもので噛みつかれれば、骨ごと容易く噛み砕くだろう。

 

 避けるに間に合うか? ――不可能。

 刀で防げるか?     ――不可能。

 大人しく殺られるか?  ――不許可。

 

 首を狙うその口に対処はない。だから、シャドーは目的を達す。

 

 足元で綺麗に咲く花を斬り捨てた。

 

 戦闘中の異常行為。空振りでも何でもない。それが、彼の目的だ。生きていた花が斬られた。茎ごと、雌花なら胚珠ごと、雄花は花粉を撒き散らして。花を死に送った。

 

 

「――――――――――!!!!!」

 

 

 鬼が絶叫し、それらの元へしゃがみこみ慌てて全てかき集めて抱く。一本も取りこぼすことはないよう必死に集める。そこにはシャドーを排除する様子は一切ない無くなった。殺気は消え失せ、悲しみで胸を打たれるような哀れな様で花を集める。

 

 無防備。

 

 これを逃すなど、初めから鬼を死に送ろうとしているシャドーはする気がない。しゃがみこんだままの鬼の後ろで刀を上段に構える。そんな様子など鬼は気にもしない。

 

 なおも必死に花を集める鬼に憐憫も何も感じはしない。ただ、志貴と秋葉を害そうとするならば死に送る。それだけだ。

 

 鬼が唄う。

 

 掠れ声だ。泣き叫び疲れた声だ。

 

 唄う鬼は辛そうであった。だが、そんなものに感じ入る気は微塵もない。刀を振り下ろす。

 

 ―――頭から絶ち切る。

 

 つもりであった。だが、できずに花の香に惑わされ勢いがぶれたのだ。

 

 鬼が花を抱えて避けた。グラジオラスが香る。

 

 鬼は前方に転がるように飛んで避けた。距離あく。これでは刀は届かない。かといって詰め寄るにしても走りは鬼のほうが圧倒的上だ。

 

 だから、飛ばす。

 

 

 下に振り下ろした刀を斜めに動かし全力をもってその場で振り上げる。空気が裂かれ衝撃波、斬撃が鬼に向かう。音速の域を軽くいくそれに、花を気にしているだけの鬼に対処するすべなどはない。

 

 決まる。

 

 そう感じつつも油断は一切ない。何度も感じた油断による自分が死に送られそうになった感覚は神経一本一本にまで覚えさせた。油断は死。余裕は死に言葉。勝利はお遊び。死に送る、ただそれのみ。

 

 鬼が避けた。花が鬼の頬に触れていた。

 

 避け遅れたからか、片方の髪ごと耳の半分が斬り飛ばされる。頬に触れていたキョウチクトウも共に斬り飛ぶ。

 

 鬼は自身の首がもげるほどの勢いでシャドーへ振り返る。人間らしい感情が目に宿っている。そう、憎しみ。子を殺され憎しみで溢れた狂気な女の目。

 

 鬼は腕を振り上げどんどん上に伸ばす。鬼の腕自体が伸びているのか、草花が変化しているだけなのかわからない。腕の先、それは手という形はしていない。大きい赤い花のかたちをしだした。

 

 それごと耳障りな空気を切り裂く音と共にシャドーにぶつけてくる。

 

 容易く斬り捨てようとする。所詮は花。先程地面に生えていた花も大した能力もないただの花であったのだ。これもどうせ同じであろう。

 

 

 油断は死。

 

 

 その言葉を刀と花がぶつかった時神経が大きく波打って伝えてきた。

 行動を起こす前に、花、ホウセンカは弾けた。正確には、果実が弾けた。花びら、汁、種がシャドーの視界を潰す。攻撃性はそれだけで、種が身体を貫通するなどと言ったものはない。だが、シャドーが鬼を逃すには十分であった。

 

 視界が喰われる。刀で斬り捨てても斬撃数も時間も足りない。

 

 鬼はどうなった。

 

 見えぬ視界は今捨て置き、他の感覚で鬼を探す。

 

 聴覚、花の破裂音が耳に残っている。 ――探知不可。

 嗅覚、花の匂いで鬼の匂いが分からない。 ――探知不可。

 

 他の感覚は自身の体調判断に用いる。

 

 ――負傷箇所、異常無シ。 ――感染箇所、異常無シ。 ――生命維持、異常無シ。 

 

 油断は死。余裕は死に言葉。勝利はお遊び。死に送る、ただそれのみ。

 

 心身、全域に思い直し、開けぬ視界を視る。

 

 

 【死神の霊眼】 一、解除。

 

 

 視界が開ける。辺りは寂れた無縁墓地と斬られた草花の跡。子供らは無事なのは分かっている。

 

 鬼の姿は無い。居た場所には、鬼のものであろう血が土の上に撒かていた。だが、それだけである。ここにもう鬼は居ない。

 

 

 少し息を吐き、目を閉じる。片方の手を握りしめていた刀から手を離し顔へ。

 

 

 ――油断は死。

 

 ――余裕は死に言葉。 

 

 ――勝利はお遊び。

 

 

 人差指と中指を眉間に置き顔を掴む。

 

 

 ――死に送る、ただそれのみ――

    

 

 勢い良く下に下げ、目を開ける。

 

 

 【死神の霊眼】 一、解除。

 

 

 必ず見つけ、死に送る。

 

 

 この【死】は“いつか”では遅すぎる。故にはやくはやく、流れ損ね囚われた誰も彼ものに。

 

 

 死、に送るのだ。

 

 

 

 

 とある寺。

 

 寺とは言え、言っては悪いが営業時間と言うものがある。住職は寝入り、参る者も普通は居ない。いたとしても寺の中に入ることはできない。仏像を盗むなど悪事を働く者がいるかもしれないから、寺側も厳重に寺の中へ入れないようにしている。

 

 だが、中には一人の巨漢の坊主が居た。そしてその前にあの鬼が居た。

 

 鬼は泣いていた。斬られた花を抱え座り込んで泣いていた。

 

 その哀れな姿に心打たれたのか、坊主は優しく声をかける。

 

 

「女人よ、『南無阿弥陀仏』と共に唱えなさい」

 

 

 坊主の声の通り唱えている。これははっきりと唱えているのがわかった。鬼の声のはず。だが、泣き疲れた女の声であったのだ。

 

 坊主も共に唱える。何度も、何十度も。ひたすら唱え続ける。

 

 

 三十回目に入る時、厳重に閉じられた扉が開く。木造、しかも大きいので独特の音を奏で開けられた。

 坊主は、望まぬ来訪者のために念仏を止め鬼に声をかける。まるで愛する人を口説くように。

 

 

「女人、私がもういいというまで唱え続けなさい」

 

 

 坊主は数珠をジャラリとならし鬼をかばうよう広いお堂で鬼のすぐ後ろで仁王立ちをする。

 

 

「それはこの世で【悪】と呼ばれるもの、念仏を唱えたところで救われない」

 

 

 来訪者は刀を携えた死神であった。

 

 救われるただ一つの方法は死神によって死に送られるのみ、そのはずである。

 

 だが、そんなこと微塵も信じずに坊主は無礼な来訪者に語りかける。

 

 

「子のために死ねぬ身を持つこの哀れな女人をお救いするには唱えることが重要なのだ。さぁ、若人、刀など捨て共に唱えよう」

 

 

 害することを良しとせず、救おうとする。仏を信奉しその教えで人を救うことを信条とする坊主。

 

 だが、シャドーは知っている。それは己のうちの愉悦を隠す皮であると。だから、口が出た。

 

 

「所詮、名を変えさせられた何の役にも立たない宗派風情が何を言う」

 

 

 坊主の静かな顔に般若が宿る。坊主として、人らしさを捨ててしまった顔であった。

 

 

「私は【浄土真宗】ではなく【一向宗】だ!! 一緒にすること許さぬぞ!!」

 

 

 シャドーは迫力のある坊主の後ろを刀で指した。

 

 

「そこにいるのは子を殺す()だ。救いなど持ってなどいけない」

 

 

 坊主はそれに唾を飛ばして激昂する。

 

 

「人として死ねず極楽浄土に行けぬ哀れな女人だ! 救いを欲すことに誰が咎を付けれようか!!」

 

 

 本心から言っている。そう思わせる迫力である。 心に響く思いを乗せた言葉だ。

 

 それが虚構であればあるほど不愉快で仕方がない。

 

 

「あぁ、お前の言は通りがいい。腹の中は、それの様が愉快で仕方ないくせにな」

 

 

 もう我慢ならぬと、坊主は数珠を振り上げ鬼のすぐ後ろからお堂の中心に移動する。

 

 

「若人、仏の前では皆平等に生きる意味も価値もある。そうであろう」

 

 

 確認だ。これは殺し合いをするための確認だ。

 

 

「話を逸らすな。お前は、あれの哀れな姿が嬉しいんだろう? 哀れさが、己の優越感を高めるんだからな」

 

 

 確認は完了した。

 

 

 では、始まりである。

 

 

 坊主は数珠を構える。

 

 

 「侮辱許さぬぞ」

 

 

 誰に対してか。それは坊主あてか、宗派で祀っている仏へか。

 

 

 「侮辱? 違うな、軽蔑してるんだ。お前の中も外も気に食わないから死に送ってやる」

 

 

 心底そう思うと吐き捨てシャドーも刀を構えた。 

 

 

 鬼の唱える『南無阿弥陀仏』という音しか辺りには聞こえない。

 

 

 鬼の息を吸い込む音、それが合図となる。

 

 

 ――殺し合い、開始――

 

 

 坊主は数珠を金砕棒に変えた。鬼の武器と称される相手を武器諸共叩き潰すもの。大きさに比例して重さも尋常ではないはず。それを軽々と扱う。

 

 シャドーに金砕棒を受け止めるほどの強度はない。身体は勿論のこと武器である刀の耐久度はあれとぶつけては容易く折れ、使用者ごと潰される。

 

 大ぶりだが、速さが異常だ。

 

 振り下ろす。同時に振り上げる。

 

 おかしい。同時にできるものではない。どちらも重心がブレるもの、そもそも攻撃動作は両手で巨大な一つの金砕棒を両手で扱っている。信仰心ゆえに仏から力をかりているとしか思えない、人から外れた動きだ。

 

 

 何度か浅く斬りつけることには成功するも、確実に死に送る事はできない。坊主()を死に送ることへの躊躇故か? 否、純粋に坊主が異常だからだ。金砕棒を振るうスピードは増していき、空気を切るその速さはシャドーの身体をも風圧で切っていた。それが、シャドーを少しだけ追い詰める。

 

 異常と呼ばれるならシャドーも同じ。避ける速さ、斬りつける速さ、隙を突く刀さばき。どれもが坊主を少しだけ追い詰める。

 

 

 だが、どちらも決定打に欠ける。いつまでも続けるわけがない。

 

 ――終わらせる。

 

 ――死に送る。

 

 

 同時に仕掛けた。

 

 

 分は、坊主に上がった。

 

 

 「!」

 

 

 坊主は金砕棒から片手を離し袈裟から新たな数珠を取り出しシャドーに投げつけた。

 

 片手で扱う金砕棒は変わらず早く、避けることは困難と判断し数珠を斬り捨てた。それが、ダメだったのだ。

 

 

 「若人よ」

 

 

 散らばった数珠が何か効力を発してシャドーは動けなくなる。指先から全身に渡って筋肉の動きがすべて止まる。呼吸ができない。

 

 ――死――。

 

 それが今迫る。

 

 

 「南無阿弥陀仏」

 

 

 坊主は金砕棒を振り上げ唱えた。シャドーが死んでも極楽浄土にいけるように、と。

 

 

 ――だが、まだ逝けない。

 

 

 【死神の霊眼】 一、解除。

 

 

 数珠が効力を失い、シャドーは皮膚呼吸だけをし武器がなくなった坊主の首を狙う。

 

 

 「ぬぅ!!」

 

 

 金砕棒を失った坊主は苦し紛れに岩のような腕でシャドーの頭を砕こうとする。【死神の霊眼】によって異能の力を打ち消したので、速さなど先ほどと比べるとあくびがでるような遅さ。

 

 

 故に。

 

 

 ゴロンとお堂の床に首が落ちる。血しぶきが堂を盛大に汚した。

 

 

 首を失った坊主はそのままシャドー側に倒れる。これを避けることは容易だった。

 

 巨体はズシンと重い音を立てて床に落ちた。

 

 

 ――一人、死に送った。

 

 

 いまだ、念仏を唱え続ける鬼の背後へ。

 

 誰のために唱えているのかはどうでもいい。ただ死に送る。

 

 落とされた坊主の首は、シャドーに斬り殺されるであろう女がよく見える位置に落ちていた。

 

 

 ――死に送る

 

 

 無言で振りかぶる。

 

 花が鬼の肩から咲いた。そして守るよう鬼を包む。最後まで傷つけるような真似はしなかった。

 

 サルビアの花。それに包まれた鬼は一瞬息を飲んで念仏を中断した。花びらの隙間から雫が一つ落ちる。

 

 それを見届けて、シャドーは鬼に最後の言葉を呟いた。

 

 

 「南無阿弥陀仏。あの世で親子をやれ」

 

 

  同じように首を切り飛ばした。鬼の首は坊主と見つめ合うように落ちる。その中間に花が小さく咲いた。

 

 

 ――二人、死に送った。

 

 

 【死神の霊眼】 全停止。

 

 

 一つ深めに息を吐いてその場を後にする。

 

 

 

 今日も眠れなかった。

 

 

 

 

→後編に続く



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月姫 アルクェイド・秋葉・シエル・翡翠・琥珀のハーレム(後編)

月姫 アルクェイド・秋葉・シエル・翡翠・琥珀のハーレムの後編となります


 

 午前四時。

 

 また濃くなる隈を撫でつつ自宅に行くまでに通る公園で自販機で買った缶コーヒーを飲む。本場の味と謳っている割に、随分とチープな味わいだ。

 

 

「おはよー、シャドー」

 

 

 ジャングルジムの一部に座って一息入れていたシャドーに声をかけたのは、真祖の吸血鬼 アルクェイド だった。それに軽く手を上げ返す。そして、他愛のない話をアルクェイドが一方的に話す。シャドーは相変わらず、あまり言葉を発さずに聞く側となっていた。

 

 

「――送ったの?」

 

 

 唐突にアルクェイドが聞いた。

 

 

「………あぁ」

 

 

 肯定する。それに、そっかぁ、と返しシャドーから宙に視線を変える。

 

 

「ずっと傍にいたのにね、お互い」

 

「…………」

 

 

 シャドーは目をつむる。

 

 

「大切だったのにね。壊しちゃったのは、誰になるんだろうね」

 

 

 その問いに答えたのはシャドーではなかった。

 

 

「あの三人、全員ですよ」

 

 

 いつの間にかジャングルジムの頂上に腰掛けたシエルが言った。

 

 

「なんで全員なのよ、デカシリエル」

 

「その不名誉な呼び方をやめなさい。――子供は、母を。母は、夫を。夫は、子供を」

 

 

 メガネを外しカソック服のシエルはアルクェイドに少し怒りつつ言葉を続けた。

 

 

「子供は母親に依存して、母親は夫を見なくなって、夫である父親は子供を憎悪して。家族として機能してなかったんです」

 

「…少し違う」

 

 

 シエルの言葉の後、シャドーが呟く。

 

 

「家族ではあった。あり方は歪だったが、ちゃんと親子をしていたんだ」

 

「どうしてそう思うの?」

 

 

 アルクェイドが聞く。シャドーは脳に残った香りを思い出しながら話した。

 

 

「あいつら皆、菊の匂いがしたから」

 

「菊…」

 

 

 シャドー以外が同時に「菊」と呟く。

 

 

 

「子供は色んな花になっていたが必ず菊が一輪あった。母親は、子供に包まれてたせいもあるが菊だけはなんとしても守ってた。父親の方は、仕事柄もあるかもしれないが菊が活けてあった」

 

 

 それにアルクェイドとシエルは考える。三人を結ぶ“菊”とはどういう意味があるのか、と。

 

 

「菊の花言葉って?」

 

 

 アルクェイドが聞く。

 

 

「大体は【高貴】【高潔】【高尚】。白なら“真実”、黄色なら“敗れた恋”」

 

 

 シエルが右上を見ながら言う。

 

 だが、どう関係するのか分からない。他の色は何だったか、シエルが思い出す前にシャドーが言った。

 

 

「赤だ」

 

 

 花ならとても見慣れた色。その色であった。

 

「ん?」

 

「あぁ、そうですか。なるほど」

 

 

 シエルだけが納得したようだ。それに疎外感を感じたのかアルクェイドが尋ねる。

 

 

「一人で納得しないでよ。シャドー、どういう意味?」

 

 

目をつむり、手を組むシャドーは悲しそうに呟いた。

 

 

「“あなたを愛してます”」

 

 

 三人はしばし黙った。そして目をつむり祈る。黙祷であった。

 

 

「家族、だったんだね」

 

 

 アルクェイドが隣のシャドーの肩に手をおいて呟いた。それに頷いてシャドーは口を動かす。

 

 

「家族、だったんだ。家族だったんだ。おかしかったけど、おかしいなりにちゃんと家族やってたんだ」

 

 

 シャドーの視界が少し歪む。目蓋を閉じたくなる衝動を堪える。眠気によるものではなかったはずだ。

 

 

「家族愛、素敵なはずなのに歪んでしまっていて哀しいですね」

 

 

 シエルはシャドーの隣に降りてアルクェイドと同じように肩に手を置く。

 

 

「でも、害があったから送った。俺がそんな感情持つことなど許されないし、俺が許さない」

 

 

 肩が震えそうになるのを堪えて意地を張った。

 

 

「なら、私はシャドーを尊敬するよ」

 

「私もです」

 

 

 そんな愛する人に二人は語りかける。意味がわからず二人を交互に見た。

 

 

「でも、羨ましいもあるかな? 志貴も秋葉も大事にされていいなぁって」

 

「………」

 

 

 意味を考えて首を捻る。それでは、アルクェイドとシエルは大事にしていないことになる。

 

 

「シャドーくん」

 

 

 シエルに名を呼ばれ、そちらに顔を向ける。

 

 

「私に何かあったら守ってくますか?」

 

 

 いつものカレーに狂喜乱舞姿が嘘のように淑女然としたシエルが真面目にシャドーに問うた。綺麗であった。雰囲気といい、表情といい、綺麗すぎて即答できる答えに詰まってしまう。

 

 

「あ~! シエルずっるーい!! シャドー、シャドー。私に何かあったら守ってくれる?」

 

 

 シャドーの両肩を掴みアルクェイドの方に向かされて言われる。天真爛漫と言われる顔は、少し憂いが入って、いつもより女性らしさがある。また即答できなくなってしまった。

 

 

「ちょっと! このアーパー、聞いたのは私が先です! 貴女は黙ってなさい!!」

 

「何をーー!! 早い者勝ちとかそういうの無しにきまってるでしょ!! ていうかアーパーじゃないし、このデカ尻女」

 

「なんですってーー!! もう許しません。覚悟なさい!!!」

 

「受けて立ってあげるわ。オシリエル」

 

「ゆ る さ ん」

 

 

 いつも通りになってシャドーは意識を戻した。そして、柔らかく表情崩す。

 

 

「守るよ」

 

 

 その言葉に戦おうとしていた二人が止まり視線をお互いからシャドーに。

 

「ほんとに?」

「本当、ですか?」

 

 

 同時に聞く二人。それにまだ返さずにジャングルジムから立ち上がる。

 

 

 日が昇ってきた。シャドーが逆光になるので二人は少々シャドーを見るのに苦労する。

 

 

「大事なら守る。当たり前だろ?」

 

 

 振り返らずにそう言うシャドー。朝焼けのせいにするであろう耳は赤い。

 

 

 全力でシャドーの背に二人は抱きついた。

 

 

 

 

 あれからすぐ。今日も寝不足な表情のまま午前授業を終わらしたシャドーは秋葉に遠野邸に呼ばれた。

 

 

「まずは、ありがとうございます」

 

 

 無言で紅茶を飲み秋葉の言葉を聞く。

 

 

「今回の件、本来ならば私が対処するべきでしたのに、お手を煩わせ申し訳ありませんでした」

 

 

 椅子に座りつつ頭を下げる秋葉。今は遠野家の代表であり、他の自身のような血のをもつ一族の総代表としての礼。それにシャドーは手をひらひらと振り気にするなと意思表示する。

 

 

「はい、ありがとうございます」

 

 

 頭の位置を戻した秋葉に頷く。

 

 

「ご無理はなさらずに」

 

 

 頷く。

 

 

「心配、してるからいっているんですよ?」

 

 

 頷く。そんな対応に息を吐くと秋葉は本題に入る。

 

 

「今回の事件もそうですが、私達の界隈で少し問題になりまして」

 

 

 難しそうに手を額に当てながら言う秋葉に無言で続きを促す。

 

 

「自分達に害があるかもしれない、と。ですから」

 

 

 ですから、のあと口を閉じてしまう。どうしたのか、首をひねる。

 

 

 一分、五分。どんどん時間だけが経過する。

 

 

 しびれを切らした琥珀が口を開いた。

 

 

「秋葉様、そんな遠回りせずに早く言っちゃって下さいよ」

 

 

 リラックスさせるためか、暢気な調子で主をけしかける。秋葉はそんな琥珀を一にらみする。

 

 

「琥珀は黙ってなさい。えーと、ですから」

 

 

 もじもじとし、言葉の後がつっかえる。だが、先程より琥珀のお陰で力が抜けたのか早めに言葉を続けた。

 

 

「ですから…、ですから枷になれ、と言われました」

 

 

 枷。 はて、枷とはなんぞや。首をひねり考え込むシャドー。その様子が態とと思ったのか、少し怒りながら秋葉は言う。

 

 

「意味、わかりますよね?」

 

 

 秋葉の質問に首を傾げたまま。意味がわからないよ。

 

 それに態とではないことを理解した秋葉は、困り顔になって続ける。

 

 

「枷というのは…そのままの意味ではありません。つまり、シャドーさんを色仕掛けでもなんでもいいから籠絡させろ、という意味が入っています」

 

 

 色仕掛け、という言葉に抵抗があるのか。そこだけ少し小さい声で言う。シャドーは頭の中でハテナをとばしながら秋葉の言葉を無言で聞く。

 

 

「シャドーさん、お強いですからね~。例えがアレですけど、猛獣を檻の中に入れて飼っておけ、みたいな感じらしいです」

 

 

 シャドーの様子がわかったのか琥珀が補足する。 

 

 

「まぁ、いい例えではないけど的は射てます。殺すだけでは利益は生まれません。そもそも殺させる気なんて欠片もありませんが…・見世物などにして利益を得る。猛獣は少し窮屈な思いはしますが、安心できる寝床と空腹を感じさせぬ餌の供給の保証。飼い主は、猛獣を飼っていることに対する周りへ危害を加えたらどうなるかという威圧と扱えるという尊意を集めることができます」

 

 

 ここまで言ってずっと黙っていた翡翠が口を挟む。

 

 

「あの、シャドー様を猛獣扱いするのはどうかと…」

 

 

 秋葉と琥珀は、翡翠の言葉に黙ったままのシャドーに謝罪した。

 

 

「そうですね。言葉の綾とは言え失礼でした。すみません」

 

「すみません。シャドーさん」

 

 

 シャドーは気にしてないと手をひらひらと降る。そして話の続きを促す。

 

 

「というわけで、です」

 

 

 終わっていた。相変わらず意味がわからないのか首を傾げたままだ。

 

 その様子に、覚悟を決めたのか赤い顔のまま一つ息を吐き姿勢を正す秋葉。よくは分からないがシャドーも姿勢を正す。

 

 

「私、遠野家当主 遠野 秋葉と婚姻を結んで頂きます」

 

「………は?」

 

 

 とんでもない発言だ。間抜けさが声だけでなく顔にまでだしてシャドーは固まる

 

「私と婚姻関係になれば、私の監視があるということで命を狙われることが減ります。自由は減りますが、命の安全は私が絶対に保証します」

 

 

 理解の前に意思だけでシャドーは固い言葉のままの秋葉に問うた。

 

 

「アキはいいのか?」

 

 

 その問いに、秋葉は眉間に眉を寄せ目をつむって苦しそうに言った。

 

 

「いいわけ、ないじゃないですか…」

 

 

 思わず落ち込む。だが、当たり前とも考えるシャドー。秋葉を小さい頃から知っているシャドーにとって、秋葉は遠野家の当主よりも 秋葉 という個人の意志のほうが大事にすべきである。でも落ちこむのは何故か。それも頭の片隅で考える。

 

 

「ちゃんと恋人という関係になってから、こちらに発展させたかったですよ」

 

「アキ…?」

 

 

 

ぽつりと、そんな事を言う秋葉に思わず愛称を呼んでしまう。

 

 

「あ~、もう! なんで分からないんですか!!」

 

 

 椅子から立ち上がり大きな声で言う秋葉。今まで以上に理解が及ばず、シャドーは混乱する。

 

 そんな様子なシャドーに秋葉はキッと赤い顔のまま睨んで言い放った。

 

 

「好きだから、こういう建前みたいなのは嫌なんですよ!!」

 

 

 思わぬ告白に口をポカーンと開けてしまうシャドー。頭の中が混乱しまくって、表情筋の固定を放棄している。

 

 

「あ、ちなみに秋葉様と婚姻を結んでくだされば私達姉妹もついてきますから、お得ですよ~」

 

 

 さらに爆弾が投下される。コンタクトがずれんばかりに目を見開いた。

 

 

「ね、姉さん…!」

 

「料理万事OKの私にお掃除できて、とにかく可愛い翡翠ちゃんもつく…。素敵ですよね~?」

 

「姉さん!!」

 

 

 通販のCMのような軽い調子で謳い文句を言う琥珀。それを妹の翡翠が怒って止める。

 

 

「家政婦と翡翠もか…」

 

 

 反射で反しているのか、それだけ言って三人を見るシャドー。それに翡翠が申し訳無さと何かを含ませて尋ねた。

 

 

「お嫌、ですか?」

 

「お前らが辛くないなら構わない」

 

「あ…!……」

 

 

 反射で本心をぶつけるシャドーの返答に翡翠がいつもの大人しい様子はどうしたのか嬉々とした様子でシャドーに近寄って話し出す。

 

 

「大丈夫です! お側にいさせて下さい!!」

 

 

 そして琥珀が続ける。

 

 

「夜もですけどね」

 

 

 核爆弾だった。

 

 

「は?」

 

 

 それしか言えなかった。どういう意味か、核爆弾を投下してきた琥珀に視線をやる。

 

 言った本人は手で主の方に聞いてと送る。

 

 

「今のシャドーさんは自身の能力を割りと制御できていますが、どうなるかはわかりません。琥珀と翡翠には申し訳ないですけど制御のために彼女たちの能力で押さえつけます」

 

「おい」

 

 

 思わず低い声が出る。シャドーのことを考えてのことなのは分かる。だが、琥珀と翡翠を道具のように言う秋葉に少し怒ったのだ。

 

 

「シャドーさん、大丈夫って翡翠ちゃんも言いましたよね?」

 

 

 落ち着かせるように、翡翠と同じようにシャドーのすぐ隣に来た琥珀がのほほんと言う。

 

 

「……………」

 

 

 無言で琥珀を見る。

 

 

「そういうことも理解して大丈夫って言ったんですよ。勿論、私も大丈夫です」

「家政婦」

「それに」

 

 

 少なからず琥珀の事情を知っているシャドーは琥珀を止めようと声を出すが、すぐさまかぶせるように続ける。

 

 

「好きな人といたい、好きな人としたい。そう思っちゃうんです」

 

 

 お盆で顔を隠しながら続ける。

 

 

「幸せにして下さいよ…。絶対幸せになりますから」

 

 

 そこまで言って、シャドーの側を離れ隅に逃げる。逃げる後ろ姿から見える耳は真っ赤だった。

 

「あ、の…。シャドー様」

 

 

 ただどう反応していいか分からず琥珀を見送るだけのシャドーに翡翠が声をかける。座ったままのシャドーの目を覗き込む。

 

 深呼吸をする翡翠を見つめたまま。さっきからの展開に混乱状態が抜けないのだ。

 

 

「お慕いしています」

 

 

 あまりにもまっすぐな告白。絶句。その様子を気にせず言葉を続ける。

 

 

「ずっと、知ってほしかったんです」

 

 

 胸に手を置き、ずっと思っていた、と告白する。思い出にされるのでは、そう感じ、嫌だと思う自分に従い彼女の名を呼んで引き留めようとする。

 

 

「翡翠…」

 

 

 シャドーの心配は杞憂である。むしろ翡翠のほうがそれを怖がった。だから。

 

 

「聞かなかったふりも忘れることも、どうかなさらないで下さい」

 

 

 そう微笑んで、隅で耳を真っ赤にして座り込む姉のもとへ向かう。

 

 

 フリーズ。呼吸はできる。それは生存本能がちゃんと機能しているから。だが、それは生き物として当然のこと。本当に機能してほしいのは、理性を持ち対話ができる思考力。それは今動かない。

 

 

「負い目はなくなりましたね。では、そういうことで」

 

 

 秋葉がまとめに入ろうとする。そこに慌てて口を出した。

 

 

「いや、待て」

 

「何でしょうか?」

 

 

 拒否はできないことは分かっている。だが、ちゃんと伝えなければならないことがある。

 

 

「俺の気持ちを言ってない」

 

 

 そう言うと立ち上がる。

 

 秋葉も琥珀も翡翠も注目する。それを見て自覚する。

 

 

 ――あぁ、そんな顔をさせるのは許さない――

 

 

 息を吸い込み、いつもより声を出した。盛大な自白をする。

 

 

「俺は――。アキも家政婦も翡翠も好きだ」

 

 

 自白に秋葉はぽかんと口を開く。 ――愛おしい。

 

 自白に琥珀はお盆の隙間からシャドーを見る。 ――愛おしい。

 

 自白に翡翠は目から涙をこぼし無言で何度も頷く。 ――愛おしい。

 

 

 だが、自白はまだ終わっていない。

 

 

「だけど、まだ好きな奴らがいる」

 

 

 だから、と自白を続ける。

 

 

「そいつらも巻き込んで、改めて俺から求婚する」

 

 

 そこまで言うと固まる三人を置いて遠野邸を後にした。

 

 

 

 公園までいつも彼女と出会う場所へ走ってきた。

 

 

「アルク」

 

「あ、ヤッホー、シャドー」

 

 

 案の定居てくれた。いつもの気軽な様子で挨拶するアルクェイドに、珍しくシャドーから声をかけた。

 

 

「どーしたのー?」

 

 

 すこしピリピリとした様子を感じ取っても軽く対応するアルクェイド。

 

 

「アルク」

 

「なーにー?」

 

 

 突然、アルクェイドと両手を掴むシャドー。きょとんとする彼女にまっすぐ自分の気持ちを自白した。

 

 

「アルク、好きだ」

 

 

 あたりに人がいようが全く気にせず目の前の愛する人に自白する。

 

 

「………」

 

 

 固まった。目を大きく開き、固まった。いつもの天真爛漫さも、たまに見せるお姉さんらしさもない。 ――愛おしい。

 

 

「後日、プロポーズする。今日はこれで」

 

 

 そう言って次の目的の場所へ足を向ける。アルクェイドは固まったままだ。

 

 

 子供の囃し立てる声に、それから五分後にようやく意識を戻す。

 

 

 「あ~、ずるいなぁ。でも、嬉しいなぁ…」

 

 

 両頬にそれぞれ手においたことで自分の熱を再確認する。いつも以上に緩む顔は幸せそう以外には見えない。

 

 

 そして、さっきまでシャドーがいた方に顔を向けて呟く。

 

 

「ふふ。好きだよ、シャドー」

 

 

 

 

 

 シエルは午前授業だったにも関わらず教師に用事を押し付けられてしまい教室でそれを片していた。

 

 休憩を少し挟むためか、なんとなく窓の外を見る。いつの間にか日が夕日になっていて、セブンがうるさいだろうな、と頭の中で暴れるセブンを思い出し溜息をつく。

 

 しばらくぼうっと見ていたが、窓枠の下辺りから何かが見えた。なんだろうと確認しようとした所、それが窓から現れた。

 

 

「シャドーくん、それは危ないからやめてくださいといったじゃありませんか」

 

 

 それはシャドーであった。素行良好なはずの彼が、こっそりこういうことをするのをシエルは知っている。呆れたように注意するが、やめることは彼が卒業するまで無いことも分かっている。

 

 いつもならすまなそうに頭を下げるなりするが、そんなことどうでもいいと椅子に座ったままのシエルの側に肩で風をきって向かった。

 

 

「先輩」

 

 

 椅子に座るシエルを見下ろす形でシャドーが声をかける。いつもの平坦な声は少しうわずっていた。

 

 

「はい。どうしました?」

 

 

 いつもどおりの人の話を聞いてくれる人の優しい様子なシエル。自白をするのにはもってこいの様子だった。

 

 

「好きだ」

 

「え…?」

 

 

 いきなりな言葉に固まるシエル。夕日の所為で橙色に染まる教室は、ゆっくり黒に染まろうとする。だが、シエルの頬は橙色に近い、いや赤に近い色合いになる。

 

 

「式は何式がいい?」

 

「え? あ、いえ。え? すみません、今なんと?」

 

「式は何式がいい?」

 

「そ、その前です!」

 

 

 聴き逃しなど無いはずだが必死な様子のシエルの両肩を掴み目と目を合わせてしっかり聞こえるように言う。

 

 

「好きだ」

 

「……………」

 

 

 眼鏡の上から顔を抑え俯く。耳が赤いのは夕日のせいだけではない。  ――愛おしい。

 

 

「先輩?」

 

「……………」

 

 

 しばし固まり恐る恐るシャドーを見るシエル。

 

 

「うそ、じゃないですよね?」

 

 

 言っている本人が泣きそうに言うので即答する。

 

 

「違う。好きだ」

 

 

 疑問を食いつぶすようにはっきりという。

 

 

「………!」

 

 

 目に涙をため無言で微笑むシエル。その頭を撫でる。

 

 

「式は何式がいいか、考えとけ。色んな意見があると思うから、揉めるかもしれんがな」

 

 

 そう言って助走をつけて窓から飛び降りた。

 

 

 

 教師から頼まれた用事をあの後ぱぱっと片付けてシエルは帰路につく。その顔は今も喜びで溢れている。

 

 頭の中でシャドーの自白を何度も再生し、そのたびに喜びで頬をゆるます。

 

 自宅の前について扉を開ける時、続きを再生して気づく。

 

 

「色んな意見…? 揉める……?」

 

 

 

 

 

 

 後日、第一次正妻戦争が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

                




○主人公設定

 主人公は、志貴の幼馴染み。志貴と同じ学校、同じクラスに通っている。しかし夜は暗殺(志貴達は例外)を基本とした仕事をしている。

 性格はそっけなく、年上に対しても敬語を使わない。たまにしか喋らないが、志貴達を大事に思っている。志貴と秋葉の命を狙う者、暗殺対照を殺すことに対して全く躊躇や抵抗がない(鉄血のオルフェンズの三日月のような感じ)。

☆名前の呼び方(主人公視点)
 アルクェイド→アルク
 シエル→先輩
 遠野秋葉→アキ


 翡翠→翡翠
 琥珀→家政婦
 遠野志貴→志貴

 アルクェイドと互角の身体能力と神速の如き優れた剣術を持っている。
 一人暮らしをしているため、家事も簡単にこなす。

 好物はカレーでかなりの大食い。

 幼い頃、志貴を殺した四季(ロア)を殺して秋葉を守り姿を消した。
 四季を殺したことで「死神の霊眼」に覚醒して、遠く離れた相手を眼の覇気で捕らえたり、自分に害をもたらす異能の力を打ち消すことが可能。
 「死神の霊眼」の発動時は、本気を出したアルクェイドを遥かに上回る戦闘能力を持っている。これを抑えるため常にコンタクトを付けている。自分で中断させることも可能。


 リクエストしていただいた方のお名前 シャドー 様



作中で登場した花の花言葉。

  グラジオラス=用心
  キョウチクトウ=危険
  ホウセンカ〔=私に触れないで〕

 中編の最後に登場する花
 
  サルビア=家族愛


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

fgo ハーレムマシュ落ち(ぐだ子・マシュ、ジャンヌ【白】、沖田総司【桜セイバー】、清姫)

ぐだ子の名前は藤丸立香です


 

 

 

 自身は人間の頂点で在るもの。

 

 そう理解したのは、自身を育てた父母でも、教育をなした教師らのおかげというわけではない。

 

 生まれた瞬間。母の胎内で新たな生命として誕生した瞬間から、神経一本一本の細部、DNAの全てに【人間の頂点で在る】ようにと設計された。

 

 俺の記憶は母の胎内から出る前から存在していたのだ。言葉として記録されたものではなく、映像として全て記録されていた。言語でも記録されていれば色々都合が良かったが、できぬのはしょうがない。“頂点に在る”としても【人間】でのスペックでだったのだから。

 

 【人間】の中での非凡は、神や神話に登場する英雄といった【人外】のなかでは凡。彼ら【人外】にとっては、俺は【人外】カテゴリーにすら入れない有象無象の一部にすぎないだろう。

 

 頂点で在ること。これは【人間】の中での話。俺自身が望んでいるものだ。誰もが望んでいるものだ。

 

 下にいるものは上を見る。上にいるものは更に上の「頂点」を見る。

 

 下に際限が必要なように、上にも際限は必要だ。

 

 底なし沼に喜んで入るものはいない。死んでしまうからだ。

 

 空気も何もない虚空へ喜んで飛び立つものはいない。死んでしまうからだ。

 

 死ぬことを恐れぬ【人間】はいない。死なないよう“頂点”が必要なのだ。

 

 【人間】の有象無象である貴様らには難しい話だったか? 仕方ない、要約してやろうではないか。

 

 つまりは、だ。

 

 俺が“人間の頂点で在る”のは、俺以外の【人間】である貴様ら有象無象のためだということだ。

 

 ん? あぁ、礼など気にするな。貴様ら【人間】のために生きることが俺の存在理由であり、生きる糧だ。

 

 だが、これだけで【人間】というのが生きていけるほど便利にはできていない。

 

 食事を取らなければ死ぬ。睡眠を取らなければ死ぬ。経緯は何であれ、何かしなければ死ぬ不便な生き物だ、生物というものは。

 

 【人間】の身に起こる死の例をあげるならば、生物として充実すればするほど起こること、それは娯楽がなければ退屈で自殺する、というものだ。これが、困ったことに俺にも存在する。食欲も睡眠欲も排泄欲も性欲も、【動物】としての欲は満たして生きてきたが一度これに殺されそうになった。

 

 「人間の頂点で在る」俺には【人間】の劣がない。全て【人間】の優でできている。そうでなければ、“頂点で在る”ことなど不可能ではないか。分かるか、ん?

 

 【人間】としてのだ。【生物】としてではない。【生物】は生きること“だけ”考えて生きる。【生物】のカテゴリーの中の一つ、【人間】は生きること“も”考えて生きることができる。

 

 この差はとてつもないほど大きい。どちらが無駄か否か、それは「生物」としての尊厳か、【人間】としての傲慢か。それに関する話は今回割愛する。

 

 話を戻そう。

 

 俺は、ある日、無意識に【再現】した破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)を自身に刺そうとしていたことがあった。

 

 “劣がない”ということは非常につまらないのだ。なんでもできてしまうから、つまらない。 

 

 あぁ、今羨ましいと感じただろう? はっ、今は俺もそういう感情を理解することができるから分かってやるとも。

 

 だがな、できないことがないということは、できることに“何も感じることができない”ということだ。

 

 出来レースに喜ぶのなど最初だけ。俺も可愛い無邪気な時期があった。父母の喜ぶ姿に、できないことがなくてよかったと思うこともあった。だが、ずっとなら「生きることに飽きる」。

 

 だから、自分を終わらそうとした。【人間の頂点で在る】自分を終わる気は欠片もなかった。“できないことがない自分”を終わらそうとしただけだ。

 

 それも、止められたがな。止めたのは、他の誰でもない、また【人間の頂点で在る】自分で、“人間の劣がない自分”で、“できないことがない自分”だった。

 

 どこまでも人間である俺は、俺自身の手で【人間】を終わらそうとしていたのだ。

 

 【人間】である俺に【人間】をやめることは全人類に対する侮辱であると、“最も人間らしい”俺自身に止められた。

 

 なら、【人間】として【人間の頂点で在る】のをやめることはできない。

 

 貴様らが感謝する必要はない。 俺こそが、貴様ら有象無象の【人間】達に感謝を言おう。 心から言おう。 ありがとう。

 

 

 

 

 さて、前置きが長くなったが、そんな俺の【人間】として生きている一部を見せてやろう。 なに、気にするな。 言葉だけではなんだから、俺の記憶を少しだけ開示してやる。

 

 さぁ、存分に鑑賞するがいい。 “人間の頂点で在る”俺の生き様を。

 

 

 

 レイシフト前、シャドーの部屋にある人間がやって来た。

 

 

「へへへ…、お邪魔します。シャドーさん」

 

「よく来たな、立香。まぁ、座れ」

 

 

 人類最後のマスターである藤丸立香は勝手知ったるなんとやら、いつも通りの位置に座る。

 

 

「えと、話ってなんです?」

 

「なに、少し力を抜いてやろうと思ってな」

 

「へ? どういう意味ですか?」

 

 

 質問に答えず、茶を淹れるシャドー。シャドーにはそんなに馴染みはないが彼女の故郷である日本でよく飲まれているという日本茶をいつものように淹れてやる。

 

 

「とりあえず、それでも飲め。この俺の茶が飲めないとは言わないだろう?」

 

「は、はぁ…。………うん、おいし」

 

「はっ、当たり前だ。俺が不味い茶を淹れる劣は存在しない」

 

 

 そう、いつも通り偉そうに言うと彼も座る。

 

 

「さて、立香。貴様気負っているな」

 

「いきなりなんですか、もう。そんなことないですよ」

 

「ふん。貴様、緊張すると令呪の宿った手をやたら触る癖があるぞ」

 

「それは、なんか痒い感じがして…」

 

「精神に異常が起きると身体が痒くもないのにかいてしまう現象がある。それだろうな」

 

「大丈夫です。平気ですもん」

 

 

 お茶のおかわりの催促をする立香に注いでやる。

 

 

「俺の前で言う、貴様が言う『大丈夫』が『大丈夫』なことは一度もないが。どうだかな?」

 

「大丈夫です」

 

 

 手を触りだした。

 

 

「それは、なんだ?」

 

 

 テーブルの下にあって見えないはずだが肩の動きでわかったのだろう。いつも通りガス抜きをさせるために、わざわざ指摘した。

 

 

「あ、えと…これは」

 

 

 指摘に慌てて手を離すも自身の気持ちは晴れてはいない。

 

 

「不安であろう」

 

「………」

 

「怖いであろう」

 

「………」

 

 

 立香が顔をこわばらせてうつむいていくのを見ながらシャドーはお茶を飲んだ。立香が来てから飲む頻度が多くなったそれは相変わらず美味である。

 

 

「辞めたいか」

 

 

 黙ったまますこしの時間を置いてゆっくり首を横に振った。

 

 

「苦しいか」

 

 

 黙して首を小さく縦に振る。

 

 

 シャドーは立ち上がり立香の元へ行き、優しく抱きしめた。

 

 

「吐き出すがいい。【人間】が無理をするな」

 

「ぅっく…」

 

 

 立香は頭をシャドーに押し付ける。湿っていく服。気にせず抱きしめて藤丸立香(人間)を泣かす。

 

 

「一人で背負い続けるのは辛かろう。どんな能力を使っても、貴様のそれを斬り捨てられん。やれば貴様が【人間】ではなくなってしまう。守れなくなる」

 

 

 喉を引きつらせながら泣く藤丸立香(人間)を抱きしめる。

 

 

「泣け、泣け。【人間の頂点で在る】俺が貴様の有様を守ろう」

 

 

 苦しそうに泣き言を言う立香に叱咤はしない。したことがない。こういうとき【人間】なら泣くのを理解しているのだから。

 

 

「また随分と溜め込むな、立香。貴様の悪い癖だ。俺の所で泣くのは悪くないのだぞ」

 

「でもぉ…っく、でも、だって。だ、だってぇ…」

 

 

 意味をなさない言葉を言いつつ泣く立香。それに【人間の頂点で在る】シャドーはただ泣かし続けるだけであった。

 

 

「貴様は【人間】なのだ。泣けるのだから泣いておけ、泣きたいのなら泣け、泣くことは悪いことではない。【人間】らしい証拠だ」

 

 

 強く抱きつき泣く立香はそれで更に泣く。藤丸立香(人間)を泣かせるのがカルデアでのシャドー(人間の頂点で在る者)の役目だ。

 

 

「シャドーさん…」

 

「あぁ、なんだ。立香」

 

 

 ずりずりとシャドーの服と自身の顔をこすらせてシャドーを見上げる。可愛らしい顔が涙と鼻水で大変なことになっているが、シャドーは気にしない。見慣れているのもあるが、そんな彼女の【人間】らしさを彼が誰よりも覚えていなければならないからだ。

 

 

「わたし、好きです」

 

「うむ」

 

「好きだから、生きてたいです」

 

「うむ」

 

 

 シャドーは綺麗な空色の瞳で立香を記録する。【人間】の生き様を見るのが【人間の頂点で在る】者の義務なのだから。

 

 

「シャドー、さん」

 

 

 人類最後のマスターではなく、ただの【人間】藤丸立香という少女は【人間の頂点で在る】シャドーに本心から告げる。

 

 

「一緒に生きて、くれますか?」

 

 

 未来の不安にまた涙を溜めるオレンジ色の瞳、言っているそばから怯えで震える唇。

 

 

 

 【人間】の果てを観るのが【神】ならば、【人間】の生き様を魅るのは【人間の頂点で在る者】。

 

 

 

「勿論だ。貴様と生きよう。【人間】として」

 

 

 

 華が咲いたように笑ってまた涙を零す立香に今度こそ涙を拭ってやった。

 

 

 【人間】を分かるのは【人間】だけだ。

 

 

 藤丸立香にはシャドーしかいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの後、今度は嬉しさでグズグズ泣いていた立香が眠るまで抱きしめ続けたシャドーは切羽詰まりまくった彼女に気づかれなかったフォウと語らっていた。

 

 

「フォーウ、フォウ」

 

「ん? 立香のことが好きなのかだと?」

 

「フォウ」

 

 

 シャドーがカルデアにいる間は何処であろうと、ずっと頭の上にいるフォウに用意してあった菓子を与えた。

 

 

「俺は【人間】というものの頂点で在る者だ」

 

「フォーーウ」

 

「答えになっていないだと? 他に相応しい言葉はないのだ。諦めよ」

 

 

 腕の中で立香が身動ぎをした。が、起きる気配はない。化粧で誤魔化してはいたが顔色が良くなかったのが良くなっていた。

 

 

「フォウ、フォーウ、フォウゥ!」 

 

「いい加減誰か決めろだと? ふん、俺は【人間の頂点で在る】のだ。決めるというなら〘全員〙になる」

 

「フォーウ!!」

 

「極端? 馬鹿を言うな。これが俺の【人間の頂点で在る】者として最も適した解答だ」

 

「フォーウ……」

 

 

 ダメだコイツ、とでも言いたいのかシャドーの頭の上で体を丸めるフォウであった。

 

 

 

 

 

 【人間】藤丸立香の依存愛を【人間の頂点で在る】シャドーも共依存であるのかは開示されていない。。

 

 

 

 

 

 

 

 とある日、個人個人での嗜好品の購入のため何人かのサーヴァントとともに買い物する日。

 

 

 時期的に秋になりかけて過ごしやすい季節になった。そんな時期に薄着では少々肌寒い、かといって冬服類の厚着では暑くなる。夏場より控えめに肌を露出し外に出る。

 

 

 「ふむ」

 

 

 普通のスマートフォンより丈夫に加工されているそれを片手で弄りつつ、もう片方の手で雑誌をめくる。

 

 

 「シャドー?」

 

 

 マリーに連れられ紅茶に合う茶菓子を見繕いに行っていたジャンヌが声をかけた。いつも地味めな服装で良さが減ってしまっているが、今日はマリーのおかげで良さが増す服装になっている。

 

 

 「あぁ、ジャンヌか。良いものはあったか?」

 

 「ええ、日持ちするものが多い所で助かりました」

 

 「俺もここで少々試食をしていたが、これどおり中々美味でいい」

 

 

 雑誌の特集を指差す。女性誌だが、シャドーは気にしていない。【人間】を知ることは【人間の頂点に在る】ために必要なことなのだから。

 

 

 「ふふ、シャドーもお菓子が好きなのですね」

 

 「甘味は荒んだ心を癒やす魔法だ。【人間】にとって必要であるのなら俺にとっても必要なのだ」

 

 「つまり、好き、ということですね」

 

 「そういう解答でいいだろう」

 

 

 回りくどい言い回しを慣れたように解釈したジャンヌはシャドーの隣りに座る。その時、紳士らしく椅子を引いてあげたのはシャドーだ。

 

 

 「いるか?」

 

 「お願いします」

 

 

 店員を呼ぶ鈴を鳴らし追加の注文をする。この短い会話の中には色々言葉が略されていた。

 

 

 同じ紅茶がいるか?   ――同じもので。   茶菓子の追加はいるか?  ――シャドーが食べていたものと同じものを。  一緒にいるか? ――一緒にいたいです。

 

 

 たった三文字と七文字で三説でる。まだ他にも意味があるだろうが、我々ただの有象無象の【人間】には開示されていない。

 

 

 

 

 「美味しいですね」

 

 「うむ、このナッツの食感がいい」

 

 

 茶を蒸らしている間に茶菓子を食べる。グルジアに合わせて甘さは控えめであった。

 

 

 「ところで、唐突ですが」

 

 「なんだ」

 

 

 布巾で手を拭いてからジャンヌはポシェットから一枚の紙を取り出した。

 

 

 「貴方は、ネックレスならどのようなものがお好きですか?」

 

 「本当に唐突だな」

 

 「私は、こういうリボンのものが気に入りました」

 

 「ふむ」

 

 

 様々なモチーフのネックレス。その下に値段。手頃な値段であった。

 

 

 「貴様は月も合うだろう」

 

 「そうですか? あ、ならお揃いのを選びましょう。如何でしょうか?」

 

 「かまわんよ」

 

 

 楽しく選ぶ。流れる言葉のそれらは祝福の言葉でもl祈りの言葉でもない、ただの恋に踊る少女の楽しむものである。

 

 

 

 

 

 「やはり、リボンがいいのではないでしょうか」

 

 「ふむ」

 

 「ハートも恋愛という意味でいいですし、クローバーも愛という意味でいいです。華も愛という意味合いでいいですが、やはりここはリボンの」

 「もうわかった」

 

 

 長い話をしだそうとするジャンヌをそう言って止める。自分が語るならいいが、誰かに長々と話されるのは苦手なのだ。勇ましく太めの眉を眉間に寄らせ紅茶を含む。

 

 

 「結局、貴様はこのリボンのネックレスを送ってほしいのだろう」

 

 「はいっ!」

 

 「今から行くか」

 

 「もう少しここにいたいです」

 

 「よかろう」

 

 

 この後、ネックレスを買った二人はお互いにネックレスを着け合いあった。

 

 シャドーはジャンヌの後ろから、ジャンヌはシャドーの前から。 

 

 後ろからあえて恋人を甘やかすように、前からまさに恋人に甘えるように。

 

 

 ネックレスを送る心理は“あなたを自分のものだと束縛したいから”。リボンのモチーフのネックレスの意味は“縁結び”。

 

 「フェイト」によりシャドーに召喚されたジャンヌ・ダルクは恋する乙女であり愛のために戦う【人間】の女である。彼女はシャドーを想っている。恋愛対象として、より深いに仲になりたいと望んでいる。

 

 

 “私と愛し合ってください”

 

 

 ジャンヌは無言でシャドーのネックレスのモチーフに口を落としながらそう願った。

 

 

 【人間】らしさを魅せていた。

 

 【人間】ジャンヌ・ダルクの深愛に対する【人間の頂点で在る】シャドーの心情は開示されていない。

 

 

 

 カルデアの沖田の部屋にて。

 

 本人の部屋であるのに、もじもじとする沖田。それを頬杖をついて見るシャドー。彼の頭の上はフォウが相変わらずいるが存在を彼女から知覚されていない。

 

 

 「あの、シャドーさん…」

 

 「あぁ、どうした。沖田」

 

 「えっとぉ…、その…。沖田さん的にはこの状況美味しんですけど、不味いといいますか…」

 

 「長い話は苦手だ。端的に申せ」

 

 

 足の間でもじもじとする沖田。それを見る。【人間】沖田総司を見る。

 

 

 「あ、の。もっと、その…」

 

 

 せっかく見つけた羽織を脱いで、くのいちのような格好をした沖田は普段の勢いはどうしたのか、抑え気味であった。

 

 

 「ぎゅー、を希望するでありますです」

 

 

 口調がおかしい。体調は先程からおかしいのでどうしようもない。

 

 

 「よかろう」

 

 

 胡座をかいて座っているシャドーの上に乗っている沖田を抱きしめた。

 

 

 「はーっ! ふぇーーぇい!!」

 

 

 変な声を上げたと思えば、そのまま固まった。

 

 

 「いいです…。すごい、いいです。シャドーさん…」

 

 「はっ、当たり前だ」

 

 

 シャドーに包まれ悦楽に浸る沖田。

 

 【人間】であれば、シャドーは極上のものである。男であっても女であっても。但し、シャドーの性的嗜好は女が対象である。

 

 

「胸が高鳴って苦しいんですが、それもなんか心地良いていうか。吐血するときの苦しさじゃないんですよね」

 

「ならばよい。さて、団子を食べるか?」

 

「はい~~」

 

 

 テーブルから団子の刺さった串をとって沖田に食べさせる。

 

 

「シャドーさんも」

 

「うむ」

 

「あ~ん」

 

 

 沖田はシャドーの手に自分の手を重ねてシャドーに団子を食べさせ返す。

 

 

 まるで恋人同士の睦み合いであった。

 

 

「シャドーさん、美味しいですか?」

 

「美味だ」

 

「えへへ~、美味しいですよね。美味しいです」

 

 

 満面の笑みで言う沖田。人斬りである沖田総司は今はいない。ジャンヌ・ダルクと同じくシャドーに召喚された、彼と同じ【人間】沖田総司である。ノッブ涙目。

 

 

「幸せすぎて吐血しそうですぅ……」

 

 

 何故か鼻も抑える沖田を存分に甘やかすシャドー。

 

 普段はシャドーのことを“マスター”と呼ぶが、この造愛の間は愛しい人を名で呼ぶ。【人間】の女らしい、特別感を表していた。

 

 

「造るのは色々消費するだろう。存分に蓄えよ」

 

「はい。えへへ~」

 

 

 身体を反転させシャドーを全力で蓄える沖田。それに甘く応える。

 

 

「シャドーさん、手をください」

 

 

 お互い血に濡れた手。方や善悪など気にすることをやめてしまった人斬り、方や善悪を両方等しく飲み込んで戦う人間。このようなこと気にすることなど今はない。

 

 【人間】名称:沖田総司、性別:女は気にしたがそれをやめさせられた。抵抗などしても意味がなかった。ただの【人間】として扱われ、気にするということがわからなくなった。名を呼ばれることの悦びを知ってしまった。女であることを誇りに思ってしまうようになった。

 

 交わす言葉に男女の愛を。触れる脂肪と筋肉越しに男女の愛を。【人間】同士の行動に男女の愛を。

 

 感じてしまう。

 

 

「………」

 

 

 手のひらに口づけしつつ無言の中に感じる幸せ。頬を桜色に染めつつ噛み締めた。

 

 

 沖田総司はこの幸せを感じていたい。女の幸せを叶えたい。

 

 

 

 

 【人間】沖田総司の夢に対する【人間の頂点で在る】シャドーが成就させる気があるのかは開示されていない。

 

 

 

 

 カルデアのサーヴァント用のある私室。

 

 

 首に喰い込む龍牙。甘噛ではなく、息の根を止めようと強く咬み付く。

 

 

「…っぬぐ」

 

 

 痛みに声を上げるのは男の方。令呪で相手を止めればいいというのに、やる気配がない。

 

 がぶり、というまだ可愛らしい音を立てるのではなく、皮膚を裂き中の筋肉とこれらから出てくる血液と彼女自身のの唾液とが混ざ合い、ぐちゅりぐちゅり、と不快な音を立てる。

 

 

「旦那様ぁ…」

 

 

女の甘い声は男の獣欲を掻き立てる。そして、男の苦痛に喘ぐ姿は女の本能を騒がせる。

 

だが互いに行う行動は一つだけ。

 

【人間】の愛情表現であるのは間違いない。これは女の表現だ。

 

 

「ぐぅが…」

 

 

本能的に痛みを和らげようと首を動かす。伸縮する首の筋肉。血に塗れ、そこからも血を出して損傷している事実を明らかにする。赤々と輝く固体と液体に嘘の形と色がない。

 

むせ返る男女の行為のそれではなく、血臭と肉を焼く匂い。

 

口に含んでねっとりと味わい喉に滑らせ胃の中に抱く。たまらない空腹感を肉で、喉の渇きは血で。深く味わい満足へ。

 

 

男の表現。男はひたすら女の逆鱗を撫ぜる。爪で時折掻き、手全体を使って愛撫する。快感を促すそれは性交へ導くためのものではない。ただ、愛を撫でた。

 

愛を享受し合う。

 

歪な、異常な………なんと綺麗な愛交渉。

 

 

男が痛みに喘ぐ。女は喰らい続ける。

 

声を上げる度に女が過敏に反応する。男から離れようと男を拘束する四肢の力が一瞬だけ止まる。

 

それに男が撫でる。女を離すまいと、より敏感な逆鱗の一部を撫でる。

 

続行。魔術や秘薬での肉体の強化は一切ない。互いにありのままで動き続ける。

 

 

ただの純粋な【人間】の愛情確認だった。

 

 

お互い吐く息が熱い。

 

片方は失われる血液のせいで青白い。死に近づく身を自ら近づけるその姿は、明らかに黄泉人のはず。

 

片方は吐く息に少々火炎を混ぜるので体内温度だけでなく室内温度も熱くさせる。血肉を貪る姿は、まさしく化生の類のはず。

 

だが、どうしても愛に狂う【人間】らしさを誰もが目に焼きつけるだろう。

 

 

「シャドーさ、ま…」

 

 

女の啼き声に男は口を女の耳元に近づける。

 

 

「存分に嘘を喰らえ(愛を知れ)

 

 

男はそう言う。血液とともに水分と発声するための筋肉が奪われたので歪んで渇いたそれは、どうしようもない程に【人間】清姫を思うものであった。

 

 

「清姫」

 

 

先程よりもたっぷりと甘さを含んで女の名を呼ぶ、

 

 

ぐちゅり、と生理的嫌悪を催す音が響く。

 

 

【人間】で、その【頂点】で【在る】のならば、どんな【人間】でも等しく愛す。どこまでもイカれた思想を持つシャドー。だが同時に、どこまでも正常だと思わされてしまう。

 

生きるために喰らうのではなく、ただの愛のためにお互い傷つけ合う。

 

愛、という言葉の中でおかしいとされるそれは、二人の【人間】のなかでは、もっとも正しい形だった。

 

嘘がないか、今日も清姫はシャドーの嘘を喰らう(愛を知る)

 

 

【人間】清姫の認知行動に【人間の頂点で在る】シャドーの正常に理解できているのかは開示されていない。

 

 

 

 シャドーの私室。

 

 今までの絆よりのサーヴァントや【人間】からの貢物が所狭しと飾られる中、男女がベットの上がいる。

 

 これから魔術供給でもするのか、それはこれからの流れによる。

 

 

 

 「………」

 

 

 上半身裸で胡座をかいて座るシャドーの腹に顔を埋めるマシュ。

 

 シャドーの令呪は腹にある。そしてシャドーの三属性をよく感じれるのがそこだ。

 

 目を閉じ、シャドーを感じるマシュ。

 

 ゴツゴツとした広大な地に、軽やかに吹く風、最後に全て包み込まんとする水。広く生きよ、自由に生きよ、そして共に生きよ、と語る。

 

 地の特性「記録」。風の特性「再現」。水の特性「回帰」。

 

 それぞれ能力は高いものではない。強烈なまでに【人間】として在り続けるシャドーの生き様らしからぬ地味なものだ。

 

 

「はぁ……」

 

 

 マシュが漏らす吐息は劣情を催したものではない。顔が緩んでいるのは、心の底から安心しているからだ。

 

 

「マシュよ」

 

「はい」

 

 

 目を閉じたまま応えるマシュ。その体にシャドーの脱いだ衣服を纏っている。それ越しにシャドーは彼女の背に触れた。

 

 

「しっかり摂るがいい。俺も貴様を録る」

 

「はい…」

 

 

 属性の通り、本人とは違って穏やかな形の令呪を指でなぞるマシュ。シャドーは、くすぐったさからか少々身じろぎしたが黙って受ける。

 

 

「シャドーさん…」

 

 

 舌も加わる。鍛え上げられた身体は脂肪が薄く、より鋭敏にその熱さが這い回る感覚が分かってしまう。だが、そこから来る快感よりもそこから出ていく魔力の喪失感からうめき声が出る。

 

 時折、肌に強く吸い付く音がする。肌の白いシャドーに、そんなことをすれば痕が残り、しばらくそのままになるだろう。分かっていてしている行為、なのだろう。

 

 

 シャドーはただ背を撫でているわけではない。子供もあやすようでもあるし、女を愛撫するようでもある。だが、それは指で背に描く魔術式。

 

 どこまでもどこまでも、【人間】で在れ、という祝福の魔術式を描く。

 

 道具もなしに指で描くだけでは、特に効果もない。【人間】らしい、何かに頼る行為、それをシャドーがマシュのためだけに行っていた。

 

 

「マシュよ」

 

 

 その声に(ねぶ)るのをやめ、シャドーを見る。

 

 

「生きよ」

 

 

 疲れなど感じさせぬ、強い声。

 

 

 これを行う前にカルデアでの仕事も行っていた。書類、と一言だけで済むものではなく人件費や施設維持費などは勿論のこと、レイシフトのたびにレポートなども提出する。書類は、たとえレイシフト先から帰り疲労困憊であろうと、何十人分のものを即座に片す。他に手伝ってほしいものいれば、奪い取り片す。まだ、カルデアの人員は少ない。どの職員も猫の手を借りたいほどの忙しさ、そして抜けない疲れ。そこに総ての分野をこなしてしまう人物がいたなら頼るだろう。藤丸立香やマシュ・キリエライトよりも長くスタッフとして大活躍もしていたのもある。頼りになる、なりすぎる。

 そして、これ以外にも体がなまると戦闘訓練をしたいサーヴァントの相手をしていたのだ。

 

 それをしても疲ていない。いや、疲れていることが分からない。

 

 【人間の頂点で在る】ということは、【人間】ではないということではないと言うのに。

 

 

 閑話休題

 

 

 マシュは即座に答える

 

 

「はい」

 

 

 お互いがマシュの余命が僅かなのを知っている。どんなに残酷か、そんな言葉二人は解る気はない。

 

 

「生き様は最高に決めろ、でしたね」

 

 

 マシュが言う。探索の時、ボスキャラと呼ばれる面々にいつも告げた説教の一部を口に出す。

 

 

「その方が“生きていた”と覚えていられる、ですね」

 

 

 いきなりシャドーが強くマシュを抱きしめた。

 

 

「シャドーさん?」

「俺は、“生きよ”と言ったのだ、マシュ」

 

 

 マシュがシャドーの名を呼ぶのと被せるようにそう言う。意図がつかめないのか、シャドーの空色の瞳を見続けた。

 

 

「生きよ」

 

「………」

 

「どんなことがあろうと生き足掻け」

 

 

 いつも偉そうな口調は少し泣きそうになっていた。

 

 

「俺は…。マシュ、貴様に生きていて欲しい」

 

 

 【人間の頂点で在る】者が【人間】として言う。

 

 

「生きよ。生きよ…。貴様と共に生きたいのだ……っ」

 

 

 個人的な願望など持ってはいけない、と自身を律してきた【人間の頂点で在る】者が初めて【人間】として願ったものだった。

 

 更に強くマシュを抱く。デミ・サーヴァントとなったマシュといえども痛みを感じるほどの抱擁。それは、彼女を強く想ってのものなのが伝わる。

 

 マシュは笑った。泣きそうなまま、嬉しそうに。

 

 

「シャドーさんがいる未来なら喜んで」

 

「どんなときも共にあろうっ。貴様が健やかなるときも、病めるときも…。共に生きよ、マシュ」

 

 

 まるで結婚の宣誓のような言葉を言うシャドー。全力で愛人(あいびと)【人間】マシュ・キリエライトを愛しているがゆえの言葉だった。

 

 

「はいっ」

 

 

 幼さを纏う顔が、ようやく女性に近づいた。シャドーは愛おしそうに、己のファーストキスを愛しい人マシュに捧げた。

 

 

「シャドーさん、私もっと」

「俺から言わせよ」

 

 

 マシュのメガネを外し、体勢を変える。

 

 

「マシュ・キリエライト。貴様を俺にくれ」

 

 

 ひたすら、その時が来ても愛し合おう。

 

 

 【人間】マシュ・キリエライトと【人間】シャドーとの“愛”は終わりを迎えることがない、そう明示されている。

 

 

 

 

 

 スマートフォンで予めセットしておいた【英霊転身システム】。起動に少々時間がかかる。

 

 これは第五次聖杯戦争時に召喚された全サーヴァントに変身し能力を使えるようになっているシステムである。【人間】の身から【人外】へ向うことは心身ともに多大な負荷がかかる。それを全て起動する。

 

 負荷などどうでもいい。"生き抜いて魅せた”彼女に負けてはいられないのだから。

 

 

「ゲーティア…」

 

 

 唸るように出た声に心の隅で驚く。

 

 俺は何に怒るのかに対するのではない。俺が怒れるのかということだ。

 

 

「誇れ。貴様は、俺と今まで生きた。貴様の生き様を俺に魅せた。ずっと覚えていてやる。死に絶えても、生まれ変わってもずっと」

 

 

 先程からの戦いで疲れた身体に鞭を打つ。変身し魔槍を構える。いつもは精神も染まるものが、今回は俺の意思が顕著であった。

 

 神速で魔槍をゲーティアに突き刺す。手応えはある。が、まだ消えぬ。いきなり宝具を使ったことで変身が解けた。腕の筋肉どころか全身の筋肉がズタズタになったのだろう。声が出せないほどに脳に響く停止の声。だが、そんな痛みがなんだ。

 

 

「死に様を気にするなら、生き様を気にしまくってから死ね」

 

 

 近づいたせいで攻撃が来る。即座にライダーに変身し、幻想種を召喚して皆を守る。魔術回路がイカれる感覚。脳は停止を進言し続ける。そんなもの気にする気はない。

 

 

「死に様は最低に無様でいい。格好悪いほうが覚えていられる」

 

 

 二の指輪を使われたが、すでにキャスターに変身した俺に意味はない。その使用を破戒する。四肢に力が入らなくなってきた。まだ感覚が僅かに残る指先でどうにかすればいい。

 

 

「生き様は最高に決めろ。格好いいほうが“生きていた”と覚えていられる」

 

 

 虚勢を張って、自身の力を振るう。呪殺はできないが、ダメージは重ねた。指先からの感覚が絶えた。血液を巡らす。管はまだ形を成しているはず。心臓をさらに動かして無理を重ねる。

 

 

「さぁ、最高に生きてみせろ。そして、最低に無様に死ね」

 

 

 狂うのは誰かという個人のためではなく、あらゆる【人間】のために。心臓が何度か止まる。脳からの電気を増やし、動かす。

 

 

「生きるのは楽しかったろう? 死ぬのは怖かろう?」

 

 

 世界を作り、物量で攻める。心臓が止まる。動かず、呼吸もままならない。脳に血液がいかないが、まだ動く。

 

 

 “仲間”。

 

 共に戦う連中を感覚だけで感じて、そんな一番嫌いな台詞が脳裏によぎる。藤丸立香も、ジャンヌも沖田も清姫も、マシュも、どんな連中もその台詞を喜んで使うだろう。その台詞は嫌いだが、貴様らは嫌いにはなれない。

 

秘薬など飲んでいる暇はない。停止しようとしている自身を必死に稼働させた。

 

 

藤丸立香のサーヴァントも俺も瀕死。だからこそ、最後の力を互いに吐き出す。

 

 

「これは、貴様の願いだったのだ。そして、俺達の願いだったのだ」

 

 

聖剣にありったけのチカラを込める。心臓は停止した。脳もそろそろ思考も停止させるだろう。

 

 

「生きたい、それだけだろう?」

 

 

ホワイトアウトする視界の中、マシュがいた。

 

 

―――――(アイシテル)

 

 

なんという言葉を言ったのか、薄れる意識は覚えられなかった。ただ、マシュだけに言いたかった言葉だったような。そんな気がした、のだ。

 

 

 

 




主人公設定



○一人称は俺
○性格は典型的な俺様キャラで、自分が世界で一番偉いと思っている


●理継続保障機関カルデアで、ぐだ子やマシュより前にスタッフとして居候している
●ぐだ子と同年齢の青年


◇7つの聖杯探索(グランドオーダー)を巡る、ぐだ子の護衛兼サポートをしている
◇ぐだ子と同様に「フェイト」を使用するが、ぐだ子の「英霊召喚システム」と異なりセイバー~バーサーカーまでの全クラス(Fate/stay nightに登場する英霊のみ)のサーヴァントに変身する「英霊転身システム」が搭載されているスマートフォンを使っている
変身したサーヴァントの武器や能力、宝具を使用することができる


■偉そうな性格だが総ての分野をこなしマシュと同様にフォウと意志疎通ができる完璧超人
■敵を生身であしらうほど人間離れした身体能力を持っている


△長い話が苦手で、少し聞いて「もうわかった」で済ませる
△仲間という言葉を「一番嫌いな台詞」と称しているが、ぐだ子達を大事に思っている
△探索を巡るごとに遭遇するボスキャラに対して説教する癖がある


▼ガルデアにいる時は主人公の頭上には、いつもフォウが乗っている



以上がリクエストして下さったシャドー様がご考案した設定です



以下はこちらが勝手に考えた設定です

後付け設定

・属性は「水」と「地」と「風」の三属性
・特性は「記録」と「再現」と「回帰」
・「記録」は自身の経験や見たものを全て(一秒、一瞬まで)覚えていることができる(但し、視力が無くなっていく)
・「再現」は「記録」から行動を文字通り再現できる(但し、魔術回路が歪になる)
・「回帰」は何度も繰り返すことができる(コンティニュー機能。但し、色々削れる〔寿命だったり、肉体だったり、人間性だったり)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

上の続編  マシュ・ジャンヌ【白】落ち

fgo ハーレムマシュ落ち(ぐだ子・マシュ、ジャンヌ【白】、沖田総司【桜セイバー】、清姫)の続編です。

ぐだ子は藤丸立香です。


 

 

  鈍い疼痛で目が覚める。

 

  シーツ越しにその部位を触ると、痛みの強さが増した。だが、耐えられぬほどのものではない。

 

  変質してしまった自身の心身を落ち着けるため、痛みに入ってしまった力を抜く。

 

  簡単に言うが、結構難しいものだ。疼痛はますます強くなり、その痛みに脳が危険と判断し警告として筋肉に緊張を指示するのだから。

 

  脳を騙す。

 

  〘これは痛みではない〙 そう思考する。   ――否、と判断し脳は緊張を指示するのをやめない。

 

   「これは痛みではない」 そう口に出す。   ――…否、と鈍く判断しだす。だが、まだ指示をやめない。

 

   「痛みではない」  また口に出し、痛みで引きつった表情筋の位置を動かし、笑みを作る。  ――………。鈍い判断をより鈍くする。

 

 

   痛覚、熱反応、心拍数、血圧―――。様々な体内で起こっているはずの異常を確認する。

 

   それにかかること瞬間。

 

   結果――体内での異常ではない、との判断。

 

   結果――体内での異常である、との判断。

 

  

   2つがまじり、脳は混乱する。そのせいで独特の気持ち悪さを感じ、口内が異様な味になる。

   

   少し心が壊れていくが、すぐに対処するので気にはしない。

 

   ビリビリと痺れ出す指先を内に集める。強く握り拳を作るのではない。あくまで、なにか潰さないよう優しく閉じ込めるように。

 

 

   呼吸を意識的にする。

 

 

  〘戻らない、止まらない、躓かない。――不可能と諦めない〙   そう息をゆっくりと吸いながら侵食してくるモノの足止めを。

 

  〘膝をつくな。背を向けるな。顔を背けるな。――不可能を許さない〙 そして息をゆっくりと吐きながら暴れるモノを押さえ込む。

 

 

   服越しに、皮膚越しに、筋肉と脂肪越しに、体内でより強く存在を主張するモノに理解させる。

 

 

  

  〘【不可能を可能にする半端者】(シャドー)は不可能という理解し得ぬものは決して認めない〙

 

 

 

   諦めたようにゆっくり収束していくモノ。

 

   不遜に在って、遠慮に成って、確かに交っている。

 

   なんとも形容の難しいもの。 人では異物、神では異物。 だが、シャドーの中では当然として在るソレ。

 

   

   シャドーはこうしてようやく、今日も生きることができる、と理解する。

 

 

 

 

「おはようございます、シャドーさん」

 

 

 各部屋に備え付けてある浴室でシャワーを浴び終え、部屋から出るとすぐそこにマシュとジャンヌがいた。

 

 

「うむ。おはよう、マシュ、ジャンヌ」

 

 

 ゲーティア戦で命を落とし、マシュと同じくフォウによって「人間」と「神」のハーフとして復活したシャドー。発声すら権能(チカラ)とさせかねない。身体能力は【人間】だった頃と同じだが、魔力と魔術回路は【神】の力が加わったことで大魔術も簡単に発動できるようになってしまった。たった一語だけでも、空を割る、海を割る、地を割る等容易くできてしまう。その制御に並々ならぬ苦労があろう。だが、それを自他共なんともなさ気にこなしてしまった。カルデア内には、オリオン(じゃない方)やイシュタル等の神のチカラ? 余裕でしょ? 勢や、メディアやマーリンなど魔術なら任せろーバリバリ 勢がいるのだ。彼らの能力を酷使すればできないこともない。

 

 つまり、発声にすら気を使っているのだ。

 

 

「どうしたのだ。いつもなら立香らもいるはずだが?」

 

 

 そう尋ねると、マシュが前に出る。すかさず押しのけてジャンヌが前に出る。

 

 その繰り返し、五度。

 

 

「同じ用なのだろう? 同時に申せ。」

 

 

 そこに存在するだけで、溢れる魔力。魔眼は今も昔も所持はしていないものの、その溢れて漏れたものが自然と周りのものを読み取ってしまう。体温や心拍数は勿論、時間をかける、もしくはより溢れさせれば、相手の心情、思考すらも読み取ってしまう。だが、それは常に存在するわけではない。いつの間にか気化のような現象で消え去る。

 

 神秘勢から言わせれば、星に馴染んだ。魔術師から言わせれば、マナと同化した。学者らには、キセノンと結合した。文学者どもは、世界と結ばれた。

 

 それぞれの詳しい論述は割くが、つまりホメオスタシスではないのだ。

 

 

 まだ、数分。そしてシャドーが表面上は涼しそうにしながらも、なんとかおさえこんでいるため意思を読み取れる程度だ。

 

 

 微妙な攻防をしていた二人は、シャドーの言葉にソレを止め同じ言葉、同じ速度、同じ音量で言った。

 

 

「一緒にお祭りに行きませんか!?」

 

 

 祭り。そう聞いて思い浮かべるのは、降臨祭や復活祭。又は、収穫祭や謝肉祭といったもの。これらが、シャドーにとって馴染み深いものだ。だが、彼女らは正確にどの祭りとはいっていない。そもそも、挙げたものを態々言いに来なくても自分で分かっている。そして、ここカルデアには様々な国・時代の英霊(一部神)がいる。あの国の祭りをやるなら、この国のも。この時代にはないが、あの時代にあったものをなどなど、キリが無くなるほど祭りをしなければならなくなる。その取捨選択はカルデアのマスター藤丸立香、まだ帰ってこないロマン、皆の美女ダヴィンチちゃんらが主だってしていた。何故、シャドーが主立ってなかったかは、彼が母国や宗派的なもので偏りが僅かなりとあるからだ。

 

 

「何処の国のものだ」

 

 

 基本的にカルデアにいるか、特異点にいるかの彼ら。時代も、国も、季節も、環境も、色々バラバラで過ごしてきたため、今現在の時代の季節での祭りといえば。

 

 

「日本です」

 

「日本の?」

 

 

 多様な文化を混ぜ入れ、これまた多様な祭りに手を出しまくっているあの国。コ○ケ的な方ではないだろう。

 

 

「ユカタなるものも用意しました!」

 

 

 ジャンヌが何処からか浴衣を出した。マシュは帯と下駄を。それぞれシャドーによく似合いそうである。

 

 

「準備万端だな」

 

「はい!」

 

「それで、貴様らも着るのだろう」

 

 

 うんうんと頷く二人。

 

 長く共に在りすぎた。心情の奥深いところにある欲も読み取れてしまう。

 

 そんなものに今更全員臆することもない。

 

 方や、身体を繋げた仲、方や、魔力を繋げた仲。

 

 その程度のもので揺らぐ信頼関係など築いていない。

 

 

「良かろう。行こうではないか、日本の祭りとやらに」

 

 

 相変わらず偉そうにそう言うと、女子二人は互いの手をタッチして喜んだ。

 

 

 

 

 

「ふむ」

 

 

 新しい特性【世渡】を使いレイシフトして日本に赴いた。

 

 

「これが、祭り…」

 

 

 マシュが薄い色合いの浴衣を纏い。

 

 

「屋台もそうですが、独特ですね」

 

 

 ジャンヌが濃い目の色合いの浴衣を纏う。

 

 

 そしてこの二人。両サイドに陣取っている。 誰の? 勿論、シャドーの。

 

 腕を組まれ男にはない、膨らみと柔らかさをもつ胸部をシャドーに当てている。

 

 

「………」

 

 

 カジュアルに浴衣を着こなすシャドーは目を細め、周りを見る。

 

 煩悩に負けぬための気をそらしているわけではない。そこかしこにある慣れた気配を感じ取っているだけであった。

 

 

「シャドーさん、ジャンヌさん。あれはなんでしょうか」

 

 

 機器から流れる祭り囃子の中でも聞こえる可愛らしい声を右腕にいるマシュが指差した。少し腕を彼女側に引かれたため胸が当たる。

 

 

「白くて丸いですね」

 

 

 左腕にいるジャンヌがマシュ側に身を乗り出す。胸がより当たる。

 

 

「あれは確か、わたあめだ」

 

「わたあめ、ですか」

 

「あぁ、知っています。砂糖菓子ですよ、あれは」

 

「そうなんですか」

 

 

 三人はそのままの形で呼び込みをしている屋台に近づく。

 

 

「いらっしゃ~い、いらっしゃ~い……って、マシュッ!?」

 

「え?」

 

 

 屋台の親父がいきなりマシュの名を呼んだ。

 

 

「知り合いか?」

 

「いえ、知らないのですが…。えっと、貴方は」

「はっ!マ、マシュマロのような食感のわたあめだよ~。ま、うぅん! お嬢ちゃん達もいかがかな~?」

 

「まぁ!? そんなわたあめがあるなんて…」

 

 

 屋台の親父は焦ったようにそう言うとマシュから顔をそらしつつも、自分の店の商品を勧めてきた。

 

 

「マシュマロのような食感ですか…」

 

「いるか?」

 

「はい!」

 

「ラ…親父、二つほどくれ」

 

「あいよ~。八百円、確かに頂きました~」

 

 

 ラがつく誰かの笑顔がピシリと硬くなるが、気にせず八百円を渡すシャドー。そして、溢れる魔力で彼の思考に触れた。

 

 

(折角、マシュも楽しんでいるのだ。邪魔はしないほうがいい)

 

 

 肩を大きく動かしたたため、変な形のわたあめを作ってしまう。まるで、剣のような形である。とある湖の騎士的な。

 

 

「わぁ、面白い形ですね」

 

「あ、あ~、ちょっと失敗しちゃったなぁ~。新しく作るからちょっと待っててね~」

 

 

 親父が商品にならなくなってしまったものを何処かにやろうとすると、マシュが止めにかかった。

 

 

「あ、それがいいんですけど」

 

「どうしてです?」

 

「お父さんのみたいで、なんか欲しいんです」

 

「………っつ!!」

 

 

 親父が固まる。糸目だった目が開眼された。

 

 

(この言葉が取引だ。いいだろう?)

 

 

 親父は頷くと、歓喜に満ち溢れたものを隠さずにマシュに渡した。

 

 

「お父さんは嬉しい!!」

 

「え?」

 

「と、言うと思うよ!!」

 

「なんかこの人変ですね」

 

「気にするな、ジャンヌよ。さて、親父もう一つもぱぱっと作ってやれ」

 

「あいよ!!」

 

「私は普通の丸いのでお願いします」

 

「お任せを」

 

 

 ぱぱっと作る。大きめのを。

 

 

「あいよ! そっちのお嬢ちゃんの分、こっちにおまけさせてもらったからね~」

 

 

 ジャンヌに渡る。それは彼女の顔より大きいものであった。

 

 

「食べきれるかしら」

 

 

 そう呟く。と、ジャンヌは何かを思いついたのか、それを少し千切るとシャドーの口元に。

 

 

「あーん」

 

 

 ぱくり。こっそり指をシャドーの口内に入れたのは気の所為のはず。

 

 マシュがわたあめに夢中になっている最中に起きたもの、阻止のしようがなかった。

 

 

「ふむ。本当にマシュマロのような食感がするのだな」

 

 

 食感はしつつもわたあめであったのだ。口の中に入ったそれはすぐに溶けてしまった。

 

 

「シャドー」

 

「この通りだ。できんよ」

 

 

 ジャンヌが何か催促するも、両腕とも女性陣に取られてしまっているので何も出来はしない。

 

 

「では、またあーんできますね」

 

「そうだな。が、あまりここに居ては親父の商売の邪魔になる。行くぞ、ジャンヌ、マシュ」

 

「はっ! はい、シャドーさん」

 

「分かりました」

 

 

 ようやく夢中になっていたわたあめから戻ってきたマシュと聖女? なジャンヌとともにわたあめの屋台から離れるのであった。

 

 

「まいどあり~!!」

 

 

 メジェド様人形と親父の声に送られて。

 

 

 

「むぅ…。私のをあーんが出来ませんでした…」

 

「ふふ。楽しかったですね」

 

 

 マシュは、あーんする部位を食べ尽くしていたためシャドーにすることが出来ずにジャンヌから借りてしていた。

 

 

「では、あれでするが良い」

 

 

 シャドーは楽しそうにマシュに語りかけ、顎と目で屋台を指した。

 

 

「あれは…?」

 

「まさか…。TAKOYAKI!?

 

 

 マシュの疑問の声に答えたのはジャンヌであった。少し慄いたような声である。

 

 

「ジャンヌは食えんだろうから、貴様がやってくれるのだろう」

 

「え!? いいんですか?」

 

「ぐぬぬ…」

 

 

 フランスではタコを食べる地域もあるが彼女の出身地域に海はなく、そもそも彼女の国ではタコは“海の悪魔”と称される生き物。確かに見た目はアレであるのだし、しょうがないものもある。

 

 

「知識として知っている貴様には、少々荷が重かろう」

 

「タコ焼きでなければ…、タコ焼きでなければ……!」

 

「美味しそうな匂いですけど」

 

 

 確かにソースの香ばしい匂いが近づくたびに香るので胃袋を刺激し、空腹感が満ちる。ジャンヌにとっては中身がヤツなのが問題では在る。

 

 

「いらっしゃ~い! お、外人のかっこいい兄ちゃん。随分なべっぴんさん達連れてるねぇ~」

 

「うむ。二人共美人であろう? 俺の自慢だ」

 

 

 屋台の親父の台詞に、赤面もせず堂々と言う。

 

 

「………!!」

 

 

 屋台の親父の台詞よりシャドーの言葉がたまらなく嬉しいのだろう。左右から頬を染めた美女たちにより強く抱きつかれつつも、シャドーの不遜な様子は微塵も変わらない。

 

 

「ははっ、兄ちゃん、おっとこまえだね~。で、どうだい。うちのタコ焼き買ってくかい」

 

「あぁ、二つ頼む」

 

「あいよ~。バイトの嬢ちゃん! タコ切ってくれ~」

 

「は~い! わっかりました~!! まったく、なんでアイドル勇者の(アタシ)がこんなことをしなくちゃなんないのよ…。そもそも子イヌがしっかり子ガメを見張っておけばよかったのよ。 って、あぁ!! ぬめっとした!! ぬめっとしたぁ!! あぁ~気持ち悪~いぃぃぃ!!

 

 

 どこぞの何度も出てきて恥ずかしくないんですかの声が聞こえたが気のせいだろう。

 

 

「シャドー、何故二つも?」

 

「生まれ変わってから、前より燃費が悪くなってしまってな。食べなければ持たんのだ」

 

「つまり、こういうことですよ。ジャンヌさん」

 

 

 後ろのバイトに檄を飛ばしつつ生地を作る屋台の親父の前で三人が話す。要領を得ないジャンヌが得た方のマシュの方を見た。

 

 

「“食べさせてくれ”ということです。ね?」

 

「うむ。そういうことだ。なに、この通り手が塞がっていてな。食べようにも食べれん。貴様らの手をまた借りるぞ。…構わんだろう?」

 

「………はい!」

 

 

 照れ隠しで長々と号していると思われるが、別段照れているわけではない。魔力で触れて感じてしまったジャンヌの心境がプラスになるよう動いただけである。

 

 現に、さっきまで“海の悪魔”に怯えていたジャンヌはおらず、嬉しそうに更にシャドーにくっつく。マシュも同じく。それにシャドーは微笑みを浮かべた。“実に愛い”という感じのもので。

 

 

「ほい、ほほいっ、ほいほいほいっと。あいよ~、兄ちゃん達、出来ましたよ~!!」

 

 

 ちょうどいいタイミングで親父がタコ焼きを笹舟に似た箱に入れて出来たてをシャドー達に渡す。お金はすでに払い終えていた。

 

 

「ありがとうございます」

 

「感謝する、親父」

 

 

女性陣二人のと違った感謝の仕方で意を表すと、三人は屋台から離れた。

 

 

(その子イヌとやらに貴様の頑張りを教えといてやろう)

 

「ひゅわっ!?」

 

 

 魔力で混沌・善の誰かに伝えるのを忘れずに。

 

 

 

 

「あふっ、あふひふぇふふぇ(訳:あついですね)」

 

「舌が痛い」

 

「す、すいません。加減がわからないもので」

 

 

 すこし冷ませば大丈夫だと思っていた外人三人は、中のほうがより熱いというのを知らなかったようだ。これがニンジャトラップ…!

 

 シャドーは魔術でやけどした己の口内とマシュの口内を治す。

 

 漏れ出る魔力で魔力が枯渇しないのかというとそういうことはない。何故なら、【魔増】という新たな特性によって消費した魔力を自動回復させるからだ。オートポーション(MPバージョン)を搭載していると言っていい。

 消費したら補充する。彼が生きている限り、彼の中でその永久循環はなされるだろう。ただし、食事など取らないと人間として摩耗して壊れていくので食事はこまめに取る。さっき、より食べるようになったと言っていたのは、自身の人間としてのアイデンティティが歪んでいくのを本能的に恐れていての身体反応である。腹がより減るのは、生物的構造で言えば長くもたない欠陥。だが、【不可能を可能にする半端者】と自身を称するようになり、半分は人間であるということの自負と少なからずある半分は神であるということへの焦燥感からの、絶対的価値。欠陥でありつつ、絶対的な価値である空腹感、あるいは飢餓感、それを持つことを“彼女”は咎めはしない。

 

 

「でも、美味しいです」

 

「うむ。美味い。このソースもいいが、生地に何かダシを使っていて更に美味い」

 

「そんなに美味しいのですか…」

 

 

 三人は仮設した長椅子に座り食べていた。ジャンヌは少し興味が湧いたように後四個ほど残ったタコ焼きを見つめる。

 

 

「あ、の、二人共」

 

「どうしました、ジャンヌさん?」

 

「ふむ…」

 

 

 分かったシャドーは楊枝より太い、けれども串より短いそれでタコ焼きを一つ取る。

 

 そして。

 

 

「ほれ」

 

 

 フーフーはしなくてもいいぐらい外側は冷めているし、二の足を踏ませぬよう魔術で中の方もそんなに熱くないようにしたるそれをジャンヌの口元へ。

 

 

「あっ!」

 

「あ、あーん…」

 

 

 マシュが声を上げてもシャドーは行動をやめず、ジャンヌは恐る恐る口を開き。食べた。

 

 

 目をぎゅっとつむり、生地とともに“海の悪魔”を食べる。

 

 咀嚼。咀嚼、咀嚼。

 

 

「おいしいです…」

 

 

感激したような様子でシャドーに残りを催促する。

 

 

「シャドー、もっとくだ、さい」

 

「いいだろう。貴様にくれてやる」

 

「むぅ~~…」

 

 

 傍から見ると謎のエロ空気を醸し出す二人。マシュは頬を膨らましながら残りの自分が持っているタコ焼きを食べるのであった。

 

 

 

 

「はー…、楽しかったですね……」

 

「ほんとうに、そうですね…」

 

 

 タコ焼き後、カチワリを飲んだり射的で密着しながら的を撃って周りから嫉妬の視線を浴びたり、らくがきせんべいでせんべいにカップル臭がパない落書きをしたものをつくったり処々でメジェド様に見守られていてたり、と色々として祭りの最後。

 

 

「この辺りでいいか」

 

「そうですね」

 

「あ、ちょうどベンチがありますよ」

 

 

 一部分だけ空が見える少し葉が生い茂った場所にポツンと三人ぐらいなら座れるベンチがあった。

 

 

「草木がここが穴場だと教えてくれてな」

 

 

 人だけに有らず草木の声も聞こえる。蚊やら何やらの虫も近くにいるが、虫よけの魔術を行使しているのでそれらは寄り付かない。普段、SAN値を削られるようなモンスター達と戦っているとは言え、生理的に受け付けないものは存在する。そうした考慮もできる。虫たちには申し訳ないが、ここは愛おしい彼女たちを優先することに決めた。

 

 

「花火、実際見るのは初めてです」

 

「私もよく覚えていると言えば、最近の映像のほうですね」

 

「………」

 

 

 二人の間にいるシャドーはしばし目を閉じる。体力的にはそんなに疲れていないが、精神面で少し疲れていたのだ。かつては【人間の頂点で在る】ことが絶対的な自身としての在り方であり生き方、但し人の声をこれほど聞こえるというものではなかった。無意識にも、有意識にも聞こえてくるあらゆる声。負のものもあれば、正のものも、ごちゃまぜのものもある。勿論、受け止める気概もチカラもあるつもりでいる。それでも、器は矮小なる者のまま。歯がゆく思うことは多々ある。あらゆるものを救いたい、などと言う気はない。“ある程度なら救える”のだから、それで今のところは我慢しているのだ。

 

 欲深くなってはいけない。欲深ければ欲深いほど、“【不可能を可能にする半端者】()【人間】()でなく【神】になってしまう”。

 

 ナカが蠕く。

 

 

 

「シャドーさん?」

 

「シャドー、そろそろですよ」

 

「あぁ」

 

 

 二人の声に意識が戻る。少し気絶していたようだ。丹田に力を込め身体を食い破り出てこようとするソレの動きを封じる。

 

 

「あっ」

 

 

 三人の内の誰かの声が漏れたと同時、空に昇る光が。

 

 

 華が咲く。

 

 

 何度も咲く。遠くても響く、破裂音とヒューという笛のような音、三人の感嘆のため息とともに。

 

 

「綺麗…」

 

 

 ジャンヌが思わずシャドーの腕を離してしまうほどの綺麗さ。

 

 

「………」

 

 

 マシュは花火と同じようにキラキラした目で口をぽかんと開けたまま空に咲く華を見る。

 

 

 思わず愛しさが漏れた。

 

 

 そっとマシュを抱き寄せ口付けを落とす。

 

 

 「……っつ!?」

 

 

 ふいの口付けに声を上げそうになったマシュだが、ジャンヌから開放された方の人差し指で止める。

 

 ジャンヌは全く気づかない。

 

 

 「善き日だったな、マシュ」

 

 

 顔を真赤にしたまま黙って頷くマシュに花火をせにしたシャドーが薄く笑う。

 

 

 「お前達とともに在れて楽しかった。今度は俺から誘おう」

 

 

 あとは花火を楽しむことにした。

 

 

 (愛しい人よ、共に在ろう)

 

 

 二人の意識にそう触れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おまけ

 

 

 

 無言で帰宅中。

 

 

 シャドーの顔はなんともないが、女性陣二人の顔は赤いままだ。そして無言である。

 

 事後…?

 

 

「遅かったですねぇ…、シャドーさん達」

 

 

 人気のないところでカルデアに戻ろうとした時、彼女たちが現れた。

 

 

「旦那様ぁ、何処にいってらしたのですか…?」

 

「シャドーさぁん、探しましたよー」

 

 

 全員声のトーンが低い。辺りが暗いせいで顔がよく見えないが、不穏な様を悟る。よくよく見ると彼女たちも浴衣姿だ。

 

 

「せ、先輩!?」

 

「それに、清姫さんに沖田さんも…」

 

 

 立香がにこりと笑ったような気がした。好意的なものは含まれていない。

 

 

「シャドーさんを誘うのは二人に任せました。えぇ、それは確かです」

 

 

 清姫もニッコリと笑う。好意的なものは含まれていない。

 

 

「でも、おかしいですよねぇ。沖田さん達も一緒に行こうってことにしましたよねぇ?」

 

 

 沖田がへラリと笑う。好意的なものは含まれていない。

 

 

「どういうことですかねぇ…?」

 

 

 三人の重なった声の真意は意識に触れなくても分かる。これは怒りである。

 

 

「落ち着け、三人共」

 

 

 三人の怒りを孕んだ目がシャドーを凝視する。選択をミスったらBADENDであった。

 

 

「今度、俺の国でも祭りがるのだ。それに行かないか?」

 

「行きます!!」

「何処までもお供します!!」

「絶対に行きますとも!!」

 

 

 三人共即答。

 

 マシュとジャンヌには意識に触れて、別の祭りに行くことになっているので一旦放置である。

 

 

「だが、そのユカタとやらは着てくるなよ」

 

「え、まぁ、着ませんけど、どうしてです?」

 

 

 立香の問に軽く頬を掻いた後に応える。

 

 

「マシュやジャンヌもそうだが、立香も清姫も沖田も、それが似合いすぎる。他の奴らに見せるのは、どうも嫌なのだ」

 

 

 女性陣は固まる。そして続けて言うにはこうだ。

 

 

「俺以外に魅せてほしくないのだ。貴様らの可愛らしい姿は」

 

 

 

 このあと無茶苦茶無言で帰宅した。

 

 

 

 

おまけのおまけ(スルー大歓迎)

 

 

 

「うふふ。愛子(めご)、愛子。今日は楽しかったようですね」

 

 

 寝たはずなのに、起きているような不思議な感覚。

 

 ここでは、あらゆる姿をとれるのだ。

 

 現実でも使える【英霊転身システム】。【人間】と【神】のハーフに生まれ変わったため、システムの使用時の負荷は一切かからず、いつでも自由にサーヴァントの姿に変身・能力・宝具が使用可能になった他、変身後の精神は彼のままでいられるようになった。

 

 だが、今の彼はどの姿でもない。

 

 現実の姿で相手取るには不遜すぎる。英霊らの姿では無礼すぎる。だから、彼女の好みの姿に。

 

 

「えぇ、とても楽しかったです」

 

 

 年上でもめったに敬語を使わず、カルデアにいる英霊にさえあまり使わない。だが、彼女相手には使うべきだった。

 

 

「きちんと皆を愛でれて素晴らしい。こうして私は貴方の姿を見れて嬉しく思いますよ」

 

「有り難き幸せでございます、フリッグ様」

 

 

 北欧神話において、主神オーディンの正妻とされる女神。それが彼女の正体である。うっとりとした様子の女神にシャドーは、微笑み抱える。

 

 

「あぁ、あぁ。あまり微笑みかけないでちょうだい、愛子。思わず私の所へ攫っていってしまいそうなるのです」

 

 

 女神は乙女のように恥じらい両手で顔を隠す。だが、隙間から見ている。

 

 

「今はまだ、半分は人間です。それはお許し下さい。俺はこの生を終えたら貴女様の元へ行くことがお決まりなのはご存知でしょう?」

 

 

 フォウの力によって復活したものの。それに【神】のチカラが入ったのはなぜか。それはこの女神がそのチカラをこっそり入れたからだ。シャドーの魂を彼が生まれたときから見つめ続けてきた。人間の胎内で命として出来たときからずっと。そのときに入れられればよかったが、生憎のことにそのスペックは人間程度。神のチカラなど入れたりしたら、間違いなく四散していた。どこまでも貴方らしく生きていて、と願うしかなかったのだ。だが、ゲーティア戦で命を落とした。皮肉なことに、生きていてと願ったのに、あの時死んでしまったシャドーにチカラを入れるのはあの時しかなかった。溢れる魔力は、彼女由来。北欧神話系の英霊が来たら一発で分かるほどの濃密さをもつ。

 

 不敬に思わない程度に彼女に近寄り頭を下げる。決まっていることであり、決めていることであった。フォウのおかげもあるが、彼女のお陰で生きていけるのだ。今少しだけ人の世で生きることを許されているのだ。これ以上欲深くてはいけない。

 

 

「えぇ、えぇ。でも、どうしましょう。待ちきれそうにないのです。愛子どうしてしまったら良いと思いますか?」

 

 

 シャドーは満面の笑みで答えた。彼女の美しさに堪えたのもあったが、全力で抗う。彼女の洞察力は夫であるオーディンに匹敵する。見破られているだろう。だが、彼女は頬を赤らめただ待ってくださっていた。

 

 

「俺の世界へ来てくださいませんか?」

 

 

 乙女は悲鳴をあげた。嬉しさの悲鳴である。甲高いそれは喜びしか無い。

 

 

「愛子、愛子よいのですね? 言質は捕りました。えぇ、この最新鋭のカメラとボイスレコーダーで録りましたからね! あぁ、待っているのですよ、愛子。いい依代を探して貴方の元へ行きますからね!!」

 

 

 女神の声が空間に木霊する。

 

 

 意識が上がってくる目がさめるようだ。耳の中から体の隅々に女神の声が響く。純粋に嬉しかった。

 

 そうして今日も目が覚める。

 

 

 

 

 




設定




・ゲーティアとの戦闘に勝利後、全サーヴァントの力の使用によって心身に大きな負担がかかり命を落とす。
・しかし、フォウの力で【「人間」と「神」のハーフ】として復活。身体能力は【人間】だった頃と同じだが、魔力と魔術回路は【神】の力が加わったことで大魔術も簡単に発動できるようになった。


☆「英霊転身システム」

・【人間】と【神】のハーフに生まれ変わったため、システムの使用時の負荷は一切かからず、いつでも自由にサーヴァントの姿に変身・能力・宝具が使用可能になった他、変身後の精神は主人公のままでいられるようになった。


☆特性

・「記録」→自身の経験や見たものを全て(一秒、一瞬まで)覚えていることができる
・「魔増(まぞう)」→消費した魔力を自動回復させる
・「世渡(せいと)」→レイシフトなしで異世界を自由に行き来することが可能


☆二つ名

【人間の頂点で在る者】から、【不可能を可能にする半端者】に。

由来:半分は人間。半分は神。普通の人間の寿命を持ちながら神の力も持っているという意味で主人公が考えた名


以上がリクエストしてくださったシャドー様ご考案の設定です



◎あとづけ設定


北欧神話の最高位の女神のチカラが入っている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

上の続編の更に続編 型月(FGO)のぐだ子・マシュ・ジャンヌ・沖田総司・清姫のハーレム【完結編】

前話のマシュ·ジャンヌ落ちの設定を引き継いでます

型月(FGO)のぐだ子・マシュ・ジャンヌ・沖田総司・清姫のハーレムの完結編です。もう続きはありません。

ぐだ子の名前は、藤丸立香です。

主人公の名前はリクエストして下さった方のお名前をお借りしています。



主人公の名前:シャドー・ノルドマン


 心身ともに心地よいと感じる空間。なんとも居心地が良すぎて、現実に帰るのが億劫になって少々困ってしまう。

 

 北欧神話の主神オーディンの正妻とされるフリッグが、愛子(めご)と呼んでとてつもなく可愛がるシャドーと戯れるためだけに作り上げた、優しきゆりかご。

 

 ここ最近では、いい依り代を探しているらしいが、なかなかピンとくるものがないらしいことを、シャドーが聞き惚れて頭が痺れるほどの美しい声で語る。シャドーが苦手な長々とした話だ。元来、女性というのは話し好きである。親しい仲でもそうでなくても、長々と有意義でない時間を気軽に過ごすものだ。フリッグもそうであるらしい。同じような内容を、さも含蓄のあるものであるかのように語っていたり、人間では理解しきれない高度な優れた詩歌のようであったり、はたまた一言一句全て聞き逃せないほど心に迫るスピーチであったりした。

 そんじょそこらの小賢しい女の話口ではない。全て聞いた。聞き惚れていた。無礼にも、次はどうなのだろうと期待してしまうほどに熱中していたのだ。内容的には目新しいことはない。どのように華麗に音を奏でようが、内容に変化などない。普段のシャドーでも、シャドーでないものも、勘弁してほしいものであるのだ。普通のものであるならば。

 

 だが、かの方は、どのような存在であるか。最高位の女神だ。夫であるオーディンに匹敵する知恵と洞察力をもつ女神。結局は失ってしまったが、息子バルドルのために、世界中の万物に不可侵の誓いを立てさせるほどの強き母性を持つ女神である。

 

 そのような女神が、シャドーのために動いて下さる。なんという勿体なき贅沢だろう。

 

 嬉しきことだ。実に嬉しきことではないか。単純に嬉しさがある。ベラベラ語ることは不敬でしかない。嬉しいのだ、とても。嬉しいに決まっている、シャドーが自身を曲げてしまうほど。故に、この溢れんばかりの嬉しさが、フリッグに伝わることを恐れてしまう。

 

 シャドーという存在が、まだ半分は人間の身である存在が、より許されてしまうのではないか。

 

 このような待遇をされていることも大分まずい。喩えようもなく豪華な場所である、フリッグの宮殿、フェンサリルに招待されてしまうのも時間の問題である。それは、まずい。神に認められしまう。たとえ、残りの人間性を失くし、神として完成されたとしても、まずいものだ。バルドルの子にして、フリッグの孫であるアースガルズ中でも最も賢明で雄弁な神、司法神フォセルティすら、偏った判決をするだろう。かの悪神の受けた蛇の毒液を受ける以上の刑でも、漬けられる程度でも済まないほどの正当な刑を受けるはずだ。

 だけれど、そのようなことはどうでもよい。フリッグはそれを許容しようとはしないのだ。母性と愛を守護する女神であるフリッグは、彼女以外にとってはいくら正しい道理であろうと、蝶が羽を休めそうなほど綺麗な髪を振り乱してまで否定し続けるだろう。

 

 シャドーのために。そのシャドーが愛した者達のために。

 

 愛子であるシャドーのことは当たり前だが、彼が愛した者達は何故か。簡単に言おう。結局はシャドーのためだ。

 

 “シャドーが愛したことを後悔させないようにするため”だ。

 

 シャドーの愛するという行動が、フリッグはとてもお気に入りなのだ。人間という枠組みで言えば、ありえないほど大きな愛をシャドーは持っている。どれほど上手く飾り立てようと、シャドーの愛は“気色悪い”。

 

 いつまでも感じていたい熱などありはしない。火傷をするだけならまだしも、大火事になるほどの熱量をもって襲い掛かることもある。愛とは燃えるものだ。燃え盛るものだ。シャドーもそうである。破滅願望を極めた愚か者だ。自分を薪にして自分ごと燃え盛るなど、愚か者以外の何物でもない。間違いなく、気色悪いものだ。

 

 であるからこそ、正しくシャドーは人間として優れている、といえた。

 

 北欧神話において、生命の始まりの一つである火。それを人間レベルに当てはめて、上手く扱えているのがシャドーだ。他の人間は誰も彼も下手くそである。鷲の巨人であるフレースヴェルグが、思わず風を起こして少しだけ火の勢いをあげたくなるほど下手くそだ。

 

 シャドーは愛を言い訳には使う気がない。

 

 他は言い訳にして傷つけ傷つく。なんとも耳に良い言葉を並べ立てては、相手も自分もひどく苦しむ。ボロボロになって、立つこともままならなくなるほど疲れ切ることは当たり前。心が擦り切れ、泣くこともできないほどに壊れてしまう無惨な様。そして、そのような様を見て、群衆は、愛とは素晴らしい、と高らかに叫んでいる。

 

 愚かではないか。愛というものは、燃え尽きた灰だと叫んでいるのだから。しかも、その灰を雑に撒き捨てては、誇らし気に、愛は素晴らしい、と。

 

 愛とは燃えるものだ。燃え盛るものだ。灰ではない。燃え尽きるものではない。

 

 愛を願いながら力をふるう。愛ゆえに足を引っ張る。愛がため目を失う。いくつも暗い影を落とすものだった。決して晴れることはない闇に覆われるものがあった。何年も、世紀が幾度変わろうと、燃え尽きたものを愛だと間違え続けている。

 

 そのような愚かなる者達、人間。その人間を、シャドーは、間違いなく愛している。

 

 真摯に愛を持ち続けた。愛とは、燃えるものであると。愛とは、燃え盛るものであると。

 

 愛とは、深い思考などしなくても良いものである。愛というものは、言い訳にできるものではないのである。

 

 愛してほしいから愛しているのではない。

 

 シャドー・ノルドマンが愛するというのなら、こうするのだ。愛しているよ、と空に放る。特定の誰かにではなく、限定的なものでもなく。無形であり、無造作であって、取りこぼすことを厭わない愛し方だ。愛され方もほぼ同じである。好きにする、好きにしろ、というものなのだ。

 

 押しつけはしない。求めもしない。火の扱いに慣れている。

 

 そのようなだからこそ、シャドーは許されていい存在ではない。きっと、彼が神として位を持ってしまったなら、世界は燃えるだろう。人間の住む領域では留まらず、九つの世界をすべて燃やすだろう。シャドーが神となったら、彼はやっと、全力をもってみんなと愛せるだろうから。

 

 過日の【人間として頂点で在った】シャドーの献身と、折節の【不可能を可能にする半端者】シャドーの雄姿を、薪にして全てと燃え盛るだろう。

 

 これは、悪神だ。紛うなき悪神だ。

 

 このようなことはフリッグは予言できている。彼女も燃えることになる可能性もあるのだ。であるが、それがどうしたと、かの女神は優しく母の顔で微笑むのだ。愛子のためならば、構わないのだろう。小さな命が、心の底から叶えたいことを為せるのだ。嬉しきことだと信じて下さっている。

 

 こうして見守って下さる女神に不敬などできやしないではないか。とても、とても、嬉しきことだ。

 

 その思いで、なんとか苦労してお花見をしようというだけになった。花を愛でるのは女神もお好きであろうから。

 

 

 

 

「お花見なら、お団子、だよね。沖田さん!」

 

「緑茶あるんですかねぇ。紅茶もいいですけど、お団子といったら濃い緑茶ですよ」

 

「桜餅ははんごろし派? それともみなごろし派?」

 

「おいしいならどっちもOKですよ」

 

「じゃあ、味噌餡はあり派?」

 

「時と場合によりますねぇ」

 

 

 庶民系日本人ズは花より団子であった。立香と沖田は、日本の様々な茶菓子を思い浮かべながら、それに合うお茶が出てくることに期待している。ちょっとの空腹でも毒であるのだから、満足なら世界を救えるだろう。

 

 

「きっと素敵な桜が見られるんでしょうね、清姫さん」

 

「そうですね。ですが、枝垂桜はあまり見たくありませんね」

 

「桜、といばソメイヨシノですよね。どれもこれも桜は綺麗ですが、山桜もいいものだとか」

 

「えぇ、“吉野の桜”といえば本来、山桜のことを指しますから」

 

「そうなんですか。何年たっても美しく咲き誇る桜は素敵ですね」

 

 

 ふふふ、と華やかな乙女らしくお花の話で盛り上がるのは、ジャンヌと清姫である。元は、農夫の娘と貴族の娘で教養の差があるが、感じ入るものに差はないのだろう。花の散り頃に思いをはせる横顔は、やはり女である。

 

 

「枝垂桜の花言葉は“ごまかし”。山桜の花言葉は“あなたに微笑む”」

 

「フランスでの桜の花言葉は“私を忘れないで”」

 

「さくら味といわれるクマリンは外敵から身を守る物質なんですよね、シャドーさん」

 

「人間の口に入りながらも、まだ花開くというのは生存競争に勝っているということだろうな」

 

 

 ほんわかと和やかに笑うのはシャドーとマシュだ。濃い話のような薄味にしたいような話。深く突っ込むと底なし沼、浅く踏み込んでも地雷なので、順当に生きていたいのなら、上手く乗るしかない。

 

 普通の女の子の体力しかないものなどいやしないのだ。乙女パワーは無限大。乗らざるを得ない、このビッグウェーブに。大人しく藻屑となるしかない。肉も骨も余さず溶けることを求められている。もうどろどろねばねばと、嚥下するのが果てなく困難であろうと、普通の女の子なぞおらんのだ、ここには。

 

 男と女達。ライオンはメス達が狩りをする。狩りというものは、強者の立場でしか行えない。獲物は抵抗むなしく食われる定め。集団を組み確実に獲物を食らうのだ。シャドーたちは人間の形をしているが、どうせ枠組みは動物で括れるものだ。どれだけ知性があろうと、抱くものは知性だけでは決して為しえはしない。今も続く人類史でも、種と畑は必ずある。

 

 悲しいまでに、人生とはクソゲーである。

 

 

「もうそろそろか」

 

 

 シャドーだけはそのようなことなど考えもせず、シャドーの特性の一つである【世渡】で、とある空間に六人はいる。【世渡】はレイシフトなしで異世界を自由に行き来することが可能なものだ。基本的に多用するものでもないし常用するものでもない。今回は、花見をするための場所へ行くためである。

 フリッグとの戯れの場は、かの女神が愛子であるシャドーとの歓談のためだけのもの。そこに行くためには用いないし、今回はそこに行くためではない。ただの人間である藤丸立香は勿論のこと、サーヴァントである彼女らのためにも、場所のランクを下げねばならないのだ。フリッグと会うより前に、彼女たちが耐えられる場所が必要なのである。神自体の存在感は言わずもがな、かの方々おわす場所も凄まじいのだ。ランクを下げねば霊核が消し飛んでいく。本来ならば、女神が彼女らに合わす必要などどこにもない。シャドーが目を掛けているからこそ、そのような場を提供して下さっているのだ。

 それでも花見の場へ直行すると、文字通り消し飛んでしまう。だから、【世渡】である程度慣らし、目的の場でも大丈夫なようにしている。

 

 

「シャドー様御一行ですね。私は貴方達を迎えに来たものです」

 

 

 静かな声。けれど、耳に軽く残る音。声域では、メゾソプラノであるだろう。心持ち、頭が痺れる。

 

 

「こちらへ」

 

 

 突如、二つに分かれさせられた。シャドーと女性たちで分断される。女性たちが何か言っている様子はあるが、声は聞こえない。

 

 

「どういうつもりか、聞いても?」

 

 

 一つの抵抗もしてはならない。相手は神だ。シャドーはフリッグに目を掛けられているとはいえ、他の神、かの女神の侍女が同じようではない。

 

 

「心に厚化粧をしたままでは不敬です。神にも貴方達の中だけであっても、そうでしょう?」

 

 

 シャドーは笑う。思惑が分かったのだ。女達は困惑する。何がどうなっているのか分からないのだ。

 

 

「分かった。おやりになるといい」

 

 

 シャドーは愛しい女達に背を向け、目の前にいる美しい女の形をした者に両手を広げて迎えた。頭でも心臓でも容易く食い潰せるように。そのような果断な行動を見ると、ベール越しにとても楽しそうに笑った。新しいおもちゃをもらった子供のような、純真で邪悪な笑みであった。楽し気に指を振るう。間違いなく北欧ルーン文字である。何かを描くが、わざとであろう、複雑にされギリギリ読み取れない。

 

 それを見届けると、どこかに落とされる。体はひどく重く、指の感覚すら曖昧になり、頭がぼやけていく。

 

 シャドーは沈む意識の中で思いを馳せる。かの方のお遊びに付き合うのはどうでもいい。けれど、どうか。願わくば、愛おしき彼女たちが心から痛んでくれることを。

 

 

 

 

ふと目が覚めた。視界に入るものは形を持たない。

 

 だけれど、視覚が捉えた刺激に瞼を閉じそうになる。強烈な光によってのものではない。眼球と視神経を物理的でない何かが攻撃している。【英霊転身システム】の一部を使うべきかと悩む。しかし、結局使えるものではないことを悟る。そのようなズルは面白くないのだろう。重くズキズキする目をなんとか活用する。失明するかもしれないと思うが、しょうがないと諦めよう。細胞さえあればどうとでもなる。

 

 認知機能が上がって捉えたものは、青い世界だった。少しづつ取り戻していく感覚が、水の中にいるのだ、と情報を寄こす。手足を動かそうが手ごたえはない。声として出そうとする口に水のような何かが流れ込み、発声すら許されない。溺死するのでは、と脳が混乱するが、呼吸はできるし、肺にも胃にもそれは溜まらない。

 

 ただ何もできないのだ。そのことに少々困る。すでに時間の感覚すらわからなくなっている。これでは、ただの遊び飽きられたおもちゃではないですか。

 

 そのようなことを心の中で伝えると、青い世界に何か小さいものがヒラヒラ沈んできた。一つきりではなく、いくつもいくつも沈んでくる。その正体は何かと見ると、花のようだ。何の花かは分からない。地球上に存在する花はおおよそ知っているが、これはなにか分からない。一見枯れているように見えるからかもしれない。けれど、それは枯れているのではない。草花の水分を抜いて作る乾燥させたもの、ドライフラワーであると分かる。それは一種類だけではないようだ。たくさんの乾燥した花びらがやってくる。この水のような世界の中に来ても、生気豊かな状態にはならない。もうすでに飾り物であるのだ。

 

 それをもって、どうしてやろうか、と考えていると、青い水の世界に花びらでもないものが見え始める。見慣れた愛らしいものだ。

 

 清姫が、花びらを一つずつ丁寧にちぎって喜んでいる。疑いようもなく喜んでいた。あどけない童女のようでありながら、遊びの激しい女人のようである。焼け殺されようとも疑わなくてはならないものであった。

 

 

「あなたへの愛はなんなのでしょう」

 

 

 こちらに語り掛けてはいない。清姫自身に語り掛けているのだろう。どうしたいのかわからないようだ。

 

 

「あなたへの愛はどうなのでしょうね」

 

 

 こちらが何かしら信号を発してみようとあがくが、何もできていない。まだ、出番ではないようだ。清姫は花びらの一つをまた沈めてくる。

 

 

「あなたへの愛はないのでしょうか」

 

 

 まだのようだ。清姫は、花びらのなくなった花だったものに笑みを向ける。飾り物に生気はない。

 

 

「あなたへの愛を知ってしまっていいのか」

 

 

 俺のところまでやってきた花びらは留まらず、俺より下へ下へと沈んでいく。飾り物に用はないのだ。

 

 

「もうどうでもよいなんて、諦めて喜んでしまうの」

 

 

 清姫は飾り物にすらならなくなったドライフラワーを、とても大事そうに胸に抱く。彼女が壊したものを大事にしている。

 

 

「ねぇ、シャドー様」

 

 

 こちらの存在には気づいてはいない。一人だからこそ、化粧を取る気なのだ。

 

 

「もういいの。嘘を喰らうのはもういいの。愛なんて、本当は知りたくなんてなかったんですもの」

 

 

 そう言って、清姫は喜んだ。【人間らしく喜んでいた】けれども、疑わざるをおえないものである。このあどけない可愛らしい顔は、嘘であるのだ。パチパチと燃えている火が、パタパタと消え逝くとは早すぎるではないか。

 

 そして、青い世界が揺れる。俺が動き出せたからだ。水泳はできる。素潜りも、スキューバダイビングもやったことがある。深く沈みそうになるが、全力で清姫の所へ。上から押されているような感覚があり、なかなか清姫に近づけない。この正体は、分かっている。清姫がしているのだ。本人だけのチカラではないが、基礎は清姫のもの。

 

 【人間】清姫が、彼女の持つシャドー・ノルドマンへの愛を攻撃する、薄明るい狂喜。俺を害さず、清姫自身を害す行い。致命傷を負う自傷行為であった。

 

 それを清姫が自ら望んで敢行している。であるから、俺を強く拒む。障子のように薄いくせに、開けることを拒んでいる。

 

 ならば、それでもいいと、ちゃんと無垢に伝えてやりたい。他になにも思うことはないのなら、そうするといい、と。清姫は愛したものに袖にされた過去がある。愛に狂いたくなる年頃にそんなことをされれば、愛など諦めたくもなるだろう。その苦しみに苛まれ続けてることが辛すぎるというのなら、俺も諦めて清姫の喜ぶ様を遠くにしていよう。辛くない程度に逃す気がない鋭さを丸めてしまえ。俺は辛すぎて必ず泣き狂うだろうが。

 

 淑女らしい奥ゆかしさと綺麗に崩したような熱を持った清姫と愛を知る時間は、いつも時が過ぎるのをあっという間に感じたほどの、喜ばしいものだった。清姫との時間は喜びに満ちていた。けども、そう思わなくなろう。言い訳をしてまで愛してやりたい気持ちを押し殺す。自ら首を引き裂いたいほどの苦しみがあるが、そうしよう。

 

 心が割れるほどに辛いけれど。二度と、清姫を愛しはしない。

 

 

 

 ただし、“清姫が実態無き情念を覚えていなければ”の話だ。

 

 かの神らしいやり口に、首の筋肉が勝手に痙攣する。清姫が愛を知るために行ったものを、しっかりと思い出させる。皮膚を清姫が突き破る感覚、清姫に肉を貪られる感覚、流れ落ちる血が清姫とともになる感覚。清姫はこれによって愛することに喜びを感じれるようになった。愛せるのなら愛したい願望が叶えられて本当に良かったと、俺も喜んでいたことを知っていただろうに。これだけでも清姫が喜ぶことを知れて、俺はとても喜んでいたのだ。清姫は、ちゃんと愛を知ろうとしていたのだ。俺が清姫のことを愛しいと感じていたことを、頑張って知ろうとしていたではないか。嘘が怖い、嘘が怖いと怯えながらも、今まで努力しながら知ろうとしたではないか。

 

 そうだからこそ、“愛したことはどうしようもない嘘であるなどと、清姫には否定させやしない”

 

 

「清姫」

 

 

 青い世界で、強く発声する。【愛しい人間】清姫のために。泡が出てくるだけで、清姫に届いているのか分からない。

 

 

「愛を知るのが怖いか? 愛がどうあっても怖いのか?」 

 

 

 怒声にならない程度に発声する。清姫に届かせるためだけれど、心を割るものではないから。

 

 

「愛とは、どうしようもなく怖いものだ」

 

 

 事実を伝える。愛とは、とてもとても怖いものだ。

 

 

「愛を持ってしまえば失う悍ましさに身が竦む。愛を捨てようとすれば渇きに手足が動かなくなる」

 

 

 愛とは、視界が利かなくなるほど怖いものなのだ。

 

 

「だからこそ。俺は清姫を愛しているから、貴様を愛することができない悍ましさに気が狂いそうになる。俺は清姫を愛しているから、貴様を愛せなくなる渇きに何にもする気がなくなる。しかし、その怖さを知っているからこそ、シャドー・ノルドマンは清姫に愛を抱けるんだ」

 

 

 青い世界がユラユラしてまともではなくなる。清姫の姿が見えなくなってしまう。俺の愛が届いているからこその否定によって、世界ごと押し流さそうになる。

 

 

「俺は愛を持つ者である。清姫の愛をもって恐怖を踏み倒す者である。貴様が飾り物だけであるわけがない。清姫、貴様が求めたいものは、飾りで事足りるか? そうではなかろう。貴様の実態無き情念、愛に恐怖している場合ではない。貴様は、愛することに恐怖などしやしないだろう?」

 

 

 すぐ近くに泡が立つ。遠くから頑張ってやってくる。浮力によって溺れないようにしているが、溺れてもいいと手足を頑張って動かして、俺の所へ沈んできてくれる。

 

 

「清姫、貴様を愛おしいと思う者がいる。貴様は、そいつに恐怖するか」

 

 

 少しだけ圧が軽くなったから、手足を総動員して近づく。顔が見えるところまできた。喜びの顔でここまで沈んできたのだ。

 

 

「怖く思っても笑いませんか」

 

 

 鷹のような目と見つめ合う。チカラに屈しなくなった、少しも逃さず俺を探し求めるその喜ばしき眼から、水が流れているのが見える。この世界が終わることを教えていた。

 

 

「悪いが、笑う。顎が外れるほどに大笑いする」

 

「ひどい殿方ですね」

 

 

 一緒に沈もうと抱き合った。

 

 

「怖くて逃げだしたいけれど、シャドー様の愛を知りとうございます」

 

「ちょっとだけ怖がり屋な可愛らしい清姫よ、存分に愛を知れ」

 

 

 首に咬みつかれる。おざなりにしてしまった欲望を露出し、意志の弱さを克服した乱暴さで喰い荒らされる。偽善も偽悪も全て余さず暴き貪らせるのだ。青い世界に血化粧をして俺と清姫との愛をより生気豊かに飾りたたせる。それは、いつも以上に心が壊れそうなほど痛み、いつも以上に心を壊されてもいいほど喜ばしいものだった。

 

 

「あぁ…っ。シャドー様、清姫はアナタが怖く思うほど愛しております」

 

 

 愛おしい清姫も、そう喜んでくれている。疑う気もないくらい、飾らない恋をする微笑ましい少女の喜びがあった。

 

 この世界は、もう神からしても見ていいものではない。それを理解なさったのか、パチンと音が鳴った。まるで、チャンネルを変えるときの音のようであった。

 

 

 

 

 首が寒い。ともに喜んでいた清姫がいないのだ。

 

 ぼやけた嗅覚が捉えた世界さえも、先ほどとは全く違うものだった。清姫がいなくなったことに寂しい気持ちはあるが、心配はしていない。神は気まぐれだが、気に入れば贔屓なさるものだから。きっともう少しだけ悪戯されてから、目的の場所へ送られているはずだ。

 

 呼吸をする。鼻から空気を取り入れる。それしかできない。取り入れた空気は、うまいとは決して言えないものであった。優しい香りではないし、思わず呼吸をいったん止めてしまうほどの重たさだ。口呼吸に変えようと思ったが、この世界が終わるまで、これはこのままのはずである。潔く諦めて鼻を慣らす。

 

 灰の匂いが充満している。

 

 諦めた世界。終わろうとする世界。かろうじて生きたものが、意義なく終わったということ。ここに足掻こうとしているものは数えられる程度。

 

 少しだけ戻った知覚が捉えたのは、クモだ。触肢の先端に膨らみがないことから、このクモはメスなのだろう。煤けたこの灰色の世界で、彼女は巣を作るためか糸を吐いている。巣を作ったところで獲物などいないだろうに。わずかな生を本能に従って生きていた。糸を上手に獲物を抜け出せなくさせる罠として張り巡らせていく。たまにゴミが落ちてきて巣がぐちゃぐちゃになる。その箇所の糸は切り離して、彼女は巣を作り続けている。その様子を嗅覚を麻痺させて待つだけなのが現状だった。糸がぐちゃぐちゃになったおもちゃは捨てるしかない、とおっしゃっているのか。

 

 そのようなことを心の中で浮かばせると、灰が降り出した。一見雪のようなそれは、力尽きたものだった。しんしんと降ってくる。それは彼女の巣にも積もっていく。灰をゴミと判断して巣の主が糸ごと排除していくが、止むことなしに積もっていってしまう。すぐに巣が耐えきれなくなって壊れた。主にも降り積もる。彼女は己の体に積もる灰を払っては、また巣を作ろうと糸を吐き出していく。まだ灰は止まない。繰り返しであった。

 

 何度も彼女は糸を吐き出していく。巣を作ろうとしては完璧に出来上がる前に壊れた。彼女は諦めるということを知らないようだ。再び糸を吐き出す。また壊れる。けれど、また糸を吐く。あまりにも非情な状況に彼女が怒りを覚えないはずはない。

 

 十九回目のチャレンジ。彼女の体力はもう限界のはずだ。ここで尽きてしまうのだろうか。今度はなかなか上手くいっている。灰が少なくなってきたのだ。よくよく嗅覚を感じてみると灰の匂いが少しだけ遠くなっている。そして、優しい香りがしてきたのだ。それで心が和むほど、嗅ぎなれた香。

 

 

「シャドー。あなたとの愛はどうすればいいのでしょうか」

 

 

 農夫の娘だったからか、虫の扱いには慣れているようだ。彼女に餌を与えだした。死んだ餌ではなく元気そうな生き餌だ。彼女の巣に落とす。どうにかして逃げ出そうともがきだした餌は、それによって気づいた彼女に捕食対象として認識される。糸を絡める。餌は抜け出せない状況に陥った。もう彼女の思い通りである。

 

 

「私は、あなたと結ばれたくてたまらない」

 

 

 彼女は餌にありついた。体に活力が満ちるだろう。寛容性などない。

 

 

「あなたのものになりたいんです」

 

 

 彼女はそんなに大きくないので接近しやすいはずだ。寛容性などもう持たない。

 

 

「あなたを私のものにしたいんです」

 

 

 決して小さくない餌だったものをかみ潰して粉々にしてしまう。寛容性が存在しなくなった。

 

 

「あなたの愛を私だけに下さいませんか」

 

 

 ジャンヌはまた餌を与えだす。できるだろうに、ちょうどいいオスは渡さない。

 

 

「誰にも与えないでほしい。誰でもいいのはいやなんです」

 

 

 餌は絡みつく糸から抜け出せない。彼女はもう誰も彼をも餌として受け入れるだけだ。

 

 

「でも、そうはしないのでしょう。そのままでいつづけるんでしょうね、あなたは」 

 

 

 彼女の本能は喰らうことしかなくなった。あまりにも怒りに満ちる出来事がありすぎたせいで、自己防御しかできなくなってしまった。自分というものだけを受け入れ続けるしかなくなってしまったのだ。

 

 

「私のシャドー」

 

 

 彼女と、社会性を持つ気が無くなってしまった、ジャンヌ。彼女のように、ギリシャ語で訳された聖書で、怒りとは情熱やエネルギーと学んだ【人間】ジャンヌ・ダルク。次々に化粧が進む。

 

 

「だからこそ、あなたが持つ愛を解消しましょう。私が求めるもののために」

 

 

 灰が降り注ぐ。もう彼女達は止まらない。デリケートな情熱を間違ったまま引っかけ続けるのだ。ジャンヌは怒りながら笑っているのだ。止まない情熱を凄まじいエネルギーにして、笑っている。【人間らしく怒っているのだ】しかしながら、諦めさせなければいけないものである。ごうごうと燃えるよりも、じわじわ燃える方が長くあれるのだから。

 

 やはり、灰の世界が揺れる。俺が動き出せたからだ。呼吸しかできなかったせいで、口や鼻の中だけでなく肺や胃の中まで灰だらけだ。呼吸不全で何度も咳き込みながら、無理やり動く。鎖のようなもので束縛されているような感覚があり、思うように動けない。この鎖は、まさしくジャンヌのものだ。清姫のときと同じように、チカラを貸し与えられている。

 

 【人間】ジャンヌ・ダルクが、シャドー・ノルドマン本人でもジャンヌ自身でもなく、シャドー・ノルドマンが持つ愛を攻撃する、華やかな嚇怒。俺もジャンヌも、誰一人として傷つけない、俺が持つ愛という概念を叩き潰す気だ。一人っきりの侵略戦争である。

 

 ジャンヌは、孤軍であるのを分かっていながら血汗を流すことを厭わない。だからこそ、俺を認めない。香り立つほど傍に居るというのに、幻だと頑なに認めないのだ。

 

 だけども、好きにするといいと、無防備に晒してしまいたい。認めたくないものは大なり小なり必ず存在するのだから、気が済むまで好きにするがいい、と。神を信じ、自身も血に塗れながら同胞とともに国を救った。血に塗れることに恐怖を感じることができないほど、普通の少女から変わってしまった。その中で、纏った血にどのような思いを馳せたのだろうか。きっと、単純な疑問を抱いたことだろう。手を取り合えるのに、どうして、と。

 

 だからこそ、俺の愛に抱いてしまったのだろう。手を取り合うのは、どうして、と。そうやって、病んでしまうのなら、好きなだけ引っかけ回し続けるといい。必然的に、俺はどうしようもない愚物に成り下がるだろうが。

 

 素朴な少女らしさと順当に積み上げたような熱を抱くジャンヌとの愛の距離は、よくもどかしさに口が動かなくなってしまうほどの、照れを含むものだった。どうすればもっとうまく近づけるか考えては、考えたことが何も叶わずこっそり落ち込んだこともあった。でも、それをすぐ無くそう。下手糞でも愛してやりたい気持ちを叩き潰す。脳まで病んでしまいそうなほどだが、そうしよう。

 

 心が潰えるほどに苦しいけれど。絶対に、ジャンヌを愛しはしない。

 

 

 

 だが、“ジャンヌが自己防御本能を過剰にしていなければ”の話だ。

 

 かの神の狡猾さに、腰骨すら引き抜かれてしまいそうである。ジャンヌとの愛の距離を縮めようと、長く腰を据えていたのを思い出させる。長話は苦手だけれども会話し続けた。色んな人と交り合った。様々な距離を近づけていったのだ。これにより、ジャンヌは情熱的に愛することができるようになった。愛があるから愛するという機械的なものではなく、自分なりに愛するようになったのだ。自然な女の子らしさに、みんな笑い合った。俺もそうだった。誰も彼も嬉しいと思うものだ。それを見て感じて、ジャンヌは愛を受け入れやすくなったではないか。俺がジャンヌも愛するように、ジャンヌも俺も愛するようになったではないか。俺の愛を思い通りにできないことを、嬉しそうにしていた姿があったのだ。

 

 であるから、“愛することは敵意しかない攻撃であるなどと、ジャンヌには否定させやしない”

 

 

「ジャンヌ」

 

 

 灰の世界で、なんとか声を出す。【愛しき人間】ジャンヌのために。灰は雪のように音を吸うようで、ジャンヌに届いているか分からない。

 

 

「愛が形としてあれば満足か? 愛が重さを持っていれば安心するのか?」

 

 

 ひどすぎない程度に単調な発声をする。ジャンヌに届かせるためだけれど、心を潰すものではないから。

 

 

「愛することは、侵略行為と何ら変わりはない」

 

 

 事実を伝える。愛するとは、奪い取ることだ。

 

 

「愛せば返ってくるものに執着する。愛されれば贈られるものに強欲になる」

 

 

 愛するならば、奪い取らねばならないのだ。

 

 

「そうだからこそ。俺はジャンヌを愛しているから、貴様の愛がどれほどでも執着する。俺はジャンヌに愛されているから、貴様の愛をもっとと強請る。これほどまでに、シャドー・ノルドマンはジャンヌ・ダルクと愛をもって一緒にいたいのだ」

 

 

 灰色の世界がチリチリと認知できないほど霞んでいく。ジャンヌの姿が見えなくなる。俺の愛を理解し受け入れてくれたことで、認めたくないと本能がずっと強くなり、世界ごとかき消されそうになる。

 

 

「俺は愛を持つ者である。ジャンヌ・ダルクの愛をもって征圧する者である。貴様がこの程度のことで怒りに我を忘れるものか。ジャンヌ、貴様が求めるものは、誰をも攻撃するものではないと理解しているだろう。貴様の過剰な防御本能を、俺の愛を否定するな。俺と貴様との愛も否定するわけではなかろう?」

 

 

 微かに優しい香りが混じる。灰に塗れながら這ってくる。離れてしまえば呼吸に苦しむことすらないというのに、目にも灰が入って辛そうだ。積もれば重たいのは同じなのだから、指先を動かすことさえ辛かろう。

 

 

「ジャンヌ、貴様を愛おしいと思う者がいる。貴様は、そいつを否定するか?」

 

 

 ほんの少しだけ緩んだようなので、懸命に這う。口元が灰に汚れながらも見える。怒りを抱きながらも這いまわって来てくれたのだ。

 

 

「否定なんてしたら怒るでしょう?」

 

 

 鷹の嘴を思わせる台詞。チカラさえ根負けさせた、上手に引っかけてしまうその怒りを滲ませながらの言葉は、心を穏やかにさせる優しい香りとともにある。世界が終わるというのだ。

 

 

「あぁ、醜悪に怒り狂う。誰もが幻滅するほどに怒る」

 

「まぁ、それは大変」

 

 

 鉛のように重い体を、どうにか小指だけ引っかけ合った。

 

 

「私だけのものになってくれないシャドーの愛を受け入れます」

 

「ほんの小さい我儘も可愛らしいジャンヌの愛を受け取ろう」

 

 

 小指を絡ませ合う。クモの巣を思わせるほど芸術的なものだ。抜け出せない理想が形として、思い通りにできない現実は重りとなって描かれる。本能と理性、どちらも等しく犠牲にする。終わろうとする世界で、俺とジャンヌの愛は確かに生きているのだ。それは、どうしようもなく心痛むほどに綺麗なもので、どうすることもできずに心惑うまでに花開くものだった。

 

 

「シャドーのジャンヌは、とてもとても、シャドーを愛しています」

 

 

 愛おしいジャンヌも、そう笑っている。むやみやたらな教義関係なく、普通の恋する少女らしくほんわかとした笑いだ。

 

 この世界は、もう神からしても嗅ぎ回ってはならない。それを理解なさったのか、プツンという音が鳴る。まるで、電源を入れなおしたときの音のようであった。

 

 

 手がかじかむ。一緒に笑い合っていたジャンヌがいなくなったのだ。

 

 温度はまったく分からないものの、何かに触れているのはなんとか分かる触覚が、別世界だと教えていた。ジャンヌがいなくなったことを惜しく思うが、きっと大丈夫だろう。清姫と同じように、つつく程度におちょくられたあと丁重に送られているはずだ。

 

 触覚を頼る。触れているものをベタベタと触る。それしか叶わない。質感からいって生き物を触っているのか、完全には把握できない。かといってガラスといった無機物でもないかもしれない。そのうえ、土のような有機物と無機物が混合したものなかも判別しかねる。弾力があるような無いような不思議な感覚を感じるだけだ。まだひたすらはっきりしない触覚を使い続けるしかない。

 

 ゼラチン質の柔らかさを、厚めの板越し触っている。

 

 不可思議な感覚だった。柔らかさも感じるし、板の硬さも感じる。自然に感じるものと不自然に感じるものが同時に来るので、少々混乱する。少し慣れてきたら、チクチク程度から激痛を感じるほどの刺激が襲う。反射的に触るのをやめたが、向こうから触りに来ているのか刺激が頻繁に来る。

 

 おかげでか、知覚が微量に戻ったようだ。それによって、刺激の正体がクラゲの触手であることを理解する。サカサクラゲのような薄いピンク色の体を持つクラゲだ。サカサクラゲの特徴がありながら、ハナガサクラゲのような華やかな触手と傘を持ち、拍動が元気であったりゆったりであったりしていてるクラゲのキメラがいた。運がいいのか悪いのか、それ一匹だけだ。が、かなりでかい。俺一人など、おやつていどに食べられてしまうほどに大きい。いいことのはずだが、まだ死なないようだ。触っていて楽しい感覚から、さぞ生命体として美しい形なのだろうと知る。そして、沈みかけては泳いで浮き上がる行動に、弱り切っている様子はないことも触覚から知る。目下の状況は、落ち着く暇もなく刺激を触覚がしきりに教えてくるだけ。動作不良を起こしたおもちゃを叩いても治りはしないのを、分かっておられるでしょうに。

 

 そのようなことを心の中で愚痴てしまうと、光が消える。近くにあった、薄いピンク色が消えたのだ。ピンク色は緊張を和らげ、安らぎを与える。緊張感も苛立ちすらも覚えなかったのは、これの仕業もあったのだろう。それが無くなった。キメラクラゲが透明になる。触覚に来る刺激は相変わらずあるので、キメラクラゲが消えたわけではないはずだ。つまりは、おやつにされるということなのだろうか。

 

 困る事態に陥りかけている。先の二人と同じように、この世界もチカラを借り受けているのだろうが、俺を愛してくれている誰かの世界である。その誰かだけのチカラでなら素直におやつにされるが、そうではない。だからといって、壊そうとしてはならない。愛している人に自分を激しく拒絶されることなぞ、五人の誰もが望んでいるはずがないのだから。必ず悲劇になる。そのような無情なことなぞ、俺の存在が丸ごと消されたとしてもやるものか。それでも、かの神ならば美しい顔でニヤニヤ楽しんで下さるだろう。が、俺もそんなもの叶える気も望む気もないのだから諦めていただきたい。

 

 つらつら、また愚痴のようなものを並べていると、引っ張られる感覚がある。おやつにされそうだった。触覚をたよりに逃げようとするが、無駄であった。傘の下面の中心部に連れていかれる。口のある場所だ。それを知れたのは、五感が一時的にある程度回復したからだ。

 

 だからだろう。沖田の姿を見ることができた。透明な色になったキメラクラゲの傘の上で、膝を抱えている姿。そんな小さい様子だが、隠れた敵意を微弱な触覚でなんとか感じ取る。そのせいで、他の五感はもともと役立たずだったが、さらに役立たずになる。俺のことを礼節など気にせずに、塞がらない穴を開けるために突き破ろうとしてるのだ。

 

 

「シャドーさん、何故わたしは、女なのでしょう。でなければ、あなたを強く求めなかったのに」

 

 

 沖田を乗せたキメラクラゲが揺れる。不安定になってしまう。

 

 

「シャドーさん、どうしてわたしは、あなたを求めてしまうんでしょうか。しなければ、わたしは鈍らなどにはならなかったのに」

 

 

 沖田を乗せたキメラクラゲが傾く。不安定が治らない。

 

 

「あなたを求めて鈍らになってしまうのは、すごく、きついんですよ」

 

 

 キメラクラゲの上にいる沖田が震える。不安定なまま固着する。

 

 

「未熟で、意気地なしで、ばかげている存在なんて、いやですよ。普通にいやです。そんなのになんて、決してなりたくなんてないんです」

 

 

 キメラクラゲの上で沖田がぐらつく。不安定で変わる気がない。

 

 

「だから、あなたを拒絶しますから」

 

 

 沖田がためらいを捨てる。不安定だと容認しだす。

 

 

「わたしはわたしでなくなるのがいやなんです。自分で変わるならいいけれど、他でもないあなたによって壊されたくない」

 

 

 沖田は抵抗をやめた。不安定と納得する。

 

 

「あなたに酷いことします。許さなくていいです。許されたら、余計、ダメになっちゃいますからね」

 

 

 戸惑わなくなった沖田だ。不安定しか許せない。

 

 

「わたしはシャドーさんを愛さなくなりますから。あなたを、もう決して愛したりなんかしない」

 

 

 思いつめた沖田が敵意に満ちる。それで世界がピンク色を帯びていたことを、ようやく知った。静脈血のような暗い色だ。その色合いと沖田は似合って欲しくないのに、似合ってしまう。撫子色で落ち着いてほしいのに、暗い敵意がどす黒くする。化粧のノリが良くなってしまう。それで更に苦心するのだ。心を苦くしてしまうほど沖田は哀しんでいる。【人間らしく哀しんでいる】だがしかし、認めることだけはしていけないものである。種火がちびちび燃え出したのなら土をかけるのではなく、おがくずをかけてもうもうと勢いを上げようではないか。

 

 ようやく、ピンクの世界が揺れる。俺が動き出せたからだ。やたら刺激にさらされた触覚は、頼りにしていいのか迷うほど心許なくなっている。温度は冷温どちらもはっきりせず、痛覚は壊れたのか感じもしないし、そもそも触れているのかそうでないかすらわからなくなってしまった。構わず触れようともがく。その触覚頼りの不安定な感覚が三半規管どころか脳にもやって来て、いいようもない不快感に翻弄される。このふわふわとした落ち着かないのは、確かに沖田のものだ。先の二人同様に、手伝われている。

 

 【人間】沖田総司が、シャドー・ノルドマンだけを攻撃する、冷酷無比な哀傷。沖田は自分を傷つけるものは、シャドー・ノルドマンだけであると結論づけ排除しようとしているのだ。誤った判決で汚れる必要などないのに、どちらも汚れようとしていることに気づいていない。

 

 沖田は血に塗れた人間だ。善悪などどうでもいい、斬る必要があるなら斬ってきた人斬りだ。汚れることに慣れてしまった女である。それゆえにこそ、俺をより求めない。汚れたから洗って綺麗にしたものを、ずっと汚いままだと嘆いているのだ。

 

 そうであるから、どうにでもしろ、と手足を投げ出して無抵抗になりたくなる。小さな棘で命落とすことはありえないことではないのだから、斬り刻むなり斬り捨てるなり、自由にするといい、と。聖杯にかける望みである“最後まで戦い抜くこと”。肺を患い死が近づくにつれ、思うように動かなくなっていく自分に、どれほどの苦悩があったのだろうか。症状は心も確実に殺していったはずだ。元に戻りたいと、切に願ったことだろう。

 

 その思いがあるからこそ、俺を鬱陶しいくらい愛したのだ。自分を肯定するには否定から始まるものだからだ。その否定が強くなりすぎて、沖田自身に殺されそうになっているというのならば、ふらふらと逃げないように捕まえて鋭く穿つといい。俺が足掻くこともできなくなることは必須だろうけども。

 

 お年頃の娘らしさと、強固に編み込んだような熱を帯びた沖田との愛の交信は、叶うならばいつまでも通信していたいと何度も何度も飽きることなく願うほどのものだった。今度は何を共通して一緒に楽しもうか考えていると、朝になってしまうことが頻繁にあった。されど、もう断絶しよう。ジャミングで理解不能になろうと愛してやりたい気持ちを握り潰す。不眠症状で考えることもままならなくなるだろうが、そうしよう。

 

 心が折れるほどに痛いけれど。決して、沖田総司を愛しはしない。

 

 

 

 しかし、“沖田が不安な状況を人の所為にしすぎていなければ”の話だ。

 

 かの神のそそのかし術に、裸足で逃げ出してしまいそうである。沖田との愛の交信を増やそうとして、茹ってしまった頭を思い出させる。おそるおそる体に触れ合い、びくびくしながら心に触れ合い、おっかなびっくりしても全てに触れ合った。これにより、沖田は新選組の沖田総司としてではなく、女の沖田総司として愛を育んでいった。愛の形が様々あることを知り、自分だけの愛で愛そうとしたのだ。不器用な女の子らしさに、沖田自身も楽しんでいた。俺も同様に。誰かを愛したことがある者ならば、誰もが楽しむものだ。その誰か達とも触れ合って、沖田は愛を求めるようになったではないか。俺の愛を受けて、更にいろんな愛を求めるようになったではないか。求める愛がたくさんありすぎて楽しんでいたのをちゃんと知っているよ。

 

 したがって、“愛があるから人の所為にしてしまいたくなるほどの敵意で不安になるだなんて、沖田には否定させやしない”

 

 

「沖田」

 

 

 どす黒く濁ったピンクの世界で、ひきつけを起こしてでも声を出す。【愛しき人間】沖田総司のために。ゼラチン質の弾力性によって跳ね返されているようで、沖田に届いているか分からない。

 

 

「愛が明確であれば落ち着くか? 愛が情け深くあれば安心するのか?」

 

 

 一音一音丁寧に、発声する。沖田に届かせるためだけれど、心を折るものではないから。

 

 

「愛があるのは、鬱陶しい不安があるということだ」

 

 

 事実を伝える。愛するとは、不安定になることだ。

 

 

「愛があり続ければ人の所為にして臆病になる。愛を失くそうとすれば人の所為にして心配する」

 

 

 愛するならば、不安な状況にいなければならないのだ。

 

 

「ゆえにこそ。俺は沖田への愛があるから、貴様が俺への愛をどうするのか臆病になる。俺は沖田への愛があるから、貴様は俺への愛でどうでるのか心配になる。このように鬱陶しく心を揺らがせたとしても、シャドー・ノルドマンは沖田総司との愛があり続けてほしいのだ」

 

 

 ピンクの世界が落ち着きなく、縦横無尽に揺れ動きながら薄くなっていく。沖田の姿が見えなくなる。俺との愛を把握し受け取れたことで、欲しくなんてないと葛藤が大暴れして、世界ごと薄まってしまいそうになる。

 

 

「俺は愛を持つ者である。沖田総司の愛は俺のためであると自慢して回る者である。貴様がこれしきの哀しみで鈍らなどになるものか。沖田、貴様があって欲しいのは、敵意に飲まれたものではないとつかみ取れているだろう。貴様の隠しきれない敵意を、俺の愛を拒絶するな。貴様と俺の愛をも拒絶なんてしてしまうのか?」

 

 

 優しい桜色に触れられる。他の色になんか染まりきってやらないと突き進んでくる。突き進まなればキメラクラゲの毒によって激痛に襲われることはないのに、叫びだしたいだろう口を引き結んでいた。軽度の毒であっても腫れ上がるのだから、痛くて痛くてたまらないはずだ。

 

 

「沖田、貴様を愛おしいと思う者がいる。貴様は、そいつを拒絶するか?」

 

 

 軽度のものに落ち着いたのか、腫れた部分をも存分に動かす。健康的なピンク色の爪が少しだけ見え出した。哀しみでどうしようもなくなりながらも、突き進んできてくれたのだ。

 

 

「拒絶なんかしたら、シャドーさんがすっごく哀しんじゃうじゃないですか」

 

 

 鷹の爪の如き笑顔を見せつける。チカラなど剥ぎ棄てて、獲物を捕まえるために鋭い哀しみを多分に含んだ笑みは、求めたいだけで鬱陶しさなど感じない。世界はいらないのである。

 

 

「うむ。ドン引きするほど哀しみに暮れる。もう笑えなくなるほど哀しむ」

 

「うわ、それはめっちゃいけませんね」

 

 

 痛みぐらいしか感じないけれど、それでいいと額を合わせて触れ合った。

 

 

「痛んで泣きたくなるほど愛しますからね、シャドーさん」

 

「甘酸っぱい刺激をもった可愛らしい沖田への愛を抱き続けるさ」

 

 

 互いに額をぐりぐりと押し付ける。そこにクラゲのようにゆったり動く心臓が血液を大量に送り出す。浮き上がってくる関係が動脈へ、沈んでいく背景が静脈へと流れる。新しいものも古いものも、いくらでも荒波にもませる。ふわふわと頼りなく不安定な世界でも、勝手に安定して大騒ぎをしているのは俺と沖田との愛だ。それは、暴れまわりたくなるほど心がはしゃぎだすもので、寝ることを忘れてしまうほど心が跳ね上がるほど、落ち着く暇がない日常だった。

 

 

「シャドーさんっ、沖田さん特製の愛をた~っぷりとご堪能あれ!」

 

 

 愛おしい沖田も、そう楽しんでくれている。誰かの所為にせず、自分由来の恋を楽しんでいく元気な少女の温もり。

 

 この世界は、もう神からしても触っていいものではない。それを理解なさったのか、カチッと音が鳴る。まるで、スイッチを入れ替えたときの音のようであった。

 

 

 額を中心に冷え込む。温かさを分かち合った沖田が傍に居ないのだ。

 

 なんの音だかよく分からないものの、可聴域で収まる程度の音を聴覚が捉えた。そのおかげでか、またもや異なった場所に連れ出されたのだと知る。沖田が空回っていないか心配になるが、まぁ平気だろう。清姫やジャンヌと共通して、ウンデット*1程度のちょっかいを出された後でスマートに送られているはずだ。

 

 耳を澄ます。音の聞こえる位置と正体を探る。それは許されているのだ。音の範囲は声楽的音域に収まる。その音は俺の声より高いようだ。声域はC4以上E6以下、ソプラノとおそらく呼ばれる音。ボーイソプラノのような少年っぽさはなく、カストラートのように野性的ではない。きっと、この音の主は男ではない。少女だ。艶やかに色づいた女性の声になる前の、淡い色を恥じらってばかりの乙女のものだろう。だが、それぐらいしか分からない。正体を知らねばどうしようもないのだから、ひたすら聴覚を酷使する。

 

 理性を溶かす柔らかさと、本能を騒がせる甘ったるい歌声。

 

 正確には歌声ではなく、鼻歌だ。体に音が響きやすい。本人はもちろんそうだろうが、俺も同じように体に響いている。欲求がほんの少しだけ脳をせっつく。このまま聴覚を頼り続ければ、盛り付いた獣になりそうだ。それでもまだ余裕はあるので、理性を休まずに激動させる。女神のお力があればこんなに苦労もしないのだが、贅沢は言えないので聴覚から仕入れた情報を、理性で濾しながら運用する。

 

 目に見える成果として、ほんのわずかに知覚が戻ったらしい。鼻歌より近くに、ウサギがいることを確認する。耳が垂れていたりそうでなかったり、色も様々、繁殖している様子が見られないことから雄か雌のどちらかだけしかいないようだ。激しい喧嘩をする様子も見られないことから雌だけなのかもしれない。野生ではなくペットのようで、比較的大人しそうだ。一羽につき一ケージの中で、牧草らしき植物をもしゃもしゃと頬張っている。小さい塊達が微動していた。特にひっかることのない世界かもしれない。濾しきれなかったものがそのように唆してくる。うさぎの咀嚼音は、別に理性も本能も攻撃などしはしない。縄張り意識を強くさせる要素も今のところはない。彼女たちがケージから出なければ、彼女らも俺も平和であった。しかしながら、この平和な世界に置き去りにされたままでは困る。咀嚼音も耳障りになる時は来るのだ。音が鳴りっぱなしになったおもちゃは、放置していても収まりはしませんよ。

 

 そのようなことを心の中でつぶやくと、ガシャガシャと音が鳴りだす。彼女らがケージから出たがっているようだ。ここがオレンジ色の世界だと、それで理解する。その光が彼女たちを刺激しているようなのだ。ウサギは夜行性なので、人より光を感じやすい。オレンジのように赤系の色より、青や緑系のほうが見やすいはずなのだが、彼女らが頬張っていたものに見向きもせず光に興奮している。発情しているようにも見えた。

 

 繁殖を見守っている余裕などはない。エドヴァルド・グリーグのピアノ協奏曲第二楽章アダージョの如き鼻歌は、俺を獣にする気満々なのだ。理性が蒸発して交ざりにいってしまうかもしれない。またも同様に、チカラを押し売り強盗のようにレンタルさせているのだろう。期限は俺が燃え散るまで。成功して花開くように燃え散るにしろ、失敗して花売りのように燃え散らかすにしろ、かの神はたいそう愉悦なさるだろう。失敗はする気はない、成功程度で納める気はない。大成功でなくてはならないのだ。大成功でなくては、俺と彼女達は愛し合えないのだから。失敗などすれば朽ち落ちる、成功程度では枯れ果てる。どちらも華やぐ先はないのだ。であるならば、大成功、花籠めに燃え盛る。花咲き乱れる中で、もろともに燃え盛るべきなのだ。

 

 理性が燃え尽きそうである。せめて水蒸気爆発してくれ、と願いながら耐えていると、鼻歌が近くに聞こえだす。今までの中で一番よく聞き取れる。聴覚がしっかり働いているようで、余さず官能さも脳に届ける。それでクラクラする本能を懸命に押し込みながら、発生源を探っていく。

 

 ようやく、正体を知覚する。前の三人に比べれば、ごく普通の一般人の少女、藤丸立香がいたのだ。生まれたての姿であった。どこも隠していない。それが、普段の俺ならば簡単に抑えられる欲望を過剰にさせる。俺の性的嗜好は女性だ。過剰になるのはしょうがないだろう。俺を興奮させる姿の立香は、鼻歌を歌いながらケージを一つずつ開けていく。彼女らは脇目も振らず、一心不乱にどこかに向かう。鳴く声やスタンピングが聞こえてくる。そんな繁殖相手を求めに行ったのだろうか。このオレンジの世界で繁殖しても意味は無さそうなのだが。

 

 全てのケージを開け放っても、立香は鼻歌を歌い続けていた。痺れるように誘惑されるもので、きつい。ただの鼻歌だというのに、俺を獣に堕とすものになっている。アマデウスやファントムなどから声楽などを一緒に習っていたことを思い出す。音楽は官能的なものである、と教わった。聞き惚れる音というのは、本能的に落とされてしまっているというのだ、と。このあと色々長々と教わっていたが、要約すれば、生き物は誰しも音で恋に溺れるということ。このようなことを聴覚を介しながら回想をしていると、やはりか、五感が上手く働かなくなる。俺のことを獣に堕とし、腸に重石を入れて溺死させる気なのだ。

 

 

「私ね、シャドーさん。あなたが欲しいんです」

 

 

 立香は鼻歌を歌いながら甘くなる。食べ頃だと誘っているのだ。

 

 

「シャドーさんはね、私だけの大事なものに欲しいの」

 

 

 立香は鼻歌を歌いながら鮮やかになる。早くお食べと唆してくる。

 

 

「シャドーさんの前で見栄なんて張りたくない。私のことをちゃんと理解してくれるのは、シャドーさんだけだから」

 

 

 立香の鼻歌は歌うだけで魅了する。空腹感を飢餓感にしてしまう。

 

 

「シャドーさんが傍に居ないのが本当に嫌。私が寂しくて堪らないのを止めてくれるのは、シャドーさんだけなの」

 

 

 立香の鼻歌は歌うだけで蠱惑する。隆起が収まらなくなっている。

 

 

「みんなはそうじゃない。みんなはシャドーさんじゃないから、わたしが本当に欲しいものじゃないから」

 

 

 鼻歌を歌う立香はフワフワしている。下腹部がマグマのような熱を持つ。

 

 

「みんな違うの。みんなは全然違うの。みんな、わたしからずっと外にいる人たちだから」

 

 

 鼻歌を歌う立香は柔らかそうである。貪欲な欲望がある。

 

 

「シャドーさんは違うの。シャドーさんは誰とも違うの。シャドーさんは、わたしが触れるぐらいちょっとだけ外にいる人だから」

 

 

 鼻歌を歌う立香は素直である。音程は安定している。

 

 

「だから、ね。みんないやなんだ。みんな、みんな。シャドーさんもみんないやなんだよ」

 

 

 立香の鼻歌は不安定だ。高い音が掠れだす。

 

 

「みんな、いや。シャドーさんであってもいや。わたしを頑張らせるから、ずっといやだった」

 

 

 立香の鼻歌は宙ぶらりんだ。低い音が出にくいようだ。

 

 

「わたし、みんなもシャドーさんもいや。もう頑張りたくないんだよ、わたし。なのに、まだ頑張らなきゃいけないだなんて、ひどいじゃない」

 

 

 立香の鼻歌が止む。

 

 

「みんな愛したくなんかないよ…っ! 誰も彼も、そんなんじゃ愛せるわけないじゃない……!!」

 

 

 立香の泣き声が聞こえ出す。

 

 

「シャドーさん、ごめんなさい。わたし弱いから、あなただけでも愛したかったけど。やっぱり、ね。無理だったんだよ」

 

 

 立香の泣き声が響いていく。

 

 

「シャドーさんすら、愛せないんだよぉ……」

 

 

 疲れ切った立香が素直に警戒心をぶちまける。オレンジが濃くなる。太陽の色だ。世界を照らす色。だからこそ、影が濃くなっていく。化粧を重ねている。そのせいで、心ごと割れそうになってしまっている。バラバラになってしまいそうなほど楽しんでいるのだ。【人間らしく楽しんでいる】だとしても、許されていいものではない。火がよろよろとして燃やすものが足りなくなってきたというのなら、じっくりと消えないよう工夫をすればいいのだ。

 

 やっと、オレンジの世界が揺れる。俺が動き出せたからだ。脳まで甘ったるく痺れさせてくる聴覚は、鼓膜どころか外耳、中耳、内耳まで狂っているのではないかと怪しんでしまう。もしかしたら、一時的に難聴になってしまっている可能性があり、音を言語として正しく捉えているのかすら不明だ。誰も彼もの声が聞こえなくなろうが、今、しっかり聞き取らねばならないのだ。聞き逃してはいけない。耳鳴りとともに頭が痛くなる。ギリギリと痛むのに耐えるため食いしばって、さらに痛む。この脳みそにしがみついてくるものは、立香のものだ。前の三人と似たように、加担されている。

 

 【人間】藤丸立香が、シャドー・ノルドマンだけでなく、誰しもを攻撃する、林檎磨きな享楽。アイツもコイツもいや、誰であっても受け入れられない、とそんなふうに思ってしまう自分ごと打ち壊そうとしている。見た目が悪いものであれば、廃棄処分しかないと決めつけているのだ。

 

 立香は普通の少女だ。本来なら、学校に行って学友と切磋琢磨しながら友情や恋を育み、当たり前のように明日も同じような日になると信じ切って眠りにつけるはずの少女だ。俺とは違う普通の人間の少女なのだ。現状こそ異常でしかない。違うからこそ、俺をどうしても受け入れられない。どのようにでも使い様もあるだろうに、全てどうしようもないものと怖がっているのだ。

 

 だとするならば、離れよう、と顔も向けずに無言で去ってやりたくなる。アレルギーは免疫反応が過剰になっただけで正常なのだから、それで辛いことを我慢せずにする必要はないのだ、と。魔術師の家系でもなく、なにかしら武術を極めたものでもない、一般人の少女だ。泣きたいなら泣く、いやだったらいやを我儘と捉えられることなく、進んでしていいのだ。環境が、人が許さないと、愚かな日本人気質で我慢してきたのだ。あの人も頑張っているから、と勝手に自分も同レベルに精神だけでも追い込んでいた。目の前で人が半分潰れているのを見て、一般人が正気でいられるわけがない。何が辛いのかよく分からなくなるくらい追い込まれたはずだ。

 

 その結果、俺を白痴のように愛そうとした。もうなにもかも、どうでもいいというものがあったのだ。その痴呆めいた諦念が剥がれないならば、掴む力を緩めて奈落に落としてしまえばいい。俺はどうやろうとも抜け出せず、狂うのは回避不能だろうとしても。

 

 普通でない俺と、俺にとっては珍しい普通の一般人の少女である立香との愛の旋律は、思わず眠ってしまいそうになるほど心地いいもので、聞き逃したくないと眠るのがもったいないとも感じるものであった。普通に接しているだけで優しく穏やかな気持ちにさせてくれたことなど、両手両足の全ての指を使ってでも数えきれない。むやみやたらと力を入れる姿は愛らしいものだけれど、普通の少女らしく癇癪を起こす姿はさらに愛らしいと感じたものだ。であるが、間もなく決別しよう。なんの音も奏でられなくなろうが、愛してやりたい気持ちを飲み込む。何も聞こえない世界は恐ろしいが、そうしよう。

 

 心が歪むほどに耐えられないけれど。金輪際、藤丸立香を愛しはしない。

 

 

 

 とは言っても、“立香の警戒心と仲間意識が錯綜しすぎていなければ”の話だ。

 

 かの神の手際に、肝を潰して声すら出せなくなりそうである。立香との愛の旋律を続けようとして、喉を嗄らしかけたのを思い出させる。見た目も心もしなくてもいいのを繕っては、解いて暴いてきた。俺ほどでも上手くないにしろ、サーヴァントだけでない色んな人たちが、もたつきながらもほぐしてきたのだ。上辺だけでの世界では決してなく、結んできたものはちゃんとあったはずだ。神がどうしようとも解けはしないものを結んできた。これにより、立香は普通の少女のまま愛してもいいんだと学んでいった。飾ってもいいけれど、飾りすぎなくてもいいんだと知って、普通の少女らしく愛そうとしたのだ。癖のある連中なので四苦八苦だったろうが、共に過ごしていたいという気持ちが増えたのだ。俺も共通して増えた。愛情を少しでも感じてきたならば、他の誰かにも感じてみたくなるものだ。それを無意識的に理解できているからこそ、立香は色んな人と仲良くなりたいと動いてきたではないか。どんなに不格好であろうと、立香が真摯に好意を抱いてくれるから、俺を含めて色んな人が立香を愛しているんだ。普通に好きでいてくれるというのは、とても素敵なことなのだぞ。

 

 であるからして、“愛というものが受け入れることなんて到底できない警戒すべきものだなんて、立香にだけは否定させやしない”

 

 

「立香」

 

 

 濃いオレンジ色の世界に、かすれながらも声を出す。【愛しき人間】藤丸立香のために。舞い上がる彼女らの抜け毛や餌の草たちごと、むなしく宙に漂うだけで、立香に届いているか分からない。

 

 

「愛は平等であれば怯えないか? 愛が全部同じであれば怖がらないか?」

 

 

 子守歌のように、穏やかに発声する。立香に届けさせるためだけれど、心を傷つけるものではないから。

 

 

「愛し続けるということは、見栄を張り続けるということだ」

 

 

 事実を伝える。愛し続けることは、見栄でしかないのだ。

 

 

「愛は差別的で平等に与えられないから狡猾にならざるを得ない。愛は依怙贔屓がすぎるもので同じようになれないから懊悩せざるを得ない」

 

 

 愛するならば、足を引っ張り蹴落とし合うしかない。

 

 

「なればこそ、立香が愛してくれている俺は、貴様に平等でない愛を持って狡猾になる。立香が愛してくれている俺は、貴様に贔屓的な愛を持って懊悩する。これほど醜い畜生であろうとも、シャドー・ノルドマンは藤丸立香に愛し続けて欲しいのだ」

 

 

 オレンジの世界がずっしりと濃くなり、オレンジ色と理解できない色になりながら潰れてだしている。立香の姿が見えなくなる。俺たちの愛を容認し受け取ってくれたことで、怖くてたまらないと妄執が搔き乱れ、世界ごと潰されそうになる。

 

 

「俺は愛を持つ者である。藤丸立香が愛し続けてくれるのは俺だからと傲慢になる者である。貴様がこんな楽さに口が利けなくなんかなるものか。貴様が触れたいものは、ちょっとぐらい汚れていても大丈夫だと学んでいるだろう。貴様の弱っちい警戒心や仲間意識を、俺の愛を非難するな。貴様が大事にしてきた俺たちの愛すら非難などしてしまうのか」

 

 

 鼓膜が振動する。破れるほどの衝撃ではない。赤子のように泣きながら手足を動かしている。彼女らを追えば怖い思いをしないで済むというのに、怖い思いをするのはいやだから今も泣きながらもがいている。怖いことも、苦しいことも、辛いことも、まだまだ経験しなければならないから当然だろう。

 

 

「立香、貴様を愛おしいと思う者がいる。貴様は、そいつを非難するか?」

 

 

 自分の意志で抑え込まず、ありのままの激情を晒しながら来てくれる。女の子らしい小さな可愛らしい趾に渾身の力を込めて走っている。これからの楽しいことを信じて、走り出してくれたのだ。

 

 

「シャドーさんをも非難なんかしたら…。シャドーさん、壊れちゃいます」

 

 

 鷹の趾を連想させる力強い思いやり。チカラを放り投げて、こぼすことなく大事なもののを抱えていける楽しみを学んだ優しい両手は、繋いでいたいだけのもので見栄を張るのを頑張ってしまう。世界は消えるべきだ。

 

 

「そうだとも。電池を入れ替えようが、回路を直そうが壊れたままになる。皆、近寄ることすらなくなるぐらい壊れてしまう」

 

「わぁぁああっ!! そんなの絶対ダメダメなやつじゃないですか!!!」

 

 

 頭痛が度を越えたの所為なのだろうか。なにもかもがゆっくりに捉えられるなか、頬をスリスリと擦りつけ合った。

 

 

「不平等に贔屓しまくってるわたしですけど。シャドーさんを愛し続けますから」

 

「ティースプーンでつついてくるような悪戯好きな可愛らしさの立香を愛し続けてるよ」

 

 

 頬が潰れるほどくっつく。うさぎ同士のグルーミングのように互いを思いやるものだ。遠くに行って欲しい不満を舐めとって、近くにあって欲しい厚情を舐めつける。口に入り胃に行き、いつか平等に消化される不満と厚情。ずんずんと潰れていく消えるべき世界すら、学び得てしまった俺と立香の愛の調べからすれば他人事である。それは、いつまでも耳にしていたいほど心が和らぐもので、ゆりかごに揺られていた昔を思い出すぐらい穏やかな心地だ。

 

 

「愛し続けちゃいますからね? 心底迷惑だとしても一切気にせずに、愛し続けちゃいますから…っ」

 

 

 愛おしい立香は、泣きながら楽しそうにしてくれている。どこにでもいる恋を楽しむ、ちょっとだけ頑張りすぎな少女の涙。

 

 この世界は、もう神からしても盗み聞きしていいものではない。それを理解なさったのか、ペラペラと音が鳴る。まるで、ページをまくり上げている音のようであった。

 

 

 静かな鼓動で起き上がる。思いやり合った立香もすでにいない。

 

 愉快犯な誘拐犯が無事に送り届けて下さっているだろう。茶々をほどほどにして下さっているのかは悩みどころだか、大丈夫だと信じてみる。いたずら以上のことを俺たちにするほど、気に掛ける気はないはずだから。

 

 鼓動は感じるも、なにも熱と感じることができない。血流は分かる。量も速度もいつもと寸分変わりはしない。が、その血にすら熱を感じることはなかった。眼の奥が熱くなることも、頬が熱くなることも、手足が熱くなることすらない。必然的に、そうなるように熱が入る脳も心もだ。不安になる。熱が足りない。足りなければ、もっと薪や燃料がいる。しかし、それを探す術も今はない。不安が身体を固めてしまっているようだ。これではいけない。意志だけは萎えさせやしない。

 

 不安を払拭するため、許されたあらゆる機能を使う。目を凝らし、手足を動かして、鼻を頼り、口を開ける。眼にしっかりと捉えられるものはない。手足の一部分にすら何も引っかからない。鼻は風の臭いも嗅ぎ分けられずにいる。口も何も知覚しやしない。それに、意志が萎えそうになっていくのを感じ取る。しまった、不安が増幅していく。口を大きく開き、なんでもいいから刺激を強請った。

 

 ふいに、口に味が広がる。味蕾が甘みだと教えてくる。しかし、飴のような固形物が入ったわけでも、ジュースのような水分が入ったわけでもない。ただ、甘い、という味が広がった。甘いのだ。今まで味わったどんな甘味よりも甘い。しつこい口に纏わりつく甘みではない。実験のため味わった毒物の甘さよりも、落ち着いて死にやすい甘さだった。とにかくもっと欲しいと思わせず、口寂しいから入れる程度の気軽さがある。それ故に、快楽に弱いものならば、腹が破裂するのも気づかずに強請り続ける代物だった。

 

 その正体は分かっている。ただ一人しかいないのだから。シャドー・ノルドマンという個人だけで、初めて愛せた、離したくなんてない、愛おしい愛人(あいびと)

 

 マシュ・キリエライトが、小さなスズメの雛鳥を数羽、両手で抱えて立っている。そのような姿を、改めて認識した。

 

 熱を上げるはずの脳と心は、今は静まってしまっている。押さえつけられているのだ。何もできないよう、何にも許していない、と手酷く教え込まれる。喉を殴り潰され、手足を抉り取られ、無事なところは一つもないと覚えこまされる。俺は人間としての形も保てていないのに、流石のチカラで尊厳を踏みにじられた。それに眉が攣るほど苛立つ。

 

 ただマシュを認識するしか許されない。今の段階では、彼女だけが拒否しているのかはまったくもって分からない。ただ認識するだけだ。もしかすると、かの神の御戯れがなければ、それすらもできないのかもしれない。けれど、認識できるというならば、やってみろということだ。遊んで壊すのも遊んで楽しむのも貴様次第だ、と背筋を逆なでするように伝えられる。それに喉が裂けるほど苛立つ。

 

 かの神にとって、あれもこれもお遊びでしかないのだ。俺たちの素敵な素敵な愛情も、お遊びにしか見えないのだろう。泥団子を御馳走として食っているのを見て、お腹を壊すぞと心配するでもなく、楽しんでいるなと見守ることすらない。それに目が乾くほど苛立つ。

 

 【人間】の果てを観るのが【神】なのだ。まさしく観劇なさっている。眼にも耳にも入っている、俺たちの愛を、観ているのだ。これは作られた芝居ではない、楽しませるのが目的の催し物でもない。現実に始まっている人類史に深く刻まれるもの、全てと燃え上がる猛り暴れる炎だ。それを、かの神は、蜂蜜酒で更に自分を盛り上げながらご観覧なさっている。それに体中をかきむしるほど苛立つ。

 

 今すぐマシュに走り寄って抱きしめたい。はやくマシュと一緒に好き合いたい。

 

 その感情が、無情にも朧げに浮かぶだけ。全身を発火させ続けるほどの熱情があるはずなのに、クールタイムを強いられる。人間らしさも、年頃の女の子っぽさも、少しずつ学びえている愛おしいマシュに、なにもできない。それに脳が沸き立つほど苛立つ。

 

 上手に飾れないほど愛している。まともに忘れられないほど好いている。なにも出来なくなりそうなほど恋し続けているのだ。

 

 そうだというのに! それほどまでに、マシュ・キリエライトという少女に焦がれているというのに!!

 

 なにもできない今が、許せなかった。もう少し待て、と脳を弄られるが、許せるものか、と反抗した。

 

 手足がえぐり取られたからなんだというのか。喉を殴り潰されたからなんだというのか。他の部位もどうにもならない致命傷を負っているのだとしても。愛おしいマシュになにもできないなど、許せるわけがない。レージング*2などで縛り付けられるものか。ドローミ*3で縛られようが、引き千切ってやる。グレイプニール*4でも縛り付けようものならば、その紐をも引き千切ってやろう。たとえ、グングニル*5すら使われてしまおうとも、無様に貫かれたまま暴れ回ってやる。

 

 そうまでしても、愛おしいマシュとの未来すら閉ざそうとするのか。死者の国ヘルヘイム*6に落とそうが、這い上がっていくぞ。どれだけ惨たらしい姿にされようと、いくぞ。肉が腐り落ちようが、醜い化け物にされようが、愛人マシュが拒絶しないことは、よく理解しているのだから。

 

 

「マシュ……っ」

 

 

 悪声だった。不快でいやな声だった。だが、シャドー・ノルドマンの声だ。

 

 

「シャドーさん?」

 

 

 やはり気づいてくれたのだ。嬉しさで声が更に悪くなる。

 

 

「マシュ、あいしてる

 

 

 名前しか呼ばせてくれないらしい。それでもいい。それだけでも愛せるのだから。

 

 

「シャドーさん、私っ」

 

 

 今気づいたが、この世界は白いらしい。あぁ、マシュにぴったりだ。

 

 

「私、どんどん汚くなっちゃってます」

 

 

 染まっているだけだ、と言いたいが、名前しか呼べない。白がそのままあり続けることはないのだ。

 

 

「皆さんともシャドーさんともいると、なんだか汚くなっちゃうんです」

 

 

 感情を知ることは素晴らしいことじゃないか、と言いたいが、名前しか呼べない。白ほど染まりやすいものはないのだ。

 

 

「シャドーさんも好きです。皆さんも好きです。でも、でも……、嫌いになっちゃうことがあるんです」

 

 

 名前を呼ぶ。が、雛鳥たちが騒いでしまってかき消される。緊急事態なのはお互い様だ。

 

 

「なんで、そんなこと思っちゃうんでしょう。嫌いとは悪感情と学びました。悪い感情を、皆さんに抱くのは間違っているはずです」

 

 

 名前を叫ぶ。けれど、危機でパニックになる全員には届くわけがない。

 

 

「その感情は敵に向けられるもののはずです。なのに、何故か、好きな人にも向けてしまうんです」

 

 

 名前を力強く叫ぶ。どうにかしようとしているのは、誰も彼も同じだ。故に、誰も聞き届けない。

 

 

「先輩も、ジャンヌさんも、清姫さんも、沖田さんも。好きなのに嫌いな時もあってしまうんです」

 

 

 名前を呼んでいるのをどうにか伝えたい。なにもかも交わらないから伝わりはしないのだ。

 

 

「皆さんのこと好きなんです。自信をもって好きって言えます。けど、全部好きだとは、とても言えないんです」

 

 

 名前を呼んでいるからどうしても繋がりたい。近いはずなのに、なにも届いていないのだ。

 

 

「シャドーさんも、同じなんです」

 

 

 名前を呼んでいるのにどうして聞こえてくれない。通じ合ったのは体だけではないのに。

 

 

「シャドーさんのこと好きです。たくさん、一番、好きなんです。それなのに……っ」

 

 

 名前を呼んでいるよ、となんとか教えたい。言葉だけでない絆があるというのに。

 

 

「シャドーさんも、ちゃんと好きになれないんです……っ。好きだから嫌いに、なってしまうんですっ!!」

 

 

 名前があるんだよ、とちゃんと見せたい。確かなことは見えているのに。

 

 

「どうすればいいんですか? 好きなのに。好きの気持ちがあるのに。どうして、どうしてっ、嫌いなんて思ってしまうんですか!!」

 

 

 名前を聞いて、ともっと言ってやりたい。答えは傍にあるのだ。

 

 

「もう、わかりません。もう、わかりたくありません。好きなのに嫌いなんて思ってしまう私自身が、なにより嫌いです」

 

 

 名前を、知って欲しい。捻くれたものじゃないから。

 

 

「だから、もう。私は誰も、シャドーさんも、好きにならなくなります。それだったら、嫌いにもならないでしょうから」

 

 

 化粧を崩したマシュは雛鳥たちを空に放る。いつの間にか成鳥していたようで、華麗に白い世界に飛んで行った。番を探すのか、餌を探すのか、それとも、寝床を探すのかは、分からない。マシュを置き去りに、彼らは遠くへ行く。敵のいないところへ、飛んでいくのだ。白い世界で残像のように消えていく様は、マシュの気持ちを表しているのかもしれない。置いてきぼりにされてしまったマシュは、彼らを見続けた。義務感でもなんでもなく、それしかできなくなってしまったかのように。そのように疲れ切るほど人間らしくなった。無反応であろうと覚悟を決めてしまったのだ。

 

 “そのような人間らしさなど、持ってほしくない”

 

 やっと、白い世界が揺れる。もう好きにしていい、とかの神が許してくださったのだ。あの時、名前を呼ばせたのは、かの神がより楽しくなると、してやられてしまった。正常ならば、まだ何もせずにいられただろう。そうすれば、マシュをここまで苦しめることはなかった。流石、呼び名の一つに≪人々の恐れ≫というものがある神だ。あぁ、なんという悪神だろう。認識はできる内臓が爛れていくのを、よくよく感じ取った。ありはするはずの口が、シャドー・ノルドマンという存在をぐちゃぐちゃにしながら、吐瀉しそうになっている。胃酸のようなものを強く感じてしまい、吐き出したい欲が止まらない。それは許さない、と必死に飲み込む。その所為で、また内臓が爛れていくが、こぼれることは無いようなので良しとする。なんでもいいから許されたくなるほど辛いが、我慢する。かの神は、これすら楽しんでおられるんだろう。苛立ちは抑える。

 

 【人間】マシュ・キリエライトは、俺も誰をも攻撃することはない。無駄話程度の愛情だった。役に立つものになろうとしていたが、ダメなものだったと誤解した。役立たないけれど、あってもなくてもいいものにしようとしている。それの方がダメだというのだ。

 

 マシュは白い時代が長すぎた。環境によるものだ。今までの女性たちは時代差はあれど、愛情を受けて育ってきた。親への愛はどうであるか、隣人への愛はどのようであるか。それを学びえている。自分自身で考えて、愛に差をつけて誰かに与えてきたのだ。そのような誰でもできることを学びえなかったのだ、マシュは。歴史など学問をある程度修めているのに、その学問にすら学び取ることができなかった。歴史は、人間たちが自己だけでなく他者へも愛を向けられたからこそあるものだ。差は色々あっただろう。共に笑い合えることもあれば、影では嘲笑っていることもあったはず。

 

 そのようなこと、普通ならば誰でも勝手に学んでいる。あいつはここがいいから好きもあれば、あいつはここがダメだから嫌いもあるのだ。完璧な人間など、かつての俺を含めて存在するわけがない。好きな奴がいれば嫌いな奴もいる。だれけども、俺は人間は皆好きだ。善人であろうと悪人であろうと、俺にはどちらも愛おしいものだ。なぜか? 好きなところが魅力的に映る。そして、嫌いなところも魅力的に感じたから。前者はともかく、後者はおかしいと思うだろう。普通は、そうだ。そうであるのは正しい。でも、俺は嫌いなところの一部分が嫌いなだけで、全体で見ればとても嫌いなままにはなれないのだ。ゴミと呼ばれるものが価値あるものだった、というのは歴史が語っている。見方を変えればいいのだ。ここはいいなというものがあるはずだ。それでも気に入らないのなら、無視すればいい。関わらなければ、そいつに使う時間を別のことに使えるのだ。それが、普通の人間。

 

 だが、俺は関わる。俺に手を伸ばしてくれている限り、関わり続ける。誰もがどうしようもないと謗られている存在であろうと、生きていてくれるなら、それだけでも嬉しい。そいつがもういい、と手を引っ込めないのならば、俺の手が千切れようとも掴んで見せる。当然、これは異常だ。正しくない。だからこそ、俺は誰かにそれを無理強いしない。異常だからだ。誰もが最期は一人で旅立つ。それを俺は知っている。でも、一人じゃなかったな、という気持ちはあって欲しい。異常でしかない。

 

 しかし、この異常があったからこそ、今の人類史がある。打算もあろうが、この異常を続けてきた。悲しみの歴史があったはずだ。それと同じくらい喜びの歴史もあったはずだ。色んな人間が異常と普通の中で生きてきたのだ。けっして不幸ではなく、必ずしも幸せなことはなかった。

 

 好きであって嫌いでもある、ということは正しいこと。全部が好きだ、というのはおかしいこと。そう二つに簡単に分けられるだろうか。好悪という言葉は容易に言語化できるものではない。好きに違和感を感じることもあれば、嫌いに感じることもあるのだから。明確にできるものではないはずだ。

 

 だからこそ、好きだけど嫌いでいい。だからこそ、嫌いだけど好きでいい。普通に愛されて普通に愛せる人生を、マシュは、これから生きていけるのだから。手を繋いで歩いて行ける道が、しっかりと見えているだろう。

 

 白い世界は染まりやすい。だって、好きになって嫌いになれるから。白い世界は汚れやすい。だって、嫌いになって好きになれるから。綺麗なだけでは、誰も彼も、自分自身すらも愛せないのだ。一人っきりの世界で生きていくと、間違っている決意をしてほしくない。

 

 だからどうか、“誰も好きにも嫌いにもなれないなんて辛い道を歩かないでほしいのだ”

 

 

「マシュ」

 

 

 正常な声だ。いつもマシュを呼ぶときの、優しい声だ。【愛人】マシュ・キリエライトのためだけのものだ。届いてほしいと、切に願う。

 

 

「愛は綺麗であり、汚いものだ。清姫のことを書いた書物にも、よく分かるものがあっただろう?」

 

 

 願わくば、これから学ぼうとしてほしい、と願う。

 

 

「愛は争いの種になることもある。ジャンヌの生きた時代にも、よく分かるものがあっただろう?」

 

 

 聞きそらそうとしないでほしい、と空を見続ける愛人に願う。

 

 

「愛は誰をも幸せにできるものではない。沖田の最期にも、よく分かるものがあっただろう?」

 

 

 分からないふりをしないでほしい、となにもしない愛人のために願う。

 

 

「愛は強くなくてはならないのではないんだ。立香の横顔にも、よく分かるものがあっただろう?」

 

 

 どうか、幸せになってほしいと、祈る。

 

 

「俺はな、マシュ。好きでいたいなら嫌いにもなるべきだと、よく考えることがある。好きなところは長所だけではないからな。でも、嫌いなところは短所でしかない。そいつが変えようとしていないのに、無理やり変えたら駄目だとも考える」

 

 

 幸せになって欲しいのだ。出来るなら、誰でも幸せになってほしいのだ。でも、一番に幸せになって欲しいのは、マシュだけ。

 

 

「じゃあ、嫌いなままでいよう。嫌いは嫌いでいい。無理に好きになる必要はない。好きなところが一つでもあればいいんだ。嫌いなところの方が多くても、好きなところが一つでもあればいいんだよ」

 

 

 綺麗すぎない、汚すぎない、不確かな白い世界へ。マシュの隣へ進む。肩を優しく叩いて、好きだけど嫌いな俺がいることを、ちゃんと教える。

 

 

「だけどな、俺は皆の全部が好きだ。余さず好きだ。どんなに悪いところがあろうが好きになってしまう。役に立たなかろうが好きでいるんだよ」

 

 

 マシュの目蓋をゆっくり下ろす。見える世界が綺麗なままで本当にいてほしいのなら、そうしてやるべきだ。

 

 

「けども、それはシャドー・ノルドマンという個人の話だ」

 

 

 マシュは涙を流すことができないほど疲れ切っているのだから、丁寧に優しく愛そう。

 

 

「シャドー・ノルドマンはマシュ・キリエライトを愛している」

 

 

 ピクリと微かにマシュが動いた気がした。気にしないよう、丁寧に優しく愛そう。

 

 

「マシュの所為でなにも出来なくなりそうなほど恋しているよ。マシュのことを忘れられないほど好きでいるとも。マシュのために上手に飾ろうともできないくらい愛しているんだ」

 

 

 やっと熱を感じる。マシュの熱だ。目蓋の上の手に、マシュの柔らかい手が重なった。大切にするために、丁寧に優しく愛そう。

 

 

「マシュ。俺は、貴様の嫌いなところが何一つ思いつかない。貴様のなにもかもに惹かれている」

 

 

 綺麗なだけでは愛せない。しかれども、大切だから、丁寧に優しく愛する。

 

 

「俺は、貴様に嫌いと言われようとも愛していたいよ。汚い感情だなぁ。嫌いだって言っているのになぁ?」

 

 

 汚いところも愛してほしい。きっと、まだお互い愛しているだろうから。

 

 

「シャドーさん……」

 

 

 手の内も熱い。涙を流してくれたのだ。幸せになりましょう、と動いてくれたのだ。

 

 

「好きでいていいんですか? 嫌いでもいいんですか? ずるい人でもいいと言ってくれますか?」

 

「いい。もちろん、いいとも。女はずるくていいんだ」

 

「……っつ。ずるい、のはシャドーさんもです」

 

「そうか。そうでもいいだろう」

 

「シャドーさんは、誰も嫌いになれない人だから、ずるいんです」

 

「……性分だ、許せ」

 

 

 手を外され、しっかりお互いを認識する。好きが分かった。俺はマシュが好きで、マシュは俺が好きで嫌いだった。どちらも愛していることが、また分かったのだ。

 

 

「ずるい人同士、お似合いですね」

 

「あぁ、ずるいもの同士、末永くよろしく頼む」

 

 

 抱きしめる。もう離れないことは互いに分かっていたけれど、熱を感じることでもっと分り合いたかったのだ。

 

 

「ねぇ、シャドーさん。好きです。嫌いもありますけど、好きもあります。許さなくていいですから、愛してください」

 

「分かった。絶対に許さない。俺は、マシュが許してくれと言うまで、絶対に許さない」

 

「……それ、私の負け確定なのですが」

 

「黒ひげの言葉も上手く使えているな。実に喜ばしい!!」

 

 

 白い世界が崩れていくのも気にしない。多種多様に染まりだす世界が向こうに見えている。その色彩豊かな世界が、マシュの小さな笑い声が、嬉しいのだから。俺も笑ってしまう。背中を軽く抓られるが、気にしない。

 

 

「愛していますよ、シャドーさん」

 

「愛しているよ、マシュ」

 

 

 愛し合えることは、こんなに嬉しいことだったのだ。世界ごと崩れ去っても、どうでもいいほど嬉しかった。鷹の翼の如きスピードを発生した愛の軋轢は、心地よすぎる。

 

 ずっと、ずっと愛おしかった。

 

 いつも恋をしている。どうしようもなく好きになった。変わらず愛している。

 

 

「愛している、マシュ・キリエライト」

 

 

 我が生涯初めてにして最後の、たった一人の愛人を、星が堕ちようと愛し続けよう。

 

 

 

 おもちゃな世界が、やっとなくなる直前。なにもかも好きにしろと言う心地で、プォーという角笛の音を聞かせられた。耳障りで、少しだけ苛立たしくなる。終焉を告げる音は、いつまでも木霊し続けた。

 

 

 

 

「よく出来ました」

 

 

 トリックスターという呼び名を持つロキ様の声は、お淑やかな女性の声にも、優雅な男性の声にも聴きとれる。ロキ様は、その美しい顔に相応しい椅子に座り、俺を眺めていた。ここは一見して厳かな一室に見えるが、どこか洞穴を連想させる。

 

 

「よくもまぁ、上手に間違えました」

 

 

 ニヤニヤした顔。その顔すら美しい。嗜虐的なニヤケ顔だ。この様子は、まだまだ遊び足らないということらしい。手を組み、こちらへ前かがみになる。

 

 

「まず、最初に言ってやろうか。お前の愛というのは、“悪”でしかない。お前からどんなに遠く在っても、その悪辣さは離れやしない。近いなら、どうだろう? 悪辣さに目を瞑ってくれるだろうか? いいや、そんなことは決してできやしない。そいつに脳すら焼かれて、無様に呆けちまう。呆けた奴を丁寧に介護することが、お前の愛だ。治す気もない、止める気もない、ましてや更に進ませる気なのが、お前の愛だ。これを悪辣と言わずになんと言うのだろうな」

 

 

 明確に指摘される。正しかった。反論する気も起きないほど正しいのだ。

 

 

「一つ。愛は怖いものだが、お前の愛は誰をも恐怖させるもの。普通の愛は、そんなものじゃない。お前の愛がどうしようもなく怖いものであって、それを基準にするものなんかじゃないはずだ。何故、ちゃんと宣言しない? 嘘つきにされてしまうからか? いいや、そうじゃないよなぁ? お前は愛するものを恐怖させても愛そうという、馬鹿な奴だ。相手のことを思ってでもない。全部、お前自身のためだ。お前が、自由に、存分に、愛するためだ。飢渇してなにも出来ない奴を縛り付けている。あぁ、とっても怖いなぁ」

 

 

 清姫とのことだった。正しかった。

 

 

「二つ。愛することは奪い取ることでも、お前の愛するということは卑劣な略奪でしかないということだ。普通の愛は、そうじゃない。お前の愛し方が卑劣すぎる蛮行なだけで、それが当たり前なんかじゃあないだろうが。何故、そう理解させなかった? 敵対されてしまうからか? いいやぁ、そうじゃない。お前はどんなに敵対されようとも愛そうという、イかれた奴だ。相手のことを思いもしない。全部、お前自身のためだ。お前が、自由に、存分に、愛するためだ。手籠めにしてなにも出来ない奴を閉じ込めている。あぁ、なんて卑劣さだろう」

 

 

 ジャンヌとのことだった。正しかった。

 

 

「三つ。愛するということは不安定になることだろうが、お前の愛するってことは自分勝手に不安定にするということだ。普通の愛は、そんなふうじゃない。お前の愛したいという欲が自分からバランスを崩していくだけで、そんなのがいつもなわけがない。何故、しっかり教えないんだ? 否定されてしまうから? いいや! いいや! そんなわけがない。お前はどう否定されても愛そうという、ふざけた奴だ。相手のことは思わない。全部、お前自身のためだ。お前が、自由に、存分に、愛するためだ。アンバランスにしちまってなにも出来ない奴をつついている。あぁ、ひどく自分勝手すぎるじゃないか」

 

 

 沖田とのことだった。正しかった。

 

 

「四つ。愛し続けることは見栄かもしれないが、お前の愛し続けるなんてことは見栄にもならない小細工でしかない。普通の愛は、その程度のものじゃない。お前が愛し続けるってのは下手くそな小細工をごまかしてるだけで、そういうのが決まりであるわけない。何故、もっと騙さない? 脱走されてしまうから、なんてな? はははっ! そんなわけがないだろう。お前はどこまで逃げようとも愛そうという、危篤な奴だ。相手は思う気もない。全部、お前自身のためだ。お前が、自由に、存分に、愛するためだ。雁字搦めにしてなにも出来ない奴を弄っている。あぁ、いやなくらい悍ましいなぁ」

 

 

 立香とのことだった。正しかった。

 

 

「五つ。愛というものは綺麗なままじゃいられないけども、お前の愛はドブの方が綺麗なくらい汚らしいものだ。普通の愛は、そこまでするものじゃない。お前の愛は綺麗になることがありえないくらい汚いのを隠しているだけで、そのままでいつでもいるものなわけがない。何故、また道化にならない? 永訣されてしまうからだとでも? そんなわけがない、そんなわけであるはずがない。お前は二度と会えなくても愛そうという、マジキチな奴だ。相手など思いやしない。全部、お前自身のためだ。お前が、自由に、存分に、愛するためだ。押し込めてなにも出来ない奴を貪っている。あぁ、凄まじく汚らわしいじゃないか」

 

 

 マシュとのことだった。正しかった。

 

 

「最後に、もう一回だけ観たいものがある」

 

 

 ロキ様はとても楽しそうな様子で、指を鳴らす。そうすることで、この部屋で俺の存在を許された。俺の姿は人間形態だった。いつもの【人間】シャドー・ノルドマンが存在できたのだ。

 

 

「教えてくれよ。お前の愛とは、一体なんだ?」

 

 

 ロキ様は本当に楽しそうだった。おもちゃで遊ぶことに本当に楽しんでらっしゃった。蜂蜜酒らしき飲み物があるが、今は手を付けもしない。本当に楽しむ気だということだ。

 

 緊張で喉が渇く。できるならコーヒーを、胃がチャプチャプと音がするまで飲みたいぐらいに、喉が渇く。柄にもない緊張感だ。眼を開けていることもままならない。口内がまともではないようで、舌すら痙攣している。

 

 しかし、それをどうにかする。どうにかする時間をも与えられた。

 

 本来なら、この場に存在することすら許されない。たとえ、俺に目を掛けて下さるフリッグ様のお怒りを買ろうとも、俺の存在を消し去ることは当然なのだ。そのこと自体は緊張も恐怖もない。俺は今、ロキ様に許されなければ存在すらできない愚物でしかないのだから。その愚物が、声を出す許可を与えられたのだ。緊張しないはずがない。やらかせば、俺だけでなく愛おしい彼女達にも手を掛けられてしまう。それはどれだけ不敬でも、許せないのだから。

 

 

「私の愛とは、悪であります」

 

 

 正しいことなのだから、前提だ。ロキ様は笑ったままだ。許されている。

 

 

「故に、間違い続けます。正解がないことを理解しているのに、間違いだけはし続けます。儚い幻想を追い求め、何も得られず倒れ伏す未来が見えていても、確かなモノがあると信じ、延々と間違い続けるのです」

 

 

 正解はない。けれど、絶対的な間違いもまたないのだ。まだ、許されている。

 

 

「私は親にも友人にも、今まで築いてきた人間関係全てにおいて恵まれてきました。いつも誰かに愛されて生きてきました。だから、私も誰かを愛せました。悪辣なものです。誰かが何よりも恐怖していても愛しました。誰かがどんなに敵対したとしても愛しました。誰かがどのように否定していようとも愛しました。誰かがどこかへ逃げ出そうとしても愛しました。誰かがもう会えないとしても愛しました。正しく、悪辣なものです。私は自由に存分に愛したいだけで、その誰か達を思いやってはいません」

 

 

 ロキ様の言葉通り、俺は自分勝手に悪辣さばかりの人間だ。続きを、と視線で促されている。

 

 

「私の愛は、燃えるものです。燃え盛るものなのです。好きになったから好きでいたいのです。悪辣でしかありませんね。だとしても、本当にそれでしかないのでしょうか。自分以外の誰かがいるなら愛していたいという欲求が、悪であるとはどうしても言えないのではないでしょうか。間違え続ける中に、いつしか間違えじゃないかもしれないものが見つけられるのです。好きになるから好きにしろ、というものがあるのです。愛していいではありませんか。どんなに悪辣であろうとも、私は“シャドー・ノルドマンは絶対に愛されないことを理解しているのですから”」

 

 

 シャドー・ノルドマンは誰にも愛されない存在である。そのことを口にするのは、やはり苦労する。

 

 

「私は愛されない。たとえ、目でも分かるものがあると言われようと、真に愛されることはありえない。【不可能を可能にする半端者】と自称する前、【人間の頂点で在る者】としていても、よく理解していました。私の愛は、悪辣であり、燃え盛るもの。私は愛するものを薪にして燃やすしかできない。共に何かを感じようとも、一緒に時を過ごそうとも、果ては薪として焼べてしまう。絆がある。情がある。しかし、それは証明できやしない。“シャドー・ノルドマンは愛しはするけれども愛されることは求めていないのだから”」

 

 

 シャドー・ノルドマンは自由に存分に愛したいだけだ。そこに愛されたい欲はない。さんざん、愛されているとはほざいたが、理解もしないし、受け取る気もないのだ。あるものだとしても、俺の中ではないものとしている。

 

 

「愛されたいと願うこともなく、望むこともなく生きてきました。それは、普通に恵まれていたからもあるでしょう。環境も人間関係も、さほど苦労はありませんでした。親は私に不自由させませんでしたし、友人たちは私を孤独にしませんでした。だから、ではありえません。普通は、更に愛されたいと思うはずです。では、何故、私は愛したいだけなのでしょうか。簡単です。“愛してくれたものを燃え尽きた灰にしたくないから”」

 

 

 愛というものは、燃え尽きた灰ではない。

 

 

「理屈なく言い訳なく愛されてしまったなら、私は彼らを燃やし尽くしてしまう。……愛はっ、燃え尽きた灰だと、どうして言えるでしょうか!! 愛してくれたものの温かさが残っていようとも、その温かさが消えていく寂しさに何もかも壊れそうになる!! 愛するならば、燃え続けるべきだ!! 自分すら薪になって燃えてしまいたいほど、愛している!!」

 

 

 愛したい。みんな、みんな、愛おしいから。

 

 

「……しかしながら、それは許されないのを理解しています。あらゆるものを燃やすから、何もかも燃やしてしまうから。そのようだから、私の愛は、悪なのでしょう。燃えるというなら、燃えるものが必要です。私の愛は、燃え盛るもの。この星ごと燃やしてしまうでしょうから、許されやしない悪でしかないのです」

 

 

 そのような悪だから、愛されたら舞い上がってしまって加減が出来なくなってしまうのだ。

 

 

「であれども、私の愛は悪だけではありません」

 

 

 不敬ながら目を合わせて頂いた。

 

 

「私の愛は、サクラでもあるのです」

 

 

 少しの沈黙。ロキ様が、軽く鼻を鳴らしたのを合図に、続ける。

 

 

「サクラは、傷ついてしまうと腐ってしまいます。弱いものです。でも、上手くやっていけば毎年綺麗に咲いてくれるでしょう。いつかの誰かといつもの誰かを出逢わせてくれるように、まだ通じ合っていることを教えてくれます。すぐ近くに居なくても、いてくれたことを教えてくれます。幸せを思い出させてくれます」

 

 

 花見にいく予定だったのだ。大切な幸せがあるのだ。

 

 

「私は、愛せたことをとてつもない幸せだと感じます。ふとしたとき思い出せるものは、幸せです。喜び合ったこと、怒り合ったこと、哀しみ合ったこと、楽しみ合ったこと。みんな愛せたことを、幸せだと思い出せます」

 

 

 清姫との愛が確かにある。ジャンヌとの愛がちゃんとあるのだ。沖田との愛がしっかりあるものだ。立香との愛が疑いなくあるから。マシュとの愛が必ずあるのだから。全て愛おしき幸せな思い出ばかり。悪辣さだけでは、決して生まれないものだ。大事にしたいものはみんなで育んできたのだから。

 

 

「私は今もとても幸せですよ、ロキ様」

 

 

 心の底から笑った。ロキ様もニヤケ顔が、美しい微笑になっていた。

 

 

「やっぱり人間は面白い。ミズガルズ*7とアースガルズ*8が別世界なことに感謝しちまうよ。こんなにヘンテコなのが、巨人にも神にもいていいわけがない。ここまでヘンテコなのが人間としているからこそ、俺はこんなにも楽しいんだ」

 

 

 ロキ様は、本当に楽しそうだ。人間と遊べて楽しんでくれたのだ。

 

 

「お前は、自分の愛を捨てられやしない。悪辣さを持った桜を咲かせて、誰ともなく愛していくんだ。苦しいぜ? 辛いって泣き喚こうが、お前は誰かを愛しちまう。愛せるなら愛しちまうからな。そんで、また辛くなる。簡単に押さえつけられるほどの熱量じゃねぇんだ。けど、辛くなっても愛し続けちまう。好きになったら、もっと好きになる。いつまでも、どこまでも、好きになれる。また死ぬほど辛い。お前は自分のカタチを歪めてでも、まともに愛せないんだ。でも、そんなこと理解しても捨てられやしない。お前の愛は、燃え盛るもんだから。お前が消え果てるまで、ずっと、そのままだ。そんなんが、ずっとだ。昔も、これからも、ずっとだろうな。壊れるぞ、お前」

 

「壊れませんとも。壊れないようにできていますから。万が一、壊れてたとしても、幸せな思い出に支えられて、壊れる前より頑丈になって復活することでしょう」

 

「はっ! やっぱ、貴様ヤッベェ奴だな。俺が女になって*9迫ってたとしても、拒絶はしないが受け入れないんだろうに」

 

「愛されたら終わってしまうので」

 

「またラグナロク*10起こすにしても、お前は抜いてやってやっから安心しな。お前がいると、すぐ終わっちまうからなぁ」

 

「起こさないで下さい」

 

「なんかあったら、俺が真っ先に消してやるよ。その方が、より楽しめそうだ」

 

 

 暗に、俺は存在しない方が幸せだ、と言ってくださっている。正直に消してやると宣告して下さるので、安心する。燃やし尽くすことがなくなるのことが、本当に無くなるのだから。よかった、という気持ちが漏れてしまった。ロキ様は、そんな俺を少しの間眺めた後、蜂蜜酒を飲んだ。いい肴であったと思いたい。

 

 

「ちなみに、今までのぜーんぶ見せてるぜ。初めからずっと。五人とも。ついでに、フリッグのアバズレ*11にもな」

 

「それはそれは、手間が省けて助かりました。ありがとうございます」

 

 

 予想はしていた。悪戯好きな神なのだ。楽しいことは勝手に派手にやる神である。

 

 

「なんか持ってっか? この林檎とかよ」

 

 

 邪推したくないがユグドラシルで作っていないと思いたいテーブルの上に、籠いっぱいの黄金の林檎が出てきた。イズン*12様をまた騙したのだろうか。

 

 

「不老不死に興味は欠片もございません」

 

「ふーん。じゃ、スレイプニル*13の子孫でもあとで送るわ。大事にしろよ」

 

 

 血が濃かろうが薄かろうが、大事にしようと決めた。贈られるのは極端だろう。神基準で、鑑賞用の駄馬か稀代の名馬かだ。どちらもある程度素晴らしいだろうが、素晴らしすぎると世界が大変なので加減はしていただきたいものだ。

 

 

「じゃあな、シャドー・ノルドマン」

 

 

 退室の言葉は出せなかった。もう好きにしろ、ということだった。鷹の選択は、大事である。長生きのために、全身の力を抜く。その身がどこかに送られていくのを、微妙な居心地の中で知った。気を緩めすぎれば具合が悪い、かといって姿勢を正せば座りが悪い。程度な加減を探す。けれど、どれだけ試そうが全て微妙であった。これからがあるので、このような心地は少し困ったものだ。格好がつかないのだ。

 

 それにしても、送ってくださるのはいいが、酔いそうである。吐くに吐けないもどかしさに、気分が滅入る。楽しそうな笑い声が聞こえてよかったとは思うが、正直この酔いをどうにかしてほしかった。どうしようもない俺に対する悪戯に、どうか加減をしてほしかった。格好をつけたいのだというのに。

 

 

 

 

 

「愛子!!」

 

 

 柄にもなく許してほしい、と願っていたら通じたらしく、気づいたらフリッグ様に抱擁されていた。まるで赤子を抱くが如く、優しく繊細な抱擁であった。心身ともに無事なことは分かっておられるだろうが、まだ心配して下さっている。素直に嬉しいと感じた。

 

 

「大丈夫ですよ、フリッグ様」

 

「本当に、ですか? まさかっ、あのTS獣姦もする股を旅する者に、その身を汚されてはいませんね!?」

 

「フリッグ様、本当に大丈夫ですから」

 

 

 ゆりかごで、とんでもない言葉が出されるのは慣れたが、これはあまりにアレなのでもうそのようなことはおっしゃらないでほしい。

 

 

「そう。なら、いいのです。愛子になにかあったら私は、止むことなく悲しみに暮れてしまうでしょう」

 

「そのようなことは、決して起こりませんのでご安心ください」

 

 

 そうフリッグ様に言うと、フリッグ様は俺の目の前に手をかざした。それで、ここから少し遠くに愛おしき彼女達の存在を認識する。

 

 

「今でも会えますか、愛子」

 

 

 愛おしき彼女達は、まだ俺を認識していないようだ。だからこその確認をする。ロキ様とのおしゃべりを彼女たちがどう受け取っていても、大丈夫か、と。俺が愛したことを後悔しないか、と。

 

 

「大丈夫です、フリッグ様。私は、大丈夫ですよ」

 

 

 後悔はしない。できるわけがない。愛してきた彼女達にも俺自身にも、それは失礼すぎるから。振られてしまったなら、胸を張って愛せたことを誇ることしかしない。愛される気など、存在しない。

 

 

「そう……。頑張りなさいね、愛子」

 

「はい」

 

 

 俺の頭を優しく撫でた後、名残惜しそうに下ろした。手を繋いで歩いていく。初めて歩くような感覚は、懐かしいものがあって目を閉じた。繋いだ手から感じる温かさを離すことが怖くなる。巣立つのに気後れしているのだ。後悔などできるわけがないというのに。

 

 ゆっくりと、歩いた。その気なら数歩で近づける距離を伸ばされた。フリッグ様が心の準備をさせて下さったのだ。ふと、フリッグ様の顔を見れば、どんなことがあろうとも頑張りなさい、と母の顔で微笑んでいた。後悔などしやしないのだ。

 

 だから、声を出してみることにしたのだ。たくさんの美しい花に隠れて見えないけれど、俺がいるんだと、気づいてほしくて。

 

 

「おい、みんな、花見を楽しんでいるか」

 

 

 少し上ずったが、いいだろう。俺を呼ぶ声が聞こえる。たまらなく嬉しかった。受け入れたのか拒絶したのかはまだ分からないが、それだけでも嬉しいのだ。

 

 呼ぶ方へ進む。そこには、愛おしき彼女達が待っていてくれた。俺が現れると、みんな口をつぐんでしまった。何やら言いたそうだが、どういうふうに言おうか悩んでいる様子。それを言うのを待ってみる。俺が愛を捲し立てるのは、今ではないのだ。

 

 もじもじとした時間があった。その間で、フリッグ様の侍女方に誘導される。今度は、ロキ様が化けたのではなかった。

 

 

「もう、貴女達。愛子に言うことがあるのでしょうに」

 

 

 いつもなら俺の至近距離におられるフリッグ様が、一人だけ椅子に座っておっしゃる。俺含めた六人は、本当に座っていいのか悩む肌触りがいいシートの上に座っていた。

 

 

「愛子の初めて笑った時の話はしましたし、おねしょをしなくなった話もしましたね。異性のお友達ができたときのお話は……しました。なら、牧場で馬に嘗め回されたお話? これもしましたね。うーん、他には」

 

「あの、フリッグ様。私の話を何処までなさっているのでしょうか」

 

「ふふ、たっくさんたっくさんですよ、愛子! 愛子が愛でる子たちですもの、愛子の可愛いところを知ってほしくって!」

 

「俺は可愛いよりカッコいいと思われたいのですが」

 

「まぁまぁ、男の子、ですね、愛子! 貴女達、愛子はカッコいいと思われたいようですよ!」

 

 

 いつも以上にキャイキャイなさっておられる。この様子をどこかで知っているような気がするが、なかなか思い出せない。面識のない男女が親しくなるために間にいる、かの方はどういう名称だったか。

 

 

「貴女達」

 

 

 すっと、フリッグ様が静かな声になる。叱りつけるものではない。諭すためのものだった。

 

 

「愛子のためどうであればいいのか。まだ、悩んでいるのですか?」

 

 

 口を挟もうとするが、目で制される。それは、愛おしき彼女たちのものもあった。

 

 

「恐怖しても愛したいですか?」

 

「はい」

 

 

 清姫の声だ。愛したい女のものだ。

 

 

「どうして? どのように? 貴女はなにも出来なくても愛されるというのに」

 

「ずっと怖いだけではありませんから。どうしようもなく怖いと思うほどに愛していることを、分かるまで伝え続けます。お人形は嫌ですもの」

 

 

 清姫は言葉でも視線でも、俺にそう告白した。愛されないのだ、俺は。

 

 

「敵対しても愛したいですか?」

 

「はい」

 

 

 ジャンヌの声だ。愛したい女のものだ。

 

 

「どうして? どのように? 貴女はなにも出来なくても愛されるというのに」

 

「敵対するだけものではありませんから。ぶつかり合ってしまうほど愛していると、分かるまで届け続けます。好き勝手は私もしますし」

 

 

 ジャンヌは言葉でも視線でも、俺にそう告白した。愛されないのだ、俺は。

 

 

「否定しても愛したいですか?」

 

「はい」

 

 

 沖田の声だ。愛したい女のものだ。

 

 

「どうして? どのように? 貴女はなにも出来なくても愛されるというのに」

 

「否定し続けられませんよ。否定が肯定に裏返ってたりするほど愛していると、分かるまで突っ込んでいきます。突くの私の十八番ですから」

 

 

 沖田は言葉でも視線でも、俺にそう告白した。愛されないのだ、俺は。

 

 

「脱走しても愛したいですか?」

 

「はい」

 

 

 立香の声だ。愛したい女のものだ。

 

 

「どうして? どのように? 貴女はなにも出来なくても愛されるというのに」

 

「帰巣本能ってのがありますから。そこに帰ることが当たり前なほど愛しているって、分かるまで触れ合ってみせます。わたしのコミュ力舐めないでくださいね」

 

 

 立香は言葉でも視線でも、俺にそう告白した。愛されないのだ、俺は。

 

 

「永訣しても愛したいですか?」

 

「はい」

 

 

 マシュの声だ。愛したい女のものだ。

 

 

「どうして? どのように? 貴女はなにも出来なくても愛されるのに」

 

「空は繋がっているのでいつか会えます。どんなに離れてしまおうが絶対に会いに行くほど愛しているって、分かるまで繋がり合います。ルールなんて破るためにあるので」

 

 

 マシュは言葉でも視線でも、俺にそう告白した。愛されないのだ、俺は。

 

 

「………」

 

 

 何も言えない。何も言ってやれない。何を言っても壊れるのが目に見えたから。愛おしい彼女達を壊したくなんてなかった。

 

 

「貴女達」

 

 

 フリッグ様の声は良く通る。不敬にも耳を塞ぎたくなるほど、よく通る。

 

 

「なら、もっと愛子に愛されなさい。躊躇いなど失くし、理想的な関係など捨て去って、今を壊してやりなさい」

 

 

 フリッグ様は賢母なのだ。母親らしく子を導ける方なのだ。

 

 

「もっともっと。愛子を壊す気で愛しなさい。理由なく、言い訳なく、今を壊して愛してあげなさい」

 

 

 フリッグ様は母の顔で、俺たち六人を見渡した。

 

 

「愛されるなら、同じくらい愛してあげなさい。どっちかだけなんて狡いでしょう。ねぇ?」

 

 

 そのお言葉と同時に、ようやく俺は愛おしき彼女たちを理解した。

 

 

 あぁ、彼女たちは―――

 

 

「愛していますよ、シャドー」

 

 

 清姫の声、ジャンヌの声、沖田の声、立香の声、マシュの声。全部に魅了される。愛されたいと願っていいのか、と涙が滲む。

 

 どうしていいか分からないほどに、俺は、シャドー・ノルドマンは愛されていた。

 

 

「燃やし尽くしてしまう」

 

「霊火堂の火はずっと燃えているんですって。そのように、シャドー様と燃え続けましょうか」

 

 

 清姫の声。愛されているのだ、俺は。

 

 

「燃え落ちるだろう」

 

「サン・ジャンの火祭り楽しいですよ。そんなふうに、シャドーと燃え続けるものいいですね」

 

 

 ジャンヌの声。愛されているのだ、俺は。

 

 

「燃え果てるだろうな」

 

「提灯の火ってそうそう消えないんですねぇ。そんな感じで、シャドーさんと燃え続けるのいいじゃないですか」

 

 

 沖田の声。愛されているのだ、俺は。

 

 

「燃え切るさ」

 

「パイロキネシス*14覚えますね! 人間やればできるんですから、シャドーさんと燃え続けちゃいます」

 

 

 立香の声。愛されているのだ、俺は。

 

 

「燃え残るものは何もない」

 

「ムスペルヘイム*15を開拓しますか? 鉄腕なんとかーしながら、シャドーさんと燃え続けていきます」

 

 

 マシュの声。愛されているのだ、俺は。

 

 

 言い訳をしてしまいたくなる。愛してほしいから愛しているのではない。ただ愛しているから愛し続けているのだ。そこに、愛されているから愛している、と信じてしまいたくなっている。

 

 許されない。許されるわけがない。俺は自由に存分に愛したいだけだ。悪辣なものがある。それを素直にぶちまけてしまえるほど、頭が緩くはない。

 

 愛おしき彼女たちの目を見る。一人一人、真っすぐ見つめた。害ある攻撃をしたのだ。

 

 

 ――愛している

 

 

 見つめ合う一人一人に告げた。

 

 

 ――愛している

 

 

 全員に同じように返された。

 

 

 もう駄目だ。許されなくていい、と思ってしまったのだ。

 

 

「貴様らに、俺は、愛されたいよ」

 

 

 燃え盛ることを選ぶ。間違いなんかじゃない。彼女たちと燃え続けたいのだ。正解でもない。

 

 

「愛している。愛しているよ。俺が愛していたい。貴様たちに愛されているくらい、たっくさん愛したい!!」

 

 

 格好がつかない顔で愛している女達に告白した。情けない様子の俺を愛する人たちは抱きしめてくれた。嬉しくてしょうがなかった。

 

 

「幸せにね、愛子」

 

 

 優しい香りが包む。目に映るのは、用意して下さった花たちよりも、好きすぎる花たちだ。

 

 

「幸せになろうな、みんな」

 

 

 【人間】シャドー・ノルドマンは彼女たちに愛されて愛している、そう約束されている。

*1
野球をフィンランド風にした、ペサパッロというものならではのルール

*2
フェンリルを拘束するための鉄鎖

*3
レージングの二倍の強さを持つ鉄鎖

*4
フェンリルを捕縛するためにドワーフたちに作られた魔法の紐

*5
主神オーディンが持つ槍。決して射損なうことなく、敵を貫いた後は自動的に持ち主の手元へ戻る

*6
ロキ神の娘 ヘルが治める、ユグドラシルの地下にあるといわれる死者の国

*7
人間の住む領域

*8
アース神族の王国

*9
ロキ神は男神であるが女性に変化もする

*10
北欧神話における“世界の終末”

*11
オーディンの兄弟たちと関係を持ったり、召使いとも持ったりしている

*12
アース神族に永遠の若さを約束する黄金の林檎の管理人。ロキ神に騙されて巨人に攫われてしまい、彼女とともに林檎が失われたことで神々の老いが止まらなくなってしまった

*13
魔法の馬スヴァジルファリと雌馬に化けたロキ神との間に生まれた馬

*14
超能力の一つで、火を発生させることができる能力

*15
北欧神話に登場する、世界の南の果てにある灼熱の国。くそ暑い




主人公設定

設定




・ゲーティアとの戦闘に勝利後、全サーヴァントの力の使用によって心身に大きな負担がかかり命を落とす。
・しかし、フォウの力で【「人間」と「神」のハーフ】として復活。身体能力は【人間】だった頃と同じだが、魔力と魔術回路は【神】の力が加わったことで大魔術も簡単に発動できるようになった。


☆「英霊転身システム」

・【人間】と【神】のハーフに生まれ変わったため、システムの使用時の負荷は一切かからず、いつでも自由にサーヴァントの姿に変身・能力・宝具が使用可能になった他、変身後の精神は主人公のままでいられるようになった。


☆特性

・「記録」→自身の経験や見たものを全て(一秒、一瞬まで)覚えていることができる
・「魔増(まぞう)」→消費した魔力を自動回復させる
・「世渡(せいと)」→レイシフトなしで異世界を自由に行き来することが可能


☆二つ名

【人間の頂点で在る者】から、【不可能を可能にする半端者】に。

由来:半分は人間。半分は神。普通の人間の寿命を持ちながら神の力も持っているという意味で主人公が考えた名


以上が、シャドー様ご考案の設定です




◎あとづけ設定


北欧神話の最高位の女神のチカラが入っている。






目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東方project関連
東方project 霊夢、レミリア、妖夢、萃香、早苗、天子のハーレム


主人公の名前は、リクエストされた方のお名前を使わせていただいております


 

「………」

 

 

 まだ明けぬ空の下、一人の男が刀を持ち佇む。年の頃は定かでないが青年程だろう。髪は若々しく艶のある黒色、長すぎずにさっぱりとした短髪。袴は灰色。紅色の羽織の下には黒の着物。名をシャドーと言う。

 

 風が軽く凪ぐと同時に一閃する。

 

 瞬間、空気が斬られた。空気の中に含まれる窒素や酸素と言った構成を全て斬る。普通は空気を斬るなどと言うのは、言葉の綾でだけだ。空気には形がない。形がないものは斬れない。確かにそこにあるし、なくなることもあるものだ。だが、斬ったという確証は誰もが持てないのだ。緻密に解析などすれば分かるかもしれないが、どう解析するかの術すら分からない。だが、彼には確かに分かる。独特の手ごたえがするのだ。それは、言葉にしようとすれば非常に難しい。感覚での問題だからだ。擬音を使おうが、学者のように言葉を羅列しようがいまいちぱっと来ない。自身の呼吸にムラがないか確かめているのだろうか。

 

 返る風に続く二閃。

 

 今度は音を斬る。空気に振動を与えることで音というのは発生する。けれど、自身の聞く音と他人が聞く音が同じであると言う確証は何処にもない。絶対音感がどうのという話ではない。本当に音なのか。音とは何かという概念まで話がいく。それは、難しいものだ。確かに聞こえるし、聞こえなくなるものだ。年をとれば高い音などが聞こえなくなる。元々聞こえないものもいる。それに対して音を感じさせるには、シャドーのように自身なりに感じるしかない。とはいえ、彼は聴覚が不自由なわけではない。自身の鼓動がはっきり聞こえるのと同時にその音もろとも音を斬る。生に触れているともいえる。

 

 その後は、剣舞である。

 

 剣舞と言うものは、芸事の一つだ。神事的な意味合いのあるものもある。彼の場合は己の高ぶりを静めるためのものだ。彼は、強い相手と戦うことが生き甲斐だ。そこらの妖精など弱者からは恐れられ、強さ筆頭の鬼と言った強者から好まれる男。怖がられているのは、様々な事柄に無関心な態度と戦うことに関しては好戦的であるからだろう。だからと言って、弱いものいじめをするわけではない。ただ強者と戦いたい。これのみだ。その男が、剣舞などと言うものをする。

 

 一振り一振りに自身の中の燻りを払うために舞う。

 

 『博麗の巫女』である霊夢や『幻想郷最強』の鬼とすら互角に渡り合うほどの戦闘能力を有するのだ。そうそう彼のお眼鏡に合う相手は現れない。【ありとあらゆるものを破壊するの程度の能力】を持つフランにさえ半分の本気で勝ててしまう。―強者と戦いたい―。これが叶うのは異変が起こるときでしか現れない。だからその邪念を払う。自身だけで終わればいいが、そんなことはない。今動いている自身とて、初めから一人で存在していたわけではないのだから。

 

 ここまででお分かりだろう。このシャドーと言う男、ただの人間ではない。

 

 例外として、そんな人間もいるかもしれないと思われるがそんなものはいない。シャドーの持つ程度の能力、「時空を越える程度の能力」・・・過去・未来・異空間を自由に行き来することが可能。自分で自在にコントロールも可能なもの。反則である。大事にとって置いた酒がなくなっても、この能力を使えば取り戻せる。そして、負けたことを無かったことにもできる。だが、そんなことはしない。前者はするだろうが、後者はしない。そんなことがあるのは彼が散るときだ。地獄へ行っていいいと許されるときのみだからだ。その日はいつか来るのだろう。

 

 幼い頃、両親を妖怪に殺された。幻想郷に成る前の話らしい。その頃は、妖怪も活発だ。八雲紫もそんなに咎めたりしないし妖怪退治は今の幻想郷のように弾幕ごっこなどでない。文字通り、殺るか殺られるかだ。そのとき、彼もそれに殺されるはずだった。このときは、鬼と互角の力どころか程度の能力もなかったのだ。凶悪な妖怪に殺されたとなって、後々の退魔士が退治するであろうと言う流れになる、はずだった。それを変えたのが、茨木華扇である。彼女に救われ保護された。妖怪は彼女に半殺しにされた上、八雲紫の処罰により灼熱地獄の異世界に追放されている。

 

 おかしい。それはそうだろう。

 

 何故、茨木華扇が。何故、八雲紫が。ただの人間にそこまでするのか。

 

 それはこの話の終わりに話そう。ここでは、彼に申し訳ないからだ。このようなこと、気軽に語るものではない。

 

 とにかく、彼は命を取り留めた。そして、茨木華扇に弟子入りをする。「己を守るために強くなりたい」という一心で。武術と仙術の修行を積み、更に自ら修行に励んできた結果。成長し、「程度の能力」を自在に操れるようになったシャドーは過去――両親が殺される少し前の時代――に戻り、両親の仇の妖怪を斬殺し二人を救っている。

 

 さて、こんなことが許されるだろうか。あることをないことにする。言うは易し、行うは難し。だが、それを簡単になしてしまう。誰もが羨んでならないこと。誰しもやってはいけないこと。それは、禁忌である。自身が、シャドー自身が理から外れるということ。

 

 救われた両親は、人里でたまに帰ってくるシャドーと一家団欒の日々を送り続け、最期は自身らの愛息子である彼に見送られながら寿命をむかえ既に他界している。

 

 ハッピーエンドだ。…このままなら。

 

 幼い頃から仙人の修行をしていたため、霖之助と同様に人間と比べ寿命が長く、霊夢たちの「何倍も永く生きている」とのことで、歳を重ねても成長や老化といった変化が少ない。――本当に?

 

 “強くなりたい”。自身の両親を殺されたのだ。そう思うのも無理はない。その仇はとった。他の誰でもない、シャドー自身の手で。しかも、両親と十分に思い出を作り最期まで看取った。これで十分である。十分すぎるのだ。でも、いまだに“強くなりたい”と一心不乱だ。自身に敵うものはいないと言っていい。本気の殺し合いをすれば、シャドーに軍配はあがる。何故なら、スペルカードルールが提案されるまで、幻想郷の規則―妖怪と人間の共存―を破り悪事を働く妖怪、人間を数多く斬殺してきたことで幻想郷中から恐れられた伝説の侍、幻想郷の剣神(げんそうきょうのけんしん)。それがシャドーだ。人に恐れられ、妖にも畏れられ、逝き場なく生き甲斐なく暮らす。いつか見える誰かを待ちながら。それがどんなに辛いだろうか。

 

 家のすぐ近くに作った大農園で育てた野菜を人間の里の八百屋、飯屋、居酒屋などに売ったり、たまに来る「香霖堂」の店主・森近霖之助の依頼――「外の世界」から流れ着いた道具や本を「香霖堂」へ輸送――の用心棒をして報酬を貰っている。この仕事で満足を覚えればいい。

 

 それはできない。

 

 シャドーは戦うことが生き甲斐なのだ。生き甲斐になってしまったのだ。

 

 初めて見た死に恐れた。それを恥じる。昔の男だ。子供とはいえ、やせ我慢も意地っ張りも十人前。

 

 初めて知った死に思ってしまったのだ。“強くなりたい”と。“殺してやりたい”の方がよかった。その暗い感情は一時だけの生きる動力源となる。それでいい。だが、それを超えた。“仇を取る”―取ったは取ったが―ではない。“己を守るために”。強くなるのは、もういない両親ではなくシャドーだ。“己を守るために強くなりたい”は当たり前だろう。それでいいはず。

 

 違う。違うのだ。“己のために強くなりたい”は、程度の能力を使い討ち取ったその日に終わるべきものなのだ。

 

 でも、何故今も強さを求め生き進むのか。

 

 満足のいく先はあるのか? 頑張ったと誇れる足跡を持っているのか? 

 

 待っているのだ。自身が終わってもいいとも思える結末を。悲劇ではない。大団円を、欲しているのだ。きっと。

 

 でなければ、このように推察してしまうではないか。

 

 

 “己を守るために強くなりたい”とは己が、自分が、シャドーが死にたがっている。

 

 

 そんなこと願えないだろう?

 

 

 舞が終わる頃には、小さく薄くなった月がシャドーを見ていた。まるで咎めるようで、嫌だった。

 

 

 

 

 

「霊夢ー、酒ー」

 

「朝御飯に酒なんか飲ませるわけないでしょ」

 

 

 通い妻その一である霊夢はシャドーの家にいる。ついでに萃香もいる。前者は侘しい神社にいつもお賽銭をくれる、そして異変時に手を貸してくれるシャドーに恩を返すため彼の意思関係なく。後者は、シャドーが半分本気になるほどの力を出させた鬼―萃香―に興味を持ち、修行と言う名の模擬戦に協力すると言う条件で同居している。

 

 勝手知ったるなんとやら、シャドーが程度の能力込みで丹精こめて作った野菜などを使った料理の乗った皿を人数分並べる。

 

 

「おう、いつもすまんな」

 

「いいのよ、これくらいしかしてないし」

 

 

 朝稽古で流した汗を風呂で流してから戻ったシャドーに霊夢は返す。彼に付き合った萃香は大分体力を消耗したからか、塩気の強い漬物類を先に食べている。それをいつものように無関心に見てシャドーも席に着く。

 

 

「あんた、先に食べるんじゃないわよ」

 

 

 おひつから茶碗へ各人分の米をよそいつつ萃香を叱る。それを何処吹く風と、今度は煮物に手を出す。

 

 

()()い。酒なら先日、里でもらったのがあったな…。飲んで良いぞ」

 

「お、さっすがシャドー。話がわっかる~」

 

「一升までよ」

 

「えぇ~…、霊夢はケチだな~。だから参拝客いなんだ」

 

「うるさい」

 

 

 一升をケチとは、流石鬼である。ぶつくさ言いつつも、食べる手は止まらない。寝ながら食べているので行儀が悪い。汁物にも手を出そうとしているが、どう頑張っても寝たままでは零れるだろう。

 

 

「しゃんとせい。酒なら夜も飲めるぞ」

 

「わわっ」

 

 

 丸いちゃぶ台を囲むようなので、すぐ手が届く。胡坐をしたままシャドーが萃香の両脇に手を入れ持ち上げ座らせた。

 

 

「お前な~。やるならやるって言えよ」

 

「胃に悪いぞ」

 

「そうじゃないよ」

 

「はいはい、じゃあ『いただきます』」

 

 

 霊夢の声を合図にシャドーも食べ始めた。萃香を羨む霊夢の視線と、若干嬉しそうな萃香を無視して。

 

 

 少しの小話を交えながら朝食を食べ終わる。甲斐甲斐しく、シャドーの湯飲みにお茶を入れて渡すと同時に何かを手渡す。

 

 

「そう言えば、お母さんからコレ預かってきたわよ」

 

 

 霊夢の母、博麗余波(なごり)からの(ふみ)

 

 

「先代から?」

 

 

 余波、と昔は名を呼んでいたが彼女が母親になってからはそう呼んでいる。特に理由はない。自分が気分で言ったものを、相手が気にも留めなかったからそう呼んできた。シャドーとは若い頃から知っている。年で言えばシャドーのほうが年上なのだが、彼女は彼を実の息子のように思っている。霊夢の母親だからか、彼女もマイペースな性格である。

 

 湯飲みを置いて、霊夢から渡されたものを開く。仮にも神社なので少々堅苦しい文節が並ぶ。

 

 

「お~? なんて書いてあんだ?」

 

 

 ちゃぶだいに顔を乗せていた萃香が顔と首だけを動かし、シャドーへ渡された文を覗く。

 

 

「ほぅ…」

 

 

 シャドーのめったに動かない表情筋が動く。怒りや悲しみといった負のものではなく、好感触を抱いたそれだった。

 

 

「あ~、こりゃ…」

 

「………」

 

 

 二人して思い当たる。異変時に、彼は強い相手―異変を起こす側―との戦いを求めて介入することが多い。たとえ戦うチャンスを逃しても、能力で過去へと戻り戦うという有様。

 

 萃香も昔は鬼らしく、力比べや知恵比べなどで強者と渡り合うことを楽しみにしていた。力比べではシャドーに負け、今は居候し稽古付けの毎日である。本望といえば本望なのだが、もう少し甘酸っぱそうな何かがほしいらしい。

 霊夢は少し呆れたようにため息をついて、自分も茶を飲んだ。

 

 そこへ、玄関が乱暴に開かれる。

 

 

「シャドー!! 遊びにこの天子様がやってきてあげたわよーーー!!!」

 

 

 やだ、帰って。

 

 異変解決ごっこで本気を出さなかったシャドーに負け、その強さに惚れたチョロい女の子 比那名居 天子 がやってきた。こうしてくるのは稀ではない。三日に一度は居座る。異変後は、度々来るほどお熱なのだ。衣玖さんは置いてきた。

 

 

「………」

 

 

 深いため息を霊夢が吐く。彼女もなんだかんだ突っかかられることも多い。彼女は被害者なのに。異変解決ごっこは博麗神社を倒壊させて起こったのだから。あの時の母は恐ろしかった。思い出し肩を震わす。

 

 

「おう、上がって良いぞ」

 

「えぇ! お邪魔してあげるわ!!」

 

 

 と、今日も元気にやってきた天子はいつものようにシャドーの近くに座る。

 

 

「ちょっと小鬼、もっと詰めなさいよ」

 

「悪いね、満員だよ。天人」

 

「あんたもよ!」

 

「ほんとずうずうしいわね、こいつ」

 

 

 萃香がどかないので、仕方なく霊夢が退く。そもそも、朝食の片づけやら何やらがある。どいてもいい、いや、どかなきゃ面倒だと思ったのだろう。

 

 

「ねぇね、それなに?」

 

 

 無邪気に問うので毒気が抜ける。退屈で異変を起こす問題児ではあるが、基本は子供らしい子供。それが天子である。

 

 

「お誘いだ」

 

「何の?」

 

「肝試しだそうだ」

 

「あたしも行っていい?」

 

「良いぞ」

 

「やったぁ!」

 

 

 肝試し。 

 

 幻想郷で、幽霊など皆見飽きている。外の現代では夢幻の類の存在である妖怪が隣人であるのに、いまさら幽霊に会った程度でなんだというのか。ただの里人ならそれも恐怖の対象でしかないだろうが、ここにいる面子でもう恐ろしいのがいる。鬼である萃香だ。彼女がいるのに、幽霊が怖いなどありえない。

 

 

「なら、あたしも行ってみるか」

 

「そう。わたしは洗濯とかあるし、どうしましょうかね」

 

「それなら藍に任せちゃいなさい」

 

「そうね。…って、またあんたか紫」

 

 

 神出鬼没。冬は冬眠してるとの噂。冬眠中お風呂どうしてるの? と疑問が浮かんでやまない【妖怪の賢者】八雲紫がいつものように突然現れた。

 

 

「よう、八雲紫。今日も煎餅食うか?」

 

「うふふ。ありがたく頂くわ」

 

「っていうか、紫。なんで来たのよ」

 

「それは貴女のお母様から伝言を頼まれたからよ」

 

「なによ」

 

「え~っと…、今日の味噌汁はナメコがいい」

 

「そう…」

 

 

 それだけで【妖怪の賢者】をパシるな。夕飯は、もう一人の通い妻がいるのでシャドーのご飯は何とかなるのだろう。母のマイペースっぷりは霊夢自身もついていけない。

 

 

「あ、これは私が藍にお願いするやつだったわ」

 

「痴呆?」

 

「おほほ、二度と常世を歩けなくしてやりましょうか、天人の小娘?」

 

 

 天子の酷い言葉に圧をかけるが、さっとシャドーの後ろに隠れてしまう。笑顔のまま威嚇する紫に、霊夢があらかじめ多めに持ってきておいた湯飲みに茶を注いで渡す。多く持ってきているのはいつものことだ。もう一人の通い妻も同じことをする。

 

 

「それで、なんなのよ」

 

「霊夢にお仕事よ。異変になりそうなものを潰してほしいの」

 

「異変じゃないのに? で、それがシャドーのこれと関係あると?」

 

「そう」

 

 

 文の内容までは知らないものの、先ほどの彼の様子である程度は把握はしている。

 

 

「下手をすると、幻想郷が崩れる。これは、危険よ」

 

 

 

 

 

「なんで、あんたらまでいんの?」

 

 

 お呼びがかかったシャドー、それに追随する形であの時紫以外の面子がその場にいるのは分かる。萃香は面白そうだということで、天子は誘われて、霊夢は異変になりそうなもののため。

 

 

「私は幽々子様が行けというので…。ついでに、というかこちらが本命でしょうが美味しい物があったら持って帰って来いと」

 

「そう。あの女はどうしようもないわね」

 

 

 幽々子は基本的に外へ出れないから妖夢に外を見させ、その話と物を聞いたり味わうのを楽しむつもり。紫はいつも胡散臭いので知らない。

 

 

「シャドーさん、暑くないですか? 暑いなら羽織持っていますけど」

 

「平気だ、お前さんのほうはどうだ?」

 

「はい! 大丈夫です!! あ、のど渇いていたりしませんか?」

 

「問題ない」

 

 

 通い妻その二である早苗が甲斐甲斐しくシャドーを世話する。こっちはいつも通りであった。朝や昼は流石に自身の神社で諏訪子と神奈子や参拝客の世話などで来れることはめったにないが、此度は異変らしいということで彼女も参戦している。

 

 

「で? あんたは?」

 

「私の執事が赴くなら、主人を通すものでしょう?」

 

 

 ふふ、と笑う小さい吸血鬼。小さいながらも、常人では圧倒される空気をかもし出す。それも彼女の独壇場である今時分の夜ならば猶のこと。

 

 

「いつも断られてるだろう。馬鹿だねぇ」

 

「……ふぇっ」

 

 

 萃香の言葉に少し泣きそうになるレミリア。カリスマ何処行った。咲夜がいてもいなくても、カリスマが剥がれてしまう。カリスマとは剥がれるものなり。

 

 

「泣きやるな、レミリア。ほれ、金平糖をやろう」

 

「うん…、ありがとう」

 

 

 ぽんぽんと帽子の上から頭を軽く叩き、レミリアの手に金平糖を三粒ほど落とす。それを即座に、自慢の牙で噛み砕くとまたカリスマぶる。

 

 

「シャドーのために一肌脱いであげる。光栄に思いなさい、お前たち」

 

 

 霊夢は無言でため息をつく。もうすでに疲れていた。咲夜はここまで連れ添っていたが、レミリアの命によりすでに帰ってしまったのが悔やまれる。

 

 

「あんたでかいわねぇ~」

 

 

 問題の庵までの道に堂々と座り込むがしゃどくろに向かいのんきに話しかける天子。今日は幼稚園のお散歩であっただろうか。

 

 

「おまんら、はよぅかえり。わしらでとめるのもつかれるんでなぁ」

 

 

 カタカタ全身の骨を鳴らし巨体のどくろが話す。彼だか彼女だか知らないが、それは大きな手に何かを持っている。

 

 

「それ、何なの?」

 

 

 いつものように好奇心旺盛な天子が問う。

 

 

「なんでもねぇ、はよぅかえり」

 

「がしゃどくろ、あたしらはこの先に用があんだ。どきな」

 

 

 痺れを切らし萃香が言うと、がしゃどくろは首を振る。その度にカタカタという音がする。怯えているときの擬音のようであった。

 

 

「おら、どけねぇ」

 

「何故です」

 

「…いえねぇ。いったらきられる」

 

 

 刀を持つものならこの場に二人いる。その一人である妖夢が問うも要領を得ない。

 

 

「しょうがない。押し通るわ」

 

「やめぇ、おらとうしない」

 

 

 霊夢が臨戦態勢に入る。他もそうだ。だが、何かを隠し持っているのと、どかないだけでがしゃどくろは何もする気はないようだ。

 

 

「大丈夫です。守谷神社のこの東風谷早苗が貴方をお守りします!」

 

「…なら、それしまってくんろ」

 

 

 説得力なく、彼女もスペルカードを構えている。がしゃどくろが突っ込むもしまう気はない。

 

 

「なぁ、がしゃどくろ」

 

「おまえさんははなしつうじてくれるかの?」

 

 

 と、淡い期待をこめて7人の中で唯一の男に期待を寄せる。だが、意味はない。

 

 

「お前は強いか?」

 

「………」

 

「強いのか?」

 

「…おまえさん、おらきりたいだか?」

 

「強いなら斬る」

 

「よわいからやめてくんろ」

 

 

 そう言うも強さはなかなか有りそうである。文を読んでから気が高ぶってしょうがないシャドーはただただ斬り合いたくてしょうがない。彼もスペルカードルールにのっとり弾幕ごっこをするが、一番は侍らしく斬り合いを好むのだ。

 

 

「じゃあ、どきなさいよ」

 

「どいたのばれたらきられるだ」

 

「誰にです?」

 

「……いえねぇ」

 

 

 埒が明かない。

 

 

「霊夢、貴方がここに残ってこいつを守ってやりなさい」

 

「はぁ? あんたがやんなさいよ、レミリア」

 

「いいこと? ここは入り口にして出口にもなる。そこでこの門番。…続きは分かるわね?」

 

「何も考えてないでしょ?」

 

「…シャドー、れいむがいじめる~」

 

 

 と、シャドーに甘える。他の女性人は怒る気がうせる。天子は退屈そうにがしゃどくろの脛の骨を蹴っているし、萃香は自身の能力を使ってがしゃどくろの手の隙間から中身をこっそり見ている。妖夢は辺りを生真面目に警戒し、早苗はいつでもシャドーのお世話ができるようにしている。

 

 シャドーはポンポンとまた頭を軽く叩いてやる。

 

 

「ここでお前さんが待っていれば、『お前さんは通さなかった』ということにできる。全員通せというのでないし、良かろうさ」

 

「そんな屁理屈通るの?」

 

「いざとなったら、お前さんが何とかしてくれるだろう?」

 

「………」

 

 

 そういう期待を込めて笑うのはずるい。女の沽券の関わる。

 

 しょうがないと諦めたのか、がしゃどくろに語りかける。

 

 

「『わたしは通らない。あんたはどかない』でいいわね」

 

「でも…」

 

「全員通るわけじゃないの。たった六人が通るだけ、一人はこうして通せんぼできるのよ。それでなんとかしなさい」

 

「もう、なんなんおまえさんら」

 

「いざとなったらわたしが守ってやるわ。さぁ、通せ。わたしは通さなくていいから」

 

 

 逡巡するがしゃどくろ。しばらくするとしぶしぶうなづいて少しだけ道を空けた。

 

 

「霊夢、強い奴に会ったら呼べよ」

 

「はいはい。分かったから、早く行きなさいよ」

 

 

 シャドーは、いつも持っている六文銭の一枚を霊夢に渡す。それを受け取りながら悪態をつく。結局、女の自分の心配よりそれか、と内心で呆れて。

 

 シャドーらが先に進んでから一匹の妖怪と霊夢の間には沈黙が下りる。間違いなく楽ができる霊夢は少々退屈であるものの少しは安心だ。けれども、シャドーのあの様子はどうだ、といつものように呆れのため息が出る。別に好戦的なのはいいのだ。たまにこっちに向かうそう言う視線が、そうなのは勘弁してほしいが。けれども、基本的に何事にも無関心なのはいけない。自身も、母もマイペースな性格だが、年頃らしく化粧や着物や甘味などに興味は湧く。三つのうち、化粧や着物は異性であるシャドーのためにと、意識しているふちはあるのだ。褒めてはくれる。可愛いだの、綺麗だのと。それだけだ。話を広げる気がないのだ。男と女の思考が、対処か共感かなどの違いによるものだけでの話ではない。

 

 

「あんおとこ、こわい」

 

「そうね」

 

「よういっしょにおるな」

 

「………」

 

 

 そう言えばそうだ。お賽銭はありがたく頂戴している。異変時に協力してくれる。これはありがたい。けれども、後者は彼が強者と戦いたいだけだ。そういう様を見てきたし、本人もそう言っている。恩を返すために宴会に呼んだりする。これはいいだろう。でも、通い妻までする気は必要だったか? そう言われると困る。最初は、母が真面目にふざけて言っただけだ。霊夢もシャドーもそれを本気にせず、適当に流していた。でもいつからだろうか。彼のために美味しいご飯を作ることに頑張るのは。修行で汗を流してそのままでは気持ち悪いだろうからと気にしてお風呂まで焚いてあげるのは。それを普通にこなしてしまう。参拝客がめったにこない神社で掃き掃除するのも日常の一部ではある。でも、いつしかシャドーとともに暮らすことが日常になっていた。

 代々そうだったように、母も自身も血が繋がらない親子。博麗の巫女は、めったに血縁が継ぐというころはない。啓示というのだろうか、そういうのでピンときた捨て子の自分をシャドーと母になる余波が見つけて今になる。仕草や性格は母譲りだと思うものの、根本の、シャドーに惹かれているというのは母とは違うところだろう。冗談なのか本気なのかいまいち分からない母はシャドーに霊夢を嫁にどうかと宴会でよく言う。それで騒ぐ輩がうっとおしいが。母も、独り身だし彼女の方が彼と付き合いがあるのだからそっちが付き合うほうがいいのではないかとも考えるのだ。それもすぐに否定したくなる。なぜかは言葉にしたくないが、きっと嫌だからだ。シャドーの隣にいるのは母では嫌であるからだ。自分が、霊夢が“いたい”と思ってしまっている。いつしか自然とこうしてこれからも隣にいると想像できてしまうのが悪いわけがない。

 

 だから、がしゃどくろなどに言うのは鼻で笑われるだろうが。

 

 

「わたしが一緒にいたいのよ」

 

 

 眼球のない目が異常だと告げるも、構わない。女というのは意地と愛嬌でできているのだから。

 

 

 

 

 だいぶ草木が生い茂ってしまっているし、苔も生えてしまっているが道なりに進む。

 

 

「ちょ~と待ちなさいな。そこのお団体さん!」

 

「あたしらと女子会としゃれ込みましょうよ!!」

 

「うわ、なにこいつら」

 

 

 天子が思わず引いた声を上げる。そこには女物の派手な着物を着た金魚の妖怪が二匹、よく分からないポーズをとりつつ話しかけてきたのだ。はっきり言ってキモイ。

 

 

「あたしらは、恋に恋するレジェンド金魚!」

 

 

 赤い色の方が決め顔? をしながら告げる。そして、黒い方が続けて。

 

 

「ここを通りたいなら、あたしら恋のキング…じゃなかった、クイーンズと弾幕ごっこなさぁい!!」 

 

「男、ですよね?」

 

 

 声が頑張って高い声を出そうとしている聞くに堪えない感じ。引きつつも妖夢が尋ねる。

 

 

「ノンノン。あたしらはアナタたちと同じ乙女よ!」

 

「地獄の火すらなんのそのの赤ともうこれ以上愛に染まれない黒の、麗しき兄弟、じゃなく姉妹!!」

 

 

 二人は両のヒレでハートを作りそう語る。キモイ。

 

 

「キモ…」

「何か言ったか、おらぁ!!」

 

 

 天子の素直な言葉に、二匹はドスを効かせた声で怒る。その迫力に思わず、シャドーの背後に全員隠れた。恐るべきレジェンド金魚。

 

 

「あら、あんた不細工な声が出たわよ」

 

「あ~、もうやだー。せっかくの美声が台無し台無し!!」

 

 

 二匹は、自身らを除く女性陣が怯えたのを感じ取り、おほほとむりやり取り繕った。

 

 

「あー、あー。ぬぷんっ! 美声オッケイ!」

 

「ら~ら~ら~! うぷんっ! 美声オッケイ!」

 

 

 何がいいのか分からないが、オッケイらしい。埒が明かないので、ただの傍観者をしていたシャドーが話しかける。

 

 

「で、やるのか?」

 

「そうね、やりましょ!! で~も!!」

 

「うふふ、アナタはまたの機会ね!!」

 

「なに?」

 

「どういうことですか?」

 

 

 恐る恐る早苗が尋ねると、二人はダイヤのマークを再びヒレで作り語る。

 

 

「好みじゃないし~」

 

「だんな様の頼みだし~」

 

「だんな?」

 

「そう、あたしたちの運命のお方よ!! もう頭がとってもセクスィーなの!!!」

 

「それにね、とってもオ・ト・コ・マ・エ。やだ~、もー何言わせるのよー!!」

 

 

 おかまの言う男前は、たいそう男前なんだろう。萃香がなにか思いつくことがあるのか、少々頭を悩ました。

 

 

「次はあるのか?」

 

「えぇ! だんな様がお許しくださればね!!」

 

「あたしたち、だんな様の言うことは何でも聞いちゃうの!!」

 

「な、なんでも…?」

 

「あら、半人半霊ちゃん。興味ある~?」

 

「い、いえ!!」

 

 

 などとじゃれあっているが、シャドーをざわつかせるほどの強者なのは間違いない。先ほどから隙だらけのような気がするが、この妖怪たちはできる。大げさに動き回り口調もアレだが道化を演じているだけだろう。さりげない足の運びができるもののそれなのだ。纏う空気も、シャドーほどの強者ならではしか感じ取れない隠した強者のそれ。

 

 

「さっき、きも・・・っていった小娘と、半人半霊ちゃんとするわね!!」

 

「なんで、あたしなのよ!!」

 

「あたしたちのガラスのような心を傷付けた、バ・ツ!!」

 

「な、なぜ、わたしまで」

 

「そこの霊が雄弁に言ってるからよ、あたしたちをいじめる言葉をね!!」

 

「そんな~~~!!!」

 

 

 軽い悪口でもナイフになる。天子と妖夢は今日この日に刻んだ。そして、おかま怖いとも。

 

 

「シャドー、どうする?」

 

「簡単にノせるでしょうけど…」

 

 

 萃香は実力が分かるだろうが、早苗はそんなことを言う。シャドーはいささか不服そうな顔をするがため息を一つつき、六文銭を一枚づつ天子と妖夢に渡すことにした。

 

 

「頑張れ」

 

「シャドー…」

 

「天子、お前の強さならばすぐ追ってこれるだろう。天子ならできるさ」

 

「やってやるわ!」

 

 

 チョロい。だが、そのチョロさがいい。惚れたというに詳しい理由は必要ない。必要あるなら、惚れてからの理由だ。一目惚れであっただけなら、そんなものすぐ目が覚めるよう水をかけたりビンタするなりした方がいい。お互いがそれなら少しはマシだが、片方だけがそれならそうするのが太陽は東から昇るという摂理と同じような摂理であるからだ。だが、天子はそれだけではない。基本的に無関心なのがシャドーなのだ。異変のときは強そうだからと戦ったものの、彼の期待はずれであった。戦いの最初は互いしか目に入らぬほどお熱なさまであったが、結局彼が本気を出さすに軽々と勝ってしまった。それに思うことがないわけではない。悔しいと思う。でもそれを超える、嬉しさと恋が芽生えた。自身の退屈を解消するために起こした異変で、自身を倒しに来て“くれた”。天人ではあるものの、他の天人からは冷めた目で見られることが常。それが嫌であったし、ルーチンワークをこなすいつもが嫌だった。胸どころか全身を昂らせる熱がほしいのに、それがないいつもに辟易する。そのときに現れた、人。しかも、男。天人界にも男はいるが、どいつもこいつも口が回るだけでつまらない。口説き文句ならば彼らの方が上手いし上等のものがあるだろうが、そんなもの天子は欲していない。そう気づいたのはシャドーに惚れてからだ。

 シャドーの無関心な様が身近になった今でも天子はそうだと感じる。今日はなになにしにきたと突撃しても、そうかといって片す。それは退屈のそれであり、天子の嫌うものである。それなのに、そういうところもいいと思ってしまう。恋は盲目であるから。それもあるが、何も言わず付き合ってくれる彼だからいいのだ。言葉を使わずに好きにさせるという技を持っていた。シャドー本人はそんなこと分かっていないしで、意図して行っているわけではない。自分に関わることでもよく無関心な様を見せるが、対応しないとはしていない。彼のすることに天子がくっついてなんだかんだしている。その有様は恋人といったものとは遠い兄妹のようだが、それでも天子の目も口も空気も前者の方を目指している。それを気づいているのか知らないが、真っ直ぐ受け止め天子に接する。

 

 何も言ってくれない、何もしてくれない。でも、“一緒に”何かするという共同作業が天子はとても嬉しくなってしまう。余計惚れこんでしまう。自分も混ぜてくれるのがいいのだ。無関心の癖に関心があるというのを見せてくるようなのがいけない。とんだ魔性の男である。

 

 そんな共同をできないが、まぁいい。これらを倒し追いつけばいつものようにいっしょにやってくれるから。そう思って、ぎゅーと抱きついていたのを更に強く抱きついてから離れる天子。

 

 そしてシャドーは妖夢にも渡すため彼女の方へ行く。

 

 

「お前さんの力はあいつらに敵うと思うか?」

 

「…難しいでしょうね」

 

 

 春雪異変の後は、シャドーの弟子となった妖夢は彼女らの強さに気づいていた。下手をすると、スペルカードだけでの戦いでなくなる可能性もあることを二人は気づく。だが、彼女らには殺気というものが感じられない。けれども、妖怪であるならばいつ豹変してもおかしくはない。理性が薄く本能に忠実なのが当たり前であるからだ。少々不安げにシャドーを見上げるので、シャドーはにやりと笑って妖夢と半霊の一部を撫でた。

 

 

「ひゃぁ!! そ、そこは敏感だと、何度申せば…!!」

 

 

 不敵ともいえる、妖夢を誇らしげに見るシャドーに思わず口ごもる。

 

 

「俺の弟子が負けるわけないだろう?」

 

「……あた、りまえです!!」

 

 

 胸を張れ、彼の弟子であることを。誇ろう、彼の弟子である自身を。そう思い直す。

 

 春雪異変で自身を圧倒した彼に興味を持ったのが、彼との関係を始めるきっかけだ。妖夢は自身がまだまだとも思いつつもそこそこできるとも思っていた。妖忌という師匠がいて、その人に妖夢は二代目の警護役を任されたという誉がある。だが、それはいともたやすく砕かれた。シャドーに圧倒されてしまったからだ。スペルカードルールでの戦いであったが、それだけでも圧倒できる。それは異常である。博麗の巫女など例外はいるものの、彼女らすら互角の腕。しかも聞くところによると、剣の腕でも並外れたもの。自身も剣の使い手である。興味を持たないわけがない。そして、彼の弟子として、たまに彼が来たとき剣の修行をつけてもらっている。強さに興味を持っただけだったのだ、最初は。徐々にそれがシャドー自身にへと変化する。

 仕草や口調といったものにその人の人となりが映るというように、剣にもそれが映るものだ。単に癖というのではなく、その人の生き方や心境など雄弁に語るものなのだ。そして修行で感じたのは、彼という人物は「強くなりたい」という気持ちが強いということ。後々に何故そんなに強いかと聞いたところ、同じようなことを言っていたので合っているのだ。妖夢も彼のような強さのために其れを目指そうと思ったことはあったが、すぐ止めた。方向が違うのだ。シャドーのは言わば戦いたいという自己満足のための攻撃性の強いもの、妖夢のは幽々子を守る自己犠牲の庇護に近いもの。方向が違うものになってはいけない。それで修行を止めようと思ったこともあった。だが、今日まで続いている。それは、魅入られてしまったから。彼の剣と、彼の為人に。前者は交えることで雄弁に語るも、後者は普段の無関心なさまもあって難しい。雄弁に語る「強くなりたい」は、極端に言えば己のために自分を消費する、生産性のうまみがない自己犠牲。そう気づいて、彼の為人をみると齟齬が湧く。

 戦いのときと、修行のときは雰囲気が違う。前者は、楽しもうというプラスのもの。後者は、言い難いマイナスのもの。後者がアレすぎる。自身の技を盗まれるというのが嫌だということかと思えば違う。

 気づくのだ。シャドーは「自身に近づく」ことが嫌なのだと。“強さ”ならば問題ないと気づいた。シャドーの中の弱い部分。それを見つけて思う。

 

 守ってあげたい。

 

 保護欲からの愛だ。それは弱いものに抱くべきもの、正反対すぎる彼に抱くものではない。だが、女というものはそういう精神的なもろいものに弱い。好戦的であり消極的なその齟齬に、悟る。間を作らなければ消えてしまうと。

 

 だから、彼女らにはそれのために犠牲になってもらう。そう決め、妖夢はキッと彼女らを見つめ気合を入れる。

 

 

「じゃ、ど~ぞ。お行きなさいな!」

 

「だんな様によろしくね~!!」

 

「シャドー、あたし勝っちゃうからね!! 余裕で。 もう超余裕で!!」

 

「…ご武運を」

 

 

 天子の様子と妖夢の様子は正反対だったが、それでもシャドーを心配するような様子は確かにあった。それにひらひらと手を振って返すと、怒鳴られたときにビビッて固まってしまったレミリアを抱えて残りの四人は先を急ぐ。

 

 

「じゃあ、いっくわよ~!!」

 

「いざ、尋常に!!」

 

「あんたらなんか御造りにしてやるんだから!!」

 

「あたしたちを食べていいのはだんな様だけよん~!!」

 

 

 

 

「おいらのが先だい!!」

 

「おいのが先や!!」

 

「今度はなんなんでしょうか」

 

 

 三毛とキジトラの猫の妖怪が言い争っている。ふてぶてしく太った二匹で取っ組み合う寸前の睨みあい中。着物を着ているものの顔まで猫なので愛嬌はある。

 

 

「あら、ドラネコさんたちのお見合いかしら」

 

 

 またカリスマぶる。その声に二匹が振り向き大声を上げた。デジャブるんだよ!!

 

 

「おいらは三毛猫だい!!! 死体になるまで追い掛け回すぞ!!」

 

「おいはキジトラや!!! 腹が膨らむようにしたろうか!?」

 

「ひぅっ!!」

 

 

 シャドーの後ろに隠れた。猫科の動物はライオンや虎など肉食獣。牙を剥き出し威嚇する顔は、生物的本能で危険を察知するものだ。怒鳴り声がまたおっさんくさいガラガラ声なのもいけない。

 

 

「は、はらがふくらむってなんなのよぅ…」

 

 

 それは、オメデタ的なそれのことである。妊娠である。お前の卵子、受精させてやろう。赤ちゃんできたよ、おめでとうだ。

 本来異種間同士では子供は生まれないが、妖怪ならばそんなもの関係ないのだろう。こっそり恐ろしいことをのたまう猫妖怪、[#ruby=火車_かしゃ#]。葬式や墓場から死体を奪う妖怪である。

 

 

「まぁまぁ、落ち着きなよ、あんたら。で? この先に死体でもあんのかい?」

 

「そうだよ、いいのがでそうなんだよ」

 

「おいが頂くがな」

 

「なんだと!?」

 

「“でそう”、か。正確には分からんのか?」

 

「う~ん。出そうな出なさそうな…」

 

「きさんの屁の話じゃないが」

 

「そんなことじゃないよ!!!」

 

 

 シャドーの含む意味は、“これから”死体出るのかもしれないということだ。自分たちのものか、この先で待つ異変を起こさせるような奴のか。それは分からない。生死を賭ける斬り合いができるのか、という期待に彼の空気が必要以上に怖くなる。

 

 

「な、なんだ?」

 

「きさん怖いぞ?」

 

 

 思わず二匹の妖怪は尻尾を股の間に隠し怯える。元は動物であったのだから、自身の危険察知には長けているのでそう反応した。萃香は慣れているものの、早苗も少々びくついている。

 

 二匹の様子はともかく、早苗の様子に気づくとそれを少し治めた。少ししかできないのは、やはり昂っているからだろう。

 

 

「すまぬな、早苗。怖いなら離れても良いぞ」

 

「い、いえ、大丈夫です」

 

「そうか」

 

「大丈夫なんです。大丈夫なんですから…っ」

 

「ふむ」

 

 

 自身にもシャドーにも言い聞かせるようにそう呟いて顔を上げた早苗。その眉は少し情けなくハの字だが、目にはシャドーに恐れを感じたりしないというような意思の現われがある。口も力を入れて歯をかみ締め、強張っている。

 

 シャドーは神奈子とも諏訪子とも互角に戦いあったことがある。この二柱の神の強さを知っていたつもりだったが、霊夢に譲渡を迫ったことで起きたある騒動でその強さを見ている。【現人神】である自身の力もそこそこあると思ったが、やはり彼女らは別格中の別格。そんな彼女らを誇らしいと思う中、互角に渡たったシャドーには怯えが走る。当時は幻想郷に信仰心がなく力があまりなかったが、それでも十二分に強い彼女らと互角に渡り歩いた。後に聞けば、【幻想郷の剣神】と言われる規格外の人物であった。人も妖怪も悪事をなすなら、斬り殺してきたという男なのだ。今はスペルカードルールが広まり、彼がその殺意を振りまくことはなくなったが、早苗は[自分も切り殺される可能性]を僅かにでも考えてしまう。二柱の神に誓って言うが、悪事を働こうという気は博麗神社がシャドー以外のお賽銭が入る可能性ほどない。それでも、幻想郷入りする前に外の世界にいた早苗は、穏やかに見える現代で凶悪極まる事件をテレビなどで知っている。そういう犯人は決まって、普段は普通を装っていることも知っている。シャドーも基本は様々な事柄に無関心である。普通に修行するし、ご飯も食べるし、仕事をするし、寝る。その普通がいつなくなるか、誰もわからない。ふとした弾みで、魔がさすことはだれにでもあるからだ。

 

 それでも、シャドーを監視するのではなく通い妻までする心は彼に魅入られてしまったからだ。

 

 妖術の類ではない。たまに見せるやさしさ。最初は早苗にではないところでは見たのだ。里で子が泣き止まなくて困っている婦人を助けているところを。子供をあやし、婦人にアドバイスし、しばらく親子のために手を尽くしたのだ。それを見てから、徐々にいいところが見えてきてしまう。それからはもう彼に敬愛心を抱いていき、今では通い妻までしている。人の見せる一部だけでしかないが、もう偏った思考ではなくなる。一本の木に森の様子が見て取れる、という大げさなものではないがそれに近い。他人にいいところを見せたいという見栄っ張りかもしれない。それはそれでプラスに働くことが多いからいいが、そう言う類ではないのは今まで彼と共に過ごしてきてちゃんと分かっている。自然とやさしくできる。並大抵のことではない。【幻想郷の剣神】という側面もあろうがそれだけではないから、誰かにやさしくできるというのは尊いから、早苗に特別というのは今のところないけれども。

 

 やさしくできるのは、強いから。同時にとても弱いから。その強弱をおかしく思うもそれでいい。完璧すぎては気後れしてしまう。そのおかしいが、良いのであって東風谷早苗がシャドーを敬愛し、彼に魅了されている理由になるのだ。

 

 ならば、この程度で気後れするなど笑止千万だろう。

 

 

「大丈夫ですよ、シャドーさん」

 

「良か良か」

 

 

 そんな彼女をくんだのかしらないが、抱きしめも頭も撫でず目と目を合わせて笑うだけだった。

 

 

「で、通すのかい? やるのかい?」

 

「鬼はやだ」

 

「そこの男もいやや」

 

「で、あればどうするというの?」

 

 

 カリスマぶるお嬢様と早苗をそれぞれ指差す。見た目的にロリコンで捕まるようなことを言ったのは、もちろんレミリアを指す。

 

 

「おまえらがおいらたちと勝負だい!!」

 

「こりゃ、おいたちがどっちが先に死体を取れるかも競うかんの」

 

「泥棒はいけませんよ!」

 

「盗人には罰を与えなくてはね…」

 

 

 また無言で凄まれるも、今度はなんともない。これは彼女の本来からの実力ゆえの余裕からである。先ほどから、【誇り高き吸血鬼(笑)】や【カリスマ(笑)】などと揶揄される描写があったが、基本的にそれに見合う実力をレミリアは有している。それは紅霧異変のときに十分に知らしめた。彼女の異変を発端として、スペルカードルールが広まったのだ。それをあらゆる弱小の有象無象は感謝すべきなのだ。性格は見た目相応の子供っぽく我侭であるが、紅魔館の主人らしく館の秩序として在る。異変後、吹っ切れたフランに色々やられているが、姉としてスカーレット家の末裔として、そのプライドを守り続けた意志の強さはシャドーも感嘆するものだ。それは、自慢するものでない。プライドを高く持つものほど実力がなく口だけだ、と曲がり物は言うだろう。それは悪いことか? 誇れるものがあるというのは強みだというのに。純血種であるレミリアの強さは、見栄っ張りなだけだと彼女の中身を知らぬものが口さがなくいうのだ。それだけで、500年間も生きれるほど彼女も吸血鬼というものも強くない。後者は本に記されたりする弱点の伝承がある。前者のとっておき弱点は? はっきり言おう。“ない”。“あるわけがない”。

 プライドとは誰しも簡単に持ちえるもので、同じく簡単に折れてしまうものだ。成長しなかったのは見た目と性格の“一部”。一部だけだ。性格が子供っぽく我侭。大いに結構なことだ。フランのためと、今は姉妹以外無き一族のためと、その守りたいが為の誇りを異変の後でたやすく折れてしまうはずのものを、今も持てる。なんと強いことだ。傍目から見ればカリスマ(笑)だろうが、それだけで紅魔館の者たちが彼女に慕い敬愛する理由にはならない。

 

 一人だけで頑張って行く姿が、尊すぎるから。

 

 それに尽きた。普段シャドーの元へ訪れては、自分のところに執事として永久就職しないかなど言っては、彼に「職には就いているし、そんなものに興味はない」と断られている。それども諦めずに勧誘を止めない。軽すぎる一部をあげたが分かっただろう。彼女のホンの一部の魅力が。諦めず、一人で頑張り、より良い運命を引き寄せる。彼女の程度の能力のせいもあるが、これが彼女のプライド(素敵さ)だ。

 

 シャドーのフランと互角に渡ったという強さに惹かれるのは、同じように一人で諦めずに頑張っていた姿に共感したから。それは危ういものだが、すぐ良い方に彼女が無自覚に消化させるから良いのだ。

 

 二人で頑張ればよりよくなる。そう考え出しているから勧誘を止めないし、自分を彼女は曲げない。それをとやかく外野が言うことではない。本人たちが許容しているならばそうであればいいものだから。

 

 繋がりつづける運命が見えるから、途切れないよう二人のために頑張って行く。そう、心に刻むレミリアが何かから本気で恐れる必要があるものか。

 

 

 四人が構えを取る前にシャドーが残り一枚は取っておき、六文銭の二枚をレミリアと早苗にそれぞれ手渡す。その都度、彼女らに渡す手をぎゅっと一度強く包まれた。

 

 

「いくぞ!!」

 

「遊んであげるわ!! シャドー、早くお行きなさいな」

 

「いきますよ!! さぁ、シャドーさんたちはお先へ!!」

 

 

 彼女たちの声を背にシャドーと萃香は先へ進む。あともう少し。

 

 

 

「よぅ…。遅ぅかったな」

 

 

 切り株に腰掛けた頭の長い妖怪がそこにいた。ぬらりひょんである。

 

 

「お前生きてたのか、てことはこの異変はお前が…?」

 

 

 驚いたように目を丸くする萃香。シャドーといえばそんな彼女の様子など見向きもせず、ぬらりひょんから漂う強者の空気に当てられ興奮が隠せない。そんな彼をぬらりひょんはどうでもよさそうに、持っていたキセルで奥を指す。

 

 

(おれ)は萃香に用がある。てめぇはこの先だ。さっさといけ」

 

「俺はお前とやりあいたい」

 

 

 ぬらりひょんはキセルを口に持っていき深く吸うと、同じように深くため息をつくように吐き出す。煙が辺りに舞い、独特の臭さが満ちる。

 

 

「てめぇの相手はいつかやってやる。今は邪魔だ。てめぇの先はここじゃねぇ。向こうだ」

 

 

 めんどうそうにそう言う。ぬらりひょんはシャドーと戦う気は欠片もなさそうである。それにイラっとくるものの、口約束だけだが彼がそれを破棄する気が無いのも悟る。胸中、ふつふつと燃え燻らせる熱を、この先に庵で待つ相手にぶつける気満々であった。全力で戦う気であるのだ。それに見合う相手かどうか、シャドーには分からないがぬらりひょんよりヤバそうなのが庵にいるのは間違いない。腹のそこに粘つき溜まるような暗い何かを感じる。それに楽しみと苛立つ中口角を上げてみせる。

 

 

「………」

 

 

 それに相変わらずだなと横目で見て、萃香はぬらりひょんを見る。シャドーが確実に行くまで動く気は無いようだ。なら、催促してやるべきだろう。

 

 

「シャドー、行きな。こんなのより強そうなのがいるの、あんたも分かるだろ?」

 

「あぁ、すごく楽しそうだ。だが、こいつともやりあいたい」

 

「鬼であるあたしと約束させて必ず戦わせてやるよ。だから、早く行きな」

 

 

 残り一枚の六文銭をこっそり奪い取り、それをシャドーに見せ付ける。それを見てむぐむぐと口を動かしたシャドーだったが、諦めて彼に見合うだろう強者の方へ急ぐ。

 

 彼の姿が足音すら聞こえなくなった頃、ようやく切り株からぬらりひょんが立ち上がる。キセルは仕舞い、構えを取る。

 

 

「お、いきなりやんのかい?」

 

「吾ら妖怪には言葉よりこっちのほうがあってるだろう」

 

 

 僅かに焦る萃香にぬらりひょんはようようと歌うように語る。

 

 

「あとで、ってできないか?」

 

「できねぇな」

 

「あいつの危うさわかんだろ?」

 

 

 萃香はシャドーの危うさを知っている。ひたすらに人と交流しようとして、結局人に裏切れてなにもかも嫌になっていた自分と重なるから。シャドーの求める「己のために強くなりたい」の先は、どうようもなく虚しく寂しい孤独だ。あんなところ誰だって居たくない。人の興味がほしくてたまらない妖怪は、鬼は、そう強く思う。人だってそうだ。生まれてくるときも育つときも一人ではいられない。母がいて父がいて、そのそれぞれにまた母がいて父がいて、と繋がりがある。それを無くしてしまうのが【孤高】という馬鹿な言葉だ。気取る言葉とも言うが、萃香達強きものたちには此れほど残酷な言葉はない。隣に誰かが居るという、当たり前の安心が手に入らないのはとても辛いのだ。一人で全て完結できるものなど神でもいない。神だって、信仰心が無ければ“いたかもしれない”という想像上でしか存在できず霧散するのだから。独りでいるのことは慣れるわけが無いし、独りに成れるわけも無い。

 

 強くなるのは独りであると決めること。

 

 そう今までの生で萃香が感じたことだ。人に恐怖されていたのは、人と交わる術をそれしか知らなかったから。その恐怖という彼らの興味心は妖怪にとって自分が独りではないと安心できる生きる上で必須なものだ。人は鏡などを見て自分がそこに居ると安心できるが、妖怪は鏡に己が映らない。自分がそこに確かに存在するか、実はいつも不安なのだ。そういう不安もいい塩梅になればいいが、そういうことはあまりない。自分を肯定するのは非常に難しい。もしかしたらというIFを考え出したらキリが無く、仕舞いには自己崩壊なんて恐ろしい【孤高】になるから。

 

 【孤高】とは、独りであると決めること。

 

 強くなるのとなんと似ている意味だろう。だから、萃香は焦る、怖くなる、とめたくなる。自分はシャドーが居て「孤高」にならずに済んでいる。ちゃんと存在して生きて、今日も美味しく酒を飲んだ。でも、自分を越えた先へ、ずっとずっと行ってしまったら。そう考えると、美味い美味いと飲む酒が一滴も味わえなくなる。

 

 だから、早く追いついて枷になってやりたい。その萃香の思いが表れているのか、それを感じ取ってぬらりひょんは口を愉快気に曲げた。

 

 

「男ってのはな、自分勝手で“ずるい”もんだ」

 

「ずるさなんて必要ないだろうに。あたしら鬼がそういうの嫌いなの知っているだろう?」

 

 

 ひょっひょっひょっと低く笑うぬらりひょんに萃香はイラついたように舌打ちする。それを見てまた笑う。

 

 

「“ずるさ”。男の基本よ。吾もあいつも持ってるもんだ。ちゃんと持ってるもんだ。無くせねぇもんよ。それがなくちゃあなぁ…」

 

 

 構えを取る。

 

 

「男なんてやってらんねぇんだよ!!」

 

 

 あまりの迫力に尻込みそうになるも、口角を上げるだけで余裕を見せる。

 

 

「来な、妖怪の総大将!! あんたに、シャドーにはそんなものいらないってこと教えてやるよ!!」

 

「はっ!! 良くぞ言ったぁ!! 情けない女らしく“立てる”じゃなく、てめぇらしく“並ぶ”ならなぁ…その道、地獄の道としれ!!!」

 

 

 

 

「――――――」

 

 

 庵に着いたとたん、弾幕が来る。頭を吹き飛ばす危険球を全力で持ってこられるが、シャドーは妖夢の持つ【楼観剣】より優れた切れ味と耐久力を持つ、見た目は普通の刀でなんなく対処する。

 

 少し手ごたえのある切れ味。それに全身粟立つ。

 

 ――強者だ。紛れも無く強者だ。にやにやとする自分の表情筋を止められない。

 

 騒ぐ自身の燃え滾る熱の衝動に任せ、庵に躍り出る。

 

 

 そこに居たのは、正体が把握できぬ謎の固体であった。

 

 

「俺はシャドーと言う。お前は?」

 

 

 言葉を話すときすら弾幕が来る。全て、当たれば即死間違いなしのもの。それほどのものを嬉々として斬り捨てるシャドー。

 

 

 「――――-‐」

 

 

 言葉なのかため息なのか雑音なのか、どれが正しいのか分からないが音を出しては正体不明のそれは隙無く弾幕を繰り出してくる。

 

 意思疎通が不可能な何かであった。だが、それだけであろう。こうして弾幕ごっこもできるのだ。戦いのルールを尊ぶ理性がある。それは、必要なくしてしまうけれど。

 

 

 「翔符(しょうふ)蒼龍飛天(そうりゅうひてん)】!!」

 

 

 全身にまとった覇気により自ら青い龍となって敵をのみ込むシャドーの得意にして最大の切り札。それを即座に用いる。めったに最初には使わないスペルカードだ。それをもう使ってしまう。強者である相手への敬意とかそんな上等なものではない。ただ、強くあってくれ、強くなりたい自分のためにと、自己満足のためだけのもの。

 

 正体が割れる。

 

 

 

 

 

 何度斬りあっただろう。

 

 いつしか、正体不明のそれは刀か剣か、はたまた別の何かを使って弾幕ごっこではなく斬り合いをしている。十合、二十合。そこから先は夢心地だ。

 

 こうくればこう返す。そういう稽古事ではない。次は何が来る、と楽しみながら死線を互いに生きる。

 

 すでに少し深めに互いに体に斬りあった痕がある。互いに致命傷にはなりえないが、体を動かすたび脳が[動くな]と命令する電気信号を流すほど。それを互いに無視する。気合で何とかする戦闘狂いどもだからこそなしえる(わざ)だ。

 右手の指が斬られそう。ならば、程度の力で過去に戻りやり直す。 だが、それも上手くいかない。過去に戻っては、過去からすれば未来の出来事である指が斬られそうな瞬間に陥る。それならば程度の力を使い未来に行ってそれをなくす。それでも、上手くいかない。今度は同じ事態ではないが、同じように危機に陥る。

 

 まるで、同じ能力を持っていてそれを互いに行使し合っているような感覚さえ起きる。

 

 

「楽しいな…。なぁ?」

 

 

 そうシャドーが声をかけ笑うと、正体不明のそれは全部がそうであるが、不恰好に同じように笑う。

 

 

「強いな。楽しいなぁ…」

 

「本当にな…。さぁ、()や。進むが吉ぞ。止まるは悪手。退けば斬る。――さぁ、来い」

 

 

 異常な言葉に正体不明のそれも同じような声音で答える。

 

 

「俺の(未来)は終わらぬ。お主が()はまだまだ終わらぬ。なぁ、斬り合おうぞ(殺り合おうぞ)

 

 

 そして同口同音。同時に謳い上げる。

 

 

「来や、来や。お主が進めば俺も進もうぞ。お主が止まっても進もうぞ。退いても知らぬ、進むぞ。――なぁ、俺よ!!!」

 

 

 正体不明――。歪になったシャドーと、今はまだしっかりと形をなしているシャドーが斬り合う。

 

 歪になったシャドー。能力の使いすぎで、時の狭間に忘れられてしまった未来のシャドー。それが、ここにいる。今現在のシャドーのおかげで今は割りと意思疎通ができるものの、先ほどはどう見ても気が触れていた。それも無理は無い。何も無い空間で身動きもできない。能力を使ってもそこから、いままで出られなかったのだ。何故、今こうしてもう一人の自分と相対しているのかは分からないが、久しぶりの自由だ。存分に味わう気なのだろう。僅かに臭う、この自分を殺してここに居ようとする空気。未来のシャドーの【孤高】の果て。

 弱いくせに強い。【孤高】であると諦めてしまった弱い未来の自分に苛立ちがたつも、こうして今の自分とやり合える強さに感服する。未来の自分は磨耗しすぎてしまって自分が誰なのかすら忘れたからだろう。だからか形がめちゃくちゃであったが、今は割りと自分に似ている感じがしないでもない形を成している。形すらなくした哀れな自分。けれども。

 

 “己のために強くなりたい”。確かにある、強い意志。

 

 ならば、今、ここに存在するシャドーがそれを魅せねば、示さねばならぬ。

 

 

「俺よ」

 

 

 語りかける。

 

 

「強くなれたか?」

 

 

 油断を誘ったわけでも、弱点をついたわけでも、そんな下賎な思考があったわけではない。けれども、その言葉を言うと、未来のシャドーは隙だらけになってしまった。

 

 それをあえての隙と見て斬り進む。残り僅かになった己の力を振り絞っての一撃。コレが決まればいい。決まらず、今のシャドーが斬られてもいい。強くなるために【孤高】、誰に縋ることなく独りであっても高みに強く在れるべき、だと思っているから。

 

 あえてではない。応える気が起きないほど堪える未来のシャドー。

 

 袈裟切りにされ仰向けに倒れこんだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こんな終わりが来てしまうとは。そう思うとやるせない。もっと斬りあいたかった。もっと楽しみたかった。もっと強くなりたかった。今のシャドーは呆然と佇む。

 

 

「俺よ」

 

 

 未来のシャドーの形がまた不確かになりつつある。今の自身と同じものなのか分からないが、刀らしきものを支えにひざを突いて立ち上がる。彼はもうハズレビト。自己修復など意識もせずしてしまう。

 

 

「強くあれ」

 

 

 祝福(ノロイ)の言葉を言う。

 

 

「己を守るために強くなれ」

 

 

 もう一人の、果ての、シャドー。独りのシャドー。

 

 彼の後ろで渦巻く何か。紫の境界のようであって、それよりも不気味な何かを感じる。それを今のシャドーは思わず後ろに下がって気圧される。

 

 未来のシャドーは祝ってくれている。ならばこちらも返さねばならぬ。そう思い直し、丹田に力を込め自身に送る言葉を継げる。

 

 

「お前も強くあれ」

 

 

 なんという呪いの言葉を吐くのか。思わず未来のシャドーは笑ってしまう。聞くものが聞けば、悲痛の極みのもの。自分はこんなに馬鹿だったのかと、こんなに強かったのかと。馬鹿なのは未来の自分でも昔からそう自分のことを理解していた。時の狭間などという場所に押し込められるまで、誰にも届くことなど無くなるまで【孤高】になってしまった。ならば、未来の自分の方が強くあるはずだ。だが、今の自分の方が圧倒的に強かった。それが“ずるい”。未来の自分はこうなってしまったのに、こうなるまで強くなったつもりだったのに。振り返った足跡が誇らしげにあるのを見て涙が出そうだった。辛いからか、嬉しいからかはもう考える余裕は無い。また、あの場所に押し込められるのだ。だが、敗者である未来の自分がここにいることはできない。だから、警告を過去に贈ってやった。

 

 そうして、今の自分の強さをちゃんと理解する前に彼は再び時の狭間に閉じ込められてしまった。

 

 

 

 

 そして辺りは静かになる。何も無い。かつて暮らしていた庵以外は。

 

 自分の未来がああなる。そう思うと尻込みするも、彼の強さは間違いなく今の自分を超えていたものがあった。なら、今の自分は未来の自分ほどの強さを身に付けられる未来があるのが確定しているということ。それがとても嬉しい。未来の自分がどういう状況にあるなど露ほど興味は無いが、それは確かである。なら、今のシャドーが目指す最短の道はなんだと毎晩悩みながら眠る必要はなくなったのだ。最短でなくていいことに気づいた。理想は最短であるが、最長でも別に構わない。仙人の修行により長く生きれるのだから、一日にぎゅっと詰め込むだけの苦しみを長く楽しめるから。

 

 愛刀は粘つく何か―おそらく未来のシャドーの血―に塗れてしまっている。だが、軽く振るうって落とすだけだ。本来は懐紙などで清めなければならないが、それだけで十分だった。それは刀から剥がれ落ちると暗い色の粒子となって下の草木に落ちずに空中で溶け堕ちるように消えていったから。

 

 『己を守るために強くなれ』

 

 無論である。誰よりも何よりも強くなってやる。

 

 

 そう思い直すと、後ろから複数人の足音が聞こえてきた。

 

 

「シャドー!!」

「シャドーさん!!」

 

 

 がしゃどくろに通せんぼされた霊夢まで居るようだ。その声たちにぼろぼろのシャドーは振り返ると彼女らに満面の笑みを浮かべる。

 

 

「………っつ!!」

 

 

 息を呑む。あまりの壮絶な笑みに。足が止まる。このまま彼の元へいけるほどの強さが自分たちには無いのではと懐疑を抱いてしまったから。

 

 染み込むように顔に付着したままの血らしき何かもその要因だが、自分たちのことは指先にもかからないほどするりと零れるほどの狂喜と狂気に尻込みする。

 

 

「強くなるぞ、俺は」

 

 

 萃香の苦慮が、浅慮なだけだと吐き捨てたい【孤高】がシャドーのすぐ近くにあると感じてしまう。

 

 女性陣は慄然とする。未来のシャドーからの警告。それが今目の前で起きようとするのが手に取るように分かる。

 

 それぞれ、あと一歩のところで負けそうだったのを未来のシャドーが自身の程度の力を使い干渉してきてようやっと勝利できた。霊夢といえば、がしゃどくろが全身を余計震わせる音に驚いて構えたところ彼が着ての警告だ。

 

 

『シャドーから目を離すな』

 

 

 誰だか分からないが、切羽詰ったその泣きそうな声に胸が締め付けられた。その声が聞こえるや否や、すぐ本来の自身らの力以上のものを出しそれぞれ片した。霊夢のほうはそんな彼女らより先である。時間軸がごちゃごちゃしている中、がしゃどくろが手を開いて中身がなくなったことを確認すると通してくれた。それからは、全員全速力でシャドーに追いついた。全員の心が彼を心配する気持ちでいっぱいになりながら。

 

 だが、そこまで思いつめたものの彼に相対して臆する。彼女らの中で実力者であり、今のところ彼と互角と言っていいほどの力を持つ霊夢と萃香でさえそうだ。

 

 

「…っ、シャドー、さん」

 

 

 早苗の声だ。怯え交じりのそれに、シャドーはいつものような無関心なそぶりの目だけで返す。目で見ているはずなのに早苗どころか、他の女性陣も眼中になさそうだ。

 

 それが非常に悲しく腹立たしい。

 

 早苗は口をつぐみそうになるも、引けそうになる足に力を込め声を発する。

 

 

「強くなるなら、わたしたちも傍に居させてください!!」

 

「………?」

 

「独りで、強くはなれないですから」

 

 

 何を当たり前のことをといった顔をするシャドー。彼が強くなれたのは、自分の努力もそうだが師匠である茨木華扇の教えもある。それだけではない。今まで戦ったものたちとの研鑽もある。自分一人だけで強くなれたと嘯くことはできない。

 

 

「そ、うよ! このレミリア様が隣に居てあげる!! 私達の強さがいつか貴方の言う強さに並ぶから!!!」

 

「強くなりたいなら、よりいい相手が必要だろう? あたしらを置いて行くことは強さから遠ざかるんじゃないか? 隣にいさせろってんだよ!!!」

 

 

 レミリアは強がる。萃香も強がる。見たくない果てが見えてしまうから。それを何があっても見たくないから。

 

 

「弱小の身を鍛えていきます。共に強くなれます。追いつきます!!」

 

「わたしを置いて行くなんて許さないからね!!」

 

 

 身勝手な女達。妖夢はすぐさまそうはなれない。天子はすぐさまそうなるわけではない。ただ、一人にさせたくない一心で我侭を言う。

 

 

「あたしたちの居場所作るぐらいの強さ作れんでしょ?」

 

「………」

 

「できるの? できないの?」

 

 

 霊夢は圧を込める。これで臆せばいい。だが、そうならないのは分かっている。だから、次の言葉で女も“ずるくなる”。

 

 

「強くなるのに、理由も意義も、意味もあんのよ。ねぇ、シャドー。あんたを独りぼっちになんかさせない(弱くなんてさせない)から」

 

 

 だから、とそこまで言って息を吸う。そこから出る言葉が、誰の口も同じ言葉を言うのが自然と分かる。彼にこの恋情が届くか分からないが、届けばいいなでは終わらせない。届かせるんだ。

 

 

 彼女たちが異口同音に言って聞かせた。

 

 

「好きだから。隣にいるから、離れてなんかやらないから」

 

 

 

 しばしの沈黙。

 

 シャドーの顔は無表情だ。刀を鞘にゆっくり納め、彼女らの背後を目指す。

 

 届くことはなかったのか。そう諦めそうになるも、彼女らの持つ六文銭に勇気付けられる。

 

 

『シャドーから目を離すな』

 

 

 その誰かの声がそれから聞こえた気がしたから。なら、諦めてやるもんか。こうも、この男が“ずるい”なら、自分たちももっと“ずるくなる”。

 

 

 そう思い直し、暗くなっていた目はそのまま先に行ったであろうシャドーに行く。

 

 彼は、丁寧に立ち止まってこちらを見ていた。

 

 

「帰ろうぞ」

 

 

 言葉が告げない女性陣に先ほどとは違う、照れたのを不器用に隠せずに笑ってシャドーは。

 

 

「“お前さん達のために”強くなるぞ」

 

 

 全力で皆で抱きつきに行った。その言葉は命尽きようと、永遠に忘れる気はないと教えるために。

 

 

 

 

 

 

「で、結局アレはどうなったの?」

 

 

  妖怪の山の天魔の個人用会議室に、博麗余波、八雲紫、茨木華扇、天魔が集う。口火を最初に切ったのは、霊夢の母である余波だ。博麗の巫女の座はすでに娘である霊夢に譲りのんびりと暮らしているが、こういう面倒ごとの後始末を娘でなく彼女が任されることが多い。

 

 

「時の狭間に戻ったようよ」

 

 

 境界をいじくり覗いていた紫が告げる。詳細が記された書を各人に配る。作ったのは勿論彼女の式である八雲藍であるが。

 

 

「………」

 

 

 シャドーに『師匠』と呼ばれている華扇が難しい顔でそれを睨み読む。

 

 

「これで人心地つけるな」

 

 

 天魔がほっとしたため息をついて言う。それに、キッと華扇が睨みを利かせる。

 

 

「何も終わっていません」

 

「時の狭間に封じられたならば、もう手の出しようがない。こちらにも、あちらにもな。それを分かっているだろう」

 

「何か、術があるはずです。皆さん、彼がこのままでいいと思っているわけではないでしょう?」

 

 

 華扇の問いに余波と紫はうなづくも天魔は黙ったまま首を振る。

 

 

「ちょっとあんた、彼のおかげでここも今があるのにそれを無碍にする気?」

 

 

 不快気に眉を上げ余波が言う。

 

 

「確かにそうだな。彼の“所為”でここの今がある」

 

 

 天狗の長である天魔は博麗の巫女との和平を会談をしている間に【スペルカードルール】と和平を認めず、博麗神社を襲撃しようとした反対派の妖怪達が「幻想郷の剣神」に一匹残らず斬殺されていたため、彼の力を恐れている。それで、風通しが良くなった面、自分たちにそれが向き根絶やしにされるのではないかという懸念は捨てきれくなった。スペルカードルールを受け入れ、博麗の巫女と和平を結び、その後は、天狗達に『“幻想郷の剣神”には決して手を出してはいかん』と言い聞かせ、山の平穏を保ち続けてきたものの妖怪も人も何がきっかけで何をするのか誰も分からない。今日の天気が気に入らない、という至極くだらない理由でやられる場合がある。そういうものを恐ろしく思う、天狗の長である天魔。ここに居る面子も、少なからず自身らの下につくものがいて彼らの尻を持っている。生き死にを握られているのに、何もできないのは恐ろしくないか。下のものには、家族が居るだろう。少なくて自分一人。それでも、大事な、上に居る自分たちのための資産だ。下がなくてはピラミッドは成り立たない。

 

 

「そちらが悪いものではなくて?」

 

「今も怯え暮らすものの気持ちが貴女に分かるか? 『今日も目が覚めることができて幸せだ』などと、心の底から言ってしまう連中の気持ちが分かるのか?」

 

「………」

 

 

 妖怪とはいえ、それは哀れすぎる。人の恐れで妖怪は生きていると言っていい。だが、これでは逆だ。それは流転してはならないものであるのに。

 

 不穏な空気が満ちる。どちらもまともな意見だけに対応と対処が難しすぎる。

 

 危険はあるが、それは先延ばしである。でも、対処法を思案することができる時間は確保した。だが、問題はある。再び、あの未来のシャドーがなにかやらかすことはないが、今のシャドーがそこに行かないとは限らないからだ。あのまま、未来のシャドーが此方に居続ければ、時間というものがなくなる。それは、生物が壊れてしまう。概念的な話、時間というものは存在しないと言われるが、そんなことはどうでもいい。人も妖怪も成長や老化がなくなる。後者はいいと余裕ぶる輩が居るだろうが、前者はまずい。どんなものも成長なくしては未来を作れないし、今しか生きれないという停滞は腐心、憂悶である。そして一番いけないのは、新しい命が生まれないことだ。受精後、時間と共に胎内で“成長”し生まれてくる。今回は短い間だったが、母体に少なからず悪影響はあった。永琳が緊急手当てをしなければ流産した人数は全員だったろう。そんな恐ろしい事態になっていた。それならば、より長く此方にあったなら? 被害は考えたくない。

 

 そこへノックが聞こえた。

 

 

「誰だ」

 

「あたしだよ~、シャドーのことで映姫さまからの書状だよー」

 

 

 不穏な中にのんびりとした小野塚小町。じつは今の今まで渡すのを忘れるほどサボっていた。今日は、気分的に預かっていたのを思い出しちょうど首脳会議的なものをしているのを知ってここへやってきたのだ。

 

 

「入っていいぞ」

 

「あいよ。お邪魔しま~す…。おや、みなさん怖い顔ですなー。老けるぞー」

 

「余計なお世話」

 

 

 女性陣がその言葉に凄んでくる。怖い怖い、と言って自身の身を抱く小町だが本気ではない。女性に老けるぞなどとは、同性であっても言ってはいけないのだ。彼女も同じことを言われたら、同じように凄む。そういうものだ、女性というものは。

 

 

「ほいよ」

 

「ありがとう」

 

 

 まず、華扇が読む。丁寧に施された包装を解き、中身を。序列で言えば、この中で小町よりは上なだけで下から二番目だが、シャドーの総監督は彼女が握っているといってもいい。

 

 

 眉が強く寄り、書状が軋む。堅苦しい挨拶から始まったそれは、彼女にとって不快極まりないものだったからだ。

 

 

「小野塚さん。これは、どういうことです…?」

 

 

 静かな殺気が満ちる。この場の連中は慣れているものの、漏れ出したものに当てられれば呼吸ができなくなる。こっそり余波が結界を張り、紫が境界をいじらなければ外にもれ出て被害が及ぶだろう。

 

 

「そのまんまだよ」

 

「こんな、こんなこと…っ」

 

 

 思わず書状を破きそうになるも、紫が程度の能力を使い奪い取ることで大事にならなかった。

 

 

「どうしたのよ、茨木」

 

「!? こ、れは……」

 

「紫?」

 

 

 余波が問うても華扇は顔を下に向いてしまって表情が窺い知れない。そして読んだ紫は思わず立ち上がってしまう。

 

 

「どうしたのよ?」

 

「余波も読めば分かるわ」

 

「……?」

 

 

 いつものような余裕のあるそぶりを見せず、書状を余波に渡す手が僅かに震えている。

 

 

 簡単にまとめると、こう書かれていた。

 

 

『シャドーの輪廻転生を許さず』

 

 

「はぁ!?」

 

 

 思わず声が出てしまう。幻想郷以外は知ったこっちゃないが、ここではそれが確かに行われ妖怪も人も貴賎無く許されているものであるのに。

 

 

「小町、どういうことよ!! これ!?」

 

「ん~…?」

 

 

 のんきにお茶請けをほお張っていた小町に余波が怒鳴る。

 

 

「どうって、そのまんま。シャドーは輪廻転生させないってやつ」

 

「そんな贔屓、あの堅物閻魔が許すわけ無いでしょ?」

 

「余波の言う通りではなくて? これは間違いとか」

 

「間違いなんかじゃないさ。ほら、映姫さまの印もその上のほうのやつの署名もあるだろ?」

 

 

 僅かな期待を、のんびりとした小町の声で打ち砕かれる。

 

 

「何故だ? そうなるものは今まで出たことが無いぞ」

 

「許されないでしょ、こんなこと…。どうしてよ、小町!!」

 

「あたしが決めることじゃないんだけど…」

 

 

 小町に詰め寄る余波を手で納めながら説明する。

 

 

「あいつの能力のせいさ」

 

 

 シャドーの能力、時空を越える程度の能力。それは最初にも言ったが、禁忌であるのだ。

 

 

「あいつが神様ならよかったんだけどね。それなら、他の神が教育して力の使い道を示唆できる。でも、あいつがやってんのは私欲が多すぎるんだよ」

 

 

 強いだけならよかったのにねぇ、と言って小町は誰も手をつけていなかった湯飲みを一つ奪って飲む。時間がたって少々酸味が強い。

 

 

「映姫さまがなんとか地獄で償わせてやろうとか言ったらしいんだけど。償わせるには、幻想郷中の徳を集めたって無理って見解でね」

 

「なら、この世で善行を積めばよいのではなくて?」

 

 

 紫の淡い期待を、小町はゆるく首を振ってまた壊す。

 

 

「幻想郷の最高神である龍神様がそう下したんだ。絶対なのは分かるだろう?」

 

 

 災害をもたらす破壊の神であるが、同時に創造の神でもあり、自然の豊かさも自然そのものが存在することも全て龍神のおかげである。その神がそう下した。

 

 絶対の条理ではないか。

 

 

「………」

 

「どこ行くんだい、茨木の?」

 

「あの子のところへ」

 

「このことを知らせちゃいけないよ? あんたを罰さなくちゃいけなくなるからね」

 

「………」

 

「罰してもいいけど、シャドーとおんなじことにはならないよ。あんたは輪廻転生できるからさ」

 

「…っ!」

 

 

 ドアが乱暴に開かれ華扇は出て行く。

 

 のんきにあくびをしている小町とは裏腹にその場の空気は最悪だった。

 

 

 

 

 

 

 時の狭間に戻ったシャドー。見慣れた何も無い場所。気がまた触れそうだ。

 

 手に戻った六文銭を握る。そこに先ほどあったもう一人の自分に付き合ってくれた、彼女たちのぬくもりは無い。彼が来るまで、おとなしく待っていたわけではない。気が触れながらも、“戻りたい”と願っていたのだ。

 

 たまたま未来のシャドーの六文銭を拾ったがしゃどくろのお陰かどうかは分からないが、それを指標にあちらに存在できていた。喜び勇んで言葉すら忘れていた自分は、刀であったそれを振り回してがしゃどくろにそれを持ったままで居ることと誰かを通すなと命じた。他の化生、ぬらりひょんも同じように脅した。さきの奴とは比べ、妖怪らしく人を食った態度で結局シャドーは利用されたことになったが、こちらも少しは用が成せたのでいいとする。

 

 …いいわけがない。

 

 もういやなのだ。ここに居るだけなのは。

 

 “己を守るために強くなりたい”から、突き進んできた。何がいけなかったのか、龍神に挑んだことか。それとも、自身を止めに来た師匠を斬り捨ててしまったことか。

 

 もっと細かく考えると、頭がまたおかしくなりそうだった。生まれたことが間違いだったなんて、だれも思いたくは無い。見取った両親に誇れる自分でいたかった。

 

 最後に見た彼女たちを思い出す。自分のときとは違う選択をしてくれたろうか、と期待する。

 

 

 同じように未来の自分と戦ってあの場で彼女たちと対した。彼女たちはそれから自分から離れていってしまった。

 

 何故と、そこで憤ることは無い。今も無い。強くなるために、独りであるほうが都合が良いと持っていたから。

 

 けれど、何故、と苦しみながら思う。

 

 自身を支えてくれれば、俺はここにはいなかったのに。またお前さんらと生きれたのに。

 

 子供のようなぐずり。誰も居ないから吐き出したかったが、ここは音すら発せられない場所だった。

 

 

 頭の中で、無意味な駄々をこねる。

 

 それがもう全身にまで渡る頃、思い出した。

 

 

 両親のことを。他愛の無い暖かい家族の日々を。師匠である茨木華扇を。辛くも楽しかった修行の日々を。

 

 いままであった大事だったものを。

 

 

 霊夢を、レミリアを、妖夢を、萃香を、早苗を、天子を。思い出す。

 

 

 そしてまた消えるであろう理性の中で、最後の言葉を呟いた。

 

 

「大好きだった……」

 

 

 そしてまた終わらぬ中で涙やよだれをこぼしながら気が触れていく。

 

 もう、そこから出れることはない。

 

 

 

 

 何故、華扇がシャドーを助けたのか。

 

 未来のシャドーが、彼女に願ったから。

 

 何故、紫がそこまでするのか。

 

 未来のシャドーが、彼女に願ったから。

 

 詳しく誰かは分からない、二人とも龍神のお告げかと思っていたが違う。

 

 言葉は単純で。

 

 

 “シャドー()を助けて” 

 

 

 独りで生きれない。

 

 

 独りぼっちではいけない。

 

 

 ようやく気づいても、遅かった。

 

 

 

 




主人公設定
幻想郷に住む侍


一人称:俺
特技:武術、家事全般、畑仕事

武器:日本刀・・・見た目は普通の刀だが妖夢の「楼観剣」より優れた切れ味、耐久力を持っている
容姿:年齢は不明だが「香霖堂」の店主・森近霖之助と同様に「青年」である。髪の色は黒色で、髪型は短髪。服装は主に黒色を基調とし、上は黒の着物、下は灰色の袴を着用している
能力:時空を越える程度の能力・・・過去・未来・異空間を自由に行き来することが可能。自分で自在にコントロールも可能。
性格:冷静・・・様々な事柄にも無関心な態度を見せている。戦いに関しては好戦的で、強い相手と戦うことを生きがいとしているため、強者からは好まれているが、弱者からは怖れられている。(FF7のクラウドのような感じ)
生業:家のすぐ近くに作った大農園で育てた野菜を人間の里の八百屋、飯屋、居酒屋などに売ったり、たまに来る「香霖堂」の店主・森近霖之助の依頼(「外の世界」から流れ着いた道具や本を「香霖堂」へ輸送)の用心棒をして報酬を貰っている(報酬額は、生活費に使っても充分余るほどの金額)。


人間の里から大分離れた場所にある一軒家に住んでいる侍
「博麗の巫女」である霊夢と「幻想郷最強」である鬼と互角に渡り合えるほどに極めて高い戦闘能力を持っている
弱者には全く本気を出さず、異変の張本人には若干本気程度
鬼やEXボス(フランや萃香など)には半分本気を出すことで勝てるほどの実力を持っている
普段は仕事の他はほとんど修行の毎日を過ごしている(今の強さに慢心せず、さらに上をめざすため)
先代巫女(現在は博麗の巫女の仕事を霊夢に譲り、のんびりと神社で暮らしている)と森近霖之助とは、昔からの知り合いでもある


正体はかつて、スペルカードルールが提案されるまで、幻想郷の規則(妖怪と人間の共存)を破り悪事を働く妖怪、人間を数多く斬殺してきたことで幻想郷中から恐れられた伝説の侍「幻想郷の剣神(げんそうきょうのけんしん)
(当時は黒い狐のお面を着けて顔を隠していたため、正体を知っているのは先代巫女・八雲紫・茨木華扇・天魔(妖怪の山の有力者 兼 天狗の長)のみ)」


幼い頃に両親を妖怪に殺され、自分も殺されそうになった時、茨木華扇に救われ保護される
主人公の両親を殺した妖怪は、華扇に半殺しの状態にされた後、八雲紫の処罰によって灼熱地獄の異世界に追放されている
今ある主人公の強さは、「己を守るために強くなりたい」という一心で華扇の弟子となる
武術と仙術の修行を積み、更に自ら修行に励んできた結果。成長し、「程度の能力」を自在に操れるようになった主人公は過去(両親が殺さる少し前の時代)に戻り、両親の仇の妖怪を斬殺し二人を救っている
救われた両親は、人里でたまに帰ってくる主人公と一家団欒の日々を送り続け、最期は主人公に見送られながら寿命をむかえ既に他界している
幼い頃から仙人の修行をしていたため、霖之助と同様に人間と比べ寿命が長く、霊夢たちの「何倍も永く生きている」とのことで、歳を重ねても成長や老化といった変化が少ない
異変時は、強い相手(異変を起こす側)との戦いを求めて介入することが多い

◯主人公のスペルカード
 翔符(しょうふ)『蒼龍飛天(そうりゅひてん)』(全身にまとった覇気により自ら青い龍となって敵をのみ込む主人公の得意にして最大の切り札。)


キャラ設定

◯博麗 霊夢の設定
 数々の「異変」を解決してきた博麗神社の巫女。毎回、来たとき必ず、お賽銭(霊夢の生活に困らない程度)を入れてくれたり、異変時に協力してくれる(主人公は、ただ強い相手と戦いたいだけ)主人公への恩を返すために、彼を宴会に招待したり、本人(主人公)の意思に関係なく通い妻をしている。

◯レミリア・スカーレットの設定
 紅魔館の主人で吸血鬼のお嬢様。「誇り高き吸血鬼」とか「カリスマ」と自称しているが、性格は見た目通りの子供で非常にわがままである。「紅霧異変(紅魔郷)」でフランと互角に渡り合った主人公の強さに魅入られ、異変後は、彼を紅魔館の執事として雇いたいと持ち掛けてみたが、「職には就いているし、そんなものに興味はない」と断られるが、めげずに何度もアプローチを続けている。

◯魂魄 妖夢の設定
 西行寺家の専属庭師 兼 西行寺幽々子の警護役の半人半霊の剣士。主人である幽々子が起こした「春雪異変(妖々夢)」にて、自分を圧倒した主人公の強さに興味を持ち、異変解決後は彼の弟子として、たまに来たときに剣の修行を指導してもらっている。

◯伊吹萃香の設定
 幻想郷に現れた鬼。「萃夢想」で、半分本気を出させるほどの鬼の強さに興味を持った主人公の誘いで、一緒に同居している(修行(模擬戦)に協力する条件付き)。

◯東風谷 早苗の設定
 守矢神社の風祝(かぜはふり)で、「現人神」や八坂神奈子の巫女でもある少女。霊夢に譲渡を迫ったことで起きた「ある騒動(風神録)」で神である八坂神奈子と洩矢諏訪子の二人と互角に戦った主人公に最初は怯えていたが、たまに見せる優しさに魅入られ、次第に敬愛心を抱いていき、霊夢と同様に主人公の家に通い妻をしている(同じように主人公の元を訪れる霊夢にライバル心を燃やしている)。

◯比那名居 天子の設定
 天界に住む天人。博麗神社を倒壊させて起こした「異変解決ごっこ(緋想天)」で本気を出さずに自分に勝った主人公に惚れてしまい、異変後は度々、主人公の元に訪れることが多い。

◯茨木華扇
 妖怪の山に住む「仙人」。主人公の命の恩人にして彼の師匠である。山に大きな道場(修行場)を構えている。最初は彼に普通の生活を送らせようとしたが、「強くなりたい」という言葉と偽りのない決意を固めた眼で華扇を見る主人公の意志を優先し、彼を弟子に迎え様々な武術と仙術を教え込み、一人立ちするため山を降りる彼を心から見送った。そのため主人公からは「師匠」と呼ばれ、敬愛されている。

◯先代巫女の設定 博麗余波(なごり) ※名前はこちらが考えさせていただきました
 霊夢の母親。博麗の巫女の座を霊夢に譲り、博麗神社で霊夢と二人で暮らしている。主人公とは若い頃からの知り合い。最初は名前で呼ばれていたが、彼女が母親になってからは「先代」と呼ばれるようになった。性格はマイペースで主人公を振り回すことも多いが、彼を実の息子のように大切に思っている。

◯八雲紫
 「境界を操る程度の能力」を持つ妖怪。「妖怪の賢者」という二つ名を持っている。主人公と先代巫女の知り合いでもある。普段は余り動かず長時間の睡眠を取るか、博麗神社か主人公の家に遊びに行くことが多く、仕事は全て式神の八雲藍に任せきり。そのためか主人公からは名前ではなく苗字かフルネームで呼ばれている。

◯天魔(天狗の長)
 妖怪の山の有力者。スペルカードルールを受け入れ、博麗の巫女と和平を結んだ。その後は、天狗達に「「幻想郷の剣神」には決して手を出してはいかん」と言い聞かせ、山の平穏を保ち続けてきた(天狗の長が博麗の巫女との和平を会談をしている間に「スペルカードルール」と和平を認めず、博麗神社を襲撃しようとした反対派の妖怪達が「幻想郷の剣神」に一匹残らず斬殺されていたため、彼の力を恐れているからである)。


 以上が、リクエストしてくださったシャドー様ご考案の設定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東方Project (博麗霊夢・紅美鈴・レミリア・橙・妖夢・藍・萃香・輝夜・映姫)それぞれに分岐します

主人公の名前は、夢蔵(むさし)です

いくつかのルートに分かれます


 懐事情が昔から豊かではない博麗神社の敷地は意外と広い。境界の役目を果している森を含めれば、意外と言う言葉は抜ける。生活住居として本殿は使わず別棟に母屋があり、そこで親子は暮らしている。倉庫も高床式と土蔵式があるのだ。そして、築五十年は軽く越えていた。が、割と最近に二度にわたって倒壊させられたため、新築になった。倒壊時は、親子全員揃って犯人を血祭りにあげようとしたのだ。人であろうと妖怪であろうと、それこそ神であろうと関係なく。それほどまでに頭に血が上ったが、結局はスペルカードルールに則り、刑を執行しただけに済んだ。親の方である先代巫女は、犯人に[親の七光り]というでかでかと書かれたた文字の書かれた紙を一ヶ月身に付けさせた。面白さを求めていた犯人も、それは面白くないとプンスカしていたが、先代巫女は自身のチカラを使ってまで身に付けさせた。無駄なチカラの使い方をしている。歴代の方々も同じようなことをしているので、この人が特別ダメなわけではない。娘の方の霊夢は、気が済めば何もする気はない。来れば対応するが、それも積極的にではないし来ない日は存在を忘れる。いつものように無関心の人。長男である夢蔵は、妹と対して変わらない。神社の運営どころか、自身ら親子の一食一食がなるべく豊かになるよう『博麗の武士』としての仕事の他、副業として森近霖之助が店主をしている古道具屋『香霖堂』と、本居小鈴が店番をしている人里の貸本屋『鈴奈庵』でバイト(店番代理・万引き犯の捕縛など)をして収入を得ようと労働する。

 

 そんな三人だけの親子らだけでは広大に感じる博麗神社。掃除は行き届いているものの、年末は普通の一般家庭より前に大掃除を済ませなくてはいけない。めったに来ないが、年末は神社にとって書き入れ時の一つ、大祓いがある。そして、祭りを行うときの縁日などなど、をやっているが悲しいことに人間はめったに来ない。もともと少なかったが、博麗の巫女が霊夢の代になってから『人が来ない』レベルでなく『寄り付かない』レベルになってしまったのだ。原因は妖怪共の所為である。里にもいくらか妖怪が紛れ込むこともあるが、彼らは絶対に安全ではない。安全ではないどころか、危険でしかない存在。危険度が低のものであったり友好度が高いものであっても、万が一というのはあるのだ。そういうのが博麗神社にはやってくる。というか居候してるのもいる。それも割りとシャレにならないチカラを持ったのが。鬼とかいる。

 

 そんなのがいる。勿論、暇を嫌い暴れる迷惑な奴であるのだ。だから、今日も発散させるため博麗神社の敷地を全力で使うのだ。

 

 

「はーい。見合って、見合ってー」

 

 

 少し大きめな声で言う霊夢。立ってはおらず、いい感じの切り株に腰掛けて大きく齧った煎餅片手に、気だるく。

 

 一人に対して四人ほど対している。卑怯の図。でも、こうまでしても実際は届かない。

 

 一人とは博麗夢蔵。博麗の家の長男で、霊夢とは血の繋がった兄妹である。霊夢と同様に黒い短髪、茶色の眼。服装は白の上下服の上に紅色の着物に加え黒茶色ブーツ、腰には『鉄刃刀(てつじんとう)(両刃とも峰になっているため、相手の命を奪う心配もないもの)』を差しているのがいつものスタイル。微かに口角が上に上がっているだけなのを見れば、適度な緊張感を有しているのが分る。

 

 四人は、紅美鈴、魂魄妖夢、伊吹萃香、風見幽香。全員が前衛メンバー。やる気になれば中衛も後衛もできるというのに、それぞれ立つ位置は違えど前衛オンリーな配置。あるものは四つの手足、あるものは二振りの刀、あるものは一本の傘。本気を出せば消し炭どころか何もない荒地にさせるほどの脅威。麗しき乙女たち、纏うのは芳しき香気ではなく怜悧な闘志。

 

 ギャラリーもいる。ルーミア、レミリア、橙、といった見た目もお子様ズ。普段はソロ演奏を好むBGM要員ルナサ。主賓と自分で思っている蓬莱山輝夜。保護者参観枠の八雲藍、八雲紫、四季映姫・ヤマザナドゥ。マジ親、先代巫女。

 

 やり合うだろう五人の静かな熱のこもった空気と、ギャラリーたちのきゃっきゃと適度に騒がしい空気の差がすごいのだ。

 

 

「じゃあ」

 

 

 口に煎餅を入れて、咀嚼する霊夢。色々と困る絵図だ。

 

 三十秒ほど経って飲み込むと、片手を上げる。今日もいい脇だ。

 

 

「とっととやって」

 

 

 片手を静かに振り下ろして告げる。ひどい合図。だが、そんな者は誰も気にしない。

 

 殺し合わない程度の、全力の力闘が始まった。

 

 

 一瞬の刹那に、飛び掛る者と迫り来る者。前後左右を塞がれる。逃げることは出来ない、避けることもできない。だから、大人しく袋叩き、にはされぬ。

 

 夢蔵は、その場で全力の回転をする。右足を軸とし、体幹は一ミリともずらさずに疾強風を生み出す。風力階級は八、相当風速は三十四ノットから四十ノット。小枝は折れ、風に向かって歩けない程の威力。突き破るには、同等以上の風をぶつけるか元を潰すしかない。けれど、どれも出来ない。風はより強まり四人を弾く。弾かれた者はバランスを崩さないよう着地して、再び向かう。疾強風は場所を限定的にして、もう一段階上の大強風と化した。すでに台風であったものが、より大暴れしだす。それがなんだと、萃香が台風を捕らえ妖夢の刀が台風を斬る。台風ごと斬られる中の夢蔵。そうはならず、鳳符『夢幻転空(むげんてんくう)』、 鳳凰の闘気をまとい、飛翔して高速で突進するスペルを放つ。知っていたとばかりに、美鈴が打撃。音速に近い速度で打ち出された。構わずぶつける。ぶつかり合った衝撃で近くにいた夢蔵を含めた四人は飛んでいく。夢蔵は、体制を整えるべくつま先を地に着けようとしたとき、背後からの気配に気づく。傘の先を真っ直ぐ夢蔵に突き刺そうとしている。体勢を整えられていないが、紙一重でかわす。その夢蔵の動きを読んでいた幽香は傘の持ち手から片手を離し、彼の顔面へ拳をを打ち出す。体勢的にもうかわすことはできない。崩れた体制のまま、足でその腕の肘を蹴りぬく。尺骨神経に強い衝撃を与え、一時的な知覚障害を引き起こす。自分では制御できぬものにより腕の力が抜けてしまう。けれど、体全体の勢いを殺せず倒れかける。夢蔵も同様になりかける。だが、そんな暇は与えないと、いつの間にか近くにいた萃香に蹴り上げたままだった足を掴まれ思いっきり投げ飛ばされる。その先は美鈴。蜂を彷彿させる鋭い正拳突きが出される、その先に。萃香の力が思いの外強く、上手く身を立てられない。避けること叶わぬと悟ったのか、腹筋の力を使い、なんとか立て直せた上半身と下半身を捻る。背と腹が逆の位置になりかけるほど。一瞬で肺を空気で満たす。そして、体の位置を戻す勢いを殺さぬよう、矢を射るように、自身の腕を射出させた。拳と拳がぶつかり合う。鋼鉄を殴ったような感覚が両者を襲う。強さは夢蔵の方だったらしい、美鈴の足は地面から離れていった。その衝撃に休めることはなく。背後から夢蔵を斬ろうと妖夢が躍り出る。美鈴を押し出して盾にして避けようもすでに他の方に片してしまった。わざと、離脱したようだ。ならばと、足を使い刀の柄を握る手を蹴りつけた。痛みに喘ぐことすらなく刀の動きは止まらない。そこで、空気を全力で吐き出す。夢蔵ほどの鍛えれた者ならば、息を吐くだけで衝撃波が起こる。妖夢の腹にそれを食らわす。食らった妖夢は踏ん張ろうとするもできず、後ろへ飛んだ。そのとき、砂を夢蔵の目に食らわした。とっさに目を閉じるも、少し目に入り視界が利かなくなる。生理現象で涙液が大量に流れていくが、中々砂は取れない。四つの気配は、止まっていない。だというのなら、夢蔵も止まることはできないのだ。使えぬ視界を諦め、体勢を整えることに専念する。

 

 時間にしてたったの十分ほど。

 

 体力はまだ十全にあるし、呼吸も乱れていない。闘志は滾ったままだ。それはより滾る。アドレナリンという副腎髄質から分泌されるホルモンが盛んに分泌し血中に放出し、心筋収縮力の上昇、心・肝・骨格筋の血管拡張、皮膚・粘膜の血管収縮、消化器官運動の低下、運動器官への血液増大反応により心拍数と血圧を上げる。呼吸におけるガス交換効率の上昇を引き起こす反応、気管支平滑筋弛緩も起こる。感覚器官の感度を上げる反応、瞳孔散大も同じく。

 心拍数と血圧を上げることで、心身を興奮状態に置き、とっさの反応に備えさせる。またおもらしをしないよう、膀胱の筋肉は緩み尿を溜めて肛門括約筋は漏らさないよう締まる。気管支平滑筋が弛緩すれば、空気の通り道が広がって気道抵抗は下がり吸息がしやすくなるのだ。瞳孔散大は瞳孔を開くことで、より多くの視覚情報が入るようになる。

 

 戦闘態勢が本格的に整ったということだ。ルナサの手を使わずに楽器を演奏する程度の能力によって奏でられている激しい音楽は、ギャラリーも楽しませるし、やりあっている連中のの気分も良くさせる。

 

 興奮状態は夢蔵を含めた五人全員。

 

 夢蔵は刀に手をかける。殺さぬ力の程度を中度から最大に引き上げたのだ。

 

 

「来いっ!!」

 

 

 大きな声は相手を萎縮させるほど。けれど、向かう彼女達には頭の中をすっきりさせる好反応させただけ。

 

 終わらせる力を持つ者に、終わらせぬとより力を騒がせる者たち。

 

 『夢幻総破(むげんそうは)

 

 鉄刃刀に博麗の力を集め、“究極の斬撃”として放つスペル。ある程度出力を絞っても、一撃必殺を狙えるほどに威力が高い。それを放つ気なのだ。

 

 夢蔵は、力を集める。立ち向かうものたちは、究極の斬撃だからなんだと弱気に立ち止まることはしない。

 

 力闘が、より苛烈になった。

 

 

 

 

 日も落ち、星と火の明かりに感謝する時間帯。

 

 

「あー、負けたーっ!! でも、酒美味いぃぃい!!」

 

 

 大きな机に突っ伏しながら、そう大声を出すのは萃香だ。だが、その声には不快の色は見えず、むしろ楽しそうな感じだった。

 

 

「負けちゃいましたねー」

 

「まだまだ精進しなくちゃいけないですね」

 

「そうだ、妖夢さん。こんどはアレを――」

 

「あぁ、そういう手もいいですね。なら、こういう――」

 

 

 美鈴と妖夢は、配膳のすんだ箸がちゃんと揃ったものかどうか確認にしながら今度の作戦を練っている。前に、不揃いの箸を出されたことがあるのだろう。

 

 

「………」

 

「………」

 

 

 先の三人同様、泥を落とすために入った地霊伝でできてしまった温泉あがりの幽香は先ほどの肘の調子を軽く確かめながら酒を飲んでいる。大根を口に含む輝夜は、彼女に永琳からもらった薬酒を渡している。酒の味がいまいちなのか、幽香は眉をしかめているが、礼を言った輝夜の前で吐く出すような真似はしていなかった。

 

 

「さっすが、夢蔵なのだー!」

 

「夢蔵しゃまはやっぱりすごいね!!」

 

「ふっ…。私の夢蔵だもの、当然よ」

 

 

 お子様ズはニコニコ騒がしい。レミリアの言葉の所為で、言い争いが起きている。

 

 

「地獄にも音楽いらない?」

 

「地獄はそういうところではないのですが…」

 

「音楽は誰にも縛られないもの、そして誰でも持っていいものよ。地獄だからいらないなんて『罪』じゃない?」

 

「ふむ…」

 

 

 こちらはなんだか深い話をしている。ルナサは酔っているように見えるけれども。

 

 

「そーれ、お呑みなさーい!」

 

「おぼぼぼぼっ!!」

 

「負けてられないわね…。それ、れーいむ!」

 

「や、やめっ。ぶぼぼぼぼっ!!」

 

 

 と、酒を自身の式や自分の娘に酒瓶を突っ込み、どちらがより酒に強いか競っている。

 

 あちらもこちらも出来上がっている。アルハラをするダメなのもいるが。

 

 さて、今日、博麗神社にいる残りの一人、リアルファイト難易度ハードをクリアした男、博麗夢蔵は何処にいるのか。

 

 

「あ~、いい湯だった」

 

 

 体から湯気が立ち上って皮膚が赤みを帯びている状態。そして、髪が濡れたままのこの様を見れば分るだろう。彼も汗や泥を落としていたのだ。混浴できぬヘタレではない。混浴を断った漢だ。覗きもやらない紳士でもある。

 

 

「夢蔵兄、たすけ」

 

「まだ意識あるわね。次、行くわよ霊夢」

 

「なんですって!? 藍、こっちも」

 

「ゆるして、ゆるしてください……」

 

 

 妹達の様子に苦笑いを浮かべた。

 

 

「おふくろ、紫。やめてやれよ」

 

「親に口答えするの、夢蔵?」

 

「俺が代わりに呑んでやるから、な?」

 

「あんたはズルするからフェアにならないのよ」

 

「そもそも、おふくろ達が飲めばいいだろうが」

 

 

 その言葉に先代は黙る。気を損ねたのではないのは、何年も親子をやっているので分っているのだ。

 

 

「それもそうね! んっ、お酒美味しい!!」

 

「あぁあぁぁあ……」

 

「紫、呑みましょう!! 空しかないからあっちに行くわよ!!」

 

「なんてことをするのよぉぉぉおお」

 

 

 紫も弱い立場だったようだ。友人の絡み酒の面倒くささは知っているはずだ。だから、軽く酔ったとき藍と霊夢を犠牲にしていたのだ。因果は巡るというのを見せられた夢蔵は霊夢たちに、近くにあった酒ではない飲料水である、水を渡す。

 

 

「はいよ」

 

「ありがとう、夢蔵兄…」

 

「すまんな…」

 

 

 飲んだあとは二人はしばらく休むと横になっていた。介抱しようとしたが、自分達の醜態を見られるのが嫌なのか唸り声を上げていたので離れたのだ。

 

 

「夢蔵、こっち来なさい」

 

「おぅ」

 

 

 幽香の隣に座る。幽香とは幼い頃にあったことがある。もともと、先代とやりあって負けて知り合いとなったらしい。それで幼い頃、博麗神社に遊びに来た幽香と会っていたのだ。そのあと数年、彼女は自身の花畑の世話に精を出していた間は会うことはなく、ある日、気が向いて博麗神社に足を運んだ。そのときに成長した夢蔵がどのくらい強くなったか知るために勝負を挑むが敗北し、その後は、たまに博麗神社を訪れて夢蔵たちの様子を見に来ている。やだ、バトルジャンキー…。

 

 

「肘、平気か?」

 

「これをその子から頂いたから大丈夫よ」

 

「永琳製だからね美味しいし利くと思うわよ」

 

「いや、助かる」

 

 

 そう夢蔵が言うと、輝夜は嬉しそうに笑う。それを見て幽香が何か言いたそうになっている。

 

 

「どうした、幽香」

 

「あぁ、別に…」

 

「そういえば、あんまりおいしそうに呑んでないわね」

 

 

 せっかくのものを考えて我慢して呑んでいる幽香。それは失礼だとは分っているものの、顔に出てしまっている。

 

 

「まずいの?」

 

「……通好みの味だわ」

 

「そうなんだ。よく分からないけど」

 

「…。そうだ、いい味になってたか、おでん」

 

 

 居心地が悪そうな顔をする幽香に助け舟を出す。おでんは博麗家の皆さんがコトコト煮込みまくって出来た品です。

 

 

「うん、なかなかよ。トマト入れるのは斬新だったわ」

 

「……そんなのもいれたのか、おふくろは」

 

「美味しかったわよ」

 

「そりゃなによりだ。幽香はどうだった、美味いか?」

 

「美味しいわ。巾着の中に素麺が入っているのは、少しあれだけれど」

 

「ははは。途中から、何でもいれちゃえってなったんだ。でも美味かったろ?」

 

「まぁね」

 

 

 そうのんびりしていると、背中に重みが来た。

 

 

「夢蔵ー」

 

「どうした、ルーミア」

 

 

 『紅霧異変』で、いつもの如く通り魔をしていたところ鉢合わせした夢蔵に襲い掛かるもあっけなく返り討ちに遭う。その後は、夢蔵に興味を持ちはじめ甘えている。口周りをおでん汁で汚した彼女は夢蔵の着替えたての着物を汚していく。だが、そんなもの諦めている。

 

 

「なんでタマゴないのー?」

 

「え?」

 

 

 ルーミアの言葉に驚く。里から二十ほど買いこさえたそれは、自分達だけの食卓には上がらず今日の之に全力投入したはず。

 

 幽香と輝夜に断りをいれて、大きなおでんの入った鍋にルーミアを背負いながら近づいた。そこには、橙、レミリア、美鈴、妖夢、萃香、ルナサに映姫と、残りのメンバーがお玉をぐるぐるかき混ぜている。

 

 

「タマゴ、もう全部食ったのか?」

 

「私食べてませんよ」

 

 

 夢蔵の問いに、全員食べてないと答えた。夢蔵もお玉を取り鍋底を探るが、あの丸さが見つからない。

 

 

「ねー、なんでー?」

 

「んー。他の奴らだけで食い尽かさないだろうし、なんでだろうな」

 

「私と妖夢さんと映姫さんとルナサさんが、配ってたんですけどタマゴ一個もなかったと思いますよ。ね?」

 

 

 美鈴の言葉に皆頷く。

 

 

「おかしいな。ちゃんといれたぞ。タマゴ、全然ないのか?」

 

「そうよ。私は別にいらないのだけど、ないことは不思議に思っていたの。だって、タマゴをおでんに入れるのは基本なんでしょ?」

 

 

 レミリアはいつもの如くカリスマぶって言う。その様に誰も跪くことはない。

 

 

「昔のおでん、というかその前身を知るものとしては何が基本なのか分りませんね。地獄にはよくあるのですが」

 

「地獄にもおでんあるのね」

 

「ありますよ」

 

 

 ルナサの純粋な感心に映姫は苦笑いする。地獄でも鍋パするのね。

 

 

「タマゴー…」

 

「ないならしょうがないよ、ルーミア」

 

 

 いつの間にか、夢蔵からずり落ちていたルーミアが悲しそうに鍋をグルグルしている。その様をなんとかなだめようとしているのは橙だ。二人の見た目は小さな子供の様子に、夢蔵は罪悪感を持ってしまう。

 

 

「どうしたの、夢蔵兄…」

 

「なに、ごとだ…」

 

 

 顔色真っ青お化けが現れた。

 

 

「あぁ、実はタマゴが消えちまったんだ」

 

「は? あんなに入れたのに?」

 

「しっかも皆食ってねぇんだって。んー、どうするかな」

 

「夢蔵ー」

 

 

 ルーミアが夢蔵のすそを引っ張っていた。その顔はとても悲しそうで、まいってしまう。

 

 

「すまんな、ルーミア。なんか別のもので我慢してくれないか?」

 

「んぅー…」

 

「今度はたらふく食わせてやるから」

 

「ほんとー?」

 

「あぁ、約束だ」

 

「…うん!」

 

 

 なんとか穏やかに治まったようだ。

 

 

「じゃあ、呑み直すか!! 夢蔵、あんたも呑むんだよ!!」

 

「はいはい」

 

「なぁ、騒霊。いい感じに酔える音楽やってくれないか?」

 

「いいわよ。…夢蔵は使わせてくれなさそうね」

 

 

 プリズムリバー三姉妹の長女ルナサ。彼女は、性格は暗いが優しい。西行寺家にたびたび招集され、演奏で場を盛り上げている。花見大会が行われるということで、いつものように招集されていた。その日に、一人で演奏中に偶然出会った夢蔵に自分の演奏をほめられたり、彼によるギターの熱い演奏を聞いて恋心を抱いている。故に、過激な愛のデュエットをしたいのだろうが、今日は諦めるらしい。少し熱い視線を夢蔵に送るが、その彼は自分の杯を探している最中。視線が合うことも気づくこともなかった。

 

 

「あたしと呑むんだから、無理だね」

 

「ほどほどにするのですよ、伊吹萃香。貴女は飲酒のし過ぎなんですから、控えなさい。そもそも――」

 

 

 と、いつもの説教に入る映姫。酒が不味くなってしまう。 

 

 

「さぁ、呑むぞぉ!!」

 

「…聞いてませんね」

 

「…そうですね」

 

 

 萃香は酒瓶を振り回す。それを見たギリギリの霊夢と藍は、即座に逃げた。お子様ズは夢蔵と一緒に杯を選んでいる。橙のが一番センスがいい。後は独特の個性を発揮しているのだ。

 

 おでんのタマゴは何処に消えたのだろうか。

 

 そんなこと微塵も知らない先代巫女は、おでんパーティのメンバー全員に絡み酒をする迷惑行為をいつもどおり行っていたのだった。

 

 今日もなんとか良き日だった。明日もそうだといい。ずっとそうだといい。

 

 眠るのが嫌だ。何を子供みたいなことをと思われるかもしれないが、眠ることで今日が終わってしまうというもったいない感と、死に近づくという恐怖感が押し寄せてくるからだ。小さなときからずっとそうだ。親父がまだ生きていた頃から、ずっと。眠ることと死ぬことが絶対にイコールにはならないが、なることもある。ただ眠っていると思ったのに、もう起きることはないと知ったときの絶望感、恐怖感は今も心に消えぬ傷として刻み込まれている。眠りたくない。怖くて堪らないから。だけれど、眠りについてさえしまえば、そんなこと思っていたことを忘れてしまう。当たり前だろう。眠っている間は、無意識の状態だ。

 

 夢の中で、しっかり意識を保っていられない。

 

 いっそ、夢の中で暮らせたら。様々な意識が入り込む今もなかなか面白いが、大分消耗をする。膨大だといい体力を使い、築き上げた心の壁を削り、長くあるよう願う命を磨り減らす。それらの対価に明日があるのだが、等価値と思えない日もままある。ならば、夢の中で暮らせたらいい。眠ってしまえば命以外は全回復する。命の方も、夢の中では無限大になる。夢の中で死んでも実際死んでいることはなかったのだから。

 

 あぁ、なんだか眠ることに期待が大きくなってしまう。

 

 どんな()なのだろう。それが現実になったなら、より良いなと思えるようなものだろうか。期待感が高まっていく。

 

 今日はもう眠ろう。興奮しているが、眠気も実はかなりある。もしかしたら、夢さえ見ないほど熟睡するかもしれない。

 

 でも、起きたくなんかない()を見てみたい。楽しみだ。

 

 夢の中でも良き日になるといいな。

 

 

 糸は休まず動く。

 

 きしり、きしり。

 

 

 糸はある日に絡みつく

 

 

一月四日(輝夜ルート)

 

四月三十日(橙ルート)

 

五月二十四日(レミリアルート)

 

六月二十八日(霊夢ルート)

 

七月九日(美鈴ルート)

 

八月十八日(藍ルート)

 

九月五日(妖夢ルート)

 

十一月二十六日(萃香ルート)

 

十二月二十日(映姫ルート)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

博麗霊夢ルート

ルートが二つに分かれます


 強風もなく、暑すぎることも寒すぎることもない。そんないい天気の今日。何とか平凡になるように願う一日がまた始まった。おふくろは今日も里に顔を出している。大人女子達と女子会と洒落込むらしい。女子会というものがどのようなものかはよく分からないが、おふくろを含めた女性陣が楽しむなにかのだろう。

 おふくろが神社を留守にすることは多い。おふくろの子供たちである俺と霊夢に、神社の、言い方が悪いが運営を任せている。子供とて、俺もそこそこいい歳だし妹も少女の枠組みから抜け出し中。そして、自慢になるが俺は強い。妹も同じく。次代の博麗の武士と博麗の巫女を就任しているほどの実力をすでに持っているのだ。おふくろも親父も歴代の方々同様に強かったらしいが、すでに全盛期を終えた者ともういない者。肩書きを背負うに足る俺たちがいるのならば引退しても構わない。とはいえ、年末に行う大祓いなどといった大行事を取り仕切るのは俺たちではなく、おふくろ。そもそも、やってもあまり参拝客も来ないため、あまり収益はない。昔から博麗の者の基本のしのぎは妖怪退治なのだから、しょうがない。永遠亭が発見される前は疫病に対して祈祷も行っていた。神社の者らしく色々やってはいたのだが、懐事情は裕福とはいえない。極貧とまではいかないが、ときにはおかずの数と量が悲しいことになる程度。故に、俺が『博麗の武士』としての仕事の他、副業として森近霖之助が店主をしている古道具屋《香霖堂》と、本居小鈴が店番をしている人里の貸本屋《鈴奈庵》でバイト(店番代理・万引き犯の捕縛など)をして収入を得ていることもある。

 

 博麗の巫女の役割は【調停】。博麗の武士の役割は【鎮定】。

 

 どちらも争いをやめさせる役割だが、大分勝手が違う。どちらも割りと血なまぐさいことをやっているが、『博麗の巫女』は《人と妖を共に平和に治める》、『博麗の武士』は《人と妖を平等に抑える》というものだ。普段の霊夢を見れば分るが、人であろうと妖であろうと平等に関心がない。俺はといえば、どちらも平等に差別する。二人とも、誰に対しても平等に応対する。そこに、主観が客観がどうたらというものは含まれない。そういうふうになるよう幼い頃から育てられたのだ。『博麗の巫女』の役割もそうだが、どちらも骨が折れる。霊夢がスペルカードルールを提案していなければ、人と妖の間はさほど埋まらなかったのだ。そもそもは面倒くさがり屋の霊夢が、おふくろ世代までの旧式且つだるいほどの仕事量をこなしたくないのが始まりだったが、思いのほか上手くいった。緻密な計算をした上でのものではなく、俺にはない神懸り的な勘での施行だけど、俺の仕事も大いに減った。スペルカードルールが生まれるまでは、平等に幻想郷で悪事を働く者を斬り捨てていたのだ。人だからと妖だからと、どちらに偏ることなく幻想郷が穏やかであるよう鎮めてきたのだ。多いときは十以上のものを一日でこなしたこともある。けれど、今はそういうこともあまりなくなった。

 

 だから、今日、霊夢は年始年末どちらでも大量に残るおみくじ作りをしていたり、俺は境内の掃除をする。という暢気に過ごせる一日を送れるのだ。

 

 出来上がったものを見てみると、結構面白い。

 

 大吉では、《思い悩むことなし。自分の信ずる道を行け。犬も棒に当たるようにヘマをするが、当たった棒は汝の金棒である。壁にぶち当たるとき、それで打ち壊せ。明るい明日が欲しいならば一歩前に足を踏み出すべし》、と。

 大凶では《今は休むべし。足踏みをしすぎて床が抜ける。棚から牡丹餅が落ちるが、その餅はカビている。好機はすぐそこにあるけれども、今見えているそれはカビた餅。今の自分と過去の自分をよく見比べてみると良し》、と。

 

 俺もたまに作っていたことはあるが、ここまで個性的なものは作らなかった。大凶で書かれている牡丹餅とは、昨日のものだろう。カビていた。池に住む亀におふくろと共に餌として与えていたのを知っているのだ。

 

 どちらも最後には《博麗神社に賽銭をすると運気は向上す》と書いてある。これは、俺も書いた。おふくろも書いてる。代々、書いているのだ。

 

「はい」

 

「ありがとうな」

 

 

 二人とも一段落したため休憩に入った。程よく温かい茶を啜る。茶菓子は葛餅だった。

 

 

「ん。この茶、微妙だな」

 

「安物だし」

 

「いつも玉露だといいのになぁ」

 

「だったら、お母さんがほとんど飲んじゃうわよ」

 

「おふくろも美味い物に飢えてるものな…」

 

 

 一応、残しはするだろうが、二、三杯、淹れたらお終いという感じになるだろう。どこぞの竹林のお姫様や小さく紅いお嬢様がいつも食べているような豪勢な食事は基本ない博麗家。美味しそうなものがあれば、早い者勝ちである。

 

 

「土産、あるか?」

 

「さぁ? 聞いてなかったから分らない」

 

「土産とか言って、そこら辺に生えてる食べられる野草持ってきたこともあるからなぁ」

 

「ヨモギを大量に持ってきたり、ね。 あー…、しばらくヨモギの匂いさえダメになったの思い出した」

 

「餡子なしのヨモギ餅をしこたま食わされたのは、親の愛か…?」

 

「それは違うと思うの…」

 

「愛であってくれ…」

 

 

 竹で作られた串で、その竹の笹で作った皿に乗せた葛餅を口に含む二人。確かに感じるはずの甘みは、昔にたらふく食わされたヨモギの青臭さを思い出し、あまり感じることが出来なった。二人とも甘味を食べた顔ではない。心なしかうんざりした顔だった。

 

 

「美味いものが美味く感じられん悲しみよ…」

 

「無常観に満ちるわね…」

 

 

 霊夢の声はそれによく満ちていた。夢蔵は過去の自分と今の自分の味覚が絶妙に重なっていることに悲しみを感じてしまう。それをなんとか捨てようと意識を変えようとした。脳の情報の入れ替えである。意識を変えるなら、新たな刺激を入れるべきだ。思い出すものでもいいかもしれないが、意識の換気には向かない。部屋の空気を換えるとするならば窓を開けるべきだ。開けずに香などで空気を誤魔化そうとしても、上書きされずに空気がより濁るだけだ。つまり、新鮮な視点を欲した。

 

 とりあえず、視点を夢蔵自身の無骨な手から妹である霊夢に移した。

 

 

「………」

 

 

 口の中の感じを変えようとしているのだろう、お茶を飲んでいる。

 

 湯飲みにくっついている小さめの唇はぷっくりとしていて柔らかそうで、男の夢蔵とは違う。口紅をしているのだろう、桃色に少し赤を濃すぎない程度に足したような色合い。夢蔵のはケアをしないためかさついている。一週間ほど前に唇の数箇所が割れた。醤油や味噌汁で痛そうな顔をする。そんな様子を見かねた霊夢に軟膏を塗りたくられている。治ったと安心してケアをサボっているから、またそのうち割れて、また霊夢に軟膏を塗りつけられるだろう。

 唇から少し視点を上に移行すれば、夢蔵と同じ茶色の瞳が見えた。夢蔵より明るめの茶色である。夢蔵は少々暗め。霊夢の瞳の方が宝石のように心惹かれるような色合いだと感じていた。夢蔵の方は数珠に誂える石に似ている。自身の目がビー玉のように軽ろやかに澄んでいればよかったのにと思いながら、霊夢の瞳をもう少し見る。光の加減を調整するよう、少し傾く。すると、茶色が濃くなったように見えた。夢蔵のとはまた違った色合いで、上手くできたべっ甲飴のような舐めたい色。

 少々危ない思考に入ったと感じ、視点を広げる。切り揃えた前髪はあと少し伸びたら目に入りそうで、邪魔にならないのだろうかと、女のオシャレは我慢かと同時に思う。健康的に日焼けた肌に薄く化粧をしている。小さな頃に兄妹で母親のおしろいに塗れていたのを思い出す。顔が真っ白になっていて、綺麗に見せるのではなくお化けに見せていた。でも、昔はおばけだったが今は女に化けたのだ。濃すぎず上手くやった化粧をした顔は、先ほど食べた葛餅のような透明感を感じ取った。

 

 なんとなく新しく思った。

 

 

「…綺麗だな」

 

 

 見慣れた顔は見事に成長していたのだ。思わず漏れた言葉はチャラついたものはなく、渇いた口内を潤すようで。

 

 だから、霊夢が思わず咽ることになる。

 

 

 気管に入らせたのだろう霊夢の背を慌てて叩く。二分ほど咳が止まらなかったが、落ち着いた。

 

 

「…すまん」

 

「………」

 

 

 霊夢はそっぽを向いている。夢蔵が詫びにと自身のほうに残っていた葛餅を少し分けているが手をつけない。微妙な沈黙が続く。五分ほど経って、ようやく霊夢は口を開いた。

 

 

「なんで」

 

「んぉ?」

 

「なんで、そんなこと言ったの?」

 

「すまん」

 

「謝らないでよ。理由聞きたいだけなんだから」

 

「………」

 

「ねぇ、なんで?」

 

 

 黙秘を決め込む。が、妹はそれを無言で棄却させた。自分一人だけで手元にある串で遊んでいても逃げることはできなかったようだ。

 

 

「…お前が綺麗だと思ったから」

 

「………なに、それ?」

 

 

 遊んでいる串に、霊夢の串が加わった。

 

 

「霊夢は…どんな男と結ばれるんだろうな」

 

 

 話をすりかえた。卑怯である。

 

 

「まずは、おふくろに認められること。難関だよな、おふくろって親父以上の男はいないって言ってんだから。次に、適度に不真面目な奴であること。仕事が結構面倒だから、真面目すぎればやってられん。他には、そうだな。俺に、勝てなくてもいいから認められること。弱すぎてもダメだし強すぎてもダメだ。心は強く、情けに寄らず、平等足らねばな。最後、は」

 

 

 そっぽをむいたままの霊夢をようやく見る。

 

 

「霊夢を必ず幸せにすること! 絶対条件だ!!」

 

 

 気を損ねたままでいる妹に笑って見せた。

 

 その日は近いのか遠いのか、分らない。どんな相手なんだろうと考えてみることも出来ない。きっと、連れてきたら癇癪を起こすのは母親より夢蔵が先で激しくもあるのだろう。父親がいなくなってから、兄として父親代わりとして寂しくないよう立ち回ってきた。小さな頃はよく泣かせてしまったが、もうそんなことはない。未来で泣くことにはなるだろうが、夢蔵の方が大泣きする自信がある。目に入れても痛くない可愛いくてたまらない妹だ。一生懸命頑張ることがなくても、霖之助にツケをして夢蔵が返すことになっても、霊夢が夢蔵と一緒にいてさえくれればどうでもいい。

 

 可愛くて大切な、たった一人の妹である博麗霊夢が好きになる男が羨ましい。

 

 近親相姦願望はない。そもそも夢蔵が霊夢に対して抱いているのは家族愛。それ以上も以下もない。過剰なところもあろうが、枠から外れることは決してない。愛している、けれど家族として。その愛は最上の愛として完成していている。綺麗にしか見えない、優しき感情。兄として抱いた、ありったけの純愛。最初で最後の、穢れ無き愛だ。この世で二つとない、兄妹の情。それを受けて育った霊夢は、家族の贔屓を抜きにして綺麗に女らしく成長した。そこらの女など比較にならないほど見事に。世が世なら、やんごとなき身分のものに輿入れできるほど。

 

 夢蔵にとって妹の霊夢以上の女はいない、と刻み込んだ。

 

 故に。

 

 

「夢蔵兄と一緒にいる」

 

 

 妹である霊夢は歪に育った。

 

 

「それは無理だ」

 

 

 そうであることにまだ気づかないフリをして夢蔵は言う。

 

 

「無理じゃない。私は博麗の巫女で、夢蔵兄は博麗の武士。ちゃんとできてるんだから、他にいらない」

 

「霊夢」

 

「博麗の巫女である私には、博麗の武士である夢蔵兄が必要不可欠。代わりなんてできっこないし、いらない。それは夢蔵兄にとってもそうじゃないの」

 

 

 代々の博麗の巫女と博麗の武士が両者とも血縁関係であったことはなかった。初代から始まって先代までなかったのだ。

 

 博麗の者は何かしら神懸った才を持つ。だから、常人と上手くいく事は少ない。ただの知人としてのつながりは上手く取り繕えるが、深い関係になるために必要な波長が合うことがあまりないのだ。博麗の巫女足らんとするものの波長は普通の者ではない。何者にも平等たれ、という教育をされてきた者ら。昨日挨拶した者を処断するということもある。『誰でも平等に応対する』。これでは、ヘイトを溜めてしまう。彼女らは意に返すこともなかろうが、信仰がなくなれば調整している幻想郷の維持費などがなくなって幻想郷は消えてしまう。そのヘイトを代わりに受ける役目が博麗の武士。彼らの役目のおかげで、博麗の巫女の『誰でも平等に応対する』という意向に悪い目を向けなくなった。

 ヘイトを受け続ける者。並大抵の精神を持つ者ではない。巫女のように突出した才はないが、心が歪な者が選ばれた。精神異常者ではない。歴代で割りと普通と分類されるという三代目は、近くの者の感情を自分の中に受け入れることが出来る人物であった。喜怒哀楽、どれも全部受け入れた。当人さえ制御できぬ者を受け入れ助けたのだ。そして、最も変だと言われるのが先代の博麗の武士。それは、夢蔵らの父親である。性格はよくいる優しい男、顔は少々強面、背は百七十程、という割りとそこら辺にいる人だった。そうだというのに何処が最も変かといえば、先代の博麗の巫女、夢蔵らの母と結婚し子をなしたことだ。先先代までは、結ばれることなどなかった。蔵に残っている書物には浮ついた物が幾つかあったけれど、それが結ぶことはなく分かれた。初代から夢蔵らの父も同じように、博麗の武士は短命だったのもある。人のか妖のか、あるいはどちらにもか、に命を捧げた。初代の残した訓辞は、『どれもこれも等しく斬るべし』である。他の代に渡り、まだ訓示は色々あるが博麗の武士の志は之に集約される。『誰であっても何であっても、自分であっても、斬る』。忌まれる者、と謗られ畏れられる覚悟をする。それは、『全てを受け入れる』という極致でもあるのだ。そして同じように『全てを受け入れぬ』とも。

 

 先代の話に戻ろう。初代の訓示を曲げたから、彼は最も変なのだ。彼らの中で、結ばれてはならぬ、という決まりはなかったが、そういう心が歪になり損ねている奴は珍しかった。いつも胡散臭い笑みを浮かべている八雲紫も、しばらく間抜け面になるほどの衝撃。自分が人とは何処か異質な物があると自覚を持てる者が、上手く人に成れたのは彼が初めてだった。上手く成れずに異質のままが基本的なのに。そういうものが自分だけでなく他者を想うことは難しい。自己完結していなければいけないからだ。

 例えば、どれだけ頑張っても穴の開いた器を満たすことは出来ない。器の役目を果せない物として諦めなければいけないものだ。工夫して他の役割を持たせようが、器としての定義から外れているならそれに器としての価値はない。永遠に、穴の開いた器として在らねばならぬ。

 

 ひどく率直的な言い方をすれば、人として失敗作だからダメだ、ということ。そうなっているはずが、先代は違った。失敗作ではなく未完成のものだったから、結ばれることができた。

 

 ここまで長い前置きだったが、ようやく本題に入れる。

 

 博麗の巫女は才を持つ。博麗の武士は心が歪。それが混じって生まれた子は、両親の才と心の歪を受け継ぐ。異質であり異常であり、傑作が生まれてしまう。計算上、博麗の巫女になる子は《人と妖を共に平和に治める》【調停者】になろう。博麗の武士になる子であれば《人と妖を平等に抑える》【鎮定者】になろう。そして、それは呆れるほど見事に相成った。親和性は勿論、示量性も抜群にいい。どちらも子をなせば、血統、遺伝子どれも関係なく、より高性能な人間が誕生できる。けれど、博麗の巫女と博麗の武士の最高傑作は霊夢と夢蔵だけだ。それは、どちらも究極的な完成品であるということ。次に生まれる世代は、人として完成する者だ。だが、どうあがいても、もう血縁の繋がりがある者同士では濃くても薄くても、今代ほどの博麗の巫女にも博麗の武士にも成れない。先の二人が、それらの完成されたものだからだ。そして、血縁で両方になるのは彼らで最初で最後だ。

 

 何故か。究極的な未完成品だから。簡単な例を挙げれば、水と油になる。けっして相容れない者になるのだ。

 

 元々、本来は結ばれるべきでない者が結ばれた結果だ。他にも遺伝子学や優性論的にどうたらもあるが、結局は幻想郷の最高神、龍神が許さない。

 

 『博麗の巫女は誰にも遠くなくてはいけない。博麗の武士は誰よりも遠くにいなくてはいけない』。こう、幻想郷に住む全ての者にそう告げたことから、どれだけタブーなことか分るだろう。

 

 つまりは、霊夢と夢蔵は二人だけで完成してしまっている。

 

 

 

 

 兄である夢蔵兄が葛藤している様を見ていた。完成された出来損ないの片割れの様を。憎くてそう称すわけじゃない。他に適切な表現がないからだ。

 

 日常でも異変時でも、遠くへ離れないよう行ってしまわないよう、ずっと近くにいた。兄離れが出来ていないな、と魔理沙辺りに言われるけれど、そんなもの出来るわけがない。二人でようやく完成できるのに、そんなことすれば、どちらも壊れて逝ってしまう。傍から見れば見事に歪なわたしたち二人の関係。でも、わたしたちにとって、その歪こそが究極に至るための材料の一つ。小さな頃は分らなかったけれど、成長して育まれたものは夢蔵兄がいなければ成り立たないものしかない。それに不安を覚えることはない。どころか、とても安心する。

  

 まともに在ろうとしてきた夢蔵兄。どれほど苦労したのだろうか。父が死んでから今日まで、文字通り死にかけるほどに苦労して努力したのだろう。その様を見てきたし、心を痛めてきた。でも、その苦労も努力も無駄。わたしたちはまともに在れない。努力が報われることはないのに。決して報われることはない。

 

 それをようやく分ってくれた。ようやく完結すると、決めてくれたのだ。

 

 

「霊夢、二人でいよう」

 

「うん、二人でね」

 

「二人で、終わろう」

 

「うん、二人だけで」

 

 

 口約束で終わらないことを、しっとりとした雰囲気で感じ取る。

 

 子供のときから今に至るまで、わたしの真っ直ぐな情愛は温かい。心地よい温度だ。夢蔵兄も感じれるのだろう、本当に安心しているのが伝わる。覚り妖怪のような力ではない、在り方が同じだからできるのだ。

 

 葛餅を口に運ぶ。ようやく味覚が戻ったようだ。冷たい甘さに頬がより緩む。

 

 

「夢蔵兄」

 

「なんだ、霊夢」

 

 

 泣きそうになって、こらえるために隣の人を呼ぶ。

 

 自律も自戒もやる気がない兄妹愛。近親相姦願望はない。兄妹としてあるべき形に収めている。お母さんとお父さんの仲に憧れはあるものの、それは夫婦愛ではなく家族愛としてだ。枠組みから外れることはありえない。でも純粋ではない。兄が離れていかないか不安に駆られて、濁ることはよくあった。その度、兄と共に過ごすことで純化させてきたのだ。血のように赤黒く濁ることもあれば、泥水のような色に濁ったこともある。それにすぐ気づくのは私自身が先ではなく、夢蔵兄が先に気づく。そして無意識に純化させてしまう。それが嬉しかった。わたしをちゃんと見ていてくれる、離れないでくれる、遠くになんか行かないでくれるというのが良く分かったから。

 

 そして、純化が澄んだ今。

 

 

「ねぇ」

 

 

 だから、今日。ようやく本心を言える。

 

 

「だいすき」

 

 

 夢蔵兄が心底安堵しているのが分る。

 

 

「…まるで夢心地だ。このまま眠ればいい夢が見れそうじゃないか。夢を見るのは楽しくて仕方がないなぁ」

 

 

 そう言うと、静かに目を閉じてしまった。

 

 いい夢を。わたしと、いい夢を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起きることを止めようかな

 

視界を白くする

 

視界を黒くする



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

紅美鈴ルート

ルートが二つにわかれます


 向かう手に受ける手。同じように脚を。

 

 上がる互いの心拍。

 

 美鈴が普段、門番の仕事の暇つぶしにしている型の練習での太極拳ではこうはならない。

 

 今しているのは、実戦で用いる太極拳だ。素早く力強いものである。

 

 そして彼女は妖怪でもあるのだ。速さは異常、力も異常。長年鍛え上げられたそれは、もはや美しささえ感じるもの。

 

 岩をも砕くだろう一挙手一投足の動き。蝶のように舞い、蜂のように刺す。一種の芸術である。

 

 “美しい”。そう思っている。夢蔵は見蕩れながらも、自身の手脚を緩めない。そうすることが何より無礼であることを知っているから。

 

 一の動作に二の動作。三の次は四。そう決まっている太極拳の型に対し、夢蔵が用いる武は我流だ。

 

 型がある太極拳とは別種過ぎるそれは美しくない。全てが不揃いで、不恰好で、酷いもの。故に愉快であるのだ。

 

 何者でも、窮地に陥ればどう動くか分からない。逃げに徹しようと戦いに徹しようと、なんであろうとも。

 

 幻想郷で腕に覚えがあるものといえば、妖怪らが基本である。人間での腕が覚えがある程度など、それこそ妖怪らにとっては赤子の手を捻るごとき幼稚な遊びにすらならない児戯だ。

 だが、その弱い人間の中でも夢蔵は違う。彼の妹も母親も、亡き父も違うが、彼らを含めても彼は違うものだ。同じ人間のくくりにはいる。それで総合力は彼女らを併せ持っても、追い上げることができない。おふくろは全盛期はすでに過ぎているし、父はもういない。後に残った妹である霊夢は、そもそも努力する気がない。それは頼りになりすぎる兄がいるせいもあるが、それはいい。今は関係ない。

 

 心だけは乱れまいと必死なものだ。美鈴も、夢蔵も。

 

 自身らの情動を乗せるのには、まだ早すぎる。

 

 掛け声で威圧する。これを文字に残そうとも、それはおかしくなるだろう。狂人の叫び声を記したところでギャグにしかならない。空気に振動を与え、鼓膜を圧迫させるそれは心を乱れさせる。

 

 萎縮など互いにやらぬ。逆に鼓舞されていってしまう。

 

 互いが最高を舞え。 武であって、美であるそれを。美鈴は洗練された武の美しさを、夢蔵は雑で粗悪な武の美しさを。

 

 互いの最低を魅せろ。 美であって、舞であるそれを。夢蔵は人間の底を、美鈴は妖怪の底を。

 

 互いに最奥を恋え。 美であって、美であり続けるそれを。 男と女の互いの意地を。

 

 

 互いに真に求めるのは最後。乞う恋、請う恋、来う恋。

 

 言葉にはしない。できないと言った方が正しいだろうか。互いに意地っ張りだからという、そんなものではない。それではあまりにも陳腐すぎる。互いしか目に入らぬ今に、そのような思考が邪魔なのかと言えばそうとも言おう。頭の中で互いの先を予測、計算する。一歩だけでは足らぬ、三歩先までせねばならぬ。いくつもの選択肢を考え、最適解を導く。それを体を全力で動かしながらする。同時に、並行的に、する。心の底を互いに知ろうとしながら。あるいは、互いの相手の最奥にいようと脈動する。あとの二つは互いに無意識下で行われているものだ。雑念、雑音。邪魔なものである。それがあるのは、男と女の仲であるなら当然のこと。さて、ではどうであるからか。

 

 それは、恋は叶えてあるから。

 

 いつまでも続いて欲しいひと時は、互いに膝をつくことで終わる。

 

 ここまでは動の中でも少し動きがいのあるものであった。ここからは少し穏やかに。こんどは、心の動でのことを見よう。

 

 

 

 

「ふふふ」

 

 

 美鈴は水につかりながら笑う。美しい赤色の髪も普段のお風呂では浸けないが今回は違う。

 

 

「どうした?」

 

 

 夢蔵も水に浸かっている。大きな傷も小さな傷も色々とあるが、それでも男の美を損なわせていない。

 

 

「二人っきりはいいなーと思ってね」

 

「そうだな」

 

 

 美鈴の練った気を互いに纏っているため、そこそこ深い水でも互いに浮いている。

 

 夢蔵の胸部や腹部などに美鈴の長い髪が絡みつく。意思がないはずであるそれらは、自ら絡まりにいっているのではないか。

 

 

「ふふ」

 

 

 ちゃぷっと小さな水音をさせながら、先ほどの実戦形式での剛拳を放った手を持ち上げる。

 

 その手をゆっくり夢蔵の顔に向けて触れてくる。

 

 優しい触れ方だ。優しすぎてくすぐるような感じなのだ。

 

 夢蔵はすりつくようにその手に顔を寄せる。

 

 

 美鈴の中に入るもののその脈動に、より中が熱くなる。

 

 気を与えては別のものをもらう。だが、今は性的なことではない。

 

 人間である夢蔵の気を変化させているのだ。

 

 妖怪と人間では色々と違う。容姿であったり、力であったり。美鈴と夢蔵の容姿が違うのは当たり前だが、それが人から見て異常だと言うものではない。互いに人の形である。力で言えば、夢蔵のほうが強い。それは美鈴とは違う気であったりする。どれもこれも、見た目は同じ人間のようであって明確には違うのだ。妖怪と人間の体の仕組みから世渡りの仕組みまで。永琳に調べてもらえばよりわかるだろう、体を構成する体の仕組みや細胞など。

 

 それを無くす。

 

 美鈴は気を与えることで、自身と同じ妖怪になるように。気を奪うことで、人間から離れやすくするように、そして自分がより夢蔵に近くなるようにする。それは夢蔵の意思関係なく行われている行為である。これがばれれば、せっかく恋仲になったと言うのに離れてしまうかもしれない。けれども、それはできないはずだ。麻薬のような作用もさせているからだ。脳を基本とした全身に快楽物質を入れている。外皮からもそうだし、いつものように行う営みで出てくる体液を性器などにまとわりつかせ内からも摂取させている。それは、ゆっくりとしかし確実に夢蔵を溺れさせていく。

 

 自慢になってしまうが、美鈴は美人である。和風美人とは違う中華系の美人顔。そして、鍛え上げた肉体美。細すぎるわけでも太すぎるわけでもない。出るところは出て、出なくていいところはきゅっと締まっている。少し女性にしては身長が高めだが、夢蔵はそれより大きいので釣り合いは十分取れる。見た目なら申し分ない。

 

 見た目で目を奪われるのだ。女性の妖怪がみな、男にとって彼らの理想のような姿をとっているのかは知らないが、幻想郷を見渡せば老若あれど美しく可愛らしい容姿をしている。それにやられるものは少なくない。夢蔵もそれかと言えば違う。容姿だけに惹かれたのなら、美鈴も願い下げであるのだ。…そんな理由でないことを願う。

 

 夢蔵の容姿は好きだ。好きになったから好きになった。思わずはっとする美男子と言うわけではない。成人しているが、日本人らしい実年齢よりも若く見える容姿は美鈴の好みからは外れていたが、今は違う。今はどんな男よりも魅力的に見えてしょうがない。今では夢蔵を思い出すだけで心臓と子宮が忙しくなる。

 好きになるために必要なきっかけは、紅魔館に侵入してこようとした彼を撃退しようとしたときのこと。結局敗れてしまったが、そのおかげで彼に弟子入りし稽古をつけてもらう日々が始まった。その日々は、挨拶から始まり、準備運動を入念にした後稽古ををつけてもらう。門番をするのに必要な余力を残して終わりにしてくれるのがありがたいな、などと思うことからプラスの感情を増して、いつもお礼に渡していた土産物に美鈴手作りの菓子を渡すことが始まり、夢蔵が帰った後にはナイフでぶすぶす刺されまくってしまうが楽しくおしゃべりを稽古後にしたりと、感謝の気持ちと好きになる時間を増やし、好きを大量に生産していった。

 

 

 

 遠いと思っていた彼は今は近い。物理的には今確実にそうなのだしいいが、実力的な問題で遠かったのだ。それが今は同じ場所に立った。そしたら、もう告白しかない。だから、今こうしている。

 遠かったのだ。本当に。人間であるだけの彼が、時計の長針が一周しないうちに美鈴を片付けてしまうところから、一分増え二分増えと牛歩のような遅さだが着実に彼に近くなっていったのだ。稽古中に自身の感情が増幅していく。自分が強くなっていく喜びの感情だけだった。それが増えた。夢蔵とのふれあいで出来てしまった恋情が邪魔をするときもあっただろう。真面目に稽古をしていても、すぐ恋情が邪魔をする。今の自分は汗臭くないかと自身の体臭を気にして集中できなかったり、今日の土産物も喜んでくれるだろうかと悩んで集中が切れて、など。ここまでは良くはないが、まだいい方だ。美鈴のことを夢蔵はどう思っているのだろうと、好きだろうか、本当は嫌いだろうかと考え込み頭の中が忙しくなって手足が疎かになり夢蔵に不思議がられていたのは、よくあった。具合が悪いのかと心配そうに聞かれるのは申し訳なく、そして心配してくれる彼がより好きになってしまう自分がいた。

 

 このときにすぐ告白すればよかったのか、と考えたこともあったがしなくてよかったとも思う。このとき、美鈴は博麗夢蔵という男に憧れから始まる間違った恋情を抱いていただけだったから。いや、それは恋情ですらなかったのかもしれない。パチュリーに恋愛書をねだったこともあり、それを読んで知ったのだが《憧れは理解とは最も遠い感情》なのだそうだ。

 

 理解することは、相手を受け入れることだ。憧れとは、相手を受け入れないことだ。どうしてこうも違うのか。前者が現実に見ていて、後者が理想でしか捉らえていないからだ。簡単に言えば、自分に近いか遠いかだ。手が届いているか届かないかの方が分かりやすいだろうか。知識にしろ栄養補給だろうと、自分に手が届かなければ手に入らない。その場から動かないでいるだけなど、生きているだけではないか。生きるのに手足を使い、生きるためのものを摂取していかねばならないのに、怠惰にそっちから来いなどとふざけているではないか。足掻くか諦めているか、そんなことである。もっと優しい言い方をすれば、好きなのか、そうではないのかということだ。

 

 理解は、相手を受け入れる(好きである)こと。憧れは、相手を受け入れない(好きではない)こと。

 

 好きではないとは、別に嫌いだとかそういうマイナスな感情を指すのではない。そのままの意味だ。どういう意味か。好きの“フリ”をしているのだ。

 自己愛も他者愛も対象が自分であれ他者であれ、対象を受け入れて生まれている。憧れと言うものは、そう言ったものではない。憧れは手が届かないからこそ、そういうものになる。手が届かないと諦め、距離をとる。理解は手を届かせるものだ。手を届かせようと足掻くものだ。“諦めではない”。では、何故諦めてしまうのか。様々な回答があるが、今回はそんな美鈴と夢蔵の話だ。他者が割り込む余地はない。だからそこに立ち止まっていた美鈴の回答を語ろう。

 

 紅魔館へ侵入しようとする夢蔵たちを撃退するため出てくるが敗北。その後は夢蔵の強さに憧れ、自ら弟子として志願する。たまに紅魔館に来る夢蔵に稽古を付けてもらっている。

 

 こうして二人の関係は始まった。だが、“憧れ”はいけない。彼女は強さに、ということだが、なんであれそこに彼女の意思が集中してしまった。“憎しみ”や“怒り”であるならば、まだマシであったのに。どちらもマイナスの感情だが、理解よりの感情だ。何故なら、夢蔵に対する感情だからだ。

 憧れも彼に対するものだろうと? 否、全然違う。憧れは、相手は“自分とは違う”ということを表している。何を当然なことを言うのかと思うだろう。ここで思い出して欲しい。理解とは相手をどうすることか。憧れとは相手をどうすることか。そう、“自分とは違う”ということは“相手を受け入れない”ということだ。どうしてこのようにしてしまうか。憧れることで、相手を受け入れないことで、自分を守るためだ。

 高いか低いかはあれど、まったくプライドがないものはいないだろう。誰にでも譲れないものはある。そして、それは自身の大事な芯だ。その芯を折らせないよう、無くさないようにするための防衛本能が生み出したのが“憧れ”というものだ。折ってしまったら、無くしてしまったら、どうなるか。よくて無気力になる。悪くて、自身の命を自ら絶つ。そうならないようそういうものを抱く。

 

 受け入れないことで、自分を守る。何故なら、自分が死なないようにするために。

 

 美鈴は妖怪である強力な存在であるし関係ないのではないかというと、そんなもの関係あるに決まっている。

 

 美鈴の自分とは、大きな枠組みなのだ。どういうことか。自分とは紅魔館の全てだ。当主のレミリアから始まり、自身が育てる花に至るまで。これら、全部合わせてようやく“自分”だ。愛していたのだ。全力をもって愛していたのだ。

 

 自身の力及ばず敗れた。色々あったものの結果は丸く収まった。

 

 けれども、守れていない。

 

 スペルカードルールでなければ、と言うことはない。なんであれ勝敗は決してしまっているのだから。勝って守ればよかったものが、負けて守れなかった。

 

 自身を敗者にした夢蔵は、受け入れがたいものだ。

 

 勝って紅魔館の全て(自分)を守りたかった。だが、紅魔館の全て(自分」)守れなかった。

 

 ここで折れるのも容易い。むしろ折れるものだ。それでも、それはなかった。

 

 夢蔵は強かったから。強すぎたから。

 

 強いから、壊れそうな美鈴を見かねて弟子入りを許したのだ。

 

 憧れて。

 

 愛すべきものを壊されれば、そんな感情普通浮かばない。

 

 憧れ“させた”。

 

 これが、本当のことだったのだ。

 

 憧れたからではない。“憧れさせられた”のだ。

 

 覇気を操る程度の能力。夢蔵の程度の能力だ。これをもってなした。

 

 洗脳の類だが、これで紅美鈴は“憧れた”。博麗夢蔵を受け入れなくなったのだ。

 

 

 それに書物を読んで気づく。その書が魔術的な作用を働いたかどうかは知らない。自身で気づいたかどうかは重要ではないのだ。

 

 受け入れようとすると、難しい。

 

 好きだ。好きなはずだ。

 

 悩む。悩む。悩む。

 

 強く根付いた感情を無くすことは難しい。気を練って対処しようも、それすら利かない。

 

 であれば、なぜこうして恋仲になれたかといえば簡単だ。

 

 

 

 紅魔館の全て(自分)を捨てたからだ。

 

 

 

 

 

 愛していたのだ。

 

 あぁ、本当に愛していた。

 

 それこそ、全力で愛していた。

 

 だけれども。だけれども、愛を与えるだけでは足りなくなっている。愛を与え返して欲しいのだ。

 

 感謝の言葉だとか、綺麗に花が咲いたとか、それで満足だったのが、足りなくなってしまった。

 

 だから、捨てた。

 

 

 

「好きですよ」

 

 

 与えれば。

 

 

「俺も好きだ」

 

 

 与え返してくれる。

 

 たった一言同士の通話で、満ちてくる。

 

 足りなくなっても、すぐ満ちるのだ。すぐ足りなくなるが、同じようにすぐ満ちる。

 

 

「夢蔵さん」

 

 

 体を反転させ自身の乳房を押し付ける。胸の鼓動は夢蔵に伝わらせて、この恋情を伝わらせて。

 

 

「夢蔵さんの全てが好きです」

 

 

 “愛している”とは口に出せない。愛しているから口に出せない。

 

 

「ちゃんと私のものに成って下さいね…?」

 

 

 愛している。

 

 あぁ、愛している。

 

 愛している…。

 

 

 交ざる気に心の底から嬉しくなる。

 

 

「夢蔵さん」

 

 

 何度も交わした口付けも、するたびいつも緊張する。強張る唇と、食いしばってしまう口。

 

 すればもう何故緊張したのかさえ忘れるくらい没頭する。

 

 

 舌を入れられ、蹂躙されていく。受け入れる。

 

 息苦しくなっても受け入れる。

 

 夢蔵を受け入れつづけるのだ。

 

 

「すき…、すきぃ…!!」

 

 

 女に男を受け入れる。

 

 激しく打ち付けてきて、そのたびに頭が白くなってしまう。

 

 

「好きだ、美鈴」

 

 

 降りてくる女に男が突き上げる。

 

 

「好きだ、好きだっ」

 

「すきなのぉ!」

 

 

 受け入れる。

 

 

 好きだから。

 

 

 だから、ねぇ。

 

 好きになって(受け入れて)…?

 

 私をもっと好きになって(受け入れて)…?

 

 もっと、もっと。

 

 ねぇ。

 

 

「すき…」

 

 

 夢蔵のことが好きすぎて、愛おしすぎて。

 

 

「美鈴、好きだ…っ!」

 

 

 夢蔵が好きだと言ってくれるのが嬉しすぎて。

 

 

 ずっといたい。

 

 

 

 

 

 夢蔵は美鈴を愛している。

 

 髪も目も唇も、彼女の何もかもを愛している。

 

 それこそ、彼女がしていることも許容するほどに。

 

 人から外れれば、もう博麗の武士ではいられない。おふくろも妹も、捨てなければならない。

 

 後ろ髪引かれたこともある。父の死をきっかけに、家族が大事で大事で、守りたかった。

 

 でも、この感情は、恋情は、そんなものいらぬと自身を動かすのだ。

 

 

 愛していた。

 

 あぁ、愛していた。

 

 愛していたんだ…。

 

 

 だが、愛しいものができてしまった。自分をこんなにも愛していると全部で伝えてくれるような存在が出来てしまったのだ。家族の為だけに生きている自分を変えてしまうほどの存在が。

 

 最初は、ただ稽古事をする師匠と弟子の関係だった。それが変化していった。悪い方というものは言うだろう。だが、もう自分は良いと思っているだから構わないで欲しい。

 

 妹のためと程度の力を使い、美鈴を生かした。そして、遠くも近くもない微妙な距離にいさせようとした。親しくなるが親しい程度に収まるように調整したものだ、それでいいと思ったのだ。

 

 それが、稽古後の会話を楽しみにするようになり、今日は何を話そう、早く会いたいなどとなった。一秒でも長く一緒にいたくなり、一秒だけでも離れたくなくなる。

 

 好きでも嫌いでもない。そういうものが好きによっていき、恋が生まれ、愛になった。

 

 男の自分と近い身長の美鈴。だから、顔がよく見えた。真面目に稽古していても彼女の唇に目が行ってしまうようになるのは茶飯事で、触れたらどうなのだろうと、口づけをしたいなど欲望を押さえ込むのに必死でしょうがない様。頭の中がピンク色な自分を自分で何度も責めていたが、彼女といると止まらなかった。

 

 頭の中が、美鈴と一緒になりたいでいっぱいになっていく。それを何度もおふくろと妹を思い出し、無くそうとする。それもあまり意味はなさず、長い時間美鈴と共にいた。

 

 好きなのだ。好きすぎて。好きでいることが辛くなって。でも、なんとか押さえつけていた。

 

 美鈴が“憧れ”というものでしか自分を見ないようにしたから。

 

 自身の思いを告げても断られるだろう。そういうものにしたのだから。なにも自分に惚れるだろうなどと、ナルシズムなことを考えたからではない。妖怪の好きは、食欲にも繋がることが多いからだ。妖怪は人を食べる。いつであってもそれは変わらない。外の人間を食料にさせているが、里の人間が襲われることもある。食欲(好き)を制御できないとき、喰らってしまう。どんなに好きでも、人間は妖怪にとって食料だ。別のもので腹は膨れても、微々たるもの。人間の味を覚えてしまえば、人間のことは食料としか見れなくなる。そうして襲ってくるならば、間引くしかなくなってしまうのだ。

 

 好きになった相手を殺したくない。

 

 誰でも思うことを、夢蔵も思う。自身は人間で、美鈴は人間の容姿はしているものの妖怪だ。好きになってはいけない。

 

 捨てようも捨てきれぬ、この恋情。会うたびに増していき歯止めがいつ壊れるかも知れぬ。心の奥にしまいこむしかない。奥へ奥へと押し込むたびに、全身に痛みが走る。一番痛いのは押し込む容器である心だ。奈落のように果てなくあればよかったのに、夢蔵の心は小さかったらしい。心を無くすかと思うも、そうすれば家族を思う心もなくなり、博麗夢蔵というものはいなくなってしまう。

 

 八方塞であった。でも、美鈴が動かなければこちらも大丈夫のはずだ。

 

 迎えてくれる笑顔に恋情が暴れる。送る少し寂しそうな顔に恋情が暴れる。

 

 いますぐ好きだといって抱きしめたい。好きなんだと告げてしまいたい。

 

 でも、互いのためと恋情を押さえつける。

 

 一人のときに好きだと口に出すことさえ出来なかった。してしまえば、我慢が出来なくなってしまうから。

 

 恋情を小さな心の奥に押し込めて押し込めて。けれど、すぐ出てきて小さな心の中で暴れまわる。今の強さになるまでに経たどんな修行よりも苦しく辛かった。

 

 美鈴の姿を視界に入れる前から、名前を思い浮かべただけでもう大暴れ。

 

 いっそ死んでやろうと思ったことは両手両足の指では数え足りないほどだ。

 

 そんな苦行の日々は唐突に終わってしまった。

 

 

 告白されたのだ。

 

 

 舞い上がってしまう。止めさせる思考など欠片もなく、即時、自分も好きだと告げた。

 

 ようやく届いた恋は、愛に変えることができた。

 

 憧れだけにとどめたはずと思考することなど失礼だ。好きだ、好きだと自分では自覚がなかったが真っ赤になって涙まで流して告げたのだ。

 

 おかしいということも思わなかった。恋情は暴れ、自分の感情でないようで、自身の信念を捨ててしまった。

 

 

 家族のためあらねばという信念が、美鈴のためにあらねばというものに変わったのだ。

 

 

 もう戻れぬのだろう。戻る気はないのだが。

 

 

「美鈴、好きだ」

 

 

 何度でも、何度でも、伝えようと思う。この恋情は、自分のもののようで別物のようだ。

 

 

「夢蔵…さ、ん」

 

 

 気は俺自身でも練れるのだ。それをもって俺をもっと知ってほしい。

 

 

「お前の何もかもが好きなんだ。どんなことをしようとも、されようとも、お前を好きでいる」

 

 

 少し固まったあと嬉しそうに微笑む彼女に自分のもののはずの恋情が暴れだす。

 

 けれど、痛くも辛くも苦しくもない。

 

 

 まるで夢心地だ。このまま眠ればいい夢が見れそうじゃないか。

 

 

 夢を見るのは楽しくて仕方がないな。

 

 

 

 

 

 

 

起きることを止めようかな

 

視界を白くする

 

視界を黒くする



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レミリア・スカーレットルート

ルートが二つにわかれます


 レミリアの部屋には一つの檻がある。それは作りが頑丈で、彼女が壊すのにさえ一苦労する。けれど錠前などついておらず、いつでも中のものは檻から抜け出せる仕様になっているのだ。そんな檻としての役目を果たせぬ檻の中には一人の男がいる。

 

 レミリアの愛する人間、博麗夢蔵だ。

 

 彼は、無敵の強さを持つ。見た目にそぐわぬ強さだ。両刃とも峰である刀で、彼の十倍はあろう大岩を綺麗に真っ二つにするという腕前を持つ。そこに霊力や氣など使った形跡もなく、そして大岩の断面はまるで、よく斬れる包丁で豆腐を斬ったような、つるりとした滑らかな断面だという。これでもう、彼の並々ならぬ実力が伺える。これだけではない。幻想郷に住む数々の凶悪な妖怪、外から来る悪辣な輩を彼が退治してきたのだ。それもスペルカードルールが広まる前からである。スペルカードルールはごっこ遊び。如何に本気を出そうとも、ある程度勝負が決まればそれで終わる。だが、彼がこなしたのはそういうのではない。殺すか殺されるか、の二択の殺し合い。霊力の衰えていくおふくろ、まだまだ幼い妹、守るべき大事な家族。その大事な二人に止めろと言われても無理をして、いつしか無理ですらなくなって戦ってきた。

 

 そんなものに檻など意味があるはずがない。

 

 そもそも、檻に監禁しているのではない。監禁できていないとかそういうことでなく、夢蔵は一緒に暮らしているというノリだ。レミリアは勿論そうだろう。《紅霧異変》で撃破されて以降、夢蔵の強さに惚れてよく懐く様になっており、よく博麗神社へ遊びに来ている。そして、いつしか勢いあまって誘拐。抵抗の意思がなかったのは、いつでも神社に帰れるということだからだろう。夢蔵の相手にはならないのだ、レミリアは。純粋な力比べならばレミリアの圧勝だろう。威厳たっぷりに振舞うが、内面はほとんど子供と同じであろうと吸血鬼。人の中では突出するだけの夢蔵は恰好の餌でしかない。

 元々、弱点が多い吸血鬼。それを退治する神職、というのは本でよくあることだ。故に、レミリアは負ける、というのは面白くない。実際、殺し合いになったら犠牲は互いだけで払いきれるものではない。吸血鬼であるレミリアは、頭さえ残っていれば一晩で回復する凄まじき生命力。驚異的な身体能力、そして魔法まで操るのだ。夢蔵は数々の難敵と対して同等の実力であるが、所詮は人。頭を吹き飛ばされれば死んでしまうし、蘇ることもない。

 

 そんな彼らがのんびり同棲のようなことをして大人しくしているのは、二人は好きあっているからだということ。なので、勝ち負けもなにもない。

 

 なんと陳腐と馬鹿にすること勿れ。本来、捕食者と披食者であろう関係が好き合うというのは、真に素敵ではないか。一方的に好きではなく、互い互いに好きだと成っているのだ。

 

 好きだとアプローチしたのはレミリアだ。まともに受け取らず適当に流したのは夢蔵。レミリアの好きは、幼いものだろう。男女の恋愛的な濃密さになるには、女のとしての経験のなさ、本人の子供な内面。強さに惚れたのだって、きっとミーハーそのものだったのだろう。いくら洒落に愛の言葉を投げかけても、夢蔵は笑って団子食うかぐらいしか返さないのが、そうだ。それが、いつ好きあったのか。

 

 互いに“知らない”を“知る”ようになり“理解し合った”から。

 

 好きであれ嫌いであれ、どちらも他者に興味があるからそんな感情を抱く。小さいながらも“好き”があったレミリアが夢蔵に興味があるのは言うまでもないが、夢蔵は好きでも嫌いでもなかった。つまり、興味がない。それ即ち、なんとも思わない、どうでもいいというものだ。

 ひどい、ということはしないで欲しい。レミリアはスペルカードルールに則り、比較的おとなしくしてはいるものの、いつ仇為す存在になるか分からない“吸血鬼”。警戒度は一定の水準に置かなければならない。レミリアの子供っぽい性格も警戒対象だ。妖怪にも性格が幼い、大人らしい、とあるが、どちらがなるべく警戒した方がいいというと、幼い方だ。無邪気に壊す。それは恐ろしい。人間でも小さな子供が自分より小さなものを壊すということはある。虫であったり、小動物であったりと様々だが、何故壊すのかと尋ねれば、皆理由などないのだ。自分の気分で壊す。壊すことに意味を持たない。人間であれば周りの大人が叱り付け正常になるものもいるが、妖怪は元から異常なものだ。いくら矯正しようと根本は変わらない。気分で壊していくのだ。

 そういうのを知っているし理解しているから、どちらの感情も抱かなかった。夢蔵は幼い頃から色々と妖怪などと触れ合っているものの、彼らの好物として食べているのがなんであるか、よく理解しているのだ。

 

 “触れることはあろうが、決して交わることはない” そういう思考があった。

 

 それがどうして好き合ったか。もう一度言おう。 【互いに“知らない”を“知る”ようになり“理解し合った”から】

 

 始まりは互いの日常の話をぽつぽつ、それが互いの深い家族の話が混じり、いつしか、いつも親身に話すようになった。あるときはレミリアが神社へ、あるときは夢蔵が紅魔館へ。互いに、“相手をもっと知りたい”と興味を抱いたのだ。

 

 それが深まり、レミリアはちゃんと恋をして夢蔵は好きを自覚し、ある日二人は共に暮らしだした。

 

 幻想郷を飛び出したのだ。あの楽園から、抜け出したのだ。

 

 

 

 

「夢蔵」

 

 

 檻の中の主人と私。童女のような姿をちゃんと女として愛する主人は、きっと傍から見れば異常なのだろう。眠たげに主人の名を呼ぶと優しく唇を撫でてくるが、愛撫にしか感じられないのだから。時折、私の長く尖った歯を軽くくすぐるのが、よりもどかしく感じられる。

 

 

「どうした?」

 

 

 主人は器用に生きていたと思う。とてもまともとは言えなかったけれど。触れるのが痛い、というのを知っているくせに触れてくる。人間でもダメなものはいるというのに、まずは触れる。触れて痛みを抱える、それでも触れようとし続ける。そうして、ある程度馴染めるものはいた。けれど、どう足掻いてもダメだというときは絶つ。そんなもの痛むだけではない。一生の傷として残り続ける。ヒリヒリしてズキズキしてジクジクするもの。そんなものを負い続けるのは、まともとは到底いえない。そのくせ、傷を隠して笑うのだ。痛くないと言って、周りも笑わせるのだ。

 

 何度でも触れて、痛んで、触れて、傷を作って、また触れて。あの氷の妖精だって学習してやめるだろうものを何度も繰り返している。それを誰も知ることもなかった。私もその内に居たのだが、とある日、ようやく知ることが出来たのだ。

 

 壊れた者。それに何度も触れて、そして痛んで、最終的にはまた傷を作った。主人とは仲が良かったそれは本当は主人とは相容れないものだった、なんていうよくある話。幻想郷は妖怪も人もある程度の良好関係を持ってはいるものの、そんなものは一部だけ。基本、妖怪は人を食料としてしか見ない。“どうしてもいい”という考えなのだ、ならと、それは逆転の発想をした。“妖怪をどうしてもいい”その考えを実行に移す実力を、それは持っていた。それは、男だった。そしてターゲットの妖怪は、女妖怪。妖怪退治と称し、好き放題食い散らかした。中には友好的なものもいたのだろう、それで主人が解決に当たったのだ。何度も諭したそうだ。その度に、それは言葉だけの謝罪をした後、またやった。あるときは、夢蔵が女妖怪を守った。けれど、別のに手を出す。何度も諭して諭して、結局努力は報われずに絶った。最後のターゲットになるだろう私の前で。

 

 本気で殺そうとスペルカードルールなしにやりあったものの、相手が姑息だったし実力もあった。人間の知恵というのは馬鹿にできない、それを外の世界でも幻想郷でも分かっていたが、実力で捻じ伏せられると踏んでいた。けれど、欲というものの力は凄まじく、拘束され組み敷かれた。飲みたくもないが、最終手段の吸血をしようとしても体の自由が利かなかった。服に手を掛けられ、思わず身がすくんだ。自分より下でしかない人間に恐怖を抱いた。声も出せないまま、嫌だ嫌だ、と叫んだ。それの欲望に塗れ歪んだ顔。誰にともなく、許して、と縋った。ほぐれてもいないそこに進入されそうになったとき、恐怖は天井を越えた。声も出せない、動けもしない、そんな体で逃げようとしたのだ。力も出ない、魔法も使えない、蝙蝠にさえ変化できない。触れたとき、ごめんなさい、と好きなものに謝った。

 

 入る感覚がいつになっても来ない。このとき実は気を失っていたのだ。でも、それは僅かな間。気がついたとき、私は主人の着物に包まれていた。目を覚ました私を安心させるように笑った主人。いつもの穏やかな顔の中に見えるもの。それは、泣きそうに見えた。

 

 何故そうなっているのか、と不思議に思いつつ自分の先ほどの状況を思い出し身を震わす。赫怒と恐怖から。どちらも混ざった震える声で殺さなくてはいけない相手は何処だと尋ねた。そうすると、主人は笑って、絶った、と言ってそれの心臓を見せてくれた。まだちゃんしない頭のまま辺りを見渡すと、なかなかな光景。血の海、その中にそれの臓物や骨、肉が散らばっていたのだ。主人の手を借り、それらに近づく。そして、燃やした。念入りに。周りの草木も焼けるが知ったことではない。少しそこから遠くにある抜き取られた目玉が視界に入る。あのおぞましい記憶がよみがえり、感情のまま踏み潰した。足裏に感じる気色の悪い感覚があの時の気色悪さを思い起こさせる。すぐさま、他の草や土に足をこすり付ける。気持ち悪くもなり、思わず吐いた。苦しくて、吐いた。体を丸め、両手で自身を抱きしめて、何も思い出さないように必死で涙が止まらない両目を閉じたのだ。優しく背をさする主人に、みっともない所を、という考えさえ浮かばなかった。

 

 十分ぐらいか、それぐらいの間、胃の中が空になっても吐くことしかできなかった。主人の水筒で口を洗われ、同じようにハンカチで口を拭かれる。されるがままだった。ぼんやりと思った。 汚れた と。そう思った途端、全身が震えた。主人が近くにいることさえ恐怖だった。最後までいかなかったものの、全身汚れたのだ。それのものに塗れていた私を思い出す。唾液だけではなかった。そのことを思い出し、着物を脱いで全身を見る。乾いて張り付いているのは私の汗だけではなかった。張り付いているものを取ろうと掻き毟ろうとする。強い力で手首をつかまれ、それは阻止された。泣きそうな顔でこちらを見る主人がいた。

 

 

 [ごめんな]

 

 

 なんども謝る主人。その日はその言葉で私の記憶は沈んでいった。

 

 優しく抱きしめてくれているのだろう主人の温もりが、その時ばかりは嫌でたまらなかった。この謝罪は、私だけに当てられたものでないことを理解していたから。

 

 

 

 

「ふふふ」

 

 

 童女のように笑うレミリア。愛らしさが日に日に増す。その気になれば、彼女の顔をくすぐる様に愛でる俺の指なぞ簡単にへし折れるというのに。

 

 あの日からちょうど四十九日後、俺はレミリアと幻想郷を離れた。誘拐ではなく、駆け落ちだ。幻想郷にいる限り、彼女はあの日を思い出してしまうのだろう。俺のレミリアを奪おうとした汚物を絶った日。過去の人をとやかく謗ることはするべきでない、と教え込まれたが、そうされるのが当然なものならばいいだろう。同じ人間でいることが恥ずかしい奴らを何度も見てきたことはある。その度に、絶ってきた。何度もなんとかしようとした。そして、よく裏切られては最終的に絶つことになる。そいつらのために墓を立て供養もした。だが、あの汚物には必要あるまい。虫も殺せぬ顔をして、俺のレミリアに手を出そうとしたのだ。閻魔が許そうが、神が許そうが、俺は許さない。何度でも絶つ。

 

 手遅れとなる前でよかったと心底思う。いや、実際は手遅れであったのだろう。レミリアを紅魔館へ送ってから彼女はいつもどおりの様子だったらしいが、俺に会うことは駆け落ちする日までなくなった。男が怖くなったというわけではなかった。古道具屋の《香霖堂》へ一人で行っていたのは知っている。のんきにお茶まで飲んで話していたのも知っている。それは、この檻のことなどについての話だったのだけれど。俺はレミリアのため、他の被害者のため処理をしていたから会う日がなかった。急がしかったが、レミリアのことを心配しない日はなかった。他の被害者には申し訳ないが、レミリアだけを心配していたのだ。処理をしている日はレミリアの可愛らしい笑顔が浮かんでは、あの日の可哀想な有様を思い出す。

 

 “もう一度、殺したい” 純粋な殺意が溢れそうになる。

 

 汚物は骨すら残らず焼失してしまった。魂すら残っていない。先のほうはレミリアがやったが、後は俺の方だ。許す気がなかったから、そうした。地獄行きになったとしても、あれは罪を償うためだ。償ったところで罪は消えない。触れない、不可侵領域のものだ。だというのに、償う? ふざけるな、と憤る。レミリアを取ろうとした汚物にその権利があるわけがない。

 

 だから、こうして思い出して殺し続ける。

 

 

「夢蔵、こっち見て?」

 

「あぁ、見てるよ、レミリア」

 

 

 何度も、レミリアのことが好きだということを自覚して。何度でも、あの汚物を殺す。

 

 最初はなんとも思わなかった相手に夢中になっている様が、我ながら微笑ましく思う。また来たのか、と少し呆れながら接していたのが、いつしか早く会いたいなどとなったのは比較的最近のことだ。どんな相手でも平等にするというのが、一応意識としてある。平等に差別する、という意味でもあった。人間にはこう、妖怪にはこう、とマニュアルを自分で作りこなしていたのだ。その枠組みから外れたのはレミリアが初めてだった。吸血鬼だというのに昼間から神社にわざわざ俺に会い来る。今までなら、俺から会いにいく、というか監視しにいくというのが恒例であったが、それをせず向こうから来るというのは新鮮だった。その新鮮味がよく心に響いたのを覚えている。平等に差別するのをよく分かっていても、彼女はニコニコと笑っていた。それに、また響く。他の客とは別に茶菓子を用意するようになり、会話は聞き役に徹していたのが自分も話すことが多くなる。そして、咲夜が迎えに来たので帰る、というときの別れの言葉があまり好きでなくなった。最後は、いつも愛の言葉でさようならだったが、その言葉を聞きたくなかった。一番最後の別れの言葉として残っているのはこれだ。

 

 

 “一つになるまで、二つのままで”

 

 

 意味はよく分からなかった。恥ずかしく、少し下手なウインクをして言うレミリアがすごく可愛かったのはよく覚えている。この言葉の次の日アレが起こったのだ。

 

 それから会わなくなって、そして俺たちの幻想郷での最後の日。

 

 汚物の処理を完全に終わらせた帰り道。その日も、あの日と同じ夜だった。少し厚着をするべきだったと思う風の強さに、上に来ていたものはレミリアに貸したままだったのを思い出す。月は全部、夜に食われてしまって見えない夜だった。ぼうっと空を見ながら両手を伸ばしてみた。二つの手。右手と左手を組んでみる。レミリアの言葉を理解しようとしてみたのだ。けれど、これでは意味が分からない。手を離し、片目を閉じてみる。開けている方で見える静かな暗闇と、閉じている方で見える渦巻く暗闇。どちらも同じようで違った。これもなんだか違うように感じられたのだ。

 

 開けている方の目が少々疲れたのでそちらも閉じる。ぎゅっと強くすると目の奥が痛んだ。強めの風が吹くと、風の中によく知った匂いを感じた。目を開けてみると、空に紅い月がいた。

 

 

「ねぇ、夢蔵」

 

 

 月は、届くようで届かない距離に居て。

 

 

「二つでいる?」

 

「いやだ」

 

 

 即答する。意味は分かっていないのに。

 

 

「じゃあ…」

 

 

 眉をハの字にして、甘く微笑んだ。

 

 

「一つになりにいきましょうか」

 

 

 月の誘いに乗り、外へ飛び出した。

 

 

 理解が追いつく。

 

 

 “一つになるまで、二つのままで” とは“俺とレミリアが一緒になるまで” ということだったのだ。

 

 きっと、だから、今のままではダメなのだろう。

 

 

 

 あいつと同じ人間であることがダメなのだろう。愛の言葉は何度も囁かれているし、こちらからも少しばかり恥ずかしいが言っている。けれど、たまに恐怖で引きつる顔を見るたび心が痛む。

 

 そして同時に湧き出るこれが愛だと信じている。これが、これこそが。博麗夢蔵の中に確かに生まれ、育まれて、止まることのない、愛だ。生まれたものは愛だ。育まれているのは愛である。止まることのない、この情動は愛でしかない。誰かに、それこそ、あのレミリアが失くすべきと嘆くものであろうと、之を失う気など俺が潰えるときでさえ無くすことはない。させる気もないのだ。

 

 この愛は、唯一無二。ただ思うのは、“レミリアだけを愛している”ということだ。そう、確固であるはずの蠢いて在る、未熟な感情は雄叫びをあげる。この未熟さが、程よく熟す時も熟れすぎる事もないのだろう。未熟なまま在り続け、止まることなく声をあげ続けるのだ。

 

 

「レミリア」

 

 

 幼くも美しき俺の、俺だけの、吸血鬼(愛しき女)よ。

 

 

「血を吸っても、いいんだよ」

 

 

 渇いて、渇いて、堪らないのを知っている。俺も同じだから。

 

 

「ぁ…、あァッ…! なんでぇっ!!」

 

 

 お前が必死に抗っているのを解っている。俺とお前は別の生き物だから、共に愛し合えた。でも、同じ生き物でもそれは変わるわけがないのを、どうして解らない。

 

 怖いのだろう、興味が失せそうになるのが。

 

 自慢になるのか分からないが、俺は人間の最高傑作の一歩前の領域に居る人間だ。人として生まれ、生きて、在ってきたのだから、そこに行き着くのは俺の義務だ。拒む気はない。けれど、それは昔の話になる。今は、全力を持ってレミリアと共に居たいのだ。親の顔、妹の顔、友人の顔、今までに知り合った様々な顔を思い出すが、走馬灯でもないような気がする。思い入れがないわけではない。ふと、目を閉じれば、すぐさま思い出せるほどの入れ込みようだった。でも、もう要らない。そんなものよりレミリアと番いたい。このような思いを抱く、人でなしになってしまったのだから人間ではいられないのだ。こうだから拒もうとしているのだろう。

 

 “人間でここまで強い” そういうのが良かったのだろう。だが、もう人間のままで、この情念をお前に抱くのは陋劣すぎるのだ。だから、お前に並べれば純粋なままお前を愛せる。本当に、愛せるのだ。

 

 

「アァッ! グゥ、ウゥウゥゥウヴヴッ!!!」

 

 

 自身の欲に抗うな。止めたら、いい。止めていいんだ。

 

 

「夢蔵!! 夢蔵!!!」

 

 

 血を吸いやすいよう、優しくレミリアの頭を俺の首筋に近づける。

 

 

「あぁぁアぁァぁァァ…っ!!」

 

 

 牙が皮膚に触れる。

 

 

「愛しているよ、レミリア」

 

 

 皮膚に牙が食い込む。そして、いともたやすくそれは喰い破られ、血が吸われる。同時に別の何かも抜かれていく。俺の人間性というちっぽけなものだろう。ならば、どうでもいい。

 

 荒く息をしながら血を啜る。口の端にかすかに流れる自分の血が憎らしい。熱い接吻は数え切れないほどしたけれど、血の方が情熱的に繋がっているように感じられるからだ。涙は興奮しているから流れているのだろう。確かに感じる温もりに、少し和やかな気持ちになる。

 

 互いに流れていくものの意味など、まだ理解できていない。だって、完全に同じじゃないから。

 

 そして、待ちに待った、逆流。俺の霊力にレミリアの霊力が交ざりこむ。決して離すまい、と力強く抱いている腕が軽く緩む。いや、跳ねた。腕だけではない、俺の体が跳ねている。アナフィラキシーショックのようなものだ。不安感、動悸、手足のしびれ、耳鳴り、めまい、冷や汗、呼吸困難、等々、目まぐるしく正常になるための異常が起きる。

 

 どうなるのか、そんなもの分かっているはずなのに、愛しきものを拒絶する自身の体が疎ましい。

 

 

 目の前が白む。愛しいものは小さな口で俺を飲む。頭が白んでいく。愛しいものは小さな手で俺にしがみつく。

 

 

 感覚は鋭敏のはずだ。だって、愛しいものの体温が良く分かるのだから。今の身体、魂に至るまでの異常事態がどうでもよくなる。我が事ながら、嗤う。生命の危機を感じているもののはずが、それがどうでもよいとは。小さな愛しい温もりが離れていかなければ、どうでもよいのだ、本当に。

 

 混ざる。混ざる。混ざる。

 

 交ざる。

 

 

 

 そして、生まれて初めて呼吸した。

 

 すっきりとしたもので、先ほどまでの異常がない。嗚咽を零す愛しきものをあやしながら、ふと室内にあった鏡を見る。

 

 誰も映っていなかった。

 

 

「レミリア」

 

 

 愛しきものの目蓋を優しく開け、その紅き宝石越しに自身を見る。何処となくレミリアに似ているのがいた。

 

 

「レミリア…」

 

 

 何故か謝りだす小さな愛しきもの。何に対して謝ることがある。何も謝ることなどないというのに。

 

 ほら、同じになった。そして、変わらないだろう?

 

 

「変わらないさ」

 

 

 犬歯が発達して、鋭くなっている。それ故、話すとき少々気をつけなければいけない。口内炎の吸血鬼など、恥ずかしいだろう。

 

 

「…夢蔵?」

 

「そうだとも」

 

「わたしの、夢蔵?」 

 

「勿論だとも」

 

 

 ほら、同じだ。変わらなかった。なぁ、愛するものよ

 

 

「俺が好きか?」

 

 

 即答しない愛しいもの。恥ずかしがっているわけではないだろう。きっと、溢れてくるものを抑えるのに必死になっているのだ。

 

 

「好きか、夢蔵が?」

 

 

 博麗の名など捨てる。もはや、名乗れない。もう、ただのレミリア(愛しきもの)眷属(愛するもの)になったのだから。

 

 日焼けして仄かに褐色だった肌が、レミリアと同じように白く。きちんと手入れしていた爪は長く尖っている。ならば、きっと目も髪もレミリアと同じだ。

 

 

「ぁ、は…」

 

 

 口周りを汚していた紅を広げてみる。口紅のように。そんなことしたことないから少々乱暴になってしまったが、なんとも映える愛らしさだこと。

 

 

「夢蔵」

 

 

 女は本当に紅が似合うのだな、と感心していると呼ばれた。それににっこりと笑って返す。

 

 

「同じになったのね…」

 

 

 どうして悲しげに言うのか分からないが、すぐに笑顔を見せてくれたのでどうでもよくなった。

 

 

「ねぇ…」

 

 

 目と目を合わせる。なんだか笑いたくなるが、真剣なその眼差しに我慢した。

 

 

「……あいしているわ」 

 

 

 初めて、ようやく、愛された。

 

 静かに額をくっつけて笑う愛しいもの。心地よい温かさがそこを中心に全身に広がっていく。

 

 交ざりあった魂同士が歓喜し合っているのを良く感じる。手を繋ぎ踊っているようだ。踊りは上手くないから、練習しなければならないだろう。長くなるだろうが、きっと付き合ってくれる。上手くなったら、喜んでくれるが分かるから。

 

 今度は歌を歌っているようだ。レミリアの魂だけでなく彼女自身が歌っているからもあるが、なんとも美しい一曲。思わず微睡んでしまう。まるで夢心地だ。このまま眠ればいい夢が見れそうじゃないか。夢を見るのは楽しくて仕方がないな。

 

 

 

 

 

起きることを止めようかな

 

視界を白くする

 

視界を黒くする



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

橙ルート

ルートが二つにわかれます


 猫は飼われるのではない。人が飼われるのだ。

 

 猫というものは、気ままなものが多い。甘えてきたと思ったら、すぐ引っかいてきたりと気持ちも行動も変動が忙しそうなものに見える。甘えてくれるのは、手が離せないときが常。手が空いて、さぁ、甘えて来いとやっても、とたんに知らん顔。下手すると噛まれるわ引っかかれるわ、痛い目を見る。甘えられても、すぐ気を損ねて、もういいとばかりにその場からさっさと去ってしまう。

 

 だが、それがいい。

 

 そう猫好きは言うのだ。犬のように従順でなくていいらしい。人は犬を飼いならすが、猫ではできない。猫は人を飼いならすもの。どちらも、古代から人と密接に暮らしてきた。ネズミやイノシシといった害獣避けのために、オオカミやヤマネコなどといったものを飼いならしてきた。犬が人の言うことを聞くと、その犬は賢いといわれるが実際のIQの高さでオオカミとどちらが賢いのかといえば、オオカミの方だ。人間に都合がいいことで賢いといわれるのが犬である。

 では、猫の方はどうだろう。トイレの場所や爪とぎ用のものを教えれば、それにするようになる。賢い。犬も同様にすればできる。どちらも、人間に都合がいい。ちゃんと人間に“飼われている”。だが、これでは最初に語ったこととは違うと思うだろう。そう、これは誤認だ。“人間は猫に飼われている”が正しい。トイレの場所を覚えるために、人間がトイレを用意し教え“させてあげた”。爪を研ぐのにちょうどいいものを、用意“させた”。これが正しい。犬も同じではないかと思うだろうが違う。彼らはちゃんと、できたよ、褒めてと小さな子供のようにできたことをアピールする。猫は、やってやったぞ、という俺様だ。逆に出来なければ、犬は本当に申し訳なさそうにする。猫は、なに? と悪気を見せずいつも通りにする。猫のこの俺様っぷりに眉をしかめるものがいてもおかしくはない。人間で例えるなら、飲んだくれの亭主関白を気取るくそ親父だ。

 そんなことなのに何故猫好きという物好きが存在するのか。このような様が愛おしいと躾られてしまっているからだ。

 

 ここまででわかっただろう。猫は飼われるのではない。人が飼われるのだ。

 

 飼うというのは世話をすること。猫が人の世話など出来ない。では、間違っているのかというとそうではない。世話“させてやってる”から、間違っていない。人にご飯を用意“させてやってる”。人にトイレの世話を“させてやってる”。

 なんともうんざりする生き物だ。猫好きは皆世話好きだから猫が好きになるなどとそういうことではない。世話好きでないものもいる。猫限定で世話好きなだけだ。これだと、DVする屑とその相手という関係だが、あながち間違っていない。ときおり甘い顔をするのが共通点だ。個体差によって常に飼い主にはデレデレなのもいるが、基本はツンデレであるのが猫だ。無邪気に弄んで、飽きたらさよなら、という熱しやすく冷めやすいのもある。だけれども、甘えた声で鳴いたりすれば、可愛いものだ。そうでなくとも、歩く姿はしゅっとして美しく龍がそこにいるようで、寝床にもぐりこんで一緒に寝てくれたらもう可愛くて仕方がない。ご飯を食べる姿などもう言うことがない。好物であって喜んでくれたなら、もっとお食べお食べ、とあげてしまうものだ。猫じゃらしにじゃれる姿は思わず食べてしまいたくなるほど。猫じゃらしが動くたびに、必死に前足も後ろ足も使ってぴょんぴょん跳ねて、ウサギよりも上手く跳ねていると確信するもの。忙しいときに限って、甘えてくるのもたまらない。最初は、困ってしまうものの甘えた声で鳴いたり彼らの目がじーっとこちらを見る、なにより傍から離れない様がなんともいじらしいではないか。これを無碍に出来るだろうか、否、できるはずがない。

 

 猫の魅力をなんとか絞って語ったが、お分かり頂けただろうか。本当は一つの辞書でも収まりきらないほど魅力なところがまだまだあるのだが、疲れてしまうだろうからここまでだ。

 

 つまり、何が言いたいか。

 

 博麗夢蔵(人間)()に飼われる生き物なのだということだ。

 

 まだ分からない? 仕方がないな。もう少し噛み砕いて言おう。

 

 博麗夢蔵は橙を愛している、ということ。そして、同様に橙も博麗夢蔵を愛している、ということだ。

 

 

 

「橙」

 

 

 優しい声が好き。心が温かくなっていくから。

 

 

「どうしたの、夢蔵?」

 

 

 同じようになって欲しくて、優しい声で言う。

 

 

「呼んだだけだ」

 

「なぁにそれ」

 

 

 笑みがこぼれる。

 

 夢にまで見た二人っきり。お日様が当たっているだろうところで仲良く日向ぼっこ。

 

 隣の夢蔵からいつもの少し古臭い臭いはしない。彼のいた家は神社であるため、その独特の臭いに包まれている。それをいいにおいというものもいれば臭いというものもいるだろう。橙もどちらかと言えば臭いと言い放つ嫌いなものだ。彼女が化け猫のせいもあるだろう。神社なのだから、いろいろとそういうものが嫌うものが多い。夢蔵は博麗の宮司ではなく博麗の武士なのだから関係ないといえば違うもの。彼は基本的に必要としないが特殊な墨を使い符を書いたり、精神修行の一環として写経をしたりする。他にも博麗の子として霊力を妹には満たないがある。それが、なんとも魅力的にも映れば嫌でもあるのが妖怪からの視点。

 霊力のある人間を喰らえば強くなれるというのが、言い伝えであるだけでなく事実であるのだ。霊力が多ければ、強ければなお良い。少なく、弱くとも育てて喰らうということもある。だが、そうやって舐めてかかると退治される場合が常。ハイリスクハイリターンかローリスクローリターンの選択肢。どちらも迷う。数を集めるのが面倒ならば前者、安全性を求めるならば後者。そうなればいいが、どちらもリスクが上がっていってしまうものだ。“やられたらやりかえす”。そういうものが人間にもあるからだ。喰らう者が良いほど、多いほど喰らったモノを退治しようとする。止めれば済む、と簡単にいうができない。とある妖怪のような、人を驚かすだけで腹が満ちるような安心親切設計であればいいが、そうでないものがほとんどだ。見た目は無害そうなのに実はまったく逆だというもの。人間にとって危険かそうでないかは阿求女史の本を読めばある程度はどうにか分かる。だが、それが“確実に”分かるものではない。

 妖怪も人間も食欲は変わらない。腹が減れば、あるものを喰らう。それがなんであるかなど些末なことだ。食べたいから喰らう。死にたくないから喰らう。理由はどうあれ、結局喰らうのだ。美味ければまた食べたいとなるし、不味ければ今度は違うのをとなる。…余裕があれば、の話だ。どうしようもない飢餓感に襲われたなら? 人間とて人間を喰らう。倫理観だのなんだの関係ない。腹が減ったから喰らうのだ。我慢して我慢して。我慢が限界で、限界だから。喰らうのだ。

 カニバリズムを肯定する話ではないし、これはここまでにしよう。つまり、食欲をざわつかせる様な臭いはそんなにしないということだ。

 

 それを超えるだろう、良い匂いがする。それは食欲を騒がせるものではないが、強く本能を刺激するもの。

 

 

「んふふ~」

 

 

 匂いをもっと嗅ぎたくて夢蔵の方へ向き直り、体を寄せる。すると、耳に触れないよう注意しながら頭を撫でるのだ。

 

 

「橙」

 

「なぁに?」

 

 

 優しい声の中に、奥がきゅんとするような何かを入れてくる。猫の状態では収まりきれないもの。

 

 

「好きだ」

 

「うん」

 

 

 きゅんっと。きゅんきゅんっと。奥がする。食欲を見る見るうちに超えてくる欲が出てくる

 

 

「ひゃ、あっ」

 

 

 尻尾の近くを掻くように撫でられ、あのときのような声が出てしまう。思わず顔を赤くして、両手でそんな声を出した口を塞ぐ。

 

 

「橙。いい子だから、もっと聞かせてくれよ」

 

「あぁぁぁあっ! あ、ふ…やっ」

 

 

 あられもない声が上がるのを必死で堪えるが、堪えていない感じになってしまう。

 

 

「橙」

 

「い、ま…ふにゃぁあん! ひな、た…ぼっこ…っつ!!」

 

 

 したいのはしたいけど、今は日向ぼっこの気分だったのに。

 

 

「可愛いな」

 

 

 そういう顔は笑っている。

 

 いやらしく笑っているのはずに。

 

 

「橙」

 

 

 甘えたさんの顔だから、しょうがないなと思う。

 

 甘えたさんを甘えさせる。私の見た目と夢蔵の見た目でそうすると違和感がすごいらしい。でも、私たちは満足しているし違和感などない。当たり前のものになっている。

 

 今、ふにゃりと蕩けた目と表情で、全身で私のことを呼んでは好きと言ってくる。それに応えるため此方の手を伸ばし胸に抱え、彼の頭を優しく撫でるのだ。そうすると胸にぐりぐりと頭を寄せてくる。

 甘えん坊で可愛い人。時折、少し膨らんでいる胸の頂をわざとなのか知らないが、鼻や唇で掠めてくる。もう少ししたら咥えさせてあげるから、もうちょっと待って欲しい。

 

 そういうふうにしたのは他の誰でもない私。

 

 

 迷い家のある里に迷い込んだ夢蔵たちを追い返そうと迎撃するが敗北。家の家財を霊夢に持っていかれそうになるが、それを夢蔵が止めたため恩義を感じる。以降は夢蔵を「夢蔵しゃま」と呼び甘えるようになった。

 

 

 甘えていたのは私だった。けれど今は逆。夢蔵は、子猫のように私に甘えてくれる可愛い人になったのだ。

 

 どうしてそうなったのか。

 

 私は式神が憑いている間は人間の子供程度の智慧を持つ。故に子供のような様子を振る舞う者だ。そしてこのときは、妖術を扱う程度の能力を扱える。これは、そんな対したものではない。手品に近い程度のもの。このまま変化しなければ何も変わらないものだ。

 けれど、人と同じように妖怪も成長する。それは容姿であったり能力であったり様々だ。子供程度の智慧で考えついたものは未熟、それを行う自身の能力も未熟。けれども、それを成長させれば…?

 智慧は子供程度とはいえ、人間の年で計算すれば私は夢蔵よりずっと年上だ。まだ二尾の化け猫でしかないが、それは変わらない。智慧を軽く置いていくほどの精神年齢であるのは、なかなか気づかれない。式神が憑いているときに見せる容姿年齢に引っ張られることが多く、言動や行動もそうなってしまうから。それもしょうがないと諦めるのは容易い。だが、そんな情けない選択はしなかった。

 その選択は許されない。誰でもない私が許さない。ならば何故そんな選択をし変えたのか。

 

 寂しそうに泣いている夢蔵を見たから。

 

 そんな様、甘えるようになってから一度たりとも見たことがなかった。甘えるようになるまでに彼と接したことがあるかといえばはっきりしない。自分に式神を憑けていた藍様は夢蔵ら博麗兄妹を育てたことがあるので関係は深いものだろう。たまに仕事を手伝わされるときなど紫様や藍様伝いで聞いたことがあるかもしれない。人間など興味なかったのだからどうでもいいと聞き逃したのだろう、その話をどれか一つでも覚えているかと尋ねられたなら一つも欠片も覚えていない。

 

 何故と思って尋ねた。泣く姿に疑問を抱いたのだ。

 

 夢蔵は強い。これまでほぼ全ての敵を一撃で倒すなど、身体能力は規格外。耐久力や生命力も幻想郷一で、明確なダメージを負ったことはほとんどないのだ。スペルカードルールでの戦いも並大抵の実力ではない。

 そう言う面で強いだけでなく、心も強いと思っていたのだ。強いと、誤解していたのだ。成人しているとはいえ、此方から見れば子供などと、そういうことではない。夢蔵は男であるし、当時の私やルーミアといった妖怪が甘えてきても他の人間の子供と同じように優しく平等に接してきた。普通ではない。人間と同じ子供の容姿であっても、いつどうなるか誰も分からない。あどけなく笑う顔が、残忍な笑みに変わることは少なくないのだ。里がそう言う教育方針だから、夢蔵は藍に育てられたから、そうであるからかもしれない。そして彼はどんなことがあっても折れないよう並々ならぬ鍛錬を己に課してきた。身体のものの、精神でのものも、どれも最高峰と胸を張れるほどの物を、会得した。はず、だ。

 

 それが、なんとも寂しそうに泣くのだ。頬に涙が流れずとも、そうわかるように泣く。

 

 何故と、聞く。そんなことはないと言って、いつものように優しく笑って頭を撫でてくれる。茶を濁すようであるが、そうしてくれた方が此方も安心に落ち着けたはず。けれど、このとき、弱音をこぼしてくれたのだ。

 

 

 “親父に会いたい”

 

 

 その日は、夢蔵の父親の命日であった。そして十回忌でもある。まだ残っているはずの家族の方でひっそり何かするはずが、猫の里にいる私のところでそんな弱音をこぼしに来た。それを不思議に思う。私なんかよりも、夢蔵と霊夢、博麗兄妹らの育ての親とも言える藍様のほうがそういうことを言ってもいい感じではないだろうか、と。けれども、すぐにそれを片す。恩に報いるのは今しかないと思い直したから。

 

 父親に会いたい以外にも色々と弱音を言った。もう疲れただの、もういやだだの。

 

 情けない、とは思わない。いたいいたい、と泣く彼を抱きしめてあげるのは私しかしないから。そんなこと思っては、彼が壊れるしかなくなってしまうから。溜め込んでいたものを吐き出させる。自身の程度の能力をもって吐き出させる。手品程度とはいえ、このときであればそれでも十分だ。視点を入れ替え騙す、ことができるから。

 

 彼の口からは弱音をこぼすたびに、それをなんとかしようとしている言葉を出す。

 

 “ごめんなさい”と。

 

 なんども、なんども。おなじ言葉を言う。

 

 それは子供程度の智慧しかない私でも分かった。

 

 “甘えてしまってごめんなさい”、だ。

 

 甘えている様など、見たことがなかった。藍様についていって神社に行ったときも、寺子屋にいるときも。どちらも親というものがいた。前者は、藍様や夢蔵の生みの親が、後者は慧音といった大人がいても、いつも通り。男らしくきりっとして、けれども誰にでも優しい父性も持って接している、そんな彼が。

 

 こんなにも子供らしく、(子供)に甘えている。

 

 それがなんとも、嬉しく、心地よかった。

 傍から見れば、異様だと感じるだろう。夢蔵は大の大人で、橙は多めに見積もっても十代中ごろの子供の容姿。彼らの様子は異様だ。

 

 けれども、彼らはそれがしっくりきている。子供のように橙に甘える様、母親のように夢蔵を甘やかせている様。これが、彼らの間では普通だ。

 

 人間であっても猫であっても、大人になれば親に甘えるということはしなくなる。人間であれば、思春期に入ると親がうっとうしくてたまらなくなるものだ。猫は本能的に自分で立たねばと、親元から巣立つ。どちらも途中で、親の元へ戻りたいと思うときがあるだろう。猫は許さない。大きくなれば、自分の餌も縄張りも番も自分一匹で見つけやりくりせねばならぬ。だが、人間の場合は戻ってもいいよと甘えさせてくれる。子供のように振舞うのは羞恥心がある。子供のときはそんなものはない。子供であったのだから当然のことだ。大人になれば視線は高くなり親の方が小さく物理的にも精神的にも感じる。子にとって親というものは、親のままだ。当たり前だろう。血の繋がりがどうのこうのは関係ない。絶対不変であるものだ。だから、甘えてもいい。

 

 けれど、甘えたままでいることは許されない。親は子供を育てた。子供は大人になった。大人になったなら、今度は子供であった大人が親になる番なのだから。実際、親にならなくてもいい。誰かや何かを育てればいいのだ。何故か。自分の大事なものを教え次代に託し、それをまた次代に託していかなければならないから。種の観点から言えば、優秀な遺伝子。智慧を持っているものならば、その意思や智慧など。自分が生きていたという記録を残し伝える。神話のような偉業や、学者や発明家のような才や智慧でなくてもいい。誰かや何かに、自分が生きていたことを刻み付けるのだ。

 それを連綿と続かせていく。そういう意義ある。

 

 これを放棄するのが、大人になれなかった子供のままのものらだ。生きていたことを刻み付けるなら、親だけでもいいではないかと戯けたことを本気で当たり前に思っている奴らだ。

 親が面倒を見続けられればいいが、なかなかそういうことは出来ない。親の資金や世間体などのこともあるが、親はいずれ子より先にいなくなってしまうからだ。いくら健康であっても、年を老いればあちこちガタが来る。いくらメンテナンスしようと、いずれは朽ち果てるものだ。その不安を親も子も考えている。けれど、打開するには甘えたの子が自立するしかない。一人ぼっちで生きていくのかどうかは、もう大人になってしまったなら自分で決めるべきものだ。どうすればいいと親に泣きつくことは許されない。大勢の人に認められなくとも、一人でもいいから認められればいいのだ。それは非常に難しいけれど、自分の生に意味があったのかと考えたとき、何か一つでもあれば安心するもの。何もなければ絶望して終わり。どちらが良いかといわれれば断然前者だろう。意思疎通が出来るならば誰でもそう考えるはずだ。

 

 長々とまだ詳しく考えたい内容だが、今回は夢蔵と橙という甘えたさんと甘えさせさんの話。前置きはこのくらいでいいだろう。

 

 夢蔵の甘えたは、どういうものであるか。許されるようなものとも言えるし、違うとも言えるもの。

 

 一人で立ってきたのだ、今まで。父親と同じ、博麗の武士になりおふくろと妹という大事な家族のため正気を疑うような鍛錬を積み、一人前であろうと求められることは全部為してきた。ファンクラブが出来るほどのカリスマ持つことが出来た。褒められるものだ。立派な大人である。

 

 けれど、本当は辛くて仕方がなかったのだ。追い越せない目標になってしまった父、こっそり自分たち兄妹にばれないよう父の死を悲しむおふくろ、寂しい思いを忘れるよう自分を慕う妹。家族が大事で重荷だった。しっかりせねばと感じたのは、自分から。父の代わりにはなれぬのを自覚しながら、おふくろや妹のため自身を鍛え上げた。誰かに頼りたいのは残された家族全員だったのだ。全員がそのまま甘えたではいけない。だから、夢蔵は甘えるのを我慢した。甘えたくて仕方なかったが我慢した。自分は一人で立てるよ、と自他とも騙し抜いてきたのだ。

 

 それも、橙に弱音をこぼしてから終わった。

 

 思わず零れたものだ。いや、思わずではない。我慢の限界であったことは気づかなかった。入れ物が壊れてしまっていたのに気づかなかった。

 妖怪の山であれば普通誰も近づかない。しかも歩くのに適していない獣道であったならなおさら。そこで、誰にも見つからないようにばれないように泣いたのだ。自身の程度の力である覇気を操る程度の能力は敵味方の位置を探知できる。それを行使できる余力はあるはずだと初めは思うも、泣き出すとそんな余裕はなかった。誰にも知られないよう小さくしていたが橙にはあっさりばれたから、余裕などなかったのだ。

 

 泣いたことなど、父が死んでから一度もなかった。どんなに苦しくても辛くても泣くまいとしてきたから。弱音すら腹の底に押さえつけた。自分がしっかりせねばという気の張りは尋常ではなかったのだ。だから、簡単に割れてしまう。ずっとしまいこんでいた、弱音が溢れ出て止まらなくなる。それを情けないと自分で思う余裕すらなかった。ただ、辛い、苦しいと。一番言ってはいけない言葉さえ言ってしまったほど。

 

 “助けて”などという禁止にしていた言葉を言ってしまうほど、限界だったのだ。

 

 最初は俺の様子に驚いていたものの、俺を抱きしめ優しく頭を撫でてくれた橙。小さな子の胸の中でみっともなく、それこそ自分の方が小さな子だといわれるほどみっともなく、泣いた。

 

 泣き止むことはなかなか出来なかった。嗚咽混じりに、“助けて”、“助けて”と誰に向けたのか分からないが求めた。許されないことだと、このときは思っていたのだ。

 

 でも、彼女が言ってくれたのだ。

 

 

「私が助けてあげる」

 

 

 そう、言ってくれたのだ。

 

 だけれども、すぐさま断るような愚痴を言った。

 

 

 “甘えは許されない”

 

 

 おふくろと妹を守らねばならぬ。一人で立たねばならぬ、迷惑を欠けてはならぬ。そういう思考が泣いてすっきりした頭の中で騒いでいた。けれども、それは躾けられて。

 

 

 “甘えてもいいんだ”

 

 

 に、変わった。

 

 

 いや、変わったのではない。変えられたのだ。橙の程度の能力によって。

 

 彼女の能力は、妖術を扱う程度の能力と人を驚かす能力だ。式神憑依時が前者で、化け猫時が後者。そのときの行使した能力は前者であった。簡単な妖術程度だが、このときの俺には効果抜群だったのだ。躾けられたのは、この程度の能力の力が最初大きく働いたのだ。妖術は様々あるが、このときのは洗脳のようなものだった。橙であれど全力であれば人間の洗脳など容易い。とくに心身が衰弱しているときならば、特に条件がいい。洗脳は強すぎるものではない。意識に軽い傷をつける程度だ。だが、それが強力なのだ。

 

 意識に無理やり自分でのものではないものが入ったら、自分のものではないものを異質と即座に判断し処理をする。傷なんてつけたらならどうなるか。その意識を処理してしまう。このときの場合“甘えは許されない”という意識に傷をつけたことで、それが有害だと判断され処理されたのだ。ばい菌が入れば、それを排除しようと動く白血球のような仕事ぶりだ。だが、いきなりなくなるものではない。そんなことをしたら廃人まっしぐら。ほんとうに軽いものである。処理される時間を稼ぐよう、徐々に傷を刻み込んでいく。痛みをともわないよう繊細にやる。これをなすには、二尾程度の化け猫である橙では実力不足のはずと思うだろう。だが、彼女に式神を浸けているのは誰だ。さらにそれを為しているものの上は誰だ。どちらも幻想郷のパワーカーストの上位に位置する連中。それらに世話になっている身だ、その程度難なくこなせるべきもの。

 

 とにかく、俺の意識を変えられた。それに不幸だ、不満だと怒鳴り泣き喚くことはない。そういうふうに意識を変えられたからだけではない。女になりかけの少女の優しく甘い香りは、嘘さえ包み込んでしまうがそうではないのだ。

 

 自分を肯定できた。甘えたかったという自分を肯定した。

 

 情けないと思う気持ちすら湧かない。今も少女の胸に抱かれ頭を撫でられていても。

 

 俺の甘えとは、“愛して欲しい”、“相手をして欲しい”という誰でも思うことだ。こんなこと誰でも思うことだろう。だが、本当に思うことは、“許して欲しい”、“助けて欲しい”ということ。何からという具体的なことはもう思い出せない。優しく愛して、助けてくれる橙がいれば思い出すことなどいらないのだから。橙だけいればいい。

 

 

「夢蔵」

 

 

 俺の名を呼び、父親似の少々固めな髪をくすぐるように撫でてくれる。こうなる前は、舌足らずに“夢蔵しゃま”と敬称をつけられていたがなくなって安心する。愛しい女()に敬称なしで呼ばれるのは嬉しい。とんでもなく嬉しい。

 

 

「夢蔵」

 

 

 甘い匂いの中に、男の本能をくすぐるものが入っている。少女から女になるのだろう。それは変化でもなんでもなく、彼女の成長からだ。それに少々恐怖心が起こる。大人になればこうすることは許されなくなるのだろうか、と。

 

 

「ずっと一緒にいようね、いつまでも。いつまでも、ね」

 

「あぁ」

 

「心配しなくていいから」

 

「うん」

 

「守ってあげるね」

 

「うん…」

 

 

 甘えさせてくれる彼女の胸に頭を押し付ける。“甘えたい”というこの思いは自分のもののはずなのに別のもののように感じてしまう。だが、それもすぐ忘れるだろう。

 

 

「眠いの?」

 

「う、ん」

 

 

 少女の中の確かな母性愛に包まれ全身が溶けるような感覚がする。

 

 

「じゃあ、ずっと撫でてあげるね」

 

「いなくらならないで」

 

「大丈夫、ずっといるよ」

 

「ほんとうに?」

 

「当たり前でしょ?」

 

 

 怖さを打ち消すため橙の顔を見上げる。その目は嘘を言わない。俺を愛してる、愛してるとずっと言ってくれている。

 

 

「ずっと一緒にいようね」

 

 

 まるで夢心地だ。このまま眠ればいい夢が見れそうじゃないか。

 

 

 夢を見るのは楽しくて仕方がないな。

 

 

 

 

 

 

 

 

起きることを止めようかな

 

視界を白くする

 

視界を黒くする



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

魂魄妖夢ルート

ルートが二つにわかれます


 いつしか稽古とは名ばかりの斬り合いになっていた。

 

 互いに相手が憎いから何だの負の感情での争いではない。そう、いつしか。気づかぬうちに斬り合いとなっていた。

 

 夢蔵に弟子入りしたのは妖夢が初めてではない。初めは美鈴。妖夢は二番目の弟子だ。けれど、指南の方向はそれぞれ違う。先の弟子は、氣など用いるときもあるが基本は手足を主体にする武術の使い手。妖夢は、長刀と短刀の二振りを扱う剣術の使い手。どちらの方が夢蔵にとって指南しやすいかといえば妖夢の方だろう。面白みも彼女だ。前者はすでに体の捌きやら上手い力の抜き方を知っているため、それを軽くプラスするために実戦が主。妖夢は、剣術の腕はなかなかのもの。けれど、そこには綺麗さ“しかない”。前者の武術は、何が何でも勝つ、という生き汚い面がもう備わっている。妖夢はそれが無い。魅せ物だ。妖夢の一閃一閃の、その美しき剣閃に見惚れた弱小のものらの命を絶つには十分。だが、綺麗な“だけ”なものは夢蔵や強者に到底敵わない。彼は、父が亡き後、死に物狂いの修行をしてきた。未熟な時分には、姑息や卑怯と呼ばれる戦法をもって勝利したことも多々ある。それは弱かったから。弱いなら強き者にくじかれるもの。それに引っかき傷以上のものを与えたければ四の五の言わずなんでもするしかない。生き残るために、汚いことをする。誰から見ても、汚い、醜い、恥ずかしい、そう謗#られてもかまわない。

 

 

 生き抜く――。ただひたすらに、それを目指す。

 

 

 夢蔵は守るべき母と妹がいたのでそう一点特化には至らなかったが、今の強き夢蔵がいるのはこれがあったから。砂をかけて目潰しなど当たり前。唾を吐きつけ、相手の逆上を狙うため思いもしない罵詈雑言をがなりたてる――等々、酷いことをして、妖夢の稽古は実戦を越えた斬り合いになった。

 

 当初、妖夢は何がなんだか分からず混乱しあっさり倒された。その様に夢蔵はまた酷いことをする。

 

 

 ――あんた、ダメだな

 

 

 たった一言。それは、ひどく傷つけるものだ。

 

 落胆を見せる、または滲ませるものではなかったけれど、傷をつける。それに、ひどいひどい、と女々しく泣き喚くのなら、とうに破門にしていた。だが、続いたのだ。破門されて、ただの知り合い関係になって続いているのではない。師匠と弟子の関係も続いた。当時の妖夢は混乱の最中。その中で、何故こうするのか、何故倒されたのか、といくつも思索したのだ。師事した夢蔵は、早く立ち上がれ、と言わんばかりに刀を妖夢自身から逸らさない。それの前に思索など後回しにする。

 

 祖父であり剣の師である妖忌の指南方向とは違うが、同様な厳しい稽古事をこなす。女の肌になんて事を、と言われるほど酷い傷が残ったのはよくあることで、痛みに思わず涙ぐむことはあったが零すことなどしなかった。それをしたら、剣士として終わることをよく分かっていたから。性差など気にせずに、ただ剣士として立ち向かってくることに安堵していた。ここで女だから、と手を抜かれたなら師事するのをすぐに辞めただろう。

 

 妖夢の前に立つのは剣士。夢蔵の前に立つのは剣士。

 

 それだけの関係を始め、続けてきた。夢蔵は、妖夢が憎くてひどくするのではない。そんな感情など湧かない。何の感情も無いのだ。

 彼に剣の稽古を願い出たものは今までにいた。でも、誰も続いたことは無かった。大部分が、始めの稽古事でふるい落とされたのだ。老若男女願い出たものの、全て続かなかった。基本を教える前のものは、まず体力をつけねばならない。それは並大抵の量をこなすものではなかった、故にいなくなる。基本を抑えたものには、妖夢にも行った実戦形式の稽古。ついてこれるものなどいなかった。こうなることは、もう分かっているのに妖夢にもそれをやめなかった。

 

 思いがあるとすれば、こういうことだろう。

 

 ――いつか致命傷がつくのが怖いなら、今散々に傷つけ

 

 この意味は自ずと知れよう。夢蔵も弱い頃はあった。何度も何度も怪我をして傷ついてきた。それでも、こうして今がある。父の言葉が胸に刻まれているからだ。

 

 

 ――剣はいつか己を斬る。

 

 

 そのいつかはきっと致命傷だろうと思いつく。詳しい意味は分からない。代々博麗の武士になるものに伝えられたそれは、まだ分からない。そうでも、きっとその斬り傷は致命傷なのは確かだろうと、思い至る。痛みに喘ぐだけなら、涙を零す程度なら、序の口だ。いつか、何も感じることができなくなるという、本当の痛みを知るのだろう、と。ある程度解釈した代々の博麗の武士の。否、父の教えを伝えたかったのだ。

 

 弱いままでは誰もいられない、だが、強いままでも終われない。いつか、本当の傷を負い、終わる。

 

 夢蔵は刀を握るたび、志半ばで死んだ父の柄だけになった刀が何度も脳裏をよぎる。――お前をこうはしない、お前は殺すものじゃない。そう何度も愛するように語りかけると同時に、心の隅で思うのだ。――お前はどうなるのだ、という漠然とした不安感を。それを誤魔化すには年が行き過ぎた。柄に自分の手の油が染み込むように、それらも刀どころか夢蔵の全身に染み付いている。

 

 だけれども、心の中で思うのは。

 

 誰も傷ついて欲しくない――。

 

 それだけなのだ。それだけなのだと妖夢が気づいたのは、夢蔵を斬ったあとだったのだ。

 

 

 

 

 今日も我が愛刀である鉄刃刀を握ることは無い。

 

 鉄刃刀は両刃とも峰だが、手入れは普通の刀とほぼ同等だ。拭い紙で古い油をふき取る。打ち粉をし、先ほどのとは違う拭い紙で粉を拭く、そしてまた打ち粉をして拭くこと二、三回。こうして油の曇りを完全に取り去る。次は、もらしがないか見る。それが済めば、あとは刀剣油を刀身に塗る。このとき、なかごの手入れもする。これも刀身と同じ手入れ法だ。油は古すぎると、油が乾燥して錆びの元になる。打ち粉はできるだけ細かくした砥石の粉末状のものが詰めてある。これの使用目的は、刀身についてる古い油をとること、刀の表面を美しく仕上げることの二つ。そして、拭い紙は古い油を取り去ったり、打ち粉を取るために使う。まぁまぁ、なかなかに面倒だが、これを一度でも怠ればより面倒だ。木刀もまともに触れない小さな時も、親父に言いつけられ家にあった刀の手入れをしていた。もう面倒くさがるのが面倒だと感じるようになるほど、体に染み込んだ動作になるのも当たり前だろう。

 

 そんな日常の一動作として含まれたことも、もうすることは無いのだが…。

 

 寝床に寝転がりながら詮の無いことを考える。頭の中はふわふわとしていて、めまいを起こしているのかもしれない。目は白いものを写す。ひんやりとした感触がする。錯覚だけれど。

 

 腹筋の力を使い、起き上がる。乞われて伸ばした髪が、いくつか首筋や背中に当たってこそばゆさを感じる。さて、髪留めは何処へ置いたのか、とようやく目を開けてみるのだ。髪留めと大げさに言うが、タダの黒い長細い布きれだ。妻の化粧箪笥とは別に小さな机があって、そこに置いてくれたような気がする。というか、いつもそうだ。ぐるり、と顔ごと机がある方に向ける。お…あった。

 

 両足を使い机に近寄ってブツを確かめる。予備のものだったろうに、男に使われるなんてお前も哀れだな、なんて下らないことをいつものように思いつつ霊力を操って髪を束ねる。小細工なら妹の少し下にいるのだからコレぐらいは余裕だ。三つ編みやら編み込みやらは面倒だし、男の俺がやっても気色悪いだけだろうとやらない。…けして、やれないわけではない。普通は手鏡やらなんやらで具合を確認するのだろうが、面倒なので俺はやらないのだ。ダメなら、妻がだらしないですよと少し叱りつつも嬉々として直すのだからいいだろう。全力で髪をいじくりまわされるだろうが、本人が楽しいならそれでいいのだろう。

 

 さて、寝るときの服装のままなのはどうしようか。着替えは何処に置いてくれただろうか。そういえば布団もたたまなければいけない。二人で一つの敷きと掛けを使っているが、流石に枕は二つある。俺は固い枕が好きなのだ。固すぎて、石のような枕が。

 

 だが、どうしようか。軽いことは霊力で何とかなるが、複雑だったり布団程度の重いものは無理だった。このままでいると、きっと怒られるだろう。すねげを全力で毟られる刑が発動することは間違いない。けれど、あぁ、どうしようもない。

 

 

「あなたー、朝餉ができましたよー」

 

 

 襖が開かれ妻が現れる。おぅ、まいった。

 

 

「…身だしなみ整えましょうか」

 

 

 ずりずり動き回った所為で、せっかく綺麗に整えられた着替えも先ほどまで寝ていた寝具も、ぐちゃぐちゃだ。妻は少し黙った後、俺に近づいてそう言った。

 

 

「面目ない」

 

「いいんですよ、私に頼って」

 

「…面目ない」

 

「いいんですよ…」

 

 

 菩薩のように微笑む妻がありがたかった。

 

 せっかく、いつも洗濯して干して糊をつけてくれた着物が大変である。大人しくされるがままになって妻に整えてもらう。その後に、上手く束ねたはずの髪も実は残念な仕上がりだったようで、妻にするりと解かれた。

 

 

「ちょっとここに座って待っててくださいね」

 

 

 言うとおり待つ。化粧箪笥から良い物の櫛を取り出し俺の髪を梳く。もう自分で触ることのない髪はうなじや肌に当たる。先ほどとの感触とは違ってサラサラになっているがそれで分かった。

 

 

「今日はどのような髪型にいたしましょうか」

 

 

 どうでもいい、と言うと不機嫌になってうなじを抓られるので、お任せします、とだけ言って大人しくする。きっと出来上がりは男らしくない髪型なのはよく理解している。櫛を取り出すついでに開かれた鏡を前にしてそう悟りを開いた。

 

 

「……、うん。いいですね!」

 

 

 鏡の向こうの妻が楽しそうに笑っている。あぁ、ならもういいさ。

 

 

「さて、と。次はお布団ですね」

 

 

 先ほど化粧箪笥の前にやられたときと同じように持ち上げられる。男なのに女子に持ち上げられるのは恥ずかしいがしょうがないだろう。また着物がぐちゃぐちゃになるのは俺も困る。だが、なんだかもどかしい。そんな男心を気にせず妻は俺を邪魔にならないところに下ろして寝具を片付ける。テキパキとした行動を見ていて、いい嫁だ、とまた思う。

 

 

「よっし、終わりっ」

 

 

 布団のシミを見て狼狽えていた頃が懐かしい。やり遂げた妻の顔に、そんなことを思う。

 

 

「では、朝餉を食べましょうか」

 

 

 手伝うことを最後まで許さなかった妻は俺を抱き起こした。

 

 

「なぁ…」

 

「はい?」

 

「ちゃんと立てるさ」

 

「でも…」

 

「大丈夫」

 

 

 しっかり二足で立ってみせる。よろけそうになっても手を借りないようにして、共に居間に向かう。

 

 心配そうに付き添う妻に笑いかけた。

 

 

「妖夢、お前の夫は大丈夫だ!」

 

 

 たとえ、刀を握ることがもう二度とできなくても。

 

 

 

 

 夫婦となって幾月か、それとも幾年か。そのような瑣末なことはどうでもよいと隅に置く。わたしを頼る夫の世話の方が重要なのだ。居間までの少しの距離の途中で尿意を催した夫の世話をする。いつまで経っても慣れないようで、困ったようにしながら用を足す姿に少し欲情する。本人も少し固くなるので満更でもないのだろう。そうなると、用が足せなくなって二人して照れ笑いを浮かべるのはよくあることだ。

 

 そんなことをした後、清めて朝餉を取る。わたしが口にご飯を運んだり、吸い飲みで喉を潤すという行動に少し申し訳なさそうにするも、基本ニコニコと子供のように笑いながら食事を楽しんでる。慣れた動作に誇らしくなり、見慣れた表情だけれどいつものように嬉しくなる。魚の骨をなるべく身を傷つけず綺麗に取れるようになったのは自慢だ。元々、箸使いは標準以上はあっただろうが、小さな豆を菜箸で移動するのにそれほど苦労しなくなったのなら上達したということで間違いない。料理の方も良いはず。幽々子様のお屋敷にいた頃の食事の支度はやったことが無かったのだ。他の幽霊がやり、わたしは幽々子様の稽古指南や庭師としての仕事、当時は自分自身の稽古事を夫に指南してもらっていた。共に暮らすまで調理の心得があまりなく、米は真っ黒、よくておかゆ。魚は半生だったり炭であったり、味噌汁はダシの存在を知らず塩辛い汁になったり、とひどい有様だった。けれど、調理技術を普通レベルにまで上げた。そして、見た目のよさ、彩り、栄養バランス、味、すべて見事にしてみせたのだ。夫は、わたしの言いつけで台所に入らないようにしていた。気配がした瞬間、大急ぎで夫の元へ行き大事ないか夫の降参の声すら聞かずに調べつくしたのだ。夫はそれなりの料理の腕は持っていたようだが、すでに失われた技術だ。当時より霊力の操作も、覚束ないものになっている。なら、女として、妻として、愛する人のために全力を出すのは道理だろう。

 

 朝餉を食べ終わり、わたしは食器を洗う。この洗いの時間は、夫も台所に居させる。別に手伝わせる気は毛頭ない。全部わたしがやりたいことなのだから。ともかく、夫と話しながら食器を片す。半霊に洗い終わって拭いたものを棚に運ばせつつ、せっせと片す。調理道具は使い終わるたび洗うので楽だ。会話はいつも通り他愛ないもの。短い時間だけれど、二人でいる時間のなんと素晴らしいことか。なになにが美味しかったとか、朝餉を食べたばかりだというのに夕餉は何にすると聞いてきたり。その都度、嬉しいという感情を顔にも声にも出してくれるから、こちらも同様になる。当時とは違う、少し幼くなった甘い声と緩い表情はなんとも心をくすぐるもの。あの斬り合いのときとは別人のようだ。当時を思い出し、はにかんでしまう。

 

 洗い物が終わり、わたしと夫は部屋で書を読む。音読し、項を捲る。初めは、読み聞かせなどしたことが無く、緊張して早口になってしまったりよく誤読したこともあったが今そんなことは無い。隣、肩を寄せ合って、一つの書を読む。

 

 わたしの声だけが部屋に響き、後は二人の息遣いの音。

 

 この時間も大切だ。夫婦が共に居ることは大切なのだ。離れないようくっついていなければならない。けっして離れてはいけない。どうしても、というときはあって離れることもあるが、その離れた分を埋めることは重要で、隙間が開いていると不安で仕方が無い。そこから逃げていくもの、そこから抜けていくもの。それがあってはいけないのだ。

 

 そのようなことをいつものように思い詰め、今日の音読を終わる。喉が渇き、傍においていた冷水を飲む。それから、夫にも吸い飲みで水を。間を見て用を足す。夫のをしてから自分もする。このとき、わたしから離れさせない。恥ずかしい気持ちは勿論ある。けれど、何処にもいかないでほしい気持ちを分かって欲しいので傍にいてもらう。

 

 この後は、わたしの剣の稽古だ。夫を越えた腕が鈍らないように。

 

 魅せ物であって、冥土の土産。当時のわたしの剣は魅せ物でしかなかった。それを、最期の土産にする。綺麗なまま終わることを願うのはわたしが女だからだろう。醜いところなど見られたくない、無様な様など見て欲しくない、情けない姿など見せられない、そういう思いは確固な物。けして外れることのない、わたしの絶対神域。仇なすものであろうとなかろうと、これはずれることはない。確かに見つけたわたしの神域。

 

 夫の視線を感じる。静かな、とても静かな、白色だ。枯れて落ちる葉のような生気のない空気感。それでも、静かな白色はわたしから一寸も離れない。それの、なんと嬉しいことか。

 

 

 【あぁ、あなた…、離れないでいてくれるのですね】

 

 

 もう両腕がなくても、離れないでいてくれるのですね。

 

 責任を負っているから、愛したのではないと分かってくれるでしょうか。剣で語り合った日々の中に育もうとした愛を今育んでいることをお分かりですか。答えることはないことは分かっているのです。

 

 あなたの刀が憎かった。あなたから離れてくれなかったから。  あなたの意思が疎ましかった。わたしから離れていくから。だから、どれもこれも壊したのです。

 

 離れて欲しかったの。わたしから離れないようにしたかったの。わたしだけのあなたにして、あなたにはわたししかいないと思って欲しいだけだったのよ。母親や妹共を見ないで、親しい仲を見せ付けられるのが不快だった。里の女共と話さないで、わたしの知らない臭いをつけないで。思い出すだけで頭が痛む。わたしは剣でしか語り合えなかった。剣だけの関係だった。刀の無味な鋼の輝きに、わたしの恋が映っていたのにきっとあなたは気づいていなかったのでしょうね。初めてあなたに会ったときから想っていたのに、馬鹿な人。一目惚れなのよ。あなたの強さに興味を持った以上に、あなたが気になったの。気絶していても、あなたの霊力は残っていたのだし、それを追えばあなたを見つけられる。屋敷の幽霊やわたしの半霊を使ってあなたを見て恋をした。

 

 えぇ、恋したの。…そして、あの日。わたしたちは離れなくなったの。

 

 本当に。

 

 嬉しい。まだ、嬉しい。

 

 

 あの日。妖夢に斬られた日。

 

 なんの油断もなかった。いつものように全力で生きた、あの日。両腕を斬られ、それを失った日。思わず呆然とした。そして心底、安堵した。負けたことや、両腕を失くしたことは、少し、いや、やせ我慢はよそう。本当にひどい衝撃だ。けれど、安堵できた。

 

 もう、いいのだ。そう、気持ちが落ち着いた。

 

 そんな俺を気にすることはなく、妖夢は俺の腕がついた刀を壊した。《誓いの証》だったものを壊されても激高することもなかった。言葉にしようとするならば自分が積み上げたものに失礼であろうと、飲み込んだ。その所為で、涙がこぼれていってしまった。俺の矜持からこぼれたものではない。それは、なんと言おうか…。きっと、“離れてはいけないものが離れてしまったから”。斬れたのではない。離れていってしまったのだ。

 

 剣はいつか己を斬る、とはこのことか。あぁ、確かに致命傷だなぁ…。そう思い、涙は止まらなくなっていた。

 

 その後からの記憶はあまりない。女の味を知ったけれど無味に感じたし、夫婦となった日付すら曖昧。腑抜け、という言葉すら優しい言葉になるほど、離れてしまった俺はよく分からなくなった。媚びるように笑い、ばれない様に心で泣くことが常になった。なにも今が悲しいから泣くのではない。

 

 何もなく、離れてしまい、いたかった。

 

 だから、泣いていた。それに、妖夢も気づいているだろう。呆けてしまったようにいる男の隣にいたのは何故なのか、理解できなかった。剣では語り合ったことは多々あるが、それだけであったのだ。義務感からか、とも考えたがそうではないだろう。献身的に世話し、愛し、受け入れるその様は、なんだか離れてしまったものが恋しくなることがなくなるほど興味を惹かれた。白い中、見つめた先に見えたのは、“甘い”ということだ。舐めた意味ではない。ただ、ほんのり感じる、その甘み。溶けてしまうくせに離れることのないもの。

 

 大事な、物。そう、大事にしなければならないもの。

 

 だから、これは生まれたのだろう。今度こそ、離すな、と生まれたのだ。

 

 

 ――愛する女(魂魄妖夢)を離すな。逃せば博麗夢蔵はずっと離れたままだ。

 

 

 そう、いたい。

 

 

「なぁ、妖夢」

 

 

 笑いかける。媚びたようになっていないか、心配する気が起きない。

 

 

「俺は立つんだ、一人で」

 

 

 怯えないように、幻肢痛で心を奮い立たす。

 

 

「お前と並んで立ちたいんだ」

 

 

 何も出来ない俺に、何かが出来ることはもう無いけれど。何かしてやりたい気持ちはあるんだから。

 

 

「妖夢、好きだ」

 

 

 そう、ようやっと言えた。

 

 媚でも怯えからのものでもない。本気の本気。大事な刀を壊されたときも、両腕を斬り落とされたときも、ずぶずぶ意識が溶けていたときも。これだけは、揺るぎもしないものなんだから。

 

 

「夢蔵…さ、ん」

 

 

 床のとき以上に女らしい表情の妖夢によかったと思う。やっと“愛せた”。

 

 

「夢蔵さん、好き」

 

「俺もだ」

 

「ちゃんと言って」

 

「好きだ…」

 

「うん。好き…。好き…っ」

 

 

 両腕が残っていたなら、片腕だけでも残っていたのなら、泣き落ちる愛しい人を抱きしめられたのにと思う。もっと、どんなものにも負けぬほど強固で。むしろまた生えるようなものであればよかったのに。斬られたことに何ももはや思うことはない。今が重要なのだから。

 

 なんとか体を愛しい人に近づける。小さな肩に頭を寄せた。

 

 

「ちゃんと好きだから」

 

 

 涙声はちゃんとした言葉になっていない。でも、謝っているように感じられたので、もっと頭を妖夢に寄せた。泣き声がひどくなる。

 

 

「なぁ、妖夢…」

 

 

 言葉で抱きしめる。

 

 

「いたいんだ」

 

 

 そう言うと、しがみついて来た。両腕の無い、少し軽くなった上半身がぶれる。案の定、その場に倒れてしまった。

 

 

「いたいんだよ」

 

 

 筋肉が少し無くなった胸に妖夢がしがみつく。

 

 

「わたし、も…いたい…っ!」

 

 

 …あぁ、抱きしめてやりたい

 

 

 そう思いながら、やってきた眠気に身を任せる。妖夢の体温が心地いいのと、俺がすっきりしたことからの安堵から出てきたのだろう。

 

 鼓動と共に動いている確かなはずの愛情は、いつか流した赤と緑の補色のようで。口の中で、ほのかに灰が香る。

 

 

  まるで夢心地だ。このまま眠ればいい夢が見れそうじゃないか。夢を見るのは楽しくて仕方がないな。

 

 

 

 

起きることを止めようかな

 

視界を白くする

 

視界を黒くする



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八雲藍ルート

ルートが二つにわかれます


 博麗兄妹が幼い頃に、私は世話をしていたことがある。私自身の意思からではなく、紫様からの命でだ。特に疑問に思わず遂行した。紫様は私にとって絶対だ。そのような存在から下されたものに疑問など抱いてはいけない。彼らの父母たちの了解はすでに紫様によって得られており、すぐ世話係に勤しむ。

 

 世話をするのは幼い子供たち。しかも人間。加減が難しい。二人とも血統からして凄まじいが、その当時は幼子。私より背も知も低い相手に手こずるのは道理であった。食事のときは大人しくしていないし、勉学や修行のときもあっちこっちに気を散漫させ、遊びも子供観点では可能と勝手に判断する危機管理のなさ、寝るときでさえ彼らが寝落ちするまであれこれしたり、と悪戦苦闘し披露困憊が常であったのも懐かしい。二人とも男女であれど年がそれなりに近かったので喧嘩は茶飯事。勿論、夢蔵は妹の霊夢が女の子であるのはわかっているし、年下だから怪我などはさせなかったものの、霊夢が大声で泣くまでちょっかいやらなんやらをかけていた。毎度毎度、夢蔵が霊夢を泣かせては彼の尻を真っ赤になるまで引っぱたいたものだ。これはまだ優しい方である。

 彼らの両親の叱り方の方が怖い。ご飯抜きなど体調面での罰はなかったものの、両親は子供たちが何かやらかすと完全に反省したことが分かるまで彼らを無視するのだ。ご飯は作るし、修行もやる。けれど、義務的にやってくる。もともと、修行では親子の情など然程知らんという厳しさであったが、頑張れば褒めるし、怪我でもすれば心配そうに声をかけたりなんだりもする。けれども、そんなものもなくなる。親子間だけでなく夫婦での会話も聞こえなくなるので、実は仲が悪いのではと危ぶまれるほど、確かにあった暖かい家族間の会話がまったくなくなってしまう。

 子供であれ大人であれ、居心地の悪いところにはいたくない。改善できるのであれば改善に手を尽くすのはどちらも同じだ。時間がかかるものなら、より短く出来るよう調整し、手順や物が必要なら揃える。夢蔵と霊夢が揃ってごめんなさいと謝るときもあれば、それぞれ別々に謝ることもあった。

 

 子供の時分だ。家庭内の不和は強くクるものだろう。酷く心が不安定になるものだ。泣きべそをかいて、酷いときは体調まで崩した。それでも両親は、心から反省するまで許さない。手を出さないやり方で、こうも子供を痛めつけるやり口はないだろう。私でさえ子供たちには同情したものだ。それゆえ、私もなんとかしてやろうと動く。が、夢蔵らの両親は、これがウチの教育方針です、と揺らがず続いていた。

 

 なんとか許されて父母が優しい顔をすると、子供たちの安心した顔が見れる。その日は決まって、子供たちの好きなものばかり出るのだ。別に子供たちを嫌っているからではないのが分かる。父母も話せなった間の寂しさ苦しさがあるのだろう、いつもは夜更かしなどさせないのに子供たちが話し疲れて寝入っても子供たちの傍を離れなかった。豪快な寝相の夢蔵と寝言が煩い霊夢たちの寝顔を優しそうな目で見守り、彼らの頭をゆっくり撫でる。普段、兄妹らの寝かしつけは私の役目だが、そのときは父母が出番だ。私は控えにさえならない。

 

 まぁ、また繰り返していたが。

 

 それでも、楽しく家族をしていた。その中に、私も混ぜて。

 

 当初は、人間などと思って適当に世話をしていたが、いつしか情が湧いた。嫌いなものを残していたら無理やり口に突っ込んでいたのが、どうしたら食べてくれるだろうと悩みながら食べてくれるように調理したり、勉学や修行をさぼり遊び呆ける様にイライラし怒鳴り散らしていたが、躓いているからと察し同じ目線になって共にしたり、いつまでも寝ない子供たちに妖術をかけ強制的に寝させたのが、彼らの父母が子供たちを寝させない私を叱るまで子供たちとお話をしていたり、と私も博麗一家の一員のようになっていた。

 

 楽しい日々。それも終焉は来たのだ。

 

 紫様が言ったのだ。世話係をやめてとある仕事を手伝って欲しいと。

 

 以前なら、即座に命に従うため世話係を辞めただろう。だが、分かりましたという言葉だけの即答すらできなかった。私の名を呼んで笑いかけてくれる子供たちから離れたくないと思っていたのだ。いたずらをしている時だって構わない、泣きべそをかいていたって構わない、最後はなんとも愛らしく私に笑ってくれる子供たちから離れたくなんてなかった。一時だけとはいえ嫌だった。

 

 食事のとき、おいしいといいながら笑う顔をずっと見ていたい。勉学や修行で辛くとも励んでいるとき、よく頑張ったなとちゃんと褒めてあげたい。遊ぶとき、怪我しないよう見守って一緒にもっと遊んであげたい。眠るとき、悪夢を見ないよう子守唄を歌ってあげたい。

 

 まだまだ、やってあげたいことがある。私がいなくなって悲しそうにする子供たちが目に浮かんで、苦しくて堪らない。何度か、紫様の元へ行くため彼らから離れたことがあったが、それから帰ってきたときの寂しかった、会いたかったと口でも態度でも表して、くっつき虫になる子供達の姿も浮かぶ。

 

 離れたくない。

 

 子供たちが、大きくなって。好きな人が出来て。結婚して。子供を作って。おじいちゃんおばあちゃんになって。大往生で眠りにつくまで。ずっと、ずっと傍にいてやりたい。

 

 なにも、これからずっと彼らから離れるわけではないことは説明されて分かっている。けれど、そのときの私にいつもの冷静さはなかった。

 

 紫様は悩む私を困ったようにしていたが、強制的に離してしまった。

 

 お別れの言葉すら出来ずにお別れをしてしまったのだ。子供たちの泣き顔が浮かんで止まない。苦しくて苦しくて堪らなかった。

 

 けれど、命には逆らう気は元々なかった。私は紫様の式なのだ。そのおかげで、子供たちと会えた。そのせいで、子供たちと離れた。

 

 そして、またすぐ会えるということはなかったのだ。仕事は現在まで内容は変わりつつも続いている。

 

 そうして数年後、『春雪異変』で開いてしまった幽明結界を修復中に脱走した幽霊達を捕まえて連れ戻して来た夢蔵とようやく再会を果たしたのだ。

 

 

 

 

 小さな頃、見上げていた背を今は越している。

 

 大きくなった俺は、藍よりも強くなっているはずだ。子供の頃は、簡単に尻を叩かれていたが、そんなヘマもやられる気も毛頭ない。

 

 だから、一人前の男として見られるのも当然のはずなのだ。酒も飲めるし、嫌いなものも食べられるようになったし、次代の『博麗の武士』としても立派だとも言われている。

 

 それゆえ、初恋を実らせるのは十分であるだろう。大体、初恋というものは異性の親らしいが、俺は藍だった。特に深い理由でもないが、気づいたら好きだった。そう気づいたのだ。藍がいなくなった後に気づいたものは、幼くも叶えられないものだろうと思ったのは当然だ。女性というものははっきりとどういうものかは分からないが、その発展途上段階の女の子のことは良く分かっていたからだ。俺の妹である霊夢を筆頭に良く分かる教材はあるのだから。色々個性はあれど、根本はどの子も同じ。

 

 女と男は違うもの、だということ。

 

 何を当たり前と思うが、これをちゃんと理解するには勉学だけでは成しえない。会話など接しあわなければ分からないのだ。子供の頃から女の子というのは複雑に出来ている。男が単純というわけでなく、女が複雑すぎるのだ。活発だろうと大人しめだろうと、彼女らは自分を一番に良く見て欲しいというところがある。男もそうだろうというが、女の子はそれを綺麗に見せるのが上手だ。おふくろが言うには、女の子は生まれたときから女らしいが、そう言葉は非常に正しいのだろう。男のようにふざけていても、叱られるときは一番反省してますという様を見せるのではなく、私はしょうがなくやったんです感を意図的であれなんであれ自然にやるのだ。俺が見てきた女の子の中で、こうしていなかった女の子はいなかった。前者のように謝れば一番の悪と断定されるだろうが、後者であればこの子は悪くないのかなと判断されるのは茶飯事だ。悪を被ろうとする子もいたが、結局擦り付けていた。

 

 男の場合は、馬鹿だろうと計算高くいようと、自分が悪かったと謝る。女の子はそうではなかった。そういう態度だから、これだから女は、という輩もいる。そこで拗れると面倒だが、俺はそういうのではなかった。良く観察し勉強していたのだ。なにも真似する気はない。自分の性分に合わないし、そういうのは ない と思ってもいた。なら、何故、そうしていたか。藍の好みに合うようにしたかったからだ。

 

 自分から直接聞いたわけではないし、本人が好みがどうとも言っていなかったが、おふくろが言っていた、女は自分を分かってくれる人が好きという言葉を今も信じているのだ。

 

 初めから藍を観察しろと言われるだろうが、自身の初恋に気づいたのは彼女がいなくなってからだ。本番相手がいないなら練習相手しかいないだろう。

 

 観察し勉強した俺は、女と男は違うもの、と理解した。違うならば相容れないということはない。今も俺が生きているように、違うけれども、すれ違い続けているわけではないのは確かだ。すれ違うこともあろうが繋がるときもあるのだ。その繋がるときが長い者たちが、恋仲となり夫婦となるのだろう。そうなってから、すれ違いが増えて終わってしまうこともあろうが、あったことは変わらない。一本の糸ではなく、もう一つ糸があって、それらが絡まらないように上手く繋がったとき他人から近くなる。あらゆる糸がある。その中で、絡まらないことはないし、繋がらないこともない。多種多様にあり、七転八倒するもの。その糸を途切れないように紡がせるには苦労する。一本の糸のまま生涯を終えるものはきっといない。

 

 故に、赤い糸というのは目には見えないけれど確かにあるはずだ。

 

 そうして繋いだ。今度こそ離れないように結んだ。

 

 それも、離れ分かれたことがある。

 

 一度は、子供の頃。それは赤い糸というわけではなかったが、繋いでいたものは分かたれた。再び繋いだのは、俺がすっかり大人になったあとだ。

 

 それも、分かたれた。

 

 もう繋ぐことはないと諦めることは出来なかった。藍の傍から二度と離れたくない、別れの言葉も言えないさようならは嫌なのだ。

 

 だから、もう一度繋いだ赤い糸は結んだまま離れないように。強く結び、何度も結ぶ。

 

 まるで絡まっているようにぐちゃぐちゃで不恰好に見える二つの赤い糸。それが、俺たちの正しいあり方だ。

 

 途切れずに紡ぎ、繋げ、結ぶ。

 

 終わる気はない。ただ、好きな奴とは一緒にいたい。

 

 子供の頃の恋は成長しているかは知らん。大人の恋愛の仕方など分からん。

 

 こんな格好がつかないから一度分かれたのかと知っても意味がない。

 

 子供のころからの恋心を舐めるな。ずっとずっと、初恋を忘れなかった俺を舐めるな。

 

 格好つけられないほど、お前が好きなんだ。子供のままでいられないんだ、藍が好きなんだ。

 

 

「お前が好きだ、藍」

 

 

 結んだ赤い糸を解くことはやめよう。

 

 

 

 

 夢蔵と藍の愛は酷く不確かである。

 

 夢蔵は初恋の相手を藍とし、それを実らせた。けれど、それは一度壊れたことがある。

 

 一度実らせたものは、陳腐な恋愛物語。口に出すまでもなく陳腐と感じるもの。藍は保護者としての観点でしか見ていなかった。それ故、夢蔵との仲もなかなか進展しない。それどころか、ちゃんと一人の男としてみていなかったはずだ。愛し愛されはしていたが、それは男女の仲というものではなかったのだ。藍から見れば、たとえ自分より背が高くなろうが強くなろうが、幼い頃の夢蔵の印象が晴れない。それもそうだろう。彼とは、幼い頃のときほど一緒にいた時間はいまだないのだから。ダダをこねる姿も、いたずらっ子な姿も、泣きべそをかく姿も、そういう幼い【子供】時代の姿の方が、目に焼きついているしよく理解している。大人になったとはいえ、そう知っているからこそ【子供】としてでしか見れなかった。だからだろう、夢蔵の恋は実らせさせたが、終わらせるのではなく《壊れた》のは。

 

 年の差での恋愛事情は昔からそう珍しくはない。恋歌が盛んに行われる平安より前からそういうものはあった。互いに惹かれてから始まるものはごく僅か。どちらかが気になってからが始まり。夢蔵たちは後者の方。年上が年下を恋愛対象にするには、条件や柵が付きまとう。自身と相手の年齢であったり、世間体であったり。年下は、そんなこと知ったこっちゃないというブレーキを破壊して突進してくるのがほとんど。夢蔵もコレに当たる。

 ――愛してるなら、どうだって構わない。そういう姿勢だからこそ、《壊れた》。ある程度はそれでいいかもしれないが、ずっとではそうなるのが道理だ。石橋も叩き続ければ壊れるように、いくら強固であれど壊れるものは壊れる。

 

 面倒くさい言い回しはここまでにしよう。

 

 率直に言えば、夢蔵は女に夢を見すぎて藍との仲が壊れたのだ。

 

 誰だって他人に夢を見る。――これぐらいはしてくれる、これなら許してくれる。そういうものは接していくうちに、自分の理想と相手が違うという齟齬が起きる。当たり前だ。相手は自分とは違う生き物なのだから。自分に都合がいい存在が欲しいなら、夢を見てるだけにしろというもの。それを受け入れるか、それとも理想を押し付けてくるかで差は非常につけられる。全て受け入れろというわけではない。嫌だなと思うところを我慢し続ければいつか爆発する。ときには、こうしてくれないかという提案することも大事だ。そうすれば、相手も考慮してくれたりするし、あなたはこうしてね、と長続きする秘訣になる。けれども、初めからそうできる人はそうそういない。頭ごなしにこうしろと命令口調で言ってしまったり、デリカシーに欠けて愚痴のように言ってしまったりと、そうすることで仲が終わることは珍しくない。お分かりだろう、夢蔵と藍は理想の押し付け合いだったから壊れたのだ。

 

 夢蔵は初恋であり恋愛経験はないものの、女をよく観察し適した対応を学び実行してきた。だからこそ、ファンクラブなるものが出来ている。けれども、全力で女にぶつかったことはなかったのだ。不快に思わないように計算し対処し為す。そういう一連の動作は、非常に億劫だ。疲れもする。だからこそ、藍には全力でいってしまった。自分のやりたい放題にしてしまったのだ。藍に都合があっても、それを無理やり手伝って一緒にいたり、一人の時間も必要だろうにそれを考慮せずにひたすら傍にいたりと、数々のアウトなことをやってしまった。

 

 藍も理想を押し付けていた。それに違和感を感じるものはいるだろう。けれど、本当のことだ。夢蔵は成長したというのに、いつまでも子供に接するようだった。長く生きた彼女は男との付き合いをよく心得ている。男女の仲になり、色々してきている。綺麗なこともあれば汚いものもあっただろう。だから、綺麗なことであり続けるようにしてしまった。恋愛は綺麗なままではいられない。そして、相手は子供の頃を知っている夢蔵だ。どうなろうと、恋愛『ごっこ』しかできなかった。成長した【男】の夢蔵ではなく、おままごとのようなごっこ遊びを【子供】の夢蔵としていた。

 

 そして、壊れた。

 

 疲れたのだ。恋仲であれなんであれ、一緒にいて疲れることもあろう。けれど、蓄積すれば発散する。そういうこともできず、溜めに溜めて壊れた。そうなったのは、愛交渉をしたときだった。べつに性交渉ではない。キス程度のものだった。する前に壊れていればまだマシだったもの。けれど、壊れたのはした後だった。傍からみれば、このまま仲が続くだろうという様子だったが、し終わった後に互いに感じたのはとてつもない疲労感だった。それで二人は解ってしまった。

 

 ――好きじゃない、と

 

 お互い、夢から覚めた気分だった。ちゃんと好きであるはずだったのに、心が冷めていく感じは誤魔化せない。相手が好きなのかと問われれば、二人とも即座に好きだと応える。このときもそれは変わらない。だが、熱くなるはずの心は急激に冷めていく。

 

 そう、《壊れた》。

 

 修復は不可能。もう新品を用意するしかない。なんなら、再利用してからのものでもいい。

 

 即座にその判断は出来なかった。だから、二人は一度壊れ、離れた。笑顔で別れたのだ。言葉にはしない。ただ二人だけには壊れたことを理解し、離れた。

 

 

 けれど、今は再び共にいる。愛し愛されの仲、理想を押し付け合う仲。ちっとも変わっていない、わけではなかった。

 

 夢蔵の全力を変えたから、再び繋がっている。

 

 初恋と童貞を拗らせた妄想を止めた。愛するなら、藍というのをちゃんと見だした。幼い頃の、思い出補正フィルターというなかなか取れないはずのものを取ったのだ。接し方も丁寧に、けれど時折乱暴にならない程度に強く、藍を愛していることを全力で伝える。そうなれば、藍も意識を変える。いつまでも子供であるという考えが抜けないのが、解され取っ払われた。そうしても、すぐに男として見れるわけにもいかない。どんなに接していても子供の頃の彼の姿を思い出し、その頃のような接し方が直らなかった。これは一度壊れたときもそうだった。が、夢蔵は努力した。藍の見てきたどの男たちより随分黒い恋情を隠して隠してゆっくり開放していく。独占欲、支配欲によく似た、藍に対する紛れもなく真っ直ぐな愛情。壊れたときは、それをとても綺麗に見せていた。藍が夢蔵を【男】としてみないが故のダダだ。それを、幾多の男と接してきた藍でさえ“黒い”というのを見せてくる。恋愛は綺麗だけではないのをよく知っているからこそ、それがなんとも“嬉しい”と感じた。夢蔵の恋情をようやく理解できたのだ。それまでは、夢蔵の恋情を理解したつもりでいただけだった。ごっこ遊びは藍から始めたものだったのにようやく気づく。

 

 そして、黒いままの恋情は二人を再び結んだ。

 

 

「夢蔵」

 

「どうした、藍」

 

 

 二人くっついて木に寄りかかる今を見れば解るだろう。

 

 

「キスがしたい」

 

「…あぁ」

 

 

 あの藍が強請ってくれる。熱くなる心はよく知れよう。

 

 大人の色気の中に恥ずかしげに見せる少女のような色気に意識がやられる。目と目が合うことでさえ愛撫のようだった。目蓋が下りてしまえば、前戯を始めてくれと言っているものだ。

 

 

「ん…」

 

 

 触れるだけ。

 

 なんども触れる。

 

 

「ふ…ぁ、夢蔵…」

 

 

 夢蔵が藍を魅力的だと思うように、藍も夢蔵が魅力的だと思っている。藍からすれば、これさえ体験したことがあるだろう。けれど、夢蔵とするとまるで初体験だと感じるのだ。男に自分の名前を呼ばれるのも、男に触られるのも、男を感じるのも。

 

 

「藍」

 

 

 男が藍の名を呼ぶ。それだけで、愛していると伝えてくるのだ。

 

 

「藍」

 

 

 低くなった声は、聞かせるだけで藍を愛していることを解らせ犯してくる。

 

 

「夢蔵、あのな…」

 

 

 犯してくるのは藍も同様である。少し低めの掠れたアルトは、耳だけではなく脳を犯す。

 

 

「分かってくれ、私はな…。お前が、な…」

 

 

 続く言葉はなんなのかは分かっているが、是非に聞かせて欲しい。この確かにあるはずの恋情は止まることはないのだから。

 

 

「すき、なんだよ…」

 

 

 幼い夢蔵とは完全に別れた瞬間だった。

 

 さようならは今ようやく言えた。別れの言葉ではないものだが、別れの言葉だ。ごっこ遊びは終わり。かくれんぼも鬼ごっこも、おままごとも終わり。

 

 

「すきなんだ」

 

 

 泣くほど悲しいけれど。あの時、何度も泣いたけれど。悲しくて悲しくて、泣いたけれども。

 

 

「俺も好きだ、藍」

 

 

 愛する男がいるから、もうこの悲しさとはお別れするべきだ。

 

 涙が静かに流れる。夢蔵はそれを優しく見守り、微笑んでいる。

 

 

「あぁ、幼い頃の夢蔵(お前)とはさようならだ」

 

 

 無邪気に笑っていた頃の顔を、今の大人びた男の顔に変えた。

 

 

「だから、これからよろしく夢蔵(愛する人)

 

 

 ようやく愛は生った。

 

 

「とんでもなく愛するよ」

 

 

 その藍の言葉に黒い恋情は純化されかかった。

 

 長年拗らせたものだ、やすやすいかない。黒いままでいないと困る。だって、幼い頃の夢蔵()とさようならできないから。

 

 

「なら、どうにかなるほど愛するから」

 

 

 確かなはずの恋情はちゃんと黒いまま応えられた。

 

 ようやく繋がったこの赤い糸、繋いで、紡いで、結ぶ。俺が最後の男だ。藍が最初で最後の女だ。

 

 

 さようならはしないから。

 

 

 互いにそう言って、二人の時間を作り続ける。

 

 

 まるで夢心地だ。このまま眠ればいい夢が見れそうじゃないか。夢を見るのは楽しくて仕方がないな。

 

 

 

起きることを止めようかな

 

視界を白くする

 

視界を黒くする



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

伊吹萃香ルート

ルートが二つにわかれます


 酒は良いものだ。

 

 そう思う連中は多いだろう。軽く酔えれば、さわやかな気分になる、陽気になる、とにかく気分がいい、など。ストレス解消、コミュニケーションの円滑化、疲労回復もできる。しかし、これだけではない。味にも色々こだわりがあるものだ。甘口か辛口か、喉越し、キレ、匂い。色もある。ビールのふんわりとした泡と蜂蜜色の液体におもわず唾を飲んでしまうほど魅了され、ワインなど果実酒は華のように綺麗な色を咲かせ、ウイスキーといった蒸留酒は夢をみせてくれるような琥珀色に心を奪われ、純米酒や清酒といった日本酒の美しき透明さは飲む者をいつか龍にもなれる魚にさせるほど。

 

 酒は悪いものだ。

 

 そういう人もいるだろう。酔いが強くなって気が大きくなると口だけでなく乱暴をする。口だけでも勘弁願いたいのに手は出るわ足は出るわならば、店側は出禁にするほかない。元から粗暴のものもいれば、普段は優しかったり、大人しかったりする連中も酔いすぎればこうなるものも少なくない。酔いすぎの連中も迷惑だが他の迷惑なのもいる。周りがイッキ飲みを進めたり、飲めないのに無理やり飲ませたり。そして、それが原因で大変なことになっても、自分の所為じゃない、と責任を放棄する。先の方は我を忘れて、後の方はその方が楽しいから、そんな理由で失敗を犯さないでほしい。酔いがひどければ死亡することもあるのだ。

 

 酒が生まれて今に至るまで。酒で失敗しないものはいなくならないし、死ぬ輩もいなくならない。気をつけろ、と昔の人が言ってもいなくならないのは何故だろう。酒の誕生から何百年も立ち、低く、安定しなかったアルコール度数は高く、そして調整できるようになり、味も匂いも、酒の薀蓄をたれる飲んだくれどもが納得する出来のものは数多くある。けれど、失敗も死ぬこともなくならない。人がバカすぎるからというものもある。賢いのに一週回ってバカというのも勿論ある。これだけではないが、まぁキリが無いのでここまで。

 

 結論から言おう。酒というのは良いものだ。酒自体に罪はない。飲む連中が自身や周りに程度や加減が分からんバカだらけだからいけないのであって、酒に罪はないのだ。酒と上手く付き合っているものは悲しいことに少ない。飲めば飲むほど偉いという、意味不明な意識は絶対にいらない。

 飲むものが、いいなぁ、とゆったり楽しむ。食品やそれ以外のものを肴に、一緒にいたいもの、あるいは一人だけで、酒と楽しめればそれでいい。初めは、そういうものだったはずだ。好きは押し付けるものではないのだから。楽しいは共有するものだけど、これも押し付けるものではない。言語もまともに整ってなかった時代でさえ、こういうことは分かっていた。好きだからこうして、楽しいからこうしろ、という“皆がそう思う”という意識でやってきたことは、たいてい何処かで顰蹙を買っている。小さな意見を優先しろということではない。そういう意見もあるんだ。なら、こういうのはどうだろうと、意見を新たに生まれさせることが重要だ。酒造りにも、こういうのはある。ただ度数を高くしろと作られたものは鬼でさえ飲まない出来に仕上がったのは数知れず。

 

 意見を出し、精査し、挑戦する。

 

 ときには失敗もあろう。そこで責任を擦り付け合わず、また別のやり方で挑戦することが大事だ。責任を負うことも大事だが、それは終わってからやるのではなく最初に決めておくべきものだ。リターンとリスクはあらかじめ計算しておくもの。リターンはハイに、リスクはローに。長期的に見るか、短期的に見るかで色々違うが結論は同じだ。

 

 一緒にいるなら楽しみたい。

 

 この意識があったから、外の世界だけでなく幻想郷でも人は生きている。そして、その意識があるからこそ、妖怪は人間に焦がれるのだ。

 

 自分も楽しみたいからまぜて、と。

 

 

 

 

 二人くっついて酒を飲み交わす。旦那はそこまで酒に強くない。そもそも酒より肴のほうが好きだ。だが、味はそこそこ分かるらしい。甘口の酒にはこの肴、辛口にはこの肴とこだわりもあるのだ。今日は辛口の酒。一応、樽であるがこれを旦那一人で飲み干すというなら、きっと丸々一日飲んだくれの生活の一週間でも足りない。

 

 

「ふぅー…」

 

 

 飲み始めてから半刻。たったそれだけなのに、旦那の顔はすでに赤くなりつつある。つぶしがいがないな、と頭の上から出たため息に笑ってしまう。

 

 

「うまいかい、夢蔵?」

 

「あぁ」

 

 

 最近の旦那は、肴より酒らしい。神社にいた頃は、宴会や私との飲みでも酒瓶の数より肴を平らげた皿の方が多かったのに。

 

 

「萃香、いいなぁ」

 

 

 意味も無い言葉だ。酔いがだいぶ回っていて、いつもの涼しげな笑みが子供のようなふんにゃりとしたもの。わたしより大きな手を私の手と重ね合わせたり擦り付けたりして遊んでいる。

 

 

「いいなぁ…」

 

 

 指の腹で手のひらを擽られる。上手く言えない甘さを感じた。その指を折らないように細心の注意をしながら握りこむ。やめろ、という意味ではない。戻って、という意味だ。

 

 

「夢蔵」

 

 

 こちらに傾いている旦那に声もかけた。

 

 

「んー…?」

 

 

 あどけない顔は可愛らしい。カリスマ性を持った、あの【博麗の武士】がこいつだとは、もう誰も分からないだろう。それほどまでに可愛らしいのだ。

 

 

「もう少しやるかい?」

 

「おう!」

 

 

 戻らない。そうしてしまったのは私だ。少々、寂しくもあるが独占できるのでこれでいい。

 

 

「すぅいーかー!」

 

 

 楽しそうだ。

 

 

「すいかぁ」

 

 

 なんとも楽しそうだ。

 

 

「す、い、かぁーっ!」

 

 

 戻ってなんてくれないんだろうな。

 

 

 今日の分の酒を飲んで機嫌が良くなった旦那に、なんとか笑いかけた。震えることもない、暴れることもない、妄想の所為で逃げ出したりもしないならいいんだ。

 

 酒はいいもの。旦那はいい人。そう、どちらもわたしにとっていいものなんだから。本当に、そうなんだから。握っていたはずの指は気づかぬうちに抜け出していて、わたしの手にはなにもなかった。呂律の回らなくなった舌でわたしの名を呼ぶ旦那に笑いかける。

 

 

「夢蔵」

 

 

 こんな権利なんかないんだけど。

 

 

「ねぇ、夢蔵」

 

 

 なんとか笑みを作って。

 

 

「戻っておくれ…」

 

 

 お願いをしたのだ。

 

 

 

 

 酒は良いもののはずだ。酒のおかげで夢蔵は笑っていられるし、萃香も笑っていられる。それが偽りのものだとしても平穏に過ごせるものならばよいのだろう。

 

 夢蔵はアルコール依存症になってしまっている。アルコールが切れると鬱状態や不安感に襲われ、それから逃れて自分を保つためにまた飲酒をする。暴力も盛んに。離脱症状の一つである幻覚に怯えている、そんなろくでなしとなってしまった。元々、酒が三度の飯より好きというのではなかったが、今では浴びるように酒を飲む。飲まないよう断酒すれば禁断症状を起こしてしまう。萃香の程度の能力で血中のアルコール濃度を下げてみても、その所為で離脱症状が起きてしまう。手の震え、動悸、イライラ感、不安感、そして重篤のものが起こる幻聴やせん妄。これらを起こしてしまう。永琳に治療をしてもらってはいるものの、一向に回復しない。どころか、悪化の一途を辿っている。

 アルコール依存症を発症すると、快楽を感じるのに重要な脳の領域に変化を生む。アルコールは間接的に、前脳に存在する神経組織の集団である側坐核のドーパミン濃度を増やすといわれている。側坐核は、簡単に言えば脳の【快楽中枢】だ。そこにドーパミン―中枢神経に存在する神経伝達物質で、快の感情、意欲、学習に関わる―の放出によって快の情動が生まれる。使用初期ではコレを求めて物質(アルコール依存症で言えばアルコール)の使用頻度が増す。依存性物質使用後の快の情動はずっとは続かずに、快の情動が立ち上がった後、少し遅れてそれを沈静する不快な情動が立ち上がって、情動は快・不快に偏ることなくバランスを維持しようとする働きがあるらしい。そして、快の情動は物質使用の繰り返しによって次第に減少し、それに代わり不快の情動が次第に増す変化が起こり、初めは快を得るために物質を使用していたのが不快を避けるために物質を使うという目的変化が起こると論ぜられている。この不快を取り除くために物質使用行動が強迫的になるという変化もあるのだ。ドーパミンが関与する脳内報酬系の機能が減弱し、不快の情動を除こうとする物質使用頻度が増す、ストレスホルモンと言われるコルチコトロピン放出因子を介した脳内ストレスシステムの働きの方が優勢になることが推察されている。

 

 簡潔に言えば、快に寄り過ぎないように不快を出してバランスとってたけど、いつしか不快の方が強くなっちゃった。不快が嫌だから快モット欲しいーとなっても、とった快分また不快にするよ。えー、やだー!!とストレス溜まる、そのストレスを失くしたいがため、より強い快を得て、また不快を繰り返すような感じである。

 

 快だけ得ていたい、そう誰もが思うだろう。だが、それは無理だし止めた方がいい。ラットでの実験でこの論説が生まれたが、彼らは快を得るために飲水も食事も取らず衰弱しても快を得続けたという。ろくに知力を持たない生物だからということではない。何かしら夢中になれば寝ることも食べることもしなくなる、それがずっと続くとどうなるかは分かるだろう。途中で止められればいいが、快楽には誰しも弱い。一度快楽を覚えれば誰しも溺れる。ドーパミンが過剰になると精神疾患を患うという説もあるのだ。ドーパミンは気持ちを緊張させたり興奮させたりする神経伝達物質。これの働きが強くなるから幻覚や妄想を起こすという説は小さな声ではない。実際にドーパミンの働きを活性化させる薬剤を使用し、それらを引き起こす例は多い。ストレスも一概に悪いとは言えない。ストレスという【不快なもの】があるからこそ、それを何とかしようと行動を起こせるのだ。コレがなければ何も進歩しない、下手をすれば何もかも破綻する。たとえば、《疲れ》というストレスを感じる。失くそうと休む。このストレスがなければずっと動けるだろうが、体は消耗品だ。いつか壊れる。それを阻止するためのストレスだ。過剰にあってもいけないが全くなくてもダメだ。

 

 夢蔵の話に戻ろう。彼はアルコール依存症だ。アルコールがないとどうしようも出来なくなっている。アルコール依存症に必要なのは断酒や節酒だが、夢蔵はそれらをしようとすれば発狂する。幻覚症状に怯え、上手くいかない現状に嘆き、わけもわからず暴力を振るっては、また酒に走る。依存症には周りの助けも必要だが、萃香は酒を飲ませてしまう。飲めば、異常行動は一時的にだが治まるのだ。やってはいけないことだが、可哀想という気持ちがあげてしまうのだろう。こういう場合、萃香もカウンセリングなどしたほうがいいのだが、それはもうやっていない。

 

 酒飲みの二人が可笑しく暮らしている現状。

 

 

 幸せでいよう、そう願ったというのに。

 

 

 

 

 

 

 意識が鈍い。それもそうだ、あまり得意でもない酒を飲んでいるのだから。酒を飲むのが、こんなに気分が悪くてこんなに心地良いのは何故なのだろう。愛した鬼を傍に置きながら酒をまた呷る。

 

 いつからか、酒に逃げるようになった。萃香とは上手くいっていたのだ。あの日まで。酔っ払って、手を出したあの日までは。

 

 いつものように手合わせをしていたのだ。その日は試しにと酒を一瓶飲み干してからの一勝負。いつもとは違う高揚感、ほてり、頭の絶妙な冴え。癖になりそうだった。酒気に溺れぬようにしている脳はまともではなく、視界もだいぶ揺れている。実際、視界だけでなく体も安定していなかった。まともでない状態での勝負は楽しかったのだ。萃香も楽しそうで満足。いつも以上に加減が出来ぬ互い。俺たちにとっては可愛らしいじゃれあいであったが、他の連中にとっては騒動以上の災害であったらしいのだけれども。その楽しいじゃれあい中、つい力が入りすぎた。猫が気まぐれにネズミをいたぶる様な、そんな軽い気持ちで力が入る。それに萃香も応戦した。それは、萃香の程度の能力の行使。

 萃香の程度の能力は【密度を操る程度の能力】。この能力で異変を起こしたことがあるのは分かっている。それの行使。何に使ったか。“俺”にだ。俺の《理性》の密度を下げて、《本能》の密度を高めた。俺とて、所詮は人。人とてチョットばかし頭がいい獣。理性が小さくなれば、どうしようもなく。本能が大きくなれば、どうしようもなく。共に全力を打ち放つ。すると、勝負ではなく合戦だ。俺は所詮人とて、並みの力ではない。もはや自慢ではなく忌むべきことになったが、幻想郷で俺を実力で倒せるものはいない。俺一人で幻想郷中の猛者を全て絶てるほどの実力。萃香は鬼だ。見た目は幼く愛らしくても、軽く撫でただけでも普通の人間は骨を物理的に折られるほど。そんな者達が、理性を失くし本能を暴きながら戯れる。勝ち手は俺だった。重体になったのは萃香だ。重傷より重体の方が容態が悪い。死にかけの状態だ。四肢は折れ、肉は抉れて内臓が毀れている、そのような状態。だが、そのような状態にしたというのに俺の理性は微塵も戻らなかった。ただ本能のままに貪った。鬼の象徴である二本の角を折ってそれを萃香の穴に突っ込んだり、飛び散った指を無邪気に拾ってはばら撒いてを繰り返していた。ここまででも異常だが、この後はもっといけない。本音を大いに曝してしまった。具体的には、“萃香が嫌いだ”ということ。詳しい内容は言えない。少しでも曝せば俺はもう何も出来なくなってしまうから。とにかく、俺はいけないこと、最もしてはいけないことをやらかしてしまったのだ。萃香と意図的に育んできた情が消えた。そうなるはずがそうはならず。俺は駆除されるべきであったのに、謹慎処分すらなく。

 

 そして、萃香との仲は続いた。

 

 正確には修復にかかった。

 

 

 萃香は手遅れになりかけつつも月の賢者の力は凄まじく、そして鬼の生命力も非凡なもので三月ほどかけて回復した。俺との仲は、といえば、良い方に向かった。あれだけ酷いことをしたのに、酒に誘うことをやめてくれなかった。罪悪感が生まれてしまう。俺は、どんな相手にも遠慮なく接する。つまり徹底的に差別していく生き方をしていた。そこに好悪の感情を含ませず、義務的に為す。ある程度仲良くなれば、それを維持する。越えようとしてくれば無くさない程度に蹴り落とす。難攻不落な壁を築き、その前に比較的安全なよう座布団を並べるような“遠くにいてくれ”という姿勢。家族は特別枠。他は種別も性差もなく別けていた。等しく好きで、同じように嫌いの感情をどんな相手にも持っていた。それを気取られたことはない。自分の評価を気にしたから、その考えを施行したのではない。そうすれば“皆良くなる”と信じぬいたからだ。でも、どれほど強固な壁でも崩れてしまえば意味は無い。壁を崩されれば為す術がなかったのだ。

 

 ちゃんといえば、おそるおそる触れ合いだした。

 

 子供のときのように純粋ではないし、自分の本当の汚いところを見られているのだし、俺は苦しくて仕方がなかった。障害が残ることはなかったが殺しかけたのだ。理性が残っていればそうはならなかった、と萃香の言葉に甘えることは出来ない。いつもの手合わせも、話すことも、一緒の空間にいることすら苦しかった。申し訳ないというのは勿論あった。反省を言葉だけでなく態度で示しても、萃香は気にするなと笑うだけ。より苦しむ自分がいる。それを見かねたのか、酒を勧めてきたのだ。酒で失敗したなら、今度は酒で成功しろと。何が成功なのか分らないが、苦しみから逃げ出したかった俺は酒を飲んだ。

 

 結果、酒がなくてはまともになれなくなった。酒があってもダメなのだが、ないとよりダメになったのだ。

 

 家族に見放され、友人であったものにも見捨てられ、今隣にいる萃香だけになってしまった。

 

 触れ合うことをしだした結果、全部壊れてしまった。萃香の所為でなく俺自身の所為で。楽しそうに笑っているのだって本当は嘘だ。飲んでるときは何もかも面白そうに見えるが、すぐに苦しくなる。吐き気といった酔いによるものではなく精神的に苦しんだ。心が暴れるのだ。許されたいと。誰にか、萃香に。しかし、本当に許されたいのは俺自身に対してなのだ。究極的な利己主義に吐き気がする。自己保身にひた走る。俺は自分のことをどうしたいのだ。隣で悲しむ者をどうしたいのだ。

 

 許してくれ許してくれと、苦しんで、暴れて。それをなんとかしようと、また酒に浸る。

 

 

 隣にある心地よさに吐き気がする。あんなに嫌いだったのに。どうして、どうして、いなくならないでと縋ってしまうんだ。

 

 あぁ、本当に嫌いで。

 

 本当に、……好きなんだよ。

 

 今まで気に入った人間は幾らかいた。どいつもこいつも好ましい奴らだった。そんな奴らもいなくなって年を数えるのも馬鹿らしくなってきた頃、旦那がいたんだ。わたしを倒すのに赤子の手を捻るが如く。好ましく思った。神社に転がり込んだのは当たり前だろう。鬼は人が好きだ。強い奴は尚更。手合わせをして、それが終わったら茶をしばいて、同じ釜の飯を一緒に食べてきた。共にいることが多くなり、楽しみが増えていたのだ。わたしほどの鬼が手合わせするということは、軽い戦争と言ってもいい。命は賭けないようにという繊細なことは面倒だし嫌い。だから、ギリギリで遊んでいた。何度も遊べば勝手が分る。互いの好き嫌いが伝わり共感し共有する。それが、より嬉しくなる。

 

 そう、どんなことにも付き合ってくれる旦那が、好きになった。

 

 遊びの勝手が分っても、男女のものは違う。伊達に生きてないし、それなりに経験もある。でも、ここまで明快に好きという情が湧くとは思いもしなかった。旦那が風呂に入った後にモヤモヤしたり、同じ石鹸のにおいをさせる自分の体に照れてしまったりと、なんとも乙女過ぎることになった。しかし、わたしに女らしいところはあまりない。酔っ払っていないと、ダメなのだから。素面で対するなど無理でしかない。酔っ払いでも、いやだからこそ好きを伝えるのは綺麗になる。

 

 だというのに、わたしは旦那をちゃんと愛せてない。

 

 酒に溺れてしまった旦那。皆から離して、わたしと二人っきりにした旦那はより溺れた。何も悪いことをしていないのに、謝罪をする様。それが、苦しかった。その様が見たくないから、またこうして酒を勧めてしまう。

 

 馬鹿。馬鹿だ、わたしは。いくらでも謝罪をやめさせる手段はあったのに、もっと上手く好き合えるのに、ずるくて楽な方に逃げてしまった。この一杯で止めさせればいい、でも止めさせられない。だって、怖いから。また、嫌われるのが怖いから。あの日は忘れない。永遠亭に突っ込まれたとき、何度も悪夢として見た。わたしを嫌いにならないで欲しい。他のやつが嫌いでもいい、でもわたしだけは好きで欲しいのだ。綺麗なものではない。乙女らしいものでもない。ひどい利己的なものだ。

 

 嫌われるのは慣れていた。わたしは鬼だから普通は忌まれるもの。節分の豆まきが残っていることが、鬼を忌んでる結論になる。豆まきはいい。むしろ大歓迎だ。これがあるから、わたしは人と触れ合える。でも、夢蔵には忌まれたくない。嫌われたくないし、好きでいて欲しい。好きでいてくれなきゃ嫌なのだ。

 

 好きでいる。難しいことだ。  嫌いになる。簡単なことだ。

 

 わたしは難題をずっとこなしている。旦那に難題をずっと応えていて欲しい。好きでいることは苦労である。でも、薄れることはない。変質はしてしまったけれど薄れることはなく深く生きている。旦那は難題を解いているのだろうか。また程度の力で本能を暴れさせれば答えが出るだろう。でも、怖い。自分の体がどうなろうと構わない。でも、また嫌いということが分ったら。

 

 生きていたくない。

 

 好きでいて欲しい。もっと好きになって欲しい。嫌いにならないで。好きでいて。嫌いになんてならないで。

 

 怖い。怖くて苦しい。

 

 

「ねぇ、夢蔵」

 

 

 苦しいから。

 

 

「すきだよぉ…」

 

 

 好きになってください、そう、愛する人に懇願した。

 

 耳を疑った。

 

 

「………」

 

 

 今なんと言ったんだ。萃香、なぁ、なんて言ったんだ、お前。

 

 

「すきなんだよぅっ…!!」

 

 

 泣いている。

 

 俺の。

 

 好きな奴が、泣いてしまっている。

 

 

 こんな俺を好きだと、言うのか。初めて、好きな奴から告白された。もう幾つ過ぎて共にいるか分らないが、こんな事言われたことはなかった。こんな、こんな。酔いが醒めるような事。いつも笑っていた。いつも戻ってくれと笑っていた。でも、本当は泣いているなんて、本当に好きだなんて、そんなこと思っているなんて知らない。俺に好意を向けているのは知っていた。それを知りつつ俺の深いところには近づかせなかった。そしてあれだけのことをしたのに、なんで好きなんだ。理解が、出来ない。

 

 

「あんたがねぇ…! っく、すきなんだよ…」

 

 

 尻込むように小さくなる声。でも、温度は熱いまま。

 

 俺が萃香を好きになるのは理解できる。もうどうにもならないから、どうしてもいい相手といたいと好きになれる。だが、お前はどうして…?

 

 

「あんたといるとうれしいんだ…。あんたと飲む酒は、ホント美味いんだ」

 

「………ぁ」

 

「いっしょにいてっ!! いっしょにもどろう…? 気分のいいふたりにさぁっ…!!」

 

 

 二人でいたい。二人で…? こんな俺といたいってのか?

 

 

「はぁはっ」

 

 

 酒臭い息で笑う。萃香の涙は止まっていない。

 

 

「萃香…」

 

 

 酒で満ちた杯を放る。お前の力は、今は要らないのだ。まともに力の入らない体を全力で動かし、萃香を抱きしめる。

 

 

「好きだ」

 

 

 酔いなどしない。そんなもの忘れた。

 

 

「好きだ」

 

 

 呂律は回っている。滑舌もいい。酒やけしていた喉は絶好調。

 

 

「ぁ…?」

 

 

 素面な萃香。はは、好きだ。

 

 

「好きだ、萃香」

 

 

 俺の中で、まだ生き残っていたチカラを全力で行使する。酒の力など、もう頼らない。長く使われず、酒の力に負けて小さくなっているチカラ。動け、巡れ、存分に博麗夢蔵(萃香の好きな奴)に成れ。描いていけ、萃香に好かれる自分を。現れろ、俺自身も好きになれる俺を。

 

 そして

 

 

「夢蔵……?」

 

 

 ちゃんとしろ。

 

 

「萃香、好きなんだってっ!!」

 

「夢蔵っ!!」

 

 

 ちゃんと、愛させてくれ。

 

 チカラが動いて、心地よくなる。新しく正常に動き出した、似非臭い恋情。本物であり続けて欲しい。高まる心拍数と体温。異常事態ではない。正常に稼動している証拠だ。でも、あぁ、気分が良すぎる。まるで夢心地だ。このまま眠ればいい夢が見れそうじゃないか。夢を見るのは楽しくて仕方がないな。

 

 

 

 

 

起きることを止めようかな

 

視界を白くする

 

視界を黒くする



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蓬莱山輝夜ルート

ルートが二つにわかれます


「ねぇ、夢蔵」

 

 

 私が呼びかけると、目蓋を閉じかけた目で私を見る。

 

 

「痛い?」

 

 

 開けた目の黒目部分は虹彩すら濁って生気に満ちておらず、それは命が失われる直前のようだ。

 

 

「痛いかしら…?」

 

 

 いつも着ている上下とも白い衣服は、まるで死人のために誂えられているもののようで。

 

 痛くなる。

 

 

「私は、痛い」

 

 

 どこも負傷箇所はない。互いに。

 

 けれど、こんなにも痛い。

 

 

「―――」

 

 

 虫の息の夢蔵が重く息を吐き出す。魂を吐き出しているのではないか、そう思えるものにより痛くなる。

 

 

「夢蔵」

 

 

 膝に乗せた夢蔵の頭。それを撫でていた手を、夢蔵の首に。

 

 

「ねぇ、生きて」

 

 

 そして、あらん限りの力で絞める。両手を使い、体重も乗せて。

 

 そうすると、彼は必死に呼吸しようと喘ぐ。息を吸い込もうとする強さは、頚動脈などの振動が手に伝わるためよく分かる。

 

 

「生きて」

 

 

 目から涙を流し、顔を真っ赤にさせて。吸い込む息の量が少しでも多くなるようにと、口を大きく開く。酸欠の状態なのだろう、手に当たる首の血管が必死な様子で膨張しているのが分かる。脳はより多く電気信号を、心臓はより多くの鼓動をと夢蔵の体全体が、彼を生かそうと全力になる。

 

 

「生きて…」

 

 

 唾液を飲み込む余裕すらないのか、大きく開けた口から流れていく。

 さっきまでは力なく投げ出していた四肢が活発に動き出す。それが私に当たる。けれど、今、私が感じている痛みに比べたら気にするほどでもない。

 

 一回だけでも息を吸えたらいいと、必死に生き足掻く夢蔵。

 

 その姿でこの痛みが和らぐことはない。苦しい様に、痛みは治まらない。むしろ私のほうが苦しいし痛い。

 

 痛みをどうにかしたい。

 

 その思考に染まっているのは、ただ夢蔵に生きて欲しいからだ。

 

 生きて欲しいのだ。

 

 

「――…っ!」

 

 

 夢蔵の目が大きく見開く。

 

 最期を告げられた。――そう理解するのは難しくない。

 

 

「生きなさいよぉおぉぉお!!」

 

 

 手を離し、夢蔵の頭を両手で掴む。瞳孔が完全に開きかけ、命が終わるのを見せつけてくる。

 

 それは許しがたい。許してなるものか。

 

 この痛み()を忘れていいはずがないでしょう―――!?

 

 

「夢蔵、夢蔵、夢蔵夢蔵!!」

 

 

 恥じらいを捨て、愛しい人の名を泣き叫ぶ。

 

 貴方がくれたのよ、この痛み()は!! 貴方にあげたいのよ、この#痛み()を!! 

 

 貴方と痛み()を育みたいの…。この痛み()は、共に在りたいと叫んでいるの。

 

 ねぇ、分かってよ…っ!!

 

 

 最期の呼吸なのか、息を咳き込みつつめいいっぱい吸う夢蔵。涙が彼に降りかかる。

 

 終わらないで――。逝かないで――。死なないで――。

 

 

「生きてくださいぃぃぃ…!!」

 

 

 吐き出される息を止める術が何一つ思い浮かばない。

 

 いや、いや、と泣き叫び錯乱する。

 

 

 最期になるだろう、夢蔵の生き様。

 

 目に焼き付けるべきはずのものは、涙が止まらない自分の目ではぼやけてはっきり見ることが出来ない。

 

 

 肺を最大限に膨らました夢蔵は、溜まったものを吐き出すため収縮する。

 

 長く細く吐き出される息。

 

 止まることなく、静かに。

 

 

 そして。

 

 

「かっ…ぐや」

 

 

 咳をしながら、私の名を呼ぶ。

 

 

 ――あぁ、生きてくれたっ…!!

 

 

 

 

 博麗夢蔵と蓬莱山輝夜は愛を交わした仲だ。恋のこの字も知らず、間違えて「変」と書き間違えてしまうような幼い恋愛ごっこもすれば、布団の中でお互いの情愛をぶつけ合うこともする。行動だけでなく、言動でも互い互いが愛を告げあった。

 夢蔵の口はそれほど上手くない、そして行動も牛歩のように遅いし鈍い。致命傷にはならないものの、傷が残る具合のものがあった。それもすぐ癒えるもの、のはずだった。夢蔵にデリカシーがなさすぎるということはなかったのだが、輝夜という愛おしい人ができるまでは女の扱いに不慣れ。彼の妹や、彼らの世話をした藍や、里の女性陣などなど色々手馴れるものだろうが、そういう女達での慣れは愛を交わす仲での触れ合い方が異なることに気づくのは手遅れになってからであったのだ。

 

 

「やめて」

 

 

 付き合う前。意識する前に、間違った接し方をしていた。いつもは、少し膨れた顔をして軽くそう言ったのは輝夜だ。そして、いつもとは違う少し苛立った声でそう言ったのも輝夜だ。妹を含む子供たちのより、少し上くらいの対応をこのときはしていたのだが、誤りであったことに輝夜のそれでようやく気づかされていた。どう対応すれば良いのか一瞬判別がつかず、その一瞬が仇となりその日の輝夜は不機嫌なままだった。

 

 

「やめて…」

 

 

 あの対応を間違えた日から数ヶ月後。あれから対応を変えたことで、いつもの和やかな雰囲気に変わった。だが、それもすぐにまた輝夜は不機嫌になる。対応を変えたことで彼女の機嫌が直ったのだが、それは直ったように見えただけだったのだ。このときの対応は、年頃の女性にするものだった。

 年頃の女性は難しい。すぐ怪しんだり訝しんでは、重箱の隅をつつきたがる。そのくせ、興味はあるというのに自分はいいと大人の女性ぶる。ならば、大人扱いすれば都合の良いところで子供に戻るから対処が難しい。年頃の女性が主に夢蔵のファンクラブメンバーなため、対処に失敗したことはあまりなかった。失敗しても、周りのファンクラブの女性や昔から知っている大人女子達がフォローして名誉を回復させた。だから、年頃の女性に対する対応を間違うことはあまりなかった。

 けれども、間違えたようだ。年頃の女性に対する対応なため、前より距離を離した対応がお気に召さなかったらしい。だからといって、前に戻したら非常に怒ることは目に見えた。そうなることが目に見えたからこそ、どう対応をすればよいか混乱し、また輝夜の気を損ねた。

 

 そう対応していたからかもしれないが、この頃に夢蔵は輝夜を一人の女性と意識しだした。それまでは、輝夜の世間知らずで天真爛漫、そして好奇心旺盛な様にそういう意識が湧かなかったからもある。夢蔵とて年頃だ。どういう体型が好みなどなど、里の男たちと猥談をこっそりする程度は女に興味がある。今は帰る家でなくなったが、家のほうに秘蔵の春画はそこそこあった。それに輝夜に似たような女がいなかったかといえばいないはずもなかった。似すぎていると罪悪感で萎えてしまうため特徴を絞り、行為しだしたのはこの頃だ。何も輝夜限定ではない。いいなと思う女性はそこそこいたのだ。

 

 でも、輝夜を恋愛対象としては見ていなかった。

 

 それが一番の悔恨になることはこのときは知らない。

 

 

「やめなさい」

 

 

 だから、また対応を変えた。前回や前々回とも違う対応。親しいけれど深すぎない女性の対応。前回と同じように感じるかもしれないが、だいぶ違う。前回は前々回でしていたスキンシップを極力減らしていたのだ。年頃の女性にべたべた触るものではない、そういう意識をモットーに触れるとしても指紋がつかないように布巾や手袋越しで触るように接していた。そういうものをもう少しフレンドリーにしたもの。指紋がついたとしても、その指紋をふき取る。そのようにする対応だ。具体的には、貴女は気になるけどどうにかしようとする気はない、という紳士のような対応だ。女性にとって男性は皆紳士でいて欲しいもの。けれど、紳士すぎても自分に魅力がないと思われてしまい難儀する。そういう対応なのだ。やはり、なのだろうか。気に入らないと不愉快気に言い放つ輝夜がいた。またまた対応を間違ってしまい、夢蔵はまいった。これ以上の対応は無理だ。なぜなら、経験したことのない領域なのだ。他の女性の対応といえば、すでに相手がいる女性に対するものしかないというのに。

 

 冗談でも、ここからは勘違いさせてしまうような対応はしてはいけない。夢蔵は二人きりでいる輝夜の部屋で緊張を解くため、あまり残りがない湯飲みに手を伸ばしながらそう思考する。

 

 近くで物足りなさそうにしている輝夜を見て浮かんでくる朧気な「好き」という言葉に確信が持てないのだ。夢蔵自身のもののはずの「恋情」と呼ぶべきものは、いささか汚れていた。性欲からか他の深層意識的なものからなのか、それとも両方からか、自身の欲望を輝夜に似た春画で発散させたことが負い目なのだ。性欲からも愛は生まれるだろうが、そういうものはよろしくないという意識はある。人間の三大欲求なのだから恥ずべきでないと教えられるが、何処を見ても性欲は恥ずかしいという認識。男なのだからしょうがないという思考は「逃げ」であるという意識もある。

 

 輝夜は、男がそういうものであるというのを「かぐや姫」として育てられたときも、月にいた時も知っているし学んでいる。気持ち悪いとも思うし、しょうがないとも思っている。そういう話もこの対応中にオブラートに包んで輝夜から話してくれた。暗に、自分をネタにしていることが分かっているぞ、と圧を送っているのかと感じたがそうではないことは良く知っている。

 

 

 湯飲みを掴もうとした手を捕られ、夢蔵の思考が濁る。勢いで湯飲みが倒れ中身がこぼれてしまう。自室でそんなことをしたというのに、輝夜はそれを無視し夢蔵を自分から離さないようにした。

 

 

「夢蔵」

 

 

 この日、初めて夢蔵の名を呼んだ。それに思わず思考の迷路から出てきてしまった。

 

 

「私のこと」

 

 

 いたずらっこのような笑みが妖艶に。目と目が合うと、輝夜を食い入るように見ている夢蔵自身が見えてしまった。

 

 

「好きなんでしょ…?」

 

 

 その輝夜の声は、思わず腰に甘い痺れが入るほど快感を促すようなものだった。

 

 

「どうなの?」

 

 

 輝夜が女を使ってくる。そういうのを使わない関係を維持してきたのに。

 

 

「夢蔵…?」

 

 

 畳の上に倒された。痛みはない。よく分かっていなかったが、本当は自分から倒れていた。そして倒れた夢蔵の上に輝夜は跨ってしまう。

 

 甘い蜜のような声は、耳に入った傍から鼓膜を溶かし、器官と神経を侵して、脳を支配するように感じられた。思考の機能が失われていく。鍛えた理性が崩れていくのが手に取るようにわかる。

 

 

「……ぃ、だ」

 

 

 性欲が暴走しそうになる。そのせいで、呂律がまともじゃない。けれど、言わないといけないことがある。それをせずに事に及ぼうなど、切腹ものだ。

 

 

「輝夜」

 

 

 体中が熱い。発汗もするし膨張もする。唾を飲んでも喉はカラカラなのに、目はギラギラし理性が限界なのを物語るだろう。羊の皮をかぶった狼が、化けの皮を剥がした。この様子を女性は恐怖心を抱くなというのは無理な話だろう。喰われるという立場は恐怖でしかない。

 

 けれども、輝夜は違った。彼女自身も、羊の皮をかぶった狼だったからだ。こっそり男を興奮させる香や薬など盛ったりしている。即座に逃げるべきはず事態を自らセッティングし、事に及ぶ所存だ。化粧をしていなくても白い肌は赤くなり、好奇心でキラキラとしている目は情欲で潤み、いつもより大人っぽく見える口紅をつけた唇は苺のように甘いよと夢蔵を誘う。掴んだ手を自身の鎖骨に這わせ、彼女の尻から太ももを撫でる手をじれったそうにして両太ももの中央へ行くよう揺れる。

 

 

「すきだ」

 

 

 夢蔵が襲い掛かるよりも前に、輝夜が覆いかぶさった。

 

 この日、夢蔵と輝夜は心身ともに結ばれた。傷が治らないものだと知らずに、傷ついたままで。それもちゃんと治ると信じて。

 

 何度も交わった。漏れる言葉が、上等な言葉での愛交渉ではないが、通じ合った。

 

 確かに繋がったのだ。

 

 

 

 

 

 夢蔵と輝夜の男女としての始まりは爛れたものだ。傍から見れば眉を顰めるものだろう。彼らからしても、本来はそう気づくべきものだ。だけれど、今もこうして気づかないよう互いに騙しあっている。浅い傷が深い傷となり治癒不可能となってもそうしている。

 

 互いに傷付けあうのが、彼らの愛だ。

 

 輝夜の夢蔵を殺めかける行為は、夢蔵の所業より優しい方だ。

 なぜなら、殺めるという行為は終わらせるということ。そして、完全に殺さないということは、許すこと。

 

 彼女の“殺めかける”行為は、夢蔵への愛情表現だ。

 

 殺めれば、全て終わってしまう。命というものは、一生命体に一つしかないものだ。夢蔵は如何に強いといえど、所詮は人である。毒を盛ればあっさり死ぬだろう。けれど、そんな何かに頼ったものでは意味は無い。“輝夜自身で殺める”ということが、唯一つの条件だ。この条件の意味は、夢蔵が寿命であれ病気であれ、どんな理由であろうと輝夜以外の理由で死んで欲しくないという、もの。ある種の独占欲といえばいいだろうか。蓬莱の薬を飲めば死ぬことはないだろう。けれど、彼女はそういう“夢蔵の価値がなくなる”ことはしたくないのだ。彼女自身は蓬莱の薬を飲み不老不死になったことは後悔していない。何度も後悔してきたこともあろうが、今はない。だって、生きている夢蔵がいるから。不老不死になってしまったのなら、夢蔵は生きてもいないし死んでもいない存在になってしまう。それは、価値がない。輝夜がいて欲しいのは、いずれ死ぬであろう夢蔵なのだ。そして、彼の生き様を誰よりも知っていたいし、見ていたいし、感じていたい。

 なのに、殺める行為に出るのはどうしてか。ポイントは“殺めたい”という欲求ではないことだ。殺人欲求が溜まっているなら、それを愛情表現と誤認しとうに夢蔵を殺している。しかし、なにがあろうと殺しというのはプラスなイメージは湧かない。たとえ、夢蔵が自分が殺されるのを受け入れても、それは愛を与え合っていない。ただの輝夜の自慰行為でしかないのだ。

 ならば、どういうことか。最高の生き様は、死に触れてようやく見えるものだ。どんなに綺麗であっても汚くあっても、その瞬間が素晴らしいものだ。終わりが見えても進めるか、立ち止まるか等々、生きたものそれぞれが多種多様に見れる。そして、夢蔵の終わり(生き様)が、どんなものなのか興味がある。これは次第に彼に惹かれていくうちに輝夜の中で生まれた欲だ。傷ついて生まれたものだ。愛しているからこそ、その愛が強まった結果がコレなのだろう。

 

 “終わり(生き様)#を見届けたいから、私に殺されて”

 

 そういう愛情表現だ。愛しているから、殺す。

 

 けれども、完全には殺さない。いつも途中で止めてしまう。これは同時に思うからだ。

 

 “生き様(続き)を見ていたいから、私と生きて”

 

 愛だ。愛しているから、生きて。こういう愛なのだ。

 

 なんとも奥ゆかしい乙女心ではないか。終わりを見たいけど、続いていて、と願っているのだ。先ほどのより強い感情が入っているのはこちらだ。前者はどちらかといえば興味心が強いもの、これは欲求から来るもの。どちらも欲求から来るものであるが、後者は傷つきつつも壊れないよう大事にしてきたものだ。

 

 夢蔵は対応を間違え続けてきた。月にいた頃も、かぐや姫として暮らしていた頃も、輝夜は相応の対応をされてきたのに、彼だけは違った。それを「をかしきこと」として楽しんでいたが、結局は苛立ってしまったのだ。特別扱いをしろというわけではなかったのだ。ただ、真っ直ぐ輝夜自身を見ている様が間違っていることに気づかないのが甚だ遺憾だった。かぐや姫時代、御簾越しにみた男どもの上辺だけを見てくるのが非常につまらないと感じていた。彼らは口は上手くても、輝夜に見合う実力はなかった。彼らほどの口の上手さを夢蔵には求めていない。上辺だけを見ているのも諦めているべきか、そう考えていたときに夢蔵の放った一言が傷をつけた。

 

 

 《輝夜は女の子なんだな》

 

 

 何を当たり前なことをと思ったが、コレまでの対応をしていたなら夢蔵のこの言葉は当たり前だろう。節度は守っていたつもりだが、様子は童女のようになっていたのだ。それは、いくつも年を重ねた輝夜には恥ずべきことだったろう。ただでさえ月にいた頃も姫として大事に育てられてきた。それをあまつさえ女の“子”はない。そもそも、この時は異性として見ていなかったのにも気づいた。ひどい傷をつけたのだ。

 それでも、その傷は夢蔵が輝夜にとって異性として気になるきっかけだった。なんども対応を間違えられては傷ついてきた。それでも夢蔵と逢うのをやめなかったのは、ただ、そんな夢蔵の対応の変化を見て、この人の生き様を見ていたくなったからだ。傷ついて手当てもされず、自然に任せた結果治らなくなったものはいつしか恋になった。なぜそんな、異常なことになったのか。夢蔵のほうがボロボロに傷ついていたのを見て、哀れに思ったのが変じてそうなったのだろう。壊れていてもおかしくないのに、大丈夫と嘘をついて立っている姿があまりにも可哀想だったのだ。強い期待の中、弱音を吐くことすらできず虚勢を張り続ける様に、こちらも傷ついていく。対応を間違えているのだ、今も。

 

 殺されかけては輝夜を憎みもせず、笑いかける様にまた傷を作る。その傷は疼痛で、寝ても起きてもずっと疼いて痛い。

 

 許すのは、夢蔵じゃない。輝夜だ。何を許しているのか、分かるだろう。

 

 痛み()をくれるのを許し、()をよこすのを許しているのだ。

 

 

 

 俺は、息も絶え絶えに泣き顔の輝夜に笑いかける。輝夜の殺人未遂行為はもう数えるのを止めたほど、茶飯事に行われている。それでも、愛しているのだ。

 

 馬鹿だなんだと言われるだろうが、何とでも言うがいい。

 

 【博麗夢蔵は蓬莱山輝夜を愛している】

 

 それは確かなことのはずなのだから、何を気にすることがある。自身の恋の始まりは汚れたものだろうが、互いの恋情をぶつけ合い愛となっているのだ。ならば、二言は要らない。

 

 

「あい、している」

 

 

 彼女のこの嬉しそうな顔を見れるのなら、何度だって付き合う所存だ。生きることを止める気はない、死ぬと諦める気はない。彼女が望むなら何度も死にかけ、何度でも生還し愛を告げよう。

 

 彼女のあの一言が傷でなくなるその日まで。

 

 

 《私だけと生きていて》

 

 

 最初はよく分からず、ただ頷いた。それの所為で今も彼女は深く傷ついている。それを無くそうと色々告げるたび彼女はより傷ついた。

 

 今も意味は分かっていない。何度も何かを告げるたびに彼女が傷つくならば、止める気のほうが湧く。自然治癒を望むしかないのか、そうほぼほぼ諦めている。けれども、本気で諦める気はない。正しく意味を理解し、正しく愛を語り合いたいから。

 

 白魚のような指が俺の顔に乾いて張り付いた涙や涎を優しく擦り落とす。痛くはなく、むしろくすぐったい。

 

 

「なぁ」

 

 

 語りかけると、まだ彼女は泣いているから涙が顔に当たる。

 

 

「死にたくない」

 

 

 いくつも当たる。

 

 

「輝夜と生きていたい」

 

 

 嬉しそうに笑っているから嬉し泣き。そうであって欲しいのに、そうではないのだろう。だって、こんなにも彼女の涙はしょっぱいのだ。

 

 でも、きっとこの最適解は告げてはいけない。もう意味は理解できているのだ、本当は。けれど、これはダメだ。彼女が望んでいたとしても、これはダメだ。

 

 

 『死にたい』

 

 

 そんな言葉を彼女が喜ぶはずがない。言ったとしても傷つく。そして、また言わなかった今も傷ついているのだろう。だが、その方がマシだ。

 

 きっと言ったら、彼女は遂げるだろう。自分は添い遂げられないことを悔やみながら。そうして、壊れていつまでも俺に囚われ続けるのだろう。俺のおふくろのように。

 

 であるならば、彼女を傷つけるままでいよう。壊れることがないように、軽く爪を立てるような微妙な強弱で。

 

 あの言葉は俺に死を願うように言って欲しいだけ。それだけ。それだけで、彼女が救われるならばという期待はあった。そんなものは欺瞞だとすぐさま判断するのだが。

 

 

「輝夜」

 

「………」

 

 

 傷ついて泣いたままの君がどうか、心から笑えますように。黙って降りてくる君の顔にそう願いを込めて。

 

 自然と下りてくる目蓋に抵抗はしない。

 

 触れ合うものはいつになっても虜になってしまう。愛を感じては、愛を感じて欲しいと思う。

 

 まるで夢心地だ。このまま眠ればいい夢が見れそうじゃないか。夢を見るのは楽しくて仕方がないな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起きることを止めようかな

 

視界を白くする

 

視界を黒くする



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四季映姫・ヤマザナドゥルート

ルートが二つにわかれます


「博麗夢蔵、貴方は少し罪深すぎる」

 

 

 彼女の説教の始まりはその一言から始まる。その後は、色々言葉を変えつつも意味は同じ。

 

 “罪深い”

 

 夢蔵は、そこそこ善行を行っているつもりである。父親がなくなる前の幼い頃は、子供のヤンチャを少し超えてしまう悪ガキであった。霊夢につきっきりになる母親が恋しくなって妹が泣くまでいじめてしまったこともあれば、寺子屋で授業を聞かずに眠りこけていたこともあるし、木刀もしっかり振れないくせに父の刀を持ち出し友人とチャンバラごっこをしたり、喧嘩をして相手に痕が残ってしまうような怪我をさせてしまったこともある。だが、どれもこれも両親や教師、里の人などなどから散々に叱られて、その悪ガキっぷりは矯正されてきた。特に強制するきっかけは夢蔵たちの父の死がきっかけである。母と妹を守らねば、そのために智慧をつけねばと勉学に励み、力をつけねばと遊び半分でやっていた修行を真面目に取り組み、喧嘩は速めに相手を気絶させることにした。最後の方が少々いただけないが、それから何事も真面目に礼節をもって取り組んできた。その甲斐あってか、今は父の後に博麗の武士を継承し、里ではファンクラブができるほどの人気っぷり。

 

 元々善行というものは積んでいるといえば積んでいる。困っている人を助けたりだとか、なんなら妖怪でさえ差別なく助けている。それは夢蔵と霊夢の世話をしていた藍のおかげで差別意識がなかったのかもしれない。ともかく、善行は積んでいた。そして、それは悪ガキであった頃から今の夢蔵にまでずっと行っている。地獄行きであるとするとどのところに行くかといえば、アリや蚊など小さな虫から始まる生き物をいたずらに殺し懺悔もしなかったために行く等活地獄だろう。悪ガキ時代は、トンボの目を回させ動けなくしたところを捕まえて上手く羽を引きちぎった方が勝ちという、子供らしい無邪気で残酷な遊びもやったことはある。トンボは上手く千切っても死んでしまうし、上手く千切れなくても死ぬ。命の価値がまったく分からないからこそやっていた。いや、虫“なんか”だからやった。後は死ぬだけなトンボに目もくれず他のトンボを探したり、次は違う遊びに勤しんでいたりしたが、最後は墓を作ってやったのだ。親に言われしぶしぶだったが。命を遊んだ数だけの小石を遊んだ果ての姿はない塚を囲むように積んで、墓石を立て虫塚を作って線香まで焚かせられた。アリの餌になったか、鳥や猫の餌になったかは知らないが最終的にどんな生き物であれ土に返る。けれども、わざわざそこまでやった。虫“なんか”のために。そういう考えがいけなかったのだろうか。

 

 

「そういうのもあります」

 

 

 これだけではないらしい。自身の悪行を考えてみる。では、殺生の上、盗みを重ねたものが落ちる黒縄地獄だろうか。金銭を盗んだことはないが、友人を始め妹や母が大事に取っておいたおやつを盗み食いをしたことは多々ある。しっかり謝ったし、代わりのものを買ってきて許しを得ていた。だが、繰り返す。それがいけないのか。

 

 

「そういうのもありますね」

 

 

 他にもあるというのか。では、なんだろうか。淫らな行為は自分だけで済ませているし、飲酒で毒殺も盗みもしていない。

 

 

「貴方はよく嘘をつく」

 

 

 なんと。

 

 

「大叫喚地獄、その小地獄である十一炎処が一番貴方が落ちていきそうな場所です」

 

 

 大叫喚地獄。熱湯の大釜や猛火の鉄室に入れられ、号泣、叫喚する地獄。その苦しみは、殺生・盗み・邪淫をした者が落ちる衆合地獄の十倍である。そして、その小地獄である十一炎処は王、領主、長者のように人から信頼される立場にありながら、情によって偏った判断を下した者が落ちる。十方向から炎が吹き出して罪人を焼き、罪人の体内から十一番目の炎が生じて口から吹き出し舌を焼く。

 

 

 

 

 あぁ、なんということだ。

 

 

 

 

 

 

「貴方は罪深い。故に、正しいことを為しなさい」

 

 

 今日の説教だ。長時間正座をして説教されても別になんともないが、今はなんとも困る。

 

 

「嘘はいけません」

 

 

 言葉を挟みたいが、挟ませてくれないだろう。今はそわそわしてしょうがないと言うのに。

 

 

「嘘をつく。これが如何に重い罪であるのか、分かっていませんね」

 

 

 分かっている、つもりだ。

 

 

「嘘をつくというのは、欺くことです。自分だけでもいけないことですが、他者に対して行うなら重罪なのです」

 

 

 重罪を負った自覚はない。嘘をつくが、軽いものだ。その、はず。そのはずなのだ。

 

 

「貴方の嘘は、自分を偽ることです」

 

「していない!」

 

 

 思わず口が出る。いつもなら説教中は聞くだけにとどめているが、その言葉だけには反論をしたくてたまらなかったからだ。

 

 

「俺は、生まれてから今まで自分を偽ったことなどない! 仮にそうだったとしても、あのときからそんなことはしないよう心に決めてきた!!」

 

 

 普段の説教の鬱憤だとか、そろそろ足が痺れてくる頃合だからだとか、そんなことはこの怒りに含まれていない。正座から立ち上がり、妹より高めな身長の映姫を見下ろして怒鳴った。

 

 今の自分は偽りであると言っているのが苛立つのだ。父の死から経て、今ここにいる自分を否定することに苛立つ。

 

 言ってはならぬことを言ったのだ。この怒りは正当なもののはず、たとえ閻魔だからといえどそれを黒にはさせない。

 

 

「この俺は、見たくもない現実を受け止め続けてきたのだ! 幼い頃から、ずっと! ずっとあるだろう日常が欠けてしまったけれどもっ! それを補おうと今もこうして生きている!!」

 

 

 口が止まらない。いや、止める気が湧かない。らしくなく感情のまま怒鳴る。映姫はそれに気圧されるでもなく、ただじっとこちらを見る。何も感じていないようなその様に、手が出ないようにすることに気を割くことが困難になる。

 

 一思いに殴ろうかとも、考える。閻魔になんということをだとか、女子になんてことをだとか、殴った後に思うだろう。下手をすれば映姫を殺めてしまう可能性は高い。殴ってこの怒りを発散させたいのもある。だが、それだけではない。殴ることで、映姫が自分を見ることを止めさせたいのだ。自分から視線をそらすのは癪に障る。いつものように軽く流せることは、今はやる気がしない。

 

 情けないが、ただの力の強いだけの人間なのだ、博麗夢蔵は。それは十二分に分かっている。如何に無双に振舞っていても、怪我や病気で死ぬこともある。万が一にもないが自殺という場合もあるのだ。身体面で鍛え上げた。精神面も。だが、感情のないモノにはならなかった。鍛え上げれば、そのように振舞うことは出来るだろう。それでも、何事もなかったようにはならないのだ。ただの紙切れで指が切れてしまうように、致命的でないものの酷く痛むことはある。

 彼のこの怒声は、痛みから来るものだ。それを彼は自覚していないが。痛めば治そうとする。体が痛めば、体の細胞や医者の適切な処置が治すだろう。心が痛めば? 精神的治療は薬物やカウンセリングが基本で他者の助けが必要不可欠である。だが、もっとも重要なのは自分自身の治す気概だ。本人に治す気がなければどうしようもない。これは身体的な怪我や病気も同じである。本人が治したいと思わなければ意味が無い。いけないかといわれればそうでもない。その人、一人だけで全て完結しているなら勝手にするといいのだ。だけれども、一人で完結することはありえない。そこに生きているのはその人だけではない。飲むためや排泄処理、洗濯のためと様々に生き物に必須な水にだって他にも必要とするものがいるから勝手に使えない。

 誰かに迷惑をかけて、その迷惑の分を恩で返すことで人間は成長してきた。だというのに、迷惑しかかけていないなら炉端の石のほうが価値がある。金銭という物理的なものもあれば、満足感という精神面のものを満たす。そうすることで、“生きる”ことに“安心し納得できる”。何かしら不安定であったり不満が多ければ、改善しようとするはずだ。それが“分からなくなってしまう”のが精神を病んでしまったものだ。遺伝的であれ外的要因であれ、精神が脆くなくても分からなくなるときは誰でも来る。それがずっと続いてしまうから病んでしまうのだ。ずっと暗い中にいたいとは誰も思わない。少しの間は平気かもしれないが、いつか明かりを探す。どんな小さな明かりであっても、それを求める。もう壊れて戻れない人は、明かりを探す気がないだけではない。もう真っ暗なままでいいということに“安心し納得してしまった”のだ。盲目の人の視界のように、真っ暗なままが普通になってしまう。

 

 真っ暗なまま突き進んだ先には、何もない。終わりも始まりもない。停滞だ。いや、進むではないだろう。真っ暗なところに居続けているのだから。身動ぎもしない。下手をすれば呼吸さえ意味も無いと止めてしまっているだろう。

 

 では、夢蔵の話に戻ろう。

 

 自分の“(痛み)”を見られたくない彼は、ただの人だ。心に傷をつけられ、今も自分で傷をつけている、ただの人なのだ。

 

 

 

「一つ、言いましょう」

 

 

 頭に血が上った夢蔵に対し、酷く低い温度の声。

 

 

「貴方は何故、作らなかったのですか?」

 

「……?」

 

 

 映姫は手で丸を作る。

 

 

「“補うことなどできない”というのに」

 

「!?」

 

「欠けたなら、その欠けたもので補うしかできないものです。ですが、不可能。貴方は一捉しかなかったのに、無理やり選択肢を作ってしまった」

 

「…間違えたものではないはずだ」

 

「えぇ、“貴方以外”にとっては」

 

 

 夢蔵は両の手を握り締める。殴るための予備動作のためではない。自身の精神安定のための無意識に行った行動だ。

 

 

「いいですか。貴方は“間違えた”のです」

 

 

 丸をつぶす。ぐしゃりと。夢蔵のなかでは確かに聞こえた音だ。

 

 

「貴方は間違えた。誰もが救われる物語を作ろうとしたのに“間違えた”」

 

「ち、が」

 

 

 感情どころか体温も下がるような感覚。冷や汗が出てくる。

 

 

「貴方の母は、貴方の所為で貴方の父を忘れられなくなった。貴方の妹は、貴方の所為で自分を立たせることが無くなった」

 

 

 冷や汗が止まらない。手のひらだけのものが、額から頬に落ちる。冷たい汗の感覚が不愉快だった。

 

 

「そして、貴方。博麗夢蔵。貴方は」

 

「や…め」

 

 

 湧き出る汗の所為か、喉はカラカラで、声を出すということが困難だ。何をしゃべれば良いのか、そもそも音をどうやって出すのかすら分からなくなって思わず泣きそうになってくる。

 

 

「嘘を貫かねばならなくなった」

 

 

 ひゅっと、音が聞こえた。自分の喉から出されたその音が、自分の罪をやっと理解したから出たのだと気づけない。

 

 

「情により偏った判断。正しくない。貴方は作ればよかった。たとえ、全てがなくなるとしてもそれしか道はなかったのですよ」

 

 

 膝が笑い立てなくなる。膝を打ち崩れ折れる。頭がまっしろになり、耳鳴りが止まない。

 

 

「誰かが柱にならなければならなかった。そうですが、壊れれば新たに作り直すしかない。補うにもあまりに重要な柱過ぎた。彼は大黒柱でしたからね、貴方たちにとって」

 

「ぁ」

 

 

 脳裏に蘇る親父の姿。

 

 親父のようになりたいと言った、幼い自分の声も聞こえてくる。

 

 そういうと決まって親父が言うのだ。

 

 

 “夢蔵、お前はお前でいろ”

 

 

 それがどういう意味か、親父と同じ博麗の武士になっても分からない。親父より背が伸びた、親父より強くなった。けれども、それだけでは、足らないと思ったのだ。

 

 

「わたしの言葉をよく聞きなさい」

 

 

 救いの言葉であると信じ耳を傾ける。

 

 

「貴方は、彼のようには“なれない”」

 

「―――――」

 

 

 全て。

 

 積み上げたものにヒビが入り、崩れていく音が内側から聞こえた。

 

 

 

 不快な音ではない。

 

 

 福音なそれは、そんなものであるはずがない。

 

 

 

 

 これは、いつか地獄に堕ちたとしても夢蔵を離さない女の話だ。

 

 映姫が職務放棄をすることはない。彼女は真面目だ。せっかくの休暇を説教に割くほど、他者を気にかける。どんなに説教をしても地獄行きになってしまったものもいる。それでも、免れたものもいるのも事実。その成果がなくても、彼女は説教をやめることはないだろう。元が、人の救われたいという思いで作られた地蔵だったのだ。ならば、妖怪であれ人であれ救うために動く。たとえ無駄であっても、救われねばならぬという観念の元に。

 

 夢蔵もそうだった。罪を軽くさせるために。けれども、直球に夢蔵の罪が嘘をつくことだとは説教しなかった。何十にも包んで少し遠回りに、けれど聡い夢蔵なら響くだろうと信じ説教を行った。だが。効果はなく、長時間、正座をさせて説教しても平気な彼に手を焼いていた。

 

 何故、回りくどくしたのか。

 

 心の崩し方ならば、一撃で仕留めればいいと思うだろうが、そうはいかないのだ。特に夢蔵は難しすぎた。

 

 夢蔵は嘘をついていた。それは、自分を除いて皆が幸せであるようにするために。自己犠牲で行う尊い行いのように感じるだろう。これは尊くなどない。自己満足のためのでしかない。

 

 子供心に、父の代わりにならねばと思い行動した。母のため妹のためと、どんな試練も乗り越えてきたのだ。それもやめる時が来る。だが、彼はやめなかった。否、やめられなかった。

 

 妹である霊夢はもう年頃、母ももう立ち直っている、やめ時だ。家族に“縛られている”のをやめるときだ。

 

 博麗の武士を継いだとはいえ、一人の人間だ。母も、妹も、それぞれもう立てる。そのように、なるはずだった。

 それは、ならなかったのだ。映姫の説教にあったように、母は囚われ妹は自立できなくなった。全部、夢蔵の所為だ。上手くいくよう、立ち回ってきたつもりだろう。自分だけ嘘をつき続ければいいと、動いた結果、周りは彼の嘘がなければ立ち行かなくなってしまったのだ。

 

 “親父のようになりたい”。“お前はお前でいろ”。息子とその父の言葉。“父のようになれない”のになろうとしてしまった。その様を見ていく者らは、夢蔵が作り上げた“父のようになれない”彼を受け入れることが出来なくなってしまったのだ。目標を決めたなら達成するために動くもの。だが、目標は無くなったのだ。別の目標を作らねばならないのにしなかった。昔も、今でもなくなった目標を追い続けている。“その姿が夢蔵の姿だ”と皆焼きついてしまった。夢蔵自身も周りも、そうなるように無意識にやってしまったのは、諦めなかった原因の一つである。死んだ人に囚われる母、妹。彼女らだけではない、多くの人が先代博麗の武士を忘れなかった。それは素晴らしいことだ。けれども、誰も彼もがそこで立ち止まってしまった。流れなくてはならないものが滞った。それはいけないのだ。生きているものは死者に囚われるべきではなく、時折思い出す程度でいいというのに、それが出来なかった。偉大な人物であったが、その人の意思であると周りが勝手に決め夢蔵に押し付けた。無意識にだから性質が悪い。

 

 いやだとは言いたくなかったのだ、夢蔵は。彼も父に囚われていたから。

 

 だから、嘘を吐き続けた(罪を犯し続けた)

 

 それが、唯一自分に出来ることだと信じて。やめることをやめられなかった。

 

 

 そういう足掻く様が、四季映姫にとって“愛しくなる”きっかけだった。

 

 夢蔵ほど歪でないにしろ、そういうのもいたことはある。そして誰しも地獄に堕ちた。

 

 判決を言い渡すときの彼らの顔は、能面のようだった。誰しもそうで怒るでもなく泣くでもなく。ただ、そうか、と落ち着いて判決に従った。不満に思っているのか、そうではないのか。誰しも、どうでもいいとばかりに堕ちていった。それを見て心が痛まなかったことはない。もっと何とかしてあげればよかったと悔いたこともある。

 

 夢蔵がそうなるのは耐え切れないだろう。そうなれば溶けた銅を飲み干す苦痛さえ児戯になるほど、心が痛むだろう。

 

 ここまでなら、愛しくなるには足りない要素だ。過去の者らのようにさせたくないだけではそうはならない。

 

 要素は、三つほどあるのだ。

 

 一つ、夢蔵の嘘が優しいこと

 二つ、夢蔵の優しさが偽りなこと

 

 そして最後。最大要素は。

 

 “夢蔵がダメであること”

 

 

 二つの理由はいいだろう。結局、自分のためであるだろうが、皆のためと生きてきたその姿は哀れみを抱くだろうものだけれど蔑むことは出来ない。最後の理由、これは、映姫がなんとかしてあげなければという感情を遺憾なく発揮できるのが夢蔵だけなのだ。

 

 

 

「夢蔵」

 

 

 愛おしい。

 

 私は崩れ落ちた夢蔵の顔を両手で包んで上げさせた。さっきまでの憔悴しきった顔も愛おしいが、今の無垢な少年のような顔も愛おしい。

 

 

「えい、き」

 

 

 おそるおそる私の名を呼ぶ。赤子が初めて単語をしゃべるように、つたない発音。

 

 

「はい?」

 

 

 冷や汗で額に張り付いた髪が邪魔そうなので軽く撫でるように邪魔にならないようにどかす。

 

 

「ならなくていいの、か?」

 

「いいんですよ」

 

「もう、いいのか?」

 

「いいんです」

 

 

 目が潤んでいく。そして、涙腺を絞り上げ涙を次から次へあふれ出していく。

 

 

「お、れっ! おれ!!」

 

「いいんです」

 

 

 なだめるのはなく、より泣かせるために頭を撫でる。しゃくりあげて大声で泣き出す夢蔵に優しく微笑んであげる。

 

 あぁ、ようやく泣いてくれた。

 

 

「いっぱい、いっぱい頑張ったんのですから、もういいんですよ」

 

 

 言葉になってないが、辛かったと言っているのだろう、止まらない泣き声が嬉しかった。

 

 

「嘘はいけないんです」

 

 

 嘘はいけない。たとえ閻魔であっても許されない。

 

 

「もう、嘘をつかなくていいんです」

 

 

 頭を撫でながら、泣き顔を見る。今まで見たどんな顔よりも可愛くて愛おしかった。

 

 これで、もう一人で立てないだろう。今まで立ってきたつもりでなんとかなっていた状態が異常だった。不安定であったのだ。ずっと。夢蔵は、自身でも嘘と気づかないようにして立ってきたが、不安定であった。嘘は自分も他人も守ることもあれば、傷つけもする。嘘を守るために嘘をつき続けることは、傷ついて、また傷ついてということなのを誰も壊れるまで気づかない。壊れたら立てない。それを見てまだ嘘をつき続けろなど、酷すぎる。限界が来ていたのだ。そしてちょうど、限界を超える前にやめさせることが出来た。

 

 一人で立てない夢蔵を世話してあげよう。

 

 もう、一人でいられないから。朝起きて寝るまでずっと世話してあげよう。いくらでも、望むならなんでも。

 

 

「夢蔵」

 

 

 真っ赤になった目は純粋で。

 

 

「愛してますよ」

 

 

 私と二人でいるように、言い聞かせる。

 

 

「わたしといましょうね」

 

 

 頷く夢蔵の顔に自分の顔を近づける。昔、本で読んだ愛の交わし方では恥ずかしくなるらしいが、そうでもなかった。

 

 ただ、可愛くて愛おしい人を繋ぐのにこれが正しいやり方だと、そう確信して行う。

 

 触れるものが唇同士だけだというのに、何故こんなにも愛おしさがより溢れてくるのか。それは、きっと夢蔵が可愛くて愛おしいからだろう。

 

 

 一つの涙が唇の間に流れてきた。

 

 やたらしょっぱくて、とてつもなくまずい。それは確かに愛の味だった。。

 

 

 

 

 泣いてすっきりした後、俺は映姫に抱きしめられた。強く、それも少し痛みを感じるほど。その方が安心する。

 

 泣きすぎたのか目と頭が痛い。けれど、そんな痛みより抱きしめる痛みの方がより感じる。むしろ前者は自分のことなのに遠い出来事のようだ。

 

 

「なぁ、映姫」

 

「はい?」

 

 

 説教のときとは違う、優しい声に胸がうずく。

 

 くすぐられた感覚と痛みがある。それは、自身が本当に感じていることだからと分かって安心する。

 

 

「俺を暴いてくれてありがとう」

 

「そう答えますか」

 

「いつもは、もうやめてくれないかなしか考えてなかったけどな」

 

「いい痛みだったでしょう?」

 

「あぁ。泣くほど痛いけど、痛いからいいんだ」

 

 

 言葉だけだといじめのように感じられるがいいのだ。映姫から、与えられる痛みが、どうしようもなく安心できるから。

 

 

「泣いてもいいです。立たなくてもいいです。そばにいますから」

 

「うん」

 

 

 立たなくていいか。

 

 もう、いいか。

 

 そうも思う。けど、少しかっこつけたい。

 

 

「立つから」

 

「いいんですよ」

 

 

 やめろと、優しい声で圧をかけてくる。どろどろに甘い蜜の中にいるのはいいかもしれないが、たまに塩辛いものも食べたくなったときどうすればいいのか。なら、立つしかないのだ。

 

 

「映姫と、ちゃんと、いたいから」

 

「………」

 

 

 痛みを感じるほどの抱擁を解く。優しい微笑を絶やさずこちらを見る映姫。

 

 目は綺麗に暗くて安心してしまうが、なんとか踏みとどまる。

 

 

「だから、言わせてくれよ」

 

 

 この恋情は自分のもののはずなのに、こうもそれを語るには融通が利いてくれない。

 

 痛みが。胸の中で針があちこち刺して暴れ回っている。

 

 自分のもののはずなのだから、もう少し勝手がきけばいいのにと思わないでもない。だけど、痛みがなければきっと俺はダメなのだろう。

 

 

「なぁ、映姫」

 

 

 痛みの所為でまた涙が溢れてくる。自然な反応なのか異常反応なのか、もう種別がつかない。

 

 

「傍にいてください」

 

 

 最後の言葉は、恋情が弾ける。

 

 

「愛しています」

 

 

 誰かのもののように感じるそれは、確か、自分のもののはずと理解しようとした。けれど、それに意味は無いのだろう。

 

 先ほどにはない頬にこもる熱は映姫だけではない。白い顔に朱が差すその顔同様、日に焼けた俺もそうなのだ。

 

 

 

 

  まるで夢心地だ。このまま眠ればいい夢が見れそうじゃないか。夢を見るのは楽しくて仕方がないな。

 

 

 

 

 

起きることを止めようかな

 

視界を白くする

 

視界を黒くする



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スヤスヤおやすみエンド

一つの終点です


 白い世界になごむ。

 

 

 頭が穏やかに霞んでいく感覚が心地いい。強い眠気に浸っているのもあるが、あいつとの愛に溺れているおかげでもある。

 

 穏やかに、とても穏やかに沈んでいく。灼熱のような熱さの中だけれど、極寒のような寒さの中だろうけれど。俺にとって、とても心地よい温度だ。

 

 ここまで穏やかな心地になったのは、いつぶりだろうか。上手く判別がつかないが、些細なことなのだろう。

 

 深い思考など、もういらないのだ。

 

 だって、いいじゃないか。

 

 頑張ったのだから。頑張った甲斐はちゃんとあったのだから。

 

 

 このままでいい。止まったのかと疑うくらい静かに脈打つ鼓動がそう叫ぶ。

 

 一緒にいたい奴がいる。早く会いに行ってやらねば。俺も恋しくなってきたから。

 

 

 このままでいたい。形としてない心が散り散りになって裂けそうになっている。

 

 一緒にいて欲しい奴がいる。絶対に離れてはいけない。苦しく思うほどに恋しいのだから。

 

 

 ずっといたいのだ。俺を構成していたナニカがゆっくりと溶けていく。

 

 一緒であると決めたのだ。壊れるわけにはいかない。逃げる気など欠片もない。愛しい、という感情に嘘も偽りもないのだから。 

 

 

 この欲は俺の性だ。たとえ仏になろうと、変わることもなくなることもない。いや、させない。

 

 この愛は確かな物だ。いたい奴と育んできた確かな愛情だ。

 

 こんなにも綺麗ではないか。なんという美しさだろうか。どこまでも素敵で惚れ惚れとする。

 

 どんなものよりも固く、強い。そして、誰にだって壊させやしないし、無くされるわけのないものだ。

 

 こんなにも俺を思ってくれるのだ。誇らしく思う。見せびらかして自慢したいぐらいに、とてつもなく誇らしいのだ。

 

 でも、俺の愛は汚くみえてしまう。ちゃんとあるのか、思わず疑ってしまうのだ。しっかり持てるのか、と気にしてやまないのだ。

 

 そんなこと思ってしまうということは、きっとまだまだ愛し足りないということなのだろう。

 

 

 離したくない。離してなんかやりたくない。だって、大切ではないか。

 

 

 そんなことを刻む。

 

 

 なら、より愛そう。

 

 何処まででも、愛そう。

 

 何度も、何十度も、何百度も、何千度も、無限大に愛させてくれ。

 

 

 この不確かな形の、心を引き裂く、苦き熱情よ。

 

 

 ちゃんと在れ。

 

 

 この今が終わることのないように。

 

 白んでいてくれ、ずっと。汚れぬよう、色移りせぬよう。

 

 

 格好のつかない、この熱情を。

 

 奪ってくれ。

 

 

 

 だから。

 

 さようなら、と言いましょう。

 

 

――ずっと、さようなら――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

BADEND




 主人公設定

 博麗 夢蔵(むさし)

博麗霊夢の兄で「博麗の巫女」を守護する「博麗の武士(はくれいのもののふ)」

◆概要
 幼い頃に父親を「ある異変」で父親を亡くした事をきっかけに、自分が母親と霊夢を守ることを決意。以後数年間ひたすら厳しい修業に励み、限界を超え続けたことで無敵の強さを得た。その力で異変解決に乗り出す霊夢の手助けをしたり、「幻想郷」を狙う数々の「外の世界」の侵略者たちを倒してきた。「博麗の武士」としての仕事の他、副業として森近霖之助が店主をしている古道具屋「香霖堂」と本居小鈴が店番をしている人里の貸本屋「鈴奈庵」でバイト(店番代理・万引き犯の捕縛など)をして収入を得ている。

◆武器
◇鉄刃刀(てつじんとう)
 主人公の腰に差している刀。両刃とも峰になっているため、相手の命を奪う心配もない。接近戦はもちろん、弾幕を放つ時も使用している。霊夢の提案したスペルカードルールに対する「誓いの証」でもある。

◆外見
 霊夢と同様に黒い短髪、茶色の眼。服装は白の上下服の上に紅色の着物に加え黒茶色ブーツ、腰には「鉄刃刀」を差しているのがいつものスタイルである(『銀魂』の坂田銀時の紅白&刀ver.のような服装)。

◆人物
 異変の張本人を前にしても飯の献立や人里の特売セールを気にする等、庶民的かつ図太い面がある。これはどんな状況下でもそういったことを気にする余裕があるという、主人公の圧倒的強さの表れでもある。父親の死がきっかけで家族を大切に思っており、霊夢を傷付ける奴に対して怒りを露にする。博麗の武士としても人気が高く、ファンクラブ(東風谷早苗・稗田阿求・本居小鈴を筆頭に結成)ができる程のカリスマ性を秘めている。マイペースな性格だが、自分なりの信念や博麗の武士としての誇りを持っている。

◆能力
◇覇気を操る程度の能力
 王者の気を操る能力。この能力を使い敵味方の位置を探知できる他、複数の敵を威圧し場合によっては気絶させる事も出来る(『ONEPIECE』の「覇王色の覇気」のような能力)。
◇博麗の武士としての能力
 空を飛ぶ時や瞬間移動をするときに使っている力。
◇戦闘能力
 これまでほぼ全ての敵を一撃で倒すなど、身体能力は規格外。耐久力や生命力も幻想郷一で、明確なダメージを負ったことはほとんどない(『ワンパンマン』のサイタマのような強さと頑丈さ)。

◆スペルカード
◇鳳符「夢幻転空」
 鳳凰の闘気をまとい、飛翔して高速で突進するスペル(『テイルズオブ』の「鳳凰天駆」のような感じ)。
◇剣波「夢幻総破(むげんそうは)」
 鉄刃刀に博麗の力を集め、“究極の斬撃”として放つスペル。ある程度出力を絞っても、一撃必殺を狙えるほどに威力が高い(『Fate/』のセイバー(青)の約束された「勝利の剣(エクスカリバー)」のような感じ)



各キャラクター設定
◎がヒロイン


◎博麗霊夢
 幻想郷と外の世界の境にある、博麗神社に住んでいる巫女であり、主人公の妹。最近、採用されているスペルカードルールの提案者でもある。主人公のことを「夢蔵兄(にい)」と呼んでいる。いつも自分の危機を救ってくれている主人公に慕っており、日常時でも異変時でも主人公の傍にいることが多い。

ルーミア
 通りすがりの闇の妖怪。「紅霧異変」には関係ないが、鉢合わせした主人公に襲い掛かるもあっけなく返り討ちに遭う。その後は、主人公に興味を持ちはじめ甘えている。「そーなのかー」が口癖。

◎紅美鈴
 紅魔館門番。紅魔館へ侵入しようとする主人公たちを撃退するため出てくるが敗北。その後は主人公の強さに憧れ、自ら弟子として志願する。たまに紅魔館に来る主人公に稽古を付けてもらっている。

◎レミリア・スカーレット
 「紅霧異変」の元凶である年齢500の吸血鬼。威厳たっぷりに振舞うが、内面はほとんど子供と同じであり、館の仕切りは事実上メイドである十六夜咲夜に任せている。撃破されて以降、主人公の強さに惚れてよく懐く様になっており、よく博麗神社へ遊びに来ている。

◎橙
 山に住む化け猫に憑く藍の式神。「東方妖々夢」では、迷い家のある里に迷い込んだ主人公たちを追い返そうと迎撃するが敗北。家の家財を霊夢に持っていかれそうになるが、それを主人公が止めたため恩義を感じる。以降は主人公を「夢蔵しゃま」と呼び甘えるようになる。

ルナサ・プリズムリバー
 プリズムリバー三姉妹の長女。性格は暗いが優しい。西行寺家にたびたび招集され、演奏で場を盛り上げている。今回も花見大会が行われるということで、いつものように招集されていた。得意な楽器は弦楽器で、特にヴァイオリンを使用する。一人で演奏中に偶然出会った主人公に自分の演奏をほめられたり、主人公によるギターの熱い演奏を聞いて恋心を抱く。

◎魂魄妖夢
 西行寺家専属庭師兼お嬢様の剣の指南役。幽々子の指示により幻想郷中の春を集めるが、異変解決のためにやって来た霧雨魔理沙に敗北。異変での気絶中に幽々子を圧倒した主人公の強さに興味を持ち、異変解決から数日後に博麗神社を訪れて主人公に勝負を挑むが完敗。それ以降は、紅美鈴に続いて自分の意思で主人公の弟子になる。

◎八雲藍
 九尾の狐に憑く八雲紫の式神で、紫が寝ている間に代わりに活動している。昔、紫の命令で幼い主人公と霊夢の世話をしていたこともある。「春雪異変」で開いてしまった幽明結界を修復中に脱走した幽霊達を捕まえて連れ戻して来た主人公と再会を果たす。

八雲紫
 あらゆる境界を操る妖怪の賢者。だが冬眠するほどよく寝ているため普段は式神の藍に全て任せている。先代巫女と幽々子とは友人関係。友人の一人である幽々子から幽明の境を修復して欲しいと依頼されて修復しているところを主人公たちと再会する。

◎伊吹萃香
 の原因となったラスボス。倒すことで使用可能になる。「密と疎を操る能力」で人を萃めていたところに異変解決のためにやって来た主人公たちと対峙。自分を圧倒した主人公に興味を抱き、主人公の誘いを受け博麗神社で手合わせをしてもらいながら居候している。

◎蓬莱山輝夜
 永遠の月の姫。永琳たちの策略を打ち砕き、真の満月に辿り着いた主人公たちに対し退屈しのぎと稀な来客のもてなしを兼ね、自慢の難題を武器に弾幕ごっこを挑む。撃破後に幻想郷にはすでに博麗大結界という結界が張られていることを知らされ和解。以降結界を解き、また身を隠す必要もなくなったということで積極的に主人公との接触を持つようになった。

風見幽香
 花を操る妖怪。過去(東方幻想郷)に先代巫女に挑むが敗北。それ以降は先代巫女と知り合いとなり、博麗神社に遊びに来たときに幼い主人公と出会い仲良くなる。それから数年後に成長した主人公と再会を果たし、どのくらい強くなったか知るために勝負を挑むが敗北。その後は、たまに博麗神社を訪れて主人公たちの様子を見に来ている。

◎四季映姫・ヤマザナドゥ
 幻想郷担当である説教魔の閻魔。霊夢たちへ説教したことが守れているかどうかの様子を見てまわっている。長時間、正座をさせて説教しても平気な主人公に頭を悩ませている。しかし少しでも主人公の罪が軽くなるように、諦めずに主人公のところへ来ては説教している。

先代博麗の巫女
 主人公と霊夢の母親にして、霊夢と同じ巫女。現在は「博麗の巫女」の代を霊夢に譲り、博麗神社でのんびりと暮らしている。主人公からは「おふくろ」、霊夢からは「お母さん」と呼ばれている。マイペースな性格のため主人公と霊夢を振り回すこともあるが、二人を大切に思っている。

先代博麗の武士
 故人。主人公と霊夢の父親にして、先代巫女の夫。優しい性格だが、博麗の武士としての実力はかなりあった。主人公からは「親父」、霊夢と先代巫女からは「お父さん」と呼ばれていた。「ある異変」で重傷を負い、自分の死を悟ると先代巫女に幼い主人公たちを任せて息を引き取った。


●主人公設定と各キャラ設定は、フリーリクエストをして下さいましたシャドー様ご考案です。



※本来、霊夢の設定は主人公に兄妹以上の好意を抱いておる、との要望でしたが、私の都合により改変させていただきました。


※本来ならば、ルーミア・ルナサ・紫・幽香も含めたハーレム、または各ルートがあるはずだったのですが、私の力不足により、彼女達にはヒロインにならないでいただきました。







目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

頑張って起きるよエンド

一つの出発点


 夢を見ている。見るのは楽しい。楽しくて仕方がない。このままずっと見ていたくなる。良い奴といたいという気持ちは誰でも持ってるのだ。なら、俺も持ってもいいだろう。そして、それを表現し続けることもいいはず。続いていく、終わることのない、この今を忘れたくなんかないのだ。俺のいたい場所はこの楽園であるのだ。…だけれど、このまま夢に微睡んだままでいいのか。

 

 そうふと思う。

 

 だが、こんなにいい夢は久方ぶりなのだ。それこそ、あの時からずっとこんないいものは見たことがない。もう少し見ていてもいいではないか。ここが俺の最高の最終手。心穏やかな、弛緩しきった安楽世界。

 

 そう思考するたびに、体のどこかが疼く。どこかと特定は難しく、そもそもやる気はしない。全身を夢に浸っているという現状で、何も思いたくはない。というのに、どこかが脈動するのだ。

 

 

 ――違うんじゃないか。

 

 

 何がどう違うかもわからない。でも、違和感が被膜つついてくる。

 

 自分の姿さえ把握できない今、確かに生きているという実感がない。ふと、焦る。今頃になって。

 

 浸っていると言う意識は、実は溺れているのではないかという疑惑を挟みこんだ。

 

 怖くはない。怯えが湧き立つものではない。

 

 でも、ほんの少し。無難に静かな今から、騒々しく恋しい明日を描き出すのも悪くないのではないか。

 

 

 その意識が覚醒して。 

 

 

 手を伸ばしてみる。感覚はない、そもそも何の感覚も分らない。止めない、確かに前へ。きしり、きしりと、音が鳴る。

 

 足を伸ばしてみる。抵抗も反発もないのに、異常に重く感じる。構わない、しっかり前へ。きしり、きしりと、音が鳴る。

 

 体に纏わりつく心地よい温もりから這い出ようとする。迷わない、ただ前へ。きしり、きしりと、音が鳴る。

 

 音が煩わしい。

 

 だから、声を出す。

 

 

「俺は」

 

 

 何を喋ろうか、そんなこと思いはしない。確かに息づいている、誰かの声が頭に木霊している。忘れようもない、憧れの。

 

 あぁ、会いたかった。でもね。後は、頑張ってやりますから。

 

 

 ――じゃあな、ばいばい。

 

 

「起きなくちゃいけねぇんだっ!!」

 

 

 腹の底から声を出す。きしり、きしり、と音が鳴る。恋しく願う今、愛しく灯る明日。そして、思い出した焦熱感を心の最奥から露呈させる。ただただ、最後の親父からの贈り物へ、本当にさようならを。

 

 純然たる欲動。極まった衷情。厳選した闘志。凝縮すれば、いい刺激の痛みになる。

 

 感覚が甦る。目を開き、手足をバタつかせ、心を動かす。全身が、脳を覚醒させていく。

 

 親父。確かに今、受け継ぎました。ちゃんと、受け継いでみせました。

 

 だから、今をもって。

 

 もう、この繭から抜け出さなければならない。

 

 

 「アラトナァァァァアアアアア!!!!」

 

 

 始まりを終わらせに行ってやる、待っていろ。

 

 

 

 

 まだ残っていたチカラを解き放つ。溺死してもいいからずっといたいと思った深淵を裂き、外に出る。

 

 チカラをほぼ使い切ってしまったため、無様に落ちた。その下には無数の蜘蛛がひしめいている。さっきまでいた繭の下敷きになっているのもいた。だが、大半はどこも欠けずに健在。攻撃してくるのかと身構えれば、そういう仕草もなく受け止めようとしているようだ。腹部後端にある出糸突起の先端から糸を出し、網を作った。捕らえる気かと考え、腰に手を伸ばす。蜘蛛共の命を絶つのに用いる気なのではない。網に捕まらぬよう振り回すためだ。霊夢に捧げた【誓いの証】。大事な相棒、『鉄刃刀』。そいつがいない。

 

 

「―――っつ!?」

 

 

 あの繭はチカラを吸う物だったのだろう。程度の能力の行使すらままならない。覇気を操る程度の能力。王者の気を操る能力であるこいつは、敵味方の位置を探知できる他、複数の敵を威圧し場合によっては気絶させる事も出来るというのに今は使えない。博麗の武士としての能力である、空を飛ぶ時や瞬間移動をするときに使っている力も無理だ。さっきのだって全力で出したのに、子蜘蛛共を駆逐することすら出来ていなかった。最後の手である俺の相棒は居やしない。万事休す。

 

 熟考の甲斐なく、落ちた。まな板の上の魚の気分になる。喰う気なのだろう、蜘蛛共が自分達で出した糸に上ってこちらに近づく。

 

 

「あ゛ぁぁあぁぁああ!!」

 

 

 久方ぶりに湧き上がる恐怖感。それを抑えるため腹から声を出す。けれど、止まらぬ。怖い怖いと、それで脳内が埋まってしまう。冷静な判断をすべきなのに、脳は恐怖で支配されていてまともではい。逃げ場などない。四方八方から蜘蛛が近づいてくる。

 

 

「来るなぁぁあぁああ!!」

 

 

 精一杯の理性が動いたのか。自身の下にある糸を破ろうとする。そこらにいる蜘蛛の巣など手で払うことは容易だった。ならば、之も。けれども、淡い期待は逆に破られた。いくら力を入れようがビクともしないのだ。恐怖感が体を支配している。指先が震えて力が分散する。破れないことが恐怖心をより煽る。周りは蜘蛛だらけ。一尺ほどの大きさのそいつらに恐怖は肥大していく。

 

 そして、あえなく捕まった。

 

 足を、手を。体全体、全て捕らえられ身動きを許してくれない。なんとか逃げようとするも、動けない。捕まえるときに咬んできたのだ。そのとき神経を麻痺させる毒を注入させたのだろう。動かない四肢になんとか動けと命じても、まともに動かない。

 

 

 ――喰われてしまう

 

 

 そうたやすく思いつく。恐怖が襲う。

 

 俺はまだ死ねない。おふくろに、もっと人生を楽しんでもらわないといけない! 霊夢が、幸せになって甥でも姪でもどっちでもいいから連れてくるところを見なくちゃいけない! 親父にまだまだ追いつけていないのに、こんなところで終わることなど出来ないのに!!

 

 

 暴れようとする。チカラを使おうとする。が、どれもこれもダメ。俺はまだ死ねない、死んではいけない。その思いは声にも出せず、心で叫ぶしかない現状。このまま生を終えたところで、悔いしか残らないではないか。

 

 我慢していた涙腺から涙が零れてしまった。

 

 情けない様だ。これでは、おふくろを困らせてしまう。霊夢に心配されてしまう。親父から怒られてしまう。

 

 泣きながら叫んだ。みっともなく、恥も捨てて、弱い俺を曝す。

 

 

 ――死にたくなんかないっ!!

 

 

「大丈夫よ、夢蔵」

 

 

 俺の叫びに応えるように、初めて聞いた美しい女の声が聞こえた。

 

 

 

 

 女の声はとても美しかった。今まで聞いたどんな女より美しく感じた。桜のように仄かに甘く、向日葵のように陽だまりな感じをさせ、桔梗のように清楚にあって、椿のように蠱惑的。そのような美しい声だ。

 

 

「大丈夫よ、夢蔵」

 

 

 蜘蛛に集られている恐ろしい状況。実際、恐怖心で一杯だった。だというのに、女の声を聴いた瞬間にそれが消えうせた。空白になったのだ。

 

 

「あぁ、怖がらせてしまったの。ごめんなさいね」

 

 

 天女の声とはこういうのかもしれない。

 

 

「ほら、お前達。夢蔵を此方に連れてきなさい」

 

 

 体が動く。俺の力が戻ったのではなく、蜘蛛達が俺を背負って運んでいるのだ。

 

 何の感情も湧いてこない。今の現状が不思議に思うもそれだけだ。敵意も殺意も感じない。安全ではないだろう、今で。それがどんな恐ろしいことなのか、解っているはずなのに危機感すら湧いてこないのだ。

 

 

「やっと逢えたわね、夢蔵」

 

 

 運ばれた先には美女がいた。どんな女にも勝る、美しい化け物()が。

 

 幻想郷中の美女を揃えても、こいつには敵わない。完成された美を持つ化け物()だ。胸が高鳴る。動悸ではない。甘く刺激的な痛みを感じた。麻痺していなければ、すぐさま求婚してしまいそうになるくらい虜になった。

 

 

「こうして逢うのは初めてね」

 

「ア、ラトナ」

 

 

 目を丸くした後、嬉しそうに微笑んできた。その表情を、見つめていたくなる。飽くまで、いや、飽きることはない。彼女に許される限り、ずっと見ていたいんだ。目を丸くした表情さえ見惚れてしまう。

 

 

「私の名前ね」

 

「あぁ…」

 

「ふふ、もっと呼んでくれないかしら」

 

 

 鈴を転がしたような笑声。嬉しく思っている感情が伝わってきて、俺も嬉しくなる。

 

 

「アラトナ」

 

「ふふふ。あなたに名前を知ってもらって、本当に嬉しい」

 

「お、俺もお前の名前を知れて嬉しい」

 

「私はもっとよ? あなたより、もっと」

 

 

 甘い声。べたつくようではない。優しく溶けるような、それでいて忘れさせない綺麗な声。

 

 

「ねぇ、夢蔵」

 

 

 アラトナが俺の手を引く。力の入らぬ体では、こんな軽い力でも引っ張られてしまう。

 

 

「よく頑張ってくれたわね」

 

 

 抱擁され、アラトナの膨らんだ乳房と俺の顔がくっつく。柔らかいもので俺の顔が軽く潰れるぐらいですむ。

 

 

「…嬉しい」

 

 

 少し抱擁の力が強くなる。痛くはない。もう少し強くしても構わない。性欲を掻き立てるような獣じみた本能が動いてはいないのは、あまりにも優しい力加減と安心する彼女の匂いのおかげだろう。

 

 

「やっと、一緒になれるわね」

 

「あぁ」

 

「好きよ、夢蔵。 …離れないでいてね?」

 

 

 ――離れる気はない。

 

 アラトナから離れたくなんかない。もう、彼女とだけいたい。ちゃんと彼女と生きるのだ。生まれた欲は、綺麗ではないかいも知れない。きっと、汚いのだろう。だからなんだ。好きな、愛してやりたい(アラトナ)がいる。なら、なんとか愛し抜くのが俺の役目だ。

 

 アラトナに本心を告げる。

 

 

「いっしょに」

 

 

 ――いてやれない

 

 そう言葉を続けようとした瞬間、爆音が響いた。

 

 

 

 

 

「夢蔵!! そいつから離れなさい!!」

 

 

 幽香の声だ。怒声。

 

 

「危ないじゃない」

 

 

 アラトナは足を上げる。それを見ると、足に幽香がぶつかっていた。

 

 

「夢蔵!!」

 

「気安く夢蔵の名前を呼ばないでくれないかしら」

 

「お前ね、元凶はぁっ…!!」

 

 

 此方に来ようとしているのだろうが、アラトナの足一本だけに進路を一筋も作れていない。

 

 

「幽香、先走んないどくれよ!! あんたたちもだよ!!」

 

「わたしが先に殴りつけるはずだったのに…、輝夜を殺せなくてイライラしてるんだよ、わたしはなぁ!!」

 

「私って実は気が短いの。だから、やらせていただきますわ。妖夢ちゃんの分も込めて、ね」

 

「お嬢様と、おまけの美鈴のために、これから最大限暴れさせてもらうわね」

 

「萃香が眠ったまんまなんで酒がなくなっちまってね、暴れたいのはアタシもだよ!!」

 

「あ~、なんであたいがこいつらを纏めなきゃいけないんだよ~!!!」

 

 

 小町が鎌を振り回しながら頭を抱える。妹紅が派手に炎を敵味方問わず撒き散らし、幽々子は普段ののんびりした様子とはかけ離れた苛烈な攻撃を、咲夜は邪魔をしてくる蜘蛛達を処理しつつ皆の援護とアラトナの繰り出す攻撃の妨害、勇儀は星熊盃を持たず両手を使い暴れまわっている。

 

 

「あ、お前ら…?」

 

「大丈夫よ、夢蔵」

 

 

 皆の方を向こうとすると優しい抱擁で阻止された。

 

 

「!! 夢蔵に手を出すな!!」

 

「何故、私は貴女の指図を受けなくてはいけないのかしら?」

 

「っつ!!!」

 

 

 アラトナの言葉に怖い顔になっていたのがより怖くなる。そして、光が幽香に集まり出し。

 

 

「あー!! 幽香、ストップストップ!! 全力レーザーはまずいって!! 夢蔵が消えてなくなっちまうよ!?」

 

「夢蔵ちゃんならなんとかなるでしょ」

 

「あの様子が見えないのかい、あんたは!? チカラがてんでないんだよ!! あいつの寿命も消えちまいそうなんだ!!」

 

「お前は死神だろ、なんとかしろ」

 

「妹紅、あたしは死神だから何も出来ないの!! あー、映姫様助けてー!!」

 

 

 普段の幽々子のならばすぐ気づくのだが冷静でないのだろう、全く減らない蜘蛛を駆除する小町の怒鳴り声を聞いても反応はない。妹紅は燃やし尽くす勢いで炎を出しながら押し付けてくる。

 

 

「勇儀、右後ろに一発」

 

「あいよぉ!!」

 

「今度は正面をお願い」

 

「あいよぉって、あたしはあいつを殴りたいんだ。他の蜘蛛共はあんたに任せたいんだけど」

 

「アタシもあれを潰したいのを我慢しているの。それに、これらもなんとかしないと面倒よ」

 

「は~ぁ! なら、さっさと全部駆除しないとねぇ!!」

 

 

 咲夜と勇儀は蜘蛛共の駆除に当たる。

 

 無数にいる蜘蛛は大量に屍になってるのだが、同等の量がすぐさま復活し五人に襲い掛かっているのだ。今のところの五人は体力が残っているが、このままでは力尽き蜘蛛の餌になってしまうだろう。

 

 

「っつ!!」

 

 

 夢蔵はアラトナの抱擁から抜け出そうとする。だけれど、まだ力が入らない。

 

 

「大丈夫なのよ、夢蔵」

 

「アラ、トナ」

 

「こんなことより。お返事を聞かせて?」

 

 

 アラトナには五人の誰も近づけていない。全員、蜘蛛と彼女の足の所為で近づけないのだ。皆、全力だ。けれど、少しずつ傷を作っている。服すら裂いて赤が散らばり、木が折れるような嫌な音もする。でも、誰も止まらない。爆音が響く。アラトナに爪痕すらつけられていない。だからなんだと言わんばかりに皆は、血みどろになりながらも戦ってくれている。ただそれでも、俺とアラトナの二人だけが静に止まっていた。

 

 

 

「ごめん」

 

「…? 何がなの?」

 

「お前とは、いられないよ」

 

「――――」

 

 

 抱擁が少し緩んだ。

 

 

「夢だったけど、あいつとのような一緒はしてやれないよ」

 

「あれは」

「あの夢は、お前なりの愛情表現だったんだろ? 分ってる。凄い幸せだった。だから」

「私と一緒になればもっと幸福になれるわ。あなたの頑張りはよく知っているもの。本当に、頑張ってきたんだもの。私が誰よりも何よりも幸せに出来るのよ」

 

 

 俺に言わせないように言葉を被せてくる。そうだな、お前といればもう我慢することも頑張ることもなくなって、俺は幸せになれるんだろう。でも

 

 

「でもそれは、愛じゃない」

 

 

 抱擁から抜け出す。力が少し戻ったから、なんとか。それと、アラトナの力が弱くなってしまったから。

 

 

「愛をお前とは作れそうもないんだよ」

 

「………あなたを愛せただけで十分だと思ったの。」

 

 

 痛ましく残る胸の傷を撫でながら語り出す。その傷は親父が付けたのだろう。そこから微かに変質した親父のチカラを感じるのだ。

 

 

「でもね…、いつしか私はあなたに愛されたくなってしまったのよ。だから、ねぇ…わかるでしょ? 私の中で私と生って生きてくれないかしら。これ以上にないくらい幸せになりましょうよ。私はどんな女にも成ってあげるわ。あなたの望むように成って、在って、生きてあげる。温かな闇であなたと私、その二人が愛し愛されて、そして幸せな“私”になるの」

 

 

 睡眠中、ずっと一緒にいたのだ。彼女の愛はよく知っている。

 

 親父が死んだ後、小さな一匹の蜘蛛が夢に出てきた。そして襲い掛かってきたのだ。でもなんとか倒すことは出来た。眠るたびに同じ蜘蛛が現れ、襲い掛かってきては倒した。蜘蛛は徐々に力をつけてくる。俺も負けずと力をつけて倒す。それを何度繰り返したことか。神社の蔵を漁って睡眠中も修行できるようにしたのだが、蜘蛛が出るとは書いてなかった。けれど、蜘蛛のおかげで限界を超え続け、無敵の強さを得たのだ、なんども殺し合った。それだけの間柄だ。話もしないし、遊びもしないし、仲良くなんてしたことがなかった。でも、一番、一緒にいて楽しかったのはその蜘蛛だ。殺し愛をしていたのだ。

 

 そして、蜘蛛は俺を越えてしまった。いや、力を取り戻しきった。俺の夢から現実に干渉して俺を連れ出した。聞こえていた声に寄れば、他にも犠牲者がいるのだろう。あいつとの夢を見たということはあいつも犠牲者か。何故、あいつまで手をかけたのかというと、あいつとの夢をアラトナも見ることで“愛し方”を学習していたのだ。夢では俺の心情も見れる。なら、“どのようにすれば愛されるか”も学習している。そうであるから、博麗夢蔵とアラトナは非常に良好な関係を築けるだろう。あいつの愛し方は、アラトナの愛し方。それを夢の中とはいえ、俺は体験しているし、受け入れていた。どうあっても愛し合えることを夢の中で証明してしまったのだ。

 

 そのまま夢の中で生き続けてもよかったろうに、わざと親父のチカラを与えた。それは、アラトナ流に変質させられてしまっていた。目を覚ますことがなければ、それはそれで俺を愛し抜けたのだろう。あの胸の傷から親父のチカラを抜き取って与えてきたのには理由がある。親父を殺したかったのだ。実際、親父はもう死んでいる。だが、俺の中に親父は記憶の中に深く刻まれてしまっていた。それを殺す。起きた今、親父のことを全く哀れとも感じない。眠り続けても殺され、起きても殺す。本来であれば憤慨すべきだが、何もする気がない。あれほど大好きだったのに。その感情も本当はなかったのではないかと自分で不思議がってしまうほど。

 

 

「考えなくていいのよ。あなたのことはよく知っているから。答えを言わなくてもいいのだけれど、ふふ…、私の中にもあった乙女心は言って欲しいみたいね」

 

 

 俺もアラトナのことはよく知っている。一度は、夢の中で溶け合った仲だ。どれほど俺を思ってくれているのかも、よく理解も出来ている。

 

 

「ねぇ…夢蔵。愛し合いましょう?」

 

 

 言葉を捜す。

 

 

「さぁ、応えてちょうだい」

 

 

 幻想郷を侵略するアラトナのチカラと争って境界を開き続けている紫の声も混じった皆が俺の名を叫んだ。

 

 お前らには分らないだろう。こんなにも俺を愛してくれるのなんかいない。あんなにも俺が愛せる奴なんかいない。

 

 だから、返事は。

 

 

「無理だ」

 

「…どうして?」

 

 

 美しい顔は怒りに歪まない。ただただ不思議だから怒ることもないし、そもそも怒る気がないのだ。

 

 

「『博麗の武士』は【誰よりも遠くにいなくてはいけない】から」

 

 

 深い仲にはなれない。すぐ触れるほど近くにいることはできないのだ。

 

 

「『博麗の武士』は【どんなものも等しく斬らねばならない】から」 

 

 

 自分の情も、相手の情も。鈍らではいられない。

 

 

博麗夢蔵()博麗の武士()でいなくちゃいけない。親父がそう言ってたから」

 

 

 親父の言葉を思い出す。残滓は、それだけを許してくれた。

 

 

 ――剣は、いつか己を斬る。

 

 

 今、自分を斬りました。ひどい痛みです。大声で泣きたいほどに。俺の意志()は、大切な愛()を斬ったのです。俺のものだったのです、アラトナと育んで、彼女からももらった情愛。それを俺の意思で、斬り捨てました。

 

 

「だから、無理なんだよ」

 

 

 アラトナは手すら伸ばしてこない。俺の拒絶を理解してしまったから。

 

 

「そう…、そういうふうにあなたは怒るのね。ふふふ…、あなたを知り尽くしたつもりなのに、こんなふうになってしまうのはなぜかしら。私の知らないあなたのことを知れて喜ぶべきなのに、この心はあなたが憎いというの。“私を捨てる”あなたが憎い、と。しょうがないじゃない、まだ愛しているのだもの」

 

 

 すぐにでも触れられる距離なのに絶海の孤島のようで。

 

 

「あなたを。夢蔵を、愛しているのよ。けれど、愛しいあなたに惨めな姿を見られているのはなんだか嫌にもなるの。だからね、一言だけ。それを言ったら、あなたに触れるのは諦めるわ」

 

 

 美しい顔は、悲しげで。 

 

 

「お願い、聞いてくれる?」

 

 

 泣いている表情を作っていた。本当は表情など作れない。それほどの衝撃を与えてしまったのだから。だというのに、アラトナは泣いてくれたのだ。

 

 

「”私を忘れないで”」

 

 

 それだけを言う。

 

 

「…分かった」

 

 

 終わりだ。

 

 

「さようなら」

 

「えぇ、さようなら」

 

 

 戦っていた五人、境界を開き続けてくれていた紫。そして俺を帰してくれた。

 

 

――さようなら、アラトナ

 

 

 もう二度と逢えない。そのことが親父と同じで辛かった。

 

 

 

 

 

「おかりなさい」

 

 

 気づけば博麗神社にいた。俺を含めた七人は帰ってこれたのだ。

 

 

「先代、皆は?」

 

「えぇ、ギリギリ間に合ったわ。もう少しで目が覚めるでしょう。行ってあげなさい」

 

「そうだな」

 

「夢蔵、あんたは残りなさい」

 

「え?」

 

「他の連中は、さっさと拝殿に行く。 ほら、早く!」

 

 

 おふくろのうむを言わさない迫力と、先ほどの戦闘で疲れた面々は大人しく拝殿に向かった。

 

 

「さて」

 

 

 夜中なのでおふくろの表情がはっきり見えない。だが、アラトナに捕まるようなヘマをしたのだ。怒っているに違いない。思わず体を縮めた。

 

 

「よく頑張りました」

 

 

 拳の一つでも来るかと思えば、優しく抱きしめられた。もういい歳になったのに、こんなことされるのは恥ずかしかった。だから、何か言おうとしたのだけど黙ってされるがままになる。俺に触れてい親父の残滓を感じ取っているのかもしれない。

 

 

「本当に、よく頑張りました」

 

 

 落ち着く。こんなふうにされたのは久しぶりだ。親父が死んでから、されないよう頑張ってきたのだ。

 

 

「お父さんと一緒になろうとしたとき、凄く嬉しかったけど凄く怖くもあったの」

 

 

 語り出す。心地よい音程で眠気を誘う。

 

 

「博麗の武士は代々短命だったからね。お父さん、すぐいなくなっちゃうんじゃないかって。…ほんとうにすぐだったけど。でも、たくさん幸せをくれたわ。忙しくてろくにデートもできなかったけど、二人一緒に食べる葛餅は凄く美味しくてね。食べさせ合いっこもしたの。お父さんすごく照れてて可愛かったわ。…お父さんが傍にいるだけ嬉しかった」

 

 

 親の惚気が微笑ましく思う。親父の記憶がなくなってしまったから、よりそう思う。

 

 

「そして、大事な宝物をくれた。夢蔵と霊夢。あと、家族の思い出。あんたはすぐ霊夢を泣かすし。二人とも悪戯するし、勉強しないですぐ遊び呆けるし。でも、可愛かった。ちっちゃな手足で一生懸命に動くところが本当に可愛かった。二人並べば、もう最強に可愛かった。お父さんに初めてだっこされたときどっちも泣いたの、覚えてる? 全然泣き止まなくて、お父さん困り果ててたわ。変な顔しても泣いたまんま。私が笑ってたわよ」

 

 

 記憶を探るが、何も出てこない。おふくろの言葉を聞いて想像することしか出来ない。

 

 

「そんなお父さんがいなくなっちゃったとき、すごい苦しんだわね。痛かったね、辛かったよね。とっても怖かったね。 …ごめんなさい、泣かしてあげられなくて」

 

 

 抱きしめる力が強くなる。

 

 

「泣いて守ってあげればよかったのに、私が逆に守られちゃった。ずっと、そうだった。ごめんなさいね」

 

 

 何か言ってあげなくては。そう思っても何を言えばいいのか分からない。

 

 何も言わなくていいと背中をポンポンと優しく叩かれた。それは泣いている子をあやすようで。

 

 

「お母さん、お母さんちゃんとやればよかったのにやんなかった。ひどいこと、夢蔵にしちゃった」

 

 

 否定したい。全部、俺がしたいからやったと言いたい。でも、喉はしゃくりあげていて。

 

 

「ごめんなさいね。いっぱい頑張らせて、ごめんなさいね」

 

 

 おふくろの頭に涙が落ちる。追い抜いた背。守ってやらねば、頼りにならなければと躍起になって抜いた背。今は、守って欲しい、頼らせて欲しいと情けなく思ってしまった。

 

 

「よく、頑張りました」

 

 

 温かさが胸を刺す。涙腺が壊れてしまったようだ。涙が止まらない。

 

 

「夢蔵」

 

「お、っふくろ」

 

 

 分かっていた。

 

 もう、さようならなのだと。

 

 

「ごめんなさいね」

 

「いっちゃいやだ」

 

 

 俺を解放したおふくろの姿は透けている。俺達のためにチカラを使いすぎた所為だ。温もりはあるもののいつ消えるか。そんなこと考えたくなどない。

 

 

「夢蔵。みんなと幸せにね」

 

 

 泣き止むよう背を擦っているのだろう。でも、感覚がない。

 

 

「やだ、いやだぁっ!!」

 

「いっぱい頼っていいひといるから」

 

「いかないでよ!!」

 

「みんな、夢蔵と霊夢のこと大好きだから」

 

「親父もおふくろも、いないっじゃんか…!」

 

「いるわよ」

 

 

 透明になりつつあるおふくろが両手を広げる。

 

 

「ちゃんと一緒にいるから。お父さんと一緒に。寂しいときも、苦しいときも、泣きたいときも、ちゃんと一緒にいるから」

 

 

 そこらじゅうにね、と笑いながら。

 

 

「だから、こうしてはさようならになるわ」

 

 

 いたずらっ子の笑みを浮かべながら敬礼する。

 

 

「健闘をお祈りします! …これでも巫女だからね」

 

 

 もう体のほとんどが消えてしまった。

 

 

「おふくろ…」

 

「んじゃ、幸せになんのよ」

 

 

 わざといつも通りマイペースにしてくれている。涙で視界がはっきりしないが、おふくろは眉に力を入れ口が微かに震えているのが分かった。

 

 そうまで頑張るならいてくれてもいいじゃないか、と泣き喚きたくなる。

 

 でも、俺は博麗の武士で、霊夢の兄貴で、親父とおふくろの子供だから。

 

 だから。

 

 

「あぁ…。さようなら…っ」

 

「うん…。さようなら!」

 

 

 精一杯笑って見せたのだ。おふくろも笑った。これで良いのだ。

 

 消えていく。この光の粒達を集めてしまえば、またおふくろに会える。けれど、無理なのだろう。もう会えない人を思うのは、やはり辛かった。

 

 

 

 拝殿の方が騒がしくなる。きっと目を覚ましたのだろう。

 

 おふくろのチカラによって、アラトナに用済みと消されずにすんだのだ。先代の博麗の巫女のチカラはアラトナのチカラより下だ。一瞬でも気を抜けば、おふくろごと消されただろう。アラトナは俺を愛してくれたが、生みの親はどうでもよかったのだろう。だから、遊んでいた。俺が目を覚ますまでの退屈しのぎとして。アラトナのチカラは凄まじい。なんせ、俺を越えているのだ。先代の博麗の巫女とて、もう全盛期ではない。文字通り死力をつくしたのだ。ああして、俺に別れを告げれたのは、きっと親としての愛なのだろう。もっと一杯欲しかった、これからもっと欲しかった。でも、もう無理な話。地獄にも行かず、おふくろは幻想郷にとけた。雨が乾いた地面に染み込むように。優しく愛おしく。

 

 拝殿に向かうべきだろう。この切なさをとってくれるのはそこに居るのだ。

 

 拝殿まであと少しというところで後ろを振り返る。誰も居ない。誰もいてくれやしない。

 

 

「さようなら、おふくろ、親父」

 

 

 涙は零さない。

 

 

「大好きです」

 

 

 背を向ける。幻想郷にとけたおふくろと親父に。

 

 もう振り返りはしない。ちゃんと、“みんなと”生きていくから。

 

 

 『博麗の武士』は【誰よりも遠くにいなくてはいけない】 でも、少しだけ近づいてもいだろう。

 

 『博麗の武士』は【どんなものも等しく斬らねばならない】 たまには、剣を休めてもいいだろう。

 

 

 相棒である『鉄刃刀』の小さな破片を空に放る。アラトナに砕かれてしまった霊夢の提案した、スペルカードルールに対する【誓いの証】。チカラを使い、俺の中に入れる。もう、二度と忘れないように。

 

 

 ――夢蔵

 

 

 記憶が心を暖めた。

 

 

 ――お前はお前でいろ

 

 

 朧気に見える親父の顔。ちゃんと笑っていた。

 

 

 

 拝殿の扉を開ける。

 

 

「ただいま!!」

 

 

 俺の大切なみんな。

 

 

 

 

 

 

 

 

TRUE END

 

 

 




 主人公設定

 博麗 夢蔵(むさし)

博麗霊夢の兄で「博麗の巫女」を守護する「博麗の武士(はくれいのもののふ)」

◆概要
 幼い頃に父親を「ある異変」で父親を亡くした事をきっかけに、自分が母親と霊夢を守ることを決意。以後数年間ひたすら厳しい修業に励み、限界を超え続けたことで無敵の強さを得た。その力で異変解決に乗り出す霊夢の手助けをしたり、「幻想郷」を狙う数々の「外の世界」の侵略者たちを倒してきた。「博麗の武士」としての仕事の他、副業として森近霖之助が店主をしている古道具屋「香霖堂」と本居小鈴が店番をしている人里の貸本屋「鈴奈庵」でバイト(店番代理・万引き犯の捕縛など)をして収入を得ている。

◆武器
◇鉄刃刀(てつじんとう)
 主人公の腰に差している刀。両刃とも峰になっているため、相手の命を奪う心配もない。接近戦はもちろん、弾幕を放つ時も使用している。霊夢の提案したスペルカードルールに対する「誓いの証」でもある。

◆外見
 霊夢と同様に黒い短髪、茶色の眼。服装は白の上下服の上に紅色の着物に加え黒茶色ブーツ、腰には「鉄刃刀」を差しているのがいつものスタイルである(『銀魂』の坂田銀時の紅白&刀ver.のような服装)。

◆人物
 異変の張本人を前にしても飯の献立や人里の特売セールを気にする等、庶民的かつ図太い面がある。これはどんな状況下でもそういったことを気にする余裕があるという、主人公の圧倒的強さの表れでもある。父親の死がきっかけで家族を大切に思っており、霊夢を傷付ける奴に対して怒りを露にする。博麗の武士としても人気が高く、ファンクラブ(東風谷早苗・稗田阿求・本居小鈴を筆頭に結成)ができる程のカリスマ性を秘めている。マイペースな性格だが、自分なりの信念や博麗の武士としての誇りを持っている。

◆能力
◇覇気を操る程度の能力
 王者の気を操る能力。この能力を使い敵味方の位置を探知できる他、複数の敵を威圧し場合によっては気絶させる事も出来る(『ONEPIECE』の「覇王色の覇気」のような能力)。
◇博麗の武士としての能力
 空を飛ぶ時や瞬間移動をするときに使っている力。
◇戦闘能力
 これまでほぼ全ての敵を一撃で倒すなど、身体能力は規格外。耐久力や生命力も幻想郷一で、明確なダメージを負ったことはほとんどない(『ワンパンマン』のサイタマのような強さと頑丈さ)。

◆スペルカード
◇鳳符「夢幻転空」
 鳳凰の闘気をまとい、飛翔して高速で突進するスペル(『テイルズオブ』の「鳳凰天駆」のような感じ)。
◇剣波「夢幻総破(むげんそうは)」
 鉄刃刀に博麗の力を集め、“究極の斬撃”として放つスペル。ある程度出力を絞っても、一撃必殺を狙えるほどに威力が高い(『Fate/』のセイバー(青)の約束された「勝利の剣(エクスカリバー)」のような感じ)



各キャラクター設定
◎がヒロイン


◎博麗霊夢
 幻想郷と外の世界の境にある、博麗神社に住んでいる巫女であり、主人公の妹。最近、採用されているスペルカードルールの提案者でもある。主人公のことを「夢蔵兄(にい)」と呼んでいる。いつも自分の危機を救ってくれている主人公に慕っており、日常時でも異変時でも主人公の傍にいることが多い。

ルーミア
 通りすがりの闇の妖怪。「紅霧異変」には関係ないが、鉢合わせした主人公に襲い掛かるもあっけなく返り討ちに遭う。その後は、主人公に興味を持ちはじめ甘えている。「そーなのかー」が口癖。

◎紅美鈴
 紅魔館門番。紅魔館へ侵入しようとする主人公たちを撃退するため出てくるが敗北。その後は主人公の強さに憧れ、自ら弟子として志願する。たまに紅魔館に来る主人公に稽古を付けてもらっている。

◎レミリア・スカーレット
 「紅霧異変」の元凶である年齢500の吸血鬼。威厳たっぷりに振舞うが、内面はほとんど子供と同じであり、館の仕切りは事実上メイドである十六夜咲夜に任せている。撃破されて以降、主人公の強さに惚れてよく懐く様になっており、よく博麗神社へ遊びに来ている。

◎橙
 山に住む化け猫に憑く藍の式神。「東方妖々夢」では、迷い家のある里に迷い込んだ主人公たちを追い返そうと迎撃するが敗北。家の家財を霊夢に持っていかれそうになるが、それを主人公が止めたため恩義を感じる。以降は主人公を「夢蔵しゃま」と呼び甘えるようになる。

ルナサ・プリズムリバー
 プリズムリバー三姉妹の長女。性格は暗いが優しい。西行寺家にたびたび招集され、演奏で場を盛り上げている。今回も花見大会が行われるということで、いつものように招集されていた。得意な楽器は弦楽器で、特にヴァイオリンを使用する。一人で演奏中に偶然出会った主人公に自分の演奏をほめられたり、主人公によるギターの熱い演奏を聞いて恋心を抱く。

◎魂魄妖夢
 西行寺家専属庭師兼お嬢様の剣の指南役。幽々子の指示により幻想郷中の春を集めるが、異変解決のためにやって来た霧雨魔理沙に敗北。異変での気絶中に幽々子を圧倒した主人公の強さに興味を持ち、異変解決から数日後に博麗神社を訪れて主人公に勝負を挑むが完敗。それ以降は、紅美鈴に続いて自分の意思で主人公の弟子になる。

◎八雲藍
 九尾の狐に憑く八雲紫の式神で、紫が寝ている間に代わりに活動している。昔、紫の命令で幼い主人公と霊夢の世話をしていたこともある。「春雪異変」で開いてしまった幽明結界を修復中に脱走した幽霊達を捕まえて連れ戻して来た主人公と再会を果たす。

八雲紫
 あらゆる境界を操る妖怪の賢者。だが冬眠するほどよく寝ているため普段は式神の藍に全て任せている。先代巫女と幽々子とは友人関係。友人の一人である幽々子から幽明の境を修復して欲しいと依頼されて修復しているところを主人公たちと再会する。

◎伊吹萃香
 の原因となったラスボス。倒すことで使用可能になる。「密と疎を操る能力」で人を萃めていたところに異変解決のためにやって来た主人公たちと対峙。自分を圧倒した主人公に興味を抱き、主人公の誘いを受け博麗神社で手合わせをしてもらいながら居候している。

◎蓬莱山輝夜
 永遠の月の姫。永琳たちの策略を打ち砕き、真の満月に辿り着いた主人公たちに対し退屈しのぎと稀な来客のもてなしを兼ね、自慢の難題を武器に弾幕ごっこを挑む。撃破後に幻想郷にはすでに博麗大結界という結界が張られていることを知らされ和解。以降結界を解き、また身を隠す必要もなくなったということで積極的に主人公との接触を持つようになった。

風見幽香
 花を操る妖怪。過去(東方幻想郷)に先代巫女に挑むが敗北。それ以降は先代巫女と知り合いとなり、博麗神社に遊びに来たときに幼い主人公と出会い仲良くなる。それから数年後に成長した主人公と再会を果たし、どのくらい強くなったか知るために勝負を挑むが敗北。その後は、たまに博麗神社を訪れて主人公たちの様子を見に来ている。

◎四季映姫・ヤマザナドゥ
 幻想郷担当である説教魔の閻魔。霊夢たちへ説教したことが守れているかどうかの様子を見てまわっている。長時間、正座をさせて説教しても平気な主人公に頭を悩ませている。しかし少しでも主人公の罪が軽くなるように、諦めずに主人公のところへ来ては説教している。

先代博麗の巫女
 主人公と霊夢の母親にして、霊夢と同じ巫女。現在は「博麗の巫女」の代を霊夢に譲り、博麗神社でのんびりと暮らしている。主人公からは「おふくろ」、霊夢からは「お母さん」と呼ばれている。マイペースな性格のため主人公と霊夢を振り回すこともあるが、二人を大切に思っている。

先代博麗の武士
 故人。主人公と霊夢の父親にして、先代巫女の夫。優しい性格だが、博麗の武士としての実力はかなりあった。主人公からは「親父」、霊夢と先代巫女からは「お父さん」と呼ばれていた。「ある異変」で重傷を負い、自分の死を悟ると先代巫女に幼い主人公たちを任せて息を引き取った。


●主人公設定と各キャラ設定は、フリーリクエストをして下さいましたシャドー様ご考案です。



※本来、霊夢の設定は主人公に兄妹以上の好意を抱いておる、との要望でしたが、私の都合により改変させていただきました。


※本来ならば、ルーミア・ルナサ・紫・幽香も含めたハーレム、または各ルートがあるはずだったのですが、私の力不足により、彼女達にはヒロインにならないでいただきました。





アラトナ

アトラク=ナクア、クトゥルフ神話に登場する蜘蛛の神性を持つ架空の神をモデルにしております。





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東方Project 博麗霊夢・高麗野あうん・魂魄妖夢・東風谷早苗・古明地こいし・稗田阿求・茨木華扇でハーレム(霊夢&あうん落ち)※二つに分岐します

主人公の名前は、舞堂刀兵衛(ぶどうとうべえ)

ルートが二つあります


 いつも以上唐突に、霊夢の母である先代巫女を紫が藍まで使って拉致った、とある日。

 

 

「はー、やっぱり茶ってのは緑茶に限るぜ」

 

「そうね」

 

 

 そう、縁側で年頃の少女達が婆臭く茶をしばいている。ご丁寧に煎餅まで添えて。

 

 

「あぐっ。お、今回のあたりだな霊夢」

 

「あんたに先に毒見させてよかったわ」

 

「なっ!? 通りでいつもは先に食いつくはずなのに、と思ったぜ」

 

「そもそもあんたが持ってくることは、ヤな事しかないんだから当然でしょ」

 

 

 まだ警戒している霊夢は煎餅のにおいをかいでいる。魔理沙は泥棒―本人は借りているだけらしいが―だけでなく、魔法薬を研究したり作ったりなどもしているのだ。鼻や味覚がバカになっている可能性は十分にある。遅効性の不味さがあるかも知れぬ、と少しの間に霊夢は煎餅を隈なく見回したりして魔理沙の様子をひっそり窺った。

 

 

「研究の息抜きに来たらそうされるなんて、お前はひどい奴だぜ」

 

「はぐっ。研究が上手くいくように祈祷はいかが?」

 

「遠慮しとくぜ。私は呪われたくないしな」

 

「ふふ。今から呪うわ」

 

 

  少女達の和やかな会話。平穏である。手や足が何やら急がしそうであるが平穏である。取っ組み合いをしているように見えるが気のせいだ。

 

 

「霊夢さーん。刀兵衛様がいらっしゃいましたよー!」

 

 

  霊夢とその母に微妙にこき使われているあうんが来客を告げる。掃き掃除をしていたのだろう。箒を手に客人と共に霊夢たちの方へやって来た。

 

 

「よ、刀兵衛」

 

「あぁ」

 

 

  言葉の端がかすれる感じの独特な発音の男性が、魔理沙に応じる。霊夢といえば乱れた髪や衣服を整えている。顔には引っ張られた後が残っているので、完全には見た目が整えられていない。

 

 

「おじさん、久しぶりね」

 

「たった三月半だろう」

 

「人間の方には長いと思われますよ、刀兵衛様」

 

「そうだったか」

 

 

  男性、舞堂刀兵衛は仙人である。どこぞの説教臭い仙人とは違って、博麗神社近くの山にある自宅にほとんどいるのだ。食料や日用品など人里に買い物にいく事はあるが、先も書いたとおりほとんど自宅にいる。そこで何をしているのかといえば剣術、弾幕、格闘技といった鍛錬と修行である。たまに外出するが、それは幻想郷の状況確認や貧乏神社、いや博麗神社に賽銭をいれたりするぐらい。仕事はどうしたといわれるだろうが、ちゃんとしている。職業:仙人(優雅なる自由業)ではない。仕事は、たまに来る森近霖之助からの依頼である。彼の店、【香霖堂】に運ぶ“外の世界からの流出品”の輸送の護衛だ。それで、高額の報酬を得ているのだ。霖之助のような物好き以外には、ただのガラクタであろうが、彼から見ても微妙なものでも正当な給金を支払ってもらっている。博麗親子を養えるくらいは、懐が温かい。

 基本的に一人でいることが多い。理由は、興味の対象外である会話には積極的に参加しないばかりか、突き放す物言いをするからだ。老若男女問わず、どうでもいいことは心底どうでもいいのだ。壁にでも話していろとか、興味ないねとか言ったのかもしれない。

 

 

「賽銭は賽銭箱に入れとくか?」

 

「ここは神社よ。そうしてくれないと賄賂になるわ、おじさん」

 

「同じだろ?」

 

「違うわよ。ホント呪うわよ、あんた」

 

 

  刀兵衛は言われた通り賽銭箱に向う。その間に、霊夢は新たにお茶と菓子を用意する。せかせかとしていて、普段のだらけた様子は何処いったのかと首を傾げたくなるものだった。魔理沙が手をつけないよう、あうんは見張り役である。お茶と菓子を守護らねば!

 

 

 

 霊夢が刀兵衛専用の茶と菓子を出し、彼をもてなすことはいつものことだった。先ほどのは魔理沙の珍しい手土産ついでに、勝手に彼女が茶を入れただけだ。刀兵衛には茶や菓子を出すし、異変解決後は宴会に誘ったりもしている。理由は賽銭と異変解決に協力してくれる恩返しとだという。霊夢が幼い頃からの知り合いだ。世話にも現在に至るまでなっている。友達以上の親しさがあるということだ。霊夢の普段より表情や言動が柔らかめなのが、友愛以上親しさ以上のものを感じるが。

 

 

「そう言えば、刀兵衛。阿求がお前のこと探してたぜ」

 

「いなかったことにしろ」

 

「そんな冷たくしてやるなよ。お前のこと知りたいだけだろう?」

 

「魔理沙さん、知らないんですか?」

 

「何が?」

 

「えっと…」

 

 

  と、あうんが刀兵衛に視線で伺いを立てる。刀兵衛は自分の頬の火傷痕を撫でただけであった。

 

 

「刀兵衛様の武勇伝を書物に記したいんだそうです、彼女」

 

「武勇伝? こいつの? おいおい、こいつ、自分のこと書かれたら余計引きこもるぞ」

 

「引きこもるという言い方は止めて下さい、魔理沙さん!」

 

 

  いつの間にか早苗がやってきていた。きっと索道で来たのだろう。

  だいぶ他人と付き合いの悪い刀兵衛を擁護する言葉を出すのには理由があった。それはとある日、守矢の信者達、狂信者と変質者交じりのストーカーに誘拐されそうになるところを、察知して現れたヒーロー、否、刀兵衛によって救出されるという事件があったのだ。その後は刀兵衛の『相手を思う事も大事だろうが、まず自分を大事にしろ』という言葉の内にある優しさに惹かれ、それ以来は刀兵衛がよく立ち寄る博麗神社に来て、その度に通い妻のように彼にアプローチをしている。ちなみに、刀兵衛が退治した信者達は八坂神奈子と洩矢諏訪子の二人に引き渡し、引導を渡されている。

 

 

「じゃあ、なんだよ」

 

「隠遁です」

 

「引きこもりと変わらないぞ」

 

「ち・が・い・ま・す! 舞堂さんには、あるんです! こう神聖さが!!」

 

「神聖さ~?」

 

 

 あうんに見守られつつ、霊夢の近況報告を聞きながら茶と菓子を頂く、黒髪ポニーテールの刀兵衛を魔理沙は胡乱に見る。黒色の着物と灰色の袴、同じく灰色の羽織を身につけ左腰に二本の刀を差す男。頬にできた火傷痕がこちらから関わることを遠慮したくなるが、性格も明るい方ではないため余計そうなる。興味の対象外の会話には突き放す物言いもするのが更に。

 

 

「典型的なひきこもり野郎っぽいなぁ」

 

「なんでそうなるんですか! こう、優しいところがあるじゃないですか。私を守ってくれたり、あの事件が起こった後はしばらく警備してくれたり、里であったら荷物持ってくれたり…」

 

「お前に対してじゃないか」

 

「私“だけ”に? そ、それって!?」

 

「あんただけなわけないでしょ。頭沸いてるの、あんた?」

 

 

  暴走しそうになる早苗を止めたのは霊夢だ。あうんは参拝客なのか、人を見つけそちらの方へ歩いていた。霊夢の相手をしていた刀兵衛といえば、肩に子供を乗せて人力ジェットコースターをしている。事案?

 

 

「刀兵衛お兄ちゃん、もうっと早くできる?」

 

「いいだろう。振り落とされるなよ、古明地妹」

 

 

  キャー! と嬉しい悲鳴を出して乗客になっているのは古明地こいしだ。妖怪なので事案ではない、合法である。【地霊殿】の異変時、偶然にこいしが散歩を終えて地霊殿へ戻って来た時、刀兵衛が星熊勇儀に圧勝したところを目撃した。そして、興味を持ち勝負を挑むが完敗。古明地さとりから事情を聞いていた刀兵衛に『生き物の心には光と闇の2つ存在している。しかし、全てを諦めて生きるのは まだ早い。お前には、帰る場所も、待っている家族もいる』という言葉を聞かされてからは希望を持ちはじめた。その後、現在は刀兵衛が立ち寄る博麗神社に来ては、兄のように刀兵衛に甘えている。が、魔理沙を含め他の人はそんなこと知らない。こいしがいつの間にか刀兵衛になついてるという印象だった。事案ではない。繰り返す、事案ではない。

 

 

 

「ほら! 子供にあんなにお優しいじゃないですか」

 

「まぁな~」

 

「責任感もしっかりあるんですよ、ああ見えて」

 

 

 背に阿求を乗せた茨木華扇が現れた。彼女を下ろして微笑ましそうに彼らを見ている。

 

 

「そうね。ずっと私の世話をしてくれるの、本当に責任感が強くて参るわ」

 

「えぇ、私たちが子供の頃にした約束をずっと守ってくれるんですから。そこも刀兵衛のいいところですよね」

 

 

 目だけが笑っていない笑顔の鍔迫り合いが行われている。刀兵衛がよく博麗神社を訪れる事を知り、自分も頻繁に訪れるようになっているのでこんなことはもう当たり前になっている。茨木華扇は刀兵衛の幼馴染だ。ここにいる面子で刀兵衛の子供の頃を知っている唯一の人物になる。リードしているとも言える。

 

 

「舞堂さんは、舞堂さんの男らしさが一番の魅力だと思います!」

 

 

 そう声に出すのは、刀兵衛の武勇伝を書物に記したいらしい稗田阿求だ。数々の異変解決に貢献しているのを森近霖之助に聞き、そう思ったらしい。同じような情報は鴉天狗達の妖怪新聞でも見たりしているが、あれは脚色を多分に含むエンターテイメント性の強いものであるから、ちゃんとした物が欲しいのだろう。あの稗田阿求に武勇伝として記したいと頼まれている本人は、いまだこいしと戯れている。その彼を求めここまでやってきたというのに。

 

 

「確かに男らしいところもいいわね」

 

「昔は可愛らしかったんですけどねぇ」

 

 

 当時を思い出したのか、手を自身の腰より下ぐらいに下ろして華扇は懐かしむ。それぐらいの背の頃の刀兵衛と、今の刀兵衛は変わっているのだろうか。当時を知らない乙女達は食いついた。

 

 

「その話詳しく」

 

 

 霊夢、早苗、阿求。犬のような俊敏さで、同じく耳の良さを駆使しあうんも。魔理沙は彼女らほどの真剣さ、気迫はないが、鴉天狗達に渡すネタにしようと聞き耳を立てる。そんな五人に華扇は微笑んだ。

 

 

「いやです」

 

 

 にこやかなのに断固とした意志を感じた。

 

 

「いいじゃない。聞かせなさいよ」

 

「子供の頃から素敵だったんですよね?」

 

「舞堂さんのことをもっともっと知りたいです、華扇さん」

 

「教えてくださいよー、華扇さんー。いじわるは良くないんですよ?」

 

 

 乙女たちの食いつきがパない。

 彼女らが知っているのは、程度の能力を持っていること、仙人であること、身体能力と戦闘能力が高いこと、酒に強いこと。冷たいようで責任感が強いところ。自分たちが惹かれるほど素敵なことぐらい。初恋の相手や、恋愛遍歴、童貞か否かなど。他に色々知っておかなければならないことがあるのだ。傍にいるために。今の知人友人関係では物足りないものがあるのだろう。知的好奇心兼乙女心暴走である。

 

 

「ふふ。“私と刀兵衛だけの”思い出ですから」

 

 

 この仙人、穢れているのでは?

 

 

「なんのお話をされているのですか?」

 

「おー、妖夢。お前も早く混じったほうがいいぞ。出し抜かれちまう」

 

 

 阿求と華扇の護衛として共に来ていた妖夢は、先ほどまで彼女の師と話していた。師というのは妖忌のことではない。師は刀兵衛だ。

 その経緯はこうだ。異変解決にやって来た刀兵衛と霊夢達を迎撃するために立ち塞がる。けれども、刀兵衛との一騎討ちに敗北。解決後は刀兵衛の剣術に興味を持ち、自ら弟子を志願。その後は白玉楼の仕事をしながら、たまに訪れる刀兵衛に剣術の指導をしてもらっている。

 

 そして、魔理沙は華扇たちの様子に、茶と菓子をあらかた食い尽くしたのを機と見て家に帰るようだ。妖夢にそう言いやると、箒に跨り飛んでいく。喧嘩は見るのが楽しいが、飛び火するのは御免蒙るのだ。誰だって、理由のない意地など張らないのだから。だって、こんなに乙女暴走などしているのだし。

 

 

「妖夢。あんたも言ってやりなさい。この女、おじさんのこと教えてくれないの」

 

「舞堂先生の? は、はぁ…、舞堂先生の何を?」

 

 

 妖夢の肩をつかんで霊夢が華扇を指さす。華扇といえば他の乙女たちに対して優雅な勝利を得て喜んでいる。やっぱり、この仙人穢れてますわ。

 

 

「舞堂さんの幼い頃のお話です」

 

「舞、舞堂先生の幼少の頃!?」

 

 

 この馬鹿、と華扇含むその場の乙女たちが口を塞いだが、時すでに遅しであった。

 

 

「俺の子供の頃?」

 

「ききたーい」

 

 

  こいしに肩車をしながらやって来ていた刀兵衛がしかめっ面をしていた。こいしは無邪気に肩の上で揺れている。

 

 

「あー、その…」

 

 

  乙女ズに背を押された妖夢が気まずげに呻く。

 

 

「言わない。話させない。華扇、黙っていろ」

 

「言いませんよ。言いませんとも、私たちだけのお話ですもの」

 

 

  全員シュンとなろうが知ったこっちゃないと、刀兵衛は自分の火傷痕を撫でた。

 

 

 刀兵衛は帰り、霊夢と早苗、あうんを残し、彼目当ての他のメンツも帰っていった。早苗は索道もあるし、敵情調査という心持ちで残ったようだ。 

 

 

「霊夢さんと早苗さんが揃うって、どうなんでしょうね」

 

 

 方や博麗の巫女、方や守矢の風祝。どちらも派閥があるものだ。宗教でもめんどくさい諍いはある。というか元だが、彼女らの場合、早苗が突っかかるのがほとんど。霊夢は柳に風という、知らん、どうでもいい、というスタンス。ムキになるとしたら、お金のことと刀兵衛のことだ。後者のことは早苗もムキになる。

 

 

「なによ。文句あんなら守矢んとこ行けば?」

 

「狛犬さんってドックフードでいいんですかね?」

 

 

 あうんの何気ない言葉に二人はそう返す。霊夢は、大体のことはどうでもいいからそう反応するが、早苗はあうんをペットとして飼う感覚であった。どちらもひどい。

 

 

「ふ、ふつうの食事が欲しいですぅ…」

 

 

 博麗家では、一度犬まんまを提供したことがある。神棚に捧げたり、祈祷したものを。あうんはもちろん泣いた。普通の食事がしたいと泣いた。

 

 と、和やかな会話を少女たちがしていると、霊夢の頭の上の空間が歪む。

 

 

「霊夢」

 

「でたな、紫。って、お母さんも」

 

 

 そう隙間から現れたのは八雲紫、そして霊夢の母の先代巫女だ。どちらも少々余裕がなさそうである。

 

 

「霊夢。ちょっと神社から出るの控えるのよ」

 

「いいけど…。なんで、お母さん?」

 

「ちょっとあるのよ、面倒なのがね。あうん、霊夢をよろしく」

 

「はい、かしこまりました」

 

「じゃ、先代巫女は連れてくわね」

 

 

 用事はそれだけだったようで、すぐ空間が閉じた。三人は首を傾げる。

 

 

「霊夢さんのお母さん、何急いでたんですかね」

 

「うーん…。面倒なの、ねぇ」

 

「異変ですかね?」

 

 

 最近も面倒くさい異変があったが、十以上のものを解決してきたのは霊夢だ。刀兵衛が協力し、他の少女たちも色々したりもするが。

 

 異変を起こす側も解決する側も悔恨残さずに済むということになったのは霊夢からである。それ以前、先代巫女までの間は彼女の巫女服が真っ赤になることも、その頃から協力している刀兵衛が刀だけでなくそうなるのも茶飯事であった。力で上下を決めるのは同じであるが、平穏に済むのは霊夢のほうである。スペルカードルールという弾幕ごっこが始まってから、そうそう不穏なことは起きていないはず。個人間ではどうだか知らないが、幻想郷という範囲で見れば月人が侵略戦争をおっぱじめるということはなく、人間と妖怪の理想郷でいる。妖怪の食事のためにということもあろうが、それは大体示談で終わるのがほとんどだ。基本的に食事として提供されるのが外来人だからというのと、こっそりそういうことで決まっていたというのもある。

 

 だから、霊夢は先ほどの母親たちからした嫌な感覚に、自身の腕をさするのだ。大体霊夢の母は何かあろうと、誰かが聞かなければ何があったのか語らない。霊夢もそういうところがあるが、下処理でも後処理でも躓くことはなかった。それが、あの詰まるような物言い。何かあるのは間違いない。

 

 

「そう言えば聞きました、二人とも。最近通り魔事件があるんですって」

 

「早苗さん関連ですか?」

 

「私関係ないですよ、たぶん…。あちこちで斬り捨てられてるんです。こう、斬り捨て御免って」

 

「はぁ…。皆さん無事なんですか?」

 

「………」

 

 

 早苗の沈黙が意味を悟らせる。血生臭いことだ。

 

 

「で? あんたんとこの信者もやられたの?」

 

「諏訪子様と神奈子様が加護を与えているので比較的少なくて済んでいます。ですけど、ちょっと不穏な感じで」

 

「犯人分かってるんですか?」

 

「鋭利なもので切り裂かれたとしかわかってないんです。しかも複数犯みたいで、同日に三、四人被害者が出たり」

 

「確か鴉天狗が今朝突っ込んできた妖怪新聞にもそんなに出てたわね」

 

「え? 妖怪も範疇なんですか?」

 

「みたいです」

 

 

  妖怪のほうも同様なのだろうか。霊夢は焚き火用にしようとした新聞を尻の下から引っ張り出す。少々草臥れたそれは、中々に凄惨な記事を書き起こしていた。

 

 

「かまいたちだったら傷治すしねぇ…。あ、見なさいよ。ここ」

 

 

 と、見出しと、とある一文を霊夢は指でなぞって見せた。同時に口に出してもなぞる。

 

 

「《犯人は妖怪でも人間でもないのでは? 現場では、筆者含めある人数に謎の精神的異常が起こった。それはそれぞれで意識的高揚と逆のものがあった。学者に聞き及んだところ、麻薬的な作用がある物質が検知されたとのこと。犯人は、その物質が空気中に局所的に集中し、それを長い間吸引したことで頭がおかしくなり乱闘が起こったのではないかと、学者は論じた》…だって」

 

「麻薬的な物質ってなんです?」

 

「そこは…、書いてませんね。空気洗浄機があればこの事件って解決するんですかねぇ?」

 

「河童に頼む?」

 

 

 河童は盟友が犠牲になっているのだ。彼らの技術を駆使し、高品質、高性能なものを作ってくれるだろう。

 

 

「すでに依頼した、と出ていますし使ったみたいですけど、意味ないみたいです。土壌まで汚染しているみたいですね」

 

「科学的な異変なんて解決できませんよ…。私、化学の成績も良かったですけど仕組みとかちんぷんかんぷんですし」

 

 

 霊夢は、これを異変と気付いている。だが、母が動いたのだ。自分の出番はないだろうと、確信した。きっと、彼女が【おじさん】と呼んで親しんでいる刀兵衛も手伝っているのだろうし。と、思うと、背筋に悪寒が走った。

 

 

「あうん」

 

「はい?」

 

 

 霊夢は立ち上がり、刀兵衛のいるはずの方向を見つめた。

 

 

「ちょっと留守にするわ。ちゃんと神社守ってんのよ」

 

「え、は、はい。って、霊夢さん、先代巫女様から」

 

「そうですよ、霊夢さん。どうしたんですか?」

 

 

 二人に返事を返すことなく、霊夢は神社から飛び立った。

 

 

「おじさん。何処へ行くのよ」

 

 

 慣れた気配がまったく感じられなかったから。

 

一旦主の元へ戻ったが、妖夢は里に来ている。新しい菓子屋ができたとのことでやってきたのだ。いつもなら余分に金子を持たせるのだが、今日はなかった。それは寄り道はだめだということである。妖夢を労うために暇をつぶして来い、という意味合いでいつもはお使いなどさせるのだが、今日は違った。なるべく早く帰ってこいと言われたのだ。本当なら出かけずともよい、と言われたのだが、ちょうど菓子がなく仕方がなかった。主は我慢するといったが、せつない顔をさせるには忍びないと思っての事だろう。

 

 

「あら、妖夢さん」

 

「こんにちわ、阿求さん。なにかあったんですか?」

 

 

 普段はお供を影からつけるが、今日、彼らはがっちり阿求を囲んでいる。

 

 

「えぇ、例の事で会議を」

 

「そうでしたか」

 

 

 例の事。あの鴉天狗の新聞に出ていたものである。

 

 

「目星はついているんですか?」

 

「あまり…」

 

 

 里内では妖怪の仕業と見ているということは知っていた。それで【幻想郷縁起】を書いている彼女の知恵が必要になったのだろう。あれは完成されたものではなく編集中のものだ。紅魔館の連中のように新たに参入してくるものもいれば、修正しなければならないもの、まだ記していないものはある。

 

 

「阿求様。そろそろ…」

 

「分かりました。私は濡れ衣を剥がすために行ってきますね」

 

「あぁ、はい」

 

 

 いつもの優しそうな雰囲気を凍てつく氷に変えた阿求は去っていった。先ほどの会話でも穏やかそうな口ぶりなのに、妖夢さえ緊張する何かがあった。稗田家のあの噂は本当かもしれないと背筋が寒くなる。

 

 それを剥がすために意識を変える。つい雰囲気に当てられ、手に掛けかけた刀から手を放す。布団を冬用に変えるべきか悩む季節の風が頬を撫でたのもそうだ。

 

 そういえば、妖夢の師である刀兵衛はどの季節が好きだったろうか、と。何故そんなことを考えたのかは、風が冷たいものだったから。先ほどの阿求の雰囲気に比べては優しいものであったけれど。

 刀兵衛に似合うと思う季節は秋であると考えた。秋はいい。秋は、夏の暑さに辟易していたのが、人肌が恋しくなるような温度になる。関係が深まりやすい季節といえる。冬は体を温めあう季節。そこに行く前に、春の陽気に当てられ会話をするようになったのを、夏の日差しで共に日々を楽しむようになり、秋で恋を実らせる。秋はいい。人々の心を夏より暖かくする季節だ。なれば、刀兵衛にこそ似つかわしい。あの、興味のないことには突き放す物言いがやんわりすることはないけれども、秋になれば互いに近くにいることもなんとなく許してくれるから。軽い打撲程度でも、優しくしてくれるのだから。

 

 刀兵衛のくれる痛みが好ましかった。手折ることなど容易いのに、一度一度長く続く痛みを与えてくるのがいい。秋になれば何処も彼処もそうなる。顔に直接やってほしいものの、そうはならず服で隠れるような部位だけだけれども。それも風呂場で湯水に当たってしみると心持ちがひどく良くなる。とても穏やかに誰かを思うことができる。ジンジン疼く痛みが心を穏やかにするのだ。誰にも施したくない痛みがいい。秋のように人肌に染み込んでくる温度は、刀兵衛だからこそ与えられる。霊夢や魔理沙ではこうはならない。枯葉が落ちるように、静かに沈むような痛み、そして、舞うように哀し気に踊る痛み。それは刀兵衛だけが与えてくれる。

 

 そんなことをつらつら考えて歩いていたら、いつしか目当ての菓子屋の目の前まで来ていた。

 

 前に、稽古で打たれた右わき腹を擦りながら入る。痛みが心地よかった。

 

 背筋を丸めそうになる風が後ろで舞った。秋らしい、人を恋しくさせる風が。

 

 

「舞堂先生はどのようなお菓子がお好きなのだろう」

 

 

 いつか、刀兵衛がこの風に包まれながら妖夢自身に致命傷を与えてくれるといい。傷つけたくないのに傷つけてしまった、という確かな痛みを刀兵衛と二人で感じられるようにと。それこそ剣士たちらしい恋模様であるのだから。

 

 

 

 

 役場は老若それぞれ集まっていた。上座に阿求が座ると、一同はいったん静まる。

 

 里長が軽く挨拶し、他の代表もそれぞれ、どこそこの誰それと言う。これから行うのは会議だ。

 

 

「まず、此度の事件の発端の説明を願えますか?」

 

 

 いつもの穏やかそうな雰囲気はなく、稗田家当主として厳かな空気をまとった阿求が話を進めるようだ。

 

 事件は、三月半前ぐらいに最初に起こったらしい。それで死んでいたのは木っ端妖怪だったので、明確に事件とはしなかったものの、鴉天狗の新聞に載っていた異常があったようだ。妖怪同士の小競り合いで終わるべきはずのものは、いつしか被害者を増やしながら人間にまで被害者になった。事件の起こる間隔は不確定で、一日に三度も起こったものが三日に一度であったり、被害者数も一人であったり四人であったり、起る日も昼夜決まりがない。犯人の目星として見た妖怪が殺されても事件は続いた。

 

 

「被害は妖怪も交えて六ほどですね」

 

 

 もっといるのだろうが、今回の集まりで必要な数字はそれだった。被害者の原型がないもの限定の話だ。異常に当てられその場で行動したものもいたが、大体は抑えられているらしい。

 

 一人が言った。これは妖怪の仕業で間違いない、と。その声に、自分もそう思うという声が幾度も上がる。どの妖怪かは分からないが、その線で間違いないだろうという見解だ。【幻想郷縁起】に書かれていた妖怪を数知れず上げていく。付喪神の仕業や、狐狸の仕業いったもの。だが、どれもこれも被害者、加害者両方いるものの明確に犯人とは言えない。

 

 一人が言った。もしかして、あの男では、と。

 

 

「あの男とは?」

 

 

 舞堂刀兵衛の名が上がった。あの男が怪しい、と。

 

 

「何故、そう思いますか?」

 

 

 一人が、刀を持っているから、と言った。次々言葉を続ける。人に対して冷たいのは人を恨んでいるから、と、妖怪以上の力を持っているから、と、妖怪に魅入られて殺して回って自身の愉悦を満たしているのだ、と。その一人につれ、周囲からも、刀兵衛が犯人ではと疑いを持つ声が上がる。あちこちに。やれ、邪仙なのだろうと、実は妖怪であるのだと。

 

 阿求は微笑んだ。

 

 

「そうですか。では、貴方」

 

 

 口火を切った一人を指さす。

 

 

「私を斬れますか」

 

 

 一体何を言うのだろうか。一瞬固まったが、即座に首を振る。

 

 

「どうして斬れないのですか?」

 

 

 それは貴女様が稗田阿求様であるから、と答える。阿求はその答えに鼻を鳴らした。

 

 

「舞堂さんも私を斬れません。貴方方も、同じく。どんな理由があろうとね」

 

 

 周囲がざわつく。それでもよく通る可憐な声。

 

 

「舞堂さんは、男らしい方です。それがどういう意味かお分かりですか?」

 

 

 一同が顔を突き合わせても阿求の言っている意味が理解できない。男らしい、とは力が強いとか、男前ということだろうか。困惑を露わにしながら一同は頭を悩ます。

 

 

「舞堂さんの男らしさ。それは“優しさ”というのです」

 

 

 ざわめきはしなかった。阿求が許さなかったのだ。

 

 

「“優しさ”と“男らしさ”が何故同じであるか、分からないようですね。 …優しく在るには、どうすれば良いのでしょう。他者を思える? そんなのは当たり前です。では、情が深い? 前提条件です。他には、何があるでしょうか。素直であること? すぎるとどうなります、互いに火傷だけではすみませんよ」

 

 

 一同は黙るしかない。阿求の声は静かだけれど、口をはさむなと圧があるのだから。

 

 

「では、男らしく在るには、どのようであればいいのでしょうか。強さ? 逞しさ? 気前の良さ? どれもこれもそれらだけでは足りません。強さが欲しければ血反吐を吐いて足掻きなさい。逞しさが欲しければ泣き言を言おうと行動なさい。気前の良さが欲しければ明日も笑えるよう稼ぎなさい。そのようにしても舞堂さんのようには成れませんが」

 

 

 阿求は笑った。とても冷たく、美しく、薄氷なような笑み。一同に対する警告であった。

 

 

「舞堂さんの##RUBY#“男らしさ”#“優しさ”##とは、“閉じていること”です。誰かを思うのに、心を開く必要はないのです。だって、救われたいなら表に出したりするでしょう? 隠していても滲み出る。救うならば、救う相手を金銭であれ、人生であれ背負う必要がある。ひどい労苦です。裏切られる場合もある。弱音など吐くなと謗られるのなど常。だからこそ、閉じていなければならない。責任をもって相手を救い上げるために。閉じていなければ、自身から、他者からの雑言に気を取られ、摩耗し潰れてしまう。閉じることで“必ず救う”と定め続けれるのです」

 

 

 一同の心臓が冷たくなる。

 

 

「誰かを救うためには責任を持たねばなりません。死んでもいいという逃げは許されない。もう止めたいなど言っても無駄。今まで私が知っている拷問で、誰かを救うなどという拷問ほどひどいものはありません。だって、満足しきれなくなるんですから。その行為が善だけのものではないのです。偽善です。自分が満足するためのものです。それが、満足できなくなるんですよ。次は次は、と涎を溢れさせながら強請りだす。傲慢さというのはこれですね」

 

 

 心臓が冷たく脈打つ。

 

 

「だから、閉じる。それでも、舞堂さんは自分のためにじゃないんですよ」

 

 

 満面の笑みはなによりも恐ろしかった。

 

 

「“私や、貴方たちのため”に」

 

 

 目が離せない。瞬きを言葉だけで封じられていた。

 

 

「“私たちを救うために舞堂さんは閉じ続ける” それが、どういう意味か。“一人でいなければならない” ということ。なんと、なんと…」

 

 

 阿求は両手を胸の前で静かに握った。それだけの仕草なのに、誰もが身体を震わした。

 

 

「可愛いらしいのでしょうね」

 

 

 乙女の吐息は熱く、重いものであった。

 

 

「であるというのに、舞堂さんが犯人と?」

 

 

 そのまま阿求は熱に浮かされたまま言う。

 

 

「ふふ、愚かね…。舞堂さんが犯人ではありません。私の家のもの、妖怪の賢者様が把握しているものがこれです」

 

 

 傍に控えていた阿求の側仕えが報告する。アリバイ証明だ。

 

 

「この村のものが犠牲になった日も、妖怪が犠牲になった日も、舞堂さんが犯人である証拠は一つもありません」

 

 

 両手を解き、手を一同に向ける。

 

 

「舞堂さんは犯人ではありません」

 

 

 一音一音ハッキリと言う。一同はうわ言のように繰り返した。

 

 

 

 

 早苗は守矢神社に帰り自室にいた。霊夢が飛び出してから居座るという気にはなれなかったのだ。

 

 少女らしい小物を少し飾った机を前に一つ考えた。霊夢が刀兵衛がいるであろう山を見た後に飛びだしたのは、一体何故だろうと。

 

 考えながら、机に飾ってある写真立ての一つを手に取る。現世の頃の写真や、神奈子や諏訪子と撮ったものではない。刀兵衛と早苗が並んでいるものであった。早苗は満面の笑みだが、刀兵衛は写真の方に向いているものの仏頂面でピースサインも何もしていない。だが、二人の距離はとても近かった。これ程の距離は今はない。この写真はお守りのようなものである。早苗誘拐未遂事件から少し経って撮ったものは、今見ていてもにやけ顔が止まらなくなる。

 

 

「舞堂さん…」

 

 

 刀兵衛の輪郭をなぞる。薄いガラス越しに指を滑らす。つむじからゆるゆると。

 惹かれる前ならば、指紋がついてしまったことから色々諦められたろう。が、早苗はもうそれすらできないだろう。

 

 『相手を思う事も大事だろうが、まず自分を大事にしろ』。刀兵衛のその言葉が、ふいに耳の奥で脈打つ。

 

 相手を思うことは容易くはない。自分を大事にすることも同じく。刀兵衛はそのような難題を早苗に課した、そう早苗は今になって考える。それは風のにおいが苦いからだ。

 仲良くなったと自負できるが、相変わらず突き放す物言いをされることもある。惹かれてから通い妻のようにアプローチしてはいるが暖簾に腕押しなことはもう当たり前になっている。自然に近寄ろうとすれば、目で制されることはよくあること。構わずに特攻するには、早苗の現代思考的に難しかった。

 

 早苗は幻想郷に来る前は普通に学校に行っていた。幻想郷の寺子屋規模ではない。一クラスには三十人以上の人がおり、何クラスもあれば百人などすぐ超える。里の人数など数クラスだけで超えていた。男女も教師も合わせれば、見飽きるほどいる。であるから、男女のあれこれを見ることはよくあったし、早苗も年頃のようなものは同じくあった。

誰々が付き合った。あの子、あの人が好きなんだって。アイドル、俳優のこの人がかっこいい。――等々、友達とよく話し合っていた。そのような思考は現代であったから培われ、そして生きていた。当たり前だろう。時代にそぐわなければ廃される。アレンジしようと大多数に気に入られなければ同様に。

 

 そのような思考だから、あの事件が起きた。信者的に早苗の動きが気に入らなかったのだ。幻想郷も色々試行錯誤はしているものの、早苗がいた現代に比べて古臭すぎる考えをするものが老若揃って一定数いる。気に入らないなら排除しようという考えがなかったわけではなかったのだろう。彼らはだから誘拐なん手ぬるい手を使った。計画的犯行。カタツムリのように動くほどじれったくしつつも勘考し、行動した。だが、それは失敗に終わった。何故なら、刀兵衛がそれを察知して早苗は救出されてしまったからだ。

 

 彼らの視点からすれば、早苗は相手に対する接し方が緩すぎた。老若男女、区別をしているものの早苗は緩かったのだ。それを刀兵衛は早苗がアプローチする前から何とはなしに見ている。だから、察知してからでないと動けなかったのだ。本来なら目が出る前に潰すなりした方がよかったが、早苗にばかり注視してしまっていたのだ。で、起ったのは早苗“が”起こすのではなく、早苗“に”起った。前者なら刀兵衛が出張ることはなかった。母親代わりのような二柱の神や、霊夢が出張ればいい。だけれど、後者だからこそ刀兵衛は動かざるをえなかった。正義感はもちろんあろうが、偏に霊夢のために行動したのだ。

 

 相手を思うことは難しい。勘違いなどよく起こる。

 自分を大事にすることは難しい。気迷うことなど常だ。

 

 だから、早苗は勘違いを起こすし気迷う。

 

 “舞堂刀兵衛は東風谷早苗だから助けてくれた”と。

 

 勘違いでもいい、気迷うことすら厭わない。そんな、まるで道化のような心情。道化でもいい。普段の熱に浮かされたバカな女であるのだって、道化のように傍からは見える。実際、道化だ。近寄れば相手にはされるものの、心の距離が近まったという確信はないといっていい。

 

 相手を思う。

 舞堂刀兵衛を思う。少し恋愛に夢見がちな早苗にとって、彼の態度はそれを汚す。他人との会話で興味がなかったら突き放すなど、コミュ障以上の問題児だ。早苗が会話をしようとしても同様なことはする。多少恋愛経験もあるし、対人関係もあまり問題を起こしたことのない早苗にとって、刀兵衛は難しいものだった。つーと言えばかーと返すというようなお決まりのものさえ、刀兵衛は決まりを守りもしない。だから、相手を思う、ということを理解しようと道化のような態度をとってしまう。

 

 自分を大事にする。

 早苗自身を大事にする。自己に自惚れ気味の早苗にとって、容易いことのはず。容姿がいいし、人を楽しませる話術をそこそこ持っている。目の動き、表情、身振り手振り、声のトーン、どれもこれも普通の人から見て、不快に思うようなことはないといっていい。若い感性で自己を見つめると、自分は完璧と言っていい。信者の方であれ、親代わりの二柱の神様さえ、他の色々な人々、妖怪さえ、手間取ることはない。刀兵衛以外は。だから、自分を大事にする、ということを理解できず道化のような態度をとってしまう。

 

 道化のままでいることなど耐えられなかった。早苗はそこまで図太くない。女でいたい。芸人などなりたくなどないのだ。自分が笑われて好かれるということに不快を感じる。他者を嘲笑うことは現代人の感性からしても捻たものはある。でも、それが自分に当てられたなら、嫌すぎるのだ。

 

 相手を思う。道化。嫌だ。  自分を大事にする。道化。嫌だ。

 最初は、優しい言葉だと感じたのだ。相手ばかり思いやるな、自分のことも思いやれ、という意味だと。その通りだったのだろうが、この写真を見ていると先ほどのようなことが頭を回る。

 

 相手を思うならば、道化で在れ。自分を大事にしたければ、道化で在れ。

 

 あぁ、道化で在れたなら難しくはないのだ。そんなに難しくはないのだ。

 

 写真の中の刀兵衛と目を合わせる。その瞳は静かで、実物はいないのに早苗を見つめてきているようであった。

 

 

「舞堂さん」

 

 

 刀兵衛の首の部分に、爪を立ててしまう。おしゃれで少し長めに整えた爪はギシリ、と指に圧を与えた。

 

 

「舞堂さん」

 

 

 圧を強める。首を飛ばさんばかりに。

 

 

「道化で在れば愛してくれますか…?」

 

 

 刀兵衛は何も返さない。当然だ。本人はいないのだから。

 

 

「『相手を思う事も大事だろうが、まず自分を大事にしろ』というお言葉。私、期待しちゃいますね」

 

 

 勘違いでもいい、気迷うことすら厭わない。

 

 

「私のことを想ってくれてますよね」

 

 

 ピシリ、と。爪と写真立てのガラスにヒビが入った。

 

 

「舞堂さんを思いますから、舞堂さんは私を大事にしてくださいね」

 

 

 ならば、東風谷早苗というありのままの女のままで、道化で在ろう。

 

 

 

 

 

 こいしは、いつの間にか枯葉だらけの場所にいた。いつもの【無意識を操る程度の能力】の所為だ。この能力は、彼女を何処かにやり一人にする。

 

 地面に落ちているどんぐりと落ち葉を蹴飛ばす。銀杏がなくてよかった。あれの果実の部分をつぶすと、とても臭い。

 

 

「刀兵衛お兄ちゃーん」

 

 

 返事はない。当たり前だ。刀兵衛はここにいないのだから。そのことが、どうも今は苛立つ。

 

 

「刀兵衛お兄ちゃーん」

 

 

 少し低めの声で名を呼ぶ。返事などない。刀兵衛はここにいないのだ。そのことに苛立ってしょうがない。

 

 三度目の正直、というのはなんだか違う。運命的ではないから。出会うのなら、ふいに視線があったときとかの方がいい。一番は、気づいたら隣で寝ているとかだ。

 

 少々土混じりに落ち葉を蹴飛ばす。履物に土が付こうが構いやしない。家に帰った時に姉であるさとりに、ため息をつかれるだけだ。

 

 

「生き物の心には光と闇がある、か」

 

 

 さとりのため息を思い出すのが嫌で、刀兵衛と初めて出会った時に言われた言葉を口にする。

 

 

「光ってなんだろう。闇ってなんだろう」

 

 

 光とは善なる心。闇とは悪なる心。そういうもの、かもしれない。色で言えば善が白で、悪が黒。どちらもそういうイメージで、その通り。

 

 

「混じちゃったらどうなるんだろうなぁ…」

 

 

 覚妖怪としての能力は手放している。だけれど、手放すまでに見てきたものは綺麗ではなかった。小さな子供からしわくちゃの老人に至るまで、誰もかれも混じり混じって汚いものがあったのだ。身近な人に対する感情も、誰かをあてにする感情も醜かった。その醜さに耐えきれず、こいしは第三の目を閉じた。刀兵衛の言葉の通りなら【全てを諦めた】とも言おう。

 相手の心が見えるというのは、その人の全てを受け入れているというのだ。けれど、姉であるさとりはそういう全力思考のあるタイプではない。そういうものもあるのね、とりあえず見るわ。という一方だけでなく他の視点でも捉えられる思考力があったから、覚妖怪なんてやってられる。

 こいしはそうではなかった。一部だけでも耐えがたかった。良い感情にしろ悪い感情にしろ、それを誰かに与えればどちらとも攻撃になる。優しい言い方をすれば刺激になるだが、こいしにとっては攻撃でしかなかった。好きという言葉の裏にある下心、嫌いという言葉にある下心。上辺だけでとっても深く読み込んでも、どちらも気持ちのいいものではない。好きだって汚いものがある。例えばあの人のどこそこが好き、と言うのなら、そこがその人のことを嫌いになりやすいところだということがわかってしまう。嫌いだって汚いものがある。例えば、あの人のどこそこが嫌い、と言うのなら、そこ以外も好きではないというのが滲み出ていると気づく。だが、そういうのを妥協して生きていくのから、相手を好きになれるし嫌いにもなれる。そして、関わって普通に生きていく。

 

 こいしは、自分は相手を好きか嫌いか、そういうことを普通にできなかった。

 姉であるさとりが好き、ペットであるお空やお燐たちも好き、地獄にいるものたちもある程度好きである。“誰かから見れば好きだろう”という固定観念で“好き”と定めた。姉だから好き、ペットだから好き。地獄にいるのだから好き。こういうところがいいんだろうな、という誰かの視点で好きと思ってきた。こいし自身にどこが好きか聞けば答えらえる。具体的に言葉を出すときもあろう。でも、どれもこれも薄っぺらい。こいしが好きと感じた温かみが一切ない。それもそうだ。こいしは誰も好きになったことなどないのだから。

 

 そうであるから、当初は刀兵衛に事をどうしようと思ったのだ。

 

 最初は、随分オカシイことを言う男だと思った。生き物の心に光と闇があるなど知っている。であるから、第三の目を閉じた。そうと知っているはずなのに、だいぶ深刻そうに言うので失笑を浮かべそうになった。が、できなかった。第三の目で見なくてもわかる、まっすぐさ。あんなにまっすぐ見てくれたのなんて閉じる前も合わせて初めてだった。姉でさえ、しょうがないと目をつむった。ペットたちは見守るだけ。地獄の連中などそういうものと見送るのみ。誰もかれも優しくはあったけど冷たくもあった。手を取ってくれる者もいた。だけれど、その先はなかった。さぁ、進んで、とすぐ手を離された。期待はなかった。ダメージは最小になったけれど、第三の目すら涙で滲みそうになったことは一度や二度ではない。全てを諦めるには十分だろう。

 

 しかし、希望を持ち始めてしまった。刀兵衛の目と言葉の所為で。

 

 『お前には、帰る場所も、待っている家族もいる』

 

 帰る場所、待っている家族。容易く好きと言えるほど、こいしは子供ではなかった。複雑に長く考えすぎてずっと口に出せなかったのもある。怖くて口に出せなかった。どのように相手は思うだろうと考えると唇が縫い付けられたようになる。怖いのだ。好きと伝えるのが、分かってもらうのが。

 

 だって、大事だって思っているから。

 

 誰だって大切なものから離れてほしくない。光だけの面で見れば【熱愛】。闇だけの面から見れば【盲愛】。光と闇が混じり混ざった言い方をすれば、【偏愛】。二つともいい方向だけで捉えれば、【熱愛】であるならば優しく愛せる。【盲愛】であるから強く愛せる。であっても、【偏愛】ならば、優しくもできず強くもできずに、“壊すしかない”。花を摘む行為と同じだ。優しく愛するならば、枯れるまで育てる。強く愛するならば、根が腐るまで水をやる。花を摘むというのは、“今しか価値がない”と見放すことだ。枯れるさまを見て愛おしさを感じるなど滑稽だと、腐らせるような真似をするなどバカだと、言い放つ。花にとって、花を摘むほどひどいことはないというのに。先の二つは、花の一生を見ている。枯れるまでの経緯や腐るまでの経緯など関係ない。“死ぬ”まで見守った。だが、あれは違う。咲いている時だけしか愛せないなど、滑稽だ、バカだ。

 そういう愛し方ではいけないと思ったから。自分の視点では愛せなかった。

 

 故に、あんな言葉を言い放ちまっすぐに見やがった刀兵衛で試そうと思った。偏に、大事にしたいものがいるから。

 

 どうすれば上手く好きになれるのか。どうやれば優しく嫌いになれるのか。それらを、兄のように甘えるふりをしながら学んでいった。大事なものたちのために。言葉では何一つ学べなかった。刀兵衛がああいう性格な所為だ。人に嫌われるだけの男のように見える。であるが、どうにも好かれていた。霊夢やあうん、妖夢、早苗、阿求、華扇。どいつも女の情を抱えて接していた。それに、こいしも混じり始めたのは最近になる。

 

 刀兵衛は古明地こいしでは壊せない、ということが分かったから。

 

 壊れなければなんでもよかったのが、どうか壊れないでほしい、と願うほどに惹かれた。子供らしく振舞ってもなんだかんだ女扱いするのに目を緩ませてしまう。強い男だから惹かれたのもある。実際は、一目惚れだったのだろう。

 

 だって、あんなに、未だに、古明地こいしをまっすぐ見てくれる男なんていないのだから。

 

 

「刀兵衛」

 

 

 “お兄ちゃん”呼びが癖になる前になんとかしようと声を出す。

 

 

「わたしをね」

 

 

 いつか、あの冷めた口が“古明地妹”でなく、【こいし】と甘く呼んでくれますように、おまじないを。

 

 

「“好きにな~れ”」

 

 

 落ち葉をサクサク踏んで歩きだす。無意識に刀兵衛の隣にいればいいなと思いながら。

 

 光のように闇のように、優しく強く。そして、混ざり合って

 

 

「わたしが壊れても刀兵衛が好きなんだから~」

 

 

  どうか、言葉通りに受け止めてほしい。

 

 

 刀兵衛と一緒に買った酒を口に含む。まず、ふくみ香を楽しむのだ。口をすぼめて息を吸い込み、ズルル、と乙女的にははしたない音を立てて味を確かめる。舌の上で転がすように空気と酒を混ぜる。華やかな香りと芳醇な味わい。原料が水と米と米麹だけだというのに、どうしてどうして、こうも旨いのだろう。肴など当時を思えば十分すぎる。これで、隣で共に刀兵衛が飲んでいれば何も言うことはない。が、今日は、彼を一人にしてやるべきだ。本当は傍にいてあげたいが、彼が拒むというのならしょうがない。

 

 

「………」

 

 

 釣瓶落としのように日がすぐ沈むこの季節には、より酒がいいだろう。きっと、刀兵衛も今日はこの酒を飲んでくれるだろう。だって、今日はあんな日だから。

 

 

「刀兵衛。貴方には私がいるからね」

 

 

 鬼であった頃から近くにいた。誰も相手にしてくれないから隣にいたのだ。そうさせていたのだ。

 

 

「ずっとそばにいるから。ねぇ、刀兵衛…」

 

 

 一人ぼっちの刀兵衛。父も母も相手にしてくれなかったから、ずっと一人。友達なんていなかった。誰も刀兵衛の心に寄り添うことなどできない。だって、そのようにしたんだから。

 

 

「ふふっ」

 

 

 幼子のようにいられず、大人にすら成りきれず、一人延々と他者を求める愛らしい男。仙人にまで一緒になってくれるほど私に依存してくれる愛らしい男よ。

 

 最近は、少々うるさい輩が周りにいるけれども、まぁ許そう。私たちには決して切れない一線がある。共に仙人として在り方を同じくするだけではない。他人なんぞ斬り捨てられれば楽だけれども、私たちはそうはなれない。甘い物の合間にしょっぱい物をつまみたくなるような感覚で、誰かを好きになりたくなる。本命がいるのに道を逸れたくなる。仙人になって互いに少しばかり取り繕えるようになったが、その気が治りはしない。

 

 私は刀兵衛がいるのに、誰かのための責任を取る。刀兵衛は私がいるのに、誰かのために責任を取る。

 

 自分たちで完結するには、私たちはちゃんとどうであるか分からなすぎた。仙人となって何年も経った今でもよく分かっていない。仙人である前の私であったなら答えにたどり着いたろうか、と詮無き事を考える間もなく、刀兵衛と私はうろんに生きていく。

 

 

「父のために成る? それとも、母のために守る?」

 

 

 私は、私の刀兵衛を拾わなかったあのゴミを許さない。私は、私の刀兵衛を捨てさったあのクズを許さない。そして、どちらの選択をしようとも私は刀兵衛を絶対に離しはしないの。

 

 泣きべそをかくことすらやめてしまった刀兵衛。どうか、私と離れず、切れず、揺らいでいよう。季節外れの風鈴のように、悲しく歌おうではないか。

 

 

 『華扇』、と未だ微かに期待を込めながら私を呼ぶ刀兵衛が愛おしくてたまらない。本当なら、今すぐ家に押し入って褥を共にしてあげたい。のだけれど、それはまだでいいと確信している。期待に応えるために私は選択を待ち続けるのだ。

 

 期待した通り、いい感じに酔える。この酒はいい物であった。

 

 

「刀兵衛…」

 

 

 思わず自分の胸が苦しくなるほど甘い声が出た。

 

 きっと、私たちの出会いは運命であったのだ。そして、その運命はずっと紡がれていくものであるはずだ。

 

 隣り合うために私たちは他に気をかけては近づく。近づいては他に気をかける。愛するために、愛が欲しいのだ。互いに経験がないわけでない。それを自ら明かしたことはないけれども、異物が臭う。目に来るような刺激とともに胎が空く。そして、互いにまた寄り添い床に就く。背中に引っかき傷を作れば、こちらも噛み痕を作られる。一晩だけで済んだためしは、ない。

 

 胎がすくのだ。切なく、痛む。

 

 静かな寂しい温度は、酒が熱くさせる。そのおかげで我慢ができるのだ。

 

 刀兵衛が小さな頃によくせがまれた抱擁。ませた子だったわけではない。無表情にそんなことを強請るのだ。強く、潰れてもいいから抱きしめて、と。父の逞しさを覚えさせてもらえず、母の温もりを忘れさせてもらえない哀れな愛し子。欲しくて産み落としたというのに、子供を不幸にさせる所業。今なら、改心するまで説教をしたのかもしれない。だが、当時から私はそれは私の役目としてきた。最初は哀れみだった。刀兵衛の気が済むまで抱きしめ続けて、彼は棒立ちというもの。抱きしめ返すことをしなかった。その行為が分からなかったのだ。

 抱きしめる、という行為は愛情表現だ。あなたを愛している、と伝える表現。抱きしめ返す、という行為も同じ。親なら子を愛すのは当たり前。子も同じ。そういう当たり前が刀兵衛にはなかった。その時、私たちが愛し合ってなかったから抱きしめ返せなかったわけではない。わからなかったのだ。ただ受け止めていればいいということしか思いつけない哀れさに、涙がにじんだこともある。一度したあと、しばらく口を利かなかった。いつもなら軽く取っ組み合いもしたりしていたが、それすらなかった。喧嘩したわけではない。そういうふうにするのだ、と刀兵衛は学習していたのだ。涙をこぼすことを我慢できなかった。

 

 抱きしめる。その行為には、抱きしめ返す、ことが必要だというのに。いや、必要という表現は良くない。反射のように当たり前、というのだ。その当たり前を刀兵衛は知らなかった。

 

 嗚咽を混じらせながら、抱きしめ返すんだよ、と言って、こちらから強請ってやった。おそるおそる背に回された小さな手の温かさの、なんと愛おしいことか。刀兵衛の、興味の対象外である会話には積極的に参加しないばかりか突き放す物言いは、親譲り。どちらにもそういう対応をされたのだ。そして、それが当たり前だとされた。もう変えられないほど当たり前になった。

 

 ――許せない。許せるわけがない。

 

 仙人である前からこの思考はある。だけれど、ふっと許してしまいそうになる。

 

 

 『華扇』

 

 

 床で赤子のように泣きながら嬉しさをこらえず、私の名を呼んで力強く抱きしめ返す。離れないでほしい、どこにも行かないでほしい、愛していてほしい、とつよくつよく。

 

 それで、あれらのことを全て許してしまいそうになる。

 

 …悪酔いかもしれない。少し吐き気がした。酔い覚ましにグラスの中の液体を全部呷る。まだまだ酒はあるのだ。一本も空けずに終えるには日が高すぎる。

 

 

「貴方が恋しいわ、刀兵衛」

 

 

 子宮あたりを服の上から撫でる。

 

 あれらに似て責任感が強い、とてつもなく愛おしい男よ。貴方が恋しくてたまらない。欲しいと泣くのは、ここだけではなく心もなの。

 

 

「貴方と同じく寂しがり屋なの、刀兵衛」

 

 

 貴方限定でね。

 

 

 

 

 

 あの後、刀兵衛は家に早々に戻った。今日も酒を一本空けるのだろう。棚からグラスを一つ取りそそぐ。匂いだけで心地よく酔えそうだ。異変解決後の宴会では全く酔いつぶれない刀兵衛も酔いそうになる。一杯飲む前に普段していることをこなさなければならない。

 

 いつものように仏壇に一礼してその前に座る。刀の一本一本を位牌に向けては正座を崩さず、綺麗に礼を。呼吸を止め、苦しくなる直前で頭を上げた。心臓の鼓動の大きさとともに頬の火傷痕がうずく。体は火照るが頭は静かに澄み渡る。

 

 

「今日もありがとうございました」

 

 

 稽古後の挨拶のような、神聖さを伴う礼儀正しさ。もう一度、刀を上に頭はそれより下にして礼をする。そして丁寧に刀掛けに収める。日常的に掃除しているのだろう、仏壇はもちろん、刀掛けにも埃一つついていない。どちらも上物であるが、どちらも少々奇妙であった。

 仏壇には一通り仏具も揃い花も活けてあるが、線香を備えられていない。これでは彼らの食事がない。刀掛けは三本掛け。だというのに刀兵衛は二本の刀、獅子王―柄も鞘も黒色・刀身は銀色と普通の刀と同じ見た目だが、耐久性は極めて高い―と、蒼龍―柄は白色・鞘は黒に近い灰色・刀身は空色に近い銀色。獅子王と同様に高い耐久性を持っている―しかもっていない。刃を潰した刀や木刀といった練習道具は別のところにある。一本分余計にある刀掛けだ。

 

 欠けている、というのを自らに対してあてつけているのだろうか。

 

 そういうことではない。これが正しいのだ。

 

 食事は何のためにある。食べる人がいるために。それがいないなら、いらない。当たり前のことだ。

 三本掛けの刀掛けは何のためにある。三本掛けるために。ならば、一本空いているのは、当然だ。

 

 

 霖之助から報酬の一部として譲り受けた時計を見ると、まだ夕食には早い時間であった。一人暮らしなので支度をせねばならないが、今日は軽く済ます気でいるのだろう。頭の中で、昨日の残りは、と考えているようだ。十分にあると判断した後、瞑想に入るために準備にかかる。

 

 瞑想を使う程度の能力。これが舞堂刀兵衛の程度の能力だ。瞑想で新しい技(剣術、格闘技、弾幕等)をイメージで思い浮かべる能力。自宅での修行でしか使う機会は少ない。剣術は防御に特化した手堅い戦法を得意としている。包囲された状態、対集団戦で真価を発揮する。長年の修行でこの戦法を熟練しているため弾幕の集中砲火も対抗できるのだ。接近戦では防御を攻撃に転じ、カウンター技を使用して相手を無力化することができる。この戦法で“異変を起こす側”の数々の強敵に勝利して≪異変解決≫に貢献している。

 

 だが、今回の瞑想はそういうものではない。

 

 

 舞堂刀兵衛。彼は瞑想で自身の本質を問う。

 

 

 懐から小刀を取り出す。鞘からゆっくりと引き抜いたそれは、刃を潰しておらず彼の顔をハッキリ映す。鏡のような刀身を持っていた。その切れ味など、たやすく知れよう。両手で握りしめるように持った刀身を頬に当てる。火傷の痕に。

 

 血が疼く。頬に熱が集中する。小刀が熱を持っているように感じられたのだ。その熱が頬に押し当てられているような感覚。熱くなり、痛くなり、哀しくなる。

 

 その感覚を全身で感じられるよう、目を閉じる。熱を忘れないように。あの熱を思い出せるように。

 

 息を大きく吸う。火事場の灼熱感を夢想する。熱が来るような感覚。手が焼けるなど当たり前。顔も焼けるし目も焼ける。その姿が誇らしかったのだ。憧れた。刀兵衛は憧れていた。今も。

 

 息を細く吐く。自身から流れるものは臭い。毎日磨いてもドブのように感じる。思い出になってしまった好んだ味は味気ない。味覚が大人になってしまったのだ。許せない。刀兵衛は焦がれていた。今でも。

 

 切っ先がぶれる。頬を切る。

 

 血が流れてしまった。それを食いしばっていた口の端が受け止める。そして口内に入り、ちびちびと自身に侵略してくる。元は自分自身のものだが、この表現が正しい。血は舞堂刀兵衛という男を犯した。暴虐に、抵抗などできずに、犯される。

 

 痛みなど伴わない。血は暴虐だけれども、的確に異常反応を制していったのだ。麻痺反応ではない。これは麻酔でも何でもない。恐るべき侵略である。舞堂刀兵衛という男が変質するための侵略行為だ。

 

 目が開かない。息が上がる。だというのに手はびくともしない。頭の中もぐちゃぐちゃであるというのに。

 

 常人と同じく紅いそれは、舞堂刀兵衛を征服していく。心を置き去りに、変革を受け入れさせていく。

 

 頭が巡る。

 

 

 ―待て、待ってくれ―

 

 

 普段の彼は、忍耐・精神・頭の回転力を備えており、数々の実戦を経験しているため戦闘力も極めて高い。弾幕戦(遠距離戦)・接近戦においても高い実力を持ち、【幻想郷最強】の強さを持つ“鬼”にあっさりと勝利し、【博麗の巫女】と互角に渡り合うほどである。それが、今は這うことすらできない赤子のように無力だ。

 

 彼の頭は異常であることはわかっている。意識上でも、脳としての機能上でも。だから、意識を必死に組み立てる。

 

 

 ―自分を持て―

 

 

 自我の領域を高め、侵略を止めようとする。意識的に肉体を操作するのだ。腸が捻じれようが、肺が潰れようが、心臓が膨張しようが、今はそれを危険と判断させず、ほかの異常を消しに行く。血管の弁が機能しない。傷口を塞ぐ役割を持つ血小板すらも。血が流れていく。あらゆる臓器に侵略者の情報が組み込まれてしまう。

 

 汗が頬を伝う。それが口に流れる。けれども、意味はなし。ただの不純物として処理される。血が一滴でも入ってしまえば侵略者の思うがままだ。活性化させればいいのだから。

 

 白血球、赤血球、血小板。今までのそれらを侵略し変質させる。数、容積、濃度、比率の増減が激しくなる。激しい頭痛、吐き気、寒気が襲う。発疹まで。新陳代謝が謎の活性化をなし、皮膚がはがれていく。

 

 

 ―俺は、何だ―

 

 

 自問自答を繰り返す。意識の混濁。心だけは守るため、そこに最終防衛を引いたために起きた生命危機。

 

 

 ―俺は、何だ―

 

 

 繰り返す。心から応答は今はできない。通信すれば、通信回路から侵略されてしまうから。

 

 

 ―俺は、何だ―

 

 

 脳で問う。脳波は乱れ、脳漿が泡立つほど脳が揺れる。脳が萎縮と膨張を繰り返す。全身に渡る異常は、舞堂刀兵衛という人物を消去しようとしているようだ。

 

 

 ―俺は、何だ―

 

 

 膨張した脳が破裂しそうになり、萎縮した脳が凝固しようとしている。舞堂刀兵衛の終わりを迎えるのはすぐだろう。

 

 

 ―俺、は―

 

 

熱を思い出す

 

熱を受け入れる



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

年を越してのんびりとお茶するエンド

これからはこれから


 熱を受け入れる。

 

 それをするのに、どれほど焦がれたことだろう。そう、心が騒めくと同時に、侵略を終える。心を置いて舞堂刀兵衛は変質した。きちんと人間として種族を定めたのだ。もう片方はいらぬと、断腸の思いで捨てた。肌を焼く感覚は、もうたやすく思い出せる。そして、腸をこねる貧寒が止まなくなる。

 

 そう。舞堂刀兵衛は人間で、仙人であって、神速の剣豪。そう心が定めた。

 

 もう変わることはなく、肉体が滅びようとこのままだ。

 

 

「俺は、舞堂刀兵衛だ」

 

 

 握っていた小刀を破壊する。破片が飛び散るが、もう何処にも血は流れない。定まったのだから、流す必要がないのだ。

 

 さぁ、さぁ、さぁ。定まったからには、もう動かねばならぬ。火傷痕はなくならなくても、在り方は無くなってはいけない。

 

 決別を。

 

 ただの舞堂刀兵衛という男ではいられないのだから。人間でいると補正の勢いを殺さないように。

 

 ぐにゅぐにゅとする貧寒。吐き気と頭痛が襲うが、それまでだ。命に関する危機感はその程度。なれば、どうとでもなる。苦しいのも、痛いのも、辛いのも、慣れている。これ程度を耐えきれなくて、何故、舞堂刀兵衛という人間をやっていられるというのだ。

 

 これからは、背を焼き鏝で押され続ける日々になるのだ。許されなどしまい。

 

 酒を呷る。甘いそれは、喉を焼いた。

 

 

 トントン、と家の戸を叩く音が鳴った気がする。忌日にした日にちょうどやってきた。

 

 

 だから。

 

 

「今、行きます」

 

 

 舞堂刀兵衛という男は人間でいるべきだ。

 

 さぁ、決別を。

 

 

 

 

 

「次はどうするか…」

 

 

 岩石のようなざらざらとした声が響く。その声の主以外には誰もいない。草と土を濡らす赤は肉とともに辺りに散らばっていた。頭を揺らすのは、それらの臭気の所為だけではないだろう。

 

 

「なぁ、どうする」

 

 

 声の主は刀に語り掛ける。懐紙で清めたそれは何処にも汚れがない。傷一つもない。声の主が惚れ惚れするほどの自慢の一品だった。

 

 

「斬りたいものはなんだ?」

 

 

 その刀は、誰もが見惚れるほど美しいものであった。月を鍛え上げたのがこれではないか、と訝しむほど美しく煌めく。軽く揺らすだけであらゆる美女の顔が霞むほど見惚れるもの。冷たく綺麗な顔をしたかと思えば、優しく甘い顔をする。無垢な愛らしさを見せたかと思えば、妖艶な色っぽさを見せつけてくる。絶対にどんな女であっても勝てないほどの女らしさがあった。傍においても野暮ったくなく、傍に置き続けても苛立たせず、離れたくないほど魅惑的で、脳裏に張り付いてしまうほどの女らしさ。瑞々しい甘さとむせ返るような芳醇さを味わわさせてくる。

 

 なんと。なんと素敵な()だろう。

 

 理想の()だ。

 

 男にとって唯一無二の()であった。

 

 声の主は愛おしさを隠さず笑った。今まで誰も見たことのない物であった。刀一筋の男が、ここまで幸せそうに笑うのは誰も見ることなどできなかったのだ。表情筋をまともに動かさないから、いつもへの字口。だから、傍から見ればさぞ下手くそな笑みに見えるだろう。だけれど、その愛おしそうな笑みはこちらを幸せにするものであった。誰かに似過ぎている。

 

 

「斬ろう。どいつを斬ろう。さっきは妖怪だったから、今度は人にするか?」

 

 

 語る口は柔らかい。誰も聞いたことのないほど柔らかい。女でも子でも聞いたことのない声色だった。

 

 

「ねぇ」

 

 

 男にとって邪魔にしかならない音。少女の声が、ふと聞こえた。気持ち悪そうにしながらも男に声をかける。

 

 

「これ、あんたがやったの?」

 

「あれを斬るか?」

 

 

 少女に返事をせず男は()に語り掛ける。刀身に少女の顔が映るが、男はそれを認識していない。

 

 

「では、斬るか」

 

「馬耳東風かしら? 困ったわね」

 

 

 男が構えると同時に、少女はため息をついた。いつも通り異変を解決する気なのだろう。

 

 

「斬ろう。斬ってしまおう。おまえとなら、どこまででも斬れるだろう」

 

「気持ち悪いやつね…」

 

 

 男の言う“おまえ”は()に対してなのを理解して、少女は気味悪がる。正常な反応だ。本来なら、そのような状態になれない。辺りはこんなにも異常なのだから。空間すら歪めて在る気持ち悪さに包まれながら少女は解決に尽力する気だ。きっと、“おじさん”はここに現れるから。

 

 

 赤が舞った。

 

 

 

 

 

 斬り堕とす。全てを斬り堕とす。斬り堕とさねば、先行かぬのだ。何事も、[#ruby=獅子王と蒼龍_彼ら#]が居らねば、俺は舞堂刀兵衛で在れぬのだ。

 

 

撃符(げきふ)【空刃破(くうじんは)】!!」

 

 

 既に魂が死に絶えたものたちの救済は、仙人の力を纏った獅子王を振り抜き光の刃を飛ばす俺の得意の斬撃技、その無数の斬擊を放ち終わらせるしかない。泣き声なのか、あるいは誰かへの子守歌のような叫びは胸を打つ。けれども、責任をもって嘆くモノたちを斬り堕とす。人であったものだろうと妖怪であったものだろうと、等しく斬り堕としていく。なんとか仙人の力で地獄へ逝けるよう祈りながら。

 

 叫びは止まずに襲ってくる。むしろ、俺に近づくたびに声も影も大きくなる。

 

 家から心に従って出て、山の中でこの様。三歩進むのにさえ数分の時間をかけてしまう。

 

 

「…っ、は」

 

 

 息が上がる。山中を一晩走り回ってもなかなか疲れぬ体。射命丸文をはじめ、【速さに自信を持つ者達】を圧倒するほどのスピードで疾走しきっても体力は存分に残っている。ここまで苦しくなるのはいつぶりだろう。苦しさが身体にまとわりつく。体力は十分あるはず。ならば精神的なものだろう。苦しさから抜け出したい。なんとかして逃げたい。

 

 つらいことがありすぎて、昔、華扇とともに家を出た。それでも、やはり苦しいことがあった。放り出してしまいたいことなど山ほど。苦しい、と獅子王と蒼龍を抱きしめながら呟いて、その声が聞こえないように耳を塞いだあの頃。

 

 

「はぁ…っ!!」

 

 

 戻るわけにはいかない。嫌だからだけではない。それはやってはいけないことだ、と分かっているのだ。小さな頃の自分と今の自分のために。

 

 もう子供ではいられない。苦しい先にはきっと何かいいことがある、と夢を見続けることは難しくなった。仕事が終わった後夜空を見上げながら思ったあの頃。大人に成らなければならない。苦しいなら必ずそうなる言い訳がある、と現実に生きねばならない。仕事をしながら日差しを浴びて思った頃。

 

 だけれども。

 

 きっといいことがあるといい。苦しくなる言い訳があろうとも。

 

 そう、夢を見ながら生きていたい。

 

仙人の能力である念力で思考をそのように曲げなおす。

 

 

「お前たちの苦しみを背負おう …さぁ、来るといい」

 

 

 すまない、と謝ることはできない。苦しみ続けている彼らの責任を取り続ける。意味もなく生き続けることしかできなかったけれど、おまえたちのためにこの罪の責任を取り続ける。

 

 叫びは止まない。このような言い訳が通ることがないのは分かっている。

 

 ふいに、テレパシーで繋がる激情にして激痛。思わず嘔吐きそうになる。が、こらえ柄を握る手に力を籠める。はっきりと感じる“誰か”の意志に泣き出しそうだった。生理的反応なのか精神的反応かは分からない。喉の奥に圧迫感を感じた。

 

 

「っ夢を見たい、ものだな…」

 

 

 それを抱えたまま、獅子王を振るう。力みすぎぬよう必死に調整しながら振るい続ける。四方八方から来る攻撃に対処する。剣術による防御に特化した手堅い戦法が得意だ。包囲された状態の今、その真価を発揮する時。どこから急所を狙おうと反応も対処も体の隅々がわかっている。それを難なくできる自分がどこか他人事のように感じられた。

 

 温い風が頬をかすめて、思う。見させてくれるものなど誰もいやしないだろう、と。

 

 胃が無くなってほしいほど痛む。それを思うことは絶対に許されないというのに。嗚咽をこぼしながら獅子王を振るう。それから見える剣先に涙が流れた。見てしまったから、最期を。

 

 だから、どうか。

 

 斬り堕とさせてほしい。

 

 

 

 

「刀兵衛様…」

 

 

 狛犬は一匹、刀兵衛のいる山の方を見る。いつもと変わらぬ静かな山。今のあうんには静かすぎると感じる。

 

 

「刀兵衛様…」

 

 

 あうんはなんども山を見ながら刀兵衛の名を呟く。その声に帰ってくるものは何もいない。肌寒い温度が身を包むだけだ。その温度が少し下がった気がした。思わず両の手を握る。祈るような、願うような、そのような固い握り方だった。

 

 

「私は狛犬。悪しきものが入らぬようにするのが役目…」

 

 

 そのような役目のものに弱さがあってはならない。愛らしい少女のような姿をしているが、強さはある程度ある。けれど、“ある程度”だけでは足らない。悪しきものの形は千差万別。公平さを持った力が必要だった。そう、あうんの知っている表側の刀兵衛のような。

 

 表側に出てきている不愛想な刀兵衛も好ましい男だと思った。当初はとっつきにくい印象であったが、なんだかんだ今は仲良くしている。あうんとして現れる前から、狛犬像の前に酒をくれてくれたりもしていたのだ。一回だけの気まぐれでなしたのかと思えば、宴会のたびにくれた。とっつきにくい印象を持っていたのは、それの所為である。ありがたいと思う分、少々怪しんだのだ。中の異様さを嗅ぎ取っていたから。けれど、現在はその異様ささえ許容するほど敬愛してしまっている。本来なら、刀兵衛は排除指定されていたものだったのに。

 

 

「刀兵衛様。私はここにいていいんでしょうか」

 

 

 ある日、問うた言葉を今も繰り返す。酒の席で問うたものだ。酒を飲めば口が緩むもの。心のどこかで思ったものが漏れることはよくあることだった。

 

 

 『誰かがいるというものはいいものだ』

 

 

 樽を一空けしてもけろりとしていた刀兵衛は、そう最初に口に出した。一人で山に暮らしているものの台詞とは思えない。

 

 

 『そこにいてくれるだけでいい』

 

「それだけじゃ理由にならないです」

 

 

 記憶の中の刀兵衛と会話する。ある日の優しき日常を思い出していた

 

 

 『誰かがそこにいてくれるのは、たまらなく嬉しいものだ。たとえ、すこし気まずい仲だろうとな』

 

 

 刀兵衛はそこで自分の火傷痕を覆った。

 

 

 『誰かがいるのなら、きっと“誰か”は立っていけるものなんだ』

 

「その誰かは誰でもなれますよね」

 

 

 誰でもいいのではないか、そういう意味で言った。刀兵衛はもちろん理解していたのだろう。目を静かに閉じて告げた。

 

 

 『誰でもなれる。だから、誰かになるべきだ』

 

 

 刀兵衛は低い低い声で続ける。

 

 

 『あうん。お前は“誰か”になりたいのか』

 

「いいえ」

 

 

 当時は困窮した答え。特別という言葉につい憧れてしまったのだ。けれど今は、即座に否定する。特別な誰かではいてはいけない。狛犬は悪しきものが入らないようにするのが役目。あうんはそういう役目がある。けれど、特別なものになってしまえば個人を優先してしまう。

 

 “個人を悪しきと認定してしまう”

 

 悪し、というものはどれだけ徳を積んでいようと心に巣食うものだ。一匹のアリがいつしか仲間を連れて外敵を倒すように、確実に心を壊してくるもの。霊夢を見ればわかるように傍から見ればどっちが悪人か分からないことは決して少なくない。けれども、明らかに悪人と断定はできない。世界は悪と善ですっぱり分かれることなどそうそうない。そうだからこそ、誰かになってしまえば個人ごと立ち入れなくさせねばならない。悪なのか善なのか分からないから。偽悪、偽善という言葉に惑わされながら何度も何度も、近寄っては離れるをしなければならない。そういうことだ。

 

 それが怖いから否定したのではない。あうんは“あうん自身が許さないから”である。

 

 

「私は狛犬。悪しきものを許さない。絶対に許しませんから」

 

 

 刀兵衛に喧嘩を売っていた。刀兵衛に対して告げていたのだ。

 

 

 『許す気がないならどうする。消すか?』

 

「いいえ」

 

 

 記憶の中の刀兵衛は少し楽しそうであったと思う。今のあうんも少し楽しくなってきた。

 

 

「わたしは誰をも守ろう(愛そう)と思います」

 

 

 善の中に悪がいても、悪の中に善があると信じて。

 

 どんな悪も許さないけれど、貴方たちを守る(愛する)ことぐらいはさせてほしい、と。

 

 悪によっても一筋の善は必ずある。自己弁護だっていい、他者に擦り付けたって構わない。許すことはできないけれど、守って(愛して)あげるからと。

 

 

 『それでこそ、高麗野あうん、だな』

 

 

 めったに見せない笑みに心が躍った。思い出の中の刀兵衛が薄れる。これは、忘却ではない。心に刻まれたのだ。

 

 

「刀兵衛様。貴方を守らせてください。いつでも、待ってますから」

 

 

 許せないけれど、守ってあげるから。心の底から、守りたい(愛したい)のだ。

 

 

 

 

 霊夢は左腕をかばいながら男と拮抗していた。持ち前の直感で殺傷力の高い斬撃を避けている。時折、攻撃に打って出ようとするがままならない。

 

 

「斬らせろ」

 

 

 ざらざらした声が耳に付く。霊夢にはそれが不快な音にしか聞こえない。舌打ちをして、また空を駆ける。

 

 男の攻撃は不気味としか言いようがない。すべてがひどいのだ。動きも呼吸法も太刀筋も、なにもかもひどい。素人の動きなのだ。刀を振るうのは力任せ、呼吸は肺を患っているのかと思うほどの荒い呼吸、動きなど里内のチャンバラごっこをする子供と同じ程度。だというのに、霊夢は手足の一歩も男に叩きつけられない。

 

 

「斬らせろ…」

 

 

 不快な音だ。まだ耳元で鳴る羽虫の音の方がマシなくらい不快だ。

 

 霊夢は左腕に霊力を流し動かそうとする。だが、何の効果もない。最初の攻撃で下手を打った。なんとか一本持ってかれることはなかったけれど、腕が動かなくなったのだ。見た目通り骨まで行っているからだけではない。止血すら霊力でできない。その所為か体をうまく動かせないのだ。

 

 あの刀の所為だ。

 

 男に振るわれる凄艶なるあの刀。男が振るうためにある刀。男のための刀。男の動き、呼吸、太刀筋、全てに寄り添うように踊る。

 

 刀が意志を持つということはある。付喪神がその例だ。だけれども、あれには付喪神が付いているのではない。気配からして、断じて木っ端妖怪ではない。かといって、血を啜りすぎて妖刀になったわけでもないはずだ。その前からあの刀は男のためにある。きっと、もっと上のものが憑いているのだ。少し覚えのある気配。それはなんだったか。

 

 

「そうか! 鬼ね!!」

 

「鬼…?」

 

 

 男が初めて霊夢と会話をした。しかし、互いに感激を覚えるまでもなく攻防は続く。

 

 

「その刀、鬼を材料にしているんでしょ」

 

「…。あぁ、アレは鬼だったのか」

 

 

 他人事のようだった。刀は黙って男に従っている。

 

 

「いい材料だった。おかげでコイツと出会えた。俺は幸せ者だ」

 

「なら、幸せついでに昇天してもらおうかしら」

 

 

 霊夢の軽口も何処か冴えない。左腕を抑え続けている。顔にも余裕がなかった。汗が全身に纏わりつき、呼吸も荒い。

 

 

「だから、お前にもこの幸せを分けてやろうというのだ」

 

「へぇ、うちのお賽銭箱が壊れるほどお賽銭でもしてくれるのかしら」

 

 

 力尽きかけていたのだ。霊夢は博麗の巫女である。程度の能力も【空を飛ぶ程度の能力】だけであるが、それは幻想郷でもっとも愛された能力であるのだ。遊びにレベルを落とした【夢想天生】でさえ卑怯と言ってもいい物だ。それを遊びレベルでなく本気でやれば、たとえ鬼でも八雲紫でも舞堂刀兵衛でも、誰も勝てやしないのだ。その力を使うときの場面、だというのに、左腕を始点に力の制御がなかなかできない。空を飛んでいるのも、あと数十秒でできなくなるだろう。

 

 直感で初撃を予測はできた。が、幸運は味方せず霊夢は斬られてしまったのだ。男の動きを予想するのは簡単だった。あの刀がいけなかったのだ。男の動きを予想できたが刀の動きを感じ取れなかった。それでも、腕を一本落とすことがなかったのは刀のおかげでもある。あれは男に寄り添う。まるで男の妻のように。

 

 

「お前を斬ってやろう」

 

 

 男が笑った。霊夢は吐きそうになる。あまりにも醜悪だったのだ。

 

 彼女の慕うおじさんはこのように笑ったりはしないだろう。刀兵衛は不器用でもちゃんと嬉しい、楽しい、という気持ちが伝わってくる笑みを見せてくる。笑い慣れてないせいか口の端がピクピクしてしまっているが、そういうとこも可愛らしいものだ。だけれど、この男の笑みはどうだ。気持ち悪い。とても気持ち悪い。吐き気で死にそうだった。

 

 “おじさんのように”笑いやがって。

 

 怒りに目が眩む。その所為で集中が乱れ、地に落ちた。もう一度飛ぼうとするも、力が抜ける。

 

 

「羽虫のように飛ぶのはもう止めか?」

 

 

 男が近寄ってくる。ゆっくりと、嗜虐思考のあるものの動きで。

 

 力が入らない。逃げながら倒さねばならないのに、体は動かない。息が荒くなる。斬られてから、ずっと苦しいのだ。肺に穴でも開いてしまったのだろうか。呼吸をしても全く楽にならない。息苦しい。息を何度も吸っては吐いてを繰り返しているというのに。

 

 

「では、斬るぞ」

 

 

 すぐそこに男が立った。首を飛ばされ楽に殺すのか、手足を斬り落として痛みに喚く姿を見ながら殺すのか、どちらも男ならやるだろう。そして、男のやることに刀は何も言わずに従うのだろう。

 

 

「おじさん、ごめん…」

 

 

 逢いたかった、と言葉にする前に男と刀が動いた。

 

 

『霊夢』

 

 

 聴覚も役立たずになりかけても聞こえる焦がれた声は幻のようだった。

 

 

 

 

脚符(きゃくふ)【闘迅脚】(とうじんきゃく)】!!!」

 

 

 闘気を右足に纏わせて上段回し蹴りを放つ蹴り技。刀兵衛の技だった。

 

 

「霊夢!!」

 

 

 男は不意の攻撃に耐えられなかったのか吹っ飛んでいった。おかげで刀兵衛は霊夢を助けられる。

 

 

「…お、じさ」

 

「いい、話すな」

 

 

 安心したように笑う霊夢をその場に寝かせた。本格的な回復には彼女の母である先代巫女のチカラが必要だろう。仙人の能力をもって危篤状態からは脱却できた。

 

 

「あいつも斬るか」

 

 

 男のざらざらとした声がした。刀兵衛は思わず肩を震わす。

 

 

「おまえがいなけりゃ死んでいたなぁ、まったく」

 

 

 刀は男を守ったようだ。男だけでは本来の脚符(きゃくふ)【闘迅脚】(とうじんきゃく)でならザクロになるはず。加減があったのだ。刀兵衛は懐かしい後ろ姿に思わず加減してしまった。火事場で刀を鍛え続けていたその姿があったから。

 

 

「もうお止めください」

 

 

 霊夢は聞いたこともない刀兵衛の声を聞いた。刀兵衛と知り合ってから誰にも敬語を使ったところなど見たことも聞いたこともなかった。そしてなにより、こんなにも苦しくてたまらなそうな声など、なぜ聞いてしまったのだろう。安心して任せることなぞできないではないか。

 

 

「斬ろう」

 

 

 男は刀兵衛と会話をしない。目は刀兵衛を見ているようで見ていなかった。刀兵衛は苦しそうにしながら言葉をつづける。

 

 

「最高の刀は出来上がったのでしょう。では、もういいではありませんか」

 

「斬ろう、斬ろう」

 

 

 男が刀に向けて笑いかける。刀越しに刀兵衛の悲痛な表情が映るが、全く意に介さない。刀兵衛は自身の灰色の羽織をつかんだ。

 

 

「お止めにならないのであれば、俺が貴方様を殺さねばなりませぬ」

 

 

 男はゆらりと構えた。酔っぱらいの方がマシな構えをとると思えるほど、不格好であった。

 

 

「この[#ruby=刀_女#]はなぁ、飾られるために鍛えたんじゃねぇんだ。この[#ruby=刀_女#]は、なぁ…」

 

 

 あらゆる角度に傾け刀兵衛に見せつけてくる。何処をどう見てもキリがないほど美しかった。

 

 

「“俺のためだけにあるべきものだ”」

 

「であれば、貴方方だけで完結しているべきです」

 

「俺はこの()が最高であることを確かめたい。ならば、斬るしかなかろう」

 

 

 会話をしているように見えるが、全くしていなかった。刀兵衛の言葉に独り言を返す男。霊夢はその二人が何故か似ていると感じてしまった。刀兵衛に失礼だと思っていてもその認識は変わらない。まるで親子のようだ、と見てしまった。

 

 

「ならば、“貴方方の息子である”俺が止めさせて頂く」

 

 

 刀兵衛は羽織を脱ぎ捨てた。本気を出すということであった。

 

 

「さぁ、斬ろう!!」

 

 

 男と刀が踊る。刀兵衛は霊夢に被害が及ばないように駆け抜けた。

 

 

 

 男と刀の二人がかり。刀兵衛は油断なく獅子王で対処していく。伊達に数々の実戦を経験しているわけではない。防御に特化した手堅い戦法を得意としているが、接近戦では防御を攻撃に転じさせカウンター技を使用して相手を無力化するのだ。

 

 今も振り下ろされる刀に沿うように獅子王を滑らせ、男を斬り伏せようとしている。男の実力では扱えないし敵わない一撃。そもそもが刀を使って戦うことに慣れていない。時に力を籠め叩きつけるように、時に力を抜き滑らせるようにする。どういう武術もこれを上手くして達人に昇るのだ。刀兵衛は達人である。”幻想郷最強”である【鬼】にあっさり勝利し、【博麗の巫女】と互角に渡り合うほどの腕だ。彼のものたちが弱かったわけでは決してない。勝利は、胸を張れぬ勝負のつけ方で得たものではないのだ。

 

 それが、叱られることを恐れる幼子のような様子で獅子王を振るう。

 

 普段の刀兵衛ならこんな男など三十分も経たずに片している。が、その時間はとうに過ぎていた。

 

 男と刀が強いから、というのもある。共に踊る彼らは刀兵衛に隙を与えずに急所をわざと外して斬ろうとしてくる。足の運びはすり足ではなく、足裏全体を使って跳ねるようにして動き回っているのだ。腿やふくらはぎといった足の筋肉だけでなく体幹を用いた動き。まさに舞踏といって良いほどのリズム感。刀を振るう動きは不格好。力任せに振るうその剣筋は哀れなほどだった。手首が固いのだろう、その所為で刀を振るうスピードに軽くブレーキを挟んでしまっている。けれども、刀はそれをよく分かっているのだ。刀からスピードを上げてくる。普通なら、手首が外れるか、刀を握る手が離れるかだが、そんなことは一度もありはしなかった。男と刀は共に斬る。力の入れ方も抜き方も、何も学習していない。だというのに、刀兵衛に追いついていた。二人三脚の強さである。強いのだ。

 

 対して、刀兵衛は時折肩を震わす。その揺れで獅子王ごと持つ手が揺れてしまうほどだ。かろうじて手を離すことはないが、時間の問題なのかもしれない。いつもの不愛想な顔は泣きそうなのを我慢しているような苦しい顔だ。息も荒い。山の中を走り回っただけの所為では決してないだろう。心拍が安定していないのだ。それがあっても、男と刀にしがみつくように獅子王を合わせる。男と刀の動きに付き従っていたのだ。これではいつまでたっても終わらない。どころか、刀兵衛が斬り捨てられるのも時間の問題である。獅子王を振るう動き、手首や腕だけでなく肩や背中をも用いての動きは見事であった。でも、剣筋はそうは言えない。迷い子のようにおっかなびっくりで何処に行けばよいのか、刀兵衛は獅子王に振り回されている。一人故の弱さだ。弱いのである。

 

 強いものたちがいるならば弱いものたちがいる。その関係が仲良くなることはないのだ。

 

 刀兵衛は少し微睡んだ。親の顔ではなく、のんびりと茶でも飲みたい奴らの顔が浮かぶ。それが答えなのか、と心に恐々尋ねた。心は、人の心は自信をもって、そうだ、と訴えた。

 

 ならば、決別を。

 

 

「…許してください」

 

 

 刀も男も何も返さない。刀兵衛の漏れた声は泣きそうだった。ふっと月が隠れた。刀兵衛は思わず目をつむる。刀と男は何も気にせず斬りかかった。弱いものは食われるんが摂理である。泣き出したものは弱いと彼らは分かっていた。斬りがいがあることを願って二人は踊る。

 

 息を吐く。吐いた息すら震えるようであった。長いものであった。

 

 

翔符(しょうふ)【仙神吼破陣】(せんじんこうはじん)!!」

 

 

 相手の足元に巨大な円型の陣を出現させ縛り付けるように動きを封じ、獅子のような闘気を纏い突撃して相手に壮大な一撃を与え無力化させる刀兵衛の得意技にして最大の切り札。

 

 男と刀の終わりである。

 

 

 

 男はどこかに行った刀を探していた。刀兵衛の攻撃を受けた男は瀕死の状態である。無力化だけで済まそうとしていたが、男はすでにまともではなかったのだ。刀と生き続けた生涯、心は無事でも体はボロボロであったのだ。刀がない男の様子はどうみても死にかけといって良いものであった。誰であっても助けられない。いや、今までの所業で助けてはならない。

 

 

「こちらです」

 

 

 刀兵衛は男に刀を渡した。火傷痕のひどい手に優しく握らせた。

 

 

「…負けた、か」

 

 

 男はそう口に出す。煤に汚れた顔で笑いながら。なんとも生き生きとした表情であった。

 

 だから

 

 

「許して…。許してください…っ」

 

 

 口に出したかった言葉はこれではなかったはずだ。だが、この言葉を出さなくてはならないのだ。口が止まらない。

 

 

「父上…、俺は貴方の望どおりにはなれませぬ」

 

 

 自分の思いを口にせねばならぬのだ。胸が酷く苦しい。咽の奥、肺腑が凍てついてゆく。そうだから、苦しく凍てつくものを吐き出したくなる。けれども、それだけはしてはならない。許しは請う、父を否定する。これらも本来はやってはならぬこと。でも、それは必要であって、吐き出すことは禁忌なままでなければ。そうでなくては、誰を彼をも、俺が見れなくなってしまうから。そんなことはしたくないから。しっかりせねばならぬから。

 

 

「だから、どうか父上」

 

 

 涙は流さぬ、心も動かさずに。決して気取られないように、全身に力を入れて。変わったはずなのに変わらないままの父と母に向けて。

 

 

「俺を、刀兵衛をお忘れ下さい」

 

 

 男の中のナニカが何か言った。忘れろ、と。男はこやつのことなぞ何も覚えてはおらぬ、と思った。。ただ自身が鍛えた刀を最上にと幾つも鉄くずを築いた。それが自身の人生だ。甘い何かなどない。胸がすく気分になるのは火事場の火の具合やら刀の材料の鉄の質を確認するときぐらい。それらを十年、いや百年以上鍛え続け、やっと最上に思えた刀が生まれてくれた。それはそれは美しい[#ruby=刀_女#]が生まれてくれた。なんでも斬れる。どうあっても美しい。まさに最上であった。それなのに、こやつに負けてしまった。それに苛立ちが湧く、はずが。

 

 

「許さぬ」

 

 

 男は苛立ちからそう告げたのではない。男は、許してはならぬ、と初めて思ったのだ。[#ruby=刀_女#]に対しても、男自身に対しても。なにより

 

 

「そのような言葉、許さぬ」

 

 

 こやつを許さぬ。苛立ちはかゆさを伴った。背筋どころか全身に這い回る。それであるのだから。

 

 

「忘れてはやらぬ。貴様を忘れてはやらぬぞ。“刀兵衛”」

 

 

 刀兵衛の顔が崩れた。雨粒にうたれながら、男はとても不思議そうに首をひねった。はて、見慣れた気がするのは何故だろう。なんともガキくさく顔をくしゃくしゃにしおって、と。

 

 

「刀兵衛。覚えてやる」

 

「父上…っ」

 

 

 刀兵衛は泣き喚きたかった。嬉しかった。すごく。すごくすごく嬉しかったのだ。父にそう言ってもらえて嬉しかったのだ。

 

 子供の頃に構ってほしくて火事場に近づいたら、構ってもらうことを忘れるぐらい見続けた父の姿。眼中にないようで一心不乱に刀を鍛える姿。槌をもって火傷だらけのあの大きな手で頭を撫でられたことなどなかった。抱きしめることなどもっての外。火と刀を見るその目に映ることなどありはしなかった。言葉も交わしたこともない。視線はいつも刀だけだった。だけれども、そうだったからこそ刀兵衛は父が好きだった。触れてくれれば大好きになれただろう。刀兵衛にとっては、母と父は不可侵な神域であった。いるだけで嬉しかったのだ。相手にされずともそれでよかった。母は最低限面倒を見てくれていたし、父も暴力をふるうわけではなかった。母がいて父がいて、ちょっと遠くに刀兵衛がいる。この図がなにより嬉しかった。

 

 でも、本当は、もっと近づきたかった。右の手を父が握り、左の手を母に握って欲しかった。川の字で寝てみたかったのだ。親子をやってみたかったのだ。

 

 それを、夕飯にしようとしていた野兎の親子を見て自覚してしまった。もう家にはいられなかった。母と父は、刀兵衛を必要としていないことを理解してしまったのだ。だから、家を飛び出したのだ。

 

 それが、今。ようやく会話が成り立った。

 

 ならば、やっと。

 

 

「この刀達を俺に下さい」

 

 

 勝手に持ち出した獅子王と蒼龍。父の名と母の名が入っている大切な相棒たち。その彼らとともに生きていくことを、やっと始められそうであった。

 

 

「良い、もってけ。勘定は」

 

 

 男は刀を刀兵衛の顔に当てた。攻撃ではなかった。優しく子供を褒めるような動き。火傷のある頬の方に添える。昔、父親の真似をしてつけてしまった火傷痕。

 

 

「これでいい」

 

 

 火傷痕が消えた。刀も消える。男は満足そうに笑った。

 

 男は、真っ暗な中白くなる視界で思う。もういい、と。もう目をもう開けなくていい。なんだか知らないが満足感で満ちたから。生まれて初めてだろうか、こんなに穏やかなのは。あぁ、これなら穏やかに。もう、絶対に忘れない。

 

 それっきり目を開けることはなかった。夫婦揃って幸せそうな最期であった。

 

 

 

 懐かしい感覚に霊夢は思わず目を開けた。視点が高い。けれど寝起きのためか視界が安定しない。ぼや~っとしていると焦点が合いだした。

 

 

「起きたか?」

 

 

 刀兵衛の声。いやに近く聞こえる。声の方を向くと刀兵衛がいた。

 

 

「おじさ、ん?」

 

 

 霊夢は刀兵衛に羽織を被せられて、お姫様抱っこまでされていたのだ。思わず暴れそうになるが力が入らないためどうもできはしない。大人しくしていると小さな頃を思い出した。よくこのような抱っこを強請っていたこともあった、と。

 

 

「懐かしいな…」

 

 

 左腕の違和感さえ忘れそうになるほど心地よかった。刀兵衛は霊夢を気遣うようにゆっくりと歩いている。その振動が思わず、また瞼を閉じそうになる。

 

 

「そうだな」

 

 

 小さく震える声に、我慢せざるを得なくなる。草を踏む音でごまかされそうなくらいの小さな震えは、近くにいるせいでよくわかってしまった。

 

 

「悲しい、のね。おじさんは」

 

 

 足が止まった。霊夢は口を閉じることはしない。

 

 

「それで、嬉しいのもある」

 

 

 右手を刀兵衛の頬に当てた。火傷痕があったところだ。

 

 

「たくさんは話せなかったけど、大切にするってことを作ってくれたもんね」

 

 

 刀兵衛の所為か、男と刀のつけた傷の所為かは分からないが、ひどく意識があいまいな状態だった霊夢。巫女の力と【空を飛ぶ程度の能力】はその所為で辺りに拡散しすぎた。古明地こいしの姉、さとりのように辺りの意識を悟ることは容易である。今では刀兵衛ぐらい、それもほんの少しだけでしか作用されないが、彼の心を知るのは十分だった。

 

 

「“忘れない”って言ってくれたの、すごく嬉しくて悲しかったんだ」

 

「あぁ…」

 

 

 震えはよく分かるようになった。

 

 

「父上と母上が、やっと俺を忘れないでくれた。嬉しいのは当たり前だ。けれど、もう俺が覚えていられないようで悲しい」

 

 

 優しく頬を撫でた。霊夢はあやすように撫でてあげたのだ。 

 

 

「おじさんは、ね。忘れてもいいの」

 

 

 刀兵衛は意味が分からないようで困惑した顔をする。小さな頃、雲を取ってきてとおねだりした時のようだった。

 

 

「覚えてるっていいことだけど、忘れるのもいいこと。忘れることは決して悲しいことでもダメなことでもないのよ」

 

「だが、それでは、父上と母上が…あんまりにも」

 

「可愛そうと思うなら、尚更忘れるべき」

 

 

 刀兵衛は困惑し続けた。自身の娘ような子に意味の分からないことは言われ慣れていた。空気を形にして、だとか、龍神を連れてきて、だとか、無茶ぶりはよく言われたことがある。けれども、ここまでの会話が一番意味が分からない。

 

 

「忘れるってことは“さようならじゃない”。“好きのままでいます”ってこと」

 

「………」

 

 

 目が潤んでいる。刀兵衛も霊夢も。刀兵衛ははっきり分かってしまったから。霊夢はその刀兵衛の辛さを知ってしまったから。

 

 

「忘れるのは、ダメなことじゃないよ」

 

「…っ」

 

 

 忘れる。寂しいことだろう。だが、刀兵衛はそれを選択せねばならない。

 彼らは覚えていると言った。もう命などなく魂魄も地獄に行かず消滅した。きっと幻想郷のあらゆる物質を調べても彼らがいた証はないのだろう。霊夢の母である先代巫女や八雲紫がそのように動いているであろうから。それなのに彼らはあんなことを言った。意図して刀兵衛を縛り付けるためではない。そのような執着はついぞなかったのだから。では、何を意味しているか。決別だ。“さようなら”だったのだ。刀兵衛はそれを今になって分かってしまった。彼らが刀兵衛を愛していた確たる証拠はどこにもない。あったとしても直に消滅されるだろう。それをなかったことにしたのが、あのセリフだ。最期の最期まで刀兵衛は愛されていなかった事実。あの言葉を向けるなんてことは“息子”に対して言っていいものではない。“誰とも知れない誰か”だから言えた。息子と認識していたなら、黙って死んでいただろう。息子はどうでもよかった、とありありと分かる。だからこそ、“さようなら”をしたのだ。

 こんなことを抱えて生きるのは辛い。刀兵衛だからこそ辛い。忘れることは彼を幸せにするためのものだ。

 

 だが、その選択も辛い。誰かを忘れるのは簡単じゃない。それも大好きでたまらないなら特にそうだろう。霊夢とて刀兵衛を忘れろと言われたら陰陽玉を使って言った相手を魂魄もろとも消滅させるだろう。けれど理由があるのなら彼女はきっと忘れる。小さな頃世話してくれたことも、好きな菓子がでたとき、いつもより食べるスピードが遅くなることも、宴会の時飲み潰れたメンツを寝やすい場所へ運んでくれるところも。霊夢が刀兵衛を特別好きであることも。そのような大切なことさえ忘れるだろう。できる理由はただ一つ、霊夢の命が尽きるから。最期だ。死に別れなんて言葉がある通り、死は別れ。良いことではない。生きているものの終着点。だからこそ死に逝くものを忘れることは難しくなる。けれど、しなくてはならない。別れは、悲しく寂しいものだけれど、それにしがみついてばかりいられないのが世。生きるもののために、“さようなら”ではなく“好きのままでいる”をしなければならない。苦渋の選択だ。誰もが好きでいるために忘れるということは。でも、霊夢はそれを選択する。誰もがそうすべきだとも思う。

 

 だって、そうでもないと誰も幸せになれないから。刀兵衛の幸せを願いつつ、その残酷さも知っている。でも、刀兵衛が幸せでいてくれないと嫌だった。

 

 

「おじさん」

 

「む、むりだ。忘れたくない」

 

「忘れることはいいことですよ」

 

 

 あうんの声がした。しびれを切らして迎えに来たらしい。

 

 

「あうん。なぜ、そんなひどいことを…」

 

「ひどいことをしているのは刀兵衛様ですよ」

 

 

 霊夢の容態を軽く探りながら、刀兵衛の前に立つ。

 

 

「刀兵衛様。忘れるべきなんです。大好きでいたいなら」

 

「わすれ、たく」

 

 

 弱い声。腰元の刀たちの存在が刀兵衛を押し出そうとする。それを刀兵衛は嫌がった。親離れなどしたくなかった。

 

 

「おじさん」

「刀兵衛様」

 

 

 優しくも鋭い声音。大好きだからこそ、大好きでいるからこそ、刀兵衛を叱る。

 

 

「好きでいたいんでしょ、ずっとずっと大好きでいたいんでしょ?」

 

「刀兵衛様が刀兵衛様であるために」

 

 

 二人は畳みかける。

 

 

「“これからも生きていくために”」

 

「―――」

 

「“これから、幸せになるために”」

 

「―――」

 

 

 刀兵衛は二人を交互に見て、泣き笑いを浮かべた。

 

 

「これからも生きていいのか」

 

「いいんです。当たり前じゃないですか」

 

 

 あうんは刀兵衛に微笑んだ。一緒に生きていく仲だ。

 

 

「これから、幸せになっていいのか」

 

「幸福になる権利なんて誰でもあるのよ、おじさん」

 

 

 霊夢は刀兵衛ににっかりと笑った。一緒に幸せになっていく仲だ。

 

 

「あぁ…。お前たちがいてくれるのなら」

 

 

 刀兵衛は生まれて初めて愛しさが生まれた。誰でもいいではなく、霊夢とあうんがいい、という愛しさが生まれた。ここまで刀兵衛自身に付き合ってくれる相手など、絶対に現れることはない。初めて親だけでない、誰かを愛せた。

 

 

「生きて幸せになろう。霊夢、あうん、傍にいてくれるか」

 

 

 その言葉に霊夢は刀兵衛の頬を抓った。あうんはわき腹を抓る。

 

 

「二人なんて欲張り」

 

「女の敵ですね」

 

「そう言われても、お前らがいい」

 

 

 痛くないのか刀兵衛は笑っていた。一人前の男の顔をして、好きな女たちに笑っていた。

 

 

「まったく…」

 

 

 女たちは受け入れる。女たらしを受け入れる。

 

 

「すき」

 

 

 あうんは霊夢を支えて右の方から、霊夢はあうんに支えられながら左の方から、刀兵衛に好きを唇ごと伝えた。

 

 

 この日から、三人で仲良くお茶をすることは日常風景となる。

 

 刀兵衛が霊夢とあうんの間に座り、何でもないようなことでも楽しく愛し合う。

 

 いつか忘れる一風景。

 

 でも、今だけは覚えていてほしい。刀兵衛と霊夢とあうんは愛し合っていることを。

 

 そして、いつしか家族となり夫婦となり子々孫々続いて、忘れながら覚えていく。優しく温かい三人のお茶をした記憶は確かにあるのだから。

 

 




主人公の設定

◆名前:舞堂 刀兵衛(ぶどう とうべえ)

◆一人称:俺

◆種族:仙人

◆二つ名:神速の剣豪

◆職業:侍

◆概要
 茨木華扇と同じ仙人であり、彼女の幼馴染、そして先代巫女と八雲紫の古い知り合いでもある。先代が当時の巫女に就いていた時から彼女の助力をしたり、博麗神社の近くの山に居を構えているため、彼女達(霊夢、紫、藍、先代巫女)とも面識がある。また、酒にも強いため異変解決後の宴会では全く酔いつぶれない完璧超人でもある。

◆容姿
 髪型は黒のポニーテール(『ソウルキャリバー6』の「御剣平四郎」のような感じ)。服装は黒色の着物・灰色の袴と羽織を着用している(本気を出す時は羽織を脱いでいる)。左腰に2本の剣を差している。

◆武器:刀×2(一刀流)
◇獅子王(ししおう)
 左腰に装備している刀の1本。柄も鞘も黒色・刀身は銀色と普通の刀と同じ見た目だが、耐久性は極めて高い。
◇蒼龍(そうりゅう)
 左腰に装備している刀の1本。柄は白色・鞘は黒に近い灰色・刀身は空色に近い銀色。獅子王と同様に高い耐久性を持っている。

◆性格:冷静 兼 クール(『FF7』のクラウドのような感じ)
 興味の対象外である会話には積極的に参加しないばかりか突き放す物言いをするが、責任感が強い。

◆能力
◇瞑想を使う程度の能力
 瞑想で新しい技(剣術、格闘技、弾幕等)をイメージで思い浮かべる能力。自宅での修行でしか使う機会は少ない。
◇仙人としての能力
 様々な能力を使える仙人の力。空の飛行や念力、予知能力、テレパシーを行うことも可能である。
◇戦闘能力
 忍耐・精神・頭の回転力を備えており、数々の実戦を経験しているため戦闘力も極めて高い。弾幕戦(遠距離戦)・接近戦においても高い実力を持ち、「幻想郷最強」の強さを持つ「鬼」にあっさりと勝利し、「博麗の巫女」と互角に渡り合うほどである。
◇身体能力
 基礎体力はかなり高く、家事(食事を作ったり、雪かき等)を軽々とこなしたり、射命丸文をはじめ、「速さに自信を持つ者達」を圧倒するほどのスピードで疾走したりと、かなり優れている。

◆戦法
 剣術による防御に特化した手堅い戦法を得意としており、包囲された状態、対集団戦で真価を発揮する。長年の修行でこの戦法を熟練しているため弾幕の集中砲火も対抗できる。接近戦では防御を攻撃に転じ、カウンター技を使用して相手を無力化する。この戦法で「異変を起こす側」の数々の強敵に勝利して「異変解決」に貢献している。

◆住んでいる所:博麗神社近くの山

◆生活
 ほとんど自宅で鍛練&修行(剣術、弾幕、格闘技等)をして過ごしている。たまに幻想郷の状況確認のために外出する事もあり、博麗神社に立ち寄り賽銭を入れたり、人里に必要な物(食料、日用品等)の買出しをしている。
◇仕事
 たまに来る森近霖之助からの依頼で、彼の店『香霖堂』に運ぶ「外の世界からの流出品」の輸送の護衛をして高額の報酬を得ている。
◇異変時
 霊夢と共に異変解決に乗り出し、彼女のサポートをしている。

◆スペルカード
◇撃符(げきふ)「空刃破(くうじんは)」
 仙人の力を纏った獅子王を振り抜き光の刃を飛ばす舞堂の得意の斬撃技。無数に斬擊を放つ事も可能。
◇脚符(きゃくふ)「闘迅脚(とうじんきゃく)」
 闘気を右足に纏わせて上段回し蹴りを放つ蹴り技。相手が背後から飛び掛るタイミングに合せて、振り向きざまにカウンターで放つことも可能(『仮面ライダーカブト』のカブトの「ライダーキック」のような感じ)。
◇翔符(しょうふ)「仙神吼破陣(せんじんこうはじん)」
 相手の足元に巨大な円型の陣を出現させ縛り付けるように動きを封じ、獅子のような闘気を纏い突撃して相手に壮大な一撃を与え無力化させる舞堂の得意技にして最大の切り札。



◆東方キャラの設定
○博麗霊夢
 幻想郷の数々の異変を解決してきた博麗の巫女。幼い頃から舞堂にはよく世話になっているため親しい関係になっている。博麗神社に来た時に賽銭してくれたり、異変解決に協力してくれる恩返しとして、舞堂が神社を訪れた時は お茶と茶菓子を出したり、異変解決後は宴会に招待している。
○高麗野あうん
 1人で獅子と狛犬の2つの性質を持つ狛犬。人間の信仰を集めそうな場所を見つけては居候して、勝手に守護をするため博麗神社も守護していた。『東方天空璋』の異変解決後は、舞堂と隠居生活をしている先代巫女の提案によって博麗神社の家族として迎えられる。自分に家と家族を与えてくれた舞堂達を敬愛している。
○魂魄妖夢
 白玉楼に住む西行寺幽々子専属の剣術指南役 兼 庭師。『春雪異変(東方妖々夢)』では異変解決にやって来た舞堂と霊夢達を迎撃するために立ち塞がるが、舞堂との一騎討ちに敗北。解決後は舞堂の剣術に興味を持ち、自ら弟子を志願。その後は白玉楼の仕事をしながら、たまに訪れる舞堂に剣術の指導をしてもらっている。
○東風谷早苗
 守矢神社の風祝。『東方風神録』では外の世界で信仰を得られなくなり、神社ごと幻想郷に移り住む。八坂神奈子の提案で博麗神社を脅して幻想郷の信仰心を全て守矢に集めようとしたが、激怒した霊夢を相手に完敗。異変解決後は博麗神社の取り潰しを断念し、普通に人間の里で信仰を集めていたが、守矢の信者達(ストーカー)に誘拐されそうになるところを察知して現れた舞堂によって救出される(舞堂が退治した信者達は八坂神奈子と洩矢諏訪子の二人に引き渡し、引導を渡されている)。その後は舞堂の「相手を思う事も大事だろうが、まず自分を大事にしろ」という言葉の内にある優しさに惹かれ、それ以来は舞堂がよく立ち寄る博麗神社に来ては通い妻のように彼にアプローチをしている。
○古明地こいし
 古明地さとりの妹。姉と同じく相手の心を読む能力を持っていたが、その能力のせいで周りから嫌われることを知り、読心を司る第三の目を閉じて能力を封印し、同時に自身の心も閉ざしてしまう。そして第三の眼を閉じたことによって心を読む能力に代わり、「無意識を操る程度の能力」を手に入れた。『東方地霊殿』では、偶然散歩を終えて地霊殿へ戻って来た時に舞堂が星熊勇儀に圧勝したところを目撃し、興味を持ち勝負を挑むが完敗。古明地さとり から事情を聞いていた舞堂から「生き物の心には光と闇の2つ存在している。しかし、全てを諦めて生きるのは まだ早い。お前には、帰る場所も、待っている家族もいる」という言葉を聞かされてからは希望を持ちはじめ、現在は舞堂が立ち寄る博麗神社に来ては舞堂を兄のように甘えている。
○稗田阿求
 人間の里にある名家「稗田家」の当主であり、九代目「御阿礼の子」。幻想郷の妖怪についてまとめた書物「幻想郷縁起」を編纂するため、千年以上前から転生を繰り返している。舞堂の男らしさに魅了され、彼が数々の異変解決に貢献している事を森近霖之助から聞き、彼の武勇伝を書物に記したいと頼んでいる。
○茨木華扇
 妖怪の山で暮らしている仙人にして、舞堂の幼馴染。仙人といっても本人曰く、まだ修行中の身らしい。舞堂とは異なり人里などに顔を出しており、隠者ながらその存在は意外と知られている。ただし説教臭いという点以外、あまり記憶されていない。舞堂がよく博麗神社を訪れる事を知り、自分も頻繁に訪れるようになる。

■呼び方(主人公視点)
□博麗霊夢→霊夢
□高麗野あうん→あうん
□魂魄妖夢→魂魄
□東風谷早苗→東風谷
□古明地こいし→古明地妹
□稗田阿求→稗田
□茨木華扇→華扇

■呼び方(相手視点)
□博麗霊夢→おじさん
□高麗野あうん→刀兵衛様
□魂魄妖夢→舞堂先生
□東風谷早苗→舞堂さん
□古明地こいし→刀兵衛お兄ちゃん
□稗田阿求→舞堂さん
□茨木華扇→刀兵衛



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

年をまたいでゆったりお墓参りエンド

これからもこれからも


 熱を思い出す。

 

 自身の腐食を成す。心を宥めすかし、撓めた潜在意識を塗りつぶす。聞き分けのない子を抱きしめてあやすように。心を支点に舞堂刀兵衛は変質した。朗らかに鬼として種族を決した。片方はもういい、と悟って放り投げたのだ。優しき温もりは、もうすでに思い出せた。そして、脳に住み着いた飢餓感に全身が揺らぐ。

 

 そう。舞堂刀兵衛は鬼で、仙人であって、神速の剣豪。そう定めた。

 

 もう変えられず、概念となろうがこのままだ。

 

 

「俺は、舞堂刀兵衛だ」

 

 

 握っていた小刀を静かに下ろし鞘に納める。火傷痕からはもう出血はしない。定まったのだから、流す必要がないのだ。

 

 さぁ、さぁ、さぁ。定まったからにはもう動かねばならぬ。火傷痕はなくなっても、在り方は無くなってはいけない。

 

 決別を。

 

 もう舞堂刀兵衛は人間ではないのだから。鬼として在ると顕示する義務が必要なのだから。

 

 飢餓感が襲う。精神的なそれは心を麻痺させる。腹が空いたということではなく、心が空いたといったところだ。だから、どうしようもない。忍耐も精神も鍛え上げたが、これにはどうともならない。これ程のものだから、舞堂刀兵衛は鬼になるのだ。

 

 これからは影を踏まないで歩かねばならないだろう。許しはいらない。

 

 酒を呷る。甘いそれは喉を潤した。

 

 

 トントン、と家の戸を叩く音が鳴った気がする。忌日にした日にちょうどやってきた。

 

 

 だから。

 

 

「今、行きます」

 

 

 舞堂刀兵衛という男は鬼で在るべきだ。

 

 さぁ、決別を。

 

 

 

 

 かさり、と枯葉を踏む音がする。一歩一歩踏み占めている。女は身を震わせながら歩いていた。涙を零して嗚咽も交えて。だが、一度も足を止めたりはしなった。憎いものがいたのだ、女には。愛する男のために、その憎しみを晴らさねばならなかった。たとえ、女の独りよがりであってたとしても晴らすべきだと女は思ったのだ。一言も口を利かなかったけれども長いこと二人でいたのだから。飯を作り、風呂を沸かし、衣服を洗うことはもうやる気がしない。男が生きていた時は欠かさずしていたことはできなくなった。全て男のためにしたかったことだったから。一度として名前を呼んでくれたりもしなかった男との日々は、女にとって幸せなことこの上なかった。朝から晩まで火事場に籠りっきりの男の姿が愛おしいのだ。家庭をまったく顧みない男だったけれど好きだ。夫婦となる前もなった後も、全く変わらず自分のこと以外何もしない男に恋し続けている。

 

 だから、愛する男のために狂うのは当然のことなのだ。

 

 女は先ほどナニカを殴り潰した手を見る。男のために水仕事をしすぎても荒れないようケアしていた美しい手は、汚らしい赤で汚れていた。片方だけではない両手ともそのような感じだ。アレの気配を感じるたびに強くなる憎しみは原始的な攻撃に変化した。爪を持って切り裂いていたのが億劫になり、殴り潰す方が心が少しだけ穏やかになった。少しだけ穏やかに憎めるのだ。弄り殺してしまいたい、が、縊り殺してしまいたいに、少しだけ変わる。少しだけ可愛いとアレに思ったこともあった。ほんの少しだけ。男が興味ないと知ると最低限世話するだけにしたが、少しだけ可愛かったのは事実だ。男に似ていてくれたから。今はそれさえ憎いけれど。

 

 

「どこ…」

 

 

 女は泣きながら探す。濃くなった気配は確かにこの山にいるはずなのに。

 

 

「あたしたちのぼうや…」

 

 

 女は泣きながら探す。大切な男との愛の子を。

 

 

「ぼうやぁ、どこだい」

 

 

 女は探している。愛する男を無駄死にさせた愚かな子を。

 

 

「ぼうや。おかあさんはここにいるよ」

 

 

 女は憎しみに震えて泣いた。子が憎くて泣いた。何の罪悪感もなく泣きながら。

 

 

「そこのあんた」

 

 

 二人組の少女が女に話しかけた。女は泣きながら襲い掛かる。まともに応える気などありはしない。

 

 なぜなら、()は気狂いだ。

 

 

 

 

 あれほど気負ったくせに、母上の気配が近くなると呼吸がうまくできなくなった。獅子王と蒼龍を抱きしめ震えながら蹲る。伸びた角さえカタカタと怯えをみせる。母上とお揃いの二本角。お揃いになれて嬉しかった。母上はやっと自分のことを愛してくれるだろう。それで、やっと綺麗にお別れできる。と、思いきや、母上のこの気配は優しいものではない。俺のことを一切見なかった母上が何故こうも憎いと辺りに殺気を放っているのか疑問が尽きない。

 ちゃんと手洗いうがいはしている。好き嫌いせずご飯はちゃんと食べている。一人で用もできた。買い物だってもう自分だけでできる。父と母に面倒をかけないようしっかりしたはずだ。全部、母上の言ったことは守っている。自我が芽生えてから今日まで。手を煩わせないよう、必死にやってきたのだ。

 

 だというのに何故。

 

 体の震えが止まらない。父代わりと母代わりを抱いても震えは止まりはしない。恐怖の所為だ、ということは分かっている。それを何とかしようともいしている。だが、なんとかしようと思っても、恐怖は定めた今でも纏わりついて離れやしない。

 俺の中で親というものは、尊敬と恐怖の対象だった。華扇たちからすれば尊敬するところなど全くないというが、俺にとっては尊敬するところがあった。一途さ、これだ。父上の刀に対する一途さ。母上の父上に対する一途さ。その一途さが、なんともキラキラしたものに見えてしょうがなかった。それを汚したくはない。暴力を振るわれるから恐怖を抱いているのではない。汚すことへの恐怖だ。尊敬と恐怖にはもう一種類ある。父上の背中。その父上を見る母上の背中。これは、父上と母上の一番見た姿。それは、紛れもなく美しい姿態であった。言葉にできないほど美しい夫婦の姿に尊敬の念が止まない。恐怖は、それを意図せずとも邪魔した時の母上の顔。無表情で見てくる。何も情など乗っていない顔だというのに無限の怒りをたたえて俺を見下ろす、その顔。それが怖くてたまらないから、なるべく接するのは控えたのだ。

 

 どちらもまともに相手してもらったことはない。ちゃんと名前を呼んでもらったこともないだろう。だけれど、俺は、舞堂刀兵衛は父上と母上が好きであった。絶対的に好きであった。それは今でも伝わることはないのだろうけども。

 

 そうだからこそ、母上に会うのが怖い。何をしても暖簾に腕押しのお二人だったが、母上は父上が絡むとひどいのだ。ただでさえ相手してくれないのが余計相手してくれないし暴力をふるう。顔だけは狙わず痣が残り、熱をもって腫れ上がることはいつも。しつけの類だろうとやりすぎである。骨が折れるなど体に響きすぎることはなかったが、心と体に恐怖は染みついた。その恐怖はまだ残っている。

 

 それでも、会わなければならない。舞堂刀兵衛は人間ではなく鬼になったけれども、在り方は無くなっていないのだから。ちゃんと会ってお別れをして、舞堂刀兵衛は生きていくと覚悟を決めねばならないのだ。

 

 獅子王と蒼龍を抱く両手のうち右手を一生懸命動かして額に手を当てる。無様に震えていて力が入らないが、それでもなんとかする。かつてあった温もりを思い出し、更に震えてしまう。が、今の自分を見つめなおす。弱くは在れない。だって、父上と母上の子だから。そう思うとふっと体に力が入った。なんとも軽くすっと入った。

 

 獅子王と蒼龍を支えに立ち上がる。気配はいつの間にか三つに増えていた。ならば急がねばならん。そのために自分に活を入れる。

 

 

「父上、母上。貴方方のためでなく」

 

 

 少し口が震えるもしっかり一音一音声に出す。

 

 

「俺は、俺で在るために」

 

 

 丹田に力を籠め、母上のいる方向に向けて宣言する。

 

 

「獅子王と蒼龍を、いただきます」

 

 

 駆ける。俺のために。俺の愛するもののために。

 

 

 

 

「あうん!!」

 

 

 霊夢の声に合わせて()の軌道をそらす。あまりチカラを開放するのがよくないあうんは霊夢の補助をするのがいい。()の攻撃を攪乱されるに

は十分な働き。霊夢は()を撃退することに専念する。

 霊夢は伊吹萃香や星熊勇儀といった鬼と相対したことがある。だけれど、この()とは違ってお遊びのスペルカードルールに則ってのものだ。スペルカードならば加減はされている。事故れば危ういが、霊夢の実力ではそういうものは回避してきた。だが、この()とのものは違う。アレは霊夢たちを尊重して競い合っているのではない。羽虫のように叩き潰す気だ。なんの感慨もなく、邪魔だからと叩き潰す気なのだ。そのことには霊夢がなにか口出しすることはない。彼女も仕方なく異変を解決している。血の気の多いやつに説法など無駄だとよく学習している。

 

 その血の気の多さがうつりそうなのは知らなかった。

 

 ()の妖気の所為か、今の戦いでの昂ぶりの所為かは知る気はない。少し血に酔いそうなのを攻撃としての霊力を編みながら堪える。あうんの息が上がっている。どうみても動きすぎだけでのものではない。彼女は狛犬、妖獣だ。今の姿になる前は寺社仏閣の石像に宿る神霊であったが、それになってしまった。神霊であれば跳ねのけられた。浄化も容易かったろう。けれど、妖獣となってしまった今ではより負のものを集めて来やすい。人である霊夢さえ血に酔いしれたくなるのをあうんはないとはなれないのだ。あうんもそれを分かっている。が、精神力だけで抑え込んでいる。それに軽く手を貸すだけの霊力しかあげられないのは、この()の所為だ。どういう攻撃でのものかは判別できない。そんな余裕がないのだ。

 

 二本しかないはずの腕以外の攻撃がある。血煙のような腕だ。それがぶち当たった木が折れずに枯れた。葉はすでに枯れていたが、まだ若い幹が見る見るうちに細くなっていく。霊夢でもあうんでも当たればどうなるか、分からないはずがない。運よく当たらずに知れてよかった。

 

 

「ぼうやぁ、どこだい?」

 

 

 ()はそう呟く。愛しい子を探し回る母の顔ではない。憎しみに狂ったバケモノの顔だ。

 

 霊夢はなんとか間隙をついて攻撃するが血煙の腕が無駄にする。あうんも少しづつ内なる力を開放させていって何とか対処しているが、分が悪い。元が神獣であるからか、かすめる程度では血に酔い知れそうになる程度。その都度、霊夢がここに来る事前に追ってきたあうんに張った符が役割を全うしているが、いつまでも持つものではない。補助するよう霊夢が霊力をあうんに纏わりつかせるけれども、完璧にできるわけではなかった。()の攻撃が直接と間接的に来るからである。血に酔いしれるのは時間の問題だった。

 

 決定打に掛けていた。

 

 と、()の動きが不意に止まる。血煙の腕ごと自分を抱きしめた。これでは攻撃するにしても何が来るか分からない。

 

 

「霊夢さん、あとどれくらいいけます?」

 

「詰めればあと二刻。このままいくとその半分もないわね」

 

 

 息を荒くさせながら二人は口を開く。あうんは良く持った方だ。霊夢も、十分な働きをしている。ここで、()に殴り潰されるのは当然の帰結と二人は悟っていた。臭い経つのだ。二人も愛する人がいるのだから、少しだけ血に酔いたくなってしまうのだ。

 

 

「…こんなとこで女の度胸発揮したくなかったんだけどね~」

 

「女の度胸って好きな人の前でこそ発揮されるんですけどね」

 

 

 軽口は血の匂いによくあった。

 

 

「おじさん」

「刀兵衛様」

 

 

 二人はお互いの想い人の名を呼ぶ。同じ相手に顔を合わせて笑った。

 

 

「あんたと三人でもよかったかも」

 

「三人で、いたかったですね」

 

 

 女の想いは。

 

 

「ぼうやぁ、死んでくおくれぇ!!!」

 

 

 叶わない。

 

 

 

 

「撃符【空刃破】《げきふくうじんは》!!」

 

 

 仙人の力を纏った獅子王を振りぬき、光の刃を飛ばす刀兵衛の得意の斬撃技。羽織を脱いで刀兵衛は立ちふさがる。血煙の腕を三本半犠牲にして()は泣き嗤った。心底不愉快そうに。

 

 

「ぼうやぁ!!」

 

 

 ()の喉が裂けるのではないかという怒声とともに、霊夢とあうんは濃厚な血の匂いに酔いしれてしまう。精神を侵かされ体を弄ばれる。狂え狂え、と確かにあったはずの理性をなくされそうになる。

 

 愛していたいのなら狂え。それは正しいことだ。愛し続けていたいなら狂え。紛れもなく正しいことである。愛を伝えたいのならば狂い続けるべきだ。明らかに正しきことであった。

 

 愛を、正しきことを為さねばならない、という思考回路。あるべき原始的な愛に身を焼かれそうになる。

 

 

「霊夢、あうん。しっかりしろ」

 

 

 少女たちが自分たちの両眼を抉ろうとした手を振り落とし仙人としての能力を使い、邪気を払い気を失わせる。相手がいるのに暢気に調整が必要なチカラを使ってはいられない。

 

 

「母上」

 

「死んでぇ…。早く死んでおくれぇ!!」

 

 

 ()の猛攻。刀兵衛は剣術による防御に特化した手堅い戦法を得意としている。そして、その防御を攻撃に転じ、カウンター技を使用して相手を無力化してきた。対処はできる。血煙の腕を獅子王と蒼龍で斬り落とす。その間に他の腕たちが刀兵衛を狙う。馬鹿力なのは勿論、速さも刀兵衛と同等。射命丸文といった【速さに自信を持つ者達】を圧倒するスピードで疾走できる体力と速さを持つ刀兵衛と同じ速さで互いに壊している。

 

 

「あんたの所為で、あの人はぁ!!」

 

 

 母親の怒鳴り声は脳を揺らす。心がざわざわとして、心臓がどんどん冷えてくる。ああ、いやだいやだ、と今すぐ頭を抱え蹲りたくなる。

 

 

「父上は」

 

「あんたの所為で!! ”死んじまったよ”!!」

 

 

 思わず動きを止めてしまった。死んだことが信じられない。至高の刀を作ることに一生を捧げる気の憧れてやまなかった、あの父が死んでしまっただなんて。信じたくなかった。心臓がいやに冷たく脈打ったのがわかる。自分の死が近いことさえどうでもよかった。父の死が心臓すら凍らせるほど、ひどく失望していた。

 

 ()が刀兵衛の顔を殴りつけた。何度も何度も。不格好に立っていたのが衝撃で倒れ、刀兵衛に跨り殴りつける。決して殴らなかった刀兵衛の顔を。

 

 

「あんたが持ってった所為で、完成しなかったんだ!!」

 

 

 獅子王と蒼龍のことだろう。父と母の名を勝手に借りてつけた大切な相棒たち。今日、ちゃんと自分のものにすると告げるため家を出たのに。告げる相手はすでにこの世にいなかった。死ぬわけがないと思っていた。母が先に逝っても、刀兵衛が先に逝っても、至高の一品が出来上がるまでは死ぬことはないと思っていたのだ。

 

 なのに、死んだ。

 

 おかしかった。

 

 

「笑うなぁ!! 笑うんじゃない!!」

 

 

 これがおかしくなくて何がおかしいというのだろう。火が弱すぎたわけではないだろう。道具がなかったわけでもないだろう。どれもこれも素人目から見ても良いと思うものでいっぱいだった。出来上がったものも父以外は満足できるものを多く作っていた。父のとっては三流の刀を、刀兵衛にとっては一番焦がれたもの奪ったけれども。これは刀兵衛に必要なものであって、父が必要とするわけがない。至高の刀を作れたのに、作らなかった父がアホらしかった。

 

 

「できたのに…」

 

 

 口の中が血でいっぱいになりながらも笑いをこらえきれない。父は本当にアホだった。ここに最高の素材があったというのに。

 

 

「母上。貴女が素材になればよかったのに」

 

 

 母を初めて憎いと思った。笑みに憎しみが宿る。冷たい、見下すものであった。

 

 

「だまれぇ!!」

 

 

 母の殴打で角が折れていた。角からも血は流れるようだ。母の血を引いた証の角、それからの血が目に染みる。

 

 

「貴女は、“父上より俺をとってくれたんだ”!!」

 

 

 その喜びで頭が破裂しそうだった。血の涙を流して喜びを露わにして見せた。母が愛してくれたことが喜ばしくて、父を見殺しにしたことすら許してしまいそうであった。

 

 

「だまれぇぇえええ!!!」

 

 

 殴ろうとする母に抱き着くことは無理からぬ話であろう。母はその温もりから逃れられぬもの同じだ。

 

 

 

 

 女はあまりのことに気を失いそうだった。愛した男の事、愛した男の子。どちらも大事な男である。どちらも矛盾なく大事である。刀兵衛の温もりを忘れてはいなかった。おしめを代え乳をやる。最低限の事だけをやった。それでも愛らしい泣き声は耳に今も残っている。

 

 

「あぁぁぁ…」

 

 

 刀兵衛から離れようとした。だが、力はそのように働かない。

 

 

「母上」

 

 

 泣き声は低くなって愛した男にほんの少し、ほんの少しだけ似ていて。

 

 たまらなく愛おしかった。だから、女が母になるには十分すぎた

 

 

「あの人とあんた。どっちも大事だよ」

 

 

 母はいつかのようにニコニコと笑っていた。優しい母の顔をして笑う。それに刀兵衛は固まった。

 

 

「大好きだよ、あたしたちの子」

 

 

 よくも、よくもそんなことを言う。その大好きといった息子に母が何をしでかしたのか。まったく母は分かろうともせず刀兵衛をあやす。

 

 

「あの人との子なんだから、大好きに決まってるけどね」

 

 

 母親は息子をあやしながら、だからね、と続けて。

 

 

「“あたしんことは大嫌いでいなさいね”」

 

 

 そんなことを、母が言う。あやす手はかつてあった火傷痕に触れて離れる。その手を当然刀兵衛はつかんだ。

 

 

「まぁ、来世ってのは信じてないし、いらないからどうでもいいんだけど。あの人を愛していいのはこのあたしだけだしね~。…それに」

 

 

 優しく振るって刀兵衛の手を振り払い、血みどろの両手で、暖かき母の手で息子の顔を引っ張る。殺意どころか、敵意なんてなくて。どころか、ひどく懐かしい温かさが。

 

 

「あんたが、このあたし以外を『母上』って呼ぶのムカつくから」

 

 

 笑わせようとしてるのか、口が歪む刀兵衛を上へ上げようとしていた。そうする冷たくなっていく温もりのせいで口が震える。

 

 

「はーやーく、にっこり笑ってバイバイちゃんよ!」

 

 

 少しも悲しくもなさそうなのが余計に刀兵衛を苦しくさせる。何年たっても変わらないその馬鹿明るい様に何か言ってやりたくてたまらない。なんの柵もなくなって軽い調子の母は本当に気楽そうだった。

 

「母上」

 

「なぁに~?」

 

 

 鎖をじゃらじゃら揺らしながら身体も揺らしながら必死に刀兵衛を笑わせようとしていて。

 

 

「大好きでいます、ずっと」

 

 

 刀兵衛は不自由そうに口を動かす。左右不揃いに生えた角は、父と母との子の確かな証である。たとえ今折れていたとしても、必ず元通りにしてみせる。

 

 

「父上も、母上も。大好きな俺の両親ですから。嫌いになれるわけないでしょう」

 

 

 きょとんとする女。すぐにいつもの表情に戻ると思いきや、なんともこちらが幸せになってしまいそうな顔に。刀兵衛笑った。だって、なんとも母親らしい慈愛に満ちた顔をするものだから、笑ってしまった。

 

 

「あぁ、“刀兵衛”… 嫌いになってくれないのね。もぅ、親不孝者なんだから」

 

 

 母は自分の顔を覆った。母として息子には到底見せていい表情ではない。あらゆる嘆きに満ちた顔など見せられない。ここで見せていいのは女の顔ではない、母の顔だからだ。

 

 

「刀兵衛…。子不孝のお母さんでごめんね」

 

 

 顔を覆ったまま母は泣いていた。先ほどの気狂い女のとしてのものではなかった。

 

 

「お母さん、我侭聞きたいな。ここでしか聞けないの、許してちょうだい」

 

 

 けれど、決して母親がしていい表情ではなかったから顔を隠して強請る。許される行為であった。母である女が願い、子である刀兵衛が望んでいたのだから。

 

 

「…聞いてくれるのですね」

 

「うん。お母さんだもん。子供は、我侭言うものだって今の今まで知らなかったから」

 

 

 互いに漏れる言葉は不自由すぎて震える。まともに親子でいない。

 

 

「ずっと好きでいるの。好きでい続けるの。…辛いよ? すごく、すごく辛いことだよ。いいの…?」

 

 

 刀兵衛の我儘をなんとかそれにしようと必死だった。だって、そうでなければもう母としてできることなど何もなかったのだ。

 

 

「いい。やる」

 

 

 簡素な言葉。刀兵衛は母の手を取り顔を見せてもらった。母は母の顔をしていた。母としては失格だというのに、ここにきて一番の母の顔をして、誇らしそうに泣いていたのだ。

 

 

「うん、頑張って。刀兵衛は強い子だからできるもんね」

 

 

 誇らしげに笑う。というには不恰好すぎたが、母親らしいもので。

 

 強く優しく、母親は自分の愛息子を抱きしめた。初めてのようであって懐かしくてたまらなくて、すごくすごく幸せに感じるもので。

 

 

「だーいすき」

 

 

 頭を撫で背を摩られ、刀兵衛は本当に抱きしめ返した。初めてのような懐かしいような、とてもとても幸せに感じるものにもったいないと思うのに目を閉じてしまう。

 

 母も同じく目を閉じる。やっと、抱きしめられた。抱っこができたのだ。噛みしめるように何度か力を込めた。壊れやすいから、大事なものだから。失くしてしまいそうだったものを、好きでい続けるために。

 

 霊夢の母、先代巫女と八雲紫といった強い力が母をかき消しって行く。

 

 最期に母は思う。

 

 

 ≪あたしはこの子が大好きなんだ。あ~あ、もう一度。もう一度だけでいいから。だっこしてあげたかったなぁ…。》

 

 

 ()の想いは叶うわけがなかった。いまさら知った母の愛など、持ってはいけないのだから。

 

 だとしても

 

 誰にも譲れない刀兵衛の母としての愛は、確かにあったのだ。 

 

 

 

 寝物語を聞いていた気がする。ひどい母と可哀そうな子供の当たり障りにならない対話を。まるで会話になってない、どうしようもない交信を。

 

 霊夢とあうんが目を開けたとき、刀兵衛の姿はとてつもなく遠くに感じた。

 

 

「おじ、さん」

「刀兵衛様…?」

 

 

 二人の声に気づいた刀兵衛は力なく笑った。まるでそうすることを強いられているかのように。

 

 

「おじさん、立って」

 

 

 霊夢は力の入らない足を無視して震える手を使い、這って刀兵衛に近づく。

 

 

「刀兵衛様、折れてはダメです」

 

 

 同じような状態のあうんは霊夢を支えつつ刀兵衛の顔を見続けた。

 

 それに応えるには刀兵衛は限界だった。望んでいた母の愛を受け取った、焦がれた父はもういない。ならば、もう生きていても仕方がないと思っていたのだ。彼らの忘れ形見となった、獅子王と蒼龍。それを持っていることさえ苦しくなるほど、全てが限界であった。

 

 

「おじさんは、強い人でしょ」

 

 

 霊夢が知っている姿は、凛としていた。高い高いをしてもらった手の温かさは、しっかり覚えている。先代巫女と世話してくれた刀兵衛は、霊夢の中で尊い存在であるのだ。

 

 

「刀兵衛様は、守れる人のはずです」

 

 

 あうんが知っている姿は、逞しかった。あうんに家族を教えてくれた温かい眼差しは、ずっと覚えている。霊夢たちと共に生きている刀兵衛は、あうんの中で敬うべき存在であるのだ。

 

その彼女らが知る存在とは、今は別人のように感じられた。そのことに血に酔い痴れた思考が声を出さずにいられなくさせる。

 

 

「おじさん。忘れないで、あなたは強い。いつもなら、すぐ一人で立てるでしょう?」

 

「刀兵衛様。思い出してください、貴方は折れません。普段なら、誰をも守れますよね?」 

 

 

 できないのならば。

 

 

「なら、弱くてもいいよ」

 

「折れてもいいですよ」

 

 

 二人は刀兵衛まであと少しの距離にいた。心すらそうであったのだろう。確かに女として黒い部分が露出し始めていた。それを血の酔い痴れたからと言い訳にする気はないのは、刀兵衛は薄い意識で感じ取る。

 

 

「わたしたちが一緒にいてあげるから」

 

 

 霊夢は甘い言葉で誘惑している。男を落とすのことが巧みにできていた。

 

 

「わたしたちが誰からも守ってあげますから」

 

 

 あうんは優しい言葉で懇願した。男が這い上がれなくすることを上手にできる。

 

 

「わたしたちがいる」

 

 

 二人の少女は刀兵衛を捕まえた。力の入らない体を無理やり動かす。不自由に刀兵衛を愛し始めている。刀兵衛がじれったく思って手を出させるように、わざとらしいほど不自由に。

 

 

「わたしたちが愛していることをずっと忘れさせないから」

 

 

 刀兵衛の手を握り離れない。その温かさは忘れたくないもののはず。

 

 

「わたしたちが愛していることを必ず覚えさせますよ」

 

 

 刀兵衛の目を二人から一秒たりとも離させない。その美しさは覚えていたいもののはず。

 

 

「忘れないで。愛するということは、幸せなことよ」

 

 

 本当は辛いことだ。刀兵衛はよく分かっている。もういなくなってしまった父と母の代わりに愛せというのなら、できない。代われるほどの安いものではない。変わりができないから愛することはやめるべきなのだ。それほど誰かを愛することなど不可能だと刀兵衛は思っている。

 

 

「覚えていてください。愛するとは、幸せなことです」

 

 

 幸せだというのならば、何故こんなにも胸が痛むというのか。愛らしい少女たちを微かに思う心が叫び声をあげている。代わりになれないのに、代わりになろうとしないでほしい。愛する相手を作るのも失うのも、もう嫌だった。岩を水が穿つほどの長い間待ち続けた結果がこれだ。そうしてまで両親を愛していたのだ。

 

 

「愛など、辛いだけでしかない」

 

 

 少女たちを振り払う勇気も、少女たちから目をそらす覚悟も、なかった。

 

 

「誰かを愛するなんて、もう、できる訳がない」

 

 

 握られた両手の圧が強くなる。けれど、刀兵衛の口は止まらなかった。血に酔い痴れていたのは刀兵衛もだったのだろう。

 

 

「愛など、ごめんだ」

 

 

 静かに涙を流しながら崩れた。心が擦り切れてなくなりそうだった。それは心の防衛機能。理性が刀兵衛を守ろうとしていた。

 

 

「愛して」

 

 

 その理性を攻撃するのは霊夢とあうん。理性を壊して、刀兵衛を壊して彼女たちは本気で刀兵衛を愛そうとしていた。

 

 

「愛そうよ、絶対に忘れないから」

 

「愛しますよ、ちゃんと覚えられるまで」

 

 

 愛する男を確かに愛そうとして、刀兵衛を壊す。

 

 刀兵衛の心が揺れた。

 

 愛することは、即ち辛いことである。持てる愛をもって返されることはあまりない。一人が持っていい愛は限られる。両手で持てる分だけだ。その両手をめいいっぱい使ってもってもいい。ほんの少しだけ持ってもいい。なんなら持たなくてもいいものだ。けれど、持ってしまったのなら責任をもって愛し続けなければならない。持つ者と持ったものが傷つけ合うこともある。致命傷になり、壊れてしまうこともある。だが、持ち続けなくてはならない。愛は返されることはない。愛は返していいものではないのだから。本当なら、自分だけ、自己愛を、その一つだけで生きていく方がずっと楽だ。誰も奪いやしないし、壊そうとも思わないのだから。それでも、何かを愛したくなる。制限があるのは、奪われないよう、壊されないよう、自分で守れるだけの範囲があるから。その範囲は決して超えられない。声的来るのならば、誰を彼をも憎み嫉み、壊し合う。辛いことだ。愛があればいい、なんて言葉は寝言にだって言えない。愛があるから、誰を彼をも嫌いになってしまう日があるのだから。そう誰だってなりたくない。嫌うのも好くのも同等の力を使う。だったなら、好いていたいだろう。嫌いたくはない。誰だって八方美人でいたい。

 

 だから、刀兵衛は自然に誰かを愛せない。不自然に遠くにやってしまう。愛情表現が不器用なのではなく、そうしなければ誰かを責任もって愛せない。

 

 刀兵衛の中で無責任さとは何か。

 

 了承のない交流。これであった。

 

 刀兵衛にとって、愛するということは誰かから了承のいるものだ。親の教育によるものである。邪魔をしてはいけない。何かするなら顔をうかがう。やらかしてしまってはいけない。そういう子供の意識が抜けきっていないのだ。だから、突き放す物言いでどこまで許されるか確かめてしまう。おっかなびっくり誰かと触れ合わなければ先に進めない。先に進むにも、持てる愛が限られているのを知っているから。そして、持ってしまったのなら愛し続けなければならないことを分かっている。

 

 端的に言えば、愛が怖い。

 

 親の愛に恵まれないなかった。最後に触れ合えたような気がしたが、結局は肩透かし。母は、母の中の息子を愛しただけだ。それに思うことは一つ。

 

 “愛さなければよかった”

 

 辛い、苦しい、痛くて泣きそうだ。すぐ触れ合える距離にいたのに素通りされた寂しさ。それを消すには自分は心が固すぎた。何重にも結った紐のように決して解れることはない、はずだった。

 

 それを、少女たちが優しく解く。手痛い目にあうだろう。身体的にも精神的にも厳しいものを見せつけられだろう。

 

 心が揺れる。

 

 

 『絶対に忘れないから ちゃんと覚えられるまで』

 

 “愛そう”と言ってくれる。

 

 愛し合おうとしてくれている。

 

 腫れあがった頬に涙が染みるのが、やけに朧げに感じた。

 

 

「お前たち」

 

 

 二人が握った手、その手が力が抜けだして両手を握り返してしまう。反射的な行動だった。離してしまいたくなかったのだ。

 

 

「愛させてくれるのか…」

 

 

 疑問のような独白。すぐに答えたくなったが二人は黙って見送った。血の酔いは正常に狂わせてくれる。

 

 

「霊夢、あうん。お前たちを、愛していいか」

 

 

 愛するというのは、幸せなことである。

 近くにいる誰かと交信することの喜びは、ずっと経験していくもの。たとえ途切れても、無くなっても、誰かがいたことの事実は変わらない。誰かと共に生きていく仲で苦しいことはあるだろう。それを乗り越えようと足掻くたび悩むことがあるだろう。そこで、ふと誰かとの交信記録という墓を見下ろしてみよう。また会いたい、という墓石に刻まれた言葉は自分の本当にしたいことである。また会いたいは、また愛したい。また明日も逢いたいのだ。

 

 愛することは、幸せなことである。

 楽しい日々の中を生き続けることは難しい。ずっとは難しい。悲しいこともある。日などもう昇らないでほしいことは多いだろう。それでも、明日も自分で立たねばならない。荒波のような厳しい日々に負けそうになるけれども、小さな温かさが傍に立ってくれる。誰かを愛したのなら、愛された分だけ動こうなどと思わなくていい。愛されたことを誇ればいい。ちっちゃなことでも構わない。それが、誰にも譲れない強き心になる。それは、確かな生きる意味だ。

 

 その心でまた誰かを愛してみよう。辛いことはある。それでも、確かにいる温かさはずっと忘れないで覚えていられるはずなのだ。

 

 

「いつまでも愛してるわ、おじさん」

 

 

 霊夢はにっこり笑う。確かにある忘れられるはずもない温かさ。

 

 

「刀兵衛様。愛しますね、ずっと」

 

 

 あうんも満面の笑み。確かにある覚えているべき温かさ。

 

 

 

 ここに墓を建てよう。

 

 かつての三人の親子のために。獅子王と蒼龍を備える。きっと、もう手入れはされぬだろう。そうあるべきだ。覚えているもの、忘れないものはちゃんと胸に残っている。だから、これらは三人のために送るものだ。

 

 墓石もない、刀だけの墓標は目立つ。これからの三人の目によく焼け付いた。

 

 愛するものがいる。愛したい誰かがいる。忘れたくない、覚えていたい人たちがこれからもいるだろう。例えば、霊夢と刀兵衛とあうんの子とか。その子の子とか。ずっとずっと忘れないで覚え続けたい、愛し続けていく日々を送るのだ。

 

 秋の寂しい木枯らしの中にある、確かな三人の家族の話。一人の持つ愛を、三人の手で分けっこした仲のいい家族の物語。

 

 霊夢とあうん()の想いは叶う。それは舞堂刀兵衛も望む、幸せになるべき家族。

 

 墓参りをしに行こう。

 

 愛するというのは幸せなことでした、とまた忘れないでずっと覚えているために。




主人公の設定

◆名前:舞堂 刀兵衛(ぶどう とうべえ)

◆一人称:俺

◆種族:仙人

◆二つ名:神速の剣豪

◆職業:侍

◆概要
 茨木華扇と同じ仙人であり、彼女の幼馴染、そして先代巫女と八雲紫の古い知り合いでもある。先代が当時の巫女に就いていた時から彼女の助力をしたり、博麗神社の近くの山に居を構えているため、彼女達(霊夢、紫、藍、先代巫女)とも面識がある。また、酒にも強いため異変解決後の宴会では全く酔いつぶれない完璧超人でもある。

◆容姿
 髪型は黒のポニーテール(『ソウルキャリバー6』の「御剣平四郎」のような感じ)。服装は黒色の着物・灰色の袴と羽織を着用している(本気を出す時は羽織を脱いでいる)。左腰に2本の剣を差している。

◆武器:刀×2(一刀流)
◇獅子王(ししおう)
 左腰に装備している刀の1本。柄も鞘も黒色・刀身は銀色と普通の刀と同じ見た目だが、耐久性は極めて高い。
◇蒼龍(そうりゅう)
 左腰に装備している刀の1本。柄は白色・鞘は黒に近い灰色・刀身は空色に近い銀色。獅子王と同様に高い耐久性を持っている。

◆性格:冷静 兼 クール(『FF7』のクラウドのような感じ)
 興味の対象外である会話には積極的に参加しないばかりか突き放す物言いをするが、責任感が強い。

◆能力
◇瞑想を使う程度の能力
 瞑想で新しい技(剣術、格闘技、弾幕等)をイメージで思い浮かべる能力。自宅での修行でしか使う機会は少ない。
◇仙人としての能力
 様々な能力を使える仙人の力。空の飛行や念力、予知能力、テレパシーを行うことも可能である。
◇戦闘能力
 忍耐・精神・頭の回転力を備えており、数々の実戦を経験しているため戦闘力も極めて高い。弾幕戦(遠距離戦)・接近戦においても高い実力を持ち、「幻想郷最強」の強さを持つ「鬼」にあっさりと勝利し、「博麗の巫女」と互角に渡り合うほどである。
◇身体能力
 基礎体力はかなり高く、家事(食事を作ったり、雪かき等)を軽々とこなしたり、射命丸文をはじめ、「速さに自信を持つ者達」を圧倒するほどのスピードで疾走したりと、かなり優れている。

◆戦法
 剣術による防御に特化した手堅い戦法を得意としており、包囲された状態、対集団戦で真価を発揮する。長年の修行でこの戦法を熟練しているため弾幕の集中砲火も対抗できる。接近戦では防御を攻撃に転じ、カウンター技を使用して相手を無力化する。この戦法で「異変を起こす側」の数々の強敵に勝利して「異変解決」に貢献している。

◆住んでいる所:博麗神社近くの山

◆生活
 ほとんど自宅で鍛練&修行(剣術、弾幕、格闘技等)をして過ごしている。たまに幻想郷の状況確認のために外出する事もあり、博麗神社に立ち寄り賽銭を入れたり、人里に必要な物(食料、日用品等)の買出しをしている。
◇仕事
 たまに来る森近霖之助からの依頼で、彼の店『香霖堂』に運ぶ「外の世界からの流出品」の輸送の護衛をして高額の報酬を得ている。
◇異変時
 霊夢と共に異変解決に乗り出し、彼女のサポートをしている。

◆スペルカード
◇撃符(げきふ)「空刃破(くうじんは)」
 仙人の力を纏った獅子王を振り抜き光の刃を飛ばす舞堂の得意の斬撃技。無数に斬擊を放つ事も可能。
◇脚符(きゃくふ)「闘迅脚(とうじんきゃく)」
 闘気を右足に纏わせて上段回し蹴りを放つ蹴り技。相手が背後から飛び掛るタイミングに合せて、振り向きざまにカウンターで放つことも可能(『仮面ライダーカブト』のカブトの「ライダーキック」のような感じ)。
◇翔符(しょうふ)「仙神吼破陣(せんじんこうはじん)」
 相手の足元に巨大な円型の陣を出現させ縛り付けるように動きを封じ、獅子のような闘気を纏い突撃して相手に壮大な一撃を与え無力化させる舞堂の得意技にして最大の切り札。



◆東方キャラの設定
○博麗霊夢
 幻想郷の数々の異変を解決してきた博麗の巫女。幼い頃から舞堂にはよく世話になっているため親しい関係になっている。博麗神社に来た時に賽銭してくれたり、異変解決に協力してくれる恩返しとして、舞堂が神社を訪れた時は お茶と茶菓子を出したり、異変解決後は宴会に招待している。
○高麗野あうん
 1人で獅子と狛犬の2つの性質を持つ狛犬。人間の信仰を集めそうな場所を見つけては居候して、勝手に守護をするため博麗神社も守護していた。『東方天空璋』の異変解決後は、舞堂と隠居生活をしている先代巫女の提案によって博麗神社の家族として迎えられる。自分に家と家族を与えてくれた舞堂達を敬愛している。
○魂魄妖夢
 白玉楼に住む西行寺幽々子専属の剣術指南役 兼 庭師。『春雪異変(東方妖々夢)』では異変解決にやって来た舞堂と霊夢達を迎撃するために立ち塞がるが、舞堂との一騎討ちに敗北。解決後は舞堂の剣術に興味を持ち、自ら弟子を志願。その後は白玉楼の仕事をしながら、たまに訪れる舞堂に剣術の指導をしてもらっている。
○東風谷早苗
 守矢神社の風祝。『東方風神録』では外の世界で信仰を得られなくなり、神社ごと幻想郷に移り住む。八坂神奈子の提案で博麗神社を脅して幻想郷の信仰心を全て守矢に集めようとしたが、激怒した霊夢を相手に完敗。異変解決後は博麗神社の取り潰しを断念し、普通に人間の里で信仰を集めていたが、守矢の信者達(ストーカー)に誘拐されそうになるところを察知して現れた舞堂によって救出される(舞堂が退治した信者達は八坂神奈子と洩矢諏訪子の二人に引き渡し、引導を渡されている)。その後は舞堂の「相手を思う事も大事だろうが、まず自分を大事にしろ」という言葉の内にある優しさに惹かれ、それ以来は舞堂がよく立ち寄る博麗神社に来ては通い妻のように彼にアプローチをしている。
○古明地こいし
 古明地さとりの妹。姉と同じく相手の心を読む能力を持っていたが、その能力のせいで周りから嫌われることを知り、読心を司る第三の目を閉じて能力を封印し、同時に自身の心も閉ざしてしまう。そして第三の眼を閉じたことによって心を読む能力に代わり、「無意識を操る程度の能力」を手に入れた。『東方地霊殿』では、偶然散歩を終えて地霊殿へ戻って来た時に舞堂が星熊勇儀に圧勝したところを目撃し、興味を持ち勝負を挑むが完敗。古明地さとり から事情を聞いていた舞堂から「生き物の心には光と闇の2つ存在している。しかし、全てを諦めて生きるのは まだ早い。お前には、帰る場所も、待っている家族もいる」という言葉を聞かされてからは希望を持ちはじめ、現在は舞堂が立ち寄る博麗神社に来ては舞堂を兄のように甘えている。
○稗田阿求
 人間の里にある名家「稗田家」の当主であり、九代目「御阿礼の子」。幻想郷の妖怪についてまとめた書物「幻想郷縁起」を編纂するため、千年以上前から転生を繰り返している。舞堂の男らしさに魅了され、彼が数々の異変解決に貢献している事を森近霖之助から聞き、彼の武勇伝を書物に記したいと頼んでいる。
○茨木華扇
 妖怪の山で暮らしている仙人にして、舞堂の幼馴染。仙人といっても本人曰く、まだ修行中の身らしい。舞堂とは異なり人里などに顔を出しており、隠者ながらその存在は意外と知られている。ただし説教臭いという点以外、あまり記憶されていない。舞堂がよく博麗神社を訪れる事を知り、自分も頻繁に訪れるようになる。

■呼び方(主人公視点)
□博麗霊夢→霊夢
□高麗野あうん→あうん
□魂魄妖夢→魂魄
□東風谷早苗→東風谷
□古明地こいし→古明地妹
□稗田阿求→稗田
□茨木華扇→華扇

■呼び方(相手視点)
□博麗霊夢→おじさん
□高麗野あうん→刀兵衛様
□魂魄妖夢→舞堂先生
□東風谷早苗→舞堂さん
□古明地こいし→刀兵衛お兄ちゃん
□稗田阿求→舞堂さん
□茨木華扇→刀兵衛



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

テイルズオブシリーズ
TOD フィリア・フィリス


「ウッドロウ様、お怪我はありませんか?」

 

「あぁ、大丈夫だ、シャドー」

 

「そうですか。皆も無事か」

 

 

 ファンダリア王国の兵士であるシャドーの第一は、王国の第一王子であるウッドロウの安全である。自身に回復晶術が使えればよかったのだが、あいにくと扱えない。ならば、ただの攻撃要員かと思えば、身につけた医術はアトワイトも太鼓判を押すほどである。医術を修めるのは並大抵の努力でできるものではない。しかも修めたとしても新たに疾病が生まれたりする場合、新たに施術法・対処法を思考、執行せねばならない。多大な苦労である。それでもシャドーは弱冠18歳という若さで衛生兵も兼ねられるのだ。これ以外にも、自身のソーディアン―日本刀のような剣―と弓で仲間への攻撃を受け流したり相殺したりとやたら器用である。炊事もできる。パーティ内で将来の旦那にしたい男ならウッドロウがいなければ不動の一位を獲得できる。唯一の欠点があるとすれば、自分に関する恋愛には鈍感というところである。

 

 

「ふん。僕がこの程度で怪我など負うか」

 

「自分で言うなっつ~の、あたしは平気よ」

 

「俺も平気だ」

 

「私も平気です」

 

 

 全員の見た目と声の調子から、全員無事だと分かると周囲の警戒に入る。先程倒したモンスターに新手が来てもおかしくはないのだから。

 

 

「ジェ-ムズ、新手は来ると思うか?」

 

〔湿度、温度ともに変わりなし。平気だ、一先ず落ち着けるぜ〕

 

 

 シャドーの腕付近から声がする。おかしいといえばおかしい。だが、このパーティで彼らの声が聞こえるメンツにはおかしくはなかった。目立つ赤色の刀身の刀から声がしたのだ。

 

 氷属性のため空気中の湿度と温度で敵の有無を確認できるのが、シャドーのソーディアンジェ-ムズの強みの一つであった。

 

 

「グレバムがいる所まであと少し」

 

 

 気負うウッドロウ。

 

 自身の離れていた間に城と王都を支配された。しかも国王を殺されてしまって。多大なストレスだろう。国民の無事かどうかの心配、父である国王の死による哀。今はただひたすら、グレバムを討つことを目指さねばならないが、払いきれない苦しさがあったのだ。

 

 

〔王子、深呼吸どうぞー〕

 

〔おい、ジェ-ムズ〕

 

 

 いつものようにマイペースなジェ-ムズにディムロスがたしなめる。それにシャドーがいつものように解説して宥める。

 

 

「ディムロス、ジェ-ムズはウッドロウ様に途中でだけで負けて欲しくないんだ」

 

 

 そんなことを言われ困ったようにしていたウッドロウはジェ-ムズに言われた通り深呼吸をしている。

 

 

「どういうことよ?」

 

 

 リオンはシャドー達をどうでも良さそうにして辺りを警戒し、スタンはよく分かっておらず、フィリアはなんとなく得心したようだった。

 

 

「今は、勿論グレバムを倒すことが大事。だが、これはウッドロウ様への試練の一つ。ウッドロウ様はこれからが問題なんだ」

 

 

 あえて言葉にしないが、ウッドロウのこれからを考えれば得心する。

 

 

「つまり、ここで気負いすぎても先にもっと気負うべきことがある。こんな所でそんなものに負けるな。そう言いたいんだ」

 

〔そうだったのか…。すまなかった、ジェ-ムズ〕

 

 

 得心したディムロスはジェ-ムズに謝る。だが、気にしていなかったようでカラカラと明るく笑う声が聞こえた。

 

 

〔いいーって、ディムロス。俺もマスターの言葉に感心してたし〕

 

〔ジェ-ムズ、あなたやっぱり…〕

 

 

 アトワイトが呆れながらそこまで言うと、続けてクレメンスが。

 

 

〔ディムロス、こやつはそこまで考えておらんぞ〕

 

〔なに…?〕

 

〔よくわかってるな、クレメンテ。いやー、そんな事考えてなくて、ただ疲れるぞーと思ってさー〕

 

 

 あはは、と笑う声にシャドーを除く皆が脱力する。だが、シャドーだけは理解っていた。

 

 

『ジェ-ムズ、お前というやつは…』

 

『ほら、皆さん。そろそろ行きましょう』

 

 

 ディムロスが何か言おうとしたが、シャルティエにそう言われ黙った。

 

 

「早く行くぞ、バカども」

 

「この、ガキッ!!」

 

「まぁまぁ、ルーティさん」

 

 

 急かすリオンにルーティが目を吊り上げるが、フィリアの宥めで何とかなった。

 

 

 

「フィリア」

 

 

 ゆっくりと彼女はシャドーの方を向いた。

 

 

「どうしましたか?」

 

「その、無理はしていないかとな」

 

「そう見えますか?」

 

「あぁ」

 

 

 立て続けにあった知っている人との死闘。リオン・マグナス。本名、エミリオ・カトレット。短い間だったが、共に冒険した、仲間、だった。その彼は、ただ一人愛しい女性のためだけに戦い、濁流に飲み込まれていった。

 

 

「リオンさんは言いました。愛しい人のためならなんでもできると、私はそれがよくわかります」

 

 

 愛。リオンがマリアンに向けた絶対の情。自身を支えるものであり、突き動かすものだった。それをフィリア自身も持っているし、その御蔭で今もこうして生きている。

 

 

「………俺には愛というものがよく分からない」

 

「分かれと思っても、自分で知らないと分かるものではありません」

 

「フィリアは分かるのか?」

 

 

 その問いに頷くことで答える。

 

 

「生きていく上でどう作用するかわからない。そんな不確かなものと生きていくのは少し、いやだな」

 

 

 そこで言葉を切り、鞘の中からジェ-ムズの、おい、と叱る声がする。それは無視された。

 

 

「愛とは、人それぞれ色々持つものです。親に対する愛、親しい人に対する愛、仕事への愛、物に対しての愛。あげたもの以外にも様々あります。これらによって“生きている”と実感できるという方もいらっしゃいます」

 

「フィリアは、持っているのか?」

 

「シャドーさんは如何ですか?」

 

「俺は…」

 

 

 あの時のリオンを思い出す。自分達の知らない激情。そのとおりの熾烈な戦いだった。愛ゆえに戦い、愛ゆえに死んだ彼。そこまでの情、シャドーは持てずにいた。故郷に対する愛、家族に対する愛、なくなれば哀しいと思うがそれまで。ウッドロウに対する敬愛もまた同じ。薄情だろう。でも、しょうがない。いつも何か先を考え冷静に対処できる彼は、自分が“死んでもいい”という場面にあったことも、思ったこともなかった。

 

 

「男女の愛はあんなに凄いものなのだな」

 

 

 ソーディアンではない愛刀が折れた。今まで本気で手合わせをしたこともあったが、あれほど強い攻撃は受けたことがない。

 

 

「俺もそういうふうに思うことがあるのだろうか」

 

 

 神の信徒として、一人の女性として、シャドーを想う者としてフィリアは優しく答えた。

 

 

「愛は隣人です。空気のようにそこかしこにあり、時にはたき火のように燃え上がり、時には冬の湖にように凍てつきます。けれど、恐れることはありません。必ずシャドーさんも愛を知ることにでしょう」

 

 

 その言葉に頷き踵を返し他の仲間の所へ行こうとする。そこで一振りの剣と一刀が口を挟んだ

 

 

『これ、フィリア。そこは〈私がそう思わせましょう〉と、色っぽく攻めるところじゃろう』

 

『そうそう。シャドーも〈フィリアが教えてくれ〉って誘うべきだろ』

 

 

 フィリアが真っ赤になってクレメンテのコアを叩く。すごい音がした。

 

 

「クレメンテ様もジェ-ムズ様も何を…!」

 

「ふむ」

 

 

 シャドーは振り返りつつジェ-ムズに尋ねた。

 

 

「男女の愛を分かるのか、ジェ-ムズ」

 

『知ってるさ。”遠くの女神より近くのレディ”。これがうちの部隊の勝利の合言葉だったんだから』

 

 

 沈黙したクレメンテに構わず攻撃するフィリア。シャドーとジェ-ムズは一先ず彼らを放置して話を続ける。

 

 

『愛を向けるなら近しい誰か。愛を交わすなら親しい誰か。愛を産むのは共にいること。そんな感じの意味だぜ』

 

「そうか。ならフィリア」

 

「え? は、はい! なんでしょうか?」

 

 

 彼女の手を取る。いきなりのことでメガネが曇るほど発火するフィリア。

 

 

「あ、あの!?」

 

「フィリア」

 

 

 顔を近づける。気絶するまでもう数秒前であった。

 

 

「好きだ」

 

「………」

 

 

 ギリギリで気絶はしなかったものの。思考が止まった。時間が止まったように感じられた。

 

 

「と思う。だから付き合ってくれ」

 

「は、はい…!!」

 

 

 と思う。は聞こえなかったのか。すぐに返事を返す。

 

 

『ヒューー!!』

 

 

 器用に笛の音を出すジェ-ムズ。

 

 

『良かったのう、フィリア』

 

 

 少し疲れたような声だがクレメンテも祝福する。

 

 

「俺はもっと知りたい。強くなることも、生きていくことも、フィリアとともにいたい意味も。だから、傍にいさせてくれ」

 

「はい!!」

 

 

 二人が盛り上がるなか、ソーディアンたちは。

 

 

『クレメンテ老、こんなんでよかったのか?』

 

『うむ。まぁ、よかろう。お前さんも、なかなかいいアシストじゃったぞ』

 

『え? そんなことしたっけ?』

 

『またか……』

 

『まぁ、いっか』

 

『ふぅ。フィリア、よかったのう』

 

 

 感慨深げに息をつくクレメンテ。フィリアがずっとシャドーへの気持ちを押し隠していたことは知っていた。むしろあのスタンでさえ気づいていたというのに、シャドーは気づいていなかったのだ。他のメンツがさり気なく二人っきりにしたり、いい空気にしようとしたりしていたが、本人たちは自分達がそんなことをされていると気づかず普通にしてしまったのだからどうしようもない。

 

 だが、これでいい。

 

 はじめの一歩は進めた。後は若い者同士、確かに燃え上がっていくだろう。

 

 

 

ルーティとアトワイト、ウッドロウとイクティノス、フィリアとクレメンテときてシャドーとジェ-ムズ達の番であった。

 

ジェ-ムズの我儘で拵えた逸品物の鞘からジェ-ムズを抜く。

 

 

「おう、ぱぱっとやろうや、マスター」

 

「お前はもう少し感傷とやらを持て」

 

 

 いつものような軽口、これが最後のときとは到底思えなかった。

 

 

「な~かよくやれよ? まったくこんな姿じゃなきゃ、俺がフィリアちゃんとラ~ブラブな仲になってたものを…」

 

「悪いな」

 

 

 いつもの調子、こんな場面で不自然だった。でも、これが彼らの自然だった。

 

 

「おいおい、そこは『お前には無理だ』って言うとこだろうが、バカチン」

 

「俺はお前とも一緒に居たかった」

 

 

 今更何を、とジェ-ムズは思う。そんな口説かれ文句、こっちがからかっていろんなことを言ってもそんな最上の言葉言ったことなどなかったというのに。

 

 男として弱くなったという言うべきか、ジェ-ムズに対して弱くなったと言うべきか。

 

 叱る。

 

 叱るべきだった。

 

 オリジナルのジェ-ムズの心情などどうでもいい、ソーディアンのジェ-ムズの心情などどうでもいい。ただただ、ずっと傍にいた“ダチ”として言ってやりたかった。

 

 

「お前」

「だけど」

 

 

 弱音を吐くな、と言おうとしたジェ-ムズに被せる。

 

 

「お前の思い出とともに生きていく。心配するな、全力でフィリアと幸せになるから」

 

「………」

 

 

 涙など流さない。そんなもの互いに卑怯としか思わなかったから。

 

 大事な大事な、兄弟であり、友達であったから。

 

 共に喜ぼう、共に怒ろう、共に哀しもう、共に楽しもう。どんなときも協同し、協調し、共生してきた。

 

 【マスター】とひたすら呼び続けたのは、ジェ-ムズなりのけじめだった。自身でだけでは戦えないという歯がゆさ、自身とともに戦えるか試してしまった申し訳無さ、その劣と、共に戦えるという嬉しさ、共に邁進できるという誇り、この優からだ。オリジナルは自分を捨てた。ずっと残る悔恨。マイペースなジェ-ムズでもそれが残る。それをなくすことは出来ない。でも、薄めてくれたのは自身だけの使い手シャドーだった。

 

 さぁ、笑えと。互いに行動するも、それも似つかわしくないような気がする。

 

 だから、最後だけは、最後だから、互いに一番格好良くいようと決めた。

 

 ジェ-ムズのコアが輝く。だが、何も言わない。

 

 シャドーの腕に力が入る。だが、何も言わない。

 

 互いに共感した。それを言葉にするのに照れも何もしない。だが、いざ言葉にすると成ると勇気が欲しかった。互いに勇猛な男達。どんな敵も相手ではない。だが、彼らは敵同士ではなかった。だからこそ、勇気が欲しかった。

 

 少しの沈黙の後、互いに呟くように、けれどしっかりと言葉をかわした。

 

 

「達者でな、シャドー(ダチ公)

 

「お前もな、ジェームズ(ダチ公)

 

 

 構える腕に迷いはない。交わす言葉はもういらない。

 

 最後には。最後には。最後には。 

 

 共にただ格好良く在った。

 

 これがシャドーとジェ-ムズ(絶対唯一の友)の別れであった。

 

 

 

 

 

 あれから18年。

 

 フィリアは忙しい日々を送っていた。今日も今日とて、アタモニ神の教えの研究やらアタモニ神への祈りやら大忙しである。18年経って物腰はより深く慈しむようであり、彼女を『聖女』と呼ぶ声も少なくない。信者だけでなくありとあらゆる人に慈愛を込めて言葉をかわし、分け隔てなく共に生きようと優しく声をかけるのだ。

 

 そして今、フィリアはアタモニ神に祈りを捧げている。

 

 今日も人々が健やかに幸せであるように、と嘘偽りなく心の底から祈る。

 

 ステンドグラスからの光に照らされる彼女は、まるで『聖女』であった。

 

 そんな信心深い様子な彼女の近くに立つ男の姿が。教団着だが、いつでも武器を構えられるように彼女に比べて軽めの服装をしている男だ。彼は祈っていない。何故なら、“何が起こっても”対処できるよう控えているからだ。

 

 顔つきは男らしくキリリッとしているだろう。だが、彼女に向ける眼差しは何処までも優しかった。体躯は五英雄のリーダー、スタン・エルロンと同程度である。だが、彼のような金髪でも青い瞳でもない。

 

 今日の祈りは終わったのだろう。フィリアが顔をあげた。

 

 

「終わったか?」

 

「はい」

 

 

 男の手を借りてフィリアは立ち上がる。あの頃よりも少し低い声だった。

 

 

「今日の予定を言おう」

 

「お願いします、シャドーさん」

 

 

 ファンダリア王国の兵士であったシャドーは現在、司祭フィリア・フィリスの守護騎士なるものをやっていた。

 

 結ばれたはずの彼らは甘くもない会話をする。何の文書のまとめ、だとか、何処何処の部署に訪問だとか、全く甘くない確認をしている。

 

 

「以上だ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 

 だが、二人の間に漂う空気は甘かった。

 

 

「シャドーさんは相変わらずお祈りをなさいませんね」

 

「俺はフィリアに祈ってるからな。なんたって」

 

 

 その後は、異口同音に。

 

 

「遠い神より近くのレディ」

 

 

 そして笑い合う。

 

 

「なんだ、フィリアも覚えてしまったか」

 

「ふふふ、とても面白いお言葉ですから」

 

「ほんとにな」

 

 

 マイペースで愛嬌のあった何処かの誰かの迷文句。

 

 

「あっちで口説いてるのかもな?」

 

「素敵な方がいらっしゃるといいですね」

 

「まぁ、俺にはもう素敵な方がいるんだけどな」

 

「シ、シシ、シャドーさん!?」

 

 

 あれ程経ったのにやはり赤面してしまう。

 

 彼らの間に子供はいない。どっちかに欠陥があるとかそういうのはない。というか、そういう行為をしたことがない。

 

 彼らが恋仲であるのは周知の事実だが、教会に所属する、しかも上の地位にいるものは高潔さを求められる。ストレイライズ神殿の復興や研究などで時間を取られたせいもある。そんな淫らなことをしているはずがない、しないという固定観念と暇がなかったのだ。

 

 だが、それでも良かったのだ。お互いとも。共にいられれば。

 

 祈りの間の時間、予定の確認の時間。二人でいられる時間は僅かだが、その僅かの間に二人はゆっくりと愛を育ててきた。

 

 チェルシーからは、もっと熱くなれよ!! 的なことを言われたりやらされそうになったが、そんなことされずとも彼らは彼らの歩幅で進む。

 

 焦れば足が縺れて転んでしまう。

 

 二人で紡ぐ愛というのは二人三脚で進む道だ。息を合わさなければいけないものだ。

 

 どっちかが急ぎすぎても遅過ぎてもいけない。ちょうどいい歩幅で、ちょうどいい呼吸で、ちょうどいい調子で進むものだ。

 

先程のは、その道の躓きではなく少しの遊びであった。

 

 あわあわとするフィリアを抱きしめようとした時、聖堂の扉付近に人の気配を感じた。

 

 

「フィリア、誰か来たようだぞ」

 

「まぁ、それではおもてなししなければいけませんね。シャドーさん、手伝って頂けますか?」

 

 

 それにすぐに慌てて二人っきり以外には多少少女めいた様を取り繕ったフィリアの声に、勿論、と返し、客人が来る一瞬の隙きを突いて彼女の唇を奪う。

 

 

「な、ななな…」

 

「おもてなしの準備に入るために力をもらったよ」

 

 

 どこかの誰かのようなマイペースぶり、だが後にも先にもフィリア・フィリスを公私共に守り抜くのは彼一人だけ。

 

 

「あのぅ…」

 

 

 ピンクの少女が現れても少しドタバタする。

 

 

 五英雄の物語は終わったのだ。次の物語の主役はシャドー達ではない。

 

 新たな物語、続く物語、終わらぬ物語。

 

 

 

 




主人公設定

シャドー

・スタン、ルーティ、リオン、フィリア、ウッドロウと同じソーディアンマスター
・ファンダリア王国の兵士兼ウッドロウの良き相談役

・年齢:18歳
・身長:166cm
・一人称:俺
・性格:冷静

・ウッドロウと同様に剣術(二刀流)や弓術などの武術
・学問にも優れている
・実力はリオンと互角
・自分に関する恋愛には鈍感
・フィリアから好意を抱かれていることに気付いていない


ソーディアン設定

ジェームズ・アークライト(名前はこちらで考えさせていただきました)

・属性:氷
・性格:マイペースで愛嬌がある(ONE PIECEのシャンクスのような感じ)
・形:日本刀のような剣

・ディムロス達と同様に意思を持ち、言葉を話すことが可能



以上がリクエストしてくださったシャドー様のご考案した設定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

TOD2 リアラ ※上のTODと世界観は同じです

先にあげたTOD フィリア・フィリスのものと同じ世界観です
前作主人公の名前は、ジェフ・ベネットです


 世界の暗雲は息を吸うように当たり前にやって来て、晴れ渡ったのは息を吐くように当たり前にすぐだった。なぜなら、世界の人々がはっきりと暗雲を理解せず、晴れ渡ったのも理解できなかったからだ。

 

 そんなことが起こりうるのか? 実際に起ったのだ。

 

 彼ら以外には覚えていないだろう出来事が、冒険が、英雄譚が。

 

 英雄とは何か? 英雄になるにはどうあればいいのか? 英雄のために何が必要なのか?

 

 それだけの話しではない。

 

「生きる」とはどういうことか?「生きる」には何が必要か?「生きる」意味とは何か?

 

 深く考えるものだ。

 

 答えがあるのか? 

 

 とある聖女が言った。 これが正解だと。

 

 別のとある聖女は、仲間との冒険でその答えに疑念を抱いた。

 

 人々の願いの集まり()は疑念を抱いてしまった聖女に説いた。 自身達の理念が、行動が正解そのものであると。

 

 疑念を抱いた少女はいつしか、答えを見つけた。

 

 自身達が間違いであったと。

 

 それに哀れに思う別の聖女、自身の存在を否定された神の憤慨。

 

 どれをも倒し、新たな世界。否、あるべき世界に戻す。

 

 神を、聖女の存在を無かったものにして。

 

 神は崇拝対象としてどの世界にも存在する。現実世界に顕現するのでなく、架空世界に存在するであろう対象だ。いずれも誰かが何かを神に祭り上げるもの。

 

 聖女は。聖女自身は。神の分身だったのだ。だから、消えるしか無い。

 

 聖女の英雄達が聖女を殺した(消した)

 

 一人の英雄は聖女に「生きたい」と言って、消えるのを否定してほしがった。

 

 もう一人の英雄は聖女に「泣いてくれ」と願った。そうすれば、消失を望まぬ英雄もその仲間たちも自身も全力で聖女が「生きる」道を作ることができるから。

 

 聖女は、息を吸った。覚悟を語るために。

 

 二人の英雄も仲間も、とても好きだったから。彼らと会えた世界が、好きだったから。

 

 だからこそ。

 

 聖女は、物語の末絵に相応しい笑顔を見せて彼らに「さようなら」を言った。

 

 別れは美しいものだ。されど、ひどく、哀しいものだ。

 

 真昼のような英雄は嗚咽を零し絶叫しながら剣を振り上げた。

 

 幻日のような英雄は奥歯が砕けるほど噛み締めて振り上げた。

 

 そして。

 

 聖女と「さようなら」をした。

 

 これが、前の世界の聖女の最期の記憶である。 

 

 

 

 

「シャドー?」

 

 

 一人の少女が、誰かを探している。それなりな広さの畑は、人を探しだすのは比較的簡単だろう。

 

 

「シャドー、どこなのー?」

 

 

 母親似の金髪に、性格も割りと似ている、伯父や従兄弟似の寝坊助を探す。

 

 端から端に来てまたぐるりと周囲を見るが、見慣れた頑固なツンツン癖毛の彼はいないようだ。

 

 

「もう、どこに行ったのかしら?」

 

 

 少女の手にあるのはバスケットだった。おそらく差し入れのつもりであろう。よく編まれているせいで中は見えないが大きさからしてかなりの量である。

 

 

「じゃあ、あそこかしら」

 

 

 場所に思い当たったのか、少女は細い両腕に力を込めてバスケットを持ち直し何処かに向う。

 

 その少女の姿を村の人達は微笑ましげに見守っていた。

 

 

 

小高い丘。そこに一人の少年が居た。片目を隠すスタイルの髪形で自身の住まう村を見下ろしていた。

 

 下から何かが小走りで迫る。村周辺に集まる魔物か? そう思い、切り株に座っていた彼は地面に置いていた剣を持って立ち上がる。五英雄のリーダーでスタン・エルロンの甥であり、リリス・エルロンの息子である彼はそうそう敵に遅れを取ることはない。だが、細心の注意と最深の警戒は解くわけにはいかない。

 

 だが、見慣れた茶色い髪にそれらを解いた。そもそも、この場はめったに魔物はこないのだ。要らぬものであった。

 

 

「シャドー!」

 

 

 シャドー・エルロン。彼の名だ。その名を呼ぶのはシャドーの恋人、リアラであった。

 

 

 

 

「もうそんな時間?」

 

 

 シャドーはリアラの傍に寄り、彼女の持つバスケットを受け取る。

 

 

「シャドーってば剣の稽古に夢中になるのは分かるけど、時間を決めてって言ったでしょ?」

 

「悪い」

 

「もういいわ。さぁ、お昼にしましょ」

 

 

 悪いと言いつつ、直す気はあまりない。それをリアラもわかっていたが、せっかくのお昼ごはんなのだから注意してしまっては美味しさが減ると考えて今は目をつぶった。

 

 

「今日は何だろ。サンドイッチ?」

 

「うふふ、正解。リリスさんと一緒に作ったの、とっても美味しく出来たわ!」

 

「リアラから木苺の甘くていい匂いがするから分かったぜ」

 

 

 パカリとバスケットを開けるとサンドイッチと隅にデザートのマフィンがあった。

 

 

 

 

「どれをわたしが作ったか分かる?」

 

 

 肉が挟んであったりチーズが挟んであったりと、色取り取りで味も多種に渡るそれらを見て唾液腺を活性化させるシャドーにリアラが尋ねた。

 

 ここに連れ帰った数週間の間は簡単に判別できたが、今はなかなか難しい。間違えたらすねられるので余計に難しい。

 

 だからヒントを貰う。

 

 

「大丈夫か? 指やけどしなかったか?」

 

「うん。大丈夫よ。ほら」

 

 

 水仕事のせいで少し荒れていたが、綺麗で小さな女の子らしい手を見せてくる。

 

 どうやら火を使った訳ではないようだ。

 

 

「このトマト、上手に切れてそうだな。潰れてないし」

 

「ケビンさんのところでこの前包丁研いで貰ったじゃない? そしたらとても切れるようになったの!」

 

 

 レタスとチーズのおかげでパンに赤いシミが渡らないのもあるが、それを除いても皮も綺麗に身を潰さないように切れていた。

 

 包丁は使ったらしい。

 

 ほかの判断材料はリアラ香る木苺の香り。

 

 後必要なのは味だ。これも難しい。女の子は皆そうなのかは分からないが、リアラは味を真似るのが得意だ。リリスの味もシャドーの味も真似できるようになってしまったのだ。しかも、リアラ自身の味付けもできる。冒険の最初の頃は、料理のさしすせそもわからなかったのに。

 

 

「あぐっ」

 

 

 隣のカツサンドに惹かれたが具が、そちらではなく緑色のサンドイッチを口に入れた。セロリときゅうりのピクルスとにんじんのサンドイッチだ。ピクルスの味付けの他に塩とマヨネーズを使っているらしい。

 

 リアラはにこにことその様子を見ている。

 

 味の感想は、凄く美味しいかとても美味しいの二択しか無いし、許されていない。

 

 そしてどっちが作ったか当てないと機嫌を損ねてしまう。

 

 

「っん」

 

 

 飲み込んだ。口の端にマヨネーズがついてしまったが、今は気にしない。

 

 

「凄く美味しかった。今食べたのリアラのだろ?」

 

 

 正解したのはさらに機嫌が良くなったリアラの様子でわかった。

 

 何故、分かったか。それは味付けだ。リーネ村特有なのか、それとも母独特なのか知らないが、シャドーや母の味付けは“濃い”。単に塩っ気が強いとかはなく、ダシやコクという部類の深みをもたせるものが強いのだ。リーネ村は豊かな土地、悪く言えば田舎なので濃い味付けが好まれた。シャドーもリリスも薄味も美味しく食べられるし、シャドーは母に『作ってもらったなら残さず食べる』というのを小さな子供の頃から教育されている。ただ少し物足りない感はある。だからと言って、その家庭の味を冒涜するように更に調味料を料理にぶち込む真似はしない。

 

 つまり、このサンドイッチはリアラの味付けがされているということだ。

 

 

「いつものピクルスより、なんていうか甘さがあったな」

 

「ふふ。この前一緒にクレスタ行ったでしょ? そこで面白そうなビネガーがあったからそれで漬けてみたの」

 

「そうなのか。結構好きな味かもな」

 

「そう? それはよかったわ。また、シャドーの好きをもらっちゃったわね」

 

 

ばっちりご機嫌なご様子。これなら下手をしなければそうそう機嫌は下がらないだろう。

 

 自分の味覚を信じてリアラの味と母の味を判別してデザートの木苺のジャムの入ったマフィンまで食べて二人は一息ついた。

 

 

 

 

 

 

「ふーっ、美味かった!」

 

「お粗末さまでした」

 

 

 どこぞのデュミナス兄弟のような腹出しルックではないが、今日のリーネ村の温度と運動のため動きやすい薄めの服なためシャドーの腹が膨れているのがわかった。リアラはシャドーの口元についたソースやパンカスをハンカチでその都度拭いてあげたりと甲斐甲斐しかった。

 

 

「リアラ」

 

「うん? なぁに?」

 

 

 リアラは自分の服が汚れないようシャドーにタオルを敷かれていた切り株から立ち上がり空を見ていると、座ってそんな彼女を見ていたシャドーに声をかけられた。

 

 

「そんな頑張り過ぎなくていいんだぜ?」

 

「別にそんな頑張ってないわよ?」

 

 

 くるりとシャドーの方を向いて微笑むリアラに、同じように微笑んでシャドーは話を続けた。

 

 

「キミはもう『聖女』じゃないんだから」

 

「………」

 

 

 傷つけるための言葉ではない。でも、胸に刺さった。

 

 

「ジムさんの所に行って手伝いしたり、エマさんのところでもお手伝いしたり、少し頑張りすぎだ」

 

「っ…大丈夫よ?」

 

「リアラ」

 

 

 シャドーも立ち上がってリアラと向き合う。だが、その距離は少し遠い。

 

 

「俺ももう『英雄』じゃない」

 

「………」

 

 

 熱血漢なシャドーは静かに言葉を出す。頭に血が上って要らないことをまくし立てる子供の時代は終わっていたから。だから、無理しているリアラのために、かつての冒険していた仲間が言っていた自身の【たまに物事の核心を見抜くことがある】という特徴の、たまに、を信じて言葉を続ける。

 

 

「俺の剣は、リアラだけに捧げられない」

 

「うん」

 

 

 かつて彼女に英雄と認められる前に捧げていた剣はシャドーたちが座っていた切り株の横に静かに、忘れてもいいように置かれていた。シャドーがリアラを守る気はないように感じられるほど存在感がない。

 

 

「俺の目は、リアラだけを見ていられない」

 

「うん」

 

 

 姉を守るために負った傷を隠す髪で隠れている方の目でリアラを見る。視力は下がっていて、しかも髪のせいではっきりとリアラどころか周りの景色を把握するのも困難だ。シャドーの現状のように朧気な視界で現実感がない。

 

 

「この手を」

 

 

 シャドーは自身の利き手をリアラに差し出す。単身でエルレインに向かっていった時の彼女に差出した手を。掴んでくれなかった手を。

 

 

「頼りにしてくれ」

 

 

 鍬や鋤の使い過ぎと剣の稽古のせいでマメの潰れた痕や水仕事で荒れた手。年の割にゴツゴツとしていて、少々野蛮さを感じさせる。

 

 その手がどんなに温かいかは、誰よりもリアラは知っていた。

 

 

「『英雄』でないシャドーは頼りないだろう」

 

 

 求めた英雄は居なくなった。いや、いるがこのシャドーではないのだ。

 

 シャドーの声に力が入る。

 

 

「『聖女』でないリアラは弱いだろう」

 

 

 事実を突きつける声は熱い。熱い鉄のようだ。

 

 

「だが、『聖女』でないリアラは『女の子』として十分に強い。だって、俺だけでなく、皆知っているから…!」

 

 

 慣れない畑仕事や水仕事にへこたれずに、めげずに頑張る姿が好きだった。

 

 

「『聖女』であったリアラより、『女の子』のリアラの方がもっと好きだ!!」

 

 

 顔を赤くするリアラ。少し日に焼けたが、まだまだ白い彼女の肌に朱が差す様子に愛しさが更に募る。

 

 

「『英雄』でない俺は、リアラを好きになる資格がない」

「そんなこと!」

「だけど!!」

 

 

 思わず大きな声を出すリアラに被せる。

 

 

「俺が、シャドー・エルロンが出す答は、そんなものじゃない!! そんな情けないものじゃない!! そんな意味のないものじゃない!!」

 

 

 リアラに一歩近づく。

 

 

 

「ジェフさんが言ったように、俺はまだ若い。まだ弱い。まだ、小さい」

 

 

 五英雄の一人、ジェフ・ベネットは、かつての世界でカイルと共に迷った自身らに助言をくれた。およそ信者らしからぬ言葉だったが、シャドーにはとても響いたものだ。

 

 

《神に背きたければ背け。それが君達の道ならば好きにしろ》

 

 

 冷たいものだ。これだけならば。

 

 

《愛する者のために背くのならば、神も喜んで君達の礎となろう》

 

 

 最後に締めくくる言葉がシャドーの覚悟を決める。

 

 

《愛するために死ぬな。愛するために生きろ。愛するため、共に生きろ。弱くあれ、愛のために。それは、同時に揺るがぬ強さである。諸君らの生に意味があるのは、諸君らそれぞれの愛のために生きているからなのだから》

 

 

 思い出すあの世界の、愛のために自身の故郷と職を捨てた英雄の生き生きとした精悍な顔。同じ五英雄の一人にして彼の恋人とシャドーらを守るためにバルバトスから負わされた傷を物ともせず戦った漢の姿。

 

 

「この身が朽ちてもなんて言わない」

 

 

 もう一歩。

 

 

「今だけだから。今の俺と」

 

 

 すぐ近くで。

 

 

「共に生きよう!!」

 

 

 何度もリアラを守っていたシャドーはいない。記憶はあるが、別人とも言える目の前のシャドー。その手を取ることは、あのシャドーへの裏切りになるのだろうか。そんなことを無意識に思っていたリアラ。

 

 不徳。

 

 それは正しいのかもしれない。

 

 でも。

 

 

「はい…!」

 

 

 このシャドーも愛してしまったのだから、しょうがない。

 

 

「『英雄』でないシャドー。わたしのシャドー。お願いがあるの」

 

 

 このわがままを形にしなくちゃ、あのシャドーと決別できないから。だから告げる。

 

 

「『聖女』でないわたしと一緒に生きてください」

 

 

 シャドーの手を取った。

 

 

 

 

 

 

 

「あら、シャドーちゃんにリアラちゃん。おかえんなさい」

 

「ジャネットさん、ただいまです」

 

「ただいまもどりました」

 

 

 ロニ以外には年長者に敬語を使うシャドー。村の子供達に見習わせたいぐらいの礼儀正しさにジャネット(2?)歳はふっとリアラのすっきりした顔を見る。

 

 

「おやおや~?」

 

 

 なにやらニヤニヤとする。

 

 

「これはリリスさんに言ってお赤飯かね~?」

 

「そうですね。リアラにとっても俺にとってもおめでたいですから」

 

 

 それにジャネットはニヤニヤが一瞬固まった。

 

 

「お、おおおめでたい?」

 

「はい。な、リアラ?」

 

「ええ。とっても情熱的だったわ」

 

 

 固まったジャネット。それに気づかずに二人は丁寧に挨拶してその場を去る。

 

 

 

 家の近くで薪を割っていた父は家の中のようだ。薪割り場の所に斧が割りとぞんざいに置かれていた。

 

 扉の前に行くシャドーとリアラ。

 

 

「リアラ、これから俺の[ただいま]を必ず聞いてくれ」

 

「なら、わたしはシャドーに[おかえり]を必ず言うわ」

 

 

 プロポーズにプロポーズで返される。

 

 ふっと笑みが二人して溢れる。

 

 

「俺の〈妻〉になってくれ、リアラ」

 

「はい、シャドーのお嫁さんになるわ」

 

 

 彼らの愛は、不変ではない。不確かでもある。

 

 けれど。

 

 

 今の愛は確実であるのだ。

 

 

 

おまけ

 

 

 

 

 

「シャドーは何処なの!?」

 

 

 三人が団欒していると玄関がすごい音をあげて開けられた。

 

 

「おかえり、姉さん。会いたかったよ」

 

「えぇ、私もよ。私の可愛いシャドー」

 

 

 母親譲りの素早い身で三人のもとへ向う女性。

 

 

「あ、お久しぶりです、リムルお義姉様」

 

「うふふ。リアラちゃんったら冗談はいらないのよ?」

 

 

 リリスの愛娘にして、シャドーの姉リムル。リリスのスタンに対してのブラコンっぷりを受け継いだ女性にして、闘技場のチャンピオン(覇者)である。

 

 

「冗談なんて。わたしはシャドーのお嫁さんになるんですから、礼儀はちゃんとしないと」

 

「シャドーはまだ誰のものでもない。むしろ私の物だわ。貴女がお嫁に来ることはないわ」

 

 

 リリスはニッコリと笑う。シャドーは困ったように笑っている。

 

 

「え? じゃあ、シャドーがわたしのお婿さんに? で、でも、わたし」

 

「それでもないわ。シャドーは私といるのよ、リアラちゃん」

 

「は、はい? このお家に暮らすことになりますから、リムルお義姉様もシャドーも一緒ですよ?」

 

「………」

 

 

 よくわからなくなっている。

 

 小姑と嫁である。

 

 愛するシャドー()のために未来の弟の嫁(リアラ)を認めたくない小姑(リムル)

 愛するシャドー(恋人)のために未来の義理の姉(リムル)と会話しているだけの(リアラ)

 

 

「ま、まぁ、姉さん。ノイシュタットからここまで疲れただろ? ご飯でも食べてゆっくりしなよ」

 

「そうよ、リムル。荷物は私が持っていくわ」

 

 

 シャドーはいつもの姉の暴走に笑みを浮かべたまま、腰を上げキッチンに行き、リムル用に持ってきたマーボーカレーを置く。

 

 

「そ、そうね。頂くわ…。ありがとう、母さん、シャドー」

 

 

 ここまでの疲れだろうか。少々ぐったりしながら、リリスに荷物を預け席に座る。

 

 

「う~ん。相変わらず、美味しそうだわ」

 

 

 裏出で手は洗い済みのリムルはマーボーカレーを口に含んだ。

 

 うーまーいーぞ!!!!!

 

 

「この味付けはシャドーね。流石は私の弟、とても美味しいわ」

 

 

 ニッコリと隣りに座るシャドーに優しく美しい微笑みをみせる。が、次の言葉で、その笑みのまま固まった。

 

 

「あ、分かる? リアラと作ったんだ」

 

 

 ピシッと幻聴が聞こえるような固まり。

 

 

「ふふ、シャドーの味付けを覚えるの大変だったわ」

 

「俺もいつリアラが包丁で怪我するかハラハラしたよ」

 

「もぅっ! ちゃんとシャドーに“付きっきり”で教えてもらってるんだからそんなことはないのに!」

 

「ごめんごめん。リアラの綺麗な手に少しの傷もついて欲しくないんだ」

 

「……もぅ!!」

 

「牛さんかな?」

 

「牛じゃないわよ! もう!」

 

「あ、とっても可愛い牛さんだ。嫁にしなきゃ!」

 

「も、もおっ!」

 

 

 向かいでむくれるリアラにニコニコと笑いながら謝るシャドー。

 

 ん? 夫婦かな?

 

 一瞬の考えに寒気を感じたリムル。

 

 

 こうして目の前でいちゃつきを見せられもブラコンは戦う。いつかくる彼らのハッピーエンド(結婚式)すら邪魔をして。

 

 

 

 




※世界観は、18年前にスタン、ルーティ、フィリア、ウッドロウ、前作主人公の「五英雄」が世界を救った設定

シャドー・エルロン

主人公はカイルとロニの幼馴染
リリスの息子

出身地:リーネ村
年齢:16歳
一人称:俺
武器:剣(鞘も武器に使う)
性格:熱血漢


・母親であるリリス譲りの料理の上手さと高い身体能力を持っている
・1ヶ月に1回は「クレスタ」に「リーネ村」で育てた野菜と寄付金を持って遊びに行く
・↑のため、孤児院を経営しているルーティとも面識がある
・「五英雄」のリーダー・スタンと同じ純粋な心の持ち主
・礼儀正しさもリリス譲り
・親しい仲間であるロニを除けば、年長者などには敬語を使うことが多い
・たまに物事の核心を見抜くことがある


◆ルーティから「ラグナ遺跡」に向かったカイルとロニを連れ戻すよう頼まれ、遺跡に続く林道でリアラと出会う。
◆↑の時、リアラのペンダントが一瞬だけ光(英雄の証)を発したため、彼女から「英雄」ではないのかと意識されていた
◆単身でエルレインの所に乗り込んだリアラを救出後、カイルと同様に「リアラの英雄」として正式に認められる


以上がリクエストしてくださったシャドー様ご考案の設定です。



○五英雄の一人、ジェフ・ベネット

・同じ五英雄の一人、フィリア・フィリスの専属守護人にして彼女の恋人
・フォルトゥナを倒す前の世界では、フィリア達を守るも負傷
・負傷するもリアラの力により回復
・自身の決断に迷うカイル達にフィリア共々助言をする





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

TOE メルディ

 

「………」

 

 

 丈夫そうな枝に乗り、辺りを警戒するのは弓で鍛えた視力を活かすシャドーだ。下の方では、共に狩りをするリッドが地上で警戒している。

 

 百発百中に近いシャドーの腕は村では評判だった。だが、彼の基本の仕事は農作業である。農家の六人兄弟の三男坊の彼は、身体能力が極めて高い。本業である農作は当然であるが、どこどこの牛が逃げたなどが家畜が脱走した時に、暴走する家畜をつかまえるのは彼が得意なことの一つだ。牛追い祭りや闘牛を見たことがあるのなら分かるが、足も早いし闘牛士を殺すほどの力強さは人間を凌駕する。それを素手で捕まえる。しかも傷つけずに。傷つけたなら、乳が出なくなってしまったり最悪それが元で死んでしまうなんてことが多い。そうしないよう上手くやる。彼は酪農家にとっても農家にとっても大事にされている。それを知っていても威張ることなく、のほほんとした穏やかな様子な暮らしぶりに、うちの農家の婿にとか、こちらの酪農家の婿にとかの話が結構ある。実際娘さん達も、彼の気性と時折見せる凛とした様子にまんざらでもないようだ。

 

 

「見つけた」

 

 

 その声とともに、静かに弓筒から一本の弓矢を取り出すと弦にかけるようにし構える。使用する弓はコンポジットボウ。ロングボウよりコンパクトでロングボウに匹敵できるほどの威力と速射に優れているものだ。射程も中々である。目は先を見たまま矢を引く。ただの農民では弓用に鍛えることのない背筋は、腕の動きとともに服の上からでも分かるほど大きく盛り上がる。

 

 狙いを定めた矢が三度射出すると同時に呼吸をする。弓は生きているかのように風を切るほどの速度で先を行く。その速度は速い。

 

 そして、リッドたちではない音が鳴る。

 

 絶命の声はない。出せなかったのだ。

 

 獲物の倒れた音で終わる。必中必殺であった。

 

 

「……ふぅ」

 

 

 いつものシャドーの顔になる。先程は凛とした佇まいが、眉尻が下がって全体的に力が抜けたような、悪く言えば覇気のないような顔に戻る。

 

 

「リッド、獲れた。矢に赤い紐を巻きつけてあるよ」

 

「おう」

 

 

 糞や足跡、土に残る温度から獲物を探ったリッドはシャドーの声に応えると獲物の方に向かった。

 

 枝から飛び降りると、道具袋から近くにあった湖で取れた水を入れた水袋から水分を取った。何度やっても何度も起こる緊張から口の中の乾きと湧き出る汗を癒やす。

 

 深呼吸をその場で三度ほどするとリッドが戻ってくる。

 

 

「おかえり。ちゃんと獲れてたかな」

 

「俺がお前の腕を疑うわけ無いだろ。ほれ」

 

 

 そこそこ大きい兎が三匹がリッドに耳をつかまれだらんとしていた。これが彼らの獲物だった。

 

 

「久しぶりの肉だね」

 

「あぁ。美味そうだな」

 

 

 土の上に下ろして血抜きや毛皮剥ぎなど処理をしながら少し話す。彼らは狩りをしていたのだ。

 

 

 

 

「二人共とれたー?」

 

 

 リッドと共に他の三人のもとに戻るとファラが話しかけてきた。そして同時にシャドーに紫が突撃する。

 

 

「シャドー!!」

 

「ただいま、ファラ、メルディ、キール」

 

「ほれ。肉」

 

 

 クィッキーを頭に載せたメルディの突撃をなんともなく受け止めるシャドー。そのときにリッドのときと同じく虹色の光が起こるがいつものことなので皆気にしていない。リッドは大きめの葉に包んだ兎肉を料理番のファラに渡す。キールといえば、本とにらめっこ中である。

 

 

「メルディな、メルディなさんさい? とったよー!」

 

「ありがとうね」

 

 

 シャドーはメルディを抱えていない方の手で肩にかけていた弓を地面に置き、自身も近場の椅子にしている木に座る。

 

 

「ちょっと毒なのとわからなくてな。キール調べてるよ」

 

「そうなんだ。キール、大丈夫?」

 

 

 二つの籠の中でそんなに量が乗ってないほうが判別済みのものなのだろう。

 

 山菜といっても食べられるものと食べられないものが分かりやすいものと分かりにくいものが色々とある。しかも、玄人でないと判別しづらいものもあるのだ。キールは山菜の一つをとるとあらゆる角度を見ながら本と見比べている。にらめっこしていた本はどうやら図鑑のようだ。

 

 

「これは…、毒。いや、この部分があれと違うから…」

 

 

 集中しているのか、シャドーの声には答えなかった。

 

 

「メルディな、手伝う言ったけどキールいいって」

 

「じゃあ、俺とお話してようか」

 

「はいな!」

 

 

 キール的には邪魔にしかならないからそう言ったのだろうと察したシャドーは、キールの邪魔にならないよう少しトーンを落としてメルディと会話することにした。ファラは調理。リッドは料理ができるまで寝ることにしたらしい。

 

 

「今日のご飯、メルディは何になると思う?」

 

 

 そう尋ね、メルディは少し考え込む。この時間を作ることによって僅かな静寂をキールに与えているのだった。

 

 

「メルディ達とったさんさい、シャドー達がとったおにく…。あ、ファラな前買ったチーズ使い切りたい言ったよ!」

 

「うん。そうなんだ。じゃあ、なんだろうね?」

 

「う~ん…パスタ、か?」

 

「そういえば、ファラが調味料の代わりになるもの探すって言ってなかったっけ?」

 

「バイバ! そう、それな大変だったよー!」

 

 

 シャドーとメルディは隣同士で座っているため表情で相手がどう思っているかはだいたい分かる。けれど、メルディは身振り手振りでも自身の感情を激しく表していた。

 

 

「キール何度もな転んでたよ」

 

「そうだろうね」

 

 

 一応洗ったのだろう。だが、キールが身に着けている衣服は処々土汚れの跡が残っていた。

 

 

「メルディ、手繋ご言うたら『いらない!!』って怒る」

 

「それは!」

「きっとキールは自分の所為でメルディまで転んじゃうんじゃないかって心配して言ったんだよ。ね、キール?」

 

 

 聞こえていたのかキールは山菜と図鑑から顔を上げメルディに怒り声をぶつけようとするが、シャドーは慣れたように上手い言い訳を口に出す。

 

 

「そうなのか、キール?」 

 

「ぼ、僕は…。んん…」

 

「判別で知恵熱出ちゃったみたいだね。キール、代わるよ」

 

「あ、あぁ。頼んだシャドー。僕はこっちで学術書を読み直してるよ…」

 

 

 女の子に手を繋がれるのが恥ずかしかった。というのが真相である。だが、それがバレるのが嫌でキールは小難しく罵ってまたメルディを悲しませるところだった。そのことを察したシャドーの一手がなければ、ファラのかみなりがキールに落ちるところだったのだ。それに軽く頭を下げることで感謝の意をシャドーに見せると、メルディに見つめられたせいで赤くなった顔を本で隠しながらその場を離れた。

 

 

「メルディも手伝うよ!」

 

「うん、助かる。ありがとう、メルディ」

 

 

 山菜を手に取ると、毒か否かを逐一疑問を投げかける彼女に丁寧に解説しながら早々と分けた。

 

 

 キールはその様をみていじけた。

 

 

 

 

 

「あ~、美味かった~。ごちそうさん」

 

「ファラ、美味しかったよ~。ごちそうさま」

 

 

 リッドとメルディは同時にそう言う。メルディは服的に分からないが、リッドの腹は見えるので少し膨らんでいるのが分かる。

 

 

「お前たち、食べるのが早いんだよ。いいか、ちゃんと咀嚼しないと口の筋肉の老化になるし、食道や胃にも悪いんだぞ」

 

 

 キールはそんな二人に呆れながら講釈を長々垂れ流すが二人は聞いていない。そのことに気づかずまだ語っている。

 

 

「美味しいから早く食べたくなるんだよね。ご馳走様でした」

 

「ふふ、ありがとシャドー」

 

 

 シャドーの言葉に料理番のファラは笑って礼を言う。そんな彼女に柔らかくシャドーは返した。

 

 

「俺も少しは上手いかな? って思ってたけどファラには負けちゃうな」

 

「男の子に負けたらショックだよ。料理は女の子の必殺技だからね」

 

 

 自分の皿を置いてファラは自身の二の腕を叩く。

 

 

「シコーバクサイジンか?」

 

「メルディ、そいつは違うからな」

 

 

 メルディが必殺技という言葉に反応しファラの必殺技【獅吼爆砕陣】は料理だったのか、と解釈しだす。それをリッドが否定した。

 

 

「うふふ。似てるかもね」

 

「そうなのか?」

 

「おいおい、メルディが真に受けるからやめろって。シャドーもなんか言ってくれよ」

 

 

 ファラには悪ノリでなく少なからずマジが入っている。真に受けたメルディに調理させたらキールが泣くだろう。そんな彼はまだご飯を食べている途中である。諦めつつシャドーなら、といつものようにリッドは彼に投げる。

 

 

「確かに必殺技かもね」

「おまっ」

 

 リッドが焦るが、その心配は無用だ。

 

 

「料理は愛情。好きな人に振る舞うならこれ以上のない攻撃手段だ」

「ちょ、ちょっとシャドー!?」

 

 

 有耶無耶にすることに成功した。言った本人は相変わらずのほほんとした表情。ファラは慌てたようにしているが知ったこっちゃないのだろう。

 

 

「愛情って、もう! そんなオーバーなものじゃないよ!」

 

 

 何やら慌ててシャドーの背中をポカポカと叩くファラ。少し痛い。だが、そんな様は表情にすら出さずのほほんのままだ。

 

 

「ん? 仲間愛とか無かったの?」

 

「え? 仲間愛…?」

 

 

 慌て様も、その言葉で止まる。

 

 

「なーんだ。仲間愛か。うん、それならたっぷり入れたよ」

 

「あぁ、だからいつも美味しいんだね。ありがとう、ファラ」

 

 

 少し顔を赤らめたままファラはメルディと食器などの洗い物をしに湖まで行くことにした。それに慌ててキールはご飯を食べ終えたのだった。慌ててかき込んだため咀嚼も何もないし彼の食道にも胃にも良くなかったのは言うまでもない。

 

 

 

 

「料理は必殺技…。料理は愛情…」

 

「メルディ、もう許して…」

 

 

 メルディはブツブツ呟きながら、ファラが洗った食器と調理器具を拭いている。ファラは許してと泣き言を言いつつも洗う手を止めない。

 

 

「なぁ、ファラ」

 

「ん? なぁに?」

 

 

 最後の一個を洗いおえたファラは、それをメルディに渡す。

 

 

「仲間が愛であんなにおいしなら、好きな人が作ったらもっとおいしいか?」

 

「う、うん…。そうかもね」

 

「なんで、目逸らすか?」

 

「んと。こういうのは結構デリケートな話だからどうしようかな」

 

 

 最後は結構大きめの鍋なので拭くのに時間がかかる。

 

 

「メルディの好きな人ってどういう人なの?」

 

「みんな!」

 

「みんなって言うのじゃなくて…」

 

 

 ファラは少し悩んだようにして、何か思いつたように言う。

 

 

「メルディが好きな人はだぁれ?」

 

「みんなじゃなくてか?」

 

「うん。一人だけ。いっちばん、好きな人」

 

 

 メルディは今までで一番好きな人を思い浮かべるとその名を大きな声で言った。

 

 

「シャドー!」

 

「やっぱりそうなんだ」

 

「やっぱり?」

 

 

 首をかしげるメルディにファラはしきりに頷いている。

 

 

「最初は村の子供達みたいな《好き》だと思ってたけど、やっぱり違う《好き》なんだろうね」

 

「? 好きは好きだよ?」

 

「全然違うよ」

 

 

 ファラはメルディの持っていた鍋と布をとると手を持つ。

 

 

「《好き》ってね。たくさんあるの」

 

 

 不思議そうに自分の手をファラを見比べる。

 

 

「私の事好き?」

 

「うん」

 

 

 メルディの肯定とともに一つ指を曲げる。

 

 

「リッドの事は?」

 

「好き」

 

「キールは?」

 

「好きだよ」

 

 

 どんどん指を曲げていき、じゃあ、と言ってファラは続ける。

 

 

「シャドーは?」

 

「好き!」

 

 

 先程の三人よりも強い思いの入った《好き》だった。

 

 

「リッドとキールよりも?」

 

「リッドもキールも好きだよ?」

 

「ううんと、ね。そうだけど、違うの。リッドとキールの《好き》はシャドーの《好き》と同じ?」

 

 

 メルディは首を振った。

 

 

「それがね。メルディにとって特別な《好き》なんだよ」

 

「特別な…《好き》」

 

 

 そんな年頃の少女らしい会話をしているとがさりと林の方で音がした。

 

 

「二人共遅いけど、どうしたの?」

 

 

 音の正体はシャドーだった。それに自覚したメルディは バイバ! と叫んでファラの後ろに隠れた。

 

 

「ん? メルディはどうしたの?」

 

「ふふふ。わたしからは何も言えないな」

 

「?」

 

 

 ファラの楽しそうな様子にハテナを飛ばすも二人のそばに近寄っていくシャドー。

 

 

「持ってくよ」

 

 

 拭いた後汚れないように拭いた布とは別の布に包まれている食器たちを指して言う。

 

 

「わたしが持ってくからいいよ。シャドーはメルディと」

 

 

 村の女の子たちも可愛らしい妹分のために人肌脱ぐことにした。

 

 

「夜のデートしてきて?」

 

「ファラ!?」

 

 

 背中にいるメルディはファラに 無理だよぅ と泣きつくが、ファラは笑顔で 大丈夫 といつもの身のこなしでメルディと前後を入れ替えてしまった。

 

 

「じゃあ、シャドーよろしくね」

 

「あぁ、わかった」

 

 

 なんともあっさりと決まり、あっさりと決行される夜のデート。

 

 

「ファラぁ…」

 

「ゆっくり帰っておいでね~」

 

「ファラ、気をつけて戻ってね」

 

 

 ファラは割りと大荷物なのに軽々と持って林の中へ消えていく。残されたのは二人。しがない農夫と異国の少女。

 

 

「メルディ」

 

「な、なに?」

 

 

 何故か緊張しているメルディに疑問符を浮かべるも、いつもののほほんとした様子で歩き出す。それに何歩か遅れてメルディもついて行った。

 

 

 

 

「メルディ、寒くない? 平気?」

 

「うん」

 

 

 意識してしまってぎこちないメルディ。そんな彼女の様子を村で暮らしていた頃の既視感が出て来る。村のお年頃になった子どもがなっているモノとよく似ていたのだ。

 

 

「今日のご飯も美味しかったね」

 

「うん」

 

「でも、ちょっと問題があってね」

 

「ん?」

 

 

 急に立ち止まりシャドーはメルディの方を振り向く。それに慌ててメルディも後ろを向く。

 

 

「スナオニナッチャウ草を間違って食べてしまってね。もう大変なんだ」

 

「スナオニナッチャウ草? ………ど、毒草なのか!? バイバ! ど、どうしようぅ?」

 

「あぁ、毒草だけど、ちゃんと解毒法があるから大丈夫なんだよ」

 

「しんじゃわないか? シャドー死なないか? ほんと死なないか?」

 

 

 さっきの様子は何処にいったのかメルディはシャドーに駆け寄り必死な様子である。シャドーはその様子に嘘をついたことをバレなかったことに安堵しつつも少しだけ罪悪感を感じた。それも自覚なしに。

 

 六人兄弟ということで、上には上の対応を下には下の対応をといろいろ慣れてはいるし、ファラの猪突猛進感もリッド同様慣れているという面倒見がいい性格なシャドー。昔から幼い子の面倒を見てきたし、親の言いつけも仕事も文句の一つも言わず守ってきた。ストレスが溜まると言えば溜まる。だが、そんなものは農村と近場に広く身体を動かせることもあってそんなには溜まらない。闘争心などはいつからかないように見せかける事ができていた。

 

 見る騒動は好き、だが自分が入るようなものは苦手であることはあまり知られていない。何故か? 対応と対処をどうすればいいかわからないから。リッドを始め、ファラとキールといった幼馴染の中でも常に監督者、もしくは保護者方面で見守ってきた。激しい感情の動きを見せるには彼らが幼い、そしてシャドーの精神年齢が当時から高かった。だからといって、成熟した大人というよりも達観した大人といった感じのものだ。それでも力も知恵も村の大人に近い程度であの災厄は防げなかったけれど。

 

 シャドーという男の視界は広いようで狭い。それはリッドの“平穏を好む”を越え“平穏であれば後は何もいらない”というものだ。あの災厄からその傾向は強くなり、なるべく何も起こることがないように自身で調整してきた。まぁ、トラブルメーカーのファラによってどんちゃかどんちゃかと賑やかではあったけれど。それを煩わしいと思ったことはない、ただ少し疲れた。

 怒るわけでもなく、駄々をこねるわけでもなく諭す。又は別方向へ流す。そういうやり方が自身に馴染んでいたし、疲れなかった。村の人達が自身をどう評価しようがしまいが、気にすることはない。自身が疲れなければいい。疲れることが嫌いというわけではない。労働の後のご飯は美味しいし、お風呂も好きだ。だが、シャドーの“疲れ”はそういう疲れというのではない。言葉にするのは難しいが、農作業などの疲れはすぐに成果として見れる“疲れ”はあまりきにならない。シャドーの厭う疲れは泥のようにぐちゃっとして滑るもの。具体的に言えば、自分で予測のできないことがダメだった。

 

 今のように好きな子相手に好意を伝えるにはどうすればいいのか、どう反応されるかよくわからないことが駄目だった。

 

 

「うん。解毒すれば大丈夫」

 

「ほんとか? どうすればいいか?」

 

 

 この反応をすれば、こう返される。数学の問題のように解答法と解答がちゃんと存在しているのが疲れないから、それを続けてきた。計算高い子どもで、レールを外れるのが苦手な子だった。ズレるとどうすればいいか分からないわけではないが、疲れるから好きではない。

 

 だが、メルディに対する疲れは成果としてまだ見えないというのに、どちらかと言えば予測できないダメな方だというのに”いいなぁ”と感じるものだ。確かに疲れはする。心地よくない疲れも時にする。そんな時にメルディが笑うと何故かその疲れが癒えてしまうような錯覚が起こる。不思議に思いつつも、あまり考えない。だって疲れてしまうから。

 

 

「俺の言葉をただ聞いててくれればいいよ」

 

「? 聞くだけでいいのか?」

 

「うん」

 

 

 リッドよりも幾分大きいシャドーとファラよりも小さいメルディとではかなり身長差がある。今はくっついているからよりそれが顕著に分かってしまう。だから、どうしようもなく、柄にもなく、疲れるというのに、ドキドキした。

 

 

「空を見ていると人と恋をしたくなる。俺の好きな詩の一部だ」

 

 

 晴れたら農作業、雨の日は読書。晴耕雨読。そのときよく読むのが詩だった。小説は感性的に合わないし、学術書は頭が痛くなる。詩ならば、なんとなく感じ入るものがあるから疲れなかった。

 

 

「人と恋をすると変わる。それはなんと素敵なことでしょう」

 

 

 疲れる。

 

 

「素敵なことは変わるでしょうか? 変わるのです」

 

 

 疲れる。

 

 

「より素敵なことに変わるのです。 それはなんでしょうか?」

 

 

 あぁ、疲れる。

 

 

「恋は愛になるのです」

 

 

 とても疲れる。

 

 

「空に恋をしたような錯覚をし、人を愛したと思いこんだと感じるでしょう。それでいいのです」

 

 

 でも、嫌いではない

 

 

「だって、アナタが目の前で私がヴェールをあげるのを待ってくれているのですから」

 

 

 どうしようもなく疲れる。普段は下がってる眉尻は力が入って上向きだろう。なるべく威圧しないように緩めている口角は言葉を出すにつれて固くなっているだろう。

 

 

「もう、だいじょうぶか?」

 

「あとちょっとかな」

 

 

 疲れは明日にまで響くだろう。だが、メルディが自身の声と言葉に何かを感じていることが分かり、少しそれも薄れたような気がした。

 

 

「メルディを愛せる俺は幸せなのです」

 

 

 目を大きく見開き、呼吸を止めたメルディに跪いて、より近くに見える彼女を見つめる。

 

 

「愛してる、メルディ」

 

 

 一つピチョンと水が跳ねて波紋を作った。

 

 

 

 

「あ、え、っとな」

 

 

 メルディは困ったようにしつつも、困ってないようにみえる。その推察は正しい。疲れることをしてよかったと感じる。

 

 

「ウ ルイヌン ヤイオ…」

 

「ん?」

 

 

 ぽつりとこぼしたのはメルニクス語。少々勉強してみたシャドーは意味を解釈するのに時間が必要だった。

 

 

「ウ ルイヌン シャドー」

 

 

 その時間は要らなかったのだろう。満面の笑みをたたえるメルディがいるのだから。

 

 

「毒、抜けたか?」

 

「あぁ」

 

「実はな、メルディな」

 

 

 シャドーの手を取り、遠慮がちに言う。

 

 

「スナオニナッチャウ草、メルディも食べちゃったみたいだよ。解毒するから聞いてくれな?」

 

 

 たくさんの、たくさんの素直な自分と自分を見せるメルディ。全てがメルニクス語で意味はよく分からない。でも思っていることはなんとなく分かる。村の女の子と同じような顔をしているから。彼女らより、とても好きだと思う顔。好きだと感じるたびに胸が弾むのが分かる。嬉しい嬉しいとはしゃぐ自分。

 

 疲れる。でも好きな疲れだ。

 

 

「シャドー…」

 

 

 女の子が女性に変わる瞬間を見た。

 

 

「ウ ルイヌン メルディ ていってほしいよ」

 

 

 どうしようもなく魅力的で、好きでたまらなくなる。

 

 

「ウ ルイヌン メルディ」

 

「ワイール…」

 

 

 いつもとテンションと違う言葉に万感の思いが込められているのが分かった。

 

 何故なら。

 

 

「意味、頑張って覚えてな。一度しか言わないよ?」

 

「うん。絶対覚えるよメルディ」

 

「意味はね…。――――――(だいすきだよ)

 

 

 そう恥ずかしそうに告白するのだから。




主人公設定

シャドー

・インフェリアのラシュアン村に住む少年でリッド、ファラ、キールとは古くからの幼馴染
・村で農作業をしているため身体能力が極めて高い
・弓術もリッドとの狩りで会得した物
リッドと同じく「フィブリル」と呼ばれる「真の極光術」の素質を秘めている

・人種:インフェリア人
・一人称:俺
・年齢:18歳
・性格:リッドと同じ常識人
・武器:弓


・メルディと出会いリッドと同様にファラに連れられる感じで旅に出る


以上がリクエストしてくださったシャドー様ご考案の設定です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

TOS コレット・ブルーネル

 ミトス。否ユグドラシルと戦う。そのためにはオリジンと契約する必要があった。そのためにクラトスと戦わねばならない。世界のために。

 

 わかってはいる。今は止まるときだ。

 

 物事には優先順位があって、こなすのにも時間が必要で、何かを消費して進むのだ。

 

 穏便な例をあげれば、ごはんを食べるためには食材や調理道具が必要だ。食材は育てるのに時間が、調理器具は作るのに時間が。育てるために水や飼料を、作るために鉱石を。ようやく揃っても、調理に時間を取られる。簡単なものや、手抜きでも一秒でできるものはない。洗ったり、切ったり、炒めたり。たまねぎを炒めただけのスープだって、5分以上かかる。そうまでしてようやく口に入る。

 

 物騒な例をあげれば、戦うためには自身の力と武器や防具が必要だ。腕力、俊敏さ、機転、それぞれ能力と剣や槍、杖だって木や鉱石を使う。符だって、特殊な紙やインクを使う。強くなるために強くなるための犠牲がいる。それはモンスターであったり人であったり。最大能力をあげるために人の命を吸ったエクスフィアであったり。剣などの素材のためにモンスターの牙を使う、防具の素材のために毛皮を剥ぐ。

 

 例の共通していることは生きるために必要なこと。

 

 生きるために順位をつけて、生きるのに時間をかけて、命を消費する。

 

 生物の摂理である。無から有は生まれない。魔法だって錬金術だって命は生まれない。不可能だ。

 

 シャドーは農作物を育てる家の出だ。作るものに何が必要なのか分かるし、今もこうして生きているのだから何を消費して生きているのかも分かっている。初めは何がどうかはまるっきりわからない。わかったのは父母や同じような農民、イセリアの教師であるリフィルらによって教えられてから。理解力は年相応だった。なんでなんでと質問攻めにするだけだったのが、自分で何故か考えるという感じに変わっていくのに年を重ねてようやくだった。ジーニアスのように聡い子ではなかったが、当たり前に生きていく普通の子だ。

 

 当たり前に前を見て生きてきたのだ。

 

 家族からも友人や先生やパーティメンバーにもシャドーは、前向きな楽観的な性格と言われる。

 

 後ろ向きでうじうじするタイプではなかった。

 健康で丈夫な足があるから歩くし、走る。転んでも程よく筋肉の付いた腕に力を込めて立ち上がった。身体的に見るならこれぐらいだろう。

 思考は旅をしてからより強くなった。子供の頃はそれなりに人並みに人見知りしたり、いたずらをして怒られたり、普通だった。

 

 コレットを“神子様”と一歩離れていたのだって普通だった。子どもから老人に至るまで、コレットは世界再生をしてくださる“神子様”だった。

 

 それが変わったのはロイドがコレットに声をかけたからだ。当たり前のこと? 変だった。変わっていたのだ。

 

 神子様とは気軽に話してはいけません。

 

 イセリアに居た子供は皆小さい頃から、そう親や祖父母、近所の人、先生に言われてきたから。言った人々も気軽に話したりしない。暗黙のルールであった。

 

 それをまずロイドが破った。ロイドは正確にはイセリアの子供ではなかったから少々変わっていた。人間であるのに人間の親ではなく、血のつながりがないドワーフの養父とイセリアから離れて暮らしたせいもあったのだろう。

 

 長々としたが、コレットと仲良くなるきっかけはロイドだ。ロイドと友だちになったジーニアスとシャドーもコレットと仲良くなった。

 

 大人たちには注意された。神子様に無礼でしょうと。

 

 その方が無礼でしょと言い返したのはシャドーだ。神子様と仲良くしちゃいけないの? 皆と仲良くしようねって皆いうのになんでそんなこと言うの と言い返した。ロイドもそうだと言う。ジーニアスも小さな声で、でもしっかり言う。

 

 諭されたり怒られたり、始めは三人だけなのが、コレットも交ざって四人でになったりした。

 

 いたずらをして怒られたりもした。そこにコレットも入って。大人たちは困った。だからリフィルに全任せだ。

 

 神子様を叱ってはバチが当たる。そう皆信じていたから。

 

 リフィルは対等に叱った。筆頭のロイドと仕掛け人のシャドーと嫌がりつつもやったジーニアス、そして悪いとは思いつつ楽しんでやってしまったコレットも。

 

 とても怖かったけど、楽しかったのだしそれでよかった。

 

 

 これが何度もおきた。いたずらだけではなかったけど、毎日楽しかったのだ。前を見ることが、行くことが楽しかった。

 

 

 だから、シャドー・アンドロシュは前向きで楽観的な性格なのだ。

 

 楽しいことに優先順位を付けて、楽しむために時間をかけて、楽しいを消費していく。

 

 人生は楽しい、それがシャドーの人生だ。

 

 

 

 

 

 コンコンと小さくノックの音がする。

 

 

「コレット、起きてる?」

 

 

 今からシャドーのところに行こうとしたコレットは、少々びっくりして頭をドアにぶつけた。

 

 

「うん。起きてるよ、どうしたの?」

 

「夜の散歩でもしないかと誘いに来たよ」

 

 

 フラノールではコレットが誘ってくれたしね、と付け加えてシャドーがぶつけた頭を擦ってくれながら言う。うん、と頷き返して共に宿舎をあとにした。

 

 

「こうしてコレットと夜中に歩くのやってみたかったんだよね」

 

「え? イセリアでもやったことあるよ?」

 

「堂々とは無理だったでしょ? 結局先生に怒られたりしたし。楽しかったけどね」

 

 

 少し開けたところにあるベンチに腰を下ろしシャドーは、リフィルに昔本の角で叩かれたところを擦る。実際に痛みはないが少し痛みを思い出した。

 

 

「わたしも楽しかったよ。今も楽しい」

 

「うん、ならよかった」

 

 

 家から漏れる光は僅かで、後は星の灯りだけな今。旅のときも火の灯だけのときもあった。後者より、本能的に安心する。近くに誰かがいるということは一人でずっといることよりは遥かに安心度が違う。

 

 

「コレットを護るために世界再生の旅について行ったんだ」

 

「フラノールでも言ってたね」

 

「うん。物知らず過ぎたね。コレットを護れなくなる旅だったことに気づいたら…。あのときは怒っちゃってごめんね」

 

「ううん。わたしのこと大事に思ってくれてるんだって思ったら嬉しくて。怒ったことなんて気にしてないよ。わたしの方こそ言わなくてごめんね」

 

 

 しゅんとするコレットにシャドーはエクスフィアのついていない右手の方でまたコレットの頭を撫でた。

 

 

「僕のごめんねは言いけど、コレットの『ごめんね』はだ~め」

 

「え、なんで?」

 

「なんでも。だめ。今日、もう『ごめんね』禁止」

 

 

 ポンポンと優しく叩いて、もうごめんねを言わせなくした。強く叱るのではない、優しく叱ったのだ。

 

 

「仲直りの『ごめんね』はいいけど、コレットは僕と喧嘩したわけじゃないんだから『ごめんね』はいらないよ」

 

 

 旅が始まった頃のロイドとクラトス、最初はコレット暗殺のために送り込まれたしいなとリフィル。そんな彼らが揉めた時、シャドーが間に入り仲を取り持ったのだ。前者は剣の稽古で仲を深めた。男同士、本来は親子だったのだし割りと簡単だったが。後者は中々上手くいってはなかった。女同士の特有のとげとげしい会話を上手くごちゃごちゃにして話を変えたり、個人個人良いところや改善点を教えてあげてようやく普通ぐらいになった。その普通の後は各人に任せたけれど。

 

 仲良くなるにはちょっとした計算が必要だった。会話を合わせるという足し算、意地を失くすという引き算。会話の回数だけ好感度を増やすという掛け算。お互いの印象を良い方に同じずつ分けられる所まで分ける割り算。

 

 掛け算までは割りとできるのだ。割り算は難しい。足し算、引き算、掛け算を全部使わねばならないからだ。

 

 会話をする。旅、モンスターとも戦うのだから嫌でもする。意地を失くす。ご飯時などご飯がまずくなりたくないからなくなる。会話の回数だけ好感度を増やす。少し難しいが、寝食をともに命を預けあっているのだ。問題はない。

 

 ここまで来てようやく割り算だ。するのも大変だ。どちらか一つでも多ければ、プラスよりマイナスに働くことが多い。自分はあるのに、相手の方はないのか。相手はあるのに、自分はないのか。無意識に比べてしまい瓦解する場合がある。上手く余りが出ないよう調整する。

 

 これらはシャドーが無意識にしていた計算だった。本人も説明できない。よくいるちょっと計算が得意なだけの子供だ。パルマコスタの学問所でもコレットよりも下の点数であった。

 

 

 

 

「さて、こんなことを言いに誘ったわけじゃないんだった」

 

 

 頭を軽く叩いていた手を離し、空を見上げる。

 

 

「コレットは、この旅が終わったらどうする?」

 

 

 つられて空を見ていたコレットはシャドーに視線を移す。

 

 

「僕はイセリアには戻らないからどうするのかなって」

 

「え? どうして?」

 

 

 そう聞くと、シャドーは右手で左手の要の紋に使っているエクスフィアを撫でた。

 

 

「ロイド達と出ていく時、お父さんとお母さんから勘当されちゃってね。居づらいなぁーって」

 

 

 人間牧場での件だ。マーブルが怪物と化し村に多大な被害を与えた、その原因がロイド、ジーニアス。そしてシャドーだとされたのだ。村長から追放処分とされた。後日、色々あってそれをなくしたものの、シャドーの家族は息子に『お前は自分たちの息子ではない』と言われてしまったのだ。ロイドもジーニアスも、言ってしまえばイセリアのよそ者。捨て子のようなロイドとその養父であるダイクは村に住んでいないし、ジーニアスも先にコレットと共に旅に出たリフィル以外家族がいなかったので特に家族に害はない。だが、イセリアの村人として家族は息子を処分せずにはいられなかった。村社会とは結束が強い。その分、何かあれば村八分にされることはよくあることだ。傷があれば治すより失くす方を求められる。だからだ。

 

 

「そっか…。………旅に出るの?」

 

「パルマコスタを復興しようと思うんだ」

 

「パルマコスタを?」

 

「うん。クララさんやショコラみたいにまだパルマコスタの人たちのためにも、他にも人間牧場に収容された人達のためにね」

 

 

 まだ具体的にどうしようってのはないけどと笑う。

 

 

「ルインもあんなに立派になったんだ。パルマコスタもできるだろうって、やってやろうって、なんとかしようって。そう、考えてる」

 

「そうなんだ。…ねぇ、シャドー」

 

「ん?」

 

「それわたしも手伝っちゃダメかな?」

 

 

 にこっと笑いながらシャドーは返した。

 

 

「手伝ってほしいから言っちゃったんだ」

 

「ふふ。わたしにもやらせてください」

 

「うん。お願いします」

 

 

 にこにこといつものように笑い合う。その後、少しの沈黙が降りる。

 

 

「子供の頃、コレットと初めて会ったときさ」

 

「うん?」

 

 

 唐突な始まり。首をかしげるコレット、そんな彼女を見ないで続ける。

 

 

「ほら、最初はロイドが声かけたじゃない」

 

「うん。それから、村のみんなとも仲良くなれたよね」

 

「そうだね。それで」

 

 

 柔らかく笑う顔が少し黒くなる。

 

 

「『取られちゃった』って思っちゃたんだ」

 

「え?」

 

「最初に声かけたかったのは僕で、仲良くなるのは僕が最初。笑ってもらえるのも最初は僕にって」

 

 

 コレットの方に顔を向ける。柔らかく笑う女顔のシャドーはコレットの知らない顔をしていた。

 

 

「だからね。次は僕がもらおうって。これからも僕がもらおうって」

 

 

 笑う顔はいつもと同じようなのに、暗さのせいに出来ないくらい不思議に違う顔に見えた。その違う顔は見たことがない。喜んで笑っているわけではないし、怒って笑っているわけではない、哀しんで笑っているわけでもなく、楽しんで笑っているわけでもなくて。とても不思議な顔だった。

 

 

「これからって?」

 

「あ、分かんなかった? さっきのは、ね」

 

 

 隣りにいるコレットの手を取り、指で文字を書く。天使化の影響で声を出せなかった時のコレットの会話方法だった

 

 一文字目が書かれる。分からない

 二文字目が書かれる。分からない。

 三文字目、四文字目。どんどん続いて言葉になる。

 

 

“ずっと一緒に居てください”

 

 

 読み取った言葉は、それで。

 

 

「プロポーズ、なんだよ?」

 

 

 思わず言葉を失う。思ってもいなかった、思っていた台詞だったから。

 

 

 

 

 

「好きになったのはね」

 

 

 固まるコレットに相変わらずニコニコと笑いながら語りかける。

 

 

「笑った顔を見てから。本当の笑顔を見てから。ずっと本当のが欲しかったんだ。笑って欲しかったのは、子供心に可愛い子には笑ってほしいって思ったからだよ。笑ってくれたら、今度はそれを護らなきゃって思った」

 

 

 そして少々意地悪く笑う。

 

 

「その時からだよ。諦めが悪くなったの」

 

 

 ひどく意地悪く優しく笑う。

 

 

「コレットの笑顔を壊したくないから、無くしたくないから、忘れたくないから。だからコレットをまるごと護らなきゃって。男の意地とかじゃないよ。そんなもの僕持ってないもん」

 

 

 無責任な有責な台詞。

 

 

「意地じゃない。意思だよ。僕の。僕が初めて持って、今も持って、これからも持つものだよ」

 

 

 そういうわけで、と言葉を置いて。

 

 

「お返事。さっきのでいいんだよね?」

 

「ひゃぅっ!?」

 

「撤回はしちゃダメだよ? しても、その撤回を撤回させちゃうからね? 知らなかった? 僕ってどんな困難だって諦めないんだよ。お母さんに嫌いなもの残したときだって、お父さんの大事なお酒間違えて捨てちゃったときだってなんとかなってきたからね。なんだってなんとかなったんだから。じゃあ、なんとかなるって思うじゃないか」

 

 

 脳の処理がビジー状態から回復して、そして急速に働かしショート寸前のコレット。そんな様子を見てもニコニコとしているシャドー。

 

 

「撤回する?」

 

「…え、えっとね。つまり、どういうことだっけ?」

 

 

 真っ赤っ赤な顔で目はぐるぐると渦巻いているように混乱を表しているコレットに、自身の戦闘スタイルである、スピードを生かしたアクロバティックな戦法を披露することにした。

 

 

「愛してる。結婚してコレット・ブルーネルから、コレット・アンドロシュになって僕の隣に、居て欲しい」

 

「………」

 

 

 ゆっくりとコレットの顔が下に下る。

 

 

「コレット?」

 

「はい…。お願いするね?」

 

 

 うん。と優しく頷く。

 

 

 

 

 

 コレットは嬉しさで舞い上がりそうな気持ちと、わたしでいいのか、別の人でも良いんじゃないかと混乱でいっぱいだった。

 

 混乱する原因の解明はされている。さっきシャドーが言っていたし、嬉しさは上がるばかりだ。

 

 混乱する中、自身気持ちを言っていなかったことに気づく。

 

 

「シャドー、あのね!」

 

「うん?」

 

「わたし」

 

「撤回はさせないよ?」

 

 

 首を振って違うと告げ、自身を告げる。

 

 

「わたしもね…、シャドーのこと好きだよ。大好き」

 

「………」

 

「『この手がある限りコレットに手を差し伸べるよ。だって君が握ってくれるってわかってるから』ってフラノールで言ってくれたよね。あれね、凄い嬉しかったの。情けないけど、わたし何もできないし迷惑ばかりかけちゃってるし良いのかなっておもったけど」

 

「それは」

「きいてて?」

 

「………」

 

 

 思わず口を挟もうとするシャドーに、まだ頬を赤くしままいつもより少し固めに笑って止める。

 

 

「わたしが喋ることも何もできなくなったときもね。シャドーが『痛いの痛いの僕の方へ飛んでこい。辛いの辛いの僕の方へ飛んでこい。シャボン玉みたいに僕の方へふわふわ飛んでこい。全力で捕まえてやる』って言ったのも『負けるな、コレット。負けないで、コレット。僕も、皆も負けないから。負けそうになったら助けるから。絶対勝つから。勝てるから。勝ってやるんだから』って言ったのも全部。全部全部嬉しかったの」

 

 

 目を細めて言うコレット。シャドーは黙ったまま聞き続ける。

 

 

「頼っちゃうなって思ったの。悪いことで、許されないことなの。そうだったの。でもね」

 

 

 シャドーの両手をギュッと包み柔らかく笑う

 

 

「シャドーになら頼りたい。悪いことで許されないことをしちゃいたくなったの」

 

「…コレットはつくづくいい子だな」

 

「悪い子だよ。結局頼ちゃったもん。救いの塔に行く前の日に『助けて』っていいそうになっちゃったもん」

 

「うん。いい子で悪い子だな、コレットは」

 

「えへへ。だから」

 

 

 握ったシャドーの両手を自身の胸元までそっと寄せて。

 

 

「わたしの初めて(好き)をあげるね? なくしちゃ、やだよ?」

 

「………」

 

 

 シャドーは我慢した。

 

 我慢したから。

 

 我慢を越えたものを、漏れたものを少し開放した。

 

 

「ぁ………」

 

 

 自身の両手の上にあるコレットの手に口を落とした。

 

 

「その言葉、生涯忘れないよ? 初めてのコレットをもらうね?」

 

「…うん。もらってください」

 

 

 神子は村人と結ばれる。

 

 童話でも題材にならないものだが、彼らの奇蹟は彼らの子々孫々に永遠に刻み込まれるだろう。

 

 

 

 

 

 

 




主人公設定


シャドー・アンドロシュ


出身地:シルヴァラント
年齢: 17歳
性格:楽観的
一人称:僕
クラス:剣士
エクスフィアの位置:左手の甲



コレットを護るためにロイドと一緒に旅に出ることを決意し、世界再生の旅に同行
前向きで楽天的
性格とは逆に戦闘ではスピードを生かしたアクロバティックな戦法が得意
粘り強さは人一倍
どんな困難にも絶対に諦めない強い心を持つ
仲間が揉めた時にも仲を取り持とうとする





以上が、シャドー様の設定です。








目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

TOL シャーリィ、ノーマ、グリューネのシャーリィ落ち

「シャっちん、魚釣り?」

 

 

 ノーマ事変から少し立って、わりと平和な日常を取り戻した一行。

 

 ノーマはフロントに飲み物を頼みに来たのだろう。基本夜明けまで勉学に影で励んでいたノーマはまだそのくせが抜けていない。今もあと一時間少しすれば夜明けとなる頃合いだった。

 

 

「うん。今日はなんだか大きいのを釣れそうだからな」

 

 

 いつものユルい感じの口調で釣具を携えたシャドーは、口調同様ユルく笑ってノーマに返す。

 

 

「最近は小魚メインでしたからな~。ヌシ釣っちゃう? 釣り上げちゃう?」

 

 

 ヌシという魚界のボスを狙うのか。食いでがありそうと予想しつつノーマは再び問いかける。

 

 

「ヌシかどうかはわからない…感じ」

 

「そこには、ヌシを釣り上げ釣り場の魚を根こそぎ釣り尽くしたシャっちんの姿が…」

 

「ないない。ほどほどにやるよ。流石に怒られるだろ」

 

 

 出来なくはないと暗に醸し出す。シャドーは皆と同様陸の民の格好をしてはいるが、本来はシャーリィと同様水の民だ。水ならば、海水だろうと彼の世界である。そして彼の職業は漁師だ。慣れない海だろうがんだろうが、持ち前の感と経験、それに加えある程度調査をしたら釣れないものはそうそうない。

 

 

「ノーマ、研究捗ってるん?」

 

「う~ん、ぼちぼち、かな。今一息入れに来た。…そだ、シャっちんさ、あたしも行ってOK?」

 

「いいぞ~。潮臭くなるから貴重な本とか持ってかないほうが良いぞ」

 

「りょ~かいです。船長!」

 

「いい返事だ。もう行くけど準備のほどは?」

 

「だいしょび!」

 

 

 そして明けぬ夜を少し置き手紙をフロントに残し二人は釣り場へ向う。

 

 

 

 

 

「シャっちん、サイズはどんなもん?」

 

 

 船着き場につき船の錨を上げ出発するとノーマが声をかける。エンジンの音と海を進むために海水を掻く音、風の音で少々声を張らなければならない。

 

 

「一匹なら2~3人前ぐらいになるかも、予想通りなら」

 

 

 マリントルーパーのセネル同様、船の扱いは慣れたものである。少し強めの波が来ようがなんのその。

 

 

「おお~、そりゃ食べごたえがありそうですなぁ!」

 

「今の時期はちょうど産卵期だから、運が良ければ良いのが当たる感じかな…?」

 

「筋子? 白子?」

 

「う~ん、両方居たら俺は漁師会の神になれるなぁ」

 

「YOU~GODになっちゃえよ~」

 

「あはー、疲れるからそれはいいや」

 

 

 そうこう下らない会話をしていると目的地が近いのか少々スピードを落とす。

 

 

「さてっと」

 

 

 網で捕るのではないらしい。竿が太めの大きい釣り竿と釣具と釣り餌を用意する。

 

 

「ヌシヌシカモンカモン!」

 

「ヌシじゃないんだよなぁ」

 

 

 釣り場は岩場がそこかしこにあり停留するには少々危険だが、シャドーなら蜂の巣に手を突っ込むマネはシャーリィ絡みでなければ早々ないので安全ではあるのだろう。

 

 

「ヌシじゃないの?」

 

「少々生態系が崩れてる感じだから間引きかな」

 

「食べれる?」

 

「専門調理師免許必須」

 

「………」

 

 

 フグ的なものらしい。だが、シャドーは食いでならあると行っていた。

 

 

「シャっちんなら、その免許お持ちですよね?」

 

「水の里でので良いのなら持ってる」

 

「よしきたぁ!」

 

「当たってもいいなら食べがいがあるんだけどねぇ…」

 

 

 危険かつ可食部分はあまりないようだ。それでも食べられる。フグに似ているらしい。

 

 

「では、珍味ですか?」

 

「生はチャレンジャーすぎる。チャレンジャー過ぎてリスキーだ」

 

「………DEAD or ALIVE?」

 

「気をつけて、そして食べすぎなければ割と平気」

 

 

 こうしている間にも竿を細かく動かしたりして入りづらい岩間の底に潜む目当てのものが食いつくのを待つ。

 

 

「ノーマ、紅茶飲む?」

 

「くださいな」

 

 

 比較的のんびりと獲物を待つ。そうこう時間が立つが中々釣れない。

 

 

「いや~、ジャケット借りてゴミンネ」

 

「女の子が風邪引いちゃダメだから気にしない。寒くない? 平気?」

 

「………うん」

 

 

 男性陣の中で唯一ちゃんと女の子扱いするシャドー。そういうのをあえて気にしないようにしていたノーマは、つい、やられた。モーゼスと漫才をして場が進まなくなりウィルにゲンコツを落とされかけても上手くフォローしてくれたり、野宿などの時率先して女性のための配慮をする。セネルもモーゼスもジェイもそういうことには疎いし、そもそもノーマだからいいやとなっている。こういう態度をされる理由はノーマにあるし、本人もさほど気にしてなかった。彼女の性格や行動が、どうにも女性らしさにかけているのにも拍車がかかる。だが、どんなことが起きようとシャドーだけはノーマという人物を女の子として扱う。そういうのが恥ずかしくもあったが嬉しいという気持ちが徐々に強くなってしまった。

 

 

 新たに入れた温かい紅茶の入ったカップを口にしながら隣のシャドーを見る。いつものユルそうな顔で海を見ていた。

 

 セネルの無関心とは違う無関心が心地よかった。少々ドキッとしてしまう自分も居て焦るが。前者のが愛のあるツッコミであっても別にこんな風にはならない。潮の匂いに紛れ、自身と同じように香る紅茶の匂いに焦る。さっきまでのおとぼけコンビのおしゃべりがなくなってしまったのも焦るものだ。

 

 何か話そうとするが、口を開けても言葉は出ない。気まずさを感じたのだ、勝手に。それをどうにかしたくて口を開けたのだが。

 

 いつの間にこっちを見たのか眼と眼があってしまう。

 

 

「顔真っ赤だ」

 

 

 朝がまだ来ないから肌寒いのだろうとそうおもっただけの一言。それが、ノーマ自身は自分の心境を知られたからそういうことを行っているのかと思った。 

 

 急いで口を開けるが、パクパクと開くだけで呼吸すらままならない。

 

 

「まだ寒い?」

 

 

 防寒具ならシャドーにぐるぐると巻かれている。だが顔はどうしようもない。それだけでなったわけではないことがバレたら気まずくってたまらない。急いで紅茶を飲み干す。コップに入れたときより温度は下がっているので火傷の心配はない。

 

 

「!?」

 

 

 釣り竿を一旦離したシャドーがノーマの手を引いた。カップが落ちそうになりそれをシャドーのもう一つの手が支える。

 

 

「中、入って」

 

 

 シャドーは寒いだけで紅潮した顔、ノーマはより顔を赤くする状況。ロングコートの中にノーマをいれたのだ。

 

 

「…っ!? …っつ!?」

 

 

 パクパクと口だけ忙しなくなったノーマは自分より高い位置にいるシャドーを見上げる。

 

 そんな様子のノーマにいつものようにユルい感じで笑って返すだけだ。

 

 シャドーは釣り竿を手にし再び海だけを見つめる。温もりと潮や紅茶の匂いではない別の匂いが、自身で止めようとしても嗅いで温かく感じてしまう自身と内心で格闘をしているノーマのことなど気にもしていないようだ。

 

 いい具合に湯だつ頭は理性と自制を溶かす。

 

 

「?」

 

 

 シャドーは釣り竿から流れてくる振動に自身の感が鈍らないようどんなに寒くても素手のままだったが、その手に小さな手が触れてきたのを素早く察する。

 

 

「………」

 

 

 シャドーとノーマ以外この船には乗っていないので自分の手以外は、というかこんな女の子な小さな手は自分のものではない。釣用の分厚い革製のものだがノーマのサイズとは違うため指のサイズや手のひらのサイズが合っていなかった。それがよりノーマは女の子だなと感じる。

 

 

「………」

 

 

 おずおずとしたもので、無言のままにおっかなびっくり触られる。独特の感触が摩擦を起こし触れられていることをより感じさせる。それがどうにも、面映い。

 

 

「…!!」

 

 

 両手だったら探知しづらいのもあってやんわり外したが、片手だけならばシャドー自身の“可愛いらしい”という感情も込めていいだろうと左手でその手を握る。反応したその顔はより可愛いらしくて、笑みが漏れる。抱きしめたりなんかしたら『年頃の女の子にそんなこと!』と自身の妹分に怒られそうだし、自身もそこは歯止めがかけられるから。

 

 

「ノーマ」

 

 

 そう名を呼んで見上げてきた顔に笑いかけて自制して自省する。

 

 

 釣果は上の上だったそうな。

 

 

 

 

「おう、シャの字」

 

「ただいま、モーゼス」

 

「シャボン娘は何故におんぶなんかされとるんじゃ?」

 

「モーすけ黙って、黙らんと毒液のシャボン液に漬ける…」

 

「なんでじゃあ!?」

 

 

 いつものハイテンションのなさに突付こうも得も言われぬ悪寒を感じ、何か連絡をしにきたチャパと共に逃げるように出かけた。

 

 

「あらぁ、シャドーちゃんにノーマちゃん」

 

 

 やんわりのんびりおっとりとした声を女性陣の泊まる宿屋から出てきた女性がノーマをおぶったシャドーにかかる。

 

 

「あぁ、グリューネさん。こんな感じだから、入っていい?」

 

「いいわよぉ」

 

「シャっちん、乙女の部屋にはいるのはエッチだぞ~…」

 

「そうか。そうだな、ごめん」

 

「ごめんなさいだってノーマちゃん。許してあげましょぉ?」

 

「ぅぬぅ………」

 

 

 適当に出した言葉に適切かもしれない言葉を返されやんわりと抑えられるノーマ。その様子はまるで兄妹と見守る母親だ。

 

 

 依頼の品はすでに依頼人に渡している。着膨れしているノーマをゆっくり解放する。着替えまでは流石にと思ったのかグリューネに任せ自身の部屋に行き釣具をしまう。

 

 モーゼスはさっきあったが、ウィルやセネル、ジェイもすでに何処かに出かけているらしい。ウィルはハリエットと何某か、セネルはシャーリィと、ジェイはラッコのような姿のモフモフ族とともにいるのだろうと当たりをつける。シャドーはすでに用を終えていたため後はのんびりとするだけだった。

 

 のんびりする前に飲み干した紅茶の入っていた魔法瓶と軽食の入っていた容器を返しにフロントへ行こうと扉に近づくと同時にノック音がした。

 

 

「はい?」

 

「じゃーん、お姉さんよぉ」

 

 

 防犯面もあって内開きなドアを開けてみると先ほど別れたグリューネが相変わらずのにこにこ顔で立っていた。

 

 

「どうしたん、グリューネさん」

 

「うふふ、デートに誘いに来たわぁ」

 

「あぁ、いいよ」

 

 

 デートと聞いても一欠片も焦らない。いつものような調子のユルい感じで二人は出かけたのだった。

 

 

 

「何処に行く?」

 

「あそこの原っぱでのんびりしましょう?」

 

「わかった」

 

 

 町から少し離れた原っぱに二人は座る。グリューネのお尻の下にはシャドーが敷いたハンカチがあった。

 

 

「風ちゃんが気持ちいいわねぇ~」

 

「海もいいけど陸の風もいい感じ」

 

「太陽ちゃんもポカポカさせてくれるから眠くなっちゃうわねぇ」

 

「そうだねぇ…」

 

 

 うら若い男女の会話にしては年寄り臭すぎだが、こういうふうになるのは二人の独特の空気によるものだろう。シャドーは戦闘時は冷静に戦況を把握ししつつも二本の三叉槍による槍術を主体とするアーツ系爪術士であるからその槍を豪快に盛大に敵を討つが、本来はご覧の通り悪く言えば覇気がない、少しマシに言えばユルい、セネル同様兄バカでもある。だが、フェルネス事変のセネルとは違ってなんとか自分の足だけで立とうとするシャーリィを黙って見守っている方向であった。だが、一度シャーリィに何かあれば鷹のような鋭い眼に変えて無言による怒りを露わにするのは先の事変のとき茶飯事だった。自分と同様水の民であるし幼馴染であるし、自分を慕ってくれる大事な妹分のためボロ雑巾のようになりながらも、そのときはあのヴァーツラフでさえ思わず真っ先に始末しようと動こうとするというもの。そして、死に際の猛獣のような濃密な狩られるではという、シャドーの空気に当てられ自身の身が惨憺に殺られるという夢幻をみるのだ。その苛烈さを知っても今の彼を見て二重人格か、はたまた別人かと言われるだけだ。グリューネは御存知の通り、のんびりぽわわんとしつつもしっかり年上の女性特有の母性愛で皆を優しく包んでくれるのだ。

 

 

「でも、今寝たら夜眠れなくなるかも」

 

「う~ん…悩むわねぇ。そうだ」

 

 

 ぽんと両の手を合わせたグリューネは自身の膝を叩いてみせる。

 

 

「膝枕、どぉうぞ」

 

「………俺、セネルと同世代なんだけど」

 

「どぉうぞ」

 

「………」

 

 

 無言で拒否しても何度も許可をするので、諦めてグリューネの太ももに頭を乗せる。

 

 

「重くない?」

 

「大丈夫よぉ。うふふ、シャドーちゃんの髪の毛はふわふわして気持ちいいわねぇ」

 

 

 膝枕だけではなく頭ナデナデまで追加された。流石に恥ずかしいのか目線をあちこちとシャドーは忙しない。

 

 

「気持ちいいわねぇ…、シャドーちゃん?」

 

「………」

 

 

 子供の頃にされた母の優しい温もりと手の動きに自然と眠くなる。うつらうつらとする自分をなんとかしようとするが心地よい眠気に翻弄される。今は亡き母を思い出して少しだけ胸が痛いのを黙って。

 

 

「眠っても、いいわよぉ…」

 

「………ぁぁ」

 

 

 わかった、という意味でなく、別の何かの言葉を告げようとしたが眠気はシャドーを夢の世界へ誘う。

 

 頭を撫でる手はシャドーが眠った後もゆっくりと優しく続けられた。

 

 

 グリューネは愛おしいと自身の膝で眠る少年を見つめながら思う。

 

 母性的な愛は恋愛感情ではない。街で販売されている女性誌に記載されているのをシャーリィ、クロエ、ノーマ、グリューネたちで読んで知った。自身のこの温かいものが恋愛的な意味であると自覚はしている、でも同時にシャドーを守ってあげたい、助けてあげたいと思う。母性愛と恋愛感情が混ざっているのか、どちらかなのかは分からないが“愛してあげたい”という気持ちは強い。パーティメンバーや他の人達にも抱く暖かさに熱をこもらせたものがシャドーに対してだけある。

 

 記憶もなくあてもない自分に“受容し抱擁し、愛して見守る”ということは芯としてある。泣いていたり傷ついていたり、怖がっていたなら抱きしめてあげたかった。でも男の子はやせ我慢を誇りとしてしまう。そういうのをやめさせてあげたい。痛いなら辛いなら嫌なら泣いても良いと、そう言って抱きしめてあげたかった。人が生まれて初めてするは[泣く]ということだ。原始的な感情は、恐怖なのか歓喜なのか、又はどちらでもないかもしれない。それでも、大きな声で泣く。笑っているのも大事だけど泣いているのも大事なのだ。

 

 堰を切って泣いて、泣いて、泣いて。喉が枯れて、目が痛くなって、お腹が空いて、そんなことも付加されるけど。それがないと、みんな気づかないから。泣くことは悪いことじゃないよ、いい子だねとそう言って優しく抱きしめてあげたい。

 

 そんな感情を持て余さないようにしてきたつもりだ。申し訳なさそうに浅く小さく呼吸をするシャドーを見下ろし慈愛の目と熱い胸をもって思う。

 

 好きだと告げたことはある。皆にも告げた。大好きな皆だから。みんな、みんなとってもいいこだから。でも男女間の好きというのならば伝えたことはないはずだった。自身は愛を育むという立場ではなく、愛を見守る立場だと内側から囁かれたような気がして内を秘めた。自分が誰かは分からない。その内側の誰かも分からない。それでも、伝えても明かしても、ましてや持ってもいけないと囁くのだ。

 

 

 もう片方の手で、シャドーの目元を撫でる。頬に流れて。口元は先程のようなものが現れたから避けた。

 

 シャドー・バークス。頑張って独り立ちする男の子。シャーリィと同じ水の里の出身で幼いころ両親をなくしたというのは知っていた。陸の民に虐げられてきた過去があるのだから、里内での皆の結束は強いのは分かる。でも、頑張りすぎて彼は愛というものを理解しないように努めているように見えた。

 

 自分を抑えるのだ。与えるものも与えられるものも。自分で制限をつけ、それを越えようとしたら溢れても良いと諦める。大きな器を新たに用意すればいいのに、両の手だけで器を作りその指の隙間からこぼれるものは拾わない。手で掬える水の量なの、人が一日生きていく水の量にさえ届かないのに。

 

 この子の必要な無条件の愛だけでは足りなかった。たやすく溢れさせてしまうから。十分にもらったと、勝手に思い込んで諦めてしまうから。

 

 愛情を与えるだけでは意味が無いのに、愛情を共に育むことに意味があるのに

 

 そばにいたい気持ちは本物だ。揺るがないし不変だろう。でも在り方に問題があると内側が囁く。

 

 この感情を自身は許容し肯定しても、相手が拒絶し否定、または望まず抗うのならば、それは一方的な愛でしかない。

 

 欲しいだけでは上手く行かないのだ。理由を、履行の試行錯誤を、絶対条件である同意を、最低限の権利である容赦を、求められる。

 

 でも、シャドーだけは欲しいと思うだけでいいと思う。

 

 欲しいけど、なんて思わなくて良いのだ。欲しいものは欲しいと言えば良いのだ。

 

 

「シャドーちゃん」

 

 

 少し身じろぎをするシャドー。その仕草さえ愛おしさがこみ上げる。だが、恋愛感情なのか母性愛なのかわからなくなってきた。なら。

 

 

「愛しているわ…」

 

 

 両方でいい。我儘に両方込めてあげよう。

 

 愛を両手で掬うなら、もう一つ、こちらの手も使って愛を満たしてあげよう。こぼれて行くけれど、こぼれてもいいから()ってあげられることを知ってほしいのだ。

 

 

 ゆっくりグリューネもまぶたを閉じる。少し夢心地に浸りたい気分だったのだ。

 

 

 

 

 日も降り、各自宿屋に戻って食事を取りつつ今日あったことを話し合う。ボケてツッコんで、ちょっと荒れて宥めて、ゲンコツがきてなぐさめて。そんな和気藹々とした食事をとってひと心地つく。

 

 

 珍しくシャドーは一人夜風に抱かれ食後で上がった温度を下げていた。薄着では肌寒いため、船用ではない上着をきている。

 

 満天の空を見つつ、ほうっと息をつく。思えば遠くにいるなと思う。

 

 水の里で一生を終えるはずが里から出てシャーリィたちとここまできて、この船にある水の里で暮らさずに陸の民たちと暮らしていることに。

 

 不満は昔多少はあった。子供の頃から陸の民と水の民は相容れない存在だと教え込まれたせいもある。一番、悔恨、とは言いすぎだがそれに近いと言うなら、欲しいものがなくなってしまったから。

 

 自身の両親、シャーリィの姉であるステラ。ずっと昔の別れと、ほんの昔の別れ。家族としての愛と、友人としての愛。そういうのが分からなくなり欲しいがなくなった。

 

 一括りに欲望と言ってしまえばいい。独占したいとはそういうのもあったはずなのに、どうしてかなくなってしまったのだ。

 

 まとめてなくしてしまえばもうわからなくなる。ぐちゃぐちゃと濁った水は流されて清水になっていけばいい。

 

 水は流れていくもの。そういうのは水の民は誰でも知っている。底にとどまるものは綺麗なわけではなく、自由に水源から海に流れていく様が美徳なのだと。

 

 

 

「…ぃさん。兄さん!」

 

 

 気がつくと自身を見下ろす妹分が居た。いつものようにぼうっと考えことをしていているような夢を見ているような時に声をかけられたのだろう。気づくのに少し時間がかかったようだ。

 

 

「もう、またぼうっとしてたね?」

 

「あぁ、ごめんごめん」

 

 

 昼間のように少し開いた空き地に二人で並んで座る。なんともない空気が心地よかった。

 

 

「今日も楽しかったか?」

 

「うん」

 

「そりゃ良かった。今日のあれ、美味かったろ?」

 

「うん、久しぶりに食べたけどやっぱり美味しいね」

 

 

 朝獲った例のアレのことだろう。どうやら今日の夕食に登場したようだった。

 

 そして他愛もない会話、子供の頃から知っている仲だ。どれに興味を持っているか、どういう話に持っていけばより楽しくなるかはお互い熟知している。

 

 

 そして、二人同じタイミングで空を見上げるのだ。

 

 

「…水の里で何かあったな?」

 

「………」

 

 

 無言で頷く。セネルには虚勢を張るが、シャドーには素を見せる。それが二人の妹分シャーリィ・フェンネスだ。

 

 

「兄さんの誠名で、ね」

 

「“夢色の鮫”か」

 

 

 シャドーの誠名である【バークス】、古刻語で【夢色の鮫】という意味があった。

 

 

「夢の中でしか生きられない哀れな鮫だって言われて」

 

「……怒れなかったんだろう? それでいいんだ」

 

「怒ったよ。怒るよ…。でも私メルネスだから贔屓はやめろって」

 

「いいんだよ」

 

 

 “夢色の鮫”。この意味は、別に悪い意味ではなかったのだ。セネルが現れる前から、いつしか悪い意味に変質してしまっただけなのだ。

 

 夢色という、不確かな色。本来は何色でもなれる、なんでもなれるという憧れるものだった。だが、変質後は不確かだ。何色にもなれない、何色にもなれるから自分の色がない。無色である。そんな鮫だ。鮫は強く恐ろしい。後半の部分がより強調される。触れるもの鮫肌で傷つけて誰かれ構わず、その(あぎと)で食い散らかすのだと。

 

 こんな蔑称になったのは、ある頃彼に変質があったから。

 

 彼の父は漁師だった。いつものように漁に出て、そして帰ってこなかった。母は息子であるシャドーを残し、里の者の制止も振り切り後を追って帰ってこなかった。

 

 海難事故か、陸の民よるものか、それはわからなかった。だが、それが根底にあらゆる人間の情を欲することがなくなった彼に誰も彼も忌避した。本人の自覚なしに、関わると関わったものが傷つくというのが多々あったのだ。物理的にではない、精神面できついものがあった。

 

 夢の中にさえいれば安心であると噂されるのも時間の問題であった。自覚なしに他者を攻撃して生きていった。それがより拒まれるものとなる。だが、どんなに異質であってもシャドー・バークスは水の民の両親から生まれて生きているのだ。遠くから監視するような形で里のものは見守った。

 

 そんな心が異常なものが、ここまで普通の人のフリをする。こどもを傷つける。大人も傷つける。弱いものも、強いものも偏差なく平等に性差もなく相手を傷つけた。

 

 欲しいという感情による異常攻撃。人を傷つけることで自分を正当化させていた。それを一時的とはいえなんとかしたのは、ステラとシャーリィ姉妹だ。

 

 無意識な攻撃をやめさせるため、シャドーの心の傷を少し抉ったのだ。それが功を奏し今に至る。

 

 

 

 

 

「兄さんは素敵な人だって言ってるけど誰も聞く耳持ってくれなくて」

 

「構わないさ」

 

「構うよ…」

 

「いいんだよ」

 

 

 欲しいがるのはやめたから、とそういってユルく笑うシャドー。それがやせ我慢でもなんでもなく本心の様に見せかけた偽心と分かる。だから、心のカサブタを抉った。

 

 

「愛されたいって言って」

 

「………」

 

 

 ユルく笑う顔は能面のように見えた。トリガーを引いたなら止められない。銃弾は肉体を撃ち抜くわけではなく心を壊すために撃ち放った。

 

 

「好きになりたいって言って。欲しがって。欲しがって良いんだから。欲しがって、いいんだから」

 

 

 笑顔なのに色がなかった。お互いに。笑って自分の殻に籠もり、笑って殻を剥ごうとする。シャドーがシャーリィを護るのを当然と思うように、シャーリィもシャドーを壊すのを当然だと思っていた。お互い悪い意味で良い意味だった。自身を守る術は停滞にもなる。壊すのは進むための踏ん張り台にもなる。這いつくばるのか、這い上がるのか、そういうことだ。

 

 

「私の痛みは、アナタが欲しがらないからなの。欲しがりやさんなのに、嘘つきさんでもあるのが悪いことなの」

 

 

 シャドーは幼いころ両親に悪いことをしてはいけないと軽いイタズラをして怒られたことを思い出す。

 

 

自分(痛み)を怖がらないで。そういうのが必要なんだよ」

 

 

 自身のほうが年上で、しかも女の子に、妹分に泣かされそうになった。もう嫌だと逃げ出したい自分は殻の中で震えたままでなんの意味もない

 

 

「兄さん、好きだよ」

 

 

 ボロボロの殻から漏れ聞こえる異質な音。

 

 

「好きなの」

 

 

 殻をより壊していくので必死に耳をふさいだ。その無様の姿ままでいる自分を抱きしめる温もりに恐怖する。

 

 

「アナタが私を好きでいるより、ずっとアナタを想いたいの」

 

 

 恐怖する。

 

 

「アナタの抱えようとしないもの。抱えてみようよ」

 

 

 怯えるシャドーは身動ぎする。逃げ出したかったのだ。自分(ここ)から、逃げ出したかった。それもやさしいキスで阻止される。

 

 

「私が欲しいものなんだよね?」

 

 

 無言で小さく首を縦に振る。もう居なくなった、両親やステラではなく、シャーリィという女の子が渇望していたものだった。許されないと心の奥の奥の奥。自分でさえ見つけられないようにしたものをいともたやすくえげつなく見つけられる。

 

 鮫肌は傷つける。牙は肉や骨すらたやすく食いちぎる。だが鮫はあまり骨がないため身は脆いのだ。すぐに自分も殺られてしまう。

 

 

「欲しがっていいよ?」

 

 

 甘くて残骨な愛を優しく卑しく求める男は情けない。

 

 その情けなさすら、シャーリィは愛おしいと心の底から思っているというのに。

 

 

「シャ、ーリィ…」

 

「なぁに?」

 

「ほ、しい。お前が、欲しい」

 

「うん、いいよ。私も兄さんもらうからね」

 

 

 全力で抱きしめて、息をつかせぬほど激しく口を吸う。

 

 

 子供が生まれ、両親ともにお互いドコが好きになったかとその子供に聞かれたところ、両者とも。

 

 

 【欲しがりなところ】

 

 

 とこたえたそうな。 

 

 

 

 

 




主人公設定

シャドー・バークス


セネルの親友
セネルと互角の実力者


年齢:セネルと同じ
一人称:俺
性格:ユルい性格で戦う時は冷静な性格(シャーマンキングの麻倉葉のような感じ)
口癖:「気楽にいこうぜ」
職業:漁師
武器:三叉槍×2
好きなもの:シャーリィの手作りパン


・セネルとシャーリィと共にヴァーツラフ軍から逃げていたところ遺跡船に流れ着く
・↑より世界の命運をかけた戦いに身を投じることになる
・セネルと同様にシャーリィから兄のように敬愛されている
・二本の三叉槍による槍術を主体とするアーツ系爪術士(戦国BASARAの真田幸村のような戦法)
・普段は怒ることはないが、大切な存在であるシャーリィを危険なことに巻き込もうとする敵に対しては、鷹のような鋭い眼に変えて無言による怒りをあらわにする
・セネルと違い、自立していくシャーリィを黙って見守っている



付け加え設定

誠名「バークス」、古刻語で“夢色の鮫”





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

TOIR アンジュ・セレーナ

 この野営は黎明の塔へ行くために、イリアの故郷サニア村から魂の巡礼路カルディアに向かっている途中の休憩である。魂の巡礼路カルディアに入ったなら、それ以降はノンストップで突っ切りマティウスと決着をつけ創世力を奪還しに行くのだ。皆、覚悟はできているのものの体力をそこまで最大限に保持できるかといえば難しい。

 

 前世に覚醒したばかりのルカは、前世のようにと気張りおぼつかない戦闘技術であったが今は立派にパーティーのリーダーを戦闘面だけでなく基本的な主力として在る。彼だけではない。イリアも親から譲り受けた銃を的に上手く当てるだけでなく、急所を打ち抜くまでになった。スパーダやシャドー、リカルドは元々鍛えていたが、それでもそれぞれが出会った当初より技術も力も増し、パーティーで戦うことに必要なチームワークなど比べ物にならない。アンジュは、少しぷにっとしていた二の腕が引き締まったと喜んでいる。エルは貧しい環境で幼い子供たちと共に生き抜く為に鍛えた身軽さをさらに上のものへ。コンウェイはラーニングで多種多様な術を覚え、異界でだけでなくその強さを発揮している。パーティー加入が遅かったキュキュは、元来何かしら訓練を受けていたのもあるのかパーティー内で彼女に並ぶ戦うことの巧さを真似できるものはいない。

 

 戦いには勝者がいれば敗者がいる。敗者は命を獲られるのが当たり前だが、勝者もただで済むわけではない。軽い怪我だけで済めばいいが、痛み分け、瀕死の重傷を負う場合がある。具体的に言えば、誰かが欠けてしまうということ。遅かれ早かれ、生き物は死ぬ。寿命であればいいが、病気であったり怪我だったり。実際、ハスタによってルカは生死を彷徨った。けれど、誰一人欠けずにここまで来た。途中離脱はあったものの、全員が自分たちの絆は嘘ではない、絆は確かにあって誰にも千切らせはしないと、言葉にもせず確信してきたからだ。悲しい前世の記憶に引きずられ、解けかけたこともあった。それでも、絆は解けかけたときよりも強固になり、たとえバルカンが鍛えた武具であろうとも武具の方が折れるほどのものとなった。

 

 彼らに敵はないといっていい。

 

 個のままでいるより群れとなったほうがいいのだ。消費は個のときよりも多くなるだろうが、生産も多くなる。効率が上がれば消費より生産が上回る。個だけで完結できていたならば、原始の巨人は神々と大地など作らない。始まりからして、個だけでは完結できない。手を取り合い生きる。それのなんとすばらしいことか。一人っきりではない、誰かがいるという安心は何よりも代えがたいものなのだ。

 

 世界を終わらせる。それを為せる創世力の行使を阻止する。それが彼らの目的だ。

 

 明日を生きるのを許されないなど、あってはいけない。転生者もそうでないものも、それが当たり前のように決まっているべきものだ。

 

 生きるのに理由はいらない。だが、持ってはいけないなど言っていない。それが、他者を害するものならば捨てるべきだが。自分だけ、という自己中心的ではいけないのだ。前世の時代からして、独りよがりが過ぎた。生きていくために何も犠牲にしてはいけないとは言わない。そんな綺麗事が罷り通っているならば、「ラティオ」も「センサス」もなかった。いや、そう別れる前の悪しき神々すら生まれなかったはずだ。繋ぐための手を握りこぶしに変えたのは誰かなど尋ねる気はない。誰かと見つけても他の誰かがやる可能性は必ずある。原初の巨人は、一を増やしたわけではないのだから。一、二、三…と別々のを増やしていったのだ。姿形やら似る場合がっても、同個体はありえない。アンジュの考察では、寂しかったから原初の巨人は神々を作ったのだから。自分がもう一人いても、自分でしかない。そう認識できているならいいが、いつしかアイデンティティクライシスを起こして発狂するだろう。自分と同じという共感は、自分とは別だからそうなるのだし、[安心]に落ち着くのだ。自分同士なら考えなどが同じなんてことは当たり前だ。少しでも違えばそれは他者だ。

 

 [違う]というのは[同じ]と同等であるようで、前者の方が必要だ。自分と[違う]ことで、他者と自分の[同じ]をみつけようとするから。自分とまったく[同じ]だったら、そういう《興味》は湧かない。だって、分かってしまっているから。[違う]ことが不思議に思い、解明しようとする。それを誰しも自然とできるようになるのだ。それも度が過ぎれば攻撃に転化する場合もあるが。

 

 マティウスはシアンの言葉通りなら、確かに悲しい生まれだ。血がにじむほどの努力もしただろう。それでも、実を結ぶことはなく彼女は全てを諦め世界を無に帰すことを為そうとしている。

 

 騙していたとはいえシアンは純粋にマティウスを慕っていた、他の彼女の信者にも少なからずそう言う人物はいただろう。彼らが自分たちはマティウスが必要だといっているのだ。その声にこたえるのがいいのだろう。

 

 崇めるのではなく、盲信するのではなく。隣に並んで、手を掴んでくれる誰かがいたなら、彼女は止まれたのではないだろうか。

 

 そんなIFを考えたところでどうしようもない。投げかけても、彼女の意思は変えられないだろう。

 

 彼女の生き先は、こうなるものなのだ。

 

 コンウェイやキュキュの知ってる無垢なる絆の世界でのマティウスの結末は、こうなるものなのだから。

 

 原作に作者でない誰かが手を加えてしまったら、もうそれは原作とは呼べない。原作であった物語は死んでしまう。殺しなのだ、酷い言い方をすればそれは。

 

 結末を知っている彼らは筋書きを変える人物ではない。いつまでも傍観者だ。ペンを折らせないよう慎重にその物語を読んで行っている。

 

 

 結末は、得てして誰かにとってはハッピーエンドで、また他の誰かにとってはバッドエンド。

 

 そう、なんであってもそう決まっているのだから。

 

 

 

「ふんっ!!! ガリ勉ルカちゃまにはそれがお似合いよ!!」

 

 

 そのイリアの不機嫌そうな声が聞こえるや否や、彼女は肩を怒らせてルカとは反対方向にのっしのしと大またで歩いていった。

 

 

「なんでこうなるの…」

 

 

 いつものように涙目でイリアに勢い良く投げつけられた度の入っていないだろうおもちゃのビン底めがねを持ちつつ落ち込む。それを見た、彼のダチの一人であるスパーダが慰めるのかと声をかける。

 

 

「なんだよ、ルカ。イリアといい感じだったのによ」

 

「ぐすっ…。校長になるために勉強教えてっていったのはイリアなのに」

 

「なんだ。オレは、イリアに保健体育の勉強教えてるとばっかり」

 

「え? それを教えると何でイリアが怒るの?」

 

「へへ、そりゃおめぇ」

 

「スパーダ、ストップ」

 

 

 と、スケベ貴族が命に関する極めて重要な勉学を、己のエロ知識を披露するだけの、いわゆる下ネタトークをやらかそうしたとき彼らの元にシャドーが話に割り込んできた。

 

 

「なんだよ、シャドー」

 

「ルカがそっち方面に行くと、イリアと上手くいかなくなるぞ」

 

「あ~、確かに」

 

「え? なに? なんなの?」

 

「あー…。まぁ、気にすんなよ。すぐ、イリアの機嫌良くなるだろうぜ」

 

「あぁ、念のためアンジュがイリアを宥めに行ったからな」

 

「うん。ありがとう、二人とも」

 

 

 少し納得はいかないものの、スパーダよりシャドーの言に力強さを感じ納得することにした。そういえば、シャドーから甘い匂いがする。

 

 

「そういえばよ、シャドー。お前、いい匂いすんじゃんか」

 

「バレたか。疲れた脳には甘いもの。あっちにスイーツを用意しといた」

 

「おっ! ショートケーキあるか?」

 

「それは次までお預けだな。即席のかまどじゃ流石にスポンジケーキが綺麗に焼けんよ」

 

「そうかー…。しょうがねぇ、我慢すっか。行こうぜ、ルカ」

 

「うん」

 

「おい、ルカ」

 

 

 スパーダとともに行こうとしたルカを呼び止めた。スパーダは先に行くぞと声をかけ、一足先にスイーツを堪能しに行った。

 

 

「イリアの愚痴は聞くだけでいい。反論も説教も何もしなくていいんだ。ただ相槌打ちながら聞いとけ」

 

「なんで?」

 

「女性の愚痴は解決法を知りたいんじゃなく、共感を得たいのがほとんどだからだ。…次は上手くやれよ」

 

「なるほど、流石シャドーだね。イリアの扱い方が分かるなんてすごいな」

 

「うーむ、それだと猛獣使いみたいに聞こえるな…。まぁ、いい。エルが全部食べないうちに行った方がいいぞ」

 

 

 シャドーは、[猛獣使い?]の称号を得た。

 

 

 ルカはいつも背負っている大剣を下ろしているので、早足がそのときよりも早い。その後姿を見送る。

 

 アンジュとイリアを除いたメンバーはシャドーお手製プリンアラモードを食べていた。キュキュはつたない言葉でシャドーに失敗しない作り方を尋ね、おかわりをねだるお子様ズと、食いしん坊の女性のために作りつつシャドーは丁寧に彼女に教える。エルとコーダが四個目のプリンアラモードをほお張る頃、イリアとアンジュが皆が集まっているところにやってきた。ルカの近くに行くとイリアは気まずそうに不機嫌な顔をしたものの、アンジュに名前を呼ばれるとしゅんとしてルカに謝った。その様子にルカも何故か謝り、二人の仲が戻ったのだ。そして、食い意地の張っている二人は皆が先にスイーツを食べていることに気づくとシャドーにスペシャルなプリンアラモードを要求する。他の男性陣ならば困り顔で急いで作るといって取り掛かるが、すでにシャドーはそれを用意していた。勿論、二人は満足するできのものだ。

 甘ければいいだろういう、お高いスイーツを“これに、こんなに値段が高いなんてばかげてる”という思考をする人は到底スイーツの最奥に辿り着けない。味のバランスは勿論のこと、見た目のバランス、彩り、香り、などなど、スイーツを愛する人、否、スイーツがこの世の真理とも悟れる、大体の乙女パーツ(いぶくろ)を持つ女性がそれらが黄金率に出来上がったそれを、目で楽しみ、鼻で味わい、それから専用の食器で口に入れ、歯で優しく噛み締め、その最中に耳に残る確かな咀嚼音を歌わせ、舌の味蕾一つ一つで甘さなどの味を真摯に味わい、ゆっくりと喉で愛でる。最後には嚥下し胃に納める。胃に納めてもまだ終わらない。もったないと小さく味わっても、欲張って大きく味わったとしても胃には必ず味わったそれらが納まる。胃に何か入ることで胃が膨らみ、胃酸の分泌を促進し、消化活動を活性化させる。胃酸で溶け行くスイーツは喉を通り、鼻や口内で『美味だった』と十二分に感じさせる。そして左脳や右脳といった分類だけでなく、大脳、間脳、中脳、後脳、小脳、延髄といった全ての脳の領域が『美味だった』と感じたようになるのだ。心は波長を大きく揺らす、けれども振り切りかけてはゆっくり治まる。嵐の前の海は静かだ。嵐の後の海は穏やかだ。前触れと結末。始まって終わる。嵐のように荒々しく強い感情の波である。それが、皿から至高の芸術(シーツ)が無くなるまで続く。

 

 おかわりしたら、もう一回楽しめるドン!

 

 つまり、スイーツは神。

 

 彼らの前世(コンウェイ、キュキュを除く)は神であっても、それは揺らがないだろう。

 

 

 

 

「ふーっ、美味しかった!」

 

 

 満面の笑みで、パーティーメンバーで一番多くスイーツを食べきったアンジュが皿にスプーンを入れる。

 

 

「本当に美味しかった。ありがとう、シャドーくん」

 

「いえいえ、あんな美味そうに食べてもらえてスイーツも俺も嬉しい限り」

 

「ふふ、そう?」

 

「あぁ、おかげで俺は食べてないのに胸いっぱいだ」

 

 

 それは胸焼けでは?

 

 他のメンバー、食い意地が張った面子もアンジュほど食べなかった。デコレーションや甘さの加減など色々と飽きがこないよう工夫されていたものの、流石に苦しくなったようだ。アンジュが凄まじい乙女パーツの持ち主であったゆえの食いっぷりだろう。

 

 

「アンジュねーちゃん、あれだけ食べたら体重が」

「バカ! エル、あんた口を塞ぎなさい!!」

 

「エ~ル~?」

 

 

 言ってはならないことを口にするエルの口をイリアが塞いでももう遅い。どにょりと暗めな声でエルを呼ぶアンジュの目は据わっている。

 

 

「カロリーは控えめになるよう豆腐を使ったのだから」

 

「ですって」

 

 

 シャドーが助け舟を出す。これで人の道を説く時間を少しは減らせるだろう。にっこりとそう口に出すアンジュに他の面子は少々不安定になる。

 

 

「十も食って大丈夫なのかよ」

 

「彼女、生クリームマシマシが」

 

「シロップもふんだんに使っていたしな」

 

「チョコも結構…」

 

 

 スパーダとコンウェイ、リカルド、ルカがこそこそと男性陣だけで話すが、アンジュの耳に入ってしまった。

 

 

「あぁ、あぁぁあ…」

 

 

 そこへ、キュキュとコーダの声が襲い掛かる。

 

 

「アンジュ、ぽっちゃりなる?」

 

「むふー、おいしいとカロリーはひれいするんだなー、しかし」

 

 

 崩れ落ちた。

 

 

「わぁぁあ! アンジュー!!」

 

「ちょ、キュキュ!! あんた、それは…」

 

「こいつにこんなこと教えたのは誰だよ」

 

「すまない、僕の落ち度だ」

 

「コンウェイのおっちゃんも失態するんやなー」

 

 

 そう騒ぐ中、リカルドは製作者に救ってあげてくれと目で合図した。

 

 

 

 製作者は、にこやかに首を横に振った。

 

 

 生きるとは残酷なものなのだ。

 

 生きるのに生まれたときから重りをつけていることに誰も気づかない。外すことはできないし、許されない。生きることは罪であって、そうではないのだ。生まれることで、次々命を食らって生きて行く咎を背負う。けれども、成長していきやがては老いて死ぬ。罪を償いながら生きて、償いきれず死んでいく。そして、それは次の世代へと連綿と続いて行く。重りは軽くはならず重くなり続ける。重すぎて動けなくなったとき、それは諦めるときなのだろう。見ないように、感じないように、考えないようにした、その重りは自分の所為であり続け、自分の為に重くなってきたのだろうと。

 

 ゆえに。

 

 

「この世にある体重計ぜんぶこわしてやるぅぅううう~!!!」

 

 

 カロリー()からは逃れることなど不可能であるのだ。

 

 

 

「うぅぅ、食べた分はやく無くなってー…」

 

 

 少しでも食べた分のカロリーを減らすためにシャドーと共に皿を洗うアンジュ。実際の体重を見れば、身長の同じ平均の女性に比べると軽いほうなのだが体質によって脂肪がつきやすかったり筋肉がつきやすかったりする人もいるので一概に、この人は健康体とは言い切れない。BMIだけでは筋肉量は測れないのだし。

 

 

「すぐなんとかなるさ」

 

「ほんとぅに~?」

 

「だって、あの塔登るんだぞ?」

 

 

 サニア村からも黎明の塔は見えていたが、こうして近場で塔付近にいればその大きさがよく分かる。登るだけでなく、きっと王都軍や信者らとも戦うことになるだろう。最後にはマティウスとの決着もある。なるほど、脂肪一キロを消費するのに七千カロリーほど消費しなければならないが、これは痩せるだろう。プラスがマイナスになるかはしらん。

 

 

「あー、あんなに食べなければよかったー…」

 

「いやはや、いい食べっぷりだったな」

 

「もぅ、シャドーくん? 女の子にそれは褒め言葉じゃないわよ?」

 

「おっと、これはご無礼を。騎士の嗜みである女性の扱いを間違えてしまった」

 

「そうよ。シャドーくんは騎士様なんだから、ちゃんとしないと」

 

 

 シャドー・マフィルスは王都レグヌムの名門騎士の息子で、父親との不和から家にろくに帰らない少年だ。家のほうは、自分と双子の兄が生まれるまで女しかいなかった。女性が基本的に騎士になるという選択をする家ではなかった。そのため、マフィルス家の女性はどこぞに嫁ぐしかない。その嫁ぎ先は彼女らの容姿の良さの故か基本的に貴族である。それが拙かった。貴族に嫁ぐのは儲かるのだ。家の格も上がる。味を占めたシャドーらの父親はシャドーを貴族の家に婿入りさせる予定だったのだ。双子の兄は、転生者ではないし剣の実力もシャドーに比べたらいまひとつだが、騎士として総合力で見れば兄の方が上だった。その為、同じ顔のシャドーは貴族の学校に入れられ、すでに何人かの貴族の女性に目をかけられている。幼い頃、スパーダと会っているしシャドーの姉が彼の兄に輿入れもしている。が、スパーダもシャドーも当初は互いに意気投合もなかった。当時から、跳ね返っていたスパーダに、そのときは表面上、父の命に従っていたシャドーは道端に落ちているホットドックの紙くずのような認識しかしていなかった。互いに、スパーダはデュランダルの記憶、シャドーはアロンダイトの記憶からお互いを避けていたのかもしれないが。

 ともかく、シャドーは父親の方針がずっと気に食わなかったのが堪忍袋の尾が切れ、スパーダ同様放蕩息子をしている。貴族のようになれと、貴族の学校で真面目なふりをして学んでいたため、『え? スパーダ? 不良でしょ?』 と誰もが言う中、同じ不良のようなシャドーの所作には下品な点が見えない。本人は意識して崩そうとしたが、見た目がクールな王子様然としているので崩さない方が様になっている。普段の立ち振る舞いも、食事作法も、ハルトマンの前ではお行儀良くする貴族ベルフォルマ家のお坊ちゃまスパーダ様にも褒められている。

 

 

「お嬢様、ハンカチをどうぞ」

 

「うん、ありがとう」

 

 

 皿を洗い終わり、布巾で拭う作業を終えたアンジュにハンカチを渡す。それは上物であることが肌触りから分かる。

 

 

「洗って返すね」

 

「ありがとう」

 

 

 構わないだとか、いいよと断らずただ感謝で返す。どっちの言葉にしろ、ふつうの女の子ならば誰かからハンカチを借りたならこう言うし、感謝の言葉を返されただけの方が助かる。手を拭いただけとはいえ汚したということは、なんだか恥ずかしいから。とくに、その持ち主が異性ならなおさら恥ずかしい。

 

 

「美味しいもの食べたし、今日は良い夢見れそう」

 

「それはよかった。美味しいものは心を満たすというしな」

 

「ふふ、そうね。美味しいは素敵よね」

 

「あぁ」

 

 

 ふふと互いに笑いあって、同時になんとなく黙ってしまう。

 

 

 正直言えば、アンジュにとってシャドーは《食えない子》という認識だ。クールな性格だが、面倒見が良かったり、思ったことを言葉にしたり、言葉や行動の一つ一つが大人の雰囲気を漂わせている。彼女の護衛であるリカルドとも気が合い、パーティーメンバーの保護者として、アンジュとリカルドと共にルカ達の面倒を見ている。

 

 他の未成年組であるルカやイリア、スパーダ、エル達のような“子供らしさ”が演技の中だけでしかない。一緒になって彼らと騒いでいても、ちゃんと保護者をしているのだ。リカルドは同性な為に気を許せるのだろう。コンウェイも同じく。キュキュもコンウェイ同様になんだかんだ謎が多いが、本人が上手く周りに溶け込むように動いているため違和感が少ない。

 

 

「ねぇ、シャドーくん」

 

「ん? どうした、アンジュ」

 

 

 スパーダのように格好つけるでもなく、リカルドのように一歩引いた感じでもない。“ちゃんと見る”。それが、シャドー・マフィルスだ。

 

 アンジュは聖女と崇められる前から、司祭として数多くの人を見ている。観察眼が鍛えられ、この人にはこう対処しようと、自然に思考し動く。綺麗なこともあれば、どこかに行って欲しいくらいのこともある。それでも、司祭という職種についているため、隔てなく対応してきた。きっと、それはシャドーも同じだろう。だからか、少々二人きりのこの状況から逃げたくなっていた。

 

 

「シャドーくんは前世のことどう思う?」

 

「そうだな…」

 

 

  これで、いきなりおやすみというのも空気が読めないだろうと考え、アンジュはなんとはなしに質問をする。

 

 シャドーの前世は、天上一の鍛冶師バルカンにより鍛えられた名刀の一つであるアロンダイト。主であるアスラに忠実で義に厚い性格で、デュランダルと共にアスラの天上界統一の戦いを支え、アスラからの信頼も厚かった。けれども、そのアスラがイナンナとデュランダルの裏切りで命を落とす前に自身を使い、裏切り者のデュランダルとイナンナを葬り、その時生じた強い力の波動にアスラ達と共に巻き込まれ消滅する。

 

 ここまでのことは聞いた。アンジュの前世であるオリフィエルと話しもしていたこともあるし、アロンダイトの来世であるシャドー本人も知っている。

 

 

 『本来は、戦争で使われることを想定して造られたというより、バルカンが如何に美しい刀を作れるか、という挑戦で造られたからな』

 

 

 そう、ある日語ったこともある。

 

 前世の記憶に見えたのは、ラティオの民、元老院の連中までもが、アロンダイトを使うことに忌避していた。最終的には彼はアスラの元に行き、アスラに使われたのだが。

 

 

「オリフィエルに連れて行かれたのは、正直驚いたかな」

 

「あはは、一種の献上品として送ろうと思ったらしいのよね」

 

 

 己の命だけでは足りないだろうと、オリフィエルはアスラと初めてあったときに共に大切に飾られていたアロンダイトを、巧みに元老院を言いくるめ持ち出している。オリフィエルは自分の弟子である天空神ヒンメルを救出するためなら何でもしたかったのだ。オリフィエルの覚悟も、献上品として賜れたアロンダイトも気に入ったアスラは彼を気に入り己の傘下に加えている。前世の結末は悲しいものであったけれど。

 

 

「デュランダルのように武器として使われるのも、ただ飾られているのもどうかと思っていたよ、彼は」

 

「そうなの。後者はそう思うのも無理はないけど、前者はどうして?」

 

「アロンダイトは存在することが嫌だっただろうな。『力とは、矛であり盾でございます。でも、持たなくて良いではありませんか』 …この言葉分かるか?」

 

「うーん。戦うこともできるし、守ることもできる。でも、そうすることは結局争うということ。それは忌むべきこと、ということかしら」

 

「そうだろうな。アロンダイトは最期までその考えだったんだ。アスラがイナンナとデュランダルの裏切りで命を落とす前に自身を使い、裏切り者のデュランダルとイナンナを葬り、その時生じた強い力の波動にアスラ達と共に巻き込まれ消滅するそのときも」

 

 

 シャドーは少し身じろぎをして体勢を変えた。それにアンジュもあわせて彼女も体勢を変えた。

 

 

「その時のアスラの『すまない』という巻き込んだ罪悪感からの謝罪の言葉を聞き、彼自身はこのような悲しい結末になってしまった事を悔やんでいたよ。前世を思い出したとき、初めて感じた感情はどうしようもない悔しさだった。」

 

「そうなんだ。今もそう思う?」

 

「前世のしこりはもうないのは皆そうだろ? ルカもイリアもスパーダも、エルもリカルドも。アンジュも。 …そうだろ?」

 

 

 少し恐る恐るなふりをして聞いてくるのでおかしくなる。ふりももっと巧くできるはずなのに、なんで少し下手にするのか。これが、彼の子供らしさだろうと思いアンジュは微笑む。

 

 

「そうね。アロンダイトを運ぶとき大変だったわ。刀身もそうだけど、鞘まで芸術的で指紋残したらどうしようとオリフィエルはあせっていたのよ」

 

「それはすまなんだ。 …うん? 俺が謝るべきじゃないな。するのは、そう造ったバルカンだ」

 

「ふふふ。そうね。バルカンはオリフィエルに武器を作ってくれなかったし、謝ってもらいましょうか」

 

 

  少しの間、こぼれる温かな笑声。そうしている間に、いつの間にか距離が縮められていることにアンジュはやっと気がついた。

 

 

「………」

 

 

 いきなり距離をとるのはマズイだろうと思考する。別にシャドーが嫌いなわけではない。顔も良いし、性格も好ましい。だが、なんとなく困るものがある。そう、難しい感情だ。

 

 

「ん?」

 

 

 近づいてきた本人は、いつものクールな王子様然で軽く首をかしげている。暗い中、洗い物をするのは大変だということで、カンテラを持ってきているので、暗がりでその明かりの所為か少々怪しい雰囲気の少年に見える。

 

 

「えっと…」

 

 

 他のお子様面子と同じ対応は合わない、かといってリカルドのような護衛と雇い主の関係も合わない。らしくなく、テンパってしまう。なんとか頭を働かせ、自分の方が年上なのに落ち着かない自分を落ち着かせようとアンジュは頑張る。

 

 それをさせないようにか、シャドーは声をかける。

 

 

「アンジュ」

 

 

 ゆったりとしたその声に顔が赤くなる。

 

 ただ名前を呼ばれただけだ。それだけなのに、こんなにも恥ずかしくなるのは何故だ。思わず逃げようと視線だけを動かそうとするが、シャドーのアメジスト色の瞳に吸い込まれていく。

 

 本当にスパーダと同い年なのかと疑ってしまう。落ち着きも性格も違いすぎる。貴族としての教育の賜物かと思えば、そうなのだろう。

 

 今もいつもは、接近戦で17歳という若さでは扱いが非常に難しい長刀を器用に使用し詠唱に入るメンバーを守るため相手の飛び道具を弾き落としてしまうほどの剣術を発揮する、味方にとっては非常に頼もしい、敵にとっては恐ろしい、その手が近づいてくる。

 

 頼もしいとも恐ろしいとも、どちらも思うことは今はない。

 

 ただ、なんだか勘弁して欲しかった。

 

 顔に触れるその直前に、思わずぎゅっと目を閉じる。勘弁して欲しいのだ。逃げるという選択肢は、シャドーとの悔恨を残すだろうと少しだけ静かに稼動する思考が言うのでそれに従う。

 

 

 ただ触れた。

 

 

「………」

 

 

 シャドーの瞳から逃れられたはいいものの、まだその視線はアンジュ自体にあるのだ。目を瞑れば暗闇。そこにアメジストの輝きはない。

 

 

「アンジュ」

 

 

 ぎゅっと力強く閉じたまぶたを優しく撫でられる。小さな子供をあやすようでもあるし、自身の経験としてはないが別の何かのようにも感じられて、恥ずかしくなって、勘弁、してほしくてたまらない。

 

 

「俺はね」

 

 

 ゆったりとした声は、息遣いすら感じられるほど近くに感じられる。顔が近くにあるのかどうかは、まともに思考しない頭では知覚できなくなって分からない。

 

 

「甘えて欲しいんだ」

 

 

  優しくまぶたを撫でられる。

 

 

「アンジュがエルを甘えさせてるようじゃなくね」

 

 

 優しく指が下に下りてくる。

 

 

「頑張る貴女は素敵だろう。慈しむ貴女は素敵だろう。優しく、そして強く在ろうとする、貴女を」

 

 

 アンジュの頬に何かが、かさり、とあたる。質感からいって髪の毛だ。

 

 

「壊したい」

 

 

 甘く痛く声が胸の奥、形としてない、こころを縛っていく。

 

 

「シャドー、くん」

 

 

 目頭が熱くなってくるのを感じる。きっと、涙はゆっくり溢れて頬に流れているだろう。

 

 

「『汝、流れる血を忘るること勿れ』『汝、零れる涙を忘るること勿れ』『汝、絶える命を忘るること勿れ』」

 

 

 前に彼が語ったマフィルス家の家訓。その意味を彼はこう語ったのを縛られていく心を主導に思い出す。

 

 

 [「“流れる血”とは“人の業”である」「“零れる涙”とは“人の夢”である」「“絶える命”とは“人の声”である」]

 

 

 そして、こうも語った。

 

 

 [業など、生まれたときから皆背負ってるさ。夢も同じく。声なんて、出さなくてもしっかり自分に響いてる。けれど]

 

 

 腫れぼったくなる目を開け、アメジストと繋がる。

 

 

「業を望もう、夢を奪おう、声を上げさせよう」

 

 

 頭と心はすぐに察してしまう。それは、それはっ!

 

 

「貴女の生に祝福あれ。貴女の為だけでは動けぬこの身はアンジュの幸せ()を望む。貴女の為に有りたいこの手足はアンジュの苦しみ()を奪う。貴女の為のこの心はアンジュの喜び()を上げさせよう。故に」

 

 

 酷く優しく縛り付けていく台風のごとき情動に思わず口付ける。

 

 その先を言われたら、もうこのまま(仲間)だけでの関係ではなくなってしまうから。

 

 啄ばむ口付けから、深く離れないように。

 

 近くなったシャドーの頭を激しくかき抱き、アンジュは自身の衝動を抑えようと必死になる。

 

 それに必死になるほど、無意味になのが確かに分かってしまう。

 

 髪に触れ、耳に触れ、頬に触れて。

 

 意味は、あるのに。

 

 無意味になっていく。

 

 

 

 しだいに、体が空気を求めて口を離してしまう。互いの口元は湿りきっており、もはや何が誰のものかも分からない。

 

 

「アンジュ」

 

 

 息も絶え絶えのアンジュに比べひどく落ち着いているシャドーは優しく微笑んで。

 

 

「愛しているよ」

 

 

 壊してしまった。

 

 

「ば、か…」

 

 

 息が少し整ったあとに、ようやく出た言葉はそれだった。

 

 

「ばかばかばかばかばか」

 

 

 子供のようであった。

 

 

「ば、かぁ…」

 

 

 意味はそのままの意味ではない。だが、このままでは伝わるわけがない。

 

 

「そうだな。俺は、バカだ」

 

 

 だが、シャドーにはちゃんと分かっていた。

 

 

「わたし、おさえてたのに」

 

 

 強くもなくアンジュの握りこぶしがシャドーの胸を叩く。それもしだいにゆっくり止まって、シャドーの胸の中に体ごと落ち着かせる。

 

 

「シャドーくんより、お姉さんなのに。もう、普通の女の子より綺麗じゃないのに」

 

 

 見た目の綺麗さのことではないだろう。計算高い女なら、ごまんといる。だが、その計算高さは彼女の場合は、より高い領域にあるのだ。司祭として生きてきた身は、誰よりも尊く高潔であってほしいと望まれるほど何よりも浅ましく汚いものなのを自覚していく。表面など誰でも取り繕える。化粧でもいいし、なんなら仮面でもいい。だが、どちらかしか選べないはずのものだ。けれど、二つ同時にやってしまったのがアンジュ・セレーナだ。

 

 “ちゃんと見る”

 

 それが何より嫌で、何より嬉しかった。

 

 自分で繕ったものは自慢できるほどのものだけれど、見て欲しかったのだ。

 

 自分は、いいの。自分は、これでいいの。そう思ってきた。両親が流行り病でなくなり、兄と共にナーオスに行ってからそう決めて生きてきた。そう思おうとして生きてきた。

 

 けれど。

 

 

 自分は、いいの?

 

 そんなわけはない。

 

 自分がいいの。

 

 

 だから、アンジュを“ちゃんと見る”シャドーが苦手で、好きになってしまった。

 

 

 この告白を待っていなかったといえば嘘になる。待っていた。待ち、焦がれていた。

 

 言って欲しい。でも、困ってしまうから言わないで欲しい。

 

 “仲間”という関係に甘えてきたつけはもう払ってもいいのだろう。いや、いいのだ。いいに決まっている。

 

 もう、今生はシャドーしか愛せない。

 

 オリフィエルのヒンメルに対する師弟愛は、そういうものではないけれど。

 

 アンジュ・セレーナはシャドー・マフィルスに愛して欲しい。

 

 

 “ちゃんと見ていて欲しい”

 

 

「シャドーくん」

 

 

 微笑んでくれる顔は甘く優しく。

 

 

「愛してるの」

 

 

 自分の声が、何故だか別人のように聞こえる。自分で聞きなれているはずなのに。

 

 

「ねぇ」

 

 

 シャドーの手が背に回る。

 

 

「ちゃんと、見ていてくれる…っ?」

 

 

 答えが怖くてまぶたを閉じそうになる。

 

 けれど、ちゃんとある確かな体温が大丈夫だと教えてくれるのだ。

 

 

「あぁ」

 

 

 アメジストは揺らがず確かに見ていた。

 

 

 嬉しくて、ちゃんとキスをしたくなる。

 

 けれど、こういうのはどうすれば、ちゃんとするのか分からない。だから。

 

 

 上から降りてくる熱に身を任せて。

 

 

 

 

 

 




◎主人公設定

シャドー・マフィルス

・主人公は、王都レグヌムの名門騎士の息子で、父親との不和から家にろくに帰らない少年。

◆一人称:俺
◆年齢:17歳
◆武器:長刀(FF7のセフィロスの長刀のような剣)
◆得意天術:火、風、光

・ルカとスパーダの兄貴分的存在。
・17歳という若さでは扱いが非常に難しい長刀を器用に使用したり、馬も乗りこなす優秀さを持っている。
・長刀を用いた接近戦を得意としており、スパーダと互角で、相手の飛び道具を弾き落としてしまうほどの剣術である。
・クールな性格だが、面倒見が良かったり、思ったことを言葉にしたり、言葉や行動の一つ一つが大人の雰囲気を漂わせている。そのためリカルドとは気が合い、メンバーの保護者としてルカ達の面倒を見ている(KHのレオンのような性格)。





●主人公の前世設定

◆名前:アロンダイト
◇一人称:私

・天上一の鍛冶師バルカンにより鍛えられた名刀の一つ。デュランダルと同様に人格を有しており、言葉も話す。
・主であるアスラに忠実で義に厚い性格(戦国無双の本田忠勝のような性格)。
・デュランダルと共にアスラの天上界統一の戦いを支え、アスラからの信頼も厚かった。
・そのアスラがイナンナとデュランダルの裏切りで命を落とす前に自身を使い、裏切り者のデュランダルとイナンナを葬り、その時生じた強い力の波動にアスラ達と共に巻き込まれ消滅する。
・しかし、その時のアスラの「すまない」という巻き込んだ罪悪感からの謝罪の言葉を聞き、彼自身はこのような悲しい結末になってしまった事を悔やんでいる。


以上がリクエストしてくださったシャドー様ご考案の設定です。


後付設定

今世

後付設定

・双子の兄がいる
・双子の兄以外は全員女性の姉弟の家系
・貴族の学校に通っていた



前世

・バルカンに武具というより如何に美しい刀が作れるかということで生み出されている
・武具が存在することを疑問に思っていた
・アスラに、武具など要らない世界を作ってほしいと頼んでいた



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

TOV エステル、ジュディス

 ピー、ピーという雛達の声で目を覚ます。ファルーグの子だ。夫婦揃ってデートでもしているのだろうか、今朝は二羽の姿がない。本来なら父親であるファルーグか、その嫁かのどちらかが雛を守るためにいるのだが、飼い主であるシャドーを信頼しているためかどちらもいないようだ。

 

 

「ねみぃな、クソが…」

 

 

 そよぐカーテン越しの明かりには、太陽の暖かさがまだない。ならば、ようやく日が出たところだということだろう。最近はこの時間に起こされることになっている。前までは成人祝いに送られた櫛で髪を梳かした後に、ピアスを付けてタバコを一本吸ってからようやく起きるのだが、そのような悠長としたことはできない。悪態をつきつつもベッドから身を起こす動きは素早いのだ。

 

 生まれて少したった雛達は羽が生え揃う頃、そして雛とはいえ鷹である。その食事は虫ではない。ネズミやヒヨコといった肉がご飯である。この時期は内臓や骨格の基礎ができ、空を羽ばたく翼やそれを動かす胸の筋肉ができあがる時期なのだ。餌がより重要なのは間違いない。特に彼らは内臓を食べさせることが重要だ。

 

 昔、シャドーも思わず吐いていた調理はもう慣れている。

 

 寝ぼけてフラフラしつつも皿を持って階下に降り、専用の冷蔵庫からエサを取り出して、雛が食べやすいよう調理する。このとき、ポッドのお湯に水を入れたぬるま湯と、人肌よりちょっと熱めのお湯も用意するのはボケボケの頭でも忘れない。これも専用のまな板やナイフがある。調理と言っても、この段階では捌くだけ。これで食べなければ、ミンチ状にすりつぶす必要があるのだ。そのためのすり鉢も専用の物がある。五羽の雛がいるので、急ぐ。持ってきた皿にエサを入れ、ぬるま湯とお湯も盆に載せて早く自室に戻る。雛のエサは、日の出から日没までできるだけこまめに、できれば一時間おきに、少なくと二時間おきにあげる必要がある。早朝の空腹で死ぬことは珍しいことでもないし、この時期はちょっとしたエサ切れで死ぬのも珍しくない。面倒だが子供とはどうであっても手のかかるもの、しょうがない。

 自室に戻り、カロルが作ってくれた特製の巣の中で元気に鳴く雛達にエサをやる。先の丸いピンセットにエサをはさみ、雛達の口の中でほんの少しゆするようにして突っ込む。乱暴だと思われるかもしれないが、雛は人のように口の中に入れただけでは食べることが出来ないのだ。鳥の口の中には咽の手前に声門という穴があり、そこから気管、肺へとつながっている。そのため、口の中に置いたエサがこの穴を塞いだり、詰まると窒息して死ぬケースがある。そして、雛は咽の奥を刺激されることでエサとわかり、味を感じて食欲がわくのだ。

 ファルーグを飼うより昔には、まともな知識がなく死なせたこともある。が、今はない。寝起きであまり稼動していない頭でも、我先にと口をあける雛達に手際よくエサをやる。ファルーグも雛の時は、このように可愛いピヨピヨとした時期があった。今はラピード同様に無愛想でシャドー以外にはあまり懐かない。

 

 

「どっちに似るのかねぇ、お前らは」

 

 

 まだピーピー鳴いてエサをねだる五羽の姿に、父親であるファルーグの凛々しさは感じない。母親も凛々しくはあるが、夫よりも愛嬌がある。まぁ、シャドーにしてみれば全員差別なく好きなので問題ない。雛達が満足した後、常備してあるガーゼをぬるま湯で湿らせて、取り合いっこの果てについたエサをふき取る。クチバシにもつけていたので同様に。雛のクチバシはやわらかくて傷つきやすいので注意して、鼻の穴に水が入ることもないように。満腹なので鳴かないのだろうが、念のため首の辺りにある袋、そ嚢をよく見る。ちゃんと膨らんでいた。これがぺしゃんこになれば、またエサやりをしなければならない。咽が渇いてないか確認し、渇いてないらしくお湯の方は無駄になった。

 

 

「ねみぃ…」

 

 

 雛達の世話を終えても片す作業はある。またエサやりがすぐあるからそのまま、というのはシャドーの母親が怒るので、面倒だがその都度片す必要があるのだ。キッチンにいても聞こえるいびきはシャドーの両親の者だが、より大きいのはふくよかな体の母親の方。いびきの五月蝿さで自身の目が覚めないように願うが、無理な話だろう。エサやり道具の乗った盆とともにまた部屋を出る。まだピアスをしていない唇の穴に風が入る感覚が気色悪い。耳たぶだけでない穴たちのも同様に気色悪い。

 

 

 ぽっかり開いたままの穴は埋めなければ、気色悪くて仕方ないのだ。

 

 

 

 寝て起きてはエサやりを約一時間ごとにやること、三回ほど。月は太陽と交代した。

 

 

「シャドーー!! 朝御飯だよ、降りといでー!!!」

 

「………。あぁ、るせぇ。静かに起こせよ、クソババア」

 

 

 母親の元気な声はシャドーの寝不足な体には耳障り。もう一眠りしたいが、すればフライパンとお玉を使った“死者の目覚め”を食らわさられるのに決まっている。せめて、ピアスはする。タバコは雛達に臭いが移ると育児放棄が怖いので外で吸うことにしているのだ。年頃の息子の部屋にノックもしないでくる母親なのだから、早くしないとまた贅肉を揺らしながらドスドスと音を鳴らして来てしまう。手早くピアスを付け朝食を食べに行く。

 

 

「おはよう、シャドー」

 

「おう。今日も頭が眩しいな、ジジイ」

 

「ひん、息子がひどいよぅ…」

 

 

  頭が涼しい父親は泣きまねをするが、それを無視してシャドーはコーヒーを三人分作る。

 

 

「おはよう、シャドー。お父さんを朝からいじめんじゃないよ」

 

「んー」

 

「まったく…。お父さん、昨日のは片しといたからね」

 

「ん? 昨日の?」

 

「お客の奴だよ。昨日、たくさん切ったから量がすごくて大変だったよ」

 

「あぁ、僕のカツラが…」

 

「あんたはそのままのほうが素敵なんだよ、お父さん」

 

「ホントかい、お母さん…!」

 

 

  料理を並べる母に嬉しそうに笑いかける父。母もあったかい笑顔を向ける。

 

 

「ハゲはどうあってもハゲだよ、お父さん」

 

「うぅぅ、お母さんまでぇ…!!」

 

 

  本当に泣いた。

 

 

「育毛剤の広告塔になるって頑張っても、成果ないんじゃねぇ…」

 

「毛根、死に絶えてんだろ」

 

「生きてるんだ…。僕の毛根は、まだ、生きてるんだぃ!!」

 

 

  親子が不毛な会話をしていると、窓から二羽の鷹がやって来た。

 

 

「おや、ファーちゃんたちおかえり」

 

「うぅ、おかえり…」

 

 

  ファルーグとその嫁である。飼い主であるシャドーに頭をこすり付けた後、二羽はいつもの定位置で羽を休めた。

 

 

「おかえり、お前ら。ん? なんだよ」

 

 

 お嫁さんが、ファルーグに装備させたバッグから手紙を取り出す。一枚は我らが首領(ドン)からである。

 

 

「ご飯食べた後にしな」

 

「へいへい。ファルーグ達は飯食ったか?」

 

「ピィ」

 

 

 空腹ではないらしい。二通の手紙をテーブルの端において、朝食をとる事にした。それを見届けたお嫁さんはファルーグに軽く体をこすり付けた後、雛達の元に向う。彼女も賢いのでファルーグと同じように冷蔵庫を開けられる。雛達のために覚えたのだろう。今日のエサやりはもうシャドーがしなくてよさそうだ。

 

 

 

 

 

「………」

 

 

 自室に戻り、髪を梳く。長髪というわけではないが、それなりに長い髪、時間がかかる。仮にも床屋の息子、ダメージヘアや整えてなければ店の評判に関わる。といっても、見慣れた顔しか客に来ないのだから、どうでもいいのかもしれない。シャドー本人が納得行くまで髪を整えると、持ってきた手紙の封を切る。

 

 

「ふぅん…」

 

 

 カロルからのものは、凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)の結成おめでとうパーティをしようとのこと。できたのはだいぶ前だが、結成時はパーティなどする時間はなかった。【星喰み】を解決した後もカロルはなかなか忙しかったのだろう、ようやっと一息つけるということでパーティをしようと思ったらしく、招待状も凝ったものが封入してあった。【ぴかぴか新人歓迎のめちゃめちゃ大歓迎会!!!】と“歓迎”の字が二つも入ったものが。場所はハルル。いまだに花が華やかに舞い踊っているらしく、それはちょうどいいと、花見をしつつしようということだろう。

 

 

「めんどくせぇな…」

 

 

 愚痴の多い奔放な怠け者が、シャドー・エンドワースである。仲間からとはいえ、面倒くさいらしい。相変わらずのネーミングセンスの所為で、よりそう思ったのかもしれないが。

 

 

「シャドー!! ジュディスちゃんがきたよー!!!」

 

 

 もう一枚の手紙を読もうとしたとき母親の大声が聞こえた。この台詞はもう聞きなれていた。ユーリ達と共に【星喰み】を消滅させ、ユーリと共に下町の暮らしに戻ったのだが、ジュディスからは旅の誘いを受ける事が多くなったのだ。自宅にまで来るほど。もう一人来るお姫様もいるが、今はジュディスだけのようだ。二人が揃ったら面倒くさくなる。その思い故に、シャドー宛のもう一つの手紙を読むことを放棄させるのには十分だった。

 

 

「だりぃな、クソ」

 

 

 会いたくないわけではない。少しばかり億劫なだけだ。いつものように愚痴を零した後、急ぐ。行儀はなかなかいいが、焦らされるのは嫌いなジュディスのこと。早くしなければ部屋にやってくるだろう。特に変なものはないが、億劫なことになりそうなので急ぐ。母親に名前まで覚えられたジュディスはうざったい昔話でもされているはずだ、急がなくては。おねしょの話はするんじゃない。

 

 

 

「あ、やっときたね。女の子を待たせんじゃないよ」

 

「るっせぇな、ババア。俺だって待って欲しいときぐらいあんだよ」

 

「こんな可愛い子を待たせていい時なんてないね。あるなら、捨てちまいな」

 

「うぜぇ。白髪染めをブリーチと間違えて大変なことになれ」

 

「そこまで耄碌しちゃいないよ!! まったく、この子は…。ジュディスちゃん、うちの息子口悪くてごめんね~」

 

「かまわないわ。口が悪い人は心が綺麗らしいから。そういうところ、あなたに似たのね」

 

「あら~、まぁ!! 聞いたかい、シャドー!? あたし綺麗だってさ!!!」

 

「うるせぇ…」

 

「ふふ」

 

 

 機嫌良く、シャドーの取っておいた菓子をジュディスに差し出した母親は、足取り軽やかに仕事場に戻って行った。

 

 

「なんか用か?」

 

「今回は、これね」

 

 

 手紙を見せる。カロルからのものだ。

 

 

「行きましょう」

 

「………」

 

 

 そう言われれば、行く。

 

 一人だと、面倒くさがって断りの返事すら出さなかったろう。ジュディスは、それが分かったから来たのだ。だから尋ねるのではなく決定を言い渡した。

 

 

「いつものやんねぇのか?」

 

「あら。やれば来てくれるの?」

 

「………」

 

 

 旅の誘いも決定を言い渡せば、ついて来るだろう。だが、今までジュディスはそんなことしなかった。本人の意思であることが重要なのだろう。

 

 

「ふふ、そうむくれないで」

 

「そんな顔してねぇ」

 

「あら、しているわよ。可愛いと思うわ」

 

 

 成人男性が可愛いと言われるほど、滑稽なことはない。余裕気に微笑むジュディスは、シャドーの母親が入れてくれたコーヒーに手をつける。

 

 

「ユーリ達よりでかい俺が可愛いわけねぇだろうが」

 

「大型犬って可愛いと思わない?」

 

「俺が犬…」

 

「大きくても可愛いものは可愛いわよ。犬だけでなくて、あなたも、ね」

 

 

  いくら鍛えても細い、ビジュアル系よりの見た目の色白なシャドーは眉を思いっきり顰めた。ピアスだらけなのも、よりそれ系に見える。一見近寄りがたい風貌のシャドーは、ユーリと一緒にエステルに料理を教えることもあったし、孤児達の髪を無償で切ってあげたり、と意外と優しいし面倒見もいい。愚痴だらけな口も、第一印象はあまりよろしくない風貌もマイナスポイントだけれども、そういうところもあるので嫌いになりすぎることはないのだ。今も、ジュディスに弄ばれてる様子は可愛らしい。だが、二十歳を越えている成人男性だ。相手は十九歳。そうだからこそ、微妙な情けなさが可愛らしいではないか。

 

 

「とにかく、ハルルに行くか。ユーリはいねぇけど」

 

「ユーリなら、パティの船でおじさまと一緒にいるわよ」

 

「あいつ、いつの間に…」

 

「『美味しい魚介類をわんさか捕ってくるのじゃ』って張り切ってたわ」

 

「それ、パティだけだろ。張り切ってんの」

 

 

  ユーリとレイブンは、海よりもしょっぱい顔をしていることだろう。そして、二人はきっと少し日に焼けることだろう。レイブンなんか更に黒くなるに決まっている。

 

 

「ラピードもファルーグも子供いるし、どうすっか…」

 

「……家族が離れ離れになるのは可哀想だわ。残念だけど、今回はお留守番してもらいましょう」

 

 

  ラピードも三匹ほど子供がいる。ファルーグの子よりも先に生まれているが、まだまだ小さい。家族から離れるのは少し早いだろう。

 

 

「あぁ…。んじゃ、ちょいと準備してくるから待っててくれ」

 

「えぇ、うっかり寝るのはダメよ?」

 

「はいよ」

 

 

  シャドーが寝不足なのは分かっているようだ。彼もユーリほどではないが甘党でもある。そんな彼がブラックなままコーヒーを飲んでいるのを見れば、まだまだ眠たいということが分かるのだろう。コーヒーのおかげで眠気が少し覚めたシャドーは、急ぎ足で自室に戻り支度をする。

 

 

「ファルーグ、留守番頼む」

 

「ピィイ」

 

 

  相棒の頭を軽く掻いて短い挨拶をする。嫁の方は、巣穴から落ちかけている雛達の首を、クチバシで咥えては巣穴に戻すという行為で忙しい。

 

  ジュディスの元に向かおうとしたときに、ファルーグがクチバシに手紙を咥え飛んできた。カロルからでない方だ。

 

 

「持ってった方がいいのか?」

 

「ピィ」

 

 

  封筒からして高貴な感じがするそれを、シャドーは受け取る。読んでいる暇はない。ジュディスは先ほども述べたが、行儀はなかなかいいが焦らされるのは嫌いなのだ。彼女の様子が明確に不機嫌を表わすことはないけれども、居心地の悪くなるような笑みを見せるので面倒だ。見ただけでは優しく微笑んでいるだけだと思うだろう。近くにいれば分かる、相手にかけるプレッシャーは普通ではないのだ。

 

 

「待たせたな」

 

「少しね。あら、ファルーグ。あなたは悪いけどお留守番していてもらえるかしら」

 

 

  シャドーの肩に止まったままのファルーグは、ジュディスの言葉にピィと鳴いた。《分かっているさ》とでも言いたいのだろうか。

 

 

「…頑張って、お父さんしてね」

 

「ピィ」

 

「いい返事。素敵よ」

 

 

  そんな一羽と一人の会話の後、シャドーとジュディスはハルルに向かうことにする。

 

  シャドーの両親は《楽しんでこい》と客とともに二人を快く送ってくれた。ジュディスの笑みを、シャドーは見ない。それを見る覚悟はないから。

 

 

 

「バウル、変なふうに飛びやがって…」

 

「はしゃいでたんだわ、きっと」

 

 

  いつぞやのバウルレースのときのような速さで、且つ、縦回転や横回転、そして宙返り、急降下なんてのをしまくってハルルについた。かなりのスピードだったのに、ハルルに到着するのがそれに比例しないのはそういうことだ。

 

 

「っくそ、変な所毛玉になって苦しめ…」

 

「バウルの毛って玉になるのかしら?」

 

 

  ハルルに入ると、見慣れた騎士が出迎えてくれた。

 

 

「やぁ、シャドー、ジュディス。来たんだね」

 

「フレン? お前、こんなとこでどうしたんだよ?」

 

「エステリーゼ様の書類を受け取りに。これはついでにしなければならないんだが、ヨーデル様が羽を休めてこいと」

 

 

  カロルからの【ぴかぴか新人歓迎のめちゃめちゃ大歓迎会!!!】という招待状をフレンは見せる。

 

 

「あの人はそれを許してくれたのかしら?」

 

「ソディア達にも言われてね。上司が休まないと部下が休めないから、と」

 

 

  “ソディア”という名に、シャドーは目線を少し下げた。目の光が濁ったのを隠すためだ。

 

 【ザウデ不落宮】にて、ユーリがソディアの不意打ちを受けて海に転落したのを見たシャドーは、そのような愚行を起こしたソディアを斬ろうとしたのだが、ユーリの救出を優先させるため気絶で済ました。その後、海に飛び込み、クローネの力を知らずに借りてユーリを救出した時に、デュークと合流。そのとき、三人でユーリの自宅に帰還した。そして、救援要請に来たソディアを【ユーリの仇】として斬ろうした所、ユーリに制止されたため剣を納めた。しかし、フレンの救援に向かう時、ソディアに対して『ユーリに免じて今回は見逃してやる。だがもし、またユーリに危害を加えた時。その時は、必ず貴様を殺す』と殺気をむき出しにし、睨み付けながら言い放ってその場を後にした、ということがあった。

 

 フレンもジュディスも知らないことで通しているが、そういうことがあったのは知っている。シャドーが言ったわけでも、ソディアから聞いたわけでもない。目と耳はどこにでもある、ということだ。

 

 

「それより、ユーリ達には会わなかったかい?」

 

「いんや」

 

「そうか、せっかく色々用意したんだが…」

 

「お前、もしかして…」

 

 

 シャドーの顔が軽く青ざめる。先ほどの暗い気配が消えていいのかもしれないが、恐怖が間近に迫っている今はどうすればよいのか。

 

 

「あぁ、僕も調理を手伝おうと思ってね。貯まる一方の給料を使って色々用意したんだ」

 

「そうか、分かった。ブツを渡せ。取引か? 俺らの命とお前の料理でトレードなのか? その爽やかな顔に腐ったパイぶち込むぞ、オラ」

 

「何言ってるんだい、シャドー。食べ物を粗末にしてはいけないんだよ?」

 

「お前の作るのは“兵器”なんだよ」

 

「そんな馬鹿な。美味しくできるのに」

 

「…あれは、美味しくできたからああなったのかしらね」

 

 

 旅の道中、フレンが作った成功したような感じのする料理を食べて、一時的に能力がパワーアップしたことはあった。味覚を犠牲に。ミステリアスシェフの称号を持つが故に、味がミステリアスになり食べた者をミステリーなことにするのか。なんとか迷宮入りは逃れたのだが。あの味を思い出し、ジュディスすら表情が若干引きつる。

 

 

「………。あれだ。騎士団やらなんやらでいつも忙しくしてんだから、今日ぐらい休めよ。休んでてくれ、頼むから。お前は食う側でいいんだ。作る側でなくていい。ステイ、フレン」

 

「だけど」

 

「あなたが休まないと、自分も休んでられないという人は必ず出てくるわ。さっき自分で言ったでしょう? 『上司が休まないと部下が休めない』って」

 

「………」

 

 

 ハルルを拠点にしたエステルの警護のために、騎士がフレン以外にもちらほらいる。そのどれもがフレンよりは下の立場だ。上司が動いているのに、というのは必ず出るだろう。なので、調理するな、いや、休んでいるべきなのだ。

 

 

「分かった。見回りぐらいにするよ」

 

「あぁ、そうしてくれ」

 

 

 そう言ってフレンは二人に背を向ける、途中でシャドーに声をかけた。

 

 

「シャドー。エステリーゼ様にちゃんとご挨拶するんだよ」

 

「…だりぃ」

 

「まったく、君は…」

 

 

 まっとうな返事でないものの、行くということは分かったらしい。幼馴染パワー凄い。

 

 

「んじゃ、行くか」

 

「いってらっしゃい」

 

「ジュディスは行かないのか?」

 

「私は後でにするわ。バウルともう少し飛んでから」

 

「もうあんな飛び方止めてくれって言っといてくれ」

 

「あら、楽しいのに」

 

「あんま楽しくない」

 

「楽しいところはあったのね」

 

「…少し」

 

 

 そんなことを言って、シャドーはジュディスとも分かれる。向うは、最近作られた絵本に出てくるような家だ。

 

 

 

「よぉ、エステル。俺だ。入っていいか?」

 

 

 護衛兵からは顔パスで通してもらっている。エステルからシャドーの自宅に行くこともあれば、ごく稀にシャドーの方からエステルに会いに行くこともあるので慣れているのだ。だけれでも、一応、程ほどに堅苦しい許可を受ける問答はする。形式というものは必要であるのだ。皇帝はヨーデルに決まったとはいえ、エステルは皇族。万が一は、誰にとっても恐ろしい。面倒くさがって窓から忍び込むと、より面倒なことになる。エステルはある程度しか気にしなかったものの、ヨーデルは“他の色々な観点”から、シャドーにお願いすることがあった。のほほんとしている見た目と裏腹に手腕は凄まじい彼の方、“悩み事”は帝国としても、なるべく持たせたくないのだろう。

 

 つまり、昔のような下町っ子らしい生き方はもう出来ないということだ。

 

 

「シャドーです? ちょっと待っていてください」

 

 

 ヨーデルの補佐をしている傍らであるが。“エステル”というペンネームで絵本作家をしている彼女の仕事場は、絵本の資料であったり、帝国に関する書類等々。それぞれ丁寧に分けてはあるものの量が凄い。先ほどのフレンが言っていたことから、書類関連で忙しかったのかもしれない。少々待たされた。

 

 

「シャドー、よく来てくれました! さ、入ってください」

 

「おう」

 

 

 家の周りは、ある程度警備を固めているとはいえ、部屋にはエステルだけ。彼女は闘技場で二百人斬りを達成しているし意味はないかも知れないが、それでも近衛騎士やら専属の護衛騎士が必要のはずである。何故いないのかというと、なって欲しい人がいるのに、その人が自分からなる、とは言わない所為だ。エステルは自分専属の護衛騎士の勧誘を、シャドーに行っている。なにせ、お忍びとはいえシャドーの自宅にまでいくこともあるのだから、ヨーデルすら悩んでいることである。一応、こっそりシュヴァーン隊やフレン隊やらが影から見守りつつだ。なのだが、下町で騎士は目立つ。暗黙の了解となるほどに、目立つ。暗殺者の心配は、実力面だけで言えばエステルもシャドーも心配ない。シャドーと同じく下町暮らしに戻ったユーリの助けもすぐあることだろう。だが、万が一はある。精霊が知らせに来ることもあろうが、“手遅れ”もあるかもしれない。心配しすぎという声はあるだろう。しかし、まだまだ帝国とギルドの関係は安定しきっていない。帝国主義関係者やギルド主義関係者が自身らの“手”のために送り出すことは低くないのだ。それに魔導器(ブラスティア)が使えなくなった世は、まだまだ落ち着いていない。結界魔導器(シルトブラスティア)が使えなくなった影響は相当なものだ。魔物も、範疇である。

 

 短く纏めれば、エステルはひどく危うい状況ということだ。

 

 

「さっそく来てくれて嬉しいです。手紙にも書いたとおり、行き詰ってしまって…」

 

「ん? なんのことだ」

 

「………。手紙、読んでないんです?」

 

「俺はカロルのやつで来たんだよ」

 

 

 ヒラヒラ、と招待状を見せる。模様などのセンスはいいのに【ぴかぴか新人歓迎のめちゃめちゃ大歓迎会!!!】という文字で台無しのもの。

 

 

「あぁ、カロルの。…カロルからのは読んで、私からのは読んでくれなかったんですね」

 

 

 すねられた。そして、下町暮らしの連中では買えない品物、そんな机に置いた、これまたお高そうな羽ペンの羽部分をいじいじしだす。

 

 

「お前から送ったやつあんの?」

 

「送りました。ファルーグが逃げてしまうので、そのお嫁さんに渡して送りました」

 

 

 何とか仲良くなろうとするエステルや、鳥だからとバカにするリタには素っ気ないファルーグ。ユーリ、ジュディス、パティにはそれなりに懐いている。カロルは、彼のリーゼントにいろんなものをつっこんで保管庫代わり。ラピードと意志疎通も可能。おっさんとは、彼の髪の毛で巣を作ろうとする程度の仲。昔、ファルーグのために調理したご飯をあげてから、フレンに対して微妙に警戒している。お父さんになってもあまり変わっていない。

 

 

「こいつ?」

 

 

 バッグから出された一通の手紙。よくよく見れば、隅に彼女の名前が書いてあった。

 

 

「そうです。あ、封も切ってません。シャドー、手紙は着たらすぐ読まなきゃ失礼です」

 

「悪かったよ。でも、こうして会ったんだから、今言やぁいいだろ?」

 

「もう…、せっかく手紙を書いたんです。読んでくださいよ?」

 

 

 あいよ、と軽い返事をするシャドー。その返事を聞いても、エステルは何度も念を押す。止めさせるために、手紙をなるべく丁寧にバッグにしまい、バッグ越しに軽く三回ほど叩いたのを見せ付ける。《忘れず読みます》ということだろう。

 

 

「で、行き詰るって何だよ。難しいことじゃ、俺、役立たねぇぞ」

 

「難しいことじゃないです。いえ、簡単なことでもないんですけど…」

 

 

 面倒くさいことには間違いない。そう思うも、前のように避けようとする気はない。“凛々の明星”結成当時は、ユーリ任せに様々な依頼をこなしていた。が、仲間であるエステルがアレクセイに誘拐されてからは、責任が持てるようになっていったのだ。具体的には、自分の事を決め始めた。だけれども、まだまだ根本は変わらない。相手の事や物事の根本を理解してからでないと動けないまま、だ。考えながら動くことが出来ないのだ。

 

 考え込み、精査し、工程を確認した後、ようやく目的を認識する。動くまでに多大な時間が必要なのが、シャドー・エンドワースという人物。機械的に効率よく完璧に、なんとなくで生きようとしていた人間。

 

 それが、なんとかラグやミスをしつつも、自由と自我を持った行動をしようと足掻いている。

 

 題名だけの本にインクを染み込ます作業をしているのだ。

 

 

「絵本の内容を、ハッピーエンドにしたいんです」

 

 

 いつかした物語は、ハルル中どころか他にも広まった。心が温まる物語は、今まで出ている絵本も同じである。彼女の絵本は優しいお話、悲しい始まりはあるけれども最後はハッピーな終わりであるものだ。捻た考えをする者からすれば、そうでもない、というものもある。それでも、基本的に彼女の作風はハッピーエンド主義というものだ。…どこぞの、可愛らしい魔法少女をマミらせる人とは違って。

 

 

「どうしても悲しい話で終わりになってしまうんです…」

 

 

 挿絵やら文字の書かれた紙は、一冊の絵本にするには多すぎる。没のものが多いのだろう。そして、彼女が納得するものは未だ作り上げられてはいないようだ。

 

 

「なんか、嫌なことあったか。お前に」

 

 

 挿絵の一枚を指で触りながら作家に尋ねる。首を横に振られた。

 

 

「皇帝補佐のお仕事も絵本を作ることも、大変ですけど嫌ではないんです。そもそも嫌なことなんてないんです。…でも、このお話を幸せにしてあげられないことは、嫌なことでしょうか」

 

 

 エステルが一枚の紙を、シャドーに見せる。始まりの一ページだ。

 

 

『いつもやねのしたにいるのは まっしろな いちわのとりです』

 

 

 エステルの優しい声が部屋に響く。ハルルの花びらが一枚、二枚。さらりさらりと音も立てず、窓に当たっては流れる。その淡く優しい色合いが、夜の暗さによって儚く陰っても物語は寂しい終わりのままだった。

 

 

 

「みんな、グラスは持ったね!」

 

 

 カロルがみんなを見渡す。

 

 

「じゃあ、えーと…。お忙しい中、皆様お集まり頂き、まことに」

 

「カロル先生。俺、堅苦しいのパス」

 

「そ~よ、少年。俺様たちにそういうの似合わないわよ」

 

「カロルはもっと子供らしいのが合っとるのじゃ」

 

「…ボクはボスになったんだから、子供から卒業しなきゃダメなの!」

 

 

 ユーリが酒の入ったグラスをこぼれない程度に揺らして言うと、レイヴンとパティも便乗する。そんな彼らの前にある机には、所狭しと並べられた料理がおいしそうな湯気を出している。フレンは関わっていないのでご安心ください。

 

 

「とにかく早くしなさいよ、ガキンチョ。お腹空いてんだから、こっちは」

 

「まぁまぁ、リタ。こういうときの言葉って、人それぞれ特色が出るものですから楽しみにしましょう」

 

「ふふ。カロルなら、きっと素晴らしいお言葉が出るんでしょうね。期待して待ちましょう」

 

「ヴ…」

 

 

 机に肘を突きながらカロルに圧をかけるリタを宥めつつ、ハードルをあげるエステルとジュディス。それにいつものようにキョドるカロル。見栄を張る前に、張らされるようだ。思わずシャドーとフレンに、助けて、と視線を投げる。

 

 

「ギルドの挨拶でどういうものなんだろうね、シャドー。騎士のように固くはなくとも、見事なものなんだろうな」

 

「かもな。特に、俺らのボスなんだ。詩人にすら謡われるような荘厳な文句だろうぜ」

 

 

 重ねて上げられた。天然と偽天然である。

 

 

「え、えーと…、うぅ。…みんないっぱい楽しんで、たくさん食べて、ごゆっくり寝てください!! 乾杯!!!」

 

≪乾杯!!≫

 

 

 簡潔でいい言葉だった。

 

 

 

 

 旅当時の雰囲気はわいわい和やかなパーティであった。レイヴンが調子に乗ってリタをからかえば、カロルを交えてレイヴンもろともファイアーボールが襲う。エステルとジュディスが焚きつけたパティがユーリに色仕掛けしようと追いまわすのを、シャドーとフレンがユーリを助けてあげたり。リタが久しぶりに会えたみんなとの楽しい時間に少し涙ぐんだところを、皆してちゃかして怒られたり。男達と女達、それぞれで盛り上がる話題をしていたりと、わんちゃかわんちゃかしていた。

 

 

「ふぅ…」

 

 

 片づけが終わって、一服する。酒を飲んで火照った体に、ほんのりラズベリーのメンソールが染み込んでいく。甘い香りと甘みが感じられる。口の中にこっそりと忍び込む煙を、舌を使って踊らせる。すると、より香りと味がゆったりと舞うのだ。夜になっても舞い散るハルルの花の香りと混ざり合った煙を楽しむ。鼻より直接的に感じる甘さを吐き出すのが惜しくなるも、体が呼吸を求めるのでしょうがなく吐き出す。辺りに舞う紫煙は夜に馴染むようにゆっくりと消える。その様を見つつ、また煙を味わう。ヘビースモーカーではないが、煙を楽しむ程度の愛煙家だ。舌は肥え、安物とは違う美味に浸る。むせるときのような咽に苦しさと圧迫感はない。寄り添うように煙が咽を撫で上げる。肺にゆったりと降りてくる様は、羽を休めに来た鳥のようだ。じれったくなるほど遅く、もう少し手を抜けばいいのにというほどばか丁寧に、乱暴にして欲しいほど優しく、肺の中に染み込んでシャドーの身体の中に遊びに来る。長くいて欲しいけれど遠慮深いのか、早くに出て行ってしまう。残り香すら甘い。

 

 

「シャドー」

 

「ん…」

 

 

 甘い味と香りに酔った身体を未成年の声にたたき起こし、まだまだ味わえるタバコを消す。愛用の携帯灰皿に惜し気もなく潰し入れた。子供にタバコの煙を吸わせるわけにはいかない。

 

 

「少し煙いわね」

 

「風向き変わったのか、悪ぃな」

 

 

 ジュディスは見た目は成人しているように見えるが、まだ十九。子供の範疇なのだ。

 

 

「ジュディスー、シャドー、いたですー?」

 

「えぇ、こっちよ」

 

 

 エステルまでやってきたらしい。ジュディスより年下だ。よりタバコは控えねばならない。

 

 

「くっついてたリタは?」

 

「寝ちゃったので、お部屋に」

 

 

 酒は、おっさん除く大人メンバーが未成年には一滴も飲ませなかったものの、“場酔い”というやつでリタはメンバーに全力で絡んだ。特に絡んだのが、彼女の親友であるエステル。絡み上戸であるし、泣き上戸であるし、甘え上戸のリタ。覚えていたら、皆にダイタルウェーブを百ほどぶつける事だろう。彼女のレベルが天元突破するほどに。彼女を除くメンバーはどうなるかというと…まぁ、五体は満足であろう。身体ダメージは知らん。頑張ってくれ。

 

 

「子供はもう寝たほうがいいんじゃねぇか?」

 

「大人が起きていると子供って寝ないものよ」

 

「シャドーはどちらかというと子供の方です」

 

「…お前らより年食ってんだけどなぁ」

 椅子なんてものは無いため、地べたに座り込む三人。エステルは用紙と筆記用具を持参、ジュディスは軽い飲み物を。シャドーだけ、何も持っていない。

 

 

「では、始めます」

 

 

 エステルを真ん中に挟んで座っている。

 

 

「絵本のやつ?」

 

「そうらしいわ」

 

「皆の意見は聞いたので、三人でいい結末を見つけ出したいんです!」

 

「ジュディスも…?」

 

 

 シャドーも絵本とは縁遠い感じがするが、ジュディスもなかなか。シャドーの不思議そうな視線に、ジュディスは微笑む。

 

 

「面白そうだから」

 

「なる…」

 

 

 用紙にはメモ書きだろう、文字が羅列している。エステルの両隣から覗き込む。

 

 

「白い鳥が自分の色を見つけたいって話だったよな」

 

 

 白い鳥が他の鳥と同じような色に染まると『それはお前の色じゃない、自分の色だ。同じにしないで』と怒られ、また同じようなことをして同じようになるという流れ。

 

 

「皆に聞いたんですけど…。ユーリは『泥棒』な意見ですし、カロルは『慎重すぎる』ものです。レイヴンは『現実的』ですね。リタは『楽観視の面が強すぎ』かもしれません。パティは『恋愛もの』なってしまいますし、フレンは『違う話』になります」

 

 

 ユーリは『いいじゃんか、俺にもよこせよ』で、カロルは『まだ染まっていない色を探しにいく』。レイヴンは『自分に色は無いんだと諦める』、リタは『それも人生だろうと、ただ生きる』。パティは『昼ドラめいたもの』、フレンは『色の問題を社会問題と重ね合わせている』。ということだろう。

 

 

「ジュディスは?」

 

「シャドーと似ています」

 

「『同じような鳥と共に生きる』かしら」

 

 

 そのような視点は、パティとフレンを除いたメンバー全員が似ている。ユーリのような暴論も、レイヴンのような消極的な意見も、凝縮した意見は、まさに諸行無常の生き方にして逝き方。この世の全ては、そのままではいられない。故に、変わらずにはいられないものであるというものだ。“未来を変えていく”というもの。パティのもフレンのも根本はそれだが、話題がずれている。そもそも、今作は恋愛物や政治物が主題ではないのだ。

 

 

≪皆と冒険して分かった“自分で決める”ということの大事さを伝えたい≫

 

 

 絵本で理解させるには難しい。もとより、自己啓発本や論文で取り扱っても解釈が膨大に溢れているし、そういうものらでも結局は“勝手に生きろ”という無責任なものだ。エステルはそのようなことを伝えたいのではない。

 

 “自分で決める”とは怖いし、辛いし、苦しい。すぐに誰かに縋って任せたくなる。考えてる時間は多大にあるようですぐ無くなる物だし、達成する手は足りないことだらけ。真っ直ぐ歩いていると思ったら、転んで落ちている最中だったりする。

 

 けれど、“自分で決める”ことは“明日に怯えることではない”

 

 “自分で決める”というのは

 

 

「“明日が怖くなんてない”」

 

 

 明日の朝日が綺麗で在れ。明日に友と楽しく語り合え。明日だから、愛おしく生きていこう。

 

 “自分で決める”とは“明日に怯えることではない”。

 

 “明日が怖くなんてない”って笑い飛ばすためだ。

 

 

「そう、シャドーが言った言葉。世界中の人に伝えたいんです」

 

「…それと、あの絵本との繋がりねぇように思うんだが?」

 

「あら。あなたは、絵本の中にいたわよ」

 

「は?」

 

「しろい いちわ の とり」

 

 

 ジュディスがメモ書きの隅に小さく描かれた鳥を指差す。

 

 

「シャドーは、ちゃんと“自分で決める”ことができるんです。そうなんです。そう、なんです」

 

「………」

 

 

 その絵をなぞりながらエステルは小さく笑った。シャドーは口寂しくなっている。吸う気は無いがタバコの箱に手を伸ばしてしまう。その手をエステルに止められた。

 

 

「ジュディス」

 

「えぇ」

 

 

 気の合う中、空気を悟る。逃げようと腰を上げようとするも、今度はジュディスに服を引っ張られてしまう。

 

 

「シャドー、私達といて」

 

 

 二人のその言葉はシャドーの“明日”を欲しがったから。どうしても、欲しくなったから。

 

 “明日が怖くなんてない”ことを未だに間違っているシャドーが“馬鹿な男すぎて愛おしい”のだから、“決定”を言い渡してしまった。

 

 

 

 

 絵本の話を先にしたのは、エステルとジュディス、二人の共謀だ。

 

 “決定”を言い渡せば、すぐ実行してくれるのは二人ともよく理解している。

 

 旅の中、仲間として過ごした日々。当初は、やる気の無いシャドーを頼りにするのは気が引けた。でも、何度も躓いて顔には出さない痛みを我慢する様に苦しくなったのだ。親友にして幼馴染のユーリとフレンも知らないだろう、穴を埋めようと必死に足掻く姿。

 

 エステルは戸惑った。ジュディスは訝しんだ。

 

 エステルは対人関係の経験が少ない。ジュディスも深い仲になるほどのものはなかった。だから、二人はそれぞれ違う方法でシャドーを観察しだしたのだ。

 

 エステルはシャドーの前を歩き、彼の歩く音(生き方)に耳を傾けた。ジュディスはシャドーの後ろを歩き、彼の止まる音(生き様)に耳を澄ました。

 

 歩く音はおそるおそる。止まる音は静かに。どれも音を立てないように細心の注意を払ったものだ。

 

 動くのなら音は小さくても必ず出る。無音というものは生物には存在しない。でも、シャドーの足音(心音)はとても静か過ぎて、時には聞き取れないほどだった。

 

 二人は微妙な音を逃さないよう気をつけた。変化するのは時間がかかったが、ようやく本当の音を聞き取れたのだ。エステルが攫われ一時的に世界の敵になったあの日。

 

 エステルはまともでない頭でも聴力はしっかり働いていた。ジュディスは音を知ったとき、思わず固まった。

 

 

 “明日が怖くなんてありませんように”

 

 

 その言葉が、シャドーの剣戟の音共に二人に響いたのだ。

 

 いじめられっこの“SOS”。それが、シャドーの悲鳴だった。

 

 どうして、と混乱するのは分かるだろう。愚痴の多い奔放な怠け者。才能と実力はあるのだが、その怠け癖のせいでなかなか開花せず、自分から行動しないなどなかなかな困り者。が、本気を出すと たまに冷酷ともみれる言動をとることもある人物。それが、エステルとジュディスが見てきた、シャドー・エンドワースという男だ。ひどく好かれ難い男だ。

 

 それなのに、ユーリとフレンの大事な親友であるのは。

 

 助けられなかった昔の自分と、今を生きる大切な人たちのために、不恰好に立ち上がる“ヒーロー”だから。

 

 愚痴だって酷すぎる事は言わない。怠け癖だっていざというときはちゃんとする。そうできるのは“そうしようと決めたから”だ。

 

 子供の頃にいじめにあっていたシャドー。孤児のユーリも、片親のフレンも同じようになっていた。下町は結束が固いとはいえ、子供同士の精神性など幼稚である。いじめっこといじめられっこは必ずいるものだ。どんなに大人が叱ろうと子供だって意思がある。特に暴力性のある潔癖があるのものだ。そんな者の前に立ち上がることは、とても恐ろしい。

 

 

 けれども。

 

 

 “明日が怖くなんてありませんように”と自分からのSOSに自分で応えた。自分にヒーローはいない。だから、“自分がヒーローになる”。そうして、育てた自分へのSOSを昇華しようとした先の騎士団で、心を折られた。

 

 不完全燃焼。半端に燻る熱。SOSはまだ治まっていない。自分からのSOS(ぽっかり空いた穴)を埋めなければ気色が悪い。埋め立てることは選べないのは道理だ。自分のルーツがなくなるのは怖いのだ。“明日が怖くて堪らない”なんて弱音は、もう吐けなくなったのだから。

 

 

 だから。だから。

 

 

 悲鳴は雄叫びに。弱さを黙らし、強さを呼び覚ます。

 

 

 その変わりように、惹かれた。

 

 

 痛ましい悲鳴ではない、血潮滾る雄雄しい声。共に行こう、と友愛が歌うもの。

 

 だけど、本当は。

 

 隣にいたい、と女の胸に轟く、男の怒声。そんな怒りに満ち腹から出た絶叫。

 

 そんな好かれそうになんてない男のことが、“馬鹿な男が好きになる”きっかけだったのだ。

 

 “明日は怖くなんてない”。その言葉を正しく理解したのは、エステルとジュディスだけ。

 

 シャドーを愛してくれる、彼女らだけ。

 

 

 シャドーは“明日が怖くて堪らない”から、“明日が怖くなんてない”よう、エステルとジュディスが“明日も共にいる”。

 

 

 共にシャドーといようとする熱意は並々ならぬ者だろう。二人もセットになるなんて、普通考え付かない。だけど、悩みはしなかった。共にいるのが一人では、足らないから。二人なら、足りるよう調整しやすいから。

 

 女の情念は深遠より深い。愛したいのだ、ずっとずっと。今も、明日も、その先も。

 

 “明日は怖くなんてない”から、“同じような人と生きる”のだ。

 

 

「あぁ、分かった」

 

 

 三人揃って“明日は怖くなんてない”と分かるように。

 

 

「好きですよ、シャドー」

 

 

 エステルの手がシャドーの左手を握る。

 

 

「シャドー、好きよ」

 

 

 ジュディスが後ろ手でシャドーの右手を握る。

 

 

 あとは、真実の告白を聞くだけだ。

 

 穴は塞がるよう頑張ってきた。けど、広がるばかりで、深まるばかりで、嫌になった。

 

 二人と話すまで吸っていたタバコ。その存在が疎ましくなる。今までは、気分転換に吸っていた。リフレッシュだ。吸ったときはいい気分になる。けれど、すぐに心が乾いてしまった。騎士団に失望したあの時のように、イライラが止まらくなる。だから、また吸う。甘い味と香りのものにしたのは、それらがとても自分に合っていたから。嗜好的な意味でも、煮詰まる思考という意味でも。

 

 エステルの誘いもジュディスの誘いも、なんとなくだらだら逸らしていたのは、気持ちが漏れてしまうのが怖かったのだ。

 

 だって、どちらも好きだから。友情的な意味でも、それ以上の感情もあったから。

 

 エステルの成長しかけの危なっかしげな雛のようだったのが、厳しい明日を強く生きようとする姿が。ジュディスの成鳥したての強くあるようで弱かったのが、考えずにいた明日を芯のあるように生きようとする姿が。

 

 眩しく映った。いや、心情を上手く言い表すのなら、邪恋だ。道徳から外れた恋を抱いた。一人ではなく、二人に惹かれたということがすでに外れているが、もっと道徳心を欠いたものがあった。それは、場違いな警戒心だ。何故、そんなものを抱いたのか。今となって、ようやく分かる。

 

 離れろという警告。それは、シャドー・エンドワース、俺の“今”を守るため。

 

 “明日は怖くなんてない”、だって“優しい今”があるから。それだったのだ。

 

 子供心の恐怖心は愚痴で誤魔化してきた。大きくなって目の当たりにした失望感は適度に怠けることで忘れようとした。そして、できあがる。愚痴の多い奔放な怠け者、シャドー・エンドワースができたのだ。

 

 だけれど、穴は開いたまま。縫い合わせようとも、“今”で塞ごうとしても無駄だった。

 

 だから、彼女達が。

 

 こんなにも、思っていてくれるのなら。

 

 穴は無くなってくれるだろう。“SOS”はもういいんだ、と止められる。だって、エステルとジュディスが俺を、こんな弱っちい馬鹿な男のことを好いてくれているのだから。

 

 

 “明日が怖くなんてありませんように”

 

 

 その言葉はハルルの花と共に、何処かに舞っていくといい。消すというには、あまりにも犯跡として大きくなりすぎたのだ。だから、何処かで確かにあった罪科としてあればいい。癒えない傷痕となって、俺たち三人を祝福してくれると嬉しい。

 

 

 “明日は怖くなんてない”

 

 

 力強く、そう言って笑おう。

 

 

「エステル、ジュディス」

 

 

 心拍数が上がる。柄にもなく緊張しているからだ。心なしか瞬きの回数も増えている。タバコの所為か、唾液があまり出てこず口が渇く。情けない様。告白を女から言われるし、されたら感情が止まらなくなって身体すら制御できない。

 

 制御できない方がこれからはいいのだ。ラグはある、ミスもところどころある。思考速度と行動が同時に出来ない、のろまな俺。それでも、愛しい二人が支えてくれる。だからこそ、“明日”に進めるのだ。

 

 今の状況を計算して作り出した聡い人達だ。上手く俺と生きてくれるだろう。

 

 

「大好きだ」

 

 

 ぎゅっと左右の手を握り返して告げる。

 

 微笑む愛しい人達。夜明けを告げる朝日のように眩しくて、暖かくて、好きが増えてしまう。そうだから、何度も好きを告げる。分かって欲しくて、もっと好きになって欲しくて。

 

 俺は、エステルが、ジュディスが、好きなのだ。

 

 旅の中で生まれた感情を語る。三人で生きる“明日”がより、キラキラと輝く星であるように。二人の一番になりたい。俺の愛刀、”サンバンセイ”。それの名の由来は『一番星はフレン、二番星はユーリ、三番星は自分』という意味が込められている。だからこそ、もう物足りなくなっているのだ。エステルの中では俺が一番、ジュディスの中では俺が一番。二番や三番も俺で埋めて欲しい。

 

 だって、やっと“明日は怖くなんてない”のだから。

 

 

「シャドー、愛してますよ」

 

 

 エステルの可愛らしい声は子守唄のように眠りを誘う。

 

 

「愛してるわ、シャドー」

 

 

 ジュディスの声は大人びているのに甘えてくるようで構いたくなる。

 

 

「愛してる、エステル、ジュディス」

 

 

 絶妙な連携で、俺をより二人の虜にされる。

 

 

 あぁ

 

 

「“明日は怖くなんてない”」

 

 

 自分で決めた。決定を言い渡されたのは、きっかけにすぎない。だって、ちゃんと俺が決めるのを今まで待っていてくれたんだから。このような小悪魔気取りの可愛らしさはいじらしいじゃないか。

 

 

「テルカ・リュミレースの誰よりも二人を幸せにする、絶対に」

 

 

 こんな文句で余裕がなくなって赤面する愛しい人たちだ。伊達にお前らより年は食ってない。愛し抜くというなら、三人の中で俺が一番にやり遂げるのだから。

 

 

「お前らの“明日”を絶対に返さない」

 

 

 脅す。でも、雪崩れ込むように二人して胸に飛び込んでくる。

 

 

「ずっと傍にいるんだぞ。離したりなんかしねぇかんな」

 

 

 飛び込んできたとき自由になった両腕で二人を抱きしめる。服が濡れていくのが分かった。まったく、いじめがいがない。

 

 

「もう、離さない。エステルとジュディスを離したくなんかねぇ」

 

 

 あまり痛くないように気をつけているが難しい。女はこんなに壊しやすいように出来てるなんて知らなかったから。

 

 

「親父の遺伝で禿げるかもしんねぇ、腹も出るかもしんねぇ。そんでも、好きでいろ」

 

「世界一、素敵なお父さんになりますね…」

 

「どうなってもあなたは誰よりも男前よ…っ」

 

 

 命令に反応するなんて、なんともいじめられっこ根性があるやつらだ。

 

 

「俺が死んだら、何も言わずすぐ後追ってくれるか?」

 

 

 死を教唆する。子供がいようと、大事な用があろうと、何もかも捨てて俺と心中して欲しい。

 

 

「喜んで!!」

 

 

 断られはしないことは分かっていた。今まで決定を言い渡さずいてくれた彼女たちだ。このような俺の思考もばれている。でも、言葉にして欲しいものだったから。

 

 俺たち三人の“明日”に、ユーリとフレンは苦笑混じりに全力で応援してくれるだろう。リタは徹底的に抗戦するが、いつか折れるに決まってる。カロルは目をひん剥いて驚愕するのだ。レイヴンは白旗を両手で振って幸せを願ってくれる。パティは目を輝かせて祝砲を撃ちまくるから海の荒くれ共が泣き叫ぶのが見える。ラピードとファルーグは、気張っていけと渋い愛想を送ってくれるのだ。

 

 そんな日々を早く過ごしたい。

 

 

 

 “明日は怖くなんてない”

 

 

 

 




主人公はユーリとフレンの親友で、ユーリ一行の仲間

 ☆主人公設定

シャドー・エインドワース


◆クラス:元騎士

◆年齢:20歳

◆一人称:俺

◆人物像
・ユーリと同じ下町の帝都の下層民街出身。親友のユーリ・フレンと共に育ち、夢にまで見た騎士団へ入隊した。しかし腐敗しきった帝国や騎士団の内実に嫌気がさし退団。その後、下町でユーリと共に用心棒のような仕事をしている。ユーリ以外には懐かないラピートからは それなりに懐かれている。ユーリとの絆も固く、権力を笠に着る貴族を裁くユーリの手助けをしたり、ユーリを傷付ける者・傷付けようとする者は決して許さない。

◆性格
・愚痴の多い奔放な怠け者。才能と実力はあるのだがその怠け癖のせいでなかなか開花せず、自分から行動しない(面倒なためか?)などなかなかな困り者。が、本気を出すと たまに冷酷ともみれる言動をとることもある(『真・三國無双』の司馬昭のような感じ)。

◆概要
・「水道魔導器奪還編」では牢屋に投獄されたユーリを救出するために城に潜入。その後は脱出したユーリと騎士に追われるエステリーゼと合流。その後はエステルをフレンに会わせるためにユーリ達と共に旅に出る。
・「凛々の明星編」ではユーリ任せに様々な依頼をこなしていたが、仲間であるエステルがアレクセイに誘拐されてからは責任が持てるようになっていく。エステル救出後は徐々に周囲にもその実力を知らしめるようになった。
・「星喰み編」では「ザウデ不落宮」でアレクセイを討伐後ユーリがソディアの不意打ちを受けて海に転落したため、ソディアを気絶させて(本当は斬るつもりだったが、ユーリ救出が最優先であった)海に飛び込みユーリを救出した時にデュークと合流して(「宙の戒典」をユーリから返してもらうため)ユーリの自宅に帰還。救援要請に来たソディアを「ユーリの仇」として斬ろうした所をユーリに制止されたため剣を納めるが、フレンの救援に向かう時にソディアに対して「ユーリに免じて今回は見逃してやる。だが もしまたユーリに危害を加えた時は、その時は必ず貴様を殺す」と殺気をむき出しで睨み付けて言い放ち その場を後にする。フレン救出後はデュークとの最終決戦に勝利。その後はユーリ達とデュークと共に「星喰み」を消滅させ、ユーリと共に下町の暮らしに戻るが、たまにエステルとジュディスが自宅に来て、エステルからは自分専属の護衛騎士の勧誘・ジュディスからは旅の誘いを受ける事が多くなった。

◆料理&好物
・ユーリと同様に料理作りが得意。ユーリと一緒にエステルに料理を教えることもある。マーボーカレーが大好物(自分が料理担当の時は、必ず作るほどのマーボーカレー好き)。

◆武器:サンバンセイ(刀)
・主人公の愛刀、”サンバンセイ”という名は「一番星はフレン、二番星はユーリ、三番星は自分」という意味が込められている。
◇サブウェポン:クナイ
◇戦闘
・刀と速さを武器に戦うスピードタイプ。剣術は我流であり、通常時は刀を右手に持ち、左手は腰に差している鞘を握り片手で刀を振るいスピードを駆使したトリッキーな動きをする独特のスタイルをもつ(『真・三國無双』の「烈撃刀」の戦闘モーションのような感じ)。本気を出す時は両手で刀を持ち中段構え(『ソウルキャリバー』の御剣のような感じ)のスタイルとなり、剣の実力者であるユーリ・フレンを圧倒する。




☆主人公の相棒の設定

●名前:ファルーグ

●クラス:戦闘鳥

●年齢:ラピートと同じ

●概要
・主人公に付き添うオスの鷹。あくまで鷹なので人語は読めないし話せないが、人の会話や奥義書の読み聞かせはきちんと理解できる。スピードを生かして敵を仕留めたり見張り番をしたりと意外な活躍を見せている。ラピードと同様に無愛想で主人公以外にはあまり懐かない。何とか仲良くなろうとするエステルや鳥だからとバカにするリタには素っ気ないが、逆にユーリ・ジュディス・パティにはそれなりに懐いている。主人公とは昔からの知り合いで、ラピードと意志疎通も可能。

●戦闘
○武器:クチバシ
○サブウェポン:足の爪。
・スピードを駆使して敵を撹乱させる前衛タイプ。持ち前のスピードを生かして敵からアイテムを盗んだり、ピンチの仲間に回復アイテムを渡したりとサポートキャラとしても優秀。





以上が、フリーリクエストをしてくださいましたシャドー様のご考案した設定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

TOG-F ソフィ

 

 

 

  アスベルたちの挙式から何ヶ月か過ぎた。血の繋がりがないとはいえ、すでに子供が居る、それも背がシェリアとほぼ変わらないほどの少女を持つ者が結婚式を挙げたのだ。【ラント領】にある教会で式を挙げたアスベルとシェリア。この夫婦となるための儀式でリングガールをソフィは務めた。三人の様子に、ラント領の人々は老若男女祝ったものだ。一部の若者達はなんともいえない表情を抱えていたが、彼ら親子を模したコップや皿が作られたりするほど盛大に。

 バロニアから国王のリチャードとシャドー、ストラタからヒューバート、フェンデルから教官とパスカル、といったかつてのメンバーも集まってくれた。皆、肩肘張らないように、とはこの日は出来なかったが、後日にこのメンバーでお祝いをしたものだ。礼節? なにそれ、バナナよりおいしいの? という22歳児のパスカルもその場では大人しくしていた。彼女の姉とポアソンの努力と、そして、未来のなにかになるかもしれないヒューバートが“恋人”として隣にいたためだろう。公の場、アスベルは領主となったし、国王のリチャード、他にも身分が上の方々もいらっしゃって無礼講というのは無理である。だから少々窮屈であったが、喜ばしいことには違いない。式中、ケリー夫人はアスベルたちの姿に始終嬉しそうであった。こうなる前には、シェリアの身分的に色々葛藤はあったろうが、『アスベルが決めたなら』と頷いてくれたのだ。跡取りになる子の催促までするほどにもなった。若干うざい姑のアレである。

 

 後日の旅メンバーだけの祝いの場では、リチャードの専属護衛騎士であるシャドーも食事を取ることができた。結婚式では“リチャードの護衛”がメインであったが、この日は“幼馴染の幸せ”がメインだ。幼年時代は気が強く頭はぼさぼさで“山猿”という愛称で呼ばれるほどであった。が、7年前にソフィを失ってから感情をあまり表に出さなくなったため無愛想に見えるようになってしまった。そして、現在は癖毛は直らなかったものの整髪しており、起伏の少なくなった表情に並ぶ冷静沈着な性格となったのだが、この日は気分が高揚していたのか顔はいつもより豊かであったのだ。

 

 宮廷料理師ほどではないが料理はできるので、この場の料理は彼が主軸で作っている。バロニアで流行っているものとラントの特産品で作られた品々は皆満足するものだ。酒の方は、流石に仕込が間に合わないのと未成年なため既製品であったが。

 アスベルの好物である甘口カレーとシェリアの好物である焼き鳥丼も、この日のために研究に研究を重ねて至上とも思えるものを作った。もちろん、彼らのご息女となったソフィの好物、カニタマも。“スペシャル”な甘口カレーと、“ブリリアント”な焼き鳥丼、そして“ロイヤル”カニタマ。リチャードの負債払いであるモンスター退治にも日々同行する傍ら、この日のために苦心してきたらしい。試作中、辛すぎだったり甘すぎだったり、何をどうしたらそうなったのか分からないもの、それは舌が痙攣し胃が受け付けるのを拒否するような味付けにもなったりもしたものだが、今日の親子の様子とメンバーを見れば分かる“美味しい”という出来栄え。見た目も凝っており、各国のフードデザイナーなる方々と交流を何度もしたとかしなかったとか。

 

 

 ヒューバードは教官とリチャードに、お前らはまだか、とからかい半分でいじくられ、彼のお相手のパスカルはバナナを使った料理をかき込んでいる。ソフィはもう5回めのロイヤルカニタマを取りに行っている。アスベルとシェリアは2人で照れつつも甘い雰囲気を出していた。彼らの様子に、昔のように大きく口を開けて笑うことはなくなったシャドーは嬉しそうに微笑む。自身が頑張って作った料理が無くなっていく様は見ていて清々しい気持ちと満足感を抱く。そして、旅をしていた雰囲気がある程度変わった仲もいるが、変わっていないことが嬉しく感じたのだろう。シャドーも料理を口に運ぶ。癖のある匂いの納豆を使ったものだ。けど、あの独特のにおいはあまりしない。旨味が口内を満たす。リチャードに“どうしても”と乞われて研究したものは、受け入れやすくなっている。研究していたのは、リチャードがかの星でお気に召したそれを商売に乗せようするためだ。ラムダに乗っ取られていたとはいえ、やったことは彼の生涯全てをかけても払いきれるかどうか。そのため貿易はかつてより弱腰なのだ。デール公などが国庫に頭を悩ませる中、リチャードが大量生産のしやすい豆に目をつけた。基本的、家畜の飼料がメインであったものだったが、様々に加工できることがアンマルチア族のお知恵で分かっている。貿易品としてはまだ上がっていないが、バロニアの料理店で取り扱うことは珍しくもなくなったし、静かなブームとなっている。他国からの観光客も、目当てで来ることも少なくない。他の2国と比べれば肥沃な地であるウィンドル、枯れる様子はないのだ。

 

「う~ん、おいしいなぁー!! ほら、ヒューくんも食べなよ!!」

「うごごごっ! ……はぁっ!! パ、パスカ、ふごぉ!?」

 

 

 1口どころか3口ぐらい食べていたバナナ料理をヒューバートに突っ込みまくる。必死に咀嚼し嚥下してもすぐ突っ込まれていた。彼の好物であるオムライスは先ほどまで食べていたが、あと5分の1あたりで食べることが出来なくなっていた。その様子に各々賭けをしているのは4人だ。

 

 

「僕はあと30分は持つと思うね」

 

「いえ、あともう10分はいけるでしょう」

 

「う~ん…、私はそろそろ限界じゃないかと思うんだけど」

 

「俺はまだまだ1時間は余裕でいけると思うぞ。なんたって俺の弟だからな」

 

 

 止める気がない。金銭等を賭ける様子はないため、ただの余興なのだろう。

 

 

「美味いか、ソフィ」

 

「うん! とっても、おいしいよ」

 

 

 こちらは興味がないのだろうか。肉類の味があまり得意でないシャドーはナスのソテーや、キャロットステーキといった見た目はボリュームのある料理を食べている。ソフィといえば、母親にカニタマ以外もバランスよく食べなさいと、皿に大量のサラダを乗せられたため、それを必死に片している。

 

 

「シャドーの料理おいしい。おいしいものは幸せな気持ちになるね」

 

「それはよかった。食べ物は美味く食べなければな」

 

 

  シャドーはスパイスを少しきかせた紅茶を口に含む。騎士学校で鍛えた胃は、かつてよりマシにはなったが無理をすればきつくなってしまう。配分を間違えぬよう、身体を冷やすものを食べた後に暖める作用を持つ物も胃に収める必要がある。味は、調整に調整を重ねたためひどい味ではない。

 

 

「うぅ…、緑が減らない」

 

「……、俺が」

「だめよ、シャドー」

 

 

 母親がやって来た。

 

 

「しかし、丼一杯にサラダだけはきつくはないか?」

 

「ロイヤルカニタマしか食べてなかったんですもの。これじゃ足らないくらいよ」

 

 

 とシェリアはバナナパイやショコラケーキ、エクレアにスイートポテトといったサイズは小さいものの、スイーツが結構積みあがっている皿片手にして、シャドーの言葉に自身の言葉を重ねた。

 

 

「甘いものは別腹というのは本当だな」

 

「な、なによ。ダイエットは明日からすればいいの。それに美味しいものはちゃんと食べなきゃ失礼だわ。スイーツは美味しいからいいのよ」

 

「シェリア、それを全部食べるのと砂糖とバターの塊を食べるのは同じだが」

 

「………言わないでよぅ」

 

 

 シャドーは真面目な性格の為か、度々ヘンな所に冷静に突っ込みを入れたりする。

 

 

「シェリア、食べないの?」

 

「えっと…」

 

「スイーツ、おいしそうだね」

 

「………」

 

「シェリア?」

 

 

 両手が震えているシェリア。葛藤があるのだろう。スイーツを食べたい。が、食べたらやばいことになる。けども、絶対美味しいから食べたい。でも、体重がとんでもなくなる。しかし、甘味を味わいたい。であっても、食べたら地獄を見る。だとしても、スイーツ食べたい。

 

 だが、それでも、けれども、どうあっても。

 

 

「ダイエットは明日から、では?」

 

 

 悪魔の囁きって、こんなはっきりと聞こえるものなんだな。

 

 シャドーは悪魔だった? いえ、たださっきのシェリアの言葉をそのまま返しただけで、他意はありません。たぶん。

 

 

「いただきますっ!」

 

 

 泣きながらシェリアは食べた。

 

 

「およー? なんでシェリア泣きながらスイーツほうばってんの?」

 

「あ、パスカルにヒューバート」

 

 

 パスカルの後ろでは、苦しそうにお腹と口を押さえているヒューバートが立っていた。どうやらパスカルが飽きたか、新しく食べ物を取りに来たかで一時難を凌いだようだ。

 

 

「シャドー、おいしいのたくさんあっりがとー!!」

 

「あぁ、たくさん食べてくれて俺は嬉しい」

 

「こんなにおいしいご飯が食べれるなら、うちに来てほしいなー。ね、シャドー、うちにこ来ない?」

 

「!!」

 

 

 シャドーとヒューバート以外の野郎共が楽しそうにしている。

 

 

「悪いが、俺はリチャード専属の護衛騎士だからな。辞退させてもらう」

 

「うーん、そっか~…。あ! ならさ」

 

 

 パチンと指をならすパスカル。

 

 

「あたしがシャドーとこにいればいいのか!!」

 

「パ、パスカッ!!! ぐっ…」

 

 

 食べ物粗末にしなくてえらいね。じゃなくて。

 

 

「技術協力してくれるならありがたいな」

 

「ウィンドルの大輝石のこと、もうちょい知りたいと思ってたんだ~。うん、名案だね!」

 

「だが、問題がある」

 

「ん? なに~?」

 

 

 指を3本ほど立てるシャドー。順番に指を折っていきながら説明する。

 

 

「1つは、アンマルチア族の技術は何処も欲しがる。特にパスカルほどの頭脳を持つなら1国に定住し続けるは難しい。2つ、ウィンドルが力を持ちすぎると懸念され、いつかのように争いが起こる可能性がある。最後に」

 

 

 残る指、人差し指でヒューバートを指す。

 

 

「いずれ“夫”となる人物に不貞を疑われるぞ」

 

「あ・・・」

 

「シャドー!!」

 

 

  カップルが2人して赤くなる。シャドーは茶化すつもりはない。ただ真面目にしているだけだ。

  

 

「ヒューくん、あたし、浮気するつもりないよ? ただシャドーのご飯美味しかったから。だから、いつも食べたいなって。それだけ、それだけだよ?」

 

「わかってます。そうじゃなければ困りますよ。パスカルさんは、僕の…僕だけの恋人なんですから」

 

「ヒューくん…」

 

「パスカルさん…」

 

 

 と2人の空気を作る。教官とリチャードは少々残念そうな顔をしていた。

 

 

「あぁ、そうか」

 

 

 シャドーは理解する。

 

 

「お前らは、“バカップル”というものなんだな」

 

 

 大きな否定と、にこやかな肯定が帰ってきた。それでも、シャドーは真面目にしているだけだ。

 

 

 

「………」

 

 

 ラント領のすぐ近くの草原に生えているクロソフィの花。アスベルとソフィが言うには、2人が植えたその花が風花化したものの子孫がこれらであるという。世界中に舞い散ったクロソフィは、1輪1輪元気の差はあれど咲き誇る。その地の生態系に何年もかけて適応しつつ根付くのだ。

 世界中にクロソフィが咲くというときには、きっとその名に因んでつけられた彼女しか見られないのだろう。アスベルもシェリアも、ヒューバート、パスカル、教官、リチャード。そして、俺も。傍には誰もいないのだろう、今生きていてもその日には。誰も、いられはしない。

 

 そのことを思うと胸が軋んだ。

 

 クロソフィの花弁にそっと触れる。手袋越しに花粉がつくが構いやしない。ピンクと紫が混じったその色は、ソフィと同じ。小さく鳴る葉擦れ。ソフィの声のように聞こえた。

 

 

 聞きたくない “大丈夫だよ” という声が、確かに俺には聞こえてしまう。

 

 

 何故、大丈夫と言ってしまうのか。そう、口に出さずいた所為で力がこもってしまった指が、クロソフィの花を毟ってしまうのは致し方ないだろう。

 

 

「シャドー?」

 

 

 幻聴でなければ、ちゃんと当人がいるはず。そんな当たり前のことを静かに強張る全身で理解できずにいた。

 

 

「どうしたんだ、ソフィ」

 

 

 まともであろうと願う自身の声は、いつものように温度がなさそうで安心する。

 

 

「シャドーとおはなししたかったけど、お部屋にいなかったから探しに来たの」

 

 

 と、そこまで言うと近寄ってきてしまったから、毟った花弁をみられてしまった。

 

 

「…とっちゃったの?」

 

「あぁ、つい。…すまん」

 

 

 悲しそうに言うソフィに申し訳なく思う。花を大事にしているのは旅をしていた頃から知っていた。種を手に入れてはシェリアの家の庭に埋めてを何度も繰り返すほどだから。今も、ラント領の大きな花壇を率先してソフィが世話しているほど。その彼女の特にお気に入りの花を毟ってしまった。その在り様は、風花化するどころか種もつけられずに、果ては悲しく土になるだけだ。

 

 

「花は優しくしないとダメなんだよ、シャドー」

 

「あぁ、そうだな。すまん」

 

「このお花はもうダメになっちゃったけど、今度はもっと優しくしてあげてね?」

 

 

 命を毟り取った手に優しく触れてくる。

 

 無垢に想ってくれて、不用意に抱いてくれた、隠すことのない手折りやすい、その好意で。

 

 幼い。ソフィは幼いのだ。旅で少々成長したところで、心はまだ全然幼い。花もろくに愛せない俺に、こんなに真っ直ぐ触れてきてしまうところが特にそうだろう。

 

 花を愛せるなら。花さえ愛せるなら。花とはいえ愛せるなら。そうだったなら、強く、優しく、真っ直ぐで、これは在れるのに。あれほど楽しい今日に、寂しく沈む夜だからとそんなことを思ってしまう。

 

 だから、それ程のソフィのものを煩わしく感じてしまうには十分すぎた。

 

 

 命だったものが舞う。攻撃性の持たない風を使ってクロソフィが踊った。

 

 

「シャドー?」

 

 

 ソフィの手はシャドーに握られていた。離す気はない、と強くはないが堅く。

 

 

「どうしたの、シャドー」

 

 

 いつもの静かな湖のような瞳は、吹きすさぶ雪山のように荒れていたのを見てしまう。

 

 

「お前のためなら、必ず何度だって生まれ変わって、恋して、愛そう」

 

 

 シェリアに何度も注意された無表情さは、酷薄な冷たさを持っておりソフィは困る。困るだけのは、敵意がないからということだけではない。

 

 

「何度でもお前と巡り会う。何度でもお前と恋に落ちる。何度でもお前のことを愛し貫く」

 

 

 嬉しい言葉のはずだ。しかし、じんわりと温かくなるはずの胸は、いやにずきりと釘を刺してくる。小さくも主張する、強く穿ってくるもの。

 

 

「だが。俺だけを、“今の俺”だけに恋して、愛していてくれ」

 

 

 執着心の強い笑み。他者から見ればひどく醜悪なものである。シャドーの容姿は上の範囲である故に、より他者からすれば目を背けたくなるようなもので。

 

 

「次の俺も、その次の俺も、どの俺にも惹かれないでくれ。この俺“だけ”を愛し貫いてくれ」

 

 

 真摯な言葉。夜の気温の所為だけでなく、ひんやりしてきてしまうのは分かるだろう。フェンデルで感じた身を包む冷気とは違った尖った冷気が心を刺してくるのだ。

 

 

「この愛は、今の俺とお前だけが持つべきものだ。この愛は、花のように芽吹き咲かせた。だけれど、種は残さない」

 

 

 残酷な言葉をソフィにぶつける。石のつぶてのようなそれは、ソフィの心を容易く屈服させる。現に、足は萎えてしまい尻餅をついてしまう。そのような弱き獲物を仕留めないわけがない。

 

 

「“次はない”」

 

 

 相手に痛みを与える。それは、正しく攻撃と言えた。

 

 

「1度だけだ。この“今だけ”に咲き誇るんだ。だから、悪くも思わないでくれ。俺は悪くなんて思っていない。この俺だけを愛してくれ」

 

 

 “いじめ”などと軽い言葉で抑えられない。ソフィを確実に追い詰める。芯を捕まえてはなさい。袋小路から逃がしてなどくれない。

 だが、直接的には手足は出していない。握った手だって軽く揺すれば解ける程度。だからこそ、心が萎縮するには十分なのだ。痛めつけるのに大掛かりな物はいらない。小さな1つの針さえあれば簡単に腐っていく。例えば、それを舌に刺すだとか、そしてそのまま弄繰り回すだとか。痛みには敏感なものだ、どんなものでも。たとえ、ヒューマノイドだとしても負傷箇所があれば直そうとするだろう。それが行われなければ正常に動けないからだ。1つの錆が鉄骨を折るように。1つダメになると、他もダメになることは道理だ。3つで成り立つ歯車、その1つ、それもその1欠片の部分がダメになる。少しの間は誤魔化せるだろう。騙し騙しでも生まれるものはある。であっても、ダメになる前とでは生産コストが違うものだ。そのコストが上がり続ければ処分となる。1つのパーツで済むか、または全部ダメになるか。代用の利かない心臓がいい例だ。拡張と収縮を繰り返し、全身に血液を送るポンプ。鼓動の回数は決まっている。それが止まるときが終焉、即ち死である。脳の指令により1日中動きっぱなしのこのパーツ、取り替えるとしても至難の業だ。痛みに喘ぐことも、ゆっくり眠ることのない器官。

 

 それが今、強く痛み眠りにつこうとするのは、心臓発作のような幻視痛であった。

 

 この攻撃は、どうか止めを、と言葉を放つ者と討たれる者、その両者が願うものである。

 

 

「その覚悟がないわけないだろう、ソフィ?」

 

 

 このような蠱惑的な“狂っていろ”とう教唆に、互いの胸の内が震えるのは無理からぬ話であろう。

 

 

「ひどいよ」

 

 

 涙で滲むのは瞳だけではない。

 

 

「わたし、シャドーともう会えなくなるのに」

 

 

 まだまだ幼い心にシャドーは厳しすぎた。

 

 

「あぁ、そうだ。もう逢えないな」

 

 

 軽く言う。清々しいくらいに、軽やかに無責任のまま言い放った。

 

 

「だからこそ、いいんじゃないか」

「でも…っ!」

 

 

 鼻を啜る。瞳から溢れる雫は、きっと苦しいからだろう。その様を見ても、シャドーは止まれなかった。

 

 

「ソフィは俺が好きだろう?」

 

 

 尋ねる声は、いつものように静かに優しくて温かい。それに逡巡することなくソフィは頷く。

 

 

「俺もソフィが好きだ」

 

 

 浮かれるべき場面の今は、互いに痛む結果となる。

 

 

「この愛は永遠だ。ソフィと共にずっとある。あり続けるんだ」

 

 

 その痛みを誤魔化すことはせず、次を告げた。

 

 

「ソフィが嫌がらなければな」

 

 

 柔らかな声は、確かに攻撃であった。致命傷にもせず、かすり傷にもせず、ずっとジクジク痛めと化膿させるもの。

 

 

「こんなに、胸が痛くなるもの。ずっとなんていやだ…!」

 

 

 ソフィは胸を押さえ蹲る。握られた手も引き戻し、掻き毟るように胸を押さえた。

 

 

「!!」

 

 

 その様子を見守れず、シャドーは包むように抱きしめる。硬直するのはソフィだけではない。ほんの少しの空間を空けて抱きしめたシャドーもだ。

 

 

「本当に痛いだけ…?」

 

 

 問いには回答がない。だけども、何度も問う。宛先を書き忘れた手紙の返事を待つように。

 

 

「俺は温かくなるよ。こうやってソフィを抱きしめている今も、会えないときも、ずっと。ソフィが好きだ、と自覚するたびに胸が弾む」

 

 

 交信を試みる。少ない空間は、おそるおそるしがみついてくるソフィにつれて小さくなった。

 

 

「胸の音が聞こえるだろう。この鼓動1つ1つがソフィといると速く激しくなる。…どうしてか、分かるか?」

 

 

 胸は痛みに喘ぐ。心の軋みと伴う、生きている証の音が鳴る。

 

 

「ソフィが好きで堪らないからだ。好きだって、たくさん言っているのが分かるだろう? 今も動かしている俺の口より上手に叫んでいる」

 

 

 攻撃は止まらないけれども。愛すること。それは、甚振る目的のものではなかったことが、ようやくシャドー自身もソフィの頭が彼の胸に預けられたことで知れた。

 

 

「…こんなに、わたしのこと好きなの?」

 

 

 心臓で応える。

 

 

「他にも、こんなにするの?」

 

 

 心臓で応える。

 

 

「こんなに、すきでいるの・・・?」

 

 

 心臓は破裂しそうなくらい音を刻む。

 

 

「わたしは、ね」

 

 

 頭を上げ、シャドーの顔を軽く包む。激務の所為で少しやつれた顔を、ソフィは見つめる。胸が熱くなる。胸だけではない、手袋をしているというのに手も、頭も。全身が熱い。エラーが、起きているのだ。

 

 

「好き」

 

 

 好き、と言う言葉がこんなにも恥ずかしくなるものだなんて、理解が及ばない。

 

 

「大好き。好き、だから。好き、なんだよね、これって? ねぇ、シャドー…」

 

 

 だから。

 

 

「シャドー、好きってわからないよ…!」

 

 

 シャドーを突き飛ばす。同時に混乱の末、また泣き出すのだ。自身の中で納得のいく回答がない。エラーは直らない。

 

 

「ずっと一緒にいたいって気持ちがそうだってシェリア言ってたよ。ずっと一緒にいるの、できないんだよね? ずっとは無理なんだよね? じゃあ、この気持ちはなんなの? 分からないよ・・・」

 

 

 涙声のまま捲くし立てる。子供であった。子供であるから、恋などしないほうが良かったのだ。愛しなど、せねば良かったのだ。

 

 

「ずっと一緒には無理だ」

 

 

 こんな、とても甘い刺殺があるだろうか。

 

 

「俺はいつかソフィを置いて逝ってしまう」

 

 

 一撃で終わらせず、刺したまま中身を混ぜる刺殺。

 

 

「やだぁっ!!」

 

 

 大声を出し、耳を塞ぐのは当然だ。

 

 

「シャドー、次はないって言った。今だけだって。アスベルたちみたいな次はないって…」

 

 

 早口に言う。感情の高ぶりに理性が追いつかない。それでも、まだ言葉を発することができるのだから、彼女の理性回路は非常に優秀だ。凡庸ヒューマノイドなら、この10分前には回路などショートどころか焼ききれているはずなのだから。

 

 

「無理だ」

 

 

 その強い理性すら失くせと、シャドーは純粋に微笑んだ。

 

 

「なんで、そんなこと言うの…?」

 

 

 顔を伏せてしまったため表情は見れない。だが、子供ながらに難解な顔をしているに違いない。

 

 

「ずっとは、無理だ」

 

 

 繰り返し言う。それに、もう聞きたくないとより強く耳を塞ぐ。が、その手を強引に引き剥がされ、顔を掴まれる。

 

 

「だから、この愛をお前に託す」

 

 

 ソフィの目には好きな人である、シャドーが映る。好きで、大好きで、ずっと一緒にて欲しい人が。好き、大好き、でも、ずっと一緒にいてくれない人が。

 

 

「俺の言葉はない。俺の音もしない、俺の匂いもしない、俺に触れもしない。けれど ちゃんと在り続ける」

 

 

 夜の静けさに吸い込まれそうなほどに涼やかな声は、ソフィにはちゃんと聞き取れた。

 

 

「好きでいる。愛している。誰よりも、何よりも。俺が、シャドー・ジャックラインが、ソフィを。ソフィだけを、愛し続ける」

 

 

 痛くないよう優しく抱きしめた。顔から首に躍り出て、両肩を一度しっかり掴み、ソフィの背に腕を回したのだ。

 

 

「俺はお前を幸せにすることは出来ないだろう。ずっとは居られないから。そうだから、どこかに俺よりお前を幸せに出来る奴が現れるかもしれない。でも、ソフィ。お前が好きでいるのは俺だけだ。そんな奴が現れてもフれ。俺だけを好きでいろ」

 

 

 小さな滴がソフィの眉に当たって流れた。

 

 

「俺はお前だけだ。生涯お前だけを好きでいる。この好きの気持ちはたとえこの身体が朽ちても、お前がまた忘れてしまっても、そいつ越しに好きを刻み続ける」

 

 

 渇くことなく、服すらソフィの涙の跡の上に次のシミを作る。

 

 

「ずっと好きだ、ソフィ」

 

 

 ぎゅっと、好いた男が好いた女を強く抱きしめたのだ。

 

 

 

 

「好きって怖いことなんだね」

 

 

 シャドーの背にしがみつく。私とは違う大きくて堅い背中で、あの頃と違うことを思い知らされた。

 

 

「でも、怖くてもいいよ。シャドーとの好き、怖くてもいいの」

 

 

 気が強かった子供の頃のシャドーがまた見れて安心したから。大きくなったシャドーは、あの時のシャドーが大きくなった姿なんだって、わかった。

 

 

「怖くて痛くてじんじんするけど。シャドーが好きっていうと、嬉しくなるんだもん」

 

 

 怖い。痛くもある。いやだって思った。でも、いやだって思うのがいやだってなるから。この好きは守るものなんだって。

 

 

「この嬉しさも怖くなるけど、ぽかぽかしてじんわりあったかくなるの」

 

 

 胸が痛くて、あったかくて、不思議なの。さっきから、止まらないの。痛いのも、あったかいのも、止まらないの。

 

 

「だって、こういうのがシャドーとの好きなんだって、わたし思うんだ」

 

 

 いやだってことじゃない、って分かって欲しくてもっと身体をくっつける。

 

 

「シャドー、すき、だよ」

 

 

 シャドーの手をとって握り締める。強くしすぎないよう調整して、大事に大事に握り締める。

 

 

「すき」

 

 

 シャドーが嬉しそうに笑ってる。その顔を見ると私も嬉しい。

 

 

「シャドー、あのね」

 

 

 上手に笑えているか分からないけど、この気持ちをなんとか分かって欲しくて笑ってみる。

 

 

「今のあなたが好き。今のあなただけが、好き」

 

 

 アスベル達がしていた事を思い出す。教官も言っていたっけ。

 

 

「好きだ、ずっと」

 

「うん」

 

 

 好きな人とはキスをする。

 

 

「いっぱい、キスをしようね」

 

「………」

 

「上手くできるか分からないけど頑張る」

 

「…しているうちに上手くなるものだ」

 

「ほんと?」

 

「あぁ、本当だ」

 

 

  そう言って、シャドーがしてくるキスは凄かった。すごく熱くなってくるんだもの。

 

  こんなに熱いなら冷めないよね。でも、さめちゃう気もするから、もっとしたい。

 

 

「ん、ん。すき、すき、シャドー…」

 

 

  この後はもうわけが分からなくなっちゃって、キスがこんなに凄くて、なんだか気持ちよくて。

 

 

  こんなの止まらない。止めたくなんかない。

 

 

 

 

  クロソフィが散った。それは確かにエフィネアに刻まれた記憶であり、ソフィの身体に刻まれたものだった。

  

 

 

 

 

 

 

 




主人公設定



シャドー・ジャックライン

主人公はアスベルの親友。剣の腕に絶対の自信を持つアスベル一行一の剣士。

◆年齢:18歳

◆一人称:俺

◆概要
 アスベルと同じ「ラント領」の出身。アスベルに続いてソフィによく懐かれている。幼年時代は気が強く真っ直ぐな性格で、よくアスベル達と裏山の花畑で出会ったソフィと一緒に遊んでいた。しかし、ある事件でソフィは死んでしまい、強くなるためにアスベルと共に故郷を離れ王都の騎士学校の門を叩き、7年後はかなりの実力を持つ剣士となった。父の訃報で「ラント領」の領主を継ぐことになったアスベルと別れた後は王都に残り、数々の功績を上げ「ウィンドル」の王子であり、同じ友人でもあるリチャードの推薦で専属の護衛騎士に出世する。クーデターで王都を追わるリチャードを護衛しながら逃げている時にアスベル達と再会する(特に、死んだはずのソフィがいることに驚きを隠せなかった)。その後はアスベル達と一緒に王都を取り戻し、王位に就いたリチャードから使者として「ラント領」に向かうアスベルの護衛を命令を受け同行する(王位奪還後のリチャードの様子に不信感を心の中に秘めながら)。しかし、「ラント領」に侵攻してきたリチャードと敵対するようになった後は正式にアスベル達と行動を共にする。アスベルとは真逆に、暑さにも寒さにも両方強い。常に武器の手入れと鍛錬を欠かさない。

◆性格
 冷静沈着な性格。7年前にソフィを失ってから感情をあまり表に出さなくなったため無愛想に見えるが、料理はできたり、ソフィの髪の手入れをする等、根は昔と同様に真っ直ぐで優しい性格。真面目な性格の為か、度々ヘンな所に冷静に突っ込みを入れたりする。

◆戦闘スタイル
 武器はサーベル。戦闘スタイルは片手剣技と二刀流。固有装具は黒に近い紺色のジャケット。アスベルと同様の前衛タイプ。特に二刀流を得意とし、戦闘時には優れた剣技を遺憾なく発揮する。






以上がシャドー様がご考案した設定です。






目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

TOX ミラ・マクスウェル、エリーゼ・ルタス

 風呂は良くしてある。だが、食事は各自で作れという宿屋を取った一行。調理したものは、ミラやエリーゼといった食いしん坊なメンツを満足させる料理であるだろうか。それによる視覚と嗅覚といった感覚器から入る刺激には、唾液をよく分泌させるものだった。

 

 

「肉をたらふく食いたいぜ」

 

 

 見える緑に、そう呟くのは八百屋の息子のくせに野菜嫌いであるメックだ。

 

 

「メック、肉ばかり食べると体壊すよ?」

 

 

 医者の卵であるジュードは、いつものようにメックの分のサラダを他の人より多めにしながら注意する。

 

 

「……なぁ、エリーゼ。牛や豚、鳥は何食ってると思う?」

 

 

 それを嫌そうな顔をしながらも黙って受け取り、ドレッシングを探しながら同じ肉好きのエリーゼに尋ねる。

 

 

「えっと……草、ですよね?」

 

「そうだ。彼らは草を食っている。草は植物だろ? 野菜も植物だ。その植物を食いまくった彼らの肉、それ即ち、肉=野菜だ。俺は肉を食べるべきだと思うんだよ」

 

「でた、ま~たいつものメックの肉野菜理論。いいからサラダ食べなってば」

 

 

 エリーゼの回答によく分からん理論を展開するメック。そんな彼にため息をつきながら、ジュードの手伝いをするのはレイアだ。

 

 

「メックは相変わらず面白い発想をする。……ジュード、肉を食べて食物繊維を作り出すことはできるだろうか?」

 

「えっと……理論上は可能だけど、人体でできるかはまだ分からないと思う」

 

「そうか。メック、君は特異な性質なのだな」

 

「……メックさんよ。おたく、特異な性質お持ちなの?」

 

「……持たん。お前ら、よく分かんない視線いらんぜ。肉好きなだけだよ、ホントに」

 

 

 ミラの相変わらずの天然っぷりにつられるメンツ達。彼らに、メックはげんなりしていた。その様子をどう対応したらいいのか分からない感じに手を漂わせるアルヴィン。そんなみんなを見守るのはローエンである。

 

 

「ほっほ。メックさんに可能性を見出すのは置いといて、ご飯にいたしましょう。メックさんのご両親から頂いた、たくさんのお野菜はどんなお味なのか。とても楽しみです」

 

「じゅるっ……。そうだな、早く頂くとしよう」

 

「肉……」

 

「あるじゃない」

 

「こんなクルトンみたいな肉じゃ足りないだろう、普通」

 

「じゃあ、わたしの分けてあげますね、メック」

 

「いい子だぜ、エリーゼ」

 

 

 右隣のエリーゼの頭を撫でる。彼女の親切心だけもらって、メックは緑に立ち向うのだ。左隣のミラは、優しげにそれを横目で見てから食事に手をつける。山盛りな緑に立ち向かうメックは、声には出さずに心の中で、苦いまずいを何度も何度も連呼しながら、1つも緑を残さずにドレッシングの汁だけ残して食べ切った。ちょっと涙目になってうつむいているメックに、ミラとエリーゼは頭を撫でてあげている。メックと幼馴染であるシュードとレイアは、そんな様子を微笑ましそうに見ていたのだった。アルヴィンは昔のようにはいかずに何か言うタイミングを計ってはし損ねて、ローエンは料理を綺麗に丁寧に味わう。

 

 優しい空間である。

 

 

 

 

「ジュード、レイアと上手くいってるみたいだな」

 

「な、なんだよ、いきなり」

 

 

 宿屋のサウナの中でジュードにニヤついた顔で言う。アルヴィンとローエンは薬湯や電気風呂や露天風呂などに向かっている。

 

 

「お前たちは気づいてないだろうが、見えるんだよ、空気が」

 

「空気って」

 

「あま~いあま~いピンクな、な」

 

「そ、そんなエッチなことしてないよ!!」

 

「エッチな、なんて言ってないぜ。……した?」

 

「してない、してないよ、まだ」

 

 

 顔を真っ赤にしてそれっきり黙りこくってしまうジュードに、メックは微妙な顔をした。全然進んでいないのでは、と訝しんだのだ。

 

 

「キスは?」

 

「で、できてない」

 

「抱きしめたり」

 

「まだ」

 

「……手を繋いだりは?」

 

「そ、それなら」

 

「レイアからばっかだろ」

 

 

 無言が答えである。メックは全力でため息をついた。

 

 

「イル・ファンで何学んだんだ、お前は」

 

「医学……」

 

「男女の神秘、学んだんだろ?」

 

「そういうことを学ぶんじゃないんだけど」

 

「いずれはそうなりたいだろうが」

 

「それは、まぁ……」

 

 

 頬をかいてるジュードの頭を小突く。このままでは過程をすっ飛ばして子宝に恵まれそうだったからである。

 

 

「女心は自力で学ぶもんなんだ、分かりますか、ジュードくん」

 

「はい」

 

「男心が女に分からんように、女心もそうなの。だから、学び合うの、お互いに」

 

「はい」

 

「アピってんのわかってんならいけよ。はずかちいじゃないの、そういうのを捨ててイチャれよ」

 

「で、でもさ、やっぱりはずか」

 

 

 ジュードは幼馴染を頼りにしている。シュード、レイア、メックという3人だけの幼馴染。メックという大切な友人は、いつだって2人の兄貴分だったのだから。

 

 

「レイアはジュードが好きなんだよ」

 

 

 兄貴分は笑いながら言った。

 

 

「好きなやつにかっこいいとこ見せてぇし、かっこわるいとこ見られたくなんかねぇよな」

 

 

 ジュードはメックを見た。メック・ルウェンを見たのだ。

 

 

「安心しろ。ジュードのかっこいいとこも、かっこわるいとこも、全部好きなのがレイアだ」

 

 

 嬉しそうな顔のはずであった。

 

 

「レイアは、ジュードが、好きだからよ。ちゃんと、どうしても、好きでいるはずだぜ」

 

 

 メックはジュードの頭を掴んで髪を乱暴に掻き雑ぜる。その所為で視界がぶれてしまう。

 

 

「幸せにしてやるんだ、いいな」

 

 

 ジュードは雫を受けた。

 

 

「お前らが幸せだと……、たまらなく、嬉しいからよ」

 

 

 雫だけは、少しだけ冷たく感じた。それを受けて、ジュードは固くメックに誓う。3人とも大切であるから。

 

 

「うん、絶対に僕たち幸せになるよ」

 

「……おう」

 

 

 互いに笑いあえた。大切なのだから。

 

 

 

 

 ギリギリのぼせる直前で出られたメック達は水風呂を軽くすまして出た。少し後から女風呂から出てきたレイアを、ジュードが誘い出していったのを見送る。嬉しそうな二人の様子に、メックは心から微笑ましく思ったものだ。

 

 サウナと水風呂をキメた体はまだ熱い。更にコーヒー牛乳をキメても、まだ水分を求めている。なので、水を800ガルドで購入してしまう。小さい容器にぼったくりであったが、仕方がなかった。

 

 

「メック~」

 

「ふがっ!?」

 

 

 ゆっくり飲んでいた水をもう1口飲もうとしたら、ティポに食われた。なんとか零さなかったものの、息苦しいので早く解放してほしい。

 

 

「ボクたちにも水ちょ~だ~い」

 

「ひゃるよ。ひゃるふぁら、ふぁなれろ」

 

 

 ぐにょんぐにょんとティポを伸ばしながら引っこ抜く。この伸縮性と弾力性はどうなっているのだろうか。

 

 

「ほいよ、エリーゼ。こいつで買ってきな」

 

 

 ミラと話していたエリーゼがてこてこ来たので、ティポとガルドを渡す。けれど、売り子の方に行く気配がない。

 

 

「メックので……大丈夫です」

 

 

 お風呂上りなので、いつもより肌に赤みがかかったエリーゼはそんなことを言い出す。

 

 

「もう、少ししかないぜ。新しいの買ってきた方がいい」

 

「さっき値段聞いてました。高すぎです。節約ですよ」

 

「ケチる必要ないだろうに。これは俺の口がついちまってるし、新しい方がいいだろ」

 

「いいから、よこせよ~」

 

 

 ティポが圧をかけてきている。心なしか上目遣いでこちらの様子をうかがっているエリーゼも。

 

 量的に少ないので物足りないだろうし、エリーゼは分からないだろうが、メックは年頃の女の子的にまずいのではないかと思ったのだ。旅の中で水を分けることもあったが、基本的に同性同士でやることが暗黙の了解であった。旅の初めから、思春期真っ盛りのジュードとメックが気にするからだ。ジュードはまさに思春期爆発ボーイだが、メックは女の子が嫌がるだろうからというのが先にあった。人間力の差である。

 

 

「仕方ないな。ほれ、全部飲んでいいぜ」

 

「……はい!」

 

 

 エリーゼには分からないはずだが、メックの飲んでいた所に口をつけて飲んでいた。可愛いらしい女の子が自分の飲んだ後に口をつける。それは、思春期的に辛い映像であった。

 

 

「ふぅ……、生き返りました!」

 

「フルーツ牛乳もおいしいけど、やっぱり水だよね~」

 

 

 ティポの、のんびりとした声に意識が戻る。思春期はこれだから困る。異性の一挙手一投足が気になって仕方がないのだ。

 

 

「おいしいお水をいただいたので、メックにお礼をしようと思います」

 

「大げさな……。いつも戦闘で助かってるからいらねぇよ」

 

「メックは特別ですから、します」

 

「エリーゼの特別だよー」

 

 

 “メックは特別”。それはいつからか出るようになった言葉だ。深い意味はないのだろう。思春期的にはビビビっとくるものではある。思春期男子は女の子に惑わされまくるものなのだ。いつの間にか消えたコップのことなど気にすることができない。

 

 

「まず、あそこの椅子に座ってください」

 

「お座り、だよ」

 

 

 ラウンジチェアだ。丸い空間にゆったりできる椅子がついたものがある。座ると周りがすっぽりと壁に覆われるもの。防音性がよさそうで、ある程度密室感があり、人の視線を気にしなくて済むタイプのものだ。

 

 

「はいよ、って、お前も座るんかい」

 

「はい!」

 

 

 大き目の椅子だが、2人が並んで座るほどはない。腰かけたメックの上に乗るエリーゼ。ティポは外で待機。SPのつもりなのかもしれない。

 

 

 

 困った様子で膝立ちになったエリーゼを見上げる。何だかわからないがよく見られているようで落ち着かない。

 

 

「なんで、こっち向きに座るんだよ」

 

「頭を撫でるためです」

 

 

 よしよしと撫でられる。立てば165㎝少年と145㎝少女、20㎝の身長差。頭1つ分程の身長差とは言え、少女からは背伸びするほどの高さだ。座ってしまえばそれをする必要はない。とても近しい距離感になれるのだ。ある程度親しい感情を持つ仲でしか許されない近さだ。

 

 

「よしよし、です」

 

 

 なにが、よしよし、なのかは全く分からないが、されるがままになる。なんとも言えない微妙な気持ちになるが、そのままだ。

 

 今まであまり人に触れなかったせいで、距離感というものがわからないエリーゼ。メックたちと冒険するまでに友達が1人もいなかった少女である。メックは特に人間関係で問題など感じたこともない。苦労もそんなにない。当たり前のように仲良くなったり、喧嘩したり、仲直りする普通の人間であった。ミラのように上位存在でもない、ジュードのように依存しやすくもない、アルヴィンのようなトンでも人生など送ってもいない、エリーゼのように親がいないわけではない、ローエンほど濃い大人に成るまでの経験もない、レイアのようにひたむきに生きているわけでもない。

 メック・ルウェンは、パーティの中でレイアよりも普通であった。珍しい病気もなく普通に生まれ、普通に親に愛され、普通に友達を作り、普通に生きている。この旅だって、ジュードが軍に追われていたのを救出して、あとはそのまま成り行きであった。暗い過去もまったくない。そのようだから、パーティ内でしっかりしているのは誰かと言われれば、ミラかメックぐらい。だけれど、ミラは信念があるが、メックは特になかった。

 

 そうであるのに、芯が通っていたのはどうしてだろうか。 

 

 普通であったから。普通に自分を見られたのだから、しっかりできる。思春期モードもあるが、他者は他者、自分は自分と区別できる。それは非常に難しい。特に多感な時期だ。守られるべき子供から高くなった視点で、色々な情報を浴びまくり、様々なものに揉まれてしまう時期。自分にとって、受け入れやすいものと拒否したいものが顕著になる時期である。激しいものである。自分に対しても、他者に対しても破壊力をもつ言動や行動をしてしまう時期なのだ。

 メックはその中にいる。真っ直中にいる。旅の中で様々な情報を受信した。リーゼ・マクシアの中での争い、エレンピオスという外側の世界、精霊の存在、2つの世界が生きるための道行き。普通の少年であるメックには重すぎるものだ。綺麗ごとが通らない世界があることは知っていたが、手が触れるほど間近に感じたことはなかった。世界の方が先に汚れていたのか、人間の方が先かなどを深く考えるほど知識はない。白か黒かはっきり分けられるほど、世界も人間も上手くできていないのは理解している。そして、どっちつかずの方が多いものだということも。そのどっちつかずの中で自己を確立させることは難しい。だからこそ、王たるガイアスのような存在は奇跡である。強い自己を持ち他者を思えるなど、異常だ。彼もマクスウェルのような高い存在であるとも言える。

 

 では、メック・ルウェンという少年はどうなのか。

 

 高い壁に背を預ける少年である。

 

 彼はガイアスのような王たる存在ではない。他者を思えるが、ガイアスほどの規模ではない。助けて欲しいという手を選んでしまう少年。みんな助けられるならいいが、そうでないなら彼は、彼の大事な人だけを助ける。決して、善であるとは言い切れない、悪と断言できはしない。

 

 彼はガイアスのような王たる存在ではない。ガイアスのように自分が核として他者を牽くことは不可能だ。できれば手伝ってくれと、時間を与える少年である。強く引っ張れば千切れることを知っているからこそ、待つのだ。愚策とも言える、名案とも言える。

 

 メック・ルウェンは高い壁に背を預ける少年である。

 

 ガイアスのように誰でも助け牽いていく王ではない。メック・ルウェンという少年は、普通の少年なのだ。選び待てる少年だ。ガイアスは先陣を切れる。メックは場を整えることができる。ガイアスのような人もメックのような人も必要だ。どちらか欠くというのは効率的ではない。非凡もそうでなくとも生きられるということを体現するのが、この二人であるのだろう。

 

 一人駆けていく人か、皆と歩く人かの些細な違いである。

 

 どちらも人をよく見ているのだ。王になる前から色んな他者を“1つの視点で”見てきたガイアス、旅の中で色んな他者を“様々な視点で”見てきたメック。どちらが濃淡かなど比べる気はない。そんなものはどうでもよいのだ。違う見方ができるからこそ、彼らは人間代表として生きるべきなのかもしれない。

 

 生きていくためにはどうあるべきか。頂から見下ろす視点、下で見渡す視点。それぞれが見るところは満遍なくできはしない。たった1滴でも波紋を作ることを理解するために、小さな水溜まりが大海に続くことを理解するために。

 

 何を見、何を知り、何を思うのか。多種多様なものをどう選び、どう捨て、どう使うか。何のために生まれて、何のために生きていくのか。

 

 模索し続けるのだ。絶対的な回答などない、が、迷宮入りさせてはいけない問題。

 

 この優しくも厳しい世界を、誰でも普通に生きることを当たり前にするために、ミラが愛する人間は強くも弱くもある。

 

 

「頑張っているメックによしよし、です」

 

 

 だからこそ、普通じゃないエリーゼは、普通なのに頑張るメックが特別なのだ。

 

 

 

 

 

「いつまでするんだ」

 

「いや、ですか?」

 

「男心的にはずかちいの」

 

「大丈夫です。はずかちくないですよ」

 

 

 大分恥ずかしい様子だが、覗きに来ないと見られる様子ではない。思春期男心など生贄にしてエリーゼの満足感の犠牲になるしかないのだ。

 

 

「メックは、よく頑張ってるからよしよしするんです」

 

「普通にしてるだけなんだけどなぁ」

 

 

 風呂上がりのため、いつもの頭装備がない俺の頭部は撫でやすいだろう。撫でられている側も撫でられやすい。とても優しい手つきは、このまま眠ってしまっても怒られなさそうである。火照りが静まってきたのと心地よい揺れが、目蓋を重くさせる。

 

 

「ジュードとレイアのために、頑張りましたから」

 

 

 その言葉がなければ目を閉じて眠りにつけた。目蓋が痙攣する。

 

 

「2人を恋人にするために、頑張ってしまいましたから」

 

 

 体は冷めた。寒気がするほどに。頭は痺れる。目蓋の痙攣が脳にまで来てしまったかのように。

 

 

「1人だけ、仲間外れになっちゃいましたから」

 

「俺らは仲良し3人組だぜ」

 

 

 仲間外れ、という言葉が聞くに堪えなくて反射的に声を出す。もっと水分を取ればよかったと後悔する。喉が渇いてきたのだ。

 

 

「じゃあ、なんで3人で、じゃないんですか?」

 

「そりゃ、正しくねぇから、だろ」

 

 

 優しい手つきは変わらない。小さな手はゆっくり髪の流れに沿って動いている。心地いいのだ。瞬きができないほど。

 

 

「正しいものなんてないです。本で読みました。そういうのに正しいものなんてないって」

 

「……どんな本、読んでんだよ」

 

 

 眼球を懸命に動かしエリーゼを視界から外そうとする。けれども、彼女は視界に入ったままだ。

 

 

「好き、だったんですよね。レイアが」

 

「……っ」

 

 

 吐きそうになった。やっぱり野菜はダメだ。舌が拒否しているのだから。野菜恐怖症だ、これは。エリーゼに恐怖感なんか抱くわけがないんだから。

 

 

「今も、好きですよね。“ジュードの”レイアが」

 

 

 苦い。口の中が苦い。野菜の味は全部苦いと感じる。ジュードの親父さんが言うには味覚が鋭いかららしい。あぁ、やっぱり野菜なんか食べるんじゃなかった。口が苦い。口がまずい。なんでもいいから飲み物をくれ。食べたものを吐き出すなんて行儀が悪い。

 

 

「レイアはジュードのになっちゃったんですよ。ジュードのレイアなんです」

 

 

 優しい手つきだ。すっと眠りにつけそうなほどの優しい動きだ。悪夢を見せる動きであった。

 

 

「メックのではないんですよ、これから先もずっと“ジュードのレイア”です」

 

 

 喉が詰まった。声が出せない。息苦しい。呼吸の仕方がよく分からなくなる。だが、それは遠い出来事のようだった。

 

 だって、胸の奥がこんなにも痛い。

 

 

 

 

「メック、可哀そう(可愛い)です」

 

 

 自分より小さく見えるメックに笑いかけてあげた。特別だから。ちゃんとしてあげなくちゃいけないのだ。

 

 

「いつもご主人様を待つ子犬さんみたいな目をしてるんですよ、わかってますか?」

 

 

 いつも私たちに向いてほしいものだ。でも、レイアに向いているものだ。だから、ちゃんとしてあげなくちゃ。

 

 

「なんども相手にしてほしくてたまらない子犬さんみたいでしたよ、知ってましたか?」

 

 

 なんどでも私たちがしてあげるのに。けれど、レイアに強請ってしまう。だから、ちゃんとしてあげないと。

 

 

「でもね、無理なんですよ。わかりますよね?」

 

 

 子犬のようなメックを優しく撫でる。わからないのなら、ちゃんとするまで教えてあげるべきだ。

 

 

「“メックはレイアの特別じゃないんです”」

 

 

 特別なんだから、ちゃんとしてあげないといけない。

 

 

「メックは私にとって特別なんです。しっかり理解してくださいね」

 

 

 目と目を合わせてあげる。ちゃんとするように。

 

 

「とくべつ?」

 

「そうです。私の特別がメックです」

 

 

 いいこいいこをしてあげる。ちゃんとさせるために。

 

 

「特別です。ミラとジュード、レイアやローエン……おまけにアルヴィン、達よりも特別。メックが一番特別です」

 

「……そうか」

 

 

 嬉しそうに返してほしいのに、そう見えない。ちゃんとしてあげなくちゃ。

 

 

「すごい大事なことです。わかってください」

 

 

 メックは特別なのだ。

 

 普通に女の子扱いしてくれる。ジュードみたいにやたらちっちゃい子扱いしない、アルヴィンみたいにからかっていじめてこない、ローエンみたいに過保護じゃない。でもね、メックは、ちゃんと私がどう思うか、考えて話してくれるし接してくれるのだ。

 

 普通に男の子でいてくれる。ジュードみたいにナヨナヨじゃない、アルヴィンみたいにチャラチャラしてない。ローエンはおじいちゃんだもん。だけど、メックは、ちゃんと私がどう感じるか、理解して話してくれるし接してくれるのだ。

 

 そして、なにより。

 

 普通に好きにさせてくれる。ミラみたいにバリボーじゃないし、レイアみたいなお節介焼きでもない、そんな私が初めて普通に好きになれた。みんな、好きにならなきゃいけない人だった。ミラは頼れるところ、ジュードはお人好しなところ、レイアはお節介なところ、ローエンは賢いところ、アルヴィンはお母さん想いなところ。目を引いて、ここが好きになるところだって思って好きになった。でも、メックはそんなことで好きになったわけじゃない。

 目と目が合うことが嬉しいことだって、話すことが楽しいことだって、そういうのを感じていたら、いつの間にか好きになれた。一生懸命好きになろうとしてないのに好きになった。メックが笑うと楽しくなる。メックがしょぼんとした様子が可愛い。メックがご飯を作る手さばきに感心する。そんなメックの色んな所に目が行くようになった。

 

 そして気づいたら特別になっていたのだ。

 

 友達に憧れていた。ずっと一人だったから。だけど、旅をして友達ができた。優先して助けてくれないこともあったから嫌いになりかけたけど、そういうこともあるんだということを知って友達を大事にできるようになった。友達はいいものだ。寂しくなくなるんだから。

 

 ドロッセルのところにいたとき相手にしてくれなくて、暇で本を読んでいたけど、ここに友達がいてくれたらと何度も思った。その時、寂しいのと退屈なのとで読んでいた本の中で友達を超えるものがあるのを知ったのだ。なんとしても欲しいと思った。

 

 親友と恋人という言葉を知ったのだ。親友は男の子と女の子では成り立たないらしい。なら、恋人だ、と思った。寂しくならない特別な仲がこれだったのだ。

 

 恋人がどうであるかはジュードとレイアをみれば分かる。男の子と女の子が友達を超えるほど特別仲良くなるとなれるのだ。

 

 私はメックが特別だ。友達以上になりたい。

 

 だから。

 

 

「メック、私たちで恋人になりましょう」

 

 

 メックも私のことを特別にしてほしい。

 

 

 

 

 とんでもない申し出だった。チカチカ明滅する視界の中でエリーゼが笑っている。

 

 

「エリーゼ、お前……」

 

 

 胸の奥が痛い。口の中は苦くてまずい。異常を告げる体の反応をよそに、耳と頭がはっきりしている。何と言ったか、どういう意味か、よく聞き取れたし理解もできてしまう。

 

 

「ふふ。じゃ、次です」

 

 

 これ以上何かあるのか。エリーゼの可愛らしい声に身が竦んでしまう。体が勝手に固くなるのが分かった。

 

 

「ティポ、行こ」

 

 

 すぐさま何かするわけでもないらしい。俺から降りて外のティポとともに何処かへ行った。遠ざかる気配はそんなに遠くには行かないらしい。もう色々辛いので許してほしい気気持ちでいっぱいだ。

 

 心臓の音がうるさい。その音の大きさと苦しさは、レイアの母親と同等の実力を持つ、自分の母親のしごきでル・ロンド中を朝から晩まで走らされたときのようだ。すごく苦しいしきつく辛いのだ。だが、そんなアホみたいな運動をしたわけではない。ただ、お願いをされただけ。そのお願いが、なんとも苦しいしきつく辛いのだ。最後のたった一言を言えば済む話が、あのようにすることで上手に俺を悩ませる。

 

 エリーゼを傷つけたくはない、ということは頭にある。エリーゼは、人との付き合い方が分からない女の子だ。これからそれを学ぶ必要がある。正しい距離も間違った距離、どちらも偏りすぎないように学んでいかなきゃならない。学んで成長して世界に壊されないようにならなければいけないのだ。特にこれからの世の中には必要なのだから。だけれど、その前に、俺にあんなお願いをしてきた。悩むのは当たり前だろう。

 

 エリーゼは、俺が俺自身のことも傷つかないように悩め、とお願いしているのだから。結ばれるなら悔いの残らぬように、断るのなら未練が残らぬように。そういうこと以上を要求されている。下手糞なことをするのは絶対に許されない。悔いを残して未練タラタラな俺に、随分惨いことをするものだ。あまりにも早い女の子の成長にめまいがする。

 

 エリーゼへの回答を悩む。可愛い女の子のちょっとした突っつきが、脳みそをぐちゃぐちゃにしていく。

 

 好き、という言葉のあまりにもな複雑さ。失恋男が軽々しく言うことのできなくなった言葉だ。そして、聞くことにひどく嫌悪感を覚えてしまったもの。好きになれてよかったと、まだ心が落ち着いていない。好きになりたいとは、まだ心が冷静になりきれていない。

 

 普通に好きになれているのに、その先が難解だ。

 

 

「メック」

 

 

 声が聞こえた。答えなんて難しすぎて、永遠に出てきそうにないというのに。

 

 

 

 

 

「……ミラ、か」

 

「あぁ。なんだか、とても疲れているようだが大丈夫か?」

 

 

 できればこのまま一人になっていたい。そういう気持ちと、誰でもいいから近くに居てほしい気持ちがあった。あれから、口が苦くてまずいのは全く変わっていないだ。

 

 

「………」

 

 

 心配そうなミラに大丈夫と言おうとしたが、声が出ない。疲れすぎているのだ。声を出す気力すらない。

 

 手を出してきた。男の俺とは違って柔らかそうである。エリーゼの小さな愛らしい手と違って、ミラは剣を握っているからか、女性にしてはしっかりとしている。けれど、男のようにごつごつと武骨には感じず、舐めてみたらほのかに冷たい甘みを感じるような手、思春期には毒そのものだ。

 

 その手が、俺の顔に近づく。動きからして頭部へ行きそうだった。

 

 とっさに、その手を掴んで止める。エリーゼがフラッシュバックしたのだ。否定したい恐怖が表れていた。

 

 

「……っ」

 

 

 痛かったのだろう。ミラの綺麗な顔が少しつらそうだった。それには気づくことができたので手を放そうとする。が、今度はこちらが掴まれた。

 

 そのまま引っ張られ、椅子から立たされる。倒れるかもしれないと思ったが、ミラが支えてくれたのでそうはならなかった。とりあえず、感謝の言葉を言おうと口を動かそうとして見たのだが、ミラのつらそうな顔に何も出てこなくなる。重たいからか、とか、さっきのがまだ痛かったから、とかの表情ではないのが分かったからだ。しかし、では、どうしてそんな表情をしているのかは、分からない。悩むことは、もうエリーゼだけでいっぱいいっぱいだというのに。

 

 

「少し、夜空を見に行かないか、メック」

 

 

 問いかけだったのだろうが、こちらの返答も聞かずに、俺を引っ張りながらテラスに連れていく。先ほどのつらそうな顔はなくなり、まともに足を動かせない俺を優しく誘導してくれる。ミラは医療ジンテクスがないと足が動かないというのに、俺が倒れないように注意しながら誘導してくれるのだ。そのことを理解すると、少しだけ体に力が入るようになる。手を離してはくれないが、あまり気にしないようにして歩く。

 

 口の中の味は少しだけマシになっているのを感じた。ミラ様様である。頭はあまり軽くはなっていないが、さっきまでと比べれば雲泥の差だ。意識の換気が必要だったのだろう。勉強が得意でないくせに悩みまくるのはよろしくなかったのだ。ホントにミラ様様である。

 

 

 

 

「さんきゅ、ミラ」

 

 

 テラスにつく。だから、メックはミラにそう声をかけた。その言葉でミラは手を離すべきであった。が、離す気は欠片もなかったのだ。手首を掴んでいた手を、男の子の手へ滑らせ握る。メックはそれに驚いて、手を見てはミラを見るを交互に繰り返した。

 

 

「ちょいっ、ミラ、手」

 

「うむ。嫌だろうか?」

 

「いや、つーか、はずかちいよ、これ」

 

「私は恥ずかしくないぞ」

 

「俺が、なんだけど」

 

「私は君の手を握っていたいんだ。許してほしい」

 

「許しを請うほど? いや、俺の手でよければいくらでもいいけどよ……」

 

 

 じっと繋いだ手を見ながら困ったようにするメックに、ミラは優しく微笑む。純粋に嬉しかったのだろう。

 

 

「メック。人間はどうして生まれてくるのだろうか」

 

 

 いつものミラの突然さ。最初は戸惑いもあったが、メックは手の状態の所為で今も戸惑っている。気を紛らそうとガラス窓越しの夜空に、顔を頑張って向けて応える。

 

 

「親になる人間が欲しいって頑張ったから、かな」

 

「君のご両親みたいに?」

 

「ミラ……この年で、弟か妹が生まれるよ宣言されるのは、キツイんだぜ」

 

 

 息子が指名手配犯にされるほどの旅をしている中、メックのご両親はとても仲良くしていたようだった。精霊のように、人間はそう簡単にポコジャカ生まれてくるものではないのである。

 

 

「めでたいことだろう」

 

「いや、そうだけど。キツイんすよ。特に俺、思春期だぜ」

 

「多感な年頃、だな。弟か妹に、ご両親が入れ込むのがよりキツイのか」

 

「あー……、うん、そうね」

 

 

 逆セクハラというものがある。男が被害者側にいるものだ。つまり、これ以上、話を続けたくない。猥談などするけども、それは男同士で行うだけで女性など入れられるはずもない。女の子が男の視線に敏感なように、男の子も女の子の視線に敏感なのだ。バイキン扱いされたくないということである。

 

 

「ともかく、人間が生まれるには、父親になるやつと母親になるやつが必要で、そいつらが生まれてくる子のためにあくせくすると、できます」

 

「ふむ。メック、では、父親はどうあるべきだろう」

 

「んー、家族を守れる強さがあるべきかな」

 

「具体的には?」

 

「衣食住揃える甲斐性とか、純粋にパワーとか、優しさとか」

 

 

 メックは自身の父親を脳裏に浮かべながら語る。レイアの親父さんと親友で、【八百屋ルウェン】の店主。がっしりとした肉体に違わず、身体能力と武術に優れている。普段は無口だが、根は優しい。一家の大黒柱として、メックや母親が全力でもたれ掛かってもビクともしない頑強さを、精神面でも肉体面でも持っている。メックが父親になるならこうなりたいと思える素敵な父親なのだ。

 

 

「では、母親は?」

 

「子供の絶対的な味方でいること、かな」

 

「味方?」

 

「子供がクソ野郎なことしたら叱り飛ばすのはいいけど、ちゃんとあんたは大切だって分からせてくれるとこ」

 

 

 メックは未だに自分たちを『パパ、ママ』と呼べと強制する母親を思い出す。優しい性格だが、ソニアとア・ジュールの武道会で優勝をかけて激戦を繰り広げた逸話を持つ実力者だ。それに並ぶほどに、料理の腕前も一級品である。だが、やはり、怒らせると目が全く笑わないほど恐ろしい。メックにとって母親はこの人しかいないと思える自慢の母親だ。

 

 

「人間育てんの大変なんだ。うまくいかねぇことが多いだろうよ。でも、投げ出すなんてことしちゃいけないんだ。生まれてきた命にとって、初めて大切に思えるのが両親のはずなんだから」

 

 

 親に愛されて育ったメックは、ちゃんとそういうことを理解できている。父親は無口でもちゃんと愛していることを伝えていた。母親はしごきがきつかったけれど大切に愛してくれていた。彼らは、メック・ルウェンという人間が生まれてくることを望み、大事に大事にして今でも愛している。

 

 たくさん愛されたことを誇りに思い、他の人をそのように愛せる人間、メック・ルウェンが、今、ここにいる。

 

 

「大切さを理解して色々手を伸ばしていく。欲しくなっちまうんだよ、幸せなものがたくさん。で、伸ばしては掴んで抱えて、まだ足りないって、また伸ばして。生きることを精一杯し始める」

 

 

 小さな手。まだ、まともに掴めないものを、ちゃんと掴めるようになるには死の間近かもしれない。それでも、確かにある眩しい生き様。間抜けと嘲笑されても、愚かだと嘆かれても、それは決して汚されていいものではない。

 

 

「幸せかそうじゃないかは他人なんかじゃ決められない。同じ目線なんてのは幻想だから」

 

 

 同じ高さにいても、視線が重なることはあろうとも、見える世界はみんなそれぞれ違うのだ。

 

 

「でも、そういうの寂しいじゃん? そんだから、人間は手を取り合って幸せを掴んでくんだろうな」

 

「このように、か」

 

 

 ミラは握った手を自分に引き寄せて、何度もぎゅっぎゅっと強く握る。

 

 メックは意識して口に出していた言葉ではなかったが、そのような行動をされてしまったため、果てしなく困った。思春期には刺激的過ぎる。

 

 

 

 

「メック」

 

「あ、はい。なに?」

 

 

 声に反応はできる。反射であった。意識的にミラに応答するには、何もかも整っていないのだ。経験不足である。

 

 

「君は今、幸せだろうか?」

 

 

 やはり、逆セクハラなのだろうか。加害者側が意識してなくても、被害者側がそう意識したらそうである。思春期な男の子を手籠めにする気に傍からは見えるのだ。先ほどの会話と、あのような行動の後に、このセリフ。

 

 邪推するまでもなく、今、ミラと手を取り合っているメックはどのような状態か聞いているのである。パワハラも含まれるかもしれない。

 

 

「………」

 

 

 幸せに感じる、べき場面だろう。大人の美人なお姉さんに熱く手を握られている、という羨ましがられる場面だ。嫌っている相手ではない。好悪どちらかというならば、間違いなく好である。普通に好きであった。世間知らずなところも、まっすぐなところも、腹ペコキャラなところも、色んな所が好きであるのだ。メックの大好物である肉を欲しければ分けるぐらい、普通に好きである。

 

 けれど、メックは“ミラではない相手”を渇望した。その相手となら、絶対に幸せだと即答できる。だが、その人はもう他人のものだ。メックはもう叶わないことをよく理解している。だから、諦めようとしている。まだブスブスと燻ぶる熱が、ちゃんと消えるのを持っているのだ。一瞬で消えるものではない。何年も引きづるかもしれない。だろうが、それぐらい許されてもいいはずである。必ず、消して見せるだろうから。

 

 しかし、ミラもそれを許す気はない。そんなもの待てるわけもないのだ。

 

 

「私はな、幸せと感じるよ。手を繋ぐという行為だけでも、君としていると、なんだか胸がポカポカするんだ」

 

 

 エリーゼのように、ミラも許す気がない。2人とも、許されていいものではないと断言できるほどである。早く消えるべきであると思っているのだ。そもそも、そんなもの無ければよかったとも思っている。ポカポカの温かさを感じる以上に、抉りだしてしまいたいぐらい心臓が嫌な鼓動をするのだ。どうしようもない不快の情動だった。

 

 

「……私の手、だよ」

 

 

 許さないのだ。ミラの手であるというのに別の誰かを夢想する、メック・ルウェン、という少年のことを。このような場面で、ミラではない誰かのために心臓を動かしてしまう少年だ。

 

 

「今、繋いでいるのはミラ・マクスウェルだ。メックと繋がっているのは、私なんだよ」

 

 

 許してほしいのだ。狂ったままでいたいほどメック・ルウェンを想う、ミラ・マクスウェル、という女を。何度も何度も、メックに寿命が縮んでしまうほど鼓動を速めてほしいと切望する女だ。

 

 人間の幸せをミラが求めることを、どうか許してほしいのだ。

 

 

 

 

「メック」

 

 

 私の声を何度も聞いてほしい。メックが、私だと一番に思い出せるぐらいに。何度でもメックの名を呼ばせてほしい。メックが、私だと一番に気づいてくれるぐらいに。

 

 

「ミラ、俺」

「私はな」

 

 

 メックの声は聞いていて心地いいものだ。声変わりしたばかりの軽めな低い音程の鼓膜を震わすその音は、ずっと聞いていたくなる。だけれど、今は、何か言われるのが、とても怖いと感じた。愛するべき人間に対して持っていい感情ではない。そもそも恐怖を感じる対象でないのは確かなのだ。剣だけの実力であれば拮抗するだろうが、精霊の主としての力を行使すれば赤子の手をひねる様なもの。ということを理解しているのに、今の私には言葉だけでも怖いのだ。大切なものを失くしてしまいそうで怖いのだろう。

 

 

「君と、幸せを感じたいのだ」

 

 

 捲し立てるのがいい。メックは待てる少年だ。話し終えるまで、きっと待ってくれるだろう。話し終えれば、何をするべきか即座に考え実行してくれるはずだ。メックは、主体性があり、自分の意志で行動することが多い。彼の意志で理解し、彼自身の為すべき行動を決められる。メック自身が考え抜いたことを、彼の願う未来のために行動するのだ。

 

 だから、待てる。待ててしまった。期待があったのだ。期待を持ってずっと待てたということ。この事実を理解しなおすと喉がひりついた。吐き出してしまいたい激情が喉奥で蠢くのだ。だが、そんなことはしてはいけないのだ。私の今に、そんなことは必要ではないのだから。

 

 

「君と幸せになるためにはどうあるべきだと思う。幸せな人間であるためには、どうあるべきなんだろうな」

 

 

 答えを聞く気はない。全て、今の私が求める回答ではないのだろうから。

 

 

「簡単だ。幸せだと、感じるように生きていけばいいんだ。君のご両親のようじゃなくてもいい。伸ばす手が折れて使えなくなってしまっても構いやしない」

 

 

 強くメックの手を握る。私のとは違う手だ。身長は私の方が少しだけ大きいが、手はメックの方が大きい。それが、なんだか胸に来る。

 

 

「君の言う通り、同じ目線なんてものはないのだろう。なら、ずっと手を繋いでいようじゃないか。一人ぼっちではないと、一緒にいると、繋がっていることを忘れないために」

 

 

 人間が必ず幸せに過ごせることはないということは旅の中でよくわかった。それは、誰も彼も、一人っきりでいいと意識的にも無意識的にも理解して行動したからだ。自分が良ければいい、他人なんてどうでもいい、という悲しい生き方をした。皆も、メックもそうなってほしくはない。いや、メックだからそうなってほしくない。

 

 なによりも愛おしい男だから。

 

 人間は差別なく好きだ。良いところもあれば悪いところもある。優しく見守れるようなところや苦々しく感じてしまうところ、どちらの面があろうとも、私が人間に抱く愛情は揺るぎはしない。大切にしてあげたい存在達である。

 

 しかし、メックは、違うのだ。愛のベクトルがの話ではない。枠組みは確かに同じであるのだが、メックの対するものだけは違うのだ。

 

 メックに対して抱くものは、優しいものではない。何重に包んでも優しいと言い繕えるものではない。

 

 ミラ・マクスウェルはメック・ルウェンに欲情しているのだ。肉欲という言葉ですら上品に感じるほどの獣欲を抱いている。メックを切望している。精神も肉体も私に溺れてほしくてたまらない。受肉した肉体からだけの欲求ではないことは確かだ。ジュードにもアルヴィンにもローエンにも、それほどの情は抱いていない。ミラ・マクスウェルという存在自体がメック・ルウェンという少年を辱めたいと思っている。

 

 綺麗ではないし優しくもない、欲望を持て余している。私だってできるのなら綺麗に恋して優しく愛したい。このような禁書指定されるだろう展開は考えたこともなかったのだ。童話のように恋愛小説のように甘く口蕩けるような恋愛をしてみたかった。でも、そうはなれない。メックは私を恋愛対象として見ていないのだから。していたのなら、あの二人のように微笑ましい関係を段階を踏んでできただろうに。メックは私とそうなることを幻想の中にすら描けていない。

 

 ずぶずぶと奥深く、もう身を立てられないほどに溺れてほしい。この欲望は、正しいはずなのだ。間違っていると理性が喚くが耳障り程度で力を持たない。この欲動は、正しいのだ。

 

 だって、メック・ルウェンのことを間違いなどあるはずもなくミラ・マクスウェルは愛しているのだから。

 

 

 

 

 

 欲情していると自覚したのは、メックの首から鎖骨までのラインを見つめていたときだ。その前段階では、メックの肌の色が好ましいと感じていたことだろう。複雑なことはない、ただ欲しくなったのだ。触れたいが、なぞりたいになり、舐めてみたいになる。段階は時間をかけはしたが欲求は止まなかった。だが、それを実行に移すことはなかった。思春期の子供は難しいと書物を読んで理解していたのだ。学術書や俗物的なものにも、それはよく書かれていた。“拗れる”らしいのだ。具体的に書いてあっても、よくは理解できなかったが、まずいのだろうことは理解できた。だから、私は我慢することにしたのだ。

 

 何度、欲求に従ってしまおうと思ったか分かるだろうか。御馳走を目の前にして、おあずけを食らっていた私が、どのような思いでいるか分かるだろうか。

 

 自分の新鮮な欲求を楽しむことなど少しだけだった。欲しい欲しいと暴れそうになる自分を抑えていた私を褒めてほしい。無邪気に無防備にしているメックを、少々恨みもした。人の気も知らないで。そう人の気も知らないで君は恋して愛していたのだ、私ではない人を。

 

 目で分かる。声の調子で分かってしまう。言葉にはしないけれど、好きだ、と言っている。脈などないというのに。ずっと声に出せない、好きだ、を言っている。応えてくれないことを分かっているだろうに。必死に隠していたのだろうが、私たちにはよく分かっていたよ。嫐ってしまいたくなった。二人がかりで幸せにしてやりたくなったんだよ。

 

 

「君が求めていい幸せは2つだけだよ」

 

 

 選択肢は2つだ。妥協するか完走するか。幸せな未来があるはずなのだ。そのことを思うと甘く腹の奥が痛む。

 

 

「よく聞いてくれ」

 

 

 その痛みに足が耐えられなくなってメックに向かって倒れる。立派なもので、片手は繋いだままなのにしっかり抱きとめてくれた。そういうところも甘く痛むのに。

 

 

「1つ、君は手を離さないこと」

 

 

 メックの手は2つあるから、両方とも私とエリーゼで占領する。力尽きる日が来ようと離してはいけないのだ。幸せは独りよがりではいけない。はぐれないように、どこかに行かないように、逃がさないのだから。

 

 

「2つ、君が君を失くさないこと」

 

 

 私はメックがどうなろうと愛し続けるだろう。エリーゼも同じようにそのはずだ。だけれど、メック自身が自分を無くすのは頂けない。幸せは独りよがりではなれない。揺蕩っても、壊れそうになっても、逃げてはいけないのだから。

 

 

「だから、選んでほしいんだ、メック」

 

 

 怖いと思う感情が爆発してしまいそうだ。それを何とか我慢すると、目が熱くなってしまう。

 

 メックに欲情している。彼の気の強い性格は好ましい。溺れてくれても変わらないだろう可愛さだ。メックに欲情している。私より3cmだけ低い身長が好ましい。口づけがしやすそうで興奮する。メックに欲情している。成長途中の肉体から伝わる青い熱と鼓動が好ましい。体を重ねてみたくなってたまらない。

 

 

「メック・ルウェンを焦がれてやまない、ミラ・マクスウェルとエリーゼ・ルタスの恋心。これらを、いつから結び合わせることができるのか」

 

 

 愛欲が静まってはくれないようだ。双眸からも、溢れてくる。静かで、熱く、柔らかな、真っすぐの愛情が。

 

 

 

 

「………」

 

 

 ミラが去って行ってから、まだそんなに経ってない。あの熱烈な宣告の後、彼女はさっと身を翻して行ってしまった。

 

 

「どーすんのよ、これー……」

 

 

 体が重たいが頭の方が重たかった。体も頭も休憩を欲している。具体的には、睡眠という心身共に一番疲れが取れる素晴らしいものをすべきだ。でも、寝たらきっと悪夢を見るだろう。野菜を口に突っ込まれまくるというものよりも恐ろしい何かを見るに違いない。そんなことを思っていると、口の中がまた苦くてまずくなる。先ほどまでは無味であったのに。麻痺していたからだろうけども。

 

 

「いつから、こんな地雷原に突っ込んでたんですかねー……」

 

 

 普通に幼馴染を好きになって、あえなく失恋して傷心中なのに、あの二人の極上な刑務執行宣言。容赦無さすぎるのではないだろうか。

 

 好意を伝えられて否定的な感情は沸いていない。けれど、だから応えるというのは、男としても人間としても欠落がありすぎる。そもそも、2人とも、ということが既に不誠実でしかない。だが、ミラとエリーゼはセットでの選択肢しか寄こさなかったのだ。俺がどのような選択肢を選ぼうが離れる気がないらしい。一般的男子にとって、あまりにもハードすぎるもので、より口がまずく感じる。

 

 ミラもエリーゼもいろいろとカッ飛んでいたが、つまりはだ。俺、メック・ルウェンが好きなので付き合うから早く応えろ。という、前提として付き合うことが決まってしまっているのだ。どういう理論なのかは、旅当初なら欠片も分からずに唸っているだけだっただろう。火達磨にされそうなほどホットな彼女らの恋事情は分かる気がする。

 

 “好きになったから離れたくない”

 

 シンプルだ。詰めれば、こんなにもシンプルだというのに、二人のあの血が凍るようなプレゼンテーションが複雑怪奇にさせる。

 

 エリーゼは親もおらず友達もいなかったのだ。そうだから、誰かが離れていくのが嫌なのだろう。少し可愛くいってみたがごまかすのは悪手か。本当は許さない、ということだ。エリーゼは、自分を一番に大事にしてほしいのだ。何よりも優先し誰よりも近くに居てほしいのだ。愛情を受け損ねてしまったのだから、そうなってしまうのだろう。だから、自分が大事にしたいものができたとき、そのような思考をなぞってしまう。何よりも優先するし誰よりも近くに居る。じゃないと、自分を含めたあらゆる人間や事象、全てを許さない。好きになるから好きになりたい、と切羽詰まった意識がある。その意識で今までそうなろうと涙ぐましい努力をしてきたのだ。だけれど、その意識なく好きになれる存在ができたなら、エリーゼ・ルタスという女の子は、好きだから好きになって、という普通の女の子になれる。拗れた感情が思考を小賢しく蝕むが、結局は普通の可愛い女の子でしかない。

 まだ成長途中なので矯正していくことはできるだろうが、付き合うのなら苦労することは免れないだろう。可愛らしい女の子が泣いてしまうところなど見たくはない。どうせなら、幸せたっぷりな笑顔を見たいと思う。きっと、それをよく見ることになるのは俺なのだろう。

 

 ミラは生まれも特殊だし育っても特殊だった。ニ・アケリアの連中に尊敬の対象として崇め奉られていたのだから、普通に人と触れ合うことが分からない。今では割かしマシになったが、最初は眉を顰めることも多かった。そんなミラは、自分だけで愛したいのだ。精霊と人間を守るものだなんだと肩書を背負い邁進していたものの、いつもそれらは愛す“べき”という義務感があった。実際、義務感がなければ見捨ててしまいたいこともあったろう。でも、きっと、彼女はその義務感を俺に対してだけは持てないでいるのではないか。幸せを感じたいと言っていたのだ。欲求ではないか。傲慢で不遜でいいものではないか。初めてのことに暴走しているのだろう。まっすぐなミラらしい女の子としての欲望。おそらくだが、俺が予想だにしないほど我慢するものがあるに違いない。我慢して好きでいる、という意識が俺以外に。我慢できないほど好きでいる、という意識が俺だけに。上位存在が、こんな普通の女の子らしくてどうしろというのだろうか。

 ある程度育っているから相応な身にできるだろうが、付き合うのなら苦労することは間違いないだろう。美人さんに迫られるだけなのは情けなさすぎる。やっぱり、嬉しい楽しいを感じ合ってみたいと思う。きっと、それをよく見ることになるのは俺なのだろう。

 

 2人が提案した出していい選択は2択だ。

 

 2人が好きになれるから付き合う、妥協案。2人が好きでいるから付き合う、完走案。

 

 好きではいる。心も動かされもした。ぐらぐらと崩れそうになるほど、動きまくった。可愛らしい女の子とミステリアスな美人に、あんなに情熱的に口説かれたのだ。普通の男なら、そりゃ動くモノだろう。だとしても、確実にミラとエリーゼに愛を語れるほど、俺の心は単純になれない。俺の心の中に、まだあるのだ。ミラとエリーゼに対してではなく、アイツへの恋心が。我ながら情けないが、すぐさま乗り換えるのも、それはそれでクズ野郎なので頂けない。

 

 

「好き、なのかねぇ……」

 

 

 なんとか軽く言おうとした言葉は、自分でも聞いたことがないほどの低い声音で吐き出された。口が苦くてまずい。思わず吐き気もするほどにキツイ。

 

 

「好き……、なんかなぁ」

 

 

 構わず舌を動かし喉に空気を通す。相変わらず重たいものだ。歯を意味もなく噛みしめてしまう。思ったよりも力強かったのか頬も痛くなる。

 

 

「……好き、なんだよなぁ」

 

 

 心が悲鳴を上げている。無視して言葉を絞り出すことに没頭するのだ。

 

 

「好きに、なってほしいんだ」

 

 

 誰にか。アイツは俺のものになってはくれないのだ。幻想を見てはいけない

 

 

「好きが、つれぇわ」

 

 

 誰に対してか。俺は誰を好きでつらいのだろう。幻想が恋しい。

 

 だとしても、もう誰も好きなれないわけではないのだ。ちゃんと思い返す。

 矯正するのはエリーゼ・ルタスではない、メック・ルウェンだ。初めからそう意識できているのに、戒めようとはしなかった。相応な身になるのはミラ・マクスウェルではない、メック・ルウェンだ。元からそのように解釈しているのに、適合しようとはしなかった。2人の恋情を無遠慮に放り捨てられないほど、俺は2人のことをずいぶんと思っているということだ。

 見てみたい顔は何か。思い浮かぶのは俺が心から望み、必ずしも叶えて、見飽きることなどありえないものだ。

 

 結局、俺は2人に心底参っているのだ、と理解できる。普通の男なんだからノックアウトされて当然のなのだ。直接的にも間接的にも、ミラとエリーゼに無作法にはできはしない。こんなにしっかりと自分だけでなく、付き合いたい相手のことも考えてくれるいい女が、しかも二人もいるなんて。俺が母親に勝てる確率ぐらいありえなさすぎる。

 

 俺は幸せじゃないか。2人を幸せにしてやりたくてたまらない。3人そろって幸せでいたいだ。そのようなことを自然に考えつけることなど、普通出来ないというのに。

 

 だから、冷え切った両手を頬にぶつけた。しっかり、想い正す。

 

 手を離してはいけないことを想い正す。大切なのはこれからなのだ。自分を失くしてはいけないことを想い正す。大切にしたいのはたくさんあるのだ。

 

 自惚れてもいいくらい俺を特別にしてくれる誰か達に、飾られた言葉など必要ない。シンプルにいこう。シンプルに幸せを掴んでいこうじゃないか。

 

 

「好きだって、言うんだよ、メック・ルウェン。幻想なんかも抱えてみっともなくいよおうぜ」

 

 

 気持ちは決まったのだ。

 

 最終試験を突破して見せてやろう。

 

 

 

 

 男部屋とは違う階に女部屋はある。夫婦で泊まったり家族で泊まったりする場合も階が違う。騒音問題が関係するというのもあるのだろう。いろいろと、従業員が気持ちを分けて疲れるようにした作りは、レイアの宿屋でよく見たものだ。

 

 向かったのは女部屋、ミラとエリーゼ、レイアがいる部屋である。最終試験を合格しに行くのだ。

 

 “レイアの前で、ミラとエリーゼに告白する”

 

 心も体も震える。過度の興奮と微量な恐怖の所為だろうが、非情をもって無視する。俺はただの八百屋の息子だが、ミラとエリーゼだけの男になるのだ。そのような嬉しき出来事の前に無様をさらすのはどうかと思うのだ。

 

 部屋の前にたどり着く。おしゃべりをしているのだろう、男のとは違う高めな声が微かに聞こえてくる。内容は詳しく聞き取れない。盛り上がっているのだが、俺を無視することはないのは分かっている。

 

 ノックをする。4回。運命が出す音だ。

 

 

「はーいって、わ、ホントにメックだ」

 

 

 幼馴染が出てくる。

 

 

「ドーモ、お部屋に入れてくれや」

 

 

 幼馴染が出てくる。

 

 

「もう寝たいんだけど、まぁ、いいよ、入って」

 

「メック・ルウェン、入りまーす」

 

 

 ミラとエリーゼの男を出す。試験官に印象付けするのは当たり前だろう。軽くても、しっかり発声した。

 

 

「来たか、メック」

 

「意外と、早かったですね」

 

 

 試験官方は好印象を与えているようだ。バッチリ決めてハッピーにする気満々なのは彼女らもだ。

 

 

「明日に備えて寝なきゃね、って、話してたんだ。でも、なんか盛り上がっちゃってさぁ」

 

 

 相変わらず小さくてもいろんなことを楽しいと思えるレイア。そういうところも好きだった。

 

 

「で、何しに来たの?」

 

「告白だな」

 

「え、やっぱりっ!?」

 

 

 俺の言葉にレイアはミラとエリーゼを見る。2人はじっと俺たちを見ていた。色々話したのだろう。レイアの反応は少しウケ損ねているものだったから。

 

 

「俺さ」

 

 

 レイアに、好きな人に。目と目を合わせ、1音1音、聞き逃させないように発生する。

 

 

「レイアが好きだ」

 

 

 レイアは絶句している。そりゃそうだ、恋愛相談なんか腐るほどされていたんだから。そんな相手が意識などされることは一度もなかったけれど。

 

 

「でも、ごめん」

 

 

 レイアの返答が怖くてこう言ったのではない。正しく、俺から絶ちたかったのだ。俺が、メック・ルウェンがレイア・ロランドに送りたかった恋心に。本当に、本当に、好きだったから。

 

 

「だから、よ。ミラ、エリーゼ」

 

 

 レイアに固定されていた体ごとミラとエリーゼに向ける。まだまだ好印象を抱いている様子だった。

 

 

「俺と結婚を前提に付き合ってください」

 

 

 二人は満足そうだ。もう一つやれば、もっと満足してくださるだろう。

 

 

「上手く好きになれるかは、まだ全然分からねぇけど」

 

 

 少し不満そうになる。マイナスな印象を与えたようだ。上手に。

 

 

「俺は、ミラもエリーゼも、どっちも離してやんねぇから。だって」

 

 

 上手に、シンプルに。

 

 

「俺はどっちも、大大大好きなんだからよ」

 

 

 通じていることは肌でも分かる。それほどまでの熱量が発生しているのだから。

 

 けれど、やはり成果は自分で確かめたいものだ。

 

 動けなくなった2人に近寄る。当たり前のように、2人の手を取り優しくも強く握って跪く。

 

 

「どうか、ミラ・ルウェンとエリーゼ・ルウェンになってくれ」

 

 

 落として上げる。その作戦はやっぱり成功する。大合格だ。だって、見たい顔を見せてくれているのだ。

 

 

「はい!!」

 

 

 後ろで甲高い悲鳴が聞こえる。この声で他のメンツもやってくるはずだ。

 

 何事だって突撃してきたら、あっさりと言ってやろう。

 

 

“好きな人に告白した”と

 

 

 祭り並みに騒がしくなると良い。静かすぎると思うパーティなのだから、近所迷惑になるほど騒ぐのは悪くないだろう。

 

 幸せになれるように。大切なものを大切だと分り合うために。

 

 好きになれたことを誇ろう。好きになってくれたことを誇ろう。

 

 そう思える明日を作ってみせるから。

 

 どのような選択肢を選んでも幸せになれる明日なんて、最高じゃないか。






○主人公設定

名前:メック・ルウェン

年齢:15歳

身長:165cm

武器:拳銃×2

戦闘タイプ:二丁拳銃使い

 ジュード・マティスとレイア・ロランドの幼馴染で、両親が経営している「八百屋ルウェン(八百屋)」で働いている少年。久しぶりにジュードに会うためにラ・シュガル国のイル・ファンに来ていたが、彼が港で軍に追われているのを目撃して救出、そのまま成り行きでジュード達と行動を共にする。ジュードと対称的に気の強い性格だが、エリーゼのような優しい女の子に対しては優しく接する事もある(『ガンダムSEED DESTINY』のシン・アスカのような感じ)。主体性があり、自分の意志で行動することが多い。幼いころから鍛練が趣味なため、実力と身体能力はジュードとレイアより優れている。基本は射撃による遠距離戦を用いるが、接近戦にも長けている。


◇主人公の両親の設定

◆主人公の父親
 ウォーロック・ロランド(レイアの父親)の親友。ル・ロンドで「八百屋ルウェン」を営んでいる。身体能力と武術に優れている。普段は無口だが、根は優しい。
◆主人公の母親
 優しい性格だが、ソニア・ロランド(レイアの母親)と互角の実力者。料理の腕前は一級品。怒らせると目が全く笑わないほど恐ろしい。ソニアとア・ジュールの武道会で優勝をかけて激戦を繰り広げた逸話を持つ。


 ちなみにジュードとレイアは幼馴染という事で終盤辺りで付き合っている設定


以上がリクエストしてくださったシャドー様の設定です。


以下はこちらが勝手に考え付いた設定です。


捏造設定

・レイアに惚れてた
・野菜嫌い
・注意しないと肉しか食べない


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

その他
涼宮ハルヒシリーズ ※各ヒロインルートに分岐(長門有希・朝比奈みくる・鶴屋さん・喜緑江美里・キョンの妹・佐々木)


設定

あだ名:シャドー

概要:主人公(シャドー)はキョンの幼馴染み兼同級生の男子高校生。ハルヒとのスポーツ勝負で勝敗は着かなかったが、ハルヒに気に入られ、彼女の勧誘を受けてSOS団に入団する。

一人称:俺

容姿:髪は黒の短髪。顔はキョンと同じ普通な感じ。

身長:キョンより十cmほど低い。

性格:自由気ままなマイペース

家族構成:父、母(普通の一家でよく一緒に出掛けたり、時には喧嘩もするが、後で互いに仲直りしたりと普通の生活を送る関係)

能力:キョンと同様に普通の人間で学業の成績は普通(悪い訳ではない)だけど、運動神経と身体能力はSOS団団長・涼宮ハルヒと互角とかなり優れている。



主人公のお名前は、リクエストされた方のものを使わせていただいております。



各ヒロイン分岐します(現在、長門・朝比奈みくる・鶴屋さんルートのみ)




 無意識な行動に強い責任を、が直訳。意訳では、ちゃんと認知しろ、というものらしい何処かの言葉が書かれたポスターが目に付く。その意訳の方の所為で何にも心当たりがないのに、いやに喉を干上がらせる。確かに暑苦しい格好しているから、もう喉がカラカラだ。とてもとても喉が渇きすぎてなんでもいいから水分をくれないと、ここにあるコップを全部撃ち抜くなどと暴れてしまうかもしれない。

 

 そんな俺の様子に気が付いたようで、ちょっと整えられすぎているカイゼル髭のマスターが飲み物をくれた。即座に手を伸ばし中身が何なのか確認もせず、口に突っ込んだ。給食にいつもついてくるアレの味がする。それなのに喉通りがしつこくない。そのおかげで咽ずに一気で飲み干せた。

 コップを勢いよく置く。それと同時に、頑張って作った扉が大きい音を立てて乱暴に開かれた。見飽きるほど見慣れたそいつは慣れない演技で予想以上の音が出て驚いたらしい。だから、台詞がちょっと遅れた。

 

 

「おい、シャドー!! 決闘だ!!!」

 

 

 色々と前がトンだし棒読みだしな俺のヤレヤレ系幼馴染。監督のハルヒに後で何か言われそうだ。付け髭谷口はこの決闘中に流れ弾で落ちてきた箱に頭をぶつけて退場。俺はそれを見てから必殺技を出して、同じような衣装を着ている幼馴染を倒す、という流れ。必殺技は任された。ハルヒ並みの運動神経と身体能力を持っているとはいえ、どんな動きを期待されているのか。格ゲーのような動きは無理なんだけど。

 

 とりあえず、流れに乗らなければならない。リテイクもある程度は許されるだろうが、結構物を壊していく感じの映像を撮っていくので上手くやらないと大分面倒くさいことになるだろう。色々と映画でしか見たことのない物がある。基本見てくれ重視であって使用には向いていない。というか、コレクターぐらいしかいらないんだと思う。俺も男なのでロマン的なものを沁みわたるほど感じ入るよく分かんないものたちがある。例えば、今腰から抜き取ったロマンの塊なだけで消耗が激しく、実用性や汎用性が地の底レベルだろうこの銃とか。もちろん、銃刀法違反な品ではない。ハルヒのミラクルパワーが作用しなければ、安全性溢れるロマンなだけのおもちゃでしかないんだから。

 

 そんなロマン全開な御もちゃを、格好よさげに同じように服に着られた序盤と中盤、挙句に終盤まで何度も登場する敵役、幼馴染の目線と重なるように構える。

 

 

「お元気だね、キョン。またまた鉛玉の味を覚えに来たのかな?」

 

「今度こそお前が鉛玉の味を覚えるときだぜ!!」

 

 

 何度も鉛玉の味覚えてるんだよな、この敵役。この序盤から終盤まで、出てきたら必ず。そっくりさんじゃなく、全部本人みたいだし。鉛玉の数だけ強くなるんだけど、なんで永久退場しないんだろう。

 

 

「さぁ!! 三っつ数えたらバンっだからな……」

 

 

 その台詞は終盤の……。色々幼馴染が頑張ってるところを見ていると、いつも飛ばされた風船のような俺は更にフワフワ気が抜けていく。無気力ぶっているくせに、頑張り屋だからなぁ。妹を持つお兄ちゃんは、みんなこんななのかね。

 

 

「いくぞっ!! ……ふーッ。三、二」

 

 

 あ、まずい。早く撃った感じにしなきゃ。カウントダウンがテンパりすぎて早口だ。脚本通りに割り込みで撃たなきゃいけないんだ。

 

 

「い」

 

 

 幼馴染は棒立ちのままなのに、俺は無駄にあちこち跳ねまわりながら動く。そして、パンっ、という軽い音ではなく、弾も火薬もないのに雷鳴を少し鈍くした音を炸裂したロマン銃。非常にうるせぇ。

 撃たれたからというより、音に驚いて全力で倒れた幼馴染。効果音担当として居た国木田は必要なかったみたいだ。

 

 

「あぁ、悪いな。俺は一から三までの数字が嫌いなんだ」

 

 

 どうしてなのか。俺も分からない。脚本はノリ重視だから。というか、ノリだけだから。考察する必要もない。悪いな○び太、これノリを楽しむやつなんだ。雰囲気とかテーマとか、そんなもの気にすることないんだ。

 

 

「四百ドルから頂くぜ」

 

 

 退場するも、終盤で何故か復活するマスター役の谷口が懸賞金から差っ引いた。この映画、退場するも復活しまくる。似た感じのそっくりさんではなく、本人としてだ。どういうことなんだ。俺も分からないんだよ。

 

 

「シャドー、依頼を頼みに来た」

 

「分かった。報酬は? 四四四ドル以上でないと受けないよ」

 

 

 訳ありな旅人的な感じの長門と朝比奈先輩がやってきた。これは中盤の所だった気がするが、もうごちゃまぜにするんだろうか。

 

 

「お、お金は好きなだけあげます! だから、どうか依頼を達成してください!!」

 

 

 身長的に妹役の朝比奈先輩が、旅人コートを脱ぎ去って叫ぶ。お嬢様風な衣装だ。人のこと言えないけれども、声がふにゃふにゃでなんともいえない。

 

 

「好きなだけ、か。オ〇ナミンCを百年分買えるほど?」

 

「陽子の寿命分ぐらい買えます!!」

 

 

 どれくらいの年月なんだろう。そもそも陽子ってなんだったっけ? とにかく百年以上分買えるぐらいということなんだろう。

 

 

「前金」

 

 

 そう言って、長門がでかいビンを何処からか差し出してくる。台詞の流れからしてオ○ナミンCが入っているんだ。この一升瓶ぐらいのやつの中に。

 別の商品だけども○イン・コスギのように蓋を開けて飲む。あのCMも実際は先に開封済みのをいい感じに撮影した後、編集してできたものらしい。ハンドパワーないと無理だから、しょうがない。

 

 

「……ふぅ。いいよ、受けよう。期限は?」

 

 

 実際にオ〇ナミンCではなく、同じような色をつけた液体を四、五割ビンに残して、いい感じに顔を乱暴に拭って笑う。一升瓶に並々と液体が入っているわけではなく、外に塗料を塗っていっぱい入ってますよ感を出しているだけで、本当は全然ない。

 

 

「SLが銀河を走るまで」

 

「OK、気が長いのはいいことだ。パンを寝かせてあげる時間もないのは大変だからね」

 

 

 俺は、朝シリアル派なんだけどね。SOS団のは俺を含めると、パンが四で、ご飯が一、シリアルも同じくだった。なんでよ、アレンジすれば蒸しパンとかできるのに。

 

 

「それじゃ、依頼というのを聞かせてもらおうか」

 

 

 なんとか様になるような動きをしながら尋ねる。予定通りに、もう効果はないだろうボロボロの腕章を一つになるように見せつけて、長門と朝比奈先輩が同時に口を開ける。

 

 

「これの持ち主だった男を撃ち堕として下さい」

 

 

 朝比奈先輩は色々限界で目がウルウル、長門はいつも通り静かにした眼差し。どちらも同じくらい頑張っていることが分かる。朝比奈先輩は顔にも出ているし、長門はなにがなんでも無であろうとしているから。俺だけフワフワしている。

 

 腕章を散らばらないように受け取って、悪そうなにやけ顔をなんとか作りこのシーンの最後の台詞を吐き出す。

 

 

「いいとも……もちろんっ、いいとも!!」

 

 

 台詞が終わった後に、これまた悪そうな笑い声をあげる。カット、という言葉を早く。頑張って笑ってるんだから、はやく。頑張って笑うのって大変なんだから、早くしてくれよ。

 

 三分ほど笑い声を出させられた。途中からもう笑い声でなく、変なよく分からないものになっても止めてくれなかったんだ。おろおろしっぱなしになった朝比奈先輩を筆頭に、ハルヒの機嫌が下ってしまったのかと恐々していたみたいだけど、ただ単にあれがいい感じになるからと考えてただけのみたいだ。

 

 幼馴染のお財布に俺もお世話になるのは当たり前だろう。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

「シャドー、マジで助かった。だけど、今度千円だけ貸してくれ」

 

 

 撮影が終わって幼馴染の財布が哀しくなった後、いつものように幼馴染の家でぐだぐだしていると、また感謝の言葉とともに土下座された。

 

 

「いいけど。○太郎のクリアしたら+で千五百円ぐらい貸してあげるよ」

 

 

 追加として、コンビニで新しいスナック菓子を買ってもらっている。ポテチにチョコをコーティングしたやつだ。ネタで買ったが、正直後悔している。求めてない味で、一口でもう止めたくなったんだ。幼馴染も同じだ。どうにかこの買ったやつ、今すぐ夜空ノムコウに行ってくれないだろうか。でも、食べ物を粗末にするなと教えられているので、悲しみの気持ちまみれの二人で食べているんだ。求めていない味が、まだたくさんあって悲しみが幾重にもなっていく。内容量が八〇gって全然減らないんだ、知らんかった。

 

 

「さんきゅー、持つべきものは幼馴染だな。で、どのやつだ? w〇i? プレ〇テ?」

 

「んー、とぉ……」

 

 

 手を拭いて、ゲームの箱を漁る。壊れてしまうほど乱暴には探さない。それは幼馴染も分かっている。小さい頃、幼馴染の家に置いていったアレをゲーム機とともに探す。ファミコンのはもっと下だったけかな。

 

 

「あったあった。これ、やって」

 

 

 黄ばんだファミコンに緑色のカセットを。ちょっと起動しないので、再起動させまくったり、抜き差ししてはカセットに息を吹きかけたりを四回ほどやって画面に昔見慣れたものが。俺の方のお父さんに泣きついて頑張ってもらったけど、お父さんは雫が落ちてくるステージからクリアできなかったんだ。お母さんにもおやつ我慢するからってやってもらったけど、同じ。あの頃の幼馴染も巻き込んだけど二、三ステージはクリアしたような気がする。

 

 

「ぇえぇ、まじか……?」

 

「助けてくれよ、幼馴染の──くん。どうしてもこのエンディング見ないと、夜しか寝れなくなるんだ」

 

「正常だろうが、それは」

 

 

 とりあえず一ステージを試しに俺がやってみる。コントローラーのチェックだ。○太郎の動きが相変わらず分からん。人魂集めに夢中で回避をミスって終わった。だいぶ前の記憶を思い返してみても、こんな感じの動きのゲームだったと思う。あの頃よりは色々索敵能力が上がったとも思う。人魂も敵だと思って逃げ続けてたなぁ。その所為か知らないけど次のステージ行ったことない。

 

 

「──、コントローラーまだ生きてるよ。じゃ、よろしく」

 

「うわー……、まじかぁ」

 

 

 小銭の存在すら怪しい薄い財布のために我が幼馴染は、コントローラーを手にしてくれた。

 

 最初の二分ぐらいミスりまくっていたけど、何度もミスるが意外と進んでいっていく。扉でハズレを選んだときボスを倒すこともあれば、リセットしたりもしてなんとか。微妙に滑るんだよなぁ、○太郎。リモコン下駄の裏にローションでも塗っちゃったんだろうか。

 

 

「滑るなぁ」

 

「めっちゃ滑る。ぬるぬるじゃなくてツルツルしないでくれよ」

 

「これコンティニューありだっけ?」

 

「ファミコンソフトだったろ、たしか。絶対ない。そんなシステムいれるリソースなんてないに決まってる」

 

 

 奇をてらわなかった炭酸飲料を飲む。このばりばり人工甘味料感がたまらない。おいしいものは悪い子になるように作られているんだろう。

 

 

「んぁ?」

 

「あー、どした」

 

 

 何度目かのリセットの後、携帯のバイブが尻ポケットから伝わってくる。メール用に設定した方の振動パターンだ。今は幼馴染の健闘を見守りたいから、無視することにした。

 

 

「メールだと思う。いいよ、続けて」

 

「はぁっ!? ほんっと、おまっ、え、さぁ! ホントしっかり立てよ! 地に足付けろっ、あぁぁあ!!」

 

 

 ○ックマンの雲ステージによく似た感じの画面で、また○太郎が墜落しまくっていく。リモコン下駄からリモコンローラースケートに履き替えたんだろうか。エア○アとか読んだのかな。幼馴染は滑り落ちていく○太郎とともに、頑張っている。

 

 ところで、実は俺の尻が携帯のバイブでかゆい。めっちゃメールが来てるみたいだ。オカズ探しには携帯使ってないんだけど。

 

 

「ちょっとメール来てるっぽいから、確認するわ」

 

「あぁ、俺も一旦休む」

 

 

 同じような炭酸飲料をガブガブ飲んでいる幼馴染の健闘を称えるために、チョコポテチを幼馴染側に寄せておく。糖分補給出来ていいだろう。

 

 

「誰?」

 

 

 ポチポチとボタンを押して受信一覧を見ると、案の定迷惑メールのみたいだ。親による設定で、変な業者から登録していないやつらのは全部シャットアウトされるはずなのに、同じ名前の人から大量に来ている。“太陽系医療団TOMAS”。……何処で、なにこれ? ある程度読み取れたのはこんな謎名称。ところどころ文字が読み取れない。文字がちゃんと入力されているはずなのに、俺にはひらがなでも漢字でもなく、かといってキリル文字とか英字とかでもないし、ヒエログリフ的なものとも認識ができない。視力検査で一番大きいのすら見えないの人の視界ってこんななんだろうか。

 

 

「あ~?」

 

 

 変な声を出して開封もせず画面を見てみるが、どんどん文字が読み取れなくなっていく。そして、未読の数が二〇以上あったものがどんどん数字とともに減っていく。携帯会社の人がお仕事してくれているんだろうか。

 

 

「どうしたんだよ、シャドー?」

 

「わからん。多分迷惑メール」

 

「お前、設定されたままじゃなかったっけ?」

 

「そうなんだけどね。携帯会社さんがポカしたんじゃない」

 

 

 幼馴染と話している間にも未読数が減っていく。一個も開封はしていない。なんだったんだ。尻ポケットにしまいなおす。

 

 炭酸飲料をもう少し飲んでおく。キャップをきつく締めすぎたようで、開けるのにしばし苦労した。

 

 

「シャドーくん、いるー?」

 

 

 ノックなんて知らない幼馴染の妹ちゃんが、大きい音を出しながらやってきた。そして、いつものように突撃してくる。

 

 

「あぁ、ちょっとまって」

「いた~~~!!!」

 

 

 キャップが開いたとの同時の上半身に衝撃。辛いことだけど、幼馴染より十㎝ほど低い俺の体躯は同じように色々コンパクト。耐衝撃力も大きさに釣り合うだけだ。

 

 

「こら、バカっ!!」

 

 

 慌てて兄の方の幼馴染が動く。飲料がかからないよう抑えてくれた。俺は妹方の幼馴染のタックルを上手く分散しようと、手を後ろについた。

 

 そして、バキッ、と何か壊れた嫌な音が。俺の尻の方からだと思われる。携帯の入っている方の。

 

 兄側が妹をまたも慌てて持ち上げる。俺はほぼ冷静な心境で身を起こし、尻ポケットから文明の利器を抜き取った。折りたたまれたそれを見回すと傷的なものはない。折りたたみできるところだろうか、それともアンテナだろうかと確認してもヒビもない。なら、画面か、よくてキータッチ部分か。冷静さはもはやランナーズハイと同じものだった。すべてが他人事のみたいだったんだ。

 

 静かに開ける。空けた同時にポキリとはしない。起動したままの画面、いつものように少し薄汚れ。酷使しているキー、微妙に謎のカスがちらほら。軽く見て、新規メールとして適当にポチポチ。軽くや少し強めのタッチにも綺麗に答える文字キー。スクロールも安心。

 

 

「だいじょぶー?」

 

「うん、大丈夫みたい」

 

 

 どうせ駄目だったら、新しいのを強請れる、という冷静に成りきった俺は妹ちゃんの言葉に穏やかに返せた。

 

 

「ごめんな、シャドー。まじでごめん」

 

「いいよいいよ」

 

「ダメそうだったら言ってくれ。親に前借してでもなんとかする」

 

「お札の代わりにレシートまみれのお前に、そんなことはしないよ」

 

 

 兄の様子に妹ちゃんの方も申し訳なささに小さくなってしまった。

 

 

「それより〇太郎の残機増やしとこう」

 

「あ、あぁ」

 

「二五〇ぐらい」

 

「……怒ってるな?」

 

「いや?」

 

 

 しょげってしまった幼馴染の兄妹に、慰めのお菓子を渡す。少し厚めに切られたじゃがいもに、甘みを持たせたチョコをコーティングさせたものを。食べてくれた。全部食べさせた。

 

 妹ちゃんの方を構いながらだったが、緑のファミコンカセットゲームでの豆知識を発見した。二五〇以上残機を増やすと、バグる。気が向いたら〇ザップに載せておこうと思う。

 

 壊れていないと信じたい携帯の画面を無視したかったんだ。

 

 “処理”という二文字だけ読み取れた画面。あとを読み取る前に滲んで読めなくなり、自動的に消された。

 

 ハルヒに関わっていなければ、なんとかしようと動いたんだろうが。もうこのような現象を起こされた場合、流れに乗りつつその場その場で何とかしないといけないことは身に染みている。

 

 やはり、謎おやつを衝動買いするしかない。

 

 

 

 ◆

 

 

 一六ステージあるらしいが、指や気力がつきかけた幼馴染のギブアップによりボーナスは幻想に消えたんだ。

 明日もなんだかんだ用事があるので、徹夜はダメだろう。一六〇代からステップアップするためにも徹夜はダメだ。骨の成長に貢献するため、寝る前にストレッチをしておく。利くと信じて毎日行っているんだ、我が幼馴染に身長を抜かされてからずっと。

 

 いい感じに解れてきたところでメールが来たみたいだ。もうすでにどうとでもなるさという意識があるので、臆さずメールを宛名も見ずに開封する。いつものように兄の携帯を借りて送ってきているのか、というのとは違った。流石に遠慮したんだろう。

 

 最近再会した佐々木だった。

 

 回りくどい話し方と同様なメール文。要約すれば、今日俺たち商店街らへんで見かけたけど何してたの、というもの。

 簡素な文だけ送ると全力長文で返されるので、なるべく文字数が多くなるよう、そしてある程度情報を受け取りやすいような文を考える。勝手に色々考え込みたがる佐々木なので、メール一つでも大変だ。

 

 商店街で潰れること確定のミニシアターの人たちの話を、喫茶店で盗み聞いた探索終了後だったハルヒと俺達SOS団。彼女らが盛り上がった末に、最後の一花咲かせようということで自主映画を作成することに。映画はノリ重視の、西部っぽいなにか。なんか色々運んでたりしてたのは小道具とか応援してくれる人たちの。とりあえず、映画の進捗はいい感じ。派手さが全面的に出るやつだから、編集してくれる人のお力で威力が凄そう。

 

 というのを、佐々木とのそれなりな付き合いで培った能力を駆使して打ち込む。長文を打ち込むのはやっぱり慣れない。妹ちゃんや他のSOS団や鶴屋先輩、友人たちとは五行以上のフルパワーな文など送らないんだから。極稀にハルヒ警告兼予報などで喜緑先輩とやり取りもするが、五行未満がほとんど。予測変換なども用いているが、○太郎と戦った幼馴染のように親指が痛くなってきている。

 

 何とか出来上がった内容を送る。待機時間だ。佐々木は、単語一つ、例えば”ごはん”という言葉を送っただけでも、色々勝手に考え込んで長文メールを送ってくる。体を小さくされた時のためか推理や考察、哲学の道に進みたいのか謎概念、不思議理論を色々混ぜての疲れるものを。ある日、返信を待たず眠りについて後で穏便に済むようなメールを送ったが、佐々木は怒っていることを簡素なメールで何度も送ってくる。“バカ”とか”キライ”とか”リンゴ”とか。リンゴはおいしいから、悪口ではないか。こんな単語を十分以上送り続けてくる。そのあと、いつものように長文メールが来るんだ。

 それで、面と向かって会った時、頭を押される。縮むように。伸びることがないように。固定させようとしてくる。同じぐらいの身長だから力が込めやすいみたいだ。

 

 そんなことされたくない気持ちがいっぱいっぱいで、なんとか待機。内蔵されている時計の表示はゴールデンタイムの最中。明日起きたら二〇㎝ぐらい伸びないかな。宿題なんかはいつも適当にやっているので、問題ない。教科書を忘れてしまったなら、幼馴染のところにでも借りればいいし。体操服は、プライドを生贄にして同じように借りる。とても余裕がある体操服だ。半袖のはずなのに半袖ではなくなるくらい余裕で、短パンなんかも同じ。幼馴染より体を動かしているのに何故だろう。

 

 お母さんが自分のために買って三ページぐらい読んだ後、二度と触らなくなったヨガの本を眺める。上級者向けは宇宙の真理に辿り着けそうなポーズだ。聖者カウンディニャって何者なんだろう。このポーズしながら哲学していたんだろうか。できるかどうかならできるんだろうな、と自分なりのイメージを作っていると受信したみたいだ。

 

 みっしり八行以上のメールを要約すると、パニック系映画って至高の娯楽だよね、だった。

 

 原点にして頂点のことではなく、B級ら辺の作品的な娯楽感。創造力というものは無限可能性を引き出してしまうということを、この世に知らしめてくれる作品達だ。いつか、雨粒がすべてラッコになって大混乱するような素敵な作品作りそう。水問題とかほっといて、インパクト全ブリの素敵なB級が。人間って一体なんなんだ? 

 

 B級以降の映画のように不整脈を発生させるようなトキメキが起こせるか分からないけれども、元本職がいるから編集パワーを信じてくれ。来てくれれば全力で巻き込むけど、いつでも遊びに来てよ。

 

 を、また小難しく胡乱な文にして送る。

 

 そうして、子供の頃買ってもらった生き物図鑑を手に取り、類人猿辺りを探す。そこで知ったことは、ゴリラはやっぱり森の賢者でチンパンジーはやはり畜生ということ。ゴリラさん繊細過ぎてすぐ鬱になるんだね。ドラミングも挑発じゃないんだ。平和宣言してくれるなんて素敵だ、そのパワーで太い木なんかも殴り倒せるのに。

 

 そんなことを考えていると、今度は早かった。佐々木のことだから流し読みなんてことをせず、しなくていい律儀さで無駄に推察してはそれを押し進んでくるはずなのに。

 

 明日行く、という一文のみ。ハルヒと仲良くしたいんだものな、たしか。そりゃ色々知りたがり考えたがりの佐々木には行動あるのみなんだろう。待ち合わせして行こう、というモノと。明日が待ち遠しいから寝る、おやすみ、というのを打ち込んで送る。

 

 携帯を充電させつつ、ベッドへ。今日は半ドンだったから色々気が抜けたけれども、明日は休日。フル稼働だ、全員が。もういいや、という気持ちになってしまい目を瞑った。

 

 なにかがグニャグニャしていくような感覚を朧げに感じつつも、無視して眠りにつく。

 

 明日がいい日になりますように、といつものように願って意識を手放した。

 

 

 ◆

 

 

 

 アラームいらずの起床。朝四時ごろだ。寝巻用のTシャツと短パンから、ジャージに着替える。顔を洗ってうがいの後、水で薄めたスポーツドリンクを飲んだ。そして、軽く体を整えてランニング。タイマーウォッチの三〇分が経つまで走る。経った後はまたセットしなおし、少しペースを上げて家まで戻る。昔からやっていることだ。

 頭まで響いていく足からの振動は楽しくなる。耳に入る俺の音、鳥の鳴き声、そして普段は気にもしない日常の音も楽しくさせる。においも毎日違うんだ。木や植木鉢に咲いている花の香は季節で色々と楽しくさせる一つ。目に映るのもそうだ。金曜日の次の日あたりは、サングラスなんかして誤魔化したいものもあるけれど、日常というものは不変ではないということを教えてくれる。

 

 楽しいのはどこまであるんだろう、といつもワクワクしながら雨だろうと走っているんだ。

 

 途方もない楽しみを無意識に探していたからだろうか。飲んだくれをまた発見してしまうのは。

 

 困った人がいるならなるべく助けなさい、と色んな人に教え込まれているので、近寄ってうつ伏せから横向きにする。全身コートで覆われた飲んだくれさんが、息をしていることを確認する。胸が動いているのでしているはず。顔は認識できない。こういうのはハルヒが求めているのであって、俺ではないのに。フードの中にあるはずの顔は目や鼻、口が確認できずただ真っ黒だった。あぁ、あんころもち食べたいなぁ。

 

 

「もしもし、大丈夫ですか? 起きれますか?」

 

 

 放置という選択肢は、ハルヒのパワーを思い知らされる身として無し。もう、なんでもいいという心地なんだ。

 叩くたび感触が違う肩と思われる部分に、その心地が脳を支配していく。鉄みたいに硬くなったり、スライムみたいなぶにょぶにょ感とか感じる肩ってなんなんだろう。

 

 起きたのか、少し痛いぐらいの強さで俺の腕を掴んだ。

 

 

「+++++++++++」(医療を行使します)

 

「日本語でお願いします」

 

「++、+……。お疲れ様です」

 

「お疲れさまです」

 

 

 謎言語から日本語に変えてくれたその人。真っ黒な顔のある部分に顔文字が浮かぶ。どんな可愛らしいものが浮かぼうとも、可愛いとはもう思えなくなりそうだ。

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

 不思議な感触は他の部位もそうだ。起き上がろうとしているので、背中と思われる部分を支える。

 

 

「はい。わたしは大丈夫です。失礼します」

 

 

 そう言って、その人は立ち去るみたいだ。立ち上がれば大丈夫なようで、しっかりした足取り。でも、影が見えなくなるまでは見守ろうと思う。倒れそうになったら大変だから。逃げるという選択肢はない。

 

 四、五メートルほど離れた距離で立ち止まったその人は、俺の方へ振り返った。

 

 

「アナタが宿主ではないのですね」

 

 

 その言葉に反応する前に、消えた。瞬きする前に消えていたんだ。

 

 全力疾走する。ランナーズハイ狙いだ。頭を麻痺させないと、心が麻痺るだろうから。

 

 

 午前五時になる前に息を切らせ汗だくで疲れ切った。頭は色々楽しくなっている。冷たすぎないシャワーで汗を流したあと、冷水で更に頭から楽しくさせる。集合時間が七時だったはずだから、その時間帯ではいい感じの楽しい具合になっているだろう。

 

 部屋に戻って携帯のランプが光っていることに気づいた。穏やかすぎる心でメールを確認する。

 

 佐々木と、鶴屋先輩。それに喜緑先輩だ。

 

 佐々木は俺との待ち合わせ場所と時間の確認。鶴屋先輩は今日暇だから見学に行くとのこと。

 

 喜緑先輩は、頑張りましょう、という一文。

 

 それぞれに返信を返す。俺の知り合いならこの時間帯から俺が活動中なのを知っているので、迷惑になんて思うことなどお互いにない。それに、この三人と妹ちゃんは即返信してほしいタイプだからした方がいい。ハルヒは意外に待てるし、長門も朝比奈先輩もその日に返せば大丈夫。幼馴染は直接話せばいいんだ。妹ちゃんはメールもしたいみたいだけれど。古泉達のような男友達はあんまりメールなんかしない。古泉は呼び出しだし。

 

 三人に送り終わった後は、頭が冷めないようにタクティカルブリージングとやらをする。軍事オタクの親戚に教えてもらった呼吸法だ。四秒間隔で呼吸と静止を繰り返す。

 もう戦闘モードでいないとダメなはずだ。喜緑先輩の一文が、緊張を強いる。いつもならもっと詳細を書いてくるというのに、アレだけだった。つまり、色々と余裕がない。

 

 鳥の鳴き声が聞こえず、代わりにメールの受信をつげるバイブ音が。

 

 佐々木ではない。あいつは準備に大変だろうから返事などしてこないだろう。鶴屋先輩でもない。俺のメールには返信が欲しいなんてことを書いてないので送らないはず。喜緑先輩なわけない。対応に追われてメールなんてしてられないんだから。

 

 相手は、妹ちゃんだ。幼馴染の携帯をこんな朝から盗み取ったんだ。一か月に四回あるかないかレベルのレアイベント。内容はおはようの挨拶と、昨日はごめんなさいと、今日遊びに行くね、という穏やかな気持ちにさせてしまうもの。返事は挨拶と、気にしていないこと、お兄ちゃんが寝坊しないよう起こしてね、あとちゃんと返しておくんだよ、と。こっそりしていても、履歴でバレている。怒られているんだけど、妹ちゃんに甘い幼馴染は、結局貸す。幼馴染のお母さんに叱られそうになっても、かばうあたりやっぱりシスコンだ。

 

 送った後、本日の戦闘着という芋すぎない且つ圧力を与えない程度の服に着替える。小型でフツメンだけど、服ぐらい気を遣う。それに、たまにゲームみたいになんか付与されていたりすることもある。防御力三↑とか。長門たち宇宙人の仕業でも、朝比奈さん含む未来人の方の措置でもないし、古泉のような超能力者らの前払いなんかでもない。アレですよ、星座からのパワーなんだよ。このような些細なこと気にする必要はないから。他にも色々持っていくものを用意する。謎加護もあるだろうからだ。

 ファッションはあまり拘らない。というか拘れない。だって、体に合わせるのが難しいから。いくら小型だろうとそれなりに筋肉がついているので、見た目的に合いそうなものは入らない。かといって丈が余ることもあるので大変だ。チェックは基本朝比奈先輩だ。未来と現代では感性などまるで違うだろうというのに、いい具合にして下さるので大変助かっている。

 

 イチゴ牛乳でシリアルがふにゃふにゃするまで待ってから、全部胃に入れる。時間は六時と四分の一ほど。歯を磨いたあと、行ってきますの声と同時に外へ出た。

 

 遅刻しない程度の早さで歩いて、待ち合わせ場所の北高へ

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 俺が北高の校門前でボーっとする間もなく、予定より早めに佐々木はやってきた。ここまで来るのに弄っていた携帯をしまう。無駄だったんだろう。

 

 

「おーす、佐々木」

 

「やぁ、シャドー」

 

 

 佐々木団の一員もいるかもと思ったのにいなかった。校舎の方にすでにいるなんてことしているんだろうか。

 

 

「安心してくれ、僕一人さ」

 

「そうなの」

 

 

 坂で疲れたからだろう。少し呼吸が荒い。ここまで来る途中の自販機で買った飲み物を渡した。

 

 

「ふふ、流石だねシャドー。でも、この選択は少しアレだね。君の味覚は相変わらず鋭敏すぎるみたいだ。年を取るごとに鈍感になっていくというのに、このような甘味の元という飲み物をわざわざ選んでくるのは、君自身の味覚の好みからなんだろう。あぁ、誤解しないでくれ。けっして君のことを貶しているわけではないんだ。栄養補給として買ってきたものは無駄にならなそうだと思っただけだよ」

 

「佐々木の味覚に合うと良いね。ほら、甘いっていいものだろう、特に女の子にとってはさ。マヨラーみたいに、生クリームを甘い物に何でもかんでもかけまくるんだから」

 

「いっぱいかけたものをたくさん食べるために女子というものは切磋琢磨しているさ。そうとも、甘味というものは素敵なもの。だけれどね、シャドー。甘味は地獄も見せるものさ。……これ以上は言わなくてもいいだろう、君なら察してくれるだろうからね」

 

「さ、イッキイッキ」

 

「……あぁ」

 

 

 選んだわけじゃなく当たったのが佐々木に渡したやつなだけ。一八〇mlぐらいなのにカロリーが倍以上なのよく分かんないね。

 

 

「……ふぅ。ところで、コレしかなかったのかい? 君のことだから、他の人用に買っていたりするんだろう」

 

「佐々木にあげようと思ってたから、他はないかな」

 

「……なるほどね。気まぐれ、ということにしておこうか」

 

 

 先に買ったやつは俺がその場で飲んだからない。

 

 

「僕と君の集合場所はここみたいだけど、他の人は違うのかい?」

 

「ここ集合でやるからおんなじ。佐々木が心構えしとけるように早めにしといた」

 

「僕はそんなに緊張しいではないんだけど」

 

「佐々木は考えといて喋るタイプだから、色々策でも練ってればいいんじゃないかなーって」

 

「君がよく食べていたあの駄菓子のようにかい?」

 

「よく覚えてんね。塾ぐらいでしか接点なかったんに」

 

「そりゃ覚えるさ。いつもいつも授業が始まる前に四個も平らげていたんだから」

 

 

 クラス違ったような、と思いつつ適当に話す。俺と話している間も、色々俺やハルヒたちへの策を練っているだろう佐々木。俺はそんな大変で面倒なことはできないので、その場その場で話すしかない。同じように神の力を持つハルヒは、もっと気を抜いてうまい具合にパワーを持つ言葉を選ぶ。でも、佐々木はまったく気を抜かず程よい加減に抑えての言葉選び。なんだかんだ対処はどっちも面倒くさいんだよね。

 

 

「おっすー、皆」

 

 

 七時近くには見慣れた姿が目に入る。ハルヒ以外のSOS団+鶴屋先輩+妹ちゃんと、なんと喜緑先輩まで一緒に。

 

 

「涼宮さんは先にですか?」

 

 

 固めの古泉の声に、たぶんと答えるしかない。連絡はあの六時以降誰にもつけられなかったんだ。確認しようにも、校門から先に入れない。

 

 

「シャドーくん、キョンくん起こせたよー!」

 

「はっはー、妹ちゃんの声なら気持ちよく起きられるね」

 

 

 詳しく話し合いたいけれど、妹ちゃんと鶴屋先輩の前では難しいはず。長門と喜緑先輩の二人は何かしら意思疎通なんなりしているはずだろうが、こちらが察せるほどに明るい良い物はない。朝比奈先輩は坂で草臥れているせいもあるけれど、いい手を使えるようではないことは声をまだ出さないからわかる。

 

 

「今日のゲストは、更になーんと佐々木。みんな仲良くしてあげてねー」

 

 

 それとともに適当に女子達の中に放り込む。朝比奈先輩の気分を落ち着けるために、ちょっとした刺激が必要だろう。佐々木もそわそわして色々気にしていたんだから同じように。

 

 そして。

 

 

「シャドー」

 

 

 妹ちゃんから離れた幼馴染の切羽詰まった様子をなんとかしとかないと。古泉が何とかフォローしておいたおかげで、ここまで落ち着けたんだろうから。

 

 

「あいつと連絡できたか?」

 

「無理だった。登録してあるアドレス全部に送ろうとしてもエラー。通話も出来ない感じ。ネットは動くけど文字化けしてくんだよね」

 

「僕の方も同じですね。色々連携が取れなくなっているようです。テレビも全て砂嵐ですしね」

 

「バスも時間帯に来てねぇ。車もだ。北高に近づいたら鳥の鳴き声もしないんだよ」

 

「長門たちは?」

 

「色々妨害されてるらしい。なのに、ここまでなにがなんでも来させるようなことすんだ」

 

 

 苛立ちと心配を混ぜ込んだ幼馴染を気にしながら男たちで話を詰めておく。世界がグニャグニャしていくのを肌で感じる。そんなふうに混乱を感じさせるのに、すぐに違和感を打ち消して大人しくさせてくる。女の子たちを軽く見ておくが、表向きは和やかな様子。うまい具合に誤魔化しているんだろう。

 

 長門が動かないことから、まだ校内には入れないんだろう。とりあえず、俺たち自身が落ち着いておく必要がある。

 

 話して理解を深めよう。

 

 

 ◆

 

 

 早速、色々と情報を整理していく。

 

 まず、徐々に空間が閉じていっていること。閉鎖空間という形ではなく、余剰次元を切り取ってという形。

 二つめ、空間が閉じるにしたがって、物質構成やらが変化していること。俺たちが何かしら誰かと通信できないのも、これにより通信についてのも再構成やら何やらされている。

 三つめ、何かの影響は受けているが、間違いなくハルヒの力なこと。能力の質やら癖やらをよく知っている長門や朝比奈先輩、古泉らが断定している。

 

 大まかにまとめると、この三つが重要なことだろう。ハルヒが無意識でやったというには毒がありすぎる。映画や漫画の影響でというのもありえない。夢見がちだけど現実をよく見ているのが、ハルヒだ。一般人枠の俺と幼馴染が、ハルヒは迷惑をかける子だけれど、悪い気持ちで迷惑なんてかけたことはないと宣誓しよう。尚更性質が悪いこともあるが、普通にいい子だから、涼宮ハルヒという少女は。

 

 ため息とともに頭をガシガシとかく幼馴染。遠慮なくその様子を出せるのは長門達が何やらカモフラでもしてくれているんだろう。

 

 

「くっそ、あいつ、なにやってんだよ……」

 

「考えられる悪い方向は何があると思う、古泉?」

 

「僕の方の敵対組織から数えれば両手でも数えきれませんね」

 

「ハルヒにセキュリティあるんでしょ?」

 

「涼宮さんだけでもありますし、他の方でのもありますね」

 

「それならなんだ。やっぱりこれはあいつがしでかしたってのか?」

 

 

 爆発寸前の幼馴染の前に手を差し出しておく。遠慮なく俺の腕をつかむが気にしない。この程度の握力じゃ骨を握り潰すなんてできっこないんだから。

 

 

「ハルヒがやったというならそうなんだろうね」

 

「っつ!?」

 

 

 俺の方に前進して両腕を掴まれる。幼馴染のどうしようもないエネルギー。痛む顔なんて見せてやらない。団長様から頂いた特攻隊長という役職は、仲間をいたぶるものなんかじゃないから。十秒間ぐらい、そのまま。落ち着こうとする幼馴染を阻止する。

 

 

「お前はハルヒをよく見てる。どれほどのものか一番身に染みてる。受け入れよう、これはハルヒがやったんだ」

 

 

 いくらでも圧迫される。痛いという言葉を出せるだろう威力。たまに通わされている格闘ジムで鍛えてしまった俺の精神が、それを沈黙させる。

 

 

「ハルヒがやった」

 

 

 幼馴染が俺から視線を外す。そして、圧迫が圧殺になるのかもしれない具合。ほどほどに落ち着ける段階になったはずだ。古泉に目を向ける。頃合いを見計らう古泉は空気読みの達人だから、大丈夫。

 

 

「ですが、涼宮さん自身の故意なものということは、決してないでしょう」

 

 

 力は変わらないが、構わない。古泉に任せる。

 

 

「何かしら接触するものがいるのは確かです」

 

 

 幼馴染の肩を軽く抱く。様になるのが古泉だ。

 

 

「涼宮さんがあなたに何をお望みかお分かりですか?」

 

「……あいつが何望んでんのか分からん」

 

 

 落ち着いてきた幼馴染の声。力も少しずつ抜ける。

 

 

「あいつの日常にいるのが当たり前すぎてわかんねぇ」

 

「自分に当て代えてくれよ、幼馴染くん」

 

 

 気まずげに俺と視線を合わす。

 

 

「──は、ハルヒとの日常を、どうしたい?」

 

「……また過ごしてやってもいい」

 

 

 男のツンデレなんて誰も得しないっていうのに。お野菜人王子のようによく分かんない層の餌食になるぞ。

 

 

「というわけ、ね。向こうもいい感じみたいだ、行こう」

 

「シャドー、わりぃ。古泉も」

 

「気にしていませんよ」

 

 

 なんだかんだ体育会系のノリも持っている古泉とともに幼馴染の背中をたたいておく。焦ることのない自分に違和感を覚える暇もないよ、まったく。

 

 

「行けるか?」

 

 

 幼馴染の言葉とともに校門から先へ侵入を試みる。すんなり進む。変な抵抗感もなく、いつも通りに校門をくぐれた。武力的な問題で長門と喜緑先輩が最前と最後を務めてくれる。

 

 ハッキングで何かしらの反応があったところへはある程度の人数が別れる感じ。すぐに脱出できるように、妹ちゃんと鶴屋先輩、護衛役として喜緑先輩、なんかのための佐々木は校庭で待機。ハルヒ除くSOS団はそこへ。

 

 

「シャドーくん!」

 

「はい、どうしましたか、鶴屋先輩」

 

 

 いつものように元気な様子。校舎に入る直前での声掛けだった。

 

 

「ハルにゃんのためだけだとダメな感じニョロ」

 

「はい」

 

「何かしら斬り捨てる覚悟をした方がいいニョロかもねー」

 

 

 妹ちゃんが鶴屋先輩を呼んでいるみたいだ。軽く手を振りそちらに向かおうとする鶴屋先輩を見送ろう。

 

 

「でもでも」

 

 

 顔だけ俺の方へ向いて、素敵なウインクを。

 

 

「シャドーくんは選び取る覚悟の方が必要ッさ!!」

 

 

 そう言って、去っていく。その先、喜緑さんの優しい微笑を視界に収めて、俺も校舎に入っていく。

 

 気合十分な俺たちは選び取ることしか頭にない。

 

 迷わず進んでいって、必ずつかみ取ってやるんだから。

 

 

 

 

 c

 

 

「保健室、か」

 

 

 幼馴染が件の扉の前で唸る。SOS団がお世話になったことはないはずの場所。見た目はいつも通りなんだと思う。保健委員でもないので、よく覚えてないんだ。

 

 長門が扉に手をかける。そして俺たち全員に目配せした五秒後に、開けた。

 

 

「おはようございます、みなさん」

 

 

 朝の顔文字がいた。よく分からない装置に入ったハルヒの隣に。

 

 長門の強襲。喜緑先輩に色々解除してもらっているから、頼もしさが十乗ぐらいされている。が、顔文字は空間に指一本触れただけで、攻撃を無力化してきた。何かのスイッチがすでに設置されていたんだろう。長門が色々試みているというのに、なにも出来ないし何もしてこない。冷静さがなくなった幼馴染を古泉とともに抑え込みながら、ハルヒの方を見る。幼馴染と朝比奈先輩の声にもハルヒは反応しない。SFに出てくるコールドスリープなんてやつでもされているのか。

 

 

「どうか冷静に話を聞いて頂けませんか」

 

 

 顔文字が淡々と煽り文句を言う。本気でお話がしたいなら、ハルヒを無事に解放してからにしてほしいものだ。

 

 

「彼女の容態について、お話させて頂けませんか」

 

「てめぇ、ハルヒになにしやがったっ!!」

 

「彼女にはあるものが寄生しているのです」

 

 

 幼馴染に怒鳴られようとも気になんかせず、また空間に触れた顔文字。そして、よくわからん画像が視界に入ってくる。一人称視点のゲーム画面のように。

 

 

「彼女のデータです。ワタシの部署の仕事ではないので、彼女の力についてはどうでもよいのです。地球人の女性として血液など検査しましたが基本的に健康基準値内ですね。心臓や肺の音も綺麗でしたし、水晶体や硝子体なども大丈夫です。胃や腸も荒れていたりしませんね。特に基礎疾患もなく、健康そのものでしょう」

 

 

 画像と文字と数字をよく確認させられる。色々プライバシーを踏み荒らすようなことをしていやがる。

 

 

「ですが、好中球といった白血球の値が高いのが分かりますね。ここが高いと炎症が起きている状態なのが分かります。続いて、脳波をみて頂きます。覚醒状態ではないのでα派は減少しています。丘派が項の五〇%を占めているので深睡眠期といって良いでしょう。ですが、高β派も確認できます。脳がよく動いているようですね」

 

 

 よく分からないグニャグニャしまっくている線を見せられた。

 

 

「寝ているし起きてもいる状態です。複雑なことでも考えているのかもしれませんね。もっと解析してみるべきなのですが壊れてしまうと面倒ですので、控えておきます。何かしらの現象行使は、この様子から彼女の力が発動しているのでしょう。寄生体の攻撃を受けながら」

 

 

 次の画像。何と表現すべきか分からない物体を次々見せられる。ぶつぶつだらけの直方体だったり、らせん状のなにかだったり、糸状のなにかだたり、とにかく色々見せられた。

 

 

「これらは今のところ摘出できた寄生体です。彼女を確保と同時に壊さないようにしながら処置しましたが、全ては摘出できていません。過寄生のようですね。このまま一匹になるまで放置した方が処理は楽になるでしょう」

 

 

 ですが、と顔文字の言葉とともに視界が普通に戻る。ここにいる誰もが顔文字の方を処理したくてたまらなくなっていた。さっきので吐き気が止まらないけれど、無理したいほどに。

 

 

「彼女の力がよく分からないので、そちらの処理で大変になりそうです。こちらの薬剤などで処置し続けるのも面倒ですし、経費で落とせそうもありませんがね。ワタシには敵意もなければ殺意もありません。ただ仕事をこなすだけですから」

 

 

 ずっと空間を忙しなくタッチしている顔文字は言葉を続けた。

 

 

「ですので、ご協力をお願いします。彼女を助けてあげてください」

 

 

 淡々とのたまった顔文字に殴りかかる。鍛えてきた体は顔文字を壊すことに向いているんだ。

 

 だというのに、殴れもしない。俺たちの怒りもぶつけることも出来ず、その怒りが身に帰ってきて冷静になりきることも出来やしなかった。

 

 

 今はどうしようもないのなら、ハルヒを助けるために顔文字を利用してやるだけだ。

 

 ◆

 

 ハルヒの力により、色々と世界の構成が乱れているらしい。見慣れた校舎のはずなのに、少しの違和感をずっと感じさせてくる。壁も天井も廊下も、全部見慣れたもののはずなのに見慣れないものという認識の変化が起きている。

 

 

「てめぇがハルヒにしやがったのか?」

 

 

 幼馴染が刺し違えてでも何とかしてやろうとしている。その様子を気にもせず、淡々と顔文字は何かをやっているんだ。

 

 

「いえ、彼女が勝手に寄生されたようです。原因から解明しようと思ったのですが、寄生体と親和しているようであまり触ることができないのです。ワタシも仕事以上のことはしたくないので、早急な対処としてこうして確保しているのです」

 

「わたしなら完治させられる」

 

「アナタも地球人ではないようですね。やめておいた方がいいでしょう。この寄生体の出す毒にワレワレの治癒能力を使うのは、彼女の容態の悪化につながります。現に、このような世界になってしまいましたしね」

 

 

 顔文字は実行して、ハルヒは拒否反応でも起こしてこんなことになったんだ。頭が怒りで破裂しそうだ。それを無理やり押さえつけなければならない。長門の言葉に、無駄なことをするなという顔文字に歯向かっている場合ではないんだ。

 

 

「薬があるみたいだけど、アナフィラシキー反応なんか起きたりしないだろうね」

 

 

 それが原因で心停止なんてよくあることだ。軽症状でも後を引くし、悪化もする。

 

 

「彼女の細胞から精製したものがあるので、それで実験しつつ行っています。調薬も並列作業ですね。道具で全摘出は望ましくありません。体を傷つけているという反応で、彼女の力と寄生体が合わさって面倒です。これですしね」

 

 

 相変わらず空間をタッチし続けている顔文字。怒りで脳が焼けそうになるも鎮火させねばならない。

 

 

「涼宮さんに傷をつけたんですか……?」

 

「暴れられるのは面倒なので麻酔は使っていますよ。手術痕など残りませんから、ご安心ください」

 

 

 あまりのことに怒りで震えた口調の朝比奈先輩も気にもしない顔文字。どれほど人の癪に障れば気が済むのか。

 

 

「あなたの目的を聞いていません。涼宮さんをわざわざ治療する意味はなんです? 今現在、この世界を制御しているのはあなたのようですが、それほどの力があるならさっさと逃げ出せばいいものを」

 

「ワタシはこの星に医療調査をしに来ただけです。そうなのですが、あいにくとワタシもここから脱出ができないのですよ。それに、仕事内容に患者を発見したのなら完治させろ、というものがあるのでこなさなければならないのです」

 

 

 古泉の煽るような言葉にも、少しの反応もなく淡々と返す。

 

 俺たちがまだまだいくら言っても変わらない。俺たちは顔文字に手出しできないし、ハルヒを救う道がよく分からないということだ。

 

 

「さて、そろそろおしゃべりはやめておきましょう。アナタたちは彼女に大事にされているのですから、アナタたちもそうするべきですよね。では、彼女を救うために頑張ってください」

 

 

 その顔文字の言葉とともに何処かに押し込められた。

 

 吐き気が襲う。実際、吐いてしまったんだろう。喉を胃酸が焼くのがよくわかった。止まらない吐き気、壊れてしまったような三半規管。体が如実に拒否反応を起こしている。どうにかしないと、という意識が朦朧とする。自分の喉に手を突っ込んで、意識を起こす。吐き出すものももうないのに、とっさにやったのがこれだった。吐き出せと本能が動いているのか。

 

 吐き出すものは、何もないのに。

 

 

「がんばって、シャドー特攻隊長」

 

 

 聞きなれた声に返事も出来ずに意識を落とした。

 

 

She feels affection for you.

 

REHASH──────-START.

 

 

 

dc

 

 アナタのためにルールを用意しております。

 

 一つ、必要なものだけ差し出すこと。二つ、誰の意見も聞かないこと。三つ、好意など目の前で捨て去ること。

 

 以上のルールを守ることを、アナタに望みます。

 

 

 :クソルールを忘却する

 :沈黙

 

 

 

 ……では、アナタに報償金としてコチラを進呈させます。

 

 好意を抱かれるごとに所持金を二倍。好意が失われるごとに所持金を六倍。好意を持てなくなったなら九倍。

 

 以上のものを受け取るために、契約証明としてサインをお願いします。

 

 :内容を書き換える

 :破く

 

 

  なるほど。それならば、前金としてコレらをアナタに贈りましょう。

 

 一.好きにしていいアナタ専用の理想的な女性体。二.好きにできるアナタ専用の蠱惑的な女性体。三.好き放題遊んでいい母性的な女性体。

 

 以上の品は壊れないように厳重な梱包しておきます。さぁ、どうぞお持ち帰りください。

 

 :贈り物から避難する

 :押し返す

 

 

 ふぅむ……。だとすれば、このサービスを受けてみてはどうでしょう。

 

 能力値を最大・容姿を最良・全体運を最上。

 

 以上のサービスを無料で、しかも追加料金もなく永続的に受けられます。いかがでしょうか。

 

 :サービスにチェンジと言う

 :拒否

 

 

 そうなると……、コチラのグッズなどは受け取られるのでしょうか。

 

 絶対命令権、絶対服従券、絶対処理帳。

 

 以上のグッズの期限などというものはありません。お眼鏡にかないませんか。

 

 :釣られそうになったが手を引っ込める

 :睨む

 

 

 さあ、最後となりました。これを受け取りなさい。

 

 カメとウサギが喧嘩しているものをプリントされた、赤い箱と黒い箱と青い箱。

 

 :箱に聞き耳を立てる

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

涼宮ハルヒシリーズ(長門ルート)

設定

あだ名:シャドー

概要:主人公(シャドー)はキョンの幼馴染み兼同級生の男子高校生。ハルヒとのスポーツ勝負で勝敗は着かなかったが、ハルヒに気に入られ、彼女の勧誘を受けてSOS団に入団する。

一人称:俺

容姿:髪は黒の短髪。顔はキョンと同じ普通な感じ。

身長:キョンより十cmほど低い。

性格:自由気ままなマイペース

家族構成:父、母(普通の一家でよく一緒に出掛けたり、時には喧嘩もするが、後で互いに仲直りしたりと普通の生活を送る関係)

能力:キョンと同様に普通の人間で学業の成績は普通(悪い訳ではない)だけど、運動神経と身体能力はSOS団団長・涼宮ハルヒと互角とかなり優れている。



主人公のお名前はリクエストされた方のを借りております。



 一日目

 

 

 聞きなれた携帯のバイブ音が聞こえる。

 

 ぼやぼやなままの頭は二つの選択肢を浮かべた。

 

 メールをチェックする

 →無視する

 

 

 上手いこと動こうとしない体と同じように頭が鈍い。

 

 鈍いままの頭は二つのことくらいしか考えられないままだ。

 

 休息をとる

 →起きることにする

 

 

 

 起きないことには何も始まらないでしょうが。

 

 布団を蹴飛ばすようにして起きる。ぐるりと見渡すといつもの俺の部屋。ティッシュの配置なんかもいつも通り。とにかくここを出てみるしかない。服なんか気にせず部屋の扉を開けた。

 

 

 

 

 で? 

 

 何故、学校なんだ。部屋から出たら家の花柄カーペットが敷いてある廊下ではなく、単色の廊下だった。

 

 混乱する。これで朝はギリギリまで寝れるとか考えている場合じゃない。意味が分からないまま固まっていると、頭にポスンと何かが落ちてきた。黒板消し。お決まりなチョーク塗れの。白だし、しかも。黒板消しを拾う前に、髪の毛についたのを乱暴に払う。その所為で、粉を吸ってしまうあほなことをしてしまった。

 

 咽て咳き込む。まったく、こんな非常事態なのにあほしてどうする、俺。

 

 もう、黒板消しのことなんて気にしていられない。誰かを探そう。なんとかするなら一人で、なんてのはあほすぎる。

 

 廊下を歩く。いつもの学校だ。あちこちの使用感だったり傷だったり、照明や日差しなんかも、すごく見慣れているいつもの学校だった。

 

 ただ、人がいない。一学年でも九クラスぐらいあるというのに、誰ともすれ違わないし声も聞こえやしない。それこそ人影なんて、俺のしか見えてこない。皆の無事を確かめたくて、速足に。すぐ我慢できず走り出す。

 

 廊下が思いのほか長いように感じられた。クラスの友達とグダグダしながら歩いていた廊下は、知らないなにかでしかなかった。廊下に響く俺の足音が、危機感だけを押し付けてくる。皆は無事なのか、ただそれだけ確認させてほしい。

 

 すっと見慣れた姿が見えた。俺よりも小型な女の子。小さな同学年の女の子で、SOS団の大切な一人。

 

 

「長門っ!!」

 

 

 俺のらしくない大声に、目を開いて驚いている長門に駆け寄った。向こうも急いで向かってきてくれた。駆け寄った後呼吸を整えることなく、どこも怪我なんてしてないか目で確認する。いつもの学生服にはほつれも汚れもなかった。

 

 

「無事そうで良かった」

 

「あなたも無事でよかった」

 

 

 安心して変な笑いが出る。そんな表情は治らないまま話を続ける。

 

 

「他のみんなは?」

 

「全員直接の確認はしていないが、わたし含め八名は損傷もなく生存していることは確認できている」

 

「なんほど。今はとりあえず、それが分かればいいよね。ありがと、長門」

 

「いい」

 

 

 長門とともに学校を見る。いつもの朝の学校だ。朝の光は白色が強くて廊下が新品のようにピカピカしているように思う。でも、張り替えたわけではないみたいだ。よくよく見ると微妙に汚れがある。見慣れた廊下だということだ。

 

 

「ここは北高、じゃないのかな」

 

「物質構成に違いはない」

 

「学校に押し込まれたって感じか、学校に似たどっかに閉じ込められたか」

 

 

 近くの窓から見える景色も見慣れたもんだ。いつもの学校なら朝練のやつらが道具を片したりしているのを見られるだろう。でも、人はいない。よく見ていた、思いのほか地面が湿気を帯びていたせいで土に汚れた人や、疲れているけれど頑張って放課後のための準備している人、今もまだまだ元気だけど授業に対しては体力がない人なんてのは誰もいなかった。もちろん、先生も一人もいない。

 

 ただ誰もいないだけで、そこはいつもの学校の日常風景のままだった。朝の光に照らされた学校の外が、そのままある。

 

 

「さっきのによると、ハルヒもいるってことだよね。何処にいるの?」

 

「保健室。でも、実物ではない」

 

「ハルヒに似たなんか、ってこと?」

 

「涼宮ハルヒの構成を持ったもの」

 

「……つまり、ハルヒという形を持ったハルヒっぽい何かってことなのかな?」

 

「おおよそ、そう認識できる」

 

「お話とかできた?」

 

「睡眠状態。時折寝返りをうったりはするけれど、明確な意思表示はなかった」

 

 

 睡眠状態か。なら、ハルヒの見てる夢の中に俺たちがいるということもあるのかもしれない。この変な現実感のあるここは、ハルヒの夢の中だからでも十分説明がつく。たった一年ぐらいの付き合いだけど、俺たちはハルヒと一緒のおかげで色々と濃い経験してきたんだから。だからきっと、なんかあるんだ。ハルヒは無鉄砲に見えるけどしっかり考えて行動しているから。寝ててもなんかしたいと思えばやれるんだ、絶対。今のこれが、どういう目的なのかはまったく分からないけど。

 

 

「うん、そうか。とりあえず、今はここまでにしとこう。他のやつとも情報は共有しといたほうがいいだろうし」

 

 

 長門は静かに頷く。あの八名のなかには喜緑先輩もいるはずだ。そうじゃなきゃ、長門はもっと急進しているだろうから。今この時もお互いで通信などしているから、落ち着いて確認して回っているんだろう。

 

 そういえば。

 

 集合場所を決める

 →体調をうかがう

 

 

 

 本当に長門は大丈夫なんだろうか。

 

 もしかして何処か怪我をしているけど、心配させないように隠していたりするかもしれない。実はちょっと具合が悪いとかもあるかもしれない。

 

 

「長門さ、どっか調子悪いとかない?」

 

「ない」

 

 

 しっかり目を見て言われた。声に動揺も緊張もない、いつもの声音。

 

 だから安心、なんてできない。成長して嘘も気軽につけるようなった長門。酷い嘘なんか吐いたことないし、教科書を忘れたとかの軽い嘘で俺の所に借りに来たりする程度。でも、小さい子にありがちな、とりあえず隠さなきゃ、ってので嘘もつきだしている。今も、それだ。

 

 

「使用制限どんなになってる?」

 

「サーチ&デストロイに不備はない」

 

「他は?」

 

「平気」

 

 

 長門は口数が少ない。でも、情報が必要ならちゃんと話す。たとえよく分からん単語だらけになろうと必要なら全部話してくれる。自分の立場が悪い方に行くことになろうが構わず。だけど、今は小さい子のアレなやつだ。なんかまずいって思って隠している。

 

 

「出力レベルは一~十でいうと?」

 

「……三」

 

「そっか。じゃあ、たとえば、長門がタンスで足の小指ぶつけたらどんくらいで痛み消える?」

 

「短時間」

 

 

 なるほど、大分制限されておられるみたいだ。レベルは元々のパワーが分からないので無視しといて、痛みをすぐ消すこともできない。回復力的なものも抑え込まれているということで間違いない。

 

 

「無理ダメ絶対」

 

 

 長門は無言だ。頷いてはいない。明確な拒否をしているが、それを断固拒否する。

 

 

「長門さん、無理はダメ」

 

 

 無言拒否。そんなんしらねぇ、無理させねぇかんな。

 

 

「無理させねぇかんね。もう少しの五歩ぐらい前で戻りなさい」

 

「前向きに検討しておく」

 

 

 それは絶対検討もしない奴じゃんよ。何としても無理させない。いつもいつも心配しているのに、今回は心配しているだけじゃダメな奴。

 

 

「長門。君になんかあったら、俺も皆も悲しい。君が頑張っているのは素敵なことだけど、頑張りすぎるのは違うんだよ」

 

 

 若干むっとしている長門。無表情だけど、分かる。一年程度しかない付き合いだけど、それぐらいわかる。

 

 

「君の頑張りは否定しない。でも、声はかけてほしい。なんかあったらはないに越したことはないけど、声をかけてくれたならなんとかしに駆け付けられるだろ? SOS団の特攻隊長な俺が、絶対駆けつけるから」

 

 

 気まずげに目をそらされるがちゃんと言うことを聞いてくれるみたいだ。

 

 

「長門、無理はしないって約束してくれるね?」

 

「了解」

 

 

 約束を守ってくれる。目線はあっちに行ったままだけど、頷いてもくれたから大丈夫だ。まったく可愛いもんだ。長門との信頼関係にはヒビすら入らない。

 

 

「それなら、よし。とりあえず、俺たちは集合しとこう。んでさ、長門は喜緑先輩からなんか頼まれてるの?」

 

「安全確認」

 

「そっか。何処に集合しとけってとかも言われてる?」

 

「食堂」

 

「オッケー」

 

 

 いつもの学校ならば食堂までの道がわかる。長門も特に何も言わないから道程に危険はないみたいだし、もし何かあるなら二人がカバーも出来るということでもある。心配だらけでも頼りがいがあって、情けないのと誇らしいのとで少し困った。

 

 

「長門。約束は?」

 

「絶対守る」

 

「うん」

 

「あなたは食堂で待機。約束」

 

「うん」

 

 

 それを頭から振振り落としながらどこかにやって、長門と意思疎通を。念押しではない。いまさら疑うものなどどちらにもありはしない。そんなことをしなければならない程度の関係ではないんだから。ただの友情確認なだけだ。

 

 

「じゃあ、また」

 

「また」

 

 

 小さく頷いた長門を見送る。その後、俺も食堂へ足を向ける。でも、二mも歩いていないけど長門の方を振り返った。

 

 俺よりも小さい長門は一度も振り返ることがなく進んでいった。背をすっと伸ばし、少しも乱れのない規則的な歩行。その小さな少女の姿は好ましく思う。だというのに、見慣れるようになった姿に親しみと思わず苦さを感じてしまう。

 

 なぜにがさなどかんじたんだろう。

 

 苦さの意味を理解する前に、日差しがピンポイントで俺に当たってきた。眩しさに目を瞑る。閉じた視界の中でも光が痛めとでもいうかのように輝いていた。そして、徐々に落ち着いていく眩しさに目を開ける。

 

 

 →SKIP START

 

 

 

 

 他のみんなの安全を確認した後、現状確認をグループに分かれて入れ替えもしながらしていた。

 

 妹ちゃんと鶴屋先輩は巻き込んではいけない。巻き込んでしまっているけども。二人とも勘がいいので、触れてほしくないことには触れてこないスタンスだから有難い。二人にはドキュメンタリー的なことをやっている、という苦しい設定を古泉と喜緑先輩の話術で納得して頂いた。

 

 色々な疲れから腹が減ってしまうが、ボタン一つでおやつも出てきた。二人には番組スポンサーからの差し入れということにしといて頂いている。亀ゼリーは求めていない。そんな感じで、ランダムに色々出てきた。喜緑先輩から飲食可能と判別されたのは全部。エビにチョコレートをコーティングしたものも可能なんだそうだ。

 

 ランダムおやつで変な盛り上がりをしながら、長門の無事な帰りを待つ。

 

 お腹を壊していないが生理現象を処理して長門を待った。日差しは黄色になっている。なるべく固まっているようにしておくべきだけど、喜緑先輩のお力である程度の距離ならば対処は可能と言われている。少しずつ距離を伸ばして安全を確保中なんだ。その安全確認の確認みたいなものを俺はやっている。

 

 今いるのは食堂から少し離れた場所。今のところ何も起こらない。またチャイムが鳴る。いつものように、今日の学校はあと少し、と知らせる日常の音。のんびりと今日を過ごした達成感とともに家までのんびり帰る、ということはできていない。

 

 廊下の窓から見える景色はいつも通りに見えた。校庭が地割れしていたり、海になっていたり、マグマステージになんかなってはいない。学生と教師がいない校庭は、いつものように太陽光を取り込んで異常を感じさせないようにしている。日常の音などしていないくせに。

 

 窓を開けてみよう。もしかしたら、学生の声がするかもしれない。先生たちの声がするかもしれない。誰かが歩いている音が聞こえるのかもしれないだろう。誰かが生きている実感を教えてくれるだろう。風のにおいを感じるのもいいかもしれない。あの乾いた風のにおいはどういうもんだったか、思い出そう。

 

 レバーを下ろす。カチャン、という金属の音がやけに響く。乱暴に開けたつもりはなかったのに。それもまぁいい、とりあえず窓を開けよう。

 

 

「シャドー」

 

 

 長門がいた。どこも怪我していない様子の長門有希がいた。それを理解しきる前に長門へ駆ける。俺自身の身体能力はいつも通りだったようで、すぐに長門の傍へ寄ることができた。

 

 

「おかえり。なんともなさそうで、ホントよかった。あ、実は怪我してる?」

 

「していない」

 

 

 長門は両手を頭上にあげたりして、他の関節の動きも無事なことを教えてくれた。

 

 

「足の小指ぶつけたとかもアウトだからね?」

 

「ぶつけてもいない」

 

 

 昼になってしまうほどの時間。その間、喜緑先輩とは通信などしているから危険なことはしていないのは分かっている。でも、不安はあった。信頼しているけれど心配だった。

 

 でも。

 

 

「うん、わかった」

 

 

 心配しすぎるのは長門を信頼していない、ということだから。長門を信じることにした。酷い嘘なんてつかないのは分かっているんだから。

 

 

「お腹空いてるかな。よかったら、軽くこんなんでも食ってってよ」

 

 

 ポケットに入れたお菓子を長門に渡す。栄養補給として羊羹と迷ったけど、チョコ菓子にしておいた。長門は感謝の言葉を伝えて袋を開けている。指の動きには問題ないように思う。他の指の補助をしているような動きもないし、強張って動きづらそうということもなかった。いつもの小さくて可愛らしいの手だ。

 

 

「んじゃ、行こう」

 

「了解」

 

 

 食べながらみんなのいる食堂へ向かう。リスのように食べている長門を見ていると、こっちも口寂しくなる。別ポケットの飴を口に入れた。

 

 

「あなたは」

 

「うん」

 

 

 相槌を求めているみたいだったのでしておく。長門は肯定されてからの方が話が進むタイプだ。

 

 

「何故、ここで待機していたの?」

 

「そりゃあ、心配だったから」

 

 

 安っぽいイチゴ味を楽しみながら正直に答える。嘘を吐く必要などないから。ゆっくり味わっているのか長門のおやつタイムはまだ続いていた。

 

 

「それだけ?」

 

 

 横に並んでいる長門を見返す。教えて、という目だ。明確に言語化してほしいんだ。

 

 

「心配が八。あとは、不安」

 

「そう」

 

「不安は、やばいよ。小さいのでも纏わりつくと、動かなきゃって収まらないんだから」

 

 

 正直に伝えておく。本音を聞かせて、離れる仲じゃない。嘘を吐いて、離れる相手じゃない。嘘を吐きずつけなければいけない関係ではないはずだ。

 

 

「他の人は上手くやっている感じだけど、いいから動けってのが強い感じでさ」

 

 

 飴の中心部はジャムだったみたいだ。イチゴをよく味わった。無駄に甘いのは好きだと思う。このわざとらしさが俺にとって必要な栄養素なんだから。

 

 長門にお願いしようとするなら、必要なものなんだから。

 

 そうしようとすると、にがい

 

 そうしなければならないから、にがくなる。

 

 だからこそ、くちがうごく。

 

 

 同行を願う

 →今ではない

 

 

 今はお願いする時じゃないはずだ。

 

 飴を噛み砕くことでお願いしようとした口を止める。一欠けらといっていいほどだったから衝撃も小さめだ。おかげで、少しは何とかなれる。

 

 

「でも、今はまだ長門に頼っちゃわなきゃいけないね」

 

 

 情けなくてごめん、と付け加えることができた。もう三っつくらい飴はあるけど、口寂しさはそれだけではどうにもならない。

 

 長門は静かに首を横に振った。否定だった。

 

 

「適材適所」

 

「うん、そうだ」

 

「あなたは空気を動かせる。それはとても凄いこと」

 

「ははは、空気をごちゃ混ぜにするのちょー得意なのバレたか」

 

 

 相手の意識を乱さないと、こんな小型はうまく立ち回れないんだ。でかいは強いけれど、小さいはハンデだらけだから。

 

 

「たまに、困るけれど」

 

 

 冗談も言ってくれる長門。相変わらず表情筋は働いていないけれど、いたずらっ子なのが分かった。

 

 

「うーん。基本的にさ、無意識にごちゃまぜにするような癖がついてるから、困るような感じはわざとではないよ」

 

「無意識に?」

 

「前言ったけど親戚に格闘オタクとか軍事オタクとかいるんだ。で、そいつらの偏ってんのと魔改造してる色々があるんよ。それを純粋に鵜呑みにしてしまったりした結果がコレです」

 

 

 負荷のうまい逃がし方とか、都合のいい空気への動かし方とか、赤点回避のテストの点の取り方とか色々。全部うまいこと行くわけではないけど、何とかなるようなことはいっぱいあったので感謝している。よく分からん集まりに強制参加はやめてほしいけれど。

 

 

「その人たちも実際にやっている?」

 

「自分たちはやらない。知識を吸収するのとマウントで満足。道場殴り込みとかもしてないね。ヒョロヒョロだし」

 

 

 背は高い。一八〇代がぞろぞろいやがるんだ。親戚の中で小型な男は、俺ぐらいなのが少しイラつくが我慢。でもまぁ、男の成長期はこれからだからと落ち着いておく。

 

 

「でも、あなたはヒョロヒョロではない」

 

「悲しいことに小型だけどね」

 

 

 長門は筋肉の質とかも分かるんだろう。服の上からは太ってないぐらいしか分からないし、身長のために筋肉をつけまくろうとはしていない。こんなお手軽サイズだけど、ちゃんとしたもんじゃないだろう知識で体は作ってある。

 

 

「特攻隊長の名は?」

 

 

 ハルヒから承ったお役職。部長、副部長とかの固い感じの役職名とはまったくの別物。たぶん、俺たちが持ち込んだ漫画の影響でも受けてたんだろう。

 

 

「名前負けなんてさせませんよ」

 

 

 笑う。長門も雰囲気が笑っている。ただただおかしかったのと、ちゃんと信頼しているという確認で。俺のは、更に長門の様子が可愛くて笑いが続いていた。

 

 そして、最後の一つのお菓子を長門は分けてくれた。ありがたく頂戴する。包装を解きながら歩くと、あともう少しで食堂だった。聞きなれたみんなの声が漏れてくる。どれも切迫したものはなかった。

 

 菓子を口に入れて、長門に声をかける。

 

 

「んじゃ、行こうか長門。君の無事な帰りをみんな待ってたんだから」

 

「分かった」

 

 

 並んで歩く。お互い少し速足だった。それで食堂までの距離が縮まる。声も良く聞こえてくる。

 

 全開になっている食堂の前で長門の無事な帰還を報告した。すぐさまみんな駆け寄ってきてくれた。長門も皆の方へ近寄っていく。先ほどのより速い足取りで。

 

 菓子がまだ俺の口に残っている。噛み砕いて終わりというもんじゃないので、溶けるの待ちだった。カカオ多めのチョコは苦い。でも、舌が痺れるほどだとは知らなかった。

 

 痺れるほどの苦さの中に甘さを探す。前のいちごあめの甘さはもう分らない。

 

 苦いだけの唾液が喉を通るころには、甘さを探すどころではなかった。大分まずい。

 

 

 でも、長門とみんなの様子はいつも通りで良かった。それが分かって本当に良かった。

 

 苦さに耐えるため目を強く閉じた。

 

 

 →SKIP START

 

 

 

 

 情報をみんなと共有して、少し休憩をとることにした長門。

 

 寿命前借ドリンクなんて渡さず、ビタミンウォーターを渡しておく。お礼を言った後、ちゃんと飲んでくれた。喉の渇き具合はあまりないようで、ゆっくりと飲んでいく。

 

 半分よりもう少しぐらいで、一旦長門は口を離した。

 

 

 口を挟む

 →口を待つ

 

 

 長門の言葉を待つ。飲み物を見ていた眼が俺に移ったから。

 

 

「また調査してくる」

 

「うん。悪いけど、頼むね」

 

「それで」

 

「うん」

 

 

 相槌は大事だ。それだけで君の話をちゃんと聞いているよ、というのが分かって否定的な感情は抱かないから。相槌だけで人を肯定できるんだ。

 

 

「おすすめのお菓子」

 

「栄養的なの? 気分上げ用かな? それとも小腹サポートなの?」

 

「二つめ」

 

「オーケー」

 

 

 長門のリクエストにこたえるために、机に転がっているお菓子から見繕ってくる。コンビニでよくあるおまけ的な小袋にそれらを詰めて渡しておいた。

 

 

「口に残る系だけど、味がやたら強烈とかめっちゃ偏ってるーって感じではない奴ね」

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 

 食堂まで来ている日照は夕暮れの気配がし出している。いつもの学校ならもう少しで最終下校の放送が流れるだろう。

 

 

「長門、気を付けて」

 

「了解」

 

 

 立ち上がって軽く服を整えた長門。みんなにも声をかけるみたいだ。ポケットに小袋を詰め込んで歩き出していく。

 

 

「いってらっしゃい。必ず帰ってくるんだよ」

 

 

 俺の声に振り返ってくる。少しの間無言だったけど、小さくもしっかり頷いてくれた。

 

 

「いってきます、シャドー」

 

 

 その言葉だけでよかった。さっきの無言は、帰らないよ、というんじゃなく、ちょっとびっくりしただけだ。そして、俺も長門の返事にびっくりした。

 

 いつもと違って、普通に嬉しそうな声色だったから。俺の心臓らへんがじんわりと温かくなっていく。きっと、嬉しかったから。

 

 長門の可愛らしい声と俺が感じている温かさを、何度も惜しむように、そして噛みしめるように俺も大きく頷いた。

 

 

 →SKIP START

 

 

 夕方の茜色もなくなり、学校はチャイムを鳴らさなくなった。

 

 学校の光と外の人工的な光のおかげで、恐怖で動けなくなることはない。光熱費も難なくクリアしているらしいここは、全部の蛍光灯が稼働している。でも、スイッチを押せばちゃんと消える。同じようにつければ光もつく。俺が昼でも使ったトイレと同じようにシャワー室なんて水道関係も生きていた。汚水はどうなっているのかといえば、水道管を通って消えるみたいだ。下水道へも行かず消失する。そして、校内の見慣れた傷とか汚れはあるものの、埃が見当たらない。ごみを分解している微生物も同様に。害虫や害獣なんてのもいやしないんだ。

 

 必要ないから“ない”という処理しているのか。用意することができないほどリソース不足なのか。

 

 どちらもということなのかもしれないというのが、俺たちの考えだ。ある程度使えるようにしたけれど、他の部分の用意ができない。分割商法のように、あとから追加で来ることもあるかもしれないが期待はしない。

 

 水質検査は問題なし。いつもの学校にまで繋がっている水のみたいだ。空気的なものも二酸化炭素だらけとか一酸化炭素が強くなってるとかもなく、身体的にも心理的にも何んだメージも与えない。まったく生命を脅かさない一定値が保たれている。

 

 そこまでで今日は切り上げた。注意しておかなければいけない危険が発見できないので、とりあえず安全なところで待機している方がいいんだ。男女分けつつも固まっていた方がいいんだろうが、長門と喜緑先輩の情報でそれぞれの自室が一番安全だということらしい。自分以外の誰かが入るとどうなるのか、という検証はまた明日にするようで、もう休息タイムだった。

 

 ストレッチやらなにやらを終えた俺もそろそろ休息を取った方がいいだろう。酷使していないけれど消耗している携帯を充電しておく。電波傍受なんてのもなく、こちらの通信受信は不可である。

 

 壁のスイッチを押して部屋は暗くなった。

 

 そういや長門がくれたしおりどこ行ったけかな、とぼんやり思い出して見る。今から探そうとは思わないけど。

 

 

 休息

 →見回り

 

 

 自販機利用ついでに軽く見回りでもしておこう。素敵なことにマネーいらずで色々買えるんだし。

 

 明かりを一番小さいのにしておいて部屋から出た。

 

 カツカツ廊下を歩いていて思い出したが、部屋の中では靴ではない。外国式ではないので当たり前なんだけど、部屋から出ると靴を装備しているんだ。で、部屋に戻るといつものように裸足。呪いの装備と化しているのかと思い靴をいじるが、普通に脱げるしまた履ける。実は靴擦れなんかしてるんすよ、ってこともなかった。いつもの俺の靴だったし。

 

 自販機がガコンガコンと鳴ってから商品を取り出す。そして、この自販機はルーレット当たりがあるタイプだったらしい。三桁の数字が揃い、追加でもう一本寄こしてくれた。

 

 さてと、飲みながら見回りを続けるか。おまけではない方にストローを刺して飲み歩き。大きくなりたいから栄養たくさんおくれよ、と紙パックの中身を吸っていく。

 

 相変わらず校内は照明のおかげで明るかった。でも、朝や昼と違う人工的な明かりで、微妙に気持ちが逸る。落ち着くために自分の心音に集中して巡回していく。何も異常はない。いきなり窓からワンちゃんやらもないし、いしのなかにいる、なんてのもない。

 

 ちゃんとした、いつもの学校というコンセプトから何も外れていなかった。いつもの学校があったんだ。

 

 いつもの学校ならば構造も変わらない。当然、廊下を歩いていけば階段がある。それは、見慣れた折り返し階段。その踊り場に、二人の少女がいた。一年で見慣れるようになった少女たちだ。

 

 

「こんばんは、長門、喜緑先輩」

 

「こんばんは、シャドーさん」

 

「こんばんは」

 

 

 俺の挨拶に返してくれる律儀な二人。俺の耳が確かならば二人の話し声は聞こえなかった。何かしら通信でもしていたんだろう。彼女らだけでの会話法があるけど、傍からはにらみ合っているように見えるかもしれない。

 

 

「邪魔、しちゃった?」

 

「いいえ、大丈夫ですよ」

 

 

 長門も首を横に振る。実際に邪魔だったのなら、やんわりでも正直に教えられるほどの関係だ。特に長門は正直に言うだろうし。

 

 

「二人は安全確認中でしたか?」

 

 

 喜緑先輩は微笑みで、長門は無言の頷きで肯定した。どちらも見た目がいいお嬢さんにしか見えない。

 

 

「今は八割ほどこの空間の情報解析ができています。ですが、残りの二割は現在も解析不能です」

 

「ブラックボックス的なかんじ?」

 

「そのように支障がないものであると良いのですがね」

 

「でさ、その二割の解析続けるんですか? それとも、一旦保留?」

 

「私は解析を続けるべきだと思いますが……」

 

 

 喜緑先輩は、消しゴムを落としてしまった程度の感じの困った表情になる。意外なことに、長門は一旦保留を選択しているみたいだ。

 

 

「長門の理由聞いていい?」

 

「残りの二割はコードが書き換わり続けて解析が難航している。解析できた八割もバグ処理がある。あと、これらに隠されていた暗号の解読がある。三つのことから、警戒はしていても先に対処しておくべきことがあるので保留」

 

「手が足らんつーことね」

 

 

 元々セーブしていた長門もデバフ状態なら、喜緑先輩も同じなんだろう。もしかすると、長門よりもということもあり得る。二人のおかげで今日一日平穏に過ごせた。明日もそのようになるという確証はない。

 

 喜緑先輩と長門が分担して作業できるほどの能力が今はないから、こうして意見が割れている。長門より優しい口調で説き伏せることが得意な喜緑先輩は、他にも舵取りなどで大いに苦労させてしまっている。喜緑先輩より成果で頼りになるということを証明し続けている長門は、すでに目に見えないように隠して色々疲れているはずだ。

 

 俺が口に出す判断ではない。俺が何を言っても、分野がまるで分らないくせに勝手にほざくな、というもんだ。もちろん、二人はそんなことを口には出さないだろう。こんな暗記だけで点を取るぐらいの悪くない程度な普通の成績のやつが、いきなりなんか言っても説得力などないんだ。

 

 とりあえず、労いの意を込めておまけドリンクを渡しておこう。

 

 

 →長門に渡す

 喜緑先輩に渡す

 

 

 

 長門も俺と同じで育ち盛りだから栄養を取るべきだ。

 

 

「長門、飲むだろ? はい」

 

「ありがとう」

 

 

 喜緑先輩にはお高そうな飴を渡そう。夕張メロンを惜しげもなく使ったもののみたいだ。実際お高い味がしたし、是非喜緑先輩にも味わってもらいたい。

 

 

「喜緑先輩。メロン、好き?」

 

「……はい、好きですよ」

 

「じゃあ、コレもらってください」

 

 

 今持っている三個全部渡す。どれほど嬉しいのか分からないが、喜緑先輩の微笑みにお世辞的な色合いは無さそうだ。

 

 

「こんなおすそ分けぐらいしかできないけどさ、二人とも無理はしないでくださいよ?」

 

 

 長門は紙パックにかかれた、成長促進を表している“ぐんぐん”の部分を押しつぶしながら飲んでいる。喜緑先輩はいつ封を開けたのか分からないが飴をお上品にゆったりと味わっている。無表情な人がいて微笑んでいる人がいて、そして無言だった。口に何か入っているから、という常識を盾にして明確な意思表示してくれない二人だった。

 

 

「そうなのね。じゃあ、勝手に心配しときますよ」

 

 

 そう笑って言う。しょうがないから、心配アピールだけはさせてもらうんだ。今は誰もが不確定で不安定な状態なんだから、あれこれ弄ってしまった挙句にさぁ終わりDEATH♡なんてことになるのは勘弁だ。押しつけがましくも敵意なんてないから好意ってのだけを主張しとくだけでいい。

 

 

「何か手伝えそうなことがあったらいつでもウェルカムだから。そうりゃもう手だろうと足だろうと存分にお使いくださいませ」

 

 

 そう言って、また紙パックに口をつけた。そのとき、ストローが空気だらけの液体を啜った音が鳴った。俺ではない。長門だった。いつものように無表情で何か訴えている。恥ずかしいことをしたというもんじゃないみたいだ。

 

 

「さっそくお手伝いできる感じなのかな、長門?」

 

 

 そう聞くと、長門はストローを咥えたまま喜緑先輩を見た。喜緑先輩は情けないことに俺よりほんの少しお上の存在であるため、俺も見るとなると視点を上げる必要があった。

 

 

「外はダメです」

 

 

 飴はすでに消化していたらしい。いつもの優しい口調に乱れはない。

 

 

「内も一部、それに危険度がないと言い切れる場所。あとは、とりあえず一回だけです」

 

「了解」

 

 

 喜緑先輩の微笑みに圧力はない。それは無表情のままの長門も同じ。俺が手伝えることは全然ないんだろう。太鼓な達人のゲームで交互打ちも習得してないやつは帰れ、と煽ってくる人たちのような蔑みのものも二人にはない。ならば、手を添える程度のことなんだろう。

 

 

「シャドー」

 

「あぁ、どうすればいい?」

 

 

 長門の視線は喜緑先輩に向いたまま。喜緑先輩に何もしゃべるな、という圧を送ってなどいない。たぶんだけど、俺に伝える内容に不備があったら止めて、とでも伝えてるんじゃないかな。

 

 

「明日の朝、同行してほしい」

 

 

 少しの間、何の反応もしないようにする。長門の視線がまだ俺に向いていないからだ。それはきっと二人がまた何か会話しているだろう。なら、邪魔になるようなことはしてはいけない。

 

 十秒ぐらいか、その程度で二人は何かを確認し終わったようで、同時に俺を見た。そのままどちらも何も言わないということは、俺から返事していいんだろう。何かあるならどちらかが付け加えたり撤回したりするはずだから。

 

 

「了解。俺も無理はしないよう気を付ける」

 

「お願い」

 

「人に言っといて自分が守らないあほやろうじゃないの、知ってるでしょ?」

 

「男は基本的にあほだと聞いた」

 

「だれにさ」

 

 

 きっと、恋愛は精神病の一種とか言ってた女の子のことだろうけど。

 

 

「涼宮ハルヒ」

 

「でしょうね」

 

 

 実際、基本的にそうなんだからしょうがない。何かあったら後先考えず駆け付けるものなんだ、俺たち男というものは。リビドー的なものとか、プライドなんてのからとか、誰かや何かを自分のためになんとかしてやんなきゃと突っ走ってしまうあほやろうだ。原始人時代から変わってない闘争本能が、大事なものはなにがなんでも守り抜け、というのが現代人になっても刻み付けられているんだから。

 

 

「じゃ、もう寝ることにしようかな。二人はまだ?」

 

「はい。明日のためにも少し」

 

「そうですか。明日に響かないように早く休んでくださいね」

 

 

 紙パックを振って残量を確認する。ひとくちぐらい残ってそうだった。

 

 

「それでは、おやすみなさい、長門、喜緑先輩。また明日」

 

 

 その挨拶に応えてくれた二人から、すぐに自室に向かう。相変わらず学校はいつものままで、この不安も嘘のように感じてしまう。その不安もさっきの“おやすみなさい”という声を思い出すと、どうでもよくなっていく。あの七文字なんてただの挨拶だ。でも、たったの七文字を聞くのがやっぱり嬉しいから。“おはよう”も“こんにちは”も嬉しいんだ。たぶん挨拶することでいつもの俺たちを思い出させてくれるから、安心して嬉しくなるんだと思う。

 

 そんなことを考えながら歩いていたら、目の前は自室に繋がる教室のドアだ。その横にいつの間にか見慣れた学校のゴミ箱があった。ここに設置されてたっけ、と疑問があったが、飲み干した紙パックの処理に困っていたから、そこに捨てる。

 

 カコン、と紙パックが入る。そのあとゴミ箱を揺らしてみるが、何の音もしなかった。思考を放棄しておこう。

 

 さっさとベッドに潜り込む。寝て忘れるべきことと、寝ても忘れちゃいけないことの主張が強すぎて眠りにくい。とりあえず、呼吸に集中しよう。そしてたらいつの間にか寝ているもんだから。

 

 聞きなれた自分の呼吸音。軽く吸って、長く吐くを繰り返していればすぐ意識がユラユラしていく。

 

 そういえば、長門って幼馴染にもなんかあげてたっけなぁ、なんてのを絶対寝ても忘れないようにと、ユラユラの中でもそれはぼんやり浮かんでいく。そして意識を遠慮なく落とした。

 

 

 →大事なこと:無理しない、無理させない。

 

 

 二日目

 

 

 やかましいアラーム音で目が覚める。軍事オタクが何処からか拾って来たらしいアイテムだ。安っぽい銃撃音が鳴り響く。イヤホンして聞くと臨場感が凄いらしいが、耳を悪くしたくないしそんなにこの音を聞きたいとも思っていない。

 

 銃撃音と妙に凝ったデザインのそいつを停止させる。セットした記憶はないが、たまに勝手に鳴ったりするもんだからしょうがない。

 

 時刻は六:三〇。カーテンの隙間から差し込む光は月のもんじゃない。だからといって、窓の向こうの景色は上手く確認できない。夜になれば暗く、朝になれば明るい。いつもの向かいの家とか、電柱などは見えない。ただ光の加減で日が変わっては終わったことを教えてくれるだけ。

 

 ここで何か考えていても仕方がない。俺の頭は北高に相応しいぐらいのスペックしかないんだから。着替えて携帯も装備し、ドアへ向かう。

 

 そういえば、長門は何時にどこで待ち合わせするんだろう、とドアノブを回したときに思った。

 

 ドアの向こう、見慣れた学校の廊下のところに見知った長門がいる。というか、目の前にいる。ドアを開けようとしていた、というような感じだった。

 

 

「おはよう、長門」

 

 

 とてもびっくりしたが、ちゃんと声は出せた。長門もびっくりしていたようで少し固まっていたが、ちゃんと挨拶を返してくれる。

 

 

「呼びに来てくれたの?」

 

「そう」

 

「うん、ありがとう。昨日、ちゃんと時間とか決めてればよかったね。ごめん」

 

「いい」

 

 

 と、長門にどいてもらってから廊下を並んで歩く。

 

 

「昨日のお礼」

 

 

 そう言って、長門が渡してきたのは十秒チャージ的な見た目の食べ物? だろう。普通に嬉しくて、ありがとね、と言って頂いた。味は変にケミカルとか子供風邪シロップ的な地雷なもんじゃない。普通においしかった。おやつを食べた満足感というんじゃなく、食事をしたという満足感を感じた一品。

 

 

「これはリアル仙〇?」

 

「違う」

 

「じゃあ、っぽいけいのやつか」

 

 

 成分を詳しく説明されているが、よく分からない。省略してまとめると、依存性なし、一食分の栄養素あり、アレルゲンカットという物のみたいだ。たくさん話してくれる様子が可愛いと思う。相槌を打ちながら聞き続けていると長門の口と足が一旦止まった。

 

 

「どうしたの?」

 

「ここ」

 

 

 視線を長門から移す。俺の部屋へつながるところから近い教室。ここが目的地だったみたいだ。

 

 

「確かに。実は近場がデンジャーゾーンとかあるよね」

 

「今のところ危険物質は検知されていない」

 

「あぁ、長門がいきなり俺をそんな危ないところへ連れてこないのは知ってるよ。長門を疑ったわけじゃないんだ、ごめんね」

 

 

 すねちゃったかな、と思い長門を見る。よく見る無表情。すねてはいない。けど、俺のあのセリフを言わせたかっただけのみたいだ。こころなしかいたずらっ子の気配を感じる。

 

 

「まぁ、とにかく。微力ながらお手伝いさせてくださいな」

 

「了解」

 

 

 長門の後ろに待機しておく。いざとなったら長門をこっちに引き戻せるように準備も。反射神経は自分で言うのもなんだけどいい。親戚組のおかげで救助法も考えなくても手早くできる。

 

 長門が顔だけ振り向いてくる。

 

 

「いい?」

 

「あぁ、頑張ろう」

 

 

 お互い頷き合って、長門は扉に手をかけた。

 

 

 →SKIP START

 

 

 

 

 空き教室の調査というクエストの危険度はほぼゼロのミッションだった。おしてみなよ、てきなトラップもない。俺からしてみれば、普通のいつもの教室にしか見えなかった。普通に机と椅子があって、教卓があってロッカーもある。黒板消しクリーナーの中も、当番が掃除したけれど微妙なチョークカスの残し具合も絶妙に日常的。提出物の期限告知などの張り紙も慣れ切った日常感の中。置き勉のやつの教科書なども、いつものように好んで読書対象にしようと思わない出来のもの。

 

 何もかも普通ないつもの学校の教室。ただ誰もいないんだ。昨日のテレビの話をする奴も、夜遅くまで起きていたせいで机に突っ伏している奴も、たぶん化粧品の話で盛り上がるやつも、チョークを確認している先生の姿なんてものもいやしない。それ以外は、普通のいつもの学校の教室。

 

 何年生の何処クラスなのか分からない教室を見渡していた。落ち着く景色があった。落書き後の残る机、少しあせたカーテン、遊びの弾みで凹んだんだろうロッカー、それをよく見せてくれた朝の日照。誰のか知らない椅子に座って見渡しもした。ここなら授業中寝ていてもバレなさそうな位置、食堂へ素早く行くのになかなかいい配置、消しゴムを落としたら少し拾いにくそうな席幅。それをよく教えてくれる朝の日差し。

 

 思わず重い息を吐き出したもんだ。この日常と非日常がごちゃごちゃしながら現実を克明に知らしめてくる。どうにか日常を過ごせという圧が自分から出していることを信じることができない。

 

 そんなこんなな朝を過ごした。

 

 そのせいで昼になったばかりなのに、体の疲労感よりも精神的に疲れてしまっている。長門に連れられゲンコツ広場で休憩中。テーブルの上には、長門が用意してくれた食べ物と俺が買ってきた飲み物、無人販売店状態の購買から買ったメモ帳やらの筆記用具がある。

 

 

「とりあえず、お疲れ様。長門、食べ物もありがとうね」

 

「あなたもお疲れ様」

 

 

 食べ物はお腹に入れ満足状態。飲み物はまだ残っている。そして、アナログだけど証拠として大事にされる紙に書き込んだ言葉を見る。

 

 

「他の教室も見た目は特に違和感なし。ただコピペみたいに同じってだけで、と。で、部屋主の許可がなければ部屋に繋がらない。机とかに傷つけても新しい傷もつかない。黒板とかに文字書ける。消せる。チョークカスもでない。チョークも減らない。机の位置とかずらしても、入りなおしたら元んとこ戻ってる。教科書とか拝借しても、そこの教室から出たら手元から消えて元んとこ戻る。あ、あと黒板に書き込んだらそのままこっちが消すまで消えない、と」

 

 

 俺の自室は俺が元々いたクラスから繋がっている。他の子も同じ感じ。俺たち二年組は、幼馴染とハルヒだけが同じクラス。あとの三年生も含めると、朝比奈先輩と鶴屋先輩を除いてバラバラだ。妹ちゃんと佐々木は、放送室と進路相談室であるところからのみたいだ。妹ちゃんは幼馴染とすら離れてるじゃないか、と焦ったが、彼女ら二人だけは、自室に戻りたいという意志があれば、どこの扉を開けても自室につくらしい。俺たちが空き教室を調べまくっても、彼女らの自室に突撃していたなんてこともなかった。朝比奈先輩と鶴屋先輩に関しては、同時に入っても後ろと前の扉から別々に入っても、自分の部屋に戻ろう、という意志さえあれば各々の所へ戻れるみたいだ。青狸すらローンで買えないほど、フューチャーなデパートで買い占めたんだろうか。

 

 そして、この単なるメモ帳は消費性のみたいだ。一枚破り取ってみても、また追加で一枚とかはない。この安価な使い捨てタイプであるボールペンのインクも使えば減ったまま。在庫は無限に抱えているみたいだけど、妙なところでリアリズムを見せつけてくるスタイルも訳が分からん。

 

 クルクルとペンを回す。妹ちゃんとも練習して身に着けた無駄な高度っぽい技術。もはや考えなくても指が勝手に動いて、見た目重視なだけの技術を使いまわす。前を向けば、長門もペン回しをしている。同じようにクラスメイトと頑張ったんだろうか。もうペンの姿が残像だらけで、蛇でも手に纏わりつかせているみたいだった。

 

 競い合う気などないので、手の動きを止めようとする。案の定、勢いを殺せずにペンを落とした。コロコロ、と俺側の後ろへ転がってってしまう。お貴族様ではないので、しゃがみこんで拾うことにした。軽く払ってから座りなおす。

 

 と、おまけ的に追加されたものが目に付いた。無人購買店でメモ帳やら買ったときに付属していたものだ。子供がせがむほどのデザインもないし、男女とも別の好みのものがあればそちらを選ぶだろう、とりあえず使えるよという日用品。年頃の女の子が使っていたら女友達に、もっと自分磨け~、とつつかれる流行りからそれている物。

 

 ドラッグストアで定番の商品です、と押されているリップクリームだ。俺もたまに使うやつ。

 

 

 →長門にあげる

 他のをあげる

 

 

 

 

「長門、あげるよ」

 

 

 生き物を手にしているかのような動きを止めていた長門に手渡す。定番といつも書かれているのだから、効能は抜群なのだろう。流行り物は結構アレルギー反応を起こすものが多いと聞くし、こちらの方が安全だ。

 

 

「ありがとう、シャドー。大事に使う」

 

「塗りすぎはダメらしいから気を付けてね」

 

 

 長門の両手の中で大事にされているリップクリーム。手の温度で溶けるかもしれないな、とか思いながら嬉しそうな雰囲気の長門を見て、俺も嬉しくなる。

 

 

「うれしい」

 

 

 いつもの小さな長門の声。嬉しいと思っていることが、ひしひし感じる静かな口調。動じていないはずの無表情が柔らかく感じる。

 

 

「喜んでくれて、よかった」

 

 

 その可愛らしさで、俺なんか嬉しさたっぷりの声音だ。幼馴染に声とおんなじで抜けた顔とよく言われているが、もっと抜けた顔をしているはずだ。こっそりお揃いなせいもあるかもしれない。

 

 女の子ってすごい。安らぎ効能をみんな標準装備しているもんなんだなぁ、と感心しながら休憩時間を延長してしまう。

 

 なんたって、この空気が心地いいから。

 

 

 →SKIP START

 

 

 長門と一段落して他のやつらとも情報交流やらなにやらしていたら、もうとても暗いお空に。最年少の妹ちゃんも元気なようで良かった。幼馴染が保健室に行くときなどは、他の人が一緒にいてくれるみたいだし安心だ。俺の妹ともいえる妹ちゃんの子供らしさは、絶対頑張らなきゃと思う兄心と泣いちゃったりしないかなという不安になる兄心が、動く動かないの行動天秤をブレブレにしまくるんだ。

 

 他の女子ズの心配はあまりしなくなった。夕飯時も普通に仲良くしゃべりながらたくさん食べていたんだ。佐々木なんてリンゴ関係の知識を披露しまくっていたが、特に引いたりせずに他の子たちと女の子らしく話を弾ませ合っていたんだし。長門も女の子らしい話題に加わっていて微笑ましい。俺達男組は微妙に居づらい空間になってしまったけども。でも、古泉はいつも通り気が利く男なのでアップルパイなんてのを、こっそり女の子側にも切り分けて置いていたらしい。鶴屋先輩が、古泉はできる男、と再評価して下さった。妹ちゃんたちと揃って古泉に礼を言う長門たちもまた、可愛らしいもんだった。

 

 もう食べ終わってだいぶたったし歯も磨いたのに、シナモンの味がまだ残っているみたいだ。においは甘いのに味は結構癖があるからかな。ホテルではないので一室に洗面所はない。もう一度磨き直すには自室から出るしかないんだ。

 

 でも、明日も長門に同行する予定がある。今日は補助輪付きだったけれど、明日は外された感じの難易度だろう。早めに休んでおいた方がいいはずだ。

 

 

 →打ち合わせは大事

 休息のが大事

 

 

 

 念には念を。とくにこんな状況だからこそ、長門に迷惑かけないよう準備なりが必要のはずだ。それに、長門の方もそんな感じで気を詰めているかもしれない。気を張るのも休むのも大事なもの。だから、長門の体調が心配だから休んで、とお願いしにいこう。なんかあったら絶対に助けるけど、なんかないことの方がずっといいんだから。

 

 外へ出て探しているけど、昨夜と同じところに長門はいなかった。じゃあ、どこかなと窓の外を見てみる。すると、水場の近くに喜緑先輩とまた一緒に居るみたいだ。ここに存在している人はちゃんと窓越しでも見えるんだ、と思いながらそちらへ向かう。

 

 

 

 

 

「こんばんは、二人とも」

 

 

 特に驚いた様子もなく二人は挨拶を返してくれた。また二人でいるということは情報共有でもしていたのかもしれない。休んでもらわないといけない意志が強まる。

 

 

「どこも異常はない感じですかね?」

 

「はい、この空間やあなた達一人として異常はないようです」

 

「そっか。じゃあ、二人も特になんも?」

 

「心配無用」

 

 

 心なしか勇ましい感じに答える無表情な長門。喜緑先輩はにっこり笑う。これが嘘である、とは思わない。つくなら、もっと巧妙にして逆にうさん臭くなってしまう出来のもののはず。俺のおつむが百個あっても敵わない二人だけども、人間らしい嘘のつき方は未熟も未熟。我慢できずにおやつ食べちゃった小さい子並みの嘘すら上手くつけないはずだ。全然、そんな人間らしい嘘のつき方ができないんだ、二人は。効率だか何だか言えば人間らしさななんて無駄だ。彼女らの能力を使えば、こちらは嘘かどうかなんて考えもせずにただイエスマンになる。

 

 つまり、どっちだろう、と考えもさせてくれるほど信頼されている。

 

 イエスマンはもちろん都合がいい。無駄を省ける。嘘かと疑わせるのは、誰の心象もよくはならない。無駄が増える。でも、どっちだろう、と自由に考えさせてくれるのは、無駄でしかない。情報処理が遅れる一方だ。先の二つは、割と処理しやすいはずだ。イエスマンは分かるし、疑うのなら話を上手く流したりすればいい。特に俺なんか、幼馴染によく風船みたいに自由なやつと評価されているから、処理なんて楽ちん。

 そんな俺でもどうかな、と気にすることはある。小さめ物理特化型交渉人(ネゴシエーター)な俺だって、そういうことはある。団長様から“特攻隊長”なんてお役目を頂いているから、自分でもすご~く面倒くさいことなっていく。そんなのを二人は知っている。喜緑先輩は色々耳に入る程度だろうけど、長門なんてじかに見てきている。

 

 でも、そうならない自信を二人は持っている。考えさせてくるほど信頼しているし、それに俺が二人を疑うなんてしないっていう自信があるんだ。

 

 

「うん、そっか。よかったよ」

 

 

 それを裏切る気も汚す気もない。俺も信頼と自信をもって答えておいた。

 

 

「なら、今日はもう休んだ方がいいんじゃない? 夜更かしって女の子にとっては禁忌なんですよね?」

 

 

 ほら、こんな時間だ、と、携帯に表示されている時間と夜空を見せる。

 

 

「ですが、もう少しだけ」

 

 

 喜緑先輩の申し訳ない顔と、長門の視線。こんな人間らしいことをしておいて、何を汚そうとしてやがるのか。

 

 

「じゃあ、お願いだけにします。なるべく早く休んでくださいね」

 

 

 テスト前は一夜漬けが基本だけど、そんなことをしたら二人は怒る。無駄を増やしたことに対する怒りなんてのじゃない。俺の体調を気遣って心配だから怒るなんて無駄でしかないこと。それを、きっとしてくれる自信と信頼がある。やらないけど。それも、信じられている。

 

 

「負担掛けちゃってごめんね。頑張ってくれて本当にありがとう、長門、喜緑先輩」

 

 

 おやすみなさい、と言って二人と別れた。

 

 返してくれた、おやすみなさい、という長門の声は、特に人間らしい温かみが溢れていた。顔は相変わらず無表情だったけど、もう普通に女の子な感じですごく可愛いなぁと笑ってしまう。静かな夜空に向けて、思わず鼻歌を歌ってしまうほど俺も温かい気持ちになったもんだ。

 

 

 →SKIP START

 

 

 

 3日目

 

 

 すっきりとした目覚め。たぶん、いつもの所をランニングしたら三分以上タイムを縮めれそうなすっきり心地。心が軽ければ体も軽い感じがする。軽くストレッチなんかすれば、もう無敵ともいえる体調だった。軍事オタクに押し付けられたものは、念のため電池も引っこ抜いておこう。他のやつらにも贈られた、アラーム機能のあるやつも根こそぎ電池を摘出しておく。

 

 今日の朝にも長門と同行するけど、こんなことをしてもまだ十二分に余裕があった。鏡で身だしなみをチェックしても、あまり時間は潰れてくれない。二度寝しても携帯にアラームをセットしておけば大丈夫だろう。申し訳ないけどガス欠です、と土壇場で言われても的確に対処なんてできるもんじゃない。でも、今なら余裕でなんでもクリアできそうな漲りまくる自信がある。永遠に景清に連射パッドなしで高いジャンプがさせられるほどの。

 

 それでも、段差に躓いて失敗しました、なんてことも有るのかもしれない。こんなよく分からない空間に閉じ込められてしまっているんだ。体力を温存しておく方がいいのかもしれない。

 

 長門のためにどうした方がいいもんかね。

 

 

 はやく休息をとっておこうと思ったけど、とりあえず携帯でも見るか

 

 

 

 

 現代っ子なので携帯をとりあえず見る癖がついているんだ。やたらパカパカ開け閉めして遊んでしまった昔の機体はすぐ壊して怒られてしまったから、今持っているのはちょっとおしゃれに画面の方が横向きに回転するなんて機能も付けられていない。壊さないようにゆっくり開ける。画面はいつも通り。どこで拾ったのか忘れたけど、人参で作った彫刻作品画像だ。我ながらとてもシュールに感じる。アイコンたちは静かで、メールの受信も電話無視ったな表記もない。他になんかのエラーサインもない。

 

 持て余す。

 

 特になんかしようと思って手に取ったわけじゃないんだけど、なんもないのもむず痒い気持ちにさせられる。十字キーを弄ってみる。最近連絡を取った順に相手の名前が並んでいく。長門 有希という名前のところで目が止まる。一番始めらへんにはいなくて、十字キーを下に三回ほど押してやっと一つだけ見つけた女の子の名前。長門 有希 というその可愛い女の子。そんな子の名前の部分に集中している俺がいた。

 

 

「なんか……」

 

 

 思わず、その後に続く言葉を飲み込んだ。なんか、ってなんだよ。何を言おうとした、この口は。ただ長門の名前を発見しただけだ。そこから昨夜からその前までの長門との時間を思い出してしまう。勝手になんだけど、ほんとに勝手になんだけども、思い出していく。

 

 ちょっとした小さい子のようなかまってちゃんさが、可愛いと思った。ちゃんと話してくれて聞いてくれるところも、可愛いと思ったんだ。それから信頼してくれて気安くなってくれたことが、嬉しいと思い始めている。いつも挨拶ができる関係なのを、嬉しいと感じ始めている。それに彼女から贈られるものがなんでも嬉しくなっていることに、気が付いた。そういえば長門がただ嬉しそうなだけで、よかったなんて言葉が心の底から出ていた。身長のためにも寝た方が絶対いいのに色々理由をつけて長門に会おうとしていたのは、どこのどいつだ。長門の“おやすみなさい”だけがよく聞き取れて、耳にじんわりと残ってて、ただただ嬉しくなっちまってたし、なんだかすごく可愛いなんて思っちまって。

 

 それにさっき。いまさっき、誰にどうしたいと考えていた。俺は、誰に、どうしようとした? 

 

 はやく落ち着け、と目をぎゅっと強く閉じる。真っ暗になった視界。熱い顔面もこれで冷めるはず。でもすぐ、長門が見えた。実際にいるわけじゃないし、見たことのない顔だ。

 

 長門が笑っている顔が見える。ぎこちなさそうとか愛想笑いみたいなものじゃない、普通に女の子らしいもんで。可愛くて、なんかすごく可愛いいんで。そういう顔も見たいなんて考え出しちゃうほどに、考え出すと止まんなくなるほど頭ん中が大変で。

 

 

「長門に会いたいな」

 

 

 口に出しちゃった。俺の気持ちが口から出ちまった。口から出しちゃったから、他の行動もしちゃう。我慢しようと思ったもんが、早く動けと携帯を操作する。

 

 震える指で打ちこむ。顔が無性に熱い。宛先の名前を見るとさらに熱くなっちまって泣きそうになった。でも、ちゃんと俺は携帯を操作する。震えたままの指を使って操作する。

 

 

送信

 

 

 ERROR_DEPLOYMENT_BLOCKED_BY_USER_LOG_OFF

 

 

 .| . . .______ERROR_TIERING_ALREADY_PROCESSING

 

 

 メールの受信音に反応する。意識をスリープ状態から復帰させる。SOS団のみんなと撮ったプリクラというものを貼った携帯を、ゆっくりと開けていく。この期待は脆すぎるので、慎重にしなければならない。

 

 相手は、シャドー。

 

 しばし文面まで視線が動かなかった。体温が静かに上昇していく。それはエラーであるから迅速に処理しなければならない。それでも、送信元の名前に時間を取られている所為で未だに完了しない。あだ名であるシャドー、というものと何の因果関係もなさそうな名前。彼の本名は、どこぞの野望ゲームで義理堅い系のPK版追加武将にいそうな名前、と彼の幼馴染であるユニークな彼が言っていた。彼から借りることのあった教科書には本名の方が書かれている。名前がより迫力的に見える達筆だった。思わず、わたしが何度も何度も指でなぞってしまうほどに。

 

 その名前は画面の中で既存の文字コードで表示されている。今はこちらの文字の方が冷静になれるはず。熱処理を少しだけ終えて、文面に視線を移行する。

 

 たったの一二文字。しかも全てがひらがなだ。漢字などに変換する余裕もなかったのだろうか。ひらがなだけというものを認識した後に、文面の理解に入る。

 

 

 “はやくながとにあいたいよ”

 

 

 クラッシュしかけた。それほどの衝撃が長門有希という個体にダメージを与えたのだ。これは、攻撃なのだろうか。今のわたしでは、何も出来なくなってしまっている、彼の、シャドーのことしか考えられなくなってしまっている。

 

 “シャドーはそんなにもわたしを気にかけている”ということで熱暴走しているのだ。それは、わたしの行動がようやく実を結んだということになる。

 

 やっと。やっと、だった。

 

 四文字だけで送信する。直接的に好意を教えてあげるものではないけど、これでもっとわたしを気にかけてくれるはずだ。わたしがシャドーをどういう意味で気にかけているのか、考えてくれるはずだ。

 

 携帯ストラップを軽くいじって胸元に抱いた。排熱処理が追い付いていないのか、どちらも熱いと感じる。

 

 そして、シャドーがくれたリップクリームを手に取った。お揃いのおしゃれさとは無縁な日用品。携帯ごと更に強く抱きしめた。きっと、嬉しい、というものだろうから。

 

 

 

 pause > NUL

 

 

 

 朝っぱらからなんてことをしたという気持ちで、携帯片手にそわそわしっぱなしだった。思い切って送ったメールを引き戻すことはできない。真っ赤っかな顔で“送信完了”という文字が携帯の画面に出るまで待っていたのは、間違いなく俺だ。折角整えた布団とか服とか髪とか、まとめてぐちゃぐちゃにしながら唸っていたのも俺だ。

 

 唸りながら、長門のことを思い浮かべて更に唸る。そういえばどういうものが好きなのかな、とか、幼馴染でもハルヒでも古泉でもなく俺に教科書を借りに来るのはどういうことなんだろう、とか。俺のことどう思ってくれてるのかな、とかなんてものを考え込んでしまったりした。

 思い出せるものがある。長門の声が好ましいものだということ。ぼそぼそ聞き取りにくい小さい声だから耳を傾けるものじゃなくて、もっと聞きたいなってことでその静かな可愛らしい女の子の声に集中していたってこと。俺のおつむでは理解できないことを言ったりするけど、ただその可愛い声が聞きたくてよく話しかけていたこともあった。教科書を借りてくるときの“お願いの小さな女の子の声”と“感謝の女の子な小さい声”だけで、気分が上がっていたこともあった。

 

 何度目か数え忘れたけど、また携帯の画面を見る。長門からのお返事だ。たった四文字。“わたしも”という四文字だけ。ただただポジティブな思いだらけになる。長門も同じようなことを考えてくれたり、思ってくれたりしたってことだと。

 

 会って、話がしたい。会って、声が聞きたい。たぶん、長門だから早く会いたいんだと思う。

 

 携帯の画面の時刻は予定の少し前。俺の最終チェック。寝ぐせなし、服に汚れなんかもない、いい感じなコーデしてるはず。鏡を見るだけでこんなに時間かけるなんて、男なのに変だけどしょうがないんだ。

 

 長門有希という女の子に、好き、って思われたいんだから。

 

 

 

 大きい音が鳴る。発生源は俺と扉。片手で開けたけど勢いが強すぎて扉が外れそうだった。うるさい音だ。出した俺もうるせぇなと思ったし。

 

 でも、近くに居た長門はもっとうるさかっただろう。でも、長門はいつもの無表情で待っている。俺と同じように携帯を手に持ちながら。ゲーセンで当たったストラップをつけていた。携帯を持っている指で遊びながら、俺を持っている長門。

 

 長門の声が聞きたかった。おはようでも、うるさい、なんてのでもいいけど、ただあの四文字の続きの言葉を言って欲しかった。どんなふうに言ってくれるかな。嬉しそうにはにかんでくれるかな。恥ずかしそうに言ってくれるかもしれない。

 

 俺の好きな声で、なんて言ってくれるのかな。

 

 

 

「早く長門に会いたかった」

「私もあなたに会いたかった」

 

 

 好きな声で、好きになっちゃうことを言ってくれた。そんな長門の小さい静かな声は、いつもならじんわり胸が温かくなる程度だった。でも、気が付いた今は俺自身びっくりするぐらい体が全部熱くなった。下手したら溶けちゃうと思うほど。

 

 

「そか、……そっか!」

 

 

 なんかカッコいいことでも言おうと頑張ったけど、それぐらいしか言えなかった。言ってくれたことを噛みしめるのに忙しいから。

 

 

「それと」

 

 

 無防備に俺に近づいてきてしまった長門。勝手にアワアワしているのは俺だけだった。

 

 

「おはよう、シャドー」

 

 

 ストラップだけを絡まさず器用に四回転させて、いつものように挨拶してくる。いつものやつだった。いつものように、挨拶の言葉と俺の名前を繋げて言ってくれただけ。今はそれと距離が近くなった。携帯を持ってる方の手でも一呼吸する前にお互いすぐ触れ合える距離。ストラップをつつける程度の指の数で、鼻でも頬でも、他のとこもつつけ合えるほどの距離になっている。

 

 

「おはよう、長門」

 

 

 いつも以上にユルユルな声になっている。思っていることがバレる声。なんか好きだなぁ、なんて思ってるのが絶対バレる声だ。女の子って色々鋭いってことは妹ちゃんとかで知ってるんだ。

 

 

「うん」

 

 

 相槌だけ。たった二音だけ。濁音なんかもない、口を閉じる形で終わる二音。それだけで色々俺はいっぱいいっぱいになっている。“う”の口の動きが、こんな緊張しちゃうことなんて今までなかったのに。してもいいのかな、なんて変なことを考えてしまう。だって、口を突き出す動きなんだもん。そんな唇に視線が集まっちゃう動きなんだもん。“キスしてよ”って勘違いしそうになる。“ん”の口の動きが、待っている、と勘違いしてしまいそうで。閉じた口をもう開けたくないの、なんて邪推なんかもしそうになっちゃって。開けちゃわないように塞いでほしい、なんてのを願って欲しいと思ちゃって。

 

 

「あの、コレ!!」

 

 

 煩悩よ去れ!! と心の中で叫びながら、サコッシュから取り出したものを長門に渡す。受け取ったのを確認してすぐ距離を取った。あのままでは色々持たないから。

 

 

「これは?」

 

 

 定番のお菓子。甘い系のやつ。部室で俺がよく食べているもの。長門にあげてから長門もよく食べてくれるようになったもの。俺の好物。

 

 

「部活でさ、よく食べてたじゃん、それ。ここ最近俺も食べてなかったんだよ。で、でさっ!」

 

 

 誘えばいいだけだ。いつもだったら三秒も経たずにへらへら言えたのに。部室でもよく言っていたし、他の部活仲間とかにも普通に言ってた。むしろ、数本だけ残して丸ごと強奪されたこともあったし。ぐだぐだ話をしながらみんなと食べたのは楽しかった。

 

 でも今は、二人で、長門と俺だけで。

 

 

「一緒に、食べない?」

 

 

 楽しいも、二人占めしたかった。

 

 

 ◎☆ミ

 

 

 やはり、シャドーは一緒のことを想ってくれていた。嬉しい、という感情を再学習する。シャドーが嬉しそうにしてくれている。喜び、という感情を再学習する。嬉しいという感情も合わさってもいるようだ。シャドーも慌てているようだ。可愛い、という感情を再学習する。嬉しいと喜びがさらに募っていく。

 

 シャドーの声に熱が高まっていく。嬉しさが強くなる。シャドーの目に熱が上がっていく。恥ずかしい、という感情を再学習し、意識している様子に喜びも強くなる。

 

 わたしが何を望んでいるか、何を求めているのか。分かってくれているはず。わたしが欲しいものが何なのか、欲しがってほしいものは何なのか。分かってくれているはず。

 

 本で学習した通りにできているのだから、この後も学習したもののように進むはずだ。自宅なのにカバーを二重にして読破した学習本。他のSOS団員や喜緑江美里なんかにも、誰にもバレないようにして購入した本達。部室にあった小説以外にも集めたもの。シャドーの所為で、知識の吸収より学習に比重を置いたラインナップ。

 

 距離を近づけ、見せつける。自然さの中から不意打ちで、無邪気なふりして追い詰めるのだ。どうしたいか分かる? と考えさせる。どうすればいいと思う? と悩んでもらう。どうしようか? と期待してもらう。

 

 シャドーのための学習の成果は上手くいくのだ。

 

 熱処理をしながらの敢行。テンパっているという、状態なのだろうわたしは。先の全部が、わたし自身も追い詰めているからだ。悲しくなっていく。怖がっていく。怯えていく。してほしいと理解してもらいたいわたしと違わないか、悲しくなっていく。してくれると思っているわたしに引かないか、怖がっていく。したいことを分かったら、キライ、になってしまわないか怯えていく。

 

 ネガティブな理論がわたしの中で溢れそうになるぐらい次々に展開されている。シミュレートでは上手くいった。どんな横道にそれたりしても、ここまで行けば上手くいくはずだったから。

 

 しかし今、ダメな方に進んでいるようだ。

 

 差し出されたものを反射的に受け取れば、距離を取られた。急速な冷却はダメージでしかない。破損するところも出そうだ。冷や水を浴びせられるという表現を、今体験している。拒絶、と受け取らなければならないのか。

 

 なんとか関係を繋ぐために声を出した。仲間でも友人という関係でもいい。でも、一緒にいたくない関係にならないでほしい。

 

 そうだ。あなたがおいしそうに食べていたから、気になった。あなたがよくくれるから、よく食べるようになった。一緒に食べたいから、わたしからあげるようにもなった。おいしかったからよく食べだしたのが、あなたがおいしそうによく食べるから食べるようになった。あなたの好きを知りたくなったから。

 

 一緒に、好きを知りたくなった。

 

 それは、同じようだったらしい。安堵で握りつぶしかけた。

 

 よかった。まだチャンスがある。梱包を解いて、一緒に分け合った。食べ歩きはダメだ、と校則にあった気もするが無視する。甘党のシャドー好みのお菓子が、また好きになる。

 

 甘みを際立たせる塩気も、また好きになる。より甘く感じて好きになってしまう。

 

 だから、大好物、というのだろう。

 

 

 ☆ミ

 

 

 

 朝は急ぎすぎたのかもしれない。迫ると強襲は加減が違うことを学習する。もう少し落ち着いて行動した方がいいということだ。我々のリサーチでは、あともう少しで出られるという見解に至っている。この閉鎖空間の領域に歪に似たノイズが流れているのだ。ノイズの解析結果は情報統合思念体のものであると判明した。今のとこ我々にリンクを張ることもできないようだが、情報統合思念体とのアクセスが繋がったことは光明といえるだろう。

 

 この空間に地球人を害する物質は未だ検知されてない。我々ヒューマノイドインターフェイスも外傷も内部損傷などもない。幾らかのダウングレードで済んでいる。これは涼宮ハルヒのおかげということだろうか。

 

 涼宮ハルヒのおかげで、シャドーが意識してくれるようになった。初日から、わたしは何かしらのデジャブを感じていることもあれば、好意の新鮮さを“また知った”こともある。そして、確実にシャドーを更に強い熱を抱いている。前も熱かった。回路が焦げ付くほどに熱いものだった。今は気を抜けば焼き焦げて壊れるのも時間の問題になっている。

 

 きっとこれは、涼宮ハルヒのお節介によるものだ。彼女は人の機微をすぐ察する聡明さがある。何度もチャンスをくれたということだ。シャドーという少年と、長門有希という少女の日常のために。気づけばシャドーが近くに居て、わたしを待っていてくれて、いつもより二人で一緒にいれた。わたしが焦がれてやまない日常を、シャドーも焦がれてくれるようになった。

 

 朝一番に会って、お昼も一緒に過ごして、夜におやすみなさいの言葉を言える、そんな日常が欲しかったのだ。いってきます、と、おかえりなさい、も言い合えるほどの日常が欲しかった。その日常で仲間や友人という関係以上で成りたかった。そして、また新しい日常を、わたしとシャドーで過ごしたい。

 

 日常というものの中で、長門有希とシャドーの二人が当たり前に一緒にいたいのだ。そんな思いを願望とともに抱いている。

 

 それに気づくと、わたしも更にやっと気づいた。わたしがシャドーという男の子の好きを知りたいということは、その欲求というものは、この好意というものが、シャドーという男の子のことへ向いていたのだ。

 

 わたしはシャドーに、恋愛感情を抱いていたということだ。

 

 

 保健室のカーテンがふわりと広がった。心地よい風がわたしと涼宮ハルヒに当たる。狙ってやってきたのか分からない。来た時からずっと眺めていた涼宮ハルヒの柔らかそうな寝顔が、チェシャ猫のニヤケ顔に見えた。

 

 思わず彼女から顔を逸らす。今彼女に可愛いと言われて取り乱さない自信がなかったから。

 

 そんな状態なのに、彼がいた。

 

 恋愛的な意味でも、好きなシャドーがいた。

 

 

 ☆ミ★

 

 

 保健室で新鮮さを感じた。

 

 窓から入ってきている風のおかげもあるんだと思う。季節的に冷たくないし、熱風なんかでもない。風自体にニオイなんかないから、このいい感じに思うものは凝視している長門から来るんだろう。

 

 団長様に失礼なことをしたらしばかれるから、一声かけてから入ったけど二人とも俺に気づかなかったらしい。眠り姫状態のハルヒはともかく、長門まで無反応なのは少し驚く。朝のアレの所為で怒ってるのかなと思って、二人から離れたところの椅子に腰かけて見ていることにした。長門はいつも通り無口なままでハルヒをじっと見ている。なにか長門なりにハルヒに訴えかけているんじゃないかな。そういうところは少し猫に似ていると思う。あの子らはやたらとじっと見つめて訴えかけるものらしいということを、シャミセンを飼うことになった妹ちゃんと一緒に買った本で知った。

 

 特に知り合いでもない人から見たら睨みつけているみたいな状態。メンチ切ってるみたいなんだろう。でも、長門の視線は攻撃的なものなんかない。教えて教えてと強請りまくる小さい子のような視線だ。とても純粋なもの。

 それでも、前のあれはこっちが悪戯心で嘘とか言っても、疑うこともせず全部それが真理なんだって真に受けるもの。疑う気がないし、無警戒。けど、それは信頼しているからだからじゃなかった。純粋だったけど純度が高いだけの無機質なものだ、まるで曇ったラムネ玉みたいに。だって、長門自身からの触れ合いなんかじゃなかった。命令の遂行。プログラムの実行ってやつだった。ただの処理でしかなかったんだ。

 

 だけど今、綺麗なラムネ玉になっていると思う。色んなものを受けて反射できる人間の普通な女の子になってきている。こっちが悪戯をしたら、同じように悪戯し返したりするぐらいに。むしろ、むこうから可愛いちょっかいをかけてくるようになった。疑うこともできるし、ある程度警戒もできるようになったということ。これは信頼がないからじゃないんだと思う。信頼ができるこそ、自分と誰かが仲良くなるためにどうしたらいいのかな、なんて考えてくれているんだ。それはきっと、小さい女の子と一緒なんだ。少女の前の、色んならしさを探している小さい女の子と一緒。割と強めにぐいぐい来るところがほんとに一緒。

 

 あんまり長門と話したりしない人は分からないらしいけど、普通に女の子しだしていると思う。まず、距離が近い。よく話すもそうだし朝のアレは近すぎだったけど、話し相手との空間の隙間とかが狭くなっている。あと、雑談に長門から混じりだしている。前はハルヒがちょっかいだして皆を巻き込んでからだったけど、長門から話しかけてくれるようになった。ほかは、変態だってキモがられるけど女の子のにおいがする。あの日の臭いとかじゃなくて、どう表現したらいいか分からないけどとにかく女の子のにおいがするんだ。甘酸っぱい、とか、甘爽やか、てきな。今もそんな好きなにおいがしている。

 

 だから、また長門に女の子として意識してしまう。二人は仲良しだなとのほほんと見ていたのに。二人の時間を邪魔したくないのと、俺に長門が早く気付いてくれないかなってのが混ざる。俺自身が邪魔になる意識なんてなかったし、まるでかまってちゃんな俺もいて困る。前までならいつもみたいに、だらだら他愛のない話を俺からしだすこともできるのに。困ったことに、こんにちは程度の挨拶も今は噛みまくってまともに言えそうもない。なんか緊張しちゃっているんだ。長門を意識しちゃったから。

 

 長門有希って女の子が好きだって意識しちゃってるんだから。

 

 まるで小さい子みたいで可愛いと思った。それは、親目線とか兄目線とかだったんだ。見守っている立場からのもの。小さい女の子みたいで可愛いと思った。それも、親目線で兄目線のやつ。見守りたい側のもん。女の子な所を可愛く思った。もう、男からの目だった。見守ることから関わりたくてたまらなくなっていた。もうただ可愛いと思った。意識している。誰よりも近づきたかったんだ。

 

 あ、長門有希って子を好きなんだって気づく。ただ可愛いくて、ただ好きで。ほらまた俺も長門を凝視しちゃうぐらい夢中になってる。好きって気づいてほしいから。

 

 カーテンが風で広がった。俺の方にも風が来る。好きな人と一緒に。

 

 今気づいたからか少し驚いているらしい長門。風で舞う彼女の色素の薄い髪も、驚きから大きめに開かれたまつ毛の長い目も、無表情のままだけど好きな人の顔がなんか全部可愛かった。

 

 

「こんにちは、可愛い長門」

 

 

 だからかな、正直な思いを口出しても全然恥ずかしくなかった。

 

 

 ゞ

 

 

 

 あの後も長門と少しだけ一緒にいることができた。

 

 相変わらずの無表情で無口な長門と、いつも以上に自由気ままになっている俺。近寄ると子猫みたいになっちゃうから少しづつ距離を縮めていく。その距離が縮まっていくと子猫の怯えからだけじゃなくて、ただテンパっていることも分かる。だって、視線がズレていくから。いつもならじっと俺の目を見て話してくれていたりしたのに、俺が気付くほど明らかに目を逸らす。俺も無理に目を合わせてお話ししようなんて考えはない。逸らした目が“うっかり”戻ってくるのを待つことは苦なんかじゃないから。そこも可愛いと思った。俺と同じように気になっちゃうんだってとこも可愛いんだ。で、戻ってきた目が当然合う。待ってた俺の目と戻ってきた長門の目が合う。さぁ、逸れる。うっかり戻って、合って、逸れる。それを繰り返しつつ、距離を縮めていく。格闘技オタクからの技役に立ったよ、ありがとう。

 

 どんどんテンパっている長門。今の状況が怖いとか嫌だってのじゃないはず。それだったら手早く緊急離脱なり対処されるんだし。そんなこともなく、ただ俺とお話しし続けていた。

 

 長門と二人っきりではもう話せないと思ってたのに、普通に話せた。長門って可愛いなってずっと思いながら話していた。

 

 お昼ご飯の時は他のやつもいるから、そいつらも混ぜてむしゃむしゃ食べながらぺちゃぺちゃ喋る。リンゴジャムの中には赤く透き通ったようなジャムがあるってなんてことを佐々木が薀蓄だらけで喋って、俺と幼馴染が一緒に梅ジャム瓶ごと食べてぇなでよくわかんない方に行き、妹ちゃんが朝比奈先輩と鶴屋先輩たちと色んなジャムを発見して、喜緑先輩と長門のチェックを無事通過させたあと、古泉がいつの間にかクラッカーを用意していて味見会とかもやった。その中で俺は佐々木達によりマーマイトやベジマイト、アワマイトとかのを積極的に提供されて、おもてな死されそうだった。日本でも県どころか県内でも東西南北で味覚違うこともあるんだから、異国の味が好みのだとは限らないでしょうに。軍事オタクからよくわからん缶詰とか栄養バーとかで慣れてなかったら即死ですよ。二人っきりでは無理だったけど、みんなでそんな感じにわちゃってた。あれも楽しかった。LPが消し飛んだけど。

 頑張って長門から離れて意識しないように気を付けていたおかげで、まぁあの時は何とかなった。朝のアレで気まずいし恥ずいし、とにかく照れ臭くって一緒にいるってだけで緊張しちまう状態だったから。

 

 でも、保健室で気づけたからもうそんなこと気にすることもない。みんなと一緒は楽しい。長門もいるなら尚更楽しい。長門と二人でいるのは楽しいに嬉しいが加わる。だって長門の女の子らしくちっちゃな動きが全部可愛いんだ。自分の指をこしょこしょといじっているとこも、自分のスカートとかシャツとかを引っ張っているとこも、乱れがちになっていく呼吸も、目が合うたび震えるまつげも、全部全部可愛い。可愛いくて好きだって、また思う。

 

 そんな楽しい嬉しい可愛いな昼を過ぎた夕暮れの校舎。赤みを帯びたオレンジ色が校舎を包んでいる。早いところだと六時ごろが夕飯なんだっけ。俺んちはもう二時間後だけど、そんなに早く食べて寝る前にお腹空かないのかな。お風呂入ったり、ゲームやったりしてたら四時間なんてあっという間に経っちゃうじゃん。幼馴染たちも合間にアイスも食うしジュースも飲むから持ってなかったな。成長期だから栄養過多ぐらいがいいよね。だけど幼馴染はもう伸びなくていいから、俺の前で牛乳飲むのは止めるんだ。

 

 お休み状態の団長様には、外国で流行っている高そうなおやつを献上する。味は全く知らない。英語読めないし、分からないし、知らない。暗記したのしか答えられないんだ、俺。団長様の献上品コーナーに納める。全部売り飛ばせば幼馴染のお財布が一年ぐらいあったかいままになること間違いないだろう。

 

 そんな妄想とは違う俺の微妙な腹具合。勝手にお腹いっぱいになっているけど、昼ごはん以降になんか食べたとかはない。異国の味の所為じゃないと思う。食べられはするだろうけど、特にめっちゃ食べたいというわけでもない。むしろ、食べなくていいかな、とか思う。他のでお腹いっぱいに今日はもうなりたくない気分だった。

 

 尻ポケットから振動が。さっと抜き取り期待だらけで携帯を開くと、可愛い長門からメールが送られていた。

 

 “夜部室”

 

 多分、調査ってこともあるかもしれない。“分かった。絶対行くよ、長門”と送信する。保健室にいた時言えばよかったのにと笑っちゃうけど、可愛いなという思いがその笑った顔がまた緩くなったことを自覚する。

 

 俺の顔にからかう鶴屋先輩と交代で保健室から出た。と、赤みが強くなった陽光に照らされる。夕ご飯はもうすぐだ。だから、隣で一緒にご飯食べてくれないかな、とか思う。

 

 

「テンパりすぎだよ、長門」

 

 

 あの後十分ももたずに保健室から逃げていってしまった、可愛すぎる長門にそう呟いた。

 

 

 ゞゞ

 

 

 良い子のための健やかにおねむりなさいタイム。そんなこと無視して明日以降の成長速度に期待を丸投げしながら、今日は遠慮なく夜更かししようと思う。本館から渡り廊下を使って旧館に。我らがSOS団の本拠地は旧校舎にあるんだ。元は文芸部室。創部したSOS団が再活用させてもらっている部室。元々長門がいた部室だ。この北高で長門の初めての居場所と言えるんだろう。

 

 夕ご飯をみんなで食べて軽く身支度を整えてからすぐ向かった我らが部室前。今日の夕ご飯タイムも楽しかったな、と思いながら周りをぼんやり見渡す。照明のおかげで真っ暗じゃない。たまに用務員さんたちのチェック漏れで点滅を繰り返していたのが何個かあった気もするけど、目に刺さるほどの光量を出してくるものは一つもなかった。大人しくさせる光量。慌てる必要ないよという安全さを光が出していた。

 

 今俺がいるのは部室のドアから少し離れたところ。ドアからなんかあったらすぐ逃げ出せる位置。窓も開けてある。何かの時は外へ大声で知らせることができる位置。部室に近づく人を確認できる立ち位置だ。旧舘だから歩く音以外にも音が反響しまくるし、夜だからこそ影とかにおいとかも主張しやすい。自分と誰かの存在を強く意識する状態だということ。

 

 ずっと手に持っている携帯の画面を見る。いつもの俺ならゲームの合間に適当に宿題を片している時間帯。シュールな画面の中で新着で何かしら来ているものはないらしい。アイコンはとても大人しくしている。慌てることはない、とそれで俺はまた落ち着ける。ついさっき時間を確認してから四分ぐらいしかたってないんだから。

 

 そして画面の五九分という数字が二つともゼロになったとき、誰かを強く意識する。

 

 音が聞こえた。足音だ。幼馴染や古泉といった男たちの足幅や体重からのものじゃない。身長差や

 体格差の違いはあるだろうけど、これは絶対に男の足の動きじゃない。一本の線の上を歩く動き。それは女の子動きだ。早歩きをしているんだろうけど、音の響き具合で女の子と確信する。反響音から歩き方が綺麗なことも分かる。体の上手な動かし方を知っている女の子だ。自分に余計な負荷をかけない綺麗さがある。早足でも体幹をズラさず女の子の骨格に合わせた綺麗な動き。それはSOS団の本拠地にやってくるようだ。俺が待ち伏せしている場所へ。

 

 携帯をしまう。携帯を持ちながらという明らかに待ってましたというアピールは、女の子的に減点対象らしいから。友達が彼女にそんなことを言われたと愚痴っていたのを思い出す。その時はめんどくせぇと一緒に言ったけど、今は早くしまわないとうっかり落として壊してしまいそうだったから。

 

 影が伸びてきた。伸びた影は本人とはかけ離れた巨大さだ。予告なくお持ち帰りしてきそうな敵キャラ感がある。でも、部室に近づくにつれて見慣れた女の子を思い出させる。早足はもう少し早くなっていた。彼女の方からも俺がいることが分かったから、と期待していいんだと思う。

 

 そしてあと四回ほど足を動してしまえば、お互い何も出来なさそうな距離の前できっちり止まった。勢いがあった。キュッと床が鳴る。なんとか長門が止まった。

 

 だから、俺も止まらないといけないということを知る。

 

 どうにか縮めたい。どうしても近づきたい。どうやっても止まらない好きが俺の中で暴れている。

 

 急いで来て頑張って止まってもくれた可愛い長門。可愛い女の子だった。普通に可愛い女の子だ。今めんどくせぇのは男の俺の方。恥をかかせて楽しむ屑野郎ではいけない。

 

 背中に手を回した休めのポーズを解いて、いつものように挨拶をまずはしないと。

 

 

「こんばんは、長門」

 

「こんばんは、シャドー」

 

 

 いつもの挨拶なのに目と目は合わない。合わせてくれないかなと顔を動かす。と、絶対に合わさないという気合が入っているのか、嚙み合わない視線にずっとされている。そんなずるいところも可愛いなと思う。だって長門から気にさせないようにしているくせに、気にさせまくっているのも長門からだ。

 長門の見た目はいつもと同じ。綺麗な姿勢で生きている大人しい感じの可愛い女の子。寝ぐせもないしシャツが寄れてもいないし、あえて中途半端なところのボタンを外すなんて感じに着崩すこともない模範的女の子をしている。ただ人慣れする前の子猫のように色々過敏になっているみたい。俺もそんなんだから余裕なんてないけど。

 

 

「んじゃ、行こっか?」

 

 

 無言で頷かれる。朝のアレみたいなことはされなかった。残念だと正直に思う。

 

 情けないけど、扉を開ける担当は長門。俺はその後ろからもう少しずれた位置につく。なにかあったら逃げ出せるようにする。絶対長門と一緒に。

 

 

「……あの」

 

「ん、どした? もうなんかあったの?」

 

 

 振り返らず俺に声をかけてくる。近づいて大丈夫か確認しようとすると、あの、とまた更に小さい声を出した。長門は困っていた。

 

 

「だから、あの」

 

 

 困惑しているのが振動からも分かる。どうしたのと、どうするのと、困っている。

 

 

「手が……困る」

 

 

 部室の方の手じゃない。もう片方の長門の手が困ることになっているらしい。捕まえられていて離してくれなくて、困っている状態。

 

 握っている俺もまた困る。服を掴んで引き戻そうとすれば破れてしまって戻ってこれないかもしれない。だからといって、腰を掴むのは色々アウトになる。それに、子猫のように首根っこを掴んで引っ張るのは女の子に対して失礼が過ぎる。他は論外だ。女の子の命である髪なんて掴まないし、女の子の肩や肘は結構外れやすいし、女の子の下半身に触りまくるのは普通に逮捕案件。少年漫画の世界は現実じゃないんだから。

 

 なら、手を握る。万が一何かあったとしたら他の部位よりスムーズで安全に戻すことができるから。長門の手を痛めないように捻りつつ引っ張るぐらいでいい。捻られた状態は力を籠めにくく抵抗しづらくなる。だってパニック状態になったら固まるものだから。思考もそうだし体も勿論そう。固まった体は危機感であらゆる刺激に敏感になる。そういうときは一枚の葉っぱが掠っただけでも大暴れなんてのはよくあること。これは、色んなものに抵抗して生き残ろうとする本能の所為だ。パニックホラー物でよく見るアレは至って普通なこと。だからこそ、関節の動きとかも利用して確実に避難させる。

 

 

「大丈夫、絶対離さないからさ」

 

 

 どんな理論かなんて長門ならちゃんと知っている。俺の言葉の意味もちゃんと分かってくれているんだ。小さな女の子の手をもう一度握り直して、大丈夫と繰り返しておく。

 

 

「……うん」

 

 

 安心したのか少し気の抜けた感じの長門の声。長門って意外に体温高いんだなと思いながら、長門の手が部室のドアを開けるのを見守る。

 

 十秒ぐらいかけて、ゆっくり開ける。歴史があるんだぞ、とアピールしてくる聞きなれたドアから出る軋んだ音。少しだけ明るい部室が見える。

 

 いきなり謎の黒い影みたいなものは出てこない。時間差もあるかもしれないのでさらに少し待つ。そして、長門が繋いだ手を引っ張ってくる。一緒に行こう、という合図だ。握りなおして返事する。やたら熱い長門がさらに強く握ってくれる。

 

 

 部室のスイッチを入れる。薄明るくて不安を煽る雰囲気が、いい感じのセーブポイントのように感じさせる明るさになる。

 

 なにもかもがいつも通り過ぎて違和感なんてない。だって、部室は部室だったんだから。

 

 元々の本棚や俺達SOS団のそれぞれの椅子とか机、色んな人から強制ドロップさせたアイテムたち、どれもこれもいつもの部室だった。実は椅子のカバーの色が違うとかもない。本棚のやつらはカモフラカバーとかで中身が違うのかもしれないけど、元々あった本が何かまるで覚えていない。幼馴染と古泉たちでぐだぐだ遊ぶボドゲたちも、朝比奈先輩の愛用品であるお茶グッズとかも、団長様が獲得したパソコンやマウスなんてのの配置すらいつも通り。

 

 見慣れきったいつものSOS団の本拠地だ。

 

 ゆっくり長門と一緒に眺めて回る。ふいに近づいたら催眠ガス、ついと触ったら麻酔針とかのトラップの警戒で目視での確認だけ。今のところ異常なんかなさそうだ。

 

 窓からの光以外に一番明るい場所の確認に入る。コンピ研の献上という名目の品、高性能パソコンが動いている。我らがボスのお品だ。

 

 近寄ると、相変わらず冷却器が頑張っている感じの音ぐらいかしていない。画面を覗いてみると、たぶんコマンドプロンプトだと思うのが起動している。文字列だらけだから目が痛いのでさっさと逸らしてしまいたい。

 

 

「ごめん、長門」

 

 

 申し訳ないけどこういうプログラミング関係は苦手だ。握っていた手を離す前に、両手で握る。それで、長門はようやく俺を見てくれたようだ。じーっと凝視している感じではなかった。ちょっとぼんやりしているみたい。でも、意識ははっきりしているのはよくわかる。

 

 

「頼むよ、長門」

 

「うん」

 

 

 名残惜しすぎるけど手を離す。長門の温かさが無くなっただけで寒気を強く感じるが無視しよう。長門が椅子に座りキーボードに手を添える。一文字めを押す前に長門が振り返ってくる。何か後押しを願っているわけではない、かといって警戒からのものでもない。この子の目は怯えて震えてしまっている目じゃない。この子の目は信頼できないから鋭い目じゃない。

 

 

「大丈夫」

 

 

 強い親愛と熱い信頼の中に、溢れんばかりの女の子らしい目だ。どっかの本で女の子の目はまさに悪魔そのものだってのがあった。視線の動きや瞬きだのなんだの、全部巧みに使って男を惑わすんだって。気づいたら、あれこれと勘違いさせられるし従順に躾けられるもんだって。

 

 確かにこれは、魔眼っていうんだろうね。全部お任せしたくなっちまってる。

 

 “好きだよ”って教えてくるだけなのに。ただ、好きだよ、ってだけ。そんだけなのに、どうにかなるって意味わからん思考になってる。俺の口が動いた気がするけど、なんかうまく言えたような気はしない。

 

 打鍵音が響く。好きな女の子の目は俺からとうに離れていた。好きな女の子の後ろ姿に漏れそうになる声は自分の両手を使って押さえつける。言いたくてしょうがないけど、こんな時に言っても意味がないから。

 

 気を紛らわせるため、後ろの窓に目を向ける。夜だから暗い。校舎から明かりがついているから真っ暗なんかじゃない。それに、月がある。ほぼ満月という月が、やっと今日見れた。この三日間何処にもいなかったというのに。星なんて飾りにすらならないと、その月がやたら存在を主張している。ブラッドムーンとかブルームーンみたいに特別カラーはない。ただ月があるというだけなのに、威圧しているようだった。潮の満ち引きぐらいにしか関係ないと思っているお月様の力が、やけに重いものに感じる。俺の頭ごと月の方に固定されるぐらいに、やたら重い。少しづつ重たくなっていく頭は筋肉疲労だけじゃないんだろう。勝手に体も疲れてきそうだった。

 

 

「シャドー」

 

 

 そんなこと気にならなくなるくらいに、静かな声がよく聞こえた。すぐさま長門の方に向き直る。打鍵音はもう止んでいた。ちらっと見たパソコンに表示されている時刻表示は、十五分ほど経過していることを教えてくれる。

 

 

「お願い」

 

 

 長門は少し左側に位置をずらす。マウスもキーボードも俺がなるべく使いやすいように動いている。

 

 オンラインゲームを多少嗜んでいるけど、そんなにパソコンに詳しいわけではない。HDDにこまめにデータを移動する癖がついているぐらいだし。そんな俺なんかより長門の方が圧倒的なプログラミングパワーがある。それなのに、何故か俺にパスしてきた。困るけど俺ならなんとかできると任せてくれたのかもしれない。

 

 まっすぐに画面を睨む。

 

 

 "Question九九七七. 挨拶は義務であるのか"

 

 

 実際の文字というかコードはまるで理解できないけども、謎の四桁の数字とともにそのように読み取ることができる。YESかNOで答えればいいのかな。YESと打ち込む。画面にはその三文字は浮かんだのに、認証してくれないみたいだ。enterキーをもう一回押しても無視される。どうしたらいいのか考えていると三文字は消去されてて、質問文が出ているだけの状態に。単語だけじゃダメってことか。長門に視線で尋ねると頷かれた。同じようなことを思っている。つまり、向こうは文章で答えやがれと言うことらしい。

 

 "人間として当然の義務"と、俺はコードもコマンドも何もかも分からないので日本語でそう打ち込んだ。すると、チップチューンで作られたと思われる軽快な音楽が鳴りだした。どっかの球団のテーマ曲みたいだ。びっくりしてのけぞる暇もなく次の質問が出てきた。

 

 

 "Question二一一二. 沈黙は金、雄弁は銀というものが常にそうであるだろうか"

 

 

 数字の意味が分からん。なんなのこれ。まぁとにかく、たぶんまた単語でも一文字で打っても無視されるんだろうな。黙っていた方が気持ちが伝わりやすいこともあるし、余計なことを言わない方がいい時もあるもんなぁ。男は黙ってた方がかっこいいもんだし。でもなぁ、言わなきゃ伝わらんこともよくあるしなぁ。ダンマリ過ぎて誤解されることはあるあるだし。

 

 

"一緒に話をしたいという気持ちを出していればいいと思う"

 "話をしたいのならちゃんと話し合えばいいと思う"

 

 

 

 

 "一緒に話をしたいという気持ちを出していればいいと思う"と入力。空気を読むことに長けてるわが日本民族を舐めるなよ。ま、日和民とか言われてるけども。

 

 チップチューンの音楽のボリュームが上がる。音楽はさっきのとは違って祭囃子っぽい。どことなく掠れた感じの軽妙な音楽と一緒にまた質問が浮かび上がる。

 

 

 "Question$▲▲▼▼▲▼▲▼$ 大切な人から大事なものをもらった。失くした。大切な人がくれたのに自分で失くした。許して   ? "

 

 

 何か微妙にバグりだしたぞ、こいつ。でも、そのまま画面は静止している。三秒待っても十五秒待っても何も変わらない。なら、大人しく打ち込んでおくしかない。

 

 

”許してあげる”

”許してあげない”

”諦める

 

 

 

 ”大切な人を許してあげる”と打ち込んでenterキーも押し込んでおく。

 

 形あるものは無くなる。諸行無常。あったもののことを忘れなければいい。もちろん、贈ってくれた相手は怒るなりして悲しんで傷つくだろう。もしかしたら、もう会わないとか絶縁されるかもしれない。でも、それは普通だ。善意や好意を蹴り飛ばすような真似をしたんだから。自分が圧倒的な悪い奴。クズ、畜生、ド阿呆。それらがよく似合う、ろくでなしだ。

 

 それでも、自分で失くした、と出てた。捨てたとかじゃない。自分が、というのでもない。意識的に排除したんじゃないはずだ。ミスリードかもしれないけど、流石にそういう引っかけはないだろう。とにかく、無意識に排除したんだと思う。そういうのはあるもんだ。なんだっけ、保険の教科書とかで見たと思うけど忘れた。

 とにかく、大事なものを無意識的に失くしたってことだ。なにかきっかけがあるもんだ、そういうのは。例えば、他のやつも同じのもらったとか、他のやつの方がいいもんもらってたとか。どうしてどうしてで、なんでなんでだったんだろう。大切な人に自分のことを特別扱いしてくれなかったから、駄々っ子になっただけだ。坊や、ってことなんだろう。まさしく、ドドド阿呆だ。

 

 あとで、きっと後悔する。バレたら大切な人も、理解したら自分も後悔する。それで絶交で、さよならバイバイで、悔み続けるんだ。もう謝ってもどうしようもない。だって、許すも許さないもなくなったんだから。そういうのは信頼関係があるからできる。もうないんだから、どうすることもできない。

 

 だからこそ、大切な人を許してあげるんだ。自分はどうしようもないドドド阿呆なのでスルーしとく。嫌われるのもしょうがない、怒らせるのもしょうがない、もう会えなくてもしょうがない、って全部諦めて許すんだ。でも、自分だけは許さなくていい。むしろ、どうあがいても許されないよ。磔にしてくれるわ。

 

 もう全部諦めて相手を許すことぐらいでしか、大切な人を大切にできないんだから。自分を許してしまったら、大切な人を傷つけ続けることになるんだから。

 

 "許さない"という言葉は流石に打てない。ひどいからだ。大切な人を許さないのも、自分をも許さないという選択はただただ悲しいだけだ。リスカ痕を見せつけられて嬉しいなんて思うわけないだろう。相手も傷つく。それで自分も傷つく。そのストレスでまたリスカ。また相手が、それでまた自分が、のループは地獄だ。大切な人だからこそ傷つけるな、そんで勝手に自分で傷つくるな。大切な人だけは許してあげてよ。

 

 自分で失くしたくせに、未練がましく大切な人ってかいてるんだから。

 

 そんなことをツラツラ考えているのは、妙に読み込みが遅いからだ。三分経ったぞ。画面端の表示でもそうなのが分かる。

 

 どうしたもんか、と画面を睨んでいると、長門が俺を呼んでいるみたいだった。顔を向ける。

 

 

「どうして?」

 

 

 そんな泣きそうな顔をしているのもどうしてなんだろうか。長門の握りしめている携帯がちらりと見えたけど、フィルターで何も分からない。

 

 

「大丈夫。どうもしないよ」

 

 

 怯えていることは分かった。怯えているみたいだから安心させないと。俺側のはアウトなんだろうけど、長門がそんなになるわけないから安心させる。

 

 

「どうしてなの?」

 

「大丈夫。安心していいよ」

 

 

 いつもの長門と違って要領を得ないことしかできないみたいだ。もう少し近寄って震えている肩を片手で軽く叩いていく。震えが少し治まったら両肩に手を添えておく。怖がらせる気はないと信じてほしいから。

 

 震えが止まる。たぶん五分も経っていないと思う。その間、ずっと、どうしてとだけ尋ねられた。何かしらの混乱状態だったんだと思う。下手に刺激してもっと辛い状態に陥らせたくないから、俺も大丈夫ぐらいしか言わなかった。

 

 細く長いため息をはく長門。なにか踏ん切りがついたみたいだ。

 

 

「シャドー」

 

 

 どうして、以外の言葉を聞けた。その声も茫洋としたもんじゃなく、意識がしっかりあるものだった。

 

 

「誰がすき?」

 

 

 呼吸の仕方を忘れた。その言葉もだけど、長門が知らない人に見えたからだ。あの時の長門とはまた違った誰かに見えたからだ。俺が全く知らない長門がいた。

 

 

「大丈夫」

 

 

 同じように安心させてくる。同じように、落ち着かせてくる。大丈夫とだけの言葉で落ち着かせて、誰がすきという疑問を合間にいれて訳が分からなくさせていく。

 

 目の前のよく知らない女の子が、余計に分からなくなっていく。二つの台詞はランダムで出されて、落ち着けるタイミングを失う。なにもかも分からなくて、もはや不安定になる。

 

 

「わたしは長門有希」

 

 

 この子の名前だ。知っている子の名前だった。覚えやすい可愛らしい名前だと思う。目の前の子も同じ名前らしい。俺が好きな子とどこもかしこもそっくりだから、間違えそうだ。

 

 

「あなたは______」

 

 

 俺の名前だ。好きな子からとても素敵な名前と褒められた俺の名前だ。微妙に読み間違えられたりすることが多い名前だけど、好きになった子は初対面からずっと間違えずに読んでくれたし書き間違えもしないでくれた。そういう几帳面さも可愛いと思うところで、好きになったんだと思う。

 

 

「じゃあ、私は誰であなたは誰?」

 

 

 当然の答えを出す。勿論正解したようなので満足そうにしっかり頷かれた。

 

 

「わたしはあなたが好き」

 

 

 知っている子ではないはずなのに、やたらデジャブを感じた。どこかで同じようなことがあったと感じた。どこまでもありえないはずなのに。

 

 

「知ってくれる? わたしは、あなたが好き」

 

 

 デジャブだ。知ってるんだ。どういうことがあったのかも俺もこの子も知っているんだ。

 

 

「あなたは、誰が、すき?」

 

 

 授業中だから板書するみたいに、義務的に思い出すものがあった。どうしようもない好意と、いつも好きだった気持ちが加算されていく。

 

 全部、やらかし、であった。

 

 

「じゃあ、また明日」

 

 

 知っているのに、知らないふりをしながらいつも通りをする長門。一人で部室から出ていった。そして、扉が閉じる音とともに駆けだして追いかける。

 

 

 

「長門っ!」

 

 

 ほんの少しだけ先にいる好きな子。聞こえているのに待ってくれない。無視しているんじゃないことくらい分かってる。携帯をしまわず手に持ち続けているから。聞く気はあるってことだ。今まででそれぐらい分かっている。

 

 

「一緒にいるからな、絶対!!」

 

 

 歩みが遅くなったのは錯覚じゃない。

 

 

「長門と、一緒にいるからっ! 長門だから、一緒にいたいんだからなっ!?」

 

 

 相変わらず止まってくれないみたいだ。あぁ、また逃げようとしちゃってるのか、と分かる。このままだと、もうずっと逃げられることになる。今回の自分では結ばれないと諦めて、逃げ切ろうとするんだ。

 

 

「だからさっ、明日、絶対に待ってろよっ!! 俺、必ず迎えに行くから待ってろよ!!」

 

 

 また遠くに行く長門。また逃げる気があった。また諦めだしていた。

 

 でも、頷いてくれている。振り返ってもくれない、声にも出してくれない。それでも、期待はまだ持ってくれていた。

 

 

「また明日な、長門!」

 

 

 ここでは見送ろう。今からなにかやっても期待を悪い意味で裏切ることになる。逃げて諦められてしまう。そんなのは嫌だった。

 

 だからこそ、いつもみたいに挨拶をしたんだ。

 

 

 VVVVVVVV

 

 

 

 わたしが見ていたのはログだ。この三日間のログ。誰がどんな行動や言動をしたか、それでどのような効果や変化が起きたのか。誰かからの考察も俯瞰的な感想も何もない、三日間のただのデータだった。

 

 そして出てきたのは、もしかしてのログ。他の人とのログ。わたしでない人と仲良くしていたログ。明確に好きだと思っている部分があった。実際好意をそのまま口に出している部分があった。彼が自覚したところで携帯を握りつぶしそうになる。わたしでない人に、好意を抱いて、恋をして、好き合いたいとしていたログ。

 

 思わず思考が止まった。恐怖で止まる。怒りよりも憎しみなんかよりも、悲しくて虚しくて全てどうしようもないというもので。

 

 どうして、という言葉で思考が染まる。少しずつ増えていき、様々な意味を持った、どうして、という言葉で埋もれていく。

 

 裏切った、嘘を吐いた、よそ見をした。どうしてそんなひどいことをするのか、と。わたしじゃないの? わたしではだめなの? わたしでなくてもいいの? どうしてこんなつらいことをするのか、と。好きになっていると理解できなくなる。好きでいる自信が無くなる。好きがただただ分からなくなる。どうしてあんなずるいことをするのか、と。

 

 ずっと、どうして、の言葉が浮かび続ける。何もかも疑惑に飲まれている。よく分からない知りたくないものになっていく。解答がでないからだ。模範解答すらどこにもない。ひたすら答えの欄だけ書きなぐりすぎて破けてしまいそうだ。何度も書きなぐっても、納得も出来ず間違いじゃないかと疑い続けている。

 

 エラーだった。深刻なエラーであった。その所為で、声として漏れていたのだろう。いつものシャドーに見られた。いつも自由に他人のことを考えて、気ままに他人のことを思って、マイペースに他人のことを好きになる、好き、であるはずの普通の男の子だ。それを、純粋に怖いものと定義してしまう。近寄ってはいけない、認識してはいけない、肯定してはいけない、と。相容れない存在であると。日常では異物でしかないわたしがか変わってはいけない存在なのだと、諦めるべきと行き着く。

 

 わたしが好きになってはいけない人が、心配してくれる。嬉しいと怖いが反転する。その所為でうわ言のように、どうして、がこぼれてしまう。それをまた心配してくれる。だからこそ、怖いもので逃げたかった。怖いものと認識しているくせに、近寄られてたら嬉しい。体に触られても嫌悪感なぞない。だけど、怖いままだ。恐怖を感じながら、嬉しさと悲しさだらけで好きだった。

 

 そして、何分か経った。どうして、の言葉は止まらず澱みレベルになっている。それでも、どうにか口を動かそうとする。最初は、ため息が出た。深いため息だ。自動的にそう行動した。

 

 彼の名を呼ぶ、自動的に。恐怖は消えていた。まだ好きがあった。

 

 だから、尋ねる。誰がすきか、と。わたしでなくても、もういい、というのが確かにあった。まだまだ好きであった。彼はちゃんと驚いている、あの夏のあとのわたしをやっと理解した時みたいに。別人かそうじゃないか、今なら上手に判別してくれるだろうか。同じようにわたしも、彼を心配する。大丈夫、と心配する。時折また尋ねながら心配し続ける。

 

 そうしていたら、やはり泣き出しそうな顔をされてしまった。同じように、どうして、で頭が埋もれたのだろう。だから、もう一度教えようと考えた。今ここにいるのは、誰と、誰なのかを。一音ずつはっきり発音して、よく教え込んだ。彼の名前。その語感の良さも、いつものように好きだった。そして尋ねる。誰と誰がここにいるのか。正答だった。わたしも答えを得た。

 

 やはり今も、いつもみたいにシャドーがすきだった。知って欲しくなる。シャドーのことが好きということだけを。もう一つの問いかけは、どうでもよかった。応えてくれなくてもどうでもよかった。

 

 もう十分知ることができた。わたしは、こんな普通の男の子であるシャドーが相変わらずすきだということが。誰でも好きになれる、この普通の男の子がすきだ。わたしも好きになってくれてのが嬉しかった。恋愛的な意味で結ばれるのは、まだ早かったのだろう。まだまだ未熟だ、わたしもシャドーも。だけれどまだまだ未熟であることが、普通の女の子と普通の男の子みたいで勝手に嬉しくてしょうがなかった。

 

 だからこそ、もう逃げようと考えた。いつも通りに逃げ帰ろうともう一度考え直す。これ以上彼といたら逃げられなくなるから。ありえない、わたしとシャドーの二人だけのいつもを、願ってしまうから。叶わないものは望むだけ無駄だ。そんなものより、確実なみんなでの日常に逃げて込もう。

 

 それが、一番いい選択だ。

 

 追ってこないことに安堵しかなかった。彼もいい選択をしてくれたことが、喜ばしいものだった。遠慮なくお互い逃げられることが出来そうで、本当によかった。

 

 それでも、どうして、と考えてしまう。どうして、逃げてくれないの。どうして、追いかけてきてしまったの。最後のチャンスだった。あれが、本当に最後だった。

 

 それなのに。

 

 どうしてまだずるいことを、またしてくれるの? 

 

 最後にしてくれないのか、どうしても。最後にしてはいけないのか、どうしても。あなたに相応しい日常とはどうしようもなく違うのに、わたしとのいつもをのぞんでくれるのか。

 

 自分の意思で頷いた。振り向くことはできない、声で答えることもできない。どちらもすれば、もう本当にわたしは逃げ続けるしかなくなる。シャドーとのいつもが好きだからこそ、それから逃げ続けていかなければならなくなる。無意味な期待で悲しくて虚しくて全てどうしようもなくなるから。

 

 いつものような挨拶。また明日も今日のように、当たり前に会おうと約束してくれる。

 

 また。また、シャドーがすきになる。

 

 

 VIV

 

 

 

 

 いつもより起きるのが遅くなってしまった。というか寝過ごした。今から色々整えていたら、みんなのお腹がガラ空きになってしまう。ただでさえ、俺たちは育ち盛りだ。お腹がいつも空いているって言ってもいい。俺たち男組は気づけば総菜パンとかカップラーメン食ってるし、女の子たちは糖分摂取に余念がない。そんな常時ハングリーなのだから、待て、をさせられ続ければ大変なことになるに決まっている。

 

 手早く幼馴染に電話をかけて、今日の朝はパスすると伝えておく。体調を心配されたが、平気、と一言だけでも言えば分かってくれた。楽で助かる。

 

 携帯をしまって、部屋を漁る。調子に乗って買ってそのままだった、何故作ったのかと企画者を問い詰めたくなるお菓子類があるはずだ。飲み物もここに押し込まれてからも定期的に癖で色々集めているから大丈夫だ。

 

 そして、モサモサと食い漁る。可もなく不可もないのを選んだ。特別ひどいでもないし、クソまずいのでもない。食いつきは悪くないけど定期購入はしない奴だ。飲み物も炭酸系は控える。食べ物と化学反応を起こしそうだったからだ、悪い方に。

 

 目の前の変なカラーリングと異国文字で妙ちくりんなマスコットイラストが入った袋から目を逸らす。物理的に目には刺激的だったから。見慣れた自分の部屋を眺めながら食べ進める。と、そのコンセントらへんで昨日の朝バラバラにしといた奴らが散乱していた。手を拭いてから、その中で無駄にゴテゴテと銃身が五つ以上ついているロマンの果てを弄る。解体も組み立ても慣れている。また無駄に実用に近づけて作ってあるので分解が面倒くさい。こんなん実戦で使えないわ。爪とか皮膚とか挟んで呻きながらなんとか弾倉部分をばらす。実弾ではないけど模したのが入っている。それを引っこ抜いて適当に放った後に中を見る。空。空っぽ。下に傾けてから角度をつけて何回か叩く。それからかぽっとした音の所をほじくる。

 

 大事なものを見つけた。長門がくれたしおりだ。

 

 

「進級おめでとうってプレゼントだったな、これ」

 

 

 みんなにあげたんだな。幼馴染みたいに、みんな同じしおりをくれたんだ。みんな同じ特別扱いだ。それを無自覚なまま俺が特に特別なんだって思っていた。誇らしい気持ちと嬉しい気持ちで胸がいっぱいだったけど、幼馴染も持っていたから困り果てたっけ。俺もみんなと同じレベルの特別でしかないのかって。幼馴染の方が特に特別なのかって。実際、幼馴染が特別中の特別なんだろう。あいつが、長門にとっていい意味で例外だったんだ。長門にとっては初めから、あの時も、今でも。

 

 悔しかったんだ。空しくなった。どうしてと、しおりに八つ当たりするほど苦しい気持ちになっていた。そして、勝手にいつの間にか失くしたと思い込んだ。こんなところに失くすわけない。自分で隠したんだ。

 

 悔しさと虚しさと苦しさだらけの、長門への好きと一緒に隠したんだ。見つからなければいいって、祈りながら隠したはず。見つかったらどうしようかなんて考える気も起きないように、こんなところに頑張って隠したんだ。

 

 

「あほ過ぎじゃん、俺」

 

 

 しおりを離さないで勉強机の方へ行く。授業中以外触ることが全然ない教科書たちをいじる。勤勉に予習も復習もしていないのに角とかがヘタレていた。貸し借りする長門に、勉強熱心なのかと、よくからかわれていたのを思い出す。そんなわけがないことは十分知られている。この一年ぐらいでもろバレしている。一年の頃から貸し借りする仲だったからだ。それほど仲良くなれるなんて最初は思ってなかったのに。

 

 

「ホントに、あほ過ぎ」

 

 

 挨拶で終わっていた長門が、話もしてくれるようになった長門になった。顔見知りからちゃんとレベルアップしている。話は雑談も混じるようになったし、長門から声をかけてくれるようになった。友達にランクアップしていた。教室に遊びに来るようになったのは、長門が貸し借りしたいだけじゃなく話もしたいからかなってなんとなく気になりだした。友達以上なライクを持ってくれていたんだ。

 

 そんで、気づいたら長門と俺が一緒にいつもいた。いつもいつも間に誰かしらいたりしたし、周りにも人はいた。人だらけの中で、二人で一緒に過ごしていたんだ、いつも、いつも。色んな人の声よりも長門の声をよく聞こうとしている俺がいて、他の誰よりも普通で平凡なあほ過ぎる俺を気にかけている長門が、二人でいつもいた。

 

 いつも二人でいることは、当たり前になっていたんだ。長門といる日々が、日常だった。当たり前だって勘違いしていた大事なものだ。一緒にいるだけで楽しくて嬉しくて、移動教室への休み時間でも会いたくてしょうがない日常。それすら失くそうとしていたのが、ホントに、ホント、あほ過ぎる。

 

 

「長門をこれ以上傷つけるくらいなら……」

 

 

 細く長い、重たすぎる息を吐き捨てる。もう諦めがついた。

 

 

「もう、やめるよ」

 

 

 もう、諦めた。

 

 

「いいよな?」

 

 

 一呼吸挟んで、しおりを引き出しにたまたまあった箱へしまうことにする。もういいからだ。よく見ると、しおりには数字も刻まれている。何かの暗号なのかな。特別な数字なんだろうか。少しだけ心当たりがあるけど、やっぱり違うんだろう。月は同じだけと日にちが違うんだから。俺の誕生日とは違う数字だから違う。

 

 引き出しを閉じて鍵をかける。同時に、携帯が鳴った。幼馴染からだ。

 

 

「は~い、もしもし。どったの~?」

 

 

 いつものために、いつもをやろうと決めた。

 

 

 YE

 

 

 ヘルプでなんとか喰らいきれたものの、大分苦しい。幼馴染のSOSの原因は、妹ちゃんがサイズミスで選んでしまったハンバーガー。SHB(stomachをhushさせてburialsする)と言える食べ物だ。俺の座高並みにあったと思われるハンバーガーは、実にジャンク味が詰まった一品だ。中毒性はあるが、ずっとは食べ続けられるもんじゃない。毎食ハンバーガーなんて海外ドラマみたいなことは実際そうはない。そういうときも、味付けを変えたりメインをフィッシュフライに変えたりしている。しかも、さっきのはそんな味比べもなく単品勝負だった。苦しい戦いだった。

 

 今もキシリトール入りのガムを念入りに噛んでいるけど、ジャンク味が未だに味蕾一つずつに染み付いているようだ。特徴的な味付けは塩コショウのシンプルで、あとは素材の味。調味料なぞ使ってんじゃねぇと、口から通り納まる器官たちが荒れ狂うが無理やりなんとかした。幼馴染と古泉をノしても俺はギリギリいけたのが幸いだった。謎お菓子で味覚がバグってなかったらダメだったに違いない。

 

 ちょうど見つけたゴミ箱に用紙でくるんでガムを捨てる。俺の教室の近くにあったようにまたポップしているゴミ箱だ。口直しが済んだから、また目的アリで彷徨う。

 

 期待通りなら、俺の教室にいるはずだ。その期待が肩透かしだと困る。重い気持ちをごまかすために、わざわざ遠回りをしている。まだお昼タイムだ。五時限目に入る前ぐらいに迎えに行けたなら、どんなにいいか考えてまた重い気持ちになる。それなのに、体はセカセカと動く。どうしようもない矛盾なデジャブ。

 

 どうにかこうにか、近づいた。わざわざ無意味に屋上まで追って、玄関まで追いかけた。いるはずがないのに、追いかけまわす。案の定、どこにもいてはくれない。期待してくれていると願っていいのか、期待していいと望んでいいのか。挿絵でおっさん顔にされがちな塀から落ちる不機嫌卵みたいな結果はいらない。そして、五限目まであと八分辺りで、追い詰めてしまった。

 

 教室の扉が開いている。俺のクラスの教室のだ。中に入っていない。どう足掻いても見つけられる位置で待ちぼうけをしている女の子がいる。開けた扉とその近くに寄りかかって、俺を見つけている女の子が。

 

 

「こんにちは、長門」

 

「シャドー、こんにちは」

 

 

 願っていない、いつも通りの挨拶。今まで今日は会ってない。今日はやっと、会うことができた。追い詰めて、追いかけて、ここまで来れた。長門は迎え撃つだけだから、こんなに余裕。簡単だ、引き金を引くのは長門。的で獲物は俺だ。

 

 

「待ったよね、ごめん」

 

「大丈夫」

 

 

 またポップしているゴミ箱を間に挟んで、いつもをやる。いつでもいいのに、堪えてしまう。

 

 

「探してたけど、まさかここって思わなくてさ」

 

 

 期待を裏切られたかった。追い詰められる。

 

 

「ここしかなかった」

 

 

 どうしても裏切ってくれない長門だ。また追い詰められる。

 

 

「そうだねぇ。基本的こういう隙間時間使っても居るんだもんね」

 

「そう」

 

「そうなんだよねぇ。いっつも気がつけば一緒にいたしさ」

 

「そう」

 

 

 距離を詰める言葉を出してくれないのも長門。まだ追い詰められる。

 

 

「周りによく茶化されたもんだったわ。付き合ってんのかってさ、ねぇ?」

 

「わたしもそう」

 

「それにはお茶濁ししかしねぇよ、ねぇ?」

 

「そう、わたしも」

 

 

 いつものようにただの雑談。学者や政治家の討論とかでは全然ないもの。言葉の意味や議題の方への関心よりも、二人でこうして一緒にいることが何よりも重要なもの。いつでも爆弾スイッチを押しせてしまうのは、雑談の方が確率的に高いだろう。うちのばあちゃんが好きな任侠ものでは、気を抜くというのはドスを抜くもんらしいから。

 

 

「こういう空気壊されるんのヤだし。長門と一緒にいんの、好きだし」

 

 

 無言で返される。またまた追い詰められる。

 

 

「頑張って盛り上げよーとか、絶対に楽しませてあげよーって気持ちが、長門にはあんまなくて」

 

 

 わかる? と軽く尋ねると、同じように手軽に頷かれた。まだまだ追い詰められる。

 

 

「なんででもいーや、ってなるんだよね、長門だと。ただこんな感じで一緒にいるのだけでもいいなーってなる」

 

 

 分かる? となるべく穏やかに尋ねる。同じようにしてまた頷かれた。全然追い詰められる。

 

 

「そういう関係、すんごくいいじゃん? いいなぁ、安心するなぁ、好きだなぁってなる」

 

 

 返事は求めてない。だけど、またも頷かれる。いつまでも追い詰められる。

 

 

「長門と一緒にいるのが、いいなで安心してさ。長門が好きだってなる」

 

 

 もはや頷きもさせない。畳みかける。ようやく最後まで追い詰めることができる。

 

 

「長門、好きだ」

 

 

 聞き逃すことをさせない。近づく。小さな一歩ずつで、確実に近づく。長門の方が震えている。許す。

 

 

「好きだ」

 

 

 聞き続けてほしい。進む。いつもの四分の一ほどの歩幅で進んでいく。長門の指先まで震えている。許す。

 

 

「好きだよ、有希」

 

 

 きいてほしい。手を伸ばす必要もないくらい縮まった距離。あとはくっつくぐらいでしかこの距離を縮められない。許して。

 

 追い詰めた。もう諦めたから、どこまでも一緒にいたい気持ちはごまかせない。俺を強く抱きしめたのように、長門もそうだから。許してほしい、という言葉を吐き出せない。

 

 抱き返す前に、心底を挽きずり出した。

 

 

「一緒にいようよ」

 

 

 

 気がつけば、自室。わたしの住むマンションの一室。

 

 脇目も振らずコールする。相手は、シャドーしかいない。他の人のことは気にすることもできない。一回目のコール。出ない。これで出ないのはザラにある。まだ落ち着いておく。二回目のコール。出ない。これもたまにある。もう少し落ち着かなければならない。三回目のコール。出てくれない。逸るのを止められない。玄関から飛び出した。

 

 まだコールは続いている。何回目のコールかは、もはや数えていない。こんな時なのに人間らしく移動してしまう。シャドーとの日常が心地よすぎる所為だ。普通の女の子は、七階から飛び降りるのは投身自殺でしかないからだ。わたしならそういうわけではない、時間短縮なだけだ。それでも、普通の女の子、という存在に固執している。日常と言う代わり映えのしないものに、異物として在りたくない。シャドーとの日常が欲しい。

 

 普通な人間の女の子として、シャドーと一緒にいたいのだから。すでに欲求というより欲望になっている。渇望している。

 気を張りながら女の子をやりたくない。普通の女の子をしたい。どうにか頑張って女の子をやりたくない。普通の女の子でいたい。普通な人間の男の子のシャドーと、一緒になりたい。

 

 一緒に普通に、いつも通りの日常を過ごしたい。

 

 いつの間にか留守番電話に代わっていた。発信音が垂れ流されていた。無意味に思えて、切る。と、すぐにコールが始まった。すぐ出ようとしてボタンを押し間違えて、切ってしまう。慌ててかけ直そうとする前に、またコールが来てくれる。今度はうまくボタンを押せなくなる。今までは何度も練習していたから扱えたのに、難儀する。四回目のコールに入る前に出ることが、ようやくできた。

 

 

「___」

 

 

 挨拶も出来ず、シャドーの名前を呼んだ。

 

 

「すき。いつもすき」

 

 

 なにか返される前に言いたいことを言う。

 

 

「すき、___。いつも、いつも、すきだから」

 

 

 息が乱れるなんて初めてだった。

 

 自販機の前に、見慣れた男の子がいる。わたしよりほんの少しだけ大きいぐらいの男の子だ。缶ジュースを片手で二つ持っている。待っててくれていた。彼も息を整えてながら待っていてくれた。携帯を耳に当てながら、わたしが追い詰めるも待っていてくれた。

 

 

「あの」

 

 

 追い詰める前に、近寄ってくる男の子に言葉が滞った。言うはずの言葉は、勝手にのどが嗄れたようで出てきてくれない。口を開閉するぐらいしかできなくなっていた。

 

 

「長門」

 

 

 ジュースを一つもらった。いつも、一緒に飲んでいたものだ。一緒に飲みたいから、よく選んでいたものだ。すきな人の好きなものも、もっとすきになりたかった。

 

 

「長門有希さん」

 

 

 汗だくなシャドー。頑張って走って来てくれて、ここで我慢して待っていてくれたすきな男の子。

 

 

「俺と、一緒にいよう」

 

 

 上手く言葉が出ないわたし。ただただ頷くばかりだ。必死に言いたいことを言いたかったのに、声が出てくれない。もどかしいままのわたしも、シャドーはいつも待っていてくれる。そういうところもすきだった。

 

 缶の表面がぬるく感じるぐらい時間がたって、ようやく伝えられた。

 

 

「ずっと、いつも、一緒にいてほしい」

 

 

 抱きしめられる。いいよ、わかったよ、と何度も繰り返されるすきな人の言葉。それごと一緒にいたくて抱きしめ返した。

 

 

 ◎

 

 

「いやー、みんな悪いわねー」

 

 

 SOS団本部で吾らが団長ハルヒの声。いつものように溌溂とした声は何の陰りもない。

 

 

「みくるちゃん、これ美味しいわよ。有希もどう?」

 

 

 ちょっとした風邪として臥せっておられた団長は元気だ。映画の方はあと編集ぐらいに落ち着いている。いい絵ですね、と快活に笑っておられたミニシアターの人の苦労を考えると食欲が減るので諦めるしかないんだ。気づけば全台詞カットで、昔の映画みたいに活動弁士を使ったものになるかもしれない。

 

 

「__、古泉、これうまいよ、あげる」

 

「あぁ、サンキュー、シャドー」

 

「ありがとうございます」

 

 

 ここ最近は幼馴染の団長への労り具合はいいらしく、古泉と俺でいい感じですよね、って色んな意味を含めて話してた。さっきまで団長専用召使いしていた幼馴染は、今もハルヒの具合を気にかけてる。

 

 

「大丈夫かって聞いたの?」

 

「まぁ……」

 

「それ以外は言わなかったのですか?」

 

「なんかあったらいつでも言えよ、とか、無理はするなよ、とかは言った」

 

「あとは? 他のは、ないの?」

 

「いや、他とかあととか……何を言えってんだよ」

 

 

 これだから俺の幼馴染は。似たもの幼馴染だよ、ほんとに。色々ヤレヤレは周りの方だ。古泉も同じようにヤレヤレってるし。

 

 

「他の気遣いの言葉あんっしょ?」

 

「例えば?」

 

「なんかあったら心配だ、とか、無理したら困る、とか」

 

「気持ち押し付けるのは、ダメだろ。うざいやつだ、それは」

 

「女性なら喜ばれることが多いんですよ、キョンくん」

 

「顔を近づけるな、うざいっ」

 

 

 ホールじゃなくて細々とした洋菓子類がみるみる消えていく女子側を眺めながら駄弁る。一口サイズとはいえ、量を食えばお労しいことになるのに。

 

 

「気持ちを伝えるのに言葉として出してもらいたいもんらしいよ、女の子って」

 

「いや、ハルヒはそういうんじゃないだろ」

 

「本当に、そう思いますか?」

 

「は? そうだろ、あいつは」

 

「本当に……、そうでしょうか?」

 

「顔を近づけるのやめろ、怖くてうざいっ」

 

 

 古泉の圧に屈しそうな幼馴染の袖を引っ張って、注意を女の子たちに戻す。

 

 

「ほら見てよ。隙あらば、嬉しいとか楽しいとか可愛いって、言ってるじゃん」

 

「女子同士だからだろ」

 

「だっから、喜んでんの。言葉にして伝えあって、一緒にいるの良いねって、喜んでんの」

 

「ふぅん」

 

「ですが、心配だとかは実際思っているのでしょう?」

 

「そりゃ、そうだが。でも、分かるだろ、あいつなら」

 

 

 証拠を提示せねばなるまいか。くらえっ!! 

 

 

「そいやさ、この前ハルヒご機嫌だったよね。アレなんだったっけ」

 

「この前?」

 

「一昨日のことですね」

 

「そうそう。確か、お前のとこ調理実習してなかったけ?」

 

「あぁ、したな、確か」

 

「で、お前さ、ハルヒからそれのもらったらしいじゃん」

 

「あぁ、それが?」

 

「嬉しいありがとう、って言ったみたいですね、キョンくんは」

 

「普通のことだろ。礼儀だ、礼儀」

 

 

 まだ気づかないのか。ダンボールバッチ見抜けないどこかのサイバンチョみたいだなぁ。

 

 

「ありがとう、って言ったよな?」

 

「言った」

 

「その前の言葉は何か覚えてますか?」

 

「嬉しい……」

 

「いや~、ホントすごいご機嫌だったよね、ハルヒ。俺が隠してたおやつ二箱強奪で済んだんだもん」

 

「えぇ、涼宮さんもとても嬉しそうでした」

 

 

 あ゛ぁー、と深いため息をはく幼馴染を両サイドから肘で小突く。

 

 

「言えます?」

 

 

 俺たちの言葉にしっかり頷いたのでやめる。

 

 

「モテ男と彼女持ちは、おつよいな」

 

「せやろ?」

 

 

 それで馬鹿笑いしたもんだ。

 

 

 ◎◎×

 

 

 

 解散後、公園に長門と一緒にいる。時間帯的に子供達はお母さんと一緒におうちに帰っているから、俺たちの貸し切り状態だ。

 

 近くに自販機で買ったジュースを二人で飲む。俺が生まれる前からあるロングセラー商品。購買欲を煽られまくってホイホイ買う謎商品とは違って、気づいたら買って飲んでるもの。気づいたら、長門もよく飲んでくれているもん。流石に分かってる、俺が好んで飲んでるからだってことぐらいは。そんな感じで色んなものを一緒に食べているのも知ってる。恥ずか嬉しいものだ、ホントに。

 

 

「小テスト、どう?」

 

「まぁいい方だと思う。七割は取れるかも」

 

 

 英単語テストの話。前だったら家で適当に睡眠学習とかで済ませていたけど、最近はちゃんと頑張ってる。さっきも長門とどれぐらいできているかチェックしたし。発音までしっかりチェックされるのは結構ハズいけど。

 

 

「どこぞの〇ーみたいな喋り方してれば英語身につくの?」

 

「あれはカタカナ英語ばかりなのと、使い方が間違っているものだらけだから推奨しない」

 

「地道にコツコツしかないようですね」

 

 

 横に置いた単語帳をつつく。発音の記号みたいなのも書かれているけど、そもそもその記号みたいなのをどう発音するか覚えてないので意味がない。

 

 

「まいったわ、明日もダルそうで」

 

 

 英検が近々あるので、学校側も生徒たちの尻を叩いてるんだ。おめぇらもまともに英語圏の人とおしゃべり出来ねぇくせによぉ。

 

 

「頑張って。あなたならできる」

 

「そう言ってくれて嬉しいよ、ありがと長門」

 

 

 こんな可愛くて健気な彼女がいなかったら、前みたいにヤマ勘任せで、どっかのタウンにサヨナラバイバイなのに。だけど、長門にはいいカッコしたいさ、一緒にいるのももっと好きになって欲しいんだから。

 

 

「ありがと長門、ホント好きだ」

 

 

 だからこそ、勝手に出てくる言葉。本心から出てくる言葉。言うのが難しくなったり簡単になったりする面倒なやつ。いちいち発音も気にしないし、変な文法になっても気にしない。分かってくれるし、分かってもらえるように追加しても言ってるし。

 

 

「そうちゃんと言ってくれるシャドーもすき」

 

 

 女の子の言葉は正直回りくどい。遠回りも寄り道も全部してようやく結論を言うから、こっちはこんがらがる。でも、遠回りと寄り道の全部に気持ちを込めまくってる。どれほどの気持ちか、どんな気持ちか、全部詰め込んでくるからまた少し困るもんだ。結論だけしか言えない俺が困りまくることになる。

 

 

「他にどういうとこ好き?」

 

「変なおやつに手を出すのを控えれば、もっとすきになる」

 

 

 こんな感じに、俺に期待してくるから困る。俺も色々ともやもや期待しまくることになるから更にの更にだ。

 

 

「すみません。でもね、あれはたまの口休めなのでお許し下さい」

 

「前の日曜日もそんなこと言って買ってた」

 

「長門も乗り気だったと思うけど?」

 

 

 前の日曜日、デートの帰り道の小さい出店で発掘したもの。ドギツイウルトラピンクに心惹かれて即購入。味は見た目を裏切ってスパイスを利かした苦い薬の味。流石に長門に食べさす気がなかったけど、あーんで食べさすこともあった。

 

 

「食べさせ合いもしたかっただけ」

 

「そいや、長門からもらったら苦さ消えてたわ」

 

「嘘を吐かないで」

 

「バレたか」

 

「わたしも苦かったから」

 

 

 さっきからずっと含みだらけの言葉をお使いになるな、長門。も、という言葉の頻度が高い。

 

 

「あ」

 

 

 電話だ、俺の方。長門に視線で伺うと頷かれた。ごめんねと謝っておいて、電話に出る。案の定、お母さんからだった。

 

 爪切り壊れたから買ってきて、というお電話。何で壊れたのって聞いたら、踏んだら壊れたらしい。壊れたんじゃなくて、壊したんじゃん。近場のドラッグストアとかコンビニで買って帰るか。

 

 

「なに?」

 

「爪切り買ってきてってお電話だったわ」

 

 

 電話をしまって立ち上がる。そろそろ学生が出歩くのは危ない時間帯になる。長門は女の子で俺の彼女だし、なんかあって傷つくのは怖すぎ。さっさと長門と手繋いでおうちに送ってあげないと。

 

 

「帰ろうか、長門」

 

 

 手を繋ぐ。けど、それだけ。立ってくれない。

 

 

「長門?」

 

 

 軽くこっちに引っ張るけど、立ち上がる気がないみたいだ。

 

 

「どうかしたの?」

 

 

 ちょいちょいと手を引っ張られる。いつものように遠慮なく近づいた。

 

 

「シャドーはもっと一緒にいたい?」

 

 

 長門はからかい半分期待半分で、またちょいちょい俺を引き込む。

 

 

「いたいけど、もう時間的に」

 

「ダメなの?」

 

 

 ダメだよ、って言うべきなんだろうけど、からかいの方が悲しそうになっていたから何も言えない。頷くのも無理。かと言って、首を横に振るのもそりゃダメ。

 

 

「また明日もあるから。だから」

 

 

 またちょいちょい引き戻してくるから、続きが言えない。お母さんの用事も済ませなきゃいけないとか、夜道は色々あぶないからとか、明日の小テストがとかの言い訳を言わしてくれない。

 

 

「まだ今日一緒にいたい」

 

 

 ちょいちょいして惹かれる。長門にいつも思うけど。俺の名前を呼ぶ声も、またまたなんて可愛いんだろう。

 

 

「もう少しだけ、わたしと一緒にいよう?」

 

 

 小テストはもはや塵となれ。お母さんはどうか待っててください。どちらももう少し先延ばしです。

 

 俺は明日の俺になんとか期待する。今日の今も彼女の可愛さに大変だけど、また明日も長門の可愛さで大変なんだろうから。

 

 

 

 #グッドエンド:なかよしさん、バイバイ#




グッドエンドです




ハッピーエンドは自サイトの方で読めます。(ゲームブック方式です)読みたい方は私のユーザーページのリンクからお飛びください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

涼宮ハルヒシリーズ(朝比奈みくるルート)

設定

あだ名:シャドー

概要:主人公(シャドー)はキョンの幼馴染み兼同級生の男子高校生。ハルヒとのスポーツ勝負で勝敗は着かなかったが、ハルヒに気に入られ、彼女の勧誘を受けてSOS団に入団する。

一人称:俺

容姿:髪は黒の短髪。顔はキョンと同じ普通な感じ。

身長:キョンより十cmほど低い。

性格:自由気ままなマイペース

家族構成:父、母(普通の一家でよく一緒に出掛けたり、時には喧嘩もするが、後で互いに仲直りしたりと普通の生活を送る関係)

能力:キョンと同様に普通の人間で学業の成績は普通(悪い訳ではない)だけど、運動神経と身体能力はSOS団団長・涼宮ハルヒと互角とかなり優れている。



主人公のお名前はリクエストされた方のを借りております。



 +Yell

 

 

 聞きなれた携帯のバイブ音が聞こえる。

 

 ぼやぼやなままの頭は二つの選択肢を浮かべた。

 

メールをチェックする

無視する

いいや、寝ます

 

 

 

 

 +Do

 

 

 

無視する

 

 上手いこと動こうとしない体と同じように頭が鈍い。

 

 鈍いままの頭は二つのことくらいしか考えられないままだ。

 

休息をとる

起きることにする

目をこする

 

 

 

 

 

 +hoe

 

 

目をこする。

 

 ショボショボなんてレベルじゃないショボっくれてしまっている目をこする。上目蓋とした下目蓋が糊付けされているようなショボったれ具合。生まれたてホヤホヤの赤ちゃん並みな目の開けづらさ。こんなの幼馴染と高校受験終わりの打ち上げ以来だ。お菓子とジュースとゲーム。もうこれだけで大盛り上がりだった。受かる判定はどっちの親も知っていたんだけど、万が一でさっきの三つ禁止令を出されていたからそりゃもうパーリータイムだよ。

 

 猫の欠伸5回分ぐらいの時間無をこすり続けた結果、お目目が開きました。こすりすぎて目蓋とその周辺がとてつもなくヒリヒリするけど無視っておこう。

 

 とりあえず起きて、探さなきゃ。一人だけじゃなくて、みんなを。

 

 うちの幼馴染とハルヒが集めた我らがSOS団、その顧問の鶴屋先輩、頼りになっちゃう喜緑先輩、話クドイ系友人の佐々木、大事で大切な妹ちゃん。誰一人として見落としてなるもんか。

 

 団長に任命された特攻隊長というご名職を名折れにしちゃ、団長にシバき回されちゃうからね。

 

 それなり装備を装着して、外へ。

 

→SKIP START

 

 

 

 

 

 

 +}

 

 

 部屋の向こうは見慣れた学校。色合いも物の配置も、なんというか北高の空気感ってやつでさえ見慣れ過ぎた奴だ。廊下の一部分にある謎のへこみや、窓の近くにある誰かがはっ付けたシール、消火器近くに忘れ物のだと思われるカバー無しの置き傘。窓から差し込む太陽の光、それに照らされた学校のあちこちに妙なシンパシー、そのシンパシーついでに軽妙な安心感と軽度の徒労感。全部全部、いつもの北高、という意識しか沸いてこない。その全部になんだこれは、と思うのに、それに更になんだこれは、でまたまたさらにそいつに、なんだこれは、な思考永久ループな俺。

 

 テストは体育以外暗記で点とっている俺に考察力だか推察力だか、どっかのバリツ使いみたいな能力なんてのはまともにあるわけがない。知恵熱で脳みそがプリンになる前に頭を振る。右見て左見て、右見て。見渡しても何もかもいつもの北高感。

 

 だけど、誰もいない。

 

 誰一人いない。

 

 平日なら当たり前にいるたくさんの北高の人たちも、休日でも部活人や先生とか、たまに業者さんとか、五十メートルも掛からずに誰かしらを目にするはずなのに。誰も、いない。一学年に九クラスもある北高に、誰もいない、なんてことあるわけないのに。

 

 恐怖感だけなのか。それに伴う興奮状態からか、足が動いていた。視線はまっすぐに固定されてしまっている。教室の窓や学校の外への窓を覗くことも、やたら躊躇われた。誰かいないのが怖くて、誰もいないのが恐ろしくて、その怖さと恐ろしさの意味を理解したくなくて。

 

 競歩並みの速度で足が動いている。あと一つの教室を通り過ぎてしまえば、階段だ。このままだと壁に激突か階段から落ちてのクラッシュだろう。

 

 意味を理解しきる前にクラッシュの方がいいかもしれない。

 

 足音。自分のものしか聞こえない。それしか耳に入ってこない。バスドラムをぶち壊せるほどうるさい足音。その一つだけしか、聞こえてこない。

 

 暗記力しか取り柄のない頭が、その所為で空回っていく。誰かいないということはつまり。誰もいないということはつまり。

 

 つまり。

 

 誰も──────。

 

 

「シャドーくん?」

 

 

朝比奈先輩? 

鶴屋先輩

 

 

 

 

 +}}

 

 

「朝比奈先輩?」

 

 

 その声が誰かなんて特定できていない。声の高低差で女の子かもしれないと思っただけだ。だからこその、願望だったんだろう。天然気味で頼りなさそうな年上少女なのに、その上ただその場にいるだけで盲愛しそうになるような女の子が、俺以外にもいる誰かであってほしい。そんな願望。赤ちゃんの産声みたいな本能だけでの願望だ。誰か誰かと泣いて叫ぶ赤ちゃんのように、だれかだれかと願って望んだ、こぼれ出た俺の何か。

 

 

「よかった! シャドーくん、無事だったんですね!!」

 

 

 運動神経が良とはとても判定されないお嬢さんなのに、駆け寄ってきてくれた。体に負荷をかけるだけでスピードにいくらも貢献できてない不器用な動き。上半身も下半身も、どちらの軸もバラバラだから尚更動きが不器用過ぎた。階段を一段飛ばしで降りるなんて芸当は不可能なんだろう。やろうとなんてしたら足を踏み外して大怪我、ギリギリ踏みとどまれても足を捻るなんて怪我を必ずする。

 

 そんなこちらがアワアワウワウワ落ち着かなく心配にさせる先輩少女は階段を駆け下りてくれた。心配していたという落ち着かなかった表情と、無事でよかったという落ち着いた表情で。朝比奈先輩のそんな様子がお嬢さんでお姉さんで、俺はとてつもない安心感を抱いた。

 

 

「ぁあ、よかったぁ……」

 

 

 涙声ではないけれど、自分でも情けなさすぎる弱虫な声が吐き出ていた。

 

 

「シャドーくん」

 

 

 一階分だけの階段なのにちょっと息切れしている朝比奈先輩。つい年下に感じる先輩少女さん。それは零れ落ちそうな大きな瞳と俺よりも低い身長、普段のポワポワとした風に流されていく綿毛のような様子。そんなだから、どうしても守ってあげたい、いつまでも大事にしてあげたい、何ともできないくらいに愛くるしい存在であられる。ずっとそう思ってきたからだ。

 

 それに、今さらにスコアメークできる素敵さがある。いつもの愛くるしさに、ほんの少し艶を見つけた。あのお嬢さんでお姉さんに艶を感じた。色っぽいとかそそるとかの性欲からのじゃなくて、ちょっと気取らせてもらえるならダーム・デュ・ラックのような尊さから。マロリーさんが書いた方に出てくる方でなく、初期の物語での彼女。初期の彼女は不思議の塊、ヒソっと立ち込め出した水煙のような奇妙さとユラリユラリし続ける水鏡のような面妖さが魅力的だった。だからこそ、後々の彼女の人間的な情念は俺としては魅力的に感じなかった。

 

 とにかく、そんな感じの少しの艶を持っておられる朝比奈先輩に言葉を返さないといけない。

 

 

鶴屋先輩もご一緒ですよね? 

朝比奈先輩だけでもご無事そうでホントによかったです。

よかった、無事で

 

 

 

 

 +}}}

 

 

「っ……、えっと」

 

 

 少し困った顔をさせてしまう。でも、そんな困った朝比奈先輩のお顔に、俺はとんでもない安堵でへみゃへみゃ笑う。とんでもないくらいの歓喜でたまらなくて笑ってたんだ。

 

 

「シャドーくん、あたしもいるにょろよ~」

 

「あぁ、鶴屋先輩もご無事なんですね。よかったです」

 

 

 階の上からお嬢様のお声。元気溌剌で、俺も元気活発にさせてくれる雅なお声。その素敵なお声の持ち主は鶴屋先輩だ。ちょっぴり顔が引き締まる。それでも、我が幼馴染からしたらいつも通りな腑抜け顔としかいわれないんだろうけども。

 

 

「で、他の子はどこだい?」

 

「あ、っと……」

 

 

 困った。そう、困ったんだ。俺たち三人の安全は一応確認できた。他はまだ不明、それが懸念の一つ。あとは、鶴屋先輩は埒外にいて頂かなくてはいけないってこと。お家側はがっちり絡んでいるけど、次期御当主で在られる鶴屋先輩嬢には何も言われてないし、ノータッチにしとけという念を押されている。それなのに、このような事態に巻き込んでしまった。そもそも我らが団長様ご自身も、不思議探索やらなんやらSOS団の部活動と言えるらしいものに、鶴屋先輩を誘うことも交えようともしていないんだ。

 

 つまり、先になんとかして誤魔化さなくてはならない。

 

 そこで朝比奈先輩に視線を送っておく。よく分かってなさそうだけど、結構察しは良いお方だ。ノリにノッて下さるはずだ。たぶん、乗り上げることはないはずだろうから。

 

 

「ややちょっぴり強引な展開ですいません」

 

 

 と、如何にも慌ててますの態を見せつけて近寄って小声伝達。鶴屋先輩を騙す上に、他にも観客がいるという態のアピール。小走り+無駄にわちゃっとした手の動き、そしてわっざとらしい焦り顔。まさに悪い意味での大根役者、そのもの。役者みたいな動きで誤解してもらうんだ。

 

 

「うん? どういうことかな?」

 

「鶴屋さん、アレです、アレっ!」

 

「あれ?」

 

 

 鶴屋先輩が朝比奈先輩に注目する。ナイスアドリブです、朝比奈先輩。そのまま手をわちゃわちゃ忙しそうにして、時間を稼いでおられる。

 

 

「”コレ”系です」

 

 

 俺は両手の人差し指と親指で長方形を作る。朝比奈先輩も慌てながらも同じように。そして俺と鏡合わせのように、”カメラ”を模した長方形を上下左右に動かした。

 

 

「あ~……そ~いうか~んじなの?」

 

「そうです。そ~んなか~んじなんですよ。なんで、いい感じに。OKすか?」

 

 

 ミニシアターの方は潰れる宣言はされてしまっている。それでも、自作映画の上映ってのはどこでもできるもんだ。場所は限られるし、お金もまたもやかかる。だけど、自作映画の上映は基本的に自由だ。だからこその、次予告としての映像を撮ってます、というフリ。鶴屋先輩も今作でナレーションみたいなのや、給仕役みたいなのをやっていただいているので、これで押通る。肖像権てきなのも押し通れるはずだ。

 

 あるわけないカメラやマイクなんてのを気にしないようにしつつノッてくださった。朝比奈先輩はクル○ガ的な視線を弱めてくださる。

 

 

「そっか~。たっしかにそんなののにも丸つけました、あたしも。あー、うっかり、うっかり~」

 

 

 少し大げさな感じの優雅なターンを決める鶴屋先輩。バレエのアレだ。演目は白鳥の湖ぐらいしか知らないけど、優雅さが俺でもよくわかる。演技っぽくない演技だ。ノッてノッてをして下さる鶴屋先輩に感謝感謝だ。

 

 さぁっ、と。鶴屋先輩と一緒に朝比奈先輩の方に振り返る。いきなり俺たち二人の視線を独り占めにした朝比奈先輩は、案の定ハテナマークとビックリマークを飛び跳ねさせた困惑顔に。いい画です、朝比奈先輩。

 

 

「それでは、行きましょう先輩方!!」

 

「行っくぞ~、みくる!! あたしたちの仲間の下へ~っ!!」

 

「へぇぇええええっ!?」

 

 

 鶴屋先輩に腕を取られ一気に階下へ降りていく朝比奈先輩。鶴屋先輩は奔放すぎるようで朝比奈先輩が転んだりしないよう気を付けて、朝比奈先輩も鶴屋先輩が怪我しないように気を付けて、仲良く何処かへ集合しに。それに遅れないように、且つ、少しだけ先に俺も駆け下りていく。

 

 朝比奈先輩が困りながらも俺を見る。それに口パクでごめんなさい、と頭を軽く下げて謝っておく。

 

 申し訳ないんですけど、俺のよく分からなさに振り回されてください、朝比奈先輩。なんとかなります、たぶん。

 

 最後の三段を飛び降りた

 

→SKIP START

 

 

 

 

 

 

 

 +〔

 

 

「このクランベリージュースおいしいですね」

 

「こっちのレモネードもいい感じだよ。ね、みくる、ちょっとくれないかい?」

 

「あ、いいですよ。わたしもレモネード飲みたいです」

 

 

 軽く見回りがてら歩いていると、三年生の先輩方は何でも自販機から出てきたジュースを飲んでいるのを見かけた。俺は妹ちゃんが当てた漢方系だと思われるものが入ったサイダーを飲んでいる。飲めるけど常飲したくないし、ご飯のお供にも向いていない。たしか、どっかの文豪はそばと三○矢サイダーのセットがお気に入りだったようだけど、これ出したら流石にちゃぶ台ひっくり返すんだろうな。薬品くせぇでおなじみのド○ペよりも求められない臭さが色々台無しな上に、甘いサイダーでごまかしも出来ず更にヘンテコになっている。ヘンテコな味は面白さだけで言えば好きだ。味覚とかで言えば面会謝絶もんだけど。

 

 

「こんちは、お二方。素敵なの飲んでますね」

 

 

 朝の階段降りた直後に長門出現でびっくりした朝比奈先輩の轟く悲鳴、みたいなことはなく、にっこりと穏やかにお二方は出迎えてくれた。あれは俺もホントにびっくりした。足をうっかり捻りそうになるぐらいに、びっくりしたもんだ。

 

 

「あ、こんにちわ、シャドーくん。……え、またなんですか?」

 

「はっはー、すごいねー、シャドーくん!」

 

 

 朝比奈先輩がド○ペを常飲している俺を見てる幼馴染みたいな顔をしていた。オブラートに包めば好きにするがよいという聖者の哀れみ、普通に言えばどうしてなのという呆れ混じりな憐れみだ。ド○ペは飲み物です。普通に飲めるものです。このヘンテコより上級なんですからね。

 

 

「いやー、またまたなんですよね。あと四本以上残ってまして」

 

「わぁおっ!!」

「わぁ……ぉっ」

 

 

 驚嘆していただける。お二方がテンションが高いのと低いのに別れることには訳がある。深いわけが、ある。いい感じにキツイかバッドな方でキツイかだ。そういう反応は慣れてる。お昼の陽光様みたいにキラキラとされたお二方のお顔はどうにも困るが、幼馴染や友達は無反応になってしまってつまらないので楽しい。

 

 

「はは、自分で言うのもなんですけど、美味しくないですから飲みたくないんですよね」

 

「じゃあ、飲むのやめればいいじゃないですか」

 

 

 大分困ったのと多少呆れが混ざった難解なお顔でおっしゃる朝比奈先輩。

 

 

「そんなんですけど、妹ちゃんがくれたんで」

 

 

 そう言ってQUAN○OOを飲み干して、次のに手を付けた。○瓶の麦茶クラスの大きさで、何のプリントもされてない銀色だ。今までのは全て毒性もトリップさせてくる成分もないし、アレルギー性なものもないらしい。さっきのも味だけはハズレで他は全部検問スルー出来るお品。忖度も何もなし、長門と喜緑先輩が能力で安全性は保証して下さっている。だからこれも何も心配することはないはずだ、味以外は。

 

 

「んじゃあ、ぐいっと行こうか!!」

 

 

 安心して鶴屋先輩のお声に合わせて開封し飲み込んだ。

 

 一口だけ。

 

 

「あれ? シャドーくん?」

 

「ん-? 大丈夫かい?」

 

 

 

 一呼吸、いや、三呼吸以上待ってもらってようやくしゃべれた。

 

 

「くっっっっっっっっつそにぃっがぁい!!」

 

「そういう系なんですか」

 

「そういう系なんだねー」

 

 

 さっきの漢方特有の苦さを軽々高跳びしていく苦さ。○二ジュースを飲み慣れてなかったら口からスプラッシュだったわ、まったく。

 

 

「一口でそれはキッツいんじゃないかい?」

 

「キツイならやめときましょうよ、ね?」

 

 

 お姉さん方がお慈悲をくれている。すぐに、うん、と頷いて流しにゴーした方がいいんだろう、体に良すぎる系な苦さだらけの味のドロッとした飲み物であるだろうコイツは、ボッシュートされるべきなんだろう。ネタ的には今のリアクションはOKだ。OKのはずだ。だが、次にとるべきリアクションは、捨てる、ではない。お残しは許しまへんでぇはうちにも伝わる代々の家訓でもあるんだ。

 

 それに、妹ちゃんがくれたんだしなぁ。飲みたくないけど、飲まなきゃなぁ……。シャドーくんださい。なんて言われたくないし。

 

 

飲み干す

ギブアップ

 

 

 

 +【

 

 

「おーっ!!」

 

「えぇーっ!?」

 

 

 (おのこ)なら一飲みするのだ。粘度が凄い、青臭い、なにより苦すぎて死にそうだ。粘度があるせいですぐに飲み干せず、味わいや食感、臭いも全部しっかりと分かってしまう。

 

 苦しい。苦しい。苦すぎて苦しくてお辛いんだ。

 

 呼吸すらできぬ。いや、今呼吸をしたらスプラッシュする。吸い込むためだろうが吐くためだろうが、する。なので、この苦行をこなすにはもはや全て飲み干すしかないんだ。

 

 気合。気合いだ。気合いがあれば何でもできるんだ。猪○さんも言っていたんだ。あれ? 元気だったっけ? とにかく気合だけでどうにかする。気合が俺の生命線だった。

 

 地獄の三分間。三分まで至るのに泣きそうだけでは済まなかった。生きることを放棄したかった。誰聞くまでもなく、もうゴールしてもいいよね、と自決しとうござったよ。

 

 

「シャドーくん、平気かい?」

 

「他に大丈夫そうなのないのかな……。わぁ、○の天然水ってこの時代にあったんだ」

 

 

 どちらも心配して下さっている。鶴屋先輩が頽れた俺の背を摩ってくれて、朝比奈先輩は俺のビニール袋から口直しを探してくれているんだ。

 

 平気です、男の子ですから、っとせめてセリフだけはかっこつけたかったのに、言うこともできない。苦さに襲われ中で余裕なんてなかったから。後に残るというか後に居座るタイプ。ほぼ居直り強盗だね。

 

 何分経ったかは分からない。時間感覚もボロボロにされたせいだ。

 

 

「…………」

 

「ん? なんだい? 保健室行く?」

 

「肩貸しますね」

 

 

 蚊の音よりもか細すぎて聞きとっていただけないようだ。両手を使って大丈夫なのをアピールする。

 

 そして、かっこつけるんだ。

 

 

「お”と”こ”の”こ”な”の”で”」

 

 

 すっげぇ声になっちゃった。

 

 もちろん三人全員笑った。

 

→SKIP START

 

 

 

 

 +{{{

 

 

 俺的には早い時間の夕飯タイム。長門の帰還を合図にみんなでワイワイご飯を食っている。鶴屋先輩や妹ちゃんには、スポンサーからの要望を聞きに行ったりしていたと言うことにしてある。そこら辺のごまかしは喜緑先輩と古泉、たまに俺でとっ散らかしといた。その所為だろう、俺の前にはあるよく分からないご飯が並べられている。二人が変な感じのものでの食いっぷりが良かったそうです、と言ってしまったため妹ちゃんが、その、楽しくなってしまったようで、無限ガシャポンみたいなことをした結果がこれらだ。あたしこのパイ苦手なのよねの進化系のスターゲイザーパイを始め、見た目は人参を煮込んだだけみたいな鶏足、食欲をそそられるはずの狐色な衣の中身はゼリーみたいなよく分からんやつ、原材料:オオグソムシなどなど。食べ物はおもちゃにしちゃダメだと教わらなかったんだろうかなな連中。

 

 食べろと言うのか、この者どもを。俺に。本当に。

 

 

「シャドー……」

 

「ソウルメイトだよね、俺ら。ヘルプしてくれてもいいんだぜ?」

 

 

 俺の隣ででいつも以上にもどかしそうな顔をしている幼馴染。愛想笑いで救済を強請る。が、愛想笑いで目線を逸らされ救済を拒否られた。古泉は、にこやかに紅茶を飲んでる。佐々木なんて美味しそうにリンゴジュース飲んでやがる。喜緑先輩と長門は忙しそうなのでしょうがないが、ひどいがすぎるんだよ。

 

 

「シャドーくん」

 

「なにかな、妹ちゃん」

 

「コレ、オススメ!!」

 

 

 グリルされたパンとコーヒーカップ、カップケーキ。そいつらをオススメされる。

 

 パン、普通だ。チラホラ製菓用のシュガーがカラフルなだけで、パンの表面は惚れ惚れするきつね色。食欲をそそられる。匂いもいい。チーズの匂いだ。グリルされているから余計にあの焦がれる乳製品の香りが胃を刺激する。が、レインボーだ。何がか、チーズがだ。綺麗に切られたトーストからこぼれ流れるチーズが、レインボーだ。虹色のチーズが流出している。コーヒーカップの中身、匂いで分かるコーヒーだ。どこかでは泥水と言われるが、そういう輩は砂糖とミルクぶち込んで飲んでしまえばいいじゃない。ブラック飲めないならそうしなさい。美味しく飲めればいい。でも、ラテアートと言えどここまでカラフルにする必要はない。ホイップに着色飲料を混ぜたんだろうななラテアート。飾りたいね、写真に。収めたくないね、胃に。そして、カップケーキ。全部カラフルにするな。縦横無尽に一秒間隔で色を挟むな。せめて、段ごとに色の配置を変えて欲しかった。

 

 食欲が悪い方に流れる。消える。溶けた。食いたくない。色の暴力が苦しい。

 

 妹ちゃんの左右の女神に懇願する。せめてヘルプを。せめてせめてで、コンペリングなデマンドを聞いて下さいませ。

 

 

「じゃあ、あたしはこやつもオススメしっとこうかな~」

 

「それじゃあ、あたしもこれなんかどうでしょうか」

 

 

 女神の一柱の鶴屋先輩のお品は、チョコミントisこれみたいな色のマカロニであるはずのやつ。もう一柱の朝比奈先輩からのお品と言うのは、粘土で頑張ったのかなと思われるカラフルすぎやがるドーナッツの変異種。たぶん前者はしょっぱい系で後者は泥甘系だろう。

 

 全部の道がカラフルだけど絶望の色合いにしか見えない。危険色って赤だけじゃないんだ、パトカーとか救急車も採用すればいいかもしれないな。

 

 現実逃避など、許されない。

 

一気食い

ドーナッツを喰らう

マカロニっぽいものも片す

 

 

 

 +#

 

 

 

 食事というものは軽いものから口に入れていくのが定石だ。口を整えるために突き出し、前菜から始まり口でパーティを開催させるスープ、魚料理、口直し、肉料理、生野菜、チーズ。そして、口慰みにして口惜しい感を楽しむ、甘い菓子、果物。最後には口をそろえるために出される、コーヒーと小菓子。

 

 だけど、時には逆から行きたい気分もある。高級フレンチはこうだ、高級懐石はこうだ、なんて無視したくなる。見た目がキレイなのはもちろん素敵だ。視覚も楽しくなれば、より食事を楽しめる。だが、まっ茶色の料理も食欲をそそられる。味噌かつ丼、牛丼、カレーライス、炊き込みご飯。素敵な茶色たちだ。ケン○ッキーもいい、チキンナゲットもいいな、唐揚げなんてのもいいよね。茶色、その一色がこれほど恋しくなる日はなかっただろう。

 

 なぁ、ドーナッツさん。本来ならそんな茶色に仕上がるはずのレインボードーナッツさんよ。おめかしし過ぎて仮装になっちゃったね。化粧落としてきてくれ、ありのままの君が好きなんだから。

 

 カラフルドーナッツさんは、左右に軽く振っても色が落ちしない。ペンキでコーティングされているみたいに着色が剥がれやしない。左右に振っても空洞から見える景色も変わってはくれなかった。お三方の方へ、慈悲を求める。アニエルだかツァドキエルだか、イオフィエルだか分からんが、にっこりとされていた。他は何もない。もういいよ、も、冗談だよ、なんて穏やかな囀りはない。はよ食わんかい、という穏やかな面差ししかなかった。

 

 心で咽ながら、口元にドーナッツを。おかげで自分の視力の良さを痛感する。一ドット欠けもないほど隙間なんてありはしないカラフルさ。赤は赤で、緑は緑で、紫は紫、とちゃんと色分けされている。本当に粘土作ったみたいだ。やめてほしかった。だが、毒ではない。ひとさじの毒性もない、欠片もありはしない。だって、喜緑先輩たちのストップが一度として入らないんだから。怯えと興奮で嗅覚が働いた。ドーナッツのあの嬉しい匂いだ。火が通った小麦粉のあのなんとも香ばしい胸をくすぐる香り、シュガーから漂うあの素敵な感じ。そうさ、口に早く頬張りたくなるあの素敵な甘やかさだ。昔、親戚の悪戯で味わったアレとは違う。辛すぎてしゃっくりが止まらなくなったし、かりんとうみたいになったドーナッツとは大違い。

 

 だがしかし、視覚が色々苦しめてくるんだ。

 

 ネタ商品は大好きだ。おもしろいから、本当におもしろいから。普通の人が感じる悪い意味での当たりなら、とてもとても素晴らしい。

 

 だけれど、時と場合による。面白商品がメインに座ってもいいけども、口直しが近場にあるのが前提だ。全部、逃げ場と言う口直しがないこの状況は、違うと思うんだけど。

 

 あぁ、逃げられない。

 

 幼馴染の助けはないだろう。妹ちゃんに甘すぎるから。朝比奈先輩にも甘いんだから。古泉は無駄だろう。静観と言う名の監督をしようと努力しているから。面白そうだから眺めようとしているんだから。佐々木は、いいや。初めからなんも期待してない。根っこがハルヒと同じなんだから。

 

 

「おいしいと思いますよ、シャドーくん」

 

 

 ふにゃりとした天使なお顔の朝比奈先輩。ちょっぴり小悪魔だと幻視した。

 

 いざ、大きな口を開けて頬張った。味は美味しい。ドーナッツだ、普通に。ちょっと男の俺にはクドイと思う甘さだけど、美味しい。味だけで言えば俺的にハズレ枠。だが、さっきまで脳裏に焼き付いだ毒だらけ色が、胃液を悪い意味で活発化させていく。そして、困ったことにこの先には逃げ場がない。まるでアイアンメイデンか、苦悩の梨かの二択を迫られている状態。

 

 せめて。せめて、癒しが欲しい。例えば、水だ。何でもない水が欲しい。着色料なし、フレーバーなし、炭酸なしの普通のお水が欲しい。欲を言えば、天然水。贅沢も言えないなら、水道水でもいい。ダム穴のように吸い込んでやりたいんだ、癒しを持ってさ。

 

 

「シャドーくん」

 

 

 天使であられるお声。お水を下さるのだろうか。さっきは小悪魔なんて幻覚を見てすみませんでした。やはりあなたは俺の天使様。

 

 

「お水、どうぞ」

 

 

 笑顔に笑顔で返せる。こんな身軽すぎる気持ち初めて。パト○ッシュとは逝かないよ、俺はまだ生きるんだ。

 

 

「ぬぐっ」

 

 

 清涼飲料水だった。確かに水。というか、飲み物は全部水分だから大まかに何もかも水って分けられる。のど越しがいいか悪いかで大分差があるけども。

 

 ここでド○ペとは、思わなんだ。

 

 

「いつも飲んでましたから。頑張って見つけたんですよ」

 

 

 天使には勝てないよ。こんな素敵に柔らかい笑顔なんだから。そう、まるでルノワールの描いたジャンヌ・サマリーの肖像のような柔らかな女性の素敵さだった。

 

 面白がっている、女の人の素敵なお顔だったんだ。

 

 

「おー、いいじゃないかっ、流石だね~!!」

 

「これもたべてー」

 

「まだシャドーくんのお口いっぱいですから、もうちょっと待ちましょうね」

 

 

 ちょっと色々と泣きそうだった。

 

 

 

→SKIP START

 

 

 

 

 

 

 +”””

 

 なんとか夜を過ごしている。胃の方は大丈夫だが、バラケながらマインドブレイクもしかけていた。

 

 味だけで言えば普通に美味いやつらだった。だけど、見た目が暴力的過ぎた。もはや、冒涜的だと言えた。誰に対してと言うなら、食材たちに対してさ。小麦だろうとショートニングだろうとも、ココナッツシュガーだろうともがあんなおもちゃにされていいわけがない。日本人はね、わびさびが大好きなんだ。ブルーオーシャンな食べ物出されても食欲無くなるだけなんだよ。

 

 そんな感じで軽く横になっていたら、すでにゴールデンタイムに突入している。夕食が六時で、食べ終わったのがその一時間後ぐらい。俺だけさっさと自室に引きこもっていたら、もうこんな時間。別に不貞寝とかでなく、色々と落ち着けるためだ。秘蔵の胃薬とかを漁っていただけだ。

 

 歯も磨いたし、シャワーとかも終えてる。別にトイレに行く用事もない。

 

寝る

ぶらつく

 

 

 +$%

 

 まだまだ胃が重い感じだ。このまま寝たらうなされる。レインボーな食べ物たちに襲われる悪夢を見るはずだ。フォアグラのために生きるガチョウのようにされる夢だろう。何という無常なだろうか。

 

 身長のためには、寝たい。幼馴染を見上げるのが未だにちょっとだけむかつくから。昔は俺の方が高かったのに、なに百七十超えてるんだよ。なに、十cmも俺が見上げなきゃいけないんだ。中学に入った途端抜かしやがって許さんぞ、さっきのもな。

 

 軽くなにか羽織ってドアの先へ。一mmも、この先がいつもの家に敷いてある花柄カーペットな廊下だとは、願わない。たぶん、別なことを願っていたから。

 

 ちょっとだけでも誰かに会いたいって願ったから。

 

→SKIP START

 

 

 

 +>

 

 

 間違いなく夜だ。

 

 それでも、外はそれなりに星の明かりと、実際は確認できない人工の灯りで真っ暗闇と言うわけじゃない。学校内はもちろん非常灯・誘導灯もまた点いてるし、もしもでバッテリーも十分にある。校内は明るい、学校外も明るい。まるでどこにも必ず人がいるんだと当てつけているみたいだ。今のところこの北高にいる俺達十人ぐらいしか生き物はいないというのに。そう生き物が俺たち以外にいない。蟻なんかの虫も烏なんていう動物も、もちろん人も何もこの北高以外で一つとして確認できない。

 

 こうやって北高から見える外の景色は幻だ。住宅街で過ごしている人の営みも、ビルで働いている人の営みも、飲み屋街で屯っている人の営みも。その生きている誰かを想起させるこの人工的な灯り達はすべて幻でしかない。砂漠のオアシスの幻のように、誤魔化しなんだ。

 

 まだ眠れなくてブラブラ北高内を歩いていた。さっき長門と喜緑先輩から、早く寝なさい的なことを言われてしまったが、この調子だと頑張って目を閉じ続けたって眠れそうにない。歩く速さが自分でもやたらゆっくり感じるのは、気が重すぎるからなんだろう。妹ちゃんを巻き込んだのが大分キツイんだと思う。妹ちゃんは俺の妹ともいえる存在だ。物理的には勿論、精神的にも傷ついてなんか欲しくないんだから。

 

 窓から見える幻なだけの現実に飽きて、そこから体を離した。ちょうど飴も溶けてなくなったし、もういいやってなったから。校庭と屋上以外から見える景色に変わりがない。いつでも見えていた景色と何も変わらなかった。色々どうでもよくなりかけてしまう。

 

 とにかく、食堂とかで飲み物でも買って帰ろうと思う。と、ある一室から誰か出てきた。見慣れた先輩さんだった。その方から上に視線を移す。プレートには保健室と記されていた。そういえば、本日は団長殿に献上品を差し上げてなかった。差し上げないと、翌日倍で奪い取られてしまうから早くやらんといけないな。

 

 まぁ、その前に大事がある。

 

 

「こんばんわです、朝比奈先輩」

 

「あ、こんばんわ、シャドーくん」

 

 

 にっこり穏やかに一礼された。その様子でも一見童女にも見える朝比奈先輩は、やはりお優しいと噛みしめた。

 

 

「あ、みかじめ料ってのですか?」

 

 

 可愛らしい小さなお嬢様は、Vシネでしか聞いたことのない単語を放りなされた。意味は通る。というか、正にそれだ。だけど、可憐な方である朝比奈先輩から聞きとうなかった。

 

 

「そうですけど、言葉のチョイスがちょっとアレなので言い方変えときましょう」

 

「え? 変ですか? 合ってたと思いますけど……」

 

「合ってますけども、やめときましょう。朝比奈先輩はどうか、ギフトとかプレゼントにしときましょうよ」

 

 

 音物や貢物が正しいけど、さらに聞きとうない。朝比奈先輩から、スジもの感を彷彿とさせるものは聞きとうない。姐さんとか姉御ではないんだ、朝比奈先輩は。お嬢様なんだ、朝比奈先輩は。ファンシーでファンタスティックなキティなんだよ、朝比奈先輩と言うお方はな。

 

 口元を隠しながらハテナと浮かべつつも納得していただいた。これで危機は超えた。これで、ソウルメイトだった幼馴染も安心してくれるぜ。

 

 

「じゃあ、はい」

 

「はい」

 

 

 朝比奈先輩から手を出されたので、普通に受け取る。中身は、胃薬だ。ドラッグストアでは並ばない、ちゃんと病院に行かないともらえないやつだった。

 

 

「ちょっと、悪戯しすぎちゃいましたから」

 

 

 謝罪かもしれない。でも、口元を隠しつつも笑っておられるのが分かる。それがまた、お可愛いのでなんでも許せた。というか、そもそも怒ってもいないし拗ねてもいない。胃がちょっと苦しかったけども。

 

 

「全部食べたの凄かったですよ、シャドーくん」

 

 

 くすくす、とリスが顔を洗っているような可愛らしさ満載で笑っておられる。食べるのを止めるなんてのはしていただけなかったけど、朝比奈先輩が現在進行形で可愛らしいのでいいんだ。

 

 

「お昼のも、夕飯のもちゃんと食べてくれて偉いですよ」

 

「あはは、いやー、それほどでも」

 

 

 今日の夜は不思議だと思いつつも日常感を感じる。朝比奈先輩のお姉さん感だらけな言葉遣いと話し方。けど、お姉さん感を感じ取るより背伸びしているお嬢様感をじっくり味わってしまう。多分、身長のせいもあるんだと思う。朝比奈先輩はSOS団で一番背が低いんだ。俺よりは勿論、長門よりも小さい。尚更、殊更、小動物的な可愛らしさを感じてしまう。だから、不思議さのくすぐったさを覆い隠すように日常感でまったりしてしまう。

 

 

「はい。あの子のもちゃんと食べてあげたの“いいな”って思いました」

 

 

 はい、の後の一文にクラっと来た。めまいや頭痛に似た強い衝撃。

 

 普通の言葉だ。普通に褒めてくれただけだ。さっきの偉いねー、ようなまったり感だけ感じ取るはずだった。読解力なんて必要ないたったの一文。学校のテスト出て来るお堅い、正しい日本語で作られた一文とはまるで違う。ただの話し言葉だ。助動詞だか形容詞だかを、明け透けに解剖していいもんじゃない。

 

 “いいな”までに続く流れる艶やかさ、"いいな"で終わらぬ余韻を残す色っぽさ、”いいな”程度で止まらないでいてくれた香る美しさ。それが詰まった言葉だ。声のトーンの所為もある。まるで、奏でるようでいて囁くようでいて圧しつけてきた。深い重みを持って圧しつけられた。

 

 "いいな"の言葉の意味を、圧しつけられたんだ。

 

 

「じゃあ、もう遅いのでおやすみなさい。シャドーくん」

 

「はい、おやすみなさい。朝比奈先輩」

 

 

 最後まで口元を隠しておられた。それでも、笑っているのは初めからずっと知っていたんだけど。俺を通り過ぎていくそんな朝比奈先輩に、可愛らしいなんて感情はまだあった。けれど、それを女性らしさのある先のアレが塗り替えしていく。

 

 階段を上る音が聞こえる。一人分の足音。軽い足取りの先輩のもの。

 

 

「ちょっと、俺、先輩のこと”とてもいいな”って思っちゃうじゃないですか」

 

 

 眠気がお引き払いにされた俺。謎の火照りが顔を中心に集まる。

 

 照れてしまったんだ、朝比奈先輩に。

 

 

→SKIP START

 

 

 

 +>>>>

 

 

 朝だ。いつもの朝だった。見間違うはずのない、勘違いするはずもない、いつもの朝。見慣れ過ぎた自分の部屋、嗅ぎなれた自分の部屋、落ち着くことのできる俺の部屋だ。寝起きの頭で見回しても、何も変わらない。異常なし、変化なし。物の配置に一ミリのずれもない。昨日の寝る前のままだった。

 

 そして、気軽に夜更かしをして心持ち重たいこの胃も、昨日と変わりはしない。昨日と今が紛れもない現実であったと痛感させてくる。未だに重たい胃から、なんとも深すぎるため息が出た。これがいつものハルヒだけのならば、それなりに楽観視できる。いざとなったら、力ずくができるからだ。今は、できない。あの顔文字が言うには、なんかに寄生されていて治療中だ。余計、悪戯に暴れちゃダメってことだ。

 

 重たい胃に引きづられながらも、Tシャツと短パンから着替える。学習机とセットの椅子に置いといた服に着替えるんだ。昨日は特に畳まず適当に放っといたからしわくちゃだ。

 

→そのまま着る

ちゃんと着替える

 

 

 +<<>

 

 

 しわくちゃで合うのは流石にちょっと。顔ら辺は特に悪くはないし良くもないけど、服はちゃんとしようね、と昔誰かに言われたような気がする。幼稚園の先生だったか、小学校の先生だったか。一言余計だよな、と今更思う。どっちも女の人だったから、身だしなみに目を光らせてたのかもしれないな。

 

 何にしようかな、とコーデを考える。ただのジャージ、はあかん。白黒縞々、囚人じゃないんだから。配色がうるさいの、ピエロになりたいわけじゃない。無難にいった方がいいのかな。丈はともかく肩幅があるから腹回りぶかぶかになるんだけど。

 

 こういうとき女の人はより面倒くさいと聞く。妹ちゃんのお友達も狙ってた服の金額にびっくりしたとよく言ってるし。どういう感じにしようか、今の気分的に、今日の天気が、気温もあるし、今の流行は、なんてのをいっつも考えてるらしい。クラスの女子がそんなのをよく話してた。あとは、彼氏とならこのコーデ、女友達ならコレ、男友達なら、って人でも色々大変のようだ。初デートなのに彼氏の服クソダサかったんだーと愚痴ってきた子もいるし。大変だな。

 

 見られることを意識するのは大事だ。よくうちのばっちゃまも言ってた。お空に行かれるまでいつも華美ではないにしろ綺麗であられた。しわなど論外。穴やほつれも同じ。ボタンが謎の多種多様は全力拒否。物は大事にされてたが、ホントに駄目ならどれほどお高かったのも雑巾にしたりして処分しておられた。死ぬまで女性として綺麗だったお方だったなぁ。

 

 綺麗だった、記憶。ばっちゃまの素朴でもふんわりとして綺麗だった微笑みを思い出す。謎のお菓子をよく出してくれたおかげで、その道に入り込んだ俺としてはばっちゃまは偉人だった。アメリカ大陸を発見したコロンブスより、蒸気機関をより実用的にしたジェームズよりも、素晴らしい偉人だった。その微笑みが綺麗で今も好きだ。たまにお父さんを通して俺に悪戯するところも好きだった。ああいうときにだけ見れた、ばっちゃまの山猫のような面白がるお顔も好きだった。

 

 あの山猫に似たお顔。好きだったばっちゃまの顔。目を三日月になるまでゆっくりと細めて、口元はうっかりはしたないのを見せないように隠す。

 悪戯に成功するばっちゃま。その両頬が遠慮がちに静かに静かに上がっていくのを見ると、口元のゆるみが大きくなっていっていたんだ。目なんて三日月なんかよりもずっと小さく細まっていってしまって、より山猫のようになってしまっていた。もうだいぶ昔に見れなくなってしまった好きだった記憶。

 

 でも、最近見たような気がした。女性らしく上品で、女性らしく小悪魔的で、女性らしく綺麗なあの微笑み。

 

 誰よりも女性らしく、どんな男を惹き吊り混ませる、とても綺麗なお顔。

 

 見た。確かに見た。ばっちゃまとは違う意味を抱いたもの。見惚れて困ってしまうことにもなっていたんだ。それは、どこだったろう。それは、いつだったろう。それは、紛れもない誰かでしかないはずだ。

 

 保健室の前。夜十時ごろ。朝比奈先輩。

 

 あの一瞬だけで、その全部に照れてしまったんだ。保健室のちょっぴりイケナイ感、夜十時ごろっていう絶妙なイケない感。何より、天使で女神様の朝比奈先輩に、あのイケナイ感じでしどろもどろになってしまった。今までどれにも疚しい感情なんて持ってなかった。見ていたそれ系の漫画とかビデオも、現実で見るとそんな意識など沸かない。だが、あの時全てにイケナイ感じを抱いてしまった。

 

 朝比奈先輩に、女の人、という意識を持ってしまったんだ。

 

 あってはならない。そんなことあってはならないだ。世が世なら、鞭打ちの後に磔にされ火あぶり、だとしても温情で済むほどの重い罪だ。

 

 なんてことを、と唸る。猫の甘えからのやつじゃなく、威嚇的な感じで唸った。己への威嚇。筋違いである女性らしさがある朝比奈先輩への威嚇もある。

 

 威嚇にかられ服を着る。無難より少し上。悪くなく、そこそこいい感じのコーデ。間違いなく、威嚇攻撃なコーデだ。

 

 朝比奈先輩が威嚇相手であってほしくない。この北高のアイドルであられる朝比奈先輩が、アイドル性よりも女性らしさを持って欲しくない。

 

 だって、困る。困るだろ、普通。

 

 朝比奈先輩はアイドルなんだから。

 

 

なんとか部屋を出た

 

 

 +<<<<<<<

 

 

 いつもの北高。昨日と一緒、俺の家の花柄カーペット&壁が見えず北高だ。ホントに昨日とこれも変わらない。昨日と一緒の、いつもの北高だ。思わず、整えてきた服を更に整える。昨日と同じなくせに新鮮さを持ち合わせてきた。壁も床も照明も、空気も変わり映えなどない。でもだって、さっきの所為で、昨夜の所為で。意識してしまう。どういう俺を見てきたのか、気になってしまうんだ。

 

 とにかく朝飯食おう。ご飯は元気の源なんだ。このもやもやしたのも払ってくれるもんなんだから。あの子と見てた○ンパンマンがそう言ってた気がする。食堂がある一階へ勝手に足音を忍ばせて歩いていっていた。

 

 

「あ」

 

 

 妹ちゃん。それに朝比奈先輩と鶴屋先輩。おまけの幼馴染と古泉だ。

 

 

「おはよう」

 

 

 みんな返してくれた。とてもいい挨拶。妹ちゃんの元気な声。鶴屋先輩の明るい声。幼馴染の気だるげな声。古泉の爽やかなような声。

 

 朝比奈先輩の、声。声に釣られて注視してしまう。朝比奈先輩のお顔に注目してしまう。

 

 あの顔をされている。山猫みたいな女性らしい顔をされている。見ていられなくて頑張って顔をそむけた。困るからだ。とにかく困るからだ。

 

 

「どうした?」

 

「どーしたのー?」

 

「なんでもないよ。しゃっくりに失敗しただけだよ」

 

 

 幼馴染兄妹もろくに見れない。別人だとしても、あの顔を思い出してしまうからもどかしくなる。別人だからこそ、あの顔を思い描いてしまうから口惜しくなってしまう。別人なのに、あの顔に思いを馳せてしまうからふわふわしちゃうじゃないか。

 

 

「シャドーくん」

 

 

 あぁ、来ちゃうの。来ちゃうんですか、朝比奈先輩。困る上に困って永続的に困りまくるのに、来ちゃったんですか。

 

 

「おはよう、素敵ですね」

 

 

 どういう意味か理解しちゃダメだ、俺。俺自身に対してじゃない。俺の服に関してでもない。俺の今に関してじゃないんだ。昨夜の"いいな"の言葉の意味を再確認するな、俺。

 

 それを振り払うために朝比奈先輩へ顔を向ける。

 

 女性らしく、山猫みたいに、綺麗であられた。

 

 

「服も、素敵です……朝比奈先輩」

 

 

 惹き吊り混まれそうになる。そんな女性らしい顔をされると、ホントになるから。

 

 

「ありがとう、シャドーくん」

 

 

 おしゃれさんな朝比奈先輩のコーデは今日もおしゃれで可愛い。なのに、綺麗と言う表現の方が似合い過ぎた。

 

 なにもかも朝比奈先輩が綺麗だ。女性らしすぎる綺麗さを見せつけられて、ホントに。

 

 ホントに困る。

 

 

→SKIP START

 

 

 

 +#$%

 

 

 朝礼的な感じで喜緑さんのお話を聞いた。良い感じに過ごしてくださいのことだ。これは妹ちゃんと鶴屋先輩宛てだ。俺達には普通にいつも通りに過ごしていて大丈夫です、なんとかしますから。とあとでお伝えもされる。頼りきりで申し訳ない。攻撃的なアクションは無効化されるし、今のところいい感じらしいんだ。どういう意味かをお尋ねするが、とにかく頑張ってくださいと見送られて終わる。

 

 そのあとの朝飯は終わった。結局色々バレたような感じで、幼馴染にもおちょくられる。ま、無事に朝飯は終わった。結構平和に終わった。それでもそれが昼飯にまで延長しているとは、どうあがいても想定外だ。寝不足の原因であられる朝比奈先輩は微笑んでいるだけ。なら、そう自らついバラしてしまった俺に聴衆が群がる。何とか曖昧に誤魔化そうとすれば、狙ったかのようなタイミングで朝比奈先輩が、そうですね、とだけ相槌を打つ。それがもう昨夜のとまるで同じ感じで、パニックになってしまうんだ。だが、なんとか治めた。妹ちゃんのアシストのおかげだ。無限謎お菓子のおかげだった。

 

 そんな情けなさすぎる様子を、いつもよりヘニャヘニャになっちまって大変だな、と幼馴染が突っつく。なら、お前も参加するなよ。せめて、弁護側に……は無理か。北高のアイドルである朝比奈先輩と何かあったとなったら、ソウルメイトであるはずの我が幼馴染も敵になる。今、少しだけ安堵していた。このたったの十人程度の人数だけでよかった、と思ってしまった。普通の現実なら、男は全員敵になり女子も大分敵になる。四面楚歌どころではなくなるから、癪なことに少人数でよかったとしみじみしてしまうんだ。朝も昼も、ほぼ魔女裁判でしかなかったけども。謎お菓子のバフも素晴らしかった。デバフでしかないのが、毒が裏返ったみたいになって素晴らしいものであった。

 

 で、なんとか逃げ出せたお昼休み。本来なら、あっという間に次の授業が始まってしまう。お昼ご飯の後の授業は苦痛だ。拷問ともいえる。教室を見かけるたびに眠気とだるさが増していく。

 

 お休みにちょうどいいと言えば、視聴覚室か図書室だ。良い感じに眠れる場所だ、あそこは。

 視聴覚室って真っ暗にできるんだ。カーテンも遮光性が高いのを使ってるし、広いからエアコンの風が直に来て苦しいなんてのもない。ちょっといじらせて頂いてなんかの映像流しながら寝るのも素敵だ。図書室はいい。勉強するための場所とか怒られるけど、本のにおいとか本棚のにおいとか椅子や机のにおい、あと日差しが抜群にいいポジションを知ってる。寝るにはうってつけな場所だ。

 

 どちらもおやすみタイムを優雅に過ごせる素敵なお部屋だ。

 

 

視聴覚室

→図書室

→自室

 

 

 

 +==

 

 

 視聴覚室に行こうか。

 

 教育に良いだけでくっそつまらないのは見ずに、たまに誰かが置いといたらしい映画でも見よう。見たのはホームア○ーンとドクター・○ーと恋に落ちたシェイクス○ア、シャイニ○グ、○人拳シリーズだったかな。あとはどういうのあるかな。あ、図書室に映画のDVD とかなかったっけ。図書館だけだったかな。見るなら面白いの見たい。スピー○の続編みたいな、見たいのと違うのを見せつけられてがっかりするのはいやだ。図書館に探しに行こうかな。

 

 

「あっ」

 

 

 佐々木の声。視聴覚室から出てきてた。B級のを漁ってたんだろうか。

 

 

「いいのあった?」

 

「ぅんっ。……いいの定義は人それぞれだ。誰かの良しが悪しになるのはおかしくはない。むしろ当たり前と言うべきだ。例えばコーヒー好きが必ずしも紅茶嫌いではないし、逆もそうだね。だけど、コーヒー好きだけどこの豆は好まないや、焙煎はこうじゃないと気に入らないもある。カップにこだわっていてそれに淹れたのしか飲まないもよくある。そもそも自分で淹れたいタイプか熟練のマスターに淹れてもらいたいタイプ、お気に入りの誰かに淹れさせたいタイプ。なんともまぁ、うろんにうろんだことだ。良いというものには誰しもこだわりがある。悪しにも同じくあるものさ。長所しか目に入らないこともあれば、短所に目が離せないこともあるんだ。そこには喜怒哀楽、程度では区分けできぬエゴイズムからの審査があるんだからね」

 

 

 相変わらずめちゃくちゃ話すな、こいつ。初めに結論言ってくれ。というか、結論だけ言って欲しい。眠気が消えちゃう。とりあえず拗ねられてもメンドイので適度に相打ちを打っておく。眠気が消えていってしまう。

 

 

「──だそうだ。わかるかい、シャドー。他人を気にするというのは愚かなのさ。日本の教育は出る杭を打つもの。それゆえ皆臆病者さ。日本人の恐怖を感じるDNAの数値が高いということも、古来から行われているこの教育のせいかもしれないね。左右の人より変じゃないか、前後の人よりおかしくないか、なんてのをいちいち気にするなんて愚かさ。愚か以上の何物でもないよ。もっと日本人は他人よりも自分というものを気にするべきなのさ。ベストレコードなんて自分で塗り替え続けていけばいいんだよ。誰かに成績が抜かされたなんてどうでもいいんだよ。自分自身の成績の点数は変わりはしないんだから。平均と呼ばれるところを越えたならその上に行けばいい。その自分がとった成績より上に行けばいいんだ。自分というものは他人じゃない。他人というものは自分じゃない。自分だからこそ自分を担ぎ上げればいいのに、なんでしないんだ、まったく」

 

 

 なんか話飛んでるような気がする。てか、何の話だ、これ。

 

 

「つまり、人間ってのは自分主上主義者で利己的に生きるべきってこと?」

 

 

 佐々木のやれやれという様が、幼馴染とは別次元で様になっている。幼馴染のは気取ってる感。佐々木のは驕ってる感。どちらもなかなかに面倒くさい。

 

 

「人間という生き物が、利他的に生きたことなんて人類史ができても一度だってないんだ。だから、そう理解して生きた方が効率がいい」

 

「効率」

 

 

 佐々木が口を閉じる。一時だけだ、これは。まだこいつは話し続けるぞ。

 

 

「人間は矮小な生き物なんだ。鳥類のように軽やかに飛び立つこともできない。肉食動物のように的確に狩りもできない。水生動物のように自由に泳ぐこともできない。類人猿には、どうだ。彼らよりも人間は生きることが下手だよ。長寿命と知性があろうと、数を増やしたり文明を築こうと負けてるさ。完全敗北。だからこそ、効率的に生きればいい。いや、そう生きてくしかない。誰しも他人が怖いというのだからそうしなきゃいけないのさ」

 

 

 なんか深く頷いておきながらだけど、意味全然わっかんない。どういうことなんですかね。解説の人いないかなー。

 

 

「小さいこと気にすんなってことね、OK」

 

「……君は自分が小さいことも気にしなよ」

 

 

 佐々木は俺と同じくらいの身長。勝っても負けてもない。つまり気にする必要などない。

 

 

「女性と同じくらいの身長で満足してるのかい?」

 

「これから成長期来るんだい」

 

「僕と同じくらいなくせに、もう高二なのにこれくらい。ホントはもう終わったんじゃないのかな」

 

「来るんだい。毎年のクリスマス・キャロル並みに来るんだい」

 

「昨年から何cm。いや、何mm、縮んだんだい?」

 

「伸びてるわ、こ奴め。三cmぐらい伸びたわい」

 

「髪の長さはカウント対象外だよ」

 

「……」

 

 

 虚無になりそう。

 

 

「十七歳の男性の平均身長は一七○ほどだ。君の身長偏差値は三三.四だね。成績の偏差値じゃないだけマシだと思うといい」

 

「成績が四○もいかなかったら留年しとるわい……」

 

「ちなみに僕は女性でだと五六.六。男性だったら五六。高校受験でもここら辺は滑り止めにもしてなかったな」

 

 

 ひどい。佐々木がひどい。雅な感じにひどかった。ひどい具合は、もはやイジリじゃなくイビリなのに、話し方とか声の抑揚とか手足の動き、あと、むかつかせるための表情。それらが雅に感じさせる。うちのじいちゃんみたいに同じ話ループは論外にしても、こういうクドイのやメンドイのも普通はパスだ。それでも聞いてられる。理由はなんとなくわかっている。

 

 たぶん、こういうことなんだろう。

 

 誰かと話したくてしょうがないっての。まぁ、愉快だよ。今のは話を仕掛けてきてるってのだけどさ。

 

 ひたすら俺の身長がほんのり低めなことを、薀蓄を垂れ流しながら話しかけられ続けた。朝比奈先輩にも負けるIFの話もされて、その話を集中的に嗾けられもした。絶対この先には行かせないぞ、というのに気圧されたからしょうがないんだよ。

 

 てか、こいつ視聴覚室でなにしてたんだろ。

 

 

「来年俺一七○、いや、一八○になるから覚悟しろよ、佐々木」

 

「法螺は止めなよ、シャドー。嘘を吐くと伸びるのは鼻だけだよ」

 

 

 こころがくだけそうだ。

 

→SKIP START

 

 

 

 +’’’’’

 

 

 結局夕ご飯時もいじられた。なので逃走した。ご勘弁を、と情けない感じで叫んで逃げだしたんだ。

 

 親友達の裏切りがひどかった。幼馴染は揶揄われ慣れている。そして、俺にそれを投げつけるのも慣れている。俺もするからどっこいどっこいだ。許さないけど。古泉は手慣れている。そしてのそして、俺に投げ当てるのも慣れている。俺もするけど倍返しされる。許すわけないけど。

 

 女の子たちは、しょうがない。勝てない。無理。戦うまでもなく土俵に立たされた時点で俺の負けなんだから。それにしても、喜緑先輩がグイグイつついてくるのは新鮮だった。長門も便乗していたけど、より鮮烈に記憶に残ったのは喜緑先輩だ。どこぞのロンドン在住薬中探偵みたく、いやらしく暴いてくるわけじゃない。あれはもう教唆だし。こんなに証拠あるよね、不思議だね、なんでだろうという尋問だ。拷問なんだ。あれはもうひどい。舌なめずりをしている山猫のようにおっかなくていやらしい。けど、喜緑先輩のは花の蜜を求めてきた蝶のようにされる。ただ当てもなくふわふわとゆっくりしていたら、いつの間にか自分から話そうと求めてしまうんだ。ある意味、とても恐ろしい。ヒューマノイドインターフェイスの穏健派の一人は、やばいです。勝つ気力も起きないんだから。

 

 なんてのを自室にため込んだ面白食品を食べながら思い出していた。見た目はいい。やたら蛍光色でもないし、凄まじいショッキングピンクなんてのもない。レインボーなのなんてあるわけないだろ。味は、愉快な方、だ。舌に激痛が走る系のをあえてピックアップしたんだから。

 

 もう四本以上の飲み物を飲み干した後、携帯が震えた。開けてみる。表示される時刻はゴールデンタイム間近だ。メールが来ていたので、それも空ける。妹ちゃんからだ。内容はかまってと言う感じ。今日は大分疲弊しているんだけどどうしようかな。昼の佐々木でがんばりゲージが小指の先一個分にまで減って、夕飯のでそれがまた減っちゃったから疲れて疲れてしょうがない。

 

 

メールをする

→休息

 

 

 

 ====

 

 

 ここだと料金は気にしないで大丈夫なようなので、付き合おうと思う。今日のことから始まり昔の話でもお付き合いした。なぜか小難しい本の話もされた。国語の授業での話らしい。そんなドロついたもの最近の小学生にも読ませるのすごいな。でも、高校で源氏物語学ばせるのもやばいよな。あれ○ロ本だし。フ○ンスなんたらに普通に載れるレベルのらしいしな。教育ってなんだろう。

 

 そんな感じでRe:が五個ぐらい連続の画面で文字を入力していると、更にメールが来た。妹ちゃんが待ちきれなくなったのかな。今書いてたのを消して新メールを確認する。と、朝比奈先輩だ。こうして画面越しなら疚しい感じなの抱けなくてよかった。内容は。

 

 女児雑誌愛好家なんですか、というもの。

 

 メールじゃなく電話に切り替える。弁明を。弁解を。釈明させて。誤解を解かせてください。

 

 

『もしもし』

 

 

 朝比奈先輩に、刺々しいものはない。バリアーを張られている。光の護○剣出される寸前だった。

 

 

「はい、もしもし。あの、朝比奈先輩、違うんです。ホント違うんです」

 

『でも、あの子が色々そういうの買ってるって』

 

「妹ちゃんが付録もっと欲しいってなってて、それで買うんです。付録をあげるためなんです。ホントに、ホントにそれだけですから」

 

『美少女戦士の』

 

「うちの母も好きなんですよ。あ、も、ってのは”妹ちゃんも”です。うちで預かってるときに母が見せてたら好きになってくれて、で、色々強請(ねだ)られちゃって、買ってあげたくなっちゃって。そんだけなんです、ホントに」

 

『新装版まで購入してるらしいじゃないですか』

 

「お母さんが買って来いって強請(ゆす)るんです。買わないとおかず全部コロッケにされちゃうからしょうがないんです。発売日に買えなかっただけで一週間おかずコロッケだけだったんです」

 

 

 うちでのご飯もお弁当もコロッケのみのおかずだった。幼馴染たちがうちで食べるときは俺だけコロッケフェスティバルだった。もちろん、お父さんも仲間だ。

 

 

『あ、お弁当のあれってそういうことだったんですか。コロッケ大好きなんだなって思ってたんですけど』

 

「撮影後の俺の弁当見てみんな笑ってましたよね。そういう事情だったんです。でも理由話しても皆に引かれるだけだからしょうがなかったんですよ」

 

『ソースの種類豊富でしたよね。ウスター、オイスター、ケチャップ、タルタル、ベシャ……。ベシャ、ベシャ……。ベシャラ……?』

 

「ベシャメルソースです。ホワイトソースってのです」

 

『あ、そうそう。鶴屋さんがそういう風に言ってました』

 

 

 ソースだけはなんとかした。ただでさえあの前に面白お菓子を大量購入して金欠だったのに、コロッケカーニバルしか許されくなってしまった。ソースは前のとかの面白商品の付属品。大量にあったからとても助かった。やっぱり持つべきものは面白お菓子たちだよ。

 

 

『モーレシリーズとかありましたね』

 

「あぁ、そうですね。ベルデのやつでびっくりしてましたよね、朝比奈先輩。緑でしたし」

 

『鶴屋さんから緑色だよって言われましたけど、想像以上の緑具合だったんですから仕方ないじゃないですか』

 

 

 グリーンカレーとは別色だ。あれはうっすら緑。ベルデは沼色。苔を煮詰めたみたいなドロドロな緑色なんだ。でも、味はドロついてない。チョコを使わず、ハーブや香草と野菜を中心で作ってあるからさわやかな味なんだ。他のモーレはしっかりでこってり系だけど、ベルデだけは別枠。コロッケまみれだから最適だ。ハーブら辺でも足りない栄養取れるしね。お父さんと一緒に買い漁っといてよかった、ホントに。

 

 

『そろそろコロッケ期間終わりますか?』

 

「どうでしょうね。関連グッズが出るようで、買ってこないと呪うって言われてます」

 

『シャドーくんのお母様、お強いんですね』

 

「はい、強いです。スーパー○イヤ人よりつえぇです」

 

 

 普通のおばちゃんなんだけど敵わないよ。セー○ームーンのような体系でなくてドッシリなされてるから、余計敵わないんだよ。幼馴染たちのお母さんもおはしゃぎになってるから向こうも大変かもしれない。向こうのお父さんもうちのお父さんと同じく、ビールが発泡酒に代わる具合に色々と削減されているらしい。

 

 

『ふふ』

 

 

 笑い声だ。電話越しで小さくてもよく聞こえる。鈴を転がすという言葉がよく似合っていた。小さな鈴をつついて転がして楽しんでいる少女のものだった。

 

 

『そういう弱めなところも"いいな"』

 

 

 なのに、少女が終わってしまう。笑い声がまた聞こえる。口元を隠しているのか、より小さく聞こえる。でも、しっかりとはっきりと聞き取れた。聞き取ろうとした。

 

 聞き逃すことができないんだ。言葉の所為、朝比奈先輩の所為、俺自身の所為で。

 

 言葉が、ただの感想で終わってくれない。ただの単文なのに、複雑がすぎる。どういうところだ。何が弱めだ。どうして”いいな”なんだ。

 朝比奈先輩が、アイドルのままでいてくれない。アイドルから降りようとしないでほしいのに。華やかで、遠くて、近寄れない所にいてほしい。そこから降りて来ようとなんてしないでほしいのに。

 俺が、自分の分を越えようと足掻こうとしている。勘違いが起こる。期待をする。欲深く、なるのに。女性として意識していいと勘違いしたくなる。恋愛対象として見てくれてると期待を持ってしまう。釣り合わないのに、付き合いたいなんて強欲なものを抱きだしてしまうのに。

 

 困る。困る、困る。困るよ。

 

 なのにさ。

 

 

「どういう意味での”いいな”なんですか?」

 

 

 欲深いから俺の口が滑る。

 

 

『どういうのでしょうね? 自分で考えてみませんか?』

 

 

 言葉でだけなら冷たいもんだ。でも節々程度じゃなく全体が、すべて女性らしさを香わせてくる。またもやその所為で思い出してしまう。あの顔を。好きだった女性(ばっちゃま)の顔が、好きになった女性(ひと)の顔に変わってしまっていた。誰よりも女性らしく、どんな男を惹き吊り混ませる、とても綺麗なお顔。恐怖を感じるよりも欲深さが増しただけだった。

 

 

「意識、しちゃいますけど」

 

『ふふ、そうなっちゃうんですか?』

 

 

 コロコロと鈴を転がすような笑い声。数個の鈴を手のひらで弄んでいる女性らしいものだ。

 

 

「はい、楽しみにしてください」

 

『はい。じゃあ……楽しみにします』

 

 

 女性の朝比奈先輩は笑った。電話越しだけどどういう風に笑ったかがよく分かった。引っ掛かったと舌なめずりをする山猫のような蠱惑魔の顔だ。

 

 

「では、もう遅いのでおやすみなさい、良い夢を」

 

『ええ、おやすみなさい、シャドーくん。しっかり寝てくださいね』

 

 

 朝比奈先輩が切るのを待ってから携帯を静かに置いた。

 

 アイドルの朝比奈先輩は可愛らしい。愛おしい。守ってあげたいものだ。なにせ、アイドルであるから。俺と同じ場にいるわけではないから。朝比奈先輩の舞台に俺は上がれない。アイドルと一般人は一緒に並び立つなんてできないんだから。

 

 でも、朝比奈先輩はアイドルなのに舞台の上から俺にちょっかいを仕掛けてきた。声がよく聞こえるように近づいてくる。手に触れそうなくらい寄ってきてくる。それでも、降りてはこない。舞台の上から俺で遊んでいる。やれるものならやってみなさい、と愛らしく手を振っているんだ。

 

 なら、もうだめだ。もう、許さない。

 

 舞台から引き釣り降ろす。手を掴んで舞台から降ろしてやる。他のファンの声が聞こえないように耳を塞いでやる。絶対、びっくりさせてやるさ。

 

 アイドルだから、女性として見ないように努力してたのに。先輩だから、女性として見ないよう我慢してたのに。未来人だから、女性として見ないよう枷鎖してたのに。かわいいから、ずっと見ないようにしていたのにさ。

 

 

「ちくしょー……、好きが止まんねぇじゃんかよぉっ!」

 

 

 蓋をしてたのが溢れ出る。振りすぎた炭酸飲料よりも大量に爆発していく。諦めてたのに火をつけられたならこうなるしかないだろうに。ニトログリセリンよりも爆発のひどさが凄いんだぞ、俺は。

 

 

「くっそー! 寝るぞ、俺っ!」

 

 

 好きが大暴れして止まらないけど無理やり寝る。

 

 気合で寝た。

 

 

→1141323269915112

 

 

 

 *****

 

 Enhancement E.M. ──-Anima.Animus   

 

 Q.四○四: Did ■■■ want ■■■ noise-filled ambivalence? Or did ■■ beg for ■■■ noisy ambivalence? 

 

 H*A: Haloe Effect + Caligula Effect + Hard to Get Techique.

 H*A:Both of them have taken things too far on thier own,and both of them will be in trouble!! 

 

 ──────────────────────

 

→Not all wishes are sincere.

 

 

 

 

 _____*:

 

.Go out before it gets too hot. When you go,walk quietly and stay on the road.

 

 

 ──────────-^^──-

 

 

 また余裕がなくなっていた。

 

 かわいいなぁ。シャドーくん、かわいいなぁ。

 

 からかってるのにたくさん反応してくれて、本当にかわいい。なんてかわいい男の子なんだろう。

 

 明日からもっとからかってあげよう。どんなことしてあげようかな、ちょっとほっぺつついたりとかしてあげようかな。それとも、もっと男の子が好きそうな感じにからかったら、もっとかわいい感じになってくれるかもしれない。

 

 夢の中で作戦考えよう。もっとかわいいを見るために、いっぱい想像してあげよう。

 

 もっともっとかわいいシャドーくんを見せてほしいな。

 

 

 

 

 **********

The real difference between men and women is whether they can be conscious of their partner or not.

 

 *Which one of them is the hunter? *

 

→Of course, who knouws,right? 

 

 

 

 +‘‘+*

 

 

 いつも通りに目覚める。いつもなら軽く身支度なんてして走りに行く。習慣だからもそうだけど、走ると気合が入るからよくやる。見た目には出ないようで、幼馴染にいっつも気の抜けたタイヤみたいな顔してるなんて、朝の挨拶の後よく言われる。

 けれど、今はそんなことできない。危険だからもある。他の理由というか、これが理由としての全てだ。走り出した途端もう止まらなくなる。暴走機関車のように、燃料が切れてもそれまでの加速でぶっ壊れるまで走り続けてしまう。狙いを決めたんだ。そうなるに決まっているさ。

 

 昨夜の朝比奈先輩。いや、昨夜までの朝比奈先輩は確信犯だ。全部狙っておられたのだ。可愛らしいだけのピクシーだったはず。でも、本当はあのティターニアがからかうためだけに着飾った偶像でしかなかったんだ。

 ひどいなんて言葉は撤回する。ずるいなどとはほざかない。そのからかいに全部過剰に反応してしまった俺が悪かっただけなんだから。からかうってことは大きな反応を期待して行うもんだ。恥じらうのは朝比奈先輩ではなく俺だと。乙女の羞恥心などドコにもなかったのに、お嬢さんがなんてことをと照れに照れてしどろもどろになった。それは勘違いし戸惑って混乱した。全部しなくて良かったはずなのに、俺はした。

 

 朝比奈先輩がアイドルであったから。高嶺の花で在られたから。雲よりも上の天におわす女神様であるはずだ。けど、そんなものは全部勘違い。堕天なんてのはされてはいないし、高所から根が外れて降りてきてもいない。そもそも、朝比奈先輩ご自身が自分をアイドルだなんておっしゃってないんだ。なんて当たり前のことに目を向けなかったんだ、俺は。俺含めて周りがそう囃してただけだ、我らのアイドルだ、などとは。

 本物のアイドルとは違いテレビを見るより、近場で会える。話なんてのもできる。自分の名前を呼んでもらって、朝比奈先輩の名前も皆に聞こえるくらい普通に呼べた。

 

 だというのに、愚かしくも俺は見れるだけでありがたやありがたや、なんて大変失礼すぎる愚行を犯しつづけてきたんだ。

 

 なんという、なんという。なんて、もったいないことをしてきたんだ、俺ってやつは。ハルヒ様の、やっぱりシャドーはあほたろうね、という啓示がしっかり聞き取れるほど後悔した。

 

 昨夜のアレでやっと気づくのはあほすぎる。あほのあほだ。あほオブあほでしかないじゃないか、俺。

 

 ちゃんと男の子してるのかわいいねって、からかってた。やっぱりかわいい男の子だねって、からかわれてた。そうさ。あの"いいな"は二つ文字を隠してたんだ。”かわいいな”だ、朝比奈先輩が本当にずっと言っていたのは。女の子すぎるじゃん、朝比奈先輩。ずっと女の子じゃんかよ。初日の朝、あの困った顔も着飾ってたってことだろ。俺のこと、かわいいな、って思ってたんだろ。

 

 許さないぞ、朝比奈先輩。絶対許さないぞ。

 

 かわいいって思ってくれて恐悦至極だと思った。前までの俺なら、な。でもさ、わかっちゃったもんね。ネタバラシのギリギリだったけど、もう全部仕返するからね。

 

 ずっと、朝比奈先輩のこと好きだったんだから。

 

 やり返すための英気はいくらあっても足りない。だから、今は寝ておく。

 

 朝飯の時も、その少し前の時間も、それからの時間なんてのも全部。

 

 仕返ししてやる。

 

 

 

 

 

 

 

 *+,-*

 

 

 時間は皆で食堂に集まるより少し早め。心身整理のために部屋を軽く掃除して部屋から抜ける。おかげでヒンとを見つけられた。

 気忙しいけれど、勝負というものは速さが命だ。パワー全ブリやバランス型よりも、俺はスピードを重視したステータス配分をよくやる。それでICBMをよく使って世紀末にするブランドでちょっと痛い目を見るが、他は大体これでクリアしてきた。キャラの能力をプレイヤーが動かしてなんとかすればいいから。書道だってスピード力のあるのが評価されやすいんだし。

 

 なんでも自販機で目当てを何とか当てる。初日から罰ゲーム商品もあったが普通に大当たりもあったんだ。女性向けの高級化粧品とか当たったんだ。その時は近くに居た喜緑先輩に差し上げた。喜んでくださって何より。そういうことが何回か起こり、その都度近くに居た喜緑先輩に差し上げた。だが、狙いは喜緑先輩ではない。団長様はおまけで、朝比奈先輩が気に入りそうなものをお渡ししたいから。

 

 目当てのお品を素敵な袋につめて準備OK。さ、朝比奈先輩がいそうなところを探そう。そうして朝比奈先輩の教室を始め、大分うろちょろした。途中で佐々木に会ったが、適当に挨拶してスルー。なぜ俺の教室付近に来たのか分からないが、どうでもよかったので置いといた。俺の身長が少しだけ平均に届かないことを、さんざんに教えてくれたからじゃない。

 

 で、いると思われるのは保健室だけとなった。

 

 団長様のおわす場所。我らがSOS団の主柱であらせられる涼宮ハルヒお嬢様がおわす場所だ。ちょうどこの三日間、みかじめ料を納税していなかったんだしちょうどいい。

 

 保健室へ足を進める。

 

 

→「はよざいやすっ、団長!! 入らせていただきやす!!」

「おはようございます、団長さん。今、入ってもいいですか?」

→「おはようございます。朝比奈先輩、いませんか?」

 

 

 

 

 |||||

 

 

「おはようございます、団長さん。今、入ってもいいですか?」

 

 

 そう声をかけてノック。で、少し待つ。女性がいるところに男が無断で入るのはアウトだ。向こうの許可を得るまで入ってはいけない。小さい頃もやらかしたことがあるので一時待機しないといけないんだ。

 

 すこし物音がした。ハルヒが目覚めたから、というわけじゃない。そうだったなら、よくもツラ出そうと思えたわね、と地を這うような声で威圧してくるはずだ。それがない。つまり、他の誰かだ。かといって変質者とかイレギュラーではないだろう。そういうことだったら長門や喜緑先輩がとっくに対処されている。

 

 

「おはよう、シャドーくん」

 

「あぁ、朝比奈先輩もいたんですね、おはようございます」

 

 

 もちろん、朝比奈先輩だ。あえて偶然を装う。佐々木からの情報通りだ。情報提供料として昨日気まぐれに売店で当てた、めっちゃくちゃ旨そうなおやつを渡した甲斐がある。高いバターの香ってもはや麻薬レベルだから。嗅いだだけで幸福感がやばいもん。

 

 

「入っても平気ですかね?」

 

「えぇ、大丈夫ですよ。お見舞いなんですよね」

 

「それもあります」

 

「んと……。あ、みかじめ料?」

 

「サンタクロースの亜種からのプレゼントでーす」

 

 

 またからかわれてしまう。だがもう手で口元を隠しながら笑う朝比奈先輩。またお嬢さんを装ってなさる。

 

 

「団長様、三日分のプレゼントです。お納めくださいませ」

 

 

 サンタクロースと自称させてもらったが本人が起きていないからできたことだ。起きていたら、そうなの、で、空を飛ぶトナカイ何処なの、っと羽交い絞めにされながらツメられるんだ。残念ながらマジモノではないため空飛ぶトナカイなど所有していないし、そもそもトナカイなんて家族旅行先で見かけたぐらいだ。飼えないよ、あんなん。でかいんだよ、普通に。二mもある生き物飼えないよ。角含めたらプラス一m以上のでかさの生き物一般家庭で飼えるわけないでしょ。そらトンネルは入れないから寒さの中で待機させるよね。てか、どこでトナカイって買えるのさ。解体された成れの果てである肉を親戚からもらったことはあるけど、そんなだったもの見せても、あんたの次の姿がこれよっと睨まれるだけだ。

 

 そう思いながら朝比奈先輩の隙を狙いつつ、いい感じに包装されたものと素敵な袋を専用ラックに奉納していく。三袋を納め終わり、団長様の方角に拝礼しておく。願掛けぐらい許されるだろう。

 

 頭をあげて、朝比奈先輩に向き直る。

 

 いざ、尋常に勝負だ。

 

 

→「朝比奈先輩にお渡ししたいものがあるんですよね」

→「朝比奈先輩へ宣戦布告に参りました」

→「好きです、朝比奈先輩」

 

 

 

 ~~~~~~~~

 

 

「朝比奈先輩にお渡ししたいものがあるんですよね」

 

「へー、なんでしょうか、ワクワクします」

 

 

 あまりの様子だ。まるで童女のように無垢すぎる喜び様だからだ。仕掛けるのを待っておられるということだ。まるで何をやってもいいよ、効かないからという宝石箱の中身を吟味している最中のお嬢様だ。俺が腹芸なんてできないのをよくご存じの方だ。余裕なんてない。腹芸のかわり腹踊りをしてとっ散らかし行くのが俺の戦闘スタイルなんだから。

 

 

「朝比奈先輩って書道部でしたから、そういう関係です」

 

 

 質素ながら上質な包装されたのを手渡す。朝比奈先輩はSOS団に加入するまでは書道部だった。さっきのお片付けで思い出せて今日の俺の冴えはいいことに内心ニヤついてた。といっても、書道関係の知識は詳しくない。筆の毛質が八個以上あるってのを知ってるぐらいだ。

 

 

「え、覚えててくれてたんですか? うれしいなぁ」

 

 

 開けても大丈夫ですか、と上目遣いで聞かれて遠慮なく頷く。ちっさい女の子のようにビッリビリに破り散らしてほしかったが、そうはならず専用の茶器を吟味するお嬢様のように静かでお淑やかに中身を取り出された。

 

 

「筆……あ、竹筆ですね」

 

「ええ、竹筆を是非朝比奈先輩にお渡ししたくて」

 

 

 一本ずつ手に取って色々確かめておられる。竹筆は、竹を筆の部分、墨汁を染み込ませて文字を描くところにも使われている筆。他の毛筆にはない独特なものが描けるらしい。

 

 

「竹筆って、めちゃくちゃ腰が強くて荒々しい字が描けるって聞いたことあるんですよ。普通の毛質より墨が染み込まないからかすれまくるらしいんですよね。かくしがまえ、とか、けものへん漢字で使うと、とてもいいって聞いたこともあります」

 

 

 ばっちゃま教室でそういうお話も聞かされてた。ばっちゃま作はしっとりと上品なもので、俺と言えばほぼ書き殴りだ。それでも、ばっちゃまは勇ましい格好のいいのを描いたわね、と謎お菓子とともに褒めてくれた。そういう感じで今も俺の字は筆じゃなくても激しい字だ。書き殴りではなくなったが、長門に綺麗な字なのに勢いが強すぎると突っ込まれたことがある。俺の本名と合わさると、戦国武将の掛け軸にありそうですね、と古泉に褒めてもらったこともある。俺がよく使い慣れたのは竹筆だったんだ。

 

 

「いつか使ってくれたら嬉しいです」

 

「ええ、大事にします。来年の年賀状、期待してくださいね?」

 

 

 来年も仲良しでいてくれるとすでに告げられてしまった。こちらのいつか、の意味が分かっておられるに決まっているのに。

 

 

「シャドーくんも来年はパソコンソフトのじゃないので頑張って欲しいです」

 

「はい、いい感じの道具揃えて賀詞も挨拶とかいろんな言葉も頑張りますね。宛名とかめっちゃ気合い入れて書きますから」

 

「綺麗に、お願いしますよ?」

 

「頑張ります、期待もよろしくですからね?」

 

 

 綺麗に若干やられるも、なんとか返答を仕返しといた。朝比奈先輩への贈り物を差し上げたので、それじゃ、と保健室から去る。ハルヒの自室と言うわけじゃないけど、寝ている女の子に男がやたら近くに居てはいけないのだ。特に、他にも女の子のいる場では。

 

 特に、その他の女の子にドキドキしているのに目移りしていると思われるのは男が廃るだろう。

 

 それでも不甲斐ないことをしている。保健室から上に昇る階段にさえ届かない距離で顔を覆っていた。朝比奈先輩の全てが綺麗だったからだ。壁に体の全面を押し付けて他の何も視界に入れないようにしていた。今は光に当たってキラキラ光っている埃の粒すら見えない。そもそも見たくない。そんなものでさっきの朝比奈先輩の綺麗さを霞ませたくなかった。

 

 綺麗だったんだ。目を三日月に細めて、口を隠して笑う上品な笑み。それが、あの時は違った。口元が見えていた。指をずらして隙間から口元を露出されいたんだ。血色のいい甘そうな唇だった。リップを塗っているせいでより目を逸らさないといけなかった。朝比奈先輩に敗北などしたくない。女の子に負けてはいけないのだ、男と言う生き物は。三回戦中一回ぐらいは勝たないといけないんだ。今は一度も勝てていないが負け続けているわけじゃないはず、今のはそうテニスでいうなら、サービスエースを連続で取られただけで何も問題はない。すぐデュースにしてやるし、なんならリターンエースで勝ちあげるさ。

 

 でも、そういう気概は一旦中止。あの綺麗さに恋焦がれていよう。口元から逃げるために顔を逸らしている途中でも、綺麗さしか見せなったあの朝比奈先輩を。愛らしく少し膨らんだ鼻、やわっこいだろう持ち上がっていく頬、なんで逃げちゃうのと言いたげに追いかけてくるおしゃまな瞳。全部、綺麗だった。綺麗すぎて今それしか思い出したくないくらいに綺麗だった。

 

 ずっと、のどぼとけの下、鎖骨の中心よりも下の所がとても苦しくなる。泣きそうなくらい痛くなんかない、喘息的な嫌な苦しさなんてもない。重たくて、苦しかったんだ。どこにも発露できない好きがそこで暴れているんだ。早く出せっと暴れている。その機会はあの時あった。けど、綺麗さにびっくりして押し込めてしまったんだ。むしろ頑張って閉じ込めた。朝比奈先輩の綺麗さにびっくりして、俺の小さくいてほしいエゴイズムがビビっちゃったからだ。

 

 

「……まずったよなぁ」

 

 

 ここまででも嫌なくらい理解できた。

 

 朝比奈先輩に勝てるわけがない、ということだ。

 

 

→which one was the trap? 

 

 

 

 ||¥||

 

 

 意外なことにこんな朝からシャドーくんが保健室に来た。みかじめ料の未納で慌ててたみたいで、涼宮さんにドアの向こうで入室許可を待っている。もう慌てん坊さんなんですから、涼宮さんはまだお休みなんですけど。シャドーくんって普段ふわふわとしてるだけなのに、こういう時は慌てん坊なの本当にかわいい。

 

 代わりにアタシが保健室に入れてあげた。あ、ひどい。あたしのことはおまけ扱いだ。だから、またからかっちゃう。いつものふわふわと宛てのなさそうな声で訂正させようとしてくるけど、おまけ扱いはひどかったからまたするからね。

 

 みかじめ料を渡している間、声もかけてくれないんだ。ひどいな、あたしのことより涼宮さんに気が行くんだ。ひどいなー、あたしのことやっぱり涼宮さんのお見舞いの、ついでなんだ。ひどい男の子だなー。かわいい男の子なのに、そんないじわるするのひどいと思うよ、シャドーくん。

 

 って、プレゼントくれるんだ。うれしいな、可愛い感じのくれるのかな。でも、シャドーくんの可愛いって感じるのり○んを買っている子と同じなのかも。うーん、大きなリボンとかもらっても困るんだけどな。そういうのが似合うのと着けたいなって思うのは全然違うんだけどな。似合うけど着けたくないのはいらないよ、シャドーくん。

 

 でも、あたしが書道部だったの覚えててくれたのはうれしいな。でもでも、竹筆はちょっともらっても困るよ。あたし、字はゆったり静かな感じで描きたい方なんだよ、シャドーくん。大事にするけど使うのもっと先になっちゃうじゃない。他の筆なら試し書きとかしてすぐにでも楽しめたいのに、やっぱりシャドーくん残念。残念でかわいいな。狙いが外れてるの、かわいい。頑張って見つけてこうしてプレゼントしてくれたけど、残念な感じなの本当にかわいい。

 

 だから、またからかっちゃうね。もっとかわいい男の子みたいなの見たくなっちゃったんだから、しょうがないよね。だって、本当にしょうがないんだよ? シャドーくん、かわいいんだもん。かわいいかわいい男の子なのが、悪いんだもん。ふふ、かわいいシャドーくんの所為なんだもん。

 

 やった、またかわいいの見れちゃった。目移りするシャドーくんが悪いんだもんね? あたしのことをついででおまけなんだもんね? こういうふうに遊ばれちゃってもしょうがないよね? 

 

 

「残念だったね、かわいいシャドーくん」

 

 

 もう一回だけ逃げちゃったかわいい男の子に笑いかけてあげた。

 

 

 

 :::::::::::::::::::

 

 

Who will remove the trap from the beast?

 _________That is definitely not the role of the hunter.

 

 

 

 

 

 

 ^^^^^^^

 

 

 朝食、昼食。不思議なことに何もなかった。いじられ過ぎることもなく、妹ちゃんのガチャポン面白ご飯処理もなかった。この日、この三日目にして、ようやく普通のご飯が食べられた。朝はハンバーグ定食、お昼はとんかつ定食。美味しかった。とても安心できる美味しさだった。ファミリーレストランでよく食べたあの味の、美味しいごはんだったんだ。ハンバーグにはケチャップとタルタルソース、とんかつには味噌だれに柚子胡椒。うちの家の味まで再現できたんだ。市販のものを使っているから当たり前だけど。うちだとほとんどお母さんが期限前処理として、ソースを混ぜすぎて大変なことになったりもした。だが、あの嬉しい美味しいお味に再び会えたことに感激した。幼馴染は俺のそんな様子にド○ペをいつものようにくれた。返礼として面白商品を進呈しようと思ったら、ド○ペを取り上げられかける。人の好意になんてことをするのだろうか、あやつは。

 

 そうもありつつ俺は今幸せだった。初日から大分やられっぱなしで情けのうござったが、今だけは最高にハッピーだ。喜緑先輩の穏やかな眼差しのおかげで更に幸福感に満ち溢れている。何も憂うことがないことがこんなに素晴らしいなんて知らなかった。このままお昼寝も決められたら、もう俺もエンジェルの仲間になれるかもしれない。でも怠け者すぎてクサフグあたりに変えられそう。防波堤で干物にされるしかないのせつないね。そんなありえもしないifを空に放り投げてお昼寝プレイスを探す。日当たりがよくて風通りもよくていい感じに学生感を味わえる場所といえば。そう、ゲンコツ広場だ。

 

 新体操選手のようにピョンピョコしながら我が憩いの場へ。小学生ぐらいの頃にこれをしていたら先生にめちゃくちゃ怒られたけど、今は何も気になどしない。途中で鞍馬に見立ててニンレイズもどきもやるほど、いつもの俺流のふっわふわ感が出てきた。持ち手部分がないから軽くグニャルだけだったけど、楽しかった。汗を軽くかくことが出来たのも真に良きだ。

 

 

「あ、シャドーくん」

 

「こんちわっす、朝比奈先輩」

 

 

 気合入れたくせに朝から負け落としにされた朝比奈先輩の前でも、なんら問題はない。勇ましく着崩した服の内へ外気を取り込んでのっほほんともできている。胸元だろうと腕ら辺だろうと腹回りだろうと、バサバッサと自分の冷却に勤しめる。

 

 

「んー……」

 

 

 何か考え込んでいる朝比奈先輩。今なら何かやり返しが出来そうだ。やるとしたら何にしよう。この着崩しただけでだらけな感じの今をおしゃれなんて言い張るか。それとも、普通にいつも通りに話しかけるべきか。いや、あえてまた気合を入れなおして再戦でもしておいた方がいいのかな。

 

 

→「どうですか、いい感じにおしゃれに見えますかね?」

→「運動神経って未来でも必要なんですかねー?」

→「朝比奈先輩、書道の筆って赤ちゃんじゃなくても人毛でのってあるらしいですね」

 

 

 

 

「運動神経って未来でも必要なんですかねー?」

 

「え?」

 

 

 いつもの俺を取り戻す。そのためにいつも通りに話し出した。

 

 

「ほら、俺たち人間ってナントカ原人とかやってウホウホしてましたけど、今そんなことないじゃないですか」

 

「え、あ、はい。そうですね、ウホウホしてないです」

 

「ハンターしかしてなかったですけど農作とかやり出したりしてるじゃないですか。酪農も同じ感じで」

 

「そうですね。酪農でウホウホのを飼うことはないですけど」

 

 

 人間は利便性を追求し続けてきた。デッドオアアライブしかない狩りから、自分たちで育てて安全に安定な食料供給を作り出せた。安全で危なくなくて量もある程度約束されるなら、そっちをよりやりだしてきたんだ。狩りのための狩猟能力よりも、農耕やら酪農のための技術能力の方が重宝されるようになったんだ。

 

 

「ハンターの能力ってピンキリしかないじゃないですか。でもですよ、農耕とか結構経験でいけること多いんですよ。おばあちゃんの知恵袋~的な感じのを皆知ってればご飯安全安心に食えてけるんですよ。能力主義から技術主義に移るのは当たり前ですよね。技術は受け継げるんですから」

 

「はぁ、そうですね」

 

「たとえば、俺がこんなことできてもっ」

 

 

 と朝比奈先輩に当たらないように下がってバク宙を何度かやってみせる。朝比奈先輩はいつも通りパチパチと観客様らしく上品に拍手して下さった。

 

 

「今現在進行形で地球上の生き物すべての寿命が三年伸びましたーってことは起きないですよね」

 

「そりゃそうですよ、関係ないんですもん」

 

「ですよね、じゃあ朝比奈先輩もやってください」

 

「え、嫌です、無理です」

 

「えぇ、やらなくていいですよ。言っただけですから」

 

「もぅ、シャドーくんっ!」

 

 

 からかったと思われたのかプンスコされてしまう。サコッシュから献上品としてお高めスイーツをお渡しする。やたら体を動かしてきたけどどこも潰れてはおらぬ。そういう技術だ。

 

 

「で、ですよ。話を戻します」

 

「あ、っと、なんでしたっけ? バク宙の必要さですか?」

 

「違いますよ。未来でも運動神経っているのかなーってのです」

 

「あぁ、そんな感じのでしたね。それで、どうしてそういうのを?」

 

「多分、というか当たり前のように今のバク宙なんての原人時代なら誰でもできたんじゃないですかね。老若男女構わず、いや流石に赤ちゃんは無理ですけど。老人っていうレベルも八十九十とかじゃなくて、古代から見たらのじっちゃんばっちゃん世代ぐらいの……多分三十もないですね。平安時代でも四十まで生きるの稀だったらしいですし。全員出来ましたよ、きっと。朝比奈先輩ぐらいでも延々とできたと思いますよ。一時間とかできないのハズカスーレベルですよ、きっと」

 

「は、はずかすー?」

 

「ファミコンゲームで出た言葉です。恥ずかしいなーで合ってるはずですよ、たぶん」

 

「へぇー。あ、長野とかだとしょーしーって言うらしいですよ。笑止ってのからきたんですかね?」

 

「わぁお、信州人のお口殿様かよ。って、ともかく、今の朝比奈先輩はできないじゃないですか。他にもできない人たくさんです。練習すればってありますけど、古代の人らは練習もなく一発でイケたと思うので古代人スゲーって思います。んで、練習しないといけない俺ら現代人って運動能力劣化しとんねって話ですよ」

 

「あー、そうですね。でも、できなくても困らないですよ。マンモス狩りませんし」

 

 

 カートゥーンアニメのマンモス肉食べたいなとか思いつつも話を続ける。

 

 

「そうですよね。ハンターっていますけどそういうの害獣駆除ってので、やたらめったら借り放題ではないですし、そもそも日本とかご飯事情飽和状態ですしね。コンビニ行けばあるし、総菜屋さんだってあるし、配達なんて手段だってありますし」

 

「コンビニのおにぎり美味しいですよね。あたしツナマヨも好きです」

 

「美味しいですよね。塩むすび好きです、俺」

 

「へー、シャドーくん向けにあるんですねアレって」

 

「俺以外も顧客いますよ」

 

 

 ちょっとばかし塩むすびがディスられてるような気がするけど置いておこう。アルコール臭いおじさん達がたくさん買ってたりするから需要あるんだよ。いや、俺酒飲まないけどさ。

 

 

「とにかくとにかく、狩猟系とか含めて運動能力いらない世代ですよ、俺達ってのは。歩くのだりぃなら自転車とかバイクとか車とか、運転もだりぃならバスとかタクシーありますし、長距離なら船とか飛行機、たまにセグウェイもできますし。運動神経は娯楽的な価値しかないのではと、未来では」

 

 

→一言飲み込んで、それに、と前置きを置く

 

 

「運動神経を犠牲になんか進化するかもしれないのかなって」

 

「進化」

 

「元々生き物って四足歩行がデフォルトじゃないですか。頸椎とか腰椎のダメージ的に二足歩行は良くないですし。それで俺たち人間みんな二足歩行がデフォルト。知性とか理性とか他の生き物よりよくなりましたが運動神経なんてのはどれにも劣るようになりました」

 

 

 ゴリラさんはもちろん猿にも握力は人間と桁違いだ。人間の女の子がそうそう林檎を握りつぶすことなどできないが、彼らの雌は他愛ないことだ。なかなか握りつぶせない人間はどうするか。過熱して柔らかくしてから潰すなり、マッシャーなどで潰したりと頭を使いだした。力の代わりに頭が発達したからできることだ。だが、これでも多少は力がいる。オーブンなど結構重いものがあるし、マッシャーを使うったって割とパワーがいる。その僅かにかかるパワーも必要のない未来ではどうなるのか。自称猫型ロボットの未来ではオートメーションでご飯が基本の世界になっている。わざわざまな板や包丁も使わず、調理中に必要なボウルやパットも要らず、鍋やフライパンなど絶対用いない。そんな画期的な世界だという。コックとか板前が絶滅している世界だ。ボタンを一度押せばステーキでもフォアグラでも、ふぐ刺しも全部作れる。幼馴染が貸してくれた星新一含むSF小説では成分の配合だけでそいつらを作れるだとか。味噌と牛乳を合わせてとんこつ味(嘘)~ではなく、たんぱく質がどれくらい油分がどれくらい、塩分濃度、他成分配合率などなどで正真正銘とんこつ味になる。しかも、何度作ってもちゃんととんこつ味ができる。

 

 そういう世界に原始的な力はいらないんだろう。握力? ペンを握る機械などなくタッチパネルの世界だ。脚力? 生来の歩行不自由者だろうがそうでなかろうがアシストするマシーンでどうとでもなる。体幹? 老若男女全員に合わせた道路整備や社会構造になっているんだ。自前で必要なのは咀嚼力や嚥下能力、肺活量ぐらいだろう。表情筋なんてのもあるだろうけど、いい表情を映し出せるデバイス辺りがあるだろうから基本的に必要ないはずだ。

 

 未来では、少々ディストピアめいた世界では運動神経も能力も退化しきっているのかもしれない。そして、別の能力が新たに生まれているかもしれない。林檎を自力で潰す機能より、理知的に工夫して潰す機能を備えるようになったように。シックスセンスだか、セブンスセンスだか分からないけど何か生まれているのかもしれない。○ータイプ、とか○-ディネーターとか。

 

 

「進化してなんかすげー能力生まれてそう。今だと架空っていうか詐欺しかないマインドリーダーとか、マインドコントローラーとか」

 

「んと、SFみたいな?」

 

「そうですそうです。それで現代文のテストとか楽になるかなーって。あと、嫌な方のアンジャッシュも起きない世界なんかなーって」

 

「テストは自分で頑張ってくださいよ」

 

「丸ごと一冊ならわかりますけど、いきなり切り抜きで来られてもってのが多いじゃないですか。この時のけんじの気持ちを説明せよってあっても、切り抜かれている前の文で別解釈、後の文でも別解釈。そもそも全部読んでからだと印象的に違うってありまくりますし」

 

「小説問題だとよくありますよね。中勘助のとか森鴎外とか村上春樹のとか。そこだけ抜き出されても、ってよくありますね」

 

 

 あとで読もうと思っていたのがテストでネタバレされた、と少々プンプンしながらお話して下さる。こんな感じに隙だらけな朝比奈先輩が俺達の時代にエージェントとして来られているんだ。運動神経がお世辞にも良くない素晴らしく可愛いだけの朝比奈先輩が、エージェントなんだぜ。

 

 未来ではあらゆる面で人間と言う生き物が全員生きやすいように介護されてる。なんてのは、想像で終わらせたいね。

 

 でもさ、そんな未来の方が朝比奈先輩には生きやすいんだろうな。俺は、多分逆で、生きづらくてまいっちゃうね。フワフッワと自分で舵とらないと真っ逆さまに転げ落ちちゃっているのかも。

 

 いつまでもこんなにかわいい朝比奈先輩でいてほしいんだから。

 

 

 

 

 ○

 

"Who's there? "  Bunny said, "I didn't bring any cake or wine, but open the door."

 

 

 ====86=====

 

 

 

 やっぱり男の子だね、シャドーくんは。ただの男の子。いつもの自由で気まますぎるマイペースなままの、ただの男の子だ。面白いお話だったけど、もうちょっと何か別の面白い話して欲しかったなぁ。まぁ、ただの男の子なんだからしょうがないよね。期待しすぎてもしょうがないよ。だって男の子なんだもん、シャドーくんは。

 

 今朝まではかわいい男の子だったけど、面白い男の子に戻っちゃったの少しだけ残念だなぁ。もっと慌ててほしいのになぁ。かわいいとこが見たいのに戻っちゃったの、本当に残念。目線があちこち行ったり声が上擦ったままになっているの、とっっってもかわいいのに残念。慣れてないんだなって、余裕ないんだなって、そわそわしたままになっちゃうのがかわいいのになぁ。

 

 ただの面白い男の子は、ちょっと違うのになぁ。話しが面白いのはいいけど、見たいのはかわいい男の子なのに戻らないでほしいよシャドーくん。

 

 もっと、もっと、かわいいシャドーくんを見てたいのになぁ……。

 

 

Apparently, the lynx is distressed."How can we welcome them? "

 

 

 }‘{}

 

 

 その後といえば、ゲンコツ広場で健やかスリーピングなんてできっこなく、気分で体育倉庫で寝た。夢の中でドッチボールをする夢なんてのを見た。けど、コロッケでやるな。ソースかけてある方が威力強いっていう謎ルール作るな。最終的にコロッケの投げ合いじゃなくてソースかけ合戦になっちゃったじゃないか。コロッケにソイソースかけた俺をレギュレーション違反にしたアイツ許さないぞ。醤油も合うんじゃい。関東だとコロッケそばなるものあるから合ってるんじゃい。めんつゆって醤油入っとるんじゃ、コロッケに醤油は邪道とは言えないじゃないか。

 

 なんて考えてたらお腹が空いてきた。まだ六時前だというのにペコペコだ。ここから帰ったらご飯タイムが長すぎて飢え死にしそうだな。面白お菓子で難をしのごうかって、思い出したのはお母さんのアレ。牛肉コロッケやクリームコロッケ、かぼちゃコロッケ、コーンポタージュコロッケなんて色々あるけどコロッケしかおかずないのは拷問なの。変化球で大福コロッケやイチゴコロッケ来たけど拷問感は何も変わらなかったよ。むしろ拷問でしかなかったの。衣に塩コショウしてあるから惨かったんだよ。

 

 腹ペコだけどまだご飯タイムには早いし、今度こそゲンコツ広場広場で寝てもいいかな。

 

 

→我が栄光のためにしばし休息を

→ぶらり途中下校北高の旅だ

 

 

 空腹なんで寝仏スタイルだ。ゲンコツ広場へ、さぁ行こう。テーブルの上で寝仏しちゃうもんね。

 

 

「あー、シャドーくんだ!!」

 

「よう、お疲れさん」

 

 

 るんるん前進していたら幼馴染兄妹に遭遇した。テーブルの上で寝仏しているのは、間違いなく妹ちゃん。それをやめなさい、と諫めているのは間違いなくその兄だ。

 

 

「菓子いるだろ」

 

「今日はいいや」

 

 

 気分でないので断ったら困惑している気配をビシビシ感じた。その気配は幼馴染兄妹から強く感じる。

 

 

「どうした、具合悪いのか」

 

「いや、別に?」

 

「バ○リンいる?」

 

「頭痛も何もないんだよ?」

 

 

 兄妹は真剣にお互い視線だけで何か会話しているようだ。とても失礼を感じる。

 

 

「ブロークンファンタズムしたのか?」

 

「何の幻想壊したのだ。何も壊れとらん」

 

「頭が噴火しちゃったの?」

 

「俺の頭って活火山だったんだ。まったくもって違うけども」

 

 

 二人が頭を抱えだしている。なにをやっておるのだ、この子らは。

 

 

「いや、お前が菓子いらんとは海が割れるだろ」

 

「モーゼに怒られんよ? 俺も怒るし」

 

「蛇さんに手足生えちゃう……」

 

「蛇足……? それとも進化してるって意味なの? それとも別の意味なの?」

 

「隙あらば菓子を口に放り込んでるお前が、だから。なぁ?」

 

「いつも○ービィみたいなのに……」

 

 

 ピンクの悪魔と同じに何故かされていたらしい。彼、いや彼女? だってお腹痛くなったりしたら食べないでしょ。漫画の方でそういうのあった気がするけど。

 

 

「なんか嫌なことでもあったか?」

 

「んー?」

 

 

 嫌なことの心当たりなどない。そもそもどうしてそんなことを聞かれているのかよく分からない。疑問だらけの生返事に幼馴染は深刻な顔をやめてくれないようだ。

 

 

「誰かに嫌われちゃったの?」

 

「んん~?」

 

 

 嫌われた心当たりもありはしない。そもそも誰かというものにも何の当てもないのだから。疑問しかない生返事に妹ちゃんも深刻な表情になっている。

 

 そのまま深刻な兄妹になってしまった。口には出していないが彼らは視線で相談し合っている。俺をいい感じに慰めるためにどうしてあげようか、などといらぬことを考えているんだ。

 

 

「別に嫌なこともないし、フラれてもおらぬよ」

 

「フラれる?」

 

「フラれちゃったの?」

 

「いや、それは言葉の綾なので」

 

 

 困ることになった。幼馴染は昔からお人好しだ。今もハルヒに連れ添うのが当たり前になっている男だからだ。その妹である妹ちゃんも同じ。普段危なっかしい所ばかり見ているけれど、時折年相応にお姉さんらしく振る舞おうと頑張ってくれる。無駄な頑張りを俺にやろうとしてしまう。

 

 

「なーんもないから。うん、ないんだよ。うん」

 

「あるやつの言葉だ」

 

「あるやつだ」

 

「ねーのよ」

 

 

 こうなると兄妹は頑固である。白状するまで許してくれぬのだ。二人がかりでもある、勝てぬのだ。三分ほど無駄に粘ったが徒労だった。俺は敗北者になったんだ。

 

 

「朝比奈さんに勝てないと」

 

「はい」

 

「何が勝ちで何が負けなんですか、シャドーくん」

 

「分からないです、はい」

 

 

 尋問だった。幼馴染は朝比奈先輩のファンだ。というか北高の男子で朝比奈先輩のファンじゃないやつはいない。朝比奈先輩のファンじゃないなんてお前は人ではないと言えるレベルにいない。俺もファンだし。

 

 

「遊ばれている。いや、朝比奈先輩に弄ばれていると?」

 

「はい」

 

「あら、かわいい坊やだこと、って?」

 

「はい。例えば……」

 

 

 武力による尋問ではない。けども、生きた心地のしない圧力を幼馴染たちからずっしりと感じる。尋ねているのは幼馴染兄の方。やけに怖かった。静かに眺めているのは幼馴染の妹様。非常に怖かった。怖さから逃れるには俺はずっとある程度はボヤしつつ白状し続けるしかない。

 

 

「いつもかわいいかわいいって壊れたテープみたいに言ってたのに」

 

「はい」

 

「その癖、最近言わないのに」

 

「はい」

 

「朝比奈先輩にやり返さたら、このように大負け犬になっちゃうんですか」

 

「なら、お前はどうできるよ」

 

「犬になります」

 

 

 尋問官が犬宣言しないで。怖さに別のものがブレンドされて苦しいよ。

 

 

「羨ましい。どうしようもなく羨ましい。俺にやってくれずに、お前にだなんて……なにやったんだよ?」

 

「なにもしてないんですぅ……」

 

 

 幼馴染から憐憫を感じる。哀愁も帯びている。道場が心地いいなんて知らなかった。

 

 

「なーんにもしないからー」

 

 

 妹ちゃんが声をようやく出した。飽きていたのか棒付き飴を咥えながら話してくれる。

 

 

「いーっつも言ってたんでしょー、かわいいーって? それ言わないからー」

 

「いや、だって」

 

「なんで言わなかったのー? かわいいーって思ってるのにー」

 

「他のやつも言うし」

 

「シャドーくんは言ってないよねー?」

 

 

 妹ちゃんが兄の方に尋ねる。すぐさま思い出せてしまうのか兄の方が同意してしまう。

 

 

「俺とつるんでないときは知らんが、部活中でも前はよく言ってたんだがな」

 

「それは、ハルヒとかが止めたから」

 

「すぐ無視ってやってたから、いつのまにかハルヒも、好きにしろ、ってなってたろ」

 

「あれ~~?」

 

 

 バレておったのか。何故、どうして、何がどうなっている。

 

 

「なんで言わないの~」

 

「いやー、君のお兄さんとかがね?」

 

「聞きなれてたというか、気にもならなかったというか」

 

「もー、ほらー」

 

 

 尋問官が居られる。すごく優秀な方が居られる。

 

 

「なーんーでー、言わないの!」

 

 

 可愛らしい口調だ。一音一音しっかり舌足らずな甘やかしい声。それが、ものすごくコチラの緊張を煽る。ずしんずしんと目の前に戦車が迫ってくるような緊張感が。

 

 

「脈なしだと思いまして」

 

 

 幼馴染兄が口を挟もうとしてきたが、妹ちゃんに阻止されている。

 

 

「感謝されるんだけどそれだけだから、諦めていて」

 

 

 思い出すだけで嬉しさと苦さで頭がぐちゃぐちゃになる。心の底からかわいいと言っていたが、朝比奈先輩はありがとうございます、という一言だけだった。嬉しそうにしてくれて喜んでもいてくれたが、たったそれだけで。

 

 

「所詮俺のファンの一人ってことで、諦めて」

 

 

 他のやつらも言っていた。俺よりカッコいい人からも面白いやつからも、色んな男に言われていた。そいつらもありがとうございますだけだ。でも、同じように嬉しそうにして喜んでもいた。そいつらと同じような扱いだったんだ、俺は。

 

 

「驕りが過ぎる」

 

「キョンくん」

 

「いや、驕りすぎるだろ」

 

 

 ごもっともだった。ファンとアイドルが結ばれるなんざおとぎ話でしか叶わないものだ。現実を見ていなさすぎる哀れな道化な俺だ。

 

 

「相談されたことあるんだぞ、俺」

 

「キョンくん」

 

 

 妹ちゃんが幼馴染を止めようとしている。優しい子だ。俺のために幼馴染を諫めようとしてくれるんだから。しかし、幼馴染は妹を無碍に扱った。どこから取り出したのか分からない大量の飴を妹ちゃんの口に詰めたのだ。

 

 

「おわぁっ」

 

 

 そんな妹ちゃんとその兄にびっくりした。そのまま幼馴染に頭を掴まれる。縮んでしまう。

 

 

「シャドーくんに何かありましたかって。心当たりないからないですって言ったよ、俺。そしたら」

 

 

 すごく困った顔された、と俺に言った。困っていたのはその時も今も俺なのに。

 

 

「何か嫌なことしちゃったかなって、嫌われちゃったかなってずっと不安であられたぞ」

 

 

 怒気の籠った声ではなかった。今も幼馴染すら困惑していた。

 

 

「みんなに言うのにあたしに言わなくなっちゃったって、ずっと悩んでたぞ朝比奈さん」

 

 

 ずっと俺たちは困っていた。

 

 

「言ってよかったんか……」

 

「つーか、言わなきゃいけなかったっていうか?」

 

「脈ありだったのか?」

 

「あぁ、そうかもな」

 

 

 確証欲しいよ、と俺が呟く。それに、俺は欲しくないと幼馴染がつまらなそうに言う。

 

 

「ハルヒとか長門にも言ってた時、すげー羨ましそうに見てた」

 

「朝比奈先輩が?」

 

「ここで他のやつの話しないわ。古泉がそうだって思うか?」

 

「やめてくれよ、怖いだろうが」

 

 

 その熱い視線は幼馴染が独占してていいから。

 

 

「他の子にも言ってたろ? その時もすげーもどかしそうな顔だった」

 

「具体的に」

 

「好きな子を取られた顔」

 

「ぐはー……」

 

 

 幼馴染は非常に難儀な顔をしている。俺はその対照的になっていた。

 

 

「で、ユーはフーがラブなの?」

 

 

 気だるげな様子で聞いてくる幼馴染。もっごもっご、と更に口を大変にしている妹ちゃん。

 

 

「俺、朝比奈みくるさんが好きです」

 

「アイドルのー?」

 

「アイドルじゃなくても好きです」

 

「ファンの癖にー?」

 

「北高のアイドルのファン辞めます」

 

 

 もっごもっごな妹ちゃんが更に大変になっているようだ。兄は無慈悲に連キャンディーする。

 

 

「さぁ、あっち向いてくーださーい」

 

 

 気だるいまま幼馴染が校舎を指さす。朝比奈先輩だ。俺の教室に何故かいる朝比奈先輩だ。窓が開いてるので、もう何も聞き逃せない朝比奈先輩がいる。

 

 

「こんばんわ、かわいいみくる先輩」

 

 

 ようやく言う覚悟ができた。

 

 

 ++++

 

 

 一つ吹っ切れつつも雲行き残念なまま階段を上る。

 

 

「あぁ、シャドーさん」

 

「喜緑先輩」

 

 

 と、部屋への帰り道で降臨された。困ったときの喜緑先輩。間違いなく俺のソテイラ様だ。

 

 

「もしかしなくても、お困りですね」

 

 

 ふわりふわりと俺の近くに降りてこられるソテイラ様。踊り場なのに舞い降りて下さるソテイラ様だった。救いを求めんがため一歩近寄ろうとした。

 

 と、左手をパーで出された。無言で待機。よし、があるまで待機だ。

 

 

「まず今、ミスです」

 

「?」

 

「はい、ミスしてますよ」

 

「はい……はぃ?」

 

 

 俺のハテナを気にせず、一つ指を折られた。残り四本。

 

 

「お昼もミスです」

 

 

 お昼。みくる先輩のことだろうか。まさか、ご飯か。詳しく伺おうとする前に指をもう一本折られてしまう。

 

 

「で、です。朝、ミスのミスですよ」

 

 

 みくる先輩なのだろうか。それとも、もしかして佐々木? まさかまさかのご飯なのか? 尋ねることなど許さないかのように残り二本になってしまう。

 

 

「あとは」

 

 

 満面の笑み。シャボン玉が弾けたような笑顔。

 

 

「言いません」

 

 

 なんて言われた。困ったので空っぽに笑い返しといた。

 

 

「言いませんからね、シャドーさん?」

 

 

 シャボン玉がまたふわりと浮かび上がるけど、俺は目を逸らすしかない。

 

 

「頑張って、悩んで悩んで……悩みまくってください」

 

 

 夕日に照らされた喜緑先輩は茶目っ気たっぷりにそうおっしゃる。それだけ言って踵を返されてしまう。楽しそうにクルクル回っているその手とともにサヨナラにされてしまった。それならもう、俺は目を逸らすしかない。

 

 今は目を離さないといけないって、ずっと思っているんだから。

 

 

 

 

 )’’(

 

 

 

「ふぅー……っ」

 

 

 急いでシャドーくんの教室から逃げかえってきた。今はなんとかなって落ち着いている。あれは大変だった。今もずっとも大変。けど、今は少しは平気、大丈夫。誰もいないおかげで、安心して落ち着けるんだから。

 

 

「シャドーくんてば……っ!!」

 

 

 ずるいというものが声に出せない。声に出すともっと大変になるって分かったから。そうだけれど、ずるいと思う気持ちは我慢なんてできない。

 

 心の中で暴れた。ずるいずるい、ずるい! ずるだった。あれはずるでしかなかった。頑張って気にしないようにしてたのに、ああいうのはずるすぎるんだもん!! と、目をぎゅっと閉じて口もぎゅっときつく閉めた。

 

 心の中で大暴れした。どうしてあんなことにするの? あんなことにされたら恥ずかしいのに。あんなことにされたら困っちゃうのに。あんなことだから落ち着かなくなっちゃったんだから。 と両手を口の上に被せて強く自分を抑えていた。

 

 

「もー……、もーっ!!」

 

 

 息すらしづらいけど、声を出さずにはいられない。だって、自覚してたくせに無自覚なフリしてて。だって、無自覚なくせに自覚しているフリなんてしてて。

 

 

「かわい、くないっ」

 

 

 勢いよく吐き出した言葉は、歯と一緒に手のひらにぶつかる。だけど、それだけで何とか抑えようとした。頑張ってなんとかしようとしてたから、シャドーくんの所為で。

 

 

「全部シャドーくんの所為、ほんとにシャドーくんが悪いんだもん……だって、だってずっるいんだもん!」

 

 手も緩んでしまわないように強く口元に押し付ける。自分の唇がどう動いているか意識してしまう。意識なんてしたくないから、しゃべりづらいまま口を懸命に動かした。

 

 だって。だって、シャドーくんの所為なんだから。

 

 まだ直接触ってくるなら準備できる。やっぱりかわいい男の子なんだから、って余裕にお相手してあげられる。うっかりで、を分かってあげれられるから。うっかり、触っちゃったのねって。そういうのがかわいくて楽しくて、そんなシャドーくんがすきだから。

 頑張って意識しないように注意してさりげない感じだと思って、っていうかわいい男の子をわかってあげられるんだから。頑張ってはバレてるもん、目が忙しいから。意識しないようには知ってるよ、声が上擦ってばっかりだから。注意してるの見過ごせないんだよ、言葉が明け透けすぎなんだから。さりげない感じなのは違うんだからね。そういうところもかわいくて嬉しくて、そんなシャドーくんがすきなんだから。

 

 頑張ってるのもバレて、意識しないようにも知られて。注意してるのも見過ごしてもらえないし、さりげない感じなのも違和感にしかならない。そんなかわいいかわいい男の子がいいのに。だって、かわいいんだもん。頑張ってるのかわいいな、バレてるの気づいてないのに。意識しないようにしてるのもかわいい、知られてるなんて思いもしないなんて。注意してるのもかわいいもん、見過ごしてもらえないとは欠片も考えてないんだよね。さりげない感じなのもねかわいいの、違和感を覚える暇もないお間抜けさんなんだもん。そういう色んなところがかわいくてかわいくて、そんなシャドーくんがすきだったから。

 

 これがかわいいもん。すきなところになるもん。こんなかわいい男の子だもんね。かわいいシャドーくんは、そういうかわいい男の子でいるべきなのにね。そういうかわいい男の子がすきだから。

 

 だから。

 

 

「な~ん~で~~~~っつ!!!」

 

 

 少し大きな声で叫んだ。自分の手にかみつく勢い。一応校舎内ではないけどはしたないから。そのはしたなさなんて砂粒ぐらいの匙加減でしかないけれど、なんとか頑張って抑え込んだ。だって、ほんとに、なんでなんだもん。なんでそうなるの、シャドーくんは。なんでそうしてくるの、シャドーくんってば。なんでそんなことになってるの、シャドーくんはさ。

 

 ふんにゃりって笑うのは知ってる、よく見てたし。ちょこっと焦り気味ににへへへ……って照れ笑いも知ってる、よく見ていたんだし。とってもかわいいかったから。でもね、あれは違う。ふにゃりでにへへへ……なのに、全然違う。あれは、どうしようもなくかわいいでいちゃいけないものだもん。

 

 あたしはシャドーくんにただかわいいでいてほしいのに、かわいくなくなってて困っちゃう。

 

 

「あ……」

 

 

 全然かわいくないシャドーくんを思い出していってしまう。穴の開いた風船みたいな少年らしいあの声で、あたしにかわいいと言ってくれていたあの時。鶴屋さんやお友達から言われ慣れているし、涼宮さんからも言われ慣れているあたしへの言葉。自分を褒めてくれると嬉しかった。その後ちょっと嫌なことが起こっても、もう近寄ってこないでっていうほど嫌いになる人はいない。からかわれているだけなら、ちょっとだけ嫌な気持ちになるから仕返しなんてしちゃう。けど、嫌いになんてなっていない。好きだった。親愛としての好きがあった。その好きが減ることも無くなることもなくて、普通に好きだったの。

 

 だけれど、シャドーくんにかわいいと言われるだけで、何かが減る気がした。無くなった気もした。さっきはそれに焦ったのもある。あたし自身に今と同じく、なんでなんでとぐるぐるしていた。一回だけ。一回だけ言われた。それが怖さを今読んでいる。だって、減って無くなっていくんだもの。

 

 

「……あたしの」

 

 親愛する心は減りもしないし無くなってない。かといって、不快感とか嫌悪感なんて何処にもも生まれてない。じゃあ、何が減ったの。なら、何が無くなったの。

 

 よく分からない怖さで更に強く目を瞑って耳も塞いだ。

 

 それなのにさっきもことも思い出しちゃう。

 

【かわいいみくる先輩】

 

 何度もこれが頭の中で再生される。キョンくんたち含めたのを盗み聞きした所為なのかな。罪悪感よりも嫌悪感に苛まれた。

 

 ようやく言ってくれたのことに嬉しくて喜んでいるあたし。それを可哀そうに眺めているあたしがいる。それら全部を見てひどい嫌悪感があたしに生まれていた。

 

 

「あのかわいいは、どういう意味でいいの?」

 

 

 からかい? ただのお世辞? いつもみたいに勝手に口が動いただけ? 

 

 好きって意味だと信じたい。あの話からそう確信したい。でも、今まで言ってくれなかったから信用できない。好きだと思いたいのに、思いきれないのはどうしてなの。みんなには言っていたから? それも、あるけど。シャドーくんは、あたしにも言ってくれた。けれど、みんなにも言っていた。あたしは今までずっと言ってくれなかったのに。ある日から一度も言ってくれなかった。どこかでシャドーくんがあたしのことそう言ってたよも、聞くこともないくらい。なのに、みんなには言ってた、ずっと。涼宮さんにも長門さんにも、鶴屋さんにだって。

 

 シャドーくんはあたしのことが好きだと信じたい。それでも、あたしが浮かれているだけだと思うと何も信じることができなかった。

 

 勘違いだったら怖い。嘘だったら怖い。今、ずっと、怖くてしょうがなかった。

 

 なのに、どうしてだろう。

 

【かわいいみくる先輩】というシャドーくんの声が、ずっと心の奥にまで響いている。怖い。怖い怖い。

 

 怖いのに。

 

 

 

 

 +()+

 

 

 夕飯時、一緒にお食事した。勿論みんな揃ってさ。でも、妙なことになった。むしろ謀られている最中だからか距離がある意味絶妙だった。SOS団の団員同士以上を感じずにいられない距離間。

 

 俺が好きなみくる先輩。その人が、俺の真向かいにおった。真向かいで佐々木と喜緑先輩を左右に置いて、食事をとっていたんだ。なるほど、流石だ。安易にアプローチすれば、左右が物理的でないが蓋をしてなかったことにされる。口がお上手なのだ、悩ましいことに。進撃するようにアプローチすれば、両者が視覚では捉えられないナイフとフォークのあのサインで終わらせられる。口がお綺麗なのだ、悔しいことに。死に物狂いでアプローチすれば、どちらも仮想的な氷水を浴びせられ失格にされる。口がお達者なのだ、切ないことに。

 

 この時に、嬉しい時だったのに、なにも出来なかった。目を光らせられてるとか、警戒されてるとか、すでに監視の勢いなどというものは欠片もない。佐々木と喜緑先輩は何も気にせずに今まで通り。俺たち男組はいつも通り何の気ままもできない。幼馴染は妹ちゃん、古泉は場の空気を読むのに忙しい。何もかもが悩ましい事態だ。

 

 そしてなにより、俺の隣には鶴屋先輩がいたんだ。いつものように明るく楽しいお方、いつも通りからかって場を賑やかにさせてくれるお方。それが佐々木と喜緑先輩を身に着けたみくる先輩ともどもからかわれる。アピールできない、堂々とアピールができない。案の定、いつもの俺でいないといけなかった。少しでも過剰反応すれば佐々木が突っ込む。少しでも過少反応すれば喜緑先輩がつついてくる。ゲームオーバーにされてしまうんだ。悩む暇もなく悩むしかできないフィールドだったんだ。

 

 みくる先輩にちゃんと好きとはまだ伝えてない。それなのに、勝手に告白したなんてことになってしまえば、みくる先輩は断る。いい笑顔で断る。だって、そういう雰囲気になってるから。ジョーク告白にされ、残念会を開かれ、なんにも始まらなくなっちまう。

 

 好きなのに信じてもらえなくなる。それも、二度と。もうワンチャンスなんてない。もう、なくなる。

 

 警戒しかされていないんだ。自分のこれからの未来について、自分のこれからの行動について、自分のこれからも願うものについて。全部に警戒して、先にある俺自身に対しても非常に警戒されている。巣穴に帰る途中で外敵の気配に気づきだしたんだ。

 

 そんな臆病すぎるウサギちゃんだから、こんなにじっくりやらしてもらっているのに。撫でてもらうのは好きだけどやりすぎるとストレスになるし、餌も調整したいいものをあげても体調を崩しやすいし、かよわいかわいい生き物なだけと思ったら割と凶暴でもあるし。難しい生き物すぎるよ、女の子ってさ。

 

 夕飯は判定も何もなく、敗北した。みくる先輩を見てる暇もなく俺はいつも通りをしなくてはならなかった。口惜しく、名残惜しく、お気の毒様状態。どう好きと伝えよう、どうやって好きになってもらおう、どうすれば好きだと知ってもらえるだろう。その悩みも悩みで終わるだけの虚しき沙汰だ。行動できないから。目で好きと言えない、口で好きと言えない、雰囲気だけで好きと言えない。非常に無情にストレスまみれになった。

 

 そうだから、もう夜襲をかけると決めたんだ。

 

 俺がみくる先輩を好きなのは変わらない。アイドルとファンという立ち位置で満足できない。夕方、好きだと告白しきれなかった。逃げられてしまったからだ。多分に好きと言う意味も込めてかわいいと言えた。そこから全力で告白しようとした、のに。なのに、だ。逃げられた。わざわざ俺の教室にいたのに、逃げた。俺をよく見ていたのに、俺がどんな気持ちなのか聞いていたろうに、逃げたんだ。

 

 あんまりだ。あんまりだよ、みくる先輩。

 

 だからこそ、理解して頂こうじゃないか。俺の気持ちも、ご自分の気持ちも。

 

 探し回ろう。

 

 ご自分のお部屋に戻っていないことは把握済みだ。しかも、今雨も降っているから外にはいないはず。

 

 探す。

 

 絶対見つけて、分かってもらう。

 

 

 

 =*=

 

 

 夕ご飯、一緒に食べられてよかった。鶴屋さんがどうしてかシャドーくんの隣で食べだしたのは気になったけど。うん、一緒に普通に食べられたからいいかな。佐々木さんも喜緑さんも助けてくれてよかった。一緒に食べてくれませんか、だけですぐに色々察してくれて本当にありがたい。おかげで、誰からもちょっかいだされないですんだんだもん。

 

 見慣れたシャドーくんだった。かわいい男の子のシャドーくんだった。いつものシャドーくんがそこにいたの。

 

 それでよかったと思った。いつものシャドーくんでよかったって。かわいい男の子のシャドーくんがいるって。安心していた。あの怖さが消えて、さらに安心した。

 

 そう安心していなきゃおかしいんだもの。

 

 かわいいから、嬉しくなるはずなのに。かわいいから、楽しくなるものなのに。かわいいから。

 

 かわいいからじゃない。ちがう。かわいいけどちがうの。かわいいんだけど、ちがう、ちがうの。

 

 かわいいシャドーくんはあたしが見たい。あたしだけが見たいの。佐々木さんであたふたするのかわいいけど、ちがうの。どうしてかわいくなってるの、ちがうじゃない。喜緑先輩でおたおたしてるのかわいいけど、ちがう。なんでかわいくしてるの、ちがうじゃない。鶴屋さんであわあわしているのかわいいけど、ちがうんだよ。誰にでもかわいくしてるの、ちがうってことわからないの。

 

 皆にかわいいのは、違う。間違い。大間違い。落第。失格。退場。絶対ダメ。

 

 またこうやってかわいいことのみんなに見せちゃってるんだろうな。怖いという感情が悲しさに塗り替えられていく。

 

 今も歩いてくる彼に、ほら、また悲しくなっていく。

 

 

 

 ’^’

 

 

 ずっと校舎内を探していた。いない。自分の部屋に戻ってもいない。トイレ閉じこもりなんかもないだろう。上から下左も右も、全部探したがいない。

 

 なら、旧校舎しかない。

 

 SOS団のアジトにでもおられるということだ。

 

 目的地が決まって走り出そうとした。けど、足は止まる。旧校舎の方で小さめの明かりを見つけた。旧校舎と新校舎の通りのところでだ。携帯での光かもしれない。

 

 そこに着くまでに音はよく響くだろう。渡り廊下だからだ。地面に接着しておらず新校舎と旧校舎の繋ぎとして宙に浮いている。あまり重量があると繋ぎ目からすぐ壊れて落ちていってしまう。それなりに軽めの作りだ。尚更、音や振動が響きやすい。組み立てにもなるべく軽くなるよう組み立てられているし渡り廊下なので一本の筒のような構造だ。そこへ走っていこうものなら、追い詰めに来たぞと誰でも分かってしまうだろう。誰がそんなことするのも、絶対に分かる。

 

 しょうがないと、歩きになった。逸る気持ちが足にも出る。競歩ほどのスピードになった。

 

 そして、ようやく会えた。逃げずに、帰らずに、どうでもよさそうに待ちくたびれているようで。

 

 みくる先輩は待ち人を求めているような焦燥感と、今にも帰りたそうな倦怠感を持って出迎えてくれた。

 

 

「こんばんわ、みくる先輩」

 

「こんばんわ、シャドーくん」

 

 

 いつも通りの挨拶。違和感がある。

 

 

→「みくる先輩、なんかありましたか?」

→「なんか俺やっちゃいましたか?」

→「どうかしたんですか、みくる先輩」

 

 

「みくる先輩」

「シャドーくん」

 

 

 俺が違和感から何か尋ねようとするも、みくる先輩に遮られた。そして、みくる先輩は一歩後ろに下がる。みくる先輩の教室はそっち側にはない。そっち側は旧校舎の方。捕まえられる方へ下がったんだ。

 

 

「どうして、かわいいの?」

 

「え?」

 

「はやく答えて?」

 

 

 質問がよく分からず聞き返すも無視される。どういうことなのかしょっぺえおつむを探しているが一つに引っかかりもありゃしない。しびれを切らしてみくる先輩は十、九……とカウントダウンされている。

 

→「かわいいわけじゃないです」

→「かわいい、じゃないんです」

 

 

「かわいいのは、みくる先輩に決まってるでしょ」

「……っ!!」

 

 

 泣きそうな顔をされた。言って欲しくなかったって顔をされた。俺には、言って欲しくなかったって言う顔。

 

 

「かわいいんです、みくる先輩は」

 

「言わないで……」

 

 

 か細い声だ。頑張って泣かないようにしているからか、余計苦しそうに聞こえた。

 

 

「ずっとみくる先輩はかわいいんです」

 

「お願い、もう言うのやめて」

 

 

 涙声になっていた。拒絶があった。嫌悪感もあり、何より俺そのものを否定し続けている。

 

 

「俺は、ずっとみくる先輩のことかわいいって思ってます」

 

「いやだよ、やめて。ねぇ、お願いだから、やめてよ」

 

 

 どうしようもない拒絶になる。崖の上に花がみくる先輩なら、崖下の荒れ狂う海に落とされた俺は、本当にどうしようもないだろう。手が届かず、二度と触れず、絶対に好かれない関係になった。

 

 

「最初はただのファンでした。ミーハーでしたよ。ワーキャーしているのに混ざって言ってただけです」

 

 

 また俺は傷つける。嫌われたい一心で傷つけた。

 

 

「俺の友達が無謀にも告白するって言っても、正直どうでもよかったです。みくる先輩のことかわいいって思ってましたが、誰の彼女になっても全然気にしませんから」

 

 

 色んなのがみくる先輩に告白した。俺の友達もそうだし、サッカー部のイケメン先輩とか、他校の有名イケメンもしていた。それに、俺の顔がよければ、とか、俺も告白したいな、なんて気持ちは一度も湧かなかった。テレビのワイドショーで誰それが熱愛報道しているのを見て、興味持たないのと一緒レベルだ。

 

 かわいいみくる先輩と付き合いたい、なんて感情一度だって生まれなかった

 

 北高のアイドルはとてもかわいい。北高のアイドルはまさに天使だ。北高のアイドルは誰も敵わない。

 

 高嶺の花だ。届かなくていい、取れなくていい、見てるだけでいい。俺がかわいいと思っていたみくる先輩は高嶺の花だった。見てるだけで十分な存在だったんだ。高望みなんて抱かない。付き合いたいなんてありえない。あわよくば近寄りたいななんてもあるわけなかった。

 

 ただ見れるだけでよかった。誰かと付き合ってもよかったねーで済んだだろう。俺の幼馴染含め男子たちは相手を速やかに消し去ることに勤しむだろうが、俺はそれに乗らない。空気に流されて乗せられるんだろうが、やる気なんてなかっただろう。むしろ、みくる先輩の幸せの邪魔しちゃダメじゃないのとか適当なこと思って何もやらないはずだ。

 

 だから、嫌いなっても平気だったんだ。

 

 

「例えば、古泉と付き合いましたーってなっても全然よかったです。二人ともお幸せにーとか、美男美女でお似合いーで普通によかったんですよ。古泉の彼女がみくる先輩でよかったなって、みくる先輩の彼氏が古泉でよかったねってで。古泉は顔だけじゃなくいい奴だから北高のアイドルのみくる先輩も周りも全部いい感じに幸せにまとめてくれるはずだ。なんか知らんやつが難癖付けてきてもあいつなら、絶対みくる先輩を守ってくれるしいつまでも好きでいてくれるだろうから。そうだから、おめでとーお幸せに―でおしまい。めでたしめでたしだ」

 

 

 あり得る未来だった。顔だけのイケメンじゃない古泉と北高のアイドルのかわいいみくる先輩のカップル。ベストカップルだ。つり合いが取れる。取れすぎる。誰からも祝福されるお似合いの素敵な二人だ。

 

 

「もしかしてだけど、俺の幼馴染と付き合いましたーでも全然いいです。周りから顰蹙買うでしょうが、俺は誰よりも祝福しますよ。幼馴染は優しい奴だから北高のアイドルのみくる先輩を、北高のアイドルなんて肩書を引っこ抜いても幸せにしてくれるはずだ。周りから北高のアイドルであるかわいいみくる先輩から離れろって圧力かけられても、無視してかわいいみくる先輩をずっと好きになってくれるでしょうから。だからこそ、末永くお幸せにでおしまいになります。いやーめでたいめでたい」

 

 

 ありそうな未来は約束された祝福なものだ。だというのに、みくる先輩は泣いてしまっている。大きくて宝石みたいな目から、涙が流れている。宝石を削っているから、こんなにも綺麗にキラキラして見えるんだろうか。

 

 

「他の誰かでももちろん全然いいんですよ。名も知らねぇ誰かでも、ちょっとは知ってる誰かでも。みくる先輩が幸せそうなら誰でもいい。誰の傍で幸せなのか全く気にしません。勝手に幸せでいてください。あなたの幸せそうな顔が俺のものになんて出来るわけないんですもの。その幸せそうな顔は俺には絶対に関係するものじゃないんですから」

 

 

 ひどい、という声を聞いた。ひどいひどい、という声を何度も聞いた。苦しんで辛くて、嫌われてしまった人の声だ。誰よりもかわいい人から、誰よりも嫌われてしまっていた。

 

 

「ひどい? どうして?」

 

 

 だから、より嫌われたかった。誰よりも嫌って欲しかった。みくる先輩にだけは誰よりも俺を嫌いでいてほしいから。

 

 

「なんでそんなこと言うの?」

 

「みくる先輩がかわいいからですよ」

 

 

 当たり前の返答だった。みくる先輩のかわいさに事実を述べただけだ。それにひどいなどと言われる筋合いはない。

 

 

「きらいなの?」

 

 

 はっきりと聞かれた。二の句を告げなくなる。

 

 

「あたしのことが、っきらいだから、そんなこと言うの?」

 

 

 涙声で聞き取りにくいはずなのに、頭にこびりついていく。

 

 

「ははは……。はは、そっか、きらいだったんだ、あたしのこと。そっかー……」

 

 

 泣いている。苦しそうで辛そうで、どうしようもなくなっている。それでも、声がやたら晴れやかだった。

 

 

「ごめんね、今まで。ずっとあたしのこと嫌いだったんだね」

 

 

 もう嬉しそうにそんなことを言い出していた。もう、笑っている。嬉しそうに。とても嬉しそうに。

 

 

「ふざけないでくださいよ」

 

 

 嫌いだった。

 

 

「え?」

 

 

 嫌いだった。

 

 

「嫌いな訳ないでしょ、普通に考えて」

 

 

 今、全部嫌いでしょうがない。

 

 

「だって……」

 

「嫌いって言いましたっけ? あなたに嫌いなんて言ってないです。みくる先輩のことが嫌いなんて一度も言ってない」

 

 

 嬉しそうだった顔。晴れやかで綺麗だった顔。それが、また苦しくて辛そうで、嫌いになっている。

 

 

「じゃあ、じゃあっ、なんなのっ!? 嫌いじゃないならなんなの!! さっきからずっと言ってたよ? どうでもいいって、興味なんてないって。それなのに……っそれなのに!!」

 

 

 大粒の涙がまたこぼれていく。どんなに大きな宝石でもこんなに削られていくなら、消えちゃうんじゃないかってぐらいたくさん泣かれた。

 

 

「かわいいって言ってたよね?」

 

「はい」

 

「今まで言わなかったくせに。それなのに、さっきは言ってくれて。なのに」

 

 

 逃げようとしてもいなかった。俺に対する敵意があったから。一矢報いるだけで済まず縊り殺す気の強い敵意があった。

 

 

「あたしに、かわいいなんて言わないでよ……っ」

 

「いやです」

 

「怖いよ。嫌だよ……、やめてよお願いだから」

 

「いやだ」

 

 

 どうにか隙を狙って必ず害してやろうとしていた。別にそうされても構わなかった。そうされるようなことをずっとしていたんだから。物にやりたきゃやってみろと思っていた。

 

 

「かわいいよ、みくる先輩」

 

 

 耳を塞ごうとしていた。不可能だった。指先だけでなく両肩もガタガタ震えてまともに動けないようだから。塞ごうという意思があるのさえ奇跡なんだから。まぁ、しょうがないと思った。

 

 

「みくる先輩はかわいいんだよ」

 

 

 飛びかかろうとしているみたい。不可能なことだ。太ももからつま先までずっと足が笑い出したまんまだから。立っているのさえ奇跡なんだから。それも、まぁ、しょうがないと思った。

 

 かわいい、と何度も言ってあげた。一歩一歩踏みしめて近づいて、逃げて欲しくないからすり寄るぐらいにゆっくりと。みくる先輩にちゃんと近づいた。

 

 そして、目の前に立ちふさがってあげる。みくる先輩のまともに動かない両手を取った。怯えからかその視線は俺ではなく、その自分の手に行った。都合が良いことだ。俺の右手はみくる先輩の左手を握る。逆の手も同じようにだ。そのままゆっくりみくる先輩の眼前まであげて差し上げる。それでも俺と目を合わす気がないようだった。好都合でしかなかった。

 

 みくる先輩の手をみくる先輩の耳に当てる。耳を塞いで差し上げた。お望み通りにして差し上げた。恐怖心からの防衛反応だろう、目をあちらこちらにしてまともに目を合わせてくれない。

 

 

「みくるさん、好きだ」

 

 

 聞き取られないように静かに告げた。みくる先輩の手が震えていた。さっきからずっと震えていたが、一瞬強く跳ねたようだ。気にも留めず、声を出してあげる。

 

 

「いつからか、かわいいに好きを隠して言ってた。かわいいって言われ慣れているからバレないと思ってずっと言ってた」

 

 

 気にしない存在が気になる存在になっていたから。

 

 

「他のやつも言ってたもんね。女の子も男子も、みーんながみくるさんのことかわいいって言ってた。だから、俺の好きなんかバレないようにかわいいだけ言ってたよ」

 

 

 木を隠すなら森の中だ。叶いっこないんだから湖に投げ捨てず、そこら辺に埋めといたんだ。

 

 

「でも、言えなくなっちゃったんだ、ごめん」

 

 

 自分で埋めたくせに埋めてた場所が分からなくなったように、俺はあの頃どうしようもなく困っていたんだ。

 

 

「みんな同じ対応だったよね。かわいいって言ったら、ありがとうございます、で終わり。女子も男子も、俺も。みんなにかわいいって言われたら、みんなにありがとうございます、で終わりだった」

 

 

 特別扱いされたいと主張しているんじゃない。されたい気持ちはずっと今もあるけど、今聞いてほしいのはそういうことじゃないんだ。

 

 

「それで、好きって言ってるのがバレなくてよかったって、思えなくなった。男子の中には俺と同じなのがいたよ。分かるよね? 告白慣れしてるんだから。そういう慣れで片づけられちゃうんだって思ったから」

 

 

 何故か耳を塞いでいる手を動かされた。うっとうしいからかなとか思ったけど、遠慮なく無視した。

 

 

「みくるさんのこと諦めた」

 

 

 強く手を動かされる。暴れているみたいだった。無視しかしない。

 

 

「ずっと、好きって意味で言ってた。でも、興味なかったのか、それともどうでもよかったのか。いや両方からか、全部ずっとありがとうございますで終わりだったから、諦めた」

 

 

 何か言おうしているみたいだ。実際声にしているのかもしれない。だけど、俺にはよくわからなかった。

 

 

「で、この三日間。みくるさんが俺をかわいいって遊んでたね。こういう人かーって困ったよ。自分が言われて楽しいし喜ぶから、俺にもやったんだろうけどさ。ごめんね、困るだけだったよ」

 

 

 頑張って諦めたのに。頑張って蓋をしたのに。頑張って好きをやめていたのに。

 

 

「また、好きが出ちゃうから困った。かわいいな好きだなって今まで我慢したのがたくさん出てきて、すっごく困った」

 

 

 みくるさんを見かける度、好きが出る。みくるさんの声を聞く度に、好きが出てくる。みくるさんと話せたなら、好きが止まってくれなくなった。ずっとずっと好きだらけになって困り続けていたんだ。

 

 

「それでも、今みくるさんが困っているから、頑張って好きとめようと思うんだけどさ。ごめん、無理だ。好きだもん。すっごく好きなんだもん。かわいいって誤魔化す気もなくなるぐらい、今もすっっっごい好きだよ」

 

 

 大変困らせてしまっている。好きな人になんてことをしているんだろう。それと同じく俺自身も大変困っている。好きな人になんて様を見せてしまっているんだろう。

 

 

「ぁ、の……っ」

 

 

 あ、なんか言われそう。とっても怖い。いつの間にか両手を自由にしてしまっていた。みくるさんが自由になったということだ。口での攻撃も、手足からの攻撃も、なんでも俺に攻撃できるということだ。

 

 あぁ、とてつもなく怖い。

 

 

「ごめんね。ずっと好きだよ、みくるさん」

 

 

 怖くてしょうがないから脱兎のごとく逃げ出した。何か言われる前に全力で逃亡した。言い逃げって最高だ。言ったが勝ちだもんな。俺の勝ちだぜ。常勝将軍様だぜ。

 

 ……ま、明日からずっと敗北者なんだけどさ。

 

 

 

 =~=

 

 

 あはは、減ってる。あははは、失くなってる。それでもいいやってなっていく。いやになって、いやが止まってくれなくて、いやなままでいいやってなっていく。

 

 かわいいって言ってくれた。ずっと待っていた言葉を言ってくれてた。嬉しくなって喜んじゃう言葉を、シャドーくんが言ってくれたけど。嬉しくなれない、喜びなんてない。

 

 かわいいに意味が籠ってなかった。からかってはいない。不快感がある。お世辞でもない。不快感が続く。何の意味もないかわいいを言われている。ゴミをそこら辺に捨てるひどい人と一緒のことをされている。興味のなさがあった、どうでもよさがあった、冷たさも感じれない無感動なかわいいを投げ捨てられた。

 

 ミーハーで言ってくれた時もあったよね。それでも、嬉しかったよ、喜んでもいたよ。いいんだよ、言ってくれるだけで。かわいいって言ってくれるだけよかったんだよ。なのに、こんなひどいネタ晴らしはしちゃいけないのに。なんでかわいいで終わってくれないの? 

 

 知らない未来を想像なんてしないでよ。そんな未来知らない、いらない。あたしが未来人だから、そういうお話でからかっているのかな? そんなどうでもいいifのお話されても困っちゃうよ。そんな未来ありっこないもの。そんな未来ありえないもの。そんな未来、来なくていいんだもの。

 

 ひどい人がいた。目の前でずっとひどいことをしてくる人がいた。好きになりたかった人だったのに。あたしのことを女の子として好きになって欲しい、あなたのことを男の子としてすきになりたい。そうだったのに。

 

 だから、全てを絞り出した。

 

 なんとか声に出せてよかった。清々したから。今までの全てにうんざりだったから。向こうも色々と腑に落ちている顔をしてる。うん、お互いうんざりから清々できてよかったよね。

 

 嬉しそうに言えてよかった。嬉しくてしょうがないはずだもん、胸のつっかえが無くなったんだから。嬉しそうにしてなきゃ嫌だもん。嬉しいと思ってないと全部嫌になるんだから。これで終わったってちゃんと嬉しくならないといけないよね。

 

 ならないといけないのに。どうしてまたひどいことするの、あなたは。どうでもいいなら好きってことじゃないんでしょ? ひどいことしてこないでよ。勝手に気を持たくせにひどいことずっとしないでよ、お願いだから。興味なんてないなら好きなんてことないってことじゃないの。ひどいことどうしてするの? 勝手に期待しちゃうようにしたくせにひどいことし続けないでよ、お願いだから。

 

 好きじゃないなら嫌いしかないじゃない。好かれてないなら嫌われてるってことじゃない。

 

 嫌われたくない人に嫌われるのも、もう嫌なのに。どうしてずっと今もひどいことしかしないの。

 

 かわいい、って言わないで、本当にお願いだから。期待しちゃうから。その期待しちゃうの嫌いだから。お願いだからやめてよ。嫌いなくせにかわいいなんて言わないでよ。お世辞にもからかいにもならない、そんなかわいいなんて聞きたくない。バカにしているの? 嫌いだからバカにしてるのかな。本当はかわいいなんて思ってなくて、かわいくないってバカにしているのかな? 何度も言ってくるそれが全部悪意そのものにしか感じられない。目に見えない石を投げつけられているようだった。

 

 それにあたしの全部が痛くなる。目にガラスが刺さったようなひどい痛みが。耳が燃やされていくようなひどい痛みが。口が切り刻まれるようなひどい痛みが。手足が鈍器で潰されるようなひどい錯覚も起きる。全部、全部、あなたのせいで、こんなに痛い。

 

 いつの間にか自由の利かなくなったあたしの手。指先がまともに動かない。掴んだ手の温かさに少しでも嬉しいと感じる度に、嬉しいと感じるほどあたしの全部がもっとひどく痛くなっていく。腫れていくような、刺されていくような、痺れるような、爛れていくような。ずっとずっとひどく痛くなっていく。その痛みからも逃げたいのに。

 

 あなたが優しくあたしの耳を塞いでいく。まるでとても大事なものを傷つかないように丁寧にしまってしまうみたいな、何処までも続く優しさがあった。

 

 痛みが分からなくなる。まだじくじくと痛んで、しくしくとも痛み、ぴりぴりと痛んでもいて、じんじんと痛み続けている。それが、一瞬分からなくなった。

 

 意味が分からないことを言われたから。好きではないくせに、意味の分からないことを言われた。嫌いなくせに、意味の分からないことを言われる。全く意味の分からないことをずっと言う人だ、あなたは。

 

 聞きたかったのはそういうことじゃないよ。いや、知れてよかったけども、そうじゃなくて。あ、本当にそういう意味で言っていたの、シャドーくん。そういう意味で言ってたんだ、シャドーくんは。気のせいにしてなきゃいけないなって思ってたのに、本当に、好きって意味で言ってたんだ。なら、もっと早くちゃんと言ってよ。違う。告白慣れしてるから、お礼の言葉で終わらしたんじゃなくて。嬉しかったの、本当に。喜んでいたんだよ、本当に。だから、お断りでもないし遠慮なんてのでもなくて。

 

 あ、お願いだから待って。違うよ。違うの。諦めないでよ、お願いだから。違うよ? 違うから。シャドーくんがどうでもいいからなんて思ってない。だから、ありがとうございますってちゃんと言ったんだもん。シャドーくんのこと興味ないなんて言ってないじゃない。だから、ありがとうございます、っていつも返していたんだよ。ありがとうございます、にたくさん嬉しいって気持ちあったんだもん。ありがとうございます、にずっと喜んでるよって気持ちあったんだもん。分かるじゃない、シャドーくんのかわいいであたしがどんなに嬉しいのかなんて。分かるに決まっているじゃない、シャドーくんのかわいいであたしがどれほど喜んでいるかなんて。

 

 違うの。分かってよ。違うよ? お願いだから、違うから、分かってよ。だから、この三日間も違うんだよ? 

 

 かわいいって言葉以外なのも、聞きたくて知りたくて言って欲しくてしょうがなかったから。

 

 だって、シャドーくんのかわいいって、あたしのこと好きだって意味だったから。

 

 だから、聞きたくて。好きって言って欲しくって。好き、って。好きって、言って欲しかっただけだもん。

 

 ──女の子なら、好きな男の子に言って欲しいに決まっているじゃない──そんな、複雑すぎるあたしの事情があったとしても。

 

 

「ぁ、の……っ」

 

 

 気づいた物ごと全部伝えないといけない。だけど、口すらまともに動いてくれなくてまた泣きそうになった。

 

 ちゃんと言おうとあたしの全部に力を籠める。痛みはなかった。よく分からないけど、ずっと嬉しくてずっと喜んでいてそれどころじゃなかったんだと思う。

 

【好きみたい、シャドーくんがあたしのことを】それが血のようにあたしの全部に巡って大変だった。

 

 だから、逃げられちゃった。脱兎如くってこういうことなのかな、ってぐらい全力で逃げられちゃった。言い逃げもされちゃって、すっごく悔しい。

 

 

「あーぁ……もーっ!」

 

 

 あたしの足だと絶対追いつけない。シャドーくんのお部屋に突撃しようとしても、部屋主さんが入ってもいいよってしてくれないとお部屋に入室出来ないから、今日は無理かな。

 

 くすくすとちょっとそこで笑ってた。埃みたいなのはこの空間だとないらしいけど、一応気を付けて綺麗そうなところに座り込んでくすくすしてた。

 

【好きみたい、シャドーくんがあたしのことを】これがずっとあたしをくすくす笑わせてくる所為で動けない。嬉しすぎるし喜んでいるの終わらないし、大変。くすくすが大きくなりすぎて何かに体が当たっちゃう。そこから落ちてきた何かが軽く頬をつっつくかのように刺さって床に。なに笑ってるのよ~みくるちゃんっていう涼宮さんの悪戯に似て、ちょっとイラっとした。とりあえず片さないとと思ってそれに触る。紙。プリントかな。爪でひっかくようにしながらプリントを拾い上げる。

 

 保健体育のプリントみたい。乱暴にしたせいでちょっと切れ目が入っちゃってる。誰かのものなんだから大事にしないといけない。イライラしつつも体を戻してプリントをちょっとだけそれなりにてい丁寧にしわも伸ばしておく。

 

 そうだから、目に入るものがある。

 

 投影、という単語。防衛機制の一つ。自分の中にある受け入れたくない不都合な感情や衝動を、他人のものだと思い込むこと。例として、自分が相手を嫌いだけど、醜聞を気にして、相手が自分を嫌いなんだと思い込むとある。自分の認めたくない衝動などを相手に押し付けること。先生の言葉のメモとして、持ち主さんが書きこんだものがあった。他人に感じる一方的な嫌悪感は、自分の一部分に対する嫌悪であることがほとんど、と。

 

 当てはまる人がいた。シャドーくんと、あたしだ。

 

 あたしはシャドーくんが好き。なのに、シャドーくんはあたしのこと好きじゃないみたいと思っていた。だから、嫌いになっていった。でも、そう思う自分が嫌いだから、シャドーくんはあたしのこと好きではないと思い込んでた。遊ばれてる、からかわれている、と勘違いして嫌われいるだなんて間違ってしまう。それに、他人に感じる一方的な嫌悪感は、自分の一部分に対する嫌悪であることがほとんど、って言うメモ。当てはあった。ずばり、これだった。

 

 好きなのに好きって言ってくれないから嫌い。まさに、あたしだ。まさに、シャドーくんだ。

 

 

「も──……っ!!!」

 

 

 シャドーくんがひどい。あたしはもっとひどい。

 

 

「あたしも。シャドーくんのこと、ずっと好きだったんだ」

 

 

 口に出した言葉を、何度も呟いた。勝手に間違えて空回りしていた、あたし。間違わないようにして空回りした、シャドーくん。勝手に勘違いして暴走していた、あたし。勘違いにしようとして暴走した、シャドーくん。

 

 

「ずっと、好きだったよ」

 

 

 はっと、今更口を閉じる。誰にも聞こえていないとは思う。盗聴器なんてあるわけないし、他の誰かなんてあたしだけ。シャドーくんにさえ聞こえない今。

 

 

「あはは……はぁ、逃げちゃったし、明日、あたしまで大変になっちゃうかな」

 

 

 まだシャドーくんにも聞こえませんように。

 

 

 

 

 |*|”  

 

 来て欲しくなかった新しい朝が来た。正常に時が経っているのなら、今は四日目になる。昨日までの三日間で色々あった。というか、色々自分を猛省したというか。

 

 うちのお父さん的には早朝と言える時間だ。今は朝の六時半ちょっと。気合入れて起きてないと俺でもこの時間は二度寝を優先する。朝に弱くない人間なんていない。赤ちゃんだって朝ほど寝たい。ご老人だって朝だから寝たいはずだ。二度寝三度寝なんて誰だってしたい。お母さんもアラームしないと永遠に寝続ける。お風呂の後とか歯磨きの後とか、すぐ眠くなってしまうもんだ。朝も歯を磨くもの。寝起きの歯磨きはしている最中に起きるけれど、濯ぐまでやったら今日はよく頑張りましたって気分になって布団に戻ろうとする俺が居る。

 

 今もそうだ。部屋から出るのものたくたとし、学校の水道で顔を洗ったり歯を磨いたりしつつのったりくったりした。今日はよく頑張りましたの気分だ。特に昨夜のこともある。とてもよく頑張ったのでお布団に帰りたい。昨夜の所為で愉快な食品おチャレンジなことする気も起きない。お布団にただただ帰りたいだけだ。

 

 昨夜の所為。それまでの過程は良かったと思う。そうさ、古文のテストならなんとかという字を用いているがどうしてか問われていたのを、雰囲気で使ったと書いて怒られた時と同じだった。俺は暗記でしか点を取れない男だ、読み込むなんてのは無理なんだ。

 

 のっそりのっそり、と帰還する。人間の実験で身動きできないようにされたマウスの如く、鬱だから。鬱とはどうしてなるのかの実験で植字や呼吸、排泄はさせるが、身動きさせない実験があった。筒みたいなのにマウスを詰めて行われていたのだ。あんなんネズミさん関係なく鬱になるわい。人間ってホントあほ。窮鼠猫を嚙むって諺は、ネズミさんに何かしら自由が残されているからできるとこれでよく理解できる。特攻して玉砕する自由だ。特攻もできない、玉砕もできない、不自由な筒詰めなどどう考えても鬱になるしかない。不自由なこと=鬱、ってことかもしれないけど、詳しい論述とか論文とか読む気ないしいいや。

 

 俺も今、不自由だ。俺は今、鬱だ。自分で歩いてトイレも行けるし、ご飯も自分で食べにも行けるけど、不自由で鬱でしかない。昨夜の所為でなにもかも自由にできないからだ。

 

 みくるさんの言葉の意味で悩まされている。きらいなの? 、と聞かれてしまったんだ。間違いなく誤解だ。けれど、きらいという言葉は俺がみくるさんに宛ててのものだと捉えられている。ちゃんと好きだと言った。紛れもなく好きだと伝えた。が、その言葉に雁字搦めにされて、進むことも戻ることもできずいるから鬱でしかない。ずっと、考えている。

 

 

「あのあと、なんて言われてたんだろ」

 

 

 ごめんなさい、って告白玉砕? そうあってほしくないけど、そうかもしれない。でも、みくるさんがそういう拒絶ならもっと詳しく言うはずだ。あなたに興味ないの、ごめんなさい、とか。うわ、鬱になる……。 俺自体に拒絶? そうあるわけないと願うけど、そうなのかもしれない。それでも、みくるさんはちゃんと言うはずだろう。あなたは無いから、ごめんなさい、なんて。鬱になってしまうぅ……。

 

 希望的に見たいものすら、自分で打ち砕いている。ああ、鬱だ。不自由に袋小路に収容されているネズミーな俺だ。鬱だ鬱だ。

 

 バイブレーション。タオルと一緒にいれてたサコッシュから振動だ。お布団に行きたいから無視した。しばらくふるえていたが沈黙する。すぐにまた振動していく。電話らしい。画面も見ないようにパカリと開けて通話ボタンを押した。

 

 

「おはよーございます、どーなたでしょーか?」

 

 

 腑抜けた声が出た。

 

 

『おはようございます、シャドーくん』

 

 

 腑が飛び出たような声が出てしまった。

 

 

「ぁのっ!」

 

 

 何も言うこともできないくせに、それは言えた。だけど、その後何も続けられない。

 

 

『来てください』

 

 

 みくる先輩は言っていた。その前の言葉を聞き取れない。

 

 

『あたしの所に来てください』

 

 

 みくる先輩は言う。来てと。逃げるな、どこにも逃がさないという強い執念を感じる声で。

 

 

『教室に、来てください』

 

 

 俺の返事も聞かずに切れる。通話が終わったプープーが聞こえるが、俺は動けない。何を言われてしまうのか、怖いんだ。

 

 好きだけどごめんなさい、ならもう立ち直れないから。

 

 それなのに、振動が手元から。メールだ。気負いながら無意識に開封していた。

 

 ”絶対に来てください” 

 

 みくる先輩の最後通告だ。俺を絶対に断罪する意思表示なんだ。

 

 鬱になっている場合じゃなくなる。身嗜みを整えて、走らずに早足で向かう。それも気持ちが暗いから、いつもの早足よりずっとずっと遅い。だけど、その方がいいんだと思う。俺だって逃げる気が失せるから。みくるさんだって逃げられないんだろうから。時間をかけなさすぎず、早く行き過ぎないように、時間通りよりもうすこし遅れるために。

 

 みくるさんも待ちくたびれてしまうだろうから。

 

 

 ==#

 

 

 朝起きて身嗜みをいつも以上に整える。

 

 あたしのために、シャドーくんのために。

 

 髪を梳かすのもいつも以上に丁寧に。ヘアオイルはサラッとしたものを使う。髪までフワフワしていられないから。お顔は学校の時以上お外でのとの中間ぐらい。可愛いけれど可愛すぎないように、ほんの少しだけ綺麗がよく見えるように。ネイル、シンプルに一色だけにする。ここも見惚れてほしいけれど、一番見惚れてほしい場所じゃないから。お洋服は控えめにしないと、浮ついているだけじゃないのを分かってもらうんだから。

 

 そうしていると、真剣なのに顔がほころんでいってしまって気が抜けてしまいそうだった。誰かのために着飾るのってこんなに嬉しいんだって知らなかった。こんなにも楽しいんだって知らなかった。まだ会ってもいないのにずっと喜んじゃっているなんて全然知らなかったよ。あたし自身のためも嬉しくて楽しくて喜んでいた。それは、誰かに素敵だねって、よく似合うねって、かわいいねって褒めてほしいって気持ちもあった。それ以上に、そう褒められるあたしになりたくて一生懸命だったんだ。誰かに褒められるあたしは、あたしが頑張って作っていたんだから。

 

 シャドーくんが好きって思ってくれるあたしでいたい。そう思っているからこそ、慌てて時計を見る。六時と少し。五時前に起きて準備していたけどもうこんな時間になってる。急いで待ち伏せしないといけないのに、浮かれすぎてた。最後にミラーで自分を全部チェックする。無理しすぎてないかわいいあたしがいた。あたし自身が自信を持ってかわいいと言えるあたしだ。シャドーくんが絶対にかわいいと、絶対に好きだというあたしがいる。

 

 部屋から飛び出して、向かう。シャドーくんの教室へ。本当はお部屋に行けたらいいのに、でも、それはまだあたしもそれは勇気がないからそれでいい。

 

 シャドーくんの教室の前に来た。ふと周囲を見る。警戒とかでも何でもない。ただ懐かしかったからだ。あたしも二年生だったから。進級して今は三年生。大学受験へ向けて頑張っている最中。今は大学受験以外に目を向けてはいけないよと担任の先生が言っていた。去年とは違う言葉だった。去年は、学生を楽しみなさいだったのに。高校は三年もあるけど、二年間しか学生しているのは許されないらしい。

 シャドーくんの教室はあたしがいたところとは違うけれど、やっぱり懐かしいと思う。教室ごとに作りが違うなんて現代だとやらないもんね。磨り減りすぎた床の一部分とか、黒ずんだままの壁の一部とか、掃除不足の蛍光灯とか。全部知っているものだった。あたしがよく見ていて知っていて、あたしも北高の二年生だった。でも、もう三年生。進級したんだもん、当たり前だよね。特別な事情もなしに留年なんて恥ずかしいもの。シャドーくんも進級できていた。一夜漬けで暗記ばっかりに頼るから心配ばっかりだったけど、新入生から二年生になれてよかったよね。

 

 

「シャドーくんも、三年生になるんだね」

 

 

 そんな当たり前のことを呟いた。出席日数が足りなかったり定期テストが残念だったり、素行が悪すぎたりしなければ普通に誰でも進級できるものだ。シャドーくんも新入生から二年生に上がれたように、また進級して三年生になるはず。シャドーくんが三年生になったら、あたしは卒業しているのも普通で当たり前だ。一応進路調査では進学とは書いたものの、実際どうなるか未定。未来の方に戻って別のお仕事をするか、未来に戻ってそこから涼宮さんを観測しているのか、未来に戻って観測した内容をまとめつつ誰かの指導に当たることになるのか。

 

 あたしが北高を卒業したなら未来にいるはずだ。そもそも涼宮さんと遭遇するなんて指令もなかったし、こうして一緒に楽しく部活動までしているのも偶然の産物なんだもの。元々は涼宮さんに直接関わるなんてお仕事でもなかったのだし、こうして三年生になるまで現代にいるのも偶然すぎるものだ。最初の方での定期報告時特に不安はなかった。いえ、ちょっと涼宮さんのことで不安があったけど、そうじゃない不安はあの時なかった。いつからか。SOS団で活動していって、いつからか。定期報告が怖くなった。少し虚偽を混ぜたくなったけど、叱責されるのも怖くて正直に報告はしていた。

 

 だって、別のエージェントを派遣しよう、とか、あたしは現代から撤退しなさい、とかをいつ命令されるのか分からないんだもの。

 

 そんなの怖いじゃない。だって、現代で嬉しかったもの楽しかったもの喜んじゃうものが。だって、あたしのとっても大切なものが取られちゃうのかもしれないんだから。

 

 北高で出来た仲のいいお友達も、SOS団の皆も、この街で会った人たちの。あたしをとっても大切にしてくれた、たくさんの人たちを取られちゃうなんて、嫌に決まっているじゃない。

 

 浮力とか未来で分からないことを学べるなんて素敵なことでしょう。お茶を自分でうまく淹れられるようになったのも素敵なことだった。突飛すぎる人たちだけど辛くて苦しいものなんてない素敵な人たちなんだから。

 

 それを取られちゃうなんて、捨てなくちゃいけないなんて、ひどいとしか言えないでしょう? 

 

 この磨り減って一部分が凹んだ廊下を歩いてどういう気持ちになるのか、勝手にあたしから取らないで。こんな黒ずんだ壁の一部を見慣れるんで見てきたらどんな気持ちになるか、勝手にあたしから取らないで。こういう掃除不足の蛍光灯に照らされて過ごしていくと気持ちがどうなるのか、勝手にあたしから取らないで。

 

 朝比奈みくるがみんなと過ごした日々を取ろうとなんてしないでほしい。

 

 きっとあたしが卒業したら誰かがまた涼宮さんに干渉しに来るはず。あたしに似た人かもしれない、あたしとは真逆かもしれない、もしかして男の子が来たりするのかもしれない。その人が、あたしの大切なものを奪っていくんだ。

 

 男の子だったらどういう人が来るんだろうね。古泉君より背の高い人かな、キョンくんよりちょっと上か下ぐらい? お話が上手な人が来るんだろうけど、涼宮さんを丸め込める人は絶対いないんだろうな。女の子だったらどうなるんだろうね。涼宮さんより高めの人か、長門さんよりは高めの人だろうな。お話が上手い人が来るはずだけど、涼宮さんに丸め込まれ過ぎない人が来るんだろうな。

 

 あたしに取って代わる人は、あたしとは絶対違う人なんだから。

 

 嬉しいだろうなぁ。あたしと違って運動が得意な人だから、一緒に朝ランニングなんか嬉しそうにしちゃうんだろうなぁ。楽しんじゃうんだろうな。お菓子以外にも変なもの食べる人だから、それで楽しそうに話しこんじゃって仲良くなっちゃうんだろうな。喜んじゃったりもするんだろうね。”特攻隊長”なんだもんね、誰にでもまたかわいいって言うんでしょう? 

 

 シャドーくんの扉に触る。いつもと同じだ。三年生のあたしの教室と同じ、二年生だった頃のとも同じ、新入生だった時のとも。あたしが北高で過ごした三年間。シャドーくんも過ごしていく三年間。あたしのはもう少しで終わっちゃう。北高の三年生でも、北高の生徒でもなくなる。シャドーくんの先輩でもなくなっちゃう。もしかしないでほしいけど、そうでなくなっちゃたらもう全部が無くなっちゃうかもしれない。

 

 色んな不安から携帯に手を伸ばしていた。現代の携帯はちょっと操作が億劫だけどもう慣れていた。電話する。居留守をされた。不安を無視してしまいたいから、また電話をかける。いつもの空気の抜けた風船みたいなふわふわな声が聞こえてきてくれた。シャドーくんの声だ。あたしが好きなシャドーくんの声だ。その所為で、もっと別の言葉を言うべきなのに、来てください、と言ってしまった。

 

 これじゃダメかもしれない。自分に言い聞かせるように言って来るんだもの。シャドーくんからもう逃げるな、あたし、と。シャドーくんからはどこにも逃げられないんだよ、あたし、と。

 

 未来に戻ろうとしても、シャドーくんからあたし逃げられないよって。

 

 卒業したからなによって自分自身を脅迫する。未来に戻らなくちゃいけないからなによって自分自身を恐喝する。

 

 あたし以外を好きになって欲しくないんだから、シャドーくんから逃げるなだなんて論外でしょう。あたしだけを好きになってほしいんだから、シャドーくんから逃げるなんて大間違いでしょうって。

 

 メールを送ったあと、見慣れているけどあまりよく知らない、シャドーくんの教室へ足を踏み入れる。中も同じような感想を抱いた。あたしの頃は張り紙もう少し綺麗に張っていたなとか、ロッカー凹んでいるのあたしの頃より多いんだなとか、色違いのチョーク使う先生が担当しているんだなあたしの頃をとは違ってとか。ちょっとの違いを面白く感じる。あたしが北高の二年生だった頃と、シャドーくんが二年生の今は少しだけ色々違うことが面白かった。

 

 

「ね、シャドーくん。あたしもね、北高の二年生だったんだ」

 

 

 未来人なのにもう一度過去に戻りたいって、おかしいかな。

 

 

 #==

 

 

 俺はまた引き返してきた。みくるさんはご自分の教室にいると思っていたからだ。手汗まみれになるまで緊張しながら扉を開けたものの、みくるさんの影も形もない。急いで別の所を探して、もうあれから十五分も経ってしまった。

 

 申し訳なさもあって手が震える。できれば、待っていないでほしい。むしろ、いないでほしいと思っていた。愛想をつかして、いつもの先輩後輩になって終わってしまえばいいと思っていた。

 

 だって、朝比奈みくるさんっていう北高のアイドルのお相手なんて山ほどいるんだから。サッカー部のイケメンエース、学校代表で表彰までされた科学部の秀才君、学校以外でも色んな賞をもらっている吹奏楽部の部長さんとかも。北高以外でも見渡してもキリがないほどいるんだから。俺でなくていい、俺とは別の誰かでもいいんじゃないか。

 

 言ってしまったんだ、本当のことを。ミーハーでかわいいと言っていたって、ただのファンがかわいいと言っていたんだって。周りに釣られて合わせて流れに任せて口走っていただけだったと、正直に白状してしまったんだから。紛れもない事実だから、ただのファンだったのもミーハーなのも偽りだったなんて言えやしない。

 

 見かけるだけでいい、声を聞けるだけでいい。そういう程度のレベルだった。SOS団にどういう因果か入団させられている。”特攻隊長”なんてお役職を団長様から直々に賜った。幼馴染は平になりそうでならなそうな草履係なのに。そんな幼馴染ももちろん北高のアイドルのファンだ。みんなと同じく熱狂的なファン。同じ部活にみくるさんもいるんだって、家に遊びに行った時もよく自慢されたもんだ。それに、俺は特に何とも思わなかった。やせ我慢とかなんでもなく、みくるさんにも白状したようにどうでもよかったからだ。今日の朝比奈さんが~、と幼馴染のだらしない顔で語るものに笑っていたりしたが、それは幼馴染の顔が愉快だったから。みくるさんのアレコレをまた聞きしても、特に何とも思わない。それを話す幼馴染の色々の方が面白いんだから。

 

 入団してからも、あまり変化しなかった。みくるさんに挨拶されても、お茶なんか淹れてもらっても何も変化しなかった。いや、そもそも色々がよく分かっていなかったていうのが真実だ。みくるさんに挨拶される俺が意味不明で、みくるさんに挨拶できる俺が理解不能で、みくるさんとおしゃべりできる俺が異常でしかなかったから。

 

 絶対にありえないことだ。俺が朝比奈みくるさんと触れ合えるなんて、絶対にありえっこないんだ。

 

 入団する前もした後も、しばらくこうだった。ハルヒの魔訶不可思議パワーでしっちゃかめっちゃかなことになっても、みくるさんのすぐ傍にいれる方が魔訶不可思議でしょうがなかったんだ。はるひのしっちゃかめっちゃかも現実で起きている。ちゃんと受け止められる事実だ。みくるさんのすぐ傍にいれるのも現実に起きている。そんな事実は受け止めきれない。

 

 だからこそ、俺は調子に乗っていってしまった。部活中お話なんてしてしまう。部活関係なしに話しかけてしまう。見かけるだけでは物足りなくなって、見かけたら声をかけずにいられなくなる。声をかけたならかわいいと絶対に言うようになる。かわいいと言う度に蓋をしてないといけないものが爆発しそうになっていく。ただの感謝の言葉だけでもどうしようもなくなってかわいいに色んな意味を付加して言いまくっていた。

 

 話をすることでみくるさんのかわいいをたくさん知ることができた。また聞きとか何処から入ったのか分からない情報以上に、たくさんのかわいいがあってそんな情報なんかよりすっごく可愛いことを知ったんだ。ちょっかいかけられたらたまに反抗もするんだ。でも、その反抗もかわいいんだ。部活には出ないだけで話しかけたらちゃんと会話もしてくれる、なんて知らなかった。あまりにもかわいい。宿題を手伝ってくれる時も知らなかったけどかわいいことするんだ。俺的には難問で唸るしかないのを丁寧に教えてくれる。隣に座って、ルーズリーフでみくるさんなりのアドバイスを書いたのと一緒に教えてくれるんだぜ。それで、上手く解けたらファンシーなキャラを隅に書いてよくできましたってみくるさんも嬉しそうにしてくれるんだ。そんなこと俺も知らなかったよ、こんなにもかわいいなんてさ。俺のお菓子にも意外と興味を持ってくれるんだ。主食はマシュマロとか言いそうなかわいい人なのに、枯れ木みたいな色合いのお菓子を食べてみたいなんて興味持ってくれるんだぜ。食べてみくるさん的に残念だったら、泣きべそかきながらちょっと怒って俺の名を呼んでもくれるんだ。全然知らなかった、どうしてここまでかわいいのかなんて。

 

 そんなに色々かわいいを知ったら、口先だけのかわいいにならなくなるに決まっている。本心から可愛いと言い出すのは、みくるさんの傍に居る現実を受け入れていないにも関わらず、時間なんかかからない。夢と現の間で、みくるさんの色んなかわいさに本気でかわいいと思っていった。本気で可愛いと思う度に、蓋をしていたものが蓋ごとぶっ壊して暴れる。

 

 かわいくて、好きだ。好きだから、かわいいが止まらない。かわいいのが止まらないせいで、好きすぎることになっていく。

 

 こんなだから。愛想なんてつかして、いつもの先輩後輩になって終わってしまえばいいと思っていた。

 

 勝手にどうでもよくしていたくせに、勝手に本気でかわいいと思い出した挙句に、勝手に誰よりも好きになってしまったなんて、阿呆が過ぎるじゃないか。

 

 誰よりも、俺だけを好きになって欲しいなんて図々しい。身の程を知れ。愚の骨頂だ。

 

 自分自身への強い失望感とも合わせて扉を開け放つ。

 

 いないでほしい、と誰よりも願った。待ってなんていないでほしい、と誰よりも望んだ。

 

 それなのに。

 

 

「おはようございます、シャドーくん」

 

 

 本当は願わずにはいられなくて、望まずにはいられるわけがないだろうが。

 

 

 #*=*#

 

 

「ちゃんと来てくれたね」

 

 

 今いるのはあたしの部屋ではない。シャドーくんの教室。この学校のシャドーくんがいつもいるクラスのもの。あと少しであたしが二度と来れなくなるもの。

 

 

「おはようございます」

 

 

 いつもよりかわいいと感じるシャドーくんだ。そう感じないとおかしいはずだけど、今は特にかわいいなんて思うところが一つもない。嫌いになったからっていうわけじゃないんだけどね。

 

 

「昨夜もごめんね」

 

 

 だから、精一杯嫌いの理由を作ってみようと思う。

 

 

「いや、俺の方こそご」

「あたしね、知ってたの」

 

 

 嫌いになるために嫌いの理由を作るっておかしいね。シャドーくんの言葉を遮ってまで、嫌いになろうなんて変だね。

 

 

「かわいいって言ってくれる人が、どういう意味でかわいいって言ってるのか。全部、誰のも知ってたの」

 

 

 シャドーくんは、え、と無意味な声を吐き出していた。嫌いになりたい理由ができる。

 

 鶴屋さんと言ったお友達からの好意的な意味しかないかわいいも。男の子からよく聞く下心だらけなかわいいっていうのも。ちょっと嫌味が強い牽制の意味が多分にあるかわいいっていうのも。全部、知っていた。誰がどういう意味で言うのか、特定してすらすら答えられるぐらいに知っていたの。

 

 

「色んな人がかわいいって言ってくれる。その度に嬉しくなるのも困っちゃうのも、悲しくなっちゃったりするのも全部カテゴリーで別けていたの」

 

 

 いつものふわふわしたシャドーくんがそわそわとしている。嫌いなそわそわしている感じだ。

 

 この人はいい人、優しい人。あの人は苦手な人、関わりたくない人。ああいう人は、もう会わないようにしようとか。こういう人とはもっと一緒にいたいとか。もっと大まかに別けるなら、いる人といらない人で別けていた。この人はいる。あの人はいらない。取捨選択をよくしていたの。

 

 

「あたしだって嫌なことする人は嫌いになるよ。涼宮さんが嫌な事したらあたし何してたと思っているの?」

 

 

 シャドーくんは困ったような様子であたしの頭上で目を固定しているみたい。嫌いなところがあった。

 

 嫌なことし続ける人なんていらないに決まっている。あたしだってそういう感情に任せた理屈で動くよ。お仕事だと我慢しなくちゃいけないけど、関わらなくていいなら二度と関わりたくないって人もいる。

 

 

「それと同じようにあたしが好きになることしてくれてたら好きになるんだよ」

 

 

 シャドーくんの目があたしの頭の上にすらいなくなる。あたしの後ろの景色に逃げていた。嫌いが生まれる。

 

 かわいいと褒めてくれるなら好意を抱く。お話して楽しいなら好意を持つ。誰でもそうなるもの。あたしだってそうだよ。北高のアイドルなんて呼ばれているけど、誰にでもいい顔するわけじゃないし誰にでも愛想よくしたいわけないんだから。

 

 

「でもね、誰でもってわけじゃないから」

 

 

 好きになれることをしてくれるから必ず好意しか抱かないなんてことはない。嫌いなことをするからといってその先もずっと嫌悪しかないなんてこともない。好きになれそうでなれなくなっちゃうこともある。嫌いだったけどそうでもなくなることもある。

 

 

「誰でも好きになれるよ。でも、誰でも嫌いにもなるんだよ」

 

 

 教室の出口へ向かう。シャドーくんとは反対の方の扉へ向かう。誰だから分からないけど、後ろの黒板に落書きなんかしちゃっている。学校の備品なのにいけないんだ。その落書き、シャドーくんのも一緒のあるんだね。

 

 

「ね、シャドーくん」

 

 

 振り向かないといけなかった。それでも、難しすぎて出来なかった。怖いわけじゃない、色々が嫌いだからじゃない。ただ、とてつもなく今のあたしには難しいことだったから。

 

 

「きらいでいい?」

 

 

 うつ向いたまま、シャドーくんに告白した。

 

 

 

 _

 

 

→「いやだ」

→「いやだ」

→「いやだ」

 

「いいよ」

 

 

 血反吐を吐く思いだった。それなのにそう出した俺の声はあまりにも軽い。痛くなんかない、平気だと誤解されるものだ。痛くもかゆくもない、大丈夫だよと間違われるものだ。なにも平気じゃないし、大丈夫なんかでもないのに。

 

 

「きらいでいいよ」

 

 

 相変わらず無遠慮な軽さだった。逆撫でるようなものにしか聞こえないものだ。逆上を強請る悪党の台詞と一緒だった。

 

 

「俺のこときらいでいいから」

 

 

 泣きそうなことを自分で言っている。泣きそうになるくせに声が不愉快なほど軽すぎる。手から離れてしまった風船のように、どうしようもない困った軽さしかない。

 

 でも、そう軽くしていないとみくるさんもぺちゃんこに潰れちゃうから。

 

 

「いつでもきらいでいいよ、ずっときらいでもいいよ」

 

 

 逃げていかないのは分かっている。離れていかないのなんて知ってる。だって、自分から檻に入って待ってくれているんだから。簡単に抜け出せるのに、待っているんだから。逃げられるのに、離れて行っちゃってもいいのに、檻の中で待ち続けてくれる。お好きにどうぞってしてくれている。

 

 

「いつか、好きになってもらうから」

 

 

 近寄る。反対の扉にいるみくるさんの方へ。俺も小型で助かった。机や椅子にぶつかる暇もなくするっと近寄ることができる。猫が忍び寄るように、猫が甘えるように、近寄ることができる。

 

 ここへ来た時から、ずっとうつ向いたままのみくるさんの傍に行けた。

 

 

「きらいなんだよ……?」

 

 

 俺の声とは対照的に重たい声だった。このフロアの床が抜けるくらいに重そうに感じる。でも、そうなるのが当たり前だ。俺は今、また告白しているんだから。嫌われるための告白をしているんだから。

 

 

「すきじゃないんだよ?」

 

 

 みくるさんは好きになって欲しいという告白をしているのに。好きだよって告白してくれているのに。俺はそれに今からもっとひどいことをする。

 

 

「必ず俺を好きになってもらうよ」

 

 

 みくるさんの言葉の裏を読まない。2日目の夜のも、その前のも今だけ全部理解を放棄した。みくるさんは悪い人じゃない。嫌がらせを率先してやるひどい人じゃない。嫌いだからって嫌がらせをやるなんてクズなんかじゃない。ああやってからかっていた。俺に甘えていたってことだ。ウサギちゃんが鼻を鳴らしながらくっついてくるのと同じだった。好きだよとアピールしていたんだ。臆病な生き物がちょっと強気な態度をとって気を惹きたがっていただけだ。それを今日の今、思い知らされている。

 

 まだ気を惹こうとしている。まだ俺のことを好きでいる。もっと好きになりたいって、もっと好きになって欲しいって、うつ向いたままで頑張っているんだ。

 

 その理解を放棄する。

 

 気を惹くためになにしようが、無碍にする。むしろひどいことをして困らせようとしていた。

 

 

「難しいこと言っちゃうんだね」

 

「とっても簡単だと思うよ。俺の名前を書ききるよりも、ずっと簡単だよ」

 

 

 難読字ではないと思うけど画数が多すぎる俺の名前。テストの時、名前を書き終わっただけで全てのやる気をなくすぐらいには書くのが大変だ。

 

 

「テストの時、名前書いただけで手疲れちゃうんだもんね?」

 

「ばっちゃまに書道習ったけど、一文字書くのだって面倒くさい時は面倒くさいもんさ」

 

「シャドーくんの字勢いがあるもんね。こう、猛者って感じだもん」

 

「竹筆でよく書いてたからね、癖になっちゃった」

 

「これも、そうなんだ」

 

 

 教室の後ろ側。左右の掲示板スペースに挟まれたもう一つの黒板。運動部のやつとかが大会への意気込みや宣伝を書いたり、女子達が伝言板代わりに使ったり、いつのまにか誰かの力作が乗っていたりする。色々な色のチョークを使って雑に扱っているからか、他の教室より汚い黒板。

 

 その黒板に、俺の名前が書いてある。俺の直筆だ。チョークだから書きづらかったけど、それでもいつも通りの勢いが強めの俺の字。横の隅に書かされた。その俺の名前の周囲でからかいの言葉なんかも書かれている。舌バカ、ゴミお菓子モンスター、主食サルミアッキっていうほぼ悪口。あの赤いのまたくれ、あのチョコどこで売ってるの、このお菓子オススメなんかもある。あたしよりもちみぃ、弟よりミニマム、うちのリンゴちゃんより小さめという虚しくなるもの。

 

 そこにほんの一、二個ぐらいかな。誉め言葉が書かれてもいる。

 

 かわいいね、と書かれている。(笑)付きのとないのがあった。

 

 

「ね、シャドーくん」

 

「なに?」

 

 

 これから言われる言葉は知っている。勘違いでも間違いでもなく、みくるさんの本当の告白だ。裏を読む必要のない。ただの告白をするんだろう。

 

 堂々と告白される姿勢を取る。正拳の構えに似たなんかだ。いつでもこいという気概があった。

 

 が、一気に負けが見える。手を触られただけで腰から下の力が抜けかけた。好きな女の子に触られただけで一瞬負けた。慌てて気合を入れなおす。無意味だった。突き出すようにしていた手、触られた手をみくるさんが引っ張る。合気道でも受けた気分だった。倒れはしないように踏ん張る。それも、一緒に倒れてあげる気概のみくるさんが[ザ・○察官]のリアル難易度にする。避けられるわけがない、現実的に考えて。

 

 好きな人のアグレッシブさにも、好きな人のそんなかわいいさにクラクラしながら踏ん張る。

 

 

「シャドーくんが好き」

 

 

 その俺の耳元で、かわいくてたまらない告白をしてくれた。

 

 

 

 

 

(++)”””

 

 

 

 

 

 嬉しくてどうしようもない。鳥も祝福してるみたいだし、さらにうれしさが募る。ちゅんちゅんと、どこからか鳴いている。あいつら出来てますわ、って茶化すみたいに。

 

 ちゅんちゅんと、よく鳴いている。この四日間一度も聞いたことのない鳴き声が今聞こえている。

 

 

「んんん!?」

 

「わっ、なに!?」

 

「みくる先輩、鳥!!」

 

「鳥?」

 

「鳴いてる、いる!!」

 

 

 スピーカーから流れる音声ではない。声のする方へ視線を向けると、電柱ら辺にもいた。他の所にもいる。校庭のそこら辺。木陰辺り。

 

 それに何処からかシャッターを開ける音。謎のパァンッという音。不特定だけどバイクや車の音。誰か知らんおやじのうるせぇくしゃみ。全部日常から来るものだ。日常にいればいつでも聞こえるものだ。

 

 今までの非日常であった四日間で一つすら聞こえてこない、日常の証が、今聞こえている。

 

 

「え、っと?」

 

「戻れたって、ことですかね?」

 

「たぶん……」

 

 

 気が抜けた。さっきも気が抜けていたけど、更に抜けた。近くの椅子にしがみつく感じで座り込んだ。その所為で色々また抜けていく。覇気も元気のない笑い声が出てしまう。

 

 

「あはははー、もー、なんなんだよー……」

 

「あはは……ほんとに、もー……だね」

 

「そうです。もーですよ、もー」

 

「もーもーって、シャドーくんは牛さんになっちゃったの?」

 

「闘牛にクラスチェンジはいやだよ」

 

「ふふ、あたしもシャドーくんが牛さんになったら困っちゃう」

 

 

 そういえばと気づく。俺の胸元に誰かいる。別に不可思議なことじゃない。みくるさんがいる。俺の好きな女の子がいる。不穏な気配はない。みくるさんがただ笑っているだけなんだから。

 

 女性らしく上品で、女性らしく小悪魔的で、女性らしく綺麗なあの微笑み。誰よりも女性らしく、どんな男を惹き吊り混ませる、とても綺麗なお顔。目を三日月に細めて、口を隠して笑う上品な笑み。山猫のように笑っている。俺が誰よりも好きになるかわいさだらけな笑顔だ。

 

 

「牛さんは恋愛対象にはなりませーん」

 

 

 かわいいだけで済まないみくる先輩の主張だった。

 

 

 

 

 +

 

 

「あら、みくるちゃん。それ入れるの?」

 

「はい、テレビでちょっと入れると良いって出てまして」

 

「みくるー、これも入れないかい!?」

 

「なんです、それ」

 

「バルサミコ酢さ!!」

 

「これにかけるといい」

 

「おー流石、有希っこ! フルーツポンチにかけるのも乙だね!!」

 

 

 

 賑やかだ。姦しいともいう。我らが団長と女子団員&顧問様は楽しまれているようだ。ちょっとした回復祝いなのもあるだろう。団長様の舌を満足させられるといいな。

 

 

「玉ねぎがぁっ! この玉ねぎ野郎がぁあ!!」

 

「だから鼻ティッシュもいるよって言ったのに」

 

「料理中に芸人になる奴いるわけないだろが」

 

「ゴーグルだけでは玉ねぎからの攻撃は防御しきれないんですよ、キョンくん」

 

「鼻にティッシュをシューッ!」

 

「超エキサイティングッしない!!」

 

「永遠に泣き続けるけどいいのか?」

 

「俺は俺の道を行くんだ、シャドー邪魔するな」

 

「だってー古泉、フードプロセッサー俺達で独占しようぜー」

 

「あいさっ」

 

「……っぬわぁぁあぁぁあぁ!!」

 

 

 玉ねぎのみじん切りでボロボロの幼馴染。使うのかな、と思って一個渡そうと思ったけどいいみたいだ。玉ねぎはね、犬猫にも毒だけど人間にも攻撃してくるんだよね。新玉ねぎとかすげー好きだけど、あいつら切断された途端猛反撃してくるから怖いよ。目も鼻も蹂躙してくるの怖すぎ。

 

 学校の調理室を使ってお料理作り。ちょっとした風邪から復帰したハルヒの発案だ。材料はハルヒのカツアゲ、もといお願いで頂いたり、鶴屋さんが持ってきてくれたり、俺達SOS団団員達が買い込んだもの、俺が買ったものだけ念入りに検品されたのは大変失礼に思った。ただのマスタードソースにまで、なんでそんな警戒すんだよ。ハルヒも睨まないでくれよ。ハバネロぐらいは許されるべきだろうに。ジョロキアじゃないからいいだろうに。ハバネロは安全圏にいんでしょ。

 

 なので、味付けを任せてくれない。幼馴染や古泉や傍で監視組、それとなく警戒態勢の長門が許してくれない。俺は面白い変なものが好きであって、皆に嫌がらせがしたいなんて考えていないのに、大変失礼に感じる。

 

 

「古泉はハンバーグになにかける派? 幼馴染ん家は○ケモンの所為でケチャップオンリー」

 

「個人情報漏洩止めろ」

 

「僕もケチャップです。目玉焼きなんてのも乗っけて更に」

 

「あー、いいなーそれ。今度頼んどこ」

 

「妹ちゃんの旗の厳選がまた始まるな」

 

「お子様ランチのみたいなのですか?」

 

「そー、最近は……。──、なんだった?」

 

 

 幼馴染の努力の成果の玉ねぎどもをひき肉に混ぜ込んで、更に空気抜きとかしていく。作り方は古泉先生が教えてくれます。大きさバラバラでもとてもお優しいです。ちょっと変形型にしても怒らないです。あとで普通の小判型に成型させられましたけど。

 

 

「最新は動物系だな。ほら、座禅くんでるおサルのとか見たろ?」

 

「あー、動物シリーズか。一巡ぐらいした?」

 

「この前は……蛇の串焼きを食べてる狸だったな」

 

「実際に狸って蛇食べますよ」

 

「まじかよ。ぽんぽこしてる場合じゃねぇじゃん」

 

「妹ちゃん真似した?」

 

「親と一緒に叱った」

 

 

 どこかの○ブリで出てたイモリの黒焼きとかで同じこと俺もしようとしたなぁ。幼馴染も一緒に叱る側にいたの、未だに疑問が残るよ。お前も食べてみたいって言ったじゃんか。

 

 

「シャドー、ちょっとー!!」

 

「あいあいさー!」

 

 

 団長様からお呼び出しだった。幼馴染と古泉が道場とか色々服んだ視線を送ってくる。心配なんていらんのよ。多分ね。

 

 

「お呼びでございますか」

 

「そうよ」

 

 

 団長様には身長は勝っている。が、僅かにもそれで勝ち誇っていると、笑顔でミジンコ並みに小さくなるようお星さまにお願いするわよ、とか威圧をされる。なので、全力で下手に出る。団長様のお願いなんて絶対叶っちゃうものだからやめておくれよ。

 

 

「みくるちゃんの集中切れてるから構ったげなさい」

 

「涼宮さん!!」

 

「はい、喜んで!!」

 

「シャドーくん!!」

 

 

 まぁ、愛らしくもちらちらこっちを見ていたのは知っていたけども。ハルヒも丸ごとそういうのも観察していたとは恐れ入る。かわいいからちらちら見てくれるの嬉しいけど、怪我とかしたら俺も嫌だしね。

 

 

「湯煎するのも泡立てるのも、根気と集中力がモノを言うんだから。それがゼロな人はあっち行きなさい」

 

 

 確かにそうだ。みくるさんのお家で一緒に頑張っていたものの、泡立てマシーンを酷使しても疲労はする。チョコとかバターの湯煎も割と気を遣うんだもんな。しゃびしゃびになったらもう俺が飲み込むしかなくなるんだから。百グラムのバターをシャビってしまった時、みくるさんもどうしようってなったよね。ボウルって底が丸いから不安定すぎるんだ。

 

 ちょっと慌てていたけど端の方に行く間に大人しくなっていた。しゅんとしおらしくなったわけじゃない。してやったりを頑張って隠そうとしているからだ。

 

 

「ほい」

 

「ありがと」

 

 

 紙パックのジュースを渡す。いつものように、受け取った瞬間ちょっと警戒してそれをよく観察した。悪戯心がある時ない時かまわずでジョーク品を渡していたからだ。勿論、クソまず味とか○味ビーンズのハズㇾどもみたいなのではない。パックに書かれている味とは違う味付けのをよく渡していたりした。ストロベリーと大きく書いてあるのに梅ジュースとかね。ちっさいとこにホントは梅ジュースとか書いてあるから表示法違反とかにはならないよ。

 

 

「これはイチゴです」

 

「……うん、イチゴのだ」

 

 

 This is TOM. No,this is pen.  の直訳みたいな会話になっていた。あれもなんでペンとトム間違えたんだろう。ペンが人間に見えるってすごいよね。トムってそんなにペンに似てるのかな。棒人間ってことなの? イマジナリーフレンドだったの、トムって。

 

 

「シャドーくんの方が悪いのに」

 

「はて、悪いことした心当たりなんてないんだけど?」

 

「いらない調味料とか持ってきたよね」

 

「○人のふりかけは禁止されていないはず」

 

「お米使わないでしょ、今日は」

 

「味変でハンバーグにかけたりするよ、うちだと」

 

「修行させなきゃ……、普通に食べるっていう修業をさせなきゃ……」

 

 

 確かに今日の主食はパンだ。フランスパン祭りだ。鶴屋先輩が御贔屓するパン屋さんのフランスパンたち。こっそり幼馴染と味見してみたが、高いは美味いを理解させられた。噛めば噛むほど甘みを中心にしたうま味が襲う。それをさらに感じさせるように焼けた小麦のいい香りと、ちゃんと味わわせてやると言わんばかりの楽しい歯ごたえ。鬱陶しくならないくらいの香しさ、顎を破壊しない程度の歯ごたえ、甘みとうま味の暴虐さ。スーパーにある食パンたちじゃ勝てるわけがない。アレもアレで美味しいけど、ピーナッツバターやジャムがあってこその美味さだ。このフランスパン達は違う。単体ですべてのスーパー陳列パンを駆逐する。あんこになんか頼ってんじゃねぇ、と言わんばかりにスーパーのアンパン以上の甘みとうま味が顕在するんだ。勝てぬ。

 

 

「でもチラチラ見すぎてたのは事実じゃん?」

 

「それは、シャドーくんの所為なのに?」

 

「そんな気にする? ハンバーグ作ってるだけなんだけど?」

 

「作る前にあたしにあんなこと言うからー!!」

 

 

 萌え萌えキュンとかやってなかったけども。

 

 

「”愛情込めて作るね”なんて言うからー……っ!!」

 

「みくるさんも言うじゃん、一緒に作る時」

 

「他の人の前で言うから~なの!!」

 

「習慣になってしまったので、修行により」

 

「……んーっんん!!」

 

 

 拗ねてるけど嬉しそう。顔はそっぽ向かれてしまっているけど、そういう雰囲気なんてよく分かる。みくるさんちでお菓子とか一緒に作る時もこんな感じなんだし。砂糖とかの分量計る時も、オーブンのとか温度設定の時も、焼き上がりとか出来上がりの時だってこんな感じだ。おいしくなるといいねって言うと、愛情込めてるから美味しいだけだよってちょっと拗ねて言い返すくせに顔はニコニコしてたりするんだから。

 

 

「ま、誰かに作る料理って基本愛情入れるもんなんでしょ? みくるさん師範も言ってたじゃないか」

 

「言ったよ。言いましたよ。そういう修行だったから」

 

「修行の成果を出してやりますよ」

 

「時と場合があるんだから……」

 

「あんな感じに?」

 

 

 紙パックを持ってない方で頬を突いてあげて、そのまま向こうを指さす。

 

 

「キョン―、あたしのチーズ入れといてー」

 

「はいはい」

 

「高いやつよ」

 

「わかってるわかってる」

 

 

 幼馴染を見てハルヒも見ておく。いつも通りの他愛ない感じだけど、微笑ましさまみれで困ってしまう。同じように見ていたみくるさんと目が合った。

 

 あの顔だ。女性らしく上品で、女性らしく小悪魔的で、女性らしく綺麗なあの微笑み。誰よりも女性らしく、どんな男を惹き吊り混ませる、とても綺麗なお顔。目を三日月に細めて、口を隠して笑う上品な笑み。山猫のようなあの微笑み。

 

 間違いなく幼馴染とハルヒに向けていた。

 

 それも俺と目が合うと別物に変わる。好きが抑えられないっていうかわいくってたまらない、どうにも好きだらけになる満面の笑顔になっていた。

 

 

 

 

 

 ++

 

 

「理不尽すぎん……?」

 

 

 案の定、俺もカツアゲされていた。ご飯は美味しかった。フランスの有名店で修行してきた人のパンとか美味すぎて笑ったよ。流石鶴屋先輩、お嬢様だ。ご近所パン屋では味わえない段違いな美味さだった。ご近所パン屋も美味いっちゃ美味いけど、ちょっと贅沢な美味しいパンを食べたいときは寄らない。なるべく普通に美味しいのがご近所パン屋の売りだ。お値段も有り難いので重宝する。ちょっと残念な感じに似てない○ンパンマンシリーズも重宝している。妹ちゃんが喜ぶんだ。

 

 

「完コピした萌え萌えキュンやったのに……」

 

「アレンジしちゃったからだね」

 

「○ツケンサンバは全国民に愛されてるのに……」

 

「結構シリーズあるよね。どれぐらい続くんだろ」

 

「ロー○十三章超えそう」

 

「サンバってそんな続くものだっけ」

 

 

 親戚の披露宴で舞った萌え萌えキュンと○ツケンサンバを悪魔合体したダンスは気に入らなかったらしい。披露宴に来てくださった方は爆笑の嵐だったのに、何故だ。一緒に踊った他の親戚もしばらくチヤホヤされていたのに、どうしてだろう。

 

 永遠の疑問を抱きつつ、部室の隠し棚から、スナック系やチョコ系のものを引っ張り出す。パッケージやら何やらにはスリーナインや、小数点があるのに全然四捨五入しないで無限に続いていたり、何故か数字の前にマイナスがついていたりする。本当に秘蔵だったのに、団長様に献上するしかないなんて切ないなぁ。頑張って保冷とか効くお高い保存箱にしまっていたのになぁ。

 

 

「これ、チョコなのに辛いの?」

 

「ワサビ的なツーン型、それ」

 

「これは……ビーンズって書いてあるけど痺れる酸味って」

 

「それは……食べたらしばらく味分かんなくなる系だったかな」

 

「わぁ……」

 

 

 みくるさんが渡してくれた袋に、賞味期限を確認しつつ入れていく。みくるさんも同じように確認してくれるので助かる。

 

 

「どこで買うの、こういうの?」

 

「ネットサーフィンとか親戚からとか、ネトゲの人からオススメ聞いて」

 

「ちゃんと食べられるんだよね?」

 

「サルミアッキなんかも食品だから、イケルイケル」

 

「あれはお薬だから」

 

「コー○も風邪の時いいらしいしねー」

 

「コー○の会社の人が名誉棄損で訴えてきそう」

 

 

 あれも元はお薬。ペンバートン氏っていう薬剤師さんが、風邪に効くお薬として販売してらしい。当時も嗜好品じゃなくて風邪薬として飲まれてたようだし。海外では風邪にはコー○は当たり前だとか。ま、治るかもしれないねっていうぐらいだけどさ。未だに風邪の特効薬なんてないんだもの。

 

 十ちょっと個ぐらいあればいかな。袋にそれだけ詰めても軽い軽い。みくるさんの肩こりの種にもならないだろう。俺は袋を抱えて、すでに立ち上がっていたみくるさんを見上げる。

 

 

「もういいの?」

 

「もうよくしないと俺の楽しみ消えちゃう」

 

「お菓子を食べたいなら言ってくれればいいのに」

 

「これは別枠というか、別腹というか」

 

 

 女の子には誰にでも搭載されている別腹は俺にもある。みくるさんのお菓子は美味しい。ケーキも美味い、クッキーも美味い、スコーンも美味い。全部美味い。愛情を込められているから殊更美味いもんだ。入れてくれるお茶もお菓子に合わせて色々変えてくれるから、更に更に美味い。美味くて幸せ、可愛い彼女がニコニコしてくれるからずっと幸せ。スーパーハッピーだ。

 

 けど、たまに。たまには、自分の口を滅ぼしたくなる時が来るから。美味しいものを食べるとハッピーだ。だが、そのハッピーも何かしら積み重ねた上でもっと真摯に感じるべきものだ。だから、愉快な方特化のお菓子を喰らいたくなる。純粋に美味しいとは言えない、純粋にオススメなんてできない、純粋に定期購入などしたくない。そんなもの達をたまには喰らいたくなるもんだ。だって、男の子だもん。ラーメンとチャーハンと餃子はいつもセットでないと嫌なんだもん

 

 

「もー、……いこ?」

 

 

 片方の持ち手を持たれる。同じように俺も逆の方を持った。子供が出来たらこういうふうに歩くのかな、なんて考えた。

 

 

「美味しいのじゃダメなの?」

 

「たまには美味しくないので口を滅ぼしたくなるから」

 

「あたしと作ったのだけじゃダメなの?」

 

「そういう美味しいもんのために口滅ぼさんと」

 

「もー! 今度のシュークリームの時ワサビ入れちゃうんだから」

 

「それ前に自爆したことなかった?」

 

「あ、そうだ。なんであたしが食べることになるの、シャドーくんのためにやったのに!」

 

 

 たまにサプライズもされる。今のところ八回中五回ぐらいはみくるさん自身当たりを引いてしまっている。プリン一個ずつだったり、クッキーほどの小さめがたくさんだったりを二人で食べてヒーハーすることもある。お昼ご飯の後のお楽しみだ。サプライズがあるなしに関わらずお楽しみなんだ。直前で、サプライズですって言っちゃうから自分で当たりを引いちゃうんだと思うけど、その様子もとてもかわいいので言わない。

 

 サプライズされる日は決まっているから、俺も色々察するんだから。

 

 

「一つだけカラメルソースじゃないよって言ったの、自分で引いてたね」

 

「ちゃんと食べられるものだけど、甘いだけのお菓子が好きなのに……」

 

「すごく美味しかったよ、サプライズのも」

 

「シャドーくんの味覚は信用できないから」

 

「俺の彼女が辛辣すぎる……」

 

 

 いつも愛情モリモリのお弁当美味しいって言ってるのに、それも信用されてなかったんか。でも、ニッコニッコだったけどなぁ。嬉しくて喜んでいるだけに見えてたけどなぁ。定期的に口を滅ぼしてるから信用ないのか。けどさ、必要なことなんだからしょうがないじゃん。

 

 

「相変わらず、かわいいって言われるのも信用できないよ」

 

 

 俺が言う言葉だ。

 

 

「かわいいって他の人に言われるの、嫌だなー」

 

 

 俺が言う言葉だ。

 

 

「シャドーくん」

 

 

 みくるさんが自分の持ち手の方を引っ張る。意外なことに力が強くて俺はぐらついた。みくるさんを巻き込んで転んでしまいそうになる。慌てて、空いている方の手を壁について阻止した。

 

 みくるさんを追い詰める形になっている。俺の手でみくるさんを追い詰めている形になってしまっている。それは、間違いなく悪手だった。だというのに、みくるさんはそんな俺の手に自分の手を重ねて頬ずりなんてしちゃっている。猫が忍び寄るように、猫が甘えるように、近寄ることができてしまっている。

 

 

「またかわいいって言われたね」

 

 

 俺がまた言われた言葉だった。サプライズする前日にみくるさんの耳に入ってしまうことだった。クラスメイト達のかわいいは、好きって意味じゃないって分かっている。みくるさんもそうだ。それでもサプライズとしてお仕置きを込めるのをやめない。俺もそれを咎めたり止めてくれと頼んだことはない。まだ信用が足りないからだ。

 

 今日もそうサプライズされる日だった。その前の日はみくるさんの信用を無くす日だった。俺を好きじゃなくなる日、俺を嫌いでいる日だ。

 

 俺は今、みくるさんに嫌われている。

 

 

「あーん、するね」

 

 

 俺は荷物を落とした。みくるさんも持っていないんだから、床に落ちる。中身が大変なことに、なんて気にせず言われるまま口を開けた。山猫が舌なめずりするような気配を感じる。目の前の人からそんな気配を感じる。味わってあげるねという優し気配だった。

 

 口に入れられたのはマシュマロだ。野暮ったい食感に一瞬眉を顰める。それにみくるさんが笑った。女性らしく上品で、女性らしく小悪魔的で、女性らしく綺麗なあの微笑み。

 

 

「はい、あーん」

 

 

 次々とマシュマロを口に入れられた。五個ほど口に入れられて食べ終わると、にこりとみくるさんが笑った。誰よりも女性らしく、どんな男を惹き吊り混ませる、とても綺麗なお顔。

 

 

「ね、言って」

 

 

 目を三日月に細めて、口を隠して笑う上品な笑み。山猫のようなあの微笑み。俺を味わってあげるねと優しく誘惑する、好きな女の子の微笑だ。

 

 

「俺が好きって言うのは、みくるさんだけ」

 

「えー、信用できないなー」

 

「好きなのはみくるさんだけだよ」

 

「ふふ、信用が足らないかな?」

 

 

 嫌われている。間違いなく嫌われている。拗ねてるけど嬉しそう。顔はそっぽ向かれてしまっているけど、そういう雰囲気なんてよく分かる。それでも、今だけは間違いなく俺は嫌われている。

 

 

「俺はみくるさんにだけかわいいって思ってる」

 

「信用できませーん!」

 

「好きだよ、誰よりもみくるさんが」

 

「まだまだ信用がないかなー?」

 

「みくるさんが好きだ」

 

「ふふふ、まーだだよー?」

 

 

 どんな女の子よりもずっとかわいくて、どんな女の子よりもすごく愛らしくて、どんな女の子よりもずるすぎるくらいに好きな顔だ。かわいくて愛しくて好きだ。こういうやり取りでも、それは全く変わらない。むしろずっとずっとかわいくて困っている。すごくすごく愛らしくて参っている、誰かと比べようもないくらい好きだった。

 

 

「あたしはね」

 

 

 これから言われる言葉は知っている。勘違いでも間違いでもなく、みくるさんの本当の告白だ。裏を読む必要のない。ただの告白をするんだろう。身構える気も起きず真に受けるんだ。

 

 

「シャドーくんが好き」

 

 

 そっぽ向いてた顔を戻して告白してくれる。山猫のようなあの微笑み、では決してない。

 

 これは。

 

 ……いつか必ず好きになってもらうよ、みくるさん。

 

 

 

 ─goodend レインコートの脱ぎ方をうさちゃんは忘れてしまったようです─

 




グッドエンドです




ハッピーエンドは自サイトの方で読めます。(ゲームブック方式です)読みたい方は私のユーザーページのリンクからお飛びください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

涼宮ハルヒ(鶴屋ルート)

設定

あだ名:シャドー

概要:主人公(シャドー)はキョンの幼馴染み兼同級生の男子高校生。ハルヒとのスポーツ勝負で勝敗は着かなかったが、ハルヒに気に入られ、彼女の勧誘を受けてSOS団に入団する。

一人称:俺

容姿:髪は黒の短髪。顔はキョンと同じ普通な感じ。

身長:キョンより十cmほど低い。

性格:自由気ままなマイペース

家族構成:父、母(普通の一家でよく一緒に出掛けたり、時には喧嘩もするが、後で互いに仲直りしたりと普通の生活を送る関係)

能力:キョンと同様に普通の人間で学業の成績は普通(悪い訳ではない)だけど、運動神経と身体能力はSOS団団長・涼宮ハルヒと互角とかなり優れている。



主人公のお名前はリクエストされた方のを借りております。



一日目

 

 聞きなれた携帯のバイブ音が聞こえる。

 

 ぼやぼやなままの頭はある選択肢を浮かべた。

 

無視する

 

 

 上手いこと動こうとしない体と同じように頭が鈍い。

 

 鈍いままの頭は二つのことくらいしか考えられないままだ。

 

休息をとる

起きることにする

目をこする

 

 

 

 目をこする。

 

 ショボショボなんてレベルじゃないショボっくれてしまっている目をこする。上目蓋と下目蓋が糊付けされているようなショボったれ具合。生まれたてホヤホヤの赤ちゃん並みな目の開けづらさ。こんなの幼馴染と高校受験終わりの打ち上げ以来だ。お菓子とジュースとゲーム。もうこれだけで大盛り上がりだった。受かる判定はどっちの親も知っていたんだけど、万が一でさっきの三つ禁止令を出されていたからそりゃもうパーリータイムだよ。

 

 猫の欠伸五回分ぐらいの時間ずっと顔を洗った結果、お目目が開きました。こすりすぎて目蓋とその周辺がとてつもなくヒリヒリするけど無視っておこう。

 

 あれは、現実だったはずだ。絶対さっきの顔文字とのことは夢なんかじゃない。夢であってほしいが、現在進行形で現実的に非科学的現象に見舞わされている。

 

 とりあえず起きよう。そんで、探さなきゃ。一人だけじゃなくて、みんなを。

 

 うちの幼馴染とハルヒが集めた我らがSOS団、その顧問の鶴屋先輩、頼りになっちゃう喜緑先輩、話クドイ系友人の佐々木、大事で大切な妹ちゃん。誰一人として見落としてなるもんか。

 

 団長に任命された特攻隊長というご名職を名折れにしちゃ、団長にシバき回されちゃうからね。

 

 それなり装備を装着して、外へ。

 

__  SKIP START____.

 

 

 部屋の向こうは見慣れた学校。

 色合いも物の配置も、なんというか北高の空気感ってやつでさえ見慣れ過ぎた奴だ。廊下の一部分にある謎のへこみや、窓の近くにある誰かがはっ付けたシール、消火器近くに忘れ物のだと思われるカバー無しの置き傘。窓から差し込む太陽の光、それに照らされた学校のあちこちに妙なシンパシー、そのシンパシーついでに軽妙な安心感と軽度の徒労感。

 全部全部、いつもの北高、という意識しか沸いてこない。その全部になんだこれは、と思うのに、それに更になんだこれは、でまたまたさらにそいつに、なんだこれは、な思考永久ループな俺。

 

 テストは体育以外暗記で点とっている俺に考察力だか推察力だか、どっかのバリツ使いみたいな能力なんてのはまともにあるわけがない。知恵熱で脳みそがプリンになる前に頭を振る。右見て左見て、右見て。見渡しても何もかもいつもの北高感。

 

 だけど、誰もいない。

 

 誰一人いない。

 

 平日なら当たり前にいるたくさんの北高の人たちも、休日でも部活人や先生とか、たまに業者さんとか。五十メートルも掛からずに誰かしらを目にするはずなのに。

 なのに、誰もいない。一学年に九クラスもある北高に、誰もいない、なんてことあるわけないのに。

 

 恐怖感だけなのか。それに伴う興奮状態からか、足が動いていた。 視線はまっすぐ前に固定されてしまっている。

 教室の窓や学校の外への窓を覗くことも、やたら躊躇われた。誰かいないのが怖くて。誰もいないのが恐ろしくて。その怖さと恐ろしさの意味を理解したくなくて。

 

 競歩並みの速度で足が動いている。あと一つの教室を通り過ぎてしまえば、階段だ。このままだと壁に激突か階段から落ちてのクラッシュだろう。

 

 意味を理解しきる前にクラッシュの方がいいかもしれない。

 

 足音。

 自分のものしか聞こえない。それしか耳に入ってこない。バスドラムをぶち壊せるほどうるさい足音。その一つだけしか、聞こえてこない。

 

 暗記力しか取り柄のない頭が、その所為で空回っていく。誰かいないということはつまり。誰もいないということはつまり。

 

 つまり。

 

 誰も──────。

 

 

「シャドーくん?」

 

 

朝比奈先輩?

→鶴屋先輩

 

 

 

「鶴屋先輩」

 

 

その声が誰かなんて特定できていない。声の高低差で女の子かもしれないと思っただけだ。

 だからこその、願望だったんだろう。俺以外にもいる、そんな誰か。そうあってほしいのがその人でいてほしいのだと。

 誰にでも気さくで明るくて楽しんでくれる女の子にいてほしいんだと。そんな願望。赤ちゃんの産声みたいな本能だけでの願望だ。誰か誰かと泣いて叫ぶ赤ちゃんのように、だれかだれかと願って望んだ、こぼれ出た俺の何か。

 

 

「あ~よかった!! シャドーくんもいるんだね!!」

 

 

 急いで来てくれている。でも、そこに軽やかさというか優雅さというのがいつものように付随していた。いつも元気満々な先輩お嬢さんであるが、正真正銘のお嬢様でもあるから当たり前だ。

 だとしても、今の鶴屋先輩は多種多様な御花を詰めたバスケットを抱えながら、という童話の一挿絵という感じではない。そのいつまでも大事にしたいと抱えていたのを放ってまで駆け寄ってきているようだった。

 

 そんなこちらがアウアウワウワウと、落ち着かなく心配にさせる先輩少女は階段を駆け下りてくれた。無事でよかったという落ち着いた表情と、心配していたという落ち着かなかった表情で。鶴屋先輩のそんな様子がお嬢さんでお姉さんで、俺はとてつもない安心感を抱いた。

 

 

「はは…っ、よかった……」

 

 

 涙声ではないけれど、自分でも情けなさすぎる弱虫な声が吐き出ていた。

 

 

「…シャドーくん?」 

 

 

 一階分だけの階段なのにちょっと息切れしている鶴屋先輩。ついつい御同輩に感じてしまうほど気安く感じる少女先輩。ほんのり俺の方が背が高いハズの身長、誰に吹かれなくても勝手に活発に稼働する風車のようで。そんなのだから、気安く近寄りたくなる、気軽に会いたくなる、気負うことなどない人間関係なんてのをしたくなるお方で在らせられる。今も、そう強く思っている。

 

 そのような気安く気軽なお方で、気負うことなく接せられるお方だからこそ、手早くお返事をせねばならぬ。

 

 

→鶴屋先輩で良かった

よかった、本当に

朝比奈先輩もいますよね?

 

 

 

「あ…っとー」

 

 少し気まずそうなお顔をされている。あまり見慣れないお顔だった。正直、鶴屋先輩にそういうお顔をされて欲しくない。誰よりも気まずくて居心地が悪くなるから。そんな不快感を払拭したくて、安心を得たくてまた声を出そうとする。

 

「鶴屋さ~んっ!!」

 

「朝比奈先輩ッ!?」

 

 

 その前に、階上からぽわっとしたお嬢さんのお声が降ってくる。その声を聞くことに北高の男子がどれほど切望しているだろうか。気が抜けるお声だ。だが、悪い意味では決してない。大半というか八割以上は気が抜けすぎて鼻の下も伸びることになる、北高のアイドル様のお声である。俺のいつも以上に腑抜け顔になるさ。幼馴染からしたら普段と大差ないとかどつかれるけども。

 

「ん~と…で、他の子はどこだい?」

 

「あ~っ、とぉ……」

 

 

 困った。そう、困ったんだ。俺たち三人の安全は一応確認できた。他はまだ不明、それが懸念の一つ。あとは、鶴屋先輩は埒外にいて頂かなくてはいけないってこと。お家側はがっちり絡んでいるけど、次期御当主で在られる鶴屋先輩嬢には何も言われてないし、ノータッチにしとけという念を押されている。それなのに、このような事態に巻き込んでしまった。そもそも我らが団長様ご自身も、不思議探索やらなんやらSOS団の部活動と言えるらしいものに、鶴屋先輩を誘うことも交えようともしていないんだ。

 

 つまり、先になんとかして誤魔化さなくてはならない。

 

 そこで一生懸命降りてきて息を整えている途中のお人。そう我らがアイドル朝比奈先輩に視線を送っておく。よく分かってなさそうだけど、結構察しは良いお方だ。ノリにノッて下さるはずだ。たぶん、乗り上げることはないはずだろうから。

 

 

「ややや、ちょっぴり強引な展開ですいません」

 

 

 と、如何にも慌ててますの態を見せつけて近寄って小声伝達。鶴屋先輩を騙す上に、他にも観客がいるという態のアピール。小走り+無駄にわちゃっとした手の動き、そしてわっざとらしい焦り顔。まさに悪い意味での大根役者、そのもの。役者なれずな動きで誤解してもらうんだ。

 

 

「うん? どういうことかな?」

 

「鶴屋さん、アレです、アレっ!」

 

「あれ?」

 

 

 鶴屋先輩が朝比奈先輩に注目する。ナイスアドリブです、朝比奈先輩。そのまま手をわちゃわちゃ忙しそうにして、時間を稼いでおられる。

 

 

「”コレ”系です」

 

 

 俺は両手の人差し指と親指で長方形を作る。朝比奈先輩も慌てながらも同じように。そして俺と鏡合わせのように、”カメラ”を模した長方形を上下左右に動かした。

 

 

「あ~……そ~いうか~んじなの?」

 

「そうです。そ~んなか~んじなんですよ。なんで、いい感じに。OKすか?」

 

 

 ミニシアターの方は潰れる宣言はされてしまっている。それでも、自作映画の上映ってのはどこでもできるもんだ。場所は限られるし、お金もまたもやかかる。だけど、自作映画の上映は基本的に自由だ。だからこその、次予告としての映像を撮ってます、というフリ。鶴屋先輩も今作でナレーションみたいなのや、給仕役みたいなのをやっていただいているので、これで押通る。肖像権てきなのも押し通れるはずだ。

 

あるわけないカメラやマイクなんてのを気にしないようにしつつノッてくださった。朝比奈先輩はクル○ガ的な視線を弱めてくださる。

 

 

「そっか~。たっしかにそんなののにも丸つけました、あたしも。あー、うっかり、うっかり~」

 

 

 少し大げさな感じの優雅なターンを決める鶴屋先輩。バレエのアレだ。演目は白鳥の湖ぐらいしか知らないけど、優雅さが俺でもよくわかる。演技っぽくない演技だ。ノッてノッてをして下さる鶴屋先輩に感謝感謝だ。

 

 さぁっ、と。鶴屋先輩と一緒に朝比奈先輩の方に振り返る。いきなり俺たち二人の視線を独り占めにした朝比奈先輩は、案の定ハテナマークとビックリマークを飛び跳ねさせた困惑顔に。いい画です、朝比奈先輩。

 

 

「それでは、行きましょう先輩方!!」

 

「行っくぞ~、みくる!! あたしたちの仲間の下へ~っ!!」

 

「へぇぇええええっ!?」

 

 

 鶴屋先輩に腕を取られ一気に階下へ降りていく朝比奈先輩。鶴屋先輩は奔放すぎるようで朝比奈先輩が転んだりしないよう気を付けて、朝比奈先輩も鶴屋先輩が怪我しないように気を付けて、仲良く何処かへ集合しに。それに遅れないように、且つ、少しだけ先に俺も駆け下りていく。

 

 朝比奈先輩が困りながらも俺を見る。それに口パクでごめんなさい、と頭を軽く下げて謝っておく。

 

 申し訳ないんですけど、俺のよく分からなさに振り回されてください、朝比奈先輩。なんとかなります、たぶん。

 

 最後の三段を飛び降りた

 

sKIP sTaRT

 

 

.

 

 

 お昼となった。

 

 今、俺的にはハズレまみれの商品たちをサンタクロースの如く携えている。とてもいい感じな当たりもあるが一、二個ぐらい。

 

 この不快な現象中で更にこのような仕打ち。あな憎し。

 

休息

→うろつく

 

・・

 

 

 あな憎しで、不貞寝などしても何も変わりはしない。

 

 昔の人が言ってたよ、禍を転じてゴールドラッシュって。お金に群がるのは古来からだけど、日本の徳川埋蔵金も同じだよね。どこかのコピーライターがテレビで頑張ってますって番組やってたけど、テレビにそういう映像出すってことはもう埋蔵されてないってことじゃないか。全部掘りつくしたよってことじゃないか。まだ残ってるならテレビで使う前に国が全力でやるよね、違法売買困るし。

 別局の探検隊シリーズも凄まじいファンタジーだったらしいし。あれらを純粋に信じている人って今もいるんだろうか。プロレスをプロレスって割り切れない人みたいにいるんだろうか。みちのくドライバーⅡとか本気でやったら頸椎損傷じゃすまないもの。キン○マンが漫画の世界であるように、プロレスはプロレスって世界を理解しないとね。ファンタジーなのを楽しめる大人に俺も成長しないといけないなぁ。

 

 なんて考えながら校内をうろつくと、見かけたのは二人の先輩少女様だ。

 

 

「おー、シャドーくんじゃないかっ。こんにちわ!」

 

「こんにちわ」

 

 

 お二人が揃うだけで全力で周囲が華やぐ。全く姦しい感じではないのに、花が咲き誇っているのかと勘違いするぐらいに。そのお花様方へご迷惑してはいけない落ち着いてお返事を返しておいた。ミントテロなどしてはいけない。

 

 

「あはは…やっぱり持ってるんですね、シャドーくん」

 

 

 朝比奈先輩がサンタ袋に視線を動かして苦笑された。文字通りにがくてくるしくて笑うしかないんだ。反対に鶴屋先輩は楽しそうに笑っておられる。快活というその文字通りにニッカリとだ。

 

 

「当たり、あるにょろね、シャドーくん?」

 

 

 流石、鶴屋先輩だ。生粋のお嬢様で在らせられるがゆえにご慧眼で在らせられる。俺の当たりは、ある。朝比奈先輩や幼馴染たちからすれば大外れでしかないのが、とても切ないが。

 

 

「ありますよ、鶴屋先輩。とってもよろしい感じな、当たり、が」

 

「ほーほー……、よかったねぇ…」

 

 

 どこかの黒い組織の現場みたいな雰囲気を作ってしまった。蘭はいつコ○ン=○一に気づくんだろう。というか、小一になったからって異性と一緒にお風呂はギルティ。インフィニティギルティ。殺人ラブコメだからって許されちゃいけないよ。許さんぞ。

 

 なんて思考を読み取られたのか知らないが、鶴屋先輩は俺のサンタ袋から目を離し朝比奈先輩へ体ごと向き直る。つられて俺も朝比奈先輩に視線を動かした。

 

 悪だくみが浮かんだ。きっと、俺と一緒のをだ。

 

「み~くっるっ」

 

「えっ? いやです。いやですったらいやですよ」

 

「朝比奈先輩~」

 

「いやですよ。い、や、で、す」

 

 

 にじり寄ることもない俺達から自身を抱きしめ後ずさる朝比奈先輩。

 

 

「いやー、みくる。ロシアンルーレットって逆に考えれば"当たり"を当てることにこそ意味があるじゃないかいっ?」

 

「その"当たり"ってあたしからすれば大ハズレですもん」

 

「ひっどいな~、朝比奈先輩。俺の食べ物全部大ハズレなんですか?」

 

「基本的に大ハズレばっかりじゃないですかっ!?」

 

 

 前に暇つぶしで古泉に集計してもらったが、大ハズレ五、ハズレ三、普通一割と少し。奇跡二分五厘という不名誉を頂いた。奇跡の確率、一割を割ってるのが不思議だ。価値的には幼馴染が百万○ンバブエドル未満とほざいたので、幼馴染のお母さまにテストの点数を告げ口しといた。

 

 その後の幼馴染の顛末を思い出して肩を震わせてしまった。それでサンタ袋からガサゴトと音を立てると、朝比奈先輩が過剰に過敏に反応される。ひゃーっと悲鳴を出されてしまった。

 

 思わず。

 

→プレゼントする

プレゼントしない

 

 

(゜゜)

 

 

「大ハズレじゃないことを祈ってレッツチャレンジ!!」

 

 いい感じに手ごろな台があったので”当たり”を含めてたのを並べていく。個人的には是非”当たり”を引いて頂きたい。そういう気持ちもあるが、俺も”当たり”を楽しみたいので”ハズレ”を選んで欲しいというものもあった。

 

「あ、○ンピースで見たことあるのだ」

 

「○イモンのとそっくりだね~」

 

 鶴屋先輩にも知られているジャンプ看板漫画は流石だ。○イモンのと違うのは本当に中身があることだ。”当たり”マークはサンタ袋の中で外してしまったため、俺にもどれがどれだか分からない。

 

「鍵も凝ってるんですよ、ほら」

 

「わーっ!! ○ーブレードっぽいのだ!!」

 

「うちにある蔵のカギっぽいのもあるにょろね~。古い見た目も本物っぽいじゃないかっ」

 

 じゃらじゃらと鍵も並べる。このゴロゴロとあるのは、カード式でもダイヤル式でもない宝箱たちなんだ。鶴屋先輩が手に取っているのは孫の手みたいな鍵。時代劇とは違って本来の江戸では、この孫の手みたいな鍵を使わないといけないような扉があったらしい。扉を破っても内扉があるっていう二重扉が当たり前だったとか。そりゃ襖や障子なんかでセキュリティ万全なんていかないもんだからね。

 

「どれにします? レディーファーストしますよ」

 

「ふふん、シャドーくん。これは勝負なんだよ、いざ尋常にってね!!」

 

「あたしはどれにしようかなー」

 

 鶴屋先輩は勇ましかった。舞踏会で扇子の代わりにサーベルと携えた女騎士のようだった。ノリがよくて本当に素敵だと思う。持つべきものは楽しくなって下さる方々なんだから。そして、朝比奈先輩が一番乗り気でおられる。一番嫌がっていたのに、とても可愛らしいことだ。朝比奈先輩的に琴線に触れたデザインのものでもあったんだろうか。

 

「んじゃ、俺はコレ」

 

「それじゃ、あたしはこれにします」

 

「あたしの女の勘にお任せしっよ~じゃないかっ」

 

「なら、シャドーくんは野生の勘なんですかね?」

 

「俺って獣カテゴリーなんですか?」

 

「後ろからきてたボール見ずに取ったりしますから」

 

「硬式のボールは危ないから次はちゃんと避けるんだよ、シャドーくん」

 

「はい、分かりました」

 

 先輩少女方からちょっぴり厳しめの目を頂きつつ、俺たちはそれぞれの宝箱に鍵をさす。全力で開ける俺、軽快に開ける鶴屋先輩、慎重に開封する朝比奈先輩。

 

 カチャリ…と誰もがワクワクする音が三つちゃんと聞こえた。全部財宝である。”当たり”だろうが”ハズレ”だろうが、間違いなく宝物が入っているんだ。

 

 結果。

 

 俺は当たりを引けなかった。

 

skIp STRAt

 

 俺的には早い時間の夕飯タイム。

 長門の帰還を合図にみんなでワイワイご飯を食っている。鶴屋先輩や妹ちゃんには、スポンサーからの要望を聞きに行ったりしていたと言うことにしてある。そこら辺のごまかしは喜緑先輩と古泉、たまに俺でとっ散らかしといた。

 その所為だろう、俺の前にはあるよく分からないご飯が並べられている。二人が変な感じのものでの食いっぷりが良かったそうです、と言ってしまったため妹ちゃんが、その、楽しくなってしまったようで……。

 無限ガシャポンみたいなことをした結果がこれらだ。

 スターゲイジーパイなんて生ぬるいことしてんじゃねぇと言うのかマグロの目玉を始め。横たわるのではなく直立するロブスター。日清の方でない謎肉。亀ゼリーなどなど。食べ物は前衛型芸術にしちゃダメだと教わらなかったんだろうかなな連中。○ミさんはテレビが求めてるからノーカン。

 

 食べるんですか。君らは食べてくれるんですか。俺だけが食べるとかそういうわけじゃあないよね?

 

「ねぇ、古泉君、──君」

 

 生贄(とも)達に呼びかける。

 

「口直しちゃんとあるから」

 

「お茶もたくさん用意してますから」

 

 生贄になってくれず、二匹はそう嘯いた。ちゃんと備えてくれるのは分かっているけど、今は御供(道連れ)になって欲しかったよ。あとで○ンハンでくっそ邪魔してやるからな。

 

 

「シャドーくん」

 

「なにかな、妹ちゃん」

 

「コレ、オススメ!!」

 

 なんて素敵な匂いだろう。食欲を間欠泉のように溢れ出させるもん達だ。

 炊き立てのお米の、日本人の魂をくすぐるあの香。脂身と肉がよく焼かれた、原始から続く心を焦がすあの香。ドレッシングになんか負けたりしない野菜の、農耕民族の血も躍るあの香。ジュースにするなど勿体ないという果物の、戦国時代でも目すら潤してきたあの香。

 

 美味しそうだ。旨そうだ。待て出来ないほど喰らいつくしてしまいたい。よしも聞かずに食い散らかしてしまいたい。

 

 この胸焼けしかしないビジュアルじゃなければ。

 

 米。

 ジャパン製のものだろう。インディカ米のようなか細くはなく、ぷっくりふっくらとした一粒一粒だ。精白されているようなので白米という部類でいいだろう。

 丼でごわす。 茶碗一杯などではなく、丼にいっぱいでごわす。しかも、真緑。

 丼の容器に合わせてお米さんが染まっちゃったんだろうか。人工芝よりすごい緑。

 

 肉。

 何処産だかしらない。生産者の顔見せられても、この肉の安全性微塵も理解できない。牛だか豚だか鶏だかも分からないんだ。

 塊肉。肉塊だ。嬉しくならないといけない。こんな緑じゃなければね。添えられたパセリに擬態したかったのかな。エボシドリと同じ色だぁ……。

 

 野菜。

 パプリカっぽいのもいる。トマトっぽいのもいる。だが、景色に変化などない。ドレッシングは当たり前に緑だ。野菜たちも一面緑だ。

 みんな緑色だからボクもっっじゃないんだよ。アーミーメンになってしまったのかな、この野菜共も。

 

 果物。

 緑。全部緑。皮だろうが果肉部分だろうが、全部緑。昔こんな色の電車のプラレール持ってたなぁ、もう捨てたけど。それと全く一緒の色になってんじゃないよ。

 

 胸がざわつく。背中が嫌に冷たい。半袖だからか両腕の鳥肌が止まらない。首筋が訳もなく痒くなっている。

 

 妹ちゃんの左右の女神に懇願する。せめてヘルプを。せめてせめてで、コンペリングなデマンドを聞いて下さいませ。

 

「頑張ってくださいね、シャドーくん」

 

「男を見せるときにょろよっ、シャドーくん!!」

 

 なんて素敵なものがあるんだろう。前にも見た、そして今も見ている。

 

 先輩少女様方は無慈悲な女神さまで在られた。可愛い微笑みと可愛らしいウインクだ。それで美少女パワーが凄くて本当に神々しく思える。一瞬でも気が惑えば容赦なく女神の雷とかやられそうなほどに神々しいんだ。

 女神は現実にいる。この無情なる現実もある。逃げたい、この現実から。しかし、女神の慈悲は限りがあり、無情なこの今も有限だ。

 

 やはり、この現実から逃避など、許されない。

 

逃亡

→挑戦

逃亡

 

 

 

(-"-)

 

 

 

 男は誰でもハジケリストだ。ハジケリストが出てたアニメだってそんなOP曲だったんだから。男は度胸、なんだでもやってみるもんさ。

 

 目の前にあるもの全部が、視覚で感じる時点で何もかもクライマックスだけども。プロローグもなしに最終回なんだけども。なんでだよ、ソードマスター○マトも連載の後打ち切りでアレだったじゃん。一話切りやめてよ。

 

 まず。

 

 まずは、だ。緑を片そう。

 

 お相撲さんの如く豪快に丼を手に抱える。白米に緑を着色したらしいものが中身だ。ママ○モン的な臭いがしないだけマシか。そう思うことも出来ないほどすごく緑だけども。ゆかり的な癖のある匂いもなく、鰹節的な磯系の匂いもない。怖い。

 

 ムッシャラァっと喰らう。

 

 半分ほど丼を片し、肉塊へ。さっきはただの塊だったはずだが、食べやすい感じに切り分けられていた。視線を向けると鶴屋先輩のようだ。切り分けたナイフを丁寧に片しておられた。しかし、誰も手を付けていない。一部分も減っておらず、総重量は変わっていない。中身はそれなりに肉色をしている。が、ソースだかなんだかが染み込みすぎているのか。熱が入った証の茶色が妙に緑色もしておる。ずっと怖い。

 

 バクバクと喰らう。

 

 八割ほど肉を喰らうと、サラダ(真の姿)へ。食べやすいように小皿分けされている。おそらく鶴屋先輩がやってくださったのだろう。朝比奈先輩も手伝ったんだろう。案の定誰の手もついていない。一口ぐらい食ってくれよ。あちらこちらが緑緑緑。どうなっとるんだ。ここは○鷹の森なんですかね。普通に怖い。

 

 ジャクジャク喰らう。

 

 野菜を含め、米も、肉もすべて片した。最後のは、そう果実。フルーツ。色取り取りであるはずなのに、相変わらずグリーングリーン。ここで緑広がらなくていい。こんな局所に緑いてもカーボンニュートラルにならん。俺が過呼吸になって逆に悪化するぞ、色々と。もう全部怖い。

 

 もっしゃりと喰らった。

 

 すべて片した。

 

 緑はもういないんだ。もう何も怖くない。

 

 拍手してもいいぜ。歓声あげてくれてもいいぜ。胴上げしてもいいんだぜ。胴上げの時、ちゃんと掴んでくれよな。天井で勝利にキスなんてしたくないんだから。

 

 勝鬨をあげようじゃないか。俺はチャレンジャーからスーパーヒーローになったんだから。○ーマン四号的な的なヒーローさ。中年スー○ーマン左江内で他の○ーマン達よりも大人っぽいのカッコいいよね。その様を真似て、それではと、行儀よく座っていた椅子から立ち上がろうとした。あ、という悲鳴に近いか細い声を聞いた。男どもの声なのにやたらか細い女々しい声だった。

 

 それに笑いかけてやった。なにを不安になるのかと。

 

 が、しかし。

 

 笑っている場合ではなかった。今不安になるんだ。

 

「次はね~」

 

 並ぶ。グリーンが、並ぶ。机に緑様が浮かんでいる。一人用の机ではない。今使っている食堂の机は多人数用。横に長い長方形型だ。俺の肩幅は半径四十弱ぐらいだが、その四倍ものの広さが緑で生い茂っている。

 

 鶴屋先輩に縋った。明るい笑顔で、俺用にいい感じに分けてくれている。感謝しないといけないが、お辛い。

 朝比奈先輩にも縋った。楽しいという笑顔で、俺専用にいい感じに分けて下さる。感謝感激しないといけないが、とてもお辛い。

 佐々木は、笑っているだけでとてつもなくムカつく。あとで○味ビーンズのマズ味の嗾けてやる。

 

「頑張ってね、シャドーくん」

 

 そうした鶴屋先輩のお優しいお声掛けに、もうずっと色々と泣きそうだった。

 

sLhP STsZt

 

 

 

……>\(^o^)/

 

 

 

 自分にお悔やみ申し上げたい状態だ。それでも、どうにか夜を過ごしている。胃の方は大丈夫だが、マインドブレイクしかけていた。

 

 味が分からなかった。最初の緑四天王からしても味が分からなかったが、その後の緑ラッシュもよく分からない状態だったんだ。○ルナレフじゃなくて宇宙空間に放り出されたカー○状態だったんだ。緑は目にいいって言うけどさ。あの時ほど目に良くない色でしかないじゃないかっと思ったね。今なら青信号ほど止まっちまうぜ。渡れるかよ、怖いんだよ、緑がよぉ。KCの若手社長もも緑が怖いから茶色に変色したんだよな、絶対に。

 

 そんな感じで軽く横になっていたら、すでにゴールデンタイムに突入している。夕食が六時で、食べ終わったのがその一時間後ぐらい。俺だけさっさと自室に引きこもっていたら、もうこんな時間。

 別に不貞寝とかでなく、色々と落ち着けるためだ。携帯片手にもう少し秘蔵の胃薬を漁っていただけだ。

 

 歯磨きなんて夜のケアも終えて、後は寝るだけ。ちょうどいい感じの眠気も来ている。そしてなによりゴールデンタイム中なんだ、今が。そう今こそ眠りにつき、第二第三なんて言わずオリジナルな俺が身長的な意味でパワーアップできるんだ。

 

 うつらうつらとする頭とお目目。それを妨害するかのように手が振動する。いや、自分で振動しているわけじゃなく手の中にあるやつからだ。

 携帯である。前の機種は画面が回転するのが面白くて遊んでいてすぐ壊した。その所為で流行り型とは程遠いデザインの携帯さんである。メアド交換する時ほとんどの人がおじさん携帯だーと小ばかにするほどだ。色なんてシルバー、黒、白ぐらいしかない。うちのお父さんの携帯の方が若いんだ。肩掛けお電話世代より古びたデザイン所持は逆に新しいのでは?

 

 そんなことを思いつつお相手確認だ。

 妹ちゃんなら相手にしないと拗ねられてしまう。喜緑先輩や長門は重要なお話なのでお相手しなければならない。佐々木、面倒なので適当に応対しないといけぬ。幼馴染は電話するからなし、古泉も同じく。

 

 あとは朝比奈先輩か、鶴屋先輩かだ。

 前者の確立の方が高い。同じSOS団の団員同士だからだ。あの北高のアイドルで在らせられる朝比奈先輩のお相手なら苦労などと思わない。北高男子なら臓器全部売っぱらってでも欲しい権利なんだから。

 

 なんだけど、意外なことに相手は鶴屋先輩のようだ。

 

 それなりにメールをしたりする仲だが、基本的に学校で話している方が時間も回数も多い。メールは稀だった。

 鶴屋先輩はハルヒのSOS団の顧問様であるが、そのSOS団の活動に参加するわけではない。運動部の熱血根性論信者系先生のように部員全員と明日へ向かってダッシュ!! をするわけじゃない。

 鶴屋先輩の主な活動といえば、顧問という名義だけの存在なんだ。団長様自体が、不思議探索に鶴屋先輩を参加させることもない。それに倣ったわけでもないけど、俺も鶴屋先輩の接点はほとんどない。朝比奈先輩が入団しなければ本当にゼロな関係だったろう。北高のアイドルのお友達ってリアルお嬢様なんだぜ、という情報しか得られず、北高の三年間はそれだけで終わったはずだ。

 

 袖振り合うも多生の縁なんだなぁ、としみじみしつつ内容を読む。

 

 無茶ぶりについての謝罪と、体調を気遣ってくださるお優しさ、”当たり”についてのお話だった。

 

 やはり教養の高い方だ。メール文は砕けているものだけど、話の流れが綺麗だった。意味も分かりやすく読みやすい。現代文の模試のやつらに見習わせたいほどだ。本当に見習ってほしいもんだ。自分の知ってる言語なのに目が滑るしかないんだもん。外国語の翻訳も微妙なら、自国の言葉も不自由な国なのかな日本って。電車男に倣ってバス男って題名に変えたりとかね。ナポレオン・ダイナマイトってタイトルから、バスってどう考え付いたんだろう。ちゃんと怒られてね。

 

 お返事メールを送らねば。いや、ここでメールだけで感謝の言葉は失礼かな。面と向かって感謝の言葉を言わないと失礼か。

 

 携帯は次のメールを受信していない。明日、自分の口で言えばいいかな。

 

→メールする 

メールしない

 

 メールだと言えど来たからには即お返事せねば失礼だろう。

 お父さんが新社会人の時そういう関係でこっぴどく叱られたんだよ、と酔いつぶれながら話してくれた。昭和世代だからか、部下を顔が腫れるまでボコボコにするのが美談扱いだ。鉄は熱いうちに打てとは言うけど、人をボコボコに打つのはただの暴力じゃないのかな。

 

 それらとは違い、鶴屋先輩は口より先に手が出るタイプではない。

 話し合える相手なら対話をしようとするお方だ。朝比奈先輩関係でそういう系のお話を聞いたことがある。テレビに出るアイドルにもそうだが、どこでも変な妄想を押し付けてくる輩がいるんだ。

 

 アイドルはトイレしないは、本当におかわいいレベル。もうちょっと浅ましいレベルだと、おねだり上手だと。大分愚かしくなると、媚売りだけで生きてる。排泄物未満ランクだと、誰彼構わず使ってもらっている。

 

 そういうのが、大変悲しいことに北高にもいたんだ。しかも、男女問わず。女の子はともかく、男でもいたのはとても侮蔑を感じざるを得ない。陰湿なことに面ではただの純粋なアイドルファンだったようだから救えぬ。千手観音もその手で張り手しまくるだろうぐらいに救えぬ輩だ。そういう奴らの相手をして下さったのが、あの鶴屋先輩である。

 

 話ができるやつにはそれなりな温情を。話が少ししか出来ない奴には少し仕置きを。話も出来ねぇのには、処罰。

 

 まず、話してみてからのご判断である。初手暴力ではない。この二十一世紀は世紀末ではない。モヒカンが跋扈していないし、お札は尻を拭く以上の価値はある。一部では本当にケツ紙以下だけども。

 

 お嬢様としての教育からか、どういうふうに相手するのか、のご判断のためだろう。その時に明確にするのはやらかしている理由ではなく、誰と話しているのかだ。明確に、誰を敵にしているのかを教えてやるのだ。主導権を握る、というよりも、首に刃物を突き付ける。

 前者は行動制限はあるが動ける。後者はもう生殺与奪間近だ。今後の北高での生活に関して、生き地獄がいいか火あぶりかを選ばせるようなもんだ。

 

 その後は簡単だ。

 

 誰と話しているか、ということが分かる馬鹿なの、分からないの、どうでもいいやつの、この三種に分ける。分かる馬鹿は、温情としてしばらく肩身が狭くなるだけ。ある程度過ごしていれば比較的自由になれる。分からないのは、仕置きだ。おめぇの席ねぇからっ!! なんてしないが、皆が余所余所しくなる。北高にいる限りずっと腫物扱い。

 

 本当にどうしようもねぇのは後日、自主的に転校などの手続きをしたようだ。鶴屋先輩はご自身の家の力を使っていない。お話しただけだ。色んな人にお話をしただけ。ご自身の家の関係者以外の方とのお話合いだけだ。学校でも、お家でも、どこにいたって針の筵になったらそうなるよね。

 

 話している相手が、あの鶴屋家のと気づく前に。朝比奈先輩のご友人であることに気づくべきだった。友達がいじめられてるのをほくそ笑む、なんて性悪お嬢様ではない。かといって、お友達をペットのように愛でるだけの、頭花畑お嬢様でもない。

 

 普通の友達だった。

 朝比奈先輩が楽しそうにしていれば同じように。悲しんでいたり困っていたりしたら何とかしようとしてくれる。それを、朝比奈先輩側からも遠慮なくやれる関係。素晴らしき友情だ。女の子の友情は本当に綺麗だな。きっと、俺達みたくゲームからのリアル乱闘なんて絶対にしないんだろうなぁ。

 

 そうやって思い耽っていたらもうあれから五分以上経っていた。まずい。急いでお返事せねば。

 

 年賀状もちゃんと書かない男だが、誠心誠意感謝をお伝えせねば。

 

skIp StŮts

 

 

 

 

 

二日目

 

./././././(';')?

 

 

 

 

 朝だ。

 

 カーテン越しに暖かそうな陽光が、朝を教えてくれる。徐々に覚醒していく頭が、今朝というものを理解していく。何の変わり映えもしない朝が来たのだと理解する。

 昨日の異変時であるのにいつもの学校であったように、今日の俺の部屋もいつもと同じだった。昨夜充電器に差したままの携帯の位置なんてのも一ナノも変わっていない。

 

 昨日頑張った俺の胃は絶好調だ。

 変にムカムカとしないし、重たい感じもしない。胃から口までに不快な圧迫感なんてのもない。胃薬様のおかげである。流石秘伝だ。

 どこかのゲームの秘伝マシン要員はやっぱり大事なんだなと確信する。マサキんちら辺でセーブして、再起動時にマシン要員いなくて泣く泣く初めからになったあの頃よ。トキワシティの爺さんの無限ループでもやったなぁ。俺もなんであんなにコラッタと捕えまくってたのか謎だ。努力値なんて存在なんにも知らなかったのにね

 

 ゲームボーイの重量感も思い出しながら着替える。感謝を伝えるのなら、キチンとした服にしないといけない。髪の毛は、猫毛だから軽くなんかつけといて整えよう。いつの間にかぐちゃぐちゃになったのを隅に置いといて、いい感じにコーデしとく。

 肩幅と筋肉がそれなりにあるから、ちょっと面倒くさい。肩幅に合わせると腹回りが合わないし、服の大きさと俺の背丈的に太ももの半分ぐらいまでの長さになったりする。体操着忘れて幼馴染のを借りたときの、あの屈辱は決して忘れない。女友達にもかわいい~とからかわれたあの屈辱は決して忘れんぞ。

 

 とりあえず、しっかりとした服装にはなった。本物のお嬢様からしたら、及第点すらいかないのかもしれないけどさ。最後に寝ぐせや変なしわとかもないのを確認して部屋から出た。

 

 部屋から出て向かうのは食堂だ。

 当たり前だけど、いきなり男が女の子の部屋へ出向くのはいけないことなんだ。少女漫画のデライケメンも創作の世界だから許される。現実でやったら百年に一度のイケメンだろうと通報されるもんだ。特に親しき仲にも礼儀あり。たとえ交際しているからといってもアウトなものはアウト。

 親子関係でももちろんアウト。これは男女逆でも言えることだ。うちのお母さんみたく勝手にお部屋クリーニングしてくるのはもちろんアウト中のアウトだ。俺のじゃないけどお秘蔵ブックをわざわざきちんと並べておいたのは絶対に許さない。

 

 ともかく、食堂に行けば必ず会える。体調がすぐれなかったりしなければのお話だけども。

 

「あっ!!」

 

 元気な少女のお声がすぐ近くで聞こえる。きっとその兄も近くにいて、同じく男団員もいて、他の女の子たちも一緒にいるってことだ。降りている途中の階段から上を見上げる。案の定、喜緑先輩と長門を除いて勢ぞろいだ。

 

「おはよー、シャドーくんっ!!」

 

「おはよう、危ないから飛び降りないでね」

 

 察しのいいお兄さんに捕まえられている妹ちゃんに挨拶を返す。頑張っている兄と念のためその補助をしている古泉にも軽く手をあげて挨拶しとく。

 

 そして、他のお嬢様方にも挨拶をしなければいけない。

 

 

 

→「おはようございます、鶴屋先輩」 

 

 

 

、、

 

 

「…んんっ、おっはよう、シャドーくんっ!!」

 

 元気にご挨拶して下さる鶴屋先輩。やっぱりいい。声が明るいのがとってもいい。朝からコチラも元気になれるいい挨拶だ。

 いっつもだるい授業の号令も鶴屋先輩のお声だったら、ちゃんと勉強できるだろう。気合いが入るお声だ。応援団のような、とはまた違ういいお声。あれはバズーカのような攻撃力特化のものだ。お前も殺る、俺も殺るみたいな感じ。決死隊。

 

 鶴屋先輩のは、アシストって感じ。大乱闘的な方ではなく、ご助力というのだ。背中を押してくれるっていうのかな。流石はお嬢様だ。どんな感じなら人が自ら動こうとするのか、そういう扱いに長けておられる。

 

 そのおかげで俺は調子に乗ったんだ。

 

「朝から鶴屋先輩の素敵なお声が聞けてとっても嬉しいです。毎朝とは言わず、毎秒ご挨拶してしまいそうになるほど本当に素敵ですね」

 

「ん? シャドー、僕たちはハブなのかな。それとも、あえての、無視かな? ははは、これはこれは……今後のお付き合いを考えなくてはならないね。そう思いませんか、朝比奈さん」

 

「そうですねー。私たちは置いておいて、っていうのはとても頂けません。教育的指導も考えないといけないかもです」

 

 なんだか怖いことになっているので、調子を下げた。

 

「おはようございます、朝比奈先輩。佐々木も、おはよう。いい天気でございますね。こんなにいいお天気なんだからダイヤモンドリングも見られるかもしれませんねー、へへへ」

 

「僕は金環日食の方が好きだから、今日はそんなにいい日にならなそうだね」

 

「あたしはブルームーンの方が好きなんですよね。日食も月食も本当に真っ暗になるのが怖いですから」

 

 バッドコミュニケーションだ。あなた達のそういう情報知らないよ。俺は適当に口から出ただけだもの。

 

「ははっ、たっしかにその二つもいいよね。金環日食なんて人間が見ることができる最大の金の指輪。海外だと金の指輪をしているってことは結婚しているって認知だものね。女の子はそういう目に見えるものが大好きだもん。まったく佐々木ちゃんってば乙女だね~」

 

「あへぇっ!?」

 

 面白い。二重の意味で。佐々木からすればただの美術的とか天文学的にとかの理由だろうが。佐々木も女子(おなご)なんだな。

 

「キョンくん。月って青くなるの?」

 

「あぁ? お前幼稚園生の頃に月のこと青く塗ってたろ。知らないで塗ったのか?」

 

「青色ってキレーだよ?」

 

「そういう意味じゃなくてだな」

 

「ブルームーンには言い伝えがあるんですよ、キョンくん。ブルームーンの明かりの下で出会った男女は恋に落ち、恋人たちは永遠に結ばれるって言うね」

 

「ときメ○じゃんか」

 

「むしろ○ーンライト伝説的かと」

 

「あたしせつなちゃんがすきー」

 

 と言うのを背景にするまでもなく、目の前の会話に集中していた。鶴屋先輩の愛のあるイジリが炸裂しているからだ。

 

「ブルームーンが好きだなんて、みくるは本っ当に可愛いよね~。あれって好きな人と一緒に見ると幸せになるっていう【奇跡の満月】だもんね。ブルームーンに恋のお願いをすると叶うってのもあったし、ジャズやザ・マーセルズもカバーしたブルームーンもみくるは好きだったよね。あれも素敵だよね。寂しそうなラブソングであり、あの大恐慌時代が生んだ人恋しさに寄り添ってくれるような癒しソング。そしてなによりも、人生の応援歌だもの。あたしも好きだよ、ブルームーン。みくるはラブソング的な意味での好きが強かったっけ?」

 

「つ、鶴屋さんッ、しーっ!! しーっです、しーっして下さい!! シャドーくんたちの前ですからぁっ!!」

 

「んー? あたしはただ曲がいいとかのお話をしているだけさ。お口チャックするところなんてどこにもないじゃないか」

 

「いや、そうですけど…。ほらっ、男の子の前で、その、ラブソングが好きというのは……」

 

「ブルームーンが好きってだけじゃないか、みくる」

 

「あ、はい、好きです、けども」

 

「ラブな意味でさ?」

 

「あ~~っ!! もうっ、やだ~~~っつ!!」

 

 鶴屋先輩は強かった。圧倒的強者だった。天下無双でござる。流石生粋のお嬢様であらせられる方だ。扱いが、操縦が、上手すぎる。やっぱり○ータイプ、○ータイプなのか?

 

「そういう鶴屋先輩はダイヤモンドリングってお好きですか?」

 

 素朴な疑問を投げた。別に好きでも何でもない、というのがこの流れであって欲しくないというのが、一つあったから。一応の確認作業である。

 

「……えへっ」

 

 愛らしいスマイルでの返答だった。愛らしいんでワンモア欲しい。おかげさまで俺は調子に乗った。

 

「俺はアレ好きですよ。あんまりにも綺麗だから誰かに捧げたいーと思うくらいに好きです」

 

 いい感じの返答を期待する。バラエティ映画の撮影中という体も初日にやっているし、鶴屋先輩ならウケるものを見せて下さるはずだ。このメンツでは薄い関係であるが、仲良しの自信がある。有名な漫才コンビの正司敏江・玲児のどつき漫才も、伝統芸能の方の萬歳なんてのも鶴屋先輩となら二人とも全力で楽しみながらやれる。

 

 そういう体当たりができる人。それを加減して跳ね除けてくれる人。そして、ずっと仲良くしてくれる人。

 

「ふふ、そうだね、あたしも誰かにああいうの捧げて欲しいかな」

 

 愛らしいものだ。とてつもなく、愛らしい。本当にお嬢様らしく愛らしかった。

 普段の大口を開けて笑うのも素敵で愛らしく思う。あんなに大きく口を開けてるのに、がさつで下品さとか女っ気のなさとかはないのが素敵だった。

 普通に口を閉じて笑うときも、女性の卑しさとか女性らしい陰湿さはない。それも間違いなく素敵だ。女性だからというフィルターなく、愛らしいと思うものだった。かといって小動物的なものでもなく、蔑んでの意味など全くない。鶴屋先輩だから、愛らしいのだ。

 

 それが、またよくわからないのが、今だ。

 

「っとかなんとか、思ったりしっちゃったりなんかする時もあ~るんじゃないかなっ」

 

 愛らしいものを見せて下さる。いつものような太陽サンサンっていう明るく元気なの。鶴屋先輩らしいお顔だ。

 先ほどの、女性的過ぎるからのものではなく、鶴屋先輩の素敵さが溢れんばかりのものだ。それならば、いつものような調子で返しておかないといけない。

 萬歳も漫才も男女のアレソレは見苦しくってしょうがないもんだ。みんなを笑わせるものに、余計なものを混入してはならない。如何に面白いかを見せつけるものだ。如何にその為人を気にさせてはならないものだ。

 

 いつもなら自然に出来るものが、なにもまた出来なかった。俺は呆けたようにしていただけだ。

 

 ずっと、ドえらいヘンテコリンなことがまた起こっている。

 

 この瞬間から、鶴屋先輩へまた何かが始まったんだから。

 

 

 

→SKIP STaRT

 

 

 

 

 朝礼的な感じで喜緑さんのお話を聞いた。

 

 良い感じに過ごしてくださいのことだ。これは妹ちゃんと鶴屋先輩宛てだ。俺達には普通にいつも通りに過ごしていて大丈夫です、なんとかしますから。とあとでお伝えもされる。頼りきりで申し訳ない。俺も俺でいっぱいいっぱいでいる。その様から、頑張る方がいいですよと見送られて終わった。

 

 朝食は完了した。詳細は省く。朝のアレから味がよく分からないんだ。妹ちゃんの無限ガシャポンでの一品に、いつもみたいに興奮と脂汗をかけるはずだった。実際、恐怖的なもので色々あったんだろうけども。朝のアレの衝撃が凄かったから俺自身での印象は薄っぺらいものだ。

 

 アレはショッキングというわけじゃない。かといってインパクトとも言い切れない。

 野球で例えるなら自打球をしてしまった、ボクシングでいうならスリップダウンをしてしまった、という感じが多分あっていると思う。要するに自爆。命中百で、実質の威力が二倍にもなるあの技だ。しかし、その威力も全部自分に来るのが今の俺仕様。瀕死の上に死体蹴りされた状態だ。そりゃ味がどうたらこうたらなんて分かるわきゃないよね。

 

 そんな瀕死中の俺は、こうしてお昼に入る後少しでも苦しい。喉元から胸周辺が今も摩り続けるぐらい重苦しい。かなり今も重苦しいんだ。その上、食用じゃないのにバランを食べてたりしていたようだ。

 なにをやっているのだ。

 

 ここが本来の学校でなくて助かった。

 

 いつもの学校なら昼ごはん前に数学なんて拷問の何物でもない。どこかの有名人が数学は暗記ゲーと法螺を言っていた。実際大まかに見ればそうなんだと思う。証明問題とかそういものらしいし。あの有名な東大も教科書に載っているそのまんまを出題したとかなんとかの噂を聞いたことがあるし。

 それでも、だ。数字の羅列を見ると頭痛を起こす人間はいる。文字の羅列でも同じだ。点Pなんて奴はぐるぐるに拘束して監禁されて二度と動くなと呪うこともあったし、確率の問題で自分が書いたものすら何を記していたのか分からなくなることは毎回毎回起こる。

 

 だけど、全部答えがある。算数のように先に書いておく数字が違うから、答えがあっててもバツとかいうこともない。計算式のもので答えを書くだけならば、式が間違っていても答えがあっていたら正答にしてくれる。記述式ならば、途中から間違えてしまってもその前が合っていれば加点してくれることもある。

 

 数学とは正しさを求めることができる学問だ、とテレビでどこかの教授っぽい人が言っていた。フェルマーの最終定理の本ので、この問題の美しさは小学生でもわかるように述べられたパズルのように理解が簡単だから、とかもある。

 

 確かに、分からないが分かるになるのは面白いことだ、快感だ。でもそれは、ある程度分かってから、なのが前提だろう。なにが分からないのかすら分からないなら、苦痛で苦行で拷問でしかない。

 数学の証明問題のように、何を証明すればいいのか、ということが既に分かっていればいい。ゴールが決まっていて、そこまでの道程も知っているのならとっても簡単だ。その道程も数パターンはあろうが決まっているもので、差異は然程なく加点も減点も分かりやすい。

 

 けれども、この現実社会は算数を求めてくる。各々の気分で正答したりされたりする。みんなそれぞれの心の配分次第で加点減点するものだ。非情にもどかしい世界だ、二十一世紀さんは。

 

 誰かの好意に±。誰かの含意に±。誰かの本意に±。

 三六五日二四時間月月火水木金金寝る間も惜しまず、過敏に注意過信な傾倒過剰な雑言、南無阿弥陀仏。

 

 でも、過激仏教徒でもない俺は、日差しを避けて壁に寄りかかる。まったくよー、人間ってのは大変だ。そりゃ一揆や革命してないとやってられんね。

 そう思っていると尻ポケットが振動した。妹ちゃんからでもなんか来たのかもしれない。妹ちゃんは察知能力が凄いから、なんか知られたのかも。友達のエスパー君よりもよっぽどエスパーだ。マインドリーダーというかエアーリーダーというか、エアコンディショナーみたいなところがあるからなぁ。

 

 携帯をパカリと開ける。案の定受信しているとアイコンが主張していた。キーを操作し開封する。親しき中にも礼儀あり、女の子は待ってられないもの。機嫌を損ねられたら困る。

 

 やばい、もう困った。

 

 メールの人は、鶴屋先輩だったんだから。

 

 

MOde off

 

 

 念のために胃薬あげるから、保健室においで

 

 そういう内容だった。やはり先見の識がある方だ。帝王学とかで習得できるスキルなんだろうか。

 

 とりあえず。

 

 

 

 保健室に向かう 

→返信する 

 

 

}}}

 

 

 お父さんが会社で一番最初にやる仕事はメール確認と言っていた。

 その確認の確認とか、さらにそれの確認とか確認いつまでどこまでするのかキリがないくらいやらねばならないらしい。字を書き間違えたならわかるけど、特にひどくもない字で癇癪を起されて破談になったこともあるらしい。昭和全盛期人間の沸点どうなってるの。

 

 返信も大事である。一日遅れてなど論外、首を吊れとどやされるレベル。一時間遅れも論外、首切れと怒鳴りまくるレベル。十分遅れで返信などは指詰めろと睨まれるレベル。と、しみじみお酒飲みながら言っていた。恐ろしい時代の人間だ。二十一世紀の人間が、こんな堅気じゃないのしかいないなんて恐ろしい。そりゃあ、青狸の世界ではロボットに子守りまで任せられるようになるさ。大人になっても赤ちゃんみたいな癇癪で社会を作るってすごいよ。

 

 当然だが、鶴屋先輩はそういうお方ではない。一日遅れ程度の返信なら、忙しいところ悪かったねとか添えつつ謝罪の機会をくれるだろう。一時間遅れだったなら、急がなくてもいいよと初めに置いて寛大な大人をしてくれるだろう。十分遅れなどならば、急かしちゃってごめんねを可愛らしい絵文字付きで終わりに占めてくれるだろう。

 

 それでも先輩様で、女子高生様で、お嬢様なんだ。

 

 こんな俺でも自然と敬える先輩様だ。朝比奈先輩とセットでいることが多いが、交友関係は北高で括っても幅広い方。俺が新入生の時でも鶴屋先輩の悪評なんて一つも聞いたことがないくらい、尊敬すべき先輩様である。

 当たり前だが女子高生様でもある。北高の女子制服がよくお似合いだ。邪な意味ではなく、女子高生っていいよねと思えるらしさがある。○ガジン系の女子高生感とは違う、サイダーのようなスッキリ爽やかで俺のモラルを守らせてくれるものだ。

 正真正銘のやんごとなきお嬢様であらせられる。普段の快活なお話しぶりや、朝比奈先輩に対する俺たち向けのご褒美な行動で見えにくいが、所作が間違いなくお嬢様感がある。手一つでも、指一本だけでも、鶴屋先輩に傾注させることが可能だ。ただの呼吸一回、話し始めの口調、それだけで鶴屋先輩を無視できなくさせるなど容易いことだ。人としての格がどれほどなのか頭で考えなくても覚えこませてくるお方である。

 

 その方の御前で無礼はならぬだろう。指を詰めながら首を切りつつ吊り上げるなんて高難易度にはならない。A piece of cakeなことになる。鶴屋先輩に無礼はTake the cakeだ。な~んてお阿呆なんでしょう、このうすらボケ太郎は、となる。介錯抜きの腹切りをせねばならない。

 

 とにかく、せっかくこのようにメールをいただいたのだ。とりあえず突撃隣のなんちゃらせず、まず一つ置いてから冷静に的確にお薬を頂きに上がろう。

 

 

 

とりあえず一言だけ送るか

→二、三文ぐらい送ろうかな 

 

 

.

 

「えっと…」

 

 長々打ち込むのは指が辛い。予測変換機能があるとはいえ、それも完璧に予測してくれるわけじゃない。すま、まで打ってからの予測変換でスヌー○ーとなったことがあるんだ。本当はスマッシュってやりたかったのに、そうなったので流石の古泉も困ってしまっていた。そりゃあ誰だってテニスの話しているのに、いきなりコンタクトレンズ愛用のナルシーな犬が出てきたら困惑するに決まっている。その後は電話に代わりテニヌではスイングで空間を削れるのかどうかで盛り上がって、お母さんにシバかれたんだけどさ。

 

 ちょっと長すぎると困るものだ。エスカレーターの終わりでそのまま一息ついちゃう人とか、ゲーセンのとあるコーナー占拠とかさ。ちょっと別のとこで一息入れておいてほしい。あまりにも簡素も困るもんだ。トイレの後水ちょいで終わらす人とか、白い服だからスケスケてしまっているセンシティブなお人とか。もうちょっと段階を踏んでいただきたいものである。

 

「まず感謝で、あとは…どんなのを送ればいいのさ?」

 

 参考例一:佐々木、論外。参考例二:妹ちゃん、違うでしょ。参考例三:朝比奈先輩、勝手が違う。参考例四:長門、別物。参考例五:喜緑先輩、別種なので。参考例六:女友達ズ、取り扱いが違います。

 

 鶴屋先輩とはそれなりなお付き合いだ。基本はうちの団長様の保護者、ではなくSOS団名誉顧問として、朝比奈先輩の親友として、知人以上の関係ではあるはずだ。こうしてメールもたまにしたり、学校で部活時以外でも見かけたら挨拶し合って雑談するぐらいの関係である。声をかければ気軽に付き合える気安い仲だと言える。生粋の名高いお嬢様様になんて厚かましいのだと思うが、鶴屋先輩が本当に慈悲が深い方だからこそ、こんなこと言えるんだ。

 

 お金持ちという人にはたくさんの人が集まる。金という概念が出来てから、人間はお金の臭いを覚えたからだ。時代劇でもVシネマでも、海外ドラマでも、歴史から見ても、お金は人を踊らせるものだ。だから、お金持ちさんは性格悪くならざるを得ない。どこかの二枚舌どころか百枚舌の国のような処世術で生涯生きていくしかない。右手で握手、左手にナイフだ。

 

 そういうのがパンピーな俺でも鶴屋先輩から嗅ぎ取れない。社交界デビューもしてないねんねだからとか関係なく、普通に女子高生で普通に先輩少女をされているからだ。所作は間違いなくお嬢様していて一つ一つお綺麗であるが、口調は砕けており瀟洒なものではない。振る舞いも庭師に草花の調子を問う楚々としたものではなく、自分も土を弄って花壇を作る小町娘さんのようなものだ。

 

 可愛らしくお綺麗で素敵な先輩少女様。お近づきになれて恐悦至極、というよりよかったなぁという言葉がしっくりくる。

 

 それがそうなるのは朝比奈先輩の方だ。高嶺のお花様であるのだ、相応しい言葉だろう。鶴屋先輩のお家の方々には大変無礼だろうが、よかったなぁと言ってしまう。アイドル様はアイドルなのでお近づきなんて恐れ多い。鶴屋先輩は、なんか変な意味じゃなく近くにいたいという感じだ。男だ女だとか関係なく、友達という関係になれる。きっと俺と同級生だったなら、鶴屋先輩に告白なんてしていたぐらいに魅力的なんだもの。先輩様でよかったんだ。

 

 とにかく、なんとか打ち込んで送信する。三回ほど見直したけど、特に謎変換も誤字もなかった。その場に留まって送信しているという画面を見る。

 この携帯さんは加齢臭がしそうな見た目通り、ちょっと動きがのっそりなんだ。送信中も受信中も六回に一回ぐらいはできませんでした、という表示が起きる。電波的にな問題もあるが機体差が主な原因だろう。どこかの赤い人でもこの性能の違いには口をつぐんじまうんじゃないかな。

 

 一分経ったが完了してくれていない。あと十秒経ってもダメなら中止にして送り直そう。深呼吸の間に済んで欲しかったが、やはりダメみたいだ。中止にして再送信する。画面は新しい送信中を表示した。眺めていると、画面が変化する。

 

《送信完了》

 

 今日の携帯さんはそこそこ好調のようだ。一回失敗すると失敗から何も学ばず、失敗を更に三回ぐらいするのがこの携帯さんである。ちゃんと系列店で買ったのにあんまりだ。新機種をおねだりしたいが、また壊したのか、と恒例の正座で説教を喰らいそうなので我慢しよう。

 

 ちょっとばかしへっぽこさんな携帯を尻ポケットにしまって保健室へ駆け出した。

 

 お待たせは無礼千万の首切りなのだ。

 

→SKIP STRAT 

 

...

 

 

 トントントン、と三回ノックをしておく。テレビで二回ノックはマナー違反だと高名なのだとされるマナー講師様がおっしゃっていたからだ。お父さんの会社でも恒例になっているものたちもあったので間違いじゃないだろう。判子まで頭を下げないといけないの大変だなぁ。

 

「どうぞ」

 

 常駐サンドベージュの毛布にくるまれて睡眠中の団長様以外のお声が返ってくる。先ほどメールをして下さった鶴屋先輩で間違いない。

 

「失礼します」

 

 と、高校受験以降使っていない面接作法を頑張る。扉を開けたから閉めて、もう一度同じようにお声掛け。その後に己が何某かの紹介をして一礼、だったと思う。

 

 結果は、オイル切れどころかかじってしまっているようになった。一夜漬けの力ってのは半日以上もってくれないのだ。

 

「うん、六七点!!」

 

 ちょいまずめの批評であった。こないだの数学のテストと同じ点数だった。

 

「元気良いとこも花丸さんだけど、所作がビート板でちゃんばらしちゃうチミっ子ちゃん感がありすぎるね~」

 

 そう言いながら、用意して下さったお薬を渡して下さる。

 

「この二種類は眠くなりにくいやつ。この箱のやつは食前に飲んでね。粉薬の方は寝る三十分前。どれも一日全種類使わず、一日一種類だけ飲むんだよ。ま~、お若いんだからお薬に頼り過ぎはお控えなすってよね~」

 

「なるべく前向きに検討いたします」

 

「面接のお勉強に付き合わせてあげようじゃないか、シャドーくん」

 

「ここだとあんな感じでも受かったんですけど」

 

「面接ってのはねー、受験の時のも会社のやつのも、また色々な別のとかたくさん作法があるんだよね。うちんとこでそれはないわーってのが面倒くさいんだよ」

 

「お国柄ってのです?」

 

「日本人も皆一括りで日本人って言えないのさ。長野県民さんのことを信州人って呼んでくれないとムッとする人多いよー、みたいなね」

 

「御座候(名義多数)みたいな?」

 

「それは色々大変になるからお口チャックしとこう」

 

「イエッサー」

 

 発音も頑張りましょう、と先生のように言いながらお薬たちを袋に入れて下さる。あれ、ビニール製のじゃない。

 

「鶴屋先輩、ビニールでいいです。いや、俺コイツに詰めちゃいますから袋いいですよ」

 

 二十二紀製青狸が持つポケット並みとは言わないが、このサコッシュもこれぐらいのお薬ぐらい容易く収納できる。流石に、わざわざ袋まで見繕っていただくのは申し訳なさ過ぎた。

 

「いいのいいの」

 

 一般家庭出身の俺でも分かる嫌味のない上品な袋に入れて下さる。その仕草までも上品だ。うちのお母さんのように野菜詰め放題で羅刹パワーを振るう女傑っぷりはない。

 

 鶴屋先輩にはそんなものは欠片も匂いもしないし、どこにも感じない。なのに、よく分からないものが前と同じように香った。

 

 ただ袋に入れるという単純な動きが、カスパーの描いた『朝日に向かって立つ女』のような空気を作る。

 

 袋に入れるなんて動き、この世に生きる人間全員は一度以上はする動きだ

。何の変哲もない日常動作の一つだ。幼稚園生でもこなれる動き、腰が地面にくっついちゃいそうなご老人でも難なくやれる行動。多少手指が不自由だとしても時間をかければ誰でもできるもの。

 

 それをやろうとするだけで誰もが歓声を上げない。見慣れたものだから。それをやっているだけで誰もが感涙することはない。そこに悲劇も喜劇もないんだから。それをやり終えたからといって誰もが虜になってしまうなんてことない。そこに誰も知らない魅力的な違和感などあるわけないんだから。

 

 この十七と少しの人生でもあくびが出そうになるくらいに見知った動きの一つだ。それにいちいち感嘆の息を漏らすものでもないくせに、今ずっと困っている。困惑している。混乱というよりも困惑しているんだ。色々があってぐちゃぐちゃしているというよりも、たった一つのことでよく分からなくなっているからだと思う。

 

 感動しているというわけじゃない。魅了されてしまっているとも違う。ただ、ちょっと。ただ結構ちょっと、同じように緊張してるんだと思う。

 

 見慣れた日常の一つ。あくびするぐらい見飽きているのに、あくびどころか呼吸一つ儘ならない。

 

 『朝日に向かって立つ女』は、朝日の方に女は顔を向けて俺達鑑賞側には背を向けている。

 彼女は朝日に向かってどのような顔をしているのか。朝を待ちわびている童女のようなものか、朝が来てしまったという少女のか。朝を迎えた自分に思いを馳せる女性のものだろうか。カラーバリエーションの少ないその一枚では明確なものは出てこないだろう。服装はロングドレスだが朝焼けの所為で模様も色も何もはっきりしない。他の草木も花が咲いているのか、そもそも枯れているのかどうかさえ。

 その絵画に名のある芸術評論家でもない俺が感じられるのは、たった一つだけだった。

 

 今のように、たった一つだけ。

 

「無茶なんてしちゃダメ。分かった?」

 

 前みたいに、鶴屋先輩に緊張してしまっているんだ。

 

 

。。。。

 

 

 案の定、夕食でも腹と胃はやられた。

 

 ○ルネコの爆弾○に出くわした、あの腿の裏にまで汗をかくほどのものだったんだ。誘爆とかひでぇよ、通路で挟むとかひでぇんだよ。YボタンとかAとBボタン押し続けても事態は好転するわけがない。指輪もハラペコと売れるだけのしかないし、金縛りの巻物使ったって何の意味もない。聖域の巻物は無効化されるし、自爆したら経験値手に入らないひどいやつだ。大○玉もひどいやつなんだ。なんとか命からがら爆弾○を超えた先の階で、同じ部屋にいる、ってひどすぎるよね。そりゃ○ルネコもやけ食いして更に肥満になるさ。

 

 か弱い俺の臓腑も胃薬が無ければ、本当に棺桶の住人になっていただろう。じいさんもセクシーギャルになれるらしいドラ○エなら酒場システムでどうにかなりそうだけど、外道すぎるよね。そこらのセクシーギャルがこの世でなによりも恐ろしいものになるんだから。勇者とは、なんぞや。

 

 お昼はピザとは名ばかりのなにか。お夕飯はラーメンになりたかったナニカ。それだったんだ。詳しくはもう思い出したくない。美味しかったけど。美味しかったけども。

 確かにピザが食べたかった。確かにラーメンも食べたかった。だけど。だけどさ。あえて自分なりの和を取り入れましたとか、あえて自己流のエスニックを加えましたとかはあらかじめ言っておいて欲しかった。

 大事な一口めで違和感を感じるのってね、悲しいことなの。二口めで、あぁ美味い美味いにはなるけど、ファーストインパクトがダメだとずっと悲しいの。

 

 でも、美味しかった。食べれてよかった。大量じゃなければ、それで終われたんだけどさ。夕食からもう三時間以上経過しているけど、ストマックから下の臓器が相変わらず重めな感じだ。お口や体の方は歯磨きとかシャワーとかですっきりしている分、精神的にもより重めに感じてしまう。

 

 念のため今日最後の胃薬をキめておこうかな。鶴屋先輩に頂いたお薬を見繕う。ご飯中は無我夢中で、その後のくたばりの最中では緊張し忘れていた。奮闘している最中も色々アシストして下さった気がする。気つけにもなった苦汁とか、甘さ無しのフルーティーなお水とか。

 うちのお母さんもテレビに影響されてなんでもかんでもインスタントコーヒーをぶち込んでいた時期があったな。みそ汁や麦茶にまで入れてた。加減すれば美味しかったけども。流石に紅茶とは相容れなかった。英国と米国は別物だからね。

 

 …そうさ、妹ちゃんがそういう感じでまたはしゃいでしまったんだ。一口目の加減で良かったのにその加減を二倍三倍で振りかけてくるんだ。敵に囲まれている。四面楚歌、袋のネズミ、雪隠詰め。勝てるわけがないよね。

 

 胃薬を早くキめちまおう。眠くなる成分が入っているのをキめちまおう。と思ったが、それは今日使ったのとは別種類だった。他の薬とかでも同日に同効果のお薬は一種以上使わないでってあるしなぁ。カビとかの菌用だけど混ぜたらアカンよって洗剤のデカデカ注意項目もあるしなぁ。

 

「飲んじゃうとダメだよなぁ」

 

 カクテルってのはお薬関連でも使われる言葉だったと思う。海外ドラマでよく見るヴァンダイク髭のバーテンダーが謎のメモ用紙と一緒に出すお酒の通り、二種以上を混ぜ混ぜするなら別にお酒以外でも使えるらしい。

 カクテルの語源はテキーラ娘が、じゃなくてメキシコ王の娘がどうたら、コーラなんたらっていう木の名前がどうたらとかあった。雄鶏の尻尾説も有名だ。羽だけならギラン・バレー症候群にはならないのかな。メキシコ王の娘はイギリス説、木の名前はアメリカ説っていうって幼馴染が言ってたような気がした。

 どちらも永遠に我が強い連中だな。紅茶にもコーヒーにもシナモンが飽和状態になったもの飲みまくれば争いは消えるかな。チャイには入っててほしいけどアップルパイには入れて欲しくない派だよ、俺は。

 

 そう考えながら本日最後のお薬を飲み込んだ。鶴屋先輩のお教え通りボルヴィッ○なただのお水で飲んだ。グレープジュースとか柑橘系でお薬服用ダメ絶対ってテレビでもやってたから、二度とやらないよ。自分への異常現象を身に染みて感じると人は真っ先に生き足掻こうとするんだよね。己の身でしみじみと思い知ったよ。お父さんとお母さんをもうあんなに二度とボロボロ泣かせちゃいけないよね。

 

 飲み終えて数分そのままボーっとしていた。服用後三十分は横になるなと説明所に書いてあるから仕方ない。よくやるオンラインゲームなど出来るわけがないし、内臓が瀕死なのに筋トレなどしたらお部屋が酸っぱく(かぐわ)しくなる。

 

 なら、お勉強?

 

 よくわからないなあ、高校生なのになんで勉強しないといけないの。源氏物語が経理のお仕事に密接に関わるわきゃないし、平方根が裁判の判決に重要になるなんてあるわけない。おサルさんがシェイクスピアを書き上げるのを待つよりAIとかでシェイクスピアを書かせた方がいい。ゴーイングメ、じゃなくてテセウスの船的な議題なら、誰がどう言おうがテセウスなのかどうかは俺が決めることにするよで終わればいいんだしね。

 今は頭を頑張る時ではないのさ。消化能力に縋る時だ。内臓に頑張ってもらわないといけないんだ。お腹が忙しいから脳みそはまた後で頑張って欲しい。

 

 とはいえ、くっそお暇である。

 

 使うわけじゃなく携帯さんをパカパカする。やりすぎると割とミスるマジシャンMr.マ○ックにように大変なことになるから、十秒に一パカする程度だ。俺の前機体は画面が回転するのが面白くてやりすぎた。購入して二週間で分離した。線はかろうじて繋がっていたけどダメになったのは確かだ。しこたま父母両方に怒られた。そのようなことがあった所為でカラーリングもデザインもおじさんすぎるものだ、こいつは。アラフォーのお父さんよりおじさん臭いものだ。お父さんは店員さんに乗せられた所為で女子高生っぽいのを使用している。お母さんは普通のだ。ストラップあたりが凄まじいけど、普通。

 

 そんな携帯から加齢臭がすると友達にからかわれる俺のが振動した。受信か着信だろう。手の振りでパカ、もやれないので静かに相手を確認した。

 

 加齢臭しそうなのを、あえてのセンスでいいんじゃないかな、とただ一人だけ慰めてくれた鶴屋先輩からだ。

 

 

→SkiP STaRt

 

 

 

 ゴールデンタイムだけど自習室に足を延ばしている。そこにいる鶴屋先輩ともう一人への差し入れのために宅配サービスも兼ねているんだ。

 

 それにしてもと、歩きながら周りを見る。

 

 相変わらずの学校だった。俺の家にある花柄のアレやソレが、三六十度見渡しても見当たるわけがない。

 うちの花柄のも、それを引っ剥がせばフローリング。今見えるこの床も同じようなもんだ。壁もそうだろう。うちは富豪ではないので、壁は全部漆喰ではない。この北高の校舎もそうだ。窓も贅沢していない。防犯用の加工してあるものの、カーショールームに使うような高透過ガラスを使うわけがない。今見える北高の窓も同じだ。

 

 俺の家のも、北高の校舎のも、普通な作りだろう。旧校舎もあるが、基本的な作りは変わりやしない。耐震構造とか耐熱のアレコレ、間取り。人が不自由を感じない作りをしている。

 何処か傾斜がつきすぎていてもない、どちらも。日当たりや風通しにも不備がないんだ、どちらも。普通に生きていける場所だ、どっちも。

 獣のように、とりあえず洞穴があったらいいではない。人間的に過不足なく生きていける場所なんだ。

 

 普通に過ごせる場所だ。

 

 朝起きておはようと言える人がいる場所。ご飯を食べるとき一緒に食べてくれる人がいる場所。さよならしても、また明日会える人がいる場所。

 

 それは、こんな状況でも変わらないはずだ。

 

 今日も挨拶してくれる誰かがいた。今日も一緒に食べてくれる誰かがいた。昨日のように、今日も会えた人たちがいた。

 

 きっと、明日も同じだ。そう決まっているはずだ。二日経って、しかも今現在は二日目の夜。もう少しすれば日付も変わる。

 

 歩きなれたこの校舎も、過ごし慣れたこれまでの日々も、親しみ慣れた友人たちも。

 明日も変わらずいてくれるだろう。おはようを言い合える。ご飯を一緒に食べ合える。寝る前におやすみを交わし合える。

 

 ちょっとした修学旅行と割り切ってしまえばいいのかもしれない。よくある普通の高校生活の一つだ。

 

 それは、こんな状況でも変わらないはずだ。

 

 今日も挨拶してくれる誰かがいた、それは紛れもない俺が知ってる親しい誰かだ。

 今日も一緒に食べてくれる誰かがいたじゃないか、それは間違いなく俺が知っている親しみ深い誰か。

 昨日のように、今日も会えた人たちがいただろう。あまり知らない誰かではなく、既視感を感じるもののよく分からない誰かなんて一人としていなかった。

 

 それは明日も同じはずなんだ。二日経って、しかも今現在は二日目の夜。もう少しすれば日付も変わる。

 

 さっきのコールも何も変じゃない。電話相手が得体のしれない別の誰かってことはない。この北高は偽物でしかないけれど、今ここにいる誰も彼も俺が親しみ慣れた人たちだ。この十七年も経つ人生で仲良くなれた人たちなんだ。両手を繋ぎ合って大きな大きな輪を作れるほどに、とても仲のいい人たちと出会っている。

 

 秋の少し乾いた寒さを忘れさせてくれる、ミルクココアのように落ち着くものだ。それに、誰であろうともう邪魔などされたくない。

 

 潰さないと、壊させないと、大事に大事に今度こそと抱え込んで歩いた。

 

 

 

[","}?

 

 

 三回ノックの後、デリバリーしに来た俺は自習室に入室する。

 

「こんばんは~失礼致しま~す、デリバリーから来たものです~」

 

「こんばんは。消防署の方からじゃないんだ、シャドーくん」

 

「それ詐欺のやつじゃないですか。これも別にミラクルケミカルなんてのでもないですよ」

 

「小麦粉かもしれないものとか、片栗粉と別にそっくりさんではないものとか持ってたら、流石に自首してもらうよ」

 

「通報じゃなくて有難いです。でも、そうする予定もOTOMODACHIを語るくそたわけもおりませんよ、俺」

 

「ふふ、いい交友関係築けているみたいだね、シャドーくんは」

 

「そりゃあもうとっても仲良しな関係出来てますよ。こうして俺と駄弁ってくださる素敵な北高三年生の鶴屋先輩が、今ここに一緒にいてくれるんですから」

 

「ははは、こやつめ」

 

 アホみたいな会話をしながらデリバリー業を俺は全うする。珍しく寡黙な佐々木も仲良しな鶴屋先輩もお手伝いしてくれた。

 自習室はもっとお勉強臭い空間だと思ったが、今はそんなことなかった。物理的にはシャー芯とかなんかの用紙とかのオイルとか筆記用具が持つあの臭い。精神的には、学ぶ気のない粗忽ものは腹を切れっという凄まじいプレッシャーだ。換気なりファ○リーズでもしていたんだろう、女の子の匂いしかしなかった。

 

「わざわざ差し入れなんてしてもらって悪いね。ありがとう、シャドーくん」

 

 素朴だがいい感じのランチョンマットの上に並べる。食器も紙製だけどちょっとお高め指向のだ。なんかセットで付いてきたものだ。どことなくリンディスファーンの福音書のようなデザイン。流石にアレぐらい凝り過ぎているものではないけども。

 

「俺がしたくてやったのでお気になさらず。お夕飯の時も色々助けて下さったので、ほんの少しだけでも恩返しさせてください」

 

 ここに来る途中に尻ポケットの携帯が振動したのに気づけて良かった。そうしなければ佐々木の分はなく、スーパー呪文句タイムで頭が痺れてしまうとこだった。俺は自分の反射速度に助かり、鶴屋先輩のお気遣い精神には感服する。お優しくて本当に素敵だ。

 

「その恩返しの恩返しで、また恩返しって無限ループになっちゃうじゃないか」

 

「素敵な無限ループじゃないですか? 大人の恩押し付け合い合戦なんてこと俺達じゃなるわけないですし」

 

「そうだね~。見栄張り合い、見栄張返しとか私とシャドーくんには無縁かな」

 

「ですよ。俺の見栄のしょぼさ舐めないで下さいね。この今は静寂な佐々木が腹を抱えて笑うレベルなんですから」

 

 実際やって、実際にそうやられた過去がある。別に恨みとかなんでもなく、笑い話の一つだ。

 

「へ~…、どんなのあった、佐々木ちゃん?」

 

「うぇっ!?」 

 

 ここに来て初めて聞いた佐々木の声は、面白かった。腹を抱えるほどではないけど、噴き出すぐらいには面白い声だった。佐々木団のあの女の子が聞いたら、耳を疑うだけでなく自分の頭を心配するようになりそうなほどに面白い声を出したんだ。録音しとけばよかった。

 

「聞いてたでしょ? シャドーくんの洒落たので君がお腹を出して抱腹絶倒したって」

 

「お腹出してませんっ!!」

 

「君も思春期真っ直中ガールなのに公然でお腹を出しちゃうなんて、すごいよね。ここで真面目なのも知ったけど、実は大分奔放な女の子なのかな、君って?」

 

「私は誰彼構わずお腹出すわけじゃありませんし、そういう…奔放とかではなく、色々と緩い人間ではありませんよ」

 

「ふふふ。だって、シャドーくん?」

 

「なして、そこで俺を…?」

 

 そして静まらなくなった口先は矛のようにして俺に向いた。

 

「シャドー……。君の見栄は当初から少し面白いものだ。愉快と言えるものだよ。まるでピエロのように道化じみた愉快さがある。あぁ、だがピエロのようなと言えど、それは悪感情からで喩えているわけではない。君の見栄では、どのように捉えられているのかなんて知らないがね。君のプライドにかけてちゃんと言葉通り受け止めてくれると、僕は信じている。それに、より直接的に喩えたが道化じみた、というのも別に君に対て憎悪とか蔑視しているからなんてのはないさ。君の見栄では、どうやって捉えられるのかなど知る由もないが。見識を確かに備えた君ならば、よく理解してくれるはずだ。そうだろう、シャドー? 僕は信頼しているんだ。君の見栄っ張りを、よく。とても、よく。よくよく知っている僕自身をね」

 

 どうしようもなく疑ってるじゃないか。ピエロとか道化とか、ものすごく扱き下ろしてると思うけど。ピエロだってサーカス場の裏でタバコ吹かしていたりする。道頓堀に投げ込まそうになった道化師だってさ、時々コスチュームチェンジするぐらいに洒落者なんだぞ。サーカスのは昔はちょっと見てはいけなくて切なくて苦しくてになったけども。ピエロも道化師も泣いたり笑ったりするんだぞ。俺も泣くし笑うんだぞ、佐々木。

 

 信頼関係が異物な感じになりそうなので言い返しておこうか。

 

これからの信頼関係のために言い返す

これからの信頼を得るために言い表す

 

 

 

_<_

 

 

 こんなこと言いだすってことは佐々木的に何かあったんだろう。面倒くさいが、ここでちゃんと言っとかねば後で更に面倒くさくなるはずだ。昔コンビニのおにぎりの中身を先に取り出されたこととかあったしな。

 同じようなことが起きるだろう。こんなのに見栄っ張りをかましたら更に面倒くさくなるのは目に見えた。見栄をしまってちゃんと意思表示しといたほうが絶対にいい。

 

「ま、佐々木がそう言うならそうなんだろ。俺はお前の信頼通りの見栄張り人間だ」

 

 とりあえず肯定しておこう。佐々木がどのような意図を持っているのか。そこには半分もいかないが、何やら俺に対してマイナスなものがあるってことだ。そのマイナスな感情を、まず肯定しておこう。

 

「ふぅん、そうかい」

 

 佐々木は俺のデリバリー品に手を付けず、自分で用意しただろうペットボトルに口をつけた。またもや面倒くさくなっている。ここらへんで面倒くささを消化していかないと、ものすごく後が面倒くさくなる。対処法を間違えてはいけない。この佐々木だって一応女子高生様なんだから。

 

「塾の時にコンビニで買いすぎちゃったことあったよな。俺と幼馴染と佐々木分のをたくさん買っちゃったアレ」

 

「頻度が多すぎてどれのアレだか分からないな」

 

 佐々木が言うように買いすぎしたことはたくさんあった。塾側は表向きルールとしてコンビニといった食料店は利用禁止だったが、俺たち以外も当然利用しているのを黙認するのが鉄則だった。塾の先生たちもこっそりと、タバコや%表示がある未成年が買ってはいけないもののためにそこを利用していたし。

 

「おにぎりだよ、おにぎり。しゃけとか明太子とかの定番も、ツナマヨ、マヨコーンっていう新たな世代系なのとか。豪勢にうなぎ、カニ、いくらとかたくさん買ったじゃん」

 

 季節を問わず売られている定番から季節限定品を大体網羅したことがあった。流石に沖縄限定とかのは買えないし、塾の近くのコンビニ一軒だけでだ。その近場にも個人経営のお弁当屋さんとか総菜屋さんなんかもあったが、塾に行っているときは利用していなかった。ここ最近その近くを通ったが、何件かは中華屋になったり同じようなコンビニにジョブチェンジしていたのは、少し寂しいものだ。

 

「あぁ、そうだね。そのたくさんのをおにぎり+にしようとアレコレも買ったなぁ。君も君の幼馴染も正気を疑うような物を買ってくれたよね。知育菓子にはおにぎりを使うなんてことないってのにね」

 

「そういう佐々木もアレだろ。牛乳寒天とかプリンとかどう使うんだコイツ、って思ったよ俺ら」

 

「口直しに決まっているじゃないか。プリンに醤油で雲丹味なんてありえないんだからさ」

 

 そんなに学力を求められない学校に決めていたとはいえ、成績が終わっていたら入学拒否されるものだ。

 どちらの親も、どこかの百五十一種以上も普通にいるゲームのように目があったら勉強しろとチクチク言ってきていた。そのストレス発散の一つがおにぎり加工だ。

 そこで佐々木は口直しを買っていたが、しれっと劇物を混ぜ込んで俺達に食わせたことは何度もある。俺たちもやった。ナンプラーは数滴足らすだけでいいのだ。小さじ一杯程度でもおにぎりでは激臭だったのさ。

 

「とんでもないことをしてくれたが、ちゃんと食べきったのはとても偉いと思うよ。食べ物で遊んだから全部マイナスになってしまうけどね」

 

「佐々木も頑張って半分は食べてたよな。口直し全部一人占めになったけども」

 

「ふふ、このおかげで僕は胃腸薬ソムリエになったからね。薬学部に興味を持つほど詳しくなったよ。でも、君たちの所為であのCMとかラッパのマークを見ると少し胃が重たくなってしまうようになったが」

 

「俺達も一時期○ッチンなあいつ恐怖症になったぞ。醤油が利いていても雲丹味にはならないと思い知ったね。ネット不信者にもなった」

 

 佐々木のように俺達も妙な後遺症を背負った。具体的に言えばそのコンビニで流れていた曲を聞くと胸元がじわじわと重たくなる。一時期からあ○君の存在を無意識に抹消してしまうほどのものがあった。

 

「それにしても。よくあれを食べたね、シャドーは。あれらを食べきるなら炭化した鶏卵だったものを食べた方が億倍マシだというのにさ」

 

「お残しは地の果てだろうと許しまへんでぇ……!? の家系だからね。お米一粒に百姓様の魂十億あるんだから。大事に食べんと」

 

「それは…とても、魑魅魍魎すぎないか?」

 

「八百万に神様いらっしゃるんだから百姓さんもそれぐらいいるんだよ。欠片でも残したらお前の顔を鍬とかで耕しに来るからちゃんと食べなさいって教えられたの」

 

「百姓ってなんだ...?」

 

 ペットボトルを置いて手持無沙汰のような手にフォークを渡す。普通に食べてくれた。そのおかげで異臭を嗅いだ後の猫みたいな顔から、母猫に埋もれながら甘える子猫みたいな顔になっていた。おいしそうで何よりですよ。

 

「戦国時代とかであったじゃん、色んな一揆が。一向一揆とあと……………なんだっけ。なんも覚えてねぇや。鶴屋先輩ヘルプお願いします」

 

「シャドーくんはあとで一緒にお勉強するからね。室町時代の徳政一揆から明治時代の東海大一揆も全部覚えてもらうよ」

 

「六個ぐらいですよね、いけます」

 

「残念、江戸時代だけでも二十以上あるから覚悟するんだよ。いいね?」

 

「いけないわ、助けて」

 

「世界史はカタカナだらけで覚えづらいって止めたのは君だよ、シャドー」

 

「カノッサの屈辱とか禿頭王とか最後の騎士とかのネーミングは惹かれるけど、カタカナだらけはきついよ」

 

 レンブランド作の【黄金の兜の男】しかり子供の日でよく見る兜だったり、歴史はロマンに溢れ今も枯れていく気配などない。そのロマンに焦がれるのは男なら普通だと思う。

 

 何処かの狩りゲーのように男キャラ使うなら頭装備は基本ダサい仕様なものよりも、カッコいいものが好きだ。テレビ越しにしか見たことないけどゲーム由来のファンタジーマシマシ装備よりも、実際に使用されていたのはロマン溢れすぎていて両親にコアラの如くしがみつきながら強請ったもんだ。

 

 だが、同番組で見たものがそれを変えた。

 

 西洋だと一五世紀あたりはミュータントに憧れてしまったのか特異すぎるもので、日本だと江戸時代に使われていたらしいさかなクンさんをリスペクトしてそうな【黒漆塗鯱形兜】を見てそんな強欲が消え失せた。戦場でコスプレ大会もしてたんか、昔の人は。

 

「日本の試験自体は覚えゲーだけど、実力にしたいならちゃんと勉強してしっかり覚えこもうね、シャドーくん」

 

「この世が辛い」

 

「まぁまぁ、頑張ったら美味しいものでも食べに行こうよ」

 

「はい……」

 

 暗記は得意だ。一夜漬けマンな俺は暗記が得意だ。

 

 でも、その暗記したものはテストが終わったら一割残っていたら奇跡な暗記力。英語の小テストなんか基本満点だが、実際の試験になったらボロクソ。

 その程度なので、ここにデリバリーしてきたものの洒落た感じの英文も瞬きを禁止されても目に焼き付くことはない。けど、佐々木が美味しそうに食べている姿は今もよく覚えられる。塾時代からなんも変わってなくて安心感があった。それもよく覚えていたものだ。

 

 鶴屋先輩のこのお顔も覚えられる。目薬を差したみたいに、目の全部に染み渡るように。目の保養と心の栄養となるだろう。目の毛細血管や周りの筋肉へ、少し萎んでいたりちょこっと凹んでいたりした心にも、この上ない力になる。

 

 素敵なものを見て心地よさを知って、得難い美しさを覚える。なんて素晴らしいことだろう。

 

 ただ夕空を見てなんてことないはずなのに、それだけで全てが美しいと感じる人がいる。ただ子供が追いかけっこをしているのを見かけただけで、全てが良いものに思える人もいる。一目見ただけで全てを愛してしまうそんな難儀な人間は、意外と多いものだ。その人はきっと生きづらいだろう。その愛しいものがほんの一つでも動けば取り乱してしょうがないはずだから。

 

 まぁ、俺はそうじゃない。

 

 鶴屋先輩のこのしょうがないなぁって顔を覚えるのは容易いことだ。美しいものを、素敵な人を知って覚えるなんてお茶の子さいさいだ。

 

 細められた楕円形、そこにある二つも星が入っているような綺麗な目。口元。片手で隠している所為で片方の、しかもほんの少ししか見えない。それでも、その口元がちっちゃく持ち上がっているのは見える。おかげで頬も同じくちっちゃめに上に膨らんでいた。

 

 微笑んでいる鶴屋先輩。ただ綺麗で、ただ美しくて、ただ素敵なものだ。

 

 また覚えるものだ。目にしたらまた忘れられないものだ。

 

 そうなのに。

 

 俺は前と同じように目を逸らしていた。

 

 顔を背けるほど根気は残されてなかったから苦肉の策。鶴屋先輩からそらしたその目は佐々木に行くでもなく、頑張っていた人たちの成果に行くわけもない。変わり映えもしない面白くもなんもない自習室の壁に逃避させといた。その行為は恥ずかしいからとか申し訳ないからというものじゃない。

 

 とにかく、今は色々と無理になったんだ。

 

 くすくす笑われた。デリバリー品に夢中になっている誰かさんではない。きっとあのまま、どうにも素敵なまま笑っているんだろう。

 

 あー、もー…なぁ……。俺の覚えなくていいこの緊張感がなければ全部受け入れられたのにさ。

 

 

 

......(^ム^)

 

 

 




三日目以降はlink:37》......(^ム^)《/link》です


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

涼宮ハルヒ(鶴屋ルート 三日目から)

設定

あだ名:シャドー

概要:主人公(シャドー)はキョンの幼馴染み兼同級生の男子高校生。ハルヒとのスポーツ勝負で勝敗は着かなかったが、ハルヒに気に入られ、彼女の勧誘を受けてSOS団に入団する。

一人称:俺

容姿:髪は黒の短髪。顔はキョンと同じ普通な感じ。

身長:キョンより十cmほど低い。

性格:自由気ままなマイペース

家族構成:父、母(普通の一家でよく一緒に出掛けたり、時には喧嘩もするが、後で互いに仲直りしたりと普通の生活を送る関係)

能力:キョンと同様に普通の人間で学業の成績は普通(悪い訳ではない)だけど、運動神経と身体能力はSOS団団長・涼宮ハルヒと互角とかなり優れている。



主人公のお名前はリクエストされた方のを借りております。



※こちらは鶴屋さんルート三日目から始まります。初日と二日目はここです。



三日目  。(゜m゜.) 

 

 

 早起きした。

 

 三日目に入った今日は早起きになった。いつも通りの日常なら、もう少し後に外を走っている時間帯。だけど、いつもではないこんな状況で朝ランするほど俺はクレイジーではない。昨夜ら辺からとにかくずっと走って色々煩悩を発散したいと思っているけども、流石にだ。

 そんな感じなので昨夜寝入るのも一苦労で、今二度寝も無理な話になる。だからといってティッシュ消費行動をする気にはならない。とあるお二人には必ずバレるだろうからというのと、そもそもそういうもので発散しても治まるわけがないからだ。

 

 色々と難儀な状況になったようだ。

 

 なんかそわそわする。なんか気になってしょうがない。なんか呼吸の仕方を忘れる。

 

 だいぶ居心地が前と同じように悪い。

 

 いや、別に本当に居心地が悪いとかじゃない。気まずいなとは思わないし、嫌だななんてありえないんだもの。小学生の時に先生がやたら不機嫌だったときのようなものはない。遠足のバスで別席にいる人気の男子を求める、俺の隣の無口女子なんての所為でなんてのもない。

 

 ちょっとまずい。ちょっと困る。ちょっとピンチ。ちょっと大変。

 

 今の俺を表すならこれらの言葉で片付くものだ。しかし、このちょっとの連中が全部同時に襲撃してくる。多勢に無勢。戦いは数。四面楚歌。四方囲まれたら負けるのさ。四つ揃われたら負けるものだ、エ○ゾディアよりちょっとお得。

 

 寝起き以外でも喉が渇いた。電気をつけたかったが、そのリモコンはこのベッドからすでに抜け出しているようだ。しょうがないので、充電器に差しっぱなしの携帯さんのライトで探す。こういうとき猫とか猛禽類とか暗闇でも目が利くのいいよなぁ、と思う。足元の安全を確実に取れるだろうし、普通に見えるだけで心の安全も取れる。見やすいのはいいことだ。

 

 ライトを頼りにしていると、使用頻度が買った値段にまるで比例しない勉強机に飲み物があった。飲みかけの方ではなく、ストックしてあるやつだ。面白系ではなく、お茶系統のだ。目当てを見つけたので勉強机の方まで歩く。

 

「だっっじゃぃいっ!?」

 

 俺の小指に勉強机がぶつかって来やがった。

 

 本当はそんなオカルトなことは起きていないが、足元が疎かだった所為。愚か者な俺だった。衝撃で小学生の頃からジャストフィットな机からペットボトルが何個か落ちたようだ。しばらく悶えていたので零れていないかの確認もできない。

 

 体感三十分かけて再起動した俺は携帯のライトを駆使しようと思い立った。が、役立たずになってしまっている。もしかして、妹ちゃんの攻撃が今になって? その思いを捨てたくて必死に電源ボタンを長押し。ちゃんとしていれば何かしら画面に出る。が、うんともすんとも言わなければ……。

 

「怒られたくない怒られたくない怒られたくない」

 

 携帯はお高い。機体だけを購入したとしても他サービスを使うなら更にお高くなる。自前で修理などできない。それで更に壊したらもう許されないだろう。

 

 必死の祈り。神様お助け。跪いて頭を垂れて天に乞いた。そして、祈りは届く。画面が光ったんだ。

 

 表示で知った。電池がない。

 

「…充電器さん?」

 

 犯人を睨む。コンセントを見る。犯人は俺だった。

 

「っぶねー…」

 

 コンセントにちゃんと刺して充電器を繋げばちゃんと機能している。俺が悪かったんだ。犯人だったらしい俺は罪悪感を放ってお茶ペットボトルを拾う。

 

「あ~、こいつぅ?」

 

 黒茶。プーアル茶だ。

 一説によれば、配達中お茶を腐らせちゃってそのまま捨てるのがもったいないから売ったのが受けたから、広まったらしい中国茶だ。食品衛生法が無い世界怖い。豪勢な食っちゃ寝の絵画があるローマも絵画では華やかだけど実際の中世ヨーロッパとかも、衛生よりも名誉名誉だったりしていた。香水とハイヒールの発展の元を調べているだけで、勝手に鼻が曲がりそうになるもんね。ほんに、現代に生まれてよかった。

 

 と現実逃避しているが、この二十一世紀にまで伝来しているプーアル茶。こいつ苦手だ。嫌いと言いきれないが好きだと嘘でも言えないくらいに、苦手だ。この世に生まれて十七年とちょっと、商品開発者は購買者にどこまでの恨みがあるのかみたいなモノを口にしてきたことはたくさんあった。そういう商品は大好きである。面白いから、大好きである。面白いネタ商品だからだ。

 プーアル茶は、普通のお茶だ。どっかの家庭では水の代わりにプーアル茶を飲むところもあるくらい、家庭に受け入れられている、普通のもの。日常的に飲む人もいれば生涯一度も口にしないこともある。飲むだことはないけど名前を一度は聞いたことがある、知っている、知り合いがどうのこうの、と世間的にはメジャーと言える。だから、普通に飲まなくていいなら俺は飲みたくない。

 

 面白商品はマイナーなものがほとんど。テレビで先に特集されたら、俺は手を出さなくなる。あえて手を出しているというのも俺が面白商品が好きな理由の一つだ。味事態もとても興味深いポイントの一つ。神の匙を悪用した罰みたいな謳い文句があれば、脇目も振らず飛びつく。面白商品は味の発想が異次元で面白いんだ。うちのお母さんがお酒に酔いながら作ったものより、たいそう面白酷いものがたくさんだ。

 

 面白商品は未知なものだ。ク○ルフ神話的な深淵度はない。あれは底も天井もありゃしねぇ。

 面白商品は、上から見ていたらそうでもないはずなのに実際は結構深かった海際みたいなものだ。だからこそ、ちょっと怖いけど怖すぎるわけではないから勇み足で飛びつく。

 

 プーアル茶は違う。苦手。だから、こいつを飲みたくない。といっても、他のを探すのも正直面倒くさい。苦手で好きじゃないけど、飲めないわけじゃない。飲みたくないけど。この不可思議北高ならこの世にある違法でない食品は全部出てくるから、そっち言って買ってきた方がいいのかな。

 

 プーアル茶を仕方ないけど飲む

→仕方なくないから自販機へゴ― 

 

 

「コゼニー」

 

 好き嫌いは特にないけど、苦手なものは俺にもある。このプーアル茶がそれに入るんだ。ハマる人はハマるし、日常的に愛飲している人もいる。まずいっ!! もう一杯っ!! のCMで有名な青汁のように、我慢して飲む方ではなく水代わりに飲んでいる人がいるんだ。二枚舌お国の人の血が紅茶で出来ているというように、プーアル茶で出来ていると揶揄されるレベルもいる。俺はそうじゃない。プーアル茶は紅茶と同じように発酵させて出来ている。微生物での発酵だ。幼馴染が言っていたあの説はお願いだからホラ話であってほしい。日本人でも無理という人がいる納豆のように、偶然から生まれた嗜好品らしいが。

 

 人類ってとりあえず口に入れようって発想が多すぎる。食に対してクレイジーというかフリークと言われる日本では、食ったら絶対死ぬのじゃっていうフグを絶対安全に食べたいという一心が平安を過ぎて江戸を過ぎてもあった。それだけで何千人も死者を出しながら何百年経って、現代ではフグの卵も食べられるようにしてきた。

 そんな食狂いの日本以外の他国も大分フリークがすぎる。キビヤック、カース・マルツゥ、ホンタクetc……。どうしてそうやって食おうと思ったのかまるで理解できない。クレイジーで収まらないよ。フリークだよ、フリーク。シルク・ド・フリークの彼らの方がよっぽどマシな思考をしていると思う。……どっちもどっちか。まったく、こんなフリークな加工してでも食べたいなんて頭がとってもぽわぽわする何かを使っているのか。ガキ水の方がまだかしこい。

 

 とにかく、他の選択肢があるならプーアル茶は選ばない。この不可思議ミステリアス北高の自販機へ繰り出すんだ。多分必要ないかもしれないけど、五百円分ぐらいのコゼニーをポケットにチャラつかせて部屋から出た。

 

 

 

 

《shake:1》(´ゝ`)_|†|(´ゝ`)_|†(´ゝ`)_|†|(´ゝ`)_|†|(´ゝ`)_|†|(/shake)

 

 

 

 

 お早い世界の北高だ。

 

 こんな時間に北高にいたことはこれまでなかったのでとても新鮮。それでも消えない慣れ親しんだ日常感の肌触りがあった。その肌触りに違和感も不快感もない。だって、今まであった当たり前の一つだから。朝起きて飲むときに使う専用のコップを意識しないでも使うように当たり前だった。

 

 うっかり両親のを使うとかはごく稀にあるけれど、わざわざ戸棚の奥深くに発掘されるのを待っていなかった小さい頃に使っていたコップを無意識に引っ張り出すことはない。それは別の探し物をしていてそういやこれ使ってたなと見つけて、またしまいなおすだけだ。ちゃんと箱にしまっていたとしても、じゃあ使おうにはならない。俺から見ればはよ捨てろ、と思うけども、親から見ればとてもじゃないが捨てられないものなんだろう。俺からすればなんてことないものでも、親からすればとんでもないものなんだろう。逆もある。

 

 俺の感じる妙なノスタルジーに別の誰かは新鮮と感じて、その逆を俺と誰かが感じる。このファジーな世界でのファジーな出来事も、夢現のような現実のようなあれそれになるかもしれない。なんだっけな、蝶が私になったのか、私が蝶になったのか、のあれみたいなのだ。そして何故か俺は肩幅に思いを馳せてしまう。海外の有名ボディビルダーと同じくらいにありそうな肩幅だったなぁ。

 

 などと考えながら、ずっと自販機を探していた。昨日や一昨日には、ふと目を動かせばあった自販機が見当たらない。幼馴染や他の人もそんな感じで、なんか欲しいなと思ったらすぐ傍におるのだ。ゲームのmodか何かかみたいにおる。それが今日はおらぬ。どこにおるのか。俺の今いる階には見当たらずで影もない。仕方なく下に降りる。最悪食堂にあるので買えばいい。妹ちゃんがいないから、とんでもないものにぶち当たることはまずないだろうから。

 

 階段を使っても音はあった。当たり前だ。空気があるところでは音が鳴るんだから。真空状態では音は聞こえないということをテレビか何かで知っていた。宇宙では音が聞こえない。つまりイ○オンの真の力が発動しようが、俺の歌を聞けぇーっと言われても呼吸音すらも分からない。他の宇宙での戦いなどの音は本当は何も聞こえない。でもその通りにやったらロマンが無さすぎる。ロマンも夢も見せれない世界なんてやってられないんだ。ただ階段を下りるだけの音にロマンも夢も何もないけども。

 

 小学生の時も特に何も思わなかった。そして中学生の時も、北高で二年生に進級した今も。

 

 中学生の時、昔通っていた小学校に対して懐かしいなとどこかで思ってもそれだけだ。そこで遊んでいる子を見てもおれもそんな感じだったなぐらいで、夢でもいいからもう一度小学生やりたいなんて思ったことはない。北高二年生になっても特に思ってない。実際寝ているときに小さい自分に戻ってなんかしていた夢を見たこともあるけれど、起きたらすっかり忘れているか少し覚えていても今日は新作の面白お菓子が届く日だと分かれば同じようにすっかり忘れてしまう。

 所詮夢だし、所詮もう一度なんてあるわけない。死にそうな中やっと見つけたオアシスが幻だなんて、誰も理解したくない現実なんだから。

 

 それでもこの俺のオアシスは現実に存在している。お目当ての自販機だ。未来仕様のハイテク型のようで、デジタルな画面に商品画像が並んでいる。タッチしたりスライドしたりすれば、次の画面へ移行して多種多様なラインナップを見せてくれたり、3Dのようにいろんな角度からその商品を見てみたりできる。味の批評なども見れたりもした。サクラみたいなのが六割もあったが、それも醍醐味なので良し。ファ○通でよく見たような点数と批評のはとりあえず候補から外した。○剣伝説のは許さない。絶対に許さないぞ。

 

 そう頭の片隅で呪詛を飛ばしながら、良さそうなのをタッチして小銭を入れるところを探す。なかった。じゃあお札入り口はと探している間に、ガコンッと音が鳴る。流石に無銭飲食は俺の良心が咎める。

 この三日間食堂利用時もお金いらないシステムだったが、流石にと思い妹ちゃん以外がお金を出しておいといた。鶴屋先輩のも色々あるだろうから、よくある皆の力でなんとか~みたいな募金用ですみたいなことにしてある。誰も泥棒してするわけないが、案の定募金用にしておいた箱の中身が減っていることが無い。ごく稀に別の自販機でお金の入り口があったりするが、結局購買者の手元に戻ってきてしまう。このままだと金銭感覚がバグってしまうぞ。

 

 頑張ってお金を入れるところを探すが、やっぱりない。

 

 しょうがない、とにかく飲み物を取ろうと取り出し口までしゃがむ。が、取り出し口もない。さっきのようにちょこちょことタッチやらしてみるも、なんの動きもない。自販機内の冷却装置みたいな低いモーター音も聞こえないこいつはうんともすんともおっしゃらない。つめた~いのを選んでしまったので、早く取り出せるなら取り出したい。真冬でも自販機内部はあったか~いんだから、つめた~いがぬる~いになったらとても嫌だ。ぬる~い炭酸飲料とか……プーアル茶飲みます。

 

 そうこう奮闘するも何も解決しない。諦めて立ち去るしかないようだ。炭酸飲料は基本的缶で売られている。それも大半はアルミ使用。子供向けのテレビだったか学校の授業だったかで、アルミの熱伝導率は鉄の三倍らしい。すぐあっちっちになれるし、ちょっぱやでつめた~いになるもの。鉄の三倍のスピードでだ。鉄フライパンよりアルミの方が使いやすいのかもしれない。

台所のそれなりな鬼であるお母さんは通販で買ったダイヤモンド加工のを愛用しているが。

 

 今さっきまでのは長くても八分以上タイニーの手下と戦っていたわけじゃない。七分弱ぐらいだろう。二十分ちょいで九度も上がる鉄の三倍のスピードの熱伝導率のアルミ缶。アルミ合金とか色々あるだろうけれど、結局鉄より熱移りが速いはずだ。

 物理なんて教科書開いた瞬間破ろうと無意識になるレベルの俺だが、単純に計算すれば一分で〇.四℃が上がる鉄、それの三倍のスピードのアルミ。〇.四×三×七は? 八.四だ。物理なんて何もかも分からない。多分本当にちゃんとした計算式ではまるで違う数字かもしれない。

 

 でも、たぶんきっとつめた~いはぬる~いになってしまっているはずだ。取り出し口は外の温度と大差はない。そして外の温度に容易く影響も受ける。あのメロンパン入れを出す番組とかで言っていたが、自販機のつめた~いは四℃とか五℃とか低めのようだ。そしてアルミ缶な炭酸飲料。

 

 酷暑でなくてよかった。炭酸は熱によって爆発する。俺は自販機を救ったのだ、と振り切ってそこを後にすることにした。

 

「んん~……?」

 

 立ち上がったことでデジタル画面がよく見える。絶対防犯装備でも二mは行かないので俺でも一番上の列はよく見える。が、この自販機とってもバリアフリーで俺の目線にとても合わせてくれるんだ。頑張れば最上までちゃんと見えるから別にそこまでしなくてもいいんだけど。

 

「我思う、ゆえに我あり」

 

 と、読めた。実際に出ている文字は日本語では全くなかったがそう読めた。

 

「えっと…で、で、でか、でかぁ? んー…ん~…デカルチャーだっけ?」

 

 デジタル画面がわざわざお名前を出してくれた。かわいらしいカワウソのようなビーバーのような謎のキャラと一緒におしいね! みたいなものも表示してくれる。神の存在証明とかやっちゃったらしいルネ・デカルトの名前の後に追記が始まった。

 

「へー…よくそんなこと考えるね。呼吸するだけでも色々問題抱えてたのかな」

 

 デカルトの発想やら、その主義者のどうたらこうたらを俺でも分かるように説明している。

 つまり、ゲームで見たことあるアレだ。どこかの天使でもゴッドでも仲魔にできる会社作ジュブナイルゲームのアレだ。我は汝、汝は我ってのだ。流石にヒロインの顔を生殖器に模したクリーチャーに取りつけられたら、お友達止めたいよ。

 

「”あなたはそこにいますか?”って見りゃわかるでしょ……。いや、自販機に目なんかないから分からんよな」

 

 監視カメラとか搭載されているのかもしれないけれど、解像度は自分の目で見るよりは明らかに低いものだ。PS3ほどの解像度でも実際の自分の目で見た方がしっかり見える。FPSが快適にできるPCでも電波環境によってカクカクカクな処理落ちの挙句強制終了だ。

 

「あー、水槽の中のメロンパンなアレ?」

 

 マ○ーはトラウマ。○パン三世って結構ファンタジーな技術を駆使しまくっているけれど、R-TYPEみたいな恐ろしい設定も出てくるから怖い。アニメ版だから原作よりはお優しいらしいけども。

 

 と、懐かしさ満載のメロディが鳴る。踏切とか学校で聞き慣れたメロディだ。かごめかごめ、が流れる。あのザ・電子音ではなく、ロックンロールしていた。なにしてんねん。

 

「なんでだよ……うっしろのしょうめんだ~れっ」

「はい、あたし」

 

 泣き叫んだ。

 

 

≨(・з・)⋧

 

 

 

「ごめんごめん」

 

 足元に水溜まりを作ることは無事回避できたが、腰が抜けた。これもあのロックンロールした奴の所為だ。

 

「はいはいはい、あたしはな~んも見~てませんよ。うん、さっきのはせいぜい白昼夢だもんね」

 

 ずっと体育座りのまま無言で視線を送り続けている俺に、ちゃんと相手をしてくれる鶴屋先輩。情けないけど助かる。とっても情けないけれども。

 

「飲み物買ったんでしょ、取らないの~シャドーくん?」

 

「いや、取り出し口がなんかないんです、それ」

 

「あー、そういう系かー……」

 

 なにがそういう系なのか。……あぁ、そういうドッキリ系の番宣みたいなの取ってる体にしたんだっけ。そういうわけじゃないんだけども。

 

「真実の口みたいなのあるけど、ここに手入れればいいのかな」

 

「え? そんなのあります?」

 

 あの常に口が半開きのやつだ。ローマの休日で初めて知った日本人は十割近いだろう。口が半開きなおじいさん顔なので威厳がとてもないが、海神オケアノスを模しているんだとか。元はマンホールの蓋として使用されていたらしいけど、ローマ市民ロックすぎない? 

 海神オケアノスはギリシャ神話の神だし、あのギリシャ神話一の下半神の伯父さんのようだ。ギリシャの男神としてはマシな方らしい。そんな感じで全方位に迷惑を働く甥っ子とは違い静観ばかりしている印象が強い神様なようだが、その甥っ子の正妻であるヘラを養育した手腕は凄まじいものに決まっている。

 だからといって、水路系は最重要なものだからにしても、像にして祀るんじゃなくて蓋にするのはロックが過ぎる。

 

 とにかく、さっきまでそんなものは何処にもなかったはずだ。もしかして側面にあったのだろうか。いや、あんなくそ目立つものが、ちょっだけ上方には目が届きにくい俺でも目に入らないことはないだろう。

 腰だけではなく趾と足裏全体にも力を入れて立ち上がって確認してみる。なんと、デジタル画面が真実の口に進化していた。これがロックンロールしたかごめかごめじゃなく、あの曲ならば無意識にBボタンを探して即十六連打してやったのに。

 

「うおぉ、マジだ…」

 

 流石に伝説に準拠して、お手手頂戴はないだろう。もしそんな要素があったら、いますぐ長門や喜緑先輩が出現して撤去するだろうから。そういう安心もあってそいつのすぐ下の方にあるボタンを何の気負いもなく押した。

 

「あれ、占いマシーンの方なの?」

 

 なんか音声が流れた。大阪に遊びに行ったときに見かけたのと多分同じ。結局飲み物取れないじゃないか。鶴屋先輩もその思いがあったのか、困った調子でそう声に出している。

 

「ていうか、これなんて言ってるんですかね。ローマ語?」

 

「現代のイタリア語だったと思うよ。でも音割れしすぎだからあたしもよく分からないなぁ」

 

 オー・ソレ・ミオでも朗読してたら面白いよね、と付け加えてくる鶴屋先輩。君の顔に輝く! ってとこもこんなピザ窯にいつまでも居座り続ける炭みたいな声で唱えられても、悍ましさしかなさそうだ。

 

「手入れれば取れるんだよな、多分」

 

 ローマの休日でも、抜けないヤバいぞっ!! ってやってアン王女を泣~かした~泣~かした~ってやったけども、安堵したから泣いたのだアレは。ローマの教会に置いてある実物のも、抜けないよ、お手手食べちゃうんだぞ、は伝説ではそうだよってだけだ。日本にあるレプリカもそんな感じ。あの半開きのお口はずっと半開きなままだ。ホラー映画とかデスゲームものじゃないんだからぱっくんちょはない。あったらヒューマノイドインターフェイスのお二人が事を為す。

 

 では、とお手てを入れた。

 

 意外と奥が深い作りだ。手首どころか肘まですっぽり入る。それでも、中に買ったはずの炭酸飲料は何処にもない。五指を使って石造りのお口を掻いても、石の削りカスさえ爪の間に挟まることもない。頑張れば肩まで入りそうだ。ヨガ○レイムの人とか海賊王になる麦わら帽子の少年なら頑張れば取れるよっては流石にならないだろう。十三㎞や、とか無理だ。

 

「手のひら上にしてみたらどう?」

 

「あぁ、そういう方なんですかね」

 

 スキャナーが上部にある方と下にある方とか色々あったな。ちょっと人の通りが香水文化の人が多いところのだと、スリ以外にも詐欺被害にあう人が多いらしい。ま、ここでは流石にないだろう。刑事ドラマとか事件ものは結局指紋合えば解決するもんだし、悪いこともできるんだよね。

 

 手のひらを上にする。お決まりのスキャンしてますよっとお口の中が赤くなっている。窯ではないし、俺のヘモグロビン入りの液体がぶっしゃーなんてしていない。特に熱くもないし痒くもない。一、二分ぐらい経つと音が鳴る。給湯器のメロディーだ。今度はハードロックしている。鶴屋先輩と顔を見合わせて笑った。

 

「んん?」

 

 引き抜いていい合図に合わせて腕を戻そうとした。が、びっくり抜けない。ちょっとお口を覗いてみると手首が固定されていた。とっても粗雑にダクトテープっぽいのでぐるぐるされている。

 

「どうしたの、シャドーくん」

 

「あー…ちょっ、と抜、けなくてっ!」

 

 上半身だけの力だけでは抜けそうになく、足腰と腹にも力を入れて頑張っても意外と引き抜くことができない。手首を捻ったり腕だけ大暴れしても抜くことができない。

 

「冗談……?」

 

「困っちゃうことにノー冗談なんですよねぇっ!!」

 

 自販機に足を押し付けて引っ張ても無駄のようだ。あんまり頑張っても本当に腕が抜けるだろう。脱臼とかでなく、本当に右腕一本持っていかれそうだ。どこかの赤髪みたいなことになりそう。こうなったらこの左手でテープを引き千切るしかないのかもしれない。でも、なんかバールのようなもので腕を持ってくるか、それともネイルハンマーのようなものでこのとんでも自販機を打倒した方が手っ取り早いかな。

 

「んー、困る……。あの、鶴屋先輩、なんかマジックハンドみたいなの探してきてくれませんか?」

 

 無言だ。俺が言う前に探しに行ってくれたのかなと思ったがすぐ近くにいた。それは海神オケアノスの口元だ。めちゃくちゃ御近いのだ。俺がどうにかしてしまうほど近くにいらっしゃる。

 

「装置の故障? なら、会社の電話番号……え、ないの? じゃ、緊急用のボタンみたいなのは……ない…?」

 

 鶴屋先輩が何か色々頑張ってくださっているのに、ちょっと集中が乱れて大変な俺には困りに困る。ローマの休日での身長一九〇cmジョーのお腹ら辺、身長一七〇cmのアン女王の胸ら辺の海神オケアノスのお口があった。今の俺はアン女王よりちょっぴり低めだけれど、映画のジョーのような位置で手を入れられている。農耕民族な体系を除いても目線は五十cm程下にすれば海神オケアノスのお口元がよく見れる。食べカスかな、ニキビかな、口唇ヘルペスかな、剃り残しかななんてのもよく分かる。

 

 よく分かってしまうから、鶴屋先輩の色々がよく分かってしまうのだ。

 

 上っかわは見通ししづらい俺だけど、下向きで目を動かすのも難しいことになる。

 

 だって、鶴屋先輩のチャームポイントのおでこちゃんがちょっと違うように見える。他にも目元、鼻筋、頬の赤み、唇の縁周りもだ。よく観察して頂けているようで首をよく動かしていなさる。首筋、胸鎖乳突筋が右側に張ったり、左側に張ったり、かといって垂れるわけでもなく緩んだことで、左右の胸鎖乳突筋の間と鎖骨のちょっとのくぼみがよく見えてしまう。ここまでくれば胸元に目が行くものだ。まじーことだ、思春期が暴れてしまう。

 

 俺の思春期に反応したのかメロディーがまた鳴り出した。みんなのうたで聞いたことのあるのだった。映像とか歌声とか曲調で感動するけど、普通にヒトデ少年がアカンやつだって曲。好きな子にちょっかいだしてやらかしててめぇの命で落とし前つけますって曲だ。お母さんの方の叔母さんがお年玉代わりにくれたCDを家族一緒で聞いていた時、お母さんがそういうふうなことを言っていた。 調子に乗るなという自販機からの指示なのだろう。慌てて目線をどっかにやった。

 

「シャドーくん」

「はいっ!」

 

 まずいことだ。女の子は胸元を見られるということに一切気づかない、なんて都合の好い生き物ではない。

 俺の友達も彼女にそういう関係でこっぴどく振られたのだという。それがもうとんでもなかったようで、二週間ほど自主休学をしたほどだったらしい。今は笑い話にしているし、彼は超乳教徒からイカ腹崇拝者に変態した。

 在りし日のそんな彼の如く、俺も断罪されるのだろう。当然の帰結だ。絞首台の前に突き出された愚かな罪人そのものなのだから。

 

「手に痛みある?」

 

「え? あ、はい、ないです。全然ないです」

 

 死刑は先延ばしされたようだ。

 

「……ちょっと触るからね、いい?」

 

「はい」

 

 少しの沈黙の後、鶴屋先輩の手が俺に触れた。死刑囚なのだから最後の晩餐なのだろうか。場違いな幸福を享受していた。

 

 オケアノスマウスに入れている腕の方を触る鶴屋先輩。そこから強制的に視線が戻ろうとするのを必死になってどうにかしている俺。ひどく悍ましいものだ。俺の醜態は悍ましさしかないものだからだ。俺の目線が動けば極楽浄土なのに。

 

 肘の近くまで入れてしまっているため、手同士が触れ合うことはない。が、肘はだいぶまずいのだ。肘は関節だから筋肉で守られているというより、靭帯で支えているものだ。靭帯が絡み合うようにして肘が曲がったり伸びたり、外側に捻ったり内側に捻ったりするのを手助けしている。非情にデリケートな場所だ。

 肘を打って痺れたような痛みを長時間感じてしまう経験は誰しもある。前腕とか二の腕とは違い、神経に攻撃が通りやすいのだ。この靭帯が更にやられてしまうとテニス肘とかゴルフ肘とか野球肘になってしまう。人間は本物のタイガーではないのだから使うなら日常生活だけにしとけというほどのデリケートな場所だ。

 

 つまり、内側の違和感に敏感になるものであり、外側の刺激に過敏になるものなのだ。

 

 肩こりで肩甲骨がゴリゴリしているのを感じて爽快感など覚えない。そのゴリゴリしている所をマッサージしてもらう最中は地獄だろう。ゴリゴリが解消されていけば体が楽になり心も晴れる。逆なら、心も体もダルダルだ。心と体は繋がっているもの。体が不快なら心もそうだ。心が快ならば体もそれに引っ張られる。

 

 なら、今の俺はどうもイコールなのかそうでないのかグルングルンしていて何もわかりゃしない。快か不快かで言えば、間違いなく快を得ている。これは心身ともに感じている。

 

 でも、幼馴染だったかどこかの偉い学者さんだったかが言っていたような気がするが、知性がある生き物は心が二つあるのだと言う。体の中にあるのと、頭の中にあるのの二つだと。単純かつ明確な例えをするならエロイことで二つの心があることが分かる。声とか映像とか匂いでムラムラできる。これはそんなに知性がない生き物でもエロを感じれる。五感があるからだ。頭でムラムラできるというのは、想像力だ。妄想力だ。実際目の前にいるわけではないエロを頭の中で想像しムラムラできる。テレビの中のアイドルを俺は…っ!! みたいなのでムラムラできるのだ。

 

 そう、俺でも二つの心を持つ。体の方は快で、頭はそうではないようにしていて快も不快も分かんないよう努めている。人間には理性があるのだ。俺にも確かにある。自転車少女のサドル上にある弾力ありありな丸みから目を頑張って外すぐらいにはある。痴性が頑張ってしまったなら、サドル上のピーチ様を求めて必死に追走し決死で掴むだろう。理性的な心を頭に持つのが人間だ。結局体の方に釣られてしまうけども。

 

 痴性的に動いてはいけない。男は紳士でなくてはいけないのだ。変態だとしてもジェントルマンじゃなくては、檻に詰められ水に沈められるのだから。痴性的すぎる変態さを隠して理性的にジェントルマンしないといけない。ただの動物なら三大欲求に忠実でもいいが、俺は人間さんだ。そうであるならば頭の方の心を使って、全てを全うするべきものなのだ。性使ではあるが生死をよくも考えられるのだ。

 

 だから、だから。

 

 あの時みたいに触られているってだけで、死にそうにまたなっている。

 

 

 

.

 

 

「大分熱いけど、本当に平気?」

「はい、すっかり平気です」

 

 ただ純粋に心配そうにしておられる鶴屋さんに、いますぐにでも痴性的になりそうな俺はなんと悍ましいのだろうか。俺の平熱は平均の三十六よりちょっと高めにあるから、冬場などに妹ちゃんに活用されがちだ。夏が近くなったり真夏日、熱帯夜のときは距離が離れがちになる。今は夏場ではない。かといって息するだけで唇が縦横無尽に千切れるような気温もしていない。今だけは夏が恋しい。

 

 心臓を生贄にしてでも願うのさ。離れてほしい、近寄らないでほしい、触らないでほしい。祈りが届くのなら、どっかに飛んで行ってほしい。そう心寄る願う。

 本心は、その真逆なものだけど建前を心の中で間欠泉のように噴き出してないと痴性がどうしようもなくなるじゃないか。

 

「脈早くない? ほら、凄い脈打ってるよ、シャドーくん」

 

 今の俺に”脈打ってる”という言葉はまずいのに。痴性が働いてあらぬ妄想を描こうとしてしまうというのに。妄想しないよう頭を振ってしまえば、困ったことに妄想していた以上のまずいものが目に入ってしまう。

 

 俺の腕の浮き出た血管を撫でるようにしておられる。鶴屋先輩が、あの明々といつもしておられるお方が、まるでいつもと違うこの鶴屋先輩が。青ざめているわけでもないが顔色は悪い。でも、こちらが不安に思う具合の悪さは感じない。俺の肋骨の間でじゅっと何かが燃え出したような感覚を覚えてしまう。

 

 素敵なものなんだ。恥ずかしくもなく素敵だとメガホンで全国に拡散できるほど素敵なんだ。そんな素敵さになんてことをしでかている俺が悍ましくも存在している。

 

 それは最高品質のシルクで出来たハンカチのようだ。上質で肌触りの良い楚々とした刺繍の入った白いハンカチ。そのようなものを、わざと泥で薄汚く穢してやった。そういう快を俺は知ってしまった。

 

 泥汚れはなかなか落ちない。いつも運動会でもないのに肌着まで泥んこにした俺にお母さんはさんざんに苦労をおかけしたことがある。なんとか自宅でどうにかこうにかしようとして仇となってクリーニング店に行くのも面倒になった。そして、最終的にお手頃値段の適当な残念デザインの服を着させられた。毎日クリーニング店を使うほど剛腹な家ではなかったのでしょうがない。面倒くさくて、うんざりして、ぐったりさせてしまうのが泥汚れだ。

 

 今の鶴屋先輩は例えられるなら宝石のムーンストーンだろう。それもブルームーンストーンだ。青い色の宝石だが、ターコイズやアウイナイトのような分かりやすく見やすい青色じゃない。中心部が青いムーンストーンは、その青が虹のように多種多様な鮮やかで澄んだ輝きを魅せてくる宝石。日本人は虹色とは七色だというが、他の国々だと八色とか二色だというのだ。コーカソイドの顔の作り的にどうのとか、大気の澄み具合がどうのこうのがあるが、虹というのは一色で描けないものだ。

 

 俺のこの痴性まみれではない情動が一色だけで済むわけがないように、このブルームーンストーンな鶴屋先輩の愛らしさをクレパス全色用いても全然足りない。

 

 それは女の子的な愛らしさもある。それに更に過剰な女性的愛らしさがあるのだ。

 

 比較的知性があるもの例をあげるなら、グレートデーンのような超大型犬達とじゃれて楽しさしかない笑い声をあげる女の子は愛らしい。小さな小さな子犬一匹に困り果てるも楽しさしかない笑い声を漏らしてしまう女性もまた愛らしい。どれも誰もが思わず愛らしいという感情を抱くだろう。だが、俺はそれに更に痴性を働かせてしまう。なんて手癖が悪いんだろうか。

 

「あ、ぁ、ぁの…っ、あ゛のっ!!!」

 

 変態してはいけない。メタモルフォーゼ的な意味でも、他の意味でも、ダメで駄目だ。絶対にだめだ。残り三十六パーセントになってしまうまで痴性に侵食されてしまっているが、死ぬ気でストップを頼み込む。男は狼だ。ギリシャ神話にも、古事記にもそう書いてある。止めておけ、その先は死路だ、という死ぬ気な思いでそう絞り出した俺は今世紀の英雄になれると思った。

 

「大丈夫じゃないね、シャドーくん」

 

 その人は困っている様子だった。からかうでもなく、不快を感じている顔ではない。真面目の一つの顔だ。真剣に真っ直ぐに俺だけを想ってくれている異性(魔物)がいる。

 

 なら、だってしょうがなかった。魅入られるのは、だってもうしょうがなかったんだ。

 

 だって、愛らしいものを見たんだ。芋虫から蛹への段階も踏まずに羽化してしまうほどに魅入られたんだから。アゲハ蝶でもモンシロチョウでもない、モス○のモデルとなったヨナグニサンでもない。蝶でもなく蛾にもなれなかった出来損ないが羽化してしまう。

 

「……ぁ」

 

 頭からか、体からか、酸素不足になった所為で、静かに息もできず下顎に粘りつくような声とともにやっと呼吸していた。息が出来たことで頭が少しすっきりした。息が出来てしまったことで体が急速につめたくなった。

 

「あはは…ちょっと…、痛いよ、シャドーくん?」

 

 困った顔のまま痛そうにしている異性。その人の二の腕を俺が両手で握っていた。服の上からも男でも痛いというくらいに強く握りしめていた。

 

「ばぁっ!!? あ、えっと、すいませんごめんなさい大変失礼しましたっ!!」

 

 急いで名残惜しくてしょうがない両手を剥がして鶴屋先輩から距離を取って、ジャンピング土下座をした。膝と肘に激痛が走るが、そんなもの気に留めずに己が残念な頭を床にめり込んでしまえと叩きつける。その勢いは叩頭どころではなく頭突きでブラジルまで行けそうなぐらいだ。餅つき感覚て金銅五鈷杵で俺をぶん殴って欲しい。煩悩よ消え去れっ。

 

「すみませんすみません、腹を切ってお詫びをします」

 

 介錯無しで行こう。武士の誉れなど持っておらぬ身だ。うちは分家だしご先祖様も真田一族のようなスーパー武家ではない。

 

「切腹なんてしなくていいってば。大丈夫大丈夫、ちょっと痛かっただけだから。ね、ほら、そんな頭ぶつけてるともっとアホくんになっちゃうよ、シャドーくん」

 

 ああ、もう。またそんな無神経に純粋に俺の相手をする必要などないのに、貴女って人はもう。

 

 ブラジルに違法入国しようとしている俺の頭をわざわざしゃがみこんで撫でてくれる。お父さんのようにテフロン加工のフライパンをたわしで洗うような乱暴な撫で方ではない。お母さんのように使い過ぎてちょっとガサガサになったタオルのような慣れ親しんだ撫で方ではない。どちらもとっても優しくとっても温かく、とっても嬉しいものだった。

 

 今も優しく温かく嬉しい気持ちを持っている。でも、それは間違いなく子供らしい純真なものではない。

 

 そんなことしちゃうんだ、俺もなんかやっていいんだよね、っていう下衆な心からのものだから。そんなに優しく撫でちゃうんだ、俺ならもっと変に優しく撫でちゃうぞ、とか。痴的生命体にまた変態してしまいそうだ。

 

「あでっ」

「わっ」

 

 流石にそんなE.T.はNASAもお求めしていないのか、物理的なお叱りが耳の付け根に当たった。土下座姿勢のまま、鶴屋先輩には当たってしまっていないようで安心する。そのまま、当たってきたものを確認すると俺が欲しかった炭酸飲料だった。

 

 鶴屋先輩を見ないよう必死に自販機を確認すれば、海神オケアノスはにんまりと口を半開きのまま笑っていた。それだけなら、コノヤローと飛び膝蹴りでも喰らわしたがったが、そのお口が言葉として動いていた。声はない。あの音割れがひどいガイダンスのもない。日本語を話しているわけではないようだが、やっぱり俺は痴的生命体。通訳も辞書もいらずに、簡単に理解してしまった。

 

”Come si fa a sopportare un po' di questo?”*1

"Non è un complimento,però.”*2

 

「ふ~…っ!?」

「怪我しちゃった? 平気?」

 

 なにか吠えてやろうとしたが、鶴屋先輩が危ないだけの俺にまたお触りになってしまい不発した。

 

 血が出てるとかたんこぶ出来ているなどはない。それでも当たった付近を傷つかないよう痛まないよう繊細にタッチしてくる。その所為で、髪の毛一本一本の全てが触覚を得たような気がした。スキルビルドゲームでもゴミスキルすぎて初心者でも廃人でも取らないだろう。メデューサのように髪を操れるとか、幽霊族の生き残りのようには攻撃に使えないこのスキル。

 無駄に鋭敏なんだ。他人の体温、誰かの触り心地、女性からの柔らかな感触、鶴屋先輩に触られているという羞恥。それを一本一本が伝えてくる。髪の毛の下にはもちろん頭皮がある。こいつも度し難いことに同様の鋭い触覚をもっている。頭が沸騰するだけで済まないじゃないか。

 

「あ、ぇっと」

《Ó sole mio!!!》

 

 

 汚名を返上なりするために口を開ける度、真実の口からオー・ソレ・ミオの一歌詞が飛ばされる。その所為で俺の言葉なんて飛んで行ってしまう。今すぐそのお口を塞いでくれよ!!

 

「シャドーくん、頭上げるね」

「へはぁ?」

 

 俺のあごの下に軽くその女性は手を添えて、俺の頭の後ろもこの女性は手を置いて。そうして汚間抜けな俺の頭をあげて目と目を合わしてしまう。

 

 頑張って、頑張って、なんとか頑張ってたのに。ちゃんと頑張ってたのに。頑張って我慢をしていたのに、どうしてそうしちゃってくれるのか、貴女って女性は。

 

「眼振もない、ね。吐き気とかある? ちょっとでもまずそうなことあったら教えて?」

 

 目を合わせてくるどころか。目を覗き込まれてしまう。俺の色々が見透かされそうになっている。それが困る。その困るというのも、バレてもいいやいう俺だから困っているんだ。

 

 困っているふりをしながら、俺自身の意志で大きく目を見開いた。

 

「Ó sole mi!!o!」

「ちょっとうるさい。静かにしてて」

 

 海神オケアノス様に救われた。見開いてしまった俺は即座に顔を明々後日の方へ向けて立ち上がった。俺の海神オケアノス様へ注意をしていた鶴屋先輩も一緒に立ち上がってしまわれたが、とりあえず我慢し直せる。よかったんだ。

 

「立ち眩みとかない? 気持ち悪いとかは?」

 

 こちらに注意を払っていただきたい鶴屋先輩は相変わらず無防備に俺の様子をうかがって下さる。その様子をうかがうのも俺の危険性など欠片も考えないものだ。無警戒というのはまずいのにな。人間が生活を整えないと死ぬ生き物のハムスターだって、主人を噛んでケガさせて感染症で殺していたりするのに。

 愛玩動物と言えど、人を死に至らしめる。無警戒で無防備だからこそ、人は痛い目を見る。そういう幼い無邪気な感性でいるから、そりなりに無害な俺でも非常に危険な生き物になってしまうだ。

 

 俺は目をまた大きく見開いた。驚愕とか、恐怖からではない。それらにより興奮状態になったからでもない。

 

 ただ、ただ。鶴屋先輩が欲しいから。

 

「大丈夫じゃないです」

 

 どこも平静ではないくせに、いつもの調子ののんびりでゆったりな口調だ。無邪気でいい、無害でいい。無防備になればいい。無警戒でいればいい。

 

 すぐ心配して更に近寄って鶴屋先輩は本当に愛らしくてしょうがなかった。大丈夫、とか、保健室に行こう、とか、やっぱり横になっておこう、とか色々言ってる。その無警戒が愛らしくて、そんな無防備が愛らしい。無害さは愛らしさを持っている。無邪気な様子は愛らしさだけしかない。

 

「シャドーくん?」

 

 あはーは。我慢は忘れちゃった。こんなに近寄ってくれるんだから、引き寄せようとはしなかった。我慢しなくていいのだから。

 

 耳の後ろにある髪をなるべく丁寧に手で梳いた。五本の指で少し掻きだすように梳いた。それに嫌がる様子はまったくなく、ただ不思議そうにしているこの女性は本当に愛らしくてしょうがない。身じろぐこともない、呼吸は一定、少し頬が赤くなっているだけ。我慢が消えそうになる。

 

「シャドーさん」

 

 その喜緑先輩の声で、ハッと我に返ってしまった。そして、ちゃんと俺が鶴屋先輩を見るとまたどうにかなりかけた。

 

 俺のように、緊張していたのだ、この鶴屋先輩は。俺が鶴屋先輩に前みたいに緊張するように。鶴屋先輩が俺に緊張していた。

 

「こ、困っちゃうか、な~?」

 

 俺に緊張しているというのに、同じようにいつも通りしようとしている鶴屋先輩へ大声で謝りながら逃走を敢行した。

 

 

..

 

 

 

 朝ご飯を食べる気にはなれなかった。色々フラッシュバック中な所為もある。体的にはパン屋さんで売れ残りになってしまったお店オリジナルパンでもいいから腹に詰めこめとか言えるんだろうけど。胃袋はからっぽでも頭からつま先まで、パン生地からちょっと漏れてるくらいのぎっしり詰まったあんパン状態な俺がいる。相変わらず緊張が続いてしまって、こんなんであんパンについてるゴマ一粒すら食えるかという状態なんだ。

 

 しがみついていた椅子から顔をあげて時計を見た。朝の十時の少し前だ。幼馴染にメールをし、朝ご飯は解決している。いつもの北高二年生な俺なら早弁君に倣い、こっそり授業中栄養を取ろうとしている時間になっても、何か食べる気にならない。買いだめしといたランク付け済み面白お菓子や飲み物に指先一ミリすら伸びることはない。その気になれば一食で炊飯器を空っぽにする俺なのにだ。

 

「ちょっと括約筋が苦しいか……」

 

 そして今だ。胃は空っぽでも、生理現象は空にならない。ぎっしり詰まったあんパンが漏れ出そうになっている。サバゲーオタクの親戚がいる俺は、同じようにサバイバルグッズを自室に詰めていない。簡易トイレとかないのだ。家を探せばおまるが残っているかもしれないが、この俺の部屋から出ても俺の家ではなく皆のいる北高に出てしまう。

 

 《s》「いざ、おトイレーー」

→「味噌作りはせぬ」 

 

 

「味噌作りはせぬ」

 

 天下餅は作りたいが、自家製味噌は作りたくない。信長が頑張って杵を使っているのを応援し、秀吉が捏ねていい感じに成型するのを褒めそやす。そして、毒見ではなく味見係として家康がこの世で一番旨いという顔で食うのだ。元は天下餅という歌ではなく、別の題名で歌川何某が書いた風刺の浮世絵だったとか。幕府がお優しいことはなかったようで版木燃やされて、他の関係者も処されたらしいけど。

 

 それにまだちゃんと十時にすらなっていないのだ。九時はまだ朝なのかという気分になって滅入ってしまうが、十時を過ぎるとお昼の時間までのカウントダウンでやる気が少し出てくる。括約筋もその周囲の筋肉も今までちょっと頑張らせすぎたため、今便意が消えてしまっている。このままいざ、おトイレーしても考える人になるだけだ。

 

 十時過ぎるまで少し寝よう

 

 

。.

 

 

 

 朝の二度寝の結果、いい感じの便意に起きれて快便できた。手洗いまでちゃんとやり、古泉達からもらった朝ご飯が入ったビニール袋を片手に校内を徘徊している俺だ。古泉セレクトでおっしゃれーな感じのモーニングをもらったんだ。パニーノ、イタリア流サンドイッチだ。これは一緒にいた幼馴染君や俺などでは選ぶことができないオシャレスキルなのだろう。

 

 俺達同士ならそれは靴底が消えてなくなるほど掃除しても見つかりゃしない。俺の顔以上はある、塩味など甘ったれたこと言ってんじゃねぇお米様をしかと味わえやとくっそでっけぇおにぎり。又は、幼馴染君の一週間分の間食にとても入り切れない、大量の定価割れを起こしている在庫ごつ盛りエース○ックとかになる。

 

 女の子に渡すなら俺達もさすがにそんなドアホウはしないが。そんなドアホウはしないが普通にサンドイッチになる。パニーノをあえて選ぶほどのオシャレスキルはどちらも端からないのだ。

 

「古泉はホントやるよなぁ」

 

 気が利く男はモテる。

 それを男側でよく思い知った。古泉からのオシャレな軽食だが、量はオシャレが無くなっている。多分女の子なら六人以上で一生懸命食べるぐらいの量だろう。うちのお母さんなら一人で食べきれるけど、女の子はそうできないだろう。

 他にも飲み物や紙ナプキンも入っているが、女の子にたいそう受けるほどの華美なオシャレではなかった。それでも嫌味がないし、かといって気取ってんなぁとはならない。それに女の子受けするものとは違い使用を躊躇わなくていい。使い終わったらはよ捨てろはとっても助かるのだ。何度も使うのは衛生的によろしくない。枕もとのティッシュは高頻度で使い潰すものだからだ。

 

 いい感じの軽食を歩き食いしてもいいが、学校内でそれは躊躇われる。この不可思議北高に生活指導の先生含めて教師すら一人もいないが、流石に。他にも多くの雑踏の中なら普通に食べ歩いてたが、スリーピング姫な団長様を除いて九人しかいないここは隙間が広すぎるのだ。

 砂漠でオアシスを探すほどの苦悩もなく誰かにすぐ会うし話すこともできる。けれど誰でもいいから誰かに会いたいときは、必ず探しに行ったり会いに行かなければ挨拶一つも少し不便なこの空間だ。

 

 出来れば、ただなんとな~く傍でだらだらと一緒にいるのに付き合って欲しい。

 

 さっきの男組と妹ちゃんに付き合ってもらおう思ったが、妹ちゃんのご機嫌伺い&喜緑先輩からの用事で忙しいので無理だった。なら、もう適当に歩いて誰かに付き合ってもらうしかない。

 

 話が長くてめんどうな奴はちょっと辞退してもらおう。あいつは俺の食うものに要らぬアレンジをすることが塾生の頃に習慣になってしまったのだ。サーモンや生ハムとか入っているが、そこにこっそりジェノベーゼ一缶全部ぶち込んでくる奴になってしまったのだ。最初からそうではなかったのに、なんてやつなのだろう。

 俺たちがそうしたのだ。だが決して、反省はする気はありはしない。

 

 誰かを求めて手持ちはあるが手持無沙汰で北高を徘徊する。一階で朝比奈先輩にあったが、ハルヒのお世話中らしく無理だった。長門は相変わらず懸命に調査中、同じく喜緑先輩もだろう。他の人は、何処なのか。長門から朝に送られてきたメールで、屋上と校庭までは安全圏だと確認が取れたから滑車に回されるハムスターをしていてもいいと許可を得ている。今は一回にいるので屋上に行くのはちとだるい。校庭ら辺にぶらつこう。

 

 ぶら~っと出てきたものの、ハムスターのように滑車で暴走する気はない。欲しいのは滑車でもヒマワリの種でもなく、ただ一緒にいられる誰かだ。手持無沙汰が足にまで来る。足持無沙汰とでも言おうか。そう言葉を作ると脳裏で豚の丸焼きが浮かんだ。そういう意味ではなかっただろうが。

 

 運動場の方ではなく駐車場が見えるとこまで歩いていた。理事長のか校長のか分からないけどランボルギーニの車がいつもあった。どちらが本当のランボルギーニなのか北高の謎の一つである。どうみてもボディがランボルギーニのものではないが、エンブレムはランボルギーニのイカす闘牛のエンブレムなのだから。まず右ハンドルな時点で色々と難しいことになるだろう。

 

 そんなとこからさらに移動する。

 

 北高祭ライブで我らが団長が熱唱していた講堂に近づいた。ステージ上でも最強な団長様であったが、そのステージ衣装もとんでもなかった。そういう意識が小さじ一杯も無くても目のやり場に困る。団長様に緊張したのはこの世であれが最初で最後だろう。入団してから頻繁にあるかつあげで困ることはあるが、ああいう思春期的な緊張は金輪際ありえない。やっぱ結構あるんだとか早く忘れなきゃいけないのだ。

 

 誰もが大盛り上がりだったライブ会場も、今はやっぱりがらんだろう。講堂の前に来てもあのディープでビビットな圧迫感も、大人数の熱狂感も何にもない。

 

 幼馴染君に、ガス抜けし損ねた翌朝の出店風船と評価される俺だ。そんなのが講堂に入り込んでも俺自身も講堂内もしゃっきり張りあがるわけじゃないし、ぱんっとあっけらかんと弾けていくことはない。

 

「あ」

 

 そのはずなのにだ。

 

「んっとー?」

 

 鶴屋先輩はご自分の腕時計ではなく、講堂にある特に名品でも高価でもない普通のアナログ時計を見た。

 

「おそようさん、だ。シャドーくん?」

 

逃げなきゃいけない

逃げられない

たたかう

 

 また、逃げなきゃいけない。その思いは心の何処も彼処にもあった。だからこそ、また逃げてはいけないと思い込むことになっていた。

 

「あ、っぁ…た」

 

 どうにもならない俺に対して、不思議そうに何も知らない感じで首を愛らしく傾ける鶴屋先輩。見知った人の見知ったワンシーンだ。どんな映画監督も編集家でも史上最高のカットなんて理性的には分からないだろう。誰にとってもウケるシーンが最高の映像美ではないのだから。

 

 枯れた花も蘇るような満面の笑顔ということはない。

 

 ちょっとはにかんでいるが笑顔にはなっていない。眉も目も困ったように下に落ち込んでいないのだ。どこも困っていない、なにも不安がない。二人っきりでも命に係わる危機などあるないと確信しているからだ。その様子が正に危ないのだという自覚がないのだ。たとえ護身術の心得があろうと、どんなにスーパーウーマンだろうと隙を突かれれば為す術など塵一つもなくなる。

 

 誰の相手をしているのか、誰が触ろうとしているのか。

 誰がどうして触らないよう頑張っているのか。

 何故誰でも分からないふりをしておられるのだろうか。

 

 それらをまず思いつけない貴族は馬車で踏みつぶされる炉端の石のような沙汰になるものだ。

 

「こ~らこらこら、挨拶は人として大事なマナーなんだよ、シャドーくん」

 

「ぁあ、はい。すみません、鶴屋先輩。おそようございますです」

 

 いい子だねとにっこりされる鶴屋先輩。長い髪がそれとともに豊かにふんわりと揺れた。その所為でいつもはその長い綺麗な髪で隠れがちな耳が見える。

 大きな宝石のようなその綺麗な目よりも低い位置にある。日焼け止めなのかそこも化粧をしているのか少し桃色だ。お茶碗一杯もなさそうなその綺麗で愛らしいお顔にはすこし大きめに見えるぷっくりとしたお耳だ。

 

 そのおかげで獣に成りそうだった。このおかげで人に慣れたのだ。

 

「今朝のこと、がすみませんで、えっと…あー、その……誠にすみませんです」

 

 めちゃくちゃな言葉でも今朝のことを謝罪するということができた。人らしい行動ができたんだ。

 

「あー、あれねー。あはは、びっくりしたなー、あれは。結局シャドーくんの体調に異常なし、あり、どっち?」

 

 そんな人間モドキにしかなれない俺に比べて、なんて人間が出来ているお人なのだ。あんなことを、あれでで済ましてくれるのだ。あんなことだったのに、どうしようもない醜態だったのに。炉端の石と同じ認識だったんだ。

 

「びっくりさせてしまってすいません。体調は問題全くナッシングです」

 

「OKOK~、なら全然O~K!! 気にしないでいいよー、ちょっとだけびっくりしただけだし、あたし」

 

 本当になんでもなかったようだ。びっくりしていただけだと言ってくれた。緊張していたはずだ。都合のいい方に解釈していいなら、恐怖ではなく興奮であったのだと思いたい。異常事態による体からのエマージェンシーではなく、異常事態から頭を主体に起こしたアラートであってほしい。

 

 俺にご都合が良すぎるのでどちらも捨ててしまう解釈だ。悪党のカンダタでも蜘蛛の糸代わりにこれを使ってよじ登ろうとは思わない。悪党でも一握りの矜持はあるのだから。悪党でも人間らしさの塊だったのだから。

 

 俺は目の前の女性に悪事どころではない、とんでもないことをしようとしている。どんな悪党よりもあくどい生き物になろうとしている。

 

 高級店のコース料理で出てくるレコード一枚分以上の大きさの皿を目の前で出されている気分だ。あれは腹を膨らませるより目で味わうことを目的としたものだ。レコード一枚分以上の大きな皿にたった肉一切れとなんかのソースだけで一万円軽く吹っ飛ぶもの。店自体の高級感な空気と場所代も含めての金額だから仕方ないものだろう。

 その肉一切れとなんかのソースがン万円すると言って自宅で出されたら癇癪起こすだけじゃすまない。しかもそれが今日一日分の食事だというなら通帳強奪ぐらいするに決まっている。

 

 それでも、今なら強盗犯にも駄々っ子にもならないだろう。その肉一切れが極上ならいい。そのソースがその肉一切れの邪魔にならない味付けをしていればいい。

 

 大きな一口で味わえるのなら、どんな悪にも手を染められる。そういうのが、今の俺だった。

 

 そして、自ら生贄行為を働く女性がいるんだ。バレエのような精錬されたものではなく、社交ダンスのような華美さはない。左右に少し体を揺らすだけ。

 

 そうして髪も踊る様がまたも、ただ、ただ、愛らしい。

 

 それがどうしても、ご自身の無警戒で無防備さをよくお見せしてくれる。

 

 この人も分からず屋さんかよ。

 

「ふっふ~ん、あたしのミリキにやられっちゃったんだもんね~?」

 

 あぁ、もう。すぐ、そういうこと言う。

 

「…っぇ?」

 

「そうですね」

 

 肩を掴むまでもない。鶴屋さんの左肘に軽く手を添えただけ。それでも危ないということは分かって欲しい。なのに、びっくりしているだけで逃げようとしてくれない。あぁ、もう。また、そういうことする。

 

「そうですよ、そうなんですよ」

 

 びっくりした顔。その顔は恐怖や悍ましさで青褪めてくれない。かといって怒りなどの危機意識からの真っ赤っかでもない。

 

 ゆっくり、だ。

 

 わざと唾を飲んでしまうほど、じれったくゆっくりと朱に染まるお顔だ。あぁ、もう。どうして、そういう顔しちゃうんだ。

 

「やられちゃったんです」

 

 鶴屋さんの左肘に添えた手が握りつぶさんばかりに掴むことはない。添えたまま一擦りも動かしてすらいない。それを意識されているのを分かっていた。鶴屋さんの右手が自分の左肘へ、添えている俺の親指に付け根に軽く当たっているのだから。

 

 無意識だろうか、わざとだろうか。どっちでもいい。

 

 もう、知らんから。

 

「やられちゃったんですからね、鶴屋さん」

 

 蛇に睨まれた蛙。猫に追い詰められた鼠。どっちがどっちか分からない顔していないんだからさ。

 

 だったらさ。もう、もう。ほんとに知らん。

 

 

 

An old ■■■friend intervierwer: Should *ERROR* have pretended to be uninterested from the beginning?

H*A:It depends on the person.There are an infinite number of patterns that fit different people and patterns that are unmanageable.

 

◇◇《PARTING SHOT》:I mean,dosen't that mean that whoever he is,he's hooked?!

H*A:So,it depends,you know.

◇◇……Then why not me??? Then why not me???

H*A:I've been telling you all along. 

人による、のよ

 

++++++++

+++++++++++++

+++++++++++++++++++++++++++

………

 

WIMBO_FP_POOR_QUALITY

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

‘‘

 

 

 

 

 突き飛ばした相手と何食わぬ顔で一緒にお昼を取るってどういうつもりだろうか。

 

 そういうお昼はイージーだった。あの緊張感などどこにもありゃしない。妹ちゃんのガシャポンお食事もイージーもイージーだった。

 

 ハンバーガーが出たんだ。マ○ドや○ス、ドムド○、○ッテリア、ファーストキッチ○。バー○ーキングなどのそれぞれだ。他の男二人に任すほどの量では決してない。ラグビーをやってそうな大学生一人分もなく、ちょっと体格がいい文化部一人だけでも余裕で食べきれる量だった。マ○ドや○ッテリアのなどの期間限定メニューを二人に善意だからと奪い取られそうになったが、はたき落として全部おいしくペロリさせて頂いた。

 

 おまけだと思うキャラ物は妹ちゃんに全部プレゼントだ。たいそう喜んでくれた。これ欲しかったのーとそれらを抱いて小躍りしているくらいにだ。さてはおまけ目当てだったな、と悟りながらもその様子にも俺は満足だった。俺も俺もと頑張る彼らを応援して食堂を抜け出したんだ。

 

 いい感じのお昼日和。

 

 腹ごなしにするにもただこのまま散歩だけは味気がないだろう。さきほどのジャンキーなものに比べて味がない、霞味だ。自室で色々用意する時、探し人の場所を聞き出せたから遠慮なく向かおう。

 

 

.

トイレで一旦一息入れてから行く

一息で済ますためさっさと向かう

.

 

 

 お腹をスッキリさせた方が気持ちの入れようがあるだろう。

 容器は空きがある方が中身をたくさん詰められるのだから。小と大を済ませ手洗いうがいもしっかり済ませた俺は、探し人の方へ向かった。

 

 渡り廊下でボーっとしていたと、何故か俺の教室前にいた佐々木から教えてもらったのだ。所在を尋ねてきた俺に、またやたらと小難しい喋りで面倒だった。が、一応心頭は少しだけ滅却できたはず。少し前に、後先考えず突撃して可もなく不良判定でいと憐れに玉砕した苦々しい経験がある。その経験は一度だけで十分なんだ。粉骨砕身は玉砕と同じ意味ではないのだ。

 

 てっくてっくルンルンと歩けば、さぁお目当てだ。

 

..

足音を大きく鳴らして近づいてやる

声をかけてからゆっくりと歩み寄る

声をかけて少し待ってから近寄る

//

 

 いつもの北高二年生なら上履きだ。

 

 でも、今の俺は北高二年ナンタラクラスの何某ではない。学生証と照らし合わせればそうそう別人であるなどと言われないだろう。世界には自分そっくりさんが三人いるようだ。しかし、日本在住で北高に二年在籍していてSOS団に所属していると特定されれば、他のそっくり二名はただのそっくりさんで終わる。

 昭和中期でも古臭そうな名前と揶揄される俺の名前は、平成に移り変わっても古臭いと言われるものだ。同じ年代の名前付けランキングではお見事にランク外である。伊弉諾尊によって最低一日で千五百人生まれる中でさえ俺と同じ名前はない。特別賞的な感じでその名前が載っただけだ。

 

 その特別賞的なのをもらった男の子が今の俺だ。SOS団所属は置いておく、北高二年生も置いておく、日本在住は戸籍不明だと大変なので大事に取っておく。特筆すべきことなど名前が古臭いぐらいな男がいる。成長期がちょっと一休み中な可もなく不可もない一般男子がいる。

 

 そんな日本在住の日本男子の肩書しか持たない男。それになんてことをしてくれたのか、ちゃんと知っていただかなくては。

 

 この三日間、いつも部屋から出たらお気に入りのスニーカーを装備している。これも男なので女子よりサイズ大きめだ。それもあってか、上履きに比べて足音が重く響くように感じた。重量や値段的に上履きの方が遥かに軽く安い所為もあるだろう。登校用のスニーカーでないのも更に重たく響かせている気がする。

 一般男子は日常の一つだ。学校にいても非日常の一欠けらにもならない。だけれど、他校の一般男子だったら非日常の一つになる。北高の生徒でないなら同じように。

 

 日常がいつまでも変わらずあるわけがないってことを、思い知らしてやるんだ。鶴屋さんは、俺に遠慮が無さすぎるんだから。

 無防備でいい、無邪気でいい、無遠慮なんて当然の権利だと誤解している。権利というのは突然剥奪されるものだ。あらぬことで泣き喚くしかできない大失敗をするものだ。

 親指一つもない小さな石の欠片だって、皮膚を裂き肉を抉り骨を折ることもあるのだから。

 

 やって良いこと、悪いことはもう高校生なんだからしっかり分別して頂かないとまずいんだから。

 

 だから足音を立てた。目障りで耳障りするほど主張した。なんかのゴミだったか紙切れを蹴飛ばす軽い音も立てながら近寄る。流石に諦めて気付いた様子で鶴屋さんが挨拶してくれた。

 

「シャドーくん、こんにちわ」

 

 それに俺もしっかりし返す。

 

「こんちは~、鶴屋さん」

 

 まずいってことぐらい分かってね、鶴屋さん?

 

)▲

 

 異常が起きている。想定外が起こっている。だって、こういうの何から対処すればいいのかなんて分からないのだから。

 

 いつも通りだったはずだ。普通をしていたはずだ。取り返しのつかないラッキーもアクシデントもなかったはずだ。想定していないプラスほど怖いものはない。想定していないマイナスほど面倒なものはない。なら、この三日間も怖いことも面倒なこともなかったはずだ。

 

 ハルにゃんが眠り姫モードという演出を頑張っているのもいつも通りの彼らSOS団らしいものだ。たまに彼らに雑じるキョンくんの妹ちゃんがすらいつも通りのSOS団らしさを損なうことはなかった。他校の下級生が入ってきても彼らSOS団のおかしな空気感は変わらない。みくるは自分のことを普通の女の子です、涼宮さんと違って本当に普通の女の子なんです、とよく言うが、あのハルにゃんに二年間も赤ちゃんのようにしがみつかれている女の子が普通の女の子とは言えないと思った。抜群にかわいいもんだから、そこは普通ではないけれど。

 

 赤ちゃんは一途な生き物だ。

 

 嫌悪の感情を一番感じ取れる生き物だ。生きていれば大なり小なり誰かに悪感情を抱くもの。悪感情は攻撃に必要な武器の一つ、寝返りすらまともにできない赤ちゃんなど捻り殺すのにナイフも銃もいらないだろう。そんなのでも悪感情を察知する能力が高いものが、この世で生き永らえ大したことを為さなくても比較的長い人生を送れるのだ。生きたいから、悪感情に敏感になる。

 

 そして、愛されることに全力だ、生きたいのだから。子犬にしろ子猫にしろ”子”という状態の生き物はどんな人間も魅了する。流石に芋虫は無理だろうが、その状態の生き物は必ず可愛がられる。何かしら世話を焼かねば勝手に飢餓で死ぬ生き物の状態だ。泣いたらミルクをあげたり、用の処理をしてあげたり、ただご機嫌取りをしてあげたくなる。それに大学の卒業論文並みの理由などなく、可愛いからというだけだ。可愛いから、ついつい何かしてあげたくなるのだ。たとえ、逆効果にしかならないものでもそこに可愛いと思う感情を抱くなら、”子”の状態の生き物は必ず察知できる。そんなに可愛がってくれるなら、と彼らは全力で可愛くなるのだ。生きるために世話されたいのだから。

 

 赤ちゃんがそうだ。ハルにゃんもそうだ。

 

 あたしから見ても変わった子の一人がハルにゃんだ。

 

 北高の変人程度ならあたしも特に何もしないし、何も言うこともない。あたしの一番の親友のみくるをいじめるのではなく、いじりで済むぐらいのかわいいかまってちゃん程度でも割とどうでもいい。あたしをSOS団の顧問にしたのは結構面白かったけど、まぁ、それもどうでもいい。

 

 SOS団の加入を勧めてこなかったこと。花丸。百点中二百点あげちゃう。ベストオブベストだった。

 

 あたしがどういうふうに生きていて、どんな感じで生きていきたいのか。

 

 赤ちゃんだから本能的に分かったんだろう。最高の女の子だ。家のあれそれでもないのにお家へ招待もしちゃったりするほど、最高の女の子だった。

 

 あたしも人並みに非日常に憧れてはいる。

 学校にテロリストが、みたいな妄想はしたことないけれど、ちょっといつもの日常にちょっとは不思議なことが起きればいいなぐらいだ。購買のクリームパンが発注ミスでいつもの十倍多く購入しちゃったぐらいで満足する。そのクリームパンが擬人化しても困るだけだし、なんか悪党退治とかしだしても困るだけだ。

 

 あたしは、普通の日常にちょっとだけの不思議が欲しい。ハルにゃんでは物足りなさすぎるものだ。だから、あたしをちゃんと勧誘しなかった。とっても変で愉快だった。

 

 あたしは、普通の日常にちょっと不思議なことが起こればいいなというだけだ。ハルにゃんにはとっても物足りないものだ。だから、あたしを勧誘なんてしなかった。大大大正解。偉い。とっても偉い。ハルにゃんのそういう変で愉快なところがとってもグッドだった。

 そして、彼女が集めた団員たちは、あたしの親友含め愉快なことをたくさんしている。中には校則違反以上なことをやったかもしれないけれど、あの愉快な雰囲気が変わらないならいくらでももみ消せる。

 

 夢の中でなら許されるものをこの現実でたっぷりやってきたSOS団。現実ではちょっと面倒なことになるのはあたしが始末をつけといた。ハルにゃんも常識人ではあるから本当の犯罪行為はしない。してまでの愉快な事情なら流石にあたしも引導を渡す。あたしの大好きな親友を傷つけたら誰であろうと許さない。

 そんな大それたことをせず、あたしもみくるも普通に三年生に進級した。新入生だったハルにゃんたちも立派に北高歴二年になっていた。もう一回一年生しそうなのが二人もいたようだけども。

 

 その二人は普通と言われる子たちだった。平均的な身長に平均的な顔、ちょっと成績が危ない普通の男の子。その幼馴染の平均以下の身長と平凡なお顔、成績は一応セーフの普通の男の子。

 

 劇薬に精製水を使ってすこしだけ薄めても効能は変わるわけがない。むしろ劇薬が劇毒に変化してしまうことの方が多い。

 

 ハルにゃんたちに+される成績が危なげな平均的身長の普通男子。

 劇毒に代わることなく、かといって効能を悪い意味で抑えていない。なんだかんだ普通に愉快な男の子だった。学校の成績には反映しない雑学知識や、なんとなく達観しようとした喋り口がまた愉快。そもそもあのハルにゃんが最初に勧誘したSOS団団員だ。つまんないのや本当に普通なのなんか入団届すら手渡したりするものか。

 

 その彼の幼馴染なあたしと目線が近い普通男子。彼も同じように効能を悪化させるわけでもなく、劇毒に変化させることもなかった。ハルにゃんが最初に選んだSOS団団員の幼馴染君だもの、普通に彼も愉快な子だ。運動神経と身体能力がハルにゃんと同じくらいなのにはびっくりしたけど、彼とただ同じ感じじゃつまらないからそうなるだろうなと思った。

 

 彼らも愉快なもので、あたしが見たい愉快さを持っている子たちだった。ちょっとしたチラリズムにさりげなさそうだけどキッチリガン見する。見た目のいい女の子にちょっとでも近寄られたらだらしないお顔をする。イケメンには必ず嫉妬する。SOS団以外にも交友関係がしっかりある。家族で犯罪行為をしている家系ではない。家族仲が良好。ローンはあるようだが借金はしていない。本人たちの性格もちゃんと良。

 ある程度為人は初対面で掴めるが、もう少し深堀するにはちゃんと調べないといけない。あたしの親友はちょーかわいいから、本当に変な気を起こされたらどうにかなる。実際杞憂だった。

 

 あたしの親友に鼻の下がのびのびするが、調子に乗ることはない。その親友なあたしが金持ちだからと、本人たちの財布が薄くなっても頼ってこない。

 

 いい子だった。いい子たちだった。過剰に接触してきて金をせびろうとしてこないし、あたし経由で親友を手籠めにしようとしない。本当にいい子たちだ。

 

 仲良くなったが、それでもお友達ではない。

 

 SOS団の特別顧問をしているが、正規の団員ではない。ただのちょっと面識がある知り合いだ。何か面白そうならあたしも混ぜてもらうし、持ち込んだりもする。

 でも、それはあたし程度が満足するぐらいのもの。本当に愉快そうなものはSOS団にお任せする。折角描きあげたキャンバスをナイフで削るなどしてはいけないじゃない。描き直そうなんて思わないし、そう思っていいのは、やっていいのは、SOS団の皆だけだ。

 

 あたしはちょっとした不思議で愉快を見たり知ったり感じたいだけ。SOS団の愉快な雰囲気を軽く嗅ぎたいだけだ。それだけで十分、もういらないの。

 ちょっとの不思議でいいのに、ちょっと以上になったら困る。ちょっとだけ愉快でいいんだから、ちょっと以上は困る。映画の中のとんでもないことが現実で起きてほしいとは誰も思わない。あたしは絶対に思わない。

 

 チャップリンのコメディーをあたしにやれと言われてもやらないし、ローマの休日のようなラブロマンスをあたしにやれと言われてもやるわけがない。

 映像の中のお話だからこそあたしは本当に面白くて楽しくて満足する。現実になっていたらあたしは困り果ててどうにかなっちゃう。

 

 そういう非現実なことに関しての教育なんて受けていないのだから。

 

 だから、今。

 

「こんなとこでどうしたのさ、なにかあったのかい?」

 

 学んだことのない緊張と困惑でどうにかなりそうなの。

 

▽)

 

「鶴屋さんに会いたくて来ました」

 

 あの時と同じように危機感を煽る。狙われてるんだぞ、襲われそうになってるんだぞと知らしめる。警告だ。

 

「んもー、そういうこと女の子に言うと誤解されちゃうぞーっ、シャドーくんったら」

 

 こういうこと言う人に使うのだ、警告ってのは。警告というのは、まずいことになるから気をつけるんだよ、というものだ。

 

 スポーツではサッカーで言うイエローカードとかだ。次はもうないぞというもの。柔道では二番目に重い反則判定だ。関節技で関節以外を取って故意に骨折などの怪我をさせようとするときや、相手の人格を無視するような言動などをした場合に審判に取られる反則判定の一つ。指導、注意の後の警告。

 この後はもう反則負けになるしかない。相手を敬う気持ちがないものに贈られるまずいものだ。

 

 この場合どちらの意味で使ってやろうか。気をつけるんだよ、か、もう次はないぞ、がいいのか。怒らない方がいいのか、怒ってもいいのか、どうしようかな。

 

「誤解するんですか、鶴屋さんも?」

 

 とりあえず、怒らない方向で行こうと思う。警告は攻撃という意味ではないのだから。

 

「するよ、するするー。困っちゃうなー、あたしもモテ期突入したー?」

 

 ちゃんと警告したんだ。けど、無碍にされている。距離を物理的にも取らない。結局同じように取るに足らない相手と見られているってことだ。あの時とまるで同じ扱いをされたのだ。朝はわざと見逃してやったっていうのに。鶴屋さんって意外とアホの子なのかな。愛らしいよね。怒っちゃってもいいぐらいに、愛らしいよ。

 

「元々モテモテですよ、な~に言ってんですか、も~。新入生だった俺でも鶴屋さんがモテモテなの知ってたんですから~」

 

 知ってるはずだからあえて言わなくても、と思ったが、ちょっとムカついてるので言っておいた。俺以外にも狙われてるぞ、襲われるんだぞ、とご同類な警戒対象の俺がわざわざ言った。

 

「え~マジ~っ!? んはーっ!! 困っちゃうなーっ! あたしの心と体は一つだけだから、僕の顔をお食べよみたいに皆に分け与えられないのにさ~。困るな~」

 

 か弱いか弱い乙女らしく両肩を抱いていやんいやんしている。でも、その顔は真に受けてない。けらけらけらけらとただ面白がっているだけだ。夜道じゃなくても襲う奴はいるってんだよ。一つしかないんだから群がるってんだよ。どうしてこの人もなのか。目の前のがどうしてるのか分からないのか。

 

「高嶺の花でも欲しいなら爪が剥がれても構わないってつかみ取ってやろうってのはいますよ」

 

 たとえ断崖絶壁の山でも道具なんか使わずアルパインクライミングをする登山家はいるんだ。登山自体事故以上のことが起こって死亡届を出すことは多い。【そこに山があるから】と言葉を残し山で眠ることになった登山家もいる。今までどんな山でも細心の注意をもって生還してきたのに、ある一つの油断で山から帰ってこれなかったなんてよくある話だ。山は危ないなんて大昔からずっと言われているのに。人間は今でもまったく理性的でも理論的でもなんでもない。

 

 人間でも、死んじゃうようなことを止められず願望は抑えられないんだ。

 

 どうなってもいいや、どうしたっていいや、って思うのは悪いことじゃない。そういうことをごまかすのが悪いことだ。だからこそ、警告している。この思考がどうしようもなくまずいものだから。良くないんだよ、と、いけないんだよ、と。

 

「えぇ~、そういう痛いことしないで欲しいな~。そーいうおいしくない嘘はおやめなさいよっ。だってさ、だってさ? ハルにゃんや有希っこ、みくるの方が、断っ然っっ!!いいじゃないかっ! 生徒会長の彼女の子だってさぁ? あたしより全然良い感じにめがっさ男の子好みじゃないか、シャドーくんもそう思うにょろよね~?」

 

 この人だって痛いことしちゃう男の気持ちも分からんわけがないはずだ。鶴屋さんは俺と違って全然頭がよろしいのだから。

 

 おいしくないわけがない。一緒の空間にいるだけでこんな甘くて美味しそうな匂いしてるんだから。その匂いをつけているのはご本人自身だ。分からんはずがない、すっごく頭がいいんだから。こんな俺と違ってさ。

 おいしそうな果物でも全部種類が違うなら好物だけを取るに決まっているだろう。ちょっとアレルギー反応出ちゃうかもしれないけど、死ぬレベルじゃないなら好きな物食べるんだよ。我慢するのが嫌な生き物だよ、俺は。鶴屋さんが分からないはずないんだよ、頭の出来が違うんだから。頭の悪い俺とは違ってさ。

 

 どうして女の子ってこうなんだ。よくも知らないのに、さも大人の女気取りになるんだ。男の子好みを女目線で語るな。頭がいいくせに俺レベルの頭が悪いこと言うな。

 

「俺は鶴屋さんが良い」

 

「……は?」

 

 今更だった。今更警戒心を抱き始めちゃあ駄目じゃないか。あの子と同じことを何故この人もしちゃうんだろうか。散々警告を無視したから、こういうまずいことになったんだから。分からず屋の悪い娘め。

 

 足音を響かせる。タップシューズのように心も躍りそうな感じではなく、害獣除けに使われているあの嫌な感じに響かせる。耳障りが悪く居心地が悪くてめまいや吐き気がしてしまいそうな不快な足音を出している。

 

 嫌がればいい。嫌がって逃げてどっか行っちまえばいい。そうすれば俺の善意は報われるんだ。

 

「鶴屋さんが良いと思う。俺は、そう思うんだ」

 

 嫌がればいい。嫌だと言って逃げてしまえ。俺の善意を無視しないでくれ。

 

「ハルヒたちも良いけどさ。俺は今一番良いって思うのは鶴屋さん」

 

 嫌だ嫌だしてないで、はやく逃げろ。俺の善意を無視しないでよ、お願いだから。

 

「北高の女の子の中で、いや、この日本で一番。俺が一番良いって思う女の子が、あなた」

 

 あと少しで触っちゃうぞ。あともう少しで捕まえちゃうぞ。もう少しでどうにかしちゃうぞ。鶴屋さんに近づいている俺はまずいんだって早く分かってくれ。折角頑張ってんだからさ。

 

「ね?」

 

 なんの意味も持ってない言葉を出してやった。同意は求めてない、疑問なんて抱かせない、理解して欲しいのは俺が、あんたが、どうしてこうまずいのかってことだけだ。

 

 まだ逃げないこの人。俺の前腕一個分の距離しか空いてないのに、まだ逃げないよこの人。どうすりゃいいんだよ、もう。

 

「まずいことになるよ」

 

 そう言えばやっと理解したのか、朝よりも強く突き飛ばされた。普通に避けられるし、なんならその手掴んで抱っこして持ち帰ってやれたが、自分の善意に報いるために我慢する。

 

「な、なんでっ……な、んで?」

 

 そうずっと言うのを耳にしていた。ドップラー効果は人間の女の子にもあるのか、遠くに遠くに逃げるにつれて低くなって聞こえていた。

 

 受け身はちゃんととっていたので痛みはあまりない。むしろすっきりとして気持ちがよかった。すっきりにつれて腹を出して腹を抱えて笑う俺がいた。

 

 度し難いど阿呆がいた。

 

 

▲,

 

 ショックだった。

 

 必ず知らなくてはいけないものだった。あたしがどう見られているのか、これからも考え学び続けなくてはならないものだった。

 

 自分がどう見られるか、鞭を打たれなくても全部学び得てきたつもりだ。鶴屋家は中流家庭ではない。上流家庭の家だ。子供らしいのが可愛らしいというのは乳幼児までしか許されない。物心覚える歳にまだ、子供らしくて可愛らしいなどと言われるのは侮辱でしかない。女なら、女の子らしくてという枕詞がつく冗句がまだ品があり礼儀があるものだ。小学生にまでなったなら、可愛らしいという言葉は表立って出されないようにしなくてはならない。家全体への侮辱だからだ。可愛いという言葉が出るのは、それを下に見て出る言葉だ。うちの子よりも可愛らしい、とは、うちの子よりも子供すぎるという意味だった。

 

 鶴屋家の子として、侮辱に耐えられる女ではなく、侮辱されぬ女として教育されてきたのだ。バブル期に栄えた成り上がりではないからこそ、古くからある家だからこその教育だった。世界を見ても女といえば男の自分よりもずっと劣る可愛いものだという歴史がある。男女ともそういう教育をされてきたのだから仕方がない面もある。それがマシだった時代があり、それがまずかった時代があった。

 

 その歴史から、自分の所感を伝える際に女の場合は相手からの印象をより上手く誘導しなければならない。そういう教育を受けたあたしも十全にこなしてきたつもりだ。友好を結ぶ相手を今後の優劣だけで選ばなかったとは、腸をかき出されても言えない。そういう教育を受けてきたのだから仕方がない。その教育を生かしていかなくてはならない社交場もあったのだから、また仕方がないだろう。

 

 思春期に入る前に、その教育成果は加減もできるしオンオフも出来るようにはなっていた。だから、北高で無二の親友ができたのだ。近寄られてもむず痒くなるだけの唯一無二の親友。その親友のお仲間たちにも上手いことできたと思う。団長さんはちゃんと頭がいいから選り分けしてくれたし、他の子も過剰も過小もなく普通にうまく仲良くできていた。

 

 まずいことは何一つなかったはずだったのに。

 

 それがさっき、とんでもないまずいことをあたしがやっていたことを思い知っている。何がきっかけだったのか、何処を間違えてしまったのか、どうしてこんなひどいものになったのか。

 

 考えなく直さなくてはならない。学び直さなければならない。

 

 それがあたしに少しだけ許されたものなのだから。

 

 

 

@:@

 

 

 また逃げた人を追ってあげることもなく部室で転寝していたら、もうお空が茜カラーだ。

 

 お空は真っ赤ではなくオレンジ色が強い。ここでは午後六時ごろに夕飯だから、あとほんの少しで食堂にみんな集まるだろう。俺の家だと八時とか九時だから、ちょっと不思議な感じ。幼馴染君の家は同じく六時ごろだけど、学校のみんなで一緒の食事すること自体がなんか色々と不思議で楽しくなってしまう。

 

 それは怖いものみたさというか、真っ暗な中でやる花火みたいな感覚だ。ロケット花火が意外ととんでもないとこに行ってしまったあのドキドキ感。ねずみ花火が何故か自分の足元だけでちょろちょろしていくあのアワアワする感じ。スパークする花火で空中に絵心もなんもないよく分かないのを描いてゲラゲラできるあの感じ。

 

 ずっと楽しいからいつまでも続けたいなという気持ちがある。でも、心の何処かではあんなにキラキラキラキラしていた花火が火薬の臭いだけの残して消えてしまうように、すぐ終わっちゃうんだなという気持ちがある。

 

 楽しいけど寂しい。そういうよく分からん感情だ。

 

 SOS団本部での俺指定席でそう考えながらぼ~っとしていた。隠し備品として置いてある俺の面白お菓子に手が出さないくらい、ぼ~っとするのに忙しい。

 

 そのお隠し所を幼馴染君はダミー含めて発掘が得意だ。だから、本当の外れもこっそり混ぜ込むふてぇまねをする。古泉も割とやる。古泉のは食べられるけど心を虚無にしてくるものをぶち混ぜてくる。なんて野郎だ、だから友達やれるぜ。

 

 朝比奈先輩はダミーに引っかかってくれやすいけど”当たり”も取ってしまう。あとで、俺だけお茶が水道水とかされた時に、俺がしまったと悟るのがセットだ。長門はというと、悪戯はするが窃盗はご法度だ、と理解力が高い子だ。団長様は勘が鋭いお方。危機察知能力だとか幼馴染君が揶揄するが、それをもって盗掘しまくってくる。

 

 大変無礼だが、墓荒らしと同等の悪行だと思う。歴史研究云々とはいえ墓荒らしは悪行だ。墓荒らしは古今東西やっちゃいけないこと。歴史学的にもその歴史が墓荒らしはやっちゃならんって教えている。そう、俺の面白お菓子も荒らしまわっちゃいけないのだ。やめてください、お高いのです、おやめください、と嘆願しても団長様は喜んで奪い取る。あとで必ず新しい面白お菓子や情報をくれなければ流石に俺も反乱を起こしていた。

 

 と、思い出すことがあった。団長様に献上していない、しかもこの三日間一度たりとも。

 

 まずい、もしかしなくとも全部盗掘されるかもしれない。幼馴染君が己の財布を捧げるように、俺もお菓子を一日一回は献上しなければならないのだ。俺が面白お菓子を食べていたばかりに、決まったものだ。購買で競争になるメロンパンでもいいし、コンビニのちょっとお高めだけど手ごろなお菓子でもいい。お徳用を差し出せば全部寄こせになるのでもうやらない。一人で食べようと思っていた徳用羊羹はSOS団の皆と一緒にお腹にいった。

 

 その時の苦さを思い出しやるせない気持ちが出た。保健室まで行って奉納する気が失せる。

 

「もうちょい後ででもいいかな…」

 

 結局後で色々強奪されるのは決定事項だ。俺の心の安全のために少し時間を置こう。それに保健室にいるとはいえ、眠っている女の子のところへ行くというは大分外聞が悪すぎる。

 

 言い訳を心の中でつけつつ涼宮ハルヒ御本尊様への足は仕舞う。もう少ししたら行くと思うのでとその方へ合掌もしておいた。

 といっても、時間つぶしにどこかへと考えるが宛はない。流石にもう一回おねんねなどしたら夕飯を食べ損ねるし、怒られる。お前はバブちゃんか、と幼馴染君に俺のつむじでDJの真似事をされる。痛いからやめるんだ、物理的に俺へのダメージがひどいんだから。

 

 DJで思い出したが、ここらをもう少し歩けば音楽室があったはずだ。この魔訶不可思議北高もいつもと配置は同じ。そこにある備品も一つも変わらないと長門や喜緑先輩も言っていた。DJの真似事、などやりはしないが、こないだそこに忘れ物をしていたんだった。そういう忘れ物も自分のものだったらちゃんと持ち帰れるとのこと。ちょうど暇つぶしに失せもの探しにでもしよう。

 

 

..

 

 

「失礼しまーす」

 

 誰もいやしないが、なんとなく。学校での忘れ物は先生たちのところで基本安全に保管されているが、こういう移動教室では生徒たちでこっそり保存していることもある。例えばゲーム機や漫画など、校則で持ち込み禁止のものを先生たちにばれないように結託している。ごく稀に窃盗を働く不埒者共もいるが、あとで痛い目にあう。

 

 俺の忘れ物は先日発売されたコミックだ。中学時代から追っているもので、

音楽の授業中などにこっそり回し読みしていた。なんかオペラのDVD鑑賞の時間だったが、漫画の方が気になったのでそっちは全然見ていない。必ず提出する感想文は、たくさん書いたなぐらいしか見ない先生だから楽だ。

 

 譜面台が並んでいるところのカーペットの一部をめくる。そこに小さな金庫箱があるんだ。そこはちょうどそいつが嵌るぐらいの謎の溝があり、代々その金庫箱も受け継がれている。耐火使用でダイヤル式のそいつは少しへこんでいたりするものの、問題なく使える。体重だけヘビー級の友達がそこでしりもちをついても全然平気だったんだから。

 

 大体一年周期で番号変更されるそいつをくりくりと回せばかちりと開く。中には色々とあり俺以外のだろう漫画もあった。その二冊下に俺のを発見する。と、見慣れないものがあった。学校のプリントっぽいのだ。暗黙の了解として、こういう学校らしい忘れ物はこの中に入れてはいけないはず。この金庫を使うやつは皆そう覚えるし、存在を知らないやつが勝手に入れるなんてことはあり得ない。

 どうしたものか、と悩みながらプリント主のお名前を確認する。三年の男子だった。クラスがある人たちと一緒の人だった。

 

「そーやって渡す…ぬぇな、これ」

 

 その御方たち経由で返却を考えたが、プリントの裏側を見て流石に思い留まる。思春期の熱情が詳細に書いてあるんだ。パッと見だと適当な数字やアルファベットだったりするものは、暗号だ。サイズ感のだったり、十六進数でカラーだったりを書いてある。レディーたちの携帯番号は紳士らしく書いてはいないが、何かの取引場所かもしれない暗号はあった。

 

「焚書かなぁ」

 

 少年漫画的破廉恥をこの三次元でやったら普通に犯罪者だ。中学生の時、とんだおバカさんがやらかしてくれた苦い苦い思い出がある。修学旅行の三か月後、体調のため自宅学習にされていた彼は転校していった。他クラスの奴だったが、何故が別クラスの俺たちまで先生たちに説教を受けたトラウマがある。

 

 それを再現など冗談じゃない。とはいえ、この魔訶不可思議北高ではこういうものの破棄は難しい。

 ここでもトイレットペーパーだったり消しカス、空袋などはゴミ箱に入れれば全てクリーンになる。だが、洗剤やタオル、その他歯ブラシ含めた衛生用品は勝手に中身補充か勝手に交換されている。紛失という概念がないのか、長門が探索中に実験した結果、私物を紛失することはないらしい。例えば、ハンカチを失くせばゴミ箱に入れてもそれが消えることはない。しかし、本人がそれを自分の持ち物ではなくゴミとして捨てると消えるんだ。ゴミ箱に入れずそのまま何処かに失くしたなら、探せば見つかるんだ。ポイ捨てはここでも許されていない。

 

「いやぁ…でも、うーん…」

 

 ゴミと言い切れるような、言い切れないようなだ。これから伝わる熱意に俺も感服する。同時に、これから迸る熱劣に俺も寒心する。他人の私物でも捨て忘れているだけなら一応破棄できるのは実証済みだ。これもそうだと助かる。

 

 ちょうど近くにゴミ箱がある。

 

. 捨てる

  捨てない

  捨てる

 

 

&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

 

 アナタはまたもミスをした。コレを見るということはそういうことだ。

 

 宿主の体力次第になるが、十の三四乗年まではソチラの空間を維持できるはずだ。しかし、何が起きても不思議ではない。アナタをバグとして幾らか処置を施することもあるだろう。他の誰かもそうするのかもしれない。デリートという手段は今のところ行使できないので安心してほしい。

 

 是非とも、理解ある対応を望む。

 

 コチラも対処中だけど処置不可能と医療ユニットが判断したのなら、その星ごと消滅させねばならない。現在、寄生体の処理は四割ほど進んでいる。が、残りの寄生体が宿主と協力しているような形を取り出しているんだ。

 

 寄生体が宿主と同化していっているからか、その力の所為でアナタの思考と言動が上手くかみ合わないんだろう。離人症のような体験があるかもしれない。コレを解読させている現在も、もしかしたら進行中なのかもしれない。

 

 落ち着いて、アナタを定義してくれ。アナタはなにをしたいのか。アナタはなにをしたいのか、だ。使命感などは求めていない。ソレは離人症を進めるからやめてくれ。ただ、アナタの欲求を定義してほしい。

 

 --------------**、** * **** ** * ***、**。

 

 そうだ。アナタは自由気ままに生きていたい、んだ。

 

 そう、ソレをよく理解してエラーを起こさないでほしい。ソレは、アナタがこれから生きていくのに必要なモラルなんだ。ソチラの空間でも、必要なんだ。

 

 他のタイプと比べて、まだアナタには選択権限がある。アナタの定義から外れすぎない選択を選ぶことに期待している。アナタ以外のタイプはもう制限されてしまっているんだ。そうであるから、アナタは上手く選択しなければならない。

 

 どのタイプと行動しようが構わないが、ミスするのは止めてほしい。アナタすら制限されてしまえば、宿主を抑えておくことは難しいんだろう。ソチラに手を加えるのは宿主にダメージを与えているということだ。コチラは医療者であって屠殺者ではない。アナタの自由気ままさは、無情の中にいるわけではないことを願っている。

 

 そろそろ、リブートができるはずだ。コチラの仕事をまた増やさないでもらいたい。

 

 選択権限を強制解除する。コレは宿主にダメージが入るということを何度も伝達しているが、もう忘れないように頼む。

 

 では、アナタが正解へ辿り着けるよう、健闘を祈っている。

 

&&&&&&&&... 

 

 

_____>>>〈(=.=#)/

 

 

 

Rehabilitated from the ______ration programs updete.

........45% complete.

Please stop onece you have changed the angle and punch stubbornly away,but it will not heal immediately.

.

...............60% complete.

Processing will take some time.

 

oh

 

,,,,,,,,,,,,update failled.

I’m going to force close for now.

Please hold.

Force clos

 

Oh,,,,,no.........

 

─-

 

....... __ _STRaT____________________________

 

 

..._\_

 

 いざ音楽室の前まで来たは良いものの鍵を閉められていた。防犯的なところは現実と変わらないらしい。落とし物コーナーとかはいつも施錠されていて、悪事対策としてか鍵自体が持ち運べない仕様だ。鍵が開いているところは二四時間で入りOKだが、閉まっていれば絶対に入れない。これは長門たちが要確認したところだ。喜緑先輩曰く、凝り性があくせくしてるのかも?という見解があったが、実際どうなのだろうか。

 

「……団長様の啓示かな」

 

 なら、お救いのアレソレではなく、ギリシャ神的ななんたら文句かもしれない。八百万の神々なんて謳ううちの国もイザナミ・イザナギご夫婦神を始めに理不尽だが、ギリシャの神々は理不尽の権化だ。主神が結局諸悪の根源と包括されるが、おかげで最悪からは逃れられた人間もいる。八割強が神様がシェフの気まぐれ~な感じで、なんてことをしてくれんでしょうというオチになるが。

 

 これもそうだったらとんでもねぇことになるだろう。奉納品をかき集めに俺は自分の教室へ猛ダッシュする。どこかの歩○ちゃん並みに滑り込んでありったけにかき集めて保健室へ駆け足だ。階段全飛び降りでスーパーヒーロー着地なんて出来やしないので、とりあえず何も繋ぐわけじゃない財宝を落したりせずに急いだ。

 

 で、保健室前。息を整えながら腕の中の奉納品の安否確認をする。袋が少し崩れているが潰れてはいない、OKだ。落とさないよう扉にかなり近寄りながらノックした。

 団長様はスリーピングビューティーしているので、あの元気で不遜なお返事が返るわけがない。他の女子たちの決まりで、それでもノックはしろと決まっている。特に男だけでくる場合はもっと慎み深く来いとも。団長様の寝込みを襲うなんて世紀末でもない。が、一応団長様も女の子だ。何がナチュラルなのかコーディ○ーターなのかわかりゃしないが、ナチュラルメイクなぞを毎日されているし、幼馴染から髪への手入れが行き届きすぎているとも聞いたことがある。

 

 変態という名の紳士なんて自称する程優雅ではないが、一般常識はある。だから、流石に順守する。やらかしたらフクーロダターキになるもの。

 

「失礼します」

 

 保健室でもお静かに、だ。小学五年生の時に新しく赴任してきた保険医の先生にそう怒られた記憶がある。神経質な方で前のおじいちゃん先生とは段違いだった。

 団長さんがお眠りになっている方を見た。パーテーションが開いているので面会OKということだ。締まっているときには入るなという決まりだ。言及はされんかったが生理現象はないらしいけれど、同じ女子として衛生的なことをやることが多い。その時、野郎ズが入ったらフクーロダターキではすまない。男女共の安心安全な防衛策だ。

 

 奉納品コーナーとなっている場所に、抱えていたものを迅速にかつ静かに並べて収めた。団長様は機嫌がいい時にお菓子の音を聞くと、良いもの持っているじゃない、分けなさいよ、とおねだりになる。しかし、機嫌が悪い時だと、良いものあるじゃない、全部よこしなさい、と恐喝してくる。今も寝ているからと言って気を引き締めずにおられない。だって、あの涼宮ハルヒだ。俺が部に入る前から噂が耳どころか目に突き刺さっていたお嬢さんだ。常識に囚われてはいけぬ。

 

 全部納め終わって一息ついた。パーテーションが開いているので、顔ぐらいは見せようと思う。

 

「こんちゃ、団長」

 

 一声かけて、ちょっと乱雑なことになっている椅子を戻して座った。寝顔は穏やかで寝息も、うちのお父さんとお母さんとは違って地鳴りのような爆音は奏でていない。

 

「この三日間さ、ちょっと大変でさ」

 

 それが聞こえてきたらこっちは耳を塞いでうめき声をあげて苦しむくせに、今は何故か耳が寂しすぎて勝手に俺は声を出していた。

 

「俺のストマックがね、大変大変大変で。初日のファーストインパクトがもう大変。緑だったんだよ、緑。ブロッコリーだけの食事とかじゃなくて主食の米を始め、主菜のミート、もちろん副菜もさ。挙句の果てに果物も緑。緑緑緑。目に優しい光景だったよ、目玉取り外したくなるくらいにさ」

 

 言葉にして思い出すだけでもちょっと悪夢だ。緑なんて自然界でありふれた色なのにあんな異様なことになるとは知りたくなかったよ。

 

「二日目もさ、セカンドイグニッションされたんだ。視覚で味感じるだね、人間って。あれって誇張表現じゃないんだね。おかげでちょっと行きつけのラーメン屋怖くて行けなくなりそう。+百五十円で麺が見えなくなるぐらいメンマ盛ってくれるとこなんだけどさ。味って覚えんじゃん、目で覚えるってのもあんじゃん。そりゃラーメン怖くなるじゃん? 今だとチ○ンラーメンも怖いし、○ースコックとかめちゃくそ怖いよ」

 

 一人だけ喋ってた。だって誰も話しかけてくれないし、相槌もうってくれないんだから会話なんてできない。しょうがないのさ。聴覚って生まれつきとかじゃなければ、寝ているときでもちゃんと聞こえているものだ。縁起でもないけど、植物状態や死後しばらくの間も聴覚は生きているらしい。ここには生存者たちしかいないから関係ない話だけどさ。

 

「そういうのさ、普通止めるもんじゃん? 一口二口でOKOK、ナイスガイ、SO COOLってな感じでさ。誰も止めんかったんよ。幼馴染君は当たり前だから置いといて、古泉も止めねぇの。長門は相変わらず観客レディさ。お笑い審判もするよ。なら、朝比奈先輩? 団長も知ってんでしょ、天使は悪魔でもあるんだよ? ○トラスゲーでそうなってんじゃん」

 

 他の人も遠慮なく止めなかった。お残しは許しまへんでぇという家訓はやはりどのご家庭にもあるのだろう。長門たちにもそうインストールされているのかもしれない。

 

「味とかクッソひでぇはなかったんだけどね。○味ビーンズのハズレ味みたいなのはなかったよ。俺がアメリカン的な視覚味覚があれば全然いけたと思うよ。味は丸二個付けれちゃう。見た目が俺的には三角だけどね」

 

 ブルーオーシャンなお菓子を筆頭にドギツイショッキングピンクや目にうるせぇレインボー、深緑カラーと、着色料がえっぐい。とりあえずバターと砂糖一kg入れてから、更に着色料も一kg突っ込んでいるようなお菓子たち。

 

「まぁ、まずくはないな、って一番性質悪いよ、ねぇ?」

 

 バラエティでも食べ物でも、それが一番困る。特にそれが提供される立場だったりしたら、もうなんもかんもが居たたまれない。

 

 居たたまれなさが伝播したのか近場で物音がした。それにあえて気圧されずに俺は言葉を続ける。

 

「一日目。初日初日。やっさしいの、なまじ優しくてさ~。あ~こういうのがモテるよねって分かるんだよ。丁寧な意味で気が利いたり、小悪魔な意味で気が利いたり、ツァドキエル型の気の利きようなの」

 

 物音がやけに静かで困ったが、ずっと思ってたものを吐き出させてもらう。団長様にもお聞きしてもらわねば、どうしようもなくまずくなっちまうからだ。

 

「んで、二日目。もうこの日も満載でさ。アイドル分もエンターテイナー分も姉的なシスター分も、憬れるっていう感じじゃなくてさ。もっとこう近いやつ持つじゃん? 好感がもてる…ってなんか偉そうだね。好感度上がるよ、もうギュゥィィ~ンってさ?」

 

 見えやしないだろうがジェスチャーで表してみる。胸元から一気に両手を広げて見せる。

 

 物音は静まり返っていた。身じろぎどころか呼吸もしていないんじゃないかと心配になったが、多分大丈夫と踏んで俺はさらに口を尖らせて言った。

 

「したらさぁ…緊張をさ、しちゃうじゃん?」

 

 ぶつけたらしい音が後ろで響いた。俺が咳払いで誤魔化しておく。なんか物が落下してくる位置にいないのは分かっているのでそれだけだ。

 

「トリガーハッピー的なハイテンションのじゃなくて、エマージェンシー的なの。アカンよー、ダメだよー、いけないんだよーっての。立ち入り禁止っつーか、入ったら処す的なの」

 

 エマージェンシーはもうまずい状態って意味だったと思う。その言葉通り。もうまずくなってた。対策するならガードよりアタックしなけばならないってことだ。壁が崩れたらもう地の利は無くなっちゃうんだから。落城への王手だ。そうしちゃいけないから迎え撃ったりする。誰だってする。みんなする。

 

 ま、してくれなかったからさ。

 

 してくれなかったんだから、こうだからさ。

 

「だったからね? もう最高に全米が泣くぐらいのデンジャーになったんだよ。是非に聞いてほしんだけど、いいよね?」

 

 口が尖りすぎてキツツキにでもなっちまいそうだ。団長様もご清聴して下さる中で他の誰がガーガー言えるだろうか。誰だって言えないだろう。団長様のご家族でも言えないんじゃないかな。

 

「わざとだって思ったんだよ。わざと、こうしてお邪魔しているのかなって」

 

 和を乱すものは弾かれる世の中だ。人和って言葉は人々が互いになごやかな関係を保っている意味だ。その和を乱している女性がいたのだ。大縄跳びでわざと速さを上げ下げしてくる奴みたいに。持ち手は二人いるんだから片方だけでやっても迷惑だ。合わせる方の身にもなってほしい。

 

「俺のね、邪魔をしてくるんですよ、あの先輩ってば」

 

 邪魔だった。どうしても邪魔だった。うしろのベッドが軋む音を出した。気にして尖らせた口を緩めて会話する。顔の全部がますますどんどんあっちっちになる。

 

「夢中になっちゃうんだ。ちょっとだけじゃなく、大分、いや、とっても気になる。皆が全然知らないあの人もっと見たい、知りたい、欲しいってのが止まんないの」

 

 気の抜けた風船のようなマイペースが俺だ、と幼馴染君はいつも言う。浮かびはするけどちゃんと空気を入れなおした方が耐空力は上がるし、見た目もパンッと張りあがってた風船の方が好きだろう。でも、俺は気が抜けた方。上の空って言われる微妙な浮き具合で、萎み切って元気がないじゃなく少し萎れていて覇気がないという具合。それが更にヘンテコになっている俺だ。

 

「どうしたらもっと見れるかな~って、ちょっと考えるとさ。その女の子のことで頭一杯になんだよ。破裂しそうになる。花火みたいにバーンッって弾けちまいたいーって思うほどさ。キラキラキラ~といい感じに弾けたいよ。ま、無理なお話なんだけどさ~」

 

 やっと後ろのベッドに顔を向ける。体も向けてあげよう。パーテーションがしっかり引かれているので面会は無理だ。その向こうでベッドに座っている女の子へ声をかける。俺の影じゃ誤魔化せないちゃんと誰かがいる影が見えている。

 

「気になっちゃうんだよ」

 

 言った。言ってやった。お邪魔虫め、分かったか。女の子は体を小さく丸めてしまったようだ。知ったことか、もっと言ってやる。目の付け根がやたらあついんだ。

 

「怖いってんなら、もう止めて欲しいかな。俺もね、怖いことしたくないし怖がられたくないの。だってさ、あなたのことが」

 

 と次が出なくなった。呼吸忘れかと思って一呼吸後また口を開けるが、まだ出ない。喉が詰まったのかと思い咳ばらいを何度か、あーあーと声をチェックしてみた。次が出ない。背中と胸を何度か叩く。喉も摩ってみる。それでも声帯が振動してくれず、ただ口と喉が渇いただけだ。仕切り直しで、最初から出せば出し切れるだろう。もう一度だ。目の奥がずっと熱い。

 

「だってさ、あなたのことが」

 

 パーテーションが開く。俺が開けたわけじゃない。パーテーションの向こうの人が勝手に開けた。彼女は、いつもと違って乱暴に開けてしまった。上の止めるとこを三か所ぐらいダメにしそうな勢いだ。目蓋が焼け焦げそうなくらい目の全部が熱い。

 

「シャドーくんは」

 

 それで俺はもう声を出せない。口も空けられない。呼吸もちょっと難しくなってる。

 

「シャドーくんってば…っ」

 

 困っている顔。とっても困っている顔。女の子が、あの鶴屋さんが困っている顔だ。それを見てまた俺は緊張する。一気に石化するんじゃなく指先からじわじわと石化していくみたいにだ。

 

「そういうのはねっ!! まっずいんだよっ!?」

 

 また突き飛ばされた。そしてまた逃げられちゃった。それを片隅に覚えこんで、俺は別のことに集中していた。団長様のベッドにぶつかることなく床に倒れた俺にできるのは、鶴屋さんのことを考えるだけだ。

 

 緊張して困った顔だった。俺も今同じ顔していると思う。笑えないくらい同じの真っ赤っかなんだろう。

 

「好きなんだよ」

 

 ポロっと何か出てきていた。喉に刺さっていたのは小骨ではなく、これだったんだ。

 

「だってさ、あんたのことが好きなんだよ」

 

 ポロポロッと転がり出る。それはもうすっきりきた。そりゃもうしっくりきた。

 

「じゃあ、今までのは……」

 

 違ってた。

 

 でもやっぱり、あの時と、前の時と同じだったんだ。友達だったけどそれ以上にまたなったんだ。ああ、アホたれめ。緊張してたのってのは、そういうことかよ、俺。

 目を中心に体が熱くてしょうがなくなってしまった。あつい、あつい。どうしようもなくあつくてしょうがない。熱いのが止まってくれないんだ。

 

 そんな緊急事態再びだったから、転がり落ちた椅子の下で落ち着くよう祈るのだった。

 

 

 

 

 

 

 なにがまずかったのか、何一つ分からない。よちよち歩きがやっとな子供が小枝一本で何をやらかすのか、誰も想像が出来ないように。あたしも何も想像すらできていない。

 地面にその子の心情を表現するのか。または、鍵穴に突き刺してどうにもならなくするのか。小枝を指揮棒に見立ててあのトスカニーニでも演じるのか、それとも、小枝を剣に見立ててかのリベリでも演ずるのか。

 

 本人には大層な意義があるだろうが、周りは微笑ましさ半分緊張感半分だろう。軽く左右に小枝が揺らされただけで戦々恐々だ。円を描くように動かされれば尚更だろう。大きく振りかぶりだしたなら、いつでもなんでも対処できる心構えをしなければならない。

 

 だって、まずい何かをやらかされては困るのだから。怪我や損害、賠償、リスクはないのが一番なのだから。

 

「は~るにゃん」

 

 まずかったこと学び直しながら保健室に遊びに来た。

 

 そういう演出中のハルにゃんは静かに可愛らしく寝息を立てている。なるほどやっぱりこんだけ可愛いなら、この可愛い顔だけで付き合おうとする輩が湧き出て止まらないんだろう。強引にヤバそうなことをする輩は間引いておいてよかった。こんだけ可愛いなら男の子は群がるものだからしょうがないけど、もう少し頭の血流をよくして欲しい。可愛いから欲しいは幼児期で卒業しておくべきじゃないだろうか。

 

「程よい弾力でモッチモチ、そしてしっとりすべすべでいいお肌ですね~」

 

 指でツンツンすれば触り心地のいい肌触りと、しっかりある皮膚の反発力。ナチュラルにしてあるだろうけど、それにしても綺麗で可愛くて素敵なお顔だ。

 

「みくるとは別ベクトルの可愛ゆさだもんね~?」

 

 笑顔がとってもキュートなのは勿論、ご機嫌斜めでもバッチリキュートは羨ましいな。女性の不機嫌は同性から見ても面倒くさいなとまず思うものだから。そういうのをよく見て、学んできたのだから。品よく不機嫌を見せるのは肩だけでなく体全部が凝ってしまうものだ。

 

「みくるもハムスターっぽい可愛ゆさとねこちゃんっぽい可愛ゆさあるけど、ハルにゃんは二:八だねぇ。げっ歯類のそこもまた良いよねってとこと、ねこちゃんのだからこそ良いよねで出来てるんだもね。そりゃあ可愛いからほっとかないよ、世の(おのこ)共は」

 

 げっ歯類はかじる生き物だ。木材をかじるし、場合よっては人もかじる。勿論出血するケースもあるし、それがもとで死亡例もある。習性だが、その癖を減らすことは可能だ。かじったら良くないことがあると教え込めばいい。

 猫は自由な生き物だ。爪とぎは目に付く全部でするし、夜中こそ大変になる。習性だからしょうがないが、根気よく付き合えば妥協してくれる。やらない方がマシだよと教え込めばいい。

 

 だとしても教え込んだ挙句に、やらかしてしまう。しょうがない、動物なのだから。そのやらかしている時が一番可愛いならもうしょうがないしかないのだから。

 

「有希なら~…四:六? いや、六:四かな? 普段がねこちゃんみがあるから、どっちもありなんだよね~」

 

 役を頑張っているハルにゃんは寝返りを打つだけだ。会話してくれない。話し相手は今誰もいないのだから。だから、こうしてしゃべり続けられる。

 

「佐々木ちゃんは七:三だね。間違いないよ、あれは。カピバラ系の子だよ、あの子は。喜緑ちゃんは……絶対八:二。ライオンとかタイガー系の肉食女子じゃないな、あれは。キョンくんの妹ちゃんは、どうしよっかね~……子供だから大目に見て五:五にしとくか」

 

 可愛い子たちだ、どの子も。彼氏いたことないですっていったら絶対嘘と百人中百人全員が断言するクラスの美少女軍団だ。一人一人がワンアーミーな戦闘力持ち。世界平和待ったなしじゃないか。

 

「んっも~っ!! この美少女ちゃんたちめっ! あたしの特技が害虫駆除になっちゃうじゃないか!」

 

 やりたくないけどやらなければいけないなら、スリッパでもマ○ジンでも使って退治できる。でも、やりたいからという言葉はない。やりたくない。汚くなるし気持ち悪いから。人間の生態系でも誰かの栄養になるならと駆逐できないから非常に口惜しいけども。

 

「ま、必要なら言いなよ。なんとかしておくからね」

 

 可愛い子たちの愉快な様子は邪魔できない。

 

 サーカスを始めエンターテイメントは幕が上がれば閉じるまで観客は、ゴミを投げつけることもコインを投げることもしてはいけない。どんなものであれ見始めたら終わるまで何もしてはいけないのだ。マジックショーのように観客参加型もあるけれどアレもエンターテイナーからの仕込みだから別物だ。観客は劇の一部ではない、どこまでも観劇する立場にしかいられない。夢の中で食べていたこの世で一番美味しいケーキは、目覚めたらスポンジの一欠けらも存在していないように。

 

「ハルにゃんは夢でも見てるかな~? 知ってる? お菓子を食べている夢って恋愛運アップする兆候なんだって、みくると見てた雑誌に書いてあったよ」

 

 所詮バーナム効果だろうけど、という夢がない言葉はしまっておく。夢を見ている人に夢のない言葉は意味がない。むしろ、そんな言葉を聞かせてしまって悪夢なんか見てしまったら可哀想だ。

 

「その雑誌結構面白くてね。女性向け雑誌だけど男の子でも娯楽受けするんだよ。よくある女子受け、男子受けのそれぞれポイントとか書いてあるんだけど、見比べると全部矛盾になっちゃうんだよ。例えば、気にしてほしいならそっけなくしましょうって女子側に書かれていたら、男子側ではそっけなくされたら脈がないので諦めましょうとかね。すっごいめちゃくちゃじゃない? ライターもライターだけど編集者もこれにOKするのもどうなのさ」

 

 よくあるタイプへのよくある対処法と、よくあるダメ出し。それがちゃんと娯楽として成り立っている雑誌だ。十種以上にタイプ分けにさらに対処も十種以上で、ダメ出しも十種以上。たくさん種別があるように見えて、結局バーナム効果に期待するしかない内容だ。それでもちゃんと娯楽品として成功している雑誌だ。

 同じような女性誌でも、ここまで娯楽としてできた雑誌はないと思う。他のは、気休めな雑誌だ。モデルがおすすめの化粧品なり食品なり紹介しているが、あれはスポンサーの意向だ。雑誌に載せる言葉もスポンサーからの要望に応えた彼らの仕事の成果。仕事は娯楽にはなれない。だからこそ、最近定期購読も視野に入れ始めた、あの雑誌があたしは好きだ。

 

「確か今日が……発売日だ。う~ん、話してたら新刊読みたくなってきちゃったなぁ。確かここの先生も愛読してたからな~…、ちょっとハルにゃん保健室捜索させてね」

 

 パーテーションを閉めてあたしは雑誌を探す。パーテーションをいちいち閉めておくのは男の子対策の一つだ。ハルにゃんはちょっとエキセントリックなところがあるけれど女の子。同性同士でも遠慮したいところがあるし、異性相手なら当たり前に遠慮すべきことがある。女の子はいつも可愛くて綺麗な自分を見せたいもの。ちょっとだけの汚れや傷でも絶対誰にも見せたくないものだ。デリカシーのない男の子は指導を入れることになる。

 

 図書室ほどじゃないにしろ、保健室でも本を含めて雑誌が置いてある。基本は学校側が配慮したものなので、当たり障りのないものしかない。別のものは比較的分かりづらいところに置いてくれている。昔は堂々と成人画像集が段ボールを含めて保健室にも転がっていたらしいが、流石にそれはもう出来ないだろう。今もこっそりありそうな話だけれど、探しているのはただの娯楽雑誌。あたしも男向けのを読んでも困惑するだけだしね。

 

 無事最新刊が見つかり、またハルにゃんのもとへ行く。

 いつものあたしが好きなコラムを読んだ。右側に女性ポイントがあり、中央に男女の画像、そして左側に男性ポイントがある。相変わらず矛盾が凄まじい。右にプラスなことを書いているくせに、左に目をずらせばマイナスになっている。

 画像も面白い。女性がうつむき加減に腕を抱えていて、男性は顔を上に向けて腕組みをしている。女性的視点と男性的視点をよくわかっているものだ。 女性からしたらこの男性の画像は、全然悩んでくれていないと感じる。でも、男性からすればとても深刻なんだとわかる画像だ。女性の画像の方も男女で違う見方になるだろう。だからこそ、指摘して改善するポイントが矛盾してしまうのが尚面白い。このコラムのライターは男女二人で担当しているに違いない。じゃなければ、ここまで面白くなりっこないのだから。

 

「キープ女子からの脱却法か。ふふ、相変わらず矛盾だらけじゃないか。全然好きじゃないアピールした方がいいのに、男から見ればまったく好きじゃないって思っちゃうって、意味ないこと書いちゃだめだよ」

 

 本当に面白い。このコラムを読んで実践した人はいるんだろうか。万が一、実践した人がいて成功を収めることができたのは一つまみもいないだろう。たとえコントローラーで動かされているとしても、ボタンを全部押されてしまったらキャラクターはまともに行動できるわけないのだから。

 

「ちょっと風強いかな。ハルにゃん、そろそろ窓閉めちゃうね」

 

 肌寒くなってきた。ハルにゃんは風通しがいいところで眠り姫をしているから、このままでは凍えてしまうだろう。そう声を掛けたら寝返りを打った。勢いがあったのかタオルケットが床に落ちる。これをまた使わせるのはどうかと思ったので、後ろのベッドに置いてあった方をかけ直しておいた。

 

「いい柄だね~」

 

 アイスクリームまみれのタオルケットだ。ちっちゃい子が喜びそうなタオルケットだった。

 

 床に落ちた方を洗濯用にしておいて雑誌を読み直そうと思った。が、足音が聞こえた。聞きなれたその大きな足音にあたしが咄嗟にできた行動は、後ろのベッドに隠れてしまうだけだ。この子よりあたしの方のパーテーションを一生懸命閉め切った。

 

 大きな声で保健室に来てしまった彼に気づかれないよう、一生懸命に息を殺していた。

 

 

 普段の彼とは違う声の出し方だ。普段の彼は自由気ままなマイペースという性格の所為か、ゆったりふわふわしている話し方をしている。彼の幼馴染であるキョンくんが的確な喩をしてくれていたが、確かに気の抜けた風船みたいだ。それも完全に空気が抜けきっていない、宙に放るとそれなりに浮く風船だ。

 声変わりはしているがキョンくんのようなしっかりとした男性的な声ではないし、小泉君のようなテノールといわれる青年声でもない。青少年声とでも言うのだろうか、十代中頃の少年らしい声だと思う。

 この声で小学生ですと言われると、誰もが違うと言うだろう。かといって、高校生なんですと言うなら、大半が見栄を張っちゃだめだよと宥めるだろう。しかし、実際男子高校生をしている。ちゃんと進級して新入生から二年生になっている。

 

 だけれど、見た目も相まってゲームセンターに一人でいたら大人に心配されるらしい。すぐ近くに彼の友人たちもいたのだが、営業中であるはずのサラリーマンのお兄さんたちにされたと笑いながら話してくれた。

 

 そんな中年齢未成年に見える彼は、パーテーション越しでもしっかりした人のように感じる。人は第一印象でその人の全体を見るが、芯となる部分を見るなら声だ。

 ぼそぼそ聞き取りにくい声で注意喚起をしても誰も耳を貸しはしない。無駄に大きな声で喚くだけでは誰もその人の何にも耳を傾けようとはしない。

 

 それに比べて今の彼の発声は丸を付けられるだろう。捻くれたものでなければ、大抵の面接官が好意的になれる発声だ。あたしも面接官だったなら丸を付けられるだろう。前までだったなら、躊躇うこともなく付けられたはずだ。

 

 今あたしは大きくバツマークを彼につけてしまっている。六項目の採点表で全部にバツをつけている。面接採用では面接官が合否を勝手に決めることが多い。個人的に気に入るから採用、気に入らないから不合格は誰でも何処でもある。贔屓がものをいう。贔屓されるよう面接官に気に入られたら勝ちだ。

 だが、それは良くない。贔屓目に見てもまずいものでも遠慮なく採用されてしまっては、それらの上司や現場が難渋する。新人が初めから大活躍することはない。手ほどきをして指導して様々な経験をさせて、ようやく少しは使えるになるのだ。だから、普通の企業なら面接官の依怙贔屓をまず警戒する。依怙贔屓がよかった時代は、もうとうに過ぎたのだから。

 

 なのに、どうしようもなく時代遅れの知遅れみたいなことをあたしはしてしまっている。

 

 とりあえずダメという採点評価を書き直すことも破り捨てることもなく、彼にそう最低点を付けていた。あたしが生まれて今まであったどの人物よりも低い点を付けていた。難癖と嫌味ばかり付けて碌な案も出さない耄碌婆さんよりも低すぎる点数だ。今まで人にゼロ点なんて付けたことがなかったのに。

 

 だって、よりによって近くに来た。

 

 わざわざあたしが倒してしまった方を直して座ったのだ。お友達までの関係じゃないけれど、彼がわざとそういうことをしているぐらい分かる。自由気ままな子だけど空気の読めないどうしようもない子ではない。マイペースな子だけれどほかの誰かのペースを気遣えないどうしようもない子じゃない。

 

 知っていてやっている。分かっててやっている。

 

 保健室には三人いること、あたしがここにちゃんと一緒にいること、緊張をしてしまっていること。知らないわけない、そういう子だ。そういうところを。あたしはもう知っている。分からないわけない、そういう子だから。そんなところを、あたしはすでに分かっている。

 

 学校の先輩と後輩。親友の部活仲間。知り合い程度の仲。それでも、友達以上もなく、友達でもない関係だけど、どういう子か知っているし分かっている。あたしがそうしているのを、彼も分かっているし知っている。

 

 だからまた採点評価が下がるのだ。

 

 ゆったりとふわふわした口調で同じような感じの話しぶりだ。北高の中でも探せば何人か同じような人は男女合わせているはずだ。

 吹かなくても勝手に飛んでいく無個性。子供が必死に強請ったものの、すぐ別に興味が移って飛んで行ってしまう風船のように。そのままカラスやハトに遊ばれるでもなく、車で撥ねてきた小石に割られてしまう風船のように。よくあるもので特別興味を持たないものだ。

 

 それにずっと聞き耳を立てている。

 一音一音に耳の中の産毛まで過敏に聞き取ろうとしている。近くにあったタオルケットで全部隠れてしまおうとしているのに。ちゃんと洗濯して干してあるのだろう。しつこくない柔軟剤の香りが多少心に余裕を持たせてくれる。落ち着くためにその香りを求めると、別の香りであたしは少々変になりそうだ。

 

 匂いには慣れるもの。さっき窓を閉めてしまったから、すぐ鼻はもう別の匂いなど分からない。そのはずだ。二人だけだったなら、そうでよかった。

 

 他人の匂いがする。

 異臭ではなく、他人の匂いだ。男の子くさい。汗臭いとか色々あるけれど、男の子のにおいだ。鼻をつまむことはないし、目に来るものじゃない。よく知らなくて分からないから、鼻が利いてしまうようだ。

 

 その男の子くさいのが、またあたしに緊張を強いてくる。この男の子のにおいに的確な喩ができない。香水に関してそれなりにあたしも自信がある。いい香りだけどこの人には合わないぐらい分かる。香水はその人の体臭を使うのが前提のものだ。良い部分をさらに良くするのが現代の香水だ。でも、この匂いは今まで知っている素敵な香水とはまるで違う。男の子くさいのは、ちょっと別に良くないものだと思った。

 

 なんだが、やたら緊張してしまうのだから。さっきよりもずっと緊張をしている。パーテションで区切られたこの距離感がただ苦しい。何故だか、まるで理解ができない。緊張を解そうと無意識に体が動いたんだろう。あたしのすぐ傍で、というかあたし自身がすごい音を出した。

 

 まずい。

 

 そのどうしようもないまずさを彼は気にしたふうもなく、男の子のにおいを撒きながら自分の何かを巻き込んでいる。

 良くないもので、まずいもので、緊張してしまうものだ。どうしようもなく、どうもできず、どうしたらいいのか、何も分からない全く知らない。そんなどうしようもないのをどうにかしたくて、今度は自分で体を動かす。

 何かが反射したのが、あたしの目をくすぐるように光った。鉗子台が蛍光灯を反射していたらしい。一瞬気をそらせてくれて心より感謝する。一瞬でも、どうしようもなく、どうもできず、どうしたらいいのか、右往左往もできないよく判らないものからあたしは抜け出すことができたのだから。

 

 だが、それはどうにも一番まずいことだった。普段の生活上でなら何にもまずくない。良くもならず、どこにも気を留めることもないだろう。

 

 今日一番まずいタイミングで一番まずい隙ができた。そして、今までで一番まずいことをされた。

 

 聞かなければよかった。

 

 どうして早くここから出て行かなかったのか。いや、そもそももう少し彼といち早く距離をたくさん取ればよかったのではないか。無駄な無意味な思考が止まらないように、あたしは近くに置いてあったツールボックスに足をぶつけた。痛みを感じる前に、彼に何をやられるかで緊張感が大変なことになる。

 

 今すぐ振り向いてこっちに来たら、いつものようにケラケラ笑ってあげよう。

 わざとあたしの名前でも呼んだなら、いつものようにノリのいい冗句でも言ってあげよう。

 このままあっさり保健室からあえて去ろうとするなら、こちらもあえての先輩風でからかってあげよう。

 

 何をやられてもやりかえせる。全部シミュレートして、完璧にこなせる自信があった。彼はひどい人じゃない、まずい人でもない。ちゃんとおふざけしてくれる。いつものように、いつもの現代っ子らしく、夢みたいな普通を気負わずにやってくれる。

 

 そうあたしが計算した期待を彼は、どうしてか裏切ってくる。ひどいとは言えないけど、困ることを言っている。まずいのだけれど、不快すぎる意味でのまずさはない。

 

 計算を間違えたからだろうか。式から間違えていたのだろうか。そもそも問題文を読み間違えていたのか。まるで意味の分からないことになっている。そして、影が濃くなったのを知ってしまった。彼がこちらを向いているのだ。

 

 そこで出た言葉が本当に意味が分からなくて、胸のあたりからゆっくり絞られていくような感覚に陥った。痛くはなくて、痺れるでもない。不快感はなく、しかし快感もない。絞られていくというだけの未知のものだ。死への危機感や恐怖感などない、痛みもないので何も知らない分からないものだ。

 

 ゆっくり自分の内で勝手に何かが絞られていく感覚は、普段なら恐怖でも感じるはずだ。それは微塵も感じていない。むしろその感覚があたしをどこか落ち着かせていた。

 

 そうした所為で、あたしはとんでもないことに陥っていた。

 

 彼の所為で絞られていたものが解放された所為で、体の中が炉のように熱くなっている。お神酒を飲んだ時の一瞬だけ火を差し込まれた程度にはなってくれない。焼却炉どころじゃない、これは。熔解炉だ。燃やすどころではない、熔かしている。プラチナが液体に代わるほどの温度だ。

 

 言葉に詰まっている彼に、あたしの絞られていたものがどんどん高温になって溶け出していっている。彼のその先の言葉を、あたし自身で勝手に溶かしていってしまっているようだ。こんな、こんな死ぬほど暑くて死にたいほど熱いならどうすればいいのだろうか。

 

 影だけでも口をパクパクとしている彼が見える。あたしはもう背を向いていられなかったんだ。

 

 あとはもうぐちゃぐちゃで、勢いだけでなんとかしてしまった。保健室から飛び出てきたものの、すぐ足と腰が馬鹿になる。手先はまだ何とかなっていたから、階段の手すりにへばりつくことはできた。藁にも縋るという様だった。

 

「まずいよ、それはさぁ…っ!!」

 

 思い出しちゃいけないのに彼を思い出した。

 

「まっっっずいんだよぉっ!!! シャドーくんてばぁっ!!」

 

 誰よりも愛おしいと思う顔をしていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 あんなことの所為で、夕飯はお部屋に閉じこもり適当な非常食で済ませようと思った。

 軍事オタクの親戚が調子に乗って買ったのを押し付けられたのがたくさん残っている。始めの一口に行かない時点で臭さがとんでもないやつもある。漫画かなんかだと思うけど食べることも修行の一つというのがあったが、確かにこれは精神が鍛えられるだろう。一口でも食べきればアメコミヒーローばりのスーパーアクションができるかもしれない。一缶全部食べ切ったら、あしたの○ーみたく真っ白に燃え尽きるだろうが。

 

 保健室からゾンビのように動いてなんとか俺の教室らへんまで歩いてこれた。めまいを起こした人間でももっとちゃんと動けただろう。どこかのスポーツならPKが十も取れそうなくらいやられてしまったから仕方ない。

 

「シャドーくん」

 

「ぁい?」

 

 聞きなれた声に俯いたままの顔を上げると、ちょうど妹ちゃんと目が合った。すっごい近い。おでことおでこがごっつんこしそうだ。

 

「あれ? 兄の方は?」

 

 この子の後ろに目をやっても、憎らしいことに俺より十は天に近いフツメンはおらん。なんてやつだ。兄失格だぞ。

 

「おいてきたの~」

 

「置いてきたのか~」

 

 なら、仕方ない。あいつはイエローカードにしておいてやろう。

 俺たちもこの子と同じくらいの年の頃はまぁそれなりにきかん坊だった。学校に植えてあったあの赤い花の蜜目当てに、他の子と一緒に一日で全部吸い取ってしまった。ジャングルジムの最上階から如何にヒーローっぽく飛び降りるか競い合って、結果しばらくジャングルジムが封鎖されたこともある。

 当然、先生にも親にもめっちりと叱られたもんだ。でも、楽しかったらしょうがない。悪いことだと分かっているけど、悪いことしたいのが子供なんだもの。

 

「こんなとこでどうしたの?」

 

「俺のセリフかなぁ、それは?」

 

「質問を質問で返しちゃダ~メなんだよ、シャドーくん」

 

「は~い、す~みません。俺はね~、自分とこで夕飯しちゃおうと思ってさ。だから、ここに来たんだよ」

 

「え~!! ご飯はみんなで食べるものだよ~、うちのお父さんが遅くなっちゃったらしょうがないけど、でもみんなで食べるんだよ! お母さんがごはんよ~って言うから、みんなでごはん食べるんだもん。ごはんよ~でごはん食べに来ないと、お母さんその人のおやつこっそり自分のにしちゃったりするんだよ。あたし前それでプリン食べられちゃったんだから~」

 

 俺もやられたことがある。正確には幼馴染君とゲームで熾烈な戦いに長々と興じていたら、俺たちだけ食後のそしてはなかった。そのそしては何処かといえば、あちらの母様サイドにデザートらしいものが二つ以上並んでおったのだ。うちに幼馴染兄妹が来て同じようなことがあったりする。人類の祖は皆同じ、我らも皆家族だということだろう。よそもうち、うちもよそなのだ。

 

「いやぁ、それはそうなんだけどね。気分的にどうもなぁってのがあるから」

 

 プライバシー侵害うんぬんや特別な事情がない限り、今の俺たちは一か所に全員固まっていてほしいものだ。長門と喜緑先輩なら、瞬きの間にハルヒを含めた残りの八人全員ひっ捕らえることができるだろう。たとえ、何かに遭遇してアクシデントがあろうとも指先一つで簡単解決のはずだ。喜緑先輩が言うには、生命の危機は基本的にないと見ていいですよ、といつもの微笑みで言ってくれたのだ、安心感が違う。

 そういう心強い人のおかげで、プライバシーは守られている。女性陣のデリケートなアレソレが守られるように、俺たち男たちのアレソレも守られている。男は過充電してもいいことないから、うん。

 

「一緒に食べたくないの~?」

 

「食べたいけど、う~ん……元気、いや、勇気? それが今ゼロでさー」

 

「そうなんだ~」

 

 やるべきことをやるには、勇気百パーセントないとやりきることができないのだ。ゼロに何を掛けてもゼロのままだし、一パーセントのひらめきのために九十九パーセント大惨事は許されない。

 

「じゃああたしに会えたから百パーになったよね! さっさといこ!」

 

「あぇ~…?」

 

「ならないの?」

 

「な、ならなくないけど、もう少し時間が欲しいかっなー?」

 

 この子の期待を無碍にすることはできない。ほんの少し前、とても凄惨なことになったから。女心は男には永遠に理解できんのだ。逆も真理だろう。

 

「どれくらい? どれくらい待てばいい?」

 

「明日の朝には…? ダメですかね?」

 

「ま~てないっ!」

 

「だよね~…。でもさ、真面目に明日の朝ぐらいまで待ってほしいんですよぉ」

 

「や~だ、ごはんだよ~だから行くの、い~く~のっ!!」

 

「あぁ、ドナドナされるぅ…」

 

 このお嬢様の色々は無下にできぬ。今度はもうやり直せないだろうから、言われるがままだ。目も開いてないほにゃほにゃ状態のベイビーからのお付き合いだ。それがいきなり縁切りなんてされたら、流石に俺でも挫ける。全部! 全部! 全部だ! になる。立ち直れない。

 

 妹ちゃんに両手を繋がれてドナドナだ。この子が歩く練習するときもこんなだったなぁ。いきなりコケて急所を破壊されそうだったこともあった。ヘッドストライクもあれば本能的に何かに掴まろうとされて、少年から少女になりそうになったこともあったなぁ。この兄もよくなってた、その父も、俺のお父さんも、ほかの色んな殿方も。そいつは手すりにはならんのだ、流石に。

 

「なつかしいなぁ…」

 

「なにがぁ?」

 

「色んなのがねー」

 

「ふ~ん?」

 

 あんよが本当に上手になってて、階段も上手に下りている。そんな負担はかけていないにしろ俺をドナドナしているのにだ。非常に感慨深い。お父さんってこういう感じなんだなぁ。お酒のツマミにこっそり俺の面白お菓子爆食いしてくこともある俺のお父さんもこうだったのかなぁ。家に帰ったらやたらカラフルで艶やかな名刺は、お母さんに全部渡しておこうと思った。

 

「はーい、あと一段だよ~」

 

「うん、そうだねー。あと三段あんのよ、お嬢さん」

 

「誤差だよ、誤差!」

 

「怪我しますー、ご注意願いますよー、ホントに」

 

「は~い!」

 

 数字だけでみれば確かに誤差になるだろうけど、三段分なんて俺の足裏から膝まである長さ。足を踏み外せば捻挫以上なことになるだろう。お年寄りじゃなくても頭を打って、の確率が高い。あとで兄と教習しましょうか。

 

「お」

 

 尻に振動。携帯のバイブレーションだ。妹ちゃんに断りを入れて携帯を丁寧に開ける。ここに来る前にこの子に致命傷に近いダメージを食らったのだ、ここに来ておしゃかは困る。メールらしい。とりあえず開封した。

 

「Re:それは見るんだ」

 

 メールの文面と聞きなれた声が出した言葉は同じだった。

 

 

AOUT OFF

 

 

 

 お夕飯後はファイヤーフラワータイムだ。ゲンコツ広場で俺たちは花火を使って酣している。

 

 妹ちゃんが花火をしたいと言い出したのが始まりである。図書室に漫画は置いてあるし、視聴覚室でいろんな映画やアニメも見れるが物足りなかったようだ。

 図書室は学校が認可したものしか置いていないし、視聴覚室も置き忘れ以外アニメも教養系のものしかない。そう、俺たち子供向けのくせに子供には全くつんまんねぇのばっかだ。

 こっそりネクロノミコンが、なんてのもあるわけない。だとしても、もしかしたらこの不可思議空間ならば存在していたのかもしれない。ま、あったらあったですぐさま処分されているはずだ。教養がなくなるどころか狂気の門を開くのはアカンだろう。きっと諭吉もそこは無学でいいぞって言うだろう。

 

 だからこその花火だ。

 

 花火は見ているだけでも楽しいが、手持ち花火でたっぷり暴走するのが一番楽しい。広場なので一応水場があるし、学校内部になるので消火器もちゃんとある。なんかあったら対処は任せろと長門たちにも言われたので、遠慮なく花火で遊んでいた。

 

 それにしても、無限ガシャポンも不思議だ。

 

 妹ちゃんの意思に必ず沿うようにできているのか、食べ物以外もこの子の望み通りポコポコ出る仕組み。俺たち男子や女子はたまに大外れを引いたりするが、この子だけは外れなし。可愛い子を無碍にしない優しいガシャポンだ。俺が同じくらいの頃は、夜店大当たり商品のパチモンゲーム機にお年玉全部使って泣いていたのに。大人って汚いよ。

 

「ねずみ花火ってさ、本当にネズミこんなちょこまかするの? ト○とジェ○ーは本物なの?」

 

 シャミセンがネズミのおもちゃで狩猟本能全開で遊んでいるのは見たことあるが、本物のネズミがちょこまかしているのはちゃんと見たことがない。祖父母のいる地域では割とどこでも見れるらしいが、俺はちっとも見たことがない。

 

「実際のネズミってチーズ食わないんだってよ。チーズかホウ酸団子だったら、普通にホウ酸団子に飛びつくらしいぜ」

 

「えー、うっそだー。だってさぁ、キョンくん、ホウ酸団子って毒なんでしょー? 毒だから食べないでね、ってお母さんとお父さんにも言われもん。絶対チーズのがおいしいのに毒食べちゃうのー?」

 

 チーズは美味いよね。ピザもグラタンでも美味い、サラダに添えてあってもまた旨い。デザートに入っていてもまたまた美味い。チーズ単体でも美味いのだ。チーズって無敵な食べ物じゃないだろうか。

 

「ネズミさんは雑食だからチーズも食べるの。でも、チーズを知らないっていうネズミさんはチーズ食べないの。ほら、おいしいって知らないといくらおいしそうに見えるものでも食べようって思わないでしょう?」

 

「あたしお菓子なら何でも食べるよ!!」

 

「うん、お菓子おいしいもんね。でも、お菓子といえば、もうおいしいってわかるじゃない? たとえば……エルブ・ド・プロバンスって聞いておいしいってわかる?」

 

「わかんない。食べ物じゃないんじゃないの? それはズ~ル~だよ、佐々木ちゃん~」

 

「ふふふ、ズルじゃないのよ。エルブ・ド・プロバンスってね、スパイスなの。カレーみたいにたくさんのスパイスを混ぜたのをそう呼んでいるの」

 

「カレーと一緒なんだ。じゃあ、絶対おいしいよね!! その、えるぶどぷ………なんとかって!!」

 

「うん、カレーと一緒のものっておいしいと思うじゃない? でも、さっきはカレーと一緒のものってわからなかったよね? だから、おいしいってわからなかったし、そもそも食べ物じゃないんじゃないの、って思ったよね。ネズミさんもそういうことがあるんだ。おいしいってわからないな、食べ物じゃないんじゃないのかなってものには手を出さないの」

 

「へー、佐々木ちゃんすっごい物知り~、博士だ~、ネズミ博士だ~っ!! ダーウィン賞絶対取れちゃうよ、佐々木ちゃんなら!!」

 

「あはは、その賞は辞退しようかな~」

 

 と、妹ちゃんと佐々木が和やかに話している。しかし驚いた。佐々木ってちゃんと子守ができるんだ。ダーウィン賞の意味がよく分かってない妹ちゃんに、俺らの佐々木なら嫌味の五百は即座にぶっ放していたのに。あの番組から出てきたんだと思うけど、賞になっちゃうと罵倒どころじゃないもんね。

 

「実際どうなん?」

 

「佐々木の言葉通りの研究結果がある。ネズミは環境変化に敏感な生き物、新奇性恐怖を持っている。これは人間でいう”食わず嫌い”に似たものであり、普段から食べなれているものを優先的に食べる傾向をネズミは持っている。あえてチーズを選ぶのなら、ハツカネズミといった穀物などの植物性の餌を好む小型ネズミよりも、肉などの動物性の餌を好む大型ネズミのドブネズミの方が可能性は高い」

 

「ネズミ=チーズが好きというイメージで出てくるあの穴あきチーズ、いわゆるエメンタールチーズは生のままだと比較的固いものです。中世のヨーロッパではあの穴だらけになったのをネズミが齧ったとしていたようですよ。実際は気泡の結果になりますが、本当にネズミがそのチーズを齧っていたこともあるそうです。ですが、ネズミといったげっ歯類は前歯が一生伸び続ける生き物ですからね。餌というよりも、その歯を削るためのかじり木として使っていたのかもしれませんね」

 

 補足の二人にまた感心する。長門と古泉は本当に博識だなぁ。俺と幼馴染君のただの知ったか雑学とは違った知性が輝かんばかりだ。隣の幼馴染君もへ~おもしろいな~という顔で頷いている。

 

「ネズミといえば、この間ハリネズミの可愛いお菓子見つけたんですよ。味もとっても美味しくて、チーズクリームなんですけど濃厚なのに重たすぎなくて、でも甘さが物足りないってこともないんですよ。味的にシェーブルタイプなんでしょうけど、どういうふうに作ってるんですかね」

 

「─────というお店ですか?」

 

「お? 喜緑さんも知ってるのかい? 最近出店したばかりなのに目敏いじゃないか」

 

「スイーツ巡りは女の子の嗜みですからね。休日問わず暇があれば巡礼の如く巡り歩いてますよ」

 

「へ~、そうなんですか。あ、じゃあ前できたベリー系が主力のお店の────────ってやっぱり一番お勧めになりますか?」

 

「無難に行くなら、でしょうか。それでも、お店に行ったなら季節限定がやはり一番ですよ。ですが、数量限定なので三十分も持ってくれないんですよね。予約もできませんし、定期的に通っているんですが季節限定が食べられたの二回もないんですよ」

 

「限定ってついてる時点で、皆食べたいになるだろうしね~。今の季節で即完売になっちゃうなら、ベリーの本番の冬とんでもないことになりそうじゃないかい? ほら苺ちゃんが一番おいしい時期になるからさ」

 

「ん~~っ!もう夜だから食べちゃいけないものに、食べたくてしょうがなくなっちゃいます~」

 

「苺はだめですよ、鶴屋さん。反則ですから」

 

「あ~そうだよね~、苺は最強だもんね~。間違いなく反則だったよ、ごめんね、みくる。明日苺のショートじゃないケーキ食べていいから、花火で苺作るの落ち着いてよ」

 

「それはカロリーがぁ……」

 

 と、可愛らしいお話をしている先輩女子様方。皆して手持ち花火で多種多様な分かるものとよく分からないものを宙で閃光させているが、この中で断トツ一番に何かを描けているのは朝比奈先輩だ。元々は書道部であったらしいし、手持ち花火さばき自体も絵になるお人。というか、喜緑先輩もそんな娯楽趣味あるんだ、知らんかった。

 

「で、お前何書いてんの? わさび大福? 唐辛子饅頭? ジョロキアの塊?」

 

「たとえ夜中でもその三セット食べようとしないよ。何も書いてないよ、ただなんとなく丸丸丸って書いてるだけ」

 

 激辛マニアではない、俺は。面白いのが好きであって辛いのがとっても大好きではない。中○とか大好きだけど、あれは食べ物として大好きだ。面白いから好きなのではない。

 

「団子描いて~、シャドー君」

 

「いいよ、三兄弟しとく?」

 

「百人兄弟にしよっ!!」

 

「凄まじいな、そいつは……色々とよ」

 

 ギネスでは一人のお母さんが六十九人ぐらい生んでいるらしい。四十年間で六十九だ。頑張りすぎ、旦那さんの方もな。グランドマザーになっているであろう年齢で更にまた子供を産むのも、そのための行為も大変すぎると思う。俺でもちょっとヤンキー残っている三十少しの人妻までなのに、凄いよね。

 

「やべぇ、一人書き終える前に一人消えるんだけど」

 

「”人”をつけるな、惨くなるだろ」

 

「百人はやく~」

 

「ヘルプ」

 

「OK」

 

「がってん」

 

 

 六爪流な男どもで必死に頑張った。無理だった。男は自力で子供産めないんだから、しょうがないよね。

 

→350 鶴屋視点

 

「六爪流でも二十人もできねぇんだけど」

 

「”人”はやめろって、あほ。つかよ、閃光って三秒も持たねぇから百人もできんぞ」

 

「三秒間ぐらい時を停められたらよかったんですけどね」

 

 おあほなことをしている男の子たちだ。打ち上げ花火くらいの大きさなら百人程度簡単にできるだろう。が、手持ち花火でしかも三人だけではまともにこさえることなんてできるわけがないのに。

 

「蛇花火を百人並べて点火でいいか?」

 

「へびさんは人じゃないんだよ、キョンくん」

 

「点火したらニョッロニョッロ人間に変化するよな。手足くれよ」

 

「蛇足ってやつですね」

 

 蛇花火をかき集めだす下級生君たちとそれを見守る妹ちゃん。どっちが子守をしているのかわからない。

 

「君はもうちょっと離れていようね。シャドー、もっと人らしくしてくれよ」

 

「俺に対して言ってるのか、お前は。そもそも花火で人って何だよ。粋とか江戸っ子的なの? がんばれゴ○モン?」

 

「彼がバラまいている小判の貨幣価値十万円ほどだという。ある文献では、大工の年収が約三四三万ほどだったようだ。現代のサラリーマンのように一般的な職業さ。そして、夫婦と子一人の家庭で最低でも一年で百五十万は使っていたらしい。年収の半分もだ。凶作や天候によって更に出費があっただろうね。なのに、ゴエモンは百も二百もバラまいていてる。ゴ○モンインパクト使うときはさらにバラまいている。一枚十万もするのに、さ。江戸時代初期だったなら、小判一枚だけで一か月暮らせたほどなのに。やれやれ、なんとも豪気なことだ」

 

「一ヵ月一万円生活?」

 

「……おい、そこの。妹なのにもっとマシな番組見せてあげられないのかい?」

 

 バラエティ番組に教養なんてものを求めるなんて、マキャベリだって思わないのに。佐々木ちゃんは人に夢見がちな子なんだね。その子に話しかけるだけで楽しそうで何よりだ。

 

「監督はそこのだから」

 

「シャドー……」

 

「マネしちゃいけないのは二人で教え込んでます~」

 

 妹ちゃんを後ろに下げて、しゃがんでいるその男子の両耳を引っ張る佐々木ちゃん。年頃の少女らしく、男の子で遊びたくってしょうがないらしい。どうにも微笑ましいことだ。とってもわざとらしく、いたいいたい、なんて言う君は、もっと痛がってあげるとその子も喜んでくれるよ。

 

「○口のプリンのでレンジ死にかけたのは、監督が悪いです」

 

「それは確かに監督不行き届きですね、引責辞任しましょう」

 

「シャドー」

 

「美味しいの作るから待っててねって言われたら、待てしなきゃじゃん。見送ってくださいよ」

 

「美味しくできたもん!」

 

「レンジいくらかかると思ってんだ、お前は」

 

「ぷらいすれす、って言うんでしょ?」

 

「プラスするわ、馬鹿。いや、マイナスか、これは」

 

「ぷらまいぜろってのだよね、シャドーくん!」

 

「……シャドー?」

 

「今度何か作るとき、必ず傍にいるからね」

 

 大きな えー!!! という不服しかない声を出す子供。それを囲む少年少女。ドラマでよく見るワンシーンのようだ。

 映画になっているS・Kのスタンドバイミーにもこっそりどこかに映っていそうなものだ。あれは少年たちのレモンの酸っぱさしかなかったり、コーヒーの苦みだけを抽出したような友情の一部があった。それは少年たちからしたらただの負の遺産になっていただろう。

 でも、もう少し大人になったらゲラゲラ笑うことのできる思い出になっているはずだ。レモンの酸っぱさの後にある仄かな甘みを、コーヒーの苦さの中に確かな甘味(うまみ)をやっと感じれるようになっているはずだ。

 

 それを鑑賞する側はどう思えるだろう。

 

 共感性羞恥に襲われ、さっさと映画館から出て行ってしまうだろうか。食べかけのポップコーンや飲みかけのジュースを近場のごみ箱に投げ捨てる真似をしてしまうだろうか。千円以上はしたチケットとパンフレットをビリビリと破ったり、ぐしゃぐしゃに丸めてつぶしてしまうだろうか。

 

 もしするなら、その鑑賞者は大人になってしまったからだろう。映画の子供達のどうしようもない子供らしさを、もう素直に感じ取れなくなってしまった大人になったのだろう。

 見ていられない、子供でもそう思うシーンはたくさんあった。例えば、列車との鬼ごっこ、何をやっているんだと誰もが呆れて、早く何とかしろと誰もがハラハラする場面。大人ならそういう見方をするのだろう。

 子供側はもっと単純な見方だ。何も考えずどうなるんだろうとワクワクドキドキハラハラと無邪気だ。彼らが大人になっていないからだろう。映画の子供と自分を重ね合わせてみる大人と違って、映画の子供と自分は無意識にでも別物として捉えているからだ。

 

 大人から見ればどうでもいいものが、子供から見ればとんでもない宝物。逆もある。マニアでも認める名車を大人が嬉しそうに子供に自慢しても、その子供からすればどうでもいいことだろう。そんなお金あるならゲームやお菓子など、子供の欲しいものを買ってほしいはずだ。しかも、その子が乗り物酔いする子だったなら、言うまでもないだろう。大人の苦労を知らないからだ。

 けれど、そんなこと思う大人も子供の苦労を知らないからそうなのだろう。

 

「どっちかなー、あたしは……」

 

 大人として彼らを見られているだろうか。子供として彼らを見ていられるだろうか。

 みくるとたくさんレモンのスイーツは食べてきたのに、何の味も思い出せない。あのウィークエンド・シトロンをつまみ食いしたってレモンの甘酸っぱさも分からず、おいしいお菓子味としか褒められないだろう。そもそも酸っぱいものだったかすら、全く分からない。コーヒーの味もだ。エスプレッソを出せれても濃くて苦いとしか評価できないかもしれない。今はカップの底が見えるほど薄いアメリカーノの味ならぼんやりと感じられるかもしれない。

 

 おいしいものが分からない。実はまずいものなのかもしれないが、そのまずさすらはっきりと分からない。どうすればいいのか、何も分からないあたしがいた。彼らから離れて、いた。

 

「やっぱり、鶴屋さんも悩みますよね~?」

 

「え、うん。そうだね。どっちもおいしそうだからねっ!」

 

「組合わせが悪いと台無しになってしまうものですけどね。おいしいものがおいしくなかったは、悲しいですもの」

 

「そ、うだね~」

 

 話を聞いていなかった。が、なんか紛れたらしい。色んなものをかみ砕いている最中だから、肺が熱を持ってしまっている。喉に来るまでの空気すらも、だから熱いのだ。

 

「おいしいのがいいよね」

 

 まずいものなんて誰も欲しがりはしない。

 ゲテモノマニアという連中だって、何のコメントもしようもないただまずいという代物に金一封も出さないだろう。バラエティ番組で求めていない気まずい沈黙は放送事故だ。番組のプロデューサーやディレクター、脚本家などといった美味しいものを作ったつもりの人たちが、視聴者やスポンサーにまずいと思わせるものを作ってはいけない。まずそうだけどおいしいのかもしれないが及第点。まずいけどおいしい、と思わせなければ視聴率もスポンサーも誰も良くならないのだ。

 

「そうですよね! やっぱりおいしくないと、ダメですもん!!」

 

 みくるの笑顔に肺の中の温度が下がっていく。安心したというか気が抜けたからか。肺は炉のような温度だったようで、平熱になるまで下がってくると肩や背中がカチカチに凍ってしまうほど寒く感じてしまう。まずくはないけれどおいしくないことだった。

 

「そうですよね、おいしい方が絶対に好いですもの」

 

 喜緑さんの微笑みは暖かそうだった。冬場に飲む自販機で買ったホットレモネードのように落ち着く。冬場のホットコーヒーように体の芯を温めてくれる。今はそれが遠い出来事にしか感じなかった。まずいかどうかすら分からないのだから。

 

「うん、そうだよね」

 

 まずいものが、どうしてまずいかすら今だけは分からない。今話している二人の向こうにいる彼らを見ていて、おいしいということもまともな批評ができそうになかった。うちのコックにいつもたくさんの語句を使ったおいしいものをありがとう、という言葉も一句も出ないだろう。そもそも、一口も手を付けられないのではないだろうか。

 

 少年たちは楽しそうだ。なんだかギャーギャーと騒がしいが、不快に思う要素がない。老若男女誰もが騒音としか思わないはずなのに。雷親父という御仁が近場にいたら木刀や竹刀をもって怒鳴りくるくらいだ。

 

 煩わしいものだ、気に障るものだ、心に来るものだ。今のあたしも、少しはどこかにそれらを隠している。

 

 羨ましいからか。そう考えたが、そうではないと判断した。彼らを見て肺が重く煮えるように熱くはならない。ただ単純に目に痛いからだろうか。そういうわけじゃない。彼らを見て目は痛むどころか、瞼の裏までじわりじわりと潤んでいくあたしがいる。

 

「そーれはまずいザマス~」

 

 その彼の声に心が消えてしまいそうになった。

 

 何に対してそんなことを言うのだろうか。もしかしてあたし以外の誰かにそんなことを言ってしまったんだろうか。特定の誰かに、誰でもいい誰かにそう簡単に吐き出せる言葉なのか。

 

 また、よくわからない。

 

 まずいと簡単に吐き出せたらよかった、彼のように。彼のように、気の抜けた風船のような彼のように、自分を誰にでも受け入れさせる不埒さがあればよかった。

 

 彼がこちらへ体ごと向きそうになっているのを見て、慌てて目をこちらの二人に戻す。

 

「ふふ、悩みますよね。それでは、鶴屋さんならどうします?」

 

「いつもあたしのオススメにお付き合いさせちゃいますから、今度は鶴屋さんの番ですからね」

 

 あぁ、本当にもうよく分からない。ただいまいちと感じている。そのいまいちの後に何かが続くべきなのに、頭の中ですら続きが浮かばない。

 

「うん、そうだね」

 

 それを言い訳の一つにして、あたしは生まれて初めて適当な返事をした。

 

 

 

「あれ、ロウソク死んでね?」

 

「こいつ寿命もうなかったっけ」

 

「ひどい会話ですね」

 

 火周りは男の仕事。その火のための、あれやこれやそれやなんやかんやの準備も男の仕事。

 

 とにかく、三個ほど用意していたロウソクの内二つが、いつの間にかマウスのくしゃみでも消せるようなか細い命になっていた。風よけに使わせてもらった鉢植えを覗いてみると、儚さ満点に消えていった。ロウソクの芯が水没しているらしい。いや、水じゃないからなんだろう。ロウ没? 多分あっていると思うロウ没に二つともなってた。

 

「ロウ没してた」

 

「水没でよくねぇか?」

 

「もう一本で溶かしましょうか。でも、こちらも中々危なそうですよね」

 

 ロウ没していた二つより元気そうな灯だが、点けはじめたときに比べて圧倒的にか弱い命。風よけしていてもその間近で遊んでいた俺と幼馴染兄妹の仕業だった。色が混ざるのが楽しかったからしょうがないのだ。

 

「意外とロウソクってすぐ死ぬんだな」

 

「在庫あったっけ?」

 

「あー…何個かあるのですが、折れちゃってますね」

 

 慎重に運んできたつもりだったが、残りがボキボキになってしまっていた。使えるなら使えるが、ちょっと心配になる感じになっている。残っている花火は線香花火とあと他少しだ。残っている一本でなんとかなりそうではある。そこらに勝手にポップする自販機で当たれば余裕かもしれない。

 

「ちょっと当ててくるわ」

 

「ダメ亭主の奴じゃねぇか」

 

「賭博の確率論はただの撒き餌ですよ、シャドーくん」

 

 どいつもこいつもに、俺の”当たり”への警戒がされていた。

 流石にそんなデスティニーはないだろう。狙っていないし、望んでいない。そもそもロウソクの面白いものってなんだよ。点くようで点かないじゃないだろうし、火はつくけど一瞬で蝋が解けちゃうよ、とか? チョコエッ○みたく蝋が解けたら謎の生き物が出るんだよ、とかなの?

 

. 運命にも愛された女神様と本気で当てに行く

.. 約束された運命の女神様とデスティニーしてくる

 

 

 

「じゃあ、鶴屋さんと当ててくるわ」

 

 夕飯時も妙に適当にされたのが根に持っているわけじゃない。別に悪い意味の嫌がらせみたいなことはなく、適当だった。うちのお母さんが冷蔵庫の中身をとりあえずフライパンで炒めて醤油で味付けしましたなおかずみたいに、適当だっただけ。おいしいっちゃおいしいが、別にしてほしいものが多いものだあれは。もったいないだろう。まずいわけじゃないのが、逆にムッと来るのだ。

 

 建前としては金運を分けてもらう的なのだ。鶴屋さんは、ご実家が古くからのお金持ち。よくある三代目で没落なんてしておらず、今現在も裕福であらせられる本物のお嬢様。どこかの手ごわいシミュレーションゲームじゃないけど、金運も受け継ぐことはあるはずだ。

 

 俺がサイコロを一回投げて四を出せる確率は六分の一だろう。これまでで人生ゲームといったサイコロ遊戯で俺の順位といえば、いくら頑張っても精々ビリではないところまでだ。ほぼビリだ。どこかのファラオ様のようにテクニックを使えばいいが、そこまでしてゲームに勝ちたいわけじゃない。顰蹙を買ったし、俺も。

 そうなのでじゃんけんでズルをしないで絶対勝てる確率もおんなじ感じで、運任せにしかならない。映画か漫画かは忘れたけれど、人同士の駆け引きなど関係なくイカサマで必ず勝敗が分けられる技を見たことがある。ダーティーでダークなものだ。あれだから、シノギという通称があるんだろう。一時凌ぎ、その場凌ぎ、当座凌ぎ。人生すべてを賭けて一旦はなんとかできたは割に合わない。

 

 だからこそ運命に愛された女神様のお力を賜るべきだ。四十二枚のトランプから必ず目当てのものを当てられるだろう、この女性に。ここにいる鶴屋さんならば、とんでもないハズレもそれを元手に大当たりできる。そう信じているから、呼んでいるんだ。

 

「え~、あたし~?」

 

 信じているから、呼んでいる。賭博ではないので、この確率論は撒き餌じゃないのだから。

 

「お願いしますよ、だってこいつら皆”当たり”持ってくるって確信してるんですもん」

 

 ガシャポンに愛された少女すら、そういう顔だ。ある意味でのプラスな期待顔だから少しは救われる。その信頼感に肺の中の空気が澄んでいく気分だ。

 

「”当たり”は確かにあたしも欲しいね。でも、今は”当たり”じゃないのがいいからな~」

 

 そう言って朝比奈先輩の肩を抱く。

 

「運命に愛されたみくるも一緒に行こうか!」

 

「いや、朝比奈先輩はいいです。鶴屋さん行きましょうよ」

 

「あはは、フラれちゃいました~。い~いな~、鶴屋さんは~」

 

 むしろ俺がフラれたみたいだった。特に刺のような痛みもなく俺は鶴屋さんへ近づいて、またお呼びした。朝比奈先輩は社交界のお嬢様の如く、華麗に鶴屋さんから脱出していた。そして鶴屋さんは他の盾前を探し出している。

 

「ん~とぉ、っじゃあ喜緑さんも行こうよ。もしかしたら二回目が”当たり”で出てくるかもしれないよ?」

 

「そうしちゃったら、本当に”大当たり”来ちゃいそうですから、喜緑さんはお留守番願います」

 

「私は運命を自分で掴みますから、お二人でどうぞ」

 

 割れてしまったロウソクを長門と古泉と佐々木で整理しながら、お断りされた。仕方がないとはいえ、多少困った顔はしておく。

 

「ガシャポン好きだよね、有希!」

 

「早く行くことをお勧めする。大丈夫、当てればいいだけ」

 

「さっさっきちゃん、行こうよ!」

 

「彼は”ハズレ”でもとんでもなくなるので行きません。鶴屋さん、頑張って当ててきてください」

 

 ここぞという信頼に胸を打たれた。普段の悪食がここで生きた。今なら紐飴で一番おっきいのを当てられそうな気分に浸る。

 

「行かないの~? 夜の校舎怖いもんね~、あたしがついってってあげようか?」

 

 妹ちゃんが俺の手を握ってお姉さんぶってくれる。怖いっちゃ怖い。怖くてどうしようもない。だから道連れを選んだんだ。

 

「君とだと一緒に迷子になっちゃうかもね。この年で迷子放送は嫌だなぁ」

 

「んもうっ、それは昔話なのっ!! もうこんにゃくものがたりなのっ!!」

 

 そんな昔ではないんだけど、たった三年ぐらい前の話。一緒に迷子になって、迷子放送されてそれぞれ発見された過去だ。幼かったから仕方がない。

 

「僕たちは先に辞退しますね、中りたくないので」

 

「棒にあたるどころじゃなくエスカリボ○グに当たるからパス」

 

 熱い友情だ。コンセント差し忘れた魔法瓶並みに熱々だ。

 

「あ~も~、そんなにあたしと行きたいのかい、シャドーくんってば。こんなリトルエンジェルちゃんもいるってのにさぁ?」

 

 俺のパーカーのポケットに両手を突っ込み、暴虐の限りを尽くしている妹ちゃんを宥める鶴屋さん。へその周りを連打されて内部にまでダメージが蓄積している。まぁ、これからのことに比べたらなんてことはない。確率半分もないのにクリティカルを決められるわけじゃないから、何も問題はないのさ。 

 

 妹ちゃんの両肩に手を置いて目線もちゃんと合わせてあげている。何があってもなんとかしてあげるという優しさがあった。それでも、腰が引けていつでも俺から緊急離脱しようとしている鶴屋さん。

 

「うん、俺は女神さまと行きたい」

 

「ん~~~」

 

「こいつ変なとこで意固地なんですよ。目当ての菓子パンがなかったからってその日全部使ってそれ探しした奴ですから、諦めてください鶴屋さん」

 

「あぁ、マジな事実なんですね。そういうところ二回ほど見ましたが……いやぁ男の子なんですね、シャドー君も」

 

「お前が”男の子”というとなんか尻がキュウゥゥッ!!てなるからやめろ」

 

 ナイスアシストだ。過去に築き上げた偉業は実ったようだ。どちらも妙に面倒臭いという顔がいつも以上な気もしたが、気にしない。

 

「おひきわたし~」

 

「はぁい、受け賜わり~」

 

 妹ちゃんも飽きてきたようで遠慮なく鶴屋さんを手渡してくれた。逃がさないように鶴屋さんの手をしっかり繋ぐ。そうしても鶴屋さんはいつも通りにしていった。小憎らしいことに。

 

「しっかたないね! この鶴屋さんがこの子の引率を任されてあげようじゃないかっ!! みんな~いい子で待ってるんだよ? さもないと……めがっさで、めがっさな”大当たり”を当てててきちゃうからね!!」

 

 お返事のいい皆を後にして俺たちも目当てに向けて歩き出した。鶴屋さんはみんなへ手を振りながら歩いているから、足が遅い。ムッとなった。それを察した彼女は一応足を速めてくれる。遅い。ムムッという気持ちが俺の足に出る。彼女よりわざと足を遅くした。そうすると流石に普通に歩いてくれた。

 

「ね」

 

 やっと話しかけてくれるらしい。俺も話したいから振り返った。

 

「手、いたい」

 

 葉擦れでもかき消されそうな小さな声に、残像が見えるほどの速さで俺は自分の手を離した。本当なら帰ってくるまで離す気なかったのに。蛍光灯と夜だからか、またどうしようもない緊張感が起こったせいだ。びっくりもしている。振り返るんじゃなかった。

 

 好きな人が怯えていて、嫌がっている。

 

 俺は運命にすらどうやっても愛されないようだ。

 

→353

 

 嫌な気持ちだ。

 

 嫌な気持になっている。

 

 嫌だ嫌だ、とみっともなく喚いて吐き捨てたいくらいにあたしの全てが嫌でいっぱいだ。もう零れるほどにいっぱいになったコップを、ちょっとズルして零れないよう止めているだけの状態。

 

 声をかけないでほしい。見ないでほしい。近寄らないでほしい。嫌で嫌でしょうがなくなるから。そのしょうがないと思ってしまう自分自身がまた嫌で嫌でしょうがなくなる。

 そして、また同じように全部が嫌で全部しょうがなくて、でもしょうがないはまずいこと、そう思うこともまたまずいこと。そういう堂々巡りだ。

 

 不愉快。

 

 とある会食で下世話なことを言う年配者よりも圧倒的に不愉快だ。どうして一緒にいないといけないのか、どうしてこの人といなければいけないのか。その考えだけが自分の周りを囲むように存在していた。

 

 だから、拒絶をする。そういう意味での言葉を発した。

 

 負の感情からくる拒絶を理解したらしい彼は、振り払うように手を離した。流石にそれはまずいと判断してくれてありがたい。手を放してくれたおかげで距離をとれる。では、このままあたしだけみくるたちの元へ戻るということはできないだろう。あたしだけならやってしまったという空気は簡単に消せる。だが、彼にはどうやったって出来ないだろう。そういう経験がないのだから。

 

 用を済ます間に、彼をある程度取り繕えるようあたしが同行しなければならない。あたしに拒絶された彼は、普段なら大笑いしてあげられるほど青い顔だ。真っ青、血の気が引いているらしい。ざまぁみろと思うが、顔には出さなかった。少し間をおいて彼を追い越す。

 

「さ、行こうよ。当てないと帰れないよ」

 

 君が皆に言ったんだから、と付け加えて先を行った。少し戸惑っていたものの、いつも通りの声で急かせばちゃんと付いてきた。

 

 距離を離して付いてくる。後ろを向いて確認しなくても感覚からそれぐらい分かった。

 みくるとあたしのスーパー仲良しがほぼゼロ距離、他の友人がA二サイズ、知人でAゼロ。それぐらいの距離感を求めるし許容できる。今の彼とは模造紙三枚分の距離がギリギリだ。

 

 もうそれ以上近寄られたくないのだ。

 

 夜でも校内は明るかった。肝試しでもこれだったらつまらないな、と思いながら自販機を探す。いつもの自販機なら飲み物だけだ。紙パックだけとか紙パック以外はあるという飲み物専用自販機が今さっきもあったが、目当てはそれじゃない。食堂に行けば学校で許可されたお菓子やそういうフレーバーの栄養補助食が買える。

 

 今に至っては他のも当たるのだ。みくると面白半分で遊んだら、ブラックアイボリーが出てきて一緒に変な声を上げたことがある。流石に人数分はなかったので二人だけの贅沢をした。他にもなんだかお高くて良いものが当たった。

 みくるはハズレを引いたりしたが、あたしにはそれがなく景品は他の皆に渡したのだ。小泉君にはボールペン、佐々木ちゃんにはボディブラシ、キョンくんと妹ちゃんにはお菓子、有希にはフェイスブラシ、喜緑さんには扇子。

 何故か本当にいいものばかりが当たってしまう。そこまでしてしまうと流石にもう面白半分でもできなくなった。欲が深すぎれば溺れ死にするものだ。

 

 またさっき通り過ぎた自販機で何か購入すれば、また良いものが当たるのだろう。不思議なことに自販機が電柱の間隔でよく設置されている。三十メートル間隔でこんなに凝ったものをよく設置できるものだ。犬も歩けば棒に当たるじゃないが、とんでもないことだろう。現代ではピラミッドのすぐそばに出店じゃなく自販機もあるのだから、とんでもなくはないのかもしれない。

 

 校舎は明るい。でも外はやっぱり暗くて、今の自分が非日常にいることがわかる。

 学園祭でもこんな夜まで学校にいたことはない。誰かさんに貸してもらった少年漫画ではこんな夜中でも平気で学生服のまま外を出歩いたりする、それは普通によくあることとして描写されていた。確かに現実でもバイト帰りや部活帰りを除いてもそれと似た暗いものを見る。

 だがやはり、あたしにとってそれは普通ではないし日常ではない。あたしと関係しない別世界のものだ。あたしの日常をすべて同じになる、そんな人物なぞ存在しない。

 

 あたしと同一人物がいるわけがないのだ。この不快感を誰も共有できない。こんな不快だらけな感情を一部分すらあたしとまるっきり同じものを感じれるわけがない。

 

 今の空気、この場の距離。誰にも、過去のあたしや未来のあたしでも、再現できないこの煤のような思い。

 

「シャドーくん」

 

 視界の隅で煤が舞い上がったような気がする。誰かが乱暴に掃除し始めたように、ついせき込むぐらい煙たく舞い上がる。

 

「はい」

 

 模造紙三枚分は後ろにいるはず彼はいつもよりふっらふらな声だった。この舞い上がった煤を吸って、しばらくむせてたらいいと思う。そういう嫌味が出そうになるのだから。

 

「何処のが”アタリ”そう?」

 

 いつもの調子のあたしの声。他者を不快にさせず、反感を抱かせず、調子に乗らせないほどの発声。己の不快や反感を飲み込んでいるもの。調子に乗った誰かへ手袋をたたきつけるものだ。

 

 それを知ってか知らずか。彼はフラフラな声で、あそこですかね、と返して止まった。足音も止まったので、振り返る。そうすると元々顔をそちらに向けていたのか、目を合わせることすらなかった。煤がどこかにたまるような思いをした。

 

 下駄箱の先、いや、玄関を塞ぐように自販機らしきものが設置されている。蛍光灯だけではよく分からないが盗難防止以外にもハリケーンなどで飛んでいかないような重装備で、しかもポールパーテーションまである厳重警備な自販機だ。

 

「……へぇ、また君なの」

 

 音割れしたイタリア語が流れてくる。前見たのと同じようで音割れ具合もそっくりだ。

 

 海神オケアノスは今もまた口を開けている。

 

→354

 

 その真実の口型自販機はボタンらしきものはなく、そして紙幣を含めた貨幣を入れる場所もない。電子決済用のものもないのだ。

 あるのは、とりあえず食べちゃうぞ、と言わんばかりな半開きなお口だけ。海神オケアノスは目も光るようでそのキラキラした緑色が急かしているようだ。ある甥っ子の愛人の役割だ、それは。

 

 気が乗らないので三流アクターでも出来そうな陳腐な演技もせず、あたしがその口に手を差し込んだ。

 

「ちょっとダメですよっ!!」

「平気だよ」

 

 流石に慌てているようで、距離がもう模造紙一枚分もない。嫌なので振り返ってあげると、距離を開けてくれた。それでも、嫌な距離だ。求めていないものだ。

 

「ま~だかっな~?」

 

 あれれ、相槌もしないの? 減点だね。上の立場の人ほど話を聞いてるアピールするのが安泰なのに。くだらないジョークやしょうもない下な話、つまらない自慢話もとりあえず相槌を打てばなんとかなる。マイナスにならず少しでも加点にしたいなら、すべきことだ。豚が木に上っているうちに斧を研いでおけばいいのだ。

 

 鼻歌を使って暇をつぶす。減点しまくっている彼は今寡黙だからしょうがない。用意周到にして三分に出来上がるあの曲をハミングしている。いつもなら彼もふっわふわした能天気な声で乗ってくるはずだ。前他の子と一緒にカラオケに行っていたから知っているが、彼は音痴だ。自分に合っているキーも分からないし、選曲も少しアレだ。一番初めに歌うのが演歌だとは誰も思わないだろう。こぶしが利きすぎていた。

 

 三分の内二分強歌い終えると、オケアノスからの音声が止まった。彼の時とは違い、普通に手は抜ける。痺れもないし、刺したような痛みもない。途中で軽く指を握ったり開いたりしても異常なしだ。手を抜き終わって当たりが出てくるのを後ろに下がって待つ。ここでは、流石に彼へにこりと笑ってあげた。まずいから。

 

 彼があたしへ完全に目がいかないような位置に行くと、あたしも背中を向けて真実の口から出てこれた自分の手をもう一度見直した。前みくるたちと行った遊園地で押されたスタンプのようなものがあるのだ。チーズ泥棒を現行犯逮捕されているネズミだった。

 

 普段なら、まぁいいかと流せるそれ。舌打ちしたくなるほど今は気に食わない。手持ちのハンカチでゴシゴシと拭う。

 

 許せる気分ではない、許してもいい気分でもない。不愉快だ、あぁ、腹立たしい。

 

 油性だ、このスタンプ。

 

 グロスとリップを携帯しているけれど、これを落とすためにダメにしたくない。他の化粧品でもこんなののために使うなどと論外だ。ハンカチにインクが移ってくれないこの汚れは不快の塊だった。無駄なことだと分かっているが指でもゴシゴシ擦ってみる。優秀なインクのようで、指に汚れが移ることもない。

 

「んーーー……」

 

「鶴屋さん」

 

「ん~?」

 

 そのまま唸っていると彼に呼ばれた、スタンプ付きの手を隠して振り返る。すると、ちゃんと当たりが出たらしい。よかった、ならさっさといつもで帰れるね。

 

「当たりました」

 

「オッケイ! んじゃ、早く帰ろっか。他の子たちがきっと待ちくたびれてるもんね?」

 

「うす」

 

「キョンくんたち男子組は大人しくしてるかな~? 古泉君もああみえて結構アグレッシブなとこもあるし、キョンくんも年頃少年だからパッションあるもんねー? 君も結構インクレディブルなことするもんねぇ?」

 

「いやぁ、俺はそこまでアカンことはしてないはずですけど」

 

「インハイ出場経験者をコテンパンにしたのは~?」

 

「……団長様のご指示です。当方は全くの無関係であります」

 

「部室に段ボールいっぱい来てたよね? そこまでの予算は通してもらってないんだけどな~」

 

「お菓子と俺は無実です」

 

「あとで押収するね~」

 

「え、ぇえぇ~…」

 

 ハルにゃん含めSOS団のビューティープリティソサエティなレディたちとの不当なデートのためだったのは知っている。

 陸上部のその何某男子組が挑み敗れツケを払っただけの結末。欲望に割と忠実な男たちだったので仕方ない結果だ。たとえ相手が三位まで入賞しなかったにせよ、全国の実力のある高校生選手をコテンパンにしたのは結構面白かった。

 キョンくんもなんだかんだ格好良かったし、古泉君も青春してていい感じな格好良さ。そんな男の子しているキョンくんだけの写真も結構取られていた。ハルにゃんはそれに大分お気に召さなかったようだが。

 

 彼は、アンカーだった。

 

 三人リレーでの四継ならぬ三継だ。古泉君、キョンくん、で最後は彼の順。去年の体育祭の時は目立たなかった。普段の学生生活で運動神経がいい方だとはわかっていたが、走りもちゃんとできるとは思わなかった。日課で朝走っているとは知っていたものの、ハンデありでもぶっちぎりはとっても気持ちいいものをあたしは感じたものだ。

 

 模造紙半分後ろにいる彼。相変わらず可愛い感じのふわふわというのではなく、生活指導の先生に活を入れられてしかるべきな彼。気の抜けている風船のような彼だ。抜けきっていないちょっとは浮いてくれる風船な彼だ。その彼が、意外にも格好良かった。

 

 贔屓目抜きで、彼が一番誰よりも格好良かったのだ。 

 

 舞台役者がその魅力で観客を震え上がらせる、というものではない。映像の向こうで悪と戦うヒーローをしているそんな誰かの良さじゃない。見慣れたそんな程度の良さじゃない。

 

 初めてだった。シャドーくんを初めて格好良いなと思った。

 

 あたしが生まれて初めてお世辞でもなく、本当に格好良いんだな、と感じたのだ。

 

 シャドーくんは、凄く格好良いんだと知ったのだ。

 

 普段の立ち姿も潮の満ち引きに任せたまま揺られている海藻のようだ。言動もそう、見知らぬ海の向こうの誰かの忘れ物がずっと持ち主に帰ってこないようなふらふらとしたもの。そんな彼に付き合うのはいい人だからだ。

 普通に付き合える人だから。気が楽だ、少し背中を丸めてしまっても気にしない楽な相手だ。一応異性だけれど身長が近いせいでそれはいまいち意識していない。顔もまるで女の子みたいに可愛いでもないし、かといって映画の主演になれるほどの美少年でもない。可もなく不可もなしな顔立ちだ。

 

 普通な子。

 

 SOS団の団員だからちょっとあるけれど、どこにでもいる普通な子だ。特に注視すべきところも注意すべきこともない、なんてことのない現代的若者青少年の一人だ。面識が碌にないそこら辺に歩いているレベル。

 

 それがだ。そうだったのに、だ。

 

 どうしようもなく格好良かった。

 

 その格好良さは一体どうしたのか。団長ちゃんが怖いからとか、ご褒美のもののためにとっても頑張っただけだ。

 理由がしょうもなさすぎる。でも、あの格好良さにそれは減点できない。科目が違うのだから。バトンを受け取った瞬間のときより、途中からSOS団の皆が彼に声援を送った時のシャドーくんはとんでもなかったのだ。

 

 目をこちらに向けてきてただ黙って一度、うん、と頷いただけ、それが本当に格好良かった。絶対見たことのない真剣なだけの顔のせいかもしれないが、古泉君より格好良くそこらの顔で売れている芸能人よりも断然格好良かった。

 

 勿論、あたしはびっくりした。格好良いシャドーくんがいることに心底びっくりしたのだ。真面目そうな顔は何度か見たことがあるが、格好良いなと思ったことはない。びっくりすることもなくあたしは顔にも出して何をやるのかわくわくしているぐらいだ。シャドーくんの真面目な顔はレアだ。サイコロを二時間降り続けてようやく目当ての数が出るくらいのレア。それを超えたのがあの姿だ。

 

 あたしがシャドーくんを格好良いな、なんて思うことないはずだったのに。誰よりも何よりもシャドーくんは格好良いんだなと知った。素人がホールインワン出来る確率よりずっとないものだ。ビギナーズラックで喜ぶより、こんなところで運を使ってしまったととちょっと悩むもの。

 

「お慈悲はないんでしょうか?」

 

「収支がきっちりしていないと怖~い人来ちゃうぞ~? 大阪府警さんとか、呼ぶかい?」

 

「本当に怖い方のポリスメンはお許しくださせぇ…っ」

 

「流石にあの人たちはプロレスしてくれないだろうね」

 

「お約束と規則は別物ですもんねー」

 

「虎に代わってしょっぴくぞ!」

 

「そんなこち○的なこともしなさそう」

 

 いつもどおりになってくれたシャドーくんとあたし。幸運にも当たりを引けたのだ、すべて吉だろう。悩んでいいのか喜ぶべきか。

 

 手のひらのネズミはただしょげている。

 

→355 主人公視点

「やばい」

 

 だいぶ先を歩いている鶴屋さんには聞こえない声で俺はつぶやいた。たとえ聞こえていたとしても好意のかけらもない無視をされているんだろう。

 

「やばいやばい」

 

 小さくふらふらとした声で何度も同じことをつぶやいた。言葉通りやばいことをしてやばくなっている。だからといって、その言葉を呪文のように呟けばあっという間になんとかなる、なんて都合のいいことはない。ゲームとかならMPと引き換えに効果発動できるすっごい魔法や呪文が欲しくてしょうがない。ダンジョン探索型ゲームのように、一見他の何も変わらないところが一か所だけすごい何かがある、みたいなことが欲しいんだ。

 

 こんな魔訶不可思議な空間ならあればいいのに。ここでも妙な現実とまるでかわりゃしないご都合良くないリアリティがある。

 たとえば、ここの購買で売っている文房具ののボールペンが実はお菓子にはならない。ボールペンを模したお菓子は出るが、文房具という、お菓子ではないカテゴリーで購入したものは文房具にしかならないのだ。お菓子が欲しいなら、お菓子を買え。文房具が欲しいなら、文房具を買え。になり、カンスト買いもできない。いつも生きている現実と変わるわけないのが、まったく不便だった。

 

 こうして六台めだと思う自販機もご都合の良いものはないようだ。さっきから間隔狭めに自販機が置かれまくっている。昔ながらの文房具店のおばあちゃんだって配列もっとしっかりできるはずだ。鉛筆の左右に必ず墨汁が置かれているという所でお世話になった俺が断言する。もうすぐ七台めに見合うことになるがこれも外れだろう。求めている品物が入っていないのだ。

 

 三台目まで飲み物オンリーのもの。紙パックオンリーやサービスエリアにあるような注いでくれるタイプだ。とってもストロングなことにナタデココ一本勝負な自販機もあった。四台目からは食べ物も売り出していた。俺も好きなフルーツ味のブロックタイプもあれば、エンゼル集めなチョコ菓子もあり、ハンバーガーやうどんを販売する昭和の名残なものもあった。

 だけど、どれにもロウソク的な品物は販売していない。

 

 ずっと後ろを見ない鶴屋さんもそれがわかるんだろう。もしかしたら、希望的に見ればちょっとは後ろを振り返っているかもしれない。

 けども、その表情はどんなものなのかと想像するだけで、やらかした癖に怯えるのは俺だ。俺だけが足が重い。

 

 鶴屋さんは変わらずだ。いつも通り前へ進んでいる。俺がうっかり近寄りすぎたら更に前へ進み距離を必ず開けていた。

 目の前に透明なボックスがあるようだった。これが壁ならもう遠慮なくおめおめと逃げ出せる。これはゲームのバグじゃないんだから壁抜けなんてできない、裏技も使えないのだから。そもそもそんなことをしたら強制終了したり、最悪セーブデータが死ぬことになる。出来っこないだろう。

 

 透明なボックスみたいだから、無様に逃げ失せることができない。箱なんだ。何か中に入っているかもしれないし、むしろこっちから何か入れることになるかもしれない。

 

 箱は容器、物入だ。収納用品だ。だからこそ、俺は都合のいい妄想を抱いてしまう。俺が鶴屋さんへ踏み入れてもいいのかもしれない、むしろ鶴屋さんが俺を迎え入れてくれるかもしれない。そんなどうしようもない都合良い夢のような妄想を抱くのだ。

 

「シャドーくん」

 

 都合の悪いことが起こった。

 

 前を歩きだしたときと同じ声。手を放せと、俺が嫌だと拒絶していた声とはまるで違う声だ。いつもの調子の声、みんなが好きだと思う声だった。いい意味でも悪い意味でも特定の誰かへは向けられない声。誰でも聞こえる声だ。誰でもいいから聞かせる声だ。

 

 どうでもいい相手へ使うものだった。

 

 全部同じだったんだ。

 

 その先の言葉も同じ調子。嫌っていない、特に嫌ではないという調子だ。別の意味にもなる。好きではない、嫌いではないが好きにはなっていないという意味だ。嫌われ切っていないことに少しよかったと思った。別の意味を自覚してどうにもまずいとも思い知った。少しも嫌われてない、じゃないんだから。

 

 よくもなくまぁまずいんだ。

 

 自分の喉がいがらっぽくなる心地だった。それを抱えたまま周りを見渡すと、玄関の前に自販機があった。海神オケアノス型自販機。なんだか厳重警備されているが、こんな無駄に自販機を並べているんだからあいつも自販機のはずだ。俺の時とは違って最初から神様モードしている。

 

 そして、相変わらず鶴屋さんは前へ進む。俺は置いておいて、俺を気にもせず、俺などは無視する。当然そうされるだろうとは思った。だから俺も、自分勝手に申し訳なさと肺にたまる冷たさなどもう感じるべきではない。

 

 しかし、そこからの行動は絶対まずい。鶴屋さんが普通に海神オケアノスの口に手を入れたのだ。なんてことしているんだ、この人は。俺みたいなことがあったら大変だから慌てて近寄ると、振り返られた。そうしたら、もう俺はそこから動けない。

 

 鶴屋さんは怒っていない。怖がってもいない。それでも、嬉しそうにも楽しそうにもしていないのだ。

 

 同じだ。知りたくない顔だ。微笑んでいる。

 

 ブーグローの描いたグースガールのような微笑み。照れてはにかんでいるのか、ちょっと面白可愛らしい表情であるものだ。鶴屋さんのそれは同じはずなのに、嫌だ、邪魔だ、来るなと俺をまた拒絶したのだ。そのあとまた何か一つでもあれば俺はもう逃げた。が、何もなかった。許されたからではないのは分かっている。

 

 そして、俺が存在しないかのように自販機へ振り返ったまま鼻歌を歌っている鶴屋さん。

 

 同じだ。が、やっぱり分からなかった。でも、まずいことだけは分かっている。どうしようもなくまずいことになっているのは分かっているんだ。どうすればまずくなくなるのか、どうしたらまずいがなくなるのか、分からない。鶴屋さんじゃなく、俺がずっと分からないままなんだ。

 

 自分の足でもうどこへでも歩けるはずなのに、歩き方が分からないのと一緒だ。右足を前に出して、次は左足を前に、そしたらまた右足を、なんてわざわざ言葉に出さなくてももう体が意識しなくても覚えているのに。生まれたばかりの赤ちゃんじゃないのに、外へ行くための靴だって自分で選んで買ったりもできるのに。

 歩き方が分からないんだ。つまずかないか不安で、とかじゃない。歩くのが面倒くさくて、とかじゃない。歩けばいいってわかっている、行先も分かっている。歩いていいのかなんて許可求めてない、歩きたくないなどとイヤイヤなんてしていないんだ。

 

 歩み寄りたい。近寄りたい。そう思うたびに歩くことができないんだ。

 

 だって、鶴屋さん好きだと今度こそ自覚した。

 

 嫌われているのかもしれないけど、まだ好きだと思っている。告白して、できれば付き合いたい。絶対フラれるだろうけど、それでも鶴屋さんがまだ好きなままだろう。また鶴屋さんに彼氏ができても好きなままだと思う。保健室であんなことしなければよかったのかもしれない。保健室であんなことやめればよかったのかもしれない。

 

 まずかった。この状況も心境も、口の中でさえまずくて仕方がなかった。まずさしかないんだ。まずいという味しかなかったんだ。

 

 鼻歌が聞こえる。鶴屋さんのものだ。俺とは違って鼻歌でも歌手みたいにうまい。

 昔一緒にカラオケした時も全部うまかった。団長はもちろん、長門も上手。朝比奈先輩は声を出すだけでお上手に思うものだ。古泉は当然イケてる。幼馴染は俺と一緒のネタ組なのに、羨ましいことだ。その幼馴染も低いあの声だからデュエットをしようと寄られるもので。完全にネタにしかならない俺とは違ってだ。にぎやかし要員でしかない。

 

 だから、前に出てはいけないのだ。今のように、また。

 

 鶴屋さんの手が真実の口から出てきた。逸話のように手首から先が食われているとか、あの映画のようにジョークなものをしていない。それにほっとする前に、また鶴屋さんが俺に微笑んでいた。まずい、としか分からなくする。ずっとまずいんだよ、と分かってしまう。

 

 俺を置いて鶴屋さんは前に進む。帰り道の方へ進む。忘れたい、もういいから、をしている。

 

 慌てて自販機の方へ行って当たりを取らないといけなかった。まずすぎる今だけど、他のとんでもないことになったら嫌だからだ。取り出し口は、やっぱりこのお口なのだろう。他にそれっぽいのがない。

 手を入れ口を漁る。品物を落としてくるのにまだ時間がかかるのか、そういう振動はあるものの十秒たっても落ちてこない。苛立ちより焦りから人差し指でトントンと口内をたたき出す。もう十秒ぐらいたって品物が落ちてきた。手の甲に当たってきたそれも掴んで取り出す。俺の時も流石にちゃんと手が出てこれた。品物もちゃんと当たりだ。

 

 急いで俺も追いつこうと振り返ると、意外なことに鶴屋さんがまだいた。待っていたと思いたいが、それは義務的なものなんだろう。おそるおそるまた声をかけると鶴屋さんはいつも通りに返してくれた。

 

 異常なことがまた起きた。いつも通りの会話がまたできたのだ。

 

 鶴屋さんと俺のいつものへんてこな普通の会話だ。

 

 鶴屋さんからのからかいやちょっかい、年上お姉さん的なお叱り。それに対して俺がするのは、苦しすぎない言い逃れのような、痛々しくない失言のような、普通にそこらに転がっている一般男子高校生の軽さ。

 

 いつも通りなら口は軽い、心も軽いものだ。宙に浮ける、屋根までだって飛べるだろう。

 

 屋根まで超えて遠くに行けるだろう。

 

 いつも通りにもうなれなくても。

 

 

 

 

 

 

。四日目。

 

 

 

 お求めしていない朝を知った。

 

 ここでの四回目になった朝だ。おじさん臭さがとれない携帯のデジタル表記も、一桁歳の時サンタクロースに強請ったのとは別キャラの時計も朝だと教えてくれる。

 昨夜の一瞬で落ちたドデカ線香花火のように、もう夜になってくれと願う俺だ。当たりのロウソクも、ちっちゃな太陽と化したそれによって見事に倒された。俺的なアタリはなく、そのままちょっと季節ずれの花火はお終いとなり各々の寝床へ行く。俺たち北高二年組+な人と三年生組にすぐ分かれた。おやすみを交わしたときも変なものはなかったはずだ。妙にぎこちないこともなく、変にそわそわもしていない。普通に、またいつもどおりだ。

 

 知り合いだから挨拶できる、それぐらいの優しさがあった。よくぞこられたごゆっくりなされというものだ。

 それは、おもてなしというものだ。接客だ。友人でもそれ以上もない、ただの先輩後輩の知り合いだからこその優しさだったんだ。

 

 だから、その先がなかった。

 

 行き止まりの看板もないし、私道だからと三角コーンも置かれていない。

 

 壁があった。誰も登れない、誰も壊せない、誰も許さない。そこで終わりだよ、と、その先は道もないんだよ、と。

 

 どうしようもない線引きであった。開かない踏切だったんだ。ずっとカンカンカンと警告音が流れて進めない踏切。故意にでも入らないよう誰にでも緊張感を覚えさせる警告音を鳴らしている。右からも左からも列車の影も見えないけれど、立ち止まってないといけない。当然だ。バーが上がってないのに中に入ったら事故が起こる。どうあがいても悲惨なことになる。

 

 危ないことをしてはいけないのだ、大変なことになるんだから。危なくなっているのだ、大変なんだから。

 

「あ゛ぐぁ゛~~……」

 

 まただまただ、と思いながら無意味に声を出した。どうしようもないのを紛らわせたかったが、どうにもならない。転がっていたプーアル茶を飲んでも何も発展しなかった。

 

 飲み干したペットボトルたちでジャグリングしていると携帯が鳴る。相手は幼馴染君。

 

「なぁにー」

 

 ジャグリングしながら通話をする。壁にも当てて跳弾も交えたジャグリングは結構楽しい。

 

「オムカエデゴンス」

「あっちょんぷりけー!!」

 

 兄妹にイタ電された。声からして兄の方は朝から大分お疲れになっているご様子。

 

「行かないとなの?」

 

「イエス」

 

「行かないとあかん?」

 

「あかんのやでー!!」

 

 妹様の方は粋がいい。お元気で何より、兄にたくさん甘えたようだ。兄はもう呻き声なんだもの。

 

「どこ」

 

「昨夜んとこ」

 

「おぅけぃ」

 

「忘れないでね、シャドーくん!!」

 

 忘れたのはお前が、と兄が面倒怒り声を出すも、その妹によって先は聞こえなかった。フリーダムすぎるリトルシスターだこと。学校ではここまでではないらしいが。やっぱり女の子だから外と内は違うようにしてるんだなぁ。外様に見せる用と、身内には見せる用がもう出来ている。現実から夢へ逃避したくなった。お願いだから、大人にならんでくれ。

 

 夢ならばどうか覚めなさるな、と唱えながら軽く身支度を整え、昨日の花火会場へ向かったんだ。

 

 

 

「はぁい、お~はよ~」

 

「おはようございます、シャドーくん!!」

 

「あぁ、はよ。わりぃが、頼むわ」

 

 なんか忘れ物をしたので探してるらしい、というのは電話でも分かった。

 ここに来るまでに妹ちゃんの失くしそうな持ち物を思い出してみたが、十以上普通に思い描けたのでさっさと兄妹たちとダイレクトサーチだ。

 女の子の持ち物って不思議だ。歌の通りに、ポケットを叩けば粉々になったビスケットが、をやらかした俺たち男とはまた違って小物をたくさんため込む。まだ小さくて無邪気で善意しかない俺が公園の隅から集めたエロ関係テレホンカード回収のようなことは、その当時の俺と同じくらいの年でもこの子はやらなかった。

 ビーズで作ったアクセサリーが一つのポケットから十は出る。なんかよくわからん女の子が好きそうなキラキラしたものが二つのポケットから二十も出る。今もそれが変わらないようで、兄が把握している限り五個ぐらいは一応すでに発見できたようだ。

 

「あとどれくらいなん?」

 

「わからん、最低でももう五個は探さなきゃな感じ」

 

「心当たりは?」

 

「どっか行っちゃったからわかんない!」

 

 なら仕方がない。へけっ、頑張るのだ! と、とっとこ頑張ることにした。流石に手あたり次第あたっちゅを人間がやらかせば大問題なので真面目にだ。

 このゲンコツ広場は広場という名称がつけられている通り、一歩でも歩いた瞬間何かにエンカウント!! なんてことはない。テーブルや椅子があるものの簡易なものであり、そして重機のようなパワーがなければどこかに移動させることもできない。探すならそれらの上ではなく下だけでいいんだ。整地されているものの緑があるから小物は勝手にかくれんぼしてしまうんだ。海水から金を回収しろでも、もう掘りつくされている徳川埋蔵金探しでもないのだからイージーだろう。

 

 だから、ほら。慣れているから三個はすぐ見つけた。兄も同じように、妹ちゃんは椅子からエールを送る係に徹していただいている。同じことの繰り返しは嫌だから、誠心誠意でお願いした。

 

「もう?」

 

「んー……」

 

 兄と一緒に残数を考えたが、あともう少しはかくれんぼしてそうだった。再度サーチである。見落としはいけないのだ。テストでもそうだし戦場でもそうだ、犬ネズミとかね。窮鼠猫を咬み殺すな。

 

「おーい、キョンくんたちー!」

 

 アイドルのお声だ。呼ばれたあいつと一緒にそちらへ顔を向ける。ニコニコ顔でこちらに来てくださった、当然お二人で。

 

「おはよう様だね、ちみたち」

 

 きちんと目を見て挨拶をされた。俺は理解した行動を今度こそしなければならない。これ以上あんなに優しくされたくないから。

 

 ちゃんと目を見て挨拶する

 ちゃんと目も見て挨拶する

→    .

 

 

 

「おはようございます、先輩方」

 

「おはようです。いやぁ、お二人のおかげでとっても華やかになって嬉しいですよ」

 

 兄のように軽口を叩ける余裕はない。それでもあの時と違い、目を合わさないで挨拶をした。それで視界の端で見た。鶴屋さんの目が瞳孔からゆっくり細くなっていく。食事用のナイフが黒色に染まってしまうように。それでも、決して目も合わせなかった。動物の中で目が合うのは、ただの喧嘩売りだから。

 

「あたしたちもちょっとお散歩をしていたんですけど、キョンくんたちは一体何を?」

 

「このおバカな妹が、あだっ、脛蹴るなばかっ。こいつが昨夜失くしものをしやがりましてね、広場捜索中なんです」

 

「どうどうどう、落ち着いてねー」

 

「シャドーくん、はーなーしーてー!!」

 

 ひと暴れしだした妹ちゃんを抱えておく。俺よりも小柄ながら凄まじいものでよく暴れるのだ。朝比奈先輩方は幼馴染の癒し。朝比奈先輩のアイドルっぷりにドはまりしているこいつにとっては、もう最高の癒しだろう。そしてそんなアイドルが、女の子同士仲良さそうに話しているとまた癒しをもらえるそうだ。百理ある。

 

「お嬢様、お忘れ物がござりまするから」

 

「ぬーっ!!」

 

「ほ~らっ、これとか。さっき見つけたけど、前あげたのだったんでしょー? こんなとこに忘れられちゃったら、あげた俺としては悲しいですわよ?」

 

「あー……、…うん、ごめんなさい」

 

「誰しもうっかりするからねー。このピンキーなのも、もう忘れないでくだされ」

 

「カー○ィあったぁっ!!」

 

 いつ頃あげたかまるで覚えていないし、今まであげたものも全部覚えているわけじゃない。このパチモノカー○ィっぽいのも、多分俺があげたとかじゃなかったはずだ。それでも適当言ってなんとかなってよかった。

 

「シャドーくん」

 

「はい」

 

 困らないところで、鶴屋さんから御呼ばれした。抱えたままの妹ちゃんの足を、地につけておいてから振り返る。いつも通りに、当たり前のようにして、変わらず好意があることを隠さないで。

 

「ご助力いたしますね!」

 

「このキュルキュルキューティーなみくるズアイからは誰も逃れられないのさっ!!」

 

 捜索隊員が二人追加されたようだ。素晴らしいことだった。本当にお優しい。

 

「俺もう逃げられないのでお縄にしてください」

 

「ちょっとこいつ、いい感じの池に放流してきますね」

 

「や、やめろぉっ!」

 

 妹ちゃんを除いた捜索隊によって成果は上々となった。

 

 念のため朝ごはんの後、幼馴染兄妹と一緒に長門様方へサーチをお願いしてもらった。それも杞憂だったらしく、ちゃんと全部発見していたようだ。めでたしでござる。

 

「もう失くすなよ、お前」

 

「勝手にかくれんぼしちゃったんだもん、あたし悪くないもん」

 

「かくれんぼしちゃったならちゃんと探さないとだめだよ、休み時間以外で遊んだらだめなのと一緒なんだから」

 

「でもぉ……」

 

「かくれんぼしてるのに見つけてもらえないと悲しいんだぞ~。めちゃくちゃ悲しんだぞぉ~?」

 

「お前それでおまわりさんにマジで世話なったもんな、いとあわれ」

 

「予言してやろう。貴様の今日の昼食はウィ○ーのような食べ物だ」

 

「はっ、そのタイヤ味な予言は外れるな。ノストラダムスの恐怖の大王だって来てねぇんだから、お前の予言なんてないないな~いっ」

 

 まったく、こやし玉にしてしまいたい幼馴染君だこと。

 

「てか、もっとマシな予言しろよ。あと三十分後、俺に朝比奈さんが手作りお菓子を渡すみたいなのをよ」

 

「結構現実的に叶いそうな予言だなぁ」

 

予言者(スコアラー)と呼んでくれ」

 

「叶ってないだよね、まだな~んも」

 

「言うだろ、ほら、口に出せばなんでも実現するってさ」

 

「猿がタイプライターで、みたいなの言うね。カー○ィが炎とか吐くのはなんか能力あるやつ飲み込んでないと出せないんだぞ」

 

「あのピンク玉は口からなんでも出せるおかげで最強じゃないか。スマ○ラとかよぉ」

 

「カー○ィが王者になるゲームを出すんじゃない」

 

 妹ちゃんに買ったジュースを渡し、兄の方にも渡す。俺のはまだ自販機の中だ。

 

「いい感じな予言ねぇかなぁ…」

 

「あぁ、考え込む系なんだ。こう、降りてくる感じじゃなく?」

 

「預言の最先端は統計学なんだよ、統計学。天気予報も靴占いで出すもんじゃねぇだろ、必ず計算式があんだよ」

 

「スコアラーすごーい」

 

「んんっ、スコアラーだからビビッと来てるぞ。そうだなぁ、一つ、この炭酸ののど越し。二つ、その爽快感。更にこの人工甘味料のうまさ。あとは、スチール缶が結構冷たくて手が痛いな」

 

「ただの感想な、それ」

 

「はい、ハンカチ」

 

「さんきゅー」

 

 妹ちゃんにハンカチをもらった幼馴染君。本当にスコアラーなわけはない。

 ポーがタイムトラベラーに違いないと思っていた当時。その年ごろとは違い現実的になってくれている。テルテル坊主を一緒になって大量に全員逆さまにして吊るした結果を思い知っている俺たちだ。大人になるって悲しいことなの。

 

「じゃああたしが予言するねー。んー……ん、ん~っはい! 今日お月様ちょっと出ます!!」

 

「昨日も普通に出張ってただろうが。グラサンモミアゲでもないくせに言わんでいい」

 

「シャドーくん、そのもみあげちょーだい」

 

「ごめんね、これ非売品なんだもな」

 

「ちぇー」

 

 まさかもみあげをカツアゲされる日が来るとは思わなんだ。俳優さんとかだとつけまつげ感覚でつけもみあげとかあるんだろうか。

 

「んじゃあ、色違いになる!」

 

「アンノー○的な?」

 

「アンノー○のは色違い扱いでいいの?」

 

「うさぎじゃなくて、クマになる!」

 

「うさぎがくまぁ?」

 

「なんでうさぎ?」

 

「いや……んー……あぁ、模様のか」

 

「あー……」

 

 月の模様はウサギに見える。外国だとライオンとかワニに見えるそうだ。捉え方がグローバルすぎるものとして泣く男だったり本を読むばあちゃんだったり、二宮金次郎だったりするようだ。

 

「鮭銜えてんのか?」

 

「はねるの、ぴょんぴょんっって」

 

「じしんになるよ絶対」

 

「トリックルーム使えるやつ欲しいな」

 

 そんな面白そうな予言が当たるのか。テレビでは国民全員が同時にジャンプすると地球の反対側の国で地震が起きるんだとかなんとかあった。月のウサギがクマに変わったとして、その大きさのクマがドシンドシンと跳ねたりなどしたらどうなるのか。月が割れちゃうよ。三日もたずにタルミナ滅ぼしちゃうよ。

 

「クマがちょっとね、ぴょんっ!!てね、出るからね、シャドーくん!」

 

「そうだね」

 

 妹ちゃんと自販機の向こう、今日が始まったばかりの空を見ながら思う。俺もやり直しができたらよかったのにな。

 

 

 

「ほら、このデザインとかよくないですか? 雑誌の特集にあったブランドなんですよ」

 

「おー、いいねー。これだと、前髪出して首元狭めがいい感じになりそう。で、下はトランペットよりフレアかなぁ」

 

「トランペットのも可愛いいんですよねー。ちょっと厳つめのヒールでも可愛い感じにできますし、ブーツ合わせもアレンジできるの好きなんですよ、あたし」

 

「おー、みくるも厳つめの持ってるんだ。見たーい!」

 

「中々つける機会無くて…それに、あの…ちょっと陰干し期間がありすぎるので……」

 

「あー、あるよねー、そういうの…あたしもどこかで着たいなってのが封印されてるもの」

 

「で、忘れちゃうんですよねー…それで、ああ、そういえば買った!? って思い出して探してどうしてか秘蔵になっちゃってって」

 

「わかる。すごくわかる。買ったんだから、買ったよね?ってちょっとは向こうが主張してもいいのにね?」

 

「分かります分かります、そこはちょっと主張してーっていつも埋葬されたの発掘して思いますもん」

 

 朝から楽しい。みくると一緒に海外のファッション雑誌を見ながら適当に話しているだけ。それが一番楽しかった。お値段も普通に遠いもので、見かけたらついでに一緒に買うなんてことはできないだろう。あたしのお家パワーならできるが、そこまで欲しいわけじゃない。そもそもこのような可愛らしい服はみくるがいい。あたしのタンスに永住させているお洋服もお着物も、みくるに着せたい。可愛い子には可愛いものが似合う。可愛いは最強なんだもの。

 

「あれ、キョンくんたちだ」

 

「あれま」

 

 三人で昨夜のところで何かしているようだった。

 

「………」

 

 その様子を見た後みくるがあたしににっこり笑いかけてきた。可愛い子はずるいね、しょうがない。可愛いものには誰も勝てないんだから。

 

 うちの可愛いモンスターなみくるが声をかけると三人全員が、この子に注目した。

 

 妹ちゃんも、言わずもがなキョンくんも。そして、シャドーくんも。男の子だもんね、可愛い子に声をかけられたら脇見などせずすぐ振り向くもの。

 男の子だもの、可愛い子から目を逸らせないくぎ付け、もっともっと近づきたいもの。可愛い子のためにその二つのお目めは他に目移りできなくなる。自然の摂理だ。可愛いものは良いもの、素敵なもの。可愛いものは誰でも欲しい。

 

 別に可愛くないものはどうでもいいのだ。

 

 どうでもいいからこそ、彼はあたしを引っ張り出したのだ。

 

 始めに声をかけたのはみくるだ。可愛い可愛い、全部可愛いで生きているみくる。今もそうだった。前もそうだった。初めてもそうだったのだ。

 

 みくるのついでで始まった。みくるのおまけで初めましてだった。ついでじゃなかったら続きはしないもの。おまけじゃなかったら何もありはしないもの。

 

 ついでで始まって続いてきたのだ。見かけたら挨拶をし時間があればからかった。

 

 それが何となく続いている。今になっても続いている。終わってくれていない。

 

 日直当番だって翌日もお願いなんてされないのに。おまけからここに来てもゼロになることはない。加点もあれば減点もある。赤点クラスになりそうでもゼロにはならない。勿論百点満点なんてこの一年ちょっとの付き合いの中で一回もないのだ。高評価にはなることもあるが、同じような人の中ででの評価。特進クラスの平均点と普通クラスの平均点は同じものではないのだから。

 

 おかしなことだ。

 

 ありえなくていいことだ。

 

 パッと芽が出てサッと埋もれて、あっという間に消えているものだろう。

 やっと芽が出たのだとしても、水やりを少しさぼれば枯れてしまう。どうにか芽吹いたとしても、雑草に栄養を横取りされればあっさり枯れていく。世話をせず手入れもせずにいればその芽は伸びはしない。

 例えば、バラのように一瞬でも目を離せば全滅するような植物ならば金の無駄になるだけだ。バラに例えられるほど高尚な繋がりではないが、世話人がいなければ育つものではなかったはずだ。

 

 けして。

 

 決して、アスファルトから這い出た草花程度のものではなかったはずだ。少し運がいいだけで、そんな勝手に育って良いものではなかったはず。運よくアスファルトの割れ目の中に入ったから育つような、そのような低俗な繋がりではなかった。そうだったはずだ。

 ちゃんと育てるために水やりをこまめに。他に生育に邪魔なものをちゃんと除いてあげて。少しでも異変があればいけないから毎日観察日記を書かなければいけない。そういう繋がりだったはずだ。

 

 なのに、どうして。

 

 勝手に芽を出して勝手に育っていって、勝手に花を咲かせている。

 

 勝手が過ぎる。

 

 勝手なことをしては困る。

 

 繋がりなのだから、自分以外の誰かと関わるのだから、自分勝手などあってはならないではないか。

 

 また妹ちゃんの相手をしているシャドーくんは、嫌な人間だ。

 

 まずいのだ。

 

 勝手に続けてくる。続けようとすれば、あたしは待ってをかけた。一度待てしたからと結局続きが始まる。勝手に寄ってくる。寄ってきたなら、あたしはストップをかけた。チェスクロック方式にして止まることなどない。勝手に求めてくる。求めてきてしまったから、あたしは水をかけた。おかげさまで成長を促進してしまった。

 

 だから、今度はちゃんと声をかけたのだ。

 勝手なことを今度はあたしがした。続けば、いいのかまずいのか。何かあれば、いいのかまずいのか。終わった方がいいからか。

 

 それでも、返事を返してきた。

 

 いつものように気の抜けた風船のようなもどかしいふわふわとしたものだ。浮かびはするもののすぐ重力に負けて落下していくだけのものだ。浮力よりも重力に負けてしまうしょうもないもの。

 

 勝手にした結果、手元に手繰り寄せてしまった。手元から放ったのに、手元に戻している。手放そうとしたはずが、名残惜しんだのはあたしだけではなかったらしい。

 

 ただただ面白くもない結果となっただけだ。

 

「ふーん」

 

 捜索終わりで朝食も普通に済んだ。まずくはないものだ。

 

「…ふ~ん」

 

 いや、まずいのかもしれない。慣れたからいけるものになったわけではないのだから。

 

「どうしようね…?」

 

 自分の口から零れていくモノたちなんて、まるでおいしくないのだから。

 

 

 

 なんとか今日のお昼も終えた。

 

 精神的にも身体的にも持続性ダメージの伴う時間と内容だったんだ。それらを回復するために食堂で俺はダレている。たれパンダならぬたれオレダ。スポンサーからも顰蹙を買いそうだな。

 

 お食事内容は是非もなしこともなしだ。おいしくないことはなく、まずいということもなく。

 

 癖がお強かった。

 まず、スメルがお強い。中華料理で定番になっている香辛料スターアニスさんから始まり、西洋版揚げ物フリッターの衣かソースに色々とあった。果物の揚げ物と日本語で書くと覚悟を強いられてしまうが、フルーツ入りのサーターアンダギーのようなものだ。サーターアンダギーのように衣で完全鎧化(アムド)するものもあれば、餃子のように包んでいくものもあるらしい。

 

 で、だ。

 

 揚げ物はやっぱり最強なんだ。

 とんかつは間違いなくうまいじゃないか、ポテチは外れなくうまいじゃないか、アメリカンドッグなんてもううまいうまい。

 だからサーターアンダギーも当たり前にうまいもんだ。どれもが一緒の油に入れられていたら覚悟を強いるだろうがさ。寿司を揚げたりバターを揚げたりするし、タランチュラも揚げるぐらい揚げ物もグローバル化が進んでいる。ならば、味付けも和洋折衷以上の世界味(コズミック)へはつつがなくになる。おいしさの保証は絶対ではないが。

 

 食事時間が必ずおいしいわけじゃないようにだ。

 

 例えば、俺だけやたら豪華な食事の傍ら、ふりかけとレトルトご飯のお父さんと一緒のごはんなんて居たたまれなさすぎるじゃないか。その時に限ってお母さんは俺にとても親切になって、お父さんは必死に空気になろうとしてる。当時の俺はそんな両親のまずそうな感じに何も気づかず黒毛和牛のハンバーグと瓶入りプリンに夢中だった。その時のずぶとさは今はないんだ。

 

 気まずかった。

 

 親切だったんだ、鶴屋さんが。

 

 気まずいものだったんだ。

 

 今日までご飯の時もとても親切でいらっしゃったが、まぁなんともとても親切だった。

 グールになりそうな俺に逐一親切をしてくれる。飲み物サービス、箸休めサービス、手術中の医師にする汗拭きみたいなの。流石にお口に手動配膳サービスはなかったものの至れり尽くせりすぎた。なによりも、距離が近いのはまずいのではないだろうか。いや、おいしい思いではあるがまずいことでもあるはずだ。

 

 物理的に接触なんてのはない。が、近い。パーソナルスペースというやつが近すぎる。今まで手を伸ばせば届きそうだけど届かせない、そんな距離感だったと思う。

 朝比奈先輩と一緒にいることの多い鶴屋さんだが、その親友様以外は俺を含めて他の人と話すとき基本的その距離間だ。ハルヒや長門にくっついていく以外はSOS団ガールズもそれぐらいの距離感。たぶん、野球用バッドぐらいの距離がある。俺の身長より低めだが、気を遣うけどしすぎようかなとは思わない絶妙な距離感だったと思う。

 

 それが、近いんだ。手を伸ばせば届く、そんな近い距離間。三十cm定規でも足りるんだ。

 

 それぐらいの距離を我が幼馴染君がやってきたら流石に、なんだよお前と三回ほどは言うぐらいだ。間違いなく近いし、普通に近すぎると思う。それを口に出す俺ではない。

 気まずいと思うがそうではないのだ、言わないに決まっている。嬉しいし、喜んじゃう。そして、緊張もしちゃうのだ。忘れもしない、忘れられない終わらないあの緊張感だ。体温計なんて使ったらオムカエデゴンスとどんな名医だろうが匙を放ることだろう。

 

 気まずい、それは俺だけにしか感じられないものだったらしい。

 

 だって、女子様方は俺たちに何も見ざる聞かず言わざるだ。ならば、男どもも何もしない。

 幼馴染君は俺と同じで友人は結構いるが、友人以上からの経験があまりない。だからこそ、女子の触れざるにそれなりな対応ができる。直接の経験値にはないが、他人から女子関係の経験値を得ている。おかげで、危機意識はまぁ備わっているのだ。古泉は当然だ。いつもハルヒのサイレントむむむ…っ!!に対処している者、場数が違う。

 

 朝もお昼もハッピーだったさ。逸話通りの真実の口に手を喉奥まで突っ込んでそう言えば、絶対食いちぎられはしないとも。

 

 ハッピーだったさ。ハッピーだったよ。

 

 あの時にあったのは、おいしいお口と状況と俺だ。同時にまずいお口と状況と俺だった。

 

 食べ物がおいしい、ハッピー。またなんかやらかしそうでおしゃべりもまともにできないまずいお口、でもハッピー。好きな人が近い、もうハッピーすぎる。経験がなさすぎるので何もできないから焦りの上緊張感まずいだけ、それでもまたハッピーだ。俺、ハッピー。なら、まずい俺でもハッピーだ。

 

 そう、おいしいとまずいが一緒くたになってやってくる。いい思いをしているが負傷もしていた。得難いものだが、おびただしい流血であった。

 

「あー、もう……なんなの?」

 

 ほんとなんなのだった。昨夜、やらかしたはずだ。合否でいえば否でしかなかったはずだ。否定で拒否で全否定されたはず。

 俺は嫌だムリだ勘弁してよねってやつだったはず。言葉も声も顔も、好きな人の全部が俺にそうしてた。俺は知ったし見た、真正面で受けたのだ。一応、昨夜の最後で嫌悪は捨てないものの隠してたが、その嫌悪はこれからずっと続くんだろうと思った。

 

 たしか何かの小説だったか、好きは続かないが嫌いは終わらない、そういう意味のがあったと思う。どんなにアツアツのお湯もいつかは冷めるし、埃はいつでもどこでも現れるものだ。

 好かれなくなったなら嫌いになって、その嫌いがずっと続いていく。しかし、その嫌いが反転してまた好きになることはあり得ない。いつか折り合いがついて嫌いじゃなくなっても、嫌いではないにしかならないのだと。嫌いじゃないからじゃあ好き、にはなってくれない。

 俺だってプーアル茶は嫌いじゃないからじゃあ好きってわけじゃないんだから。好きなわけじゃないけど、それしかないならしょうがないってのだ。

 

 まぁ、嫌いではない。しょうがないから付き合ってやる、になるはずだ。

 

 だが、鶴屋さんはそうならないと思った。嫌われた。今嫌いになったのだ、それがすぐしょうがないにはお嬢様である鶴屋さんでもなるはずがない。

 

 実際どんなもんかは全く知らないけど名家であられるんだから、しょうがなくする教育をしっかり受けておられるはずだ。海外ドラマとか歴史ドキュメンタリーなどのエンタメに重きを置いたものでも、やりたくねぇけどしょうがないからというのでみんな動いていた。創作物でも厭々なものなら現実はきっとそれ以上だろう。事実は小説より、というのだから。そのしょうがないからを、また厭らしくつべこべと言われるはずだ。

 

 だからこその教育は行き届いておられるのが、鶴屋さん。どこへ行っても恥ずかしくないほどの教養をお持ちである。お家の中でも、学校でも、他のお外でも教養の良さの化身であるんだ。

 

 その所為で、昨夜はもうしょうがなくもできないはずだった。

 あの夜、俺たちの間にあったのは透明なボックス。向こう側がまるで見えない壁ではなく、向こう側は見える箱だった。だから立ち入ったら分かる、入り込んだらバレる。それは、しょうがなくもできないというものだった。

 俺が鶴屋さんの方へ進んできたら、侵害行為、犯罪だということだ。ちょっとした間違いならしょうがないよねとなる。だけど、犯罪はやってしまったらしょうがないでは済まない。

 

 あの夜俺がやったのは犯罪スレスレ、もしくはグレーらへんなことをしたんだろう。

 

 どれが本当にダメなのかは未だによく分かっていない。それでも鶴屋さんの中で俺がもう嫌な奴になっているのは分かっていた。

 でも俺は鶴屋さんが好きだった。今日のお昼をまた今も思い出して口がユルユルだもの。

 

 

 あの時も多分ユルユルだったと思う。緊張と嬉しさとか色々で手振れが激しい所為で、俺の口元はとてもカラフルだった。それをしょうがないなぁと微笑みながら拭いてくれたのは、緊張と嬉しさの源の鶴屋さん。

 

 そうやって俺に微笑んでくれるのがなんでかよく分かっていない。そのしょうがないなぁの真実も良く分からない。嫌いだけどなのか、好きではないけどなのか。どっちなんだろうか。

 

「わ、わからぬ」

 

 漢文の部分否定と全部否定の見分け方並みにわからん。副詞の前と後ろのどっちがどっちだったけでまた混乱するから辛いんだ、あれは。

 鶴屋さんから見て俺にアリな部分はあるのか、鶴屋さんから見て俺は全くナシなのか。どっちなんだろうか。

 

 今日の朝とお昼みたいなことをまたやってきたら、俺はどうしたらいいんだろう。

 

 嫌いだけど部分的にはアリならば。

 

 好きではないけど全部ナシならば。

 

「わーからんわっ!!」

 

 まるで何にも分からん。再従兄の盆栽も丸刈りにする凡才にもなれない俺にはなんも分からん。紐がついていたら投擲武器に見立てて、とりあえず振り回す蛮族民な俺にはなんも分からんのだ。

 

「何が分からないのかな、シャドーくん」

 

 またこうしてくるこの人が好きなんだけど全く分からないんだよ。

 

 

 

「つ、るやさ、ん…」

 

「うん、なに?」

 

 なには俺のセリフなんだけど。あぁ、ほらまた近いのですよ。なに、この近さ。あなたがなんなのですか。

 

 声が聞こえたから振り向いた。そしたらほんとに近いところにいらっしゃるのだ、このお人は。食堂とはいえ机に顔張り付けて唸ってりゃ、まぁ心配はされるだろう。

 

 だが、この四日間で誰もが見慣れた光景だ。朝比奈先輩も喜緑先輩も最初は心配されたが、もうスルーだ。回復用のお茶をお恵みくださるのはマジ女神であるけども。他は慣れたもんである。幼馴染兄妹、生まれてずっと一緒なんだ、そりゃ慣れる。長門、古泉、SOS団活動以外でも色々見ている、慣れたもんだ。佐々木、整腸剤のスペシャリストだ、伊達にラッパのマークにお世話になったわけじゃない。

 

 なのに、この人は慣れた様子で近くにいる。またしょうがないなぁと言わんばかりに俺のすぐ近くにいるんだ。今日の朝から慣れたように隣に座ってくる、今もだ。

 

 幼馴染兄妹なら特になんもない。気にもしないし気にもならない。古泉でも別になんもない。いや、少しでも動けばどっかに当たるこの距離は流石になんだよなんなの、とは言うな。他の友達でも言うと思う。相手が女の子なら当然、どうしたの、と一言でお尋ねはする。何も知らん他人なら、嫌だムリだ勘弁しろよだ。

 

 なら、隣にいる鶴屋さんにどうしろと言うんだ。

 

 どうしたの、と言うタイミングを逃した、もうこの手は使えない。なんですか、と言う機会はどっか行った、別の手を使わなければ。何か言うべき、と思うが思うだけで口は開かない。言うべきと思っているが、声を出す気がない。

 

 それはびっくりして声が出せないってわけじゃなく、言う必要ないかって俺が勝手に思っちゃってるからだ。幼馴染兄妹への慣れみたいに。いや、それにはない緊張感はちゃんとある。でも、緊張でうまく口が動かないわけじゃない。

 

「あー…あ、こんちはです」

 

「うん、こんにちは」

 

 こうやってとりあえず挨拶はできる。緊張してはいるが、それで口や喉が震えて声までもはない。普通にしゃべっている。いつも通りになんてことなく気軽にしゃべっている。俺の中身では何なのと緊張感でガッチガチなのに。

 

「えっと、どうしてこちらに?」

 

「シャドーくんいないなーって探してたから」

 

「探されてたか、俺。なんか俺に用事あったんですか?」

 

「んーん、とりあえずシャドーくんに会いたいなーって思ったから探してたんだよ」

 

「なるほ、ど~…?」

 

 ど、どういう意味でそんなことをおっしゃってるんですか。

 

 おじさんが言う、とりあえず生、みたいな感じではない。そう思いたい。お父さんが言うには、アレって店員さんに一番手っ取り早く注文できるのかららしい。注文する方も疲れないし、店員さんも注文に時間を取られないからウィンウィンなんだって。

 

 だが、今の俺たちはそうじゃない。

 とりあえずの意味も、俺という名指しも、会いたいの意図もなんも分からない。嫌いだけど部分的にはアリだからこその言葉か。好きではないけど全部ナシだからこその言葉か。分からねぇんだ、なんもかんもが。

 

「会いたかったんですか、俺に?」

 

「うん、会いたかったんだ、シャドーくんに」

 

 倒置法に倒置法で返される。

 

 俺のセリフならナルシストの痛いだけの奴なのに、鶴屋さんが肯定的に返してくるから痛くはないけど俺の喉がぎゅーっと絞られてしまう。心理的なあれもこれもと体を巡る血液と空気も絞っていってる。

 それはぞうきんを絞るんじゃなく、カメラのレンズを絞るみたいだった。レンズを絞ればピントが合う、開きすぎればボケていく。今の俺の目と同じで俺の全部がピントがずれないようにぎゅーと絞られていく。オートフォーカスみたいにだ。鶴屋さんからずれてしまわないように、ぎゅーっとだ。

 

「ねぇ」

 

「はい、なんでしょうか」

 

 今鶴屋さんがヴェールと扇子を持ってなくてよかった。持ってればロスリンの描いたヴェールの女の擬人化をこの目で見れたというのに。いや、心の底から残念だった。

 

 机に肘を乗せるのはダメなんだってのはお位が高いなら当然ご存じだろう。庶民でもちっちゃな頃からダメだと叱られるもんだ。姿勢が悪くなるから、上品ではないからと叱られるもんだ。テレビに出ている人もどんな不真面目な番組でも頬杖なんてついていない。ウケないからだ。ドラマとかでも俳優さんが良ければウケる。それは頬杖しているのにウケているわけじゃなく、それをしている俳優さんが素敵だからだ。絵になるんだもんな、悔しいことにさ。

 

 今ここで絵になっているんだもんな、苦しいほどにさ。

 

 鶴屋さんは俺の隣で頬杖をついた。そして面白そうな眼と嬉しそうな微笑みのまま囁いてきた。

 

「うれしいね」

 

 半音上がりで来なさったそれに大変な緊張をした俺です。

 

 共感からの口調なのか、断定でなのか、はたまた疑問の語調か。全部適応されちまうんだけど。勿論、当然、EXACTRYに俺は嬉しかった。恋愛感情も含めての嬉しいを覚えたんだ。それを鶴屋さんも一緒に感じているのだろうか。そう自惚れてもいいのか。恋愛感情アリでの嬉しいを鶴屋さんもあるのだと、理解してもよろしいのでしょうね。

 

「うん、うれしい」

 

 はっきり返す。俺は鶴屋さんからずれないようオートフォーカスみたいに俺の全部で微調整した。目もそう言葉もそう声もそうだ。あぁ、もう好きだ。好きだがもう終わらない。

 

「…うん」

 

 鶴屋さんはちょっと溜めてそれだけ返してくれた。顔はなぜか背けられてしまったけど、距離は開きはしない。近いままだ。心なしか向こうからまた近寄ってくれたと感じる。

 

 近寄ってくれたのだから、俺からも近寄りたい。触れるのは、昨夜をぶり返しそうだからやめておく。言葉だけ近寄って行こうと思った。好きな人が近くにいるなら、やっぱりもっと近寄りたいから。

 

 向こうを向いてしまった鶴屋さんの方へ体を動かす。と、俺の椅子が思いの外大きい音を出してしまった。勢いが強かったんだろう脇腹を机にぶつけてしまった。ちょいとお待ちよと辻切りの如くだ。

 

「な、なにっ?」

 

 音に驚いたのか、ぴょんっと擬音が付きそうな感じで鶴屋さんが跳ねる。そして俺に気づいて軽くのけぞっていた。それは悪い意味での引いたではなかった。

 

「鶴屋さん」

 

 ここは押さずに一声だけかけておく。そして返事が来るまで待てもしておく。女性という生き物は買い物や風呂以外でも時間がかかるものらしいからだ。二分ぐらいたっただろうか。鶴屋さんはそんなに大きくないのに体を小さくしながらまた小さく、うん、と返してくれた。顔は今度は下に行ってしまったけれど。

 

「俺もね、会いたかったんです。鶴屋さんに会えて嬉しいなってさっきからずっとそうなんですもん」

 

 また小さい声で、うんと言った。今度は間を少し開けながら二回も、うん、と言ってくれた。二回目のうんはくぐもっていて、よく見ると両手で口元を覆っていた。口元を抑えているみたいだった。くしゃみか咳を我慢しているわけじゃない。自惚れるが、今の俺のように口元がユルユルなんだろう。まったくもう可愛いなぁと感じる。

 

 俺はいつも以上に頭もユルユルな状態だが、肝心なところは締めてある。調子に乗りすぎてはいけない、昨夜のようなことはもうごめんだ。三度目はないし、いらん。なんでもかんでも湯水のようではいけないんだ。ガス栓も蛇口もキチンと締めとかないと危ないんだから。

 

「あのさ…シャドーくんってさ…」

 

 うん、と言って続きを促す。鶴屋さんはまた少しの間とんなぁ~っていう猫みたいなかわいい声を出した。物足りないという声だった。

 

「うまいよね、お世辞」

 

「お世辞じゃないんですよね」

 

「……うん、やっぱ違うね。へっっっったくそだ」

 

 へそを曲げられてしまったような声だった。エアホッケーでうっかり点を入れられてしまった時の俺とある意味似ていた。一点もやるもんかと調子に乗って乱舞していたら、調子を付かれて見えていたのに取られてしまったあれと同じ感じだ。してやられた、コノヤローだ。次は許さねぇぞって言うやつだった。

 

「あたしは、まぁ、お世辞だから?」

 

「お世辞かぁ…それはちょっと……、ううん、結構寂しいですね」

 

「さ、さ、寂しいって?」

 

「お世辞って全部嘘じゃないけどってでも使えるじゃないですか。少しぐらいは本当にそう思って言ってるよ、でもありますけど。嘘:本当の割合だったら、よくて六:四ぐらいでしょ? 普通だったら七:三ぐらい。七割の嘘意味のうれしいね、ってのはやっぱ俺寂しいです」

 

 俺の寂しいは嘘ゼロパーセント、そして嬉しいなは百パーセントだった。その嬉しいなは寂しいと思う気持ちの所為で七十パーセントも下回りそうになっている。鶴屋さんも俺と同じように思ってくれたってのと、鶴屋さんが嬉しいと自ら言ってくれたので実際は二百パーセント以上も振り切れていたのかもしれないけど。

 お世辞でも言ってくれた嬉しいに対して、俺も嬉しいと思っているさ。でも、面と向かい合ってなくても本人からお世辞だからと言われたら、寂しくなっちまうもんだ。

 

「へー…寂しいんだ……」

 

「はい」

 

「…ふ、ふーん、そうなの。ふーん…」

 

 頭から体まで心なしか俺へ寄ってきている。角度も多分だけど変わっている。手がもう少しで口元から落ちてしまいそうになっているから間違いないんだろうけど。自惚れるが、今の浮かれている俺のようにちょっと力が入ってくれないんだろう。もうなんとも可愛いなとまた思う。

 

「ねー、シャドーくん」

 

「はい」

 

 ご自分でもこれ以上はまずいかなと分かったんだろう。あの三猿の奴みたいに手で隠していたのがもう顔全部になっているんだもん。だけど、俺のことが気になっているのは分かった。見ざる言わざるなのに、聞かざるではないんだもん。自惚れるが、俺のあれこれに悶えているんだろう。可愛いの権化だと思う。

 

「お世辞?」

 

 俺の正直な口に対してだろう。

 

「ノーお世辞。ゼロお世辞」

 

「そ~ぉ……」

 

 即答すると鶴屋さんは丸まってしまった。どこかのゲームのように防御力をあげようとしていた。倒れてなんかやるものか、攻撃できなくなるまで戦ってやるものかと言わんばかりに。

 

「あのさ」

 

 正直者には正直にだ。うめき声も出さず呼吸もしていなさそうな静かな正直様へ、お聞きしてみる。どういう意味のリアクションか分からないが、許可を得られたと思う。その少しでも陽に透かせば、一本一本がジェムクオリティな髪を小さく波打たせながら頭を動かしていたから。

 

「うれしいよ」

 

 いつも以上にしっかりしていない声だと自分でも思う。寝起きでもこんな声出さないだろう。ふわふわというかぷかぷかという感じだ。お風呂のお湯でもお空の上でも落ち着きなく浮かれているんだ。

 

 鶴屋さんの言葉はうれしかった。お世辞でもうれしい。けども、お世辞じゃなかったらもっとすごくうれしいんだよ。もうずっとずっとうれしいんだよ。そういう意味を全部込めて、正直に言った。

 

 言ったんだけど、なんか止まってしまった。

 凍り付いたとか固まったとかじゃなく、止まってしまっている。ボタンを押されたストップウォッチみたいにピタッと止まっている。もう一度ボタンを動かせば、リセットをかければまた動き出すだろう。中身の電池とか回路とかがおしまいになっていなければ、専門家じゃなくても手動でなんとかなるはず。ストップウォッチ自体が自由にタイマー解除なんて出来っこないから、誰かの手を介さないといけない。俺が何とかすべきなんだろう。

 

 が、どうすればいいのか。

 

 もう一度同じことを言うのは違うと思う。それこそ鶴屋さんが完全にお世辞だと誤解するに決まっている。

 塾にいたアルバイト先生が、二回連続で同じことを言うと二回目は嫌味の言葉になる、と言っていた気がする。あの熱湯風呂も三回目の言葉もあるからちゃんとギャグに持っていけるのかもしれない。しかし、もしライオットシールド装備のネイビーブルーな公務員様にそう言われたら、俺も呼吸すらうまく出来ないくらいに止まっちまうだろう。

 

 あぁ、でも、そういう嫌な感じで止まっているわけじゃないはずだ。ホラー映画しかりパニックものでも、現実でもやべぇものに出くわしたら一旦動けなくなる。地震とかが起こったときに、まずやるのは安全なところでじっとしていろだしね。

 まぁ、そういうのでもない。本当に止まっているだけだ。何か一つあれば変わらず普通に動く。それでも、その何か一つもないから止まっちまっている。どうしたもんか。

 

 いざ、なんかしようと思ったわけじゃないが、自分の椅子を引いた。結構音がするもので、自分でも静かにしろと内心で思う。鶴屋さんもそうだったのだろう。俺よりも大きな音を立てて立ち上がっていた。鶴屋さんの座っていた椅子はひっくり返り、勢いついでにちょっと後ろに飛ばされてしまった。

 

「ぁっ、あのねぇ~…っ!!」

 

 俺が声をかける前に鶴屋さんが口を開いた。両手で完全に顔を防御しているから、表情がうまく分からない。声もちょっと怒っている感じ。あぁ、でも、この感じは怒っているというより不満みたいだったと思う。文化祭の時良かれと思って先にやったら、あたしがやりたかったー、と言っていたクラスの女子みたいなのだ。いいけど違うじゃん、というやつだ。

 

「ま、ず、い、って言ったでしょーがぁっ!?」

 

 シャドーくんのドアホー!!とまた大きな声で言いながら逃げられた。華麗に鮮やかに、エクセレントな逃げ足だ。芸術点でも高評価を得られるだろう。俺的にもとっても可愛いので花丸で答案用紙埋めちゃうぐらいだもん。

 

「はは、まずいんかい」

 

 倒された椅子をまた戻しつつ俺は呟いた。あの保健室でも言っていた言葉だ。今回で二回目のまずいだ。なのに嫌な意味には聞こえない。むしろ良い意味にしか聞こえなかった。

 

「まずくなんかないじゃん、ねー?」

 

 逃げる時見えちゃったもん。

 

 俺と同じくらいうれしくてぷかぷかしてる浮かれまくったお顔がさ。

 

 

「ほんとあほ、ああ、もうっ! ほんっとーに、あほっ!!」

 

 今日だけで一生分のあほを言っていると思う。あほは悪口、侮蔑、侮辱だ。けっしていい意味で使われることのない言葉だ。お笑い系の番組でも出演者を含めた他スタッフ全員にあらかじめブックを用意してからでないと使えない言葉。使ってもやはりいい言葉ではない。そこらの幼児が使ってたなら、親含め多くの大人がそんな言葉を二度と使わせにないよう教育的指導を行うだろう。

 

「あほー……」

 

 あたしもちゃんと躾されているからめったに悪口は言わない。言ったとしても遠回りで回りくどくて一見無臭に見えるようにした劇毒をかけまわすぐらいだ。

 

 たった一度の頷きだけで会社を潰した大人を、目の前で見せられて育った人間。それがあたしだ 常に猜疑心をもって誰かと接してきたのだ、あたしは。

 それのおかげで多くの面倒なものから避難できた。あともう少しで女子大生になるまでに、もうたくさんの面倒なものから避けてこられた。ある程度苦難はあったが、仕方がない。実際に金を動かすわけではない子息や子女、他の普通家庭の子供相手は疲れたがそれだけだ。

 

 漫画や小説のような面倒になるだけの行動を現実でするものはいない。あたしの気を損ねたらどうしよう、そういう人たちが先の人間よりも多くいた。だから、あたしもこうした温厚な性格になれたと思う。

 今まで線を引かれるどころか展示会のような分厚いガラスの向こうから接してこられたものだ。そんな気の使われ方に慣れるし、その慣れに不満不平など持つことはない。面倒なものはやはりあたしでも嫌だ。しなければならないならしょうがないが、ずっとそんなのの相手は死んでもやりたくない。

 

 だからこそ、これまでガラスの向こうの誰かなど誰一人まともに覚えていない。担任もクラスメイトも、家の都合でそれなりに付き合いのある誰かさんもだ。

 

幼・小・中、どれも悲喜こもごもしてて楽しかったと思う。普通に楽しく生活できたと思う。

 

 小学校の時の卒業アルバムも中学校のも男女も併せて色んな子にメッセージを書いてもらった。何故かその子らの親御さんからももらったりもした。本当にいい思い出になったと思う。

 

 だが、それも結局ガラスの向こうのお話だ。

 

 ガラスの向こう側にいる誰かの視点。俯瞰的とでも言おうか、まるで他人の感情だ。他人が楽しい言っているというだった。転寝をしている時に見る夢みたいだ。寝て起きたらその夢の内容を忘れている。そしてそんな忘れたことも忘れてしまう程度のものだ。

 

 ガラスに手を触れても、ガラスの向こうの誰かの何を感じれるだろうか。もし向こうの誰かがガラス越しに手を合わせても体温すら感じることができない。合わないという現実を教えてくるだけだ。

 

 ガラスの向こうの誰かと顔を合わせても、感情すら共有できるわけがない。もし向こうの誰かが悲しんでいたとしても意味も理解できるわけがない。合うことはないという現実を教えてくるだけだ。

 

 鏡ではなくガラスの境だからこそ、何も合うことも重なることがないのだ。

 鏡は反射し鏡像を見せてくれる。合わない現実とは違う何かを、合うことはない現実とは違う何かを考えさせてくれるだろう。寝起きの自分が映る鏡を見て今日のファンデの濃淡を決めたりするものだ。顔色をうかがうのは他人よりも自分自身だ。合うものを選ぼうと躍起になれる。

 

 だが、あるのはガラスでの境界なのだ。

 

 鏡ならば映るものを反射してそれに合おうと努力するもの。しかし、ガラスではそうなれない。ガラスから見えるのは自分よりも他人がよく見えるものだ。その向こうからも同じことだ。しかし、境界であるガラス自体は見えにくい。こちらから見る他人で都合を決める、向こうも同じように。

 

 鏡に手を振れば振った手と反対の手が振り返すだろう。ガラスへ振れば他人が同じ手で振り返してくるだろう。

 

 どちらも手を振った本人の期待を裏切って、振り返してくる。

 

 鏡からは鏡像としてではなくガラスの向こうの誰かと同じように振り返してほしい。ガラスからは鏡像として振り返してほしいのだ。裏切ってほしいことを現実のそれらは裏切ってくれない。

 

 期待に応えてほしいし、裏切ってほしい。面白いことが起きてほしいし、つまらないことはもう死ぬほど間に合っている。

 

 ちょっと不思議が欲しいだけだ。

 

 とんでもないことがほしいわけじゃない。まずいことなんか欲していない。おいしいものが欲しいだけだ。

 

 とっても小さな頃、お母様たちが引いてくれたベビーカーで見ていた夢のようなものが欲しいだけだ。老舗じゃない出店で売られていたベビーカステラみたいに甘くておいしくて幸せになるものが欲しい。その気になれば手に入りやすいけど、お祭りで売ってるあれらでしか味わえないおいしいものが欲しい。

 

「っのにー…あほがぁー」

 

 有名老舗店でもないのに一袋で千五百円以上もしてしまう出店のベビーカステラ。お祭りの終わったどこかで出店のものを渡されても片手に収まるかぐらいしか食べられない。特別においしくないのだ。おいしいけれど、お祭りのときみたいに一袋全部一人で食べたいにはならない。味は変わっていないだろう、気分の問題だからだ。気分の所為でまったく変わっていなのに特別に感じてしまうのだから。

 

「………」

 

 その特別はお祭りじゃなくてもいた。ただ一人、あたしの親友の可愛い子、みくるだ。

 あたしの家で気後れしていたが、結構猫のようなアグレッシブさがあるのが、みくるだ。ティーカップを温めている時間程度で仲良くなれた。いつもお誘いをされる立場だったのに、自分から喫茶店やブティックに誘うほどにおいしい仲になれた。みくるは、一生ものの宝物だ。他のだったらちょっとした外れで勝手に消えてしまうのに、みくるはやりかえしてくる。嫌な意味ではなく、一緒に友達として遊んでくれるのだ。一生大事にしたい人だ、本当に。

 

 また別に特別がいた。未確認生物的なものの特別だろう。なのにそれにだ。まずいことに、異性物だ。私と比べてもお手頃サイズで、特筆すべき優劣もない顔の普通の男子くん。まずいのだった。ベビーカステラの材料に、自分用にとっておいたイカソーメンを混ぜてしまったみたいなもの。おいしくなるはずだったものみたいにだ。

 

 おいしいものを全部混ぜればとってもおいしいものになるはずだ、と考えたものは多いだろう。あたしもだ。実行した結果はただただ悲惨だった。

 

 当時の味わいを思い出してしまいながら、備え付きの鏡で自分を映す。。学校の指定用品だから家のと質など比べるまでもなく下だ。それでも、自分を見るという仕事は損なわれていない。

 

 だから、おいしくないのだ。

 

 あぁ、もう、なんてまずいのだろうか。

 

 まずいものだ。まずい人だ。おいしいところなんてない男の子だ、彼は。魑魅魍魎している社交場の毒と刺ばかりな枯葉若葉よりもずっとずっとおいしくない男の子だ。見ただけでだめだとわかる、触らなくてもいけないものだと知れる、口に含むなどとんでもない。

 

 まずい色々を口にもお腹にも溜めたあたしは、そろそろ変え時だろう鏡を触ってみる。それにはそこそこ大きめの皹がある。ついうっかり勢いよくこのまま手を動かせば手が切れてしまうかもしれない。その勢いの所為で鏡がついバキバキに割れてしまうかもしれない。掃除が面倒だ、と思うが、きっとすっきりするだろう。

 

 破壊するのは大人であれ子供であれとても楽しいことだから。まずくてどうしようもないときにやる破壊行動は最高の快楽だ。元花札屋さんのゲームにあるスター状態を一度自分で体験したいものだ。大乱闘ゲームでハンマーで暴れまわるのもいいかもしれない。カートの方で当て逃げしまくってケタケタ笑っちゃうのもいいじゃないか。

 

 それをあたしはやりたかった。だがしかし、そうしてやられたのだあたしは。

 

 目の前でお目当てを取られてしてやられた。面白いものが欲しくて行動した結果、何故かあたしにとって面白くない結果として帰ったのだ。

 

 もう遊んでやろうとして、弄ばれてしまった。昨夜で減点しかなかったたから遊ぶことで終わろうと思ったのだ。

 

 期待を裏切られたのだもの、結局彼もガラスの向こうの何某さんだったのだもの。ガラス越しに何を感じろというのだろうか、それ越しに温度も匂いも彼の何も感じるなんて出来っこないというのに。

 鏡の向こうの何とかさんにもなってくれないなら、もうよかったのだ。あのL・Cの鏡の国のアリスに出てくる白の騎士のような残念っぷりをよく教えてくれたのだから。L・C自身のモデルと言われる彼とそっくりなドン・キホーテっぷりにとても残念さを感じたのだから。から回ってるだけでつまらないのなら、懇意にする義理はない。

 

 面白かったのにひどい。楽しかったのに時間の無駄。嬉しかったのにどうしようもない。

 

 期待を裏切られたのだ、あの昨夜で全部。一日目で少しを、二日目で大分を、三日目の夜まで大いに。それが、夜には壊れて消えた。

 

 そうなのだから。期待を裏切ってくれたから、やり返そうと思った。そうだというのに、あれだったのだ。なんてことをしてくれたのだろう、あの阿呆くんは。

 

「もーっどんないじゃないのよー、もー…っ!!!」

 

 何を感じているだろうか。何を思ってしまうのだろうか。あぁ、まったくもってどうすればよいのか。鏡を見てしまわなくても自分がどうだか分かっている。ガラスに透かさなくてもなんともあっけらかんとしてしまうものだ。

 

 あれからずっと口だけじゃなく、もうどうしようもなくニヤニヤしてしまうのだ。

 

 なんてことになっているのだ、あたしってやつは!

 

 

 

「むさくない、ここ?」

 

「あ? 孤食がいいのか、お前?」

 

「これが男飯ですかね」

 

「いや、それは違うだろ」

 

「チャーハンを炊飯器丸ごと一つ全部で唐突に作り出す奴だ」

 

「目の前にありますよね?」

 

「あんこ型力士になってしまうな…」

 

 隔離された場所にてんこ盛りのチャーハンが夕食だった。食堂利用は女性陣により一時使用不能となっている。なので男組は校長室で食卓を囲む。校長先生の椅子争奪戦の勝者は古泉。これまでの人生でズルなしじゃんけんで勝ったためしがない俺は、一瞬で負けたのだ。

 

「食べきれたら賞金一万円もらえる量だよね、これ」

 

「材料費一万超えるよな、これ。店側腹切りすぎね?」

 

「八割が米なので一万円ほどは流石に……。チャーシューやネギに特化させたら一万円消し飛んでしまうでしょうけど」

 

「さんげんぶた? 九条ネギ?」

 

「三元(とん)だよ。米も魚沼使えば消し飛ぶだろ」

 

「割と魚沼ってついてるコシヒカリありふれてね? この前スーパーで四シリーズぐらいあったよ」

 

「一つの農家さんだけが作っているわけではありませんからね」

 

 炊飯器一つ分とはいえサイズは業務用だ。食べ盛りな俺たちでもデザートのためにと簡単にいなせない。

 

 味はもう抜群に旨いし、チャーシューなんかも大きめのがゴロゴロ入っている。しかも、スーパーで優しさしかないお値段になっている、まぁないよりはいいかなよりもちゃんとお高い味だ。それに、味変用にこの○の素みたいなのをかければ飽きは来ない。この謎の粉は食べ物に振りかけてから効果を発生させるタイプだ。だからと言って中華味がいきなりピザソースの味に魔変化は起こさない。味自体に変化はなくおいしさの変化がある。元がなじみの店の味なのが、テレビで玉手箱やー、とリポートされるレベルになったり、禁断の夜中に食べるジャンキーさを出したり、合法的な飛ぶぞレベルになったりとおいしさの飽きがこない。もしかしたらマンダラふりかけかもしれない、これ。

 

「ふー、食ったー……半年分のチャーハンくったわー…」

 

「僕的には二か月分ですかね」

 

「古泉凄いね、本土の人並みに食うじゃん」

 

「いやぁ、中国の人も主食米だけどよ、基本チャーハンで出てこねぇから」

 

「北方だと小麦系らしいですね。ラーメン、水餃子、饅頭、揚げパンみたいなのです」

 

「朝から豪華だなぁ、そりゃあ無双乱舞するし竜巻出せちゃうよね」

 

「その人は南の方だよ。南だと米が主食で、基本は雑炊みたいなおかゆらしいぞ。あと、餃子とチャーハンセットで食うのはやべぇやつだって思われるらしいぜ」

 

「日本でも東西でありますよね。ラーメンとチャーハンはアリだけど、お好み焼きに米はないだろとか」

 

「炭水化物と炭水化物はうまいからしょうがないよ」

 

「生活習慣病って何歳からでもなるってよ」

 

 と、駄弁りながら校長室に設置してある冷蔵庫からアイスを取り出して食う俺ら。本来の学校でやったら親呼び出しだけじゃすまないだろう。

 

「えぇぇぇ、お前バニラに醤油って…」

 

「うまいよ? みたらしみたいな感じだって」

 

「僕の知り合いもオリーブオイルかけてバニラアイス食べてますね、意外とおいしかったですよ」

 

「○こみちの手先? そういやうちの爺さんもせんべい潰して混ぜて食ってたっけ」

 

「クッキー&クリームみたいにいけるんかね? 中濃ソースも結構いけるよ、でもケチャップは無理だったわ」

 

「なんでそんなとち狂ったことをしたんですか?」

 

「お母さんとお父さんがまずいから食べてみてって言ったから」

 

「意味わかんねぇよな。やっぱお前んちすげぇよ」

 

 ここの冷蔵庫も面白使用だったらしく、調味料もいろいろ出てくれる。オリーブオイルは実際なんか高い味でうまかったし、ごま油もうまかった。ケチャップは勿論まずかった。二人もやべぇよ、まっずいまずいまずいとゲラゲラしている。

 

「ここバニラオンリーなんだな」

 

「そろそろラムレーズンの時期だったよね、たべてぇー」

 

「クレープのも何か新作出るらしいですよね」

 

「あのガシャポンなら先取りできそうだよな」

 

「あぁ、そいやロールアイスとか出てたよね」

 

「欲しくなってしまいますね。ですが……」

 

「あー…なんか、女の子ワールドしてたもんなぁ」

 

「あそこに男が入っちゃだめだもんね。うーん、中学の頃のトラウマが…」

 

 ハズレももちろんある面白ガシャポン。あの自販機のようにそこかしこにあるが、食品だろうと日用品だろうと何もかもランダムで出てくるのは食堂にあるものだけだ。

 そしてご飯、というカテゴリーで出てくるのはあそこだけ。他のは精々軽食ぐらいなんだ。お菓子もアイスもバケツサイズで出てくるのは食堂のみ。しかも他の所だと回数制限なのか、クールタイムが必要で一日限定先着一名様のみ一回しか使えませんなのも結構ある。あと基本日本で売っているものだけが多い。だから、ここもバニラアイスだけだ。これもうまいのだが、やっぱりチョコレート味やラムレーズン味、ストロベリー味も恋しい。

 

 だが、その食堂に繰り広げられているのは女の子だけしか許されない場になってしまった。いつものようにきゃいきゃいとしていたが、寒暖差というか熱量の波が結構あるにぎやかさがあったんだ。月による潮の満ち引きの方があっているかもしれない。あの場でもそういうものがありそうだった。なんでもかんでも引き際を見誤るものは死ぬのでござる。

 

「内容は分かんないけど、分かんない方がいいよねあれって?」

 

「何にも言えませんね、具体的にも」

 

「その無敵のイケメンっぷりでなんとかしてくださいよォーーーーーーッ!!」

 

「キョンくん、人というのは無敵にはなれないんですよ。痺れて憬れるイケメンでも罪を犯せば処刑されますから」

 

「え、死罪になるの俺たち?」

 

「何にも言えないんですよ、具体的なことも」

 

「OH MY GOD……」

 

 校長室にある多分特注の窓の外へ皆でお祈りする。お月様が雲から出て来たり隠れたりしておられる。まるで見ない振りしようかどうか悩んでいるみたいだった。

 

 お祈りに刹那で飽きた俺たち。暇すぎたので校長先生の私物か分からないけれどゲームをした。友達とやる前提なのに友情を破壊するゲームだ。パペットは当然禁止である。結局オラオラもしたがリアルファイトはなかった。男の友情は拳を交えなくてもいいのだ。お互い立派な大人になるために経験や情報交換はする。その成果として、どこかの八世と六世のように、どう考えても実子な甥と姪をたくさんこさえたいわけではない。でもさ、魔法使いにはなりたくないんだ、当然だよね。

 

 そうこうしてたらいい子はもう寝ていないといけない時間だ。ここでは家とは違ってお風呂を済ませてからごはんになる。歯磨きと風呂中にやり忘れていた髭剃りをしたからもういつでもスヤスヤしてもいいだろう。さっきは隠れてばっかだったお月様も、その真ん丸なお顔から出る光がとっとと寝ろ寝ろビームを放っているみたいだった。

 

 窓ガラスの向こうのお月様のメンチ切りに慄くことはない。ライカンスロープではないので毛むくじゃらにはならないし、キャベツを盗んだからといって月送りされはしないんだ。アポロ十八号とか意外といるのかもしれないけどさ。

 

 そんなことをぼーっとしながら考えていると予言者様のお言葉を思い出した。たしか……じしん持ちのクマが月で大乱闘するだったか。

 

 

 

月を見る

 

 

 

 月見なんてことはしないが、ちらりとは見ておこうと思う。あとで妹ちゃんに拗ねられたくないし。そんなことを胸に抱えながら窓に寄る。

 

 その時、携帯が鳴った。いつもはマナーモードにしているのに、着メロが流れてしまっている。昔よく聞いていたのだ。今までは一度も鳴りはしなかったのに。

 

 懐かしい思い出だ。楽しかった日々は匂いすら簡単に思い出せる。ラムネ菓子の粉っぽくて舌に張り付く、あの安っぽくてわざとらしい甘さも勝手に思い描ける。格好つけて飲み慣れようとした全然微じゃない微糖缶コーヒーの、しばらく他の飲み物を飲みたくなくなるあの押しつけがましいあの甘さもだ。それは一度でも味わえばしばらくご遠慮するもの。

 

 甘いのにまず()まずいものだ。

 

応答する

 

 無視した。今更という感情があった。なにを、と。どうして、と。もう友達にだって戻れないっていうのに、と。

 

 必要最低限の機能しかないくたびれた色合いの携帯さんは、それから一分以上歌っていた。いつもならこの携帯さんも喉があるのか、喉が疲れたからと言わんばかりにいきなりブツッと音が切れる。それなのに今日は随分喉の調子がいいらしい。耳障りなだけだ。

 

 聴きなれて、聴き飽きて、聞き煩わしくなったそれの電源を落そうと思った。中学の頃流行った曲だ。みんなでカラオケでも修学旅行のバスでもよく歌ったもんだ。お世辞にも上手ではない俺ともよく歌った。中学でできた大好きだった友達。

 

 その友達だった子は、俺の名前を呼んでくれる子だった。周りもあだ名だけでなくそう呼んでくれるやつらもいた。が、男でも稀だ。女の子なら尚更。それでも、中学の頃、俺を名前で呼んでくれるの女の子はあの子だけだったんだ。腰まで長い髪をしたあの子だけだった。

 

 思い出せるのは楽しい思い出。女友達というより、たまたま性別が違った友達だった。その子とはゲームでも勝負でも遠慮なくズルもセコイもしあった。それで多少の喧嘩もした。それでもすぐまた仲直りして遊べる友達。そんなまだまだ俺と同じで子供っぽかった友達だった。

 

 この気持ちと同じ煩わしい騒音の元を断った。電源を落とすというだけでもこいつは多少の時間がいる。長押しして十秒、そこから画面が完全に静まるまで三十秒以上はかかる。この間にメールなりが入ってしまうと、えっちらおっちらしながらメール受信を画面に表示したはいいものの、シャットダウンだ。面倒で鬱陶しい。

 

 そして案の定、面倒が起きた。メールを受信しだしてしまった。再起動にもなかなか時間を要するのに。一思いに今日はもう携帯禁止にでもしておこうか。

 

携帯を使う

 

 誰からか連絡をくれるかもしれない。

 

 そういう念のため。そんな念のためだけに一応電源は入れておいた方が良いだろう。携帯さんは餅がようやくぷくっと膨れる時間に画面を切り替えた。

 

〔メールを拒否しました〕

 

「は?」

 

[メールを拒否しました][メールを拒否しました][メールを拒否しました][メールを拒否しました]

 

 と、何度も画面に表示される。この期に及んで悪戯か? 再度電源ボタンを長押ししていると、また画面に何か表示される。

[鶴屋先輩のメールを拒否しました]

 

 一瞬、それで固まるもあの手この手で拒否を撤回しようとあがく。けど無意味で、それから二回同じ表示がされた後勝手に電源を落としやがった。

 

「こ、のやろぉっ!!」

 

 ぶん投げてやった。絶対壊れただろう音をがなったそいつに舌打ちをしても意味はない。

 

 拒否なんて考えてない、そんなこと俺が思うわけない。そうなのに、それが通じず意味の分からないことになってしまった。あの時と同じで吐き気がする。

 

 あの時と同じことになるのか、そう思うと足もすくむ。勝手に立ってなんていられなくなって、勝手に体が丸まってしまう。それは恐怖から自分を守るためだった。こんなの嫌だ、と。そんなの無理だ、と。辛いことからどうにかして逃げるためにするものだ。

 

 嫌だ、もう前と同じことは。無理だ、もう前と同じことは。

 

 嫌われたくなどない、好きになってほしい。それは誰だってそうだ。でも、もっと。もっと苦しいのは、もう好きではないということだ。

 

 一思いに嫌われるのならまだいい。嫌いではないけど、とつけば期待してしまう。ずっとそうしてくれるなら、こっちもずっと飽きもせず期待してしまう。どちらもそんなもの求めていないっていうのに。

 

 嫌いではないなら、なんだというのか。そうでないなら、好きなのか。そういう言葉は誤解される。勘違いをしてしまう。愚かなピエロになっちまう。

 

 またそんな恥ずかしくて辛くて苦しくて。嫌で嫌で嫌でしょうがないことしたくなんかない。

 

 頭まで抱えた俺に光が当たる。学校の非常灯ではなく、月の明かりなんてのでもない。

 

「あ、いた」

 

 携帯の明かりと一緒に、拒否してしまった人が来てしまった。

 

「壊れちゃうよ、はい?」

 

 ちょうど足元にあったのか、拾って俺に渡してくださる。礼儀として顔を見てお礼をしなければならないが、とてもじゃないが今そんなことはできない。ダンゴムシのようにではなく、適当に紙をクシャッと丸めているような俺は絶対に鶴屋さんに触れないようにしずしずと両手で受け取る。自分でも出したことのないか細くて聞き苦しい声でもありがとうございますは言えた。

 そこから何かはできなかった。デジャブだった。前と同じだった。二年前と、それとまたどこかの誰かと。忘れられないものと、忘れているという事実か夢かわからないもの。

 

 ただの舌にも鼻にも沁み込んで消えないもの。

 

 ただの(まず)瑕疵(キズ)

 

 それを塞ぐように、それのかさぶたを剥がされないように、俺は口を閉じていた。二の舞なんて許してほしくて怖がった。

 

「なんで無視したの?」

 

 許されない。また許されない。同じだったからだ。声がうまく出ず、否定として首を横に振った。

 

「無視だったよ、あれも」

 

 またも許されない。そっくりだった。再度首を横に振る、さっきよりも大きくだ。違うんだ、お願いだから違うって分かってよ、と。

 

「ずっと、無視だったよ。ずっと、今日も昨日も。最初からずっとじゃない」

 

 もう許されない。変わらなかった。首をもうずっと横に振った。違う、と。だから違うんだ、と。何が違うのか、何のだからなのか自分でも上手く繕えない。

 

「じゃあ、携帯見て」

 

 言われた通りに見た。消したはずの電源は復活しており、画面も目の奥が痛くなるくらい光っていた。

 

[不在通知四件です]

 

 そう電話も来ていたことを今知った。思わず顔をあげてしまう。彼女は笑っていた。

 同じように、笑っている。どうしようかなと困っているような、どうしたらいいのと悩んでいるような。好意など角砂糖一つ分もないものだった。そこに嫌悪はない、憎悪もだ。ただ面倒だなと疲れちゃうなというもので、こちらを不安にだけさせるものだ。

 

「出てあげてよ。出てあげないのは、ひどいと思うよ、私でもさ」

 

 面倒くさいなと笑っている。

 

「無視ってさ、ムカつくの。とってもね」

 

 疲れちゃうなと笑っている。

 

「ほら、ここ。かけ直せるよ。電話してあげてよ」

 

 もうどうでもいいよ、と諦めた顔だった。

 

「でも」

「あのね」

 

 何も言えないのに苦しくて声を出すも、彼女がその三文字だけで喉も凍った。声は冷たくない、態度も。むしろ温かいもので、かじかんだ手を握って温めてくれるような優しいもので。

 

「ひどいことする人は、きらい」

 

 優しく厳しい言葉だった。突き放すような言い方ではないのに、手を払われるような感覚を覚える。

 

 指は勝手に通話ボタンを押していた。コールが二回目に入ったとき、相手が出た。友達だった子が出てくれた。

 

「…よ~ぉ、元気?」

 

 その子もどもりながら返事をしてくれる。二年前より大人びた声だと思った。知りたくないものだった。

 

「いやいや、ちゃんと二年生だよ、留年なんてできるかよ、どうやんだよ」

 

 その子の相変わらずの話し口に勝手に俺の口が戻った。昔みたいに、あれより前に、友達でいた頃に。別の人がいるのに、もうその子に夢中になっていた。

 

 昔みたいに下らないことを話してた。部活の先輩と買い食いしようとしたら先生にしょっ引かれて目当てが売り切れちゃったとか。友達とバイト先の人たちとプールに行って全勝ちしてきたとか。塾の人たちとカレートッピング賭けをして流石に胃もたれしちゃったとか。似たようなことを俺も話すと、変わらず楽しそうに笑ってくれたり突っ込んでくれたりした。

 

 楽しかった。昔みたいに話せることも、変わらずふざけられることも。けど、困るという感覚を覚えてしまっていた。笑うってのもなんだかお上品すぎた。大口開けてゲラゲラではなかったものの、悪戯盛りの悪ガキじみたケタケタとした笑い方ではなくなっていた。ノリもなんだか距離ができている。どつき漫才とはいかないものの、肘からどーんとくるようなものではなくなった。

 

 なにより、楽しもう、としている。面倒くさいとまでは言わないけど、頑張って楽しもうとしていた。疲れちゃうなって隠そうとして、どうにか楽しもうと。友達だった頃は、そんなことしていなかったのに。

 

 あれから変わらなかった。あれから戻らなかった。だって、俺たちは友達ではなくなっていたんだから。

 

 中学で友達になった。そして、卒業間近で友達になれなくなったんだ。俺が友達をやめてしまった所為だ。その子は友達でいたかったのに、これからも仲良く友達でいればよかったのに。俺が、その子を女の子として好きになった所為だ。

 

 女子だったけど、女友達なんて名前にならずたまたま性別が違うだけの友達。他の女の子とはそういうものになれなかった。同小の女の子は中学生になったら女子になりいつの間にか友達ではなくなっていたからだ。

 

 コンビニで女の子が好きそうな可愛いキャラがおまけのお菓子なんぞに目もくれず、ポテチやらお徳用の駄菓子を一緒に買い漁っていた女の子がいた。そんな友達もいた。

 が、高学年にもなると一緒につるむこともしなくなり、中学入学から二週間も過ぎれば友達からただの知り合いに代わってしまった。同じクラスになれた子も三月も過ぎれば会話はなくあいさつ程度だ。移動教室の度に定戦を挑み合った子も、移送教室ですれ違い目が合うとわざとらしく大きめの声を出し友達の女子たちと盛り上がっていた子もいた。

 

 それを嫌だとは思えなかった。ただ、どうして、と困り果てた。だって、少し前まで芸人の真似をしてケタケタ笑い合っていたのに。だって、前は方言当てクイズで意地の張り合いをしてギャーギャーと騒ぎ合っていたのに。

 

 それがなくなってしまった。日常だったはずなのに。小学生の時には当たり前だったのに。中学生になった途端、そんなのは夢幻だったと言わんばかりに。ゼロだ。マイナスでもなく、ゼロだ。友達は、友達だった子になったんだから。

 

 だから、特別だった。

 

 中学で女子の友達はできたが、どうしても女子だからと遠慮がちになる。小学校の時もお姉さんぶっていた子がいたが、中学生になるとそれは大分きつくなっている子もいた。バイキーンと大声では言わないが、影でもっと陰湿に広める女子もいたらしい。それもあって、俺なりに女子には苦手意識を持ってしまった。その様子に女子たちもちょっとは戸惑っていたが、咎めることはせず気にもしなくなっていた。

 

 それで女子たちにとって友達扱いは無礼であると学んだ。あくまで”女子の友達”と意識しないと付き合えないんだと学んだ。

 

 だから、特別だった。

 

「あのさ」

 

 だから。

 

「彼氏できた?」

 

 特別じゃなければよかった。

 

 その言葉にようやく元気づいた声で惚気てきた。女の子みたいな高い声だ。中学の頃とあまり変わらないはずなのに、全然知らない人のようだ。話し方もまるで女の子だ。何にも変わらないはずなのに、俺はテレビの声を聴いているように感じる。言葉遣い、全然違った。全然変わっていないのに、違っていた。言葉の使い方、声の出し方、知りたくないものだ。覚えのある照れ隠しで咳の途中みたいな声、覚えている上手い喩が出なくて妙な擬音で誤魔化す話し方。

 

 知りたかったはずだ。覚えていてよかったはずだ。

 

 違う。

 

 そんなはずはなかった。

 

 知らないものに耳を寄せるたびに、俺の何かがこそげる。少しずつまた高くなっていくそれに、俺のどこかが削れる。覚えているものに耳を近づけると、俺の何かが割れる。ちょっとずつまた大きくなるそれに、俺の中の誰かが壊れる。そこから音一つも聞こえやしないから、どんどん分かってしまう。

 

 知らなかったのものを理解できてしまう。忘れられなかったことを飲み込めなくなる。

 

 あぁ、変わってしまった。この子も、もう変わってしまっていた。

 

「あぁ、俺?」

 

 変わったのなら、ゼロになってしまったなら。仕方がないと思う。飲み干したコップに何を入れるかなんて決まっていないのだから。

 

「うん、まだなんだ」

 

 随分思いつめた、そっか、が聞こえた。変わっていたのに、そっくりだった。

 

「んじゃ、切るわ」

 

 戸惑ったバイバイ、が聞こえた。変わらず同じだった。

 

「なぁ」

 

 同じタイミングで向こうも声をかけてきた。あの時と同じだった。

 

「好きだったぜ、ばいばい」

 

 掠れた声のごめんね、を最後まで聞いて電話を切る。もう流石にわかった。ゼロではない。マイナスになった。もうないでは済まない。これからずっと、何もなくなる。友達だったこともなくなる。”友達ではなかった”で上書きされ、もう何も始まることもないんだ。

 

 それに、もういいんだ、と俺の気持ちと同じ言葉を鶴屋さんが言った。

 

「もういいの、本当に?」

 

 いつの間にか俺から離れていた。窓に寄って夜空を見ていた。電話なんて聞こえないよう、俺なんて知らないよう、鶴屋さんは俺に背を向け続けている。

 

「まだ、大丈夫だと思うよ」

 

 そのまま俺に語り掛けてくれる。そのいつもの明るく小気味いい話口は、別物に聞こえた。そっけないではない。そっぽを向いているが、完全にそうではない。気を使われているんだ。仕方がない、と。困ったなぁ、と。面倒をみられているんだ。

 

「時間…考えちゃう暇をあげちゃうと、だめになっちゃうよ」

 

 俺にもそんな経験がある。俺がその所為で勝手に友達でいられなくなったし、今も勝手に友達になれなくなっている。抜き打ちテストなのに、事前に予告しては意味がない。次もそうしてくれると甘えっぱなしになってしまう。

「話をしなよ、ちゃんとさ。分からないことをそのままは性質が悪いもの」

 

 そういうのもあった。おかげで勝手な期待をして性悪な結末になった。二年もたったのに今も引きずっている。卒業してから今まで連絡一つもなかったのに。それにまた引きずられている。まだ大丈夫だと甘えているから。

 

「────君」

 

 俺の本名だ。キラキラネームほどじゃないが、定年間近の先生でも読みを間違えられる。漢字もちょっと古めかしいからもある。だから、それに掠りもしないあだ名で呼ばれるのが楽だ。気楽だ。気やすくもなれる。友達なら尚更。

 

 ただの知り合いで呼ばれると、流石にお前誰だと困った顔はする。だって、そいつがどんな奴が知らないから。どんな漫画が好きだとか、最近発売されたコンビニ菓子どれが好きだったのかとか。それすら何一つ知らないから。友達なら掃除中でもいつでもそんなことでダラダラずっとしゃべれる。でも、そんなやつではないから。

 

 友達じゃないなら。

 

 気を遣わないといけない。友達の兄弟の先輩とか、親がよく使う店の店員さんの誰かとか。気を使って相手するのは面倒くさい。何か向こうにやらかせば迷惑になる。友達がとか親がとか。俺だけじゃなく、むしろそっちの方が迷惑をかけて、今度は俺が友達たちに気を遣われちまう。

 

 それは嫌だ。気だけじゃなく重くなる。重いものが宙にも水にも自然に浮かべる訳じゃない。ボートと同じ重量の鉄そのものが水に浮けるだろうか。ヘリウムガスの代わりに砂利を詰めた風船が浮かぶだろうか。どれも無理だ。重力というものは下にしかいかない。重いものは誰も持ちたがらない。置いて行かれる、放っておかれるだけになる。

 

 今みたいに。

 

「駄目だよ、そんなのはさ」

 

 前みたいに。

 

 

 

 

 

 

 嫌だ、があった。ずっと、嫌だな、があった。教えられた通りにやっているのに、見本とは違ったものができてしまうような、そんなものがあった。

 

 どんなに親しい相手でもほんの少しの嫌だを持ってしまう。それは単純に嫌悪感と呼ぶものではなく、違和感と呼べるものだ。これは誰にでもあるだろう。もしかしたら生まれたてほやほやの赤ちゃんでも持ってしまうのかもしれない。

 たとえば、お手洗いで軽くメイクを治すのが日課の誰かにいつもは特に何も思わないのに、ある日からその誰かに違和感を覚え次から別のお手洗いに行くような。校則に違反しない程度の人でその日もそうだった。ルージュと呼べるほどのものでもなく、新作のグロスを使っていた。それがある日突然見かけたくもなくなったのだ。極稀に新作のおすすめを話し合ったりする人で、教室に戻ればまた普通に話をしている。なのに、その場所ではなんだか避けることになってしまった。

 

 違和感はそのような一種だけではない。家の者に対しても、他の誰かでも、あのみくるにもどこかで多種多様に覚えてしまう。でも、嫌いではない。家の者にはいつも感謝を欠かさないし、他の誰かでも親切にして頂いたら欠かさない。みくるにも当然だ。好きだ、普通に。嫌いになんて欠片もなってない。ただ違和感が残るだけだ。それもいつの間にかどこかに行ってしまっているもの。

 

 なのに、ずっと忘れないでいる。違和感というものではなく、嫌だとはっきり言えるようなものを。いつからか、前からだ。ずっと前から、最初っからだ。

 

 だから、余計なものがつく。楽しかった”のに”。嬉しかった”けど”。少し前まではそこで終われた。でも、もう我慢の限界だった。楽しかったのに、どうして。嬉しかったけど、なんで。そうケチがついた。ここまでいけば不満という言葉では足りない。

 不快だ、不愉快だ。砂場で作ったお山をよりによって先生に壊されるような、そんな裏切られたというものだ。

 

 ずっと裏切られていた。まただ。さっきもまただった。そして、今もまた。

 

 唆したのはあたしだが、素直に鵜呑みにするその阿呆にほとほと煮えるほど熱いため息が出る。どうして、と思う。なんで、と思う。どうしてそんなことをするの、と。なんでそんなことをしてしまうの、と。好くないんだけど、良いわけないんだけど。やる必要などないのに、余計なことなのに。

 

 勝手に裏切る。勝手にひどいことをする。

 

 そんな楽しそうにすることないじゃない。そんな顔見たことないのよ、あたしは。そんなに女の子と喋れるんだ。あたしにはもっと距離を開けるくせに。そんなに、そんなに、とあたしじゃ知らないことを見て聞いて分かってしまう。

 嫌だった。そんなにだらけでずっと嫌になる。そこにはこの阿呆くんとそのなんとかさんだけの仲の良さがある。盗聴なんて下種な真似はしたくないが、ここから逃げてやる気もない。

 

 だから、知ってしまうのだ。あたしじゃ作れなかった居心地よさなんてのが。気楽にしてる。遠慮せず楽しそうにしている。あたしが欲しかったものをどうして、なんで。

 

 あたしにも。あたしにもなんでそうしてくれないの。

 

 ずっと、ずっと、そうやってあたしに重ねていたくせに。

 

 

 

 あたしを見ずに誰かを重ねているのだ。あたしと話しているのに、あたしじゃない誰かと話している。挨拶している時、あたしの声にも誰かの面影を探している。みくるたちと一緒におしゃべりしている時も、あたしだけ誰かの面差しを求めていた。二人で何となくいる時も、ついさっきも、また今も。

 

 あたしを代用品にでもしているのだ。ジェネリック誰かさんとして、この人はあたしと一緒にいたのだ。あたしに誰かさんのデジャブを感じて嬉しそうに、楽しそうにする。ちょっとつまらない空気で気まずくなっても、そのデジャブでどこかしらそう感じていたのを知っている。少しよくわからないむず痒い雰囲気で気まずくなっても、そんなデジャブだけを噛みしめているのを分かっている。

 

 あぁ、なんて自分勝手なのだろう。

 

 厚顔無恥が過ぎる。自分よがりが過ぎる。わがままなんて可愛く言えるレベルじゃない、恥知らずだった。

 

 誰もいない窓の向こうへ手を振っても意味がない。黒ずんでしまった鏡で自分の何をしっかり確認できるのか。ただ空しいだけだ。なら、そんなこと人にしていいことじゃないだろう。その誰かさんだって、そうだろう。それによりによって、あたしにもすることはないじゃない。

 

 あたしが知った嬉しいも楽しいも、その誰かさんが既に経験しているものだなんて悔しいじゃない。

 

 こんな空気の抜けきっていない風船みたいな人の好さを、あたし以外にも知っているなんて冗談じゃない。

 

 クラスメイトでもない子の落とし物を下校時間のチャイムが鳴っても一緒に探している人だ。日直だからか先生からの荷物を当番の子より先に持ってきて、バレてよくそんな女子たちに小突かれている人だ。バスで困り切った母親と大泣きしている赤ちゃんを遠慮なく大笑いさせている人だ。外国人に道を聞かれて、まったく英語なんて出来ていないが目的地まで連れてってあげる人だ。

 

 それらに人間として好さを覚えた。異性としての好意より、人として一種の敬意というか、うまく言葉にできない素敵さを知ったのだ。こんなの他の人も大なり小なりやっているが、彼らにはそんな素敵さは感じることは今まで一度もなかった。

 信号機のない横断歩道で困っているご老人に手を貸す人はそれなりにいるし、いきなり道の真ん中で座り込んでしまった人に声をかける人もそれなりにいる。うっかり小銭を撒いてしまった人に無言でも一緒に拾ってあげられる人はそれなりにいる。何度もそれなりに見てきた。老若男女問わず良い人だと感じてきた。

 なのに、何故この人だけにはそのよく分からないものを感じていたのだろう。

 

 もっとスマートに手助けできる人を見ても、もっと手厚くフォローをしている人を見ても感じなかったのに。それらの人より身近だったからだろうか。高校三年生にになるまで同級生でもクラスメイトでも何度も同じようなものをそんなのを見てきたが、それでもなかった。大親友であるみくるにも感じなかったものをどうしてだ。

 

「ごめんなさい」

 

 まったくどうしてだ。

 

「もうダメでいいんです」

 

 どうして、そんなに。

 

「もういいんです」

 

 どうしてそんなに近いの。

 

 距離を取ったのに。模造紙三枚分もの距離をまた取ってあげたのに。それよりも、近い狭い。だけど、すぐ傍にはいない。手を一生懸命伸ばしてもギリギリ触れないそんな距離だ。七十強cmの距離があった。

 

「まずいんだってわかったから」

 

 距離があった。手を伸ばさないといけない距離が。

 

「でも、本当はまずいんじゃなくて、ただ良くないんだって気づいたんだ」

 

 距離があった。手を伸ばすぐらいの距離が。

 

「もっと。もっとちゃんと分かればよかったんだって。この緊張感とか、勝手に期待しちゃうとことか」

 

 距離がある。手が出ないほどの。

 

「俺さ、鶴屋さんのこと結構前から好きだった」

 

 手も出せないぐらいに距離を失くした。

 

「さっきまで、無意識にあの子を重ねてた。それからの好きだと思ってたんだ。糞野郎すぎるけどさ、鶴屋さんだけ好きじゃなかったって」

 手を引っ込めたいぐらいの距離を壊した。

 

「それ、もうなかったんだ。もうそれなかったんだ、あの子みたいになんて言葉なくなってた」

 

 逃げたいのに逃げ場を失くしていた。

 

「好き。鶴屋さんが好き。大好き」

 

 逃げ場がないなら飛び込むだけだった。

 

「……おあほうさんがっ」

 

 本当にあたしも恥知らずだった。

 知らぬ間に好きなったという言葉ではなく、勘違いして好きになっていただった。

 

 さっきの電話でようやくケジメをつけられたが、もともと俺の中でも終わっていた話だ。恋愛的な好きなんてのは、もうあの子にはどこにもなかったんだ。ただ、好きだったという過去をずっと引きづっていただけだった。

 

 あのこそげたり割れたり、結局壊れたあれは今の俺ではない。過去の俺だった。友達だったくせに彼氏がいなくなった途端、調子に乗ってしまった俺だ。入学当初から彼氏彼女で仲良くしていたのを知っていた。それが、三年生になったら彼氏好みにしていた腰まである髪をうなじが見えるまで切った。性格もその時少し変わっていたのもあって、俺は勝手にそこからあの子を友達ではなく女の子と意識して勝手に玉砕した。告白してもあの子は俺のことを友達としてしか見なかった。それに表ではなんともないという俺に気遣って、中学卒業後は今まで一通の電話もメールもしないほど疎遠になっていたんだ。

 

 そこに寂しいという気持ちがあった。今も残っている。春の中頃になってもしぶとく残っている雪のように。それは新雪とは違ってみすぼらしく薄汚れていて鉄製のシャベルでも壊すのに一苦労する程硬い。その上、腰ごと持っていかれそうなほどずっしりして、やけに冷たく痛いんだ。これはまだまだ綺麗に消せるまで時間がかかるだろう。

 

 でも、それだけだった。あの子とようやく久しぶりに話していても、それがまた大きくなって踏み固められるわけでもなく、まだ異性として好きになってほしいなんてのは一つもなかった。

 

 もういいんだ、と思うだけだったんだ。何が、なのかよく分からなかったが、鶴屋さんの駄目という声を聞いて、ようやく、ようやく思い知った。鶴屋さんの言葉通り駄目だったんだ、今まで。勘違いしていたんだから、また。

 

 前は俺でもいいじゃないかと思い上がったが、今までは俺ではまずいんじゃないかって勘違いしていたんだから。

 

 ずっと鶴屋さんに重ねていた。最初は意識できていなかったが、愚かしくも比べていたんだ。鶴屋さんの全部にあの子みたいだと重ねていたのも最悪だったが、さらに最悪な俺がいた。あの子を好きだった俺をまた勝手に思い描いていたんだ。鶴屋さんにあの子の面影を求めて、求めた挙句当時の自分の好意をまた再現していた。俺は鶴屋さんを意識できなかっただけでなく、当時の俺のロールプレイをしていたんだ。そして、あの時できないようなことをして無意識に当時と比べてるなんて。

 

 なんて阿呆だ。鍬と鋤で顔を耕されてもしょうがないレベルだ。

 けど、それはある日終わった。よりによって昨夜にだ。そして今さっき勘違いにも気づいた。なんてどうしようもねぇド阿呆なの、俺は。

 

 また、とか、みたいに、とか勝手に勘違いしていた。また”前みたいに”好きになったんじゃないのに。いや、無意識にそう誤魔化していたのかもしれない。俺ならいいんじゃないかって思い上がれないんだ。だって、それはもう昔のもの、俺はもう北高二年生なんだ。

 俺ではまずいんじゃないか、って勘違いしたのは、これの所為でもある。俺は今年進級して北高の二年生だ。もうそれなりに制服も着慣れた二年生。そして先輩は三年生の一つしかいない。これだ。これで勝手に拗れてる。俺があの子に恋をしてしまったのが三年生になってから、失恋は恋をして半年もたたずに達成された。

 

 鶴屋さんと結構仲良くなれたのは二年生ぐらいからだ。その前は、SOS団の活躍に貢献したり労役を強いられたり、個人的に仲良くはなれていない。ついでとかおまけで友好を深めたが合ってると思う。友達の友達みたいなもんだ。それが俺たちも友達になり、もう恋愛感情なんてものを抱いている。

 

 その好きが、ちゃんと鶴屋さん相手だって理解したのが今だ。保健室で紛れもない自分から溢した癖に、食堂ですっげぇ可愛いとこ見れてずっとニヤニヤしていたってのに。前みたいな好きだって勘違いしていた。違うってのに。前はふんわりあの子のことが好きだから付き合ってほしいしかなかった。今みたいに何個何個も終わらないくらい好きが言えるほどじゃなかった。

 

 鶴屋さんのことが本当に好きだった。

 

 確かにぷかぷかと浮かれてるけど、前は好きの理由をうまく言えなかった。友達期間が長かったせいか、一緒の空気だけで好きとか戯けていたのかもしれない。今は言える。

 

 悪戯するとき如何にも悪戯娘という稚気溢れるにやり顔が可愛いくて好きだ。あんなちょっと困るほど可愛いのどうかしている。子供みたいなのに、お嬢様もしていて緊張して困る。にやりと口元が上に上がるが、そこがどこか品があるんだ。口の角度かと思いきやご自分の人差し指でちょんと挙げている所為だった。可愛いんだ、あれ。

 

 悪戯しない時も可愛い。職員室に用があって同じように用があった鶴屋さんがこっそり挨拶してくれるとこも可愛い。先生とお話し中のときは流石にあまりしてこないが、先に終わってると待っててくれたりしてる。そのとき、お勤めご苦労様ですとかふざけ合えるのも好きだった。別に叱られに行ったわけじゃないが、職員室はなんだか嫌な緊張をするからとっても助かる。お昼時間とかじゃないときは、そのまま少しだけ駄弁ってそれぞれに戻るが、そのとき手遊びとかしてくるのがとてもかわいい。手話のなんかとかテレビで見たことあるのでしりとりしたり、ふつうにルール無用じゃんけんをしあったりする。そして、別れるとき、しっかり頑張るよーにっとかいいながら手をぎゅっと掴んできたりするところとかなんもかんもが可愛い。

 

 可愛くて好きだった。ずっと、そんなとこが好きだった。

 

 そんな鶴屋さんがずっと今まで好きだったんだ。

「…どこが、どこが好きなの」

 

 抱き着いてくれている鶴屋さんは俺の胸元でくぐもった声で言った。見事なタックルでうっかりアクション俳優みたいに転がりそうだったが、何とか耐えた。今も耐えている。精神的な意味でもだ。

 

「前、缶で指切っちゃったとき一番先に手当てしてくれたとことか。この前もあのオケアノスんとこで一生懸命心配してくれたでしょ? 安静にしてなって人呼べばいいのに、付きっ切りで心配してくれてさ。心配させてごめんなさいって気持ちと、この人こんなに心配してくれるの嬉しいなって」

 

「……へんたい」

 

「しょうがないじゃん。本当に嬉しかったんだから、ごめんなさいもあったけどさ。この人素敵だなぁ、好きだなぁになるよ、いつもそうやってくれるんだもん」

 

 背中を割と強めにつねられるが、気にしないことにした。

 

「たまにさ、部活終わりに会うとき、こっそりすぐ俺の近くに来るの可愛いなって思ってるよ。今まで普通に可愛いって思ってたけど、もうすごくそういうの可愛いって思う、好き」

 

「き、気づいてたの…うそ?」

 

「気のせいかぁ? って疑ってても会うときいっつもそうするから」

 

「気づかないで」

 

「いや、もうバレてるんだよね、当人に。いいんだよ、可愛いし好きだし、これからいつもそれでいいし」

 

「ょ…よくはないんじゃない? ……いやでしょ?」

 

「よいよ、いやじゃないよ」

 

「なんか……その、まずいんじゃないの?」

 

「何が? いいじゃん、そうしてくれると俺もっと嬉しいし好き」

 

 片手だけだったのが両手十本の指で背中をえぐられていた。広背筋どころかもっと深部までもっていかれそうな強さだ。

 

「さっすがに痛しなんですけど」

「もっと痛がれ、あほシャドーくんは」

 

 とか言うのに、少し力を緩めるのは大変ずるいと思う。

 

「で、続きね。購買でパンとか漁りに行ったときに会うじゃん? んで、こっそり今日のおすすめとか教えてくれるの好き。もうあのしたり顔で”お勧め”も教えてくれるとこも好き。面白そうになるの隠しきれないで、でも両手で口元隠してこしょこしょ教えてくれるとこ可愛いから」

 

 途端、力の限りになってしまった。痛すぎて少しうめいたがまったく弱まらない。なるべく我慢して続ける。

 

「いままで無意識に可愛いっての分かってた。先輩を慕う後輩としてとかじゃなくてさ、ああいうなんつーのか分かんないけど見てるだけで癒される可愛いって思うのじゃ、実はなかったんだって」

 

「かわいくはない」

 

「可愛いけど、すっごく」

 

「なわけないでしょ」

 

「じゃあ、俺だけの可愛いだ。嬉しいな」

 

 手持無沙汰にしていた自分の両手をようやく鶴屋さんの背中に回す。しっかりしているもののやっぱり華奢で柔らかくて抱きしめるまではいけなくなる。抱きかかえるというか、支えるような感じになってしまう。色々限界突破しちゃいそうだったから。それが気に食わないのか、俺の腕側に身を起こした鶴屋さん。相変わらず顔は俺側に向かずよく分からない方へ。

 

「今から、言います」

 

 そう拗ねている声に何のことかと思い尋ねようとするも、みぞおちを指先で刺され呻かされた。吐き気は起こらなかったのは、護身術をちゃんと身に着けているからの技なのだろう。

 

「覚えててよ、シャドーくん」

 

 そのまま親指でみぞおちをすりすりするのはどういう意味を持つのか、一旦保留にしておいた。次は完璧に打ち抜くのか、二度目はないのか。または。

 

 もういいよ、という意味なのか。

 やられた。してやられた。二回も、一気に。確実に止めを打たれたのだ。異性として告白され、こちらの好意をさらっとばらされた。その上なんか勝手に告白成功したみたいな雰囲気出してくる。

 

「今から、シャドーくんの採点をします」

 

 なら、やり返すのは当然だろう。あたしは右だろうが左だろうが頬すら貸してあげない。三度なんてそこまで許してなんかやらない。

 

「もっと頑張ってお勉強してください。今のままだと学費の無駄でしかないから、十二点マイナス」

 

 お世辞にも優秀とは言えない成績だからだ。一応平均にはいるが所詮一夜漬けでの成果は模試では役立たず。このままだとC判定すら数少ない。携帯のこの周波数よりも心許なさすぎる。

 

「もっとしっかり目標を決めてください。いつか頑張るなんて言い訳はもう無理だよ、八点マイナス」

 

 もう高校二年生なのだから大学の学部なんてのもそうだが、就きたい職や企業なんてのも最低でも六は見繕わなければならない。お祈りだけでは何の手当もないのだから。声が大きくても聞いてくれる相手がいなければ意味がない。

 

「もっと人をよく見てください。嫌われるのも信用を無くすのも一瞬なの、十三点マイナス」

 

 合計で三十三マイナスだ。実際のテストでここまでやらかしたらもうその教科は捨てるしかない。これの所為で基準点の下になれば、もうどうあがいても諦めるしかない。一芸入試にしてもだ。

 

 合格ラインは最低でも七割は必要だ。それに満たない場合、妥協しなければならないラインになる。その中で良しとされるのが六割強、この人がそこにいる。まだ許されるかもしれないラインにいるのだ。

 

 いつでも切られる場所にいるのだ。いつでももういいやってほっとかれる価値()でしかない。

 

 飲み終わって邪魔になったペットボトルをいつまでも大事に取っておくなんてこと私にはできない。空いているゴミ箱があればすぐにでも捨てる。非常時には役立つからと言われても、今必要ない。いらないものだ。いらないものを貯め込む趣味もない。

 

 いらなければ捨てる。いらないものだらけで部屋すら埋まるなど冗談ではない。

 

「そっか。うん、ごめんね、ずっと」

 

 いらないのが近くにいても何の意味もないのだ。

 

 いらないものを増やしても意味がない。インクの無くなったボールペンの芯などさっさと捨てる、割れたブラシがいくらお気に入りでも次のに買い替える、何かの記念でもらったキャラクターものも自分の手元になければ死んでしまうなんてこと起きる訳がない。

 

 今もいらないものが貯まる。そっか、でぐるぐると喉の奥に。うん、でぐるんぐるんと肺の中いっぱいに。ごめんね、でもうなんの音だか分からない音を立てながら臓腑中全部に。

 

 ずっと、で、もうぐちゃぐちゃだった。

 

「マイナス」

 

 声までぐちゃぐちゃだった。何と表現すればいいのか分からない。吐き出している自分でも不快すぎるものだった。

 

「マイナスなんだから」

 

 ひどいと思う。卑怯だと思う。卑劣だと思う。

 

「もう、絶対ないんだから」

 

 もうおしまいだった。

 

「ないから…、本当にもう、ないんだからね」

 

 もういらないの。もうおしまいなの。

 

「うん、もうしない。もう、鶴屋さんだけ」

 

 シャドーくんがいる。傍にいる。もう、いる。

 

 全然動かないわたしのもうすぐ近くにシャドーくんがいる。だからか、いつもとは違うように見える。

 

 知らない顔だった。昨日までの困らせたいシャドーくんでもない、今日の困っちゃうシャドーくんでもない。悪戯したくてしょうがない顔だ。

 

「なに?」

 

 シャドーくんのお腹のところをちょっと掴んで引っ張った。Tシャツがやっぱりペラペラで柔軟剤を使う必要性も知らないらしい。それの下、お腹が結構カチコチなのは少しドキリとする。爪先で少しなぞってると、流石にくすぐったいからかシャドーくんの手が私の手を摑まえてきた。

 

「もー…なんなの?」

 

 悪戯っ子を叱るためかもっと顔が近づいてきた。いつも以上にゆるゆるでふわふわした感じ。でも、今までとは全然違う。なんだか可愛いもあるし、なんだかかっこいいもある。だけれど、その言葉だけでは役不足だった。

 

「あのね、───くん」

 

 漢字で書くと目の前の人と違って大層厳つい名前だ。命名したのは数々の盆栽を破壊された大叔父様なんだとか。大変だなと親近感をいまさら抱く。わたしは流石にもっと丁寧に相手をしてもらいたい。

 

「うん、なに? もうちゃんと聞くよ」

 

 彼の服から片手を放し、彼の唇をつつく。全部が欲しいのだ。大分カサついているそこをつつかれ、少しどうしようという顔をしていた。その少しでうっかり口に隙間ができていた。

 

 引っ張った。悪食な長い真っ赤な舌を。

 

「すき」

 

 引っ張ったおかげでしやすい位置に、キューピットを差し向けた。

 

 

 

 

「………」

 

 舌を戻した。どこかの緑の恐竜とか、己のそれをマフラーにするワイの手持ちのような能力や異能はない。勝手に二枚や三枚、四枚と増えそうだった。これならどこかの姫も眠らず、魔女も満足するだろう。…牛タンじゃねぇんだぞ。

 

「ふふ、どう?」

 

「びっくりした……」

 

 普通に今もどんどこびっくり中だ。予想外のことだったんだ。舌を引っ張られるなんてのも、鼻にキスされるなんてのも。予想なんてできるわけがない。

 

 そんな予想外に面喰いっぱなしの俺に、どこか物足りなさを感じつつも物足りたという顔をする。

 

「うん、六七点」

 

「あー…ぎりー、かぁ」

 

 赤点というわけじゃないけれど平均点より少し低め。全国模試なら大健闘してるだろうが、学校のテストでそれだと進路を低めにするしかなくなる。そろそろ俺の時期的に頑張らないといけないから、流石にもう十点あげないとBLACK遺棄になっちまう。こうして黒板をひっかく音よりはマシだが、くそうるせぇヒヨドリが泣き喚くまで学校から帰ってもずっと勉強しないといけない。ついついキ゜ィィィィイー!!という声で起こされたら投擲してやりたくなるが、そのときはこの世で唯一の救いだと思うだろう。ゲロよりはましだが痰を吐き捨てる、この重い水音もそうだ。郵便配達員さんの特に検索する気もねぇこんな謎絶唱もそうだ。

 

 いや、悪夢だよ。救えねぇタイプの悪夢だよ。

 

「はっ?!」

 

「えぇっ、なに?」

 

 朝だった。まだ薄暗いけれど、月の姿はか細く夜空の色も薄くて太陽の明かりが透けている。一応夜だったが、深夜三時とか四時などではなく遅くても夜の十一時らへんだったのに。

 

「朝じゃん」

 

「ほんとだね」

 

 二人そろって窓に近づいて、そこから見える夜明けにきょとんとした。そしてそれは窓ガラスに映り、ついついお互い笑っていた。あまりにもそっくりだったんだ。

 

「もー、同じ顔はダメだよ、───くん」

 

「そっちもだめだよ、同じ顔しちゃさぁ」

 

「君のは面白いからダメ」

 

「なら、鶴屋さんのは可愛いから、だめ」

 

「……ん~」

 

 やっぱりちょっと足りないという顔だ。赤点ではないし、まずまずだけど、高評価ではない。平均点に届かない。

 

「あのさ、───くんってあたしのこと知らないの?」

 

「ん? 鶴屋さんでしょ? 可愛い可愛い、可愛くてしょうがない俺が好きな人」

 

「んんっ!! …そうじゃなくて。いや、それでいいんだけど、嬉しいんだけど、ね。うん、今はちょっと別なの」

 

「うん?」

 

 あだ名ではなく俺の本名をさも当然のように、嬉しさたっぷりのぷかぷかした口調で呼んでくれる鶴屋さん。それにつられてというかいつもそうだったけど、俺もこれ以上骨抜きされたら地球圏を一マイクロ秒もかからず飛んでってしまう感じにぷっかぷかだった。

 

「もー、名前、あたしの」

 

「あー……、呼んでいいの?」

 

「呼ぼうよ。……好きじゃないの、あたしは? お友達でいいの?」

 

「好きだよ、お友達嫌だよ、付き合いたいよ、カップルしたい」

 

「あはは、強欲ー」

 

 俺って、強欲なのかな。どこかの精へ銀のも金のも、元々持ってたやつもくださいとか、機織りに来てくれた娘の正体によっしゃあ鶴鍋だ!! と何処かのごんのようにバキュンともしない。好きなら好きになってほしいし、もっと好きになりたいし、二人一緒にいるのが当然だよねって周知しててほしいものではないの?

 とにかく、名前を呼んでいいと言われた。許可されたというか、お願いされた。外国人じゃないんだから、異性のファーストネームを呼ぶのはかなりの勇気がいる。周りの目、そして本人の目だ。まじかよ、がまずい意味で使われたりすることが多いんだ。ジャパニーズは奥ゆかしいのが美徳だからしょうがないんだ。

 

「あのね」

 

 その美徳はこんな浮かれポンチの俺でも会得済みだ。スキルレベルなら三ぐらいはある。

 

「名前、分かんない、ごめんね」

 

 レベル三なのでこの愚弄だった。

 

「ほんとに、も~……」

 

 また物足りない顔だ。でも、さっきまでより大分満足そうだ。加点で五千ぐらい入ってそう。どこかの育ちすぎた蝙蝠おじさんより評価点増減がゆるゆるそうだ。

 

 そしてまた手をこちらに伸ばしてくる。さっきみたいに舌を引っ張らるのでは、と身構えた。閻魔様みたいに舌を抜くとか、現代にも未だ生息している問答無用で抜歯してくる歯医者さんみたいなことはしないとは思う。が、さっきみたいなのをすぐさまワンモアというのは流石に脳も心臓も持ちやしない。どこかのメロスだって十里走り抜いた後よろよろだったんだ。三分も休めばまたすぐ十里走れるわけじゃない。走った足も痛くて重くてだるい、肺も同じだ。たくさん空気を吸い込みたいが、それも疲れ切ってしまい勘弁してほしい。

 俺もそうだ。生存のためにはそれらを無視してなんとかするべきだけど、もう無理しんどい、一旦ちょっと何もしないタイムくれになる。死ぬからだ。今の俺的には、俺の二十一世紀型日出国男児の尊厳というか、その他の色々が。

 

 そんな身構えた俺にきょとんとして、おかしそうにくすくす笑う。可愛らしく上品に口元は見せてくれない。人差し指一本だけで口元が全部隠れてしまうから。なんて小さいお口だ。お徳用羊羹を思いっきり丸かじりしてもハムスケが齧ったぐらいになるんじゃないかな。ドミノなピザMサイズな大きさでも、三秒では全然食べられないだろう。俺なら一齧りで三分の一強はいけるのに。

 

 そんな俺が簡単に食べちゃえるサイズの可愛いお口が無音で言葉を作る。みみかして、だ。て、の部分でワザとだろう、俺とは違って可愛いしサイズも可愛い赤い舌を見せてくれる。あっかんべぇみたい相手を舐めてるものじゃなく、扁桃腺が腫れてないかでべーと突き出す感じでもない。

 

 猫がついつい仕舞い忘れたという、あの面映ゆい可愛いものだ。その時のシャミセンの舌とちょんとつつくと、キョトンとした後ああ、うっかりしておったとすぐさま戻し何もなかった顔をする。あれも面白かわいいものだ。

 

 でも、この人のは何というか。とんでもない緊張感と、むずむずとするものがあった。訳もなく走り回りたい照れくささという以上のなんというか、全国の消防車を呼びつけるレベルに顔が大火事だとか以上のあれだ。

 

 あぁ、まずいんだ。まったくもってまずい。どうしようもなくなる。どうにかなっちまう。どうもこうもやらかしちまいそうになる。

 

 ちっちゃな口だ。小さいものはかわいいもんだ。子猫や子犬、子がつく生き物は全部かわいい。少しでも目を離したらコロコロどこかに転がって迷子放送をかけまくるほどに小さいから。それに、鬱陶しくても楽しい鳴き声から断固拒絶の泣き声を出させちゃうくらいとにかく構いたくなっちまうから。

 

 それに更にくるのがこの人にはあるから、もうどうしようになるしかないじゃないか。

 

 子供っぽい仕草のくせに、緊張する。ワクワクでもドキドキでもない。むずむずでそわそわだ。落ち着かない、大人しく出来ない、ちゃんとしてなさいなんて出来っこない。

 

 可愛いにプラスしてる。可愛くて(つら)い。

 

 苦いはまずいに繋がりやすい。まずいと感じればじゃあもう一口はない。もういらない、別なのおくれだ。局部を隠せば上等の時代からそういうものだ。生存本能に従うのは当然。

 

 でもこれは、(つら)いものだ。可愛いから食べちゃいたいといっても、本当に食べるわけがない。お寿司屋さんでもお客様に出す用だったのに、愛着が沸いてしまい看板犬ならぬ看板魚なんていたりする。孫と三輪車で楽しく遊んでいたおじいさんが次の瞬間には、なんてサイコでホラーはお話の中だけだ。

 可愛くてしょうがないんだ。思いっっっきり抱きしめたい!! っていう衝動に、そのまま動かされるには理性というブレーキがまだ効いてしまっている。けど、ブレーキを踏めているからといって、この可愛すぎてしょうがない感を止められてもいない。いつでもブレーキからアクセルに踏みかえてしまえるが、妙に人としてちょっとステイという倫理観というか理性というのがギリギリでなんともできなくさせる。

 

 うっかり俺の心臓が百二十デジベルでなってそうなくらい可愛くてしょうがないのにだ。あぁ、なにか。なにかしてやりたいのに、いやでもちょっとやめとこうで、なんもできんっ!!

 

 しょうがなく。しょうがなく。可愛いで色々ぶっ壊れそうな俺は耳をお貸しした。

 

 今度は悪戯はされなかった。

 

「………」

 

 食べたのはこのっ。この、可愛い人だった。

 

「────」

 

 名前を唱えてきたので、なんも出来ず俺は復唱した。

 

「二人のとき、そう呼んでね」

 

 あぁぁっぁ、(つら)い。もう、可愛い。もうだめだ、可愛い過ぎて、とんでもなくまずいんだ。

 

 親から電話コールが轟くまで、名前をただ呼びあうしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○○○○

 

 

 

 

 硬球がホームランとなって打ちあがり、星顔たぬ、ハムスターがマスコットな球団の応援歌が流れた。

 

「ナ~イスバッティンッッよ、スーパースラッガー古泉君!!」

 

 流石にチアコスではない団長様が勝利のコーラをスラッガー君に贈呈した。

 

「お褒めに預かり光栄です」

 

「お前も打てや」

 

「ここのバッド、こんなかよわ~い女の子には重すぎるのよバカキョン。あたし、お箸より重いもの持てないの知ってるでしょ?」

 

「そんなか弱かったかお前? だーから、缶のプルタブも十円玉ないと開けらんなかったですかぁ? 骨粗しょう症の婆ちゃん?」

 

「はぁ? あれは、たまたま爪切りすぎてただけよ。さっきあんたに開けさせたのもそうだから、骨密度なんて世界一よあたしは」

 

 俺も助っ人として参加した野球の時、えらい様になっていたスウィングを見せてくれた、どうみてもか弱くは見えない団長様だ。そこで煽りつつも団長様を心配している幼馴染君より、打率も遥かに上だったと思う。

 

「骨密度の世界ランキングってあるんですかね?」

 

「そんなものはなかったと記録している」

 

「ないとしても、世界一ってことはさ、ウルツァイト窒化ホウ素並みの硬度でも持ってるのかい、ハルにゃんは」

 

「ダイヤモンドの三倍じゃん…まじ? 車に突撃されても罅も入らないじゃん。あ、もしかして跳ね飛ばしもできるの? すごっ」

 

「涼宮ハー○様…っ!?」

 

「オオバカキョンとドアホシャドーには残悔積歩拳を喰らわせてやるわ、そこから逃げんじゃないわよ」

 

 そうして、いやだー、しにたくなーいっと二人揃ってハルヒに追いかけられた。伝承者ではなかったので、特に何もおきはしなかった。俺のお菓子様と幼馴染君のお財布殿がなんともお寂しいことになるが。

 

→383

 

「ゲームだと百とかくそ遅いと思ったけど、早くね? やっぱゲームは全部ファンタジー?」

 

「確か海にあるアースので最高速度七五行くんだって。やばいよね、当たればそりゃ死球だよ」

 

「軟式でヘルメットしてても普通に死亡リスクは十分ありますからね」

 

「まじかよ…今度からデッドボール避けさすわ、なるべく」

 

 選手の依怙贔屓がひどい野球ゲームなどで、死球狙いはやめとこうと一応俺も誓った。こないだ幼馴染君とそういう泥仕合をした苦い経験からだ。

 

「あ、古泉良いなー、プレミアムじゃんそれ」

 

「やっぱりコーラはビンですよね、格別な味ですよ」

 

「俺らパチモンコーラなのに…」

 

 ○プシでもなく、駄菓子コーラだ。ここの中にある売店でのお品である。切るのをずっと失敗している俺に彼女が切ってくれた。相変わらず、しょうがないなぁ、と楽しそうだった。

 

「こういうのってさやっぱ原材料が違うのかな、配合?」

 

「おいおい、深く調べるなよ、デリートされちまうぞ、お前?」

 

「ク○アおばさんのシチューの秘密は調べていいのかな」

 

「地獄の傀儡子さんにアーティスティックなことをされるでしょうね」

 

「嫌だなぁ…じゃあ、○ンぐダム○ーツ 完結 いつ で検索しとくわ」

 

「ゲーム版サクラダファミリアになんてことしやがる。夏休み続かせてくれよぉ、もっとよぉ」

 

「主人公永久離脱ってかなりえぐいですよね。今後の数多の派生作品にお祈りしときましょう」

 

「黒フードいすぎじゃない? 後付けでもう十三以上普通にいるでしょ、あれ」

 

「もっと遊べるドン!」

 

「それは会社が違いますよ。あちらも別の意味で後付け頑張りますよね」

 

 その会社のグッズの完成度を思い出すと途端に物欲が沸いてきた。俺は未だに本物探偵バッチが欲しい。子供の頃買ってもらったのは所詮はおもちゃだった。なんか光るだけだったんだ。彼女さんは血糊が出る帽子が欲しいと言っていた。うっかり殺人事件をしたいらしい、ガイシャはもちろん俺なんだって。たわし爆弾とか爆発する力士が、とかチェロを弾きながら椅子ごと這い回るだとか、天井なんてなかったとかとんでもミステリーをやってみたいらしい。天井がないお家とか違法建築で逮捕だと思うけど。推理バトルでなく頓智大会になりそう。

 

「つかよ、打てる打ち方ってどーやんの? ○突はまぁ無理として、種田打ちも一本足もまるでできねぇぞ」

 

 駄菓子コーラを口にくわえながらスイングする幼馴染君。とてもじゃないが先発どころか二軍にもなれないだろう。どこかのたった三年で一軍スーパーエースになってWBCで優勝しちゃうなんてのは結局ゲームだからこそだ。今もバッティングセンターだからある程度打てるが、うちの野球部にもコテンパンだろう。その実力を抜きにしても集中力が足りない所為だけど。

 

「まず、体幹しっかりしないとだめどす」

 

「あと下半身ですね。バッドを振らなきゃいけないのに振り回されてはどうしようもないですから」

 

「あー、そっかー……重いコンダラなのナシで鍛えるには」

 

「走り込み」

 

 そう俺と古泉がハモっていうと、お前たちには心の底からがっかりしたと言わんばかりの深~いため息をつきやがる。

 

「やらねぇわ、ポテン君でいいや」

 

「それも打ててない」

 

「黄金バッドがあれば…」

 

「大人げないですよ、キョンくん」

 

「俺はまだ子供だからいいだろ」

 

「高校生はもう子供料金でないだろ」

 

「しまったぁ……」

 

 バスや電車は中学生からもう大人料金だ。小学校卒業時点で成人の呼ばれる年齢の半分はとっているから、半分はもう大人でいいんだろう。その時点で女子でもお母さんよりも背が高くなった子とかいたし。男子の場合は中学ぐらいから父親よりでかいのが多くなる。俺はまるで関係ないが。

 

「おーい、男どもー集合しなさーい!!」

 

 おっと、団長様招集だ。女子たちが追加の駄菓子をくれるらしい。それに寄って行くと、今じゃゴミ収集してくれない小さな黒い袋がいくつか並んでいた。とてもリーズナブルなもののようで、お手製だろう色んなマークのシール付きだった。トランプのあれや、ぼげムた、まだ時期じゃないサンタさん、多分単位、ヒエログリフ、敗訴確定パチモン版権キャラ、などなど多彩だった。

 

「なんだよ、これ?」

 

「なんかおじさんたちがサービスってたくさんくれたのよ、ちっちゃい子向けなんだけどね」

 

「あー、昔行ってた床屋さんでよくくれたわ」

 

「えー……あ、じっちゃんばっちゃんちの方か」

 

 幼馴染君のお家の都合で、夏休みなどに一緒に俺の祖父母のとこに行くこともあった。そこでお世話になることもあったんだ。一応気を使ってくれたのか、○沢や○口、カ○オやタ○オヘアーにされたことはない。

 

「未だにあるんですね、そういうの」

 

「ここでも昔っからやっているところはあるんじゃないかな」

 

「あぁ、サインポールというのがあるとこに?」

 

「でも、ご時世的に減ってきてるらしいわよ、ほら、アレルギーとかあるじゃない?」

 

「それはそうですよね、絶対ちっちゃい子たち楽しいでしょうけど、アレルギーは……」

 

「流石に減ったけど、そこで根性論出す輩もいるからね」

 

 そう話しながら、吟味する。俺の”ハズレ”を皆は欲しいのだろう。俺は当然”当たり”が欲しい。”当たり”を意識的に外せるだろう長門は流石にこんなところでそんな無体はしない。能力も使わず、真剣にみんなと一緒にどれが当たりか探っている。

 

「皆とったわね?」

 

 おしゃれにリボンではなく、麻糸だったりなんかの紐だったりで封をされているのをそれぞれとった。重さはそれぞれあれど、十キロなんてのはない。重くても精々二百グラム以下ないかだろう。

 

「じゃ、一緒に開けるわよ、せーのっ!!」

 

 団長様に合わせて開け放ったそれら。ちっちゃい子向けだが、基本はお菓子らしい。レアとして宝石を模したおもちゃなどが入っていたりするが、俺はそれにかすりもしなかった。

 

 俺は、当たりを手に入れたんだ。

 

 

→384

 

「俺は無実なのに……」

 

 当たりを引いてちょっと残念がっていた俺に押しかかったのは、”大当たり”を引いてしまった団長様だった。ならば、取り換えっこしようなどという女々しさのない団長様はそれを全部平らげなされた。

 

 で、八つ当たりでござる。

 

 ”大当たり”なので味的なおいしさとはご無縁で、誰もが思わず振り向く美少女であっても地上波向けではないものになる。そのあまりな様子に我が幼馴染君は必死に対応していた。生まれてからのずっとの付き合いだが、一度も聞いたことも見たこともない優しい声と健気さだった。その乙女ゲーにいるキャラような感じは、あの古泉も凌駕していた。生涯ハルヒ限定だろうが。

 そのような沙汰なので、幼馴染君以外もなんとかケアをした。他にも客がいたので、それの野次馬化を阻止などだ。とんでもねぇことにこっそり写メを取ろうとする輩がいたため、暴力でない実力行使をさせていただいた。衆人の目がいきなり集中するのはおっそろしいのだ。

 

 それもなんとか過ぎ去り、幼馴染君の成果もあり団長様は復活された。それでも、ちょっとアレで。幼馴染君もまぁアレで。その二人の空気がどうにも小恥ずかしく、当人たちも色々出来かねていた。それにあてられた皆もどうもこうも出来ない中、安心から俺は自分の当たりを食いだした。こんな場なのでリアクションは表に出せない。空気を読めないものは罰せられるのだ。

 

 なので、罰せられた。理不尽である。どこかの雷神のおもらし雷みたいにひどい。

 

「百六十をホームランなんて出来たら、プロのなれちゃうんだけど」

 

 打てるまで返さん、お前だけは、と釘打ちもされている。なり損ねた野次馬さんが結成されてもいる。己らで打っとってくれ、あんたらは。

 

百六十kmの球はすごく早い。とてもやばくてすごいくらい早すぎる。ボールが出たと思ったら、もう後ろの網に当たって落ちてるんだから。打てるかどうかの前に、ボールが見えん。手品かなんかみたく空間移動マジックでもしてるとしか思えん。

 

「はやくポンポン打ちなさい、シャドー」

 

「無理難題すぎるよ……」

 

 団長様の気迫が、鬼軍曹と呼ばれたある監督と同じになっておった。流石に本人様ではないので胃から汗は出ないが、それでもグラビティすぎるもので足裏すら冷たく感じるものだ。そのお隣で彼女を心配している幼馴染君を含めて嘆願に助力してと合図するも、ごめんねで終わった。

 

 そもそもポップコーンでもないんだからぽんぽん打ち上げることもままならない。ゲームの中ならぽんぽん打てるが、これは現実だ。打率一なんて余裕で下回る。

 

「うー…、てんで見えねー……」

 

 これでもう六球も見逃した。いや、そもそも見えてない。マシンからボールが出た音と一緒にもう網の中だからだ。 体をいったん解すためスイングを三回ほどして、また構える。念のためヘルメットなどプロテクトをしているものの、それでわざともこれでは当てられっこない。七球め、音が鳴った瞬間に振ってみた。が、遠慮なくお通りなされてしまった。かすりもしてない。感覚的に通った後に振っているのは分かった。

 

「ファイトですよー、シャドーくん!!」

 

「負けるなゴーゴー、打てるぜゴーゴー」

 

「一発打ちましょう、シャドー君」

 

「すまん、頑張ってくれ、シャドー」

 

 仲間の団員たちが応援してくれる。長門なんて応援歌っぽいのまで歌ってくれてる。セリーグのもパリーグのもごちゃ混ぜにしまくったのだ。団長様はムスッとしつつも俺が打てることは当然とみて目だけはちゃんと応援してくれていた。

 

 俺の彼女ちゃんはといえば、にっこりだった。打てなくてもいいんじゃないかな、という顔をしている。本心は真逆であるというのに。目が合った時、こっち見なくていいよ、と口パクもされた。

 嘘である。ここで、素直に戻すとあとで三分間見つめあいの刑に処される。これの何が刑罰なのかといえば、見つめあうこと以上はしてはならぬのだ。手を握ってもダメ、なら抱きしめてもダメ、うっかり髪を触ってもダメダメだ。嬉死恥ずか死してしまうからだと。大変まずいのでやめてね、と前にすべてやってしまったら全部真っ赤っかになって泣かれた。しかし、本当にそれを封印すると延長してしまう。うっかり泣かしちゃうほど可愛いのだ、俺の彼女ちゃんは。

 

「─────」

 

 口パクをされる。素直に読み取ればがんばって、だ。実際はそれでも他の応援の言葉でも何でもない。多分これはこの間約束した動物も一緒に入れるカフェの名前だ。お連れしなくても入れるし、そこの看板亀さんがいるのでそれ目的でもOKだ。どこぞの太郎もこれのような大きさに乗馬ならぬ乗亀しただろう大きさの子だという。その子はリクガメだけど。

 

 俺が打つのは確定事項だ。むしろなんで打てないのとがっかりはせず、すごく不思議そうな顔をすることだろう。打てたら打てたですっごい喜んでくれるしすっごい可愛いことしてくれる。何度かあった。何度もしてきた。

 

 ゆるみ切った顔を引き締めて頷いた。そして、また構える。八球め、振ったが相変わらずかすりもしない。まだ打てる感覚が掴めないんだ。それでも、ボールがどれぐらいで打席まで来るのかは少しわかった。構えを解いて、両腕を肩を含めてぐるぐる解してまた打席に。

 九球め、打てない。流石の残っていたギャラリーもいい加減にしろとでも言いたいのか、車のクラクションみたいなヤジが飛ぶ。俺の友達たちがなんか言ってやろうとするのを、俺の彼女が止めていた。目が合う。彼女さんはにこりともしない。口パクだけだ。今度は、俺の名前と、がんばって、と言ってくれた。うん、と頷いた。

 

 十球目。追加でお金を入れればもうワンゲームできるが、百六十も出せるこの機体は他に比べてすこしお高い。それこそ、お店でケーキセット+カメちゃんにあげるおやつ代になっちまうぐらいだ。それは、もったいなさすぎるだろう。彼女ちゃんにしょうがないなぁって、おすそ分けさせるのはお恥ずかしいのだ。食べさせ合いっこするなら、自力でやる。

 

 そして、思いっきり振り抜いた。雑念だらけのフルスイングだ。

 

 音が鳴る。大声もあった。そんな雑音よりも気になったので振り返る。

 

 超超超かっわいい俺の彼女ちゃんが、大好きー!!と大声で言ってくれていた。

 

 

→385

 

「打てると思わんかったわ」

 

「でも、打てたじゃない」

 

「百六十とか高校生で投げる人おらんし」

 

「バッティングセンターだと基本設定のマイナス十の球速らしいけどね」

 

「あぁ、ならギリいけたのか」

 

「基本的にはね」

 

「………おやぁ?」

 

「えへへ」

 

 こうしてお帰りデートをしている俺の彼女ちゃんは、実は結構依怙贔屓がすごい。親友の朝比奈先輩もそうだし、彼氏である俺もそうだ。やり方は違うが、甘甘すぎる。将来必ず親ばか様になるであろう。

 

「実際の野球だったら打てなさそうだけどね」

 

「メジャーもそうだけどプロもやっぱり違うもんね。ミスターのジュニアさんとかも野球は自分の力だけじゃ無理って辞めたんだもんね」

 

「あの人は格闘技の方やりたかったらしいからね。そんでも高校から始めて周りボコボコにしてたし、野球やる気があればちゃんとやれたと思うよ。パパもやる気があればたくさん教えたのにって残念がってるし」

 

「パパが超感覚派だし、教わる気ゼロになっちゃったんじゃない? 指導方法テレビで聞いてたけど普通に分からないもん。ゴジラさんの理解力がすごいのか、ご同類なのかは知らないけどね」

 

「うちにもいるけどね、超感覚派。何グラムだかいちいち計ってられるか、全部しこたまぶっこめっ!! てのが」

 

「お母様じゃない」

 

 そう、うちの母上様である。気分で作り勘で料理なさる。それでも台所に君臨して少なくとも二十年ぐらいおられる。なので、どうしようもないのは素面の時にはそうそうない。ご近所さんとか職場のお姉さまたちと飲んだ後の、ざっとした出来上がりは恐れ多くもまずい。おいしくないレベルではなく、まずい、シャレにならぬぐらいだ。彼女さんちからもらった残りのグレープフルーツにどなたかの頂きものであろう、外国語だらけの謎調味料とみりんと賞味期限は切れてしまっていたすりごま、コンソメ、たまたまあとちょっとのリンゴ酢を混ぜ込めてしまったのなんてのだ。悪夢だった。

 

「マミー、有名シェフの料理本とか買い漁るんだけど一ページの終わりに行く前にもう二度と読まないんだよ。買った途端資源ごみ化する」

 

「多分、一般ご家庭にない材料とかがまず載ってたりするからだと思うよ。オリーブとかベビーリーフとか単品だとあんまりお手頃にないもの。あっても既に加工済みだったりするし」

 

「あと、なんか調理器具がないとかも良く言う。うちには長方形のなんて卵焼きの奴しかないんだよって切れてたことある」

 

「おしゃれレシピ本あるあるだね。ありそうでない感じの調理器具すぐ出すもん。自宅でも簡単パン作りってので、当然のようにスケッパーとか出されても一家に必ず一個あるわけないもの」

 

「なんだっけ……ヘラっぽい奴?」

 

「柄のないのだよ。カード一枚ぐらいのサイズの」

 

 大体このサイズと繋いでる反対のお手てで教えてくれる。よくうちに遊びに来てうちのママ上様の感覚だよりクッキングに、ハテナマークを乱舞させつつメモをしっかり取る彼女さん。その腕前でここまで育てられた身でも、適当すぎるとしみじみ思うくらいだ。でも、素面の時にくそまずいものを食わせられたことはない。ホットケーキを強請って大失敗や失敗はご自分で処理されていたし、お父さんと一緒でなんかおいしそうなものはまず俺にくれるし。たまに、素面でまずいから食ってみなとかされるが、ネタレベルだ。テレビの真似でオレンジコーヒージュースなるものを一緒に作って飲んで、まずいひどいとケタケタするんだいつも。

 

 そういう方たちの腕すらきっちり習得される可愛い彼女さんがいる。頓智きすぎるまずいものから、一口でも食べたらうちの味だと必ずわかるものを習得されたのだ。空想の世界ではお嬢様は料理ができないというが、現実のお嬢様ほど料理上手はいないらしい。ご夫婦揃って全世界飛び回らないなら普通に母親が作るらしいからだ。その場でそう教えられた。給仕さんのフリするお茶目すぎる彼女ママさんだった。

 

「なんか、お腹すいたわ」

 

「あれだけ食べたのに?」

 

 景品として近場の屋台のおっちゃんがたくさんくれたんだ。

 

「たこ焼きはおやつじゃん? 片手で食えるし」

 

「なら、おにぎりは?」

 

「それはご飯」

 

「タコス」

 

「おやつかな…いや軽食?」

 

「稲荷ずし」

 

「んー……じっちゃまの家だとおやつだから困るー」

 

 青のりが前歯についていてたら、ついてるよ、と俺にあーんしてた爪楊枝でつんつんする彼女さんだ。お上品でない俺は飲み物でぶくぶくしてやろうとしたが、阻止され洗面台に連れて行かされた。

 

「あ、そうだ。景品忘れてた」

 

「ん? あれ以上あった」

 

 っけと言う前に、小さめの紙袋が口に触れていた。

 

「金賞なので~とかは、流石にそこまでのじゃないから言えないけど、はい」

 

「ありがとう、開けていい?」

 

「うん、是非開けて」

 

 紙袋とはいえそんなザラザラしたのじゃなく、ちょっとお高い感のあるのだった。紙袋を開けるとさらに小さい何かが入っている。それを開けると革製のキーケースが入っていた。

 

「キーケースだ。嬉しいけど、なんで?」

 

「ふふ、なんででしょう?」

 

 なんか意味ありげに笑うお嬢様彼女からもらったのを手に取ると、すでに鍵が入っている感があった。

 

「これ…どこの?」

 

「あたしの家の誰かのお部屋」

 

「お、お、おへやぁっ?!」

 

 お部屋の鍵なぞ修学旅行とかでしか預かったことがない。それも集団で泊まるようの部屋。彼女さん家は大きいからそれ用の部屋はあるだろが、”誰かの”とか言ってきた。

 

「家の人ちょっと用事があっていなくなるから、それで来てくれていいから」

 

「玄関締まってるよね?」

 

「今時顔認識なんて当たり前でしょ?」

 いつもそうじゃないと、とまた彼女ちゃんはただ可愛いってのより大人な可愛さで笑うんだ。

 

 

 

 

「あー…帰ってきちゃった」

 

 デート中はもうそれは一切出さずにいちゃついていたら、もう彼女ちゃんのお家だ。相変わらず大きい。ローン二十年少し残っている俺の家など三個は余裕で入る大きさでござる。夏場の草むしりやアリさん駆除などがこの上なく大変そうだ。お掃除を済ませて一安心したら、もうすでに復活しなんなら前より増えてるもんだ。

 

 俺も両祖父母の方で経験済み。うちにも庭があるが、物干し用だ。かわいいパンジーさんを植えることも、フルーツみたいに甘いミニトマトちゃんを毎年育てるなんぞしたことはない。

 こちらの心当たりはまるでないのにいつの間にか我が家の顔として自生しているヨメナやノビル、なんか秋に紫色の花が咲くのぐらいはいる。俺がなにがなんでも色んなものに上ろうとしている頃には勝手にいた。そんな奴らは流石にここでは駆除されてしまっているだろう。ミントテロも含めて勝手に何処からか来た方が居直りするのだから。

 

「あーあ、帰したくないなぁ」

 

「男側のセリフなんだよ、それ」

 

「じゃあ、言ってよ。待ってるんだから」

 

「大学で一人暮らしになったらね~」

 

「いいけど、あんまり待たないからね?」

 

 そう言いながら、名残惜しいが今日はさよならにする。今日はうちの両親がそれぞれ日をまたぐお仕事になるから、お夕飯の用意をしなければならないのだ。幼馴染君の母君にお世話になれば、とお母さんにもご本人にも言われたが、”とっておき”をちゃんと買ってあるので大丈夫。レンチンできるのも湯煎のも、アルミなべ焼きスタイルも豊富だ。お腹より心が楽しみで空いている。

 

「────、また明日ね」

 

 立派な門の前でさよならする。ハグなんて海外式はここではやれないので、可愛い彼女ちゃんの両手を握ってその額に軽くこっちのもコツンと当てるぐらいだ。寂しそうで物足りなさそうで、それでも少女のように幼く愛らしい笑い声を出した。それがまたとてつもなくかわいくてそのままグリグリすると、楽しそうにやり返された。

 

 二十秒ぐらいしてなんとか離れる。これ以上続けると動けなくなってしまうので離れたくないということ聞かないもう片方の手をポケットにねじ込みながら、さようならと口に出した。そして足を後ろに動かしてここから帰ろうとする。

 

「───」

 

 名前を呼ばれてしまったので、戻ってしまう。

 

「あのね」

 

 緊張しているのか、いつも良く回る舌がたどたどしい。声自体も不安定だ。それでも聞き取りやすく好きな子の声なのでいつでも聴いていたい。が、聞いていたら恐ろしくまずいのではないかという、邪気さがある。

 

「今使ってもいいんだよ?」

 

 と、キーケースを入れている方の裾を軽く引っ張ってきた。もらってからずっと握りしめながら手ごとポケットに封印していたってのに。

 

 ()い。大変にまずい。封印てのは解いちゃまずいんだ。悪いものが悪さしないようにしているものなんだから。開けちゃだめって開けた童話とかの結末はろくでもない。封印されていた悪いものが大喜びするだけのバッドエンドだ。

 

 そうなんだけど。俺が足を戻すのは、前か後か。

 

 誰でも分かっちまうだろうね。

*1
よくもまぁ、これだけ我慢したものよね?

*2
褒められたもんじゃないけど




グッドエンドです




ハッピーエンドは自サイトの方で読めます。(ゲームブック方式です)読みたい方は私のユーザーページのリンクからお飛びください。


※手書き風テストその1(製作者 りけん様)を使わせていただきました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。