大正弾丸論破 (鹿手袋こはぜ)
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序章 火種蒔く人
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 I (must) be scared.

 

 

 

 1

 

 

 

 文句のつけようがないほどに、辺り一面は海だった。島などは見えず、いま彼が乗っている船以外に人工物だなんて端っこも見えやしない。黎明の夜明けを迎えつつある空と海原の境目は、太陽が上がるにつれ次第にはっきりとした線を浮かばせる──それだけが、ほんの僅か、この海原に与えられた変化であった。

 船頭の手摺りに身を預けながら、生臭く、そして冷たい潮風に散髪したばかりの短い髪をなびかせて、果てが見えない溟海に耳を傾ける。そんな彼の奇妙な様相は、数時間前からずっと続いていた。

 夜か朝か。そんな、どっちともつかないような曖昧な時間帯だった──風景に溶け込んでしまいそうなまどろみの感覚を、彼は慣れたようにその身で感じていた。

 

「あら。部屋にいないと思ったら、こんなところにいたのね」

 

 不意に彼は後ろから声をかけられ、希薄になった意識の形を取り戻す。

 物憂げに振り返ってみれば、そこにはゴシック調のコートを着込んだ少女が立っていた。煌びやかな化粧はしていない質素な格好ではあるものの、しかし高貴さが感ぜられるその立ち姿は、そんな格好も手伝っているのだろうか、寂れた船の甲板には不似合いだった。

 甲板を踏みつける、硬い靴底の音が彼の背後に近づく。やがて少女は隣に立ち、真似るように手摺りにもたれてから、囁くような声で彼に告げた。

 

「もうすぐ着くみたい。彼ら、どこ行きかまでは教えてくれなかったけれど」

 

 そう言いながら、少女は彼との間をにじるように詰めた。肩と肩とが触れ合うか否か、といった距離にまでだ。

 背の低い彼は、背の高い少女と肩を並べることで、よりその小柄さが際立つようだった。そのことに彼は、大した反応は見せないでいた。

 彼女と身を寄せることに特別な感情を抱くことはできないだろうと、彼は漠々とした意識のなかで確信していたのだ。

 彼にはなにかを美しいと思えるような感性がなかった。だから少女に対して抱く感情を、うまく表現できずにいた。それは不幸なことではないだろうが、しかし少女からしてみれば不満でしかない。もっとも、それすらもいじらしく、愛おしいのかもしれないが。

 

 そして彼は彼でまた慣れない格好をしていた。少女がそのゴシック調に仕立てられた服を好んで着ているのとは異なり、彼が着ている服は無理やり着させられたものだった。

 胸元は空気が入るような隙間もないほどに窮屈で、パリッとしたカッターシャツは彼にとって着心地の悪い拘束衣のようなものでしかなく、そこに未来への希望であるとか、胸いっぱいの夢なんてものは詰め込まれていなかった。

 あるのはただ、喘ぐような息苦しさだった。

 

「これについては、なにか言ってましたか」

 

 彼は首まわりを覆う金属製の輪っかと、そこから伸びた太いケーブル。そしてそれに繋がる歪な形をしたトランクを指して吐き出すように言った。息もやっとというほどだった。

 親切に取手まで付けられたトランクは持ち運ぶことを前提に設計されたもののようだが、重量はそのコンセプトにそぐわないと彼には感ぜられた。

 

 これは彼の所有物ではない。この船上で目覚めた時から既にあった、身に覚えのない代物だ。

 トランクであれば開けることもできそうなものだが、いかんせん鍵がかかっているようで、無理矢理こじ開けでもしない限り中身を確かめることは不可能らしかった。鍵穴はついていたが、そこへ差し込む鍵に心当たりはなかった。

 怪しいことこの上ない首輪とトランクは、前述したように太いケーブルで繋がれていた。鎖でなく、わざわざケーブルで繋いでいるというのなら、それには意味があるはずだと彼は考えた。

 

 そういった思考は彼の得意分野でもある。自然と、その答えは浮かんできた。

 おそらくはこの首輪を無理にでも外そうとするか、あるいはこのケーブルを切りでもすればなにかが起こるのだろうと冷静に推察することができた。

 大抵ケーブルというものは電気を通すもので、となると首輪とトランクは電気が通い合っているということになる。なにかしらの仕掛けがどちらか、あるいは両方に存在しているだろうというのは明白であった。

 ケーブルを切ればなにが起こるのか。そんな危険なことを試そうとするほど命知らずでもなかったのでなにもしないでいたのだが……彼の質問に対する少女の「乱暴に扱うのは良くないでしょうね」という答えからして、推察から導き出した答えは概ね当たっているだろうと思われた。

 何気なく発せられた少女の言葉に、彼は事もなさげに「そうですか」と返した。

 そんな彼の素っ気ない態度にますます惹かれるように、少女はこれ以上縮みようのない距離をさらに縮めようとする。物理的にも精神的にも、二人の関係は十分煮詰まっているというのに。

 

 しかし、金属製の首輪とはなかなかに趣味が悪い──まるで犬につけるもののようだと思い、彼は指先で首元を気にするような仕草をしつつ少女に尋ねた。

 

立竝(タツナミ)さんの個人的な趣味で、僕が寝ている間につけたとかじゃないですよね」

「まさか」

 

 立竝と呼ばれた少女の首にもまた、彼と同様に首輪が取り付けられてある。

 それを主張するかのように、少女は洗練された動きで髪をかき上げ首元を晒したあと、「私なら首だけとは言わず、足や手にだって同じ輪をつけるもの」と続けて言った。

 

(悪趣味な人だ)

 

 それっきり、彼は首輪やトランクに対する興味を手放した。

 乱暴に扱わない方がいいという大雑把な説明で納得してしまえるほど、彼は愚かな人間ではない。ただ同時に、分からないものを分からないままにしておける人間だった。

 今はどうしようもないのだからとトランクに対する謎は捨て置き、視線を、水平線の向こうへと戻した。今度はただ眺めているのではなく、明確な意思を持って、その先を見据えていた。

 

「悪趣味なのは置いといて」

「? 悪趣味?」

「いえ、立竝さんとは関係のないことです」

 

 彼女の顔を見ることが酷く恐ろしいように思われたので、首を動かさずに、気を紛らわすように息を吐いた。

 

「──見えてきましたよ」

 

 彼が指さす先には、影が見え始めていた。

 その影は決して大きくはなかったが、だがしかし小さいわけでもない。おそらくは島だろう。他に陸地らしきものは見えなかったため、どうやらそこは孤島のようだと推測できた。

 建物や塔のようなものが形を現し始める。暗がりの中を照らすように光をたたえる灯台が、霞の向こうに見えた。

 

 

 

 2

 

 

 

「朝起きたら船の中にいて、それで、兵隊さんに車に乗せられて……」

 

 心ここにあらず。そんな言葉が似合うぼんやりとした目の彼女は、弱々しく(つぶや)いた。

 下船後、なにも知らされないで車に乗せられた彼女にとっては、車窓から見えた後ろへと流れて行く景色が、まるで今の自分を暗示しているかのように感ぜられた。

 わけも分からないままに、得難い過去が過ぎて行く──自分がいるべき過去に、そこに自分はおらず、迎えたくもない未来が前から後ろへと流れて行くような……そんな孤独と不安を感じていた。

 

 胸が締め付けられるような鬱屈とした気持ちが目覚めてからずっと続いていた。

 そんな負の感情を少しでも和らげようと、今朝から起きた一連の出来事を口に出して確認し現状把握に彼女は(つと)めたが、しかしそれでどうにかなるような常識的な出来事はどうにも起きていないらしいと気付いたあたりから、口は閉ざしてしまった。

 なにせ誘拐だ。

 希望ヶ峰学園という、自己評価だけは一丁前な無名の学校に入学するためわざわざ日本へ帰ってきたというのに。迎えにと学園側から寄越された車に乗り込んだ途端、彼女は眠らされてしまったのだ。

 迂闊だったと、今になって思う。ここ数十年地上戦が行われていない比較的平和な土地──そして母国──ということで、少々気が抜けてしまっていたのかもしれない。

 そもそも、彼らの宣伝文句、謳い文句はあまりにも夢見がちなものだった。曰く、未来への希望を育てる学校だとか、才能を持つ若人たちを集めて最先端の教育を図るだとか。

 今の時代、女学生というのは少なくない。留学生だって多くいる。そのじつ彼女もまた外国に留学していたのだから、学業に励みたいと思うのなら希望ヶ峰とかいう意味の分からない学校である必要はなかった。むしろ外国の方がより良い教育を受けられただろう。

 ……数ヶ月前の、興味本位で身を乗り出した自分を責め立てる。

 今となっては過ぎたことだが、自分らしくもないと、後悔や懺悔の気持ちが入り混じった様子で涙を拭った。

 

(わたしは……これから、どうなっちゃうんだろう)

 

 さっきは軍服姿の男を兵隊さんと呼んだが、それすらも正しいことなのか怪しく思える。

 身体を激しく揺らす荒道と、車輪を動かすエンジンの轟々とした駆動音が、彼女の頭に重くのし掛かる負の感情を増幅させる。

 

 今の彼女に分かるのは、せいぜい坂道を登っているということくらいで──いや、それだって、あまりにも気分が悪いため平衡感覚を失っているのではないかと、そう錯覚してしまうほどに彼女は追い詰められていた。

 現に彼女は、うなだれるように背を曲げ、頭を抱えていた。

 だが、今のままじゃなにも解決しないと考えたのか、怯えが混じる顔を上げて彼女は声を張った。

 

「ぁ、あのぉ」

 

 激しい揺れに振り落とされないよう前の座席にしがみつきながら、車を運転する男に声をかけたが──エンジンの音にかき消されてしまったのか、返事はなかった。

 肩を叩こうにも後部座席と運転席の間には金網があり、指の一つも差し込むことできないだろうということは、試すまでもなかった。

 

「あっあのう!」

 

 先ほどよりも大きく声を張り上げるが、運転手は反応を示さない。こんなに大きな声が聞こえていない、ということはないだろうに。

 

「…………」

 

 再度うなだれるように腰を落として、彼女はエンジンの音が止まるのを待った。

 こういうことはよくあることなのだと。そう自分に言い聞かせることで、ようやく彼女は現実からの逃避に集中できた。

 しばらくして周囲が静かになるのを感じ、ゆっくりと顔を上げ、周囲に視線を巡らす。運転席の男はいつの間にか消えていた。

 

「んう……」

 

 ぼうっと、自分のほかに誰もいない車内を見渡す。

 エンジンは既に止まっていて、車も動いていないからか、嫌というほどに車内は静かだった。

 嵐の前の静けさ、というのだろうか。嫌な予感が募り、夜更の風がやけに冷たく感じられた。

 

 降りた方が良いのかもしれないと、薄暗い車内に散らばった私物をかき集め、腰ほどまでの高さがある旅行鞄を担いで車外に出ようとした──のだが。

 

「うぐっ」

 

 外へ出ようとする彼女を引き止めるように──あるいは、これから起こる悲惨な出来事に彼女を向かわせないよう──なにかが彼女の首を強く締め付けた。

 おさげを誰かに掴まれたのだろうかと、後ろ髪を恐る恐るたくし上げてみるが、まるで不自由なく三つ編みは宙を舞った。

 いったいどういうことだろう。いまだ、首にある違和感は消えない。

 そもそも引っ張られている箇所は首なのだ。近いとはいえ、この痛みの発生源が自分の後頭部にある三つ編みではないだろうというくらいは、冷静に考えてみれば分かることだった。

 

 一度、旅行鞄を下ろして、彼女は首元に手をやった。すると冷たい金属の感じがあった。それは輪のような形状で首周りをぐるっと一周しているらしく、待雪にはまるで覚えのない代物だった。

 しかもその首輪からは太いケーブルのようなものが暗い車内へと伸びていた。ケーブルの先を手繰り寄せようと引っ張ってみたが、少したりとも動かない。

 

「……はあ」

 

 嘆くように空を見上げた。白みがかった夜空は雲一つなく透き通っていて、星もまだよく見える。北の空で北斗七星が一際輝いているのが印象的だった。

 

 ひとまずこの首輪がなんなのかを知らなければならないと考え、車内へ伸びるケーブルを辿り、座席の上を四つ足で這っていく。するとそれは大きな──それでいて歪な形をしたトランクに手が当たった。

 持とうとしても、きちんとした姿勢で踏ん張らないとまともに持てそうもない。中身がずっしりとした、とにかく重たいトランクだった。

 

「……なんだろう、これ」

 

 よく分からないものには触らないほうがいい。

 しかしどうやら、彼女につけられた首輪とトランクは太いケーブルで密接に繋がっており、取り外そうと力を加えても、首輪とトランクはまるで外れる気配がなかった。

 ケーブルを切り離そうかとも考えたが、そんな考えもすぐに放棄してしまうくらいに頑丈そうで、ハサミでだって切れそうにないほど太く重い。

 つまり、この車から離れどこかへ移動するためには、トランクを持ち運ぶ必要があるらしかった。

 

 力に自信はあったが、私物がたくさん詰め込まれていて見た目相応に重くなった旅行鞄だけならまだしも、ただただ重いだけのトランクも一緒に運ぶとなると、流石にキャパオーバーというものだった。

 いや──やはり、ただ重いだけなら問題ではなかったかもしれない。引き摺ってでも運んでやればいいのだと、そんな野蛮な考えだってないことにはなかったし、できないわけでもなかった。

 実際、重いといってもあくまでトランクだ。持ち手は付いてあったから、持つこと自体は苦ではなさそうだったし、先ほども言ったが、彼女は力には自信があったから、最初は不安定な姿勢でトランクを掴んだため少し拍子抜けしたが、肩にでも担いでやれば軽々と持ち運ぶことができるだろう。

 そのたおやかで細い腕のどこからそのような力が生まれるのだろうかと思えるほどに彼女は力持ちだから、やはり重いものを運ぶことに関して心配は無用というものだ。

 

 けれども、なにが入っているのか分からないものを運ぶことに、力の有無はまるで関係のないことである。

 力があろうとなかろうと、その危険性は変わらないからだ。

 もし、ピンの抜かれた手榴弾が入っていたら?

 もし、ガソリンと火種が入っていたら?

 ありえないことばかりが続いていた彼女にとって、それは可能性のある話だった。中身が確認できない以上、どうしても否定できない。

 けれども、移動するためにはこの正体不明なトランクを持ち運ぶ必要がある。

 そんな矛盾が、彼女を悩ませた。

 ましてや彼女は寝起きの状態で、荒道を車で駆け上がり、脳を揺らされていたのだから、黄身を攪拌させたような思考回路で状況を判断するのは無理があったし、そのうえ怯えや不安で感情の器が溢れそうになっていて、正常な判断もできそうになかった。

 幾度となく稚拙な煩悶が繰り返される。

 年頃の少女らしい混乱の仕方だった。

 とにかく一度落ち着くことが大切だろうと、車内に重苦しく鎮座した正体不明のトランクを車窓付近にまで引き寄せ、車外に出てもある程度は動き回れるような余裕を確保した。

 せめて、気軽に外の空気が吸えるようにしたかったのだ。

 その間、トランクに怪しげな様子はなかったが、代わりに時計の長身が絶えず時を刻むような音だけが規則正しく流れて続けていた。ただそれは強い潮風の音に混じり、彼女の耳にはほとんど届いていないようだった。

 

 首に引っかかりを感じることもなく半自由の身となった彼女は、車外に出てから大きな伸びをした。もうじき春であるとはいえ、風に触れる肌が凍てつくような寒さだったが、それはぐちゃぐちゃになっていた意識を元ある形に戻してくれた。

 

 切り揃えられた長い前髪の奥から、ぼうっとした目で水平線を眺める。

 夜更けの空に朝が近づいているらしかった。太陽はまだ見えないが、じきに日の出を迎えそうな、そんな赤い空もまた一方の海では広がっていた。

 海を背にして後ろを見ると、今いる土地の様子がよくわかる。

 ツタの絡んだ幾重もの金網が堅牢な雰囲気で彼女を取り囲んでいて、四方の隅には監視塔のようなものがそびえ立っていた。

 ここは島の中でも一番の高台なのだろう。金網越しにではあるが、広大な海原と真っ直ぐな水平線が嫌というほどよく見えた。空も海も空っぽで、視界はただ二色に染まる。薄気味悪いとすら感じてしまった。

 

「…………」

 

 あまりにも開放的なものだから自由になった気持ちでいたけれど、しかしよく見てみれば、いま彼女がいる場所から望める四方すべての彼方には海が存在している。

 今朝は突然眠りから起こされて、そのうえなにも分からないままに船を降ろされたから、そのときはここが孤島であると考える暇もなかったが、今になって海に囲まれた自分に逃げ場などはないのだということを気付かされた。

 

「……島?」

 

 呆気に取られながらそう言った。それは思考の逃避でもあった。

 少なくとも、どこかと地続きになっているようには見えない。だというのなら、ここはいったいどこなのだろうか。降って湧いたような疑問に……ふと口に出した独り言に、答える声があった。

 

「島ですよ。名前までは分かりませんけど」

 

 唐突に後ろからかけられた声に、ほんの一瞬息が詰まるのを感じた。

 誰か、いたのか。さっき露骨に自分のことを無視してきた運転手だろうか。でもいま聞こえた声は男の声ではあったが、大人びた印象はなく、むしろ若者のようである。酷く落ち着いていて、達観しきっているような様子で──それでも幼い印象のある、声変わりを終えたばかりのような低い声。

 背を向けたまま話すという器用な真似はできないため、話の通じる相手なら良いのだけれどと、ぎこちない動きで彼女は後ろを振り返った。

 そこにいたのは二人組みの男女で──最初に思ったのは、なんだかアンバランスな組み合わせだなということだった。

 

「……誰、ですか?」

 

 突然現れた少年少女の二人組に、不安で満ちた目を向ける。ただ、恐れをなしてか直接目を合わせることはできず、忙しないまま右往左往と視線は揺らめいていた。

 

「誰って……ああ、初対面なんだっけ……」

 

 と彼は静かな声で言い、続けて自らの名前を告げようとする──がしかし黙っていられなかったのか、彼の後ろにいる少女が割り込んで口を開いた。

 丁度車内から出てきたところらしく、旅行鞄と歪な形をしたトランクを両手で引っ張っていた。

 彼女はその歪な形をしたトランクに見覚えがあった。それも記憶に新しく、首元に残る苦痛の感触は未だに消えない。

 

「──っと、ごめんなさい。私から紹介させていただいても構わないかしら。……なにぶん彼、誤解を招きやすい性格なものだから」

「……構いませんけど」

「よかった。それじゃあ私から自己紹介を」

 

 こほん、と咳払いをし、輝くような表情で少女は語らい始めた。事前に文を用意していたのではないかと思えるほどにスラスラと出てくる言葉を、彼女は混乱の中で聞いていた。

 

「私は澪標(ミオツクシ)立竝(タツナミ)といいます──彼の保護者みたいなことをしているわ」

「は、はぁ?」

「保護者よ、保護者。その文字の通り、保護する者。……彼、私がいないとダメダメなの」

 

 澪標と名乗った少女に対する不信感が彼女の中では高まりつつあったが、それを知ってか知らずか、他人などお構いなしといった態度で澪標は言葉を重ねた。

 本題に入るというよりも、ただ必要なタスクをこなしているだけというか──悠然とした態度ではあるけれど、しかしどこか急いでいるように見えたのが印象的だった。

 

「このトランク」

 

 と澪標は地べたに置かれた歪なトランクを指差した。

 その重さは澪標の手に余るのだろう。持ち上げずにただ指さしていた。

 

「これが危険なものかどうか判断しかねているのなら、それについて心配はいらないわ」

 

 悩んでいたことをピンポイントで話題に挙げられ、内心驚く。後ろめたいことなどなにもなかったが、しかし悪事がバレて罰を恐れる子供のように、彼女はひっそりと冷や汗をかいた。

 

「これは危険なんじゃないかって、あなた、思い悩んでいるんじゃないの? ……ええ、きっとそう。誰だってそう考えるはず。……でもね、ちっとやそっとじゃ大ごとにはならないわよ」

 

 自身ありげに澪標は胸を張る。得意げな態度がここまで似合う人というのも、そういないだろう。

 

「このトランクが危険なものであることに違いはないでしょうけれどね。ただほら、ここに来るまでの道中、車の中であれほど強い衝撃を与えられていたのに異変一つ起きなかったんだから──だから、たかだか歩く程度の揺れで、おかしなことにはならないと思うの」

 

 それはもっともな意見だった。

 確かに、あの車の揺れに晒されてもなお異変は起きなかったのだから、振動には強いはずだ。

 

「な、なるほど……」

 

 解決策というか、ひとまずこの場を凌ぐための安心を得て、車内に置いたままのトランクの取手に手をかけた。やはり重たいが、粗雑に扱っても問題はないと思うと、心なしか軽いようにも感じる。

 とはいえ重たいことに変わりない。足腰が強いとはいえ憂鬱になってしまいそうなほどの重たい荷物を抱えて、彼女はようやく本質的な意味で外に出ることができた。

 トランクに対する不安はかき消せないままだったが、それも幾らかマシにはなっていた。

 

 そうして外に出て、もう一度うんと伸びをして開放感を噛み締めていると、澪標ともう一人の少年が、立ってこちらを見ているのに気付いた。

 つい伏し目がちになって動きを止める。なんだかこういうのは苦手だと唇を噛んだ。

 二人に向かって軽い会釈をし、それから背を向け、この場を離れようとした。すると後ろから「待って」と声をかけられた。

 

「……な、なんでしょうか」

 

 おずおず振り返ると、澪標は優しく笑って彼女に問いかけた。

 

「訊き忘れていたのだけれど、超高校級という言葉は知っているかしら」

 

 澪標の口から出てきたその言葉に、虚をつかれたようにして彼女は顔を見上げた。出てきた単語があまりにも意外だったからだ。しかし、そんな驚きもすぐに忘れてしまうことになる。

 なにせ彼女は、不可抗力ではあるものの、澪標の顔を真っ直ぐな形で目にすることになったからだ。

 少女の口元は親しみやすい笑窪が作られていて、しかして確かな血筋を思わせる高貴さを帯びている。非常に整った顔立ちであるのが、こんな薄暗い時間帯でもよく分かった。一つ一つのパーツが美しいこともそうだが、それらが美術品のような輪郭の中で理想的な位置に寸分の狂いなく存在しているのだ。過去に訪れたどの美術館でも、これほどに美しいものは見たことがなかった。普通、こういった美人は人形のような表情をしていて面白味のないものだが、しかし少女は違う。

 いかなる彫刻や絵画、骨董品などに目を奪われたことはないが、しかしこのときばかりは後頭部をガツンと殴られたかのように頭の中が真っ白になってしまった。澪標が背負う日の出の光も相まってか、それはまるで後光のようで、神秘的な体験をしているかのような気分にもなれた。

 

「────」

「……聞いてる? 大丈夫? ……ねえ、ききょーくん。この子、大丈夫かしら」

「分かりませんよ。僕は医者じゃないんです」

 

 ききょーくんと呼ばれた少年は、両の手に多くの荷物を抱えていた。澪標が一つの荷物も持っていないところを見るに、きっと澪標の荷物も彼が持たされているのだろう。そのわけは分からなかったし、彼が澪標を慕っているようなそぶりもなかったため(親しげではあったが、しかし仲が良いという雰囲気はない)不思議なものだった。

 

 ようやく彼女は意識を取り戻し、澪標の言った質問の意味について考えが及ぶ。

 こういった風に頭が真っ白になってしまったのは初めての経験で、どうにも今の彼女にはまともな判断ができそうにない。要するに、さっきの状態に逆戻りである。攪拌された黄身のような思考回路。火を通せばあっという間に凝り固まってしまいそうだった。

 

「大丈夫かしら。……もう一度訊くわね。やっぱり、人は落ち着く時間が大切だから──突然のことが続き過ぎていて、あなたは冷静になれていないのかもしれないし」

 

 澪標は彼女のことを嘲るような事はせず、先ほどと全く同じ調子で彼女に訊き直した。

 

「超高校級という言葉を知っているかしら」

「ちょう、こうこうきゅう……」

 

 彼女はその言葉に心当たりがあった。

 あったというよりも、それは自身を指す言葉である。

 超高校級。きっとそれは、希望ヶ峰学園から与えられた肩書きを表す言葉だ。

 この少女はいったいなにを知っているのだろうかと、疑いの気持ちが心の中で生まれる。

 超高校級なんていう言葉は、一般的にはそう使われない──稀に新聞などで見かけることはあったが、だからとはいえ今この場でその単語が主体的に取り上げられているのを偶然とは思えない。

 ひょっとして彼女は、希望ヶ峰学園の関係者なのだろうか……?

 だとすれば今の自分の状況についても何か聞き出せるかもしれないと、そんな一縷の希望を言葉に込める。

 

 少女とは言え歳上のように思われたので、彼女はどもりながらも丁寧な敬語で質問に答えた。

 

「は、はい。……その言葉は、知っています」

「そう。なら話が早いわね──きっとあなたも、希望ヶ峰学園に向かう途中だったのでしょう?」

「っ……はい」

 

 向かう()()だった、ということを出会って数分の少女に言い当てられ、彼女はさらに動揺の色を露わにする。

 澪標はと言えば、彼女とは違って情緒豊かに話し、身振り手振りを加える余裕までもあるようだった。

 

「なら良かった──いえ、良くはないんでしょうけど」

 

 そう安堵したように呟いて、澪標はにこりと笑った。

 

「あらためまして。私は、超高校級の令嬢という肩書きを与えられています。澪標(ミオツクシ)立竝(タツナミ)と言います。……名字くらいは聞いたことがあるんじゃないかしら?」

 

 澪標──そうだ、その言葉を彼女は聞いたことがある。

 それは日本における数少ない財閥家系の中でも特に群を抜いて巨大な規模を誇る、世界においても指折りの家系であったと彼女は記憶していた。財閥と呼ばれるその形態は、日本のありとあらゆる事業に根を張っており、彼女もまたその折に触れたことがあった。

 確か外国に渡航する際に乗った船は、澪標財閥の所有する船だった記憶がある。

 そのうえで超高校級の令嬢ということはつまり、少女はかの澪標財閥の御令嬢であるのだろうか。

 

「そうそう、彼の紹介がまだでしたね。彼の名前は雲隠──」

「自己紹介くらい自分でできますよ、立竝さん。……僕は、超高校級の機械技師の雲隠(クモガクレ)伎京(キキョウ)といいます」

「気軽に名前で呼んでもらって構わないわよ。今の時代、人と人との間に貴賎はないもの」

 

 超高校級の令嬢に、超高校級の機械技師。

 一見関連性のなさそうな二人だが、どこか親密な雰囲気を感じて彼女は少し戸惑った。

 財閥の娘とただの機械技師にどのような接点があるのだろうか。どんなところでだって出会いそうにもない二人である。

 ……それにそういった背景を鑑みずとも、背の低い雲隠と、彼よりも遥かに上背な澪標──背の高い澪標が隣に立つことで雲隠はより小さく見える──の二人組は、彼女には異様であるように感ぜられたのだ。

 とにかくアンバランスで、ちぐはぐな二人だった。そこだけ世界が異なっているかのような──まるで異界に足を踏み入れかけたときのような、そんな感触を覚える。

 おそらくは主人と従者という関係性なのだろうと二人から見受けられる印象を整理していると、ふと彼らがなにかを待っていることに彼女は気がついた。

 ……ひょっとして二人は、自分の自己紹介を期待しているのだろうか。

 失敗した、と口元を歪ませて、慌てたように目を見開く。焦りから呂律は上手く回らず、口も十分に開かなかったが、それでもなんとか言葉を発した。

 

「すっ、すみません……! わ、わたしはっ、超高校級の料理人の、待雪(マツユキ)……(カオル)です。……よろしくお願い、します」

 

 彼女──待雪薫は口ごもりながら、そう名前を告げた。

 長い前髪の奥からちらりと二人の様子を窺う待雪は、矮小で臆病な存在だった。

 それを見て澪標は嬉しそうに笑い、はっきりとした口調で快い言葉を返した。待雪とは真逆の振る舞いであった。明るく、朗らかで、その笑みは自信に溢れていた。

 

「ええ。よろしくね、薫さん」

「よろしく、待雪さん」

 

 二人から、手を差し伸べられたような気がした。

 気がしただけで、本当に手を差し出されたわけではない。

 ……それは払い除けることも、あるいはそう、受け取ることだって、待雪にはできただろう。

 

「よろしく……お願いします」

 

 手を取ることはしなかった。易々と決めていい選択ではないと感じられたのだ。

 イメージとして思い浮かんだその手を掴むことはなく、ただ保留といった形でその場に留めた。




【超高校級の〇〇】
 大正時代に高校があったのかどうかを調べてみると、随分とややこしいことばかりが書いてありました。はっきり言ってよくわからん!
 明治から大正初期の高校生ってマジでエリートばっか! 成績良ければ帝国大学(現東京大学)にエスカレーターで行ける……みたいな、ようは高校のお受験が一番キツイ時代だったんすね。というのも、高等学校というのは大学の予備教育機関(付属高校みたいな感じ)というエリートを育成するための場所だったんです。大学というのは当時数少なく、卒業者はだいたい官僚になるみたいな、そんなところ。
 ただ、大正後期から徐々に門戸が拡げられ、大正弾丸論破作中ではもう少し難易度の低いものになっている(っぽい)。地方にも高校が設立されたり、エリート養成という目的だけでない普通の教育機関としての高等学校も誕生したりと、いろいろ。(それでも今と比べると、高校の数はすごく少ない)。
 それから現代のような小6中3高3のような形でなく、さまざまなパターン(七年生高校など)もあり、高校生といえど一様に同じような年代とは限らないのが不思議なところ(そして私は詳しく調べる元気がない)。
 まあ現代の高校生と同じ年頃の青少年らが殺し合いに巻き込まれたと考えてもらって結構です。上に書いてあることは、そんなに重要じゃないです。ちょっとこのキャラとこのキャラ歳の差離れてるな……と思っても、時代だからということで一つ。

【孤島】
 その名の通り孤島。
 本島からは遠く離れた場所にあり、泳いで帰るなんていうことはまず不可能。とはいえ日本の領域内であることは確か。
 週に何度か船がやってきて、その際に食料などを搬入している。
 島の地形はアルカトラズ島を想像するとイメージしやすい。建築物が異なるだけ。
 沖木島ほど大きくはない。


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002

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 この人はなにを言っているんだろう……痴呆じゃあるまいし……。

 

 

 

 1

 

 

 

 高台の平地は三メートル近い高さの金網で囲まれていた。種目も分からないような背の高い雑草がそこかしこに生い茂っていて、金網から少し離れたところでは細い木が点々と立している。道端には花もいくつか咲いていたけれど、けっして鮮やかなものではなく、かえってそれはこの島の虚しさを際立たせていた。

 芝生が敷いてある広場やレンガで舗装された道が平地には存在していて、人の手が加えられている痕跡はそこかしこに見られたが、ただそのどれもが古び寂れていた。

 

 そんな暗い土地で一際異様に目立つのは、周囲の外見にそぐわないポツンと孤独に建っている洋館であった。どうやら近代に入ってから建てられたものらしく、特徴的な和洋折衷建築の形式をとっていた。レンガを積むことで基礎を固められており、屋根や柱などは木造建築のそれだ。アーチ状になっている窓枠もいくつか見えた。

 こんな孤島には場違いな建築物で、どこか外国の島にでも連れてこさせられたのだろうかという嫌な考えが浮かぶ。あり得ないとは言い切れないのが辛いところだった。

 

「これからどうしましょうか」

 

 天を仰いで、澪標は言った。

 

 船に乗せられこの孤島にやってきたが、その道中でなんらかの指示を与えられたり命令を受けるようなことは一度としてなかった。むしろ待雪らは、居ないもののように扱われ、放置されていたくらいだった。車内で運転手が待雪の問いかけに答えなかったのもそうだろう。彼らは徹底して干渉を拒んでいるらしい。

 だからこそ、彼女らは行先を見失う。

 海原にポツンと浮かぶ島に個人的な事情や目的など待雪にはあるはずもなく、どうすればいいのかも分からぬままに、ただ立っていることしかできないでいた。なにもしなければきっと死ぬだろう──だがなにか行動を起こせば今の状況が改善するとも思えない。悪化することだってあるのだから、なかなか彼女は行動的な一歩が踏み出せないでいた。

 

「せっかくだから、他に誰か人がいないか探してみましょうか。少なくとも、私たちをここまで連れてきた運転手くらいは見つかるでしょうし」

 

 さきほどからずっと口をつぐんでいた待雪を見かねてか、澪標は励ますようなそぶりでそう言った。

 待雪はそれに、緊張の混じった怯え声で答える。

 

「そっ、そうです、ね……っ。あ……あそこなんて、どうでしょう」

 

 待雪の目線の先には、洋館があった。

 平地を挟んだ向こう側にあるその建物の他に人気(ひとけ)のありそうな場所はこの金網の内側にはなかったから、待雪は誘われるようにその建物を選んだ。

 

 金網の外にだって建物はあったけれど、そのどれもがコンクリートで作られた堅牢な雰囲気がある近寄りがたい場所で、人はいそうだったけれど、しかしそう容易く立ち入れそうにない場所だった。

 あれはいわゆる監視塔というものだろう。その建物と待雪らとの間には背の高い金網があったから、訪ねようにもそれは不可能であった。

 柵は三メートルという高さがある。金網なのだから、足を引っ掛けることもでき、体力や筋力のある者であれば乗り越えることだってできるかもしれない。ただ、今の彼女らには平生と違いトランクがあった。異様に重いトランクを首に繋がれて、三メートルの金網を超えられる人物はアスリートといえどもそういないだろう。ある意味ではこのトランクは、移動を制限するための拘束具としての役割も果たしているのかもしれなかった。

 

 ひとまずの方針として白羽の矢が立てられていた洋館の玄関ホールに辿り着くと、待雪は両手を塞いでいた旅行鞄とトランクの二つを静かにその場に下ろして、肩を使った深い深呼吸をした。

 

「いったい、なんなんでしょうね。このトランク」

 

 それは気を紛らわすための独り言のようなものだった。ただ、澪標や雲隠と交流を図ろうという意図も少なからずは含まれていて、超高校級の機械技師である雲隠ならばなにか分かるかもしれないという期待もまた、ないわけではなかった。そんな待雪の思いを知ってか知らずか、内容は伴わないものの雲隠は疑問に答えた。

 

「このトランクからは微かに音が聞こえます。ですからなにかしらの機械が組み込まれているのは間違いないと思いますよ。どういう仕掛けなのかは開けてみないと分かりませんが……」

 

 雲隠はトランクを見下げながらそう言った。開けることは危険なのだと、彼は言いたいようだった。

 

「なるほど……」

 

 確かに、耳を澄ませば秒針のような音が聞こえた。それは風の中で柔らかに時を刻んでいた。不気味だが、しかしそれは変わりなく一定のリズムを保っている。どくんどくんと刻まれる拍動のように、ゆったりとしたリズムが流れていた。

 

 三人の間で言葉が交わされることは幾度かあったが、そのすべてが長くは続かない短いものだった。待雪がこと人間関係において素人以下の能力しか発揮できないのも大きな原因ではあったが、おそらくは既知の仲である澪標と雲隠との間で会話がないに等しかったのも要因の一つとして挙げられるだろう。

 朝早い時間だから元気が出ないのかもしれない。あるいは、重いものを担いでいて話をしている余裕がなかったのかもしれない。少なくとも待雪は後者だった。

 

 待雪は荷物の重さに溜息が出るようだったが、澪標と雲隠の二人に自身との共通点を見出し、出会ったばかりの頃と比べていくぶん冷静にはなれているようだった。

 どこをどうとったって共通点なんてなさそうな三人だが、しかし強制的につけられていた金属製の首輪と歪なトランクの異様な存在が、皮肉なことに、初対面の彼女らに協調性にも似た仲間意識を抱かせた。

 

「立派な建物ね。レンガ造の建物は頑丈だって、絵本で読んだことがあるわ」

「……ところどころ朽ちてはいますけど、藁や木よりかは頼り甲斐があるかもしれませんね」

 

 近付くと、より建物の様子が鮮明に伝わってくる。補修を幾度か重ねているのだろう。セメントを塗り込んだような薄汚い白色が壁の端に見えた。

 正面の観音扉を開くと、大きな玄関ホールに出た。そこからは左右に廊下が伸びており、たくさんの扉があるのが見えた。画一的なそのデザインからして、同じような部屋が連なっているらしい。数にして十数といったところだ。

 

 そして彼ら三人が玄関口に到着したのを見計ったかのように、錆び付いたラジオのようなノイズ混じりの音がどこからか聞こえてきた。

 

《──、──────、────、────》

 

 それが人の声なのだと気付く頃には、既に放送は途切れていた。待雪は困ったように眉を下げて、二人の方を振り返った。

 

「体育館という言葉は、なんとか聞き取れたんですけど」

「体育館……どこにあるんでしょうね、それ」

 

 澪標は非常に落ち着いた態度で肩にかかった髪を払った。令嬢たるもの、どんな時でも毅然に振る舞うというのだろうか。あるいはそう、あまり現状を危険視していないようでもあった。

 外側から見たときに体育館らしき場所は窺い知れなかったため、なにか地図のようなものはないだろうかと三人は玄関ホールを調べた。すると左右に繋がる廊下の他に、正面の奥になにやら大きな観音開きの扉があるのを発見した。そこを開くと、円形の広いダンスホールに出た。そこはいくつもの外廊下と繋がっており、いま待雪らがいる洋館とその他の別館とを繋ぐ中継地点の役割をはたしているようだった。

 

 目的の場所はすぐに見つかった。

 ダンスホールを探索していると、先を示すような矢印と共に「体育館」という札が下げられてあったのだ。他にもいくつか渡り廊下はあり、それら付近にも似たような札が下げられていたため、体育館という言葉が罠というわけでもなさそうだった。とはいえ未開の地で、見てくださいと言わんばかりに掲げられていたそれを見て、警戒しないわけにはいかない。

 話し合った結果、罠があったとしてそれでどうなるのだろうかという結論に三人は至った。彼女らを監禁することが目的なら、眠っている間に牢にでも入れれば良かったのだ。それに殺しが目的だとしても、それもまた眠っている最中に済ますことのできる話である。思えばこれは、自分たちは誰かによって生かされているという、心臓を握られているに等しい危険な状態でもあるのだと気付いたが……生きている以上は前に進むしかないのだと、待雪は自らを奮い立たせた。生きているかどうかも、また生きながらえることができるかどうかも、曖昧なものだったけれど、そうしていることで精いっぱいだった。

 

 この中では唯一の男性であった雲隠を先頭に、三人は体育館と思われる場所へ続く渡り廊下を進んだ。

 行先には大きな扉があり、その扉の上には先ほどのように「体育館」とえらく達筆な字で書かれた札が下げられてあった。

 扉を開ける前にそっと耳をすまして中の様子を知ろうとするが、物音一つ聞こえなかった。

 

 怪しみながらも扉を開け中に入ると、そこは体育館というよりもまるで集会所のような場所だった。運動はできないことはないだろうし、申し訳ない程度の設備もあったが、人に使われず埃を被った古物という印象を受ける。

 それもただ古びているのではない。実際、物自体はそこまで古いようには見えなかった。錆び付いてはいたが、壊れてしまいそうなほどに劣化しているわけではなかったから。ただ、そう、人に使われないというだけで、こうも朽ちてしまうものなのだろうかと思わされるような、そんな劣化の仕方をしていた。

 縦にも横にも広々とした空間のある体育館は、外よりも一段と寒いように待雪には感ぜられた。風がないので少しは暖かそうなものだが、それとは別の寒さがここにはあった。悪寒というのだろうか。肌を撫でる不快感に口元を歪ませて、身は寄せるように震わせていた。

 

 体育館には同じ年頃の少年少女が十数人いて、扉から入ってきた三人のことを、彼らは目線を隠すそぶりも見せずに険しい顔でじっと注視していた。視線を向けられることに慣れていない待雪は多くの目を意識してしまい、落ち着きなく指を突き合わせたりしながら、その長い前髪の奥から彼らのことを眺めていた。目があってしまったような気がして、慌てたように目を逸らすということが何度かあった。

 そして気付く。先ほど感じた悪寒というものは、彼らの目線を感じてのものではないだろうと待雪は感じ取った。むしろ彼らだって、同じ心地の悪さを感じていそうなものだった。

 彼らもまた待雪と同じように金属製の輪が首にあり、そして歪な形をしたトランクを持っている。その奇妙ないでたちから、彼らもなにも知らされていないのだろうと、その険しい表情は不安な気持ちを隠すためのものなのかもしれないと思わされた。

 

 しかし不気味である。これほどの人数が揃っているというのに体育館はやけに静かで、遠く離れた人の呼吸が聞こえてきそうなほどに、衣擦れの音すらしなかった。

 すると、そう間を置かぬうちに先ほどのアナウンスとよく似た……いや、今度はもっと鮮明な音声が、体育館奥から聞こえてきた。

 老人のようにしわがれた声は、重みを含ませながら体育館に響く。

 

《──、──。あー、あー》

 

 この場にいる全員の意識がその声の元へと集められた。そして、事もなさげに暗幕の裏から現れたのは、杖をついていてもおかしくないような年配の男性一人と、その人を護衛するように武装し軍服を着ている数人の男たちだった。

 老人は片手に持つ拡声機のようなもので声を出していたが、不要と判断したのか、拡声器を隣にいる軍人らしき男に預けて、一つ咳払いをしてから話し始めた。

 

「諸君、ご機嫌いかがかな。……ふむ、顔色は悪くなさそうでなによりだ」

 

 口元に蓄えられた白い髭を触りながら老人は続ける。

 威圧感のある切れ長の目は、まるで自分たち十六人を一人ひとり値踏みしているようだと待雪は感じて、不快感を露わに口を強く結んだ。

 

「初めに挨拶をしておこう。なにをするにしてもまず挨拶が肝心だ。……諸君はもう、互いに挨拶を済ませたかね? していないというのなら後でするといい。……時は有限だが、かといって、早急に事を進めなければならないというわけでもないのだから」

 

 顔に刻まれた皺がよりいっそう深くなった。怪しげな笑みをほのかに浮かべて、老人は言葉を繋ぐ。こういった笑みの作り方をする老人を、待雪は何度か見たことがあった。大抵そういう人は狡賢く得体の知れないことが多かった。

 

「私は希望ヶ峰学園の創立者である神座(カムクラ)出流(イズル)だ。まずは前置きもないままに、このような辺鄙な場所へ連れてきてしまった無礼を詫びよう。そして、諸君を歓迎しよう」

 

 希望ヶ峰学園の創立者。神座出流。

 待雪にとってそれは、どこかで聞いたことがあるような名前だった。あるような気がするもなにも、待雪が通おうとしていた学園の創立者であるのだから、事前説明で名前くらいは聞いていてもおかしくはないのだが……ただ覚えていようといまいと、彼女の中でそれは重要性の高いことではなかった。それよりも待雪の目を引いたのは、同級生と思われる少女のある行動だ。

 

 神座と名乗る老人が次の言葉を考えあぐねていると、雲隠の前にいた小柄な女子生徒が牛乳瓶の底のように分厚いレンズが嵌め込まれた眼鏡を中指で押し上げながら、片手を上げて奇声を発したのだ。いや、本来それは奇声などではなくきちんと意味の伴った言葉なのだろうが、あまりにも唐突な出来事に待雪は反応しきれないでいた。驚きのあまり、言葉の意図を汲み取ることすらできなかったのだ。

 声変わり前の女児のように甲高い声は、だだっ広い体育館にはよく響いた。この声の主が大変陽気な性格なのだろうということが嫌でも伝わってきた。

 神座なる老人の側に立つ軍人らは警戒するそぶりを見せるが、それを意に介さずに女子生徒は言葉を紡いだ。

 銃口を向けられてもなお怯まずに言葉をまくし立てるその姿は、恐ろしくもあった。

 

「話を遮るようですみません、質問よろしいでしょうか? よろしいですよね? ええはい、ありがとうございます。いやあ、やっぱり私ほどにもなると、質問も顔パスで通っちゃうんですかねえ? かわいいというのも罪でしょうか。いやなに、自己評価というわけではありませんよ? やはりかわいらしさを持って生まれた以上はですね、それを自覚する必要があると思うんですよ。ええはい、自覚です。無自覚な言動が人を傷つけるように、無自覚なかわいらしさというのは、誤解や危険を生みかねませんからねえ──」

「ん」

 

 本題に入りそうにないと、少女の話を遮るように、神座が一つ咳払いをした。

 真っ直ぐな目で少女を見つめているあたり、どうやら質問には答える気があるらしかった。察して、少女もまた気を取り直したように眼鏡の位置を直す。

 

「質問といえば、やはりスリーサイズを訊くというのが鉄則となっているのが世の常ですが……いやあ、世知辛いですよね。世も末といった感じです。なにがいやでこんなくたびれたおじさんのスリーサイズなど訊かなければならないのでしょうか。いやですね、いやですね。需要なんてあるのでしょうか。私のようなかわいらしい乙女であるならばまだしも──」

「…………」

「あっはっは! ジョークですよジョーク。や、あのですね? さっきから空気が重苦しかったので、少しくらい冗談交じりに話した方が質問をされる側も話しやすいのではないかなーと思いまして! ええはい、壱目さんは分かっていますともっ。そういった心理うんぬんは長年積んできた経験でばっちし理解していますっ! もうあと三百文字ほど冗談で埋めれば、場も暖まってくるでしょうか」

「…………」

 

 ……神座出流は呆れるのでなく、また軽蔑したような目で少女を見るのでもなく。──むしろ興味深そうに少女のことを観察していた。まるで孫娘を見る祖父のようにその目は慈愛に満ちていて、薄気味悪いほどだった。

 

「こほん。やはりそろそろ本題に。本当に本命の本質的な質問を」

 

 ぱらり、と少女は手に持ったメモ帳を捲った。もう片方の手には万年筆が握られていて、おそらくは記者のごとく神座の発言を記録するつもりなのだろう。

 その動きはどうにも手慣れていて、彼女の生活の内の一動作なのだと思わされるほどだった。

 

「……今、私たちがこのような場所にいるのは、希望ヶ峰学園の方針なのでしょうか?」

 

 強引な驕りを含んだ前置きの後に繰り出された質問は、思いの外まともなものだった。場所であったり連れてこられた理由を聞くのではなく、学園の方針を尋ねるというのは、経験豊富な彼女らしい賢明な判断であった。

 ただそれは普通の場合にのみ適用される話でもあった。

 

「方針……ふむ、確かにこれは希望ヶ峰学園の方針だ。学園の方針であり、学園が作られた理由にも関わっている。つまるところ、大いなる行動だ。……その話についてはね、君。ちょうど今からするつもりだったんだよ」

 

 そのあと、神座出流は一際大きな声でこう宣言したのだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 2

 

 

 

(この人はなにを言っているんだろう……痴呆じゃあるまいし……)

 

 状況がよく飲み込めていなかった待雪は、そっと周りの人の様子を窺った。

 

 殺し合い。それはあまり聞き馴染みのない言葉だったから理解するのに幾分か時間がかかったというのもそうなのだが、しかし待雪には実感というものがいまいち湧いてこなかったのだ。

 

 人によって反応は様々で、特に変わった様子を見せない人や随分と怯えた顔色の人もいたが、大抵の人はあっけらかんとした──つまるところ、待雪のように状況を飲み込めていない人が多かった。先ほど神座に質問をしていた女子生徒でさえペンを持つ手を止めていた。

 それも無理はない。誰だってそうなる。

 みな殺し合いという言葉を受けて、老人に対し抱いていた疑心を高めつつあるようだった。それは現実逃避などではなく、むしろ正常な判断だろう。

 

「殺し合い……? なんだよそれ。そんなの、他所(よそ)でやりゃいいじゃんか」

「他じゃいけない。諸君でなくては」」

 

 ()()()()()()()()()()

 まるで共通点のない自分たちに「君達」だなんて、そんな一括りにするような言葉はまるで不似合いだと待雪は思った。強いて共通点をあげるのなら、恐らくはみな超高校級という肩書を与えられているのだろうというくらいだったが、しかしそうだとしたらなぜ超高校級と呼ばれるほどに優れた人を失ってしまう可能性が高い()()()()などを望むのだろうか……?

 希望ヶ峰学園は、その名の通り、未来の希望を育てるための教育機関ではなかったのだろうか……? 少なくとも待雪は、事前説明ではそう聞いていた。

 ……まさかこの島は高校生に殺し合いを強要するような狂人が主催しているディストピアではないだろうと、今の状況に対し半分願望のように呆れていたが、しかしその願望に確信はなかった。

 

「いきなり殺し合えと言われてもピンとこないかもしれない。それにやる気も起きないだろう。──なに、そのための準備はしてある」

 

 ただでさえ怪しげな笑みが、より深みを増した。

 

「……ああそれと、学生手帳にも書いてあることだが、特に重要なことをここで話しておこう」

 

 重要なこと。……それは、彼らの命よりも重要なことなのだろうか? そんな疑問はよそに、淡々と言葉は連ねられた。

 

「まず第一に、ここでの共同生活の期限は三十日だ。。期限を過ぎてもなお、ある特定の条件を満たせなかった場合は、今ここにいる全員に死んでもらうことになっている」

「なッ。んなこと、どう考えても人道に反して──」

「この島から出たければ人を殺すしかあるまい」

 

 老人の言葉は妙に真実味たっぷりで、待雪らの間に流れている雰囲気は半信半疑という言葉に尽きた──だがしかし、半分だって信じてしまっている時点で、それはもう信じているのと同じだ。

 寒さと共に、恐怖が足先から忍び寄る。

 

「殺し合いというのは文字通りの殺し合いだ。仲良く三十日の余生を過ごすのも構わないが、諸君は使命があるだろう。互いに互いの命を狙い合うものと心がけておくべきだ」

「このッ! さっきから訳の分からねえことばっか言いやがって──」

 

 神座へと今にも飛び掛かりそうな少年を押さえつける男子らの姿が前方に見えた。軍人らは警戒を強め、少年に対し銃口を向け威嚇していたが神座は気にすることもなく話を続けた。

 徐々に場は混乱し始めていた。待雪は、自分だけはあくまで冷静に努めようと、震える手を袖の奥に隠した。

 

「元気で結構。力があるのは若者の特権だ。だが、勢いだけで無計画に人を殺すのは考えものだよ。ここではそれだけじゃ生き残れない」

 

 少年を挑発するような言葉は、おそらくは意図的に発せられていた。

 

「殺せば生きる、殺せなければここで死ぬ。この島での法はそれだけだが、しかしそれしか見えていない者はきっと生き残れないだろう」

 

 ただ殺せば良いわけではないと、そう言いたげだった。

 前の方で起きている騒がしさがよりいっそう増した。

 

「要するにだ。無差別に人を殺しても、それだけじゃこの島では生き残れない。諸君は誰にも知られることなく、人を殺さなければならない」

 

 待雪は側にいた雲隠と澪標の顔をひっそりと見た。二人ともあまり表情を変えない印象を持っていたから、今のこの状況を受けてどんな反応をしているのか少しだけ気になったのだ。

 ……二人の顔色はそれほど変わっておらず、澪標に関してはこちらに気付いて微笑みを返す余裕もあるくらいだった。

 

「それから、一度の殺人で三人より多く殺すことは禁止されている……誰か一人の手によってあまりに人が死に過ぎるのも考えものだからね。だからね、諸君。今この場で全員を殺して、それで合格ということにはならないのだよ」

 

 神座はまだなにかを話そうとしていたが……このように横暴な話を黙って聞いていられるほど思春期の彼らは従順であることができるはずもなく、そこかしこから不平不満の声が溢れていた。さきほどの男子生徒ほど苛烈を極めるわけではなかったが、しかし言葉を用いた反対意見が多く見られた。

 殺し合いなんてしない。

 早く家に帰してくれ。

 ふざけたことをぬかすな。

 その言葉一つ一つを切り抜いてみるとまるで子供の駄々のようだが、状況が状況なだけにそうやって卑下することもできない。わがままの一つや二つも出るだろう。なんたって、人殺しを強要させられそうになっているというのだから。

 だが抗議の声を上げるのに、彼らは遅すぎた。するならもっと早く──なんなら、推薦状が届いた時点でそれを破り捨てておくべきだったのだ。

 

 半数が抗議する中、もう半数は静観を保っていた。雲隠や澪標、待雪もその中の一人であったが、待雪に限って言えば「どうするべきか分からなかった」というのが素直な心情であった。

 荒れ行く体育館の中で、待雪は訳も分からずにただ立ち尽くしていた。それを見て澪標は「冷静なのね、薫さんは」と声をかけてきた。

 

「いえっ……まだ、状況がうまく飲み込めていないだけなんです」

「そう。でも、私もよく分かっていないし、仕方がないことだと思うわよ。殺し合い……私たちの反応を見たいがための嘘にしたって、もう少しマシな嘘もあるでしょうに」

「なるほどっ……」

「──ッ」

 

 訳も分からないままに頷いていると、突如、鼓膜を引っ掻くような大きな破裂音が体育館に響いた。ビリビリとした空気が頬を撫で、雷撃にも似た痺れが耳奥を貫いた。

 

「……っ」

 

 直後漂ってきた火薬の匂いを嗅ぎ、待雪は状況をすぐさま理解できた。神座を護衛していた軍人が発砲したのだ。銃声とは日常生活を送っていればまず聞くことのない音だ。それは実に非日常な存在であり、いうなれば殺し合いという非日常な事柄を待雪らに理解させるには十分過ぎるほどに適した材料でもある。

 それを行使され、初めて彼らは死を身近に感じることができた。あるいは、強制的に感じさせられることになったのだ。

 放たれた弾丸は誰にもあたることはなく、体育館の床に焦げ跡を残すだけだったが、だがそれで十分だった。

 銃声の後は、誰も声を出さなかった。耳に残響する銃声が、鼻腔を刺激する火薬の匂いが、死の恐怖を色濃く演出していたからだ。

 超高校級と呼ばれるまでに至った賢い彼らだからこそ、今この場で前に出ることは得策ではないと分かっていたのだ。だからこそ、みな押し黙った。

 

「……諸君は希望だ。この日が昇る国において、希望の象徴に成りゆく諸君を、無駄に死なせたくはない」

「…………」

 

 まるで矛盾している。聞いていて吐き気がするような言葉だった。人殺しを強要しておいて、今度は無駄に死なせたくはないと老人は言うのだから……偽善やら悪徳を通り越して、それは反吐が出そうな邪悪に思えた。

 殺し合いというものが、この老人にとっては実に有意義で高尚な存在であるかのように感ぜられて、その狂気さに当てられてか待雪は酷く寒気を感じた。待雪にとっては、匂わなくてもあの老人の危険性が理解できた。彼女の経験上、頭のおかしな奴はああいうことを平気で言ったりしたりするからだ。

 

 とんと静まりかえった体育館の中で、神座は軽く咳をしてから話を再開した。

 

「……諸君も気になっているであろうその首輪とトランクだが」

 

 じろりと、神座はこちらを向いた。

 不意に意識させられる。彼らに命を握られていることを、明確に認識せざるを得なくなる。

 ふと指で首輪に触れてしまった。

 

「首輪とトランクは、乱暴に扱うことはもちろん、コードを切断したり無理に外そうとした場合であっても爆発することになっている」

 

 爆発という言葉に、妙な真実味を感じた。神座という男ならやりかねないと、思ってしまうのだ。そう思ってしまっただけで、既に彼らは敗北していた。

 たとえ小さな爆発であっても、こうも頭に近しいところで起爆したのなら否応なしに死んでしまうだろうことは明らかだった。この首輪は自らの命と触れ合っているのだと考えると、得体の知れないことに対する恐れが形を持って現れ始めた。それらはすべて妄想に過ぎない。だが、神座という男の言葉は嫌でも信じてしまう。つい、想像してしまうのだ。

 首輪による閉塞感が、そのまま命を握られる緊張感へと移ろい、嫌な汗が背中に滲んだ。

 

「その大きなトランクにはバッテリーが入っている。生憎、今の技術ではそう電源が長持ちしなくてね……毎晩交換しなければいけないから、夜時間になったら体育館に来たまえ。……来なくても構わないが、エネルギーの残量がなくなってしまった時点で爆発だがね」

 

 トランクに秘められた機構はバッテリーだけということもなさそうだったが、神座はそれ以上トランクについて言及することはなかった。

 

「さて、この生活においての詳しい説明は生徒手帳に記載された校則に記されてある。生徒手帳は諸君に用意した個室に置いてある故、各自必ず目を通しておくように。……それから、まだ時間ではないのだが食堂は既に解放されている。十分に腹を満たすといい」

 

 そう言い残し、神座は去って行く。

 銃口を突きつけられてもなお、その後を追おうとする者はいなかった。

 それを誰も、臆病者とは呼べない。

 コロシアイ生活。

 待雪には、生き残れる自信などは、正直なところなかった。




【章題解説】
『火種蒔く人』
 元ネタは、反戦平和・人道主義的革新思想を基調として大正十年から大正十二年にかけて発行された同人雑誌、『種蒔く人』。
 『種蒔く人』というタイトルに込められた意味は様々だろうが、だが多くの解釈に共通するものは、対象となる人の心にきっかけを与えるというものだ。
 きっかけ。それを未来への希望と捉えるもよし、また問題の火種と考えても良い。ちなみに大正弾丸論破本編では後者の解釈を採用している。
 故に『火種蒔く人』。
 本編の始まりを飾るプロローグに相応しい章題になったと個人的に満足しています。


【神座出流】
 原作に出てきた神座出流その人。
 あの肖像画がいつ描かれたのかを明確に記載した描写は原作にはなかったので、本編では希望ヶ峰学園創立当初に描かれたものと仮定しています。ほとんど原作では語られることのなかった人物のため、本編においては半オリキャラ化している。
 ちなみにこの方は希望ヶ峰学園()()()。決して学園長ではない。後世においても創立者として名を残しているあたり、学園長は他にいたと思われる。


【希望ヶ峰学園】
 78期生の苗木が入学前の事前準備として開いていた掲示板の日付は2010年のため、毎年新入生が入っていたと仮定すれば、どう見積もっても本編の年代設定(1926)には届かない。……ので、時系列的にこの話は破綻している。(単純計算で[1926+78=2004]と、2010年には6年足りない)
 じゃあこの作品は設定からして間違えているのかというと、そうでもなさそう。完全なこじつけだが、1926年以降、日本は戦争に大きく巻き込まれる時代に突入したことや、戦後においても日本は色々あったため、止むを得ず学園を閉ざすといったこともあったのではないだろうかと考えている。それに毎年毎年そう都合よく超高校級の才能を持つ人材を見つけられるとも限らないので、そういった理由でも、案外希望ヶ峰学園は人員の募集を途切れ途切れに行なっていた可能性は高い(同じ78期生でも高校一年生から高校二年生までいるし、ひょっとしたら三年くらいの周期で集めてたりするかも)。
 なのでなにもおかしなことはない! 以上!
 ちなみに本編に登場する青少年らは、みな希望ヶ峰学園一期生である。


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希望ヶ峰学園一期生 生徒名簿帳

※五十音順。男女別。
※あくまでも希望ヶ峰学園から見た各々として書かせてもらっています。とはいえ主観的な部分もしばしば。
※身長や体重等は、気が向いたら決めます。


 

【男子生徒】

 

超高校級の野球部

篝火(カガリビ) 貞時(サダトキ)

 

超高校級の機械技師

雲隠(クモガクレ)伎京(キキョウ)

 

超高校級の画家

早乙女(サオトメ) 紅梅(コウバイ)

 

超高校級の昆虫博士

椎本(シイガモト) 松葉(マツバ)

 

超高校級の水泳部

竹河(タケカワ) 水仙(スイセン)

 

超高校級の探偵

匂宮(ニオウミヤ) 木蓮(モクレン)

 

超高校級の保健委員

野分(ノワキ) (ラン)

 

超高校級の絵本作家

帚木(ハハキギ) 志蔵(シクラ)

 

 

【女子生徒】

 

天才科学者・未来人

明石(アカシ)

 

超高校級のファッションデザイナー

東屋(アズマヤ) エリカ

 

超高校級の新聞部

壱目(イツメ) (ホタル)

 

超高校級のバスガール

熊谷(クマガイ) 夕顔(ユウガオ)

 

超高校級の剣道部

鯉口(コイグチ) (アオイ)

 

超高校級の柔道家

藤袴(フジバカマ) 釣舟(ツリフネ)

 

超高校級の料理人

待雪(マツユキ) (カオル)

 

超高校級の令嬢

澪標(ミオツクシ) 立竝(タツナミ)

 

 

 


 

 

 

「おい匂宮、見ろよあれ! あの姉ちゃんおっぱいでっけえ! Eはあるぞ、Eは!」

 

 

【名前】

 篝火(カガリビ) 貞時(サダトキ)

 

【肩書】

 超高校級の野球部

 二年生の頃に甲子園へ出場。

 チームをリーダーとして引っ張り、優勝に導いた。

 恵まれた体格と、それをカタチ作る過酷な鍛錬を乗り越えた強靭な精神力を持つ。

 

【好きなもの】

 漫画・映画

 

【苦手なもの】

 勉強

 

【外見】

 丸刈りから少しだけ伸びたような半端な髪型。和服の上からコートを着込んだり、あるいは洋服を着ているのに雪駄を履くなど統一感のない服装でいつもそこらを出歩いている。変わり者というよりは、単に彼は外見への興味がないのだろう。

 

【備考】

 何事にも真っ直ぐで、とにかく全力投球。愚直に前に進み続ける行動的な人物。利己的な考えが目立ち、俗物的な思考も多いが、人としての線引きは備えてある。

 感情的になってしまうことが多く情熱的。ただ頭の回転は速い方でかなりの頭脳派。自主的に勉学に励みたがらないところがあるが、努力が身を結ぶタイプのようで国内有数の名門校に通う。

 俺達ァ健康優良不良少年だぜ。

 

 

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「…………」

 

 

【名前】

 雲隠(クモガクレ)伎京(キキョウ)

 

【肩書】

 超高校級の機械技師

 機械に関する多くの知識を持ち、物の構造を把握する力に長けている。

 

【好きなもの】

 なし

 

【苦手なもの】

 なし

 

【外見】

 背は低いが体付きが良く、ほどよく筋肉が身についていて、スマートな体つきではあるものの痩せているといった印象はない。作業着から覗く腕や胸の筋肉などはたくましいが、しかし表情筋が死んでいる。

 普段着としてもっぱら作業着を用いり、眠る際は代わり映えのしない無地の浴衣に身を包む。

 

【備考】

 澪標立竝の従者。とはいえ身の回りのお世話をするのではなく、ただ傍にいて、ときたま髪を梳くくらい。

 

 

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「月は好きだ。あんなに大きなものが空に浮かんでいて、いつか落ちて来やしないかって、不安になるんだけど……そんな非日常感がおれは好きだ。綺麗だって思う」

 

 

【名前】

 早乙女(サオトメ) 紅梅(コウバイ)

 

【肩書】

 超高校級の画家

 星空や自然といった風景を忠実に描く。

 彼の作品に共通していることは、絵の中に描かれている物の大きさがいつも一つだけ異なっているということだ。

 月はいつも過剰に大きく描かれ、今にも落ちてきそうだという心のざわめきを観る者に与える。

 そんな非現実感が根強い人気を誇り、彼の絵は高く評価されている。

 

【好きなもの】

 星空・月

 

【苦手なもの】

 人が多いところ

 

【外見】

 髪はうんと伸び切っていて清潔な感じがしない。服は和服を着ることが多いが、森などの自然に身を投じるときは洋服を着用する。ファッションに関心はあまりないのか、いつも似たような服を着ている。

 

【備考】

 内向的で、人と関わりを持つことを避けている。

 自分の行いに自信が持てず、一歩踏み出すことが常に躊躇われる。

 絵を描くことに逃げているのではと考えることもあって、度々筆を置くも、なにもできない。

 

 

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「虫は好きだけれどね、同時に嫌いでもあるんだ。……だからこそ、虫について詳しく学びたいと思うし、知りたいと思う。そうして、害虫による被害を少なくすることが僕の使命だと思うんだ」

 

 

【名前】

 椎本(シイガモト) 松葉(マツバ)

 

【肩書】

 超高校級の昆虫博士

 昆虫に限らず、動植物の分野においてもその才能を遺憾なく発揮している。昆虫、動植物の生態についての新たな発見もそうだが、そういった生態が人間社会にどのような貢献をもたらすだろうか、あるいはそれらがもたらす災害に対し人はどう対応するべきなのかということについて個人で深く研究を進めていた。

 やがて個人での活動に限界を感じ、その分野で有名な研究機関などに協力を求める自己アピールの資料約十年分を送ったところで、ようやく彼の活躍というものは日の目を見た。

 

【好きなもの】

 カツカレー

 

【苦手なもの】

 眩いネオン

 

【外見】

 西洋人に似た大柄な肉体を持つ。足は丸太のように太く、腕に刻まれた古傷は自然の猛威の爪痕である。頬はこけていて、白髪まじりの髪からは彼の人生の過酷さがにじみ出ている。清潔感はあるが、快活な様子ではない。いつも疲れたように目尻を下げている。

 体のサイズに合う洋服が少ないからか、もっぱら浴衣を着ている。色は大人しめのものが多く、藍色や深緑など濃い色を好む。

 丸眼鏡をかけている。

 

【備考】

 穏やかな性格。堅実に物事を進めようとする計画性があり、危険と感じたことは避けたがる。彼をよく知る者は、それを根性なしとは呼ばない。

 

 

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「俺は女が嫌いだ。貴様の様な軟派な奴が特に嫌いだ」

 

 

【名前】

 竹河(タケカワ) 水仙(スイセン)

 

【肩書】

 超高校級の水泳部

 武技としての水泳から競技としての水泳に移行するにあたり、名乗りを上げた人物の一人。その実力は確かなもので、同年代ではトップの成績を収めていたことから、具体的な実績(大会優勝など)はなかったものの日本における水泳のスポーツ化の先駆けとして超高校級に選ばれることになった。

 肺活量が並外れて多く、息継ぎを必要としない無呼吸運動が彼の速さの秘訣でもある。

 

【好きなもの】

 ロールキャベツ

 

【苦手なもの】

 女

 

【外見】

 がたいが良く、日本人にしては上背で、その上スマート。

 澄ました顔つき。切れ長の目。

 髪は整えられているがきっちりとしたものではない。

 清潔なワイシャツに黒のズボンを合わせて着る。サスペンダーやコートなどを併用することが多い。

 

【備考】

 極度の女嫌いで、触れるだけで蕁麻疹が出るほど。

 ストイックな生活を送っており、食事一つとっても口煩い。彼は自分に厳しいが、それと同じくらいに他人にも厳しい。

 

 

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「オレはあくまで探偵だ。事件の真相を解き明かすことはできても、事件を解決することはできない。……だが、きっとお前にならそれができる。オレはお前を信じている」

 

 

【名前】

 匂宮(ニオウミヤ) 木蓮(モクレン)

 

【肩書】

 超高校級の探偵

 始まりは、とある田舎の村で起きた奇怪な連続殺人事件だった。匂宮はそこの生まれであり、土地勘やその土地に根付いていた風習などを知っていたため警察よりも素早く、なおかつ鮮やかに事件の真相を導き出す。

 その後も全国各地の旅館や屋敷などに訪れては事件に遭遇し、それらが世間に出回ってしまう前に解決するといったことを続けた結果、華族・皇族の間で広く名が知られるようになり、つい昨年の年末、皇族の目の前でその推理力を披露する機会を得る。

 今は最初に携わった事件の生き残りを探して、国からの支援を受けながら全国各地を助手と巡る。

 

【好きなもの】

 ポン菓子

 

【苦手なもの】

 助手の手料理

 

【外見】

 磨かれた革靴、綺麗にシワが伸ばしてある詰襟制服や袴。きちんと形が整えられた帽子など、丁寧に手入れされた服を身につけている。そうして身なりはきちんとしてあるが、相反して彼は大雑把な人間だ。

 筋肉質で引き締まった肉体は彼の過酷な旅を想い起こさせる。背中に大きな傷跡がある。

 

【備考】

 強い正義感を持ち、ただ一つの目的のためだけに全国を奔走した真っ直ぐな人間。武術に長けているが、助手の方が強い。

 人を探し、助手と共に全国各地を巡っていた。だがついぞその旅で探し人が見つかることはなかった。

 時々、空の煙管を咥えて帽子を目深に被り、物思いに耽っている。

 

 

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「待雪クン。そう無理をしていると、いつか倒れてしまうぞ。少しは休みたまえ」

 

 

【名前】

 野分(ノワキ) (ラン)

 

【肩書】

 超高校級の保健委員

 ある風土病の解決に尽力。手伝いをしていたに過ぎないが、しかし彼の助けは非常に大きなものだった。

 結果として、国民全体の日常的な習慣が見直されるなど、彼らの大義は世間に大きな影響を与え、また失われるはずだった命を多く救った。

 

【好きなもの】

 人の話を聞くこと

 

【苦手なもの】

 生牡蠣

 

【外見】

 キッチリと七三に分けられた前髪、黒縁の眼鏡に、シワひとつない制服。学ランを身につけ、上からマントを羽織っているが、マントを付けるのは外に出る時くらいで普段は折り畳み、鞄に入れている。

 

【備考】

 聞き上手で噂話を好む。

 典型的な努力家で、地道で細やかなことを積み重ね、確かな結果を導き出す力がある。

 運が悪い。

 

 

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「そーだね、好きだね、絵を描くのは。……へへっ、画家ってほどじゃないけどさ」

 

 

【名前】

 帚木(ハハキギ) 志蔵(シクラ)

 

【肩書】

 超高校級の絵本作家

 絵本とは仔細が異なるが、都内の空き地などで手作りの紙芝居を子供たちに披露していた過去を持つ。おもしろく分かりやすいストーリー、シンプルでありながら独特の世界観が構築された絵。そしてつい聞き入ってしまう物読みの演技力。そんな彼の紙芝居は評判を呼び、やがて大手の出版社に目を付けられ、彼が今までに披露してきた紙芝居を絵本として再構築し販売することになった。それが、彼が絵本作家と呼ばれるようになった由縁である。

 本来、紙芝居と絵本とは根本的に異なるものであるのだが、ただ彼は絵本作家としての才覚も持ち合わせていた。紙芝居から絵本に舞台を写すにあたり、絵は技巧の色を更に強め、物読みが出来ぬ代わりに感情に訴えかけるような字と文章を手ずから書き上げる。

 今となっては絵本作家として世間に名を馳せる彼だが、時が異なれば、彼の肩書きもまた違ったものになっていただろう。

 

【好きなもの】

 子供と遊ぶこと

 

【苦手なもの】

 怖い人・金の亡者

 

【外見】

 華奢な体つきで手足は細く、背は丸めると鞄の中に入れそうなほどに小さい。それを少し気にしているようで、虚勢を張るようにいつも背伸びをしている。

 古ぼけた色の学生服。上からマントを羽織り、日章旗の帽章が付いた学生帽を被るバンカラスタイル。また、革製の大きなリュックサックを背負っている(中には大きなスケッチブックとクレヨンが入っていて、小柄な彼が持つとより大きく見えることだろう)。前髪は短く切られていて、覗けば彼の明るい瞳がよく見える。

 声変わりをまだ迎えていないのか、彼の怒る声は外見相応に子供のようで、愛らしい。

 

【備考】

 絵を描くことが好きで、描きたいという欲求が生まれてしまうと場所を問わずリュックサックを開いて中にあるスケッチブックとクレヨンを手に取る。

 字は美しく、絵本の字は彼自身が描いたものである。

 

 

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「未来はいいもんだぜ? 空が、ずっと広く晴れ渡っている。……お前にも見せてやりたいもんだがな、ちと厳しいか」

 

 

【名前】

 明石(アカシ)

 

【肩書】

 天才科学者・未来人

 自称・様々な分野に精通した天才。ナノテクノロジーと呼ばれる真に信じがたい技術を活用したボディスーツや“ベル”と呼ばれる高性能な人工知能とやらが搭載されたロボットなどを開発したと、日常的には使うことのないようなモノばかりが彼女の口からは代表作として挙がる。なにぶん、未来とはそういう時代だったらしい。いつの時代も人は変わらぬものだ。

 

【好きなもの】

 考えること・キャラメル

 

【苦手なもの】

 独り・無謀

 

【外見】

 混血の娘のように多彩な色を持つ瞳や、白い肌。極彩色の毛髪など、大正という時代にはそぐわぬ超然的な見た目をした少女。半分もボタンがかけられていないシャツや、ただ首にかけられているだけのネクタイなど、己に対する関心が非常に薄い。狂気的なまでに歪められ、加虐性に満ちた瞳は、見る者を惹きつける。

 大きな眼鏡をしていて、また髪には大きなクリップが止められている。

 首には空っぽのロケットを下げている。

 

【備考】

 明石市で保護されたため明石と呼ばれ、彼女自身もそう名乗る。

 大正時代に来るまでの経緯と名前の記憶と失ってしまっているらしく、明石という偽名を名乗る。

 詳細は不明。

 

 

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「アナタをスタァにするために、私が手ずからコーディネイトしてあげる」

 

 

【名前】

 東屋(アズマヤ) エリカ

 

【肩書】

 超高校級のファッションデザイナー

 海外で経験を積み、美しさに対する多角的な観点を手に入れ、日本に多くの外国文化を持ち帰る。異文化と日本文化を融合した彼女独自のブランドは、美しさを兼ね備えた斬新さが人を強く魅力し、高く評価されていた。特に異国においては和の奥ゆかしさが、日本においては洋のハイカラさが好まれた。

 色彩感覚に優れていて、和洋という相反する文化を色遣い一つで見事に調和してみせる力を持っている。今は依頼に応じて服を作るだけだが、ゆくゆくは店を構えることを目標としている。

 

【好きなもの】

 良いもの

 

【苦手なもの】

 澪標立竝

 

【外見】

 彼女は自分が作る洋服に相応しい美を持つ。混血児のような長い手足に、白い肌。顔も小さく、加虐的なかたちをした瞳は黒々としていて大きい。

 彼女の着る服は全て白で統一されていて、彼女の射干玉色の髪が映えるように設計されている。

 タイトなコートに、長いプリーツスカート。編み上げブーツや帽子に至るまで彼女の服装は白く、またそれらには細かな銀色の金具が規則正しく縫い付けられていて、一種の美術品に値する。

 

【備考】

 東屋商店と呼ばれる大企業の娘。東京の中央に構える東屋百貨店は誰もが知る場所であり、財閥とまではいかないものの確かな結果を残している。

 高飛車で傲慢な性格だが、確かな実力を持つ者に対しては身分問わず敬意を抱く高潔さを併せ持つ。

 やや西洋の文化に傾倒している節があり、度々英語混じりの話し方をすることがある。

 過去に澪標立竝の洋服を作る機会があったのだが、とある理由から二度と彼女の服は作らないと決心する。ある意味屈辱的な経験。

 

 

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「ええーっ! そんなことがあったんですかあ?! 私に教えてくれたっていいじゃないですかあ!」

「はいはあい! 私、私がやりますよう!」

 

 

【名前】

 壱目(イツメ) (ホタル)

 

【肩書】

 超高校級の新聞部

 父親が新聞社の社長であり、元は小遣い稼ぎで始めた新聞作りだったが、先の震災により新聞による様々なデマが世に蔓延ってしまったために父の社も煽りを受け倒産寸前にまで追い込まれてしまう。そこで、「どうせデマを疑われるなら最初からデマを書けば良い」と考え、やけになった父や社員を煽り、世間をおもしろおかしく茶化した新聞を毎日のように発刊。

 読みやすく興味を惹かれる文章に見やすい構図の写真。新聞を配布する手段にもこだわり、ただ“流行らせる”ということだけを目的にあることないことをあれこれ書きまくった新聞は瞬く間に売れ、娯楽として世に広まった。

 元の新聞と比べて一部にかける枚数が少なかったことと、取材にかかるお金もまた減っていたため安く大量に刷ることができ、また冷め始めていたとはいえ大正デモクラシーの思想が少なからず残っていたことや独特の売り方などから世間をおもしろおかしく馬鹿にした新聞は飛ぶように売れた。

 

【好きなもの】

 話をすること

 

【苦手なもの】

 早起き

 

【外見】

 黒縁メガネをかけ、前髪をさっぱりとカチューシャで留めている。後ろ髪は長く、背中の辺りまでお団子を繋げたような編み方が続く。ただあまり髪を結うのは得意ではないようで、所々形が不揃いだったり大きさが違っていたりする。

 袴を好み、赤や茶色などの暖色をよく着る。

 一眼のカメラを首から下げている。革製の肩掛け鞄を身につけていて、中には大量のメモ帳が入っているからかパンパンに膨れている。

 

【備考】

 お金を好むが、大金を得ても溜め込むことはなく散財する場合がほとんど。なぜかと訊かれると「え? お金があるんですから使わないともったいないじゃないですか」と返すため、彼女が拝金主義者であるかどうかは微妙なところ。

 待雪とは仲がいい(と一方的に思っている)。

 勘が良く、なにごともそつなくやってのける才覚がある。とはいえせいぜい並より少し上程度ではあるが、何事においても並以上の力を発揮できるのならそれは素晴らしいことではないだろうか。

 歳上に好かれやすい。

 

 

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「あったりまえでしょう? あたしとあんたの仲じゃない」

 

 

【名前】

 熊谷(クマガイ) 夕顔(ユウガオ)

 

【肩書】

 超高校級のバスガール

 都心で働くバスガール。天真爛漫なその笑顔と美貌から、多くの人の心を集める。

 

【好きなもの】

 大福・手料理

 

【苦手なもの】

 辛いもの

 

【外見】

 頭のてっぺんでお団子を作り、高い位置で総髪を纏めてある。髪は長めで、背の辺りまで伸びている。

 袴姿。柄物を着ることが多く、赤や紫といった色をいつも着ている。それらは確かな高級品であることを思わせる良い品だ。

 

【備考】

 少なからず洋服に興味があるようで、モガファッションで自分を飾り出歩く姿が度々目撃される。ただ、ファッションセンスには自信がないのか、鏡を見つける度に自分の姿におかしなところがないだろうかといつも確認している。

 

 

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「超古流武術・天真流一番弟子鯉口葵、推して参るッ! チェストー!」

 

 

【名前】

 鯉口(コイグチ) (アオイ)

 

【肩書】

 超高校級の剣道部

 音速の名に相応しい傑出した速さと、機械的なまでの緻密な精度が強みの剣道家。彼女の試合は始まる頃には既に終わっているのだと噂されるほどに決着が早く、対面した者は皆口を揃えて「目の前から消えた」と震えて述べる。一撃の強打は凄まじく、竹刀や木刀に防具、それから鉄であれ生半可な打ち方をされた刀であれば一振りで使い物にならなくなってしまう。

 強さとは単純明快な理想であり、その瀟洒な顔立ちと凛々しい立ち姿や振る舞いは、高潔で清廉な大和の美しさである。

 

【好きなもの】

 読書・落ち着いた時間

 

【苦手なもの】

 名誉

 

【外見】

 背の中ほどまで伸びた総髪の根元は赤いリボンで括られている。風通しの良い首元は清潔さがあり、可憐で麗しい瞳やすっと通った鼻筋、そして快活な印象を人に与える朗々とした笑顔は如何ともしがたい強き意志の憧れを表す。

 紺の袴を着て、編み上げブーツを足に履く。典型的な若者の格好であるが、それゆえに、一際人の気を集める。

 

【備考】

 いついかなるときも刀袋を持ち歩いていて、その中には模擬刀が入っている。刀身は鉄だが、その刃は潰えていて、本身の形も少し歪である。

 冷静で大人びた人物であり、大人子供問わず周囲の人からの人望が厚く、頼れるおねえさんという認識を持たれている。

 子供が好きで、よく遊んでいる。

 

 

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「一に鍛錬、二に鍛錬。三四がなくて五は鍛錬です。なんとも効率的ですね」

 

 

【名前】

 藤袴(フジバカマ) 釣舟(ツリフネ)

 

【肩書】

 超高校級の柔道家

 近代日本において、スポーツとしての柔道の先駆けを担う。

 地の力の強さもさることながら、体の動かし方や技術などがずば抜けて巧みであり、技巧派としての完成形に迫りつつある。

 

【好きなもの】

 ご飯を食べること・読書・ポン菓子

 

【苦手なもの】

 西洋の文化

 

【外見】

 髪は肩口で切り揃えられており、服装も柄のないあっさりとした袴を好んで着ている。特に装飾品などは身につけず化粧などもしていない。とはいえ身なりに少しは気を使おうとしているのか、時々頭に小さなリボンが付いていることがある。それを指摘すると、目を離した隙にすぐ外す。

 

【備考】

 西洋の文化が苦手で、あまり馴染めていない。肉食文化は野蛮であるという考えが少なからずあり、肉よりかは魚を好む。とはいえ出されたものを残すことは義に反するため、食べはする。

 洋服なども人に薦められたものならば着ることがあるが、日常的に身につけることはない。歩み寄ろうという気持ちはあるのだろう、近頃は西洋の書を読むようになっている。

 

 

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「料理を食べてもらうということが、わたしにとって生きるということなんです。だからわたしは、死ぬまで生きるつもりです」

 

 

【名前】

 待雪(マツユキ) (カオル)

 

【肩書】

 超高校級の料理人

 家庭料理、郷土料理、和洋中に多国籍料理と……料理と名のつくものの全てに精通している至極の料理人。料理人としての実力は大人を優に超えており、いくつもの境地に達している。

 

【好きなもの】

 料理をすること

 

【苦手なもの】

 強い感情

 

【外見】

 随分と長い黒髪を一本の三つ編みにしている。切り揃えただけの目深い前髪の奥には怯えたように潜められた双眸を持ち、肌は雪のように白い。

 装飾品の少ない修道服や中世風の黒のブラウス、古びた着物に割烹着などを好んで着る。私服という概念が彼女にはなく、それらは仕事着と同義である。ロケットを首から下げている。

 

【備考】

 人並み以上に優れた五感や記憶力を用いて料理の修練に励む。コツを掴むまでが早く、また一から百を知る典型的な天才肌であり、こと料理の分野において彼女は輝くことができる。

 多分朝ドラヒロイン。

 

 

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「空はこんなにも晴れ渡っているのよ、薫さん。……そして宇宙はもっと広い。地球なんて、ちっぽけなものよね」

 

 

【名前】

 澪標(ミオツクシ) 立竝(タツナミ)

 

【肩書】

 超高校級の令嬢

 世界有数の財閥家系、澪標家の子女。

 誕生以来長年に渡る留学期間を経て日本に帰国し、華族・皇族が集う女学校に通学。既にこの頃から国を問わずいくつもの会社の経営に携わるようになり、頂点に立つものとしての才覚を見せ始める。

 人を従わせるに相応しい清らかなカリスマ性、人を惹きつける洗練された動作。常に最適解のその上を行く英明さ。また多岐の分野に渡る豊富な知識に見識、武芸の腕前や舞踊の巧みさなど、どれをとっても彼女の右に出る者はおらず、また追従する者もいない。まさしく頂点に立つべき人物であり、紛うことなき時代の先導者。

 

【好きなもの】

 芸術鑑賞・新しいもの

 

【苦手なもの】

 ない

 

【外見】

 背が高く、待雪よりも頭ひとつ分ほど大きい。

 容姿も優れており、彼女の高貴な見た目は見るものを従わせる強いカリスマ性を持っている。

 彼女に似合わない服や髪型、色などは存在しないことだろう。故に固定の服装に囚われることはない。全ての服が彼女の美を引き立てる。

 

【備考】

 完璧という言葉を体で表すことのできる人物。ものごとの吸収も早く、未知をすぐさま既知に変えてしまう強みがある。ゼロから一を生み出し、そして一を万に変える。先見の明にも優れており、何事においても先を行く彼女はまさしく時代の最先端と言えるだろう。人の上に立つのに相応しい人間だ。

 

 

 

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・他の方の創作論破を覗いていると、登場人物表が用意されている場合が多かったので、今更ですが作ることにしました。まだ登場していないキャラクターもいますが、今後登場します。登場しないまま死ぬなんてことはないと思います。

・絵を描けばキャラクターの容姿も分かりやすいかなと思ったんですけれど、そこまでしてしまうと創作の先が見えなくなってしまいそうなので辞めにしました。


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第一章 一握の砂糖
001 (非)日常編


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 いや嘘だ。すごく面倒だ。

 

 

 

 1

 

 

 

 コロシアイ生活の始まりが宣言されると、体育館にいた十数名の傍輩はみな影をも踏ませまいといった勢いでどこか遠くの場所に行ってしまった。

 彼らの背中を目で追いながら、雲隠は視界の隅に映る女子生徒を観察していた。待雪薫。超高校級の料理人。彼女のことは詳しく知らないが、澪標が気に入っているという事実がなにか異様なものを想像させる。とはいえ、人畜無害な女の子という言葉の他に彼女を表す言葉が見つからないので、雲隠はため息がちにこれからのことを考え始めた。

 

 体育館からいなくなってしまった者たちの目的は、人目を避けることもそうだが、概ねこの施設の探索が主だろう。殺されることを恐れるものの、誰一人として本気で他人を殺そうだなんて思っていない。現状打破の糸口を必死に探しているに違いなかった。それは雲隠を含めた三人も同じであり、いざ探索へと身を乗り出そうとしていたのだが、それならばどうするべきかと首を捻り考えあぐねていたのだった。

 

(探索するにしたって、なにか目標がないと無駄な時間を過ごすだけだろうしな。あの神座って人は、時間は有限だと語っていた)

 

 そう、時間は有限なのだ。三十日間のモラトリアムで、自分たちは何をするべきなのだろう。死を望んでいるわけではないし、ここが自分の死に場所だとも思わないけれど、なら自分可愛さに人を殺そうかという気も起こらない。……そもそも今のこの状況だって、なんとも不可解なものだった。だがしかし、だからといって怠惰なままに時を過ごすのはいかがなものかと思われる。

 雲隠がただ一人考えを巡らせていると、体育館の真ん中でおどおどと周りを見渡していた待雪が不意にこちらを向いて、臆病な態度で意見を発した。何かを恐れているらしいということはひしひしと伝わってくるような、そんな怯え方をしていた。コロシアイ宣言を受け、雲隠と澪標のことを危険視し始めたのだろうかと初めは思ったが、それは間違いであるとすぐに気付かされた。なんせ彼女の挙動不審な態度は今朝から続いていたものだ。コロシアイ生活という言葉を受けて初めて彼女がうろたえ出したのではないということは明らかだった。

 

 待雪は恐る恐る申し出た。自分は酷く矮小な存在であると卑下しきった覇気のなさだった。

 

「あの、その……個室を、探しませんか……?」

 

 おどおどとした態度は本物のようで、演技をしているようには見えなかった。気が弱いのか、話す言葉にはときどき淀みが見られる。その縮こまった態度が彼女を殊更に弱々しく見せていた。

 ただ、気弱そうというだけであって、彼女が弱い人間だとは思えないから不思議だ。現に待雪は、勇気を振り絞って、こうして二人に提案をしたのだから。それも適当なものではなく、確かに正しいだろう答えを導き出しているのである。

 人付き合いが苦手な雲隠は、そのような矛盾めいた印象を持つ待雪にどう接するべきかを図りかねて、ひとまずは彼女の意見を聞くことにした。待雪の言葉に、雲隠はおうむ返しのように聞き返す。

 

「個室?」

「っはい、個室です。……神座という人は、個室に生徒手帳が置いてあると言っていました。ここでのルールも書いてあるそうですから、それを先に読んでおいた方がいいんじゃないでしょうか。……なにより荷物を持ったまま歩くのは、疲れますし」

 

 最後の一文は、雲隠の方を意識するように視線を揺らめかせてから言葉を出していた。二人分の荷物を運んでいる雲隠のことを案じているようだった。それは優しい気遣いで、雲隠はどうしたものかと澪標の方に視線をやる。それを受けて、澪標は分かりきったように目を細めてから、小さく頷いてこう言った。

 

「そうね。波に揺られて体力を消費していることでしょう。体を休めるというのもそうだけれど、気持ちを整理するという意味も込めて、個室を探すことは良いことかもしれないわ」

 

 澪標の肯定する声が聞こえた。どうやら彼女は、待雪の意見を是としたようだ。

 

「そうですね。僕もそれが正しいと思います」

 

 と、自分も一拍置いてから頷く。

 概ね良好な反応を得て、待雪は少しホッとしたように胸を下げていた。

 

「じゃあ行きましょうか」

 

 目的は決まったのだからと、二人分の旅行鞄とトランクを雲隠は担ぎ、体育館の外へ急ぐように向かった。その後ろを澪標と待雪は追いかけるように(澪標に限っては雲隠の持つトランクと首輪が繋がっているので、引っ張られるように)して体育館を出た。

 こうして澪標の役に立つことが、なによりも嬉しいというみたいに彼の足は軽やかだったが、反して澪標は彼の勇み立つ気持ちに振り回されているのだった。

 

 思いの外すぐに個室は見つかった。

 玄関ホールの左右に伸びる廊下から見えた無数の扉がそのまま寄宿舎として機能していたのだ。数にして十数に近い扉が敷設されていて、雲隠の個室は奥の方あった。玄関ホールからは一番離れた場所であり、廊下が隅から隅へとよく見渡せる位置でもあった。えらく達筆な字体で書かれた名札が扉に下げられていたため、どこが誰の部屋なのかは一目瞭然であった。

 

 荷物を届けるために澪標を部屋まで送ったあと、雲隠は自分の部屋に足を踏み入れた。これから先、長くとも一ヶ月は住むことになるだろう部屋だ。少しは気になるというものだった。

 必要最低限の家具しか置かれていない殺風景な部屋であったが、私物の少ない雲隠からすればそこは、落ち着きのある心地よい空間に違いなかった。部屋は思いの外広く、洋風テイストな色調であるにもかかわらず畳が敷かれてあるアンバランスなデザインが、ある種の非現実さを演出しているように見える。玄関から向かって右にある洋物のベッドの脚で畳が痛んでしまわないかを心配に思いながら、その上に旅行鞄を放り投げた。荷解きをするような元気もないため、当分の間、そこに置かれたままになるだろう。

 部屋の中心にある卓袱台の上にはこの部屋の鍵らしき物が置かれてあった。それを認めると、彼は伸びをするようにして鍵を手に取りポケットに入れた。おおよそ部屋の全容はこのようなものか。しかし生徒手帳らしきものはどこにも見当たらない。

 どこか見落としがあっただろうかと部屋を見渡せば、洋物の箪笥に目がいった。そこに生徒手帳が入っているのではないかとあたりをつけ、下から順に開けていった。下から開けて行ったのに理由はない。そこに手が伸びた感じだった。

 

 運が良かったのか、それとも悪かったのか。箪笥の中身からしてその判断は付け辛いものだったが、結果として雲隠は生徒手帳を見つけることができた。付け加えるのなら彼は生徒手帳の他に幾枚かの折り畳まれた手紙と一丁の拳銃を見つけてしまった。

 

「…………」

 

 雲隠は迷うことなく生徒手帳を手に取った。待雪の意見を尊重するのなら、優先するべきことは校則をいち早く確認し理解することだった。

 パラパラとページを捲っていると、おそらくはこの施設のものだろうと思われる地図や校則を見つけることができた。

 

「……んむ。よく分かんないな」

 

 よく分かんなかったため斜め読みをしたあと、生徒手帳は学ランのポケットにさし、次は拳銃を手に取った。冷たい鉄の感触、それに重みからして、どうやら本物のようだった。中折れ式のそれには弾が六つ込められており、代えは見当たらなかったためどうやら使い切りのようだ。銃として使えるかは分解しない限り分からないが、ただこういったものが無造作に置かれているあたり、この島での生活の異質さが浮き彫りになっているようでもある。

 決意したならば、今すぐにでも実行に移せるだろう。ただそれだけじゃダメなのだと、神座という老人は語っていた。

 殺し合うとはいえ、血に塗れたバトルロワイヤルを繰り広げればいいというわけではないようだった。人を殺すのなら犯人が自分であると他人に悟られてはいけないのだろう。それなら拳銃という大きな音を放つ武器は相性が悪いと言えた。

 これならバターナイフのほうが隠密性や持ち運び、しいては後処理にも優れていて、隠れて人を殺すのには向いている。もっともどちらにしたって、彼に人を殺す気があればの話なのだが。

 

(これを持ち歩くのはよしておこう。他の人もこうなのかは知らないけれど、拳銃なんて持ち歩いてたら、さすがに印象が悪いだろうし)

 

 そもそも拳銃の扱いに長けていない彼である。緊急時の脅しにだって使えないだろうからと、今はないに等しい信頼度をとることに決めて拳銃は投げ捨てた。

 

 次に、というよりもそれは余りものなのだけれど、彼は最後に残った手紙を手に取った。封もされていない、ただ折り畳まれただけの二枚の紙切れ。まずは一枚目に目を通すと、そこには思いの外重要なことが書かれてあった。

 

『超高校級の機械技師 雲隠伎京さまへ。

 あなたは内通者に選ばれました。

 内通者とは、いわば監視係です。

 この契約は仕事の成功不成功に関わらず、また死ぬか生きるかに関わらず、貴方様にとって有益な結果を生むことを誓いましょう。

 契約内容につきましては、また後日、この手紙を持って体育館に来ていただければ詳しく説明いたします。

 希望ヶ峰学園創立者 神座出流』……と。

 

 一枚目の手紙に書かれていたのは、要するに運営の側に回らないかという誘いのようだった。

 

「内通者、か」

 

 不思議とやる気というものは微塵として湧いてこなかった。不審だとか面倒だとか、そう言った感情もまたなかった。ただ一つ彼が思ったことは、なる必要はないだろうという根拠のない考えくらいなものだった。雲隠は時々、そういった物事の決め方をすることがあったから、同じように決断を下したのだ。決断と表現するのには呆気ないほどに軽い気持ちだったけれど。

 

 一枚目に関して考慮する必要はないだろうと捨て置き、二枚目の手紙を読もうとしたところで、部屋の扉をノックする音と人の声とが玄関の向こうから聞こえてきた。二人の女性が会話をしているようで、片方の声には聞き馴染みがあり、もう片方には聞き覚えがあった。

 

 雲隠は拳銃と二枚の手紙を箪笥にしまい、ゆったりとした動きで彼女らを出迎えるために扉の方へと向かった。

 忘れることのないように、拳銃ではなく鍵を握って扉を開いた。

 

 

 

 2

 

 

 

 昼下がりの食堂にて。

 

「お腹が減ったわ」

 

 と泣き言のように澪標は言った。それを聞いた待雪は困ったように眉を下げて、熱が通り切った地金の黒い中華鍋を振るった。

 

「ミオツクシさんの分もパパッと作っちゃいますから、待っていてください」

「はーい」

 

 超高校級の令嬢という肩書きを与えられ、またその立ち振る舞い挙措動作にも令嬢の名に相応しい高貴さが滲み出ている澪標が、こんなにも間延びた声を出すのかと最初こそは驚いていたものの、既にここ数時間でそれは普遍的なものになってしまっていた。

 

「ふわあ」

 

 緊張の糸が途切れたようで、食堂についてからはやけにあくびが目立っていた。

 

(オンオフの切り替えが上手な人なんでしょうけど、結構、面倒くさいなあ……酔っ払いの人の相手をしてるみたいで)

 

 それでもこういう人の扱いには慣れていたため、待雪は右手で中華鍋を操りながらもう片方の手で澪標との交流を図っていた。

 

 ただそう、間抜けた態度をとっていても凛々しさや気高さが損なわれていないというのだから驚いたものである。カリスマとはまさしく彼女にこそふさわしい言葉だろう。見た目の美しさもさることながら、どこか従いたくなってしまうような威光を感じるのだ。現に彼女の要望でご飯を作っている今この瞬間、待雪は不思議と光栄な気持ちに包まれていた。陽の光に当てられたものが温かみを持つような、そんなふわふわとした感覚は嫌なものではなく──むしろ心地良ささえ感じてしまうような幸福感があった。超高校級の令嬢と呼ばれる由縁がそこにあるのだというのならそうなのだろうと納得さえしてしまえそうだった。

 

 ちなみに雲隠はというと、彼は彼で澪標とは別行動を取っているらしかった。他の生徒との情報交換に勤しんでいるようで、談笑とまでは行かずとも誰かと話をしている彼の姿を待雪は食堂で見かけていた。そのことについてずっと疑問を抱いていた待雪は、手を器用に動かしながら息継ぎついでに澪標に尋ねた。

 

「クモガクレさんと一緒にいてあげなくて、大丈夫なんですか? 今朝、言ってたじゃないですか。彼は誤解を生みやすい人なんだって」

 

 訊くと、澪標は途端に不機嫌な表情になった。

 

「知らないわ、あんな人」

 

 むくれた頬を隠すようにそっぽを向き、待雪よりも二回りは大きい背を丸めて、近くの椅子に粗雑な態度で座り込んだ。

 不機嫌さゆえの乱暴な動きだったが、はためくコートや身を翻す際に扇状に広がった美しい黒髪、椅子を引き寄せる際の足の滑らかなしなり具合、またすらりと伸びたその肢体は実に美しいものであり、つい見惚れてしまうほどに彼女の動きは毛先一つに至るまで綺麗だった。

 

「どうかしたかしら」

「いっいえ、なにもっ」

 

 つい口を噤んでしまう。油断を突かれた思いだった。不審に思われてしまっただろうかという焦りから、必要もないのに火加減の調整をしていると、澪標がなにかを期待するようにこちらを見ているのに気付いた。しかしそれに反応を示すのはどうにも躊躇われた。面倒というわけではない。待雪は澪標との距離感を測りかねていたのだ。

 

(いや嘘だ。すごく面倒だ)

 

 二人の間で長い沈黙が流れる。

 五感を用いて食事の調理を行う待雪にとって、沈黙という誰とも話さなくていい静けさは料理に集中できる最適な環境である。しかし今はそう簡単に割り切ることができなかった。

 澪標の視線が、待雪の身体を隈なく突き刺していた。人に視線を向けられるのは苦手だった。けどそれとは別に、彼女のあの美しい瞳に自分が映っているのだと意識するだけで、拍動が不自然なリズムを刻み始めるのだった。

 これじゃ息もままならない。すっかり萎縮してしまった喉をさらに絞って、仕方なしに澪標に訊いた。

 

「なにかあったんですか? クモガクレさんと」

「大ありです。ありよりのありというやつです」

「……?」

 

 聞いたことのない言葉遣いに目を細めながらも彼女の言葉に耳を傾けた。雑踏の中でもはっきりと通るだろう凛とした声は油の弾ける音の中でも聞き取りやすく、そう注意して耳を傾ける必要もなかった。しかし会って間もない人に雑な扱いをするのは気が引けたため、こうして丁寧に彼女のことを扱った。もとより待雪は礼儀を重んじるようにと育てられてきたから、たとえ彼女と親しき仲であったとしても、きっと懇切丁寧に耳を傾けただろう。

 そんな待雪に気付くそぶりは見せず、澪標は更に体を湾曲させる。くねりくねりと腰を振ってから待雪の下腹部(主に鼠蹊部のあたり)に縋り付くように抱きついた。驚きや恐れから体が硬直する待雪だったが、それでも鍋を振るう腕は止まらなかった。

 

「わわっ。ちょ、ちょっと。危ないですよっ。いま、火、使ってるんですからっ!」

「ききょーくんが、知らない女の人と、ずっと話をしてるんですよお」

「ええ……知りませんよ、そんなの」

「少し反応が冷たくなあい?」

「むしろわたしは暑いくらいなんですけどね」

 

 眼前の調理台で弾ける油と、燃え盛る炎にテラテラと熱せられながら、滲む汗を拭くことも叶わず待雪はぼやいた。

 

「と、とにかく。危ないので離してくださいっ」

 

 待雪の必死な気持ちを汲み取ってか、はたまた気まぐれかは分からないが、澪標は待雪の腰に回していた手を思いの外あっさりと解いた。それから考えるように天井を見上げたのち、深く呼吸をしてから姿勢を正す。そこにいたのは、今朝と同じく高貴さ溢れた、まさしく令嬢と呼ぶに相応しい彼女の立ち姿だ。

 

(少しは落ち着いたのでしょうか……?)

 

 すると澪標はじっと待雪のことを見ながら調理台に頬杖をつき、すました顔をしてこう言った。

 

「薫さん、あなた毒薬とか持ってらっしゃらない?」

(ご乱心!?)

 

 思わず待雪は澪標の顔を見上げた。不審な笑みを浮かべる芸術品のように美しい顔が視界に入る。瀟洒で、清楚で、凛々しくって、美しい。様々な方向性の美が入り混じっていて──けれども、それら全てが調和し切った恐ろしくも美しい顔だった。そんな顔の輪郭が、頬杖をつくことによってすこしだけ歪む。けれどそんな歪みすら、彼女の表情に柔らかみを持たせ、自然の美であると人に感じさせた。

 

「だっ誰に使うつもりなんですか!?」

「誰とは言わないけれど、ききょーくんに」

「言っちゃってますよっ」

「つべこべ言わず入れなさいよ!」

「っ……、そ、そんなの、料理に対する、冒涜じゃないですか……! そもそもわたし、毒薬なんて持ってませんし」

「そんなこともあろうかと……ジャジャーン。私、準備は良い方なので」

 

 澪標はコートのポケットに手を突っ込んで、掌に収まりそうなほどに小さな遮光瓶を取り出した。得意げに掲げられたそれには真っ白なラベルが貼られていて、どうやら新品のようだった。そこに書かれている文字は外国語らしかったが、しかし待雪にとってそれを読むことは造作もないことだった。

 

「これ、ヒ素じゃないですか……!」

「しーっ。静かに、よ。薫さん」

「軽快なリズムで、なんてもの出してるんですか……っ! やめてくださいよっ。わたしの料理に、入れないでくださいね!?」

「これがなにかよく分かったものね。もしかして薫さん使用経験有り?」

「ないですよ……っ。単にそのラベルに書いてあることを読んだだけです」

 

 瓶に書かれた文字はドイツ語のようだった。澪標はおもむろにラベルを見たあと、すぐに待雪へ笑顔を向けた。

 

「怖いですよっ。何の笑顔ですか、それ」

「愛想は良くしなさいって、昔からお父様に言われてるの」

「毒薬を持ちながらの笑顔は愛想が良いとは言わないと思いますよ? そういうのはむしろ猟奇的って言うんです」

 

 汗を流しながら顔を青くした待雪は、隣に立つ恐ろしき存在に肩を竦めながらも、十分に完成と言える炒飯に塩を振りまいていく。それは随分と手慣れた仕草で、蒸気に乗った香りがより一層食欲をそそるようだった。さすがは超高校級の料理人が作った料理だ。匂いを嗅いだ澪標からは生唾を飲み込む音が聞こえてきた。

 

「というか、このご飯、ミオツクシさんも一緒に食べるじゃないですか。わたしも食べるんですけど……毒なんて入れたら、あなただって死んじゃいますよ」

「心中、なんてロマンチック」

「わたしを巻き込まないでください」

「あなたとなら構わないわよ」

「わたしは良くありません……!」

 

 軽口をかわしながら、厨房に置いてあった大皿に湯気たつ炒飯を盛り付け、レンゲと小皿をそれぞれ三つずつ取り出し、それを持って厨房から食堂のほうに出た。

 

 広い食堂に目を通せば、長机の端に雲隠の姿が見えた。自分の知らない誰かと談話をしているようで、おそらくそれが澪標の不機嫌さの原因なのだと、気の重さから肩を落とした。聞こえてくる声から察するに、会話が弾んでいるというよりも一方的に話を聞かされているだけのようだったが、それは澪標にとっては些細なことなのだろう。要するに、自分を介さず異性と接点を持っていることに腹を立てているらしい。

 雲隠の対面に座る女子生徒は澪標に負けずとも劣らない美貌の持ち主で、遠目からでも見えるその快活な様子は実に輝かしく、待雪は女子生徒の明るい性格を直ぐに理解できた。大人の魅力というのはああいうものなのだろうか。厚手の冬服であっても隠しきれていない豊満な肉体を隠し見ながら、待雪は澪標が抱く嫉妬のワケを理解できたような気がした。子供か。

 

 二人の痴話喧嘩を収める義理はないが、しかし気の知れた仲が誰もいないこの島で最初に出会った二人の関係がギクシャクしているというのなら、その間を取り持つくらいのことはしなければならないだろうという義務感を待雪は感じていた(とはいえ澪標の一方的な嫉みでしかないが)。

 

 待雪は雲隠のところにまで行き、机の上に皿を置く流れで澪標について訊いた。澪標は未だに食堂の方でいじけた態度をとっていた。

 

「クモガクレさん。わたしが言うのもなんですけど、ミオツクシさんのことは良いんですか?」

「……立竝(タツナミ)さんがどうかしましたか?」

 

 待雪は厨房にいる澪標に視線をやる。それに釣られるようにして、雲隠もまた澪標の方へ顔を向けた。しかし彼はすぐに視線を待雪に戻して、なんということもないような無表情で「ありがとうございます」と感謝を口にすると、「いただきます」の言葉とともに小皿へ炒飯をよそい始めたのだった。

 

「…………」

「…………」

「……おいしい。うん。おいしいですね、これ」

「え、ええ……?」

 

 なんとも言えない声が漏れる。

 雲隠がとった行動がまったくの予想外であったために、待雪は呆気に取られた様子で彼の食事風景を眺めていた。澪標もまた雲隠のどこかずれた発言を聞いていたのだろう。驚いたように目を見開いていた。

 

(誤解を生みやすいというよりも、これは……)

 

 唖然としていた待雪は、それでもひとまず席につくことにした。

 雲隠と例の女子生徒は向かい合わせに座っていたため、座るとするならどちらかの隣くらいなものだった。正直言って、待雪にはそのどちらであれども好ましくはなかった。女子生徒に関しては完全に初対面なワケだし、わざわざ隣に座りに行ったとして、空気が気まずくなるだろうというのは目に見えて明らかだった。その分なら、的外れな返事をするもののあまり多くは語らない雲隠の隣の方がいい。

 ただそう、雲隠の隣に座ることは、即ち死を意味しているだろう。彼の隣に座った場合、自らのために注がれた水にヒ素が混入していても、それはなんらおかしなことではない。

 …………。

 

「失礼します……」

 

 女子生徒の隣に澪標を座らせることは危険だろうと判断したため、待雪は名前も知らない彼女の隣に座った。ヒ素による死者が出るくらいなら、気まずい空気を味わった方がマシだという消去法からだった。

 

 隣の席の彼女は随分と大人びていて、歳は澪標と同じくらいに見えた。矢絣柄の着物に紺の袴。ファッションに疎い自分ではあるが、それが日本の女学生の間で流行しているハイカラな服装なのだということに辛うじて理解が及ぶ。健康的な肌色を覗かせる首は少し太く、すくっと首筋が伸びていて気が強そうな印象があった。微かに影を浮かべる咽喉を伝い艶やかな光を照り返す鎖骨へと目線が移ってしまうのは、それは自然なことである。そうまじまじと見つめていると気付かれてしまいそうだったため、顔まではよく見れなかったものの、親しみやすさと大人の余裕を兼ね備えた淑女という言葉が実にぴったりな美しい人だった。

 

 後からやってきた澪標は厨房でのことはなにもなかったかのように平然と振る舞い、雲隠の隣、つまり待雪の対面にあたる席に座った。少し気まずかった。四人の間で会話らしい会話がないというのもそうだが、絶賛妬み嫉み中の澪標の顔を見なければならないのは大変辛い苦行のようでもあったからだ。そういえばそうだった。どちらの隣に座ろうとも、どのみち澪標の対面には必ず座らなければならないのだ。彼女について知っていることは少ないが、だからこそより恐れが増した。

 

 一分、二分……。澪標は笑顔のまま。雲隠は炒飯を美味しそうに頬張ったまま。そして待雪はレンゲを手の中に強く握り込んだまま、大きな変化はなく時間だけが過ぎていった。さっきまで話をしていた女子生徒は口を閉ざしてしまい、一番話をしそうな澪標も笑顔を浮かべたまま口を開かなかったから、重苦しい沈黙がただ流れていた。

 そういった空気が待雪はどうにも苦手で、場の空気に耐えきれず慌てた顔で隣に座る女子生徒に話しかけた。それは随分と勇気を必要とする行動で、決断までに三分かかった。

 

「あのう。すみません。あなたも食べますか? なんなら、わたしのお皿で──」

 

 空の皿と手に握り込んだレンゲを前に出して、そう提案したところ、女子生徒はキッパリとした言葉でそれを遮る。

 

「大丈夫。もうお昼は食べたから。あんたの料理、とっても美味しかったわよ」

「……ありがとう、ございます」

 

 礼を言われ、素直に返事を返した。褒められるのは満更でもない気分だった。彼女が美味しいと言っていたのは、おそらく待雪が数時間前に食堂で振る舞った汁物のことだろう。

 個室へ辿り着き、そして探索を始めたその直後。真っ先に食堂を見つけた待雪は雲隠らとそこで別れ、探索よりも料理をすることを選んだ。それだけが自分にできることだと思っての行動だったが、なによりこの先死んでしまうのかもしれないのなら少しでも多くの時間を料理に費やしたいと考え、厨房に立ったのである。

 毒が混ぜられているのではと疑いをかけられもしたが、けっきょく用意してあった分は全てなくなってしまい、待雪と雲隠、澪標の三人はなにも食べられなかったくらいだった。それほどにおいしい料理。超高校級の料理人という肩書きに嘘偽りはない。

 そして、毒うんぬんの疑いをかけられたとき、自分のことを庇ってくれた幾人かの生徒のうちの一人が、この名も知らぬ女子生徒であったことを待雪は思い出した。

 

「ああ──そういえばあなたは、あのときわたしを庇ってくれた」

 

 待雪がそう言うと、女子生徒は驚いたように目をパチクリとさせて……けれどもすぐに瞳を閉じ、噴き出すように笑った。

 

「あっはは! おっかしい。……憶えていたの? 変なの」

「いえっ、すみません。ついさっき思い出しただけで、それまではとんと忘れてしまっていました」

「ならちょっとむかつく」

 

 彼女は怒ったような口ぶりで不貞腐れたように頬杖をついた。優しい形をした目でじっとこちらを向いている。視線に苦手意識のある待雪は反射的に手元を見下ろし、それからようやく口を開いた。

 

「でも、本当にありがとうございました。本当に、助かりました」

「いいのよ、そんな、感謝しなくったって。私は当然のことをしただけ。ほら、先の震災でも似たようなことがあったし、同じようなことにならないようにね」

「先の震災……? ああ、すみません。わたしはここ数年、海外にいたので……日本のことは……」

「あら、そ。まあ、あんなこと知らない方がいいわ」

 

 そう言ったあと、女子生徒は考え込むように黙ってから、静かな声で弁解するようにこう言った。

 

「きっとみんな、不安でしかたがなかったのよ。同じ寸胴に入った汁物に毒なんて入れたら、二人までしか殺しちゃいけないっていう校則を破ってしまうってことに考えが及ばないほどにね。……だから彼らのことは、恨まないであげてちょうだいよ」

 

 それは優しい声だった。本当に、誰も彼もを心の底から心配しているような、そんな慈愛が込められた言葉であった。人によっては思わず甘えたくもなってしまうものだろう。

 掲げていた皿とレンゲを机に置いて、手は膝に乗せ、待雪は真摯な態度で彼女に応えた。

 

「みなさん混乱しているようでしたから、仕方がないことだったと思います。それにわたしは嫌な思いなんてしてません。最後にはおいしいと言っていただけましたから、わたしはそれで満足なんです。……食事は楽しむものですから」

 

 そんなことがあったのか、とでも言いたげな、しかしそれでいて興味のなさそうな目で(もともと感情が読みにくい表情なのでそれも定かではないが)こちらを見る雲隠の視線を感じた。それを気にしながらも待雪は自分の取皿に炒飯をよそい、今更ともいえる疑問を隣に座る女子生徒に問いかけた。

 

「そういえば! ……お名前を、お伺いしてもいいですか? クモガクレさんと、お話をしていたとお聞きしましたけど」

 

 ひょっとしたら既に名前を聞いていたかもしれないが、たとえそうだとしても、待雪は彼女の名前がてんで記憶に残っていなかった。もし既に名前を聞いていたのなら失礼なことを言っているなと後になって不安がったが、どうやら自己紹介はまだだったらしく、女子生徒は口から笑みをこぼして答えた。

 今朝のことといい、今この場で笑顔を崩さないあたり、彼女はいつだって気丈に振る舞うことのできる強い女性なのだろうと思った。

 

「あたしは熊谷(クマガイ)夕顔(ユウガオ)。超高校級のバスガール」

「クマガイさん、ですか」

「あんたは?」

「わ、わたしは、待雪薫です。超高校級の料理人です」

「そっか。どうりで美味しいわけね。……あたしのことは夕顔って呼んで。あたしもあんたのこと、薫って呼ぶから」

 

 親しみやすい、陽の暖かみを持つ柔らかな笑顔を熊谷は見せた。それはバスガールという職業上見せなければならない義務的な笑顔ではなく、確かに心から出た笑顔なのだろうと直感的に感じ取った。だから待雪も、精一杯の笑顔で返す。

 超高校級のバスガール。クマガイユウガオ。その名前を忘れないように、頭の中でその八文字を暗唱した。




【校則】
・生徒たちはこの学園内だけで共同生活を行いましょう。期間は一ヶ月です。
・夜十時から朝六時までを夜時間とします。夜時間は立ち入り禁止区域があるので注意しましょう。
・施設から脱しない限りは特に行動に制限は課せられません。
・仲間の誰かを殺したクロは"入学"となりますが、自分がクロだと他の生徒に知られてはいけません。
・生徒内で殺人が起きた場合は、死体発見の一定時間後に学級裁判が行われます。
・最低三名が死体を発見し、それを運営側に報告した場合のことを死体発見と呼びます。
・学級裁判前に行われる事情聴取にて、自身がクロであることを申告しなかった場合、のちにその事実が判明したとしても入学の権利は与えられません。
・学級裁判で正しいクロを指摘した場合は、クロだけが処刑されます。
・学級裁判で正しいクロを指摘できなかった場合は、クロだけが入学となり、残りの生徒は全員処刑となります。
・全生徒数が三人以下になった場合は、これ以上の続行は不可能とみなし、生き残りは入学となります。
・同一のクロが殺せるのは二人までとします。
・故意による施設の破壊は禁止とします。


 きちんと説明をしていないとバトル・ロワイヤルみたいになりかねないなと思ったので、最初から学級裁判の存在を校則に載せたり、事前説明でほのめかしたりなどしました。
 バトロワみたいな話もいいかもしれませんね。いずれ書くかもしれません。


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002 (非)日常編

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 な、なにゆえ……なにゆえっ!

 

 

 

 1

 

 

 

 午後四時を過ぎた頃。多くの生徒は施設の探索に出払っているようで、昼頃までは賑わいを見せていた食堂も、今は既に元の静けさを取り戻していた。雲隠や澪標の二人は遅めの昼食をとったあとすぐにどこかへと行ってしまったけれど、それを寂しいとは思わなかった。

 

 待雪は施設を探索せず、あれからずっと厨房に篭って皿を洗い磨いていた。昼食時に使ったものもそうだが、棚で埃をかぶっていた食器や箸、カトラリーなども同じく洗浄することで時間を潰していたのだ。それは飲食店で修業していたころにできた習慣だった。

 けれども、時間も時間だったためにその手を止めて、待雪は厨房にある食材を物色し始めた。あと二時間もしないうちに日は暮れ、夜がやってくる。朝と昼は時間がなかったため単品しか用意することができなかったが、夜はそうでもないのだし凝ったものを作ろうと、気合を入れるために袖をまくった。料理を作るときだけは、その目に光が灯っていた。

 

 そんな折である。ふらりと食堂に入ってきた一人の女子生徒が、脇目も振らずに待雪の元へと軽い足取りで寄ってきた。どこかで見たような姿をしている。なるべく意識しないように目線を逸らすと、その女子生徒は頭に響くような明るい声で待雪に話しかけてきた。

 今、この食堂には自分とその少女以外に誰もいない。気付いていない振りができるほど待雪は肝が据わっていなかったため、嫌々顔を上げて女子生徒の様子を窺った。

 

「やーやー、お初にお目にかかります! お昼ごはん、とっても美味しかったですよ! ええはい、それはもう絶品で! 私寒いところが苦手で、どうにもこの島は合わないなあだなんて思っていたのですが、朝の汁物といい、昼の雑煮といい、暖かくもおいしい品でした! 今朝はあれこれお騒がせしてしまいましたが、その節はどうもというところで、一つお話し良いですかあ?」

(……面倒くさそうな人だなあ)

 

 歳は自分と同じくらいに見えた。さっぱりとした前髪はカチューシャで留められていて、背の辺りまで伸びた長い後ろ髪はお団子を繋げたような三つ編みに結われてあった。髪を結うのは得意ではないようで、所々形が不揃いだったり大きさが違っていたりして、見た目相応の子供らしさを感じた。眼鏡のサイズが合っていないのだろうか。頻繁にブリッジの部分を押し上げている様子が見て取れた。

 

「確かあなた……今日の朝、カムクラさんに質問をしていた……」

「ええはいそうです、そうですよう! そちらのほうで憶えてらっしゃったのですねっ!」

 

 その少女は牛乳瓶の底のように分厚いレンズが嵌め込まれた眼鏡を中指で押し上げて、感嘆の声をあげた。嬉しく感じているのではなく、単にいつもこの調子なのだろうと待雪は思った。

 

「えっとですね、今、皆さんにお話を聞いていまして──ああそうそう、自己紹介が遅れましたっ。私は壱目(イツメ)(ホタル)といいます! 超高校級の新聞部だなんて、いやあ照れちゃいますよねー! 美少女新聞部だなんて肩書をつけてもらっても構わないのですが、それはいささか自己主張が激しすぎるというものでしょうか? まあ、今の時代、主張の激しい大正デモクラシーだって控え気味ですしねえ。これからは奥ゆかしい大和撫子な新聞部とやらになるべきでしょうか」

「は、はあ……?」

「まあ超高校級のなんたらというのに関しましては、ようやく私の実力を世間が認めたということなんでしょうかね? 少し遅すぎたという感じも否めませんし、希望ヶ峰何某とやらの無名な組織に注目されたところで……と思わないわけもないですが、まあ良いでしょう! もともと、世間に名前を知らしめたいがために記事を書いてる訳ではありませんから! そう、記事といえばですね。聞きましたか? なんとこの島、要請さえ通れば新聞や雑誌を届けてもらえるそうですよ? とはいえ一度船を経由するので、発売日から二、三日遅れてしまうそうですけれど」

 

 聞いてもいないことを壱目は饒舌に語った。

 正直、待雪はこういう人種が苦手だった。なぜなら、一緒に話をしているはずなのに、なんだか置いてけぼりにされているような気分になるのだ。

 それに大抵こういう人間は厚かましい。

 

「あなたは?」

「へ?」

「ええっと、だから、あなたのお名前はとお尋ねしているのですよ。名乗られたならば己の名を名乗る。名刺を差し出されたのならば、それよりも低い位置に名刺を差し出す。いかんともせん、古臭くとも守ればそれで良いだけな社会の常識ですよ?」

「ああ──わたしは、待雪薫っていいます。超高校級の料理人です」

「なるほど料理人さんですかっ。はっはあ、どうりでご飯が美味しいわけです! 普段ならば、ああそれはもう出された料理にいちゃもんの一つや二つくらいは出すのですが……さすがの私も文句なしでした!」

 

 壱目は得意げにそう語った。彼女は褒めているつもりなのだろう。悪意のない笑顔が嫌味のように眩しかった。

 対して待雪は愛想笑いをするのが精一杯で、できるのなら誰かに助けを求めたい気持ちだった。だがいま食堂には待雪と壱目の二人しかいないので、それは叶いそうにない願いだった。

 変な客が来たのだと考えれば、少しは気が和らぐかと気持ちを切り替える。

 

「喜んでいただけたようで、なによりです……」

 

 店で使うようなテンプレートの返しをすると、壱目は薄い胸を大きく膨らませて得意げに鼻を鳴らした。傲慢なその態度は、稀に見る悪意を持たない迷惑客そのものだった。

 悪意のない悪意ほど、厄介なものはない。ふと過去にあった面倒な思い出ばかりが想起させられて、自分でも気付かないうちに表情筋が引き攣っていた。

 

「ところで、その、お話って……?」

「ああそうそう、そうでした! 私、待雪さんにお話がありまして……」

 

 そう言うと、壱目は変わらぬ笑顔でこんなことを言った。

 

「私が人を殺すって言ったら、どうしますか?」

 

 人を殺す。その言葉の意味を──特にこの島においては特別な意味を持つその言葉を──まるで彼女は挨拶をするみたいに躊躇なく懐から取り出した。

 

「! それって、どういう……」

 

 いつになく険しい顔をして、待雪は訊いた。すると壱目は、冗談でも言うみたいに笑ってこう返した。

 

「仮定のお話ですよう。ちょっとした実験みたいなものです! そんな、かたあい顔しないでください! 本当に人を殺すわけがないじゃないですか、そんな、おっかない!」

 

 壱目の真意を待雪は測りかねた。今朝の出来事を受け、このようなことを冗談だとしてもまっとうな神経で言えるはずがない。あるいは、彼女は既に狂っているのだろうか?

 

「まあそりゃあ、この質問をすることの意味くらい、自分でだって分かっていますよう。でもですね、関係性を築いている大事な時期に、不信感を募らせるような質問を意味もなく全員にするわけないじゃないですか!」

 

 手元のメモ帳に視線を落としてから、壱目は言葉を続けた。

 

「それで? 回答は?」

 

 彼女の小さな手には、新しい鉛筆が握られていた。少し先が丸くなっていて、既に何かを書いていたらしかった。

 

「えっと、その」

 

 待雪はどう答えるべきか図りかねた。正解らしい正解が見つからなかったのだ。おそらくこれは、なんらかの心理実験だろうと察しはつくが、その意図を汲み取ることは困難を極めた。

 もし誰かが人を殺すというのなら、それは止めるべきだという倫理観はある。だが、それが正しいかと訊かれると、首を縦に振ることはできない。

 

「わたしは」

 

 それだけ言って、言葉に詰まる。本当にその意見は正しいのかと、誰かが囁いたような気がして。

 

「私は?」

「……わたしは、止めはしません」

「ほう。……どうしてそのような答えに?」

 

 壱目はメモを一瞥すると、さらさらと手だけを動かして何かを書き込んでいた。まるで全てわかっているのだとでも言いたいような、そんな目でこちらを見てくるのがどうにも好かなかった。

 

「だって、その人には他人を殺さなきゃいけない理由があるわけじゃないですか。人殺しという重い決断をするのには、幾度もの苦悶や葛藤があったはずです」

 

 待雪は苦しそうに口を歪めて話しました。

 

「そんなに思い悩んで、ようやく決断を下すことができた人に、わたしは軽々と『止めろ』だなんて言えません」

「それじゃあ、待雪さんは人殺しを止めないのですか?」

 

 険しいような、興味がないような、どうにも考えていることの分からない笑顔で壱目は結論を促した。

 

「……はい、そうなります」

「ふむふむ……なるほどう……、はい! ご協力ありがとうございます! とっても良い情報が得られました!」

 

 外まで響くような甲高い声で言うと、髪を振り回すように上半身を曲げた礼をして、それからずり下がった眼鏡の位置を直していた。

 どうにも壱目は苦手だと、このとき待雪は改めて自分の心持を認識した。

 ただまあ、夜も近い。料理にまでその気持ちを引っ張る必要はないのだからと、待雪は厨房に戻ることにした。

 壱目は壱目で、食堂の椅子に腰掛けていた。

 

(帰らないのかなあ……)

 

 せめて立ってさえいればどこかへ行きそうなものの、座られてしまうと雲行きが怪しいように感じる。こういったとき、悪い予感というものほど的中するもので、壱目は「疲れましたー足がもう棒ですよ、棒」などとほざきながら頭に被っていた帽子を机の上に置き、メモ帳をパラパラとめくりながら寛ぎだした。

 

(ええ……あうぅ……。イ、イツメさん……)

 

 待雪の悲痛な思いは誰にも届くことがなく、彼女は沈痛な思いを抱えて皿を持つ手に目線を落とした。

 

「待雪さーん! 今日の晩ご飯ってなんですか!」

「……今日は白米と、お野菜を煮たものと、あとは冷蔵庫にお魚があったのでそれを揚げてみようかなと」

「なるほど! おいしそうですねっ。汁物や米、魚などは日本食の基本とも言えます。けっこう和食にうるさい私ですが、今朝食べた汁物がとてもとても美味しかったですから……期待大! ですっ」

「はあ……それは、どうも」

「なあに辛気くさい顔してるんですか、元気出さなきゃいけませんよう!」

 

 励まされているのだろうか。頭が痛い。

 

「ご飯はいつ頃になりそうですか?」

 

 なんだ……? 催促しているのか……?

 呆気にとられて、待雪は皿を落としかけた。動揺の色を見せないようにかぶりを振ってから、言葉を返す。

 

「六時になればできると思いますから、その時間になったらまたいらっしゃって──」

「──待ちますねっ! ここで!」

(な、なにゆえ……なにゆえっ!)

 

 つい、手に持っていた皿を流し台に落としてしまった。幸いそれは銀食器であったため割れるようなことはなかったが、しかし待雪は酷く動揺していた。

 

(わたしは一体どこで間違えたんだろう?)

 

 間違いというのなら、そもそも壱目に料理を振る舞ったこと自体が間違いだった。そしてそれは今更取り返しようのないことで、また時間を戻せたところで待雪にはどうしようもないことだった。たとえ時をやり直せる機会があったとしても、愚直にも同じことを繰り返していただろうからだ。誰が相手であっても、相手が求めるのならばそれに応えたいと思ってしまうのだから。

 

「待雪さーん」

「はっ、はいはいっ」

 

 ああいう相手に下手に出てはいけないと分かってはいるが、しかしお客だと思って義務的に対応しなければどうにかなってしまいそうだった。

 厨房と食堂とは料理の受け渡しを行うために一面の壁が取り払われていて、そこから顔を出して受け答えを行うことができる。本当なら、壱目の元にまで行って話を聞くのが良いのかもしれないが、そうするのにはトランクの重さが憂鬱だった。なので待雪はカウンター席から少しだけ顔を出して、反応を示した。

 

「どうかしましたか?」

「いえっ、どうかというわけじゃないんですけど、その……ちょっとしたものを作ってくれませんか? あちこち動き回っていたからか、お腹が減ってしまいまして……」

 

 てへ、なんて声が聞こえてきそうな顔をして、壱目はそう言った。

 料理をすること自体に問題はないのだが、しかしこの女子生徒の頼みともなると、なんだか嫌気が差すのだった。彼女が悪いことをしたわけではないし、それに恩を売っているのだと考えれば待雪にだって損はない──ただ、壱目個人に対して何かをするという状況を待雪は嫌った。空返事を返したのち壱目からは死角となる裏に回って、深いため息をついた。

 この島に来てから、やたらとため息が増えた気がする。そのうち白髪が生えてくるんじゃないだろうかと、背中に流れる三つ編みを撫でた。

 

 しかしなにかと言われてそう簡単になにかを出せるわけじゃない。や、なに。既にいくつものレシピが頭の中に浮かんでいて、そしてそれは今ある食材でも作ることが可能なものであり、壱目だってきっと満足してくれるだろう。時間を考慮すれば調理にかけられる手間は限られてくるが、それでも絶品と呼べる料理を提供できる自信が待雪にはある。

 ここでの生活期間は三十日間だと誰かが言っていたけれど、その程度の期間なら十六人それぞれに対し日替わりで料理を振る舞うことだって、待雪にしてみれば造作もないことだ。中華料理やフランス料理、イタリア料理にジャンクフード、それから和食など……彼女に作れない料理などないだろうという評価は、なんの外連味もない等しく正しいものだ。

 世間知らずな待雪は、料理に関していえば膨大な知識とそれを形にする技量を習得していた。

 

 ただ、今ここで一つ料理を出し壱目が喜んだとして、それじゃあ他の人たちはどうなるのだろうかという不安が脳裏をよぎる。この施設には自分を除いて十五人の生徒がいて、そのほとんどはきっと、自分の料理を好いてくれているだろうことを待雪はわかっていた。

 だからこそ悩んだのだ。はたして壱目だけに料理を振る舞っても良いものだろうかと。格差が生まれてしまうのではというのが、待雪にとって憂慮すべきことだった。扱いによる奉仕の差──かつて奉仕に徹したがために苦い体験をした待雪にとって、それは考えずにはいられない懸念材料だ。

 とはいえ、要は壱目個人のために作ろうとしなければ良いだけなのだ。たくさん作ることができて万人受けするものといえば、やはり汁物だ。

 

(そうだ……どうせ晩ご飯で出すんだし、いま作っちゃえばいいんだ……)

 

 その閃きがなんとも妙案のように思えて、壱目により下げられていた士気を取り戻した。

 厨房に置いてある食材は風味や食感が劣化していたり質の悪いものも多くあった。しかしだからといって食材の良し悪しに左右されるような──ましてや料理の不出来の理由を食材に押し付けるような愚かな料理人ではなかった。

 超高校級。しかしたかだか高校級というのであれば、待雪の場合、料理人としての才能は間違いなく高校級を超えていることだろう。彼女はその特異性故に料理界に革命は起こせないだろうが、しかし間違いなく歴史に名を刻む料理人であり、至上の料理人であるのだから。

 ただそう、彼女が超高校級に甘んじなければならない原因があるとすれば──それは彼女の人間性だろう。

 料理人とは、ただ料理を作れば良いのではない。ときにはお客とのコミュニケーションも大切なのだ。客がどのような味付けを求めているのか、待雪にはまるで手に取るようにその心を理解することができるが、しかしこと対人関係において彼女は問題点が多い。

 それを改善することは難しいように思えた。既に彼女は彼女として、一人の人間として成り立っている──それを変えようとするのは、歪に折れ曲がってしまった針金を元の真っ直ぐなものに直そうとするような無謀なことだった。

 

「ええー、汁物は今朝食べましたよう。いえいえ、あれは何度だって食べられるような味でしたけどね? おかわりもしちゃいましたし。……でも私、もっと違うものが食べてみたいんですよ。お肉とかないんですか? おにく!」

 

 なんだ……この人は……。面の皮が厚すぎるだろう……。

 

「お、お肉、ですか? 汁物じゃなくって? じゃ、じゃあ、お肉入りの汁物などはどうでしょうか」

「あーだめですね。お肉単体がいいです」

「…………」

 

 なるほど、厚かましい。さらに強情だ。

 記者という職業は根気強さと無神経さこそ大切だと聞くが、こう私生活でもそうである必要はないだろうにと眉根を寄せた。

 

「ええっと、鶏肉ならありますけれど。皮を焼いて出しましょうか」

「それでいいですよ。美味しそうですね!」

 

 待雪はうんざりとした気分のまま厨房の奥へと姿を隠した。冷蔵庫にあった鶏肉を取り出し、それを清潔なまな板の上に乗せ、いつもよりも力のこもった手で皮を剥いだ。

 心は既にポッキリと折れてしまったというか。折れてしまう前に、抵抗する意思をなくしたというか。

 

 レシピ、と呼べるほどのものではないが、待雪は鶏皮を焼いて出そうかと考えていた。余った肉の部分は汁物に入れようという腹づもりだった。冷蔵庫はそう大きなものではないから生鮮食品は貴重だったが、いつ死ぬか分からないコロシアイという環境に身を置いている以上、出し惜しむような真似はよろしくないだろう。だから貴重な鶏肉であれ惜しげもなく使う。たとえそれが壱目に対してでもだ。

 

 先ほどまで思考を占拠していた懸念というものが、完全に取り払われたわけではなかったが、しかしそれ以上に壱目との会話が苦痛だった。嫌いというか、苦手というか。食堂で呑気にくつろいでいる彼女の後ろ姿を思い浮かべながらため息をついた。

 

 油を引いた鉄板に弱火を当て、処理を済ませた鶏皮を敷き、それを上から押さえつけた。こうすることで、鶏皮が煎餅のようにかりかりとした食感になるのだということを、待雪は知っていた。お酒のアテになると聞いたことがあるものの、それは未成年の彼女にはまだ分からない味覚だ。

 ビールとやらは苦くて、好んで飲めないだろうなと待雪には感じられた。お酒を嗜む感性はあったけれど、酒を飲むと感性が鈍ると感じ、彼女は酒や煙草を嫌厭している。それもあってだろうか、おつまみとやらは作れるが、それを美味しく食べるためのお酒を飲むことは滅多になかった。

 そういえば、この食堂にもお酒が置いてあったな──と、待雪は今朝厨房を見て回ったときのことを思い出す。孤島だと水の調達も難しいのだろう、厨房には保存の効く酒類が多く保管されていた。様々な種類が取り揃えられており、日本酒もそうだが、西洋の酒まで置かれてあった。年代物こそなかったが、どれも値の張るものばかりで、庶民的な目線から言わせてみれば十分に高級と言えるものばかりだった。土を掘って作られた暗室に置かれていて保存状態も良く、酒の味を知らない未成年にだって、美味しく飲むことは容易いだろう。

 どうせ死ぬのなら、この施設にいるみんなに酒の美味しさを伝えて、束の間の安楽でもいいから目の前にある不安や絶望を忘れさせてあげることも、きっとそれも優しさだろうか。

 

 油が弾ける音と共に、鶏の油の良い匂いが食堂に広がっていった。まだ焼けていない面を焼くために裏返すと匂いは広がり、より食欲をそそる。

 美味しそうな匂いを嗅いで機嫌を良くしたのか、壱目は楽しげに肩を揺らしていた。鼻歌でも聞こえてきそうな調子だった。

 ちなみに鶏皮は二人分焼いてある。待雪も少し小腹が空いていたのだ。夕飯を作らなければならない頃合いだが、今朝からずっと料理を作っていたのだから、少しくらいは休まないと勘が鈍る。

 

 自身の料理の腕前に、待雪は珍しく自信というものを持っていた。力がある者はその力を自覚している必要があると言われ、待雪は料理に関してだけは胸を張れるような自信を持つようになったのだ。だから、普段は怯えた態度を見せる彼女も、厨房に立てばいくらかは逞しい後ろ姿を見せるようになる。そこだけが自分の輝ける場所なのだと、そう思っていたからだ。

 

(料理はいい。わたしが唯一、人様を幸せにできる方法だ)

 

 人と食卓を囲むことも好きだった。食べ歩きなどもいい。特に冬、親しい仲と鍋をつつくのは暖かい。

 

(……明日は鍋なんてどうだろう。たしか土鍋がいくつか置いてあったはずだし、それなら鶏肉も使える)

 

 そんなふうに献立を考えていると、食欲をそそる鶏油の匂いにつられてか、一人の女子生徒が食堂へと訪れた。

 

「あら、いい匂いね。鶏のいい匂い」

 

 この声は壱目のものではなかった。口調からしても、それは別人である。振り返るように食堂の方を覗いてみると、全身を白い洋服だけで着飾った同年代と思われる女子生徒が、食堂の入り口に立っていた。

 白くタイトなコートに、これまた白く裾の長いスカートを着用している。足先から頭のてっぺんまで白く、白でない部分を探そうとして見つかるのは射干玉色の綺麗な長髪だけだった。各所で輝く金具はすべて銀色で、ある種の芸術を思わせる美しい格好である。パリの大通りにある一流の呉服屋のショーケースにそのまま飾られていてもなんらおかしくないような、そんな輝かしい美を振りまく少女は、かつかつと白いブーツの靴底を鳴らしてカウンターまでやってきた。

 そこから身を乗り出すようにして頬杖をつき、怪しげな笑みを浮かべたあと、少女は待雪に尋ねた。弄ぶように編まれた横髪が揺れる光景は、ある種のサディスティックさを孕んでいる。

 

「この匂いは、鶏皮を焼いているのね。……私の分もあるかしら?」

「……あるにはありますよ。余分に作ってありますから」

「そう。運がいいのね、私」

 

 歌うような綺麗な声で少女は待雪に囁きかけた。背筋が凍りついてしまいそうなくらい穏やかでない心境から、思わず少女から目を逸らす。

 

「余りものというのはあまり気が乗らないけれど──アナタの料理はとても美味しいかったから、期待も込めて不問にしてあげる」

「はあ……? ありがとう、ございます」

 

 また癖の強い人が来たと、待雪は体がぐんと重くなるのを感じた。澪標や壱目もそうだが、超高校級というのは癖のある人が多いのだろうか。

 心が休まるのを感じない待雪は、自分もその超高校級の一人なのだというのを思い出して、憂鬱な気分になった。掴みづらい性格ではあるものの、しかしうんともすんとも言わない雲隠がなんだか懐かしいように感じられた。

 

 あれこれ考えるからいけないのだと、食堂にいる二人のことは忘れ夕飯の準備に没頭しようとしたのだが、なぜだか全身白い洋服の少女はカウンターから離れようとしなかった。

 なぜだろうと気にかけはしたが、しかしその疑問を口に出すことはない。関わりたくないというか、連鎖的に壱目とも会話をしなければならないような気がしたのだ。壱目なら、少女と話をしている最中に割り込んできかねない。

 しかしそんな待雪の思いとは裏腹に、全身白の女子生徒は冷徹な瞳をこちらに向けたまま、静かに口を開いた。

 

「そういえば──」

 

 切り揃えただけの長い前髪の間から疎ましげな目で少女を見つめた。鶏皮の焼き加減はもう頃合いだった。

 

「アナタの名前、まだ聞いていなかったわよね。……私の自己紹介は必要?」

「……お願いします」

 

 謙遜するように言って、火を止め、鉄板から鶏皮を剥がす。本当は自分の分を作っていたのだけれど、それを少女に与えることにした。食べることよりも、人が食べているのを見るのが待雪にとっては喜びであったから、それは自然な結果だった。

 

「わたしは待雪薫です。超高校級の料理人という肩書きを与えられました」

「そう、どうりで。様々な国で一流と呼ばれるシェフが作った料理を食べてきたけれど、そのどれよりもあの汁物は美味しかったもの」

 

 素っ気ない物言いで、だけれども確かな気持ちが込められた言葉で少女は称賛の声を待雪に与えた。それはまるで上の者が下の者に褒美を取らせるのは当然だというような、そんな上下関係に似ていたが、しかし待雪は嫌な気分はしなかった。なぜなら少女のその気高い雰囲気は、高級レストランに来るような高貴な立場の人間のものとよく似ていたからだ。

 下に見ることはあっても、それは侮辱や嘲笑によるものではない。彼らはいつだって敬意を忘れることなく料理人やウェイターと接していた。初対面の自分に対し、少女は目上の立場から敬意を抱いてくれているのだということに、待雪は自然と気がついた。

 

「私の名前は東屋(アズマヤ)エリカ。超高校級のファッションデザイナー。……都心の方に、東屋という百貨店があるのはご存知かしら? 東京に行く機会があれば一度行ってみるといいわ。私が作った洋服を一番多く取り扱っているのは、日本ではあそこだもの」

「ああ……東屋百貨店には、料理の勉強で一度行ったことがあります。呉服屋にも、立ち寄ったことがあります」

「あらそう、意外な接点ね」

 

 特に目立った反応は見せず、さもそれが当然だとでも言いたげな態度で言葉を返せば、東屋は品定めをするような目で待雪のことを見ていた。

 待雪は目線を気にしながらも、焼き上がった鶏皮を縦長の皿に乗せ二組の箸と共に机へと運んだ。

 東屋が次に口を開いたのは、席についてからだった。東屋の後ろには壱目が座っていた。

 

「……アナタ、素材は良いのに、格好や立ち振る舞いが泥臭い田舎娘って感じがして、なんだか残念ね」

「?!」

「残念って言っているの。……料理は上手だし、食堂や厨房の様子からしてアナタ、きっと家事だってできるでしょう。顔も悪くなくって肌もキレイなのだから、薄く化粧をすれば十分良く見えるわ。髪だって手入れが行き届いていて、キレイなものだもの」

「ははあ……」

「それに、なんだかよく分からないけれど、アナタからはもっと強い魅力を感じるの。……本当に、もったいない。私の手にかかれば、きっと引く手数多よ」

「……わたしは、料理ができればそれで十分なので」

「ダメよ」

 

 否定の言葉をぴしゃりと言われた。ぴしゃりと物を言われてしまうと、反論はしづらかった。

 なんと言っていいか言葉を探っている間、東屋は顎に手を当てながら考え事にふけっているようだった。そんな二人を脇目に、壱目は美味しそうに鶏皮を食べていた。

 数度、視線が交ったかと思うと、東屋は大きく息を吐いてこう告げた。

 

「よし、決めたわ。もしもお互い生きて島を出ることができたのなら、私がアナタをコーディネートしてあげましょう。アナタに似合う洋服を、私が手ずからデザインしてあげるわ」

「いや……いいですよ、そんな。作っていただけるのはありがたいですけど、多分、着る機会はないと思うので」

 

 眉を八の字に曲げて、待雪は困ったように答えた。超高校級のファッションデザイナーと呼ばれる彼女にそうまで言わせる魅力が自分にあるようには思えなかった。実際、そんな兆候を今までの人生で感じたことなんてない。

 それになにより、もったいない。お洒落に関心がなく、年がら年中無休で厨房に立ち続けることが至福である待雪に、彼女ほど才気あふれる人物の時間をとらせることは無駄だと謙遜しているのだ。

 だから待雪はなんとかして断りたいと考えたが、東屋は東屋で引き下がろうとはしなかった。

 

「なあに? 私が決めたことに逆らうつもり?」

「そういうわけじゃないんです……って、もう決まったことなんですか?!」

「ええそうよ。これはもう決まったこと。決定事項」

 

 自分の判断を信じて疑わない、傲慢な口振りだった。

 

「っ、で、ですけど。──わたしは、この島から出たら、すぐに海外に飛ぼうかと考えていますから。日本にはもう、用はないですし」

「……あら、そうなの。てっきり希望ヶ峰に入学するものかと思っていたのだけれど」

「? どういうことですか? ……希望ヶ峰学園って、あれ、嘘じゃなかったんですか」

 

 希望ヶ峰学園に向かっているはずが、いつのまにか船に乗せられて、その挙句に孤島でコロシアイをさせられている待雪にとって、希望ヶ峰学園というのはまやかしであり、釣りに使う擬似餌のようなものかとばかり考えていた。がしかしどうやら真実はそうではないらしいということを知る。

 

「そもそも、何人か足りないって時点でお察しよね。私は不満しかないんだけれど──ええ、知らないなら説明してあげる。懇切丁寧に」

「お、お願いします」

 

 縮こまった待雪の礼を見て、東屋は意に介さず話を続けた。

 

「学生手帳は見た? そこに全部書いてあったと思うんだけど……ほら、校則の欄。島から出るための条件が書いてあるところをご覧なさい。そこに()()と書かれてあるでしょう? きっと、生き残りは、希望ヶ峰に入学させられるんじゃないかしら。──身勝手な話よねえ」

 

 東屋は肩を竦めて、不満そうに頭を振った。

 入学。それが意味するのは、文字通り希望ヶ峰学園への入学ということだろう。

 待雪の心は揺れ動く。てっきり無くしたとばかり思っていたものが、思わぬ形で見つかった。

 

「ええーっ! そうだったんですかあ!」

 と東屋の後ろから甲高い声が上がる。驚きの声をあげたのは壱目だった。お前は関係ないだろう。

 

 

 

 2

 

 

 

 それは夜時間よりも前のこと。

 待雪を除いた十五人は、険しい面持ちで体育館に集まっていた。夜という時間帯もあるのだろうが、それ以上に今朝のことを思い出していたのかもしれない。

 

 コロシアイ生活。

 

 否が応でもその言葉は思い起こされる。どうしたってそれは、忘れることのできない呪詛のようなものだった。

 なにも本気で彼らは殺し合うことについて考えてはいない。自分はおかしなことに巻き込まれてしまっただけで、いつか誰かが助けに来てくれるだろうと──そんな希望的観測を抱いていた。同時に、自分は死ぬはずがないと信じて疑わなかった。死ぬことなど、考えてさえいない。

 それが未熟さからくる甘さだというのなら、そうなのだろうか。誰だってこんな状況で自分が死ぬのを想像するのは──特に、超高校級と呼ばれるまでに未来に恋焦がれた彼らに死を想えだなんていうのは、無理があるだろう。

 うら若き青少年らにとって、未来とはこれからのこと。少なくとも、こんな冷たく寂しい孤島なんかで人生を終えるつもりなどさらさらないのだから。

 遅れてやってきた待雪は、息を荒げながら体育館へと飛び込んだ。首に繋がれたトランクのせいか、まるで何十キロも走ったあとのように激しい息切れを起こしていて、覚束ない足取りで頭を下げていた。

 まだ始まってはいないようだと、汗の浮かんだ顔を安堵したように緩めて、抱えていたトランクは出入り口のところで下ろしてから、へたりと壁にもたれかかった。

 ……それを見かねてか、先に体育館にいた澪標が心配するように待雪へ声をかけた。

 

「薫さん大丈夫? 汗もすごいし、息も荒くって……どうしたの? そんなに急いで」

「いえ……っ、ぜはぁっ、ちょっと……っ」

 

 胸を激しく上下させて苦しそうに喘ぐ待雪の様子を見かねてか、澪標は太腿のガーターベルトに刺してあった生徒手帳を洗練された手付きで取り出し、それで待雪の首元の辺りを煽ぎながら聞いていて落ち着くような優しい声で慮った。

 

「ゆっくりで構わないのよ、ゆっくりで。……まだ、始まってはいないようだから」

 

 というのも、だ。待雪含め、彼ら十六人がどうして体育館に集まっているのかといえば、それはトランクについてだった。

 トランクの中には機械が収められており、その動力源は電気である。最新鋭の技術が注ぎ込まれているとはいえ、バッテリーは一日半持つかどうかが限度であるらしいのだ。そのため、動力源が途絶えぬよう、日に一度バッテリーを交換する必要があるのだという。夜時間前というのは、ちょうどその交換を行う時間帯だった。

 待雪の息が落ち着く頃には夜時間を迎えており、軍人らしき男の説明のもと、体育館の中では列ができていた。二人はその最後尾に並んだ。列の先は体育館奥にある個室まで伸びていて、どうやら別室で作業を行うようだった。

 

「……そういえば、クモガクレさんは一緒じゃないんですか?」

 

 ふと抱いた疑問を口にした。よく見れば、澪標のそばに雲隠はいなかった。

 

「彼ね。一緒にいたいって気持ちはあるけど、仕事があるもの」

「? 仕事、ですか?」

「ええそう。彼は()()()()なのだから、きちんとこなしてくれるはずだわ」

 

 バッテリー交換の手伝いでもしているのだろうか。雲隠が超高校級の機械技師であることを鑑みても、それはあり得そうな話だったが……ただ、いま彼女が並んでいる列に目を向けると、前の方で、列に並んでいる雲隠の後ろ姿が見えた。手伝うなら先に部屋にいるだろうから、どうやら予想は外れたらしい。

 

「仕事……なんの仕事ですか?」

「ないしょ」

 

 澪標は口に指先を当てながらウインクして見せた。それがお茶目なつもりなのかはさておき、待雪は内緒のわけを理解したのか、すぐに口をつぐんだ。

 順番を迎えた雲隠が部屋の奥へと消えていく。そうして、しばらくしてから出てきた雲隠は、「外で待っています」とだけ澪標に告げて、体育館を後にした。

 

 バッテリー交換を終えた二人は、体育館前で合流した雲隠に連れられて、彼の個室に訪れた。

 集まる場所がそこである必要はなかったが、澪標が強くその場所を希望したが故の結果だった。

 

「まだ荷解きもしていないの?」

 

 部屋に入るなり、ベッドの上で打ち捨てられたように沈んでいる旅行鞄を見て澪標はそう言った。

 

「ええ、まあ……工具と、着替えしか入ってないですし」

 

 澪標が懐疑的に旅行鞄を持ち上げると、工具特有のごとりという鈍重な音だけが空しく聞こえてきた。

 

「もっと他に持たせませんでしたっけ?!」

 

 驚きのあまり敬語で叫んだ澪標は、焦りを感じさせる手つきで旅行鞄を開き、中を覗いた。部屋の玄関付近で立っていた待雪からもその中身を見ることができた。その中身はまるですっからかんで、本当に着替えと工具しか入っていないようだった。

 

「はあ……結構、悩みに悩んで選んだ洋服とか、君の好きそうな洋菓子とかも入れておいたのだけれど……捨てちゃった?」

「? ああ、あの甘そうなやつ」

「……まあ、帰ったら買い直せばいいのだけれど……はあ……」

 

 遅くても一ヶ月後かあ。と澪標は落胆した様子を隠すこともせず、眉間のあたりに手をやりながら雲隠の方を疎ましげに見つめていた。ただ、どうにも憎みきれないらしく、すぐに目線を外して、ベッドの上に置いてあった旅行鞄を雑にどけ、そこにどかりと腰を下ろした。

 澪標のちょっとした不機嫌さや、雲隠の鈍感な態度からして、あまりいい空気とはいえない。ただでさえ気まずさを感じていたというのに、待雪は既に部屋に戻りたい気持ちでいっぱいだった。その証拠に、既に扉は閉まっているというのに、いつまで経っても玄関から内側には入ろうとしない。バッテリーを取り替えたばかりのトランクも、地面に下ろそうとはしなかった。

 震えた声で、恐る恐る待雪は問う。

 

「わたしがいても、良いものなのでしょうか?」

「……あら。さっきからどうにも様子が変だと思っていたけれど、そんなことを気にしていたの? 構わないわよ、だって私たち、お友達でしょ?」

 

 と言ったのは澪標だ。それが当然だとでも言いたげで、なにを今更、と呆れているようでもあった。

 

「立竝さんが良いっていうなら、僕は構わないけれど。部屋から追い出す理由もないし」

 

 今朝のうちは待雪に対して敬語を使っていた雲隠だが、彼女の料理を食べて少し打ち解けたのか、今は砕けた言葉遣いになっていた。それが本来の彼なのだろうか。とはいえその無機質な表情は今朝からなにも変わっていない。

 待雪は相変わらずの敬語であったが、しかしそれが彼女にとってのフォーマルスタイルなのだから、誰も文句は言わなかった。

 

「夜も遅いわ。ききょーくん、報告を」

 

 ぱしんと手を叩いて澪標は言った。それは雲隠に宛てた言葉で、彼は静かに頷いた。

 報告、というのはずばりこのトランクについてだ。バッテリーを交換するためには、必然的にトランクを開く必要があり、その際に内部機構を覗けないだろうかというのが澪標の目論みであった。

 つまり仕事というのは、内部機構について知ることである。超高校級の機械技師という肩書を与えられている彼のことだ、少なくとも待雪のような素人よりは多くの情報を得ているに違いない。

 事実そうだった。彼は多くのことを如実に語った。

 

「ものすごく小型化された機械が、いくつか詰め込まれているようです。爆弾としてだけでなく、他にも様々な働きを持っているだろうと思われます。少し見ただけなので確かなことは言い切れませんが、おそらく信号を発信する、ないしは受信するための機構が備わっているように見えました」

 

 トランクを一瞥してから、雲隠は続けた。

 

「バッテリー交換の際は片側だけしか開かれなかったというのもそうなんですけど、なにより、緩衝材などで隠れていて、多くは見ることのできない状態でした。なので分からないところは多いんですけど」

 

 それを聞いて、澪標は深く首をもたげさせた。雲隠の話から得た情報をかみ砕き、精査して、自らの知識や経験に当てはめ馴染ませているようだ。

 令嬢、というからには、少なからず高等な教育を受けているのだろう。彼女の高貴な立ち振る舞いなどもそうだ。ああいうものは、自然と身につくものではない。おそらくは帝王学のようなものも学んでいることだろう。少なくともこの場にいる誰よりも賢い彼女の知恵に、今は頼る他ない。

 

「ききょーくん。あなたが持っている道具でトランクを開けられないの? もしくは、技術室の設備を使ってもいいのだけれど。そうすれば詳しく中を調べられるじゃない」

 

 技術室。そんな部屋があったのかと空目した。

 

「それは無理だと思います。彼らは特殊な器具を使っていました──見たところ、あれは磁力が作用しているような鍵なんじゃないでしょうか」

「無理やりこじ開けたりできないの?」

「できなくはないですけど、それだとバッテリー交換のときに指摘されると思いますよ」

 

 開けるなら鍵を作らないといけません。雲隠は冷たさすらも感じさせないような抑揚のない声でそう言った。

 

「鍵、かあ。盗むというのは現実的じゃないものね。……ねえ、ききょーくん。あなたなら、作ろうと思えば作れないわけじゃないんでしょう?」

 

 不敵な笑みを浮かべながら、しかし彼を信頼しきった真っ直ぐな瞳で澪標は訊いた。雲隠はわけもないように首を縦に振る。

 

「時間はかかりますけどね」

 

 その言葉を聞いて澪標は自慢げに微笑んだ。きっと嬉しいのだろう。彼に頼り甲斐があることに、喜んでいるのだ。

 

 時間というのがどれほどの長さなのかは、待雪にとっては不明だった。それが一日後なのか、一週間後なのか、はたまた三十日後なのか──いずれにせよ、解決策の有無に問わず、安息とはほど遠いのだということを知った。

 そもそもトランクを外すことができたとして、それで死なないというわけじゃない。トランクという枷があろうとなかろうと、海という檻に囚われた以上、逃げ出すことなど不可能なのだ。

 だからトランクを外せるかもしれないという話を聞いたところで生きた心地なんてしなかった。ましてや、生き延びた心地なんてのも、するはずはなかった。もとよりそうなのだから、こんな鉄屑を首に巻いたところで、ただ息苦しさが増すばかりだったというのもあるのかもしれないが。

 

 ひょっとするとこの首を締め付ける鉄具に、待雪はそう抵抗は感じていないのかもしれなかった。

 死体の胸元にナイフが刺さったところで誰も死なないように。待雪もまた、死ねないのだ。



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003 (非)日常編

 二日目です。


 0

 

 

 

 悪い人ではないんだろうけれど、でも、関わっちゃいけない人だったのかもしれない……。

 

 

 

 1

 

 

 

 朝早くに目を覚ますと、雲隠は軽く身支度を済ませてから技術室に足を運んだ。

 個室を出たときはまだ眠気もあったが、冬の寒さに身を晒しているうちに、そんな微睡みもどこかへ行ってしまった。眠気は事故の元であるから目が覚めるのは良いことだが、それほどまでに寒い中で作業をするのは少々堪えるなと、かじかみ始めた指先を揉みながら誰もいない廊下を進んだ。

 

 この施設には校舎と呼べるものが六つほど存在しており、その内の一つの棟に技術室が存在していた。その他に利用する設備などそう多くはなかったから、どのような設備が他にあったのか記憶は曖昧である。どうせ利用しないのだからと、記憶していないことに対し彼は割り切った態度をとっていた。

 

(立竝さんも、あまり興味は持ってなかったようだし……別に問題はないよね)

 

 十六人がそれぞれ持つ超高校級の才能。それに関する設備は少なからずあったが、ただそれは個人のために用意されたというよりかは、もとから存在していたと考える方が正しいように雲隠には感ぜられた。

 というのも、超高校級の柔道家がいるにも関わらず、道場らしき場所はこの施設のどこにもなかった。体育館には体全体が映るような大きな鏡があったので、倉庫からマットを引っ張り出して床に敷けば柔道の練習もできないことはないだろう。ただそれが超高校級の柔道家のために用意されたものとは到底思えないのである。

 超高校級の水泳部と呼ばれる者もいるようだったが、こんな真冬に泳げるような室内プールも当然なかった。ここは本当に、ただ学校にある設備を寄せ集めただけのような、ちぐはぐな場所なのだ。

 いったいこの島はなんのために用意された場所なのだろうかと、雲隠は思った。多くの設備が寂れていて、錆び付いていたけれど、しかし廃れた島という印象はなかった。この島には廃れるような人の営みの痕跡など、全くといって良いほど見られなかったのだ。だからこそ、よりこの土地の存在が不可思議に感じられた。

 

「よし」

 

 彼が技術室を訪れた理由は澪標にあった。彼女の期待に応えるためであった。彼女がトランクを開くための鍵を求めたのだから、それを作る。彼にとってはただそれだけで十分だった。

 澪標からしてみれば、もっと他に意図はあっただろう。爆弾がなんらかの誤作動を起こして爆発してしまう可能性だって少なくはないのだし、誰かに首輪とトランクを繋ぐケーブルを切られでもすれば、爆弾は自分の意図に関わらず爆発してしまうという危険性がある。あるだけ損しかない爆弾を排除したい気持ちは誰にだってあるもので、そうしてトランクの中身を覗き見ることを望んだ。

 しかしそんな具体的な理由など、雲隠には不要であった。澪標が望んだというだけで、本当にただそれだけで、理由など十分だったのだ。だからただ愚直に、彼は課された課題に向き合う。

 

 まずはどうしようかとトランクを台の上に置き、睨めっこをするようにそれを観察しながら頭の中に設計図の線を引いていった。

 ただ黙々と考えに耽る時間は長く続いた。

 彼の意識が深みから引き上げられたのは朝時間を知らせるアナウンスが流れてからのことだった。そこで、作業を開始してから少なくとも二時間は経過していたようだと気がついた。

 ふと窓の外を見れば、空は明るく朝を知らせている。

 もうそんな時間なのかと、雲隠は長時間張り詰め続けていた緊張の糸を(ゆる)め、大きく息を吐いて、近くの椅子に腰掛けた。椅子の軋む音が、この施設の脆さ危うさを雄弁に語るようだった。

 

 朝日を見ると、罪悪感に見舞われることがある。自分のような人間が生きていて良いのだろうかと、疑問に思うのだ。夜明けを迎えることのできなかった人間が世界には多数存在しているというのに──きっとその命は、何物にも代替しがたいものだろうに──それなのに、自分のような人間が生きてしまっていることは罪だと、そう感じてしまうのだ。あるいはその罰として、自分は自分であるのかもしれないとも思う。嫌気が差すようだったが、結局は全てただの戯言に過ぎない。

 

 生きることに罪を感じていても、死にたいわけではなかったから、胸に纏わりついた暖かなヘドロをいつものようにかき消して、そっとまぶたをつむった。

 朝日の光が、服にかすかな熱を与える。窓から差し込む陽は、疑心暗鬼に塗れるコロシアイ生活とは正反対に、穏やかぬくもりで彼を包み込んだ。

 

 少ししてから、不意に雲隠は立ち上がり、よろよろと覚束ない足取りで技術室を出た。朝食がまだだったことを思い出したのだ。空いた腹をさすると、ツナギのザラザラとした感触が妙に心地よく、なぜだか懐かしく感じられた。昨日の夜までずっと窮屈な服を着ていたからだろう。やはり自分はこの格好こそが相応しい。

 

 道中、澪標を起こしに個室まで行こうかと考えたが、昨日の疲れも溜まっているだろうから今日はよしておこうと辞めにした。満足に寝かせておいた方が、目覚めの機嫌も良いだろうから。

 

「たまにはいいよね」

 

 適当につまみ食いをするために、彼は食堂へと赴くことにした。料理はできないので、適当に生のパンでもかじっていようという考えだった。なければ別に野菜でも構わない。火を通せばなんだって食べられるというのが彼の食に対する歪んだ価値観であったから、それは自然な行動だった。

 彼には味に対する執着がなかった。よく澪標が、自分に対して料理を振る舞ってくれるのだが、上手い感想を告げられないのが悩みであったりして、食事は好きとは言い難かった。

 ただそんな、生来ずっと抱え続けていた価値観も、今となっては少し変わりつつあることに彼は気付いていない。

 

 ……どうやら食堂には先客がいたらしく、既に灯りがともっていた。窓ガラスから溢れでた光は太陽のように暖かいものだった。ただ同時にそこからは、模造品のような無機質さも感じられた。

 扉を開けると、味噌汁のいい匂いが鼻腔をくすぐる。夜時間の間、食堂は閉まっているはずで──だから、ついさっき流れたアナウンスの後、すぐに料理を開始したんだろうけれど、だというの、既に食堂には味噌汁の良い匂いが充満していた。

 

「おはよう、待雪さん」

「あっ……おはようございます、クモガクレさん」

 

 自分が厨房の方を興味深そうに覗いていたからだろうか。目があった途端、待雪は緊張したように声を上擦らせた。そして切羽詰まったような勢いで、まるで弁解でもするかのように話し始めた。

 そんな姿はまるで弱々しい小動物のようでもあった。しかし厨房という場所が彼女に安心感を持たせているのだろうか、昨日の朝出会ったときと比べれば、それはほんの些細な気の揺らめきにすぎないように見える。

 

「今朝は早いね」

「っ、昨日のうちから、用意しておいたんです……。朝時間にならないと料理が始められないようでしたので、下準備だけでも終わらせておけば、早く始められると思って……それで、昨日のバッテリー交換のときは遅れちゃって」

「なるほど」

 

 雲隠は納得したように相槌を打った。昨夜はそういうわけがあったのかと今になって頷く。

 それから彼は話のついでのように、一つ注文を重ねた。

 

「お味噌汁が出来たら、一つもらえないかな」

「いいですよ。……あれ、ミオツクシさんはいらっしゃらないんですか?」

「立竝さんなら部屋でまだ寝てるよ。あれでけっこう、朝寝坊の多い人だから」

「へえ、そうなんですね……ああっ、お味噌汁ですね、はい。少し、待っていてくださいね」

 

 快い返事が返ってきたからか、雲隠はそれ以上何かを言うこともなく、目線を待雪から外して食堂の方へと意識を戻した。

 朝の静けさがベールのように光を遮る青く暗い食堂。厨房から聞こえてくる火や包丁の音が妙な心地を彼に与える。眠気だろうか、寒さを感じながらも心地よさを覚える。

 待雪に汲んでもらった一杯の水を飲み干すと、ただそれだけのことで充実した気分になれた。

 

(昨日食べた待雪さんの料理は本当に美味しかった。あの立竝さんも美味しいと言っていた。味噌汁一杯だけとは言わず、他のものも食べてみたい気持ちだけれど──)

 

 そのような気持ちになれたのは初めてのことで、貴重な思いだったが──しかしそのようなことをしている時間は雲隠になかった。

 とにかく彼は、少しでも早く鍵を作らなければならない。

 

 鍵の作成が全てにおいて優先されるべきことではないだろう。鍵さえあれば今の状況がどうにかなるわけではないし、爆弾を解除することができるかどうかも分からない。なによりここは孤島なのだ。四方を海で囲まれていては逃げ出せるわけもない。

 あくまで得られるのはトランクの中身についての情報のみである。人に殺される可能性の高いこの島において考慮すべき問題の中で、優先順位はむしろ低いと言えた。

 

 しかし目標というものは人を強く突き動かすものである。彼女から頼まれたのならなおさらに。

 

 そんなことをおぼろげに考えていると、かまどの熱気で頬を赤らめた待雪が一杯の味噌汁を盆にのせて運んできた。雲隠はそれを受け取り、物静かにすすった。

 

(待雪さんの料理は間違いなく一流だ。それには理由があるんだろうか──彼女の料理は、ただ美味しいだけじゃない。もっと別なところにすごく魅力的なものがある)

 

 感じたことのない感情に戸惑うことはなく、雲隠は冷静に思考を巡らせたが、けっきょく答えは見いだせなかった。

 知らない方が幸せという言葉もあるが、この場合、知ったところでどうにもならないというのが真である。

 

 

 

 2

 

 

 

 短針が七時を回った頃、食堂は賑わいを見せ始めた。

 待雪は一人で料理をすることに慣れていたが、しかしそれでも調理・盛り付け・配膳などをたった一人で成立させるのは困難を極めるらしく、彼女は慌ただしく厨房を駆け回っていた。

 けれどそんな慌ただしさも落ち着きを見せ始め、待雪は息を整えながら、やがて来るだろうおかわりの波に備え新たに魚を焼き始めていた。

 

 今日の朝食は魚と白米、それに味噌汁である。味噌汁は皮を剥いだ鶏肉が放り込まれていて少し贅沢な味わいだが、それ以上にこの料理には待雪の気遣いが強く込められていた。

 コロシアイ生活という恐ろしい生活環境に突然放り込まれた彼らの不安や恐怖心を和らげるためには、日常的に食べているだろう和の食事が一番だと考えた末の献立だったのだ。

 それが功をそうしたのか、はたまた単に彼らがお気楽な性格なのかは分からないが……少なくとも、食堂は活気に満ちていた。待雪はそれが嬉しかった。

 

 魚はこの島の周辺で採れたものらしく、随分と身が引き締まっていて味が良かった。また野菜なども昨日の船で運ばれてきたものなのだろう、厨房に置いてあった食材は今朝取り替えられたばかりの新鮮なものが多かった。

 食材が良いと、料理もまた輝いて見える。野菜は包丁を入れるとシャクシャクと心地の良い音を奏でるし、魚は触れるとぷりぷりとした弾性の反発を返してくれる。今朝はまだ使用していないが、解凍途中の肉も血色が良く、ルビーのように輝いて見えた。

 

「待雪さあん、ご飯残ってますか?」

 

 人目を憚らずにそうやって大きな声で訊ねてきたのは、超高校級の新聞部である壱目蛍だ。朝から元気なものだと、待雪は魚の火の加減を見ながらご飯をついで、壱目に渡した。

 

「いやあ美味しいですね。特にお米が凄いです。一粒一粒が立ってるんですよ!」

「おう! 米がうめェ! おかわりだ!」

「おいひーでふ! おかわりをようきゅーしましゅ!」

 

 壱目に次いでおかわりを叫んだのは、超高校級の野球部である篝火(カガリビ)貞時(サダトキ)と超高校級の柔道家の藤袴(フジバカマ)釣舟(ツリフネ)だった。二人とも大変元気で、壱目とは違って爽やかな明るさがあった。野球と柔道は関連性がないように思えるが、活発さから気が合うのだろうか、二人は腹心の友のように意気投合していた。

 二人の他にも運動系の才能を持つ人は何人かいて、水泳部や剣道部などもいるようだった。そういった人たちは篝火や藤袴よりかは幾分落ち着いているようだった。それでも、よく食べることに違いはないのだけれど。

 

(やっぱり、食べ盛りは違うなあ……次からはもっと量を増やしたほうがいいかもしれない。特にお米はもっとたくさん炊いておかないと)

 

 厨房から漂う魚のこうばしい匂いが、より食欲をそそる。

 

「追加の魚が焼けましたよう。持っていってくださあい」

 

 食堂の喧騒にかき消されてしまいそうなほど小さな声だったが、しかしあっという間に彼女の前には人だかりができた。食事という心休まる行動に、自然と彼らは身を寄せていた。特に待雪という人畜無害そうな少女が料理をしていたことも理由としてはあるのだろう。彼らはすっかり安心し切って、食事のときばかりは嫌なことを忘れていられるようだった。

 

 焼き魚の乗った皿があっという間になくなっていく様を見ながら、ふと待雪は澪標と雲隠の二人がいないことに気が付いた。一時間ほど前、雲隠は味噌汁を飲んだ後すぐに技術室へと戻っていったが……ひょっとしてそこに澪標もいるのだろうか。

 

(……後で、なにか差し入れでもしようかな)

 

 用意してあったご飯の減りが激しく、その上まだまだ食べそうな勢いだったから、追加で野菜と鶏肉を炒めながら待雪はそのようなことを思いついた。

 普段お世話になっているから……というほどに世話になってはいないが、昨夜トランクの話に参加させてもらったことが彼女の内に仲間意識のようなものを育ませているらしかった。

 

(サンドイッチとかなら二人は喜ぶかな。ミオツクシさんは洋食も食べそうだし、クモガクレさんはなんだって食べるだろう。…………、なんだって食べるっていうのはちょっと失礼かな)

 

 待雪は人に料理を食べてもらうことで強い幸福を感じる人間である。なぜならそれこそが自分の存在意義であり、人の役に立てているのだと輝いていられることだったから。

 彼女の料理に対する姿勢や思いは並々ならぬものであり、それは傍目から見ても分かるほどである。待雪という一人の人間を生かしているのは料理なのだからそれも仕方ないことなのかもしれないが、その輝きはあまりにも眩い。

 

「薫くん。おかわりいただけるかな」

「あっ、どうぞ」

 

 凛とした佇まいで、ほっぺにご飯粒をつけながら、米粒のカケラ一つすら付いていない綺麗な茶碗を差し出したのは、鯉口という女子生徒だった。

 

 超高校級の剣道部。鯉口(コイグチ)(アオイ)

 澪標が優雅さをその身に帯びているというのなら、彼女は凛々しさこそをその身に纏わせていた。確かな物言いは彼女の強い正義観を表しているようで、日本刀のようにしゃんとした眼差しは心強くもある。強さと可憐さを兼ね備えたその見た目は、見た目だけは、今の世の中には数少ない大和撫子のようだった。

 鈍臭いのかは分からないけれど、よくつまづく彼女は凛と振る舞う。そしてとにかく、よく食べる。

 

 澪標と並ぶほどに上背な彼女は男らしい言葉遣いも手伝ってか、どこか大人っぽくもあった。あるいはそう、姉のような、そんな包容力だって感じないわけではない。

 

「そうだ薫くん。夜はしっかり眠れているか? なにせこんな環境だからな、きっと不安だろう」

「……? ええまあ。でも夜時間に入ればすぐ眠りますし、わたしは化粧もしないので、朝はゆとりがありますよ」

「そういうことじゃないのだが……ううん、そうか。夜はよく眠れているのか……」

 

 なぜだか残念そうに、鯉口は俯いた。

 ただ凛々しい彼女のことだから、きっと自分のことを思い気遣ってくれていたのだろうと思った。

 

ちなみに薫くんと呼ばれている理由は待雪にも分からなかった。名前を教えると、「なら薫くんだな」と言われたのだ。そのとき彼女が見せた親しげな笑顔は今でもよく憶えている。

 

「ご飯粒、ついてますよ」

 

 あくまでも親切心で、ただそれ以外のよこしまな感情などミリグラムだって混じっていない純粋な気持ちで、鯉口の頬に付着した米粒を待雪は手ですくった。さすがに食べるような真似こそしないが、慣れた手つきで行われたそれは鯉口を慌てさせるのに十分であった。

 

「うわっ、わわわっ、わあっ!」

 

 その場から飛ぶように離れた鯉口は、ゆっくり体を揺らすと、かあっと燃えるように顔を赤く染めた。ぼおっとした目で待雪の顔を見つめていたかと思えば、途端に視線は忙しなく動き、呂律が回っていない舌で言葉を紡ごうと必死になっていた。混乱からか、両手は慌ただしく動いている。

 呼吸は荒く、拍動が聞こえてきそうなくらいで、おそらくは動悸も激しいのだろうと思われた。

 

 待雪は待雪で、その赤い顔を見て、怒らせてしまったのだろうかと罪悪感を覚えていた。そうして心配そうに様子を見ていた。声をかけようにも、なんて声掛けをすればいいのか分からない。

 

鯉口はひとしきり声にならぬ気持ちを叫んだのち、未だ熱冷めやらぬ様子のまま、どこか疎ましげな目で待雪を見ると、ぼそり一つ呟いた。

 

「一本、取られてしまったな。……それに、こういう積極性もなかなかアリかもしれない

「は?」

 

 口端に零れた涎を服の裾で拭いながら鯉口は後ずさる。待雪は不審に思い、視線だけは真っ直ぐと彼女の方に向けた。

 視線を受けて鯉口は決まり悪そうに咳払いをし、ピンと背筋を伸ばして、少し目を逸らしたものの、一拍置いてから話しだした。一瞬だけ見ることができた横顔はとても凛々しかった。

 

「……ええっと、なにかおっしゃいましたか?」

「いいやなにも。すまないな、計画とは予想外の出来事が起きて驚いてしまっただけなんだ」

「いえ……こちらこそ、勝手に触ってしまって……すみませんでした」

「いいや構わない。これもまた侘び寂びだろう?」

「それは違うと思いますけど」

 

 待雪の冷たい反応を振り切って、あるいは自己中心的に聞き流して、鯉口は続けた。

 

「そうだろうか? いや私はそう思わない。きっと人はそれぞれ違った侘び寂びを持っているんだと私は思う」

「そんな便利な言葉じゃないと思いますけどね……侘び寂びって」

 

 風情もなにもあったものじゃないと待雪は目を細める。和の文化に傾倒しているわけではないのでなんとも思わなかったが、人によっては逆鱗に触れかねない物言いだと呆れていたのだ。

 対する鯉口は無意識に虚勢を張って、あるいはそれが虚勢であることに気がつかないままに下手な口を開く。

 

「言葉は常に形骸化していくもの。だから中身はそれほど重要視する必要はないんだよ、薫くん」

「それ問題発言じゃないですか……? 剣の道を歩んでいる人が言っちゃいけない言葉じゃないんですか?」

「私の生き方は、剣の道だなんて言葉からは遠く離れたものだ。剣道家というよりはむしろ、私の場合は剣術家と呼んだ方が正しいかもしれないのだし」

「?」

 

 言葉の意味が分からず首を傾げていると、鯉口は得意げな顔をして説明を始めた。説明を求めていたわけではなかったが、誇らしげに語る様子を見ていると止めてはいけないんじゃないかとすら思えてきて、渋々と、彼女の語る言葉に耳を傾けた。

 

「何事にも系統図があるだろう? だが、私の流派は剣道のそれとはまったく別のところにあるんだ。だから私のそれは剣道ではなく、邪道と言えるだろうな。故にそれは剣術なんだ」

「なるほど……?」

「ちなみに私で二代目なのです」

 

 そう言って鯉口は独特な構えを持って剣術とはなんたるかを語り出した。そこに侘び寂びはなく、茶道や和食に精通している待雪の方がかえって侘び寂びに近しい存在であると思えるほどだった。

 ただそれはきっと錯覚で、同時に鯉口の姿だって、まやかしに過ぎないのかもしれなかった。

 

「どういった流派なんですか?」

 

 これは興味から出た言葉ではなく、ただ会話を繋げるためだけの質問だ。もっとも会話を無理に繋げる必要はない。待雪には厨房に戻るという選択肢もあった。ただ人とのコミュニケーション能力が壊滅的に低い待雪にとって、自分から話を切って場を離れるというのはハードルの高い行いだったし、なにか他に用事ができればそれを言い訳にして話を終えることができたのだろうが、しかし上手い別れの切り口を彼女は見つけられず、結果話し続けることにしたのだ。

 

「流派……ふうむ」

 

 さっきまでの勢いはどこへやら。鯉口は腰に差した日本刀の柄をつつきながら、困ったように唸り声を漏らしていた。

 彼女が持つ一振りのそれは真剣ではなく模擬刀なのだという。初日は凶器であることを疑われ、没収されていたのを待雪は思い出したが、どうやらあのあと返してもらえたようだ。

 

「見てもらった方が早いかもしれないな」

 

 そういって鯉口は厨房の奥へと勝手に踏み入り、そして丸々と太った大根を一つ手にして戻ってきた。

 

「百聞は一見にしかず。もっともこの場合、一聞だって聞かせちゃいないわけだし、一見だって見せる気のない太刀筋なわけだけれど」

 

 その言葉の意味がよく分からないといった風に、待雪は苦笑いを返すことしかできなかった。だがそれもまた予想の範疇なのだろう。鯉口は余裕そうに微笑んで見せ、一つに括られた長い髪を揺らして待雪から少し離れたカウンター席まで歩いて行った。その歩みに迷いはなく、立ち姿だけは日本刀のようなしたたかさがあった。

 

 鯉口は深く息を吐き、瞳を閉じて低い姿勢をとった。深く深く沈められた腰は、一定の位置に辿り着くと時が止まってしまったかのように動きを止め、細かな揺らめきすらも許さぬ静寂を生み出した。

 その姿勢がもっとも集中できるのだろうか。どうにも実戦向きとは思えないが、しかしそこに物々しい気配を感じてしまう。抜刀術という言葉もあるが、それとはまた違った……確かなことは言えないが、言葉で表すのなら、そう。まるでトリガーに指がかけられた状態の拳銃のように、それは物言わぬ殺意を秘めているように見えた。

 ただ、その殺意はとても清らかなもので──

 

 開眼と共に、鯉口は大根を宙へと放り投げた。

 

 ──それは刹那的な出来事だった。

 

 熱い鉄を打つような、撃鉄の落ちる音がする。

 

 鯉口は大根を放り投げた手で瞬時に模擬刀の柄を握り、それを引き抜いた()()()()()。二つ三つ、輝きが煌めいた後──長机にぽとりと落ちた大根はいくつものブロックに分割されていて、それこそが彼女の見せた技の異様さをありありと物語っていた。

 待雪は声をあげることすらできないでいた。だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだから。

 ただ分かることは、いくつか煌めいた輝きこそが、大根を刻んだ(あかし)なのだろうということくらいだった。

 

「えっへん」

 

 抜身の刀を肩に当て、鯉口はしたり顔で仁王立ちをした。

 

「凄いだろう、凄いだろう?! 褒めて褒めて! 称賛して! ……とはいえ。おじいちゃんは素手で、それも構えずに同じことができるから、私はまだまだ半ちく──」

「鯉口ッ! お前のそれ模擬刀じゃねえのかよ! おい、押さえるぞッ」

「あ──」

 

 言うが早いか、幾人かの男子あるいは女子が(女子とは藤袴のことである)手に持った箸を放り投げて、鯉口を組み伏せるように上から押さえつけた。

 すっかり油断し切っていた鯉口はあっという間に取り押さえられ、なんのことだかてんで分かっていない様子で目を白黒とさせながら、弁解をすることもままならない状態で床に伏せた。

 

「──、──!」

 

 ワーワーと騒ぎ声が聞こえるのを後ろに、待雪は机に転がった大根を見ていた。その切断面は実に滑らかで、それこそ鋭利な刃物で切られたかのようだった。確かにあの刀は模擬刀だったはずなのに──だというのに、どうして?

 鯉口の構えはまるで居合術でもするかのようなものだったが、しかしそれとは大きく異なるものだと直感した。そも居合術とは素早く切るための術ではない。あくまで帯刀時に襲われたとき、素早く対処するための技術である。そのため刀を抜く速度は早くても、太刀筋まで速いというわけではない──しかし彼女が見せた太刀筋というものはまるで見えず、ただその輝きだけが目眩として瞼の裏に焼き付いた。

 音は聞こえず、知覚できたのは残光だけ。

 

 この大根を切った本人は、数人がかりで組み伏せられている真っ最中でわけを聞くことは難しそうだったが──しかし聞いたところで、理解はできそうにもないと、直感的に悟った。これはきっと種や仕掛けのあるものではないのだろう──

 

 にわかには信じがたい、狐にでも包まれたかのような、そんな気分だった。

 

 

 3

 

 

 朝食後。ひとしきり皿を洗い終えた頃。

 人影も減った食堂で、鯉口は『私は悪い子です』と書かれた板を持たされ、地べたに正座で座らされていた。涙が頬を伝うようだったが、厨房にいる待雪からはカウンター越しに頭部しか見えなかったため、彼女の悲しみというものを察してあげるのはできそうにもないことだった。

 

「まったく困ったものですね、鯉口は」

 

 と、ため息混じりに呟いたのは藤袴だった。彼女は鯉口の正面に立ち、見下ろすようにして腕を組んでいた。

 彼女一人だけが鯉口を監視しているわけではなく、篝火や匂宮(ニオウミヤ)などのもっぱら自警団のように振舞う三人が鯉口を諌めるように取り囲んでいる。

 自警団とはいえ、そこに明確な主義や団体名があるわけではなく、ただ殺し合いが起きてしまわないようにと活動を行なっている個人が揉め事の予感を察知して自然に集まっているだけであった。とはいえ、出会って二日の彼らが鯉口を取り押さえる際の動きは見事の一言に尽きた。

 彼らの行いが意味のあることなのかどうかはまだ判断しづらい。だが少なくとも、昨日のうちは不審なことなど一つも起きておらず、子供の道化と吐いて捨てるのにはまだ早いと言えた。

 

 それに少なくとも彼らのような存在がいることで、みんなの頭の中にある不安も多少は和らいでいるだろう。あるいは気の迷いだって、取り払われるのかもしれない。

 

「……確かに、これは模擬刀だな。到底物を切れるような鋭利さはない。刃は潰えているし、仕込み杖のごとくどこかに刃が隠れてるというわけでもなさそうだ」

 

 鯉口と模擬刀を交互に見つめながら、超高校級の探偵である匂宮は言った。こんな(なまくら)の方がよく切れるだろうというくらいにまったく物が切れない刀で、どうして大根がああもすっぱり切れてしまったのだろうかと思案しているようだ。

 

 力を込めて押しつぶしたというわけでもないようで、大根の切り口は実に滑らかであったし、なにより繊維が潰れていないのか、鋭利な包丁であっても溢れてしまうような汁ですら断面には滲んでいなかった。

 

(切断面を合わせたら、そのままくっついてしまいそう……)

 

 そんな感想も出てしまうほどに見事な切断だった。

 

「切れる刀で切ってなにがおもしろいのか」

「切れない刀で切るな。ミステリー小説なんだよ、これ。知ってるか? ヴァン・ダインの二十則っていうのがあってだな、それには空想科学は登場してはいけないとあるんだよ。馬鹿な真似をする前に、ノックスの十戒と合わせて読んどけ」

「そんなの私は知らない。今からホラーサバイバルスタイリッシュアクションシリアスギャグ小説に切り替えないか?」

「長いな。丸太だけで十分だろ」

「いや、無理ですよ……この島はオーストラリアほど大きくはありませんし」

 

 それもそうか、と匂宮は肩を落とした。残念がっているわけではなく、単にこれは超常現象めいた光景を目にしてしまったために気落ちしているようだった。わからないものをわからないままにしておくことを良しとはできないのだろう、気の進まなそうな態度で彼は話を進める。

 

「じゃあ情報を整理するが……まずこの模擬刀でなければオマエはなにも切れない。たとえば体育館にある木刀であったり、包丁などで似たような真似はできない」

「そうだな。認めたくないものだが、あの模擬刀じゃないと技は使えない」

「そして……技を使うためには心を落ち着かせる必要があり、興奮状態ではうまくいかない。だからああいった構えをとって精神を統一させていると……」

「おじいちゃんならもっとスパスパ切れるんだがな。それこそあの人は、全身凶器みたいな人だった」

「……あ? やッぱこいつ、野放しにしとくと危険なンじャねェか? 縛ッとこうぜ」

 

 どこから取り出したのか、篝火は少し粗めなロープを掲げてそう提案した。自身に対する荒っぽい処遇に驚いたのか、鯉口は持っていた板を床に落として立ち上がる。

 

「ま、待て! 私を縛ってなにをどうしようというんだ?! そんな、破廉恥な!」

「なにも言ッてねェし、してねェだろ」

「そんなっ! 私にそのような趣味はないというのにっ……! 美少年美少女に縛られるのならまだしも……!」

「とッととお縄につけ」

 

 言うより早いか。鯉口はあっという間に背面で両手を縛りあげられ、拘束をより強固なものにするため、結び目のあたりに楔代わりの模擬刀を強くねじ込まれた。

 縄が痛むのだろうか。苦痛に悶えるように背を反らし、苦しげな声で彼女は助けを求めた。

 

「くっ……! か、薫くん! どうにかならないだろうかっ」

「無理ですよ」

「そ、そんな……!」

 

 助けようにも、自分より背が高く、その上体格も良い三人を相手に待雪が一人で勝てるわけない。鯉口だって三人を相手取ることは不可能だろうに、たかだか料理人には到底無理な話だった。

 

「私はこれからどうしたらいいんだ?! ごはんはっ、これじゃ薫くんのごはんが食べられないだろう!」

「そこなのか? もっと心配することも……あるだろう」

 

 淀んだ口ぶりで匂宮は諭す。

 しかし鯉口は一歩も引こうとはせず、芋虫のように身を捩らせながら叫んだ。

 凛とは一体。

 

「アー……食べさせてもらえばいいだろ。仲のいい奴によォ」

 

 そう提案したのは篝火だった。そこに人を見下げるような意図はないようで、至極真剣な表情でそう言っている。

 すると鯉口は悲壮な面持ちで訴えかけた。

 

「私に仲の良い友がいるとでも?」

「知らねェよ。もういいから、オマエ黙ッてろ」

 

 聞いているだけで、見ているだけで、頭が痛い。

 なんというか、こう、鯉口は顔が良いだけに、そして雰囲気こそ凛々しいが故に、中身とのギャップに頭が痛むのだ。

 

 自分は関係ないのだからと痛みを振り切るように待雪は厨房の奥へと姿を隠した。

 

(悪い人ではないんだろうけれど、でも、関わっちゃいけない人だったのかもしれない……)

 

 往々にして変人は存在するが、やはり超高校級の肩書を与えられるだけはあるのだろう。この島には頭のネジがいくつか足りていない人が多すぎると、待雪は他人事のように嘆いた。

 

 時計を見てみれば、まだお昼まで時間もありそうだったから、昼食の準備へとりかかる前に澪標と雲隠への差し入れを手早く作ってしまおうかと、今朝のうちから用意しておいた材料を手にナイフを握る。

 

 思えばこの数日、様々なことがあった。

 店に立つだけでも風変わりな人を見かけることは多々あったけれど、ここまで濃密な個性をぶつけられたのは初めての体験だった。そして同時に、そんな才能の持ち主も根はただの高校生なのだと知ることができた。

 東屋という少女が言うには、この生活を生き抜けば希望ヶ峰学園で学生生活を送ることができるかもしれないという。超高校級と呼ばれる彼ら彼女らと笑顔を浮かべながら共に同じ学舎の屋根の下で学問に励む未来もあったのだろうかと、少し想像してみた。

 同じ制服を身にまとい、教室という狭い空間の中で三年間机を並べる。……それもまた、人生だろうか。

 正直、よく分からない。

 

「明日からよろしく頼むぜ、待雪」

「へ?」

 

 パンを切る手を止めた。

 突然名前を呼ばれて驚いたというのもそうだが、なにより「よろしく」となにかをお願いされた事実を認めたくなかったのだ。というか、文脈から察するに、既にそれは決定事項らしい。

 

「薫くん。明日からは私の身の回りの世話、よろしく頼む。いやあ、なんだか照れてしまうな。こう、面と向かって君の顔を見ると、恥ずかしいというか……」

「嫌ですよ」

「なにゆえ」

 

 カウンターから顔を覗かせていた鯉口は驚いたように目を見開かせると、うねるように身じろぎ、厨房へと侵入してきた。

 彼女のことを見下ろしながらじりじりと後ずさる。言葉が出ないとはこういうことなのだろうか。みっともないその姿に、掛ける言葉がなかった。

 

「だって……ええ? どういうことですか……? 身の回りの……お世話? わたしが、コイグチさんの?」

「その通りだ。薫くんは理解が早いんだな──助かるよ。あのトンチキどもとは大違いだ」

 

 腫れ物でも見るかのような目を匂宮ら三人に向けたのち、鯉口はそう毒を吐いた。

 

「奴らに両手を縛られてしまったから、お風呂や食事の面倒を見て欲しいんだ──なにぶん、両手を縛られてしまったからな」

 

 大事なことなので二度言いました、とでも言いたげに、鯉口は軽やかな笑みを見せる。セリフと表情が合致していない。

 待雪は現状を理解したくないのだろう。数秒ほど固まると思考を放棄したようで、料理する手を再び動かし始めた。彼女は完全に、理解を拒んでいた。

 

(……悪い夢なんだ。これは)

 

 しかし残酷なことに、足に縋り付く顔が良い女はとにかく顔が良かった。顔が良かったし、顔が良かった。

 

「──はしたなさは乙女の恥だが、乙女同士のそれは百合の花だぞ」

「は、はあ……? ちょっとなにを言っているのか……すみません。長いこと、海外で生活していたので……最近の日本の文化には疎くって……なんですか? 百合の花? 生け花なら覚えがありますよ」

「心配するな。おそらく私の方が歳上だろうから、おねえさんとしてしっかり手引きしてあげよう」

 

 その堂々とした台詞が、目の前にいるみっともない格好をした女子生徒から出てきたものとはとても思えないし、思いたくもなかった。吐いた台詞に下卑た気持ちなどはなく、善意だけでそう提案しているような口振りだったが、言っていることはただただ下劣で、そして愚かしい。

 仮にこの発言が善意のみで構成されているとしても、悪意なき善意など悪意となにが違うというのだろうか。

 

「ニッ……フジバカマさんっ。どうにか、なりませんか。わたしは料理をつくらないといけないので、人一人をお世話している時間なんて、とてもじゃないけれどありません」

 

 ちらりと匂宮の顔を見たが、顔を見た途端頼り難いように感じて藤袴に助けを求めた。けれど藤袴は残念そうに両手を上げて、

 

「すみません。そうしたい気持ちは山々なのですが……私は少し鈍臭いところがあるようで、監視をしていたとしても、逃してしまうかもしれないのです」

 

 と悔しげに言った。

 

「ええ……じゃあ、他の二人はダメなんですか? それに一人がダメなら、二人組を作れば良いじゃないですか」

 

 危険な行動をとった鯉口を組み伏せたときだって、彼らは三人がかりで鯉口のことを押さえつけていた。それは複数人で組みかかった方がより有利だからに違いない。なら監視をするときだってそうすれば良いのだと訴えかける。しかし。

 

「いや、それもダメだ」

 

 そう否定したのは篝火だった。

 

「その……なンだ。俺たちじャア、風呂やトイレまで付き添ッてやれねェからな」

「え……そこまで世話させるつもりなんですか……。赤ちゃんじゃないんですし、心配しすぎなんじゃないですか?」

「そんな! 赤ちゃんプレイだなんて!」

「それに、模擬刀がなければ切ることだってできないそうですから、取り上げるだけでいいと思うんですけれど」

「万が一もあるだろ。さっきこいつが言ってたことだが、別に素手でもできることらしいし」

 

 確かにそんなことも言っていたような気がすると、待雪は険しい表情のまま溜息をついた。

 現状に納得することはできないが、しかし現状を打開するための手立てが上手く考えつかないのだ。

 

 するとそんな待雪の心境を知ってか、はたまた偶然か、さきほどまで黙っていた匂宮が待雪を擁護するように慌ててこう言った。

 

「いや待て、よく考えてみろ。こんな背丈の低い女一人で鯉口が暴れたときに対処できると思うか? 無理だろう」

(なんだか馬鹿にされたような気がする……というか、そもそもなんでわたしがコイグチさんの面倒を見なくちゃいけないんだ……?)

 

 浮かんできた言葉を投げかけることもできただろうが、しかし待雪はそうしたい気持ちをぐっと堪えて、打開策がないか考えた。

 要は自分一人が責任を負うような未来を回避すれば良いのだ。無関係でいることは無理そうだからと、それはとうの昔に諦めていた。

 

「……わたしも手伝うということに、拒否はしませんから……せめてこうしませんか……?」

 

 現状考え得る中で浮かんできた、比較的マシな考えを言葉にする。もっといい考えだってあったかもしれないけれど、今はこれが精一杯なのだから仕方がない。

 

 三人と、それから一人の目を順に見つめて、彼らの意識が自分に集中していることを確認してから話し始めた。

 正直、人に見られるのは苦手だったし、意識を向けられることに対してあまり良い気持ちは抱けなかったが、しかし耐え切れないほどではなかったため、今の心情は表には出なかった。

 

「お風呂とトイレの面倒は、わたしとフジバカマさんで見ましょう……同じ女性ですし、それにわたしだってお風呂に入っている間は料理もしませんから、支障もありません」

「ふむ、なるほど」

「それで、それ以外の時間はフジバカマさんとカガリビさん、そしてニオウミヤさんの三人がそれぞれバディを組んで見張るというのはどうでしょうか……? フジバカマさんとカガリビさん、カガリビさんとニオウミヤさん、ニオウミヤさんとフジバカマさん……と、代わりばんこでやれば、三人でも順番にできるんじゃないかなと……二人で監視するのが難しいというのなら、食堂に滞在していただければわたしも時々様子を見ておくので。それでバランスを取りましょう」

「ん……だが、いいのか? それだと、下手すればお前は休める時間がないだろう」

 

 と、心配するような……素振りは見せず、単に疑問に思ったことをそのまま述べたような口ぶりで匂宮は言った。

 篝火は特に問題とは思っていなかったらしく、あるいは話の内容などなんだって良かったのか、腕を組みながら赤べこのように首を縦に振り続けていた。

 

「いいんですよ。……まあ、わたしだってずっと食堂にいるというわけではありませんし、常に監視できるというわけではないですから。……それに、最初に出た『わたし一人で監視する』という案よりはずっとマシですよ」

「それにしたって……ん、いや、お前がいいっていうなら、俺から言うことは何もない」

「それじゃあ、あとは三人にお任せしてもいいですか?」

 

 そう尋ねると、匂宮ら三人は顔を見合わせたあと、示し合わせたように頷いてから待雪の意見を肯定した。

 

「私から特に意見はありません。それでいいと思います」

「おう、いいんじャねェかなァ」

「構わないが……分かった。風呂の時間なんかは藤袴に任せておくから、そっちでやりとりしてくれ」

「じゃあ、そういうことで……」

 

 そこで待雪は会話を切り上げた。

 結果としては不本意な結末を迎えてしまったけれど、これで今の生活から一つの危険性が取り払えるというのなら安い代償だったのかもしれないと自分に言い聞かせる。そうでもしないと、自分が報われない気がした。

 幾度となく中断されたサンドイッチ作りにようやく集中して取り掛かれるのが唯一の救いだった。





【挿絵表示】
鯉口さんの貴重な抜刀シーン、イラスト


【建物】
 まず洋館があって、玄関ホールの左右それぞれが寄宿舎として機能しています。玄関ホールから正面へ進むと外廊下があり、踊り場に出ることができ、そこからさまざまな校舎へと経路がつながっています。
 校舎名は主に一、二、三。上、下と言った記号で区分される(例:上一番校舎、下三番校舎)。
 また、教室や校舎はすべて最初から解放されている。

 寄宿舎からは庭に出ることもでき、そこからは外の景色や空を眺めることができる。背の高い雑草が生い茂っているものの、芝生が敷かれた広間もあるため、昼はそこで眠ることも悪くはないかもしれない。

・下一番校舎
 食堂として利用される空間が広がっている。また、奥の方には厨房もあり、その二つはカウンターを通してつながっている。夜時間の間は封鎖されており、数日に一度、食材が入れ替わる。

・下二番校舎
 体育館。なにかしらの発表であったり、集合をかける際はここで集まる。体育館の奥にはいくつかの個室があるようだが、そこへ繋がる扉は実に堅牢で、到底開けられそうにない。バッテリーの交換や事情聴取などは、その個室で行われる。

・下三番校舎
 浴場。壁が高いコンクリートで覆われているものの、しかし空を眺めることができるため、擬似的な露天風呂を味わうことができるだろう。浴場は一つしかないため、男女で時間を分けて入らなければならない。

・上一番校舎
 空き教室が大半を占める。保健室、倉庫といった生きていくのに必要不可欠なものが揃っている。

・上二番校舎
 書道教室。空き教室。

・上三番校舎
 図書室、理科室、音楽室、被服室、技術室。空き教室。

※上二番校舎と上三番校舎に関しては、日常編で新しい教室が増える可能性アリ。


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004 (非)日常編

 0

 

 

 

 一緒にお風呂に行きましょう、待雪。

 

 

 

 1

 

 

 

 壁にかけられた一枚の貼り紙をようやく見つけると、待雪はそれを随分と不安そうな表情でじっと見つめ始めた。

 玄関ホールは広く底冷えしていて、あまり長居はしたくない。“技術室”の三文字を見つけると、すぐにその場を離れ目的の場所へ体を向けた。

 トランクとはまた別に、彼女の傍にはバスケットが抱えられていて、その中には紅茶の入った魔法瓶とサンドイッチがあった。

 

 待雪は、雲隠と澪標の二人がいるだろう技術室を目指していたのだが、施設の探索をおざなりにしていたために、目的の技術室がどこにあるのかわからないでいた。

 これも厨房に引き篭っていたが故の弊害なのだろう。まだ二日目だというのに行動力のなさを思い知らされたようで、苦々しく歯噛みをするような思いだった。

 

 ただ親切なことに玄関ホールには校内図が掲示されていて、それを頼りに技術室があるらしい上三番校舎へと続く廊下の前までやってきた。

 二つの空間を隔てる扉にはガラス窓が付いていて、そこから長く続く廊下を覗き見る。両脇には多くの窓が連ねられており、太陽の強い日差しが柱のような形を象り、朽ちかけた床に幾本もの光の筋を突き刺していた。埃が滞留しているのだろう。光の筋はその輪郭をくっきりと映し出していた。

 

(後で換気をしたほうがいいかもしれない)

 

 そんなこと考えながら、扉に手をかけようとして、思い留まり、前に出していた手を胸に当ててみた。

 雲隠や澪標と顔を合わせるにあたって、少しくらいは緊張しているかもしれないという微かな期待からの行動だった。声を押し沈め、胸中に意識を集中させてみるが──心臓が鳴らす拍動の音は、至って平生のものだった。

 

(それもそうか)

 

 食堂に置いてきた鯉口のことが気かがりであったが、あの場はひとまずあれで収まったのだからと、今朝の出来事に関してはあまり深くは考えないようにしていた。

 

 結局、あの後匂宮ら三人の間で行われた話し合いは滞りなく進んだようで、時間割の表を作るための紙と筆記用具を取りに、書道教室へと藤袴が駆けて行ったところまでは見届けた。鈍重なトランクを担いでいるというのに素早い機動力を発揮できるのは、柔道家なんていう肩書きを抜きに藤袴は素晴らしい身体能力の持ち主なのだろうと推察できた。

 だが、そんな素晴らしい才能や能力を持つ人物がこれから先、死んでしまうのかもしれないと考えると……世の中というものは無情なものだと、思わず天を見上げて、空の青さを憎々しいほどに見つめてしまう。

 

 修道服を着ることはあれども、待雪は神を信仰しているというわけではなかったから、だから神に見放されただとか神はいないのだとか、そんなくだらないことを叫ぶ気持ちは沸いて来なかったけれど……ただ、どうだろう。

 彼らは──超高校級と呼ばれるまでに一つのことを極め、そしてこれから先も、胸の内に未来への希望を抱きながら修練に励んでいくのだろう発展途上の彼らは──なにかしらの運命とやらを、呪ったりしたのだろうか。

 

 この島に来てからというものの、誰かの悲しい表情を見た記憶は待雪にはなかった。少なくとも、厨房から食堂の方を覗き見ている分にはそうだった。

 みんな楽しそうに会話をしていたし、精神状態はいたって普通のようだった。

 

 それが偽りのものなのだと言われても不思議ではない。

 彼らはなにも不安には感じていないのだと言われても、その言葉を待雪はすんなりと受け入れることができてしまいそうだった。

 

(そういうところも含めて、超高校級と呼ぶのかもしれない。何か一つのことで秀でていられる人なんて、きっとどこか、頭がおかしいんだから)

 

 頭がおかしい。

 その言葉から、ふと待雪は雲隠の顔が思い浮かんだ。

 なにを考えているのかよく分からないような、感情の起伏がない彼の顔が、焦げ付いたように頭から離れなかった。

 

 頭がおかしいというのなら鯉口だってそうだったけれど、あれはいわゆる変態というやつで、雲隠のそれとはどうも違った。

 壱目だって、迷惑な人ではあったが、鯉口と同じようにあくまで人間的な欲が前面的に出過ぎているだけなのだろう。

 だから雲隠に対するこの感情は、誰からも感じ取ることができない彼特有のものだった。あまりにも彼は人間的な欲がなくって、無機質で、そのうえ人への関心がなさそうだった。

 

 なぜだろう。彼のことを意識すればするほどに、待雪はどうにも言葉にしきれない嫌悪感が胸の内から滲み出てくるのだった。

 彼に卑しい視線を向けられたわけでも、汚らしい言葉を吐きかけられたわけでも、ましてや力任せな乱暴を受けたわけでもない。むしろ彼は、自分には良くしてくれている方だとすら思うのに。

 

 恨み辛みとはまた違った、言うなれば、親愛的な嫌悪感。

 不思議なことだが、この気持ちはそういうものなのだろうと直感的に悟っていた。

 同時に、そんな気持ちを抱いてしまっている自分に、驚いてもいた。

 

 彼を嫌うような要素はひとつもない。

 

 だけれども、なぜだろう。

 雲隠に対しては、今まで他人には感じたことのないような、謂れがなければ意味もない嫌悪感を感じてしまうのだ。

 さらりと心の内に浸食してくる、違和感のない嫌悪感。

 

 ……気付けば、窓ガラスに映った自分の顔は、酷く無機質な顔をしていた。蝋人形でも目の前に立っているんじゃないかと思ったくらいだった。

 その影が、雲隠と重なる。

 

「……だめだだめだ」

 

 雑念を払うようにかぶりを振って、扉を引いた。

 

 とにかく今は二人に差し入れをして、それから昼食を作らなければならない。そのあとは夕食を作って、そして明日の朝食の仕込みもしなければ──変なことを考えている暇なんて、今の自分にはなかった。

 待雪は、埃が滞留し息をすることも憚られるような廊下を大きな歩幅で進んだ。

 足を踏み出すたびに響く木の軋みが、今の彼女の心境を表しているようでもある。

 

 技術室は廊下の奥にあるのだが、そちらへと進んでいくうちに、うっすらとだが乱暴な騒ぎ声が耳に入った。汚らしい言葉を叫び、理性のかけらもないような情緒で乱暴に振舞う誰かの声が聞こえて来るのだ。

 

 言葉の内容や声の特徴からして罵詈雑言を叫ぶ声は誰か一人のものだった。二人の人間が言い争っているわけではないらしいが、しかし不穏さを感じずにはいられない。

 

 ……なにかトラブルでも起きているのだろうか。

 雲隠と澪標の二人を心配する気持ちと共に、今すぐにでも踵を返して食堂に戻りたいという思いも生まれてきた。誰かの怒りを諌めるようなコミュニケーション能力もないのだから、経験上、こういった場合は逃げるべきだった。

 

 以前は雲隠と澪標の仲裁を試みたものだが、結局成功とは言い難い結果を生んでしまったから、待雪は、すっかり自信を失ってしまっていた。

 

 聞こえてくる声の主は女性のようだったが、しかし澪標の声ではないことに気が付く。だから、澪標が一方的に責めているという状況ではないらしい。

 つまり、あの二人以外の第三者が技術室にはいるのだろう。

 

(……戻ろうかな。うん、それできっといい……)

 

 面倒ごとであるのに変わりなさそうだと深いため息をついて、待雪は肩をすくめた。

 なにもかもを聞かなかったことにして、この際差し入れもやめて、それから昼食の準備をしようかと背を向けたところで、

 

「……あ、待雪さん」

 

 ガラリ、扉の開く音が背後から聞こえ、誰かがそうやって待雪を呼び止めた。

 待雪は錆び付いたブリキ人形のようにぎこちない動きで振り返り、強張った表情を見せた。肩は吊り上がるように硬直していて、彼女の頭の中ではがらがらとなにかが崩れ落ちる音がした。

 平和が崩れ落ちた音だろうか。

 なるほど、それなら合点がいく。

 

「ク、クモガクレさん……っ! ……あっあの、サンドイッチを作ってきたので、ミオツクシさんと一緒に……食べてくださいっ」

 

 驚きと、今にも逃げ出したいという気持ちがあってか、随分と早口に言葉を言い切った。そして足早に去ってしまおうと、サンドイッチの入ったバスケットを雲隠の眼前に突き出す。

 届けるべきものは押し付けて、自分は技術室に足を踏み入れることなく帰ってしまおうという算段だった。

 

 けれどそれは正しい行動ではなかったと言える。

 そもそも既に彼女は手遅れだった。

 

 壱目と鉢合わせるよりかはマシだったかもしれないが、しかし決して良い状況とは言えない。

 なにせ目にした光景が、あまりにも鮮烈だったからだ。

 

「おい、雲隠。ワタシの話はまだ終わっていないぞ」

 

 雲隠の肩を引っ張るように掴んで現れたのは、長く伸びた髪を不規則な位置で数箇所結ぶ独特なヘアスタイルが特徴的な、混血の少女の姿だった。

 ギラつく目は好奇に満ち、気怠く開かれた桃色の唇からは鋭く尖った犬歯が顔を覗かせていた。

 

 少女は雲隠の背後を通り抜け、その体の全てを待雪の眼前に晒す。少女は見たこともないような派手な格好をしていて、待雪はそれをずっと見つめていた。その新奇な格好や攻撃的な眼光から、目が離せないでいたのだ。

 

 不埒にも大胆に晒された白い太腿は、その上をなだらかに流れる赤いプリーツのミニスカートによって扇情的に印象づけられていた。滑らかな曲線を描くしなやかな肢体が歩みを進めるたびに、折り目正しく折られたプリーツがその蠱惑的な曲線に沿って形を崩す。

 

 少女には西洋の血が混じっているのだろうか、肌は死体のように白く、瞳は虹のように多くの色を輝かせていて、髪の色も、光の当たり具合でその色を気まぐれに変えていた──少なくとも、日本やアジア出身というわけではないようだった。風貌だけは外国人と同様である彼女が乱暴な日本語を巧みに扱っているというのだから、違和感というものは感じずにはいられない。

 

 細く折れてしまいそうな首に取り付けられたサイズの合っていない首輪は、ある種の破天荒さまでも演出している。希望ヶ峰学園によって取り付けられた首輪と歪なトランクも、あるいはそれだって、彼女独自のファッションなのだと説明されれば納得してしまえそうなほどに、よく似合っていた。

 

 黙っていても煩いとはこのことで、彼女の見た目は雄弁に彼女自身を表しているのだろうということがひと目で分かる。半分もボタンがかけられていないブラウスなんかがそうだ。

 乱雑に結ばれた細長いネクタイは胸元まで開かれた胸襟を辛うじて支えていて、二本の鎖骨はその姿のほとんどを惜しげもなく外気にさらけ出している。

 知性の証があるとすれば、上から羽織った白衣と、その小さな顔には不似合いなほど大きな眼鏡くらいなものだろう。鮮紅色のフレームが、少女の加虐的な表情をより狂気に満ちたものへと色付けていた。

 ……ただどうにも、少女が身につけているカラフルな装飾品は白衣とは不似合いで、研究者らしき雰囲気はまるでなかった。

 

「…………」

 

 言葉が出ない。

 澪標を初めて見たときと同じように、頭が真っ白になって、彼女以外のことはなにも考えられなかった。

 未知との遭遇とはこのことなのだろうか。待雪の知らないなにかがそこにはいた。

 

 だからこそ、待雪は眉をひそめ、そして訝しんだ。

 なにせこんな人、見たことがなかったからだ。初日の朝や、夜のバッテリー交換で体育館に集められたときは他人のことを気にしていられる余裕もなかったため気がつかなかったということもあっただろうが、少なくとも、食堂ではこのような前衛的な格好をした人を見たことはなかった。

 そもそもそれは、前衛的なんていう言葉で表せるようなものではない。次元が違うというのだろうか。まるで少女の立つその場所だけが異界であるかのような、そんな錯覚すら覚えてしまうのだから。

 

「──ああ? 誰だ、このちんまいやつは」

 

 と、少女は待雪を睨むように目を細めた。悪意はないのだろうが、いかんせんその荒々しい態度のせいか、待雪はつい後退り、目を合わさないように少女のその特徴的な姿ばかりに視線を向けていた。まともに目を合わせることが憚られたのだ。

 

「あー……んんう? オマエ、どっかで見たことがあるような気が……」

 

 少女は雲隠の背から離れると、軋む床を踏みつけ、待雪の方までやってきた。

 あっという間に距離は詰められ、逃げることもできないと、より一層待雪は口を固く閉ざす。澪標と初めて会ったときもそうだったが、未知の物事を知ると待雪は、てんで頭が働かなくなってしまうのだ。

 俯いたままの姿勢が少女には反抗的な態度に捉えられたのだろうか、待雪は少女に頬を掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。

 

「…………」

 

 至近距離で目と目が合う。切れ長の瞳は待雪を射殺さんばかりに真っ直ぐと睨みつけていて、視線で串付けにされたかのように、彼女から目が離せなかった。

 視界が、彼女の瞳で染まる。

 長い睫毛の奥に潜む少女の虹彩には、幾多もの色が重なっていて、それはまるで万華鏡かのように絶えず色を変化し続けていた。

 

(不思議な匂いがする。知らない匂いだ)

 

 知らない匂い。それは、久しい感覚だった。

 今まで一度も嗅いだことのない匂い。成分すらも分からない、何か近しい匂いも導き出せない、不思議な香り。

 

 これもまた待雪にとっては衝撃的な出来事で、それに意識を奪われていると、いつの間にか視界は少女の顔で埋め尽くされていた。

 

「…………?」

 

 なにが起こったのか、一瞬、理解ができなかった。

 ただその一瞬は永遠のように長く感じられるものだったから、ずっと待雪は理解できないままだった。

 

 口腔内に湿り気のある感触が侵入してくる。

 柔らかくなった鉄のように熱いものが歯列を撫でる。

 それが少女の舌なのだと気付いた頃になって、ようやく、自分と少女の唇が重なっていることに意識が及んだ。

 

 親しい仲の者同士がするような挨拶がわりのスキンシップではなく、これは恋人同士が睦言のように交わす舌を使ったキスだった。

 ……今までに経験したことのないことだったから、どういった反応を示せば良いのかが分からず、待雪はされるがままだった。

 

 逃げようにも、後ろに回された手によって頭を押さえつけられてしまい、まともな抵抗は無力なものだった。もがけばもがくほどに、よりいっそう粘膜の密着が深く濃厚なものに変わっていくので、次第に反抗する意思も失われていき、だらりと腕は下がっていた。

 

 貪るように唇を吸われ、なにかを確かめるように舌が嬲られる。それは一方的な蹂躙で、舌で押し返そうと苦難するも、それすらも軽くあしらわれ弄ぶように吸われた。

 せめてもの抵抗をと、空いた右手をそっと掲げたが、間もなくそれも、指の節を確かめるかのようにじっくりと絡め取られた。

 唾液の交換は続く。痺れるような強い快感が舌や歯、口腔から脳まで伝播して、段々と思考が書き換えられていくような感覚にすら陥った。

 

 どうしたらいいのかが分からず四肢は硬直し、その反面、舌や唇などは甘く蕩けていた。

 

 段々と顔が赤くなっていった。息が苦しい。胸も、苦しい。心臓の鼓動が次第に高鳴っていくのを嫌でも感じさせられた。

 

「ぷはっ」

 

 とろんと溶けたピンク色の舌が透明な糸を引き、そして途切れる。

 少女はその長い舌で、名残惜しそうに待雪の唇をぺろりと上から舐めると、その味を吟味するように舌先で転がしたあと、待雪が文句を言うよりも前に素早く、

 

「んー、ぜろ点」

 

 とだけ短く言った。

 

「なっ……、なにがゼロ点なんですか?」

 

 どういった反応を示せばいいのかが分からず、かといってキスの感想を言うというのもおかしな話だと思ったので(「なかなかのものをいただきました」とでも言えばよいのだろうか)、悩んだ末にこんな間抜けな質問をした。

 それに対して、少女は気怠げに答える。

 

「キスの点数だよ。技術、魅力共にゼロだ」

 

 これでも加点方式でやってやったんだぜ? と、少女はせせら笑った。

 少女の後ろに立っていたはずの雲隠は、いつのまにか消えてしまっていた。

 

「わ、わけわかんないですよ!」

「感想はないのか?」

「か、感想って……」

「キスの感想だよ。……ったく、なんにも分かっていないんだな」

 

 口端にこぼれた唾液を拭いながら考える。

 

(感想……やはり感想を言う必要が……)

 

 待雪はとってつけたようなお辞儀をした後、少しぎこちない言葉遣いでこう言った。

 

「なかなかのものを、いただきました」

「…………」

 

 不満なのか、それとも単に呆れているのか。どっちともつかないような顔をして少女は頭を掻いた。

 

「まあいい。どっかで見たような気がしたが、キスしても思い出せないってことは、ワタシにとってはその程度の奴だったってことだろ。……だが、なんだ。興味がないわけでもない、早く入れよ」

「……あの、わたし、お昼の用意をしなきゃいけないんで──」

「ほら、さっさと入れってば」

 

 その鋭く尖った犬歯が、自分の身に喰らいつくような錯覚を待雪は覚えた。

 少女は待雪の腕を鷲掴みにすると、強引に技術室へと引き込んだ。唇の感覚がまだ余韻として残っていた。

 

(なんだこの人は。なんだこの人は)

 

 連れられるままに入った技術室の中には澪標もいて、こちらに気付き少し驚いた様子を見せた。

 

「あら、薫さん。どうかしたの?」

「どうかしたっていうか……ええっとその、差し入れをと思いまして……でも、お昼の用意もあるので、すぐ食堂に戻ろうかと思っていたのですが……」

 

 恨めしそうに、隣に立つ少女に視線を向けた。

 背は自分と同じくらいだからか、目線の高さも同じなのだろう。見ると運の悪いことにその綺麗な瞳と目が合ってしまって、気まずくなって、すぐに目を逸らした。

 これだと臆病というより小心者で、あまり良い心地ではない。

 

 自身の不自然な行いを取り繕うように、結局は雲隠に返されてしまったバスケットを机の上に置いた。

 

「人聞きが悪いんだな、オマエ。誘ったと言ってもらいたいんだが」

 

 少女は粗雑な態度で椅子にどかっと座ると、自身の正当性を示すようにこう言った。

 

「……というか、オマエも関係者なんだろう? ならいた方がいいだろう。力にはならないだろうが、それは仲間外れにする理由にはならないんだからな」

 

 関係者。仲間外れ。はて、自分はなんらかの集まりに参加していただろうかと疑問に思う。

 

 待雪は長居するつもりがなかったため、そのままそこに立っていたのだが、その様子が癇に障ったのだろうか。それとも単純に普段からそんな口調なのか──少女は待雪に荒々しい言葉を飛ばした。

 

「なんだ? 座れよ、メイドじゃああるまいし。……っていうか、ワタシはメイドっていうのが大っ嫌いなんだ。断じてトラウマってわけじゃないが、その言葉を聞くだけで寒気がするほどワタシはメイドが嫌いだ!」

「じゃあ、わたしは食堂に戻りますよ……」

「ああ? なんでそうなるんだよ。捻くれ者か? あれか、オマエ、右利きのくせに腕時計を右につけたりするタイプか」

「右利きの人が腕時計を右につけるのは普通ですよ。それに、わたしは両利きです」

「例え話だ、例え話。間に受けるな」

 

 それよりも、と待雪は立ったままで少女に訊いた。

 小さな反抗心のつもりだったが、今となってはそれが自身の今後の分水嶺のようにも感じられるのだ。多分ここで座ってしまうと、なにかしらのことがらが自分にとって悪い方向に進んでしまうのではないかと思われた。

 

「さきほど関係者がどうこうとおっしゃっていましたけど」

 

 伏し目がちにそう尋ねた。澪標が、待雪が持ってきたバスケットの中身を探りながらそれに答えた。物の中身を探るという一見下品な行いではあるが、澪標の無駄が省かれた所作と白魚のように美しい長い指を使った動きから、むしろそれは上品な行いなのではないかと思えてしまうのは仕方のないことだった。

 既に澪標の口には一枚のサンドイッチが挟まっていて、もごもごと口を動かす横顔は一枚の絵画のようでもあった。耳にかかった髪もまた彼女の高貴な顔立ちを引き立てていた。

 

「鍵よ。トランクを開けるための鍵作りに、彼女にも参加してもらうことになったの」

「ああそうだ、面白そうだから入れてもらった。……それにほら、このトランク、重くて仕方がないだろう。非力なワタシには不便すぎるからな、外したいってずっと思ってたんだ」

 

 少女は鬱陶しげに首輪を揺らした。その調子でぽろりと首まで取れてしまいそうだったが、そうはならず、少女はまた不遜な態度で話し始める。

 

「というか、腹が減った。なあ、それ、そのバスケット。中になにが入ってるんだ? なんでもいい、腹にものを入れたい」

 

 少女は机の上のバスケットに手を伸ばし、中からサンドイッチを一つ引き抜いて口に運んだ。本当にお腹が減っていたのだろう。その小さな口を使ってパンを食み、頬を大きく膨らませていた。

 澪標と比べ、その食べ方は大きく異なり、上品さのかけらもない所作ではあったが、なんだか子供のようで咎める気にはなれなかった。

 

「……美味いな、このサンドイッチ。こんなに美味い飯は久しぶりに食べる」

「それは、どうも。ありがとうございます」

「なんだ。オマエが作ったのか? ……良い腕と舌をしてるな。どおりでキスしたとき、舌の感触が良かったわけだ」

「?! ごほっ、ごほっ! えっなに? 薫さんキスしたの?!」

 

 意外なことに、澪標が茶を噴き出して驚いてみせた。

 

「ええまあ」

 

 と待雪が微妙な反応を返すと、澪標は驚きを隠そうともせずにため息をつきながら話した。

 

「うっそぉ。あんなの冗談だと思ってた。……いやね? さっき私も迫られたものだから。あと、ききょーくんも」

「そうだったんですか?」

「ええ。だけれど本当にそうするとは思っていないなかったものだから、少し驚いちゃって。……まあ、私という存在がいながらききょーくんが恋人のような真似をするはずがないのだけれど」

「こ、恋人の、ような」

「薫さんがそういうことをするのは、ちょっと意外ね。やっぱり海外に長く住んでいると、そういうのも進んだ感じになっちゃうのかしら」

「ん、おい立竝。そのサンドイッチはワタシが食う」

 

 名も知らぬ少女はある程度腹が膨れてきたのだろうか、茶を飲む余裕も見せていた。澪標と比較すると、同じ食べるという動作であるにもかかわらずその食べ方は野性味が強く、口元はソースで汚れていた。

 

「ああ、これ、使ってください」

「ん、ありがと」

 

 つい気になってしまい、待雪は少女にハンカチを手渡した。少女は頷くような礼をしただけで、受け取ったハンカチで無遠慮に口元を拭った。

 仕草だけはどうにも子供っぽく、初対面であるのにこう表現するのは変だが、それが彼女らしい行動だといえばそうだった。

 

「ええっと……すみません、ミオツクシさん。わたしはまだ上手く状況が読み込めていなくって。それにその、クモガクレさんもどこかに行ってしまったようですし」

「ああ、彼? 彼ならお風呂に行ったのよ。今は男子の時間帯だもの、ちょうどいいでしょう。それに作業もひと段落ついたし、良い機会だから体を洗ってくるように言っておいたの」

 

 口に含んだものを飲み込み、指先についたソースを口付けでもするかのように舐めとったあと、澪標は待雪の方に向き直った。

 

「彼女に鍵作りを手伝ってもらうことは、薫さんにも後で知らせようと思っていたのだけど……やっぱり、こういうことは事前に知らせておいた方が良かったかしら? ごめんなさいね」

「い、いえ……わたしは別に、機械について口出しできるような知識は持っていませんから。お好きにしていただいて構わないのですが……」

「そう。でもなにか不満があるなら言って頂戴ね」

「お気遣いなく」

 

 ふと思った。

 初対面の印象こそ最悪とはいえ、この少女の名前すら、待雪はまだ知らない。だのにあれこれと頭の中で否定するというのは、いけないことなんじゃないか、と。

 澪標や雲隠と仲良くできているというのなら、実のところ口が悪いだけで、思ったほど悪い人ではないのではないだろうか。自分が仲良くできるかどうかはともかく、邪険に扱う必要性は皆無なのだし。

 

「それともう一つ、知らせておくことが。鍵自体は完成したんだけれど──」

「えっ。完成したんですか? 鍵」

 

 鍵を作る、と言っていたのが昨晩のことだ。あれからまだ半日経ったかどうかだというのに──

 

「ええまあ。ききょーくんにかかればこんなものよ。まあ、彼の専門分野とは異なる仕事ではあったのだけれど、明石さんが手伝ってくれて──ああ、彼女、明石さんっていうんだけれど、自己紹介はもう済んでいるかしら?」

「……いえ」

「自己紹介はまだだな。お互い名前も知らない」

 

 吐き捨てるように言うと、明石と呼ばれた少女は立ち上がって、待雪の目を熱いほどに強く見つめた。 

 強い信念や情熱を感じさせられる瞳に当てられ、待雪は自然と萎縮してしまい、肩を縮ませ明石の言葉を待った。

 

「ワタシの名前は明石(アカシ)。時代を切り裂く天才科学者だ。まあなんだ、諸事情あって下の名前は教えられない──というか、いや、事情もなにも憶えちゃいないんだがな。名字も、名前も。全て忘却の彼方だ──明石っていうのもあくまで仮の名前なんだ」

「…………」

「よろしくな。ぐーてんもーげん!」

 

 まるで笑い事かのような軽い調子で、明石と名乗った少女は自身の記憶喪失を告げた。あまりにも語調が軽すぎるものだから、一瞬理解できなかったくらいだった。

 

「……えっと、記憶喪失ってことですか?」

 

 訝しむような態度で尋ねる。

 すると少女は──明石は──かぶりを振ってその言葉を否定した。

 

「いや、記憶喪失とはまた違うみたいでな。忘れたのは名前と、目覚めるまでの前後の記憶だけなんだ。自分が今までなにをしてきたのかはよく覚えている。単に来るまでの記憶がないってだけで」

 

 どうだろうと想像してみた。

 もしも自分が、自分の名前を忘れてしまったらと。

 ……多分きっと、それでも自分は料理を続けるだろうけれど、ひょっとすれば彼女だって同じなのかもしれなかった。科学者だというのなら、研究に熱中できるのなら、名前なんて些末なことにすぎないだろうから。

 

 でも、だとしても気になる。明石というのは偽名のようだったが、それはおかしなことのように思えたのだ。

 名前とは大切なものだ。だからこそ、自分の名前くらいはどこかに残っていてもおかしくはない。特に科学者という職業は、それこそその経歴や結果が書類として残る職業だ。論文を書くにしても、名前は必要なのだし。……それに、彼女のように鮮烈な見た目をしている人物の名前を忘れられる人なんて、きっといないだろう。

 

 彼女のことを知る人間が誰もいないのであればそれもあり得るのかもしれなかったが、ただそんなシチュエーションは想像できなかった。

 

「……不思議なもんだろ? といってもまあ、記憶喪失とそう変わりないのかもしれないがな。こんな状況じゃ」

 

 むしろより悪化した状況だと言える。

 悲観的なことを語っているのにもかかわらず、明石はむしろ怒っているかのように眉を寄せて、腕を組みながら頷いていた。

 

「まあここだと科学者としての経歴も半端なもので。表立った活動はまだできてないのが悔しいところだが、なにぶん、活動しようったって、まともな機材がないんだからな。そういった面でも、澪標や雲隠には相談していたんだが……やっぱり無理なものは無理らしい」

「? ということは、前までは海外にいたんですか? 確かに海外の方が日本よりも技術の面では発展しているでしょうし、それに、あまり見た目の話をするのはアレですが……どうやら西洋人らしい肌の色ですから」

 

 それに明石は、名前やそれを忘れる前後の記憶を覚えていないというだけで、それよりももっと前の記憶を忘れてしまったというわけではないようだった。だから生まれの国の記憶も彼女にはあるはずだと考えたのだ。

 しかし、だとしたらどこだろう。海外には料理の修行に行くこともあり、知り合いも少なからずいたため、なにか記憶を思い出すための手助けができればと期待を込めて訊いたのだが──返ってきた答えは、予想外のものだった。

 せめて地名ならなんとかなったのかもしれなかったが、帰ってきた答えは言葉の通り次元の異なる話であったのだから。

 

「いや、違うな。ワタシは()()()()()()

「…………」

「つれないな。驚かないのか。……まあそっちの方が助かるんだけどな」

 

 明石はつまらなさげに淡い極彩色の頭髪を掻いてから、うんざりとした態度で続けた。

 

「とにかく、ワタシは未来から来た。百年とか二百年とか、多分そんくらい先の未来からだ」

 

 明石はこともなさげにそう言うのだった。

 未来から来た。その言葉を聞いて、待雪はやはり関わるべきではなかったのかもしれないと後悔していた。

 

 

 

 2

 

 

 

「だから今ワタシがあれこれやっているのは、過去の追憶に過ぎないんだ。自分らしいことがやりたいもんだが、それも上手くはいかないからな──なにせこの時代にはまともな設備がないんだ。未来では端末の一機能である電卓ですら、この時代じゃあこのトランクくらいデカいんだぜ?」

 

 横に置かれた歪なトランクを叩きながら、明石はせせら笑った。

 

「ははあ……未来、ですか」

「ああそうだ。未来だ。……未来は明るいぜ? 技術も文化も、全部あっちの方が上だ。それに、ベルっつー面白いロボットもいてだな……いや、あれはアンドロイドか? まあどっちでも良いんだけどな。ワタシがメインで作ったってわけでもないし」

 

 一拍おいて、明石は続けた。

 

「なにか聞きたいこととかないのか? ワタシに答えられることならなんだって答えてやるぜ。お近づきの印にってやつでさ。ま、でも、今の時代に生きてるやつがみんな死んじまってる時代の話だがな!」

 

 ゲラゲラと明石は笑う。

 待雪はどういう顔をしたらいいのかが分からず、微妙な反応を示した。

 

「いえ……興味もないので、特に質問はないんですけど──そうですね」

 

 顎に手をやり、うんと悩む。

 未来から来たという言葉を鵜呑みにするつもりはなかったが、ただ相手が嘘をついているような様子でもなかったから、それが不思議でたまらなかった。

 なにより明石からは、嘘の匂いはしなかった。

 ただ純粋な、未知の香りだけが彼女を包み込んでいる。

 

(未知の匂い……未来の匂い? ……アカシさんだけの匂い)

 

 ……いや、未来から来たなんていう戯言を口にしている時点で明石はきっと気の触れた人間で、嘘の匂いがしないのも、彼女がそのような妄想を信じ切ってしまっているからに違いないのだろうけれど。

 ただそうだとしても、人の善意になにかしらの形で応えたいと思ってしまい、待雪は当たり障りのない疑問を口にした。

 

 例え相手が誰であろうと、善意を無碍にすることに対し抵抗を感じてしまうのが待雪という人間だった。

 

「そうだ。ミオツクシさんの財閥って、未来ではどういったことをしているかとか、ご存知ですか?」

 

 それは、なんとなく思い浮かんだ質問だ。特に深い意味もない。

 澪標はというと、おっ、と少し驚いたような表情こそ見せたが、それ以上の反応は示さなかった。

 明石は待雪の質問に対し、腕を組んだ尊大な態度で感慨深そうに答える。

 

「ああ、澪標機関か……。未来じゃあ、あそこは今以上に世界に幅を利かせているぜ。ワタシはもっぱらフリーランスで活動しているんだが、澪標機関とはよく仕事をしたもんだ。だから驚いたんだぜ、こんな一九〇〇年代初頭の時代で、その令嬢に出遭えるなんてな」

「あら、それはそれは。未来でも家が賑わっているようでなによりね。……でも、この世界の澪標家だって負けてはいないわよ?」

「ハハッ、違いないな。負けん気の強さはこっちの方が上かもな」

 

 なんせあっちの令嬢はまだまだ青臭いガキだった、と明石は付け加えた。

 

「オマエは、オマエ自身のことは訊かないんだな」

「? どういうことですか?」

「……いやな、こういうときって普通、自分のことを訊くもんだろう? なのにオマエ、真っ先に他人のことについて訊いてきやがった」

「……まあ、アカシさんの言葉を信じるのなら、その時代にわたしは生きてないでしょうから、訊いても意味はないかなって思いまして」

「そーいうもんかねー。例えば料理についてだとか、自分の名前は未来でも残っているのかとか、それこそ、そう──今ワタシたちが巻き込まれているこのコロシアイが、未来じゃどう伝わってるんだとか。な? 色々あるだろう」

「ああ……なるほど。どうなっているんですか?」

「安直なヤツだな、オマエ……まあいいんだけどな。それだとこっちも気が楽だ」

 

 ため息がちにそう言うと、明石は湯飲みに入った茶を飲み干してから語勢を強くして告げた。

 

「結論から言うと、知らん」

「は?」

「こんな大昔にコロシアイが行われたなんて話、聞いたこともない。そもそもなかったことにされてるんじゃないか」

「どういうことですか?」

「未来じゃあ、希望ヶ峰学園も世界的に有名な学校でな、それこそ一時期あれこれあったが、だからこそ、そんなコロシアイなんてのが創立当初に起きていたのなら誰も騒がないはずがないんだよ。だってのに、それらしい話は聞いたことがない。……きっと未来機関のやつらが揉み消しちまったんだろうなあ」

「なるほど……」

 

 未来。というのがいつの頃の話なのかは定かではなかったが(別に明石の話を信じるわけではないが)、仮にそれが百年や二百年ほど先の話であるとしても、それほど長い間この学園が存続していくのだというのは驚きでもあった。

 

 なにせ待雪にとっては、希望ヶ峰学園とは出来立てほやほやの無名の学園だ。実績も功績もなにもない上、このような殺し合いなどという実験めいた行いをしているというのだから、明石の言う未来を信じろという方が無理があった。

 

「その、未来機関? ですか? なんだか変な名前ですね」

 

 未来の機関だなんて、それこそ、未来から来たんだと主張している明石の口から出た言葉だからか、あまりにも出来すぎな言葉のように思えてしまう。

 

「そうだろう? ワタシもそう思って、アイツらには『不甲斐ない機関』に改名した方がいいんじゃないかっていつも言ってやってるんだがな。あまりいい反応はなかったりする。……そっちの方が、なによりお似合いだってのに」

 

 口先を尖らせて、明石は不満を口にした。

 

「……昔──いや、オマエラからすれば未来の話なわけだが、訳あって希望ヶ峰学園についてあれこれ調べたこともあるんだ。だけど、そのときだって一期生がどうこうなんていう話は聞いたこともない」

「そうなんですか……つまり、異常らしい異常は記録には残ってないんですね」

「ああそうだな。殺し合いなんてもんがあったら、そんな印象の強いもん、絶対に記憶に残ってるはずだろう? だっつーのに、特になにも覚えてないってことは、なにもおかしなことはなかったってことだ。ワタシが知ってる一期生は、普通に学生生活を送っていたんだと思うぜ。……こんな島で殺し合いなんてしてないはずだ」

 

 名前の記憶を失った明石が記憶を語るのもおかしな話だったが、素直に待雪はその話を聞いていた。

 そうしていると、こちらを見ていた澪標が嘯いた。

 

「案の定、なにもかも嘘っていうこともあるかもしれないわね。殺し合いっていうのも嘘で、ひょっとすれば明日にでも解放されるかも」

 

 だとしたら普通に私たちは学生生活を送れるでしょう? と、澪標がこちらに微笑みかける。

 

「ハッ、だとしたら良いんだけどな」

 

 気持ちのこもっていない同意を述べると、明石はぼうっとどこか遠くを見るような目をして背もたれに身を預けた。

 

 澪標はバスケットの中に入っていた魔法瓶とコップを取り出すと、その中身をコップに注いで口に含んだ。

 けれど熱かったのだろうか、澪標はびくりと体を震わせた。

 

「あちゅっ!」

 

 素っ頓狂な声を上げたあと、濡れた口端を指先で拭い、慌てたようにして待雪の方を見た。

 

「か、薫さん。このお茶ちょっと熱すぎない……?」

「あれ……熱かったですか? ……すみません。お茶を入れているその容器、魔法瓶っていう保温性が高い入れ物らしくって。少し保温性が高いくらいかなと思って熱めに入れてきたんですけど……」

「なるほど、どうりで……あちゅちゅっ」

 

 熱そうにしながらも、湯気立つ茶を飲みながら澪標は言った。

 

「保温性能はピカイチね。おそらく、うちの家の会社で取り扱ってるやつよ」

「そうなんですか?」

「ええ。以前、珍しいものが手に入ったからって渡されたことがあるもの。……正確には、輸入してきたものだけれど」

「へえ……ミオツクシさんのお家は、そんなものも扱っているんですね」

「まあね。輸出入に関して……まあ、他の事業もそうなのだけれど。澪標の右に出る会社や財閥は日本国内にはないもの」

 

 そういえば澪標財閥はそんなこともしていたんだっけ、と待雪は想起した。

 お金持ちと聞けば悩みも少なそうなものだけれど、澪標ほどにもなるとむしろ、悩みの種は尽きないのではないだろうかと思う。魔法瓶なんていうマイナーなもの扱っているということは、それ以上にメジャーな商品を澪標財閥の貿易では多く取り扱っているはずだ。それに澪標財閥が行う事業は貿易のみならず、国内においての生産、販売なども行っているというのだから驚きだ。

 

 そんな日本随一のお(いえ)に生まれた女子澪標立竝が背負う重責というものは、そして世間からの風当たりというものは非常に強いものになるだろうから、表情にこそそんな色はいっぺんたりとも見せないが、雲隠に対し依存的な態度を取ることが多いのはそういったことも理由としてはあるのではないだろうかと思われた。

 

 少なくとも、澪標が幸せそうに笑えているのは彼女自身のその秘匿性の高さであるだろうし、なにより秘密を秘密のままに維持していられるのは、心の支えとして確かに存在している雲隠のおかげなのだろう。

 

 今ここにはいない雲隠の顔を思い浮かべてみたが、そんな大切な役割を負っている人物には到底思えないから驚きである。

 

「クモガクレさんとの出会いとかって、聞けたりしませんか」

「……? ん? 私に対しての質問?」

「あ、すみませんっ。そんなっ、いきなり、ダメですよね。……ふと、気になってしまって」

「いいえ、別にいいのだけれどね。……ただそうね、あなたに話すのにはまだ少し早いかもしれないから、また今度、機会があれば私から話そうかしら」

「そう、ですか」

 

 しまった、と思った。

 澪標は別に構わないと言ってくれたけれども、待雪は自分の行いを良しと見なすことができなかった。

 あまりにも踏み入った質問であったと、甘い自分を心の中で戒める。

 

 すんと肩をすくめて黙っていると、ただ沈黙だけが技術室を占めていた。サンドウィッチもなくなって、空になったバスケットを見ると、ふと自分の存在意義を問いたくなる。

 そうなると随分居心地が悪くって、それを打破したく待雪は明石に質問をした。

 自分の今の気持ちも、少し混じったような質問だった。

 自堕落に生きていそうな彼女のことだから、てっにり笑って言葉を返してくれるものだろうと考えてのことだった。

 

「アカシさんは、なにか後悔をしたことってありますか」

 

 するとピタリと、明石の飲み物を飲む手の動きが止まった。

 まずい事でも聞いてしまっただろうかと、つい不安になって焦りから顔を覗き込んで見たが……アカシはなんとも形象し難い不思議な表情をその顔に映し出していた。

 悲しみ、苦しみ、嫌悪。あるいは、忘却。

 表情からは彼女の様子を読み取ることができないと、気まずくて待雪はいつものように顔を伏せた。

 その直後に、明石が言った。呟きのような声の小ささだった。

 

「後悔なんて、いつだってしてる。だから私は未来しか見れないんだ」

 

 冷たい香りがした。これは知っている。哀愁の香りだ。

 初めて触れた彼女の沈んだ感情に、つい驚いて顔を見上げるが、彼女はさっきまでと同じようにつまらなさそうな目でどこかを見ていた。

 未来でも見ているのだろうか。

 いいや、そんなはずがない。未来なんてのは、ただのまやかしのはずだ。

 だってわたしたちは、今しか生きられないのだから。

 ……いいや今だって、生きていられているのかは、曖昧なくらいだというのに。

 

 気が付くと明石は、何事もなかったかのような元気な様子で茶を飲んでいた。

 酷く歪められた目の端が、コップの影からこちらを見ていた。

 

「そうだ。未来での記憶が、なにか思い出せるかもしれないだろうから。なぁ待雪、だからまた料理、作ってくれよ」

 

 楽な様子で、落ち着いたように後ろにもたれかけながら、願うように明石は言う。

 待雪は小さな笑顔を作って快い返事を返した。

 

「……いいですよ。というか、朝昼晩と食堂でご飯を提供していますから、食堂に来てくださればいつでもお出ししますけれど」

「ああ? 本当か? ……めんどうくさいから行ってなかったけど、それなら最初っから行っておけば良かったなあ」

 

 嘆くように間延びた声を上げ、頭の後ろで手を組みながら、明石はその小さな口を頬まで引きつらせてケラケラと笑った。

 待雪に足りないものがその荒っぽさだというのなら、別に欠けたままでもいいかなと思った。そう思えた。

 

 

 

 3

 

 

 

「一緒にお風呂に行きましょう、待雪」

「へ?」

 

 夕食後。

 いつもの通り厨房に残って、夕飯時に使った鍋を洗っていると、そんな突拍子もない言葉をかけられた。

 反射的に声の発生源へと顔を向けると、至って真面目な顔をした藤袴と、縄に繋がれた鯉口の二人が目に映った。藤袴の側に控えた鯉口の姿はまるで忠犬のようで、正座という格好もそうだが、希望ヶ峰学園によって付けられた首輪も相まってか、手を前に出してやれば()()をしてもおかしくはない雰囲気を鯉口は纏っていた。

 

「えーっと……」

 

 驚きから、丸々とした目で二人を見た。すると藤袴もまた、待雪の様子に疑問を感じているようで、きょとんと首を傾げる。

 お風呂に行こう。その言葉に嘘はないらしく、藤袴は着替えの服や石鹸やらを脇に抱えていた。その中には鯉口の分もあるのだろう、中には藤袴が普段着そうにない花柄の寝巻きも混じっていた。

 

「お、お風呂って……どういうことですか? ……お二人で入ってくればいいじゃないですか」

「……? なにを言っているのです。今朝決めたではありませんか。お風呂とトイレの面倒は、私とあなたとで行うとの約束のはずですが」

 

 …………。

 そういえばそんなこともあったなあと、待雪はぼんやり天井を見上げた。現実が、逃げられないぞ囁いてくるようで、うんざりとした気分が蘇ってきた。

 そうだった。確かに今朝、待雪は約束を取り付けられたのだった。鯉口の監視を行うにあたり、女性の手が必要な場面が訪れたときは藤袴と共にそれを行うと決めたのだ。

 ついさっきまでそのことを忘れていたのは、脳が正常に機能してくれていたからなのだろう。精神的な疲労を負わぬようにとの配慮だったのか、今朝の出来事はまるで朧げだったが、今はそれもだんだんと鮮明になってきた。

 

 待雪は薄らと開けた目で二人を見返すと、

 

「……ああ、ありましたね。そんなの」

 

 と気力のない儚げな声で答えた。

 

「まったく困ったものですね、待雪は。大切なことなのですから、どうか忘れないでいただきたい。昼間はあなたは忙しそうでしたから、トイレの面倒は私一人で見ていたんですよ」

「すみません……」

 

 一人で面倒を見れていたのなら自分はいらないんじゃないのかとは言えなかった。あくまで藤袴は善意からそうしてくれていたのだろうから、そうやって文句を言う気にはなれない。

 

 謝罪をしてから、ひとまずエプロンを外し、藤袴の方へと体を向けた。皿洗いはまだ終わっていなかったが、別段今すぐ終わらせなければならないことでもなかったため、それは明日の自分に任せることにしたのだ。

 

 お風呂。そういえばそんな施設もあるらしいと待雪はぼんやり考える。

 待雪にとってお風呂とは、休む場所ではなく単に体を洗うためだけの場所だったから、そこに対し深い思い入れなどはなかった。

 それこそ、海外では湯船に浸かる習慣はあまりないのだということを知ったときでさえ、さほど衝撃は受けなかったくらいである。

 だからお風呂といっても、そこに大した期待は寄せていなかった。

 シャワールームなどであれば狭くて鯉口の体を洗いにくいかもしれないから、広めの場所だったらいいなあ。なんていうことを、漠々と考えていたくらいである。

 

「実はわたし、昨日は色々と忙しくってお風呂に入れていないんです……ですから、ここのお風呂は初めてなんですよね」

「そうだったのですか。ならば初風呂ですね」

 

 藤袴は、親しみやすい笑みを浮かべて喜んだ。初、という言葉はそれだけで彼女にとってはめでたいことなのだろう。待雪も相手に合わせるように微かな笑みを返した。

 

 しかし、そんな比較的穏やかな二人のやり取りに割って入ってきたのは、この出来事の発端である鯉口だった。

 

「なんだかワクワクするなあ! お風呂! 初風呂! それも女の子と三人で! はっきり言って、興奮が止まりません! ああっ! 私はどうなってしまうんだろうな!」

 

 感嘆符をたっぷりつけて、厨房で絶叫しているその姿は見てはいられないほどに無様なものだった。

 鯉口はやけにハイテンションで、縄で拘束されているというのにもかかわらず、そんな気配を感じさせないほどに爽やかな笑顔をしていた。自身の欲求に必死で従おうとする人間の姿は、かくも真っ直ぐなものなのだろうかと思えるほどだった。

 

 露出狂だ。

 自身の性欲を隠そうともしない露出狂だと、待雪は思う。

 

 今朝は模擬刀を取り上げればそれで良いんじゃないかと言ったけれど、今ではそれは間違いであったと断言できた。鯉口は模擬刀云々を抜きにして、別の案件で縛っておかなければならない人間だったからだ。

 鯉口を放っておけば、自分はともかく、他人の貞操が危ぶまれる。

 

 明石のこともそうだが、なんだかこの島には奔放的な人が多いような気がした。

 

「薫くぅん……興奮のしすぎで、今朝から手足の震えが止まらないんだ! この震え、鎮めてはくれないか……」

「足が震えているのは、正座をしていて痺れちゃってるからじゃないですか? 手が震えているのは、強く縛られているからだと思いますけれど」

 

 床に正座した鯉口を一瞥してから、再度藤袴の方を見た。

 藤袴の顔はどこか疲れたような翳りがあったが、それでも元気であることに違いはないようで、こちらに心地よい笑顔と共に目線を合わせてきた。

 

 申し訳なく思いつつも、待雪は藤袴に言った。

 

「すみません。先に行っててもらえませんか……? 入浴の準備ができていないので、部屋に着替えを取りに戻ろうかと思いまして」

「だったら個室の前で待ちましょう。風呂とはいえ、あそこは少々他とは仕組みが違いますし。初めてだというのなら、ある程度勝手を知っている者が一緒だと、色々と都合が良いでしょう」

「……良いんですか? じゃあ、お願いします。助かります」

 

 ひとまず部屋に戻って着替えを見繕った後、待雪は藤袴に連れられて下三番校舎の浴場に向かった。藤袴も鯉口も、既に昨日のうちに初風呂は済ませてあったらしく、そして日本人らしく入浴を好んでいるのだろう。その足取りは軽快なものだった。

 浴場のある下三番校舎へと繋がる扉は、他の校舎のものとは違い随分と厳重だった。

 

 扉をくぐって脱衣所に向かう。

 

「やっぱり首輪を外すと、なんだかふわふわした気持ちがする。変な気分だよ」

「そうですか? わたしはむしろ楽ですけど」

「私はあまり違いを感じませんね。トランクなんて、ちょっとした重りのようなものですから」

 

 どうやら入浴時ばかりはトランクと首輪を外すらしく、厳重な扉で区切られた個室を抜けて、三人は脱衣所に辿り着いた。首元を締め付ける閉塞感がなくなったからか、随分と自由な気がして、脱衣所がずっと広く感じられた。

 

 脱衣所は和風なテイストが妙な心地よさを生んでいて、やはり自分は腐っても日本人なのかもしれないなと辺りを見渡すば、奥の方に、浴場に繋がっているのだろうガラスの引き戸がいくつか見えた。

 それから、脱衣所には背の低い棚が壁際や中央にあり、竹で編まれた籠が置かれていて、その多くは空であったが、既にひとり女子生徒が風呂場にいるのだろうか、一つの籠の中には服が入っていた。

 

「はやくお風呂に入ってさっぱりしましょう。いくら冬とはいえ、汗はかきますからね」

「そうですね。それに寒いですし」

「ひゅう! 脱ぐんだなっ!」

 

 鯉口の囃し立てる声はよそに、そそくさと色気のない服を脱いで三つ編みを解いた。ここ数日髪は解いていなかったからか、素肌あたる毛先の感触が妙にこそばゆい。

 

「二人は知っているかな? 実は人は、縄で縛るだけじゃ抵抗力はそこまで奪えないらしいんだ。そこで昔の人が考えたのが吊り責めという方法なので──」

「黙りなさい」

「ひぎゅう!」

 

 とてもじゃないが女子生徒から出たものとは思えない、カエルを踏み潰したような情けない声が脱衣所に響く。

 

 鯉口は容姿端麗な分、内面との差が大きすぎていまだに慣れない。中年のおじさんが女子高生の皮を被ったような、そんな印象を感じてしまうのだ。

 

 あまり顔は見ないようにしようと、他のことに意識を集中させながら服を脱がせた。縄で縛ったままだと、思いの外脱がせにくかったため、いったん縄は解いた。

 

 まだ外していない総髪の根元を飾る赤いリボンが、健康的なうすだいだい色の中で一際目を引いた。健康的な肌の色と肉感を感じさせる腰回りの肉付きが、彼女の年頃の乙女らしさを象徴していた。

 鯉口の身体は年相応に発達しており、曖昧な弧を描くその肢体は見事なものだろうと待雪も思う。ただ、見せつけるように軽くポージングをとり始めために急いで素肌の上から縄で縛り自由を奪った。

 これはこれで、裸よりも扇情的な格好になってしまっているような気がするが、別段そういった趣味趣向は持ち合わせていなかかっため、待雪は彼女の特殊な格好に触れることはしなかった。

 

 ただ鯉口は、縄に縛られなにもできなくなった状態で黙っていられるような人間でもないのだろう。鯉口が向ける視線は待雪の裸体に向けられていて、人の視線に敏感な待雪は、あまり良い心地がしなかった。

 

「胸がない分、足腰がしっかりしているといいますか」

「鯉口には、麻袋でも頭に被せましょうか」

「……明日からはそうしましょう」

 

 鯉口の髪も解いてやると、さらりと背のあたりで黒髪が流れた。こうしてみると、自分の髪が一番長いのだということに気がついた。藤袴は運動の邪魔にならぬよう肩口で髪を切っているようだし、あの綺麗な黒髪を持つ澪標や東屋も、自分が髪を編んでいるときならばいざ知らず、今解いてある自分ほどは長くはなかったはずだ。

 

 背の高さも、体の発達具合も。こうして裸になってみると個人差が顕著に現れていた。やはり運動をしているからだろうか、藤袴は引き締まった体つきをしていて、張りのある肌と健康美とやらを兼ね備えていた。彫刻品のような影を落とすその肉体についつい目がいってしまい、やっていることが鯉口と同じだと気付き、自己嫌悪の気持ちに陥った。

 鯉口は藤袴と比べて筋肉こそそれなりにだが、無駄な贅肉は削ぎ落とされていて、実にスマートな体型をしていた。女性的な柔らかみは年相応に膨らんでいる。藤袴とは違い引き締まった体ではないからだろうか、柔肌に轍を刻むようにして縄は食い込んでいた。ある意味扇情的な格好ではあるが、それ以上の興味は抱けずに目を背けた。

 嫉妬……ではないと思う。そんな感情は抱いていない。

 

 やはり運動をすれば健康的な体付きになるのだろうかと、ふくよかとは言い難い、肋骨が浮き出た自身の体に指を伝わせながら考えていた。

 

「あっ……」

「どうかしましたか?」

「いえ、あの、石鹸と手拭いを持ってくるのを忘れてしまって。あとこの様子だとタオルも……」

「……まったく困ったものですね、待雪は」

「すみません……」

 

 一糸纏わぬ姿で謝罪をするというのもなかなかにない経験で、少し自分が情けなく思える。

 藤袴は思案顔で唸ったあと、仕方なさげにこう提案した。

 

「今日は私の手拭いと石鹸を貸しましょう。タオルは……まあ、あなたが先に使ってください。待雪は髪が長いですからね。風邪をひいてはいけない」

「すみません……助かります」

「私のタオルも貸そうか。私は別に、風邪をひいても君たちが看護してくれるだろうから、さほど問題はないのだよ」

「問題ありですよ。……それに、カガリビさんやニオウミヤさんにも看護くらいはしてもらいますから、期待はしない方がいいと思いますけど」

「なっ、そんなっ! あり得ないのか、桃源郷は!」

 

 鯉口を無視して浴場へと繋がる引き戸を開くと、内側から吹き付けた熱い蒸気が頬を焼いた。

 中央には大きな湯船があり、壁際には体を洗うためのシャワーが設置されてある。銭湯とよく似ていて、違いといえば、富士の絵がないことくらいだった。山や川といった地形がないこの島においては、富士山などは縁のない話なのかもしれない。

 

「思っていたよりも、まともな場所ですね。……もっとこう、体を洗うためだけの場所みたいなのを想像してました」

 

 思えばそうだ。希望ヶ峰学園のやっていることは非人道的なことばかりであったが、彼らの用意するものはいつだって一定の水準を満たしているように思える。厨房の設備も十分に使えるものであったし、今朝食堂に置かれていた食材たちは、どれも新鮮で上質なものばかりだった。

 孤島という下界とは完全に断絶された場所でありながらも、超高校級の新聞部である壱目の話によれば、申請さえすれば本や雑誌も届けてくれるのだという。

 ある程度快適に過ごせる生活環境が整えられており、嗜む程度の娯楽も提供されている。本当に、殺し合いなんていう言葉さえ出てこなければ、ちょっとした休暇であるかのような気分だった。

 

 そうすれば、自然と浮かび上がって来る疑問は、希望ヶ峰学園の目的は一体なんなのだろうということだ。恨み辛みからの行動とは思えないし、それに、自分たちに死んで欲しいというわけでもないようだった。

 むしろこの島では、死ぬことは難しいくらいだ。そりゃあ首を掻っ切れば人はいとも簡単に死んでしまえるが、この島で自殺したいと考える人は誰一人もいないだろう。

 

 だからこそ、分からない。

 希望ヶ峰学園は何を求めているのだろうか。

 何も分からないままに、自分は死んでしまうのだろうか。

 

(なにも分からないままに死ぬっていうのは、どういう気分なんだろう。自分が死んだ意味すら、分からないっていうのは)

 

 なにせ経験のないことだったから、その答えは見つかりそうになかった。誰かに聞こうにも、その答えを知っている人物は既にこの世を去っている。

 

 湯船には誰かの影があった。湯気で詳しく知ることができなかったために、誰だろうと目を凝らして見ていると、あちら側からこちらに話しかけてきた。

 

「おやおやーっ。待雪さんじゃないですか!」

「すみませんフジバカマさん。わたし、のぼせちゃったみたいで……先に上がっていますね」

「私の美貌にのぼせた、ということでしょうかあ? 仕方のないことではありますが、まあまあそこはグッと堪えて」

 

 壱目だ。壱目がいた。

 いつもは眼鏡をかけている壱目が、今に限って眼鏡をしていなかった。だから気付かなかったけれど、壱目がいた。

 壱目はばしゃりと水音を立てて湯船の中から立ち上がり、のぼせたように赤く上気した頬を擦りながらこちらに大きく手を振ってきた。

 待雪は苦虫でも噛み潰したような顔で小さく手を振り返した。

 

「? 待雪は、壱目が苦手なのですか」

 

 藤袴は、浴場に声が響かぬよう待雪の耳元で囁いた。

 その言葉端が疑問形になったのは、藤袴が壱目のことを詳しく知らないが故だろう。

 

「苦手といいますか、あまりああいったテンションに馴染めないといいますか」

「まあ、分からなくもありませんが……案外ああいった明るさが、今のギスギスした生活の清涼剤になりうるのかもしれませんね」

「清涼剤、ですか」

 

 壱目の気分()()()爽やかな、という意味であるのなら、それは間違っていないだろう。

 

「あれ? 鯉口さんはどうして、すっぱだかでそんなふうに縛られちゃってるんです? ……ああ、すみません! 三人がそういう関係だったとは、この私もさすがに気付きませんでした……ええはい、分かっていますとも! このことは黙っておきましょう。待雪さんと私との仲じゃあないですかあ! いくらにします?」

「あの、仲とかやめてもらってもいいですか……? それと、いくら、っていうのは……どういうことですか? イツメさん」

「やだなあ! 言わせないでくださいよ。口止め料ですよっ」

 

 恥じらうように頰に手を当てながら、壱目は答えた。

 こうやって他人に金銭を要求することが恥だと理解できているのならやめていただきたいものだが、そうは言っても聞かないだろうから、待雪は渋々とそれを了承した。

 

「いくらでも良いですよ。島から生きて帰れたときに、金額を決めましょう」

 

 待雪は、幸い金は人並み以上に持っていたし、その上それは使い道もないただ腐っていくだけのものだったから、壱目にあげたところで困りはしないかった。

 金銭に対してはあまり執着心がないからか、そうやっておざなりな扱いをついしてしまったが、そんな待雪と壱目のやりとりを見て、藤袴が怒ったような顔で割って入ってきた。

 

「いけません。金銭のやり取りなど、私たちのような子供がするべきではないでしょう。それに待雪。私達は、口止めを頼まなければならないような恥ずべき行為など、一つとして行っていないのですよ」

 

 自信に満ちていて、己の行いに恥じていない様子であった。それは壱目とは相反した言動である。壱目は最初こそ反論しようと目を光らせていたが、藤袴にキッと睨まれて、もごもごと口を動かしたのち、渋々と湯船の中に沈んでいってしまった。

 

「うう……やめてくださいよお。藤袴さんに睨まれるのは、なんだか私が悪いことをしているような気分になってしまうんです」

 

 と、壱目は分かりやすく萎縮してみせた。

 あの壱目のたじたじとした様子に、待雪は驚いた。

 

 藤袴の後ろに、縄で縛られた裸の変態がいなければ完璧だった。

 恥ずべき行為の代表格がいなければ。

 

「そうだぞ薫くん、私達の関係は決して淫らなものではない! 清く正しいおつきあいではないか」

 

 鯉口が言っていなければ完璧だった。

 

(いや、別にコイグチさんが言ってなくても完璧ではない気がする)

 

 ともかく、鯉口が関わるとなにもかもが台無しになりかねないと、急ぎ気味に鯉口を壁際まで寄せ、それから体を洗う準備を整え始めた。

 壱目は少し離れたところで、広い湯船でバタ足をしながら口笛を吹いていた。曲名はなんだろうか。聞いたことがないものだったから、おそらくは日本で流行っている曲なのだろう。

 

「ほら、体を洗いましょう。まずは鯉口からですね」

「……えっと、どうします? 縄は解いた方がいいんですかね」

 

 困ったように鯉口の方を見た。鯉口は、期待に満ちた目でこちらを見つめている。……その期待というものがなにを指すのかは、言わぬが花だった。

 犬を洗っていると思いながらやらないと、どうにも気が参ってしまいそうだ。

 

「縄は解かないでおきましょう。緩めの拘束ではありますが、この場合、拘束していることに意味があるのですから」

「じゃあ、このままで」

 

 鯉口の手拭いと石鹸を使い、泡を立ててから彼女の体に擦り付けた。

 

 人の体を洗うというのはなかなかにない体験で、肉を洗うのとはまた違った手の動きを必要とされた。……特に、力加減というものが難しい。自身の体を洗うときには自然と力は調節されるものだが、他人の体を洗うとなると、それもうまくはいかないのだ。

 

 すらりと伸びた脚を撫でるように、手拭いで幾度か肌の上を往復させる。鯉口はくすぐったそうに笑い声を上げていたが、それは無視して手早く下半身を洗い終えた。

 藤袴はどうやら上半身を洗ってくれているらしく、鯉口の髪を丁寧に指で梳いているところだった。

 

「足の方は終わりましたか?」

「ええまあ」

 

 あまり間を置かないうちに上半身も洗い終えたようで、桶を使って湯船から汲んできたお湯を頭からかけてやると、鯉口は犬のように首を振って髪をはたつかせた。

 水飛沫が飛んできて、少し鬱陶しかった。

 

「コイグチさんは湯船に浸かっておいてください。わたしたちは自分の体も洗わなきゃいけないんです」

「ええー、暇だよう」

「イツメさんがいるじゃないですか。一緒にお話ししてくださいよ」

 

 すると、聞き耳を立てていたのだろうか、待雪の言葉に反応し壱目はバネのように立ち上がってから、鬼気迫る顔で叫んだ。

 

「私ですかっ?! 嫌ですよ! ……だってこの人、どさくさに紛れることもせずにお尻触ってくるんですもん!」

「えぇ……なにやってるんですか、コイグチさん……」

 

 幻滅した気持ちで鯉口の方を見ると、鯉口は言い訳をするように吶吶と話した。

 

「べ、別に構わないでしょう……減るもんじゃああるまいし……」

「あなたに対する私からの評価は減りますけどね!」

 

 壱目からの評価など気にするようなことではないだろうが、しかし毒を以って毒を制すとはこのことなのだろうか。

 壱目が困るのならばさほど問題ではないし、なにより鯉口にとっては壱目すらも欲情の対象のようなので、二人には仲良くしてもらいたいと思うのだが──それは難しいことのようだった。

 

「いえ、別にですね。お尻を触られることにあまり抵抗はないのですが……」

「ななっ、なんだと?! 君には恥じらいというものがないのかっ。恥じらいがあっ!」

 

 恥じらいのない人間が、恥じらいのない人間に、恥じらいの大切さを説くその様はなんとも奇妙なものであった。

 

「鯉口さんにお尻を触らせても、良いことなんて一つもありませんからね。あの澪標財閥のご令嬢である澪標立竝さんに触られるのならそれも話が違ってきますが……鯉口さんはさして有名な方でもありませんし、お金も取れませんし」

「そりゃあ彼女と比べられてしまえば、私に権力的な面で勝る面はないかもだけど……ほら、あれだ。私だって剣道大会を何度も優勝したりして、なんか偉い人と試合をして勝ったりもしたぞ!」 

 

 まごつきながらも得意げに語る彼女のその強気な態度は、武士道なんていうものからは遠くかけ離れているように見える。

 そういえば鯉口は超高校級の剣道部だったなと、待雪は今更ながらに思い出した。

 

「コイグチさんって、剣道お得意なんですか?」

「いいや、剣道の腕前はずぶの素人同然だよ。防具なんかも暑苦しくって、大会の時以外はほとんど着たことがないくらいだ。足の運び方とか、点の取り方とか、正直よく知らない」

「そんなのでよく剣道部なんて名乗れますねっ」

 

 白けた目をして言ったのは壱目だった。

 

「まあ、私にはスピードがあるからな。速さだけなら誰にも負けないという自負がある。……要するに、技術をスピードで補っているんだよ。相手が何かをする前に決着をつけるのが私の戦い方さ」

「矜恃もなにもあったものではありませんね、鯉口は」

 

 と、髪を洗いながら呆れたように藤袴が呟いた。

 

「対戦相手に対する尊敬の意がまるで欠けています」

「勝つことができればいいのさ。私に名誉や誇りは必要ないのだし」

 

 尊大な態度で、鯉口は弓なりに胸をそらした。

 

「しかし超高校級の才能だなんて、あいつらは失礼なことを言ってくれるものだ。私たちが私たちであるのは、努力の賜物だというのに」

 

 その言葉にしんと、広いお風呂場は静まり返った。

 あの鯉口からまともな言葉が出てきたことに驚いていたからだろうか。

 壱目ですら、ただ静かに頷いているだけだった。

 

 ただ今の状況に一つ説明を付け加えるのなら、一人そうではない人物がいた。

 待雪は、自分が自分であることに、努力という要素をそこまで重要視することができていなかった。

 

 確かに、才能だけではカバーしきれないものがあって、その部分は努力で補ってきたけれども──待雪には、確かに才能というものがあって、多くの場合それに頼っていたからだ。

 

 日々怠惰な生活を送っていそうな鯉口だって、刃がついていない模擬刀で物を斬るだなんていう妙技を身につけるのには、想像を絶する努力をしてきたのだろう。なにせ、速さという単純明快な強さ一つで剣道の大会に幾度も優勝できるほどの驚異的な速度を彼女は会得しているのだから。

 藤袴だってそうだ。その引き締まった体はそのまま彼女が日頃から鍛錬を欠かしていないことを雄弁に語っている。潰れた耳も、彼女が行う練習の過酷さをわたしによく知らせてくれた。

 壱目だって、革の鞄がくたびれてしまうほどに様々な場所に出向いて、取材を行ってきたに違いない。なにより昨日の昼、食堂でくつろいでいた彼女は、休息の時間であっても記者であることを忘れてはいないようだった。

 

 みんな努力を重ねていて、そして今もなお上を目指している。

 自分はどうだろうか。ただ流されるままに生きてきただけなんじゃないだろうか。

 才能に身を委ね、与えられた課題をただこなしてきただけなのではないだろうか。

 

 目標もなにもない。

 大志を抱くこともしない生き方。

 

 自分の努力や生き方に自信を抱けていない時点で、既に自分は彼女たちと肩を並べることすらおこがましい存在なのだと、ふと気付かされた。

 

 急にそんな気分になって、待雪は泡を洗い流したあとすくりと立ち上がり、脱衣所に繋がる扉の方へと歩いて行った。

 

「すみません、わたしはそろそろ上がります」

「ん、待雪。お湯くらい浸かっていったらどうなんだ」

「いえ。わたし、海外生活が長くって、湯船に浸かる習慣がないんです。……それに、タオルを倉庫の方から持って来ようかと思いまして。やっぱり二人で一枚は無理があるかと」

 

 そもそも一人で一枚というのも、待雪の場合は結構厳しいものだった。藤袴は髪が短めだから待雪ほどは水分をふくまないだろうが、待雪は髪が長い分、せめて三枚はタオルを消費しないと十分に水滴を吸い取り切れないのだ。

 

「あと、よく考えてみればコイグチさんの替えの縄を用意してなかった気がしまして。さすがに濡れた縄で縛られるのは、コイグチさんも心地が悪いでしょうし」

「……それもそうですね。分かりました。脱衣所に戻ったときは呼んでください、それまでは私が鯉口のことを見ておきますので」

「分かりました。ありがとうございます」

 

 湯船に浸かることなく風呂場から出て、藤袴の服が入れられた籠から取り出したタオルに体表の水滴を吸わせ、それから服を着て。やはりというべきか、髪に至っては水滴が取りきれなかったためタオルを巻いた状態で外に出た。

 完全に乾燥していない状態だからだろう、いつもよりも外が寒いように感じられて、ぎゅっと服の端を握り込んだ。

 

 脱衣所を出たあたりで、ちょうど向かい側の扉から、見知った顔の女子生徒が姿を見せた。

 全身を白い洋服で纏い、黒々とした瞳を細め、こちらを見つめている。

 

「ああ。アズマヤさん」

「あらアナタ、こんなところで会うだなんて奇遇ね。……って、なにその頭。びしょびしょじゃないの」

「……お風呂に入ったんですけれど、お恥ずかしいことにタオルを忘れてしまいまして。それでフジバカマさんにタオルを借りたんですけれど、それじゃ足りなかったので新しいタオルを取りに倉庫に向かっているところなんです」

「ふうん……そ。ま、夜は冷えるのだから、風邪をひかないよう気をつけなさいね」

 

 それだけ言って、東屋は個室のある方へと歩いていった。待雪のことなど歯牙にも掛けない、素っ気ない態度だった。

 待雪は湯冷めをする前にと、早足で上一番校舎にある倉庫へと向かった。




※あらすじに各章の章題を表示しました。
※一章001(非)日常編の1に登場する超高校級のバスガール、熊谷夕顔の口調や一人称などを修正しました。会話内容などは特に変わりないんですけど、後から見ると不足分が多かったので文章も少し書き足しました。登場シーンが少ないのでさほど違和感はないと思うんですけれど、一応念のため、もう一度読んでいただけると話に入り込みやすいと思います。5/27

・日常編は結構長くなりそうです。キャラクターたちの紹介もそうですけれど、待雪さんと各キャラとの関係性もある程度書いておきたいと思っているので、あと三日分くらい書きます(今は二日目の終わりくらい)。今回の話で女子生徒は全員登場したので、あとは男子生徒の話を書く予定です。

【未来人】
 その名の通り、未来から来た人。
 過去に戻るか未来に行くか、これはきっと究極の二択だろう。
 ただ誰だって今しか生きられないのだけれど。

【大浴場】
 脱衣所と浴場に分かれており、どちらも和を感じられる造りになっている。
 脱衣所には背の低い棚が並べられており、服を入れるための籠が多く置かれている。鏡や体重計などもあり、また冬場であっても風邪をひかぬように暖房設備が整えられている。
 浴場は広く、露天式。体を洗うスペースと湯船しかない質素な作りではあるが、湯船は広く、寛ぐのには十分。毎日夜時間になると封鎖され、お湯が取り替えられる。


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005 (非)日常編

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 いいか? 俺は女が大っ嫌いなんだ

 

 

 

 1

 

 

 

「いいか? 俺は女が大っ嫌いなんだ」

 

 彼にどのような言葉を返したらいいのかが分からず、待雪はじっと黙ってしまった。その態度がいっそう彼を刺激したのか、待雪にとって初対面である男子生徒は語勢を強めて厳しく当たってきた。

 

「貴様のような軟派なやつは特に嫌いだ。些細なことでうじうじして、泣き喚いて、その上あとになって陰口を叩くような陰湿さがどうにも好かない!」

「過去になにかあったんですか」

「うるさい! あったんだよっ、いろいろっ!」

 

 大きな声で怒鳴ると、彼は椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がって、あと一歩というところまで待雪に詰め寄り、待雪の酷く萎縮しきった目を睨みつける。

 篝火が彼を抑えていなければ胸倉を掴まれていただろうということは、伝わってくる気迫から、想像するまでもない真実なのだと確信できた。

 恐る恐る顔を上げると、抉られたように鋭くなった目が視界に入り、待雪は思わず息を呑んだ。その瞳の奥には確かな嫌悪というものが存在していて、彼はそれを隠す気もないらしい。

 

 それほどまでに自分は──その男にとって女という生き物は、敵視するべき対象なのだと思うと、出る言葉もないというものだったが、震える両手をなんとか胸のあたりまで持ってくると、待雪は声を振り絞って真に訴えた。

 

「で、でも……わたしはそんなんじゃ……っ」

「みんな、そう言う。なぜなら女は愚かな生き物だからな、自分がそうだと気付けないんだ」

 

 一度に言い切ると、男は篝火の腕を振り解き、机の上に開かれた本や筆記用具を掻っ攫って、憤りが隠しきれていない幅の大きな歩みで食堂を出て行った。

 

「二度と話しかけてくるな。俺は、お前が、嫌いだ」

 

 そう冷たく突き放されて、待雪はそれ以上言葉を発する勇気を持つことができず、男子生徒が出ていった先に背を向けて、物音を立てぬよう厨房の方に戻っていった。

 

 食堂の外で、彼と、彼を追いかけていった篝火とが諍う声が聞こえたが、待雪はそんなことを気にしていられるような心の余裕もなかったため、ただ下を俯いていることしかできないでいた。

 

 涙こそ出なかったが、しかしああいうふうに怒鳴られて落ち込まない人間はそう多くはないだろう。

 待雪は、こういったとき泣き喚いたりするよりかは、物静かに自責の念に囚われてしまう人間だった。

 いくら理不尽なことであっても、誰かを恨むことができず、不始末な自分に責任を感じてしまうのだ。

 

 しかし、マイナスなことばかりでもなかった。こうも真正面に悪意をぶつけられて、気付きを得ることができたのだから。

 やはり自分は料理人として生きていく道しかないのだろうと、誰に言うでもない言葉を心の中で幾度か繰り返した。

 

 時を戻せば、三日目の昼前。

 食堂には珍しく人気(ひとけ)がなく、ある男子生徒が孤高な雰囲気で一つの長机を独占していた。

 彼は、おそらく図書室から借りてきたのだろう幾つかの本を机に積んでいて、ときたまコーヒーを口に含んでは、熱心になにかをノートへと書き込んでいた。執念にでも取り憑かれたように没頭する彼の姿は、この三日間で何度も見かけている凡庸な光景だった。

 それに意識を取られて、待雪はたびたび食堂の方を覗いては、彼を影から密かに見つめた。彼はそんな視線に気が付いていないのか、こちらを意識するようなそぶりは見せず、黙々と作業に打ち込んでいた。

 

「…………」

 

 その排他的な態度はだれもかれもを遠ざけている。その証に、彼はずっと険しい顔をしているばかりで誰とも口を聞こうとはしなかった。

 思うに、彼は、誰かと関わり合うことを意図的に避けているように見えた。殺し合いという状況下に置かれ、恐れもあるのだろうが、それ以上に彼は誰も信じていないようなのだ。

 それも無理はない。今の環境で疑心暗鬼に陥るのは至極当然だ。そしてそれが臆病なわけがない、それが彼なりの生存戦略で、この環境に対する戦い方なのだろうから。

 

 だが待雪としては困ったことに、その男子生徒は待雪が作った料理ですらも、決して食べようとはしなかったのだ。

 時々厨房に入っては、簡単なものであるが自分で調理を行い、それを食べ栄養としているようで、料理人である待雪の力を必要としていない。

 

 待雪にはそれが残念でならなかった。

 自分が作った料理を食べてもらえないことに、おのれの力不足を感じ、つい、どうすれば食べてもらえるのだろうかと考えてしまうのだ。

 

(自分にはなにが足りないんだろう……彼はどうして、わたしの料理を食べてくれないんだろう)

 

 疑問を抱き、いつものように食堂を覗き見るが、それだけじゃ答えは得られない。

 

 待雪が作る料理は、まさしく絶品と呼べるものだ。

 百人が食べれば百人が美味しいと答え、万人が食べれば万人が美味しいと答える。味覚、嗅覚、視覚、触覚、聴覚、そのすべてに訴えかける、人の本能的な欲求を引き出す彼女の料理は、例外なく、また比喩もなく万人に好まれるものだ。

 人が求めるものを的確に作り出す彼女の感性というものは、まさしく天から授かった才能と呼べるものだろう。だからこそ待雪はその才能にこれまで頼って来たのだし、そしてそれは確かな成果を生み出し続けていた。

 

 それがどうだろう。

 決して上手であるとは言い難い、煮て焼くだけのような調理しかできない彼は、頑なに待雪の料理を食べようとしないのだ。

 

 自尊心など待雪にはないが、しかしこれまでの人生で当たり前のように経験してきた“料理を食べてもらう”ということが、彼ばかりは例外なのだと知り、待雪はずっと思い悩んでいた。

 

「直接、理由を訊きにいこうかな……? でも、なんて訊けばいいんだろう。どうしてわたしの料理を食べないんですか、なんてこと、言えないし」

 

 そんな強気な物言いをしてしまえば、余計に距離を置かれてしまうだろうことは目に見えている。

 待雪は、人と関わるための力をどこかに落としてきてしまったのではないかというほどに口下手であったから、自分の中で渦巻く複雑な感情を胸の内に抱えながらも苦悶することしかできずにいるのが、なんとも苦痛だった。

 

 そんな折に、篝火が元気よく食堂にやってきた。どうやら鯉口監視の当番を終えたばかりらしく、誰かを引き連れている様子はなかった。

 

「よォ、待雪。水一杯もらえねェか」

「っと、はい、水ですね。ちょっと待っていてください」

 

 随分と激しい運動をしていたのだろう、冬場であるにもかかわらず額には玉のような汗が浮かんでいる。超高校級の野球部の名に恥じない隆々と膨れあがった上腕や肩周りの筋肉の形が、汗で張り付いてしまったシャツの上からよく分かって、少し目のやり場に困るほどに、彼は汗だくだった。

 すでにぐっしょりとしていて、吸水性がまるで損なわれているタオルを首にかけると、篝火は上着をそばの椅子の背もたれにかけてからゆったりと寛ぎ始めた。

 

「あっぢィ……」

(湯気が立ってる……)

 

 水が注がれたコップを手渡したところ、篝火はそれを一息に飲み干して、それでもなお喉が渇いているのだというふうに手で自らを扇いでいた。

 

「なにをされていたんですか?」

「鯉口監視のついでによォ、走り込みしてたんだ。匂宮のヤツ、ケッコー体力あるし、足も速ェんだ」

「……トランクを持ちながら?」

「? ああ。ちょうどいい重りだよな、これ。希望ヶ峰も粋なことしてくれるもんだ。……ただ、寝るときに邪魔なのが考えもンだけどよォ」

「…………(筋トレに役立つよう付けられたものじゃないと思うけど……言わぬが仏かな)」

 

 特に話題もないため、しばらく言葉も交わさず、数度コップに水を注いだ。その度に、篝火は有り難そうに手を擦り合わせて、喉を鳴らした。

 呼吸が整った頃を見計らって、ふと思い出したような素振りをして訊いてみる。

 

「そういえば、コイグチさんの様子はどうですか?」

「ん、鯉口ィ? 変なこと聞くンだな」

「少し、気になったんです。……コイグチさんは、いつもあんな調子なのかなって」

 

 あんな調子というのは、もちろん、鯉口のあのどうしようもなく残念な性格や振る舞いのことを指している。

 篝火もそのことをよく理解しているようで、曖昧な表現であってもすぐにピンときたのか、言葉は濁らせたものの明確な答えを返してくれた。

 

「アァ、鯉口は良くも悪くもずっと鯉口だよ。飽きもせずにな。……疲れってモンを知らねェんじャねェのかなァ」

 

 悩むように頭を掻き、篝火はため息をつく。

 鯉口のことを考えるのは大変精神を削られるものなのだろう。言葉には元気がなかった。

 

「なんつーか、馬鹿みてェにはしゃいでる。……というか馬鹿だな、アレは」

 

 篝火は緩く背もたれに体重を預けて、疲れた様子で天井を見上げた。だいぶ熱も冷めてきたのだろう、発汗はもう治まっていた。

 

「さっきも言ったように、匂宮と外で運動してたんだけどよォ。鯉口のやつ、ずっとツマラなさそうな顔してたのに、藤袴が来た途端目に見えて張り切りやがって」

「ああ……なんだか、コイグチさんらしいですね」

「らしいってなんだよ、らしいって。俺と匂宮じゃダメだッつーのかよ!」

 

 不満そうに口を尖らせて言うので、待雪はすぐに訂正を入れた。

 

「いえっ……その、どうやらコイグチさんは、歳下の方がお好きのようでしたので……」

「あー……なるほどな。俺も匂宮も、華奢って感じじゃァねェし。歳も同じくらいだろうし。仕方ねェのかなァ……」

 

 残念ってわけじゃねェんだけどよ、と、篝火は露骨に残念そうなため息をついた。

 残念というのなら鯉口そのものが残念な存在なのだが、彼女という存在の捉え方というものは、男女によって異なるものなのだろうかと、不意に疑問に思った。

 待雪は、鯉口とは同性であるからさほど意識というものを持たないようにしているけれど、異性である篝火からしてみればそれも違ってくるだろう。

 証拠に篝火は、鯉口の恋愛対象に自分が入っていないことを知り、酷く落ち込んでいるようだったから。

 

「はーァ、やっぱ実物は違うンかなァ」

「実物……? どういうことですか」

「ん、聞いたことねェのか? アイツの噂」

「……聞いたことがありません。コイグチさんの噂って……未成年淫行で捕まったとか、そういう話ですか?」

「バカ、それは噂じゃなくって事実だろ。あんな変態を野放しにしてるほど日本の警察も甘かねェッて。話に聞いたわけじゃねえが、一回くらいは御用になッてンだろ。……ッて、いやいや、そうじゃなくッて。アイツの噂だよ」

 

 長年海外にいたからか、日本の世間や風俗にとことん疎い待雪は、篝火の言う噂というものについてまるで心当たりというものがなかった。

 ただ単純に、噂なんてものには興味がないからというのもあるのかもしれないが。しかし、元々、自分は世俗にてんで縁がない人間だったことを思い出す。

 商売をして生計を立てているとしている身としては、流行りや廃れとは無縁な人生というのも悪くはないのだけれど。ただどうにも、こう、人と話をしているときに話題が不足しがちであったり、またついていけなかったりするのは昔から困りものだった。

 

「鯉口葵の名前は有名なもんだったンだぜ。凄まじく剣道が強い上に、気立ても良くって、意志が強い。凛々しい顔立ちをしている日本刀のようにしゃんとした女がいるんだって噂は、よく耳にしたもンだ」

「はあ……」

「ま、噂なんざあてにならねェっつー話だよ。今のあいつの姿を見りャ分かるだろ? ……ああくそ、ちょっと憧れてたんだけどなァ……」

 

 篝火は今になって疲れがきたのか、ぐっとコップの水を煽ると、心配になるほどの勢いで机に伏した。

 それから、唸るように、「顔はいいんだけどなァ……顔はァ……」とひとりごちた。

 

「そうですね……顔はいいんですけどね……」

 

 同意を示す待雪の言葉。それを聞くと、篝火は伏せられた腕の隙間から顔を覗かせて、興味深そうに眉を上げ待雪に尋ねた。

 

「やっぱ、女のオマエから見てもそう思うんだな」

「ええ、まあ……コイグチさんは、喋らなければ本当に、カガリビさんがおっしゃっていた偶像と一致するんですけれど……」

「その点、噂と変わらねェのは熊谷くれェか。あとは東屋とか」

 

 指折りで数えながら篝火は言った。

 ファッションなんかには興味のなさそうな篝火の口から(今の服装だって、和服と洋服がまとまりなくバラバラに組み合わされた奇天烈な格好だ)、ファッションデザイナーである東屋や、バスガールとして大衆の人気を集める熊谷の名が出てきて、待雪は思わず疑問を口にした。

 

「よくご存知なんですね」

「美人には興味があるからな。ファッションデザイナーやバスガールなんて、美の象徴みてェなモンだろ? 現に二人ともキレイだし」

「否定はしませんが」

「それに、演劇とか好きだからよく観に行くんだけどよォ、劇場じゃァそういう噂話もよく耳にするンだ」

「劇場ですか。ああいう職業の方は、声も容貌もお綺麗ですよね」

「んだんだ。けんど、演劇やってるようなやつはこの島にいねェよなァ。同年代に好きな女優がいたから、そんな出会いもちッと期待してたんだけど……強いていうなら、澪標や東屋なんかが、そういった芸術的な美しさがあるよな」

 

 しかしどうにも、その二人には近付き難い印象を篝火は抱いているのだろう。あまり前向きな姿勢ではないようで、目がどこか遠いところを見ていた。

 その気持ちは分からなくもない。

 東屋はいつもツンケンとしているし、澪標は誰に対しても親切ではあるが、しかして親密になり難い高貴さがある。

 

 美しさとは一つの理想であるのだから、それがどれだけ高い位置にあってもおかしくはないのだが、あまりにそれは程遠く、手を伸ばすことすら億劫になってしまうものだった。

 住む世界が違うという言葉があれほど似合う二人もいないことだろう。

 

「そうですね。あのお二人は、可愛らしいというより美しいという言葉がよく似合います」

 

 そう同意をすると、篝火はやや気を持ち直したように体を持ち上げて、明るく歯を見せて笑った。

 

「まったくおんなじ意見だ。やっぱ可愛いとかよりもよォ、俺、綺麗な人の方が好きだな」

 

 そっちの方が手に入れ難くって、高嶺の花で、理想的だ。

 

 篝火はおもむろに立ち上がって、体の筋をうんと伸ばしながら元気良く意気込んだ。

 落ち込んだ様子もない。いつも通りの篝火だった。

 

「オマエと話して元気出たわ。あんがとな」

「いえいえっ……そんな、感謝されるようなことは……」

「大袈裟だな。別にそんな、命の恩人みたいに奉ってるわけでもねェのによォ」

 

 なにがおかしいのか、篝火は、待雪を見て朗らかに笑っていた。

 

「よっしゃ。このさい、アイツにも訊いてみるか」

「? アイツ、ですか?」

「ほら、あそこにいるアイツだよ。……えーっと、名前はなんていったっけな。おい、オマエ!」

 

 篝火は豪快な呼び声で一人の男子生徒に──食堂で独り黙々と勉強に励む、頑なに待雪の料理を食べようとしない男子生徒に──声をかけた。

 あまりに唐突な出来事に、待雪はきゅっと喉が引き締まるのを感じた。

 

 男子生徒は、鋭く細められた目をこちらに向けると、これ以上にないほど低く冷たい声色で「なんだ」と応えた。

 冷たい態度を取られていることをなんとも思っていないのか、篝火は待雪の心境を知ることなく明朗に話す。

 反して待雪は、どうしたらいいのか分からなくて、視線を右往左往とさせていた。

 

「オマエ、名前なんだっけ!」

「……チッ」

 

 なんとも排外的な男だった。

 舌打ちをしたのは、話しかけられる可能性を危惧していたからだろう。それが杞憂となって終わらなかったことをこうして厭っているようだ。

 ただ、だからといって無視を決め込むつもりもないらしく、そこは素直に答えを返してくれた。早く話を終わらせたいという気持ちが逸っているのか、余計な言葉は出てこなかった。

 

「俺の名前は、竹河(タケカワ)水仙(スイセン)。超高校級の水泳部……用件はそれだけか?」

「いやいや、悪りィ悪りィ。ちょっと質問があってなァ? あのな、竹河。オマエって、映画とか演劇とか観たりするか?」

「……嗜む程度にはな」

 

 篝火と話をすることに対し、良い感情を抱けていないのだろうということがひと目で分かる険悪な態度だ。

 竹河と名乗った男子生徒は、眉間に皺が寄った顔を篝火に向けた。やはり嫌悪感をこちらに抱いているらしい、一睨みされるだけでも心が怯んでしまいそうだった。

 だけれど、なぜだか竹河は篝火の方を向くばかりで、待雪のことは歯牙にも掛けない様子だった。

 まるで意識していない。自分は彼の瞳に写っていないんじゃないかと思えるほどだ。

 

「そうか、そりャァいい趣味持ってンな」

「一緒にして欲しくはないがな……どうせ、貴様の目的は女だろう」

「んなことねーよ! ……そりャァ、観る演目を誰が出ているかで決めているきらいはあッけどよ……」

「やはりそうだ。純粋に楽しんでいないな」

 

 竹河が鼻で笑うと、篝火が怒ったように声を大きくし、

 

「オメェだって好きな女優くらいいンだろ」

「いるにはいるが、あくまで演技が上手いと評価しているだけだ」

「アァ? 本当か。じャァ、あの人はどうなんだよ」

 

 篝火はいくつかの人名をあげたが(おそらく篝火イチオシの女優なのだろう。待雪には聞いたことのない名ばかりだったが、竹河はしっかりとそれが誰なのか理解しているようだった)、竹河は静かに首を横に振るだけだった。

 

「竹河、オマエ、変なヤツだなって周りから言われねェか?」

「面識のない人に対し、いきなり変なヤツと呼び捨てるようなやつよりかはまともだろうと思うが」

「そういうとこだぞ」

「…………、クソッ。そもそもだな、篝火。お前が名前を挙げた女優は全員、胸の大きなやつばかりで──」

 

 演劇に関する談議が進む中、待雪は半ば置いてけぼり気味に傍に立っていた。厨房に戻ろうにもそのタイミングを見失い、会話に入ろうにも話題というものが掴めずにいた。

 

 男子の間で行われるような猥談に巻き込まれなかっただけ運が良かったと考えるべきか(胸の大きさがどうこうの時点で充分猥談な気がするが)、それとも、こんな風に篝火に振り回されてしまい運が悪かったと考えるか……どちらにしても、待雪にとって益になるようなことは一つとしてなかった。

 

 そんな中で、竹河は相変わらず待雪の方に一度も視線を向けやしなかった。彼女の存在を認めてすらいないようだった。

 待雪がいることに気付いていないわけではないだろうが、ただ、意図的に視界から外しているように思われる。

 

 自分は竹河との間に、なにかしらの確執というものを持ってしまっていたりするのだろうか。そんなことを考えてしまうくらいに、彼は待雪を意識の外に追いやっていた。

 

「あ、あのう……」

 

 どうしていいものか困り果てた末に、待雪は勇気を出して、二人に声をかけた。

 

「ん。アア、待雪……そうだそうだ、本題を忘れてた」

 

 誤魔化すように笑うと、話を中断して、篝火は意気揚々と竹河に尋ねた。

 

「なァ竹河。お前、気になる女子とかいンのかよ」

「……はぁ?」

 

 そこでようやく竹河は、ちらりと待雪の方を見た。

 

 ただそこに、好意などは含まれていない。

 あるのはただの憎しみだった。

 

 竹河がなにを勘違いしたのかは分からないが──ひょっとすれば、さっきからじっと黙って篝火の隣に立っていた待雪が、竹河のことを気になっていて、それを篝火を通して好みを聞こうとしている──という誤解を生んでいたのなら、彼の地雷を踏んでしまっただろうことは十分にあり得る。

 

 この三日間、待雪が竹河をずっと厨房から覗いていたことが気付かれていたならば、より一層。

 

「ああ、クソ。いいか? 俺は女が大っ嫌いなんだ──それこそ、触れるだけで蕁麻疹が出るくらいにな」

 

 そこで冒頭に戻る。

 待雪は強い悪意をぶつけられたあと、厨房に戻って、そののち竹河と激しく口論を交わしていた篝火に頭を下げられながら昼食の支度をしていた。

 

「ほんッとうにすまねェ! この通りだッ。どうか熊谷にだけは言わないでくれ!」

「わたしは、なにも怒っていませんよ……むしろ悪いのはわたしです。無神経だったと思います。だから、頭を下げなくっても……」

「そうか! それは助かる!」

 

 けろりと表情を変えて、篝火はさっきまで抱えていた不安を豪快に笑い飛ばしてしまった。

 こうもあっさり明るくなられてしまうと、別に責めているわけでもないのに、やり切れない心のモヤモヤが生まれてしまうのはなぜだろうか。待雪はむすっと頬を膨らませ、少しだけ篝火の料理に脂身を足した。

 

 ……でも確かに、熊谷は怒ると怖い。以前篝火が大根のかつらむきをしながらオペラを独唱していたところ、食べ物で遊ぶなと酷く叱られていたのを思い出した(歌は見事なものだった)。

 熊谷に怒られることを怖がる篝火の気持ちは分からなくもないが……。

 

「なんだか軽薄ですね。……カガリビさんは、クマガイさんに怒られたくないから、謝ってるだけなんじゃないですか?」

「それもある」

「開き直らないでください。……いえ、別に、構わないんですけれど」

 

 しかし待雪はほんとうに篝火に対して怒りというものは抱いていなかったから、責める気にはなれなかった。それはもちろん、竹河にだってそうだ。

 むしろ、竹河が、なぜ自分の料理を食べないのかという理由を知れただけでも十分だとすら彼女は考えている。それだけでも彼女は満足した気持ちになれた。

 

「まァ、その、悪かったよ。ほんと。やっぱこんなんだからモテねーんだろうなァ、オレ……。はァ、なんでこんなに馬鹿なんだろ」

「……わたしは気にしていませんから、そんなに気に病まないでください」

「そうはいっても、こう、堪え難い呵責のようなもンがな……?」

 

 反省はしているようで、篝火は暗く表情を翳らせていた。いつもの元気も二割減といった感じで、どこか体の動きにも自信がない。

 自分のせいで、誰かが元気をなくすというのは本望ではない……どうしたものだろうかと悩んでいると、そういえば、と一つの閃きがあった。

 

「じゃあカガリビさん。贖罪ということで、わたしの手伝いをお願いできませんか?」

「手伝い?」

「はい。……三日か二日に一度、この島には新しい食材が運搬されてくるんですけど……厨房までそれを運ぶのは、一人だと骨が折れるんです。兵隊さんも手伝ってくださるんですけれど、それでも人手がたりませんし……」

「つまり、それを手伝って欲しいってことか」

「そういうことです。それ以外にも、もっぱらなにか、人手が欲しいときにお願いするので……快く引き受けていただければ……」

 

 篝火はいつものように首を軽く縦に振ってから、「よっしゃ、任せろ」と明るい笑顔を返してくれた。

 さっきは篝火のことを軽薄だと言ったが、それは少し真実とニュアンスが異なるだろうなと待雪は思い直す。

 良くも悪くも素直というか、単純というか。目標に向けて一直線に走ってしまうがために、二つのことを同時にこなせないような不器用さが、篝火からは感じ取れるのだ。

 

「荷物運びは昔からよくやってたから、ドンと任せろ。実家が店やってるから、こき使われるのは慣れてンだ」

「ほんとうに、助かります」

「ま、荷物運び以外でも頼ってくれよ。仲間なんだし」

「……仲間、ですか」

 

 仲間。

 その言葉は、あるいはそれに似た言葉を、待雪は先日も聞いていた。

 だが、まだそれは聞き馴れない、ぎこちないものだった。

 単純に、待雪にはまだ経験がないのだ。

 誰かと仲間になるということの、自覚も。

 

「ああそうだ。仲間だ。……鯉口監視のな」

「はやく脱退したいです」

 

 

 

 2

 

 

 

「夜警、ですか」

「はいそうです。夜警です。……あっ、夜警といっても、絵画の方ではなく」

「それはまあ、分かりますけれど」

 

 厨房に置かれた丸椅子の上で、ぴんと姿勢を正して座る藤袴は、混じり気のない澄んだ瞳で待雪を見つめていた。

 対して待雪は、少し疲れたような表情で彼女を迎える。食器を洗っている途中ということもあり、彼女の誘いは思いがけない出来事であったということもある。

 

「ええっと、夜警、ですか……わたしは、格闘だなんて真似事しかできない非力な人間ですから、有事の際は、足手纏いになるだけかと……」

 

 待雪が心許なく言うと、藤袴はそれと相反し、強気な姿勢で胸を張ってみせる。

 自らの行いに強い自信を持っているのだろう。傲慢な驕りでも、はたまた自己中心的な振る舞いでもない彼女の強い意志は、見ているだけで眩しいと感じてしまうものだった。

 やはり自分のような薄志弱行の人間とは対極的な人だと再確認させられる。

 

「足手纏いだなんて……そのようなことを気にしないでいただきたい。あなたは私が守ります」

「はあ……」

「露骨に嫌そうな顔をしますね。気持ちを察することができないわけではありせんが……心配ならご無用です。鯉口はいませんよ」

「いえ、そういう問題ではなく」

 

 むしろ鯉口は、夜警される側だろう。

 それに鯉口が夜警をすること自体が足手纏いというものだ。なにせ彼女は両手を縛られていて、身動きが取れないのだから、他人を守るどうこう以前にきっと自分のことだって守れやしないだろう。

 ただ、それは待雪もさして変わらない。待雪は両手が空いていようとなかろうと、これと言った格闘術も見せることができないのだし、なにより彼女はまだ護身術を会得していない。

 

「わたしは、夜警に参加する意味を見いだせないでいるんです。ただのお誘いでしたらお受けしたでしょうが、夜警ともなると、わたしのような虚弱な人間はかえってみなさんにご迷惑をかけるのではと……」

「私が信用ならないというのですか。私にはあなたを守ることができないと」

「け、決してっ! そういう意味では……っ」

「……今のは少し、いじわるな言い方でしたね。申し訳ありません」

 

 ただその考え方は、待雪らしいといえば、そうなのかもしれませんが。と、藤袴は不満げだった。

 待雪が誘いを断ることを予想していなかったわけではないだろうが、しかしそれが喜ばしくないのは確かなようで、表情は暗く、うんと悩んでいた。

 ここで待雪があっさりと首を縦に振れば、そんな陰りも消え失せるのだろう。ただ、自分が夜警に参加することで藤袴が背負うことになるであろう危険性を鑑みれば、どうしたって頷くわけにはいかない。

 

 だが、藤袴は、断られたならそれで終わりと、諦めよく前に進んでいける人間ではないようだった。

 藤袴は待雪の心に直接語りかけるような丁寧な言葉遣いで思いの丈を話した。

 

「そもそも私だって、有事の際、自分の身を守ることができるかと問われれば、確かな返事は返せないことでしょう。私がいつもしている柔道とは試合のことですからね、ルールの下で行われる闘いと、殺し合いとは全く異なるものでしょうから。……ましてや今は、誰がどんな凶器を持っていても不可思議ではない。私だって人ですから、拳銃で胸を撃たれれば死んでしまいます」

「ですから……わたしのような足手纏いがいると、フジバカマさんがより危険に……」

「いいえ。そんなことはありません。待雪は闘うことを前提にしているから、そのように考えるのです。私たちはむしろ逃げるべきなのですよ。あなたには特別な格闘経験や、大の大人を打ち負かすような膂力など必要ありません。ただ逃げるための足があればそれでいい」

「で、でも。わたしはっ。そうだとしても、夜警に参加したところでお役には立てな──」

「役に立つ立たないではなくっ」

 

 言い切らないうちに、藤袴が待雪の言葉を遮った。

 熱心なその気迫に、待雪は息が止まるのを感じた。

 

「ええいっ、まどろっこしいですね。分かりました、率直にお伝えしましょう」

 

 立ち上がって、藤袴は壁際まで迫り、待雪の両の手をグッと掴んで、それを自分の胸元まで力強く引き寄せた。

 驚いて、待雪は、藤袴に身を預けるような体勢になって、こちらを虎視眈々と睨む藤袴の動向を恐ろしげに見守っていた。

 

 人が多くいた昼時からずいぶんと時間が経っているということもあり、食堂にはほとんど人がおらず、二人の変化に気付く者は誰もいなかった。

 

 時が止まったかのような長い静寂を先に破ったのは藤袴だ。彼女は意を決したように深呼吸をして、熱い眼差しを待雪に向けて話した。

 

「絆を深めるべきだと、そう考えています」

「き、絆? ですか?」

「はい。絆です。……はっきり物を言いますと、私はあなたとの間に壁があるように感じています。どうしても取り除けない、見えない壁があるように。それはきっと、今後の活動に支障が出るものでしょうから……だから早いうちに、私はそれを取り払いたいのです」

 

 藤袴の言う心の壁なんてものが、本当にあるのだろうかと待雪は思った。だってこんなにも自分は、彼女に心を許しているのだから。

 ただ、藤袴は真剣なようだったし、こうまでさせておいて断ることもできず、待雪は頷きこそしなかったが、その唇を微かに震わせて同行の意を伝えた。

 

 夜、玄関ホールは日が沈んだことで格段と氷点下に近付き、吐く息も白い靄として形を作るほどだった。

 これほど寒いと食材が腐る心配もないが、早朝には井戸の表面に薄氷が張っているだろうから面倒だなと、暗色のマフラーに顔を埋めながら、未だ集合場所に来る気配のない一人を待っていた。

 

「いつものことですが、遅いですね……篝火は」

 

 銀飾の懐中時計を覗きながら、呆れたふうに藤袴は嘆いた。

 すると、ちょうどその時機に分かりやすく足音を立てて、篝火が寄宿舎の階段を駆け降りてきた。

 

「悪ィ悪ィ! ちッと上着探しててよォ」

「それにしては時間がかかり過ぎではありませんか?」

「いやァ、持ってきてたヤツが全部汚れちまッてたもンだから、キレイな上着探してたンだ」

 

 篝火はなぜか今来ている上着を得意げな表情で見せてきた。綺麗な上着と言っていたのに、薄い月明かりの下でもよく見えるくらいに彼が着ている上着は汚れていて、つまるところ彼が他に持っている上着はよっぽど酷いのだろうと思われた。

 

「昼間あんなに、はしゃぐからですよ」

「いいだろ別に。オメエが強えのが悪りィんだよ」

 

 比較的綺麗なものと言ってはいたが、それでも気になるのだろうか、篝火は付着している土埃などを払っていた。

 その隙を見て、待雪は影に隠れながら隣にいる藤袴に尋ねた。

 

「昼間、何をされていたんですか?」

「組み手を少し。体格差もあるので苦難しましたが、負けはしませんでした」

 

 負けはしなかった、というところをやや強調して言っているのは、やはりそこに矜持を抱いているからだろう。

 篝火がどれほどの腕前なのかは知らないが、見るからに体格差がある篝火と対峙し、負けはしなかったというのだから、よほど藤袴は柔道が強いのだろうということが知れた。

 土の上でも投げ飛ばすといった容赦のなさが際立つが、篝火がどこかを痛めているような様子でもないため、そこはやはり上手にやったのだろう。

 

 そんなことを考えていると、篝火がようやく待雪の存在に気付いたようで、気さくに挨拶をしてきた。

 

「おう、待雪。オメエもいんだな」

「フジバカマさんに、誘われまして」

「ははッ。そうかそうか、頑張れよ」

「笑い事じゃないですよっ。あまり気乗りはしていないんですから……今もまだ不安で……」

 

 夜。それも玄関ホールという声が反響しやすい空間にいるということもあってか、今の会話は藤袴に聞かれていたらしく、ランプの明かりをこちらに向けられた。

 

「そんなに私が頼りになりませんか?」

「そ、そういうわけじゃないんですけれど……その……」

「昼に言ったではありませんか。役に立つ立たないではなく、また足を引っ張る引っ張らないでもないのだと」

「ですが……」

「煮え切らないですね、待雪は。……ささっ、これを持っていてください」

 

 藤袴はなんの前触れもなく、あかりの灯ったランプをこちらに放った。そのまま落としてしまうわけにもいかず、慌ててランプの取っ手を掴んだ。

 

「上手!」

「上手、じゃ、ないですよっ。落としたらどうするんですか……っ」

「こうでもしないと、明かりさえ持ちそうにありませんでしたから」

 

 手渡されたランプを胸元に翳してみると、少しだけ手元が明るくなった。今日は雲がないからか、月の明かりも強いけれど。でも手元に灯りがあると、ほのかな暖かみを感じる。

 

「この島は電灯が一つもありませんからね。灯台から送られてくるサーチライトの光があるとはいえ、夜警にランプは必須です」

 

 背面を通る光の筋を横目に、藤袴は遅れてやってきた篝火にもランプを一つ手渡した。

 サーチライトは夜通しで島を巡っている。島から脱走者が現れないように監視しているのだろう。校舎には死角も多いが、囲いとなる金網との間には広い空き地が十分に広がっているため、四方に建てられた監視塔からはよく見通すことができるのだろう。

 

 厨房で料理をしていると、つい忘れがちになるが、この島において逃げ場などないのだと再び思い知らされた。

 死にたくなければ人を殺すしかない。この島から出たければ、人を殺すしかない。そんな狂った二択は、それでもこの島にいる十六人の若人に選択を強いていた。

 ただ待雪は、死にたくはないが、だからといって誰かを殺す気にはなれなかった。

 

「さっそく始めましょう。では、私は、こちらから行くので、二人は向こうのほうに」

「おう」

「では待雪は、私に着いてきてください」

「は、はい……」

 

 言われるままに藤袴の背を追った。

 こうなってしまえばヤケだ。有事の際は藤袴の足を引っ張ることのないよう、一目散に逃げるしかない。ただ一つ懸念材料があるとすれば、こんなにも重たいトランクを──初日から首元につけられている首輪とケーブルで繋がった、非常に重たいトランクを──抱えたままで、十分な速度で走ることができるだろうかということだった。

 外は雑草や石も多く、ブーツだと少し歩きづらいほどなのだから、その上夜という視界の悪い状況では走ることはままならないのではという懸念もある。

 

 反して、藤袴は、あんなに重たいトランクを持っているというのに、それを感じさせない足取りで月夜を進んで行った。体幹や筋力が優れているのだろう、軸がしっかりした歩みだった。

 度々こちらの様子を伺いながらのことだから、本来はもっと早く歩くことができるのだろう。

 やはり自分は足手纏いであるように感じてしまう。

 

「トランクは重くありませんか? 歩きづらいようなら、私に任せてください」

「いえっ、大丈夫ですっ」

 

 気遣いは嬉しかったが、迷惑をかけるわけにはいかない。それに気になることもあった。

 

「えっと……カガリビさんたちは、一体どこに……?」

「篝火と匂宮は、私たちとは反対側から、校舎を時計回りで回っています。ですから私たちは反時計回りに」

「なるほど……だから向こうに」

「そういうことです」

 

 これは藤袴に限ったことではないのだが、待雪は大抵の場合、人と会話を弾ませることができない。

 他者との交流を疎んでいるわけではないが──むしろ沈黙は身に堪えるくらいなのだけれど──しかしどうにも言葉がとっさに浮かんでこないのだ。

 

 よく喋る人が相手なら問題はない、適当に相槌を返しているだけでも会話が成り立つし、なによりそういう人は自分が話しやすい環境を作ってくれる場合が多いからだ。

 その点、篝火はよく話しかけてくれて、自分から話題を出して、話が終わればすぐに切り上げるという、沈黙の時間がほとんどない人間だった。

 烈火というか、猛烈というか。

 振り回されがちにはなるが、話しやすさというのなら、篝火くらい雑な人間の方が気楽だというきらいがあった。

 

 だが、藤袴は良くも悪くもお堅い人間だ。私生活を見せないというか、私生活そのものが公務的というか。規律正しく、気を抜いていないように見える。それが彼女なりの生き方なのだろうから口出しはしないが、壁を感じるというのなら、藤袴の方にこそ壁があるような気がしてならない。

 

 当たり障りのないことでも口にしてみようと、少し早足で歩いて隣に並んだ。

 

「普段、夜警はどうされているんですか。いつも一人というわけじゃ、ないんですよね」

「ええまあ。いつもはあなたの代わりに野分がいるのですが、今日彼はお休みということになっています」

「ははあ」

「彼はなにかと忙しそうでしたからね。少しくらい休養が必要でしょう」

 

 野分……確か、超高校級の保健委員と言っただろうか。

 厨房の点検をしていたとき、石鹸がなかったため倉庫まで取りに行った際、一緒に石鹸を探してくれたのがその野分という男子生徒だった気がする。

 

「おや。知り合いでしたか。待雪とは気が合わなそうな人だと思っていたのですが……そういうことなら、今度の夜は野分と組みますか?」

「いえ、結構です……」

「そうですか。それは残念です」

 

 藤袴はとくに残念とも思っていなさそうな声で言った。

 彼女が野分に対して抱いている印象というのはよく分からないが、大人しく真面目だという印象を抱かれやすい待雪とは合わなそうという意見を出しているあたり、人格的な面でよろしくない人間なのだろうか?

 ただそれは、藤袴が待雪のことをどう認識しているかに関わってくることだろうから、結局のところ不明瞭なままだった。

 

「今夜は一段と冷えますね……けっこう、これでも、厚着してきたつもりなんですけれど」

「寒く感じるのも当然です。気温もそうですが、その上風も強いのだから、服に少しの隙間もあれば寒く感じることでしょう。一度上着を締めてあげましょうか」

「……いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 一度そこで立ち止まって、トランクとランプを下ろしてからコートだけをはだけさせた。ちょうど建物の影から出てきたところだったから、綺麗な月がよく見えた。

 

「ん、っしょ……っと。けっこう、ふくざつぅ……なぁっ。つくりなんですねっ」

「おそらくですけれど、知人が作ってくれた服なんです、ですから普通のものと比べて手が込んでいて……今はもう亡くなったと聞いているので、このコートは遺作になるんでしょうかね。だからかより一層、技巧に凝ったような作りになっているような……」

「あ……それは、すみません。野暮なことを聞いてしまいましたね」

「? ……ああ、いいんです。わたしからした話ですし」

「そうですか。…………。それにしても、おそらくだなんて変なことを言うのですね、待雪は」

「それは……まあ、この服を作ってくれた人が、変な人だったので。おかしな人というか」

「? 鯉口よりもですか?」

「比べたいですか? 結構、良い勝負になるかもしれませんよ」

「やめておきましょう」

 

 できましたよ。

 と言って、藤袴は、ピンと張った上着の背を軽く叩いた。

 厚着をしているので、それほど衝撃も伝わって来なかったが、なんだかそれだけで暖かくなれた。

 

「このコートをわたしにくれた人は、会うたびに印象が異なる人でした。いつだって、以前お会いした時よりも前衛的で、かと思えば、古くさくもなる変な人でした。元は料理を教わりに行ったんですけれど、洋服も作れる多才な方のようで……ですから、実際にその人がこの洋服を作っている場面を見たり、自分が作ったんだよと言われたわけじゃないんですけれど、でもたぶん、その人が作ってくれたのかな……って」

「なるほど……なんだかミステリーですね」

「そうですね。ミステリアスな人でした。単純な人でもありましたけれど」

 

 それからというものの、まるきり会話は途絶えてしまった。

 

 待雪もそうだが、なにより夜警に誘った側の藤袴が会話を始めようとしないのだ。

 会話をしたくないというわけではないのだろう、話が始まれば乗り気で応えてくれるし、なにより親睦を深めたいと言っていたのは彼女なのだから、そういった意図や企みは、その態度にいやでも現れてくる。

 だから話をしているときはさほど違和感もないのだが……こうも沈黙が続くと、不自然さを感じ取らないでいるというのは不可能である。

 

 待雪は黙り続ける藤袴を不思議に思って、月明かりに照らされた彼女の顔をバレないように横目で見た。

 

 するとどうだろう。

 

 どこか決まりの悪そうな、それでいて、複雑な顔をしているのだ。

 誰か個人に対してではなく、もっと大きなことに対して申し訳なさを感じていそうな、そんな表情だ。

 藤袴のこんな顔を見たことがあっただろうかと思わずにはいられない。月下でその輪郭は薄ぼけてしまってはいるが、儚いぶん、そんな複雑な表情はより際立つというものなのだ。

 

「フジバカマさんは、とても強い人ですね」

「? 強い?」

「日頃からそう思っていました。フジバカマさんは強い人だと。率先して人を守ろうとすることは、わたしにはとてもじゃないですができないことです。フジバカマさんは力もそうですが、なにより精神が気高く、高潔です」

「そうですか……あなたの目には、私がそのように見えるのですね」

 

 藤袴が俯いてしまったから、影になって表情を見ることはできなくなったが、今の言葉はどこか沈んでいる。

 失言してしまっただろうか。

 

「す、すみません……お気に障りましたか?」

「いえ、そういうわけではないのです。むしろ、強く見られることに、私は嬉しいと感じています。……だってそれは、頼りにされているということなのですから」

「ええ、まあ……」

「私は頼りにされたいんです。誰からも……そしてそれは、待雪、あなたからもです。私は待雪にも頼りにされたい。……今日待雪を夜警に誘ったのは、そういったことを伝えておこうと思ったからです」

 

 一息吸って、藤袴が続けた。

 

「私はあなたのことを過小評価していたようです。私があなたに抱いていた初対面の印象は、“気弱そうだ”というものでした。……ですが、訂正します。あなたは気弱などではありません」

「……い、いいえ。わたしは、弱い人間です」

「そんなことありません。誰かのために、自分のできることをする人が、弱いわけがありません。待雪は強い(こころざし)を持っている」

 

 誰かのために。自分ができることを。

 それは藤袴だってそうだ。誰に頼まれるでもなく、こうして夜の安全を守り、みんなの不安を照らしてくれている。

 それを強いと呼ばずに、なんと呼べば良いのだろう。

 

 どうして彼女は、そんなにも自信なく、言葉を受け止めるのだろう。

 

「私は弱い人間です。この島に来てから、死への恐怖は毎晩のように私を襲います。……ですが、こうして夜警をしていたり、鍛錬を重ねたり……、……待雪の料理を食べているときは、そんな恐怖も忘れることができます」

 

 藤袴は足を止めて、待雪の方を振り返った。

 月の光で青白く照らされて、その端正な顔立ちがほの明るく写っていた。

 

「私はあなたに感謝しているんですよ、待雪。みんなはいつも平気そうな顔をしていますけれど、心の中では、死に対して怯えている。……この島に来た日の朝、体育館でのことを憶えていますか? 誰も目を合わさず、誰も言葉を交わそうとせず、互いに互いを疑い合っていたあの朝を」

 

 壱目は別のようでしたけれど、と付け加えて、それから「でも」と大切そうに続けた。

 

「待雪の料理があったから、みんな、ああして柔らかな笑顔を浮かべることができるようになったのです。食堂にいるときだけは、みんな、気を緩めて寛ぐことができているのですよ」

「それは……」

 

 言葉が出てこなかった。

 照れくさいとか、そんなんじゃなくって。本当に言葉が出てこなかったのだ。

 自分はそんなふうに感謝されるべき人間ではないと叫びたい気持ちだったが、しかしそうやって藤袴の言葉を否定するのは憚られた。

 

 待雪は、もごもごと口を動かしたあと、決まり悪そうな声を擦り切らせた。

 

「わたしはただ、料理を作っているだけです。それだけです。……でも、それが人のためになっているようなら、わたしは嬉しいと思います」

「なら良かった。少し、心配でしたから」

「心配……?」

「待雪のことを心配していたんです。私たちは待雪の料理に救われていますけれど、待雪自身は、誰かに救われている様子がないように見えたので」

 

 その言葉の意味を理解できなかった待雪だったが、しかしすぐに藤袴の意図に気がついた。

 藤袴がしきりに頼りにしてほしいと言っていたのは、そういうことだったのだろうかと。

 今日、夜警に誘ったのも──絆を深めたいなんて言い出したのも、ようは自分を心配してのことだったのだろう。

 

 わたしは首を横に振って話した。

 

「わたしはみなさんに喜んでいただければ、それで幸せなんです。美味しいと喜んでいただけて、たくさん食べてもらえて、それがわたしは嬉しい。だから、きちんと対価はいただいています」

「……不思議な人ですね。待雪は。根っからの奉仕者とでも言うのでしょうか」

「よく言われます。あまり欲がない人間なので、自然とこうなってしまうんです」

 

 釈然としないようではあったが、しかしそれをなんとか飲み込んで、藤袴は納得げに頷いて見せた。

 

「ですが、困ったことや、一人ではどうにもならないことがあったときは、私を頼ってください。私はあなたの味方です。あなたがみんなを思うように、私もあなたを思っています」

 

 そんなところで、待雪らとは逆方向に校舎を回っていた匂宮と篝火の二人と再開し、適当な言葉を交わしてまた別れた。

 

「あちらは特に異常もなさそうですね。今日は意外と早く終われそうで……す……。んむ、あそこにいるのは」

 

 藤袴は、校舎がある方とはまた反対側を指差して言った。

 その先に何があるのだろうかと目を凝らしてみれば、なにか一つ、人影が見える。月光の影になってハッキリと顔までは見えなかったが、肩幅や背の高さなどからして男の人のようだった。

 ひょろりとしていて、一つの細木のように痩身の男だ。

 

「あれは……早乙女(サオトメ)ですね。今日もまた……少し、声をかけていきましょうか」

「? 今日も?」

「雲のない夜は、いつもああして月を見ているそうなのです。今日は雲一つない絶好の観測日和でしょうから、こうして外に出ているんでしょう。……危ないからと、再三注意しているのですが」

 

 加えて、「おおかた匂宮と篝火の二人は、話に夢中で見過ごしたのでしょう」と呆れ、ため息を吐くと、藤袴は早乙女の方にランプを振りながら近寄っていった。その後ろを待雪はついていった。

 早乙女と呼ばれる男子生徒はよっぽど月が好きなのだろう。ずっと側まで近寄って、肩を叩いてこちらを振り向かせるまで、待雪ら二人にまるで気がつく様子がなかったのだ。

 確かにこれは危ない。自分のように非力な人間でも、こうも、無防備な背中なら、簡単に殺してしまうことができるだろうから。

 

「早乙女。夜も深く危ないですから、早く個室に戻ってください。……それになにより、あなたは無防備だ。声をかけても気付かないのは重症と言える」

「あ、ああ。ごめんごめん……月が、あまりにも綺麗だったから……すぐ戻るよ」

「すぐに戻るといって、昨日はずっとここに立っていたではありませんか! それでは風邪を引いてしまいますし、なにより命の危険もあります! ……今日は、私が部屋まで送りましょう。さあ、着いてきてください」

「えっ……あっ、ちょ、ちょっと!」

 

 地面に置かれた早乙女のトランクを掴み取ると、藤袴はそれをグイッと引っ張り、胸元まで引き寄せた。トランクには例外なくケーブルが繋がれており、そして首輪と接続されているため、早乙女は首根っこを掴まれたように体勢を崩した。

 待雪は傍目から見ていて、ケーブルがちぎれてしまわないかひやひやとしていたが、思ったよりもそれは頑丈にできているらしい。

 ……しかし、なによりも驚くべきなのは藤袴の腕力だろう。あんなにも軽々とトランクを扱うなんて、並大抵の人にはできない。

 

「あ、歩けるよっ。おれ一人でもっ」

「さあっ、早くっ、可及的速やかにっ! あなたは自分がどれだけ殺されやすい人間なのかを自覚するべきですっ」

 

 藤袴はお節介なところがあるが、それも心配してのものだろうと思うと、容易く口出しすることはできなかった。

 早乙女もまた呻きこそすれ文句は言っていないのだし、待雪は黙って二人の後ろを歩く。

 

「話は玄関ホールで聞きましょう。強引な手口だと自分でも思いますが、これぐらいしないと、あなたはあの場から動かないでしょうからね」

 

 言葉通り玄関ホールまで引っ張っていくと、そこでようやく藤袴はトランクを手放した。

 

「ひ、ひどいよ藤袴さん……。なにもこんなに強引にしなくっても……」

「強引にしないとあなたは動かないでしょう。あなたに死なれるのは困るのです。この島で、殺人の火蓋を切らせるわけにはいきませんから」

「ううむ……」

「月が見たいなら、せめて一声かけてください。私か、あるいは匂宮や篝火を付けますから」

「彼らはいつも猥談をしているからなあ……ちょっと……」

「なら私が。……静かに本でも読んでおきますから、月見の邪魔はしませんよ」

 

 それになにより、月明かりでの読書というのも風情があるものです。と藤袴は付け加えた。

 

「…………、うーん。んむむ……それなら構わないけど」

「なら明日からはそうしましょう。夜警のあと、呼びに行きますから、しっかりと厚着をして準備しておくように」

 

 今日はもう寝てくださいと、しっかり言葉通り個室まで送っていってから、ちょうどその頃合いに篝火と匂宮の二人も帰ってきた。

 もうこれでおしまいなのだろう。藤袴は、眠たげな二人からランプを受け取ると、待雪の元へとやってきた。

 なので、待雪は足の疲れと気怠さ、それから少しの達成感を胸に、藤袴にランプを手渡す。すると藤袴は、ランプの火から待雪に視線を移して、こう言った。

 

「それでは待雪。今日()お疲れ様でした」

「おつかれさまでした……っ」

 

 ん? 今日()。……今日()?!

 

「ちょ、ちょっと待ってください! 今日()……って……」

「? どうしたのですか、待雪。そんなんじゃ、()()()()()で十分に動けませんよ」

「か、か」

「か?」

 

 既に鯉口監視の仲間とやらに入れられてしまっている以上、藤袴とは決して浅からぬ関係なわけで。

 つまるところ、明日もまた同じ日が繰り返されることということなのだろう。

 

 待雪は少し限界だった。

 ここ数日の間に起きていたことは、待雪の心へ確実にダメージを与えていた。

 初日からそうだ。意味も分からず孤島に連れてこられて、殺し合いなんていうものに巻き込まれて、鯉口という変態の世話をさせらて……あとなんか、壱目とかいう俗物的な人にも絡まれて……。

 誰にだって限界があって、待雪はそれが、常人よりちょっぴり許容できるくらいで、だから、既に限界を迎えつつある待雪の心の器からは、あっという間に感情が零れ出ていった。

 

「か、かんべんしてくださあぁぁあぁ〜〜いっ!」

 

 この島に来て一番の大声だった。

 その後、叫び声を聞きつけた人が夜警をしていた人数よりも多く集まったのは、言うまでもない。




※夏の中頃に当作をpixivへ投稿しました。pixivのほうが読みやすいという方は、私のプロフィールのURLからご覧ください(サイトでタイトルを検索しても出てくると思います)。

※以前7/25に生徒名簿を作成しました。ただでさえ登場人物の多いお話ですから、読みやすくなれば幸いです。どのみち、捜査編や学級裁判編の後書きに各章の重要人物の情報を詳しく書くので、生徒名簿を詳しく読む必要はありません。

・日常編が冗長的になりつつあるので、やや話を削って進めようかなと思っています。やっぱり個々人に焦点を当てる書き方は、大人数で展開していく創作論破と相性が悪い……かといって群を書くのが苦手というジレンマ……。だから日常編は三話、多くても四話くらいの予定です。一章で詳しく書けなかったキャラはまた次章で。

・せめて春先までには一章完結したいな。WIKIというものに載せることができるようになる目安が一章完結らしいので。SNSとかやってないから、そうやって宣伝できる場所はありがたい……。


【ランプ】
 手持ちの灯りは油のランプなどが一般的に使われていました。19世紀末には懐中電灯の原型が生み出され、1923年には電池寿命の長い乾電池ランプが登場するなどしましたが、ただ充電はできないので、電池は交換が必要でした(その電池がなかなかに高額で、庶民に手が出せるようなものでもなく、懐中電灯はあまり普及していなかったようです)。

【月が綺麗ですね】
 夏目漱石による有名な翻訳。
 これに対する返しの言葉というのは多くあるようで、「死んでもいいわ」は定番のようですね。
 他にも色々とあるのですが、どれも詩的で素敵な言葉なので、調べてみることをお勧めします。
 (ちなみに「死んでもいいわ」の出典は、ツルゲーネフの中編小説『アーシャ』を二葉亭四迷が翻訳し、出版した、『片恋』に出てくる言葉です。意味は「あなたのもの」)


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006 (非)日常編

 四日目です。


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 だってあたし、わんぱく少女だもん。

 

 

 

 1

 

 

 

「けっこう暗いですね」

「そうだね。埃は滞留しているし、空気も澱んでいる……ハンカチはあるかい? それで口元を押さえるといいよ、埃を吸わずに済むから」

「お気遣い感謝します」

「にしたって、これは酷い。全く使われていなかったわけじゃないんだろうけど、いかんせん、人の出入りが少なかったようだ。これは掃除をしようにも骨が折れるだろうね」

「それならわたしが、明日のうちに掃除をしておきましょうか」

「そのときは、僕も呼んでね。君にとって重たい荷物は、僕からすればそうでもないから。きっと役に立つよ」

 

 待雪は今、上一番校舎にあるいくつかの倉庫の中で、わけあって収穫包丁という農機具を探していた。

 茎の硬い野菜などを収穫するために使われることが主な使い道の道具であるのだが、それは包丁と名が付いているものの、食材の調理に用いられる場面はないに等しく……どうして料理人の待雪が、料理で使うことのない収穫包丁を必要としているのかというと、その理由は待雪と一緒に行動している男子生徒にこそあった。

 

 今朝のことだ。

 

 多くの生徒が朝食を食べ終えたころになって、椎本(シイガモト)松葉(マツバ)という男子生徒が気さくな感じで声をかけてきたのだった。

 気性の穏やかさが伝わってくる深みの効いた声色で、彼はこの島にいる誰よりも落ち着いた雰囲気を帯びいていた。

 

「待雪さん。忙しそうなところ悪いんだけれど、ちょっと良いかな」

「っはい。大丈夫ですよ。どうかされましたか?」

 

 待雪は大きく顔を傾けて、声のする方を見上げた。

 椎本は並の日本人よりも体が大きく、背なんて人の倍ほどもありそうだったから(さすがにそんなに高くはないだろうが、彼の枯れ木のようなシルエットがよりノッポなイメージを助長していた)無理をして顔を上げないと目線が合いそうにもなかった。

 

 照明の影にもなっていて、彼の表情は見えづらかったけれど、声からして切羽詰まった様子でもなかったから、急用というわけではないようだ。

 それに忙しい時間帯も過ぎていたため、待雪は余裕を持った態度で彼に接した。

 

 彼もまた、超高校級の肩書を与えられる変人であることに違いないが、しかしこの島にいる誰よりも精神的に熟していて、落ち着き払った態度が待雪には好印象だった。突飛な行動に振り回されることもなく、迷惑をかけられる心配がない分、待雪は彼と話すことに苦手意識を感じていなかった。

 

 椎本はこけた頬を枯れ木のように節の太い指で掻きながら話した。

 それは癖なのだろう。彼は話をするとき、いつも何かに対して申し訳なさそうに顔や喉を触る。

 

「実はこの島で、野菜を栽培している人がいるらしいんだ。畑を見せてくれるそうだから、待雪さんも一緒に見に行かないかい」

「野菜、ですか?」

「そう、野菜だよ。海辺で野菜を育てるのは難しいんだけれど、そういうのに詳しい人がいて、趣味で育てているらしいんだ」

「なるほど……?」

 

 野菜、野菜かあ。

 

 希望ヶ峰学園から支給されている野菜は、旬のものや品質の優れたものが多く、そのうえ鮮度だって悪くはないという素晴らしいものばかりであるが……しかし、ただ悪くないというだけであって、その日採れたばかりの野菜と比べてしまえば、どうしたって見劣りしてしまうものばかりであった。

 

 だから、採れたての野菜が手に入るのなら、それほど素晴らしいことはないと考え、一瞬、胸躍る気持ちになりはしたものの……しかし……。

 

「す、少し待ってください。シイガモトさんは、野菜を栽培している方がいるとおっしゃいましたけれど、いったいどなたがそのようなことを? この島にわたしたち以外の誰かが、住んでいるとでもいうのですか?」

 

 椎本の言葉を疑うようで悪いが、しかし一体誰が野菜を栽培しているというのだろうか。

 

 この島で生きていくことは難しい。

 それは殺し合いという状況を抜きにしても、同じことが言えた。

 

 果物を実らせるような木など一つとして立していない不毛の土地であり、動物だって姿を見せず、せいぜい獲れるものは魚くらいで──それだって、沖に出て釣りをしなければ大きな魚は手に入らなさそうなほど辺りは崖だらけなのだから、ほとんど無理であるのと同じで──だから待雪らは、希望ヶ峰学園が船で運んできた肉や魚、野菜などを調理して食べているというのに。

 

 そのうえ、仮に野菜を育てようにも、海辺での栽培は難しいと聞く。一年やそこらですぐに農業を開始できるような土壌ではないから、長い年月をかけて死んだ土地を開墾しなければならないのだそうだ。

 生きていくどうこう以前に、単純な問題として、野菜を栽培すること自体が、この島では過酷なことだった。

 

 それに見るからに、この島には建物が二つしかない。今、待雪らがいる校舎と、その周りにある監視塔くらいだ。

 だから、昔からこの島に誰かが住んでいて、畑を守り続けていたという可能性はきっとないだろう。

 人の営みの面影なんていうのは、この島では全くと言っていいほど見られない。

 

 だから、いったい誰が……そんな疑問を呈すると、椎本はそれを予期していたようにすらりと答えを返した。

 

「兵隊さんが育てているらしいんだ」

「へ、兵隊さんが? それって、どういう……?」

「彼らだって、生まれたときから軍人というわけじゃないだろう? もとは農家に生まれた人もいるわけだから、そういう人が、持ち合わせている知識で野菜を育てているらしいんだ」

「……ですが、海辺での栽培は時間がかかるものだと聞きます」

「それは僕も知っているよ。……だから、僕らが想像しているよりも前から、彼はこの島にいるらしい。この建物も、あの監視塔も、そんな一年やそこらで建てられたものじゃないだろうし、きっとそれくらい初期の頃から耕し始めていたんだろうね」

 

 確かに、この校舎は明らかに風化していて、年月を経ているのは一目見ればわかることだった。

 だからこそ椎本の語る話は真実味があり、すんなりと飲み込めてしまうものだった。

 

「……なるほど。それなら納得がいきます」

「うんうん。それでね、野菜がちょうど収穫期だから見にこないかって言われてね。だから、待雪さんもどうかなって思って」

「ふむ」

 

 椎本が待雪を誘ったのは、待雪が料理人であると知られているからだろう。

 実際待雪は、野菜に対して大きな興味を抱いてしまっていた。

 

 しばらく逡巡したあと、待雪はこくんと頷いてから「行きます」と有り難そうに答えた。

 それを聞いて椎本は「よかった」と、こけた頬にえくぼをつくって見せた。

 

 野菜への興味もそうだったが、なにより誘いを断る理由もなかったから、待雪は従順に彼の後ろをついていくことにしたのだった。

 殺し合いという環境下において、誰かと二人で行動するのは危うい行動だと分かってはいたが、しかし新鮮な野菜への興味が優った形だった。

 

 新鮮な野菜。採れたての野菜。

 どれほどのものがこの島で育まれているのだろうか。少なくとも、こんな場所で野菜を育てられるほどの深い知識と経験を持つ人物が作ったものなのだから、悪いものではないはずだという漠然とした考えに期待を寄せた。

 

「じゃあ、いつ頃なら都合がいいかな」

「そう、ですね……お昼が終わって、片付けをして、それから……夕食の下準備が終わった頃なら、なんとか時間が作れると思います」

「じゃあ、昼食後は食堂に残っているから、声をかけてもらえないかな。そしたら、倉庫に寄ってから畑にいこう。どうしたって、道具が必要だからね」

 

 そういった経緯を経て、待雪は倉庫に来ているのだった。

 万が一に備え、食堂にいた藤袴と匂宮に、これから椎本と二人で倉庫に行くのだと忘れず告げておいたから、おかしなことは起きないだろうと安心して臨んだ。

 

「レタスやキャベツなんかは旬で、ちょうど収穫期だからいくつか獲ってもいいって言ってたよ。あとはカブとかも名前を出していたような……」

「じゃあ、夕飯にサラダを出しましょうか。ツナの缶詰やマヨネーズが荷物の中にあったので、きっとおいしいサラダが作れると思いますよ」

「……まよねえず? 聞いたことのない名前だけど、でも、サラダというのはいいね。野菜の味がよく分かるし、何より冬に育った野菜は食感がいいから」

 

 倉庫は暗く、その上埃っぽいので、椎本の助言に従い口元をハンカチで押さえながら中に入っていった。

 暗闇はそれほど苦でもなかったが、息苦しさだけはどうにもならなそうだった。

 

「なにが必要なんでしたっけ」

「収穫包丁が二丁だよ。君と、僕の分。なんでも前まで使っていたやつが錆びてしまったとかで、こっちで用意しなきゃいけないらしいんだ」

「まあ、海がすぐそこですからね、潮風で錆びてしまったんでしょうか……こんな島じゃ、手入れも難しいでしょうし」

 

 あまりにも倉庫は暗く、また空気も悪いので、椎本が廊下側の窓を全て開いたところ、多少は光が通い、視界も少しは良好になった。

 外側の窓も開きたかったが、潮風が直に入り込んで物が傷んでしまうだろうことを思うと、そうするのは躊躇われた。

 生きるにしても死ぬにしても、あと一ヶ月ほどしかこの島には滞在しないのだから、物の劣化など気にするようなことではないのかもしれないけれど……わざわざを物を使えなくしてしまうこともないだろうと、二人は暗黙のうちに行動を合わせていた。

 

 この校舎には倉庫がいくつかあり、今二人が訪れている倉庫には箒や鍬などの道具が纏めて置かれてあった。埃こそ被っていたものの、道具自体は新品同然で、それぞれが几帳面なほどにキッチリ三つずつ用意されていた。

 

「色々あるみたいだ」

「鎌や斧なんかも置いてありますね。おそらくは、殺人のためにということなのでしょうけれど」

「だろうね……、こんなことのために使われるべきものじゃないっていうのに……」

 

 椎本の声は、悲しげな色を帯びていた。

 それだけ彼は、自然との関わりを愛しているのだろう。

 包丁や食器といった料理道具をなによりも大切にしている待雪にも、その気持ちが分かるような気がした。

 

「農機具もそうだけれど、虫取り網なんかもあるね。三本あるから、三人で遊べるよ」

「……こんな島に虫なんているんですかね」

 

 口から溢れたそれは、不意に感じた疑問だった。

 

 この島は雑草こそ生えてはいるけれど、木なんて痩せ細ったものしか立していない死んだ土地だ。そもそも野菜が実ること自体、容易ではないくらいなのだから、待雪にとってはたとえ虫けらであっても生き物がこの島にいるとは想像しづらかった。

 

 椎本は待雪の疑問を耳にしてか、こぶのように出っ張った喉仏を鳴らしながら深く考え込み始めた。

 やがて、ため息とともに言葉を吐き出した。

 

「虫は、意地汚いほど生に貪欲だから、きっとこんな島でも生きているよ」

 

 虫取り網の具合を確かめながら、椎本は言った。

 

「今日は越冬中のてんとう虫を草むらの中で見つけた。昨日はアリやマルムシも見かけた。……見る限りじゃ、外来種なんかは多そうだ。あいつらは荷物に紛れて入ってくるから」

「……荷物に虫がついているのは、よくあることですしね。以前、外国から輸入した食品がみんな虫にダメにされちゃって、お店が潰れちゃいそうになった事件がありましたから。それを思うと、虫にいい思い出はありません」

「それは大変だったね。虫は害をなすことが多いから、そういったとき、共存は難しいよ」

 

 今だとウンカは余計にね。と、椎本は陰りのある乾いた笑い声とともに付け加えた。

 

「孤島は固有の生態系を確立していたり、独特な進化をしていたり……ときには数百年も前の状態を維持し続けていることもあるから、この島は興味深いんだけど」

「……お詳しいですね」

「人生十九年、虫に捧げてきたからね。自然と話題は虫のことだよ。あとは植物とか」

「……先ほどから気になっていたのですが、シイガモトさんは、虫だけでなく植物や農業についての知識もあるように見えるのですが」

「それなりにね。一応は農家の生まれで、田舎育ちだから……ま、超高校級の昆虫博士なんて、ただの肩書きだよ。その分野で実績を残せるかもしれないってだけで」

 

 彼はある程度物の位置を把握しているのか、棚の奥まったところに手を伸ばしていたので、待雪はその背後を遠くから見つめていた。

 高い背をうんとかがめて物を探る彼の後ろ姿は、角張った骨や隆起した筋肉から、一塊の鉄みたいに確からしい静けさを感じさせるもので、そこに大木のような印象をつい抱いてしまう。

 無防備な背中が不思議なくらい広く感じられた。

 

「……っと、あったよ、収穫包丁」

 

 椎本は手に取った収穫包丁を、自分の手柄を示すようにこちらに見せてきた。

 薄らと積もった埃を払うと、椎本は包丁の持ち手を待雪に向けた。

 

「はいこれ。待雪さんの」

「あ、ありがとうございます……」

 

 収穫包丁は革製のカバーに収まっていて、一度引き抜いて確かめてみた。錆びもなく、刃物としてきちんと使えるものだったから、ひとまずは安堵して、そっとそれを懐に隠した。

 椎本もそれを真似るようにして、外套の裏にしまっていた。

 

 畑は柵の外にあるらしく、体育館の奥が外と繋がっているそうなので、待雪と椎本の二人はそこまで向かうことになった。

 予め知らされていたことではあるが、今改めて“柵の外に出る”と意識するのは、なんだか落ち着かない心地であった。

 

 とにかく、体育館へ向かうことになり、その道中で二人は意外な出会いをすることになった。

 玄関ホールに出たところで熊谷に出くわしたのだ。

 なにか目的があってそこにいるというわけでもないらしく、玄関ホールに置かれていた姿見で身嗜みを整えている最中のようだった。

 

 こちらの足音に気が付いたのか、熊谷は待雪の方を振り返り、驚きから素っ頓狂な声を上げた。

 

「あれ、薫じゃん。珍しいね、外にいるの」

「あ、お、こんにちは、クマガイさん」

「…………、まあいいや。それで、どうかした? こんな昼間に……変な、のっぽ男と一緒で」

「それはですね。シイガモトさんが、」

「僕なんだね?! 変なのっぽ男って、僕のことなんだね?! まったく戸惑う様子も見せなかったね?!」

「え……いや、だって……男って、シイガモトさんしかいらっしゃいませんし……」

「それはそうなんだけどさ! もうちょっと躊躇ったりしないの?」

「は、はい」

「……あそうなんだそうなんだ」

 

 椎本は落ち込んだように、幅広い肩に顔を沈めた。随分と背も曲げてあるのに、それでも自分より目線が高いのには素直に驚いた。

 フォローの言葉をかけるべきか待雪は悩んだが、自分が何かを言ったとしても、それは逆効果になりかねないと考えて、ひとまずは熊谷に対する説明を優先した。

 

「実は、この島で、野菜を育てている方がいらっしゃるそうなんです。それで、畑を見せてもらえるそうので、シイガモトさんと一緒に見に行こうという話になりまして」

「ふうん」

 

 熊谷は何かをじっくりと考えているようだった。

 ふむふむ。

 そんな音だって聞こえてきそうなくらいで、やっと顔を上げたかと思えば、彼女はいいことでもあったみたいに満面の笑みを二人に見せた。

 

「あたしも付いていっていい? こう見えてあたしも農家の娘なんだから!」

 

 

 

 2

 

 

 

 体育館の奥の、そのまた奥。

 厳重な鉄扉を抜けた先にある噂の畑には、新鮮で豊潤な野菜が生き生きと根を張っていた。

 監視塔の外にある掘立て小屋のそばで、柔らかな土と鮮やかな緑が愛おしい耕作の空間を作り出していた。

 見事なものだ。網で覆われているからか、鳥に啄まれている様子もなく、また適切な処置を行っているのか、虫食いもそこまで酷くはなかった。

 海のミネラルによる栄養分をふんだんに吸収しているのだろうか。葉の表面は艶やかで、触れてみると柔らかく、そこは唯一、この島で生命の奔流を感じることができる場所だった。

 

 やはり自分は料理人なのだと、ここで再確認した。

 良い食材を見ると、ついどんな料理を作ろうか考えてしまうのだ。

 

 ただ待雪は、喜びという感情に反し、こうも容易く外に出られたことへの疑問を捨て去ることができないでいた。

 兵隊の監視を複数付けられた上でようやく外出を認められたとはいえ、しかしながら、特別危険視されているわけでもなく、兵隊は気安く話しかけてくるほどに遠慮がない対応で、さほど重苦しい空気でもなかったのだ。

 

 警戒されているようで、そうでない。

 敵視などまるでしていない。むしろ、新しくやってきた物珍しい訪問者を歓迎するかのような雰囲気すら感じられた。

 超高校級という肩書きは向こうにも伝わっているのか、そのことについて訊ねられることも多く、彼らはずっと親しげだった。

 待雪らに、恨みや怒りを抱いているというわけではないようだった。

 

 つまるところ、やはりこのコロシアイ生活というのは私怨や怨恨で行われているものではなく、実験的な意味合いが強いのだろう。

 彼らはきっと、わたしたちを殺すことだって躊躇うはずだ。

 そう思わざるを得ない親切な態度で待雪らは接せられていた。

 とすれば──

 

「…………」

「? どうかした? 薫」

「い、いえ。なにも。……少し考え事をしていただけです」

「それにしても良い野菜だね。土も、根菜を育てるのにちょうど良い硬さだ」

 

 畑は素人が作ったようなものではなく、確かな知識と経験に基づいて作られたものなのだろうということがひと目見て分かるほど懇切丁寧に手入れされていた。

 雑草もきちんと処理されていて、土の状態も素晴らしく良い。鳥害や虫害が少ないのも、きっとこの畑の主が手を尽くし続けているからだろう。

 

 気を取り直して、しゃがんだ状態で土を触ってみたり、野菜に触れて新鮮さを測りながら、この畑の持ち主の顔を想像してみた。少なくとも、悪人ではないだろうと思えるくらい、この畑に実る野菜の数々は生き生きと育っていた。

 

「良い土ですね……。海辺は塩害が起きてしまうので対策が必要ですけれど、この野菜を見ていると、ちゃんとした知識を持っている方が育てられたのだろうということがよく分かります。……色が鮮やかで、肌艶も良くって、料理意欲をそそられます」

「うん。あたしもそう感じた。見ただけで味が分かりそうなくらい、きっとこれは美味しいんだろうなって思った」

 

 熊谷が言うように、確かに見ただけでも食材の良さは伝わってきた。これなら、サラダにしたときも見栄えが素晴らしく美しいものになるだろうと思わされた。

 

「この畑を耕している人は、動植物に対して深い知識を持っていたから、きっと野菜も良いものができているだろうとは思っていたけど……ここまでとはね。やっぱり愛情をたっぷり込められた野菜は、よく育つんだね」

「…………」

「シイガモトさん……この野菜って、どなたが育てられたんですか……? ここにはいないみたいですけれど」

 

 待雪は立ち上がり、辺りを見渡した。

 待雪ら三人を数人の軍人が囲んでいるが、詳しく畑についてなにかを語っていた人物というのは一人としていない。

 あくまでも監視をするということを忘れていない立ち振る舞いで、椎本とあれこれ話し込んだというほどの野菜に対する熱意も感じられなかったから、待雪はここに畑の主はいないだろうと判断して椎本に尋ねた。

 

「柏木さんっていう人なんだけれど、今は雑務が残っているとかで、むこうの監視塔にいるらしい」

「そうなんですか……あの、可能であればですけれど、今度会える機会がないか聞いてもらえませんか?」

「? どうして?」

「お話を、聞きたくって。……それに、こんなに良い食材をいただくんですから、ぜひわたしが作った料理を……食べてもらいたいなと、思いまして」

 

 思いを告げると、椎本は少し驚いたように目を動かしたあと、にっこりと笑って言った。

 

「それは良い案だね……よし。今夜にでも、僕の方から取り計らってみるよ」

「ありがとうございます……っ」

 

 待雪の言葉を聞き届けると、熊谷がうんと背を伸ばし立ち上がって、快活な声で椎本と待雪の二人に呼びかけた。

 

「ね。そろそろ収穫しない? じきに夕方だし、料理をするなら暗くなる前に下準備は済ませておきたいでしょう?」

「そうだね。育ちきってるものは全部採っていいそうだから、遠慮なく持っていこう。……あ、でも、食べる分だけにしようね。いつでも来ていいらしいから、焦らないようにさ、収穫しようよ」

 

 外套に差した収穫包丁を抜くと、椎本は早速身をかがめて、野菜の葉をかき分けながら状態を探り始めた。

 そこで待雪が、念を押すように不安ごとを言った。

 

「でも、ほんとうにいいんですか……? こんなに素晴らしい野菜をわたしたちが食べてしまって……それも無償で」

「いいんだよ、いいんだよ」

 

 明るい声で椎本は言った。

 よほど野菜が好きなのだろう、普段は聞かないような、踊るように楽しげな声だった。

 

「これだけ多いと、彼一人じゃ食べきれないらしくってね。兵隊さんたちには決まった献立があるみたいだから普段の料理にも使えないし……育ちすぎると固くなったり芽が出たりして食べられなくなるから、食べ盛りの子に食べてもらえるなら本望だって、そう言ってたよ」

「そうですか……なら、遠慮なく、いただいておきましょうか」

 

 そう言って、自分の収穫包丁を引き抜いたときに気が付いた。

 

「そういえば、この包丁、クマガイさんの分がありませんね……」

「包丁は二つしか持ってきてないから、熊谷さんは今から倉庫の方に取りに行ってきて──」

「よっと」

「?!」

 

 水の流れのように華麗な手つきで、熊谷は椎本からひょいと収穫包丁を取り上げた。

 

「ふっふーん、隙あり! 包丁はあんたが取ってきなさいな」

「うわっ、こいつやった! 待雪さん、こいつやったよ! 僕のやつ盗った!」

「はは……わたしは先に収穫してますね」

「ちょっと待雪さん?! 止めてくれないの?!」

 

 結局、椎本は熊谷から包丁を取り返すことができず、渋々とした様子で「僕は向こうのカブ畑を見てくるよ。包丁がないからね、包丁がね」と、名残惜しそうに向こうに行ってしまった。

 

「呆気ないわね。あっさり向こうに行っちゃった」

「優しい方なんですよ。争いとか、苦手そうですし」

「ふーん……それか、カブが好きなだけかもね」

「おーい! 聞こえてるぞ! カブのなにが悪いんだー!」

「勝手に話聞かないでちょうだい! 人の会話に聞き耳立てる奴は嫌われるわよ!」

 

 椎本は両手でそれぞれカブを掴み、体を大きく見せるようにして威嚇してきたが、対して熊谷がレタスを投げつけるような素振りを見せたために、椎本は不服そうにしゃがんでこれ以上争うつもりがないのだと、すごすごとカブ畑の奥の方へと下がっていった。

 

「げ、元気ですね……」

「だってあたし、わんぱく少女だもん」

「それ、あまりいい意味じゃないと思うんですけれど……」

「いいのよ別に。淡白でつまらない人よりはまし」

「あええ?! 僕がなんだってぇ?!」

「誰もあんたのことなんて言ってないわよノッポ! 自意識過剰もいい加減にしなさいよっ」

「なにをっ! やるかぁ?!」

 

 といったやりとりが数度続いて(その度に作業が止まるので、野菜一つを収穫するのにもうんと時間がかかった)、ようやく静かになったかと思うと、するとまた同じようなことが起きた。

 飽きないというか、忙しないというか。

 仲がいいのかそうでないのかよく分からなかったが、愉快で騒がしいことに違いなかった。

 

(なんだか意外だなあ。合わなそうってわけじゃないけれど、まったく違う性格の二人だから、お似合いってわけでもないし)

 

 普通に気が合わないだけなのかもしれないが。

 待雪にはそこまで詳しく分からない。

 

 大きな声を出して疲れたのか、諍う様子も見られなくなってきたので、待雪は熊谷に対してぼんやりと考えていたことを尋ねた。

 椎本にも聞きたいなとは思っていたが、彼は遠くにいるので、また今度にしようと今は意識の外に遠ざけた。

 慣れた手つきで包丁を扱う熊谷の横顔を少し見てから、自分の手元に目線を移して尋ねた。

 

「クマガイさんのご実家は、なんの野菜を育ててらっしゃるんですか」

「……なに。気になるの? 知りたい?」

「わたしの家も、農家だったので……共通の話題もあるかなと思って」

「それなら僕の家もそうだよー! 僕の家も農家でねー! お米作ってたー!」

「うっさい大声出さないでよ! あんたの話はいいの! あんたの話は!」

 

 ちらりと椎本がいる方を見て(カブは採取し切ったのか、別のところにいた)、呆れたふうにため息をつくと、熊谷は質問に答えてくれた。

 

「……キュウリとか、トマトとか。──夏は熟した実をもいで、川の流れで冷やして食べたりしたけれど……そうね、ここ数年は、もうそんなこともしてないな」

 

 幼少期を懐かしむように、熊谷は思い出を口ずさんだ。

 彼女にとって、それはきっと大切な記憶なのだろうと思われた。

 だがしかし、楽しい思い出の話をしているはずなのに、反して熊谷の表情は沈んでいた。

 それを待雪が不思議に思っていると、熊谷は秘密を打ち明けるように、ぎこちない顔で笑った。

 

「実はね、私の家はね、もう農家じゃないの。今はあれこれ違うことやっているみたい」

「違うこと?」

「ええ。ほら、あたしってバスガールじゃない? でもあたしが住んでいる街って田舎なものだから、バスを走らせても観光名所なんて全然ないのよ。だから、観光名所を作るために奔走してるみたいなの」

「へえ……良いご両親ですね」

「うん。自慢の両親よ」

 

 レタスの玉を傾かせ、露出した茎に包丁の刃を食い込ませる。

 茎は太く、栄養を大きく吸い込んでいるだろうことが一目見てわかった。繊維に逆らい、力を込めると、野菜特有のシャッキリとした感触が音として聞こえてくる。

 中程まで切ってしまえば包丁はケースに戻し、あとは茎を手折るようにレタスを回転させ、収穫した。

 三度もそれを繰り返すと、だいぶ手慣れてきた。

 

「薫の家は、なにを育てているの。野菜? それとも果物?」

「んん、えっと、父が、好奇心旺盛で。毎年たくさんの畑で、たくさんの種類の野菜を育てていましたから、特にこれといったものはありません」

「それって大変じゃない?」

「毎年憶えることが多かったので大変でした……分からないことも多かったですから、失敗することもよくありましたし、なにも獲れないなんてことも珍しくなかったです……でも、お陰で、野菜については色々と知識を得ることができましたし、多くの人と触れ合うこともできたので、父には感謝しています」

「そう。いいお父さんなのね」

「わたしが一人娘だったっていうこともあるんでしょうけれど、人一倍、愛されていたと思います」

 

 レタスの数は、待雪が収穫していた分だけでもう十を超えていたので、これくらいあれば足りるだろうと収穫包丁はケースに納めた。

 

「一人娘ってことは、兄弟姉妹はいないのね。あたしもおんなじ。……ときどき、妹とか弟が欲しいなって思うことがあるんだけど、そういうのってある?」

「僕の家は大家族なものだから、そういうのはないかな……。鬱陶しいもんだよ、妹も弟も。生意気なやつらでさ。同族嫌悪って言うのかな」

「あんたの話は聞いてない……って、いつの間にこっち来てたのよ?!」

 

 いつのまにか、遠くの方にいたはずの椎本が後ろで土を触っていた。

 熊谷に反するように、椎本はなんだかやけになったような声で叫んだ。

 

「もうカブは十分取り終えたからね! 他の野菜もあらかた集めたし! はっきり言って、暇だなあ僕!」

「耳元で大きな声出さないでよね! あんた体もデカいし声もデカいのよ!」

 

 と熊谷が大きな声で言った。

 これだと、また諍いが始まりかねないと、待雪は話を戻すため慌てたように熊谷の質問に答えた。

 

「わ、わたしは、妹が欲しいとか、弟が欲しいとか……そういうことは、思ったことないですね……っ。地域の子と遊んだり、逆にお世話になったりするようなことは、よくありましたけど」

「ふうん……ご近所付き合いが盛んなのね」

「立場的なものもあったんでしょうけれど、みなさん親切にしてくださいました」

「立場?」

「故郷では、父がそれなりに大きな地主で、土地を貸しているので、立場的にはわたしが上だと思われているみたいで。……それで親切にしていただいて」

 

 隔たりを感じることもありましたけれど。と待雪。

 熊谷は、どこか思うところがあったのだろうか……返す言葉に困ってしまったようで、ただ一言「そう」と付け加えただけで喋らなくなってしまった。

 

 奇妙な沈黙が流れて、それが待雪には居心地が悪くって。

 息を吐くみたく、苦し紛れに言葉を発した。

 

「そういえば、カムクラさんってどこにいらっしゃるのでしょうか。あれから姿を見ていないので」

「? カム、クラ……? ……ああ、あのお爺さんね」

 

 思い出したように椎本が言った。

 

「神座さんなら、向こうの監視塔にいるんじゃないかな。前に入っていくのを見たから」

「? 椎本。アンタ、話、したことあるの?」

「うん。この畑を作った柏木さんと、野菜についてあれこれ話をしてるときにたまたま近くを通ってさ……だから、柵越しでだけれど、色々話したよ。あの人あれで結構気さくな人なんだ。興味深そうに話を聞いてくれるし、知識も豊富で……なにより力強くって、元気なお爺さんだった」

「ふうん……あたしはあんまり、あの神座っていう人には良い印象がないから、なんとも言えないけれど」

「その気持ちは分からなくもないけれどね。…………、殺し合いなんてなかったら、きっと親しい間柄になれたと思うよ」

 

 神座出流という男に対して抱く印象は、人によってさまざまだった。待雪はただ、関わりたくないとだけ思っていた。

 拒むわけじゃないが、あの神座という男からは、良い印象が一つも得られなかったのだから。

 

 キャベツはあと数日もすれば頃合いだろうということだったので、また後日、この三人で来ることになった。

 なので熊谷が、レタスの最後の一つを取り終えようとしていて──そのとき。

 

「痛っ」

「だ、大丈夫ですかっ?」

「指先切っちゃった……そこまで深くないから、心配いらないわよ」

「そうですか? ……でも、傷口から雑菌が入ると大変なことになると聞きますから、保健室に行って消毒しましょう」

ふぉふぉへふぁよ(大袈裟よ)

 

 傷口を吸いながらの舌ったらずな言葉遣いで、熊谷には緊張感はなかったが、しかし待雪としては、バスガールという美を振りまく職業に就く熊谷に、たとえ指先であれ、傷痕一つでも残ることが心配でならなかった。

 

 それに、こんな島、病原菌だっていそうにないけれど、でも死の瘴気だけは特別濃く漂っているのだから、そんな穢れが傷口から入り込まないとも限らない。

 穢れだのなんだのと、そんなオカルトチックなことを信じているわけではないが、医者にかかることもできないこの島で変に熱病などに魘されてしまうことは避けたかった。

 

「傷口を洗うくらいはしておいた方がいいんじゃないかな。……放っておくと危険なのは確かだよ。山の中を素足で歩いて怪我をして、そのまま傷が悪化して足が腐った、なんて話もあるくらいだし」

「それは、いくらなんでも誇張しすぎじゃない? ……でも、そこまで心配してくれるなら、そうしようかな……」

 

 熊谷は弱気な態度で答えた。

 

「わたしが付き添いますよ。応急処置くらいならできるので」

「いいわよ、そんな。あたし一人でも──」

「結構難しいんですよ。片手であれこれやるのは」

 

 抵抗はあるようだったが、熊谷は待雪の同行を認めた。

 口では問題ないと言っていたものの、しかし熊谷自身不安に思っていたのだろう。心なしか頬が緩んでいた。

 

 とにかく傷口を水で流し、適切な手当てを施すため保健室に行こうとしたところで、困ったように椎本がぼやいた。

 

「あー……でも、どうしようか」

「? どうかされましたか?」

「二人は保健室に行かなきゃいけないし、それは仕方ないことなんだけど……一人で何度も往復して野菜を運ぶのは、大変かなと思ってさ」

「ああ……それなら、カガリビさんに手伝いをするよう言っておくので、安心してください。どうせまた外で走り込みをしていると思うので、道中で声をかけておきますよ」

「篝火? どうしてあいつが手伝ってくれるの?」

「以前いろいろあったので、わたしの手伝いをしてくれるようになったんです」

「色々?」

「いろいろ」

「イロイロ?」

「イロイロ」

 

 

 

 3

 

 

 

 保健室独特の鼻につく消毒液の匂いが、待雪は少し苦手だった。

 あのケミカルな匂いを嗅ぐと、どうしても思い出してしまうことがあるのだ。

 どうしたってそれは忘れることのできない記憶だった。

 

 棚に並ぶ赤褐色の瓶を遠い目で眺めているうちに、熊谷の傷の手当ても終わったようで、待雪は半分ほど眠っていた意識を覚醒させて熊谷を気にかけた。

 

「傷口は洗っているようであったから、消毒をして、布を巻くだけの簡単な処置にしておいた。ま、布は気休めでしかないが、ないよりはマシであろう」

 

 熊谷は布でぐるぐるに巻かれた指先を曲げたり伸ばしたりしながら、「見事なものね」なんていうふうに呟いていた。

 彼が行った傷口への処置は、無駄なく素早い動作であり、施術者の如実ない技術の高さを思わせた。

 

「わざわざ、ありがとうございます……」

「なあに。この程度、お茶の子さいさいである」

 

 褒められ慣れているのだろう。彼は自然な様子で謝意を受け取っていた。

 

 超高校級の保健委員という肩書きを与えられている野分(ノワキ)(ラン)という少年は、つい先日の夜、藤袴の口から聞いていた名前であった。

 詳しい人物像は未だ不明であるが、しかし藤袴らと共に夜警をするくらいには、正義感の強い人間なのだろうかと思いを巡らせる。

 ただその割には鯉口監視のグループには入っていなかったりと、彼についての印象は曖昧なところが多い。

 

 そもそも話をしたことだってないのだから、彼についてなにも分からないのは無理のないことなのかもしれなかった(接点がないわけではないが、しかしそれは数に数えるほどのものでもない)。

 なにより彼はいつも保健室にいるようで、食堂で姿を見かけることは少なく、待雪の中では印象が薄いというのも彼をよく知らないことの大きな理由であるように思えた。

 けれど、ここ数分で得た彼の印象というものは、その真面目でお堅そうな見た目とは違って明るく開放的なものだったから、つい気を許して待雪は口を開いた。

 

「ノワキさんは、こういったことをよくされるんですか」

「こういったこと、とは?」

「傷を診たり、その処置を行ったりです。テキパキと手慣れていらしたので」

 

 野分は大きな薬箱に物をしまいながら答えた。

 

「傷を見ることやその手当ては、ボクの生業だったからな。生きるためには身につけねばならぬ技術だった──幼い頃からそうして生計を立ててきた故、こんなことは嫌でもできるようになってしまった」

 

 暗い顔をして言うので、つい待雪は、触れてはいけない過去に踏み込んでしまったのだろうかと、申し訳なさそうに背筋を曲げて「す、すみません……」と謝ってしまった。

 それを聞いて野分は、少し慌てたように訂正の言葉を付け足した。

 

「そう間に受けるでない。ちょっとした誇張表現だというのに。……叔父が診療所を営んでいて、小遣い稼ぎに手伝いをしていただけだ。困窮した幼少期なぞ送っとらんよ」

「そ、そうですか……いや、その、すみません。勝手に想像してしまって……」

「謝ることはなかろう。それよりも、軽く笑い飛ばしてくれるほうが気が楽だ」

「へ、へへ」

「……それより、傷のことだが……」

 

 野分は深刻そうな声色と、改まった態度で熊谷の指先に目線をやった。

 バスガールという言わば人気商売、外見を売る職業に就く熊谷の指に傷が残ることを待雪は案じていたから、そうした野分の深刻なことを打ち明けるようなそぶりは、自然と不安な気持ちを起こさせた。

 

 熊谷は傷は浅いといっていたが、本当はそんなことはないのかもしれない……一生ものの傷であればどうしようと、不安は積もる。

 緊張の糸を張り詰め、それを目一杯まで伸ばしきったとき、野分はようやく口を開いた。

 

「残念だが、指の傷はもう……」

「…………」

「いやまあ、たいした跡も残らず治ると思うぞ。そもそも縫ってすらいないのだからな」

「は、はあ……それは、良かったです。良かったですね、クマガイさん」

「頼む、笑ってくれ……! ボクが悪かったから、せめて一つ冗談が挟まっていたことに気付いてくれ……!」

「え、あっ、ええ? 跡もなく、というのは冗談なんですか?! ど、どうしましょう、クマガイさんっ」

「違うっ、そうではない、そうではない!」

 

 閑話休題。

 話が理解できていて、なおかつややこしい方向に持っていくことのない熊谷がなんとか待雪に説明し、野分に限っては酷く恥ずかしそうに机に伏せ、腕に顔を埋めながら独り言を呟いていた。

 

「昔からの癖なんだ……ひどくつまらない、誇張した嘘をついてしまうのは……。田舎の婆さんや爺さんは、これで大笑いするのだがな。『驚きで心臓が止まりかけた』なんてことを言ってだ」

「その言葉はお年寄りの方が言うと、変な現実味がありますね」

「というかお爺ちゃんお婆ちゃんを驚かせちゃダメでしょ。なにやってんの」

「しかたないだろう。ボクができるような簡単な処置で済む程度の傷は、大抵子供か年配者しか負わないような擦り傷捻挫なのだよ。自然と話し相手の年齢層は限られてくるものだ」

 

 深いため息をついて、それっきり野分は顔を伏せたままだったので、待雪は気を遣って話題を変えた。

 

「そっそういえば、昨日の夜は何かされていたんですか? いつもは夜警に参加されているようですけれど、どうやら昨夜はお休みされていたようでしたので」

「ああ……ひょっとしてキミ、ボクの代わりに夜警をやらされてたんだな。生憎、文句と病原菌は受け取らぬ主義だ」

「いえっ、そういうわけではなく……っ。単純に、好奇心からです」

 

 なにか大切な問題でもあって夜警へ参加できないのなら、その問題をなんとか解決してもらって、いち早く夜警に復帰してもらいたいと待雪は考えていた。

 だからこうして原因を探ることで、解決への一助に繋がれば良いと思っていたのだが……。

 

「そういうことか……いやなに、昨日は単に、疲れたから休んでいただけだ。毎晩毎晩遅くまで起きるのは体に良くない故な──三日に一度は休みをもらうと、早々に宣言しておいた」

「なるほど……ということは、つまり……」

「ああ。今夜からは再開するつもりであるから、そう心配することもないぞ。昨日の夜の叫び声はたまらなく大きかったからな、あれなら自分でやったほうがすぐに終わるしすぐに寝付ける」

「お恥ずかしい限りで……」

 

 また三日後には代役を頼むことになるだろうが、と野分は笑った。

 そこでようやく、熊谷が口を開いて、不機嫌そうに待雪に訊いてきた。

 

「なに、薫。夜警とかやってるの?」

「フジバカマさんに頼まれて、昨夜から……」

「ふうん……そう……、それって危なくない?」

「思っていたよりは、危険なものではありませんでしたよ。何かあっても、フジバカマさんが守ってくださるそうなので」

「…………」

「? どうかされましたか?」

「いや……ちょっと……、ううん、なんでもない」

 

 それっきり、熊谷は考え込むようになってしまったので、自然と会話は待雪と野分の二人だけで行われるようになった。

 

 慣れない土地での健康状態はどうだとか、この島に来るまでの経緯などの他愛ない話をしばらく続けていた。

 

「時に待雪クン。今夜の献立は如何様か」

 

 随分と楽しみにしているのだろう。野分の声色はいつにも増して上機嫌だった。

 

「今日は新鮮で甘いレタスが手に入ったので、サラダを出そうかなと思っています。缶詰のツナだったり、マヨネーズであったり……いろんな種類のソースが作れそうなので、たくさんの味付けで野菜を食べてもらおうかなと」

「ふうむ、西洋料理か?」

「料理の考え方はそうですね。どちらかといえば、外国料理と呼んだほうがいいかも知れませんが……あ、も、もしかして、お嫌いでしたか? でも、マヨネーズに醤油や味噌を加えれば、どこか懐かしい日本の味も作れますよ」

「いや、別に西洋の料理が苦手というわけではないのだがな。むしろ興味があるくらいだ」

「なら良かったです……。あとはステーキとかもありますよ……これも西洋の料理で、肉料理です。みなさん育ち盛りですから、野菜だけじゃ物足りないでしょうし」

「ふうむ……そうかそうか! まよねえず、さらだ、それからすていき……うーむ、欧州文化は複雑怪奇なり! 名前だけ聞いても肝心の料理はまったく想像つかないが、しかして旨そうだということだけは確信できるぞ!」

 

 元気そうに野分は続けた。

 

「待雪クンの作る料理は格別だからな、野菜なんぞ飽き飽きするほど食べ尽くしたと思っていたが、既に興味がおさまらん!」

「きっと、満足していただけますよ」

「ならば腹を空かせて待っていよう!」

 

 とてもいい笑顔をしていた。

 野分は根が明るいのだろう、知的なその様相とは裏腹に、愉快な人物なのだと言うことが知れた。

 ……ただ、致命的なまでに話が噛み合わなかったりと、確かに藤袴の言う通り、待雪とは相性の悪い人間なのかも知れなかった。

 

 

 

 4

 

 

 

 保健室を出て、食堂に着くまでの僅かな時間、待雪と熊谷は二人きりだった。

 付け加えるなら、熊谷の様子がなんだかおかしなことに待雪は気がついた。彼女はなぜだか、保健室にいたときからずっと、思い詰めたように俯いているのだ。

 どうしたんだろうと不思議に思って、声をかけようかと言葉を考えてたところ、ふいに熊谷の方から話しかけてきた。

 

「薫」

 

 聞こえてきたのは、消え入るような声だった。

 

「今日は迷惑かけちゃってごめんね」

 

 熊谷は沈んだ様子で言った。

 驚いて、待雪は横に並んでいるはずの熊谷の姿を探し、振り返った。

 彼女は後方で立ち止まり、顔を青ざめさせ、肩も少し震わせていた。そのうえ、なにかに締め付けられたみたくぎゅっと身を縮こませて、ずっと謝っていた。

 

「椎本にも悪いことしちゃったかも。……あいつは、ああやって逆らって、笑ってくれてたけど、でも……私、怒られても仕方のないことを言ったり、したと思う」

「…………」

「本当に、私って最低だ。結局指も怪我しちゃって、それでまた、二人に迷惑かけちゃって……せっかく楽しくしてたのに、それなのに不快にさせて……っ」

 

 さまざまな感情で、彼女の気持ちがいっぱいいっぱいになっていることは声で分かった。

 側から見ても彼女は、今にも壊れてしまいそうなくらいに危うく、不安定だった。

 

「やっぱり私は……私は……」

 

 最後の方は声にすらなっていなかった。

 今にもぼろぼろと泣き出してしまいそうなくらい、熊谷は何かをたくさん抱えているように思えた。いつもは明るい彼女が、こんなふうになってしまうくらいにそれは、辛く重たいことなのだろうか。

 それがなんなのか、待雪には分からなかったけれど、でも崩れかけている彼女を見て、つい支えたいと思ってしまった。そうするべきだと思った。

 

「わたしは迷惑だなんて思っていません」

 

 待雪は前に出て、熊谷の顔を覗き込み言った。

 

「楽しかったです。クマガイさんと一緒にいて」

 

 慣れない笑顔を熊谷に向けた。

 すると熊谷は、戸惑ったふうに目をみはって、じっと待雪の顔を見つめた。

 目を見られることが待雪は苦手で、そっぽを向きかけたが、それでもなんとか目は合わせ続けた。

 

「……本当に?」

「本当です。クマガイさんといた時間は、楽しいことだらけでしたから。不快だなんて、そんなふうに思ったことはありません」

 

 熊谷の瞳は揺らめき、それでもすっと瞼が閉じたかと思うと、顔を隠すように視線を背け、胸の内に抱く罪悪感を吐露し始めた。今までの言葉が自分を責めるものであったのに対し、それは明確に待雪に向けられた懺悔の気持ちだった。

 

「でも私は、本当に酷いことをしちゃった……椎本には、謝っても謝りきれないくらいのことをした……」

「本当に酷いことをする人は、罪悪感なんて覚えませんし、それにわたしは迷惑をかけられたなんてひとつも思っていません。シイガモトさんだってきっとそうです」

「けどっ、私は、だとしても私は──」

「クマガイさんを責める人は誰もいませんし、クマガイさんは、誰かに責められるようなことはしていません。少なくとも、私はそう思います」

「で、でもっ──」

 

 熊谷がこれ以上自分を責めることがないよう、待雪は間断なく続けた。

 ぎゅっと、その震える肩を暖かく抱いて。

 

「……もしもクマガイさんが不安で、シイガモトさんに謝りに行くのが怖いなら、わたしも一緒に謝りに行きますから。元々、クマガイさんを連れていったのはわたしなんですから。わたしにも責任はあります」

「そんな……悪いのは、わた──」

「クマガイさん」

「…………」

「楽しかったですか。わたしと一緒に遊んで」

 

 優しい声色で囁いた。

 言葉を受けて、熊谷は、目尻にたまった涙を拭うと、何度かなにかを呟いた後、硬く結ばれた口を微細ながらも緩めてくれた。

 そして、上擦った声で前を向いてくれた。

 

「楽しかった……」

「じゃあまた遊びましょう」

「……うん」

「いつにしますか」

「……じゃあ、明日。明日もまた、あたしと遊んでくれる?」

「ええ……もちろん。いつも通り、わたしは厨房にいると思うので、お暇なときはいつでもいらしてください。いつでもわたしは、クマガイさんのことをお待ちしています」

「それなら、よかった……。そうよね。明日があるんだものね」

 

 前向きな言葉だった。

 熊谷は、気を取り直したように笑った。それでも少し声が震えていて、目端は濡れていて、完全に振り切れたわけではないのだろうということが察せられた。

 

 しばらく抱擁を続けて、涙も止んだ頃になってそれもやめて、食堂に着くまでの道すがら、明日のことを二人で語った。

 

「じゃあ明日はピクニックしない? 二人だけで、ピクニック」

「いいですよ。お昼なら時間もありますから、そのときでもかまいませんか」

「うん。それでいい。むしろそれがいい」

「じゃあそれで。待ち合わせは──」

 

 二人には接点なんてないけれど、こうして孤島で出会えたことが運命だというのなら、きっとそうなのだろう。

 夕陽で顔を紅く染めていた熊谷が待雪に笑いかけた。

 

「約束ね。約束」

「はい、約束です」

 

 指切りを交わして、誓い合う。

 そのとき触れた暖かくて柔らかな指に、指を絡め取られ、そのまま食堂まで手を取って連れ立った。




目次「日常編長過ぎませんか?」
次話「うるせえ!」
次々話「オメエが短くなんだよ目次ィ!」


・次回もその次も日常編です。ちなみに次々話で死体発見です。
・三日ほど前、待雪さんのイラストを描いたので、pixivやTwitterの方で掲載しました。良い出来なので、ぜひ見て欲しいです。


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007 (非)日常編

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 ────。

 

 

 

 1

 

 

 

 食器の片付けを終わらせて、真昼のうちから厨房の外へと飛び出した。

 白い吐息もお構いなしに、冬の寒さも忘れて廊下を駆ける。

 目的地は玄関ホール。待雪はそこで熊谷と待ち合わせをしていた。

 

「す、すみません! お待たせしましたかっ」

 

 肩に下げてある紙袋の位置を直しながら、待雪は熊谷の表情を窺った。

 熊谷は玄関ホールに設置された姿見で、外見を整えている最中だったらしく、大きな帽子の合間から見えた顔はそれほど不満げではなかったが、それでも待雪は申し訳なさそうに頭を下げた。

 そんな様子を見て熊谷は笑い、自身の着る洋服を確かめるように触りながら待雪に言った。

 

「待ってなんかないわよ。あたしが早く来ちゃっただけで、約束の時間もまだだし」

「そう、ですか」

 

 待雪は歯切れ悪そうに応えた。

 

「早く来られていたのでしたら、食堂でお待ちいただいてもよかったのですが……寒くはありませんでしたか」

「ちょっとだけね。でも、今日は風が穏やかで、日差しだっていつにも増して強かったから、厚着をすればそれで十分だったし」

 

 スカートで隠れてしまうのが、惜しいと思えるほどの長い足で、待雪の眼前に躍り出ると、翻り、半身だけを覗かせた熊谷は照れくさそうにこう告げた。

 

……それになにより、おしゃれするならこうやって、一対一できちんと見て欲しかったし

「? え、あ、う……」

「なんでもない。さ、行こっ」

 

 玄関ホールに立ち尽くす待雪をじれったく思ったのか、熊谷はその手でぐいっと待雪のことを胸元まで引き寄せ、勢いそのままに外へと連れ出した。

 

「あっ、ちょっ、ク、クマガイさん!」

「はやくはやく!」

 

 段差で転んでしまいそうになりながらも、なんとか熊谷の勢いに待雪はついて行った。困ったふうに声を出したって、彼女の勢いは止まりそうにもなかった。というのも、なぜだか熊谷は、一分一秒も時間を無駄にしたくないように、足を早めるのだ。

 それが待雪にとっては不思議に思えたが、目的地に着く頃には息も絶え絶えで考慮する余裕もなく、そんな些事はすっかりどこかへ消えてしまっていた。

 

 目的地というのが、これまた実に美しい場所だった。

 玄関ホールから離れたところにある、芝生が敷かれた野原で、そこは少し小高い場所だったので、なにものにも遮られることなく、海が一望できた。

 花も少しだけ咲いていて、ピクニックをするのにここよりふさわしい場所などこの島にはないと、断言できるほどだった。

 

 わずかに抱いていた熊谷への不満など忘れ、雲一つない空と何も浮かばぬ海、その二つの青の広大さを眺めながら、つい驚嘆の言葉を漏らした。

 

「こんな場所があったんですね」

「椎本のやつに教えてもらったの。方角的にも日当たりがいいからって、オススメされた」

 

 昨日とは打って変わって、熊谷の表情は明るかった。

 おそらく、椎本と上手に話ができたんだろう。そう考えると、待雪も少し安心できた。

 昨日は、いざこざが起きてしまったが、殺し合いという状況下において、待雪らは協力し合わなければ生きていけないだろうから──だから、一抹の不安が取り除かれたのは喜ばしいことだった。

 あとで椎本に、何かしらの形でお礼をしておこう。密かに彼の顔を思い浮かべながら、熊谷の方を向いて言った。

 

「今日だけは楽しみましょう。なにもかも忘れて」

「そうね。……というか、そのつもりで来たんだけどね」

 

 熊谷の声は弾んでいた。

 それに応じて、待雪もなんだか楽しいような気分になってきた。

 料理を作ることもそうだが、誰か親しい人と穏やかな時間を楽しむというのが、待雪は好きだった。

 

 熊谷は小鳥のように鼻歌を歌いながら、愉快な様子で着々とピクニックの準備を整え始めた。倉庫から持ってきた厚手のカーテンをレジャーシート代わりに敷いたりなどした。

 聴いていて思ったことだけれど、熊谷は歌が上手だった。どれもこれも、バスガールとして身につけたものなのだと、得意げに語っていた。

 準備という地味な時間でさえ、特別な思い出として、きっと色濃く残るだろうというほどに、熊谷は待雪を楽しませようと色々な手を尽くしてくれた。

 それがなにより嬉しかったし、もっと多くの人がこうやって楽しめたらいいのにと、願わずにはいられなかった。

 

 とにかく、芝生に敷いたカーテンの上に二人で座った。風がないとはいえ、寒いことに違いはなかったので、肩を寄せ合いながらだった。

 それが一番暖かったし、なにより親密になれた気がするのだ。

 

「あたし、こういうの憧れてたんだ。友達と一緒に、外でご飯食べるの」

「日本だと、ピクニックは、あまり馴染みのない風習かもしれませんね。お花見なんかはそれと近いですけど、あれは大勢でっていうイメージが強いですし」

 

 待雪は紙袋の中からお弁当箱を取り出して、二人の間で開けた。

 中にはおにぎりや魚を揚げたものなどが入っており、出来立ての暖かいものばかりだった。

 熊谷は喜ばしそうに目を動かした。

 

「わあ、美味しそうね」

「飲み物もあるので暖かいうちにどうぞ」

「今日はお昼食べるの忘れちゃってたから、うれしい……私がなにも食べてないの、よく気づいたね」

「お昼になっても食堂にいらしてなかったので」

「そ。見てたんだ」

 

 早速、熊谷はおにぎりを一つ手に取り、あんぐりと口を開けて頬張ると、美味しそうに笑った。

 

「おふぃひいよ」

「わたしもご飯はまだだったので、ちょうどよかったです」

 

 待雪もまたおにぎりを手に取り、口に含んだ。

 熊谷は頬いっぱいに詰め込まれたご飯をごくりと飲み込んでから目を輝かせて言った。

 

「驚いた。……薫の料理の美味しさには、いつも驚かされているけれど、おにぎりっていう単純な食べ物でも、こんなに分かりやすく違いが出るなんて……すごく美味しい」

「美味しいなら良かったです。手間をかけた甲斐がありました」

 

 複雑な料理はその分誤魔化しが効くため、複雑に絡み合ったもつれというものは一見して分かりづらい。

 しかし単純な料理というのは、小細工が効かないため、料理人の力量というものが明確な違いによって現れる。

 待雪はそのどちらをも完璧に仕上げる技術を持ち合わせていた。

 

 熊谷のバスガールとしての一因が、その歌唱力だとするのなら、待雪を構成する要素もまた料理なのだ。

 

 腹ごしらえも終えて、会話を交わしながら二人で満腹の余韻に浸っていた。

 草の匂い、土の色、未だ冷たい春風に想いを馳せながら、二人は横になって空を眺めていた。

 こうやって、ぼうっとただ時間を過ごすというのも乙だと思わされた。

 

 小さな雲がいくつか目の前を通り過ぎて、鳥が飛ぶのを見かけて、そうしてなだらかに時間が流れたころになって、ようやく、突然上体を起こした熊谷が背筋を伸ばしながら、芝生に寝そべる待雪にこう提案した。

 

「ね、お花を摘まない?」

「花ですか?」

「そ。確か倉庫に花瓶があったから、いくつか花を摘んで、食堂に置きましょうよ。あそこ随分と殺風景だし、花があったほうがいいと思うの」

 

 待雪は考えるそぶりを見せて、それでもすぐに頷いた。

 

「なら、少しだけ摘みましょう。この島はそれほど花が多くありませんから、少しだけ……、そうだ。ハサミ、取ってきますね」

「ハサミならあたしが持ってるから大丈夫。椎本に持たされたの」

 

 花の数はそれほど多くないので、摘みすぎないようにと、椎本から注意を受けたとも熊谷は言っていた。

 

 パチンパチンと茎を切り、花を摘んでいると、ずっと地面ばかりに目線がいって、熊谷を視界に入れる機会は自然と少なくなっていった。

 だから待雪だけは気付かなかったのだが、次第に吹いてきた冷たい夕方の風を、熊谷は感じ始めていた。

 

 熊谷は突然、作った笑顔で、無理に明るい声を出して、冗談を言うような調子で話し始めた。

 

「あたしね、すぐに花を腐らせちゃうの」

 

 クルクルと手元で花びらを撫でながら話し続けた。

 

「花って綺麗だから、ずっと見ていたくて、枯れないように瓶に生けたり水をやったり、日の当たるところに置いてみたり、色々試したんだけど……でも結局みんな、腐っちゃうの」

「…………」

「だからあたし、そうゆうことができない人間なんだろうなーって思った。……バスガールをやっていて、あたしは人に元気を与えてるつもりだった。人に勇気や希望を持って欲しいって思って、一生懸命に働いた。けど、あたしは花の一つも救えない人間だった」

 

 熊谷は、自虐的に何かを見つめ始めた。

 いつもと同じだ。と、待雪は思った。

 

 たびたび熊谷は、確かな眼差しでなにかを見つめていた。ただ呆然と空を眺めているわけでも、ただ無意識に目を見開いているだけでもなく、彼女は確固たる意思で一つの事柄に対峙しているようだった。

 そんな様子は、彼女と初めて会った時から頻繁に見られる光景だった。

 

 いつも待雪は、それを感じ取って、熊谷が何を見ているのだろうと、その視線の先を追ってみたりするのだが……しかし、いつだってなにも見えやしないのだ。

 熊谷が囚われたように目を離せないでいたそれは、待雪には視界に映ることすらなかった。

 

 その何かが一体何なのか、気にならないわけではなかったが、しかし、熊谷の心にこれ以上土足で踏み入るような真似は危険だと、内に住まう臆病な自分が伝えていた。

 

 ともかく熊谷は、そんなふうに今も何かを見つめていた。

 決して、楽しそうには見えなかった。

 

「あたしね。家族を幸せにできないんだ。どれだけ頑張ってお金を稼いでも、どれだけ頑張って有名になっても、どれだけ頑張って人気を集めても、あたしの家族は幸せにならないんだ」

 

 だから。と熊谷。

 

「だから、あたしは希望ヶ峰に来た。これが転機だって思った。なにか変わるかもって、これで上手くいくかもって、なにかに期待してた。けどそれも間違いだった」

 

 殺し合い生活。

 この島で、希望ヶ峰学園が彼女に与えたものは、彼女の望むものとは遠くかけ離れた代物だった。

 熊谷が縋ろうとしたものは、救いなどではなかったのだ。

 

「勘違いしないでね。家族が嫌いってわけじゃないのよ。……むしろ好き、あたしは家族をこの世の何よりも愛してる」

 

 熊谷の声は絶叫に近かった。

 口に出す言葉が、正しいことなのかどうかも判別が付かぬままに、ひたすらに迷いながら、苦しんで生きてきたのだろうと察せられるほどだった。

 

 今だって、熊谷は話すことを躊躇っていた。

 誰かに助けを求めることだって憚られてしまうくらいに、彼女の抱えている悩みや辛さは複雑なのだろう。

 彼女はそれが、どんな感情なのかも分からないのかもしれなかった。

 

 …………。

 待雪は、ぱちんとハサミを鳴らし、花の茎を絶った。

 なによりも響くその音に、熊谷はハッと意識を取り戻し、顔を見上げた。

 

「……花は、そのまま花瓶に入れても長持ちしないんですよ」

 

 花の茎や、枝分かれした部分をぱちんぱちんと切り揃え、愛でるように花冠を胸元に翳す。

 

「長持ちさせるには、余分な葉を切らないといけません。それに、根本は毎朝切っておかないと、切り口の方から腐っていきます。そうなってしまうと、水分の吸収が悪くなってしまうんです」

 

 すっかり葉が落とされた花を熊谷に重ね、花弁を隔ててじっと彼女を見つめながら、思うことを包み隠さず伝えた。

 

「クマガイさんは、色々と背負いすぎなんじゃないですか」

「……背負い、すぎ?」

「違っていたら、違うって言ってほしいんですけれど……クマガイさんは、バスガールになりたいなんて、自分から思ったこと、ないんじゃないですか?」

「……薫は、そう思うの?」

「少し」

 

 熊谷はすんと押し黙ってしまい、もう一度また空に視線を向けた。

 なんとも言えない表情を──怒っているわけでも、困惑しているわけでもない顔を──しているのだ。

 

「どうだろね。そーかも」

 

 肯定の言葉が聞こえて、待雪は咄嗟に彼女の方を向くと、熊谷は気が抜けたような顔をしていた。

 

「分かんないな。なんにも」

 

 その言葉の意味を、待雪は理解しかねた。

 ただ直感的に、この言葉の真意というものは、いつも熊谷が見つめている何かに直結しているだろうと感じた。

 けれどその意味を聞き直すこともできずに、「そうですか」とだけ返してしまった。

 これ以上踏み込むことは、彼女の心に直接関わることだと思ったのだ。

 それが自分にはできなかった。

 

 ……限界というものが見えた気がした。

 人を助けようとするのに、自分という矮小な存在では力不足もいいところだと、待雪は己の小さな手を後ろに隠した。

 

 それを見てか、あるいは偶然か。

 熊谷は不意にその何かから目を逸らして、待雪の方へと熱く視線を注ぎ、尋ねてきたのだった。

 

「手、繋いでもいい? ……寒くって」

「手ですか? か、構いません、けど」

「ありがと。……なんだか寂しくなっちゃった」

 

 逃げ場などない孤島で、この時ばかりは二人は自由だった。

 少なくとも待雪は、そうであれた気がした。

 

 手を繋ぐ。たったそれだけのことしか、今の待雪にはできないでいたが、それ以上のことができたからと言って、なにかが変わったのだろうかと聞かれると、曖昧に濁すことしかできないだろう。

 ただ、それでも、無力さを感じずにはいられなかった。

 

 手の中にある冷たい手を、待雪は強く握った。

 生きた者の証として、熊谷はそれを同じくらいの強さで握り返してきた。

 

 しばらくそうして、夕暮れ時になって、熊谷は手を離した。

 

「風も強くなってきたし、そろそろ戻ろっか」

 

 熊谷は立ち上がり、帽子が風で飛ばされぬよう手で抑えながら、陽が沈み始めた海の彼方を背にした。

 長い髪は風に揺れ、瞼は薄らと開けることが精一杯なほどに、その夕陽は熱く燃えていた。




・本来この話は、次話と抱き合わせで投稿する予定だったんですけれど、話の繋がりなんかを考慮して、別々に投稿することにしました。なので比較的近い内に、もう一つの方も投稿できると思います。
・次回、死体発見です。日常編もこれで終わり。


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008 非日常編

前半は熊谷視点。後半は待雪視点です。


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 薫はどこか、妹に似ていた。

 

 

 

 1

 

 

 

「こう見えても私、料理は得意なのですよ。祖母にみっちりと仕込まれていますから」

 

 釣舟は、はりきったように腕をまくって意気込んでた。

 元気なものだと思う。私にも、彼女のような溢れんばかりのパワーと負けん気があれば、もっと楽しく生きることだってできるのかもしれないと、つい考えてしまった。

 ただ、そんな思いは、抱えるだけ重しとなって、私を縛りつけ傷つけるものだった。

 

「やっぱり運動する人って、どうしても大雑把なイメージがあるんだけど」

 

 と、釣舟に向かって、からかうように言ってみると、釣舟は憤りを溜め込むように頬を膨らませてから、

 

「舐めてもらっては困りますよ、熊谷。その考えは前時代的なものであるということを、私が証明して見せましょう」

 

 と、指を天に突き立てて宣言した。

 これはいわゆる宣戦布告というもの。

 受けない理由はなかった。

 

「じゃあ、見せてもらおうじゃない。あたしも存分に料理してみせるから」

「受けて立ちましょう。こと和食において、私に死角はありません」

「はは……ほどほどにね」

 

 眉に皺を寄せて、私と釣舟の二人を諫める椎本。

 薫はなにを言うのでもなく、戸惑いを感じるように言葉を言いあぐねていた。

 “みんなで料理をすること”を提案したのは薫で、いつもは内気な薫が、自主的に何かをするなんていうのは珍しいことで。だからなにかしらの考えが彼女にもあったのかもしれないけれど──おそらく今は、その通りには進んでいないだろう。

 ……少し、失敗しちゃったかな。薫がそんな顔をするのを、私は望んでいない。

 

 …………。

 薫はどこか、妹に似ていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()、もしも私に妹がいたとしたら、それはきっと薫のような子だろうというのがすぐに分かってしまうくらいに薫は可愛らしくって、健気で、つい守りたくなるような存在だった。

 

 弱々しいなんて、そんなことを言ったら怒るかな……なんて、薫の怒り顔を想像してみるけれど、薫が怒ったところを見たことがなかったから、そんな顔は、うまく想像することが、私にはできなかった。

 でも、薫の困った顔や、ほのかに浮かべる笑みなんかはとても可愛くって、それだけはすぐに思い出すことができた。

 

 薫はいつも私に優しくしてくれていた。

 本当に、根っからの善人なんだろうなと思う。

 

 私が困っている時。私が弱っているとき。私が私を嫌いになってしまいそうだったとき。

 いつも側には薫がいて、いつも薫が私を支えてくれた。

 

 ただそれは、薫にとっては特別なことじゃないんだって、私は気付いてしまった。

 きっと彼女は、私の知らないところで、私以外の誰かにも、私にしたように優しさを与えていたはずなんだ。

 誰に対しても分け隔てなく。

 無条件の親切心や癒しを。

 

 困っている人がいるのなら、無償の奉仕を授け。誰かが傷を負っているのなら、優しくそばに付き添うことができる。

 それが当たり前なのだと、なんの疑問も抱くこともなく、純粋な気持ちで行えるのが薫の良いところで、優しいところなんだけれど……。

 ……ちょっとだけ、悔しいというか。私にとっては不都合なことというか。

 複雑で、不安な気持ちになってしまうのだけれど。

 私はそんな気持ちを解決するための(すべ)を持っていなかった。

 この気持ちが何と呼ばれるものなのかも、よく理解できないままだった。

 

 ふいに意識してしまって、後ろで食器を出し入れしている薫の方をちらりと見てみる。すると偶然目があってしまった。にこりと、困ったふうに薫は笑みを送ってきた。

 虚を突かれた気分だった。固まってしまって、かあっと顔が熱くなって、すぐに自分の手元に視線を逃した。

 

 なんだか照れくさかったのだ。

 彼女と目を合わせることに、どうしてだか私は、照れ恥ずかしい抵抗を感じる。

 

 思えばそうだ。私は、薫のことを意識すればするほどに、心が焦って、拍動の勢いが高まって、きゅうっと胸が締め付けられるような感じになって、苦しくなるのだ。

 

 こんな感情は初めてだった。

 薫と出会って初めて芽生えた気持ちだった。

 

 ここ数日は、ずっと薫のことを考えてた。食堂の前を通ると必ずと言っていいほど厨房を覗いてしまうし、体育館に集まるときだって、薫の姿を無意識に視界に入れてしまう。

 ことあるごとに薫の顔が頭にチラついて、趣味だった手芸も手がつかないくらいだった。

 

 オシャレなんて興味なくって、以前まではただ外面を気にしていただけだったけれど、でも今は彼女に好かれたくって、媚びた格好をしていたりもする。

 化粧だって、不自然にならないよう気をつけるようになった。

 口紅も、派手すぎないようになるべく大人しい色に変えた。

 鏡は昔からよく見る方だったけれど、今だとその目的も変わっている。

 

 この心のもやもやが解消できるのならと、やれることはなんでもやった。

 そのために必要なことは、なんだってする意気だった。

 

 けど、それでもまだ、胸が苦しいというか。

 たった一つのことで、いっぱいいっぱいになってしまうというか。

 でもそれは嫌なものじゃなくって、むしろ嬉しいとも思ってしまうくらいで……。

 言葉にはできないが、しかしこれは特別なものなのだろうと思えた。

 ただ、私がそんなふうになってしまうのも当然だ。

 

 薫はいつもみんなのために頑張っていて、熱心に料理へ力を注いでいた。彼女は懸命で、直向きで、輝いていた。

 そんな光は、私には眩しくって、つい瞼を閉じちゃいそうになるくらいの輝きだった。

 

 その光は、この暗くて冷たい孤島ではなんとも暖かいもので、私はどうしても彼女に身を寄せてしまうのだ。

 そうしていることが心地よくって、安心できて、辛くないことなのだと私は知ってしまった。

 この世の中に安心していい場所があるということを、私は知ってしまったのだ。

 

 ……知らなきゃよかったと思う。私は不幸のまま生きていたほうが、ずっとよかったと思う。

 ほの暗くって、生温い。そんな不幸に浸かっているのが心地よかったのに。

 

 一度光を知ってしまうと、暗がりに身を置いたとき、より寒さが増すから。

 

 料理は程なく完成し、ちょうどやってきた壱目も加えて品評会ということになった。私は野菜を少し焦がしてしまったけど、食べられないわけじゃなかったし、みんなの評価も概ね良好だった。

 

 藤袴の料理は柔道の力強さとは違った繊細な味付けで、その細やかな気配りこそが彼女の本質なのだろうかと、少しだけ考えたりした。

 

 ちなみにこの料理は、そのまま夕食になる。さすがに、一人で全員分というのは難しいから、そのために私と藤袴──プラス椎本で料理を行っていたのだ。

 よく食べる篝火や匂宮なんかは、味なんて気にせず胃に放り込んでいたから、作る側としては少しイラッとしたけれど。

 

 食後になって。

 薫はいつも料理をしているのだから、今日くらいは休んだほうがいいということで、食器洗いや片付けなどは、料理をした三人で行うことになった。

 薫は不本意そうに渋った顔をしていたが、押して言えばすぐに消極的な態度でおさまった。

 

 彼女は少しくらい休むべきなのだ。いつも待雪は誰かのために働こうとしていて、休んでいるのを見たことがないくらいなのだし。

 

 かちゃかちゃと、食器と食器とが触れ合う音の中で、カウンターのすぐそばの席に座っている薫へ話しかけた。

 

「薫はさ」

 

 突然、名前を呼ばれて驚いたのか、びくんと震えた気配がこっちにも伝わってきて、それがまるで小動物のようで笑みがこみ上げてきたが、それをぐっと押さえながら私は続けた。

 笑うと、不機嫌にさせてしまうだろうと思ったからだ。

 

「薫は、将来の夢とかってあるの?」

「将来の夢、ですか」

「そ。超高校級の料理人っていうくらいだから、やっぱりお店を開いたりするわけ?」

 

 薫は逡巡した後に、迷いを残した言葉で答えてくれた。

 こんなふうに、何気ない会話でもきちんと考えてくれるあたりが、薫の真面目でいいところだと思う。

 ただ気負いすぎなのではと思うこともあって、少し心配だったりする。

 

「……まだ、はっきりとは決めてないんですけれど……ただ、わたしは、お店を持つようなことはしないと思います」

「? どうして? 薫くらいに料理が上手なら、それこそどこでだって繁盛すると思うけど」

 

 これは嘘偽りない本音だ。

 薫の料理は本当に美味しい。

 技術も知識も彼女には備わっているのだろう。そのうえ才能だってあるのだから、薫が作るものはなんだって、今まで食べたもののなによりも美味しかった。

 だから店を持たないと聞いて、それが不思議でならなかった。

 

「接客が苦手だって言うんなら、あたしがしてあげてもいいんだけどね。そーゆうの、得意だし」

「いえ……そういう問題じゃないんです」

 

 薫は、少し昔を懐かしむように肩に顔を埋め、そっと呟いた。

 

「わたしは、同じところには長く留まらないようにしてるです。ですから、お店を構えることはできないんです」

「……それ、説明のつもり?」

 

 意地悪するように、わざと問い詰めるような物言いをしてしまう。悪い癖だと思いながら反応を待っていると、薫はそれを過敏に感じ取って、慌てたふうに口を動かした。

 

「な、なんでもわたしは、同じ場所に、留まり続けちゃいけない人間なんだそうです……、おかしな話だとはっ、わたしも思うんですけれど。これだけは守れって、人に言われまして……」

「ふうん……ま、確かに。薫が作る料理は、世界各地に広めたいものよ」

 

 ただどうにも引っかかるのが、薫は一つも嬉しそうな顔をしていないということだった。

 きっと彼女が言われたその言葉は、至高の褒め言葉だろうに。苦笑いすらも起こさないのだから、不自然さといえば大いにあった。

 

 皿洗いも終えて、藤袴も鯉口監視のために食堂を出て行った。

 椎本は椎本で、どうやら匂宮、野分の二人と倉庫になにが置いてあるかのリストを作っているみたいで、その作業に戻るとかで食堂の外に行ってしまった。

 

 食堂には、私と薫の二人しかいなかった。

 それはとても珍しい状況だった。

 

 特にどちらかが話しかけると言うわけでもなく、昼日中の時間を怠惰に過ごしていた。

 殺し合いなんて、すっかり頭から抜け落ちてしまうような気分だった。

 

「クマガイさんは、こ、怖くないんですか」

「……え?」

 

 薫が、突然そんなことを私に訊いてきた。

 

「その、クマガイさんは、今の状況に対して、恐怖を抱いていらっしゃらないようでしたので……」

「それって、あたしが楽観的な人間だって言いたいの?」

 

 また、意地悪なことを言ってしまった。

 

「いえいえっ! 決して、そんなつもりじゃ……っ。むしろクマガイさんは、現実をよく見ているしっかりした方だと思います。……だからこそ、この状況の危険性をよく理解しているはずで……だというのに、気丈に話される姿を見て、ひょっとしたらクマガイさんのように強い人は、怖くなかったりするのかなあ……なんて、思っただけで」

 

 待雪は気まずそうに、落ち着かない様子で言葉を連ねた。

 だから私は、なるべく彼女が落ち着けるよう、優しい声色で話した。

 

「それは、大きな見誤りよ」

 

 私が否定的に言ったからか、薫は「どういうことです?」と真面目な顔をして、私の方を向いて尋ねた。

 私に向けられた意識に、私自身の意識も重ねて、胸の内を吐露した。

 

「あたしは怖い。今生きてることもそうだけど、死ぬことがとても怖い。だから薫のことは頼りにしてる」

 

 しっかりと目を見据えて伝えた。そうしないと、いつも自分を謙遜している薫は、この言葉を信じてくれなさそうだと思ったからだ。

 

「薫がいなきゃ、この和気藹々とした食堂だって、もっと険悪な雰囲気に満ちていたと思う。誰も口を開かずに、互いに目を光らせあって……誰かと仲良くなんて、なれなかっただろうなって」

 

 でも。

 

「薫がいたから、みんな楽しんで食事ができてる」

 

 精一杯の笑顔で笑いかけた。

 薫は、それでも自信なさげだった。

 

「それは……わたしの力じゃ、ないと思います。みなさんの歩み寄ろうという気持ちがあったからこそで……」

「謙遜しないで。ね? だって、誰とも知らない人と歩み寄ることなんて、心の余裕がなくっちゃできないことよ? 薫のおいしい料理があったから、心穏やかでいられたの。薫がいたから、心に余裕を持つことができたの。……自信を持ってちょうだいよ」

「……その言葉は、素直に受けとらせてもらいます」

 

 薫は疲れたように息を吐くと、そっと胸を撫で下ろしていた。

 そんな彼女らしい仕草は、とても愛らしかった。

 

 幸せは毒だ。私にとってはそうだった。

 幸せを感じれば感じるほど、なにもわからなくなってしまうのだ。

 なにが正しいのか、なにが過ちなのか。私にはもうきっと判断できないだろう。

 

 薫と出会ったとき。あの瞳に惹かれたとき。

 私の全てを構成していた信仰心が、今まで信じてきた正しいはずの事柄が、脆くも崩れ去った気がした。

 

 私には、背負わなければならないものがたくさんあるというのに、それをぜんぶ放り投げて、彼女と一緒にいたいと思ってしまうのだ。

 けれど、新雪のように真っ白で無垢な彼女を、私は踏みにじれない。

 

 ああ、どうしてだろう。

 私は狂ってしまいそうだった。

 

「…………」

「…………?」

 

 立ち上がって、私は薫のところまで行って、その細い首に腕を回した。

 なぜだかこうしたいと思ってしまったのだ。こうして彼女に寄りかかっていないと、なにかが壊れてしまいそうだったのだ。

 

「あ、あっ、あのっ。くう、クマガイさんっ……」 

「少しだけで良いから、こうさせて。ほんとうに少しでいいから」

 

 いい匂いがする。

 心が落ち着く薫の匂い。

 それは不思議な香りだった。どんな言葉でも言い表せないような、どんなに高い香水でも出せないような、不思議な香り──けれどなぜだか懐かしい。

 そんな感じがする。

 

 私はこの香りに魅了されていたのかもしれない。虜になっていたのかもしれない。

 だけど不思議と、嫌な気持ちはしない。

 

「……ね。あたしたちが初めて会ったとき、あたしのことは夕顔って呼んでって、言ったと思うんだけど……憶えてる?」

 

 そう言うと、薫は口端を歪ませて、言葉を発しなくなった。

 しばらく経って、ようやく聞くことができたのは、謝罪の言葉だった。

 

「…………、いえ、すみません」

「だと思った。……ちゃんと言ったはずなのに。けど、ずっと熊谷さん熊谷さんって呼ぶものだから、言ってなかったっけって思ってたけど……うん、言った。あたし言ってた」

「す、すみません、本当に……え、っと、ユウガオ……さん」

「そう。それでいいの、それで。……もっと聞かせて」

 

 しっかりと聞くために、薫の肩に頭を乗せた。

 より深く彼女を抱くために、彼女の胴に腕を絡ませた。

 

「ユウ、ガオさん。ユウガオ、さん。ユウガオさん……」

「うん、うん……」

 

 一言一言、丁寧に発せられる名前を耳に、私はそっと目を瞑った。

 

 叶うことなら、いつまでも。

 こうして彼女を胸の中で抱き、この幸せな薫りをかいでいたいと願ってしまうのだ。

 

 

 

 3

 

 

 

「んう……うう、むん」

 

 待雪は酷い悪臭で目が覚めた。

 つい顔を顰めてしまうような苦々しい臭いが重苦しく鼻腔に侵入してきて、それがなによりも不快で、何事だろうと、壁に掛けてあったコートを上から羽織って、部屋の外に出た。

 電灯は、時折点滅しながら玄関ホールを照らしているが、それはいつにもまして頼りない光だった。

 

 嫌な予感なんて、この島ではいつもしていたけれど、今ばかりは、普段よりも、数倍寒気がよだつ。

 

 外から吹き込むぴゅうぴゅうという風の音が、遠くから聞こえた。どうやら、玄関ホールから踊り場へとつながる廊下への扉が、開いているらしかった。

 寒気を感じたのは、なにかへの恐れなどではなく、単純に、吹き込んだ風で冷えてしまっただけなのだろうか──そうであればなによりも幸いなのだけれどと、扉を閉めるために廊下を進んだ。

 

 玄関ホールに辿り着くと、ますます臭いはえぐみを増した。待雪は、導かれるように、開きっぱなしの扉から外廊下に出た。

 するとどうだろう。今まさに待雪が踏み込んだコンクリートの床に、一筋の赤い液体が暗い物陰から流れてきたのだ。嫌なことに、臭いの元も、そこからだった。

 待雪はいくらか逡巡したのち、意を決して物陰へと視線を運ぶ。

 そこではうつ伏せになったハハキギとクマガイの姿があった。

 あたりには血が飛び散っていて、二人はすっかり冷え切っていて、どうやら死んでしまっているらしかった。



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009 捜査編

捜査編です。前半は雲隠くん。後半は待雪さん視点です。
後書きには帚木くんのプロフィールやオシオキ案が書いてあります。


 0

 

 

 

 分かるだろう? 閉鎖的な場所では、信頼をなくした者から死んでいく。

 

 

 

 1

 

 

 

 六日目の朝。超高校級の絵本作家である帚木と、超高校級のバスガールである熊谷の二人が、外廊下にて、死体となって発見された。

 

 死因はおそらく失血死。

 首元にある深い切り傷や、流れ出て土に染み込んでいる大量の血液が、彼らはどうしようもなく死んでしまっているのだということを雄弁に物語っていた。

 死体は既に冷たく、夜のうちに殺害されたのではないかというのが、保健委員の所感であった。

 ただでさえこの孤島は、寒い海風が吹いて底冷えしているというのに、それ以上に、この二人は冷め切っていた。

 

 第一発見者は藤袴と篝火の二人。

 朝時間になって、これから外で体を動かそうとしたときに、二人の死体を発見したのだという。

 つい昨日の夜まで笑い合っていた同級生の死体を目にすると言うのは、彼らにとってはあまりに大きな衝撃だったに違いない。藤袴は普段見せない動揺した挙動が目立ち、気持ちを整理する時間が欲しいと、待雪の手を借りて外まで空気を吸いに行きさえした。

 

 殺人が起きてしまったことへの動揺は、波紋となって、さまざまな人へ悪影響を与えている。

 少なくとも、人が死んでしまった今、笑っていようと思える人間は一人もいなかった。

 

(いつかは起こると思ってたけど、実際にこうして人が死ぬと、なんだか気後れするな)

「んんう。ねえ、ききょーくん。もう少しの間こうしていてもいい?」

 

 澪標は死体を怖がるように、今朝からずっと彼の腕に身を寄せていた。身長差もあってか、それはかなりおかしな格好だったが、なにより澪標が本心から怖がっているわけではないというのが、一番の違和感の原因だった。

 単に彼女はこの場に乗じて、いちゃつきたいだけなのかもしれない。

 

「あの……立竝さん。今は離れてくれませんか」

 

 二人の死体からはいくらか離れたところで、雲隠は面倒くさそうに腕を動かした。彼女の鼓動とぬくもりを感じることは満更でもない心地だったが、しかし状況が状況なために、こういった行為はいくら雲隠でも躊躇われた。……のだが。

 

「だめです。はなしません」

「…………」

 

 ついぞ離しそうになかったので、雲隠はやや強引に腕を引っ張って澪標を振り解くと、逃げ込むように、事件の捜査のために死体付近に集う複数人の人混みへと身を隠した。

 

 雲隠には、事件の真相を解き明かすことができるほどの英名さなどない。

 しかし彼には、他の誰よりも優れていると、あの澪標でさえ 太鼓判を押す一つの特技があった。

 

「そうね。あなたはこういうの、私よりも上手だものね」

 

 後から追いかけてきた澪標が、雲隠の横で意味ありげに微笑んだ。

 雲隠は静かに頷くと、早速、事件現場全体に視線を巡らせた。

 

 状況証拠から問題点を発見すること。

 彼にとってそれは、息をするほど容易い仕事と言える。

 そも彼は機械技師である。壊れたものを修復するために問題点を探し出すということを、常日頃からやってきた。

 一眼見ただけでモノの構造を把握し、耳を澄ませるだけで機械の不調を感じ取る。それこそが彼の才能であるし、何よりその才能はこんな時でも役に立つだろうと思われた。

 ()()()()()()()()が壊れてしまった現場から、なにか閃きを得ることだって、いつも彼がしている仕事と肝心な部分は変わりないだろうから。

 もっとも殺人現場なんてものを目にするのはこれが初めてだし、機械を診るのと同じように行くかなんて分からなかったが、やれることがあるかもしれないならやってみようという、あくまで打算的な考えの元に、彼は事件現場へと足を踏み入れた。

 

 死体を見るのは初めての経験だったけれど、別に抵抗はなかった。

 血の色って、こんなに濁ってるんだなという感想しか出なかった。

 珍しいものを見つけた時のようにまじまじと血溜まりを見つめていると、

 

「……クマガイさん」

 

 と、掠れた悲鳴が耳に入った。それは超高校級の料理人、待雪薫の声だった。

 気分を悪くした藤袴に付き添っているはずの彼女だが、手に持っている魔法瓶を見る限り、どうやら食堂までお茶を淹れに行っていたらしい。

 通りすがりに現場を目にしてしまったのだろう。この島にいる女子生徒の中では、おそらく一番まともな性格をしていて、それでいて感受性の高い彼女のことだから、死体を目の当たりにし、過敏に衝撃を感じてしまったのかもしれない。

 

 確かなことは言えないが、待雪と熊谷とは親しい仲のようだったから、彼女の心中というものは、まったくの部外者である雲隠には察し切れないものだった。

 

「────」

 

 多くの人は、この五日間を共に過ごした二人が死んでしまったことに対して、悲しみを抱いていた。

 たった五日であれ、その間に育まれた絆というものは少なからず人の心を縛り付けるらしい。

 それが死の恐怖に怯える中で生まれたものなら尚更である。

 どうして彼が、どうして彼女が。そんな思いは、絶えることがない。

 

「匂宮クン」

 

 野分という男子生徒が怯えまじりに……しかし、ある程度の意思と疑念を持って、匂宮の名を呼んだ。

 

「キミ、確か熊谷クンとの間に確執があったんじゃなかったか」

 

 目敏く眼鏡を押し上げながら、野分は匂宮に問う。

 匂宮は、冷静な面持ちで言葉を返した。

 

「野分、それはなんの話だ」

「……ボクらがこの島にやって来た日、キミは待雪クンの料理に毒が入っているのではと、勘繰っていた。そのとき初めにキミに反論し、待雪クンを擁護したのは……今ここで死んでいる熊谷クンであろう」

「……なにが言いたいんだ?」

「キミはそれを根に持っていたのではないのか、と言ってるんだ」

 

 匂宮と野分の二人を遠巻きに眺めていた竹河の眉が、ピクリと上がった。

 

「…………」

「否定……はしないのだな」

「……オレはやってない。だが、確かにお前の言う通り、熊谷のやつとの間にそういったやりとりがあったのは事実だ……事実なのだが……」

 

 匂宮は、珍しく言葉に言い淀んでいて、それがますます野分が抱いている疑念を増大させた。

 

 野分の語ったことは事実だった。

 初日の朝、匂宮は待雪の料理に毒が混ぜられている可能性を指摘し、そして熊谷がそれを否定した。対立関係が生まれたのは確かな事実なのだ。

 それが人殺しの動機に足り得るのかは分からない、だが少なくとも、今この場にいる人々の意識を匂宮へと集中させるのには十分だった。

 

「キミはそのことで、熊谷クンに恨みを抱いて、それで……それで……っ」

 

 野分が言わんとしていることは嫌でも伝わってきた。

 その声色、そぶりに嘘はなく……ただ野分だって仲間を疑うようなことは考えたくないのかもしれなかった。

 

 匂宮に対し、なにか反論をしてほしいとすらも考えていたことだろう。誰だって目の前にいる人間が人殺しだとは考えたくない。

 野分が噛み締めるように強く言葉を発しているのは、きっとその節々で、匂宮から反論が帰ってくることを期待しているからだ。

 だが匂宮は多くを語らない性格だ。

 この島で初めて彼に出会った者が、彼の思想や理念を理解しているはずもなく……また彼を擁護することなんて、できるはずがなかった。

 

 そうして、ますます疑いの目は匂宮に向けられていった。

 

 皆、不安だったのだ。

 今のように死体が見つかってしまったとき。自分たちの中に人殺しがいると考えてしまうだけで、恐怖というものは酷く彼らを蝕んだ。

 下手をすれば、その恐怖が再び殺人を招きかねないほどに、まともな判断力や正義感というものは密かに侵され始めていた。

 

 これはまずい状況だなと、雲隠は冷静に場を見渡す。

 

(もし彼が犯人じゃなかったとき……その事実を知るのが彼一人じゃ、きっと弁解しきれない)

「……ええ、このままじゃ、きっとそうなるわ」

「止めないんですか?」

「愚問ねえ」

 

 澪標さんは楽しそうに笑った。

 

「一つのことを信じるのは、他の全ての可能性を捨てるということ。……それって危険だと思わない?」

 

 その危険な状態に陥ってしまうのも、時間の問題のように思われた。

 

 だがそれは、匂宮を擁護するものが誰もいなければの話である。 

 弱々しく、今にも消えてしまいそうな声で、彼女は彼のアリバイを証明するのだった。

 

「ま、待ってくださいっ。彼は犯人じゃない……と思います」

 

 震える声で待雪が言った。

 皆の視線が自らに集中するのを感じてか、彼女の小さな肩より一層小さく縮まるのを見てとれた。

 

「わ、わたしはっ、彼とっ、昨日の夜……っ。トランクのバッテリー交換を終えたときから、フジバカマさんとカガリビさんの二人が死体を発見するまで……ずっと、一緒にいましたから!」

 

 ですから、と待雪は続ける。

 

「ですから、彼は犯人じゃありません……っ。彼は、わたしとずっと一緒にいましたから、人を殺すなんていうことは、不可能ではないでしょうかっ」

「……そんな話を信じろと?」

 

 竹河が待雪の証言に待ったをかけるようにして言葉を挟んだ。待雪が考えていることを見通さんとばかりに、じっと目を合わせながら問い詰めた。

 

「貴様と奴とが一緒にいる理由が、まずないだろう」

「り、理由……彼とは……その……幼馴染で……」

 

 待雪は竹河の蛇すら殺しかねない鋭い眼光に萎縮しきっていて、顔色を見るに、どうも体調だって悪そうで、必死に言葉を継ごうとしても言い淀んでしまっていた。

 話を聞こうにも、これじゃまともな答えは返ってこないだろうと悟ってか、竹河は不満そうに腕を組んで、多少考え込んだあと、小さく舌打ちをしてから今度は匂宮に尋ねた。

 

「貴様……」

「…………、ああ。コイツとは幼馴染なんだ。だから昨日は、故郷の話をしていた……海外であれこれやってたらしいから、そっちの話も聞かされたりな」

「ほう……」

「なんせ三年ぶりに会うんだ、積もる話もある。……まあ、島に来た初日は、野分が言っていたようなこともあったからな。なかなか直接、オレから声はかけづらくって……コイツはコイツで、内気なヤツだし」

 

 説明を聞いてもなお竹河は不機嫌そうで、しかし否定するための材料もないからか、それ以上なにかを聞いてくると言ったことはなかった。

 ただ、一つ睨みを効かせてから「それも全部、学級裁判とやらで明らかにする。今は判断材料が少なすぎる」と言い残し、現場の検証に戻っていった。

 

 待雪の証言に納得したというわけではなかったようだが、しかしこれ以上議論を交わすことは不毛であると感じたのだろう。

 去り際の彼の表情は、興味をすっかり失った、色のない顔だった。

 

 その様子を見て、周囲の生徒たちの反応はまちまちであったが、少なくとも今以上に匂宮に対して疑いがかけられることはなくなった。

 物的証拠もないままに、怪しいという理由だけで匂宮が殺されることは無くなったと、雲隠は様子伺いに澪標の横顔を覗き見る。

 一種の芸術品のような曲線を描く輪郭に、乳白色の柔らかな頬。

 こちらの視線に気が付いたのか、うっとりとした目を向けられ──

 

 おっと、見とれている暇などなかった。

 本当に、息つく暇など与えられなかった。

 死体という非日常の折に触れ、混乱していた彼らの意識を現実に連れ戻す放送が、島中に響く。

 

《──、──あ、ああ。……ふむ、どうやら人が死んだようだね。なにぶん諸君も初めての体験だろう。今後の説明も兼ね、一度集会を行う。体育館に集まりなさい》

 

 ブツリ。

 一方的に話され、一方的に切られ。

 それはあんまりな態度だったが、ただ、これからどうすればいいのか分からないでいた人が多い今、これからの指針というものを与えられることは大変ありがたいものであっただろう。

 それに従うかどうかはともかく、少なくとも、従うか逆らうかの二択を選べるようになったのだから。迷うことすらできないままであるよりかはマシだった。

 そしてそんな選択肢は、命を握られている彼らにとっては、ないのと同じだった。

 

 

 

 2

 

 

 

 体育館で話されたことは、概ね以下のとおりである。

 

 残された者たちは人殺しを見つけ出し、晒し上げる。

 人殺しは、自分が殺人事件の犯人であると暴かれないように学級裁判で立ち回る。

 それが、学級裁判で生き残るための術なのだという。

 またその学級裁判は、一定時間与えられる捜査時間の後に体育館で行われるということだった。

 

 それから事件の概要について、運営側も正確には把握できていないため、各々が別室に連れられ、自身の知っている事件の詳細を話さなければならないという。

 これには二つの意味があるようで、前述した“運営による事件の詳細の把握”に加え、“犯人の自己表明”も兼ねているそうなのだ。

 というのも、運営側に自分が殺したのだという説明と証明ができなければ、たとえ自分が事件の犯人であることが隠し通せたとしても、島から出ることはできないらしい。

 だから、()()()をしないためにも、今から行われる事情聴取に応じる必要があるのだという。

 

 ちなみに、例え犯人として申告をしなかったとしても、学級裁判において人殺しであると決定付けられたとき、またそれが妥当な結末であると運営側が判断した場合は“処刑”となるらしいので、人を殺した以上は運営に自らが犯人であることを名乗りでない理由はなかった。

 

 そして雲隠は、その事情聴取に応じている真っ最中であった。

 

 とはいえ、話すことなど何もなく、ただじっと椅子に座らされているだけで、意味を持たない時間だけが長く過ぎていった。

 話すことがなくっても、こうして取調べ室で待機させられるのは、部屋にいる時間の長短で犯人であるかどうかを推理することができないようにするためのものらしい。

 

 事情聴取を行なっていた軍人はそう語っていたが、殺し合いなんてものを催す者達が、わざわざ公平性を保とうとするような点に、薄気味悪さを感じずにはいられなかった。

 

 およそ十五分ほどして。

 雲隠はようやく外に出ることができた。

 それと同時に、いくつかある扉から六人ほどが姿を見せた。

 一人一人事情聴取を行うとあまりにも時間がかかるからと、この取り調べはまとめて行われるのだが、今この場にいる人数を見るに、何回か分けて事情聴取は行われるのだろう。

 

「あ……クモガクレさん」

「……待雪さん」

 

 二番目の扉から出てきた待雪が、雲隠を見て反射的に呟いた。それが聞こえたからか、雲隠は彼女の方を振り返り、目を合わせる。

 名前を呼び合うだけで、上手く会話を弾ませることが二人にはできなかった。雲隠に限ってはそうしようともしていない。

 

 待雪はどこかバツが悪そうに重い足取りで歩いていた。

 いつにも増して暗い顔で、さすがの雲隠でも疑問に思うくらいであった。

 

「どうかしたの。元気がないみたいだけど。……もしかして、熊谷さんのこと、気にしているの」

 

 慰めるつもりではなく、単純な疑問から訊ねた。

 

「いえ……うう、じゃなくて、その……そうなのかもしれません」

 

 否定しようとしたものの、しかし待雪はやり切れないように胸の内を吐いた。

 話し始める前に、周囲に人がいないかどうかを確認してから、彼女は語り出した。人に聞かれたくないことなのだろうか──被害者である熊谷の話なだけに、今回の事件に関係があるかもしれないと、雲隠は少しだけ耳をそば立てて聞いた。

 

「先日、クマガイさんと二人でピクニックに出掛けたんです。……その時から様子がおかしくって……だから、そのとき自分がしっかりしていれば、こんなことにはならなかったんじゃないかって、考えてしまって……」

 

 普段滅多に出歩かない雲隠でさえ、ここ数日の間、待雪と熊谷の二人がともに行動しているのを幾度か見かけていた。

 この島にいる誰よりも熊谷に近しい人間だったからこそ、待雪は自分に何かしてやれなかったかと悔いているのかもしれなかった。

 

「そう……それは、うん」

 

 曖昧な相槌を打った雲隠は、澪標なら気の利いた言葉の一つでもかけてあげられるのだろうかと、取調室で事情聴取に応じている彼女に思いを馳せた。

 

「僕は、立竝さんをここで待っていようと思ってるんだけど……どうする?」

「わたしは……、食堂に戻ります。朝食もまだ作っていませんから。早く作らないと、昨日仕込んだ分が無駄になってしまうので……」

「分かった。じゃあ立竝さんにも伝えておくよ。あの人、朝はきちんと食べておかないと頭が回らないみたいだから」

「そうですか……今日は和食だとお伝えください」

 

 雲隠は「分かった」とだけ伝えて、待雪から視線を外した。

 だんだんと靴の硬い音が遠ざかっていったので、きっと食堂に直行したのだろうとだけ頭の片隅の方で推察した。

 

 

 

 3

 

 

 

 捜査とはいえ、なにをどうすればいいのだろうか。

 目立った行動も起こさずに、待雪はそんなことを考えていた。

 

「…………」

 

 ぼうっと二人の死体を眺めていても、事件の真相というものはまるで想像がつかない。

 なにより熊谷はもう死んでしまったのだから、これから起こす行動の全てが無意味だとすら思えてしまった。

 

「ユウガオさん……」

 

 その言葉は、ついぞ熊谷に届くことはなかった。

 既に彼女は冷たくなっていて、苦々しい匂いを残り香として待雪に届けていた。

 

 二人の死因は、おそらく失血死。外傷は首元の頸動脈を横切るように切りつけられていた切り傷くらいで、そしてそれが致命傷だったのだろうというのが、野分の検死結果だった。

 数秒で目眩。一分もすれば死に至っていただろうとも言っていた。即死とはいえ、きっとその数十秒は苦痛に満ちた時間だったに違いない。

 その痛みは、待雪には、共感だってできやしないのが、何よりも苦痛だった。

 

 それから、死体の温度や硬直具合からして、深夜帯に行われた犯行だろうとも言っていた。

 その時間帯にアリバイがある者はゼロに等しかった。

 現に待雪もまた、アリバイがない者達の一人である。

 

 事件現場で蹲り、無味乾燥な空気を歯で噛んでいると、ふと誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。

 泥のように重くなった瞼をゆっくり親指で押し上げ、涙でぼやけた視界でなんとか、その姿を捉えようとする。すると一人、見慣れた男子生徒が待雪の前に現れた。

 

「……待雪」

「ああ──ニオウミヤさん」

 

 余韻すら残さず、匂宮は待雪が座り込んでいる場所まで突き進んできた。

 残念そうに待雪は俯いたが、意を介すことなく、匂宮は冷たく突き放す。

 

「どうして、あんな嘘をついたんだ?」

 

 嘘、というのはもちろん、今朝待雪が証言したアリバイのことだった。

 二人は昨晩、同じ部屋で、夜を徹して故郷や海外の話などに花を咲かせてなどいない。幼馴染みであるということもまた、待雪にとっては口から出たでまかせであった。

 

「オレを庇ったつもりか?」

「そんなつもりじゃ……わたしは、ただ……っ」

「もういい。お前がなにを言うかなんて分かってる。どうせ……聞くに耐えない偽善ばかりだろ」

「…………」

 

 反論しようとは思えなかった。

 諦観的な思考だった。

 

 固く口を結んだ待雪に対し、匂宮は躊躇いなく言葉をぶつけた。

 

「……あのときオレがお前に同意したのは、オレが“その証言は嘘だ”と言えば、今度は待雪、お前が疑われることになるかもしれないと思ったからだ。……いや、きっとそうなってた」

 

 待雪は、膝を抱える腕の力をぎゅっと強めた。彼のいう言葉は、痛いほど自分の弱いところに突き刺さるのだ。

 

「分かるだろう? 閉鎖的な場所では、信頼をなくした者から死んでいく」

「っ、ですけどっ」

「……お前には、オレを助ける義理なんてないんだ。お前のような弱虫は、黙って守られてればいいんだ」

 

 そんなことないなんて言えるはずもなく、待雪はそっと息を飲んだ。

 あの場面で待雪が名乗り出なければ、おそらく匂宮は疑われていただろう。……だが、そんな窮地を脱するための術を彼はきっと持っていただろうし、何より恐ろしいのは”嘘がバレてしまうこと”だった。

 そうなってしまえば、いくら匂宮でもどうしようもなかっただろうし……彼が言ったように、例え生きながらえても、真に彼らから信頼されることはなくなるだろう。信頼とは、壊れて仕舞えば二度と修復できない代物なのだから。

 

 待雪は苦しそうに息を吐いた。

 

「……オレはもう、自分で自分の身を守ることができる。失うものなんてなにもない。歳下のお前に助けられる必要もない」

 

 その言葉は待雪の心に深く突きつけられた。

 それが純粋な悪意から構成されたものならば、抵抗だってできただろう。けど待雪自身のことを慮って編まれた言葉を防ぐ術のない待雪は、ただそれを受け入れることしかできなかった。

 言葉も出ず、今にも決壊してしまいそうな涙腺を刺激しないように、あるいは自身の表情を悟られないように、待雪はより深く俯いた。

 それはあまりにも過剰的な反応で、傍目から見ればおかしな光景だっただろうが、待雪も匂宮も、それほど気には留めていないようだった。

 

 匂宮が、もう用はないのだと背を向けた。

 すると待雪が、目端に溜まった涙を拭って、純粋な気持ちを伝えようと顔を上げた。

 

「わたしと、ニオウミヤさんとが、逆の立場だったならっ。……ニオウミヤさんならきっと、わたしに同じことをしてくれたと思うんです」

「…………」

「迷惑をおかけしてしまったことは謝ります。ただ……次は、もっとうまくやります」

 

 待雪はそう言い残し、廊下から外へと走り去っていった。

 匂宮はじれったそうに頬を擦ると、いくばくか逡巡したあと、待雪が向かったほうへと駆け出した。




【帚木志蔵】
 色々あって、ついぞ最後まで本編に登場できなかったキャラクター。更に一章シロと、なにかと不遇な立ち位置。
「そんな……あんまりだよ、こんなのってないよ」

 待雪と澪標、それに雲隠の三人がピクニックに出かけ、外で写生を行っている箒木に出会うという話や、食堂で昼食を食べ損なった箒木が急いで飛び込んできて色々話を……という展開も案としてはあったし、ちょっとだけ書いていたりもしたのだが、全て没。
 尺の都合もあるが、彼自身あまり食堂に立ち寄らない人間であるということが大きな原因だったりする。
 以下細かな設定を含めたプロフィール+オシオキ案(初期設定も混じっているので、多少本編との齟齬あり)。


【SV】
「へへっ。いーんだ、別に」
「そーだね、好きだね、絵を描くのは。画家ってほどじゃないけどさ」
「もしきみが困ったときに、ぼくに助けを求めてくれたら嬉しいって、そう思う。本当に、もしそうだったら嬉しいって思えるんだ」

【名前】
 帚木 志蔵/ハハキギ シクラ
【性別】
 男
【血液型】
 B型
【出身校】
 高山師範学校
【好きなもの】
 子供
【嫌いなもの】
 金の亡者
【才能】
 超高校級の絵本作家
【身長/体重/胸囲】
 153/48/70
【誕生日】
 5/7
【性格】
 穏やかで温厚。人に対して恨みを持ったことがなく、また同時に恨みを買うこともなかった善良な人間。基本的に善良で、結構呑気している。内向的な性格ではあるが、人と関わりたいという気持ちがあり、悪戯やおどけた態度をとることが多い。ようは子供っぽいのだ。

【容姿】
 背は普通くらい。とはいえ、華奢な体格をしているからだろうか、机の下に隠れていても気がつきそうにない。
 古ぼけた色の学生服に、マント。日章旗のマークが彫られた帽子を被り、革製の大きなリュックサックを背負っている(中には紙芝居を作るための厚紙とクレヨンが入っていて、小柄な彼が持つとより大きくみえることだろう)。髪は少し長め、目にかかる前髪を鬱陶しそうにする仕草をよく見せる。

【備考】
 母を早くに亡くしている。
 逃げ足が早い。
 悪戯好きで、子どもっぽい一面がある。まだまだ大人にはなりきれていない、未熟な子供。

【特記事項】
 超高校級の絵本作家
 絵本とは仔細が異なるが、都内の空き地などで手作りの紙芝居を子供たちに披露していた過去を持つ。おもしろく分かりやすいストーリー、シンプルでありながら独特の世界観が構築された絵。そしてつい聞き入ってしまう物読みの演技力。そんな彼の紙芝居は評判を呼び、やがて大手の出版社に目を付けられ、彼が今までに披露してきた紙芝居を絵本として再構築し販売することになった。それが、彼が絵本作家と呼ばれるようになった由縁である。
 本来、紙芝居と絵本とは根本的に異なるものであるのだが、ただ彼は絵本作家としての才覚も持ち合わせていた。紙芝居から絵本に舞台を写すにあたり、絵は技巧の色を更に強め、物読みが出来ぬ代わりに感情に訴えかけるような字と文章を手ずから書き上げる。
 今となっては絵本作家として世間に名を馳せる彼だが、時が異なれば、彼の肩書きもまた違ったものになっていただろう。
 希望ヶ峰学園が彼の才覚に見出したのは、その絵本作家としての実力だ。絵本に描かれるものは童話も多く、そして童話とは、幼い子供に対する倫理観や道徳の教育にも繋がる。
 希望ヶ峰学園は彼に求めたのだ。日本の行く末を担うであろう子供たちに対する教育の向上を。それはやがては、国の発展にも繋がる。

【美点】
 ・絵本を読み聞かせるのが得意。
 ・子供好き。
 ・明るく無邪気。
 ・人の気持ちに共感することができる。
 ・絵が上手
【欠点】
 ・人に嘘をつくことが苦手。
 ・思っていることが表情に出やすい。
 ・頭はあまり良くない。
 ・好きなことに熱中しやすく、お風呂や食事を忘れてしまうことが多い。
 ・無自覚に人を傷つけてしまうことがある。
【信仰】
 子供に対する愛情を抱いている。楽しんでもらいたい、そして、悪の道に進んでいくような人にはならないでほしいという願いを込めている。

【おまけ(オシオキ)】

『鬼』

 気づけばそこは海原でした。
 ざぶんざぶんと、波が白く打ち立てます。
 やがて見えてきた島を見て、ああ、船の行き先はあそこなのだと、彼は胸が引き裂かれるように辛い思いでそちらを見つめていました。
 木舟は砂浜に底を付け、緩やかに動きを止めます。
 後ろを振り向くと、猿、雉、犬の格好をしたモノクマが立っていまして──帚木は必死の抵抗を見せましたが、しかしあっという間にその小さな体は持ち上げられ、放り投げられる形で砂浜に足を下ろします。
 ただ着せられただけの桃色の羽織に、ただ重たいだけの刀。
 その細腕で刀を握ろうにも、どうしたって帚木の腕力では刀に振り回されてしまうので、それはかえって足枷のように彼の行動を阻みました。
 帚木は目に涙を溜めて、モノクマへ懇願を繰り返しました。
 しかし家臣の猿、雉、犬は興奮したように荒く息を吐き出して、帚木の背を押して、ずんずんと島の中央へと向かっていくのです。
 進んで行くに従って、彼の絶叫に、反応する者たちがいました。
 頭にツノを生やしたモノクマたちは、武器を構えすらしない帚木を見つけ、意気揚々と襲いかかってきます。
 彼は涙を溢れさせ、おかしくなったように頬を引き攣らせながら時を待ちました。
 けれど待てども待てども変化は訪れませんでした。何事だろうと腕の隙間から外の様子を覗いてみると、なんと家臣の動物たちが鬼をやっつけてしまっているではありませんか。
 帚木は、死への恐怖や生き残ったことへの安堵、喜びなどの感情が複雑に絡み合ってぐちゃぐちゃになった顔を綻ばせて、壊れたように泣き続けました。
 やがて鬼も全て倒れ伏せ、帚木は目に見えて明らかになった家臣たちの強さに安らぎすらも見出していました。
 自分は生き延びたのだと、傷一つ付いていない手の甲で目元を擦り、とぼとぼと舟がある砂浜の方へと歩いていきます。
 ……しかし、家臣たちの様子がどこかおかしいのです。何かを期待するように、犬に限っては舌をだらしなく垂らしながらこちらを見ているのです。
 箒木は、桃太郎の物語を思い出し、ああ、きひだんごを与えたらいいのだろうと容易に思いつきました。
 だけど、腰に手をやっても、それらしい袋というものは見当たりませんでした。桃色の羽織を探っても、どこにも、どこにもきびだんごはないのです。
 見る間に、家臣たちの苛立ちが強くなっていくのが分かりました。これはまずいと、どれだけ探しても、目的のものは見つからないのでした。
 やがて凶刃が、彼の柔らかな頬を掠めます。
 彼は呆気に取られた様子で目を丸くしました。
 それでも、家臣たちの攻撃が止むことはありません。
 肉がついばまれ、肌を裂かれ、骨はへし折られていきました。
 夜が明けるころになって、ようやくそれは終わりました。憤りを露わにしたまま、モノクマたちは砂浜へと去っていきます。
 帚木はかつて夢見た将来を思い浮かべながら、一つも無事な姿で残っていないぐちゃぐちゃの指で、地面に絵を描き始めました。
 でも、結局力尽きて、夢を果たすことなく、将来に想いを馳せることすらも許されず、孤島にて散るのでした。
 めでたしめでたし。


(熊谷さんの分は次回にしますね。ちょうど学級裁判は前後編があるので)


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010 学級裁判 問題編

 雲隠視点です。


 0

 

 

 

 生きるのに必死っていうか。

 

 

 

 1

 

 

 

 体育館の中央に、まるでカルトの儀式であるかのようにぐるりと円を囲むようにして並べられた机と椅子。

 それは壇上に置かれていた演説台とよく似ていた。

 

 配慮のつもりなのだろうか。人数分ある席は死んでしまった帚木と熊谷の分まで用意されていて、二人の席らしき場所にはそれぞれの遺影までもが置かれてあった。

 

 熊谷の写真はここに来る前に撮られたものなのだろう。写真の中の彼女は花柄の着物がよく似合っていた。

 帚木も、いつものような明るい笑顔を白黒の紙に落としている。

 明るいようでいてまるで暗い二枚の写真は、生者との明確な違いを克明に表していた。

 悪趣味の一言では片付けられないような命に対する冒涜がそこにはあり、人によっては見るにも耐えないようで、目を逸らす者だっていた。

 雲隠はただ、愚直に前を向くことしかできなかった。

 

 召集の放送によって体育館に集められた彼らが、途中諸事情による席の交代などあったものの(今朝から藤袴の体調が一向に良くならず、付き添いとして隣に待雪が立つことになったのだ)ひとまずはそれぞれが、自らの名札が置いてある机に立ち上った。

 そしてその時機を見計ったように一人の男が──神座出流が──暗幕の裏から現れたのだった。

 

「諸君」

 

 男の登場により、場が緊張や嫌悪の感情で満たされるのを肌で感じ取れた。

 良くも悪くも、あの男は生徒たちに強い影響を与えているらしい。神座は好奇心が隠し切れていない目つきでこちらに見ていた。

 

「それぞれ思うところもあるだろうが、生きるために悔いなく存分に推理をしてくれたまえ。──クロであれシロであれ、このようなところで死んでしまうというのなら超高校級の名折れと言えよう」

 

 その超高校級というのが、雲隠にとってはよく分からないのだった。明確な疑問があるわけではないのだが、ただその言葉に流されてしまっている自分がいるように感じるのだ。

 

 何か一つの分野で突出しているだけで、超高校級と呼ばれる彼らの本質はただの子供である。それも年端もいかぬ精神的にも未熟な少年少女ばかり。

 この殺し合いは何らかの実験であると謳われているが、青少年らの戦闘能力、ひいては非従軍者の環境適応能力を知りたいというのなら、そこに超高校級と呼ばれる彼らが必要であるとはどうしても思えなかった。

 だって、そんなことは他の高等学生であっても事足りるのだし、サンプルとして“ある分野において才能を発揮する未成年者”なんていう条件が必要だとは思えない。

 

 そもそも殺し合いなんていう過程を経て得た実験結果から、いったいなにを見出すことができるというのだろうか?

 

 それに超高校級なんていう肩書きも、政府公認だかなんだか知らないぽっとでの教育機関が定めた、実績も何もないおかしな格付けなのだ。

 

 真に才能を持つ人がいたとしてもだ。それでも彼らはまだまだ不揃いの青い半ちくばかりである。

 未熟で、蕩けていて、故に形が壊れやすい。

 実験材料として扱うのにはあまりにも危うい存在だ。

 どうせならもう少し時間をおいて成熟させたほうが研究結果とやらも良いものが出るだろうに──雲隠は、そう思わずにはいられなかった。

 

 思うにこの生活は、前提からなにから破綻しきっていると言えばそうだった。

 

 だから今、雲隠らが巻き込まれているこの殺し合い生活が、一体どのような目的を伴った実験の材料となるのかはてんで想像がつかないものだった。

 こんなこと道楽でできるはずがないのだから、必ず何か強い目的が存在しているはずなのに……それがどうしたって彼には見えないのだ。

 

 そんな不明瞭さは、不安として彼らの心に巣食っていた。

 人だって殺しかねないほどに。

 

「明確な制限時間を明かせば、推理が煮詰まった際に焦りが生じるだろう。そのため、今回は制限時間は設けないことにする。確実に犯人を見つけたまえ」

 

 学級裁判。

 もし雲隠らが犯人を言い当てれば、犯人は処刑される。

 逆に犯人を見つけることができなければ、自分たちは全員死ぬ。

 人の命は決して軽くはないのだということを雲隠は知っていたから、どうせならば、そんなに人が死なない方を選びたいと密かに決意した。

 

(とはいえ、僕になにができるだろうか)

 

 斜め前にいる澪標の顔をちらりと見上げてみる。

 彼女に緊張している様子はなく、いたって涼しげな、平然とした顔つきだった。

 ただそれでもちらちらとよそ見をしているあたり、今の状況に対して興味を抑えることは難しいらしい。

 

(立竝さんが興味を持つなんて珍しいことだ。……いや、最近じゃ他にもあったっけ)

 

 先日のことを思い出す。

 彼女にしては珍しい言動だったと、比較的印象に残っている記憶を思い起こしていた。

 澪標がなにかに興味を持つなんてほとんどないことだったから、長らく彼女と共に過ごしてきた雲隠は今までとは違った雰囲気を嫌でも意識させられた。

 

(そのことが気になるけど……ともかく今は学級裁判だ)

 

 一旦澪標からは目線を外して、広く体育館を見渡した。

 警戒することもそうだが、雲隠は誰かが話し始めるのを待っていた。

 結果として雲隠は、そう待つ必要もなかった。

 

 神座が話終えてからそう間も置かずに、篝火という男が「待てよ、てめェ」とその怒気を含んだ鋭い目つきで神座を睨みつけたのだ。

 篝火の声は罵声とそう変わりなく、怒りを無理やり押し込めたようなもので、今にも破裂しそうなくらいだった。

 

「本当にこの中の誰かが、帚木と熊谷の二人を殺したッつーのかよ……ッ! 帚木は小柄な体格だったし、熊谷は女だったが、だからッてアイツらも人間だ。二人の人間を無抵抗なまま殺せるやつが俺らの中にいるとは思えねェ!」

 

 血が滲む拳を台に叩きつけて、篝火は叫んだ。

 

「アンタら大人が、あの二人を殺したんじゃねェのかよッ!」

 

 神座は、その言葉に対しやや考える素振りを見せると、冷ややかな態度で淡々と言葉を返した。

 

「……それはありえないとだけ言っておこう」

「アァ?!」

「私たちはあくまで運営の側に過ぎない。こちらから諸君に危害を加えることがあるとすれば、それは自己を防衛するときだけだ。……そのときだって、私たちは非殺傷性の道具を用いる」

「じャァよォ、……じャァなんであの二人は死んだ?!」

「諸君の内の誰かが二人を殺したからだ。事実を受け入れたまえよ」

「ンな話、信じられるかよッ!」

 

 篝火は、今度は台を蹴り飛ばした。それはあまりにも強烈な蹴りで、派手な音と共に台が倒れ、木片が宙を舞った。

 だがそれに動じることなく神座は言葉を返す。

 

「信じようが信じまいが君の勝手だが……私たちは貴重な研究材料を無駄にするようなことはしない。例え二人を失ったとしてもこの実験の続行を望み、諸君との信頼関係を崩さないためにも、事の顛末をキチンと説明することだろう。……“事故が起きたのだ”と」

「……ッ! てめェ、ふざけやがッて! アイツらのことを実験材料としか思ッてねェのか……ッ!」

「おい待てっ、篝火! そこまでだっ」

 

 今にも神座へ掴み掛かろうとする篝火を、後ろから羽交い締めにする形で匂宮が止めに入った。

 二人は人殺しが起きないようにと夜警を行ったり危険人物を捕縛するなどして治安維持に奔走していたから、だからこそ人一倍、二人が死んでしまったことに対して強い悲しみと憤りを感じているのだろう。

 

 篝火は露骨なまでにその怒りを顕にしていたし、匂宮もなんとか感情を抑えているのか、顔つきはずっと険しかった。

 彼ら二人と行動を共にしていた藤袴という女子生徒だって、今回の殺人を受け、いつもの厳粛な態度とは一転し顔を青くして黙り込んでいる。

 

 匂宮は腕の中で暴れる篝火に対し、その暴力的な怒りに真正面からぶつかる形で言葉を言い聞かせた。

 

「あいつらの言っていることは倫理観に欠けるが、めちゃくちゃってわけじゃない。認めたくはないが、確かにあいつらには()()()()()()()()()()()()()()()()!」

「分かッてんだよそんなこと……ッ! 離せ匂宮ッ! 俺ァ、アイツらぶっ殺してやンだよッ! 元はといえばアイツらが原因だろうがァ! 殺し合いなんつーことがなけりャ、あの二人は死ななかっただろうがッ!」

 

 更に激しい抵抗が起こる。篝火の後頭部による頭突きが匂宮の顔面に直撃し、彼の鼻からは血が激しく噴出した。しかしそれでも匂宮は篝火を離そうとはしなかった。

 きっと彼は分かっていたのだ。ここで拘束の手を緩めてしまえば、神座へと殴りかかるだろう篝火が周りの軍人に射殺されてしまうことに。

 

「聞けよッ、篝火!」

 

 今度は匂宮が、羽交い締めのまま前方へ倒れる形で篝火を地面へと押し倒した。体育館の床と篝火の額が直撃し、緩衝材も何もあてがわれていない床面は酷く目眩がするような鈍い音を立てた。

 

「聞けッ!」

 

 そこでようやく、篝火は動きを止めた。額から流れる鮮血が、頭部を襲う鈍痛が彼を正気に戻させたのだろう。

 

「確かにそうだ。アイツらがいなけりゃ二人が死ぬことはなかった。それが事実だ!」

 

 匂宮は、張り裂けんばかりに喉を震わた。耳奥が痺れるほどに強い感情が込められた言葉だった。

 

「だからこそ、オレたちはこんなところで死ぬわけにはいかない……ッ。生きて、生き残って……! 今逸っても、むしろ殺されるだけだぞ!」

「……ッ、ああクソ! 頭では理解してンだよ! 今出てったって、銃で殺されることくれェよォ……けど、けどよォ……」

 

 匂宮の誠実な気持ちは感じ取ったのだろう、けれど篝火は悔しそうに何度も額を床へ叩きつけた。

 やるせなさや、無力さは、痛みでは打ち消せないものだった。

 

「……耳を貸せ」

 

 匂宮は羽交い締めのままに、篝火の耳元に口を寄せて、小さな声で何かを言った。

 

「…………」

 

 最初は不思議そうな顔をしていた篝火だったが、みるみるうちに冷静さを取り戻し、拘束を解かれた彼はどこか含みのある神妙な顔つきで起き上がった。

 

「ッ、そうだな……ぜッてェ生き残らねェと、ダメだな……」

 

 結局アイツらの言いなりか。と、篝火はわざとらしい大声で叫んだ。

 

 匂宮に諌められはしたものの、篝火はまだ興奮が収まっていないのだろうか。立ち上がる彼の一挙手一投足からは苛立った様子が見て取れた。

 だが、学級裁判を行うことに対し少しは前向きな姿勢を持てるようになったのか、彼はようやく壇上に立った。

 それを認めて、匂宮は言う。

 

「必ず犯人を見つけよう。それがきっと、二人に対する最大の弔いだろうから」

 

 匂宮は、裁判場にいる全員の顔をひとり一人じっくりと見てから、意思を固めるようにして言った。それは、疑心暗鬼に塗れた彼らの心を一つの方向へとまとめあげるのには十分な振る舞いだっただろう。

 同調するよう多くの人が頷く。だが、

 

「待てよ」

 

 と口を挟んだのは竹河だった。

 落ち着き払った冷たい姿勢で匂宮を問いただす。

 

「お前が仕切るのか? ……否な、俺だって命がかかっている。理由もなく誰かに仕切らせる訳にはいかない。……せめてお前が、この場を仕切るに足る理由を俺に説明してくれよ」

 

 鋭く飛ばされた悪意。

 しかしそれは真っ当な意見でもある。

 だからこそ匂宮は、正面から彼を見据えて答えた。

 

「オレは探偵だ。殺人現場に立ち会ったことは二度や三度じゃない。……だから、場を仕切る人間としてオレが向いているかどうかはともかく、少なくとも死体を初めて見たやつよりかは冷静に判断できる自信がある」

 

 それに、と匂宮はみんなに誇示するよう分かりやすく待雪に視線を向けてから続けた。

 

「──アイツが証明するように、オレにはアリバイがある。だから犯人が指揮を取るという最悪の事態だけは避けられるはずだ。……それでもオレを疑うなら、竹河、オレとお前の二人で学級裁判の指揮を取ることもやぶさかじゃないが……どうする?」

 

 匂宮の提案に、竹河は顎へ手を当て考え込んだあと、

 

「……否、俺はいい。確かにこの場においてはお前が適任だろう。さっさと続けろ」

「はぁ、勝手なやつ……」

 

 竹河の粗雑な態度に匂宮は露骨な不満を見せたが、気を取り直すようにため息をついて続けた。

 

「じゃあ、学級裁判を始めたいと思うが……分からないことがあれば必ず訊いて欲しいし、少しでも気になったことや憶えていることがあれば、曖昧なことでも構わないから伝えて欲しい」

 

 なんせ命が掛かっているんだから。と匂宮は真剣な顔でみんなに伝えた。

 彼の先程の振る舞い、言動、その全ては真摯な想いが込められたものであり、皆からの信頼を得るには十分だった。

 

 感触を確かめるように、彼は言葉を継ぐ。

 

「まずは死体現場の話から始めよう。……野分、確か検死は、お前と竹河の二人でやったんだよな。分かったことや、不思議に思ったことがあれば、些細なことでも構わないから教えてくれないか」

 

 匂宮は、みんなの名前を確かな物言いで口に出したり、しっかりと目配せをしながら指示を出すという工夫で、この場にいるみんなの冷静さを保つために不器用ながらも助力しようと試みているようだった。

 彼自身どこか手慣れているのは、やはり死に直面する経験が幾度かあったからなのだろう。この場にいる誰よりも、彼は冷静に務めようとしていた。

 この中に人殺しがいるかもしれない──そんな不安が満ちる中で、アリバイがある上に探偵という事件を解決するスペシャリストが指揮を取っているのはとても心強いことだろう。

 だからか、死体について尋ねられた野分は素直に答えた。

 

「あ、ああ。分かった、尽力しよう。……とはいえ、他殺体を診るのは初めて故にな……上手く、伝えられるかどうか……。竹河クン、間違えているところや不足している部分があれば、補足してはくれまいか」

「いいだろう」

 

 傲慢な態度で竹河は応える。

 ただ彼も真剣なのだろうか、その口ぶりに淀みはない。

 

 そうして恐る恐る、匂宮が再度訊ねた。

 裁判場にいるみんなに情報を共有するということが目的としてあるからか、ハッキリとした口調で話しかけていた。

 

「……どうだった? 死因や、死亡推定時刻は」

「うむ……死因についてだが、二人とも、首元に切り傷があった。他に目立った外傷もなかった故、おそらくはそれが死因であろう」

 

 野分は比較的冷静な顔をしているが、現場を思い出しながら話しているのだろうか。緊張や恐れからか、その額には汗が浮かんでいて、声も少し強張っていた。

 そして、眉間の皺を大きく寄せ、苦しそうに声を絞り出して言った。

 

「……十中八九、失血死だ。あれは即死だ。現場を見た者なら分かると思うが、あれほどの量の出血をして生きていられる人間はおらん」

「そうか、即死か……死亡推定時刻はどうだ?」

「そのことだが、ボクも死体について詳しいわけではない故、なんとも言い難いのだが……」

 

 言葉を濁らせながらも、野分は言った。

 

「図書室に置いてあった本などを参考にして、死亡時刻を推測してみようと試みたが……なにぶん今が寒い季節ということもあってか、殺人が起きた時間帯は不明瞭である。ただ、血の渇き具合や二人の目撃情報からして、深夜帯に行われた殺人であることは確かであろう」

 

 竹河はそれに同意を示す形で頷いてみせる。

 それを見て、匂宮は残念そうに肩を落とした。

 

「……帚木の姿を最後に見たのは、オレたち──つまり藤袴と篝火、それに加えて野分とオレの四人が、夜警を終えようとした頃。つまりバッテリー交換を終えてから少し経ったころだ。……その時間帯に、人の姿を見かけたやつはいないか?」

 

 匂宮の問いかけに反応する者はほとんどいなかった。

 深夜帯はほとんど人が出歩かないため、目撃情報が出ないのも無理はない。

 ややもって、跳ねるように壱目が台から身を乗り出し、元気よく手をあげて答えた。

 

「はいはーい! 目撃情報なら私が聞いてまわったのでまとめてお伝えしますねえ! 犯人が嘘をついている場合はこの限りじゃありませんが、鑑みてみるに、昨夜最後に人の姿を目撃したのは匂宮さんら夜警組かと!」

「……つまり、オレたち以外誰も見てないっつーことか」

「そうなりますねー! そも、私はお布団に入るとぐっすり寝ちゃうタイプですしー、あの時間帯だと目撃情報はやはり薄いですねー! 当然というか、ちょっと頭を働かせて考えてみればわかる話というか!」

「…………」

 

 不機嫌そうな顔をして眉間に皺を寄せた匂宮だが、軽くため息をついただけで不満を口にはせず、すぐに帚木を目撃した時のことについて語り出した。

 

「昨夜見かけた帚木の様子についてだが……夜警をしているときに美術室に灯がついているのを見かけたから、早く寝るようって声をかけた。それが最後だった」

「ただ明かりがついていただけという可能性はないのか? 既にその頃には死んでいたかもしれない」

 

 と突っ込みを入れたのは竹河だ。

 それに応じて、匂宮が返す。

 

「いや、それはない。返事だって返ってきたし、なによりちゃんと顔を見て言った。このことは……篝火、お前も一緒にいたよな」

「あ、アア。俺も帚木の顔をきちんと見たぜェ。……暗がりだったが、あんなに小柄なヤツはアイツしかいないし、声だってアイツのモンだったしよォ」

「つまり帚木は美術室にいたんだな」

「そうなるな。……夜警は同じところを異なる班が一度ずつ通るルートで行なっているから、一応、藤袴と野分のやつも見ているはずなんだが……」

「ああ。帚木クンと話をした憶えがある。……そうだろう? 藤袴クン」

「…………」

 

 藤袴は言葉も出せないようで、ぽかんと空いた口を下に向けたまま、微かに首を縦に傾けた。

 

「……チクショウ、藤袴がああなッちャァ、なんか調子出ねェなァ……」

「確かにな……」

 

 匂宮や竹河、壱目のような、殺人が起きても毅然と振る舞える人間は非常に稀と言えた。

 単純に慣れている、単純に他人の死を恐れていない、単純になにも怖がらないというのは、並大抵の人には有り得ないことなのだ。

 藤袴は、なにかあったときそれを無視することができない真面目な性格が災し、事件に真剣に向き合ってしまったせいで、より一層心のダメージが大きいようだった。

 他にも意気消沈している者は何人かいたが、やはりとりわけ藤袴の心が最も派手に、根本から折れてしまっていた。

 

「そんなやつ放っておけ。気にするだけ時間の無駄だ」

 

 冷たくそう言い放ったのは竹河だった。

 

「ンだとテメェ! いくらなんでも、その言い方はねェだろうがよォ!」

「待て、篝火。……確かに、今は藤袴のことを気にしてやれる猶予はないんだ。時間制限はないと言っていたが、オレたちはいつまでも議論を続けられるわけじゃない。それに今何をしたって、藤袴のやつがすぐに立ち直れるってわけでもないんだ。アイツには時間が必要だ」

 

 匂宮は篝火を諭し、それから今度は竹河に目を合わせて言った。

 厳しさと共に苛立ちが含まれているように見えた。

 

「だが、そんな言い方はないんじゃないのか。もう少し言葉を選んだ方がいい」

「フン、事実を言ったまでだ」

 

 竹河は尊大な態度をそのままに返す。

 匂宮はまた溜息をついて、無理矢理議論を再開した。

 

「熊谷は……熊谷のやつの目撃情報はないのか? 壱目」

「バッテリー交換のときが最後じゃないですかねー? 帚木くんに関して言えば美術室にいたという皆さんの証言がありますけれど、彼女に関してはバッテリー交換後に個室まで戻ったのかすらも不明ですー!」

「そうか、ならやはり殺人はバッテリー交換の後、ということになるのか」

 

 熊谷が最後に発見されたのはバッテリー交換の後。

 帚木はそれよりもさらに後で、おそらく昨夜出歩いていた人間の中では最後の目撃情報となっている。

 いずれにせよ、殺人が起きたのはそれよりももっと後なのだろう。

 

「深夜帯ってことは、アリバイ……つまり殺人が起きたとき現場にいなかったことを証明できる人は、ほとんどいないってわけだよね」

 

 と雲隠。

 それに付け加え、確認するように明石がこう言った。

 

「確か匂宮と待雪の二人はアリバイがあるんだっけか。……夜、個室、それも二人で。なにをしていたのかは、まあ野暮なことだから聞かないでおくけどな」

「故郷の話をしていただけだ」

 

 匂宮は食い気味に否定する。

 匂宮と待雪とがお互いにアリバイを証明しあっているということに関し、竹河が一言申しそうなものだったが、彼は特に何も言うことはなく事の趨勢を見守っていた。

 すると。

 

「私は?」

 

 素っ頓狂な声をあげたのは鯉口だ。

 

「私は昨夜、藤袴に“強引なかたちで”個室へと連れ込まれ、この荒縄でキツく縛られてしまっていた。自分一人じゃ解けないほどにキツく。正直興奮しました」

 

 鯉口は後ろ手に繋がれた縄の結び目を誇張するように見せる。確かにそれは固く縛られていて、身動きひとつ取ることだって難しそうだった。

 

「だから、こんなドアノブ一つ扱えないような格好で夜を出歩くことは──ましてや人を、一人のみならず二人までも殺めてしまうといったことは、私には不可能であると思うのだが」

「ああ? 貴様何故縄で縛られているんだ……? ……チッ、これだから女のすることは分からない……」

 

 と、竹河が複雑そうな表情でかぶりを振っていた。

 意に介さず、鯉口が話を続ける。

 

「ちなみに昨夜から私は一睡もしていない。だって女の子の部屋は緊張しますから! いい匂いがした! ので、付け加えて藤袴が部屋から出ていく姿は見ていないと証言しよう」

「つまり、鯉口と藤袴の二人もアリバイ成立ってわけか……?」

「そうか? あの変態なら、いざとなれば縄だって抜け出せそうな気がするが」

「だとしたらよォ、藤袴が襲われてらァ」

「それもそうか……」

 

 納得したのか、匂宮は幾度か頭を縦に振った後、それから困ったように匂宮がつぶやいた。

 

「つまりオレ、待雪、鯉口、それから藤袴の四人以外はアリバイがない時間帯に、二人は殺されたというわけか」

「容疑者が多いなァ、なにより目撃情報がねェのが辛ェ」

「鯉口。足音とかは聞こえなかったのか」

「藤袴の心拍に集中しすぎたせいか、そこまで意識が及ばなかった……ただ後悔はしていない」

「……ああ、クソ。血塗れのシーツとかよォ、落ちてなかったのかァ?」

 

 篝火が裁判場にいる全員に向けて、大きな声で尋ねた。だが、声は帰ってこない。

 目立った証拠、異変というものは見つかっていないらしい。

 確かにあれほどの出血があったのにも関わらず、血濡れになった衣類などはどこにも落ちていなかった。個室などに隠されているのかもしれないが、少なくとも寄宿舎の廊下などに血痕が残っていたという話は誰からも聞かない。

 

 推理が膠着を見せ始めた段階で、待雪がボソリと呟いた。

 

「どうして犯人は、人を殺そうと思ったんでしょうか……」

「? 変なこと聞くンだな。そりャ外に出たかッたからじャねーのかよ」

「そう、ですか。……それもそうですよね」

 

 待雪は残念そうに呟く。

 暗い表情で、悩み込んでいて、あまり気分は良くなさそうだった。

 匂宮は少しだけ気遣うそぶりを見せたが、すぐに気を取り直して、再度野分に訊ねた。

 

「現場には、他になにもなかったのか?」

「先程あげた点以外はなにもない。証拠品らしいものもなにも辺りには落ちていなかった故な、特定の誰かを邪推することすら出来ぬであろう。……ううむ、だが、その……犯人への手がかりとなるかは分からぬのだが……」

「なんでも構わない。気になることがあったなら言ってくれ」

「……そうだな。これは言っておかなければ、ボクの気もすまない……!」

 

 野分は深く呼吸をしたあとに、震えた声で怒りを吐き出した。

 

「犯人も、惨いことをする……! 熊谷クンの喉に突き立てられていた包丁は、……深く、抉るように刺さっていたのだ……っ」

 

 語られる惨状。

 雲隠も、それは確かに目にしていた。

 あれはただ殺すという目的だけだと残らないような傷口だった。

 恨みとか、殺意とか、そういうのがごちゃ混ぜになった挙句生まれた歪みなのだろうと思われた。

 

「きっと熊谷クンを殺した犯人は……強い恨みを彼女に対して抱いていたに違いない……!」

「……! 確かに、恨みでもなければそんなふうに人は殺さない……」

 

 犯人は、熊谷と何らかの因縁があった人物。それがきっと、この事件解決への糸口となりうるのかもしれなかった。

 

「つってもよォ、アイツ、仲悪いヤツとかいたッけか」

「馬鹿、篝火。お前は鈍感だから気付かないだけで、意外と女子の間では些細なことで喧嘩が起きるって聞いたことがあるぞ」

「マジでか。コエーなァ、女子」

「ちょっと待ってくださいよー! 熊谷さんがどなたか女子と仲が悪いなんて話、私聞いたことがありませんよう! むしろ篝火さんや匂宮さん、それから……竹河さんなんかがイザコザを起こしてたっていう話なら、私よく聞きますけどねー!」

「エエ? 俺がァ?!」

「…………」

 

 心の底から驚いている間抜けな顔で聞き返す篝火。反論することもなく話に聞き入っている竹河。

 匂宮は既にアリバイが証明されているため犯人の候補としては除外されているものの、上の二人ばかりはそうはいかなかった。

 

「イザコザ、ね。私、その二人が熊谷さんに叱られているの見かけたことがあるわ。……そこの彼はすっごくプライドが高そうだから、恨んで殺したということも、あり得なくはないのかもしれないけれど」

 

 意地悪な笑顔を見せて、東家が鋭く指摘した。

 彼女は先程まで捜査時間も通して暗い面持ちで行動を起こす気力もなかったようだが、ようやく事件に向き合えるようになったのだろう。顔を前に向けて議論の輪に加わっていた。

 

 ただ竹河もこれには黙っていられなかったのか、わずかに青筋を立てて反論の姿勢に入った。

 

「……好きに言えばいい。ただ俺は、人を殺すならもっと上手くやる。そも凶器を現場に残すようなことはしないし、殺しを二度行うというリスクが高いことだってやらない」

「アァ?! ンだよてめェ! 人が死んでんだぞッ!」

「静かにしとけ篝火。お前も竹河と同じくらい疑わしい容疑者なんだぞ」

 

 匂宮が嗜めるように言った。

 そう、篝火もまた竹河同様に容疑者の一人であるのだ。

 それを指摘するように、東家が今度は篝火に対して疑問を投げかけた。

 

「篝火さんは、確か夜警を行っていらっしゃるのでしたよね?」

「あ、あァ。だよなッ、藤袴!」

「え、ええ。……あ、いや、すみません。その……私、話を、聞いていませんでした」

 

 一度肯定したものの、自身なさげな声色でそれを取り消すと、再度藤袴は虚げに目を閉ざしてしまった。

 それを見て篝火は、やきもきとした感情を隠そうともしていない。

 

「あァーッ、クソッ! ッたくよォ!」

「……おほん」

 

 やり切れない思いが怒りとなって噴出している篝火を横目に、東家が質問の続きを話した。

 

「夜警を行っているのでしたら、匂宮さんや藤袴さんらと別れた後、一人で外に残り、それから殺害を……ということもあり得るのではなくって?」

 

 確かにそれはあり得ない話ではない。

 夜中に一人で教室にいた帚木を篝火は目撃しているわけであり、そこを狙って殺害を企てるのは自然な話である。その上で、後から殺害現場に訪れた熊谷を、目撃者をなくすために殺したのだ……と推理することは不可能ではなかった。

 特に熊谷の喉元の傷の深さが、なにより印象的に、因縁があったのだという彼を疑わせた。

 

 しかしそこで匂宮が声を上げた。

 

「まあ待て! 篝火の証明は俺がする」

「あなたにできるのかしら」

「ああ、できるさ。やってみせる」

 

 匂宮は少しの間考え込むと、ハッとなにか気がついたのか、ややもって応えだした。

 

「篝火は包丁を使うよりもきっと、力を使うやり方の方が得意だ。それこそ鈍器とか、縄とか、もし人を殺すとしたらそういうのを凶器として選ぶはずだ」

「馬鹿にしてンのか?」

「違う。そもそも篝火、お前は包丁を使い慣れてないだろ。……前にみんなで料理をしたときに、こいつだけなぜか荷物運びだったからな。そうだろ? 待雪」

「え、ええ。カガリビさんは包丁の扱いがとっても危なっかしいので、荷物運びをお願いしました……」

 

 と、待雪が証言する。それを認めて匂宮は深く頷き、話を続けた。

 

「篝火は、数日前に“自分には包丁が扱えない”のだと気付かせられていた。だってのに、わざわざこんな殺人という土壇場で包丁を使うと思うか?」

 

 そう言われた東家は、神妙な顔つきで篝火の顔を見た。

 やがて諦めたように彼の言葉を認める。

 

「……それもそう、かしら。確かに人殺しを行うのに、わざわざ不得意なものを扱うとは思えないもの……さきほど話に上がっていた鈍器や縄の方が、よっぽど現実味があるわ」

「ああ。つまり篝火だって、犯人である可能性は薄いはずだ。こいつの包丁さばきの下手さは本物だ」

「おい、やッぱしテメェら俺ンこと馬鹿にしてンだろ」

「してない」

 

 篝火は顔を顰めて、じっと匂宮の方を見つめる。匂宮は気まずそうにそっぽを向いた。

 

「断じてしていない」

「嘘くせェ〜こいつ!」

 

 多少の沈黙が裁判場に流れたあと、気まずそうに待雪が口を開いた。

 

「以前カガリビさんとお話させていただく機会があったとき、クマガイさんのことも話題に上がりましたけど、殺したいほど恨んでるみたいな雰囲気ではなかったです。……むしろ、楽しげですらありました」

 

 それに篝火は気落ちした表情で付け加えた。

 

「……ま、怒られることもあったけどよォ。悪い気はしなかッたンだ。幼馴染にもああいうヤツいるから」

「となると……私怨という線で疑うなら、残るは竹河クンくらいか」

 

 これまでの証言を受けて、ちらりと竹河の方を見てから野分が言った。

 だが、意外にも匂宮がそれに反論を告げた。

 

「ここまで話しといて何だが、私怨ってのは判断材料にはならないと思う。もとより殺しの理由は“外に出たいから”の一つだ。たった数日話しただけのやつを、恨んでいるからという理由で殺すのはまずないと思う。それにリスクだって高い」

「確かに、それもそうだな。……誰を殺すか選ぶのに、恨んでいるからというのは、あまりに個人的な理由か」

 

 そうして、再び議論は膠着状態に陥った。

 なにより証拠品となりうるものがあまりに少なすぎるため、犯人への糸口というものがまるで見えないのである。

 

 超高校級の探偵という肩書きを持つ匂宮ですらも、ないものを見つけ出すことはできない。それができるのは神くらいだろう。

 ただあるいは澪標ならば、誰が犯人なのか、事件の全容すらも既に特定しているのだろうかと、雲隠は向こうに立つ澪標をじっと見つめた。

 

 彼女は議論に関与することはせず、場を見定めているように見えた。

 

「そうだ」

 

 停滞していた空気を押し進めたその声は、篝火のものである。

 

「つーかそもそもよォ、なんで熊谷のヤツは夜中に出歩いてたんだァ? そこが分からねェよなァ……夜中に出歩いたせいで死んじまッてよォ、結局、その現場を見ちまッた帚木も殺されて」

「犯行現場を見られて……というのは正しいかもしれないが。ただ順番が違うな」

 

 竹河が即座に否定した。

 野分も同じ意見のようで、首を縦に振って同意を示した。それは確かなことらしい。

 

「肝心の凶器である包丁は熊谷に刺さっていた。熊谷が先に殺されて帚木が後だと言うのなら、熊谷に包丁が刺さっているのはおかしいとは思わないか?」

「……時系列が違うッつーことか。帚木が後に殺されたなら、包丁は帚木に刺さッてるはずだもンなァ……。……犯人が順番を錯誤させるためによォ、熊谷を二度刺したってことはねェのか」

 

 篝火が呈した疑問に、またも竹河が否定で返した。

 

「熊谷の体に傷は一つしか見当たらなかった。一度刺した場所にもう一度刺したということもないだろう。……傷口を開いて調べてみたが、それらしい痕も残ってはいなかった。このことは野分も確認済みだ」

「うげェ。竹河さん、澄ました顔してえげつないことするんですね。生きるのに必死っていうか」

 

 壱目が議論に口を出す。

 竹河は明らかにそれを無視していた。

 

「だとすると、犯人は元々帚木を狙っていた……そこで熊谷に殺害現場を見られてしまったために、熊谷も殺すことになった……ということになるな」

「熊谷クンとの私怨どうこうの筋はほとんどなくなったわけか。……もともと犯人は、帚木クンを殺そうとしていたことになるのだからな」

 

 ただ、と。竹河が待雪の方を一瞥した後にこう忠告した。

 

「可能性の話をするなら、他に凶器があるという可能性もないわけではないがな。仮に凶器があの包丁一つだけだというのならそう言う順番になるが、他のなにかが殺しに使われていたのなら、それもまた変わってくるだろう」

「というと?」

「先に熊谷を刺して、包丁はそのままにし。そのあと別で用意しておいた凶器で帚木を殺傷した可能性があるってことだ」

 

 ただ、と竹河はあくまでもそれが憶測に過ぎないのだということを強調する。

 

「……その場合は、どうして帚木を殺すために使った凶器だけを隠したのかが謎となって残る。──これはあくまで個人的な推測に過ぎないが、熊谷の死体に凶器が残されていたのは殺害の前後を誤認させるためのものかもしれない」

 

 それが犯人にとってどのような利益になるのかまでは分からんが。と最後に竹河は言った。

 

「犯行の順番を誤認させることによって、どのような得が生まれるのか……それで得をする人物は誰なのか……。証拠がなにもない今は、これも考えることを視野に入れておいた方が良さそうだ」

 

 と、匂宮が話の総括を述べる。

 確かにそれは重要そうな話であった。深く抉るように刺さっていたという包丁しかり、不自然な点はいくつかある。

 それが犯人への手がかりとなりうる可能性はゼロではなく、少しばかり、解決への一手に近づき始めている予感が彼らの中であった。

 

 雲隠がそれらの証拠を曖昧な糸で繋ぎ合わせて、ぼんやりとした思考を巡らせて考えていると、東家が澄んだ声色で疑問を呈した。

 

「そういえば、あの包丁ってどこから来たものなのかしら」

 

 包丁というのは、凶器となった収穫包丁のことだろう。

 そしたら待雪が困ったように答えを返した。

 

「い、以前、倉庫に置いてあるのを見ました」

「厨房にはないのか? なんたって包丁だろう」

「……収穫包丁は農機具の部類なので、厨房においてある調理器具とは根本的に違います……芯が硬く、素手での収穫が難しい野菜を収穫するときに使う包丁なので……要は稲刈りに使う鎌のようなもので……」

「そうなのか。ならば食堂には置いていないか」

 

 と納得したのか、野分は頷いて答えた。ただ不機嫌そうに、竹河がこうも言った。

 

「あくまで熊谷という女の喉に刺さっていた包丁が倉庫にあるものだったというだけで、帚木とかいうのを殺めた凶器が食堂になかったとは言い切れんがな。……ただ、そこの女にはアリバイがあったか」

 

 威圧を感じさせる切長の瞳がジロリと待雪に向けられた。

 彼女は一瞬怯むように肩を跳ねさせたが、しかし震える声でありながらもしっかりとした言葉遣いで食堂の話を始めた。

 

「食堂の道具や食器はわたしが管理しているので、今朝も食堂を利用する際に点検したのですが……この島に来てから今に至るまで調理器具や食器の紛失はありませんでしたし、食堂から鋭利なものが持ち出されたということはないと思います」

「……朝早くにクロが忍び込んで、片付けたなんてことはないのか?」

「それもないかと……全ての調理器具は、昨夜と全く同じところに置いてありましたし、洗った痕もありませんでした。それになにより、わたしは朝時間になってすぐに食堂に入りましたから、食堂を利用する人がいれば気付くはずです」

「…………、もっとも貴様が嘘をついていた場合はそれも信じられない話なのだが……貴様はあくまでもシロ。嘘をつく理由はないのか」

「ええ、まあ……」

「もっとも、貴様が食堂を利用する前──すなわちこの殺し合いが始まるよりも早くに、何者かが食堂へ入り包丁を盗み出したというのなら話は別だろうが……それはもう、議論するだけ無駄というものか」

 

 残念そうに竹河は腕を組んだ。

 あまり待雪のことをよく思っていないらしく、彼の言葉には多少なりとも私情が混じっているように見えた。

 

 待雪の話に付け加える形で、椎本が「収穫包丁が厨房にないのは、僕も見たよ。つい先日熊谷さんや藤袴さんと一緒に厨房を使わせてもらう機会があったけど、それらしいものは見当たらなかった。……そう、つい、先日」と待雪の言葉へ悲しげに同意する。

 熊谷のこと思い出していたのだろう。彼の大きな背は沈痛なほど悲しみで曲げられていた。

 

 

「つまり夜中は出入りができない食堂からは凶器は持ち出されておらず、いつでも空いている倉庫から凶器を調達した可能性が高いということか」

「……その収穫包丁なんだけど、二日前には三つ倉庫に置いてあったんだ」

 

 と椎本が緊張した顔つきで話した。

 

「以前、待雪さんや熊谷さんと収穫包丁を使う機会があったときには三つ置いてあったから、今倉庫に包丁がいくつあるのかで、凶器となった包丁がいつ持ち出されたものなのかが分かるかもしれない」

「んじャァ、さっき言ってた凶器のすり替え……食堂からっていうのは無理かもしんねェけどよォ、倉庫にある同じ形のものってなると、可能なんじゃねェのか?」

「それは十分あり得るな……そも帚木とかいうのを殺した凶器に関しては、鋭利なものならなんだっていいんだ。一度倉庫の内容物を調べて、凶器となりうるものがないかどうかを調べたほうが良い」

 

 と言ったあと、竹河は野分に視線を送った。

 その意味を瞬時に読み取って、野分は慌てて足元に置かれた鞄から紙の束を取り出した。

 

「以前、匂宮クンと椎本クンとの二人で、倉庫になにが置いてあるのかを表にしてまとめたんだ。……これと照らし合わせて、なくなっているものがないか調べてみよう」

「じゃあ、オレと椎本、野分、それから……竹河も倉庫へ点検に行くぞ。篝火と……篝火は一人で、他の倉庫に誰も入らないよう警戒してくれ」

「オウ」

 

 といったところで、裁判は一度、包丁の確認を行うため中休憩を取ることになった。




篝火「やろう、ぶっころしてやる」
神座「死体が喋っている」
銃「」パァン

 あの島で一番腕力が強いのは篝火なので、匂宮が普段から人に羽交い締めされている経験がなければこうなってた。


【議論】
 大正時代の高等学生はエリート揃いなので、みんな頭が良いし議論もそれなりに進んでます。
 とはいえ得意不得意はあるし、殺人が起きてしまったことに対してショックを受けてしまった人も多く、心傷から議論に参加できていない人がいたりします。
 今の鯉口さんは単純に馬鹿なので議論に参加してません。

【包丁】
 ヤンデレ御用達の万能アイテム。バレンタインデーに向けてチョコを刻むも良し、想い人を永遠のものにするも良し。
 無印でも使われた凶器であるが、厳密にいうと今回使われた包丁は収穫包丁という料理に使われるものではない……細かいところは割愛。
 ちなみにスーダン2の一章で使われた凶器は鉄串で、調理器具。包丁といい鉄串といい、厨房は初心者向けの凶器が揃えられているので、殺し合いに巻き込まれたときは食堂へ行くのがオススメ。古事記にもそう書いてありました。
(クロの厨房と倉庫の使用率は異常。封鎖した方がいいんじゃないかな)

【モノクマファイル】
 今作にはモノクマファイル的なものが存在しません。というのも、そもそも大正時代には監視カメラがなかったりするので、運営側がそういったものを作れなかったりするんですよね。なのでそういった都合もあり、今作ではモノクマファイルは廃止。(まあ、本編でも大して情報くれないときとかありましたし、あってもなくても変わりませんよね)


※次回解決編です。一応次の話で一章は完結します。


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011 学級裁判 究明編

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 強い光は人を盲目にするのよ。それが希望ならば、よりいっそう。

 

 

 

 1

 

 

 

 学級裁判は一度、休憩といった形で中断することになった。議論が平行線を辿っていたこともあり、こうして頭を休ませる時間も必要だろうと理由付けて、裁判場からの途中退出を神座らは認めてくれた。

 学級裁判という非日常なイベントに慣れていないのは神座らも同じらしく、柔軟な対応だった。

 

(お腹減ったなあ……。学級裁判、思ったより早く終わってよかった)

 

 厳密には終わっていないのだが、雲隠は体育館から出た直後にそんなことを考えた。

 ただ彼が空腹なのも無理はない。死体発見が朝一番だったこともあって朝食がまだである人がほとんどで、大半は体育館を出てすぐに食堂へと直行していたくらいなのだから。

 中には脇目も振らず捜査のため倉庫へと向かっていった人も数人いるが、彼らとて空腹であるのに違いはないことだろう。

 それになにより待雪の料理はとても美味しいから、疲労状態の彼らにとっては食事とは癒しでもあった。

 ただ不幸なことに、彼は当分食事にありつくことができなさそうだった。

 というのも、玄関ホールに出たところで澪標に捕まり、そのまま自室へと強制的に連れられてしまったのだ。

 

 首根っこを捕まれた状態で部屋に入室すると、中には見知った顔ぶれが揃っていた。きっと澪標が集めたのだろう。明石と待雪の二人は、最後にやってきた部屋の主を奇妙そうに見つめていた。

 雲隠は雲隠で、いつものメンバーだと二人を見て思った。いつもと呼べるような頻度で顔を合わせているわけではないが、しかし雲隠にとって集まりというのならこの四人だった。

 

 雲隠は重たいトランクを玄関に下ろし、扉に背をもたれかけさせて部屋全体を俯瞰で眺める。

 中央に位置する卓袱台では居心地悪そうに待雪が正座していて、入って右にあるベッドでは眠気を隠すことなくあくびを繰り返す明石が寝そべっており……なんだか温度差を感じさせられる人たちだなあと、改めてお互いの共通点の少なさを実感していた。

 

 部屋の鍵を閉めた澪標は自分のトランクを頭上に掲げると、身軽な動きで雲隠の隣を通り越して、部屋の奥まで歩いて行った。

 そのとき明石が、横を通り過ぎていった澪標の背に向けて言った。

 

「んむ……なんの用だよぉ……むにゃ……たつなみぃ」

 

 朝から何も食べていないらしい明石は、空腹と眠気からか覇気が感じ取れない目で恨めしそうに澪標を睨んだ。人が死んでしまったにも関わらず彼女は平常運転で、そういったところが、彼女の異彩さを引き立てているように見えた。

 

「ごめんなさいね。時間までには食堂へ寄るつもりだから、ね」

「むん……本当か? ……まあ、今ぁ行ったってぇ……、かおるがここにいるんじゃあ……うまいものは、食べられねえしなぁ……むにゃ」

 

 おおきなあくびをしたあとに、明石は肩を揺らしながらクツクツと笑った。

 

「しっかしかったるいなあ、学級裁判。きのう徹夜したからか、眠くって最初の方の記憶がない」

「明石さんって、もしかして単純に記憶力がなかったりするのかしら? 名前を憶えてないっていうのも、有名な科学者にはありがちなエピソードだし」

「そこいらの天才と一緒にするな。……ワタシは、未来一の天才なんだからよぉ」

 

 明石は機嫌を悪くしたのか頬を膨らませた。

 せっかく起こした体も布団に沈めてしまった。

 

 澪標はそれを見て少し不機嫌そうに目を細めたが、すぐに待雪の方へ視線を移した。

 それを待雪も感じ取ったのだろう。

 

「あ、あのう」

 

 と落ち着きのない表情を待雪はしていた。

 

「わたし、食堂で料理を作らなきゃいけないんですけど……」

「安心してちょうだい。ちゃんと料理ができるくらいの時間は作ってあげるから」

「ですが……」

「とにかく」

 

 ぱしん、と手のひらを胸の前で合わせて、澪標さんはよく通るきれいな声でこう言った。

 美しい声だと思う。意味もなくずっと彼女の言葉に耳を傾けていたいとすら思うが、それではいけないのだと微かに残る己の理性が意識を引き留めた。

 彼女が大切そうにして話す事柄は、必ず重要なことなのだから。だからきちんと立竝さんの話は聞く必要があった。雲隠にとってはいつもそうだった。

 

 ただ雲隠の厳粛な心構えとは相反して、澪標は大仰に脚の筋を伸ばしながら、あっさりとこんなことを言った。

 あまりにも簡単に、こともなさげに言ってしまうので、雲隠はそれを聞き流してしまいそうですらあった。

 

「私ね、じつは誰が犯人か分かってるの」

「? それってどういう……」

 

 立竝さんは首輪に繋がれているトランクを壁へ立てかけると、一切の無駄が省かれた所作でそこに腰掛けた。組まれた脚の隙間からは石膏のように白い太腿がわずか光に照らされていて、けれどその先は暗く、謎めいた深みすらあった。

 

「ねえ、薫さん」

「は、はいっ!」

 

 ずっと挙動不審に部屋を見回していた待雪は素っ頓狂な声をあげ、澪標の顔を見上げるように目を覗かせた。

 澪標はとても嬉しそうに頬を緩めると、迷いのない瞳で話した。

 

「裁判で少し気になるところがあったのだけれど、今ここで訊ねてもいいかしら?」

 

 さっきも言ったが、待雪は部屋の中央にある卓袱台のところで正座していた。

 側面のベッドでは空腹でふて腐れた明石が寝転がっていて、正面には光を背に澪標が上から見下ろしている。後ろにある玄関では出口を固めるように雲隠が立っていたので、待雪はなんだか囲まれているような状態にあった。

 雲隠は別に、待雪の退路を断とうとして玄関に立っていたわけではないのだが、しかし心理的にも物理的にも閉鎖されている状況というのは、臆病な待雪の心を十分に窮地へと追いやるものだろう。

 

 そもそも澪標に見つめられて心がざわつかない人間なんていない。

 事実待雪は強い緊張を感じているようで、しどろもどろになりながら受け答えをした。

 

「え、ええ、別に。……わたしに答えられることであればなんでも構いませんけれど。……事件の解決につながるのなら、なおいっそう」

 

 待雪はどこか澪標を警戒しているような目つきで続けた。

 

「ただ、その、収穫包丁について話せることは、学級裁判でのことがすべてです──詳しいことが知りたいのなら、倉庫へ行った方が有意義かと思いますけど……」

「倉庫になら後で行くつもりよ」

 

 と澪標が即座に返した。

 

「私はね、どうしても確認しておきたいことがあるの。だからこうして部屋にも呼んだのよ」

 

 訝しげに待雪は目を細めた。

 すると澪標はその一瞬の隙を狙ったかのように、言葉に柔らかみを持たせることなく、ただ直球に待雪へ言葉をぶつけた。

 

「薫さん。あなた、犯人が誰か分かってるんじゃないの?」

 

 待雪の弱気な表情が明らかに変わった。

 

「分かっていて、あえてあの場では何も話さなかったんじゃないの?」

 

 くあ、と明石があくびをする。

 待雪は震える喉で生唾を飲み込むと、ぐんと背筋を伸ばして、澪標を睨み付けた。

 

「……どうして、そう思ったんですか」

「その反応はアタリかしら? ……包み隠さずに言うとね。薫さん、裁判のとき、様子が変だったから」

「様子が、変……?」

 

 彼女が何かおかしな言動をしていただろうか。

 すくなくとも雲隠は、それらしい異変は感じ取っていなかった。

 明石もそれは同じようで、なんのことだかさっぱりだと首を傾げている(眠くてなにも話を聞いていなかったのかもしれないが)。

 

 澪標だけに見えているものがきっとあるのだろう。雲隠はまだ、その領域に達していないと言えた。

 

「匂宮くんと夜一緒にいたっていう話は嘘みたいだし。普段は真面目な薫さんが嘘をつくなんて珍しいなって思っていたのだけれど」

「……ほんとうにそれだけですか」

「そう不審がらないでちょうだいよ。別に彼が犯人じゃないのかって疑ってるわけではないのだから」

 

 優しい声色で澪標は言った。

 ただ彼女自身はなにも優しいようには思えなかった。

 厳しく、待雪の心を追い立てている。

 

「それに私は、あなたが直接人を殺したとも思っていないわ」

 

 澪標は柔らかく笑っていて──でもそれは作り笑いで──ただ真実を述べる。

 きっとこれからが本題なのだろうと、雲隠は身構えた。

 

「私が気になったのはね、薫さんの言動についてよ」

 

 彼女は人差し指を示して言った。

 

「みんなは"誰がやったのか"を考えていたのに、薫さんだけはずっと"なぜやったのか"を考えていたでしょう?」

「…………」

Who done it(誰がやったのか)でもHow done it(どうやったのか)でもなくって、あなたが気にしていたのはWhy done it(なぜやったのか)。……誰だっておかしいと思うわよ? 殺しの動機なんて、この島じゃ一つしかあり得ないのに」

 

 この島における殺しの動機。それはもちろん、生きてこの島から出ることだ。それだけが動機たり得る。

 だが、待雪はその限りではなかったらしい。澪標の言葉は図星だったようで、待雪は驚きからか、気まずそうに下を向いて黙り込んでしまった。

 それでも構わず、澪標は言葉を重ね、律した。

 

「あの場面ではみんな誰がやったのか、どうやって殺したのか手段を明らかにしようと励んでいた。だってそれが、彼らにとっては唯一の生きる道だから──、……けれどあなたはずっと、なぜ犯人が人を殺すことになったのか。その理由を知りたがっていたように見えた」

 

 それって、誰が犯人かわかっていないとできない道楽よね。と澪標は付け加えた。

 

「この事件、()()()()()()()()()なのかしら」

「…………」

「あなたの口から聞かせてちょうだい」

 

 あまりにも異質な雰囲気が部屋中に漂う。

 まだ昼前だというのにも関わらず窓から差し込む光は黒色で。世界はこの殺風景な部屋ただ一つだけなのだと錯覚してしまいかねないほどの重苦しい空気が部屋いっぱいに張り詰めていた。

 

 待雪は依然として萎縮しきった様子で──けれど言葉にためらいはなく、二人の名前をその小さな口で告げた。

 

「ハハキギさんを殺したのはクマガイさんです。クマガイさんは自殺しました」

 

 

 

 2

 

 

 

「わたしは五感が、人より何倍も優れているんです。……例えば料理にかけられたソースを舐めるだけで、それがどういう食材をどういった方法で調理した物なのか瞬時に理解することができます」

 

 待雪が天から与えられたいくつもの才能のうち、代表的なものを一つ挙げるとするならばそれは、五感の異様な発達だろう。

 可視光線以外の光を捉えることができたり、街の喧騒の中でも一つ一つの音を聞き分けることができたり、あるいはそう──特に嗅覚において、彼女は素晴らしい才を発揮した。

 

「昔から、人の感情が匂いでわかるんです。楽しいときはポップコーンのような匂いが。悲しいときは冷たい匂いが。……その匂いは、感情が強まれば強まるほどに、匂いの濃さも増していきます」

 

 けど。と待雪は事件現場について触れた。

 

「ハハキギさんの遺体からは、そういった強い匂いはしませんでした。むせかえるような血の匂いこそしましたけれど、強い感情だけはどうしても匂わなかったんです」

「なるほどね」

 

 待雪の話を、澪標は真剣な様子で聞き入っていた。

 それに足並みをそろえるように、雲隠も話をただ聞いている。

 

「たしか帚木くんは即死であったはずと野分くんが検死結果を出していたものね。感情の匂いが現れていなかったというのなら、つまりは即死、彼はなにもわからないまま死んでいったという事実に即している。……けど、熊谷さんが自殺というのはどうして? 他の誰かに殺されたかもしれないのに」

「それは……」

 

 待雪はずっと澪標に向けていた目を泳がせた。これから話すことに躊躇いがあるのかもしれなかった。

 

「……裁判場にいる誰からも、匂いがしませんでしたから」

「匂いというのは、負の感情を抱いたときに発する匂いのこと?」

「ええそうです……死体を見つけて、そのせいで負うことになったストレスは感じ取れました。けど、それでも人を殺したときに抱くようなあの苦々しい匂いに勝るものは、あの場にいる誰も持っていなかったんです」

 

 それに。と待雪は続けた。

 

「……クマガイさんの遺体からは、強い負の感情が匂いましたから。苦くて、苦しい、息も詰まるような匂いが──絶望や緊張と言った気持ちが色濃く現れたときに香る匂いです」

 

 あの現場において、ストレスや強い感情を発している人間は何人もいた。けれど明らかな死臭を放っていたのは熊谷だけだった。だから待雪は、熊谷は殺人を犯したのだと結論づけたのだろう。

 

 だってそうでないとおかしいのだ。

 熊谷以外に、殺人を犯したとき発するような匂いを持っている人は誰もいないのだから。

 

 澪標は、待雪が語ったまことに信じがたい話を聞き届けると、満足げに頷いた。

 

「つまり私たちが求めるべきなのは、熊谷さんはどうして帚木くんを殺めなければならなかったのか。どうして熊谷さんは自殺してしまったのか。この二つの動機探しなのね」

「この話を、信じてくれるんですか……?」

「もちろんでしょう? だって薫さんは、こんなときに嘘をつくような人じゃないもの」

 

 きっぱりと断言するものだから、待雪は戸惑ったふうに言葉を詰まらせた。

 

「で、でもっ。……う、わたしが、犯人だという可能性だって、あるわけじゃないですか……っ! わたしのこの話は、何の証拠もないものです」

 

 無条件の赦しは時に耐えがたい苦痛となりうる。

 人は罰を与えられることで、その痛みによって自分が犯した罪を忘れられるのだ。

 

 "信頼"。

 なんの裏打ちもない、たったそれだけのことで荒唐無稽な話を信じてもらえることに、待雪は疑念を抱いているのだろう。

 だからこそ何度も相手を試すようなかたちで確認するし、なにか裏があるんじゃないだろうかと表情を隠し見ていた。

 

 しかし待雪は知らないでいたのだ。知らなかったからこそ、澪標の言動にどうしても疑問を抱いてしまうのだ。

 澪標という人間がいかに万能であるか。

 彼女が、本来知っているはずもないことを知っていたとしても、なんらおかしくはないのだということも。

 

「薫さんに人が殺せるとは思えないわ。万が一にでも、宇宙が一にでもそれはあり得ないもの。そう決まってる」

「……それって褒めてるつもりですか?」

「貶しているように聞こえるかしら。もしそうなら、ごめんあそばせ」

「…………」

 

 これ以上の追求は無駄だろうかと、待雪は堅く口を結んだ。

 なにぶん今までずっと言わずにいたことを吐き出してしまったからか、心がまだ十分に落ち着けていないのだろう。

 自分の秘密を他人へ打ち明けることに抵抗を感じない人間はいない。

 いくら待雪でも、ほんの少し話しただけで精神の疲労を感じつつあって、そのうえ澪標を前にして得も言われぬ圧迫感を感じているのかもしれなかった。

 

 澪標は今のやりとりに十分満足したのか、まだなにも終わっていないというのに、充足に満ちた表情だった。

 

「ま、さっきも言ったとおり私も誰が犯人なのかは分かっていたんだけれど──薫さんにこうして訊ねたのは、確認したかったから。……少し意地悪だったかしら」

「き、気付いてたって……」

「私も熊谷さんは自殺だったんじゃないかなって、なんとなく思っていたってこと」

 

 澪標は両方の人差し指をぴんと立てると、それを指揮棒のように緩やかな動きで振りながら自ら構築した推理を得意げに披露して見せた。

 

「まず第一に、生きている人たちのなかで疑わしい人が一人もいなかったこと」

「……どうしてです? 彼らは、アリバイを持たない人たちが過半数ですよ」

「今回の事件において、アリバイはそう重要ではないわ」

 

 雲隠が呈した疑問に、澪標は楽しげな声色で返答した。

 

「死体の状況を思い出してちょうだい。傷の違いこそあれ、結果的に二人は頸動脈の損傷による大量出血で死に至っているの。そこが肝心なの」

 

 澪標は歌うように推理を続ける。

 

「頸動脈が切れるとね、血液って、噴水のように強い勢いで噴出するのよ。つまり被害者だけでなく加害者も、多かれ少なかれ血液で衣類を汚すはずなのよ」

 

 けど、そうじゃなかった。

 あの朝事件現場に居合わせたみんなの服装は清潔に保たれていたし、着替えようにも、どうしたって手や顔は汚れるだろう。

 

「それに事件現場以外の場所で血痕は見つからなかったわ。もし個室で着替えようとしたらなら、寄宿舎までの道だって、滴る血液で赤く色づくことだろうし」

 

 でもそうじゃなかった。

 事件現場は血溜まりができるほどの惨状であったというのに、確かに他の場所で血痕が見つかったという話は聞かない。

 犯人が拭い取ったというのならそれまでだが、あれほどの出血があったのだから、清掃とて容易ではないだろう。

 

「あの場では誰も血に塗れてなんていなかった。唯一そうだったのは、帚木くんと熊谷さんの二人だけ」

 

 もったいぶるように名前を告げると、澪標は自信に満ちた動きで立ち上がり、トランクの取っ手を握った。

 

「でも、あの現場にある材料だけじゃ熊谷さんが帚木くんを殺したっていう証拠にはなりえないし、熊谷さんが自殺したことも証明できない。……なにかピースが足りなかったから、探偵の彼は真実にたどり着くのが困難になっている」

 

 さあ、行きましょう。と澪標は玄関のほうへと歩いて行った。

 すると待雪が慌てて彼女を呼び止め、困惑しながらこう言った。

 

「ど、どうして……それを学級裁判で言わなかったんですか?」

 

 澪標は歩みを止め、振り返ることはせずとも待雪の言葉に耳を傾けた。

 待雪は息苦しそうに唾を飲み込むと、荒く息を吐いて続けた。

 

「ニオウミヤさんたちが、必ず真実へ辿り着く確証はなかったはずです。わたしも犯人が分かるだけで、その手段まで推察できるわけじゃありません。……黙っていることは、とてもリスクの高いことだと──」

「さっきも言ったじゃない?」

 

 さも当然のように澪標は言った。

 

「確認したかったから。あなたがどんな存在なのか、確かめておきたかった」

 

 それは酷く歪みきった笑顔だった。

 この世の何よりも美しいと思えるような輪郭で、無機質さなど感じさせないあまりにも人間的な表情で──かの澪標財閥の令嬢であるとはいえ、年端もいかぬ少女がそんな顔をすることに、待雪は恐怖してしまっていた。

 なぜなら、あろうことかその笑顔に安堵してしまったからだ。

 無意識のうちに、澪標のことは心の底から信頼しきっていいのだと思わされてしまった。

 それこそ自分の意思であると感じてしまって、それがなによりも恐ろしかった。

 

「あの、立竝さん。犯人は熊谷なのだと、彼ら──匂宮らに言ってしまえば良いのではないですか?」

「うーん。できるならそうやって、推理は彼らに任せて、私たちは薫さんの料理に舌鼓を打ちたいところだけれど……でも熊谷さんが犯人だなんて話、いくらなんでも荒唐無稽よ? だって彼女は被害者に位置づけられてるんだから、そんなおかしな話をしてしまえば疑われるのは私たちだわ」

「……、それもそうですね」

「そ。だから私たちで証拠を集めるの。彼らを説得するための材料を探すのよ」

 

 こんこん、と澪標は軽快なリズムで扉を叩くと、外を主張するようにドアノブに手をかけた。

 だが意に反する者がいた。

 

「ワタシ、パス。ワタシってば頭は良いんだけどな、なにぶん科学の分野に突出しすぎたせいで、推理とかはちんぷんかんぷんだ。足手まといになるだけだろうし……それにここ最近、ずっと徹夜続きだったから、少し休みたい」

「そう……じゃあ、あなたにはなにかあったら頼るかもしれないわ」

「ああ。何でも任せてくれ。……ただ死人を生き返らせてくれなんて注文はよしてくれよ? いくら天才のワタシでも、人の命までは生み出せない。なぜならそれは不可能だからな」

 

 時間が巻き戻せないように。

 一度失ったものは、壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。

 

 未来から来たのだという、まさしく時間の不可逆性を打ち破ってここにいる破天荒な少女は、ぶかぶかの白衣に顔を埋め、怪しげに笑って眉をひそめた。

 

 

 

 3

 

 

 

 訪れたのは倉庫だった。待雪は過去に、収穫包丁を手にするため椎本と一緒にここへ訪れたことがあった。

 あの包丁が二人を殺したのだというのだから、運命は計り知れない。

 

「ン、待雪。オメェも捜査か?」

 

 目的地より一つ手前にある倉庫の前で立っていた篝火が、気さくな感じで声をかけてきた。

 

「ええ、はい……現場にあった収穫包丁は前に使ったことがあったので、自分の目でも確かめておこうと思いまして……」

「ん。そっか」

 

 篝火は待雪の後ろに立っている雲隠と澪標の姿を認めると、適当な相づちを打った。

 

「匂宮のヤツらはもう調べ終わッてッからよォ。そこの倉庫は自由に見ていいッてさ」

 

 彼はあくまでも明るく接してくれていた。

 なにも辛いことなんてない、というわけでもないだろうに。

 おそらくは自分のことを気遣ってくれているんだろうと、待雪はすこし気まずそうな顔を背けて彼の前を通った。

 

「なあ、待雪」

 

 倉庫に入ろうとしたところで、篝火がやたらと大きな声で待雪の名前を呼んだ。

 待雪は扉の前からはけて、澪標と雲隠が倉庫に入るのを見届けてから篝火の方を見た。

 

「どうかなさいましたか」

「いやよォ、ンだか、やんなッちャうよなァッて」

「はあ」

「俺たちァ仲間のはずなのによォ……殺しただとか、殺してねェだとか、なんでンなこと考えなきャならねーんだろうなーッて、さっき、思ッちまッて」

「それは……」

 

 待雪は吐き出しかけた言葉を飲み込んで、少し考えてみた。

 単純に考えて、待雪たちは生き残るために議論を重ねている。こんなところでは死ねないから、必死に誰かを疑っている。

 

 けど、それははたして人として正しいことなんだろうか。

 

 人を殺すことは大罪だ。犯してはならない過ちだ。でも、大罪を犯してまでも生き残りたいと思うその気持ちは、醜くも純粋で、穢れのない意志だと思う。

 

 待雪はそんなに誇り高くて素晴らしい意思を、今まで抱いてこなかった。

 

 たぶんきっと、今彼女の心の内にある感情は嫉妬だろう。

 許せないと感じる気持ちは、はたして正義の心からやってきたものなのだろうか。

 ひょっとしてこれは、犯人への嫉妬ではないのだろうか。

 

「……犯人を見つけるために、わたしたちは捜査してるんじゃないんですか」

 

 結局うまい返しが思いつかなかったために、待雪はおそらく正解ではない答えを返した。

 すると篝火は、なんども頷いて、でも、と続けた。

 

「それはもちろんだ。俺だって生き残るために必死こいて頭働かせて、推理してる。……でもそうじゃないと俺ァ思う。だってよォ、それって仲間を殺そうとしてるのと同義だよなッて。俺らが犯人を言い当てちまッたら、そいつは死んじまうんだぜ?」

 

 篝火は壁に背をつけて、そのままずるずると床にへたり込んだ。中途半端に伸びた元・五厘刈りの頭を片手で押さえ、彼は下を向いたまま話し続けた。

 

「人殺しを憎んでるはずが、いつのまにか俺らが人を殺す側に回ッちまッてる」

「……それは」

「…………」

 

 篝火は暗やんだ瞳で待雪の顔を見た。

 待雪は言葉が出なかった。

 

「……変な話しちまって悪かッたな! オメェもこれから、倉庫、捜査すンだろ?! 匂宮とか椎本のヤツに言えば、倉庫に何がおいてあるか書いてある冊子、貸してくれるらしいからよォ、なんか使いたけりゃ言えな! んじゃ!」

 

 篝火は、あくまでも明るく振る舞っていた。

 それはきっと、待雪のことを慮ってのことだろう。

 彼なりの優しさを、待雪は不器用ながらに少しだけ感じとることができた。

 

「……ああ、あと! 藤袴のこと、お前に任せッきりでほんと悪い! また今度なんかで埋め合わせするわ! 匂宮のやつと一緒に!」

 

 不安など微塵たりとも感じさせない笑顔で、篝火は倉庫に入って行く待雪を見送った。

 待雪はどこか、複雑な気持ちだった。

 自分が嫌になってしまいそうだったし、そう思っている自分が気持ち悪いとすら感じてしまうのだ。

 

「彼、とっても気持ちの良い青年ね。ああいう人間は近年稀だわ」

「……ミオツクシさんはそう思うんですね」

 

 部屋に入ってすぐのところの扉、そこの内側に立って、おそらくは待雪と篝火の会話を聞いていたんだろう澪標に対して、待雪は冷たい反応を示した。

 

「含みのある物言いね。あなたはそうは思わないの?」

「ん……いえ。確かに彼は、わたしのことを正直な気持ちで心配してくれているとは思うんですけど……人が死んでしまって、そのことに憤りを抱いていたはずのカガリビさんが、どうしてわたしに優しくしてくれるんだろうと思いまして……」

 

 だって彼は、あんなにも余裕がなさそうな振る舞いを、神座という男に向かって見せていたじゃないか。

 そのあとも、度々死者への冒涜ともとれる発言には過敏に反応していた。

 彼は確かに善良な人間だが、ただ今の状況下において、他人をねぎらったり励ますようなことがどうしてできるのだろうかと、待雪は本気で疑問を抱いていた。

 学級裁判で見た彼と、今会話した彼との間には乖離したイメージ像が浮かんであった。

 

 彼の心境の変化に、待雪は追いつけていないのかもしれなかった。

 

「そこが気持ち良いところじゃない」

 

 澪標は繰り返し言った。

 

「そうですかね……わたしは少し怖いくらいです」

 

 待雪は後ろめたさから目を逸らして答えた。

 

 

 

 4

 

 

 

 澪標はいくつある棚の中から収穫包丁を見つけ出すと、全部で三つあるそれを手に持って、待雪に見せた。

 

「この包丁が、以前野菜の収穫の際に用いたもので間違いないのね?」

「よく見せてください……はい、確かにこれです。……ええっと、そう、わたしはこの包丁を使いました」

 

 待雪は一つの包丁を指さした。

 柄に付着している土は新しく、錆の少ないそれは確かに待雪らが使用した物だった。

 それを澪標は一つ一つ手に取って、状態を確かめていた。

 

「全部で三つ……そのうち二つには土が付着していて、もう一つは新品同然……どうしてかしら」

「ああ。二つしか土がついていないのは、わたしたちが二つしか使わなかったからです」

「? どうして? 三人で収穫していたんじゃないの?」

「そうなんですけど、うち一人は途中参加だったので、収穫包丁自体は二つしか用意して行かなかったんです」

「なるほどね……そして、現場にはもう一つ包丁がある、と」

「それは、変ですね」

 

 待雪はわずかに眉間へ皺を寄せて言った。

 

「わたしたちが以前訪れたとき、この包丁は三つしかありませんでした。けど、今倉庫にある分と事件現場の分を足すと全部で四つになってしまいます」

「ということは、待雪さんが野菜を収穫した日よりも前に、収穫包丁が一丁盗まれていた、ということになるのかな……?」

 

 と雲隠が付け加えたが、それをすぐに澪標が否定した。

 

「それはきっと違うわ。収穫包丁は、この倉庫には最初から三丁しかおいてなかったはずよ」

 

 なにを根拠に、と彼女の顔を思わず見上げる。

 澪標は自信に溢れた表情で最初からこちらを見ていた。

 

「匂宮くんらが用意してくれた、倉庫に何が置いてあるのかをまとめたリストを見ればわかることなのだけれど……」

 

 澪標は近場にある道具をいくつか手に取って、それを待雪らに見せた。

 

「この倉庫に置いてある物はすべて、()()()()()()()()()()()()()()のよ? 箒であれ鍬であれ鎌であれ……それらは必ず三つだけしか用意されていないの」

 

 包丁を三つ。箒を三つ。鍬を三つ。鎌を三つ。

 それらを胸いっぱいに持って、澪標は示した。

 

「あ……そっか。今倉庫にある三つと、現場に残っている一つを合わせると全部で四つ……倉庫に包丁は三つしかないのだと仮定するなら一つあぶれる」

「そゆこと」

 

 この倉庫に置いてあるもののすべては、一種類につき三つまでしかものが用意されていない。

 収穫包丁よりも量がたくさん必要になりそうな軍手だって三組しかないのだし、一つあれば事足りそうな担架ですらも三つ置かれてあった。

 

 三という数字がこの倉庫においてどんな意味を持つのかは分からないが、しかしその数字に縛られているのだろうことは辺りを見渡せば明らかだった。

 

「倉庫にある収穫包丁の数は全部で三つ……きっとそれは最初からそうだった。じゃあ薫さん、熊谷さんに刺さっていた包丁は、一体どこから来た物なのかしらね?」

 

 不敵な笑みを見せて嘯いた。

 薄らとだが、待雪にはその理由が分かった気がした。

 

 

 

 5

 

 

 

 次に訪れた場所は熊谷の個室だった。捜査という名目のため、今朝から熊谷と帚木の部屋は立ち入りが許可されていたため、部屋の鍵を持たない待雪でもたやすく部屋に入ることができた。ただ、ひねったドアノブが少し重い気がした。

 無意識に、熊谷に対して抵抗感を抱いていたのかもしれなかった。

 彼女について知ってしまうことを怖がっていた。

 

「案外代わり映えしないのね。……私物も少ないみたいだし」

 

 澪標はさっきまでの楽しげな態度とは裏腹に、そんなものは失せてしまったような冷え切った目で部屋中を見渡していた。

 待雪はそれにぎょっとしたのか、こまごまと言葉を途切らせた。

 

「あ、あのう……どうかしたんですか?」

「どうした、って……なにか気になることでもあったかしら」

「い、いえ、そんなことは……」

 

 責められているわけでもないのに、彼女に目を向けられるのが辛かった。

 

「まあ、裁判で使えそうな材料は見つかったわ」

 

 澪標は部屋の奥までずんずんと進んでいった。その後ろを雲隠がついて行き、後から慌てて靴を脱いだ待雪が中に入った。

 

 部屋の中は相も変わらず殺風景なものだった。

 もっとも、この島は孤島であるし、島に来てからまだ一週間ほどしか経っていないのだから物が少ないのにも頷けるが、それにしたってこの部屋はどの場所よりも広く感じられた。

 

 卓袱台の上に置かれた写真立てには家族写真とおぼしき物が入っていて、部屋の隅では大きめの旅行鞄が開いたままになっていた。服が溢れていて、どれも見覚えのある色合いだった。

 

 澪標は卓袱台に置かれた写真立てを一瞥したあと、まっすぐな歩みで箪笥の前まで行って、雲隠に視線を送った。

 意図をくみ取ったのか、雲隠は澪標の前にしゃがむと、箪笥を下から順に引いていった。

 

「な、なにをして……っ」

「物を盗ろうってわけじゃないのだから、見逃してちょうだいな」

 

 あくまでも視線は箪笥へと注いだまま澪標は言った。

 

「それに、手紙しか入っていないようだし」

 

 澪標は下段に入れられていた幾枚かの紙を雲隠から受け取ると、パラパラとそれに目を通した後、一枚紙を引き抜いて待雪に見せた。

 

「これ。重要そうに見えない?」

「……なんですか、これ? 人の……名前?」

「きっと親族の方よ」

 

 当然のように澪標は言った。

 

「一見無秩序な並びのように見えるけれど、でも熊谷姓がいくつか記名されているわ。……きっとご家族の方なのでしょうね。熊谷なんて名字は珍しいのだし、偶然というわけではないでしょう」

「なるほど……、でも、どうして名前なんかが?」

「動機よ」

 

 澪標は光へ透かすように紙を頭上にあげて、それを見上げながら言った。

 

「これが殺人の動機。熊谷さんが、人を殺そうと決意したきっかけ」

「……へ? は? 名前、が?」

「あなたも自分の箪笥の中身くらいは見ているでしょう? 個人差はあるようだけれど、大抵そこには動機が書かれた紙が入ってるの。……彼女の箪笥には幾枚か紙があったけれど、動機らしいものはその名前が書かれた紙くらいだった」

「で、ですが……どうしてそれが動機になるのか、わたしにはわからなくて」

「さっきも言ったじゃない。それに書かれているのは熊谷さんの親族の名前……薫さんは心当たりがあるんじゃなあい? だって仲がよろしかったじゃない」

「そんな……。熊谷さんの、家族ですか」

 

 家族という単語を、熊谷の口から一度も耳にしたことがないと言えば嘘になる。

 たしかに待雪は一度、あのピクニックをした日に、彼女からバスガールとしての自分の在り方というものを聞いたことがある。

 

 家族。

 熊谷にとって家族とは、彼女を形成する重要な要素らしかった。

 ただそのことを澪標に対しつまびらかにすることはどうしてか躊躇われた。

 彼女との思い出は、そう易々と他人に話して良いものなのだろうかと思ったのだ。

 

「…………」

「……まあいいわ。動機が目的でここに来たわけではないのだし。肝心なのは、箪笥の中身が手紙しかなかったということ」

 

 気を取り直したように箪笥へ手をかざすと、澪標は小説に登場する探偵さながらに指で帽子のつばをあげて、部屋の中をぐるぐると右回りで歩き始めた。

 

「手紙の他にもう一つ、箪笥の中にはものが置かれていたはずなのだけれど……」

 

 曖昧なことを言っているはずなのに、自信たっぷりの確かな物言いで澪標は問いかけた。

 

「なにがあったと思う?」

「──凶器、ですか」

 

 素早く答えたのは雲隠だ。

 それを聞き届けて、澪標は満足げに頬を緩めた。

 

「そう。ちなみにわたしのとこにはヒ素が。そこの彼には拳銃が用意されていたわ。……野暮なことだから、薫さんがどうだったかは訊かないでおくけれど」

「……わたしは熊撃ち用の大きなライフル銃でした」

 

 澪標は微笑んだ。

 

「あら。言ってしまっていいの?」

「隠すようなことでもないですから」

 

 箪笥の中には手紙の他に“凶器"となるものが入れられているはずなのだが、箪笥はおろか、部屋の中でさえ熊谷のものらしき凶器は見当たらなかった。

 つまるところ、凶器は部屋の外に持ち出されているということになる。

 それがいったい何を意味するのか。話の要点が分からぬほど待雪は鈍くはなかった。

 

「……クマガイさんの部屋にあるはずの凶器が、部屋にはなかった。そして──」

「──なぜか一つ数が増えていた収穫包丁」

 

 澪標は恭しく言葉を言い切ると、箪笥に浅く腰掛け長い脚を組んだ。

 

 現場において熊谷の首に刺さっていた包丁が、もとより熊谷自身のものなのだと言うのなら、熊谷が帚木を殺した犯人であることも、凶器自体彼女が持ち出した物なのだと言うことを証明できる。

 ただ……。

 

「このままじゃ、クマガイさんが自殺したということを説明しきれないと思うんです。わたしだって、まだ信じられないくらいなのに」

「…………」

 

 澪標はこちらに呆れたような目を向けていたが、すぐにその気配はなりを潜めた。

 

「心配いらないわ。……そうね、時間もないことだし、手っ取り早く聞きに行きましょうか」

「? 聞きに行くって、誰にです?」

 

 雲隠が間抜けな声を発した。

 待雪は猜疑深い表情で見上げた。

 

「本人に直接聞いたほうが早いでしょう?」

 

 尋問と洒落込みましょう。

 澪標は心なしか愉快そうだった。

 

 

 

 6

 

 

 

 事件現場には人影もなく、閑散とした雰囲気がやけに鼻をついた。

 人の形をしたものが二つ地面に転がっているというのに、誰もおどろおどろしい態度を見せないのが、違和となって待雪の表情を曇らせる。

 

「本人に直接聞くとおっしゃっていましたけど……」

 

 待雪は人の気配を気にしてか、辺りを見渡しながら言った。

 

「遺書はないと思いますよ。それに、その、今更ですけど……わたしだって彼女が自殺したわけは分からないのですから、事故の可能性だってないわけじゃないですし」

「それはないわ」

 

 澪標はきっぱりとした口調で答えた。

 あまりにそれは迷いのない言葉だったからか、待雪は一瞬うろたえた。

 

「どんな偶然が起これば、あんなにも深く包丁が喉元をえぐるのかしら」

「……それは、その」

「彼女は確かに自殺したのよ。あれは自分で自分を恨んでるみたいだった」

 

 澪標は死体へ触れることに抵抗があるのか、雲隠に目配せをして熊谷の上体を起こさせた。まるで言葉通りの"対話"がごとく、彼女はひっそりと眉をひそめた。

 

「結局のところ、確かな証拠なんてものは不要なのよ」

「どういうことですか」

「学級裁判は、あくまで“誰が犯人なのか”を答えとして提出する場所。犯行の過程まで伝える必要はない」

 

 しゃがんで、わざわざ熊谷と同じ目線で話す。

 何をそこから見出そうとしているのだろう。本気で、彼女は対話を望んでいるのだろうか。

 

「彼女が自殺したのだということを、わざわざ言う必要性はないってことよ。……さっき薫さんが言っていた“事故”という結末にしても良い。むしろその方が説明も楽だわ」

「そんな話、信じますかね」

 

 つまらなさげに雲隠は訊ねた。彼はいつもこんな表情だった。

 

「信じるわよ。そもそも疑おうったって、他に可能性がある話は少ないもの。……むしろ自殺したって話の方が信じがたいくらいなのに」

 

 "すべての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実である"。

 そんな台詞を、待雪はイギリスへ料理修業に出かけた際に、現地に住む書痴の友人から聞いたことがあった。

 

 熊谷以外の誰かが人殺しを行なった可能性はなく。

 また帚木は熊谷よりも先に命を落としているのだから、熊谷を殺すことができるのは熊谷自身しか存在しないということになる。

 

「議論の途中、誰かが衣服について言及していたのを憶えているかしら?」

「え、ええ。誰かまでは憶えていませんが、血に塗れた衣類が見つからないことを嘆いているようでした」

「そう。事実、人殺しをしたのは終始熊谷さんだけなのだから、そんな衣類なんて見つかるはずがない。この島に血塗れの衣類がないことこそが、彼女が人殺しであることの証明になるの」

 

 澪標は熊谷が着ている服を指でなぞった。

 血液が染み込んでいて、赤黒く汚れている。

 犯人の服が血液で汚れているというのなら、これほど怪しい証拠はない。

 

「……じゃあやっぱり、クマガイさんが、人殺しを」

「変なことを言うのね。最初にそう言ったのはあなたじゃないの」

「ですが……その、やっぱり信じられなくって」

「クマガイさんが人を殺してしまったということを?」

「いえ。……自分自身を」

 

 

 

 7

 

 

 

 今回の事件は熊谷が犯人だったのだというところに議論は着地し、学級裁判はそこでお開きとなった。

 以前からほのめかされていた処刑とやらも、犯人である熊谷が死んでしまった以上、無碍に遺体を傷つける必要もないだろうという神座の判断により、空砲を鳴らすことで裁判の終結を表することになった。

 

 そうして、殺人が起きてしまった事実が尾を引く暗澹たる雰囲気と、しかして自分は生き残ったのだという安寧が入り混じった複雑な空気の中で、各々は輪郭がおぼつかない帰路についた。

 皆、気が抜けたように脱力し、他人の目線におびえながら疲れ果てた様子で体育館を去って行った。

 

 そんな中で、待雪は裁判場から離れることがどうしてもできなかった。

 ここから離れてしまうと、熊谷の死からも遠のいてしまうような気がしたのだ。

 

 想いとは永遠ではない。

 今彼女を頭の中で強く念じていても、ずっとこの先彼女のことを忘れないでいられるかは定かではなかった。

 

 だから待雪は怖かった。

 彼女が死ぬことになったこの事件に終止符を打ち、自分だけ先の世界へと飛び出すことが、どうしてもできなかったのだ。

 

「薫さん」

 

 すっかり寂しくなってしまった体育館で、澪標だけが一人、待雪のそばに立っていた。

 見上げてしまいそうになる気持ちを抑えて、待雪は目は合わせることなく感情を抑えた声で返事をした。

 

「なんですか……? 裁判はもう、終わりましたよ。……ミオツクシさんの弁論はとても見事でした」

「そう? これでも結構緊張したんだから」

 

 子供のように笑うと、澪標は靴底の音を鳴らして辺りを漫然と歩き出した。

 

 一体何が目的なんだろう。

 すでに学級裁判は終わりを迎え、この場所に留まる理由なんてないはずなのに──少なくとも待雪と同じ理由ではないだろう。彼女は熊谷とも帚木とも接点はなかったのだから──だからことさら彼女の行動は不思議に思えた。

 

 自分に用があるのだろうか?

 心当たりはない。

 

「薫さんは、自分を過小評価しすぎじゃない?」

「どういう、意味ですか」

「そのまんま。言葉通りの意味」

 

 長く伸びきった前髪の奥から澪標の顔を覗く。

 彼女は何かを見据えてた。

 

「ちょっと、付き合ってくれる?」

「…………」

 

 断る勇気もなく、待雪は小さく頷いた。

 ……それに、彼女ならこの気持ちをどうにかしてくれるような気がしたのだった。

 根拠もないが、澪標はそう思わせてくれた。

 

 渋々彼女の後をついて行き、辿り着いたのは今朝の事件現場だった。

 帚木と熊谷の遺体は学級裁判の間にすっかり回収されてしまったようで、血の跡とむせかえるような死臭だけが今朝の出来事を物語っていた。

 

 澪標はそこに着いてからひとつも言葉を発しなかった。

 "私になにか言いたいことがあるんじゃないの?"とでも言いたげな雰囲気で、見透かされているようで、不愉快だった。

 事実、待雪は心の内にある疑問を抱いていたのだったが、それを曝け出すことは簡単にできることじゃなかった。

 

 息づかいすら気遣ってしまいそうな、そんな雰囲気。

 現に待雪は、澪標と話しているだけで息が詰まるようだった。

 彼女はどこまで気がついているんだろうと考えない時はない。

 あるいは彼女なら、わたしの知らないことだって知っていてもおかしくはないのだ。

 それがなんだか怖かった。

 

 ただ澪標ならばあるいは、この胸につかえる気持ちを晴らしてくれるのかもしれない。

 迷った末、待雪は抱いていた疑問を訥々と打ち明けた。

 

「本当にクマガイさんは自殺したんでしょうか」

「どうして? そう言ったのはあなたじゃない」

「ですが……クマガイさんは、家族のことを強く愛していたはずなんですよ。名前を見るだけでその身を案じ、人を殺そうと決意してしまうくらいには」

 

 苦しくって、吐き出すように伝えた。

 

「それほどに強い意志を一度でも抱いた人が、呵責の思いなんかで自殺するものでしょうか……っ」

 

 それは心からの叫びみたいなものだった。

 熊谷の行動にはあまりにも不可解なことが多すぎる。

 待雪はどうしても彼女を理解することができずにいたのだ。

 

「きっとすぐ分かるようになるわ」

 

 ただそれは今じゃないのだと、澪標は語った。

 

「目に見える景色は不変じゃない」

 

 澪標は独り言を呟くようにどこか遠くを見ながら言った。

 

「今まで世界になかった存在が、なによりも優先すべきことになるときだってある。一目惚れだってそう」

 

 妖しい光を持つ瞳が揃ってこちらに向けられた。

 

「薫さんもそんな体験、したことないかしら」

 

 …………。

 以前までの待雪ならば、その質問にいいえと答えていただろう。

 だけど今はそうではなかった。

 

 初めて澪標に出会ったとき。

 明石にキスされたとき。

 

 確かにそのとき待雪は、頭の中が真っ白になってしまうような体験をしていた。

 

(そんなことがクマガイさんにもあったんだろうか……)

 

 なにも考えられなくなってしまうような。

 ただ一つのことだけがずっと頭の中を支配しているような、そんな体験を。

 

「ねえ知ってる? 強い光は人を盲目にするのよ。それが希望ならば、よりいっそう」

 

 一度太陽を見上げた澪標は、振り返って、口元を見せながら美しくも歪んだ笑顔を作って見せた。

 待雪は困ったように目を逸らすしかできなかった。

 彼女の笑顔が酷く恐ろしいもののように思えたのだ。直視することすら憚られるような、根源的な恐怖が垣間見えた気がした。

 どうしてそんな風に思ってしまったのだろう。

 理由は分からない、けど……その恐ろしさに足下からすくんでしまいそうで、それがなんだか悔しくって、待雪は熊谷との思い出を口にした。

 

「ク、クマガイさんは、わたしのことを、妹のようにかわいがってくれました。ずっと目にかけてくれて、心配してくれて、うんと励ましてくれました。……だから、あんなに明るくって、楽しげに話す人が……自殺なんて……わたしやっぱり……」

「? 私の知る熊谷さんとは随分と違った印象ね。彼女、いつも思い詰めたような暗い顔してたのに」

 

 特に思春期。

 親離れをし、他の誰かに依存しなければならない年頃。

 それを彼女が迎えていたというのなら、彼女は一体、誰を心の拠り所に選んだのだろうか。自分の心に翳る絶望を照らす光として、なにを求めたのか。

 

 気付けば既に夕暮れであった。

 あの日見たクマガイの紅潮した頬のように赤く染まった空で、紫雲が海の向こうで浮かんでいた。

 

 待雪はそんな空の下で、日が落ちて、辺りが暗くなるまでずっとずっと俯いていた。

 夕飯を作ることも放棄して、クマガイが死んでいた場所に立っていた。

 こんな顔することを、彼女は望みやしないだろうか。

 こんなことがはたして弔いとなるのだろうか。

 わからない。なにもわからない。

 

 熊谷がどうやって帚木を殺したのかを十分究明できたはずなのに──それで、よかったはずなのに。

 心にはわだかまりを残し、わたしは無力な自分を恨めしく思っていた。




【遺品】
『矢絣柄の着物』
 とある学徒の遺留物。
 大正という時代を象徴する、ハイカラな柄の着物と海老色の袴。
 黒ずんだ血が染み込んでいて、既に乾き切っている。

 恋する乙女、人肌の暖かさを夢見る幼き子供。
 この袴は、そんな稚拙さを隠すための、彼女なりの緩やかな飾りだったのだろう。


【章題解説】
『一握の砂糖』
 元ネタは、石川啄木という歌人による歌集『一握の砂』。
 『一握の砂』には、石川啄木が故郷を懐かしむ思いや北海道にいた頃の回想、また貧困と挫折で鬱屈とした心情を歌った歌が多く載せられています。
 一章のクロは故郷の家族を思い、また1923年の悲劇を思い出し  殺人を犯してしまいました。
 砂を砂糖に変えた理由。それは超高校級の料理人である待雪を連想してのものです。待雪は間違いなく光だった。それは確かに熊谷の心を照らしていたのだ。


【おしおき】
 ダンガンロンパシリーズにおいて、殺人がバレてしまったクロに対する罰として行われる伝統芸能。場合によって様々であるが、クロの才能に由来する内容であることが多い。
 クロが死んでしまった場合でもおしおきを行うことはあるのだが、クロ本人に対して行われる描写は原作にはないので(原作無印四章などがこれに当てはまる。アルターエゴといった代理が用意される)今作において熊谷は特にお咎めなしということになった。
 死体に対しておしおきが行われるのは、創作論破独特の文化なのかもしれない。
 ちなみにこの“おしおき”という名前、元々は“処刑”と呼ばれていたらしいのですが、モノクマの声優を務めていらした大山のぶ代さんが“おしおき”のほうがモノクマのイメージに沿っているということでそちらに変更されたそう。
 なのでまあ、モノクマがまだ生まれていないこの創作論破では処刑と呼ぶことにしています。


※一応、今回のお話の中で曖昧にしてある部分も推察はできるようにヒントを散りばめてあるので、色々考察してみてください。
※次の話から二章なのですが、いつ投稿できるかは未定です。



【熊谷夕顔】

 初期設定はお淑やかなキャラクターだったんですけど、途中から天真爛漫な感じに。お姉さんではあるけれど、垂れ目涙ぼくろというよりかは近所のねーちゃんみたいな感じになった(SVの最初の三個はその名残)。
 割と暗い話なので、熊谷さんはこれくらい明るい方が対比もできて良かったのかなと思います。

 待雪、藤袴、椎本と仲が良い。(椎本とはいつもプロレスしてる。匂宮、竹河とはガチ喧嘩)
 個室に帰るとその日一日の反省会をするタイプ。


【SV】
「こんにちは。今日はいい天気ね、薫。陽の光が、とっても暖かいわ」
「薫は今日も働いてるの? 大変ね。あたしも手伝いましょうか?」
「……いつもそう。いつも薫はそうやって、独りで抱え込もうとする。それは悪い癖だとあたしは思うのよ」
「あったりまえでしょう? あたしとあんたの仲じゃない」
「~だけどね」「~だよ」「~ってのは」「~じゃん」

【名前】
 熊谷 夕顔/クマガイ ユウガオ
【性別】
 女
【血液型】
 B型
【出身校】
 南葉高等学校
【好きなもの】
 あんこ・大福・手料理
【嫌いなもの】
 暗いところ・辛いもの
【才能】
 超高校級のバスガール
【身長/体重/胸囲】
 163/56/88

【性格】
 穏やかで献身的。善意から行動を行うことが多く、見返りなどは基本求めない。物欲は人並み。明るく、元気で、町娘という言葉がよく似合う。
 故郷に対し、半ば狂信的な愛情を注いでいるが、それは正しいことなのかどうか疑問に思っていたりする。
 他人に対しお節介を焼くことが多く、面倒見がいい。やり場のない母性を抱えている。

【容姿】
 頭のてっぺんにお団子を作り、高い位置で総髪を纏めてある。髪は長めで、背の辺りまで伸びてある。
 袴姿。柄物を着ることが多く、赤や紫といった刺激的な色を好んで着ている。確かな高級品であることを思わせる良い着物を着用。編み上げブーツを履いていたり、赤いリボンを付けていたりと、ハイカラな格好をしている。
 全体的に線の太い印象を人に与えている。

【備考】
 気まぐれな美人。仕事はしっかりとこなすが、その反面、私生活では自堕落なところが多い。殺し合い生活がなければ、もしくは彼女のそんな一面を垣間見ることも叶ったろうに。
 外面は良く、内面も良い。自身の気持ちを隠して振る舞うことが多く、人に弱みを見せることは少ない。あくまでも自分はしっかりしなければならないという責任を背負ってしまうことが多く、他人に自身の辛さを吐露することができない。
 いつも堂々としていて、困っている人の盾になろうと前に出ることが多い。強気なその姿勢は男尊女卑の世の中で風当たりが強くもあるが、しかして一定の固定ファンを生んでいる。
 郷土愛の強い彼女は、一番初めに殺人を犯してしまうことになった。
 全ては故郷を心配してのことだろう──彼女は理解していたのだ。自分が死んだとなれば、あの土地に名物なんてものはまるでなくなってしまうのだということを。
 しかし結局は自殺してしまう。
 殺し合い生活の中で、一縷の光を見出して、それがあまりに眩く死んでしまったのだ。

【特記事項】
 彼女の超高校級のバスガールとしての才能はその美貌にこそある。年不相応の優雅さと清楚さは、男を虜にする。
 他人の心を手玉に取る魔性さもあり、身分が低いということもあってか、下卑た目で見られることが多い。一つの街に話題を呼ぶまでに至った彼女のそれは類稀なる才能だ。努力もまた、あったに違いない。
 彼女の過ごした街は、名物もなく、随分と寂れた街だった。そこで現れたのが彼女だ。日本各地のバスでバスガールとして働くことで名を売って、故郷で働くことで故郷に人を呼び込むといったことを幾度か繰り返していた。これは彼女自身の意思ではなかったが、すべて過去の話である。

 希望ヶ峰学園が彼女に超高校級の肩書を与えた理由は、大正時代に現れた所謂職業夫人としての代表的な職業、バスガールにおいて著名な人物が彼女であったからだろう。確かな才覚を持つ彼女に、女性が社会に参入するための黎明期を切り開くことを望んだのだ。

【長所】
 ・正義感が強い。困っている人を見つけると黙っていられないほど。
 ・料理が上手。
 ・運動神経がいい。
 ・美人。
 ・野菜を育てることができる。
 ・勉強ができる。それなりに俗世間の知識もあり、また目上の人に対しては礼儀正しく接することができる。
 ・見知らぬ人に対しても丁寧な対応をとることができ、また親しげに話すこともできる。
【短所】
 ・心が弱い。他人に自分の弱みを打ち明けられない。
 ・好意的に思ってしまうと、ずぶずぶとその沼にはまっていってしまう。なんか詐欺とか引っかかりやすそう。
 ・人の多いところが苦手。特に都心の街、人通りの多い時間帯は目眩がするほど。
 ・勝手に思い込んで行動することが多い。一度勘違いをすると、なかなかその考えは曲がらない。
 ・お金に対してはやや厳しめで、交渉の材料として多額な金銭を出されると、正義感などは抜きに心が揺らいでしまうこともある。
【信仰】
 ・親。自分がしっかりしなければという責任感が延長し、いつしか親の期待をその一身に背負ってしまっていた。



【おまけ(オシオキ)】

 熊谷はマイクを胸の前で力一杯握りしめて車内を振り返った。
 人形だというのに不気味な笑顔を浮かべるモノクマたちがそぞろ揃った眼光を熊谷に向けていた。隣を見ると、運転席にもまたモノクマが座っている。
 今更逃げることはできないのだと、彼女はぐっと唇を噛んで、恐怖心を殺した。


『路線バスの旅 〜in 人生〜』


 豪奢な音を立てて目の前にある電子パネルが光を発する。
 数字が書かれたルーレットと、おそらくは進行先を示しているのだろうマップ。
 どこか見覚えのあるそれは、熊谷にとっては幼き日のトラウマであった。
 おそるおそる、彼女はルーレットへと触れる。
 それはクルクルとカラフルに色を変えながら回転し、やがて数字の『9』を示した。

(…………!)

 パッとライトが付いたかと思うと、バスは急発進し、どんどん加速していく。
 その衝撃に酷く身を揺さぶられたが、なんとか柱を掴んで姿勢を立て直す。
 あまりに激しい勢いで車内は物が散乱し、どこから飛び出たのか分からない刃物が頬を掠めて行った。
 血の熱さが、次第に鋭い痛みに変わっていった。恐怖で足が竦んでしまいそうだったが、熊谷は歯を食いしばって立ち上がる。まだ生きることを諦めていなかった。

 どこかに状況を掴むヒントがないだろうかと、パネルに映し出されていたマップを見ようとして身を捩らせると、ちょうど最初にいた場所から『9』進んだところでバスは停止した。『9』……さっきルーレットで出てきた数字だ。
 急停止により頭を打ち付けながらも、熊谷は今の状況をようやく理解した。

(これは……人生ゲーム……!)

 マス目に何が書かれているのかまでは分からなかったが、きっとろくなことは書かれちゃいないのだろう。
 だが“人生ゲーム”の性質上、前に進まなければ終わることはない。ゴールへと辿り着くことが、彼女に与えられた唯一の目標らしかった。
 それがはたして正解なのか分からないが、無力な自分が今できることに気が付き、熊谷は必死にルーレットを回そうとした。
 だが、そこで熊谷は目にしてしまう。先程の急停止の際にパネルが故障したようで、壊れたようにルーレットが回転し続けていたのだ。

 『5』を示したかと思えば『2』を示し、その次は『10』で止まったりと、とにかくしっちゃかめっちゃかに数字は現れ、その通りにバスは進み続ける。

 ルーレットは熊谷の意に反して回り続けた。
 踏み抜かれたアクセルは、誰にも止められなかった。
 もはやモノクマも制御しきれないのか、慌てた様子でそこら中の機械をいじっている。
 熊谷はそれを見て、不安そうに汗を流した。最悪の事態を想像してしまったのだ。

 ぐんぐんとバスは進む。
 野を越え、山を越え、橋を渡って行った。
 そんな中でも、バスは急停止と急発進を繰り返している。

 熊谷はシートベルトをつける暇もなく、あちこちに体をぶつけ、頭からは血を流し、最後は立っているのが精一杯だった。
 割れたフロントガラスが彼女を襲い、刃物や鈍器がどこからともなく飛んできて、もはや怪我のない部位なんてないくらいだった。

 バスは最後の直線に差し掛かる。
 ルーレットの数字は大きなものが連続し、ブレーキすら壊れてしまいそうなくらいの加速を繰り返した。

 結果的に熊谷はゴールへと辿り着いた。
 人生の終着点へと。

 人生の終わり。すなわちそれは死。

 バスはスピードを落とすことなく豪邸へと激突し、そのまま大きな爆発を起こして、たくさんのモノクマと紙幣が宙へと舞った。
 舞い散る紙幣の中、モノクマは一着の旗を近くの畑に突き刺し、満足げに汗を拭ってその場を去っていった。


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第二章 不如帰還
001 (非)日常編


 0

 

 

 

 I (must) miss you.

 

 

 

 1

 

 

 

 夜の校舎で待雪はなにかを探していた。そのなにかとは特定のものを指す言葉ではなかった。それがなんなのかは彼女にだって分からないのだった。だから落としものを探すときのように俯いたりはせず、ずっと上ばかりを見つめていた。そうしたさまははたから見ればかえって奇妙に思われた。

 

「なにも見つからないって、わかってるのに」

 

 けど、こうして徘徊するのを彼女はやめられないでいた。答えのない問題を解き続けているような果てのない気分であったが、ただ“解く”という行為だけが彼女の儚い心を支えているのである。

 

 待雪は明かりさえ持たずに歩き続けた。今夜は月が雲で隠れてしまい、周りはうんと暗く足元すらおぼつかなかった。

 暗がりの中に身を置いていると寒くなる。待雪はブルリと身を震わした。寒くなると、人は暖かみを求めて光を探す。だからこそどんなに小さな灯りでも、暗闇の中であれば一際輝いて目立つのであった。

 

(あれ……? 食堂に灯りが付いてる)

 

 見れば前方の建物からは、か細い光が漏れ出ていた。懐中電灯のような無機質な光ではなく部屋全体を包み込むような温かい光がだ。

 誰かいるのだろうかと、待雪は息を殺して食堂の扉にそっと身を寄せた。そうして聞き耳を立ててみたが耳に障るような物音は聞こえてこなかった。

 

(鍵が空いてる。夜時間はいつも閉まっているのに)

 

 いつもと違うことが起きれば、自然とそこに好奇心が注がれる。待雪は小指が挟まるかどうかのほんの少しの隙間を開けて食堂の中を見渡した。そこでようやく確信する。遠くから見えた光は幻覚でなく、確かに食堂には灯がついてあったのだ。けれど不思議なことに人の気配は感じられなかった。

 

(変なの……。じゃあ、厨房かな? でもそうなら、なおさら物音がないのはおかしい……)

 

 しかし外からではどうしても厨房の奥までは見えなかった。

 だから待雪はやや緊張した面持ちで、けれども大胆に半身ほど扉を開けるとそこから中へと這入っていった。

 その行動一つとっても彼女のか弱さの内に潜む芯の強さを見ることができるというものだが、待雪自身はそれを疎んでさえいるので気に留めることはなかった。

 

 食堂を進んでいくと、確かに厨房の方で人影が見えた。

 誰かいるんだと思うと自然に体の動きも強張りはじめた。

 とはいえ、ここまで大胆なことをしておいて、いまさら這って進むという慎重さはかえって滑稽な話だから、待雪は自分の存在を誇示するようにわざと足音をたてて勇敢にも厨房へと向かった。

 

「誰だ」

 

 一歩進んだところで低い男の声が聞こえてきた。それは聞き覚えのない声で、少なくとも待雪ら希望ヶ峰学園一期生の誰かではないだろうことだけは理解できた。

 そもそもこの時間帯、食堂は閉ざされている。待雪らには鍵のかかった食堂へ入る術がないのだから、声の主が運営側の人間であるだろうというのは分かりきったことであった。

 つまりこの先にいるのは夜警をしている軍人……覚悟はしていたが、やはり緊張を待雪は感じた。それでも変わらず前に進んだ。

 

「誰だと聞いている」

 

 男は椅子から立ち上がり、その全身を待雪の前に晒した。光に当てられた軍服は普段着のように使い古された雰囲気があって、武装していないことを除けばいつも見かける軍人と同じような格好であった。しかし、武装していないからとはいえ待雪の心は安まらなかった。男の剣呑な様子が彼女の気持ちを引き締めるからだ。

 

「あ、あのっ、わたしは、その、希望ヶ峰学園一期生の」

「なら校則はよく知っているはずだな。食堂は朝まで立ち入り禁止だ」

 

 立ち上がった男は一歩一歩待雪の前まで距離を詰めた。その歩みには重さがあり男の力強さが感じられた。年相応の迫力がより一層緊張を高める。

 そしてなにより恐ろしいのは、彼が決して味方ではないことだろう。以前出会った軍人は友好な部類にあったが、いま目の前にいる男は厳かな気配をまとっている。暗い照明が男の表情に薄ら影を落としていて、それは物言わぬ威圧感を男にもたらしていた。

 

 知らず待雪の指先には力が篭もる。爪先から頭まで硬直したようにピンと背筋を伸ばした。

 

「立ち入り禁止についてなのですがっ、お願いが、ありましてっ」

 

 様子を窺うように待雪は前髪の隙間からチラリと男を見上げた。男もこちらをじっと見つめており、二人の間でいくばくも視線が交わった。

 そのとき相手が何を感じたのかは分からない。ただ待雪は料理のことになるとひたむきに真剣であったから、その熱意と信念を持ってして大の大人に立ち向かったのだ。

 非力な少女が己を鼓舞する様を見て、男はなにを思うのだろうか。

 

 彼女が持つ情熱の炎の温度を感じ取ったのか、男は頭ごなしに追い出すようなことはせず、ただこちらをじっと見つめていた。腰を落ち着けて話をするほどの悠長さはなかったが、それでも待雪が続けるであろう言葉をしかと待っているようだった。

 その沈黙が待雪にはやはり心地よかった。

 

 待雪は話を聞いてもらえることに安心し、されど目的をけっして忘れることなく真摯に思いを訴えた。

 

「あつかましい願いだとは思いますけれど、たったの一時間で良いので、夜時間の最初と最後の一時間、わたしに食堂を使わせてはいただけないでしょうか」

「それは私の決めることではない」

「夜時間の間、食堂が利用できないのには事情があるのだろうと思いますが……ただわたしは料理がしたいだけなのです。他の誰一人として、夜の間、食堂へ招き入れるつもりはありません。ただ一人、わたしだけに厨房を使わせていただければそれで結構なのです」

 

 おどおどとした態度の内に潜む料理へのひたむきな想いが言葉となって現れる。

 いざという場面で発露されるのは人間の本質だろう。待雪はそういった点で誰よりも強い心を持っていた。

 

 これには男も目を剥いて、悩ましげに頭髪を指で巻いたり、まばらに髭の生えた顎を撫でたりした。他人の意見を切って捨てるような横暴さは持ち合わせておらず、待雪が次に述べる言葉を考えているとき、ようやく男は口を開いた。

 

「わかった。だがさっきも言ったとおり私に決定権はないのだよ。神座さんに聞いてみるから、また明日の夜ここに来てくれ」

 

 神座というのは確か希望ヶ峰学園の創設者である老人のことだと待雪は記憶していた。

 彼に対して良い印象はなかった。だが椎本の話によれば生徒には親身になってくれるそうだから待雪は人好きのするいい笑顔で「ありがとうございます」と感謝を述べると、すっかり安心してそそくさと食堂を去っていった。

 すでに彼女の頭の中は明日の献立のことでいっぱいだった。良くも悪くも、彼女は料理を作ることしか能がない。それを自覚してなお、その泥海に身を沈めるのであった。

 

 食堂ではさっきの男が一人、そばの椅子に腰掛けながら、ぼうっと遠くを感慨深そうに眺めていた。

 その背中にはなぜだか元気がなかった。

 

 

 

 2

 

 

 

 朝から待雪は元気な様子で魚を焼いていた。料理をするのが楽しくて仕方がないようだった。

 反して食堂はひどく沈鬱で、誰一人顔を上げることなく、ものも言わなかった。そもそも人の数だって少なく、いつもはいない明石がかえって浮いてさえいたのだなら、その異常さといえば火を見るよりも明らかだ。

 

「まーつゆきぃー。めしぃ、まだかよぉー」

「あとは盛り付けるだけなので、並んでおいてくださいね」

 

 並ぶといっても、いつもなら押し合うようにできている列は今朝ばかりはどこにも見当たらない。みんな今日はまるでお通夜のように元気がなかった。それもそうだろう、なんせ人が死んだのだから──

 食事をねだる明石とそれに優しく応える待雪の二人は和やかな関係性であったが、食堂に満ちる陰鬱とした空気にはそぐわない明るさの二人組であった。

 

(食欲がないのかな……おかゆとかの方がよかったかも)

 

 などと考えながら、待雪は食欲そそる魚の塩焼きを皿に並べ、米をよそって茶碗に盛り付けた。魚の香ばしい匂いはただそれだけでふっくらとした身を想像させるほど出来の良いもので、蒸気に乗った米の甘みもあいまってか、いく人かは匂いを嗅いで身じろぎすっと視線を厨房の方に向けるほどだった。それでも料理を取りに来る人はほとんどいなかった。

 

「おはよう、待雪」

 

 そう挨拶をしたのは匂宮だった。彼はいつもと変わらぬ態度であった。昨日のことをまるきり忘れたというわけではないだろうが──ただ、生きることに絶望したという雰囲気はなかった。

 

「どうしたんだ」

「その、みなさん食欲がないようで」

 

 カウンターに並べられた手付かずの料理。それに視線を落としたまま待雪は言った。すると匂宮が一皿手に取って答えた。

 

「みんな食欲はあるんだ。ただ自分が料理を食べていいものか、迷ってるんだ」

「迷ってる?」

「ああ」

 

 匂宮は食堂を見渡した。その動きにつられ、待雪もまたひっそりと目を開けて彼の視線の先を見た。

 いなくなったのは二人だけなのに、うんと人が減ってしまったような、そんな気がした。その寂しさが彼らの心の多くを占めているのだろうかと思った。

 

「運んでやれば、きっと静かに食べ始めるさ。食べ物を粗末にするようなやつらじゃない」

 

 匂宮はカウンターに置かれたお盆を手に取り、そこに黙々と料理を置き始めた。

 

「……ニオウミヤさん。わたし一人じゃ配るのが大変なので、お手伝いしていただけませんか」

「言われなくてもするさ」

 

 こうして頼られることが嬉しいのだとでも言いたげに、匂宮は微かに笑ってみせた。

 

 食事を配り終えた頃には皆配膳された料理を美味しそうに食べていた。美味しいものを食べて少しは元気も取り戻すかと思われたが、予想と反し浮かない顔つきであることに違いはなかった。誰かがおかわりをしに来るようなこともないので、待雪はたくさん余ってしまったお米でおにぎりを握ってはそれを頬張っていた。

 

 正面のカウンターでは匂宮も同じくおにぎりを頬張っていた。ときどきこちらを見てくるので少し戸惑ったが、すぐに匂宮が話しかけてきたので、その話の内容からしてどうやら待雪のことを気にしているらしかった。

 

「元気か?」

 

 不思議なことに、彼は真面目な顔でそんなことを言う。

 待雪は訝しげに彼の顔を見つめたあと、頼りない口調で答えた。

 

「ええまあ。特に熱も出ていませんし、咳もありませんよ。脈も、正常ですし」

「そういうことじゃ、なくってだな」

 

 匂宮は悩ましげに頭を抱えると、飽き飽きしたような顔で続けた。

 

「元気かっていうのは、気持ちの方はどうなんだ、ってことだ」

 

 なおも待雪はよく分かっていないようで、匂宮は言葉を継ぐ。

 

「昨日はあんなことがあったろう。オマエからすれば仲の良いアイツが死んでしまったんだ。……今のお前はどうにも平気そうに見えるが、無理してるんじゃないかって、オレァ心配してやってるんだぞ」

「ああなるほど」

「なるほどって……はあ、随分とオマエの神経は図太いらしい」

「褒め言葉として受け取っても?」

「からかってるんだ!」

 

 なんだか彼は不満そうであったが、同時に安心しているようでもあった。心配していた、という言葉は心根からのものだったのだろう。待雪にはそう思われた。だから真摯に言葉を返すことにした。

 

「ユウガオさんは、わたしが悲しんでもきっと喜びはしないでしょうし、それに──死んでしまった人に料理を食べてもらうことはできませんから」

「…………、オマエらしいっちゃ、らしいか。死人に口なしって言葉も、こうなると意味が変わってくるな」

 

 匂宮は気怠げに体を伸ばした。のどかで憂鬱な時間が食堂にはあった。

 昨日の出来事をどう受け止めるのか。それが彼らにとっては大切なのだろう。

 

 匂宮はもともと口数の多い人間ではなかったから、会話というものはすぐに途切れた。そこで待雪はここにいない人物について、彼なら知っているのではないかと期待を寄せ尋ねた。

 

「あの、カガリビさんはどこに?」

「篝火、……篝火? アイツなら、朝時間になってからずっと走ってるよ。この建物の外周をぐるぐると……見なかったのか?」

「……朝早くから、ずっとここにいたので」

「そうか。なんでも昨日は眠れなかったらしくてな。倒れるまで走るって意気込んでたぞ」

「それ、大丈夫ですか……?」

 

 死にはしないだろうかという言葉を待雪は続けようとしたが、すんでのところでぐっと奥に飲み込んだ。死という言葉を口にするには、この食堂の空気はあまりに息苦しかったのだ。

 

「さすがに倒れるまでってのは誇張表現だろう。アイツのことだ、腹が減ったら食堂に来るさ」

「そんな、子供みたいな……」

 

 自分で淹れたお茶を飲みながら、待雪は心配そうに食堂の窓から外を覗いた。篝火の姿は見えなかったが、待雪は何度かそうして見ていた。

 匂宮はさほど気にもならないようで、ただ、待雪の行動が少しばかり気がかりなのか眉に皺を寄せていた。

 

「そんなに気になるなら、あとで見に行こうか」

「そこまでしていただかなくってもけっこうですよ」

「……ま、どのみちアイツとは“鯉口”監視のために朝から一緒なんだから、迎えには行くが」

「うへえ」

「オマエ、鯉口の名前を出すと露骨に嫌がるよな……」

「難しい話ですよね」

「難しいっつーほどでもねえ気がするけどな。ま、他人は他人か」

 

 ごちそうさま。匂宮は空になった皿を差し出すと、一度出口の方に身体を向けはしたものの、どこか落ち着かない様子でその場に留まっていた。まだ話があるようだったが、待雪に用があるというよりは彼の隣に座る明石に対して視線を向けていた。

 

「前々から不思議に思っていたことなんだが」

 

 匂宮は左隣。つまりカウンターに座る明石に視線を向けて、興味深そうに尋ねた。

 

「その髪の色……明石、お前はどこの出身なんだ? これでも異国人には何人とも会ってきたつもりだが、仏蘭西(フランス)でも英吉利(イギリス)でも、そういう髪の色をした人は見たことがない」

 

 匂宮の言葉に反応して明石が顔を上げる。その際、虹を閉じ込めたようなという詩的表現がよく似合う長髪が揺らめいた。

 彼女が持つ極彩色の頭髪は地球上のどこを探しても二つとして同じものは見つかりそうにない代物だ。そのうえ光の照り具合によって色を変えるので奇妙としか言いようがないが、奇妙という負のイメージを打ち消すほどに彼女の髪色の移り変わりゆく様は大変美しい光景であった。

 

 またその美しさは髪色に限ったことではない。彼女の瞳はまさしく宝石である。大きな瞳は万華鏡のように鮮やかで、その奥には屈折した光の重なりが見られる。その周りを装飾するように存在する長睫毛がよりいっそう美しさを際立たせていた。

 宝石をそっくりそのままはめ込んであるのだと言われても納得ができてしまいそうで、“夜空の星を閉じ込めた”という表現がなによりもしっくりとくる。

 

 明石は長い睫毛を重ね、柔らかな産毛の生えた頬に手をついたまま面倒そうに言った。

 

「言ったって分からねえだろうよ。なんせ未来の出来事なんだぜ」

 

 一瞬明石は顔を顰めたが、すぐにニヒルな笑みを見せると、くつくつと笑った。それにムッとした表情を匂宮は返す。

 

「確かに今のオレの知識じゃあ、その髪色に説明はつけられなさそうだ……絵の具でも塗っているのかと思ったが、だとしてもこんな色が出るとは思わない」

 

 ふん、と明石は髪をかき上げた。日頃の生活が随分と荒れているようなので髪質は決して良いものではないが、それでも絶えず輝かしい。

 

「しかしいくら考えても分からないものがこんなにも身近に存在していると、なんだか悔しい気もする。これでも科学的な知識はあるつもりなんだが、憶測すらつけられないというのはな」

 

 匂宮はおにぎりにたくさん海苔を巻いて食べていた。わりと俗っぽい食べ方をするのが、待雪には懐かしく思えた。

 

「まー地毛といえば地毛なんだが、厳密に言えばそうでもねえっていうか……」

 

 明石自身、どう説明すればいいのかよく分かっていないようだった。ただ地毛というのは嘘ではないだろうと待雪は思った。なぜなら明石の頭髪は根の方からずっとその色なのである。もし染めてあるというのなら、毛髪が伸びるにつれて根本が黒くなったりするものなのだ。だが先述したとおり、そうではないのだからきっと違うのだろう。

 それに明石の宝石みたいな瞳が、より彼女の髪が地毛であるということを信じさせるのだ。ただでさえ不思議な色の瞳を持っているのだから、髪の色がそうであるとしても、おかしなことだとは思えなかった。

 

 だから待雪には分からないのであった。なぜ明石が言い淀んでいるのかを。地毛であると断言できない理由が、明石以外の誰にも、この時代では分からないのである。

 

 

 

 3

 

 

 

 匂宮の言うように配膳さえしてやれば皆、黙々と箸に手をつけた。そのうちお椀も返しに来るようになり、一時間も経つと人はほとんど残っていなかった。

 

 篝火もその一時間の間に食堂を訪れており、いつものように喉へ食べ物を掻き込むと、目も回るような勢いで食堂から飛び出していったのを待雪はよく憶えていた。他のみんなが静かなのに、そう忙しなく動かれると嫌でも記憶に残るというものである。

 

「余りそうだったお米も、ニオウミヤさんとカガリビさんの二人がぜんぶ平らげてくれましたし。よかった、よかった」

 

 ただこれからもずっと二人に余りものを食べてもらうわけにはいかないだろう。昼食は今朝のことを鑑みて量を調節したほうがよいかもしれない、などと考えを巡らせていたところ、ふらり、食堂に立ち入る影が視界に入った。

 

(フジバカマさんだ。どうかしたのでしょうか)

 

 元気のない様子を認めて、待雪は話しかけるかどうか迷った。なんと声かけをすれば良いのかが分からなかったのだ。だから横目で彼女の姿を見るだけで、話し掛けるような勇気は待雪になかった。

 

 彼女が今朝、食堂にいたかどうかは定かでない。だが昼と呼ぶにはまだ早いこの時間帯に食堂へやって来るのなら朝食はまだのはずだ。(そうでなくてもなにかしら用事があるのかもしれないと推測し、)いずれ料理を取りに来るときに話せば良いと、待雪は後片付けやら昼食の用意やらで厨房の奥へと引っ込んで行った。

 米や魚の類はぜんぶあの二人が平らげてしまったが、昼食に向けて用意している汁物がじき完成しそうなのでそれを出すことにした。元気がなさそうだったから、それくらいでちょうど良いかもしれない。藤袴を出迎える準備は整っていた。

 

 待雪は火の加減をみたり料理の下準備をこなしながら今か今かと藤袴の声が聞こえてくるのを待っていた。しかしながら、やがて昼前になっても待ち望んでいた声が聞こえてくることはなかった。

 

「どうかしたのでしょうか」

 

 待雪は不意に心配になって厨房から食堂を覗いた。

 けれども藤袴の姿はどこにも見られなかった。藤袴は心神喪失に近い状態だったから、失神し倒れてしまったのかもしれない。その可能性も考えて机の下などを探し回ったが、ついぞ藤袴はどこにもいなかった。

 

「幻覚を見たということは、決してないはずなのだけれど」

 

 今まで食べたもの、作ったもの、見たり聞いたりした料理の材料ですら全てグラム単位で憶えていられるほどに待雪は記憶力が良い。なにより目だって、決して見間違いをするような節穴は開いていない。されどどこを探しても藤袴はいなかった。

 確かに彼女はいたはずなのに、すっかり、いつのまにやら姿を消していた。

 

「……昼食には、来るでしょうか」

 

 その日、藤袴の姿を食堂で見かけることは何度もあったが、待雪が彼女に話しかけられたり、また彼女がなにかものを食べているという光景を、待雪は一度だって見ることがなかった。

 そのわけを知る機会は当分先の話になるだろう。




【後書き】

 続きは早い段階で出せると思います。いやまったくもうそれはぜんぜんわかんないっす。

 ※プロローグ001の冒頭の長ったらしい文章を消して、書き換えました。意図していることは変わりないので読み返さなくても大丈夫です。


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002 (非)日常編

 0

 

 

 

 べ、別に、料理をするのにキスの巧拙は関係ありませんからっ……!

 

 

 

 1

 

 

 

 ロールキャベツを作るとき、待雪は必ず煮込むようにしていた。そうしたほうが出汁の味が染み込んで美味しくなるからだ。蒸すのに比べ、出汁で煮込むというのは味の違いを明確に分けるので、待雪はその繊細な特徴を好んで活用した。

 もっとも煮込みには時間がかかる。出汁の用意からなにまで手間がかかるのは料理の醍醐味とも言えた。そのため彼女は今朝早くから寸胴の前で火の加減を見ているのだが、いつもの心安らかな様子とは異なる部分があった。

 

「時間厳守。ミスしないようにしないと……」

 

 出汁は昨夜のうちに用意してあったので、残るはキャベツを茹でたり肉を挽いたりの調理過程である。それも慣れた手つきですぐに終わらせたものの、なぜか待雪は強く時間を気にしていた。それには一つの理由があるのだった。

 

 今の時刻は早朝。空を見れば日もまだ顔も見せていない頃。つまり朝時間よりも前の時間に待雪は厨房で料理をしているのだった。それはおかしい、なぜってその時間帯食堂は出入り禁止のはずだ。そのうえ食堂には二人の男の姿があり、より異様さを増していた。

 一人は待雪から厨房を使わせてもらえないかと頼まれていた軍人の男である。そしてもう一人は……。

 

「待雪君。料理の具合はいかがかな」

「はいっ。お肉は、新鮮ですし。カシワギさんが育てられたキャベツも大変質が良いものですから、間違いなく美味しいロールキャベツが出来上がりますよ」

「そうかそうか。君の腕前は素晴らしいと、かねがね聞いているからね。食べるのが楽しみで仕方ない」

 

 神座は厨房を覗き見つつ、待ち遠しそうに髭を触りながら席についた。柏木と呼ばれた男は、その隣で居心地悪そうに胸の前で腕を組んでいる。

 

 驚きなのは、なぜかあの神座出流も食堂にいる点だろう。こうなった経緯を話すと長くなるが、しかしここが肝心なため一度振り返る。

 それは昨晩のことであった。

 

 昨晩、待雪はバッテリー交換のため体育館へと足を運んだ。奥の個室に案内され、日課となりつつある首輪の点検などを受けていたところ、例の軍人が部屋の奥で佇んでいるのに気がついた。

 そこで待雪は頼んでおいた件について尋ねようかと思い立ったが、催促するのはどうかとそっと反応を待っていたところ、二人の空気を察したように神座が部屋へ入ってきたのだった。

 

「やあ君。君が待雪薫君だね」

 

 柔和な表情を浮かべたまま、厳粛な含みのある声色で神座は声をかけた。

 ぴくんと肩を震わせ待雪は神座の顔を見上げた。

 

「は、はい。そうです、けど」

「彼から聞いたよ。夜時間の間、厨房を使いたいそうじゃないか」

「ええはい、そうです。……朝早くから夜遅くまで、わたしは料理に耽っていたいのです。けれど今のままだとあまりにも時間が足りなくって」

「確かに。こうしてじっとしている時間ですら料理にあてたくて仕方がないんだろうと一目見て分かるほど、君は料理が好きなんだろうな」

 

 神座には髭を撫でる癖があった。胸の前で腕を組みながらその白白とした髭をものぐさに撫でていた。思案に近い姿勢だったが、それは待雪がどれほど本気かを見定めているのだった。

 

「そうだな……私の出す試験に合格すれば時間外での厨房の利用を許可する、というのはどうだろう」

 

 むろん制限はあるがね、と神座は付け足して言った。試験とやらが引っかかるものの、それでも神座の表情に険しさはなく好意的に思われているのだろうと待雪は安堵した。 

 

「試験、ですか」

「ああ。夜間に食堂を解放するには相応の理由が必要だ。……なに、我々とて理由もなく食堂を閉ざしているのではない。それにそう簡単に一個人へ特権を与えてしまっては、島内で秩序が保てなくなる危険性もある」

 

 二人はじっと目を合わせて話をした。

 秩序だなんて殺し合いをけしかけた神座が言うにはおかしな言葉であったが、どことなくその言葉には正当性があるように思えた。

 

「明日の朝。私と彼とに料理を作ってもらおう」

 

 神座は部屋の隅に佇む柏木へと視線を向けた。

 待雪もそれを認めて、小さく頷いた。

 

「それで、君の料理が美味しければ合格だ」

 

 最後まで言葉を聞き終えると、待雪は髪が乱れるような勢いでこくんと頭を縦に振った。こうして二人の間では約束が交わされたのである。こと料理においてはなによりも強い自信を持つ待雪は、そのときだけは少しだけ胸を張っていた。

 

 ただますます神座の目的が不明瞭になった。彼が待雪に向ける目線は、まさしく教師が尊い教え子に向けるようなものだった。間違ってもこれから殺そうとする相手や実験対象に向けるようなものではない。そのおかしさを待雪は明確に意識しなかったが、しかし小さな違和感を抱いた。

 

 ともあれそうして今朝に至るのであった。

 

 今朝になって驚いたことがあった。度々登場する柏木という男。彼は実は野菜畑の主であるという。以前より椎本から名前だけは聞いていたが、待雪は神座から指摘されるまで気が付かないでいた。

 そんな柏木という男と共に今朝は野菜をとりに行ったのだが、やけに親切だったことを待雪は憶えている。ただ親切な割に、どこか隔たりを感じずにはいられなかった。なにかしらの罪悪感を自らに感じているのではないだろうか──その反応は至極自然なように思えた。神座とは真逆である。

 青少年らに殺し合いを強要するなど正気の沙汰ではない。一端とはいえ加担しているのなら、対象を目の前に呵責の思いを抱くのは当然のように思われた。

 思えばそういった運営側の感情を待雪は考えたことがない。待雪はおろか、他の生徒でさえなかっただろう。しかし考えてみるに、軍人らのほとんどはまともな人間であると思われた。事実こうして浮かない顔をしながら料理を待っている一人の男がいるのだ。なんにせよ皆が皆、この殺し合い生活を許容した上で暮らしているのではないのだろう。

 

 とにもかくにもそういった経緯で、待雪は彼ら二人に料理を振る舞うこととなった。

 

「できました」

「ほう、美味そうだ」

 

 実のところ、このロールキャベツの出来に待雪は満足していない。手間暇をかける猶予は残っていたものの、時間がそれを許さなかった。煮込めばより味が染み込んで美味しくなるのだが今はこれが精一杯である。それでも出来うる範囲でさまざまな工夫を施したこの一品は、複雑かつ繊細に重ねられた深みのある味わいを持ち一つの確固たる旨味を生み出していた。

 

 神座と柏木は目の前に運ばれたロールキャベツをまじまじと見つめ、ナイフとフォークで器用に切り分けるとおずおずと口に運んだ。

 煮崩れはしておらず、肉にはしっかりと火が通っている。野菜も芯が残らない柔らかさだった。キャベツで綴じられたその内では肉汁と和風出汁が煌めきを放ち、これはこれで一種の和風料理ではと思えるほどに見事な味の調和を生み出しているのだった。

 神座も柏木もこの孤島の寒さに当てられ体を冷やしていたから、ロールキャベツの染みるような熱さは彼らの身の強張りを溶かしていった。

 

 彼らは黙々と食べ進み、やがてすっかり食べ終えると、礼儀正しく手を合わせてから待雪の方へ向き直った。

 

「この才能は目一杯活かすべきだろう。私としても、今後あなたが死んでしまうかもしれないと考えると、実に惜しい限りだ」

「あ、ありがとうございます。……えっと、その、つまり……」

「ああ。制限はあるが、厨房は自由に使ってもらって構わない」

「わあ……! ありがとう、ございますっ」

「ただ後付けになるが条件を加えさせてもらうよ。いいかな」

「はいっ、もちろんですっ。料理をさせてもらえるのなら」

 

 待雪の快い返事に頷きで返すと、神座は隣にいる柏木の肩に手を置き話した。

 

「彼を監視役に付けたいと思っている。君以外の生徒が食堂に入ってくるようじゃ困るからね。それに、もともと食堂の管理は彼に任せてあるんだ。欲しいものがあれば彼に尋ねなさい。日はかかるだろうが、三日もあればこちらで用意できるだろう」

「! 私が、か、彼女の監視役を、ですか。神座さん」

「ああ」

「ですが──」

 

 なにやら話していたが、待雪の心はたくさんの嬉しさで溢れており耳に入ってこなかった。料理こそがアイデンティティである待雪にとってその美味さを褒め称えられることは日常的なことであったが、されども明確に結果を得るのは歳がいくつになっても嬉しいのである。

 

 これからの生活がさらに豊かになるだろうとの期待から、待雪は心の中で独特のリズムを刻みながら食器の片付けを始めた。

 それも終えて、今度はみんなのために朝食の準備へ取り掛かろうとした頃になると、話も終わったのか神座は簡単な挨拶だけ済ませて食堂から去って行った。

 残された柏木はどこか気まずそうに待雪を見つめている。

 

「……ううむ」

「どうかなさいましたか……?」

 

 柏木は困った顔で頬のあたりを指でかき、曖昧な返事を繰り返していた。そんな彼に疑問を抱きこそすれ、原因を解き明かそうという気概は待雪になかった。

 

「? なにもないようであれば、料理に戻ってもよろしいでしょうか」

「いや、なんだ。……ああそうだ、これを藤袴釣舟という女子生徒に渡してくれないか」

 

 柏木は鞄から取り出した数冊の本をカウンターに置いた。そう堅苦しいものでもないようで、いくらか雑誌も混ざっている。見るに文芸作品のようだ。

 

 各作品のタイトルを眺めながら、待雪は藤袴の顔を思い浮かべた。

 

「フジバカマさんに、本ですか」

「支給品として彼女から届け出が出ていたものだ。昨日届いていたのだが、渡すタイミングがなかったと担当から預かったものだ」

「はあ、なるほど……わかりました。そういうわけでしたら、わたしの方からフジバカマさんに渡しておきますね」

 

 その言葉を聞き届け、柏木はそそくさと食堂を去って行った。

 

 残された待雪は気掛かりながらも託された数冊の本をまじまじと見つめていた。日本の世俗には疎いのでそれが流行りものなのかどうかは分からなかったが、待雪にはひとつだけ心配事があった。

 昨日、藤袴の姿を見る機会は幾度もあったが、結局話をしたり顔を見合わせたりはしないでいた。それにはなにか理由があるのだろうか。仮にあったとして、なら自分がこの本を彼女に渡すことは、はたして正しいことなのだろうか、と。

 そんなことを、夜明けを迎えた寒い食堂で考えていた。

 

 

 

 2

 

 

 

 とうに昼過ぎ。

 待雪は例の本を未だ渡せずにいた。お昼時は忙しさも相まって料理の方へかかりきりになることもしばしばだが、それでも傍に置いてある本を常に意識していた。だが藤袴はふらっと立ち寄ったかと思えばいつのまにかいなくなってしまうので、声をかけようにもかけられなかったのだ。

 待雪はどうしたものだろうかと机の上に平積みにされた本の束を眺めながら唸っていた。

 

「なに悩んでるんだ? 柄でもねえ」

 

 退屈そうな顔で明石は言った。

 特に意味もなくスプーンを噛んで、暇を紛らわしているようだった。

 

「わたしだって悩みますよ。能天気な人間に見えますか?」

「能天気ってのは、ある程度まともな人間に使われる言葉だぞ」

 

 がりっ。

 明石の口から嫌な音が発せられた。待雪が少し不機嫌な顔をすると、それを見るや否や明石は唾液で怪しげに照るスプーンを待雪に向けた。

 

「正気なやつは、こんなときに料理なんて作らない」

 

 むっとした気分にさせられて、待雪は言葉を返す。

 

「し、仕方ないんです。わたしが作んないとっ、誰もまともに料理できないんですから……!」

「立竝のやつなら難なくこなすだろう」

「ミオツクシさんですか……あの人ならできてもおかしくはないですが」

 

 不服そうに待雪は言った。待雪は少しだけ澪標に苦手意識があった。それは料理の巧拙を競うような幼稚さから来るものでなく、もっと単純な話で待雪は澪標のことがよく分からなかった。彼女がなにを考えているのか、その思想はどんなものなのか、その他諸々……どれもこれもモヤがかかったように分からない。彼女は謎めいて見えた。

 

「ですが、ミオツクシさんはいちゃいちゃするのに忙しそうですし。なによりクモガクレさん以外の方に料理を振る舞おうという気持ちはないでしょうし。……となると、みなさん元気がないので私が作るしか」

「……まあ、そうだよな。元気がないってのが普通だよな」

「なっ、なんですかその顔はっ! 呆れたような」

「料理バカめ。ちっとは悲しめばいいのに」

 

 明石は伏目がちに待雪を見上げると、深くため息をついてから言った。残念でならないと言いたげであった。

 

「今朝のアイツの顔見たか?」

 

 からかうように明石は尋ねる。待雪は今朝のことを思い返しつつ、明石がアイツと呼ぶのならきっと彼だろうと考えて答えた。

 

「ニオウミヤさんのこと、ですか? 特に体調が悪そうとは思いませんでしたけど」

「鈍いヤツめ。アイツ、オマエのことが好きなんじゃないか? 見るからに心配してたぞ」

「まさか……ニオウミヤさんに限ってそんなことないと思いますけど」

「いーやあるな。ちょっとはな、しおらしいところ見せれば良かったろう。そうすりゃなにかあっても、アイツが守ってくれるかもしれないぞ」

「……下心で人付き合いをするつもりはありませんよ」

「あの男は心の底からオマエを心配していた。配慮しようという気持ちも本物だったはずだ。だってのにオマエときたら……、あれは……あれは完全に拍子抜けしてたぞ」

 

 明石はなにがおかしいのか、ケラケラと膝を立てて笑った。

 待雪はその様子に唖然としながらも、ため息を吐くように言う。

 

「彼は優しいんですよ。ただそれは誰に対してもです。わたしにだけ特別なんていうのは、あなたがからかいたいから言ってるだけでしょう?」

「ま、オマエには永遠に分からないだろうけどな。なんせキスの点数がゼロだった女だ、色恋沙汰なんて分かりっこない」

「な、なっ……今しなくてもいいじゃないですかっ、その話!」

 

 机を強く叩きつけて待雪は立ち上がった。明石はふざけたような態度で話し続けた。

 

「ワタシだってびっくりしたんだぜ? 加点方式でやるってんなら満点は百じゃないってのに。それでも点数がゼロなんてやつは初めて会ったからなあ」

 

 おもしろい女だと興味惹かれた。

 そう明石は興奮気味に語るのだが、待雪は気恥ずかしさが混じった赤い顔で口をもごもごと動かすだけだった。他人に怒りを向けることのない彼女は言葉を考えているうちに口ばかりが先に動いて言いあぐねていただろう。それが明石にとってはさも愉快な光景であった。言うなれば食物を頬に溜め込んだリスのようなものだろうか。本来言葉を発することで吐き出される空気が、頬の中に溜まり大きく膨れてあるのだ。その上、怒りからか頬が真っ赤に染まっているのだから、明石にとってそんな表情は面白おかしいものだった。

 

「べ、別に、料理をするのにキスの巧拙は関係ありませんからっ……!」

「ふうん、へえ。随分と必死じゃねえか。……ま、もう少しからかっていたかったが十分満足したから種明かしでもしてやるよ」

 

 ひとしきり笑うと、明石は目尻に浮かんだ涙を拭いながら話した。浮わついた声色が挑発的だった。

 

「あれは別にキスの上手下手を測るもんじゃない。そも加点方式だってのに、ゼロってのはおかしいだろ? 年頃の若い女の接吻ってだけで高得点間違いなしだってのに」

「? はぁ」

「少なくとも未来基準じゃあそうだって話だ。この時代はまだ十代での結婚が普通だろうからあまりパッとは来ない話かもしれないが」

 

 未来という言葉を聞き、待雪は少しむくれた心持ちを治める場を見つけたような気がした。あくまでも気丈な態度で、つんとそっぽを向いて、しかし刺々しく言葉を放つ。

 

「……未来、ですか。ワタシは未来から来たなんて怪しいことを話す人の評価なんて、それこそぜんぜん、気にしていませんけれど」

「強がるなよ」

「本当に未来から来たんですかね」

「…………」

 

 ボソリと口から出てしまった言葉は、あまりにも明石にとっては心外であったようで、彼女はやや驚いたふうに聞き返した。

 

「疑うっていうのか、このワタシをっ」

「っ。そ、そういうことじゃ、ないんですけど……」

 

 目尻を下げて待雪は答えました。普段の飄々とした態度とは一変した明石の意外な表情を見て、咄嗟に怒りより申し訳なさが優った。それでも疑いは拭いきれない様子で言葉を重ねた。

 

「ですけど、その……あっ、怪しいじゃあないですか。未来から来ただなんてあまりにも非現実的で……SFじゃないんですし」

「……オマエの言うことにも一理ある。確かにワタシが生きていた時代でも、タイムスリップなんてのは夢のまた夢だと思われていた」

 

 明石は落ち着いたのか、前のめりになった姿勢を正し──けれど不貞腐れたように頬杖をついて、じっと待雪を見下ろすように見つめながら話した。突然彼女が物々しい雰囲気を纏ったものだから、待雪は自然と姿勢を正した。

 すっと、息をしてから明石は話す。

 

「タイムマシンはワタシが作ったんだ。理論も機械も。未来じゃあ、一周回ってチームでの研究が激減しちまったからな、何もかも一人でやる必要があった」

「チームでできないのは、アカシさんの性格の問題では……? 協力とか苦手そうですし」

「見た目に似合わずえげつない毒を吐くのな、オマエ」

 

 ぶっきらぼうに言ってのけると、明石は言葉を継いだ。

 

「ま、理由はあるんだ。みんな色々背負ってるんだよ。昔に比べて研究分野も増えたし、なにより解決すべき問題があんまりにも多すぎるからな──それこそ科学者の数だけ人類の危機がある。みんながみんな、世界のために身を粉にして問題解決に励んでる」

「ふうん……」

 

 興味があるのかないのか分からない返事をしながら、待雪は水を一口飲んだ。じろりと明石に睨まれたものだから、慌てて何かしらの反応を示そうと待雪は口を動かした。

 

「そ、そんなに大変そうなら、早く帰らないとですね。未来に」

「…………。そうだな、帰りたい気持ちは山々なんだがな。なんせ、装置がないもんだから」

「装置、ですか?」

「ああ」

 

 まずは宇宙の仕組みから説明する必要があるなと、明石は自らが着ている白衣を脱ぎ、机の上に広げ、それからどかっと椅子に座った。

 白衣の裏にはなにやら幾何学模様が多数描かれており、その一画を指差して明石は話した。

 

「そも宇宙とは泡のようなものだ。例えるならソーダ水の気泡一つ一つが宇宙で、想像の通り数え切れないほど存在している。そのうえそれぞれが隣接しあっている」

 

 円を描くように指を回すと、すぐにそれをどこか遠くに彼女は外した。

 

「そんな泡の表面から抜け出せる技術をワタシは生み出した。一つの宇宙から抜け出すことに、ワタシは成功したんだ」

 

 それが鍵なのだと彼女は語る。

 

「泡には液体と気体の境目に膜が存在する。それを地球儀のように立体化し、地図を作ったんだ。ワタシはそれを立体宇宙図と呼ぶことにした」

「立体宇宙図、ですか……安直な名前ですね」

「名付けなんて、見ればそれがなにか分かるような安直さでいいんだ。名前を覚えるために割く記憶容量が勿体ないんだから。……ともかくワタシは、その地図から驚くべき事実を見出した。ある一定の方向に向かうと、なんと時間が遡行できることにな」

 

 今度はどこから取り出したのか分からない、ピンポン玉ほどの大きくて柔らかい白い球を見せて明石は言った。

 

「要は泡の膜に沿って進めば過去に行けたり未来に行けたりするんだ──西に行けば過去、東に行けば未来ってな。……あくまでこれは例えで、具体的に東やら西っていうのがあるわけじゃないんだが──細かいことはいいか」

「はあ……」

「問題なのはどこが東で西なのかまるで分からないってことだ。なにせ泡の外には目印がない。方位磁針はおろか日が沈むことも、あるいは北斗七星もないんだ」

 

 鼻で笑うと、明石は天井よりもさらに遠くの方を見上げて言った。

 

「だからワタシは、いま自分のいる地点からどこへ向かえば未来や過去へ行けるのか──どの程度進めば、どれくらいの時間を飛ぶことができるのか──この二つを調べることにした。問題はそのときに起きた」

 

 明石はいまだに空を眺めたままだった。その遥か遠くに、彼女の求める真理や未来が存在するのだろうかとふと思った。

 待雪には分からなかった。

 未来から来たなんて、やっぱり信じられないことだから。

 ただ明石が悲しそうに空を見つめ物語る姿は、ヒシヒシと胸を打った。

 

「ワタシにしてはつまらないミスだ。あくまで仮説だが次元の波のようなものにぶつかったんだろう……。装置から放り出されて、この大正の時代に来てしまったわけだ」

 

 ものぐさに立ち上がると、明石はあっけらかんとした顔で待雪を見下げた。口元には少しの笑みが見えた。

 待雪は彼女の姿勢に唖然とする。仮に話が本当なら、明石という人間はこの世界の誰とも関係を持たない孤独な存在だ。彼女を彼女たらしめるものはどこにだってない。まさしくこの世界における異物──きっとそう、彼女に抱いた第一印象は間違っちゃいないのだ。彼女ほど世界から見放され、逸脱した人間はいないだろうから。

 

「なんと言いますか、わたしの理解には及ばぬ次元の話だと思うのですが……」

「理解してほしいだなんて誰が言ったんだ? そんなこと、はなから望んじゃいない」

「はあ……」

「なんとなく、語りたくなっただけだ。オマエならわけのわからない話でも聞いてくれるだろうと思ってな。……誰かに話を聞いてもらわないと、そうでもしないと、報われない気がした」

 

 明石は照れ恥ずかしそうに顔を逸らした。少し不満げなのは彼女もここまで深く話すつもりがなかったからだろう。恥ずかしい、という感情からはほど遠い印象があったから珍しい反応だった。

 

 ともかく、と明石は仕切り直すように声を張った。そしてその煌びやかな瞳を待雪へと向ける。その美しさといったら類を見ない。待雪は心臓が高鳴るのを感じた。

 

「ようはまだ死ねないってことだ。ワタシは、まだ死ねない」

 

 かといって人を殺す気にはなれないが、と明石は呟いて笑った。

 その言葉は心からのものだろう。こんな過去で死ぬつもりなんて彼女には微塵もない。その心意気はまさしく芯の通った強いものだ。しかし同時に彼女はこうも言った。人を殺す気にはなれないと。

 

 ならば彼女はどうやって生きるつもりなのだろうか?

 

 彼女はとても理知的な人間だ。ただ待雪には今の明石が無鉄砲な人間に見えた。瞳からは強い意志が感じられるものの、空虚さも垣間見える。それが意味することはなんだ……?

 彼女はなにもかも矛盾しきっている。主義主張が矛盾している。存在そのものが矛盾している。けれど、ああ、きっとそうだ──彼女自身それに気づいていながら、矛盾の坩堝に住まうことを良しとしているのかもしれない。自らの不可解な点を、普遍的なものにしようとしているのかもしれない。

 

「……首輪が爆発して、死ぬなんてことは、やめてくださいね。そんなのあまりにも報われませんから」

「それはない」

 

 続けて明石は言った。

 

「爆弾は抜いてる。禁則事項が厄介だからな」

 

 ……?

 

「は、抜いてる? それに、禁則事項?」

「爆弾はほら、前にトランクの鍵を作ったろ? あのとき首輪も解体して抜いといたんだ。今度お前のもやってやるよ。……しかしなんだ、禁則事項を知らないのか? いや、人によってはないこともあると立竝のやつが言ってたが……」

 

 明石は思い悩む素振りを見せ、周囲を警戒するように見渡したあと迷いのある言葉で禁則事項とやらを説明してくれた。

 

「箪笥の下段にいくつか紙が入っていたろう。あれに書いてあるんだ。こういった行動を起こした場合、オマエの首に括られている爆弾が爆発するぞって警告がな。ご丁寧なことだ」

 

 恭しく首を誇張するポージングで彼女は言った。あんまりにも軽く言うものだからつい楽観視してしまうが、この島において命とはいかに危ういものなのかをヒシヒシと実感させられる。

 

「ワタシの場合はなんだったか。どっかの校舎に立ち入るのを禁じられていた気がするが……ま、爆弾は抜いてあるし、気にしなくていいことだ」

「わ、わたし大丈夫ですかね……?! か、確認してこないとっ」

 

 慌てて立ち上がる待雪に対し、「立ち上がることが禁則事項かもしれないな」なんてケラケラと笑いながら明石は茶々を入れた。もっとも、待雪の耳には入っていないようだった。

 

 待雪にとっての優先事項は禁則事項の存在をみんなに流布して回ることであった。既にこの生活が始まって一週間は経つので、走るだとか寝るだとか、そんなことで禁則に触れることはないだろう。だとしても身の危険が一つでも減るのならばと、第一に待雪は居場所が分かる匂宮や篝火、鯉口のもとへ駆けつけようと試みた。

 

 ところが運がいいのか悪いのか、そこで偶然にも藤袴が食堂の暖簾をくぐり現れ、鉢合わせる形になるのだった。

 必然、二人は視線がかち合う。一瞬の出来事でありながらも、様々な思いや感情が互いの頭の中に流れた。

 

「…………っ」

「あっ、フジバカマさんっ! あっ、ほ、本をっ! あっ、ど、でも禁則事項をっ! あっ、そうだっフジバカマさん、禁則事項というものがあるらしく……!」

「…………」

 

 慌ただしく口を動かす待雪に対し、藤袴は暗い目つきをしていた。元気溌溂であった彼女の常からは想像しづらい、暗がりを感じさせる沈んだ雰囲気であった。

 

「あっ、あ、あのっ……フジバカマさん? どうか、なさいましたか?」

 

 顔を伏せた藤袴が肩を震わせだしたので、心配になって顔を覗き込むと、彼女の目には涙が滲んでいた。やがて涙は大粒のものとなり、溢れ出るそれを裾で拭いながら藤袴はこう訴えかけてきた。

 待雪にはその涙が驚きであった。

 

「わかんないですよ……」

「え、っと」

「っ、わかんないですよ! どうしてあなたは、そんなに明るく振る舞えるんですか……! 熊谷のことが、悔しくないんですかっ。悲しく、ないんですか!」

 

 それは藤袴の心からの叫びであった。藤袴の慟哭は真に迫ったものがあり、まさしく今この島に蔓延する悲しみの一端であった。

 しかしながら待雪はあっけに取られて、走り去っていく藤袴の背を追っていくことができなかった。

 

「ま、あれが普通の反応だろう」

 

 後ろから呆れた明石の声が聞こえてきた。

 後に残された待雪は驚きのあまり頭が真っ白になって、彼女が走っていった方をしばらく見ているだけだった。

 本が渡せるようになるのは、まだまだ先のことだろう。




【ロールキャベツ】

 ロールキャベツが日本に輸入されたのは明治初期のことでした。カキフライやライスカレー、ビフテキなどと共にロールキャベーヂとして紹介されたのが初めです(以降分かりやすいようにロールキャベツと表記します)。
 豚の挽肉がふんだんに使われたそれはキャベツと言いながらも主菜格の肉料理であり、肉食文化がもてはやされた当時は非常に高い人気を誇っていました。
 料理学校では蒸す調理法が紹介されがちですが、待雪は和風の出汁で煮込むやり方のほうが好きでした。煮込めば煮込むほど味が良くなるし、なにより和風出汁を使うことで日本人の舌にも合うと考え、今朝も寸胴に火をかけ続けているのです。

 ちなみに今回のロールキャベツは試作品。また後日、完成品がみんなに振る舞われます。
 こういうお肉の料理で、洋食は、好きだという人が多い。


【食堂と厨房の構造について(補遺)】

 食堂についての説明、これすなわち、当作における世界体系を示す。
 主人公である待雪さんが、基本食堂に篭りがちなので、この場所についてちゃんと説明しておかないとなと思いまして。
 文章で説明すると難しいのですが、頑張ります。(図形で思い出したのですが、二角形という、あり得ないと感じる図形を再現するための手段が、アッと驚かされるものでした。ぜひ調べてみてください)

 まず食堂と厨房があります。食堂は、生徒側の生活圏と扉を介して繋がっており、厨房は食材の搬入のため、運営側と繋がっている構造です。なので、神座や柏木は食堂から出て行ったのではなく、厨房にある扉から外へ出て行ったのですね。


【柏木という男】

 運営側に属する軍人姿の男(姿というか、ちゃんとした軍人です)。
 年齢は30~40くらい。細身で長身、どこか暗い雰囲気がある。
 一章で登場した野菜畑の主。椎本と仲が良く、頻繁に野菜について話し合っています。


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003 (非)日常編

 0

 

 

 

 馬鹿ね。愚図で鈍感。

 

 

 

 1

 

 

 

「このあと時間はある?」

「あ、はい。……あっ、いいえ」

「……どっち?」

「あの、その、昼食の準備がありまして」

 

 慌てた素振りで袖をまくると、待雪は「あはは」と作り笑いを浮かべた。それから厨房の奥へ姿を隠すために身を翻したところ、ムッとした表情の東屋がぐいっと待雪を肩から抱き寄せる。東屋は目を逸らし続ける待雪に対してこう問い詰めた。

 

「でもその前は、時間あるって言ったでしょ」

「それは、そのう……反射神経と言いますか……」

 

 待雪は何度か気まずそうに東屋の方を振り返った。目を見て話せないのが待雪の心の如何ともしがたい矮小さの表れであった。反面、東屋は待雪の目を捉えようと決して視線を外すことがなかった。

 だからか自然と場は硬直する。

 

 視線は数瞬交わる程度であった。

 ただ一方的に視線を注ぐばかりで東屋は不服そうに頬を膨れさせたが、それでも待雪から視線を外そうとしない。じっと狙いを定めるような目つきで──特にその瞳の奥に潜んでいる気持ちはあまりにも執念で満ちている。

 

 朝とも昼ともつかぬ曖昧な時間帯だからか食堂には人影もなかった。そのうえ待雪は早々に昼前の仕事を終えていたため、彼女とこうして向かい合ってしまった以上、場を離れるためのいいわけが用意できなかった。

 臆病な待雪は口実でもなければ場を離れることが難しかった。こういうとき社交的な人は嘘をついて切り抜けるのだろうが、虚偽の弁は人を騙しているようで待雪にはできなかった。待雪にとって人に嘘をつくのは自身に対する裏切り行為と同義であり、だから待雪は東屋と二人きりになってじっと向かい合うほか選択肢を見出せなかった。

 それに仮に嘘がつけたとして、彼女のあの真意に満ちた眼差しの下では嘘が嘘であるとすぐに見抜かれてしまいそうだった。だから待雪にしてみればもはや場を離れる手段はないに等しかった。

 

 苦しそうに身を捩らせながら、待雪はなるべく目を合わせないようにと(目を合わせると気圧されてどんな提案にもつい頷いてしまいそうだったから)視線を外に逃しながら、苦心し、徐々に言葉を編んでいった。

 

「そ、そのう……えっと」

 

 とはいえ待雪は頼み事を断る適切な言葉が見つけられないでいた。経験が少ないのは理由の一つにすぎない。主要なのは違和感を覚えてしまうほど真剣な彼女の態度だろう。単純な一つの目的だけでは説明がつかないほど彼女はひたむきな視線を向けてくる。その視線には真っ直ぐな感情が込められていると気付いた途端、彼女の誘いを無碍にはできないと思ってしまった。

 ただ考える時間が欲しいと、待雪は東屋に対して尋ねごとをした。

 

「あぅ……ああの、もし仮に……仮にですよ? わたしに時間があるとして、それでいったいどうするつもりなんですか」

 

 怪訝な顔で待雪は尋ねた。いかにも東屋を疑っているという表情をあえて作ってみせた。それを見て東屋は心地悪そうに眉間へ皺を寄せた。互いに顔を見合い、東屋だけが煩わしそうに嘆息を吐いた。

 気分を害したかに思えたが、東屋は常から不機嫌な人間であったから待雪があまりに過敏に怯えているだけであった。東屋は考えるような素振りをしてから、「ふん」と短く鼻を鳴らすと、不快そうに薄く目を開いて言葉を継いだ。

 

「断るなら断るで、きちんと私の方を見て言えばどうかしら?」

「す、すみません……」

「ほら、またそっぽを向いてるじゃないの」

 

 はあ、と東家はため息をついて、つらつらとこんなことを話しだした。憤りでなく呆れが漏れ出ていた。

 

「ほら、前に話したでしょう? あなたは磨けばきっと良くなるって。数日経ってよりそう強く思ったので──この後、一緒にどうかと思って」

「一緒に、というのは」

「採寸させなさいな。あなたの身体」

 

 どういうことかと待雪は瞬きをした。次第、その言葉の意味に気が付くと、待雪はふたたび驚きから目を見張った。採寸をするということは、つまりこの孤島で服を作るつもりなのだろうと気がついた。

 ファッションデザイナーは服をデザインするだけでなく、多くの場合裁縫をすることもあると聞く。きっと東屋が手ずから作ってくれるのだろう。

 

 待雪の驚いた表情を見て少しは機嫌を直したのか、東屋は眉尻を上げた。東屋の目的を理解した待雪はさっと背筋を正すと、慌てて東屋に訴えかけた。

 

「……いえいえっ、私なんかがそんな、もったいないですよっ」

「なにを嫌がることがあるの」

「だって……その」

 

 言葉選びに迷いこそしたが、待雪はきちんと東屋の方を向いてこう言った。

 

「わたしはアズマヤさんに服の代金として支払えるものはありませんよ」

「身の程を弁えているじゃない。……私は決して慈善精神で服を作るつもりはない。そんなの、ブランドとしての価値を下げるだけだから。だからかならず相応のお金を取る」

「じゃあ……」

「でも、それでも私はやりたいのよ」

 

 疲れたように彼女はほっと息を吐いて言った。

 さらりと長髪が肩から流れる。艶々とした黒髪は彼女の不安に歪んだ輪郭をはっきりと映し出した。

 

「私はきっと、この生活を生き残れない」

 

 それは待雪自身も感じていることだった。

 東屋はきっと三十日目以降の自分が想像できていない。未来に絶望しているわけではないが、しかし諦観的な姿勢であることに違いはないのだろう。

 

 生き残れない。

 あまりにも早すぎる人生の結末は、受け入れ難いように見えてある意味当然の結果だと感じられるものだった。超高校級と呼ばれるほどに名をあげた人間ならば、高みへ至るまでに大多数の凡人を淘汰してきた。それが世界であり、常であった。今度は自分が淘汰される側にまわっただけ──

 見通せぬ未来にご丁寧にも終わりが用意されたことで、ある種の安堵すら抱いているのかもしれなかった。

 

 それは東家も同じなのだろうか。どこか鬱屈とした暗がりのある表情は、彼女の見惚れるような美を引き立てるとともに哀愁の意を感じさせるものだった。

 

「ゆっくり余暇を過ごすのもいいかもしれない。むしろこんな世の中じゃ、いま死んだ方が楽かもしれない」

 

 でもそれって妄執よね。

 

 と東屋は首をもたげて前を見据えた。

 

「……やっぱり私は生きていたい。これまでの人生服を作ることに生きてきたんだもの。服を作らない私なんて、それだけで死んだも同然だわ──思想なんてどうでもいい、価値なんていくら下落しても構わない。せめてあと三十日の間、いいえ、私に残された人生はそれよりもっと少ない時間かもしれないけれど……それでも私は生きていたいの」

「…………」

 

 反論の言葉が待雪には出せなかった。未来を諦めないでとか、きっと助けが来るとか、そんなことを言っても無駄だと感じられたのだ。

 だって彼女は未来を諦めているのだ。優秀であるがゆえに、彼女は自らの未来があまりに絶望的で助かりようがないと気付いているのである。ただそれでも生きることを諦めたくないという気持ちは──彼女のわずかな人間性が垣間見えた結果だと思った。

 

 ……待雪もまた彼女と似たような考えを持っていた。

 人のために料理をしているときこそ自分は人であれるのだと──したいことをしているとき、自分はもっとも人間味が溢れていて生の全うを感じられるのだと、あの安堵に包まれた幸せの時間を待雪は知っていた。

 だから東屋の誘いを断るためには、なにか強い理由でもない限り待雪には躊躇われることだった。

 

 ただそれを踏まえた上で、一つ疑問に感じる部分があった。なんてことはない単純な事実である。

 

「……わたしなんかよりもミオツクシさんの方が良いんじゃないですか。彼女のほうがよっぽど素敵ですし、体型も綺麗ですから、きっと良いモデルになると思いますよ」

 

 それは素朴な疑問で、本心だった。

 どうせなら澪標のために服を作ったほうが良いものができるに決まっている。あのどんな服でも着こなしてしまいそうな令嬢のために世界的に有名なファッションデザイナーが服を作れば、いったいどれほどの美を生み出せるのだろう。ハッキリ言って未知数なのだから、十分に試してみる価値もあるだろう。

 確かなことがあるとすれば、それは自分のような田舎娘なんかとは比較にならないほど有用的な才能の使い道ということだ。けれど……。

 

「馬鹿ね。愚図で鈍感」

「は、はい?」

 

 突然の罵倒に待雪は肩を跳ね上がらせた。

 そんな様子を意に介さぬよう、ただ話す内容には躊躇いがあるのか、東屋は待雪から目を逸らして答えた。

 

「実はね、私、一度彼女の服を作ったことがあるのよ」

「そうだったんですか?」

「まあね……私の実家が老舗ということもあって、澪標財閥とは経営的なつながりがあったからそのよしみで……もっともそれ以上に、私の噂を聞いて彼女自身興味を持ったらしくって、一度服の裁縫を頼まれたことがあったの」

 

 彼女は珍しく落ち込んでいて、憂いをごまかすようにときどき咳をしていた。高飛車な態度や傲慢さに変わりはないが、しかしいつもは見下げている目線がこのときばかりは上を向いていたのだから不思議だ。

 その理由もすぐに分かった。

 

「ああいう人もいるんだなって思わされた。たとえどんなに不細工な金具の上でもダイヤモンドが輝くように──彼女にとっては洋服も和服も、きっと民族衣装だってなにもかもが似合っちゃうんだから。だから、わざわざ服をデザインする気がなくなっちゃって……」

 

 ああなるほど、と待雪は納得してしまった。

 荒唐無稽な話だけれど、それが事実だとすんなり受け止められるほどに美しい人だったから。

 

 待雪流に言わせてみれば、澪標はどう調理しても美味しくなる食材のようなものだ。焼いても煮ても蒸しても燻らせても、あるいは腐らせたって……どんな調理をしても至極の味になる。不味くするのが難しいほどに素晴らしい素材──それは料理をする側からすればあまりにも味気ない代物だ。

 試行錯誤など必要ない。これまで培ってきた経験も、なに一つとして活きない。布ひとつ纏わせるだけで究極の美と変わらぬ輝きを澪標は放つ。

 

「人間としての魅力はともかく、彼女、外見だけは美の極みだから」

「それ失礼じゃないですか?」

「いいのよ。ここにはいないんだし」

 

 東屋は軽く咳払いをすると、気を取り直したように話の筋を戻した。

 

「私はあなたのために洋服を作りたいの。どう? 良い提案じゃない?」

「…………、うーん」

「無理にとは言わない」

 

 東屋は待雪の手を掴むと、拝むように胸元までたぐり寄せた。そしてぎゅっとその手を握りしめた。肌の温かみ、手に込められた力強さ──直接触れ合うことで女性的な魅力が伝わってくる。待雪は驚きのあまり手を跳ね除けそうになってしまった。だが手はしっかりと握られていて、互いに顔を見合わせる結果となった。

 

「私はただ……生きていた証を、残したいだけなのよ」

 

 生きていた証。それは未来に生きることを諦めた人間にしか口にすることのできない言葉である。目の前にいる彼女はとても才気にあふれていて、若々しく、瑞々しいのに──生きることを諦めてしまっていた。

 同じだ、と待雪は思わされた。彼女はきっと自らの弱さに気がついていた。誰かを犠牲にしてまで生きられない──賢いからこそ、人殺しを行ったあとの贖罪についてもつい考えてしまう。待雪も同じく自分の命が犠牲なくして成り立たないことを理解していた。

 その点において、わたしと彼女に大きな差はなく──また最後まで生きていたいのだという願いも、不思議と二人は重なっていた。

 

 なんて矛盾──けれど、それは仕方がない。人殺しという業を背負うには、少女たちの背中は小さ過ぎた。

 

 だからこそ、東屋の言葉は全て本物なのだろう。その真剣さは目からも伝わってくる。黒の瞳はいつもより強く彼女の意思を反映している。

 だがずっと待雪が黙っているものだから、次第に凛々しい目が弱々しい潤いを持ち始めた。

 

「ねえ……ダメ?」

 

 不安そうに東屋は首を傾げた。彼女にとってその仕草は懇願に等しい。

 

 待雪はそれを理解してしまった。彼女を分かったつもりになってしまい、唸るような苦笑いと首肯をもって返事とした。

 それを受け、東屋はパッと顔色を輝かせる。

 

「了承した、と受け取っても構わないわよね?」

「ええ、まあ……あなたがミオツクシさんのために服を作りたがらないというのは、よく分かりましたので」

「じゃあ決まりね!」

 

 いつになく彼女は上機嫌で、常なら逆八の字に曲がった眉もこの時ばかりはすんなりと落ち着いた線を描いていた。

 心なしか落ち着いたような声色で東屋はこう言った。

 

「ありがと。あなたってば、お洒落には興味なさそうだったからちょっと心配だったのよ。今だって──ほら」

 

 待雪が着ている飾り気のない女学生服を指差して話した。

 

「料理服は手入れが行き届いていて立派なものだけれど、あなたが着ている制服はどこか一張羅という感じがしてカジュアルじゃないわ。これはこれで初々しくて良いかもしれないし、厳格な場に出るには相応しい格好でしょうけど──少なくとも、私生活で着こなす服装じゃないわ」

「あー……でも、他にだって服は持っていますよ。修道服とか。……料理をするときはいつもそれなんですけど、最近は忙しくって、着替える暇もないので、着ていないだけで……」

「修道服ね。私服とは言えないにしても、服のバリエーションがあるのはいいことね」

 

 ただ、と東屋は付け加えた。

 

「料理服と制服と、修道服だけ? 他には持ってないの?」

「ええっと、割烹着とかなら」

「料理服じゃない、それ。……私服よ、私服」

「いま言ったもの以外は持っていません」

「じゃあやっぱり必要よね! うんうん!」

 

 嬉しそうに胸元で手を合わせ、東屋は調子の良い声で言った。

 待雪はどうにも押され気味であったが、東屋が喜んでいるので悪い気はしなかった。ただ良い気もしなかったというのが全てだが、もっとも待雪はそれすら受け入れることにした。反論する意思が削がれたというか、こんなとびっきりの笑顔を見せられてしまうと、本当に断る意思というものがまるきり奪われてしまったのだ。

 東屋の見せる緊張のほぐれた柔らかな笑顔は反則だと言いたかったが、女が女の笑顔に見惚れるだなんて変な話なので、その言葉だけはぐっと飲み込んで幾度か瞬きをした。

 

「は、はい。いいですよ。ぜひわたしの私服を作ってください」

「わかっているわ。あなたは質素な服が好きなのでしょう? 清貧もいいことだけど……ううん、そうね、あなたを尊重します」

「気遣い、ありがとうございます」

 

 そこでようやく約束の締結を実感したのだろうか。東屋は大きく目を見開いたあと、何度も噛み締めるように頷くと、今後の予定を口早に言っていった。今にも叫んでしまいそうなほど上気した声だった。居ても立っても居られないのか、唐突に立ち上がってのことだった。

 

「午後になったら家庭科室にきて頂戴。そこで待ってるから」

「わかりました。ただ午後はお昼を作ったり、夕飯の支度をしなくちゃいけないので、少ししか時間がありませんけど」

「大丈夫、そんなに時間はかけさせないわ。体のサイズを測るだけだもの」

 

 それに、と東屋は食堂の出入り口まで向かって、そこから振り返って言った。

 

「待つ時間って、私好きよ」

 

 童心にかえったようで。

 彼女はほのかに笑みを浮かべていた。




【待雪さんの私服コーナー】
・割烹着
・料理服
・制服
・和服 ×2
・洋服 ×2
・修道服
・防寒着(コートやら手袋やらマフラーやら一式)

 持ち歩いている分には多いような気もしますけど、待雪さんは定住している場所がないので、仕方のない気もする。実際に持っている服はこれだけしかないので、季節や国によってはかなり危ない(さすがに、そういうときは現地で服を買いそうだけど)。
 高級な品ばかりなので、長持ちしてしまうのも原因。
 特にオシャレに興味のない待雪さんが、素質は良いと言われるのは、ひとえに遺伝と、人生に苦労せず、いいもの食べてきたからという点に尽きる。


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004(非)日常編

 0

 

 

 

 ねえ待雪さん。私がどうして不機嫌なのかお分かり?

 ええっと……わたしが約束を反故にしたからですか?

 

 

 

 1

 

 

 

 午後三時。普段ならば陽気に太陽が照り昼寝をしているような頃合い。窓から差し込む光の強さについまぶたをつむってしまうような、そんな春の日の明るさは今日ばかりはひどく失われているのでした。海の裾まで広がった黒雲が島を影の中へと落とし込んだのです。いっそう寒さの増す夜が、波の厳かな音とともに足元へ忍び寄りつつありました。死の気配というものがこの島には満ちていて、息を吸うだけでもむせ返るような濃い瘴気は蝕むように辺りを暗くしていきます。あの太陽ですら、彼らに光を届けることはできませんでした。雲のかげに隠れたまま、水平線の向こうへと消えてしまったのですから。

 

 けれど厨房からは、彼らを包み込むような賑やかな光が漏れ出ていました。それは芯まで冷え切ってしまった心の寄る辺となるような、それでいて、つい求めてしまうような、危うい光でした。

 そんな光の中から一歩抜け出して、少し離れた寄宿舎に待雪はいました。なんて暗い廊下でしょう。ときおり点滅する電球が、人の弱さを露呈させます。

 

「フジバカマさん。いますか、フジバカマさん」

 

 おにぎりや飲み物を載せたお盆を手に、藤袴に与えられていた個室の扉に向かって待雪は声を掛けました。ですが、返事はおろか物音すら聞こえてきません。

 心配になって、待雪は喉を張って大きく声を掛けました。不安に満ちた、頼りない声色でした。

 

「フジバカマさん……フジバカマさん!」

 

 普段出さないような、大きな声。しかしそれは虚しく廊下に響くばかりで、吹きすさぶ暴風雨によってあっという間にかき消されてしまいました。

 

 結局、今日も彼女には会えずじまいでした。最近は食堂にすら来なくなってしまいました。それを残念に思いながら、待雪は沈痛な面持ちでお盆を扉のそばに置きました。

 

「フジバカマさん。おにぎり、ここに置いておきますね」

 

 優しい声で、そう告げます。

 藤袴の心に刻まれた傷というのは、どれほど大きなものなのでしょうか。それは待雪にはわからないことでした。そして、わかってやれないのがなによりも苦痛に感じられるのでした。

 

 しばらく俯いてから、その場を去ろうとします。ですが、近くから彼女を引き留める男の声がしました。見れば数間先の扉から、見覚えのある男子生徒が半身を覗かせてこちらを見ているのです。

 

「おい、食堂に行くのか」

「タケカワさん……」

 

 超高校級の水泳部、竹河水仙。彼は以前、待雪に対し心ない言葉を浴びせた人物でした。女は嫌いだと彼は言い、そして今なお待雪の料理を食べようとしない、非常に警戒心の強い男でもありました。

 そんな彼が、いったい待雪にどんな用事があるというのでしょうか。そう疑問に感じながら、彼の瞳を見つめていると、それに呼応するように彼はきりりとにらみ返してきました。胸騒ぎのように一段と強く雨粒が窓を叩きました。

 

「…………、このまま食堂に行くのかと訊いている」

「夕飯の、支度があるので」

「…………」

 

 彼の思惑は何か。待雪には自分が呼び止められた理由がさっぱりわからないのでした。ただ彼の真剣そうな目を見ていると、ただ事ではないような心持がするのです。

 竹河は深いため息を吐くと、呆れた顔をしてこちらまで歩いてきました。先ほどまで眠っていたのでしょうか、頬には赤い跡が残っていました。

 

「どけ」

 

 彼は不機嫌な声でそう言うと、待雪を押しだすような形で藤袴の部屋の前に立ちました。そうして、俄かに大きく息を吸ったかと思うと、「出てこい」と腹の底まで響くような声で怒鳴りました。

 

「くよくよして、うじうじして、軟弱なやつめ。女はすぐこれだから困る」

 

 その声は確かに藤袴に聞こえていたでしょう。そばにいた待雪がつい耳をふさいでしまうくらいには大きな声だったのですから。

 

「いい加減、部屋から出たらどうだ」

 

 怒りの混じった問いかけは、廊下で強く響きました。しかし返事は帰ってきません。

 

「これだから女は嫌いだ。人がふたり、死んだくらいで。たったそれだけのことでくよくよ泣いて、塞ぎ込む」

 

 竹河はもう一度「嫌いだ」と言い、強く扉をたたくのでした。いったいどんな感情が、彼をこうも突き動かすのでしょう。表面に現れているそれは怒りでしたが、待雪にはもっと根柢の方に別の何かがあるような気がしました。

 

 竹河の拳によって、分厚い木の扉からは軋むような音が聞こえました。そのあと、少しして、部屋の奥から小さな声が聞こえてきました。耳をすませばそれは、彼女の声でした。

 

「人が死んだ。二人死んだ。友が死んだ」

 

 悲壮にあふれた声。それは聞くだけで胸が張り裂けそうになるくらい生命を感じさせない声でした。待雪は以前の藤袴を思い出して、それでびっくりしました。快活な彼女からこんな声が出るなんて、想像もつかなかったのですから。

 

 ただ竹河は彼女をねぎらうわけでもなく、ひたすらに冷たく言葉を返しました。

 

「だからどうした」

「なぜ私は生きているのです。なぜ彼らは死んでいるのです」

「そんなこと誰にも分からん」

「なぜ分からないまま、生きていられるのです」

「…………」

 

 竹河は口を強く結び、扉の奥を睨みつけました。数秒の間を開けて、彼は言葉を吐きつけました。

 

「センチになりやがって。気味が悪い。……この料理人を見ろ」

 

 竹河は待雪の方を一瞥すると、まっすぐな目でこう続けました。

 

「死者にしてやれることはない。だが、生きているやつにしてやれることはある。この料理人は、しっかり前を見て、いま生きている人たちのために料理を作っている」

「……っ」

「お前は死者になにかしてやれるのか。無理だろう。それより今を生きているやつにしてやるべきことが、あるんじゃないのか」

「…………」

 

 辛い沈黙でした。部屋の奥から、感情をどうにか抑えようとする泣き声が聞こえてくるのです。待雪はなにか言葉を掛けてやりたいと、そう思うのですが、良い言葉がひとつだって思い浮かばないのでした。

 

「……怖いのですっ」

 

 上擦った声が聞こえます。堰を切ったように藤袴は話し出しました。

 

「彼らは島で死にました。私は彼らを救えませんでした」

 

 夜警を行い、人を注意し、安全を気に掛ける。正義感溢れた彼女の行動は、決して無力なものではなかったでしょう。人に影響も与えたでしょう。

 ですが同時に、それでも人は死んだのだと、単純な事実が彼女にとっては背負いきれないほど重いようでした。

 

「いいえそんな高尚なこと、私はとても言えないのです。私は死ぬのが怖いのですから。なにより彼らのようになるが怖いのですから。だからどうしても、忘れられないのです」

 

 ふと待雪は、以前に藤袴が言っていた言葉を思い出しました。どうして明るく振舞えるのかと、悔しくないのかと、悲しくないのかと……。藤袴にはきっと、二人の死がなによりも多く心を占めていたのでしょう。他人を慮る彼女の善性が、なにより彼女の心を苦しめているようでした。

 生きることだって窮屈で、息をするのも億劫で、辛い事実を頬張りながら、なおも彼女は過去を直視しているのでした。

 

「なら生きればいいと言っているのだ。生きることが二人に対する罪だというのなら、なら死ねばいい」

 

 竹河は業を煮やしたように言います。

 待雪はなにも言えずに見ているだけでした。

 そして、誰も何も喋らないまま、数分ほど静かに時が流れました。風の音は強く、雨の音は耳障りで、けれどそのどれよりも騒がしく彼らの心の中では死が渦巻いているのでした。

 時が刻々と経ち、やがて長針が一周しました。そうしてようやく待雪が口を開きました。

 

「わたしがフジバカマさんを殺します」

「……あ?」

「だから、勝手に死なないでください。部屋から出てきてください。わたしの知らないところにいないでください」

 

 待雪は強く訴えるように声を張りました。演技でもなんでもない。ただ藤袴を思う気持ちが、強く表に現れるのです。

 

「そのままだと、あなたは独りでに死んでしまいます」

「…………」

 

 物を訴えるように胸に手を当て、狭い喉で声を絞り、扉の向こうの彼女に語りかけました。

 竹河は唖然としたように……けれど口を挟むことはなく、ことの趨勢を見守っていました。

 すると物音がして、衣擦れが聞こえて、ドアノブが回りました。

 

「いま、ここで殺してください」

「嫌です」

「どうして」

「だってそれだと、わたしクロになっちゃいます。そうなると、タケカワさんに学級裁判で負けちゃいます」

「…………」

「島を出てからにしましょう。ことが終わればわたしはすぐ海外に行くので、日本の法律で裁かれることはありません」

 

 最善とは言い難いでしょうが、待雪は自分にできることを頑張って伝えようとしました。姑息な手段など使わず、他人の言葉を借りることもせず、できる限り彼女と向き合おうとしました。

 そんなひたむきな姿勢は、光とも呼べるものでした。少なくとも藤袴にとってそれは大変まぶしく感じられるのでした。

 

「……ふふ、あは」

 

 藤袴は暗い目をしながら自嘲気味に笑いました。下がった目じりには濃い隈ができていました。

 

「真に受けていいのですか」

「ええ、はい」

「島を出るまで、私に生きろと言うのですね」

「そうです」

「……酷なことをおっしゃるのですね」

 

 藤袴の表情に笑みが浮かびました。

 

「……すみませんでした。ご心配をおかけして」

 

 どこか暗がりのある表情に違いはありませんでしたが、しかし彼女の顔には確かに血が通っていました。生気が感じられました。ああ、彼女はまだ生きていると、待雪はホッとした心持で胸を撫で下ろし、それから彼女の手を強く握りしめるのです。

 ああ、なんて冷たい手。けれど少しづつ、脈が血液を通わせていく……。

 

「もうじき夕飯の時間ですから、どうぞ食堂にいらしてください。ニオウミヤさんやカガリビさんがお待ちですよ」

 

 待雪はそう笑い掛けました。

 藤袴は「はい」と小さく頷きました。

 その二人の様子を、竹河だけがじっと見ているのでした。

 

 

 2

 

 

「ねえ待雪さん。私がどうして不機嫌なのかお分かり?」

「ええっと……わたしが約束を反故にしたからですか?」

 

 待雪が夕飯の配膳をしていると、見るからに不機嫌な東屋が眉根を寄せて彼女に詰め寄りました。鋭利に細められた目を見て、待雪はドキリと心臓の高鳴るのを感じます。その怒りの原因が午後の己の行動に起因しているのを彼女はしっかりと認識できていました。午後に服の採寸を行う約束をしていたのですが、藤袴の一件や夕飯の支度もあり、うまく時間を作ることができず、わざとそうしたわけではないものの約束を反故にしてしまったのです。

 そのことに対してどう謝罪を申したものかと待雪が考えあぐねていると、二人の間を割って入るようにして藤袴が弁面の言葉を東屋に申しました。

 

「すみません。私が待雪さんを呼び留めてしまって、それが長くなってしまいまして……」

「あら、そう。先に用があったのならそう言えば良かったのに」

「いえ、急用だったものですから……」

「…………」

 

 東屋は少しばかり息を吸って、そのまま物を考え込むみたく待雪の方を見ていました。それから藤袴とを見比べて、ようやく息を吐くのでした。

 

「元気そうでなにより。そうね、採寸はまた今度にしましょう」

 

 そう言って、東屋は夕飯が乗ったお盆を手に食堂の奥へと行ってしまいました。




※待雪さんが藤袴さんのために用意したおにぎりは、あとで篝火くんが美味しくいただきました。
※ピクシブで東屋さんと待雪さんと藤袴さんとか篝火くんとか鯉口さんとか……八ヶ月の間にいくつか絵を描いたので、見てね!


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005

「ここはこっちの方が砕けた言い方になるので、柔らかい物言いをしたいときはこれが適切だと思いますよ」

「なるほど……文頭を少し変えるだけでそんな違いがあるのだな」

「よく使う表現なので憶えておいて損はないかと。ただ厳粛な場では不適切なので、その場合は先ほどのフォーマルな方を」

「ふむ、言わば敬語と平常語というわけか。実に分かりやすい」

 

 食堂の一角にはいつものメンバーが集まっていた。孤島において唯一の娯楽である食事を終えると、暇を持て余した者たちがそのまま食堂で勉強会を開いていたのだ。匂宮、篝火、藤袴、鯉口、壱目、野分、椎本。それから──常から食堂にいる待雪を加えた八人が集まっていた。

 彼らも学生である。各々の望む道に進むのならやはり勉学は必要であった。特に大学へ進学するためには高校での良好な成績が必要となる。もとより高校に進学した時点で彼らの素養は高かったが、より高みを目指そうとする姿勢が彼らには見られた。それは彼らが超高校級と呼ばれる所以の一つでもあるのだろう。

 もっとも、この中では壱目の存在が珍しい。曰く、「勉強は嫌いですが、かといって怠けると良いことないですからねえ」と意外に真面目な反応だった。

 

「しかし意外だったな。待雪クンが外国語にここまで精通しているとは……英語、仏語、独語、葡語、蘭語……主要な部分はほとんど押さえてあるのではなかろうか」

 

 と野分が言った。

 彼は超高校級の保健委員の名の通り、将来は医学の道を志している。そのため外国語は必須であるが、環境故に文書の上でしか言語を学べずネイティブに近い発音や文体を知らぬままに生きてきた。最新の医療を学ぼうとしたとき、この知識不足はきっと大きな壁になるだろうと彼は懸念していた。

 

「カルテを読むにしても、論文を読むにしても、最新の医療を学ぶにしても──今この時も開発され続けている最新の技術を学ぶためには、日本語では限界がある」

 

 ぎりりと野分のペンを持つ手に力が加えられた。悔しさからではない。彼の心の中には強い昂りが起こっていた。それは彼の高い向上心から来るものであった。

 

「感謝するよ、待雪クン」

「いえいえ……感謝されるほどのことでは」

 

 幼い頃からさまざまな国へ留学を繰り返していた待雪にとって、外国語とは言わば方言のようなものだった。あの地方に行けばこう話す、もう少し西に行けば癖が強くなるくらいの感覚だ。そうした技能を技能とも思わぬところが反感を生みそうなものだが、かえって野分は感動を覚えていた。

 

 前述した通り、野分にはこれまで恵まれた学習環境がなかった。だが“外国語が話せるのは当たり前”な人物から様々な国の言葉を教えてもらえるのだから、貪欲に知識を求める彼にとってはこの上ない幸せであるのだろう。

 図書室に置いていた外国語の本を開きながら、それを訳したり単語の用例を考えたり、時には待雪と共に発音をしてみたりと、ここ数日の間で二人は仲を深めていた。

 人と会話をするのが苦手な待雪であったが、言語という媒体を用いて彼と話をするようになったのだ。

 

 そんな二人を羨ましげに遠くから眺めていた者がいる。藤袴は頬杖をついていた手を話すと、我慢ならない様子で机から体を乗り出して口を挟んだ。昨日までの様子とは打って変わりすっかり元気になったらしく、今では元気そうに匂宮や篝火らと言葉を交わしていた。

 

「以前からもしやとは思っていましたが、待雪──あなたは話すだけでなく読み書きもできるのですか?」

「ええまあ、遠方とは手紙でのやり取りが必要だったので。あとまあレシピや注文表もそうですし、時勢もあって新聞も読む必要がありましたし」

「ならひょっとして文藝作品を日本語に訳すことも……?」

 

 グイッと藤袴は身を乗り出して訊ねた。なにやら目には期待がこもっている。彼女のあまりに積極的な姿勢に、待雪は怯えつつも残念そうにこう答えた。

 

「いえ……それは難しいかと。言葉の意味を伝えることはできますが、向こうは日本と文化が違うので、小説を訳すとなったときに各文化に存在する暗黙の了解を日本語でうまく表せるか……」

「なるほど……それはそれで他の技術が必要、ということですか。無理強いをしてしまったようで……すみません」

「いえいえ、お気になさらず。わたしがうまく解説できれば良いのですが、私はそこまで文学的素養がないので……」

 

 待雪は最近気が付いたことだが、藤袴という女生徒は文学に大変な興味を持っているらしかった。先日渡した文藝雑誌等しかり、かなり幅広く作品を読んでいるらしい。本を読んでいるところもしばしば見かける。

 そんな彼女が外国で話題の作品に興味を持つのは当然とも言えるのかもしれないが、残念ながら今の待雪には力になれそうになかった。

 だから待雪は申し訳なさそうに眉尻を下げた。藤袴も、そんな表情をさせたことに申し訳なさを感じている様子だった。

 

「あんまり困らせてやるなよ」

 

 と口を挟んだのは匂宮だった。彼は医学書を開いていた。医学の分野に関しては野分の方が詳しく、時々二人して死体がどうだのと物騒な話をしているのを耳にする。おそらく過去に起きた事件の話でもしているのだろう。なんとも真面目に話しているので、日頃からそうなのだろうかと思うほどだった。

 匂宮は心配げに待雪に視線を向けてこう話した。

 

「待雪も待雪だ。もっと堂々と──」

「お、お茶とって来ますね」

「む」

 

 待雪は咄嗟にごまかして、息抜きついでに立ち上がり厨房の方まで向かった。無理やり会話を途切れさせたことに罪悪感を覚えないわけではなかったが、なにより待雪の頭には明石から言われていた先日のことが思い浮かんでいた。

 

『匂宮はお前に惚れてるんじゃないか?』

 

 あの明石が──生活態度が悪く、生きているのか死んでいるのかよく分からないような人間性の明石が言った言葉だからさほど信じてはいなかったが、こうして日頃匂宮から言葉をかけられるたびについさっきの言葉が脳裏に思い浮かんできた。

 それが待雪にとっては悩みの種であった。

 

(困ったなあ……確かにニオウミヤさんは、なんだかわたしに優しすぎる気もする)

 

 気のせい、と言ったらそれまでだ。けれどそれで済ませてしまえるのならどれだけ良いだろう。待雪は惚れた腫れたの恋愛ごとに興味はないが、だからといって向こうもそうとは限らないのだから。匂宮に限ってそんなことは、と思いたくもなるが、人間誰しも腹に一物を抱えている。誰しもがなんらかの事情で動いているのだから絶対などない。

 だから待雪は怖かった。同年代の男子生徒から好意を抱かれることに恥ずかしさこそ感じはしないが、こうした閉鎖空間で特別な感情を抱かれるのは大変危険な気がした。

 

(やだな……)

 

 思えばこの島に来てもう一週間は経つのかと、今更ながら待雪は気がついた。

 

「薫くんっ」

「わ」

 

 お茶を淹れるために湯を沸かしていると、カウンターからぴょこんと顔を出す者がいた。鯉口だ。

 ここ最近大人しいのと、勉強会の場では彼女を監視する者が全員揃っているため特例で彼女の拘束具を外していた。だからか昼間発散できない元気をここぞとばかりに放出しているので、夜にもかかわらず彼女は元気だった。

 

「夜は元気だぞ! 私は夜の方が、元気だ!」

「はあ……」

「というわけでだ薫くん。勉強なんてくだらないことはやめて外に行かないか? 新しい星に私たちの名前をつけよう。そしてそのまま良い雰囲気になってねんごろな関係になろう」

 

 夜時間になれば灯りも消えるから、星がよく見えるぞう。なんて鯉口は嘯いた。

 

「それよりコイグチさん、お茶は熱い方が良いですか?」

「ん、熱々で頼む。……しかしいいものだな、手足が自由というのは。こうして君に手が届く……」

「変なこと言わないでください。それと暇なら、あとでお茶配るの手伝ってくださいね」

 

 鯉口のことは苦手であったが、勉強会を通じて話をする機会も増え、多少は面と向かって話ができるようになりはじめた。彼女は日本史や国語な得意らしかったが反面、数学は苦手そうにしていた。それでも憶えは早くなんでもすぐにできるようになっているのを見ると、いくら人間性が限界を迎えていても頭は秀才なのだろうと思われた。

 

「相変わらず君はそっけないな。だが良いっ。それが良い……っ!」

「えっと……茶葉はっと」

「ああっ! 視線すらないっ」

 

 嬌声をあげる鯉口を横にお茶を淹れる。味の濃淡や渋味などは個人個人の好みに合わせて変えたかったので、少し手間をかけたやり方をすることにした。

 

「しかし……薫くんはいつ見ても所作が綺麗だ。ああ、もちろん外見も綺麗で大変愛らしいが、洗練された動きは武芸の型を思わせるよ」

「……そう褒められたものじゃないですけどね」

「謙遜することはないぞ。ただ見たままの感想を伝えたまでだ」

「そうですか……姿勢、ですか。意識したことはなかったのですが」

 

 背筋をピンと伸ばして見てそこを指で伝った。服越しに背中の骨がコツコツと指に触れる。それを見て鯉口もまた触ろうと手を伸ばしてきたので、パッと手を払い咳払いをした。

 

「んっん、手が空いているなら手伝ってください。それがノワキさんので、これがイツメさんのです」

「ん、分かった。……人によって分けてあるのか?」

「ええはい。それぞれ好みがありますし、体調によっては欲しいものも変わってくるじゃないですか。喉が渇いているならぬるい方が良いですし、身体が冷えているのなら熱い方が良いです」

「…………」

 

 ポカンと鯉口は口を開けている。なにがそんなに不思議なのかと、待雪は首を傾げた。

 

「どれだけ好きな料理でも、味付けが違えば美味しくなくなるじゃないですか。だからちょっと変えているだけで、難しいことじゃないですよ」

「……私に料理人の道は厳しそうだな。人の好みはそこまで憶えていられない。結婚するなら君のように気配りができて料理もできる素晴らしい人と……ああ、なんだ、目の前に」

「さ、さあ行きましょうっ。お茶が冷めてしまいますっ」

 

 急いで待雪は厨房を離れ、食堂に足を踏み入れた。危ないところだったと内心ハラハラしつつも、鯉口の言う綺麗な所作で湯呑みを置いて回った。

 

「ん、ありがとう」

 

 いくらストーブを炊いているとはいえ、冬は寒い。特に海に囲まれたこの孤島では風も強く灯りもないので心も寒かった。そんな中で温かなお茶は皆に元気を与えるものであった。

 

 そんな茶を啜りながら篝火が気まぐれにこんなことを言った。

 

「しッかし、この島はなアンにもねエンだから」

 

 彼は日本史の勉強をしていたらしく、歴史の出来事を要点でまとめそれぞれを関連付けた図のようなものを作成していた。

 もっともしばらく前から手は止まっており、すっかり集中は切れてしまったらしい。

 

「本州の方じゃおもしろそうな事件も起きてたのによ」

「事件?」

 

 と反応したのは匂宮だ。探偵としての血が騒ぐのだろうか、真面目な表情だった。

 

「おう。なンでも現代に残る“人斬り”ッてな。被害者の数は優に三桁を超えるとか。一説にゃ新撰組の生き残りとも、あるいは江戸幕府の亡霊とも言われてる」

「ああ、“人斬り”ですか」

 

 と次に反応を示したのは壱目であった。彼女は熱いお茶が好きなので熱いのを淹れたが、しかし眼鏡が曇るのか珍しく裸眼の状態だった。

 

「私の知り合いも興味本位で調査に行って殺されてしまいましたー。なんでも背中から袈裟切りで真っ二つだそうで……」

 

 と、壱目は一度湯呑みを机に置きジェスチャーを交えて話した。

 

「他にも首だけ刎ねられたり腕ごと胴を真っ二つに斬られたり、珍しいのだと全身を横からズバッと……ちょうど三枚下ろしみたいにして殺された人もいるだとか。私も事件が起きた最初の頃は調査に行こうとしたんですけど、なにぶん遠かったのと他のことにかかりきりで行きませんでしたが、いま思うと正解でしたね」

「そりャそうだ。なんせ夜中の街を出歩けば、一人であろうと数人でいようと皆ンな斬り殺されるって話だ」

「うへー、怖いですねえ。しばらく関東で夜中は出歩けませんよ。いくらペンは剣よりも強しと言っても、実際刀を向けられたらなにもできないので」

 

 それからまた勉強を再開した。しばらくして篝火は完全に行き詰まったのか、ぷらぷらと視線を空中に浮かべて呟いた。

 

「勉強はあンまり得意じャねェンだよなァ……なんツーかさ、じッとしてるのが苦手ッつーか」

「ならその辺りを走ってきては?」

「っし、そうすっか」

 

 藤袴の提案に二つ返事で篝火が堪える。藤袴も走るつもりなのか「では」などと言いながら立ち上がったが、それを抑えるように匂宮がこう言った。

 

「バカ、時計を見ろ。そろそろ時間だ。バッテリーの交換に行こうか」

 

 時計を見れば既に夜時間が近づいて来ていた。各々疲れたように背筋を伸ばしたりしながら、勉強道具を片付けて食堂を出た。その際で藤袴が待雪に近づきこんなことを話した。

 

「あの、待雪。ちょっと良いですか」

「は、はい。なんでしょうフジバカマさん」

 

 勉強道具を胸に抱えて藤袴は直立した。少しだけだが緊張した面持ちで、それが珍しくって待雪は言葉を詰まらせた。

 ただ深刻な内容の話ではないようで、藤袴はやや赤らんだ頬を左右に振って周囲を確かめながら待雪にこう話した。

 

「あの、その、今夜……夜警を行うのですが、待雪も一緒にどうですか」

「はあ、夜警ですか……」

 

 待雪には以前の夜警の際、溜まりに溜まったストレスから叫び出すという恥ずかしい思い出があった。そのため彼女の誘いにはあまり乗り気な姿勢ではなかった。だが。

 

「どうしても、今夜だけは待雪にお願いしたいんです。その、えっと、大切な話があるので……」

「大切な話?」

「く、詳しくはバッテリー交換の後、玄関ホールで。待っているので、必ず来てください……っ!」

「あっ、えっ」

 

 まだなにも返事はしていないのに、藤袴は返事を待たずにその場を離れて行った。追いかけようにも待雪の脚じゃ追いつけない。

 どうしたものかと悩むと同時に、いったい用とはなんだろうかと待雪の頭はこんがらがっていった。



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006

 バッテリー交換を終えた待雪は夜警のために玄関ホールで待機していた。相変わらず夜の玄関ホールは閑散としていて──普段から人はそういないのだが、それでも寂しい気がして──一人では心細いように思えた。というのも、匂宮と篝火の二人は夜警に使うランプを倉庫まで取りに行っており、藤袴は藤袴で用事があってここにはまだいなかった。用事というのは鯉口のことだ。夜という危険な時間帯に野放しにしておいては普段の努力が水の泡であるため、夜間の監視役を勤める藤袴は鯉口を自室に拘束してこなければならなかった。眠るときですら身近に鯉口の存在を感じなければならないのかと考えると同情の気持ちすら湧いてくる。

 例外的に、前回の学級裁判が終わった直後の藤袴は他人を監視していられるほど精神状態が回復していなかったため、匂宮と篝火が玄関ホール近くの教室で毛布にくるまって寝ずの番をしていたと聞く。さすがに同年代の異性を縛り上げて部屋に監禁するというのは、彼らにも思うところがあるのだろう。おかしなことにはならぬよう、ひたすらに筋トレや勉強、相撲稽古をしていたらしい。

 

 自分はそのときもただ料理をしていただけだ。事前に聞いていたなら食べ物の差し入れをしたのにと、待雪は疎外感と共に残念さを感じたりした。

 

 そうして過去を回想していると匂宮と篝火がやってきて待雪にランプを渡してくれた。藤袴は用事に手間取っているのか少し遅れるようだったから待雪はもう少し物思いに耽っていた。

 

 渡されたランプの手触りで以前のことがつい脳裏に浮かぶ。数日ぶりとはいえ待雪は以前の夜警を思い返していた。大変苦労した記憶があるものの、思えばあれがきっかけとなって匂宮や篝火──藤袴との仲を深めたので悪いことばかりではなかった。同時にこの夜の冷たさはあの事件のことも想起させるものだった。

 脈々と流れる熱い█。██ですら██と感じるほどに冷え切った身体──

 あのときのことを思うと心の悲しみを感じる部分が刺激される。失われた命を一つ二つと数えながら、待雪は口をへの字に曲げて玄関ホールの中央に立っていた。

 

 ……藤袴は生きることを選んでくれたけれど、彼女は生き永らえてくれるだろうか?

 

 しばらくすると足音が聞こえてきた。駆け足で戻ってきた藤袴を待雪は労うような微笑みで迎えた。そうして全員が揃ったので、ようやく夜警が始まった。

 

「ッし、それじャあ始めるか」

 

 藤袴を待つ間、待雪は匂宮らから夜警についての変更点を聞いていた。前回起きてしまった事件が深夜帯の出来事であるのを踏まえ、出歩いている者は強制的に部屋へと送り返す方針に変わっていた。

 なるほど確かに事件の原因は他人の注意を聞かずに夜間ですら外にいたからだと言えるだろう。個室にいれば鍵をかけて身の安全を守れたはずだとも。

 とはいえ待雪には人を注意して叱るような勇気も迫力もない。そこは同伴する藤袴に任せることになるだろう。

 

「さ、さあ待雪。行きましょう」

 

 当の藤袴はぎこちない動きで待雪を夜の外周へとエスコートする。大丈夫だろうか、という不安ももちろんだが、それよりも待雪の脳裏には一時間ほど前に聞かされた藤袴の言葉が強く残っていた。

 

『大切な話があるので──』

 

 大切な話とはなんだろう?

 心当たりを探ってみたがこれといったものは思い当たらない。だから藤袴の様子が待雪には不思議に思われた。その不思議は解消されることのないままに夜警は始まった。

 

 匂宮らと別れ、早速暗闇の中をランプの灯りで照らし出していった。その日は例に漏れず寒く厳しい夜であったが、風はなく穏やかな夜でもあった。遠くからは潮騒が聞こえてくる。ザァザァという音の中で二人分の足音が並んで聞こえた。会話というものが二人の間でしばらく起こらなかったが、静寂を苦しく感じることはない──ただ心地よいとだけ思った。

 そんな静寂の中で、大人しげに会話を切り出したのは藤袴であった。

 

「なんだか今日は、熱いですね」

「そうですか? ……熱でもあるのでは?」

「かもしれません。走ってきたからでしょうか、心臓がバクバクと鳴っているのが聞こえます」

「では少し休みますか」

「いえ、これしき……歩いていれば落ち着くかと」

 

 ふぅ、と藤袴は息をついて話した。

 

「誘った私が言うのもなんですが、待雪が再び夜警に来てくれるとは意外でした」

「断る理由もありませんでしたから。それにあんなに真剣な顔をされては、断るものも断れません」

「……いま思い返すともっと良い頼み方があったろうに、どうしてあんな頼み方をしたのか……な、なんだか、恥ずかしい」

 

 藤袴は赤らんだ顔をそっぽに向けると、唇を尖らせて言った。

 

「と、ともかくですね。今日は来てくださってありがとうございます。助かります」

「いえ、礼を言われるほどのことでは……それより」

 

 と言って待雪は訊ねた。

 

「大切な話とはなんでしょうか?」

 

 訊くと藤袴は口をもごつかせた。大切な話があるのは嘘ではないのだろう。けれどどうしてか話すのが躊躇われるらしかった。

 恥ずかしさが邪魔をしているのだろうか。仮にそうだとして、恥ずかしさを感じるようなこととはなんだろうか。彼女はどんなことを話すつもりなのかと待雪は純粋に疑問に思った。

 

「その……は、面と向かって話すには恥ずかしいことなので、少し雑談をしませんか」

「雑談、ですか」

「はい、そうです! 雑談ですっ」

 

 藤袴は目を合わせたかと思えばすぐに空で視線が泳がせた。常の彼女と比べても大変珍しい状態である。雑談といっても、こんな状態じゃ彼女の口からはなにも出てきそうにないと待雪は思った。だから話を促すべく前から気になっていたものについて訊ねることにした。

 

「前に本や雑誌をお渡ししたかと思うんですけど、あれってどういうものなんですか?」

「どういうもの、というと?」

「例えばどういうジャンルの話なのかとか、流行り物であるのかとか、その本のどういうところが好きなのかとか」

「なるほど……」

 

 藤袴は口を閉ざして悩み込んだ。どうやら彼女にとっては難しい質問のようであったが、気は紛れているらしく真剣な表情で考え込んでいた。やがて口を開き話した。

 

「雑誌はいつも購読しているものなんです。文芸雑誌といって、書き下ろしの新作や評論が載っていて、そういうのを読むのが好きで……」

 

 普段の戒律を重んじる真面目な藤袴とは違い、読書について語る彼女は年頃の夢見る乙女のような麗かな声をしていた。心から好きなのだろうと待雪は関心すら覚えた。

 

「小説は私の知らない世界を教えてくれるようで好きなんです。私は頭の固い人間ですから、さまざまな空想や戯言が美しさや醜さを伝えてくれるような気がして」

 

 とつとつと藤袴は語る。既に緊張の色は見られず、藤袴の口は滞りなく言葉を紡いでいた。待雪はときどき相槌を打ちながら彼女の話に聞き入っていた。

 

「小説もいいですが詩もいいですよ。小説は物語を楽しむのに対し詩はそこにある文章からさまざまな解釈を広げていける……世界が大きく感じられて、私は好きです」

「ほんとうにお好きなんですね」

「はい、子供の頃からそうなんです……お小遣いを貰えばそのまま本屋に行くくらいには……雑誌だけなら安いのですが、他にも色々買うとなると料金が嵩むので、手の届かない本はよくねだったりしましたね」

 

 と藤袴は懐かしげに笑ってみせた。

 意外ですね、と待雪は返した。そういう茶目っ気のある話は今の藤袴の真面目な風態からは想像のできないことだったからだ。藤袴は「意外でしょう?」と笑った。

 

「よくからかわれたものです。なんせ私の周りには武道しか知らない人間ばかりでしたから、落ち着いて本を読もうにも周りが騒がしくて」

 

 懐かしげに語る彼女の表情は穏やかだった。口から出てくる不満や文句には、故郷を思うような暖かみが込められていると待雪は感じた。

 

「文学は良いものです。情趣溢れる物語はただそれだけで私の心を乱すものです。読んでいて、とても不思議な気持ちにさせられるのですから」

 

 だから、と藤袴は少し照れ恥ずかしそうに続けた。一層彼女の瞳が輝く様な気がした。

 

「だから将来は国語の教師になろうと思って。それで師範学校に通っていたんですけれどね」

 

 けれどその夢も遠いものになってしまった。彼女が師範学校を離れてまで希望ヶ峰学園にやってきたのは、よりよい未来を求めてのことだったのだろう。文学を愛するが故に教師を目指し、そのためにいっそうの努力をするべく希望ヶ峰学園からの招待を受けた。

 彼女にとってそれは夢であり、未来への望みでもあったはずだ。

 

 藤袴は気丈に笑ってみせた。悲しげな面影のある笑い方だった。待雪はただその目を見ていることしかできなかった。

 

 しばらくこうして連れ立って歩いていると、藤袴は思い出したように話し出した。

 

「『坊つちやん』という小説を読んだことはありますか?」

 

 藤袴の質問に待雪は首を横に振った。聞いたことのない題名だ。自分が留学している間に日本で流行していたのだろうかと待雪は思った。

 

「ざっくり説明するとですね、成り行きで教師として地方に向かった若者が、行く先々で持ち前の無鉄砲さと直情さを発揮して、最後は気に食わないやつを殴り飛ばして故郷に帰るというお話なんですけれど……」

「け、けっこう荒っぽいですね」

「ええまあ、わりと暴力的なラストではあるのですが……それでその話なんですけれど、私は思うことがありまして」

 

 ふと上を向きながら藤袴は語った。

 

「その話の主人公は無鉄砲ながらも芯を通している部分が好感的で、というのも彼は自分が信じる正義を初めから最後まで捨てることがなかったんです。たとえどれだけ立場が上の相手でも気に食わなければ気に食わないし、不快に思ったことはすぐに口に出すし、自分が負い目を感じるようなことはすぐに精算しようと考えます。ようは子供っぽい単純な人だと言えなくもないですが、彼の生きる姿勢は私にとって憧れのようでもありました」

 

 語らう声には力強さがあった。きっと憧れの思いが込められているのだろうと藤袴は思った。

 

「良くも悪くも、私は規律に厳しい人間だと思います。規律から反する者がいれば厳しく罰しますが、ただ彼らの抱く事情を顧みることはどうも難しい──規律という名の他人が決めた正義に乗り掛かっているだけで、そこに私自身の意志や正義はないように思うんです」

 

 だから、と藤袴は続ける。

 

「だから私は羨ましい」

 

 彼女の目には確かに羨望の気持ちが込められていて、その息遣いは切なるものを願うようでもあった。彼女はきっと、自分にはそれがないと思っているのだろう。

 待雪はなんと言うべきか困った。なにも言わない方がいいのではとも思った。けれど藤袴の顔を見ているとなんだか悲しくなって、素直な考えを伝えることにした。

 

「……でも確かな信念を伴った行動なら、誰もそれを侮辱しませんよ。国のため、家族のため、正義のため。どんな理由であれ、なにか志を持てる人は素晴らしいと思います」

 

 そう伝えると、藤袴は驚いたように目を丸くした。伝えたいことが上手く伝わっていないように感じたから、待雪は加えてこうも言った。

 

「わたしはフジバカマさんを立派な人だと思いますよ」

「りっぱ……わ、私がっ?」

「はい。フジバカマさんは立派です。

 

 面と向かって自分の本音を彼女に伝える。藤袴は恥ずかしいのか困惑しているのかよく分からない表情をしていた。

 

「そそ、そんな褒めないでくださいっ。……私は向上心のない愚か者です。バカなんです」

 

 そんなことはない、と伝えても、藤袴はいいえと断りを入れた。

 

「私は自分の行いに自信を持てていない。そう、自信がないんです。いつもなにかに迷っていて、迷いを忘れるために鍛錬に打ち込んでいる」

 

 そんな私の行動は、きっと愚かと言われてもおかしくはないでしょう。と藤袴は言った。

 けれど待雪の意見は正反対であった。

 

「今はそれでいいと思います。どれだけ迷ってもいいんです……だってこれから見つければいいんですから」

 

 誰だって抱く正義は異なる。異なるからこそ、見つけやすい正義もあれば、藤袴のように見つけづらい正義もある。

 ただそれだけ──ただそれだけなのだ。

 

 その言葉がひしと心に伝わったのか、藤袴は一転して口を閉ざした。そして待雪の言った言葉を何度も何度も頭の中で反芻して、それでようやく前を向いた。

 

「これから見つければいい、ですか。ならまずは生きてこの島を脱出しなければなりませんね」

「そうですね」

「……伝えたいことがあると、あなたに言いましたよね」

 

 真剣な眼差しで藤袴は待雪を見つめる。

 待雪はつい立ち止まって藤袴の話を聞いた。

 

「私はあなたのおかげで、今もこうして生きている──昨日は私の命を救い出してくれて本当にありがとう」

「そんな、大それたことは──」

「私にとっては大きなことを待雪はしたんです」

 

 藤袴は待雪の手を取ると、それを胸元の辺りでギュッと強く握った。手袋越しでも熱が伝わってくるほどに強く彼女は手を握りしめてきた。

 

「待雪、あなたは、私にとっての──ん、いいえ、これは言わないでおきましょう。センチメンタルが過ぎました」

 

 こほんと咳払いをして、藤袴は手を離す。

 

「とにかく、本当にありがとうございます。あなたは私の命の恩人です」

「はあ……」

「それと、あのとき、あんなことを言わせてしまってすみません」

 

 あのとき、というのは部屋に閉じこもっていた藤袴を迎えに行った日のことだろう。あんなこと、というのはあの発言に違いない。『わたしがフジバカマさんを殺します』──あれは藤袴の心に深く突き刺さっているように思えた。

 

「いいんです。それでフジバカマさんの気持ちが少しでも楽になったのなら……」

「ほんとうに、ありがとうございます」

「でもわたしだけじゃなくって、あのときはタケカワさんもいらしたんですよ」

「竹河、ですか」

 

 藤袴は悩むように顎に手を当てて考え込んだ。

 

「彼は不思議な人ですね。女性を嫌っているのは心からそうなのでしょうが、それにしては優しさを感じる」

 

 むむ、と藤袴は眉を寄せていたが、ふと思い出したように昨日のその後について待雪に訊ねた。

 

「東屋はどうでしたか? どうやらご迷惑をかけてしまったようですから」

「アズマヤさんですか……少し不機嫌でしたが、いつものことですから」

「そうですか。彼女とは話をする機会が少ないので、明日にでもまた話す機会が作れればいいのですが……どうにも近寄り難い印象がありまして」

「そうですか? 良い人ですよ」

「そうなのですか? まあ悪い人ではなさそうですが」

 

 こほん、と藤袴は咳をして続けた。

 それからはしばらく互いの話をしあった。互いの師匠の話。練習で楽しかったこと。日本や海外の文学について。年頃の少女らしく、ファッションや色恋についても二人は語り合った。

 待雪にとって意外だったのは、藤袴が西洋の文化に疎かったところだろうか。外国の服装は苦手だから学校も袴で良い場所を選んだ、といった具合である。待雪自身それほど服装に関しては興味を持っていなかったのでさほど興味はなかったが、この島を出たなら共に呉服店に服を買いに行こうと約束を交わした。

 

「そういえば」

 

 と待雪はふと思い出したように話し出した。

 

「以前から考えていたのですが、皆さんの要望を聞いて料理を作ろうと思っていまして。せっかくですからなにか食べたいものはありませんか」

「食べたいもの、ですか」

「はい。お肉でも野菜でも、素材さえあればなんでも作りますので」

「はあ、ですがそれは大変ではありませんか?」

 

 心配そうに訊ねてくるので、待雪は柄になく胸を張って答えた。その仕草が可愛らしいとつい藤袴は思った。

 

「そこはまあ、頑張ります。皆さんに元気になってほしいのです」

「そうですか。待雪は立派ですね、本当に」

 

 藤袴は笑顔で返すと、それじゃあ、と料理の名前を告げた。

 わかりました、と待雪はその依頼を快く承諾した。

 

 夜はまだ寒いが、吐く息の白さが互いの暖かみを感じていられるようで、少女は幸せを感じていた。



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007

 冬は早朝が良いと言ったのは誰だっけ。そんなことを考えながら、私は日が登り始めた海を校舎から眺めていた。常であればまさしく絶景であるのだが、この島にやってきた経緯が物騒なものだから手放しには喜べない景色だった。ただひたすらに水平線の広がる光景は薄気味悪さすら感じる。それでも私は毎朝この時間帯に目を覚ましては、必ず海の景色をしっかり目に焼き付けるようにしていた。

 心が落ち着くのだ。広大な海を眺めていると、自分という存在がちっぽけなもののように感じる。ちっぽけな存在の悩みなんて、もっともっと小さいはずだ。そう考えるだけで、不安でいっぱいになって今にも破裂しそうな心の幻肢痛が少しだけ治まった。

 

 今日もそうやって心の安定を図る。冷たい外気に身を晒し深呼吸をした。鼻腔を通る冷気が肺を凍てつかせる。ああまるで、鉱物になったみたいだ──きっと私は鉄なのだ。辛いことがあれば心は冷めたくなるけれど、嬉しいことがあれば熱せられてドロドロになった鉄に変わる。

 こんなにも身体は冷たいのに、私はきっとちょっとしたきっかけで熱くなれる。けれど今の私は酷く冷え込んでいた。指先、肌、肉、血液までもが絶対零度にまで低下したような錯覚を覚えたところで、ようやく日課である走り込みを始めた。

 

「よいしょっと」

 

 独りごちてトランクを肩に担ぐ。このトランクがなかなかに曲者で、首輪と繋がっているのでいつなんどきも(お風呂のとき以外は)離れられない。それに中身がぎっちり詰まっているのか引きずりたくなるほど重たい。匂宮と篝火はこれを易々と担ぎ上げて走っていたけれど、私にはちょっぴり重く感じる。荷物も、身体も、なにもかもが私には重たい。

 きっと私の知らないところであらゆるものが少しだけ重たくなってしまったんだ。夢も、将来も、期待も、望みも、昔に比べてなんだか重荷に感じる。

 

 けれど泣き言は言ってられない。小さな背中からこぼれてしまいそうなたくさんのなにかを、「よいしょ」と掛け声をつけて私は背負い直した。

 

 よいしょ、よいしょ。

 幼い声が頭の中でこだまする。それに合わせて私もよいしょ、よいしょ、と言った。

 

 校舎の周りを数周する頃にはすっかり全身を玉の汗が覆っていた。まるで蒸気機関車のように白い息を吐き出す。身体は芯までポカポカだ。けれど心は凍てついたままで、冷たい鉄のようだった。

 

「……よいしょ、っと」

 

 用意していた手拭いで汗を拭う。水を飲むと嫌に冷静な気持ちになった。そうして、色々思い出して、今朝は何事もなかったことにホッとした気持ちになった。

 

 先日の事件は学級裁判をもって終わりを告げた。しかし恐怖はまだ残っている。

 熊谷と帚木の死体を見つけたのは日課を行なっているときだったから──外を走っていると、角を曲がるたび、そこに見知った誰かの無惨な██があるのではないかと錯覚する。

 死の手触りはいつしか私の首を締め付け、息苦しく頭の回路を閉塞させた。

 

 いっそ憐れなまでに愚かでいられたらよかったのに──恐怖を感じぬ木偶の坊になれたなら、人はどれほど幸せだろうか。私はいつまでも過去に縛られていた。

 だから過去を簡単に捨てられる彼女は酷い人間だなと思ったりした。愚かなのだろうとも。でもそれは違うのだと私は思い直した。彼女は他人の死を乗り越えられる人間なのだろう。私と違って心根が強く、身近な人の死ですらも素直に受け止めてそれを浄化する。澱を洗い流すように過去を清算し、そうして前を向いている。そんな生に対する姿勢は私にとって憧れのほかなかった。

 

 彼女のことを考えていると呼吸が落ち着いた。吐く息はすっかり冷たくなっていた。細められた目は凍ったように動かない。そこにない何者かの死を──あるいは物質の死でも見ているかのように、私は虚空を見つめている。

 

 私は彼女のようにはあれない。私は良くも悪くも実直な人間だ。なにごとにも誠実に努めることが正しいことだと信じてやまなかったが、今とはなってはただゆとりがないだけだと思う。

 結局、私はなにも出来なかった──人命を救うことも、人の助けになることも、死者を弔うことも。

 そう考えると、また気が重くなった。玄関ホールの隅で項垂れていると、額から汗が滴った。それが地面に落ちて、あの日の血溜まりを想起し、今度は瞼が重くなった。

 

 走って疲れたのか、あるいはもう死んでいるのか、身体が全く動かない。いつもは持ち上げられるはずのトランクがまるで杭のように私をその場に縛り付けていた。

 

 そんな折である。寄宿舎の方から何者かの足音が聞こえてきた。足音の主は玄関ホールに入ると、私の存在に気がついたのか明るい声で私の名前を呼んだ。思わず顔を上げると、そこには朝起きたばかりと見える待雪の姿があった。

 私の顔を見るや否や、彼女は慌てて駆け寄ってきた。だらりとぶら下げられた私の手を取ると、「冷たい」と一言述べ、その細腕に力を込めて私を引き起こそうとした。

 

「どれほどこうしていたんですか? 信じられないほど身体が冷たくなって……」

 

 待雪一人の力じゃ私を起き上がらせることはできず、うんと力を込めている様子がなんとも愛らしいものだった。手から伝わる暖かみは、感覚を失い始めていた指先が溶けてしまいそうなほどの熱を与えてくれた。

 

「心配をおかけしてしまったようで申し訳ない……少しぼうっとしてました」

「はあ。朝の走り込みも結構ですが、これじゃ夜警の意味もないですよ」

 

 彼女は呆れたふうに呟く。実際呆れているのだろう、彼女は夜景を行うことに前向きでないながらも手伝ってくれたことがある。努力をふいにされてしまったような残念さだって彼女にはあるのかもしれない。

 

「毛布、使ってください」

 

 と待雪は肩にかけていた分厚い毛布を私の肩にかけた。彼女の細いシルエットがより小さなものになった。

 

「ありがとう、ございます」

 

 喉奥が締まって上手く声が出なかったけれど、待雪は納得したようにして「さあ、行きましょう」と私の手を引いた。

 

「食堂に行けば火鉢がありますから、そこで暖まりましょう」

「もうそんな時間ですか……」

「いえ、朝時間はまだですが、食堂はもう空いているので」

 

 食堂の位置は玄関ホールからすぐのところにある。確かに待雪の言うように食堂の鍵は開いていた。夜時間の間は閉まっているはずだが、記憶違いだろうか……なんにせよ食堂に関しては彼女の方が詳しい。細かなことは気にせずに食堂へと入った。

 

「おや……火が消えてしまっていますね……」

 

 厨房近くに置かれた火鉢を覗き込むと、中の炭はすっかり燃え尽きてしまっていた。火が消えて随分時は経っているのだろう、火鉢はすっかり冷たい。

 

 どうしたものかと顔を上げる。待雪も困ったようで、互いに顔を見合わせた。基本火は絶やさぬものだ。だからこうして火が消えてしまっていると、一日の始まりが円滑に進まない。

 

 実家でもそうだった。誰かが必ず火の面倒を見ていたはずだ。火が消えると一大事で、朝の切り詰まった時間帯が滞ってしまうのだ。

 幸いこの島で時間に追われることはない。火を使うのは料理のときくらいだから──でも、となると料理人の待雪にとっては一大事である。煮るにしろ焼くにしろどうしたって火は使わねばならないのだから。しかしこの島に来てからというものの火を起こす機会はないに等しかったため、どうしたものか首を傾ける。

 そういえば、夜警の際、匂宮らがいつも持ってきていたランプの火はどこから来ていたのか……。そこまで思い立って私は厨房の方に目を向けた。

 

「倉庫にマッチがあるかもしれません」

 

 以前匂宮らが作った倉庫の帳簿に目を通す。匂宮は神経質なまでに綺麗な字を書くので、サラサラと内容が頭の中に入ってきた。なるほど、確かに倉庫にマッチがあるようだ。

 

「今から取りに行ってきますから、その間ここで待っていてください」

 

 言って食堂の出口に向かうと、待雪が後から追いかけてきた。

 

「わたしもついて行っていいですか? 食堂にいてもすることがないので」

「構いませんが、外は寒いですよ?」

「それは百も承知ですが、今のフジバカマさんは一人にすると危険そうなので」

「…………」

 

 反論は躊躇われたので、私はこくんと小さく頷いた。彼女と一緒にいて悪い気分にはならないだろうという予感があったし、なにより二人でいることを無意識のうちに望んでいたようにも思える。

 

 玄関ホールを抜け倉庫の方まで来ると、やはり人気はなく、換気をしても除ききれない埃っぽさと古びた木の匂いが鼻についた。

 

「マッチ、見つけましたよ」

 

 存外早く見つけたマッチを懐にしまい、食堂へと踵を返した。

 やはり道中人は見かけない。外は十分明るくなっているとはいえ、まだ朝時間前──眠ったままの人や、支度をしている人がほとんどなのだろう。

 

 そう考えると待雪は随分早起きだなと思った。化粧はしていないようだったが最低限髪は整えてあるようだし、服装もきちんとしている。なにより表情に疲れが見えない。きちんと毎日眠っているのだろうなと思わせる健康的な肌の色だった。

 なにより彼女と隣り合って歩くと、不思議な香の匂いがした。とても落ち着く匂いだ。香水でもなく、かといって花の香りが袖についているわけでもない。なんと表現したらいいものなのか──人香とでも呼ぶべき代物であった。

 

「前から思っていたのですが」

 

 食堂に向かう道中、私は待雪に訊ねてみた。随分気持ちも向上してきたから、話をしようという気になった。

 

「待雪はとても良い匂いがしますね。香水をつけているのですか」

「匂い、ですか……?」

 

 不思議そうに返すと、彼女は怪訝そうに自身の服や首元を嗅ぐ仕草をした。どうやら私の指摘を受けて体臭を気にしているようだったので、誤解をしているのかと可笑しな気待ちになって私は笑った。

 

「あは、臭いというわけじゃありませんよ。本当に良い匂いがするんです──香草のような、あるいは満開の花が匂わせるような香りが──甘さや爽やかさとは違う、懐かしい香りがするんです」

「はあ、なるほど」

 

 本当かしらと待雪はまた自分の服を嗅いでいた。自分の匂いは気付きにくいというから、待雪自身よく分かっていないのだろうか。こういうとき具体的に言葉で言い表せることが出来れば良いのだけれど、どうしても詩的っぽい表現になってしまうので、私は恥ずかしくって口に出せなかった。

 

 待雪はしばらく逡巡した後、困ったようにこう答えた。

 

「香水は付けてないんです。料理に匂いが移ると良くないですし、なにより鼻が強い匂いに慣れると料理も上手く作れないので」

「なるほど、そうなのですか」

「ええですから、フジバカマさんが匂いを感じたのなら他に原因があるのかと……アズマヤさんやミオツクシさんも良い香りがしますから、ひょっとしてそれが移ったのかもしれません」

「そういうものでしょうか?」

 

 確かに東屋や澪標からも良い匂いがする。だがあれは懐かしさとは程遠い気品ある高級な香りだ。待雪から漂う香りとは全くの別物である。

 

 

 食堂に着き、ようやく火をつける手筈が整った。乾燥した草を箱から一掴み持ってくる。

 

「火は私がつけましょう」

 

 マッチを擦ると独特の匂いが鼻についた。

 

 枯れ草に火をつけると、すぐに火は大きくなった。それが消えぬようだんだん強いものにしていって、やがて一つの炭を炎の中に入れる。すると炭は黒い岩のような状態から赤みを帯びた光を放ち出した。うちなる熱を放出するように、吹き込まれた風に応じてその身を強く赤く発光させる。

 

「そろそろ良いでしょう」

 

 炎の中から炭を取り出し、それを火鉢に入れる。整理された灰の中で、いくつかの炭が赤みを帯び、その端々を白く染めていた。

 

 近くの椅子に座って、火鉢に手をかざす。

 ああなんて、あたたかい。

 

「あたたかい」

 

 口からこぼれた声に驚く。

 驚きで顔を上げると、待雪と目が合って、彼女は「あたたかいですね」と微笑んだ。

 彼女も寒さで白くなった手を火鉢に翳していた。暖かそうに、その手を重ね合わせて。

 

「……料理はいいのですか?」

 

 訊かなきゃいいのにそんなことを訊いてしまった。途端、しまったと思い目を逸らした。まるで今すぐ厨房に行けと追いやるようで、私は自分に嫌悪を抱くと共に心細さを予感した。けれど帰ってきた返答は意外なものだった。

 

「いいんです。今朝はこうしたい気分なので」

「なら、止めませんが」

 

 私は口下手な自分にもどかしくなって、忙しなく手を擦った。すっかり暖まっているのに、それでもまだ足りないのだと思えるほど手を強く揉んだ。

 

 火に照って明るくなった彼女の頬は、まだ冷たく白んでいた。けれど暖かみを喜ぶように緩い笑顔を浮かべていた。

 

 孤独に死んでしまうのなら、いっそ彼女と心中してしまえたら良いのにと、くだらぬ考えが頭をよぎった。きっと彼女は私が死ぬことを良しとしないだろうし、なにより待雪自身生きることを望んでいるはずだ。

 けれどもし彼女が死を望むなら──その道行が寂しくならないように、隣に立つくらいはしてもいいんじゃないのか。

 

 私の命は彼女に救ってもらったものなのだから、決して惜しくはないのだと心から思えた。

 たとえ冬の冷たい川の中であっても、彼女と共にいられるのなら安らぎのある場所だろうから。



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008

(なんだろう、これ)

 

 待雪は眠気の残る目を擦りながら毛布に包まった。暖房のない部屋は恐ろしく寒いのだが、こうして分厚い布を被ると外気の寒さは感じなくなった。それでも末端は冷える。足先まで布で包んでいないと凍えてしまいそうなほどだったから、いそいそと枕元に置いてあった靴下を履いた。

 

 窓を見上げれば外はまだ暗い。普段これほど早い時間に目覚めることはないので、待雪は目覚めた理由があるのだろうかと辺りを見渡した。伴って思い出されたのは数日前の出来事であった。あの日も、こんな風に目が覚めて、それで██を見つけた。

 無関心ばかりが心を占め、次に面倒だな、という感情が起こった。それからようやく人間らしい不思議だという気持ちを抱いた。物音がしたわけでもなく、異臭がするわけでもない。ただ目が覚めた──それが不思議だった。

 

 真っ暗な部屋の中で身じろぎする。机に置かれたランプを手に取り、そこに火をつけた。明かりに照らされ部屋の中の様子が鮮明に映し出される。てっきり死体でもあるのではないかと寝惚けた頭で考えていたからか、常と変わらぬ部屋内の様子に拍子抜けしたみたく待雪は顔を顰めた。

 

 とはいえランプの灯りでは見える範囲に限界がある。もう少しあたりを見渡すと、一つの異物を見つけた。彼女の視線は玄関口の方に注がれており、一足しか靴がない寂しい空間に一つの封筒が落ちていた。見覚えはなく、夜寝る前にも見なかった。

 

(変なの)

 

 とはいえこの島を取り巻く環境は特殊である。なにが起きても不思議ではないし、必然この手紙だって決して平穏な内容ではないのだろう。待雪は寒さもあってかノロノロとベッドを降りては牛歩で玄関口に向かった。

 なんとも緩慢な動きで封筒を拾い上げる。とっくに眠気から覚めていたが、物音を立てぬよう彼女はゆっくり動いていた。手に取った封筒は飾り気のない質素なものだった。宛名はおろか差出人の名前すらない。ベッドに戻った待雪はトランクからペーパーナイフを取り出し、慣れた手つきで封を切った。

 

 封筒が質素なら便箋もまた質素である。なんの柄もない便箋からはほのかに消毒液の匂いがした。

 

 不思議に思いつつも、待雪は薄明かりの中で文章に目を通す。そこにはほんの数行の前置きと共にこんなことが書かれてあった。内容を要約するとこうなる。

『本日。日の沈む頃、玄関ホールにて待つ』

 と。

 

(「次に日の沈む頃」……というと夜五時くらいかな)

 

 眠るとき、この手紙はなかった。つまり「本日」とやらが実は昨日だったなんてことはないだろう。

 

 待雪は便箋にもう一度目を通した。しかし、なぜわざわざ玄関ホールに……? 話がしたいのなら直接話をすれば良いのに、そうでなく手紙を用いて呼び出すということは他に内緒で会いたいのだろう。だとするなら、人気のない場所が適切なはずだ。そういった仮定に則ると、玄関ホールという場所は不適切と言う他ない。

 なんたって玄関ホールは様々な場所と場所とを繋ぐ中心部である。寄宿舎であれ食堂であれ倉庫であれ、他の場所に移ろうとするならまず玄関ホールに出る。この島においてもっとも密談に相応しくない場所とも言えるだろう。

 

(変なの)

 

 差出人の名前も見当たらない。待雪は不可思議な感情を抱いたまま、もう一度眠ろうとベッドの中に潜り込んだ。

 

 

 

 2

 

 

 

「というわけで、今夜の夕食なにが良いですか?」

「うぅん、そう言われましてもねぇ……待雪さんの料理は本当に美味しくって、私自身お昼も夕飯も続けてあなたの作る料理を食べられるのだと思うと今の不幸せな環境を忘れてしまえるほどに幸せな心地ではあるのですが……夕食、ですかぁ? ご飯食べたばっかりなので、いかんせん食欲がなく想像もつかないですねえ」

 

 珍しく真っ当な意見を出す壱目に対し、待雪は困ったように「はあ、そうですか」と返した。

 

 なるほど、確かに壱目の言う通り時間帯が悪かったかもしれない。たらふく食べた後に夕食のことを考える食いしん坊はそういない。待雪自身、昨夜思い立ってのことだったので、いかんせん急過ぎただろうかと困ったように頭をかいた。

 そんな彼女と複数人とが朝食後の食堂で話していた。話しの内容は夕飯についてであった。

 

 というのも、昨夜藤袴に話したように待雪は料理の注文制を取ろうかと以前から思案していた。それぞれから食べたいものを注文として受け、朝食や夕飯に提供しようという試みだ。こんなに寂しい島にいるのだから少しくらいは好きなものを食べてほしいという彼女の細やかな優しさから生まれた行動である。

 とはいえ人によって違う料理を作るとなると単純に手間暇がかかる上、仕込みなども必要となってくるため、どれだけ遅くても八時間ほど前には注文を受けておきたいというのが待雪の本音だった。

 

 なので夕飯に間に合わせるには朝食のうちにあれこれ要望を聞いておきたかったわけなのだが、生徒たちの反応はあまり芳しくなかった。

 

「うーむ、僕も今のところこれといったものはなあ……」

 

 と顔を顰めたのは野分であった。腹が空いたら思い浮かぶかもしれないと加えて言ったが、それでは間に合わないのだと説明すると困った顔をした。

 

「昼のうちに考えておくから、明日の朝でも構わないか?」

「それでもまあ、いいですけど」

 

 待雪は伏し目がちに野分を見つめた。すると野分はギョッとしたように肩を竦めて、言い訳をするように言葉を継いだ。

 

「そんな目をするんじゃあない、そんな目を。なにも厄介払いしているわけではないのだからな。むしろ喜んですらいる」

「はぁ、さいですか」

「露骨に機嫌が悪いな、君。……悪いが、これも君の料理を心から好いているからこそなのだ。下手に注文してせっかくの機会を潰すくらいなら、今夜は素直に君の選んだメニューを食べて、明日また好みのものを食べたい」

 

 ある種それは信頼にも似た感情であった。たかが料理の話題だが、されどこの島において今口にした食べ物が最後の食事となりうる場合は十分にあり得る。それを自分で選ぶ権利があるというのに、下手な自分の選択よりかはあなたの判断に委ねると人前で言い切ることは信頼を示すのと同等の意味合いを持っていた。

 全くもって大袈裟な話かもしれないが、料理人である待雪にとってはそれほど大きな意味合いを持つやり取りでもある。だからこそ待雪は残念そうに眉を下げた。

 それに対し、野分は真っ直ぐな目で待雪を見つめながら話した。信頼に満ちた眼差しであった。

 

「というわけでだ。今は朝飯を食べたばかりであるからまだ食事のことは考えられない。昼食や夕食の前ならば腹も空いて案の一つや二つ出てくるだろうから、さすれば伝えよう」

「……先ほども説明しましたが、今お伝えいただけないと今夜の夕食には間に合いませんが……構いませんか?」

「うむ」

 

 こくりと野分は頷いた。待雪は淡々とそれを了承した。

 

「じゃ、私いい?」

 

 声の方を振り向くと東屋がお淑やかに手を上げていた。野分と待雪の会話が終わるのを側で待っていたのだろう、東屋は待ち侘びたような表情で待雪の反応を待っていた。待雪は「は、はい。どうぞ」と彼女に続きを促す。

 

「そうねぇ、食べてみたいものはたくさんあるのだけれど……」

「ワタシ肉! あ、やっぱ魚の煮付け!」

「ちょっ……」

「両方用意しますね」

「僕はやっぱり魚かな!」

「焼きますか? 煮ますか?」

「いまは私が待雪さんと話してる最中なのだけど……!」

 

 慌ただしくそれぞれの意見が飛び交う中、その様子を遠巻きに眺めていた藤袴がやおら立ち上がって待雪にこう告げた。

 

「私はそろそろ鯉口の監視に行かなくてはいけないので。また夕飯どきに会いましょう」

 

 なんともスッキリした表情で言うので、東屋は拍子抜けしたようにこう訊ねた。

 

「あら、藤袴さん。あなたはいいの?」

「ええ。昨夜の内にお願いしてあるので」

「あら……そう」

 

 藤袴は昨夜の夜景のうちに食べたい料理を伝えていた。待雪は頭の中でメニューを誦じながら「美味しく作りますね、フジマカマさん」と答えた。

 

「ええ、今から楽しみです」

 

 藤袴は優しい笑顔を残し、食堂を去って行った。

 

 

 

 3

 

 

 

(もうすぐ夜だな……)

 

 用意も終え、じき夕飯時。窓の外を見ると一面の海が燃えるように赤くなっていて、間もなく日没であることを知らせていた。

 

(日没……約束の時間)

 

 今朝見つけた封筒。その中に入っていた便箋には、日没ごろに玄関ホールへ来るよう書かれてあった。今日一日、それが一体なんの用であったのかを思い悩んでいたのだが、ついぞ答えは見つけられなかった。

 

(そろそろ行きましょうか)

「あら、どこへ行くの?」

 

 夕食の時間が近づいて来たからか、ちょうど食堂にやって来た東屋が待雪に声をかけた。これから夕食だというのに食堂を出ようとする待雪に不審感を抱いたようだった。

 

「……実は、呼び出されていまして」

 

 待雪は懐から取り出した手紙を見せて理由を話した。

 誰かから呼び出されているのだと話すと、東屋は眉根を寄せて考え込み、しっかりとした口調でこう言った。

 

「怪しい。私も一緒に行こうかしら」

「いえいえ、アズマヤさんはここでごゆっくり」

「そうはいかないわ。あなたには料理を提供してもらわなければならないのだから。ただ食堂に座って待っているだけなんて、私嫌よ」

「そ、そうですか……」

 

 こうも強く言われてしまうと待雪はそれ以上強く出られなかった。

 

 玄関ホールに着くと他にも数名と人影が見えた。どうやら話をしているようだが、その会話の内容から察するに彼らもまた手紙で呼ばれた者らしい。中でも椎本とは面識があったので、待雪は軽く会釈をしたのち話しかけた。

 

「シイガモトさん、ちょっといいですか」

「ん、ああ、待雪さん。……ひょっとして君も手紙を?」

「ええ、はい」

 

 言って待雪は懐から例の封筒を取り出した。それを見た椎本は驚いたように目を見張って「同じだ」と呟いた。

 

「なにが同じなんです?」

「封筒がだよ。僕のところにも今朝方同じ封筒が届いていた。ここにいるということは、おそらく内容も同じなんだろうね」

 

 椎本は手に持った封筒を示しながら話した。待雪は彼の話を聞きながら頷き、なるほどと返した。

 

「となると、シイガモトさんたちも呼ばれた側の人間ってことですよね。……この中に手紙を書いた主はいないと」

 

 玄関ホールにいる者たちに呼びかけるようにして語ったが、それに応じる者はいなかった。つまるところ待雪の予想は当たっていた。手紙の差出人は待雪に対して──またこの玄関ホールに集まった幾人かに対し、秘密の話があるわけではないようだ。彼奴は他の目的があり、その目的とやらが待雪らには未だ不透明なままであった。

 

「ハァ……もう良いんじゃないの? 彼らの話を聞くに、どうやら悪戯のようにも思えるし。それより洋服の仕立ての打ち合わせを」

 

 と東屋が言いかけたとき、バンッ、と一つの扉が震えた。倉庫のある棟へと繋がる扉だ。なにか大きなものがぶつかったような音で、玄関ホールにいる者たちの視線は音源に注がれた。

 

「な、なんの音だ」

 

 音がした方を見ると扉越しに何かが見える。なにやら沢山の紙が吹雪のように散っているのがガラス窓から見えた。そして、先ほどよりも小さくはあるが数度扉が震えた。その度に紙が宙を舞った。

 

 なにか異変が起きているらしいことに全員察しがつくも、その異変の正体にまで至った人物はいなかった。だが次の瞬間、その場にいた全員の視線は真の意味で同じものを注視することになった。

 

「!」

 

 ガラス窓の下から現れた黒ずくめの何者かが、その右手をガラス窓にかざす。その手を右から左へ動かすだけで、ガラス窓にはステンドグラスのような鮮やかな赤が彩色された。

 待雪はその色、液体の粘性、そして匂いを瞬時に察知し、それが人の血であることに気がついた。遅れてその場にいる者達も不穏な気配を察する。

 

「マズイ! なんてことだ!」

 

 迷わず椎本が扉に突き進み、それを開けようとした。犯人の確保もそうだが、彼の頭の中には血を噴き出した誰かを救うことで一杯だった。だが、

 

「扉が開かない……! 破るッ」

 

 言いながら椎本はその場から離れる。助走をつけて扉を破ろうとしたのだ。だが東屋がそれを止めた。

 

「待って! さっきのやつが下から出てきたってことは、扉の向かい側に人がいるのかもしれない……!」

「じゃぁ、どうやって」

「ちょうどそこは廊下だから、えっと、側面のガラス窓を破って入りましょう!」

 

 東屋の冷静な指示に従い、椎本は玄関ホールを飛び出した。それに付き添うようにして待雪と東屋も走って行った。残された早乙女は保健委員である野分を探すため他の棟へと走って行った。

 

「よしっ、離れて!」

 

 暗くなると廊下の明かりが良く目立つ。まだ廊下には黒ずくめの何者かが残っており、椎本らの存在に気がついていないようだった。そもそも、どこを向いているのかすら分からぬほどにそいつは黒い。夜の帷に溶け込むような色合いをしていた。

 

 椎本は待雪らに離れるよう言うと、自分もまたガラスで怪我することのないよう服で顔を防護しながら窓ガラスを叩き割った。

 

 さすがにこれには驚いたのか、廊下にいた黒ずくめの者は奥へと走り去っていく。逃すまいと急いだ様子で椎本は外から窓の鍵を開け、続々と中に入って行った。

 

「アッ……! イツメさん……!」

「……!」

 

 さっき開かなかった扉の下では、東屋の予想通り人が倒れていた。それは良く見ると壱目で、辺りに散った紙の束を真っ赤な鮮血で染め上げていた。

 

 椎本はついそちらに駆け寄りそうになるも、次に出た待雪の言葉で引き戻される。

 

「ッ、追いましょう!」

「追うって……えあ、ええ?」

 

 待雪は一瞬の逡巡ののち、犯人が逃げ去った方向へと走って行った。それに二人は驚きながらも、椎本はなんとか東屋にこう言った。

 

「……ッ、僕が彼女に着いて行くから、東屋さんは、壱目さんの様子をッ!」

「よ、様子って……わ、私、医療なんて、てんで」

「血が出てる! 人が、死ぬかもしれないッ!」

 

 これで血が出ているところを押さえて、と椎本は着ていた上着を放り投げ、待雪の後を追った。

 当の待雪は良からぬ雰囲気を感じつつあった。それが彼女の気持ちを急かし、らしくない行動に走らせた。

 

「ダメだっ。良くないっ。嫌な臭いがするっ」

 

 この棟に満ちる死の瘴気に表情を歪ませながらも、待雪は走った。身に合わぬ重さのトランクを抱え、足をふらつかせながらも、その向かう先は一直線であった。



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009

 一直線の廊下を駆けていくと、謎の黒ずくめは身を翻して角に折れた。恐らく教室に入ったのだろうと思われた。待雪らもすぐさま同じ所で角を曲がり、薄暗い空き教室の中で広がった。

 すると、ジロリ、黒ずくめの何者かが教室内で待雪らを待ち構えていた。待雪は頬に冷や汗が流れるのを感じながら、およそこのあとに来るだろう戦闘に備え形だけ構えた。

 対峙するは全身を黒いマントで包んだ賊。マントが肩やボディラインを隠しているためか体型が分からない──身長さえもその前屈姿勢によって分かりづらいものになっていた。

 だが賊の抱えるトランクが、待雪ら希望ヶ峰学園の生徒であることを物語っている。

 

「誰です」

 

 緊張を感じさせない声色で待雪は問いかけた。一方で賊はなにも答えない。ただ顔を覆う黒い布が卑しく笑うように皺を作った。人殺しという大業を成しても奴には余裕があるのかと考えると末恐ろしくなった。同時にそのような悪逆非道な人間と今まで笑顔で話し合っていたのかと思い、悲しくもなった。

 

 見れば賊はマントの下からヌッと刃物をチラつかせた。生暖かい血でぬらつく真っ赤な刃であった。珠がこぼれるようにキラキラと手元で輝く。滴る血が壱目の顔を思い起こさせた。

 

「このォ……ッ!」

 

 待雪の一歩前に立つ椎本が怒りで声を震わせる。普段見られる彼の温厚な様子とは異なり、青筋を立てて怒る彼の様は暴風のようでもあった。つい待雪は彼から溢れ出る敵意に慄く。心根の優しさからいつもは眉尻が下げられている目も、今ばかりは睨めつけるように鋭い光を放っていた。

 

「!」

 

 合図もなく彼らはぶつかり合った。先に仕掛けたのは椎本であった。

 

 グッと力を込めるように収縮した筋肉が怒りの声と共に弾ける。重力に従い倒れるかのごとく身体を折り畳むと、そこから曲線を描くようにして上昇するタックルを繰り出した。たった二歩、それだけで賊との距離を詰め内蔵ごと抉り抜くようなタックルを披露した椎本であった。その巨体から繰り出される突撃はまさに一撃必殺の代物であろう。

 だが賊は風の上で舞うようにしてヒラリと躱すと、血のぬらつく手で教室の窓を開け、そこから零れ落ちるようにして逃げ出した。

 行き場を失った椎本の暴力は賊のいた場所の窓を完膚なきまでに粉砕する。バリバリと音を立て、ガラスのみならず枠組みの木すらも破壊し尽くした。

 

「くうっ……!」

 

 悔しさからか椎本は窓の外にすぐさま飛び出した。待雪も遅れて外に出る。

 

「ごめん! 当たりすら、しなかった!」

「謝ることはありません! 追いましょう!」

 

 正直、待雪には格闘経験がない。今の攻防もただ眺めているだけだった。それが悔しいのか走る足に力が入った。声もまた普段より大きい気がする。無力さと、それから義務感とが彼女をらしくない行動に駆り立てた。

 

 賊を追って窓から飛び出ると、空は既に夜を迎えていた。外には灯りという灯りもなく真っ黒な服装をした賊は闇夜に溶け込むみたく逃げていく。海から吹く向かい風が待雪らの進路を妨害する一方、賊はまるで追い風でも吹いているのではと錯覚するすばしっこさでヒラヒラとマントを動かし待雪らを翻弄した。

 

 額を流れて行く汗は激しい運動によるものだが、冷や汗もきっと混じっているだろうと思われた。待雪には一つだけ懸念事項があった。

 

(賊を捕まえないと……これから更に被害者が出る可能性もある)

 

 それはどうしても避けたい事由であった。自分自身、刺される可能性は十分にあるのだから、それだって恐ろしさの要因の一つである。

 

 校舎の周りを駆け抜けると、賊は先程と異なる棟に逃げ込んだ。わざわざ窓を開ける余裕はないのか、一度玄関ホールを経由してのことだった。

 

 賊の後を追って玄関ホールに入るとちょうど反対側から篝火と藤袴の二人がやってきて、鬼気迫る顔で待雪にこう訊ねた。待雪は荒い呼吸の中でなんとか話した。

 

「! 一体なにが!」

「イ、イツメさんが、そこの賊に刺されて……!」

 

 指差す先には走り去って行く賊の姿があった。時々コチラを振り向いては様子を窺っている。まるで誘っているようだとにわかに不信感が沸き起こったが、どうにかしなければという気持ちが強くあって、待雪は走ることを止めずにひたすら前へと突き進んだ。

 だがそれを冷静に引き止める声があった。

 

「私も行きましょう。ですが危険ですから、待雪は玄関ホールで鯉口のことを見ておいてください」

「それこそ危険です。コイグチさんの両手は拘束されている……もし賊が戻ってきたなら守り切れません」

 

 迷う間もなく言葉を交わしあう。淀みない待雪の口ぶりが彼女の覚悟の強さを如実に表しており、藤袴は稀に見る彼女の芯の強さにハッと目を見開いた。

 

「……では共に行きましょう」

「ええ、では急ぎましょう。見失うと大変です」

 

 見れば賊は既に廊下の奥まで走り去っていた。そのまま近くの教室に入って姿が見えなくなったのを確認し、椎本は焦ったように走り出した。

 ただ藤袴は冷静にこう判断を下した。

 

「あそこは確か音楽室です。遮音のために窓が小さくなっているので、逃げ出すのは困難かと」

「なら落ち着いて行こう。相手は刃物を持っている」

 

 言って、棟へと続く廊下の扉を開いた。

 やけに暗い廊下を突き進む。この棟は電灯が古いのか、他と比べて暗い印象がある。──それにしたって暗い気がする。まるで、いくつか灯りをなくしてしまったような、そんな気分だ──待雪は灯りを持って来れば良かっただろうかと一瞬思いはしたが、彼女は少しでも早く心の安寧を手に入れたかった。それはその場にいる全員に言えることであった。

 

「真っ暗だ」

 

 音楽室の中はまさしく闇であった。分厚い遮音カーテンが窓を塞いでいるからか外から光が入ってこない。明かりを取りに戻ることも考えたが、そんな暇があるのかと考えなしに中へと入る。篝火、藤袴と続いて入り、待雪もまたその背を追うため教室の中へと飛び込もうとした。だが。

 

「ッ、危ない!」

 

 驚きに満ちた叫びと共に、待雪と胸を手のひらがついた。突然のことに、抵抗もできないまま後方へと倒れ行く。微かに見えたのは真っ暗闇の教室の中で眩く輝く閃光であった──

 

 

 

 まさしく爆音。花火が耳元で炸裂したような、それでいて金属の喚くような音と共に待雪は倒れ伏した。まず始めに無音の世界に待雪は驚いた。嫌に静かだった。微かな金属音が頭の中に響くのみで、他の何者の音も聞こえやしなかった。次に視覚の異常に気がついた。いくら目を開けても、目の前がチカチカと白黒に点滅するばかりで代わり映えがしないのに驚嘆した。地獄にでも落とされたのかと思った。ついぞ私は死んだのかとも。

 けれど手の感触は確かなもので、平衡感覚こそ失われているものの冷たい手触りが指先で感じられた。すぐさまその手を自らの胸に当てる。心臓が忙しく拍動するのを感じ、ああそうか、今わたしは息が荒いのか、だからこんなにも辛いのかと、まずは苦しさばかりが頭の中を占めた。

 

(いったい、なにが)

 

 その場にいる誰かに問いかけたつもりだったが、うまく息が出来ないのと耳が聞こえないのとで、しっかり発話できているかすら怪しかった。口をただパクパクと動かしていただけかもしれない。そう感じるぐらいに、あの一瞬の閃光により待雪の意識や感覚は奪われ掻き乱された。

 

「あ、ああ、なにが、ハァ」

 

 自分の呟きが喉の震えとなって聞こえた。意識が段々鮮明になってくる。そうだ、教室の暗闇から、なにか異質な光が飛び出してきて──

 

「──おい、おい──大丈夫か!?」

 

 待雪の肩を誰かが揺すっていた。聞こえてくる声には聞き覚えがあった。そこでようやく、聴覚が戻りつつあるのを実感した。

 

「おい、おい──一体、なにが──」

 

 声の主はなにか必死だった。そんなにうるさくしないでほしい。頭の中がずっと痛いんだから。

 視界が徐々に明るくなってきた。誰かが持つランプの灯りが見える。待雪は何度か瞬きをすると、苦しげに上体を起こした。まだ頭の奥の方がチカチカとするが、物が見えないわけじゃない。部屋の中は相変わらず暗いままであったが、待雪がそこに指を刺すと、ランプを持った男がその部屋の中を照らした。

 見ればそこには瀕死の男がいた。そして今にも死にそうな顔をしている藤袴の姿があった。藤袴の手には真っ赤なナイフが握られている。乙女の白い指先はどろどろした血で染まっている。

 

「私は、一体、なにを」

 

 藤袴自身、その腹からは血が染み出していた。どうやら刺されたらしい。黒ずくめの何者かはもう立ち去ったあとだった。

 藤袴はフッと気を失うと、どたり、崩れ落ちるような音を立てて床に倒れ込んだ。



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010

「フジバカマさん!」

 

 覚束ない足取りで駆け寄り、彼女の上体を抱き上げる。力なく垂れ下がった腕が覇気のなさを如実に物語っていた。失血による衰弱が既に始まっているらしく、待雪は急いで声を掛けるが期待していた反応は返ってこない……。

 

「血が……どくどくって……」

 

 上擦った声がより悲壮さを演出する。

 生暖かさを感じ掌を見るとそれは真っ赤に染まっていた。藤袴の魂ともいうべきものが太い管から止め処なく流れ出てしまっているような錯覚を覚える。よりいっそう心は急かされ、震えた手で傷口を抑えた。

 

「ああ……!」

 

 止血を試みるが、相反し無情にも血溜まりが足元に広がっていった。根が水を吸うように、待雪のスカートは徐々に赤いシミを広げていった。このままじゃ自分のスカートが彼女のなにもかもを吸い上げてしまいそうに思えて、待雪は思わず立ち上がった。

 パシャリ。ああ、血はもう水溜りのようで──

 

「なにが起こった! ハァっ、患者は!」

 

 遠くから足音を鳴らしてやってきたのは超高校級の保健委員である野分と匂宮だった。騒ぎを聞きつけ急ぎやってきたのだろう、その額には汗が滲んでいた。

 

 彼の声により待雪は冷静を取り戻し、周りを見渡した。藤袴の向かいには篝火が倒れていた。泥のような意識の中から掬い上げた記憶と照らし合わせてみるに、閃光の眩いうちに二人は傷つけられたのだろう。暗い教室の中にはやはり凶刃が息を潜めていたということらしい。

 そう考えると、待雪はようやくその身で恐ろしさを感じた。あの一瞬、誰かが待雪の胸を突き飛ばした──あのとき待雪の前を進んでいたのは藤袴だったから、危険を察知した彼女が咄嗟の判断で救ってくれたのだろうと思った。それがなければ自分のような虚弱体質はあっという間に死んでいただろうとも。

 

(だからって、あなたがこんな傷を負ってしまったら、意味ないじゃないですか……!)

 

 止血をする手に力が篭る。藤袴に対し苛立ちを感じているのではない。ただ己の無力さと、そこはかとない虚しさが辛かった。

 

 以前の夜警で藤袴はこんなことを言っていた。私は人の語る正義に乗り掛かるばかりで、自分自身の正義がないと──けれど待雪を救おうとした咄嗟の行動は、誰がなんと言おうと自己より他者を思う尊い気持ちであると思われた。

 

 だからこそ、待雪は悲しく思った。彼女は元からそうした気持ちを持っていたのに──それをずっと認めないでいたから。この寂しい孤島で彼女が彼女自身を認めてあげられないのなら、一体誰が彼女の心を照らすのか。

 こんな怪我を負う必要はなかったのに──ほんの少しでもその優しさを自分に向けてやればよかったのにと──待雪は悲痛な面持ちで思った。

 

「! 血が……刺されたのか!?」

 

 野分は上着を脱ぎながら「どうなんだ!」とその場にいる者たちへ問いかけた。最初から犯人を追っていた自分が一番詳しいものと思い、待雪は辿々しい口調でそれに答えた。

 

「ふ、フジバカマさんが、お腹を刺されて……! カガリビさんも、腹部を……あとそれと、イツメさんが玄関ホールの方でっ」

「ッ〜〜〜! 多いなッ。ひとまず君たちの様子を見るッ」

 

 言って野分はそばにいた椎本に対し、保健室まで救急キットと消毒液、それから大量のガーゼと包帯を持ってくるよう指示した。

 それから待雪の方に駆け寄ると、脱いだ上着で患部の血を拭いながら藤袴の診察を始めた。

 

「わたしは、なにをしたら……」

「そうだな、君は、二人に声をかけてやってくれ。人は……孤独になると簡単に死んでしまえる。せめて君だけでも側に立ってやってくれ……!」

「ッ、分かりました!」

「匂宮君! 君は応急処置の心得くらいあるだろう! 篝火君の止血を頼むッ」

「! 言われなくてもやってるッ、やってるんだ!」

 

 ふと見れば、確かに匂宮は篝火の止血を行なっていた。己の上着を脱ぎ捨てそれを用いて必死に患部を押さえてあった。だが血はその流れを衰えさせることがない。

 二人が傷つけられたのはほとんど同じ瞬間のはずなのに血溜まりの大きさが異なるように見えた。藤袴の傷も相当なものだが、篝火が負った負傷はより深刻らしい。

 

「藤袴君の傷はそこまで深くない。傷の位置から察するに、骨に当たって刃が深くまでいかなかったのか、あるいはそもそも深くまで刺せない事情があったのか──なんにせよ刃が内臓まで到達することはなかった。ただそれでも危険な状態に変わりはない」

 

 ザッと傷口を見た野分は止血する部位を待雪に伝え、藤袴の体勢を変えた。おそらくその体勢が良いのだろうと、待雪は黙ってそれに従った。

 そうして野分は次に篝火の方へと移った。篝火の元に広がる血溜まりは随分と大きなものになっていた。止血が意味をなしていない──それほどまでに深い傷。野分の表情が苦しく歪むのを待雪は背面から察知した。

 

「……酷い有様だ」

 

 それでも慄くことなく野分は検分を行ったが、傷口を見るや唸るような声が漏れ出てきた。

 

「これは……くゥ……」

 

 肩の震える様子が見えた。しばらくの沈黙の間、血と肉とが交わる不気味な音が場を占めた。そして、静謐の中で重苦しく野分の口が開かれた。

 

「……藤袴君の処置を優先する。なるべく傷口を洗い流したい、水を持ってきてくれないか」

「……野分、お前っ」

 

 驚きと苦悩に満ちた表情で匂宮は顔を上げた。

 

「篝火の傷は藤袴のものより深い! 失血の量も比べ物にならない! ……それでも、藤袴を優先するのか!?」

 

 野分は迷いのないそぶりで首を縦に振った。

 

「篝火君は内臓を酷く損傷している。……仮にこの島に手術に必要な設備が整っていたとしても、彼の状態を見るに助かるとは思えない」

「ッ、じゃあ、見捨てるっていうのか! このクソみてえな孤島で死にかけてるコイツを!」

 

 まさしく叫びであった。匂宮だって野分の気持ちは痛いほど理解しているのだろう、だけど彼は理性とは別の熱いところで激烈に人の命を救おうとしていた。だからこそ、大声で怒鳴りつけるように野分に縋った。

 けれど、野分には既に命の分別が付いているようだった。彼とて人である。匂宮のように強い感情を持ち合わせている。だが彼には彼なりの尺度があり、正義があった。

 

「僕は医者だ! 医師免許こそないが、人を救おうという気持ちは強く持っているッ!」

 

 野分は立ち上がっていった。藤袴の元へ移動するためだ。

 匂宮は野分の顔をじっと見上げ、睨みつけた。

 

「篝火君の状態を見た。患部の状態を見るに、内臓が傷ついている。……数時間もすれば内臓は壊死、その前に失血で死ぬ」

「! そんな……そんな馬鹿なことがあるか」

「わずかな延命を行うために、いま確実に救える命を不確かなものにしたくはない! 誰がなんと言おうと僕は藤袴君の治療を優先する」

 

 玄関ホールから水を持ってきた椎本に礼を言うと、早速野分は藤袴へ処置を施し始めた。止血を行いながらも、傷口を清潔に保つためにたっぷりの水を含ませたガーゼで奥まで拭った。そして消毒液を使い本格的に処置を始めた。

 

 その後ろから、篝火を抱えた匂宮が擦り切れた声でこう問いかけた。

 

「じゃぁ、壱目は、どうする」

「…………、運がなかった。実は彼女の様子はここに来るとき診てきた。……彼女は既に失血によるショック症状が出ていた。輸血をしようにもこの島に輸血パックはない。見捨てるしかなかった」

 

 妙に落ち着いた声で野分は話す。ある種、彼は自らの感情を抑圧出来るタイプの人間なのかもしれなかった。彼の心はいま激情で溢れかえっているに違いなかったが、それとは別に存在する心の中の冷たいところが彼の頭を冷酷なほど正常に働かせているのだ。

 

「……なぁ。もし、ここが東京の街中だったなら──こいつらは救えたか? もし刺されたのが一人だけなら、救えたか?」

「ああ、救えた」

 

 野分は淡々と答えた。匂宮はただ一言、「そうか」と返した。

 

「そうだった」

 

 匂宮はひとり呟いた。

 

「地獄はこんなところだった」

 

 野分は手の消毒をしながら、匂宮の独り言に答えた。

 

「ああ……地獄だよ、ここは」

 

 確かにそうかもしれないと待雪は思った。なぜって、ここは地獄とよく似た匂いがしたから。

 蒸せ返るような血の匂い、鼻腔を刺激するケミカルな消毒液の匂い、そしてなにより──死への恐怖や命を見捨てねばならぬ苦しみからなる匂いが、今も待雪の嗅覚を鈍い灰色で覆っていた。



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011

 一連の騒動はひとまず落ち着きを見せた。人が死んでいる時点で落ち着くも何もないのかもしれないが、あえてその表現を用いたのには理由があった。

 というのも、例の黒ずくめの何者かが姿を消したからだ。どこかに姿を潜め、今もなお人殺しを目論んでいるのではと邪推することもできないではないが、その可能性は低いのではないかと冷徹にも匂宮が結論を出した。

 曰く、「規則には、『同一のクロが殺せるのは二人まで』とある。島からの脱出を目標に据えているのなら、わざわざ三人目の被害者を出す必要はない」とのことだった。彼の弁における殺された二人とは壱目と篝火のことを指す。彼は激情に襲われつつも、冷静に彼らを死人と見做した。それには野分の正確無比な診断もあってのことだった。藤袴の治療が終わった後、壱目のところへ向かい診断を行ったところ死亡したとの判定が下され、篝火に関してもほどなく死に至った。藤袴は幸運にも刃が内臓や重要な血管を傷つけることがなかったために辛うじて生きているとのことである。島の環境が環境なので近いうちに医者にかかる必要はあるが、少なくとも失血で死ぬだとか内臓が壊死して死ぬといった事態は避けられた。唯一危険なのは感染症だろうか。傷口を水でよく洗い流し、滅菌消毒を行なったものの、それでも確実ではないと野分は語った。

 

 といった経緯で匂宮はこれ以上死人が出ることはないと判断した。

 さて、この場合、間違いが一つある。

 ただ待雪はそれに対し意図的に距離を置いて触れないようにしていた。なぜって、それを指摘したところで意味のある変化は起きないだろうと思われたからだ。そういう嘘を方便と呼ぶのだろうが、自然な様子で待雪は事実を偽った。気付いているのは椎本だけであったが、彼もまた口をつぐんでいた。

 これが今に至るまでの一連の流れ。そして彼らは一堂に会し今後の方針を話し合うこととなった。

 

 しかし、話し合うような雰囲気ではないというのがその場を率直に表したときに出てくる言葉であった。食堂は凄惨な空気に満ちていた。互いに互いを疑い合う疑心暗鬼の状態でこそないが、人が二人も死に──その上もう一人刺され──緊張や恐怖が頂点に達しつつあったのだ。何が怖いって、一連の出来事を起こした犯人がこの中に必ず混じっているという事実が怖かった。人を三人も刺しておいて、何食わぬ顔で席に座っている犯人の腹の中を想像するだけで、身の毛もよだつような思いがした。犯人以外の誰もが、これを獣の仕業であると思い至った。

 

「……ひとまず、いま語れるのはこれくらいか」

 

 と事件のあらましを語った匂宮が嘆息をつき、机を囲む者たちの顔を比べ見た。彼含め、食堂には十一人しかいない。本来生き残りは十二名なのだが、藤袴は一向に目を醒まさないので保健室にて休んでいた。野分曰く、目醒めても立てるような状態ではないだろうとのだったので、皆彼女の欠席を認めていた。

 

 殺人が起きた以上こうして集まり話し合うことは必須であったが、ただ話し合うだけが集まる理由ではなかった。もし単独行動を許してしまった場合、証拠品の捏造が容易である。なにより連続殺人が発生している以上、いくら理論立てたところでもう人は死なないという確証を持つことはできなかった。

 ならどうして藤袴は保健室で一人眠らせているのかと思われるかもしれない。だが彼女は犯人と対峙し、刺された側の人間であるから完全なシロと言えた。仮に彼女が犯人の顔を見たとかで命を狙われることになったとしても、彼女以外の全員が食堂に集まっている以上犯人も手出しはできないはずである。そのため彼女の身柄を自由にしておくことに文句を言う者はいなかった。

 

「それで、どうする?」

「どうするとは?」

 

 匂宮が切り出した言葉に竹河が素早く返した。竹河は至って平然とした顔色だったが、その切り返しの素早さには焦りが含まれているように感じられた。今回の事件に対し異様な雰囲気を感じ取ったらしく、前に起きた殺人事件のときよりもやや殺気だって見えた。

 そんな竹河に向かって匂宮は努めて冷静に答えた。

 

「学級裁判を開くかどうかって話だ。……正直、今回の事件は色んなことが起きすぎている。そのぶん犯人に繋がる証拠も多いに違いない……根気よく探せば、必ず犯人に辿り着くことができるだろう。だが今の時間帯は夜だ、証拠品の捜索も朝昼ほど上手くはいかない。必ず手間と時間がかかる」

 

 匂宮の指摘通り、窓の外は既に真っ暗であった。事件の発生が夕方ごろであったのだから、あれから一二時間経った今は宵のうちである。

 

「仮に学級裁判を開くとなると、調査時間に制限が設けられることになる。そうなると、時間さえかければ見つかっただろう証拠が時間切れで見つからなかった、なんてことになりかねない」

 

 神妙に匂宮は語った。彼の論理には筋が通っていた。確かにそういえばと、待雪は初めて学級裁判が行われたときのことを思い出した。「諸君も経験がないだろうから」と、あれでも多めに時間を与えられていたのだ。つまり、今回の学級裁判において捜査に充てられる時間は以前よりも少なくなるに違いない……なにより夜という時間帯がどう影響してくるのかさえ明らかでなかった。おそらくそれを彼も危惧しているのだろう。

 

「だから、しばらくは証拠集めと情報整理に時間をかけて、ある程度結論を導き出してから裁判の申請を行おうと思うんだが」

 

 なるほど。導き出された結論は正しい。この場において、犯人以外の誰もがそうするべきだと思った。学級裁判の申請をしたところで、彼らが得られるメリットは限りなく少ない。特に捜査段階においては、ろくにあてにならない死人の鑑定結果のみが手に入る。その上、今回の事件における殺人がほとんど目の前で発生していたことを鑑みると、ただでさえ少ないメリットがさらに意味のないものへと変化している気がした。

 正直なところ、匂宮は学級裁判を開くべきかどうかすら迷っていた。

 

 なぜって、学級裁判を開けば犯人──あるいはその他の全員が死ぬ。必ず犯人を見つけられるという確証がない以上、たかが一つの危険を除くためだけに十数の命を秤へ乗せる勇気はなかった。

 ただあえて口には出さないでいたようだった。学級裁判を開き、犯人を見つけることで、安心を得られるのだと──そうした目標設定が全体で共有されている以上、彼は皆の心の安寧のため裁判を開かざるを得ないと判断したのだ。

 

「まぁ、貴重な時間をわざわざ減らす必要はないってことだ」

 

 これまでの話に、匂宮は補足するように呟く。竹河だけが不機嫌な様子で頷いた。ただそれだけで、他の誰も彼の呟きに返事はしなかった。

 なんせ人が死んだのだ。まともな思考を働かすことができる者は少なかった。特に前回の裁判で積極的に発言していた篝火や普段からムードメイカー的な立ち位置を担っていた壱目がいないこと、また藤袴が重体であり更に死者が増えるかもしれない可能性も相まって、食堂を占める空気は沈痛かつ重々しげなものであった。

 

「……三人刺されているものね。どういう状況が発生したのか、改めて精査する必要があるでしょう」

 

 かろうじて東屋が返事をした。彼女は壱目を看取った人間であるから、それなりに思うところもあるのだろう。手を震わせながらも既に覚悟は決まっているようだった。

 匂宮はそんな彼女の覚悟を──微弱ながらも確かに存在する意志を汲み取ってか、ようやく初めて活力の見える表情をした。枯れた草木が一滴の水を吸うように、まるで変化はないが、それでも心意気だけは満たされ動かされた。

 

 よし、と匂宮は立ち上った。そして食堂にいる全員に向けてこう言った。

 

「こうしている今も夜は更けてきている。あと四時間もすれば夜時間になり、この食堂も使えなくなってしまうだろう……だが、なるべくこの場所は拠点として用いたい。だから夜時間になればその時点で学級裁判の申請を出す。そうすれば、おそらく夜時間の間であっても捜査の名目で食堂は使えるだろう」

 

 匂宮はその場にいる一人一人へ語りかけるように、それぞれに目を合わせて話した。彼の目には覚悟の色が見える。若干の恐怖と、緊張。けれどそれに混じって高揚も見られる──不思議な匂いの取り合わせだと、待雪は思った。彼らしいなとも。

 

「よし、ならさっそく行こう。今は時間が惜しい」

 

 そう言って匂宮は捜索隊を編成すると、寒い夜空の下へと繰り出した。反面、待雪を含めた消極的な人たち……それと拘束されている鯉口は食堂で待機することになった。全員で向かうのはやめた方がいいとの判断で、ある程度数を絞り捜索隊は組まれた。というのも、人が多いと証拠隠滅の隙が生まれてしまう可能性があったからだ。少人数であればまだ互いが互いを監視し合えるが、人が増えれば増えるほど死角もまた増えるので、それを危惧してのことだった。

 

 今回の事件において容疑者として挙げられるのは七名である。確実に犯行に関わっていないと言えたのは、黒づくめの者と対峙した東屋、待雪、椎本、藤袴の四人である。最後の反抗が行われた直後に匂宮と野分が入ってきたことや、あの衣装を素早く着替えられるだろうかという疑問を一緒に考えると、その二人も犯人の枠からは除外されそうなものだが……確証がない以上は変に結論づける必要はないのだと匂宮が言ったので、今のところ無実を証明できているのは先の四名だけであった。

 なので、なるべく無実の可能性が高い者が多ければ良いだろうと、東屋や椎本の二人は捜査に向かっていた。

 

 となると、食堂に残る待雪の存在が目立つ。とはいえ彼女には特別な役割など背負わされていなかった。運営の側に死体が発見されたことを知らせに行く者がいないよう監視する役割なども、決して与えられはしなかった。(そもそも規則では三人以上の者が報告しなければ学級裁判は成立しない、となっている。そのため万が一誰かが変な気を起こしたところで学級裁判は起きないだろうとの予想があった)

 ではなぜ?

 彼女が食堂にて滞留している理由は、ひとえに彼女の様子にあった。

 

「君は捜査に行かないの」

 

 夕方ごろに起きた事件を頭の中で反芻していると、隣にいる雲隠が素朴な質問を隠さずに待雪へ尋ねた。

 待雪は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの顔に戻ってこう答えた。

 

「私はあまり、捜査に乗り気でないといいますか……」

 

 いじけたように靴のつま先を見つめる。今の彼女の心の中は荒だった波のように落ち着きがなかった。なぜって、分からない。ただなぜか、頭のなかには藤袴の顔が浮かんだ。

 

(ああ──今夜はフジバカマさんのために、料理を作ったのに。食べて、喜んでもらえると思ってたのに──)

 

 彼女の中の幸せな空想が崩れ去る。昨夜のうちから用意し、手間ひまをかけていた藤袴のためだけの料理は、厨房ですっかり行き場を失っていた。

 待雪はそれが悲しかった。食材が無駄になったと嘆いているのではない。はたまた自分の努力が報われなかったことを悲壮に感じているのでもない。だって、そんなことはザラにあるのだから──ただただ待雪は、藤袴に喜んでもらえなかったことを、彼女の苦痛に満ちた表情を思い返すたびに痛く感じるのであった。

 

「乗り気じゃない、か。まあそんな日もあるよね」

 

 と、なんの感情も見られない抑揚のない声で雲隠は言った。

 

「僕も今日はそんな日。空はあんなにも晴れているのに、頭の中では雲がかかったように気分が晴れない」

 

 でもそんなこと、日常茶飯事だよね。と雲隠は話した。

 待雪は迷いつつ頷いた。

 

 すると突如としてアナウンスが流れ出した。

 

『──、──。ア、ああ──、ん。死体が発見された。各自事情聴取を行ったのち、学級裁判を開く』

「!」

 

 今のは、一体。

 顔を上げて食堂を見渡すと、ここにいる皆が顔を見合わせている。……どうやら彼らもこの状況が上手く理解できていないようだ。

 泥のような頭で必死に考える。どう考えても一つしかないアナウンスの意味を考える。

 

「誰かが、通報したんだ」

 

 それも三人も。

 

 生き残った十二名の中に、裏切り者がいる。その事実が、今はただ彼らに重くのしかかった。



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