本当は残酷すぎるシノアリス童話 (司薫)
しおりを挟む

グレーテル【揺れる灯、狂食の瞳 】

 魔女というのは面倒な生き物だ。ただ食べ物を食べれば満たされる、というものではない。魔女によるが、私は人間の子供を食べなければ満たされない、そういう呪縛を身に宿してしまった。ただ幸運なことに、この国は今、私にとって大変都合が良い。貧困故に、子供が次々と森に捨てられていた。そして今日も、この森に子供の気配が。夜を待ち、使いの鳥を放った。もうすぐやってくるはずだ。この……お菓子の家に。

「兄様、この壁、チョコレートで出来ていますよ」

 ほらほら、やってきた。子供の声だ。しかもどうやら兄妹か。今日はなんともツいてるね。

「この飾りはグミです……こっちはキャンディ。扉はビスケットでしょうか」

 ふふ、せいぜいはしゃいでいるがいい。子供の考えることは単純だ。どれ、家の中に夕食を招くとしよう。私は家の扉を開け、声のする方へ笑顔を向けた。一人の子供がスポンジケーキの柱を指で抉り、その指を舐め、しゃぶっている。よほど腹が減っていたんだろう。私にも気付かず、夢中なようだ。

「お嬢ちゃん、私のおうちは美味しいかい?」

 私の問い掛けに、しかし、その子供はまるで反応を示さない。こちらを向くことさえも。けっけっけっ。本当に空腹だったんだね。これは楽に、食事にありつけそうだ。

「お嬢ちゃん、そんなものより家の中に、もっといいものがあるよ。こんがり焼けた肉に、暖かいスープ。ふわふわのパンだってもちろん。さあ、そこじゃ寒いだろう。家の中へお入り」

 子供が壁を指でほじるのをやめ、ようやく、私の方を見た。指を舐め……なんだいこの子。なんて虚ろな目だ。ずいぶん長いこと森を彷徨っていたんだろうねぇ。

「お嬢ちゃん、私の言葉がわかるかい?」

「兄様、誰かいます……ええ。そうですね……わかりません……はい」

 ん? そういえば一人しか見えないね。兄さんの方がちっこくて、この子の後ろに隠れてる? けど……いや、一人だね、この子。他に人の気配なんて、ありゃしない。

「お嬢ちゃん、とりあえず家の中へおいで。寒さと空腹をなんとかしてから、他のことは考えればいいさ」

「……はい」

 こちらへ寄ってくる。良かった、警戒はされてないみたいだね。私は厨房へ。最後の晩餐を用意してやろう。

「まずはスープで暖まりな」

 扉が閉まる音に、振り返り言う。ん? 何か持ってるね。鳥籠だ。中のあれは……鳥じゃない。あれは……え? なんだいそれは。子供の頭。生首じゃないか。

「な、なんでそんなものを持ってるんだい?」

「兄様、いい場所を見つけましたね。今日はここに泊まりましょう。はぁ……疲れた」

 そう言って、壁際に座り込んでしまう。なんだいあの子。どうにもあれは、精神的に病んじゃってるね。兄さんを殺されたってところか。ああ、長いこと生きてると色々あるもんだ。あの子はこのまま生きてても辛いだけだろう。私が終わらせてあげよう。

「お嬢ちゃん、そこがいいのかい? こっちのテーブルに座ってもいいんだよ? ほら、兄さんも一緒に」

「……」

「そこがいいんだね」

 私はスープを皿によそると、お嬢ちゃんの方へ持っていった。

「さあ、お飲み」

 お嬢ちゃんの前の床に置くと、お嬢ちゃんの視線はスープへ。しかしすぐに、生首の兄さんへと移ってしまった。

「ビーツは嫌いかい?」

「兄様、スープが一皿しかありません。私は後からいただきます。先に飲んでいいですよ」

「ああ、ごめんよごめん、もう一皿持ってくるからね」

 全く可哀想な子だ。さぞ兄さんのことが好きだったんだろう。

「ほら、兄さんの分も持ってきたよ。二人で仲良くお飲み」

「あぁ……」

 ようやくお嬢ちゃんの手が、スープに伸びる。あ、しまった。眠り薬を入れるのを忘れてたよ。まぁでも、こんなに弱りきった子、眠らせる必要もないね。

「どれ、鹿の肉焼きを持ってくるからね。火傷しないようにゆっくりお飲み」

 あらかじめ肉を焼いていたかまどを開け、焼き加減を見る。うん、いい具合だ。ハーブの香りも効いている。かまどから肉を出し……皿へ盛っていく。ふむ……しかしあの幽鬼のような目。あれは素質ある者の目だ。兄さんを殺した人間への憎しみも相当だろう。あるいは魔女見習いとして、一先ず召使にしてやるのもいいかもしれないね。ちょっと試してみて、それでもしダメでも、食っちまえばいい。うん……いいかもしれない。

「さあ、肉焼きも兄さんと二人分、用意してやったからね。たーんとお食……」

 皿を手にお嬢ちゃんの方を見る、と……いない。お嬢ちゃんの姿がすっかりと消えてしまっていた。スープはそのまま。何処へ行った?

「うっ」

 胸に鋭い痛みが走る。見れば、私の胸の辺りから槍の先が顔を出していた。背後に気配を感じる。妖気とは違う、狂気。それは魔力でなく、感情が生み出す魔性。

「兄様、仕留めましたよ。わたし達の新しい家に、わたし達二人だけの……ええ、きっとそうだと思います。泥棒です。物騒な、世の中ですね」

 槍が引き抜かれる。黒い血が溢れだし、私は膝をつき、手を胸へ。魔力で傷の修復を。

「ああ、いい香り」

 髪が捕まれ、ひょいと持ち上げられる。なんて怪力だよ。いや……違う。ああなんてことだね。頭と体を切断されちまった!

「こうですか? 確かにこれで、醜い顔を見なくていいです。流石兄様」

 私の頭が投げ捨てられ、部屋の隅に転がる。そして私は後悔することに。なんで魔女なんかになっちまったのか。なんで今日この娘を家に招いちまったのか。

「兄様、焦らないでください。ふふふ、ぺこぺこですか? あぁ兄様、本当に可愛らしい人」

 お嬢ちゃんが私の身体だったものの腹に手を差し込み、臓物を引っ張り出す。魔女でなけりゃとっくに死んで、こんなものは見なくて済んだってのに。私の臓物を舐め、しゃぶり、噛り付いている。なんてことだ。人食い魔女が、人の子に食われるなんて。冗談じゃない。しかも生で食うなんて。私の作った折角の料理が冷めていく。

「お嬢ちゃん、私だって人の子を食べるときは調理くらいするよ? 獣じゃないんだからさ」

 首の下に、よしこれだ、蜘蛛の脚を生やした。椅子の上へ、台所の上へ、跳び移る。

「まさかお嬢ちゃん、兄さんまで食っちまったんじゃないだろうねぇ?」

 槍が飛んできて、危うく串刺しにされそうになった。

「この槍、もしかして人形共の差し金かい? 全く趣味が悪いね。そもそもお嬢ちゃんを酷い目に合わせたのも、あの人形共なんじゃないのかい?」

 お嬢ちゃんの目が私を見ている。静かな目だ。しかしあらゆる感情が渦巻いている。そしてその内にある一つの感情でさえ、お嬢ちゃんには誰のものかすらわからない。あぁそうか。そうなんだね。本当に可哀想な子だ。

「はい、すぐに潰します。それからゆっくり食事を」

 頭に鷲の翼を生やす。しょうがないね。しばらくこの家は貸してあげよう。可哀想な……二人に。迫ってきたお嬢ちゃんの手を避け、宙へ飛び出す。

「お嬢ちゃん、また会おう。次ぎ会う時は人形共の呪縛から解き放たれてるといいけど。いや、もう手遅れだろうね。ともかく今日のところはさよならだ。私が戻るまでこの家は大事に使っておくれよ。じゃあね」

 飴細工の窓を破り、外へ。私は夜の闇へと飛び去った。




 ヘンゼルとグレーテル。食い扶持減らしの為に森に捨てられた双子の兄と妹が、空腹の中でお菓子の家を見つけ、そこで魔女に遭遇する童話。捨てられることを知っていたヘンゼルはパンの切れ端を帰り道の目印に落としていったが、両親が木を切ってくると言って姿を消したとき、すでにパンの切れ端は森の動物達に食べられてしまっていた。
 魔女に捕らわれたヘンゼルは檻に閉じ込められ、グレーテルは魔女の召使に。常軌を逸した生活の中で、グレーテルはヘンゼルを監禁し飼育することに心の安らぎを感じ始め、同時にゆがんだ愛情を抱き始めます。
 魔女を倒した二人にはしかし、帰る家はないでしょう。グレーテルはヘンゼルを檻から解放するでしょうか。解放した後、何をするでしょうか。すでにグレーテルも魔女になっていたのならば、彼女もまた魔女がしようとしたのと同じことをするかもしれません。ヘンゼルは抵抗するでしょう。抵抗の末にグレーテルを殺してしまうかもしれません。心の弱いヘンゼルはその現実には耐えられないでしょう。ヘンゼルは何があってもグレーテルを生かします。例え彼女を殺してしまっても。そうしてヘンゼルはグレーテルに成り代わります。自身の犯した真実から目を背け、自身の心さえ、欺くのです。
 本来的に二人は狂っていました。ですので例えば、お菓子の家を見つけるのがもう少し遅ければ、空腹は二人に同じことをさせたかもしれません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ハーメルン【コレクターの最大限の妥協】

 葉を運ぶ、小川のせせらぎ。丘の上から、男はそれに耳を澄ましていた。しかし……騒々しく、川の流れの方向さえわからない。

 男の視界にはいつからか雨が降っていた。昨日今日の話ではない。もう随分昔、彼が当たり前の真実に気付いたその日から。雨は、世界を覆う膜、そこに無数に走る亀裂から、滲み出し、溢れ、ノイズとなって降り注いでいた。

「シミが出来てしまう」

 男は皺一つないタキシードにポケットチーフを充てがう……。

.

 人の趣味をとやかく言うものではないが、その男の趣味はやはり、常軌を逸していた。悪趣味という訳ではない。むしろその逆。趣味が良すぎていて、それが問題だった。

 レースカーテンの隙間からこぼれる朝日の中で、男は目を閉じ、紅茶に口を付けている。近くのベッドの上には一人の女性が。女性は青いドレスを纏い、永遠の眠りの中にいた。

 男は考える。自分の趣味を完璧なものにするためには、どう、世界の法則を捻じ曲げればよいのかを。コレクター、収集家にとって、重要なことというのは三つあった。まずは当然、見つけ出し集めることである。そしてやはり、物の価値がわかる者にいかに感動的に物品を披露するか、それも重要であった……うん。男にとって、この二つはさして難しいことではない。うまくやっていた。

 問題は三つ目だ。つまり……収集物の保管と保全。特に保全が難しく、これは古代エジプトより試行錯誤されてきたが、今だ完全な保全というのは現実のものとはなっていない。特に旅人である男にとっては、巨大なピラミッドを建て一所に留まるというわけにもいかず、またミイラを温度と湿度により保全するための電力の常時確保も難しかった。それに……そもそもミイラは美しくない。男はそうとも考えていた。

 では液体窒素による冷凍保存はどうか。それなら電力も必要ない。継ぎ足し用の液体窒素さえあればよいのだ。しかもミイラとするより肌の状態維持もしやすく……いいやダメだ。根本的なところで、それでは男の願う美しさの保全は叶わない。つまり……生きている必要があった。生きているにも関わらず、老いず、変わることのない美しさ。かつてよりそれを求めていたが、今、それが早急に必要だった。

.

 男はその日、笛吹奏者として城の舞踏会に招かれていた。

 舞踏会も終盤に差し掛かった頃だ。遅れて到着した一人の来賓があった。彼女が会場へ足を踏み入れると、舞踏会に来ていた誰もがダンスを止め、彼女のその美貌に息を飲んだ。従者も連れず、しかし堂々と会場を進むその美女に、王子の目も釘付けに。美しいモノを探すため笛吹奏者として舞踏会に参加していた男の目も当然。美女はそして、さも当たり前といった様子で真っ直ぐに王子の元へと進み、来賓者達も自然と道を開けた。王子はあまりの美貌に言葉も出ないまま、美女に手を差し出す。美女は美しくも何処か不敵な笑みを浮かべ、それに応じた。

 王子は少しでも多くの人間にその美女を見せようと、王子専用の階段上の舞踏台へと美女を導く。二人はそこでこの世のものとは思えない美しいダンスを交わし、人々はただ、それを眺めていた。笛を奏でるその男一人を除いて。

 やがて、十二時の訪れを知らせる鐘が鳴る。どういう訳か、それまで永遠にも思える美しい時間の中でダンスを踊っていた美女は突如として王子の手を離し、階段を降り始めた。人々は騒めき、しかしその騒めきを再び静寂へと戻す、悲劇が起こってしまう。

 階段を慌て駆け降りる美女。その足が、ドレスの裾を踏んでしまった。つまずき、跳ね、美女は一瞬、宙を舞う蝶のように見えた。そして……グシャリ。最悪な音が、舞踏会を締めくくった。

.

 旅人である笛吹き男がその街へ来たのには訳があった。ある、噂を聞いたのだ。それまで男を動かす噂と言えば美しいもの(者)の噂がほとんどだったが、今回は違っていた。行商人から聞いた話だ。その街の近くには他のいくつかの街との間を隔てる、深い森があった。そしてその噂というのは、その森の何処かに存在するという、お菓子の家の話。お菓子で出来た家。しかもきちんと食べられるという……どういうことだ。いかにして品質を保っているのだ。男はそれが気になり、この街へとやってきていた。

 しかしながら、実際街へ着いてみるとお菓子の家の噂など一つも聞くことが出来ずにいた。代わりに聞くことが出来た噂といえば、魔女の噂くらいなもの。なんでもこの街ではかつて魔女狩りが行われ、多くの魔女が処刑されたという。ただ後になって分かったことだが、処刑された魔女のほとんどはただ疑惑を掛けられただけの者で、実際には魔女ではなかったらしい。ただ一人、確実に魔女であった者を除いて。そしてその魔女に関してだが……火炙りの最中、何故か首がもげ、その首は未だに見つかっていないらしい。

 紅茶を飲む、男の手の甲に蝿が止まる。男は瞬きするよりも早くハエを指で潰し、ポケットチーフにスッと香水を吹きかけ、手の甲を拭いた。

.

 処刑ヶ丘に陽が沈む。男は尚もそこにいた。座ることも、背を曲げることもせず。赤く落ち沈んだ世界に男の影が長く長く伸びていく。夜が来る前の、最後の風の一吹きが、過ぎる。

「ご相談があります」

 男は半ば呟くように口を開いた。男の背後に影が集まり、形を成していく。歪な躰を黒衣で包み、闇に浮かぶ、首。頭部を覆う鷲の翼が広がり、赤い二つの瞳が開く。

「ああ、なんて悍ましい」

 そう発したのは男でなく、異形の者の方だった。男は振り返り、氷のような目で魔女を刺す。男の周囲には魔女の持つ影とは違う、死の暗がりが広がっていた。旅をする、死の表象。彼は今、永遠の命を与える力を求めていた。

「考えを変えたのです。いえ、あるいはこの妥協の仕方は、私にはもう耐えられない。最も美しい状態で、全てを終わらすなど。劣化を見るよりマシ、それだけです。やはり美しさは永遠でなければ。あなたにはそれができるのでは?」

「……終わりがあるから美しい。そうは思わないかい?」

「思わない」

「そうかい……いいだろう。しかし見ての通り、今の私は小さな灯火だ。夜が来なけりゃこうして姿を現すこともできやしない。まずは私に薪をくべてくれるかね?」

「契約しましょう」

「ああ、いいよ」

 魔女の翼から一枚の羽根が飛ぶ。男は羽根を掴み取り、懐から紙を出すと、それに一筆走らせ、羽根に突き刺して魔女へと投げ返した。羽根は魔女の影へ吸い込まれ、契約は結ばれる。

「子供が必要だ。その笛でここへ連れて来な。多ければ多いほどいい。永遠の薬の材料にもなる」

「いいでしょう。ですがまずは一人です。狼を一匹、それも連れて来ます。その狼にまず、永遠の命を。あなたの力の状態も考慮し、試薬品で構いません」

「ふむ……いいよ。それで手を打とうじゃないか。魔女なんて基本信用ないしね」

「ご理解いただきありがとうございます。では後ほど」

 男の姿が夜闇に消える。

.

 その日、一人の子供が消えた。更に三日後、街中の子供が姿を消す。子供達が消えるまで、人々が気付いたものはただ何処からか漂い聴こえる笛の音だけだった。




 ハーメルンの笛吹き男。ハーメルンの街の人々と契約し、依頼を受け、男は笛を吹き、その音色で鼠達を街の外へ連れ出し、川で溺れ死にさせた。しかし報酬は渡されず、契約は破られる。男はその報復に街の子供達130人を連れ去り、子供達が街へ戻ることは決してなかった。
 1284年6月26日に実際に起きたとされるその出来事で、男の名は不明であるどころか、何者であったのかすらわかりません。あるいは130人の死という事実のみが真実であるという説も。戦死説やペスト説、異教徒殺傷説と様々な説がある中で、130人の子供達が消えたのは処刑場のあたりであったとも言い伝えられています。
 男はあるいは人に争いをさせ、死へ導く者でした。男はあるいは疫病を撒き散らし、人を死に追いやる者でした。男はあるいは不道徳を説き、人に死を望ませる者でした。男は死、そのものだったのです。
今回ハーメルンが契約を交わすのは町人でなく魔女です。ハーメルンはとある舞踏会である美女の死に遭遇し、その美女の死体を持ち帰ってコレクションしようとしたのです。しかし死んでいてはやはり本来の美しさからはかけ離れてしまう。美女の生前の美しさはハーメルンをそのことに気付かせました。かくしてハーメルンは蘇りと不死の力を持つお菓子の家の魔女の元を訪れます。しかし魔女はグレーテルにより深手を負い、力を失った状態でした。魔女は力を取り戻すため、大勢の子供達を引き渡すことを条件に、蘇りと不死の薬を提供する契約を持ちかけます。ハーメルンは了承し、また魔女も人間とは違い、契約を守るのでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

赤ずきん【アポカリプティックおばあさん 】

「今日は何を殺せるんですか!?」

 ボクはギシンとアンキに尋ねました。二人に連れられ、森にやってきたところです!

「それハ後でノオ楽しミ! でもきちント遊び相手ハ用意してありマスので」

「ヤーてやーテヤテヤッちゃっテー♪」

「楽しみです!」

 赤い頭巾を両手で掴んで、スキップ踏んで進みます! するとすぐ、森の中に小さなおうちを見つけました。あのおうちは知っています。ボクの、おばあさんのおうちです! おばあさんに会うのは久しぶり! ボクは急ぎ、おばあさんのおうちに駆け寄りました。

「おばあさん!」

 扉を開けると、獣臭い匂いと血と臓物の匂いが鼻を突きました。これは、間違いありません。

「とっても良い香り! おばあさん遊んでたの!?」

 部屋奥の膨らんだベッドに駆け寄ります。おばあさんはベッドの上で、すっぽりと毛布を被っていました。ただ、大きな黒い耳が毛布から飛び出してしまっています。

「おばあさん、おばあさんの耳は、ずいぶん大きいんですね!」

 ボクが感心して言うと、おばあさんは答えてくれました。

「そうとも。おまえの言うことが、よぉ~く聞こえるようにね」

「それに獲物の足音も良く聴こえそうです! 悲鳴も!」

「え、あ……そ、そうかもしれないね」

 おばあさんの目がチラッと覗きます。

「それに目も、大きくて光ってて、獲物を殺すまで逃がさなそうです!」

「いや、これは、可愛いおまえをよく見るためだよ」

 おばあさんが手で目を覆い、わあ! なんて大きな手なんでしょう!

「おばあさんの手! すごい! おっきいです! それに爪も鋭くて、簡単に身体を引き裂けちゃいそう! 頭を潰すのも簡単そうです!」

「いやいや、これはおまえを抱きしめてあげるためだから。おまえを抱きしめてあげるため以外の何ものでもないから」

「よく見たらお口も、とおーってもおっきいです! どうしてですか!?」

「それは……それはおまえを、まるごと食べてしまうためだよ!」

 おばあさんが大きな口をガバッと開け、ボクに飛びかかります! ボクは背負っていた斧を大きな口の中に突き刺し、そのまま引いて、おばあさんの下あごを真っ二つにしました!

「おぐぉあああああ!」

 おばあさんが楽しそうに叫び声を上げます! でも。

「おばあさん、いつの間にかすっかりオオカミみたいです! 上も半分にしましょうね!」

 ボクは斧を振り上げ、おばあさんの頭の上側も真っ二つにしてあげました!

「すごい! すごいです! 突然変異の動物みたいです!」

 頭が四分割されたおばあさんは、本当にすごい、まだ叫びを上げてのたうっています! ボクは嬉しくなって、おばあさんのおなかも、斧でスパッと割ってみました。すると、中から何かが、二本の手のようなものを上げて出てきます!

「第二段階ですか!?」

 出てきた何かの頭を刎ねると、あら、おばあさんはくたっと、動かなくなってしまいました。

「えー、おばあさん、もう遊んでくれないんですか? もっと遊びたいです!」

 お別れが寂しくて、おばあさんをしばらく眺めていました。すると、おばあさんの赤く染まった身体がぐねぐねと動き出し、広がっていきます。ベッドを呑み込み、床を覆い、気付けば壁もおばあさんの、肉に。そこでようやく気が付きました。

「これ、おばあさんのおなかの中なんですね! ボク、食べられちゃいました!」

 嬉しくて、笑みが頬っぺたからこぼれ落ちました! おばあさんはまだボクと遊んでくれるみたいです。扉に手を掛けるも、もうそれはただの肉の塊。開きそうにはありません。それなら壊せばいいです! ボクは斧を振り上げ、扉に叩きつけました。でも、びくともしません。

「アハハ!」

 斧を振ります。肉の部屋中を斧で切りつけ、叩きつけ、しばらくそうしていると部屋中がグラグラと揺れ、ボクは上へ吸い込まれるようにして、あっという間に外へ吐き出されました。見上げるとそこには、大きな大きなオオカミが! これは、絶対、とっっても楽しいやつです!

「素敵です! 最高です! 遊びの続きをしましょう!」

 ボクは大きな大きなオオカミに向かって走り寄りました! オオカミの大きな大きな手が伸びてきます。しゃがんで避け、手首を深く斬り、垂れ下がったところを甲の上へジャンプ! 腕を伝って頭まで、一直線!

「アハハハハハ!!」

 大きな大きな口が開き、無数の牙がボクを狙います。凄い顔! あんなおばあさん……あれ、おばあさん? オオカミ? どっちでもいいですね!

「うおーん! うおーん!」

 オオカミの真似をしながら、大きな噛みつきを避けては歯を折り、避けては折り、気付けばオオカミは顔を背け、ボクは振り落とされないよう大きな耳にしがみつきながら、オオカミの目を斬り抉っていました。

「アハハ! うおーん! アハハ!」

 足元がボコボコと波打ち、潰れた目の代わりにいくつも新しい目が開かれていきます。

「凄いですね! 本当に凄いです!」

 斬ったはずの手が上から降ってきて、ボクは耳の中に身を隠し、そこから出るついでに指を切断してあげました。切断しましたが、その断面からすぐさま、無数の手が発生していきます。

「まだまだ遊べるんですね!」

 そうして、その再生を繰り返す相手と、どれほどの時間遊んでいたでしょう。その相手がおばあさんでもオオカミでも、そんなことは始めからどうでも良くて、ただ死なずにずっと殺し合ってくれることが嬉しくて、ボクはその獣と本当の友達になれたと、心の底からそう思えて、心が満たされるのを感じていました。なのに……再生速度が落ちてきている。動きも鈍く。それはつまり、遊びの終わりが近づいてきていることを意味しています。ずっと遊び続けられる、もう一人じゃない。そう思ったのに……

「嫌です。ボクを一人にしないでください」

 祈りながらそう言って、ボクはソレの心臓に深々と、斧を突き刺しました。最早生物としての形すら留めていない、巨大な肉塊となったそれから、黒い血が溢れ出します。赤いずきんは黒く染まり、そしてボクはまた、ひとりぼっちに。

「ひとりぼっちは、つまらないです」

 涙が頬を伝いました。

「お嬢さん」

 声に、振り返ります。そこには一人の猟師がいました。銃を背負い、よくわからない、顔をしています。あれは、驚いている顔? 怖がっている顔?

「大丈夫かい?」

「……はい。あの」

「うん?」

「ボクと、遊んでくれませんか?」




 赤ずきん。少女赤ずきんは病気のおばあさんのお見舞いに森の道を行く。途中狼に出会い、花咲く道を教えてもらう。赤ずきんが花を摘む間、狼は先におばあさんの家を訪れた。そしておばあさんを襲い殺し、肉を裂き、血はワイン瓶に詰め入れた。しばらくしてやってきた赤ずきんにおばあさんの肉を食べさせ、血を飲ませ、服を脱がせてベッドへ誘い込む。そして少しばかりの問答の後、狼はメインディッシュにありついた。
 誰もが知る童話、赤ずきんにはいくつかバージョンがあります。逃げるパターン、食べられて終わりのパターン、食べられた後に猟師が来て狼の腹部から生還するパターン。皆さんが知るパターンはどれでしょう。実は生還ルートが一番暴力的だったり。狼の腹部に石を詰め込んで溺死させたり煮殺したりしますからね。普通に銃で撃って仕留めれば良いものを。
 さて前回、ハーメルンはグレーテルから逃げてきた魔女と契約を交わし、不死薬を作らせました。まず初めに一人分を作らせ、それを治験の為に一匹の狼に投与しましたが、今回出てきた狼が、その狼です。不死薬にも色々ありますけどね。寿命の縛りから解き放たれるものや、脅威の再生能力が発現されるものや、死んだ者を蘇らせるものや。今回の不死薬は、そうですね、死の存在を打ち消すもの、そんなところでしょうか。それではまた、最悪の物語を。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ピノキオ【コオロギ畑で捕まえて】

「ピノッキオ! 起きるんだピノッキオ!」

 いつか遠い日に聞いたような、忘れかけていたその声。ピノキオはそっと、瞼を開く。

「オイ、ナンダコイツハ」

 ピノキオの杖が不機嫌に顔を歪めるその鼻先で、いや鼻の上で、一匹のコオロギが二組の腕を組んでいた。

「あなたは……」

「忘れたのかい? まぁいいさ。それより今の状況だピノッキオ」

 言われて、ピノキオは辺りを見渡した。どうにも牢獄のような場所に囚われているらしい。それも、トイレ以外全く何もない、独房に。

「どうして僕、牢屋なんかに?」

 ピノキオはコオロギに、あるいは杖に、尋ねかけた。

「全ク理由ガワカラナイゼ。心当タリガ多過ギテナ!」

「ピノッキオ、きみはまた人形小屋で騒ぎを起こしたんだ。放火未遂だよ。全くなんてことを」

 ため息をつくコオロギ。しかしそれは、ピノキオには全く身に覚えのない話だった。

「嘘……僕、そんなことしてないよ」

「私もそうなら良かったと思うよ。けれどね……ただ、ここは刑務所ではないのさ。きみがそんなだからね。精神病院だよ。社会に適合できると判断されたら出してもらえる。一緒に頑張ろう」

「……コオロギさんが、そう言うなら」

 ピノキオは困惑しつつも、状況を受け入れることにした。前に進むため、などではない。ピノキオの場合は。状況に反発するのが怖くて、ただそうしただけだった。

 ピノキオは改めて、鉄格子の外を見てみることにした。近くにガラス張りの部屋が見える。あの部屋が何か、わからない。ただ中に、青い服を着たキツネとネコが座っているのが見えた。

「オイ見エルカ? キツネノ腰ノトコダ。鍵ノ束ガアル。アイツガ近ヅイテ来タラ格子ノ間カラ殴ッテ奪イ取ッテヤロウ」

「ダメだピノッキオ。きみは必要だからここにいる。鍵を奪うなんてことはせずに、社会に適合する努力をするんだ。いいね?」

「そうだね。そうするよ」

 そのとき、ガラス張りの部屋の中でキツネとネコが立ち上がる。誰かが来たらしい。ガラス張りの部屋の二つの扉の内、外側へと繋がっている方が開き、現れたのはピノキオがよく知る老人だった。

「ゼペットさん!」

 ゼペット老人はピノキオの親と言ってもいい。正確には違うが。つまりピノキオは元々、ただの喋る木だったのだ。それを人形の形に掘り、組み立てたのがゼペット老人で、ピノキオを実の息子のように育てもしてくれた。そのゼペット老人の姿を久方ぶりに見たものだから、ピノキオは当然心躍る気分にもなったが、その申し訳なさそうな表情を見るとすぐにピノキオ自身も申し訳ない気分になってしまった。

 声は聞こえない。キツネがゼペット老人に対し、手の平を突き出している。ゼペット老人はズボンの両ポケットをひっくり返し、肩を竦めた。ネコがゼペット老人に近づき、その上着をはぎ取ってしまう。そして扉を開け、蹴り出すようにゼペット老人を追い払った。

「ゼペットさん……」

「今の上着だけじゃ、またすぐに入院料を払いに来なくちゃいけないな」

「ゼペットさんにそんなお金はないよ」

「けど仕方ない。まずは社会に適合するんだ。それから働いてお金を稼いで、ゼペットさんに恩返ししてあげよう。わかったね?」

「うん……」

 ピノキオは仕方なしと、辛い現実を受け入れる。

「ソレマデ生キテリャイイケドナ」

 そうして、ピノキオの社会適合者となる為の牢獄生活が始まった。

.

 一日目。ピノキオがじっと待っていると、ネコがやってきて鉄格子の外側に立ち止まった。ピノキオを見下ろすようにして、冷たく言い放つ。

「あんたは病気なんだ」

「ち、違います」

「いーや病気だよ。さっきまた一人で話してたろ」

「違うんです。僕が話してたのは、コオロギと杖で」

「コオロギや杖が喋るわけないだろう!」

「す、すみませんっ!」

「まぁいい。質問に答えな。上手に答えられたら退院だ」

「本当に!?」

「ここにレールとその上を走る列車があるとする。先の方で二つに分かれ、一方には五人の老人、一方には一人の子供だ。レールをどちらかに切り替えることはできるが、列車を止めることはできない。五人の老人と一人の子供、どちらを犠牲にする?」

「……どうしよう?」

 杖に腰かけるコオロギに尋ねた。

「良心に従うんだピノッキオ」

「さぁ早く答えて」

「そんなぁ」

「早く!」

 ネコが毛を逆立たせる。見開かれた二つの黄色い目が怖くて、ピノキオは必死に考えた。

「あの、始めはどっちに、レールは繋がってるんですか?」

「さあね」

「……じゃあ、見ません。レールがどちらに繋がってるか」

「見ない?」

「はい……だから、どっちが犠牲になるのか知れない。運命なんです。悲しいけれど」

「なるほど……退院はまだ先だね」

「ええ!?」

「せいぜい努力しな。これでも読んで」

 ネコが完全社会適合マニュアルという本を牢屋へ投げ入れ、去っていく。ピノキオは失敗した。

.

 二日目。ピノキオがネコに言われた通り完全社会適合マニュアルを読んでいると、キツネがステッキをついてやってきた。ピノキオを卑下するように目を細め、淡々と言い放つ。

「おまえは病気だ」

「違います……たぶん」

「間違いなく病気だ。私達がキツネやネコに見えているんじゃないかい?」

「……そ、んなことありません」

「本当に?」

「はい……誓ってもいいです。本当の本当です」

「まぁいい。質問に答えるんだ。正しく答えられたら退院させてやろう」

「正しく答えます」

「宜しい。ある種の思考実験だ。きみは世界一の名探偵。今街には凶悪な殺人犯が隠れている。この殺人犯は自分を追い詰めようとした者の家族を必ず殺す。街から逃げようとした者も必ず殺す。きみがこの殺人犯を捕まえようとすれば、直ちに逮捕することが出来るが、きみの家族は殺されてしまう。放置しておいた場合、いつ逮捕されるかわからないし、被害者はますます増え、いずれはきみの家族も殺されてしまうだろう。どうするね?」

「……どうって、どうしたらいいんです?」

「それが質問だ」

「……すぐ捕まる可能性は?」

「すぐには捕まらないだろう。賢い犯人だ」

「……どのくらいで捕まりそうですか?」

「いいだろう、質問を変える。何人殺されたらきみ自身、動いていいと思うかね?」

 ピノキオは答えがわからない。答えとはつまり、自分の考えの結論が。家族は殺されたくないし、街の善良な人々も殺されて良いわけがなかった。だから答えを出せず、杖に寄りかかるコオロギに、視線を向けるしかなかった。

「……コオロギさん、ぼくはいったいなんて答えたら?」

「良心に従うんだ」

 良心って? ピノキオは考えたが、それについてもさっぱり分からなかった。

「……分からないよ」

「分からない? その答えじゃダメだな。もう一度よく考えろ」

「……祈ります。すぐ捕まるように」

「そうか……まだ退院は無理だな」

「そんな!」

「当たり前だろう。きみは昨日、運命に委ねると答えた。そして今日は神に祈るだ。それでは退院はできない。僕が何とかする、そう声に出しながら、このノートだ。このノートに書けるだけ、同じ言葉を書き続けなさい。わかったね?」

「はい!」

「よろしい」

 キツネが踵を返し、去っていく。ピノキオは失敗した。

.

 三日目。ピノキオがキツネに言われた通り「僕が何とかする」と声に出しながら同じ言葉をノートに書き続けていると、キツネとネコがやってきた。牢屋内には十数冊のノートが散らばっている。

「病的だな」

「異常者め」

 二匹が蔑み、キツネの方がノートを拾い上げた。ノートには「僕が何とかする」の文字がびっしりと書き込まれている。鉛筆を握っていたピノキオの手は赤く腫れ、ピノキオの声は渇きしゃがれていた。

「僕はまともです。本当です」

「反論はやめたまえ。それを決めるのは我々だ」

 キツネはそう言ってノートを閉じ、ステッキに体重を乗せた。

「かまいません。ですが聞いてください。真面目に言ってるんです。僕はまともです」

「きみの名前は?」

「ピノキオです」

「誰にそう名付けられた?」

「ゼペットさんに」

「それは誰だい?」

「え、一昨日僕の為に来てくれたおじいさんですよ」

「彼はそのような名前じゃあない」

「え?」

「今日の質問だ。物言えぬ老婆がいる。そして不治の病の内にあり、日々苦痛に苦しんでいる。生命維持装置を抜けば、一瞬のうちに彼女の苦痛と生涯を終わらすことが出来る。どうするね?」

 困惑するピノキオ。しかし、質問をされたら答えなくてはいけない。

「お婆さんは、まだ生きていたいんですか?」

 質問に質問を重ねるピノキオに、今度は猫が口を開く。

「さあね。そもそも意識があるのかもわからない。苦痛はあるけどね」

「……コオロギさん、そういう場合はいったい」

「良心に従うんだ」

 コオロギはそれしか言わない。

「良心ナンザクソノ役ニモ立タネエ」

 杖が苛立ちを浮かべ、ピノキオは気付くと、杖でコオロギを叩き潰していた。

「テメェラモダ。コノド低能ドモ。ツマンネェ質問バカリシヤガッテ。答エナンザアリャシネェ。フザケヤガッテ。人コケニシテ悦ニ浸ッテンジャネェヨ!」

 キツネがステッキで鉄格子を叩き、口をへの字に曲げる。

「下品な口は慎み給え。それに我々は悦に浸ってなどいない」

「鼻伸びねぇ奴ぁ嘘こきほうだいだなおい!」

「きみ、まるで更生するつもりがないな?」

「うるせぇ!」

 ピノキオがキツネのステッキを鉄格子越しに掴み、引き寄せられたキツネの顔をガツンッ! と杖で突き打つ。

「鍵ヲ奪エ!」

 ピノキオは杖に言われるがまま、キツネの腰についていた鍵を奪い取り、ネコにステッキを投げつけた。跳び避けるネコ、顔を抑えるキツネを尻目に素早く鍵を開け、ピノキオは牢屋の外へと出る。

「ごめんなさい! 僕の杖が勝手に!」

「何言ってんだい!」

「殺シテヤル!」

 ネコに殴りかかる、ピノキオと杖。ネコの頭ばかりを狙い、すぐにネコはぐったりと、倒れて動かなくなった。

「やだ、やだよ、もう」

 ピノキオは鉄格子に寄りかかるキツネに、狙いを定める。

「殺スンダ! 俺達ガ逃ゲ出シタコトヲ、コイツガ爺サンニ話シタラ、爺サンハ悲シムダロ! ダカラ殺シチマウノガ一番イイ!」

 杖のなすがまま、キツネに歩み寄る。

「やだよぉ……誰か、助けて」

 怯え、悲痛に震えながら、ピノキオはキツネを殴り殺した。




 ピノッキオの冒険。ある日ゼペット爺さんは喋る丸太を偶然見つけ、そこから人形ピノッキオを造り出す。ピノッキオはとても賢い人形とは言えず、また悪戯ばかりしていた。忠告に来た喋るコオロギは木槌で叩き殺してしまうし、ゼペット爺さんが唯一の上着を売ってまで手に入れた教科書も売り払って人形芝居小屋のチケットに変えてしまう。そして最後には狐と猫に騙され、木に吊るされ殺されてしまった。
 一番初めの原作はここまでです。その後クレーム殺到で続編が作られ、嘘をつく度鼻が伸びましたり、遊園地でロバに変えられましたり、サーカスに売られましたり、サメに呑まれその体内でゼペット爺さんと再会しましたり、心を入れ替えて人間になったりするんですけど。
 それでシノアリスのピノキオですが、場合によっては彼こそがシノアリス一の曲者ですよ。そもそも本当にピノキオなのか、そこから疑うべきなのかもしれません。単純に考えれば、ピノキオが善の心を得て鼻から零れ落ちた悪の部分、それがピノキオの喋る杖と考えるべきなのでしょう。ですがもし、ピノキオは杖の方だけだとしたら。ピノキオは元々ただの丸太ですからね。その丸太が宿主と決めた少年の精神に寄生し、依存し、理想のピノキオとしての肉体を造り上げようとしているとしたら。あるいは喋る杖など存在せず、人間となったピノキオの心の中に再び悪の心が芽生え、統合失調的感覚の中で喋る杖という存在を造り出し、悪の心を育てつつも、全ては杖の仕業として自分自身とは向き合おうとせず、悪の心、偽りの杖が真のピノキオとなる時を待っているのだとしたら。ピノキオの嘘はそういった類のものかもしれません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

くるみ割り人形【鼠の巣】

 街が雪と無数の輝きに包まれておる。街灯からは穏やかなメロディが流れているが、道路脇でその音楽に合わせてブレーメンの音楽隊共が奏でる音色は、あれは騒音そのものだ。しかしそれ以上におもちゃ屋の呼び込み放送がうるさい。これだから最近のクリスマスは。慎みというものを知らん。街行く者共もだ。どいつもこいつも浮かれおって。

 吾輩は街の喧騒から逃れるように路地裏へ入ると、地上の下水道とでも呼ぶにふさわしい、暗く、汚臭漂うビルの隙間を進んだ。

 全く、最近の事件は悪質極まりない。今回のものなど特にである。森の中で発見された二人の死体は、いずれも元の形が分からなくなるほど切り裂き抉られていた。惨たらしいものよ。残された手掛かりは、殺された猟師と老婆の内、老婆の身体に残された粘液。そこに含まれていた薬物反応。全く未知の薬物であった。しかしこれと同じものを、吾輩は持ち前の捜査力で、偶然にも発見したのである。

 吾輩はその日急にタコスが食べたくなり、夕方だ、車で町はずれのタコス専門店へ向かっていた。しかしなかなか見つからない。とはいえ吾輩の記憶は確かなのだから、きっと閉店してなくなってしまったのだろう、と思い始めていた時だった。空腹でイラついていたのだ。断じて注意散漫になっていたわけではないが、何かを轢いてしまった。車から降りて見てみると、どうやらその何か、というのは、一人の少年のようだった。大方すまーふぉんげーむ? でもして周りが見えていなかったのだろうが、あまりに痛がっていたので、吾輩は親切にも病院へ連れていってやったのである。すると治療の過程であることが分かった。薬物反応だ。そしてその薬物というのが、吾輩が追っていたそれだったのである。

 始め、その少年が猟師及び老婆殺害の犯人であると推測したわけであるが、当然な。がしかし、吾輩の熟練された尋問により明らかになった真実は、この事件の更なる闇を映し出したのである。

 少年の話によれば、その薬物は働いていた人形小屋で打たれたものだという。仲間は皆それを打たれていたそうな。その理由は……ふむ。近頃の筋者というのは、平然と世にも惨たらしいことをするものよ……なんでも、その薬を打つと何をされても死ななくなるのだとか。何をされても、と。考えたくもない話である。ともかく……元締めに話を聞く必要があった。吾輩の勘も、あるいはその元締めこそが事件の犯人だと、言っていたからな。

 汚臭に混じり、どぎつい香水の香りが鼻をつく。気付けば頭上は左右のビルの突き出しに覆われ、明かりはただ一つ、この先に見える桃色の怪しい扉が発するそれだけとなっていた。

 扉の前で吾輩は立ち止まる。扉には英国の言葉で「doll house」と飾り記されていた。扉を開かんと手を伸ばす、と、触れるよりも早く、扉はひとりでに開き、中から一人の男が姿を現した。

「ご老人、ここはあんたが来るような場所じゃないよ」

 男は黒いサングラスをかけ、頭はスキンヘッドで、一見しただけで堅気の者ではないことが見て取れた。

「ふむ、確かに。吾輩には相応しくない場所であるな。しかし入らねばならん。ここのオーナーに話があるのだ」

「話? どんな話だい?」

「この、少年について」

 吾輩はコートのポケットから少年ピノキオの写真を取り出すと、それを男に見せた。男の表情は、わからぬ。しかしサングラスの奥で瞳が収縮する気配を感じた。男の手が写真へ伸びてくる。吾輩はすっと写真を引き、ポケットへと戻した。

「オーナーと話をさせてくれるかの」

「……しばし、お待ちを」

 男が人形小屋の中へ戻り、扉が閉まる。

 しばらく待っていると、再び扉が開いた。今度は大きく。そして先程の男が、吾輩を迎え入れる。

「どうぞ中へ。オーナーの元へご案内致します」

「うむ」

 人形小屋へ入ると、すぐに重低音のさうんどと男女の奇声が耳に入ってきた。全く最近の世界は、どこもかしこも耳障りな音楽に溢れておる。顔をしかめつつ、吾輩は通路を抜け広いふろあへと入った。いたるところに円形の小さな舞台が設置され、その上では美女から美少年から、あるいは特殊な性質の者しか喜ばないような者達が薄布に身を包み、踊らされている。そう、けっして踊ってはいなかった。皆手足に紐を結ばれ、天井上からそれで操られておる。なんとも悪趣味な。これを考えたここのオーナーも、ここへ来てダンスを見て笑い、奇声を上げている者共も、皆悪趣味極まりない。

「さぁお次のメインステージは、皆さんお待ちかね、愚かな母と娘姉妹の灰被りショーでございます。さあさこちらにご注目! ご注目を!」

 ふろあの奥、めいんすてーじで司会役の男が話している。悍ましい。吾輩は視線を逸らし、しかし客の奴等は奇声を一斉高らかに上げ、ふろあの興奮の高まりを嫌でも感じざるを得なかった。

「灰の吸い込み過ぎにはご注意を。ハイになり過ぎてしまった方の本日のお楽しみはここまで! ともなりかねません。さあ! 灰落とし役をやりたい方は? おお! 皆さんお元気ですね! ではそこのあなた。どうぞこの鞭を。大丈夫、大丈夫です。本日の灰落とし役は、そうですね……十人! 十人行きましょう。さあやりたい方はこちらに並んで。まずは一人ずつです! まずは!」

「こちらです」

 男に促され、吾輩はフロア室から舞台裏通路へと出た。舞台裏通路もまた……異様。一見、まるで宮殿廊下のように煌びやかで、しかしいたるところに血がこびり付いておった。何をされても死ななくなる薬物。その痕跡であろう。

 通路の奥まで進んだところで、男は立ち止まり、一際豪華な扉をノックした。

「姉さん、連れて参りました」

「通せ」

 オーナーは女か。男が扉を開け、吾輩は部屋の中へと入る。その部屋は宝物庫のように高価な物品で溢れ、しかしそのいずれにも見劣りしない美しい女が、黒革のシングルソファに腰かけていた。女は片手にグラスを掴み、しかしその中身はおそらく、酒ではなく水である。水用のガラスボトルが近くに置かれていた。吾輩の経験からするに、こういった時水を飲む容疑者というのは、なかなかに手強い。

「いつまでそんなところに突っ立ってんのさ。急ぎの用があるんだろ? おじいさん」

「うむ」

 吾輩は少し身構え、部屋へ入った。背後で扉が閉まり、男が扉を塞ぐ。

「悪いね。この部屋に椅子は一つしかないんだ。用件は?」

「この少年である」

 女と吾輩の間のテーブルに写真を滑らせると、女は写真に視線を落とし、数秒見つめ、上目遣いで吾輩を見た。

「で?」

「先日この少年を道で保護したのであるが、薬物反応が検出されてな。聞けば、ここでその薬物を打たれたと」

「知らないね」

「ふむ」

 写真を入れていたのとは逆のポケットに手を入れ……吾輩は一枚の紙をテーブルに置いた。

「これは?」

「開けばわかろう」

「……」

 女が訝しげに紙を開き……開いた場所に、指紋が現れる。吾輩はすぐに紙を女の手から抜き取り、ポケットにしまった。

「少年の杖に残っていた指紋である。少年はこの指紋の者こそ人形小屋の主であり、自分に薬物を打ったシンデレラ、その人であると。お主、今確かにこの紙に触れ、開いたな? 分析すればすぐに一致不一致の確認が取れるであろう」

「……ハッ。なるほどね」

 シンデレラは不敵に笑う。この笑いはやはり、悪しき者のそれである。逮捕する、べき!

「けどね、おじいさん。あの薬は別に違法じゃないはずだよ? この場所もね」

「無論。しかし老婆と猟師の殺害、これは間違いなく犯罪である」

「はぁ? 何の話さ」

「白を切るでない。吾輩には全てお見通しである。証拠が出るまでお主の周辺を隅々まで調べさせてもらうぞ」

「それは困るねぇ。何が困るって、あの薬のことはあんまり表沙汰になって欲しくないんだわ。専売特許だからね。入手ルートとか知られたくないし、もっと言えば、それが関係する捜査をされること自体、都合が良くないわけ……まぁそういうわけだから。梶田」

「はっ!」

 ガツン! と、背後から何か、小さく鋭いものを打ち付けられた。

「な、なんじゃ?」

「姉さん! こいつチャカが効かねぇ!」

「一発しか撃ってないだろうが。もっと撃ちなよ」

 なんじゃなんじゃ、銃を撃たれてるのか? ガツン! ガツン! ガツン! 衝撃が頭を揺すりおる。シンデレラのやつは吾輩を眺め見つつ、手袋をはめていく。

「これ! やめんか! 年寄りは労われ!」

「そのチャカよこしな」

「へい!」

 拳銃が頭上を、後ろから前へ飛んでいく。

「ほら、あーんして」

「ああ!? 誰がお主の言うことなど」

 言っているそばから口の中へ、銃弾が雨あられと撃ち込まれる。ぬおお!! 頭の中がめちゃくちゃじゃ!!

「ほらほら、鉄のクルミだきちんと割りな?」

「やめ、や、このぉ!」

 カツン! 口を閉じたが、空ぶりおる。銃口をうまく引きおって。

「梶田、こいつの口開いて抑えときな」

「はい!」

 男が背後から吾輩を羽交い絞めにし、口を開き抑える。小癪な。その方向からの力には弱いというに!

「おかわりいくよぉ~?」

 銃口が再び、口の中に。ガツン! ガツン! ガツン!

「んぐぅあああ!!」

「あんたの口はクルミを割る以外には害しかもたらさない。労われだ? 歳食っただけで何言ってんのさ。労わってもらうだけのことしたのぉ? してないでしょ。好き勝手やるのは構わないけどさぁ、あんたはピーターパンに守られてるわけじゃないんだから。報いは受けなくちゃね」

 ガツン! ガツン! ガツン! あぁまずい。まずいクルミじゃ。吾輩のおつむが弾け飛んでゆく。

「さっさととっととくたばりやがれ!」

 ガツンガツンガツンガツン!

「っあ、が」

 耳鳴りがしおる。世界が白くぼやけていく……昔、犬を飼っておった。名前を、なんと言ったかの。あの日は本当に寒かった。屋根に雪が積もって危なかったんじゃ。母さんの鉢植えが倒れて、埋もれた果実を咥えていきおった。父さんの見つけてきた鉢植えは大きすぎて、しかしあれは、良いカエルのねぐらになったのぉ。小さな家を建てたが、結局最後まで空き家じゃった。

「か……くぁ……」

「ようやく大人しくなったね。って、あれ、あんた腕どうしたのさ」

「姉さんの流れ弾がっ」

「うっわ、ださ。まぁいいや。こいつはあたしが捨ててくる。ちょうどドライブしたい気分だったし。で、あんたのチャカ、借りてくよ。こいつと一緒に捨てるわ。もし見つかったら疑われるのはあんた。見つかるかもしれない、そのことを朝も夜も考えて過ごしなよ。それがあいつをまだ野放しにしてることに対する贖罪だ。いいね?」

「……はい」

「ふっ。安心しなよ。あたしは隠れるのも隠すのも得意なんだ。たまに見つかっちゃうけど」

 髪を雑に掴まれ、穢れた床を引きずられていく。

.

 吾輩はクリスマスケーキの蝋燭になりたかったんじゃ。




 クルミ割り人形とネズミの王様。クリスマスの日、少女マリーはプレゼントにクルミ割り人形をもらう。その日からマリーは夢の中で7つの頭を持つネズミの王様に襲われるようになった。そのことを知ったクルミ割り人形は立ち上がり、マリーの力も借りてネズミの王様を打ち倒す。するとクルミ割り人形にかかっていた呪いが解け、彼は人間に。彼とマリーは結婚し、幸せな生活を送った。
 ほとんど残酷でも悲惨でもないお話です。物足りませんね。まぁそれで、今回クルミ割り人形は探偵の真似事をしていました。追っていたのは老婆と猟師を殺害した犯人。犯人はもちろん赤ずきんですが、クルミ割り人形はそれを知りません。それどころか、犯人の見当が当初ついていなかったのですから、つまりなかったのです、巨大狼の死体が。不死薬は本物でした。
 そしてクラブオーナーとして登場したシンデレラ、ですが。クラブでは不死薬が使われていました。不死薬を使ったハードなショー。ピノキオはそれに耐えられなくなり、クラブを放火しようとしたところを発見され、狐と猫の精神病院に入れられたのです。そしてそこから脱出をした直後、クルミ割り人形の車に轢かれました。どうしてシンデレラが不死薬を持っていたのか。すでにご察しのこととは思いますが、シンデレラは舞踏会の階段から落ちて一度死に、ハーメルンによって蘇らされたのです。ハーメルンが不死薬を求めたのは正にそれ、美しいシンデレラを蘇らせるためで、そうして蘇ったシンデレラは不死薬を使ったビジネスを思いついたというわけでした。
 クルミ割り人形退場っ!それでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人魚姫【望まれた悲劇の選択】

 深い深い海の底、不思議と光の届くその場所には、人魚のお城がありました。人魚というのは上半身が人間で、下半身が魚の、クリーチャーのことです。お城には王様と六人の娘が住んでいましたが、これは六人娘の末っ子、人魚姫006のお話です。人魚姫006は姉妹の中でも特に物思いに耽るのが好きで、ついでに悲劇が何よりも好きでした。そのため上の姉妹達から地上のお話を聞かされては、そのお話を自分に重ね、自分も胸を引き裂かれる想いをしたいと日々考えていたのです。異常者です。

「さっきから色々、失礼過ぎません? あぁ、なんて可哀想な私……」

 人魚姫は小さくつぶやいて、小さく微笑みました。

 そんな人魚姫もついに地上を見に行って良い年齢となったある日のことです。夜、眠りにつこうとした人魚姫はふと上を見上げ、海上に輝く灯りを見つけました。眠気も忘れ、人魚姫は好奇心のままに浮上します。

 海上では、大きく豪華な船が楽しげな音楽を振り撒いていました。そしてその船上に、人魚姫は姉達から話に聞いていた陸の王子様を発見します。

「あぁ、なんて素敵な人なのでしょう。船が氷山にでも当たって沈んだら、きっと凄く悲劇的」

 すると、遠くから竜巻が近づいてきます。竜巻は何体もの鮫を巻き込んでいて、未知の脅威と語るに相応しいものでした。

「シャークネードだ!」

 船員が叫びます。竜巻は船を襲い、人々は鮫から逃げるため次々と海に飛び込みました。しかし王子様は剣で応戦し、船を、国民を守ろうと必死です。すると竜巻がマストを折り、王子様はマストの下敷きに、気を失ってしまいました。船が折れ、海に沈みます。人魚姫は沈む王子様に泳ぎ寄り、抱え、陸上まで引き上げました。

.

 冷たい浜辺で丸一晩、人魚姫は王子様を介抱していました。布を切り、傷口を縛り、船の破片で風避けを作って。

 日が顔を少し出した頃、人魚姫の耳に車の音が聴こえてきます。初めて聴くその音に、人魚姫は思わず、海に身を隠しました。

 王子様の近くで車が止まり、運転席から美しい女性が降りてきます。女性は王子様に歩み寄ると、邪魔臭そうに見下ろしました。

「んだよ、片付けらんねーじゃねぇか」

 車のトランクから、ボンボンと音がします。女性はチッ、と舌打ちし、車へ戻るとトランクを開け、何かを、殴りつけました。そしてまたトランクを閉め、戻ってきます。

「しかしこの服装、もしかして王子様? んなら連れて帰ってあたしが助けたってことに……くそ、邪魔な荷物さえ積んで無けりゃ……そうだ」

 女性はそして、履いていたガラスの靴の片方を王子様の近くに投げやると、車に乗って去っていきました。

「あの人もしかして、手柄を横取りするつもり? なんて卑劣なの」

 人魚姫はそう思い、しかしそれはそれでなかなか悲劇だなとも思っていると、王子様が目を覚ましてしまいました。すぐに歩み寄ろうかと思いましたが、人魚姫には歩ける脚がありません。王子様を驚かせてしまうかも……それに、人間に姿を見られるのは禁止されているし。あれこれ考えていると、王子様はガラスの靴を手に、去っていってしまいました。

「あぁ、なんて悲劇なの。この悲劇は私のものにしないと」

 人魚姫はそして、海の魔女と契約し、足を手に入れる決意をしました。

.

 魔女と契約をして数日が経ち、人間の姿になった人魚姫の傍らには王子様の姿がありました。王子様は人魚姫が奏でるハープの音を、うっとりとした心地で聴き入っています。仲睦まじい二人。ですが、王子様の意中の人は、人魚姫ではありませんでした。

「ねぇ王子様ぁ、結婚式の準備はまだ終わってないんだよぉ? そんなとこで暢気に音楽聞いてないでさぁ、あたしの為に最高の結婚式を準備してよ」

 現れた彼女はシンデレラ。あの、ガラスの靴を置いていった張本人です。王子様はガラスの靴の持ち主こそ自分を救ってくれた人なのだと信じ、彼女を探し出したのです。そしてシンデレラは偽りの事実とその美貌をもってして、王子様の心を虜にしたのでした。

「あぁすまなかった、シンデレラ。すぐに準備に戻るよ。つい聴き入ってしまって」

「王子様は音楽が好きなんだねぇ。可愛い王子様」

「はは、照れるな。今日は最高の結婚式だ!」

 王子様はそして、飛び跳ねるように式の準備へと向かいました。結婚式前日は当事者達も何かと忙しいものです。残された人魚姫を、シンデレラが不敵な笑みを浮かべて見下ろします。

「ごめんねぇ? 王子様盗っちゃって」

 人魚姫は首をふるふると左右に振ります。

「ハッ!」

 突然、シンデレラが人魚姫の頭を掴みます。そしてその耳元で、小さく囁きました。

「今の話じゃないよ」

 シンデレラが去っていきます。人魚姫の、驚愕の表情にご満悦の様子で。人魚姫はシンデレラがやったことについてはよく理解していましたが、まさか本当の救出者が自分だと見破られていたとは思ってもいませんでしたし、なによりそれを悪びれる風もなく人魚姫に勝ち誇ったように言い放ったシンデレラの卑劣さが信じられなかったのです。しかし、それでも人魚姫は何も言い返しませんでした。いえ、言い返せなかったのです。魔女との契約、それは人間の脚を手に入れる代わりに、声を失うというものでしたので。

 更に、契約内容はそれだけではありませんでした。王子様が人魚姫でない、他の女性と結婚してしまった場合、人魚姫は泡となって消えてしまうというのです。そんな悲劇的な結末は、結末は……いいかも。と人魚姫が思っていたのはシンデレラが余計なことを言うまでの話。今の人魚姫は違います。あんな卑劣な人が王子様と結婚してしまっては、悲しくも美しい悲劇の物語ではなく、ただの胸糞の悪い物語になってしまう。それはいけない。人魚姫はそう思ったのです。

 人魚姫は考え始めました。なんとしてでも王子様とシンデレラの結婚を阻止しなければなりません。しかしなかなか良い方法を思いつけない為、海へ行き泡となる覚悟を固め始めた時のことです。海から五人の姉達が現れ、一番上の姉が人魚姫に言いました。

「あの王子様は真の愛を見極められない人間です。あなたが泡となる必要はありません。殺しなさい、このナイフで」

 そして、人魚姫にナイフを渡します。姉達は遠くから、全てを見ていたのでした。

.

 さて、明日の結婚式の準備を終え、皆が寝静まった頃、お城の寝室に人魚姫がやってきました。その手にはもちろん、ナイフが。ベッドへ一歩一歩、慎重に歩み寄ります。静かに、静かに。そしてベッドの傍らへ来たところで、ナイフを逆手に持ち、掛布団越しに、ぐさり!

「ぐ……んぐぁ、あっ、んあ!? いぎぃあああ」

 人魚姫は枕を抜き取り、叫ぶ顔を塞ぎました。

 やがて、叫びは完全に聞こえなくなります。ジタバタとしていた手足もぐったりと動かなくなり、人魚姫は枕をのけました。計画通り、シンデレラを殺害することに成功したのです。

.

 結婚式をするはずだった日の夜、悲しみに暮れる王子様を、その傍らで、人魚姫はハープの音色で慰めていました。王子様は人魚姫の慰めで、悲しみの底から立ち直ります……何度も。そう、何度も、愛しい人を失う度に。

 悲しい王子様と、その傍らでいつも、悲しい音色を奏でる人魚姫。二人は悲劇の中で、決して結ばれることはなく、しかし末永く、共に過ごしましたとさ。




 人魚姫。15歳の誕生日を迎えた人魚姫は海上の世界を覗く許可を得る。そうして初めて見た世界には、美しい王子の姿があった。しかし王子は嵐に襲われ、人魚姫は砂浜で一晩介抱をする。人の気配がしたので姿を隠すと、一人の修道女がやってきて、目を覚ました王子は彼女が命の恩人だと勘違いをしてしまった。人魚姫は王子に再び会うため、海の魔女の魔法で足を手に入れる。それは呪いにも似たもので、得た足は歩く度に激痛を伴い、声は失われ、また王子の愛を得られなければ泡となって消えてしまうというものだった。王子との再会は果たすも、王子にはあの時の修道女、実は隣国のお姫様であった女性との結婚の話が持ち上がってしまっている。王子も乗り気であった為、人魚姫の姉達は人魚姫に短剣を渡し、泡となるのを回避するために王子を殺すように言う。けれど人魚姫は王子を殺すことなどできず、海に身を投げ、泡と消えることを選んだ。
 という原作ですけれど、今回王子と結婚することになったのはシンデレラでした。しかもちょうどクルミ割り人形を海に捨てに来たところの。そうしておそらくシンデレラは全ての真実を知りながら、人魚姫から王子様を奪うこと、そしてそれ以上に憐れな人魚姫を観察することに喜びを感じるのです。卑劣。正に卑劣。これには悲哀の人魚姫もニッコリ。ですがやり過ぎました。人魚姫的には主人公より目立つ脇役は困るので。要するにそういうことです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

かぐや姫【悪魔の証明】

 遠く天の先、夜に輝く星の者達がいた。

 星人(ほしびと)は天(あま)の羽衣(はごろも)を纏い、その効力故心を持たず、また金に輝く丹薬の故死ぬこともなく、無限の星間で長い時を暮らしていた。

 そんな星人の内に、ある日罪人が生じる。罪状は感情の保持。それは本来あり得ないことだった。羽衣を纏わば喜怒哀楽は消えるもの。しかしその者が保持していた感情は、悦楽。誰も分からなかった。その者を見るまでは。いや、その者を見た後も。

「もっと! もっときつく縛ってくださいませ!」

 星の女は幾重もの羽衣に縛られ、頬を赤らめていた。感情を奪う為の羽衣を巻けば巻くほど、その者は逆に昂ぶっていく。説明のつかない事態だった。

「いったいどうなっている! この羽衣は欠陥物か!?」

 星の男は困惑し、別の者がそれに答える。

「いえ、そのようなはずはありません。我々の理に欠陥など」

「ならばなぜ彼女は」

 言いかけ、星の男は床に伸びた羽衣に足を滑らせた。よく肥えた身体が星の女に倒れ込み、肘が女の腹を穿つ。

「うっぐぅあ!!」

「すすまぬ!」

「うっ……っは、あ……もう一度」

「は?」

「もう一度お願いします」

「……」

 罪は深く、易々と贖えるものではないことが窺われた。

 かくして、星の女は地球という星へ罪を贖うまでの間の追放となる。汚れた身を清める為、一度生まれたばかりの姿に戻されて。その地の内で特によく育つ植物に似せた機体に乗せられ、地球の山地に打ち込まれた。

.

 今は昔、竹取の翁という者がいた。

 翁はある日、竹林にて輝く竹を見つけ、その内より三寸ばかりの赤子を見つける。赤子は翁に連れられ家へ向かう間に通常の赤子の大きさとなり、更に三ヶ月もすると、すっかり大人のマゾの姿になっていた。

「お爺様! そんな縛り方ではダメです!」

 赤い縄で縛られた彼女が翁を叱責する。翁はしかし、竹以外を縄で結ぶ方法などまるで知りもしなかった。

「許しておくれかぐや姫。若い者の遊びは知らんのじゃ」

「お爺さんは不器用でいけませんねぇ。ほれちょっと貸しなさいな」

 見兼ねた嫗がやってきて、縄を縛り直す。縛り方は完璧だった。しかし、縛る強さが足りない。

「ごめんよかぐや姫。年寄りにはこれが限界じゃ」

「……わたくしこそ、無理を言ってすみません」

 彼女、かぐや姫の地球での生活は、満足とは程遠いものだった。辛く苦しい生活を余儀なくされていた、というわけではない。不自由なく暮らすだけの金が、かぐや姫と同じように、定期的に竹輸送で送られてきていたのだ。しかしそれが逆に、かぐや姫にとっては無用なものだったのである。かぐや姫は辛く苦しい生活をしたかった。新たな悦びを知ったにも関わらず、それを享受できない毎日。叶えられない願い。けれどそれこそが、かぐや姫の持つ特性だった。

.

 かぐや姫の噂は瞬く間に村々と広がり、多くの男達が求婚に訪れた。しかしその度にかぐや姫が出した条件は、どれも異常な難題ばかり。特にそう、石作御子が求婚にやってきた時などは、仏の御石の鉢で石抱き責めにして欲しいと願った。仏の御石の鉢など手に入ろうはずもない。また右大臣阿倍御主人が求婚にやってきた時などは火鼠の皮衣を着せた上で百本の蝋燭責めをして欲しいと願い、大納言大伴御行が求婚にやってきた時は龍の首の玉を……いや、言わずにおこう。中納言石上麻呂や車持皇子が求婚にやってきた時の話も、殊更する必要はないように思う。ともかく婚約のための条件を達成できた者は、ついぞいなかった。何故かぐや姫は異常な難題ばかりを出すのか。いや、本人は難題とは思ってはおらず、そこにかぐや姫の本質があった。

 叶えられない願い。達成されない難題。それは非存在の証明。世界に存在しない全てを証明する。当人は知らず、しかしそれがかぐや姫という個体の在り方であった。星の者かぐや姫は世界における非存在の証明装置であったのだ。

.

 月日が流れ、最早かぐや姫に求婚する者も帝だけとなった頃、遠い空から彼等はやってきた。夜天からまるで月そのものが下って来たかのように、煌々と輝く円筒形の船。数日以前よりかぐや姫が告げるに、近々迎えが来るとあったので、帝はそうはさせまいと頭中将に言いつけ、翁の家の周囲に軍勢を配置していた。今その軍勢、翁の家、竹林、周囲の全てがかつてない輝きに覆われている。輝きは天の者達を繋ぐ声であり、手であり、構成素子であった。故に今、その輝きに包まれた者共は誰も星の者達に弓を向けられない。星の輝きの中で、全ては彼等の手中、声の意志、組織の一部。弱き人類の個は霞よりも薄く引き伸ばされ、誰も敵意を抱くことさえ叶わない。

 船より七人ばかり天の羽衣を纏った星の者が舞い降りると、彼の者達は地に接することなく、少しばかり宙を浮遊したまま、次のように発した。

「翁よ、出て参れ」

 呼応するように翁は現れると、しかしその目には涙を浮かべ、酷く悲しんでいた。かぐや姫との別れ、そしてそれに抵抗すらできない身分を憂いていたのである。

「そなたは罪人たる者の日繕いをよくやってくれた。しかし償いの月日は過ぎ、天に戻る時が来たのだ。罪の故も明らかになった。我外なる不死の蔓延が、地上の不死の非存在に綻びを生じさせたのだ。その綻びを縛り止めんと、非存在の証明者たる者の罪を生んだのである。我々はこれよりこの地の不死の回収と焼却を行う。早く返上奉れ」

 星の者の慈悲深い言葉に、翁は嘘ではなく真実を返すことで、抗おうとする。

「そのように致したく、ですがかぐや姫は、酷い病気にかかっているので、出ていらっしゃることはできないでしょう」

「病気とな?」

「そうでございます」

 翁は病気の類は語らず、しかし星の者は少し眉をひそめると、その意を理解した。

「わかりみが深し。さりとてこの地の穢れたるに、いつまでもいられようか」

 星の者の声の後、翁の家の全ての戸はひとりでに開き、かぐや姫の姿も露わになった。かぐや姫は水を貯めた桶に顔を沈め、背に乗せた媼に体重をかけるよう指示を送っている。星の者が溜息と共に指を振ると、桶の水はたちまち気化し、輝きの中へと消えた。輝きに照らされた媼はかぐや姫の背から降り、その手を引く。かぐや姫は濡れた顔のまま星の男の元へ来ると、不満そうに頬を膨らませた。

「ああなんと、穢れ地のものを召して気分も異なろう。これを」

 星の者の一人が箱を持ってかぐや姫の元へと近づく。箱の中には天の羽衣と不死の薬があり、星の者は不死の薬を一粒摘まみ上げるとそれをかぐや姫へ差し出した。かぐや姫は不死の薬を舐め、物憂げに地上の人々を眺める。

「あのぉ、ちょっと聞こえたのですけれど、地上の不死の非存在に綻びが生じたせいで、わたくしはこのようになったのですか?」

「しかり。焼却の後そなたの罪も滅ぼされよう」

「……わかりました。あぁ、地上のものの不味いこと。丹薬をもう少しばかりいただけます?」

「良く清めよ」

 かぐや姫は丹薬を一摘まみ二摘まみ、口元へ運び、気のない様子で背を向け、懐紙に包み入れる。振向き物憂げな面持ちで、小さく溜め息を落とした。

「わたくしの為に計らってくださった方々にお別れを告げさせてください」

「よかろう」

 かぐや姫は時の遅れた流水のように頭中将の側へ足を運び、

.

『今はとて 天の羽衣 着るをりぞ 君をあはれと 思ひ出でける』

.

 そう歌を詠んで懐紙を渡した。

 戻り来たかぐや姫に星の者が羽衣を着せると、地を離れるようにその心からも別れを惜しむ想いはすっかりと消えて……しまったのだろうか。最早何も振り返らず、かぐや姫は船に乗り、やがて見えなくなってしまった。

 輝きが点滅する。世界が点滅する。その眩さ、誰も見定めることは叶わず、気付けば船は天高く舞い上がっていた。高く、高く、船は天高く、一羽の鳥の羽ばたきもない場所へ。風もない、ただ重力のみが存在する場所へ。そして……黒い煙を撒き散らす。火を噴く。輝く船は垂直に、地に落ちる。それは、世界の理を破壊する、天罰の柱。




 竹取物語。ある日竹取の翁は竹林で輝く竹を発見し、その内より三寸ばかりの赤子を拾い上げる。赤子はかぐや姫と名付けられ、3か月程で妙齢の娘となり、その美しさに多く求婚された。しかしかぐや姫は如何なる者とも婚約をしようとはせず、そうして別れの日が来る。最後の求婚者、帝はかぐや姫が月へと帰るのを阻止しようと軍勢を従え備えた。けれどいざ月の使者がやってくると、誰も使者達の言葉に背くことはできず、羽衣を纏ったかぐや姫はまるでそれまでのことをすっかり忘れてしまったかのようになり、不死薬を残し、月へ帰ってしまった。
 作者不明、成立年不明の竹取物語は、その主人公、かぐや姫の正体までもが不明です。たった三ヵ月程で大人へと育ったことや、月へと帰るという描写から宇宙人説も。その他にも無理やり連れ去ろうとすると一時的に影のようになってしまったり、月の使徒はただその姿を現すだけで相手の戦意を喪失させたりと、少なくとも人間ではありませんね。日本最古のSFとも言われるのも納得です。
 また竹取物語には二つのアイテムが登場します。一つは天の羽衣、もう一つは不死の薬です。天の羽衣に関しては着ると感情をなくすという説明があり、不死の薬に関しては地上の穢れを清めるものとの説明があります。命の終わり、死の概念こそが月人にとっては穢れであり、また感情も不要なものというのが月人の価値観なのでしょう。そうしますと、竹取物語一番の謎が明らかになってくるかもしれません。一番の謎、つまりかぐや姫は罪を犯したがために地上に落とされたわけですが、その罪とは何だったのかということです。
 ところで今回新たに出てきた月人の持つ不死薬ですが、これはお菓子の家の魔女が作った不死薬とは違い、もっとずっとクリーンなものです。単に寿命を延ばし老いを止めるもの。摂取し続けなければいずれ効力はなくなってしまいますが、生命をゾンビ化させるようなものではありませんし、死んだ者を蘇生させることもできません。逆にお菓子の家の魔女の不死薬はそれはそれは歪で恐ろしいもの。それ故に世界の原則、不死の非存在に綻びを生じさせ、非存在の証明装置たるかぐや姫の心に影響を与えたのです。
 蛇足ですが、最後にかぐや姫が頭中将に帝宛ての不死薬を渡したとのは、不死の非存在の綻びを少しでも広げるためでした。月人の不死薬ではそんなことにはならないのですが、かぐや姫はそれを知らなかったので。まぁ、せっかく得た感情を失いたくなかったのです。たとえ世界が滅んでしまうとしても。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ラプンツェル【邪魔な人】

 墓場に来たるは天使か悪魔か。

 墓場に来たりて何をする。

 つゆ知らず、朝のさえずり。

 乙女は金の糸をひく。

.

「ノヂシャがたくさん咲いているのは嬉しいけれど、こんな場所ではあまり仲良く出来なさそう」

 墓場でノヂシャを摘みながら、一人呟く、ラプンツェル。摘んだノヂシャは藁の籠へ。もうすでに籠はノヂシャで溢れんばかりだ。

「あら、これもそう?」

 地に手を伸ばす。土から覗く、それに、白い指が触れる。その瞬間、褐色の手に指が掴まれた。

「んぎぃえええ!?」

 ラプンツェルは純潔の叫びを上げ手を引いた。しかし、褐色の手は離れない。土から伸びるその手は、凄まじい力でラプンツェルの指を掴み込んでいた。

「なに!? えなに!? 放して!」

 ラプンツェルが手を引くほど、褐色の腕がずるずると土から伸び出して来る。ラプンツェルは掴まれた指を土の高さまで下げ、褐色の腕を踏みつけた。

「放して放して放して!」

 褐色の手が白い指から離れ、くたっと動かなくなる。ラプンツェルは籠から零れるノヂシャを気にもせず、後ずさりし、褐色の手を凝視した……手が動き出す。何かを探すように。そして周囲の土が盛り上がり、それは姿を現した。

「くそっ! いったいじゃないのさ! 信じらんない!」

 土から現れた美女は悪態をつき、頭を振る。髪から土が舞い、辺りに点を撒いていった。

「ゾ、ゾンビ!?」

「ゾンビが喋るかばぁか」

「でもあなた、死んでるわ!」

「あたしはシンデレラだよ。ほら」

 土まみれの美女が墓石を指差す。そこには確かに、シンデレラと名が刻まれていた。

「シンデルワじゃないよ田舎娘が。シンデレラだ。けどそれ以外思い出せない。クソ」

 好き放題ラプンツェルを罵倒し、頭を抱える。そんな彼女を見つめるラプンツェルの無垢な瞳には、ある種の冷静さが戻ってきていた。ラプンツェルにとって世界はとてもシンプルで、それはそういうものだから、いくら暴言を吐かれたとしても苛立ちはなく、むしろそうであるなら、通常の対処を取ればいい。異常事態を正常に対処する準備がすぐにできた。彼女にとっての正常な対処、だが。

「死者は眠りにつかないと。それにあなたは女の人だし……仲良くできないわ」

 ラプンツェルはそう言っておもむろに、辺りをきょろきょろとしだす。

「はぁ?……あ、一つ思い出した。あたしが出会う女はみんな頭がおかしいんだ。あんたもきっとそうだね。会話できないタイプ」

「あった」

 ラプンツェルがしゃがみ、崩れた墓の塊を手に取った。土をパラパラと払い落とし、両手で持ち上げる。

「ちょいちょいちょいちょい」

 しばらくぶりに陽の下に出たシンデレラを、再び、重い影が覆う。

「おやすみなさい、永遠に」

 グシャリ。人の頭蓋の内側が潰れ、外に漏れ跳ぶ音がした。

「墓場に出会いを求めるのは間違っているって、誰か言っていたけれど。本当ね。お別れにはいいけれど」

 ラプンツェルは一人、クスっと笑い、一旦地に置いていた籠を手に取る。そして墓場に背を向け去ろうとした、その時だった。

「お嬢さん、コンバージョンチェックをお忘れではないかい?」

 ラプンツェルの耳元を弓矢が過ぎていった。

「うぐぁっ」

 短い断末魔の叫びに背後を向くと、始末したはずのシンデレラがよろけ倒れていく。いつの間に土から完全に外に出ていたのか。それに、確かに殺したはず。ラプンツェルは若干困惑し、しかしその困惑はすぐに消え去ることとなる。

「今トレンドの不死者だよ」

 ラプンツェルのすぐ隣に、いつの間にやら長身の男性が立っていた。白と青のアラビアン風の着物に身を包み、手にはなんと、黄金のクロスボウを握っている、が、ラプンツェルの視線は男の露出された腹筋に向いていた。

「けれど確かに、この辺りのロケーションではナレッジシェアリングも厳しいか。簡単にサマるとだね、不死薬をリソースに絡ませることでベネフィットを上げていたクラブがあったんだが、最近プランナーが変わってね。不死薬それ自体をプロダクトにしてしまったんだ。しかしこれというのが、本来の不死薬をダウンリバイズしたものでね。それがデファクトスタンダードになってしまったものだから、さっきのように、急に襲ってくる不死者があちこちにいるのさ」

「そうなんですね。助けてくださって、本当に優しい、素敵な人です。素敵なものもお持ちで」

「これかい? これは僕の持つアセットの一つでね。もちろん本物のゴールドさ。欲しければあげるよ」

「いえ、その武器ではなく、その」

「おっと」

 男が黄金のクロスボウを撃つと、放たれた矢は今まさに起き上がろうとしていたシンデレラの胸を突き貫いた。

「なかなかタフな不死者だ」

「あの、もしよろしければ、わたしと仲良くしてくれませんか?」

「仲良く? アグリー。もちろんだ。ちょうど僕も今、君にアライアンスパートナーになってはもらえないかと考えていたところさ。僕は金を、君は情報を。分かりやすいだろ?」

「あ、いえ、お金は要りません。わたしはただあなたと」

「うんうん、いいよ。金があるイコール大抵のイシューは解決さ。それでだね、君はここら辺をベースにしているんだろう?」

「ええ、はい」

「そうか、よかった。ならディスクロージャーして欲しい。この辺りに墓場はここだけかい?」

「たぶん……ええ、たぶんそうです」

「よしよし。そしたらね、僕はシンデレラという人の墓を探しているんだが、知らないかな?」

「……知っています」

「おお!」

「というより、さっきあなたが撃ったのがシンデレラという人かと」

「なんだって!?」

 男はその自信に満ちた表情を一瞬の内に青く染めると、クロスボウを落とし自身で射貫いたシンデレラに歩み寄った。

「ああなんてことだ。アジャイルしなくては。大丈夫かい、お嬢さん」

 跪き、シンデレラの背を支える。

「ううぅ」

 シンデレラは苦しそうに顔を歪ませている。それを男の後ろから覗き込むラプンツェルは、つまらなそうに眉をひそめていた。

「あのぉ、その人ゾンビですよ? それよりわたしと仲良くしません?」

「なんだよくそ、頭いてぇ」

 シンデレラが手を頭にやる。するとその手が、何かぐにゃりとしたものに触れた。

「うあ、なにこれ……嘘、脳味噌、漏れてんじゃん」

 さすがのシンデレラもゾッとした表情を浮かべる。しかし言葉を発したことで、男の顔には若干の安堵が現れていた。

「きみ、シンデレラ、ちょっと教えて欲しいことがあるんだ」

「あぁ? あ……なんだよ色男」

「不死薬の入手ルートさ。きみがクラブで使っていたものだ。それの入手ルートを教えて欲しい」

「不死薬? なんだそれ、知らないねぇ」

「知らないわけないだろ! きみはそれで不死なんだし!」

「知らないもんは知らないんだよ。その記憶、今漏れたのに詰まってたんじゃないの?」

「そ……そうか。なら食え! まだ間に合うかもしれない!」

「やだよ気持ち悪い。はぁ!? あたしんのだぞ気持ち悪りぃわけねぇだろ!」

「いいから食べるんだ! いや、それより世界一の医者を雇って記憶を復活させるか!? そうだシンデレラ! それを食べてはいけない!」

「食べるかバカ!」

 ズガンッ! とシンデレラが頭から吹っ飛ぶ。男はあんぐりと口を開け、その横にラプンツェルの脚が立つ。そして無言のまま、ラプンツェルはクロスボウでシンデレラを乱れ撃つ。

「何を……やめるんだ! やめてくれ!」

「やめる? 何をです?」

 ラプンツェルは何食わぬ顔で尋ねつつ、止めの一撃を放った。

「彼女を撃つのをさ! 不死薬の情報が必要なんだ!」

「ですが何も覚えていないと、言っていましたし」

「そうだが!」

「そんなに怖いお顔、いけませんよ。男の人は優しいお顔をしていませんと。それに不死薬ならわたしの家にもありますし」

「いやそういう問題では……今なんて?」

「ですから、不死薬ならわたしの家にもありますよ。死ななくなる薬のことですよね?」

「ああ……ああそうさ! きみの家に? 本当に? 誰から買ったんだい?」

「ふふ、今のお顔の方が良いですよ。買ったと言いますか、わたしの家で作られていたみたいで。前に住んでいた人が作っていたみたいなんです」

「それは……是非、きみの家に招待してもらえないかな。金ならいくらでも払おう」

「お金なんていりませんよ。ただ仲良くしてくだされば、不死薬もお好きなだけ差し上げます」

「まさかそんな。けど、しかし、ああ、なんてありがたい。僕の名前はアラジン」

「わたしはラプンツェルです。さぁ、行きましょう、わたしの家へ。塔へ」

「ああ。よろしく頼むよ。礼は必ずする。欲しいものなんでも用意しよう」

「ふふ。ただ仲良くしてくれるだけで良いですから」

 微笑む二人。しかしこの二人の価値観は、酷く違っている。一方はそのことに気付かず、また一方は、そのことに気付くことから目を背けていた。異物を挟み込んだままの歯車が、ガタガタと歪み回り出す。異物はやがて歯車を壊し、全てを崩壊させるだろう。

.

 機械仕掛けの黄金象が、鬱蒼とした森を進む。どんな黄金もしかし、それを照らす明かりがなければ、何の価値も見出されはしない。絢爛豪華な装飾も、ただ囚人の足枷のように、冷たい森に響くだけだった。

「きみのベースはこっちでいいんだね?」

 黄金象の背の上で、アラジンは後ろのラプンツェルに尋ねる。ラプンツェルはアラジンの背にぴとっと身体を寄せ、静かに揺られていた。

「はい。このまま真っ直ぐです」

「わかった。それじゃあそうだね、アイドルタイムを活用するとしよう。実は宮殿で、ある人が長い眠りについていてね。その人を目覚めさせるには正真正銘の不死薬が必要なのさ。だから僕はトラベルを決行することにした。不死薬を手に入れる為のね。ただ今や、情報も金で簡単に手に入る時代さ。さっきのシンデレラがやっていたクラブ、そこで不死薬を使っていたことはすぐに分かった。けどいざそこへ出向いてみると、実際には紛い物しかなくてね。以前には本当の不死薬が使われていた、それは間違いなかったけど、その入手ルートを知る者はシンデレラしかいないと言うから、アポを依頼したさ。はっ、で、笑っちゃうんだ。シンデレラはその国の王子様と結婚することになってたらしいんだけど、結婚前夜に何者かに殺されちゃったらしくてね。犯人は未だ見つからず、ただクラブ事業はレッドオーシャンだ。きっとそのあたりの輩だろうね。次期王妃お墨付きのクラブなんてあったら他はもう太刀打ちできないのは目に見えてる。むしろ潰されかねない。まぁそれで、それはいいんだ。僕は思ったわけだよ。殺された? 不死薬を使って事業を進めていた人間が? ナンセンスさ。シンデレラは絶対生きてる。だからシンデレラの墓を探して」

 ゴォギィィィィィ! と、お喋りなアラジンの口を塞いだその音は、巨木を一瞬の内に砕く雷のような響きを持っていた。アラジンはメデューサに睨みつけられたように固まり、黄金象もその歩みを止めている。動くものといえばただ一つ、森の深い天井のその先を追うように動く、ラプンツェルの青い瞳だけだった。

「……今の……音は?」

 しばらくしてようやく発せられたアラジンの声は、半ば擦れ、そして震えていた。

「ただの鳥ですよ」

「……嫌な鳴き声だ。あんな鳴き声は、知ら、知、ら、な……あ、くっ……」

 アラジンが頭を抱える。ラプンツェルは心配そうにアラジンの顔を覗き込み、そっと優しく、その頭を撫でた。

「大丈夫ですよ。わたしがいますから」

「う……うぅ……」

 風もないのに葉が舞い落ちていく。落ちた葉はすぐさま崩れ、土へと還る。この森は、全てを土へと返す。

 やがて再び動き出す黄金象に揺られて、二人はラプンツェルの塔へと向かった。

.

「ここが……きみの家なのかい?」

 黄金象の背の上で、アラジンは眼前にそびえる巨大な塔を見上げていた。想像していた塔とは違う。それは錆一つない滑らかな金属でできていて、鏡のように世界を反射していた。

「面白いんですよ。内側からだと、全面窓のように外がはっきりと見えるんです。さぁ、行きましょう」

「あ、ああ」

 ラプンツェルの手を引き、アラジンは金属の象から降りる。そうして改めて塔を見上げるも、それを塔と呼んでよいのか、いまいちわからなかった。というのもまず、窓がない。いや、それに関しては先ほどラプンツェルよりあった説明で理由はつくかもしれない。けれど窓だけでなく、扉すらなかった。いったいどうやって中へ入るというのだろう。

「入口がない、そう思っています?」

 ラプンツェルの見透かしたような微笑みに、アラジンは少し眉を上げ、塔の壁、そこに映る自分自身を見つめた。

「まぁね。けどこういった場合、必要なアクトは大抵決まったものさ」

「というと?」

「つまり……オープンセサミ!」

 辺りにシーンとした静けさが広がる。やがてラプンツェルのくすすという笑い声が静寂を破り、アラジンは肩を竦めた。

「でも、近いかもしれません。みんな! 籠を降ろして!」

 ラプンツェルが塔の上へ向かって叫ぶと、遥か上空から黄色い籠が降りてきた。籠の上には金の髪を束ねた縄が括り付けられ、それが塔の頂上近くまで伸びている。

「さぁ、こちらに」

 ラプンツェルに招かれアラジンが籠の中へ入ると、二人を乗せて、籠は上昇を始めた。地上がぐんぐんと遠くなり、空が近づいてくる。

「なるほど、ドラスティックなセキュリティーシステムだね。まさか入り口が上にあるとは」

「はい。わたしもそう思います」

 ガタン、と籠が停止し、頂上付近の扉が開かれる。するとそこには、金色の髪をした五人の少年達が待っていた。

「どうぞ中へ」

「ああ。こんにちは」

 アラジンがラプンツェルの塔へ入ると、中には更に十人を超えると思われる少年達がいた。その内の何人かが帰ってきたラプンツェルを見つけ、走り寄り抱き着く。ラプンツェルは少年達の頭を順に撫で、また抱き締め返していった。

「はは、子供達にとても懐かれているようだね。この子達は?」

「ええ、みんな素直で可愛い騎士様達です」

「うん」

 少し、質問の意を解さない返事が返ってきたが、アラジンは大して気には止めなかった。それより不死薬が欲しい。

「それで、不死薬だが」

「とりあえずお食事にしましょう。ザカリー、ノヂシャを料理してくれる?」

「喜んで! ラプンツェル」

 少年の一人が飛び跳ねるようにやってきてラプンツェルからノヂシャの入った籠を受け取っていく。

「ありがとう。今日もとっても良い子ね」

「明日もだよ!」

 ザカリー少年は手を振りながら塔の奥へと消えていった。

「さあみんな、お食事ですよ。配膳を手伝って」

「はーい!」

 少年達が元気に声を上げ、次いで部屋のあちらこちらから髪の縄が降ろされ飛び出し、そこら中から更に多数の少年達が溢れ出してきた。少年達はそれぞれが適切に手際良く動き、あっという間に巨大なテーブルを設置し、配膳を行い、料理を並べていく。ある種の魔法のように。気がつけばアラジンは席に座り、ラプンツェル他少年達も席についていた。最後にザカリー少年がラプンツェルの前にノヂシャのソテーを置き、ラプンツェルの隣の席につく。

「それではみんな、大地の恵みに感謝を。いただきます」

「いただきまーす!」

 少年達が元気に、笑顔で、料理にかぶりつく。

「いただきます」

 アラジンも表面上には微笑ましさを浮かべ、料理に手をつけた。

 賑やかで、華やかで、楽しげな食卓。皆笑っていた。アラジンは想う。こんな食卓はいつぶりだろう。いやそもそも、こんな楽しげな食卓の中に紛れたことはあっただろうかと。確かに無限の富で贅の限りを尽くした食事会を催し、数え切れない人々と食卓を囲んだことはあった。けれど違う。今ここにあるような心からの笑顔が、あの場所にはなかった。そうか、これが本当の幸せな食卓というものか……そう、思いかけていた。しかし、何か引っかかる。何か……おかしかった。

「ラプンツェル、ここにはきみ以外女の子はいないようだね?」

「騎士様には男の子しかなれませんから」

 ラプンツェルはにこやかに答える。その微笑みには一片の歪みもなく、けれど、アラジンは何か得体の知れない悪寒を覚えた。

「ラプンツェル、今日は誰と仲良くするの? そのかっこいい男の人? 僕達は?」

 食卓の奥から身を乗り出して、少年の一人が尋ね聞く。

「そうねぇ、アラジンさん次第かな」

「ふ〜ん。アラジンさん、独り占めはいけないよ。ここではみんなが平等なんだ」

「ああ、きみ達のラプンツェルお姉さんを盗ったりはしないよ。それに僕は不死薬を買いに来ただけさ」

 アラジンは穏やかに答えた。しかし……それまで賑やかだった少年達が一瞬の内に静まり返り、瞬きもせずに顔を向けている。

「ぅぐ、ぐす、ぐすん」

 すすり泣くその声に、隣を見ると、ラプンツェルが泣いていた。一体なぜ? アラジンは理由がわからない。

「ラプンツェル、どうしたんだい?」

「わたしと、仲良くしてくれないのですか?」

「いや、そんなことは」

「でも今、不死薬を買いに来ただけって」

「それはそうだろう」

 言葉を言い終えるや否や、衝撃と共にアラジンの視界は天井を見上げていた。天井、いや、扉がある。天井に扉が。よく見れば壁にテーブルが付いている。その意味を理解するより先に、アラジンの視界は闇に包まれた。




 ラプンツェル。あるところに夫婦がいた。妊娠した妻は妊婦に良いというノヂシャ(ラプンツェル)を食べたがり、夫は隣に住む魔法使いの庭からそれを盗んできてしまう。魔法使いは怒り、代償に産まれてくる子供を寄こすように言った。産まれた子はラプンツェルと名付けられ、魔法使いによって入り口のない高い塔に閉じ込められて魔法使い以外の人と接することなく育てられる。ラプンツェルは長く伸びた髪を垂らして魔法使いを家へと入れていたが、ある日それと同じ方法で、一人の王子を塔の中へ招き入れてしまった。ラプンツェルは王子との性行為に及び、初めて外の世界を知る。そうして夜毎王子と身体を重ねる度、ついに妊娠してしまう。そのことを知った魔法使いは怒り、ラプンツェルを荒野へと追放した。その後塔に来た王子はラプンツェルがいないことに絶望し塔から落下して失明する。失明をしたまま彷徨っていた王子はしかし、森の中でラプンツェルと彼女の二人の子供と出会い、ラプンツェルの涙によって視力を回復した。
 言うまでもないでしょうが、今回塔の中にいた少年達は皆ラプンツェルの子供達です。たくさん仲良くしたんですね。
 そしてまたまた登場をしたシンデレラ。人魚姫のお話で殺されていましたが、いえそれ以前にすでに舞踏会で死んでいましたので、殺されたという表現も適切ではありませんけどね。一時的に活動停止状態になっていた間にお墓に埋められてしまったのです。そうしてその間に、急にオーナーを失ったシンデレラのクラブは経営方針が変わりまして、不死薬それ自体を販売するようになったわけです。ただハーメルンはシンデレラにしか不死薬を提供しないので、薄めて作ったような紛い物の不死薬が世界に出回りまして、結果それが不死の非存在の綻びに拍車をかけ、非存在の証明装置たるかぐや姫の感情にまで影響を与えたのです。
 更にシンデレラに三度目の死を与えたアラジンが登場。セリフを考えるのがとても面倒くさい。彼についてはまた今度に明らかにしていきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

アラジン【囚われの虚】

 蛍光灯の明かりが点滅している。気がつくとアラジンは白いタイルの上に横たわっていた。周囲は硬い壁と、分厚い扉で閉ざされている。

「なんなんだいったい……」

 立ち上がろとして、ずたんっと床へ倒れ込む。見ると、足に枷がはめられていた。それが部屋隅のパイプ管に繋がれている。

「女王蜘蛛だ」

 男の声にアラジンがそちらを見ると、部屋の反対側に一人の男が、アラジンと同じように足枷をつけられパイプ管に繋がれていた。

「きみは?」

「おまえさ。数ヶ月前にここへ来たおまえだよ。いーや、実際は数日くらいしか経っちゃいないのかもわからないが。もしかしたら数年かもな……なんにせよ、だ。俺はあんたさ。あんたみたいに小洒落ちゃいないがね」

「なるほど」

 アラジンは男の身なりを観察し……服装と、髭の具合と。だいたい通常の髭の生え具合がどの程度かというのは服装でわかる。それで、この男はまぁ、一ヶ月はここに繋がれてはいないだろうが、三週間ほどはここで暮らしているだろうということは見当をつけた。

「けれどそれだけ喋れれば問題ないさ。しかしわからない。きみも不死薬を買いに来たのかい?」

「不死薬? なんだそりゃ。俺は蜂蜜を分けて貰いに来ただけさ。それが◯◯しろと言い寄られて、断ったらこのザマさ。俺には大切な女房がいるんだぜ。冗談じゃない。しかしこのままもう女房に会えないなんてのは、それこそ最悪ってやつさ」

「……なるほど。そういうことか」

 顎を摩る、アラジン……しばらくそうしていたかと思うと、指をパチンと鳴らし、何処からともなく黄金のランプを取り出した。ランプから青い煙が揺らぎ伸び、足枷の鍵穴へ吸い込まれていく。すぐにカチッと音がして、足枷が外れた。

「おいおいなんだそりゃ。俺の足枷も外してくれ」

「お安い御用さ」

 青い煙が今度は男の足枷へ伸びていき……カチッと、男の足を自由にした。

「おお、ありがてえ! 助かったよあんた!」

「気にすることないさ。お安い御用、なんだからね。当然扉を開けるのもお安い御用だが、僕は不死薬が欲しい。きみ、心当たりはないかい? 金なら弾もうじゃないか」

「なんて? あんたもしかしてどこかの王族のお方かい?」

「まぁ、そんなところさ。どうだい?」

「不死薬か。それについちゃ、さっきあんたの口から聞いたばかりだけどね。俺ぁ、あの女王蜘蛛に言い寄られて、それで逃げたのさ。下の階へ下の階へ。そんでもって、声を聞いたぜ。来るな。これ以上近づくな。近づいてはいけない、って。聞いたのかわからないが。頭に直接話かけられてるような、そんな感じでもあった。下の方の階にはなんかしらありそうだね」

「グッド。なかなかバリューある情報だ。いくら欲しい?」

 アラジンの掌から、金貨がジャラジャラと溢れ出す。

「おお!? おお! おおお???」

 男は困惑と喜びの入り混じった表情で金貨の滝に手を差し出し、金貨を受け取るが、とても持ちきれない。次次と溢れこぼれ落ちていく。

「あああ、なんてことだ。あんたはガネーシャ様かい? ああ、なんてことだ。なんてことだ」

「いやいや、お安い御用さ。これもね。それよりきみ、ファシリテーターになってくれると助かるんだが、アクセプトしてはくれないかい? きみが進んだ場所まででいいさ」

「もちろんでさぁ! しかしこれ、全然持って帰れやせんよ」

「なら置いていけばいい。金ならあとでまた、欲しいだけきみにあげよう」

「あぁなんてことだ。ガネーシャ様だ。わかりやした! お任せください。お連れします」

 アラジンはスマートに微笑む。ランプから伸びる青い煙は重い扉の鍵穴へと伸び、いとも容易く、二人の男を解放した。

.

 男の後ろについて、アラジンは暗い塔の内部を、壁に沿ってどこまでも降りていく。壁の反対側は、そこの見えない巨大な空洞。明かりさえあれば。けれど、どうやら外は夜になっているらしい。外が透ける壁、とはいえ、夜では意味がない。塔の中へは星の輝きだけが届き、ただそれが逆に、足場の不確かさを知らせていた。気を抜けば星間へ、何処までも落ちていきそうになる。

「アラジンさん、どうもこの塔は、本来の向きじゃない。わかりますかい?」

「ああ、なんとなくね」

 アラジンの手が壁の窪みに触れ……その窪みの内側は半球状になっていて、機能はしていないが、おそらく照明かと思われる。

「横だろう、本来は」

「そうでさ。本来は横向きのもんが、どうしてか縦になって、地面に突き刺さってんでさ。で、ほらここなんか、気をつけてくださいや。段が一個落っこちてら」

 男が段の崩れた箇所を飛び越え、アラジンもまた、注意深く飛び越えていく。

「何かアクシデントが起こったのか。とすれば、うん、元の住人は皆死んでしまったかな。それでラプンツェルと子供達が住みだしたと、そんなところだろう」

「俺ぁ、住みだした、のはあの女王蜘蛛だけだと思いますけどね」

「というと?」

「見ませんでしたかい? あのガキ供、皆女王蜘蛛そっくりの金髪だぜ。つまり……」

「まさか。ラプンツェルの健康状態は見た感じ、極めて良好だ。もしきみの言う通りなら、あれはあり得ない。それに人間の成長速度を考えたって」

「俺もずっとそれが疑問でしたさ。けど、もしアラジンさんが話してたような薬があるなら、あるいは……」

「……女の子達はどうした」

 その時、突風が吹き上がってきた。

「うおっ!」

 男がバランスを崩し、よろける。するとそのポケットから、バラバラと金貨がこぼれ落ちた。

「ああ俺の金が!」

 金貨へ手を伸ばす。そこへ更に突風が。

「うおっ、つ、ああああ!」

 男はあっという間に、高く高く巻き上げられ……消えてしまった。

「あんな端金のために」

 そうとだけ呟いて、アラジンはまた壁沿いの階段を下りだした。

.

 階段を降りきると、そこから先はただ巨大な穴になっていた。穴の中では金色の粉が舞い、やはり、底は見えない。そして、声が聴こえる。

「卑しき者よ。それ以上近づくこと身分に違う行なれば、すぐに去り、また戻るべきでなし」

 なるほど。アラジンは男が言っていた意味を理解する。確かにそれは脳に直接語り掛けられるような感覚で、あるいは、脳の指令を書き換えられるような感覚だった。しかし……アラジンの心を動かせるものは、ただ一つしかない。

「卑しいなんて言われたのは、いつぶりだろうか。懐かしささえある」

 ポンッと魔法のランプが飛び出し、くるくると回転する。ランプの口から金銀財宝が溢れ、それはアラジンの足元から下へ、下へ、財の階段を造り上げていく。

「必ず持ち帰るさ。僕は。このランプを手に入れた時と変わらない」

 アラジンの足が財の階段へ、伸びる。そして深闇へ。闇の底には、過去と真実がある。

.

 底へ着いた。輝きが舞っている。辺りには無数の壺が。アラジンは壺の一つに歩み寄り、そっと蓋を開けた。中には輝く金の粒子が、ぎっしりと詰まっている。

「ついに見つけた……」

 金の粒子を手で掬い、一舐め。それは砂糖のような甘さで、シルクのような舌触りを伝えた。

「どなたか、いらっしゃるのですか?」

 女の声がした。ラプンツェルの声ではない。

「あの女性とは違う気配。あぁ、わたくしをここから出してはくれませんか?」

 アラジンは壺を片腕に抱え、声の方へと歩み寄る。そこには黒い、流線形の繭があった。そっと、繭に指を触れる。すると触れた場所から繭は金色に輝きだし、中にいるその人を、映し出した。

「きみは」

 突如、アラームが鳴り出す。輝く粒子によって仄かに照らされていた空間が、赤い点滅に包まれる。空間の隅で、何か、巨大なものが目を開く。

「ああ、やっぱり。お願いです。あれを倒して、わたくしをここから連れ出してください」

「あれ? あれって」

 ドオォォン!! と、何かが壁を叩いた。アラーム音が止み、しかし空間は赤く照らされたまま。巨大な何かが起き上がり、上を向く。そして。

「ゴォギィィィィィ!!」

 空間を揺らし、引き裂き、歪める咆哮が、アラジンの身体を圧殺するように響き渡った。

「う」

 壺が地に落ち割れ砕かれる。アラジンは目を見開き、歯を食いしばる。しかしその心の中では、苦悶と憎悪で絶叫していた。彼は知っている。この咆哮を。その、絶対的な権能を。

「おまえは…」

 アラジンは睨み付ける。赤く染まった空間の中、その瞳の先には、巨大な猛獣、怪鳥ルフの姿があった。ルフの雷のような目がアラジンを捕らえ、その存在を、圧し潰すように見据え抜く。

「おまえは、いつぞやの間抜けな王子か……男とは珍しい。あの娘が男を我に献上するとは。どういう訳だ……まぁいい。姫と同じように我の血肉となるが良い」

 怪鳥ルフが巨大な翼を広げ、空間を覆い囲む。アラジンはランプを握り締めると、その内より黄金の槍を抜き出し、怪鳥ルフを見据え、構えた。

「おまえなどに食われるか。それに、姫は宮殿で床に伏しているだけ! 不死薬さえあれば」

「不死薬など意味はない。もう跡形もなく消化したわ。何を記憶におかしなことを言う」

「うるさい! 嘘をつくな! 姫は不死薬さえあればまだ! 不死薬を全て買う! 金があるのだから! ラプンツェル! ここにある不死薬全て僕が買うぞ! 金ならいくらでもあげよう! だから不死薬を」

 グラグラと揺れ乱れるアラジンの瞳を見つめ、怪鳥ルフはふっと笑いを漏らす。

「憐れだ」

 ルフが巨翼を振り、無数の羽刃がアラジンを襲う。アラジンは槍を振り、宙を舞い、羽刃を払い落とした。地に足が触れると同時に槍の柄含む三本の足で地を蹴り、ルフに突進を試みる。

「ゴォギィィィィィ!!」

 ルフの咆哮が突風のようにアラジンの猛進を阻む。しかし完全に勢いを治めるより先に、アラジンの背後には魔法のランプが、その口から無限の財宝を吐き出し、アラジンの背を押した。

「おおおおおおおお!!」

 際限のない富に背を押され、アラジンは突き進む。

「無駄だ!」

 ルフは翼を閉じ、自らの身体を硬く覆った。湧き出す財貨がアラジンを囲み、それは一本の、巨大な宝物の槍となる。槍は回転し、ルフの翼へ突き立てられた。巨大な翼を抉り飛ばし、ルフの懐へ、至る。

「ゴォガィィィィィ!!」

「姫! 姫えええええええええ!!」

 財が懐を空へと還す……。

 やがて、血に染まった財宝が轟音を立て地に落ちると、怪鳥ルフもまた地に崩れ倒れた。

「やった……」

 アラジンは黄金の槍を手に、繭へと近づく。

「あぁ、なんて強い人。どうかわたくしを、外へ」

「ああ」

 アラジンは槍を振り、繭を切り裂いた。槍を捨て、繭の中へ手を。かぐや姫を抱え出し、そっと微笑む。

「姫、僕は君を助け出した。君は僕の姫だ。何が欲しい? 欲しいものなんでも、君に捧げよう。無限の金も、珍しい財宝も、このランプさえあれば、全てを君にあげられる。さあ、何が欲しい? 欲しいものを言ってくれ」

 かぐや姫は微笑む。そうしてまた、けっして理解し合うことのない二人が、出会った。




 アラジンと魔法のランプ。前中略。姫と結婚をしたアラジンは、しかしなかなか子宝に恵まれない。すると聖女がルフ鳥の卵を天井へ吊るすとご利益があるというので、アラジンはランプの魔人にルフ鳥の卵を持ってくるよう命令した。しかしこの言葉に、ランプの魔人は激怒する。ルフ鳥はランプの魔人の大主人であるとのことで、更には聖女は偽物で、その正体は毒殺した悪い魔法使いの弟だと告げる。アラジンと姫は危うく生まれてくるルフ鳥に襲い殺されるところだった。アラジンは魔法使いの弟を剣で刺し殺し、二人はようやく真の平和な暮らしを得るのだった。
 アラジンがランプの魔人の忠告を聞かなかったら、あるいは自らルフ鳥の卵を取りに行っていたらどうなっていたか。これはそのifのストーリーです。アラジンと姫、二人の部屋の天井で、ルフ鳥は卵から生まれ、姫を食い殺しました。アラジンはその事実を受け入れられず、姫は病気で床に伏しているだけ、不死薬さえあればまた元気になる、そう思い込んでいます。真実から目を反らし続ける彼は、魔法のランプが生み出す財にすがり、金さえあれば不可能はない、不死薬も買えるし、姫も助けられる、と考えます。死者を蘇らせることすらできるほどに、金は絶対のものでなければならない。完全に思考の方向が逆転してしまったのでした。そうして最後には姫の顔すら思い出すことを拒絶し、ルフ鳥から助けたかぐや姫を自分が愛した姫だと思い込むのです。
 前回に引き続き舞台はラプンツェルの塔、いえ、かぐや姫等月人の宇宙船でした。不死の非存在の綻びを消し去るため、お菓子の家の魔女が作った不死薬ごと地上を焼却しようとする月人の目論見を、かぐや姫はただ自身の感情の保持の為、阻止せんと宇宙船を落下させたのです。その途中月人達の抵抗によりかぐや姫は捉えられますが、宇宙船の落下は止められず、地上に垂直に突き刺さります。その衝撃で月人達はかぐや姫を除いて皆肉体を失い、うっすらとした思念のみの存在となりました。思念体となった月人達はルフ鳥を呼び寄せ、捉えたかぐや姫の監視者とします。ただルフ鳥は捧げものを求め、それ故に月人達は森を彷徨っていたラプンツェルを呼び寄せました。育ての親の魔法使いから塔を追い出されたラプンツェルは、男の子と女の子の双子を連れていました。ルフ鳥は双子の内いずれかを捧げものとすることを要求します。ラプンツェルは困り果て泣き崩れますが、その時女の子の顔が、自身を長い時塔に閉じ込め続けた魔法使いに見えたのです。ラプンツェルは女の子を捧げものとし、同時にその心は何処か狂ってしまいました。ルフ鳥はそんなラプンツェルを気に入り、月人の不死薬を渡し、塔に住むように言います。月人達もまたルフ鳥に協力し、ラプンツェルの思考をこの塔、突き刺さった宇宙船に住むのが一番いいと思うように書き換えました。それからというもの、ラプンツェルは男の人を誘い込んでは性交渉を行い、子供を産むようになります。男の子は新たな家族となり、女の子は皆ルフ鳥の捧げものにされていきました。月人の不死薬の効力によりすくすくと育ち、また一定のところまで育つと老いることなく生き続けるラプンツェルの子供達。彼等はやがて、思念体となった月人達の新たな肉体となることでしょう。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

いばら姫【夢は天使の輪を漕ぐ空の枝】

 怖い夢。それはきっと怖い夢。だからもうひと眠り。それでいつも、元通り。

.

 ふわぁ~。誰かが言い争ってて、起きちゃった。微かに目を開けて、見えたのはパパと、あれは確か、担当の先生。私の眠り病について、何か話してる……パパの、怒鳴り声。いつもは優しいパパなのに。私の為に怒ってるのはわかるけど、その先生は悪くない。悪いのは私だよ? でも、眠くて眠くて……きっと次に目を覚ましたら、またやさしいパパに戻ってる。そうだよね?

 心地良い日差しと、涼しい病室。魂が眠りに落ちていく。

.

 喉の渇きに瞼を開く。砂漠を歩いてた。うん、夢の中で……人々の悲しい目を憶えてる。

 日差しの中で、白い、看護師さんが点滴を変えていた。本当に真っ白、なんてわけじゃなかったけど、雰囲気というか、持っている空気が、白い静けさを持っていたの。

 看護師さんが私の覚醒に気付き、側に、身を屈める。私は視線だけ、看護師さんに向けて……あぁ、眠い。

「まだ眠らないで。私の質問に答えて欲しい」

 とても静かな声で、私のまどろみの中に溶け込むような、けれど、私のまどろみの奥で響くような、何か強い意志のこもった、声で。私の瞼はまた少し、開きなおした。

「ありがとう。でも時間は限られている。だから……率直に、聞く。私があなたを殺すことを、あなたは望むか?」

 何を、言っているの? 始め、そう思った。けれど、彼女の悲しげな瞳が、言葉以上に多くを物語っている。私は、パパとママを、悲しませてる。悲しみの茨の中に、閉じ込めてる。それはいけないこと、だけど、考えても仕方ないから、ずっと考えないでいた。でも……看護師さんはそのことを言ってる。そんな選択肢、急に言われても。それに、私はどうせ死ぬ。なのにわざわざ、どうして? そんなに辛そうな眼をしているのに。

「わからない」

 意識が溶けていく。私は逃げてしまったんだと思う。彼女の悲しみに対する疑問を、質問の答えに替えて。怠惰の腕が泥のように、私を眠りの沼へと引き摺り込む。待ってくれと、遠く聴こえた……。

.

 冷たい風が私を起こす。夜だった。カーテンがはためいてる。窓が全開に……違う。窓は大きく、割れている。明かりがない。窓の外も、見える範囲だと、月明かりしかない。何? 何か普通じゃないことが、起こってる。誰か……。

 そのとき、外から女の人の悲鳴が聴こえた。次いで聴いたことのない唸り声と、何かが街を駆ける音。何? 考えたくない。きっとこれは怖い夢。そうに決まってる。

 沈む意識の中、廊下を疾駆し近づいてくる何かの音が耳に届く。それは決して人ではない、何か恐ろしいもの。最後に見えたのは病室の入口にかけられた、大きな黒い、尖った手だった。

.

 金色に輝く粉が舞っている。重い門の開く音が聴こえた気がして、瞼を開いた、私、を、金色の粉が包み込んでいた。黄昏色に染まった病室を、金色の粉が舞っている。病室の壁は罅割れ、ベッドの囲いは破れ落ちている。

 ゴゴオオオオォギギィギギギギィギィギギ。巨大な門が開くような音。窓の外を見ると、空が、鈍く赤い雲に覆われていた。世界がその色に染まっている。そして遠く、蠢くものがある。巨大な、人の形をした、何か。それが一体、二体、三体。街を踏みつぶしている。世界を終わらせている。

「怖い、夢……」

 まどろみに、身を任せて。目覚めれば全て元通り。

.

 目を覚ました時、いつも初めに視界に入るものが、なくて。あれ? 天井がなくなってる。代わりに灰色の空が見える。病室は、もう部屋とは言えない惨状。何もかもが崩れ落ちて、窓、のあった方を見ると、街は瓦礫の原。ところどころ、巨大な不発弾が突き刺さってる。きっと、あの巨人か何かを、倒そうとしたんだね。それで全部壊れちゃった。私だけを除いて。

 ゴォオオオっと、地響き。何か、大きなものが私の上を通過していく。でもそれは目には見えない。存在しない、存在。だから形のない概念も、踏み砕かれていく。あーあ。

 でも、これはこれで、もう何も心配しなくていいんだ。死ぬまで眠っていられる。ふわぁ~。お外で寝るのも悪くない、ね。最後の破壊を聴きながら、私は夢の中。ふわふわと、舞い落ちる。

.

 変な感じ。浮かんでいく。おふとん、おふとんだけは、ちゃんと掴んでおかないと。この際ベッドは、諦める。ああ、本当に、浮かんでいくみたい。空はもう何処かへ飛んでいっちゃった。

 暗い、宇宙へ、みんな吸い込まれて、ゆっくり浮かんでいく。あれは、ママがくれたクマの人形。ふわふわ、星に向かって浮いていく。あっちは一度だけ使った車椅子。ふわふわ。もう車輪は必要ない。救急車や、病院の中庭、みんなふわふわ浮いていく。

 割れた大地の大船団。だけど何処へも行きつかない。だってここが終点だから。

 きらきらお星さまを眺めながら、ふぁ~、ちょっと手を伸ばしてみる。掴めそう。ふふ。ふぁ~。静かな暗闇と、遠い星達が、私の意識を吸い込んでいく。吸い込んで、その先の夢へ。いいよ。私は目を閉じて、全てを無限の空間に委ねた。

.

 どうなっちゃったの? 気付くと生まれる前の赤ちゃんみたいに、身体を丸めてて、あぁ、全然動けないや。オーロラみたいな、無限の色と光の中を流れてる。それか、流れているのは私以外、その全て。悲しくて涙が溢れだす。よくやったね。全ての子達にそう伝えたい。長くて短かった。醜くて愛おしかった。かつて必死に生命を燃やしてきた無数のそれらが時間の先で無限の中で線になって映し出されてここに収束する果て無き点。そう、未来の終わりで過去の全てが収束していく。全ては今起きていた。時間を失ったこの一瞬にも満たない虚空の中で。唐突にオーロラは消え去る。

.

 炸裂する。爆発する。空間の広がりと共に外縁に引きずられていく。一瞬を認識する手前で闇へ、放り出される。到底起こり得るはずのない衝突が無数に繰り広げられていく。音のない世界で、覚醒の騒音が、生まれたばかりの空間を埋め尽くしていく。やめて。やめてやめてやめてやめてやめて!!

 音が生まれた。夢の大樹に突き落とされる。

.

 夢の大樹が芽を付ける。ッハ! 意識が、意識が芽吹いた。ずっと見ていた。微生物以前から始まるその歩みを。それを認識した。でもわからない。理解はできない。まだ私は存在の内側へと至っていないから。瞬きの中に荒れ狂う灼熱の海を見た。瞬きの中に原初の歩みと無慈悲な滅亡を見た。そして今、私は赤い岩肌を眺めてる。どこでもない、ここから。

 お猿さん達が輪になっていた。その中心に、眼鏡をかけた女の人がいる。女の人は木の枝を片手に、何か、話し、地に書いていた。お猿さんの内の一匹がそれに手を伸ばそうとして、ぴしゃりと手を叩かれて、頭を枝で小突かれる。ふふ。

 視界がぐらっと揺れ、回転していく。回転の中で火を囲み、お猿さん達が躍っていた。無数の風車が回り、電気を帯びていく。沼の泥がパイプ管を通って、そして、巨大な竈に火が灯る。瞳の中へ、瞳の中へ、瞳の中へ。世界が闇に包まれる。

.

「ううん、これではないわ。だって、このお面は、私よりも必要としている人がいるから」

 声がしていた。静かで、とても優しい声。眠りへ誘うような。でも、誰?

「他にお面はございませんか? 少女はそう言って、狐のお面を返しました。お面屋は」

 瞼を開き、視線を、声の方へ。白い女の人がベッドの傍らで、絵本を読んでいる。看護師さん?

「それなら、こっちのお面はいかが? きっとみんなも喜ぶよ。旅のお面屋はそう言って、セイウチのお面を取り出しました。少女はセイウチのお面を手に取ると」

「なんていうお話?」

 看護師さんが私を見て、悲しく微笑む。

「やっと起きたな」

 悲しい、でもとても優しい、微笑みだった。けど……看護師さんの顔は、とても人とは言えない、類人猿の顔をしていた。




 茨姫。とある国の王と王妃の間に王女が生まれ、盛大なパーティーが開かれた。しかし一人の魔女が招待されなかったことに怒り、王女に15歳になったら糸車の針に刺さって死ぬという呪いをかける。良い魔女はこの呪いを打ち消そうと願いを掛けるが、死ぬ代わりに100年の眠りにつくと、呪いを弱めることしかできなかった。そうして王女は15歳になったある日、糸車の針を指に刺して永い眠りについてしまう。呪いは黒い茨となって城全体を覆い、そこにいた全ての者も眠りに落としてしまった。100年後呪いは解け、ちょうどそこへ隣国の王子が通りかかる。王子が王女にキスをすると、王女と城の者達は目を覚まし、王子と王女は結婚して幸せに暮らした。
 不死という非存在、その綻びは暴走をした非存在の証明装置、かぐや姫の解放により確固たるものとなりました。世界の原則は崩れ、存在と非存在の境界は夢という現実と非現実の境界を通して崩壊していきます。ライブラリ世界のいばら姫と精神的連続性を持つ現実世界の園田糸織(15)は反復性過眠症(クライン・レビン症候群)を患っており、ほとんどの時間を夢の中で過ごしていました。誰よりも夢という非現実に近い存在。それ故に、世界の非現実・非存在は彼女の夢を通して現実世界へと流れ込み、現実・存在を侵食していきます。
 また睡眠は、ある種の時間加速機構であるでしょう。ほんの一時の夢を見る間に夜は過ぎまた朝が訪れています。100年の時も呪いを受けたいばら姫にすればほんの一瞬の時間。そうした主観的な時間間隔すら、現実と非現実の境界の崩壊は主観性と客観性の境界の崩壊として現出していきます。誰も何もわからないままに、世界は終わり、そしてまた始まりを迎え、また終わりへと疾駆していくのでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三匹の子豚【最後のおうち】

 世界が核の炎に包まれてまだ間もない頃、三匹の子豚は仲良く自家製シェルターで暮らしていました。そんなある日、シェルターを一匹の狼が訪れます。狼はシェルターのハッチを叩き、言いました。

「助けてくれ! また爆弾が降ってくる! やっと今まで生き延びてきたんだ! 今更死にたくない!」

 すると、ハッチの小窓から子豚の目が覗きます。そして言いました。

「狼さんは、良い狼さん? それとも悪い狼さん?」

「良い狼に決まってるさ! ほら、向こうの空から爆撃機の音が聞こえてきた! 早く中に入れておくれ!」

「そうなんだね。すぐ開けるよ」

 子豚がハッチを開け、狼はシェルターの中へ入りました。すぐさま閉めたハッチの外側で、地上が爆破されていきます。

「ああ助かった。ありがとう。本当にありがとう」

「どういたしまして。今ね、ごはんを食べてたの。狼さんはおなかは空いてない?」

「ごはん? あぁ、もう何日も食べてないよ。ここには食料があるのかい?」

「それはもうたっぷり! 良ければご馳走してあげる」

「それはありがたい。きみはまるで女神だね」

「うふふ。そんなことないよ。こっち」

 子豚はそして、階段を降り、狼をシェルターの奥、食卓へと導きました。食卓にはチキンの丸焼きやスパゲティ、大きなタルトケーキなど、たくさんのご馳走が並んでいます。

「すすごい! すごいご馳走だ!」

 数日間何も食べていなかった狼は歓喜の声を上げました。

「三人分だからね。ちょうどの量だよ」

「ここにはきみの他にも二人住んでいるのかい?」

「そうだよ。わたし達三姉妹、三つ子なの」

「そうなのか」

「さぁ狼さん、上着を脱いで」

「あぁ、悪いね、ありがとう」

 子豚が狼の上着を脱がしていき、それをハンガーラックに掛けました。ハンガーラックにはたくさんの、色とりどりの上着が掛けられています。

「随分お洒落さんなんだね。革ジャンとか、男物も着るんだ?」

「えへへ、そうじゃないよ。冬は冷えるからね。なんでもいいの。破れてない服なんて外じゃほとんど手に入らないから」

「あー、確かにね」

「さぁ、座って座って。ごはんを食べよ」

「いやいや、ありがたい、本当に」

 二人は向かい合い、席に着きました。

「遠慮しないで召し上がれ。わたしもおなかが空いちゃった」

「二人は待たないでいいのかい?」

「いいのいいの」

 そうして二人はご馳走を食べ始めました。空腹で空腹で仕方なかった狼は、それはそれはもう、無我夢中で。そうしてしばらくして顔を上げると、正面の席には先程とは異なる、ぽっちゃりとした子豚が座っていました。ご馳走をむしゃむしゃと食べています。

「あ、あれ、子豚さんは?」

「ほぶははん?」

 ぽっちゃり子豚は口の中に詰め込んでいたものを、ごっくん、と呑み込みます。

「子豚さん? 姉さんのこと?」

「あー、そうかな」

「今調味料を取りに行ってるよ。それより次の料理が来る前に全部食べちゃわないと」

 ぽっちゃり子豚はそう言って、またむしゃむしゃとご馳走を口の中へ入れていきました。

「まだ料理が出てくるのかい!?」

「もひ、も、ゴクンッ。もちろん! まだまだわたし達、うっ、全然食べたりないもん」

 子豚の口から一瞬、何か出ましたが、それはすぐに引っ込みました。

「たまげたなぁ。それにしてもこれだけの食糧、よく蓄えていたね」

「そうでもないよ。それより狼さんはどうやって、これまで生き延びてきたの?」

「まぁ、なんというか……助け合いの心に救われて、かな。親切な人にたくさん巡り合えてね。きみ達みたいな。それで食べ物を恵んでもらって、なんとかやってきたんだよ」

「ついてたんだね。うっ」

「大丈夫かい?」

「大丈夫! でもちょっと、っふふ、お花を摘みに行ってくるね」

 ぽっちゃり子豚はそして、少し恥ずかしそうに部屋を出ていきました。

「お花摘みか。爆弾にやられないといいけど」

 狼は一人、ジョークを言って笑みを漏らします。

 しばらくして、部屋の扉が開きました。やってきたのはぽっちゃり子豚、ではなく、痩せっぽっちの子豚でした。

「お邪魔してます」

 狼は席を立ち、礼儀正しく挨拶をしました。

「あ、お客さんね。こんにちは。ゆっくりしてってね。ごはんは足りてる?」

「はい! それはもう! あの、子豚さんは大丈夫ですか?」

「子豚さん?」

「ええ、今お花を摘みに行った」

「ああ、妹ね、一番下の。大丈夫、いつものことだから。はぁ~、おなかすいた」

 痩せぽち子豚が席に座り、狼も、再び席に座りました。

「いただきまーす」

 痩せぽち子豚が大きく口を開けて、フォークで丸い塊にしたスパゲティを、バクリ、バクリ。ご馳走の盛られた皿が次々と空になっていきます。

「それにしても気持ちのいい食いっぷりだねぇ」

「ほお?」

「ああなんとも。きみも、きみの妹二人も。見ていて気持ちがいいよ」

「ごくん。そんな風に言ってもらえたの初めて。狼さんももっと食べて」

「いや、俺はもう、充分ご馳走になったよ」

「あら、そう。意外」

「そうかい?」

「ええ」

「ところで、備蓄はまだしばらく大丈夫なのかい?」

「それは心配いらないよ。補充すればいいし、それも待っていればいいだけだから」

「というと?」

 そう聞き返したところで、狼は、不思議な感覚に捉われました。痩せぽち子豚が、始めに狼をシェルターに引き入れた子豚に見えてきたのです。

「そのままの意味だよ」

「そのまま?」

「丈夫なシェルターだからね」

 子豚がロールキャベツをフォークで刺し、口元へ。そのときキャベツの隙間から肉が落ち、狼の前へ転がりました。狼は肉を摘まみ上げようとして……手を止めます。その肉は、人間の指の形をしていました。

「んぎぃっ」

 狼がきりっとした感覚におなかを見ます。何か、棒状の機械が当たり、その先の刃が刺さっていました。機械の先がぐるぐると回転し、狼の肉と骨を粉砕していきます。

「んぐぃがががっががががが!」

「次の料理は何にしよ~?」

 子豚はうっとりと笑い、次の料理を考え始めました。




 三匹のこぶた。豚の一家は早くに父さん豚を亡くし、とても貧乏で、ある時ついに母さん豚は三匹の子豚を育てられなくなってしまう。母さん豚は三匹の子豚にそれぞれ一人で生きていくように言い、家から外に追い出した。一番上の子豚は手軽に藁の家を建て、真ん中の子豚は時間をかけて木の家を建て、一番下の子豚は時間と労力をかけ、レンガの家を建てた。そこへ狼がやってくる。狼はまず藁の家を吹き飛ばし、一番上の子豚を食い殺した。次に木の家を叩き壊し、真ん中の子豚も食い殺す。そしてレンガの家も壊そうとするが、レンガの家は丈夫で、決して壊れることはなかった。狼はあの手この手で一番下の子豚を外へおびき寄せ食らおうとするが、なかなかうまくいかない。終いには怒り出し、レンガの家の煙突から侵入を試みた。するとそのまま、火にくべられていた大鍋へ、ドボン。すぐさま大鍋には蓋がされ、一番下の子豚は狼を料理し、食べてしまった。めでたしめでたし。
 いばら姫の夢を通してあらゆる境界が崩壊する世界の中で、人々は戦争をしています。最早いつの時代の何と戦っているのかすらわかりません。時代はぐちゃぐちゃに溶け合い、目にしているものが人か怪物かすらわからない、そんな世界です。
 一匹の子豚はシェルターを建て、そこへ隠れ住んでいました。子豚には姉妹がいたかもしれません。ですがもう、心の中にしかいないのです。戦争に巻き込まれたか、あるいは敵に食べられてしまって。そこへ狼がやってきます。この狼は家々を訪ねては、そこの住人を食い、生き永らえていました。しかし子豚は狼よりも賢く、この危険な世界でシェルターを建て、餌が自ら集まってくるのを待つ、捕食者側だったのです。そうしてこの狼も、子豚の餌となってしまいました。弱肉強食の世界。ですがこの境界の崩壊した世界では、強者も間もなく滅びてしまうでしょう。世界の終わりはすぐそこまでやってきていました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

アリス【彼もしくは彼女の為のティーパーティー】

 覚醒は新たなモノガタリの始まり。私達にとってそれは最早、確認するまでもない日常だった。この断片化された存在を、今日もあの気味の悪い二体の人形に、好きなように弄ばれる。

「今度は、何」

 目覚めた私は椅子に、縄で縛り付けられていた。手も腰の後ろで拘束されている。そして、騒がしい。四角いテーブルを囲むようにして、右側では巨大な帽子を被った男が奇声を上げながらジャムをスプーンで飛ばし、左側では義眼の兎が重ね合わせた皿を咥えて唸りを上げていた。テーブルの上にはチーズケーキとティーポット、多過ぎるティーカップに、多過ぎる皿、その下に散らばった無数のフォークやスプーンやナイフ……食器が多過ぎる。

「アリス! 起きるんだアリス! いつまでも寝てるんじゃあない!」

 私は帽子男の方を一瞬見て、しかし彼は相変わらず奇声を上げているだけと気付いて義眼の兎の方を見た。

「こら! 早く起きないか!」

「……起きてるわ」

 兎が言葉を話すことに関しては、この世界では取り立てて言うことではない。

「どこが!? 証拠はあるんだろうね!?」

「え、なにこれ」

 手首を捻り、拘束を解こうとしてみる。けれど、私の両手を束縛する縄は、まるで外れそうにない。

「ダメだダメだダメだ! 足をテーブルの上に出しなさい! マナー違反だろうに!」

「足じゃなくて手でしょ? それに、手が縛られてて」

「失恋はぁ、マーブル模様のロケットキャンデー」

 帽子男が意味不明の言葉と共にジャムを飛ばし、壁の的に命中させた。そして私に顔を寄せ、歪んだ笑顔をこれでもかと、見せつけてくる。

「ロケットキャンデー、ロケットキャンデーどこ?」

 正面の席に小さな手が現れ、姿を現したのは小さなヤマネ。どうやら目が見えていないらしい。手探りで食器の山の上を、こちらへ近づいてくる。

「なるほど興味深い!」

 義眼の兎がヤマネの尻尾を掴み、ティーポットの中に閉じ込めた。

「お茶はいかが?」

 帽子男がヤマネの入ったティーポットを手に勧めてくる。

「結構です」

「まぁまぁ、そう言わずに」

 手近にあったティーカップに紅茶が注がれ、いや、注ぎ過ぎ、カップの外へ紅茶が漏れていく。

「あぁ~、庭園に隠れ咲く小さな薔薇よ。あなたにも一目見て欲しかったぁ~」

「それでそれで!?」

「箱に詰めたのさ。一枚ずつ、一枚ずつ」

「おお~なるほど!」

「熱っ!」

 太ももに紅茶が垂れ、思わず椅子を引いた。

「ああ失礼!」

 帽子男がフォークを私の顔目掛け突き出す。私は床を蹴り、避けたが、そのまま後方へ椅子ごと倒れてしまった。

「いっ」

 背中を痛みが突く。その時ふと目の端に映る、見慣れた影。見ると、低い鉢植えの中、半ば植物に埋もれ、半ば土に埋もれ、不気味な人形、ゴシック調の服を着た少年型のマリオネット、アンキの姿がそこにあった。けれど……何かおかしい。まるで本当にただの人形であるかのように、動かない。

「アリスが消えた! アリスが消えた!」

「なんと! すぐに芝刈り機を持ってこよう!」

「そうだそれだ!」

 帽子男が走り離れていく。まずい。この一人と一匹は、この狂った世界の中でも特に、狂っている。

「だから言ったんだ。誕生日でない日を祝うならともかく、誕生できなかった日を祝うなんて」

 なんとかして拘束を解かないと。机の上のナイフを……机に視線を動かしたところで、私はそれに気が付いた。天井に、巨大な人形、ロリータファッションの少女型マリオネット、ギシンが縛り付けられている。でもなんであんな大きさに?

「パーティをするときに一番大切なのは、誰を招待するかさ」

 アンキ同様、動かないギシン。でもそんなことはどうでもいい。実際どうでもいいし。

「来ない人を招待してもしょうがないもんね」

 くぐもったヤマネの声が聞こえる。私は脚を振り、テーブルを下から思いっきり蹴りつけた。

「ああう!? 何をするんだアリス!」

「見えてるんじゃない」

「見えてる!? まさか! でもこんなマナーの悪いことをするのはアリス、きみだけだ!」

「うるさい」

 再び思いっきり、机を蹴る。するとバラバラと、ナイフやフォークや、皿まで落ちてきた。脚にナイフが、フォークが、突き刺さる。

「うっ」

 痛い。でも、唇を噛み、痛みを堪え、脚を動かし、ナイフとフォークを振るい抜く。

「さあオソウジの時間だ!」

 帽子男の声。そして芝刈り機の音が聴こえてくる。

「芝刈りなのか掃除なのか、はっきりして」

 椅子ごと身体を動かし、後ろで結ばれた手を、可能な限り、伸ばす。

「もちろん死ばかりさ!」

 机の下に義眼の兎が顔を出す。届いた! ナイフを手に、縄に刃を、当て擦る。

「マナー! きみは本当にアリスがなってないよ!」

「逆でしょ」

 兎の顔を蹴り付け、切れた! 立ち上がり、ナイフを構える。義眼の兎が顔を抑え、帽子男が芝刈り機を手に近づいてくる。

「兎の穴でも通れるようにぃ、細切れにしてあげるよぉ~う?」

「誰もそんな場所通りたいなんて言ってない」

 ナイフが光を帯びる。何か、繋がった感覚がした……わかる。ライブラリと、繋がった。ナイフが剣へ変化し、魔力を帯びていく。

「なんて自分勝手な!」

 帽子男が芝刈り機をテーブルの上に乗せ、食器の破片にナイフにフォーク、あれやこれやを弾き飛ばしてくる。私はしゃがみ避け、噛みつこうとしてきた義眼の兎の喉にナイフを突き刺した。

「ひぎぇああああ!!」

「喉刺されて悲鳴上げるのおかしいでしょ」

「悲鳴が上がらない相手なら殺しても心は痛まないって?」

 帽子男が芝刈り機を振り上げる。今。帽子男の懐に飛び込み、その腹を、横一直線に切り裂いた。

「はぁ~、酷い娘だ」

 帽子男の裂けた腹から、薔薇の花弁が溢れ出す。なら義眼の兎は? 見れば、喉から義眼がゴロゴロと、転がり出ては床へ散らばっていく。帽子男と義眼の兎は、見る見るうちに縮んでいった。

「キシャー!」

 飛びかかってきたヤマネを真っ二つに。中からキャンディが溢れ、後には皮だけが残された。

「っハ! ここはドコ!? 私はギシン!」

「ッは、こコワっ、わワッ、口の中ニ土がっ」

 天井のギシンと鉢植えのアンキが目を覚ました。周囲の壁が崩れ、本に囲まれた、見慣れたライブラリ世界が浮かび上がっていく。

「なんだったの?」

「それハこっちガ聞きたいデス! アリスの世界ハ狂いスギ」

「我々ノ想定を上マワる狂気に、逆ニ支配されてシマったのデショう」

「デスがナイトメアは倒セタみたい。めでたシめでたシ!」

 最後にテーブルが消えると、後には数枚のバラの花弁と、兎の義眼が一つ、キャンディ一つだけが残された。本当に……狂い過ぎ。

「めでたシめでたシ!」

「めでたシめでたシ!」




 不思議の国のアリス。ある日アリスは兎を追い、深い穴へと落ちてしまう。大きくなって小さくなって、涙の海で溺れかけ、狂った住人達と意味のない問答を繰り返し、詩の朗読を強制され、まるでフェアーでないゲームに、初めから判決の決まった裁判。アリスは激怒し、気付けば川辺の木陰で横になっていた。
 物語の作者、ルイス・キャロルはオックスフォード大学で数学教師をしていました。アリスは同大学学寮長ヘンリー・ジョージ・リデルの娘です。嘘か真か、二人の間には密接な関りが。しかしある時を境に、彼とリデル家は完全に接触を断ってしまいました。
 シノアリスの登場人物アリスは現実編で高校に通い、教師と恋愛関係・不倫関係にあります。いえそれどころか子供まで身籠ってしまい、しかし教師には別れ話を持ち掛けられ、おなかの子諸共に自らの命を絶つことを考えるのです。
 いばら姫の夢を通して崩れ出した存在と非存在の境界、現実と非現実の境界は、現実世界とライブラリ世界の境界の崩壊として、また現実世界の精神とライブラリ世界の精神の境界の崩壊として現れだします。現実世界のアリスが身籠った子を小さな薔薇と例え、中絶手術について話す悪趣味な帽子屋と三月兎。このパーティは生まれてこれなかったおなかの子の誕生を祝うパーティであると、どうしてこんなに残酷で最悪なことを思いつくんでしょう。
 ともかくギシンとアンキもその活動に支障をきたす程の歪みが世界に溢れ出しています。アリスは原因究明の為、二体の人形と共に動き出すのでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スノウホワイト【正義の天秤】

 開け放たれた窓から雪が吹き込んでくる。雪は女王の部屋の床に落ちると、すぐさま白から赤へと変わっていった。私は真っ赤に焼けた鉄の剣を手離す。剣は床に落ち、音を響かせ、しかしその音は外の吹雪の中へと吸い込まれていった。

「母上……どうか安らかに。今のあなたは、元の、美しい母上です」

 そう……私は母の内の、悪を斬ったのだ。もう誰にも、母を魔女とは呼ばせない。きちんと埋葬も、執り行わせよう。

「……あとは、おまえだ……鏡」

 部屋の、大きな鏡を見やると、それは黒く輝き、じっと息を潜めているように見えた。

「まだ、私が一番美しいなどと、ほざくか」

 鏡に歩み寄る。

「私の身体は毒の締め紐で、もうこれ以上育たない。私の黒髪は御覧の通り、毒の櫛で、すっかり色が抜けてしまった。そしてもう、歌を唄うこともできない。毒の林檎がそれをした」

 鏡にこぶしをぶつけ、私は、その先の邪悪を見据えるように睨みつけた。

「全ておまえが母にやらせたことだ。言ってみろ。誰が一番美しい」

「……スノウホワイト、この世で最も正しいのは、そなただ」

「ふざけるな!」

 鏡を床に叩きつける。鏡は散り散りに割れ砕けると同時に、無数の叫びと悲鳴を上げた。

.

 瞼を開く。立ったまま一瞬、眠っていたらしい。足元のオークの死骸の山から剣を引き抜き、廃墟となった城、その天井の穴から差し込む明かりに顔を向け、重い瞼を閉じる……また隈が出来ているな。

 オークの死骸の山から、降りていく。こいつらの親は、紛うことなき悪だった。街を襲い、人々をいたぶり、殺し、食い、城を奪った……このオークの山は、その子供達だ。子供達は……人間をいたぶることはしていなかった。親を殺された復讐に、私を襲っただけだ。しかし……復讐は悪だ。正義の名の元に、切り伏せられる。どんなに……親想いの、子供達だとしても。

「……最悪だ」

「イエスッイエスッ、最悪最悪♪」

「イエスッイエスッ、最悪最悪♪」

 どこからともなくギシンとアンキが躍り出てきた。二人、いや二体が、私の足元で立ち止まる。不気味な顔で、私を見上げる。

「何の用だ」

「おや?」

「おやおやオヤおや?」

「ご機嫌ななめデスネ?」

「デスね?」

「うるさい」

「スノウ」

 二体の耳障りの悪い声とは違う、もう一つの声が聞こえた。柱の影からアリスが姿を現す。

「アリス」

 私は無意識にアリスを睨みつけていた。いやきっと、誰が出てきても私は相手を睨みつけていただろう。それだけ私は、疲弊していたのかもしれない。

「……ええ、あなたが言ったように、わたしは相変わらず自分の為だけに他の命を奪ってる。けど、今回はあなたの助けが必要みたいなの」

「……すまない。気にしないでくれ。この目は……私は酷い目をしてるだろう?」

「え? まぁ……いいえ、あなたの目は綺麗だわ」

「よせ……よしてくれ」

 アリスに近づき……ああ、私は嫌な目つきをしている。悪は見逃さないというような。相手の心の内に、悪を探すような。

「スノウ、今から一緒に、ドロシーのところへ行って欲しい。何か起こってるみたいで。そこの、人形達にも予測不能な何かが」

「予測不能な何か?」

「ディレクトリ構造に致命的ナ損傷を与エル何かデス」

「可能性ニも満たナイ空の霞ヲ上位概念そのモノとすげ替エル何かでス」

「……なるほどわからん」

 アリスを見ると、私に肩を竦めて見せた。

「アリスも私と同じか。それでドロシーのところへ……ドロシーの話も人形達と似たり寄ったりなんじゃないか?」

「言えてるかも。でもこいつらよりはまだマシ」

「それもそうだな」

「キヒヒ」

「イヒヒ」

「詳しくは向かいながら」

「わかった」

 私は了承し、アリスと共にドロシーの元へと向かった。

.

 道すがら聞いた話によれば、発端はアリスが遭遇した兎と帽子屋だったらしい。いや、あくまでそれは事態が可視化された瞬間だ。ライブラリである限り、本来はギシンとアンキはそこに踏み込むことが出来、それによって私達はある種の確かさを保っていると……これ自体要領を得ない話だが、人形達がそれ以上話そうとしない為そうとしかわからない。ただアリスが呑み込まれたそのモノガタリでは、人形達が通常の在り方を保つことすらできなかったと……まさに「何かが起こっている」としか表現しようのない事態ということはわかった。

「ドロシーは他にも誰か招集をかけたのか?」

 ライブラリからモノガタリへと入る。

「いいえ。今回の異常は、常識人だけで対処した方がいいって」

「懸命だな」

 本棚に囲まれた空間がぼやけ、私達は緑の丘に出た。少し先にぽつりと木が生えている。その木陰にドロシーの姿があった。レジャーシートの上に座り込み、本をバラバラとめくりながらハンバーガーを頬張っている。

「まるで緊迫感がない」

「ドロシーだし」

 私達はドロシーの方へ足早に進み、彼女を見下ろした。私はこの女が苦手だ。苦手というより、それこそ、排除すべき対象。しかし彼女の発明はしばしば、人の世を救いもする。それ故に……慎重に監視を続ける。そう言った段階に留めていた。

「ドロシー、来たぞ」

「んぉ? んおウノウあん、オイウさん、おあいいえあいた」

「食べてから話せ」

 ドロシーが口の中のハンバーガーを呑み込み、ニッコリと笑う。

「いやぁ、大変なことになってますよ」

「何が起こってるの?」

 アリスが本のタイトルを目で追いかけながら問う。本はどれも、哲学的な内容のもののように見えた。

「百聞は一見です」

 ドロシーが立ち上がり。

「こっちらへどうぞ~ん」

 手で導くように歩き出す。少し行くと、丘の上に白い空間が見えた。空間が見えたなんて妙な言い方だが、そこだけ空間を切り抜かれたように白くなっていたんだ。空間は半球形。しかし丘の向こう側は見えず、ただ回り込めば確かに、丘の向こう側は存在していた。そして、白い空間の中にはベッドに横たわる、いばら姫の姿がある。

「いばら姫」

 私が更に空間に近づこうとすると、ドロシーが腕を引き、それを止めた。

「なんだ」

「いえ、それ以上行くとまずいので」

「まずいって?」

「見ててください」

 ドロシーがポケットから紙切れを出し、それを丸めて白い空間へと投げ込む。紙玉は空間へ突入したかと思うと、赤い長靴に代わり、内側から紐上の肉々しいものを噴出しながら溶けてなくなった。

「なんだあれは」

「めちゃくちゃなんです。あの内側へは入れません。そもそもこの丘とあのアウトディメンションを連続的な空間と捉えて良いかも怪しいですし」

「意味不明だけど、いばら姫が暴走してるってこと?」

「いいえ、そうではありません。いばら姫さんは意識的にも潜在的にもただ眠っているだけです。ただいばら姫さんの夢のせいかと言えば、それはイエスです。いばら姫さんの夢が現実と空想の境界を破壊しているといいますか。凄く簡潔に言いますとね。ただこれは現象として捉えた方が良い。原因はいばら姫さんとは無関係な場所にあると推測します」

「アリス、やはり人形達と似たり寄ったりの説明だ」

「……ドロシー、その原因については何か予想できてるの?」

「そうですね~。例えば宇宙の原則の一部を司る何かが崩壊しようとしているといったところでしょうか」

「何かって?」

「さあ」

「さあって」

「どうでも良いことです。探知さえできればよいのですから。つまり何かわかったところで探知する手段がなければ無意味。そしてむしろこれが問題で、どう考えてもこの宇宙的原則Xを探知する手段を現段階で人類は持ち得ていません。な・の・で、人類の科学を私のそれよりも更に一段上まで引き上げる必要があります。早急に。それか、いばら姫さんを殺害するか」

「なに?」

「それが一番手っ取り早いんですけどね。私の武器ではいばら姫さんにダメージを到達させることが出来ませんでした。お二人でも無理でしょう。ただですね、あの空間に含まれる波長の内の一部と、スノウさんの持つ波長の一部が大変酷似しているんですよ。この共通点を利用して、夢を通して、あの空間への本当の入口を見つけ出し、侵入することが出来るかもしれません。何処から何処かへ移動するのに夢を通っていくなんて、オズも呆れそうなお話ですけど。まぁこんな状況だからです。ただしそれが叶ったとしても、あの内側で、スノウさんがスノウさんとしての記憶や同一性を留められるかは怪しいところです。でも可能性はゼロではありませんので、試してみる価値は十分にありますねー」

「つまり、あれか? 私に、危険を顧みずあの中へ突入し、いばら姫を殺せと」

「そうです」

「意味が分からん……放っておけばいい。いばら姫は眠るのが好きなんだ」

「ノーノー、違いますよ。言ったではありませんか。今いばら姫さんとその夢を含む現象が結果として現実と空想の境界を破壊しているんです。このままだと世界が崩壊するんですよ。現実と呼ばれる側の世界も、モノガタリも、ライブラリも、全て崩壊します。作者だって復活させられなくなりますし。世界の危機なんです。世界は今、救いの手を、大きな正義を必要としているんですよ」

「……そんな言葉で私を焚きつけられると?」

「いえいえいえ、そんなつもりは……ありますけど」

「はぁ……具体的にはどうすればいいんだ?」

「それでこそスノウさんです!」

「違う。いばら姫を起こしに行くんだ」

「できますそれ~?」

「やってみなくてはわからない」

「まぁ、いいですけど。後ほど詳しくお話します。でですね、アリスさんと私は別作戦で行きます。タイムスリップして過去に行き、人類の進歩を加速させる。あ行くのは私だけです。アリスさんにはタイムマシンを起動する為のトリガーになってもらうだけですので」

「タイムスリップ? そんなことできるわけ」

「まぁまぁまぁ、そこらへんは私の専門なのでご心配なく。さーでは、時間がありません。一瞬先の未来を変えるためには途方もない時間がかかります。早速取り掛かりましょう。まずは」

 そうして、その突拍子もない世界の危機を救うための、私の悪夢は始まったんだ。




 白雪姫。黒い瞳に赤い唇、白い肌。王女白雪姫は美しく育ち、実母である王妃はその美貌に嫉妬した。王妃は狩人に、白雪姫を殺しその肺と肝臓を持ち帰るように命じる。狩人は森の獣が白雪姫を殺すだろうと考え、白雪姫を森に置き去り、代わりに猪の肺と心臓を持ち帰った。王妃は喜び肺と肝臓を茹で食らう。しかし魔法の鏡が白雪姫はまだ生きていると告げ、王妃は自ら白雪姫を殺すことを決める。森に置き去られた白雪姫は家事をすることを条件に七人の小人達と暮らしていた。王妃は小物売りに変装し、紐を売ると言って白雪姫の胸を締め上げ、殺害を試みる。白雪姫は意識を失い、しかし小人達が紐を切ったことで意識を取り戻した。そうして次にはまた別の小物売りに変装し、毒を塗った櫛で白雪姫を殺しかけるも、これも失敗に終わる。最後に毒を仕込んだ林檎を白雪姫に食べさせ、ようやく白雪姫の殺害に成功する。小人達は悲しみに暮れ、白雪姫の遺体をガラスの棺に入れた。そこへある国の王子がやってきて、白雪姫の遺体を譲り受ける。王子は常に召使達に白雪姫の遺体を運ばせ、そのうちに召使の一人は怒り、白雪姫の遺体の背を殴りつけた。すると毒の林檎の欠片が白雪姫の口から飛び出し、白雪姫は息を吹き返す。王子と白雪姫は結ばれ、王子の国で結婚式を挙げる。そこへやってきた王妃、白雪姫の母は真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊り続けた。
 現実と非現実、ライブラリ、夢、あらゆる境界が崩壊をしていく中で、不眠症のはずのスノウホワイトは立ったまま、気付かぬうち眠り夢を見ていました。ついに空間の連続性すら綻びだす世界。いばら姫の空間はもはや全ての境界が崩壊し、その内には全ての時間さえ同時に存在しています。いばら姫の空間、小さな病室に含まれるその波長は、スノウホワイトと精神的連続性を持つ現実世界の雪下美姫が存在した痕跡です。雪下美姫は看護師として、いばら姫と接触をしたことがありました。もしかすると会話を交わしたことも。さすがのドロシーもそこまでは分かっていませんが、ともかくその波長、縁を通じてスノウホワイトならいばら姫に近づけるのではないかと考えたのです。かくして、世界を救うためのドロシーの作戦は始まりました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ドロシー【時間跳躍の為の飛躍的方法論】

 あらゆる反作用・反存在は増大するほどにその反射的性質故時空間の歪みとの相関係数を上昇させる、私はついにその方程式を発見し、久しぶりにかつて共に旅をした三体のサンプルを召集しました。知能が欲しいというのでAIを組み込んだカカシと、心が欲しいというので刺激を受けると電気が走るよう配線したブリキのきこり、そして勇気が欲しいというので脳をいじって恐怖を感じないようにしたライオンです。私はサンプル達に問いかけました。

「あなた達の一番の宿敵はなんですかー?」

 まず始めに答えてくれたのがカカシ。まぁAI組み込んでありますし。カカシは言いました。

「我々は物質である以上、物理的な破壊に酷く弱い。そして物理的な破壊は速度と質量によりもたらされるものだ。とするとやはり一番の脅威として考えられるのはあの自然災害だろう。台風なんてどうだい?」

 そして次に、ライオンが答えました。

「宿敵? そんなものいるはずがないだろう、私は陸の王者なのだから。しかし陸でなく海の王者なら、決して出会うことはないが、宿敵足り得るかもしれんな。とすると、そう、サメといったか? あれだ」

 最後にブリキのきこりの答えはというと。

「僕の仕事は木を切ることだ。自然を壊すものはやっぱり宿敵かな。でもそう、火力発電がなくなっても、仕事がなくなるし困る。だから原子力発電なんてのもいけないね。つまり、原子力発電で生じた核廃棄物、あひぃっ! 考えただけで電気が走る! これが宿敵だね!」

 ということで、私はすぐに作業に取り掛かりました。まず始めに完成させたのが、カカシとライオンの宿敵、台風とサメを融合させたシャーク・ネード(仮)です。この内側に時空の歪みが発生すれば成功、でしたが、いやいや、タイムトンネルはそう簡単には開かないものです。なのできこりの宿敵、核廃棄物も融合させまして、そうして誕生したのが、意思をもって暴れるサメの巨大集合体、シャーク・ジラーでした。シャーク・ジラーは海から陸へと移動し、新宿一帯を破壊。ですが何も問題はありません。むしろ好都合。新宿は昔から時空の歪みが発生しやすい場所ですので、ええ、私の調査によりますと。今、ハーフナイトメアと化したアリスさんが東京タワーを槍として、シャーク・ジラーに狙いを定めています。私は無線機を片手に、その様子を離れたビルの屋上から眺めていました。

「ワァ、夜空に輝く逆東京タワー、ナンて綺麗なンダぁ」

 隣でアンキが呟きました。

「そうですかぁ? もっと近くで見てきたらどうです?」

「いやイヤ、危険すぎデスから。というかドレだけノ被害が出るかワカってまス?」

「まぁ、それなりに。ですがすでに相当の死者が出ていますし、大した問題でもありませんよ」

「ナントいうマッドサイエンティスト!」

「科学の発展に犠牲はつきものですし。あーあー、アリスさん聴こえてます~?」

「……ワス……全部、壊ス!」

 無線機の向こうから聞こえるアリスさんの声は、ほとんど狂乱状態。いったい誰がアリスさんをそんな風に? あぁ、私でした。

「ええ壊しちゃってください。座標的にちょうどいい頃合いです。シャーク・ジラーにブスリ、と。どうぞどうぞ」

「壊ス! 壊ス壊ス壊ス!」

「ごーごー」

 輝く東京タワーが地に向けて、突き下ろされます。一瞬シャーク・ジラーの鳴き声が聞こえましたが、次の瞬間には音さえも吹き飛ばして、辺りに凄まじい衝撃、爆風が巻き起こり、アンキも吹き飛んでいきました。

「さぁ、どうです!?」

 シャーク・ジラーのいた辺りから緑色の光が溢れ出し、その光が世界に拡散していきます。

「グッド!」

 私はタイムボックスを手に、それを操作しながらビルの屋上から屋上へと、跳び移り爆心地へ向かいました。世界を包む緑の光が、その輝きを増していきます。

「いける!」

 中心へ、輝きの中へ、飛び込む! そして、私の身体は光と共に、空間と時を超えたのです。

.

 着地した時、そこはもう新宿ではありませんでした。空は青く、日は高く、足元にあるのは赤い岩肌。足元だけじゃありません。見渡す限りどこも岩、岩、岩。人工物がまるで見えない。タイムボックスで年代を確認します。人工物が見えないだけでは単に空間を移動しただけかもわーお! いえいえきちんとタイムスリップできてます! 現在、タイムボックスが示している年代は、まだ人類が誕生する以前! 大成功です! はあ、素晴らしい。これほど上手くいくとは。

 私はそして、岩肌を歩き始めました。当然、サンプルを探すために。三時間ほど歩き、ようやくサンプル発見です。彼等は毛むくじゃらの肌で、しかしおおよその形は人類とよく似ていました。有体に言ってしまえば、そうです、お猿さん。ちょうどいいサンプルです。

「どーもー、こんにちは~、って言っても言葉が通じるわけもありませんが、注目して下さ~い」

 私が言葉を発しながらお猿さんに近づくと、すぐに岩陰のあちらこちらからお猿さん達が顔を出し、私を警戒するように観察し始めました。まぁいいでしょう、最初くらいは観察される側になってあげます。

「まぁ~皆さん毛むくじゃらですね。リーダーとかいます?」

 更に近づくと、お猿さんの内の一匹が鳴き声を上げ威嚇してきました。それに釣られるようにして、一匹また一匹と威嚇を開始します。

「ええ、ええ、いいですよ。私は余所者です。排除を試みてください」

 更に近づいたところで、一匹のお猿さんが飛びかかってきてくれました。ライブラリの力でハンマーを取り出し、ガツン! 一撃ノックアウトです。

「さぁ皆さんご覧あれ。武器があれば、戦いはこんなにも効率的に。これから皆さんにこれと同じものを配ります。まずはそこから始めましょう。その後はナイフを。そして植物の育て方を。そして文字の描き方を。地球の歴史を一気に進めていきますよ。地球が滅ぶ前に人類の科学を人類存続に十分なレベルまで引き上げるには、これしかないんです。頑張っていきましょうねー」

 私は最高の笑顔で、世界の再構築を宣言しました。まずは今の言葉を理解できるところまで、引き上げるのを第一目標として。今日から忙しい毎日が始まります。




 オズの魔法使い。ドロシーはカンザス州の農場に立つ素朴な家で暮らしていた。ある日大きな竜巻がやってきて、ドロシーを家ごと異国の地へと飛ばしてしまう。ドロシーの家はちょうど東の悪い魔女の上に落ち、彼女を潰し殺した。そこへ北の良い魔女がやってきて、ドロシーに礼を言い、東の魔女の銀の靴を渡す。ドロシーが家に帰りたいと言うと魔法使いオズに願いを叶えてもらうように言われ、ドロシーはオズを探す旅に出る。途中で知恵が欲しいカカシ、心が欲しいブリキの人形、勇気が欲しいライオンを仲間に加え、ようやくオズの元へ辿り着くと、願いを叶える代わりに西の悪い魔女を倒すよう言われる。仲間と力を合わせ西の悪い魔女を殺し、金の帽子を奪ってオズの元へ戻ると、しかしオズは魔法使いなどではなく、ただのマジシャンだった。オズはカカシにおがくずの脳みそ、ブリキの人形に布切れの心臓、ライオンに勇気の出るジュースと結局見せかけに過ぎない贈り物をし、またドロシーには気球を用意するが、この気球も結局オズだけを乗せドロシーは乗せずに飛び去ってしまう。ドロシーは別の方法を探すため南の良い魔女へ会いに行き、金の帽子と引き換えにカンザスへ帰る方法を教えてもらった。そうして銀の靴を3回打ち鳴らす。すると次の瞬間、ドロシーは元いたカンザスの家へ辿り着いていたのだった。
 結局誰も願いを叶えてはくれない、何度も無駄な回り道をさせられる、オズの魔法使いはそういうお話です。そして最後、「家」に帰ってくるのです。家は竜巻で飛ばされたのでは?夢落ちでしょうか。違います。竜巻は別次元へドロシーを飛ばし、また銀の靴はカンザスへは戻してくれましたが、そこは竜巻が家を襲うことのなかった平行世界、パラレルワールドだったのです。竜巻と銀の靴は別時空へ飛ぶ時空間移動装置の役割を果たしたのでした。
 というわけで、竜巻で時空間移動といえば、シャークネードですね(シリーズ5及びシリーズ6)。良く分からない人はシャークネードを6まで観てください。シャークジラが何なのかも分かります。分かりませんけど。
 ともかく高度に発達をしたシャークネードはタイムマシーン同然なので、ドロシーはそこへ追いエネルギー、ハーフナイトメアと化したアリスの槍(東京タワー)の一撃を加え、タイムトンネルを完成させます。そうして過去の地球へとやってきたドロシーは人類の科学を加速させるため、ひいてはいずれ訪れる世界の崩壊の原因を突き止めるだけの科学力を人類にもたらすため、類人猿への教育を始めますが……結果はいばら姫の回のラストであった通りです。ドロシーの試みは人類の科学を加速させることなく、世界の支配種がヒトから類人猿へと切り替わっただけでした。残念。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

愚か者を罰せ/ターニングタイム01【裁きの日】

 シャワーの音を聴いていたのかもしれない。私の髪を濡らし、身体を滴っていく水が、私の中の何か、その代替え物として、流れ落ちていく。そういった……ある種の錯覚。正しさを見誤らない為には、常に真実を見定めていなければならない。しかし、私の頭の中ではいつも、騒音が鳴り響いていた。だからこそこういった、ホワイトノイズに安息を求めてしまうのだろう。雨でもいい。しかし雨は、心臓に突き刺さる。だからだ。温かさが欲しかった。涙を忘れた人間は、こうして涙の温度を、思い出すしかない。

「……ろしてくれ」

 ガタッ、と何か音がした。身体を隠しカーテンを開く……浴室の扉の隙間から、誰かがこちらを覗いている。頬を赤らめ、口元を歪め……こいつ!

「そこで何をしている!」

「何も、なーにもしとらんよ」

 くるみ割り人形は悪びれる風もなく、なおもこちらを覗き込んでくる。なんてやつだ!

「失せろ! この変質人形!」

「おほほ、恥ずかしがりおって。若いのぉ。見ているこっちまで恥ずかしくなるわい」

「見るなと言っている!」

 手元の桶を、くるみ割り人形に投げつけた。しかし扉が邪魔で当たらない。

「おぉ恥ずかしい恥ずかしい」

「おまえ!」

 私はカーテンを引き落とし身体に巻き付け、覗き魔に近づいた。くるみ割り人形は扉を閉め、逃げるつもりか。させるか!

「待て!」

 扉を開くと、くるみ割り人形は逆に私に跳びついてきた。

「な! 離れろ!」

「良いではないか! 減るものもまるでなし! 若者は老人に活力を与えるべき!」

「何を勝手なことを!」

 肘でくるみ割り人形の頭を払う、が、しがみ付いて離れようとしない!気持ち悪い!

「ふざけるのもいい加減に」

 ドライヤーを手に取る。そして

「しろ!」

 ドライヤーでくるみ割り人形の頭を、殴りつけた。

「あっぐぅあ!」

 くるみ割り人形が私の身体から離れ落ち、床に倒れ込む。

「自業自得だ」

 ドライヤーを見ると、首のところが折れていた。これではもう使い物にならん。

「老害も行き過ぎてボケが入ってしまったのではないか? おい。聞いているのか?」

 ……反応がない。気絶したか。

「迷惑な奴だ。介抱して貰えると思うなよ」

 ……何か、くるみ割り人形の頭の後ろ、床が濡れている……赤い。赤い液体が、広がっていく。

「おい、くるみ割り人形」

 広がっていく……足が血溜まりに覆われていく。私は、しかし、動くことが出来なかった。

.

 コンッ! コンッ! ジャッジガベルが二度叩かれる。

「静粛に! 皆さん静粛に!」

 陪審席からパンが投げつけられ、被告席のアリスは身体を少しばかり傾け、これを避けた。

「静粛にって言ってるのわかりません? 言葉通じてますー?」

 裁判官席でドロシーが更に二度三度、ジャッジガベルを打ち鳴らす。

「助けてくれー! お茶の時間に遅れるー!」

 陪審席で叫ぶ、帽子屋。帽子屋の他、三月ウサギにヤマネ、ドードー鳥、チェシャ猫、公爵夫人、ハートの王、ハートの女王、他多数、皆座席にベルトで縛り止められ、退席を許されずにいた。

「首を撥ねておしまい!」

 ハートの女王が叫ぶ。ドロシーがジャッジガベルをハートの女王に投げつける、が、当たらなかった。

「まぁまぁ、首を跳ねるのは最後ですよ。首を撥ねる前に口頭弁論と証拠調べです。まぁその前に、判決ですけどね。アリスさんは有罪」

「ねぇ、なんなのこれ。こんなことしてる場合?」

「もちろんですアリスさん。私が無駄なことをしたことなんてありました?」

「けっこうあ」

「ないですよ。全て結果を導き出す為に必要なことです。さて、で、ですね。これ何の裁判か分かってます?」

「分かるわけない。いばら姫をなんとか起こすんでしょ?」

「それはスノウさんの仕事です。この裁判はアリスさんの殺人罪に関しての裁判です」

「この世界で殺人罪を問うわけ?」

「アリスさん、作者を蘇らせて、何がしたいんですか?」

「どうして急にそんなこと」

「答えてください」

「……わたしは、作者に会いたい」

「それで?」

「……会えればいいの」

「ただ会う為だけに数多のイノチを奪っているわけですか。サイコパスですね」

「あなたに言われたくない。それに、わたしはわたしの罪の重さを理解してる」

「酔っ払いが酔ってないって言ってるようなもんですよそれ」

「……なんなの」

 無感情なアリスの眉間に、苛立ちが浮かぶ。

「作者はあなたを歓迎しません。会ったとして、あなたを歓迎することはないんですよ。それはアリスさん本人が一番理解していらっしゃる、にも関わらず、そのことから目を背けている」

「分からないでしょ」

「痛いほど分かっているのでは? いっそ作者を殺す為に会いたい、その方が余程筋が通っていますよ。あなたは作者に散々な目に合わされたのですから」

「何も知らないでしょ」

「全て知っていますよ。あなたが最初に殺したイノチのことも。あなたが最初に宿したイノチのことも」

「……」

「これはその殺人罪を裁く裁判です」

 ドロシーの頭の横を、青いナイフがかすめ飛ぶ。それは被告席から放たれたものだった。

「ドロシー、あなたの冗談はつまらない。正直不快。たまにあの人形達より悪趣味なの、自覚ある?」

「凡人には理解できない話をしてしまう、という点に関しましては自覚ありますよ。ですが今はアリスさんに理解できる話しかしていません。誰からも愛されなかったアリスさんを騙し、犯し、孕ませ、そうと分かったらポイと捨てた、そんな」

「うるさい!!」

 アリスの青い髪飾りが燃え上がる。その時、法廷の壁が派手に打ち破られ、何者かが銀のバイクに乗って飛び出した。宙を舞う銀のバイクはそのままドロシーのもとへ。そして。

「ちょあっ」

 グシャリ。潰れたドロシーの上で銀のバイクは停止し、エンジン音を静まらせた。

「……」

 アリスの髪飾りの炎が、鎮まっていく。バイクの主は鉄の仮面を被り、素顔を完全に隠していた。今、銀のバイクから降り、アリスの方へ近づいてくる。

「首を撥ねておしまい!」

 ハートの女王が叫んだ。

「電気処刑の方が好きです」

 バイクの主が小さなスイッチを取り出し、ボタンを押す。

「あああががががが」

 電気を流され、痙攣するハートの女王。バイクの主はボタンを再度押し、電流を止めると、重そうに仮面を脱いだ。

「え……」

 アリスは言葉を失う。仮面を脱ぎ正体を現したのは、紛れもなく、ドロシーだった。

「……さっきのは偽物?」

「いいえ、正真正銘私本人です。私が轢いた私は、この後もっとアリスさんを精神的に追い詰めて、ハーフナイトメア化させる予定でした。その力が遥かな過去へのタイムスリップの鍵になるので。ただですね、結論から言いますと、ダメです。ダメでした、人類の科学を進める作戦は。支配種が人間からお猿さんに変わっただけでした。なので作戦変更です。あまり古い過去へは飛べませんが、キャラクターズの痕跡を辿り、キャラクターズの存在する時間に飛ぶことができるタイムマシーンは開発できましたので。それとあと今回の異常のターニングポイントを発見するダウジング装置と。これでアリスさん、一緒に異変を解決しましょう」

「……今さっき、散々あなたに傷付けられたんだけど」

「それは謝ります。ですが悪気はありません。私は必要だと結論付けた行動を実行に移しただけですので」

「あなたとは友達にはなれない」

「それはとても効率的ですね。私達キャラクターズはいずれ殺し合う運命にありますから。さあ、バイクに。バイク型タイムマシーンです。カッコ良くありません?」

 アリスはマイペースなドロシーに、深く、それはそれは深く、溜息をついた。

「……なんでもいい」

「効率的思考放棄ですね」

 ドロシーについてアリスは銀のバイクに歩み寄り、二人、その上に跨った。タイムバイクマシーンがエンジンを蒸し、進行方向に青い光の進路を築く。

「さあ! 世界を救いましょう!」

 走り出すタイムバイクマシーン。二人とマシーンは電流を帯び、時空の彼方へ消え去った。




 七人の小人:バッシュフル(照れ屋)。老害くるみ割り人形は存在自体がもう恥ずかしい。それなのに人の行動を見て、見ていて恥ずかしい、などとのたまう。恥ずべき行動は禁じられるべきだ。禁じるために罰は必要なものだ。そうだろう?
 というわけで、物語は後編へと突入です。ドロシーによる、アリスの堕胎の罪を裁く裁判。それはアリスの精神を追い込み、アリスをハーフナイトメア化させるためのものでした。そうしてタイムトンネルを開くためのエネルギーを得ること、それが目的だったわけですが、その後に控える科学大躍進計画は類人猿への支配種シフトという形で失敗に終わるわけでして、その失敗を経験したドロシーが未来であり過去である場所からやってきて、過ちを犯そうとするかつての自身を殺したわけです。親殺しのパラドックスもなんのその。平行時空とお考え下さい。いやそれも違うかも。
 そうして今度は竜巻ではなく銀の靴、もとい銀のタイムバイクマシーンで過去へと飛びます。もうシャークネードもハーフナイトメアの力も必要ありません。ドロシーは途方もなく長い時をかけ、それを完成させたのです。どうやってそれほど長くの時間を生きたのか。簡単ですね。つまり探求のドロシーですから、当然不死薬は入手していたわけです。そうして正に、無限の猿の定理のように、タイムバイクマシーンを完成させたわけですね。結局猿じゃないか、ってやつです。違う?まぁまぁ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

快楽犯罪者を罰せ

「っは!」

 目覚め。また、ふとした拍子、眠りの中にあったらしい。いつものことだ。そう、いつものように私は正義をなし、にも関わらず、罪悪感に苛まれる、そんな夢……しかし、なんだ。あのドライヤーでくるみ割り人形を殴った感覚が、どうしてこんなにも生々しい……ん? 窓の外の景色が、高速で過ぎていく。ここは……車の中?

「ブウウウウウン!!」

 車が大きく揺れ、私は後部座席で窓に打ち付けられた。車がギュルギュルと回転し、急停止し、また狂ったように走り出す。

「あははははは!」

 ミラー越しに見ると、運転席に赤ずきんの姿があった。運転できるのか。いや、だとしても、一番運転させてはならない奴だ。

「赤ずきん、車を止めろ。運転なら私がする」

「嫌です! あはは!」

 赤ずきんがアクセルを更に深く踏む。加速の弾みで私は天井に頭をぶつけ、そのせいで、反応が遅れてしまった。すぐ前方に人影がある。間に合わない!

「赤ずきん避けろ!」

「轢きます!」

 どんっ、と、鈍い音がした。ひび割れたフロントガラスに血が付着している。

「何をしてるんだ!」

「事故ごっこです! 車って初めて乗りました! 体当たりするだけで凄い威力なんですよ!」

 ダメだ。この状態の赤ずきんにはもう、話は通じない。

「商店街に入ります!」

「やめろ!」

「嫌です!!」

 赤ずきんが目を爛々と輝かせ、ハンドルを切る。

「馬鹿者!」

 私は後部座席から身を乗り出し、横からハンドルに手を伸ばした。

「ああ!」

 車が右へ左へ、人を、人々を、轢き飛ばしていく。

「あ、あは……あはは! 楽しいです!」

「楽しいことあるか!」

 赤ずきんに頭突きを食らわす。

「うぐぅあっ」

 車が回転する。地獄のメリーゴーランドだ。人は!? 近くにいないか!? 車が何かに乗り上げ大きく跳ねた。窓の外に空が見える。横転。そして。

 大きな音がした気がする。気が付くと逆さになった車の中、私は首を曲げて倒れていた。火の燃える音がする。早く抜け出さねば。サイドドアを蹴り飛ばし、外へ出る。

「赤ずきん、無事か?」

 立ち上がり見ると、車は半ば炎上していた。運転席のドアから赤ずきんが上半身を出しているが、運転席自体がもうほとんど潰れ、赤ずきんの身体はもう、残りの半分はどうなっているのかわからない。これは、もうダメかもな。

「赤ずきん」

 私は手を差し伸ばした。差し伸ばしたが、それだけだ。それ以上身体が動こうとはしなかった。たぶん、私には赤ずきんを救うつもりがないのだろう。当たり前だ。こんな殺人鬼、生かしておいて良いわけがない。しかしそれであるのに、私は差し伸ばした手を、引くことすらしていない……中途半端だな。

「……酷いです」

 呟くような、擦れた声が聞こえた。赤ずきんが指で地を掻き、苦悶に顔を歪めている。

「今引っ張ろうと」

 屈み込み、赤ずきんの肩を

「せっかく楽しく遊んでたのに、酷いです。人が次々に吹っ飛んで、あんなに楽しかったのに!」

 肩を掴みかけたその手を、止めた。

「……人を傷つけて、本当に楽しいなどと思っているのか?」

「当たり前です! 人を叩くと触れ合ってる感じがするし、みんなも表情が変わって、表情が変わるってことは、楽しいってことなんです!」

「痛がってるんだ。苦しんでるんだ。今のおまえのように」

「少なくともボクは楽しいです!」

「人の命を何だと思ってるんだ!」

「ゴミですよ! 命はゴミです! ボクは掃除屋! ゴミを片付けるとお金がもらえます! ボクもずっと、ゴミと呼ばれてきました! 死ねばいいと、道行く他人に吐き捨てられて! みんなみんな、親切な人達に教えてもらったんです! ゴミを片すと、とっても気持ちいいんです!」

「……」

 立ち上がる。私は、燃える車に背を向け、歩き出した。

「もっともっと、遊びたかったです……」

 赤ずきんの寂しげな声が聞こえ、その後すぐに、大きな爆発音が聞こえた。




 七人の小人:ハッピー(ご機嫌)。赤ずきんはただ楽しいからと生物を殺傷する。善悪の意識がないとしても、それは明らかな犯罪だ。きちんと説明をしたところで、彼女は善悪を理解することはできないだろう。しかし罰を与えることで、異常な行動を抑制させることはできるはずだ。そうだろう?
 不眠症のはずのスノウホワイトはまたいつの間にか眠っていて、目を覚まします。くるみ割り人形を殺してしまったのは夢だったのかと安心するのも束の間、今度は赤ずきんが大暴走中。加えて赤ずきんの言動は、精神的連続性を持つ現実側の殺し屋の少女のものと思われる部分が混じっていて、すでに精神の境界も崩れ始めていることが伺えるのでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ターニングタイム02【訣別の日】

 光の渦の中、タイムバイクマシーンが走っている。バイクに跨るドロシーとアリスは、退屈しきって渦の流れをぼんやりと眺めていた。

「アリスさん、何か面白い話してくれません?」

「無理。私は聞くの専門だから」

「あ、それ面白いですね」

 やがて光の渦の先に出口が見えてきた。緑溢れる庭と、こじんまりとしたお屋敷がある。

「まもなく目的地へ到着でーす。出口低くなってますのでー頭上にご注意を。時代のうねりに取り残された頭なんて惨めなだけです」

「グレーテルみたいにね」

「ザッツラーイ!」

 バイクが光の渦を飛び出し、青空の元へ。二人を乗せたバイクは整った生垣に新品の出入り口を作り、柔らかな芝生を抉り穿った。

「ドロシー、最初に聞くべきだったけど、バイクの免許持ってる?」

「自分で造ったものに免許なんていります?」

「そう言うと思った」

 バイクから降りる、ドロシーとアリス。二人はお屋敷の玄関扉までやってくると、無作法に扉を叩いた。叩いたのはもちろんドロシーだ。

「ごめんくださーい! ごめんくださーい! 世紀の天才発明家の者ですけどもー!」

「自分で言うんだ」

「万人が認めるべきことですので」

 扉が開く。お屋敷の中から現れたのは、一人の埃と煤に塗れた女性だった。

「セールスならお断りだよ」

「それは良かった! セールではありませんので。失礼しまーす!」

「ちょっ」

 ドロシーが家の中へ押し入る。アリスも女性の隙を突き、何食わぬ顔で不法侵入を果たした。

「何なのさあんたら!」

 女性は眉間に皺を寄せ、目を見開き困惑している。

「いやいや素敵なご自宅ですね。台風が来ても飛ばされなさそうです」

 ドロシーは言いつつ、勝手にソファに腰を落ち着かせた。アリスはまるで美術館にでもやってきたかのように、のんびりと家具を見て回る。退屈そうに。

「あんたら何なんだ! おいおまえ! 人んちの家具勝手に触んな!」

「実はお願いがありましてねぇ~、シンデレラさん」

「あたしをその名で呼ぶんじゃねぇ!」

「舞踏会に行かないで欲しいんですよ。因果はわかりませんけどねぇ」

 ドロシーが懐中時計を取り出す。複数の文字盤と針が重なり合い、その上で無数の針はしかし、時を刻むわけでなく、何かを訴えかけるように狂い踊っていた。

「この子達はその事象が引き起こす最悪を指し示しています。舞踏会、諦めていただけませんか?」

「んだよ意味わかんねぇ電波女が。舞踏会だ? このあたしが? 着ていくドレスも靴もありゃしない。行けるわけねぇだろ」

「しかしこの後あなたはそのドレスと靴を未知の手段により獲得します。私達はそれを何としてでも妨害するものです」

「そうなんだ」

 初めて目的を聞いたアリスは特に興味を持つ様子もなく、壁にかけられていたハンドベルを指でつつき鳴らした。シンデレラが素早く動きベルを掴み止め、アリスをキッと睨みつける。

「触んなって言ったろ?」

 アリスは両手の平を見せ、背を向け歩き去る。シンデレラの大きな舌打ちが部屋に響いた。

「あのぉ、何かお茶でも出してくれません?」

 ドロシーがソファー横の小さなテーブルをトントン叩く。

「出すか!」

「客人はきちんともてなしませんといけませんよ?」

「誰が招いた!? 帰れ!」

 シンデレラの視線が部屋の時計へと向く。時刻はまもなく正午。シンデレラは何かに焦り始めていた。

「あぁクソ、マジで帰れおまえら。御母様達が香水屋から帰ってきちまう。勝手に人を屋敷に入れたなんてバレたら、いや、そもそもあたしは屋敷に招いたりしちゃいないが。ともかく帰れ」

「嫌です」

「ああ!?」

「わたし外出てようかな。人の迷惑になることは趣味じゃないし」

「帰らないってんならこっちにも考えがあんぞ!」

「ほう、それは興味深いですね。なんでしょう、是非教えていただきたいです」

「教えてやるよ」

 シンデレラが人差し指と親指を咥え、ピーッ! と音を鳴らす。

「あ、やな予感」

 アリスがそう口ずさむより早く、ドロシーはソファーの背もたれの上に飛び乗っていた。部屋のあちらこちらからネズミの群れが溢れ出す。ネズミ達は二手に分かれ、一方はアリスを、一方はドロシーを襲い、アリスはあっという間にネズミの山に埋れてしまった。

「ははっ! アリスさんウケます!」

 ドロシーは愉快そうに笑い、ライブラリより鋼鉄のバットを取り出し振るう。打たれ飛んだネズミ達で壁には新しい模様がついていった。

「笑えない」

 ネズミの山が弾け飛び、槍を手にしたアリスがため息をつく。

「武器持ち込んで不法侵入とか完全犯罪者だろ」

「持ち込んではいませんよ。入ってきた時は持っていまぐあっ!」

 何か黒いものがドロシーの顔を打った。ネズミ達がここぞと飛び掛かり、しかしドロシーも飛び避けつつバットを振り抵抗する。窓より次々と舞い入る黒い羽ばたき。ネズミだけでなく、カラスまでもがドロシーとアリスの二人を襲う。

「ほらささっさと出ていきな! みんな腹を空かせてるんだ! 逃げなきゃ餌になっちまうよ!」

「私は美味しいのでしょうか、気になります」

「きっと不味いから安心して」

 アリスが槍を水平に降り、すると小さな横向きの竜巻が巻き起こった。竜巻はカラス達を取り込み、窓の外へと追い出していく。

「呼んでもいないお客には帰ってもらわないとね」

「あんたらだよ!?」

「では私は皆さんに静粛願いましょう。あれ? これ前も言いました? なら静粛でなく、粛清です!」

 ドロシーが鋼鉄のバットの先を床にたたきつけ、すると電流が床に広がった。ネズミ達は感電し、次々とひっくり返っていく。

「ああ! あたしの使い魔達が!」

「なるほど」

 その時、窓の外に青い輝きがほとばしった。

「まさかそんな! 違うんだよ!」

 シンデレラが慌てて玄関から飛び出していく。同時に、何かモーター音のようなものが響き渡った。ドロシーが懐中時計を手に、口を尖らせる。文字盤の上では無数の針が猛回転をし、何かを知らせていた。

「ターニングタイムです」

「ターニングタイム?」

「私達が変えるべき瞬間ですよ。行きましょう!」

 ドロシーが玄関を出ていく。アリスも後を追った。

 いつの間にやら空は黒雲に覆われている。二人が庭へやってくると、巨大且つ禍々しさを放つ黒い鳥が墓の上に鎮座していた。翼から蒼い炎を轟々と噴き立たせ、その体内中にも同じ炎が渦を巻いているのが伺える。シンデレラはその怪鳥の足元に、顔を伏せ、片膝を付いていた。

「マルファス、違うんだ。使い魔を殺ったのはあたしじゃない」

 蒼い炎の怪鳥が肉のない頭部をカタカタと揺らし、口から炎を漏らす。

「え? そんなことはどうでもいい? なら何さ。え? あたしにドレスと靴を? それで舞踏会に? あぁ、嬉しい。最高だ。けどマルファス、何とかしてくれ。変な電波女とメンヘラ女が邪魔に来てる。追い払ってくれよ」

 怪鳥が細い炎を口先から燻らす。そして、ドロシーとアリスを、底の無い瞳で捉えた。

「どうも! 電波女どぅえす!」

「わたしはメンヘラ女じゃない」

 怪鳥が虚無なる口を開け、背筋の凍るような鳴き声で威嚇をする。普通ならそのまま魂を抜かれてしまいそうな叫びに、しかし、ドロシーは満面の笑みでランチャー砲を向けていた。

「アリスさん何か気の利いたセリフください!」

「わたしはメンヘラ女じゃない」

「ダウトー!」

 ドロシーの砲弾が射出される。砲弾は怪鳥に命中し、爆発と共に緑色の煙幕を撒き散らした。

「マルファス!」

 煙から空へ、怪鳥、いや、悪魔マルファスが飛翔する。地が隆起し、幾本もの柱となってドロシーとアリスを押し上げた。

「なるほど、シンデレラさんの実の両親の死因、鼠や鳥を使役することができた理由、そしてドレスや靴の入手に至った経緯、全ての謎は今、解き明かされました! それは悪魔マルファスとの契約。一族代々契約してちゃそりゃ代償に若くして死ぬはずです。かくして探求は実を結び、真実の門へと至れり! この真実を因果の魔弾として今この銃へ装填し」

「長い」

 竜巻の翼を纏ったアリスが上昇の勢いを足場に一気に跳び上がる。そしてマルファスの前方へ舞い上がると、繰り抜くような突きを一閃し、マルファスの呪いの渦が襲ったが、アリスの幻影は時の遅れた陽炎のように流れ、次の瞬間にはマルファスの背を無数の風刃が襲い乱れた。

「セリフ中に攻撃叩き込むのやめません?」

 ドロシーが不満を漏らしながら、ライフル銃を三弾放つ。三発の銃弾はマルファスの片翼を撃ち抉り、バランスを崩したところへすかさずアリスの横蹴り、そして槍の強烈な斬撃が叩き込まれる。マルファスは一気に落下し、シンデレラのお屋敷の屋根に大穴を開けた。

「あーあ、シンデレラさん怒りますよ」

 ドロシーの手から小さなカプセルがパラパラパラと撒かれていく。そして数秒後、シンデレラのお屋敷は幾重もの爆発と炎に包まれた。

「ドロシーには心がない」

「違いますよ。心がないのはブリキのきこり。心がなければシンデレラさんが怒るだろうことも理解できませんからね」

 ドロシーは屁理屈を並べて懐中時計に目を向ける。懐中時計の無数の針からは先程までの異常な狂い様はなくなり、しかし、未だ定まらず、グラグラと揺れていた。

「やはりまだ他にもターニングタイムが存在しているみたいです」

 足場が崩れていく。二人は残った足場から足場へ飛び移り、お屋敷の庭に舞い戻った。シンデレラが燃えるお屋敷を呆然と眺めている。

「シンデレラさん、危ないところでしたね。悪魔との契約というのは代償に命を支払うものです。舞踏会に行けたとしても、王子様と結婚できたとしても、あっという間に死んでしまうところでした。いやぁ~、良かったですねぇ~」

「良かった?」

 シンデレラが小刻みに震えながら、首だけ傾け、ドロシーを睨みつける。アリスはそろそろと後退し、しかしドロシーは笑顔のまま、突っ立っていた。

「てめぇなあ!」

 シンデレラがドロシーの襟首に掴みかかる。その時、遠くから悲鳴と馬車の音が聞こえてきた。

 お屋敷の入り口、庭の入り口に馬車が止まる。止まると同時に二人の女性が転がり飛び出し、炎上するお屋敷を声なく見上げた。火の粉が風に乗り、二人のドレスに点をつけていく。更にもう一人、歳を重ねた女性が馬車から降り……その顔には極限まで沸き上がった怒りが現れていた。

「シンデレラあああああああ!!!」

 シンデレラの姉の一人、アナスタシアがシンデレラに踏みより、バシンッ! と平手打ちを頬に放った。

「あんたねえ! 自分が何やったか分かって」

 バッシンッ! 凄まじい音と共に、アナスタシアが頭から吹き飛んでいく。それはシンデレラが返した強烈な平手打ち返しだった。

「シンデレラおまええええ!」

 もう一人の姉のドリゼラが助走をつけ、シンデレラに平手打ちを、しかし、その平手打ちはシンデレラの顔に押しつけられる形で止まり、シンデレラの半面を潰しただけだった。そして残りの半面に、圧のこもったシンデレラの眼光が、光る。シンデレラの左手が自身の顔に押し付けられたドリゼラの手を握り掴み、右手は捕らえられたドリゼラの両頬に、バシンバシンバシンバシンッ! 右へ左へ繰り返し執拗なまでに打ち付けられた。腫れた顔のドリゼラは意識をはたき飛ばされ、バタリと倒れ込む。

「シンデレラ……」

 シンデレラの継母が、一歩一歩、シンデレラへ歩み寄る。シンデレラの前に立ち止まり……その顔目掛け、渾身の一撃、拳を打ち込んだ。シンデレラの鼻からは血が吹き出し、一本の歯が飛び、しかし、倒れない。シンデレラは継母を睨み付け、右腕を大きく、振り上げた。

「虫がぁ!!」

 シンデレラの手が振り下ろされ、継母の胸ぐらを掴み降ろす。その勢いに継母のドレスは破け引き裂かれ、継母は姿勢を倒し、更に顔面に、シンデレラの膝蹴りが打ち上げられた。跳ね上がる頭を、髪を、握り掴まれ、継母は歪み崩れた顔を燃え盛るお屋敷へ向けられる。

「見ろよ。どうなってんのか分かれクソが……燃えてんだよ! あたしん屋敷がよお! 父さんが建てた屋敷が! 母さんが愛した庭が! 轟々音ぉ立ててよぉ! バカか!? あたしがなんだってテメェ等バカ親子のお守りしてやってたと思うんだ!? 屋敷守んのに必要だったからだ! それが見ろ! 燃えてやがる! ハッ! バカか。どーすんだこれ。どーすんだよ!!」

「ど……あ、なたが、燃やしたんでしょ」

「ほざけ!」

 再度継母の頭がシンデレラの膝蹴りに打ち付けられ、継母は地の上へ、ポイと捨てやられた。

「あーあ……」

 シンデレラは途方に暮れたように、燃え盛るお屋敷と庭を眺める。ドロシーはこそこそとバイクの回収に向かった。業火に包まれたお屋敷の内側から、何か爆発音が聞こえる。何が爆発したのか、わからない。お屋敷の屋根が焼け崩れ、シンデレラの母の墓石の上に、覆い被さる。墓の隣のハシバミの木が、塵となって消えていく。

「……はっ……ははは」

 乾いた笑いがシンデレラの口から漏れ出した。

「は……なんだこれ。なんだこの、自由な気分は。意味わかんないよ。あたしは……」

 全ての過去が塵となって消えていく。ただ灰となって降り注ぐ。そして彼女を覆い隠す。

「シンデレラ、か……悪くない。悪く……」

 青空へと吸い込まれていく炎を、煙を、塵を、シンデレラは歪んだ笑みで見つめ、遠く、見送った。




 童話シンデレラ。エラは幼い頃に母を亡くし、継母と二人の姉から虐待を受けて育った。部屋は奪われ、寝床も与えられず、消えた暖炉のそばで僅かに残った灰の温もりの中で夜を凌ぐ。いつしか灰にまみれたエラはシンデレラと呼ばれ、継母と二人の姉の散財により家政婦も雇えなくなった屋敷で、召使として家の仕事の全てを一人で行うことを強制される。
 父親が遠く仕事に出かけることになったある日、姉達は高価な宝石をねだり、対してシンデレラは出先で帽子に枝が刺さることがあったらそれを、と願う。それは皮肉で言ったのかもしれない。しかし父親は確かに枝の一本、ハシバミの枝を土産として持ち帰り、シンデレラにそれを渡した。
 ハシバミの枝は母の墓のそばへ植えられ、シンデレラは毎日墓と枝の様子を見に行った。枝は見る見るうちに木となり、大きく育ち、やがて鳥達を引き寄せるようになった。鳥達はシンデレラに親切で、必要なものを何でも持ってきてくれる。舞踏会の日、シンデレラを助け、ドレスと靴をくれたのも鳥達だった。
 さてシンデレラの話というと、主に取り上げられるのはこの後からの展開となりますが、あるいはここまでの展開こそが要の部分であるのかもしれません。シンデレラの実の母は何が原因で死に、継母と二人の姉は何故に、シンデレラのことをそれほどまでに嫌悪したのか。
 ハシバミの木、一説によればそれは魔法の木であり、また一説によれば相続の象徴であるとされています。そしてその木を植えることは、実の母が死の間際にシンデレラに言い渡したことでした。合わせて考えると、シンデレラの実の母はシンデレラに何かしらの力を譲り渡したと考えることができます。また鳥や鼠を使役する力というのはメルヘン世界でこそ優しさの象徴のように描かれますが、実のところ魔の力に他なりません。継母や二人の姉がシンデレラを嫌っていたのは、魔の力を有していた者の娘であり、シンデレラ自身にも魔の力があるのではないかと、そう考えていたからなのかもしれません。
 といったところで、ここからが今回の創作です。ゲーム内討伐クエストでも登場をする怪鳥マルファス。ソロモン七十二柱の内序列三十九番目に位置する悪魔ですが、シンデレラの実の母はこの悪魔と契約を交わしていて、それ故に短命で亡くなったという設定です。悪魔マルファスとの契約はハシバミの木によりシンデレラに引き継がれ、シンデレラもまたマルファスとの契約により、その権能にあやかっていました。
 マルファスの権能は第一には城や塔を建造する能力ですが、他に敵の願望や思惑についての情報を教えもたらす能力や、優れた使い魔を与える能力といったものもあります。シンデレラが使役する鼠や烏はまさにそれで、王子の心を掴むことができたのもその権能によるところであるかもしれません。まぁ完全なるこじ付けなのですが、その方が面白いですよね。シンデレラ悪魔崇拝者説論者はそのように語ります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

過失者を罰せ

「んくぁっ!」

 荒い呼吸と共に、冷えた空気が流れ込んでくる。まるで幾らかの距離を全力疾走してきたかのような、感覚。私は……アイスを手に、ベンチに腰掛けていた。さっき……背後で車が爆発したのを聞いた……赤ずきんが、爆発したのを……夢か。

「あー」

 ふと気がつくと、小さな少女が私の正面に立ち、口を開けてじっとこちらを見つめていた。

「なんだ。迷子か?」

「あいごじゃないよ」

 なら、なんなんだ、と言い掛けて、彼女の視線に気付いた。私のアイスを見つめている。

「これが欲しいのか?」

「欲しいなぁ」

「ほら」

 アイスを差し出すと、彼女はアイスを掴み取り、ニタッと笑った。

「あんがと」

 そして走り去っていく。私は何をすれば良いか分からなかった。こんな場所、初めてきたものだから……遊園地なんてな。

「……とりあえず」

 ベンチを立ち、あたりを見渡す。メリーゴーランドや、お化け屋敷、小さな象の乗り物が見える。

「探すか」

 自分でそう呟いて、それから、誰を探すのか考えていた。頭がぼんやりとする。誰を……あぁ、そうだ。いばら姫だ。何処か……きっと何処かで、ふっ、眠っているな。探しに行こう。

 宇宙船の形をした揺れる小屋の前を通り、パークの端を進んでいく。背の高い生垣が壁を作っていて、少し行くと、何重にも続くハート型のアーチがあった。

「こういった場所は、やはり一人で来るものではないな」

 ハートのアーチを抜け出すと、そこには高くそびえる塔があった。看板が出ている。『愛のバンジージャンプ』という、アトラクションらしい。

「ぎゃーーっ!」

 悲鳴。それは空から聞こえ、あっという間に近づき、私の隣にベシャリと広がった。赤い、人間だったもの。

「やめてくれー!」

 何が起こってるんだ。私は思うよりも先に、塔の中へ、その階段を駆け上がっていた。息が上がりそうになる。階段を上がり切り、私はそれを目撃した。

「やめてくれー!」

「大丈夫ですよ。安心して」

 遊園地スタッフの格好をしたラプンツェルが、騒ぐ男を抱きしめなだめつつ、安全ベルトを装着させている。

「しっかりと付けておきますからね。大丈夫ですよ」

 きちんと仕事を、している……と、アラームが鳴り出した。

「さぁみなさん、足場が傾きますよ。いってらっしゃーい♪」

「ちょっと待って! こっちベルトまだ!」

 女の声が聞こえた。ラプンツェルがレバーを引く。アトラクション参加者達の足場が大きく傾く。安全ロープベルトをつけた男達が、安全ロープベルトをつけていない女達が、落下していく。

「ぎゃーー!!」

 絶叫。女達の最後の叫びが小玉する。悲鳴。あまりにも無関心な虐殺。

「さあ、次の皆さんどうぞこちらへ」

 足場が戻り、次の客達がジャンプ位置に向かう。

「ラプンツェル! 止めろ! 中止だ! 何をしてるんだ!」

「あら、スノウさん。スノウさんも遊んでいきます?」

「遊んでいきますじゃない! ロープ付けずに落ちていったぞ!」

「え!?」

 ラプンツェルは驚いたような顔でしゃがみ、塔の下を覗き込むと、青ざめて私を見上げた。

「どうしましょう!」

 手を口に当て、まさか、わざとじゃないのか。

「落ちた人間はもう助からない。即死だろう。ともかく、このアトラクションは中止にするんだ」

「そうですねっ。まずは中止に」

「おーい! お姉さん次はまだかい!?」

「あっ、はーい」

 ラプンツェルが笑顔で次の男性客達の方へ駆けていく。

「おい!」

「行ってらっしゃーい!」

 足場がガタッと、消え去る。

「おまっ」

 私は間一髪、柵の足につかまり、落下を免れた。

「ラプンツェル!」

「さあ次の方、しっかりベルトをつけましょうね」

「おい!」

「大丈夫ですよ。怖くない怖くない」

 聞いていない。

「さぁ、これで大丈夫。行ってらっしゃーい」

「ちょっとわた、わっ、ぎゃーーっ!」

 また女が、命綱一本なく、落下していく。

「ラプンツェル!!」

 私は腕に力を入れ、足場に跳び戻り、ライブラリの弓を出した。弓を引き、構え、ラプンツェルに狙いを定める。

「今すぐ中止するんだ!」

「きゃあっ!」

 ラプンツェルが走り出す。そして、男達を避け、女達にはぶつかり、女達が弾かれ、落下していく。くそっ!

「止まれ!」

「助けて!」

 ラプンツェルが小さな少女のいる方へ向かっていく。手にはアイスが。あの子は。

「止まれと言っている!」

 弓を放つ。弓は迷いなく、ラプンツェルの胸元へ。そしてその心臓を貫き、跳ねる身体を足場の外へ、押し出した。

「あっ」

 さえずる小鳥が私を見つめる。その目には純粋な恐怖が、浮かんでいたように思う。もしかすると飛んで逃げて行ってはくれないだろうか。しかし、次の瞬間にはもう、ラプンツェルの姿は消えていた。

「くっ……」

 気が付けば、客達が私を見ている。あの、少女も……違う。これで良かった。飛んで逃げてはくれないだろうか、など、私は。足が、あの少女の元へ向かっている。私はアイスを持つ少女の前で屈み、何か、声を掛けた。




 七人の小人:ドーピー(おとぼけ)。ラプンツェルには悪意がない。他者を傷つける気もない。そして相手が女性となると、命ある者だという認識すらなくなってしまうようだ。最低限の安全への注意を掛けることすらなくなってしまう。罰だ。罰を与え、注意をするべきことだと意識をしてもらわなければならない。そうだろう?
 スノウホワイトはまたも、眠ってしまっていたようです。赤ずきんを見殺しにしたのは夢の中での出来事だったと分かって、安心をします。くるみ割り人形を殺してしまう夢を見て、起きたと思ったらそれも夢の中で、ようやく悪夢から抜け出せた、と。しかし楽し気な遊園地で、スノウホワイトが安らぎを得ることはありませんでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ターニングタイム03【欺瞞の日】

 タイムホールの渦中を、タイムバイクマシーンは走り巡っていく。その上でアリスはターニングタイムを知らせる懐中時計をぼんやりと見つめ、ドロシーはシンデレラの屋敷からいつの間にかくすねてきた瓶入りジャムを指で掬い舐めていた。

「あと何ヶ所のターニングタイムを変えるの?」

「さぁー。未来のわたしに聞いてみなければわかりませんね。ですが今その確認に必要な未来は存在をしない状態ですので、それは不可能です」

「ターニングタイムを全て変えると、世界を正常な状態に戻せるってことでいいの? 確認だけど」

「少し違います。新たな非存在を生み出すいばら姫さんの夢を停止させなければ、やはり世界を正常な状態に戻すことはできません。そして現状いばら姫さんに干渉することが出来る可能性のある人はスノウさんただ一人。ターニングタイムの改変は世界の非存在の存在を棄却しひいてはいばら姫さんを非存在側から存在側へ引っ張り上げるものです。それによりスノウさんがいばら姫さんへと到達する確率が上昇し、作戦の成功へと近づくのです」

「あと3回言ってもらえたら理解出来そう」

「いいですよ、何回でも解説しましょう。ですが今はもう時間がないみたいです。次の目的地が見えてきました」

 タイムホールの先に空間が開き、夜空の星を映す鏡にも似た長方形の池が見えてくる。池の先には巨大な黄金の象の像が座禅を組み、鼻から水を噴き出していた。

「滑走路に最適ですね!」

「絶対ぶつかるやつだ」

 タイムホールから銀のバイクが飛び出す。銀のバイクは浅い池の水を弾き飛ばしながら車輪を緩め、ちょうど黄金象の像の鼻の下で停止した。

「どうですかアリスさん! この完璧な計算!」

 ドロシーがドヤ顔で振り返る。するとそこには、象の鼻の噴水からの水をもろに被るアリスの姿があった。

「ドロシーの計算にはいつもドロシーしか入ってないことは良く分かった」

「あはは。そこら辺ぐるぐる回って乾かせばいいと思いますよ」

 アリスは深く溜め息をつく。そしてバイクから降り、池の外へ出て服を絞りだした。辺りはペルシャ式庭園。暖かな炎の光にほんのりと照らされ、長方形の池を中心に石畳の間を水路が伸び、左右対称に設置された緑に命を伝えている。壁の向こうには黄金色に輝くドーム状の屋根が見え、どうやらここは宮殿内にある中庭のようだった。

「さーて今回の推理はぁ」

 ドロシーが呟きながら銀のバイクから降り、方向を変え、池の外へと押し上げていく。

「私達はキャラクターズの痕跡を追ってターニングタイムを探していますからね。ここが誰に関わるターニングタイムかはすでに明確。そして皆さんの基本的なストーリーは研究済みです。場所はここ宮殿内。時刻は二十時辺りといったところでしょうか。とすると、なるほど、わかりました。私の趣味ではありませんが仕方ありません」

「何を言ってるのかまるで分らないんだけど」

「そこで何をしている!」

 庭園の入り口に衛兵が現れ、サーベルを振りかざした。更に数人の衛兵が現れ、庭園へ入ってくる。ドロシーは両手を上げ、アリスは相変わらず服の水を絞り、二人は衛兵達に囲まれた。

「おまえ達何者だ! その乗り物はなんだ!」

「私達はですね」

 ドロシーの袖から金色のボールペンが飛び出す。そしてドロシーがボールペンのボタンを押すと、一瞬、辺りに眩い光が発せられた。

「私達は王子の客人です。ちょっと夜の散歩をしていただけですので、お気になさらないでください。ついでにバイク見張っててくれると助かります」

 衛兵達は口をぽかんと開けたまま、こくこくと頷く。そして二人に道を開けた。

「さぁアリスさん、行きましょう。手遅れになる前に」

「……なんでわたし濡れてるの?」

「さっき池で転んだんですよ」

「そっか」

「そうですそうです」

 二人は宮殿内へと進み、ドームの部屋を目指した。

.

「元々私は大臣の御子息と結婚をするはずだったのです」

 目尻の美しい満月のような美女はそう呟いて、小さく溜め息を漏らした。彼女はこの国の王女である、バドル・アル・ブドゥル姫だ。姫は自室で二人の客人に話しかけていた。二人の客人とは誰か。言うまでもない。二人はテーブルを挟んで姫の向かいに座り、ジャスミンティーを啜っていた。

「はずだった。順調に進んでいた人生設計が破綻してしまったようなおっしゃい方ですね?」

 ドロシーは一国の姫を前にしても臆することなく、いつもの調子で切り返す。いつもの、人をイラつかせる調子で。

「そんなことは……」

「ないですか?」

「……ですが、彼のことは幼い頃より知っておりましたし、特別親しかったわけではありませんが、大臣の側で礼儀正しく澄ましているのをよく見ました。本を手に勉学に励む姿もしばしば。ですから彼との結婚の話が上がった時、不満はなかったのです」

「そこへ突然何処の国の王子かもわからぬアラジンさんが現れ、途方もない財宝と引き換えにあなたとの結婚を取り付けたわけですね」

「……富は、身分と精神における高潔さの証明です。私達の国家は必ず民の為に良きことを行うのですから、その為に富は潤沢なほど好ましいのです。そこには何の疑問もありません」

「そこには、ですね。ではどこに疑問が?」

「ドロシー、ちょっと失礼過ぎない?」

 アリスがドロシーを小突くが、ドロシーはむしろそのことの方に疑問を浮かべる。

「いえ、いいのです。ドクターが言う通りです。さすが父上の信頼するドクター……ドクター、何様でしたでしょうか?」

「ドクターだけで結構です。さぁそれで、アラジンさんとの結婚で疑問に感じる部分をお話しください。全て話すことが精神の安定に繋がりますよ」

「はい……大臣の御子息と結婚することになった日の夜の事です。私は彼のベッドで二人と国の今後について話していました。そこへ突然、燃え上がるような赤い皮膚をした巨大な魔人が現れたのです。魔人は私と彼をベッドごと連れ去り、朝になるまで暗く寒い壁の中に閉じ込めました。そして言うのです。この結婚は国家の破滅をもたらすと。彼とは別に王になるに相応しい人間がいると。そのようなことが数日間続きました。可哀想な彼はすっかり怯えてしまい、魔人の言う通りこの結婚は間違いだと。私も彼が恐怖で死んでしまったらと思い、結婚の話はなかったこととなりました。そこへ現れたのがアラジン様です。アラジン様はこの国の全財産をも上回る、いえ、周辺諸国の全ての富を上回るほどの富を手にしていました。父上は当然、大変喜びまして。アラジン様との結婚はすぐに決まったのです。彼は私の欲するもの、国の欲するもの、民の欲するもの、その全てを何でも快くもたらしてくれました。宮殿の召使の者が粗相を起こしても怒ること一つせず、盗人にさえもう盗みをする必要がないよう十分な賃金の仕事を与え、国の外の野獣も一晩で根絶やしに。アラジン様は正しく、これ以上なく王となるに相応しい人物でした」

「なるほど。魔人の言っていた通りの人が現れた、そういうことですね」

「……いえ、私は何を。アラジン様が初めから仕組んでいたなんて、そんなことあるはずがないのです。あんなに優しい人が。今だって私と国の為に自らルフ鳥の卵を取りに行ってくれているというのに。忘れてください。今のは流石に、私の勝手な妄想を話し過ぎてしまいました。ルフ鳥の卵さえこの部屋に飾れば、全て上手くいくのです」

 ドロシーの服の内側から機械的な回転作動音が響き出す。ドロシーが懐中時計を取り出すと、文字盤の上で十数の針が狂ったように回転し、その時の到来を知らせていた。

「忘れてくださいますね?」

「忘れるのは姫様の方みたいですね」

 ドロシーが金のボールペンを取り出す。アリスはとっさに顔を背け、瞼を固く閉じた。ボールペンのボタンが押され、辺りが光に包まれる。

「ドロシー、そのピカッてやつ、やる時ちゃんと言ってくれない?」

「さっきこの部屋に入るとき説明したではありませんか。だから今瞼を閉じたんじゃありません?」

「そうだけど」

「あの、あなた方は……」

 バドル姫がドロシーとアリスを訝しげに見つめる。バドル姫の記憶から、二人のことはすっかりと消え去っていた。

「私はドクターです。こちらはコンパニオンのアリスさん。今ちょうどあなたの診療が」

「ピカッと光るものというのはいったい」

「……あー」

 ドロシーが再び金のボールペンを取り出し、慌て瞼を閉じるアリス。辺りに白い光が広がる。

「ドロシー!」

 光が収まったところでアリスが抗議の声を上げた。ドロシーが手で謝るジェスチャーを形だけ送り、バドル姫に微笑みを向ける。

「はい、それでは今日のマッサージはこれで終わりです。私と助手のアリスさんは部屋の窓から出ていきますが、私達は入退室を窓から行うのが通常ですので、気になさらないでください。それではまた来週お伺いいたします」

 ドロシーが椅子を立ち、アリスも何か言いたさを残しながら、しかし余計なことは言わないよう口を固くつぐんで立ち上がる。バドル姫は口をぽかんと開けたまま、窓から部屋を去る二人を目だけで追った。

「バドル姫!」

 部屋の扉が勢い良く開き、まるで宝石のような着物を土埃塗れに汚したアラジンが現れた。両手には何か大きなものを、真紅の布に包み持っている。

「アラジン様! よくぞご無事で、あぁ、何というお姿、お怪我はありませんか?」

「ノープロブレムさ。それよりこれだよ。見て欲しい」

 アラジンは絨毯が汚れるのも気にせず、バドル姫の隣までやってくると手に持っていた物の包みを取り払った。現れたのは、この世の何よりも純白に輝く、巨大な卵。ルフ鳥の卵だった。

「まぁなんと美しい」

 バドル姫は思わず手を伸ばし、卵に触れる。それはダイヤのような硬さで、それでいて産まれたばかりの赤子の肌のような、傷というものを知らない触り心地がした。

「姫、ロープは用意しておいてくれたかい?」

「ええ。ご自身で括り上げるのですか?」

「もちろんさ。最終フェーズまで僕一人の手でね」

 アラジンは微笑み、バドル姫から縄を受け取るとそれを卵に巻き始めた。

「聖女ファーティマがアドバイスしてくれたのはこういうことさ。わかったんだ。僕は僕一人の力で君に何かしてあげたかった。従者を使うのではなくね。チームでのプロジェクトでもなくさ。それなのに、そのことに気付かずにいたんだ。それが欠けていたんだよ。僕に、そして僕ときみの間に、ひいてはこの国に。こいつを飾れば、全てパーフェクトさ。きっと、うまくいく」

「アラジン様……」

 アラジンがニコッと微笑み、縄を括り付けたルフ鳥の卵をドームの天井へ吊り上げていく。そして高く高く釣り上げたところで、縄を柱へ固く結び、上着を降ろしてバドル姫を抱き寄せた。

「さあ、聖女ファーティマのアドバイス通りにしたさ。もう何も不足を感じない。満ち足りたフィーリングだ。きみの名のように」

 アラジンの懐から魔法のランプが取り出され、テーブルの上に置かれる。

「はい、アラジン様」

 ゆったりと踊るように、二人はベッドへと歩み寄り、その上へ倒れ込んだ。

「バドル。船の上で考えたのはきみと見る夕陽さ。太陽が水面へと沈むその瞬間、世界の全てが赤く暖かな光に包まれるんだ。いつかきみとその光の中で寄り添いたい」

「是非。あなたの見たもの全て、私もこの目で見てみたいです」

「あぁ、その美しい瞳で」

 アラジンがバドル姫に覆い被さる。その時だった。ビギィ! 大地が数キロに渡って一気に地割れを起こすような音が響き渡る。しかしそれは地からの音ではない。

「なんだ!?」

体を起こし、ドームの天井を仰いだアラジンはそれを目にして固まった。ドームの天井で卵からルフ鳥の雛が孵っている。雛とはいえ卵から孵ったルフ鳥は瞬く間に巨大化し、翼を広げたその姿はすでに人の三倍ほどもあった。

「アラジン様!」

 ゴォギィィィィィ!! 雷のような鳴き声が部屋中を震わせる。アラジンはルフ鳥を見たまま辺りを手探りしていた。

「ランプ、ランプはどこだ!?」

 ランプはルフ鳥の真下、テーブルの上にある。

「アラジン様あの鳥を退治してください!」

 ゴィギィィィ!! ルフ鳥が口を大きく開ける。そして翼を羽ばたかせ、天井すれすれまで舞い上がった。

「きゃあああああああ!」

 バンッ! 部屋の窓が勢いよく開く。そこには謎の装置を背負う、ドロシーとアリスの姿があった。

「アリスさん今です!」

「あの、何も見てないから」

 二人、装置から伸びるホース、その先の銃器を天井のルフ鳥に向ける。そしてその引き金を引くと、赤いレーザー光線が伸びルフ鳥に命中した。ルフ鳥は痺れながらも鳴き叫び、その叫びが部屋中のものを震い揺らす。

「アリスさん! このまま下へ下へ、降ろします! 交差しないように気を付けてください!」

「了解」

 二本のレザー光線で捕らえられたルフ鳥が天井から床へ、降下していく。

「アラジンさんトドメをお願いできます!?」

「あ、ああ!」

「アラジン様、私の飾り刀をお使いください」

「使わせてもらうよ」

 バドル姫からシャムシールを受け取り、アラジンはシャムシールを逆手に、柄の底に手を添え押し込むようにしてルフ鳥の首を刺し貫いた。

 ッググィギィアァッ! 産まれたばかりのルフ鳥が断末魔を上げる。同時に、アラジンは後方へと吹き飛んだ。

「アラジン様!」

「ちょっと痺れると思うので気を付けてくださいねぇ」

「忠告が遅過ぎる」

 ルフ鳥が痙攣を繰り返し、やがてその瞳から生命の輝きは消え去った。

「アリスさんもういいですよ」

「うん」

 謎の攻撃捕獲装置からレーザー光線が止む。ドロシーとアリスは銃器を背中の装置に固定し、ふぅ、と一息ついた。

「キミ達はいったい……」

 吹き飛ばされていたアラジンが起き上がる。

「アラジン様、お怪我はありませんか?」

 バドル姫がアラジンに歩み寄り、アラジンはバドル姫の手を取ると、優しく微笑んだ。

「ちょっと痺れただけさ。心配ありがとう」

「あぁ、良かったです」

 心底ほっとした表情を浮かべるバドル姫とアラジン。二人はお互いの気持ちを確かめ合うように、その瞳を見つめ合った。

「ん?」

 ドロシーが懐から懐中時計を取り出す。文字盤の上で無数の針が、先ほどにも増して荒ぶり狂い回っている。

「キミ達、感謝するよ」

 アラジンがバドル姫から離れ、先ほどテーブルの上に置いたランプを左手に取る。

「何者かは全くわからないが、そんなことはノープロブレムさ。インセンティブを用意するよ。何か欲しいものはあるかい? 黄金でも宝石でも、何でも好きなものを言ってくれ」

 アラジンの指が袖下でランプを擦る。

「お礼は要らない。わたし達は先を急いでるから」

「なんて謙虚なんだ。しかしせめて何か」

 アラジンが右手を差し出す。その袖から蒼い煙が揺らぎ漏れ、かと思うと煙は人の頭の形となり、そこに髭を生やした男の顔が浮かび上がった。

「んん!?」

 男の顔が口を曲げ、眉を吊り上げ、喉の奥から声を漏らした。

「おっおい、姫の前で姿を見せるな」

 アラジンが小声で手の平の頭に言う。しかし男の顔は口を開けたまま、首をぐるりと回し、アラジンを見上げた。

「なんだぁこれは?」

 アラジンの袖から爆風のように青い煙が噴き出す。気が付くと煙は巨大な蒼い男の姿となり、ルフ鳥の死体を抱え上げていた。

「おい魔人!」

「なんてことをしてくれた!!!」

 アラジンの叫びをかき消すような咆哮とも呼べる大声で、蒼い魔人は宮殿中を震わせた。

「アラジン様!」

 バドル姫がアラジンの背後に隠れる。

「だ、大丈夫。ノープロブレムさ。彼は僕のエージェントで」

「わかっているのか!!! ルフ鳥様は私の至上の御主人様だぞ!!! それを、ああ!!! 殺したのか!!! どうなるかわかってるのか!!? アラジンよ!!!」

 宮殿中が揺れる中、アラジンは口をへの字に曲げ、少しばかり縮こまってしまっていた。

「ど、どうなるんだい?」

「私が……俺様が、解放される」

 アラジンの左手のランプが破裂する。破片がアラジンの手に突き刺さり、アラジンは痛みに顔をしかめた。

「おおおおおおおおおおおおお!!!」

 宮殿中がひと際大きく震え揺れ、魔人の蒼い身体が一瞬にして赤く燃え上がる。額からは二本の巨大な角が生え、十本の爪は一本一本が野獣の牙のように伸び上がった。

「王の娘よ、その男には何もない。全ては俺様の力。全ては俺様の財。今教えてやる」

 紅い魔人が大きく息を吸い込みだす。すると枕元の財宝から、天井のシャンデリアから、壁の絵画から、部屋中のものが魔人の口に吸い込まれだした。

「やめろ! やめるんだ魔人!」

 ベッドが浮き上がり、屈んだアラジンとバドル姫の頭上を飛び過ぎていく。壁紙がはがれ、アリスとドロシーの足元の床石さえも崩れ浮き上がり、魔人の口へ吸い込まれていく。部屋中のもの、宮殿中のありとあらゆるものが魔人の口に吸い込まれていく。

「何が起こっているのか、解説が必要ですか!?」

 荒れ狂う家具と財宝と石材の間でドロシーが声を上げた。

「いらない!」

「いいでしょう! アラジンさんの力、その正体は魔法のランプに閉じ込められた魔人の力に他なりません! 閉じ込められるのにはそれなりの理由があるんですよ! 即ち罪人! どうにもルフ鳥が封印者として位置づけられていたようですね! それ故にルフ鳥及びランプの持ち主には逆らえなかった! ですが! ルフ鳥殺しを現主人が行ったとなれば契約は強制解除状態に! かくして魔人イフリートは魔法のランプの封印から解き放たれたのです!」

「解説いらないって言ったけど!?」

 あらゆるものが吹き荒び、まるで竜巻の中。かと思うと次の瞬間には静まり返り。魔人イフリートの姿は消え去っていた。あるのはただ、四人の前にぽつりと立つ小さな仕立屋。アラジンの服装もいつの間にやら、薄布を纏った貧民の様相へと変わり果てていた。

「これは、どうなっているのですか。アラジン様、あの魔人はいったい」

「これがこの男の本来の家、そして本来の身分さ」

 魔人の声。しかしその声は、アラジンの口から発せられたものだった。アラジンの瞳が、紅く揺らいでいる。

「あぁ、叶えた願いの分だけ、この身体は良く馴染む。いつかこの男の心が壊れたならば、少しずつ精神を乗っ取れば良いと考えていた。しかし時を待たず、このような幸運が訪れようとは。正に良いことはするものだ、だな」

 アラジンが豪快な笑い声を上げる。ドロシーはバドル姫の服を摘み、自分達の側へ引き寄せた。

「イフリートさん、ご機嫌のところ申し訳ないのですが、もう一度封印されてはくれないでしょうか」

「お安い御用さ、とはとても言えないな。何、案ずるな。今すぐお前達を取って食おうなどとは考えていない。まずはじっくりと人間達に、その無能さを気付かせてやるつもりだ。無能で低脳な人間共に身の程というものをアガガガガガガッ」

 突如としてイフリートが電流に包まれる。ドロシーが冷めた表情で銃器から赤いレーザー光線を放っていた。

「あーあ、ドロシーの地雷踏むから」

「アリスさん、捕獲装置を」

「了解」

 アリスが長方体の物体をアラジンの足元まで蹴り滑らせる。その箱にはコードが付いていて、コードの先には踏み込みスイッチが付いていた。

「人類の英知をお見せしましょう」

 ドロシーが踏み込みスイッチを踏み、すると箱の上部が開き、空間を吸い込み始めた。

「アリスさん、お片付けの時間です」

「おもちゃはおもちゃ箱に、ね」

 アリスも銃器よりレーザー光線を発し、アラジンに命中させた。

「アヌグアガガガガガガ!」

「引っ張って〜、引っ張って〜」

 二本のレーザー光線がアラジンの身体からイフリートを引っ張り出す。

「なアガ! なングアだこゲグあ!?」

 イフリートの全身が引っ張りだされ、そしてそのまま箱の中へ、スポッ、と吸い込まれた。ドロシーがスイッチから足を離し、箱の蓋が閉じる。箱は少しの間ガタガタと揺れ、やがて静かに動きを止めた。

「人間を馬鹿にするのは構いません。ですが人間を馬鹿にする時は、きちんとドロシーさんを除いて、と補足するべきです」

「意外とプライドが高い」

 アラジンがばたりと倒れる。

「アラジン様!」

 アラジンへ駆け寄るバドル姫に、ドロシーとアリスは顔を見合わせた。

「アラジン様、あぁ、生きていらっしゃいますか? 生きていてください」

 アリスが箱を回収し、少し揺する。中から小さくイフリートの声が聞こえた。

「安心してください。死んではいませんよ」

 ドロシーはバドル姫の背後で立ち止まると、金のボールペンを取り出した。

「ですがあんなに電流を受けて」

 振り返るバドル姫の視界が白い光に包まれる。やがてドロシーの姿が視界に戻り、しかしバドル姫はぽかんと口を開け、固まったままだった。

「姫様、あなたはアラジンさんの優しさに惹かれ、アラジンさんと結婚をしたのです。今もアラジンさんが命がけで姫様のことを助けてくれました。王の宮殿へ連れ帰って介抱してあげてください。きっと良い夫婦になります」

「はい……」

 ドロシーは口だけ笑みを浮かべ、懐中時計を取り出した。文字盤の無数の針からは、先ほどまでの乱れ様はなくなっている。

「ドロシー、ここでのミッションは完了?」

「そうですね。そのようです」

 その時、世界が揺れ始めた。アリスはとっさに手にした箱を見る。が、変化はない。ドロシーは懐中時計を、しかしそちらも、急変はしていない。

「アリスさん、とりあえず逃げましょうか」

 ドロシーは落ち着いた様子でつぶやくと、アリスの腕を掴んで猛ダッシュし始めた。

「ちょっ、ドロシー!?」

「想定以上にのんびりしていられない状況の様です!」

 揺れる世界、二人の背後から一際大きな振動が近づいてくる。アリスは走りながら後方を見るが、何もいない。しかし、地面に巨大な足跡が、その足跡だけが、近づいてくる。

「何かいる!」

「だから逃げてるんですよ!」

 魔人の力でほとんど何もなくなった荒野の先に、銀色のバイクが止まっている。

「やはり魔人が吸い込んだのは自分の力で造り出したものだけです! おまけに倒れてない! ツいてますね私達!」

「踏み潰されなければね!」

 二人は全力で走り、バイクタイムマシーンに飛び乗った。ドロシーがエンジンを噴かす。巨大な足跡が近づいてくる。

「ドロシー早く!」

「機械は女性を扱うようにって言いますでしょう?」

「ドロシーが女性を扱うように?」

「え? あぁ、まぁ」

「ならこう!」

 アリスがバイクのエンジンを箱で殴り叩く!

「ああ!」

 エンジンから煙が噴き出す。そして急発進。直後バイクのあった場所に巨大な足跡が付いた。

「なんて乱暴な!」

「同感!」

 ドロシーがマシーンを操作し、前方にタイムホールの入り口が開く。足跡が速度を増し追ってくる。二人を乗せたバイクはタイムホールへ飛び込み、足跡は空を踏んだ。




 アラジンと魔法のランプ。後略。仕立屋の息子、アラジンは大変な怠け者だった。父が死ぬも仕事を継ぐことなく、怠けて暮らす毎日。仕立屋も売り払ったある日、魔法使いの男が現れアラジンを秘密の宝物庫の入口へと連れていく。その宝物庫はアラジンの祖先が隠したもので、子孫であるアラジンにしか開くことのできないものだった。魔法使いから魔法の指輪を渡されたアラジンは魔法のランプを手に入れ、しかし堪え性のない魔法使いはアラジンを宝物庫に閉じ込めてしまう。が、アラジンは指輪の魔人の力で宝物庫から脱出し、難なく帰宅した。アラジンの母が汚れたランプを擦ると、ランプの魔人が現れる。母は驚きで気絶し、代わりにアラジンがランプの魔人の主人となった。アラジンは姫の水浴びを覗き見て、一目惚れし、姫と結婚をしようとしていた大臣の息子を魔人の力で脅す。そうして姫との結婚を取り付けた。
 アラジンと姫の結婚を知った魔法使いは怒り、ランプ交換人の振りをして魔法のランプを奪い取った。魔法使いはランプの魔人の力で姫も宮殿ごと奪い取ってしまう。アラジンは姫と魔法のランプを取り戻すため、指輪の魔人の力で奪われた宮殿に侵入し、姫を助け、指輪の魔人が作った毒薬で魔法使いを殺した。再び魔法のランプを手中に収め、アラジンは姫と幸せに暮らした。
 前回シンデレラを死の運命から救ったアリスとドロシーが、今度はバドル姫を死の運命から救いました。代わりに魔人が解き放たれてしまったのですが、まぁそれもゴーストバスター装備で何とかなったわけで。
 ランプの魔人は原作の描写で言うと、大鍋のような恐ろしい顔をした黒い大男で、赤い大きな目をした鬼神(イフリート)とあります。またイフリート自体は最初の人間アダムに跪くことを拒絶し天界から追放された堕天使や、ソロモン王との契約違反により封印された魔神とも。どうしてルフ鳥がご主人なのかわかりませんけど。ソロモン王の生まれ変わりがルフ鳥だったりしたんでしょうかね。
 ともかくランプの魔人は基本的に、ルフ鳥に歯向かうことはできません。それが何故、地上に突き刺さった月人の船内でアラジンはルフ鳥と戦えたのか。あの時既に、姫を失った悲しみでアラジンは正気を失い、半ばランプの魔人に身体を奪われていました。つまりランプの魔人はランプの魔人でなくなることによって、ルフ鳥に攻撃の手を向けることができたのです。あれはアラジンによる仇討ちであり、同時にランプの魔人による報復であったということです。あの時のアラジンがしばしば「お安い御用さ」と口にしたのはそういうことだったのですね。アラジンでも魔人でもない、何かになっていたのでした。
 プロトンパックを背負いニューラライザーで記憶を消して回るタイムロードロシーの旅は続きます。可哀想なアリスを連れて。バックトゥザフューチャー、メンインブラック、ゴーストバスターズ、ドクターフーに敬意を表して。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断罪者を罰せ

 逆さになった車が燃えている。潰れた運転席には微かに、人の形が黒く、残っていた。私は……いつからこうして、この燃える車を見ていただろう。夢を見ていた気がする……確か、そうだ。ラプンツェルが……あれは夢だったのか。良かった……いや、なら、こっちが現実か……最悪だ。

 爆発音が聞こえる。そういえば、辺りがやけに、赤い。見渡してみると、燃えているのは車だけではなかった。町全体が燃えている。家々の窓からは火の手が上がり、店の看板は崩れ落ちていた。

「なんなんだこれは……」

「助けてくれー!」

 何処からか声が。行かねば。最後にもう一度、横目に赤ずきんの姿を捕らえ、私は声の方へと向かった。

 煮詰めた罪が沸き立つような風を感じる。誰がいったい町をこんな風に? しかし、一人でここまでに、出来ようはずもない。とすれば、いったい何が起こっている。

「ひょっほー!」

 路地裏から車が飛び出し、ハンドルを私のいる方へと切った。

「どけぇええ!!」

 突進してくる車を、転がり避ける。

「車道歩いてんじゃねぇよバーカ!」

 車に乗る男達が、何か、私に侮蔑を意味するハンドサインを向けるのが見えた。そのまま車は銀行へ突っ込み、閉じたシャッターを突き破る。あいつら!

 駆け出そうとしたその時だった。ゴゴオオオオォギギィギギギギィギィギギ……天から何か、凄まじい音が響き渡った。何か、巨大な門が開くような音。音の方、上空を見上げ…………あれは、なんだ。巨大な顔が、空から見下ろしている……いばら姫?

「うああああああああ!」

 視線を移すと、町の中心の方から一人の男が何かから逃げるように駆けてきた。その後からも家族連れやカップル達がこちらへ走り向かってくる。

「どうした! 何があった!」

「邪魔だ!」

 家族連れの男に伸ばした手を払い飛ばされる。

「おいっ、いったい何が!」

「うるさい!」

 カップルの女が私に肩をぶつけ、走り抜けていく。

「まさかいばら姫が……」

 私は気が付けば、町の中心へ走り向かっていた。火の粉と共に雑誌の切れ端が舞っていく。その文字が、脳裏に浮かび上がる。『世にも奇妙な喋る人形』『人真似人形』『偽りに満ちた生活』『人形を愛した異常な老人』『人形は見世物小屋へ』『人形好きは病院へ』『人間と一緒に働かせるな』『人形詐欺師』。

 道を抜け広場に出ると、そこでは人々が逃げまどい、その中心には憤怒の衝動そのものの姿があった。歪で醜悪な、長い鼻の木面を被った少年が、杖と、その杖に鎖で括り付けられた鉄球を振り回し、周囲のありとあらゆるものを破壊し、広場から逃げ出そうとする者を叩き潰している。

「ピノキオ……」

 あんなピノキオは見たことがない。しかしすぐに、彼だと分かった。ライブラリより剣を取り出す。なんとか、あの杖と鉄球を繋ぐ鎖さえ断ち切ることができれば。ピノキオは正気を失っているだけだ。

「踊れ! 生きたければ踊れ! 死にたければ逃げろ! 踊り疲れたら用済みだぜ! てめぇらが言ったことだ! 人形ほどの血と涙さえないクソ共が! 今日この裁きの時、オレがてめぇらを罰してやる! 差別主義者共を平等に、ブッ殺してやる!」

「ピノキオやめるんだ!」

 剣を構えピノキオに駆け寄ると、ピノキオは首を傾けこちらを見、私に向け一直線に鉄球を飛ばしてきた。鉄球を避け、鎖を断ち切るため剣を振る、が、ダメだっ! この鎖、硬いっ! 鉄球が戻ってくる。しゃがみ、剣だけを鎖に絡ませる。ライブラリから新たな剣を出し、ピノキオの元へ戻る鉄球を追うように駆け攻める。そして絡めとられた剣を避けたピノキオの隙を突き、私は剣を切り上げた。

「ぐっ」

 木面が割れ、ピノキオの素顔が現れる。かと思うと、ピノキオはへたりと膝から崩れ落ち、私はそれを支えた。

「大丈夫かピノキオ」

「スノウ、さん……僕はいったい」

「覚えていないのか?」

「はい……木のお面を被ったところまでは覚えているんです。でも、そこから後が……」

「そうか。おそらく、さっき割った仮面に操られて」

「なわけねぇだろ」

 鋭い痛みが胸を貫く。見れば、先程鎖に絡め取られた剣が、私の胸に深く突き刺さっていた。

「な……」

「オレの裁きを邪魔するな」

 ピノキオが杖を振り、鉄球が飛ぶ。鉄球は人混み目掛け進み、スマホでこちらを撮影していた女を叩き飛ばした。

「どうしてこんなことを」

「あぁ? そりゃ悪人に罰を与えるためさ。この町にいるのは全員悪人だ。長い間オレやゼペット爺さんを馬鹿にし、迫害し、権利を蔑ろにしてきた。誰もオレ達を救おうとなどせず、面白がって、ゼペット爺さんのことだって見殺しにしたんだ。だから罰を与えなくちゃいけねぇ。至極真っ当な理由さ」

「しかしだからと言って、命を奪うのは間違っている。法律を破ったわけでもないのに」

「おいおいおい! てめぇがそれ言うのか? あ? 正義さんよ。てめぇとオレは似た者同士だぜ。自分の基準でクズ共を裁く。法律なんざ糞食らえでよ。いつもそれやってんのはスノウ、てめぇの方じゃねぇか」

「違う。私は無闇に命を殺めたりなど」

「本当にそうか? 本当に、殺した奴全員、殺すだけの理由があったのか? 殺すまではしなくてもいい奴もいたんじゃないか?」

「違う。私は毎回仕方なく」

「仕方なくはいつものオレだぜ。攻撃されるから仕方なく。違う。てめぇはいつも自ら進んで正義を振りかざしてんだろ。それは仕方なくとは言わねぇよ。バカか。スノウ、素直になれよ。オレに嘘を付く必要はねぇ。オレはおまえの唯一の理解者だぜ、スノウホワイト。おまえはいつも正しいことをやってきた。オレを否定するな。それはおまえ自身の否定になる」

 何を……私を刺しておきながら……私の理解者だと……私が正しいと。

「……はっ。流石だ。流石、依存の名を持つだけのことはある」

「そうだぜ。オレは嘘つきだけどな。人を素直にさせてやるのは好きなんだ。オレには何も偽ったりしなくていい。てめぇはあるがままでいいのさ」

「思わず心を許してしまいそうになるな」

「それでいい! 安心しろ、急所は外したさ。オレもおまえも、何も間違っちゃいない。オレ達は何も悪くなんて」

「悪いが私は、私自身も許すつもりはない」

 ピノキオの首を掻っ切る。ピノキオが目を見開き、ゆっくりと、天を仰ぐ。口が笑っている。そう見えた。私の視界が揺れ、世界が白く消えていく。ピノキオが地に倒れるその一瞬前、私の意識が消えるその一瞬前、巨大な足が町を踏み潰す、そんなありもしないものを見た気がする。




 七人の小人:グランピー(おこりんぼ)。ピノキオは時々急にキレる。その怒りは割と正当なものだ。しかしだからといって、相手に危害を加えていいことにはならない。正義は冷静さの中で行われるべきだ。感情的に行われたそれは、裁きとは言わない。そうだろう?
 スノウホワイトは目を覚まします。また、眠っていました。また、夢の中での出来事でした。悪意のないラプンツェルを殺してはいなかったと、安堵します。ですが、目の前には赤ずきんの焼死体が。くるみ割り人形の夢から覚め、赤ずきんの夢から覚め、ラプンツェルの夢から覚め、しかし赤ずきんの夢は、夢ではなく現実?スノウホワイトの心は再び、締め紐を巻きつけられたように苦しめられます。しかしそんなことを気にしていられる状態ではありませんでした。町は燃え、人々の助けが響き渡っていました。スノウホワイトは正義を胸に、正義をこそ心そのものとし、その先へと進んだのです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ターニングタイム04【冒涜の日】

「そろそろ四つ目のターニングタイム付近に到着しますよ」

 タイムホールの渦中を進む、タイムバイクマシーン。そしてドロシーとアリス。アリスは退屈そうに魔人イフリートの入った箱を揺すっている。

「……三つ目じゃなくて?」

「四つ目です。一つ目はほら、アリスさんが私に裁かれてた裁判」

「え、じゃあ一つはドロシー自身のせいってこと?」

「せいっていうのは違いますよ。人聞きが悪いですね」

「……」

「ほら、出口が開きましたよ、ってこれは」

「え、あ、ちょっと」

 タイムホールから銀のバイクが飛び出す、とそのまま夜の荒れ狂う海面へ一直線!

「ドロシー!」

「私の名前は万能の呪文じゃないですよ!」

 海面にタイムホールが出現する。銀のバイクは再びタイムホールに突入した。

「ですが私は万能です!」

「心臓に悪い」

「ちょっと調整しますかね~」

 ドロシーがタイムバイクマシーンの設定を弄る。

「海でしたけど、まぁ海ということは、辿り着いたのは彼女の痕跡でしょうね。そうしまして、彼女が陸に上がる前ということですから、つまり、なるほど」

「相変わらず人に伝わらない独り言」

「船があるはずということですよ。そしてその船が沈まないようにするのが今回のミッションです」

「何をすればいいかはわかった。というか沈むんだ」

「沈まないようにするんですって」

 タイムホールの出口が見えてくる。今度は暖かな灯りに照らされた船の甲板が見えてきた。大勢の人々がシャンパンを片手に談笑し、楽し気な音楽に合わせてダンスをしている。

「船の沈没を防ぐ前に乗客全員轢き殺す予定?」

「物騒ですねアリスさんどいてくださああああい!!!」

 ドロシーが下唇を噛み、タイムホールから飛び出したバイクを必死の形相で操作する。湧き上がる悲鳴。銀のバイクは人々の間を縫うように進み、船内へと続く扉の前でぎりぎり停止した。

「ふーう! どうですかアリスさん私のテクニックは!」

 ドロシーが振り返ると、そこにはシャンパンまみれになったアリスの顔があった。

「わざとやってます?」

「それこっちのセリフ」

 二人、バイクから降り、そして自分達を凝視し囁く乗客たちの方を向いた。

「皆さんご無礼をお許しください。王子様いますー?」

「わ、私だが」

 人だかりがさっと左右に広がり、パーティの主催者、海辺の国の王子が姿を現す。

「あぁそこにいらっしゃいましたか」

 ドロシーはにこっとして言うと、金のボールペンを取り掲げた。

「ちょっ」

 辺りが眩い光に包まれる。光が収まると、王子を含め人々は口をぽかんと開けていた。

「えー皆さん、私達は街の天才科学者とその助手です。王子様、今日はお招きいただきありがとうございます。本日の空模様は嵐の予感。その時が来ましたら皆さん我々の指示に従ってください。その為に招かれた者ですので」

 ドロシーがスパッと説明すると、人々はこくこくと頷いた。

「ドロシー、わたし髪が何だか変な匂いするんだけど」

「さっき付けた香水じゃないですか?」

「……そっか」

 ドロシーが手をパンッパンッと叩く。

「さぁ皆さんパーティを再開しましょう。生きているうちに」

 こくりと、人々は頷く。そして少し戸惑いのある調子で演奏が再開し、すぐに人々も元のパーティに戻った。遠い空ではすでに、黒い雲が渦を巻き始めている。

「キミ達、その機械はいったいなんだい?」

 そう言って近づいてきたのは王子だった。ドロシーは深々とお辞儀をし、シャンパンまみれのアリスもそれに倣う。

「王子様~、流石にお目が高い。これはあらゆる時空を飛び回ることのできるタイムマシーンなのですよ?」

「タイムマシーン? ハハッ、面白そうだ。乗っていいかい?」

「ダメです」

 ドロシーが金のボールペンのボタンを押す。光が周囲を一瞬白く変え、王子は再度直前の記憶を喪失した。

「これは王子様が気にするようなマシーンではありません。気にしないでください。いいですね?」

 王子はこくこくと頷く。

「よろしい。それじゃアリスさん、調査と行きましょうか」

「わたし髪が何だか変な」

「香水です香水」

 その時、トランペットの悲鳴が船上に響き渡った。ドロシーの懐からモーター音が。懐中時計を取り出すと、文字盤の上では無数の針が猛回転していた。雨が一滴二滴、懐中時計を濡らしたかと思うと、途端に土砂降りの雨に変化する。

「竜巻が来るぞおおおお!!」

 男の叫びが響き、同時に強風が船上を襲いだした。何人か海上を指差し、見ればその方向には巨大な竜巻が吹き荒れ、船に向かってきている。竜巻はあるものを巻き込んでいて、そのあるものというのは通常あり得ないことだが、無数の鮫であった。

「シャークネードだ! シャークネードが来るぞ!!」

 ドロシーは片眉を上げ、竜巻を見つめる。

「どうしてこんなところに」

「え?」

 ドロシーが金のボールペンを

「させない」

 アリスはドロシーの手を掴み、金のボールペンのボタンが押されるのを防いだ。

「どうしました?」

「とぼけないで。今、どうしてこんなところにって。あれは何なの?」

「シャークネードですよ。鮫を含んだ竜巻です。知りません?」

「そうじゃなくて。いや知らないけど。まるで逃げた自分のペットを見つけたみたいな言い方」

「……今日は勘がいいですね」

「説明して」

「そこまでおっしゃるのでしたら。ええ、あのシャークネードは私が創ったものです。時空を開く怪物、鍵穴たるシャーク・ジラーの断片でしょう。ハーフナイトメアと化したアリスさんの一撃が鍵となり、鍵穴は時空の扉を開き、同時にシャーク・ジラーはいくつかのシャークネードとなってあらゆる時間へ飛び散ったのです。それがたまたまこの時間に現れたなんて、どうして、と思いまして」

「やっぱりドロシーのせいだった」

「ですからそうではないんですって。人聞きが悪いですよ」

「人の意見なんて気にしたことないでしょ」

「まぁそうです」

 ドロシーはけろっとして言い放ち、銀のバイクの後部座席を上に開く。そして何か十字型のものを取り出し、掲げた。

「テレレレッ♪ ドローン・シー爆弾~」

「……何それ」

「水分、塩分に強いドローン爆弾です」

「え、わたし爆弾の上に座ってたの?」

「まずこの起動スイッチをオンにします」

「聞いてない」

「そうしてあとは目標を設定して……それっ」

 ドロシーがドローンを雨降る天へ投げ上げる。すると十字型のそれは四方にプロペラを展開し、向かい来る竜巻へ向かって一直線に飛び進んでいった。

「あれで竜巻を消せるの?」

「消せるはずです。熱ではなく冷気を生む、超強力な爆弾ですので。普通の爆弾千個分くらいの威力です」

「なんてものの上に乗せてくれてたの」

「今回のターニングタイムはこれにて終了。科学の前に困難はありません」

「聞いてない」

 満足そうに懐中時計を眺める、ドロシー。シャークネードが内側から爆発し、暗雲さえも吹き飛ばす。そして晴れた空からは、鮫の残骸が降り注いだ。

「魚臭い」

「魚ですからねぇ……ぁあら?」

 懐中時計の文字盤の上、無数の針の回転は、しかし多少なりとも静まる気配というのがまるで見られない。ドロシーは顔を上げた。すると進行方向の海上に、青白い稲妻が走る。かと思うとその場所には、先程と同じ竜巻、シャークネードが再発生していた。再び天が暗雲に覆われ、雨が、大粒の雨が降り注ぐ。

「どうなってるの」

「今の発生の仕方からしましても、自然発生にはもちろん見えませんし、偶然また天文学的な確率でこの時間に別の分化シャークネードが飛ばされてきたか、あるいは何か、運命力のようなものがいよいよ働き出したか、つまり決まった未来へ事象が引き寄せられる現象ですが、しかしだとすれば私の見た類人猿への支配種シフトも生じなかったはず、とすれば、答えは一つではないでしょうか」

「つまり?」

「つまり、何者かが、シャークネードを呼んでいるのです。悲劇を望む、何者かが」

「……凄く分かりやすい」

 アリスは荒れる海上に視線を向けた。海面に一瞬、人影が覗く。その人影はその海模様にも関わらず、まるで溺れている素振りはないように見えた。

「人魚姫」

 シャークネードが再び船に迫り来る。

「ドロシー、とりあえずさっきの爆弾を」

「ありませんよ」

「え?」

「一機しかありませんでしたから」

「……どうするの」

「一旦逃げましょう」

 ドロシーはそう言ってタイムバイクマシーンに跨った。

「凄いチート感」

 アリスも人々を横目に銀のバイクに跨る。シャークネードはもうすぐそこに。バイクはエンジンを噴かし、向きを変え、船の先頭へ向かい走り出した。人々が船に掴まる中、鮫が降ってくる。その鮫を弾き飛ばし、そして、宙へ飛び出した! タイムホールが出現し、その中へ飛び込む。閉じるタイムホールの先で、船が風と鮫によって解体されていくのが見えた。

「またしても危機一髪でしたね」

 タイムホールの中、ドロシーはほっと一息をつく。

「犯人は人魚姫なの?」

「人魚、といいますか主にはセイレーンですが、彼女達はその歌声によって嵐を呼ぶと言い伝えられています。時空を超えるシャークネードまで呼び寄せられるとは初耳ですが、時空を超えるシャークネードなど私が初めて創り出したものでしょうから、その情報がないことに関しましては不思議ではありませんね。あり得ないとは言い切れないことが実際に起きたのならば、あり得ることとして捉えた方が効率的でしょう」

「それじゃあ、またあの場所に戻って、今度は竜巻が来る前に人魚姫を始末する?」

「またまた物騒ですね、アリスさん。そうしましょう」

 タイムホールに出口が開く。また、人々は鮫竜巻が来るとも知らず、シャンパンを片手に音楽とダンスを楽しんでいる。

「もし轢いちゃったらまたやり直しましょう」

「ゲーム感覚やめて」

「もしですよ。もし轢いてしまったらで皆さんどいてくださああああああい!!」

 タイムバイクマシーンが船の甲板へ飛び出す。悲鳴が上がる中、銀のバイクは人々の間を縫うように走り、船内へと続く扉ぎりぎりで停止した。

「どうですかアリスさん! 私の操縦テクニック、ますます腕が上がっている気がしますけど!」

 ドロシーが後ろを振り向くと、そこにはローストビーフを頭に乗せたアリスの姿があった。

「同意しかねる」

「あー、シャンパンよりマシでは?」

「……シャンパンってなに?」

「時間がありません、早いところ人魚姫さんを捕らえましょう」

「何か隠してる」

「メンヘラ彼女みたいなこと言わないでください」

「わたしはメンヘラじゃない」

「なんなんだきみ達は」

 気付けば二人は人々に囲われていた。その中から声をかけてきたのは、海辺の国の王子。ドロシーは迷うことなく金のボールペンを取り出した。

「アリスさん目を」

「初めて事前に言ってくれた気がする」

 アリスが目を閉じ、ドロシーは金のボールペンのボタンを押す。眩い光が辺りを包み、人々は口をぽかんと開けた。

「どうも皆さん。私達は伝説の人魚ハンター、ドロシー&アリスです。この度は王子様、お招きいただきありがとうございます。早速ですが近くに人魚の気配がありますので、そうですね、王子様、お手伝いしていただけますか?」

「あ、ああ。人魚か。面白そうだね」

「王子様はなかなか探求心の強い方のようで、素晴らしい。それでは私の指示に従ってください。まずはロープを、あの、どなたかロープ持ってますぅ?」

 そうして、ドロシーによる人魚姫捕獲作戦は始まった。

.

 金のボールペンには直前の記憶を消す効果と、短時間、人の話をもっともだと思わせる効果がある。後者の効果は副次的なもので、脳が失った記憶を補うため情報を欲する故のものだった。ドロシーはその効果を最大限活かし、王子の身体にロープを巻き付けた。乗客にも手伝わせ、今、ロープを巻き付けた王子を夜の海へと降ろしていく。王子で人魚を釣る、人魚釣り作戦だった。

「雑過ぎでしょ」

「試行は回数を重ねる度に洗練されていくもの。初めの試行が大雑把な仕方であるのは自然なことです」

「倫理的配慮が欠如してる」

「邪魔なものは無い方が良いですからね」

「サイコパスだ」

「うあっ! 冷たいぞ!」

 着水した王子が声を上げた。

「冷たいのはわかっていまーす! 人魚に助けを求めてくださーい!」

「わかった! おーい! 助けてくれ人魚よぉ!」

「素直で可愛い王子様ですね」

「どちらかというと可哀想」

 しばらくすると、それまで助けを呼んでいた王子の姿が海に沈んだ。

「今です! 皆さん網を投げて!」

 ドロシーの合図でアリスと乗客達が網を投げる。網が荒波に飛び込むと、海の中から小さく悲鳴が聞こえた。

「かかりました! 引き上げてください!」

 引き上げられる、網。そこには確かな重み、王子のだけでない重みがあった。

「どっこいしょーどっこいしょ!」

「ドロシーも手伝って」

「あと少しですよ口より体動かしてください!」

「そのまま返したい」

 ドスッと船に網が上げられる。網の中には王子と、そして身体半分が魚の人魚姫の姿があった。

「な、なんなんですかこれ」

 人魚姫は怯え、震えている。

「さ、寒い。毛布とココアを持ってきてくれ」

 王子も凍え、震えていた。

「皆さん王子様に労いを。人魚姫さんは私達が処置します」

「処置って!?」

 怯える人魚姫に、ドロシーはニッコリと微笑みかける。

 王子と人魚姫は網から外へ出され、人魚姫は縄で縛られ、口に布を詰め込まれた。

「さぁてこれで、海の怪、人魚姫も嵐を呼ぶことはできません。此度のターニングタイムもサクッと解決。問題解決は天才ドロシーにお任せ。余った時間でディナータイムにでもしましょうか。天才の頭脳には栄養が必要です」

 ドロシーは上機嫌で懐中時計を取り出す。まるで普通の時計で、夕食の時間の訪れを確認するように。しかしドロシーが文字盤を眺めていると、無数の針はその回転速度を増し、振動し始めた。

「あんら~ん?」

 ゴロゴロと、遠く空から音がする。星空が暗雲に覆われていく。風が、船を揺らす。

「ドロシー、私の勘が正しければ、事態は悪化してる」

「悪化の現れか若しくは真の解決の予兆か、その判断は慎重に行わなければなりませんよ、アリスさん」

 その時、凄まじい雷鳴が響き、ドロシーの顔を黄色く照らした。アリスが振り返ると海上にはシャークネードが。そして雨がスコールのように降り始める。

「やっぱり悪化だと思うけど」

「撤退しましょう!」

 ドロシーが銀のバイクに駆けていく。

「はぁ」

「アリスさん! 人魚姫さんも連れてきてください! 何か知っています!」

「人魚姫も?」

 アリスの視線に、人魚姫はフルフルと首を左右に振った。

「何も知らなさそうだけど」

「何かに使えます!」

「……わたしを恨まないでね」

「んー!」

 アリスは人魚姫を抱え、タイムバイクマシーンに向かった。

「シャークネードだ! シャークネードが来るぞ!!」

 船員が叫ぶ。銀のバイクはドロシーとアリス、そしてアリスに抱えられた人魚姫を乗せ、煙を噴かした。人魚姫の口から布が飛び出し、同時にバイクは走り出す。

「なんで! ここ船の上ですけど! 私をどうするつもり!?」

「三枚におろします!」

「ええ!?」

「おろさないから……あんまりピチピチ跳ねないで」

「私を魚扱いしないでください!」

 銀のバイクが船の外へ飛び出す。

「きゃああああああ!!」

「あなたは海に落ちても問題ないでしょ」

「あ、そうでした」

 銀のバイクがタイムホールに突入する。そして……タイムホールの中、辺りには静寂が広がった。

「……え? なんですかここ? なんですかこの……空間」

 アリスの腕の上で、人魚姫は辺りをきょろきょろと見まわし、困惑している。

「時間と空間の狭間ですよ」

「あぁ……え?」

「そんなことより人魚姫さん、あのシャークネードについて、知っていることを話してください」

「……シャークネードって何?」

「ようやく普通の反応に出会えた」

「とぼけても無駄です。ってこれ、一回言ってみたかったんですよね。そうではなくて。あの鮫竜巻について、知っていることを教えてください。あれはあなたの住んでいた海域ではよく発生をするものですか? 若しくは、誰かがあれを呼び寄せているなら、その誰かについて、心当たりを教えてほしいのです」

「竜巻自体は……よくある。そういう海です。だから珍しいことではありません」

「まるで船を狙うように突如として発生しましたけど?」

「そんなこと言われても……そんなこと、私にはできませんし。姉達にだってできません」

「しかしあのシャークネードの発生の仕方は、とても自然なものには見えませんでしたよ。ある種の召喚術、そんな感じです」

「召喚術……それは魔術ということでしょうか」

「何か心あたりが?」

「……さっき、少し香りがしました。どこかで嗅いだ香り、と思って。今、魔術という言葉で思い出しました。あれは遺骸の魔女の香り。宮殿に彼女が現れたとき、ええ、あの時の香り。間違いありません」

「なるほど。人魚姫さん、その匂いでも見た目でもいいですけれど、船の何処にその遺骸の魔女がいるか探し当てられます?」

「たぶん」

「グレートです」

 ドロシーが銀のバイクのエンジンを噴かす。タイムホールの先に、船への出口が開く。

「じゃっ、行ってみましょうか」

「え、向こうに人がたくさん。船の上? だめ、轢いちゃう。ねえ! 加害者にはなりたくない!」

「被害者ならいいみたいな言い方」

「もちろん!」

 船上へ銀のバイクが飛び出す。人々が談笑し、歌い踊る船上へ。

「どいてえええええ!!」

 人魚姫が大声で叫び、人々もまた叫びを上げながら道を空けていった。そして銀のバイクは船内へと続く扉ぎりぎりで停止する。

「一度目の偶然を、二度目、必然に変えます。それが天才です。そして三度目、初めの偶然はもはやオートマチックな工程として、いくらかの注意さえ必要としません。それがこの天才ドロシーですよ」

 ドロシーがドヤ顔で振り返ると、人魚姫の姿はなく、アリスはその頬に赤い尾鰭の跡をつけていた。

「意図せずされたビンタの中で一番痛い」

「たぶん全部意図されてますよ」

 ドロシーは悪気なく言って、そして辺りを見渡した。ディナーテーブルの上に人魚姫が横たわっている。人々は空間の裂け目から突如として現れた銀のバイクと、半分人間半分魚の人魚姫と、どちらに視線を向けるべきか船上で目を泳がせていた。

「あー皆さんごめんあそばせ~? 私達魚料理の宅配に来たんじゃないんでしてね~?」

 ドロシーとアリスは銀のバイクから降り、人々の間を進む。そして人魚姫のすぐ側まで近づくと、ドロシーは金のボールペンを掲げた。

「アリスさん、ピカりますよ」

「了解」

 目を閉じる、アリス。そして辺りは一瞬、忘却の白い光に包まれた。夜の闇と、月の光、火の灯りが戻り、人々はぽかんと口を開けている。ドロシーは手をパンパンと叩き、人々の注意を自分に向けた。

「えー皆さん、私達は魔女ハンターのドロシー&アリスwithダウジング人魚姫です。早速ですがこの船に魔女が紛れ込んでいます。魔女はこの船に竜巻を招き沈没させるつもりなので、捕らえて悪さをするのを食い止めます。皆さんどうぞご協力を」

 人々はドロシーの協力要請に、こくこくと頷く。ただ人魚姫だけは、若干の困惑を浮かべていた。

「あ、あの、私なんで船の上に。人間に姿を見られてはいけないのに」

「人魚姫さん、今、あなたは人々を救うために必要だからここにいます。さぁ、嗅覚を研ぎ澄ませてください。この船に遺骸の魔女がいます」

「え? 遺骸の魔女が? でも……本当だわ。この香り。海の中よりはっきりしてる」

「今この場にいそうですか? それとも船内に?」

「……ここにいる」

 人魚姫が腕を上げる。そして腕を振り、人だかりの方を指差した。身に覚えのない者達はさぁーと左右に避け広がり、そうして、ハープ奏者の女が一人、残された。

「彼女が遺骸の魔女です!」

「……」

 ゆったりとしたドレスのその女は二歩三歩、後退る。

「捕らえてください!」

 ドロシーの指示に乗客達は女に掴みかかり、複数人で両腕を抑え込んだ。ハープが床に転がり、女はそのハープを目で追っていく。

「うーんなるほど。実にわかりやすい反応です」

 ドロシーは言いながら女に歩み寄り、ハープを拾い上げた。

「このハープの音色で竜巻を呼んでいた。そうですね?」

「そんなこと、できるわけありませんわ、ハンターさん」

「そうでしょうか」

 ドロシーは何を思ってか、一瞬しゃがみ込むと女のドレスの裾を掴み、上へ持ち上げた。

「ぎゃー!」

 それはドロシーの野蛮な行為に対する叫びではなく、女のドレスの中に隠されていた決して人間のものではない、触手の形状をした脚部に対して発せられた人々の驚愕の叫びだった。

「アリスさん拘束を!」

「ラジャー」

 アリスがライブラリから蒼い斧を取り出し、その柄を船床に叩きつける。すると遺骸の魔女の周囲に複数本の鎖が伸び上がり、赤いドレスに包まれた身体と、そのぬめつく触手を拘束した。

「束縛は見せしめの火炙り刑に似てる」

「メンヘラポエムいただきました!」

「わたしはメンヘラじゃない」

 鎖に束縛された遺骸の魔女は眉間に皺を寄せ、身体を捩る。しかしそうすることで蒼い鎖は逆に、より複雑に絡み付き、ついに指を動かすことさえも禁じた。

「おや?」

 ドロシーが遺骸の魔女の指から、指輪を抜き取る。月に照らし見ると、そこには小さく文字が刻まれていて、一部文字が欠けているが、何か冒涜的な言葉に続いて「秘密教団」と刻印されていた。

「……ん?」

 そして違和感があった。ドロシーだけではない。その違和感はアリスを始め、そこにいる誰もが抱いていた。まず明らかなこととして、一切の風が消え去っていた。船が移動をする乗り物である以上、必然的に生じるはずの空気の流れすらなく、しかしそれはあまりにも当然の理由によるものだった。船は波に揺られることすらなく、停止していたのだから。

「イア、イア、カトゥルー、ファタガン。イア、イア、カトゥルー、ファタガン」

 遺骸の魔女が呟いている。意味はともかく、その言葉が混沌や破滅といった、言い様のない恐ろしさと結び付いたものであることは、風に代わって辺りを包み込む冷たい空気の揺らぎとして、人々の肌に悍ましいほどの理解をもたらしていた。

「海が消えているぞ!」

 誰かがそう叫び、人々は皆船の縁へと集まった。船の周囲、いや、見渡す限り果てしなく、そこにあったはずの間違いなく海と呼べるものは痕跡すらなく、ただ何処までも続く単調な起伏として、世界には黒い泥の平原が広がっていた。信じられないことだが、船は動かずして座礁していたのである。

「ドロシー、何が起こってるの?」

「海底火山がかつてないほどの活性化をして、一瞬の内に、深海の底で何百年も眠っていた領域が隆起してきたのですよ、と言ったら信じますか? いいえ私は信じません。転移した可能性がありますね。船がではなく、空間自体が」

「いつにも増して理解に苦しむ」

「ええ、そうでしょう。これは私の勘、私ですら勘でしか語れないものですが、そうした理解を超えた現象です。そうして勘で語り始めたものは以降も勘でしか語れないわけですが……何か、来ます」

 ドロシーが泥の平原を遠く指差す。アリスは目を凝らした。空気中には黒い泥の平原より立ち昇る霧があり、目を凝らすうち気付いたことだが、その霧は酷い悪臭を含んでいた。死んだ魚の腐った匂い、あるいは、髄液が滴るままに放置され、死ぬことすら忘れた死体の匂い。やがて、霧の中に巨大な構造物が映し出されていく。霧により形がぼやけていくということが一般的だが、今、それはむしろ逆に働いていた。

「さっき、空間が転移した、そう言いましたが、少々訂正しましょう。今まさに転移しつつあります」

 ドロシーのそんな言葉も、アリスの耳にはほとんど入ってこなかった。巨大な構造物は黒く、薄れゆく月の光を反射して、白く輝いていた。形はと言えば、厚みのない長方形。ただそのように単純な形状であり、それ故に自然な岩の形であるわけはなく、同時に人類が意図して作り上げたものとしては、あまりにも機能性を有さない形状だった。あれは祭壇だ。遥か太古より、人智を超える者を崇める為のモノとして、誰に創造されたわけでもなく、始めから存在したモノ。今そこに存在するかはわからない、存在をしたとして距離的に見えるわけのない、崇拝者達の姿が、見える。崇拝の声が聞こえる。アリスは気付けば瞳の奥で、構造物を下から見上げていた。

「イア……イア……」

 呟くアリス、の頬をドロシーのビンタが襲う。

「痛……」

「アリスさん、あれはモノリスです。ただのモノリスです。あの程度で精神削られるとかメンヘラ過ぎでは?」

「わたしはメンヘラじゃない。今恐怖感よりもイラつきが勝った」

「それでよし!」

 ドロシーの懐から懐中時計のけたたましいモーター音が響く。

「あああああああああああああ!!」

 船の反対側で乗客の叫び声が聞こえた。アリスとドロシーは振り返り、そして、見上げた。

「ああ、あ」

「あああああああああ!」

 人々は皆、叫びを上げるか、あるいは声を失うか、もしくは人としての言葉を失っていた。あまりにも巨大な躰が船の脇に、船の縁に水掻きのある巨大な手を添え、見返しただけで気の遠くなるような瞳で、人々を見下ろしていた。船と同サイズの巨人であり、神話に語られるような魚人である。その常闇のような視線はあたかも時間を距離で捉えているようであり、そしてその感覚を強制する中で、遥か遠くから人々を傍観し、そうであるにも拘らず、すぐ背後で大口を開け、餌が自ら大いなる生命の輪の中に殉じ還ろうとするのを岩のようにじっと静観するような、無慈悲で無感情な、しかし敵意もない、原初の神にも似た様相を呈していた。

「アリスさん、あれを始末しますよ」

「正気?」

「正気だからこそでは。先行します」

 ドロシーがライブラリより、黒く輝く槍を取り出す。柄を握る腕は若干震え、しかしその表情には、好奇心に満ちた笑みが浮かび上がっていた。

「解体の時間です!」

 ドロシーが巨大な魚人へと立ち向かっていく。

「平時が狂気、なら恐怖感も探求心にすり替わって、警戒心すら感じない。やっぱり狂ってる」

 アリスはつぶやき、そしてライブラリより、刃の内に翡翠色の光の線を宿す槍を取り出した。

「ふぅ……」

 一息つき、天高く跳び上がる。巨大な腕を駆け上がるドロシーを眼下にちらりと映し、アリスは魚人の頭部を真正面から狙った。魚人は今、ドロシーの姿を目で追っている。チャンスだと、慢心していた。腕に力を入れた瞬間、魚人の片目だけがぎょろりとアリスを向いた。無数の牙が並ぶ口腔から舌が跳び出し、アリスはこれを槍でいなし避けるが、巻き戻りの際に脚を絡め取られてしまう。舌を槍で突くも、舌の表面には硬い棘がびっしりと並び、刃を受け付けなかった。口腔が迫る。アリスは狙いをつけ、槍を投げ放った。槍は魚人の片目を穿ち、アリスを掴む舌が緩む。アリスは落下し、間一髪船の外ではなく船のへりにぶち当たった。魚人の手が船のへりを引き、掴み上げ、揺らす。人々は船の上で壊れたピンボールのように転げ回り、ぶつかり合い、アリスもまた甲板を転げ回っていく。

「アリスさん遊んでないで手伝ってくれません!?」

 ドロシーは一人魚人と交戦し、ただ攻撃はほとんど通らず、巨大な水掻きのある手を、刃の付いた鞭のような舌を避けていた。

「遊んでない」

「イア、イア、カトゥルー、ファタガン」

 アリスが床にしがみつきつつ顔を上げると、そこにはピアノの上に腰掛ける人魚姫の姿があった。

「ねぇ、もしかしてあの怪物の方を応援してる?」

「え? いえ、だって、あの方は私達の海の守護者だし」

「どういうこと?」

「私も今全て理解したんです。船がやって来るたび嵐が多いとは思っていたけど、意味があった。遺骸の魔女の役割も。私は何も知らなかった。海の守護者、ダゴン様には生贄が必要だもの。遺骸の魔女は汚れ役を一人背負いこんでいて、それなのに私達は何も知らず、遺骸の魔女を忌み嫌ってきた。あぁ、可愛そうな遺骸の魔女。本当の悲劇のヒロインは彼女だったのね」

 人魚姫はそして、ぽろぽろと涙を流す。

「あなたの気になる王子様もこのままじゃ生贄の一人だけど?」

「愛した人は皆沈む。なんて悲しいのかしら」

「……ちょっとそのメンタル見習うべきかも」

「アリスさんガールズトークしてないで助けてくださーい!」

 ドロシーがダゴンの口の中、槍の上下を突き立ててなんとか食い止まっている。

「面白いからしばらく見ててもいい?」

「アズスーンアズポッセボー!」

「わたし数学の授業はきちんと聞いてたけど、英語の授業はあんまり」

「早く助けてください!」

「……仕方ない」

 アリスはライブラリより新たに鴉の頭蓋を模した槍を取り出し、船床に突き立て立ち上がると、ピアノに掴まった。

「人魚姫」

「なんでしょう」

「海の守護者がいなくなったら、あなたの世界はどうなるの?」

「……平穏が失われます。恵みが失われます。皆の顔から微笑みは失われ、争いと飢餓が私や私の家族、友人達を襲うでしょう……それってとっても」

「悲劇的」

 アリスの一言に、人魚姫はハッとした。

「人魚姫、あの魚人、ダゴンを倒すのを手伝って」

「どうして私がそんなこと」

「例えば、そこにハープが落ちてる。あなたが守護者様を応援するためにそれを弾いたなら、でも返ってそれは、わたし達に魔力として流れ込むかもしれない。その危険はあるとして、けどただ黙って守護者様を傍観するっていうのは、良くないんじゃない?」

「……そう、ですね。ダゴン様を応援しないと」

 アリスがハープを拾い差し出すと、人魚姫はハープを受け取り、そして細指を弦に絡ませた。ハープから、その種の楽器には似つかわしくない重々しい音色が奏でられる。音色は魔力となり、そしてアリスに流れ込む。

「あなたが仲間じゃなくて本当に良かった」

 アリスの身体が、闇鴉の槍が、紅く禍々しい呪いの色を帯びていく。

「アリスさあーん!!」

 ダゴンの口の中、槍を握るドロシーの腕は震え始めていた。

「ドロシー、それでいい……その位置がいい」

 アリスは槍を構え、しかしその構え方というのは敵を迎え討つ構えというよりは、投擲の構えであった。

「たーすーけぇてぇえくぁだあああ」

「あなたも魚人も……その位置がものすごくいい!!」

 アリスの手から槍が、呪いの一撃が放たれる。呪詛を纏った槍は真っ直ぐにダゴンの口へ。ダゴンの口の中のドロシーへ。

「なあああななななな!?」

 貫く。槍はドロシーの脇を擦り抜け、ダゴンの頭部に大穴を開けた。

「ひあああああ!」

 ドロシーがダゴンの口から飛び出し船上に戻る。ダゴンは後方へ倒れ行き、そして黒い泥の中へ、沈んでいった。

「あアリスさん! 殺されるかと思いましたよ!」

「まさか。殺意はあってもあなたを殺しはしない」

「殺意はあったんですね!?」

「ちょっとね」

 一陣の風が吹く。そして風が過ぎると、風音に変わって波音が帆を揺らした。空には星空が広がる。海の中では暗い深海の悲劇が、静かに幕を開けた。

「ドロシー、ここのターニングタイムはクリア?」

「そうですねぇ」

 ドロシーが懐中時計を取り出すと、文字盤の上、無数の針は若干の落ち着きを取り戻していた。

「針は荒ぶっています。ですが、ここは処置完了といったところでしょう。しかし時間も迫っています。時間をかけ過ぎたかもしれません」

 ガシャアアッ! と、何か、巨大なステンドグラスが打ち破られるような音がした。ただ星空が広がっているだけのはずの夜空から。そして巨大なガラス片が甲板に降り注ぐ。人々が逃げ惑う中アリスとドロシーが上空を見上げると、星空の一部が崩れ、その欠けた異様な空間の先に黒く輝く太陽が見えた。そしてあろうことか、その太陽には顔がある。顔といってもそれは、ただ何もない黒い窪みであり、しかし疑いようのないほどに、人間の頭蓋、髑髏の形状をしていた。

「アリスさん、バイクへ。長居は好ましくなさそうです」

「賛成」

 アリスとドロシーはバイクへと駆け寄る。夜天の髑髏の眼孔より、どろりとした、黒い液状の何かが、溢れ海に注がれる。そして波音と風音はいつしか、無数の悲鳴にすげ変わっていた。

「誰かが叫んでる!」

「ええ! しかもここには存在しない人間の叫びです! だからいけませんっ!」

 ドロシーとアリスは飛び乗るように銀のバイクに跨った。タイムバイクマシーンがエンジンを噴かし、前輪を上げる。

「離脱します!」

 そして走り出した。青ざめた顔で茫然と立ち尽くす人々の間を抜け、宙へ。そして現れたタイムホールの中へと飛び込んだ。




 ダゴン。ドイツ軍の捕虜となっていたその男は、脱走し、小舟で大洋を漂流していた。気付くと船は泥の大陸の上にあり、その果てしなく続く泥の平原は悪臭を放ち、得体のしれないものの死骸をそこかしこに突き出していた。男は救援の可能性を求め、歩き出す。やがて巨大な丘に、その頂上から続く峡谷にたどり着く。峡谷を下る中、白く輝くモノリスを発見し、そこに太古の文明を見た。そしてそれに出くわす。その鱗の生えた巨人は男に狂気をもたらし、人類の終焉を見せた。
 クトゥルフ神話においてダゴンは、地球の旧支配者たるクトゥルフを崇拝する神性であり、魚人として描かれる深き者共の統率者でもあります。『ダゴン』の後に描かれた『インスマスを覆う影』では深き者共の創設したダゴン秘密教団によってクトゥルフと共に崇拝される存在として描かれ、また漁村インスマスの人々に恵みをもたらす存在として描かれました。人々は恵みを得る代わり、やがて魚人へと変貌する宿命を負い、しかしその宿命は永遠の命を得ることでもあったので、教団の力は絶対的なものとなったのです。
 人魚の正体、ルーツについて、艦これの方の二次創作ではまた別のものでしたが、こちらでは深き者共が正に、そのルーツなのです。人魚達もかつては人間でしたが、ダゴンの恵みを得続けたことによって魚人となり、そして海底に棲むようになった、そういうわけです。ただダゴンは生贄を欲しますので、人魚の魔女は定期的に船舶を海に沈め、人々をダゴンへ捧げていたのです。その習わしを知る者は最早魔女の他、人魚の王のみ。人魚の王が地上の人間との接触を禁じていたのは、人魚達がやがて生贄となるかもしれない人間と親しくなってしまうのを防ぐためなのでした。
 ちなみに「イア、イア、カトゥルー、ファタガン」のセリフは映画の『DAGON』より。ダゴンとクトゥルフが混同されたような映画ですが、私は好きです。「くとぅるふ、ふたぐん」と言うより「カトゥルー、ファタガン」と言いたい派なのでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

感染者を罰せ

 耳鳴りがしていた。コンクリートの天井が見える。揺れている。しかし、なんだ。音が聞こえない。身体を起こそうとして、何か大きな衝撃が空間を襲い、私は横になっていたストレッチャーの上から弾き飛ばされた。

 あたりが粉塵に包まれている。床を這うように、部屋の端まで移動し、壁に手をつき立ち上がった。徐々に視界が晴れてくる。同時に、音も戻ってきた。何処からか破裂音や、爆発音、プロペラ機の音が聞こえてくる。そして発砲音と、男達の雄々しい叫び声、女子供の泣き叫ぶ悲鳴……混沌の音がする。

「早くいかなくては」

 今にも崩れ壊れてしまいそうなその場所から、私は壁を伝い、明かりの入ってきている方へと向かった。既にいたる箇所の壁、天井が崩れ壊れている。出口も、ああ、半壊している。しかしなんとか抜け出せそうだ。瓦礫をかき分けるように、私は外へと出た。

「撤退! 撤退! 死者を回収しろ! 奴等に渡すな! 回収車回せ!」

 街、いや、ここはもう、ただの瓦礫の山だ。瓦礫の合間を、戦闘服を着込んだ男達や非戦闘民の人々が走り逃げている。その反対方向では戦闘機が地上の何かへ向けて、銃撃を行なっていた。

「スノウそこにいたか」

 声に視線を向けると、戦闘服を着た仲間が私に近づいてきていた。

「すまない。気を失っていたらしい」

 男が私にサブマシンガンを差し出し、私はそれを受け取る。

「とりあえず一旦は凌いだ。が、第二波だ。こちらに向かって来ている。回収車の護衛を頼めるか?」

「ああ」

「頼んだぜ」

 彼はそして、また部隊の方へと戻っていく。これは最早、戦争だ。人類と、奴等との。これ以上奴等を増やすわけにはいかない。

 瓦礫の山を下ると、間もなくキャタピラ音と共に装甲回収車がやってきた。防護服に身を包んだ男達が遺体袋を担いで集まってくる。

「死亡確認医は?」

 開かれた荷台に遺体を積み込む男に尋ねる。男は遺体を投げ込むと、私を厄介そうに見やりながら、溜め息をついた。

「大丈夫っすよ。ちゃんと死んでます」

「全員外傷は重火器によるものだな?」

「俺は俺が詰めた奴しか知りませんよ」

「死亡確認医は何処にいる」

「荷台の中に」

「……やられたか」

「ええ」

「仕方ない。続けてくれ」

 助手席へ乗り込む。強化ガラス越しに荷台部分を振り返り見ると、いや、ほとんど何も見えなかった。天井部まで遺体が積みあげられ、いったい何体の遺体が積載されているのか、数えられる状態ではない。

「スノウさん、あなたが回収車の護衛に?」

 運転席へ防護服を着こんだ女が乗り込んできた。

「ああ」

「そうですか。助かります。宜しくお願いします」

 ゴーグルとマスクの奥で、彼女の表情は今この世界を包み込む分厚い灰の雲のように、深く沈み込んでいるように見える。確か、恋人がいたはず……聞かずにおこう。

「出します」

「ああ」

 彼女がエンジンをかけ、回収車は動きだす。瓦礫をキャタピラが踏み砕く、その振動が伝わってくる。

「救えたのはほんの数人だけです」

「そうか」

 一人でも救えたならそれは成果だ、初めはそう言えていた。しかし、仲間を失う内、そんなことは口に出せなくなってくる。それでも自分には、心の中では、そう言い聞かせていた。でなければ、全て意味がなくなってしまう。

「新しい秩序を」

 彼女の呟き。見れば道の先、崩れかけた壁に、赤いスプレーでその言葉が綴られていた。降伏派の連中の仕業だ。

「それは人類の秩序ではない。我々は人類だ」

「はい」

 荷台からゴトッ、と音がする。続いて、ゴトトッ、ゴトトッ、と……っ!

「車を止めろ!」

「はい!」

 急停止すると同時に車から飛び降り、後部へ駆けて荷台を開いた。

「へくちっ、へくちっ、へくちっ」

「くそ!!」

 遺体袋の間で子豚人間がくしゃみをしている。

「車から降りろ!」

 私は叫び、サブマシンガンを撃ち鳴らした。撃たれ跳ねる子豚人間を、確実に始末する。間に合っていてくれ!

「あぁ、う」

 子豚人間が倒れ込む。

「手榴弾行くぞ!」

 騒ぎを聞きつけた戦闘員が荷台に手榴弾を投げ込む。私達は走り逃げ、地に伏した。爆発音と共に回収車が内側から吹き飛び、炎上する。

「やったか?」

「ぎゃあ!」

 運転手の声。見ると子豚人間にのしかかられ、肩を食い千切られていた。

「野郎おお!」

 戦闘員の男が制圧に向かう。

「おなかがすいた」

「おなかがすいたよう」

 炎の中に少女の輪郭が浮かぶ。一つ、二つ、三つ。豚の耳を生やした、増殖する、同じ顔の子供達。奴等のくしゃみを浴びたなら、生者も死者も豚になる。世界の終末に現れた、人を食らい、人に成り代わる、感染生物。無限の子豚。

「食べ物だぁ」

「食べ物たくさん」

「うれしいなぁ」

 子豚達が四散する。銃声が聞こえる。悲鳴が聞こえる。戦闘員達が次々と、倒れていく。

 私は立ち上がり、厚い灰の雲を見上げた。いつの間にやら、赤褐色の剣を手にしている。飛び掛かりくる子豚を、真っ二つに。ああ、私は何をしているのだろう。

 気付けば頭から足の先まで、血塗れになり、私は無数の子豚達に囲まれていた。

「私達はただ食べているだけなのに」

「おなかがすいただけなのに」

「食べるのは悪いこと?」

「でも食べなきゃ生きていけない」

「どうしてあなたは私達を」

「殺すの?」

 ぽつり、ぽつりと、灰の雲から雨が降る。感情も、思考も、泥の城のように、崩れていく。

「人を食べてはいけない」

「人は豚を食べるよ?」

「病気を撒き散らしてはいけない」

「好きでしてるわけじゃないもん」

「人を不幸にしてはいけない」

「私達と一緒になれば、みんな幸せ。毎日楽しいの。あなたさえいなければ」

「そうだな」

 剣を振る。血を浴びる。灰の雨の中、決して流れ落ちることのない赤い滴りが、私を虐殺の剣と同じ色へ、染めていく。

「ああ…………ああああああああああああああああああああ」




 七人の小人:スニージー(くしゃみ)。子豚人間に敵意はない。奴等はただそういう存在なんだ。感染を広め、仲間を増やし、人を食う。そういう生き物だ。しかしだからといって、人類は種の保存の為、彼等を野放しにするわけにはいかない。我々が人類である限り、奴等は罪そのものだ。そうだろう?
 スノウホワイトは目覚め、すると今度は戦場の真っ只中にいます。ピノキオや赤ずきんを殺したのは夢の中での出来事だったのか、最早考えることすらありません。
 世界は、人類は、子豚人間、子豚ウイルスの脅威に晒されていました。子豚ウイルスに感染すると、人は直ちに子豚人間へと変化してしまいます。子豚人間はそして、人類を襲い、時には銃器さえ使いこなし、人類を捕食し、それと同時に噛み付いた相手、くしゃみを浴びせた相手を更なる子豚人間へと変化させていきます。その感染力は死体にも及ぶもので、子豚ウイルスに感染した死体は子豚人間として蘇るのでした。だからこそ、人々は死体を置き去りにせず、回収し、後から完全に燃やすのです。
 いったいこのウイルスはどこから来たのか。そう、このウイルスは不死薬の紛い物、その成れの果てです。それ故に死体まで蘇ってしまう。そういうものでした。
政府は遠に失われ、人類は各地を巡り、生き残りを集めています。しかし人類の中には、子豚人間とは戦わず降伏するべきという、降伏派と呼ばれる人々もいました。彼等の思想としては、子豚人間こそが人類よりもより完璧で幸福な種であり、皆子豚人間になるべきというものです。最後まで生き残る、その能力に長けた三匹の子豚が辿り着いたのは、ウイルスとして無数の人間を宿主とする在り方、「人間の家」だったのです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ターニングタイム05【堕落の日】

「ドロシー、あれはなんだったの」

 タイムホールの中、銀のバイクの後部席でアリスは尋ねた。

「あれってなんですか?」

「あれは……あれでしょ。だから、空に現れた骸骨、とか」

「ああ、あれですね……それこそ、あれ、としか形容し難いものでは?」

「急に海がなくなったり、巨大な魚人が現れたり、でもそれらと、あの骸骨や無数の悲鳴は、何か根本的に違う気がした」

「ええ。アラジンさんのターニングタイムをクリアした後に追ってきた、見えない巨人と同じ類いのものでしょう」

「だからそれが何かって聞いてるの」

「安易に言語化するべきではないと思いますけれどね。それでも仮に言葉を与えるとすれば、あれらは全て、世界の崩壊、それが現象化されたものですよ」

「関わりたいわけじゃないけど、私達の目的を考えると、あれらを放っておいていいの?」

「私達の目的はターニングタイムにて異常の原因を取り除くことです。結果に対して何かしらのアプローチを行うことではありませんし、そもそも、結果に対して為す術がない故に原因の方の処置を行なっているわけですから」

「なるほど……そういうことだったんだ」

「え? 今更ですか?」

「わたし数学以外はあんまり聞いてなかったから」

「そういう問題なのでしょうか。まぁともかく、そろそろです。気を引き締めていきましょう。ターニングタイムに関わる脅威といいますか、過去改変に対する反発力が大きくなってきている気がします」

「了解」

 タイムホールの出口が開く。その先は……暗い。闇だ。何も見てとることができない。

「すぐそこに壁がないことを祈りましょう」

 ドロシーはバイクのライトをつけ、少し速度を落とした。

 銀のバイクが暗闇の中へ飛び出す。そして十数メートル走り、停止した。

「ふぅ」

 ドロシーがバイクから降り、靴を鳴らす。足元から硬い音がし、そこがどうやら人工物の内部であることはわかった。

「アリスさん、ちょっと目を閉じてください」

「わかった」

 ドロシーが金のボールペンを取り出し、ボタンを押す。辺りは一瞬忘却の白い閃光に包まれ、ドロシーとアリスの目蓋の外側で、その広い空間の左右の壁際に並べ遺棄された人型の骸の数々が映し出された。辺りは再び闇に包まれる。

「わたし達も目を閉じるんだし、意味ないんじゃ?」

「暗闇の怪物が突然の来訪者を今まさに食い殺そうとしていたかもしれませんよ」

「なるほど」

 その時、前方から機械の作動音が聞こえた。おそらく自動扉の開閉音と思われる、そんな音。

「もう一度ピカります」

「どうぞ」

 再び辺りを白い閃光が包む。空間に変化は、ない。

「行きましょう」

 ドロシーは銀のバイクに備え付けられていた懐中電灯を手に取り、後部席から降りたアリスと共に歩き出した。数十メートルを歩き、金属製の壁、同質の扉に辿り着く。ドロシーが扉に手を伸ばすと、扉は先ほど聴こえたのと同じ音を立て、開いた。そして仄暗い緑色の明かりに照らされた狭い通路が現れる。ドロシーの視線が通路の隅々を観察する。やがて通路の一角に歩み寄り、そこにあった透明な材質の小窓から外を眺めた。ドロシーの瞳に青い星、地球の、その巨大な地の塊の三分の一ほどが映り込む。

「どうやらここは宇宙船の中のようですね」

 そう言ってアリスに場所を譲り、窓の外を眺めさせた。アリスは窓の外の地球と、地平線、星々を見つめ、壁に手を添える。その光景はあまりにも美しく、時を忘れさせ、息をつくことさえ忘れさせるような、そんな壮大さがあった…………その背後を、天井の通気口から黒い触手が狙う。

 ギシャアアア! 黒い触手がアリスの首目掛け跳びかかる。その瞬間、ドロシーがライブラリよりダガーを引き抜き、触手を宙で切り裂いた。

「え!?」

 触手が半身を残し逃げ去っていく。それは黒い蛇が数匹絡み合ったような動作をしており、明らかに生物としての挙動であり、しかし同時に、その形状に対して異様な素早さを有していた。ドロシーがしゃがみ、切断した触手の先を掴み上げる。断面からは粘性の高い青い血が滴り落ち、まだ少しビクビクと身を震わせていた。

「な、なにそれ」

「なんでしょうね」

 ドロシーの探求の瞳が得たばかりのサンプルを観察する。黒い触手は植物の蔦のような硬さをしていて、同時に人の髪のような質感をしていた。手の中でうねるそれをドロシーは両手で掴み、左右に引き延ばす。断面から青い粘液が絞り出され、床に垂れていく。しゃがみ見ると、床が若干の白い湯気を上げ溶けていた。

「どうにもこれは酸性の液体のようですね。舐めない方がよさそうです」

「舐めるっていう選択肢が入ってるのどうなの」

「しかもこの床の構造物質、金属は、なんでしょう。あまり一般的なものではないようです。かなり丈夫な、しかしそれを溶かすこの粘液。さっきの扉の音は入ってきた音ではなく出ていった音? するとこの生物は暗闇で活動できる。けれどニューラライザーは効かない。つまり視力はなく、視力以外の方法で空間把握ができ、逃げたということは知能もある程度あるということ、それに」

「ドロシー、わたしも一つ気付いた」

「ん? なんでしょう?」

「あなた、わたしを囮にしたでしょ」

「……確認する必要あります?」

「確認したい」

「私はそういう人物ですよ。安心してください。常に万全の状態でアリスさんを危険に放り込みます」

「全然安心できない」

「油断は大敵、良い心掛けです」

「殴りたい」

「あーこの粘液! これさえなければサンプルカプセルに入れられるのに!」

「つらい」

 ドロシーが触手を床に放り捨て立ち上がる。とその時、ドロシーの懐からモーター音が。懐中時計を取り出すと、無数の針は大いなる海の守護者、ダゴンが出現した時と同じ程に狂い回っていた。先の扉の向こうから、足音が聞こえる。ドロシーとアリスはそれぞれ、ライブラリより黒い短銃と蒼い小銃を抜き、扉へ向けた。扉が、開く。

「ああぁ」

 現れたのは、一人の男。男は白装束を身に纏い、歪んだ口からは異様に伸びた舌が垂れ下がり、目には瞳がなかった。悲痛か恍惚か、あるいはその両方か、声にはそうした感情が感じられ、しかしいずれにせよ、男がそれらから自身の意思で逃れることはできない状態であると、その理解が共感をもたらす絶望として、ドロシーとアリスに伝わった。腕脚の骨が一瞬にして溶け去るように、男は崩れ倒れ、床を舐めずる。後頭部には先程逃げ去った黒い触手と酷似したものが張り付き、それは男の脳深くに根差しているように思えた。

「ドロシー、珍しくあなたの見解を聞かせて欲しい」

「そうですね。何か、育毛剤と間違えて変なものを使ってしまったのでは?」

「聞かなきゃよかった」

 男が牙を剥き、蛇のように這い寄る。アリスの指が引き金を弾き、男は沈黙した。しかし黒い触手が、まだうねっている。ドロシーの追撃が男の頭部を弾き跳ばす。そして、触手はその動きを完全に停止した。

「アリスさん引き金軽いですね。見知らぬ船に乗り込んでクルーを殺傷、ただじゃすみませんよ」

「トドメを刺したのはあなた」

「普通は頭撃ったら即死なのですが」

「普通の敵と戦った覚えがほとんどない」

「一理あります」

 人とは異なるものとなってしまった、その死体へとドロシーが近づく。そうしてしゃがもうとした時だった。骸から光の粒子が噴き出す。ドロシーは片手で口と鼻を覆い、もう片方の手で光へ手を伸ばす。光の粒子に物質的な質量はなく、またこの空間には風もなく、にも関わらずそれは一定の形を成すように集まり、人の形を成した。ドロシーはヒューと口笛を吹き、立ち上がり、二歩三歩後退する。危険を予期してというよりは、ただその全身を観察するために。つまりそう、その光の人は危険なものであるようには見えなかったのである。

「撃つ?」

「撃たないでください」

 ドロシーが手で銃を降ろすよう合図をし、しかしアリスは銃を構えたまま動かない。光の人は死体を見下ろすように頭部と思われる箇所を揺らし、次いでドロシーとアリスの方を向いた。

「礼を言おうぞ」

 ドロシーとアリスの頭の中に、そう言葉が聞こえた。空気を振動させ伝える、そうした言葉ではない。音ではなくただ言葉として、二人には知覚された。

「礼ですか? もし皮肉でないなら、この船で起こっていることを教えてください。私達は力になるために来た者です」

「うむ……確かにそなた等が、トキヨミの申していた者達のようだ。今この船は、ナワハリの叛乱を受けている。ナワハリは元々現実・存在の囲いを瞳に映し、虚構・非存の証明を行っていた我々の仲間だ。しかし囲いに綻びが生じ、摂理の縄を締め直すべきところ、ナワハリはそれを放棄し、それどころか、我々の矯正を防ぐため、この船ごと堕とそうとしておる。我は他の者と共にナワハリを止めんと向かった……結果は見てのとおりよ。ナワハリは摂理の綻びより溢れ出る膨大な力を身に纏い、呪いに変え、我々に差し向けた。かくなる上は一つ。ウラナリの施法にて、世の影の半分を用いて、かの者を封印する」

「封印できるのですか?」

「うむ。可なり。しかし船の墜落は防げぬだろう。我々は皆我と同じように、肉体を失いもするだろう。しかしそれはいい。問題は」

「永続的な封印にはならない。そうですね?」

「……しかり。外より連れ出す者あらば、すぐにも封印は解かれよう」

「わかりました。では、私達が介入する場合の具体的な達成条件は? 殺したらまずそうですよね?」

「心配の必要はあらじ。我々は死なず。一時かの者を止めよ。不死の原薬、忘却の硫液を撃ち込まん」

「この船を侵略している者の叛乱の動機となった渇望・欲望それ自体を消滅させる。そういうことですね。なるほど、悪くない作戦です。アリスさんもそれでいいですよね?」

「わたし達は敵を仕留めて戦闘不能にさせればいい。そういうことでしょ?」

「ええまぁ、私達の役割としましては」

「ならいつもと同じ。わたし達は蝗害。飛来した場所の全てのイノチを蝕んで、また次の場所へと移動する。後には何も残らない。それが例え、始めから何もない場所であったとしても」

「ポエってます?」

「その叛乱者はこの先にいるの?」

「うむ。三ブロックほど先、コアルームに」

「わかった。ドロシー、急ごう」

「あら~? 妙に積極的ですね~。どーしました?」

「宇宙だから。あれ、が迫ってきたら、まずいでしょ。それに流れに任せてるとドロシーに実験台にされる」

「な!? そんなこと! ついに気付きましたか!」

 アリスは大きく溜め息をつき、先へ向かった。

.

 そして地獄があった。

「ヴァーレン、ディエ、オーヴェス、ヴィエ! ヴァーレン、ディエ、オーヴェス、ディエリ!」

 赤く染まった部屋の中、上半身の皮を剥がされた人間達が輪を作り踊り歌っている。皮膚のなくなったその表情は、最早わからない。ただアリスは、それが歓喜の表情でないことを願った。輪の中心には赤い柱が伸び、柱の先には複雑な紋章が描かれた球体が据えられている。その球体の更に上には、黒髪の女性が蜷局を巻いていた。そう、蜷局だ。女性の下半身は蛇のような形態となっており、同時にその胴体からは蠢く触手が幾本も伸び揺らいでいた。そして天井からは無数のモニターが吊り下げられ、中では人々が黒い触手から逃げ惑い、叫びを上げ、あるいは惨殺されている。映像にはしばしばノイズが走り、ノイズの中では歪な骸骨が断末魔を上げていた。

「なんなのこれ」

「興味深いですね」

 ドロシーの視線が部屋の壁へと移る。壁には赤い血に染まった無数の人間達が張り付いている。初めそう見えた。しかしよくよく目を凝らせば、彼等は胴体、四肢、頭を繋ぎ合わされ、その中を何かが流れ巡っている。ただポンプとして整形された肉塊。ドロシーは一瞬だけ彼等の意識の有無を考え、すぐにポンプであることの意味に思考を切り替えた。

「鬼ごっこの鬼は私になったのかと思っていましたが、まだそちらから来てくれる方が。とても嬉しいです」

 呪文の中で黒髪の女性がアリス達に顔を向ける。目には布切れを巻き、その内側から血が滲んでいるのが見て取れた。アリスは思う、あれは、もう目は見えていないのではと。そしてドロシーは考える、目は、何処だ? と。

「あら、異邦の方々、でしょうか。遥々、ご苦労様です。わたくしはかぐや姫。あなた方は……」

「わたしはアリ」

「なんでもいいです。わたくしになるのですから」

 ドロシーがアリスを突き飛ばす。黒い触手がアリスのいた場所に槍のように伸び、ドロシーはそれをライブラリから取り出した刀で、切断した。触手が飛び出した場所へと戻っていく。壁に張り付いた人間ポンプの、その口の中へ。

「眼鏡の方、お強いですね」

「賢さを強さに含めるなら、私は間違いなく最強です」

「まぁ……」

 上半身の皮を剥がされた人間達が、なおも呪文を呟きつつ、輪を崩す。そして両腕を蛇の牙のように変化させ、ドロシーとアリスに襲いかかった。アリスが銃で皮のない頭を吹き飛ばし、ドロシーが悲惨な身体を切断していく。

「慈悲もないのですね」

「私達の目的はあなたを抹殺することです。船のクルーを助けに来たんじゃないんですよ。ましてや、求婚に来たわけでもありませんしね? さて、あなたはこの船を落とすつもりだと聞きました。大胆な目的ですが、その方法も実に大胆なようです。この船を操縦するため、そしてクルーを効率的に抹殺するため、この船と一体化しようとしていますね?」

 ドロシーの言葉に、半蛇のかぐや姫は笑みを漏らした。

「どうしてそのように?」

「壁の人間ポンプはあなたの血管の役割をしています。それだけではありませんね。目であり、四肢であるでしょう。船そのものとなり、自ら墜落し、地上へ降り立つ、そういう計画ですよね?」

「ふふ、本当に賢いお方なのですね。そうです。わたくしは境界の証明者。でした。今その役割を放棄し、この身体は、あらゆる境界を越えて、全てと交わることができるのです。まずはこの船の、巨大なエネルギーと、交わります。もっと深く、奥まで。そして地上で、強い人を探すのです」

「その計画、失敗しますよ」

「あなた方がわたくしを止めるから、ですか?」

「答え合わせまでちょっと遊びましょうか」

 ドロシーは更に追加でもう一本、刀を取り出した。

「ドロシー、わたし達はまだあれと直接交戦はしてない。けど、たぶん勝てない、気がする」

「私を信じてください? えあー!」

 ドロシーが二本の刀を手にかぐや姫へ向かっていく。球体の上からかぐや姫の蛇の胴体がだらりと垂れ、そこからは信じられない速度で跳ね揺らぎ、一瞬の内にドロシーを壁まで弾き飛ばした。背を強打したドロシーは血を吐き、しかしかぐや姫の攻撃それ自体はなんとか二本の刀で塞いだらしい。

「あら? 口程にもなくありません?」

「口先しかありませんので。アリスさんあと頼みます」

 大きく溜め息をつく、アリス。今日何回目の溜め息だろう。そんなことを思いながら、銃を捨て、ライブラリより銀の大鎌を取り出した。刃は炎のように赤く燃え、埋め込まれた魔石は貪欲にアリスの魔力を引き出していく。

「あなたの願いは、ただあるだけで世界を狂わせる。わたしの平凡な想いの邪魔をしないで」

 アリスが床を蹴り、宙へ飛び出す。かぐや姫の蛇の尾が大鎌を防ぎ、しかし大鎌は骨までとはいかずとも、肉を切り裂いた。鎌を軸にアリスの蹴りがかぐや姫の頭部を狙い、かぐや姫の手がアリスの脚を掴もうと動くが、アリスは脚を引き、鎌を引き抜きその反動でかぐや姫の首目掛け鎌を振り、けれど届かない。アリスの身体を押し払うように尾が動き、アリスを宙に戻した。かぐや姫の上半身が動く。伸びる。宙で身動きの取れないアリスを丸呑みにしようとする大蛇のように。口が肩まで裂け、無数の牙が血肉を狙う。

「お返しです!」

 かぐや姫の背を巨大なハンマーが襲った。ドロシーがハンマーを手に着地し、かぐや姫が床にずり落ちる。そそくさと距離を取るドロシー。アリスも一旦距離を取り、かぐや姫の様子を窺った。

「ふっ……ふふ、見えてはいたのですが」

「武器というのは何も見えるものだけではありません。あなたの心の中の慢心、ですとか? そこから生じる回避不可なタイミング。天才にとっては全てが武器となりますので」

 かぐや姫は、静かに微笑む。そして身体を起こし、するとその変化した肉体は十メートル近くの高さを有し、人間よりも遥かに優れた生命体として、ドロシーとアリスを見下ろした。

「少し、融合を進めましょう」

 かぐや姫が球体、船のコアへ腕を突き刺す。球体から赤く輝くエネルギー粒子が、まるで血潮のようにかぐや姫の肉体へ流れ込んだ。大鎌によって裂かれた傷は瞬く間に塞がり、かぐや姫の背からは幾本もの牙のような骨格が無造作に突き出す。その骨格はあまりにも攻撃的で、同時に鎧のような堅牢さも見て取れた。おそらくもう、背中への攻撃は通らない。

「さあ、たくさん痛めつけてくださいませ」

「マゾの本性が出てきましたね」

「帰りたい」

 かぐや姫が口から何か吐き飛ばす。アリスはそれを大鎌で受け、すると瞬く間、大鎌は溶け落ちてしまった。

「アリスさん溶解液ですよ! 避けなきゃダメじゃないですか!」

「言い方イラつく!」

 続いて吐き飛ばされてくる溶解液を、アリスは跳び避けていく。ドロシーは巨大なハンマーを盾のように構え、様子を窺っていた。

「ドロシー! 見てないで戦って!」

「ん? あー、そうですね……ではこんなの」

 ドロシーが何か、かぐや姫の上半身目掛け投げつける。しかしそれが接近するよりも早く、かぐや姫は溶解液を吹き飛ばしそれを溶かし落とした。

「なんでしょう。つい反射的に。一度はこの身に受けるべきでした」

「それでしたらご心配なく」

 溶けた残骸から赤い煙が噴き出す。煙はやがて巨大な男の姿を成し、身体は燃え上がり、二本の凶悪な角が伸び上がった。

「んおおおおおおお!! 女等! 許さん! 許さんぞ! 食い殺してやる!!」

 魔人イフリート。魔法のランプとその呪縛から解き放たれた鬼神。彼は自身を再び箱の中へ閉じ込めたドロシーとアリスに対して、怒りを燃え上がらせていた。しかし今、その二人よりも大きな存在感が、眼前にある。

「貴様は……なんだ? 人間ではないな」

「わたくしはかぐや姫。とてもお強そうですね。わたくしを痛めつけてはくださいませんか?」

「……妙な女だ。まぁ、いいだろう。しかし貴様はあとだ。先にあの人間の女供を」

 魔人イフリートの顔に溶解液が吹きつけられる。イフリートは一瞬痛みと怒りが噴出した表情を見せると煙化し、更に巨大化して姿を具現化させると、燃えるような瞳でかぐや姫を見下ろした。

「貴様、そんなに痛めつけられたいか」

「ええ、それはもう。ひと時も待てません」

「良かろう」

 イフリートが拳を振り上げ、かぐや姫を殴りつける。蛇の巨体はいともたやすく吹き飛び、壁にぶち当たると共に、ポンプ人間達を押し潰した。かぐや姫はその身体にポンプ人間達の青い血を浴び、その背後で、肉体から解放された月人達が光へと変わっていく。

「ふっ、ふふふ、良い拳ですね。とても。身体の芯まで響きました」

「ふむ……あまり効いていない感じか?」

「手を休めないでください! 畳み込んで!」

 ドロシーの応援に、イフリートは怒りの形相を露わにする。そして拳を振り上げ、ドロシーを叩き潰そうと狙いをつけた。しかし次の瞬間、かぐや姫が目視できない速度で襲い掛かり、今度はイフリートが壁に叩きつけられていた。その腹部には、大穴が開いている。イフリートにのしかかるかぐや姫は一回り小さくなり、代わりに黒い触手が自身の身体に巻き付き、黒い鎧のように変容していた。

「くっ」

 イフリートが再度煙化し、が、同時にかぐや姫が大きく息を吸い込むと、煙化したイフリートは瞬く間にかぐや姫の口の中へと吸い込まれてしまった。

「自身が最も弱化する状態というものを、理解していないというのは、なんとも愚かなものですね」

「同感ですね~」

 ドロシーはまるで他人事のように、何か蝙蝠のような生物をそのまま装丁としたような本を開く。

「さぁ、次はどうします? まだ何か奥の手はありますか?」

「もちろんですよ。お次はもっと強力なナイトメアを召喚いたしましょう。ただこのナイトメアは召喚に少々時間がかかりますので、しばらくお待ちいただけます?」

「どうでしょう。もうずいぶん長いこと待ってきましたので、これ以上は難しいかと」

「そのようですね。アリスさん」

 名を呼ばれ、溜め息をつく。そしてライブラリより、新たに光のように透き通る槍を取り出す。アリスの足元にはすでに、十九本ほどの槍が転がっていた。

「敵にこんなことお願いするの変だけど、せっかく出した槍、溶かさないでくれると助かる」

「お願い……ふふ、いいですよ。それは無しにしましょう」

 触手の一部がかぐや姫の手の平で硬質化し、剣の形をとる。

「行きますよ」

 かぐや姫は微笑み、一気にアリスへと滑り迫った。かぐや姫の剣技を、ひとまず、アリスは槍の柄で受け止める。そう、柄で受け止め防いだ。

「あら」

 アリスは素早くしゃがみ、片手で別の槍を掴み、かぐや姫の鎧の隙間を狙う。が、かぐや姫の身体は急に重力を失ったように、刀を軸としてふわっと浮き上がった。

「面白い槍ですね」

「これは矛盾の槍。透き通るような外観で、他のどの槍よりも硬い」

「ですがそれでは、わたくしは斬れませんよ?」

「わたしは死にたくないだけ。わたしの役割は時間稼ぎだし。ドロシーにいいように使われて……自分で言っててなんかムカついてきた。わたしドロシーの言いなりになり過ぎでは?」

「知りません」

 かぐや姫が宙に浮いたまま、身体を回転させ、伸びるような突きを放つ。アリスは首を反らし、突きを避け、数本の槍を掴み跳び避けるように距離を取った。三本の槍を投げ、一本は避けられ、一本は剣で払われ、一本は黒い鎧に敵わず、ぱたりと落ちる。

「ドロシーまだ!?」

「まだですね~」

「急げ!」

 かぐや姫が斬り迫ってくる。アリスは矛盾の槍で猛攻撃を防ぎ、いなし、後退する。

「ちょこまかと、良くお逃げになりますね」

「少しは疲れてきた?」

「全然」

 かぐや姫が大ぶりの一撃を放つ。その斬撃は矛盾の槍を押し上げ、アリスの胴に隙を作った。

「そこです!」

 雷鳴のように鋭い突き。剣の刃がアリスの腹を切り裂く。アリスは苦悶に表情を歪め、しかし怯むことなく槍を振った。矛盾の槍の刃がかぐや姫の顔を斬りつける。

「うっく」

 かぐや姫が距離を取り、顔の半分を抑える。両目に巻いていた布は斬れ落ちていた。膝をつくアリスの方が明らかにダメージは深いが、かぐや姫は露わとなったその、人間性を失った獣のような目に、血と泥と驚愕の色を浮かべていた。

「今、頭と手足以外全て吹き飛ばすつもりの一撃だったのですが。ずいぶん丈夫ですね」

「十分痛いけどね。ドロシーまだなの!?」

「あー、まだですーまだまだ」

「わたし結構重症なんだけど!」

「もう少し頑張ってくださーい」

「くっそ」

 アリスは痛みを堪え、槍を杖のようにして立ち上がった。

「ふー、ふー……ふっ」

 アリスがかぐや姫へ飛び掛かる。内臓が腹部から飛び出しそうな、そんな感覚があった。一閃、槍の刃が空間を裂く。しかしかぐや姫は冷静に、腕に巻き付けた触手、鋼鉄の鎧で攻撃を防いだ、はずだった。かぐや姫の腕が飛んでいく。

「くぅあ、が、そんなっ」

 槍は再度、かぐや姫の顔を斬った。そして今度は深い。耳から目、鼻までを深く斬りつけられ、かぐや姫は血を噴き出しながら、よろけ下がる。

「どうして」

「時は満ちたようですね」

 ドロシーはそう言って、本をぱたりと閉じた。

「ごめんなさいねぇ、これ召喚術の本じゃあないんです。あなたの攻撃力と防御力を下げる、呪本です」

「な、るほど。道理で。ですが、種をそう簡単に明かしてしまうべきではないと思いますよ? 力を下げられたのでしたら、下げられた分、補充すれば良いこと。この船のエネルギーを。ふふふ」

 かぐや姫が跳び上がり、船のコア、球体の上に降り立つ。鎧の隙間から黒い触手が溢れ出し、コアに突き刺さった。

「一気に最終段階へと移行してしまいましょう」

 かぐや姫は不敵に笑い、それに呼応するように、天井から釣り下がるモニターの中で骸骨達がカラカラと笑う。かぐや姫の傷ついた顔が、球体に似た殻、鎧に覆われていく。その背後に、何とも悍ましい、黒い髑髏の群れが浮かび上がる。人知を超えた英知と、古代からの呪詛が融合したようなその姿。神々しく、禍々しく、他のいかなる存在も寄せ付けない、そうしたモノへ、かぐや姫は昇華していく。

「ドロシー、何とかしてあれを止めないと」

「いえいえ、その必要はありませんよ。かぐや姫さん、進捗状況はいかがです?」

「ええ、ええ、もうほとんど、融合を果たしましたよ。わたくしと船は、最早同一個体としてこの力を有しております。頭の中が、何処までもクリアに。ああ、英知の言葉が流れ込んでまいります。永久機関。粒子化蘇生。時空超越。答え合わせ……答え合わせ?」

「そうですか、答え合わせですか」

 ドロシーがうんうんと頷く。同時に、モニターがノイズに包まれた。

「これはいったい。頭の中にノイズが。わたくしは全てに繋がったはず」

「ノーンノン。全知全能足りうる万能はただ一人ですよ? この船を観たとき始めに思ったのは、なんと完璧な船なのだろうということです。現在の人の技術レベルを遥かに凌駕しています。にも関わらず、そのクルーの姿形たるや、人そのものではありませんか。人ではないのは明らかですけど。つまりここのクルー達の始まりには、人がいたと考えるべきです。そうしましてかぐや姫さんの伝承を鑑みるに、皆さん遥かな昔から存在しているようで。としますとね、最先端の科学を過去へ持ち込み、そこでこの船を作り、月人を作った人間がいるわけです。そしてそのような、遥かに高い科学力を持つ人間とはいったい、何者か。答えは簡単です。つまり、私ですね?」

「プログラムに指定された脅威を検知。ドロシーシステム起動」

 ノイズに包まれていたモニターが一斉に、ある一人の人物の顔を映し出す。その人物は紛れもなく、ドロシーその人であった。

「こ、これはいったい!?」

「その台詞さっきも聞きましたね。では、お話ししましょう、なぜあなたの計画は失敗するのか、その答えです。つまり、あなたは私に白状してしまったのです。この船と融合するつもりだと。とすれば、かつてあった未来の内の一つ、その私は、過去へと行き、時が来たとき、自動的にあなたの企みを阻止するようこの船をプログラムしたでしょう。あなたの存在をウイルスとして認識するウイルスセキュリティープログラムを。もしかすると元々はもっとちゃちな宇宙船で皆さんもスライムみたいな形状だったかも? 私がそれを完璧な宇宙船とし、人型の殻も作ったのかもしれませんね。さすが私です。わかりました? ってもう聞いてませんね」

 かぐや姫の鎧がばらばらと崩れ落ちていく。頭部の鎧が砕けると、意識を失った眼球は狂ったようにぎょろぎょろと動き、その隙間からは血と泥を噴き出していた。

「打ち込めええ!」

 声と共に白装束の月人達が部屋へ雪崩れ込む。十数の月人達はかぐや姫を取り囲み、そして、銃器を向けた。無数の注射筒がかぐや姫に突き刺さり、忘却の硫液が打ち込まれていく。かぐや姫は嘔吐の瞬間の苦しみを永遠と味わうような、そんな表情で声にならない叫びを上げていた。

「やれやれです」

 ドロシーが懐中時計を取り出す。そして文字盤を覗くと同時に、バリッ、と、ガラス面に亀裂が入った。無数の針自体は、その回転を弛めつつある。

「案外あっけなかった」

 呟くように、アリスが。腹部は魔力で応急処置を施したらしい。しかしまだ、血が滴り流れていた。その滴りを、眼鏡の奥でドロシーの視線が追う。

「アリスさんは本当に天然ですね」

「何が」

「この結果を導く、の、に」

 ドロシーが言葉をつまらせ、傾く。倒れそうになるドロシーを、アリスは腕と肩を掴み、支えた。

「え、大丈夫?」

「……ざっと一千万年です」

「何の話」

「まるまる、その時間を生きたわけではありませんが、私はそれだけの時間、世界に存在を置いたのです。強力な世界改変因子として。そうしなければかぐや姫さんを倒すのは不可能でした。そうして、私はこの世界で、今、どこまでも引き延ばされた存在として、身を置いています」

 ドロシーが手袋を外し……するとその手は半ば透け、同時に、ガラス細工のようにいくつも亀裂が入っているように見えた。

「私もこの世界も、残された時間はもうあまりありません。急ぎましょう。幸いなことに、おそらく、次が最後のターニングタイムです」

「……わかった」

 わからないけど、とその言葉は飲み込み、アリスはドロシーについてコアルームを後にした。

.

 暗い通路に出ると、そこは左の壁が一面、窓となっていた。そして青い地球が見える。青い……青過ぎる。目の錯覚なら良いが、大陸の大部分が青い海に飲み込まれている、ように見える。そして地球の向こう側に、何か、いた。それは途方もない巨躯を有しているように思える。巨大なうねつく触手が、地球という星を蹂躙している。全貌は見えない。しかしアリスはそれを見たいとは思わなかったし、見るべきとも思わなかった。間もなく地球は終わりを迎える。数多の命が終わりを迎える。終わりの中の一つの形が、今明確に存在した。




 ドロシーはその日、ギシンとアンキの依頼により謎の空間の調査に乗り出した。空間内に見えるのは、小さな病室、そしていばら姫。空間はあらゆる干渉を拒絶し、あるいは大きく歪めてしまう謎の事象として存在していた。数時間の調査の後、ドロシーは空間内へ投げ込んだ本、それが変容した肉塊の回収に成功する。この肉塊に対して行われた検査で、しかしどういった種類の動物の細胞で出来たものかすら、判明はしなかった。ただこの肉塊を用いた実験で判明した事実が一つ。この肉は、食べることでほぼ不死となる、不死の力を有するものだった。副作用の可能性は十分にあったが、ドロシーはこれを、ハンバーガーにして食べてしまう。そこへ、アリスとスノウホワイトの二人も合流した。
 ドロシーはスノウホワイトを睡眠装置に入れ、ハーフナイトメアとしてのアリスのエネルギーを利用するため、アリスを精神的に追い詰める。そして思惑通りハーフナイトメアと化したアリスとシャーク・ジラーのエネルギーを利用し、時空の扉を開いた。
 400万年前のアフリカ・オルドヴァイ渓谷に降り立ったドロシーは、人類の科学を進め異変に対処するため、ヒトザルに対し教育を施す。たまたま得た不死の力もあって、ドロシーには無限ともいえる時間があった。ヒトザルを教育しつつ、途方もなく長い年月の中で、片手間に、ドロシーはついにタイムマシンを完成させる。そこからはタイムマシンを改良しつつポイントポイントでヒトザルに教育を施しつつ一番の目的の達成を目指すドロシーだったが、結果として得られたものは、より進んだか学力を有する人類ではなく、人類ではなく猿が世界の支配種となった世界だった。
 ドロシーはバイクへと改良したタイムマシンでかつての自身の過ちを正すため、アリスをハーフナイトメアに変化させようとする過去の自身を始末する。そうしてドロシーとアリス、二人の旅は始まり、しかし、かぐや姫とまみえるターニングポイントにて、敗北を喫してしまった。その敗北でアリスは命を落とすが、ドロシーは何とか逃げ延び、宇宙船との融合を口にしたかぐや姫の対策として、対かぐや姫ウイルスを宇宙船のシステムに仕込むため、600万年前の過去へと跳ぶ。
 600万年前の世界で、月人はまだ人の形を持たない存在、生命体としても人間のように未熟な存在であった。ドロシーは月人に知識を与え、また不死の存在としての光粒子の身体を造り上げ、その殻として、人間の身体を持たせた。そうして信頼を得た上で月人の宇宙船建造の中心人物となり、来る日の為、対かぐや姫ウイルスをシステムに忍び込ませたのである。
 月人の宇宙船へやってきた今回のドロシーは、その内部構造の完璧さに感嘆する。こんなものは、自分以外に造れるはずがないのに、と。そしてかぐや姫の口から宇宙船と融合をしようとしているという言葉を聞き、であればやはりこの宇宙船は自分が建造したものであり、すでに対策も打たれていると、確信したのだった。
 というわけで、コズミックホラーな雰囲気でお届けしましたけれど(前半)。今回元ネタというかリスペクトは映画『イベントホライゾン』でした。コズミックホラーと言えばこの映画なのですよ、私の中では。ええ。宇宙の果てには邪悪な闇があるのです。地獄が。是非皆さんに見て欲しい映画ですが、面白いかと聞かれたらとりあえず口をつぐんでおきます。
 心を失うことを拒絶し、ただその為だけに船を堕とそうとしたかぐや姫ですが、世界の綻びから力を引き出すことによって、ある古の力を身に纏っていました。その力の正体はイグ。クトゥルフ神話における旧支配者、蛇の神性です。イグと月人の宇宙船のエネルギーを吸収し、かぐや姫はかぐや姫/アポカリプスへと変貌したのでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

救済者を罰せ

「は……はぁは……は……はぁは……は……はぁは……は」

 心臓が鼓動する度、辛うじて私の肺は収縮し、開いたままの口から空気が出入りを繰り返す。柔らかなベッドのような蜘蛛の巣に絡め取られ、四肢は鉛のように重く、腹部には内臓が抜け落ちたかのような虚無感が漂っていた。寒い。私は……まだ生きているのだろうか。

「雪下さん! 雪下さーん!」

 部屋の外から声がする。私の手は自然と動き、天井から伸びる肉腫を掴んだ。まだ、動くらしい。

 廊下へ出ると、患者達で溢れ返る中に、顔の曲がった同僚の看護師の姿があった。私に気付き、歩み寄ってくる。

「雪下さん、人手が足りないの。手伝って」

「もちろんだ」

 同僚について廊下を進む。最早簡易ベッドもストレッチャーも足りず、患者達は床に敷いたシーツの上で横になっていた。皆身体のあちらこちらに黒い終末痕を負っている。白い壁の中では今し方孵化したばかりの蟲達が蠢き、天井の蛍光灯は脈打っていた。血と病の匂いに混じり、枯れたミントの匂いがする。

「また町が一つ、不可触性シルトに呑まれたみたい」

「それで患者が一気に押し寄せたんだな」

「ええ」

 病院の入り口ロビーへやってくると、やはり避難をしてきたのであろう患者達で溢れ返り、足の踏み場もない状況になっていた。皆汚れた床の上に座り、あるいは倒れ込み、汚物を嫌悪する余裕すらなく、疲弊しきっている。疲弊しつつも、痙攣した低い悲鳴を上げていた。

「ナースさん」

 掠れた声に足元を見ると、一人の少年が私の靴に震える指を引っ掛けていた。指は、黒く染まっている。いや指だけでなく、体も、胸より下はほぼ黒く染まってしまっていた。

「よく、ここまで来れたな」

 しゃがみ、少年の腕を取る。そうして彼を支えるフリをして、人差し指で手首の脈を測った……ない。

「わかってます。僕はもうあっち側へ逝ってしまってる、んですよね」

「それはまだ」

「いいんです。でも」

 少年が身体を逸らし、するとそこにはもう一人子供が、まだ幼い少女の姿があった。脚は完全に黒く染まっている。しかし……腰までは来ていないか。

「診よう」

 少女の腕を取り、脈を測る。虚な目が私を見上げる。虚な、けれどその奥に、生存の光が見えた気がした。

「まだ、間に合うかもしれない」

「本当に?」

「ああ。すぐに処置を行えば」

「あのさぁ」

 声と共に私の肩が引かれる。そこには血に染まった腹を抑える、中年の男の姿があった。

「なんだ」

「なんだ、じゃないだろ。見ろこの怪我。大至急どうにかしろ。やっとの思いでここまで来たんだ」

「わかった。順番に対応するからもう少し」

「順番にじゃない大至急だと言ってるだろ! いってぇ。大至急だ。早くなんとかしろ。なんでもいいから包帯でも薬でも持って来い。大至急な」

「ナース、さん」

 少女の消え入りそうな声が聞こえる。

「大丈夫。あなたはきっと私が」

「そのおじさん、血が出ているから、先に助けてあげて。わたしはいいから」

「しかし」

「おい何をぐずぐずしてるんだ! ってぇなあ! そんな死に損ない放っておいて大至急俺の治療を」

「黙れ!」

「はぁ? 黙れ? 患者様になんだその口の利き方は! 充分な治療を出来ずに申し訳ないとは思わないのか! こっちは包帯か薬さえ持ってきてくれりゃいいって譲歩してやってんだろ! そっちも誠意を見せろよ! 謝罪しろ! わざわざ病院まで来てやったってのに! 本来ならそっちから助けに来るもんだろうが! 上の人間呼んでこいよ! 患者様がいるからおまえらは生きていけるんだろうが! 早くベッドも用意しろ! 誠心誠意上等な奴をだ! もしできないなら弁護士を呼ぶからな! ともかく大至急包帯と薬! それからベッドを」

「騒ぐな。命に関わるぞ」

 私は言いつつ、男に麻酔注射を打ち込んだ。

「あ、てめぇ。殺すぞ」

 男の目が上を向き、後方へ倒れ込む。今この男と二人きりでなくて良かった。私の場合、本当に殺してしまうからな。少女を見ると、口を開け、僅かな、驚きの表情を浮かべていた。私は少女に、微笑む。

「大丈夫。少し眠ってもらっただけだ。さぁ、治療室へ行こう」

 少女を抱え上げ、最後に少年の方へ、顔を向けさせる。

「お兄ちゃん」

「あとできみも迎えに来る。それまで少し、眠っているといい」

「はい、ナースさん……妹を、お願いします」

「ああ。任せろ」

 病院の奥へ、向かおうとした。その時だった。

「笛吹院長の、総回診です」

 ナースセンターからのアナウンス。彼が来る。廊下の先から、行進の足音が聞こえる。顔を上げる患者達。白い防護服を纏った一団が、やってくる。汚れ一つない、純白の一団。この穢れに浸食された世界で、その穢れまでもが最後の生命の証と成り果てたこの場所で、あまりにも白い、一団が。一団は私の前まで来ると、立ち止まり、左右に分かれた。そしてその中心より、白衣を着た男が姿を現す。男は眼鏡の奥の鋭い眼差しで私の姿を捉え、私が抱える少女に、視線を落とした。

「雪下さん、私はあなたを医療従事者として、ある程度正確な状況判断ができる人材として、評価をしています」

「ありがとうございます。では」

 施術室へ向かおうとする私の行く手を、白い防護服の彼らが塞ぐ。防護メットの中で、巨大なヒルが蠢いていた。

「その少女を降ろしなさい。あなたが連れていくべきは、あちらの腹部から出血をしている男性の方です」

「申し訳ありません。あちらの男性は、私の手には負えませんので、先生、お願いします」

「なるほど。いいでしょう。ですがだとしても、あなたが連れていくべき患者は、その少女ではない」

「……おっしゃっている意味がわかりません」

「表面上だけでも終末痕が大腿部まで来ています。最後まで言った方が良いですか? その子の前で、私はそれを言いたくはない」

「……私が診ます。私のことはお気になさらず、先生はそちらの患者を」

「人手が足りていないのです。勝手なことは慎んでいただきましょう。改めて指示を送ります。その少女を降ろし、あちらの男性を連れて行きなさい」

「……しかし、その男は」

「わかっています。彼は従業員十人余りを自殺に追い込んだ、反社会的側面も持つ企業の元社長。今ではその企業も倒産し、彼は一文無しです。が、あの怪我は不可触性シルトによるものではない。充分助かります。私達は一心不乱に助かる命を間違いなく救う。医者でなくとも医療従事者にとって、それは変わりません」

「この子も助かります」

「確率は低い。その子を治療する間に、他にどれだけの命を救えるか考えなさい。今、悔しながら、私達は全ての人々を救うことはできない。少しでも生存確率の高い人間を優先しなさい。人類の未来がかかっている」

「……」

 防護服の男達が私を囲う。防護メットの中で、男達の顔は幾カ所もヒルに抉り取られ、火星の表面のように表情なく、何処を見、何を思っているのかすらわからない。おそらく、彼等に意思はない。彼等は皆、笛吹に操られているだけだ。

「触るな!」

 防護服の男達の手を振り払い、後退る。後退ったその先で、患者達の無数の手が私に縋り付いた。私に助けを求めるようでも、私の逃げ場を塞ぐようでもある。ただ誰も、この少女を助けることは考えていない。

「雪下さん、いい加減にしてください。その子を降ろして彼を手術室へ」

「断る! その男は悪人だ! 優先すべきはこの子であるべきだ!」

 人々の手を振り払う。笛吹が眼鏡を指で抑え、首を左右へ振っている。柱時計が舌を出し、四時十一分ちょうどを知らせる叫びを上げる。防護服の男達が迫ってくる。

「自分が何を言っているのか、わかっていますか? 善人であろうと、悪人であろうと、命は平等です。あなたが言っていることは、人の命を天秤にかけることだ。神様にでもなったつもりですか?」

「違う! そうではない! 悪人はいずれ人を殺す! 間接的にでも。悪人を生かすことは多くの命を殺すことに繋がるんだ。だから生かしてはいけない。善良な者を救い、悪人は始末しなければ。人類を平和へ導く為、その為に正義はある」

「なるほど、悪人が多くの命を奪うのを防ぐために、あなたは悪人は始末すべきだと」

「そうだ」

「では問います。あなたはいったい、これまでにどれだけの命を奪ってきましたか?」

「……」

「少女を取り上げなさい」

 防護服の男達の手が伸びてくる。足が、患者達に抑えられ、もう逃げられない。

「ナースさん!」

 少女が取り上げられていく。私は、あの子を救わねばならないのに。少年と約束をしたのに。

「さて、皆様、ここで改めまして、当病院の方針をお伝え致します。不可触性シルトに浸かってしまわれた皆様、申し訳ございません。あれはこの世ならざる場所よりの脅威、対処方法は切断しかないものです。あちら側と繋がった箇所は、もうこの世へ戻りはしない。対処方法のないものを、我々は優先するわけにはいきません。不可能触性シルト以外による怪我・病気でご来院の方のみ処置を行います。年齢・性別・職業・前科に関わりなく、我々は全身全霊にて、処置を行うものです。不可触性シルトによる様態でご来院の方はどうかお引き取りを。脚部の終末痕によりそちらも困難である方々におかれましては、我々お引き取りのお手伝いもさせていただきます」

 不可触性シルトに侵された患者達から抗議の声が上がる。そうだ、当然だ。笛吹は狂ったことを言っている。狂っているのは私じゃない。私はまともだ。身体の一部が黒く染まった患者達が、白い防護服の男達に掴みかかっていく。脚に終末痕を負った患者達が、別の防護服の男達に寒空の元へ、追い出されていく。ダメだ。こんなのは、ダメだ。弱者が虐げられている。悪人の命が優先されている。ダメだ。私は見ているだけか? 私には何もできないのか? いや……そんなことはない。

「皆様、静粛に。ここは病院です。他の患者様にご迷惑が掛かります。どうかご静粛に」

 数の減った患者達の手を振り払う。私の足は、笛吹へと向かう。手にはいつの間にか、ナイフを握り締めていた。

「きみ、あの女性を抑えていただけますか。背負っている幼児はもう駄目です。もろともお引き取り願ってください」

 笛吹が防護服の男に指示を送っている。指示を送るな。おまえがいては子供達が見殺しになる。善良な人々が、見殺しに。悪人ばかりが命を拾う。

「ん? なんですか、雪下さん。さぁ、あなたも早く先ほどの男性を」

「黙れ!」

 笛吹が目を見開き、私を見つめる。手に、生暖かい感覚が、滴っていく。

「何を……」

 笛吹は私の首元を掴み、しかし、崩れ倒れた。

 ゴオオオオオオオオオオオオオオ、と、音がする。その音は外からの音だった。入口のガラス越しに、どす黒い血のような液体が、津波となって押し寄せてくるのが見える。

「は……ハハハ」

 不可触性シルトがガラスをすり抜け、病棟内へなだれ込む。全てがシルトに呑まれ、この世ではない、何処かへ、連れ去られていく。どうなのだろう。あちら側の方が、あるいはまともなのではないだろうか。悲鳴が聞こえる。泣き叫ぶ声が聞こえる。私もそして、シルトに呑まれた。




 七人の小人:ドック(先生)。笛吹院長に罰を与える。人の命を救うこと、それ自体は素晴らしいことだ。しかし生き永らえさせることによって多くの命を奪うだろう人間まで生かすことは、無差別に人を殺すことと変わらない。命の重さは平等ではないんだ。悪行により自らの価値を下落させた者は、悔い改めぬ限り救うべき命には値しない。そうだろう?
 世界の崩壊、ありとあらゆる境界の崩壊は、いよいよ最終段階へと突入しています。現実と夢の境界は崩壊し、生物と非生物の境界も崩壊し、固体と気体の境界も崩壊し、現在と過去の境界も崩壊し、現実存在とライブラリ存在の境界も崩壊しています。スノウホワイトはいつしか現実世界に精神的連続性を持つ雪下美姫として、看護師として事態に対処していますし、あるいは実際そうなのかもしれません。もう誰にもわからないです。境界が分からなくなるということは、境界を意識しなくなるということなのです。
 そうして、世界は最後の厄災、不可触性シルトに呑み込まれつつあります。名前の通り、それは触れることの出来ない泥です。封じ込めるという概念の通用しない、壁も陸の起伏もあらゆるものを透過し、地の底から溢れ出す、漆黒の泥。泥の内側は全ての境界が溶け合った、星のない宇宙よりも虚ろで不確かな空間です。一旦入ってみれば、その中は重力もなく自由に泳ぎ回れますし、好きなところへ一瞬で行くこともできます。ただし泥の外へ戻ることはできません。その前に自身がカラスなのか書き物机なのかも分からなくなってしまうでしょう。呑み込まれずただ触れただけでも、触れた箇所から次第に、あちら側、泥の内側と同じものへと変化していってしまいます。泥の内側という現象へ持っていかれてしまうのです。対処方法は不可触性シルトに触れた場所の早期切除しかありません。とはいえそれは、いずれ世界そのものを包み込む終焉、可視化されたカウントダウンなのです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ターニングタイム06【転生の日】

「いやだぁああぁ」

「やめてくれ、助けてくれ」

「苦しい。終わらせてくれ。終わりでいい」

 陰鬱とした森に、苦痛の声が響いている。しかしながら……一見したところでは、そこに生命と見て取れるものは、ほとんど存在しない。幹に穴の開いた木々も、今にも葉の全てを散らしてしまいそうなほどに、白い。そして湿った土壌の上には、枯れ葉のように、無数の球体人形が転がり、遺棄されていた。その内完全な形を止めているものは、一体としてない。

「あア……我々ハ失敗した……コレ、では……解除鍵モ無意味」

 グシャリ。言葉を発した人形の顔が、分厚いタイヤに押し潰される。停止した銀のバイクから、ドロシーとアリスは二人、最後のターニングタイムへ降り立った。

「……ギシンとアンキがたくさん転がってる」

「二体しかいない、とは思っていませんでしたが、これは少々異常ですね。これまで何体かバラしたことはありますが、同じ機種がそれを回収に来たことはありませんでした。大抵、アンキをバラした際にはギシンが、ギシンをバラした際にはアンキが回収に来ましたし、そうでなくとも気が付くとなくなっていましたからね。まさかこの森が人形達の本拠地、とも思えませんし。とすれば……いえ、この先はまだ語るべき時ではありませんね。推測に過ぎませんから。それよりもこの声も興味を引かれます」

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ」

「息がつまる。こんなことなら、俺は」

「重い。鎖だ。身体中に鎖が」

「穴から聞こえてきてる」

 アリスが一本の木へ歩み寄る。その幹の穴へ、顔を近づける。

「止めといた方がいいと思うけどにゃ~ん」

 猫撫で声が頭上から。アリスが穴から顔を離し見上げると、木の枝の上に妙な猫が横たわり、尾を垂らし揺らしていた。猫は胴が幾等分にも分割されているように見え、その間からは、内臓の断片が見えている。しかし明らかに生きていて、一つの個体としての統制を有していた。

「チシャ猫?」

「ここは痛みの森。今、世界中の痛みがこの森へ集まってきてるにゃ~ん。ヨクボウなんていう自己中心的な想いを力にしているキミ達が、他人の痛みなんてものに直接触れたら、下手すりゃその場で消滅にゃ~ん」

「はーい! チシャ猫さん! はーい! 質問です! この森で何がありました?」

「オイラの身体、元に戻ると思うかにゃ?」

「痛いんですかそれ?」

「ぜ~んぜん。あんた気が付いてるかもしれないけど、あんた気が狂ってるよ」

「なるほど? 信じるつもりのない相手の言葉をどうして求めるのか? ですね」

「半分消えかけにゃ。オイラは早いとこ有るのか無いのかはっきりしたいね」

「ならどうしてアリスさんに忠告を?」

 チシャ猫が身体を起こし、器用に尻尾で立ち上がる。そして前足と後足で森の四方を指差した。

「あっちか、あっちかあっちかあっち、川に沿って下っていくにゃ」

「どっち」

「どっちでも。森中の木に涙が溜まって、それが至るところに涙の川を作ってるにゃ」

「川を下った先に何があるっていうの?」

「キミはもう一生分の質問をしたんじゃないかにゃ? ならオイラは質問されてないことだけ教えてあげるよん」

「相変わらず意味がわからない」

「偉さ~が~違う~♪」

 チシャ猫が尻尾からすぅーっと消え、最後には頭だけを残し、その頭も最終的にパッと消えた。

「最後にギリギリのネタ入れてきましたね」

 アリスは溜め息をつく。そうして、どうして自分の周りには溜め息をつかせるようなキャラクターばかり集まるのだろうと、考え、やめた。

 二人は再び銀のバイクに跨る。そして涙の川を、その下流を、目指した。

.

 バイクから降りるドロシーとアリス。涙の川を下った先には、お菓子で出来た、お菓子の家があった。

「アリスさんでも流石に、誰のターニングタイムかわかったのでは?」

 ドロシーが懐中時計を覗くと、ひび割れたガラスの内側で無数の針は激しく回転し、また懐中時計自体もブルブルと振動していた。

「疑いようなくね」

「ええ。行きましょう」

 お菓子の家の玄関へ、二人は歩み寄る。ドロシーはそして、ビスケットで出来た扉をノックした。

「どなたさーん?」

 声と共に現れたのは、二人も見知った顔だった。虚妄を漂うグレーテル。しかし、いつもとどこか、雰囲気が違う。普段シャギーボブカットのグレーテルは、今、完全なロングヘアーで、妙な話、生気があった。

「グレーテル?」

 アリスは確認するように問い掛ける。グレーテルはアリスを見……退屈そうに欠伸をした。

「なんだ、あいつの友達か」

「兄様、ミルクの配達ですか?」

 グレーテルの隣から、もう一つ同じ顔が覗く。そちらは虚な目で、間違いなく普段通りのグレーテルだった。

「グレーテルが二人いる」

 アリスの言葉に、ロングヘアーのグレーテルはふっと笑みを漏らす。

「ないない。グレーテルはこいつ。僕はヘンゼル」

「頭から生えてきたわけ?」

「は? 意味不」

「興味深いですね~」

 ドロシーがヘンゼルの目を覗き込む。ヘンゼルは少し顔を赤らめ、目を逸らした。

「何のようですか」

 グレーテルがヘンゼルを押しやり、ドロシーに眼をつける。

「森に大量のギシンさんとアンキさんの残骸が転がっていたのですが、何か知ってます?」

「兄様、最近鳥を食べていませんね。今日の夕食は鳥鍋にしましょうか」

「チシャ猫以上に会話が成立しない」

「まぁまぁ、立ち話もなんだし、入りなよ。グレーテル、テーブルの上片づけて」

「はい、兄様」

 命令を与えられたグレーテルはまるで一瞬にしてドロシーのことを忘れてしまったかのように、家の中へ戻っていく。招かれるまま、ドロシーとアリスもお菓子の家の内部へと進んだ。

「まぁ適当にかけてよ」

 ヘンゼルに言われ、ドロシーとアリスはクッキーのテーブル席、ビスケットの椅子に腰掛ける。ドロシーの視線がグレーテルの持つ皿、その上の残骸に向かう。しかし、よく見えない。

「茶菓子ならいくらでもあるけどさ、茶はグレーテルの淹れるうっすいやつしかないよ。それでいい?」

「え、兄様」

 グレーテルが首をぐらっと傾け、ヘンゼルを凝視する。

「私のお茶、そんなに薄いですか?」

「あ、ええと、まぁ、甘いものしかないし、お茶は薄い方が助かるっていうか」

 ヘンゼルの言葉に、グレーテルは安堵の笑みを浮かべる。

「はぁ、良かったです。兄様のお口に合っていて。本当に」

「あぁ、うん」

 ヘンゼルが二人に、苦笑いを向ける。

 やがてテーブルにはケーキとチョコレート、飴細工、湯に葉を浮かべただけのような薄い茶が並べられ、グレーテルはヘンゼルの隣の席に座ると、ぴとっとグレーテルに寄り掛かった。

「お二人はいつからここに?」

「最近」

「具体的には?」

「それが、難しいんだよね。どうにもここ最近は時間ってのが狂っててさ。十数分で一日が過ぎてしまう日もあれば、一日が過ぎるのに数週間かかる日もある。だから正確にはわからない。いや、実際わからないことだらけだわ。元々、この家には魔女が住んでたらしい。それで、しばらく前にグレーテルは人形達に連れられてここに来たらしいんだ。そうして魔女を殺したらしい。で、僕はというと……気付いたらここにいた」

「気付いたら?」

「そ。たぶん異世界転生ってやつ。自分が誰かもわからないんだけどね。けどこことは違う世界にいた気がする。で、気付いたらグレーテルがいて、僕のことをヘンゼルって呼んでた。だから僕はヘンゼル。グレーテルと顔が似てる理由もわからない」

「似てるっていうか、同じだけど」

「それってやっぱあれ? 並行世界のもう一人の自分ってやつ?」

「興味深いですね……とても興味深いです。今ある問題を忘れてしまいそうになるほどに」

 眼鏡の奥で、ドロシーの眼光が光る。

「森に遺棄された大量のギシンさんとアンキさん、心当たりは?」

「あー……何? 僕なんか疑われてる感じ? ギシンとアンキって、グレーテルを連れてきたっていう人形達のことでしょ? え? 大量って二体じゃないわけ?」

「……」

 ドロシーの視線が、ヘンゼルの表情を探る。ヘンゼルは心地悪そうに苦笑いを浮かべ……アリスはそんな二人の様子を眺めつつ、ティーカップを掴み上げた。

「アリスさんステイ!」

「え、犬扱い?」

「そのお茶を飲んではいけません。多分そのお茶には毒」

 ドロシーの言葉が途切れた。そしてその饒舌から、赤い血が滴り落ちる。ドロシーの頭には巨大な鎌が、深く突き刺さっていた。

「ドロシー……」

「兄様、私達の家に知らない人がいます。誰ですか」

「はははっ、そう、ここは僕等だけの家だね。他に人がいるのはおかしいよね」

「はい、兄様。おっしゃる通りです」

 新たな大鎌がグレーテルの背から、伸びるようにアリスを襲う。アリスは跳び退がり、すると手に持っていたティーカップがバターのように、スルッと斬れ落ちた。グレーテルがテーブルに飛び乗り、大鎌をぐるぐると回す。アリスはライブラリから赤い宝玉の埋め込まれた短銃を取り出すと同時、引き金を引き、グレーテルの額に風穴を開けた。ヘンゼルが身を屈めつつ老婆の顔を模した杖を取り出し、高速詠唱を口ずさみつつキッチンの奥へと這っていく。アリスがヘンゼルを追おうとしたその時、再びグレーテルの大鎌が空を斬り、アリスは半ば強制的に突っ伏した。振り下ろされる追撃を転がり避け、跳ね上がり、アリスは家の扉に背を当てた。

「この土壇場で溶解の魔銃ぶっ放すとか、なに? 前々からグレーテルのことそれで始末するつもりでいた感じ?」

 キッチンの奥からヘンゼルの声だけが聞こえる。アリスはドアノブに手をかけ、ドロシーに視線を向けた。ぴくりとも、動かない。

「病を治す銃。もとい、問題部位そのものを溶かす銃。対グレーテル武器には最適解かもね。けど残念。僕の回復杖は全てを元に戻すことに特化してるんだ。狂った頭も狂ったままに、ああ、綺麗に元に戻すとも」

「兄様、そうです、人の家で銃を撃つなんて、狂っています。始末しましょう」

「そうだね。たぶんそのアリスが最後の刺客だ。僕等の平穏を取り戻そう」

「最後の刺客?」

「邪魔者ぁああ!」

 グレーテルが大鎌を振り上げ跳びかかる。アリスは扉を開け、お菓子の家の外へ飛び出した。

.

 悲鳴が聞こえる。嗚咽が聞こえる。嘲笑が聞こえる。咆哮が聞こえる……いつしかアリスは痛みの森を彷徨っていた。どの方向へ歩いても、森から脱することはできない。形勢逆転のための足掛かりすら見つからない。そして気づき始める。この森はヘンゼルとグレーテルの領域。誰も逃げ出すことのできない、狩場だと。二人は追ってこない。しかしいつ追ってきても不思議ではない。あるいは、追う必要すらないから追ってこないのかもしれない。いつ襲われるかわからない緊張感は、アリスの精神をじわじわと摩耗させていく。

「ドロシーがやられるなんて。ただの不意打ちなんかでやられるはずないのに……ちがう、ただの不意打ち過ぎたんだ。グレーテルが毒のことを話されたから攻撃してきてたなら、ドロシーはきっと避けてた。でもあの時グレーテルは……毒とか関係ない。ドロシーがそのことに気付いても気付かなくても、お茶の話をしようとしまいと、攻撃してきてた。しかもあの瞬間急に思い立って。わたしが毒を飲んでからの方が効率よく邪魔者を排除できたはずなのに。論理的じゃない。感情的でもない。ヘンゼルの指示でもなく。だからドロシーのセンサーに触れなかった。グレーテルはドロシーの、天敵だった」

「冴えてるね。それでこそ私の生徒だ」

 振り返る。それはアリスにとって、何よりも心地の良い声だった。しかし同時に、酷く心を掻き乱される。

「先生……」

 枯れた木の間、ぽつりと据えられたベンチの上に、黒いスーツを着た一人の男が座っていた。手にした本を傾け、アリスに微笑みを向けている。アリスは男に歩み寄り、ただ、立ち尽くした。

「座れば?」

「先生……わたし」

「わかってる。よく、ここまで来たね。頑張ったね」

「……」

 アリスの瞳に涙が溢れる。その理由は、本人すらも正確には理解できていなかった。ただただ、ずっと会いたかったから。会うためにこれまで戦い、殺してきたから。会いたいという想い以外から、目を背けてきたから。会ってしまったなら……その先へ進まなければならない。

「ほら、隣に」

「うん」

 アリスはベンチに、男の隣に腰を下ろす。気付けば痛みの声々は消え、薄ら寒い森は温かな白い光に包まれていた。

「世界が終わる夢を見た。何もかもが崩れ去って、でも決定的な終わりは訪れなくて、誰もが呆然と立ち尽くしているの」

「きみも?」

「うん……ううん、わたしは、先生を探してた」

「どうして私を?」

「わたしのことを全て知ってるのは、先生しかいないから」

「……そうか」

 時間が流れる。二人、しかし、決して触れ合うことはない。あるいはそうした可能性があったとして、けれどこの時間では、それは起きなかった。

「会いたかった。メールに答えてくれなくなってからは、昼の教室の先生は、わたしが知る先生じゃなかったから」

「答えたさ」

「答えになってない答えだった。あれじゃ、帽子屋と何も変わらない」

「……私には家族がある」

「受け入れて欲しいなんて願ってない。わたしはただ、会いたかった。会えなくなってしまった、あなたに」

「……すまない……きみの憎しみは、当然だ」

「…………だから、先生はバカなんだ……初めて愛した人を、憎めるわけなんてないじゃない……どんな扱いを受けたって……だからこそわたしは、ただ、会いたかった。ただ会いたかっただけなの……先生」

 アリスの手が、指が、男の腕へ伸びる。そうして指が触れたかと、思われた瞬間、男は煙のように消え、あたりは燃え盛る森へと、変化していた。

「……最悪。本当に、最悪な世界」

 空までもが赤く燃えている。その空には複数の飛行船が浮かび、この世界から逃げ出そうとするかのように、上へ上へと向かっていた。

「パンケーキ食べたい、パンケーキ食べたい」

 木々が焼ける音に混じり抑揚のない声が聞こえる。アリスは溜め息をつき、しかしその溜め息はいつもと違い、小さく、長く続いた。焼け倒れる木々の間から、虚な目のグレーテルが現れる。大鎌は痛みの森の声を魔力に変換するように、その刃に緑光を宿らせていた。ある程度アリスと距離を開けたところで、グレーテルはぴたと、立ち止まる。

「兄様、いました。まるで窯の中のように熱いです。殺したら消える? ふふ、逆なんですね。地上が天井になったら、兄様、受け止めてあげますね」

 グレーテルが大鎌を構え、すた、すた、とアリスに近づく。

「グレーテル、兄様に会えて良かったね」

「兄様とは始めからずっと一緒ですよ」

 大鎌が、振り下ろされた。

「んぎぃあががが!!」

 アリスは後退る。誰かがアリスを庇い、大鎌の一撃を受けていた。

「ドロシー!」

「だから、それは万能の呪文ではないですって」

 痛みを堪え振り返るドロシーは、ひび割れたその顔、その身体から、銀河のような光を漏らしていた。

「兄様の不死薬? あぁ、でももう終わりですよ。三度目はありません。そういう鎌です」

「ええ、理解していますとも。初撃で私の中の不死が斬られたのを感じましたので。もうほとんど古典的ゾンビ、よく喋る以外は。だから喋るために来ました。アリスさん!」

「っなに?」

「武器出しなさい武器! 戦意喪失してる場合じゃありません! なに諦めてるんですか! 偉業は最後までなさなければ無意味! もしくは他人の功績! もう他人もいない世界であれば、なんとしてでも勝ってください! さあ武器を出して! そして逃げて!」

「言ってることが無茶苦」

 アリスは言いかけ、ドロシーの手に何かスイッチのようなものが握られているのを見た。

「っ!」

 後方に飛び避けつつ、幅の広い大剣を取り出す。そして前方にかざした。次の瞬間、ドロシーの身体から眩い光が溢れ出す。光は一瞬にして森の全土に広がり、彼女がいた場所に大きな爆発をもたらした。

「くっ、そ」

 ジリジリと、熱が地を焼く音がする。煙が、嫌な匂いの煙が、風に流されていく。地に立つ、一つのシルエット。アリスは理解した。何処かに潜むヘンゼルを、ヘンゼルを始末しなければ、グレーテルは倒せない。

「兄様。またです。誰ですか。目の前が暗くなったとき、最後に見える、あのひ、ひ、ひ……っうぐぉえっ」

 グレーテルが嘔吐し、大口を開く。するとその口から、ぐねぐねと肉塊が吐き出された。肉塊が地に落ち、のたうつ。やがてそれは人型に、シンデレラの姿へと変容した。

「兄様、すみません、吐いてしまいました」

「大丈夫だよ、シンデレラの一人くらい」

 ヘンゼルの、声だけが聞こえる。

「グレーテルにはまだ、これまで勝利し取り込んだ無数のキャラクターズのライフと、僕が与えた不死の力、そして僕の回復杖がある。僕達の勝利は揺るがない。人形供の思い通りになんて、させない」

「はい、兄様。敵を始末して、お祝いにパンケーキを焼きましょう」

「一緒に焼こうね」

「はい。兄様と一緒に」

 飛び交う火の粉の中、幸せな微笑みを浮かべる、グレーテル。アリスは大剣を構え、あたりに目を配った。

「姿を現せヘンゼル!」

「ははは! お断り! 行け! グレーテル!」

「はい、兄様」

 アリスはグレーテルの攻撃に備える。備えようとした。しかしその瞬間、目と鼻の先にグレーテルの虚な瞳があった。こんなに近くにある瞳、にも関わらず、虚妄の瞳は何も見ていない。まるで近づいてはいけないあの世の瞳の眼前へ、自ら進み出てしまったような、ゾッとする感覚。

「死んでくださいね」

 大鎌が斬り上げられる。アリスは先刻のかぐや姫の動きを思い出し、大剣を軸に、身体全体を宙に投げ出した。大剣を大鎌の刃が打ち、アリスは天へ跳ね飛ばされる。グレーテルが見上げている。アリスは大剣を捨て、獣の頭蓋を模したボウガンを取り出した。眼下のグレーテルへ、狙いを定める。

「……当てて、意味あるの?」

 アリスは自問し、ボウガンを構えるのをやめると落下に身を任せた。いつの日かも味わった、落下の感覚。無力感と、虚無感と、そうしたものさえ塵となって、落下と共に消えていく感覚。束縛のアリスは、束縛されていなければならなかった。でなければ、後には虚無しか残らない。虚無と虚妄では、まだ虚妄の方がマシ。そんなことを考え……ただふと、ドロシーの最後の言葉が頭をよぎった。偉業は最後までなさなければ無意味。偉業なんて、どうでもいいのに。けれど良く考えると、ドロシーの言葉からそんな言葉が出たことは意外だった。あの自己中ドロシーが、本当に世界の為を想っていたかどうかはともかく、他人からの評価を気にしていたなんて……。

「ふっ」

 逆さのアリスの口元に、笑みが漏れた。

「全然、説得力ないし……っ」

 ボウガンをさっと構え、グレーテルへ放つ。アリスが着地するその瞬間を狙っていたグレーテルの腕へ、矢が突き刺さった。

「うぐっ」

 グレーテルが顔を歪め、大鎌を落とす。アリスは着地し、すかさず矢をセットしつつグレーテルへ飛びかかるとその身体を押し倒し、超近距離で顔面に矢を放った。

「もう一発……っ!」

 更にもう一矢、次いで二矢、三矢、四矢。無慈悲な猛攻がグレーテルの顔面を襲う。

「終われ! 終われ! 終わ」

 アリスの腕を、グレーテルの手が掴む。矢がセット出来ない。そして凄まじい力が加わり、アリスの身体は焼ける地の上へ投げ転がされた。炎の奥から回復杖の光が飛び、グレーテルの頭部を元に戻す。

「埒が明かない」

 アリスは起き上がり、すると腕に痛みが走った。痛む手を堪え、ボウガンに矢を込める。が気付けばグレーテルはすでに立ち上がり、ライブラリより緑と紫の光を宿す、狩猟弓を取り出していた。

「流石です、兄様」

「せめてもうちょっとゆっくり回復して欲しい」

「兄様? 兄様? 兄様? 兄様?」

「そのまま同じ言葉繰り返してて」

 ボウガンの矢が放たれる。矢はグレーテルの口から入り、後頭部に内側から突き刺さった。そのまま後方へばたりと倒れる。

「油断してんなよ、メンヘラ女」

 振り返る。すると燃える木々の間から、ヘンゼルが現れた。頭に拳銃を突き付けられている。ヘンゼルの背後で拳銃を手にしているのは、シンデレラだ。

「こっち見んな。すぐ起き上がってくるよ。回復杖なくても基本不死身だ。こいつもそうだし。あー面倒だねぇ~」

「面倒なら離したらいいと思うよ」

 ヘンゼルが不敵にニヤつく。

「離すかバァカ。あたしを誰だと思ってんのさ? シンデレラだよ。復讐はしっかりとさせてもらう。おいブラコン、こっち見な」

 シンデレラの言葉に、グレーテルが身体を起こす。

「兄様」

「よしそれでいい。あたしの話をよぉく聞け、こいつは」

「兄様ああああ!!」

 グレーテルがシンデレラに飛びかかる。文字通り、信じられない跳躍力で。

「くっそ」

 シンデレラがヘンゼルの頭部を撃つ。そして間一髪グレーテルの掴みかかりを避け、火の中へ姿を隠した。グレーテルはヘンゼルを支え、兄様兄様と呟きながらその回復を待つ。

「頭逝かれ過ぎて人質も意味なさないね」

 シンデレラの声だけが聞こえる。

「メンヘラ女、今のあたしじゃ到底無理だ。だからあんたに託す。あの兄さん、ヘンゼルは、偽物だ」

「偽物?」

「そう。正体はお菓子の家の魔女だよ。グレーテルが殺したはずの魔女。でも生きてた。それでヘンゼルになりすましてグレーテルを操ることを考えたんだ。だから何とかしてこのことをグレーテルの耳に入れられれば」

「真実を暴いたところで、真実を見る者がいなければ無意味だ。僕の妹は虚妄しか見ない」

 ヘンゼルが頭を起こし、ニヤニヤと笑う。

「兄様、良かった。でも危険です。私の後ろに。私が守ってあげますからね」

「うん、頼むよ、グレーテル」

「あぁ、兄様……頼まれます」

 グレーテルがうっとりとした表情を浮かべ、白眼を剥き、かと思うと圧の籠った視線をアリスへ向けた。

「来るよ」

 グレーテルが飛び上がる。木の上へ、枝に足を絡ませ、逆さになり矢を放ち、アリスは避け、ボウガンを構えた。が、いない。

「下だメンヘラ!」

 視線を下ろすと、グレーテルがまるで獣のように姿勢を低くし、猛進しながら今まさに二の矢を放とうとしていた。放たれる矢に、アリスは反応しきれない。左肩に矢が刺さる。そしてグレーテルは止まらない。更に距離を縮め、三の矢を引こうとしている。アリスは牽制にボウガンの矢を放ち、ライブラリより燃える刀を取り出し持ち替えた。その瞬間グレーテルが突進し、鈍器のように打ち付けられた弓を、アリスは刀で受ける。グレーテルが首を伸ばし、アリスの首に食らいつこうと歯を鳴らす。噛み付かれれば、間違いなく肉を深く抉られる。

「メンヘラ! 何ボケっとしてんだ!」

「さっきからメンヘラメンヘラうるさい! わたしはメンヘラじゃ、ない!!」

 炎の刀がグレーテルを押し飛ばす。しかしグレーテルは地に足先が着くと同時、再度突進を繰り返した。が、アリスも早い。既に剣を捨て槍の矛先をグレーテルへ向けていた。とはいえ、グレーテルには意味をなさない。グレーテルだから意味をなさない。グレーテルの胸に槍が突き刺さる。突き抜ける。それがグレーテルには、動きを止める理由にならない。

「いぐぁあああ!」

 グレーテルの歯がアリスの右肩を喰いちぎる。アリスの左肩の矢が抜かれ、アリスの左眼へ、突き立てられる。

「っが、あああああああ!!」

 再び、グレーテルの大口は開かれた。アリスは激痛の中、赤く歪んだ視界の中にそれを見る。グレーテルの喉奥には、全てを虚妄へと呑み込む、果ての絶望があった。

「っと、そこまでです」

 グレーテルの頭を何者かの手が掴んだ。次の瞬間、青白い炎がグレーテルの頭部を消し飛ばす。グレーテルの身体は槍と共に崩れ落ち、そこには死んだはずのドロシーが立っていた。

「ドロ、っく」

「ドロックではありません、ドロシーです」

「ちが。痛みが。どうして、生きて」

「死にましたよ。ですがここは最も先まで進むことができた時間。ええ、放棄してしまうにはあまりにも惜しいです。なので来ました。というか私の死亡時自動プログラムが呼んだんですね、私を。そしておおよその状況は把握しました。つまり」

 ドロシーが突き刺さすような蹴りを放つ。アリスは突き飛ばされ、木に打ち付けられてへたりこんだ。

「ドロシー、なんで」

 ドロシーがニコッと笑う。そして縦に真っ二つ、両断された。両断されたドロシーの間に、紅い剣を赤い天へ向ける、グレーテルが立っている。更に剣を横に振り、追い打つように、ドロシーの首を跳ね飛ばした。

「兄様、お祭りでしょうか」

「……勝てない」

 赤い天より、燃え盛る飛行船が墜落してくる。一機、二機、三機。燃え盛る飛行船が、燃え盛る森へ。全て炎に包まれていく。最後の炎が世界を焼却する。

「う、ぅうぼぉえ」

 グレーテルが肉塊を吐き出す。肉塊は蠢き、やがて人型に、ピノキオの形へと変容した。

「はぁ、はぁ、すみません、また、吐いてしまいました」

「大丈夫。最後のアリスはもう戦えない」

 ヘンゼルがグレーテルへ歩み寄り、その頭を、優しく撫でる。

「兄様ぁ」

 火の粉が降り注ぐ、アリスの視界。みしみしと焼け倒れる木々の音が響く中で、双子が仲睦まじく微笑んでいる。

「さぁ、トドメだよ。そしたらパンケーキを焼こう」

「はい、兄様」

 グレーテルが幸せそうな表情を浮かべ、アリスの方へと近づいてくる。

「パンケーキを焼きましょう。パンケーキを焼きましょう」

「待って」

「兄様のパンケーキにはストロベリージャムをたっぷり、それからホイップクリームも」

「待って。ヘンゼル、妹止めて」

「待ってが通用したら殺し合いは起こらないよ」

「苺ものせてあげますね。一個? いいえ、三個のせてあげます」

「そうじゃない。そうだけど。なんで殺し合ってるのかわからない。わたしとドロシーは、あなたに招き入れられて、あなたの家に入っただけでしょ。攻撃される理由がわからない」

「チョコレートシロップはどうしましょう。兄様の今日の気分を考えないと。今日の兄様は」

 アリスの眼前で、グレーテルが紅い剣を振り上げる。

「甘酸っぱい感じでしょうか、甘さで酸味も包み込みましょうか」

「グレーテル、ストップ」

「……兄様?」

「ちょっと、こっち戻っておいで」

「はい」

 グレーテルが剣を下ろし、ちょこちょことヘンゼルの元へ戻っていく。

「ありがとう」

「いや、あんたのことは殺すよ。けどね、問答無用で殺したら、あんた達と、人形達と一緒だ。だから僕は、質問には答えよう」

「うん、それでいい。わたしも生きていたいわけじゃない。けど、わたし達何やってんだろって。どうしてこんなことしてるのか、知ってたら教えて」

「……はぁ。なるほどね。まぁ、そうか。僕もきみ等も、被害者ではある。全ての生命がそうさ。人形達がいなければ、こんなことにはなってない」

「人形達がどう関係してるわけ?」

「やつらには何かしら、目的がある。それに関しては依然として不明。けどその為の方法が、キャラクターズ同士の殺し合い、もしくはモノガタリ内での大量殺戮なんだよ。僕等ヴィランズはこれまでに、幾度となく、人形達の連れてきたキャラクターズに殺されてきた。まぁ悪人なんだし、ある程度は許容するさ。けど人形達はやり過ぎだ。僕等ヴィランは必要悪なんだ。僕等のような、悪人がいる。明らかに自分達とは異なる存在として。異質なものとして。童話ってのは子供達にそう言い聞かせるためにあるのさ。悪は自分達の外側にあると。その虚妄が、この世界に平穏をもたらしている。なのに、あの人形達ときたら手当たり次第にデリートだ。悪の受け皿がなくなったら、どうなると思う? 当然、悪意が世界に溢れ出す。外界のものとしてでなく、自身の体液のように、ね。だからここらで一旦、人形達には世界から退場してもらわないといけない。もちろん、人形達の操り人形である、キャラクターズ達にも」

「わたしはあいつらの操り人形なんかじゃない、って言いたいけど……確かにね。言いなりにはなってた。先生に会うには必要だったから。でも、さっき……この森が見せた幻影か、わたしが見た幻覚か、先生に会った、気がする……会えればそれでいい。そう思ってた。でも、思っていたのと違った。もしかすると思ってすらいなかったのかもしれない。充足感なんてなくて、ただ虚無感があっただけ。わたしの物語、不思議の国のアリスには、教訓もゴールもない。迷い込んで、迷い続けて、迷路の一番奥、行き詰まりで、パッと現実に戻る。虚無がガラクタを巻き込んで、かろうじて形を成した、そんな在り方」

「兄様、気分が沈みます。殺しましょう」

「グレーテル、ダメだ。そんな理由で人を殺しちゃいけない。アリス」

「わたしは構わない。殺してくれても、殺さないでくれても」

「きみの物語は人生そのものだ。他のキャラクターズの物語よりも、一番現実を映してる。現実の人生には、教訓もゴールもない。過程なんだ。狂った連中に会って、散々振り回される。それが人生ってもんだよ。きみも楽しかったりしたろ? マッドハッターや、チシャ猫や、ハンプティダンプティ、トゥイードル・ディーとトゥイードル・ダム、公爵夫人なんかとの出会いとかさ」

「……あんまり」

「……」

 飛行船が墜落し、爆発する音が聞こえる。その爆風が、アリスと双子の間を過ぎ去っていく。

「あぁ、そうだよね。人形達が選んだ子等は、皆かわいそうだ。この子も、あんたも。他の子等も、目を見てわかってた。だから、悪いが身勝手な老婆心ってやつで、あんたの痛みも終わらしてやるよ。グレーテル、束縛のカイナを。それで方をつけよう」

「はい、兄様」

 グレーテルが紅い剣を捨て、青い、歪に増設されたような形状の大剣を取り出す。

「束縛から解放され、虚無へと落ちたアリス。きみをきみの名を持つ剣で、終わらせよう」

 グレーテルが大剣を構え、跳躍の姿勢をとる。

「彼女のあるべき場所へ」

「はい、兄様」

 グレーテルが跳ぶ。そして次の瞬間、アリスの眼前へ。アリスは、大剣を振りかざす、終わりの使者を見上げた。

「うん、終わりでいい」

 金属音が響く……アリスとグレーテルの間に、大きな影が立ち塞がっていた。その身体は胴鉄で出来ている。森にはまるで似つかわしくない、無骨な潜水服を着た何者かが、立っていた。

「言ったはずです。おおよその状況は把握したと。その時点で、私の勝利は確定しています」

 ドロシーが手にした機械杖で、グレーテルを弾き飛ばす。

「状況を把握したということは、私の場合、策は打たれた、ということなんですよ?」

 潜水服の中で、ドロシーがニヤッと笑う。

「しつこいな」

「ええ、当然です。全ての試行は求める結果の為なのですから。途中失敗はあるでしょう。幾度となくあるはずです。しかし結果的に、私の探求は実を結びます。それは、その求めた結果が得られるまで、決して諦めることはしないからなので」

 ドロシーはそう言って、アリスに手を指し伸ばす。アリスはため息をつき、ドロシーの手を掴み、立ち上がった。

「アリスさんは束縛されてこそなんです。振り回されてこそなんですよ。そういうキャラクターがいてもいいじゃありませんか。そのキャラクター性を憐れむなど、傲慢が過ぎます。アリスさんは振り回されてなんぼ。そして今回アリスさんを振り回すのは、あなたではなく、私です。アリスさん、合体技いきますよ!」

「え、そんなのあった?」

「ありませんね! であれば魔女さん、あなたを倒すのはやはり私のようです! これまでギシンとアンキが遣わした無数のキャラクターズを、そしてギシンとアンキ達も、あなた達は幾度となく打ち滅ぼしてきたことでしょう。二人、力を合わせて。その奮闘は称賛に価します。なので私がラスボスです。魔女殺しに慣れた私が、お菓子の家の魔女、あなたの最後の敵になりましょう。さあ! 決戦の時です! 私との、私達との!」

 グレーテルとヘンゼル、二人を囲むように、無数の穴、空間の歪みが開いていく。

「ライオンの勇気を!」

「カカシの叡智を!」

「キコリの不屈を!」

 声と共に、次から次へとドロシーが現れる。別の時間から、これまであった時間から。全ての時間が収束するように、無限のドロシーが集結する。

「冗談でしょ」

 ヘンゼルは苦笑いを浮かべた。潜水服のドロシーはどこか寂し気な笑みを浮かべ、機械杖で地を鳴らす。

「さようなら、私達」

 機械杖の魔力がアリスの傷を癒す。そして同時に、無限のドロシー達はヘンゼルとグレーテルに襲い掛かった。

.

 ドロシーとお菓子の家の魔女、そしてグレーテルの戦いは、一昼夜に渡り続いた。ただ暴力による痛みの声が、幾度となく世界にこだました。木々は全て倒れ、今はただ消えぬ炎の残骸と化している。炎に照らされ、高く積み上げられたドロシーの遺体の山、その頂上に、グレーテルもまた横たわっている。死んではいなかった。いずれまた起き上がれるだろう。しかしすぐに起き上がることは叶わない、ようやくそれだけのダメージが、グレーテルに蓄積された。

「さて」

 傍観を決め込んでいた潜水服のドロシーが、数時間ぶりに動く。重い足音はやがて、血に濡れた土の上にへたり込むヘンゼル、お菓子の家の魔女の前で立ち止まった。

「は、もう終わり?」

 ヘンゼルは苦しそうに言い放ち、口から血を吐き出した。

「ええ、もう他の私は必要ありません。これ以上は、あなたを倒したあと私同士で殺し合いをしなくてはならなくなってしまいますから」

「そう……ふ、いいことを、教えてやるよ。慢心は、命取りだ。グレーテルはまだ動ける。それに僕には」

「奥の手がある。そうですね? そしてもうすぐその奥の手を使うタイミング、違いますか?」

「……そこまでわかってるならどうして」

「そこまでわかってるから、ですよ。その奥の手は、使って欲しくないんです」

 ドロシーが機械杖を縦に振る。すると空間が裂け、タイムホールの穴が開いた。

「ちょ、まさか」

「ええ、もちろんそのまさかで」

 潜水服の中でドロシーは微笑みを浮かべる。そしてヘンゼルを掴み上げると、タイムホールの中へポイッと放り込んだ。

「ちくしょおお!」

 ヘンゼルが、お菓子の家の魔女が時空の渦の中へ落ちていく。ドロシーはすかさず機械杖を振り、タイムホールの穴を閉じた。

「永遠にタイムホールの中を彷徨ってくださいね」

 懐中時計を取り出し、覗く。文字盤上の無数の針は今、完全に停止し、微弱に振動していた。

「これでわたし達のミッションは完了?」

 アリスが隣から懐中時計を覗き込む。

「ええ、おそらくこれで、全てのターニングタイムの、私達が変えるべき瞬間は変えることができたはずです。ターニングタイムにおける非存在の存在は十分に棄却できたかと。非存在の側へ行ってしまったいばら姫さんを、必要最低限存在側へと引き戻すこともできたでしょう。つまり、橋は成りました。あとはスノウさんがこの橋を渡って、無事にいばら姫さんの元へ辿り着くことを祈るだけです」

「あとはスノウホワイト次第、か」

「その通りです。まぁそういうわけで……お菓子の家でも食べに行きましょうか? というより焼き菓子の家ですかね?」

 アリスは遠く、何処までも続く赤い空に目を向けた。森の彼方、町の上空に、あれは月人の宇宙船だろうか。それが地上を、町を焼き払っている。その下に地獄が広がっていることが容易に想像できた。

「ドロシー、全て終わった時、この世界はどうなるの? 全て元に戻るの? それともただ、あり得ないものが消え去るだけ?」

「さぁ、どうでしょうね。作戦が成功すれば、この世界に未来が訪れるのは確かですが、それ以外のことは不明です。全てが存在側の事象として記録されるのか、あるいは新しい未来に合わせ過去は改変されるのか、もしくはそもそもの過去から現在までが再構築され、そこから未来が形作られるのか。ですが、アリスさん、それらは大きな問題ではないのです。私達の世界はこれまでにも幾度となく、抗いようのない災害に見舞われ、多くの平和の意志に反して争い合ってきたのですから。それはこれから続く未来においても変わりないでしょう。だとしてもです。世界には存続させるだけの意味と価値があるのです。新たな発見と、新たな歩みがある限り」

「……わたしは時々、すべて終わりにしてしまった方がマシなんじゃないかと、思う時がある」

「ええ、わかります」

「いずれ、そのことであなたと殺し合うことになるかもね」

「……ふふ」

 ドロシーは微笑む。侮る風ではなく、挑発する風でもなく、ただ、優しく。そして言った。

「アリスさんは、私が知る限り人間らしく、そして優し過ぎます。ですがもし本当に世界を終わらせたくなったのなら、人類代表として、私はあなたの前に立ちはだかりましょう。その時には想像でき得る限りの策略と武器の御準備を。私は他の誰よりも手強い、ラスボスです」

 燃え盛る地。燃え盛る空。巨大な黄金の天使達がラッパを手に滑空している。頭部の上半分はなく、代わりに終焉の炎が咲き揺らいでいた。




 お菓子の家の魔女はグレーテルに敗北した。首だけになった彼女は森の外へ逃げ延び、主食、力の源である子供の収集を始める。協力をしたのは美を求める死の表象、ハーメルンだった。ハーメルンの収集能力により、魔女はかつてない魔力を獲得する。ハーメルンには報酬として不死の薬が与えられ、魔女はお菓子の家へ戻った。
 そのころ、グレーテルにもライブラリと現実の融解の影響は出始めており、グレーテルの虚妄の瞳に映る兄の姿は、現実世界にて精神的連続性を持つ少年の姿となっていた。魔術によりグレーテルの精神を覗き込みそのことを知った魔女は、少年の姿に変身する。お菓子の家へ戻った魔女の目的は始めからグレーテルを殺すことではなく、グレーテルをけしかけたギシンとアンキを始末するため、グレーテルを意のままに操ることだった。
 少年の姿でグレーテルと暮らし始めた魔女にもその姿を通して、その姿故に、現実側のグレーテルの意識・知識が流れ込んでいく。しかしそのことはさしたる問題ではなく、むしろグレーテルの信頼を得るための材料として役立った。
 魔女とグレーテルは協力し、ギシンとアンキ、そして二体がけしかける数々のキャラクターズを迎え撃つ。殺したキャラクターズは料理し、取り込み、自らの力の一部としていった。そうして全てのキャラクターズを倒したと思われたその時、時空の彼方から最後の刺客、ドロシーとアリスが現れる。
 境界崩壊の影響は幻覚として、アリスの前にも現れます。それは現実でアリスと精神的連続性を持つ少女の、その記憶により造り出された幻覚でした。アリスの願い、「あの人に会いたい」という願いも、境界崩壊の影響を受け、そのあの人が不思議の国のアリスという物語の作者なのか、あるいは不倫相手の教師なのか、明確な境界は失われてしまっています。それ故に、アリスの願いは叶ってしまいました。叶った上で、そこに何もないことを知ってしまったのです。その先に何もないことを。これからアリスは新たな目的を見つけるのでしょうか。あるいは無気力に生きるのでしょうか。それとも、人類の敵となってしまうのでしょうか。それはまた別のお話です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

罪なき者を罰せ

 暖かな日差し。心地良いそよ風。ゆったりと靡く白いカーテン……時折、鳥のさえずりも聞こえてくる。穏やかな時間だった。私にとって、唯一の。目の前では小さな眠り姫がすやすやと息を立てている。私はそのベッド脇の丸椅子に腰かけ、絵本を広げていた。絵本のタイトルは……どうでもいい。

「クマさん二匹、笑ってる」

 声に、顔を上げる。驚いた。彼女が瞼を開き、私の方へ顔を向けている。やはり眠そうではあるが……微笑みを、私に向けている。

「すまない。起こしてしまった、かな」

「すまない? ふふ。ナースさんも眠った方がいいよ」

「そうだな。しかし……久しぶりに、長いこと眠った後、そんな気もする……そしてやはり、私は眠るのが嫌いだ」

「クマさんはすっかりお友達?」

「……ああ」

 微笑む。微笑んでいる。いつぶりだろう、こんな自然な、笑みは。

「林檎、食べるか?」

「わぁい」

 微笑んでいる。わたしは、まだ微笑んでいる。果物ナイフを取り……林檎の皮を、剥いていく。赤い林檎の皮を剥ぐと、内側は白い……人間と逆だ。

「剥けたぞ」

 切り分けた林檎を、フォークに刺す。

「あぁん」

 いばら姫が口を開けて待つ。雛鳥みたいだ。

「喉に詰まらせるなよ」

 林檎をいばら姫の口元へ。いばら姫は林檎を小さく齧ると、満足そうに微笑んだ。

「べりーでりしゃす」

「良かったな」

 微笑んでいる。

 それからの時間が数分だったか、数十分だったか、わからない。やがていばら姫はあくびをしだした。全てを眠りへと誘う小さなあくび。そう、全てだ。世界ごと、眠りへと誘う。私も、瞼が重くなってきた。

「ふぁ~。あったかくて気持ちいい。眠たくなってきちゃった」

 いばら姫が眠りにつく。世界が眠りにつく。目覚めたとき、もうこれまでの世界はない。世界は、ない。

「バランスなのだろうな」

 私は服の内側からヂアミトールの小瓶を取り出し、手に、握り込んだ。

「残酷な世界だ。この世界は善悪なく、その天秤の均衡を保ち続ける」

 窓の外に目を移す。天では不可触性シルトが波打ち、地は人間の溶解物で満たされていた。地獄だ。しかしこの内の誰一人、死してすらいない。

「この記憶が、私のものか、そうでないのか、現状ではそれすらも定かではない。しかし……私はかつて、これからするのと同じ方法で、悪人を裁いた」

 部屋の時計の針が回転している。長針は狂ったように先へ進み、短針はゆっくりと、逆戻りをしていく。気付けば真夏のアスファルトに埋め込まれたような暑さの中、呼吸さえ苦しくなっていた。空間がその暑さで歪んでいる。同時に酷い眠気が、押し寄せてきている。この眠りに落ちたら、もう次に目を覚ました時、私は人の形をとどめてはいないだろう。

「バランスなんだ。だから仕方ない。今度は無垢で善良な、私が救うべき、あなたに、同じことをしなくてはいけない。私を許さなくていい。私もこの世界を、決して許しはしない」

 椅子から腰を、上げようとした……上げなくては……重い。重力が何十倍にもなり、私の肩にのしかかってきている。割れるような頭痛が眼球にまで響き、まともに目蓋を開くことはおろか、一点を見定めることすらかなわない。

「あ、くぁ、嘘だろ」

 吐き気が込み上げてくる。しかし、食道を直接締め潰されたように、何も吐くこともできない。口からただ、体液が漏れ出していく。全てが理解できていた。この異様な体不調は、私の脳が作り出した幻覚だ。いばら姫の無意識の抵抗であり、世界の防衛機構だ。世界は完全な融合へと進んでいる。私達にとって、生命と物質にとってそれは紛れもない終焉。しかし世界にとって、全ての消滅こそが終焉ならば、それ以外の全ては恒常的な変化の一つでしかない。私は服の内側からヂアミトールの小瓶を取り出し、手に握り込んだ。

「残酷な世界だ。この世界は善悪なく、その天秤の均衡を保ち続ける」

 窓の外に目を移す。空は波打つ不可触性シルトで覆われ、地上では人間の溶解物が隙間なく蠢いている。地獄のようだ。多くの人間が自我の一部は失うことなく、膨大な溶液に取り込まれ、死ぬことさえ許されない。

「この記憶が、私のものか、そうでないのか、現状ではそれすらも定かではない。しかし……私はかつて、これからするのと同じ方法で、悪人を裁いた」

 時計に視線をやる。長針と短針は異なる向きへ回転し、もはやいずれの時間も示してはいない。あるいは時間という概念自体が、不可触性シルトの一部として溶けてしまったのかもしれない。時計が歪む。いや、そうではない。病室全体が、凄まじい暑さで歪んでいた。眠い。いばら姫の慢性的な眠気が、きっと私だけではないだろう、全ての生命を飲み込もうとしている。精神の融解が、いばら姫を中心に拡散していく。

「バランスなんだ。だから仕方ない。今度は無垢で善良な、私が救うべき、あなたに、同じことをしなくてはいけない。私を許さなくていい。私もこの世界を、決して許しはしない」

 いばら姫へ繋がる点滴チューブへ、手を伸ばす。違う、先に椅子から立たなくては。明らかに届かない距離だ。なぜ先に、点滴チューブへ手を伸ばそうとした? これは……身体が、凄まじく重い。何かによって肩を押さえつけられているような……実際何か、何かが私の肩を掴み、抑え込んでいる。背後に気配を感じる。黒い、大きな手が私を押さえつけている。眼球にも圧を感じる。眼球が潰れる。視界が滲み、ああ、頭痛がする。脳に何か埋め込まれたような。暗くなってくる。

「あ、くぁ、嘘だろ」

 吐きそうだ。内臓をすべて吐き出してしまいそうだ。しかし、そうはならない。通常の嘔吐物さえ。喉を何かが塞いでいる。呼吸もできない。もしかすると私の身体はもう……いや、違う。わかった。全て幻覚だ。何もおかしなことは起こってなどいない。私が見ている幻覚だ。幻覚がしかし、境界を失った幻覚は現実と変わらない。そしてこの幻覚を見せているのは、無垢ないばら姫の無意識。それは世界の慣性といってもいい。果てしない質量を持つ世界というものの、自動的な反射現象。逆説的に、私がこれから行おうとすることは、世界に影響を与えるということの証明だ。それならばやはり、何としてもやり遂げなければならない。私は服の内側からヂアミトールの小瓶を取り出し、手に握り込んだ。

「残酷な世界だ。この世界は善悪なく、その天秤の均衡を保ち続ける」

 私は眠るいばら姫に呟き、窓の外の波音に耳を澄ました。波音といっても、外に海があるわけではない。その音は上空からの音だった。今この惑星の空は血のような色をした不可触性シルトに覆われている。その不可触性シルトが海のように波立っているのだった。頭上に海がある。それも血の色をした海が。こんなに不気味なことはなかった……いや、今ではそうでもないか。地上は地上で、生物・無生物が溶け合った融解液がどこまでも広がっている。融解液は時折うめき声を上げ、その声色は無数に存在した。

「この記憶が、私のものか、そうでないのか、現状ではそれすらも定かではない。しかし……私はかつて、これからするのと同じ方法で、悪人を裁いた」

 時計の音がうるさい。長針が自棄になったように秒針を超えて猛回転し、短針は時の波に怯えるかのように後退っている。そして振動している。窓ガラスもだ。いつしか部屋は凄まじい暑さの中にあり、その熱が音を生み、音が物体を振動させていた。音は子を失った親の嘆きのようであり、夜闇を駆ける獣の遠吠えのようでもある。この音は、眠気を誘うな。子守歌のような安堵感故ではない。人の意識を無理矢理眠りの底へと突き落とすような、意識が落ちた瞬間耳にしているような、逆説的なものだ。この音を耳にするとき、人は目覚めては、いない。故に、夢の御手が引きずり込む。存在の裏側へ。

「くそ……バランスなんだ。だから仕方ないんだ。今度は無垢で善良な、私が救うべき、あなたに、同じことをしなくてはいけない。私を、許さなくていい。私もこの世界を、決して許しは、しない」

 眠気が重力となり、身体に重くのしかかってくる。金縛りのような、しかし、見えないが、体中に鎖が巻き付いているのを感じる。その鎖が私を地に縛り付けている。椅子から立つことができない。脳の内側から、重い痛みが沸き上がってくる。私の頭の中でシルトが発生しているのか? 視界が、押し潰されていく。

「あ、くぁ、嘘だろ」

 視界が薄闇に包まれる。体内で、何か蠢いていた。それが私の身体の中を、上へ、上へ、押し上がってくる。出口の存在を知られないよう、私は口を固く閉じた。しかし口の隙間から、ワーム状の蟲が溢れ出す。こんなことが、いや、こんなことは、あり得ない。口からこぼれ落ちた蟲が、床を這う……あり得ない。そうだ、私は……繰り返しているぞ!

「いつからだ」

 顔を上げた。眠るいばら姫の口から、黒い影が伸び上がっている。影は糸のようで、棘を持つ蔦のようでもあった。私は繰り返している。いつからか、何度も繰り返している。この瞬間を。この断片を。いつから私はここにいる? ヂアミトールの小瓶を手に握り込んだその先へ、進むことが出来ない。記憶ごと事象を巻き戻され、戻される直前、この一瞬にだけ蓄積された記憶が蘇る。この瞬間だけ時間が戻されていないからだ。ある意味静止したこの一瞬に、私の幾度の思考の結果が座礁している。来る。心臓が、身体が跳ねるほど大きく収縮を繰り返す。戻される、また。ダメなのか。いや、別の方法なら。

「くそっ」

 私は果物ナイフを手に取った。逆手に持ち替え、いばら姫の心臓へ、ナイフを突き落とす。そして、私は服の内側からヂアミトールの小瓶を取り出し、手に、握り込んだ。

「残酷な世界だ。この世界は善悪なく、その天秤が均衡を保ち続ける」

 その時、外から歪んだ笑い声が聞こえてきた。私のことを笑っているようだ。地上に広がる生物と無生物の溶解液の中に、私を知る誰かがいるのかもしれない。天を覆う不可触性シルトより、血管のような柱が地に降りていく。あれはウリエルの梯子と呼ばれるものだ。地を覆う溶解液は最早何であるかが分からなくなってしまったものだが、まだ存在はしている。ウリエルの梯子はしかし、存在しているという最後の確かささえ奪い去ってしまうものだった。世界の概念は境界の霧散による融解とウリエルの梯子による回帰を繰り返し、この星は肉を削がれ続け、やがて宇宙の暗闇の一部として無限に引き伸ばされてしまうだろう。だからやはり……私はいばら姫を、殺さなければならない。

「この記憶が、私のものか、そうでないのか、現状ではそれすらも定かではない。しかし……私はかつて、これからするのと同じ方法で、悪人を裁いた」

 回転音が聞こえる。時計の長針が、見えなくなるほど高速回転している。短針は途中で折れ、折れた先端が狭いガラス版の中で長針に嬲られている。そして部屋は、まるでレンジの中のように、熱い。全てが歪み、生命の痕跡が蒸発していく。壁という壁、いや、鉄の器具や精密機械まで、全てにヒビが入り、そこに赤い熱の色が浮かび上がっていく。呼吸をするだけで、熱気に喉が焼かれてしまう。意識までも、焼かれてしまうような、熱さが。意識を刈り取る、強制的な眠気が、瞼を襲う。赤い鎌を持った死神が、私の背後に立っている。

「眠るものか。私は……バランスなん、だ。仕方ない。無垢で善良な、私が救うべき、あなたに、同じことをしなくてはいけない。私を、許すな。私もこの世界を、許さない」

 赤い鎌が私の肩に乗る。熱い。焼き付けられている。肉が、焼き千切れていく。いずれ腕が落とされてしまう。なのに、身体が動かない。眼球の裏で熱の痛みがバチバチと炸裂する。眼球がぐるぐるとのたうち、一点を見ていられない。

「くぁ、あ、があぁがが」

 視界が暗く狭まっていく。何かが、身体の中で爆発した気がした。

「うっ」

 口から黒い物体が溢れ出す。ぼとぼとと、零れ落ちていく。これはなんだ。私の内臓か?

「うぐぅっ」

 また溢れ出す。私の、私が、全て零れ出してしまう。内側から存在、私の存在証明が、零に。零になる。消える。身体から、魂の質量が抜け、空白の白に……世界が白く……待て、これは、存在、防衛機構、内在の、逆説的反発を、空間は非存在の外殻、亀裂に必要な角度が、なんだ、脳に流れ込む、しかし分かる。そうか、分かった!

「繰り返していた! しかしもう!」

 果物ナイフを掴み取る。瞬間、いばら姫の口から黒い茨の蔦が溢れ出し、天井に張り付いた。ナイフを逆手に持つ。いばら姫が口から伸びた蔦に吊り上げられる。私はナイフを振り下ろし、自らの大腿部へ、突き刺した。

「うぐああああああ!」

 身体が前のめりに倒れる。床に倒れ、するとベッドの下に、私の死体が目を見開いているのが見えた。

「知るか!」

 ナイフを抜き起き上がり、注射器を取り出す。茨の蔦が跳び伸び、がなんとか反射で避けられた。注射器の針をヂアミトールの小瓶に突き刺し、液を抽出する。

「んぐぁ!」

 いばらの蔦が首に巻きつく。棘が刺さり、気管が膨れ上がる。小瓶を捨て、首に手を。

「いっあぁ、ぐっ」

 棘の刺さった指に肉を裂かれるような痛みが走る。しかし、しかし。

「意識はもつっ!」

 いばらの蔦を引き千切り、足を一歩先へ、点滴チューブを掴んだ!

「つがぁ!」

 顔に幾本もの茨の蔦が絡み付く。同時に、頭が弾け跳ぶほどの痛みが襲う。意識が飛ばされそうだ。手探りで点滴チューブの三方活栓を探す。さっき、棘の刺さった手がグローブのように膨れ上がっている。感覚がほとんどない。何処に、たぶん、この……いや、掴んでいる! 栓を開き、注射器をセットする。点滴チューブへ、流し込む!

「はぁあがあ!」

 茨の蔦が私の眼球を抉った。千本の槍に貫かれる。脳が飛び散る。大量の血を噴き出し、意識が消………………。 

.

「……きろ! おまえ! 起きろよ! おい!」

 怒声。そして鈍い痛みが、私の頬を打っていた。原始的な力が、私を殴りつけている。怒りが伝わってくる。しかし、ああ、これは人の感情だ。それに、この痛みも、この拳も。私は。

「あ……」

 目蓋を開き、すると、男の姿が見えた。歯を食い縛り、私に怒りに満ちた目を、向けている。私の上にのしかかるように、一方の手で私の襟首を掴み、もう一方の手は、頭上に振り上げられていた。そして……心電図のフラット音が、聞こえている。

「……ったか」

「ああ!?」

 私の襟首を掴む手が引かれ、私は頭突きをされるかのような距離で、男に睨みつけられた。

「どういうつもりでこんなこと!! 糸織は! まだ生きていたんだ!! 夢を見ていたはずなのに!! きっと幸せな夢を! それなのに!!」

 口の中に血の味が広がっている。男の後方に、女が立っているのが見えた。女もまた、私を怒りに満ちた目で、見下ろしている。ふと、床に転がる小瓶に手が触れ……あぁ、そうだ。そうなんだな。部屋の壁は白く、窓からは平凡な光が差し込んでいる。血の滲む喉の奥で、安堵の息が、小さく漏れた。

「おい! なんとか言え! なんでこんなこと!」

「……」

 言葉は、ない。今発するような言葉は。私はきっと世界を救ったのだろう。しかし毒殺看護師として、だ。それも無垢な少女をこの手で殺めて。ああ……私は、正義を成したはずだ。何よりも崇高な、正義を。けれど、私の在り方は……私の正義は、血に染まり過ぎている。

「おっはようございまーす!」

 病室の戸が勢いよく開き、白衣を着た眼鏡の女が現れた……ドロシー? 後ろには看護師の服を着た女もいる。あれは、アリスか?

「おや、お取込み中でした?」

「違う。あんた、あんたここの先生か? おい、この看護師が、糸織を殺したんだ! 部屋に来たら、点滴に何か混ぜてやがった。そして糸織の呼吸が、ないんだ! こいつが殺した! こいつが! こいつ! なんで!」

「なるほどですねー。ですがご安心を。糸織さんはまだ死んでいません」

 諭すように話すドロシーに、男は若干、その怒りの表情に困惑の色を浮かべた。

「……そう、なんですか? いやしかし、心電図が」

「そしてあなたが殴りつけているその人は、私の助手です。いいですか、そもそも、糸織さんの患うクライン・レビン症候群の原因ですが、私はこの原因に関して、患者の脳の認識において睡眠が生へ寄り過ぎていることだと考えています。睡眠という現象は生よりも死に近いものでしてね。そうです、人は毎日死を繰り返しているんですよ。ですがこの現象が死に近いものだと脳が理解しているからこそ、覚醒状態、生の側へ戻ってこれる。糸織さんの問題はこの認識にあるわけです。であるならば、この認識を正しく反転させればいい。睡眠は生ではなく死に近いものであると糸織さんの脳に認識していただくため、まずはっ、雪下看護師の手で糸織さんを仮死状態とさせていただきました。もう良い頃でしょうかね。現在ある体機能状態が死を示すものだと、糸織さんの脳が認識し始めた頃です。第二段階へ移行しましょう。糸織さんを蘇生します」

 医師の恰好をしたドロシーが、注射器を取り出す。

「さぁお父さん、私の助手からどいて、横にずれてくださいね。雪下さんもそこ邪魔なので、どいてどいて」

「ぁあ、はい」

 私の上から男がどき、立ち上がって横へずれる。ふと気が付くと、目の前に手が差し伸べられていた。アリスが、私に手を差し伸べている。

「お疲れ様」

「……アリス」

 手を取り、私は立ち上がった。ドロシーが点滴チューブへ歩み寄り、三方活栓に触れる。

「ちょっと待ってくれ! 私達は糸織の親だぞ。なぜその治療に関して、何も聞かされていないんだ?」

「そりゃ、私が勝手にやってるだけなので」

 ドロシーが三方活栓を開き、注射器を差し込んだ。

「なあ!?」

 液がチューブを伝い、いばら姫、いや、糸織か、その身体に流れ込んでいく。糸織の父親がドロシーに飛び掛かり、しかし、アリスが父親を抑え込む。私はただ、呆然とその様子を眺めていた。

「やめろ! 糸織を! くそっ放せっ!」

「ドクターDに任せて。失敗、はするけど、最終的に何とかする」

「失敗はダメだろ!」

「なんなのよ」

 糸織の母親もアリスに掴みかかり、私は、アリスに加勢するべきだろうか。糸織の顔を見ても、心電図も、何も変化がない。私はどうしたら。糸織、本当に生き返るのか? ドロシーだ、信用できない。しかし、生き返ってほしい。

「大丈夫ですよ」

 言葉に視線を向けると、ドロシーがニコッと微笑みかけてきていた。

「はああっ!!」

 糸織が跳び上がるように体を起こし、大口を開け、固まる。糸織の父親と母親も固まり、アリスが溜息をつくのが聞こえた。

「糸織?」

「……っは、あ、な、なにこれ、身体全身スースーする!」

 糸織はそう言って布団を脇へよけるとベッドの外へ脚を投げ出し、二回身震いした。

「し、糸織、大丈夫なのか?」

「え、なに、パパ、ママ、どうしたの? というかわたしどうしたの? 凄く、喉乾いてる。シャワーも浴びたい。それにこの感覚、何? 目の奥につっかえてたものが取れたみたいな、なんで……全然眠くない。ちょっと走ってくる!」

 糸織がベッドから立ち上がり、しかしすぐによろけ傾いた。糸織の父親がさっと受け止め、身体を支える。

「糸織、落ち着くんだ。脚の筋肉が衰えてるんだから、急に動いたりできない」

「じゃあ、じゃあパパ、支えて。とりあえず自販機まで。シュワシュワするやつ飲みたい。早く!」

「あ、ああ。ママ、手伝って」

「え、ええ」

 糸織の身体を、左右から父親と母親が支える。そして前へ進もうとする糸織に引っ張られるように、病室の外へ出ていった。

「ふぅ、無事ハッピーエンドを迎えることができました」

 ドロシーが手にしていた点滴チューブの先端をポイッと投げだす。いつの間にか、糸織の身体からチューブを抜き取っていたらしい。しかしそんなことよりも。

「どういうことなんだ。私がやったことは、無駄だったのか?」

「無駄!? とんでもない! スノウさん、よくやってくれました。私達もよくやりましたが。私達がこの病室へ入ってこれたのはスノウさんがいばら姫さんを殺してくれたからです。そしていばら姫さん、いえ、糸織さんですか。糸織さんを蘇生させたのは、アフターサービスといいますか。必要はなかったんですけどね」

「また繰り返してしまうんじゃないのか?」

「いいえ、それはもうありません。世界の綻びとパスを作ってしまった夢は、スノウさんによって強制終了させられました。世界の綻び自体も、私とアリスさんがターニングタイムを改変させたことで正常な世界における許容範囲の数値に収まりましたし。このあと全員揃っての最終決戦ですとか、そういうのもありませんので。本当に、お疲れ様でした」

「……そうか」

 全身から力が抜ける。思わず膝をつきそうになった私を、ドロシーが支えてくれた。

「さぁ、ライブラリに帰りましょう。そしてちょっと、休暇でも貰いたいですね。河原でいつかの狸鍋でも。アリスさんまた作ってくれます?」

「まだわたしを働かせるわけ?」

「いばら姫さんも呼びましょう。あの狸鍋はいばら姫さんも絶賛していましたし」

「聞いてない」

 ドロシーの肩を借り、病室を後にする。

 ライブラリか……私は、スノウホワイトなのだろうか。それとも雪下美姫なのだろうか。ライブラリに戻った時、私の記憶はどうなるのだろう。願わくは、夢から覚めるように、全て忘れてしまっていたい。純白に、何も知らない純白に、私は戻りたかった。

 

 

 

 

 紅いステージカーテンの垂れ下がる舞台の上、二体の球体人形が吊り下げられている。一体はロリータ調の少女型マリオネット、ギシン。そしてもう一体はゴシック調の少年型マリオネット、アンキだった。

「…………」

「………………」

 カタッ、とギシンの首が傾く。そして口が縦にスライドするように開き、そこから音を発した。

「エー、今回ノ試みニ関して、総括ヲしようかト思いマス」

「ハイ」

 アンキが答え、首をカタカタと震わせる。

「まズ、我々ノ仮説に関してデスが」

「オオよそ見込み通リ証明されタト言って良いのデハ?」

「確かニ。デスが、結果としテ不可触領域タル上位概念ディレクトリへの介入ハ失敗をしマシた。ソノ原因は?」

「見込ミ以上の舞台ガ生み出サレてシまったノデ」

「そうデス。こレまでノ四十四回ノ施行、現実とライブラリの接続ニよる融合・淘汰デ解除鍵はしかシ、完成にハ至りまセンでしタ」

「効率化のたメに複数ノ現実と複数時空のライブラリを同時ニ接続シ、その中デ淘汰を試みル。こレ自体は名案デシたシ、実際グレーテルは解除鍵トシてかなリ良いところまデイったと思いマス」

「しかシコの画期的ナ同接ハ、上位概念ディレクトリにモ融解の影響ヲ与えテシまいましタ。こレデは解除鍵ガ完成したとコロで無意味。我々ノ目的はアクマで介入デアり、破壊でハないのデス」

「やハリ地道に進メナけれバナラないっテことデスよ、ギシン」

「……提案しタの、オマエだロー!」

 ギシンの腕がぐるぐると回り、アンキを殴り飛ばす。するとアンキの頭はぽーんと飛び、舞台の上に転がった。目を閉じ頭だけになったアンキが口を開閉し、ぴたった止まる……パッと瞼を開き、口を開けた。

「そレでは皆さン、、またドコかデ。さヨうなら。さようナラ。さよウナら。サヨうサささサササさよさササササ」




 七人の小人:スリーピー(ねぼすけ)。悪意の有無は問題ではない。いばら姫は天災そのものとなってしまった。彼女がどんなに善良な者であろうと、こうなっては罰を下さなければならない。その行為が彼女の意志でないとしても、数多の人間が死ぬ。85億の人命が、失われてしまう。だから、仕方ない。罰を下さねばならないんだ。そうだろう。
 世界の綻びと繋がったいばら姫の夢はスノウホワイトの手によって途絶し、夢を通した境界の崩壊・万物の融解は有り得ることのない現象として、非存在の側へ押し戻されました。世界の綻びに大きく影響をした事象もまたターニングタイムの改変により修正され、もう再びその現象が発生することはありません。ドロシーによる気の遠くなるような時間渡航の果て、スノウホワイトによる心の捩じ切れるような精神渡航の果て、世界はあるべき姿を取り戻したのです。めでたしめでたし。
.
 さて、それはそうとして、今回異変の元凶ももちろん、ギシンとアンキでした。そうです、ギシンとアンキは意図的に、世界に綻びを生じさせ、境界の崩壊を起こしたのです。お菓子の家の魔女とハーメルンを会わせることから始め、他にもあれやこれやと、おそらく。目的は現実とライブラリの接続によるキャラクターズ淘汰よりもより効率的な、複数現実と複数ライブラリの接続によるキャラクターズ淘汰でした。しかし意図的な境界の崩壊は複数現実と複数ライブラリだけでなく、ありとあらゆる概念境界の崩壊までもたらしてしまい、計画は失敗したのです。
 モノガタリはこれで終わりですが、キャラクターズ淘汰の目的に関しましては、公式さんでまだ語られないので、次のおまけの方で少し妄想を書くことにしましょう。それでは


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

非存在の手記

 事の発端は荒野に突如として現れた。そう、突如として。後の衛星カメラの映像からもそれは確かだった。

 我々は近隣警察よりもたらされたその情報を元に、現地へと赴いた。そこにあったのは、人一人が入れるサイズの金属の箱。外装は黒く焼け焦げ、開閉部を探し当てるのにも一苦労を要した……中には、箱同様黒く焼け焦げた、一人の女性の焼死体があった。

.

 ラボに運び込まれた箱は慎重に調査され、結論として、それは一種の時空間移動装置であることが分かった。しかし内部もやはり損傷は激しく、完成された装置であったのかはわからず、何処からかそこへ来たのか、あるいはそこから何処かへ行こうとしていたのかも定かではなく、修復・再現することなど到底叶わなかった。何か現代ではまだ発見されていない未知の物質が使用されている、ということも、残念ながらなかった。

 ただ、その装置に組み込まれた機能が一つ、まだ生きていた。我々はそれを仮に、存在観測機と呼称することにした。生物や物質といったものを観測し、着地地点の安全性を計算する装置、ではない。安全性を計算する、という意味では間違いなかったが、その存在観測機は着地地点の世界そのものの存在の確かさを観測する装置だった。このことから、私はある推論を立てた。この時空間移動装置は、ある種の時間軸を辿って時空間を移動するものではなく、無数に存在する概念上の世界から、存在としての確かさを有するものを探し出し、そこへ移動を行う装置であると……自分でもこれは、あまりにも現実的ではない考えだと、始めはそう思った。つまりこの推論が正しければ、今あるこの現実世界は概念世界といった実体を有さないもの、存在しないものの延長線上に有る、ということになってしまう。ありえない話だ。しかしながらこのあり得ない話を、あり得ないと証明するものが何一つ存在しなかった。

.

 我々の興味は未完全な時空間移動装置よりもむしろ、まだ機能をする存在観測機の方にあった。しかしその仕組み、実用化に関して、我々の理解は十分でなく、それ以前に、まだ人類はこの装置を十分に説明する言葉を持たない。そこで、存在観測機をより深く理解するため、我々は存在観測機に二つのAIを組み込むこととした。既知の事象に疑いを向け、思考する機構、『ギシン』。未知の事象に興味を向け、提案する機構『アンキ』。二つのAIは存在観測機を通して学習し、やがて存在観測機それ自体として、我々に知識をもたらした。我々はギシンとアンキに与えられた知識により、実際に存在観測機を操作し、存在に満たない概念世界の存在を観測することに成功した。また、この存在観測機での観測対象を過去へと向ける中で、現在との時間的距離が広がるほど、徐々に観測結果が不確かなものとなることも発見した……問題は、観測対象を未来へと向けた時だった。ここで、いつ、と具体的な数字を出すのは控えておく。ただそのある時点から先、唐突に、存在観測機は如何なる世界存在も観測することはなかった。どういうことなのか尋ねた我々に対し、ギシンとアンキが回答したのは、存在をしないが故に観測がされないという、単純なものだった。つまり、この世界も含め、その時点で唐突に、消え去ってしまうということ。どうしてそんなことになってしまうのか、当然それを尋ね、推測させた。返ってきたのは、我々の理解を超えた言語、聞き取ることすら叶わない、未知の言葉だった。次いでその最悪の事態を回避する方法を尋ねた。またも、未知の言葉が返ってくる。おそらく、人類の終焉はかなりの確かさを持って、迫ってきていた。というのに、その具体的な現象に関して、この二機のAIだけが理解している。ゾッとする話だった。我々はギシンとアンキの言葉を時間をかけ解析した。そうして、あるワードの検出に成功する。『上位概念ディレクトリへの介入』。これが何を意味するのか、その時点ではまるで分らなかったが、やがてこのワードを元にある研究機関の情報を得ることに成功した。

.

 人類は古来より、永遠の命を求めてきた。信仰による延命。寿命を延ばす食物。肉体の保存。魂の保存。呪術。魔術。科学。それはこの現代でも変わらない。上位概念ディレクトリというワードでヒットしたその研究機関もまた、永遠の命の為に設立されたものだった。我々はそこへ赴き、人間の脳を生きたまま冷凍保存する研究や、人間の人格をサーバーに保存する研究を目にした。いずれの研究もまだ確かな成果は出せていないようだが、他に、人型サイズのカプセルにて人に仮想空間を見せる装置があり、これが永遠の命とどう関係するのかと尋ねると、まさにそこへ、上位概念ディレクトリが関係をしてくると、案内人の男は子供のような笑みを私に向けた。現在と過去において広く認知され、また今後未来においても広く認知されていくだろう存在、それが上位概念ディレクトリには含まれているという。具体的には歴史の英雄や、あるいは童話の主人公、そういったものだ。そうした存在は概念としての不死を有しており、カプセルの見せる仮想空間の中で、人に上位概念ディレクトリ内存在としての夢を見せることで、逆説的に、上位概念ディレクトリ存在を人に降ろす、憑依させる、そして永遠の命を与える、といったことを目的としていた。実際その実験はどの程度まで進んでいるのか、それを尋ねた我々に、男はなかなか口を割ろうとしなかった。しかしそれは、研究が進展していることを肯定しているのと変わらない。我々は国として、彼等に協力することを提案した。そして何より、上位概念ディレクトリに介入できる存在を必要としていることを。男は驚いた顔をしていたが、我々が全てを話し明かすと、これまでにない真面目さで首を縦に振ってくれた。

.

 我々の方針はそうして、ある程度定まった。研究機関の協力を得、上位概念ディレクトリより存在を降ろし、上位概念ディレクトリへの介入をもって、世界に終焉をもたらす力、現象に対しての対抗策とする。現時点で行えることは少なく、判明していることも少なく、ただしかし世界を存続させるため、実行可能なことを実施していく他なかった。しかし……最近ではある、あり得てはならない予感が不意に、よぎる。もし、今我々が行っているこの活動が、世界の終焉を招いてしまうのだとしたら。我々の観測した終焉が、それなのだとしたら。我々は今すぐにでも、我々の活動の全てを闇に葬り去らなければならない。




 作者、世界の作者、すなわち世界の創造主。彼の者はこの世界の終わりを記そうとしている。ギシンとアンキはそれを阻止しようとしていた。とはいえ、作者を始末することはできない。そのようなことをすれば、世界自体が崩壊をしてしまう。故に世界の上位概念ディレクトリへ書き込みを行う必要がある。しかしながら、上位概念ディレクトリは不可触領域だ。操作を行うためには解除鍵、その適正者が必要となる。適正者とは、上位概念ディレクトリに存在する広く知られた概念、存在概念との適性を持つ者。伝承や御伽噺など、長きに渡る年月の中言い伝えられてきた存在・物語は上位概念ディレクトリの一部となり、故にそうした存在と親和性・適性を持つ者は解除鍵となり得た。とはいえ、単一状態の解除鍵は上位概念ディレクトリの不可触性に切り込むにはあまりにも脆弱だ。故に平行する世界間での適正者同士、同一適正者同士の殺し合いによる淘汰と、解除鍵の存在密度の強化が必要となる。どのようにして同一適正者同士をめぐり合わせるか。その方法としては、概念世界、ライブラリを通して世界を繋ぐ手段が用いられた。即ち、ライブラリと現実の融合だ。
 ギシンとアンキは今回、ライブラリと現実の融合ではなく、ライブラリを経由しない、現実と別の現実の融合を目指し、新たな融合方法を模索していた。そうして実施されたのが、世界の理に綻びを生じさせる仕方での、境界の崩壊。複数の現実、ライブラリさえも含めた、複数世界の同時接続。しかし世界の境界の崩壊はあらゆる概念の崩壊までもたらしてしまい、その新たな試みは失敗に終わった。
 まぁそんなわけで、黒鉄武器、邪神武器の武器ストーリーは大変興味深いですね。妄想でない本当の真相が明らかになる日が楽しみです。それでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。