異世界転生したら、三国志だから、アレッと思って、美少女だっけ、性転換しちゃって、もうゴールインさ (にゃあたいぷ。)
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雌伏編
冒頭.
前述する、私は転生者だ。
よくある異世界モノの物語で見かけるような状況下に今、私は置かれている。
前世、と呼んでも良いのか分からないが、前の世界では私は男だった。聖フランチェスカ学園に通う極一般的な男子生徒であり、ひょんなことから異世界に飛ばされる。原因と思われるような事に思い当たりはない。本当に、気付けば、異世界に放り込まれていた。見渡す限りの荒地に呆然としているしかなかった私を拾ってくれたのは馬騰という大人の女性であった。歴史モノのドラマで見るような馬具に身に纏って、馬に跨る彼女との出逢いで私は此処が自分が知る世界とは違うことを知る。そして彼女の馬の後ろに乗せて貰いながら色々と話を聞いている内に、この世界が三国志に近い世界観であることを理解する。近い、と表現したのは、先ず、この世界の住民には日本語が通用するのが一つ。そして、この世界は女性優位の社会であり、三国志の史書に名を馳せた名将達が女体化してしまっている為だ。
私を拾った馬騰も例に漏れず、彼女の娘と姪の四人娘もまた同じであった。
馬超、馬休、馬鉄。この三人の内から一人、私は拾い主の馬騰から婚姻することを義務付けられている。いや、そのことは構わないのだ。現代人の感覚で云えば、その内の全員が美少女と呼べる容姿を持っており、胸も大きくて素晴らしい体格をしている。そして、どういう訳か三人が三人共に私のことを好いてくれていることもあり、元の世界に戻る事を考えなければ、これ程に素晴らしい話もない。誰か一人なんて選べない、もし許されるのであれば三人共に結婚しても構わないとすら思っていた。
問題があるとすれば、ただ一点、私の性別もまた男性から女性へと変化してしまっている事にある。
先述する、この世界は中華文化の皮を被ったファンタジーだ。
私に寝床は用意されなかった。
代わりに馬騰から渡されたのは大きな枕、両面に是と否が書かれている。余りにもあんまりな代物であるが、馬騰の話では早急な関係向上を見込んでのことだそうな。それからといえば、私は大きな枕を両手に抱き締めながら夜な夜な誰かの部屋にお邪魔するようにしている。最初こそドギマギすることもあったが、人間とは慣れる生き物であるようで、今となっては特に気にしたりとかしていない。湯浴みの度に誰かしらが付いてくるし、背中とか洗って貰ったりしているし、それに自分が女性になったせいか、以前ように女性の裸というだけで興奮するような事はなくなった。だからといって、男性に興奮する訳でもないけど。とにかく、私のことを好いてくれる三人の内、誰か一人を選ぶ決断を出せない私は毎夜、順番に三人の部屋を巡っている。偶に二人に挟まれることもある、気分的にはパジャマパーティー。眠たくなるまで、しょうもない話で盛り上がり、瞼が重くなれば夢の中、気付いた時には朝になっている。
目の前にある顔に、おはよう、と告げてから体を起こして朝餉の準備を始める。
馬家における炊事と洗濯、それに掃除といった家事全般は私の担当だ。この時代はまだ調味料の種類は少ないと記憶していたが、味噌や醤油の製法は既に確立されている。なんでも光武帝の偉業の一つらしい。ちなみに光武帝には、租税を収穫の一割になっていたところを半分以下に減らした逸話が残っているが、それは農業改革を起こすことで生産率を三倍に上げた事が元になっているようだ。中でも代表的なのは効率的な稲作の普及である。流石は中国史きってのリアルチート、まるで転生者のようだ。塩と砂糖の生産効率化を図っている割に、胡椒を後回しにする辺りがなんとも米キチ転生者っぽい。あまり言及し過ぎると首筋が涼しい事になりそうだ。ともあれ、この時代にしては豊富な調味料を活用できることもあり、私の手料理はかねがね好評であった。馬騰と三姉妹が戦働きに精を出す中、私は家を守っていることが多い。男としては情けないかも知れないが、これが適材適所だ。というよりも馬超を筆頭に、馬家の武芸には足元にも及ばない。下手について行けば足手まといになる。それが分かっているから私は私の出来る範囲で拾ってくれた馬家に恩を返していきたいと思った。
私は馬家の皆を好いている、それこそ本当の家族のように想っている。
私の名は
さて、ここまでの話で違和感に気付いた者も多いかと思われる。
当たり前の事実だが、同性では子供はできない。そうであるにも関わらず、彼女達の親である馬騰は結婚しろと言ったのだ。子を残す為に。繰り返す、この世界は中華文化の皮を被ったファンタジーだ。この世界には男性器を生やす薬も流通されている。そして後漢末期の不安定な情勢、馬三姉妹は全員が戦上手で涼州軍の要であった。それ故に子を孕むことで席を空けることは許されない。では、どうするのか。後継ぎは別の誰かに孕ませれば良い、という簡単な話だ。実際、馬騰も他の女を孕ませることで三人もの子宝に恵まれている。そして、大事なのは三姉妹は三人共にそういった事情を理解しており、私の事をそういう対象として見ているという事だ。
これは、つい先日の話になる。
首筋に擽ったさを感じて、ふと真夜中に目覚めてしまった。生温かい吐息に身動ぎすると背後から悲鳴が上がったのだ。まだ眠たい事もあって、そのまま振り返らずに寝付こうとすると背後から荒い吐息が聞こえ始めた。そして微かに粘着質な水音が聞こえる。くぐもった嬌声、水音は止まらず、背中越しに感じる身動ぎに気付かないふりをしながら事が終わるのを待ち続ける。それは深夜遅くまで続いた。
そういった事が起きてから私の寝付きが悪い。
私は女体は好きだ、美少女も好きだ。馬姉妹の容姿は勿論、内面も好ましく思っている。誰か一人とは言わずに全員を結婚したいと思える程度には好きだ。しかし、それは私が男としての話である。この世界は中華文化の皮を被ったファンタジーだ、この世界には男性器を生やす薬も流通されている。挿れるのは相手であり、受け入れるのは私だった。性的な目で見られることは少し恐ろしい、男性器を挿入される事は想像するだけで悍ましい。かといって拒絶する事もできない。それこそが私が馬家に拾われた理由であり、求められている事である為だ。
覚悟は定まらず、真夜中、背中越しに感じる情欲に怯える日々を過ごしている。
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第一話.
なんかそっちの方がしっくり来たので。
数百年と続いてきた漢王朝、
女性主流の時代において、今も昔も御家を持つ名家豪族を悩ませ続けてきたのが子作りの問題であった。
通常、人間は異性に恋愛感情を持つように作られている。不思議な蜂蜜なるものが発見されて、女性同士の交配が可能になった今でもそれは変わらない。また女性同士で交配した場合、確率的に子は女になる事が多かった。現に今、私が孕ませた三人娘の超、休、鉄も全員女性だ。この事が名家豪族、特に皇族の間では問題視されており、分家からの取り入れ、もしくは養子縁組を活性化させることで、できるだけ男児を多く産ませようという試みが各地で起きている。とはいえ、由緒ある家柄の御家では身元も分からぬ者を血族に加える訳にも行かず、かといって名家豪族に男が減りつつある今の御時世、男を娶ることも難しい。また当主としての責務を果たす為に子を孕む時期も考えなくてはならないとあっては、時間に余裕が持てず、止むなく妻を娶って子を孕ませる事になる御家は多かった。もし仮に天の御使いなる者が現れたとして、その者が男性であった場合、それはもう引く手数多の人気物件になるに違いない。今の大陸には由緒正しい血筋、少なくとも周りを納得させられるだけの背景を持った男性が求められているのだ。そして、なによりも同性相手の交配というのは、異性愛者からすれば意外ときついものがあったりする。先ず陰茎を勃たせることで一苦労だ。勃起させる為に性癖の開発から試みなくてはならない事もあり、娶った妻と共同作業であれやこれやと様々な行為を試す羽目になる。
それが私、馬騰。
男を孕ませる為に三度も子を産ませたが、結局、女性ばかりになってしまった。元は互いに異性愛者、今は離れて暮らす妻には申し訳ないことをしたと思っている。娘達には自分と同じ過ちを犯して欲しくはない。されども御家の後継を用意することは必要だ。今が平和な世の中であれば、同性だの、異性だの、そういう情事に口を挟む気はないのだが、うちの娘は全員が武芸の腕が立ち、涼州軍の中核を担っているのが問題だった。今の不安定な時期に、妊娠で戦線を離脱されるのは凄く困る。いや、回すだけなら一人が抜けたところで問題はない。しかし、それでは緊急時の対応ができなくなる。
三人の内一人、誰か一人でも夫婦として仲睦まじい生活を送ってくれれば良い。私個人としては後継ぎが一人、産まれてくれるだけでも良いのだ。できることならば男児を一人、欲を言えば一人でも多くの子を残して欲しいとは思っているが、それはそれ、後世に御家が残るのであれば、それ以上の贅沢を云うつもりはなかった。誰か一人くらいは本気になってくれたら良い、そんな軽い気持ちだった。
ただ誤算だったのは、私の娘達は皆、思っていた以上に真面目だった事だ。
「……で、どうして私のところに来る事になる?」
真夜中。私、馬騰の私室にて、扉の前に立つのは何時ぞや拾った小娘であった。是と否と大きく書かれた枕を両手に抱えた姿で、ぷるぷると震えながら涙目で突っ立っている。理由を問えば、「怖い」と単純な答えが返ってきた。どうやら私が思っていた以上に進展が早かったようだ。最初の段階で説明を済ませてあるし、いずれ婚姻し、子を孕ませる相手だと意識はさせていた。その上で夜な夜な娘達の部屋に送り込んでいるのだ。彼女に持たせた枕も性的対象として意識付けさせる為の小道具だ。ちなみに是は快適な睡眠を、否は眠り難い形に仕立ててあったりする。さておき、今は目の前の小娘をどうにかすべきか。小動物のように身を震わせた挙句、何処かに隠れるような事もせずに私のところに来る辺り、なかなかに追い詰められているのかも知れない。少なくとも三人共に彼女、葵を性的対象として見ていることは確かなようだ。
「……私も女相手に孕ませた経験を持っているのだが?」
それはもう性癖を開発する為にあれやこれやと口に出せない事を多く取り組んでいた程だ。葵はびくりと身を震わせると「わ、私はこちらで寝ますから」と来客用の長椅子に向かっていった。「私は怖くないのか?」と問えば「翠達とは目が違うし……奥様も居ましたよね?」と返された。まあ確かに私は妻以外と性行為に及ぶつもりもないし、そもそも最後まで女性を性的対象として見ることはなかった。必要だからした、男児が求められていたことも事実。それだけの為に体を重ねてきた。ただ睡眠場所に長椅子を選ぶ辺り、信用は得られていないのだろうけど。
「まあ、今日は良い。でも明日からは鍵を閉めたままにするからな」
言って布団を被り、目を閉じる。
†
彼女、
涼州の英傑と持て囃された
かつて三人で涼州を支えていた時、面倒だからと戦以外の全てを月と詠に押し付けていたものだが、こうして二人が居なくなって初めて後方支援の大切さを理解した。だから私達の仕事が円滑に進むようにと後方で輸送を担当する者達には酒場の席で労いの言葉を入れたり、敵将の頸を取った者は勿論、そのお膳立てをした者達にも等しく功績を与えるようにしている。気苦労ばかりが増えた気がする。詠だけでも戻って来ないかな、と思う毎日だ。
さておき、いつもの様に戦を終えて、被害確認の為に村を回っていた時のことだ。
彼女はただ一人で荒地を徘徊していた。
これだけであれば、珍しいことでもない。戦災から逃れる為に民草が村を飛び出すことは珍しい話ではなかった。
しかし、彼女はそういった者達とは違っていた。村から逃げ出したにしては身形が小綺麗であったし、戦から逃れてきたにしては緊張感のない顔をしていた。きょろきょろと私のことを見たり、連れてきた配下を見たりして、なんというか現実感のない様子だった。それはまるで危険を知らない幼子のような有様であり、たぶん放っておくと簡単に死ぬのだろうな。とも思う。少なくとも賊徒や異民族の慰み者になるのは確実で、仮に街まで辿り着けたとしても商人相手にコロッと騙されて、娼館辺りで働いてそうな人物だ。無警戒に、トコトコと歩み寄ってきた彼女を見て、不安に思う。武装した私を相手に危機感ひとつ抱かないのは、抜けている。を通り越して無神経と云うべきだろう。
「あの、此処は一体、何処なのでしょうか?」
今の御時世、官軍であっても決して信用できる相手ではないだろうに。
「此処は臨羌県になるぞ」と呆れ混じりに答えると「りんきょう県?」と聞き慣れない言葉を繰り返すように呟いた。そんな県なんて聞いたこともないな、とか考え込んでいたので「金城郡の最西にある臨羌県だ」と付け加えた。すると余計に首を傾げてしまった。民草の中にも教養を持たない者は多い、というよりも足し引き算盤ができる民草がどれだけいるのかっていう話だ。
だからもっと分かりやすい言葉で口にする
「此処は涼州だ。これぐらいは聞いたことがあるだろう?」
「りょう……しゅう? 涼州!? いや、待て……中国では、もう読み方も変わっているはずでは!? そもそも言語が伝わっているのもおかしくならない!? えっ、ちょっと、いやいや、えっ、それって本物?」
ようやく状況が掴めたのか、私が持つ抜き身の槍を見て顔を蒼褪めさせる。
それはそれで話がおかしいような気がする。正しい判断力を持っていればこそ、今のような反応を見せる。しかし先程までは判断力が欠如した人間だと私は思っていた。そして私と配下の将兵を見て、軍勢以外の何と勘違いすると云うのか。まるで花よ花よと育てられてきた箱入り娘のような人物だが、それはそれで彼女の立ち振る舞いが名家や豪族のソレに見えないと云う問題が出てくる。
今、分かるのは、私が見放したら不幸になるんだろうな。と云うことだけだった。
「行く宛がないのであれば付いてくるか?」
手を差し伸べると小娘は、特に警戒もなしに私の手を受け取った。
小娘は、余りにも無知が過ぎた。
異民族も持っている真名の文化を知らない程であり、初めて名乗った名が真名であったことには驚いた。身形から良い生まれだとは思っていた。不自然に抜け落ちた常識から箱入り娘だという説も考えた。しかし、彼女は用の足し方も分からないということを打ち明かされた時には、流石に私も頭を抱えてしまった。何処で用を足せば良いのか、とかではなく、女性はどうやって用を足しているのか分からない、である。記憶喪失という線も考えたが、その割には彼女は自分ことをよく分かっていた。少なくとも自分が何者か、という点で混乱するようなことは一度もない。
まあ彼女の話は俄かに信じられないことが多いのは事実だ。元は天の国とも呼べる場所で男として暮らしていたが、ひょんなことから気付けば、この地に女として突っ立っていたとのだと彼女は云うのだ。仮に彼女が天の御使いだったとして、どうせなら男のままでも良かったのに、と思うこともあったがそれはそれ、根っからの女好きの女というのは意外と希少だったりする。民草の間では異性同士の恋愛が常であるし、名家豪族では同性を愛せるように幼い頃から特別な教養を授ける者も多い。特に子を他家へと嫁がせる予定の場合は、その傾向が強かった。そして、それだけしても、やはり異性の方が好み、となる者も多い。
そういう意味で言えば、葵は稀有な才能を持っていたと云える。自分は元男と言うだけあり、男性の裸体を見ても何も感じない癖に、私の裸を見ると顔を真っ赤にして慌てふためいたりする。というよりも自分の裸でも顔を赤くするし、今でも慣れきってはいない。反応だけ見ると元男という話は、ひとまず理解できるものではあった。
屋敷で妹達と一緒に暮らさせてみると、元男という話が嘘のように家事全般を熟している。それも丁寧に事細かく、それに彼女が作る料理は美味しかった。娘達の面倒もよく見てくれており、唯一、家の手伝いをしてくれてた鶸は感涙を流していた。ごめんね、ずっと政務と軍務で家のことを放ったらかしにしてごめんね。
ほどなくして小娘を馬家の養子として受け入れて、馬雲緑の名を与えることになった。
それと同時に是否枕を授ける。
ムッツリな癖に、こういう事には疎いのか。ぽかんとした顔を浮かべる葵に私は告げる。
「うちの娘の内、誰でも良いから抱かれて来い」
急に言われても現実味が薄かったのか。はあ、と気のない返事を零すだけだった。
†
そして今、長椅子で眠る葵を思いながら少しだけ思案する。
大方、自分が子を孕む事に現実味が帯びて、臆したと言ったところか。何か手を打つ必要はあるだろう、この状態で事に及んでは行為そのものに恐怖心が植え付けられるかもしれない。それに無理強いは互いを不幸にするだけだ。とりあえず今は逃げ道が必要か、私が頭ごなしに娘達を抑えつけては、それはそれで暴発する可能性もある。
……そういえば丁度良い奴が居たな。そう思い至った私は明日、筆を取ることを決める。
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第二話.
「彼女の真名は
とある日の事だ。御母様が戦帰りに少女を持ち込んできた。
特に詳しい説明はされず、今日から一緒の屋敷で過ごすことだけを告げて部屋を出て行った。葵と呼ばれた少女がひとり取り残される。最初、見た時は戦帰りに拾ってきたとは思えないほどに綺麗な身形をしていると思った。そして同性の私が少し嫉妬する程に彼女は美しい容姿を持っており、ぽけっとした顔で私達を見つめる姿は何処となく抜けていて、そこがまた可愛らしく映った。お互いにどうすれば良いのかわからなかったのだろう、暫しお互いのことを見つめ合っていると「あ、えっと、その、つまり、そういうことです! よろしくお願いします!」と少し上擦った声で頭を下げてきた。
こういう子が男に好かれるんだろうな。そんなことを思ったりする。
葵はひ弱だ、軟弱と云っても良い。まるで憧れを見つけたような輝かしい目で私の槍を見つめてきたものだったので、試しに槍を持たせてみれば、満足に槍を構えることすらもできず、危なっかしかったのですぐに槍を返してもらった。その時、ちょっと涙目になっていたのがあざとかった。彼女に戦働きはできそうにない。その代わりと云ってはなんだが、彼女はよく家のことを頑張ってくれていた。今までは鶸に任せっきりだった家事を手伝っており、少し汚れていた屋敷の中は見る見るうちに綺麗になっていった。健気に甲斐甲斐しく家の手伝いをする葵に、鶸は泣き崩れてしまった。いつも散らかすばかりで、とか、ちゃんと栄養とかも考えているのに、とか、今日は御馳走って言ったのに外で買い食いするし、とか、うん、ほんのちょっとだけ思い改めようかなって思った。それから葵が来てからは御飯も豪勢になった。何時もは訓練が終わった後に鶸がチャチャッと作る大皿一品の簡単な料理ばかりであったが、ほとんど家から出ない葵の料理は手が込んでいて種類も多かった。それでいて、毎日のように料理を作る鶸や時々だけど家にいる時は料理を作ってくれる御母様よりも美味しかったりする。手間がかかっている分だけ美味しいのは分かっているし、舌が慣れているのは御母様と鶸の味だから週に一度くらいは食べたくなるが、それでも普段は葵の料理が良いな。とか密かに思っている。鶸はどうだったのか云うと、他人が作った料理は食べるのがこんなに美味しかったなんて、と感動していた。後で労ってあげた方が良いだろうか、適当な言葉だと嫌味にしかならない気がする。かといって家事を手伝おうとすれば、鶸に怒られるので手出しが出来ない。戦に出向く時、葵は必ず送り出しに出て来る。戦から屋敷に帰って来ると、いの一番に駆けつけて、ほっと胸を撫で下ろした。そして、とても嬉しそうにはにかむのだ。私が戦で功績を上げた話を聞く時は、酒の席に付き合う友人のように黙って耳を傾ける。申し訳程度に相槌を打ってくれる。私が屋敷に戻る時に比べると余りにも反応が薄いものだから「戦の話は退屈か?」と問うてみると「そんなことはない」と彼女は首を横に振った。
「
それでも、と彼女は顔色を暗くして告げる。
「出来ることなら戦場に行って欲しくない。それが例え、お勤めであったとしても親しい人が命の危険に晒されるのは心臓に悪い」
貴女が帰ってくる事が私にとって一番の幸せです。と葵は力なく笑ってみせた。
それから突っ込むばかりの戦は控えるようにした。勿論、突撃する時は思い切りが大切だ。しかし出来るだけ入念な準備をして、斥候を出す頻度を倍以上に増やした。精度の高い情報を仕入れることに苦心し、出来るだけ確実に相手を仕留められるように心掛ける。私の実力は母馬騰、御母様を超えていた。馬を駆けるだけで絵になり、馬上で槍を振るう姿に誰もが見惚れる。返り血一つ浴びない姿、その武芸を讃えて、西涼の錦。と決して錆びぬ涼州の誇りだと呼ばれている。
あまり血を浴び過ぎると帰った時に同居人が心配するから、怪我をすると同居人が青褪めた顔で不安がるから、そんな理由で綺麗に殺すことを心掛けているなんて味方は勿論、敵にも言えない。と苦笑する。
この頃になるともう、葵なしの生活なんて考えられなくなっていた。
世間一般的に言われるような、良き妻、というのは彼女のような人物が呼ばれるのだろう。彼女もいずれ良い人が出来たら屋敷を出て行ってしまうのだろうか。それは少し嫌だな、となんとなしに思った。
更に日が過ぎて、大きく是と否が書かれた枕を持った葵を隣に御母様が宣言する。
「この子を貴女達の誰か一人と婚姻して貰うから、そのつもりで」
ざっくばらんに言われた言葉に私達は衝撃を隠せず、姉妹三人で互いを見合わせた。
そして瞬時に理解する。こいつら全員、自分と同じことを考えている。いまいち状況を理解できていないのか。あざとく首を傾げる葵を見て、私達姉妹は三人揃って生唾を飲み込んだ。意識していなかった訳ではない。名家に生まれた以上、同性で事を運ぶ場合があることは知っていた。実際、私達姉妹は同性婚によって産まれた子なのだ。意識しないはずがない。もし妻を娶る時が来るのであれば、彼女のような人間が良いと思っていた。それが明確に婚姻するという道筋を作られて、意識しないはずがない。
葵は眠たそうに欠伸をすると「今日は何処で寝よっか?」と目を擦りながら問いかけてくる。
「あれ、聞いてなかった? 私、今日から寝る時は貴方達の部屋って事になってるから」
拷問だろうか、じとっと母が出て行った扉の先を睨み付けた。
この後すぐ私達姉妹は御母様に呼び出されることになる。なんでも伝え忘れていた事があるとか。あの時、一緒に教えてくれたらよかったのに、とか、ぶつくさと呟きながら部屋に入ると御母様はまたしても衝撃的な事を口にする。
「葵と初めて夜を共にする時は必ず抱き締めて口付けすること」
最初だけで良いぞ、と御母様は言うだけ言うと持ち帰った書類仕事に没頭し始めた。
もう取り合う気もない母の様子に、誰かが言わずとも三人一緒に部屋を出る。そして同時に溜息を零した。全員が全員、顔が真っ赤になってしまっている辺り、やはり意識はしてしまっているのだろう。意味が分からない、と憤慨してくれれば敵が一人減るのだが、そんなことはなかった。ただただ黙り込んだまま、悶々とした感情を抱き続ける。本当にどうしたものか。そう悩んでいると二人からジトッとした目を向けられていることに気付いた。
羨ましそうな視線。ああ、そうだ。今日は私の番だった、と再び溜息を零した。
「翠姉様、変わってあげよっか?」
「あ、蒼ったら狡い。わ、私も変わっても良いよ?」
「……譲るつもりはないからな」
嫌そうな顔をしていたのに、と二人して抗議をしてくる。
そんな二人を無視して、台所へと足を運んだ。気負う心、顔を洗ってから入念に歯磨きする。口臭を何度も確認して、高鳴る胸を握り締めながら自分の部屋に入る。葵は部屋で待ち構えていた。何時も、きっちりと衣服を着込んでいる彼女。しかし寝る時は別なのか、ゆったりとした服装をより着崩していた。胸元が開いており、恥じらうように視線を逸らす。そして寝台には「是」を表にした枕が置かれている。これはもう覚悟してきた、と考えても良いのだろうか。距離を詰める、逃げない。髪に触れる、抵抗はない。搔き上げる、身を震わせるだけ。普段、髪に隠される耳元やうなじ、それを見るのは、なんとなく背徳感を覚えた。彼女は綺麗好きだった。体や髪を洗うのに石鹸をよく使っており、消費量も多いものだから自分で石鹸を作ったりもしている。彼女が使う石鹸は香草を混ぜていることもあり、良い匂いがした。スンと嗅ぐと仄かに甘い、それがまた酷く、情欲を湧き立てる。両手を背中に回した。それでも抵抗がなかったからギュッと力強く抱きしめた。「え、あれ?」と戸惑いの顔を浮かべる。それがまた可愛く思えた。もっと虐めたいと思った。だから唇を奪った。舌は絡めず、軽く押し付けるだけの接吻だ。数秒、柔らかい感触を確かめてから唇を離す。ぽかんと抜けた顔を浮かべる葵、そして、徐々に顔を真っ赤にさせていって、耳まで赤くしたところでボフンと爆発した。
その日はこれでおしまいだ。おめめをぐるぐるに回す寝台に寝かせて、私は悶々とした感情を胸に潜めながら体を丸める。
疼く想い、今日、初めて私は自慰をした。
†
異世界転生と云えば、無双チートだ。チーレムだ。
そう思い立った私は馬超、つまり翠に頼んで槍を持たせて貰った。重かった、危ないからと槍を取り上げられた。夢も希望も魔法もなかった。ステータスもオープンしなかった。というよりも女性の身になってから体力が落ちている気がするので、むしろ弱体化している可能性すらもある。今日日、異世界転生と云えば、チートで無双するのが流行りだというのに神様は分かっちゃいない。まあ私、神とか女神とか出会っちゃいないのだけど、さておき、現実を見つめ直した私は自分にやれる事をしようと思い改める。そして手を付けたのが家事全般、男子高校生なのだから家事の一つや二つはできて当然、ついでに云えば、私は一人暮らしをしていたので自炊とかはよくしていた。バレンタインデーには友チョコとか渡してたし、ホワイトデーにはクッキーとか焼いていたし、裁縫で破れた衣服の修繕もよくしていた。細かい作業は性に合っていたし、料理を作るのも割と好きだった。これといった趣味がなかっただけとも云う、実際、退屈凌ぎの暇潰しで家事をすることは多かった。
折角、異世界に来たのだから男らしく暴れてみたかった気持ちはある。しかし、その気持ちは頭から血を被った翠の姿を見て、直ぐに諦めた。いや、だって無理、あれは無理だ。戦場帰り、頭から血を被った翠を見て、本人は大丈夫だって言ってるのに、私は彼女が本当に怪我をしていないのか心配で服を脱がせようとした。とんだセクハラである。翠達が戦場に出た時はあまり心配していなかった。だって馬超ですし、西涼の錦ですし、五虎将軍ですし。でも実際に血塗れになって帰ってきた姿を見て、その考えは間違っていたことに気付いた。翠は得意顔で武功を誇るけども、そんなのはどうだって良い。私はただ翠が無事に帰ってきてくれたことが嬉しかった、無事に帰ってくる。それこそが最大の武功だと私は思う。だから翠の血に濡れた手を両手を握り、その温もりを感じ取る。嗚呼、生きている。死んでいても不思議じゃない、戦のない現代社会でも人間なんて簡単に死んでしまうのだ。戦なら尚更の話、生きていて良かった。目頭が熱くなる、涙が溢れた。狼狽える彼女に私は告げる。
次も無事に帰ってきてください、と。血を見ただけで体が震える私では戦働きなんて、とてもできそうもない。できないものは仕方ない。
翠、蒼、鶸。三人が戦に出て行く時、私は両手をギュッと握り締める。そうしないと不安だったからだ。ともすれば、簡単に消えてしまいそうな彼女達の存在を確認するように、無事に帰ってきますように、と念を込めてギュッと握る。彼女達は戦に出向く、弱い私は戦に出る事は出来ない。だから家を守る、彼女達が帰ってくる場所を守ろうと心掛けた。そして戦場から戻ってきた彼女達を満面の笑顔で、おかえり、って迎え入れるのだ。
今日もまた家事をして、時間の合間に刺繍をする。
屋敷から出ない私が彼女達にできることなんて高がしれている。精々、神頼みくらいなものだ。だから、御守りを作っている。彼女達の息災を祈って、丹念に編み込んだ。
……最近、ふと不安になることがある。
ヒロインムーブをし過ぎてはいないかと、いや、そんなことはない。
何故なら私は歴とした元男だからだ。
そうだ、私は前世でも男らしく生きようと努力をしていた。
だからきっと私は男らしいのだ。
ふんす、と胸元で両手を握り締めて、何時ものように鍛錬に出向いた皆の帰りを待つ。
今日は肉じゃがだ!
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第三話.
「あ、えっと、その、つまり、そういうことです! よろしくお願いします!」
辿々しい様子で頭を下げる少女、
詳しい事は告げられず、母は少女一人を置いて部屋を出る。知りたい事があるのなら本人に聞けという投げやりっぷりだ。ただまあ部屋に残された少女は素直で大人しそうだった事に内心で安堵する。いやだって今居る姉妹だけでも手に余る有様だし、これ以上、問題児が増えてしまったら私の身が保たない。
ただ如何にも女性らしい容姿と仕草を持つ彼女には少なからず思うところがある。
葵が隣に居ると自分の女性としての自信が損なわれてしまうのだ。家事全般をソツなく熟す。時折、失敗する事もあるけども持ち前の愛嬌と明るさで皆を笑顔に変えてしまうのだ。なんというか、彼女は無知で、無邪気で正直だった。偽りのない心からの行動は見るものを揺さぶる。自分の感情を小さな体を使って、目一杯に表現し、しかし周りを不快にさせないように取り繕ったり、誰かが気落ちしている時は理由も聞かずに寄り添った。自分の事だって、周りの事だって、構わずに自分のできる最大限を発揮しようとする彼女は何時も輝いて見えた。
きっと彼女のような人間が、世の中で云う魅力的な女性なんだろう。と私、鶸は思った。
彼女に抱いた嫉妬心、疼く想いは何を意味するのか。
初めて彼女を女として見たのは、私が姉妹の愚痴を零していた時だ。いつも散らかすばかりで、とか、ちゃんと栄養とかも考えているのに、とか、今日は御馳走って言ったのに外で買い食いするし、とか、そんな事をよく口にしていたような気がする。そんな面白くもない話を相槌を打ちながら黙って聞いてくれる葵に甘えてしまって、つい長話をしてしまった私に嫌な顔ひとつ見せずに葵は優しく微笑んだ。そして私の頭にポンと手を乗せる。爪先立ちで目一杯に体を伸ばしながら「ひとりで頑張って来たんだねえ」と柔らかく撫でられる。実の親にすら一度もされた事がない行為、軍隊を率いる立場になると書類仕事なんて出来ても誰も褒めてくれないし、家のことだって誰も理解してくれない。戦働きだって姉さんには敵わない。家事に書類、御家の帳簿とやる事が多いから鍛錬に費やす時間も取れない。姉さんから一度、「最近、鍛錬をサボってないか?」と呆れるように言われた時は姉妹なのにガチめの殺意が湧いた。とはいえ今は割り切っているから前よりも辛くはない。姉さんの武芸には神が宿っている。天賦の才とは姉の為にあるような言葉であり、私がどれだけ努力しても辿り着けないとは理解している。なにより姉さんは西涼の錦だ、姉さんが戦場に立つ意味は私なんかとは比べものにならない。だから姉さんを万全な状態で戦場に送り出せるように、余計な事に気を煩わせることがないように、私は自分が日陰者である事を認めたのだ。誰にも褒められず、これが当たり前なんだと言い聞かせて、だけど、私だって姉さんに負けないくらいには頑張ってきたつもりだ。
抑え込んでいた気持ちが溢れ出す。「あれ、おかしいな?」と拭っても止まらない涙に私自身が一番動揺していた。
嫉妬心に僅かな劣情が混ざっていたことに気付いたのは何時頃か。
日が過ぎて、葵が馬家に馴染んできた頃合の話だ。同居人に過ぎなかった彼女は家族になった。今はまだ義理の妹と云う話、しかし御母様は私達のいずれかと婚姻させると言った。その瞬間、私はチラリと横を盗み見る。姉妹二人と目が合った、そして皆が私と同じように葵の事を単なる妹として見ていないことに気付いた。嫌だな、って思った。二人には渡したくない。でも、私は二人よりも魅力的で居られる自信はなかった。いや、でも、同性を愛すると云うのは、やはり違っている。名家豪族の間に根付いた女尊男卑の社会において、男性の地位は極端に低くなっているが、それでも男の子は女の子を、女の子は男の子を愛するのが自然だと云う考えが増え始めていた。女性同士で子を作ると女性が生まれる事が多く、そのことを問題視する声が大きくなっている為だ。それに女性が女性を愛するには、本来、特別な訓練や教養が必要だとも知らされている。だから私が抱いた感情が、普通ではないことを私は理解していた。
それでも嫌だと云う想いは拭い取れなかった。
これから先、葵は私達三姉妹の中から一人と夜を過ごすことになる。
話し合いの結果、葵からの要望がない限り、三日に一度、ジャンケンで決めた順番で葵と一緒に夜を過ごす事に決める。そして初めて、葵と添い寝をすることになったのは姉さんだった。真夜中、胸が疼く、布団に丸まりながら悶々とした想いを抑え込んだ。今、姉さんと葵が同じ寝台の上で眠っている。その事を意識するだけで胸が締めつけられるほどに苦しくて、爛れ落ちそうな程に心が痛かった。もしかすると初日から肌を重ねていたりとかするのだろうか、嫌だな、それは凄く嫌だ。初日から肌を許している葵を想像することも嫌だったし、それが理想を押し付けているようで自分の事も嫌になった。もし仮に肌を許していたとして、自分にも許してくれるのだろうか。とか考えてしまうのも最低だった。何よりも最低なのは、嫌なのに、疼く想いを止められず、姉さんに抱かれる葵を想って、自慰をしている自分だった。最低だ、絶対に幻滅される。粘着質な音を立てながら幾ら続けても眠れなくて、半ば自棄になりながら、自らの秘部をずっと弄り続けた。外が明るくなり始めた頃合、嗚呼、本当に最低だ。と真っ赤に腫らした目を閉じる。もう何も考えたくない。
その日、私は初めてズル休みというものをした。大して体調も悪くないのに調練を休んだ私は、その日、気不味さから憂鬱に過ごしていた。ずっと私室から出ることが出来ず、時折、葵が様子を見に来てくれる時だけ部屋を開ける。大丈夫? とか、熱はない? とか、コツンと額同士をくっ付けられた時は別の意味で顔が熱くなってしまった。今日の食事も私の担当だったのに葵に全て任せてしまった。それでも葵は一言も嫌味を言わず、今日は御馳走だよ。と満面の笑顔で伝えてくれた。
夕食は赤飯だった。何のお祝い事だったのか分からずに聞くと「大人になった記念だよ」とドヤ顔を胸を張ってみせる。その後ろで顔を赤くする姉さんを見て、胸の奥底に溜まる想いがぐじゅぐじゅと醜い色へと変貌していくのが分かった。「今日は鶸だって聞いてたけど体調が悪いなら……」続く言葉を聞きたくなくて「大丈夫」と咄嗟に葵の手を握った。本当は大丈夫なはずなんてなかったけども、明日以降に回されると、それこそ可笑しくなりそうだった。気遣う葵を無理やりに説き伏せて、葵と夜を共にすることになる。
夜遅く、部屋に訪れた葵は肌着姿だった。そして、その肌着と云うのが、襯衣*1に妙な文字が書かれているのだ。受入準備万端、とドヤ顔で着熟している。何を受け入れるのだろうか、ナニを受け入れてくれるのだろうか。葵は是否枕を片手に抱えたまま、寝台に座る私の隣に腰を降ろすと強気な顔付きで口を開いた。「なにか悩んでいるのなら、この私が話を聞いてあげるよ」と胸を叩いた。ああ、そういう意味ね。ホッとしたような、ちょっと残念なような、自分の卑しさに嫌気が差すような、キラキラと目を輝かせながら包容力を発揮しようとする葵の姿に、なんだか悩んでいるのが少し馬鹿らしくなって、ほんのちょっとだけ気楽になった。この警戒心のなさ、葵の心はまだ誰にも揺れていない。
それを確信して、私は今はまだ妹の彼女に問いかける。
「翠姉さんとは何処までしたんです?」
「んー? 何処までって?」
「赤飯、炊いてましたよね?」
ああ、と葵はポンと手を叩いて答える。
「抱きしめられて口付けを交わしました。だからもう誰にも子供っぽいとか言わせません」
ふふん、と鼻を鳴らす葵に安堵し、そして、その唇が他の誰かに汚された事に嫉妬する。
初めては私が良かった、と。何時ものままの奥手な姉さんで良かったのに、と。私にも初めてが欲しい。
もっと大人にしてあげます。と決意を込めて、彼女の小さな体をギュッと抱き寄せる。
「……えっと、その? 鶸も?」
「私とは嫌です?」
「い、嫌じゃない。嫌じゃないけど、なんか、皆、おかしくなってない?」
おかしくしたのは貴女です、と唇を重ねた。
柔らかい感触。本当なら汚いと感じる唾液が、今は甘美だった。抱き締めて唇を重ねる、それだけの行為が気持ち良かった。ピクンピクンと震える葵の体が可愛らしい、愛おしい。もっと感じたいな、そう思って、唇を軽く吸ってみた。すると葵が悲鳴を上げた。大きく体を跳ねさせて、反射的に私の体から逃れようとする。もう腕の中から逃したくなくて、強く抱き締める。葵の匂いする、少し甘い匂いだ。唇を重ねる、吸い付ける。すると葵は体を跳ねさせて、身動ぎする。余りにも暴れるものだから寝台に押し倒した。そのまま体重を掛けるように唇を重ねる。チュッという可愛らしい音がなる。葵の顔は真っ赤で涙をポロポロと流していた。やだ、と。やめて、と。怖い、と。泣きながら懇願する。そんな彼女が愛くるしくて仕方なかった。唇を重ねる、チュッと短い音が何度も鳴らされる。バタバタと足を暴れさせる葵をしっかりと抑えつけながら葵の頰を舌で舐める、葵の味がした。そして頰に唇を落とす、葵の感触がした。首筋に唇を這わせる、チュッと吸うと薄っすらと赤い跡ができた。今度はもっと強く吸うと、くっきりと吸い跡が残された。あっ、あっ、と声にもならない声を上げる葵を見下して、嗚呼、これはいいな。と、もっと吸い跡を付けた。首筋から胸元に、そしてまた唇を奪った。とろんと蕩け始めた葵の目が、急に見開かれた。「もうやめて!」と「本当に不味いから!」と暴れる葵を、もっと虐めたいの一心で抑え付けた。もっと激しく唇を吸って、その奥にある舌を吸い上げた。
ビクンと葵の体が大きく跳ねる。そして全身から力が抜け落ちるように抵抗がなくなった。
「あー……だから、嫌だったのに……やめてって言ったのに……」
うわ言のように零される言葉、そして下半身、葵を抑え付ける為に股間部に立てた膝に温かく濡れる感触があった。
「もうやだー……」
声もなく泣き始める葵に、私は狼狽えるしかない。
とりあえず服を脱がせて、着替えさせて、布団も別のものに取り替えて、必死になって機嫌を取る為に頑張った。しかし、その甲斐なく私は床で寝た。
朝になっても機嫌は直らず、目も合わせてくれなかった。
†
ふと街中を歩いていると面白いシャツを売っている店を見つけた。それは多種多様の文字が書かれているシャツであり、文字使いとか、かなりの拘りを感じられる出来栄えになっている。というか普通に格好良い気がする。天上天下唯我独尊とか、気合を入れるのに丁度良さそうだ。勝負下着ならぬ勝負シャツを仕入れるつもりで幾つか選んでみる。絶対に失敗できない時の為に「一発必中」とか。目出度いことがあった日なんかは「当たり目」とか。あと大人の魅力を出したいなって時は「危険日」とか! 大人の危ない魅力を全面的に出しちゃうのだ、私に惚れると怪我するぜ! それで幾つかのイケイケなシャツを手に入れて、ホクホクな私が屋敷に戻ると鶸の調子がおかしかったので、ここは一つ景気付けに新しく買ったシャツを着込んで人生相談へと赴いた。男らしいところを見せるのだ、そしたらきっと彼女も私に惚れ直すかも知れない! 頑張って元気付けてあげるのだ!
――激おこぷんぷん丸。
†
翌日、調練から戻ると寝台に襯衣が置かれていた。広げてみると「私は駄目な人間です」と書かれている。
胸が少しキツかったが、朝から話もしてくれなかった葵が少しだけ口を利いてくれた。
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第四話.
ひょんなある日、調練を終えて部屋に戻ってきた時のことだ。
隠していたはずの同性愛を書かれた小説が机の上で綺麗に並べてあった。
とりあえず書籍を人目の付かない場所に移動させた後、無言で走り出す。とりあえず
一縷の希望を持って、恐る恐ると問いかける。
「私の部屋を掃除してくれたのって、葵?」
すると少女は満面の笑顔で「はい!」と元気良く頷き返す。
ああ、もう、嗚呼、と両手で顔を覆いながらその場に崩れ落ちた。これが単なる艶本なら此処までの絶望はない。しかし机の上に並べられていた艶本は私が手掛けたものだ。そして、その中には異世界に転生した少年が女の子になり、両性器具の女の子に攻められるという内容のものがある。言うまでもなく葵から聞いた話を元にしたものだ。そして、これは一種の夢小説のようなものであり、衝動のままに書いたものだから世の中に出せる内容ではない。ましてや本人に見せられるようなものではなかった。今日は葵と夜を一緒にする予定の日だった。葵と目を見つめ合いながら優しく抱き寄せて、甘い夜になるかも知れないっていう願望もあった。もちろん、現実はそんなに甘くないってことは分かっている。それでも妄想するくらいは許して欲しい、勝手に希望を抱く程度のことは許して欲しい。それが台無しになった。私はいつもそうだ。この失敗は私の人生そのものだ。私はいつも失敗だかりだ。私は色んな萌えに手を付けるけど、ひとつだって現実で見たことはない。誰も私を愛さない。
ポンッと優しく肩を叩かれる。頭を上げると葵の顔があった。
「私、ああいうの結構、好きだよ?」
それだけを言うと葵は上機嫌に台所へと向かって行った。
えっ? 結構、えげつないのも書いていたと思うけど、えっ?
遠のく背中、ただただ呆然と見送った。
†
異世界転生ものって良いよね!
前世での私はネット小説と呼ばれるものも結構読んでいた。なんというか書籍とかだと身構えて読まなきゃいけない気になるが、二次創作とかだと気軽に読める気がするのだ。たぶん気分の問題だけど、百万文字とか三日で読み切ることもあったし、活字を読む事を苦にしなかったのも強い。前世の私が好きだったのは悪役令嬢ものだった。男主人公よりも女主人公の方を読む方が好み。ああでも男は基本的に馬鹿だとか、相手の事情を考えない俺様系は苦手だ。ああいう強引な人を好いちゃう人の気持ちはよく分からない。でも好きだから独占したいとか、そういう嫉妬染みた感じだと少し可愛いとか思っちゃうから不思議だ。どうにも自分は強引過ぎるのとか、決めつけだとか、そういうのは苦手なようだ。私だって男だ。エロいのは好きだ、女の子が好きだ。受けよりも攻めの方が好きだ! 経験はないけども勝手に決めつけて欲しくない。私は攻める男なのだ。
さておき、異世界転生ものも結構な数を読んでいた。
だから蒼の部屋を掃除していた時に発見した小説は懐かしく感じられた。それは異世界に飛ばされた元男の少女がたった一人でも挫けず、色んな人に助けられながら新しい世界で生きていく物語。なんとなしに私と似た境遇の主人公に感銘を受けて、もっと頑張らなきゃって思った。やっぱり女の子になったからって急に男に興味を持てるようになるはずなんてないよねって共感を得たり、何か身体的な悩みを抱える女の子とも良い感じになってたし、もうちょっと読んでいたいなって思ったけども他にも掃除しなくちゃいけないから程々のところで中断した。後で蒼に貸して貰えば良いかなって、そういえば、主人公の名前が奏で私の名前と字面が似ている。そういう意味でも親近感が持てた。ヒロインの名前も碧で、蒼とは青色繋がりがあったりと不思議な偶然を感じちゃうなー。
台所で料理をしていると「私は駄目な人間です」と書かれたシャツを着た鶸が気不味そうな顔で手伝いに来た。
仕方ないから少しだけ許してあげる事にした、チョロい奴とは思われたくないので少しだけだ。
†
夕食後に改めて読み返すと自分自身でも引いちゃう内容だった。
うっわ、こんなの書いてたっけ? これを読んでも結構好きってどういうこと? あんな無邪気な子がこれを読んでも平静でいられるってどういう神経してるんだろ。実はむっつりさんとか? 性欲強かったり? それはそれで滾るんですけど、あんなに小さい子が性欲に従順。やばい、背徳感が半端ない。それだけでこれから先の数ヶ月、自慰のオカズに困ることがなくなりそうだ。
悶々とした想い、今日は葵と一緒に寝るというのに耐えきれそうにない。一度、性欲を発散しておいた方が良いだろうか? 葵が来るまでに、と股間に指を這わせる。すると既に下着が少し湿っていた。その事に自分で、うわっ、と軽く引いた。そういえば葵って他二人とも寝てるんだっけ? 今日、夕食を食べている時に鶸が「私は駄目な人間です」と書かれた襯衣を着せられていたので、もしかしたら手を出してしまったのかも知れない。でも葵もあんまり怒っている様子もなかったので満更でもなかったりするのかも知れない。それともただ単に葵が単純な性格をしているだけだろうか? 葵の事を想いながら、昨晩と一昨日に行われていたかも知れない情事を想いながら指を動かす。やばい、これ、やっばい。荒くなる息にギュッと目を閉じる。もう我慢できなくなってきて、服を全部脱いで大股を開いた。自分を慰める時は大胆な姿勢を取った方が気持ち良かった。上気する体、昂ぶる心、もっと、と心と体が欲している。だから衝動の赴くままに指を這わせようとした。
こんばんは、という可愛らしい声と共に扉が開かれた。
「うわぁ……すっご……」
しっかりと見つめられた後、おずおずと扉が閉じられる。
「待って、違うから! これは違うからッ!」
「私は何も見てないから、だから、ね? 今日は私、翠の部屋で寝るから」
「待ってって言ってるのに……!」
「蒼、裸で出て来ないでッ!? あッ!!」
逃げ出そうとする葵の手首を掴んで、そのまま部屋まで連れ込んだ。
†
切に、切に状況を説明して欲しい葵なのです。
目の前に女の人の裸があった。でっかいのが二つもあった。
とりあえず深呼吸、状況を整理する為に少し遡ってみよう。
私、葵は今日も今日とて是否枕を抱き締めながら誰かの部屋へと潜り込む。今日、向かうのは蒼の部屋、姉妹達の中で最も胸が大きくて、ゆるっとふわっと包容力が強い御人だ。扉の前まで辿り着き、扉の取っ手に手を掛けようとして、軽く深呼吸をする。察しの良い私は気付いている。先ず最初に義親の馬騰こと翡が告げた「うちの娘の内、誰でも良いから抱かれて来い」という言葉、そして義姉妹達の前で告げた「この子を貴女達の誰か一人と婚姻して貰うから、そのつもりで」という発言。加えて、二日連続で続いた義姉妹達の狂行を鑑みるに、これら全てが本気だったということはもう確実だ。たぶん、今日もまた私は抱き締められてキスをする。しかし、私には既に何度もキスを交わした経験がある。そうだ、つまりキス童貞の蒼に比べて、私には一日の長がある。つまり、これはもう勝ち確なのだ! 今日は唇の手入れも丹念にしてきたし、ちょっとキスの練習もしてきた。さくらんぼを口の中で種を付けたまま綺麗に結ぶことができたのだ、えっへん。んべって翠に見せると頭を撫でて褒めてくれた、鶸は何故か顔を赤くしていた。勝負下着もバッチリで、今日は「やればできる女」シャツを着込んでいる。そうだ、私はやればできる女である、今は元男だけど。
パンと両頬を叩いて気合を入れる。そして、ガチャッと扉を開け放った。
「こんばんは!」
すると目に飛び込んできたのは全裸で大股を開いた蒼の姿だった。
そっと扉を閉じる。
えっ、なに? 今のって、えっ? すごかった、うん、とてもすごかった。
扉を背に座り込み、両手で顔を覆いながら地面にへたり込んだ。
胸の動悸が治まらない、やっばいものを見た。自慰をした事もある、河川敷のエロ神様が残してくれた雑誌を読んだ事もある。しかし、今までの価値観が塗り替えられてしまう程に、なんか凄かった。時々、SNSで女性が「心のちんこが勃起した」なんて言葉を使うことがあるけども、なんか今、その気持ちがすっごくわかる。なんというか、もどかしい。今はなき息子がない事がとてももどかしかった。
なんとなしに前のめりになりながら、そおっとその場を離れようとすると背後の扉が勢いよく開け放たれた。
「待って、違うから! これは違うからッ!」
全裸の蒼が隠そうともせずに突っ立っていた。
詰め寄ってくる、ブルンと胸が揺れる。ズンズンと大きなメロンが迫ってくる光景は圧力が凄かった。
いや、待って、ちょっと待って。
「私は何も見てないから、だから、ね?」
興奮した馬を宥めるように両手を前に出し、熊と遭遇した時のようにゆっくりと距離を取る。
「じゃっ! 今日は私、翠の部屋で寝るから……」
十分に距離を取ったところで逃げ出そうとしたが「待って!」と間合いを一瞬にして零にしてきた。バルンと目の前で揺れる胸囲の暴力、いや、これ全然えっちぃくない!
「蒼、裸で出て来ないでッ!?」
咄嗟に振り払おうとする手を止められて、力のままに部屋へと連れ込まれた。
急に景色が変わり、おっとっと、と姿勢を立て直しているとガチャリと音がした。扉の前には全裸の蒼が居て、後ろ手に取って辺りを捻っている。あれ、これって閉じ込められた? 巷でよく見たセックスしないと出られない部屋かな? ちょっと物理が強すぎる気がするけども。隠すべくを隠さずに詰め寄ってくる蒼に、私も唾を飲み込んで覚悟を決める。今日の私はやればできる女なのだ、元男だけど。略して、やれる女。この程度の危機なんて、簡単に突破してみせる。そうだ、合わせて、簡単にやれる女だ! ふんす、と鼻息を荒くして気合を入れる。どうせ、されることなんて分かっている。口付けなら鶸との一戦で幾度と経験した。つまり百戦錬磨の実践を経た私はキスの達人なのだ! キス素人の蒼になんて絶対に負けないんだから!
詰め寄られる。蒼の目が完全に獲物を見据えるソレと同じものになっていた。そのことに若干の気後れがあり、しかし凛然と胸を張って迎え入れる。ちょっと怖かったから目を閉じる。さあ、どこからでもかかって来い。さあ、覚悟はもうできている! だから、覚悟が萎えない内に早く! ドキドキと高鳴る鼓動、じっと見つめられている感覚があって、少し擽ったい。時折、肌に息が吹きかかり、優しく抱き寄せられた。来た、と思った。口付けされると思った、だから受け入れられるように少しだけ唇を押し出す。歯が当たったら痛いから、鶸の時にちょっと唇を切っちゃったし、そのまま待ち続けること数十秒、待っても待っても来ないから、アレ? って思って目を開こうとすると唇を重ねられた。
ふぐッ!? くぐもった声が出る。にゅるりと口の中に冷たいものが入り込んできた。やだ、何これ、なにッ!?
舌を入れられた、と気付いた時には全身を使って暴れていた。口の中を暴力的に蹂躙される。舌で押し返そうとすれば、絡め取られて、それでもと強く押し込んだら逆に吸われてしまって体が跳ねた。視界が火花が散ったように瞬き、その間も骨が軋む程に強く抱きしめられながら口の中を舌が蠢いた。口が離される、思いっきり酸素を吸い込んだ。まだ目がチカチカする。気付けば、ベッドに押し倒されている。大きく上下する自分の胸、内側から叩きつけるような鼓動、そして私の上には蒼が名残惜しむように口元を舌で舐め取っている。そして休憩も程々に蒼が顔を近付けてきた。絶対に負けないから、と意思を総動員して、蒼の首裏に両手を回して抱き寄せる。ギュッと唇を押し付けて、チュッと吸い上げる。
どうだ! と勝ちを確信した笑みを浮かべてみせる。
「……今の良かった…………」
全然、効いている気配がない。
妖艶に細める目は、ただただ私だけを映している。
私は悟る。そして、懇願する。
「…………優しく、お願いします」
「誘ったのは、葵だよ?」
全然、優しくなかった。
†
やり過ぎた。
空が白じんできた時間帯、汗と体液で湿った寝台には仰向けになったまま体を痙攣させる葵の姿があった。なんというかムラッと来る。やばい、相手から誘ってきたとはいえ、やり過ぎた。声を掛けると辛うじて、意識は保っていたのか、水、と一言だけ告げる。それで予め用意していた果汁水を口に含んで、葵の体を抱き起こしながら口移しで飲ませる。全身を脱力させているせいか、葵の体は何時もよりも重く感じられた。やり過ぎた。助けを呼ぼうとしてたから、ずっと口を塞ぎ続けていた。でも仕方ない。だって、最初にキスをする時、葵は受け入れ態勢万全だったし、目を閉じた後、これ見よがしに首筋を見せつけてきたのだ。赤い痕がいくつも付けた首筋を。あんなのを見せられて、黙っていられるはずなんてない。むしろ私の色に染めたくて、上書きしてやりたくて、こういうのって寝取りっていうのかな。とにかく私の物にしたかったのだ。でも、やり過ぎた。今日は優しくしよう、仕事は休みにして、葵の分の家事を代わりにしよう。ああでもない、こうでもない、仕方ないじゃない、ぐるんぐるんと回す思考に、チュッと小さな音が聞こえた。チュッチュッと何度も舌を吸ってくる。ちょっと誘導してやると葵は自分から私の口の中に舌を入れてきた。なんで、こんなに積極的になっているんだろうか。舌を絡める、というよりも口の中を舐め取られる感じだ。暫くすると葵はほんの少しだけ眉間に皺を寄せて、口を離す。そして、喉乾いた、と小さな声で告げる。もう一度、口に果汁水を含んで飲ませてやると葵はちょっとだけ嬉しそうに果汁水を嚥下し、また口の中を舐め取り始めてきた。そこで漸く、葵が積極的になっているのは口の中が甘くなっているせいだと気付いた。一生懸命、舌を吸ってする葵がいじらしくて、可愛らしくて、あと少し、もう少し、と思っている内に太陽が高く昇る。それは部屋の中まで押し行ってきた姉様と鶸に引き剥がされるまで続けてしまっていた。
程なくして調練の時間、引き剥がされてから葵は会ってもくれなかった。意気消沈する中、部屋で身支度を整えた後の話だ。部屋を開けると何かが扉の開けた先に置かれていた。襯衣だった。広げてみると「私は駄目な人間です」と書かれていた。ああ、なるほど、こういうことだったのか。その日、私は胸が苦しい思いをしながら調練に出る。
周りから視線を浴びる中、次はもうちょっと自制心を持とうと決意した。
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第五話.
翠、鶸、蒼の三人と共に過ごした後、更にもう一周して流石の私も自覚した。
きっと私は近々犯されることになる。昼間だと好意の方が強い視線も、夜が近付くに連れて、もっと言えば、その日、夜を共にする相手が獲物を見るような目で私を見つめてくるのだ。まるで猛禽類が生き餌を前にして涎を垂らすかのように、ベッドは俎板で、私は鯉だった。流石の私も貞操の危機だっていうことはわかる。童貞の前に処女を失いそうだっていうことは分かる。今、息子ないけど。男に抱かれるくらいなら男性器を生やした女の人に抱かれる方が数倍ましだって気持ちもあるし、結婚するのも男じゃなくて女の方が絶対に良い。その点で云えば、私は恵まれた世界に来れたと云える。いや、不幸中の幸いと云った方が正しいか。転生するなら男のままが良かったし、挿入れられる方よりも挿入れる方で居たかった。異世界に来た事には、あまり難しく考えていない。異世界に来たなら来たで仕方ないと思うし、そもそも私は元の世界に対する未練が少なかったりする。それには中学生くらいの時から親はあまり家には居なかったし、高校生になってからは家を出てしまっている事が大きく関わっている。それでも友達とか、知り合いには申し訳ないなって思ったりするけども、躍起になってまで元の世界に帰りたいとまでは思わない。機会があれば、その時に考えようとか、そんな感じだ。少なくとも美人な三姉妹に迫られている状況は嫌ではない。むしろ好ましい。これが女としてではなく、男としてだったなら尚のこと良かった。なんとなしに前の世界で男からラブレターを貰ったことを思い出す。いや、私の性的嗜好は女ですし、逞しい男に興味はないですし、守られるよりも守りたいって思いますし、それに男でも女でも構わないみたいな言い回しは好きくない。私は男だ、少なくとも前世では男という自覚を持って生きていた。それが私のアイデンティティとして象られていたことは紛れもない事実になる。だから私のことを女として見る者を毛嫌いする。今は肉体が女になっているから折り合いを付けようと頑張っているけども、やっぱり女性として見られることには慣れない。ましてや、子作りとまでなると忌避感の方が強い。翠も、鶸も、蒼も好きだ。現時点での印象だけで言うなら結婚しても構わないって思ってる。三人は男としては好きだ、女としても好ましいとは思っている。しかし子供を作りたいとまでは思えない。だから私にはまだ三人が望むような関係になる覚悟がなかった。いずれ、そうなる。とは分かっていてもこればっかりは心の整理が付けられないでいる。私は女である、しかし私の心は男のままだった。
馬騰、
「私は馬岱。もう皆、真名を交換しちゃってるから私も預けちゃうけども蒲公英だよ。これから宜しくね」
翡の姪、そして翠達の従姉妹に当たる蒲公英が屋敷の住人として新しくやって来た。蒲公英は私の事情を知っているようで、従姉妹達には聞こえないようにひっそりと、いの一番に訊いてきたことは「で、本命は誰?」ということであった。その時、パッと思い浮かんだ相手は居なかった。全員という答えがない訳でもなかったが、いまいち仲睦まじく愛し合っている未来が想像できない。それで答えに窮していると「あー、んー、駄目じゃん」と蒲公英は呆れたように溜息を零す。
「あいつらって皆、脳筋だからねー。御姉様は勿論、鶸も蒼も五十歩百歩だし?」
うんうん、と蒲公英はひとり納得するように頷くと「叔母様からも葵のことを支えて欲しいって言われてるからね、それなりに頼ってよ」と肩を叩かれる。どうやら彼女には私を結婚相手、つまり子作りの対象として見る意思ないようだ。その事実だけで、ほうっと安堵の息が零れる。義姉妹と同衾するようになってから毎夜、まともに寝られたことがなかった事もあり、ちょっと眠たくなって来た。でもまだ家事が残っていたから挨拶も程々に、さっさと終わらせてしまおうと足を運んだ。
「あれ?」
ふらりと体がよろめいた、それはちょっと頭が眩んだだけに過ぎない。
「よっと」
しかし、そんな私の体を支える者がいた。
私の肩を片手で掴んで抱き寄せられる、ビクリと身を硬ばらせる。こんな時、咄嗟に身構えてしまうのは義姉妹の好意を受け止めてしまった結果だ。しかし、私を支えてくれた少女は、私の無事を確認すると呆気なく私を手放した。義姉妹の少し羨む視線を受けながら「貴女、大丈夫なの?」と下心なく問いかけてくれる。なんでか言葉が詰まった、代わりに力強く頷き返すと蒲公英はいまいち納得していない様子で顔を顰めた。その好意を伴わない心配が新鮮で心地良い。
その日の夜、早速、私は蒲公英の部屋へと赴いた。
「えぇ……っ」と引き攣った笑みを浮かべる彼女なんて無視して、手際よくベッドの端っこを陣取り、そのまま、くぅっと瞼を閉じる。その日、何事もなく、一週間ぶりの安眠を得ることができた。好意を向けられるのも良いのだけど、そうやって愛情ばかりを押し付けられるのは、やっぱり疲れちゃうものだ。この部屋は私にとってのセーフティゾーン、それから事ある度にお邪魔することになる。迷惑をかけちゃっている自覚はあるので、お手製の菓子とか包んであげたりとか、御茶を淹れたりとかして縁が切れないように御奉仕するのも忘れない。というか見捨てられたら私の身と心が保たない。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、蒲公英は溜息混じりに私のおもてなしを受け取ってくれるのだ。
勿論、義姉妹達にも菓子を用意してますよ。ついでだけど。
†
最初、初めて手紙が届いた時には、翡叔母様が馬鹿になったのかと思った。
いやだって久しぶりに馬氏本家から来た手紙が「拾った少女を娘達に嫁として与えたら揃いも揃って恋煩悩になった」とかいうことが書かれていたのである。いや、ないわ。何処の蒼の同類が書いた小説だよ、と。しかも少女は、天の御使い疑惑があり、天の国では男だったと主張している。とか、なんとか? いや、今時そんな設定とか流行らないし、誰もやらないって。でもまあ困っている事は確かなようだし――少女は日に日に元気をなくしていっているらしい――、分家筋の私が本家当主の翡叔母様に逆らえるはずもなく、本家の要請に従う形で屋敷へと赴いた。
そこには前に挨拶した時にはいなかった人物が一人、馬家特有の茶髪ではなく、真っ黒な髪と瞳をした少女が混ざり込んでいた。彼女が手紙に書かれていた少女だと察するのは難しくない。なにより乙女ではあっても女らしくない馬家一門の中で、彼女だけがとびきりに女らしかった。いや、彼女が元男って嘘でしょ、これ。ちょっと私、女としての自信なくすんだけど? 仕草とかがいちいち女っぽくて、なんというか凄くあざとかった。これが無意識なら超ド級の天然ものであるし、これが意識してのことだったら、それはそれで末恐ろしいものがある。
自己紹介の時に本家当主と真名の交換をしていることが分かったから私とも真名を交換しておいた。異民族とも付き合い多いし、司隷に住む連中ほど真名に固執もしていない。少女、葵もまた快く真名を交換してくれた。
さて、手紙に書かれていた元気がないっていう話は本当だったようで、顔に活力がなかった。なんとなしに気疲れしているような感じ、それで注意深く観察していたら案の定、足元をふらつかせて危なっかしかった。咄嗟に手を差し出すと、何故か従姉妹達から嫉妬を込めた目で睨まれた。いや、むしろ、そこは感謝されるところでは? 兎にも角にもウチの馬鹿達が色々と拗らせていることは理解した。そして、その原因として葵が関わっている事もわかった。
なら、どうするのか。とりあえず尋問である。どうせ、この馬鹿な従姉妹達がやらかしたんだろう。と当たりを付けて、葵抜きでお話をさせて貰った。ひと通りの話を聞き終えた時、従姉妹達は揃いも揃って正座をしていた。
その日の夜、葵が部屋に来た。
普通、初対面の相手のところに来るかな? そんな私の疑問に答えもせずに、さっさと寝台の端を陣取って眠ってしまった。あまりの寝付きの良さ、その無防備さ加減に呆れながら溜息を零す。何度か頰を突いても起きないところを見るに、どうやら本当に眠かったようだ。今日の昼間、尋問中の従姉妹達の姿を思い返して、「あっこれ、夜に寝かせて来なかったな」と察する。翌日、追加で説教をする事を決断した。
私、そういう感じじゃないんだけどな。と思いつつ従姉妹達の馬鹿さ加減に呆れながら。
それから更に刻が過ぎる。
葵に懐かれた。本人に自覚があるのか分からないが、屋敷に戻るとベッタリだ。
事ある度に挨拶して来るし、屋敷に戻るといの一番で出迎えに来るし、週に何度かの頻度で菓子を手渡して来るし、そして、その度に従姉妹達からの視線が痛く感じられた。ついでに言えば、夜中、私の部屋に添い寝を頼みに来る頻度は従姉妹達と比べて多い。具体的に云うと、二、三日に一度の頻度だ。週に一度、多くて二度の従姉妹達と比べると格段に多い。とは言っても葵はほとんど寝に来るだけだし、偶に御茶と菓子で愚痴を聞かされるくらいなものだ。翠は力加減ができないとか、鶸はまともそうだけど火が点くと止まらないとか、蒼は性欲に忠実過ぎるとか、何が悲しくて従姉妹の性生活を聞かなくてはいけないのか。いや、ほとんど接吻で終わっている辺りが情けないというか、なんというか。というよりも本人、好意を向けられること自体は嫌がっていないのだから、性欲を少し抑えるだけで簡単に靡きそうなところが本当に馬鹿らしかった。まあ教えてあげないけど、茶番染みてるなあ、と思ったりもした。
葵の私物が増えつつある部屋、全体の三割程度が侵食されている。葵が部屋に来ない夜は、何時も葵が陣取っている場所に顔を埋めた。そして葵の変な文字が書かれた襯衣を嗅ぎながら自慰に耽る。いや、溜まるって性欲、ずっと生々しい性事情を聞かされ続けているのだから。そして今もまた従姉妹の誰かのところで好き勝手されていることを思いながら下腹部に指を伸ばす。
葵は従姉妹の誰かと婚姻する。それは分かっている。だから、この気持ちは単なる情欲に過ぎない。彼女の話に興奮しているだけに過ぎないのだ。それは艶本を片手に自分を慰める行為と大差ない。そう言い聞かせる。もしも私が勘違いを起こせば、それは誰も幸せにならない結末になる。それが分かっているから私は絶対に間違いを犯さない。自慰に耽る時、ただただ性欲の対象として葵を見る事を強く意識した。そして翌日、何食わぬ顔で葵と顔を合わせて、何時ものように愚痴を聞いたり、ベッタリと引っ付く彼女に呆れたりする。
私は葵の息抜きの役割を担っている。
それで良いと思うし、そうあるべきだった。
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第六話.
黄巾賊が世間を騒がし始めた頃、
私、
少し前までなら涼州から出て行けると喜び勇んで馬に乗っていた娘達は、何故か今回に限って出向こうとしなかった。それもそのはずで全員が互いに互いを牽制するように視線を送り合っているのである。いや、うん、良いことなんだけどね。私が仕向けたことなんだけどね。ちょっとのめり込み過ぎじゃないかな、と御母さん思う訳です。やっぱり私には子育ては難しかったようだ。現実から逃避すること数分、とりあえず娘達の派遣は保留にして、姪の
結果として諸侯には手紙を送るだけに留めることになった。相手は劉虞と公孫賛、陶謙。他には劉表や孫堅等々。董卓とは常日頃から連絡を取り合っているので今、特別に手紙を書く必要はない。どうでも良い話になるのだけども劉虞って、幽州刺史になる予定だったのに公孫賛に譲ってたりする。んで今は御隠居様を気取って、面倒な事は全て公孫賛に丸投げして悠々自適な生活を送っているようだ。偶に気が向いたように手紙を送ってきては、その暇を持て余した生活を自慢してくる。私だって、そうだったんだよ。月がいる間は御隠居様を気取っていたんだよ。でも月が并州に行っちゃったから、詠が月に付いて行っちゃったから、残された私が出張らざる得なくなった。「伯珪ちゃんは良い子だよー、何処にも行かないしねー」と手紙が送られるくる度に書かれている。殴りたい。返事を書かなくても手紙を送ってくる。蹴飛ばしたい。
閑話休題。
政治に巻き込まれないように馬家だけを取り締まってきたが、流石にそれも限界が近付いてきたかなと思う今日この頃だ。現涼州刺史の耿鄙は良くも悪くも働かない無能であり、軍事に関しては馬家がほぼ一任されている。また政治に関しても誰彼に任せてしまっているのが現状で、任された文官も無能ではないが有能とも呼べないような人物だ。漢民族思想に浸かり切っている奴なので異民族とは頗る相性が悪い。今はまだ月の影響が残っているので全ての羌族が攻め込んでくることはない。だが、その影響も何時まで保つのか分からなかった。正直、政治に関わりたくない。しかし、もう少し涼州軍が快適に戦える下地作りをしといた方が良さそうか。その場合、問題になるのは馬家で動けるのが私だけであり、ただでさえ面倒でやりたくもない書類仕事が増えるという点だ。
何処かに政治を代行してくれる人が居ないのかな、と溜息混じりに愚痴を零せば、偶然、新しい御茶を淹れていた葵がふと口を開いた。
「涼州の軍師と云えば賈詡先生ですよね?」
「賈駆は并州に行っちゃったけどな。って、賈駆の話をお前にしたことあったか?」
「後世だと賈詡先生って凄く有名ですし、この時代だと最強軍師の一角に数えられる程ですよ」
ああでも、なんか歴史が滅茶苦茶になってるみたいですから参考程度ですけどね。と葵は付け加える。そういえば葵は此処と似ているが、全く別の異世界から来た。とか言っていたような気がする。もしかすると今はまだ名を知られていない者達も知っていたりするのかもしれない。ものは試しと問いかければ、今から十年先の話になりますが、と葵は自分が知っている事を話し始めた。
「天水郡、今はまだ漢陽郡でしたっけ? まあそこに姜維っていう軍師が居ますね、涼州だと三番目くらいに有名な人です。この世界だと、なんだか時間が圧縮されている感じがするので、もしかするともう産まれているかも知れません」
話半分、とりあえず天水郡の近くに行く機会があった時に探してみることにする。
「ちなみに一番は?」と興味本位で訊いてみると「董卓です」と間を置かずに返された。
さて、それなりの月日が過ぎて、天水郡に訪れる機会があった。その際に私は姜維という名の人物を探したのだが、確かにその人物は存在した。しかしもう母と共に益州へと向かった後だった。また他にも金城郡の閻行も葵から話を聞いていたが、これもまた韓遂に取られており手遅れになっていた。だが、これで葵の話には信憑性が出てきた。屋敷に戻った私は早速、まだ世に出ていない者達の中で優秀な者を聞き出そうと葵に話しかけた。
「えー、もう居ませんよ?」
目の前が真っ暗になった。
†
最初は口だった。次に首筋で胸、そして今はお腹だ。
その次は言わずもがな。唾液を練り込むように開発される体は否応なしに自分が女であることを突き付けられる。今の自分は歴とした女だ。それは理解していても心の方が追いつかなかった。甲高い嬌声が上がる度に体が作り変えられていくのがわかる。それが恐ろしくもあり、一線を越える度に大した事がなかったように受け入れられて、体だけではなく心もまた自分以外の何者かになるようで怖かった。だから私は今日も蒲公英の部屋に足を運ぶ。
蒲公英は私を襲わない、ただ私のことを受け入れてくれるだけだ。お風呂に入っている時も変な場所を触ったりして来ないし、顔を真っ赤にして食い入るように見てくることもない。だから蒲公英の側は安心することができた。それに翠や鶸、蒼は捕食されるってことに意識が向いちゃうけども、落ち着いていられる分だけ、女の子と一緒に寝ていることが意識させられる。それは俎板の上の鯉とは、また違ったドキドキで、近頃は布団に入るなり寝たふりをしてやり過ごす。
ぶっちゃけると蒲公英に手を出したい気持ちはあった。しかし他から避難して来ているのに自分から蒲公英を誘うのは間違っているし、なにより蒲公英の信頼を裏切りたくない。だから背中越しに蒲公英が寝息を立てる事を聞いてから自慰に耽る。開発されつつある体は欲情しやすい。必死に声を殺しながら軽く達し、落ち着いたところで眠りに就く。それが蒲公英の部屋で眠る時のルーチンだった。荒い息を零しながら蒲公英の顔を見やり、欲望のまま、安らかな寝息を立てる蒲公英の頰にキスをする。
ただ唇を落とすだけの質素なものだ。満足感と罪悪感に微笑み、ゆったりと体を寝かせる。
†
寝台を共にする友人が、私の名前を呼びながら自慰に耽って時って、どういう顔をすれば良いのだろうか?
しかも最後に頰にキスまでしてくるし、その気がなくてもその気になる。あーもう、ムラムラしてきた。ゴソリと体を動かして、じぃっと葵を観察する。寝ているだろうか? 暫くすると寝息が聞こえてきたので寝ているようだ。体を起こして、そうっと私に背を向ける葵の横顔を見つめる。相変わらずの幼い顔付きだ。こんな子がつい先程まで忍ぶように自分を慰めていたなんて信じられない。……起きているのだろうか? ツンツンと頰を突いてみる。少し眉を顰めた程度で特に反応はない。……いや、と首を横に振る。大きく深呼吸をして、彼女から背を向けた。彼女の前で、そういう真似はしたくない。、布団を深く被って、ギュッと目を閉じた。
明日、また改めてすれば良い。と、そう自分に言い聞かせて、無理やりにでも眠る。
†
翌日、私は散歩がてらに街中を歩いていた。
護衛には蒲公英が付いている。涼州軍を取り仕切っているのは翡であり、小分けした部隊を率いるのは義姉妹達だ。蒲公英は助っ人として参戦することはあるが、他の四人と比べると仕事が少なかった。だから、こういう時に私と一緒にいるのは蒲公英であることが多い。今日は何時もと比べると、ちょっと素っ気なかった。朝から口数が少ないし、だんまりな横顔は少し艶っぽい。チラリと視線が合う度にトクンと胸が高鳴ってギクシャクする。なんというか気不味い、やっぱり怒っているような気がする。
なんとなしに不機嫌な蒲公英に意識を向けているとドンと肩をぶつけてしまった。
あうっと身が撥ね飛ばされる。地面に倒れてしまいそうな体を、何時しかと同じように片手で受け止められる。前を向くとゴツい体付きの男が居て、「おうおう姉ちゃん!」と因縁を付けて来た――が、それは数秒と保たず、顔色を青褪めさせる。背筋がゾワゾワと来る感覚、私の体を片手で抱き寄せる蒲公英が、何時もの陽気さをかなぐり捨てたかのように男のことを殺意を込めて睨みつけていた。
「で、どうする?」とドスを効かせた声に男はそそくさと離れていった。
「あ、ありがとう……」
「……もうちょっと、しっかりしてくれない?」
トンッと体を突き放される。そして勝手に先を進んでいった。また胸に残る高鳴りの意味を考える間もなく、慌てて蒲公英の背中を追いかける。相変わらず、機嫌が悪そうだ。どうしたら機嫌を直してくれるだろうか。あーでもない、こーでもない。と必死に考えを巡らせていると、ふと振り返った蒲公英の口元が笑っているように見えた。もしかして、機嫌を直してくれたのだろうか。試しに蒲公英の名前を呼んでみると「何?」と冷たい声で返される。やっぱり気のせいか。と思って彼女の機嫌を直す方法を改めて考え直す。
†
最初はちょっとした八つ当たりだったけど、葵を振り回すのは楽しい。
†
私、
とはいっても遠出する訳でもない。実際、葵が新たに教えてくれた三人の内二人は近場に住居を構えており、共に優秀と呼べる能力を持つ人材であった。名は傅幹と張繍と云う。特に傅幹は知略に優れており、政務に関しては大いに期待できる。張繍もまた文武両道を行く名将であり、二人の加入は馬家、強いては涼州軍の力を底上げしてくれるものであった。
であればこそ三人目にも期待が寄せられるというものだ。
隠居生活に大きく前進する新たな人材の登場に鼻歌交じりで馬を走らせていると目的の村に辿り着いた。此処には西涼の錦と呼び讃えられる翠と同格の猛者が居るとのことだ。正直、あまり信じられる話ではない。翠の武力に太刀打ちできる者が、この大陸に居るとは思っていなかった。少なくとも私が今まで見てきた官軍の中で翠を打ち負かすことができる存在は居ない。その武勇は楚漢戦争における黥布に匹敵する。そう感じさせる程に翠の武力は圧倒的であった。もし仮に翠と肩を並べる程の武勇の持ち主が居るとするならば、翠が錦と称されるように一目見てわかる存在感の持ち主なのだろう。少なくとも私は、そのように考えていた。
翠の武芸には華がある。
「……私に、何の用です?」
しかし今、私の目の前に居る幼子は、とてもじゃないが翠と同格には思えない。戦場を知らないようなあどけない顔に、儚く消えてしまいそうな薄水色の髪。そして赤茶色の瞳。少女はポケッとした顔で私のことを見上げてくる。こんな少女が? いや、しかし、と傅幹と張繍の事を思って考えを改める。実際に彼女は存在したのだ。となれば、彼女の才覚は見極める必要がある。そうと決まれば、と私は幼子に手を差し伸べた。
「龐徳、私と一緒に来てくれないか?」
幼子は独り身だった。
口減らしで村から追放されており、今日までたった一人で生きてきた。
その為、少女には身寄りがない。
「御飯が食べられるなら良いよ」
龐徳は小さく頷いてみせる。
さて、連れて帰るのは良いが、今、屋敷に連れて帰ると面倒な事になりそうだ。
というよりも今以上の混沌を招きたくない。なれば何処か適当な屋敷に匿うのが良い、そう思い至った私は城都に幾つかある屋敷の内一つを彼女に貸し与える。翠と肩を並べる程の武人、如何程のものになるか。まあ過度な期待はせずに見守れれば良いと思う、いざとなれば副官として書類整理をさせれば良いだけだ。
そんな軽い気持ちだった。
†
連れてかれた。
養ってやると言われた。
ここを拠点地とする。
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第七話.
退屈だった。山暮らしの私にとって、城都での暮らしは暇を持て余した。
まだ太陽も昇らぬ内から小屋を出て、半日以上も狩りに費やす毎日、時に村から人食い虎や熊の情報を得て、僅かな作物と対価に討伐する。時間が余った時にだけ、水浴びとか、洗濯とか、兎に角、生きているだけで時間は浪費された。しかし城都では生きるだけでは時間を浪費し切れない。馬騰から定期的に与えられた金銭で食料は手に入るし、料理はさておき掃除や洗濯は毎日する程の事でもない。日がなぼんやりと部屋で待機している事が多く、窓から差し込む日光の温もりに包まれながらぽけっと、時間を浪費する。山に居た時はもっと、いや、のんびりとはしていた気がする。少なくとも時間を気にした記憶はあんまりない。此処の人達は皆、せっかちだ。まるで時間に追われるように日々を過ごしている。何かをしなくては生きていられない、そんな風にこの街は作られている、気がする。
此処の暮らしは私の肌には合わない。ただ積極的に何か行動を起こす気も起きない。
だからまあ気まぐれに散歩する。家に籠っていると駄目になる、外に出ると頭がすっきりする。ぽかぽかの太陽を肌に晒して、ふりふりっと全身を揺する。そして釣り具を片手に近場の川まで出向いた。川辺は涼しくて心地良い。釣りは良い。大きな岩の上から糸を吊るすだけで何かをしている気分になる。ふわっと欠伸をしている時も生産的なことをしている気持ちになるからお買い得だ。
時折、見知らぬ方に話しかけられるけども、それもお話をして黙らせている。
「
馬上より私の真名を呼ぶのは御主人様、私は彼女に養われている。
岩陰に適当に積み重ねた不躾な方々を見て、言葉を詰まらせた。別に殺してはいない、身包みは這い出るけど。山での暮らしの時から私の武器は拳だ。斧とかも得意だけど、熊師匠が素手だったから対等に私も素手で武芸を学んだ。弱肉強食という自然の摂理を教えてくれたのも熊師匠だ。言葉は通じなくとも拳で語り合える仲だった。そんな大恩ある熊師匠は私の御腹に収まっている、美味しかった。山賊先輩ともよく手合わせした。男と戦う時は股間を蹴り上げれば良いと教えてくれた相手だ。御行儀良く頭を殴りつけるよりも簡単に無力化できる。足先にグチュッと潰れる感覚があったら尚良い、効果的だ。威圧効果もある。
少し引き攣った笑みを浮かべる御主人様は、馬を降りると二振りの木の棒を取り出した。
「いや、なに。武芸の心得があるようだったからな。その力を確かめたくてな」
ほれっ、と木の棒を手渡される。
先は尖っていない。どうやら殺し合いが目当てではなさそうだ。御主人様が構えたのを見て、とりあえず棒を放り投げた。無造作に投げられた棒を驚きつつも打ち払う、その間隙を縫って間合いを詰める。相手の懐に大きく踏み込んで、残った足を引き寄せる。その勢いを拳に乗せて、鳩尾に叩き込んだ。熊師匠を一撃で倒し得るまで頑張った一撃だ。ぐふっ、と御主人様はくぐもった声を吐き出して、地面に両膝を着いた。……大丈夫、死んでない? 前髪を掴んで顔を引っ張り上げる。良かった、死んでなさそうだ。そのまま、パッと手を離す。地面に蹲る御主人様を見やり、思っていたよりも弱かったな。と思いつつも、まあ無事そうだからいっか。とか思いながら、岩の上に座り直す。釣りは良い、座っているだけで生産的と見做されるのだ。戦いなんかよりも、ずっと良い。
尚、狩りは生産的な行動に含みます。
†
待って、ちょっと待って欲しい。
龐徳、つまり
お腹を擦りながら決意する。
†
不思議な蜂蜜。男性が使えば絶倫の精力を得て、女性が使えば男性器を生やすことができる不思議な蜂蜜だ。
屋敷を空けるということで翡から手渡された秘薬を前に、私、葵は溜息を零す。覚悟もまだ決まっていないのに、こんなものを渡されても困るというものだ。まだ息子への未練も断ち切れていないし、私の体が如何に女として開発されようとも、私の目に映る義姉妹達は依然として女性のままだ。女の身になったとしても、やはり、恋愛的な意味合いで愛せるのは女だけなのだろうと思う。
そういえば、目の前にある不思議な蜂蜜。飲めば、誰でも男性器を生やせるという話だったっけ?
ごくり、と唾を飲み込んだ。正直、性欲は溜まっていた。女性として発散させらているが、体は昂ぶるばかりで男性特有の射精感を得られない。それに義姉妹達との行為は快感を一方的に与えられているだけで、まあ、それはそれで気持ちいいのだけども、しんどいって気持ちもあって、気持ちいいけども辛かった。だから慣れ親しんだ息子での自慰、それも自分のペースで行いたかった。あとついでに云うならば、こんな危険物を持って義姉妹の部屋に行くとか、鴨が葱を背負うに等しい行いだ。何処かに隠す必要があるのだが、私室を持たない私に安心して隠せる場所なんて何処にもない。そ、それにこんな怪しい薬とか毒味が必要だ。そうだ、そうに決まっている。肉体を変えてしまう薬なんて、どんな副作用があるのか分からない。そんな危険な代物を義姉妹達に実験もなしに扱わせる訳にはいかないのだ。上手く生やすことができたら、それはそれ。万が一にも義姉妹達を妊娠させる訳にもいかないし? その時はまあ今夜、義姉妹達の部屋には行けなくなるなとか。なんとか、かんとか。
そんな言い訳染みた想いから、私は蜂蜜を自ら舐めることにした。
†
部屋に戻ると泣きながら自慰に耽る葵の姿があった。
蒲公英、と私の枕に顔を埋めながら股間から生やした何かを手で擦っている。うん、これは、うん、どうしたら良いのか。とりあえず部屋に入り、カチャリと鍵を閉める。すると流石の葵も、その音に気付いたのか顔だけを私の方に向けた。目が合った。未だに男性器を握り締めており、完全に硬直してしまっている。どうして部屋に入ってしまったのか、どうして閉じ込めるような真似をしてしまったのか。いっそ怒鳴り散らしてしまえば、どれだけ楽なことだったか。しかし自分もまた彼女の枕や私物で自慰に耽っていた経験があり、強く言うことができなかった。そして葵の痴態から目を離すことができず、凝視してしまっている。そんな私を葵もまた見つめ返してくる。重たい沈黙、ゴクリと唾を飲み込んだ。
こんなのどう対処すれば良いのか分からない。
「……どうして、私のところなの?」
思っていたよりも静かで、低い声が出た。葵は気恥ずかしそうに目を逸らし、そして私の枕に顔を埋めながら呻くように答える。
「生やしたままだと、何してんだって話だし……義姉妹には万が一も起こせないし……そもそも犯されそうだし……蒲公英の部屋しか行くとこなかったし……蒲公英、好きだし……」
言い訳を並び立てるようにうじうじと告げられる。
本当に、どう対応するのが正解なのか分からない。翡叔母様が出掛けた当日に葵が私の部屋に居るっていうだけでも拙いのに、私の部屋で自慰をしていたなんていう事実を知られてしまったら、その時はもうおしまいだ。完全に従姉妹達との関係が壊れる、少なくとも拗れることは間違いない。かといって、この状態の葵を外に出すのも危険だ。間違いなく従姉妹達の餌食になる。そもそもだ、翡叔母様が不思議な蜂蜜を葵に預けたことは皆に知られていたりする。そのせいか今日は皆、分かりやすくそわそわしていた。従姉妹達は皆、葵の貞操を狙っている。そんな猛獣の檻に葵を入れるとかあり得なかった。あり得ない、と考えている時点でもう、色々と私の中でも何かが壊れ始めている。元から壊れていたのかも知れない、箍が外れかけているだけかも知れない。それはもうよく分からなくなっていた。分かるのは葵の痴態から目を離せないで居ること、瞼に焼き付けるように肢体の隅々までを凝視する。胸の高鳴りの意味は何か、ただ単に欲情しているだけなのか。もし仮にそうだったのだとしたら、なんか嫌だなと思った。そういう目で葵を見る自分が穢らわしく感じられた。でも、少し冷静に考えてみると今、穢らわしいことをしているのは葵の方だ。だから葵のことを怒鳴り散らす権利が私にはある。だけど、それをしてしまうと、もう二度と私に好機が巡って来ないかも知れない。何を考えているのだろうか。最初から、私には機会なんて与えられていなかったはずだ。だから彼女をそういう目で見ることは、誰も幸せにすることはない。葵がじっと私を見つめている、何かを期待するように私のことを見つめてくる。やめて欲しい、そんな目で見つめられると意識してしまうから、自分が抱いている劣情を嫌でも意識するからやめて欲しい。期待、してしまうからやめて欲しい。……喉が渇いて、声が出ない。だから、おずおずと片手で何か棒状のものを握る仕草をして、軽く上下に振った。すると葵はパアッと明るく目を輝かせてみせた。ゴクリと唾を飲み込んだ。もう引き返せない、と自らに言い聞かせる。今までの関係が終わる、と自らに忠告する。勘当されるかも知れない、と自らに警告する。もう引き返せない、と自らに決意を問い掛ける。何が正しいとか、間違っているとか、関係ない。もう我慢ができない。私のせいじゃない。ずっと、ずぅっと、私を誘惑してきた葵が悪いのだ。彼女にはお仕置きが必要だ、調教が必要だ。こんなふしだらな犬は躾けないといけない。歩み寄る、ふらふらと、歩み寄る。視線だけは確と葵を捉えている。彼女の頰を両手で掴んで上半身を持ち上げる。そして上から押し付けるように口付けを交わした。葵がうっとりと目を蕩けさせる。
そのまま、押し倒した。もうどうにでもなれって。
†
御主人様が屋敷に来た、暫く一緒に住むようだ。
礼節が大事だって言われた。御飯を食べる時はいただきます、食べた後はごちそうさま。両手を合わせてお辞儀する。
今日の御飯は特別だった、腸の肉詰めは美味しかった。パリッとした皮に、ポキッと折れる食感の心地良さ。城都に来て、退屈は増えた。しかし食事の質は確実に上昇した。私にとって食事とは塩で焼くか、塩で煮るか。そのどちらかしかない。それでも食べられるなら十分だって思っていた。けど、そんなの嘘だ。御飯は美味しい。美味しいって、こういうものを言うんだって思い知らされた。料理って塩で焼いて煮るものを言うんじゃないんだって思い知らされた。腸の肉詰めから滴る肉汁はキラキラに輝いていて、まるでそれが美味しさが流れ落ちているような気がして、先端を咥えてチュッと吸い取る。美味しすぎて死にそうだ。もう山暮らしできない。私、一生、此処で暮らす。故郷の未練なんて消し飛んだ。美味しいは正義、美味しいは幸福、美味しいは人生だ。きっと料理とは幸せを作る御仕事のことをいうに違いない。人間が幸せを享受するのに難しいことを考える必要はないのだ。ただ美味しい料理をお腹いっぱいに食べられれば良い。その為にみんな一生懸命、汗水を流して働いているのだと思った。美味しい料理があるから城都の人達は、時間に追われるように働き続けている。
翌日から社会勉強ってのをするんだって、外に出て、色んなところを見て回る。それから勉強もするらしい。そうすると美味しい料理の作り方だって分かると言っていた。だから頑張ろうと思う、世の中みんな美味しさでいっぱいになれば良い。
今から明日が楽しみだ。
†
翌日、ドンドンと扉を叩かれている。
私の隣には汗だくで全裸になった葵が寝転がっており、荒い息を零すだけで身動ぎひとつ取らない。部屋は異臭で充満している。布団はもう色んな体液でぐっちょぐちょでもう駄目だ。買い換えるしかない。床に転がる蜂蜜の瓶は空だった。御姉様が扉を叩きながら私達のことを読んでいる。部屋の前では鶸と蒼も待ち構えているようだ。逃げ場はない。「蹴破るぞ!」と怒鳴り声が聞こえてくる。もうどうしようもない、と両手で顔を覆って現実から目を逸らす。ドンドンと扉を叩く音が少しずつ強くなって来ている。結論を云えば、葵の貞操は守られている。しかし、今ある部屋の惨状は、下手な行為よりも酷いことになっていた。本当に、もう、どうしようもない。「蒲公英! 蹴破るぞ、良いな!?」と声が上がる。「いいよ、やっちゃおう!」と蒼の声も聞こえてくる。もうどうしようもないから葵の体を抱きしめて、その小さな胸に顔を押し付ける。これが最後になるかも知れない。だから目一杯に味わおう、と。
程なくして、扉が蹴破られる。さあ修羅場の幕開けだ。皆、包丁は持ったな?
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第八話.
私、蒲公英は今、従姉妹達を前に正座させられている。
とりあえず風呂に入ることは許されたけど、その後すぐ身柄を引っ立てられた。床に正座させられる、従姉妹達が椅子に座って私達を見下している。ちなみに葵は今もまだゆったりと入浴中だ、この扱いの違いである。何処で選択を間違えたのかな、って思ったりもしたけども、たぶん私は何も悪くない。というよりも私は何も悪いことをしていない気がする。悪いのは紛れもなく葵だし、しっかりと葵を繋ぎとめていなかった従姉妹達も悪い。そんなことを言ったところで従姉妹達が溜飲を下げるとは思えないから黙ってるけど。
きっと葵は西施とか王昭君とかの生まれ変わりだ、傾国の美女とは彼女の為にある言葉だと思った。
この宗教裁判染みた状況下、それでも問答無用の断罪はなく、説明を要求されたので軽く経緯を説明する。
「――という訳なんだけど、翠姉様も鶸も蒼もさあ。もうちょっとどうにかならなかったの?」
話し終えた時、状況はまるっきり変わっていた。
気不味そうに顔を俯ける馬鹿が三名。語り聞かせた内容は、従姉妹達の性欲が強過ぎて避けていた事に加えて、彼女は女性であり、男性的な嗜好を持つという点。ついでに従姉妹達には好意を向けていることも伝えれば、「ならどうして!?」と彼女達は問い返す。それは自分の胸に手を当てて考えてみると良いんじゃないかな、と。
そうした話が積み重なった結果、今の状況が生まれた。
「あれ、どうなってるの、これ?」
そこでホクホク顔の葵が部屋に戻ってくる。長い黒髪が水を含み、滴らせる姿。ほんのりと赤みの帯びた頰が扇情的で、とか今は思っている場合じゃないので、とりあえず私の隣に座らせた。葵は顔を俯ける三人を暫く見つめた後、ポンと両手を合わせてみせる。
「ご飯にしましょう」
その抜けた発言に従姉妹達は揃いも揃って、ぽかんと口を開いた。らしいと云えばらしい発言に呆れつつも「恨み言の一つや二つでも言っとけば?」と促せば、うーん、と葵は頰に手を添えて悩みつつ、「恨むような事はされてませんし」と曖昧に笑ってみせる。そういう甘い態度を取ってるから従姉妹達に付け込まれて来たんじゃないかな。盛りのついた犬、もとい馬にはガツンと言ってやることも躾だと思うんだけど。
「迫られることは嬉しいんだけど、毎日あれだと体力が持たないし……あと私を見る目が怖い」
葵は眉間に皺を寄せて、私は生餌じゃないですよ。と拗ねてみせる。
それだけでも効果はあったのか、より一層に気落ちさせた。優しくしてって言っても無視するし、嫌って本気で言ってても止めてくれないし、もうちょっと私の事を労って欲しい。そんな追い討ちの数々に従姉妹達は三人揃って土下座した。うん、反省して貰わないと困る。それから各々の謝罪を笑顔で受け取る葵を見つめて、やっぱり甘いなあって溜息を零す。たぶん、葵を独占する事はできない。元より葵は従姉妹達に対して好意的だ。それは恋愛的な意味合いも込められているし、きちんと順序を立てれば、十分に葵を籠絡させることもできたはずだ。それができなかったおかげで私が葵と出会う事ができたのだから非難はしていても、感謝もしている。
……たぶん私は彼女を独占する事はできない。
葵も苦言こそ零してはいるが、本気で怒っている訳ではない。葵が従姉妹達と関係を断絶することは、今はまだ考えられず、少なくとも従姉妹達の内一人とは関係を持つことになるだろう。なんとなしに三人共に首っ丈であるから三人と関係を持ちそうな気がしなくともない。それでも焦りはなかった。何故なら昨夜の時点で、既に私は葵との繋がりを得ている。そして、それは従姉妹達では決して得られることのできないものであった。何があったのかは言うつもりはないけども。お腹をさすりながら優越感、これが本妻の余裕と云うものである。
それから程なくして食事の準備、何故か赤飯が出てきた。
「あれ、今日は何かお祝いでもありましたか?」
鶸が問う、葵は満面の笑みで頷き返した。あれ、これ、なんだか拙い流れな気がする。
「今日はねー。私が卒業した記念の日なのです」
「卒業? 何を卒業したんだ?」
翠の素朴な疑問に、葵は自慢げに胸を張って、ふっふーん、とドヤ顔を披露する。
「なんとですね、私は昨夜……!」
「おおっと、手が滑っちゃった!」
「ふぎゃっ!?」
そんな葵の後頭部を思い切り叩いた。
訳が分からない、と驚愕しながら私を見つめ返すけど、無視を決め込んで赤飯を頬張る。これは完全に葵が悪い、他人の秘め事を聞くのは良いが、話されるのは溜まったものではない。そもそもだ、本人が居るところで情事を語るなんて繊細さに欠けている。そういうのは神経が図太いではなくて、抜けている。と云うものだ。出来るだけ平静を保ちながらバクバクと御飯を平らげて、御茶をズズッと啜る。こんな場所に居られるか、私は一人で部屋に戻らせて貰う! こういう時の葵の口の軽さには半ば諦めているから、私が居ないところで勝手に盛り上がって欲しい。
その様子に違和感を抱いたのか、蒼が探るように私を見つめる。
「蒲公英、もしかしてー?」
蒼が右手の親指と人差し指で輪を作り、そこを左手の人差し指を通す。ボッと顔が赤くなるのが分かった。
「え、そんな! 蒲公英様が葵の初めてを貰っちゃったんですか!?」
鶸がガタッと席を立つ。それまで不思議そうに私達を見つめていた翠が「蒲公英、それは流石に許されないぞ!」と怒声を張り上げた。まるで戦場で敵将と出くわした時のようにビリビリとした圧を放たれる。違う、違うけど間違ってもいない。弁明するには、余りにも羞恥的であった為に私は口籠ることしかできない。
「はい、蒲公英が私を筆下ろししてくれました」
そして、そういうことを笑顔であっさりと言っちゃうのが葵だった。
「えっ?」と口を開ける翠。
「あっ……」と何かを察する鶸。
「ふぅん」とにんまり笑みを浮かべる蒼。
三者三様の反応に私は無言で席を立ち、食器も片付けずに部屋を立ち去ろうとした。
「ちょっと待て、蒲公英! それはどういうことだ!?」
「えっ、蒲公英様? それってどうするんですか!? もしできちゃったりしたら……!」
「そういえば葵って元男っていう話しだったっねー」
私は脱兎の如く逃げ出した。あ、駄目、体を動かすと垂れてくる。何がとは言わないけど、この状態で外に出る勇気はない。とりあえず私室にて籠城戦だ。部屋に入って鍵を閉めて……あっ、扉は蹴破られたままだった。「蒲公英、話を聞かせて貰うぞ!」と追いかけてきたのは翠だけだ。鶸と蒼の二人は来ていない。じりじりと部屋の中まで翠に詰め寄られる中、どうして二人が来ていないのか思考を巡らせる。そして、蹴破られた扉の先から、ひたひたと葵が感情のない笑顔で姿を表したのを見て、全てを察し、勝利を確信する。
「御姉様、御飯はきちんと食べて来たの?」
「いいや、まだ食べきってはいないが?」
「うん、そうだね。食事中に席を立つのは行儀が悪いね?」
すぐ後ろまで迫る葵にポンと肩を叩かれる翠、煩わしそうに後ろに振り返り、無感情の笑顔を浮かべる葵と目が合った。翠は一度、私に視線を戻す。とりあえず頷き返した。そして、もう一度、葵の方へと振り返る。
「御飯を中断してまですることかな?」
「……イイエ、チガイマス」
葵に首根っこを掴まれながら、とぼとぼと退出する翠に胸を撫で下ろした。
「葵、ごちそーさま! 今日も美味しかったよ!」
「いつもありがとうございます、御馳走様でした」
そして擦れ違って入れ替わるように、部屋へと入ってくる鶸と蒼の二人。逃走経路は何処にあるか、と探りを入れるも二人の息の合った連携に僅かに残された逃げ道も塞がれる。
「き、昨日、何があったのか教えて貰います!」
「早く吐いた方が身の為だよ〜?」
意気込む鶸に、両手の指を脇傍と厭らしく動かす蒼を前に私は壁を背に負け惜しみを叫んだ。
そんなのに絶対に屈しないんだからね! なお。
†
その日、家族会議が行われた。
いつも家族みんなで仲良く食事を摂る大広間には重苦しい空気が充満している。
席に座るのは義姉妹達に加えて、蒲公英。三姉妹の視線は蒲公英に注がれており、その表情は三者三様だ。御立腹といった様子で腕を組むのは翠であり、複雑そうに眉間に皺を寄せるのは鶸。そして楽しげに蒲公英の事を見つめるのは蒼だった。蒲公英はまるで公開処刑を待つ罪人のように肩身を狭くしている。そして、そんな家族達を前に私、葵は溜息を零した。
最近、家族の関係がギスギスしてるせいか楽しくない。
今から行われるのも私と蒲公英の情事関係、それをこうやって尋問して暴くのはちょっと無粋が過ぎると私は思うのだ。女三人寄れば姦しいという言葉通りにガールズトークをするノリで聞き出せば良いのに、翠は大袈裟なのだ。これならまだ興味ないふりをしながら聞き耳だけは立派な鶸の方が好感が持てるというものだ。むっつりさんの存在は、それはそれで弄り甲斐があり、可愛らしいものである。
兎に角、この場で話すことは何もない。
「翠、これ以上、空気を悪くするなら私、口聞かないからね」
鶸は揶揄い、蒼には後でキャッキャウフフと教えてあげる。
絶望顔を浮かべる翠に、ふんだ、と顔を背けて席を立った。
「……あれ、これって私が悪いのか?」
「御姉様、どんな理不尽な事情があっても、こういう時は旦那様が悪くなるんだよ?」
「実家があったら、家に帰らせて貰います。って言われているところだったね〜」
そもそもだ、義姉妹達はみんな好き勝手が過ぎる。
欲望に忠実なのは良いが、もうちょっと、こう、遠慮や思いやりが欲しい。
求められるのは嬉しいけども限度はある。
その後、義姉妹達と蒲公英で話し合いが行われたようだが、その内容を私は知らない。
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脈動編
冒頭.
涼州軍と言っても常備している軍勢の数はいうほど多くはない。
軍の中核を正規兵で構成して、残りを民衆から数合わせで徴兵すると云うのが今ある戦争の形だ。尤も数合わせといっても実際に兵を集めるのは豪族や名家といった者達であり、今の賊多き御時世では義勇軍も存在している為、下手な正規軍よりも徴兵された兵達の方が強いということが稀に起こる。特に異民族と接していない中央の正規軍には多い話だった。そんな腑抜けた正規軍が多い中、涼州軍は極めて精強だ。総数三千の騎馬隊は大陸屈指と云っても良く、略奪を行うだけで占領するつもりのない異民族を追い払うには涼州騎馬隊だけでも十分に事足りる。
そして、この精鋭を創立当初から運用しているのが涼州の三傑が一人、馬騰だ。
戦場における馬騰は質実剛健の将だ。家庭においては、ちと生活力や配慮に欠ける面もあるようだが、将としては非の打ち所がない。当代の官軍では随一の将として名高い皇甫嵩と比べても決して見劣りすることはないと私は思っている。
そんな彼女のことを初めて、見たのは匈奴族との戦の時だ。
あの時はまだ涼州の三傑と呼ばれる董卓と賈駆もおり、迫る匈奴族の騎馬隊を丁寧に受け止めていたのを覚えている。良く云えば、繊細で事細やか、悪く云えば、神経質で細か過ぎる。そのような指揮を成立させるには軍全体を精鋭化させなくてはならなかったのだが、前述したように軍というのは基本的に徴兵された兵で成り立っている。その上で連携のことまで考えるのであれば、逆に分断されて各個撃破されてしまったり、そもそも上手く連携できず、一丸になって突撃してきた敵軍に圧倒されることも珍しくなかった。それならば、下手なことをせずに最初から正面衝突をさせておいた方が被害が少ない場合もある。実際、それが基本的な戦い方だ。万に近い戦争では、出来るだけ簡略化させることが基本になる。だから、将が先陣切って突撃するのだ。「何も考えずに俺について来い!」というのは最も単純で分かりやすく、それでいて臨機応変に素早く軍を動かせる手段である為だ。つまるところ万を超える匈奴軍を相手にした戦争で「超絶技巧ではあるが、これができたら被害は最小限で勝てる」という理想を追求した作戦を実行したのが当時の涼州軍だった。そして、その浪漫の塊とも呼べる戦術を成立させたのが馬騰という女である。
ある程度、腕に覚えのある将の例外に漏れず、馬騰もまた部隊の先頭に立って敵軍に突撃する将であった。しかし馬騰が優れていた点は戦場に居ながら戦場全体を俯瞰できる将であった点だ。無論、まるで大きな蛇のように騎馬隊を動かして戦場を駆け巡る用兵術も常識から逸脱していると云える。だが素晴らしいのは的確に相手の急所を穿ち、味方の危機にはいち早く駆け付けて救援する事だ。それは直感だとか、嗅覚だとか、そういう感覚的な話ではない。周囲の両軍の動きと本陣から飛ばされる賈駆の指揮だけで、全軍の状況を頭の中に思い描くことができた。その為、彼女は本陣から指揮が飛ぶ前に動くことができ、必然、本陣からの指揮も彼女を援護する形で動かすことになる。馬騰の存在があればこそ涼州軍は無謀とも呼べる理想的な戦術を取り、被害も少なく常勝無敗の戦績を築き上げてきたのだ。
この非常識な連携を前に匈奴族は敗退し、涼州の三傑に恐れを抱くことになる。
匈奴族が軍勢を立て直している間、小競り合いはあっても涼州は平和だった。
涼州軍の対匈奴戦における大勝は他民族に伝わっていたようであり、涼州の三傑に恐れて手出しを控えていたのだ。
しかし、涼州が平和で困るのは異民族ではなく、漢王朝であった。
少し話を変える。
漢陽郡隴県の城都、その政庁。
此処は涼州全体を司る政治の中枢になっており、涼州刺史の耿鄙もまた此処で政務を行なっている。
さて、この耿鄙という人物。端的に云ってしまえば、無能であった。耿家と云えば、それなりに有名な一族ではあるが、都から派遣された彼女は世間知らずも良いところの箱入り娘だったのだ。政治の「せ」の字も分からぬ愚か者であり、軍務は馬騰に一任し、政務の大半は部下に押し付けて、自分は渡された書類を読みもせず、判子を押すだけの仕事に励んでいた。唯一の美点は、彼女本人が自らの無能を自覚していた事だ。評定を開いた際には、開催の挨拶をした後はほとんど何も喋らず、良きに計らえ、と最後に偉そうに告げるだけだ。それでいて少なくない金額の贅沢をするものだから配下としては溜まったものではなかった。
それでも彼女が涼州出身で親の七光りという話であったなら周りで支えてやろうという気も出たかも知れない。しかし残念ながら彼女は洛陽から派遣された人物だ。尤も州刺史に就く人間は余所者と慣例で決まっているが、それでも納得できないものは仕方ない。そもそもだ、涼州は漢王朝に使い潰されている。最西端に突出する形で治められた涼州という土地は山岳地帯に囲まれている為、農業には向かない土地であった。その為、他州と比べて開発できる土地が少ない。つまり金もなければ、物もない。州の運営は常に火の車で、周辺に棲息する異民族の相手もしなくてはいけないのだからやってられない。異民族に対抗する為、常備兵は多く確保しておかなくてはならず、人すらも足りていないのだから経済が痩せ細るのは致し方ない話であった。それこそ中央の支援を受けなくては壁としての役割すらも果たせない程にだ。
嘗て、涼州には董卓という英傑が居た。
これはよく勘違いされていることなのだが、彼女が真に凄いのは、涼州軍を率いて何万と超える異民族を返り討ちにした武勇ではない。彼女は異民族と友好関係を結ぶと千を超える家畜を受け取り、それで得た労働力を余すことなく使い切る為に借金に次ぐ借金をして、涼州の借金王の名を欲しいままにした後で、荘園運営を見事に黒字転換させて、見事に全ての借金を返済しきった決断力と行動力にある。
その董卓が残した荘園は今でも涼州の命綱になっている。
董卓の活躍は漢王朝にとって目障りなものであった。
涼州は漢王朝から離れた土地にあるせいか、その文化形式は漢民族と呼ぶには似て異なるものだ。実際、民草も漢王朝の一員としての自覚はあっても、司隷に住む人間と自分達が同じ人種であるという自覚を持っている者は少ない。それはつまるところ、なんとなしに漢王朝の決定に従っているが、心から忠誠を誓っている民草は少ないということだ。生まれた時からそう決まっていたから従っているだけに過ぎない。それだけの話である。
私自身、涼州が漢王朝の庇護下にあるとは考えていない。むしろ守ってやっている立場だと思っているし、漢王朝も心から涼州のことを信用している訳ではない。危険視されているからこそ、董卓といった英傑を涼州から奪い取り、必要以上に力を付けないように手を尽くす。そして適度に異民族と戦って疲弊して貰わなければならなかった。叛乱の芽を潰す為に、叛逆の華を咲かせないように、涼州の地を枯らし続けるのが漢王朝の方針であった。ああ、そうだ。確かに涼州は漢王朝から援助を受けている。だが決して涼州は無償で支援を受けている訳ではない。異民族の侵略から司隷の安全を守る対価としてもらっているに過ぎない。二束三文の資金と物資を得る為に涼州の民草は今日も今日とて血を流して戦い続けている。それは決して対等とは思えない、涼州は使い潰されている。生かして殺さず、最低限度、涼州を維持し、異民族を打ち破れるだけの力を残す。
涼州の民草の価値は、司隷で生きる者達よりも低かった。
もう良いだろう、充分だ。私達は充分に漢王朝の為に尽くしてきたはずだ。
元より涼州は涼州の人間で治めるべきだったのだ。涼州の誇りを、価値を、その存在を守る為、今こそ涼州は立ち上がらなくてはならない。決して涼州を漢王朝の食い物にしてはならない。
だから私、韓遂。
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第一話.
嘗て、董卓は涼州の借金王だった。
友誼を結んでいた羌族から贈られてた獣畜千頭は当時、豪農を自称する董卓の財政を圧迫した。というよりも一月もせずに破綻する計算を弾き出した。その為、董卓は自らが生き延びる為に東奔西走と駆け巡り、あの手この手と形振り構わずに借金をしては農業や牧畜に必要な機材と人手を片っ端から買い漁ったのだ。それでも一年や二年で千頭の獣畜を活用しきることは難しく、かといって活用し切らなければ、畜獣の餌代だけでも借金が無制限に膨らみ続ける。何もしなければ破産する以外に道がなかったから形振り構わずに開発を進めて、資金が足りなくなれば、何処かしらから追加の借金をして更なる開拓を続けてきた。最初は余裕を見せていた金貸しも、気付けば董卓に貸し付けた金額が青天井となっており、董卓に破産されると借金が回収できず、周囲の豪族や名家を次々に巻き込んでは董卓に金を貸し付けていった。結果的に涼州における多くの豪族、名家が董卓に金を貸し付ける事態に発展し、董卓の開発事業は多くの御家を巻き込んだ一大計画にまで発展していた。何処かで躓いては一気に財政は破綻する。というか常に財政は破綻しており、借金を繰り返すことで誤魔化しているだけに過ぎない。収益が伸びた分だけ借金が膨らみ続ける。立ち止まった分だけ、億単位で借金が膨らんでいくものだからと、文字通り、死に物狂いで開発を続けてきた結果、董卓は涼州における一番の豪農という立場にまで駆け上がったのだ。
この時の経験から董卓は借金に対する忌避感が失われていた、借金ができる内は破産しないということを学んでしまった。資金が余って使い道に困っている豪農や商家からは積極的に借用を進言し、なにか新しいことをやってみたい。もしくは資金難故に燻っている者に対して、積極的に資金を貸し与えるようになる。収益という点でいえば、これはあまり儲けにはなっていなかった。どちらかといえば赤字になることの方が多い。この事に関して当人は「稼ぐだけなら荘園運営だけで十分ですよ。それにもう収益を伸ばす為に借金をしているのか、更なる借金をする為に借金をしているのか分からなくなる事態は勘弁してください」と真顔で答えており、結果的に全体で赤字になっていなければ問題ないとも言っていた。でも、本人は知っているのだろうか、確かに赤字は減ったけども借用書の紙束が日に日に増え続けていることに。執務室に入る度、董卓の目から光が失われて、乾いた笑みを浮かべていた。時には借金の肩代わりに従業員も含めて施設を徴収し、董卓自身が指揮を執って財政を立て直し、借金の取り立てを終えてから改めて手放すこともある程だ。董卓が云うには、「死に物狂いでやれば、世の中の九割程度はなんとかなります」とのことだ。目が死んでた。董卓が融資する条件の一つには、死に物狂いになれる才能というのがある。そういう人間には董卓自身が手を貸すのだとか。破産から財政を立て直し、借金の返済を終える頃には、みんな目が死んでる。
この積極的な資金運用は、涼州の開発を大きく前進させた。同時に董卓が持つ涼州の影響力を爆発的に増幅させることになる。というよりも涼州刺史ですらも董卓の意向を無視できない程になっており、涼州の方針には董卓の意向が強く反映されるようになってしまった。実際、財政面で涼州に最も貢献しているのが董卓であり、涼州軍の糧食の半分近くが董卓の荘園から出されている為、州刺史を始めとした官僚達は董卓に頭が上がらないというのが現状だ。その影響力は董卓が涼州を離れてからも残っており、并州に居る今となっては涼州と并州の橋渡し的な存在にもなっていた。
董卓が居た時に比べると涼州の開拓速度は衰えたが、それでも董卓が残したものは大きい。
今の涼州があるのは、董卓のおかげと言っても過言ではない。
此処は涼州隴西郡にある董卓の荘園。
見渡す限りの田畑が広がっており、途中には幾つかの小屋が置かれている。少し離れた場所には田畑を管理する奴婢達の集落があり、そこは下手な村よりも豊かで発展していたりする。荘園の取引に来たついでに集落に寄る商人も多いし、武器以外は特に制限を設けていないし、生活費他諸々を差し引いた給金を支払っていたりするからね。偶に集落に足を運ぶと知らない間に店が増えていたり、家屋が増えていたりする。常在してくれる鍛冶屋が来てからは農具の手入れも随分、楽になった。これも全て、御姉様が築いた基盤あっての話だ。私はただ引き継いだだけに過ぎない。
私の名は牛輔、真名は
私は御茶を飲むのが好きだった。
地平線の先まで届きそうな田畑に植えられた蕎麦や米、野菜、果物が成長していく様子を眺めながら啜る茶は格別だ。春は少し涼しげな衣服を着込んで、夏には麦藁帽子を被る。秋には肌着を着込み、冬は流石に寒いから屋敷に籠る。時折、外で食事を摂ったりもする。それから御姉様が抱えていた物書きから小説や随筆、時には脚本を読み耽り、ほんのりのほほんとした毎日を送る。
私には御姉様のような行動力はなかった。御姉様みたいに誰にも彼にも融資しようとは思わないし、豪族や商家に資金が余っていようとも借用を申し出ない。そもそも私は御姉様が残した借用書の処理だけで手一杯で、資金を集めたところで御姉様みたいにポンポンと使い道が思い付く訳でもなかった。その結果、ただ業務を終えてるだけでも貯金が貯まり続けて、気付いた時には唖然とする程の量の金銭が倉庫に溢れ返っていた。御姉様がいた時には、ほとんど空だったのにこの有様である。「どれだけ資金を消費し続けてきたのですか?」と突っ込みたくなる。きっと御姉様なら「お金があるなら使わなきゃ、使わなきゃ破産します。借金してでも稼がなきゃ……」とか死んだ目で呟いている気がする。お金はあっても困るものじゃない。と云うけども、限度が過ぎると持て余して使い道に困る。
最近は奴婢に子供達が増えているようだから教育に力を入れ始めてみようかな、とかそんな感じだ。
金持ちの道楽って、こんな感じで始まるんですねえ。と何処か遠くを眺める。
「金があって困るとは羨ましい限りだよ」
私の向かい側に座る女性が鼻で笑ってみせた。癖っ毛の強い金色の髪は背中を覆い隠すほどに長く、揺れる程度には大きな胸元。そして勝気の強そうな目元、彼女は湯呑みに注がれた茶を啜り、「良い葉を使っている」とうっとりと目を細めて微笑んだ。
「満足してくれたかな?」
そう問いかければ、ああ。と彼女は頷き返す。見た目の年齢は皇甫嵩や馬騰と大差なく、体格も二人と比べて見劣りしない。小柄な私や御姉様と比べると頭一つ分、大きな感じだ。彼女の返事に、良かった。と満足して微笑み返す。
彼女の名は韓遂、字は文約。涼州では有名な任侠の一人だ。馬騰が統治者の立場から民草を守る存在とするならば、彼女は民草の中から圧政や賊徒から民草を守る義賊とも呼ぶべき人物であった。無論、やっていることは犯罪に違いないが、それでも官僚の手が届かない無法地帯で着実に支持を得ている人物でもある。韓遂の影響力は僻地においては董卓や馬騰よりも強く、涼州の統治に大きく貢献していた。そんな彼女が私のところに来るのは一度や二度ではない。知己と呼べる程度には見知った仲ではある。
そういえば、と彼女は世間話を始めるように口を開いた。
「今、世間では黄巾党と呼ばれる賊共が暴れているようだ」
その情報は既に得ており、そうだね。と返した。
馬騰にも相談してみたことがあるけども、涼州は中央ほど黄巾党の影響を受けておらず、万が一があったとしても優先的に兵を回してくれると約束してくれた。馬騰がそう言ってくれるのであれば安心できる、と今日も呑気に茶を啜っている。実際、私には軍事がよく分からない。だから素人が口出しするのは控えた方が良い。私は無能に違いないけども、御姉様の足を引っ張る無能にはなりたくなかった。
しかし、それはいけない。と韓遂が口にする。
「今の御時世、ある程度は自衛する手段を身に付けておくべきだ」
その言葉に「馬騰は守ってくれると約束してくれているから大丈夫」と返せば、彼女は首を横に降る。
「馬騰なら確かに手が届く範囲で助けてくれるだろうが、黄巾党の被害が涼州全土に及んだ時、もしくは異民族の襲撃があった時、馬騰の手がこの荘園まで届かなくなる可能性が出てくる。そうなってからでは遅い」
強い口調、私を見つめる青色の瞳。そこには私を慮る気持ちが混じっていることが見て取れた。茶を啜る、間を取る。彼女のいうことは一理ある。私は御姉様から荘園を任された身だ。万が一にも失う訳にはいかなかった。同時に私は自らの無能を知っている。こういう大きな決断をする時、私は誰かに相談することに決めていた。
「もし仮に私兵を持つことになっても指導できる人間に心当たりがないしね」
「それこそ心配ない、募集すれば涼州中から人材が集まるよ」
「とりあえず、今はまだ決め兼ねるかな」
茶を啜ろうとして、中身が入っていないことに気付いた。仕方なく使用人の一人に茶のおかわりを要求する。
「……まあ無理強いはしない。ただ頼る先に私が居ることも忘れないで欲しい」
そう告げる韓遂の瞳は、やはり友人を慮るものだった。
御姉様が漢王朝から疎まれていることは知っている。そして私は董卓の親戚で荘園を受け継いだ人間だ。確かに漢王朝が私を見放す可能性は少なくないだろう。だが馬騰が私を見捨てる可能性もまた限りなく低い。……もし仮に馬騰が遠征などで近くに居ない時、誰が私と荘園を助けてくれるのだろうか。きっと呼び掛ければ、助けてくれる者が少なからず存在するだろうが、それが戦となれば尻込みする者も多いに違いない。心が揺れている。中身の入っていない茶を啜る。
とりあえず、行動を起こすにしても馬騰に相談した方が良いだろうか。
韓遂と別れた後、椅子に座って、机を引き寄せる。
書籍を幾つか積み重ねて、その上に胸を置いて、ふぅっと溜息を零した。資金と一緒であるに越したことはないのだろうが、大き過ぎるのも考えものだ。肩が凝ることが多い私は、はしたないとわかっていながらも、こうやって無駄に大きな胸を置いていることが多い。特に読書を嗜んでいる時は、ずっとこんな感じだ。
使用人達からの視線も、もう慣れたものである。
月「……(死んだ魚の目)」
月の融資者「……(死んだ魚の目)」
月から融資を受けた人「……(死んだ魚の目)」
詠「あれが借金を返す為に稼がなくてはならず、稼ぐ為には借金をするしかない地獄を乗り越えてきた者達よ。面構えが違う」
夜見「……(身震い)」
詠「ちなみに此処に並んでいる人間は、元を取ってる」
※4/27 22:30
畜獣の数を千と万で間違えていました。
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第二話.
董卓の荘園、それは涼州で最も生産力の高い拠点のことを云う。
涼州軍を維持するのに必要な糧食の半分近くを肩代わりしてくれており、此処を落とされる。もしくは荒らされるということは、そのまま涼州軍の生命線を断たれることに繋がりかねない。その為、董卓の荘園は涼州における重要拠点の一つに定められており、異民族に対する防衛計画には必ず董卓の荘園が組み込まれていた。
そんな重要拠点であるにも関わらず、
しかし、そんな彼女の荘園にも転機が訪れる。
「
そうにっこりと微笑む月と同じ薄水色の髪をした少女。
雰囲気も何処となく月と似通っており、前髪を下ろしている事と胸が大き過ぎる点を除けば、ほとんど同じ姿形をしていた。彼女の名は牛輔、月の親戚筋に当たる人物のようだが、容姿だけだと姉妹や双子と言われても信じてしまいそうだ。胸以外、いや、あの小さな体で、私や蒼よりも大きいってどうなっているんだ。巨乳少女、幼女巨乳、いけない。とても駄目な感じの響きがする。普段は抜けた雰囲気を持つ月が、もっと抜けて呑気になった感じなのが牛輔という人物であった。そんなおっとりとした空気を纏う彼女は、月の代行で荘園を任されている涼州の重要人物の一人だ。
今回、荘園に訪れたのは糧食の運搬の為、その指揮に私が出向いたのは彼女、牛輔に呼び出されて事だった。
「ささっ、中へお入りください」
牛輔の案内で月の、今は彼女の屋敷に足を踏み入れる。
彼女の要件は言葉にすると簡単なものだ。とある知己に私兵を持つ事を薦められた、この事に対して寿成様の意見を聞きたい。たったそれだけの話であったが、しかし、これは今まで非武装を信条にしてきた董卓の荘園にとって大きな転換点になる。実際に会って牛輔の様子を見てみたが、何時もと変わらず緊張感がなかった。どうやら牛輔は軽い気持ちで相談を持ち込んだようだが、それは大きな間違いだ。涼州の豪農で最も力を持つ董卓の荘園が私兵を持つ、これは彼女の荘園だけの問題に留まらず、涼州全体に影響を与える程の大事であった。
いや、行動を起こす前に相談してくれて本当に良かった。最悪、涼州の防衛計画を最初から引き直す必要があった程だ。
通された客間、用意された椅子に腰を据える。
此処は月が使っていた頃からほとんど変化がない。それは拘りや思い入れがあっての事ではなく、ただ単に牛輔が部屋の模様替えを面倒臭がった為だ。絵画や壺、大皿といったものは牛輔の趣味ではなかった。その為、高価な宝物を売り付けようとした商家は何の成果も得られないまま、屋敷を出ることが多い。かといって蒐集癖を持っていない訳ではない。彼女は小説や随筆が大好きで、そういった書物を見ると、特に興味のない内容であっても買ってしまう悪癖があった。それで積んでしまった書籍も多く、屋敷に多くある空き部屋の一つが彼女の書物庫になっていたりする。 ついでに云えば、月が屋敷に居た頃は必要最低限の数しか居なかった使用人が、牛輔に代わって劇的に増えた。使用人が御茶と茶請けを持って来る。「良い茶葉が入ったんですよ」と牛輔は待ちきれない様子で椅子に座ったまま両足をパタパタと動かした。
月は自分の事は自分でやりたがる性格であったが、牛輔は逆に他人に任せられる事は他人に任せたがる。
月が淹れてくれた時よりも美味しいけど、なんとなしに味気ない。
そんなことを言うと両者に対して失礼だとは思うのだが、あの妙な苦味というか、雑味というか、そういう慣れ親しんだものが感じられないのは少し物足りなく思える。ズズッと啜った後で「良い茶葉を使っているな」と問いかけると「ええ、冀州で採れた物のようですね」と牛輔が答える。茶請けが美味い、と言えば、何処で買ったのか教えてくれる。事のついでに「荘園の運営はどうだ?」と問うと「冷害の影響で生産量が落ちていますねー」と特に困った様子もなく答えてくれた。まだ大事ではないのか、それともただ単に興味がないだけだろうか。他にも月からの手紙、近頃の交友関係などを、それとなく世間話を交えながら問い質した。自分を信用してくれている相手を問い詰めるのも気後れするが、月から牛輔のことを頼まれているので慎重に情報を収集する。
そしてまあ何時も通りだと確認したところで本題に移る。
「私兵の話だが、持つのは良いが軍閥化するのはやめた方が良い」
「ん〜、やっぱりいらない?」
「万が一の備えが欲しいのであれば、別に私兵を新たに募る必要はない」
軍閥化することは月にとって都合の良い話ではないと私は考える。
この荘園は涼州軍の維持負担を担う代わりに徴兵を免除されている為、他の豪族が戦場に駆り出されている中でも董卓の荘園は悠々と開拓を続けることができた。ついでにいうと、この荘園は涼州の重要拠点である為、何かが起きた時、軍事力を持たない荘園を守る為に涼州軍を派遣する手はずになっている。こうしておけば緊急時に私が足を運ぶことができるかも知れないし、私でなくとも娘達を送ることはできる。そういう状況を作っておくことに意味があった。
であれば、表向きには軍事力を持っていないことを主張しながら自衛手段を確保する手段を提示すれば良い。
「今居る奴婢達から志願者を募り、余った時間で武芸を教えれば良い」
「えーでも、うちって……いや、んー、奴婢の中に武芸の心得を持ってる者って居るのかな?」
「心配なら師範役だけ募れば良いんじゃないか?」
今でも英雄視される月の荘園ともあれば、誰かしら名のある者が名乗りあげるはずだ。
「うーん、まあ……特に拘りがある訳でもないし、それでいいかなー」
考えるのが面倒臭くなったのか、牛輔はふにゃりと机に突っ伏しる。
「そういえば、その私兵ってのは誰の入れ知恵なんだ?」
「韓遂だけど?」
その名に私は少し警戒心を高めた。
†
「チイッ、次から次へと……っ!」
長剣を片手に騎馬を駆けさせる。
視界の先には火の手が上がる集落があり、異民族の騎馬に追い回されている。ある者は惨殺され、ある者は衣服を剥がされて、ある者は脇に抱えられて、直視し難い惨劇を前に――まだ助けられる者が居る、と更に馬を疾く駆けさせた。そんな私の背を追いかけてくれるのは五十程度の騎馬兵であり、誰もが義憤に心身を漲らせて突貫する。
これは西涼の地においては特に珍しもない光景だ、誠に遺憾な事ながら。
河西四郡。武威郡に加えて、それより西にある酒泉郡、張掖郡、敦煌郡の四つの郡を示す言葉だ。
大陸部から突出する形で占有された領土は防衛という観点から見ると守りに難く、都から離れている為に治めることも難しいという困難な土地ではあったが、それを補って余りある経済的な効果を期待できる道でもあった。此処は遥か遠く、西の果てから来たという異国の商隊が使う街道を内包しており、その交易によって得られる利益は莫大なものだった。それは漢王朝の財政を大きく支えており、この西の最果てまで続く交易路――異国の者はオアシスロードと呼んでいた――を維持する為に、涼州という領土が存在していると云っても過言ではない。
董卓が友誼を結んでいる羌族もまた、この街道沿いに存在する部落であり、商隊と取引する事はあっても襲うことはしなかった。ただ収穫期が近付くと異民族が集落を襲っては食料を略奪する為、なかなか人が定住せず、他郡と比べると開発が遅れており、官軍もまた街道の守護を最優先としていることもあって漢王朝に対する忠誠心は薄かった。
特に河西四郡の更に北にある張掖居延属国においては、異民族に対する備えとして以上の働きを期待されて居なかった。
此処では頻繁に異民族による略奪が発生する。
張掖居延属国には居延県の他に城都は存在していないが、城都があるということは、それを支える為の集落が各地に点在している。しかし城都には必要最低限の兵力しか置かれておらず、また遊牧騎馬民族である鮮卑族の機動力もあって満足に防衛しきれていなかった。この現状を目の当たりにした私、
すると、こういう場面に出くわす事は稀によくある。
特に董卓が涼州を離れてからは頻繁に略奪しに来るようになっており、兵力の差から涙を飲んで見逃すことも少なからずあった。高々、百程度の義勇軍にできることなんて限られている。それでも目の前で行われている非道を少しでも討つ為に、そして目の前で行われる悲劇から少しでも多くの人を救う為に日夜戦い続けた。
これが根本的な解決にならないと知りながらも、戦うしかなかった。
「貴様等、よくも我らの土地でッ!」
長剣を振り回しては問答無用で両断する。
逃げる者から徹底的に、脇に女子供を抱えている俗物を優先し、その次に食料といった物資を持つ者を追いかけて殺した。命乞いも聞き入れず、慈悲すらなく、同じ空気を吸ってることすら不快だと殺戮する。初めて殺したのは何時の日か、特に感慨はなかった。達成感もなく、優越感もない。やるべきことをした、ただそれだけだった。大義や正義は持ち合わせておらず、義憤のみを以て民草を害する異民族を淘汰する。
殺した数が十を超えた頃、集落から敵は居なくなっていた。
ふうっと息を吐いた。やはり達成感はない、ひとつ作業を終えただけだ。後ろを振り返ると残された民草は皆、力なく項垂れている。既に手遅れになった者も多い。衣服を千切られた少女は壁を背に身を丸くしており、その家屋には母と思しき女性が裸で数人の男に押し倒されていた。嬲られていた。家屋に突入した時には死んでおり、事切れた母の代わりに子が男達の相手をしていた。いくら殺しても殺し切れない、どれだけ守ろうとしても守りきれない。こんな事が果たして何時まで続くのだろうか。
無力感に苛まれる。やはり義勇軍では、この地を守るには不十分過ぎた。
西涼を、いや、涼州を守る為には、もっと大きな力がいる。
漢王朝に仕官する事も考えた。しかし涼州には既に素晴らしい将が二人も居るのだ。当代における最高峰の将と名高い皇甫嵩。そして涼州の三傑が一人、馬騰。ついでに云えば、同じ三傑の董卓や賈駆も居た。しかし、私よりも優れた才覚を持つ四人を以てしても涼州を救うには至らない。漢王朝は涼州を単なる道としか考えておらず、生かさず殺さず、決して力を蓄えさせずに使い潰そうとしている。このままでは保たない、ではない。こんなことが延々と繰り返される、それを漢王朝は望んでいる。
最早、漢王朝の内側から涼州を救うことは叶わない。
なら、もう、取れる手段は限られている。
振り返れば半壊した集落、仲間達が救助をしてくれているがもう、此処が復興する望みは薄い。悔しさに口の端を噛み切った。今はまだ耐える時、耐え忍ぶ時だ。結構には入念な準備が必要であり、時を待つ必要がある。今はまだ力を蓄える時だ。しかし、力を蓄えるといっても、この状況下ではどれだけ蓄えられるというのか。いや、それ以前に、どれだけ保つというのか。分からない。分からない、が、耐えるしかない。今は耐えるしかない。その時が来るかどうかも分からないまま、時が来た時には手遅れになっていようとも。耐えるしかない。
時は来る。と自分に言い聞かせた分だけ、見捨てるものが積み重なる。
†
涼州漢陽郡隴県の城都、その政庁。
涼州刺史の耿鄙は、謁見の間にて行われる評定に顔を出していた。とはいえ配下達が話し合う言葉のほとんどが理解できず、また予備知識も足りていないので本当に顔を出すだけだ。評定中にうつらうつらと船を漕ぎ始めるのもいつもの事で、その事を咎める者は此処には誰も居なかった。
そんな中、とある配下からの発言が皆の注目を集める。
「資源の無駄な出費があります」
そんなものは何処にもない。というのが良識的な文官の反応になる。
実際、涼州は他州と比べて生産能力は低い。これは西の最果てに通じると云われる街道を維持する為、歪に突出した形で領土を占有しているというのが一つ、もう一つは涼州は山岳地帯に囲まれており、農業の生産拠点として向いていない為だ。
ちなみに良識に欠けている文官は一様に目を逸らしている。理由は単純明快、彼らは横領している為だ。
しかし、良識派を気取る文官の続く発言で彼らは、ほっと胸を撫で下ろすことになる。
「董卓の荘園から羌族に物資が流れています」
「それは知ってるわよ。馬騰が言っていたわ、なんでも外交と交易の為だとか?」
耿鄙が口を挟むと「ええ、そうでしょう」と文官は頷き返す。
「しかし馬騰は根っからの武人であることを忘れてはなりません」
この文官の発言に良識のない者達は「あっこれ、なんかやらかすな」と察したが、しかし下手に手出しをして、標的を自分に変えられたくもないので押し黙る。涼州において馬騰と董卓、賈駆には手を出すな。これは暗黙の了解であった。ちなみにその馬騰は賊の討伐に出向いており、この場にはいない。
「この交易はほとんど利益が上がっていないのです。軍を動かして、羌族に物を売りつけて、得られる利益はほとんどない。冷害による被害は増え続ける一方、これから必要になるのは資金ではなく物資である。金はあっても物がない、そんな時代がすぐそこまで迫っているのです」
武人である馬騰にはこのことがわからない。と続けられた言葉に良識ある文官達は一様に頷き返し、良識なき文官達は頭を抱えたくなる思いを必死に堪えた。横領するにしても、汚職をするにしても、重要なのは根回しであり、根回しとは即ち人脈のことだ。利益を上げる為には損をしなくてはならない事もあり、良き関係というのは互いにとって利益のある関係の事だ。外交利益って金銭だけで測るものじゃないんだよ? と優しく諭したかったが、それで目を付けられては溜まったものじゃないので良識なき大人達は皆、黙り込んだ。せめて一欠片の良識もあれば、ここで諌言の一つもしただろうが、残念ながら彼らは皆、良識のない人間である。
「董卓の荘園には羌族との交易を中止し、物資が外に流れないようにするべきです。ただでさえ涼州は漢王朝の支援がなければ成り立たぬ土地、余所者に渡す物資の余裕なんてありません! 馬騰にも董卓の荘園に手を貸さぬように制限をかけてやりましょう!」
そうして誰もツッコミ役がいないまま、この発言はそのまま承認されることになった。
翌月、涼州の収益は半減した。ついでに漢王朝の収益も激減した。
良識なき文官達は今後の身の振り方について真剣に頭を悩ませることになった。
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第三話.
西の最果てまで続く交易路、異国の者はオアシスの道と呼んでいる。
最果てより来たる商隊との交易は漢王朝に莫大な富をもたらしており、漢王朝の財政に大きな影響を与えている。その通り道である涼州もまた異国との交易の恩恵を授かっており、これによって赤字が続く涼州の財政を補填されてきた。さて、この交易路なのだが異国の者だけが活用している訳ではなく、当然の話ではあるが漢民族の商隊も活用してきた。そして、その一つに董卓が一門にいる董家の姿もあり、董卓が羌族と友誼を結ぶ下地にもなった。
異国の商隊にとって羌族は美味しい商談相手ではない、そして羌族にとっても異国の商隊は美味しい交易相手ではなかった。
というのも羌族と取引するよりも漢王朝と取引する方が儲けが遥かに大きかった為だ。商隊が羌族を頼るのは基本的に食料や水の確保が目的であり、あまり商品を譲ってくれない事が羌族にとっての悩みの種であった。そんな時に現れたのが董卓であり、彼女は惜しみない交易を申し出た。それは作物であったり、加工食であったり、中には趣向を凝らした工芸品も含められる。この結果、街道周辺の羌族は徐々に董卓個人との交易に比重を傾けるようになり、羌族自らが率先して交易路の整備を行うようになったのだ。また董卓の機嫌を損ねない為に漢王朝を目的とする異国の商隊には手を出さず、逆に自国の賊徒や他集落が街道を荒らさないように抑え込む程だ。この結果、南の羌族に対する備えは必要最低限に抑える事ができ、オアシスの道の管理と維持は容易となっていた。
そして涼州が羌族との交易を打ち切った結果、羌族は交易路の維持を放棄した。同時に大陸全土では黄巾党と呼ばれる組織が放棄し、漢王朝が内乱状態にあるという情報を手にした反漢思想を持つ羌族が南の氏族と結託し、略奪を再開してしまったのだ。匈奴族と鮮卑族とは常に交戦状態にあった為、涼州は四勢力から略奪を受ける事態となり、馬騰を始めとした涼州軍は涼州全土を駆け回る羽目になった。これにより、涼州の収益は半減する。こんな状況では異国の商隊も漢王朝に向かうことを諦める者が増え始めて、結果、漢王朝の財政にも大打撃を与える不始末となった。
これは不味いと察した涼州刺史の耿鄙は、街道沿いの羌族と連絡を取ろうとしたが「董卓を出せ、もしくは賈駆だ」の一点張りで聞く耳を持たなかった。その時、「馬騰ではいけないんですか?」と使者が涙ながらに提案するも「馬騰は人物的には信用できるが、能力的に信頼できる人物ではない」と突っ撥ねられた一幕もあったとかなかったとか。この状況に嫌気の差した耿鄙は不貞寝したらしい。
そんな情報が入ってきたのが先週の話だ。
「さて、成公英と閻行。先ずは二人の意見から聞いてみようか?」
軍議室、と呼ぶには余りに粗末な宿舎の一室にて。
使い古した地図が広げられた机を挟んで、行儀良く座る二人の少女を見やった。片や眼鏡を掛けた長躯の女性であり、名を成公英と云う。切れ長な目が特徴的な彼女は韓遂義勇軍の知恵袋であり、作戦行動を取る時は成公英に意見を問うのが我が軍の通例となっている。その隣に座る黒髪長髪の若武者の名は閻行。身の丈を超える大太刀使いであり、髪を後ろ手に縛っているのが特徴的だった。成公英は考え込むように地図を睨み付け、閻行は腕を組んで目を伏せる。
そして先に口を開いたのは成公英の方だった。
「動くのであれば、明日にでも動く必要があります」
「その心は?」
「我らは寡兵である為です」
成公英は地図を指で指しながら「居延*1、候官*2、觻得*3」と北から南へとなぞってみせる。
「涼州を獲るには、先ず、この三つを取らなくてはなりません。高望みをするのであれば武威郡*4まで、出来れば武威郡の西半分を占拠してしまいたいところです」
「丁度、前線と本隊を分断する形になるな」
「はい、先ずは河西四郡を手中に収めること。少なくとも隴西郡にいる騎馬三千の馬騰隊が来る前に張掖郡を抑えられなければ、私達は為す術もなく敗退します」
居延県を落とし、張掖居延属国を獲ってからは時間の勝負だと成公英は告げる。
「我らの蜂起が馬騰の耳に入り、隴西郡から張掖郡まで騎馬を率いてやってくるまでが期限です。幸いにも馬騰隊は騎馬が中心の構成である為、適当な砦か城都で防御を固めておけば時間は稼げます」
「その間に西の敦煌郡と酒泉郡を落とす訳か」
「だが、西端の敦煌郡には馬超がいる」
それまで黙っていた閻行が口を開き、何処から持ってきたのか将棋の駒を幾つか取り出して地図上に置いてみせる。
敦煌郡には金将を置いて、隴西郡には銀将と三枚の桂馬を添える。金将は西涼の錦である馬超、銀将が馬騰。桂馬は馬家一門のことを示しているようだ。涼州の北東に匈奴族、北には広大な土地を持つ鮮卑族、北西に羌族、西には氏族。それぞれに角将と飛車で対応する。この中で最も敵対的なのは氏族。涼州の三傑を怖れており、その影響は董卓と賈駆なき今もまだ残っている。それ故に攻め込んで来なかったのだが、つい先日、涼州と羌族の繋がりが断たれたことを知り、近頃は活発的になってきたと云う。最も友好的な羌族も交易が途絶えた事で交易路を守ろうとせず、反漢的な羌族が涼州を荒らすことを止める者はいなくなった。ただ匈奴族は并州、鮮卑族は幽州と定めている為、目下、涼州と積極的に敵対しているのは氏族と羌族の半数だ。
そして今、交易路の守護を担っているのが馬超という娘だ。
「馬超は西涼の錦と呼ばれるほどの人物だ。負けるとは言わないが決して油断が出来ぬ相手ではある」
閻行は腕を組んで成公英を見やる。その成公英は悩ましげに眉を顰めていた。
「馬超は確かに勇猛です。涼州では一、二を争う程の武勇を持っており、馬騰仕込みの用兵術も身に付けています。騎馬隊を率いれば、大陸中を探しても右に出る者は居ないと断言できるほどです」
しかし、と成公英は続ける。
「彼女の用兵術は馬騰と同じ欠点を抱えています。即ち、自らが先頭に立つことで将兵を率いる事、そして馬超の巧過ぎる用兵と連携を取れる者が馬騰以外にいない事です。彼女個人の武勇は素晴らしいが、帥としての経験が乏しい。私達が突けるとすれば、その一点に限るかと思われます」
「本隊への備えに将を一人、残すことを考えると決して勝算が高い訳ではない。随分と博打が強いことだ」
「一から身を立てようと言うのです、多少の博打は許容して然るべきですよ」
二人の思考が張掖郡を獲った後に移行しつつあるのを見て、先走り過ぎだ。と二人を諌める。
「先ずは張掖郡、その足掛かりの居延県よ。あまり先を見据えても足元を救われるわ」
「……居延県に関しては前に話した作戦があります」
「あの大博打か。ウチの軍師様は随分と博打がお好きなようで、もう少し確実性の高い作戦が欲しいところだな」
閻行の軽口に成公英は不貞腐れた様子で、様々な可能性を考慮した結果です。と口先を尖らせて告げる。
「先立つ物をない最初こそが最も難しいのですよ。いずれにせよ、速度が勝負である事には変わりない。張掖郡で最低限です、何処まで戦果を上げられるかで今度の作戦の難易度が変わります」
そこで彼女は話を区切り、中指で眼鏡の位置を直した。
「羌、氏、鮮卑、匈奴……そして黄巾党、これらには既に漢王朝と涼州の現状については情報を流しています。実際に動いてくれるのは氏族、そして羌族の反漢勢力。匈奴族は半々と言ったところでしょうか。鮮卑族は交易路を使っている商隊と仲を持っている為、動きが慎重になるはずです。黄巾党が涼州各地に出没するようになれば、それだけ私達は動きやすくなる」
「……その策、敵を我らが土地に招いているようで好かないんだけどな」
「先立つ物をない故に、理想だけでは大義を為すことはできませんよ」
我らが誇りを取り戻す為に勝たなくてはならないのです。と成公英が閻行を睨みつける。
「……まあ頭の良い人間の考えている事は理解できんよ。私はただ韓遂殿の人柄と成公英殿の頭脳を信じて戦うことにする」
そう言って肩を竦める閻行に「貴女の善性は我らにとって貴重ですよ」と成公英が小声で呟いた。
決して仲の良い二人ではない。しかし二人の相性は思いの外、悪くはなかった。
麒麟児と謳われる姜維を仲間にすることは出来なかったが、この二人を得られた事を私は誇りとする。
「この戦いが終わったら私達で真名を交換しよう」
ふと何気なく口にしたのは、何時かの誓いだった。
ただなんとなしに真名を交換する機を見失って、どうせなら何か事を成し遂げた後で交換しようってなった約束だ。
この提案に二人とも力強く頷き返してくれた。
†
此処はなれ果てだ。
張掖居延属国居延県、城都。大陸全土でも辺境と呼ばれる土地の更に僻地だ。
この土地を開発する為ではなく、鮮卑族の備えとして置かれた城都とは名ばかりの砦に千程度の将兵が詰め込まれる。辺境の僻地である為に食料の自給率は決して高くはないが、食糧難の御時世、少しでも自前で賄う為に屯田し、周りには必要最低限の集落が築かれていた。此処は漢王朝の領土ではあるが、漢王朝の庇護から外れた土地。それ故に此処に流れてくる者は、訳ありの者が多かった。故郷では村八分になり、かといって異民族に逃げ込むこともできない者達が集まる土地になる。そして、そんな土地を守護する官僚もまた出世の道から外れた者達で構成されている。留置所、と揶揄されることもあった。
こんな場所だから誰も真面目に働こうとはせず、時折、鮮卑族や匈奴族が略奪にくることもあるが見て見ぬふりをすることも少なくない。というのも張掖郡から張掖居延属国を繋げる街道以外はまともに道の整備をされておらず、襲撃を受けてからこの砦まで情報が届くのに一週間以上もかかるのは普通だ。そこから号令をかけるのに丸一日、出陣する為の準備で更に三日程度、士気がどん底の行軍では現地に辿り着くまで更なる時間を要し、現場に辿り着くまでに半月近くもかかる。そんな有様では救援に向かう頃には集落なんて跡形もなくなっており、若者は男女問わずに連れ去られ、野晒しにされた老人達の死骸を拝むだけだ。それに出陣には莫大な費用がかかる。拠点で屯田しているだけでも食料は底を尽きかけているというのに、無意味な出陣を繰り返していては兵糧攻めを受けてないにも関わらず、砦を枕に飢えて死ぬことになりかねない。
私は、此処を地獄だと考える。まともな感性では生きられない。此処は人が人としてある為に必要な良心を容赦なく削ぎ落とす。民草が異民族に奴隷として連行されることを良しとし、女子供が陵辱を受けることを見て見ぬふりをしなくてはならない。きっと私はもう手遅れだ。執務室にて、「また一つ、集落が襲撃を受けた」と薄汚れた衣服に袖を通す文官の気怠げな声で報告を受ける。こういった報告に私はもう心が動かなくなってしまった。此処に来た時は、せめて此処ではない何処かへの異動を夢見ていたが、今となってはもうそれすらも諦めている。
そんな時、また一人、執務室へと上がり込んできた。
「どうした?」
「韓遂って奴が門まで来ています。なんでも鮮卑族が攻め込んできた、と」
「攻め込んだって、また略奪目的じゃないのか?」
「どうにも違うみたいですねー。なんでも数千規模の軍勢が攻め込んで来たとか、なんとか?」
「……おい、ちょっと待て、いや、事実確認が先か」
韓遂の名は知っている。
河西四郡で名を馳せる狭者で、民衆を賊徒や異民族の魔の手から守り続ける英傑気取りだ。
その者とは何度か顔を合わせた事があり、信に足る人物だと認識している。
「通せ」
韓遂の言う事であれば、無視する事もできないな。と謁見を許す。
結局のところ、私は鮮卑族が本格的に攻め込んでくることを信じていなかった。涼州は西の最果てへと続く道以外は不毛な土地であり、そして、同種の街道を鮮卑族も有している。その為、鮮卑族が涼州を攻め込む理由は略奪以外に思い付かなかった。実際、此処に砦が建てられているのも涼州を攻め込む橋頭堡にされない為、という意味もあるが、実際には略奪の拠点にされない為っていう意味合いの方が強い。
だから私は張掖郡に伝令を送らず、韓遂を相手にたった二人の護衛だけで顔を合わせてしまった。
「久し振りです、太守殿」
礼儀正しい所作で頭を下げる韓遂を見て、私は執務机に頰を突きながら応じる。
「名ばかりで実際の権限は県令並だけどな。指揮権は張掖郡太守様にある」
数ヶ月ぶりに合わせた顔に、若干の違和感を感じる。
背中を覆い隠す金髪に透き通るような青い瞳。衣服は脱ぎ捨てられており、上は薄着の下着のみを羽織っていた。
そして腰には剣を佩いでいる、血の臭いがする。
「……それで此処、居延が攻め込まれていると言うのは本当なのか?」
確認するような問い掛け、視線は韓遂に向けたまま、執務机に隠していた短剣に手を添える。
「それは本当です。数は千から千五百程度、意外と集まりましたよ……恨まれてますね、貴女方は」
「仕方ないだろ。動かせる将兵もなければ、動かすための物資もねぇんだよ。ないない尽くしで嫌になる」
まあ、と息を吐いて、間を取る。
「この苦労、お前も直にわかるさ」
言うと同時に執務机を蹴り上げて、韓遂にぶつける。
同時に短刀を片手に椅子から飛び出した。執務机が真っ二つに両断される。その先で二人の護衛が首筋を斬られているのが見えた。宙を舞う書類の束を掻き分けて、何処でもいい。と韓遂に目掛けて、短刀の切っ先を突き立てる。次の瞬間、手首から先の感覚が失われた。舌打ちひとつ、切り落とされた手首には意にも介さず、大きく踏み込んで蹴りを放った――が、それもまた斬り飛ばされる。右手首と左脚、その両方が失われた。崩れ落ちる体、舞い上がる紙吹雪の中からスルリと突き出された直剣の切っ先が私の胸元を貫いた。
嗚呼、やっと終わる。漸く解放される。霞む視界、堕ちる意識、死に対する不安や恐怖はなく、最後に残ったのは安堵だった。
†
とある集落で蜂起した後、
居延県にある城都まで行軍を続けながら招集した義勇軍は千を超える。
城都とは名ばかりの砦も、数年間かけて築き上げた信頼を使って侵入し、内側から陥落させた。それは暗殺と誹られる手口、しかし、張掖居延属国の民草は私達を非難するようなことはしなかった。それ程までに官僚は民草に嫌われていた。それもそうだ、税を払えという癖に民草を守ってくれないのだから当然だ。そうして居延県は大した衝突もないまま陥落する。そして私の名前を知って協力したいと申し出る者が半数近く、涼州出身の者達を義勇軍に受け入れて我が義勇軍は三千の大所帯になった。これだけの数になれば、城を落とす目処も出てくる。
そのまま南下を続けて、張掖属国、そして最初の目的であった張掖郡の奪取までトントン拍子で事が進んだ。
「韓遂様、此処からです。此処からが大変になります」
城壁の上、総数一万を超える軍勢を見下ろす横で成公英が告げる。
我が軍は最早、義勇軍とは呼べない規模にまで膨れ上がった。尤も、その七割方がまともな調練を積んでいない民兵である為、涼州軍と真正面からぶつかれば鎧袖一触で吹き飛ぶ程度の軍勢だ。それでも城があれば戦える、それでも砦があれば戦える。相手が反撃の準備を整えるまでに多くの領土を切り取り、反撃を受ける前に防御を固めなくてはならない。
顔を上げる、空は雲ひとつない晴天だ。風が吹き抜ける。視線を落とす、そして洛陽のある方角を見た。
「そうだな、此処から全てを始めよう。この涼州の地から全てを変えて行こう」
これは誰かが果たさなくてはならないことだ。
少しでも不幸な人を減らす為、誰も彼もが幸せになれる世の中とまでは云わない。今よりも少しでも良い世の中にする為、今よりも少しでも努力が報われる世の中にする為、漢王朝と対峙することを選んだ。私は前に進み続ける。理想成就の為に、独善的な正義を胸に掲げる。昨日よりも素晴らしい今日を、今日よりも素晴らしき明日を、一歩ずつ地を踏み締めながら先を見据える。この先に道はない、もし道があるのだとすれば、私が進んだ後が道として残る。どれだけ険しい道であっても足を止めず、ただ歩み続ける。
それだけが未来を掴むたったひとつの手段だと盲信して、己が掲げた理想に殉じる。
私達の戦いはこれからだ。
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第四話.
これは
その日は、それまで涼州刺史を務めていた成就が洛陽に戻り、代わりの者が送り込まれてくる日だった。
漢王朝に仕える役人達は揃って、新しい涼州刺史の面を拝んでやろうと城門付近まで足を運んだ。程なくして城門は開かれた。さて、どれだけの人間を連れ込んで来るのか。こういう時、地元と外様で派閥が出来るのが世の常であったが、しかし、城内に入ってきた人間は驚くほどに少なく、護衛に十名程度。使用人らしき者達が四、五人と明らかに少ない。そして、この中で唯一、馬に乗った少女は周りを見渡すと小さく溜息を零した。さもありなんと肩を落とす。この何処か無気力そうな少女が、新しい涼州刺史様であるようだ。
二つ結いの緑髪、少女は眠たそうに細めた両目で私を捉える。
「貴女が馬騰ね?」
不意に問われて「はあ、そうですが」と気のない返事をする。
ふぅん、と品定めするように私の事を見つめた後で「話があるから執務室まで来て頂戴」と呼び出しを受ける。
この当時はまだ彼女、
†
はっきり言って最悪だった。
涼州刺史に任命された時、先ず思い浮かんだのは左遷の二文字であった。
涼州は漢民族というというよりも羌族に近い文化を持つ者が多く、鮮卑族や匈奴族といった遊牧民族の影響を色濃く受け継いでいる。その為、涼州の民草は漢王朝に対して恭順しているとは言い難い。もっと云えば、状況が独立を許していないだけだ。散々、異民族を相手に戦わされてきた涼州軍は周りから怨みを買っている為、今の状況で独立を宣言してしまっては四方八方が敵しかいない状況に陥りかねない。それもまあ董卓の活躍により、羌族との関係を上手く築き上げられていたことで緩和されているようだけど、それはそれで困るのが漢王朝。涼州は西の最果てまで続く交易路を維持する為に大事な領地、此処を独立されてしまうと漢王朝の収入源が大きく減少してしまう事になる。というよりも漢王朝にとって、涼州の価値の七割方が異国との貿易だ。なので涼州刺史というのは、涼州に対するお目付役という意味合いが強かった。仮に左遷であっても、涼州を開拓せよ。という意味であれば、少しはやりがいも出てくるものであるが、「開拓するな、されども異民族に突破されない程度には力を持たせておけ」という任務はなんともやる気の出ないものであった。涼州の人間からは憎まれて、それでいて功績を立てる事も叶わない。四、五年経てば、洛陽に戻されるのであろうが、いやはや、しかし、涼州で落ちた名声を取り戻すことは困難を極める。
酷い貧乏くじだ。本当にやってらんない。
涼州
その時、出迎えた。もとい私を品定めに来た涼州人の顔を見て、これはもう手遅れだと諦めた。最初から歓迎されるとは思っていない、しかし実際に目にすると心に来るものがあった。私は完全に外様の厄介者だ。まだ言葉一つも発していないにも関わらず、色眼鏡越しに見た姿で私のことを嘲笑する。これは駄目だ、と私は小さく溜息を零す。まあ、どうせ涼州刺史に選ばれた時点で詰んでいた。賽の目が一とにしか出ない賽子を持たされているようなものだ。
誰も私のことを見定めようともしない中、唯一、私個人を見つめる者を見つけて、執務室に呼び付ける。
なるほど、彼女が馬騰。涼州の三傑と呼ばれるだけはある。それはただ単に、誰であっても相手のことを見縊らないという経験則に基づいての事だろうが、たったそれだけの事が私にとっての清涼剤に成り得た。私のことを真っ直ぐに見つめてくる彼女の瞳は小気味好い。生粋の武人である彼女には肥えた舌はなかったが、私は執務室まで来た彼女に洛陽から持ち込んだ最高級の酒や茶葉を惜しみなく振る舞うことにした。それは些細な味の違いも分からない者には勿体ない代物であったが、それよりも、おもてなし以上の意味を持たぬ代物の裏を読もうとする連中に渡す方が勿体ないと感じられた為だ。その価値は分からずとも、美味いものは美味い。と言える彼女が幸せそうに茶請けを頬張る姿を見つめながら溜息を零す。
今となってはもう私が考えるべきは隠居した後の事だった。
†
「私は何もしないから貴女達で勝手にやって頂戴」
執務室に呼び出されて、先ず最初に言われたのがこれだった。
耿鄙、
涼州刺史、耿鄙は無能である。何もせず、惰眠を貪り、ただ判子を押す仕事に従事する。
その噂を流したのは栗花落自身だ。実際、彼女の涼州刺史としては無能極まる。何もせず、邪魔もせず、そうする必要があった。と私が理解できたのは半年もの月日が経った頃合いだった。
これを彼女に突き付けると、栗花落はやはり呆れたように溜息を零す。
「今更?」
という辛辣な言葉に恥を知る。
ともあれ涼州の事は涼州の者でどうにかしなくてはならない。
それも栗花落が州刺史を務めている間に。
†
涼州刺史としては無能であった事は自覚している。
少なくとも私は自らの意思で動くことはせず、どうせ必要にならないと情報収集も怠ってきた。知れば口出ししたくなる。なら最初から知らなければ良い、という短絡的な思考からだ。それでも涼州の三傑の名は知っていた。だから評定の時、文官の一人が羌族との交易を取りやめる提案をしてきた時に問いかけたのだ。「馬騰が言っていたわ、なんでも外交と交易の為だとか?」と確認を取った。すると彼は「ええ、そうでしょう」と頷き返し、「しかし、馬騰は根っからの武人であることを忘れてはなりません」と彼女を馬鹿にしたように答えたのだ。まあ確かに馬騰、つまり
そして失敗した。その損害は漢王朝の財政を揺るがす程に大きなもので――というよりも街道整備とか警備とか羌族で担っていたとか聞いてないんですけど? それで街道の整備と警備に費やされる予算は如何程に? あ、ふーん、それって羌族に渡していた分の物資、簡単に使い潰しちゃう量ですよね? はぁーっ、つっかえ。政治の分野で翡に負けるとか辞めたら? 御役人、向いてないよ。君が佞臣とか言ってる輩の方がよっぽど使えそうなんですけど、佞臣さん?
さておき、これが涼州だけの被害に収まるのであれば、佞臣さん達を罷免して、残った者達に涼州運営を任せてしまうのも悪くない。しかし漢王朝にまで被害が及んだとなれば話は変わってくる。仕方ない。と重たい腰を上げて、羌族との会談する方針で固める。羌族の連中は、やれ董卓だの、やれ賈駆だの、と聞く耳持たずのようだが、流石に涼州の最高責任者である私が赴けば、一目くらいは会談に応じてくれるはずだ。護衛には……翡は無理か、今の不安定な情勢で翡を本隊から離すことはできない。なら彼女の嫡子である馬超に親の代わりを勤めて貰うとしようか。彼らも翡の娘ともなれば、興味を持ってくれるはずだ。兎に角、今は交渉の席に着くことが大事である。
幸いにも涼州は私がいなくても仕事が回る環境で、大した手間なく河西四郡、西涼の地まで赴くことができた。
そして羌族との会談を調整している最中、早馬で急報が知らされる。
「……本当に悪い時には悪い事が積み重なりますね。どうにも私の天命は涼州刺史となった時に尽きていたようです」
竹簡には走り書きで、張掖郡が賊徒に落とされた旨が書かれてあった。つまり本隊と分断された、帰り道を抑えられた。
「翡は……確か、氏族の侵略に対応しているのだったかしら? いや、でも翡の事だから自分は行かずとも娘の誰かを寄越しそうね。なら、そうね。張掖郡を挟み撃ちにして奪取、無理そうなら河西四郡を放棄。救援部隊と合流を優先して、戦線の再構築といったところかしら?」
指先をくるくるっと回しながら、これからの方針を述べると、隣に控える翡の娘である馬超がポカンとした顔を浮かべていた。
「どうしたのよ、気になる事があったら言っといた方が良いわよ」
「いえ、その方針で構わないと思います。ただ……なんというか……その…………」
言い淀む小娘の姿に、まあ、そうね。と小さく息を吐いた。
「風聞は参考程度に留めておくことを勧めるわよ。裏で誰が情報を弄っているのか分かったものじゃないわ」
「心得ておきます」
素直に頷く翡の娘に、面白味に欠けるな。と不謹慎なことを思ったりする。
「ところで、どうして貴女は実力を偽るのでしょうか?」
不器用な敬語に、さて、どうしたものか。と悩み、もうどうでもいっか、と素直に答えることにした。
「漢王朝からは涼州の力を適度に削ぐように言われているからよ。それで涼州が力を付けちゃうと裏切り者になりますし? かといって涼州に生きる者達を不幸にして喜ぶ趣味もないし? お目付け役の私が無能であることが双方にとって都合が良かったのよ」
涼州に来た時点で出世は諦めている。
半ば董卓の功績とはいえ、涼州の発展に大きく貢献した前涼州刺史の成就の噂が忽然と消えた時点でお察しだ。流石に殺されてはいないと思うけど。かといって漢王朝の指示に従ったとして、涼州で悪評の付いた者を要職に付けるはずもない。つまり涼州刺史に任命された時点で私の官僚としての人生は詰んでいる。
そもそも私が涼州刺史に任命されたことが誰かの陰謀なのだろうけど、それは今言っても仕方のないことだ。
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第五話.
短い話です。
夜空を見上げれば星がある、星を詠めば未来を識る。
この大陸には無数の人間が暮らしていて、その数だけ夜空には星が浮かんでいた。私には星を詠むことができる、誰がどの星の下に生まれてきたのか正確に読み取ることができた。しかし、それは数多の可能性の一つに過ぎない。訪れるべき未来というものは、確定された未来ともまた違っている。宇宙は無限の可能性に満ちている、此処ではない何処か。あり得たかも知れない未来が幾重にも折り重なっていた。星詠みの力とは、つまり、そういうことだ。この大陸に登場する全ての人物には役割があり、決められた役割を持っている。しかし必ずしも星の定めた運命に従う訳ではない。星とは道標に過ぎない。この世界の登場人物は皆は皆、今を生きるのに必死で、掴み取るべき何かの為に、守り抜くべき何かの為に戦っている。未来とは一つではない、可能性とは常に折り重なっている。世界とは一つだけとは限らない。
星を眺めて、可能性を見る私はきっと観測者とでも呼ぶべき存在だった。
此処は涼州隴西郡。従姉、
奴婢の集落では毎日、個人にとっては三日に一度か二度の間隔で兵としての訓練を積んでいる。指導するは涼州においては侠者として名が知られる二人、李傕と郭汜。星見をしてみると彼女達と私は少なからず縁があった。私にとっての凶星でもあるようだけど、まあ、そこまで強い訳でもない。未来は変えられる、というよりも未来は運命によって定められている訳ではない。未来とは人間の意思によって決定付けられる。そう思えばこそ、二人を受け入れることに抵抗はなかった。
そもそもの話、吉兆とか、凶兆とか、暇潰しに詠んでるだけで占い以上の意味はないと思っている。それもそのはずで御姉様を照らす星は禍々しくも眩い光を放っており、誰もに忌み嫌われる魔王としての運命が示されている為だ。あの虫も殺せないような御姉様が? 魔王だって? ありえない。天地がひっくり返っても御姉様が畏怖の対象になるなんて想像できない。もし仮に、そんな未来があるとすれば、それは自分の為ではなく、誰かの為に自ら泥を被るといった可能性がある程度だ。
空を見上げて星を詠む、それだけだ。この世界をどうにかしたいとは思わない。でも、一生懸命に頑張る誰かを見続けたい、見守りたい。そんな欲はあったりする。
「張掖郡が韓遂率いる賊徒に落とされました。それに合わせて西からは氏族が、南からは黄巾党が涼州に攻め込んでいます」
屋敷のすぐ近くに置いた机で書籍を読み耽っていると奴婢の一人から報告を受ける。
以前、韓遂が忠告をしてきたのは、つまりこういうことだったようだ。御姉様の荘園は他民族に落とされるのは勿論、賊徒に荒らされることも許されない。何故なら韓遂が目指しているのは強い涼州、つまり涼州の要となった御姉様の荘園を失うことはできなかった。
連絡役の奴婢には、そのまま李傕と郭汜への言伝を言い渡す。
「念の為に防衛を固めるように言ってといて」
戦力として涼州軍の味方をするつもりもなければ、韓遂に肩入れをするつもりもない。
御姉様の荘園を守る為に尽くす。
それは役割とか運命に依存しない私の意思で決めたことだ。
次回から馬姉妹がメインで出てきます。
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