なだらかな丘陵は新緑の低草が覆い、その合間を縫うように一本の生け垣と砂利道が伸びている。
青空の下。穏やかな風に吹かれ、幼いラナは父と母に手を引かれ、遠くに見える屋敷と言っても過言ではない立派な自宅を目指して歩いていた。
陽は柔らかく、遠くでコマドリの声が聞こえる。
「ラナ、お母さんから聞いたよ。庭に新しい苗を植えたんだって?」
「そうなの! 沈丁花(チンチョウゲ)の木の苗をね、この前、市場に行ったときにお母さんに買ってもらったの。すごく良い香りがするし、綺麗な花も咲くんだって」
ラナはくるりと振り返り、「ねっ!」と母親に向かって満面の笑みを向け、父親には得意げな表情を浮かべた。
「それは楽しみだな。ラナは将来、花屋さんになりたいのかな」
「うぅん、お花は好きだけど……分かんない。でもね、いつかやってみたいことがあるの」
「おぉ、それは何かな? お父さんとお母さんだけに教えてくれないかな」
「良いよ! でも秘密だからね」
ラナは一度、人差し指を唇の前で立てた後、口を開いた。
「お家のお庭だけじゃなくてね、この場所をぜーんぶ、お花畑にしたいの!」
ぱっと両手を広げ、ラナは言う。
彼女の両親は一度、お互いの顔を見合わせて吹き出した。
「どうして笑うの!?」
「ハハハッ! いや――ごめんごめん。お母さんとお父さんには、あまりにも壮大すぎてなぁ」
父親はむくれているラナの頭に、ポンっと手を置き辺りをぐるりと見回す。
ミノスの片田舎だ。屋敷が点々としているものの、その大部分は草原である。この一帯を花畑にするのに、果たして何万株の花苗が必要になるのだろか。
「……できないのかな」
「いいや。ラナが諦めずに頑張ればきっとできるよ」
肩を落としかけたラナに膝を折って視線を合わせ、父親は言い切った。ラナは顔をパッと輝かせ、生け垣によじ登り、広く、自由で、平和に満ちた世界を一望した。
――あのとき、信じて疑わなかった夢の上に立っているわけではない。
あちこちから昇る黒煙。厚い雲に太陽は隠れ、断続的な爆発音が住人の居なくなり、後輩した街にこだまする。
武器に付着した血糊を乱雑に拭うオペレーターたちのむせかえるような血生臭さに、ラナはそっと目を閉じた。
――それでも、どうしても望んでしまうのだ。
黒と灰色の満ちて寒々しいこの世界で、医療オペレーター『パフューマー』は生きている。
『一陽来復(いちようらいふく)』
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ロドスにおけるラナの立場は色々とせわしない。
基本的にはロドスと業務委託で契約し、医療施設「療養菜園」で患者のケアに当たっている。その一方で、自前の温室と調香工房を行き来してオペレーターたちに調香した香水などを提供し、こちらでも治療のサポートを行っている。
さらにチェルノボーグの戦闘以降は、回復術に長けたアーツ特性から戦場にも駆り出されて医療オペレーターとして活動しているのだから、一体、自分が何者なのかラナも時々分からなくなるほどだった。
――それに、最近はなんだか特殊な人たちと触れることが多くなった気がするわ。
それはきっと、ドクターが率いるオペレーターたちと顔見知りになったからだろう。
ナイトメアは以前から深い付き合いがあるが、それ以外にも現在のロドスの戦力の中心を担うオペレーターたちは、一般オペレーターと比べると最大限配慮して表現するならば“変わり者”が多いのだ。
単に育った環境から生まれる“考え方の違い”で済まされる人もいれば、それこそナイトメアと同じように鉱石病の影響を受けており、治療が必要なレベルまで様々だ。
前者はともかく、後者を見過ごすような性格はしていない。
だからこそ、ラナは過酷な戦場から帰還した後も、シャワーを浴びただけで休憩らしい休憩もとらずに作業着に着替え、温室に向かうのだった。
自前の温室は、療養菜園の東端にある。屋根は丈夫なガラス製で、東向きなので午前中は日光が降り注ぐので冬場でも比較的温かい。
ただ、日が沈むと急激に気温が下がるため、数百にも及ぶ植物を育てるためには夕方以降は暖房を炊き、温室中に張り巡らされているパイプに暖気を送らなければならなかった。
温室のドアを開けると、無機質で色彩が乏しいロドスの世界が一変する。
慣れない人であれば咳き込んでしまうほどの花の香り。
階段状に組まれた花壇の上には、色とりどりの花が咲き誇っている。その合間を縫うように流れる水のちょろちょろという音だけが、温室の中を静かに響いている。
室内はすでに暖かい。
常にタイマーを設定しているので、ラナがいなくても起動はできる。
ただ、これからすべての植物の世話をするのはなかなかの重労働である。
「誰か、手伝ってくれる人を探さないといけないかしら」
独り言をこぼしながら、ラナは一鉢ずつ植物を観察しながら温室の奥に進んでいく。
そして温室の中心あたりでパタリと足を止めた。
――誰かがいる。
一瞬、ラナの表情は警戒色が濃くなったが、スンと匂いを嗅ぐと「あぁ」と呟いて表情が崩れる。
微かに香るのは、印刷したての紙とインクの匂いだ。
モノクロで、華やかさとはほど遠いが、妙に落ち着くその匂いの持ち主をラナは知っていた。
「こんな夜更けになんのようなの、ドクター?」
温室の真ん中にある白のテーブルと椅子に腰掛け、ガラスの向こうの白い月を見上げている男はラナに顔を向け「やぁ」と手を挙げる。
「どうにも、ラベンターの香りがないと寝付けそうになくてね。悪いが調合してもらえないだろうか。あと悪いけど、ラベンダーティーももらえるとありがたいんだが・・・・・・」
「困った人ね、うちはカフェじゃないだけど」
「頼むよ。お礼に水やり手伝うからさ」
わざとらしく手をあわせるドクターに、ラナは大げさに肩をすくめてみせる。
「まがりなりにもロドスの重鎮をこき使ったことが知れたら、私、クビになるかも」
「はは、君をクビにできる人なんてこの船にはいないだろう」
軽口を言い合いながら、ラナはテーブルの側にある暖炉の模したパワーヒーターのスイッチを入れる。植物の育成用の大型暖房機とは違い、温室の訪問者を迎え入れるための半ばアンティークのような代物だ。
温室を作った頃にはなかったのだが、最近、ここを訪れる人が増えたために導入した。
鉄製の暖炉の上に、綺麗な水が入ったケトルを置き、ラナはドクターの正面に腰掛ける。
「悪いね」
「ここに来るときは一声かけてねって言ってるでしょう?」
「すまない。今日見たく晴れた日は、昼も夜もここに来たくなるんだよ」
この温室は基本的にはラナがいるとき以外は開放していない。ただ、ロドスのなかには数人だけ自由に出入りできる者がいる。ドクターはそのなかでもかなり頻繁に顔を覗かせるタイプだ。
「始めは、私が無理矢理引っ張ってきていたのに」
「ははっ。君のおかげで変わることができたよ」
あれはチェルノボーグの戦いの直後だった。ラナは直接、チェルノボーグに乗り込みはしなかったが、医療オペレーターとして、傷ついた人たちの治療に当たっていた。
その人混みのなかに、ドクターは立っていた。見つけられたのは彼がフードを深く被っていたからでも、周りに仰々しい護衛を引き連れていたわけでもない。
――ドロドロとした怨嗟が溢れる腐った血の臭いだった。
周囲の人たちの方がよっぽど大けがをしているにも関わらず、その場で最も危険で気味が悪い臭いに一瞬、気が飛びそうなったことを覚えている。
――このままにはしておけない。
当時、ラナはドクターのことを何一つ知らなかったが、放置していれ“アレ”はきっとその人を食い殺すだろう。
自然を愛するラナだからこそ、その直感に従った。
ラナにしては珍しく強引に療養庭園とこの温室に引きずり込み、パフュームによる治療を始めたのだ。
今ではずいぶん、ドクターから香る匂いは変わったが、今度はこうしてふらっと温室に顔を出すようになってしまった。
「あ、そうだ。ドクターくん、明日、午後からあなたの執務室に行ってもいいかしら? 渡したいものがあるの」
「ああ、いいけど。ここじゃダメなのかい?」
「調香剤なんだけど。まだ完成していなくて」
「私の?」
「いいえ、ドクターくんのは今日中に渡すわ。別のオペレーターのもの。私からじゃ多分、彼女は受け取ってくれないだろうから」
「……イフリータか」
ええ。とラナは言って立ち上がり、白い湯気を噴き出すケトルを手に取る。
「サイレンスから頼まれているのかい?」
「いいえ。今日の彼女の戦いぶりを見ていて、ちょっと感じるところがあったから。彼女、ドクターくんの生徒なんでしょ」
「そうだが、使ってくれる確証はないぞ。調香するなら返事をもらってからの方がいいんじゃないか?」
「大丈夫よ。砂虫の足まで食べさせた誰かさんなら、きっと上手いこと言ってくれるわ」
「……分かった。善処する」
ラベンダーティーが入ったマグカップをドクターに差し出し、ラナはふふっと笑う。
「ごめんなさい。ティーカップ、ちょうど洗っていたから」
「いやいや。気にしないでくれ。こちらこそ、いただきます」
一口すすり、ドクターは深い息を吐く。
「落ち着くな」
「力になれてよかったわ」
「……それはそうと、パフューマーの調子はいかがかな」
「それが今日の本当の目的?」
「いや、ただの世間話さ」
ふらふらとつかみ所がないし、自分の腹の内を見せないドクターだが行動は意外と直線的だ。
それに怖いほど人を見ている。
きっと、今日の戦闘でラナに何かの違和感を感じたのだろう。
ラナは薄らと笑みを浮かべ、ドクターの前に再び腰掛けた。
◆
「最近、君を引っ張り回しすぎだと度々、ドーベルマンから指摘を受けていてね。確かに日に日に戦場に出る機会が増えている」
「あら、やっと気付いてくれたね」
「まあな……君はとてもタフだが、これ以上、調合の研究に戦場での治療、療養庭園の仕事、温室の世話、手広くしすぎると良くないと私も思う。だから、さすがの私も見直さなければならないと思っている」
ドクターは嘘をつかない。
だが、こちらを迷わせる言葉を頻繁に使うのは困りものだった。
「おっしゃる通り、私は戦闘オペレーターじゃないのだから。本来は船の中で仕事をすべきだと思う」
“パフューマー”としてのラナは、正直、自分が掲げる理想とはほど遠い。
回復役として味方を治療していると言えば、聞こえは良いが、結局は人殺しの手助けをしているだけである。
ロドスの戦闘オペレーターは容赦ない。残虐な行為は一切行わないものの、明確な敵意を向けてくる者の殺害による排除は有力な選択肢の候補だ。
そしてそれはドクターも同じで、むしろオペレーターたちはドクターの影響を受けているのではないかと思うほどだ。
「……昔、私はこの世のすべてを色とりどりできると思っていたわ。けれどそれから十年以上経った現実は、せいぜい、小さな温室を作る程度」
ラナは自分のマグカップの側面を親指で撫でながら、ぽつりと零す。
「這いつくばって頑張ってきたつもりだけど、このままだと先は見えてるわよね」
冷水と土いじりで、ラナの手のひらはぼろぼろ。さらに指先は、何千回という調合作業でなんとも言えない色に染まっている。
「……でもね、ドクター。私って結構、頑固なの。一度、夢を見たら簡単には忘れられない。だからね、寄り道している場合じゃない」
ラナは、まっすぐドクターを見つめる。
この言葉をドクターがどう受け取ったのか。少し気になったが、ラナは続ける。
「そして、私が戦場に出ることは“寄り道”なんかじゃないの。ドクターと一緒に船の外に出て、私は初めて崩壊した街や命の奪い合い、草木が生えない荒野も見て、触れられた。それに治療すべき人たちも見つけられたの」
あの日の穏やかな光景だけでは固まらなかった強い意志が、ラナにはあった。
「だから心配はいらないわ。野蛮な戦闘は苦手だけど、ドクターがいればきっと上手くやれる。そうでしょ?」
「……そうだな」
短く言って、ドクターは大げさに肩をすぼめた。
「全く、パフューマーには助けられてばかりだな」
「ふふっ、そうかもね」
「否定してくれないんだな……。あと、君の安全は必ず守るよ。君のファンはとても多いから、何かがあったら、私はここで暮らしていけなくなる」
ドクターは笑う。そしてごそごそと、懐からA4の用紙が数枚入った透明なファイルを取り出した。
「あと、これは私からの提案なんだが。一人でできないことも、二人なら簡単になると思わないか?」
手渡されたファイルを見ると、中には数枚の顔写真付きのプロファイルがあった。
「……これは」
「君の弟子候補だ。温室の管理ほか君の作業をサポートしてくる。どの人も調香に強い興味を抱いているから、出来たらそこも教えてやってほしい」
「ドクター、ありが――」
珍しく瞳をキラキラとさせて、表情を露わにしたラナのお礼をドクターに拒まれた。
「君に倒れられたら、ケルシーに殺されるからね。これは自己保身。あと、君をこき使うためのお代だ。お礼はいらない」
変なこだわりを持つドクターは「よしっ!」と言って立ち上がり、背伸びする。
「さぁ、そろそろ作業を始めないか。私はどこからやればいい?」
「あら、本当に手伝ってくれるの?」
「もちろん。長靴も履いているし、ゴム手袋も持参しているからなんでもやれる」
得意げにポケットから手袋を出すドクターに、少し吹き出しそうになるが、ラナはなんとか平静を保ったまま立ち上がる。
そして、明るくてらす月を少しの間だけ見上げる。
記憶の片隅に残るあの穏やかな光景は、未だに脳裏に焼き付いている。
だが、今、まぶたの裏に焼き付いているのは、凄惨な現実と苦悩する罹病者の姿。あの日を春とするならば、きっと現在は冬だろう。
今がピークなのか、それともまだ初冬なのかは分からない。
――それでもいつか冬は終わる。
そう感じさせてくれる人がそこにいる。だから、ラナはあの日見た理想を望まずにはいられないのだ。
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一陽来復(いちようらいふく)
――冬が終わり、幸運に向かうこと。
ラナ姉さん昇進2記念。大量のコールを要求されて若干引きましたが、1つたりとも漏らさずに上納しました。
あとネット小説は段落下げと段落そのまま、どちらが読みやすいのでしょうか。今回は試しに下げてみたので、参考までにどちらが読みやすいか教えていただけますとうれしいです。
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