黒神の聖女〜言葉の紡げない世界で〜 (きつね雨)
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本編
1.黒神のヤト


言葉を理解出来ず、話すことも出来ない……見知らぬ異世界に飛ばされ苦悩する主人公(TS少女)の物語です。


 

「そうだな……まずは服を脱げ、全部だ。  土下座して詫びを入れれば水に流せるかもな」

 

 さっき歩いていた街道からほんの少しだけ薄暗い路地に入れば、もう人の姿はない。 お情け程度の街灯も点滅を繰り返している。 ましてや今は深夜11時頃だろう、それも当たり前か。

 

 そんな事を思いながら、周りを見回して目の前のクズに視線をむけた。

 

 只でさえ下品な顔を更に醜く歪め藤堂は俺にそう言った。 藤堂の後ろに1人、こいつはやりそうだ。  後ろをチラリと見れば積まれた段ボールに肘を預けニヤついてるチビがいる。 全員が髪を金髪に染めニキビが汚いツラだ。 それに何処かシンナー臭い。

 

 思わず内心溜息をつく。 めんどくせぇ。

 

 先ずは着古したジャンバーを脱ぎ、直ぐ横のゴミ箱の上に置く。

 

 俺が言われた通りにするのを見て藤堂達は益々ニヤつき始めた。  スマホを取り出したのは撮影でもするつもりだろう。

 

 つぎに尻から抜いた硬い皮の財布をジャンバーの上に置く。 何枚かの硬貨は別にしてある……まぁ場合によっては使うかもしれないが、まず大丈夫だろう。  コイツら油断し過ぎだ。

 

 藤堂はカメラアプリをこれ見よがしに開き、残りのクズ2人に見せようとしていた。

 

 馬鹿が……

 

 奴の目線が後ろの奴に向いた瞬間、ジャンバーごと藤堂の汚い顔面に投げ付ければ……慌てた様子だが遅い! シンプルに前蹴りで金的を蹴る。 グジャッっとした感触も気にせず、崩れ落ち低くなった顎に膝蹴りを喰らわせた。 呻き声を上げ倒れるのを視界の片隅に入れて、直ぐに振り向く。

 

 先ず1人……

 

 後ろのチビに掴み取った財布を投げ付ければ、奴は思わず両手を上げて財布から顔を隠す。 チビに一気に近づきその横腹をぶん殴った。 ふん、両手でかわす奴があるか、馬鹿め。

 

 って、うわっ吐きやがった……汚ねえ……

 

「テメエ!!」

 

 ここでやっと藤堂の後ろにいた奴が近づいて来る。 だが 1人なら負けねーよ……俺は無言で最後の1人に振り向いて唾を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

「うぅ……」

「痛えよぉ 痛え……」

 

 蹲り倒れた三人を上から眺め煙草に火を付ける。 一発二発喰らったが、まあ三人相手に上出来だ。 ちなみに三人目は意識がない、まあ死んではないだろう。

 

 しゃがみ込み蹲る藤堂に話しかける。

 

「まだ何か用があるか?」

 

 膝を立たせながら顔を見たが、これは酷い。

 

 前に中学生くらいの餓鬼に金をせびっていた偉そうなツラとは大違いだ。 あの時は背後から跳び蹴りを喰らわせたからよく見えなかったが。 ついでに全裸にして、脱がした服は用水路に捨てたっけか?  あぁ……だからさっき俺にも同じ事をやろうとしたのか、本当に馬鹿な奴だ。

 

「痛えよぉ……病院に……」

 

 股間を押さえながら藤堂は青白い顔で俺を見た。 当然無視だ。

 

「次にお前のツラを見たらぶん殴る。 もし俺を見掛けても視界に入るな。 その辺のトイレでも入って時間が過ぎるのを待ってろ、わかったか?」

 

 奴は震えながら横倒しになる。 痛みに耐えられないのだろう。

 

「返事は?」

 

 煙草の火をやつの顔面に近づけて静かに聞く。藤堂は必死な顔で何度もうなづいた。

 

 火の消えた煙草を捨て、もう一本吸おうとポケットを探る。 だが最後の1本だったようだ、ついてない。 仕方ないので意識のない三人目の懐を漁ったら一箱出て来た。

 

「なんだ、メンソールかよ」

 

 我ながら勝手な事を呟き煙草を放り投げる。

 

 近くからまだ2人の呻き声が聞こえてくる。 救急車くらい匿名で呼んでやるか? 三人掛りで1人にボコられたなんて、恥ずかしくて言えないだろうし、転びましたとか適当に喋るだろ。

 

「寒いな」

 

 体を動かした分暖かかったが、今は真夜中で路地裏に吹く風は肌に刺さるようだ。 冬が近いからか空気も乾燥している。 直ぐに冷えてしまうだろう。

 

 遠くに見えるネオンの明かりを見ながら二度目の溜息をつき、地面に落ちたジャンバーを手に取る。

 

 

 ジャンバーと財布を拾い路地裏から出ようとした時だった。

 

 通りからもう1人こっちに真っ直ぐ歩いてくる。 さっきの奴らと違い、如何にもインテリな感じの背の高い男だ。 何より顔面の出来もレベルが違う。 180cmある俺よりデカイかもしれないな……薄っすらと笑ってやがる。

 

 嫌な予感だ。

 

 何気ない様に観察する。 見た限り殴り慣れた拳じゃない、むしろ綺麗過ぎるくらいだ。  チノパンにシャツ、ジャケット……まぁ普通だ。

 

 改めて顔を見て違和感の理由がわかった。黒髪、黒目でアジア人らしくしてるが、間違いなくアングロサクソン系だ。 無理矢理に目や髪を黒くしたらこうなるのだろう。 気色悪いことに、ずっと薄く笑っている。

 

「後ろの3馬鹿の連れか?」

 

 珍しく自分から話しかけてしまった。 何処か焦ってる。 落ち着け……

 

「ん? ああ、そうですよ。 友達です」

 

 綺麗な発音だ。しかし嘘くせえな、なんだよ友達って。

 

「なら早いところ連れてけ」

 

「こんな時友達なら、仇討するんじゃないですか? なので私は貴方とお話しをしないといけないです」

 

 あぁ……間違いなくヤバイ奴だ。  肝の座り方が違うし、暴力に慣れた独特の雰囲気を隠しもしない。

 

 逃走ルートをいくつか思い浮かべる。 最悪は逃げの一手しかない。

 

「残念だが、逃がさんよ」

 

 野郎……口調まで変わりやがった。

 

 まるで心を読んだようなセリフに腹を決める。 なんとか隙を見て逃げるか……隙が無いなら作ればいい。

 

 背後の3馬鹿を見て左手で指差しながら、話しかける。

 

「こいつらの友達だって?」

 

 話しながらデニムパンツのもう一方の手を右ポケットに入れ、硬貨を何枚か強く握り締める。

 

「ん?そうなるかな?  ははは」

 

 インテリ顔が3馬鹿に目線がいった瞬間、一気に踏み込んで手加減なしで顔面を狙う。 はんっ、スカした顔もそこまでだ!

 

 ゴッ!

 

 振り抜いた拳がヤツの右頬に当たり、顔面が僅かに撓むのすら見えた。 間違いなく当たった……感触だって……

 

 だがまるで殴られた事が無かった様に、一歩も動かずその場に立ち、不気味に微笑んでやがる。

 

 痛みすら感じてないのか? 幾ら頑丈だとしても、そんな事があり得る訳が無いのに。

 

 あぁ……コレはマジでヤバイ……

 

「クソがっ」

 

 今度は思わず唇から声が溢れた。 その呟きも深夜の薄汚れた路地に消えていった。

 

 バイトの早帰りなんてするんじゃなかった、そんな事を今更思っても遅いだろうが……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れっしたー。 すいません、お先です」

 

 客足も途絶えたので早めに上がって良いと言う先輩の有難い言葉に甘え、昨日からバイトを始めた居酒屋から出ようと戸に手を伸ばした。

 

 そんな時店長から声を掛けられた。 厳つい顔してるのに何処か気弱な話し方をするんだよな、この人。

 

「えっと……木崎くん? ちょっといいかな? 本店に出す書類なんだけど、下の名前ってこの字で〝カズキ〝でよかったよね?」

 

 書類には住所や氏名、年齢、緊急連絡先などを記入するみたいだ。 履歴書に書いてあるだろ?って思ったとき店長から解答があった。

 

「ごめんね。 履歴書を先に送ってしまって、内容を控えてれば良かったんだけど」

 

「合ってます。 平和の和に希望の希でカズキ。 店長……読み仮名はキサキじゃなくてコノサキです、漢字は合ってますけど。 年齢は20、住所は……」

 

「あれっ? ほんとだ。 ゴメンね……コノサキっと。 あと緊急連絡先なんだけど、ご両親のどちらかでもいいから書いて貰えるかな?」

 

「……親はいません。 自分1人です」

 

 店長はマズイこと聞いたって顔で黙ってしまった。 顔に出過ぎだろう。

 

「 えーっと……上手いこと書いておくね。 じゃあまた明日、お疲れ様でした」

 

 そう言って厨房の奥に店長は消えていった。思わず苦笑して店先から出る。 直ぐに吐く息が白くなるのが見えて、冬が近いのを感じた。そんな事を思い、ジャンバーの襟を立てる。

 

 さっきのバイト先で賄いを食べたから、腹は減ってない。

 

 今日はそのまま帰るか……

 

 今時珍しい6畳一間の和室と小さな台所しかない古びたアパートだが、それでも我が家だ。 昔に比べれば天国の、いや異世界みたいなもんだ。

 

 

 そんな事を考えた僅か数分後に3馬鹿に絡まれ、定番の路地裏行き。 それが終わったと思ったら、こんなヤバイ奴に会うなんて……本当についてない。

 

 

 

 

 

 

 

「ぐっ……うぐっ」

 

 腹が焼ける様に痛む。 吐き気をなんとか抑えながら、憎たらしいインテリ顔を睨みつけた……つもりだ。

 

 もう立てない。

 

 両目の瞼も膨れ上がり視界も悪いし、意識も朦朧としてきた。

 

 なんなんだコイツは?  幾ら殴りつけても、膝の関節を蹴り上げても全く堪えてない。 いや、痛みも恐怖も感じてないのか?

 

 相変わらずの薄笑いを浮かべながら話しかけてきた。

 

「ほう……()()()()()()()()()()()。常人では考えられない速度だ。 痛みにも僅かながら耐性があるみたいだな」

 

「な、何を……」

 

 …‥ぞっとした。 いや間違いなく体が震えたと思う。

 

 今では誰も知らないはずの秘密を何故この男が……?

 

 呆然とした俺に更に感情を感じさせない口調で蕩々と話し掛けてくる。 どこか俺を見ていない、その気色の悪い目で。

 

「やはり君にするよ、木崎和希くん。 親もいない、親類縁者もいない天涯孤独の身。 7歳から預けられた孤児院でも院長夫妻に体罰を受け続け、中学を卒業するや脱走。 年齢を誤魔化しバイトを続け生きてきた。 暴力を愛し、喧嘩に明け暮れる日々……」

 

 コイツ……

 

「へぇまだ本当は17歳なんだね。 確かに見えないね、ふふっ。 君は人からの愛情を信じられないし、大人なんて全員が敵。 院長夫妻には必ず復讐すると固く誓っている。 出来るなら今すぐにでも怒鳴り散らして手当たり次第に暴れたい。でも違う、 自分の心の中なんて本当はわかってる」

 

 言うな……言わないでくれ………

 

「もっと……もっと優しくされたい、愛されたい、誰かに抱きしめられてもう大丈夫だと言って欲しい。 そして、そんな事を思う弱い自分が世界で一番嫌い」

 

「や、やめろ……」

 

 もう震えは止まらない。 何なんだコイツは……?

 

 目の前の男はきっと人間じゃない……何故か分かる、分かってしまう。

 

「君は7歳の時自分は普通じゃない事に気付いた。  他人と比べて明らかに怪我の治りが早いとね。 だけど、母親に見せたのは失敗だったね。君の親はそれを許容出来る人間じゃなかった。 "悪魔の子"だっけ? カルトは怖いね。 それから僅か一年で孤児院入り。 最も信頼出来るはずの大人に捨てられた君に更に追い打ちがかかる。 うわ……焼けた鉄串を腕に?  院長も酷い事をするねぇ。 同じ事をされた他の子はいつまでも火傷のあとが残っていたのに、君はわずか数日で綺麗に完治」

 

「ますます体罰は酷くなっていく、だって証拠が残らないからね。 でも ……でも君すごいね、本当に関心するよ。 それでもまだ慈愛の心が折れずに残っている。 女子供や弱者には手を出さない、むしろそれをするクズには率先して罰を与えている」

 

 君より不幸な人間は沢山いるけど、癒しの力、慈愛の刻印がここまでハッキリと見えるなんて……そう言うと、もう一度俺を見て笑った。

 

 腫れた目でもコイツが笑ってるのが見えたんだ。

 

 刻印? 何を言ってやがる。 いや、まるで俺の人生のアルバムを見るように誰も知らない筈の事や力まで……

 

 一体何者なんだ……?

 

「僕の名はヤト、黒神のヤト。 此処じゃない何処かの世界の神々の1人で……もう僕しか残っていない残り滓のような神の一柱さ。 沢山いた白神達も消えた。 優しさや癒しを司る神々は失われ、あの世界は滅びに瀕している。 僕は憎悪や悲哀、そして痛みを司る神だから今が一番力があるかもね」

 

 初めて奴は、いやヤトは人らしい悲しい表情を見せる。

 

「でも……それでも僕はあの世界と人々を愛している……皆を助けたい。 もう時間がないんだ……」

 

 そうしてヤトは俺の目を真っ直ぐに見た。

 

「だから……すまない」

 

 そう呟いてこちらに人差し指を向ける。

 

 

「あ、あああぁーーー!!」

 

 

 痛み……なのか、体中が熱い。 逃げ出したいのに体は言う事をきかない……!

 

「ぐっ、うあ……」

 

 情けない声を出してるのは自分でもわかる。 でも止められない……

 

 ヤトはブツブツと呟きながら、俺の体の表面に指を這わし始めた。 右胸、左肩、腹、太もも……他にも、身体のあちこちに指を這わせては戻す。 痛みで意識を失いたいのにヤトの姿だけは鮮明に見える。

 

 

 癒しの力 <2階位>

 

 慈愛 <1階位>

 

 憎しみの連鎖 <1階位>

 

 自己欺瞞 <2階位>

 

 

「うーん……これでも2階位が限界か。 人としてはそれでも望むべくもない力だけど……でもそれじゃあとても足りない。 でも魂魄の容量は増やせない以上、負へ転じさせて相殺する。 やはりもっと強い呪縛、呪いを……」

 

 意味不明な事を……聞きたくもないのに、その声だけ何故かハッキリと聞こえた。 より強い痛みと全身に虫が這うような異物感。

 

 脛、尻、喉、そしてまた戻す。

 

 

 自己犠牲[贄の宴] <3階位>

 

 利他行動 <2階位>

 

 言語不覚[紡げず、解せず] <3階位>

 

 

 

「まだ足りないか……」

 

 しつこく指を這わせてくる。 くそっ、なにをしてやがる……! 自分の身体なのに分からないなんて……

 

 

 慈愛[狂] <3階位>

 

 

 じぃっと俺の右胸あたりを見ている。

 

「これで……」

 

 ヤトの声だけが聞こえてくる。

 

 ダメだ、やめてくれ!!

 

 今まで指先で触れた箇所から熱だけを感じる。 最後なのか右胸に再び指を翳した。

 

「熱いっ! 熱っ! うあぁーーーっ!」

 

 

 

 癒しの力[()()] <5階位>封印管理

 

 

 

 フーッ フーッ……ヤトは大きく二回息を吐いた。 もう殆ど何も見えない、でもヤトの声は変わらずハッキリと聞こえる。

 

「和希くん、恨んでくれて構わない。 でも申し訳ないけど……黒神としての権能、力はもう殆ど残っていないんだ。 僕は眠りにつく……だから恨む相手もいなくなってしまうね。 本当にすまないと思ってる……どうかあの世界を救って欲しい。 勝手だけれど、これは君の救いの道にも繋がっているかも知れない、そう信じているよ……」

 

「あちらに着いたら刻印は力を持つ。癒し、慈愛は間違いなく君の持つ力だ。 自分ではどんな刻印があるか解らないだろうけど、その二つだけは、決して裏切らないからね」

 

 ヤトは俺に言い聞かせるように、言葉を紡いだ。

 

「じゃあ、最後の力であちらに送るよ。 黒神の、いや白神の祝福よ、此処にあれ……」

 

 薄れる意識の中、ヤトは俺に微笑み空間に溶けていく。

 

 そうして、目の前から光が消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか路地裏から人の姿は消えていた。

 

 地面に丸まって打ち捨てられた古ぼけたジャンバーと、散らばった硬貨だけが和希がここにいた事を知っているのだろう。

 

 

 

 

 此処じゃないどこか。

 

 遠い遠い別の世界。

 

  いつの頃からか、異形の魔獣が跋扈し無差別に人を殺し始めた。

 

 何匹打ち倒しても、魔獣の数は減らない。

 

 其処は、絶望と呼ばれる血の色で世界を染めている。

 

 僅かに残った人々は小さな国に寄り集まって死の恐怖に抗っていた。 滅びの足音を聞きながら、それでも人は諦めない。

 

 何故なら希望があるはずだから……

 

 神々が再び降臨し、自分達を救ってくれると……白神達は人を見捨てないと信じて。

 

 人々から忘れられた黒神の一柱、最後の神ヤトの加護と呪いを受けた「黒神の聖女」の降臨はもうすぐ……

 

 まだ世界は知らない。

 

 まだ人々は知らない。

 

 絶望も希望も、憎悪や悲哀も、痛みすら、いやその命さえも全てを捧げるひとりの少女が其処に在ることを。

 

 これは……

 

 強大な癒しの力をその身に宿しながらも……言葉を紡げない、言葉を解せない、1人の少女の物語。

 

 

 




どんどん投稿していきたいと思います。よろしくお願いします。


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2.魔獣と癒しの力

1話からお気に入りに入れて下さった方、ありがとうございます。


 

 

 

 

 この世界には魔獣と呼ばれる異形がいる。

 

 歪な犬のような造形は、見る者に不快感をもたらす。 その魔獣と呼ばれる異形が現れたのは、約300年前とされる。 突如として現れた彼らは、ただただ無差別に人を襲う。 当初は狼ほどの体躯で、実際よく狼に間違われる事が多かった。 森にいる他の生き物には目もくれず、人だけを狙うのだ。 その理由も生態も謎で、今も殆どの事が分かっていない。 普段は森の中に居るらしく、街道や街には近づいて来ない。

 

 当初は採集のために森に入った者や猟師が襲われる事はあっても街にいる人々はどこか他人事だったし、森に近い村ですら最初は何かの獣にやられたと思っていた。

 

 大国のリンディア王国も含め各国がそれぞれで対応し、誰もがその内に解決するだろうと楽観視していたのだ。

 

 だが少しずつ危険が周知されてくると、今まで伐採採集し管理して来た森が違う姿になっていった。

 

 

 

 森の近くの畑や放牧地が放棄され、森の一部になっていく。

 

 小さな村は人がいなくなり森に呑まれた。

 

 王都から離れた小さな町も同様だ。

 

 森の中を通っていた街道は徐々に失われていき、貿易にも影響が出た頃には遅かったのだ。

 

 

 

 森が広がると言うことは、魔獣の生息域が広がることと同義だ。 そう、これは魔獣達の侵略なのだ。

 

 この間、僅か100年足らず。

 

 ここに至り漸く国家間の種々の蟠りを捨てて話し合いが持たれたが、森に隣接していた小国「カズホート王国」が森に呑まれた頃にはもう全てが始まってしまっていた。

 

 現在ではリンディア王国は森に囲まれ、分断された他国との情報のやり取りはほとんどない。 幸運にも森を抜けて来た者が以前は幾人かいたが、もう過去の事だ。

 

 肥沃な大地を領地に抱える大国のリンディアでさえ()()なのだ。 もはやどの国も自国を守る事を考えるのが精一杯だった。

 

 魔獣は森から遠く離れた場所に現れる事はないため、まだ王都に直接の影響はない。 だが滅びへと一歩一歩近づいている事を誰もが感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディア王国の騎士団、副団長ケーヒルは、剣を強く握りしめ四足を踏みしめてこちらに近づいて来る魔獣二匹を睨みつけていた。

 

 焦燥感が身を蝕んでくる。

 

 勝てなくはないが、この人数では犠牲者が出るかもしれない。 何より今日はリンディア王国の王子であり、騎士団長でもあるアスト殿下もいる……ケーヒルは焦燥感に抗っていた。

 

 王国にじわじわと迫る黒の森周辺部の調査に向かう道中での事だ。 王国から遠く離れたとは言え、ここは街道にほど近い丘の中腹。 こんな場所に魔獣が二匹も出るとは、完全な想定外だった。

 

 ケーヒルには、四足歩行でありながら間違いなく自分より大きな魔獣が見えた。 もし立ち上がったらどれだけの大きさだろうか?  きっと首が痛くなるほど見上げないといけないだろう。 そんな下らない事を考えながら、魔獣の状態を確認していく。

 

 異常に発達した前足と胸筋、後ろ足は前足と比べると短いがやはり硬い筋肉に覆われている。 尾はなく無毛の赤褐色の肌の所為で、そんな事までわかってしまう。

 

 長い牙から大量の涎を垂らす顔面には、遠くからでも分かるギラついた赤い目が光っている。 今まで相対して来た魔獣の中では中型というところか。 なんの希望にもならないが……

 

「白神よ、どうか恩恵を我らに……」

 

 空を眺め目を細めて祈りを捧げる。

 

 

 

 魔獣が現れるより前は白神の加護は身近なものだった。

 

 刻印と呼ばれる神代文字を身体に刻まれた者達は、時に力が増し偉大な戦士となり、火の刻印持ちは鍛冶や料理に活かす。 珍しい癒しの刻印なら治癒師となって皆の健康を守ったり、或いはお産婆になる。 託宣者など人々に白神の加護を説く者には、慈愛、信念、涙する者など心の在りように影響する刻印もあった。

 

 ただ、今や刻印を見る事は非常に少なくなった。 自分に刻印があれば……そう考えなくはない。

 

 だが戦う事は出来る。

 

 身体に刻印は刻まれていなくとも、必ず魔獣を屠りアスト殿下をお守りする。 そうケーヒルは誓い、馬に括り付けていた鞘から剣を引き抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿下!お下がり下さい!」

 

 リンディアの王、カーディルから賜われた剣を鞘から抜き、魔獣に立ち向かおうとするアストにケーヒルは声をかけた。

 

「ケーヒル、馬鹿を言うな。 小隊規模の我々に呑気に眺めている余裕はない。 お前は右の奴を頼む、私たちは左をやる」

 

「しかし!」

 

 何とか止めようとするが、アストは既に走り出していた。

 

「ジョシュ! 行くぞ!」

 

「はっ!」

 

 側付の騎士ジョシュもアストに続く。

 

 アスト達は部隊を15人ずつに分け迎撃態勢をとった。

 

 

 

 

 

「よし! いいぞっ 焦らなくていい。 少しずつだ!」

 

 剣を振りながら、皆に伝える。 最初の接敵で奴の片目を潰せたのは大きい。 誰の矢が当たったのか分からないが、これならやれる!

 

 魔獣は低い唸り声を上げながら、上半身を少し上げて両手を振り回している。 あの爪は厄介だが、剣が折れる程ではない。 死角に回り込み硬い皮膚に少しずつキズを付けていく。

 思い切り振り抜けばもっと深く入るかもしれないが、その分隙も大きいだろう。 アストは焦る事はないと距離を取るよう指示を出し、振り向かずに声を上げ後ろに合図を送った。

 

「ジョシュ! 弓だ!」

 

 返事はないが後方で隊形を組んだジョシュ達から即座に矢が放たれ数本が魔獣に突き立つ。 そうして聞こえた耳障りな奴の悲鳴も、今なら心地良い。

 

 幾度かの同様の攻撃でついに魔獣は大きな音を立てて地面に崩れ落ちた。周りの皆も剣を高く上げ雄叫びを上げている。

 

「殿下! やりましたな!」

 

 普段は寡黙なジョシュも流石に興奮したのか、弓を背中に回し、こちらに歩いて来ていた。 ケーヒル達はどうなったと気になったアストはジョシュの姿を視界に捉えつつ、その向こう側に目を凝らす。

 

 どうやら援護は必要なさそうだ。  ケーヒルが魔獣の頭に剣を叩きつけるのが見えた。

 

 思わず肩の力が抜けてアスト自身の剣も下ろした。 重傷者もいないようだ……小隊で二匹の魔獣相手に損害なしとは上出来だ。 まだ本来の任務である森周辺部の調査があるが、場所を移して休息を入れよう……ジョシュも足を止めてケーヒル達を見ているが、この後の段取りを決めて指示を伝えようとしたその時だった。

 

「アスト様!」

 

 アストの背後から悲鳴のような声がかかる。 慌てて振り向くと魔獣が血だらけの半身を起こし、既に持ち上げた右腕を振り下ろそうとしていた。

 

「くっ!」

 

 剣で防ごうとしたが、一度弛緩した精神と腕は思うように動かない。ましてや魔獣の最後の一撃を剣一本で防ぐこと自体が間違いなのだ。

 

 その時、直ぐ横でひしゃげた鎧を外していた騎士が、鎧を放り投げてアストの前に躍り出た。

 

「アスト様、躱し……」

 

 不思議な事に殆ど音はしなかった。 ただ、肉体が本来有り得ない数に分かれてしまう。

 

 自らを盾としたその騎士の身体は奴の爪であっさりと切り裂かれた。 上半身は形を留めていない。血が吹き出し倒れた身体を魔獣は踏みつけながらアストに一歩近づく。

 

「よ、よくも!!」

 

 魔獣の足の下に隠れた騎士を見た瞬間アストは怒りに震えた。 剣を奴の顔面目掛けて力一杯振り抜こうとしたのだ。

 

「殿下! なりません!」

 

 ジョシュはあと数歩のところまで来て、右手を伸ばし叫ぶ。

 

 そして……アストは肩から熱を感じた。

 

 私の剣はどこだ?

 

 見ると振り下ろした魔獣の左腕のすぐ下に落ちている。良かった、折れていない……

 

 振り下ろした?

 

 あぁ……感じていた熱は肩だけじゃない、右肩から腹にかけて広がっていき下半身から力が抜けていく。魔獣は最後の力を振り絞ったのか、その場に倒れ落ちた。口の中に生暖かい液体が溢れてくる。思わず吐き出したそれは赤い赤い色をしていた。

 

「アスト殿下をお助けしろ!!」

 

 副団長のケーヒルは、その巨大な体躯に合った戦場に通る声を張り上げた。 しかしそれは悲鳴でもあった。あれは……致命傷だ……ケーヒルの数多の経験が知りたくない事実を伝えてくる。

 

 アストは魔獣の爪に右肩口から腹に向けて切り裂かれていた。

 

「ごっ、ごはっ……」

 

 吐血し前のめりにその場に倒れる。 泥と血に濡れた地面は、その衝撃を和らげたが、何の慰めにもならないだろう。

 

 アストに傷を負わせた魔獣は後ろから騎士達に剣を突き立てられもう動いていない。 ケーヒルの目の前にいるもう一匹の魔獣も、今事切れたようだ。 魔獣に刺さっていたケーヒルの大剣は地面に落ちたが、そんな事はどうでもいいのだろう。

 

「殿下!!」

 

 必死の形相でアストの元に駆け寄った。 アストは若い騎士に抱き起こされ上半身を支えられていたからだ。

 

 しかし、投げ出された足は動いていない。

 

「馬車から治療箱を急いで持ってくるんだ! 早くしろ!」

 

 ケーヒルが言うまでもなく、1人の騎士が丘から離れた麓にある馬車に向けすでに走っていた。

 

「殿下。 魔獣の討伐は済みました。 今治療箱を取りに行っています。 大丈夫ですよ、このケーヒルも何度も魔獣にやられましたが、こうして生きております。 殿下もすぐに……」

 

 内心の動揺を出来るだけ抑えて、声をかけ続ける。

 

「ケーヒル……ゴホッ、今までよく……仕えてくれた。皆も、本当に……ゴホッ」

 

 血を僅かに吐きながら、アストは力を振り絞って声を出す。

 

「くっ……父上に、父上に伝えてくれ。どうかお健やかに と。ひと足先にヴァルハラの白神に抱かれる事をお許しください。 妹に……アスティアに……すまない と」

 

 今は亡き王妃に似た美しい白銀の髪も何かの血に濡れ、美しかった相貌も血の気を失っている。そして、口元は赤く染まっていた。

 

「殿下……殿下、おやめください……」

 

 

 ケーヒルが泣く姿を見るのは初めてだ。冷やかしたかったがやめておくか……戦場で鍛えた身体はすぐには命は尽きないだろう。 そんな事を思う自分も戦士だ、このキズでは助からない事を悟っている。先ほど命をかけて盾となってくれた騎士には申し訳ない終わりだ。 ヴァルハラで謝らなくては……彼の名前はなんだっただろうか? 聞きたくても、もう声は出せそうもない。

 

  残された妹は悲しむだろう。 父上は涙を流すだろうか……リンディアの民は、美しい王国は、魔獣に蹂躙されてしまうのか……アストの心は千々に乱れる。

 

 まだ戦いは終わっていない、人々に平穏は訪れていない。

 

 ……まだ死にたくない……誰か、助けてくれ!まだやらなくてはならない事があるんだ! 皆を守らなければ……強い想いが駆け巡るアストは、身体を起こそうと僅かに身じろぎし前を見た。

 

 あれは……?

 

 薄らぐ意識の先、視界に捉えた。 見れば、誰かがこちらに近づいて来るようだった。 ケーヒルもジョシュも気付いていない。 音にならない言葉が、アストの中を巡る。他の騎士か? いや……子供だろうか?なぜ1人でこんなところに……ジョシュが後ろを振り返り、その子供に気付いたようだ。迷子だろうか?

 

 助けて上げてくれ……もう腕も上がらない。

 

 

 

 

 

「ケーヒル副団長 、あれを」

 

 ジョシュはまっすぐ歩いてくる子供らしき姿を指差しケーヒルに知らせる。 治療箱から清潔な布を何枚も出して、アストの身体から止め処なく流れる血を拭っていたケーヒルも、初めてその子供に気づく。

 

「子供? 女の子か……?」

 

 肩まで伸びた髪は確かに少女に見える。 真っ黒なのは何かの汚れだろうか? 実際に泥か土で汚れたボロ切れのような貫頭衣を着ている。 しかも裸足で露出しているであろう肌も、同じく泥だらけだ。 唯一の色は、瞳の深緑だろうか。 もうそれがわかるほど近くまで来ていた。

 

 

「君。 止まりなさい」

 

 今日図らずも初陣となった若い騎士ノルデが、制止の声をかける。近くに来たからわかるが、少女の目はアストだけを見ていた。 周りの事やノルデの声も無視して同じ歩調でただ近づいてくる。 直ぐ側に倒れている魔獣にも全く目をくれない、普通なら例え死んでいる様でも怖ろしくて動けないものだ。

 

 異様な空気、圧迫感を彼女の小さな体から感じる。

 

 そしてアストの怪我と大量の流血に気付いたのか、急に身体を震わせ駆け足でノルデの横を通り抜けようとした。

 

「おいっ!」

 

 慌てたノルデは思わず剣の柄で少女のこめかみを殴りつけてしまう。 彼女はふらついて地面に両手をついた。切れたのか右眼の上辺りから血が流れ出て、ポタポタと手の甲に落ちていく。

 

「ノルデ! 止せ!」

 

 ケーヒルが叫ぶ。

 

「あっ」

 

 倒れ込んだ少女と血を見て、ノルデはつい足を引き戸惑いの声を上げた。

 

「す、すまない。大丈夫か?」

 

 しかしノルデの問い掛けには答えない少女は、手や膝が魔獣の血に汚れるのも全く気にせずにアストの足もとまで這い寄った。 両手を傷口の両脇に置き、瞬きすら無く流れ出る血を見ている。

 

 アストも……いや誰もが呆然と少女を見ている。

 

 唖然としていたケーヒルは我に返り声をかけた。

 

「心配してくれているのか? 」

 

 彼女の両眼には僅かだが涙が浮かび、そして酷く焦燥している様子だった。

 

 だが驚くのはこれから……

 

 アストの目の前の少女はおもむろに横を向き、布を切り裂くために使っていたナイフをケーヒルの足元から拾う。

 

「お、おい。 君、それは危ないぞ」

 

 その問い掛けにすら答えず、ナイフを右手に持つと……自分の左の掌に戸惑う事なく突き立てた。 それは余りに唐突で戸惑いすらなかった事で、誰も止められなかったのだ。

 

「なっ……!」

 

 少女は痛みを堪えているのか、泥と血で汚れた顔を歪ませる。 しかし悲鳴も声さえも出さず、抉るようにナイフを動かして引き抜いた。掌だけでなく手の甲からも血が溢れ出ている、間違いなく貫いたのだ……

 

  そしてその血で真っ赤に染まった掌を拭う事もせずにアストの傷口に押し当てた。

 

「うっ……」

 

 アストも痛みで思わず声を上げたが、次の瞬間には周りの騎士達も声に掻き消される。押し当てた掌と傷口の間から、白い光が漏れ出してきたのだ。 少女は手を傷口に沿ってゆっくりと動かしていく。

 

 まさか……傷口が塞がっていく……?  有り得ない!

 

 右肩の傷が塞がったあたりで少女は一度手をアストの体から離した。

 

 終わった?

 

 少しはっきりしてきた意識で彼女の顔を見ると、辛そうな泣きそうな目でアストを見返してきた。 そして首を縦に振り頷くと、再びナイフを右手に持った。

 

「まさか…? やめるんだ!」

 

 アストは先程まで出なかった声を振り絞ったが、間に合わない。 今度は左手首にナイフを押し当て一気に縦に切り裂く。 流れ出る血にはやはり目もくれず再び左手を傷口に押し当てると、何の声も上げずに少しずつ動かし始めた。 アストもケーヒルもジョシュも、周りの騎士達も止めなければと思うのだか、何故か体が動かない、いや動かせない。

 

 そうしているうちに少女は意識を失ったのか、アストに寄りかかり抱き着くように眠ってしまった。少女のこめかみの出血はもう止まっていたが、少し腫れ上がり痛々しい。

 

 全てがいきなりの事で、誰一人として身動き出来ず声を上げるも出来なかった。

 

 

 

 

 

 



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3.アスト=エル=リンディア

 

 

 街道を走っているとはいえ、馬車は揺れるものだ。

 

 アスト自身は気にならないが、目の前で横たわって眠る少女には辛いのではないか……

 

 何か清潔な枕や敷物でもあれば良いのだが、軍備品を運ぶこの馬車にはそんな気の利いたものはない。せめてもの慰めに包帯をまとめて枕の代わりにしたり、予備のマント類を床に敷き詰めるくらいしか出来ない。

 

 アストを守るために犠牲となった騎士は、悲しい事だが遺族に見せられる状態ではなかった。いくつかの遺品を拾い集め、火の清めでヴァルハラに送り白神に抱かれる事を祈った。

 

 ……この少女は自分を死の淵から救ってくれた。 だがあの騎士は王都には戻る事が出来ない。何かの歯車が噛み合えばもっと上手くやれたのだろうか?あの時油断などしなければ、トドメをしっかりとさしていれば、いや指揮していたのがケーヒルだったなら……

 

 現れては消える種々の想いは現実を少し忘れさせたが、ふとアストは少女の顔や手足が血や泥で汚れている事に気が付いた。左手の手から手首に関しては止血帯を巻いたが、それ以外はそのままだ。

 

「これだから男はダメか……アスティアの言う通りだな」

 

 訓練の後、鎧と木剣を片付けたその足で疲れに任せて寝ていたところを、妹のアスティアに見つかった時だった。 しょうがないじゃないかと思ったものだが……

 

 次の休息地で綺麗な布でも探して拭いてあげよう……水もまだ余裕があるはずだ。 流石に子供とはいえ女性の肌をみだりに触る訳にはいかないが、せめて顔周りだけでも綺麗にしなければ、またアスティアに怒られてしまうだろう。

 

 そんな事を思い、アストは苦笑した。

 

 

 

 

 

 森の周辺部の調査を中止としたアスト達一行は、王都への帰還の途についていた。 調査も重要だが戦死者が出た以上一度帰還し、部隊の再編を急ぐ必要もあった。 森から離れた場所で魔獣に遭遇した事も周知し注意を促さなければならない。 調査しているのはアスト達だけではないのだから。 何より命を救ってくれた少女をあのまま連れ回る訳にもいかないし、帰還は当然の判断だった。

 

 リンディア王国の王都リンスフィアまでは馬車でも明日には到着する距離まで近付いていた。早馬ならより早く着く事も出来るが、少女への負担を考えゆっくりとした行程にしている。 先触れの騎士を2人先行させ、調査団一行は休息予定地へと到着したのだ。

 

 

 

 

 

 

「殿下の言う通り、粗野な我等では考えもしませんでしたな」

 

 薪を火にくべつつ、ケーヒルは頭を掻いて答えた。

 

「アスティアに怒られる前に気付いて良かったよ。 ああ見えて、あいつは怒らせると怖いからな」

 

「はっは、アスティア様を怒らせるなど、殿下くらいでしょうな。 あの方はリンディアの花……いつも微笑みを絶やさず王都に咲き誇る王女。 なぁ、ジョシュもそう思うだろう?」

 

「はっ。アスティア様は王都に咲く大輪の花です」

 

「……相変わらず硬すぎるわ、お主は」

 

「話を戻すぞ。 水はともかくとして、清潔な布が残っていればいいが……」

 

「殿下、治療箱にまだ幾らかの止血帯が残っておりますぞ。 あれを使えば宜しいかと。 明日には帰還出来るでしょうし構わないでしょう、後でお持ちします」

 

「そうか……良かったよ。 暗くなる前に終わらせよう」

 

「しかし、あの娘は何者なのでしょうな?  あの様な超常の力など見た事もありません。 殿下のお命を救った事には感謝しかありませんが、まるで太古の神々のようではありませんか。 しかもまだ眠ったままなのでしょう?」

 

 ケーヒルはその巨軀に乗った首を器用に傾けながら話を続けた。

 

「おお……そういえば殿下、お加減いかがですか?」

 

「おいっ……ついでのように言うんじゃない、全く……」

 

 ケーヒルの戯けた態度には、何時も苦笑しかない。

 

「身体は問題ない。多少キズが引き攣るくらいだし、すぐに治るさ。 それと彼女が何者なのかは、起きてから聞けばいいだろう。陛下への報告もあるし憶測で話す事じゃない」

 

 薪が燃える炎を見ながら、アストは自らに言い聞かせるよう言葉を並べた。 そして天を見上げる。

 

「もうじき暗くなるな……その前に済ましてしまおう。 ケーヒル、止血帯を持って来てくれ。 ジョシュは水桶を頼む」

 

「むっ……そういえば殿下、重要な事を忘れておりました」

 

 さっきまでの態度と一変したケーヒルの言葉に、アストは顔を上げて姿勢を正した。

 

「どうした?」

 

「彼女の事ですが……」

 

「勿体ぶるな、早く言ってくれ」

 

「私めは気付いたのです。 泥を落とせば、いや落とさなくても美しい娘だと。  殿下……相手が眠っているからと言って懸想してはなりませんぞ? やるなら起きてからです」

 

「!? っバカな事を言うな! ジョシュ!こいつを早く連れて行け!」

 

「はっ」

 

 顔を真っ赤にしながらドスドスと馬車に向かうアストにケーヒルは笑いを隠さなかった。

 

「はっはっは!」

 

 紅く染まり始めた空にケーヒルの声が木霊して、空間に消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 桶の中は真っ黒だが、少しは綺麗になっただろうか。 手頃な大きさに切り離した止血帯はまだ余りがあるし、手足など出来るところを拭おう……アストはジョシュに代わりの桶を頼んで、少女の方へ向き直った。

 

「しかし……これ程とは……」

 

 ケーヒルに言われるまでもなく、その造形が素晴らしい事はわかっていたが、予想をいろいろな意味で裏切られたようだ。

 

 

 汚れだと思っていた黒髪は、その通りの色だった。リンディアだけでなく、今もあるはずの他の国でも聞いたことがない。 肌身も不思議な色合いだった。 少し黄色がかっていると言えばいいのか、これも初めて見るものだ。 それが汚いという事ではない、むしろ暖かさを感じる優しい色だろう。 それに12,3歳位の子供だと思っていたが、年齢が分かりづらい。子供にも見えるが、どこか妖しい色気も感じる。今は目を閉じているが、少女の眼は美しい深い緑で……まるで昔一度だけ見た森の泉の底を見るような幻想的な輝きだった。

 

 眠っているからそう感じるのか……視線を外せなくなったアストは無意識の内に口を開けてしまう。

 

「綺麗だ……あっ……!」

 

 思わず呟いた言葉に、慌てて馬車の外を見る。 ちょうどジョシュが桶を持ってきたところだった。

 

「……ありがとう」

 

 ジョシュは無言で頷き、去っていった。

 

 アストは首を振り先の事は無理矢理頭から追い出しながら、切り離した止血帯を桶に浸ける。

 

 肌に直接触れないように気を付けながら首周りを拭っていると、すぐに気付く。 肌が見えてきた首には黒い模様とおそらく神代文字であろう記号が複雑に絡み合っている。

 

「これは……刻印、か?」

 

 考えてみれば当然か……あれ程の力もつ者が常人であるはずがない。 どんな神々の加護かわからないが、王都に帰れば詳しく判るだろう。 刻印は彼女の細い首をぐるっと回り、左の耳の後ろに延びている様だ。 黒髪に隠れて気付かなかったのだ。

 

 更に傷付けないよう何枚かの止血帯の切れ端を使い終えた頃、刻印の全体像が見えてきた。

 

「……だが……まるで鎖が首を締めているような……耳までの繋がりは蛇が頭をもたげているようにも見える……」

 

 加護であるはずの刻印が何故か不吉なものに見えてくる。

 

「いや、憶測で語るなと言ったのは自分じゃないか……王都にはクインもコヒンも居る。 それからでも遅くはない」

 

 アストは無心で少女の手足に取り掛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 太古の昔、神々は一柱それぞれが地に降り立ち人々に直接加護を与えていた。 人間が加護という恩恵に預かり、世界にその覇権を唱えた時代。 神々は少しずつ姿を消し、その加護は刻印という形で残った。

 

 刻印は加護を受けた者の身体に刻まれ、模様や神代文字を用いて表される。 外見は一部を除いて入れ墨の様に見えるものが多い。

 

 当然だが、お伽話や童話に描かれる魔法使いのように、何も無いところから火が出たり、水を出したりなどは出来ない。 しかし僅かながらに力がつき、時には洞察力が高まり、人を癒す力が増す事で薬の効果が上がったりもする。 また、心に作用する刻印なら優しさや忍耐に影響が出る。

 

 人々に刻印を授ける神々は白神(しろかみ)と呼ばれ姿は見えなくとも、いつも人に寄り添っていたのだろう。魔獣が姿を見せ始めた300年前も刻印の力は大いに人々の助けとなり、救いの手は差し伸べられていた。

 

 だが魔獣と森に土地を奪われ世界の覇権を失いつつある現在では、刻印をもつ者は万人に一人と言われ更にその数を減じつつあった。

 

 斜陽の時代が訪れたのだ。

 

 人々は白神に祈りを捧げ、救いが訪れることをただ待つしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 アストは必死で吹き出してくる汗を拭っていた。

 

 先程まで静かに横たわっていた少女が突然腕を上げて、身じろぎを始めたのだ。

 

 それだけではない。

 

 声や寝言はないが、苦痛を見て取れるほどその美しい顔を歪め何かから逃れようとしている。 突き出した手は何もない中空に恐ろしい者がいるのか、必死で押し返そうとする。

 

 もしその恐ろしい者を打ち倒せるなら、きっと誰もが今すぐに剣を取り戦うだろう。 それ程の叫びを彼女から感じるのだ。

 

 少女の額からは流れるように汗が吹き出し、いくら拭っても止まる事はない。

 

 悲鳴を上げているのか……?

 

  声は出ていない、しかし何かを叫んでいる。 声無き悲鳴は見る者にこれ程までの恐怖を呼び起こすのか、アストは思わず少女が突き出した手を握った。

 

「ケーヒル!ジョシュ!! 来てくれ……早く!」

 

 その声は思ったより大きく震えていた。

 

 ガシャガシャと鎧の打ち鳴らす音をさせながら二人は馬車に駆け寄って来る。

 

「いかがしました!? 殿下!」

 

 中を覗き込んだケーヒルは息を飲んだ。

 

「彼女の様子がおかしい……さっきまでは普通だったんだ!」

 

「これは……!」

 

 手を握り焦燥を募らせたアストのすぐ隣には、その握られた手すら恐ろしいのか、声なき悲鳴を上げている少女がいる。

 

「まさか、あの時のキズが何か……!」

 

 普段静かなジョシュも落ち着いてはいられないのだろう。 治療箱を取りに体を投げ出すように駆け出した。 他の騎士達も只ならない様子に馬車に集まり始めていた。

 

 自分達の敬愛する主君たるカーディル陛下の、そしてリンディアの宝である王子、アスト=エル=リンディアを救った少女が苦しんでいる。全員の心は一つだった。

 

「ここでは満足な治療も出来ません。我らが先に出ましょう」

 

 先程集まっていた騎士達から声が上がる。

 

「いや、私が行く。 ケーヒル、それと3名程でいい、ついてきてくれ。 急げば明日の朝には着けるだろう……魔獣の生息域も遠いし、数は必要ないはずだ」

 

「はっ!」

「ははっ!」

 

「皆は悪いが……ジョシュの指示の元、折を見て撤収しこの馬車を引いて帰ってくれ」

 

 アストは休息地に予め立ててある杭から自身の馬を引き飛び乗った。

 

「彼女はわたくしが運びましょう」

 

 少女の首の刻印に気付き息を飲んだケーヒルは、その事に触れず進言してきたが、アストは少しだけ考えて答えた。

 

「……私が運ぶ。彼女を馬に上げてくれ」

 

 アストは何故か少女を離したくなかった。

 

 ケーヒルが抱え上げた彼女の身体を受け取り、落ちないように自分と革紐で強く結びんだ。 そうして懐に抱え込む。 さっき程は暴れていないが、顔色は悪く唇を強く噛み締めている。 舌を噛まないよう余った止血帯を口に押し込み、少女にアストは語りかけた。

 

「ひどく揺れるが我慢してくれ……済まない」

 

 思っていた以上に少女の体は軽く、小さかった。 それでも……アストの懐に暖かい体温を感じて、少しだけ安堵する。

 

 

 

 

 

 薄闇の中、遠くに王都リンスフィアが見えて来た。 さすがに全速力で走る訳にはいかず、焦る気持ちばかりが募ったがあと少しで着く。

 

 先程追従していた騎士を先行させ、典医や薬、何でも良いから準備させるよう言付けた。

 

 クインに任せよう。 クインは侍女でありながら、多才を誇る才女だ。 薬学も明るく何より刻印などの神代文字に詳しい。 もし刻印絡みの症状なら典医だけでは心許ない。

 

 城には今癒しの刻印持ちがいないのが不安だが、典医もクインもいる。

 

 きっと大丈夫だ……

 

「大丈夫、もうすぐ着くよ。大丈夫だ……」

 

 そう呟き、アストは力を入れて抱き締めた。

 

 王都は朝日の光を浴び、そして一行を照らす。

 

 それはまるで新たなる時代を迎えるように……王都リンスフィアを輝かせていた。

 

 

 

 

 聖女は今、眠りにつき目覚めの時を待っている。 人々は黒神の救いがすぐそこに在ることを未だ知らない。

 

 

 

 

 

 




声無き悲鳴の意味、過去の出来事。次回は過去回です。


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4.夢の後先

過去回。暗いです。


 

 

 

 俺にはこれか夢だとすぐにわかった。

 

 小学2年生にしては高い身長だったが、こんな小さな手足に、キズだらけで今にもバラバラになりそうな黒いランドセルなぞ今の俺にあるはずのないものだ。 冷めた目で夢を眺める俺には関係ないとばかりに、もう一人の小さな俺は学校が終わった途端に何冊かのノートと連絡帳や筆箱を大急ぎで放り込み始める。 友達との挨拶もそこそこに家に向かって走り出した。

 

 ああ、やはりあの日か……今でも忘れることが出来ない。 夢に時間なんて関係ないのだろう、そう思った俺の視界は一瞬で切り替わる。

 

 場面はその日の昼のようだ。 昼休憩に集まった遊び仲間と俺は、今度はどんな馬鹿な事をするかと机を挟んで座った。

 

「カズキ! こないだ言ってた魔法はやってみた?」

 

 目の前に座った少年が、早口でまくし立てた。 何故か少年の顔はボヤけて見えない。 名前すらわからないのに気にもせず僕は答えた。

 

「ーーーくん。 あんなの魔法じゃないよ」

 

 彼が言う魔法とは、焚き火で立ち上がった火に手刀で横に切っても火傷しないと言う下らないものだ。 当たり前だが、素早くやれば熱は伝わらないし、ゆっくりと振れば火傷するだけだ。

 

「そんな事言って怖いんだろ? 今度オレが見せてやるよ!」

 

 シュッシュッと自分で言いながら右手を振り回し始める。 怖いと言われた()()少しムッとして、今日発見した新しい秘密を彼にお披露目する事にした。

 

「ホッチキスで指をガチってしても、あんまり痛くないし血も出ないって知ってた? さっきプリントを閉じてる時にわかったんだ」

 

「えっ?えー? 嘘だろそんなの」

 

「ホントだって! ほらこの指見てよ、傷跡もないでしょ?」

 

 少年は突き出した僕の指先に顔を向け、疑わしそうな声で言う。

 

「この指かどうかなんて分かるわけないじゃん。 嘘に決まってるよ」

 

「ふーん、じゃあやって見せようか?」

 

「……うん」

 

 少年の声に恐怖心が混ざっていたが、子供の僕は気付かずに道具箱からホッチキスを出した。 ちゃんと芯が入っているのも確認して、ふっくらと膨らんだ人差し指を挟む。

 

「……」

 

 少年は無言で手品のタネがないか確認しているのか、あちらにこちらに顔を動かしている。

 

 ガチッ

 

 戸惑う事なく僕はホッチキスに力を入れた。 チクッと痛みは走った気がするが、夢の中ではそれも錯覚だろう。 ホッチキスを避けると光沢のある針が指先に刺さっている……だけど血は出ない。 反対の手を使い刺さった針を器用に取ってみる。 少しだけ血が滲んだ気がするがやはり流れ出てはこなかった。

 

「ほらね! 本当でしょ?」

 

「本当だ! 凄い!」

 

「やってみる?」

 

 机に上にあったホッチキス手に取り、少年に突き出した。

 

「怖い?」

 

 そう聞いた僕に顔を向けたあと、好奇心には勝てないのか、右手にホッチキスを持ち替えて人差し指に当てた。

 

 その後は大変だった。

 

 少年の指先からはポタポタと血が溢れ、彼は痛い、痛いと泣き始めた。 教室は騒然として皆が僕を訝し気に見ている気がした。 なのに全員の顔はボヤけてわからない。

 

 周りにいた女子が先生を呼んだみたいで、保健室に連れて行った。 残された小さな僕の頭の中は疑問符で一杯だった。 あんなに大騒ぎするなんて何故だろう? 血が出ても別に大したことないじゃないか……。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 僕は他の人間とは少し違う事に気付いてしまった。 その時、恐怖心や嫌悪感は全く無かった……いやむしろ優越感を覚えたと思う。 もしかして僕は特別なヒーローかも! 偶に見ていたテレビのヒーロー達にもそういったキャラクターがいたはずた。

 

 

 やった!

 

 凄いぞ! 僕は()()なんだ!

 

 

 皆の顔は思い出せなくても、この時の高揚感は覚えている。 ただ、結末は何も変わらず結局は時間の問題だっただろう。

 

 早いか遅いか、ただそれだけの違いでしかない。

 

 

 

 

 

 ランドセルをガタガタ鳴らしながら僕は走っていた。 勿論、家にいる母に自慢するためだ。

 

 母は最近いつもイライラしている。 笑った顔も随分見たことがない。

 

 玄関や台所には木彫りの仏像が置いてあるし、全く読めない字が書かれた紙切れが飾ってある。 なのに家族の写真は取り外され物置に入っている。 ラベルの貼られていないペットボトルには少し色の付いた水が入れてあり、ご飯の時に飲まされていたし、ナントカのエネルギーが入っているらしい毛布を渡されたが冬には全然暖かくなかった。

 

 父は随分前から家には帰って来ない。

 

 今なら分かる。母はすでに壊れていたんだろう。無邪気にも僕は「特別なパワー」を見せれば笑顔で褒めてくれると思っていた。

 

 あの時の母の目が忘れられない。

 

 自慢気に見せたホッチキスの魔法は、母を笑顔にする事はなく……その目はまるで気持ちの悪い虫を見た時のように慄いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 児童養護施設を探していた母は、知り合いの紹介らしい建物に()を連れて来ていた。

 

  高い塀に囲われた思った以上に広い敷地には畑や花壇が散らばっている。 何故か先に抜けてきた門には何も無かったが、玄関らしい扉の横には水色に塗られた板に「空色の家〜時島孤児院」と書かれた看板が掛かっていて、子供が描いたであろう白い雲があしらってある。

 

「空色の家」は老夫婦が運営する無認可の児童養護施設らしく、知ったのは随分後だ。

 

 玄関の前に2人の老人が立って待っている。

 

「やあ、いらっしゃい。君が木崎和希くんだね?」

 

 院長と書かれた名札を掛け、白が混じる髭を揺らしながら笑った。隣にいる妻らしい老婆は何故か笑顔なく声を出しもしない。

 

「ーーーー。 ーー、ーーーーー」

 

 母が何かを話しているが、なにも聞こえない。すぐ近くにいて口が動いてるのもはっきりと見えるのに……。 院長がゆっくりとこちらに顔を向け俺を見下ろして言った。

 

 院長の目がギラギラと光って見える。

 

 

 ーー和希くん。 ここが今日から君の家になるんだーー

 

 

 結局母は最初から別れの時まで俺を見る事はなかった。 捨てられた事は意外と簡単に受け入れられたから泣いたりはしなかった。

 

 ああ、やっぱり……そう思っただけだ。

 

 笑顔を浮かべたままの院長に手を引かれ玄関から中に入る。中は一言で言うと田舎の学校だろうか? 左側に下駄箱があり、何足か白いスニーカーが入っている。

 

 子供の姿や声は聞こえてこない。

 

「さあ、靴を脱いでお上り。 そこにスリッパがあるだろう? どれを履いても良いからついておいで」

 

 俺は素直に言う事を聞いてヒーロー物のスリッパを履き、院長の顔を見上げた。

 

 ダメだ……入ったらダメだ……そこは、そいつらは人間のクズだ! 行くんじゃない!!

 

 遠くから叫ぶ俺の思いとは裏腹に、小さな俺はスリッパの音を鳴らしながら院長達の後を追って行く。

 

 院長室と書かれた部屋に入った時の絶望感は、7歳のガキには耐えられるものではなかった。 家にもあった仏像、やはり読めない文字の掛け軸、正面には見た事もない老人の写真。

 

 大きな黒い革の椅子に座った院長は目は爬虫類のように白目が無く、言葉を発する筈の口にはチロチロと赤い舌が揺れている。

 

 あぁ……夢だよな……

 

「和希くん、君のなかには悪霊が住んでいるんだ。 でも安心していいよ、私達は悪霊を追い払う方法を知っている。 君のお母様も心配しているし、私達の言う事をしっかりと聞いて良い子でないといけない」

 

 小さな俺の体がガタガタと震えている。

 

 俺の様子を気にもせずに、いや嬉しげに言葉を話す。

 

 爬虫類が人間の言葉を?

 

「この家にはルールがあるんだ……絶対に破ってはいけないルールだよ」

 

 

 

 

 

 

 何度助けを求めようとしただろう。 でも誰が味方なのか分からない、味方なんている訳がない。 頭の中でグルグルと言葉は廻るのに音になる事はなかった。

 

 ホッチキスの魔法は、もう誰にも言ったりしない。 シャツやズボンに隠れた場所にある痣や傷も放って置けばすぐに治る。 いつも痛そうにしてれば分かりはしない。

 

 小さな俺の秘密は誰にも知られてない。知られてはダメなんだ。 7歳の俺は……なぜ院長が悪霊が住んでいると言ったのかを考えることもしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「和希くん。夕御飯を食べたあと院長室に来なさい」

 

 また呼び出しだ。

 

 最近他のみんなより多い気がする。 でも、痛みには慣れて来たし怪我なんて放っておけば……そう、どうだっていい。

 

「はい……」

 

 心さえ別の場所に置いておけば、俺は大丈夫なんだ。

 

 

「ぎぃぃヤヤァアああぁーっ! 熱い!熱い! やめ、てーーー!!」

 

 院長室の前で俺は立ち止まって、動けなくなっていた。 部屋の中から聞いたことのない悲鳴とガタガタと椅子や机が揺れる音が聞こえてきたから。

 

 やめてくれ……子供の悲鳴なんて聞きたくない。

 

 自分だけなら怖くなんてないのに、なぜ他の子が……!

 

 ガチャ

 

 目の前のドアが開き、院長が笑いながら言う。

 

「さあ、入って」

 

 中から何か焦げ臭いような、生ゴミが燃えたような匂いがした。 俺と同じ年齢の子が部屋の真ん中の椅子にぐったりと倒れるように座っている。それが誰だったのかわからなかった。

 

 そのすぐ隣に置かれた椅子に両肩を押さえられまま座らされ、あの爬虫類の目をこちらに向けた。

 

「今から悪霊を追い出す魔法をかけるよ。 ()()()()痛いかもしれないけど、隣のーーくんも成功したから安心しなさい」

 

 院長はカチッとライターに火をつけ、直ぐ側にあるガストーチのノブを捻った。 ボッと言う音を立てて勢いよく青い炎が伸びる。 机の上で折り畳んでいたタオルを開くと中から20cm程度の鉄串を取り上げた。

 

「和希くん……悪霊は人の中に居て、宿主である身体を傷付けない様に悪い魔法をかけているんだ」

 

 鉄串をユラユラと青い炎に当てて、その串は少しずつ赤くなっていく。 院長の顔には笑みが浮かんでいる。

 

「今からこの串を君に当てる。 悪霊が居ても怖くて逃げて行くから、和希くんは普通の人間に戻れるんだよ」

 

「あ……あの……」

 

 あんなの無理に決まってる!

 

 何とか止めて欲しくて言葉を探すが院長はそれを無視して、言った。 聞きたく無かった言葉を。

 

「まさか怪我や傷が簡単に治ってしまうなんてあるはずが無いんだから」

 

 

 

 赤く光る鉄串を素手で持った院長の顔は、人間のものだろうか……?

 

 ジュッ!

 

「い、いぎゃー!! 痛い!痛いよーー!」

 

 ジュッ!

 

「うわぁー!!  熱い! やめてー!」

 

 椅子に押し付けられた身体を遠ざけようと、左右に揺らすが逃げられない。 俺の腕に二重の線が入り、院長は火傷の跡を指でなぞった。

 

「いっ! 」

 

「明日、となりのーーくんと比べてみよう。 悪霊が逃げたかすぐに分かるよ。 もしまだ逃げてないなら、続けないといけないからね」

 

「う、うぅ……」

 

 それを確信しているかのように、望むかのようにゆっくりと話しかけてくる院長の顔は、ただただ気色の悪い笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 

 怪我が早く治るどころが、火傷の痕さえ残らない俺は格好の獲物だったのだろう。 悪霊なんて只の言い訳に過ぎない。 院長は子供を痛め付けて、悲鳴をあげる姿を見るのが好きな変態だ。

 

 何かと理由を付けて俺を呼び出す回数は増えていき、傷も残らない筈の身体からそれが絶える事はなかった。

 

 

 

 

 院長への憎悪は膨らんでいった。

 

 でもある時から思ったんだ。

 

 俺が呼び出されている間は、他の子は無事だって。 それなら良いじゃないか……悲鳴なんて聞きたくない。子供はいつも笑ってないとダメなんだ。

 

 

 15歳になった俺は奴の巣から脱走し、集めた証拠と情報を警察に流した。

 

 

 

 孤児院は潰れたと、風の噂で聞いた。

 

 

 

 

 

 

 



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5.目覚め

やっと主人公が目覚めます。
評価とお気に入り、ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 ぼんやりと意識が戻るのを感じる。 軽く溜息をつこうと口を開いたとき、息が出来ない事に気付いた。

 

 なんだ? 水、いや泥の中か?

 

「……っ!……」

 

 両手をつき上半身を起こす。口の中の異物を吐き出し大声で叫ぼうとした。しかし、口からは吐き出す泥以外には何も出てこない。

 

 ……なんで……? 声が出ない!?

 

 思わず喉と胸に手を当てたときに、いくつかの違和感を感じた。 それなりの修羅場をくぐって鍛えた硬い胸筋はそこにはなく、代わりに柔らかい肉の感触が返ってくる。 それに俺の手はこんなに小さくない。 泥だらけの腕から泥を拭うと筋張った筋肉はやはり無く、まるで子供の頃のように変わってしまっていた。

 

「……!!」

 

 もう一度自分の身体を見ると、ワンピース?いや貫頭衣だろうか、元の色がわからない程に汚れて赤黒い色に染まっている。

 

 胸を押し上げる僅かな膨らみを見て、恐る恐る首もとから服をめくってみる。 下着も何も着ていない体は、上から見ただけで自分がどうなってしまったかを明らかにさせた。 それに体中に入れ墨が入っている。 全く読めない文字とうねる気色の悪い模様が刻まれて……

 

 なんだ……? どうなってる!?

 

 強い不快感を覚え、唐突に湧き上がる吐気に耐えられず再び泥だらけの地面に両手を付き、思い切り吐いた。 一度、二度三度と吐き続けると、胃液も呻き声すら上がらずに膝を抱えて蹲る。

 

 暫く吐気と戦っていると、少し前の出来事が頭に浮かんで来た。 膝を抱えていると胸の柔らかさに当たってまた余計なことを意識してしまう。

 

 くそっ!

 

 ヤト……黒神のヤトか! アイツが何かしやがったんだ……あの野郎!!

 

 思い出せ……アイツは何を言ってた?

 

 刻印……呪い、異世界、救いの道、そして世界を救う?

 

 馬鹿が……ふざけやがって! 何を勝手な事を! こんな子供、しかも女なんてどうしろって言うんだ! 声まで出ないなんてふざけた呪いを……いや、そもそもなんで俺がそんな事を……

 

 暫く目を強く瞑り、現れては消える声にならない怒りや戸惑いを吐き出していた。 ふと何か生臭い、鉄錆の匂いに気付いて目を開いた。

 

 こんなにすぐ側に赤い壁などあっただろうか? 何とか起き上がりもう一度壁を見る。

 

 いや……壁なんかじゃない……何かの生物だ。 死んでるのか動かない……大きい、大きいなんてもんじゃない。 毛は生えてないのか肌が直接見える。 赤褐色と言えばいいか、酷く筋肉質な体だ。 少しずつ後ろに下がり全体を見ないと大き過ぎて、近くでは何なのかがわからない。

 

 いや、俺が小さくなったのか……?

 

 それはまるで犬のようだった……いや犬みたいに可愛げのあるもんじゃない。 犬に牛を無理矢理混ぜて捏ね回したような姿だ。 それにあんなに巨大な牙や爪なんて冗談としか思えない。 爪一本が今の俺の腕よりも大きいのだ。

 

 うっ……

 

 さっきまで自分が寝転がっていた場所は、只の泥じゃなくこの奇怪な生物の血が混ざっているようだ。 または吐気が戻ってくるが、なんとか両手で口を押さえて我慢する。

 

 他には何かないか探して見ると剣が落ちている。 二本あるそれは日本刀ではなく、西洋の剣のようだ。 一本は片方と比べると非常に大きく血糊がべったりと付着している。 この化け物の血だろうか?

 

 恐る恐る剣を持とうと近づき手に力を入れるが、全く上がる気配がない。 もう一本の小さな剣ですら、まともに持ち上げるのは無理そうだ。 息を止めて思い切り力を入れると手が滑り後ろに勢いよく倒れてしまう。 再び顔も手足も泥だらけになり、より気持ちが暗くなった。

 

 

 

 

 

 

 こんなの……一体どうしたらいいんだ?

 

 ここが何処かもわからないし、こんな化け物がウヨウヨいるような世界なら、このひ弱な体で戦う事も逃げることだって出来ない。 尻餅を付いて剣をボンヤリと眺めるしかない俺の耳に、僅かに人の声が聞こえた気がした。

 

 気のせいか? もう一度耳を澄ましてみる。

 

 いや……聞こえる。 悲鳴?慟哭? 大人の男の声だろうか? 人の声だと思うが、何を言っているのかわからない。 この化け物の向こう側か?

 

 ゆっくりと化け物の体を壁にしつつ、少しだけ顔を出して覗き見る。

 

 その声の場所はすぐにわかった。

 

 20人位の集団だろうか、金属の鎧を着た集団が何かを中心に集まっている。 集団の隣りにはいま壁にしている化け物と同じ奴がもう一匹死んでいるのが見えた。

 

 大きな声が聞こえて、一人の男がこちらとは反対側に駆け出して行った。 何人かが膝を付き絶望感を全身で表しているようだ。

 

 その時、集団の円の中心が少し見えた。 どうやら若い銀髪の男が倒れ別の鎧の男に支えられていて、一際目立つ大きな男が何かを喋っているみたいだ。

 

 やはり言葉の意味が分からない。

 

 声が出ず、意味もわからない……?

 

 それって酷くマズくないか? こんな訳の分からない場所で、子供になって言葉すら通じないなんて……

 

 足元から崩れ落ちて行くような錯覚を覚えて思わず目眩を覚える。 何とか化け物に寄り掛かって倒れるのは防いだが、何の慰めにもならない。

 

 絶望を感じつつ、兎に角何か情報をともう一度集団の方を見た。

 

 

 ドンッ!

 

 

 そんな音など鳴ってはいないが、自分の心臓が大きく跳ねるのが分かった。

 

 銀髪の男の側で跪き喋っていた一際大きな体躯の男が涙を流しているのが見えたのだ。 恐らく銀髪の男の生命が危険に晒されているのだろう。  男にしては美しい相貌だが、血の気もなく口元は血であろう物で真っ赤だ。

 

 

 

 

 ……助けないと、あの人を助けないと、死んでしまう……

 

 周りの人も哀しんでいる。

 

 絶望の(とばり)が降りている。

 

 

 

 

 なにを……ダメだ!俺は何を考えている! あんな得体の知れない連中の事など信用出来る訳がない! アイツらは…アイツらは大人だぞ! 今迄どれだけの裏切りを受けたと思ってる……!

 

 

 でも、でも死んでしまうよ……きっと大勢の人が悲しむんだ……まるで少年の様な言葉が心に響く。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ふらふらと、化け物の側から抜け出して奴等の方へ歩きだしてしまう。 俺の視線は倒れている男から離す事が出来ない。

 

 くそっくそっ……なんだ!? どうなってる?

 

 あんな見も知らずな奴のために、なんで俺が……!

 

 

 ……助ける、助けるんだ。誰の死も許したりできない……

 

 

 

 もう戸惑う事なく歩き出した俺に奴等も気付いたようだ。 何人かが振り向き、体の大きな男もこちらを見た。

 

 倒れていた銀髪の男の血が見えたとき、また大きく心臓が跳ねる音を遠くで聞いた。

 

 立ち上がった若い鎧のもう一人の男が何かを言った。 意味など分からないしどうでもいい。 それに……あのキズ! ダメだ死んでしまう……!

 

 思わず駆け足になった俺の頭に衝撃が加わり、鋭い痛みがこめかみに走った。 地面に倒れて付いた手に俺の血がポタポタと落ちた。

 

 血が、赤い血が落ちている……()()()()

 

 でもちょうどいい……

 

 立ち上がるのも面倒になった俺はベチャベチャと地面を這い、肩から腹にかけて真っ赤に染まった男にたどり着いた。 遠くから見ても美丈夫だと思ったが血に染まりながらも、その美しさは変わらない。 その青い碧眼を大きく見開き俺を呆然と見ている。 傷口を見ると深く抉れていて、心臓の鼓動に合わせてだろう血液がドクッドクッと流れ出て行く。

 

 

 大丈夫……助けるよ。 こんなキズなんて……

 

 

 熱に浮かされたようにもう冷静な判断なんて出来ない俺は、手元に見えたナイフを右手に持った。 横にいる大男が何か言った気がするが、耳にすら音は響かなくなっていた。

 

 このナイフをどうすればいいかなんて簡単だ。

 

 ただココに突き立てて、俺の体を(にえ)にすればいい。 どうせ怪我なんてすぐに治るし、今迄と同じことだ……

 

 痛みなんて心から離してしまえばいい。

 

 人が泣くところなんて見たくはない。

 

 そう、俺の事なんてどうでもいい。

 

 

 つらつらと考えながらナイフを掌に突き立てた。 思ったよりずっと痛かったが、まだ足りない。

 

 喉から叫び声が出ないから、五月蝿くなくてよかった。

 

 抉りながら引き抜くと赤い血が溢れてくる。 子供みたいな手は赤く染まり、手首まで伝わる。

 

 目の前の傷口に押し当てれば後は勝手に始まるんだ。

 

 まだ、まだ足りない……?  彼の碧眼が俺を見た。

 

 分かってる、大丈夫。 まだまだ幾らでも贄はあるんだから。

 

 俺はナイフをもう一度握り締めて、力を込めて引いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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6.王都リンスフィア

 

 

 

 

 

 

 

 リンディア王国

 

 カーディル=リンディアを王と戴く、400年以上の歴史を誇る大陸中央に位置する大国だ。 魔獣が現れる300年前から存在する数少ない人の国。 人口は王都リンスフィアと周辺部だけで30万人を超え、今や世界最大の国である。

 

 尖塔3本が特徴の白亜の王城を中心にして内円部、外円部に分かれており、更に都の外周には畑や放牧を行う農家が点在している。 王城から周辺を眺めれば、遥か遠くまで丘と緑の絨毯が敷かれた美しい景色を見る事が出来るだろう。 魔獣が闊歩する森はまだ遠く、王都の国民は未だ日々の安寧の中にいた。

 

 だが、国を守る貴族達は領地を少しずつ森に喰われ、数を減じ今や王都周辺の直轄地しかほぼ残っていない。 内円部に住む貴族達は騎士団に参じるか、一部王政を補佐する内務にしか力を表せない。

 

 王国の最盛期は人口100万を超える冠たる大国だったのだ。

 

 

 

 

 

 副団長ケーヒルにも劣らない体躯を揺らすリンディア王カーディルは、毎朝の重要な祭祀である白神への祈りを捧げるべく王の間の更に奥、白祈の間(はくきのま)に来ていた。

 

 リンディア王は王政の主でありながらも同時に神へと祈りを捧げる祭司でもある。

 

「白き神々よ、寄る辺なき迷い子の我等が祈りを捧げる事をお許し下さい。 どうか小さき我等の声にその輝く耳を傾け下さい……」

 

 祈りの神代文字が彫り込まれた王冠を外し、右手には真円の銀円盤を持ち、中空に向け目を細めて祈願宣誓の言の葉を綴る。

 

 どれだけの日々を白神に祈って来ただろう……

 

 白髪混じりの白銀の髪を後ろでまとめ、綺麗に整えられた顎髭もやはり鈍い銀色をしていた。

 

 少しだけ緑掛かった青い目も今は濁って見える。

 

「神々は答えて下さらない……人々は今こそ救いが必要なのに……」

 

 つい不遜な言葉を吐き、口をつぐむ。

 

「いや……私の祈りが足りないのだ。 我が妻アスも言っていたではないか、祈りに終わりはないと……」

 

 顔を上げてもう一度祈りを捧げるべく再び祭壇に立った。

 

 

 

 

 

「陛下、先程早馬が参りました。アスト殿下がお戻りになるとのこと」

 

 カーディルは眉をひそめて侍従長へ言葉を返す。

 

「黒の森周辺部の調査はまだの筈だが……何かあったのか?」

 

「詳しくはなんとも……ただ戦死者が出たと聞いております」

 

「……そうか。戻ったら報告に来るように伝えてくれ」

 

「はっ」

 

 深々と頭を下げた後、足音も立てずに歩き出す侍従長に再び声を掛ける。

 

「アスティアはどうしている?」

 

 侍従長は振り返ってニコリと笑い答えた。

 

「はっ。陛下と朝食を一緒にと、食の間にてお待ちございます」

 

「そうか、そうだな」

 

 カーディルは先程迄の肩に掛かった重みが軽くなった気がして笑った。

 

 

 

 

 アストとケーヒル、共の騎士の3人は、王都の外円部の大門まで辿り着いた。 門は既に開け放たれており、騎士団が両脇を固めてアスト達の帰りを待っていた。

 

 アストはいつものように大きな声で皆に礼を言うべく口を開きかけたが、懐に抱く少女が驚いてはいけないと手を挙げて笑顔で挨拶をした。

 

 皆は胸元にいる誰かが気になるようだか、流石に声をかけたりはせず見守っている。 マントで覆い隠していたのも意味があったのだろう。 この少女の首周りの刻印は遠くからでも目立つため、一先ずは隠すようケーヒルの進言があったのだ。

 

 両脇の騎士団達には唇に人差し指を立て、静かにするように頼みながら進む。 皆も直ぐに察してくれたのか、鎧の音すら消えたのには思わず笑顔がこぼれてしまうのだ。

 

 大門を抜けると、王城まで3つある門を走り抜ける事が出来る王族専用の馬車と、直ぐ側に背の高い20代中頃の女性が立っていた。 見事な立ち姿の彼女は、リンディアでは珍しくない金の髪を肩口で切り揃えている。

 

 少女を落とさないよう気を付けながら馬を降りてその女性に顔を向けた。

 

「クイン、態々の出迎え済まないな。 助かるよ」

 

 侍女の一人でもあるが、いくつかの特殊技能を持つクイン=アーシケルは、王族専任の相談役でもある。アストより頭一つ分低い位置にあるリンディアでは一般的な青い目をアストに向け、優雅に礼をした。

 

「お帰りなさいませ、殿下。 ですが、使用人が出迎えた事に礼は必要ありません」

 

「あー……わかったわかった、全く……」

 

 苦笑するアストにクインは言葉を重ねた。

 

「殿下……その子が先触れにあった者ですか?」

 

 マントに隠されているが、少女であると聞いている。

 

「ああ、クイン。今は落ち着いているが、昨夜はかなり魘されたのか苦しんでいた。 私達では何も出来ないからな、急いで帰って来たんだ……色々込み入った事情もある。詳しくは馬車の中で話そう」

 

 会話の後半は小声になった事でクインも緊張した面持ちで頷いた。

 

 

 

 

 

「致命傷を治癒ですか……? 殿下それは流石に……」

 

 アストを疑うなど不遜だが、クインは整った眉を僅かに歪めた。

 

「ああ。勿論信じられないだろう、だが事実だ。それにまずこれを見て欲しい」

 

 架けてあったマントを優しく捲る。不思議な色合いの髪が揺れて目を取られたが、そんな事はすぐに意識から消え去ってしまった。

 

「刻印……信じられません……これ程の……」

 

 整った(かんばせ)を再び歪め、眼を見開き少女の刻印をクインは見つめた。サラサラと黄金色の髪がかけてあった耳から零れ落ちるが、馬車の揺れも気にせず瞬きも出来ない。

 

「これ程とは、やはり強い癒しの刻印なのか?」

 

 クインは即座に首を振り否定の言葉を口にした。

 

「いえ……まだ詳しくはわかりませんが、癒しの刻印ではありません。驚いたのはここです」

 

 神代文字が連なりアストが蛇が首をもたげたと表現した左耳の後ろ辺りを指差し、少し震えた唇を開く。

 

「記憶が間違いなければ、これは<3階位>です、殿下。わたくしも実物は初めて見ます」

 

「3階位……神に至る架け橋か……」

 

「はい、人が到達出来る最も強力な階位です。勿論4、5階位とまだ上がありますが、それはもはや神の領域ですから……」

 

「想像を超え過ぎて混乱するが、癒しの刻印ではないのは間違いないのか?」

 

「それは間違いありません。実物も見た事が有りますし、文献で何度も確認しています。」

 

「ではあの奇跡はなんだったんだ……?私は間違いなく死んでいた。 助かる筈のない致命傷だったのに……」

 

「殿下、癒しの力にそもそもそのような力はありません。薬効を高めたり、高熱を下げるよう働きかけたり、そのような刻印なのです」

 

「だが、ケーヒルやジョシュ、みんなも間違いなく見たんだ。私だけが見た夢なんかじゃない」

 

 美しい所作で右手を顎に当てたクインは、少し考えて告げた。

 

「……殿下、あちらを向いて下さい」

 

「なんだ?突然に?」

 

「この子に他の刻印がないか調べます。それとも一緒に服の中を見ますか?」

 

「っ! いや!わかった。」

 

 慌てて骨が折れるのでは、という勢いで体の向きを変える。

 

 アストが此方を見ていない事を確認して、胸元から服を持ち上げ覗き込んだ。

 

「ヒッ……!うそっ!」

 

 クインは普段被っている仮面も気にせずに声を上げてしまった。

 

「ど、どうした?クイン、大丈夫か!?」

 

 そこで振り向かなかったアストは褒められていいのかもしれない。

 

「い、いえ、あっあのっ……申し訳ありません。もう振り向いても大丈夫です」

 

 何とか本来の落ち着きを取り戻し、持ち上げていた服を整えてアストに答えた。 だが、平静を装っても少女から眼を離せない。 隠した動揺は暫く治らないだろう。

 

 

 

 

 

 もうすぐ王城に着く最後の門を抜けるところで馬車の揺れが緩やかになった。ここからは速度は出せない区域だからだ。

 

「大丈夫か?クイン?」

 

 再び少女を挟んで向き合ったクインに先程と同じ質問をする。

 

「はい。御心配をお掛けして申し訳ありません」

 

 しかしクインの様子は変わらず、白い頬が赤く染まったままだ。

 

「で……? どうした……刻印はあったのか?」

 

「……あったと言えば……ありました。その……いくつか……」

 

「……いくつか? はっきりと言ってくれ」

 

「未だに信じられませんが、見える範囲で3つの刻印が……ありました」

 

「3つだって? 喉にある刻印を入れて3つもあるのか!?」

 

「服の中に見えるだけで、です。つまり4つの刻印がこの子に刻まれているのです」

 

「なっ……」

 

 絶句するしかないアストは、唾液を無理やり飲み込んで何とか話を続ける。

 

「そんな事が有りうるのか……? 確か人が授かる加護の限界は2つだった筈だろう?」

 

「詳しくは調べてみないと……ただ恐らくですが癒しの刻印はありました。いえあったとしても、殿下の言われるような力はある筈もないのですが……」

 

 ふと思い付いたクインは言葉を重ねる。

 

「一つ気になることがあります。もし人の許容を超えて無理矢理刻印を刻まれたなら、この子は魂魄の限界を超えて力を行使したのかもしれません。長い眠りも昨晩の苦悩も人としての最後の抵抗と考えることが出来ます……」

 

「つまりこの子は自分の死の危険を顧みずに、私の命を救い、このまま眠り続けると……?」

 

 アストの顔が迷子の子供のように、涙が溢れそうになる。

 

「殿下、あくまで推測です。刻印も詳しく調べれば何かわかるかもしれません。お祖父様にも力を借りましょう」

 

「コヒンか……そうだな、この子はまだ生きている。きっと目を覚ますはずだ。クイン、体を清めてやってくれ。私は陛下に報告に上がる。何かわかったらすぐにでも教えて欲しい」

 

「はい、お任せくださいませ」

 

 

 

 

 王城に到着した三人は其々に別れた。クインと少女はそのまま浴場に行くのだろう。相手が子供とはいえクインがあっさりと抱き上げた時は驚いたものだが「凄く軽いですよ、この子 」と答えてそのまま姿を消した。

 

 アストは先ず自室に戻り、簡単に体を清めた後すぐにケーヒルと合流し、二人で王の間までの長い廊下を歩いていた。

 

「刻印が4つですか?そんな馬鹿な……」

 

「クインが確認した、間違いないだろう。あれだけの奇跡もそれなら納得出来るだろう?」

 

 とりあえず、クインが言った刻印の負担が体を蝕んでいる可能性は伏せて伝える。

 

「ふむ、そう言えばそうですな。刻印の調査はクイン嬢が?」

 

「ああ。コヒンの知恵も借りるみたいだが、クインなら間違いないだろう」

 

「クイン嬢の御祖父でしたかな?元宰相でありながら神代文字の大変な権威と伺っております」

 

「そうだ。クインがあれだけ刻印に詳しいのもコヒンの影響だろう」

 

 王の間に着くと二人は一度目を合わせ頷き、扉を押し開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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7.アスティアの日常とエリ

王女様が登場。重要なキャラの一人です。


 

 

 

 

 

 アスティア=エス=リンディアの朝は早い。

 

 侍女のエリが部屋を訪れる前にベッドから起きだし、自分で着替え父カーディルや兄アストと同じ白銀の髪を整える。腰まで伸ばしたその髪に一人で櫛を通すのはなかなか大変な作業だが、毎日のことだ。慣れたものだった。

 

 

 アスティアの住まうこの部屋は、精緻な正方形をしている。王族にしては小さめのベッドは部屋の中央からやや窓側にずれており、朝日が丁度に顔を照らしてくれるのだ。化粧台は人が三人は横に並べる程の大きなものだが、これは王妃アス……つまりアスティアの母が使っていた台を繋ぎ合わせて並べているからだろう。そしてそこにはアスが作った押し花の額が綺麗に飾られている。アスティアは毎朝母を感じる事が出来るこの場所が好きだった。

 

 自分を愛し、家族を愛してくれた優しい母はもういない。今から7年前に前線へと慰撫に訪れた時、アスティア達兄妹を守るため魔獣の前に立ちはだかったのだから。14歳になる自分は、兄のように魔獣を倒す事も出来ないし、政治に関わる事も出来ない。それでも自分に出来る事を探し、考えて始めてみればいい。もし間違っていても父や兄が守ってくれている。愛する母アスもそうしていたし、下を見ていても何も変わりはしないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 私は思う。

 

 大昔の王女は、着替えや入浴、果ては食事すら自分ではしなかったらしい。だが、今は時代がそんな事を許さないだろう。鈴を鳴らせば誰かがすぐにやってきたり、絶えず側に誰かが侍っているなどお伽話のお姫様だ。

 

 侍女のクインなどは、いつ休んでいるのかと城内の不思議に数えられる程だ。いや、そもそもクインは侍女なのだろうか?

 

 ただ()()()()()は、本当に仕事をしているのか不思議だけれど……

 

 確か兄様(にいさま)は黒の森周辺部の調査に同行しているから、今は城にいないはず。

 

 私は今日の予定を頭に浮かべる。お父様と朝食は一緒にしたい。祈りを捧げたあとなら、まだ時間はあるわ。エリを待って午前中の神代文字と紋様学の予習をしましょう。午後は神器や祭器を磨いて整頓したいし、兄様がいないなら訓練場に行って皆に声をかけたりしないと。よーし!今日もやる事がたくさん!

 

 でも……でも……先ずは一言言わせて!

 

「エリ、遅すぎ!絶対寝坊してるでしょ!」

 

 アスティアの朝の第一声は、部屋に虚しく響き渡った。

 

 

 

 

 

 

「アスティア様!アスティア様!大変ですよ!……あっ……お早うございます。それよりですね、大変なんですよ!」

 

 部屋をノックすらせずに入ってきたエリに、思わず私は怒りを通り越して溜息をついてしまった。頭の中には、寝坊した言い訳は?ノックは?お早うの挨拶はついでなの?とぐるぐると言葉に羽が生えて飛び回っている。

 

「エリ……はぁ……おはよう」

 

「あっ……アスティア様、わたし寝坊なんかしてませんからね?昨日とは違うんです」

 

「アナタ昨日も寝坊じゃないって言ってなかった?やっぱり寝坊したんじゃない!」

 

 流石に私も我慢出来なかった。悪くないわよね?

 

「あっ、えっと……そんな事より大変な情報を仕入れてきましたよ!」

 

 ほんとにもうっ!エリが居ると、心がいつも大きな音を立てて踊ってしまう。エリって私より7つも年上のはずだけど……明るい赤毛をいつものようにお団子にしているエリを、思わず観察してしまう。背の高さだって私と大して変わらないし、ホントは子供なんじゃないかしら……?

 

「あのー?アスティア様?」

 

「なによ?」

 

 あっ今のは王女に似つかわしくない……まあいいかエリだし。

 

「さっき聞いたばかりの熱々の情報です。アスト様のことですよ?」

 

「兄様の?」

 

 悔しいけど興味を引かれてしまう。兄様は質実剛健、文武両道を走る自慢の兄なのだ。変な噂なら真偽を問わないといけない。

 

 ただ勝ち誇った顔のエリの頬を抓りたいけど。

 

「はい!どうやら予定が変わったそうです。ついさっき外の大門に到着されたそうですよ!しかも……しかもですよ」

 

 さっき大門に到着って、城までどれくらい距離があるか分かってるのかしら?一体何処から噂を仕入れているの?

 

「何かあったの?兄様は無事?」

 

「アスト様は勿論ご無事です。それよりもですね、アスト様が一人の子供を大事そうに胸に抱いていたそうです。子供は寝ていたみたいで出迎えたみんなにシーって静かにするようにしたって……アスト様はお優しいから……はぁカッコいい」

 

「……それで、それがなんなの?」

 

「アスティア様。気をしっかり持って聞いて下さいね…?その子供なんですけど、実は凄く凄く綺麗な女の子らしいんです。アスト様は馬車に乗るまで一度も誰かに触らせることも無かったって」

 

「らしいって、おかしくない?」

 

「それがアスト様のマントに包まれていたので、最初は分からなかったみたいです。ただ馬車に乗る時に少しだけマントがはだけた時に目撃されました。ちなみにこの話はその目撃者に聞いたので間違いないです」

 

 だから、城までの距離……もういいや、エリだし。

 

「ふーん……女の子ね……」

 

「アスティア様、嫉妬の刻印が疼きますか……?」

 

「そんな刻印無いから……無いわよね? でも、嫉妬はともかくとして気にはなるわね。あまりそっちの方は兄様少なかったし」

 

「ふふふ……」

 

 してやったりの顔をしたエリの頬を思い切り抓りたい……いや抓っちゃおう……あっ柔らかい……

 

「アズディアざま、痛いです……」

 

 

 あれから少しだけ予習出来たけど、エリの頬の柔らかさの研究に時間を取りすぎたみたい。

 

「もう時間よ。お父様を待たせてはいけないし、お腹が空いたわ」

 

「アスティア様。少し待って下さい」

 

 そう言いながらエリは私を化粧台まで連れて行った。整えたと思った髪に再度櫛を入れて、着ていた青いお気に入りのフルレングスドレスを整える。うん……やっぱり侍女だよね?

 

「アスティア様……?何かすごーく失礼な事考えてます?」

 

「エリって私の侍女だったと、思い出しただけよ」

 

「やっぱり……寝坊したのを怒ってるんですね!謝りますから……!」

 

 部屋を出る私にエリは泣きそうな顔でついてきた。

 

「ふふっ……エリ行きましょう」

 

 今日も一日が始まる。

 

 

 

 

 

 

「お父様、お早うございます」

 

 食の間に入ってきたお父様は、少し疲れた顔をしてる。 最近は食事の量も減ってるらしいし、しっかり朝食を摂って貰わないといけない。

 

「ああ、お早うアスティア。今日も綺麗だな」

 

「ありがとうございます、お父様。さあ早く席について下さい。今日は話すことがたくさんあるんですから。食事を摂りながらでいいので聞いて下さいね?」

 

 兄様が戻って来たことは勿論お父様もご存知だろうけど、詳しい事は知らないはず。エリに感謝しないと。

 

 あっ、このお野菜美味しそう。

 

「兄様が帰って来たらしいですけど、何かありましたか?確か調査の為に黒の森に行っていたのでしょう?」

 

「ああ、まだ詳しい事は聞いてないんだよ。午後には顔を出すだろうから話してみないとな……」

 

 良かった……朝食もちゃんと食べるみたい。

 

「そういえばクインの姿を見ませんね。珍しいです」

 

「アストの迎えに出たからな。ん……? 確かに変だな。態々クインを呼ぶとは何かあったか……?」

 

「クインを……?それなら多分……兄様が連れ帰った女の子の世話がいるのでしょう。いつまでも抱き抱えている訳にはいかないですし」

 

「女の子?詳しくは知らないが、アストが連れているのか?」

 

「ええ、それはそれは()()()()らしいですね」

 

 あれ?私本当に腹を立ててるのかな?嫉妬の刻印でもあったかしら?

 

「そ、そうか?アストの事だから滅多な事はないだろうが……アスティアも同席するか?」

 

「お父様、軍のお仕事の邪魔はしたくないですから、遠慮しておきます。でも、お礼は言っておきますね。そうだ!それより聞いて下さい!エリったらまた寝坊したんですよ!」

 

「ん?それはいけないな。そうだな……アスティア、いい方法があるぞ。聞きたいか?」

 

 露骨な話題の変更にもお父様は合わせてくれた。それにお父様の悪戯好きな顔は兄様にそっくり!あれ?兄様がお父様にそっくりなのかしら……?いやそれよりいい方法が聞きたい!

 

「エリの寝坊がなくなるなら、聞きたいですお父様!」

 

「クインに伝えるんだ。エリが最近寝坊して困ってるって」

 

 クインに!?想像してみよう。

 

「エリが……?そうですか……」

 

 そう無表情で言うわきっと。そしてエリのところに行って何処かの部屋に連れて行く。暫くしたら魂魄の抜けたエリが部屋から出てきて私に泣きつくでしょう。そして寝坊はなくなる、完璧。

 

「お父様、それ楽しそう」

 

 思わず口角が上がるのを慌てて両手で隠した。

 

 エリ……あなたの運命は決まったわ。女の子の事もあるしクインを探しましょう!

 

「白神よ、恵みに感謝します……お父様ありがとう、食事をしっかりと摂って無理しないでね!」

 

 

 よし!今日は楽しい一日になるわね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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8.それぞれの思い

沢山の評価とお気に入りに登録を頂き、驚いています。もし良ければ、感想など貰えると更に嬉しいです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスティアとのひと時を過ごしたあと、王の間の一室で軍務長ユーニード=シャルべから報告を受けていた。

 

 

 

 軍務長とは作戦立案や補給の管理、部隊編成に関して王、或いは騎士団長に上申を行い、更に内務に関しては実行責任者でもある事務方の長である。

 

 アスト達からの詳細な任務内容の吟味はこの後行われるが、そういった情報以外の委細も重要なため、時間が許す限り普段から謁見している。

 

 また王の間とは所謂玉座の間だが、正面の大扉から真っ直ぐに玉座まで伸びる赤絨毯や高い天井を支える柱だけでなく、その左右には大小5つの部屋が配置されている。

 

 魔獣関連、国内経済、物資の供給、治安維持、祭祀等の議事は毎日の様に行われており、カーディルの臨席如何に問わず各専門の長が中心となって活発な意見交換が行われる。勿論最後に決定するのは王であるカーディルだが、各部屋には地図や調査書、歴史書などが絶えず更新され、まさしくリンディアの中枢と呼べるだろう。

 

 

 

 ユーニードは白く染まった髪を薬料で撫で付けた頭を左右にふりながら、大量の書類や地図を机に並べている。瘦せぎすな体に鋭い眼光は見る者に威圧感を感じさせるが、事実ユーニードは冷静なあるいは冷徹冷酷な軍務長として知られ、自身もそれを否定しない。感情だけでは滅びの運命から逃れられないと信念を持っているからだろう。

 

「陛下、北限のユニス村が森にのまれた事が判明しました。もともと無人ではありましたが北部の森の侵攻は想定より早く、何らかの対策を講じる必要があるでしょう」

 

「北部地域で残る町や村はこれで殆どが消えてしまったか……ユーニード、次の住民の移動や住居の準備は進んでいるか?」

 

「はい。工程は9割以上が完了致しました。残りも問題ありません。これが本日までの工程進捗書です」

 

 カーディルは軽く目を通し頷いた。

 

「流石だ、ユーニード。ただ北部への部隊配置も再度練り直さなければならないな」

 

「その点ですが……陛下、改めて具申致します。北部マリギの森に侵攻し、マリギを取り戻しましょう。マリギの街はまだ森にのまれてから数年、復興も十分可能です。橋頭堡とし、更なる侵攻も可能になります」

 

「ユーニード……森を切り開こうとすれば即座に魔獣どもが襲い掛かってくるだろう。どれだけの犠牲を出すか分かっているのか?お前の息子も帰って来れなかったではないか……いや……すまん、それは余計なことだな……」

 

「御配慮痛み入ります。ただ陛下、座しては滅ぶのみです。確かに犠牲は避けられないでしょう、ですから損耗を最小限に抑える作戦も立案済みです。何処かでやらなければならない事は陛下もよくお分かりのはず」

 

「ああ、だがカズホート王国の例もある。カズホートは小国だったとはいえ森に隣接した国だ。ある意味で我が国より森に詳しく、軍の構成も練られたものだった……だが結果は知っての通りだ。カズホートは一晩で滅んだのだぞ?魔獣が群れを成して来たらリンディアですら簡単に滅ぶかもしれん」

 

「カズホートは森の資源を残すため<燃える水>を作戦に使いませんでした。それが敗因だったのは間違いないでしょう。火の刻印持ちも隊に組み込み効果を増大させれば、十分勝機はあると考えます」

 

「ユーニード……もう一度作戦書には目を通しておく。今はそれしか言えない、わかってくれ」

 

「……はっ」

 

 ユーニードの目に魔獣への憎悪が強く滲むのが見えて、カーディルは悲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

「アスト、ケーヒル、ご苦労だったな」

 

「陛下、ただいま帰還しました」

 

 玉座に座るカーディルを見上げアストはゆっくりと答えた。王の間にはユーニードも入れて4人だけだ。公務である以上親子としての会話は後になる。

 

「さて、黒の森周辺部の調査はまだであろう。早い帰還となった理由を教えてくれ」

 

「はい。黒の森に至る前、休息地の丘で中型魔獣二匹に攻撃を受けました。ご存知の通り、街道からもほど近く森も彼方の場所です。想定外の戦闘により、騎士テウデリク一名が死亡。……油断していた私を魔獣から庇った事で魔獣の一撃を受けました。遺体はその場で火の清めを行い、ヴァルハラへと」

 

 カーディルは俯き唇を噛むアストを見ると、真っ直ぐに育ってくれた喜びと共に、こんな時代でなければと思う。

 

「……そうか。テウデリクには心から礼を尽くさなけれならない。王として強き騎士は、宝であり誇りだ。また一人の親として感謝の念は尽きない」

 

 暫しの黙祷でヴァルハラへの道が平坦である事を祈った。

 

「……テウデリクの遺品があります。出来るだけ早く家族の元に届けたいと……また丘陵地に魔獣が現れた事を各隊に伝達したい事、部隊の再編を行う事、救助者が一名いた事、以上の理由により作戦を中止する判断を致しました」

 

「わかった、お前の判断は間違っていない。そうだなユーニード?」

 

「はっ、殿下のご判断で間違いないかと」

 

「ケーヒルは何かあるか?」

 

 ここまで語る事がなかったケーヒルは、初めてカーディルの目を見た。

 

「そうですな……あの休息地に二匹も現れた理由が気になります。今までの調査でもあのような事はなかった。ただの偶然なのか、奴等があの場所に来る理由があった……」

 

「どうした……?」

 

 ケーヒルの突然の沈黙が気になったカーディルは問う。

 

「いえ、申し訳ありません。何にしても他の休息地での待機体制も変更しないといけないでしょうな」

 

「ふむ、詳しい事は今後詰めなければならんな」

 

 

 

 

 

 

 その他の様々な報告を一通り終え、一先ず落ち着いた事で空気が弛緩したのを感じたカーディルは、急に悪戯好きな子供のような顔になってアストを見た。

 

「アストよ。先程報告のあった救助者とやらは、随分美しい娘だそうだな?お前が大事そうに抱き抱えて帰ってきたと噂になっているぞ?」

 

「なっ……何を言われるのです!子供の上、怪我もしていましたので、大事をとっただけの事です。変な勘繰りはやめて下さい!」

 

「ほぉ……クインまで引っ張り出してとは、随分だと思ったのだがな? くくく……どうやらこれは父と息子として話さねばならないようだな。よし……ユーニード」

 

「はい」

 

「黒の森周辺部の調査はどちらにせよ早急に行わなければならない。すぐに編成に取り掛かってくれ」

 

「はっ、ではすぐに」

 

 ユーニードは、一礼をして王の間から去って行った。

 

 

 

 

 

 

 自室に向かう最中、ユーニードは先程から頭にある違和感が何なのか分からず立ち止まった。

 

「そうか……クインだ。救助者が孤児だとしたら、王都内にも孤児院はいくつもある。ましてやこの時代だ、子供をなくした親も多く里親探しにも困らない。城まで連れ帰るのも珍しいがクインに預けるなど、そもそもおかしい。子羊一匹に小隊をぶつけるようなものだ」

 

 ユーニードはクインが大変有能な女性である事を知っている。薬学、神学、神代文字に明るく、一流の侍女でもある。頭脳も明晰で王族の相談役を仰せつかってまでいる。だが子守に向いてはいない……いや出来なくはないだろうが、適任は他に幾らでもいる。

 

「ふむ、少しだけ調べてみるか……結果が殿下の想い人だったなら、それはそれで目出度い」

 

 違和感が解けたことで、ユーニードは再び歩き出した。

 

 

 

 

 

「で? アストよ、その娘について何かあるのだろう?」

 

 カーディルはあの場で話を広げたくない事を察し、ユーニードを遠ざけたのだ。

 

「陛下、いえ父上……先程の報告には入れていない事があります。実は……テウデリクが庇ってくれた時、私も魔獣の一撃を食らいました。死んでもおかしくなかったのです」

 

「なっなにっ! アスト大丈夫なのか!?」

 

 予想していなかった返答にさすがのカーディルも驚きを隠せず、立ち上がりアストに近づいた。

 

「父上、大丈夫です。もう殆ど完治しています。ただその事と連れ帰った少女についてお伝えしなければいけないのです」

 

 アストはあの日に起きた事の全てをカーディルに話した。

 

 

 

 

「そんな事が本当にあったのか……?信じられない……ケーヒルも見たのか?」

 

「はい、むしろ意識が朦朧としていた殿下より、私の方がはっきりと見ていたと言えます。全てが本当に起きた事です、陛下」

 

「それでクインか……刻印が3階位、しかも4つの刻印か……」

 

「今はクインに任せていますが、当面は情報は伏せて私が責任を持って保護したいと思っています。許可頂けますか?」

 

「ああ、寧ろそうする他ないだろう。ましてや聞けばアストの命の恩人ではないか?十分な対応をすることを許可しよう。部屋は来賓用の黒の間を使え、今や来賓室など使う事がないからな。それと典医を呼んでおくか?クインが様子を見る以上大丈夫だとは思うが念のためだ」

 

 

 この黒の間は後に<聖女の間>と名前を変え、カズキの為の部屋となるがそれはまだ先の話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クインはアスト達と別れたあと、そのまま来賓用の浴場に向かっていた。見れば赤黒く汚れた服一枚しか着ていない、黒髪も血や泥だろう汚れが付いたままだ。今の時間は人の流れも少ないが、念のため首元は持っていたハンカチを掛けて隠しておく。一人二人程度とすれ違う際は、ギョッと目を見開き何かを言いたそうな様子だが、連れているのがクインと知ると軽く頭を下げて去っていった。

 

 年齢はおそらく12から15といったところだが、初めて見る姿に確証はない。しかしクインとしてはやはり、刻印が気になってしょうがない。これから刻印を刻んだ神々はどの柱なのか、何よりどういった加護なのかを調べなければならない。その為にも早く体を清めなければいけないだろう。

 

 漸く到着した浴場のドアを開けるため一度少女を優しく下ろし、壁に寄りかからせたクインは懐から専用の鍵を取り出しドアの錠を解除した。もう一度少女の膝裏と背面に両腕を回し抱き上げて中に入る。

 

 更衣室には、新品の下着、体を拭く綿の手拭い、来賓用の絹の夜着、簡易ドレス等が常備されている。以前はもっと種類もあったらしいが、一人の少女には十分な量だろう。準備をする為、いくつも配置してあるソファの一つに横たえて浴場の中に入った。

 

 クインは黒く輝く清めの石台にお湯を何度か流し掛け、人肌程度になるよう調整する。

 

 清めの石台とは、クインの腰高くらいの高さで、大人一人が丁度横になれるような大きさの石、いや岩の塊と言えばいいだろう。まるで星空を固めたような色合いの立方体の石は、硬度も高く水捌けもよい。やはりこれも貴族が下女に体を洗わせる時に使用するものだが、今では殆ど使われていない。ただ今回のような意識のない人間を洗うには適しているだろう。そう考えながら、石鹸や香油、手拭い、手桶などを並べ更に鋏も配置した。クイン自身も浴着に着替えて少女を石台まで運びそっと寝かせる。

 

「さて、先ずはこの服から……」

 

 手首に巻かれた止血帯を取り除き、もう着る事もないだろうその生地に鋏を入れていく。チョキチョキと音をさせながら少しずつ少女の体が露わになっていく。

 

 

 

 

 

 クインは自身の息どころか、心臓すら止まったのでは…と思う程の衝撃を受けていた。

 

「信じられない……1,2,3,4……5,6……7つ、7つの刻印?こんな事、有り得ないわ……こんなのどんな文献でも見た事がない。それにこの紋様はどの神々の刻印なの……?印象で言うなら鎖というところだけど……」

 

 首、左肩、右胸、下腹、右太腿、左脛、左尻の計7箇所に大小の刻印が刻まれている。夢中になっていたクインは、このままではキリがないと頭を振り、少女も風邪を引いていけないだろうと体を洗い温めはじめた。

 

 

 石鹸を泡立て、先ずは素手で万遍なく洗いはじめる。濯ぐたびに真っ黒な汚水が流れたが、その内に透明になっていく。更に手拭いを泡立て仕上げに優しく磨き上げる。この頃になると、少女のしっとりした肌、僅かに膨らんだ乳房、腰のくびれから小さなお尻までその美しい体に、クインでさえも思わず溜息が出てしまう。泡立った体にお湯を回し掛けて漸く艶やかな全身が露わになった。

 

 

「本当に綺麗な子……この黒髪は初めて見るけど、まるで夜空の様に吸い込まれそう。少し痩せているかしら……肌も変わった色だけど綺麗ね。女性として完成に近づいてる……思ったより年齢は高いのかも」

 

 でも綺麗すぎるわ、この肌は異常と言っていい……

 

 王族であるアスティアですら、多少のシミやキズはあるものなのに。この子はシミひとつ、キズひとつ存在しない。だからこそ手首のキズは目立つけれど、それ以外はまるで生まれたての赤子か……あるいは……

 

 ある可能性を考えたクインだが、今は別にやる事がある。濡れた体を柔らかい綿の布で拭き上げ、肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪を包み込み優しく押さえて水分を取る。香油を薄く塗り、軽く揉みほぐしながら仕上げを行った。

 

 そしてクインも軽く体を拭き、予め用意してあった筆と用紙を手に取り刻印を模写し始めた。自身で調べるが、見渡した限り一部しかわからない。やはりコヒンお祖父様の力を借りなければならないだろう。そう考えたクインは丁寧に、時に興奮しつつ筆を動かし続けた。

 

 

 

 

 

 

 少女に下着と星空をあしらった濃い群青のワンピースを纏わせたクインは、客間の一室のベッドに少女を横たえる。絹の肌掛けで覆ったあと、少し乱れた黒髪を手櫛で整え、軽く柔らかい頬をひと撫でして部屋の鍵を閉めるとそこを後にする。

 

 あの様子なら目覚めるとしてもまだ先だろう。いや目覚めてくれればいい。

 

 美しい少女の目が開く時を想像しながら、祖父であるコヒンの元へクインは歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 




次回、漸く主人公が動き出します。


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9.聖女の目覚めと脱走 その顛末①

お気に入りが100件を超えました。ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 

 

「エリ、本当にここで間違いないのよね?」

 

「アスティア様……何回目ですかその質問。間違いありませんよ!クインさんの目撃情報と、客室の帳簿まで確認してきたんですから。それに、アスト様のこと聞くんですよね?」

 

「だって、間違って入ったら大変じゃない……」

 

 私はエリに何度も確認するが、不安でしょうがない。だってこんな風に人に会うって初めてだって気付いてしまった。今までは向こうから会いに来てくれたから。

 

 

 

「エリ……ノックしてくれない……?」

 

 うっ……エリのジト目が私に突き刺さる。

 

「わかってる、わかってるわ……よ……ふーーっ」

 

 コンッコンッ

 

 軽く拳を握って目の前の白いドアに二度当てた。

 

「静かね……」

 

「返事ないですね?まだ寝てるんでしょうか?」

 

「もう夕方よ?それはないと思うけど……お腹だって空いてるだろうし……」

 

 もう一度……コンッコンッ

 

「もう、どいて下さい!起きてますかー?お客様ですよー?」

 

 ドンドンドンッ!

 

 エリがおもむろに両手を上げてドアを叩き始めた!!

 

「ちょっ……ちょっとエリ! 何やってるの!?」

 

 驚いた私を置き去りにしてドアに耳を当てるエリを見て、固まるしかない。

 

「……やっぱり起きているみたいですよ?音がしますから」

 

 エリ……貴女やっぱりクインに教育を受け直してもらいましょう、お寝坊の事もあるし。

 

 懐から鍵束を出したエリは戸惑う事なく鍵をより分け、鍵穴に差し込み回した。

 

「入るわよ……」

 

 ドアをゆっくり開けると、カーテンが閉められたままなのか部屋の中は薄暗い。ぼんやりとベッドの上に上半身を起こした小さな体が見えた。

 

「やっぱり起きてるじゃない……返事くらいしなさいよね!」

 

 兄様が大事そうに抱いて帰ったらしいその姿を見た瞬間、僅かな怒りが浮かび口調がきつくなってしまったが、もう遅い。少し後悔……この子も驚いたみたいで体が震えるのが見えた。

 

「エリ……カーテンを開けてくれる?」

 

「はい、少しお待ちを」

 

 エリが窓の方に行くのを目で追ったあと、もう一度ベッドの上の少女を見てみる。明るくなった部屋にいるその少女が目に入って、胸が締め付けられたようにギュッとなったのがわかった。

 

 漆黒の髪は肩口で綺麗に切り添えられている。眼が綺麗……深い翡翠色で光が当たると少し明るく見えるのね……何処か不安そうだけど、さっき怒鳴ったから……肌も不思議な色合いだけどシミとかも無い本当にお人形みたい。群青のワンピースかな?少し慎ましやかな胸もこの子の雰囲気にぴったり。首には何だろう?ゆったりと薄手の絹だろうか……何かを巻いている。

 

「はぁー……確かに綺麗な子ですねー……でも不思議な髪だし、目もあまり見ない色だなぁ……」

 

 エリが無遠慮に近づいて容姿の品評を始めたので、頬を抓ってこっちに引っ張る。ほらこの子だって戸惑ってるじゃない!

 

「エリ!失礼でしょう!おバカ!」

 

「痛いです……アスティア様……」

 

「反省しなさい!まったくっ!」

 

 とにかく……とりあえず挨拶しないとね。

 

「驚かせて御免なさいね?私はアスティア、アスティア=エス=リンディア。このリンディア王国の王女よ。こっちはエリ、私の侍女」

 

 彼女の美しい眼を見ながら声をかけたんだけど……どうしたんだろう?酷く困惑した様子であちこちに目を逸らしている。

 

 なに?なんなのよ?

 

「ちょっと……挨拶くらい出来ないの?こっちをちゃんと見なさい!」

 

 思わず近づいて顔を両手で挟んでこちらに向かせようとしたら、慌てたのかベッドの上を後退りして向こう側にバタッと落ちてしまった。落ちた拍子に白い下着と何かが描かれた太ももや足が目に飛び込んできたが、先ずは怪我が心配だ。

 

「……ちょっと大丈夫!?」

 

 すぐに起き上がってベッドの淵に手を置き立ち上がったのを見てホッとするのも束の間、喉や口を指さして何かを訴えている。ここまでくれば私も理解できた。

 

「あなた……喋れないの?」

 

 

 

 彼女の手を取りベッドにもう一度座らせる。私はエリが運んで来た椅子に腰掛けて思わず頭をひねってしまう。

 

「困ったわね……これじゃあ何もわからない。エリ、どうしたらいいかしら?」

 

「アスティア様。筆談すれば良いのではないですか?」

 

 エリにしては鋭い助言ね!何かを察したのかまたジト目になったエリは置いておいて、それでいきましょう。

 

「そうね、ペンと紙を用意してくれる?」

 

 エリは部屋の窓側にある机の引き出しから紙を何枚か取り出して、ガラス製のつけペンとインク壺を取り出した。

 

「クインさんは筆派でしたけど、アスティア様はやっぱりペンですよね」

 

「羽筆は苦手……クインみたいに綺麗に書けたらいいのだけれどね……」

 

「どうしたの?」

 

 何故か目の前の少女が引き出しの方をチラチラと見て落ち着かなくなるのを見ながら、その引き出しを戻そうとして止まったままのエリに声をかける。

 

「うーん……確かここにはナイフと鋏があったはずなんですけど……」

 

「ふーん……まぁいいわ。さてと、ワタシノナマエハアスティアデス、アナタハ?っと」

 

 サラサラと簡単に書き込んだ紙を黒髪の少女に見せた。

 

 紙を暫く眺めていたが、彼女のその翡翠色の眼から涙がポタポタと溢れるのを見て私は思い切り動揺した。

 

「どっ……どうしたの?あなた、大丈夫?」

 

 俯き、ぐっとその細い腕で涙を拭い、側にあった枕の下から光るものを握って立ち上がったと思うとドアを勢いよく開けて走って消えて行った。

 

 突然過ぎて訳もわからず……呆然としてしまう。

 

「な、なに? どうしたの!?」

 

 エリを見ると同じく呆然と口を開けてドアの方を見ていた。

 

「ア、アスティア様。とにかく誰かに知らせないと……クインさんでも、アスト様でも」

 

「そ、そうね!急ぎましょう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 アストはカーディルと会話を終えて、クインを探していた。

 

 少女の状態も気になる上、黒の間で保護する事も決まった。刻印の事も何か判明したかもしれない。何よりまたあの少女に会いたい、そんな事を思いながら階下に降りてきた。

 

 先程会った者によると、クインはコヒンのところにいるらしい。おそらく刻印の事について早速話しているんだろうと、アストは歩みを進める。

 

 そのコヒンは文献等の保管庫のすぐ横に配置してある元は司書が居た部屋を独占して日々神代文字を研究している。宰相を引退する時にカーディルに願った褒賞がそれだった。

 

「クイン。いるか?入るぞ」

 

 軽くノックをして少し重いドアを開ける。蝶番が悪いのかギィと音を立てた。

 

 中に入ると、この狭い部屋に対して巨大と言っていいテーブルを挟んで手前にクイン、反対側には頭の髪を剃り上げている小柄な老人が座っている。クインによく似た青い眼をしたその老人こそ、リンディアの元宰相で今は自称神代研究家のコヒン=アーシケルだ。そしてクインの祖父でもある。

 

 部屋の壁には大量の本棚に並ぶ本や巻物があり、天井まで埋め尽くされている。すえた黴の匂いが鼻につくが、アスト自身もこの匂いが嫌いではない。少し暗いがテーブルの上にあるランプが淡く部屋を照らしている。幻想的と言ってもいいくらいだ。

 

「おお、殿下。こんなむさ苦しいところにようこそおいで下さいましたな。クインなら随分前からおりますぞ」

 

「殿下、お呼び頂ければいつでも参ります。自らが使用人を探すなどどうかお控え下さい」

 

 ある意味対照的な答えにアストは思わず微笑んだ。

 

「ふふっ、二人ともありがとう。クイン、あの子はどうだ?怪我の具合も見て貰えたか?」

 

 アストは椅子を本の山から引っ張り出して座りつつクインの方を向く。

 

「はい、今は客室の一室に寝かせてあります。怪我とは左手の事でしょうか? 傷口も塞がり、血色も心音も特に問題ありませんでしたので、一先ずは大丈夫かと思います。 外から鍵も閉めましたので、誰も入れないでしょう」

 

「そうか……良かった。クイン改めて礼を言うよ」

 

「殿下……」

 

「わかってる。使用人に礼は不要だろ?でも言いたい気持ちなんだ。受け取ってくれ」

 

「……わかりました」

 

「コヒンも聞いてくれ。先程父上に全てを話した。城内での保護、黒の間を彼女に開放する事も許可して貰ったよ。当面は刻印やその力に関しての情報は伏せる事になる。未知数な上、彼女の意思も確認出来ていない。それに半端に知られてしまえば良からぬ事を考える者もいるだろうからな……おっと……コヒンは詳細は聞いているか?」

 

「ほっほっ、クインから聞いておりますぞ。お命が助かって本当に良かった。その娘には感謝しなければなりませんのぉ。そして何より刻印!あれは凄いですな!この爺いは久しぶりに興奮しておりますぞ!」

 

「ほう……その分だとあの4つもある刻印の秘密が少しはわかったのか?」

 

「殿下……その事なんですが……」

 

 クインが馬車でのあの時のように、言いづらそうにしている。

 

「実は……」

 

 

 

 

「7つ……7つだって……? 嘘だろう? 詳しくない私だって、それがどれだけ異常な事なのか分かるぞ」

 

 クインからアストへ渡された紙には、刻印が刻まれている場所、判明している加護が簡単に纏められている。

 

「慈愛、癒しの力、憎しみ? 他に3階位の刻印だって!? しかも3つの刻印で? 首、下腹、脛。下腹が慈愛か……後の二つはまだわからないと?」

 

 少女には何度も驚かされたが、まだまだ足りなかったようだ。

 

「殿下……これはまだ不確定な上にまだ不明な点も多いのですが、癒しの力は……5階位……ではないかと思われます」

 

 その言葉に絶句し、クインの顔を穴が開くのではと言われるくらいに見詰めてしまう。

 

「5階位……5階位か……それではまるで物語に出てくる<聖女>のようだな。ほら、世界を救い王子様と幸せになる……」

 

 自身が王子である事も忘れてアストがこぼした。

 

「おお……聖女……殿下、見事、見事ですぞ……」

 

 コヒンが刻印の描かれた紙を震える手に見ながら呟いた。

 

「この神代文字が何なのか引っかかっておりましたが、見た事があるのに出て来なかったのです。ですが思い出しましたぞ……聖女、癒しの力<聖女>です。間違いありません。 殿下……これは……神々の、神々の救いですじゃ……遂に祈りが届いたのです……」

 

 コヒンは目尻に涙を溜め、万感の思いを込めて天井をいや天を見上げた。

 

 

 

 

 

「父上に伝えないと……日々の祈りが遂に届いたんだ。きっとお喜びになるぞ!」

 

 アストは立ち上がり部屋を出ようとした。だがすぐにクインから声がかかり足を止める。

 

「殿下、お待ちください。お伝えするのはもう少し待って頂けませんか? 皆に聖女の降臨を伝えられるのはまだ早いかと」

 

「なぜだ?父上だけじゃない。国民全て、いや世界が待ち望んだ救いかもしれないんだぞ!」

 

 思わず声を荒げたアストにも動じずにクインは淡々と言葉を重ねる。

 

「先程、殿下ご自身が言われました。彼女の意思を聞いていないと。意識のない彼女を無視して事を進めるのは感心致しません。殿下はそれで良いのですか?……それに……」

 

「それに……?」

 

 クインの言った事は尤もだと、心を落ち着かせてもう一度席に着き耳を傾ける。

 

「残りの刻印が気になります。一つだけですが……憎悪をしめす刻印です。慈愛を持つ彼女に憎しみの刻印など不自然だとおもいませんか?明らかに相反する刻印です。お祖父様、先程殿下が来られる前に言われた事をもう一度お願い出来ますか?」

 

 コヒンも少し落ち着いたのか、今は椅子に座って前を向いていた。

 

「うむ……実は先程刻印を刻んだ神は誰なのかを話しておったのです。これを見て下され」

 

 テーブルにあった幾つかの本を避けて出てきた古い文献をアストに見せてコヒンは続けた。文献には鎖のような紋様が数多く描かれている。間違いなく覚えのあるものだ。そう、最近目にしている。

 

「一般的に刻印、加護は白神が与えると言われております。よく知られているのが癒しや慈愛ですな。しかし我々人間は時に憎み、哀しみ、痛みを覚えます。それは悪いことのように思えますが、人が生きていく上で必ず必要な事ですじゃ。誰か近しい人が亡くなった時に痛みを覚えず、哀しみもしない。それが果たして人間と言えるのでしょうか?」

 

 アストは母アスを思い、自分を庇った騎士テウデリクを思った。

 

「黒神か……昔コヒンに習ったな」

 

「おお、その通りです殿下。正しく黒神ですじゃ」

 

 先程の鎖の紋様をその白い指でなぞりながら、クインは話を引き継いだ。

 

「おそらくあの子に刻印を刻んだのは黒神、黒神のヤト。憎悪、悲哀、痛みなどを司る強力な神です」

 

「太古から生きる神ですが、慈愛や癒しを司る神ではありません。決して邪な神ではないですが、素直に<聖女>だと受け止める訳にはいかない……何か大変な落とし穴があるかもしれないのです。殿下、お判り頂けましたか?」

 

「ああ……よく分かった。確かに安易な判断は許されないだろう……クイン、ありがとう」

 

 クインが居てくれて本当に良かったと、アストは熱くなった息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 ードンドンッ

 

 強めに叩かれ、アスト達三人はドアの方を振り向いた。

 

「誰だ?」

 

「兄様!いるのね!?大変なの!」

 

 血相を変え、ドアを勢い良く開けて入って来たのは、アストの妹でリンディアの王女であるアスティアだった。

 

「っと、どうしたアスティア?」

 

 胸に飛び込んできたアスティアを優しく受け止めて、アストは問い掛ける。

 

「大変なの! 兄様が連れ帰った子が、あの子が部屋から飛び出して……居なくなってしまったの!」

 

 アストとクインはお互い目を合わせて、慌てて部屋を飛び出して行った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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10.聖女の目覚めと脱走 その顛末②

 

 

 

 

 

 

 

  夢に微睡んでいた。

 

  小さな頃の夢は決して良いものでは無かったが、誰かが手を握って「大丈夫だ」と言っているような気がして……自分が今、目を覚まそうとしているのか、深い海の底から浮き上がるように感じて体が息を吹き返していく。

 

 

 

 

 

 

 ここは……?

 

  俺は、自分が涙を流しているのを知って思わず起き上がった。

 

  なんで涙なんかを……?

 

  見覚えのない濃い青色の服の袖を使いゴシゴシと涙を拭く。周りには誰も居ないことがわかって安心した。やはり体は女、いや女の子のままのようだ。あれだけ汚れていた体も綺麗になってい仄かな良い香りがする。小さな胸に両手を当てれば、柔らかな弾力を感じそのまま沈み込む。ただ嫌な予感、感触を覚えてあの時と同じく上から覗き混んだ。

 

  下着まで着ている……いわゆるブラだろう。白い柔らかい材質の布を巻き付けたような変わった下着だ。すぐに外したかったが今は周りの状況を把握したい。

 

  俺は信じられない程サラサラとした感触を覚えるシーツを避けて立ち上がってみた。

 

  くそっ……この服ってワンピースってやつだろう?

 

  星空がデザインされたスカート部分を両手で持ち上げて、上半身を軽く傾けて確認する。

 

  最悪だ……女物の白い小さな下着、ムカつく事に可愛らしいリボンまで着いている。そして真っ白な太ももの内側、脛にも入れ墨が入っている。上からも見えたが臍の下辺り、下腹部にも同じく入れ墨があった。おそらくこれがヤトの言う刻印だろう。あまりの変化に眩暈がする。

 

  とにかく今は状況確認だ。頭を上げて周りを見渡した。

 

  少し薄暗いが、見えない程じゃない。時間は夕方前ってところか?今まで寝ていたベッドに、窓側に古めかしい机と椅子。全て日本で言うアンティーク家具に見える。扉は二つ、一つは出口でもう一つはなんだろう?歩いて近づこうとした時に敷かれた絨毯の柔らかさにびっくりしながら開けて覗きこむと、衣装部屋らしい。ウォークインクローゼットの実物は見た事がないが、こんな感じだろう。

 

  さて、いよいよメインの扉だ。開いてくれればいいが……

 

 ガチャッ、ガチャガチャ……

 

  やはり都合良くは行かないか、内鍵を回してみたが結果は変わらなかった。……つまり()()()()()()()と言う事だ。耳を澄ましてみたが、おそらく廊下があるであろう扉の向こうからは気配はしない。誰もいないようだ。

 

  よしっ、何とか抜け出さなければ……小さな頃の孤児院と院長夫妻を思い出し、脱出の手段を探す事を決める。ベッドの反対側の窓に近づいて、そっとカーテンをめくる。やはり夕方か、沈んでいく太陽らしきものが見えた。外からの監視の有無を確認しつつ、カーテンをさらに開いてココから出られないか確認した。

 

  無理だ……高すぎるし、手や足をかけられそうじゃない。ましてや小さくなったこのひ弱な体では、自分を支える事も難しいかもしれない。

 

 くそっ……くそっ……いや落ち着け、何か道具を探すんだ。

 

  すぐ近くにあった机の上には何もない。引き出しを開け中を確認する。

 

 ナイフ?いやペーパーナイフか……中々鋭そうな鋏もある。最悪は脅し位には使えるか?こちらも無駄にアンティークな装飾でお高そうだ。よしこれは頂きだ。

 

 コンコン……

 

 ん?ノックか?

 

 動きを止めて様子を伺うと再び聞こえた……誰か来たか!

 

 急いでナイフと鋏をひっ掴みベッドに戻る。手に入れた武器達は枕の下に隠した。

 

 ここは様子見だ、大人しくしておこう。シーツを足にかけ上半身だけは起こしてドアの方を見た瞬間、ドンドンドンッ!とかなり大きな音がして、情け無い事にビクッとしてしまう。

 

 続いて女の声がして、ガチャと鍵が開く音がした。

 

 すぐにドアが開き、二人の女が入って来た。女と言うか、中学生くらいの子供だろうか?二人とも美人だが、銀髪の方は別格だ。というか絶対お姫様だろこいつ……これは頭を下げた方が良いのか、そもそもベッドの上では失礼にあたるかもしれない。俺には何が正解なのかわかる訳がない。

 

「やっぱり起きてるじゃない……返事くらいしなさいよね!」

 

 ダメか……何を言ってるのかさっぱり分からない。それにマズイ……何かいきなり怒ってるみたいだ……やっぱり頭を下げないとまずかったか?

 

 もう一人がカーテンを開けると、部屋が明るくなった。

 

「はぁー……確かに綺麗な子ですねー……。でも不思議な髪だし、目もあまり見ない色だなぁ……」

 

 更に赤毛の女が近づいて来て、じろじろとこちらを見ながら何か呆れた様に口を動かした。

 

 くっ、やっぱり何かまずったか……恐らく礼儀がなってないとか、そんな事を言ってるんだろう。銀髪の娘が赤毛の頬を抓ったのはよく分からないが……彼女達の後方にあるドアは鍵が掛かってない筈だ、逃げるか……?こんな子達をぶん殴る訳にも……なんだ?殴るって考えると胸がザワザワする……気持ち悪い……

 

「驚かせて御免なさいね?私はアスティア、アスティア=エス=リンディア。このリンディア王国の王女よ。こっちはエリ、私の侍女」

 

 銀髪娘が何か話しているが、どうせ意味もわからないなら聞いてもしょうがない。とにかく逃げないと……鍵が開いてるチャンスなんてココしかないだろう。ドアの向こうに誰かがいない事を祈る。

 

 俺が逃げる事を考えているのが分かったのか、更に怒りに満ちた青色の眼で睨み付けてきた。

 

「ちょっと……挨拶くらい出来ないの?こっちをちゃんと見なさい!」

 

 うお!首を絞める気か!?見た目以上にヤバいぞコイツ!

 

 思わず後退りしたら、ベッドから落ちた。痛え……

 

 とにかく意思疏通が出来ない事を伝えれば許して貰えるかもしれない。口や喉に指を指してみる。

 

「あなた……喋れないの?」

 

  困惑する表情を見せた銀髪お姫様は何かを呟いた。伝わったか?

 

 

 

 

 

 

 

 しまった……赤毛侍女がさっきナイフと鋏をパクった引き出しを開けて動きが止まったぞ……?盗んだのがバレたか……背中から冷や汗が出るのを感じて思わずベッドから腰が上がる。混乱の極致にいた俺に目の前のお姫様が紙に何か書き俺に見せて来た。

 

 

 あぁ……これは……

 

 

 知らない単語だとか、そういうのじゃない……()()()()()()()()()()()

 

 それが分かってしまった。さっきから聞こえる二人の言葉も綺麗な声とは思えるが、何かを察して感じることも不可能だ……ヤトは呪いと言っていた、正しく呪いだ。こんな……こんなの、どうしたらいいんだ……

 

 知らない場所に閉じ込められて、言葉を交わす事が出来ない?あの頃の孤児院の時のように、悲鳴を上げる事も、こんな少女の体では抵抗だってまともに出来やしない。

 

 腹の底から絶望感がヒタヒタとせり上がってくるのを感じて、思わず涙が溢れてしまった……くそっ、なんで簡単に涙なんか……男のくせに情け無い。

 

 

 クソッタレ!

 

 

 枕の下にあったナイフと鋏を引っ掴んで、俺はドアの外に走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クイン、アスティア、エリと合わせ4人で客室のある方へ歩きながら話しを続ける。

 

「クイン。確か鍵を外から掛けたと言っていたが……」

 

「はい、間違いなく掛けました。中からあの子がドアを開けるのは不可能です」

 

 アストは、アスティアとエリが何かを言いたそうにしているのを見て分かってしまった。

 

「兄様、ごめんなさい……私が話をしたくてエリに鍵を開けさせたの。私の所為だわ」

 

 エリも俯き唇を噛んでいる。いつも笑顔を絶やさないエリには珍しい表情だった。

 

「そうか……それはいい。何かあったのか?」

 

「……特別なことは……でも私……あの子に少し怒ってしまって……喋れないなんて知らなくて、挨拶出来ないのって……」

 

「喋れない?あの子は話せないのか……?」

 

 思わずアスティアを見詰めてしまう。アストは自身の怪我を治す時に声も上げずにナイフを突き刺した事、それに馬車の中で声無き悲鳴を上げていた事を思い出して理解した。そして、胸が締め付けられるのを自覚する。

 

「兄様も知らなかったの?」

 

「ああ、あの子は殆ど眠っていたからな……いや、それどころかあの子の名前すら知らないんだ」

 

 

 

 

 

「殿下、あの部屋です」

 

 クインの案内で辿り着いた部屋に入ると、仄かに優しい香油の香りがした。見るとベッドからは枕が落ちている。シーツも乱れあの子がついさっきまで寝ていた事を知らせていた。

 

「一体何故逃げたんだ……?あの子はどっちに?」

 

「ドアを出て左手に走って行きました。迷っているような様子は特に……」

 

「エリ、間違いなく走って行ったのね?」

 

 クインはエリに問い質すが、アストは不思議に感じた。

 

「クイン、それが何かあるのか?」

 

「いえ、気になる事が少し……あの子は眠り始めて今日まで一度も意識が戻っていないのですよね?怪我もあり食事すらしていない今、走り出したとは……体力すら戻ってない筈です」

 

 怪我と聞いてアスティアが目を蹙めたのがクインには見えたが、今はそれを説明している時間はない。それに少し思い当たる事もある。まさかとは思うが……そうクインが思考を深め始めたとき、アストの声で我に返って意識を戻す。

 

「たしかに……力を振り絞って逃げたとしたら、何処かでまた倒れているかもしれないな……」

 

「そんな……!私の所為だわ……兄様どうしよう……」

 

「大丈夫、ここはリンディアだ。俺たちが直ぐに見つけてあげればいい」

 

 アストはアスティアの柔らかい髪を優しく撫でて、目から溢れた涙を拭ってやった。

 

「よし手分けして探そう。怖がっているなら、何処かに隠れているかもしれない。不用意には近づかないよう気をつけよう」

 

 皆が動き始めたとき、後ろから小さな声がした。

 

「あ、あの……」

 

 エリが顔を上げて恐る恐るアストに話し掛けた。

 

「エリ、どうした?」

 

「あの、客室にあった紙切りのナイフと鋏が無くなっていました。飛び出す時に何かを掴んで出て行ったので、間違いないと思います。何かおかしな事を考えて無ければいいなって……」

 

「ナイフ、鋏……か……」

 

 

 魔獣の一撃に倒れた後、あの子は自分の手を躊躇なくナイフで傷付けた。その行為にどんな意味があるのかまだ分からないが、そうしてアストを助けたのだ。まるで傷付いた人を助けるためだけに在るような……聖女、そう聖女だ。あの子は聖女なんだ……アストの頭の中にある可能性が浮かんできた。

 

「まさか……?」

 

「兄様……?」

 

「また、自分を傷付けて誰かを……?」

 

 アストは黒髪の美しい少女が、あの時の様に声のない悲鳴を上げているのが目の前に浮かぶ。そしてそれを許せない自分の強い気持ちを自覚した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやらこの辺りには人は少ないみたいだ。少し息を吐き、すぐ側にある茂みに身を隠した。

 

 部屋からの脱走には成功したが、此処はまだ城内だ。下に降りる階段はすぐに見つかり、人の気配に気を配りながらここまで降りてきた。このワンピースには当初うんざりしたが、濃い青色は暗くなった闇に紛れるのに最適だ。星空まであしらっているのは皮肉が利いている。首に巻いていた布切れは邪魔になって階段の側にあった大きな植木鉢に突っ込んでおいた。すぐに見つかりはしないだろう。

 

 呼吸が落ち着いたのを確認して、もう一度そっと周りを見回す。さあここからだ……今から夜も深まり益々暗くなる。現代日本と比べ街灯もなく真っ暗な場所も多いだろう。窓から見えた街に逃げ込み身を隠して時間が過ぎるのを待つ。楽観的だが、たった一人の小娘にそこまで血眼になって探す事もない筈だ。

 

 とにかく絶対に捕まってたまるか……逃げ切ってみせる。逃げ切った後の事はその時に考えよう。今までもそうしてきたし、一人で生きて来たんだ。

 

 茂みから少しだけ離れたところに煉瓦を積んだ二階建の建物が見える。室内を照らす明かりも少なく死角も多い。まずはあそこまで移動するか……

 

 そう決めて、素早く腰を低くして音を立てない様に移動する。誰にも見つからずに明かりの届きにくい煉瓦の壁に張り付く事が出来た。

 

 いくつかの窓からは明かりが漏れているが、この小さな体なら下をくぐって行けば大丈夫だろう。ゆっくりと進み建物の角まで来たところで、その向こう側から声が聞こえてきた。

 

 ちっ……ここまで来て……さっきの茂みまで戻るか?いや、先ずは様子を見よう。腰を落としそっと角から声のした方を見た、見てしまった。

 

 

 ドンッ

 

 

 ああ……まただ、また俺の心臓が大きな音を立てて跳ね上がった。

 

 俺の視界に飛び込んできたのは、木製の巨大な台車の様なものだ。殆どには何も載っていないが、赤いペンキで濡れている……いや、あれは血だ。それも大量の。そして一台だけ何かが乗っている。人だ、鎧らしきものが砕けて脇腹から血を流して呻いている。さっき聞こえたのはあの男の声だろう……建物の中から何人かの怒鳴り声のようなものが聞こえる。

 

 ああ、逃げないと……早く……逃げ……

 

 俺の手には、鈍く光るナイフと鋏がある。ほら、()()()()()()

 

 助ける……助けないと……血が、血が沢山流れている。死んでしまう……あの化け物だ……奴らにやられたんだ……許せない……

 

 大丈夫……俺が、逃げる……助ける……すぐに……早く……

 

 俺の意思は何かに塗り潰されていく。

 

 くっ!ヤト、アイツ……一体俺になにを……

 

 俺は……奴の……思い通りには、ならない……ぞ……

 

 ふらふらと歩き出す自分はもう何かに操られた人形のようだろう。いつのまにか横たわり歯を食いしばり呻く男が俺の目の前にいる。

 

 俺は右手に持った鋏を強く握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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11.聖女の目覚めと脱走 その顛末③

 

 

 

 

 

 ヤトの声が頭に浮かんでは弾けて消えていく。

 

 

 

 ー癒し、慈愛は間違いなく君の力だ

 

 ーその二つは、決して裏切ったりしない

 

 ー世界を救ってほしい

 

 ー君の救いの道にも繋がっているかも知れない

 

 

 

 ーそう信じている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の目の前には脇腹から血を流し、脂汗を流しながら小さく呻いている20代であろう男がいる。縦に二本に裂かれた脇腹は、縫合も難しいだろう。ポタポタと血が流れ、彼の命が地面に吸われていくのが分かった。

 

 この傷痕には何故か覚えがある。あの化け物達だろう。

 

 さっきまで夢の中にいる様にボヤけた思考の中にいたのに、今は自分が何をしたいかよく分かるのだ。

 

 目の前の彼を助ける、化け物の餌食になんてさせない。

 

 いや、本当にこれは俺の意思なのか?

 

 俺はなんでここにいる?

 

 ()()()()()()()()()()()()()()。誰かが泣いている、苦しみを覚えている、痛みに蝕まれている。

 

 それが消えてなくなるなら、凄く嬉しい。

 

 右手を見ると良く切れそうな鋏がある。左手にはナイフ、こっちはあまり切れそうにない。

 

 ナイフは置いておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 典薬医見習いのクレオンは、この夜の不運を嘆いていた。

 

 

 明るいブラウンの癖毛を振り乱し、さっきまで寝ていた顔には目ヤニすら付いたままで、垂れ下がった目尻と合わせて泣き出しそうな少年のようだ。真っ赤に染まった両手は震えて止まりそうにない。

 

 昨日の晩は、行きつけの小さな店で典薬医見習い達とワインと肉詰めを味わいながら、上司である典薬医長のグチをどれだけ多く言えるかを競い合ったのだ。朝に帰宅したクレオンは、ついさっきまで惰眠を貪っていたところを典薬医助手の老女に叩き起こされて、休息日の筈の治癒院に連れて来られた。

 

 聞けば王都から程近い南部の森で大規模な戦闘が行われ、多くの死傷者が出たらしい。

 

 城下にある治癒院や治療医では間に合わず、来る筈のない城のすぐ側のここまでが、その戦場に選ばれてしまった。

 

 目の前には、鎧が砕かれて意識のない騎士がいる。木で出来たベッドの周りは足元まで滴った血で滑りそうになる。あと3人いた怪我人はこちらで対応出来ずに他へ運ばれていった。それでもまだ一人、外には台車に乗せられた騎士がいる。

 

 クレオンは思う。

 

 そもそも典薬医とは、治療医とは違う。薬草や霊芝、樹液やはたまた虫などを薬に煎じて患者に与えて治癒を促すのが仕事だ。

 

 しかもその対象は、王族やそれに準ずる貴き人々なのだ。騎士達も勿論大変尊敬すべき人々だが、こんな事は習ってもいない。ましてや自分は見習いで、ここには助手の老女と二人しかいない。他の見習い仲間はどこに行ったのだ?

 

「クレオン先生! 」

 

 老女に声を掛けられて驚いたクレオンは、手に渡された巨大な鋏を思わず受け取った。見た目は造園に使う植木鋏だ。

 

「え?」

 

「クレオン先生、鎧を外さないとどこを怪我してるのかも詳しくわからんでしょ?繋ぎ目を切って外して下さいな! まだあと一人外にいるんですよ、早くしないと!」

 

「あっ、はい」

 

 鎧を繋ぎ合わせている革紐や、細い金属の板を言われるがままクレオンは切っていく。なんとか上半身の鎧の繋ぎ目は切れた様だ。真っ赤に染まった鎧を両手で持ち上に引き上げようとしたが、何かが引っかかっているのか外れない。無理矢理引っ張ると騎士の体も僅かに持ち上がってしまう。

 

「おかしいな?」

 

 クレオンは切り忘れた箇所があるのかともう一度見渡すが、それは無さそうだ。

 

「クレオン先生。あれ……」

 

 助手が指を指す方向は、もう一人がいる玄関先だ。

 

「ん……?」

 

 もう一人の騎士がいる台車のすぐ側に、黒っぽい服を着た少女が佇んでいる。いや薄暗いし青色だろうか?左手からは血がポタポタと落ちていて、顔は俯き髪すら暗闇に溶けているのか良く分からない。

 

 

 はっきり言えば怖い。あれが噂に聞く亡霊だろうか?いや、浮かんだりしてないしあの騎士の親族か何かか……?

 

 クレオンはそんな考えに至って、それでも震えながら声を上げた。

 

「おっ、おい!」

 

 その少女は、今気付いたかの様にこちらを見た。クレオンは想像を超えたその美しい相貌に驚いたが、鎧を持ったままの手の先で騎士が呻き始めた事で自分が何をしなくてはいけないのかを思い出した。

 

「は、早くしないと……」

 

 騎士の方に顔を向け直して、力を思い切り込めて鎧を引っ張った。

 しかし鎧が取れた瞬間、腹部と肺辺りから大量の血が溢れ出してクレオンの白い前掛けを赤く染めてしまう……

 

「あ……変形した鎧が内臓に刺さっていたんだ……大変だ!血で呼吸も出来なくなって……!」

 

 目の前にいる騎士の口と鼻からも血が溢れ出て、苦しそうに悶え始めたのを見ると、クレオンはもう動く事が出来なくなった。

 

 ドンッ

 

 クレオンは柔らかい感触の小さな物体に押されてふらつき、よろけてベッドから数歩ほど離れてしまう。瞬間に僅かな優しい香油の香りがして、外にいた少女に突き飛ばされたのだと分かった。

 

「なにをっ!?」

 

 抗議の声を上げたクレオンは、少女を見て固まった。

 

 クレオンを突き飛ばした少女は、戸惑う様子も見せずに騎士の口に自身の小さな唇を押し付けたのだ。いきなり何を!? と思ったすぐ後に、少女が何をしているのか分かった。

 

 少女はその口で溢れた血を吸い出しては床に吐き出し、また唇を当て吸い出し、それを何度か繰り返し始めたのだ。不思議な事に肺辺りに置いた左手からは白い淡い光が溢れている。

 

 余りの衝撃で動けないクレオンと老女が見守る中、今度は腹部にその美しくも血に汚れた顔を押し当てて血を吸い出した。今度は何をと驚いた時には、吐き出した血の中から金属らしき破片が転がり出てその意味を悟る。

 

 腹部に溜まる血は決して綺麗なものではない。それを躊躇なく行った少女は近くにあったあの植木鋏を持ち上げて真っ赤に染まった左上腕に突き刺した。

 

「ひっ」

 

 老女が悲鳴を上げたのも当たり前だ。クレオンもただ呆然とするしかない。

 

 少女は先程金属片を吸い出した腹部に両手を当てて、赤く染まる顔でも美しい深い若葉色の瞳を閉じた。

 

 

 

 すっかり暗くなったこの部屋に白い明かりが灯る。

 

 その淡い光は決して強くはないが、ただただ暖かく優しく少女の手元から漏れ出している。

 

 

 

 呼吸が落ち着き、その出血すら止まった騎士を見たクレオンの口からは、自然とその言葉が出るのは当たり前なのだろう。

 

「奇跡だ……奇跡が起きたんだ……」

 

 クレオンは口から残った血をペッと吐き出し佇む少女の首元に、刻印が刻まれている事に今更ながら気付くのだった。

 

「聖女……黒い髪の聖女……」

 

 

 

 

 

 疲れたのか、黒髪の少女は騎士の横たわるベッドに腰を下ろして、深く息を吐いた。ベッドの方が少し高いのか細い足をぶらぶらと揺らしている。赤く染まった口を袖でゴシゴシと拭く様はまるで少年の様だ。

 

 

「ほれっ、これでお拭きなさい」

 

 ようやく正気を取り戻した老女は、奥から綺麗な布を持ち出して少女に渡そうと声をかけた。口周りは当たり前だがまだ血で赤いままだ。袖で擦った事でむしろ悪化しているかもしれない。

 

「……?」

 

 だが少女は……道に迷った幼児の様に疑問符を浮かべた顔で布を受け取り、おもむろに血で染まった騎士の体を拭き始めたのだ。

 

「こ、これっ!そうじゃなくて……自分の顔をお拭きなさい。せっかくの綺麗なお顔が血で……」

 

 だが少女はそれすら無視して、騎士の体を無心で拭いていく。その自身を顧みない献身を見た二人は、思わず両手で口を押さえて、零れそうになる声と涙をこらえるしかなかった。

 

 少女はその腕のキズさえ、二人に触らせる事すら拒むのだ。

 

 外に居るあと一人の患者の事も忘れて、二人は湧き上がるそのどうしようもない感情に、ただ翻弄されるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベッドに横たわっていた騎士が意識を取り戻して起き上がったのを確認したのか、少女は両足を一度振り上げて台から軽く飛び降りた。

 

 クレオンはずっとその少女を眺めていたから、ワンピースがフワッと舞い上がり見てはいけないものまで見えたので酷く慌てた。細い足や綺麗な太ももに、なにやら描かれているのも見えてしまった。

 

 固まるクレオンに見向きもせず、少女が玄関に向いた時だった。

 

 黒髪の少女は、あたふたと体を泳がし、キョロキョロと周りを見ると少しずつ後退りを始めた。見ると何人か玄関から入ってきたところだった。

 

 クレオンは顔を確認すると、驚いて直立不動となる。

 

「ア、アスト殿下!アスティア様も!」

 

 後ろにはあの有名なクイン女史とアスティアの侍女のエリもいた。アスティアの顔には驚きが、クインは達観が、エリには安堵が見て取れた。アストだけは、怒りや、悲しみ、色々な感情が入り乱れている様にみえる。

 

 起き上がったものの意識がまだ朦朧としていた騎士はまた、眠ってしまったようだ。

 

 そして、それも束の間、クレオンとアスト等の間にいた少女が此方の方に走り出したから更に驚いた。

 

「クレオン!捕まえてくれ!」

 

 クレオンは、アストが自分如きの名前を知っている事に感動しながらも、忠実に命令を守りその小さな体を抱き止めた。思いの外軽くて柔らかい感触に危うく放しそうになったが何とか自制する。腕の中の少女が暴れて逃げようとするが、大した抵抗には感じない。 少女はクレオンを恨みがましい顔で睨んでいたが、幸か不幸かクレオンは気付かなかった。

 

「クレオン。ありがとう、助かったよ」

 

 アストは少女の腕を取り自分の方に引き寄せた。引っ張られた少女はまるで、騎士団に引き渡された犯罪者のような顔をしている。

 

 クレオンは何故か少女がアストの側に行ってしまった事を寂しく思う自分に気づいたが、その気持ちに蓋をするしかない。

 

 アストはクインに少女の手を預けて、クレオンを見た。

 

「クレオン。悪いが此処で何があったか教えてくれないか?大事な事なんだ」

 

「は、はい!」

 

 

 

 

 少女を任されたクインは、その姿を見て心が痛むが、まずは腕や手の治療をと、アスティア達に声をかける。

 

「エリ、消毒用の薬草液と包帯、あそこにある綺麗な綿を取って来てくれる?」

 

「はいっ」

 

「クイン、私も何か手伝うわ」

 

 アスティアの言葉にクインも微笑み答えた。

 

「わかりました。兎に角、血を拭き取って上げないと可哀想です。濡らした布を取ってきますからアスティア様はこの子の側にいて、怪我している方の袖を捲って固定して下さい」

 

「分かったわ」

 

 

 

 クレオンはそんな少女と動き始めたアスティア達を見て、今更ながらにこれはマズイのでは?と思った。

 

 

 口の周りは血が付いていて、袖で拭いた事でより壮絶感が増し、首元まで垂れた跡がそれをより強くしている。左の掌と腕には刃物で傷付けた痛々しいキズがあり、すぐ側には凶器であろう巨大な鋏が落ちている。まるで暴漢にでも襲われたかのような同情心を酷く煽る姿だ。美しい容姿がそれにより拍車をかけている。しかも少女はまるで罠に捕まり猟師に囲まれた兎の様に悲壮感を漂わせた表情すらしている。

 

 

 少女の姿を客観的に見た場合は、そうなる。

 

 

「ちっ、違うんです!」

 

 悪さをした馬鹿どもの殆どが言う台詞を、クレオンは吐いた。

 

 少女の周りに戻っていたアスティア達女性陣の目線は、どこまでも冷たい。そう感じる。

 

 クレオンは、美しい少女との出会いの幸運と不運に天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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12.聖女の目覚めと脱走 その顛末④

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさか……?」

 

「兄様……?」

 

「また、自分を傷付けて誰かを……?」

 

 もし部屋から逃げたのではなく、聖女として戦いに赴いたとしたら……

 

 

「クイン」

 

「はい」

 

「城下周辺の地図が見たい。出来れば治癒院などが分かるものがいい、内円部までだ」

 

 アストの張り詰めた空気と表情を見たクインは、それだけでアストが考えた事が解った。

 

「分かりました、すぐにお持ちします。ここでお待ちを」

 

 廊下の角から素早く姿を消したクインと、普段見せない厳しい顔のアストを見てアスティアは不安になる。

 

「兄様……まさかあの子に何かあったと……?」

 

「いや、そういう訳じゃないんだ……アスティアにはまだ説明してなかったな、あの子は何て言えばいいか……そう、誰か傷付いている人がいれば助けに行ってしまう。そういう子なんだ」

 

「助けに……?」

 

「あの子が見つかって、落ち着いたらアスティアにも必ず教えてやるさ。大丈夫、治癒院に担ぎ込まれるって意味じゃない」

 

 アスティアはエリと目を合わせてその疑問をぶつけ合うが、後でと言われた以上、今は我慢しよう。そう考えるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

「殿下、周辺の地図です。治癒院だけでなく、孤児院や典医、治療医も網羅されています」

 

 クインがアストの考えの先を読んでいる事が分かる地図だ。

 

「ああ、流石だクイン。ありがとう」

 

「殿下、もう一つお伝えしたい事があります」

 

 アストは開いた地図から顔を上げて、クインを見る。クインが無駄な事をここで言う筈がない。そう確信している顔だ。

 

「なんだ?」

 

「本日早朝、南部地域を調査中の中隊が魔獣と交戦したようです。現在死者3名、重軽傷者多数。外円部の治癒院、治療師では対処が間に合わず、溢れた負傷者が内円部まで送られて来ています。そして数名ですが、リンディア城敷地内にある治癒院に運ばれました。現在は陛下の御指示により治癒師が出払っており、典薬医しかいないとの事。しかも2名が重傷者です。情報が錯綜しているのでしょう……そして運び込まれた時間は丁度あの子が部屋から消え去った頃です」

 

「陛下はどうされているか分かるか?」

 

「既に各所に御指示を出されております。殿下はご随意にと」

 

「わかった、その治癒院に向かおう。クインの予想通り、あの子はきっと治癒院にいる」

 

 

 

 

 リンディアでは魔獣との交戦は頻繁に起こっている。悲しい事だが死傷者が出る事も珍しくはない。ましてや南部は他地域と比べて王都リンスフィアから最も近い森があり、最前線と言ってよかった。

 

 魔獣は、森に入り伐採採集を行わなければ大挙して襲ってくることは滅多にない。だが、貴重な食料や水の確保や、薬草や霊芝類、一部樹液などは治癒院などで大量に消費されるため、生きる為には森に入るしかないのだ。

 

 漫然と滅びを待つか、勇気を持って森に分け入るか……

 

 それがリンディアや世界の現状である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まだ少し距離があるが、何台かの台車が乗り付けてある治癒院が見える。一台には騎士が一人横になっているのもわかった。各車には赤い血が多く付着している。

 

 あの少女の姿はない。

 

「3人は、ここで待っていてくれ。おそらく中はかなり厳しい状況の筈だ」

 

 アスティア達はお互いの顔を見て、すぐにアストを睨みつける。

 

「兄様、馬鹿にしないで下さい。私もエリも、時間が許せば治癒院には慰問に来ています。ましてや誇り高き騎士達が倒れ、自らの命を奪われない為に戦う姿を恐れる事などあり得ません。クインに関してはそれこそ愚問でしょう」

 

「そうか……そうだな。すまなかった、一緒に行こう」

 

 

 4人が治癒院に近づくと、かなりの血臭が鼻についた。まさにここは戦場だろう。エリは少しだけ青白い顔をしていたが、それでも誰一人とも歩みは止まらない。

 

 

 横たわる騎士の様子を伺うと、クインは何かに気付いたようだ。

 

「出血は止まっています。脈、血色も良好、頭部には目立った怪我もありません。おそらく意識もすぐに戻るでしょう、大丈夫です」

 

 クインのその返答に、皆が安堵の息を吐く。

 

「殿下……」

 

 そして騎士のすぐ横に置いてあるには不自然な物を指摘した。

 

「ナイフ……兄様、見て!」

 

 車輪の側には、血に濡れた鋏が落ちていた。

 

 

「間違いないな、あの子はこの中にいる」

 

「兄様の言う通り逃げたワケじゃなく、ここに来たかったの?それなら言ってくれたら……あっ……」

 

 アスティアはすぐに気付いた。

 

「ああ、話す事が出来なくて時間もない。それでもあの子が出来る精一杯の事をしたんだ」

 

 扉に手をかけながらアストは答えて、そして押し開いた。

 

 

 

 そして、少女はそこにいた。

 

 驚いた表情でこちらに気付き、付近を見回している。群青のワンピースには血であろう汚れが付いていて口元は吐血したかのようだ。小さな手や腕も真っ赤に染まっているし、綺麗に整えてあった漆黒の髪も乱れたまま。

 

 部屋には、典薬医見習いのクレオンと助手の女性。少女の近くにはベッドの上で眠っている騎士が一名いる。

 

 だがアスティアとエリが驚いたのは、それだけではない。少女の細い首に鎖のように描かれた刻印がある事だ。

 

「兄様、刻印が……それに腕から血が……」

 

「ああ、分かってる」

 

 少女はこちらから目を離さずに後退りを始める。

 

 どうやら警戒されているらしい事に、アストは息苦しさを覚えて唇を噛んだ。

 

「クレオン!捕まえてくれ!」

 

 背中を見せて走り出した少女の姿を見ると思いのほか大きな声が出て慌てたが、クレオンの懐に納まった少女を見ると早足に近付いて行った。

 

「クレオン。ありがとう、助かったよ」

 

 こちらを絶望した顔で見てきた少女は、抵抗もなくアストに引き渡された。

 

 何かを勘違いしているらしいこの少女に、酷いことなんてしない……そう伝えたいアストだったが、無言でクインに預ける。血に濡れた体も、腕のキズもそのままには出来ない。クインならすぐに対処してくれるだろう。

 

「クレオン。悪いが此処で何があったか教えてくれないか?大事な事なんだ」

 

「は、はい!」

 

 アストはクレオンに向き直り、話を聞く体勢を取った。

 

 

 

 

 

 

「そうか……」

 

 ちょこんと椅子に座り両手を膝の上に置いて、エリに濡れた布で顔を優しく拭き取られている少女を眺めながら、アストは自身の考えが間違っていなかった事を知った。

 

「もう一度聞くが、あの子がその力で癒す前に自分の腕を傷付けた、それは間違いないか?」

 

「は、はい! 決して私がやった事では……!」

 

「いや、君のことを疑っているわけじゃないんだ。誤解したなら謝るよ」

 

「い、いえ!こちらこそ申し訳ありません……」

 

 ホッとしたクレオンを見ながら、アストはあの子の……いや聖女の力の発露には、その余りに残酷な条件がある事を認めるしかないと拳を強く握りしめた。

 

 黒神ヤトは、何故そんな酷い事を……

 

 不遜だと知りながら、アストは心の中で怒りを感じてしまう。思考の海に沈みそうな時、アスティアの声が聞こえて現実に戻る。

 

「どうしてこんな怪我を……こ、こらっ……ジッとして!」

 

 見るとクインが腕の処置をしようと、薬草液であろう薬瓶を傾け、傷口を洗浄しようとしている様だ。先程までは大人しくしていたが、何かが嫌なのか掴まれた腕を振り解こうとしていた。

 

「痛いかも知れないけど、我慢して! 先ずは傷口を綺麗にしないといけないのよ? ねっほらっ……」

 

「暴れないでっ……傷口がもっと開いちゃう!」

 

 アスティアとエリも少女に声をかける。だが少女はどうしても嫌なのか、頑なな態度を崩さない。

 

「先程も処置しようとしましたが、それが嫌なようで拒否されました」

 

 声が横から聞こえたアストは、クレオンを見た。

 

「そうなのか?」

 

「あの子に渡した布も、自分の事も気にせずに騎士の体を拭いていましたから……我が事などどうでもいい……そう思っているのでしょうか?」

 

 クレオンからは悲痛な感情が見て取れた。

 

 そうこうしている内に少女はクインから薬瓶と綿、包帯を引ったくり、部屋の隅に行き背中を見せた。よく見えないが、自分で処置しているようだ。

 

「どうして……?」

 

 アスティアも、手伝っていたエリもクインまでもが、人の優しさや気遣いを受け取ろうとしない少女に、痛ましい気持ちになってしまう。

 

 疲れた顔をして戻ってきた少女の手中にある薬草液や包帯、綿は殆ど減っていない。傷口は袖の下に隠れて、どんな処置をしたのかも隠している。まともな処置をしていないのは明らかだった。そしてもう平気だから……という顔をして、側の机に包帯などを並べて椅子にストンと座り直す。

 

 皆にはそう見えた。

 

「まさか……薬や包帯を使うのは自分ではないと……?皆に……怪我をした騎士や患者に……?」

 

 クレオンの呟きは、皆の思いの代弁だった。

 

 もはやここにいる全員には、自身を顧みない絶対の奉仕の心を持った少女としか見えなくなっていた。だからクレオンは、抑える事の出来なくなった感情をアストにぶつける。

 

「刻印……あの子は神々の加護を受けた刻印持ちなのですね?あれはまるで……まるで聖女、聖女そのものです。黒髪(クロカミ)の聖女……」

 

 ギョッとしたアストは思わず聞いた。

 

「君は、刻印が読めるのか? 何故黒神だと?」

 

「……? あの美しい漆黒の髪は、他には無いと思いましたから」

 

「漆黒……そうか、そうだな」

 

 アストはその相貌を引き締めてクレオンや皆にいった。

 

「皆聞いてくれ。ここで起きた事や見た事は、当面の間秘密とする。他言無用、勿論刻印の存在もだ。これはリンディア王国の王子としての命令でもある。クレオン、わかったか?」

 

「は、はい! しかしなぜ?」

 

「事情があるんだ……永遠に黙るという事ではない、理解して欲しい」

 

 

 

 

 

 

 少女の乱れた髪を整え終えた一行は、騎士達の様子を念の為確認したが問題は無さそうと判り胸を撫で下ろした。

 

 城に戻ろうと立ち上がりクインとアスティアに両手を持たれた少女の後ろ姿を見たクレオンは、思い出したのか突然余計な事を言った。

 

「刻印……そういえば、"脛" と ''太もも" にもありました!」

 

 本人は良かれと思ったのだろう、自信に満ちた表情でアスト達に伝えた。当たり前だが、それを見られた少女がいる前で言う事ではない、いや居なくてもだろう。

 

 

「クレオン、どうやったらあの服の奥に隠れた太ももを見る事が出来るんだ……?」

 

 足首まで隠れるかと思える裾を指差しながら、アストは地から這い上がるような声で問うた。アスティア達も不穏な表情をしている。

 

「えっ……それはっ……あっ」

 

 

 クレオン今日の幸運と不運を再び嘆き天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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13.聖女の目覚めと脱走 その顛末⑤

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒の間

 

 

 リンディア城の中心部、階層では王の間より僅か二階程しか下がらない。

 

 最賓客を迎えるその部屋は、リンディアに伝わる絵画などの美術品を各所に散りばめている。そして絢爛でありながらも、黒と白を基調とした家具類により落ち着いた調和を見せる美しい空間だ。

 

 暖炉の上にはリンディアの国土をモチーフに美しく織られたタペストリーが掛かっている。精緻に彫られたクリスタルの二本角の馬はまるで生きている様な躍動感で前足を跳ね上げ、光を反射して輝きを放っていた。

 

 大きくせり出したベランダはそこだけで一つの完成された庭園の様に、美しい花々、磨き上げた黒い石材のテーブル、濃いブラウンの蔦を織り上げて組まれた椅子などが配置されており、大陸一と謳われた王都リンスフィアが一望できた。

 

 高層階でありながら、洗面所すら完備され水浴びやお湯を運び入れて身体を清めることすら出来るだろう。

 

 また、階下から直接そこに行く事は出来ない。一度王の間に向かう階段を経由しなければ辿り着けないその場所は、王国内でも有数の安全な場所とされ、そこに招かれる者は一握りしかいない。

 

 訪れた者は、故郷に帰りその素晴らしさを伝えずにはいられない。

 

 ここはそんな稀有な場所なのだ。

 

 

 その黒の間に置かれたゆうに大人4人は眠れるだろうベッドの端に寄り、真っ白で薄手のリネンワンピースを着た黒髪の少女が膝を両手で抱えて顔を埋め、コロンと横になっている。

 

 その愛らしさからは程遠い怨嗟の声を心で上げているとは、誰も想像など出来ないはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……本当は大声で泣き叫びたい。

 

 

 俺は情け無い事に目尻に涙を溜めながら、つい数時間前の事を考えていた。

 

 もしかしたら俺は、もう木崎和希ではないのかもしれない。

 

 見ず知らずの大人のために、折角のチャンスをふいにしたのだから。 突然訪れたチャンスだったとはいえ途中までは良かった。闇に紛れて城を抜け出すことが出来ただろう。

 

 なのに俺は朦朧とした意識で一人の怪我を治し、もう一人に至っては口から血を吸い出すまでして助ける事になった。 意識が全く無いならまだいい。 ところが記憶には存在していて、終わった後の安堵と満足感すら覚えている。いや、正直になろう。 今でも人の命を救えた事に喜びを感じている。そして暫くはそれに浸っていて、まだ残っていた脱走のチャンスすら失った。

 

 この城の連中が何を考えているのかは正確にはわからない。 しかし、俺すら理解不能な治癒の力を欲するであろう事は明らかだろう。 見た限り医学はそこまで進歩していないこの世界では、この力は破格の価値を持つのは馬鹿な俺でも分かる事だ。

 

 それはこの無駄に大きなこの部屋からもわかる……まさに籠の中の鳥だ。

 

 そして力が自分でコントロール出来るなら良い。それを家業として稼ぐ事も出来るだろう。ところが心すらヤトに操られているのだろう俺の体は、言う事をきかない。 言葉すら理解出来ない俺には金勘定も出来ず商売も不可能だ。

 

 こんな事なら意識ごと奪ってくれた方がましだった。

 

 

 さっきまでいた病院らしき建物の中で腕の治療をされそうになった時は、冷や汗が出たものだ。他人を治す力も大概だが、自身の体すら素早く治癒する事だけは知られたくないし、餓鬼の頃には戻りたくはない。

 

 どうやら不可思議な力はこの体を傷付ける事で発動するらしいが……人より早く治癒するこの体は、その性能の効率を高める事になる。俺にとってはいい迷惑だ。 あの化け物と戦争しているらしいこの国には尚更のこと知られてはならないだろう。

 

 それなのに俺は……もう逃げるのは難しいと結論付けるしかない。

 

 ここから見える扉には鍵はかかっていない。この体ではあの重い扉を押し開くのも一苦労ではあるが、不可能じゃない。 問題は外にいる鎧姿の男達だ。さっきそっとドアを開け、半分ほど顔を出して外を伺おうとしたら、何処かで見た事のある顔の鎧男がこちらを見てニヤリとしやがった。 逃げるのは無理だと言いたいのだろう。

 

 更に輪を掛けて、ここは脱走した部屋と違い階層も高く城下町から遠い場所だ。運良くこの部屋を出れたとしても以前の様にはいかないのは明白だ。

 

 せめてこのまま何も無ければいいが、それすら難しいだろう事はさっきの風呂場らしき場所でされた事からも想像がつく。

 

 あの背の高い女に連れて行かれた風呂場で裸にひん剥かれた俺は、身体中をペットのように洗われたのだ。

 

 まるで子猫や子犬が洗面器の中に居て、飼い主がお湯を掛けながら泡立てた両手でわしゃわしゃと洗われるアレだ。

 

 あの背の高い女は侍女服を麻か何かで出来た服に着替えて俺の前に現れ、無駄に広い風呂場であろう部屋に連れ込み、俺の身体を洗い始めたのだ。この身体は俺の物じゃないし、どうでもいいが疲れたのは間違いない。

 

 そして一番恐ろしいのは磨かれた身体中にある入れ墨、ヤトの言う刻印とやらを詳しく模写されていた事だ。 各刻印を書き写したであろうその用紙には、メモらしき言葉がびっしりと書き込まれているのが見えた。おそらくここに運び込まれた時だろう。 どんな刻印なのかは、俺も知らないが碌なもんじゃないのは間違いない。あれを調べられたら身体を操ったり、自由を奪われる可能性がある。 今でもそうなのだから。

 

 考えれば考えるほど、絶望的な状況だ。

 

 最悪は戦争の道具として使い回される可能性がある。 いや、この身体は小さな少女なのだ。 用済みになるか、反抗的な態度を続ければもっとタチの悪い奴等に引き渡される可能性すらあるのかもしれない……

 

 だから俺は、子供の様に膝を抱えている。

 

 堪えきれなかった涙が流れるのを感じたが、それを止める気力も無くなってしまう。そうしているうちに俺は、眠ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エリに頼んで内緒で厨房から持ってきた焼き菓子は、香ばしくて甘い香りがする。今のリンディア、いや世界では昔の様に頼めば何でも出て来る王族や貴族みたいな生活は出来ないけれど、あの可愛らしくも儚い少女に焼き菓子を渡すくらいなら神罰も当たらないだろう。

 

 アスティアはそんな事を考えながら歩いている。でも本当は、あの子と一緒にベランダのテーブルでリンスフィアを眺めながら話をしたいのだ。今日の一番の希望と目標は何時も何か辛そうなあの子の笑顔を見ることだ。

 

 辿り着いた黒の間には二人の騎士が立ち少女を守っている。騎士達に会釈しノックはするが、返事はないのは分かっている。

 

 アスティアが一人そっと扉を開くと折角の大きなベッドにもかかわらず、その端に小さく丸まって顔を膝に埋めた少女が見えた。

 

 後ろ手に静かに扉を閉めベッドの直ぐ傍まで近づいて顔を覗き込むと、眠りに落ち閉じた目から涙が零れているのが分かり悲しくなってしまう。

 

 人々の苦しみを、死を、この世界の痛みを悲しんでいるのだろうか?

 

 ハンカチを取り出してそっと涙を拭きサラサラとした黒髪を撫でたあと、起こさない様にシーツを掛ける。

 

 サイドテーブルに焼き菓子を置きもう一度頭を一撫でして部屋を出たアスティアは、締め付けられた胸をそっと押さえて黒の間を後にした。

 

 あの子の名前を知りたい。名前を呼んで、大丈夫だよと抱き締めて上げたい。

 

 兄様は、落ち着いたらあの子の事を教えると言っていた。早く教えて貰って出来る事をしよう。エリもきっと手伝ってくれる。

 

 アスティアは、強く思う、伝えたい。

 

 大丈夫、大丈夫だよ……と。

 

 

 

 

 

「ノルデ、どうだ何かあったか?」

 

「殿下……特には何も。ただ少し前ですが扉を開けて、半分程可愛らしい顔を見せてくれました。 すぐに閉められてしまいましたが」

 

 ノルデは苦笑して扉の方を見た。

 

「そうか、もう怪我も大丈夫そうだな。 良かった」

 

 それを見たアストはホッとした表情で、ノルデと同じく扉の方を見る。

 

「つい先程はアスティア様が。お菓子を一緒にと来られましたが寝ていたそうで……がっかりしてましたよ」

 

「ははは、そうか」

 

 アストの笑顔にノルデは目尻を下げて笑い、急に真面目な顔になりアストに真っ直ぐに体を向けた。

 

「殿下。このノルデ、知らなかった事とは言え殿下のお命を救おうとした、救ってくれた少女を殴り付けたなど許せるものではありません。この命に代えても必ず守ってみせます。御安心下さい」

 

「ノルデ、お前は考えすぎだ……まあいい、もしあの子が外に行きたいとか、察することがあれば出来るだけ応えてあげてくれ。陛下からも最大限の対応を許可頂いている。 何かあればすぐに言ってくれていい」

 

「はっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クインとコヒンは、ランプの光が淡く揺れるコヒンの私室にいた。 変わらず本や巻物に埋もれた部屋だ。

 

 二人は何処か疲れが見える顔で、刻印の事をまとめた用紙を眺めている。あの黒髪の少女の刻印だ。

 

 黒神ヤトの刻印と判明した事で解読は一気に進み、少女の刻印がどういった力を持つのか、意味を持つのか、そのほとんどが判明したと言っていいだろう。より正確に模写する事が出来たその資料も充分役に立った。

 

 だが、その解読を進める事が出来たクインに歓喜の色はなかった。

 

「お祖父様……これは……これではまるで……」

 

「うむ……クインの想定で間違いないじゃろう……認めたくなどないが……全ての刻印が影響し合うよう計算されているとしか思えん。 辻褄が合ってしまう。 一見矛盾した刻印たちはその為にある」

 

「そんな……そんなの悲し過ぎます……あの子は何のために……もし世界が救われたとしても、あの子を誰が救うと言うのですか……」

 

 普段は感情をあまり表に出さないクインの白い相貌と青い瞳に、神への強い怒りと、何も出来ない自分への悔しさが浮かんでいた。美しい金の髪は、怒りと哀しみに揺れている。

 

「クイン……この結果を陛下や殿下に報告するかを考えなくてはならんぞ。 全てを知れば苦しむかも知れん。辛い決断を迫られる事になろう……」

 

 クインはほんの少しだけ考え、コヒンを力強く見た。

 

「……お話しします。皆でもっと良い方法を見つけて見せましょう。必ず……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディアの懐に抱かれた聖女は絶望の中にいる。

 

 アスト達から送られた慈愛というケープに包まれて、その存在を許されている。

 

 大丈夫だと、許されている。

 

 しかし聖女はそれを知らない、知ろうともしない。

 

 

 

 

 

 

 そして、少しずつ、世界は動き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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14.聖女が名前を呼ばれる日①

お気に入りが200件を超えました。ありがとうございます。感想や評価を宜しければお願いします。


 

 

 

 

 

 

 

 クイン=アーシケルは両手で抱えられる小さな木箱、その上に重ねられた紙の束と共に長い廊下を静かに歩いていた。

 

 今日は白神も泣いているのか、朝から雨がザーザーと降り続いている。叩きつける雨音は只でさえ静かなクインの足音を完全に覆い隠し、そのまま流れていった。

 

「雨は嫌い……」

 

 嫌な事を全部洗い流すなら少しは好きになるかもしれないが、そんな気の利いた事などしてはくれない。 癖っ毛のクインは濡れるとぐにゃりと曲がる髪のせいで雨の日は憂鬱なのだが、それを認めるのが嫌なのだろう。

 

 聖女が住む黒の間までの道のりは、もう決して遠くはない。

 

 今日、クインが祖父コヒンと共に解読した刻印についてアストやアスティアに伝える事になっている。 そして王であるカーディルへいつ、どう伝えるのか考えなければならない。 これはカーディルへの信用の問題ではなく、王として決断を迫ることになるのは明白だからだ。

 

 黒神ヤトが刻んだ刻印は大きな力を与え、あの子を聖女とした。

 

 そう、あの子は間違いなく聖女なのだろう。

 

 言うなれば、黒神の加護を一身に受けた"黒神の聖女"だ。

 

 それを知っているクインだが、それでもアレを加護とは認めたくはない。

 

 ーーあれは、呪いだ。

 

 クインは不遜と知りながらも、黒神ヤトに怒りを覚えているのを自覚していた。 小さな、たった一人の少女に言ったのか……命をかけて世界を救え、と。

 

 雨は歩く足音を消してはくれても、クインの怒りは洗い流してはくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 アスティアとエリは一足先に黒の間に来ていた。しかし最初の第一声は、挨拶ではなく呆れと怒りへ変わる。

 

「おは……なんて格好をしてるの!」

 

 黒髪の少女は、部屋着さえ放り投げて下着姿でドアを開けたのだ。 すぐ側には警備の騎士2名が立っているのも気にしていない。

 

 慌ててドアを閉めた二人は、もう一度少女を見て言葉を失った。

 

「刻印……? 身体中に刻印が……」

 

 どうやら下着姿になって、洗面室の掃除をしていたらしい。植物の繊維を束ねたブラシが床に転がっているし、少女自身も少し濡れている。

 

 二人の頭の中は疑問符が頭を飛び回り、暫く動けなくなった。

 

 どうして黒の間の客人が掃除をしているのか、下着姿にもかかわらず平気でドアを開けるのか、首にある刻印だけでも驚いていたのにあちこちにある刻印は何なのか、そんな事が頭の中を駆け回っているのだろう。 少女が訝しげに首を傾けるまで、二人は動き出しはしなかった。

 

「これ……間違いなく刻印ですよね? もしかしなくてもこの子って凄い方なのでは……」

 

 妙な言い回しをするエリに呆れた視線を送りながらも、アスティアにはやっと理解出来た。

 

「兄様が事情があるって言っていたのはこの事ね。 クインが最初に呼ばれたのも納得出来るし、この後の話も刻印絡みでしょう」

 

「いいなぁ羨ましい……こんなに白神に愛されているなんて……あれ?腕の傷がもう塞がってる……」

 

 エリが腕を取って眺めた時、慌ててその腕を後ろに隠した少女を見ていたアスティアは気付いた。

 

「寒いのかしら? 急に震え出したみたい。 エリ、兄様が来る前に体を拭いてあげましょう。このまま着替えさせる訳にいかないでしょう?」

 

「そうですね、すぐにお湯を取って来ます。 少し待って下さい」

 

 エリはそう答えると、中を見られないようドアを少しだけ開けてスルリと出ていった。

 

 

 

 少女は最初自分で拭いていたが、様子を見たエリに手拭いを奪われた。 ごしごしと余りに乱暴な洗い方の為、肌が赤くなっていたからだ。

 

「もう、男の子じゃないんだから、丁寧に洗わないとね?」

 

 全くシミも黒子もない体を不思議に思いながら、エリは優しく洗う。

 

「はい、お終い」

 

 乾いた布で水分を拭き取ったエリは何故か変に嫌がる下着を付けさせて、少女がお気に入りらしい白のワンピースを着せて洗面室から連れ出した。

 

「終わった? 髪を梳かして上げるから、こっちへいらっしゃい」

 

 どうも意思疎通が上手くいかない気がして、アスティアは出て来た少女の手を取り化粧台の前に座らせる。 櫛を取り鏡に向いて座っている少女を背中から眺めた時、母アスを思い出した。それは暖かくて哀しい、でも離したくない……そんな気持ちだ。

 

 お母様もこんな気持ちだったのだろうかと少しだけ涙が滲んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ノックの音が聞こえてアスティアは我に返った。

 

「エリ、きっと兄様とクインだわ。開けて頂戴」

 

「はい」

 

 驚くほど指通りの良い黒髪を整えながらエリに任せ、 最後に鏡で確認し立ち上がってドアの方を向く。

 

「おはよう、エリ。 アスティア、今日も綺麗だね」

 

 カーディルと同じ事を言うアストに思わず笑顔になったアスティアは、少しだけ呆れながらも懐に抱えた木箱を見た。

 

「ありがとう、兄様。 その箱はどうしたの?」

 

「ああ、クインが持って来ていて重そうだから預かったんだ。なかなか渡してくれなかったけどね」

 

 苦笑するアストの大きな体の背後から、エリに軽く挨拶をしたクインが現れた。

 

「アスティア様、おはようございます。 殿下、何度も言いますが使用人の仕事を取らないで下さい」

 

「これだ」

 

 おどけながらアスティアに笑ってみせる。

 

「ふふふ、相変わらずね。それと……おはよう、クイン」

 

 振り返ると少女も立ち上がりこちらを見ていた。

 

「兄様、この子にも挨拶をお願い」

 

「ああ、勿論だけど、名前が分からないのは不便だな」

 

 アストはおはようと少女に言いながらも、眉間をしかめた。

 

「そうですね……何度か私達の名前を伝えましたが、分かって貰えたのかどうか……」

 

「殿下、それも含めて説明します。どうかお座り下さい」

 

 朝のこの時間は、大きくせり出したベランダで過ごすのが気持ちが良い。しかし残念ながら雨のため、クインは採光窓の側にある円形のテーブルに二人を促した。 窓は雨垂れで滲み、せっかくのリンディアの景色を隠している。

 

「クインも座ってくれ。落ち着いて話をしよう」

 

「殿下……そういう訳にはいきません」

 

 固辞しようとしたクインにアスティアも言葉を重ねる。

 

「クイン、座って頂戴。 私もそうして欲しいわ」

 

「……わかりました」

 

 二人に用意した紅茶を音も立てずに置いたクインも、これ以上は無駄と判断した上、失礼にも当たると仕方なく腰を下ろした。 そして少しだけテーブルから離れたところには、エリが椅子を二脚並べて二人で座った。 サイドテーブルには果物を用意してあり少女に食べさせてあげるのだろう。

 

 

 

 

 側に置いてあった木箱から幾つかに束ねた紙を取り出してアスト、アスティアの二人の前に丁寧に置き、その後エリにも渡したクインは木箱から更に幾つかの木製のブロックを取り出した。 端的に言えば積み木であり、球状のもの、円錐、立方体などだ。

 

「クイン……それは?」

 

「はい、後で使います。 まずは殿下もアスティア様もそちらをご覧下さい」

 

 先程置いた紙束を指し示したクインはエリにも視線を送った。

 

「エリ……」

 

 アスト達はクインの冷たい呼びかけに少し驚いて、エリを見て納得する。エリはフォークで刺した葡萄の一粒を少女に食べさせようとしていたが、少女は口を閉じて嫌がっているように見える。閉じた口に押し付けた葡萄は少し押し潰されていた。

 

「あ、あの……すいません……少し意地になってました」

 

「その子も子供ではありません。フォークは渡しなさい」

 

「はい……」

 

 渋々と葡萄の刺さったままのフォークを渡して、紙束を手に取り浮かしていたお尻を椅子に下ろした。

 

「はあ……」

 

 エリが居ると空気が緩むのを感じるが、同時に自分では出来ない事だとも理解するクインは溜息一つで済ました。

 

 

 

 

「それでは改めて、解読した刻印の説明を致します」

 

「クイン、ちょっと待ってくれ。 少しだけ目を通したが……女性の身体にある刻印を詳しく話しするのは拙いのではないか? ましてや本人のいる前でだ」

 

「はい、殿下の言われる通りです。 その事も含めて説明致しますので、少しだけ時間を頂けませんか?」

 

「そうか……余計な事だったな、すまない」

 

「いえ、とんでも御座いません」

 

「兄様も間違ってないのだし、いいじゃない。 クイン始めてくれる?」

 

 アスティアを見て頷いたクインは、もう一度少女を見て口を開いた。

 

「最初の1枚目を開いて2枚目を見て下さい」

 

 1枚目には、美しい筆致で[刻印の解読と考察]と書かれていた。クイン直筆の羽筆によるものだろう。 そして皆が紙をめくり、暫くは沈黙が続いた。

 

 

「ある程度は解っていたつもりだが、やはり驚くな……」

 

「7つもの刻印なんて、物語でも見た事ないもの……」

 

 アストもアスティアも何とか言葉をひねり出したが、やはり沈黙は続く。

 

「まずは、解読結果を説明します」

 

 クインは感情を抑えた声で告げ、二人に視線を合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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15.聖女が名前を呼ばれる日②

 

 

 

 

 

 

 右胸部ーー癒しの力[聖女] 5階位 封印

 

 下腹部ーー慈愛[狂?] 3階位

 

 左肩ーー-自己犠牲[贄の宴] 3階位

 

 喉、首ーー言語不覚[紡げず、解せず] 3階位

 

 右太腿ーー利他行動 2階位

 

 左脛ーーー自己欺瞞 2階位

 

 左臀部ーー憎しみの鎖[繋がり?] 1階位

 

 

 

 

「これが……加護、なの……?」

 

 アスティアは刻印の数々から、いかに神々に愛された子だろうかと少しだけあった嫉妬も消えていくのを感じた。エリがさっき言っていたではないか、白神に愛されて羨ましいと。 自分の体温が下がったことすら自覚する。

 

 クインとコヒンの解読が事実ならば一体どんな神が刻んだのか、冷たい怒りが湧き上がってくるのをアスティアは抑える事が出来なくなっていた。

 

「ああ、こんなのは加護とは言いたくない……これではまるで……」

 

 呪いではないか……思わず口に仕掛けたが、同時にすぐ側には少女がいる事を思い出してアストは口をつぐんだ。

 

 丁度少女は葡萄を口に放り投げ、失敗して小さな鼻に当てたところだった。 こちらの話には全く興味がない様子で、 逆に先ほどまで遊んでいたエリはじっと解読された内容を読んでいた。

 

「説明を続けます。 彼女がここにいる一つ目の理由です。言語不覚の刻印の影響で、話をする事は出来ません……ただ、もっと大きな問題があります」

 

「言葉を紡げないだけでも大変なのに?」

 

「はい。彼女はおそらく、我々が話す会話も、書かれた文字すらも理解が出来ないでしょう。 これは知能の問題ではありません。むしろこの子の知能は非常に高いと推測されますから」

 

「意味を理解出来ないって言うの……?」

 

「はい、これを見て下さい」

 

 クインは積み木を並べてみせる。

 

「丸い、四角い、小さい、軽い。 この積み木を隠しこれらの言葉を彼女に伝えても、それを導き出す事は出来ないのです。但し、彼女がこれを見たり触ったりする事でこれが何なのか、どういった形状や材質なのかをしっかりと理解出来ます」

 

 積み木を隠したり見せたりしながら説明をするクインを見て、その為の積み木だったのかと思いながら、よく理解も出来た。 言葉だけではピンと来なかったかもしれない。

 

「つまり積み木を理解出来ないのではなく、言語による理解だけが制限されているのか……」

 

「その通りです。この子は治癒院で騎士を癒し命を救ってくれました。 気管に溢れた血を吸い出して呼吸を確保し、更に腹部に残っていた金属片すら取り出し傷を塞いだそうです。治癒院にいたクレオンさんが間近で見ていたので間違いありません。 これは高度な知識や経験がないと成せない事です」

 

「クインは、この刻印が後天的に刻まれたと言いたいんだな? 生まれてすぐ見つかる刻印ではないと」

 

 アストが導き出した事を認めつつ、クインは更に答えを加えた。

 

「おそらく、いえ間違いなく[癒し]と[慈愛]は生まれつきあった刻印と思います。 優しく、慈愛に溢れた女の子だったのでしょう……寧ろ、そこに目をつけられて別の神に後から変えられたのです」

 

「変えられた? 別の神に?」

 

 アスティアの疑問に、アストとクインは目を合わせた。

 

「アスティア様、癒しと慈愛の刻印以外は黒神、黒神ヤトに刻まれました ……ヤトは……太古から在る憎悪や悲哀、痛みなどを司る強力な神の一柱なのです」

 

「憎悪や悲哀、痛み……そんな……」

 

 エリですら何時もの笑顔は消え、少女の横顔を見ていた。

 

「クイン、この子はこれからもずっと会話が出来ないの?」

 

 アスティアの今にも泣き出しそうな目を見てクインも哀しくなったが、刻印の説明は始まったばかりである事を思い、お腹がギュッとなるのを感じた。

 

「はい、残念ながら……そうです」

 

 出来る限り感情は抑えたつもりだったが、やはり声は震えていた。悲しげなアスティアを見れば、それを止める気も消えていく。

 

「続けます……殿下、言語不覚も問題ですが本質は他にあります。 ここからは私の推測も混じる事をご理解下さい。それと……アスティア様……これからの内容は非常に辛いものになるかも知れません。それでも、お聞きになりますか?」

 

 クインに真っ直ぐに見つめられ思わず怯んでしまうが、同時にアスティア想う。鏡の前でこの子の髪をとかしたときを。

 

「ええ、勿論聞くわ。続けて頂戴」

 

 アスティアの力強い言葉にクインだけでなくアストも感心し、彼女の成長を知り誇りに思った。

 

「分かりました。では、次を見て下さい」

 

 部屋に紙をめくる音が響いた。 雨は激しさを増し、まるで聖女を哀れんでいるかのようだ。

 

「彼女は慈愛の刻印を持っています。しかし[憎しみの鎖]は一見[慈愛]と相反した刻印だと思われませんか?」

 

「ああ、そう思う。 僅かな時間とはいえ見てきた彼女の行動からも、憎しみなど感じることもない」

 

 アスティアもエリも頷いている。

 

「彼女の刻印は全てのそれぞれが鎖の様に繋がって影響を与えていると考えられます。 黒神ヤトは計算して刻印を刻んだのでしょう……」

 

 その説明は、聞けば聞くほどアスト達三人の心に冷たい雨を降らしていく。

 

 憎しみの鎖は外に向いているのではなく、彼女自身に向けられている。これは何らかの過去が影響を与えているはず。また慈愛に反しないよう自己欺瞞で誤魔化し、これにより彼女は自身への価値を見出せない。 ひどく自己肯定の薄い人になる……

 

 アストはその内容に、したくもない納得をしてしまった。

 

「だから自らを傷つけても、誰かが心を痛めても、何も感じていないように……」

 

「はい……でも、それでもまだ終わらないのです」

 

 クインの推測は続いていった。

 

「黒神ヤトは癒しの力を用いて世界を救済するつもりでしょう。しかし5階位の力など人には過ぎたものです。魂魄の容量からも人は2階位、しかも二つまでしか刻印は刻めない筈でしたから」

 

 癒しの刻印に力を与えるため、魂魄の容量を犯さないために、[自己犠牲-贄の宴]を刻んだのだとクインは続けた。

 

 自己肯定の薄い彼女は、簡単に自らを傷つけて贄を用意してしまう。魂魄からではなく、自らの血肉を用いる事でその力を引き出すのだと。

 

「……利他行動……自分ではない第三者のために自己を顧みずに動き、狂わされた慈愛によってそれを簡単に実行に移すのでしょう……疑問を持ったとしても悲鳴をあげることも、誰かに助けを求める事も彼女には出来ないのですから……」

 

 言葉を紡ぎながらもクインの美しい唇は噛み締められ、同時に手を握り締めて心の葛藤と怒りを表していた。

 

「そんな……そんなの酷すぎるわ……この子はそんな事をする為にいるとでもいうの……」

 

「そんな事許されて良いわけがない……まだ大人にもなりきれていない少女じゃないか……それに……それではまるで、聖女じゃなく……」

 

 

 

「この子は聖女ではなく()()だと……そう思いますか?」

 

 

 

 黙ってしまったアスト達に、クインは自分も否定したいと思う。

 

 しかしコヒンも言っていた……辻褄が合うと。

 

「黒神ヤトは全てを計算して刻印を刻んだのです。 この子は放っておいても血の流れる戦場に赴き人々を癒す事でしょう。 自らの意思なのかも分からず、誰にも告げる事なく」

 

「でも……人々は癒され、もしかしたら世界は救済されるかもしれません……では誰が彼女を癒し救うのでしょうか……?」

 

 その言葉に誰一人として答える事が出来なかった。

 

「殿下……恐ろしくはないですか……? この子は腕を切り裂き、その血肉によって人々を癒すのなら……もし幾ら血肉を捧げても癒す事の出来ない大勢の人がいたら、次は何を差し出すのでしょうか……?」

 

「命を、命を差し出すと……?」

 

「刻印の全てが、それを表しています。 自己を顧みさせない慈愛と、それにより力を増す癒しの力が……そして、それが世界を救済する鍵なのかもしれません」

 

 

 

 

 

 

 黒の間には、ただ窓を叩く雨音だけが響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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16.聖女が名前を呼ばれる日③

 

 

 

 

 

  コロコロと転がってきた丸いもの、葡萄が足に当たってアストは我に返った。 少女はいかにも"拙いことになった"という顔をしていて、思わず笑みをこぼしてしまう。

 

 闇の中で迷子になった子供のように行き場のない気持ちを抱えていたアスト達にとって、それは一筋のそよ風のようで……少しだけ空気が弛緩したのを感じる事が出来た一瞬でもあった。

 

 クインが手を伸ばして葡萄を拾い、予備の紙に包んで懐に入れる。 後で処分するつもりなのだろう。

 

 ちなみに少女は益々顔色が変わって、下を向いて動かなくなった。

 

「殿下……カーディル陛下にどうお伝えしますか?」

 

「もちろんそのまま伝えるさ」

 

「殿下……陛下は大変責任あるお方で、同時にそれを行動に移す事の出来る王でしょう。 大勢の王国民の命と、たった一人の少女の命を天秤にかける事になる……陛下であれば御決断なされます。 それでも良いと思われますか?」

 

 王家の相談役としても意地悪な聴き方をしているのは自覚しているが、それは事実でもあった。

 

「違う、そうじゃない……陛下は、父上は分かって下さる筈だ……」

 

 クインは甘い考えだと一蹴しようとした時、アストは強い眼差しでその碧眼を向けた。

 

「クイン、教えてくれ。 黒神は邪悪な、邪な思いを抱く悪神なのか……?」

 

「いえ……そんな事はありません。黒神の中で最も力を持つとされる神は、死と眠りを司る神エントーです。 エントーは等しく人々に死と眠りを与えてくれます。 もしその加護がなければ……人は死を迎えた筈のあとも、生きた屍として彷徨い歩くと言われる程ですから」

 

「そうだ……私もコヒンやクイン、君にも教えて貰った。黒神は在りようや形は違えども、人々を等しく愛していると。 私はそれは間違っていないと思えるんだ」

 

 クインは、アストが何を言おうとしているのか分からずに困惑していた。 しかしアスティアは、何か希望を見出したかのように光を失っていた瞳の輝きを取り戻していく。

 

「クイン、もう一度考えてくれ。 癒しの力は何故封印されているんだ? クインの言う通りなら、封印などせずに直ぐに戦地に送り付ければいい話だ。 いや、他の刻印だって必要ないじゃないか。 私はそう思えるんだ」

 

「それは……死を迎えた時に解けるのでは……」

 

 言いたくもない考えを呟いたが、同時に否定の言葉を待つ自分がいると分かった。そして期待通り、アストは力強く確信すら持ったかのように高々と言葉を紡ぐ。

 

「そうじゃない、ヤトはヤトなりに聖女も愛しているんだ。 だから必ず皆が助かる道がある。 そうだと信じるんだ。 神々のご加護は間違いなく降り注いでいると」

 

 クインは眩しい光を見るように目を細めて、アストを仰ぎ見た。 アストは誇り高いリンディアの王となられるお方なのだと、彼は間違いなく、アスト=エル=リンディアなのだと。

 

 クインは涙が零れるのも構わずに、目の前の希望にただ頭を下げるのだった。

 

「はい、アスト殿下」

 

 雨は止み、雲の切れ間から光が黒の間に降り注ぐ。アストの白銀の髪と青い瞳はそれを反射してキラキラと光を放ち輝いていた。

 

 

 

「そうよ……兄様の言う通りだわ! きっと何か意味がある筈よ、だっていま私達と一緒にここに座ってるんだもの。 お父様と相談して、ケーヒルやジョシュ、みんなに力を借りましょう!」

 

 アスティアは、何時もの元気を取り戻してアストと同じように力強く声を上げた。

 

「はい、アスティア様。 本当に……本当にありがとうございます」

 

 クインは涙を取り出したハンカチで軽く押さえながら、思わず笑顔が溢れるのを止めなかった。

 

 

 

 

 少女はクインがハンカチを取り出した際、再び零れ落ちた葡萄を素早く拾い上げて自身のワンピースのポケットに入れた。危なかったと溜息をついた少女の横には、エリがしっかり目撃をして、ニヤついているのは気付いていないようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫くは涙が零れるのに任せ、ゆったりとした時間が流れた。雨雲は消えて暖かい日差しが降り注いで、光がカーテンの様に輝いている。ベランダに咲く花々はまるで宝石の様に彩られていた。

 

「申し訳ありません、殿下、アスティア様」

 

「いいのよ、貴女の泣き顔なんて随分貴重なものを見せて貰ったわ」

 

 アスティアは態とクインを茶化して笑った。

 

「はい……」

 

 クインもアスティアの優しさに甘えてそれ以上は何も言わない。

 

 

 

 少し落ち着きを取り戻した黒の間にアストの声が響いた。

 

「クイン、刻印の説明がまだ続いているようだが……?」

 

 もう全ての解説が終わったと思っていたが、最後にもう一枚だけ刻印の紋様を書き写した紙が残っている。 どうやら首に刻まれた刻印の一部を拡大したもの、そう見えた。

 

「あっ! はい、まだ重要な事が残っていました。 彼女にこの場所にいて貰ったもう一つの理由です」

 

 少し朗らかな声から悪いことではないとわかった三人は、少しほっとしながら耳を傾ける。

 

「これは、お爺様が見付けてくれたんです」

 

 刻印の模写を指し示しながら説明は続いていった。

 

「言語不覚の刻印、その紋様の一部に意味を成さない単語らしきものがありました」

 

 アスト達は幾ら眺めてもわからないパズルの様な紋様から探すのを諦めてクインの次の言葉を待った。

 

 

 

「一語一語は、時代も神々も違う神代文字のため、私達も最初は只の模様だと思いましたが、違ったんです」

 

 

 

「意味は含まれていません、ただ音を発音すればいいだけです」

 

 

「お爺様は結論付けてくれました。これは……彼女の名前だと」

 

 

 アストもアスティアもエリも、それを待ち望んでいたのだ。

 

 

 出会ってから今まで一度も声に出せなかった事を。

 

 

「こう読みます……」

 

 

「カ、ズ、キ……と」

 

 

 

 

 

 

 

 初めてこの世界に聖女の名前は告げられた。

 

 そしてこれから、人々は知るだろう。

 

 救いは舞い降りたのだと。

 

 神々は見捨ててはいなかったのだと。

 

 

 

 

 

 

 黒神の聖女「カズキ」が降臨したのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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17.森の胎動

お気に入り300件超えました。また、誤字報告も頂き助かりました。感想も沢山ありがとうございます。


 

 

 

 森人(もりびと)、と呼ばれる者達がいる。

 

 

 森に分け入り薬草や希少な樹液、霊芝や一部昆虫類を採集する人々、或いは森に生息する獣を狩り持ち帰る者達を総称してそう呼ぶ。

 

 昔はそれぞれの村には何人もいたし、ある程度管理された森の浅いところなら子供達の遊びや冒険の場の一つとして日常の風景に溶け込んでいただろう。

 

 森は恵みを齎すもので、人々の生活に寄り添う存在だった。

 

 しかし今、森とは恐怖と憎しみの対象となり、人に死と滅びを運ぶ代名詞となった。

 

 300年前から現れた魔獣が、恵みをもたらす揺り籠を奴等の棲まう恐ろしい巣に変貌させてしまったのだ。 森に入る狩人達も冒険する子供達の姿はない。

 

 

 森は変貌してしまった。

 

 

 森人と呼ばれる生業は……騎士達と並び畏怖と尊敬、そして僅かながら異物を見る目を向けられる、そんな人々だ。

 

 そんな森人達は必ず3人以上でしか森には入らない。

 

 採集や分業においてもそれ以下では効率が落ちる。

 

 しかし何よりも重要なのは、魔獣との遭遇だ。 森人達には魔獣に遭遇しない為の知識が受け継がれているし、経験も積む。しかしどれだけ森を熟知したとしても、魔獣と出遭えば死からは逃れられない。

 

 一人が倒れても、残った二人が別々の方向に躊躇なく逃げるのが森人が決めた絶対の掟なのだ。生き延びた者はその事を家族に伝えなければならない。その覚悟を持つ者こそが森人と呼ばれるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イオアンは身体の半分はあろうかと思える濃い緑と茶色に染められた背負袋を担ぎ、腰の小剣に手を添えながらひたすら無言で歩いていた。

 

 袋には使い古された小型のランプ、手彫りだろう木製のコップ、テント代わりにもなる外套、いくつかの革紐、大小数本のナイフが括り付けられている。 そして後ろには似た姿の二人が追従している。 二日前の昼に王都リンスフィアを出た3人は、南部の森を目指し見晴らしの良い丘をゆっくりと登り続け、あと少しで丘の頂上というところまで来ていた。 何年も掛けて大勢が踏みしめて来たのか、丘には曲がりくねった轍のように道が出来ている。

 

「あと少しだ」

 

 後ろの二人も知っている事と思いながらも自分に言い聞かせる様に呟いた。 休息予定地は丘を越えた先にある。もうすぐ夕闇が訪れる時間だが、休息地に間に合って胸を撫で下ろした。 闇の中で休息の準備などは御免だからだろう。

 

 

 

 

 

 外套を広げて鞘に入れた小剣で支え革紐で予め立てられている柱に括り付ける。そうして簡単な寝所を作ったイオアンと二人は、次に持ち込んだ廃材に燃える水を掛けて火を起こした。 これから簡単に食事を作り明日に備えしっかりと身体を休めなければならない。

 

「ローゼン、ヤッシュ。 疲れはどうだ?」

 

 頭をすっぽりと覆っていた毛糸編みの帽子を取り、髭で覆われた口を僅かに動かしてイオアンは聞いた。

 

「ああ、問題ないよ」

 

「はい、大丈夫です」

 

 イオアンは、二人の若者をその鋭く尖った両目で確認し、また燃える炎に視線を戻した。

 

「爺さんこそ大丈夫なのか? 引退してもおかしくない歳だろう?」

 

「ふんっ。お前に言われるほど耄碌しておらん」

 

「そんな事を言ってるんじゃない。まだまだ爺さんには教えて貰う事も多いが、体力だけはそうはいかないからな」

 

「ローゼンさん、心配ならそう言えばいいのに」

 

「ヤッシュ、また殴られたいか?」

 

 まるで兄弟の様に燻んだ赤毛を短く刈り込んだ二人を視界に収めながら、イオアンは明日入る森の事に考えを巡らせていた。

 

「明日は、夜が明ける前にここを発つ。 森には朝日が昇る頃に着くだろう。 だがつい最近も南部の森で魔獣と遭遇し、大きな被害が出たらしい。何かあればすぐに森を出る。わかってるな?」

 

「分かってるって。油断と慢心は森が死を運ぶ、だろ?」

 

「……そうだ、わかったなら無駄口を叩かず早く飯を食え」

 

「へいへい」

 

「……見張りは何時もと同じだ。ヤッシュ、いいな?」

 

「はい」

 

 残りの焼き締めたパンと薄めたワインを一気に流し込み、森人の3人はそれぞれが眠る準備を整えた。

 

 

 

 

 

 翌朝明けやらぬ時間に休息地を出た三人は、森が視界に入る場所で立ち止まり、岩陰に背負袋を降ろし僅かに離れた森を睨んだ。

 

 括っていた革紐を緩め袋から上半身を覆う程の毛皮を縫い合わせた上着を取り出す。 まだ獣臭も残っているそれを着込むと、更に地面に水を垂らして泥状にした土を体中に塗りたくっていく。 森人達が受け継いできた魔獣避けだ。彼等の間では、森に溶けると表現される。

 

 いくつか取り出した皮袋とナイフを持ち小剣を確認する。 背負袋はここに残し、帰りにまた回収するのだろう。 全員に手慣れた様子が窺えた。

 

 

「よし、いいな? まずはククの葉を採集に行く」

 

 ローゼンもヤッシュも昨晩の様な軽口は叩かず頷くだけで済ました。

 

「その後は深部から戻りながら、樹液を集める。霊芝は見つけたらでいい。 欲はかくな。 おかしな物を見つけたら必ず教えろ」

 

 イオアンの淡々とした言葉には、ずっしりとした重みがあった。 練達の森人は一種独特の迫力を持つ。 それは若い二人にはまだ無いものだった。

 

 

 

 

 

 イオアン達3人は、一定の距離を保ちながらほぼ平行に展開している。 約20歩分だろうか? これは採集物の発見の為であり、同時に3人同時に襲われないよう工夫されたものだ。 必ず両者は視界に収まる様に動き、大木等の裏側に姿が隠れた時はそれが現れるまで待ち前進する。 時間は掛かるが、長く先人から受け継いだ森人の知恵だった。

 

 イオアンは真ん中にいて、両方に気を配りながら四方に視線を送り森の深部を目指していた。苔生した地面は柔らかく、踏む度に青臭い香りと湿り気を帯びる。

 

 この辺りは木々が密集しており、所謂安全な場所と言える。 魔獣は体が大きく、木々が打ち倒されていない場所は即ち活動域ではないことの証明でもあるからだ。

 

 声は出さず手による合図だけを頼りに進む一行は、目的地であるククの葉が群生する水辺まで到着した。

 

 無言で採集を始めるローゼンとヤッシュを視界の隅に入れながら、イオアンは周りを警戒して周辺の確認をしていった。 これも勿論役割が決めてあり湖と言って良いこの場所は、同時に開けている為魔獣が現れてもおかしくない。

 

 

  足跡や草木の変化を見逃さない様に注意深く確認を終えたイオアンは、ようやく一息つく事が出来たのだった。

 

 

 

 皮袋一杯にククの葉を詰めたローゼンとヤッシュは、イオアンに合図を送った。 これだけあれば、小さな子供の命を何人も救えるだろう。 万能の薬草と呼ばれるククの葉は、熱冷まし、痛みや化膿止め、何より子供が罹患する風土病の特効薬として知られている。 典薬医、薬医には絶えず需要があり、治癒院等では在庫を切らせる訳にはいかないものだ。蝋燭から燃え上がる炎と同じ形をした葉姿は、森の奥深くでしか目にする事が出来ない。

 

 イオアンは地図を再度確認する。 森は変化することから沢山の注意書きが書き込まれていて、森人にとって宝と言っていいものだろう。

 

 今いる此処もかなりの深部だが、今から向かう場所は別の意味で危険なところになる。

 

 魔獣の活動域により近づく事になる。

 

 

 

 

 

 

 

 樹液の採取は多くの時間が必要だ。 ある種類の木の幹に、専用の工具で穴を開ける。 そこに親指程の太さの金属で作られた筒を差し込み、少しずつポタポタと流れ出る樹液を受けるのだ。 種類によっては1日から一週間程度で一杯になる。 しかしイオアン達が仕掛けたのは、約一ヶ月前だ。 それだけ粘性も高く、同時に希少でもある。 ククの葉と合わせ今回の目的の一つだ。

 

 

 

「おかしい……」

 

 イオアンは何かの違和感を覚えていたが、それが何なのか分からずに思わず呟いた。立ち止まり周辺を見渡す。 離れた二人は怪訝な顔をして、イオアンを見ている。樹液採取の最初の目的地まであと少しというところだ。

 

 ゆっくりと歩みを再開したが、違和感は拭えないままだった。

 

 

 

 

 そのまま何事もなく、樹液も回収出来た事でイオアンはとりあえず深呼吸をした。

 

 次の回収地点を目指すため、地図を広げて目的地の方角を見た時だった。

 

「地形が違う……」

 

 イオアンの記憶にない、地面の陥没や盛り上がりがあるのだ。木々はあるし、苔生した地面もある。 しかし何かが変わってしまっている事に漸く気付いたイオアンは、急いで二人に撤退の合図を送ろうと左右を見た。

 

「ヤッシュ……?」

 

 いつも視界に入れている筈のヤッシュが見えない。 イオアンは慌ててローゼンを探す。

 

 さっきまで樹液を回収していたローゼンの姿すら消えている。

 

 

 

 

 ーーーーグルルルル……

 

 直ぐ後ろから獣の様な唸り声が聞こえたイオアンは、咄嗟に小剣を抜き振り向いた。

 

 そこには……

 

 赤い壁が見えた。 無毛の肌、異常に盛り上がった筋肉、太い前足の巨大な爪、滴り落ちる涎……

 

 どうやってこんな近くまで……?後退りながらも魔獣の背後に避けられた茂みと黒い穴が見えた。

 

 地中だと……?

 

 深部とはいえ、ここは森人の活動圏内だぞ……木々の根も深い地下を潜るなど、こんな事ある筈がない……イオアンは絶望感を覚えながらも、必ず生きてこの事を報せなければならないと強く思い行動に変える。

 

「本能の赴くままに人を襲う獣では無かったのか……!」

 

 これは大変な事だ。 魔獣が計画的に森の地中を進み、リンスフィアを襲う、いや侵攻するつもりだとしたら……

 

 イオアンは全ての荷物を放り出して、大声で叫んだ。

 

「ローゼン!ヤッシュ! 生きてるなら、走って逃げろ!!魔獣が侵攻の準備をしていると伝えるんだ! 地中から……グハッ……」

 

 鋭い痛みと熱が走り、イオアンは自分の腹から赤い何かが飛び出しているのが見えた。

 

「く、くそっ……ローゼン……ヤッ……シュ……」

 

 無理矢理持ち上げた頭で見開いたイオアンの目には、二人が魔獣の側に倒れ、その原型すら留めていない姿が目に入った。

 

 遠のく意識には、妻や子供、孫達が不安そうにこちらを見ている気がしたが、それもすぐに消えて……暗い闇が訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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18.黒の間の住人

少しだけ趣を変えて。息抜き回。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まずは隙を窺う。

 

 従順な振りをして、少しずつ自由を得るんだ。

 

 そうしてこの鳥籠から出て、もっと警備の緩い部屋に行く。例えば侍女は無理でも下女ならどうだろう? 色々な場所へ移動出来るし脱走経路の下調べも出来る。

 

 もう一つ大事な事は、相手を観察することだ。

 

 ここは間違いなく封建制の国だろう。絶対的な君主がいる以上、機嫌を損ねる訳にはいかない。 俺のことは置くとしても、現代日本とは違い個人の人権など君主の前では吹けば飛ぶ埃のようなものだ。

 

 あの銀髪の美丈夫はおそらく王か王子、或いはそれに準ずる立場の人間だろう。 逆らっては不味い相手筆頭だ。

 

 さらに、銀髪娘はおそらくお姫様だ。 どうも怒りっぽいし、間違いない。いつもくっついてる赤毛は侍女だろうが、アイツはとりあえずは大丈夫だろう。

 

 もう一人の要注意人物は、あの背の高い金髪の女だ。ヤツはどうもヤバい気がする。この勘は間違って無い筈だ。

 

 

 そして、自分を知る事も大事だろう。

 

 この身体は昔と違い非常にひ弱だ。得意だった右拳も膝蹴りも使えない……いや、効果は望めない。金的への攻撃くらいしかないだろう。唯一の優位点は回復力だが、それは知られたくない。

 

 街の屑相手に少しばかり喧嘩が出来ていた俺も、この国の兵士に勝てるとは思わない。この国の兵士達は、あの冗談みたいな化け物と戦う本物の戦士だ。彼等からすれば、俺は只の餓鬼でしかないだろう。

 

 幸い、この身体は腹立たしいが可愛らしい。 情け無い事に涙脆くもなっている。庇護欲、同情心を掻き立てやすい筈だ。他人の怪我を治す力も、たまには披露して上手く利用すれば良い。

 

 

 

 これが大まかな流れだろう。

 

 生きていくのは一人が一番だ。 その為には、少し位の我慢など幾らでも出来る。

 

 最後に勝てばいい。

 

 俺なら大丈夫だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は朝から雨が降り続いている。 雨音で目が覚めた程だ。

 

 嘘みたいなベランダから見る景色は、さすがに俺も驚いたものだ。 行った事などないがヨーロッパの古い街並みはこんな感じなんだろう。

 

 石やレンガ造りの建物が放射状に広がり、石畳みの道が敷かれている。 かなり計画的に造成されたのが分かる。 全体的に白い建物で屋根は赤や茶色だろうか。 煙突からは煙が立ちのぼり、童話の世界にいると錯覚すら覚えるのだ。

 

 街全体は楕円形と言えば間違い無いだろう。 城壁が三重にあり、一番外の壁が最も高い。 防衛の意味が多く含まれているのだろうが、生憎その方面は明るくない。その外には、畑や草原が地平線の向こうまで続いている。 森が何処にも見えないのは不思議だった。

 

 俺にそんな感性があるとは知らなかったが、朝に見る景色はかなり気に入っている。しかし、今日は雨が降っていて、窓のガラスに滴りその景色もぼやけたままだ。

 

 良く眠くなるこの身体も今は目覚めたばかりで眠気も無い。はっきり言えば暇だ。 軟禁されている以上当たり前だが、やる事がない。

 

 ベッドの上にいつまでいても仕方がないし、顔でも洗うか……

 

 俺は洗面室に移動しようと裸足で床に足を下ろす。 いつも思うのだが、ここに敷かれている絨毯らしきこれは、ふかふかで柔らか過ぎるだろう。 俺が住んでいた六畳一間の和室の布団より柔らかいとはどういう事なんだ。

 

 そんな馬鹿らしい事を考えながら、洗面室に到着した。そう到着だ。無駄に広い部屋だから移動も楽じゃない。洗面室の床はタイルだろう陶器製だ。この間、金髪の女に犬猫のように洗われた大きい桶が置かれている。そちらを見て気付いた。あれは血の跡だろうか……血だらけの俺を洗い流した時の名残りで間違いない。

 

 下女として役に立つ事を見せるか……?

 

 一人暮らしをしていた俺は掃除も苦じゃない。 すぐ側の壁にはブラシだろう植物の束と白い粉状の石鹸らしきものがあるし、洗面台には桶に水もたっぷりと入っている。

 

 袖を捲って始めようとした時、ふわふわと揺れ動く服は邪魔だと気付いた。 それに服を汚して不興を買うのは不味いだろうと思い、一度部屋に戻って、頭からシャツを脱ぐように服を脱ぎベッドに放り投げる。

 

 白い下着は気になるが、流石に素っ裸ではよろしくない。

 

 そうして始めた掃除に思いの外集中していたとき、ドアの方からノックが聞こえた。

 

 今度は無視も不味いだろう。

 

 そう思い急いでドアを開けると銀髪お姫様と赤毛侍女が立っていて、いきなり怒っているようだった。

 

 ジロジロと俺の身体を見て何か言っている。 また何か間違ったか? 下着姿は失礼とか、そんな感じかもしれない。

 

 色々考えていたら、赤毛が俺の左腕を取り不思議そうにしていた。

 

 拙い……

 

 急いで腕を背中に回し隠したが、回復が早い事に気付かれたかもしれない……

 

 頭を悩ましていると、さっきまでいた洗面室に連れ込まれて、手拭いらしきものを渡された。 赤毛侍女がお湯を持ってきた事から身体を洗えと言う事か。お姫様の前で汚らしい不潔な体のままとは……それが許せないのだろう。

 

 仕方なく邪魔くさい下着を放り投げて洗い始めたが、すぐに赤毛が来て手拭いを奪われた。 よく分からないが洗ってくれるなら楽でいい。

 

 新しい下着と、また同じような服まで着せられて銀髪お姫様が髪を整えてくれる。 これも楽でいいが、お姫様にこんな事をさせてもいいのだろうか?

 

 お姫様の顔を鏡越しに確認したが、楽しそうなので良いだろう。おそらく人形遊びみたいなものだ。暫く微睡んでると、逆らっては不味い残り二人のご登場だ。

 

 流石に座ったままは不味い。 立ち上がって様子をみると正解だったのだろう、そのまま流された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら俺の入れ墨、所謂刻印についての話し合いらしい。

 

 紙の束には模様と文字が書かれているのが見えた。 正直気にはなるが……今はどうしようもない。

 

 それよりも、隣に座った赤毛侍女が、俺に葡萄らしきものを食べさせようとしやがる。 一粒は付き合ってやったが、二粒目はムカついたのでシカトしていると、金髪に怒られたのか俺にフォークを渡してきた。

 

 暫くはじっとしていたが、理解も出来ない会話など眠気を誘う睡眠薬みたいなものだ。

 

 余りに暇なので、葡萄に手を伸ばし食べることにする。 誰もこっちを見ていないし、暇つぶしに丁度いい。

 

 右手で摘んだ葡萄をぽいっと口に入れる。 味は正直そこまでではない。 現代日本の様に品種改良されてないのだろう。 それでも不味いわけではないし、そもそも味なんてどうでもいい。

 

 いてっ……鼻に当たったが上手く掴んで落としはしなかった。

 

 まあ、眠気も覚めたし良しとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 しまった……会議も佳境らしき時に、リベンジしていた葡萄を床に落として、更には銀髪王子の足元まで転がっていく。

 

 王子は怒りはしなかったが、金髪がこちらを睨んで葡萄を懐に入れたのが見えた。

 

 マズイぞ……後で何か言われるパターンだろう。せめて俺が自分で処分しなければ……

 

 何か不備でもあったのか、金髪が泣き始めてハンカチを懐から出した時、あの葡萄が転がり落ちてきた。

 

 チャンスだ! 素早く葡萄を拾ってポケットに入れ、証拠隠滅を図った俺は少しだけホッとした。 このまま有耶無耶になればいいんだが……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カ、ズ、キ……と」

 

 ……ん?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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19.妄執と暗躍

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燭台に灯された火は、部屋とそこにいる人間を照らしている。

 

 

 

 軍務長室では、白く染まった髪を薬料で撫で付けた初老の男が多くの書類に目を通していた。 痩せた体に不釣り合いな鋭い眼光は見る者に威圧感を与えるだろう。

 

 南部地域での被害状況をあらゆる角度から確認し、効率的に回復をしなければならない。 限られた資源を最適なところへ配分する、それが男の職務だった。

 

 南部での被害は厳しいものだった。だが騎士達の復帰もひと段落した事で、ほかの事に手を付ける事も出来るだろう。

 

 さらにその南部では森人も一組行方不明らしい。 無い事ではないが珍しくもある。 彼らは森の専門家であり騎士達とは違う知識と経験を持つ。 しかし森の近くで背負袋も見つかっており、森で魔獣に襲われたのは間違いないだろう。

 

 その男は次々と起こる問題に指示を与えるべく、書類に書き込みを入れていく。

 

 書類のいくつかは再び担当官に返して再考させる必要があるが、概ね予定通りと言っていい。

 

 

 目頭を押さえ首を回転させて疲れを少しでも無くす。

 

 それを繰り返してきたが 、今は入室してきた部下の話を聞く時なのだろう。 軍務長室に2人の男が向かい合っていた。

 

 

 

 

 

 

 軍務長ユーニード=シャルべは、執務室に来た軍務情報官から報告を受けていた。

 

 彼は若い頃から鍛えた腹心で、信頼出来る者にある調査を依頼していたからだ。

 

「どうだ? 何かわかったか?」

 

「はっ。残念ながら不思議な程に情報は伏せられています。 どうやらアスト殿下自らが緘口令を敷いている様です」

 

「殿下自らが……?」

 

 ユーニードは、顎を指で支えて暫し考えるが答えは出なかった。

 

「なぜ、1人の少女にそこまでする必要がある? 仮に殿下の想い人だとしても隠す理由にならない」

 

 この時代は血統をそこまで重んじない、いやそんな余裕はない。 リンディアの血は勿論重要だが、妃にまでそれを強く求めたりはしないのだ。現王カーディルの妻アス王妃も元は町娘だったのだから。

 

「何かあるのか……?」

 

 ユーニードも少しだけ興味がある程度で、そこまで深く考えていた訳ではない。 しかし緘口令を敷くとは尋常な状況ではないだろう。 リンディア王家には忠誠を誓っているし、尊敬もしている。 カーディル陛下もアスト殿下も民を想う立派な王族なのだ。 だが何かが引っかかっている。

 

「ユーニード様。噂話をお耳に入れるかどうか悩みますが、お聞きになりますか?」

 

 ユーニードは、思考を止めて耳を傾ける。

 

「ああ、何でもいい」

 

「先日、南部の森で起きた被害ですが……」

 

「死傷者も出たあれか。 命を落とした騎士達には、白神に抱かれる事を祈るしかない」

 

「はい。 あくまで噂話ですので、そのおつもりで」

 

「わかっている。 話せ」

 

 

 軍務情報官の話はこうだ。

 

 

 城下の治癒院に神の御使いが現れ、 血を流し運び込まれた騎士を光る手で癒した。闇に溶ける様な真っ黒な少女で、その姿はまるで亡霊のようだった。致命傷に思われた台車に横たわった騎士は、何も無かったかのように立ち上がった。

 

 

「ふん……よくある怪異の話か? だがそれだけではあるまい?」

 

 ユーニードは、目の前の情報官が有能であると知っている。自らが育てたのだから。

 

「はい。 暫くすると治癒院に人が訪れた……と。 アスト、アスティア両殿下、クイン様、侍女エリの方々です」

 

「……ほう。 噂話としてはいまいち出来が悪いな」

 

 その様な目立つ登場人物がいれば、直ぐに裏が取れてしまうだろう。

 

「その治癒院にいらっしゃったのか、事実はわかりません。ただ、お二人を含む4人が城を出たのは間違いないと」

 

「……その目撃された少女に、何か特徴があるのか?」

 

「いえ、なにぶん暗かったので、髪の色も顔も分からなかったようです。ただ濃い色の、星空をあしらったワンピースを着ていたと」

 

 殿下が連れ帰った少女は、珍しい黒色の髪だった……らしい。

 

「いや、だからこその噂話とも考えられるか……殿下が連れ帰った少女など、格好の噂話の材料になろう」

 

 やはり、ただの噂話か……そう考えをまとめかけたユーニードに情報官が重要な話をもたらした。

 

「治癒院にいた者は、わかっています。 典薬医見習いのクレオンだそうです」

 

「クレオン……確か会った事があるな。 典薬医長と一緒にいた」

 

 ユーニードの記憶には、ブラウンの癖毛の気弱そうな青年の顔がはっきりと思い出せた。

 

「少しだけ話を聞いてみるか。 大した手間でもない」

 

「はっ」

 

 独り言ではあっただろうが、情報官は律儀に返事をした。

 

 

 

 

 

 

 最近、クレオンは同僚から心配の声を掛けられる。

 

 上の空だったり、王城を飽きずに眺めたりしている。

 

 だがクレオンは申し訳ないと思いながらも治せるとは思わなかった。 病名は明らかで、ククの葉のように効く特効薬などないのだから。

 

 その病の名は"恋の病" と言った。

 

 

 クレオンにとってあの夜の事は忘れられない出来事だった。

 

 運び込まれた騎士、吹き出した血、何も出来ない自分。

 

 夜の闇に溶ける様な髪をなびかせ、現れた少女。

 

 僅かな香油の香り、淡い光、その美しい相貌。

 

 自らを顧みないその誇り高き精神。

 

 全てが今もそこにある様に感じる事が出来る。 一度だけこの胸に搔き抱いた小さな体を、今も思い出し心が震えている。

 ……群青のワンピースから僅かに見えた、その中も。

 

 時間が解決してくれるのだろうか? 誰にも話せないからこそ、気持ちは募るばかりなのだろう。

 

 だからクレオンは、今日も城を眺めている。

 

 

 

 

 

 

 

「クレオン! お客様だぞ! 大変な方だ。急いで行って来い!」

 

 薬草を種類毎に並べて数量を確認していたところ、いつも嫌味な典薬医長の声にクレオンは振り返った。

 

「大変な方ですか?」

 

 まさか、あの娘だろうか? そんな事を思っていたら、典薬医長からその解説があった。

 

「軍務長のユーニード様だ!そこは後でいいから急げ!」

 

「ユーニード様……? 」

 

 

 

 早足で応接室に向かう。ただユーニードと話す事など自分にあるとは思えないクレオンは、疑問符が頭に浮かんだままだった。

 

 

「失礼します。 クレオンです」

 

 軍の事務方の長たるユーニードにどう話しかければ良いかわからないクレオンは、とりあえず無難なセリフを言って応接室に入った。

 

「ああ……クレオン君。職務中に済まないね。近くに来たから用事を終わらせたいと思ってね」

 

 噂では血も涙もないユーニードと聞いていたクレオンは、その柔らかい物腰に少しだけ肩の力が抜け席に着いた。

 

「いえ、大丈夫です。 あの……僕に何か……?」

 

「いやいや、そんなに緊張しなくていいよ。 先日の南部での被害の確認をしててね。 人手も足りないものだから、私まで引っ張り出されてしまったよ」

 

 ははは……と頭を掻きながら笑うユーニードに、クレオンはホッとしていた。

 

 

 

 

 

「騎士2人は回復と。 いや助かったよクレオン君。 殿()()()()()聞いてはいたけど素晴らしいね」

 

 ユーニードはここで仕掛けた。 クレオンに反応が無ければそれでいい……重要な事はユーニードが関係者と思わせる事だ。ユーニードは一言もアストの許可があるとは言ってはいない。

 

 そしてクレオンはユーニードの思った以上に反応を示すことになる。

 

「素晴らしいなんてものじゃないですよ! 正に聖女です!2人の騎士様は助かる筈のない怪我だったのに、まるで御伽噺のような白く光る手で癒したのですから!」

 

「……ほう、そんなに凄かったのかい? 確か……黒髪の?」

 

「そうです! 黒髪の聖女です。 美しい若葉色の瞳、なにより刻まれた刻印! その慈愛の精神は心を掴んで離しません」

 

 刻印だと……? そうか、だからクインを……ユーニードの中で全てが繋がっていく。体から湧き上がる強い気持ちを何とか抑えながら、クレオンを更に煽る。

 

「……やはりそうか。 本当は国を挙げてお礼を言いたいけどね……何処にいるのかな?」

 

「アスト様とアスティア様が来られて、連れて帰られましたよ? きっとアスト様が側におかれているのでしょう……」

 

 ユーニードはクレオンの嫉妬を感じたが、そんな事はどうでもよかった。

 

「そうだったね。 私も近くでは見た事もなく、会ってなくてね……いいなあ……クレオン君は城に入るのを見たのかい?」

 

「勿論ですよ。 最後までお見送りしましたから」

 

 ユーニードは自分の悲願を、息子の仇を嬲り殺す手段がすぐ近くにある事を知り、全身が震えるのを抑える事は出来なくなった。

 

「……ユーニード様? 大丈夫ですか?」

 

「ああ、勿論大丈夫だとも。 クレオン君、()()()()()

 

 急に怜悧な空気を見せ始めたユーニードに、クレオンは一瞬見間違いかと思った。

 

「それでは」

 

 そのまま振り返ることもせずに立ち去ったユーニードを、クレオンは呆然と見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自室に帰ったユーニードは、僅かに灯る蝋燭の炎で最愛の息子からの手紙を読み直していた。

 

 

「アラン……いよいよだ。 お前を殺した魔獣共に裁きの鉄槌を下す時が来た。 奴等を一匹残らず消し去ってやる。必ずだ」

 

 

 

 妄執に駆られたその目は、炎の光を浴びて爛々と輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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20.リンディアの夜

 

 

 

 

 黒い木肌に手を添えて、その鼓動を感じているのだろうか。

 

 

 

 篝火に照らされた水面とカズキの翡翠色の瞳は、見る者に夜の闇にも映えた幻想の世界を見せていた。

 

 出会った頃肩で切り揃えられていた黒髪も少しだけ伸びて背中に触れている。 一筋の風がサラサラと髪を静かに踊らせて、首筋から耳の後ろまで刻まれた刻印を晒した。 踊る髪は絹の糸の様に絡まること無く風になびき、瞳と同じ色のドレスを着たカズキを精霊の似姿に変えてしまう。

 

 薄く紅を引いた唇からは、僅かな声を聞くことも出来ない。もし名を呼んでくれたなら、どれ程の想いに駆られるのだろうか……

 

 アストは初心な少年などでは無い。 この感情が何なのか理解している。

 

 だから思う。

 

 全ての人々に慈愛を向ける聖女に、たった一人の男が向けても良い思いなのかと……

 

 

「カズキ……」

 

 

 思わず零した呟きが聞こえたのか、カズキはその翡翠色の眼を向けた。その美しい瞳に自分が映っていることに幸福を感じ、そして罪の意識を覚える……それでも、もう少しだけ見詰めて欲しいと思うアストだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜のリンディア城は重要な場所を除きそこまで灯りを多く灯してはいない。 篝火の燃料となる木材すら、ある意味で貴重品だ。 勿論まだ伐採する場所はある。だが最も多くの木材が手に入る森は、魔獣の跋扈する魔境と化したのだ。

 

 防犯上問題はあるだろう。しかし魔獣に対抗出来る唯一の組織「騎士団」を統率するリンディア王家に牙を剥く馬鹿は多くない。

 

 ちなみに「騎士団」とあるが、その名前に反して騎馬による戦闘は余り行われない。 今はほぼ魔獣専門の戦闘集団となっているが、過去から連綿と続く国家防衛の剣と盾に、名誉ある「騎士団」の名前を冠しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 400年以上の歴史を誇るリンディア城には美しい庭園が現在も残されている。 斜陽の時代となって久しいが、だからこそ守られてきたのだろう。

 

 

 遥か昔……森がまだ人の手の届く存在だった頃、ボタニと呼ばれた湖があった。

 

 湖の真ん中にはたった一本だけ天へと伸びる木が立つ小さな島があり、透明度の高い翡翠色の水を湛えたとても美しい湖だったと言われている。

 

 庭園はその美しかったボタニ湖と森をモチーフにしたもので、円形に掘られた人口の泉には澄んだ水が佇んでいる。 その中央に作られた小島には真っ直ぐに伸びた大木が悠々と天に向かい伸びているのだ。 小島までは点々と飛び石が配置されて、大木の袂にある白神を讃える石碑やベンチまで足を運べる様になっている。

 

 森がまだ人々の揺り籠だった時に想いを馳せる、正にリンディアが誇る庭園だ。

 

 

 普段は薄暗いその庭園に、篝火が焚かれていた。

 

 炎が水面に反射する様は幻想的と言っていいだろう。 だが不思議な事に火を付けて回っているのは庭師達ではなく、 騎士達だ。簡易的な鎧姿で剣を腰に装備している騎士達が火を回し付けて、幽玄の世界へと遷移させていく。

 

 アストが倒れカズキに救われた、あの時の小隊の騎士達だった。

 

 聖女の存在を伏せている今、それを知る僅かな人数の騎士達にアストがお願いしたのだ。 自由に散策すら出来ないカズキに、リンディア自慢の庭園を見せてあげたいと。

 

 ノルデを始めとする騎士達は、訓練後の夜間にもかかわらず協力を惜しまなかった。

 

 余談だが、ケーヒルとジョシュは参加出来ず監修のみに留まっている。

 

 見えない各所には騎士達が警護に付き、万が一の侵入者にも万全の体制を整えたのだ。

 

 アストは、感謝の気持ちを胸に黒の間に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ! じっとして!」

 

 化粧台の前のカズキは、顔を逸らして逃げようとしていた。

 

 アスティアはエリを伴い黒の間に来ている。

 

「少しお化粧するだけよ?なんで逃げるの?」

 

 もうすぐアストも来てしまうだろう。

 

 月が美しい夜の庭園に散策に連れ出す予定なのだが、肝心のカズキがこの調子なのだ。

 

 瞳の色に合わせたミディ丈のドレスは何とか着てくれた。昔アスティアにアスから贈られた一着だ。 肩の刻印が露出し、右胸の癒しの刻印すらほんの僅かにあらわれていて、それが少女を少し大人びて見せている。 随分と伸びた髪も櫛を通して整えた。 後は薄く紅でも引こうとしたところでこの有様だった。

 

 エリは小指に紅を取り、何とかカズキの唇に引こうとすればあっちへこっちへ顔を逸らすのだ。

 

「こらっ! カズキ動かないで!」

 

 我慢出来なくなったアスティアは、後ろから両手でカズキの頭を挟んで押さえた。 大きな声に驚いたのか少しだけ体を揺らして大人しくなったところでエリに指示を出す。

 

「エリ! 早く!」

 

「はいっ!」

 

 もう諦めたのか動かなくなったカズキの唇に、淡い色の紅が引かれてアスティアとエリは溜め息をついた。

 

「もう、どうして嫌がるの? 見て、凄く綺麗よ」

 

 鏡に映るカズキは確かに綺麗だが、本人は少しムスッとしているのが可笑しかった。

 

「ふふっ……手間のかかる妹ってこんな感じなのかしら? なんだかとても楽しいわ」

 

「アスティア様、 名前が判って本当に良かったですね。 言葉は通じなくても少しだけ近づけたと思えますから」

 

「……そうね。 カズキが聖女だとしても、こうしていると可愛らしい女の子としか思えないわ。 これからもっと沢山の幸せがある事を教えていかないとね」

 

 

 

 刻印の意味するところが判明した日、アスト達はカーディルに全てを伝えた。

 

 そして出た結論は、カズキをもっと知る事。

 

 クインの示した結論は、もしかしたら正しいのかもしれない。でも刻印だけを見てもカズキが誰なのか、何者なのかは分かる筈がない。

 

 カズキに知らしめるのだ。 自分は世界から、人々から愛されているのだと。 自己犠牲? 贄? 血肉を捧げる? 一人の少女が抱えるには重い運命を私達が支えるのだと。

 

 生け贄などには絶対にさせない。

 

 その先に何かがあるとアストもアスティアも感じるのだ。 理屈ではない、間違っていない答えだと強く確信している。

 

 自身を顧みない慈愛は確かに美しい。 だがそれは、本当にカズキの願いなのか? 乏しい自己愛は作られたものではないのか? 人の思いが届かないなんて、そんな悲しい事を許したりしない……

 

 アスティアが癒し、救う。

 

 ーー黒髪の聖女を。

 

 

「カズキ、 もうすぐ兄様がくるわ。 私も行きたいけれど、今日は兄様に任せるつもり」

 

 通じてなくともアスティアは話し掛ける。 それも決めた事だ。

 

「凄く綺麗なところなのよ? 魔獣なんていなかった昔の森に、それは美しい湖があったの。 それを想ってつくられた庭園なんだって……」

 

「ボタニ湖よ。 今もある筈のそこには、もう人は辿り着けないけど……私もいつか見てみたいな。 その時はカズキも一緒に行きましょう?」

 

 鏡越しに見るカズキの翡翠色の目には困惑しか見て取れない。

 

 伝わっていないのだ。

 

 アスティアは涙を見せないように、アストが来る筈のドアに振り返った。

 

 

 

 

 

 

 

「アスティア……? 大丈夫かい?」

 

「兄様……大丈夫。カズキをお願いね?」

 

「ああ。 アスティアは行かなくていいのか?」

 

「カズキを見てたら泣いてしまいそう……そんなの嫌だから」

 

「……わかった。 あの庭園を見たらカズキだって驚くさ。 ノルデ達が張り切りすぎて心配なくらいだからね」

 

 少しだけ笑う事の出来た妹の額に口づけをして、アストはカズキを見た。

 

「凄く綺麗だ……さあ、行こう」

 

 アストはカズキの手を取り、黒の間から連れ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アストから見ても、カズキはあちこちに興味があるようだ。

 

 廊下、階段、たまに扉を開けて中まで見る程だ。 時にアストを見て様子を伺うのが面白い。

 

 ゆっくりと階下に降りて行くと、遠くにノルデ達が準備してくれた庭園と篝火が見えた。 上空には銀色の月が浮かび、柔らかい光をアスト達に届けている。

 

 カズキは茂みの向こうや柱の陰を確認していて、待機していた騎士達に驚いていたりする。 その都度こっちだよと声を掛けて手を取り誘導していった。何故騎士達が隠れているのが分かるのか不思議だったが、古傷を持つ者にジッと視線を送るのを見て分かった気がした。

 

 

 そうやって視線をあちこちに飛ばしていたが、庭園が近づくと流石に興味を惹かれたらしい。 月明りを反射する水面や、中央の小島と樹木に視線を奪われるカズキに今日の目的地を伝える。

 

「カズキ、あれがリンディアの庭園だよ。 私もこんな時間に来る事はなかったが、変わらず美しいものだな……」

 

 湛えられた水には水生植物が疎らに浮き、離れた小島にも花々が咲いているのが見える。 周辺にいくつも焚かれた篝火がゆらゆらと風に揺れていた。

 

 カズキは水の中が気になるのか、覗き込んだりしている。

 

「カズキ、こっちだ」

 

 飛び石のある場所へ案内して、ゆっくりと歩き出すと足が止まった。

 

「どうした?」

 

 引く手に抵抗を感じたアストは、カズキの顔を見て問うた。残る手でドレスの裾を押さえてみたり横にずらしたりする。

 

「ああ、足元が見えないのが怖いのか……すまない、男には分からない感覚だからな。アスティアは気にせずにいたから気付かなかったよ」

 

 アストは暫し考え、少しだけ泉の側から離れてカズキの横に並んだ。

 

 そして僅かにしゃがんで背中と膝裏に腕を回し、軽い小さな体を持ち上げる。 石の様に固まったカズキが可笑しくて、アストも思わず笑ってしまった。

 

「ははは、大丈夫だよ。 落としたりしないさ」

 

 歩き始めると怖いのか、アストの服を掴んで少し震えている。そうしているうちに再び飛び石まで来たアスト達は、そのままヒョイヒョイと渡って行った。

 

 

 

 島に辿り着いたアストはカズキをそっと下ろして大木を見上げ、自分とカズキへ言い聞かせるよう呟いた。

 

「この木に名前は無いんだ、態とそうしてるらしい。 理由も分からなくなってしまったけどね」

 

 カズキは俯いてまだ震えているが、そこまで怖かったのだろうか?とアストは心配になってしまう。

 

「怖かったかい? いきなりだったから……すまない」

 

 アストは通じないと知りながらも声を掛けた。

 

「ここに連れて来たのは、この木を見せたかったんだ」

 

 見上げると枝葉が風に揺れてサワサワと鳴いている。

 

「言い伝えがあるんだ。 この木に触れて耳を澄ますと、逢いたい人や亡くした人の声が聞こえるって……」

 

 そう言うとアストは幹に手を当てて目を閉じた。

 

「……?」

 

 カズキは首を傾げている。

 

 

「カズキが逢いたい人の声が聞こえたらいい」

 

 

 アストはカズキの手を取りその手を幹に添えさせ、数歩離れて優しく見守った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキは不思議に思っていた。

 

 化け物との戦争に利用するとか、慰みものにするとか警戒は解いてはいけないと思っていたのだ。

 

 ところが最近もその様な気配すらない。

 

 お姫様が現れてはドレスを試着させられるのは勘弁して欲しいが、お飯事(おままごと)や人形遊びの一環だろう。意識せずに動かなければ良いだけだ。

 

 どうも冷遇されている感じがしない……そう困惑している。

 

 脱出の可能性は捨ててはいないが、もう少し様子を見るか? と考えていた矢先だった。 お姫様と侍女がいつもの様に扉を開けて入って来たと思ったら、若草色のドレスらしき物を被せられ、髪をいじくり回し始めたのだ。 またか?と油断してたら口紅を塗ろうとするものだから、何とか逃げようとしていた。

 

 だが全ては無駄だったのだ。 結局口紅をベチョッと塗られて辟易したところで王子様の登場となった。

 

 逆らう訳にはいかない筆頭が連れ出した以上、ついていくしかない。 だがこれはチャンスなのでは?とカズキは意識を切り替える。

 

 経路、階段、窓、扉を観察しても王子様は何も言わない。 階段をずんずんと降りて、久々に土を踏む事すら出来た。

 

 行くか? そうして茂みや柱の陰に逃げ込む算段をしていたら、気付いてしまった。 見えないところに、鎧姿の兵士が潜んでいる。 しかも傷痕も痛々しい歴戦の勇士たる威容だ。

 

 お前は逃げられないとでも言いたいのか!と憤慨する聖女がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 もうその後の事は思い出したくない。

 

 

 

 

 

 庭園らしき所は確かに美しかったが、そんな事は吹き飛んでしまった。敗北感に打ちのめされて、黒の間のベッドの隅に丸まってふて寝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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21.聖女の変化

 

 

 

 

 

 

 聖女はベッドの上で真っ赤な顔をして眠っている。

 

 

「ねえ、クイン。 どう思う?」

 

「……そうですね。 困ったものとしか言えないです」

 

「エリは?」

 

「んー……アレってもう手に入らない貴重なヤツでは?」

 

 

 

 

 

 アスティア達は最近わかってきたのだ。 聖女であるベッドに眠る少女は、思いの外にお転婆な娘だと。

 

 見た目は守ってあげたくなる儚い少女なのだが、まず女の子らしくない。 むしろ少年の様な振る舞いが多い。

 

 先日などは何処から見つけて来たのか、男性用浴着を着て部屋をウロついていた。 男性用浴着とは、ダボっとしたシャツと、膝まである薄手のズボンの組み合わせだ。 麻で出来ており、色合いも濃い目のベージュの地味な着衣だ。 入浴上がりなどに着る下着の延長の様なもので、人前で着るものでもない。

 

 そもそも体の小さな聖女様では、シャツは肩からずれ落ちているし、ズボンは脛まで届いている。 刻印や肌に至っては少し角度を変えて見れば丸見えになる。

 

 端的に言ってだらし無い上、全く似合ってもいない。 初めて見たとき、アスティアは悲鳴に近い大声を上げたものだ。

 

 ドレスなどの女性らしい衣服を着る事を好んでいないのは察していたが、その内にらしさに目覚めるだろうと思っていたのだ。 一体今までにどんな生活をして来たのか疑問に思ってしまう……アスティア達は頭を抱える日々が続いている。

 

 つい先日の夜の散策時も、少し紅を引くのすら嫌がる始末だった。 下着姿のまま平気で扉を開けるのも日常なのだろうか。

 

 

 

 

「それで今度はこれ……?」

 

 呆れてベッドに眠るカズキをアスティアは見ていた。

 

 

 

 

 クインが扉を開けてアスティアを中に促すと、最近良く聞くようになった悲鳴が上がった。 カズキが床の絨毯に倒れて、すぐ側には赤い液体が溢れた跡があったのだ。

 

「まさか癒しの力を誰かに……!?」

 

 そう思って慌てて近づくと、強い酒の匂いが皆の鼻をくすぐった。 側には倒れたビンとクリスタルのカップ……全員が冷ややかな目を聖女に向けたのも当然だろう。

 

「何処からお酒を……そもそも何で飲むのよ……」

 

 クインがカズキの様子を見ている横で、アスティアの声が響いている。

 

「完全に酔い潰れてますね……エリ、お酒を片付けてくれる?」

 

 クインはカズキを横抱きにして、ベッドに運ぶ。 真っ赤な顔をして、声なき呻き声でも上げているのだろう。 目尻に皺を寄せて苦しそうにしている。 だが同情心は湧いてはこない。

 

「あー……これって凄い高級なお酒で、もう作れなくなったヤツでは……?」

 

 原料も手に入らない上に蒸溜所は森に消えてしまった、正に幻の酒である。

 

「お説教しようにも話しは通じないし、困ったものね」

 

「この様子では起きたときに壮絶な二日酔いになるでしょう。 嫌でも懲りるのでは?」

 

「クイン、そういう問題じゃないわ! 今までは優しくしてきたけど、これは教育をしなくては駄目よ!」

 

 アスティアの中ではカズキは手間の掛かる妹なのだ。 姉として妹を立派な淑女にしなくてはならないと決意を新たにする。

 

「クイン、カズキ専属の侍女になるのでしょう? 厳しく教えて上げてね? 私も協力するわ」

 

「はい。 承りました」

 

 

 カズキが前後不覚になっている間に、戦いの火蓋は切って落とされた。

 

 

 

 この日より黒の間には悲鳴にも似たアスティアの声がいつも響く事になる。 カズキは部屋中を逃げ回り、意外と器用に体を使える事も判明した。 まるで街中を駆け回る悪餓鬼の如く、飛んでは跳ねて見事に逃げ回るのだ。 クインが静かに怒りを露わにするまでは、聖女が大人しくなる事はなかった。 流石の聖女もクインには勝てないらしい。

 

 

 そして同時に……聖女の誰も寄せ付けない雰囲気は少しずつ薄くなっていた。 アスティア達はカズキが心を開いてくれていると思い始めている。

 

 

 

 

 

 

「お父様、兄様、聞いてるの?」

 

「ん? ああ、聞いてるよ。 なあアスト?」

 

「はい。 アスティア、ちゃんと聞いてるさ」

 

「あのお転婆聖女を何とかしないといけないわ! 見た目に騙されてはダメ!」

 

 カーディルは14歳の若さで立派な王女であるために努力しているアスティアを愛しく思うと同時に居た堪れない気持ちを持っていた。 我を殺し、民の為にと日々を懸命に生きている。何より、母であるアスが急逝した事も影響したのだろう。

 

 だが目の前の愛しい娘はどうだ? 年齢に相応しい輝きを放っているではないか。それだけでカーディルは嬉しくなってしまう。

 

「アスティア。カズキが元気になってくれて良かったじゃないか。塞ぎ込むことも少なくなっただろう?」

 

「兄様! カズキは隠れてお酒を飲んでたのよ! 酔い潰れて、心臓が止まるとおもったんだから!」

 

「まるで悪戯坊主だな。アストも昔隠れて酒を飲んでいたなあ」

 

「父上……それは昔の話です」

 

「……二人とも! 真面目に聞いてください!」

 

 アスティアの怒りの声に二人は真剣な顔になった。内心はわからないが。

 

「そうだな……やはり外出も出来ないし、気分転換しないといけないかな?」

 

「少し前に庭園に連れ出したのだろう?」

 

「僅かな時間です、父上。リンスフィアを案内出来たらいいが……」

 

「無理なの?」

 

「カズキは目立つからな……刻印の事もある、何処から漏れるとも知れない」

 

「兄様、カズキの事を知られるのがそんなに悪いことなのかしら?」

 

 アスティアは純粋に聞いたのだろう。アストはカーディルと目を合わして、カーディルの頷きを確認した。

 

「アスティア。少しだけ嫌なことかもしれないが、君の大事な妹のことだ。 しっかりと聞くんだよ?」

 

 アストはアスティアの目を真っ直ぐに見た。

 

「……はい」

 

「カズキの癒しの力は人知を超えたものだ。致命傷すら短時間で治癒出来る、いや出来てしまう。自らの血肉を捧げるという問題もあるが、それだけではないんだ……アスティアも知っての通り魔獣を撃退する方法は数あるが、奴等を全て駆逐出来る程ではない。それはわかるね?」

 

 アスティアは神妙に頷く。

 

「森に奪われた街を取り戻す戦略をいくつか提示されている。父上は吟味した上で、今は実行に移していない。それは一定の犠牲を強いることが条件だからだ。 だが……」

 

「……カズキがいれば実行出来る……?」

 

「そうだ。 しかも一人や二人ではない、大勢の犠牲者を出す可能性すらある。そしてその時カズキに何が起こるか誰もわからない。 もしかしたら…て何人かを癒して命を落とすかもしれない」

 

「……アスティア。 私は王として合理的に考えれば、一定の効果が望めると判断している」

 

「お父様!」

 

「まあ聞きなさい。 一つの街を取り返し、魔獣を多く葬る事が出来たとしよう。 カズキの癒しの力で犠牲も最小限に抑える。だがカズホートの例を挙げるまでもなく最後にはリンディアは負ける……カズキが何人もいれば可能性もあるが、考えても仕方のない事だ。 それに……」

 

「それに……?」

 

「アストの想定には一定の説得力がある。 癒しの力が封印されている事だ。 慈愛すら狂わされているのだろう? 他の刻印もカズキ一人に負担が掛かる様になっている。 まるでそう仕向けるかのように」

 

 クインが解読内容を知らせてくれた時、アストが力強く答えた事だ。

 

「アスティア。 カズキと触れ合ってどう思う? 黒神ヤトの操り人形のように、意識も個性もない道具なんだろうか?」

 

 アスティアはアストに負けないくらい強く告げる。

 

「そんな事ありません! あの子は……ひどくお転婆だけど、優しくて素敵な子です……。 黒の間で追いかけてる時、私が躓いて倒れたら慌てて駆け寄って心配そうにする、エリの悪戯にも本気で怒ったりしない。 刻印がなくたって人を思う事の出来る子です」

 

 カーディルはアスティアの白銀の髪を優しく撫でた。

 

「そうだな……ヤトの力ならカズキの意識すら改変出来ただろう。 でもそうしていない。 きっと何か意味があるんだ」

 

「お父様……」

 

 アスティアはカーディルの手の感触に目を細めた。

 

「今はカズキの事は伏せておきたい。 広く知られれば、あらぬ混乱を招く恐れもあるからな。 わかったかい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「まあ、だからと言ってお転婆聖女をそのままには出来ないな」

 

 アストはおどけて見せる。

 

「クインが教育してるけど、手を焼いてるって」

 

「リンスフィアに連れ出すか……準備して慎重にすれば、そこまで大事にはならないだろう。 多少の変装は必要だろうがな」

 

 カーディルの許可が降りた事で、カズキは初めて異世界の街を散策する事になった。

 

「わかりました。 では私が連れて行きましょう」

 

「ん? お前が行くのか? クインなり、騎士の若い者に護衛させれば十分だろう?」

 

 カーディルの顔に意地悪な笑みが浮かんでいるのも気付かずにアストは真面目な顔をして答えた。

 

「いえ、私が責任をもって保護すると最初に言いました。 自身の言葉に嘘はつけません」

 

「そうか…… なら任せるぞ?」

 

「はい」

 

 カーディルにはアストの明らかな独占欲が見えてやはり嬉しくなった。同時に後で冷やかすのも忘れないだろう。

 

「私も行きたいなあ」

 

 置いてきぼりのアスティアも上品に口元を隠して、ニヤつきを見えない様にしている。

 

「ああ、私達二人ではより目立つからな。 別々の日にしようか」

 

 真剣に答えるアストに、父娘は歯を食いしばり笑いを我慢するほかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディア王家の面々は知る事になる。この時の決断が鎖の様に繋がり変化して、王国に波乱の時代を招く事を。

 

 少しだけ柔らかくなった筈のカズキの心さえ、再び混乱へと落ちていく。

 

 

 

 

 

 美しきリンディア王国と黒神の聖女に暗い影が忍び寄っていたが、この時はまだ誰も気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 



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22.妄執の行き着く先①

題名の通り暗い話に入ります。いわゆる敵の本格的な登場です。


 

 

 

 

 

 

 

 

「駄目だ、やはりご再考頂けない……」

 

 軍務長ユーニードは、カーディルが決断しない事に憤りを覚え始めていた。

 

 癒しの力を持った少女の事は現在も伏せられたまま。カーディルやアストが何らの理由で伏せているとしても、折角の力を利用しない事が理解出来ないユーニードだった。

 

「今この時も騎士や森人が命を賭して戦っているのだぞ……もし又犠牲者が出たら何とするのだ……? 何より許せないのは魔獣共が今も我が物顔でのうのうと生きている事だ!」

 

 ガンッ!

 

 ユーニードは怒りが止められず、思わず机に拳を叩きつけた。

 

「……陛下は何をお考えなのだ……? このまま滅びを待つ訳にはいかないのだぞ……。 証言通りなら致命的な怪我さえ回復しうるのだ。 森を焼き街を取り返し奴らを駆逐出来るかもしれないのに……これは神々の………」

 

 そうだ……神々の御意志なのだ……

 

「刻印があったと、刻まれていたと言っていた……」

 

 もっと詳しく調べる必要がある……そう呟くとユーニードは席を立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 変装すると言っても、過去にあった敵対国や危険な地域に行くわけでもない。 特徴的な箇所を変化させればそう危険は無いだろう……そう考えたアストは、カズキの黒髪をなんとかしようとクインに相談に来ていた。

 

「まずは黒髪を隠した方が良いと思う。 他には何かあるかな?」

 

「……本当に殿下がお連れするのですか? カズキを隠しても殿下が側にいては無用の注目を集めるのでは?」

 

 クインは最もな事を包み隠さず言葉にした。

 

「……わかっている……だが私が責任を持って保護すると最初に誓ったんだ。 陛下の許可も頂いている」

 

「そうですか」

 

 クインは他の感情も多分に含まれているのが直ぐに分かったが、それには触れなかった。

 

「それでは髪は纏めて帽子でも被りましょう。 その上で大判で厚手のストールで隠します。 覗き込みでもしなければ、わからないと思います、首回りも隠せますから。 それとカズキには侍女服を着せて下さい。 殿下はお嫌でしょうが、わたくしも参ります。 護衛の騎士も連れて行けば、供の一人と見えるでしょう」

 

 クインは息もつかせずに話しきった。

 

「クインが来てくれるなら心強いよ。 よしその予定で行こう」

 

 クインのちょっとした冷やかしも意に介さずアストは笑う。

 

「いつがいいかな? 天気の良い日だといいが」

 

「……少し準備します。 殿下は騎士の方々にお声掛けをお願いします」

 

「そうだな。 ノルデなら快く着いて来てくれるだろう。 話しておくよ」

 

 そのまま立ち去るアストを見送りながら、クインはため息の混じった苦笑が出るのを止めはしなかった。

 

 

 

 

 

 王都リンスフィアは貴族などが住む内円部と街区である外円部に分かれている。それぞれに城壁があり、外円部の城壁はリンスフィアで一番の高さを誇る。昔には他国との戦争時の防壁として機能していたが、人同士が戦争をする時代は過去のものとなった。敵対者は人ではないのだから。

 

 魔獣がリンスフィアに現れた事は皆無だが、それがいつ起きてもおかしくないと皆が知っていた。だが強固な城壁と誇り高き騎士団の存在がその恐怖を和らげてもいる。どこかに感じる閉塞感の中で人々は日々を過ごしているのだろう。

 

 そんなリンスフィア外円部に、アストが供を引き連れ訪れていた。 王国民からの信頼も厚い王子の登場に、皆が沸き返り声を上げる。 アスト達は石畳の道をゆっくりと歩き、それを見て商店や出店などから人々が手を振っている。 路地には人が集まり始めていた。

 

 

 

 アストが王子でありながらも、自ら騎士として先頭に立っている事は周知の事実だ。 しかも魔獣を何匹も倒しており、英雄と言って差し支えない人気ぶりを示していた。

 

 最近も黒の森近くで魔獣を倒し少女を一人救助したとの噂も流れており、その人気に拍車を掛けている。

 

「アスト様! 我らの英雄だ!」

 

「王子殿下が街に来られてるって!?」

 

「この間も魔獣を打ち倒したらしい」

 

「子供を救出したって」

 

「クイン様だ……俺こんな近くで初めて見た……」

 

「もう一人の侍女は知らないな? 新人か?」

 

 

 アストは笑顔で手を振りながらも内心戸惑っていた。

 

「カズキが落ち着いて街を見学出来ないな……ん? あれは?」

 

 アストの視線の先には、いくつかの馬車と自分を遥かに超える身長をもつ大男と、赤髪の女性が一人立ち話をしていた。

 

「ケーヒル!」

 

 見えたのは副騎士団長のケーヒルだった。 集まった群集もそちらに視線が流れる中、アスト達に気付いたケーヒルもこちらを見て挨拶を返す。

 

「おお、殿下! クイン嬢も! 街中でとは珍しいですな」

 

「おや?アスト様かい? 久しぶりだねぇ……」

 

 ケーヒルの側にいた赤毛の女性も顔見知りの様だった。 耳の上あたりで切り揃えた髪と、クインよりも高い身長、垣間見える腕にも薄っすらとした筋肉が見えて精悍な印象を与える女性だ。 年齢は30ほどか、女傑や姐御と言う言葉を体現した様なすっきりとした美人である。

 

「ロザリー! 帰っていたのか……久しぶりだな」

 

「ロザリー様、お久しぶりでございます」

 

「……?」

 

 ノルデは初めてらしく、一歩離れて様子を見ていた。

 

「アスト様もお元気そうで何よりです。 クインも相変わらずだねぇ。 おや……初顔が二人いるね?」

 

 アストやケーヒルとも知己の女性にノルデは緊張を隠せない。

 

「はっ! 騎士ノルデであります! お、お見知り置きを!」

 

「はっはっは! しがない女一人に騎士様がご丁寧な挨拶だね! こちらこそ、私はロザリー、只のロザリーだよ。 よろしくね」

 

 クインの横に佇んでいたカズキだけは反応なく、ただ立っていた。

 

「もう一人のちっこいのは誰なんだい? 新しい侍女かい?」

 

 頭を覆うストールの所為で、いまいち顔が見えないロザリーは下から覗き込むように腰を屈めた。

 

「ロザリー。 彼女は少し訳ありで、私が預かっているんだ。挨拶がないのは悪気があってじゃない。 その……言葉が不自由で人見知りなんだ。 名前はカズキと言う」

 

「……そうかい。 まあいいさ! 私はロザリーだよ。よろしくな」

 

 ニヤッと笑いながらカズキの手を無理やり取って握りしめて顔を見たロザリーは驚きの声を上げた。

 

「こりゃ別嬪さんだね! アスティア様が太陽なら、この子は銀の月ってところだ! 笑ったらもっと最高だよ?」

 

 カズキはブンブンと振られる腕につられて、ふらついている。ノルデはそれを横に見ながら、ケーヒルに質問をぶつけた。

 

 

「副団長。 こちらの()()()はお知り合いですか?」

 

「ああ、彼女は隊商マファルダストの隊長だ。 我らの仕事柄会うことも多い。 ましてやマファルダストは優秀な森人の集まりだからな。 有名だよ」

 

「マファルダスト! 聞いたことあります! 採取も狩猟も行う専門の隊商ですね!」

 

 ノルデの大きな声に周りに集まっていた人々も納得の声をあげていた。

 

「マファルダスト……あの有名な……」

 

「隊長って女なのか……美人だな……」

 

「だからアスト殿下やケーヒル様と知り合いなんだな」

 

「ケーヒル様でっかいなぁ……」

 

 

「レディってやめておくれよ……なんだいそれは?」

 

 ロザリーは困惑した顔で嫌そうにノルデを見た。

 

「い、いえ! 美しい女性には当然の事ですから!」

 

 酷くどうでもいいが、ノルデは年上好きという噂がある。

 

 

 

 

 隊商とは森人の集団の事を指す。

 

 元々は各国々や街を渡り歩き、物品を売り買いする商売人の事を言っていた。 しかし森に侵略されつつある今では、森に分け入り採取や狩猟を行う者たちの一部を隊商と呼ぶようになった。

 

 隊商は個人で動く森人達とは違い、森から森へ長期的に移動を繰り返して大量の資源を集める事が特長だ。 採取狩猟組と運搬組に分かれており、集めては受け渡し次の森へと旅を続ける。 リンスフィアの生命線である大量の物資を賄う、アスト達とは違った英雄と言えるだろう。 マファルダストはその中でも最高と謳われる隊商である。

 

 もしカズキがその説明を聞けば、遠洋漁業のようだと答えたかもしれない。

 

 

 

「ケーヒルはなぜロザリーと?」

 

 ケーヒルはカズキの存在に気付きながらも、それには触れずアストの質問に答えた。

 

「殿下、イオアンを覚えておられますかな?」

 

「勿論だ……大変優秀な森人で、私も森について教わった事もある。 ユーニードから行方不明になっていると聞いたよ……魔獣にやられただろうとも。 もしそうなら本当に残念だ」

 

「そうですな、このケーヒルもご教授願ったものです。 イオアン程の練達の森人に何があったのか気になりましてな。 ロザリーはイオアンの一番弟子と言っていい程の森人です。 何か分かればと思いまして」

 

「そうか……確か南部の森だったな。 つい最近も騎士達に被害が出た……」

 

「偶然かもしれません。 ですが気にはなりますからな……」

 

「アスト様。 次の出発はまだ先だが、南部も回る予定だよ。 何が分かればすぐに連絡をよこすから、待ってておくれ」

 

「……わかった。 ロザリー、くれぐれも気を付けてくれ」

 

「ありがとさん。 しかし足止めしてしまったね……用事はいいのかい?」

 

「ああ、急ぎの用事という訳ではないんだ……」

 

 そう言いながらカズキを探すアストの目には馬車を興味深そうに見る少女の姿が見えた。

 

「なんだい? こんなボロ馬車が気になるのかい?」

 

 カズキはクインに手を引かれながら、いや逃げられないように捕まったまま馬車を眺めている。 中だけでなく、大きさや馬なども観察しているようだ。

 

「こんな物何が楽しいのかねぇ? 中を見てみるかい?」

 

 カズキの両脇に手を入れてヒョイと馬車の中に持ち上げ入れた。 カズキは驚いて逃げようとしたが、すぐに大人しくなり素直に馬車に乗った。その馬車の中に樽がいくつも並んでいるが、中は空のようだった。

 

「もう中身は下ろしちまったよ。 まあ見ても楽しいもんでもないさ」

 

 樽の中まで覗き見る少女に、ロザリー思わず解説してしまう。

 

「変わった子だねぇ……男の子でもないのに」

 

 森人は騎士と並び、国を守る英雄でもある。 小さな男の子には人気も高く、装備や馬車を見せて欲しいとせがまれる事も多い。 しかし残念ながら女の子には不評だ。 獣や虫などを大量に集める上、魔獣避けに泥まみれになる。 そういった点であまり人気はない。

 

 それでもロザリーは、まるで自分の娘を見る母親のように暖かい視線を送る。

 

 

「フィオナ……」

 

 ロザリーの呟きは、誰の耳にも届く事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、街中でのカズキに特出して何かあった訳ではない。

 

 

 酸っぱい果物を食べて吐き出しそうになったり、剣を見つけて持ち上げようとして上がらなかったり、お酒を飲もうとしてクインに怒られたり、 何故か暗い路地裏に行こうとしたり。

 

 そんなところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外円部の街とは遠く離れた城内の一室で、一人の男が両手に何枚かの紙を持っている。

 

 ユーニード子飼いの軍務情報官は、手に入れた文書を見て震えが止まらなかった。 謎のままだった事がここに明かされたのだ。 まるで宝を見つけた様な、歓喜に溢れた表情を抑えることもなく呟きが部屋に響いた。

 

 

「これは素晴らしい……正に……神の御意志だ。 ユーニード様の仰る通りだった」

 

 

 

 丁寧な美しい字で、その書類の表紙にはこう書かれている……

 

 

 

 

 [刻印の解読と考察]

 

 

 

 

 それは……クインとコヒンが調べまとめた、聖女カズキの刻印の全てだった。

 

 

 軍務情報官は文書を小脇に抱えて部屋を出ると、早足に歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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23.妄執の行き着く先②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ユーニード様」

 

 軍務情報官が珍しく顔を紅潮させてユーニードに声を掛けた。彼は普段感情を余り表に出さない。崇拝するユーニードの真似をしているつもりはないが、似通ってしまうものなのだろう。

 

「どうした? 何かあったのか?」

 

 地図を眺めつつなにかを考えていたユーニードは、真っ直ぐに椅子に座りなおす。

 

 情報官は恭しく小脇に抱えていた文書をユーニードに渡した。

 

「これをご覧下さい。 正にユーニード様の言われた通り、神々の御意志だったのです」

 

「……ほう、これはクインの筆跡だな。 刻印の解読と考察、か」

 

 暫くはパラパラと紙のめくる音がしていたが、ユーニードの目には何度も驚愕の色が現れていた。

 

「……これの信憑性は?」

 

「はっ! 侍女であるエリ嬢が持っていたものです。 クイン様が度々にコヒン様を訪ねていた事も分かっています。 筆致や紙の状態からも、時間的に間違いないと判断致しました。 何より黒髪の少女など、一部しか知らない事ですから」

 

「そうか……」

 

 この時代は魔獣と言う新たな外患を憂慮はしても、中には警戒感が薄いものだ。 情報の管理も甘いのが当然か……ユーニードはアストが緘口令を敷いている情報が、いとも簡単に手に入る事に一抹の不安はあったが今は目を瞑る。

 

 ユーニードは再度目を落とした。

 

「聖女……神々の使い……癒しの力だけではないのか。 黒神ヤト、憎悪、悲哀や痛みを司る神……」

 

「信じられんな……5階位など。 神の力そのものが顕現するとでも言うのか? しかも封印とある」

 

「ユーニード様、クイン様も考察されています。 彼女は神々が遣わせた生け贄(いけにえ)であると。 私もそう思います」

 

「ふん……魔獣どもに捧げろと? 癒しの力は使い途がある。 北部の街マリギを取り戻すのだ。 聖女を中心に置き、騎士達を円周上にニ、三重に配置する。 更に外に[燃える水]を撒き火を付ければ魔獣は怒り狂って円に入って来るだろう。 負傷者は聖女が癒しつつ、戦線を保てばいい。 ケーキをスプーンで削り取る様に少しずつ森を喰らうのだ。 魔獣どもが火に巻かれ、騎士の剣に貫かれて死ぬ」

 

()()()()()()()()()()()

 

「それこそ愚問だな。 たとえ死ぬ事があったとしても、それは本望だろう? 生け贄として遣わされた聖女の役目なのだからな。 だがそれも調整次第だ」

 

「陛下も殿下もお優しい方々だ。 決断が鈍っているのだろう。 ならば、時に厳しい答えを突き付けるのも臣下の役目だ」

 

 ユーニードは自分の出した答えが一分の間違いもない完璧なものだと確信している。

 

()()()()()()()()。 演習をしようにも陛下は許可なさらないだろう。 そもそも演習するには怪我人と聖女の血肉が必要だ。 それに重要な点がこの考察には抜けている」

 

「重要な点ですか?」

 

「そうだ。 聖女の血肉を捧げる……自己犠牲とあるが自らの意思でない場合はどうなるか、その視点が欠けている。 聖女と言っても15にも満たない少女だろう? 戦場に当てられて逃げ出すかもしれない。 そんな不確定要素を許す訳にはいかない」

 

「慈愛や利他行動で縛られているとあります。 目の前に助けるべき人間がいれば、自ずと治癒するのでは?」

 

「そうかもしれないし、違うかもしれない。 そんな事に騎士達の命は預けられない」

 

 聖女の命を道具としている事を、少しも意に介せずユーニードは言った。

 

「魔獣を必ず根絶やしにする。 失敗は許されない……他者が血肉を捧げられるか、確認が必要だ」

 

 それはつまり、救われるべき人が聖女を傷付ける事を意味する。 もはやユーニードに正常な人の判断は出来なくなりつつあった。目は暗く濁り、息子アランの苦しみしか見えなくなっている。 復讐こそが全て、騎士達の命さえその為の手段でしかない。

 

「これは原本か? 急ぎ複製を用意して、原本は元に返すのだ。 今はまだこちらの動きを知られたくない」

 

 

 もしこの場にカズキが居てユーニードの目を見たら、幼い頃見た孤児院の院長と同じだと思っただろう。

 

 

 あの爬虫類の目の様だと……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒の間では、あいも変わらずアスティアの悲鳴が響いていた。

 

「カズキ! いい加減にしなさい!」

 

 今は天敵クインがいない。 カズキは培った技術を存分に使いアスティアから逃げ回っている。 フェイントを入れ、ベッドを飛び越え、時にはゴロゴロと床を転げ回る。 スカートが捲れて下着や素肌が見えるのも御構い無しだ。

 

「はしたないでしょ! カズキやめなさい!」

 

 エリはアスティアが着せたがっているピンクのルームワンピース、所謂ネグリジェを持ったまま突っ立っている。

 

「エリも手伝いなさいよ!」

 

「アスティア様。 ほらこれを持っておかないと」

 

 エリも明らかに楽しんで見ている。 良い子のアスティアがバタバタと部屋中を走り回るのを見ると、幸せな気持ちになるのだからしょうがない。 ちなみにこのネグリジェはアスティアと色違いのお揃いである。

 

 ベッドを挟んで向かい合い、視線でフェイントを入れている。

 

 そして小刻みに体を揺らしてアスティアにプレッシャーを掛けているのだ。 カズキがヤトに無理矢理に少女にされる前は、路地裏でいつもやっていた事だ。 隙を見せれば、ブン殴るなり蹴りを入れるなりしていたが、流石にそれはしない。

 

 まさに王女様のアスティアでは、勝負にならないのは仕方がないだろう。

 

 

 

 ガチャッ

 

 

「……何をしているのですか?」

 

 

 クインの冷たくも美しい声が黒の間に響き、ビシッと固まりアスティアは振り向いた。 そしてカズキは丁度扉が見える位置にいたので天敵の登場がわかってしまった。

 

 二人はベッドに座らされて、クインのお説教を聞く事になる。 カズキも話の内容は分からなくても、天敵が怒っているのがわかるので大人しくするしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 カズキはジンワリと暖かい幸せを感じていた。 追いかけっこも悪くはない。 このお説教らしきものだって嫌いじゃない。

 

 それは子供染みてるだろうか?

 

 もしかしたら、信じていいのだろうか?

 

 まるで本当の家族のようだと思うのは傲慢なのだろうか?

 

 

 カズキは今陽だまりの中にいて、微睡んでいる。

 

 すぐ側に、復讐と呼ばれる悪意が迫っているとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 王都リンスフィアは美しい都だ。

 

 

 区画毎に設けられた石畳の街路も整然と並び、それでいて生活感が溢れている。 夜には各所にランプが灯り、家庭やお店からも淡い光が零れてくる。 店々からは笑い声も絶えず、グラスを打ち鳴らす音も響いている。

 

 雨の日すら街路や窓も濡れて灯を反射する様は、現実を忘れさせてくれるだろう。

 

 

  だが、それでも闇は在る。

 

 光が溢れていれば、闇も生まれるのは世の常だから。

 

 

 

 

 薄暗い路地を抜けて、水路の側を歩く男がいた。 灯も少なく人通りもない。 それでもその男は迷い無く歩き続ける。やがて目的地に着いたのか、小さな一軒家の僅かに光の漏れるドアをノックした。

 

 扉の一部が横に開き中から人の目が見え 、同時に強く漏れた光が訪れた男の顔を照らす。

 

「……なんの用だ、ユーニード」

 

 目線だけが見える男から、低い嗄れた声が聞こえた。

 

「仕事だよ、ディオゲネス。 開けてくれないか?」

 

「……ちっ」

 

 ガチャガチャと内鍵を開ける音がして更に強い光が外に漏れ出した。

 

「入れ……貴様にやる時間など多くはない。 早くするんだな」

 

「わかっている。 これはお前にとっても悪い話じゃない。まずは聞いてくれ」

 

 木の床はギシギシとなり、扉のすぐ前には、2人掛け程度の丸テーブルがある。その上には酒と剣、砥石が置いてあった。

 

 蝋燭の数は多くなく、城と比べれば薄暗いと言っていいだろう。 ユーニードは持って来た酒を置き、椅子に座って改めて目の前の男を見た。

 

 焦げ茶色のザンバラ髪、無精髭、薄手のシャツ一枚から伸びた腕は傷だらけで日焼けしている。 一見すると浮浪者にも見えるが、髪と同じ色の鋭い眼光と鍛え上げた上半身はそれを裏切る。

 

 テーブルの上には、愛用であろう大剣が無造作に置かれている。 砥石で研ごうとしていたのだろう。 鈍い光を放ち、それが玩具でない事を嫌でも感じさせる。

 

「お偉い軍務長様が態々に来られるとは、どういう事だ?」

 

「……お前も元とはいえ騎士。 おかしな事でもあるまい」

 

「ふん……貴様が俺を元騎士にしたんだ。嫌味でも言いに来たなら早いとこ帰ってくれ」

 

 

 ディオゲネスは剣の腕に冴え、将来を嘱望された騎士だった。

 

 だがいつの頃からか魔獣を殺す事だけに執着するようになり、部隊を危険に晒すことが増えてきたのだ。 噂では近しい人が魔獣に殺され、復讐心が狂わせたと言われる。 この時代では珍しい事ではないがディオゲネスは強すぎたのだ。 日を重ねる毎に暴力性が増し、女子供が居ようとも魔獣を殺す事だけを追い求め始めた。

 

 そして、ユーニードは彼に騎士団からの追放を伝えた。

 

 ディオゲネスも仕方がないと理解はしているが、魔獣を殺す機会を奪われた事は許せなかった。

 

「仕事だと言っただろう。 お前に任せたい事がある」

 

「下らないな。 どうせ碌な事じゃ……」

 

 ユーニードは無言で紙の束をテーブルに投げた。

 

「読め」

 

「ちっ……」

 

 ディオゲネスは束を乱暴に掻っ攫い読み始めた。

 

 ユーニードは棚からグラスを二つ取り、持ってきた酒をそそいでテーブルに置いた。 ディオゲネスはチラとだけそれを見て、再び目を落とした。

 

「なんだこの下らない妄想は。 どこかの餓鬼が書いたのか?」

 

 ディオゲネスはテーブルに放り投げ捨てて酒を煽った。

 

「書いたのはクイン=アーシケルだ。 コヒン老も一枚噛んでいる。 聖女は今城にいる……おそらく黒の間に匿われている筈だ」

 

「クイン=アーシケルだと? 何の冗談だ。 ユーニード、貴様までおかしくなったのか?」

 

「殿下も緘口令を敷かれている。 アスティア様もご存知の事だ。 証言も取れているよ、ディオゲネス」

 

 事実だ……そう言ってユーニードも酒を一息に飲む。

 

「事実なら放っておけばいい。 その内に戦場に来るだろうよ。 そうして生け贄となり世界に平和が訪れるのだろう?」

 

 やはり吐き捨てるようにディオゲネスは言った。全く信じてないのだろう。

 

「もし事実なら? 魔獣を縊り殺すことか出来ると思わないか? やられても聖女に癒されてまた剣を握る事が出来るのだ。 何度も魔獣に剣を突き立てる事が出来る。 その為の手も用意してある」

 

「ならやればいい」

 

「……やる気がないのだよ、陛下は。 聖女の存在すら秘匿している。 この情報は裏からのものだ」

 

 ディオゲネスは内心酷く驚く。 ユーニードは冷酷な男ではあるが、リンディアへの忠誠は本物だった。 王家の思いを知りつつ、それを裏切るとは……そして、この話が真実だと思えたのだ。

 

「……その時が来たら俺を原隊に復帰させろ。 それが条件だ」

 

「いいだろう。 契約だ」

 

「仕事は?」

 

「聖女を攫う、そして試すんだ。 怪我人や病人を用意しろ、出来る限り重篤者がいい。 勿論証拠は残さずにだ」

 

「……それで?」

 

「どうやったら治癒の力が発露するのか知りたい。 聖女の意思がいるのか、第三者が聖女に力を強制出来るのか。 調整の効かない武器など危険極まりないだろう」

 

「ふん……どうやって黒の間から出す? あそこは王の間に行くのと変わりはしない」

 

「それは私がなんとかする。 お前一人では無理だろう。都合はつくか?」

 

「ああ、アテはある」

 

「よし、この件は絶対に漏らしてはならない。 表に出ればわたし達は終わりだ。 聖女は事が済めば一度城に返す。 次の手も考えてある。 行方不明のままでは動きも取れなくなるからな」

 

 

 

 二人は酒を注ぎ、乾杯もせずに同時に煽った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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24.妄執の行き着く先③

お気に入り500件を超えました。読んで貰えてありがたいです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホーッ、ホーッ…………

 

 フクロウだろうか……?

 

 この世界にもフクロウがいるのかとベランダに出てみるが、出た途端静かになってしまった。

 

 空を見上げると、僅かに欠けた銀色の月が浮かんでいる。 元の世界より随分と大きく見えるその月は、クレーターも少なく冷たい美しさが凛と張り詰めているようだ。

 

 ここから見える街は灯がポツポツと見えて夜景を彩っている。

 

 

 

 

 

 少し冷たい風に吹かれながら、カズキは悩んでいた。

 

 

 黒の間の各所に隠し、あるいは用意した武器もどき達をどうするかを。

 

 ベッドの柱の裏側に貼り付けた裁縫鋏。 暖炉の火かき棒は目の届く場所に、拳に巻く為の布も用意してある。 食事に出されたナイフは盗み、出来る限り研いで尖らせた。 そういえば暖炉の上にあるクリスタル製の馬は、良い鈍器になるだろう。

 

 だが、警戒していた危惧はなく平和な日常を過ごしている。

 

 いつまでもこの部屋に閉じ込められたくはないが、生まれて初めてかもしれない安らぎを覚えている事に驚きすら感じる。

 

 それどころか、脱走への準備も最近は滞っているのだ。

 

 自分はダメになってしまったのか……腑抜けになったのだろうか? それともこれが求めていたものなのか……カズキは答えが出ない事に、苛立ちと不思議な喜びを覚えていた。

 

 

 

 

 

 数日前に連れ出された初めての街も美しく見えた。 そんな事を心から感じたのはどれ程に前のことなのか、カズキ自身も思い出せない。

 

 観光しているよう……いや、観光したのだ。

 

 見たことも無い青色の果物を齧り、土産物屋にある木刀の如く剣を触った。 酒は飲めなかったが楽しかった。

 

 脱走の可能性も捨てきれずに路地裏をチェックしたりしたし、あの馬車は間違いなく街を出て別の所へ行くのだろう。 樽の影や中にでも潜り込めば、街を抜け出せる筈だ。

 

 そんな事を思いながらも、足は走り出したりしなかった。

 

 

 

 だからカズキは悩んでいる。

 

 この部屋で本当に必要な事は何なのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここにいたのか? ユーニード様がお呼びだ。 直ぐに向かえ」

 

 黒の間を警護する二人の騎士に、焦げ茶色の髪の男が声をかけた。 ユーニードと慣れた呼び方、何より歴戦の強者の雰囲気を強く感じた二人は慌てて姿勢を正す。

 

「はっ! いえ……しかし、ここの警護を命じられておりまして……」

 

「なら暫くは代わってやる。 急げよ、ユーニード様は怒らせない方がいい」

 

 少しだけ低い声を出された二人は、急いで軍務長室に向かって行った。

 

「こんな事で騙されるのか……? 騎士団も質が落ちたか」

 

 ディオゲネスは呆れた風に騎士が走り去るのを見て呟いた。ユーニードの手引きでここまでも簡単に来る事が出来た。 いや、実際には簡単では無いのだろうが……これでは王の間すら侵入出来るかもしれない。 リンディアにいるそんな馬鹿は俺くらいか……そんな事を思いつつ、もう一人の馬鹿に声をかけた。

 

「おい、もういいぞ」

 

 廊下の向こう側から現れた男は、手に大きな麻袋を持ちながら歩いてきた。 全身を真っ黒に揃えたその男は、少しだけ腹も出て圧迫感を覚える巨体を揺らしながらニヤニヤと笑っている。 背中にはナイフを二本用意してあり、 腰には革紐が丸めて括ってあるようだ。こう見えて動きも素早く荒事にも慣れた簡単に言えば泥棒だ。その界隈ではそこそこに名を売っている、名はボイチェフと言った。

 

「ディオゲネスさん、ここですかい? 噂に名高い黒の間に入れるとは、鼻が高いってもんだ」

 

「無駄口を叩くな。 中にいるのは女の餓鬼だ、声は出ない筈だが油断はするなよ? 見張りには立つが異変を感じたら直ぐに撤収する。 わかってるな?」

 

 ディオゲネスはミスによる撤収ならボイチェフは始末すると決めているが、当然ここで言う事ではない。

 

「へいへい、わかってますよ。 じゃあ早速」

 

 黒の間の扉が、ボイチェフの手により開かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキはベランダで扉の開く音を聞いた。

 

 振り向くと、初めて見る黒づくめの男がゆっくりと入ってくるのが見えた。 咄嗟に近くの椅子とテーブルの影に隠れて様子を伺う。

 

 あの動き……ろくな奴じゃないな……

 

 カズキは他には侵入者かいないか確認して、音を立てず静かに部屋に近づいて行く。 まずはベランダに通じるドアの側にある植木用の手持ちスコップをそっと手に取った。 植木用と言ってもかなりの厚みのある鋼鉄製だ。 先端も尖っており十分な凶器になる。

 

 何者か知らないが、明らかな不審者だろう。

 

 男は洗面室のドアを開け中に入って行く。 今だ……タイミングを計っていたカズキは静かに扉を開けて室内に入った。

 

 裸足の上にこの部屋の絨毯は恐ろしく柔らかい。 足音すらしないだろう。 もう一度部屋に戻ってきた瞬間を狙う。

 

 カチャ……

 

 巨体でありながら音も立てずに、姿勢も崩れない。 足をやるか……カズキは開かれたドアの裏側から出て腿を狙いスコップを腰だめにして突き刺した。 腕力が足りないのは体重移動で補う。

 

「……くっ!」

 

 声は殆ど出さなかったのは流石だろう。 男は見もせずに左拳を後ろに振り回す。 カズキも読んでいたので既にその場にはいない。 ベッドの下から鋏を取り出して、暖炉の側まで移動する。

 

「この餓鬼がぁ……」

 

 男は血走った目をしてカズキを睨むとスコップを抜き歩き出した。 深くは刺さらなかった事をカズキは知り、悔しさを覚えながらも気持ちを切り替える。

 

 カズキは男の動きを見ながら静かに後退りして、間合いを図った。

 

「とんだ跳ねっ返りだ。 躊躇なく刺すとは……こんな餓鬼はスラムでもそうはいないぜ……」

 

 ボイチェフは背中からナイフを抜き出してカズキに見せつける。 普通はそれだけでも怯えるものだが、目の前の少女の顔色に変化はない。 それを見たボイチェフは僅かにあった油断も捨てる。

 

 ナイフを見たカズキは暖炉の脇から火かき棒を取り、剣の様に構えを取った。 金属製のそれは勿論剣の様な強度はない。 先は手前側に曲がり尖っている。 ナイフ相手ならリーチも稼げるだろう。 今のカズキでも振り回す事が出来る数少ない長物だった。

 

 

 キンッ!

 

 

 腕を斬りつける軌道を取ったナイフを体を横にずらしながら受け流したカズキは、そのままの勢いで火かき棒を横に強振する。だがそれも思うほどの速度も勢いも無い。今更止める訳にもいかずに、そのままに任せるしかなかった。

 

「くっ……」

 

 服に引っかかる様に、尖った先端が脇に当たる。 ボイチェフの呻き声は聞こえたが大してダメージは無いだろう。 カズキは思った以上に力の無い非力なこの体を恨めしく思い始めていた。 なんなら最初の一撃で終わったはずなのだ。

 

 ドドッ!

 

 動きこそ眼を見張るが力が追いついてない事を知ったボイチェフは、当たるに任せて体ごとぶつかりにいった。 硬い革らしき靴が僅かに音を立てる。

 

「!?」

 

 巨体をただシンプルにぶつけられるのは、今のカズキには最も嫌な事だった。

 

 火かき棒を脳天に当てるべく、上段から振り下ろす!

 

 僅かに頭を反らせたボイチェフの肩に当たり、痺れたカズキは火かき棒を離してしまう。

 

「はっはー、ここまでだな餓鬼が……」

 

 カズキを抱え持ち上げて柔らかな体を堪能する。顔を胸に埋め、その感触と匂いすら下品に味わった。

 

 しかしカズキはそんな事を気にもせずに、直ぐ横にあったクリスタルの馬を両手で持ち上げて……躊躇なく叩きつけた。

 

 ガシャーーーン!!

 

「ガハッ………」

 

 ボイチェフはカズキを放して床に倒れ、そのまま起き上がってこなかった。

 

「……!」

 

 両手を付いて肩で息をするカズキは、少し血を頭から流すボイチェフを見て何故か治療をしたくなる。 頭を振りそれを追い出すと、ゆっくりと立ち上がって廊下に出ようと扉を見た。今は此処から離れるべきと判断したのだ。

 

 

 

 ……さっきまで有りもしなかった恐怖が湧き上がるのを強く感じて、思わず尻餅をついた。

 

 

 

 

 扉の直ぐ前に焦げ茶色のザンバラ髪をした戦士らしき男が立っていたのだ。 いつ入って来たかもわからない。 剣すら構えず只立ってこちらを見ているだけ、それが何故か恐ろしい……

 

 暫くカズキも動けなかったが、その男がゆっくりと近づきながら腰から剣を抜いたのを見て何とか立ち上がった。

 

 何とか逃げないと……勝ち目はない……

 

「おい、起きるんだ」

 

 抜いた剣でペシペシと尻を叩き始めたその行為に、巨体の男は少しだけ身動ぎするのがカズキには見えた。巨体男まで意識を回復されてはどうやっても勝ち目がないと判断し、ザンバラ髪の男の視線が倒れた男に行くのを見た瞬間カズキは横を扉に向けて走り出す。

 

 

 行ける!

 

 

 そう思った時には、頭に衝撃が走り一瞬で意識が刈り取られた。 カズキは何があったかも分からないまま絨毯の上に倒れ込む。

 

「……とんでもない聖女様だな。 思い切りが良過ぎるだろう……」

 

 ディオゲネスは聖女らしき黒髪の少女に感嘆の息を吐く。

 

「……ボイチェフ、早く起きろ。 殺すぞ」

 

「うぅ……頭が痛え……」

 

 頭を押さえながら立ち上がったボイチェフは、倒れたカズキを見て踏み付けようと近づき足を振り上げた。

 

「くだらん事に時間を使うな。 早く運ぶんだ」

 

 音も無く首元に大剣を当てられ、震えながらディオゲネスを見た。

 

「……あ、ああ。 分かった、分かったから剣を避けてくれ」

 

 下げられた剣の行方を目で追いながら、ボイチェフは麻袋を拾い倒れたカズキを乱暴に入れて肩に担ぐ。

 

「いいぜ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユーニードに呼び出されてはいなかったと気付いた騎士が急いで戻った時には、扉は開け放たれていた。 部屋には割れたクリスタルの破片と、僅かな血痕。 落ちている火かき棒と鋏しか見つからない。

 

 

 

 

 

 この夜、黒神の聖女は姿を消した。

 

 

 

 

 

 



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25.妄執の行き着く先④

お気に入りや評価、沢山ありがとうございます。
後半、人によっては少し嫌な表現があります。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒の間に暗い悲しみの帳が降りていた。

 

 いつものアスティアの明るい悲鳴も、エリの笑顔も、クインの暖かくも厳しい眼差しもそこには無い。

 

 

 

 

 

 

 いつもよく眠るカズキが使っているベッドの縁には、アスティアが茫然とした表情で座っている。エリもアスティアの直ぐ側に立ってはいるが、何をしたら良いのかとあちこちに目をやっていた。

 

 扉の近くでは騎士2人とアストが話をしていて、低い声が部屋に反響する。

 

「……ユーニードに呼び出された?」

 

「はい……ただ実際はそんな呼び出しはしていないと、急ぎ戻ったところ今の状況でした」

 

 アストは怒りが湧き出すのを感じ、無理矢理に抑え込んで続ける。しかしそれでも隠しきれない感情が溢れ出たが、もうそれを止めようとは思わなかった。

 

「……来たのは間違いなく1人なんだな? 風貌は?何か気付いたことは?」

 

「……は、はい。濃い茶色の髪と目、騎士の鎧をしておりました。鍛えられた体や、もつ雰囲気からも経験ある騎士と判断してしまいました。も、申し訳ありません!」

 

「……謝るのはカズキに対してだ。どれだけ恐ろしかったと思う? 周りの状況を見ろ、必死に抵抗したんだぞ! 今も……いや、もういい。任務に戻ってくれ」

 

 恐ろしい想像をしてしまいそうだったが、アスティアが肩を震わせたのを見て言葉を重ねるのは自重する。騎士達は敬礼をして足早に黒の間を去っていった。後で何らかの処罰が下されるかもしれないが、それはケーヒルに任せようとアストはクインを見た。

 

「殿下……これを」

 

 クインの手にはナイフがあった。食事用だが、凶器として使用出来るよう粗く砥がれている。

 

「これは?」

 

「洗面室の壁板の隙間に隠してありました。カズキは何かを警戒していたのかもしれません。 もしかしたらこの誘拐も……」

 

「……くそっ!! そんな兆候なんて……犯人は何が目的なんだ……」

 

 思わず俯くと割れたクリスタルの欠片がキラキラと輝くのが見えて、無力感がアストの体を苛んだ。考えたくも無いのに、カズキが出す事が出来ない筈の悲鳴を上げる顔を幻視してしまう。

 

「……殿下」

 

「ケーヒル! 何かわかったか!?」

 

 ケーヒルが戻って来たが、顔色は優れないのを見てより一層気持ちが落ち込んでいく。

 

「残念ながら黒の間までの間に、目撃者はおりませんでした。殿下……いかに上手くやろうとも、これは出来過ぎです。悔しいですが内通者を疑うべきかと。各城門には通達を出します。ここに至っては情報の隠匿も不利になるでしょう。全てでなくても構いません、許可をお出しください」

 

 少しだけ考え頷くアストを見てケーヒルは指示を出すべく、黒の間の扉をくぐっていった。

 

 

 先程から俯いたまま動かないアスティアの横に座ったアストは、自分に言い聞かせるように肩を抱き寄せて呟く。

 

「必ず見付ける。リンディアの外には出さない、助け出すよ」

 

 アスティアの碧眼からはポロポロと涙が落ちて、アストの服を濡らしたが誰一人指摘することなどなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エリがアスティアの手を引いて姿を消すのを見て、アストはクインに視線を移した。

 

「……どう思う?」

 

「恐らく情報が漏れたのでしょう。この黒の間まで一人の少女を拐いに来るなど考えられません。聖女としての価値を知られたとしか……」

 

「犯人はカズキを何かに利用する気か? 身代金目的もあり得るが……いやそれはないか……。リンディアの中では危険が過ぎる、かと言って他国に逃げるのも困難だ」

 

「やはり癒しの力を何かに利用する気でしょうか……? 治癒させたい誰かの為に拐ったのなら辻褄は合います」

 

 どうしたところでカズキにとって良い結末にはならない。やはり何としても見つけ出さなくては……アストは焦る気持ちを胸に黒の間を出て行く。 

 

 

 手に持ったままのナイフに目を落としたクインは、その鈍い輝きに自身が本当のカズキを知らずにいたことを認めるしか無かった。専属の侍女として、自身は不足だったのかと。普段泣くことの少ない目から一筋の涙が零れ落ちて、その雫はクリスタルに弾かれて消えていく。

 

 クインは暫くそこから動く事も出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これが聖女だと? 思っていたより子供だな。 刻印は……ふん、確かに刻まれているようだが」

 

 

 意識のないカズキは薄汚れた木の椅子に座っていて、頭は前側に深く俯き動かない。両足はそのままだが、肘掛けに両手は縛られている。更に細い腰回りには革の太いベルトが外れないように巻かれ、そこから鎖が伸びて石床に固定されている事で、両手が自由になっても鎖の届く範囲しか動けないだろう。その皮のベルトにも鍵が掛けてあり、自力では逃げる事も出来ない様になっていた。

 

 カズキ達がいる空間は全体を石で覆われていて、空気の循環用の小さな穴が二つ程ある。奥にはまだ部屋があるようだが扉は閉り、壁の蝋燭はユラユラとした光でカズキ達を照らしていた。

 

 

 リンスフィア郊外にある馬屋の跡地に、カズキは連れて来られていた。既に放棄されて久しい馬屋には人の気配はない。カズキ達がいる場所は、その馬屋から隠された階段を降りた地下空間だった。

 

 

 

 

「貴様まで来て大丈夫なのか? 今は正体を知られる訳にはいかないだろう」

 

「ああ、顔は隠す」

 

 ユーニードはディオゲネスに目だけが空いた白い仮面を見せて、それを着けた。

 

「何より聖女の力は自分で確認したい。ディオゲネス、怪我人は用意出来てるのか?」

 

 そのくぐもった声に、ディオゲネスは顎でしゃくって奥の扉の方を示した。

 

「家族を無くしたりした独り身の者達だ。借金で首が回らない連中ばかりで、少しばかり脅してある。病人は諦めろ、都合のいいのがいない。ただ騎士、戦士では無い者も必要と思ってな、一人だけ女もいる」

 

「そうか、後は聖女が目を覚ますのを待つだけだな」

 

「……聖女のイメージとは違って、なかなか根性のある餓鬼だ。思った様にはいかないかもしれないぞ?」

 

「ほう、どういう事だ?」

 

 一流の戦士であるディオゲネスが言った言葉に、ユーニードは興味を唆られた。

 

「大した事じゃないが、一部始終を見てたんだ。ナイフを持った大人に怯むこともなく対峙していた。なかなか出来る事じゃないし、慣れも感じたな。体の使い方もいい。決断も早いし実行する行動力もある。もし女でも子供でもなければ、良い騎士になれたかもな……ほら、そこにいるのが伸された大人だ」

 

 ディオゲネスは壁際に寄りかかり立っていたボイチェフを真顔で指差す。指摘された当人は苦々しい顔を隠さなかったが、流石に反論はしないようだ。

 

「ふん、まあいい……私は後ろで見ている。やる事はわかってるな?」

 

「ああ、任せておけ。貴様こそ耐えれるのか?」

 

 少女が痛めつけられる様を見る事に……ディオゲネスはカズキを見ながらそう言葉を続けた。

 

「全ては魔獣を根絶やしにする為だ、そんな事は些細なことに過ぎん」

 

 ユーニードには魔獣の断末魔しか見えてはないのか、妄執に駆られたその目は鈍く光を放つだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しずつ戻ってきた意識だが、まだ気絶したフリをしながら様子を伺う。

 

 カズキは腕を椅子に固定され、腰回りにも何かで縛られているのを感じた。周りには複数の人の気配がする。やはり話している内容は理解出来ないが、それは諦めている。

 

 最悪な状況で絶望の淵へ落ちてしまいそうな心を、何とか奮い立たせて機会を伺うしか無い。カズキはわからない様に薄っすらと目を開き、丁度見える腰回りを確認した。

 

「おい、こいつ意識が戻ってるぞ。様子を見てやがるんだ……やはり中々の奴だ」

 

 意味不明ながらも何処かで聞いた声だと記憶を探ると、意識を失う前に見た焦げ茶色の髪の男と思い当たった。分かってはいたが、やはり絶望感が襲ってくる。それでも何か情報をと俯いたまま目だけを動かしていた時だった。

 

 顎を持たれて強引に上を向かされたカズキは、痛みで思わず眼を見開いた。

 

「ほらな? ボイチェフ、油断するとまたやられるぞ?」

 

 あの時の男に間違いなく、すぐ横には頭にクリスタルの馬を叩きつけた大男がいる。

 

 こうなってはしょうがないと、カズキは二人の男を睨みつけて周りを見渡した。部屋の奥にはもう一人いて、気色悪い白い仮面を着けている。腕に力を入れて前後に動かしてみたが、全く外れそうにない。隠しても無意味だろうと、ガタガタと椅子にも力を入れてみたが結果は同じだった。

 

 カズキは何時ものように心を別にして、痛みや屈辱が来る事に身構えるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これが聖女の力なのかねぇ……こんな時でも狼狽えずに動けるなんて信じられんよ。こんな(なり)でどんな修羅場を潜ってきたのやら」

 

「……ディオゲネスさんよ、始めてもいいか?」

 

「んー? ああ、先ずは刻印の確認からだな」

 

「待ってました! 中々の美人だし、役得だよな。 ちなみに犯っていいのか?」

 

 ディオゲネスはユーニードを見たが、首を横に振るのを確認して答えた。

 

「ダメだ。指示された事だけに集中しろ」

 

「ケッ……まあしょうがねえ、仕事だしな」

 

 ディオゲネスの冷めた目には気付かずに、ボイチェフはカズキの前に立った。

 

 

 

「先ずは首回りだな。鎖の様な刻印で、首に巻き付けてある様に見えるな。一部は耳の後ろまで来てる」

 

 ボイチェフは右手で黒髪を掻き上げ、首筋からうなじにかけて鼻を着けて匂いを嗅ぐ。ワザとらしく音を立てながらだ。

 

「ふへへ……、餓鬼にしちゃ中々色っぽいじゃねえか……」

 

 イヤラシイ顔をしながら襟をつかんで無理矢理左肩を露出させた。折れそうな細い首からスッとした鎖骨と肩にかけて柔らかな曲線を描いている。蝋燭の灯りしかない地下でカズキの肌は妙に白く妖しく見えた。

 

「左肩にもあるな、こっちは神代文字が目立つ感じだ」

 

 イヤらしく肩に舌を這わせ、耳元までベロリと舐める。

 

 そのまま前に来たボイチェフは、掴んだままの襟を力尽くで下に引き裂いた。

 

 ーービッビリリッ!

 

 細い腰に巻かれた革ベルトのお陰で全てが引き裂かれはしなかったが、胸元からベルトのあたりまで縦に肌が晒されてしまう。下着はしていない。

 

「ククク……お次は右胸にある刻印を確認してやるよ」

 

 そう言いながらワザとらしく上からゆっくりと開き始めた時だった。

 

 ーーゴキャッ!

 

 カズキはブオッと頭を振り、ボイチェフの鼻っ柱に思い切りぶつけた。

 

「ぐえっっ……!」

 

 更に自由な足を使ってボイチェフの足の小指辺りを思い切り踏み抜く!

 

「痛え!……テメエ!」

 

 ボイチェフはカズキの髪を掴んで上を向かせた。 ブチブチと何本かの髪が抜けたが、ボイチェフは気にせずに平手で頬を打ち抜いた。 

 

 パーーン! ……ガタン!!

 

 カズキの軽い身体は椅子ごと横倒しになってしまう。口元からは僅かに血が滲み、頰は赤く痛々しい。胸も晒され、スカートは捲れてやはり白く見える太ももと下着すら見えた。意図せずして内腿と脛にもあった刻印が露出したが、カズキは涙ひとつ見せずにボイチェフを睨みつける。

 

「この餓鬼がぁ……!」

 

 情けない事に鼻血を出しながら、カズキを更に痛めつけようと髪を掴んだところでディオゲネスが待ったをかけた。

 

「もういい、確認は十分だ。 聖女で間違いないな?」

 

 ユーニードが無言で頷くのを確認したディオゲネスは、カズキを椅子ごと起こして元の位置に戻し感嘆の声を上げるしかない。

 

「こいつは予想以上のタマだ……ボイチェフ、お遊びは終わりだ。このあと好きなだけ痛めつければいい。わかったな?」

 

「……ああ、分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキの絶望的な夜は始まったばかりたった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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26.妄執の行き着く先⑤

残酷な描写があります。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディア王国の王都リンスフィアは、夜となれば静かなものだ。

 

 ランプの脂や燃やす薪も有限で、集めるには文字通り命を懸けなければならない。森人達は誇りを持っているが、だからと言って無意味に消費されれば気分を害すだろう。しかし、一部ではあるが酒場や食堂、遊戯施設などは夜も営業している。

 

 これらはリンディア王室からも推奨されている事だ。

 

 魔獣や森の侵略に抗う中で、ただ無為に過ごすことは誰にも出来ない事なのだろう。魔獣が猛威を振るい始める前には到底及ばないが、それでも人々は働き、食べ、そして生きている。

 

 そんな一部を除き静かなリンスフィアに騎士達の足音が各所で響いていた。

 

 僅かに灯る手持ちのランプが街路を照らし、路地や空き家まで足を運んでいる。リンディア王カーディルから直々の命令が下されていた。

 

 黒髪で翡翠色の瞳の少女を探し出すように、と。

 

 大変珍しい姿形だが、一部の騎士達の中では知られた少女だった。噂にも色々とあるが、リンディア王国の王子アストの想い人とされるものが有力だ。しかも眉唾ではあるが命の恩人でもあるらしい。次期王妃となる可能性すらあると思っている。

 

 カズキ本人がもし聞いたら、出もしない悲鳴を上げて走り去るかもしれない。だが当の本人の姿はなく、それを理解する事もない。そんなカズキを騎士達は使命感に駆られるままに探し回っていた。

 

 

 

 

「門の閉鎖は確認はしました。今のところ外部に出た形跡はないようです」

 

「ケーヒル、念の為リンスフィア内にある全ての治癒院や孤児院などに報せを出してくれ。カズキらしき人が現れたら必ず城まで知らせるように」

 

「……よろしいのですか? カズキの存在を隠すのは難しくなりますぞ? しかも今回は彼女の意思で動いているわけではないのですから」

 

 アストは迷いながらも答えた。

 

「……構わない、今は一刻も早くカズキを見つけたい。打てる手は全部打つんだ。出来れば癒しの力は衆目には晒したくないが、そんな事で万が一を起こす訳にいかない」

 

 先程から浮かんで来る嫌な想像を何度も打ち消しながら、この手で抱きしめたいとアストは拳を強く握りしめる。

 

 …………許す事など出来ない

 

 刻印の力など関係はない……一人の優しい少女なのだ。少女を拐かし、無理矢理に癒しを行使させるなどあってはならないことだ。 

 

 もしカズキが誰かに傷つけられたら……泣いていたら、自分は正気でいられるのだろうか……

 

 アストに今まで感じた事の無かった強い憎悪が宿り、その胸をジリジリと焦がしていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 痛みが胸の辺りを掠めた。

 

 先程切った唇や硬い床に叩きつけられた肩とは違う種類の痛みだ。奥にいる白仮面の男が持っている紙束が目に入った時、否定と諦観が同時に襲って来たからだった。

 

 ……あれは……あの時見た……?

 

 自身に刻まれた刻印の詳細が書かれている筈の紙束だとはっきりと分かった。最近過ごしている部屋で銀髪王子とお姫様、金髪と赤毛の侍女達が手にしていたものだ。

 

 

 

 ーーまるで家族のようだと思い始めていた

 

 ーー追いかけっこだって何回もしたんだ

 

 ーージンワリとした人の暖かさを感じていたのに

 

 

 

 ……こいつらは仲間なのか? 家族のようだと思い始めた人達が仕組んだのか?

 

 理性は否定を繰り返していた。盗んだかもしれないし、敵対した連中とも考えられるだろう?……カズキは必死になって頭の中に浮かぶ嫌な思いを消そうとする。

 

 そう……あの温もりの全てが嘘で、作られたものだなんて信じたくない。

 

 普通なら単純に仲間などとは思わなかっただろう。そしてそれは事実正解でもあった。

 

 ……しかし、カズキ本人すら自覚出来ない力が邪魔をする。刻印が……癒しの力を高める筈の刻印は、カズキの心を癒したりはしない。

 

 

 ーー憎しみの鎖[1階位]

 

 ーー自己欺瞞[2階位]

 

 

 二つの刻印は互いが影響し合って、カズキから思考を、強い意志を奪っていく。リンディア城で少しずつ形成されていた自己肯定感も、自己の否定へと塗り変わっていった。

 

 声が聞こえる……

 

 ーーお前は本当にそう思っているのか? 知っていたはずじゃないか……異常な治癒の力は利用価値があると。そうでないなら、たかが一人の餓鬼にあれ程過剰とも言える保護をすると、本当に思っているのか? 

 

 おめでたい奴だよ、何度も裏切られたじゃないか……

 

 母親にすら捨てられた癖に!

 

 

 

 アストに芽生え向けられた愛も、アスティアの姉妹愛も、クイン達からの暖かな親愛も、全てが蝕まれていった。

 

 クインが見たら驚いただろう、嘆き悲しんだだろう。

 

 聖女の刻印にかけられた封印がより強固になっていく様を知ったなら……

 

 アストは正しかったのだ。

 

 

 

 

 そうして、カズキの身体から力が抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お? さっきまでの強気はどうしたんだ? こいつ泣いてやがるぜ!」

 

 嗜虐的興奮を隠さないボイチェフは、乱れた髪の影から涙が零れたのを見逃さなかった。はだけた胸元も膝上までめくれ上がったスカートの裾から見える足も、ボイチェフを喜ばせる材料にしからならない。

 

「本当に言葉がわからないのか? 今から何をされるか理解したんだよな? ハハハッ……今更怖くなっても遅いぜ、お嬢ちゃん!」

 

 抜き出したナイフをカズキの前でちらつかせたボイチェフは、ディオゲネスに気色悪い顔を向けて言う。

 

「ディオゲネスさんよ! 早いとこ始めようぜ」

 

「……ふん」

 

 ディオゲネスは奥の扉に向かい、その先の暗闇に消えていった。

 

 ーーーーズル、ズル、ズザッ

 

 ディオゲネスは暗闇から何かを引き摺り戻ってくる。硬い筋肉に覆われた腕に掴まれたそれは、全身を縛られ猿轡をされた男だった。

 

 頭垢だらけの頭に、薄汚れた薄手の衣服、爪は何かで真っ黒なその男はウーウーと唸りながら涙を流し目を見開いている。何より目立つのは右足首があらぬ方向に曲がり、骨らしきものが皮膚から飛び出している事だろう。ディオゲネスによって取られた包帯も赤く染まった右足も、怪我をしたばかりだと物語っていた。

 

 

 

 下に俯いままのカズキは身動きもしていない。それを見たディオゲネスはカズキの背に回り、腕を後ろから絞める様に首にかけて上を向かせた。続いて首横の肩に自身の顔を置いて、耳元に口を寄せる。相手が理解出来ないのを知りつつも低い嗄れ声で囁いた。

 

「おい、見ろ……奴はこのままでは死ぬんだ。いいのか?」

 

 カズキは特に逆らう事もなく、ディオゲネスに顔を上げられて力の無い眼を正面に向ける。その涙の流した跡の見える翡翠色の眼には暗い諦観が感じられた。

 

 だがディオゲネスは直接触れていたから分かった。聖女の体が震えた事、そして男から目線が動かなくなった事を。

 

 暫くするとギシギシと椅子が鳴り始める。縛られた両腕が立ち上がるのを邪魔しているからだろう。力がそこまで入っているわけではない。まるで自分の置かれた状況が理解出来ていないような動きにディオゲネスは小さく呟いた。

 

「まるで黒神エントーの祝福を受けられない死人の様だな……」

 

 死と眠りの神エントー……その祝福がなければ死した後も彷徨い歩くと言われている。実際に見た事などは勿論ないが、物語で描かれた様を読んでいたディオゲネスには馴染みの感覚だった。

 

「ボイチェフ、縄を切れ。ついでにナイフも聖女に渡すんだ」

 

「……ナイフを? おいおい大丈夫なのか?」

 

 二度も痛い目にあっていたボイチェフが躊躇するのも当然だろう。ボイチェフも目の前にいる少女が只者ではないと認めている。

 

「怖いなら鎖の届かないところまで下がってろ。ナイフを寄越すんだ」

 

「分かった分かった! 切るから捕まえておいてくれ」

 

 そう言いながらカズキの腕を固定していた縄を右、左と切っていった。今なら聖女の肌も、女性らしく膨らんだ双丘も好きなだけ見ることが出来たが、緊張の為かそんな余裕はないようだ。

 

 そうしてナイフの持ち手を手元に向けても、聖女は握ろうともしない。

 

 舌打ちをしたボイチェフは立ち上がったカズキの手を開き、強引に握らせて数歩ほど離れた。

 

 まるで夢遊病患者の様にフラフラと怪我をした男の側まで歩き始めたカズキだったが、あと少しと言うところで鎖が張り、つんのめって進めなくなった。ジャラジャラと鎖を鳴らして外そうとするが、モタモタとするだけで何も変化は起きない。

 

「……おい」

 

「へいへい」

 

 嘆息しながらボイチェフはカズキの方に男を蹴り出した。

 

「ウグゥ……」

 

 猿轡の奥から呻き声が聞こえたが、ディオゲネスもボイチェフもユーニードさえも気にはしない。

 

 カズキは足元に転がって来た男の側に跪いて、不潔に汚れて血で真っ赤な足に右手を戸惑う事なく置いた。独特の据えた匂い漂う男は、痛みが走ったのか酷く怯えて更に呻き声が強くなる。

 

 その悲痛な声を聞いたからか、カズキはノロノロとナイフを左掌に押し当てる。プッと赤い玉が浮き上がったと思った時には音もなくナイフを引いた。近くで見ていたディオゲネスは、カズキの顔が僅かに歪むのが見えた。

 

 ーー痛みは感じるのか……掌からはポタポタと赤い糸が垂れていくのを見て、血もちゃんと赤いんだなと思いもした。

 

「……な、なんだと!?」

 

 冷静に観察していたディオゲネスでも、次に起きた現象には驚きを隠せなくなり思わず声が漏れ出た。 添えた左手が僅かに白く光ったと思ったら、目に見える速さで傷口が再生していくのを見れば誰もがそうなるだろう。

 

「く、くくく、素晴らしい……」

 

 近くに来ていたユーニードからも感嘆の呟きが溢れる。

 

「嘘だろう……? こんな事が有り得るのか……」

 

「ああ、想像を超える速さと正確性だ。()()()()()()()で開放骨折を治癒出来るとはな。これは使えるぞ……」

 

 見れば、スカートの裾を使って男の傷口に残った血を拭き取っている。自身の血を拭く事もせずに汚れすら気にしていないようだ。自らの出血など無かった様な振る舞いに、感情など魔獣に喰われたと思っていたディオゲネスですら心が揺れてしまう。

 

「これが聖女か……恐ろしいものだ……」

 

 刻印に操られる少女は、酷く歪で惨い(いびつでむごい)存在に見えた。

 

 縄に縛られたまま怪我が完治した男は、茫然と聖女を見て口を開けている。いや、そこに居るカズキ以外の全員が聖女の奇跡に動けなくなっていた。

 

 

「……ディオゲネス、次だ。 他の怪我人を出せ」

 

「……ああ」

 

 

 

 

 

 

 

 聖女は火傷、打撲、切り傷の全てを完治に至らしめた。男も女もなく、強制する必要も無かった。奥の部屋から連れ出しては戻しを繰り返して、治癒の力のデタラメさを確認していったユーニード達は最後の用意を始めた。

 

「もう一度動けなくさせろ。ナイフも取り上げるんだ」

 

「おう」

 

 椅子の後ろの石床から繋がった鎖を、ボイチェフは嬉しそうに引き始めた。

 

 跪いていたカズキは後ろに倒れて尻餅をつく。それでも鎖には逆らえず左手からは血が滴り、ボイチェフのいる場所までズルズルと赤い道を作っていった。 

 

 後ろからカズキの左脇に腕を差し入れて少女らしい膨らみを乱暴に触り、もう一方の腕は股から腿を抱えて椅子に座らせた。ボイチェフはその柔らかい感触を楽しんだが、全く反応が無いことに鼻白む。

 

 カズキを椅子に再び縛り付けたボイチェフは、それでも飽きもせずに肌に手を這わし続けた。

 

「くくく……どうだ聖女様よぅ……気持ち良いだろう」

 

 嫌そうに身動ぎを始めたカズキに、ボイチェフは益々興奮していった。 

 

「ほれ……見えてしまうぞ……どうするんだ? さっきまでの生意気な態度はどうし……グ、グギャッッ!!」

 

 前に回り込み両肩から破れた服を下ろそうとしていたボイチェフの腹から剣が生えた。

 

「グアアアッーー! ヒッ……な、なんで……」

 

「最後の確認だ。聖女の意思とは関係なく強制的に治癒出来るのかを、な」

 

 ディオゲネスは剣を引き抜きながら、血だらけなってカズキの足元に倒れたボイチェフを見下ろす。それを気にもせず口から血の泡を吐き出し始めたボイチェフの背中からナイフを取りカズキを見た。

 

「済まないな、ちょっと痛いぞ」

 

 カズキの力のない翡翠色の眼を見ながら、露出している左ももにナイフを勢いよく突き刺し抉る。全く躊躇ないその動きにカズキも何が起きたか一瞬分からないようだった。

 

 しかし直ぐに体が強張って歯を食いしばったカズキは、痛みに耐えられないのか声無き悲鳴が()()()。喉は何一つ声を紡がないのに、ナイフで抉った時にディオゲネスは聞こえた気がしたのだ。

 

「……さあ、死んでしまうぞ? お前に散々嬲って酷いことをした男だ。血肉すらこの俺が無理矢理捧げた。治したりなぞしたく……っないだろう!?」

 

 ボイチェフを引きずり上げて座っているカズキの手の辺りに腹を当てた時……今までと変わらない光が溢れて、傷口は癒されていった。 

 

 

 

 

 

 ……ここにユーニードの目的は達し、カズキの心は身体同様に傷付いたのだろう。カズキの眼から再び一筋の雫が落ちたが、赤い血を洗い流す事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蝋燭は短くなり、地下室を照らす灯りは弱い。

 

 ディオゲネスは無言で佇み、ユーニードはカズキを見ている。

 

 

 

「……やはり治癒するのか……これなら、これなら魔獣に対抗出来る……奴等を何度でも殺せる、殺せるのだ……」

 

 

 ユーニードが狂った様な呟きは、冷たい石に囲まれた地下に反射する事なく消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




これでも、ハッピーエンドになる物語なんです。


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27.妄執の行き着く先⑥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この後はどうするんだ? 聖女の力はわかったが、それをどうやって使うかだろう?」

 

 ボイチェフすら奥の部屋に放り込み鍵を閉めたディオゲネスは、ユーニードが白仮面を外すのを眺めて言った。

 

「ああ、まず聖女はその辺の治癒院にでも捨ておけばいい。殿下から捜索の指示が出ているだろうからな。お前は見つからないよう注意してくれ」 

 

「それで?」

 

「噂を流す。聖女が降臨した、王家が魔獣への反撃を準備している、復讐のときは近い、そういう噂だ。ついでに黒髪の美しい少女で、刻印が刻まれた神の使徒だとな。どの道リンディアの全軍を投じなければ、奴等を駆逐出来ない。ならば、陛下の背中を押せばいい。聖女の存在にはそれだけの力がある」

 

 王家は世論に圧されて座してはいられないだろう……そうユーニードは締めくくった。

 

「なるほどな……貴様らしい回りくどい手だ。俺の原隊復帰を急いでくれよ。魔獣の前にさえ立たせてくれたらそれでいい」

 

「わかっている。しっかりと剣を研いでおけ」

 

 気を失っているカズキを前に二人の話は淡々と進んでいく。

 

「ディオゲネス、奴等はどうするんだ?」

 

 奴等とは扉の奥にいる者達だろう。ボイチェフもその一人に数えられていたが、この二人は最早気にしてもいない。

 

 焦げ茶色のザンバラ頭を掻きむしりながら、ディオゲネスは質問に質問を返した。 

 

「聞きたいのか?」

 

「……いや、やめておこう」

 

「ああ、それが賢明だ」

 

「……我らはヴァルハラに行く事もないだろう。神の御使いたる聖女すら貶めたのだ。だが、魔獣を道連れに出来ればいい」

 

 ユーニードは少しだけ正気を取り戻した様子を見せたが、全ては終わりそして始まってしまった事だ。

 

 止められないし、止める気もない。

 

 

 ーー森との戦いは近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディアから見る地平線が少しずつ淡く色付いていく。闇が払われて朝を知らせているのだろう。

 

 アストは城に辿り着いていた。

 

 まだ戻る気など無かったが、フラつくアストを見たケーヒルが無理矢理連れ帰ったのだ。

 

 体は睡眠を欲しているが、冴えたままの頭はカズキの幻影を見せてくる。アスティア達は報せを待っているだろうが顔を見せたくなかった。酷い顔をしているだろうし、不安を煽るだけだろう。

 

 花壇の側にあるベンチに座ると、眼には少し先にある庭園が映った。カズキを横抱きにして渡った飛び石も大木も見える。その大木の下でカズキがこちらに振り返っている姿を幻視して、思わず頭を抱えてしまう。

 

 脂と汗で重くなった髪は、時の経過を意識させてアストをより深く強く苛んだ。

 

 

「カズキ……何処に……どこにいるんだ……」

 

 

 これ程の焦燥も、怒りも感じた事などなかった。

 

 魔獣に対してすらアストに覚えはないのだから……

 

 

 ベンチから動く事も出来ずに地面を見ていたアストにケーヒルの声が聞こえて来た。それは幻聴などではない確かなもので、アストのボヤけた意識を浮き上がらせる。

 

 

「……下!……殿下! ジョシュから報告がありましたぞ! カズキが見つかったと……!」

 

「……!!っどこだ!? 無事なのか!?」

 

 アストは勢いに任せて立ち上がり、走りくるケーヒルに声を荒げた。

 

「……命に別状はありません。ただ……」

 

「……ただ、ただどうした!?」

 

「怪我をしているようです……意識も戻ってはいないと。外円部西街区の治癒院から報せがあったようです」

 

「……くそっ!」

 

 疲れなど無かったかの様に、全力で走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 治癒院の前には馬が数頭、騎士も待機していた。人数こそ少ないが野次馬らしき住民の姿も見える。

 

「殿下!」

 

 扉の前にいたジョシュが、馬が止まる前に飛び降りたアストに呼びかける。

 

「ジョシュ! カズキは!?」

 

 アストの只ならぬ形相に住民達も驚きを隠せない。街で出会えば手すら振り、皆に笑顔で接するのが当たり前だからだろう。やはり運び込まれた少女はアストの大切な人なのか、カズキと言う珍しい響きの名前も手伝って印象を強くした。

 

「こちらへ……今は眠っています」

 

 早朝だからだろう、治癒室らしき広間には人影はなかった。

 

 ジョシュは無言でアストを誘導して、廊下の奥の一室を目指して歩く。木の床は足音を響かせたが、焦る気持ちをそのままに歩を進めた。そして、開いた扉の先にベッドに横たわるカズキの姿を見ると、早足に近づいて小さな手を両手で包んだ。

 

「カズキ……」

 

 左手に巻いたばかりの白い包帯が目に入る。衣服は黒の間にあるようなものではなく、治癒院の貫頭衣だろう。カズキの小さな身体には合っていないため、まるで白いシーツで包まれているようだ。

 

 両手の中でカズキの体温を感じる事が出来たアストは、漸く直ぐ側に人が立っているのが分かった。

 

「殿下、こちらがカズキを見つけてくれた方です」

 

 ジョシュはそれを見計らって横に立つ女性を紹介した。年老いた老婆だが、矍鑠とした立ち姿と優しい眼差しでアストを見ていた。頭髪は真っ白で後ろでまとめ白衣を羽織っている。皺くちゃの顔や手には人生の厚みが見えて、誰もが尊敬の念を抱くだろう。

 

「治癒師殿、失礼した。挨拶もせずに……」

 

「構いませんよ。アスト様にとって大事な方なのでしょう? 御心配は尤もな事ですから。わたくしはここの治癒師をしておりますチェチリアと申します」

 

 チェチリアと名乗った老婆は、優しい眼差しと同じ暖かい声音でアストに返答を返した。

 

「そう言って貰えると助かる。チェチリア殿、済まないが状況を教えてくれないか? カズキは……この娘は大丈夫なのか?」

 

「アスト様、チェチリアとお呼び下さいね?」

 

 やはり優しい声でアストに答えて、ニコリと笑った。皺くちゃの顔なのに何故か若返って見える不思議な笑みだった。

 

「今朝治癒院の前に横たわっていたんです。怪我をしていましたし、周りには人影もなかったので中に運び込んで簡単ですが処置をしました」

 

「……そうか」

 

「外傷は左の掌、腕、左大腿部、いずれもナイフ等のキズです。それと……両腕には鬱血の跡が……縄状のもので縛られていたのでしょう……腹部の両側にも擦過傷がありましたから身動きを取れないよう何かに固定されて……」

 

 カタカタと腰に差した剣が震えているのに気付いたチェチリアは、言葉を止めてアストの手を取った。唇を噛み締め、拳は痛い程に握っている。

 

「ごめんなさいね……アスト様も王子とは言え一人の人間。我等と同じ、か弱き白神の信徒……」

 

 チェチリアはアストはまだ若い青年である事にも思い当たったが、紡いだ言葉は決して消えたりはしない。

 

「……命に関わる様な怪我ではありません。それと……女性としての尊厳は傷付けられていません。どうか心を鎮めて落ち着いて下さい」

 

 優しくアストの手を摩り、ゆっくりと時間が過ぎるのを待った。

 

「……済まない……大丈夫だ、チェチリア」

 

「アスト様にそこまで心を砕かれるとは、この子も幸せな娘ですね。名前はカズキ……でしたか?」

 

「ああ、カズキと言う……チェチリアは見ただろう? カズキは普通の娘ではないんだ」

 

「刻印の数々は確かにそうなのでしょう……ですがアスト様。普通ではないなどと言ってはいけません。今は眠っていますが、最初に見つけた時は涙の跡がありました。アスト様同様か弱き一人の人なのです。まだ小さな少女ではないですか……あら、フフフ、偉そうな事を言ってしまいましたね」

 

 歳を取ると小言が増えていけません……そう呟いてチェチリアは自嘲して見せた。

 

「いや、その通りだ……私は何処かで距離を取っていたと思う。もっと寄り添って上げれば、いや寄り添いたいのに」

 

 アストはチェチリアの言葉に素直な気持ちを返した。

 

 窓から入って来た朝日の光の帯が部屋を明るく照らして、カズキの身体を浮き上がらせる。

 

 そこには世界にたった一人の聖女がいたが、アストには一人の愛する女性だと……そう思う事が出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チェチリアから城に連れ帰っても大丈夫だと聞いたアストは、優しくカズキを抱き上げて治癒院を出た。

 

 大きな貫頭衣はカズキの全身を包み、首元の刻印を隠せば只の少女でしかない。それでもアストの眼差しや壊れ物を扱う様に抱き上げた姿を見れば、アストの大事な人なのだと理解させる。残っていた住民達は、馬車に二人の姿が消えて立ち去るまで動く事は無かった。

 

「黒い髪とは珍しいなあ」

 

「だが見たか? 凄く綺麗な娘だった……アスティア様とは違う美しさだよな」

 

「遂にアスト様に想い人が現れたんだな。久しぶりに目出度い話だぞ」

 

「次期王妃か…… 」

 

 アストや騎士達がいなくなった治癒院の前では、ザワザワと噂話が花開いていた。 

 

「俺は知ってるぜ、凄い事をな……」

 

 あまり見かけない男が馬車が走り去った方を見ながら呟いている。大きくはないが通る声と男が持つ雰囲気に皆が興味を引かれて注目を集めていた。

 

「凄い事ってなんだよ?次期王妃以上の凄い事なんてあるのか?」

 

 噂話をしていた住民達の一人が思わず聞いた。

 

「刻印だよ、刻印。しかも一つや二つじゃないんだ。あれは間違いなく神々に愛された使徒だな……」

 

「はあ? 刻印だあ? 一つ二つじゃないって、まさか三つもあるってか?」

 

 冗談に皆から笑い声が上がったが、その男は微動だにせずにジッと見つめ返してくる。

 

「騎士様から聞いたんだよ……アスティア様もカーディル陛下もご存知らしい。ホントかどうかわからないが、黒の間に住んでるんだと」

 

「黒の間!? おいおい与太話じゃないだろうな?」

 

「いーや……黒の間は最近別の名で呼ばれるらしいぜ……」

 

 誰かがゴクリと唾を飲み込み、笑い声も完全に消えた。

 

「別の名って……?」

 

 焦げ茶色のザンバラ頭の男は、同じ色の眼を全員に這わせて答えた。

 

 

 

 

「……聖女の間、と」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスティアに知らせて上げないと……クイン達も心配しているだろう……」

 

 簡易的な馬車のため四人程度しか座る場所はない。アストの向かい側に横たわるカズキの意識はまだ戻らないが、手の届く場所にいるのを知ると安堵の溜息が止まらなかった。

 

 揺れる床に膝をつきカズキの側に来ると、初めて会った時を思い出していた。

 

「あの時もこうやって君を見ていた。やはり眠ったままで、その美しさに驚いたものだよ」

 

 カズキの頭に手を添えて、柔らかでサラサラとした黒髪を撫でて囁いた。

 

「……怖かっただろう……本当に済まない……」

 

 黒髪を優しく避けて現れた額に、アストはそっと唇を落とした。

 

「聖女だとか刻印とか、そんな事は関係ない……いつの日か私の横で笑っていてさえ居てくれれば……それだけでいい」

 

 チェチリアの言葉はアストの心に小さな変化を起こしたが、それは否定するようなものではない。アストはただ素直に受け入れて従うだけで良かった。

 

「最初からアスティアはそうしていた、カズキは手の掛かる妹だと。聖女などではなく一人の人間と認めていなかったのは私だけだった様だな……情けない話だ……」

 

 アストの自嘲は馬車の中に溶けていく。

 

 二度とカズキに怖い思いはさせないと、アストは誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




此処までやられっぱなしのカズキですが、数話先から少しずつ変化していきます。暗い感じもあと少しなので……


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28.枯れた心

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほんの数日前まで思っていた。

 

 

 ここから見える街や、遠くに見える雄大な地平線は何度見ても飽きる事なく美しい。

 

 遥か先には緩やかな丘が重なり、雨雲だろう灰色の綿が雨を降らしている。局地的な天候なのかその周辺は晴れていて、光と影のコントラストが緑色の絨毯を薄く染め上げていた。

 

 あれは確かスコットランドの高地だっただろうか、カレンダーに切り取られた景色が美しかったのを覚えている。それと似ているが、写真では伝わる事のない迫力が自分の目の前に広がっているのだ。

 

 

 

 

 目が覚めたとき、夢を見ていたと思った。

 

 薄暗い地下室は想像の産物で、ナイフをチラつかせた大男も焦げ茶色のザンバラ頭も存在しない。白い仮面はいかにも夢らしいではないかと。だが鈍い痛みが左腕と腿から走り、暖炉の上のクリスタルの馬の姿が見えないと知った時何かが変わってしまった。

 

 ゆっくりとベッドから起き上がり、何時もの様にベランダへ出る。好きになっていた朝から見る景色は同じ筈なのに、違う。

 

 

 ……変わったんじゃない、元に戻っただけだ。

 

 

 見えていた雨雲はいつの間にか消えて、丘に降った雨粒が反射してるのかキラキラと輝いて見える。でもそれだけ、ただそれだけの事だ。

 

 

 それなのにカズキは、そこから動かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何かわかったか?」

 

「黒の間まで誰一人として目撃者がいません。いくら油断があったとは言え、有り得ない事です。手引きした者がいるのは確実でしょう」

 

 カーディルの私室に三人の姿がある。

 

 祈りを終えたカーディルは、ケーヒルの言葉に耳を傾けていた。アストも何かを考えているのか椅子に腰掛けたまま身動きはしていない。

 

「油断か……」

 

 カーディルは油断が生じた理由が充分と理解出来るため責める事が起きなかった。

 

 今のリンディア、或いは世界と言い換えてもいいだろう。外敵とは即ち魔獣であり人ではないのだ。勿論悪さをする者もいるし、犯罪が消えて無くなったわけでもない。それでも対魔獣唯一の戦闘集団である騎士団とそれを指揮する王家に敵対するのは、自らに弓引く事と同義と言っていい。ましてや数百年前と違い国外脱出するには森を抜けなければならないのだから、天秤にかけるまでもない。

 

 黒の間であろうとも警備の緊張感は薄く、カズキのお世話係に近い騎士達だったのだ。本当の意味で命すら賭けていたのはノルデくらいだろう。昨晩ノルデは其処にいなかった。

 

「一晩で帰って来たのはやはり誰かの治癒が目的か……」

 

「たとえ誰かの治癒が目的であったとしても許せはしません。治癒師のチェチリア殿の話では、両腕と身体を縛られて身動きが出来なかっただろうと……」

 

 初めてアストは口を開いたが、漏れだすのは言葉だけではなく怒りだ。誰もが家族や身近な人を失いかければ我を忘れるだろう。だが免罪符にはならない、させはしない……それがアストの心の声だ。

 

「アスト、それは皆思うことだ。今やカズキはお前の命を救ってくれた娘でもあり、アスティアの妹なのだ。つまり家族だよ」

 

 もし言語不覚の刻印は無く、カーディルの言葉を聞いていたならカズキの願いは叶っていただろう。今も心の奥深く消える事のない渇望は、砂漠の如く渇き果てて家族と言う雨を待っているのだから……

 

「カズキを傷付けた者には報いを受けさせる。 ケーヒル、頼むぞ」

 

「はっ、無論です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漸く動いた足を部屋に向けたとき、目線の先にある扉が開くのが見えた。お姫様と侍女二人の姿が目に入って、その場に立ち止まる。ジンワリとした暖かさは消えたが、怒りが湧いて来たりはしなかった。

 

 他人(ひと)が来た、そう思って歩き出した筈の脚は動かない。

 

 足元を見てもスカートが邪魔で自分の足は隠れたままだ。膨らんだ胸は未だに慣れないが、しっかりと呼吸に合わせて動いているのに……

 

 おかしいな……?

 

 カズキは動かない身体が不思議で仕方がなかった。

 

 ジッと下を見ているとポタポタと水滴が落ちて、スカートに当たり弾けて消えていく。雨なんて降ってなかったのに通り雨だろうか……?

 

 空は青く、薄い雲は千切れて消えてしまいそうだ。

 

 カズキは見上げた視界が滲んでいって、目に涙が溜まっているのに初めて気付いた。

 

 そうか……この身体は泣き虫なんだな……

 

 他人事の様に思い、今の自分が在る意味を問う。

 

 あっさりと連れ去られて、何人も治癒した。終わったら元の場所に帰っていて、変わらぬ日常がある。また何かあればあの場所で他人を治さなくてはならないのだろう。部屋の中をキョロキョロと見渡しているお姫様達は、その間のお世話係というところか……

 

 

 もしアスティアがそんなカズキの心の声を聞けたなら……涙を流し、怒り、そして抱き締めるだろう。貴女は道具ではない、家族だと何度も伝える筈だ。

 

 けれども刻印は鎖となってカズキを縛り、解かれることは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いたわ、ベランダよ」

 

 クインとエリに教えたアスティアは、恐ろしい思いをした大事な妹を抱き締めようとベランダに出る。近づくと翡翠色の瞳が濡れているのが分かって、駆け足になった。

 

「カズキ!」

 

 あと一歩で手が届く……アスティアが両手を開いた時、カズキが後退りして距離を取った。

 

「カズキ……? どうしたの……?」

 

 初めて会ったあの時と一緒だった。ベッドで上半身を起こしたカズキに挨拶をした最初の時。刻印の存在を知らず、無理矢理に顔を掴もうと両腕を伸ばしたのだ。

 

 優しい妹がアスティアだけでなくクインやエリも警戒している様子を見て、酷く狼狽してしまう。それ以上逃げ出したりはしないが、アスティアは動けなくなった。

 

「……アスティア様……今は無理にしない方が良いでしょう。まだ落ち着いてないのです」

 

 クインの冷静な言葉に、カズキの体感した恐怖を垣間見てアスティアの胸は締め付けられる。

 

「そんな……どうして……」

 

 連れ去られたカズキに何があったか聞いた訳では無かったが、左腕に巻かれた包帯が物語っていた。

 

 ゆっくりと近づいてカズキの右手を両手で包むと、特に抵抗は無く俯いたままだ。振り払われたら泣いてしまうと思っていたアスティアは、少しだけ安堵して部屋の中に導いて歩く。

 

「エリ、温かいお茶をお願い」

 

「はい!」

 

 どうして良いか分からなかったエリは、役割を貰ってキビキビと動き出した。 

 

「クイン、怪我の具合は本当に大丈夫なのね?」

 

 何度も聞いた事をまた聞いてしまう。二人がテーブルの側の椅子に隣り合って座るのを見たクインも再び丁寧に答えていく。

 

「はい。酷かったのは太ももの刺し傷ですが、縫合もしなくて良い程度でしたから……ただ……」

 

 悩んだクインだが、アスティアとカズキを見て全てを伝える事にした。

 

「両腕には鬱血があり、胴体には擦過傷も見受けられたと聞いています。今はもう回復していますから分からないだけです」

 

「……? どういうこと?」

 

「……両腕を縛られ、胴体にも何らかの拘束具を付けられていたと推測されます。身動きを出来なくして無理矢理に聖女の力を行使させられたのでしょう……ですから……今はまだ精神が不安定でしょうから、先程のカズキの態度も理解出来ます」

 

 ガチャン……!

 

 エリにも聞こえたのだろう、用意していたカップが音を立てた。

 

 アスティアは我慢していた涙を止められなくなったが、同時に沸々と血が沸き立ち涙など気にならなくなる。強い怒りはアスティアの心を掻き乱し、視界は狭まって周りの音もしなくなった。

 

「許せない……絶対に……」

 

「はい、許せないでしょう。ですが私達に出来る事は復讐ではありません」

 

「我慢しろと?」

 

 アスティアには珍しい怖気を感じる声にもクインは怯まずにはっきりと答える。

 

「我慢ではありません。神々が、そして殿下が必ず罰を与えるでしょう。でも、アスティア様にしか出来ない事があります。カズキに寄り添い、心を癒し、守りましょう。聖女は人を癒しても、自らの心を癒しはしない様ですから」

 

 アスティア様ならお分かりでしょう……最後に優しくクインは囁いた。

 

「ええ……勿論、勿論よ……」

 

 エリが用意した紅茶の香りが立ち昇って、アスティアの鼻腔をくすぐる。濡れていたアスティアの蒼い瞳は既に渇いて、外を眺めるカズキを見つめていた。

 

 クインは知っている。

 

 アスティアは若き少女だが、誰よりも強く優しい一人の女性なのだ。刻印などなくとも、彼女も一人の聖女だと。

 

 リンディアは負けはしない……カーディル、アスト、アスティアがいるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 またいつもの日常が始まった。

 

 違ってしまったのはカズキが逃げ回る事がなくなり、アスティアが導くままに素直になったことだろう。

 

 お揃いの服も、下着も、化粧だって拒みはしない。 

 

 もともと眠り姫ではあったが、ベッドに横たわる時間が増えてきた。

 

 アストには近づく事もなく、目も合わさない。

 

 クインに怒られたりしなくなったし、お転婆でもはしたない少女でも無くなった。

 

 そして美しさに磨きがかかって、比喩でなく人形のようになった。瞳は宝石の如く輝くが、感情をうつしたりしない。以前も表情の乏しい娘ではあったが、それはより顕著になっていった。

 

 

 

 アスティアは挫けそうな気持ちを奮い立たせて、今日も黒の間の扉を開く。

 

 必ず妹を助けると誓ったのだからーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディアの王都リンスフィアーー

 

 王都民の間で最近良く聞く噂話があった。

 

 

 

 滅びに瀕した世界に救いが差し伸べられた

 

 神々の加護を遍く(あまねく)受けた少女がいる

 

 刻印が幾つも刻まれた身体

 

 陛下をはじめ王家は反撃の準備をしている

 

 魔獣達を駆逐し、森を取り戻すときが来る

 

 戦争は近い

 

 

 珍しい黒髪と綺麗な翡翠色の瞳

 

 黒の間に住むその少女はどこま美しい

 

 司るのは慈愛の心と癒しの力

 

 

 誰もが知ればそう呼ばずにいられない

 

「聖女」と

 

 

 誰もが天を仰ぎ祈りを捧げる

 

 聖女が降臨した、と

 

 

 

 名を「カズキ」

 

 ーー黒神の聖女「カズキ」が舞い降り

 

 ーー世界は救われる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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29.クイン=アーシケル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキを街に連れ出すわ」

 

 

 

 ベランダから街を眺めているカズキを見ていたアスティアが呟いた。

 

「街にですか? 許可が出ますかねー?」

 

 随分前に思える星空をあしらった濃紺のワンピース姿、そんな可愛らしいカズキをエリも見ていた。それはカズキの黒髪と相まって優しい夜を幻想させるのだ。最近思い立って手に入れなおした一品である。ちなみに色違いがもう一着あるらしい。

 

「馬車はアレにするわ、ほら、周りがよく見えて天井だけ付いてる……」

 

「あー、パレードの時に使った馬車ですね? 名前は……なんでしたっけ?」

 

「名前なんていいの。馬車からは降りない様にして警護も付けるし、私も行くんだから滅多なことは起きないでしょう? 兄様が連れ出した時、カズキは凄く楽しんでいたらしいし……先ずは気分を変えた方が良いと思う」

 

「たしかにそれなら周りの目もありますし、悪い奴等がいても手出しは出来ないですかね?」

 

 エリは疑問符の付いたセリフばかりで、何時にも増して子供っぽい。悪い奴等と言う言葉選びがそれを加速させて、アスティアにも微笑が溢れてきた。

 

「買いたいものや食べたいものは、エリに手伝って貰うわ。それと特別にお酒を少しだけ飲ませてあげるのも良いと思っているから」

 

「可愛い聖女様はお酒が大好きみたいですもんね? あの幻のお酒はまだ手に入るのか!?」

 

 エリは可愛らしく拳を握って天を見上げる仕草をする。

 

 ちなみに、幻のお酒とは以前カズキが隠れて飲んだ赤ワインだ。

 

 葡萄畑も醸造所も森にのまれた為に、今では生み出す事の出来ない文字通りの幻の酒。貴重なワインを僅かに飲んだだけで酔ったカズキは床に転がり、ついでにワインボトルも転がってふかふかの絨毯に飲ませた。

 

 アストと歩いた街でもお酒を飲もうと周りを困らせたらしい。エリの言う通り、ベランダに佇む聖女は酒好きと判明している。

 

 帰り道で少しだけ飲ませて、眠るカズキを膝枕する事まで予定に組んだ。勿論優しく髪を撫でるのだ。全く癖のない黒髪を最近は撫でていない。スルスルと指通りの良いカズキの髪はアスティアのお気に入りなのだから。

 

「先ずはクインに相談しましょう。きっと助けてくれるわ!」

 

 大きな声にも反応しないカズキに寂しさを覚えたが、少しずつでも出来る事をしてお転婆な妹に戻って貰うと決めたアスティアは行動を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 用事を済まして黒の間に帰って来たクインは、あっさりと答えた。

 

「駄目です」

 

「なんでよ!」

 

 隠す事すらしない溜息を零したクインにアスティアは喰い下った。

 

「殿下の時とは状況が違います。今王都にカズキを連れ出すのは賛成出来ません」

 

「私も着いて行くし、街を歩くつもりもないのよ? 馬車から眺めるだけでも気分転換になるし、早くカズキを助けたいの」

 

 アスティアの心からの健気な思いはクインを少しだけ動揺させたが、彼女の明晰な頭脳は否を唱えた。

 

「アスティア様のお気持ちはわかります。それでも賛成出来ません」

 

「それでカズキを黒の間に閉じ込め続けるの? そんなの可哀想じゃない!」

 

 カズキの事になると急に聞き分けが悪くなる王女に、クインは頭をひねって説き伏せるしかない。

 

「アスティア様もご存知の筈です。街にはカズキの噂が流れていますから、見つかったらどんな騒ぎになるか……カズキだって恐ろしい思いをするかもしれないですよ?」

 

 卑怯とは思うが、カズキを引き合いに出してアスティアの優しさに訴えかける。予想通りにアスティアの意気は消沈し、カズキの横顔を見て黙ってしまう。

 

「でも……この数日もカズキの様子は変わらないわ。なんとなくこのままでは駄目な気がするの」

 

 愛する妹を見る姉の瞳は、愁いを帯びて大人の女性を感じさせた。クインはアスティアの思いが痛い程にわかるが、同時に別の危険がある事を知っている為に協力は出来ないのだ。

 

 アスティアやエリに伝えてはいない新しい事実が判明し、予想以上に不穏な状況を知るクインには酷な話かもしれない。

 

 

 

 "主戦派(しゅせんは)"と呼ばれる者達がいる。  

 

 明確な組織ではないし、ある意味ではこの世界に生きる全ての人がそうだと言える。魔獣とは不倶戴天の敵であり、誰しもが差異はあれども憎しみを持っている。目の前に魔獣を打ち倒せる武器があれば、皆が手に取り立ち上がるだろう。

 

 だが、ここで言う主戦派は違う。

 

 憎しみに囚われて逃げる事も出来ない者達の一部は、自らが死する事も厭わず一匹でも多くの魔獣を道連れにする事だけを考えている。多少の犠牲やほかの人への配慮などはない。

 

 街に蔓延しているカズキの噂は、詳細に過ぎる上に決戦を煽る性質が強い。明らかにカズキを利用するつもりで、その哀しみや痛みなど気にもしていないだろう。

 

 今はまだ噂の段階だが、街に噂通りの容姿を持つ少女がアスティアと現れたらどうなるかは火を見るよりも明らかだ。

 

 上手い手だ……直接的ではなく搦め手を使い、こちらが逃げる事も出来ない様に計算されているのだろう。悔しいが、時間の問題だとクインは判断している。

 

 頭の良い誰かが指揮している……そう考えるクインにふと一人の男の名前が浮かんだ。

 

 その男は魔獣を強く憎み、それを指揮出来る能力を持ち、その頭脳が凡人の域を超えている事もクインは知っている。だが、冷酷と見られる性質も律した自我の生み出す結果でしかなく、何より高い忠誠心と王家への献身は疑う余地すらない。だからクイン達の想定するリストに浮かぶ事はあっても直ぐに除外されたのだ。

 

 でも……彼なら筋書きを書ける。

 

 黒の間へ不審な人間を導く事など造作も無いことだ。

 

 ユーニード=シャルべ

 

 彼ならやってのけるだろう。だがそれは彼の忠誠が変容してしまったと認める事になる。

 

 ほんの一瞬でそこまで思考したクインの耳に、アスティアの声が響いた。

 

「本当に人形みたい……どんなに美しいアンティークドールもいつかは壊れてしまう。磁器製の顔や手足が割れる様に、私達の元からいなくなったらどうしたらいいの……?」

 

「アスティア様……」

 

 静かにしていたエリも思わず声を上げる。

 

 もしユーニードが手引きしたなら、この黒の間すら安全とは言えない。クインの心にヒタヒタと怖気が近づいてくる。陛下に相談しなければ……そう結論付けたクインは口を開いた。

 

「陛下にご相談してみましょう。アスティア様のお話も大事な事ですから」

 

「クイン! ありがとう、大好きよ!」

 

 相談の中身にすれ違いはあっても、カズキを思う気持ちに違いはない。身動きすらせずに景色を眺めるカズキがそれを知らなくても、ここに居る三人には関係はないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿下、こちらです」

 

 ジョシュの案内で地下に降りたアストに血臭が届く。

 

 黒の間の半分にも満たない石造りの地下室には、真ん中に置かれた木製の椅子がある。足元には血溜まりの痕跡があり、そこから椅子の辺りまで血の道が出来ていた。あの椅子に縛り付けていたなら、この道はそうなんだろう。

 

 椅子の直ぐ後ろには床に固定された鎖と皮ベルトが打ち捨てられている。アストの太ももを縛りつける程の長さしかないベルトだが、小さな少女の腰回りには丁度良かったのだろうか?

 

 怒りは頂点を通り越すと冷たい氷の様になると知ったアストの目は、黒い細い糸が幾本か落ちているのを捉えていた。

 

「黒髪……」

 

 少しだけ震えている手に収まったその糸は間違いなく髪の毛だ。髪を掴んで無理矢理に引き上げたのか、きっと痛かっただろう……

 

 怒りなのか嘆きなのかが分からなくなっている。ただ冷たい氷の塊が、胸の内に積み重なっていくだけだ。

 

「あちらの扉の先に6名の死体を発見しています。男が5名、女が1名、全員が喉を切り裂かれていました」

 

「……身元はわかったのか?」

 

「いえ……一名しか分かっておりません。その界隈では知られた盗人で、名をボイチェフと聞いています」

 

「そうか……」

 

 勿論許せはしないが、誰かを治療したいが為に行った悪事だと思っていた。

 

 だが、違う。

 

 これは実験だったのだろう。聖女の力を試す、その為だけにこれだけの人を死に至らしめたのだ。正常な精神を持つ者ではない、狂った妄執を嫌でも感じられる。

 

「ここの所有者はわかるのか?」

 

「いえ……長い間空き家だったようです」

 

 これ以上ここに居ても何も分かりはしない。城に戻って次の対策を練ろう……それにカズキの顔を見たい……微笑んで貰えなくてもいい。

 

 そんな事を思いながら、アストの足は階段を踏みしめて自身を外へと導いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 持ち帰ったいくつかの紙束を自室の机に置いて、先ずは着替えるべくクローゼットに向かう。

 

 着慣れた侍女服は皺一つなく、今日一日着た痕跡は見えない。動作の一つ一つに気を配り、歩き方すら厳しく訓練されたバトラーの様に律している。  

 

 開いたクローゼットの扉には鏡があり、肩で切り揃えた金髪が少しだけクルンと癖毛になっているのが見えて眉が歪む。直ぐに視線を外してスルスルと侍女服を脱ぎ、見当たりもしない皺を伸ばしてハンガーに掛けた。僅かにデザインと色合いの違う侍女服があと五着あるのが興味深い点だろうか。

 

 下着姿で浴室に消え、一日の汚れを落として薄墨色のナイトウェアに着替えて部屋に戻って来た。そうしてさっぱりしたクインは化粧台の前に座り櫛で髪を梳かしてから、ラズベリーのシードルとグラスを持って机につく。

 

 注いだグラスを耳に近づけてシュワシュワと泡が弾ける音を暫し聞いてほんの少しだけ口を付けた。

 

「フゥ……さてと」

 

 カーディルの許可を得て持ち帰ったその紙束の表紙の全てに「ユーニード=シャルべ」のサインがしてある。それらはユーニードよりカーディルに報告或いは提案された物資、輸送、配置、そして対魔獣の作戦計画だった。

 

 過去3年分を読み解くのは大変な作業のはずだが、クインは臆する事なく手に取ると丁寧に素早く目を通し始める。暫くは紙をめくり、ノートに筆を走らせる音だけが部屋に響いた。

 

 注いだシードルの泡が消える前に少しずつ喉に通し、三度グラスに薄紅の液体が満たされた時にはクインの目的は達せられた。本当に読み解いたなら驚異的な速さだが、本人には当たり前なのだろう。それを誇る風もなくジッとまとめたノートを見直している。

 

「変わっている……残念だけれど……」

 

 クインにとってユーニードは身近な人ではない。軍務長はその名の通り軍務、ひいては戦争に関わる全てを内務で支える専門の人間だ。魔獣に剣を向けるのは騎士だが、彼は頭脳とペンで戦っている。冷酷と揶揄されるユーニードだが、クインは改めて尊敬の念を抱いた。

 

 目を通したそれぞれは、理論的に正しくまた美しかった。被害に遭った民の支援や物資の供給、騎士達や家族の補償、国土防衛の施策。限られた資源を如何に効率良く配置するかの苦心があり、リンディアと民を思う強い忠誠が透けて見える様だ。

 

 だが、時系列にまとめて読み進めればその変化は明らかだった。

 

 如何に被害を少なくして国を守るかの術を探していた筈が、魔獣を如何に効率的に殺すかへと変貌していく。どれも間違っているわけではない、しかし3年前と現在では同一人物かと疑いたくなる程だ。

 

 最も最近にカーディルに届けられた作戦計画書には、北部の街マリギの奪還が掲げられている。

 

 だがクインには違って見える。

 

 魔獣を出来るだけ多く殺すために、それだけの為に考えた作戦に後からマリギを付け加えたのだろう。騎士達の犠牲は元より、奪還した後の脅威が考慮されているのか疑わしい。カーディルは騎士の損耗率と未来を憂いて却下しているが、カズキの存在が全てを覆す事になる。

 

 王家としてカズキの存在は伏せてある。もし聖女の力を知り、利用したくてもカーディルが了承しないならどうするだろうか……?

 

 世論を誘導してカズキの存在を知らしめ、決断を迫る。勝てるなら、ほぼ全ての国民は決戦を支持するだろう。いや、厭戦(えんせん)すら許されない空気が醸成されていくのは間違いない。

 

 クインは足元から冷水を浴びせられた様に寒気と怖気が全身に這い上がってくるのを自覚した。

 

 ユーニードにとってはある意味で目的は達せられているのだ。ここに至って自身の命など歯牙にもかけないのは想像がつく。あれ程の忠誠を尽くしていたリンディアを投げ捨てでも進むユーニードには魔獣の断末魔しか見えていないのではないか。

 

 その妄執の行き着く先は、破滅だとしても憎しみの鎖は解けはしない。

 

 

 

 

 カズキを愛し憂いているリンディア王家は、もう既に負けてしまったのかもしれない。街に蔓延する噂は止まる事はなく、いずれ大きな波となり城を襲うだろう。

 

 ベランダに佇む哀しげな聖女が頭に浮かび、クインの胸を締め付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




苦しんだカズキですが、次話から活躍します。展開も変わっていきますので、また読んで貰えるとありがたいです。


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30.聖女の降臨

漸く主人公らしい活躍をします。カッコ良く書けたかな……


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全ては偶然の産物だろう。

 

 アスティアの優しさがほんの少しだけ早まった行動となり、この日この時この場所に馬車が通り掛からなければ起きなかった事だ。

 

 前の日に少しだけ降った雨と僅かに落ち窪んだ道に車輪がはまってしまうなど、誰にも予想など出来ないのだから。

 

 だから黒髪の少女が刻印を隠す事もなく街中に降りたち、歓声に包まれて大勢の人に取り囲まれているのも全ては偶然の産物なのだ。

 

 アスティアが美しい顔を青白くさせて、幾人かの騎士が人波に揉まれて聖女に近づく事も出来ないのはどうにもならない事だろう。

 

 

 この日初めて[黒神の聖女]が、リンスフィアに降り立った。

 

 風に揺られた黒髪はサラサラと踊り、宝石と見紛う翡翠の瞳と刻印が刻まれた肌は余りに美しい。

 

 神話が紡がれていくのを誰もが感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫ですかねー?」

 

「エリ、クインが相談すると言った事で駄目になった話なんてあると思う?」

 

 つまり決定と同じなの!とアスティアは人差し指をピンと立てて、エリに自慢気に言う。腰に反対の手を添えているのが可愛らしい。

 

「それに姿を見せない様に馬車もこれにしたし、カズキには前の様にストールを被って貰ってるのよ? 誰にも気付かれたりしないに決まってるじゃない」

 

 クインもアスティアの行動力を見誤っていたのだろう。クインが賛成に回ったと判断したアスティアは、即座に外にいたノルデに馬車の準備と護衛をお願いしたのだ。クインへの信頼と実績、その頼もしさは他の追随を許さない。ちなみにエリの事は大好きだとしか言えない。

 

 星空のワンピースをそのままに、軽いお化粧で整えたカズキの手を引き今から馬車に乗り込むところだ。

 

 ガラスのはめ込まれた窓はあるが、外からは反射して中を見えづらくした加工を施してある。勿論良く観察すれば中の様子もわかるだろうが、それをする人間など皆無だろう。

 

 本当はカズキと手を繋いで街中を散策したいが、クインの心配はよく分かるのでこれに落ち着いたのだ。

 

 カズキの乗る馬車とノルデ達騎士4名はゆっくりと城門を抜けて外円部の街区へ向かって行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あそこのお店ならあのワインが手に入るかもしれませんよ! ほら、あの店です!」

 

 エリは馬車の中で一番はしゃいでいる。 

 

 この子を元気にする散策ではない筈だけど……アスティアは7歳も年上の女性を内心この子呼ばわりしたが、エリだものと訂正はしなかった。

 

 しかしカズキを見れば少しだけ興味を惹かれるのか、チラと窓の外を見るのだから文句を言う気にもならない。さっきからアスティアが話しかけても鈍い反応しか返さないカズキなのだから、嫉妬してもおかしくないわと渋々納得するのだ。

 

 クインもよく言っていた、エリにしか出来ない事があると。

 

 だからアスティアはエリが大好きなのだ。 

 

 カズキと二人きりも嬉しいけれど、今はエリが居てくれて本当に良かったと思う。

 

「あのお酒の名前わかるの?」

 

「? いえ、知りませんよ?」

 

 ……それでどうやって買って来るつもりなのだろうか? エリの事だから、身振り手振りで捲し立てて店員さんを困らせるのは間違いないだろう。それでも最後はちゃっかりと手に入れて来そうだ。

 

「はあ……仕方ないわね、エリだもの」

 

 最近口癖になったセリフを吐いたアスティアの耳に、何かが倒れた様な轟音と女性の悲鳴が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやーーー!! ミーハウ!ミーハウが!」

 

 街道を緩やかに走っていた筈の馬車と大きな台車が横倒しになっている。大量に載せてあった材木が押し出されて地面に何本も転がっていた。母親の劈く悲鳴は木材の落ちる音など関係なく周辺に響く。

 

 窪んだ轍に車輪がはまり、昨日降った雨のせいで横に滑ったのだろう。重量のあった木材が仇となり姿勢を崩したと分かった。

 

「大変だ……子供が下敷きになってるぞ! みんな手伝え!」

 

 すぐさまに周りにいた者や、店番をしている男達が駆け寄って転がる材木を避け始める。馬車を引いていたであろう若い男は呆然と立ち尽くして動けない。

 

「馬鹿野郎! 先にこっちを上げるんだ!」

 

「そこを退け! これを置けないだろう!」

 

 男達の怒声が溢れるなか、少しずつ取り除かれていく。

 

「ああ……ミーハウ……どうして……」

 

 漸く姿を現したその男の子は5歳位か、胴体辺りに落ちたのだろう木材で潰され、口から血を吐いて意識を失っている。

 

「だれか!早く治癒師様を!お願い!お願いよ……」

 

 寄り添う母親の慟哭は高く響くが、誰もが助からない怪我だと絶望していた。僅かに上下する胸はまだ命がある事を知らせるが、例え治癒師がこの場にいてもその命の火が消えるのを止められるとは思えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「大変……! 馬車が倒れているわ!」

 

 僅かに高い位置にあった交差する街道からは、事故の状況が見て取れた。アスティアの悲鳴でエリも馬車の扉を開けて様子を見に外に出て眺める。

 

「……ああ……小さな男の子が倒れています……酷い怪我……」

 

 さっきまで元気一杯だったエリも、震える声で話し静かになった。

 

 騎士達も駆け寄りたいが任務を放棄出来ずに動けない。

 

 

 

 二人の目線は事故のあった方に向いていた。だから同じ様に外を見たカズキの無気力だった目に、力強い光が戻る瞬間を見逃したのもやはり偶然でしかない。

 

 

 

 

 

 

 我が子へ言い聞かせるように、ヤトは言葉を紡いでいた。

 

 癒しの力と慈愛の心は、カズキが最初から持っていたのだと。その力は決してカズキを裏切ったりしない。

 

 カズキは大人がどうなろうと知った事ではない。今まで癒した大人達も、刻印に縛られた精神と体がカズキの意思に反して動いただけだ。

 

 だから今、カズキを突き動かすのは刻印などではない。自らの意思で、朦朧とする事もなく立ち上がって血を流す子供を視界に収めた。

 

 子供の泣き顔など見たくはない。そんな事許しはしない、いつも笑顔でいなくてはダメなんだ……

 

 

 

 アスティア達に塞がれていない反対側の扉を開けて、馬車の天井を両手で掴む。逆上がりの要領で簡単に天井裏に上がったカズキは首を振り、子供がいる場所までのルートを決めた。

 

 膝を折り曲げて飛び上がった先にある木箱を踏み台にして、店先に突き出る雨避けの屋根に飛び移った。天井からの物音に気付いたアスティア達はここで初めてカズキの姿がないことに気付く。

 

「カズキは!?」

 

 もうその頃には次の屋根に次々と飛び移って行くカズキを止めるなど出来ない。突き出た看板を手をついて乗り越え、柱を躱す様に壁を蹴って走り抜けた。外に出る予定など無かったため緩やかに掛けていたストールは何処かへ飛んで行く。

 

 看板に引っかかるスカートを邪魔に思ったカズキは、思い切り端を破り飛ばして再び走り出した。

 

 店先にいた主人達は上から響く物音に怪訝な顔をするが、すぐに遠くへと消えていき興味は別に移る。

 

 はためくスカートはカズキの肢体を隠す役割を果たさず、馬車から見るアスティアの顔色が変わった。

 

「……大変だわ……下着も刻印も丸見えじゃない! ノルデ!止めて下さい!」

 

「は、はは!」

 

 しかし群がる群衆の波に飲まれるノルデ達にはなす術など無かった。

 

 前転して軒先きの幌に背中を預けたカズキは、その幌にビヨンと押し出されて次の屋根に辿り着いた。もう倒れた子供と母親はすぐそこだ。

 

 その頃にはカズキの軽業染みた体捌きと、時折見える白い下着や素肌が注目を集め始めていたが、カズキは意に関せず最後の屋根から倒れた馬車に飛び移った。

 

 もし現代人が見たらアクション映画の一場面か、パルクールだと騒いだだろう。

 

 立ち上がって下を見ると、泣き腫らした母親が必死で声を掛け続けている。折れた材木から何本かの釘が飛び出しているのを見たカズキは、フワっと地面に降りると同時に左手の甲を戸惑いなく打ち付けた。裏拳を当てたかの様な動作は簡単に釘を突き抜けさせる。顔色は僅かに変わったがそれだけで、溢れ出た血に染まった手をズルリと抜いた。

 

「う、うわっ! あの子自分で釘に手を……!」

 

「あれって刻印か……?」

 

 それを見た何人かが少しずつ騒ぎ始めたが、カズキはスタスタと子供に近づくと膝を地面に付けて子供を見つめる。

 

「な、なに? 変なことしないで!」

 

 破れたスカートや血濡れた手を見た母親が叫んだのは当然だろう。だが子供を抱き上げて優しく胸に抱いた時には、すぐに声は消えて静寂が支配する。

 

 パッ……!

 

 花が咲く様に、花火が夜空を彩る様に、白い光が重ねた胸から溢れ出したのだ。

 

 遠くから見詰めるアスティアやエリでさえ、柔らかい光が目に入り何が起きているのか理解出来た。実際に癒しの力を見るのが初めての二人は、その姿を陶然と見つめるしかない。しかし人混みに紛れていたノルデは、アストを救ったあの時とは違う光景に驚きを隠せなかった。

 

「……! 早い!一瞬で!?」

 

 光ったと思った時には、子供の顔色が戻るのが分かる。呼吸も落ち着いて口から溢れる吐血も消えていった。側にいた母親は信じられないものを見たと、喜ぶ事すら忘れて、ただ子供の手を握るだけだ。

 

 ()()()()()()()()()()()がこの世界に現出した初めての瞬間だった。

 

 聖女が自らの意思で強く願った癒しは、今までの力を簡単に凌駕して神の領域へと足を掛けたのだ。

 

「治った……?」

 

「嘘だろう……あんな怪我が一瞬で……」

 

「おい、確か噂で……」

 

「……黒い髪、翡翠色の瞳、美しい(かんばせ)……刻印……」

 

 

 風が吹き、触らずとも分かる柔らかい髪は踊る。破れたスカートは簡単に舞い上がり、見えてはいけない白い布まで衆目に晒された。

 

 首元に巻かれた鎖は間違いなく刻印で、チラリと見える左肩にもその欠片が刻まれている。それどころか舞い上がったスカートの下には別の刻印が見えたのだ。真正面にいた小さな女の子は、下腹部にある紋様すら目に入った。

 

「聖女様……?」

 

 小さな女の子の呟きはザワザワとした波となり、やがては大きな歓声へと変わっていく。

 

 

 

「聖女だ……! 噂は本当だったんだ!」

 

「なんて綺麗な子なの……あんなに沢山の刻印を持つなんて……」

 

「名前は……カズキ? 聖女、黒神の聖女カズキ様だ!」

 

「聖女さまが降臨した! 救いが遣わされたんだ!!」

 

 

 

 爆発したような声の嵐が体を震わせて、漸くアスティア達は正気に戻された。

 

「大変だわ……どうしましょう……」

 

 小さな命が救われたのは嬉しいが、これでは取り返しのつかない事になる。ノルデ達は大声で怒鳴り、近付こうとするが歓声に打ち消されて思う様に動けない。

 

 助かった子供を涙を流して抱きしめた母親は、立ち上がったカズキを見て慌てて礼を言った。

 

「あ、あの……聖女様、本当にありがとうございます。えっと……この子の名前はミーハウ、ミーハウです。助けて頂いて……」

 

 感情が昂ぶった母親は、混乱しながらも何とか言葉を紡ごうと必死にカズキの姿を目に捉えようとする。しかしカズキはまるで母親が居ないかの様に顔を上げて、スタスタとエプロン姿の男に近づいて右手を出した。

 

「せ、聖女様……なん、なんでしょう……?」

 

 パン屋から見に来ていた男は、見上げてくる聖女の美しい目と美貌に魂魄を抜かれた様に返すしかない。

 

 やはり無言のままでパン屋の男の右手を指し示して、再び手のひらを見せる聖女。

 

「こ、これでしょうか?」

 

 右手に持ったままだったのパン切り包丁を聖女に渡す。

 

 受け取ったカズキはおもむろに包丁を股辺りのスカートに突き刺すと、下にビリビリと破き始める。只でさえ目の毒だった聖女の肌が露わになると、誰かが唾を飲み込む音がした。だがその邪な情動に男は後悔する事になる。

 

 千切り出した幾片かの切れ端を持ち、意識のない男の子に残る血を丁寧に優しく拭き始めた姿を見た者は、思わず両手を口に当てて声を上げるのを我慢するしかない。聖女の左手からはまだ血が滴っていたが、その血を拭き取るどころか子供に散らないようにする始末なのだ。

 

 さっきまで歓声を上げていた群衆も、側で見ていた母親も声を出す事も出来ずに聖女の横顔を静かに見詰めるしかなかった。

 

 

 

 

「カズキ……」

 

 アスティアもエリも、その尊い行いに衝撃を受けて動けない。

 

 お転婆だったり、我儘だったり、最近は人形の様に大人しかった少女だと思っていたのだ。それが只人(ただびと)でなく聖女なのだと受け止める事がまだ出来ないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日、王都リンスフィアに聖女が降臨した。

 

 

 噂は真実に変わり、人々は救いが齎されたと喜びの声を上げる。

 

 

 黒神の聖女が一人で歩き始めた最初の日でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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31.脱走

聖女は自らの意思で行動を開始します。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どけ! どいてくれ!」

 

 騒めく群衆の中でノルデの声が木霊した。

 

 少しずつだが円の中心に近づいていく。残りの3名の内もう一人も人波をかき分けて進んでいた。あと二人はアスティアの護衛に残っている。

 

 だが円の中心に近づくにつれ、密集度が上がり人も動かないため進まなくなった。皆が降臨した聖女を陶酔した目で見ており、祈りを捧げている者も多いのだ。

 

 

 血で汚れたワンピースの切れ端を捨て、子供の口周りを別の切れ端で拭いている。先程から母親が遠慮がちに断るが、全く手は止まらない。お礼を言ってもどう言葉をかけても反応すらしない聖女に周りも何かがおかしいと気付き始めた。

 

「もしかして耳が聞こえない……?」

 

 実際は聞こえないのではなく、意味を理解する事が出来ないのだがそれを知る者は周りにはいない。離れた場所にいるアスティア達なら違っただろうが、話が届く様な距離ではないのだから。

 

「人を簡単に癒すのに、自分は治せないのか……?」

 

 誰かが呟いた言葉の意味を理解すると、皆はその余りの顧みない献身に慄く以外出来ない。

 

 やっと理解した母親は、そっと聖女の手を取った。そうして、なに?という顔をした少女を見て心からの笑みがこぼれた。

 

「聖女様、本当にありがとうございます。あとはわたくしがやりますから、どうか御手を癒して下さい」

 

 聞こえないならと、ゆっくりと話した言葉は残念ながら届かない。だが大凡は拭き取り満足したのか、今度は意識のない子供の頭を撫で始める。

 

「聖女様……どなたか羽織る物をお願い出来ませんか? 代金はお支払いしますから」

 

「代金なんて馬鹿な事を言うんじゃない。ほら、店の新品だ」

 

 服屋だろう群衆の一人が差し出した白い上着を受け取り、カズキの両肩にかけられた。真っ白な服はカズキの刻印を隠したが、その神秘性は失われたりしない。そうすると次々と人々がカズキに群がり、我先にと貢物を捧げたした。

 

 

 

「聖女様、包帯です。左手に巻いて下さい」

 

「ほら、暖かいお湯だよ。綺麗な顔にも血が付いてるじゃないか、早く拭きなされ」

 

「ウ、ウチのパンです。食べて下さい!」

 

「この果物は最高なんですよ! どうぞ」

 

 

 人から見たらキョトンとした顔に見えるだろう。だが何となく意味が分かるのか、おずおずと受け取る聖女に益々盛り上がり始めた。

 

「見ろ!俺んちのパンだぞ!」

 

 受け取って貰えたパン屋は、先程包丁を渡した男だ。商売道具を取られた事など忘れた様に嬉々としている。

 

「う、うー、んん……」

 

 意識のなかった男の子が目を覚ました事で、周りは再度歓声を上げた。 

 

「ミーハウ!大丈夫? 痛い所はない?」

 

 起きたら人だらけで、歓声まで上がっているのだ。ミーハウは目を白黒させてキョロキョロと周りを見渡して、すぐ近くに物語の中の様な美しい女性がいる事に気付いてポカンと口を開いた。

 

「まあ、そりゃそうなるわな」

 

 先程服を持ってきた親父が納得の声を上げる。周りもウンウンと頷くばかりだ。

 

 もしここに、アスト達がいてカズキの顔を見たならば驚きと歓喜の声を上げるか、顔を赤くして黙り込んだだろう。

 

 

 カズキに柔らかな笑みが溢れていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ました子供を確認したカズキは再び立ち上がって周りに視線を配った。

 

 先程までの柔らかい微笑はなりを潜め、いや強張った。見覚えのある男達が必死の形相で人垣を掻き分けて、こちらを目指しているのが見えたからだ。ノルデ達はただ聖女を護りたいが為に必死なのだが、カズキには自分を捕らえに来た国の役人にしか見えない。遠くには乗っていた馬車もまだある。

 

 カズキはパンを口に咥えると、貰った包帯を乱暴にぐるぐると左手に巻く。さらに地面に落ちているパン切り包丁を拾い上げると先程の子供の様にキョロキョロと周りを見渡し始めた。

 

 様子の変わった聖女にパン屋も服屋も怪訝な顔をしたが、次の瞬間には驚きの顔に変わった。

 

 カズキはおもむろに走り出し、先程飛び降りて来た店先に向かったのだ。普通なら人波に押されて進む事すら出来ないだろうが、聖女たるカズキの行動を止めるような者はここにはいなかった。

 

 人垣はカズキの進行方向に見事に割れ、店まで道を開いた。

 

 焦ったのはノルデ達だ。未だに中心にも達していない自分達を置いて、カズキが反対方向に走り出したのだから当然だろう。

 

「おい!止めてくれ!」

 

 アストやアスティアが叫んだなら変化もあっただろうが、若い騎士一人の言葉にはそれ程の力は無い。

 

 カズキは壁に向かって全速力で走り、周りがぶつかるのではと心配した時には店の壁を一度蹴って更に高い所まで伸び上がった。だが勿論屋根までは届かない、と思ったら振り上げた包丁をガツンと突き刺し、そこを支点にして身体を持ち上げ屋根に手をかけたのだ。包丁は根元から折れて突き刺さった刃だけが残ったが、カズキの身体は屋根の上に到達していた。

 

 羽織っていた服は残念ながら地面に落ちたが、下から見ていた男共には別のものが見えて、ニヤつきそうになる顔を必死に抑えている。

 

 そこから更に建物の屋根まで上がったカズキは、少しだけ振り返って馬車にいるアスティアを見た。

 

 翡翠色の眼は何を思うのか、誰にも分からない。

 

 ジッとアスティアを見たあと、聖女の姿は屋根の向こう側に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ! 待って、行かないで!」

 

 声が届いたところで意味など無いが、それでも耐えられずにアスティアは声を張り上げた。

 

「カズキ!!」

 

 カズキが消えた屋根に向かって手を伸ばしたまま、涙が溢れて来てアスティアは崩れ落ちる。

 

「カズキ……どうして……?」

 

 両手で顔を覆っても我慢出来ない嗚咽がこぼれた。

 

 心から愛しているのに……初めて出来た妹にアスティアは翻弄されるばかりだ。

 

「……アスティア様、早く知らせないと……」

 

 エリも衝撃から立ち直ったとは言えないが、何とか言葉を絞り出した。

 

「ノルデ様にはカズキをそのまま探すように伝えて下さいますか? 私達は城に戻らないと……」

 

 黙ったままのアスティアに代わり、エリが近くの騎士にお願いをする。周辺がアスティアに気付き始めたので、エリはここを離れる事にした。

 

「わかりました、私が城まで共に行きましょう。おい、ノルデに合流してカズキ様を探すんだ」

 

「は!」

 

 もう一人の騎士に指示を出すと、その騎士は御者に話をつけに行った。

 

「アスティア様、城に戻りましょう?」

 

 嗚咽が止まらないアスティアの背中をさすりながら、エリもカズキの消えた屋根を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 城に帰り着いたアスティアを待っていたのは、怒りの形相を隠しもしないクインと、心配そうなアストだった。

 

 だがこの世の終わりという顔をしたアスティアがエリに支えられて馬車から降りるのを見れば、怒りは消えて戸惑いの表情に変わった。

 

「カズキは……?」

 

 アストの問いにアスティアは肩を揺らして、再び泣き始める。クインもとりあえずはアスティアを支えるのを手伝うしかない。

 

「いなくなりました……申し訳ありません」

 

 答えられないアスティアに代わり、エリが返事をする。

 

「いなくなった……? どういう事なんだ!」

 

「殿下、落ち着いて下さい」

 

 ビクリと青白い顔をうつむかせたエリを見て、クインが諌める。アストはまだ何かを言いかけたが、唇を噛んで我慢した。

 

「エリ、落ち着いてもう一度教えてくれる?」

 

 クインの囁きにボソボソと話し始めるエリの言葉に、二人は焦りを隠せなくなる。

 

「自分から逃げた? 誰かに連れ去られたのではないのね?」

 

「……はい。姿を消す前にはこちらを、アスティア様をジッと見てました」

 

「……私が悪いの……ちゃんと皆んなに相談すれば良かった……ごめんなさい」

 

 アスティアの心からの懺悔は、アスト達に届いて暫しの沈黙を生む。

 

「意識もしっかりとして、カズキ自身の意思で行動しているなら、何か目的があるのかしら?」

 

 クインは連れ去られた訳ではない事に僅かだけ安堵して思い付いた事を呟いた。

 

「カズキがしたい事か……聖女として何かの使命を知ったとしたら、誰かを救いに行ったのかもしれない」

 

 勿論カズキは捕まりたくないから逃げただけだ。崇高な使命など存在しないし、今頃はパンでも齧りながら次の行き先を考えているだろう。

 

「エリ。教えて欲しいのだけど、その子供を癒す時に手をかざすのではなく、抱き締めたの?」

 

「……? はい、抱き締めたと思ったら白い光が溢れて一瞬で治ってしまいました」

 

「一瞬で?」

 

 先程聞いた子供の怪我は、アストが負った傷に匹敵する重症だろう。それを一瞬で治癒?

 

 顔を見合わせたアストとクインは、何かが食い違う事に戸惑ってしまう。

 

「……今はそれどころではないか……カズキを探そう。自分の意思だとしても、誰か悪意を持つ者に捕まらないとは限らないからな」

 

 

 

 

 

 

 

 直ぐに見つかるだろうと楽観していたアスト達だが、この日からカズキの姿は消える事となる。

 

 それから実に何日もカズキの続報は入らず、暫くはリンディア家に暗い影を落とす。

 

 だがカズキ発見の報が届いた時、聖女として使命を果たしに行っていたとアスト達は知るのだ。それが聖女の意思かは別として。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それと、カズキはリンスフィアに少しの変化をもたらした。

 

 

 カズキが咥えたパンは、聖女のお気に入りとして王都の名物パンになり、白い羽織りは聖衣として店先に飾られて、服屋は名所と化した。

 

 助けられた子供、ミーハウの名は流行りの名前となり名付け親がこぞって選ぶ事になる。カズキの名は畏れ多くて誰一人選んだりしない。

 

 壁に刺さったままのパン切り包丁の刃は、丁寧に飾られて新たな看板に変わった。

 

 事故のあった通りは、非公式ながら「聖女通り」と名前を変えて庶民の間で定着する事になる。

 

 

 

 

 久しぶりの明るい話題に、リンスフィアは暫らくの間沸き立つ事となった。

 

 黒神の聖女の名は全ての民の知るところとなり、その慈愛と癒しの力は多くの人々が語り継ぐだろう。

 

 これがリンスフィアに初めて聖女が降臨した日の出来事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次話、カズキにとって重要な人物が再登場。作者的にお気に入りのキャラです。


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32.マファルダスト①

全体の中盤に差し掛かりました。今話よりカズキに大きな影響を与えるキャラが再登場します。暫くはほのぼのする予定。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳辺りで切り揃えた赤毛が少しだけ伸びて、鬱陶しいのか乱暴に指先で掻き上げた。その時袖が捲れて見えた上腕は筋肉質で力強い印象を与える。だが、再び組んだ両腕に載せられた二つの柔らかな膨らみは、その人が男性ではない事を嫌でも意識させた。

 

 歳の頃は30位だろうか、凛とした立姿は姐御や姐さんと呼ばれるのが相応しい出で立ちだ。服装は男性が着るような濃い緑の上着とパンツだが、それが反対にその美しさを際立たせているように見える。

 

 その女性が持つ黄金色の瞳が見詰めるのは、多くの木樽。それぞれが焼き締められていて分厚く、頑丈であるのが触らなくても分かる樽達だ。

 

 幾人かの男達が底の縁周りを地面で転がしながら、視線の更に先の馬車に持ち上げて次々と載せていく。空とはいえ、かなりの重量であろう樽を簡単に載せていく様は、男達の身体が如何に鍛えられたものなのかを物語る。

 

 

「よく間に合ったね。流石だよ」

 

「ははは、ロザリー様の頼みとあらば魔獣にも打ち勝って見せましょうぞ!」

 

「はあ……ちょっと褒めたらこれだよ。なら代金は要らないね?」

 

「おっと、これはやられましたな! 代金は頂かないと家族が路頭に迷ってしまいますから、心苦しいですが受け取りましょう」

 

 禿げ上がった頭をペチペチと叩きながら、商人の男は大声を張り上げて笑った。

 

「ロザリー様、今夜一杯どうですか? お互い更に親密になる時かと……いかがでしょう?」

 

「あんたも懲りないね……商売相手を口説いてんじゃないよ、死んだ奥さんに申し訳なくないのかい?」

 

 何時もの冗談と冷めた流し目で冷やかすロザリーだが、商人の男は内心本気なんだけど……とツルッとした頭頂を撫でるしかない。

 

「残念ですなぁ……出発は明日ですかな?」

 

「いや、今夜立つよ。最初に西に行くからね、今夜は夜通し進むのさ」

 

「そうですか……マファルダストの御武運と御無事を白神に祈っておきましょう」

 

「ありがとさん! 最近噂の聖女様がお守り下さるさ……ははは! じゃあまた頼むよ!」

 

 そう言うとロザリーは、馬車に乗り込み男達に指示しながらゆっくりと去って行った。

 

 リンスフィアを支えるロザリーの一行を見送った商人は、心から無事を祈った。聖女など只の迷信だろうが、片思いの女性を守ってくれるなら何でもいい。

 

 馬車が角を曲がって見えなくなるまで商人はその場から動かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 樽を手に入れたロザリーは馬車を操りながら隣に座る男に声を掛けた。

 

「フェイ、他に用立てる物はなかったかい?」

 

「そうですね……姐さん、南部へ行くならククの葉が手に入るかもしれません。革袋は余計に持って行きますか?」

 

「ああ、南部なら確かにそうだね……イオアンの爺様がいたから任せっきりだったね……」

 

 ロザリーより小柄なフェイと呼ばれた男は、マファルダストの副隊長で40を超えるベテランの森人だ。粗野な男が多い森人の中では珍しい理知的なフェイは、隊商でも頭脳労働を請け負っていた。

 

「イオアンさん程の方でも森にのまれるとは、残念でなりません」

 

「爺様はいつも言ってたよ、森で死ぬってね。私達も死ぬなら森がお似合いだよ」

 

「姐さんは森で死んではいけません。ルーやフィオナちゃんとヴァルハラで会えませんよ」

 

「……はいはい、わかったよ。アンタが居ると調子が狂っちまうね」

 

「先代に頼まれましたから、嫌でも側にいますよ」

 

 溜息をついたロザリーをフェイは優しく見守っている。ロザリーの父から頼まれた事ではあるが、フェイにとってロザリーはリーダーであると同時に妹や娘みたいなものだ。

 

 家族のいないフェイを鍛えてくれたロザリーの一家には返しきれない恩がある。小さな頃から見てきたロザリーを無残に死なせたりはさせない……森人にとって死は身近なものだが、それは心の中でいつも思う事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 隊商マファルダストは30人程の森人の集団だ。

 

 昔は隊商を、街から街へ移動しつつ物を売り買いする商売人の事を指した。しかし森に囲まれた国々ではその様な商売は自殺行為でしかなく、時代と共にその意味が変化していった。大国であるリンスフィアも例外ではなく、多くの隊商が活動している。

 

 隊商とは森人が寄り集まり、採集や狩猟を行う集団と集めた物資を運搬する集団で組織される。マファルダストは中規模ながらリンスフィア最高の隊商として知られていた。

 

 

 

 

 革袋を多めに用意したロザリー達は、外円部大門の側にある宿営地に馬車を止めた。宿営地と言ってもまだ城壁内の街中で、隊商相手の商売人や出店で賑わっている。一括で借り上げている元宿屋にロザリー達が入ると、そこはガヤガヤと騒がしい食堂の様だった。

 

「姐さんおかえりなさい!」

 

「フェイ! これを見てくれ!」

 

 皆が思い思いに食事をしたりしているが、誰一人として酒を飲む者はいない。今夜一月ぶりにリンスフィアを出て森へ向かうのだ。程よい緊張感が熱を持ち、笑顔の中にも確固たる決意が見える。

 

 フェイはロザリーから離れて渡された資料に目を通している様だ。

 

 皆に挨拶しながら奥の部屋に向かうロザリーに若い男が声を掛けてきた。

 

「ロザリーの姐さん! 今夜の隊商には俺を連れてってくれますよね?」

 

 20歳にも満たないだろう若い男は、自分が全能であるかの様な自信に溢れて眩しいくらいだった。小さな器では支えられない力がこぼれるように、キラキラと輝いている。 

 

 艶のある長めの金髪と白い歯までもがキラッとしたのを見たロザリーはうんざりしてこめかみを指で押さえた。

 

「リンド、アンタは運送の手伝いだと言ってるだろう。ナマ言ってないで馬車に食糧を運びな」

 

「姐さん、俺なら大丈夫ですから! 俺の剣の腕を知ってるでしょう? 狼程度なら一撫でしたら終わりですよ!?」

 

 そんな事聞いてないし、何が大丈夫なのかさっぱりわからない……ロザリーは目の前のキラキラしている物体から目を離そうとしたら回り込んで来たので思わずぶん殴りそうになった。

 

「姐さん、落ち着いて」

 

 すぐ後ろにいたジャービエルが珍しく口を開いた。

 

「……アンタが喋るなんて、何かあったのかい?」

 

 女性にしては背の高いロザリーも流石にジャービエルを見上げるしかない。普段から無口な男だが、今回は何かあったのだろうか? 

 

 疑問符を浮かべたロザリーにジャービエルの珍しい二言目が耳に届いた。

 

「リンドは中々頑張ってる。連れて行ってみよう」

 

「……ジャービエル……アンタ負けたね?」

 

「カード、リンド強かった」

 

 つまり賭け事に負けて、リンドの味方をしているという事だ。

 

「……はぁ……もう好きにしな! 面倒はアンタが見るんだよ!」

 

 大きな顔に指を突き付けたロザリーは、溜息をついて自室に向かうしかない。

 

「よっしゃー!! 姐さん、俺なら一人でも大丈夫ですから!」

 

 だから何が大丈夫なんだ……頭痛がしてきたロザリーはぐったりして部屋の扉をパタンと閉めた。心なしか扉も元気のない音しか立ててくれないのが虚しい。

 

 

 

 

 

 部屋の鍵を閉めたロザリーはもう一度だけ溜息をつき、仮眠を取る為にベッドへ腰掛けた。 

 

「まあ、いつかは連れて行かなきゃならないからね……」

 

 無理矢理自分を納得させたロザリーは、厚手のジャケットを脱いで近くにある椅子に放り投げる。さっきまで五月蝿かったキラキラ光る物体のせいか、手元が狂って机にあったペンダント立てにジャケットが当たった。 

 

 パタンと倒れたそれに掛けてあったペンダントが机に転がり、カチャンと音を立てる。 ロザリーは慌ててペンダントが壊れてないか確かめ、傷も付いてない事にホッとした。

 

 そのペンダントは酷く不格好で、土を塗り固めた様な粘土で人の顔を形どっている。塗料で頭の部分を赤く塗られた顔はおそらくロザリーだろう。それを優しく指で撫でたロザリーはジャケットを脱いだ事で大きく迫り出した胸に抱きしめた。

 

「フィオナ……ママを許してね……」

 

 ロザリーは仮眠を取るのも忘れ暫くはペンダントを抱き締めて、身動きすらせずに愛した娘を思う。

 

 遮光性の高いカーテンは、ロザリーに光を届けずに流れた涙を光らせたりはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 階段を上がり扉を閉めたロザリーを見送ったリンドは、喜びを噛み締めながら軽口を叩き始めた。

 

「よしっ、やっと森へ行けるな! 剣も新調したし、俺も一人の森人の男だ!」

 

 周りのベテラン達は、俺も若い時はそうだったとか、あまり調子に乗ると怪我するぞ、などやはり自分が若い時に言われた言葉をリンドに届けた。しかし届けると同時にこの頃はどうせまともには聞かないと分かってもいる。

 

 ところが若さは時に予想を覆す喜びや驚きをもたらすが、それとは逆に間違いを犯すものだ。

 

「姐さんてあんなに美人なのに、男はいないんですかねー?」

 

 悪気は無くとも、言葉には時に人を傷付ける力が働く。話を終えたフェイがそれを耳にしてリンドの頭を平手で引っ叩いた。

 

「痛えっ、なんだよ! あっ……フェイさん」

 

「くだらん事を言うんじゃない、リンド」

 

「なんだよ! 只の軽い冗談ですよ!?」

 

 フェイは冗談では済まない軽口もある事を自分が伝えるべきが悩んだが、周りを見渡しても自らが言うしかないと切り出した。

 

「リンド、そこに座れ」

 

 普段はどちらかと言えば穏やかなフェイの厳しい声に慌てて席に着く。

 

「いいか、これから一緒に回るならお前も餓鬼じゃ済まない。一人の男として教えておいてやる」

 

「森人は騎士と並び死ぬ事が多い。それはお前もわかるだろう。森人達は身近な人の死を、時に泣き、笑い、悼む。だがそれは本人しか許されない事で、周りはただ見守って肩を貸すぐらいしか出来ない。恋や愛、男女や家族の話はおいそれとするな。わかったか?」

 

 フェイの淡々とした言葉は重く、リンドにも何となく理解は出来た。

 

「……姐さんには昔、夫と娘がいた。()()んだ、わかるだろう? 旦那さんの名はルー、優しい良い男だったよ。娘はフィオナ、姐さんと同じ赤毛でお転婆な子だった。フィオナが4歳の時に二人とも死んだ、たった8年前の事だ。もし生きてたらフィオナは12歳、可愛い盛りだろう。姐さんはそれから直ぐに森人となった。若い女が森人になる事がどれ程大変か想像はつくか? そして今俺たちマファルダストを率いている。俺たちは姐さんに惚れてここにいるが、それは愛や恋じゃない」

 

 わかるか? ……フェイの真剣な眼差しはリンドの心臓を煩くさせたが、頷く以外に出来る事などなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンスフィアの夜を誘う夕焼けが街を紅く染め始めて、夕暮れの薄闇が静かに降りて来た。

 

 宿営地にも同じ薄闇が訪れて、ポツポツと松明やランプに火が灯り始める。ロザリー達は眠りに落ち、マファルダストの皆は一部を除いて森への旅立ちを静かに待っている。

 

 

 

 樽をギッシリと載せた馬車の側に、小さな人影が見える。薄闇に隠れる装いは濃い群青色か。松明に一瞬照らされたその装いは、あちこちが裂けたり千切れたりしている。時折覗く素肌は妙に白く見えて、艶かしい。女性、いや少女だろうか? 起伏のある身体は大人を感じさせるが、どこか幼さを見せる動きに見たものがいれば視線を奪われるかもしれない。

 

 殆どの暗闇に覆われた宿営地の黒に溶け込むような漆黒は肩まで届く髪で、大して強くもない風にも揺られるそれはまるでシルクの細糸のようだ。

 

 髪を揺らしながらキョロキョロと周辺を警戒した人影は、まるで獣の様に軽やかに馬車に乗り込み、体を隠した後再び外を警戒して小さな顔をわずかに覗かせた。

 

 離れたところを歩く男が持ったランプの光が一瞬だけ顔を照らして、翡翠色の瞳を光らせたが誰も気付くことは無かった。

 

 スッと馬車の奥に消えた小さな影は、もう人の目には映らないだろう。

 

 

 

 

 緩やかな夜の時間が流れている。

 

 マファルダストの旅はまだ始まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




再登場のロザリーは重要な役割を担うキャラです。注目して貰えると嬉しいです。


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33.マファルダスト②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 扉が叩かれる音でロザリーは目を覚ました。

 

 何か夢を見ていた気がするが、ぼやけた意識にはその記憶は残っていないようだ。

 

「姐さん、そろそろ時間です」

 

 扉の向こうから落ち着いた声が響く。

 

「ああ……フェイ、ありがとう。直ぐに行くよ」

 

 起き上がったロザリーは机にあるペンダントを見て、その足で椅子に掛けてあるジャケットを手に取った。

 

 少しだけ汗臭い気がしたロザリーは手にしたジャケットをベッドに投げて、洗面室にある水桶に手拭いを漬ける。厚手のシャツとブラを外して上半身を拭く姿が鏡に映ったが、顔に涙の跡が見えて苦い葉を噛んだ様な顔をする。

 

 かなり大きいと言っていい胸は、重い上に汗も溜まりやすく好きではない。フィオナに乳を飲ませていた頃は大きい程沢山飲ませてあげられそうと嬉しかったものだが……今は邪魔と思っている。片胸ずつ持ち上げて簡単に拭くと再び衣服を整え、扉を開けて階段を降りた。

 

 

 

 

 

 

 広間兼食堂では、それぞれが装備を整理したり確認したりしている。水などは今から積み込む様だ。

 

 ロザリーも棚に整理された自身の装備を引っ張り出して最後の確認を始める。

 

 殆どが師と言っていいイオアンから教わり揃えている品々だ。

 

 木を削り出したカップ、アルコールランプ、固く縒り合わせたロープ数本、テント代わりにもなる大判のマント、大小ナイフを纏めたベルト、小剣、手斧、防寒着各種、革手袋、何種類かの布類、後で水を入れる革水筒、その他火付け石等の小物、それらを纏める背負袋に効率良く詰め込んでいく。

 

 個人の森人の場合は他にも食糧や着替えもいるが、隊商の場合は大型の馬車が追随するため、都度入れ替えたり補充出来る。

 

 一通り再度の確認を終えると、他の森人達を見回す。

 

 ロザリーの目に昼に騒いでいたリンドの姿が目に入り声を掛けに行った。

 

「リンド、用意は大丈夫かい?」

 

「あ、姐さん、大丈夫です。さっきフェイさんにも確認して貰いましたし、自慢の剣もバッチリです!」

 

 かなり大振りと言っていい剣は新品で、装飾の美しい鞘に収まっている。思わずフェイを見たロザリーだが、首を振る彼に放って置く事にする。

 

 森人は騎士と違い、まさに森の深部に入るのだ。大きい剣は重量と相まって邪魔にしかならない。振り回す場所すら殆どなく、魔獣には全く意味がない。近距離で魔獣に遭遇すれば、逃げるか死ぬかだ。まあ、道中に出会う狼などには多少なりとも役に立つだろう。使えなくて森に放り投げる姿さえ思い浮かぶが、これも勉強か……ロザリーは生温かい目ではしゃぐ若者を見る。

 

 しかし昼に比べると少し大人しく感じるが、まあ悪い事じゃないか、とそれも捨て置いた。

 

 再び見回して全員の用意が終わっているのを確認したロザリーは、元宿屋らしく一段高いステージに立った。森の脅威もなく交易が活発な時代は、このステージも本来の使い方をされていたのだろう。考えても仕方ない事だが、ふと旅人達の姿を幻視する時がある。

 

「よし、皆準備はいいね!今回は一月程の森巡りだよ。西では狩猟組に思い切り働いて貰うから、楽しみにしてな。この季節なら穴蔵から出た獲物が面白い程いるだろうさ、ただ狼達も狙ってるから気合い入れていきな!」

 

「おう!!」「おっしゃー!」「新調した弓が唸るぜ!」「俺の尻に間違って射るなよ!」「ああ!? 誰がお前の汚ねえケツなんて狙うかよ!」

 

「うるせえ! 全く真面目な話も出来ないのかね? 誰だよコイツらのボスは?」

 

「「いや、あんただから!!」」

 

 毎度のお約束を終えるとロザリーは、空気を変えて静かに話を始めた。

 

「いいかい、今回は南にも行く。全員知っての通りイオアンの爺様もやられたかもしれない森だ。ククの葉も霊芝も取り放題だが絶対に油断するんじゃないよ。余裕があれば爺様達の痕跡も探す、これはアスト殿下からも頼まれてるからね」

 

「「おう!!」」

 

「さて、いつもの事だが確認だ」

 

 ロザリーは全員を見渡して、初めてマファルダストの本業に着いてくるリンドに視線を送る。

 

「魔獣に遭ったら採取した全て、背負袋も装備も全部だよ? 全部捨てて逃げるんだ。戸惑う事は許さない、守れないなら私がこの剣で刺す。そして逃げ切れないと知ったら大声で皆に知らせて、時間を稼ぎな」

 

 最後だ……そう呟いてロザリーは一度だけ目を瞑りもう一度黄金色の眼を開き続ける。

 

「誰が魔獣に襲われても助けには入るな、勿論わたしも例外じゃない。振り向かずに走る、それは見捨てるんじゃない。生きた証をリンスフィアに連れ帰るんだよ。帰ったら家族や知り合いに言って聞かせる仕事が待ってるからね」

 

 今度は声を誰一人出さず、全員が頷きそれを自らに課す。リンドは少し青白い顔をしてはいるが、目を逸らす事なくしっかりと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マファルダストの面々が出発の途に着いた頃、リンディア城ではカーディルとアスト、クインが顔を合わせていた。カーディル親子の手にはクインが纏めたノートが手渡されている。相変わらずの見事な筆致を褒めたくもなるが、内容は何一つ面白くはない。

 

 

「陛下、恐らく間違いないと」

 

「……ああ、そうだな」

 

 カーディルは何かを悟り、そして落胆した。

 

「ユーニードがカズキを利用する、か」

 

「間違いないのか……? ユーニードは長年に渡ってリンディアを支えてくれた忠臣なんだぞ……?」

 

 アストは信じたくないのだろう。幼少の頃は勉学の世話をしてくれた教師でもあったのだ。アストにとっては小さな頃から知る忠臣の中の忠臣、それがユーニードなのだから。

 

「殿下、まだ証拠がある訳ではありません。状況だけはそれを指し示していますが、直接関与した何かを見つけたとは言えないのです」

 

「……ユーニードが変わったのは気付いていた。息子のアランが魔獣にやられたのが2年前か……それでもユーニードなら立ち直ってくれると信じていたが、マリギ奪還のアレは……」

 

「カズキが拐われた日の足取り、その前後を調べるよう情報部へ指示頂けますか?」

 

「ああ、わかっている。アスト、カズキはまだ見つかっていないのだな?」

 

「はい、未だに報告は受けていません。何より大々的に探す訳にはいきません、主戦派にカズキの足取りを追わせる事になりかねませんから」

 

 ふむ、そう呟いて顎髭を触るカーディルは暫し黙考した。

 

「城下の噂を打ち消す事が出来れば良かったが、もはや遅きに失したか……ましてや今日の出来事はそれを決定づけてしまったな」

 

「陛下、一つ提案があります」

 

 クインは相談役として、またカズキを愛する者の一人としてカーディルに考えを伝える。

 

「言ってくれ」

 

 少しだけ頷いて、アストを見た後言葉を紡ぐ。

 

「噂を上書きしましょう。今流れて……意図的に流されている噂は、魔獣との決戦を促すものです。カズキは戦う力を持つのではなく、あくまで怪我や傷付いた心を癒す聖女。戦いを憂いている彼女は日々人々を想っていると。何より……それが真実なのですから」

 

「隠さずに広く知らせるか……」

 

「今日のカズキの行動はそれを裏付けてくれます。偶然だと思いますが、それは主戦派にとっても予想外だったのは間違いありません」

 

「確かに……彼等はカズキをいかに引っ張り出すかに苦心していただろうからな。カズキの意思が分からないのに決めたくはないが……」

 

 カズキの存在を勝手に決めてしまう事に、今でも抵抗があった。だが、結局はカズキを守る事も出来ずに傷付けてしまった。あの地下室で見た惨状はアストに暗い影を落としている。

 

「……カズキは一人の少女ではいられなくなります。アスティア様の妹ではなく、聖女として歩き始めるでしょう。しかし主戦派の動きを牽制し、時間を稼ぐ必要があります」

 

 稼いだ時間で主戦派と決着をつけろとクインは言っているのだ。 

 

「それしかないか……ユーニードが関わっているかは別として、明らかな作為を感じる以上止めるしかない。神々の加護を受けた聖女の行動を、只人(ただびと)の悪意で曲げるわけにはいかないからな。そして、我らが正しいかは神々が決めて下さるだろう」

 

 

 

 カーディルの決断により主戦派との戦いは明確になった。リンディアに長年燻っていた暗闇の火を、カズキと言う存在が表へと炙り出す事になる。

 

 

 全ては後の世が証明するだろう、カーディル達の想いが正しかったかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロザリーはフェイと道中に回る村々を確認していた。暗闇の中ランプに照らされた地図は絶えず更新され、少しずつ人の生きる場所が減少しているのを如実に表している。このままなら遠くない未来、人は姿を消すだろう。森の周辺には街も村も存在しない。まだ森にのまれてはいなくても、いつ魔獣が現れるともしれない場所には住めないのは当たり前だ。

 

 中継地となる村々は行程の半分程度でなくなり、後は野営を繰り返すことになる。

 

「姐さん、西部はまだ良いですが南部は苦労するでしょう」

 

「ああ、南部と一言で言っても広いからね。イオアンの爺様は何処を廻ってたかね?」

 

「ご存知の通りココとココ、それとこちらもです」

 

 地図を指し示すフェイの指を見ながらロザリーは決める。

 

「爺様なら……多分ココだね、間違いないよ」

 

「何故わかるんです?」

 

「何処に何を取りに行くかは森人にとって生命線だけど、爺様は哲学を持っていたんだ。今の時期は樹液が不足するだろう?それは勿論より深部に行かなければならない季節だからだけど、それを座して待つのは良しとしない頑固者だがらね……」

 

 ロザリーの目には悲しみと、イオアンへの誇りが見えてフェイは一瞬言葉に詰まった。

 

「……姐さんがそう言うなら間違いないでしょう。では行程に加えます」

 

「ああ、頼むよ」

 

 馬車の周りではマファルダストの皆が最後の荷造りをしていた。大筋の行程は決めてあったが、細かな場所の指定はギリギリになる。天候や魔獣の動向、それこそ小さな噂話すら重要なのだ。数日前に決めても変更はザラで、マファルダストは出発日にロザリーが決める事にしていた。

 

「よし! 準備はいいね!」

 

 宿営地には森人達の家族も集まりまるで祭りの様だが、もしかしたら生きた姿を見るのは最期かもしれない……それを知る皆に浮ついた空気などはない。

 

 心配な気持ちと誇りをむねにいだき見送りに来ている。いつも見る風景だが、その荘厳な美が陰る事などあるはずが無い。

 

 人々はただ懸命に生きている、その美しさに神々は加護を与えるのだから。

 

 

 

 

 

 マファルダストは今、リンスフィアを旅立つ。

 

 その懐に小さな黒髪の少女が抱かれていたが、それが何を生むのかまだ誰もわからない。

 

 馬の嗎と車輪が地面を蹴る音は、リンスフィアからゆっくりと離れていった。

 

 

 

 

 

 

 



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34.マファルダスト③

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 銀の月が柔らかな光を大地に届けていた。

 

 カズキのいた世界と違って大気は汚染されていない為に、星々は瞬く事さえなく夜空を彩り続ける。空には薄く雲が流れ空気は澄んでいて、月光のカーテンがまるで風に揺らめいているようだ。

 

 一瞬時が止まったかと錯覚するが、走る道には轍が幾本も走り、馬車に振動を伝えて時が流れているのを感じさせた。

 

 

 

 マファルダストが夜にリンスフィアを発ったのは、次の目的地の村との距離のためだった。朝か昼に発つと真夜中に村に入ることになる。それを避けるため丸一日と半分ほど走り、それで朝には最初の村に着く。

 

 道中に短い休憩は入れたが、この夜が明ける頃には村が見えるだろう。周辺には麦畑が一面に広がり、風と月光を受けてサワサワと音を届けていた。カズキが齧ったパンの原料はこの畑で生まれたが、本人は見ても分からないし興味ないかもしれない。

 

 

「リンド、村に着いたらカード勝負」

 

 ジャービエルは馬上で器用にカードを配るフリをする。定番の酒を賭けてと思ったのだろう、更に呑む格好まで披露した。言葉にした方が早いと思うがそれがジャービエルだった。

 

「いいですけど、酒ってあるんですか?」

 

「姐さんが馬車に2、3本忍ばせてる」

 

 まるで秘密の様な表現だが、実際はちがう。

 

 森が近づくと流石に深酒はしないが、旅は辛く楽しみの一つや二つは必要だった。ちなみに何本とは小さめの樽で換算されている。 空にした樽は特定の薬草を収めるのに役にも立つ。森人の知恵の一つで、僅かに残る酒精が薬草の劣化を防ぐのだ。 

 

 配られる酒は均等で、賭けの対象にする定番だった。

 

「へー……ならやりましょう!」

 

 リンドは内心勝ったと思っている。無口なジャービエルは喋らない分表情が豊かで手を簡単に読めるし、彼はそれに気付いてない。

 

 今回は楽しくなりそうと、リンドはほくそ笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 月明かりは少しずつ薄れて、なだらかな丘の稜線が僅かに赤らみ輝き始めた。遠目にも数軒の家屋が並ぶ小さな村が見えて、リンドは少しだけ興奮してくる。リンスフィアを遠く離れるのが初めてのリンドにとっては、これも冒険みたいなものだった。

 

 見えてからが長いかと思ったが、あっさりと到着した村は思いの外小さい。

 

「ジャービエルさん、何処に泊まるんですか?」

 

「此処には泊まらない、買い物したら直ぐに出発」

 

「えー? カードはどうするんですか?」

 

「昼には出るから、それまで勝負。景品は夜」

 

 ガックリしたリンドはせめて何か記念に買い物でもしようと、周りを見渡したが商店らしき姿は無かった。この村は麦を育てる数人が住む農家の集まりだから当然だろう。ほとんどが自給自足で、マファルダストと物々交換するのも決まった行程だった。それは隊商に残された本来の仕事なのかもしれない。

 

 先触れの届いている村に姿を見せるのは、その隊商が全滅していない事を報せる意味もあるがジャービエルはわざわざ伝えたりしない。

 

 

 昼前にはジャービエルが絶望感を漂わせる顔でトボトボと馬に向かう姿があったが、マファルダストの森人達はまたかと声を掛けたりはしなかった。ちなみにジャービエルの弱点を誰も教えたりしないようだ。

 

 短い時間で村の滞在は終わったが、リンドが馬上の人となったとき村人達が見送りに来た事が印象に残った。旅人気分を味わえて機嫌は上々だ。

 

「いやあ、良い人ばかりですね!」

 

 ジャービエルの暗い顔も気にせずリンドは明るい声を上げる。

 

「……今夜の楽しみが無くなった」

 

 流石に可哀想になってきたリンドは夜は少しだけ負けて上げようと決める。あくまで少しだけ。

 

「夜にもうひと勝負しますか?」

 

 コクンと頷く大男は全く可愛くないが、可哀想なのは良くわかった。

 

「今夜は野営地でしたよね? いやあワクワクする!」

 

 リンドは持ち前の気性で全部が前向きだった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「丁度いい時間だね、皆お疲れさん! 野営組は準備を始めておくれ!」

 

 ロザリーの声は夕方の空気に響き、割り振られた仕事を皆がテキパキと始める。街道に沿って平坦に踏みしめられた野営地は木製の柵に囲まれ、マファルダストの一行を迎え入れた。近くには小さいとはいえ小川も流れ、馬たちは喉を潤している。

 

 ロザリーは丘に登るために馬車から離れた。雲の形と流れを見て、明日の天候を予測するためだ。イオアンから教わった知識は多岐にわたり、雲や風を読むのもロザリーの大事な仕事だった。

 

 じっくりと空を眺めたが、当分は崩れそうにない空に安堵を覚えて軽く息を吐く。そうして野営地に視線を落としたロザリーに不思議な光景が目に入った。

 

 野営地から距離を置いていた事で最後尾にある幌馬車から顔を出す子供らしき姿が見えたのだ。おそらく他の者は気付いていない。なぜ子供が?と丘を下り始めたが、縁に手をつき嘔吐しているのを見たロザリーは丘を下る速度を上げた。

 

 まだ自分以外は気付いていないらしい……最後尾の馬車ということも手伝ったのだろう。右手を口に当てた子供の姿が少しずつはっきり見えてくる。再び地面に何かを吐き出したのは、どうやら女の子のようだ。黒っぽい髪は元気なく垂れてその表情は見えないが、細い腕や縁に押し当て潰れた胸はロザリーの予想を証明している。

 

 何かの病気だろうかと心配になったロザリーが馬車に近づくと、その少女はグッタリと馬車に寄りかかる。

 

「あんた、大丈夫かい!?」

 

 だが、そのロザリーの優しい言葉と気持ちは一瞬で呆れへと変わった。酷く酒臭いのだ。

 

「はあ?」

 

 思わず呆れ果てた声が溢れるのを誰が責められようか……クインやアスティア達がウンウンと頷くのが目に浮かぶようだ。

 

「……何処で忍び込んだんだい……おまけに酒まで飲んで……」

 

 両肩に手を掛けて少女の上半身を起こしたロザリーは、いくつもの理由で言葉を失った。

 

 

 一つ目は少女のあまりの美しさに、そして赤らんだ頬がそれに色気さえ加えている。薄っすらと開けられた眼は綺麗な翡翠色で、角度によって色の深みが変わった。 

 

 二つ目は着ている服の状態だ。あちこちが破れ、千切れている。素肌が露わになり女性であるロザリーでも思わず見入ってしまう程だ。元はワンピースなのだろうが、原型は留めていない。左手にはまだ新しい包帯が乱暴に巻かれて血が滲んでいる。

 

 三つ目は見覚えがある少女だからだ。騎士団のケーヒルと会っていた時にアストが現れ、連れ歩いていた俯く侍女と同じ顔が目の前にある。なかなかお目にかかれない美貌は強く印象に残っていた。あの時は髪は見えなかったが、こんな珍しい黒色は見た事がない。

 

 そして四つ目は首や肩、チラリと見える胸元、切れ切れになったワンピースの隙間から見える黒い模様と文字の数々だ。これは誰が見ても刻印だろうが、常識である刻印の数に全く合致しない。二つが限界とされる刻印が身体中に散りばめられているのだ。

 

 完全に酔っているのだろう……息遣いは荒く、今にも眠ってしまいそうだ。先程の嘔吐が原因か口元もヌラヌラと濡れ、薄く引いたであろう口紅も落ちかけている。 

 

 余りに情なくも衝撃的な姿に動揺したロザリーも漸く落ち着いてきた。

 

「全く……なんだいこの娘は。どれだけ飲んだのやら」

 

 馬車の中を見て再び腕に抱えた少女の顔を見た時、ロザリーはふと思い出した。

 

「確か……最近噂で……黒髪で翡翠色の目、身体中に刻まれた刻印……」

 

 勿論噂を信じてなどいなかったが、腕からは少女の高めの体温が感じられて嫌でも現実だと知らせてくる。

 

「聖女……か……」

 

 耐えられなかったのだろう眠ってしまった少女、いや聖女を見てロザリーは呟いた。

 

「どうすんだいコレ……」

 

 少しずつ暗闇に落ちていく野営地はロザリーの声には応えてくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 途方に暮れていたロザリーだが、陽が落ちた事で気温も下がり始めた事で我に返った。

 

 腕や胸に感じていた少女の体温が、少しずつ低くなるのがわかったからだ。決して寒い時期ではないが、腕の中の聖女さまは薄着に過ぎるのだから困ったものだ。

 

「兎に角何か毛布でも……」

 

 誰かに声を掛けようと口を開きかけたが、扇情的な少女の姿を見て思い止まった。酒に酔い眠りについた恥ずかしい格好の聖女を男達の目に入れるわけにいかない。何人か食事等の世話役に森人の妻達がいるが、近くに姿が見えない以上自分が行くしかないだろう。

 

 聖女を馬車の中に押し込んで着ていた上着を掛けたロザリーは、自身の背負袋に入っているマントを取りに歩き出した。なんでこんな事をと内心愚痴をこぼしていたが、同時に何処かで感じた暖かい気持ちに少しだけ戸惑っている。酒のせいもあるだろうが、特有の高い体温は未だ腕に残っている気がした。

 

 

 野営地にはマファルダスト一行しかいないため、かなり広範囲に皆が散らばっている。薪が燃える火もいくつか見えて周囲を明るく照らしていた。西は薪が多く手に入る地域だからこその贅沢だ。南はこうはいかないだろう。

 

 荷台に積んであった背負袋からゴソゴソとマントを取り出しているロザリーの背中に声が掛けられた。

 

「姐さん、どうしたんです? 今夜はそれはいらないでしょう?」

 

 フェイの声にロザリーは答えようとしたが、どう説明したら良いか分からず後回しする事に決める。

 

「ああ、ちょっとね……後で話すから待ってておくれ」

 

 そう言ったロザリーは再び馬車の最後尾に向かった。フェイは律儀にその場で待つようだ。

 

 

 ロザリーはもしかしたら幻でも見たかもねと幌をゆっくりと開けた。しかしそこには変わらず少女が横たわっていて、上下する胸が間違いなく目の前にいると訴えていた。

 

「幸せそうに寝て……酒癖の悪い聖女なんて、皆が聞いたらガッカリするよ……」

 

 掛けてあった上着を取って自分の袖に通し、持ってきたマントで頭から足まですっぽりと包む。まるで産着をきた赤子みたいで笑いを誘うが、残念ながらこんなに大きな赤子はいない。

 

 ロザリーは両腕を膝裏と背中に入れて持ち上げると、軽いねと思わず呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「姐さん、それは……」

 

「私も知らないよ、何処かで忍び込んだのだろうさ」

 

 ロザリーが抱える物体を見たフェイは二の句が告げなかった。顔だけちょこんと覗くそれはフェイにも少女と知れたが、この様な危険な旅に子供を連れ歩く馬鹿はいない。

 

「フェイ、ちょっとこっちへ」

 

 皆から見えない馬車の影にフェイと隠れると、ロザリーは何処か弾む様な声をあげた。

 

「街で最近流れてる噂知ってるかい? 黒髪の……」

 

「聖女降臨ですか? そりゃ知ってはいますが……」

 

 フェイの仕事の中に情報収集もあるため、最近妙に流れ出したその噂は当然知っていた。同時に信じてもいない。苦しい時代には時折そういった救世の話が流れるものだろう。酷いのでは魔獣こそが人に遣わされた救いなどと喚く馬鹿げたものまである始末だ。

 

「これ、聖女」

 

「はい?」

 

 フェイはポカンとしたが、ロザリーのニヤケ顔に冗談だろうと呆れた顔に変わる。

 

「フェイ、噂の中身を教えておくれよ」

 

「はあ……珍しい黒髪で、翡翠色の瞳、美しい顔と身体に刻まれた刻い……ん……」

 

 ロザリーは少女の肌が露骨に見えない程度にマントを少しずつ避けていく。ご丁寧にフェイの言葉に合わせて順番にだ。流石に眼だけはどうにもならなかったが、首の刻印を見せた時には呆れた顔は驚愕の色に変わった。

 

「ちなみに眼は綺麗な翡翠色だったよ、さっき見たから間違いない。見せられないが刻印は身体中にある」

 

 何故かしてやったりの顔をしたロザリーからとどめが刺された。

 

 

 

 ピューと風が吹き抜けてフェイとロザリーを冷やかしたが、聖女さまの黒髪が揺れるのを二人はしばらく見つめているしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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35.マファルダスト④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とりあえず仮眠用に広く取っている荷台の中に少女を横たわらせたロザリーは、振り返ってフェイに尋ねる。

 

「確か名前は……」

 

「カズキ、です。黒神の聖女だと……なぜ白神ではないのかわかりませんが……」

 

「ああ、そうだったね。殿下に紹介して貰ったけど忘れてたよ」

 

「?……姐さん会った事があるんですか?」

 

 寝返りをうつカズキを眺めながらロザリーは思い出していた。

 

「殿下とクインが街に連れ歩いてたのさ。あの時は侍女の格好で誤魔化してたからね。侍女特有の所作はないし、まぁ御忍びだよ。でも顔だけは見たから間違いない。聖女様かは置いておくとしても、やんごとなき人であるのは間違いないね……」

 

「しかし刻印があるのであれば、間違いないでしょう」

 

「だよねぇ、刻印ばかりは誤魔化しが効かないし……それよりどうしたものかねぇ……」

 

 何時ものように腕を組み、その大きな二つの女性の象徴を際立たせたがフェイは勿論気にもせずに答える。

 

「今から折り返す訳にもいかないですし、次の村に預けますか?」

 

「うーん……王室が預かる聖女様をポイと放り投げるのもアレだし、かと言って連れ歩く訳にもいかないねぇ……」

 

 そう言ったロザリーだが不自然な事に今更ながら気付く。 

 

 アストは聖女を大事に思っていたようだし、クインが手を繋いで愛おしそうな眼差しをしていたのも印象に残っている。ところが聖女であるカズキは手に包帯を巻き、高級そうなワンピースは切れ切れに破れていた。まるで何かから逃げて来たかのようだ。

 

 ロザリー達はリンスフィアで起きた聖女の降臨をまだ知らなかった。

 

「……最初の中継は西の森の手前、1回目の狩猟後だね……」

 

「まさか、このまま連れて行くんですか?」

 

「街を離れた事情があるかもしれない、先ずは殿下に知らせてから判断するしかないね」

 

 ロザリーは何かが引っかかってしょうがなかった。こういった勘は馬鹿には出来ない上、聖女であれば何かの使命を帯びている可能性がある。神々の行いを邪魔する訳にもいかない。

 

 地面に吐きまくって前後不覚になっている姿には一抹の不安を覚えるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軽く食事をして身体を拭いたロザリーは、聖女と共に寝る事に決めて先程の荷台に向かう。

 

 荷台に上がるとカズキは寝苦しいのか、マントを蹴り飛ばして膝を抱えて丸まっていた。スカートも捲れあがって小さなお尻が露わになっている。少しだけそのお尻に食い込んでいる下着は仕事を果たさず、思わずペチペチと平手で叩きたくなる。

 

「ん? うへぇ……お尻にも刻印があるよ……本当に身体中にあるんだねぇ……」

 

 ぶつぶつ言いつつも、はだけたマントを手に取ってカズキの背中側に寝転ぶ。 

 

「全く、しょうがないねぇ……」

 

 呆れながらも何処か嬉しそうにスカートの裾を直し、マントを掛けて聖女に腕枕をした。 

 

「次の町で服を手に入れないと、なんでも似合いそうだし何着か見繕うかね……」

 

 そう言いながらカズキの細い腰に手を回して、そっと身体を抱き締めた。すっぽりと収まる小さな身体はロザリーには丁度よく、どこか懐かしい香りがした。

 

 遠くからは草木を揺らす風と虫の音がする。まだ起きている連中の声は殆ど聞こえない。

 

 ロザリーは不思議な多幸感を覚えながら眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最近は浅い眠りばかりだったが、久しぶりの深い眠りは時間が一瞬で過ぎ去ったと思わせる。何処か気怠さのあった目覚めも今朝は全く感じない。まるで身体が新しく置き換わったようで、横になったままでも明らかな違いがあった。

 

 ロザリーは少しばかりの驚きを覚えながら、清々しい朝を迎えていた。

 

 くっきりした意識は胸元で身動ぎする柔らかな感触を思い出す。首を傾けると翡翠色の輝きが自分を映していた。どうやら思い切り抱き締めて顔が胸に埋まっているようだ。上目遣いでロザリーを見ているカズキは怒っているのか困惑しているのか、判断に迷うところだろう。

 

 思わずギュッともう一度抱き締めて、ロザリーは笑顔になった。

 

「おはよ、聖女様。酒は抜けたかい?」

 

 埋もれていた顔を剥がすと、上半身を起こして深い溜め息をつく聖女。それすら絵になるのだから、神々の寵愛とは凄まじいものだ。

 

「こら、挨拶くらいしなさいよ。こんな気持ちいい朝じゃないか」

 

 こちらを見た聖女、カズキのキョトンとした顔はロザリーにある事を思い出させた。

 

「確か、言葉が不自由と言ってたね……」

 

 アストがロザリーに紹介した時の事だ。 

 

「まあいいや、ほら朝御飯食べよう? 皆に紹介するよ」

 

 立ち上がったロザリーは両手でカズキを引っ張り上げてマントを羽織らせる。はだけない様にベルトで調整して皺を伸ばした。

 

 先に降りて、おいでと合図を送ると素直について来るカズキに優しい笑顔が浮かぶ。手を繋ぐような歳とは思えなかったが、ロザリーは欲求のままにカズキの右手を取り歩き出した。

 

 朝日に照らされた二人の影を見る人がいれば、誰もが幸せな気持ちになるだろう。先に起き出していた何人かの森人達は二人の姿を見て、困惑と小さな幸せを覚えている。見慣れない少女と、やはり余り見慣れないロザリーの慈愛の溢れた笑顔は、何か変化が起きたと皆に感じさせて視線を外せなかった。

 

 

 

「うひゃー、綺麗な娘ですねー」

「おい黒髪ってまさか……」

「なんでまた此処に……」

「新しい仲間か?」

「おい、見えてるぞ……やべぇ」

 

 

 

 最後の呟きを何とか聞き取ったロザリーは、カズキが座っている方を見ると慌てて駆け寄った。

 

「こら!そんな格好で膝を立てるんじゃないよ、丸見えじゃないか!!」

 

 抱えた膝を強引に横に下ろしてマントを足に掛ける。やはりキョトンとしたカズキに頭が痛くなった。

 

 この美しさなら嫌でも男の欲望を知っているだろうに、まるで最近女になりましたとばかりの恥じらいの無さは驚きしかない。少女とは言え女として生きてきたなら自然と身につくはずの何がが足りないのだ。クインあたりが許すとは思えなくて、ロザリーには不思議でしょうがなかった。

 

 ロザリーは知らない事だが、同じ様にアスティアやクインは頭を抱えている。

 

「お前ら!今度見たら承知しないからね!」

 

 無茶苦茶な事を言うロザリーに誰も反論はしなかった。こういった時、男は弱いのだ。

 

「とにかく……しばらくは同行するからね。森人として働きはしない、客人と思っとくれよ」

 

 それは当然だと皆が頷く。

 

「見たら分かるだろうから先に言っとくよ。この子はおそらく聖女だ、黒神の聖女だよ。皆も聞いた事くらいあるだろう? 手なんか出したら神々が怒り狂うし、私が承知しないからね!」

 

「「……お、おー!!」」

 

「凄え、聖女様が目の前にいるよ! 握手くらいは駄目ですか?」

 

「うおー! 滅茶苦茶美人だなー! 本当に翡翠色の眼だよ!」

 

 ワラワラと周りに集まる男達から握手を求められて、カズキは腰が引けたがその内に諦めて握手に応じていた。仲間と認められたと思ったのか、カズキの顔に少しだけ笑みが浮かぶ。

 

 それがどれだけ貴重なものか、初めて会う皆は知らなかった。

 

「ほらっ、もう終わりだよ! 名前はカズキ、事情があって話したり出来ないから気をつけなよ!」

 

 しっしっと両手を振りカズキの前に立ちはだかったロザリーは、朝飯持って来ておくれと声を張り上げた。

 

 

 

 

 

 リンドはスプーンを口に咥えたまま、ボーっと見ていた。

 

 目線の先には甲斐甲斐しくロザリーにお世話される聖女がいた。パンを齧り、片手に持った器からスープを飲む。決して上品な食べ方ではないが、たったそれだけなのに目が離せない。表情も乏しく先程見せた微笑も今は消えている。しかし兎に角美しく綺麗なんだからしょうがない……リンドは自分に言い訳していた。

 

「あんな生き物がいるのか……可愛い過ぎるだろう……」

 

 ロザリーの承知しない発言も何処かに飛んでいって、リンドの頭の中にカズキとの甘い生活が浮かんでいる。 

 

「両想いなら仕方ないよな、うん」

 

 気持ち悪い事を呟いて、リンドはもっと気持ち悪い目線をカズキに向けた。 

 

 横にいたジャービエルは可哀相な小鼠を見るようにリンドを眺めたが、当人は気付く事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宿営地での滞在時間の終わりが近づき、マファルダストは撤収を始めた。

 

 次は西の森に至るまでの拠点の町、テルチブラーノだ。村と呼ぶには大きく、街と呼ぶには小さい、そんなところだ。騎士が常駐しており西の守りの要所でもある。周辺の村々の中心で、西の森に向かう隊商なら必ず経由するところと言っていい。

 

 その先は人が立ち入らない領域で、向かうのは騎士か森人だけ。

 

 ロザリーはテルチブラーノにカズキを預ける事も考えたが、すぐに打ち消した。それは間違いなく勘ではあったが、何処かに一緒にいたいという思いがあることを否定出来ない。

 

 

 撤収は簡単に終わり、カズキと一緒に御者台に乗った。目的地があるのか、素直にロザリーに合わせるカズキは馬に興味があるようだ。 

 

 4頭引きの馬車は連結した荷台毎ゆっくりと進み出した。揺れる御者台に慣れないのか、お尻をずらしたりして丁度いい場所を探している。ロザリーは思わず自身の膝の上にカズキを抱えたくなったが、さすがに聖女はそんな歳ではないと諦めた。

 

「……なんだかねぇ……」

 

 ロザリーは自分の心に何が起きているのか、薄っすらと自覚する。だがそれを素直に認める事も出来なかった。

 

 ……フィオナを裏切ってしまう、そんな気がするからだ。

 

 呟きを聞き取ったのか、カズキがロザリーを見た。ゆっくりと進む馬車に乗る聖女は、朝の爽やかな風に揺れる黒髪を右手で押さえる。その姿が目に入ったロザリーは眩しいものを見るように目を細めた。

 

 

 

 

「貴女の名前はカズキだね。 私はロザリー、ただのロザリーさ」

 

 

 

 

 カズキの三度目のキョトンとした顔が可笑しくて、ロザリーは笑った。

 

 

 

 

 

 



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36.安らぎの色

 

 

 

 

 

 

 

 上からお姫様を見たとき、不思議な感覚に戸惑った。

 

 まるで、こちらに手を伸ばして行かないでと叫んでいると錯覚する。家族の幻想は泡の様に消え去った筈なのに、今でもそこにあると勘違いしていまいそうだ。 

 

 元から逃げ出すつもりだった、何故戸惑いなど……

 

 あの無駄に広い部屋でぬるま湯に浸かったように過ごし、時が来たら誰かを癒す? それは家族などではない、道具だ。薬箱に入った絆創膏と何が違うと言うのだろう。

 

 だから……お姫様の涙を見た瞬間、視線を外して意識から消した。これ以上耐えられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋根から屋根へ猫の様に飛び移り、カズキは城から離れる様に移動していた。

 

 

 以前も街には来ていて、建物の間隔が殆ど無い事を覚えていたが正解だったようだ。軽い体は屋根を踏み抜くこともなく音すら小さなものだ。 特に目的地があるわけではない以上、何処かに身を隠し夜を待つのが良いだろう。

 

 包帯を巻いた手の痛みはもう無くなっていた。過剰な治癒の力は呪いと思っていたが、こんな時は助かると現金な事を思う。随分距離を稼げたと思うが油断は出来ないと、カズキは姿勢を低くして下から見えないよう気を使って進んでいた。

 

 

 

 

 子供を癒す事が出来た時、カズキは初めてヤトに感謝したのかもしれない。言葉は分からなくとも側にいた母親だろう人の笑顔は眩しかったし、周りの群衆も嬉しそうだった。笑顔をこぼしたと自覚はないカズキだが、あちらの世界では味わえなかった感覚は嫌ではなかった。

 

 カズキ自身は理解はあまり出来ていないのだろう。他者に認められる事は大きな喜びを生み、自己を肯定される幸せがある。小さな頃から自分を嫌いだったカズキにとって、人からの肯定は不思議な暖かさを感じさせたのだ。

 

 そんな覚えのない感覚に少しだけ翻弄されながら、それでも足を動かし続けたカズキの目に興味深い物が映った。

 

 あれは……あの時見た馬車か?

 

 大量に載せられていく樽、向かうだろう先に見える門。如何にも行商に行こうと準備する集団を見つけて決断する。忍び混む為に夜を待とうと、屋根に腰を下ろしてパンを齧った。

 

 

 

 

 

 夕闇に包まれていく街を見ると、そろそろかなと準備を始めた。準備と言っても手には何もなく、邪魔くさい服を整えるだけだった。

 

 一度城から脱走した時と同じ服を着ているとカズキは内心苦笑する。あの時も星空の描かれた濃い色のワンピースは、夜の脱走に丁度いいと思ったのだ。あちこち破れているが、動きやすい分だけまだマシだ。 

 

 スルスルと器用に屋根から降りたカズキは、馬車の下に隠れた。松明やランプ程度の光度ではまず見つからないだろう。次から次へと移動するが、不思議な事に警戒らしい動きもなく、簡単に目的の場所まで来れた。

 

 今から出発する森人や隊商に悪さをする馬鹿はリンスフィアにはいないが、カズキはそれを知らない。警戒など誰もしないのだ。

 

 あっさりと荷台に乗り込んだカズキは、チラとだけ外を見ると樽の間に身を潜めて時が来るのを待った。

 

 

 

 いよいよ出発だろう。

 

 薄闇と丁度良い気温は疲れた体に睡眠欲を促し、カズキはウトウトと浅い眠りを繰り返していた。バレるわけにはいかないと、頑張って起きようとするが中々難しい。眠りに落ちてはハッと目を開ける姿は、膝を抱えている姿と相まって可愛らしい。本人にはそんな気は無いだろうが、精神は体に引っ張られるのかもしれない。 

 

 頭をフルフルと振ったカズキの耳に女性の声が聞こえてきた。見つからない様にそっと覗き込むと、何やら紙を見ながらもう一人の男と話している。ランプに照らされた紙は薄っすらと透けて、それが地図だと教えてくれた。

 

 この街を離れて別の国へ行く。以前から決めていた事を実行するだけ……お姫様の涙が一瞬だけ頭を掠めた気がするが、それも彼方に消えていった。

 

 

 

 馬の嘶きと座った尻から伝わる振動が、馬車が動き始めた事を知らせてくれる。

 

 この馬車は最後尾に位置しているらしく外の様子を伺い易い事は幸いだった。樽の影に隠れていながらも巨大と言っていい門をくぐった事まで把握出来た。

 

 少しずつ離れていく街を見る余裕さえあったくらいだ。

 

 カズキの目にはやはり城塞都市に見える。城から見えた街は二重、三重に壁に囲まれていたので想像はついていた。だがゆっくりと離れていく街や城は、まさに御伽噺の世界だ。三本の尖塔や、カズキのいたベランダも視界に入り感慨深い。

 

 たとえ夜でも、いや夜だからこその幻想的な風景だった。

 

 それでも、どんな美しい景色も延々と眺めていれば飽きてしまうのだろう。カズキは再び樽の間に身を潜めて、先程抗っていた眠気に身を任せたのだった。

 

 

 

 カズキは知らない。

 

 マファルダストは他の国になど行かない、行けはしない。リンディアの為に危険な森を回って資源を集める旅に出る事など想像すらしていない。世界は森に侵略され、そこを抜ける者など今や皆無に等しいことも。もはや他国が無事なのか滅びたのかさえ分からなくなった世界である事を知らないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酒を好きになったのはいつからだろう。 

 

 決して強い方ではないのも自覚している。

 

 煙草は好きとは違う。気付いたら吸っていた、そんな感じだ。酒か煙草を選べと言われれば間違いなく酒を選ぶ自信があった。

 

 確かキープされていたブランデーを貰った時だったか、年齢を誤魔化して働いていた店で手に入れた筈だ。酔った年配の男が何を気に入ったのか酒を寄越したのだ。理由は覚えていない。

 

 暫くは部屋に寝かせていたが、何処かの馬鹿とやり合った後に飲んだと記憶はしている。

 

 ブランデーをくれた男はお喋りで、飲み方までご教授してくれた。初心者ならソーダ割りかトワイスアップ、どちらかだろうと蕩々と語ってくれたのだ。大好きなウイスキーのハーフロックもその延長線上で覚えた飲み方でもある。

 

 あの時は炭酸水など冷蔵庫にはなく、ミネラルウォーターを使った。後で知ったことだが、トワイスアップは常温の水がいいらしい。当時はそんな事気にもせず冷やした水だったが、言われた通りに1:1で割り、それが美味かった。これも後から知った事だが、貰ったブランデーは馬鹿みたいに高い酒で、それも良かったのだろう。

 

 ビールやカクテルなども嫌いではない。

 

 ただ最初に飲んだ酒が良かったのか悪かったのか。今はウイスキーやワインが好きなオヤジ臭い趣味になってしまった。

 

 だから、しょうがない。

 

 樽の側で眠っては起きてを繰り返して、やる事もない。見える景色は代わり映えもせずに草原と道だけだ。樽の一つが酒なのはすぐに分かっていたが、まさか飲むわけにはいかないと我慢していたのだ。

 

 だから、しょうがない。

 

 休憩だろう止まる時に樽の蓋を開けたのは、何かの偶然が重なっただけだ。鼻腔をくすぐった香りが好みだったのもやはり偶然だ。側に木の柄杓を見つけたのも、止まる度口をつけてしまったのも偶然なのだ。おまけにチーズまで発見してしまった。

 

 だから、しょうがない。

 

 空腹に任せて飲んだ酒が悪さをして、気持ち悪くなったのは事故だ。

 

 朦朧とした意識に見た事のある女性が見えて、抱き抱えられたのを感じたのも、何故か安らぎを覚えたのも何かの勘違いだろう。

 

 薄れる意識の中で、そんな事を考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識を取り戻した時、カズキは自分の置かれた状況を理解出来なかった。

 

 息苦しさを覚えて開けた眼には深い緑が映っていた。

 

 深い緑が服で、柔らかい膨らみが女性の胸だと理解するまで一定の時間を要したのだ。自分の頭は腕枕され、背中に腕を回されて身動きが取れない。下半身も重ねられた足のせいで床に貼り付けられたままだ。悲鳴をあげようにも声など出ず、力の酷く衰えた体は抜け出す事を許してはくれない。

 

 それでも無茶苦茶に暴れてしまえば目を覚ますだろうと頭では分かっている。

 

 だが、心が言う事を聞かない。

 

 眠りに落ちる前に感じた安らぎが今も感じられるのだ。

 

 カズキはクエスチョンマークが浮かぶ頭に困惑しながら、ジッとしていた。ここからは赤毛と年上の女性である事位しかわからない。何処かで見た事のあるなと記憶を探ったが見つからなかった。

 

 

 ジッとする時間は大して長くなく、綺麗な黄金色をした瞳がカズキを捉える。

 

 目を覚ました女性に突然ギュッと抱きしめられて驚くまで、カズキの目は動かなかったのだ。

 

 

 

 どうやら敵対する事も無さそうと安堵したが、溜息は安堵からきたのかカズキには分からない。

 

 女性は何かを話しているが、全く意味が理解出来ないカズキには首をかしげる以外に出来る事はなかった。ただ追い出したり責める様子もないのは、この身体が弱々しい少女だからだろう。ヤトに感謝などしないが、今はそれに縋るしかない。

 

 

 

 連れ出された先には2,30人はいるだろう者達が思い思いに散らばっていた。赤毛の女性に座るよう促されたカズキは素直に従い、膝を抱えて腰を下ろした。

 

 この身体は以前より柔らかく、この姿勢が楽なのだ。

 

 慌てた様子で戻ってきた女性に足を下されたのは解せないが、まあ怒る事でもない。

 

 そのあとはむさ苦しい男達に囲まれて、思わず逃げたくなった。しかし握手を求められたり声を掛けてくる様子から仲間に入れて貰えたのだろうと安心出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 御者台に初めて乗ったが、乗り心地は悪い。

 

 まあ、馬車自体が非常に悪いのだから当たり前なのだろう。それでも朝の澄んだ空気と、時折通り過ぎていく風は気持ちが良い。

 

 邪魔に思えていた風に揺らされる長い髪も、右手で押さえてしまえば気にならなくなった。

 

 横を見れば手綱を握った女性が笑っている。

 

 やはり安らぎを覚えて、黄金色の瞳を真っ直ぐに見てしまう。

 

 朝日が照らしたその色は、カズキの心を染めていった。

 

 

 

 

 カズキはこの女性の名前が知りたいと、そう思った。

 

 

 

 

 

 



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37.マファルダスト⑤

 

 

 

 

 

 

 

 

 元々は、丘の上に数軒の家と斜面に果樹が並ぶ普通の田舎の村だった。

 

 しかし西の貿易を担う街が森にのまれ、人の生存圏は少しずつ後退していく。丘の上にあった村は、監視にも防衛にも適していた事から騎士達の拠点の一つとなった。騎士が常駐する事で整備も進み、今では人口1,000人以上を数える西の要所へと変貌したのだ。そのため周辺にある村々の避難所の役割も担っている。

 

 森はまだ見える距離にはないが、西側の丘は削られて魔獣の被害を抑えるよう形を変えていた。石垣と木組みで高い監視塔が立ち、丸太を削った杭を地面に打ち込んで壁としている。

 

 丘の反対側に馬車が多く並べてあるのは万が一の撤退用だろう。魔獣が群れを成して攻めて来たら騎士が時間を稼ぎ住民は逃げる。それはまさに決死の戦いだ。

 

 こんな危険な前線と言っていい場所から離れ、リンスフィアに閉じこもれば良いと考える者もいる。

 

 だが、人の営みは巨大な都市が一つあれば成り立つものではない。生きていくために必要な物資は、こうした村々などで生産されている事を知らない者の戯言だろう。そしてその土地を離れたくない人の心は、他人に推し量れるものでもない。

 

 隊商マファルダストの一行が間も無く到着する町、テルチブラーノはそんなところだ。

 

 

 

 ロザリー達が進む道の両側には馬の繋がれていない馬車が並んでいる。人影が見つからないのは夕方から夜へと変わる時間だからだろう。 

 

 視線の先には緩やかに丘へ登る道と、中腹に見える小さな門がある。守衛と言うよりは人の出入りを管理する入門管理といった場所だ。門の手前に広場が設けてあり、そこに馬車等を預けてテルチブラーノに入る。

 

 広場にゆっくりと入って行くロザリー達に大きな声ががかかった。

 

「ロザリー! 久しぶりだな!」

 

「ん? うげ……爺さんまだ生きてたのかい!?」

 

「当たり前よ! お前の乳を思う存分味わうまでは死なんと言っただろう?」

 

「爺さんに触らせるような安い身体じゃないんだ、死んでからもう一回来るんだね!」

 

 もう結構な歳のはずだが、腰も曲がらず槍を持つ腕もたくましい。若い頃に魔獣と一戦交えたとの話も案外本当なのかもしれない。ロザリーにとっては会う度に胸を触らせろと煩い爺さんでしかないのだが。

 

 うんざりしながら馬に止まるよう誘導して御者台から飛び降りる。

 

「爺さん、いつもの通り馬車を頼むよ。まぁ盗むような物なんて何も積んじゃないけどね」

 

「おうよ、今回は西で狩りか?」

 

「まあね、何か情報はあるかい?」

 

「いーや、特にないな。いつもに比べると狼が多いらしいが、それだけ獲物も多いって事だ。マファルダストなら大丈夫だろう」

 

 答えながらも御者台から軽やかに飛び降りて来た子供を見て眉を少しだけ顰めた。

 

「ロザリー、こんな子供を連れ歩くとはお前らしくないな。どうしちまったんだ?」

 

「爺さん、詮索はなしだよ。色々と事情があるのさ」

 

 カズキの頭まで被ったマントを整えながら、ロザリーははっきりと答えた。ロザリーの身体に合わせたマントはカズキを頭からすっぽりと覆い、まだ余る程だ。僅かに黒髪は見えるが、夕闇では誰も気付きはしない。

 

「ふん、じゃあ一揉み……」

 

「ブン殴るよ爺さん」 

 

 両手をワキワキしたがら下らない事を言い出す爺様にロザリーはピシャリと返す。

 

「仕方ねえ……では、ようこそテルチブラーノへ」

 

 マファルダストは西の町にようやく到着した。

 

 

 

「フェイ、少しばかり任せるよ。この子の服を揃えて来るから、宿で合流しよう」

 

「わかりました、こちらも簡単に用事を済ませます」

 

 ロザリーはカズキを連れて服飾の店を目指し歩き出した。新品などなかなか手に入らないが、下着位はなんとかしたい。そんな事を考えながら歩けば直ぐに馴染みの店に到着する。

 

 リンスフィアとは比較にならない規模の町だ。すべてを回るのに1日も要らない。

 

「あら……ロザリー、久しぶりね」

 

 真っ白な個人宅に見紛うドアをくぐると、棚中に大量の衣服を収めた部屋が目に入る。棚を整理していたのだろう、恰幅の良い女性が振り返った。厚手のエプロンにはマチ針や鋏などが綺麗に並んでいる。裁縫師兼店主として店を一人で切り盛りする女性だ。

 

「エレナ、久しぶり。しかし相変わらず服に埋もれた店だねぇ、その内に服で家が崩れるんじゃないかい?」

 

 着古した服などを組み合わせる、あるいは修繕して再び店先に並べる業態は一般的で、エレナの店の名でテルチブラーノでは知られている。

 

「もう閉めるところだよ、文句を言うなら明日にしておくれ」

 

「おっとすまないね、でも明日は勘弁しておくれ。今日はこの娘の服を揃えたいんだ」

 

 背中を押されてロザリーの後ろから現れたカズキを見ると、エレナも険しい顔を崩し笑顔になった。

 

「あら、綺麗な子ね。ロザリー、なんて格好をさせてるのよ」

 

 そんな事を言いながら、体に合っていないマントを取ると案の定エレナは絶句する。

 

「エレナ、何も聞かずに見繕ってくれる? あと下着も欲しいの」

 

「あんた……コレ……」

 

 フルフルと震える指で刻印を指差して、交互にロザリーとカズキを見る。分かってはいた事だが、ロザリーは溜息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マファルダスト一行はリンディアと町が斡旋する宿屋に分散する。買い物を終えたロザリーはフェイやジャービエル、リンド達数人と宿屋併設の食堂に来ていた。

 

 カズキはブラウンのカーディガンとミントカラーのロングフレアスカート、首回りには大判のふわふわのストールを巻いて完全に女の子の装いだ。ついでに熱の入ったエレナにより髪に櫛も通されて、本来の美を取り戻していた。思い切りロザリーの趣味が入った可愛らしさは周囲の注目を集める。

 

 道行く皆やリンドどころか、フェイやジャービエルまでがポケッと口を開けているのはおかしかった。

 

 

 

 

 カズキの食事を合わせて注文したロザリーは、少しだけ離れた席でフェイと向かい合わせに座った。

 

「明日はいつも通りに野営地で準備だ。聞くと猪や兎はよく獲れているらしいし、罠も用意しないとね」

 

「はい、罠の材料は先程追加を頼みました。明日の出発前には届く予定です」

 

「そうかい、ありがとうフェイ。」

 

 礼を言いながらもロザリーは考えてしまう、リーダーに見合うのはフェイではないかと。実際に今のマファルダストはフェイが支えていると言っても過言ではないのだ。

 

「……他の連中の体調はどうだい?」

 

「問題ないですね。寧ろ良過ぎるくらいで、今夜羽目を外さなければいいですが」

 

 苦笑しながらも少しだけ真面目な顔をしてフェイは続ける。

 

「これも聖女様のご加護でしょうか? 怖いくらいですよ」

 

「確かにねぇ、わたしも朝起きた時の違いにはびっくりしたよ……」

 

 まさか本当に……? 冗談半分で始めた会話だったが、今日の旅路すら疲れが少ない気がしてきた。

 

 思わず離れた席にいる聖女、カズキを見た二人の眼には隣に座るリンドの姿も映った。そして、その有り得ない光景が目に入ってきて二人の感情が抜け落ちる。

 

 あの馬鹿、いやリンドがカズキの肩に手を回して酒を飲ませていた。

 

 

 

 

 

 

()()()()()()、ほらお酒おいしいよ?」

 

 飲みの席で肩に手を回されるのは、男同士ならよくある事だ。ほぼ初対面の男としては馴れ馴れしいとも思うが、気にする程でもない。それよりも手渡されたグラスに入っているのはウイスキーの一種だろうか、ハーフロックと呼ばれるカズキ好みの酒だった。それは大きめの氷を入れたグラスに酒と水を同量入れた、味と香りを柔らかに楽しめる飲み方だ。

 

 スモーキーな香りは本当にウイスキーなのかもしれない、カズキは思わず小さな唇をグラスにつけようとしていた。

 

 ちなみにこの世界では、特に飲酒に関する法律などはない。しかし外見年齢が12,3歳の子供、ましてや女の子に飲ませるのは非常識なのは間違いない。しかも癖のあるウイスキーらしきものを飲ませるなど、リンドは馬鹿か間抜けか非常に格好悪い。下心も満載で鼻の下は伸び切っているだろう。

 

 舐めるように濃い琥珀の液体に口を付けたカズキの目は見開かれた。カズキが言葉を発したなら「うまい!」といったところだろう。

 

 すぐにふた口目を舌と喉で味わうカズキ。

 

 肩に組まれた手は身体をサワサワと撫でているが、酒に夢中でカズキは気付かない。おまけにグラスを渡して空いた手はフレアスカートの上に置かれている。服の上からでも柔らかい感触と体温を感じて、リンドは他人に見せられない顔になった。

 

 

 

「おい、リンド……何をしてる……?」

 

 

 

 地の底、いや血の底から響くような声はロザリーの唇から漏れた。

 

 はい?と振り返った間抜けな顔をロザリーはブン殴った。

 

 ゴッ……!

 

 ガチャーン!!

 

 床に倒れたリンドを冷たい目で見下ろすと、フェイに怒りの命令を出す。

 

「フェイ、この馬鹿をなんとかしろ。出来ないならココに置いていく」

 

「はい」

 

 ズルズルと襟を持ちながら外に引っ張っていくフェイを見ながら、ロザリーは怒りの熱を口から排出する。熱い溜息がこぼれたがイライラは落ち着いたりしない。

 

 今のロザリーの心情は、可愛い娘に手を出された父親といったところだろう。

 

 大丈夫かと振り返ってカズキを見たロザリーに更なる衝撃が襲う。一滴も逃さないと、両手で持ったグラスを思い切り傾けた聖女の姿を見れば誰でもそうなるだろう。グラスには既に液体はなく、氷に纏わり付いた最後の酒精を味わっている。ちなみに殴られたリンドには全く興味がないようだ。

 

「こ、こらー! カズキ駄目でしょ!!」

 

 母親、今度は間違いなく母親の叫びを発したロザリーの声に、カズキはビクッと身体を揺らしてトロンとした目を向けた。

 

 グラスを毟り取ったロザリーは情けない顔をして、空になったグラスを見つめるしかない。

 

 溶けて丸みを帯びた氷がカランと転がって鳴った。

 

 

 

 

 

 

 怪我をしていた手や破れた服からも酷い目にあったのではと気を揉んでいたが、気の所為な気がしてくる。もしかしなくても、とんでもないお転婆聖女なのだろう。いや、そもそも本当に聖女なのだろうか? 今わかっているのは噂とそれに見合う容姿だけで、それ以外聖女らしき姿を見たわけではない。

 

 今も真っ赤な顔をして、テーブルにあった野菜を直接指で摘んで食べている。一般的なイメージである上品で慎ましやかな聖女とはかけ離れた所作だ。 

 

 それが益々ロザリーの母性をくすぐっているが、本人は気付いていなかった。

 

「はあ……」

 

 カズキから奪ったグラスには勿論酒は残っていないが、溶けた氷水を煽ってテーブルに置いた。

 

 カズキの真似をして野菜を指で摘んで食べると、カズキがジッとロザリーを見ている。

 

「なんだい? お行儀が悪いのはお互い様じゃないか……」

 

 言葉が通じないのは不便だねぇ……酒癖の悪さも注意出来やしないよとカズキの頭を撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食事を終えたロザリーとカズキが果実酒片手に焼き菓子を味わっていた時、食堂の外が騒がしくなった。

 

「なんだい、こんな時間に……」

 

 二人の時間を邪魔された気がしてロザリーはイラつきながら外に出た。

 

 しかし外の喧騒を見て、ほんの僅かだけ酔っていた頭が嫌でも覚醒する。

 

 肩に担がれた男が3人程引き摺られるようにこちらに向かって来るのが見える。腕や足、首から出血している、あれは大きさから言って狼の咬み傷だろう。魔獣ではない。

 

 丁度三軒程先に治療を行う場所がある事から、仲間らしき男達が必死に声を掛けていた。 

 

「……! アイトール、アイトールじゃないか!?」

 

 ロザリーは見知った顔を見て思わず駆け寄る。よりにもよって首を噛み切られ、口元からも血が垂れている。意識は僅かながらにあるようだが、血の気を失った顔と紫色の唇は深刻さを嫌でも感じさせる。別の隊商とはいえ、同じ森人として切磋琢磨してきた同期と言っていい仲間だった。

 

「なんてこった……」

 

「若いのを庇ったんです……ヘマしたのは若いのだってのに……」

 

「くそっ!! 代われ!」

 

 ロザリーは必死の形相で担ぎ手を無理やり代わり、アイトールの肩を支えた。

 

 もう少し先だと前を向いたロザリーの目の前に小さな影が映った。

 

 左手の包帯は無く、僅かに赤い液体が垂れている?

 

「カズキ! 中で待ってな!」

 

 酔いの回った赤ら顔でジッとロザリーの黄金色の瞳を見ていたが、何かを納得したのか頷きアイトールとロザリーに向かい歩いて来る。

 

「カズキ! 邪魔だ!」

 

 思わず怒鳴ってしまうロザリーを僅かに見たあと、赤い液体に濡れた左手をアイトールの首に添えた。

 

 そして……

 

 闇に包まれていた路地に、淡く輝く白い光が滲んでいく。

 

 

 

 再び、リンスフィアで起きた奇跡がテルチブラーノに顕現した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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38.マファルダスト⑥

 

 

 

 

 

 

 

 アイトールの眼がパチパチと開き、ロザリーの肩から重みが消える。白い光の放たれた路地には数人の男達とロザリーがいたが、誰一人として声を上げていない。カズキは少し先にいた残り2人の手足にも左手を添えると、先程より小さな光が一瞬だけ輝いた。

 

 カズキは3人の傷を確認すると、ロザリーの手を取り宿屋に戻ろうとする。目は完全に座っており、勿論酔ってますよ?と開き直っているようだ。

 

 果実酒を飲み尽くし、あのウイスキーもどきを何としても飲みたいカズキの酔いに任せた行動だった。

 

「聖女……さま……?」

 

 ロザリーの手をグイグイと引っ張るカズキを見た1人が漸く言葉を口にした。

 

 ハッとしたロザリーはアイトールの様子を確認する。

 

「アイトール、無事かい?」

 

 アイトールはロザリーの声にも反応せずにカズキを目で追っている。変に力を取り戻した目を見るだけでも無事だと知れたが、ロザリーはイラっとした。

 

「ア、イ、トール! 鼻の下を伸ばしてんじゃないよ!」

 

 頭を引っぱたかれて漸く気付いたアイトールはロザリーを見た。

 

「ロザリー……? なんでここに?」

 

 頭に血がのぼるとはこの事かと、ロザリーは肩からアイトールを放り出した。

 

「さっきから居るよ! 全く男共ときたら綺麗な娘を見たらすぐにコレだ!」

 

「い、いや……済まない。でも驚いて当然だろう? 白い光が目に入ったと思ったら痛みが消えて、気付いたら目の前に聖女様だぞ?」

 

 取り敢えずは隠すつもりだったが、刻印は見えなくとも完全にバレバレだった。着替えさせた服も女性らしい美しさを際立たせて、カズキを大人びて魅せる。それがより注目を集める結果にもなっていた。

 

 黒髪と瞳、何より簡単に致命傷と言っていい怪我を治してしまう超常の力……もはや隠しようもない。

 

「まあ、無事で良かったよ。アイトール、何があったんだい?」

 

 未だ諦めずにロザリーの手を引くカズキを置いておいて、情報を聞き出す。明日からはマファルダストも移動するのだから当然の事だった。

 

「ああ、うちの若いのが……いや、特別な事があった訳じゃない。魔獣も関係ないし、マファルダストの活動に影響はないさ」

 

 衆目の中で若い後輩の恥を晒したりはしないのだろう、アイトールの気遣いが見て取れた。

 

「そうかい、じゃあ早いとこ血と汗を拭きな。あんたの臭い体臭なんて嗅ぎたくないからね」

 

 そんなに臭いかとロザリーの冗談を真に受けて自身に鼻をつけるアイトールに苦笑すると、先程から腕を懲りずに引っ張る聖女様に従う事にする。

 

「出来れば余り騒がないでおくれよ……アイトール、明日はリンスフィアに向かうのかい?」

 

 ふと思い付いてロザリーは問い掛けた。

 

「ああ、明日リンスフィアに発つぞ。正に聖女様に感謝だな」

 

 どうも感謝を素直に受け取りたくない様子の聖女を見て、アイトールは軽く言葉を伝えた。先程から顔を見せずに宿屋に戻ろうとするカズキに、謙虚で照れ屋だと勘違いするアイトール。本人はロザリーから酒をせびる為に必死なだけだが、周りからは顔を赤く染めて照れている美しい聖女に見えていた。

 

「……ちょっと人見知りでね、あとでよく伝えておくよ。それより明日でいいから手紙を預かってくれないかい? 大事な用事なんだ」

 

 酒好き酔どれ聖女とバレないよう話を逸らす。

 

「勿論だ、誰に届ける?」

 

「……それも明日話すよ」

 

「そうか、なら明日宿屋に顔を出すから準備しておけよ? では聖女様、本当にありがとうございます!」

 

 他の数人も頭を下げたり、手を振ったりと騒がしくしながら去っていった。

 

 もはや我慢ならないと更にグイグイと引っ張るカズキにロザリーは思わず呆れて声を出す。

 

「カズキ……お酒はもう飲ませないからね……」

 

 最後通告を受けているとも知らず、カズキは動き出したロザリーを見る。どんなに強く引っ張ろうとも動かなかったロザリーに、やっとかと勘違いしたカズキには果実水しか出てこないのだが……

 

 

 

 

 

 ジュースを眺める、いや睨みつけるカズキを見ながらロザリーは認めるしかなかった。

 

 目の前に座っている少女は、間違いなく聖女なのだと。

 

 自分で見た筈の治癒の力は今でも信じられない。だが事実アイトールは怪我が無かったかのように自分の足で歩いて去って行ったのだ。神々の奇跡、聖女降臨は本当だった……高揚感と小さな恐怖を覚えてロザリーは諦めてグラスを持ったカズキを見た。

 

 赤らんだ顔はそのままなのに、ロザリーにはカズキが何処か遠い別の人に感じて目を伏せたくなってしまう。

 

「あんた……それ……」

 

 左手に血の流れた跡がある。そういえば包帯も見当たらない。 

 

 グラスをテーブルに置かせると、ロザリーは赤く染まったカズキの手を取ろうとした。だが聖女の反応は今まで従順といってよかったものと明らかに違った。

 

「お、おい……」

 

 ロザリーに手を取られないよう左手を背中に隠したのだ。睨むという程ではないが、その目は言葉などなくとも分かる拒絶だった。それは僅かな時間とはいえ、共に過ごしてきて初めての事だ。

 

 何か理由があるのか無理強いをしてはいけないと、懐に入れてあったハンカチを渡す。カズキはそれを眺めて、ロザリーの目を見たあと受け取った。 

 

「転んだのかい? いや、傷口が開いたとか?」

 

 伝わらないと分かってはいても、聞かずにはいられなかった。だが、予想通りカズキはチラリとロザリーを見ただけだ。

 

 自分の怪我は治さない……? ハンカチを手に当てても白い光はなく、滲む血に変化も無かった。

 

 他人だけを癒すしか出来ないとしたら、酷く美しくて残酷だとロザリーは哀しくなった。

 

「……あんたは……やっぱり聖女なんだね……」

 

 その呟きも、悲哀もカズキには届かない。

 

 ロザリーの言葉も心に起きた波も、テルチブラーノの夜に溶けて消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、アイトールの手にはロザリーの預けた手紙があった。

 

 カズキが寝たあと用意したものだ。

 

「直接アスト殿下に渡るように取計らっとくれ、私からと言えば大丈夫だろうさ。無理ならクイン、クイン=アーシケルでもいい」

 

「……アスト殿下に? 内容は聞いても良いのか?」

 

「他に漏らさない……まあ、あんたなら大丈夫か」

 

 アイトールは不器用な男だが、ロザリーはその誠実さを信用している。

 

「聖女様の事だよ、近況報告と幾つかの質問ってところだね。少し思う事があって、他の人間を通したくないんだ」

 

 このロザリーの判断は主戦派、つまりユーニード達への情報伝達を遅らせる結果となる。ユーニード等は今もカズキが黒の間、あるいはリンスフィアの何処かに匿われていると思っているからだ。

 

 それは時間にすれば僅かな差だったが、後にカズキ達の運命を決める事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カーン!

 

 

 凡そ弓とは思えない音を放つと、風切り音すら置き去りにして矢は目標を貫いた。

 

 カズキが見たら鹿だと思うだろうその首に刺さった矢は、瞬時に獣を絶命させる。残心も見事な男は小さな声で、うっしゃと拳を握った。

 

「新しい弓はいいみたいだな、腕も相変わらずだ」

 

 マファルダストには狩り専門の者が少なくない。ロザリーの存在は大きいが、マファルダストを最高と謳わせる森人は1人や2人では無かった。

 

 

 

 カズキは馬車に残りロザリーと離れていた。当たり前だがカズキを森まで連れ回したりはしない。 

 

 ロザリーは森の手前で幾人かに指示を出し、彼等に狩りを任せている。自身も弓は扱えるし、獣を解体出来る。だが自分より優れた森人がいれば、あっさりと信じて任せていた。命を預かる身で他人を信じて任せる事がどれほど難しいか、それはロザリーがマファルダストの隊長たる所以の一つだった。

 

「前情報通り、これは凄いね……」

 

 例年と比べても狩りのペースは明らかに早い。これなら予定を前倒しで南へ行けるだろう。本命はあくまでも南なのだから。

 

 次々と運び込まれる獲物達に、思わず笑みがこぼれる。

 

 血抜き、皮剥、下処理、内臓の処分等は直ぐには出来ない。森周辺では危険過ぎるからだ。肉の質にも影響は出るが仕方のない事だった。もちろん森人に伝わる防腐処理はいくつもあるが万能ではないのだ。

 

「よし、予定を早める。今ある分は先に運ぶ、行ってくれ」

 

 ロザリーの判断で夜を待つ事なく荷馬車は走り出した。処理も早まり、肉質も向上するだろう。見送ったロザリーは再び森に目を移した。

 

「ジャービエル、リンドはどうだい?」

 

 護衛兼荷物運びのジャービエルは側に控えていた。

 

「森に入って周辺を警戒させてる。 あいつは目と耳が良いから」

 

「ほお、話には聞いてたがアンタが言うなら本物かねぇ」

 

 あの日のカズキへの行動は許せないが、フェイに絞られたのだろう。最近は大人しいものだった。まあ、それでもカズキをチラチラ見ているのは分かっているが。

 

 

 

 テルチブラーノを発って既に5日が経過していた。

 

 西部の森近くに陣取り、そこから狩猟組を引き連れて森へと入る。全員が毛皮を被り、見える素肌は泥で覆われている。たとえ直接森に入らないとしても、魔獣を引き寄せる可能性は少しでも減らさなければならない。

 

 ロザリーの綺麗な赤髪も、凛とした美貌も今は見る影もなかった。両腕を組み、森を睨むロザリーは1人の女性から森人へと変貌したのだ。

 

「運搬組は明日だったね、腹一杯に獲物を持ち帰って貰えそうだ」

 

 ロザリーは独り言ちながら、黒髪の少女の事を思った。

 

 運搬組に連れ帰らせて、安全なアストの元へ帰したほうが良いだろう。隊商と共に旅をするなど本来は有り得ない。いつ命の危険に晒されるか分からない上に決して楽な旅路ではないのだ。

 

 酒は例外として、この旅の中で我儘や苦しみを訴える事は一度も無い。言葉は勿論だが態度でもそれを感じさせない、少女としては厳しい環境の筈だが驚くべき事だろう。

 

 だから、帰してあげるべきだ……そう思うロザリーは未だに決断出来ていない。

 

 ふと見るとあの翡翠色の眼と視線が合う時がある。ロザリーの思い上がりで無ければ、少しだけ心を通わせていると感じるのだ。

 

 愛しい娘フィオナが生きていれば丁度カズキくらいの年齢になっている。似ても似つかないカズキなのに、どうしても重ねてしまう。

 

 フィオナの代わりなど誰も出来たりしないのに……これは許されない事なのだろうか? 罪深い行為なのだろうか?

 

 カズキは神々の使徒、世界に唯一人の聖女。

 

 たった1人の女が抱き締めていて良いのか、あの日からロザリーの心は千々に乱れて落ち着く事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「このまま一緒に……?」

 

 ロザリーの手元には運搬組が持ち込んだアストからの返答が来ていた。

 

 聖女を帰すべきと決めきれないロザリーには、ある意味で希望通りの答えだった。だがその理由は決して穏当ではない。想像以上に長文の手紙は、聖女カズキの力の源泉や性質が綴られていた。そしてロザリーに納得と怒りを浮かばせる。

 

「血肉を捧げるなんて……だからあの時に……」

 

 アイトール達を癒したカズキの血は、その為のもの。

 

 刻印に縛られた聖女の在り様は、ロザリーに少なくない衝撃を与えていた。最初にカズキを見つけた時も手には包帯が巻かれていたではないか。無邪気に聖女様などと興奮していた自分もアイトール達も殴りつけたくなる。

 

 感情のない手紙の文字なのに、アストの血を吐くような思いが見えるのだ。本当は直ぐにでも駆けつけたいのだろう。

 

 だが主戦派との見えない戦いは続いている。カズキを道具の様に扱い、それどころか拷問染みた事をするような集団に攫われる訳にはいかない。今はリンスフィアから離れた場所のほうが安全なのだろう。隊商も安全とは言い難いが、森に入らなければ大きな危険は確かに少ないのだ。

 

 手紙の最後には、南部付近へ訓練と称した部隊を派遣し後方で待機させておくこと、帰還時はその部隊と合流して欲しいとの要望、部隊長に顔見知りのケーヒルを当てた事が書かれていた。だが何より……カズキを頼むと綴られた言葉に隠された思いはロザリーに強く伝わってくる。

 

 手紙から目線を上げた先には、カズキが感情を見せない顔で燃える薪の火を眺めていた。女性であるロザリーの目にさえ、美しく何処か艶を感じて心臓が波打つのを感じさせる。

 

 ロザリーと似た深い緑色の厚手のパンツとシャツはまるで新米の森人のようだが、実際は過酷な運命を背負わされた聖女……何度も傷付き、血肉を捧げて人を癒してきたのだ。苦痛の叫びを上げる事も、人にすがる事も、笑顔すら殆ど浮かぶ事はない。

 

 ゆらゆらと揺れる炎に合わせて輝く翡翠色の瞳を見たとき、ロザリーは涙が流れていくのを止める事は出来なかった。 

 

 それに気づいたカズキが心配そうな顔で近付いて来る。

 

 その手には簡単な刺繍を施した白い布、テルチブラーノの食堂で血を拭ったあのハンカチだ。

 

 捨てたと思っていたそれを自分で洗ったの?

 

 一向に手に取らないロザリーに痺れを切らしたのか、おずおずと流れ出る涙を拭く。

 

 ああ……数々の刻印はカズキを聖女たらしめるのだろうが、それが何だと言うのだ……

 

 ロザリーは耐え切れなくて、カズキの小さな身体を掻き抱いた。

 

 拭いてくれた涙は再び溢れてきたが、カズキはロザリーのするがままにさせてくれた。馬車で一度嗅いだ懐かしい匂いが今も変わらず鼻をくすぐる。

 

 その涙は他の森人にも見えていたが、誰も冷やかすことなどない。

 

 優しく見守るその先には、母と娘の姿があるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





【挿絵表示】

えのき茸さんから頂きました。ロザリーにせびった筈のお酒はジュースだった!? お酒に変わらないかなと睨むカズキの図。 ありがとうございます!


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39.手紙

誤字報告頂きました。ありがとうございます。感想や評価も励みになっています。


 

 

 

 

 

 リンディア城の城門は昼間であっても閉ざされている。

 

 これは防衛上の理由では殆どなく、訪れる者が大きく減少したからだ。城を運営する上で大勢の人の力が必要になる。だが、それぞれは各通用門からの出入りが主となり城門には用は無い。

 

 リンディアの城門はその門よりも横に広い階段を五段ほど上がった先にあり、アーチ状の石積みの壁は高く圧迫感すら覚える。監視塔は城門を遥かに超えた高みに見え、絶えず篝火が焚かれていた。だが守衛の数は少なく、正面から見える範囲では数人しかいない。これも人の主敵である魔獣が遥か先の森に住む事と無関係ではないだろう。

 

 城門の横には人が二人程度なら並んで歩ける程度の通用門があった。高さもやはり大人二人分ほどか。城門を正面から見た場合、真横に入るかたちだ。

 

 その木製の扉の前で、3人の守衛と一人の男が立ち話をしていた。

 

 男は深い緑のパンツと上着を着ている。あちらこちらに大小のポケットがある特殊な形状の厚手の服だ。金属製の金具も腰辺りに数多くあり、何かを掛けたり収納に使うのだろう。更に元は泥汚れだろうか、洗っても取れていない跡が見えて決して綺麗とは言えない格好だった。

 

 その男、森人のアイトールは上手く運ばない状況に当惑していた。

 

 

 

「だから、直接渡して欲しいんですよ!」

 

「アイトール……いくら何でもそれは無理だ。俺はお前をよく知ってるから変な物じゃないのは分かってる。だが、いきなり来て殿下に直接とは簡単じゃないことくらい理解出来るだろう?」

 

 先程から似た様な押し問答を繰り返している。

 

 アイトールは生真面目な気質が災いしたのか、愚直にロザリーの要望を通そうとする。守衛たちもはいそうですかと認める訳にはいかない。話は平行線を辿るしか無く、時間だけが過ぎていった。

 

「……そうだ! クインさん、いやクイン様なら駄目ですか? せめてそれぐらい……」

 

「呼びましたか?」

 

 アイトールや守衛からは柱が影となって、丁度見えていなかった。その凛とした声音は煩くしていた彼等の耳にも届き、全員が慌てて顔を向ける事になった。

 

「クイン!」

 

 年配の守衛は顔見知りなのだろう、その声の持ち主が良く知る女性だと分かった。

 

 柱から顔を覗かせたのは袋を抱えたクインだった。袋からは果物が顔を出しており、買い物帰りなのは一目瞭然だ。リンディアでもかなりの重要人物なのだが、本人は一侍女でしかないと譲らない。昔の侍女は買い物などしなかったが、今の時代は侍女も下働きするのは当たり前なのだ。

 

 アイトールは有名なクインを勿論知ってはいたが、こんな近くで見るのは初めてで体が緊張で固まる。

 

「ああ、アイトール……こいつは森人なんだが、殿下に直接手紙を届けたいらしくてな。手続き上確認が入る事を納得してくれない。その説明をしていたんだ」

 

「納得出来ない訳じゃなくて、ロザリーに頼まれてるんですよ! 直接手に届く様にって。無理だったらクイン様に渡すように言われているんです」

 

「ロザリー様に? 確か今は隊商の旅でリンスフィアにいない筈ですね……」

 

 それとわたしに敬称は必要ありませんからと、付け足すのを忘れないクインだった。

 

 更にクインはアイトールに内容は聞いていますかと問う。美しい金髪に隠れたクインの耳に、緊張しながらアイトールは小声で囁いた。

 

「聖女様の事です」と。

 

 

 

 驚きを一瞬だけ見せたクインは守衛に断りを入れ、アイトールを伴って通用門を潜り抜けて行った。

 

 

 

 

 

 

 

「この手紙を持ち込んだのは誰だ?」

 

「森人のアイトール様です。ロザリー様のお知り合いだそうですが」

 

 流し読みをしたアストからは、驚きや歓喜、安堵と焦りが見えてクインも何か予感がした。

 

「カズキだ……マファルダストと、ロザリーと一緒にいると……」

 

「マファルダストと……? やはりリンスフィアから離れていたのですね……」

 

 アストの驚愕や歓喜の理由がよく分かった。それを知った自分もそうなのだから当然だろう。どれだけ探しても見つからないカズキは、何かの目的を持って行動しているとクインは考えていた。 

 

「そのアイトールと話がしたい、城に呼び出せるか?」

 

「まだ城内に待って貰っています。直ぐにお呼びします」

 

「いや、こちらから行こう。場所は客間だな?」

 

「……わかりました」

 

 クインはアスト自らが赴く事に少しだけ小言を言いたくなったが、カズキの消息が知れて焦るのも仕方がないと内心を納得させた。

 

 

 

 

 

 

 走る事を我慢しながら、それでも早足で廊下を進むアストの背中をクインは見詰めながら続く。

 

 あれから10日以上カズキの姿を見つける事は出来ず、さりとて大々的に捜索する訳にもいかなかった。主戦派の動きは不気味な程に無く、調査も一部を除き殆ど進んでいない。捕らえた者からは有用な情報が得られず、その姿の全容は掴めないままだった。

 

 アストだけでなく、アスティアもクイン自身ですら沈む心を止める事など出来なかったのだ。アスティアなどは目に見えて窶れやつれ、美しい銀髪も心なしかくすんでいた程だ。この後直ぐにアスティアに報せなければいけないだろう。

 

「殿下、お待ちください」

 

 その勢いのままドアを開けようとするアストに苦笑しながらも押し留める。クインはドアを緩やかに三度叩き、僅かな間を置いて開き優雅にお辞儀をする。

 

「アイトール様、お待たせ致しました。殿下、どうぞ……」

 

 中央に据え付けられた巨大な一枚板のテーブルの側に緊張した面持ちで座っていたアイトールは、慌てて立ち上がりガタンと大きな音を立ててしまう。

 

 アイトールからしたら手紙を届けるだけの簡単な仕事の筈が、有名なクインが現れ、更に王城の客間まで通されていたのだ。テーブルに置かれた紅茶と菓子は非常に美味そうだが、手をつけて良いものか頭を悩ませていた。

 

 それでも勇気を振り絞り恐ろしく薄い陶磁器のカップに手を伸ばした時にノック音がして驚き、クインが現れたと思ったらアスト王子殿下が部屋に入って来たのだ。

 

 不器用な男を自認するアイトールは、緊張の余りにテーブルに足をぶつけてしまった。

 

「ア、アスト殿下! こ、この様な格好で申し訳ありません! 自分は、自分はア、アイトールであります!」

 

 何処か焦った表情のアストに、何か粗相を働いたのかと緊張は最高潮に達した。

 

 アストは余りに緊張しているアイトールを見て、焦る自分を内心笑ってしまう。きっとこの内心を表に出したら、アイトールと変わりはしないだろう。

 

「アイトール、待たせて済まなかった。それと森人の姿は誇り高いものだ。いつもリンディアの為に尽くしてくれている事を感謝している。私もひとりの騎士でもある、君とはある意味で戦友なのだから緊張などしないでくれ」

 

 アイトールの手を取り、しっかりと握手をした。

 

「は、はい! 恐縮です……」

 

 緊張しないのは無理だとしても、アストの声音と柔らかな笑顔に少しだけ肩の力が抜けたアイトールだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 テーブルには入れ直された紅茶が二つ並び、芳しい香りを漂わせている。クインがいつの間にか用意したカップと種類の違う茶菓子だ。当人はテーブルから少しだけ離れた場所に静かに佇んでいる。

 

「テルチブラーノか……」

 

 最西端と言っていいあの町でアイトールは手紙を預かって来た。十分過ぎる程に信頼の置けるロザリーに保護されている事は、アストに一先ずの安堵をもたらした。

 

 何故マファルダストと共にいるのかは不明だが、森を廻る隊商に同行している以上何か意味があるのかもしれない。思わず考察を深めそうになったアストだが、頭を切り替えて質問を続けた。

 

「アイトール、ロザリーは手紙の内容は聖女に関するものと言っていたんだろう? 君は疑問に思いはしなかったか?」

 

「とんでもない! あの方は間違いなく聖女様です! 私や仲間の怪我を一瞬で治癒してくれました。白い光が放たれたと思ったら痛みは消え、意識もすぐに戻ったのです……あの美しい瞳は今から思っても……」

 

「……待ってくれ、済まない。 カズキは……君達の怪我を治したって?」

 

「……? ええ、はい。我々は狼にやられてテルチブラーノに運び込まれたのです。大勢が見ていたので間違いありません。きっと大変内気で大人しい聖女様なのでしょう。頬を赤く染め我々の礼など要らぬとばかりに、ロザリーの手を引き立ち去ろうとなされました」

 

 内気で大人しい、頰を赤く染め……色々と突っ込みたい描写が多いが、何より重要なのは衆目の集める中で聖女の力を行使した事だろう。

 

 噂は簡単に流れて、リンスフィアに届くのに時間はかからない。最早隠す事は不可能で、意味もないだろう。

 

「何より怪我が治って良かった。他に気付いた事は何かあるだろうか?」

 

「そうですね……ロザリーは直接アスト殿下に手紙を渡すように念を押していました。何か理由があるのでしょうが、不思議だと感じたくらいでしょうか」

 

「……ありがとう、よく届けてくれた。ところで、聞かせて欲しい……カズキは、聖女は元気にしていただろうか?」

 

 アイトールは未だに緊張は解けてはいなかったが、アストの年齢に違わない優しい質問に笑顔が溢れた。

 

「ええ、大変元気でいらっしゃいました。可愛らしいお姿で、ロザリーに懐いているのでしょう。まるで仲の良い母娘のようで、こちらまで幸せな気持ちになる程でした」

 

「そうか……ロザリーに手紙を返したいが、いち早く届けるにはどうしたら良いだろう?」

 

「それなら間も無くマファルダストの運搬組が出ます。通常の隊商とは違うルートを辿りますから到着は早いですし、彼等に預けるのが一番確実です。この後言付けておきましょうか?」

 

「アイトール、頼めるか?」

 

「勿論です。明日にはリンスフィアを発つはずですから、誰かを寄越すよう伝えます」

 

「助かるよ……少し冷めてしまっただろうが、お茶を楽しんで帰ってくれ。クインの入れたお茶も手作りの菓子も最高だからね」

 

 一瞬だけクインの頬が赤く染まったが、直ぐに平静な顔に戻ってアストに余計な事は言わないで欲しいと目で訴えた。

 

 アストはクインに軽くウインクを返して客間を後にする。

 

「手作り……」

 

 アイトールは思わず呟いて菓子を手に取った。

 

 クインの顔はまた少しだけ赤くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスティア、入ってもいいかい?」

 

 ノックをした手をそのままに、アストは声をかける。

 

 暫くすると物音がして、ドアが開けられた。

 

 部屋の中は薄暗く、カーテンが閉められているのが分かる。ベッドに横になっていたのだろう、少しだけ乱れた長い銀髪は力なく垂れている。リンディアの花と謳われる眩しい笑顔も、アストと同じ碧眼も光を放ってはいない。

 

「……兄様、どうしたの?」

 

「アスティア、良い報せだよ」

 

 万が一にも他に聞かれる訳にはいかないと、後ろ手にドアを閉めたアストはアスティアの手を取った。目線を合わせる為に少しだけ腰を落とし、アスティアを真っ直ぐに見た。

 

「カズキが見つかったんだ。リンスフィアにはいないが、元気にしていると報せる手紙が来たんだよ」

 

 先程まで力の無かった眼に一気に光が宿る。

 

「何処にいるの!? 直ぐに会いたいわ!!」

 

 アストの胸に飛び込み、上目遣いでアスティアは叫んだ。

 

「ああ、会いたいな。でも今は遠い場所にいるから、直ぐには無理だ……手紙を読むかい?」

 

「遠い場所……見せて、手紙が見たい!」

 

 懐から出した便箋に飛びつくように手に取ると、走り出してカーテンを勢いよく開ける。

 

 さっきまでは死と眠りを司る黒神、エントーの加護を失った人のようだった。今は白神の加護を一身に受けた少女の様に、本来のアスティアに戻ったようだ。

 

 ガサガサと音を立てて紙に穴が開くのではと心配したくなる勢いで文字に目を落としている。

 

 カズキの存在はアスティアにとり、どれだけ大きくなっていたのか……アストは優しくアスティアを見守った。

 

 

 

「良かった、無事で……無事でいてくれて……」

 

 帰ってきたカズキはまるで魂魄の抜けた人形のようだった。主戦派に攫われたカズキに何があったのか今でも詳しくは聞いていない。それでも、どれだけ酷い目にあったのかは想像が付くほどだったのだ。

 

 リンスフィアで起きた聖女の奇跡は、アスティアには必ずしも幸せな事では無かった。

 

 勿論男の子の命が救われたのは素晴らしい事だ。だがアスティアにとっては、カズキが遠い人に感じられ姿まで消した悲しい出来事だった。カズキの行方は杳として知れず、つい先程もベッドでカズキとの思い出に浸っていたのだ。

 

 

 アスティアの目に涙が滲んで、大事な手紙に一粒だけ落ちた。

 

 振り返ると開け放ったカーテンを整えて、窓を開けるアストの姿があった。アスティアの涙には気付いているだろうが、それを指摘などしない。

 

「兄様、この御手紙のロザリーって、どんな人?」

 

 最後に記されたサインは、ただロザリーとしか綴られていない。名前から女性と知れる上、その丁寧な文字からは人柄を察せられる。それでも愛する妹を預かる人が気になってしょうがない。

 

 アストはその気持ちを察して、指で優しくアスティアの涙を拭った。

 

「信頼の置ける素晴らしい人だよ。隊商マファルダストの隊長で、優れた森人でもある。名前からも解る通り、優しくて強い女性だ。ロザリーなら安心出来る、カズキを守ってくれる、それは保証するよ」

 

 アストの力強い言葉は、ようやく心からの安堵の溜息をこぼさせた。

 

「良かった……」

 

「アスティア、全部読んだんだろう? カズキがまたお酒で騒ぎを起こしたみたいだから、叱らないといけないな」

 

「……ふふっ、そうね! カズキったら相変わらずみたい、お酒好きの聖女様なんて格好がつかないもの!」

 

 真っ赤になったカズキの顔が手に取るように想像出来て、アスティアは久しぶりに笑った。リンディアの花の花弁は再び開いたのだ。

 

 兄妹は同じ色の瞳を合わせて、もう一度吹き出して笑う。アストを探していたクインも、戻ってきたエリも扉の向こうから二人の笑い声が聞こえて幸せな気持ちになった。

 

 リンディアに久しぶりの笑顔が帰って来たのだ。

 

 ロザリーが届けた報せは、間違いのない吉報だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




久しぶりのアスト達、如何だったでしょうか。


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40.マファルダスト⑦

評価頂いた方が50人に達しました!ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 運搬組が離れて行くのを見守っていた。

 

 西の森からは少し距離がある野営地には、森人達が思い思いに寛いでいる。森でのひと仕事を終えた皆は、近くの小川で汚れを落として疲れを癒していた。

 

 身体中に塗り込んでいた泥は乾き、獣臭の強い毛皮も薄汚れて汗の匂いもキツかったのだ。森人である以上慣れたものだが、それでも解放感には抗えないのだろう。

 

 馬車が平原の遥か彼方に消えていき、ロザリーはホッと息を吐いた。

 

「姐さん、お疲れ様でした」

 

「ああ、お互い様だよ。嬉しい悲鳴とは言え、凄い成果だねぇ」

 

 西での狩猟は想像を超えて、質・量ともに過去最高だった。しかも予定より2日以上早く終了したのだ。見渡せばマファルダスト一行に笑顔が溢れ、乾杯を繰り返している。

 

 隊商は商売ではあるが、同時にリンディアの補給線でもある。皆が誇りを持ち、家族と故郷の為に命を賭けているのだ。そこに喜びがあるのは当然だった。

 

「「我らの聖女様に!!」」

 

 カズキを囲み何度目とも知れぬ乾杯の声が上がり、皆が歯をむき出して大声で笑う。カズキに笑顔はないが、何処か浮ついた雰囲気を漂わしていた。何より目線は自身の手元に向かっているようだ。

 

 カズキの手にも木製のカップが握られている。薄っすらと紅い頬を見れば、注がれた液体が何なのかは明らかだった。

 

 ロザリーは一瞬止めるべきかと足を踏み出しかけたが、今日くらいは良いかと苦笑する。勿論飲ませるのは今の一杯が最後だが。

 

「聖女様がおられるだけで、何処か明るくなりますなぁ」

 

 フェイの呟きはマファルダスト一行の総意だろう。 

 

 カズキ自身が何かをする訳ではない。普段はロザリーと一緒にいるが、何時も厳しいそのロザリーにも笑顔が増えた。カズキは滅多に笑う事はないが、それでも極稀に薄っすらと笑う時がある。皆は幸運の笑顔と有難がっていた。

 

「まあ、化けの皮が剥がれて、お転婆聖女とバレちまったけどね」

 

「ははは……いいじゃないですか。神々の使徒であっても、普段は一人の少女。皆喜んでますよ」

 

「例えばアレかい?」

 

 指差した先でリンドが鼻の下を伸ばし、チラチラとカズキを見ている。ロザリーにとって頭の痛いのは、聖女様の酒癖だけではない。恥じらいと言う言葉は聖女には無いのか、兎に角スキが多いのだ。注意したくても言葉は通じないし、今も際どい姿勢を気にしてもいない。

 

「……まあ、アレは良くないですが……」

 

 リンドが馬鹿な顔をしてカズキの胸元を見ているが、本人は気付いてもいない。それどころか前屈みで干し肉を取るものだから、襟元が開いて危うく素肌が垣間見える。今は大丈夫だが、スカートで膝を立てる事もしばしばだ。

 

「はあ……」

 

 その深い溜息は、お転婆娘への愛情の裏返しなのだろう。なによりフェイには懐かしさすら感じる。ロザリーの愛娘フィオナもお転婆で、よく溜息をついていたものだ。

 

 眩しい光を見るように目を細めたフェイは、リンドを懲らしめるべく輪に向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明日以降の天候を確認する為、ロザリーは焚かれた火の灯りから離れ空を見上げた。

 

 皆の騒ぎ声は聞こえるが、光が薄れた事で美しい夜空が目に入ってくる。地平線や緩やかな丘の稜線からも、はっきりと輝く星々が見える。だが、星の光の瞬きが何時もより多いとロザリーは気付いていた。

 

「直ぐにではないが、崩れるかもね……」

 

 一度テルチブラーノに戻っても良かったが、雨雲から逃げるなら南にそのまま向かった方がいい……ロザリーの頭の中には明日からの予定が組み上がっていく。雨は馬車での行程に想像以上の負担を強いるのだ。テルチブラーノに戻れば足止めを喰うかもしれない、せっかく稼いだ時間も無駄になるだろう。

 

 真上を仰ぎ見たロザリーは、そのまま南に向かう事に決めた。南限の町センは遠いが、結果的にそれが効率的だと判断する。

 

 そんなロザリーの耳に砂利を踏みしめる足音が響いた。

 

 振り返ると両手にカップを持つカズキがゆっくりと歩いて来ていた。液体が満たされているカップの所為だろう、少し用心深く歩く様はロザリーには微笑ましく可愛らしく見える。

 

「態々持って来てくれたのかい? ありがとうね」

 

 差し出されたカップを受け取り笑顔が溢れる。薄暗い今も翡翠色の瞳は輝き、ロザリーを捉えていた。

 

 カズキは笑顔を見せたロザリーに安心したのか、手に残ったカップに両手を添えて星空を見上げる。カズキが居た世界とは比べるのも烏滸がましい星の海に、暫し静かな時間が流れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 合っているのか確認など出来ない以上、只の妄想なのかもしれない。

 

 カズキは不思議な感覚を持て余していた。

 

 言葉は相変わらず解らない。人の名前だって一人として知る事など無かった。なのに最近ふと気付いたのだ。

 

 それは余りに急で、最初は遂に妄想癖まで患ったのかと諦観したものだ。だが耳に入る音だった物が何か単語になって響き始めた。頭を振っても、以前と比べ物にならない柔らかい頬を叩いても変わりはしなかった。

 

 間違いなく相手は大人の女性なのに、カズキを孤児院に捨てたあの女と変わりはしないのに……

 

 

 カズキの精神は持っていた暴力性が静まり、少しずつ穏やかに変わっていく。この世界に来た頃は昔と変わらず内心汚い言葉を吐いていたし、全てが敵に見えていた。それは女性の身体を持つ事による変化なのか、カズキ自身も気付いてはいない。

 

 逃げ出したあの部屋で会った連中すら悪意など無かったのではと感じる自分がいる。

 

 裏切られた筈なのに、拷問としか思えないあの治癒の強制も他人事のように思う。

 

 銀髪の王子様やお姫様、天敵金髪侍女やお間抜け侍女は敵などではない?

 

 

 黄金色の瞳を持つ赤毛の女性の名前。

 

 ()()()()()

 

 最近つい目で追ってしまう。視線に気付いて笑顔を見せられると慌てるが、それも嫌ではない。

 

 今も隣に座って二人夜空を眺めている。

 

 カップに唇を当てて、チラと横顔を見つめてしまう。 

 

 合っているのか、そもそも名前なのか聞く事も出来ない。それでもこの世界に飛ばされて、初めて言葉らしいものに触れた。拘ってしまうのもしょうがないとカズキは無理矢理に自分を納得させていた。

 

 だから、擽ったい、柔らかい、カズキはそんな感覚を持て余している。

 

 

 

 

 カズキの視線に気付いたロザリーは、指通りの良い黒髪に手を伸ばした。

 

「大して手入れもしていないのに、信じられない手触りだね……肌も荒れてないし、何処か良い香りもする。不思議な娘だよアンタは」

 

 鬱陶しいだろう顔はしているが、手を払ったりはしないカズキにロザリーは調子に乗って頬を撫でた。

 

 流石に驚いたのか、ビクっとしたと思うと立ち上がって去って行った。

 

「ははは! 悪かったよ!」

 

 すっかり暗くなった闇夜に、ロザリーの笑い声が響き渡っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 臀部に刻まれた憎しみの鎖は色が薄れている。

 

 脛の自己欺瞞は階位が一つ下がり1階位に変化した。

 

 姿形は変わらなくとも、首回りの言語不覚は2階位となった。

 

 そして……聖女封印の力は明らかに衰えていく。

 

 

 カズキ本人は勿論、共にいる時間が長いロザリーすら気付いていなかった。

 

 クインやコヒンが居れば直ぐに判っただろうが、今は望むべくも無い。

 

 変化は少しずつ、しかし間違いなく始まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガタガタと揺れる御者台の上から後ろを振り返れば、あれだけ青かった遥か彼方の空が灰色に染まるのが見えた。

 

 随分離れたから影響はないが、ロザリーの予想は間違っていなかったようだ。しかし流れ出した雲とは逆に進むマファルダストには今も燦々と光が届いている。

 

 リンディアは平原と丘の国で、ずっと遠くまで見渡すことが出来る。雄大な風景は何処までも続き、空と大地のコントラストは美しい。灰色の雲や雨すらも景色を彩る絵の具でしかない。

 

 感情の乏しいカズキでも、あのベランダから見る景色は気に入っていた程だ。

 

 

 

「次の野営地では薪は節約するからな」

 

「やっぱり南は大変なんですか?」

 

 珍しくフェイとリンドが馬を並走させていた。フェイが知る知識をリンドに伝える為だろう。リンドは素行こそ褒められたものではないが、目や耳が良く剣の扱いも中々のものだ。将来有望な森人と言って良かった。

 

「ああ、そうだ。南は最もリンスフィアに近い森があり、防衛の町もセンしかない。その分森の奥行きもあるから、魔獣との遭遇率も下がるがな」

 

「なら、木材も多く手に入るんじゃ?」

 

「いや、そうとも言えないな。何故か南は森に入って活動すると一気に遭遇率が上がるんだ。ただ入っただけならそうでもないんだが、採取や狩猟はかなりの危険を伴うと言われている」

 

「その分実入りも多いが……最近は騎士もやられたからな、西とは違うぞ」

 

 フェイには森人イオアンの姿も頭に浮かんだが、リンドには言っても意味がないと口にはしなかった。

 

「そうですか……それならセンで補給すれば……」

 

「勿論補給はするが、あそこは騎士の町だからな。森人に合う物資が少ないのさ……訓練所もあるし、新人騎士達で溢れているぞ」

 

「うへぇ、五月蝿そうですねぇ……」

 

 フェイはお前が言うなと呆れたが、これも無駄と捨て置く。

 

「リンド、お前は筋が良い……それは姐さんも認めている。だが、まだ浮ついた根性だけは気に入らない。聖女様への接し方といい、遊びじゃないんだぞ」

 

「うっ……すいませんってば……あの事なら随分謝ったじゃないですか……」

 

「相手は神々が刻印を刻んだ使徒、聖女様だぞ。不埒な考えを持つんじゃない」

 

 えーっという顔をするリンドにフェイは頭が痛くなった。

 

「フェイさんの言う事も分かりますけど、あんな美人見た事ないんですよ? おまけに何処か男らしいと言うか、落差がまた堪らなくないですか?」

 

 惚れない男がいる筈ないですと開き直るリンドに、フェイは放っておく事に決めた。

 

 神々の怒りを買うか、その前にロザリーの更なる制裁が待つだろう。フェイも余計なとばっちりは御免だった。

 

 

 

 南への旅路は特に事件も無く、マファルダスト一行の目線の先に平原ではない景色が見えて来た。

 

 テルチブラーノより面積は広い。ただ監視塔が目立つ程度で、町全体は低い建物が連なっている。森の監視、騎士達の訓練所、僅かな店や宿、鍛冶師達が腕を振るう町。

 

 南限の町センはすぐそこまで迫っていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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41.闇を歩む者

幸せなカズキ達の裏で、蠢く奴等。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森と町は融合しつつあった。

 

 それはつい最近の事で、森と呼ぶにはまだ早いと誰もが言うだろう。

 

 石造りの建物は姿を止め、石畳の街路や路地すら見つける事が出来る。店先に掛けられた看板も風に揺れてキーキーと音を立てていた。町を俯瞰して見れば三分の一程が少しずつ緑に塗り替えられているのが判る。

 

 一見その町は美しく、妖精と人が共に暮らす幻想の世界を生み出したかの様だ。

 

 だがそれも明るい朝日に照らされながら、町を歩く事が出来たとしたら……残酷な現実を世界を知るだろう。

 

 蔦に覆われ緑色をした建物には、抉られた様な溝が何本も刻まれている。乱雑に刻まれたそれは、全てが獣の引っ掻き傷に見える。しかし側に立ち見上げれば慄くだろう、熊どころでは無い巨大な傷に。

 

 あちらこちらに黒く変色した液体の跡がある。

 

 筆先に付けた黒い塗料を振り撒いた様な壁、桶に汲み置いた液体をぶち撒けた様な道。

 

 黒と相対する白も見える。

 

 黒く染まった地面に散らばった白は、棒状だったり、湾曲した弓の様だ。大小様々な白は町を縦横に走る道だけで無く、建物の中にも散見された。

 

 妖精がもし居るのだとしても、この町には人はいない。いや()()()()と言い換えるべきか。

 

 

 

 死だ。

 

 

 

 この町、いや町だった此処には死が蔓延している。

 

 魔獣に襲われた町は一瞬で色を変えたのだ。町のあちこちに散らばる錆びた剣や鎧は騎士だろう。折れたり曲がったりした剣は主人を失い、砕けた鎧は只の錆びた鉄と革の塊になった。

 

 草の緑の合間に見え隠れする黒の塗料は、間違いなく血で、大小の白は肉を失った哀れな骨だ。

 

 過ぎ去った日々は、帰っては来ない。

 

 悲劇の町。

 

 今となっては珍しくもない森にのまれた町、その名はマリギと言う。

 

 数年前に死んだ最北端の町、それでもマリギはまだ緑に染まり切ってはいなかった。

 

 世界のあちこちに在る、今となってはありふれた景色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうだ、それでいい」

 

 子供とは言えない、かといって大人でもない。 真新しい鎧と訓練用だろう木剣を振り回す様子は微笑ましくもあるだろう。年の頃は15歳から20歳程度の新人騎士達はひたすらに訓練を繰り返していた。

 

 だがそこに、新人らしい甘えを感じたりしない。

 

 体力作りや装備の管理、それこそ先輩騎士の世話など新人にやる事は多い……筈だった。

 

 しかし、時代は変わった。

 

 たとえ新人であろうとも一人の騎士であり、戦力に数えられる。他の騎士などに構っている余裕などリンディアにも世界にもありはしない。いつとも知れぬ魔獣との戦いは目の前に存在し、消える事など無いのだろう。

 

 訓練はあくまで実践的で、剣をまともに握るのは3年目などと言われていたのは過去の話だ。騎士を目指す若人は、そうなる前から自身を鍛え上げている。 

 

 家族や身近な人を殺す魔獣を打ち滅ぼし、美しきリンディアを護る。死の可能性すら飲み込んで、剣を王国に捧げるのだ。

 

 自らの命を賭けて国や人に奉仕する姿に誰もがこうべを垂れるだろう。

 

 

 

 

 

 ーー南限の町「セン」

 

 西の町テルチブラーノと同じく、森からの侵攻を監視している。しかし丘に築かれたテルチブラーノとの違いは多い。

 

 平原の海に浮かぶ巨船の様に平らな地に開かれた町。店や宿もあるが、目立つのは訓練所だろう。二階建ての宿舎が整然と建ち並び、鎧姿の若者が多く歩いている。基礎こそ石造りだが木組みの宿舎は色褪せてくすんでいて、所々に補修の跡がある事で積み重ねた歴史すら感じられる程だ。

 

 全体的に低い建物が多く、目立つのは監視塔くらいだろうか。

 

 

「剣の握りはそれでもいいが、魔獣相手では短くするんだ。力を抜き、叩きつけるより手前に引き絞る感じを心掛けろ。魔獣の皮膚に力尽くは通じないからな……一撃など不可能と言っていい」

 

 

 土が剥き出しの道が宿舎に沿って走り、向かいの建物からは金属を打ち鳴らす音が響いていた。複数の鍛冶師達が腕を振るっているのだろう。

 

 厩舎も訓練所に併設され、調教師や世話人が多く働いている。馬は水や餌を大量に消費し、鐙や鞍などに慣らす事にも大変な労力が必要となる。命を賭ける騎士達を支えようと、皆が誇りを持ち働いていた。

 

 南に向かう森人の宿場として重要な場所でもある事で、テルチブラーノよりも賑やかな町と言えるだろう。

 

「腕の力に頼るんじゃない、重要なのは足だ。強い踏み込みと柔軟な膝がないと魔獣に傷は負わせられないぞ。膝は絶えず柔らく、反撃に備えるんだ」

 

 若い騎士達は教導官の指導を熱心に聞いていた。

 

 教導官も数多く居るが、最近センに来た教導官は瞬く間に騎士達の心を掴んだ。

 

 怒鳴り声を上げ、訓練と称する拷問染みた鍛錬を課す者が多い。もちろんそれも無駄では無い。死と隣り合わせの戦場では生温い感情や個性など害ですらある。何人もの戦死者を見た教導官達は、心を奮い立たせて新人に相対するのだ。

 

 この教導官は違った。

 

 まず、一人一人と剣を切り結んだ。中には反抗心を持った新人騎士も居たし、腕に覚えのある者も多かっただろう。何より血気盛んな若人達なのだ。一対一とはいえ何十人も相手にするなど不可能と誰もが思った。

 

 彼は大して動きはしない。右手に握られた剣も下に垂れ、構えらしい構えも無かった。

 

 浅黒い肌や垣間見える腕の筋肉は只者では無いと知れる。しかし強者特有の覇気は感じられず、圧迫感は無いに等しい。

 

 だが、半日も掛かりはしなかった。全員を相手取るのにだ。

 

 まず、速い。

 

 緩やかに動き出した手足の筈なのに、気付いたら咽喉元に剣が添えられていた者が多数。ならば力でと近接戦を仕掛けた者達の手から、何本も宙を舞う剣。 

 

 それでいて良かった点を伝えた上で、改良点すら指摘してくれた。

 

 笑顔こそ多くは無い。

 

 だが低い嗄れた声ながら優しい響きすら感じて、瞬く間に新人達は尊敬の眼差しを送る様になった。

 

「騎士の真骨頂は集団戦だが、間違ってはダメだ。一人の剣が戦局に変化を齎す事もある。過信は罪だが、個人戦の腕を磨くのは思わぬところで役に立つ」

 

 木剣を振るう新人達に次々と歩み寄り、それぞれに見本を見せる。

 

 一度剣を置き、じっくりと魔獣との戦闘経験を伝えた。そこには自身の自慢話など無く、客観的な事実のみを口にする。

 

 疲れの残る訓練後も、この教導官は時間を割く事を厭わなかった。まるで追加の講習でも開くが如く、一人、また一人と参加者は増えていった。

 

 

「ディー教導官殿! 今日の剣技を私にもご教授頂けますか?」

「教導官殿は実戦時はどの様な装備を用意されますか?」

「今までで最も大きな魔獣は、どの程度のものでしょうか?」

「日常の訓練以外に行うべき事はありますか?」

 

 

 ディーは数々の質問にも嫌な顔すらせず、全て丁寧に答えていく。

 

 任官から3日目には、ディー自らが選抜した十数人達に特別講義すら始まった。不思議な事に剣の腕は余り考慮されていない様だった。明らかに腕の優れた者を差し置いて指名される騎士もいる。そこにも深い意味が隠れているのかと、やっかみも少なかった。

 

 選抜から漏れた者達も、更に腕を磨き認められるべく日々を過ごす。南限の町センに新たな風が吹き、騎士が育ち始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 センに新たな教導官が着任する前ーー

 

 

「どうだ?」

 

「はい、概ね順調に推移しています。特にマリギ出身者は簡単に賛同に転じました。目標数に届き次第、皆を集めます」

 

 数年前に魔獣の襲撃を受けた街マリギは、まだ記憶に新しい。出身者もいるし、親族の遺体すら回収出来ていない者も多い。 

 

 子飼いの情報官から手渡された紙には賛同者の氏名、所属、階位、更には人格や過去等が網羅されている。家族構成や魔獣からの被害は丁寧に調べてあり、動機の信憑性や裏切りの可能性すら明記していた。

 

「聖女の存在をどの様に捉えているか……ふむ、難しい定義だが良く調べてくれた」

 

「恐れ入ります」

 

「明日までに選抜しておく。マリギ周辺への配置を加速しなければならない。時間は有限だ……分かっているな?」

 

「勿論です……しかし、ユーニード様自らが表に出るなど……わたくしでも、誰でも当て込む事は?」

 

 ユーニードはあっさりと頭を振った。

 

「駄目だ。皆が言う所の主戦派の代表が捕まる……それが重要なのだ。ましてや、既に疑われているよ。聖女を試した日の足取りも探られているのは間違いない」

 

 カーディル陛下もアスト殿下も聡い方々だ、ましてやクイン=アーシケルもいるのだ……呟くユーニードには王家に背を向けた後でも忠誠は残っていた。

 

「油断と時間がいる。聖女をもう一度使い、マリギ奪還を成すのだ。マリギが奪還出来るなら我が故郷もとなるのは必然だろう。魔獣を恨み、故郷を追われた者は余りに多い。王都に流れる浮ついた噂もそれで消し飛ぶ」

 

「……私はどうすれば……」

 

「気にする必要など無い。私はすべき事を行い、魔獣の断末魔を牢獄で夢見るだけだ。直接魔獣どもを殺せない事だけが心残りだがな」

 

 俯く情報官にユーニードは答え、感情を見せない声で次の指示を出し始めた。

 

 物資や武器の配分、最も重要な[燃える水]を疑われる事無く配置する指令書、邪魔になる可能性がある人員を遠ざける作戦、全てを完結させてカーディルに会いに行かなけばならない。そして最期の具申を行う。カーディルは受け入れないだろうが、ユーニードの意地でもあった。

 

「よし、頼んだぞ。ディオゲネスは何処に?」

 

「外円部です。夕刻には来るように伝えています」

 

「そうか」

 

 頭を下げる情報官に背を向け、部屋からユーニードは出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 廃屋の崩れた天井から月が見える。

 

「ユーニード」

 

 それでも僅かだけ月を見続けたユーニードは、ゆっくりと振り返った。

 

「こっちだ」

 

 ディオゲネスに先導され、奥まった柱の影にある部屋に入って行く。其処だけはしっかりとした壁も扉も残り、蝋燭の灯りも外には漏れ出ていない。

 

 扉の奥には、思いの外片付いた部屋があった。

 

 低めのテーブルには酒と干し肉や乾燥した果物が用意されていて、簡単な宴会でも始まりそうだ。

 

「待たせたか?」

 

「いや、元々此処は俺が使う隠れ家の一つだ。いくつかの装備や金を集めていたら貴様が来た。それだけだ」

 

 見渡せば床の板が何枚か剥がれている。定番だが、其処に隠してあったのだろう。

 

「準備は出来ているな?」

 

「ああ、命令書は受け取った。今更餓鬼の相手など笑えるが、まあ面白い考えだな」

 

「リンスフィアでは……王都周辺ではお前の素性が明るみに出る可能性がある。ケーヒルあたりに見つかる訳にもいくまい。かと言ってマリギにいきなり配置は出来ない。あそこなら先ずは大丈夫だろう。それに、新たな仲間を募る事も出来る」

 

「ふん、聖女の居場所は分かったか?」

 

「いや、不明だ」

 

 言いながらもユーニードは懐から折り畳まれた書類を取り出した。

 

 無言で受け取ったディオゲネスは、酒とツマミを片手に読み進めていく。そこにはマリギ奪還に到るまでのあらゆる準備と、行うべき事が簡素に纏められていた。ユーニードも部屋に入って初めてグラスに手を添え、酒を口内で転がし始める。

 

「……貴様がその身を犠牲にするとは意外だな。魔獣の悲鳴を聞きたいとは思わないのか?」

 

「私が表に出れば警戒は薄れるし、聖女も姿を現わすだろう。その時、再びリンスフィアに戻り決行しろ。見つからなくともマリギ奪還は進める。大勢の尊い犠牲に世論は動き出し、再び機会が巡ってくる。その為の下地はもう作った」

 

 リンスフィアで起きた聖女降臨は、ユーニードに思った以上の衝撃を与えた。放っておいても噂が独り歩きを始め、王家に迫るのも時間の問題だった。聖女を隠せば隠す程良かったのだ。だが、聖女が子供の命を救い慈愛を示した事で流れに変化が起きたのだ。

 

 優しい光、治癒の力、自己を省みない献身、それに加えて可憐で儚い容姿は聖女の偶像を決定付けてしまった。正攻法で魔獣との戦闘に連れ出すなど今は困難と言っていい。

 

 まさに聖女にしてやられたのだ。

 

「神々の使徒である聖女の全てを知る事など不遜なのだろう。だが、時間を余り掛けては不利になる。お前は好きにやればいい」

 

「ふん、俺は大義など気にはしない。時が巡れば魔獣を殺す、それだけだ。だが、少しは貴様の手に乗ってやるさ。もう一度会う事があれば、魔獣の断末魔くらいは詳しく教えてやる」

 

 恐らく、生きて会う事はない……二人は確信を持っていたが、それを言葉にしなかった。

 

 ディオゲネスが騎士団を追放され、再び顔を付き合わせた二人だが相容れない壁があった。だが今宵、初めてグラスを合わせ無言の乾杯をする。友情でもなく、敵でもない。ユーニードとディオゲネスを結び付けた魔獣への復讐心はカタチとなろうとしていた。

 

 前もって受け取っていた命令書を見るディオゲネスに、簡易な文章と押印された紋章が目に入った。

 

 

 そこにはこう綴られている。

 

 

 ーーセン訓練所にて特別教導官を命ずる

 

 ーー直ちに任官し、騎士育成に尽せ

 

 ーー教導官としてあらゆる権利を付託する

 

 ーー教導官名  ()()()=ラズエル

 

 ーー承認者 ユーニード=シャルべ

 

 

 二人はこの時まだ、カズキがマファルダストと共に居る事を知らない。リンスフィアから逃げてテルチブラーノから南の森へ向かう事も、マリギから遠く離れて行く事も。

 

 アストの指示で、ケーヒル率いる部隊がセン付近に配置される事も知らなかった。

 

 テルチブラーノに聖女が現れたという噂がリンスフィアに届いたのは、ディオゲネスが発ってから直ぐの事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ひたひたと陽だまりに近づく闇でした。


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42.マファルダスト⑧

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 鍵を使い扉を開けた先には二つのベッド、テーブル、椅子、そして両開きの窓くらいしか目立つものは無かった。壁も木目が剥き出しで表面が粗く、手を這わせれば怪我をするかもしれない。

 

 こんな下らない怪我をして聖女に癒されたなら、立ち直るのに時間が要るだろう。

 

「しけた部屋ばかりだね……新人騎士の宿舎と変わらないじゃないか」

 

 ロザリーは愚痴を零しながら担いで来た背負袋をベッドに放り投げた。それだけでギシギシと鳴る寝床にウンザリとしてしまう。

 

「ほら、こっちだよ」

 

 扉の前で様子を見ていた様だが、ロザリーの手招きでゆっくりと部屋に入って来た。入ると同時に周囲を見回し、頭から全身を覆っていたマントを両手で脱ぎ始める。

 

 少しずつ露わになった小さな人影は、変わらない無表情そのままのカズキだった。

 

 ロザリーのマントはサイズが余りに違った為、今はテルチブラーノで手に入れたカズキ用の物だ。何処か騎士達に警戒心を持つカズキを少しでも安心させる為、隠蔽用に頭部はかなり余裕がある。色は森人らしい深い緑だった。

 

「暑かっただろう? 今日はやけに日差しが強いからね」

 

 一つしかない腰高の窓を両手で押し開きながら、新鮮な空気を部屋に導く。風だけで無く光を取り入れた事で、ほんの少しだけ気持ちも晴れやかになった。そしてどこか遠くに聞こえていた喧騒が、一気に近づくのを感じる。

 

「……やっぱり汗を掻いてるね、先に綺麗にしようか」

 

 勿論返答は無く、カズキは開け放たれた窓から外を眺め始めた。

 

 南限の町センに入ったマファルダストは、補給すら後回しで休息に入ったのだ。テルチブラーノを出てからまともな町など無く、僅かな集落と野営地の連続は流石の森人達にも堪えたのだろう。それを見てとったロザリーは明日までの休息を宣言した。

 

 翡翠色の瞳が窓枠から映す景色を一言で言うなら殺風景だろう。全体が画一的で色も少ない。高低の立体感も乏しい上に、それが延々と続くのだ。前線で、訓練所を兼ねた町なら仕方がないのかもしれない。

 

 

 

 

 ロザリーはカズキに此処で待つよう合図を送り、一度部屋から出る事にした。鍵を閉めた後、階段近くの部屋に入った筈の男に声を掛ける。

 

「ジャービエル、いいかい?」

 

 直ぐに扉は開き、中に促された。この間にジャービエルは一言も喋らない。

 

「はぁ……あんたねぇ、カズキと違って喋れるだろ? 何か言いなさいよ」

 

「……カードに負けて元気無い」

 

「……あっそ」

 

 部屋の造りは同じだが方角の所為だろう少し薄暗い。ベッドの上には数々の武器類が並んでいて、整理整備中だと知れた。勿論ロザリーは武器類の使用目的を理解している。しかし決して使って欲しい訳ではない。

 

「済まないね、休息日に」

 

「聖女様を守るの当然。それに聖女様優しい」

 

「そうなのかい? あんたと一緒にいるの余り見た事無かったけど」

 

「酒を分けてくれた」

 

 酒好き聖女が酒を分けた? 珍しい事もあるんだねとロザリーは感心した。大方ジャービエルが泣きそうな顔でもしてたのだろう。

 

「とにかく任せるよ。カズキに余計な手出しはさせないようにね。私は出来るだけ早くケーヒルの旦那に連絡を取る、それまでは付き合っとくれ」

 

 主戦派の動きを警戒するのは骨が折れるが、騎士の殆どは善良な者達だ。大きな問題が起きる可能性は低いが、前科がある以上手は抜けない。フェイとも相談し、武力に秀でるジャービエルに手を借りる事にしたのだった。

 

 因みにリンドも中々の剣を使うが、ロザリーにより却下されている。 ロザリー曰くアイツはある意味で主戦派より危ない、だそうだ。

 

「ちょっとお湯を取って来る。廊下の出入りをそれと無く探っておいてくれたら良いからね」

 

 コクリと巨大な身体に載った頭を傾けると、ナイフの研ぎを徐に始めた。シャッシャッ!と規則的な音を奏で始めたジャービエルに少しだけ溜息をついて、ロザリーは階下に降りて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキが眺めるセンの景色は確かに殺風景だろう。だが、喧騒と匂いに耳と鼻を向ければ違う世界が見えて来る。

 

 騒々しい。

 

 一言で言えばセンはそんな町だろう。

 

 街中を歩けば鍛冶師達の振るう金槌と金床が奏でる金属音。

 

 あちこちの広場では騎士達の掛け声と、教導官の怒声。

 

 馬の嗎きも何処からともなく耳に入るし、獣特有の匂いも漂う。

 

 森人らしき風貌の男達は酒場で大声を上げ笑っている。

 

 そしてそれが当たり前だと歩く商人たち。

 

 

 センに定住している人の数はテルチブラーノとそうは変わらない。だが訓練に来る騎士や追従者、隊商などの森人達が加われば、その様相は大きく変わる。勿論王都リンスフィアに比べるべくも無いが、それでもリンディア王国を代表する町の一つと言ってよいのだろう。

 

 そして休息日にも関わらず、此処にまた一人仕事をしている男がいる。

 

「おっ! フェイ。お前、まだくたばってなかったか!」

 

「お前こそ、子狼にでも喉を噛まれてその煩い口を閉じて貰え」

 

「がはは! お前が死んだらロザリーは俺が面倒見てやるからな!」

 

「ああ……姐さんは他に夢中になる人を見つけたよ」

 

「な、なに!? オ、オメエそりゃ大事件じゃねえか! そうか……立ち直ったのか、良かったな……」

 

 小さな店の人影も少ない角の席で一人チビチビと酒を呑んでいた男、森人ドルズスは口は悪いが根は優しく何より義理堅い……そんな男だった。リンディアでは代表的な金髪を短く刈り込み、太い眉は殆ど真ん中で繋がっている。短い手足はひょうきんな印象を与え、口の悪さを緩和するのだろう。

 

「相変わらず南専門か? 最近は南も物騒と聞く、一人はやめてウチに来ないか? 姐さんならいつでも良いと言ってるぞ」

 

「ほぉー! 天下のマファルダスト副隊長からスカウトとは俺も偉くなったもんだ!」

 

「真面目な話だ、茶化すな。イオアンさんが帰って来ない今、南に最も詳しいのはお前だ、ドルズス。どうも王都がキナ臭い、今は慎重になる時だぞ」

 

「……フェイ、ありがとうよ。だが俺は一人で森に行くのが好きなんだ。お前だって分かってるだろう? 危険とかそんなんじゃねぇのさ、南以外に行く気もない」

 

「そうか……もし気が変わったらいつでも声を掛けてくれ」

 

「ああ、分かってる。ロザリーにもよろしく言ってくれ」

 

 森人達は皆何かを抱えて生きているのだろう。ドルズスも南に拘る理由があり、フェイはそれを理解もしている。フェイでさえロザリーを守ると云う譲れない思いがあるのだから。

 

「酒を取ってくる。待っててくれ」

 

 一人カウンターに向かう。そして無言でグラスを拭いている親父に何かを言い、金と引き換えにボトルとグラスを二つ持って来た。

 

「つまみは分けてくれよ?」

 

「ほう、良い酒だ。仕方ねえ、好きなだけ食え」

 

 フェイは乱暴に酒を注ぎ、ドルズスの方に押し出した。自分にも注ぐとドカリと向かいに座った。

 

「森人に」

「……故郷に」

 

 厳つい男達らしからぬ優しい乾杯の音は、静かに店内に消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 つまみが皿から半分程消えた頃、フェイは突然に黙った。

 

「……ん? どしたフェイ」

 

「やっぱり気になってな。イオアンさんが何故消えたのか」

 

「……ああ、あの人以上の森人はいなかった。俺の方が長く南にいる筈なのに、あの人には勝てないと何時も思ってたよ」

 

「南は森が深い。魔獣の生息域はかなり遠いし、遭遇率は他より低い位だ。ましてやイオアンさんは、油断や無駄な冒険を最も嫌う人だった。森そのものよりも油断が人を殺すと、何時も繰り返し言っていたからな」

 

「「油断と慢心は森が死を運ぶ」」

 

 二人が口を揃えて出した言葉は、イオアンが何時も祈りの言の葉の様に使っていたものだ。

 

「一緒にいたローゼンも立派な森人だし、若いヤッシュすらイオアンさんが鍛えてた奴だからな……」

 

「実は今回の仕事の中にイオアンさんの痕跡を探す、まあ出来る範囲でだが……それもあるんだ」

 

「おいおい、深く潜る気か? 駄目だ、やめとけよ。今の森は嫌な予感がする、それこそ油断と慢心だ」

 

「ああ、俺も最初はそう思っていた……つい最近まで」

 

 二人のグラスは空になったが、何方も次を注ごうとはしなかった。

 

「最初は? 今は違うってか」

 

「そうだ。マファルダストの要、それは誰だ?」

 

「そりゃロザリーだろうよ。お前じゃない、勿論他の狩猟班でも採取班でもないさ」

 

「そうだ、間違いなく姐さんだ。あの人自身は認めないが……イオアンさんが居ない今、リンディア最高の森人はあの人以外いない」

 

「……悔しいが、それは認めるよ。イオアンの爺様が全てを教え込んだと公言した唯一人の森人だからな。しかもたったの5年で」

 

「マファルダストはリンディア最高と謳われるが、それは姐さんがマファルダストに居るからだ」

 

「ふん……認めるさ。だが、だからって深く潜る理由にはならん。魔獣共にそんな事は関係ないからな」

 

 漸くドルズスはボトルを手に取り、ドボドボと二つのグラスを液体で満たす。フェイは注がれた酒を一気に煽り、ドルズスからボトルを受け取るともう一度注ぎ直した。

 

「なんだ? 早く心変わりした理由を言えよ」

 

「姐さんは変わった。いや、戻ったと言うべきか」

 

「はあ? お前は偶に小難しい台詞を吐くなぁ。大昔の物語の主人公かよ」

 

「……最初に言っただろう? 他に夢中になる人を見つけたって」

 

「……ああ、言ってたな。おいおい、まさか新しい男を見つけたからって馬鹿な事言わないでくれよ?」

 

「馬鹿、誰が男なんて言った。姐さんはルーだけがただ一人の旦那だよ」

 

「じゃあ何だよ?」

 

「……使徒、神々の救い……」

 

「何だって? 良く聞こえないぞ」

 

 するとフェイは急に明後日の方を向き、もう一度ドルズスを真っ直ぐ見て淡々と言葉を続けた。

 

「そうだな、今回の調査にはお前を連れて行く。臨時で雇うよ、南ならお前だからな。それを認めるなら全部教えてやる」

 

「お前ズルいぞ!! 此処まで引っ張っておいて、今日気になって寝れねぇじゃないか!」

 

「お前を今回だけ雇い入れるのは、姐さんから頼まれた仕事の一つだ。因みに聞かないと絶対に後悔する程の話しだからな?」

 

「くっ……この野郎、これだから頭の良い奴は嫌いなんだ!」

 

「早く決めろ。俺もそろそろ帰りたくなるかもしれんぞ」

 

「……分かったよ! 降参だ! 行く、行けばいいんだろ!」

 

「よし、じゃあ今この時から雇う。終了は南の調査が終わりセンに帰るまでだ。その間はマファルダストの一員として扱う。金は何時もの規定通りだが、姐さんから追加も了解を貰っている。しっかりと働いて貰うぞ」

 

 自棄になったのか、グラスの酒を煽ると更にボトルを口につけてゴクゴクと喉を鳴らし始めた。異常な酒の強さを持つドルズスだから出来ることだろう。偶に口を離してチクショーとか、またやられたとか、小声を出すのが哀愁を誘う。

 

 最後の一滴まで飲み切ったドルズスは、それでも殆ど酔ってはいなかった。更にカウンターに真っ直ぐに歩いて行き、別の酒を持って再び席に着いた。

 

「よし、聞こう。やるからには納得する迄だ。これでつまらん話なら違約金を払ってでも行かないからな」

 

「ああ、違約金など要らんよ。お前なら必ず一緒に来る、それこそ金を払ってでもな」

 

「いいだろう。我らがボスがどう変わったのか聞かせて貰うさ」

 

 フェイもドルズスも先程までの砕けた雰囲気を一瞬で消し、命を賭ける森人の顔に戻った。

 

 

 

 

 

 



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43.マファルダスト⑨

お風呂回。カズキ、脱ぐ。


 

 

 

 

 

 フェイは念のため周りに人が居ないのを確認する。

 

「遠回しの話はしない、答えをはっきり言うぞ」

 

「ああ」

 

「今マファルダストと……姐さんと一緒に聖女が居る。勿論紛い物でも無く、法螺話でも無い」

 

「……聖女? 使徒の? お前、それは幾らなんでも……」

 

 ドルズスが冷やかしの目をフェイに送ったが、焦る筈の当人は変わらずジッとドルズスを見てくる。

 

「お前なら聞いた事があるだろう、黒神の聖女を」

 

「そりゃ……だがあれは眉唾だろう? 刻印が身体中にあって、致命傷すら簡単に治癒するとか……そもそも刻印が二つ以上あるなんて有り得ないだろうよ。その辺の子供でも知ってる事だぜ」

 

「他に知ってる事は?」

 

「あん? 確か……えらい美人で、翡翠色した瞳、ああそれと真っ黒な髪だっけ? そんな髪見た事ねぇよな?」

 

「他は?」

 

「他……ああ、献身と慈愛だな。我が身を顧みず他者を癒すとか」

 

「ああ、そうだな。間違いないよ。もう一度言うぞ? 今聖女が姐さんと一緒にいる。リンスフィアからずっとだ」

 

「いやいや……はぁ?ホントなのか? お前がくだらん嘘をつくとは思えんが……」

 

「何度も言わせるな、俺も実際に何度も会ってる。黒髪も翡翠色の瞳も本当だし、幼いが見た事もない不思議な肌で美貌も間違いない。流石に俺は首以外身体中の刻印を確認して無いが、そっちは姐さんが見てる。全部で7つ刻まれているそうだ」

 

「7つだと……じゃあ西でアイトールを癒したって話は……?」

 

「姐さんの目の前で起きた事だ。喉を喰い破られた致命傷も一瞬だよ」

 

「信じられん……聖女……神々の使徒……」

 

「名をカズキと言う。聖女の保護は王室、アスト殿下直々の指示でもある。リンスフィアでの奇跡、聖女降臨はアスティア様と街を散策していた時の事らしい」

 

「……つまり、聖女が共に在るのは何かの意味があって、森人の代表ロザリーと同行しているのは神々のご意志って事か……」

 

「ああ、勿論それもあるな」

 

「はあ? それ以上何があるんだよ?」

 

 ゆっくりとグラスを置いたフェイは、森人から娘を思う父親の様に優しい表情に変えた。

 

母娘(おやこ)だよ、今の二人は本当の母娘の様だ。カズキはまるでフィオナが消えた穴を埋める様に、姐さんを癒したんだ。一番輝いていたあの頃の様に」

 

 最高の森人で聖女の母その人が南の森に入る、そこに意味があると思わないか? そう締め括ったフェイは、何かの希望をそこに見ているのだろう。聖女に会った事のないドルズスにすら、心の奥底から何かが湧き上がるのを止める事が出来なくなっていた。

 

「だから、俺達は森へ行く。きっとイオアンさんの痕跡も見つかるし、新しい発見だってあるかもしれない。さあ、どうする?」

 

 ドルズスは判り易く頭をガクリと傾けた。

 

「……はぁ、また俺の負けかよ」

 

 そしてやはり判り易く、目を見開いて声を荒げた。

 

「だが森では俺の指示に従って動いて貰うからな! 補給も任せて貰う、今の状況を知らせてくれ。足りない物があれば遠慮なんてしないからな!」

 

「ああ勿論だ。うちの若いのもどんどん使ってくれていい。明日引き合わせるし、聖女様にも会えるかもな」

 

「そ、そうか。言われてみればその通りだ。聖女様に……会える……」

 

「ドルズス」

 

「な、なんだ? 聖女様に失礼なんかしないぞ?」

 

「最初の仕事がある。最近センの訓練所と関係なく、近くに展開してる部隊がある筈だ。名目は同じ訓練だがな」

 

「なんだ、良く知ってるな。珍しいのは部隊長だな。かの有名なケーヒル副団長が直々に務めているらしい」

 

「ああ、うちの姐さんとケーヒルの旦那を繋いで欲しい。但し周りには知られない様に、何処かでゆっくり話がしたい」

 

「内密に? なんでまた……」

 

「主戦派だよ、奴等が聖女を狙っている。かなり良くない状況だ」

 

「はあ? 主戦派だぁ? なんでまたあんな面倒な奴等に……」

 

 そう言うドルズスだったが、直ぐに思い直した。嫌な事に考えれば気付く事だった。

 

「神々の使徒、聖女を只人が使う気か……不埒で不遜な奴等め」

 

「ケーヒルの旦那はそれを見越してアスト殿下が派遣したんだ。向こうも時期を見ている筈だ、早い方がいい」

 

「成る程な……分かった、なんとかする。報酬は?」

 

「何言ってる? もう雇った以上お前はマファルダストの一員だ。つべこべ言わずに働け」

 

「ひでぇ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふう、こんなもんかね」

 

 湯気が揺ら揺らと室内に立ち昇るが、開けた窓から入り風が直ぐに消し去って流れて行く。

 

 子供なら膝を折り畳み寝転んで入れる程の木桶には、7分目ほどお湯が張られていた。ロザリーが何往復かして運び込んだ熱目のお湯は、時間の経過で丁度良い湯加減だろう。

 

 桶の周りには借りて来たボロ切れが敷き詰められており、少々の飛散など気にする事は無さそうだ。

 

「手伝ってくれたアンタから入っていいよ。ほら手拭い」

 

 手伝うと言っても、やった事は周りに布を敷き詰めただけなのだが……

 

 ロザリーは開け放たれた窓をしっかりと閉め、再び振り返った。だが当のカズキは先程と変わらず、ただ立っているだけだった。

 

「気にしなくていいんだよ? しょうがないねぇ……」

 

 カズキに近づいたロザリーは、薄い空色をしたハイネックのブラウスを脱がしに掛かった。かなり大きめのボタンは4つしか無く、簡単に外せた。ついでに濃い青のロングスカートもベルトを緩めればストンと下に落ちる。細い腰にはスカートも留まり難いのだろう。そうすれば後は上下の下着だけだ。

 

 此処まで来ればカズキも理解して自分で下着を取り除いていく。一息吐くまでにはカズキは一糸纏わぬ裸体となった。

 

「……綺麗だよ、綺麗だけど……もう少し恥じらいは無いのかい? 全部丸見えなんだよ?」

 

 ロザリーは理解出来ていないが、カズキでも恥じらいはある。もし元の世界の身体ならロザリーの前で裸になんてならないだろう。だが自己欺瞞の刻印はカズキの精神に強くはたらき、未だ聖女の身体を自らの肉体と自覚出来ない。

 

 だからカズキは何時もの様にキョトンとするだけで、動揺は一切感じないのだ。

 

「困ったねぇ……どうやって教えたらいいんだよ、これ……」

 

 恥じらいの概念を言葉無しで伝えるのは、ほぼ不可能だ。良い方法があるなら誰でもいいから教えて欲しいロザリーだった。

 

 とりあえずは桶まで移動して腰を下ろさせる。お湯の嵩が少しだけ増して、カズキの丸い白い尻がギリギリ隠れる程になった。

 

 あとは手拭いを湯につけて、身体を拭うだけだ。

 

 今のうちに荷物を整理しておくかと、ロザリーは先程放り投げた背負袋を開く。そうして中にある荷物をベッドに並べていると、小さな小瓶が目に入った。

 

「そういえばコレがあったね……」

 

 振り返ったロザリーは、再び深い溜息をついた。

 

「カズキ……大丈夫かい?」

 

 見ればカズキは自分の小ぶりな胸に手を添えて、ただ動かずにいた。そこには聖女の刻印があり、周りを茨状の鎖の封印が施されている。立体感がないはずの茨なのに痛々しく感じて、今にもじんわりと血が滲み出しそうだった。それでも感情を感じさせない何時もの無表情はカズキの想いを教えてはくれない。

 

 手にした小瓶を手に持ち、カズキの目の前で腰を屈めたロザリーは無理矢理笑って見せた。

 

「香油だよ、花の香りが続くし疲れにも効く」

 

 ポタリポタリと数滴を湯に散らし、パシャパシャと軽く混ぜれば優しい花の香りが鼻をくすぐった。

 

「ほら手拭いを貸してみな。背中を拭いてやるよ」

 

 手櫛で黒髪を整えると後ろ髪を髪紐で一つに纏め、頭頂部辺りに髪留めで挟み固定した。これで(うなじ)が露出し刻印が刻まれた首回りも洗い易くなるだろう。

 

 カズキの背後に回り込んだロザリーは、少しだけ丸まった小さな背中に目をやる。

 

 頸が見えた事で刻印が首回りをぐるぐると巻き込んでいるのが分かる。何度見てもカズキの首を鎖で締めているようにしか見えない。いや実際に締めているのだろう……これは言語不覚の刻印なのだから。

 

 そこから湯に浸かったお尻まで背骨が真っ直ぐに繋がっている。痩せ気味なせいか背骨がはっきりと背中を這っているのが見えて、どこか淫蕩な美を感じた。

 

「ん?」

 

 ロザリーが視線を下げ、カズキの可愛らしいお尻を見た時だった。

 

「刻印が薄くなってる……まるでこのまま消えてしまいそうだね……」

 

 憎しみの鎖……臀部に刻まれた刻印は明らかに様子が変わっていた。カズキと馬車の荷台で寄り添って寝た時、ロザリーははっきりと見ていたのだ。

 

「……リンスフィアに帰ったらクインに知らせた方がいいかもね」

 

 余りに考えてばかりだったのか、カズキが不思議に思ったのだろう。 背後にチラチラと目をやり始めた。

 

「ごめんよ。直ぐに洗うからね」

 

 優しく肌を拭うと水気を弾き、その肌が若々しい事を知らせてくる。

 

「しかし……ホントにシミ一つありゃしないね。黒子も見当たらないし、刻印以外何も無いみたいじゃないか……これも聖女の力なのかねぇ」

 

 羨ましい……いやそうとも言えないか……聖女の過酷な運命を思うと、それは些細な事だろう。癒しの力を失って聖女ではいられなくなり、その代わりに言葉を紡ぐ事が出来たなら、それは幸せな事だと確信をもって言える。

 

 ロザリーはカズキの異常とも言える美しい肌を拭いながら、そんな事を思った。

 

「こんな小さな背中の……小さな女の子に、世界の運命を背負わせる事が正しい訳がない。そんな事間違ってるに決まってるじゃないか……何故この子が聖女でなければならないんだ……神々は何を思って……」

 

 意味など解るはずが無いのに、カズキは振り返ってロザリーをその翡翠色の瞳で捉えた。悲しい声音に何かを感じたのだろうか。

 

「……もう、終わったよ。 後は自分で出来るだろう?」

 

 カズキの目を見返すのが何故が辛くて、ロザリーは手拭いを押し付けた。

 

 パシャリと手拭いは水面に落ち、カズキはそれをもう一度手に取って身体を洗い始める。

 

 正面側のベッドに腰掛けたロザリーの眼に、何度見ても幻想的な聖女の姿が映った。

 

 首や肩、胸や下腹、太ももや脛、刻印達は未だカズキの肌を覆う。神代文字と紋様は超常の力を与え、神々の加護を人に齎す。遥か昔から当たり前だった世界の理なのに、やはりロザリーには理解が出来なかった。

 

 部屋には花の香りが揺蕩う(たゆたう)、それが不思議と物悲しかった。

 

 

 

 

 



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44.マファルダスト⑩

 

 

 

 

 

 

 ドルズスは自分がここ迄緊張するとは考えてもいなかった。神々の敬虔な信奉者ではあるが、それは目の前にいるフェイとて同じ筈だ。それなのに両掌から汗が滲み出るのを止める事が出来ない。

 

 此処はセンにある宿泊所の一つだ。どちらかと言えば安宿で、彼方此方にゴミも落ちているし薄汚れてもいる。ドルズスが座る椅子は脚の高さが合っていないのかガタガタと安定しない。今から会うであろう天上人が住う場所には相応しくないと憤りすら感じる、そんな安宿なのだ。

 

「……フェイ、ホントに此処なのか? 神々の使徒が寝泊りするには余りにボロいだろう……」

 

「ああ、間違いない。そもそも宿が空いてなかったんだからしょうがない。それに聖女は献身の塊りだとお前が言っただろう? 旅の間も苦しい顔すら見せず、付き従って来てくれたよ」

 

「そ、そうか……握手くらい大丈夫かな?」

 

「……くくく、お前がそんな繊細な人間だと初めて知ったよ。聖女はそんな堅苦しい人ではないと言ってるだろう。皆に別け隔てなく相手をする人だよ」

 

「聖女だぞ!? むしろ緊張しない方がおかしいだろうが!」

 

 フェイはカズキが酒好き酔どれ聖女で、恥じらいすら殆ど持たない少年の様な少女だと言うべきか悩んだ。余りに幻想を持ち過ぎては現実に押し潰されるかもしれない。まあ、それも面白いと思っているが。

 

「さっきも言ったが、聖女に言葉は通じないからな? 変な誤解をするなよ?」

 

「ああ、俺は聖女様に一目会えれば満足だ。分かってるって」

 

 人待ちは時間が経たないものだが、極度の緊張は逆に時を推し進めたのだろう。上階へ昇る階段の奥から扉の開ける音が響き、女性の声が聞こえた。ドルズスもよく知るその声は、間違いなくロザリーだった。

 

「カズキ、今日は少しだけ出掛けるから我慢しなさいよ。どうせマントで隠れるから、いいじゃないか……全く、何でそんなに嫌がるのかねぇ」

 

 ブツブツと愚痴らしき言葉を吐きながら、ロザリーは一人の少女を連れ歩いて来た。勿論ドルズスは聞いてはいたし、噂で想像もしていた。だが聖女の姿を見た時の衝撃は、結局和らぎはしなかった。

 

 大判のマントはロザリーが右手で抱えている。それが聖女の物だと知れたのは、ロザリーが別のマントを着込んでいたからだ。

 

「聖女さま……黒神の……」

 

 朝日を浴びて尚、艶やかな髪は漆黒で……翡翠色の瞳は涼やかな湖の湖面の様だ。少し小柄でありながらも女性らしい柔らかな曲線は、幼い純粋な空気を纏って僅かな混乱すら与えてくる。

 

 少女らしさを強調するハイネックのワンピースは、瞳と同じ翡翠色だ。 細い腰は力を込めれば壊れそうで、見詰めるのさえ罪と思えてくる……それに……

 

「……ドルズス、お前気持ち悪いよ……さっきから妄想が口から出てるからね……? 何が罪と思えてくる、だ。カズキに近づかないでおくれ!」

 

 ポカンと開いた口から出る言葉の数々は、ロザリーに寒気と鳥肌を立たせて思わず距離を取る。

 

「う、うぇ!? ち、違うんです聖女様! 決して疚しい意味では……」

 

 残念ながらドルズスは聖女との握手すら難しい様だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 テーブルを挟んでロザリーとドルズスは向かい合っていた。フェイはロザリーの隣で、カズキはロザリーの後ろに腰掛けている。ドルズスからはカズキの全身を見る事が出来なかった。

 

「ロザリー……勘弁してくれよ……別に悪さなんてしないし、聖女様の美しさに驚いただけだろ?」

 

「けっ……アイトールと言い、ドルズスと言い美人を見たら直ぐこれだ。うちのリンドもだし、油断出来ないね」

 

 ガックリと項垂れたドルズスは、フェイに目線で助けを求めた。ところが当のフェイは目蓋を閉じてドルズスを見てもいない。

 

 カズキはロザリーの肩口辺りからチラチラとドルズスを見ていて、ドルズスは嫌われては無い様だと少しだけホッとした。

 

「下らない事はいいんだよ。ケーヒルの旦那とは繋ぎ取れたのかい?」

 

 ロザリーの声音が変わり、森人の険しい顔付きに変わった。

 

「ああ、意外と簡単だったよ。向こうも手を探してたみたいだからな、町にも何人か連絡役がいたし」

 

「そうかい、朗報だ。ただ、何処に主戦派の息が掛かってる奴がいるか分からないからね。事は慎重に運ばないと。どうやって会うのがいい?」

 

「本当を言えば、直接会わない方が良いだろうと思う。それは難しいのか? 文書でのやり取りもあるだろう」

 

「……時間がないね。マファルダストは予定通り、明後日には森に向かうよ。町には長く居たくないからね。この娘に窮屈な想いはさせたくないし、町は人が多すぎる。危険だよ」

 

「この娘って……いや、そんな事はいいか。なら、逆をとろう。マファルダストは予定通り森へ向かう。そして偶然ケーヒル副団長一行に出会い、立ち話になった……そういう筋書きだ」

 

「ドルズス、センと森の間に部隊が出れば嫌でも目立つぞ。幾ら偶然を装っても噂が立つだろう」

 

 目蓋を閉じていたフェイは、あえて苦言を出し反芻出来るよう仕向ける。

 

「間には来ないさ。近くの村で補給したい物がある。マファルダストは樹液採取の道具が少ないからな、それを揃えに行くんだ。偶然にも騎士団が居る近くの村でね」

 

「成る程な……姐さん、問題ないと思います」

 

「ああ、それで進めよう。どの道完璧な案など無いからね、上手くやるしかない。それに考え過ぎなだけかもしれないし」

 

「じゃあ進めるぜ? 明後日にセンを出て翌日には会えるだろう。俺は今から動くから、そっちは準備をそのまま始めてくれ」

 

 ドルズスはガタガタと鳴る椅子を蹴り、早足に宿を出ようとした。

 

「ドルズス!」

 

 ロザリーの声に振り返ったドルズスは、思わず背筋が伸びた。ロザリーに手を引かれ聖女が自身の前に立ったからだ。背の高い方ではないドルズスでも聖女はやはり小さく見える。少しだけ困惑した顔も、やはり美しい。

 

「カズキ、コイツも仲間だよ。今からお仕事さ……ほらドルズス、手を出しな」

 

 ゴシゴシと服で掌を拭ったドルズスは、すぐに汗か噴き出るのを感じた。何度ゴシゴシと拭いても汚れている気がして、何故か申し訳ない気がしてくる。

 

 手をなかなか前に出せないドルズスだったが、カズキは察してくれたのだろう。躊躇などする事無くドルズスの右手を軽く握って二度優しく振る。

 

 これでいい?とばかりにロザリーを見たカズキは、直ぐに手を離して席に戻って行った。

 

「……俺、頑張るわ……」

 

「ああ、そうしな」

 

 ドルズスは踊る様に扉から姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキの下着を揃えたくて、ロザリーは町を歩いている。数歩離れた後方にはジャービエルが付き従っていて、隣にはマントを深く被ったカズキが遠慮がちに周りを見渡していた。

 

 テルチブラーノで揃えたつもりだったが、まさか隊商にここまで同行するとは当時想定していなかったのだ。その時揃えたのは、可愛らしく色合いも淡い少女らしい下着ばかりだった。ロザリーの趣味も入り、旅装とは程遠いと言わざるを得ない。

 

「成長期だろうし、適当に買う訳にもいかないしねぇ……」

 

 出来れば外に連れ出したくは無かった。町中は人も多く、気も配れなくなる。だが成長期の身体に合った物が大事だし、まだ暫くはマファルダストと共にいるのだ。頑丈で身体と旅に適した下着を揃えなければならない。

 

 そんな事を思い隣を見たが、案の定他に気を取られている様だった。

 

「本人は分かって無い様だけど」

 

 ロザリーは、苦笑なのか愛しい娘への微笑なのか、自分でも判然としない笑みを浮かべた。

 

 カズキは鍛冶に興味がある様だった。騎士達の剣だろう鋼をカンカンと叩く鍛冶師達の手元を歩きながらも眺めているのだ。

 

「変わった子だよ、すぐ隣りの装飾品には興味ないのかねぇ。あのイヤリングなんて似合いそうだけど……はぁ」

 

 年頃の娘なら汗臭い親父が叩く金属なぞに興味など持たないものだが、聖女様は違うらしい。隊商の馬車にも以前興味を示していたし、愛らしい姿でなければその辺の悪餓鬼と余り変わらない。

 

「少し見ていくかい?」

 

 それでもロザリーはカズキが見たいなら見せて上げたいと思った。再び目についた鍛冶師の匠の業を暫し眺める事にする。

 

「ん? なんだ、近づいたら危ねーぞ」

 

 森人だろう女と娘一人が立ち止まるなど、かなり珍しい。それでも美人の母親と、マントの影に垣間見える娘の美貌を見てやる気にならない男など少ないだろう。

 

「これは騎士の剣だ。魔獣にも通じる様に鍛え方が違う。こう……やって何度も折り畳んでは叩き伸ばすのさ。余計な不純物を取り除いて、硬くそれでいて柔軟な鋼にするんだ」

 

 弟子に教える様に畳んでは叩くを少しだけゆっくりと見せてくれる鍛冶師に、流石のロザリーも興味を持つ。因みに本当の弟子にはこんなに優しくなど無い。

 

「へえ……見事なモンだねぇ……まるで奇術を見てるみたいだよ」

 

「ははは、アンタ森人かい? 女だてらに珍しいな。ウチは小剣も鍛えてるから、興味あったら見ていきな。まあ、娘さんにはまだ早いかもしれんが」

 

「……今は間に合ってるけど、帰りにでも寄らせて貰うさ。ナイフは? この娘でも持てる様なナイフがあれば助かるけどね」

 

 森内部に連れて行く気は当然ないが、人相手の護身には必要かもしれないとロザリーは会話を続けた。

 

「ナイフなら奥にある。手前から奥に行くにつれ出来が良くなるぞ。まあ、その分高いがな」

 

「ほお……」

 

言われた通り、鍛冶場と離れた場所に簡易な陳列棚があった。

 

 ロザリーが気になったのは奥から二番目のナイフだった。少し長めだが良い造りだし、何より軽い。貧弱なカズキでも十分携行出来るだろう。

 

「これは拾い物かもしれないねぇ」

 

 柄から剣身まで通して鍛えられたのだろう。一体であつらえたナイフは装飾も美しく、淡い緑色をしている。色合いがカズキの瞳に近いのがロザリーには気に入った。

 

「親父、これ貰えるかい?」

 

「おう、思い切りがいいな。まだ刃を入れてないから、仕上げたら納品だな。2日くれ」

 

「明後日の朝にはセンを出るから、それが期限だよ。間に合うかい?」

 

「ああ、任せてくれ。明日夕方に来な、仕上げとくよ。代金は……」

 

「隊商マファルダストに回しておくれ。これが証文だよ」

 

「本物だな……マファルダストかよ……女って事はアンタ、隊長のロザリーか?」

 

「そうだけど、私は只のロザリーさ……現金でも良いが、どうする?」

 

「ああ、回しておくよ。 鞘はオマケしておくさ」

 

「太っ腹だね! 森から帰ったらまた寄らせて貰うからね」

 

 鍛冶師は知らない内に世界に唯1人しかいない、神々の使徒"聖女"に初めてナイフを納める事になったが……本人は最後まで気付く事も無かったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故か微妙に嫌がるカズキを押さえ付け、漸く何着かの下着を買う事が出来た。

 

 ロザリーは幾つかの拘りを捨てられず、それぞれを試着させてまで選び尽くした。この世界では試着は一般的では無く、店員に苦い顔を何度もさせた程だ。

 

「その髪留め早く着けて欲しいけど、町を出る迄はお預けだね……」

 

 お詫びついでに髪留めを購入したロザリーは、カズキの黒髪を触りたくてウズウズしていた。銀月と星をあしらった髪留めは、今着けてもマントに隠れてじっくりと見る事が出来ないのだ。

 

 

 

 カズキとの楽しい時間に少しだけ気が抜けていた。終始無言のジャービエルも女性の長い買い物に疲れを隠せていない。

 

 だから運が悪かったのだろう。

 

 強い向かい風が三人の間を吹き抜ける。

 

 風はロザリーの赤髪を踊らせ、ジャービエルの目に砂埃を喰らわせた。

 

 そして、カズキが被るマントが風に遊ばれて僅かな時間だけ素顔が晒されたのだ。それは一瞬で、周辺の人々は聖女に気付きもしなかった。慌てたロザリーも安堵の息を吐き、ジャービエルもその一瞬を見逃した。

 

 

 

 だから、通りの向こう側にある訓練用の広場で1人の男が驚愕の表情をしたのも本当に偶然だった。

 

 焦げ茶色したザンバラ頭は僅かに揺れ、同じ色の両眼は大きく見開かれた。その眼にどんな感情が込められているのか、直ぐに消えた表情からは何も分からない。

 

「ディー教導官、どうされました?」

 

「何故アイツがセンに……」

 

 ディーと呼ばれた男は徐に鎧を脱ぎ始め、訓練用の木剣を放り出した。

 

「教導官?」

 

「自主練に変更する……それぞれが与えた課題に取り組め。結果は明日確認する」

 

 吐き捨てる様に言葉をぶつけると、ディー……ディオゲネスは町の雑踏に消えて行った。

 

 広場に残された新人騎士達は暫く呆然としていたが、尊敬する教導官の指示を忠実に履行し始めて直ぐに混乱は治まった。

 

 そんな騎士達の声も剣撃の音も町の喧騒に混じり、全ては元通りになる。その内に違和感は消え失せて、センは日常に帰っていったのだ。

 

 

 

 

 

 

 




ディオゲネスに見つかってしまうカズキ。
次回は"赤と黒の狂宴①"7話構成です。この物語の大きな山場の一つが来ますのでので、続きを読んで貰えるとありがたいなぁ。内容は題から察して下さい……


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45.赤と黒の狂宴①

幸せだった時間は、少しずつ変化していきます。


 

 

 

 

 

 

 

 人死など、ありふれた世界ーーー

 

 家族を失い、泣き叫ぶ人を大勢見て来た。

 

 

 

 パチパチ、ゴウゴウと、森は赤い炎に包まれている。

 

 炎の壁は高く舞い、その向こうに見える赤い魔獣達を覆い隠す。奴等はユラユラと身体を揺らし、炎が消え去るのを待っているのだろう。

 

 所々に赤褐色の粘土らしき物が盛り上がり、その周辺には力付きた人形(ひとがた)が倒れ伏している。剣や矢は魔獣の死体に突き刺さり、幾本も折れて曲がっていた。

 

 魔獣との死闘は其処に終焉の世界を現出させたのだ。

 

 事象の中心にいる聖女は両膝を地面につき、真っ赤に染まった両手でユサユサと揺らす。

 

 起きて。 目を開けて……もう一度、黄金色の瞳をーーー

 

 

 

 

 ーー行かないで

 

 ーー捨てないで

 

 ーー置いていかないで

 

 ーーどうして、どうして

 

 

 

 

 慟哭は、悲鳴は、唇から零れたりしない。それなのに聖女の叫びは見る者の眼を通し頭蓋に直接反響する。魂魄を揺さぶるソレは、見慣れた筈の終焉の景色を涙で滲ませていった。

 

 黒神ヤト。

 

 司るのは悲哀、憎悪、痛み。

 

 ヤトの加護を一身に受けた聖女の、悲哀と憎悪の叫びは只人とは違うのか……ケーヒルはボンヤリとする意識で周りを見渡した。

 

 森人のフェイは、両膝を泥に落として頭を抱えて泣き叫んでいる。

 

 ジャービエルは珍しい雄叫びを上げて、赤い死体に剣を何度も突き立てている。

 

 新人と聞いたリンドは、両手をダランと落として茫然と立ち竦んだままだ。

 

 そして、ケーヒルの足元には血に染まった男が倒れている。さっきまで狂気を振りまいていたその男は、最早ピクリとも動かない。先程ケーヒルがトドメを刺した。

 

 

 ユサユサ、ユサユサ……聖女は飽きもせずに揺らし続ける。あの美しい翡翠色の瞳には涙の跡があり、その跡も新たに流れ出た涙に上書きされていく。

 

 声は出ていない、言葉は紡がれていない。それなのに声が聞こえる……それは幻聴なのか。

 

 それとも紡がれた言葉の幻視?

 

 今、間違いなく聴こえ、視えたのだ。

 

 ーーお母さん、と。

 

 その時、世界は真っ白な光に包まれていった。

 

 それは癒しの光なのか、それとも只の幻なのか。

 

 ケーヒルには判らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし、出るよ!」

 

 ロザリーはセンを発つマファルダストの面々に視線を送り、鞭を入れた。

 

 御者台の横には変わらずカズキが居て、先程手に入れたばかりの物を嬉しそうに眺めている。そう、両手で持つソレを嬉しそうに見ているのだ。

 

「揺れるし、危ないから仕舞っておきなさい……はぁ、聞いてないよねぇ」

 

 センで見つけたナイフは見事に仕上がっており、鈍い光沢と美しい刃紋すら滲んでいる。そして磨かれた事で益々聖女の瞳の色に近付き、偶然だろう真っ黒の鞘は象徴的な黒髪を具現しているようだ。

 

「そこまで気に入ってくれるなら、手に入れた甲斐があるけど……何か釈然としないねぇ……」

 

 別の店で見繕った可愛らしいイヤリングは、チラと見た後に箱に収まってそのままだ。 銀月と星の髪留めをしてくれただけ、まだマシなのだろうか?

 

「酒とナイフ……アンタ、ホントに女の子かい?」

 

 何処から見ても可愛らしい女の子にしか見えない相手だ。そのカズキに冗談をぶつけながらロザリーは馬を操っていた。

 

 

 

 マファルダストは予定通り直接は南に向かわない。ドルズスが計画した道を辿り、ケーヒル達に偶然を装って会う手筈だ。念には念を入れているが、果たしてそこ迄警戒するべきかロザリーにも判断出来ない。此処まで主戦派の気配は僅かにも感じ無かったのだ。

 

 カズキはセンに居た時と違い、森人と同じ服装に身を包んでいる。手に入れたナイフも腰や背中などに装備出来るだろう。

 

 未だ人の目がある以上マントを被っているが、漸く陽光を黒髪に届けられる。窮屈な思いをさせて来たが、もう少しだとロザリーは息を吐いた。

 

 ドルズスの話では訓練と称して村周辺を回っているらしい。早駆けと急停止を繰り返し、隊列を崩さない訓練を実際に行なっている……と聞いている。

 

「アンタとも、此処までかね……」

 

 一月にも満たない時間だったが、ロザリーにとってはキラキラと輝く日々だった。もう二度と会えない事は無いだろうが、カズキは聖女なのだ。一般の人間とは違う。リンディア王家は身近な存在ではあるが、それでも限界は存在する。

 

 ケーヒルがカズキの保護を求めたらロザリーは応じるつもりだし、それしかない。仮に主戦派が紛れていてもケーヒルなら御するだろう。

 

 ジッとマントから見え隠れする横顔を見ていたからか、カズキはナイフから眼を上げてロザリーを見返した。見る?と綺麗なナイフを差し出したカズキにロザリーは思わず吹き出す。

 

「ふっ……はははっ! いいよ、大事に抱えてな! ふふふ……」

 

 いきなり笑い出したロザリーに、カズキは意味が分からないと整った眉を歪ませた。

 

「くくく……やっぱりアンタは最高だよ。世界にたった一人しかいない聖女様なのに、まるでその辺にいる餓鬼じゃないか……ふふふっ……」

 

 寂しさはある。それでもカズキが居るリンディアなら、きっと幸せなんだろう。母親の真似事をもう一度出来るなど考えてもいなかったが、ロザリーは森人なのだ。森に潜り命を天秤にかける仕事に、本人が望みでもしない限り連れ回す事など出来ない。

 

 だから……心の中に浮かんでは消える寂しさを誤魔化し、笑顔で前を向いて進む。

 

 森人にとって別れは日常なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫くは無言の時が流れて、カズキは素顔を晒していた。

 

 風に僅かに揺れる黒い前髪と銀月と星の髪留めがキラリと輝く。伸びて来た後髪をクルリと纏め、髪留めでしっかりと固定している。うなじを隠しもせず刻印も露わになった。

 

 どうせこれから会う皆は聖女を知る者ばかりだ。窮屈な思いをして来たカズキに、少しでも気楽に過ごして欲しい。そう気遣うロザリーだが、万が一には備えている。マントはそのままで、頭部は何時でも隠す事が出来るだろう。

 

「姐さん」

 

「どうした?」

 

 前から後方に下がって来たフェイが隣に並んだ。

 

「前から連絡です。まだ遠いですが、騎士の一団が近づいて来ています。動きは緩やかで、危険な兆候はない様だとリンドは言ってますが……」

 

「へえ、リンドは本当に目が良いんだねぇ。まあ、挨拶くらいなら大丈夫だろうさ。もし情報が手に入る様なら呼んでおくれ。カズキには一応隠れて貰おう」

 

「分かりました。とりあえずは私が対応します」

 

「ああ、頼んだよ」

 

 ロザリーと合わせてフェイを見ていたカズキは、用事が終わったと感じたのだろう。再びナイフに視線を落とし、クルクルと鑑賞を始める。

 

「カズキ、人が来るみたいだから少しだけ我慢しておくれよ」

 

 意味が伝わりはしなくてもロザリーは言葉にしてカズキの顔を覆い隠した。カズキも特に逆らう事も無く、ロザリーのするがままだ。

 

「いい子……とは違うかね……? 夢中なもの以外に目がいってないだけ、かな」

 

 ロザリーは足の止まった馬車達を見て、御者台に立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マファルダストの御一行ですね? 同行をお願い出来ますか? 我らの()()がお待ちです」

 

 三騎の騎士達は馬上からヒラリと降りると、通る声で先頭にいたフェイに話しかけた。

 

「確かに我らはマファルダストです。 しかし、上官がお待ちとはどういう事でしょう?」

 

 ドルズスの話では偶然を装って合う筈だった。迎えを寄越すなど予定には無い。

 

「貴方はフェイ殿ですな? 皆さんなら良くご存知の筈だ。しかし、不測の事態により急遽の変更となった事をお詫びしたい。詳しくは上官よりお聞きなさるが良かろう」

 

 三人の中ではベテランなのだろう。フェイよりは歳下だろうが、それでも十分な貫禄を感じた。申し訳ないと顔を歪ませ、最後には柔らかな笑顔すら見せた。

 

「……少しお待ち頂きたい。隊長に取り次ぎます」

 

「勿論です」

 

 フェイはひとまずロザリーに状況を伝える事にした。

 

 道中に騎士や森人と出会う事はままある。その際はお互いに情報交換を行うのは一般的だし、立ち話すら珍しくは無い。今回もそのつもりだったが、どうやら事は単純では無さそうだ。

 

「判断に迷うところだな……」

 

 特におかしなところは無いが、事は聖女に関わる事だ。一応念を押しておく方が良いかもしれない。そう考えたフェイはリンドにロザリーへの伝言を頼み、騎士達に向き直った。

 

「暫くお待ち下さい。そういえば、訓練の真最中だとか。重い装備を抱えながらの訓練など、さぞ大変でしょう?」

 

「はっはっは……フェイ殿。誇りある森人にそう言って貰うのは嬉しいものですが、その内慣れるものです。リンディアの為、魔獣を倒す為の訓練となれば気合も入るものですよ」

 

「そういうものですか……? 国の剣と盾である騎士には何時も頭が下がる思いです。今はどういった訓練を?」

 

 ロザリーが来るまでに少しでも裏を取るべく、フェイは会話を続けた。

 

「……そうですな。色々とありますが、今は隊列組みの訓練です。崩さないまま突進し、即座に止まりて抜剣する。弓兵は背後に位置し距離を間違わない。単純ですが重要な訓練ですよ」

 

 ドルズスから聞いた訓練で間違いない。確定は出来ないが、一先ずは安心か……

 

「単純な行動には、時に他には無い力を発揮するものです。それを繰り返す事には深い意味があるのでしょう。そういえば、お名前を伺って無かった様です」

 

「おお、これは失礼した。 私の名は……」

 

 

 

 

 

 

「フェイ、待たせたね」

 

「状況は聞かれましたか?」

 

「ああ、不測の事態で迎えを寄越したんだろう?」

 

「ドルズスに聞いた訓練内容は一致しました。どうします?」

 

「……ケーヒルの旦那の名前は?」

 

「あちらも、こちらも出していません」

 

「ふん……従うしか無いだろうね……元々の予定地までの距離は?」

 

 フェイは離れた場所にいる騎士達に目を配り、答えた。

 

「単騎なら数刻でしょう。速い奴ならまだ短縮出来る」

 

 ロザリーは何時もの様に腕を組み、女性らしい膨らみを押し上げた。

 

「今のところ主戦派の影は見えないが……念を押しておこう。足の速い奴を2、3人予定通りに走らせる。理由は適当に作るさ」

 

 フェイに指示を出したロザリーは騎士の元へ向かった。

 

「待たせたね」

 

「ロザリー殿ですな。私はヴァディム、お見知り置きを」

 

「ロザリー殿はやめておくれよ。私は只のロザリーさ」

 

「ほう、噂に名高いマファルダストの隊長ですが、やはり素晴らしい御人柄ですな。了解しました、私の事もヴァディムとそのまま呼んで下さい」

 

「あいよ。直ぐに向かいたいところだが、センに重要な装備を忘れてきてね……今から隊を分けて戻すから待ってくれるかい?」

 

「ふむ、センならそう時間は掛かりませんな。ではこうしましょう。ロザリー達は我等に同行して下さい。上官にお会いになる頃には再び此処に戻られるでしょう? 我が隊から迎えを寄越します。残念ながら此処で留まっておく訳にもいきませんからな」

 

「ヴァディム、世話掛けるね。じゃあお願いするよ……フェイ! 聞いた通りだ、2、3人残しておくれ!」

 

「了解しました。では、移動するぞ!」

 

 少しして騎士達に先導されたマファルダスト一行は移動を開始した。

 

 

 

 

 ロザリーもフェイも……他のマファルダストの隊員達も、善良な人々だった。人の悪意を知ってはいても、自身の常識を超える想像など中々出来る物では無い。聖女との旅路は思いの外に幸せで、皆が浮ついていたのも否定出来ないだろう。

 

 魔獣の狂った悪意を良く知る森人達は、人が時に魔獣すら霞む行動に出る事を信じはしない。彼等にとって最も強い悪は魔獣以外にはいないのだから。

 

 その先に狂った宴、狂宴が待っている事も知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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46.赤と黒の狂宴②

 

 

 

 

 道中は有意義な時となった。

 

 ヴァディムは優秀な騎士なのだろう。幾つかの魔獣の情報を惜し気もなく晒し、森人の話を熱心に聞いた。ユーモアも交えて時に笑いすら起こったほどだ。

 

「そういえば聖女様は何処に?」

 

「人見知りだからね。馬車に隠れてるよ」

 

 どの馬車とは答えなかったが、ロザリーは正直に返した。

 

「ほう、やはり奥ゆかしい方なのでしょうな。我等のような無骨者では、お会いした途端に泣かれてしまうかもしれませんな……はははっ」

 

 奥ゆかしい……カズキを形容する言葉として、これ程に遠いものがあるだろうか。まあ、見た目だけなら何とか通じるかもしれない。

 

 ロザリーは内心笑いながらも、カズキの名誉の為に黙っておいた。

 

「まあ、そんなとこさ。ところで目的地はまだ遠いのかい?」

 

 位置としては当初と逆で南の森に近づいている。このままなら森を遠くに目視出来る程に接近する事になる。

 

「もう間も無くですな。目立たない様にあの丘の裾野に待機しています。此処からでは見えませんが、丘を越えれば直ぐに合流出来るでしょう」

 

「そうかい。ケーヒルの旦那は相変わらずかい?」

 

 此処までセンから離れればもう気は使わなくて良いだろう。そう思ったロザリーは漸く聞く事が出来た。

 

「副団長は変わりようが無いですな……王家への絶体の忠誠は誰にも勝てません。我等の魔獣への強い思いを束ねても追い付かない程です」

 

 何かが引っかかってしまうロザリーだが、そこ迄おかしな話でもない。気にせず続けた。

 

「へえ……おっ、見えて来たね」

 

 丁度丘を登り切った事で裾野に展開している部隊がみえた。人数としては中隊規模というところか。

 

 此処からはケーヒルの巨体は見えはしないが、何処かにいるのだろう。

 

「では、先行して皆さんの到着を報せて来ます。御一行はゆるりとおいで下さい」

 

 そう言うとヴァディムは騎士2人を残して丘を駆け下りて行った。中隊も今起き出したかの様に動き始めている。あちらからも当然マファルダストが見えているのだろう。

 

 ロザリーは乗っていた馬を預けてカズキのいる馬車迄歩く。御者台に幌から顔を出していたらカズキは、ロザリーが戻ったからか元の位置にちょこんと座った。

 

 丘から見える景色は特に代わり映えしないが、特徴的なのは彼方に森が見える事だろう。森までの間に僅かに見える盛り上がりは岩の塊だ。一部の森人はそこで準備を行い、森に入る。偶然なのか、そこはイオアン達が一時を過ごし背負袋を下ろした場所だった。

 

「あれは……爺様がよく使っていた岩だね。面白い偶然もあるものだよ」

 

 暫しイオアンを想ったロザリーだが、此処で立ち止まっていてもしょうがない。カズキの頭を撫でたあと、鞭に力を入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロザリーは先行して中隊に近づき、騎士達の顔が見える距離になる。目立つのは新人らしき若者達が多い事だろうか。ヴァディムの様なベテランはむしろ少なく、如何にも訓練している集団という趣だ。

 

 どの道既に伝わっている以上隠してもしょうがないと、カズキは素顔を晒している。やはり騎士達に警戒感があるのか顔が強張っていた。ロザリーはもう一度カズキの頭を撫でて安心させるよう笑顔を見せた。

 

「本当に黒髪なんだな……」

「ああ、眼も聞いていた通りの色だし、何より……」

「刻印だな……間違いない」

「献身と慈愛、リンスフィアの奇跡……」

「……アレが聖女か……」

 

 まだ多少距離があるとはいえ、カズキの特徴的な容姿と首元に見える刻印に騎士達はざわつき始める。不躾な視線を隠しもせず、遠慮のない言葉が耳に入りロザリーは気分が悪くなった。

 

「最近の騎士は礼儀がなって無いね。カズキが怖がってるじゃないか」

 

 言いながらも馬車を止めて、御者台から飛び降りたロザリーの耳に嗄れた声が響いた。

 

「それは失礼した。まだまだヒヨッコ共だ、多少はお目溢し願いたいな」

 

 集団から少し離れた方から一騎の騎士がゆっくりと近付き、ロザリーに声を掛けたのだ。

 

 焦げ茶色のザンバラ髪、無精髭、同じ色の瞳。

 

 側にはヴァディムが控え、彼が一定の立場にいる者と理解出来る。

 

 だが、その騎士を一目見たロザリーは顔色を変えた。忘れたくても忘れられないあの時、年齢こそ重ねたが間違いなく()()()が居たのだ。

 

「ディオゲネス……何故お前が騎士団に……お前は追放された筈だろう!!」

 

 ロザリーの憤怒の怒声は周辺に響き渡り、騎士団だけで無くマファルダストすら騒然とさせた。

 

「……会った事があるか? こんな美人を見たら忘れる筈もないが」

 

「お前が忘れても私は覚えているぞ……マリギの悲劇の元凶め、よくも私の前に顔を出したな!」

 

 ロザリーは今にも腰の小剣を抜きそうで、フェイやリンド達にも緊張が走る。

 

「落ち着けよ隊長さん。今の俺は教導官のディーだ。お前達と争う気は無いし、やるなら只では済まないぞ」

 

 ディオゲネスは変わらず脱力したままで、ロザリーの怒りすらまるで無い様に振る舞う。事実脅威には感じていないのだろう。

 

「教えろ! マリギで、撤退命令が出ていた筈だ……どうして命令を無視して魔獣どもを呼び寄せた!? アレさえ無ければ……フィオナは、ルーは、皆が助かったのに!」

 

「……ああ、お前マリギの生き残りか? 決まっている、魔獣がそこにいるなら斬るのが俺の仕事だ」

 

 新人達の中にはマリギ出身の者も居る。ロザリーの慟哭は幾らかの動揺を与えたが、ディオゲネスにはそんな事は関係ない。1人になったとしても剣を持ち魔獣に叩き付ける事しか頭には無かった。

 

「貴様……」

 

「姐さん、落ち着いて……拙いです、何処にもケーヒル副団長の姿が無い。此処を離れた方がいい」

 

 フェイの小声で我に帰ったロザリーは思わずカズキを見る。そしてカズキの様子がおかしい事に気付き、ロザリーは自らの怒りが消え去るのを感じた。

 

 胸に抱えたナイフがガタガタと揺れている。

 

 あの美しい翡翠色の瞳は一点から動く事もせず、薄紅色の唇は青白く変色していた。その内背後には背凭れがあるにも関わらず、少しでもそこから距離を取りたいのか後退ろうとしている。

 

 震えている?

 

 ロザリーは感情の発露が乏しいカズキが此処までの怯えを見せた事に酷く衝撃を受けていた。ならば動かない視線の先は……

 

()()()()()()()()()。 あの地下室以来か?」

 

 ニヤリともしないディオゲネスは、胸に装備したナイフを少しだけ抜いてカチリと戻した。

 

 ガタン!!

 

 それだけでカズキは馬車から飛び降り、反対側へと駆け出して行く。

 

「カズキ!!」

 

「追います! 姐さんも早く!」

 

 騎士達はマファルダストに危害を与える気は無い様だ。むしろディオゲネスの言葉に動揺すらしていた。

 

 目の前には愛する家族を殺したも同然の男が無表情で立っている。アレは事故だと理解はしているが、許す事など出来よう筈が無い。そのディオゲネスはカズキを見てはいるが、追う様子も見せず佇んだままだ。

 

「ディオゲネス、お前一体……」

 

「聖女様に久しぶりに会ったからな、少し悪戯が過ぎたか。アイツの力は凄いぞ、流石の俺も開いた口が閉じられ無かったよ」

 

 地下室、聖女の力、カズキの恐怖……

 

「……お前が、お前がやったのか!? カズキを傷付けて……」

 

 ここで初めてディオゲネスは笑い、ロザリーを見た。酷く気色の悪い笑顔だった。

 

「只の実験だよ。そして、その力は使える。正に聖女様だ」

 

 ロザリーは我慢出来ず遂に小剣を抜いた。コイツはフィオナ達だけでは飽き足らず、カズキすら殺す気だ。走り去ったカズキは気にかかるが、ディオゲネスだけは行かせる事を許せない。

 

「そんな事させない……」

 

 ロザリーが剣を抜いた事でマファルダストも騎士達も目が座った。

 

「お前ら!手は出さなくていい。ちょっとした勘違いだ。少しだけ話せば誤解も解けるさ、な?」

 

「ふっ……!」

 

 鋭い踏み込みで瞬時に接近したロザリーの剣は、小剣らしい小さな軌道で即座にディオゲネスに到達した。

 

 キンッ!!

 

 さっきまで無手だったディオゲネスの手には、既に剣が握られている。

 

「おー、痛ぇ……手が痺れるな。信じられない女だな、聖女といい最近の女は恐ろしいねぇ」

 

 全くその場から動かず、大袈裟に手を振って見せるディオゲネスからは余裕しか感じない。

 

 ディオゲネスの余裕の態度にも姿勢を変えず、ロザリーは真っ直ぐに小剣を構えて身体ごと突っ込む。鋭い突きはディオゲネスからは一つの点にしか見えないだろう。新人達もその速度と剣技に驚きを隠せなかった。無駄な動きすらなく、基本に忠実な足捌きと踏み込みを見れば、自らが防ぐ事が難しいと理解出来たからだ。

 

 キン!!

 

 だが……ロザリーの手には小剣は既に無く、音の直ぐ後には空をクルクルと舞い背後の土に突き刺さった。

 

「くっ……」

 

「はい、おしまい。さて……隊長さんよ、いいのかい? 言葉の理解出来ない御偉い聖女様は、何故か森へと向かっているようだ。あの餓鬼は森が危険だと本当に知っているのかな?」

 

 最早ディオゲネスは言葉を選ぶ事すらしない。

 

 逃げ出す時は丘では無く森に誘導する様に部隊を配置はしていた。しかし此処まで上手く行くとは笑いが止まらんよ……そう1人呟くディオゲネスの前でロザリーは慌てて振り返った。

 

 カズキは見事に馬を操り、南へと走り出していた。今回の旅の合間にロザリーが少しずつ教えていたからだ。

 

「……カズキ! 駄目よ!!」

 

 ロザリーは小剣を拾う事もせず、近くにいた馬へ飛び乗った。

 

「くくく……いよいよだな……」

 

 ユーニードには悪いが計画など関係ない……森は直ぐそこにあり、聖女は森へ向かっている。おまけに()()()()()()()()()()()()のだ。ならばやる事はただ一つ、漸くこの時が来たのだから……

 

 ディオゲネスは剣を鞘におさめると、振り返って命令を発した。

 

「聞け! 皆見た通りだ……聖女様は我等に森に来いと言っている。魔獣共に聖女を捧げるのか? 皆には何度も言った筈だ、癒しの力は我等に永遠の力を授けてくれる! 魔獣に剣を叩き付ける時が来たのだ! 我等には聖女がいる、全員騎乗!!」

 

 ザワザワと落ち着きのない新人達に更に声が掛かった。

 

「全員聞いただろう! ()()()()()の御命令だ! 復唱しろ!」

 

 ヴァディムはロザリー達に見せた笑顔は無く、新人達を睨み付けた。

 

「はは! 全員騎乗し、聖女と共に魔獣を!!」

 

 動揺していなかった新人の1人が復唱すると、次々と声が上がり始めて全員が騎乗する。中には混乱の中にいた者もいるが、集団心理には抗えなかった。

 

「よし、行くぞ! 森人達は相手にしなくていい! だが逆らったら思い知らせてやれ! 聖女は俺が確保するから牽制を頼む!」

 

 実際にカズキを見た興奮も其れを助けたのだろう、ディオゲネスの狂気は伝染していく。

 

 森人達の馬は脚の速さよりも、体力と膂力に特徴のある種類だ。重量物を長い距離に渡り引っ張る為には当然だろう。一方騎士達が操る馬は、速度と正確性を鍛え上げた馬種で追い付くのに問題は無い。

 

 マファルダストの一行も殆どは離れた場所にいた為、状況を未だ把握出来ていなかった。

 

 その中で動き出したのは、フェイ、ジャービエル、リンド、そしてロザリーだけだ。

 

「元の目的地にケーヒルの旦那がいる筈だ! ドルズスも居るから急ぎ知らせな! 奴等は……」

 

 主戦派だ……!

 

 ロザリーの悲鳴にも似た声はマファルダストの皆に響き渡った。

 

 随分先に達したカズキだが、まだ不慣れだからだろう。まだ十分追いつける!

 

「森に入るのだけは止めないと……」

 

 ロザリー達はカズキを救うべく全力で走り出した。

 

 そして、背後では騎士達がゆっくりと動き始める。

 

「カズキ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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47.赤と黒の狂宴③

 

 

 

 

 

「危ない……!」

 

 駆けるロザリーの視線の先には、先行していたフェイと今にも落馬しそうなカズキが見える。

 

 ただ無心に鞭を振るい、踏み固められていない平原を走るには余りに技術が足りないのだ。馬にもカズキの混乱は伝わり、明らかに制御出来ていない。

 

「カズキ! 落ち着いて!」

 

 伝わらないのは分かっているが、だからと言って我慢出来る訳が無いのだろう。

 

「姐さん、後ろを!」

 

 速度を落とさずに背後を見たロザリーは絶望感を覚えた。

 

「速過ぎる……くそっ!」

 

 既にディオゲネスの顔が判別出来る程の距離まで接近され、ロザリーは判断に迷う。これでは例えカズキに追いついても意味が無い。

 

「姐さん、森に入りましょう! 今はそれしか無い!」

 

「くっ……」

 

 ジャービエルとリンドが報せに走った。時間が経過すればケーヒル達が駆け付けるだろう。絶対にディオゲネスにカズキは渡したりしない!

 

「仕方がない! そのまま速度を落とさずにカズキと並走する……! フェイ、少し東にずれたところ……そう、アレだ! あの先は複雑な樹々が溢れる密集地帯だから騎士達も突入に躊躇する筈!」

 

「……流石です! 森なら我等が有利、なんとしても時間を稼ぎましょう!」

 

 もう森とカズキは直ぐそこで、なんとか森へ間に合うだろう。そう思った矢先だった。

 

 グラリとカズキが制御を誤り、馬に振り落とされた。

 

「ああ……カズキ!」

 

 あの速度で振り落とされれば、大怪我は免れない……思わず目を瞑りそうになったロザリーだったが、カズキはまるで獣の様に姿勢を空中で変えた。

 

 見事に地面に叩き付けられるのを防ぎ、ゴロゴロと草原を転がって衝撃を逃がす。いつの間にかナイフも掴んでおり、少しだけふらつきながらも立ち上がった。

 

「凄い……姐さん、そのまま走りましょう!」

 

「ああ!」

 

 カズキが立ち上がった瞬間に体を傾けて、走り抜き様に軽い身体を抱き締め馬上に戻す。

 

「カズキ! 私よ! お願いだから暴れないで!」

 

 ジタバタとロザリーの胸元で逃げだそうとしたカズキだったが、その声に暴れるのをやめてロザリーを見上げた。

 

 直ぐに身体の動きを止めたカズキに、拒否されて無いことを知る。危機的な状況ながら何処かホッとするロザリーだった。

 

 再度背後を振り返ると当然だが距離を詰められている。ディオゲネスの気色の悪い笑みさえ見えるかの様だ。

 

「行けるところまで突っ切るよ! 最悪馬は潰してもいい……!」

 

「先に! 少しでも時間を稼ぎます。ククの葉の泉で会いましょう!」

 

 森に入った瞬間速度を落としたフェイは、小剣を抜き辺りの枝木を折り始めた。只でさえ障害物の多い森にササクレだった木々や枝は武器にすらなる。飛び込む速度によってはタダでは済まないだろう。薄暗い森に騎士達も慣れてはいない、ましてや殆どが新人だ。

 

 一見視界が開けた様に見えるだろうが、足元や馬上の高さには障害物ばかりになる。ついでに馬にくくり付けてあった縄を放り投げて樹々同士を繋ぐ。態と黒く染めた縄はやはり見えないだろう。下手をしたら死人が出るが、奴等こそが死を運ぶ主戦派の連中だ。

 

「フェイ……済まない!」

 

 言葉が分からないカズキすら、フェイが決死の時間稼ぎを行うと理解出来た。やはり彼等は味方なのだ……カズキはそう思い、フェイに視線を送った。

 

 丁度ロザリーの声に応えて視線を向けたフェイに、カズキの翡翠色の瞳が交錯した。ニヤリと笑うフェイは更に力が増し、騎士達に立ち向かう勇気が溢れてくる。

 

「聖女よ! 姐さんを、ロザリーを頼む!」

 

 カズキから離れて行くフェイは見えなくなる最後まで笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 既に数人が落馬し動けなくなっていた。

 

「こりゃ凄まじいな……やはり森では奴等が一枚上手か」

 

 ディオゲネスは馬を捨て、既に森に降り立っていた。黒い縄に気付き声を上げる暇もないまま最初の1人がやられた。未だ意識はあるが助かりはしないだろう。他にも、槍の如くに尖った樹々の枝に傷を負わされた者も多い。

 

「どうしますか?」

 

 ヴァディムは動揺すらせず、ディオゲネスに指示を仰ぐ。

 

「このまま進むさ。奴等も馬は捨てるだろうし、俺達には幾つも手があるからな」

 

「そうですか……では隊を分けますか?」

 

「その必要は無い。奴等には考えも付かないだろうが、この森には俺達以上の狩人がいるからな。奴等を焚き付ければ簡単に居所は割れる。それに聖女を抱えている以上、速度は出ないさ」

 

 つまり魔獣を利用する、そう言っているのだ。

 

 ディオゲネスの狂気は今やユーニードを超え、笑みさえ浮かんでいた。

 

「全員に燃える水を用意させろ、直ぐに必要になる」

 

「はっ!」

 

「聖女よ、その力、存分に見せてくれよ……お前はその為に神々から加護を受けたのだろう?」

 

 ディオゲネスもナイフと燃える水を両手に持つと、森人が進んだであろう薄暗い森の奥を睨み付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロザリーとカズキは既に馬を降り静かに森を進んでいる。行方を悟られない為に馬の尻を叩き、自分達とは違う方向に走らせた。

 

 だがロザリーが思う程の速度は出せていない。

 

 理由は簡単で、カズキが余りに無頓着に森を進もうとするからだった。背後の追手こそ気にしているようだが、むしろ恐怖の象徴である森の最奥に気配りは無い。

 

「カズキ、もっと静かに……! 奴等に気付かれるよ……」

 

 小声でカズキの腕を取り、大木の幹へ体を潜ませる。

 

 カズキは、どうしたの?と怪訝な顔を見せた。

 

 カズキの異常性を今程感じた事はなかった。聖女の異質をロザリーはまざまざと目にしている。

 

 この世界で生きていれば赤子以外は森に恐怖を抱くだろう。死と恐怖の象徴である魔獣の住処は森なのだ。森の側にいないリンスフィアの住民さえ、姿の見えない魔獣に漠然とした怖気を絶えず感じているのに……森人でない人間が森に放り出されたら、余りの恐怖に身動きすら出来ないのは間違いない。

 

 これではまるで……まるで本当に何も知らない赤子ではないか。それとも黒神の加護がそうさせているのだろうか……

 

「……とにかく進まないと……」

 

 森の中で手を塞ぎたくはないが、これでは仕方がない。カズキの手を強く握り再び足を動かして進む。

 

 その時、背後から僅かに森の大地を踏みしめる音がした。一気に警戒感を強めたロザリーだったが、すぐに緊張を解く。

 

「フェイ、無事かい? 怪我は?」

 

 現れたのは先程別れたフェイだった。見る限り負傷はしていないようだ。

 

「私は問題ないですが……」

 

 目は余りに遅いと非難すらしていたが、当然だろう。生きて会えるかも不安だったのに、僅か数刻で再会するなど想像もしていない。いくらカズキがいたとしても、ククの泉まで追い付けるとは思ってもいなかったのだ。

 

「分かってる……今は説明するのも惜しい、行くよ」

 

 フェイは何かを言い掛けたが、無言で肯きロザリー達から距離を取った。森人達の知恵であり、イオアンからも教わった警戒行動だ。本来は三人以上が必要だが、それを言っても仕方が無い。

 

 カズキは未だ眉を顰めて、何をしてるのだろうと不思議がっている。ロザリーは大声でカズキに魔獣の脅威を教えたかったが、二重の意味でそれも叶わない。

 

 カズキの視線を無視して、少しずつ前へと奥へと足を動かすしかないのだ。騎士達も森の恐怖に駆られ遅々として行軍出来ていないだろう。

 

 だが彼等の……ディオゲネスの狂気は、そのロザリーの想像を簡単に踏みにじっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「馬鹿な……奴等死にたいのかい……?」

 

「これでは直ぐに魔獣に見つかります……どうしますか?」

 

 ディオゲネスを筆頭に、静かに進むべき森を堂々と行軍しているのだ。中には松明すら持ち、ロザリー達の痕跡を探している者までいる始末だ。当然だがロザリーやフェイの速度と比べるのも馬鹿らしい。最早目視出来る距離で、見つかるのも時間の問題だ。時間に追われ、痕跡を消していかなかった自分達の失敗だろう。

 

「くそっ……仕方がない……何とかやり過ご……」

 

 バキッ! ……ズドン!

 

 ……来た……奴等だ……赤褐色の、死を運ぶ人の天敵……魔獣。

 

 無毛の肌、鋼の如き筋肉、食物を摂取するのか想像も出来ない長い牙、人の腕ほどもある爪、歪な短い後ろ足と尾の無い臀部。

 

 とても森に最適化した生物とは思えない。人より遥かに巨大な体躯と、保護色でもなく捕食者の工夫も見えない体色は遠くからでも分かる程だろう。なのに、此処まで近づかれて初めて気付く……どうやって気配を消しているのか想像も付かない。

 

 だがある一点のみ、どんな生物より最適化されている。

 

 人を殺す……ただそれだけを追い求めたが如く、奴等は存在するのだから。

 

「……まだ数匹だが、騒げば騒ぐほど集まるよ」

 

「もう動かない方がいい。くそっ、装備があれば……」

 

 森人の装備の大半は馬車に置き去りだ。悔いても仕方がないが、この場面では一つでも欲しい。

 

 ロザリー達から見て左側からゆっくりと騎士達に近づいている。騎士達は今頃になって気付いたのだろう、松明を放り投げて抜剣した。

 

「馬鹿が……やはり戦う気か……」

 

 勝てる筈が無い。奴等に出会えば松明だけで無く、全てを捨てて走り出すしか無いのに……

 

 ガァーーグオォォォーーー!!!

 

 先頭の魔獣は腹に響く唸り声を上げて、僅かに浮き上がる程の速度で騎士達に躍りかかる。

 

 ゴギャッ!

 

 一振り……たった一振りした腕と爪に、騎士2人は剣ごと真っ二つにされた。勿論比喩などでは無い、文字通りの肉塊になったのだ。

 

「う、うわーー!!」

「こんなの、こんなのどうすれば……!」

「剣も鎧も意味なんて……」

 

 血に塗れた爪をそのままに、魔獣は歓喜の雄叫びを上げる。

 

 グァァーーー!!

 

 笑っている……そうとしか思えない……直ぐ近くに獲物である人がいるのに、それ以上は襲い掛かってこないのだ。捕食ではない、ただ殺戮を楽しむだけに其処にいる。

 

「うらぁ!!」

 

 ズドンッ!!

 

 およそ生物が出すモノとは思えないそれは、赤褐色の腕が一本吹き飛んだ音だった。

 

 グ、グギャーーー! キーーーッ!

 

 魔獣も痛みは感じるのか、無茶苦茶に残った腕を振り回して暴れ始めた。それを成したディオゲネスは笑いながら声を発する。

 

「はははっ! 見ろ! 魔獣であろうと血は流れ痛みを覚えるんだ! 怯むんじゃねぇ! 円陣形を組んで声を出せ! 必ず近くに聖女がいる。餓鬼の興味を引くんだ!」

 

 仲間がやられた筈の魔獣達は、何故かそこから動かずに見物するようだった。

 

「奴は何を言ってるんだ……?」

 

 見つからない為に今は動けない。騎士達の僅かに距離を取れたロザリーは、少しだけ余裕があった。それに逃げたくても自分達の背後はかなりの崖になっていて、魔獣達の側を抜けるしか手はない。腹立たしいがそれを知る魔獣達は、人間をじっくりと弄ぶ気なのだろう。

 

「姐さん、今の内に少しでも森に溶けましょう。まだ、大きな動きは出来ない」

 

 見物しているとしか思えない魔獣達に見つかれば、やはり終わってしまう。幸い魔獣の悲鳴と騎士達の怒声はロザリー達に味方する。

 

「ああ、そうだね。カズキ、暫くは此処でジッとしていておくれ」

 

 今は何とかやり過ごすしかない。出来るだけ森に同化して魔獣の意識外に居なければならないのだ。

 

 多少落ち着いた騎士達は距離を取りつつ、切り付けては離れを繰り返し始めた。魔獣も振り回す片腕では、決定的な致命傷は与えられない。それでも何度も吹き飛ばされたり、鎧ごと爪の餌食になって後退する騎士達がいる。今は助かってもあの出血量では、どの道時間の問題だろう。

 

 ロザリーは敷き詰められた苔や根を躱し、柔らかな土壌から泥状の土を掘り始める。合わせて静かに枝木を手折り、目隠しを作っていく。

 

 フェイもロザリー達を何としても守るため、2人から視線を外して使えるモノに当たりをつけていた。

 

 

 

 

 だから、2人は気づかなかった。

 

 カズキから表情が消え、騎士達に視線を送っている事を。血を流し、のたうち回る若き騎士から目が離せなくなっている事を。

 

 ゆっくりと立ち上がり、胸に抱いていたナイフを鞘から抜いた姿も。

 

 フラフラと数歩ほど歩き出し落ちていた枝を踏み抜く音がするまで気付かなかったのだ。

 

 そして……ディオゲネスが直ぐに此方に気付き、壮絶な笑みを浮かべた事も見てはいなかった。

 

 狂った慈愛と自己犠牲、利他行動の刻印はどこまでも働きかけてカズキを突き動かす。

 

 そして癒しの力……聖女を聖女たらしめるのだ。

 

 ロザリーが気付いた時には全てが遅かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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48.赤と黒の狂宴④

 

 

 

 

 魔獣の恐ろしさは数多く語られている。

 

 人を遥かに上回る質量は、それ自体が武器になる。走り寄られるままに踏み付ければ人など只の風船だ。繰り出される腕や爪をまともに受ける事は自殺行為以外何者でもない。

 

 また、巨体で有りながら気付けば背後にいた……そんな話も森を恐怖の園にしている理由の一つだろう。

 

 他にも恐怖を体現した体躯もそれに数えられる。腹に響く唸り声や叫びと合わせ、心の弱い者は身動きも出来なくなるのだ。

 

 だが……魔獣と戦う、戦った者なら違う証言をする。戦場から生きて帰った者のほぼ全てが必ず、体を震わせながら口にするのだ。

 

「恐ろしいのは、数だ」と……

 

 確かに魔獣は恐るべき怪物だが、倒せない相手ではない。過去、或いは現在の英雄達が何匹も葬ってきた。指揮を取るケーヒルや、王都に居るアスト、若き日のカーディルなどもそれに数えられるだろう。

 

 森で魔獣と遭遇したら、全てを放り投げて逃げろ……森人達が口を揃えるのは、過去からの経験が物語るからだ。

 

 たった数匹なら……そう考えた者は、最期は埋め尽くす赤い壁に囲まれて絶望するしかない。

 

 

 

 

 

 

「カズキ……何を……!」

 

 ……そうか……しまった! アスト殿下からの手紙に……

 

 ロザリーは此処に至って漸く思い出した。

 

 テルチブラーノでの癒しもカズキ自らの意思だったし、血肉を捧げるとは言えこの様な状態を見てはいなかったのだ。

 

 しっかりとあの長文には書かれていたではないか……!

 

 救うべく人が目の前にいれば、カズキの意思とは関係無く聖女の力を行使する。その強制力は想像を超え、カズキから自由すら奪うのだと……

 

「カズキ……!」

 

「姐さん、もう遅い! 奴に見つかってしまう。今は隠れて機会を窺うんです!」

 

 今にも飛び出しそうなロザリーを無理矢理押さえ付けて、フェイは何とか木の影に押し込んだ。勿論ディオゲネスも付近にロザリー達がいるのは分かっているだろうが、態々探す事などしないだろう。その可能性に賭けるしかない。

 

「ああ……カズキ……」

 

 あれ程恐怖に駆られた筈のディオゲネスにあっさりと捕まり、カズキはズルズルと騎士達の近くに連れて行かれた。

 

「姐さん、落ち着いて! 奴等にとって聖女は生命線だ、何としても守るでしょう。兎に角近づくんです!」

 

 薄汚いディオゲネスの腕にカズキが捕まり、素肌に触れているのを見ればロザリーは怒りで狂いそうになる。

 

「くそっ……! ディオゲネス……!」

 

 早速倒れた騎士に近づいて、カズキは手にナイフを当てた。あの美しいナイフはカズキを守る為に渡したのであって、そんな事に使って欲しくはない。そうして直ぐに白い光が溢れ、暫くすると若い騎士は立ち上がり奇跡に慄いている。

 

 魔獣と戦いながらもどよめきが立ち、騎士達の士気は見るからに上がった。

 

「見たか! 我らには聖女がいる。死ななければいい! 直ぐに聖女が癒して下さるぞ!」

 

 ギリリ……!

 

 ロザリーは余りの怒りに歯を強く噛みしめたが、本人は気付く事も無かった。

 

 それを知った訳ではないだろうが、ディオゲネスは更に指示を出す。

 

「あの崖まで下がれ! 円陣はそのままで燃える水を使うんだ! 魔獣は火を恐れるぞ。各個にブチ殺せばいい!」

 

 背後の憂いを絶てば、聖女を中心に戦い続ければいい……ディオゲネスはそう考えたのだろう。いつかは力尽きるが、それまで魔獣を殺せば良い……その狂気は最早正常な思考を許しはしない。

 

 奇しくもロザリー達に近づいて来たディオゲネス達は、隠れる2人に気付く事も無く直ぐ側に陣形を組み直していく。

 

 これなら……未だ方法など浮かばないが走り出せば手の届く場所まで来れば助ける事も出来る!

 

 ディオゲネスは物を引き摺る様に首に腕を回し、数歩先の大木にカズキを押しつけた。そしてカズキからナイフを奪い取ると、細い右手を幹に押しつけて掌を開かせた。

 

 まさか……!? よせ!

 

 グジュ!

 

 そう思うロザリー達の目の前で、躊躇無くカズキにナイフを突き立てたのだ。貫いたナイフは幹に深く刺さり、カズキを磔にする。そして真っ赤な血が直ぐに流れ出して、細い腕を赤く染めていった。カズキは悲鳴こそ上げないが、綺麗な顔を酷く歪ませて強烈な痛みを表している。

 

 もう我慢出来ない! フェイの持つ小剣を引き抜き駆け出しかけた時だった。

 

「……姐さん! アレを!」

 

 やっと……やっと味方が来たのだ! アレは間違いなくケーヒル達で、側にはジャービエルとリンド、ドルズスの姿もあった。

 

 距離はあるが、頼もしいケーヒルの声が森に響き渡る。

 

「全員抜剣! 魔獣を蹴散らしつつ、聖女を奪還して森を出る。残念だが彼奴らも敵だ、神々の使徒である聖女を傷付けるなど許す事は出来ない! 行くぞ!」

 

「「「おう!!」」」

 

 残りの魔獣達も新たな獲物の登場に歓喜したのだろう、ギャーギャーと騒ぎ始めた。

 

「フェイ、行くよ!」

 

「ええ、行きましょう。 俺が背後から近付き奴の気を引きます、姐さんは後から聖女を!」

 

「ああ!」

 

 新たな騎士団の登場に目を向けるディオゲネスを殺してやりたいが、ロザリーは早くカズキを抱き締めたかった。

 

 混乱に乗じ、2人の森人も動き始める。

 

 狂乱の宴は始まったばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちっ……ケーヒルの旦那かよ。流石に旦那を相手にするのは骨が折れるな」

 

 だが今は魔獣がいる……手にした燃える水の瓶を振り被り、見事な狙いで騒いでいる魔獣まで放り投げた。

 

 ディオゲネスは続いて燃え盛ったままの松明を掴み、思い切りぶん投げる。執念の成せる技か、此れも見事に届き、爆発する様に炎が立ち昇った。

 

 キーーー!!

 ギギャーーー!!

 

 赤い炎に包まれた魔獣の悲鳴は、更なる狂気を呼び込んだ。続々と森の奥から魔獣が集まり始めたのだ。

 

「マリギと一緒か。くくく……魔獣共は代わり映えしないな。全部殺してやるよ!」

 

 痛みに苦しみ、もう片方の左手でナイフを抜こうとするカズキにディオゲネスは顔を向けた。ディオゲネスが力を込めたナイフは硬い幹に深く刺さり、カズキの力では抜く事が出来ない。

 

「聖女様、お手伝いしましょう」

 

 汚い笑みを浮かべたディオゲネスは残る左手を掴み、磔を完成させようとする。

 

 折角の宴から聖女が退席するのを許す訳にはいかないし、自らが聖女のお世話などやっていられない。魔獣の悲鳴をもっと、もっと聞きたいのだ。この大木を治癒院に見立てて、負傷者を運び込む……そう考えたディオゲネスの行動だった。

 

 その時背後から近づいたフェイは、ディオゲネスの首を狙って小剣を素早く横に薙いだ。その技量はケーヒルが見ても見事だと唸るだろう。

 

 ビュッ!

 

「っと……危ねぇ……流石森人だな。気付かなかったよ。だが、惜しむらくは首じゃ無く胴を狙うべきだったな」

 

 それ程の剣にも余裕を崩さないディオゲネスは、いつの間か抜いた剣をユラユラと揺らした。

 

 ブシュ……! 分かりやすい音がしたと思うと、フェイの右腿から血が吹き出した。躱し様に抜いた剣を振りかぶること無く、短く引いたのだ。

 

「な、なに!?」

 

 揺れるディオゲネスの剣には真新しい血が付着している。ロザリーもフェイも剣の達人とは言えないが、それでもディオゲネスが尋常では無い剣士だと思い知った。

 

「俺をやりたいなら、ケーヒルの旦那かアスト殿下でも連れてくるんだな。お前らでは力不足だよ」

 

 ケーヒルは勿論だが、アストも只の騎士では無い。ディオゲネスをして、勝てると言い切れない相手はやはり存在する。

 

 だが……

 

 果たしてアストやケーヒルはコイツに勝てるのだろうか? 軽い口調に反して、ディオゲネスが人に見えなくなってくる。フェイは絶望感が湧き上がるのを止められなくなっていた。

 

「なぜ……それ程の強さを持ちながら……」

 

「あーあー……もう聞き飽きた。いいから早くかかって来いよ、其処の隊長さんもな」

 

 フェイの負傷に動揺しながらも、息を潜めていたロザリーにも目線を送った。

 

「来ないなら、聖女様にお仕事をして貰うまでだ。俺は早くあの戦場に行きたいんだよ。下らない時間稼ぎに付き合うつもりはない」

 

 周囲は阿鼻叫喚の絵図へと変貌したが、ディオゲネスは変わらずに平坦な嗄れ声をこぼした。

 

「……ディオゲネス……それ以上カズキに手を出したら……」

 

 あっさり見つかったロザリーは、立ち上がって気を吐いた。

 

 ディオゲネスは胸の剣帯からナイフを抜くと、ほぼ視線すら送らずに肘から先の振りだけで其れを投じた。そのナイフは背中を見せていたカズキの肩に刺さり、やはり聞こえない悲鳴が上がる。脱力したカズキは思わず腰が落ちたのだろう。刺さったままの右手のナイフが更に傷を深く抉り、瞳から涙が流れ出るのが見えた。

 

「貴様!! 何を!」

 

「時間稼ぎには付き合わないと言った。 俺は魔獣に用があるんだ、よ!」

 

 一気に踏み込んだディオゲネスは、小剣を持つフェイの手首を簡単に切り裂いて笑う。

 

「ぐっ……!」

 

「フェイ!」

 

「あらら、大変だ。早く治療しないと出血で死ぬぞ。おっと、丁度目の前に治癒が大好きな少女がいるじゃないか。安心していい、聖女の意思など関係ない事は実験済みさ」

 

 何処までも巫山戯るディオゲネスにロザリーは憤怒の感情を抑えられないが、同時に奴の異常な強さに手を出す事も出来ない。

 

 悔しいが、旦那の力に頼るしか……!

 

 一瞬だけロザリーはケーヒルを探したが、次の瞬間には驚くべき現象が起きた。

 

 ズドッ! 

 

 ディオゲネスの肩に矢が生えた。いや、誰かが放った矢が見事に突き立ったのだ!

 

 見ればマファルダストの一団が近付き、其処から矢が放たれた様だった。

 

「……っつ! ちっ……こりゃお遊びが過ぎたか……流石に森人の弓は凄まじい」

 

 森の中の森人は弓兵などより遥かに強力な兵士だ。矢は黒く染められ、ご丁寧に黒羽すら使われている。薄暗い森で放たれた矢を目視するのは至難だろう。

 

 流石のディオゲネスも、素早く側の木に隠れて射線から逃げるしかない。

 

「ドルズスか! 姐さん、今だ!」

 

 フェイには、残心の姿勢を崩さないドルズスが見えていた。

 

「ああ! カズキ待ってな……今行くよ!」

 

 膝を落としているフェイも気になるが、兎に角カズキを助けないと! 背中に刺さったナイフすら抜く事が出来ていないのだ。痛みで震えていても、右手のナイフが蹲るのを許さない。

 

 ロザリーは素早くカズキが磔にされた大木に駆け寄った。

 

 だが、肩から矢を引き抜いたディオゲネスは信じられない行動に出る。

 

 未だ構えを解いていないドルズスに構わず、姿勢を低く飛び出してロザリーに肉迫したのだ。驚いたドルズスも再度矢を射掛けようと弦を引いたが、出血で膝をついたフェイの背後に入り、そのままロザリー重なれば放つ事など出来なかった。

 

「さて、ねーちゃん……って程の年でもないか」

 

 既にドルズスの位置も見切っているディオゲネスは、ロザリーを射線に立たせて背に剣を当てる。

 

「見ろよ、あの魔獣の数を。マリギの再現だが、唯一の違いは聖女だ。俺とケーヒルの旦那、お前達森人が居れば勝てるかもしれない……な。お前等! コイツらを見張ってろ! 魔獣が近づいて来たら放り投げていい。勝手に聖女の為に戦うさ!」

 

「「は!!」」

 

 ドルズスも魔獣の接近に此方を気に掛ける余裕が無くなりつつあった。

 

「くそっ……カズキを……」

 

「負傷した者は引き摺ってでも此処に連れて来るんだ! 治癒が遅れる様なら、死なない程度に聖女を傷付ければいい! それが聖女の使命だ、気にする必要はない……見ろ、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 余りに悔しく、自分の無力感に思わずカズキを見て……ロザリーはヒッと小さな悲鳴を上げた。

 

 先程まで痛みに苦しんでいたカズキは、フェイの怪我を見て身体を傾けていたのだ。右手のナイフが邪魔をしているのに、それすら無視してフェイに左手を伸ばしている。引かれた右手は更に出血が激しくなり、今にも掌を引き裂いてしまいそうだった。

 

「そんな……なぜ? カズキ、やめて……お願いよ!」

 

「なんだ、隊長さんはアレを見るのは初めてか? あれこそ聖女だよ。ハハッ! 献身と慈愛、素晴らしいじゃないか!」

 

 早くフェイとやらを聖女に助けさせた方がいい、手が裂けるぞ? そんな残酷な台詞を吐きながら、ディオゲネスは魔獣の群れへと歩き出す。

 

「その森人を治癒させろ! 折角だからやり方を覚えるんだ。左手に患部を当て、足りないなら左手も切り裂けばいい! 聖女だけは逃すなよ!」

 

 見張りに来た騎士三人は戦場の狂気に当てられたのだろう、歪んだ笑みは常人では無かった。

 

 カズキが自らの意思で聖女の力を行使したならば、左手どころか何処かに触れるだけで瞬時に完治する。リンスフィアの奇跡を詳しく知らないディオゲネス達には、左手こそが力の発現場所にみえるのだろう。

 

 今の聖女には本来の力など出す事は出来ないのに……

 

 ディオゲネスは狂気の眼をギラリと輝かせると、緩やかな歩みを止め剣を抜く。そして駆け出していった。魔獣蠢く戦場へ……心の中で狂気の怨嗟を叫びながら。

 

 

 

 

 漸く、漸くだ……この時を何年も待った。

 

 魔獣め、好きなだけ叫べ。

 

 ()()()()……お前の死と苦しみを何倍にもして、奴等を縊り殺してやる。

 

  待ってろ、直ぐにーー

 

 殺す。叫べ。

 

  俺も直ぐに行くーー

 

 必ず殺し尽くす。

 

  待っていてくれーー

 

 

 

 

 刻印、つまり神々の加護は力を与える。それはときに精神にすら影響を及ぼすのだ。幾人もの人が英雄となり、中には常識を超えた戦士も居たと言う。今や万人に一人と言われる使徒は非常に少ない。だが、ゼロ、では無い。

 

 ディオゲネスの頭部に刻まれた刻印……黒神ヤトの加護、憎悪の鎖縛(さばく)

 

 焦げ茶色の髪に紛れて、其れは見えない。

 

 ずっと昔に刻まれた刻印は、ディオゲネスを導くのか……それとも聖女の刻印、例え薄れても消えない憎しみの連鎖と共鳴しているのか。

 

 ディオゲネスは今まで感じた事の無い万能感を覚え、歓喜していた。

 

 その憎悪が魔獣にのみ向けられるのは、神々の意思なのだろう。

 

 黒神ヤト……司る力、加護は……

 

 悲哀、そして、()()()()()

 

 魔獣への神の尖兵、たった一人しかいない聖女の(しもべ)……其れを自覚しないディオゲネスは剣を両手で強く握り、雄叫びを上げた。

 

 

 

 

 

 



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49.赤と黒の狂宴⑤

 

 

 

 

 

 赤い炎は魔獣の身体を更に濃くして、その悲鳴は次々と悪夢を呼び寄せるだろう。

 

 森の奥からは一匹、また一匹と集まりつつあった。

 

 

「よし、そいつはいい! 左手を牽制しながら聖女の方に近づくぞ!」

 

 ケーヒルは放たれた矢が魔獣の頭蓋に刺さるのを見て、素早く周囲を確認した。

 

 聖女のいる場所まで魔獣の壁はまだ二匹いる。時間を掛ければ直ぐに不利となる事を知るケーヒルにとって、今は少しでも早く森を出る必要があった。

 

 だが、どうする……このままでは……

 

「副団長さんよ、アンタはあそこから回り込んで聖女の元へ行け。ジャービエルとリンドも使っていい、こういう時は森人が役に立つ。それに見えないが、あの先は崖で背後に逃げ場はないんだ。なんとかこっちに連れて来るしかない」

 

 南の森をよく知るドルズスは、此処からは見えない地形も把握していた。更に言うとあの焦げ茶色の騎士は只者じゃない。さっきの動きといい、森に同化している森人をあそこ迄簡単に見切るなど信じられない。

 

「あの男は普通じゃない……ロザリーもフェイもその辺の騎士には引けを取らないのに、相手にもなってないとは。それに時間を掛けられないのはご存知だろう? 直ぐにこの辺りは魔獣で埋まってしまう」

 

「それはそうだが……此処をどうする?」

 

「魔獣を倒すのでは無く、アンタが戻るまでの時間を稼ぐのなら何とかなるだろう! そうだろ!?騎士さんたちよ!」

 

「おう!! ……副団長、アイツは間違いなくディオゲネスです! 生半可な奴では歯が立たないし、此処は何とかしますから……うおっ!」

 

 危うく魔獣の餌食になりかけたが、見事に姿勢を低くして躱した騎士が叫んだ。古株の騎士にとってディオゲネスは、憧れであり恐怖でもあった。

 

 あの狂気が無ければ、アストと並ぶ英雄となっただろう。噂では近しい人が魔獣にやられ、気が狂ったと言われている。家族を失くした者は多いが、ディオゲネスは突出して強く魔獣を憎んだ。

 

「それしか無いか……私が戻るまで何とか耐えてくれ!」

 

「牽制する! 構え……放て!」

 

 魔獣とその向こう側にいる主戦派の騎士達に、矢をばら撒いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「下がれ! 聖女のところへ連れて行くんだ! そっちはもういい、死んでる!」

 

 ヴァディムは声を荒げて指示を出していた。

 

 魔獣共が本気で掛かって来ない事が一番の理由ではあるが、新人達にしては良くやる。間違いなく聖女の加護のお陰だろう。即死さえしなければ、彼女が癒すのだから当然だ。

 

 素晴らしい……たったこれだけの戦力で、しかも大半は素人同然のヒヨッコばかりだ。もし戦力と戦略を整えて魔獣と相対したら、どれだけの戦果になるのか想像もつかない。

 

 ヴァディムはディオゲネスの強さを信じているが、聖女に関しては半信半疑だった。だが、明らかな過小評価だったと詫びなければならないだろう。

 

「治癒は勿論だが、魔獣への恐怖をここ迄軽減出来るとは……聖女が居るだけでこれ程違うのか」

 

 実際は聖女の力は封印されているし、カズキの意思が無いのなら十全に発揮すらしていない。それでも聖女を初めて見た者には衝撃的な事だった。

 

 ドッ……!

 

 ヴァディムの横に誰かが吹き飛んで来た。剣で受けようとしたのだろう、両手は歪に曲がって原型は留めていない。

 

「う、うぎゃーーー!! 腕が……俺の腕が!?」

 

「力は受け流せと教わっただろう? 足が動くなら自分で聖女の元へ走れ!」

 

 涎と涙を流し這うように戦線から離脱する騎士に目もくれず、ヴァディムは空いた穴に自らを滑り込ませた。

 

「ふっ」

 

 それと同時に魔獣の上腕を愛剣で薙いだ。基本に忠実に一撃に賭けたりせず、浅くとも傷を負わせる事に注力する。

 

 ウギィィァァ……!

 

 僅かとは言え傷付けられた事に怒りを覚えたのか、魔獣はヴァディムを睨んで反対側の腕を叩き付けようと振り落とした。

 

 ドゴッ!

 

 柔らかい腐葉土は鈍い音を立てながら、抉れて弾ける。だが、ヴァディムの姿は其処に無く、更なる追撃を与えながらも数歩分距離を取った。

 

 身体が軽い!

 

「弓兵! 次だ、放て!」

 

 間合いを取りながら、構えを解いていなかった兵達は即座に反応した。

 

 ビィン!

 

 まるで一つの音の様に同時に放たれた矢は、吸い込まれる様に魔獣に殺到する。

 

 ズドドッ!

 

 眼球や頭蓋、咽喉元にも突き刺さった矢に魔獣は悲鳴すら上げずに倒れ伏した。

 

 いける……魔獣め、苦しんで死ぬがいい!

 

 魔獣は尽きる事なく次々と姿を現し始めていたが、戦場に酔う騎士達に後退の意思は無かった。ヴァディムすら例外では無い。魔獣の真の恐怖はこれからなのに、魔獣打倒の歓喜は正常な判断を狂わせていく。

 

「いいぞ! 我等は聖女の加護に守られている! 左翼は更に展開、燃える水で壁を作れ! 魔獣の攻め口を限定させる!」

 

「「おう!!」」

 

 当初の予定通り、魔獣共が四方から殺到するのを防ぐ為に炎を使う。魔獣が恐ろしいのは数だ、それさえ抑えれば後は聖女の治癒が支えるだろう……ディオゲネス、いやユーニード軍務長が以前から提唱していた作戦の通りになるのだ。

 

 あとはディオゲネスが合流すれば、全ては上手くいく……ヴァディムに恐怖は無く、歓喜だけが身体を支配していた。

 

「よし、火を放て!」

 

 ヴァディムから見て左手に炎の壁が出現する。燃える水は長時間火を放ち続け、魔獣を遠去けるだろう。

 

 背後にあるのは聖女と崖だ。偶然の地形だが、神々が味方して下さる……そう思うヴァディムには何も見えていなかった。既に数人は死亡し、聖女は凄惨な姿に変わっている。炎に遮られた先には騎士を上回る数の魔獣がひしめき合っているのに。

 

 そして……魔獣は決して本能のままに動く獣などでは無い。此処から程遠くない場所で、練達の森人イオアンが命を替わりに知った事実だ。

 

 間も無く騎士達は蹂躙されるだろう。若い騎士も老練の戦士も、森人すらも。

 

 魔獣はその為にいるのだから……

 

 

 

 

 

 

 

 

「副団長、もっと身を低く」

 

 ジャービエルは普段開かない口を頑張って動かしていた。リンドは側にいるが、流石に新人の森人に求めるのは酷だと思ったのだろう。

 

 煩かったリンドも今は顔を青くして、ひたすら無言で足を動かしていた。リンドを動かすのは、傷付けられていくカズキを救いたいと言う一心だ。英雄が如く助け出し、カズキに抱き付きたいと言う下衆な思いもあるが。

 

「済まない、だがこれ以上どうやってアチラへ行くんだ?」

 

 此処からは聖女もロザリー達も見えない。方向は間違いないだろうが、道など存在しないのだ。

 

「一度崖に降りる。勿論下までじゃない。これで」

 

 言葉を切る様に話すジャービエルは、黒く染められた腰にある縄の束を指差した。

 

「……そんな細い縄で大丈夫なのか? 直ぐにも切れそうだが……」

 

「これは森人が使う特殊なモノ。副団長が3人いても大丈夫、多分」

 

 ケーヒルは最後の台詞は聞き流し、直ぐ足元の崖への入り口を眺めた。

 

「とにかく急ごう、聖女を奪還後は森を無理矢理にも突破する。ディオゲネス……あの騎士は私が相手をするが、他は頼むぞ」

 

「姐さんもいる。剣さえ有れば、その辺の騎士には負けない」

 

 先程チラリと見えた様子では、ロザリーもフェイも後ろ手に縛られて自由はない様だった。ジャービエルも十分戦えるが、3人の騎士相手は流石に無理と思っている。

 

「ああ、そうだな。聖女は怪我をしているから、君に任せるかもしれない。頑張ってくれ」

 

「は、はい!」

 

 王都でも有名なケーヒルの迫力にリンドは緊張を隠せない。騎士をあまり好きではないリンドも、名高い副団長には頭が上がらないのだろう。

 

「行こう」

 

 森人特有の結びを終えたジャービエルから、ゆっくりと崖の中腹を目指して降りていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 振り上げた手の先には剣と見紛うばかりの爪が並んでいる。魔獣の筋肉が震えて、斜め上から猛烈な速度で振り下ろされた。受ける事は勿論、受け流すのすら不可能と誰もが思った。

 

 ズバンッ!!

 

 だが、ディオゲネスには通じない。

 

 爪の根本、指先を一瞬で切り離された魔獣は耳に響く煩い悲鳴を上げた。そして迫り出した口蓋を天に向けた魔獣の悲鳴は途中で途切れる。斬り飛ばしたディオゲネスの剣は止まらず、そのまま下から咽喉元に突き刺したからだ。強靭な筈の魔獣の肉と骨は役割を果たさず、頭頂まで切っ先が抜けた。

 

 壮絶な笑みはそのまま、倒れ来る魔獣の首を切断する。魔獣の体重が助けたとは言え、尋常な膂力では無い。周辺に居た騎士も思わず見入ってしまう程だ。

 

「すげぇ……教導官ってこんなに強かったのか……」

 

 騎士一人が魔獣一匹を殺すなど、ケーヒルにもアストにも不可能だ。その異常性を知らない若き騎士は、ただ感嘆するだけだった。

 

 雨の如く降り注ぐ魔獣の血を浴びながらディオゲネスは次の獲物に向かっていく。

 

「うらぁ!!」

 

 背を向けていた魔獣の後ろ足を断ち切って、姿勢を崩した魔獣の上に立ったディオゲネスは、剣を逆手に持った。やはり笑みはそのまま首の後ろに深く突き刺す。

 

「どうしたぁ!! 魔獣共! 獲物は此処だ、かかって来いよ!」

 

 ドスドスと二匹の魔獣が赤い眼をギラつかせ、ディオゲネスに走り寄って来る。

 

「お前等、遊んでんじゃねぇ! 矢を放て、右だけでいい!」

 

 響く号令に慌てて弓を構えた騎士達は、それでも訓練のまま正確な狙いで矢を放った。これも訓練の成果か、見事な迄に同時に放たれた矢は右側の魔獣に殺到する。

 

 ディオゲネスは矢の行方を横目で見ながら既に走り出していた。足音を鳴らす魔獣は、勢いはそのままに爪を叩き付けようとする。

 

「魔獣は皆同じだ……それしか能が無いのかよ!」

 

 簡単に其れを躱したディオゲネスは一旦背後に回り込み、矢の放たれた片方を見た。幾本か突き立った矢は魔獣の悲鳴を呼び込み、脚にも当たったのかつんのめって倒れ込んでいた。その間抜けな姿に笑みを更に深めると、此方に向き直った魔獣に目を細める。

 

 今度は無言で間合いを詰めると、ヤツは拍手をする様に両手を挟み込んできた。

 

 グアアアァーーーーッ!!

 

 だが、やはりディオゲネスには通じない。いつの間にか鞘に収めた剣を背後に前転して懐に入る。その姿勢から両手で引き抜いたナイフ二本を魔獣の腹に突き刺すと、折れるのも構わずにグルリと抉った。

 

 魔獣は痛みか怒りなのか、自らの腹目掛けて無茶苦茶に腕を振り回す。だがディオゲネスの姿は其処には無く、剣を上段に構えて壮絶な笑みを浮かべていた。

 

「馬鹿が……」

 

 さほど力が入っているとは思えない振りで、ディオゲネスは剣を振り下ろした。

 

 魔獣を切り裂いた剣は少しだけ曲がっていたのか、鞘は既に壊れて地面に落ちている。

 

 心地良い断末魔を少しの時間だけ聞いて、ディオゲネスは隣の獲物へ駆け出した。見れば最早助かる事もないであろう騎士が数人倒れている。負傷した魔獣に油断したのか、或いは間抜けか……ディオゲネスは僅かにも心を動かす事無く、真っ赤に染まった剣ごと体当たりを敢行する。

 

 あっさり絶命し倒れた魔獣に唾を吐き、周辺を見廻す。

 

 炎の壁は完成しつつあり、少し場所を移す方が良いだろう……ディオゲネスは聖女の位置を確認しようと、磔にした大木を見て動きが止まった。

 

 浮かべていた笑みは消え、焦げ茶色の両眼は座る。

 

 大木の背後、崖の方から近づく3人の姿が見えたからだ。見張りに残した騎士達は、まだ気付いていない。大木の反対側で見えないのだろうが、寧ろ聖女に屯って遊んでいるからだ。聖女の顎を手で掴み、無理矢理に上を向かせようとしていた。 

 

 森人の女……ロザリーは叫び声を上げて騎士を非難している。

 

「はぁ……所詮は只の騎士か……」

 

 聖女をその辺にいる街娘と勘違いでもしてるのか、それとも戦場にいる事すら忘れたか。ディオゲネスは何故か聖女に触れる若い騎士に怒りを覚え、下らない感情だと直ぐに捨てた。

 

 助ける気など毛頭無いが、聖女を奪われるのは上手くない。戦場は幾らでもあるのだ……此処に拘る必要も無いか……ディオゲネスは何かを諦めたのか、戦線の背後に積まれた燃える水を両手で掴むと溜息をついた。

 

 表情すら変えずに、魔獣を押し留める騎士達の背後へばら撒く。何本も何本も……独特の揮発臭が鼻をくすぐり、ディオゲネスは矢張り無表情で火を放った。

 

 ドバッ!!

 

 簡単に燃え上がると、聖女を背後に半円の赤い壁が出現する。気付いた騎士達は叫び声を上げているが、既にそちらを見ていないディオゲネスには聞こえていない。いや、聞く気すら無いのだろう。

 

 騎士達は魔獣の群の前に取り残され、逃げることさえ叶わない。背後には炎の赤い壁、前には魔獣の赤い肉の壁があるのだ。生き残るには炎が消える迄の長い時間を稼ぐしか無い。

 

 魔獣の数は既に百に届いているだろう。そして取り残された騎士はもう20人程度しか残っていない。負傷を癒す為に聖女の懐へ飛び込む事も不可能となった。

 

 やがて、騎士達の悲鳴が森に響き始めたが、救いの手は差し伸べられる事もない。その悲鳴の中にはヴァディムの声もあったが、それすらもやがて消えていった。

 

 

 

 

 

 

「さて、ケーヒルの旦那と一戦交えるのは何年ぶりかな……あの頃は何度挑んでも勝てる気はしなかったが、今はどうだろう? 今の俺は強いぜ?旦那よ」

 

 ディオゲネスは消えていた笑みを再び浮かべ、低木や草に隠れて近づくケーヒルを見る。

 

 ケーヒルもディオゲネスに気付かれた事を知った。

 

 そして、ロザリーの悲鳴だけは何故かしっかりと聞こえる。手を出すな、汚い手でカズキに触れるな、と。

 

 其れは深い愛と怨嗟の叫びとなり、間違い無く聖女へ届いていた。

 

 森は赤く染まり周囲を明るく照らしている。

 

 宴は佳境へと差し掛かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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50.赤と黒の狂宴⑥

 

 

 

 

 パチパチ、ゴウゴウと森は赤い炎に包まれている。

 

 炎の壁は高く、消える気配も無い。燃える水で人工的に作られた壁は暫く形成したままだろう。木々にも延焼を始め、パキパキと膨張した水や空気で爆ぜる音もする。集まった魔獣達は炎の壁の向こうで揺ら揺らと体を揺らしていた。

 

 そんな激変した森に目もくれず、聖女を囲う男はニヤニヤと腕を伸ばした。

 

 カズキの顎を手で掴み、俯く顔をグイと上向かせた騎士の顔は歪んでいる。加虐心と独占欲、血と戦場の興奮は騎士を汚い屑へと変貌させていた。

 

「聖女さまぁ、泣かないで下さいよ。今は怪我人もいないし、少し遊ぶのはどうですか? ほら、綺麗な顔をもっと見せてください」

 

「汚い手で触るんじゃない!! それでも誇り高い騎士なのかい!」

 

「黙ってろ!」

 

 両手を後ろ手に縛られたロザリーは、地面に押さえ付けられながらも声を張り上げた。カズキを弄ぶ騎士は情欲すら感じさせて、吐き気を催す程の醜さだ。残り二人の若い騎士も、ロザリー達の背後から怒鳴り声を上げるだけだった。

 

 両腕を破壊され這う様に聖女の元へ来た騎士も、先程嬉々として戦場に帰った。

 

「ちくしょう! お前らは人間じゃ無い! 魔獣よりも醜い化け物どもめ!!」

 

「黙ってろって言っただろう!」

 

「ぐっ……」

 

 騎士は右手でロザリーの頭を地面に押し付けて、グリグリとなすりつける。ロザリーは余りの悔しさと怒りで気が狂いそうだった。

 

 最初に癒されたフェイは気絶させられたのか、ロザリーの横で倒れたまま動かない。

 

 カズキは右手が痛むのだろう、整った顔を歪め騎士を睨み付ける事も出来ない。それでも涙に濡れた眼は赤い炎に照らされて美しかった。

 

「本当に綺麗な翡翠色ですなぁ。私の傷付いた心も癒しては下さいませんか? ははっ、俺も上手いこと言うよな」

 

 周辺は炎に照らされ、戦死者も多数出ている。運び込まれた騎士達は殆どが重症で、戦場の苛烈さを示していた。それなのに……再び戦場に嬉々として戻る騎士も、カズキに纏わり付く屑も狂気を隠しもしていなかった。

 

 押さえ付けられたロザリーが目に入ったのか、カズキに少しだけ力が戻る。映すのは純粋な怒りだろう。自らの血はどうでもいい、ただロザリーが傷付き涙するのを見るのが嫌だった。

 

「おや? 聖女様ともあろうお方が、そんな物騒な眼をする物ではありませんぞ。ほら、笑顔を絶やさないで」

 

 正に異常者の言動だった。それを耳にしたロザリーに怖気が走る。こんな奴がカズキの肌に触れるなど、絶対に許せはしない。

 

 歪んだ笑みを浮かべながら顎から首へツツツと指を這わせる。見事な刻印に触れる自分に、感じた事の無い陶酔感を覚える。まるで神々へ触れているかの様に感じていた。

 

 その時だった。

 

 グヴァン!!

 

 背後から今迄以上の炎が上がり、爆発する様な音が全員に届いた。流石に騎士達も背後を振り返って新たな赤い壁が形成されたのを知る。丁度自分達、つまり聖女を中心にした半円だ。

 

 カズキは空いた左手で目の前の騎士に手を伸ばした。腰に刺してあるナイフをそっと抜き取ると、ロザリーの方へ放り投げる。見張りの騎士二人も炎に気を取られ、全く気付いていない。

 

 もぞもぞとナイフを体の下に隠したロザリーは、カズキを見て頷いた。

 

「な、なんだ!? 何が起きた? 誤爆?」

 

 そして此方に歩み寄るディオゲネスを見た。

 

「き、教導官殿、何が?」

 

「馬鹿どもが! 背後を見るんだ!大木の後ろだ!」

 

 慌てて振り返った騎士達の眼には、立ち上がったケーヒルと、二人の森人らしき男達が映る。

 

「ケ、ケーヒル副団長!? どうやって背後から……」

 

 騎士達には明らかな動揺が走った。当然だろう……ケーヒルはアストと並ぶリンディアの英雄で、最強の騎士の一角だ。炎と魔獣に分断され此方に来るとは思っていなかった。

 

 ケーヒルは背中から大剣を抜き出し、早足から駆け足に変わりつつあった。

 

「聖女を離すんだ! 貴様も騎士の端くれなら誇りがあるだろう!」

 

 先程までカズキを甚振っていた騎士のなんと情け無い事か、尻餅をつきズルズルと後退りを始める。

 

「旦那ぁ……アンタの相手は俺がするよ! お前らは森人をやれ! その程度、魔獣の比ではないだろう!」

 

 ディオゲネスは血のりを拭うこともせず、赤い剣身をそのままに駆け出す。騎士達もディオゲネスの言葉に正気を取り戻し、剣を抜き放った。

 

 赤い炎は何処までも高く舞い上がり、周囲を照らす。熱量は強く、離れたケーヒルにすら感じられる程だ。

 

 それでも聖女の黒髪は赤く染まる事なく、何処までも漆黒を保ち輝く。

 

 そして、南の森は血をどこまでも吸い取っていくのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ディオゲネスは先程まで浮かべていた笑みを消し、ケーヒルに肉薄していた。ケーヒルも先にカズキを助けたかったが、ディオゲネスの想像以上の速さに相対するしかなかった。

 

「ディオゲネス……貴様、そこまで落ちたか!」

 

 ケーヒルは若きディオゲネスに大きな期待をしていた。尋常ならざる剣の才はアスト以上で、精神力も並外れていたからだ。ある街の悲劇が彼を変えたらしいが、この時代にはありふれた事の筈。悲しいがそれが事実だ。

 

「旦那、語る事など無い。聖女は渡せないな」

 

 ズバッ!

 

 乗った血糊すら空中に置き去りにして、ディオゲネスの突きはケーヒルに迫った。ケーヒルは身体を躱す事なく大剣で受け流そうとする。

 

 ガキン!

 

 ケーヒルは思わず眼を見開いた。触れた剣身から伝わる力が想定を大きく上回ったからだ。崩れた体勢を補う為、左脚を後退させ踏ん張る。倒れはしなかったが、反撃は不可能だった。

 

「くっ……」

 

 ケーヒルは敢えて身体ごと後ろに流し、ディオゲネスから距離を取った。身体のあった空間にはディオゲネスの追撃が走り、ブオンと空気が切り裂かれる。

 

 ディオゲネスは流石だなと小さく呟き、前傾姿勢を元に戻した。

 

 瞬きをする程の僅かな時間と言うが、正に一瞬の出来事だった。

 

 ケーヒルもディオゲネスも正眼に構え、ジリジリと間合いを取り始める。騎士が学ぶ基本の構えは二人の間に鏡を作り出したかの様だ。しかし、片方の剣身は歪に欠けて魔獣との激戦を物語る。

 

 剣先が僅かに触れ、キキと金属の擦れる音がした。

 

 ふっ……!

 

 ディオゲネスは息を吐き、ケーヒルの左腕を狙う。フェイもロザリーも見切る事が出来なかった剣はしかしケーヒルには通じない。

 

 巨体とは思えない動きで右にずれると、それでも残した腕ごと大剣を真横に振り抜いた。ディオゲネスの剣から僅かの隙間しか無い見事な見切りだった。

 

 大剣を受ける事はせず、身体を前に放り出して躱す。ケーヒルの背後に回ったディオゲネスは、さらに自身の背後にいる聖女をチラリと見た。

 

「やはり旦那は強いな、ちょっと時間が足りない。俺も無傷では無理そうだ」

 

 言外にケーヒルに勝てると言うディオゲネスに、ケーヒルは反論しなかった。僅か二合の斬り合いだったが其れは事実と分かったからだった。

 

「貴様、それだけの腕をどうやって……? 実戦からは遠ざかっていた筈だ」

 

 ケーヒルは森人の攻勢に賭けるしかない。ディオゲネスの尋常ならざる力は、最早手に負えない差となっていた。

 

 当の本人であるディオゲネスすら、自らの力に驚きを感じていたのだから当然だろう。元々ケーヒルと互角と読んでいたが、今の間で勝てると確信した。刻印はディオゲネスに力を与え、背後の聖女すら身近に思えるほどだった。

 

 人外の聖女を近く感じるとは、俺も焼きが回ったか。幾ら強くとも所詮は一人。神々の使徒、聖女を側に感じるとはな……神々から見放されたと堅く信じ、強く憎むディオゲネスは思わず自嘲した。彼はその憎しみすら糧となる事を知らない。

 

「だが、それも一興か……魔獣が殺到するのが先か、旦那が倒れるのが先か賭けてみよう。聖女よ、お前の為に死に行く者達を其処で眺めていろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジャービエルは何とか時間を稼ぎたかった。リンドがロザリーの縄を切る時間をだ。

 

 だが、参戦した者を合わせると三人となった騎士達相手では、リンドをロザリーの元へ送る余裕など無かった。何とか横を伺うとリンドも躱すのが精一杯の様子だ。

 

 リンドの若さで戦闘集団である騎士と互角である事は驚愕に値するが、今は褒める暇も意味も無い。

 

「くそっ!」

 

 此処でリンドの若さ、経験不足が出てしまう。騎士達は態と追撃せず、相手が焦れるのを誘っていたからだ。

 

 自慢の剣を大振りしたリンドは誘い込まれた事を知ったが最早間に合わない。泳いだ身体は言う事を聞かず、騎士の前に晒された。

 

 リンドは振り上がった剣身を呆然と見上げるしかない。死の予感は何故かしなかった。

 

「ぐわっ! な、なんだ!?」

 

 その騎士の左手に小さなナイフが刺さっていた。縄を切ったロザリーは即座に立ち上がり、そのままナイフを投じたのだ。その結果など気にもせず、横に倒れたフェイの剣を掴むと猛然と走り出す。

 

 ロザリーはカズキを助けたかったが、先程のケーヒル達の戦いを見て判断を変えた。騎士達を倒し、ケーヒルの援護に入るしか打開出来ないと悟ったのだ。何より時間が無い。炎の壁が失われたら全滅する。カズキだけでも救わなければ……

 

 ロザリーはただ無言で騎士の一人に狙いを定める。勿論相手はカズキを薄汚い手で触れ、甚振ったアイツだ。その腕を切り落として、後悔させてやる……ギラつく眼は一点を睨み付ける。

 

 リンディア最高の森人の参戦は、簡単に情勢を逆転させた。

 

 僅かな時間で騎士の腕は切断され、悲鳴を上げる。慌てた残りの騎士もそれぞれ、ジャービエルとリンドに取り押さえられた。

 

「リンド! コイツらを見張っておきな! ジャービエル!ケーヒルの旦那を援護する。相手は半端じゃ無い、援護に徹するんだ!」

 

「姐さん、俺も戦える……あっ……」

 

 リンドは本気のロザリーの怒りを受け、余りの恐怖に身体が震えた。そう、練達の森人には常人に理解出来ない迫力があった。直ぐにリンドから目を離したロザリーは、ジャービエルを一瞥すると呻く騎士を置き去りに再び走り出す。

 

 カズキ! もう少しだけ待ってなよ!

 

 カズキも先程の絶望感すら無く、落ち着いてロザリーを見返した。ロザリーは思わず微笑を零した。聖女は動じる事なく、自分の意図を知り見返したからだ。

 

 流石聖女だよ! いや、私の愛する娘、カズキ!

 

 だが……絶望はそんな人の思いなど簡単に塗り潰していく。

 

 炎に焼かれながらも一匹の魔獣がロザリーの前に転がり出して来たからだ。

 

 思わず立ち竦んだロザリーは呻く。

 

「くそっ、こんな時に……!」

 

 火傷を気にもせず、倒れ込んでいた魔獣は立ち上がり咆哮する。

 

 グガアァァーーーー!!

 

 魔獣の背後で鍔迫り合いをしていたケーヒル達も、一旦間合いを取り直していた。

 

「くっ……仕方がない、回り込んであの男を巻き込んでやる。ジャービエル、わかるね!」

 

 コクリと無言で頷くとジャービエルはロザリーと左右に分かれて移動を開始する。

 

 一方ディオゲネスも新たな獲物の登場を喜んでいた。ケーヒルとの戦いも面白かったが、やはり斬るのは魔獣がいい。

 

「旦那、一時休戦だな。それとも続けるかい?」

 

「黙れ、早く潰さないと次を呼ぶぞ」

 

 今ここにリンディア最強の二人、そして最高の森人が並び立った。今までで最も大きい魔獣だが、戦力に不足は感じない。

 

 回り込む森人達を待つまでも無い。ディオゲネスは簡単にケーヒルに背中を見せると、満面の笑みを浮かべて歩き出した。自分の倍はある赤い巨体に動じる事など無く、只笑う。

 

 そして、カズキは赤い魔獣と立ち向かう戦士達に現実感すら消え去るのを感じるのだ。頭を振り、再び刺さったナイフを抜こうと痛みと戦う決心をした。何が出来るかなど分からないが、倒れた戦士を癒す事なり出来る筈。はっきりとした意識は聖女の力を取り戻し始める。

 

 そんなカズキを嘲笑う様に、悲劇は直ぐ其処に迫っていた。

 

 

 

 



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51.赤と黒の狂宴⑦

 

 

 

 

 やはり抜けない……痛みに耐えながらもナイフを抜きたいと思うが、力が大きく衰えた少女でしかないカズキには無理からぬ事だろう。更に出血が激しく、少しだけ意識が朦朧としている。

 

 これ程の傷と血では狂った様に悲鳴を上げてもおかしくは無いが、カズキには無縁の事だった。

 

 それでも何とかしたいと、痛みに耐え踠く。

 

 そして掌を引き裂けば外れると、酷く凄惨な決意をし掛けたカズキに魔獣の悲鳴が響いた。

 

 振り返ると魔獣の片腕が、焦げ茶色の男の剣に貫かれた様だった。

 

 

 

 

 

 

 

「旦那、右に回れ! こっちは何とかする!」

 

 漸く一撃を加えたが、コイツはかなりやる。今迄の魔獣と比べて、ただ人に腕を振り回すだけの獣では無かった。牽制と思われる動きもするし、先程貫いた腕も短い悲鳴で済ました。

 

 そろそろ本物がお出ましか……コイツらこそ本来の仇、憎っくき化け物どもだ。ディオゲネスは一人で相対するには、かなり厳しいと判断した。

 

「おい姉ちゃんよ! あっちに弓が転がってるぞ。コイツを倒さなければ、愛しい聖女様の番だ。急ぐんだな!」

 

 ロザリーも斬り殺してやりたい相手からの指示とは言え、森人では接近戦は難しいと理解していた。一刻も早くカズキを助けたいが、魔獣に騎士達が倒されては意味がない。

 

「ちっ! ジャービエル、弓だ!」

 

 掴んだ弓を投げ渡したいが、壊れては使えない。金属の剣とは訳が違うのだ。

 

 その時離れた場所で奮闘するドルズス達も目に入ったが、今はどうする事も出来ないと視線から外した。

 

 走り込んできたジャービエルに弓矢を渡し、ロザリーも位置につく。狙うのは眼か口、幸い相手は無駄にデカい。当てるのは難しく無いだろう。

 

 流れ矢がカズキに向かっては堪らないと、射線から外し右にずれる。ジャービエルも分かっているのだろう、ロザリーに追随して来た。

 

「ジャービエル、眼を狙う。矢は腐る程あるから少々は外していい、当るまで打て。それと……勝負がつきそうになったら、奴をやるよ。その後直ぐに脱出する、分かってるね?」

 

 勿論、と頷くジャービエルを見て弦を引き絞った。

 

 回り込んだケーヒルが脛に切り傷を与えたのを見て、ロザリーは矢を放つ。当るかを判断もせずに次の矢を素早く構える。

 

 そして見上げると、頭蓋辺りに当たった矢は刺さる事もせず、地面にポトリと落ちるのを見えた。

 

 ロザリーは叫ぶ。

 

「ジャービエル! 遠過ぎるし、下からだと力が伝わらない。ギリギリまで近づくよ!」

 

 幾本かの矢筒を肩に掛けると、やはりジャービエルを見る事もせずに走り出した。

 

 

 

 

 

 

 悔しいがやはりあの男の腕は凄まじい。

 

 左脚は切断は出来なかったが、かなりの深手を負わせたのが分かる。膝を突き掛けた魔獣の顔は低い位置に変わり、ロザリーは戸惑う事なく矢を放った。

 

「ジャービエル!撃ちまくれ!」

 

 直ぐ横に位置したジャービエルは無言で追撃を放つ。喉あたりに突き立った矢は痛みを伴なったのだろう、魔獣は再び悲鳴を上げた。

 

 グゥーィィッ!!

 

 普通なら無茶苦茶に腕を振り回しそうなものだが、この魔獣は違った。近くに転がっていた石……人から見れば小さな岩を掴みロザリー達に向け放って来たのだ。

 

「な、なに! くっ……!」

 

 何とか躱すことが出来たが、矢筒は放り投げられ幾つかは岩の下敷きになる。しかも最悪なのは、次を掴むと大木で足掻くカズキを見た事だ。

 

「まさか……!? 止めろ!」

 

 カズキは未だ其処から逃げたり出来ないのに!

 

 何とか牽制しようと太い腕に向けて矢を放つが、焦った構えではマトモに当たりはしなかった。

 

「カズキ!!」

 

 先程よりは小さな岩だが、カズキを絶命させるには十分な大きさと速度だ。

 

 思わず眼を閉じかけたロザリーに信じられないものが見えた。人とは思えない速度でカズキの前に立つと剣を岩にぶつけて軌道を逸らしたのだ。

 

「お、らぁーー!!」

 

 ディオゲネスは半ば吹き飛びながら、見事にカズキを危機から守った。

 

 ケーヒルも間に合わず最悪の結果を招くところだったのだ。しかし、それでも冷静さを失わないケーヒルは魔獣の背後から膝裏に突きを放ち、遂に魔獣を跪かせる事に成功する。

 

「ロザリー! 今だ!」

 

 ロザリーもカズキの助かった事を理解すると、今度は見事な構えを取る。ディオゲネスは地面に倒れ、動く事も無かった。

 

 やはり見事な軌道を辿った矢は魔獣の右眼に突き立ち、その頃にはニ矢目すら放つ寸前だ。ケーヒルすら唸る技術にロザリーは誇る事もせず、冷静に左眼を狙い放つ。

 

 暴れる魔獣を物ともせず、左眼も破壊したロザリーは、次の矢で膝を狙った。

 

「旦那! トドメを!」

 

 ジャービエルもそつなく魔獣の耳へ当てていたが、ケーヒルは渾身の一振りはそれ毎両断した。

 

 魔獣はグラリと傾き、血を噴水の様に噴き出しながら地面へと倒れ込む。

 

 遂に倒したのだ……たった四人であれ程の魔獣を。

 

「カズキ!」

 

 ロザリーは倒した魔獣には目もくれず、弓も剣も放り出しカズキの元へ駆け出した。意識を失っていたフェイも頭を振りながら地面に手をついている。

 

 ケーヒルは倒れたままのディオゲネスにゆっくりと近付き、見下ろした。

 

「ディオゲネス……見事だった」

 

 ディオゲネスの左腕は曲がり、殆ど千切れ掛かっていた。そして折れた剣先は腹に刺さり、今もドクドクと血が流れ出ている。口と鼻からも赤い血が溢れ、最早言葉すら出せないだろう。

 

 僅かに身動ぎするディオゲネスに未だ命がある事は分かった。

 

 ケーヒルはディオゲネスの最期の良心を認め、許す事など出来なくとも手向けの言葉を送ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、ディオゲネスはただ怒りに燃えていた。

 

 ディオゲネスは一寸たりとも聖女を助ける気など無かったのだ。そして同時に理解もしていた……自らが使徒だと、神々の人形だと。

 

 自分でも理解出来ない思考に支配された身体は勝手に動いたのだ。まるでカズキが数々の刻印に弄ばれる様に。

 

 おのれ……最期まで邪魔をしやがって……許せない……アステルを助けなかった癖に、あの娘なら助けるだと……何が違うと言うんだ……憎い、憎い……神め、聖女め、何が使徒だ……!!

 

 憎しみの鎖縛、ディオゲネスの刻印は憎悪を糧とするもの。今、黒神ヤトも想定出来なかった事態が起きようとしていた。

 

 こうなれば……もう終わりだ……生贄を捧げてやる……それが望みなんだろう? 聖女よ……

 

 贄の宴に相応しい狂宴だ。聖女の刻印は俺が解放してやるよ……くそったれの魔獣共にやらせはしない……!

 

 

 ケーヒルはロザリーがカズキの元へ辿り着いたのを眺め、ディオゲネスが剣を右手に掴んだ事に気付かない。その剣は先程ロザリーが放り出したフェイの愛剣だった。

 

 腹や口からは血が溢れ、立ち上がる事すら不可能な出血だ。それでもディオゲネスは無理矢理に身体を起こし、血だらけの顔を持ち上げた。

 

 ケーヒルが気配の異常を感じ、再び足元を見た時にはディオゲネスは走り出していた。ボタボタと零れる赤い血はディオゲネスまでの道を作って行く。

 

「馬鹿な!? ロザリー!背後だ!」

 

 ナイフに手を掛けていたロザリーは直ぐに振り向いたが、ディオゲネスはもう目の前にいた。切っ先は間違いなくカズキを捉え、躱す事など不可能だった。

 

 だから……ロザリーがする事など一つしかない。

 

 迷いなどあろう筈も無い……この一撃すら何とかすれば、駆け寄るケーヒルが何とかするのが理解出来ていたから。

 

 それは聖女を、世界を守る責任感では無い。ましてやマファルダストの隊長としての義務でも無かった。

 

 それは当たり前の事だ。

 

 私は娘を愛する母親なのだから……

 

 ディオゲネスの命を賭けた剣は簡単にロザリーを貫いたが、決してカズキには届きはしなかった。

 

 背中から心臓を突き抜けた刃はロザリーの血で染まり、カズキの目の前で止まった。即死の筈のロザリーは優しく微笑むと、カズキの涙を拭いそして小さな胸に倒れ込む。カズキは母の身体を支える事も出来ずに、ズルズルと下がり地面に伏した。

 

「ロザリーー!!」

 

 ケーヒルは絶命間近のディオゲネスの背中を斬り裂いて、二人から突き放すくらいしか出来ない。

 

「……ディオゲネス……貴様、何故……!」

 

 見ればディオゲネスは既に絶命していた。その形相は常軌を逸していて、ただ恐ろしい。ケーヒルは呆然とするしかなく、立ち竦むのみだった。

 

 ふと、耳にギシギシと木が鳴る音が聞こえた。虚になった目でそちらを眺めると、ある意味で想像通りの光景が映る。

 

 カズキがあと少しで届きそうな手をロザリーに伸ばし、右手のナイフが抜け掛けていたからだ。

 

 痛みなど感じていないのだろう……カズキは無理矢理に右手を振ると、あれ程抜けなかったナイフはあっさりと地面に落ちた。直ぐにロザリーに抱きつく様に縋り付くと、両手でロザリーを貫く剣を抜き赤髪の頭を膝の上に乗せる。

 

 仰向けになったロザリーは、何故か薄らと笑みを浮かべて目を閉じている。カズキは傷口に両手を当てて暫く身動きをしなかった。

 

 だが、何時もの白い光は溢れ出たりはしない。

 

 カズキはもう一度手を当てて、その内身体ごとロザリーに覆い被さる。それでも、決して光を発する事はない。黒神エントーの加護を受けた者には避けられない定めなのだから……

 

 周りを取り囲む者達にも、それは分かった。分かってしまった。

 

 ロザリーの命は尽きてしまった、と……

 

 燃える炎もその先にいる魔獣達すら忘れさせた、それは悲しい現実だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人死など、ありふれた世界ーーー

 

 家族を失い、泣き叫ぶ人を大勢見て来た。

 

 

 

 パチパチと、ゴウゴウと、森は赤い炎に包まれている。

 

 炎の壁は高く舞い、その向こうに見える赤い魔獣達を覆い隠す。 奴等はユラユラと身体を揺らし、炎が消え去るのを待っているのだろう。

 

 所々に赤褐色の粘土らしき物が盛り上がり、その周辺には力付きた人形(ひとがた)が倒れ伏している。剣や矢は魔獣の死体に突き刺さり、幾本も折れて曲がっていた。

 

 魔獣との死闘は其処に終焉の世界を現出させたのだ。

 

 その終焉の世界の先……炎の壁の向こう……事象の中心にいる聖女は両膝を地面につき、真っ赤に染まった両手でユサユサと揺らす。

 

 起きて。 目を開けて……もう一度、黄金色の瞳を……

 

 

 

 

 ーー行かないで

 

 ーー捨てないで

 

 ーー置いていかないで

 

 ーーどうして、どうして

 

 

 

 

 慟哭は、悲鳴は、唇から零れたりしない。それなのに聖女の叫びは見る者の眼を通し、頭蓋に直接反響する。魂魄を揺さぶるソレは、見慣れた筈の終焉の景色を涙で滲ませていった。

 

 黒神ヤト。

 

 司るのは悲哀、憎悪、痛み。

 

 ヤトの加護を一身に受けた聖女の、悲哀と憎悪の叫びは只人とは違うのか……ケーヒルはボンヤリとする意識で周りを見渡した。

 

 森人のフェイは、両膝を泥に落として頭を抱えて泣き叫んでいる。

 

 ジャービエルは珍しい雄叫びを上げて、赤い死体に剣を何度も突き立てている。

 

 新人と聞いたリンドは、両手をダランと落として茫然と立ち竦んだままだ。リンドが見張っていた騎士達は既に何処かへ逃げ出している。

 

 そして、ケーヒルの足元には血に染まった男が倒れていた。さっきまで狂気を振りまいていたディオゲネスは、最早ピクリとも動かない。つい先程ケーヒルがトドメを刺した。

 

 

 ユサユサ、ユサユサ……聖女は飽きもせずに揺らし続ける。あの美しい翡翠色の瞳には涙の跡があり、その跡も新たに流れ出た涙に上書きされていく。

 

 声は出ていない、言葉は紡がれていない。それなのに声が聞こえる……それは幻聴なのか。

 

 それとも紡がれた言葉の幻視?

 

 今、間違いなく聴こえ、視えたのだ。

 

 ーーお母さん、と。

 

 その時、世界は真っ白な光に包まれていった。

 

 それは癒しの光なのか、それとも只の幻なのか。

 

 ケーヒルには判らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザワザワ、ザワザワ……炎の壁が低くなり、その先の光景が明らかになった。

 

 大勢の騎士達が倒れ伏す先、そこには赤い壁が続く。最早数えるのも馬鹿らしい数の魔獣達はゆっくりと動き出していた。魔獣の目線の先には、二つの獲物の集団がある。

 

 先程からチクチクと刺さる矢を幾本も飛ばしてくる群れと、僅か数人程度の獲物の集団だ。

 

 魔獣達にとって愉悦の、ケーヒル達にとって絶望の戦いが始まろうとした時……辺りは白い光に包まれていった。暫くすると、あれ程煩かった音すら消えていき、何も見えなくなっていく。

 

 聖女の力、その顕現が始まった。

 

 

 

 

 

 




この流れはロザリーを生み出した時から決めていました。色々と思うところはあるのですが、カズキにとって非常に大きな影響を与えていきます。


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52.白き世界に

ロザリーの愛の深さを


 

 カズキは真っ白な世界に居た。

 

 周りはただ白く、前後も左右も、天地すらも曖昧だ。

 

 だけど不安などは感じない。

 

 先程迄の喧騒も痛みも悲哀も無く、ただ静かに揺蕩う。ゆらゆらと水面に浮いている様だった。思わず目を閉じかけたカズキの耳に僅かな物音と人の声が聞こえてくる。周りに人などいないが、何故か方向を理解出来た。

 

 近づいているのだろう……声は少しずつ明瞭となり、人の姿もぼんやりと見え始める。

 

 

 

 

 最初に見えたのは女性だ。背中越しで顔は見えないが、立ち姿から若い女性だと知れた。ブラウンの髪は肩まで伸びていて、少し癖毛なのかあちこちに跳ねている。

 

 そのうち、その女性に話し掛ける青年の姿が見えてきた。焦げ茶色の髪と目、ザンバラ頭は変わらないがカズキの記憶より随分若い。それに、女性を見る眼差しは何処までも優しかった。

 

 

「アステル、分かってくれ。俺はこの町を守りたいんだ。君が住むこの町を」

「あの地獄から救い出してくれたのは、アステルだ。あのまま全てを憎んで生きる屑だった俺が、今や人々を守る騎士だとは笑えるだろう?」

「え? 私は何もしていないって? ははは、慈愛の刻印は謙虚さを強制するのかい?」

「……君は聖女だ。だから守る、守らせてくれ」

「慈愛の刻印が聖女の証なら、他にも沢山いる?」

「そうかもしれない……でも俺には、君がただ一人の聖女なんだ。あの憎しみの連鎖から連れ出してくれた……君だけが俺を……」

 

「行ってくる……待っててくれ。決して、他の人を助ける為に無茶なんてしないでくれよ? 必ず戻るから……アステル、愛してるよ」

 

 女性の顔も声も分からなかったが、カズキは何故か男が話す言葉が理解出来た。耳ででは無く、別の何かだった。同時に彼の憎悪の源泉が何だったのか、それすら分かってしまう。女性に向ける表情はどこまでも柔らかい笑顔だ。

 

 

 

 

 そしてまた遠くから声が聞こえて来る。何処か嗄れたその声は老人だろうか? 男性らしき声はカズキを呼び寄せて何かを伝えようとしている。

 

 揺ら揺らとそちらへ近づくと、先程と同じく人影が見えて来た。何かを指差してカズキへ同じ言葉を繰り返す。

 

「どうか伝えて欲しい。奴等は本能に生きる獣などでは無い。周到に準備して狩りの時を待っているのだ。このままでは愛するリンディアが、家族が、奴等に滅ぼされてしまう」

 

 その老人が指差す先には、草木で擬態し隠された大きな穴があった。地面にポッカリと空いた穴からは不気味な唸り声が響いている。周囲は森で、僅かな距離では火事になっている様だ。そして、その火事には何処か見覚えがあった。

 

「奴等は森に潜んでいるのでは無い。奴等は地下に居るのだ。地中奥深く、今も数を増やし続けている。どうか伝えて欲しい、このままではリンディアが……」

 

 リンディアと言う言葉はよく分からないが、老人が愛する家族を憂いているのはよく知れた。

 

 老人の服……その姿はカズキのよく知る人物にそっくりだった。あの赤髪の女性の父親か祖父だと言われたら信じるだろう。だからなのか、その願いを聞いて上げたいと思った。

 

 

 

 

 他にも沢山の声があちこちから響いて来て、カズキは少し混乱する。だが……ふと、優しい、大好きな声音が聞こえて強く惹かれる。

 

 早く、早く会いたい……

 

 カズキは今や脚の感覚すらない身体を急いで向かわせた。だから直ぐに見えて来る。カズキの記憶より随分長い赤髪だが、その色には覚えがあった。彼女の足元には同じ色の髪をもつ小さな女の子がいて、脚に抱き付いている様だ。そして傍らには背の高い男性が立っている。

 

 やはり皆の顔は見えないが、赤髪の女性だけは振り返ってカズキに素顔を晒してくれた。黄金色の瞳は優しげで、カズキに安らぎを与える。声すらも懐かしい……

 

 

 

「フィオナったら、あんなにお転婆なのに泣き虫さんね。大丈夫よ、ママがいるでしょ?」

「転んだの? あらあら、膝を擦り剥いてるわ。ちょっと待っててね」

「ほら、これで大丈夫。痛くないでしょう? ふふふっ……放してくれないと歩けないわ」

「ルー……笑ってないで、少しは助けてよ。えっ……バカ……恥ずかしい事言わないで、もう」

「フィオナ……抱っこならパパにお願いしたら? あんなに細くても力が強いんだから、ね?」

「困ったわ……そうだ! フィオナに凄い話を教えて上げる。ルーも聞いてくれる?」

 

「フィオナにお姉ちゃんが出来たのよ? 凄く綺麗な子で、誰よりも優しいの。フィオナのお人形も可愛いけど、お姉ちゃんはもっと素敵かも! 髪は黒くて眼は宝石みたいな翡翠色」

 

 

「そう、刻印なんて関係ないわ」

 

「貴女は私の娘。フィオナと同じくらい愛してる」

 

「カズキ」

 

 

 

 カズキは手を伸ばして、()()()()に抱き付きたかったが、どうしてもそれ以上近づく事が出来ない。

 

 ロザリーはカズキに手を振り、行きなさいと呟いた。貴女は私の……皆の自慢の娘……

 

「貴女を待っている人が居るわ……リンスフィアに帰りなさい。大丈夫よ? カズキなら大丈夫……」

 

「だから泣かないで……」

 

 

 真っ白な世界なのに、カズキの視界は更に白く塗りつぶされていく。ロザリーの赤い髪だけは最後まで見えて、悲しいほどに綺麗だ。

 

 感情の爆発は起こらない。

 

 涙も流れているのか、渇いているのか……一度消えた色が再び見えるまで時間は掛からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サワサワ……

 

 風に揺れる葉擦れの音。

 

 優しい風はかなり伸びたカズキの黒髪を揺らす。

 

 ゆっくりと目を開けば、目の前に大好きな赤い髪。

 

 でも安らぎの色……さっきまで見えていた黄金色の瞳は閉じられたまま。頬に散った赤い血は渇き、膝に乗せた頭は動かない。

 

 ポタポタと落ちる透明な雫は、少しだけ血を溶かして流れて行った。

 

 ロザリーは行ってしまった……もう戻って来ない。何処の世界でも、失われた命を取り戻したり出来ないのだから。

 

 カズキは顔を上げて周囲を見渡した。

 

 皆が立ち竦み、茫然と辺りの様子を伺っている。あれだけ燃え盛っていた炎の壁は消え、同じくらい赤かった化け物達もいなかった。

 

 そして……一人、また一人と此方を振り返ってカズキを……聖女を見詰める。絶望が支配していた森からは鳥の囀りすら聞こえてきた。全ては聖女が起こした奇跡だったが、本人は分かっていないのだろう。それを誇る事もせずに優しくロザリーの髪を撫でていた。

 

 直ぐ側にいた者に手招きをすると、呼ばれたフェイはゆっくりと二人へ近づいて膝をついた。カズキはロザリーを抱えてフェイに預ける。地面にロザリーの頭を下ろしたくなかったのだろう。

 

 皆がカズキの歩みを見詰める中、その先には焦げ茶色の頭をした男が倒れている。まさか怨みをぶつけるのかとケーヒル達は思ったが、ディオゲネスを見る翡翠色に怒りは無かった。

 

 膝を折り、両足を抱える様に腰を下ろしたカズキはそっと左手を上げた。全てを憎んだその形相は恐怖すら覚えるが、優しく目蓋を閉じてやれば幾分か和らぐ。

 

 あの白い世界を知らない皆にはカズキの行いを信じる事が出来なかった。聖女の慈愛は死者にも向けられ自らの心体をあれだけ傷つけた者にも降り注ぐのか……全員がその光景を尊く感じ、指一本すらも動かせない。

 

「これが……聖女……」

 

 誰かの呟きは、同時に全員の想いの代弁だった。

 

 一挙手一投足を注目されるカズキは立ち上がりケーヒルを見た。ケーヒルも騎士団に命令すら出来ずに立ち竦んだまま。カズキの瞳の色を見て漸く正気を取り戻し、撤退の指示を出そうと身動ぎする。

 

 周囲には何故か魔獣の姿は無いが、此処は未だ森の深部。早く脱出しなければロザリー達の犠牲すら無駄になってしまう。

 

 いつの間にか目の前に来ていたカズキはケーヒルの手を取り引っ張った。聖女に直接触れたのはコレが最初ではと、少し緊張する。だが聖女、カズキが引っ張る先は更なる深部。脱出する方向では無い。 

 

「カズキ……あっちは森の深部だ。帰るなら反対に……おっ、おい!」

 

 カズキはケーヒルの手を離すと、引っ張る方向に向かって走り出した。その先には魔獣の死体や倒れた騎士達がいる。まさか全員に手向けを?と慌てて追いかける。

 

 だが、カズキは凄惨な周囲をチラリと見ただけで、そこを通り過ぎて行く。

 

「カズキ! そっちは駄目だ! まだ魔獣が居るかも……」

 

 声が聞こえたからでは無い。立ち止まったカズキは振り返って此方を見ると、再び森の奥へと駆け出して行く。

 

「ついて来いと……?」

 

 決断する。神々の使徒、聖女カズキが来いと示しているのだ。何かがあるに違いない。

 

「ジャービエル、ドルズス! 済まないが一緒に来てくれ! 森人の助けがいるかもしれない……」

 

 森人の二人は直ぐに頷き、ケーヒルの横に並んだ。

 

「皆は撤退の準備を! 聖女を連れ戻したら即座に撤退する! 負傷者は治療を、戦死者の確認と遺品を集めてくれ! ああ、聖女を見ただろう!主戦派も何もない、区別無くだ!」

 

「副団長よ、聖女様がお待ちだ。見ろよ、頬を膨らませて御怒りだ」

 

 実際には頬など膨らませてないが、早くしろと催促してるのは分かった。

 

「ああ、急ごう。二人は周囲の警戒を頼む」

 

 長い騎士としての経験と勘は危険を報せはしなかったが、緊張を解く訳にもいかないだろう。

 

 既に小さくなっていたカズキの背中を三人は追いかけて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ドルズス、コレを見た事は?」

 

「ある訳ない。此処まで偽装されては、近付かなければ判らない……副団長、これは大変な……なんてことだ……」

 

 カズキが案内した場所は直ぐ近くだった。

 

 視線の先で立ち止まったカズキは、ガサガサと其処にある草木を取り除く。最初は意味が分からなかったが、地面からスポスポと抜ける異常に目を凝らすしかない。そして程なく現れたのがこの黒い穴だ。底は全く見えず、その先がどれほどの広さか判らない。

 

「魔獣の通路……いや、巣か?」

 

 奴等は知能の低い化け物では無かったのだ……ケーヒル達は怖気が走るのを止める事が出来なかった。魔獣はゆっくりと深部から進んでいる。そして向かう先は……

 

「セン、そしてリンスフィア……攻め滅ぼす気か……」

 

 今迄見つからなかった筈だ。偶然にも近づいたら魔獣の餌食となるだけだし、森に溶け込む偽装は森人すら唸らせるのだから。

 

 今は聖女の奇跡により目の前にあるが、普通なら魔獣が殺到していてもおかしくない。先程がそうであった様に……

 

「副団長、ドルズス」

 

 カズキに手を引かれたジャービエルが何かを見つけて来た。それは小剣で、ところどころが錆び始めている。意匠は少ないが見事な作りだったのだろう……錆びを浮かべても、それは分かった。

 

「見た事がある。此れはイオアンの爺様の小剣だ。此処のキズ……ああ、間違いない」

 

「イオアン殿か……聖女を導いてくれたのは」

 

「ああ、きっとそうだ。聖女様は神々の使徒、爺様の最期の叫びを聞き届けて下さったんだ……」

 

 ドルズスは思わず祈りを捧げ、そして聖女を崇める様に視線を送った。そのジャービエルに手を繋がれたままの聖女は、どうしたの?帰ろう?と目で訴えている。まるで何事もなかったかの様だ。

 

「聖女……やはり救済の為に世界に遣わされた……使徒、か」

 

 あれだけ血が流れていた右手は、出血が止まっていて痛みすら感じているとは思えない。赤く染まったままの右手があった事をただ伝えるだけ。

 

「帰ろう……リンスフィアへ。陛下に、殿下に伝えなければ……」

 

 近い将来、魔獣は攻め入って来るだろう……防御を固めないと大変な事になる。魔獣への警戒は森との距離分緩やかなのだ。だが、今なら分かる。マリギや他の街、他国すらもそうして滅ぼされたのだ。そう、一夜にして。

 

 遂に……魔獣が現れて既に数百年を数えるが、長い歴史の中で初めて判明したのだ。人々の天敵、赤い化け物達……魔獣の生態と、その新たなる恐怖が……

 

 カズキの……黒神の聖女の伝説に、また1ページが刻まれた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 




書き足りないので、もう1話ロザリーとカズキの話を投稿します。


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53.ロザリー

「アスティア」

 

 訓練の後に会いに行く予定だったアスティアが目の前を通り過ぎたので思わず呼び止める。

 

「兄様?」

 

 後ろから聞こえた声が誰なのか分かり、直ぐに振り返る。側にはエリが控えていたが、壁際に寄りアストへ譲った。

 

「少しだけ大丈夫かい?」

 

 アスティアは黒のワンピースを揺らしアストの正面に立った。裾には星空をあしらわれ、まるで夜を纏っているかの様だ。色違いはカズキが何度も破いたが今も大事に着こなしていた。王族と云えど贅沢は敵で、着潰す事も有る程だ。

 

「はい、勿論です。どうしたの?」

 

「ああ、実は……」

 

 口に仕掛けた言葉をアストは飲み込んだ。周辺に人影は無く警戒し過ぎと思うが、新たな報せを聞いた者にとっては大袈裟でも無い。

 

 昨晩遅く早馬が来た事は知っている。兄様が態々報せてくれるなら、きっとあの娘の事……逸る気持ちを抑え、アスティアは即座に返した。

 

「兄様はこれから訓練でしょ? 私は今から白祈の間で神器や祭器のお世話をするの。急ぎでは無いし、エリとゆっくり進めておくわ。白祈の間なら気にする事も無いから」

 

 白祈の間は王族と一部の関係者しか入れない。エリすらも外で手伝う位しか出来ないのだ。リンディア王家は王政の主でありながらも同時に祭司でもある。日々カーディルは神々へ祈りを捧げていた。

 

「そうだな……到着まで時間はある。必ず顔を出すよ」

 

「ふふっ……湯浴みを終わらせてからにしてね? 前みたいな格好で来たら追い返すから!」

 

 到着と言う言葉で確信を得たアスティアは、嬉しくなってアストを弄ってしまう。

 

「勘弁してくれ……アスティアに叱られてからはケーヒル達に冷やかされてばかりなんだ。白祈の間に汚い格好で行くわけないだろう?」

 

「あら? 兄様なら分からないわ。以前だって……」

 

「わかったわかった! 必ず身綺麗にして行く……これでいいだろう?」

 

「仕方ないから許しあげる。待ってるわ!」

 

 アスティアはアストに笑顔を見せて、手を振りながら去って行く。慌てたエリは一礼して追いかけて行った。リンディアの花と言われたアスティアの笑顔は最近よく咲き誇る。大事な妹が消えた時、二度と咲かないのではと心配された程だったのだ。

 

 角を曲がる最後まで笑顔だったアスティアに、アストは何処か救われた気持ちになった。カズキが戻ってくる事実は勿論嬉しいが同時に悲しい報せも含まれていたのだ。騎士団の長として今回の悲劇は許されない事……ロザリーの死は余りに重い。

 

「アスティア、ありがとう……」

 

 つい最近まで子供だった。姿形では無い、その精神は成長途中で妹そのものだったのだ。だが今はどうだろう……気遣いは勿論、我慢強くなった。間違いなくカズキの存在がアスティアを変えたのだ。

 

「成長か……」

 

 自分は成長出来ているだろうか? カズキだけに過酷な運命を背負わせてばかりで……私も変わらなければならない。今度こそ護ってみせる、カズキも皆も。

 

 リンスフィアに聖女が帰ってくる。アストにとってカズキは聖女であり、同時に……命を賭けても護りたい存在なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 南の森から脱出したケーヒル達は、森の側まで来ていたマファルダストと合流した。森人達が今にも決死の突入をしようと準備をしていた時だった。 

 

 カズキの姿を見たマファルダストの森人達から歓声が上がったが、カズキが膝に抱くロザリーの姿は其れを打ち消していく。

 

「隊長が……」

 

「姐さん……」

 

「嘘だろう……どうして……どうしてだ!!」

 

「奴等から……主戦派から守ったんだ。その身を投げ出して……」

 

 泣き崩れる者、呆然とロザリーを見る者、主戦派に怒りをぶつける者、全員の嘆きが響く。

 

 また想いが蘇ったのだろう……枯れ果てる事の無い涙がカズキの目から零れる。ポタリと落ちた雫はロザリーの頰を濡らした。聖女の涙は儚くも美しく、人々の涙を強く誘いあちこちで啜り泣きに変わっていく。

 

「本当に……どこまでも見事だった。ロザリーは素晴らしき森人であり、聖女の母として……カズキを救ったのだ。私は一人の友人として、彼女を心から誇りに想う」

 

 リンディアの英雄ケーヒルの言葉は決して大きくは無かったが、微笑を浮かべたままのロザリーへ届き、皆へと伝わった。

 

「帰ろう……リンスフィアへ……」

 

 カズキは赤い髪に顔を埋め少しだけ肩が震えている。なのに、聖女の泣き声は聞こえない。それが……どこまでも哀しかった。

 

 

 

 

 センで手に入れた棺にロザリーを横たわらせ、休む事もせずにリンスフィアに向かう。棺は蓋棺(がいかん)せずにカズキが乗る馬車へと納めた。その方がロザリーも喜ぶと思ったからだ。それに聖女がロザリーから離れたがらないのも理由の一つだろう。

 

 早馬を出し、カズキ帰還の報せを持たせる。そして、アストにロザリーの死を伝える事も忘れなかった。王家として、聖女を救った偉大なる母へ然るべき迎えをしてくれるだろう。主戦派は気になるが、ケーヒルは命を掛けて聖女を守ると決めていた。

 

 それと……センからリンスフィアへの道中、聖女は不思議な行動を取る事があった。

 

 休息地に着いた時のことだ。

 

 周辺に咲く野花、特に美しさで有名な花を何本も手折り、馬車へと運び始めたのだ。その小さな手では一束分しか持てないのか、何度か往復している姿は皆の興味を引いた。

 

「何をしてるんだ?」

 

「花を持って帰るつもりかな?」

 

「いや、見ろ……」

 

 騎士団やマファルダストの一行が見守る中、カズキは適度な長さに茎を手折り棺へと入れていく。

 

 この世界では花を棺に入れる習慣は無い。盾や小剣に名を刻み、幾らかのコインと埋葬するのが一般的だ。騎士や森人が所縁の装備を入れるのが例外的扱いとされる。何より栽培される花など無いし、そんな余裕などこの世界には存在しない。育つ畑があるなら芋の一つでも植えるだろう。

 

 何人かが馬車に近づき、様子を伺う。

 

 ロザリーの顔や組まれた手、その周りに花を丁寧に並べていく聖女。色合いも考えているのだろう、ロザリーの美しさが際立ち始めた。

 

「姐さんへの手向けか? 何処の風習だ?」

 

「聞いた事ないな。でも綺麗だな……」

 

「勝手に……いいのか?」

 

「馬鹿か……神々の使徒が手向けるなら、其れが正しいに決まってるだろ。あの娘、いやあの方は聖女様だぞ」

 

 棺に花を捧げる風習は、この時から始まった。リンディアに広がるまで時間は掛からず、その方式が一般的になっていく。また森人の技術を応用し枯れ難い花も用意される様になる。この時カズキは好んで赤や黄色の花を選んだ為、その配色も伝承されていった。

 

 

 

 美しく花に囲まれたロザリーを乗せゆっくりと進む馬車ではあったが、センからリンスフィアまでは時間は掛からないだろう。南は王都から最も近い森だからだ。カズキの視線の先には霞む王都が見え始めていた。

 

 逃げ出した街だがカズキは帰る事に躊躇は無い。あの白い世界でロザリーが帰りなさいと言ったからだ。待っている人がいるとも……この世界で初めてのロザリーの言葉は、全てが優しかった。

 

 もう一度、しっかりと向かい合う……

 

 待つ人はおそらく、あの人達の事だろう。あの街に顔見知りなど、僅かしかいない。何となく分かっていたのに……あの人達に敵意など無いと。

 

 カズキは少しだけ強くなった。

 

 どんなに暴力に慣れ、痛みや死すらも遠くに感じたとしても……そんなものは強さとは違ったのだ。

 

 人を信じる事は簡単で、それでも酷く難しい。

 

 愛など理解出来ないが……ロザリーは自分を庇った。自らの命を投げ出して。

 

 アレが愛だったのだろうか? 失った筈の親の……母親の……

 

 

 

 

 

 気づけば、あの街はすぐそこだった。

 

 白亜の城、三本の尖塔、三重の城壁。何処までも続く緑の絨毯はユラユラと波が伝わっていく。

 

 景色を眺めたベランダ、その奥にはカズキ達が追いかけっこをした部屋。

 

 見ると、まだ距離があるのにあの巨大な門がゆっくりと開くのが分かった。

 

 真っ直ぐに伸びる道の両脇には鎧姿の男達が整然と何処までも並んでいる。剣を天に向け、微動だにしない。騎士達の後ろには民衆達が立ち、肩車の上には子供達の姿もあった。

 

 

 だが、凱旋では無い。 

 

 

 帰還を喜ぶと同時に、聖女の母ロザリーの葬列でもあるからだ。

 

 楽隊の演奏も無く、紙吹雪も舞っていない。

 

 ただ静謐を纏っている。

 

 聖女を乗せた馬車が門をくぐった時、僅かな騒めきすら止まった。

 

 瀕死の騎士や少年の命を救い、テルチブラーノでは森人を助けた……南の森では魔獣の新たな生態すら発見したと漏れ伝わっている。黒髪や翡翠色の瞳も噂通りだ。首周りには刻印が色濃く刻まれ、神々の使徒である事を示していた。その美貌は想像を超え、目が離せなくなる。

 

 だが、人々から言葉を奪ったのは其れ等だけでは無い。

 

 棺に隠れてはいるが優しく触れているのだろう細い手。何度も泣いたのだろう赤く腫れ上がった瞳。そして一筋だけ流れ出た涙の雫。

 

 悲しいだろうに、しっかりと前を向く強い心。

 

 少女の小さな身体は、誰よりも大きく見えるのだ。

 

 聖女……黒神の聖女……

 

 思わず溢れた誰かの呟きにも、怒りの言葉は出ない。

 

 そうして……カーディルを中心に、アストとアスティアが待つ城門前に辿り着いた。

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 この時の様子を描いた作者不詳の絵図は、この時代の最高傑作の一つとして後の世に語られる事になる。

 

 人が滅びに瀕していた時代、絵画や音楽などを楽しむ余裕など無かったのだろう。現存する物自体が少なく色彩は特徴的だった。悲惨な時代背景からか血や魔獣を思わせる赤は嫌悪され、死を連想させる黒も例外では無かった。

 

 しかし、この最高傑作は「赤と黒」の髪を中央に配置し、周囲はソレを際立たせる背景でしかない。当時の王子アストや王女のアスティアすら例外では無く、背景の一部として扱われているのだ。

 

 長らく事の真贋を疑われた本作は、ある時発見された文書に依り脚光を浴び一時代を築く。

 

 見つかったのは王女アスティアの日記だ。そして其処には感情の爆発と嘆きが記されていた。

 

「私の気持ちを表せば、矮小で卑屈な嫉妬だろう。人の死を嘆く事もせずに、ただ醜い嫉みを覚えたのだ。私が愛する妹、カズキの愛を一身に受ける女性に。この私にカズキはあれ程の愛を向けてくれるのだろうか? 亡骸に両手を添え、声を上げず、一心に嘆き涙を流す聖女。私は自分の情け無さに涙を流す事も出来なかった」

 

 この発見で描かれた聖女は真実と判明し、同時に聖女が縋り付く女性が何者であるかが新たな論争を呼ぶ。

 

 だが、それはあっさりと判明した。

 

 血は繋がっていないし、共に過ごした期間すら短く判然としない。だが間違いのない真実がある。

 

 彼女はその身を呈し聖女を守った。当時溢れていた狂人の刃の前へ我が身を顧みず投げ出したのだ。もし、彼女が居なければ世界は滅んでいたかもしれない。黒神の聖女が死ねば、後の救済は無かったのだから。

 

 だがそれは義務感でも、もちろん世界の為でもない。

 

 彼女を突き動かしたのは、愛だ。

 

 皆が良く知る慣用句や諺に登場する固有名詞、つまり人の名がある。

 

 人への無償の愛を表したり、人の優しさを讃えるあの名前だ。

 

 黒神の聖女やリンディアの面々と並び、誰もが知っているだろう。

 

 その女性の名は「ロザリー」

 

「聖女の母、ロザリー」と。

 

 ロザリーの様に……

 

 ロザリーの愛の如く……

 

 今語られるロザリーの名はこの傑作から生まれたのだ。

 

 

 

 〜黎明の時代 聖女カズキの軌跡〜

 

 第七章,聖女の母、より抜粋。

 

 

 

 

 

 

 




何となく書き足りなくて、幕間的に入れました。ロザリーの設定から抜き出した感じなので、多少展開に無理があったかも。


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54.刻印

刻印に変化が
誤字報告頂きました。ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 あの時みたいに避けられたらどうしよう……

 

 ()()()()へ帰って来たカズキを抱き締めたかった。だが、同時に恐ろしさを覚える。

 

 帰って直ぐ、ベランダに出たカズキはリンスフィアや先の景色を眺めている。運ばれていく棺に先程まで縋り付き泣いていた妹を慰めて上げたい。後ろには兄様も居るし、クインはお茶を入れてエリはカズキの着替えを用意してる。

 

 ……私はどうするの?

 

 頭の中にグルグルと浮かぶそんな言葉は、アスティアを混乱させていた。

 

 

 

「アスティア、きっと大丈夫だ。聞いただろう?ロザリーがカズキを癒してくれたのだから」

 

 アスティアの肩を優しく撫でて勇気づける。

 

 丁度カズキが此方に振り返り、部屋へと戻って来る。少し伸びた髪がフワリと舞い踊り強く目を引いた。

 

「そう……そうだよね? ロザリーさんを初めて見たけど、優しそうで綺麗な人だった。カズキを癒して下さったなら、ちゃんとお礼しないと……」

 

「ああ、落ち着いたらカズキも連れて行かないとな」

 

 ロザリーはリンスフィアにある小高い丘に埋葬される。そこには夫であるルーと愛娘のフィオナが眠り、何より聖女の間を遠くに見る事が出来た。国葬などは難しいが、カズキが会いに行きやすい様に道程は整備される予定だ。墓石に刻まれる文言は、これから議論されるだろう。

 

 カズキは名を変えた聖女の間、そのベランダからの扉を開けてゆっくりと戻って来る。アスティアは自分の心臓が激しく鳴るのを自覚していたが、カズキの目を見た時には不意に力が抜けた。

 

 あの瞳も変わっては無い。僅かな間に人は劇的に変化などしない。背が伸びた訳でも、言葉を紡げる様になってもいなかった。

 

 其れでも……アスティアにはカズキが大きくなったと感じられる。何時もと変わらぬ無表情なのに、何かが違うのだ。

 

 そして、直ぐに気付いた。

 

 カズキは此方を見ている。アスティアの瞳を、アストの目を……逸さずに見ていた。

 

 何処か突き放す様な……人を寄せ付けない色だった瞳は、暖かい。アスティアにはそう感じられたのだ。

 

「カズキ……!」

 

 もう躊躇う事もなくカズキの身体を強く抱き締めた。其処に感じる体温と優しい花の香りが届く。

 

 帰って来たのだ……勝手に決めた事だけど、私の妹が……! アスティアは漸く心から安堵して、もう一度ギュッと腕に力を込める。

 

 その時、聖女の間にいたカズキ以外の者は心から驚いた。当事者であったアスティアは余りの驚きで身体を震わせた程だった。

 

 おずおずとカズキは両手を持ち上げて、アスティアの背中へと回したのだ。右手は背中へ、左手は腰へと添えられた。不慣れなのか強い力は感じない。それでも皆には衝撃的な光景であった。

 

「カズキ……? あなた……」

 

 今迄カズキは感情表現、いや愛情表現などを表に出す事など無かったのに……アスティアをカズキは抱き締め返したのだ。

 

 顔を上げたカズキはほんの少しだけ頬を紅く染め、あの美しい瞳をアスティアに向けた。

 

「殿下……」

 

「ああ……ロザリーは、救ってくれたのかもしれない……カズキの命だけで無く、その心も」

 

 クインは姉妹の再会を喜び、同時に何かの違和感を覚えた。何かが違う……?

 

 その感じた違和感は決して悪い物では無いが、クインは疑問を解消するべく目を凝らし始める。

 

「……私も!!」

 

 着替えを選び終えたエリは我慢出来なかったのか、二人に重なりぐるりと腕を回した。

 

 エリの奇行に意識を取られたクインは集中力を失ってしまう。だが、その微笑ましい光景に文句の一つすら言えないのだ。そしてカズキも嫌がる事無く受け入れていた。抱き締め返しては無いが。

 

「ケーヒルと話をしてくる。警備は万全にしたが出来るだけ目を離さないでくれるか?」

 

「勿論です。専属の侍女として、必ず」

 

 黒の間は名を変え、聖女の間となった。

 

 最早隠す事も無くなり、アスト自らが選抜した騎士を各所に配置してある。以前の様な失敗は絶対に許さないと、警備体制を大幅に見直したのだ。昼夜を問わず巡回も行い、本来の賓客室へと戻っていた。

 

 アストが立ち去ろうとした時、カズキが小さく手を振った事も変化の一つなのだろう。アストは軽く手を振り返したが、少しだけ動悸が早まった気がする。

 

「……参ったな……初心な少年に戻ったみたいだ……」

 

 アストは頭をかきながら、何とか気持ちを切り替えて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ケーヒル、本当にご苦労だった」

 

「いえ……不甲斐無い結果となり、ロザリーに……カズキにも申し訳ないと思っております」

 

 謙遜等では無い。ケーヒルは心から悔いていた。あの時あの場所で油断などしなければ……今頃は……

 

「森人のロザリーか……マファルダストの隊長として名高いが、同時に素晴らしい人間であったのだろう。心から祈りを捧げなければならない。打ち合わせ通り、埋葬地への整備は急ぎ行おう」

 

 カーディルは目を細め、天空を暫し見つめて祈りを捧げた。彼女の尊い犠牲は、もしかしたら世界すら救ったかもしれないのだ。唯一無二の存在、聖女を凶刃から守ったのだから。

 

「そして公式に聖女の母として呼称する事を許可する。勿論、娘のフィオナと夫のルーの家族である事も当然だがな」

 

 カーディルは名を送る位しか出来ない自分に僅かな怒りを覚えたが、その命に誓い行うべき事がある。その聖女が導いた森の奥……魔獣の住処への対応だ。

 

「ケーヒル、悔いるのは後だ。ヴァルハラで出会ったら共に詫びよう。我らが騎士の暴走と暴挙をだ。だが今はやらなければならない事がある」

 

「……はっ。 間も無く殿下も来られるでしょう、暫しお待ちを」

 

 まさにその時、王の間へアストは到着した。そのアストは来る途中カズキの顔や仕草がチラついて困惑したが今は切り替え済みだ。

 

「陛下、お待たせしました。ケーヒルもご苦労だった」

 

 ケーヒルは深く頭を下げ、アストへ道を譲る。

 

「今は我等だけ。堅苦しいのはよせ」

 

「……陛下、今は軍議の場でしょう? そういう訳には……」

 

「その割には何処か浮ついているな。聖女と何かあったか、うん?」

 

「……その手には乗りませんよ、父上。ましてや不謹慎でしょう」

 

 父上と返しただけで、カーディルの掌の上だろうが気にしてもしょうがないのだろう。

 

「生きている者は生を謳歌すべきだ。それが亡くなった者への鎮魂ともなるだろう。昔教えた筈だがな」

 

「父上……」

 

 カーディルの不真面目なところは昔からだ。だがそれに救われた事も多くあり、文句もつけられない。

 

「殿下、此度の悲劇は全て私の責任。責めるべきは騎士であり、私でしょう」

 

「それを言うなら騎士団長として私に最も重い責任がある。ロザリーにどれ程詫びても足りないだろう」

 

「もうよい。ロザリーの為にもカズキを必ず守る。主戦派からも、魔獣からもだ。ケーヒル、報告を」

 

「はっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やはり地中か……森では木々の根も深いだろうに……」

 

 事前にある程度は聞いていた為、驚きは少なかった。カズキが導いた先にはイオアンの遺品と、巨大な穴があった。まさか世界に一つだけしかない穴では無いだろう。今まで気配や前兆無く現れた魔獣の謎も説明出来る。滅ぼされた国や街へ突如として襲い掛かった魔獣の群は、周到に準備された行軍だったのだ。

 

「恐らく少しずつ地中を掘り進み、各所に地表への出入り口を作っているのです。奴等は森の深部に居るのではなく、網の目の様に広がっているのでしょう」

 

 明らかに隠蔽された穴は奴等の知能が高い事を示している。

 

「掘り進んだ先に森が無ければ……」

 

 アストの懸念は当然だった。

 

「溢れるのだろう。かつての国々や街が滅ぼされた様に……」

 

「南の森は最早限界です。半日も進めば奴等の巣穴へと届く。いつ溢れてもおかしくありません。センに避難勧告を出しましょう」

 

「そうだな……そして防御を固めなければならない。センはこのリンスフィアから最も近い町。今や此処も安全では無い」

 

 リンディアに逃げる様な国土は残っていない。決戦に備え、奴らを撃退する他ないのだ。

 

「カズキが居なかったら……我等は何の手段も講じずにセンを失ったかもしれないな。どれ程の犠牲者が出るか、考えたくも無い。もしや聖女は既に救済を始めているのか……」

 

「幸い南側なら防衛は容易です。元々警戒している方角ですからな。城壁も厚く、防衛に向く地形もあります。今の内から戦略を練れば……」

 

「ケーヒル、一つ残念な報せがある」

 

 アストは戦略という言葉が出た以上、伝えなければならない。

 

「……ユーニードの事ですな?」

 

「知っていたか……昨晩の事だ。今は拘束し幽閉している。マリギ奪還の直訴と合わせ、カズキの軍事利用を堂々と言ってきた。カズキの誘拐も自白し悪びれもしていない。本当に……残念な事だ」

 

 カーディルの回答は予測していた事だ。しかし……目を瞑ったケーヒルへアストが言葉を重ねた。

 

「軍務長がいない以上、センの撤退と防衛を同時に行うのは困難を極めるだろう。勿論有能な者は他にもいるが、ユーニードに敵うわけもないからな」

 

「騎士団からも何人か出しましょう。今は慣例に縛られている場合では無いですからな」

 

「ああ、任せる。父上、国民への周知はどうしますか?」

 

「詳しくは伏せておくしかあるまい。どの道カズキが魔獣の謎を解明した事は噂になっているし、センの事も有る。求めに応じて話はするが、今は準備が先だ」

 

「了解致しました。 では……」

 

「暫しお待ち下さい。確認したい事があります」

 

 ケーヒルにはどうしても確認したい事があった。

 

「言ってくれ」

 

「ユーニードは何故今になって自白など。奴ほどの者が考えもなく表に出るとは信じられません」

 

「ああ、勿論私達も疑問に思った。ユーニードは言ったよ、今しか無いと。昨晩である以上、カズキの発見が耳に入ったのだろうな」

 

「他には?」

 

「押収した資料は確認中だが、今のところ不審な物は見つかっていない。だが範囲が広過ぎて時間が掛かるだろう。カズキを利用する方法は幾つも話すが、他に関しては黙秘のままだ」

 

「自白させましょう。手段を選んでいる場合ではありますまい」

 

「無理だ……ユーニードに家族は無く、自らの命など歯牙にもかけていない。ケーヒル、奴はもう……」

 

 ……狂気に囚われて、正気ではない。

 

 アストは拳を強く握り、歯を食い縛るしかなかった。幼い頃からアストやアスティアを世話してくれた忠臣、それがユーニードだったのだ。

 

「しかしそれでは……」

 

「今は資料の確認を急がせるしかない。全てを迅速に行わなければ……何が起こっても対処出来る様にな」

 

「……わかりました。今は出来る事をやりましょう」

 

「たのむ」

 

 三人はそれぞれの役割を果たすべく、動き始めた。

 

 過去一度も魔獣の侵攻を受けて来なかった王都リンスフィア。誰も未来など分からないが、魔獣との戦闘は避けられないだろう。

 

 リンスフィアはカーディルの治世の元、防衛の取捨選択を行なって来た。当然だが王都防衛は重要で、かなりの手を加えている。

 

 そして南側は森に最も近い。

 

 その為南の城壁等も含め拡充と改良を進めていたし、リンスフィアに至る途中にも備えを用意していた。万全とは言い難いが神々が味方してくれたのだろう。

 

 聖女が南の森へ入ったのも、きっと神々の導きの結果だ。

 

「だから大丈夫だ。必ず守ってみせる」

 

 図らずも、別れた三人は同時に呟いた。

 

 決戦は近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな……そんな事が……有り得ない……」