黒神の聖女〜言葉の紡げない世界で〜 (きつね雨)
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本編
1.黒神のヤト


言葉を解せず、話すことも出来ない……見知らぬ異世界に飛ばされ苦悩する主人公(TS少女)の物語です。


 

 

 

「そうだな……まずは服を脱げ、全部だ。土下座して詫びを入れれば水に流してやってもいい」

 

 さっき歩いていた街道からほんの少しだけ薄暗い路地に入れば、もう人の姿はない。お情け程度の街灯も点滅を繰り返している。ましてや今は深夜11時頃だろう、それも当たり前か。

 

 そんな事を思いながら周りを見回して、目の前のクズに視線を向ける。

 

 只でさえ下品な顔を更に醜く歪め藤堂は俺にそう言った。ヤツの後ろに1人、こいつはやりそうだ。後ろをチラリと見れば積まれた段ボールに肘を預けニヤついてるチビがいる。全員が髪を金髪に染めニキビが汚いツラだ。それに何処かシンナー臭い。

 

 思わず内心溜息をついた。めんどくせぇ。

 

 先ずは着古したジャンバーを脱ぎ、直ぐ横のゴミ箱の上に置く。

 

 俺が言われた通りにするのを見て藤堂達は益々ニヤつき始めた。スマホを取り出したのは撮影でもするつもりだろう。

 

 つぎに尻から抜いた硬い皮の財布をジャンバーの上に重ねた。何枚かの硬貨は別にしてある……まぁ場合によっては使うかもしれないが、まず大丈夫だろう。コイツは油断が過ぎる。

 

 藤堂はカメラアプリをこれ見よがしに開き、残りのクズ2人に見せようとしていた。

 

 馬鹿が。

 

 奴の目線が後ろに向いた瞬間、ジャンバーごと藤堂の汚い顔面に投げ付ければ……慌てた様子だが遅い! シンプルに前蹴りで金的を蹴る。グジャッっとした感触も気にせず、崩れ落ち低くなった顎に膝蹴りを喰らわせた。呻き声を上げ倒れるのを視界の片隅に入れて、直ぐに振り向く。

 

 先ず1人。

 

 更に掴み取った財布を投げ付ければ、チビは思わず両手を上げて財布から顔を隠す。それを確認しながら一気に近づき、その横腹をぶん殴った。ふん、両手で防ぐなんて、マヌケだ。

 

 って、うわっ吐きやがった……汚ねえな。

 

「テメエ!!」

 

 ここでやっと藤堂の後ろにいた男が近づいて来る。だが 1人なら負けねーよ……俺は無言で睨みつけ唾を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

「うぅ……」

「痛えよぉ 痛え……」

 

 蹲り倒れた三人を上から眺め煙草に火を付ける。一発喰らったが、三人相手なら上出来だ。ちなみに三人目は意識がない、まあ死んではないだろう。

 

 しゃがみ込み蹲る藤堂に話しかける。

 

「まだ何か用があるか?」

 

 膝を立たせながら顔を見たが、これは酷い。

 

 前に中学生くらいの餓鬼に金をせびっていた偉そうなツラとは大違いだ。あの時は背後から跳び蹴りを喰らわせたからよく見えなかったが。ついでに全裸にして、脱がした服は用水路に捨てたっけか?  あぁ……だからさっき俺にも同じ事をやろうとしたのか、本当に馬鹿な奴だ。

 

「痛えよぉ……病院に……」

 

 股間を抑えながら藤堂は青白い顔で俺を見た。唇が切れたのか血が流れている。しかし当然に無視だ。

 

「次にお前のツラを見たらぶん殴る。もし俺を見掛けても視界に入るな。その辺のトイレでも入って時間が過ぎるのを待ってろ、わかったか?」

 

 奴は震えながら横倒しになる。痛みに耐えられないのだろう。

 

「返事は?」

 

 煙草の火をやつの顔面に近づけて静かに聞く。藤堂は必死な顔で何度もうなづいた。

 

 火の消えかかった煙草を捨て、もう一本吸おうとポケットを探る。だが最後だったようだ、ついてない。仕方ないので意識のない三人目の懐を漁ったら一箱出て来た。

 

「なんだ、メンソールかよ」

 

 我ながら勝手な事を呟き煙草を放り投げる。

 

 近くから止まない連中の呻き声が聞こえて来た。救急車くらい匿名で呼んでやるか? 三人掛りでボコられたなんて、恥ずかしくて言え無いだろうし、転びましたとか適当に喋るだろ。

 

「寒いな」

 

 体を動かした分暖かかったが、今は真夜中で路地裏に吹く風は肌に刺さるようだ。冬が近いからか空気も乾燥している。直ぐに冷えてしまうだろう。

 

 遠くに見えるネオンの明かりを見ながら溜息をつき、地面に落ちたジャンバーを手に取る。そして財布を拾い、汚い路地裏から出ようとした時だった。

 

 誰かがこっちに真っ直ぐ歩いてくる。さっきの奴らと違い、如何にもインテリな感じの背の高い男だ。何より顔面のレベルが違う。それに180cmある俺よりデカイかもしれないな……薄っすらと笑ってやがる。

 

 嫌な予感だ。

 

 何気ない様に観察する。見た限り殴り慣れた拳じゃない、むしろ綺麗過ぎるくらいだ。チノパンにシャツ、ジャケット……まぁ普通と思う。だが違和感が拭えない。

 

 改めて顔を見て、その理由がわかった。黒髪黒目でアジア人らしくしてるが、間違いなくアングロサクソン系だ。無理矢理に目や髪を黒くしたらこうなるのだろう。気色悪いことに、ずっと薄く笑っている。

 

「後ろの三馬鹿の連れか?」

 

 珍しく自分から話しかけてしまった。何処か焦ってる。 落ち着け……

 

「 ん? ああ、そうですよ。友達です」

 

 綺麗な発音だが嘘くせえな。なんだよ友達って。

 

「なら早いところ連れてけ」

 

「こんな時、友達なら仇討するんじゃないかな? なので私は貴方とお話しをしないといけないですね」

 

 あぁ……間違いなくヤバイ奴だ。肝の座り方が違うし、暴力に慣れた独特の雰囲気が溢れてくるのが分かった。

 

 逃走ルートをいくつか思い浮かべる。最悪は逃げの一手しかない。

 

「逃げられないよ」

 

 まるで心を読んだようなセリフに腹を決める。なんとか隙を見て逃げるか……無いなら作ればいい。

 

 背後の馬鹿達を左手で指差しながら話しかける。

 

「こいつらの友達だって?」

 

 話しながらデニムパンツのもう一方の手を右ポケットに入れ、硬貨を何枚か強く握り締める。

 

「ふふ、そうなるかな?」

 

 インテリ顔の目線が向こうに流れた瞬間、一気に踏み込み手加減なしで顔面を狙う。 はんっ、スカした顔もそこまでだ!

 

 ゴッ!

 

 振り抜いた拳がヤツの右頬に触れ、顔面が僅かに撓む(たわむ)のすら見えた。間違いなく当たったし、感触だって完璧だ。なのに……

 

 まるで殴られた事が無かった様に、一歩も動かずその場に立ち、そして不気味に微笑んでいる。

 

 痛みすら感じてないのか? 幾ら頑丈だとしても、そんな事があり得る訳が無いのに。

 

 あぁ……コレはマジでヤバイ……

 

「クソがっ」

 

 今度は思わず唇から声が溢れた。その呟きも深夜の薄汚れた路地に消えていく。バイトの早帰りなんてするんじゃなかった、そんな事を今更思っても遅いだろうが……

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

「お疲れっしたー。すいません、お先です」

 

 客足も途絶えたので早めに上がって良いと言う先輩の有難い言葉に甘え、昨日からバイトを始めた居酒屋から出ようと戸に手を伸ばした。

 

 丁度その時、店長の声が聞こえて振り返る。厳つい顔してるのに何処か気弱な話し方をするんだよな、この人。

 

「えっと……木崎くん、ちょっといいかな? 本店に出す書類なんだけど、下の名前ってこの字で"カズキ"でよかったよね?」

 

 書類には住所や氏名、年齢、緊急連絡先などを記入するみたいだ。履歴書に書いてあるだろ?って思ったとき店長から解答があった。

 

「ごめんね。履歴書を先に送ってしまって、内容を控えてれば良かったんだけど」

 

「合ってます。平和の和に希望の希でカズキ。店長……読み仮名はキサキじゃなくてコノサキです、漢字は合ってますけど。年齢は20、住所は……」

 

「あれっ? ほんとだ。ゴメンね……コノサキっと。あと緊急連絡先なんだけど、ご両親のどちらかでもいいから書いて貰えるかな?」

 

「……親はいません。自分1人です」

 

 店長は如何にもマズイこと聞いたって顔で黙ってしまった。顔に出過ぎだろう。

 

「 えーっと……上手いこと書いておくね。じゃあまた明日、お疲れ様でした」

 

 そう言って厨房の奥に店長は消えていった。それを視界に入れながら、思わず苦笑して店先から出る。すると直ぐに吐く息が白くなるのが見えて、冬が近いのを感じた。ジャンバーの襟を立てる。今のバイト先で賄いを食べたから、腹は減ってない。

 

 今日はそのまま帰るか。

 

 今時珍しい六畳一間の和室と小さな台所しかない古びたアパートだが……それでも我が家だ。 昔に比べれば天国の、いや異世界みたいなもんだ。

 

 

 そんな事を考えた僅か数分後に馬鹿達に絡まれ、定番の路地裏行き。それが終わったと思ったら、こんなヤバイ奴に会うなんて……本当についてない。

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

「ぐっ……うぐっ」

 

 腹が焼ける様に痛む。吐き気をなんとか抑えながら、憎たらしいインテリ顔を睨みつけた……つもりだ。

 

 もう立てない。

 

 両目の瞼も膨れ上がって視界も悪いし、意識も朦朧としてきた。

 

 なんなんだコイツは? 幾ら殴りつけても、膝の関節を蹴り上げても全く応えてない。いや痛みも恐怖も感じてないのか?

 

 相変わらずの薄笑いを浮かべながら話しかけてきた。

 

「ほう……やはり()()()()()()()()()。常人では考えられない速度だ。痛みにも僅かながら耐性があるみたいだね」

 

「な、何を」

 

 ……ゾッとした。いや間違いなく体が震えた。

 

 今では誰も知らないはずの秘密を何故この男が……?

 

 呆然とした俺に、全く感情を感じさせない口調で蕩々と話し掛けてくる。どこか俺を見ていない、その気色の悪い目で。

 

「やはり君にするよ。 ()()()()()()。親もいない、親類縁者もいない天涯孤独の身。7歳から預けられた孤児院でも院長夫妻に体罰を受け続け、中学を卒業するや脱走。年齢を誤魔化しバイトを続け生きてきた。暴力が側に、そして喧嘩ばかり」

 

 コイツ……

 

「へぇまだ本当は17歳なんだ。確かに見えないね。 君は人からの愛情を信じられないし、大人なんて全員が敵。院長夫妻には必ず復讐すると誓っている。出来るなら今すぐにでも怒鳴り散らして手当たり次第に暴れたい。でも、本当は違うよね? 自分の心の中を分かっている筈だ」

 

 言うな……言わないでくれ………

 

「もっと……もっと優しくされたい、愛されたい、誰かに抱き締められてもう大丈夫だと言って欲しい。そして、そんな事を思う弱い自分が世界で()()()()

 

「や、やめろ」

 

 震えが止まらない。何なんだコイツは……?

 

 目の前の男はきっと人間じゃない。

 

「君が7歳の時、普通じゃない事に気付いた。他人と比べて明らかに怪我の治りが早いとね。だけど、母親に見せたのは失敗かな。君の親はそれを許容出来る人間じゃなかった。"悪魔の子"だっけ? カルトは怖いね。それから僅か一年で孤児院入り。最も信頼出来るはずの大人に捨てられた君に更に追い打ちがかかる。うわ、焼けた鉄串を腕に? その院長も酷い事をするねぇ。同じ事をされた他の子はいつまでも火傷のあとが残っていたのに、君はわずか数日で綺麗に完治」

 

 何も言い返せない。いや、余りの恐ろしさに震えるだけだ。

 

「ますます体罰は酷くなっていく。だって証拠が残らないからね。でも ……でもキミすごいね、本当に関心するよ。それでもまだ慈愛の心が折れずに残っている。女子供や弱者には手を出さない、むしろそれをするクズには率先して罰を与えている」

 

 君より不幸な人間は沢山いるけど、癒しの力、慈愛の()()がここまでハッキリと見えるなんて……そう言うと、もう一度俺を見て笑う。

 

 刻印? 一体何を言ってやがる。いや、まるで俺の人生のアルバムを見るように、誰も知らない筈の事や力まで……

 

 一体何者なんだと内心で呟いたとき、当然のように返して来た。

 

「ん? 僕の名はヤト、黒神(クロカミ)のヤト。此処じゃない何処かの世界の神々の1人で……もう僕しか残っていない残り滓のような一柱さ。沢山いた白神(シロカミ)達も消えた。優しさや癒しを司る彼等は失われ、あの世界は滅びに瀕している。僕は"憎悪"や"悲哀"、そして"痛み"を司る神だから……今一番力があるかもね」

 

 初めて奴は、いやヤトは悲しい表情を見せる。

 

「でも、それでも僕はあの世界と人々を愛している……皆を助けたい。もう時間がないんだ」

 

 そうして俺の目を真っ直ぐに見た。

 

「だから……すまない」

 

 そう呟いてこちらに人差し指を向ける。その瞬間だった。

 

 

「あああぁーーー!!」

 

 

 痛み……なのか、体中が熱い。逃げ出したいのに体は言う事をきかない……!

 

「ぐっ、うあ……」

 

 情けない声を出してるのは自分でも分かる。でも止められない……

 

 ヤトはブツブツと呟きながら、俺の体の表面に指を這わし始めた。右胸、左肩、腹、太もも……他にも、身体のあちこちに指を這わせては戻す。痛みで意識を失いたいのにヤトの姿だけは鮮明に見えた。

 

 

 癒しの力(2階位)

 

 慈愛(1階位)

 

 憎しみの連鎖(1階位)

 

 自己欺瞞(2階位)

 

 

「これでも2階位が限界か。人としてはそれでも望むべくもない力だけど……でもそれじゃあとても足りない。でも魂魄の容量は増やせない以上、負へ転じさせて相殺する。やはりもっと強い呪縛、呪いを……」

 

 聞きたくもないのに、その声だけ何故かハッキリと聞こえた。より強い痛みと全身に虫が這うような異物感。

 

 脛、尻、喉、そしてまた戻す。

 

 

 自己犠牲 贄の宴(3階位)

 

 利他行動(2階位)

 

 言語不覚[紡げず、解せず](3階位)

 

 

 

「まだ足りないか……」

 

 しつこく指を這わせてくる。くそっ、なにをしてやがる……! 自分の身体なのに分からないなんて……

 

 

 慈愛(狂)(3階位)

 

 

 じぃっと俺の右胸あたりを見ている。

 

「これで……」

 

 ヤトの声だけが聞こえてくる。

 

 ダメだ、やめてくれ!!

 

 今まで指先で触れた箇所から熱だけを感じる。最後なのか右胸に再び指を翳された。

 

「熱いっ! 熱っ! うあぁーーーっ!」

 

 

 

 癒しの力[()()](5階位)封印管理

 

 

 

 フーッ フーッ……ヤトは大きく二回息を吐いた。もう殆ど何も見えない、でもヤトの声は変わらずハッキリと聞こえる。

 

「和希くん、恨んでくれて構わない。でも申し訳ないけど……黒神としての権能、力はもう殆ど残っていないんだ。僕は眠りにつく……だから恨む相手もいなくなってしまうね。本当にすまないと思ってる。どうかあの世界を救って欲しい。 勝手だけれど、これは君の救いの道にも繋がっているかも知れない、そう信じているよ」

 

「あちらに着いたら刻印は力を持つ。癒し、慈愛は間違いなく君の持つ力だ。今のキミではどんな刻印があるか解らないだろうけど、その二つだけは決して裏切らないからね」

 

 ヤトは俺に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 

「じゃあ、最後の力で送るよ。黒神の、いや白神の祝福よ此処にあれーー」

 

 薄れる意識の中、ヤトは俺に微笑み空間に溶けていく。

 

 そうして、目の前から光が消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 路地裏から人の姿が消えた。

 

 在るのは丸まったままの古ぼけたジャンバーと散らばった硬貨達。きっと、和希がここにいた事を覚えているのだろう。

 

 

 

 

 此処じゃないどこか。

 

 遠い遠い別の世界。

 

  いつの頃からか、異形の魔獣が跋扈し無差別に人を殺し始めた。

 

 何匹打ち倒しても、数は減らない。

 

 其処は絶望と呼ばれる血の色で世界を染めている。

 

 僅かに残った人々は小さな国に寄り集まって死の恐怖に抗っていた。滅びの足音を聞きながら、それでも決して諦めない。

 

 何故なら希望があるはずだから……

 

 神々が再び降臨し、自分達を救ってくれると、白神(シロカミ)達は人を見捨てないと信じて。

 

 人々から忘れられた黒神(クロカミ)の一柱、最後の神ヤトの加護と呪いを受けた「黒神の聖女」の降臨はもうすぐ……

 

 まだ世界は知らない。

 

 まだ人々は知らない。

 

 絶望も希望も、憎悪や悲哀も、痛みすら、そして自らの命さえ顧みない。全てを捧げる一人の少女が其処に在ることを。

 

 これは……

 

 強大な"癒しの力"をその身に宿しながらも……言葉を紡げない、言葉を解せない、1人の少女の物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




どんどん投稿していきたいと思います。よろしくお願いします。


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2.魔獣と癒しの力

1話からお気に入りに入れて下さった方、ありがとうございます。


 

 

 

 

 この世界には魔獣(まじゅう)と呼ばれる異形がいる。

 

 その異形が現れたのは約三百年前とされ、歪な犬のような造形は見る者に不快感をもたらす。突如として現れた彼らは、ただただ無差別に人を襲った。当初は狼ほどの体躯で、実際よく狼に間違われる事が多かったらしい。しかし、他の生き物には目もくれず人だけを狙うのだ。その理由も生態も謎で、今も殆どの事が分かっていない。普段は森の中に居るらしく、街道や街には近づいて来ないのがせめてもの救いか。

 

 採集のために森に入った者や猟師が襲われる事はあっても、街にいる人々はどこか他人事だったし、森に近い村ですら最初は何かの獣にやられたと思っていた。

 

 当時世界最大と謳われた"リンディア王国"をはじめ、各国それぞれで対応し、誰もがその内に解決するだろうと楽観視していたのだ。だが少しずつ危険が周知されてくると、今まで伐採採集し管理して来た"森"が違う姿になっていった。

 

 

 

 森に近い畑や放牧地が放棄され、その一部となっていく。

 

 小さな村から人がいなくなり呑まれた。

 

 王都から離れた小さな町も同様だ。

 

 森を縦断する様に通っていた街道は少しずつ失われ、貿易にも影響が出た頃には遅かったのだ。

 

 

 

 森が広がると言うことは魔獣の生息域が広がることと同義。そう、これは魔獣達の侵略だった。

 

 この間、僅か100年足らず。

 

 ここに至り漸く国家間の蟠りを捨てて話し合いが持たれたが、森に隣接していた小国「カズホート王国」が呑まれた頃にはもう全てが始まってしまっていた。

 

 現在の"リンディア王国"は森に囲まれ、分断された他国と情報のやり取りはほぼ無い。幸運にも森を抜けて来た者が幾人かいたが、もう随分と過去のことだ。

 

 肥沃な大地を領地に抱える大国リンディアでさえ()()なのだ。もはやどの国も自国を守る事を考えるのが精一杯だった。

 

 魔獣は森から遠く離れた場所に現れる事がないため、まだ王都に直接の影響はない。だが滅びへと少しずつ近づいている事を誰もが感じていた。

 

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

 

 口の周りに髭を蓄えた大男。初老に差し掛かりながらも、未だ最強の騎士としてリンディアに名を轟かせている。だがそんな最強の騎士であろうとも、湧き上がる焦燥感を消し去る事は出来ないのだろう。

 

 最強の騎士……リンディア王国騎士団副団長ケーヒルは、四足を踏みしめてこちらに近づいて来る魔獣二匹を睨みつけていた。

 

 勿論勝てなくはないが、この人数では犠牲者が出るかもしれない。何より今日はリンディア王国の王子であり、騎士団長でもあるアスト殿下もいる……ケーヒルはそんな焦燥感に抗っていた。

 

 王国にじわじわと迫る黒の森周辺部の調査に向かう道中での事だ。王国から遠く離れたとは言え、ここは街道にほど近い丘の中腹。森から離れた場所に魔獣が二匹も出るとは完全な想定外だった。

 

 ケーヒルの目には四足歩行でありながらも間違いなく自分より大きな魔獣が見えた。もし立ち上がったらどれだけの大きさだろうか? きっと首が痛くなるほど見上げないといけないだろう。そんな下らない事を考えながら、奴等の状態を確認していく。

 

 異常に発達した前足と胸筋、後ろ足は前足と比べると短いがやはり硬い筋肉に覆われている。獣ならば当然の尾は存在しない。無毛の赤褐色の肌の所為で、そんな事までわかってしまう。

 

 長い牙から大量の涎を垂らす顔面には、遠くからでも分かるギラついた赤い目が光っている。今まで相対して来た魔獣の中では中型というところか。なんの希望にもならないが……

 

白神(しろかみ)よ。どうか恩恵を我らに……」

 

 頭を僅かに上げ、目を細めて祈りを捧げる。胸中に神々の御姿が浮かんだ。

 

 

 

 

 

 そう、魔獣が現れるよりずっと昔。白神の加護は身近なものだったのに……

 

 "刻印(こくいん)"と呼ばれる神代文字を身体に刻まれた者達が居る。

 

 加護を授かった者達は使徒(しと)となり、時に力が増し偉大な戦士となった。他にも、火の刻印持ちは鍛冶や料理に活かし、珍しい癒しの刻印ならば治癒師となって皆の健康を守ったり、或いはお産婆になる。託宣者など人々に白神の加護を説く者には、慈愛、信念、涙する者など心の在りように影響する刻印もあった。

 

 ただ、今や刻印を……いや、使徒を見る事は非常に稀になってしまった。我が身に刻印があればと、そう考えなくはない。だが戦う事は出来る。身体に刻印は刻まれていなくとも必ず魔獣を屠り、アスト殿下をお守りする……

 

 そうケーヒルは誓い、馬に括り付けていた鞘から剣を引き抜いた。

 

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

 

 

「殿下! お下がりなさい!」

 

 リンディアの王カーディルから賜われた剣を鞘から抜き、魔獣に立ち向かおうとする王子。そんな気配を感じたケーヒルは声をかけた。アストは確かに剣技に優れた王子だ。騎士団長としても指揮能力を日々磨いている。だが、だからと言って万が一を許せる訳がない。それでも、返答はある意味で予想通りだった。

 

「ケーヒル、馬鹿を言うな。小隊規模の我々に呑気に眺めている余裕はない。お前は右の奴を頼む、私たちは左をやる」

 

 白銀色の髪を揺らしながら、アストは既に走り出していた。

 

「殿下! くっ……」

 

「ジョシュ! 行くぞ!」

 

「はっ!」

 

 側付の騎士ジョシュもアストに続く。

 

 止める時間も無い。部隊を15人ずつに分け迎撃態勢をとった。

 

 

 

 

 

 

 

「よし! いいぞっ、焦らなくていい。 少しずつだ!」

 

 剣を振りながら、アストは手応えを感じていた。最初の接敵で奴の片目を潰せたのは大きい。誰の矢が当たったのか分からないが、これならやれる!

 

 魔獣は低い唸り声を上げながら、上半身を少し上げて両手を振り回している。あの爪は厄介だが、剣が折れる程ではない。死角に回り込み硬い皮膚に少しずつキズを付けていく。

 

 思い切り振り抜けばもっと深く入るかもしれないが、その分隙も大きい。焦る事はないと距離を取るよう指示を出し、振り向かずに声を上げて後ろに合図を送った。

 

「ジョシュ! 弓だ!」

 

 後方で隊形を組んだジョシュ達から即座に矢が放たれ数本も魔獣に突き立つ。そうして聞こえた耳障りな魔獣の悲鳴も、今なら心地良い。幾度かの同様の攻撃でついに魔獣は大きな音を立てて地面に崩れ落ちた。周りの皆も剣を高く上げ雄叫びを上げている。

 

「殿下! やりましたな!」

 

 普段は寡黙なジョシュも流石に興奮したのか、弓を背中に回し歩いて来ていた。その声を頷きつつ受け流し、ケーヒル達を視界に捉える。

 

 どうやら援護は必要なさそうだった。ケーヒルが魔獣の頭に剣を叩きつけるのが見えたからだ。

 

 その瞬間、アストも漸く肩の力が抜けて自身の剣を下ろした。見渡しても重傷者はいない。小隊で二匹の魔獣相手に損害なしとは上出来だと言える。まだ本来の任務である森周辺部の調査があるが、場所を移して休息を入れるか……この後の段取りを決めて指示を伝えようとしたその時だった。

 

「アスト様!」

 

 アストの後ろから悲鳴のような声がかかる。慌てて振り向くと、刺さった矢もそのままの魔獣が見えた。半身を起こし、既に持ち上げた右腕を振り下ろそうとしている。

 

「くっ!」

 

 剣で防ごうとしたが、一度弛緩した精神と腕は思うように動かない。

 

 間に合わない。そう判断した……それとも胸に刻まれた責務と忠義か。直ぐそば、ひしゃげた鎧を外していた騎士がアストの前に躍り出た。

 

「アスト様、下がり……」

 

 自らを盾とした彼の身体は魔獣の爪であっさりと切り裂かれた。既に上半身は形を留めていない。血が噴水の様に吹き出し倒れた身体を魔獣は踏みつけ近づく。

 

「よ、よくも‼︎」

 

 魔獣の足の下に隠れた騎士を見た瞬間怒りに震えた。剣を奴の顔面目掛けて振り抜こうとしたのだ。

 

「殿下! なりません!」

 

 ジョシュはあと数歩のところまで来て、右手を伸ばし叫ぶ。

 

 そして、アストは肩から熱を感じた。

 

 一人呟く。私の剣はどこだ?と。

 

 見ると振り下ろした魔獣の左腕のすぐ下に落ちている。良かった、折れていない……

 

 振り下ろした?

 

 感じていた熱は肩だけでなく右肩から腹にかけて広がっていき、遂には下半身すら力が抜けていく。口の中に生暖かい液体が溢れてくる。思わず吐き出したそれは赤い、酷く赤い色をしていた。

 

「殿下をお助けしろ!!」

 

 副団長ケーヒルは、その巨大な体躯の通りに戦場へ通る声を張り上げた。しかしそれは悲鳴でもあった。あれは……致命傷だ……騎士としての数多の経験が、知りたくない事実を伝えてくる。

 

 リンディアの王子は魔獣の爪に右肩口から腹に向けて切り裂かれていた。

 

「ごっ、ごはっ……」

 

 吐血し前のめりに膝をつき、その場に倒れる。泥と血に濡れた地面は衝撃を和らげたが、何の慰めにもならないだろう。

 

 アストに傷を負わせた魔獣は後ろから騎士達に剣を突き立てられもう動いていない。ケーヒルの目の前にいるもう一匹の魔獣も、今事切れたようだ。魔獣に刺さっていた自身の剣は地面に落ちたが、そんな事はどうでもいいと駆け寄った。

 

「殿下!!」

 

 ケーヒルは必死の形相で駆け寄り両手両膝を泥につく。アストは若い騎士に抱き起こされ上半身を支えられていたからだ。

 

 しかし、投げ出された足は動いていない。

 

「馬車から治療箱を急いで持ってくるんだ! 早くしろ!」

 

 ケーヒルが言うまでもなく、1人の騎士が丘から離れた麓にある馬車に向け走っていた。

 

「魔獣の討伐は済みました。直ぐに治療を……大丈夫、このケーヒルも何度も魔獣にやられましたが、こうして生きておりますからな。殿下もすぐに……」

 

 内心の動揺を出来るだけ抑えて、声をかけ続ける。

 

「ケーヒル……ゴホッ、今までよく……仕えてくれた。皆も、本当に……ゴホッ」

 

 血を僅かに吐きながら、アストは力を振り絞って声を出す。

 

「父上に、父上に伝えてくれ。どうかお健やかに と。ひと足先にヴァルハラの白神に抱かれる(いだかれる)事をお許しください。 妹に……アスティアに……すまないと」

 

 今は亡き王妃に似た美しい白銀の髪も何かの血に濡れ、美しかった相貌も血の気を失っている。そして、口元は赤く染まっていた。

 

「殿下……殿下、おやめください……」

 

 ケーヒルが泣く姿を見るのは初めてだ。冷やかしたかったがやめておくか。戦場で鍛えた身体と命はすぐに尽きないだろう……そんな事を思うアストも戦士だ。このキズでは助からない現実を当然に悟っていた。

 

 先ほど命をかけて盾となってくれた騎士には申し訳ない終わりだ。 ヴァルハラで謝らなくては……彼の名前はなんだっただろうか? 聞きたくても、もう声は出せそうもない。 残された妹は悲しむだろう。父上は涙を流すだろうか……リンディアの民が、愛する美しい王国が、魔獣に蹂躙されてしまうのか。まだ戦いは終わっていない、人々に平穏は訪れていないのに。

 

 そうだ……まだ死にたくない……誰か、助けてくれ! まだやらなくてはならない事があるんだ! 皆を、皆を守らなければ……

 

 種々の想いが駆け巡ったアストは、僅かに身じろぎして瞼を上げる。

 

 あれは……?

 

 誰かが近づいて来るのが見えた。ケーヒル達も気付いていない。他の騎士か? いや、子供だろうか? なぜ1人でこんなところに……右腕は上がらない、左手を無理矢理動かして皆に伝える。ジョシュが後ろを振り返り、漸くその子供に気付いたようだ。

 

 助けて上げてくれ……アストは心の中で願った。

 

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

 

「ケーヒル副団長。あれを」

 

 ジョシュはまっすぐ歩いてくる子供らしき姿を指差しケーヒルに知らせる。治療箱から清潔な布を何枚も出して、アストの身体から止め処なく流れる血を拭っていたケーヒルも初めてその子供に気づく。

 

「子供? 女の子か?」

 

 肩まで伸びた髪は確かに少女に見える。真っ黒なのは何かの汚れだろうか? 実際に泥か土で汚れたボロ切れのような貫頭衣を着ている。裸足で露出しているであろう肌も同じく泥だらけだ。唯一の色は瞳の深緑だろうか。もうそれが分かるほど近くまで来ていた。

 

「君。 止まりなさい」

 

 今日初陣となった若い騎士ノルデが静止の声をかける。近くに来たからわかるが、少女の目はアストだけを見ているようだ。周りの事やノルデの声も無視して同じ歩調でただ近づいてくる。直ぐ側に倒れている魔獣にも全く目をくれない。騎士でもなければ、例え死んでいる様でも怖ろしくて動けないものだ。

 

 全員が異様な空気と圧迫感を彼女の小さな体から感じている。

 

 そしてアストの怪我と大量の流血に気付いたのか、急に身体を震わせ駆け足で横を通り抜けようとした。

 

「おいっ!」

 

 慌てたノルデは思わず剣の柄で少女のこめかみを殴りつけてしまう。避けることも出来なかった彼女は振らついて地面に両手をついた。切れたのだろう右眼の上辺りから血が流れ出てポタリと落ちる。

 

「ノルデ! 止せ!」

 

 ケーヒルが叫ぶ。

 

「あっ」

 

 倒れ込んだ少女を見て、ノルデは戸惑いの声を上げた。

 

「す、すまない。大丈夫か?」

 

 しかし其の問い掛けに答えない少女は、手や膝が魔獣の血に汚れるのも全く気にせず、アストの足元までベチャベチャと這い寄った。そして両手を傷口の両脇に置き、瞬きすらせずに流れ出る血を見ている。

 

 アストも薄れる意識を忘れて少女を見た。

 

 同じく唖然としていたケーヒルは我に返り、髭を震わせて声を掛ける。

 

「心配してくれているのか? 」

 

 彼女の両眼には僅かに涙が浮かび、そして酷く焦燥している様子だからだ。

 

 だが、驚くのはこれからだった。

 

 目の前の少女はおもむろに横を向き、布を切り裂くために使っていたナイフをケーヒルの足元から拾った。

 

「お、おい。 君、それは危ないぞ」

 

 その問い掛けにすら答えず、ナイフを右手に持つと自分の左の掌に戸惑う事なく突き立てた。それは余りに唐突で戸惑いすらなかった事で、誰も止められなかったのだ。

 

「なっ……!」

 

 少女は痛みを堪えているのか、泥と血で汚れた顔を歪ませながら、しかし悲鳴も声さえも出さず抉るようにナイフを動かして引き抜いた。掌だけでなく手の甲からも血が溢れ出ている。

 

 貫いたんだと誰もが思った。

 

  そして血で真っ赤に染まり始めた掌を拭う事もせず、アストの傷口付近に押し当てた。さっきから酷く不遜な行動なのに、どうしてか誰一人として止められない。

 

「うっ……」

 

 アストも痛みで思わず声を上げたが、次の瞬間には周りの騎士達も声を出す。

 

 押し当てた掌と傷口の間から白い光が漏れ出してきたのだ。少女は手を傷口に沿ってゆっくりと動かしていく。

 

 まさか、傷口が塞がっていく? そんなこと有り得る筈がないのに……一人残らず絶句するしかなかった。

 

 右肩の傷が塞がったあたりで、少女は一度手をアストの体から離した。

 

 少しはっきりしてきた意識で彼女の顔を見ると、辛そうな泣きそうな目でアストを見返して来る。そして首を縦に振り頷くと、再びナイフを右手に持った。

 

「まさか⁉︎ よせ‼︎」

 

 アストは先程まで出なかった声を振り絞ったが、間に合わない。今度は左手首にナイフを押し当て一気に縦に切り裂いたのだ。流れ出る血にはやはり目もくれず、再び左手を傷口に押し当てると、何の声も上げずに少しずつ動かし始めた。

 

 アストもケーヒルもジョシュも、そして周りの騎士達も止めなければと思っている。なのに体が動かない、いや動かせない。

 

 そうしているうちに少女は意識を失ったのか、アストに寄りかかり抱き着くように眠ってしまった。少女のこめかみの出血はもう止まっていたが、少し腫れ上がり痛々しい。

 

 全てがいきなりの事で、結局誰一人として声を上げるも出来なかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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3.アスト=エル=リンディア

 

 

 

 

 街道を走っているとはいえ、馬車は酷く揺れるものだ。ましてや軍用であるからには乗り心地など考慮せず機能性を求めている。自身は気にならないが、目の前で横たわって眠る少女には辛いのではないか……リンディア王国唯一の王子アストはそう考えて周りを見渡した。

 

 何か清潔な枕や敷物でもあれば良いのだが、軍備品を運ぶこの馬車にそんな気の利いたものはない。せめてもの慰めにと包帯をまとめて枕代わりにしたり、予備のマント類を床に敷き詰めるくらい出来なかったのだ。

 

 アストを守るために犠牲となった騎士テウデリクは、悲しい事だが遺族に見せられる状態ではなかった。いくつかの遺品を拾い集め、火の清めでヴァルハラに送り白神に抱かれる事を祈った。

 

 眠ったままの少女は死の淵から救ってくれた。だがテウデリクは王都に戻る事が出来ない。何かの歯車が噛み合えばもっと上手くやれたのだろうか? あの時油断などしなければ、トドメをしっかりとさしていれば、指揮していたのがケーヒルだったなら……

 

 現れては消える種々の想いは現実を少し忘れさせたが、ふとアストは少女の顔や手足が血や泥で汚れている事に気が付いた。左手首の切り傷は血糊を拭って処置したが、それ以外はそのままだ。

 

「これだから男はダメか……アスティアの言う通りだな」

 

 訓練後の疲れもあり、汗や汚れもそのままに眠っていたら妹に酷く叱られてしまったのだ。しょうがないじゃないかと思ったものだが……

 

 次の休息地で綺麗な布でも探して拭いてあげよう。確か水も余裕があるはずだ。子供とはいえ女性の肌をみだりに触る訳にはいかないが、せめて顔周りだけでも綺麗にしなければ再び怒られてしまうだろう。

 

 そんな事を思い、アストは苦笑した。

 

 

 

 森の周辺部の調査を中止としたアスト達一行は、王都への帰還の途についていた。任務も重要だが、戦死者が出た以上一度帰還し、部隊の再編を急ぐ必要もある。森から離れた場所で魔獣に遭遇した事も周知し注意を促さなければならない。調査しているのはアスト達だけではないのだから。何より、命を救ってくれた少女をあのまま連れ回る訳にもいかないからと、帰還は当然の判断だった。

 

 漸くと言って良いだろう。

 

 リンディア王国の王都リンスフィアまで、馬車でも明日の夜には到着する距離まで近づいた。早馬ならより早く着く事も出来るが、少女への負担を考えゆっくりとした行程にしている。先触れの騎士を2人先行させ、調査団一行は最後の休息予定地に到着した。

 

 

 

 

 

 

「ふむ、なるほどなるほど。言われてみれば当然と思います」

 

 薪を火にくべつつ、ケーヒルは頭を掻いて答えた。

 

「アスティアに怒られる前に気付いて良かったよ。ああ見えてアイツは怖いからな」

 

「はっは、アスティア様の怒りを買うなど殿下くらいでしょうな。あの方はリンディアの花……いつも微笑みを絶やさず、王都に咲き誇る王女殿下ですぞ? なぁ、ジョシュもそう思うだろう?」

 

「はっ。アスティア様は王都に咲く大輪の花です」

 

「……相変わらず硬すぎるわ、お主は」

 

「話を戻そう。水はともかくとして清潔な布が残っていればいいが……どうだ?」

 

「殿下、治療箱にまだ幾らかの止血帯が残っておりますぞ。あれを使えば宜しいかと。明日には帰還出来るでしょうし構わないでしょう。後でお持ちします」

 

「そうか……良かったよ。暗くなる前に終わらせよう」

 

「しかし、あの娘は何者なのでしょうな? あの様な超常の力など見た事もありません。殿下のお命を救った事には感謝しかありませんが、まるで太古の神々のようではありませんか。しかもまだ眠ったままなのでしょう?」

 

 ケーヒルはその巨軀に乗った首を器用に傾けながら話を続けた。

 

「おお……そういえば殿下、お加減いかがですか?」

 

「おいっ……ついでのように言うんじゃない、全く」

 

 その戯けた態度には、何時も苦笑しかない。

 

「身体は問題ない。多少キズが引き攣るくらいだし、すぐに治るさ。それと彼女が何者なのかは起きてから聞けばいいだろう。陛下への報告もあるし憶測で話す事じゃない」

 

 立ち上がる紅い炎を見ながら、アストは自らに言い聞かせるよう言葉を並べる。そして天を見上げた。

 

「もうじき暗くなるな……その前に済ましてしまおう。ケーヒル、止血帯を持って来てくれ。ジョシュは水桶を頼む」

 

「はっ……殿下、一つだけ重要な事を忘れておりました」

 

 さっきまでの態度と一変したケーヒルの言葉に、アストは顔を上げて姿勢を正した。

 

「どうした?」

 

「彼女の事ですが……」

 

「勿体ぶるな、早く言ってくれ」

 

「私めは気付いたのです。泥を落とせば、いや落とさなくても美しい娘だと。 殿下……相手が眠っているからと言って懸想してはなりませんぞ? やるなら起きてからです」

 

「⁉︎ バカな事を言うな! ジョシュ!こいつを早く連れて行け!」

 

「はっ」

 

 顔を真っ赤にしながらドスドスと馬車に向かうアストにケーヒルは呟く。

 

「……そう、それで良いのです。暗い顔など貴方様には似合いませんからな」

 

 紅く染まり始めた空に声が届き、そして消えて行った。

 

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

 

 桶の中は真っ黒だが少しは綺麗になっただろうか。手頃な大きさに切り離した止血帯はまだ余りがあるし、手足など出来るところを拭おう……アストはジョシュに代わりの桶を頼んで少女の方へ向き直った。

 

「しかし……これ程の美貌とは……」

 

 ケーヒルに言われるまでもなく、その造形が素晴らしい事はわかっていた。だが予想を色々な意味で裏切られたようだ。

 

 汚れだと思っていた黒髪は、その通りの色だった。リンディアだけでなく今もあるはずの他国でも聞いたことがない。闇色にも夜空にも思える不思議な色艶だ。そして肌身も不思議な色合いだった。少し黄色がかっていると言えばいいのか、これも初めて見るものだ。それが汚いという事では無く、寧ろ暖かさを感じる優しい色だろう。それに12,3歳位の子供だと思っていたが年齢が分かりづらい。女の子に見えるが、どこか妖しい色気を放つ女性にも感じられる。そして何よりも……

 

 印象深かったのは閉じられたままの瞼の奥。少女の瞳は美しく深い緑で……まるで昔一度だけ見た森の泉の底を見るような、幻想的な輝きだった。

 

 眠っているからそう感じるのか……視線を外せなくなったアストは無意識の内に口を開けてしまう。

 

「綺麗だ……あっ……」

 

 思わず呟いた言葉に慌てて馬車の外を見る。ちょうどジョシュが桶を持ってきたところだった。

 

「……ありがとう」

 

 ジョシュは無言で頷き去っていった。

 

 アストは首を振り、先の事は無理矢理頭から追い出した。肌に直接触れないように気を付けながら首周りを拭っていると、すぐに気付く。肌が見えてきた首には黒い模様とおそらく神代文字であろう記号が複雑に絡み合っている。

 

「これは……まさか刻印か?」

 

 考えてみれば当然か……あれ程の力もつ者が常人の筈はない。どんな神々の加護かわからないが、帰還すれば判明するだろう。王都には刻印や神代に詳しい者が居る。刻印は彼女の細い首をぐるっと回り左の耳の後ろに延びている様だ。そう驚くアストも黒髪に隠れて気付かなかったのだ。

 

 更に傷付けないよう何枚かの止血帯の切れ端を使い終えた頃、刻印の全体像が見えてきた。

 

「まるで鎖が首を締めているような……耳までの繋がりは蛇が頭をもたげているようにも見える」

 

 祝福と加護であるはずの刻印が何故か不吉なものに見えてくる。確かにそれは、トグロを巻く鎖の蛇が獲物を噛み砕かんとする姿に似ていた。噛み付く先は少女の耳か、或いは細い首か。

 

「いや、憶測で語るなと言ったのは自分じゃないか……王都にはクインもコヒンも居る。それからでも遅くはない」

 

 アストは無心で少女の手足に取り掛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 太古の昔、神々それぞれが地に降り立ち人々に直接加護を与えていた。人間が恩恵に預かり、世界にその覇権を唱えた時代。神々は少しずつ姿を消し、その加護は刻印という形で残った。

 

 刻印は加護を受けた者の身体に刻まれ、模様や神代文字を用いて表される。外見は一部例外を除いて入れ墨の様に見えるものが多い。

 

 お伽話や童話に描かれる魔法使いのように、何も無いところから火が出たり、水を出したりなどは出来ない。しかし僅かながらに力が増したり、時には洞察力等が高まり、人を癒す力で薬の効果が上がったりもする。また、心に作用する刻印なら優しさや忍耐に影響が出るだろう。

 

 人々に刻印を授ける神々は白神(しろかみ)と呼ばれ、姿は見えなくとも人に寄り添う。

 

 魔獣が姿を見せ始めたのは約300年前。数々の刻印の力は大いに人々の助けとなり、救いの手は差し伸べられていた。

 

 だが魔獣と森に土地を奪われ世界の覇権を失いつつある現在では、刻印を持つ者は万人に一人と言われ更にその数を減じつつあった。

 

 そう、斜陽の時代が訪れたのだ。

 

 人々は白神に祈りを捧げ、救いが訪れることをただ待つしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 必死で吹き出してくる少女の汗を拭っていた。

 

 先程まで静かに横たわっていたが、突然腕を上げて身じろぎを始めたのだ。

 

 それだけではない。

 

 声や寝言はないが、その美しい顔を歪め何かから逃れようとしている。耐え難い苦痛か、或いは逃れられない恐怖か……突き出した細い両手は、何もない筈の中空を必死で押し返そうとする。

 

 もしその恐ろしい者を打ち倒せるなら、きっと誰もが今すぐに剣を取り戦うだろう。それ程の叫びを彼女から感じるのだ。

 

 少女の額からは滝が流れるように汗が吹き出し、アストがいくら拭っても止まる事はない。

 

「悲鳴を上げているのか……?」

 

  声は出ていない、しかし何かを叫んでいる。声無き悲鳴は見る者にこれ程までの恐怖を呼び起こすのか、思わず少女が突き出した手を握った。

 

「ケーヒル! ジョシュ!! 早く来てくれ!」

 

 アストの声は自身が思ったより大きく震えていた。

 

 ガシャガシャと鎧の打ち鳴らす音をさせながら二人は馬車に駆け寄って来る。

 

「いかがしました!? 殿下!」

 

 中を覗き込んだケーヒルは息を飲んだ。

 

「彼女の様子がおかしい……さっきまでは普通だっんだ!」

 

「これは……!」

 

 小さな手を握り焦燥を募らせたアストのすぐ隣には、その握られた手すら恐ろしいのか声なき悲鳴を上げている少女がいる。

 

「まさか、あの時のキズに何か……!」

 

 普段静かなジョシュも落ち着いてはいられないのだろう。治療箱を取るため体を投げ出すように駆け出した。他の騎士達も只ならない様子に馬車に集まり始める。

 

 自分達が敬愛する主君たるカーディル陛下の、そしてリンディアの宝である王子、アスト=エル=リンディアを救った少女が苦しんでいる。全員の心は一つだった。

 

「ここでは満足な治療も出来ません。我らが先に出ましょう」

 

 先程集まっていた騎士達から声が上がる。

 

「……いや、私が行く。ケーヒル、それと3名程でいい、一緒に来てくれ。急げば明日の朝には着けるだろう。魔獣の生息域も遠いし、数は必要ないはずだ」

 

「はっ!」

「ははっ!」

 

「皆は悪いがジョシュの指示の元、折を見て撤収しこの馬車を引いて帰ってくれ」

 

 アストは休息地に予め立ててある杭から自身の馬を引き飛び乗った。

 

「彼女を運びましょう」

 

 少女の首の刻印に気付いたケーヒルは、息を飲みつつも進言してくる。しかし、アストは少しだけ考えて答えた。

 

「……私が運ぶ。彼女を馬に上げてくれ」

 

 何故か少女を離したくないと思ったのだ。

 

 彼女の身体を再び受け取り、落ちないように自分と革紐で強く結びんだ。そうして懐に抱え込む。さっき程に暴れていないが、顔色は悪く唇を噛み締めている。舌を噛まないよう余った止血帯を口に押し込み、少女に語りかけた。

 

「ひどく揺れるが我慢してくれ……済まない」

 

 思っていた以上に少女の体は軽く、小さかった。それでも……アストの懐に暖かい体温を感じて少しだけ安堵する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄闇の中、遠くに王都リンスフィアが見えて来た。さすがに全速力で走る訳にはいかず、焦る気持ちばかりが募ったがあと少しで着く。

 

 先程追従していた騎士を先行させ、典医や薬、何でも良いから準備させるよう言付けた。

 

 クインに任せよう。彼女は侍女でありながら、多才を誇る才女だ。薬学も明るく何より刻印などの神代文字に詳しい。もし刻印絡みの症状なら典医だけでは心許ない。城に癒しの刻印持ちがいないのは不安だが、典医も皆もいる。きっと大丈夫だ……

 

「もうすぐ着くよ。頑張ってくれ」

 

 そう呟き、アストは力を入れて抱き締めた。

 

 王都は朝日の光を浴び、薄闇に 白く浮かび上がる。それはまるで新たなる時代を迎えるように……王都リンスフィアを輝かせていた。

 

 

 

 

 

 聖女は今、眠りにつき目覚めの時を待っている。人々は黒神の救いが直ぐそこに在ることを未だ知らない。

 

 

 

 

 

 




声無き悲鳴の意味、過去の出来事。次回は過去回です。


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4.夢の後先

過去回。暗いです。


 

 

 

 これが夢だとすぐに分かった。

 

 小学2年生にしては高い身長だっただろう。だけどこんな小さな手足に、キズだらけで今にもバラバラになりそうな黒いランドセルなぞある筈のないものだ。冷めた目で夢を眺める俺には関係ないとばかりに、もう一人の小さな俺は学校が終わった途端何冊かのノートと連絡帳や筆箱を大急ぎで放り込み始める。友達との挨拶もそこそこに家に向かって走り出した。

 

 ああ、やはりあの日か……今でも忘れることが出来ない。夢に時間なんて関係ないのだろう、そう思った視界は一瞬で切り替わる。

 

 場面はその日の昼のようだ。昼休憩に集まった遊び仲間と俺は、今度はどんな馬鹿な事をするかと机を挟んで座った。

 

「カズキ! こないだ言ってた魔法はやってみた?」

 

 目の前に座った少年が、早口でまくし立てた。何故か少年の顔はボヤけて見えない。名前すら忘れている事も気にもせず()()答えた。

 

「ーーーくん。 あんなの魔法じゃないよ」

 

 彼が言う魔法とは、焚き火で立ち上がった火に手刀で横に切っても火傷しないと言う下らないものだ。当たり前だが、素早くやれば熱は伝わらないし、ゆっくりと振れば火傷するだけだ。

 

「そんな事言って怖いんだろ? 今度オレが見せてやるよ!」

 

 シュッシュッと自分で言いながら右手を振り回し始める。怖いと言われた僕は少しムッとして、今日発見した新しい秘密を彼にお披露目する事にした。

 

「ホッチキスで指をガチってしても、あんまり痛くないし血も出ないって知ってた? さっきプリントを閉じてる時にわかったんだ」

 

「えっ?えー? 嘘だろそんなの」

 

「ホントだって! ほらこの指見てよ、傷跡もないでしょ?」

 

 少年は突き出した僕の指先に顔を向け、疑わしそうな声で言う。

 

「この指かどうかなんて分かるわけないじゃん。嘘に決まってるよ」

 

「ふーん、じゃあやって見せようか?」

 

「……うん」

 

 少年の声に恐怖心が混ざっていたが、僕は気付かずに道具箱からホッチキスを出した。ちゃんと芯が入っているのも確認して、ふっくらと膨らんだ人差し指を挟む。

 

「……」

 

 少年は無言で手品のタネがないか確認しているのか、あちらにこちらに顔を動かしている。

 

 ガチッ

 

 戸惑う事なく僕は青色したホッチキスに力を入れた。チクッと痛みは走った気がするが、全く気にならない。ホッチキスを避けると光沢のある針が指先に刺さっている……だけど血は出ない。反対の手を使い刺さった針を器用に取ってみる。少しだけ血が滲んだ気がするがやはり流れ出てはこなかった。

 

「ほらね! 本当でしょ?」

 

「本当だ! 凄い!」

 

「やってみる?」

 

 机に上にあったホッチキスを手に取り、少年に突き出した。

 

「怖い?」

 

 そう聞いた僕に顔を向けたあと、好奇心には勝てないのか、右手にホッチキスを持ち替えて人差し指に当てた。

 

 その後は大変だった。

 

 少年の指先からはポタポタと血が溢れ、彼は痛い、痛いと泣き始める。教室は騒然として皆が僕を訝し気に見ている気がした。なのに全員の顔はボヤけてわからない。

 

 周りにいた女子が先生を呼んだみたいで、保健室に連れて行った。残された小さな僕の頭の中は疑問符で一杯だった。あんなに大騒ぎするなんて何故だろう? 血が出ても別に大したことないじゃないか……

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 僕は他の人間とは少し違う事に気付いてしまった。その時、恐怖心や嫌悪感は全く無く……いや、むしろ優越感を覚えた。もしかして僕は特別なヒーローなのかも、と。 偶に見ていたテレビのヒーロー達にもそういったキャラクターがいたはずた。

 

 

 やった!

 

 凄いぞ! 僕は()()なんだ!

 

 

 

 

 

 皆の顔は思い出せなくても、この時の高揚感は覚えている。ただ、結末は何も変わらず結局は時間の問題だっただろう。

 

 早いか遅いか、ただそれだけの違いでしかない。

 

 

 

 

 

 

 ランドセルをガタガタ鳴らして僕は走っていた。勿論、家にいる母に自慢するためだ。

 

 母は最近いつもイライラしている。笑った顔も随分見たことがない。

 

 玄関や台所には木彫りの仏像が置いてあるし、全く読めない字が書かれた紙切れが飾ってる。なのに家族の写真は取り外され物置に入っていたままだ。冷蔵庫にはラベルの貼られていないペットボトル。その中に少し色の付いた水が入れてあって、毎日ご飯の時に飲まされていた。ナントカのエネルギーが入っているらしい毛布を渡されたが冬には全然暖かくなかった。

 

 父は随分前から家には帰って来ない。

 

 今なら分かる。母はすでに壊れていたんだろう。無邪気にも僕は「特別なパワー」を見せれば笑顔で褒めてくれると思っていた。

 

 あの時の母の目が忘れられない。

 

 自慢気に見せたホッチキスの魔法は、彼女を笑顔にする事なく……その目はまるで気持ちの悪い虫を見た時のように慄いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 児童養護施設を探していた母は、知り合いの紹介らしい建物に(おれ)を連れて来ていた。

 

  高い塀に囲われた予想より広い敷地には畑や花壇が散らばっている。何故か先に抜けてきた門には何も無かったが、玄関らしい扉の横には水色に塗られた板に「空色の家〜時島孤児院」と書かれた看板が掛かっていて、子供が描いたであろう白い雲があしらってある。

 

「空色の家」は老夫婦が運営する無認可の児童養護施設らしく、その事を知ったのは随分後だ。

 

 玄関の前に2人が待っている。

 

「やあ、いらっしゃい。君が和希(カズキ)くんだね?」

 

 院長と書かれた名札を掛け、白が混じる髭を揺らしながら笑った。隣にいる妻らしい老婆は笑顔なく声を出しもしない。

 

「ーーーー。 ーー、ーーーーー」

 

 母が何かを話しているが、何も聞こえない。すぐ近くにいて口が動いてるのもはっきりと見えるのに……院長がゆっくりとこちらに顔を向け俺を見下ろして言った。

 

 院長の目がギラギラと光って見える。

 

 

 ーー和希くん。 ここが今日から君の家になるんだーー

 

 

 結局母は最初から別れの時まで俺を見る事はなかった。捨てられた事は意外と簡単に受け入れられたから泣いたりもしなかった。

 

 ああ、やっぱり……そう思っただけだ。

 

 笑顔を浮かべたままの院長に手を引かれ玄関から中に入る。中は一言で言うと田舎の学校だろうか? 左側に下駄箱があり、何足か白いスニーカーが入っている。

 

 子供の姿や声は聞こえてこない。

 

「さあ、靴を脱いでお上り。そこにスリッパがあるだろう? どれを履いても良いからついておいで」

 

 俺は素直に言う事を聞いてヒーロー物のスリッパを履き、院長の顔を見上げた。

 

 

 ダメだ……入ったらダメなんだ……そこは、そいつらは人間のクズだ! 行くんじゃない!! もう、頼むから忘れさせてくれ!

 

 遠くから叫ぶ俺の思いとは裏腹に、小さな俺はスリッパの音を鳴らしながら院長達の後を追って行く。

 

 院長室と書かれた部屋に入った時の絶望感は、7歳のガキに耐えられるものではなかった。家にもあった仏像、やはり読めない文字の掛け軸、正面には見た事もない老人の写真。

 

 大きな黒い革の椅子に座った院長の目は爬虫類のように白目が無く、言葉を発する筈の口にはチロチロと赤い舌が揺れている。

 

 あぁ、夢だよな……ずっと昔のことなのに……

 

「和希くん、君の中に悪霊が住んでいるんだ。でも安心していい、私達は悪霊を追い払う方法を知っているからね。君のお母様も心配しているし、私達の言う事をしっかりと聞いて良い子でないといけない」

 

 小さな俺の体がガタガタと震えている。

 

 俺の様子を気にもせずに言葉を話す。

 

 爬虫類が人間の言葉を?

 

「この家にはルールがあるんだ……絶対に破ってはいけないルールだよ」

 

 

 

 

 

 

 何度助けを求めようとしただろう。でも誰が味方なのか分からない、味方なんている訳がない。頭の中でグルグルと言葉は廻るのに音になる事はなかった。

 

 ホッチキスの魔法は誰にも言ったりしない。シャツやズボンに隠れた場所にある痣や傷だって放って置けばすぐに治る。いつも痛そうにしてれば分かりはしない。

 

 小さな俺の秘密は誰にも知られてない。知られてはダメなんだ。7歳の俺は……なぜ院長が悪霊が住んでいると言ったのかを考えることもしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「和希くん。夕御飯を食べたあと院長室に来なさい」

 

 また呼び出しだ。

 

 最近他のみんなより多い気がする。でも、痛みには慣れて来たし怪我なんて放っておけば……そう、どうだっていい。

 

「はい……」

 

 心さえ別の場所に置いておけば、俺は大丈夫なんだ。

 

 

「ぎぃぃヤヤァアああぁーっ! 熱い!熱い! やめ、てーーー!!」

 

 

 院長室の前で立ち止まって、動けなくなっていた。部屋の中から聞いたことのない悲鳴とガタガタと椅子や机が揺れる音が聞こえてきたから。

 

 やめてくれ……子供の悲鳴なんて聞きたくない!

 

 自分だけなら怖くなんてないのに、なぜ他の子が……!

 

 ガチャ

 

 目の前のドアが開き、院長が笑いながら言う。

 

「さあ、入って」

 

 中から何か焦げ臭いような、生ゴミが燃えたような匂いがした。俺と同じ年齢の子が部屋の真ん中の椅子にぐったりと倒れるように座っている。それが誰だったのか憶えていない。

 

 そのすぐ隣に置かれた椅子に座らされ、あの爬虫類の目をギョロリと此方に向けた。

 

「今から悪霊を追い出す魔法をかけるよ。()()()()痛いかもしれないけど、隣のーーくんも成功したから安心しなさい」

 

 院長はカチッとライターに火をつけ、直ぐ側にあるガストーチのノブを捻った。ボッと言う音を立てて勢いよく青い炎が伸びる。机の上で折り畳んでいたタオルを開くと中から20cm程度の鉄串を取り上げた。

 

「和希くん。悪霊は人の中に居て、宿主である身体を傷付けない様に悪い魔法をかけているんだ」

 

 鉄串をユラユラと青い炎に当てて、その串は少しずつ赤くなっていく。院長の顔には笑みが浮かんでいた。

 

「今からこの串を君に当てる。悪霊が居ても怖くて逃げて行くから、和希くんは普通の人間に戻れるんだよ」

 

「あ……あの……」

 

 あんなの無理に決まってる!

 

 何とか止めて欲しくて言葉を探すが院長はそれを無視して、言った。聞きたく無かった言葉を……

 

「まさか怪我や傷が簡単に治ってしまうなんて、あるはずが無いんだから」

 

 

 

 赤く光る鉄串を素手で持った院長の顔は、人間のものだろうか……?

 

 ジュッ!

 

「い、いぎゃー!! 痛い!痛いよーー!」

 

 ジュッ!

 

「うわぁー!!  熱い! やめてー!」

 

 椅子に押し付けられた身体を遠ざけようと、左右に揺らすが逃げられない。俺の腕に二重の線が入り、院長は火傷の跡を指でなぞった。

 

「いっ! 」

 

「明日、となりのーーくんと比べてみよう。悪霊が逃げたかすぐに分かるよ。もしまだ逃げてないなら、続けないといけないからね。さあ、次だよ……」

 

 それを確信しているかのように、望むかのようにゆっくりと話しかけてくる院長の顔は、ただただ気色の悪い笑顔を浮かべていた。ガストーチが叫ぶ炎の音、赤いままの鉄串、一本ずつ増える火傷。全てが鮮明に、色褪せすることなく記憶に残った。

 

 

 

 

 怪我が早く治るどころが、火傷の痕さえ残らない俺は格好の獲物だったのだろう。悪霊なんて只の言い訳に過ぎない。院長は子供を痛め付けて、悲鳴を上げる姿を見るのが好きな変態だ。

 

 何かと理由を付けて俺を呼び出す回数は増えていき、傷も残らない筈の身体から其れが絶える事はなかった。

 

 

 

 

 でも、ある時から思ったんだ。

 

 院長への憎悪は膨らんでいったが、俺が呼び出されている間は他の子は無事だって。それなら良いじゃないか……子供の悲鳴なんて聞きたくない。

 

 15歳になった俺は奴の巣から脱走し、警察に情報を流した。

 

 

 

 孤児院は潰れたと、風の噂で聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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5.目覚め

やっと主人公が目覚めます。
評価とお気に入り、ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 ぼんやりと意識が戻るのを感じる。軽く溜息をつこうと口を開いたとき、息が出来ない事に気付いた。

 

 なんだ? 水、いや泥の中か?

 

「……っ!……」

 

 両手をつき上半身を起こす。口の中の異物を吐き出し大声で叫ぼうとした。しかし、口からは吐き出す泥以外に何も出てこない。

 

 ……なんで……? 声が出ない!?

 

 思わず喉と胸に手を当てたときに、いくつかの違和感を感じた。それなりの修羅場をくぐって鍛えた硬い胸筋はそこにはなく、代わりに柔らかい肉の感触が返ってくる。それに俺の手はこんなに小さくない。汚い腕から泥を拭うと筋張った筋肉はやはり無く、まるで子供の頃のように変わってしまっていた。

 

「……!!」

 

 もう一度自分の身体を見ると、ワンピース?いや貫頭衣だろうか、元の色がわからない程に汚れて赤黒い色に染まっている。

 

 胸を押し上げる僅かな膨らみを見て、恐る恐る首もとから服をめくってみる。下着を付けていない体は、上から見ただけで自分がどうなってしまったかを明らかにさせた。それに体中に入れ墨が入っている。全く読めない文字とうねる気色の悪い模様が刻まれて……

 

 なんだ……? どうなってる!?

 

 強い不快感を覚えた。唐突に湧き上がる吐気に耐えられず、再び泥だらけの地面に両手を付いて思い切り吐いた。一度、二度三度と吐き続けると、胃液も呻き声すら上がらずに膝を抱えて蹲る。

 

 暫く吐気と戦っていると、少し前の出来事が頭に浮かんで来た。膝を抱えていると胸の柔らかさに当たってまた余計なことを意識してしまう。

 

 くそっ!

 

 ヤト……黒神のヤトか! アイツが何かしやがったんだ……あの野郎!!

 

 思い出せ……アイツは何を言ってた?

 

 刻印……呪い、異世界、救いの道、そして世界を?

 

 馬鹿が……ふざけやがって! 何を勝手な事を! こんな子供、しかも女なんてどうしろって言うんだ! 声まで出ないなんてふざけた呪いを……いや、そもそもなんで俺がそんな事を……

 

 目をを強く瞑り、現れては消える声にならない怒りや戸惑いを吐き出す。ふと何か生臭い、鉄錆の匂いに気付いて目を開いた。

 

 こんなにすぐ側に赤い壁などあっただろうか? 何とか起き上がりもう一度壁を見る。

 

 いや……壁なんかじゃない……何かの生物だ。死んでるのか動かない……大きい、大きいなんてもんじゃない。毛は生えてないのか肌が直接見える。赤褐色と言えばいいか、酷く筋肉質な体だ。少しずつ後ろに下がり全体を見ないと大き過ぎて、近くでは何なのかがわからない。

 

 いや、俺が小さくなったのか……?

 

 それはまるで犬のようだった……いや犬みたいに可愛げのあるもんじゃない。犬に牛を無理矢理混ぜて捏ね回したような姿だ。それにあんなに巨大な牙や爪なんて冗談としか思えない。爪一本が今の俺の腕よりも大きいのだ。

 

 うっ……

 

 さっきまで自分が寝転がっていた場所は、只の泥じゃなくこの奇怪な生物の血が混ざっているようだ。または吐気が戻ってくるが、なんとか両手で口を押さえて我慢する。

 

 他には何かないか探して見ると剣が落ちている。二本あるそれは日本刀ではなく、西洋の剣のようだ。一本は片方と比べると非常に大きく血糊がべったりと付着している。この化け物の血だろうか?

 

 恐る恐る剣を持とうと近づき手に力を入れるが、全く上がる気配がない。もう一本の小さな剣ですら、まともに持ち上げるのは無理そうだ。息を止めて思い切り力を入れると手が滑り後ろに勢いよく倒れてしまう。再び顔も手足も泥だらけになり、より気持ちが暗くなった。

 

 

 

 

 

 

 こんなの……一体どうしたらいいんだ?

 

 ここが何処かもわからないし、こんな化け物がウヨウヨいるような世界なら、このひ弱な体で戦う事も逃げることだって出来ない。尻餅を付いて剣をボンヤリと眺めるしかない俺の耳に、僅かに人の声が聞こえた気がした。

 

 気のせいか? もう一度耳を澄ましてみる。

 

 いや……聞こえる。悲鳴?慟哭? 大人の男の声だろうか? 人の声だと思うが、何を言っているのかわからない。この化け物の向こう側か?

 

 化け物の体を壁にしつつ、少しだけ顔を出して覗き見る。

 

 その声の場所はすぐにわかった。

 

 20人位の集団だろうか、金属の鎧を着た集団が何かを中心に集まっている。集団の隣りにはいま壁にしている化け物と同じ奴がもう一匹死んでいるのが見えた。

 

 大きな声が聞こえて、一人の男がこちらとは反対側に駆け出して行った。何人かが膝を付き絶望感を全身で表しているようだ。

 

 その時、集団の円の中心が少し見えた。どうやら若い銀髪の男が倒れ別の鎧の男に支えられていて、一際目立つ大きな男が何かを喋っているみたいだ。

 

 やはり言葉の意味が分からない。

 

 声が出ず、意味もわからない……?

 

 それって酷くマズくないか? こんな訳の分からない場所で、子供になって言葉すら通じないなんて……

 

 足元から崩れ落ちて行くような錯覚を覚えて目眩がした。何とか化け物に寄り掛かって倒れるのは防いだが、何の慰めにもならない。

 

 絶望を感じつつ、兎に角何か情報をともう一度集団の方を見た。

 

 

 ドンッ!

 

 

 そんな音など鳴ってはいないが、自分の心臓が大きく跳ねるのが分かった。

 

 銀髪の男の側で跪き喋っていた一際大きな体躯の男が涙を流しているのが見えたのだ。恐らく銀髪の男の生命が危険に晒されているのだろう。  男にしては銀髪同様に美しい相貌だが、血の気もなく口元は血であろう物で真っ赤だ。

 

 

 

 

 ……助けないと、あの人を助けないと、死んでしまう……

 

 周りの人も哀しんでいる。

 

 絶望の(とばり)が降りている。

 

 

 

 

 なにを……ダメだ!俺は何を考えている! あんな得体の知れない連中の事など信用出来る訳がない! アイツらは…アイツらは大人だぞ! 今迄どれだけの裏切りを受けたと思ってる……!

 

 

 でも、でも死んでしまうよ……きっと大勢の人が悲しむんだ……まるで少年の様な言葉が心に響く。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ふらふらと、化け物の側から抜け出して奴等の方へ歩きだしてしまう。俺の視線は倒れている男から離す事が出来ない。

 

 くそっくそっ……なんだ!? どうなってる?

 

 あんな見も知らずな奴のために、なんで俺が……!

 

 

 ……助ける、助けるんだ。誰の死も見たくない……

 

 

 

 もう戸惑う事なく歩き出した俺に奴等も気付いたようだ。何人かが振り向き、体の一際大きな初老の男もこちらを見る。倒れていた銀髪の男の血を視界に捉えた瞬間、また大きく心臓が跳ねる音を他人事の様に聞いた。

 

 立ち上がった若い鎧のもう一人が何かを話す。意味など分からないしどうでもいい。それに……あのキズ! ダメだ死んでしまう……!

 

 思わず駆け足になった俺の頭に衝撃が加わり、鋭い痛みがこめかみに走った。地面に倒れて付いた手に俺の血がポタポタと落ちた。

 

 血が、赤い血が落ちている……()()()()

 

 でもちょうどいい……

 

 立ち上がるのも面倒になった俺はベチャベチャと地面を這い、肩から腹にかけて真っ赤に染まった男にたどり着いた。遠くから見ても美丈夫だと思ったが血に染まりながらも、その美しさは変わらない。その青き碧眼を大きく見開いて俺を呆然と見ている。傷口を見ると深く抉れていて、心臓の鼓動に合わせてだろう血液がドクッドクッと流れ出て行く。

 

 

 大丈夫……助けるよ。こんなキズなんて……

 

 

 熱に浮かされたようにもう冷静な判断なんて出来ない俺は、手元に見えたナイフを右手に持った。横にいる大男が何か言った気がするが、耳にすら音は響かなくなっていた。

 

 このナイフをどうすればいいかなんて簡単だ。

 

 ただココに突き立てて、俺の体を(にえ)にすればいい。どうせ怪我なんてすぐに治るし、今迄と同じことだ……

 

 痛みなんて心から離してしまえばいい。

 

 人が泣くところなんて見たくはない。

 

 そう、俺の事なんてどうでもいい。

 

 

 つらつらと考えながらナイフを掌に突き立てた。思ったよりずっと痛かったが、まだ足りない。

 

 喉から叫び声が出ないから、五月蝿くなくてよかった。

 

 抉りながら引き抜くと赤い血が溢れてくる。子供みたいな手は赤く染まり、手首まで伝わる。

 

 目の前の傷口に押し当てれば後は勝手に始まるんだ。

 

 まだ、まだ足りない……?  彼の碧眼が俺を見た。

 

 分かってる、大丈夫。まだまだ幾らでも贄はあるんだから。

 

 俺ナイフをもう一度握り締めて、力を込めて引いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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6.王都リンスフィア

 

 

 

 

 

 

 

 リンディア王国

 

 カーディル=リンディアを王と戴く、400年以上の歴史を誇る大陸中央に位置する大国だ。魔獣が現れる300年前から存在する数少ない人の国。人口は王都リンスフィアと周辺部だけで30万人を超え、今や世界最大の国である。

 

 尖塔3本が特徴の白亜の王城を中心にして内円部、外円部に分かれており、更に都の外周には畑や放牧を行う農家が点在している。王城から周辺を眺めれば、遥か遠くまで丘と緑の絨毯が敷かれた美しい景色を見る事が出来るだろう。魔獣が闊歩する森はまだ遠く、王都の国民は未だ日々の安寧の中にいた。

 

 だが、国を守る貴族達は領地を少しずつ森に喰われ、数を減じ今や王都周辺の直轄地しかほぼ残っていない。内円部に住む貴族達は騎士団に参じるか、一部王政を補佐する内務にしか力を表せない。

 

 王国の最盛期は人口100万を超える冠たる大国だったのだ。

 

 

 

 

 

 副団長ケーヒルにも劣らない体躯を揺らすリンディア王カーディルは、毎朝の重要な祭祀である白神への祈りを捧げるべく王の間の更に奥、白祈の間(はくきのま)に来ていた。

 

 リンディア王は王政の主でありながらも同時に神へと祈りを捧げる祭司でもある。

 

「白き神々よ、寄る辺なき迷い子の我等が祈りを捧げる事をお許し下さい。どうか小さき我等の声にその輝く耳を傾け下さい……」

 

 祈りの神代文字が彫り込まれた王冠を外し、右手には真円の銀円盤を持ち、中空に向け目を細めて祈願宣誓の言の葉を綴る。

 

 どれだけの日々を白神に祈って来ただろう……

 

 白髪混じりの白銀の髪を後ろでまとめ、綺麗に整えられた顎髭もやはり鈍い銀色をしていた。

 

 少しだけ緑掛かった青い目も今は濁って見える。

 

「神々は答えて下さらない……人々は今こそ救いが必要なのに……」

 

 つい不遜な言葉を吐き、口をつぐむ。

 

「いや……私の祈りが足りないのだ。我が妻アスも言っていたではないか、祈りに終わりはないと……」

 

 顔を上げてもう一度祈りを捧げるべく再び祭壇に立った。

 

 

 

 

 

「陛下、先程早馬が参りました。アスト殿下がお戻りになるとのこと」

 

 カーディルは眉をひそめて侍従長へ言葉を返す。

 

「黒の森周辺部の調査はまだの筈だが……何かあったのか?」

 

「詳しくはなんとも……ただ戦死者が出たと聞いております」

 

「……そうか。戻ったら報告に来るように伝えてくれ」

 

「はっ」

 

 深々と頭を下げた後、足音も立てずに歩き出す侍従長に再び声を掛ける。

 

「アスティアはどうしている?」

 

 侍従長は振り返ってニコリと笑い答えた。

 

「はっ。陛下と朝食を一緒にと、食の間にてお待ちございます」

 

「そうか、そうだな」

 

 カーディルは先程迄の肩に掛かった重みが軽くなった気がして笑った。

 

 

 

 

 アストとケーヒル、共の騎士の3人は、王都の外円部の大門まで辿り着いた。門は既に開け放たれており、騎士団が両脇を固めてアスト達の帰りを待っていた。

 

 アストはいつものように大きな声で皆に礼を言うべく口を開きかけたが、懐に抱く少女が驚いてはいけないと手を挙げて笑顔で挨拶をした。

 

 皆は胸元にいる誰かが気になるようだが、流石に声をかけたりはせず見守っている。マントで覆い隠していたのも意味があったのだろう。この少女の首周りの刻印は遠くからでも目立つため、一先ずは隠すようケーヒルの進言があったのだ。

 

 両脇の騎士団達には唇に人差し指を立て、静かにするように頼みながら進む。皆も直ぐに察してくれたのか、鎧の音すら消えたのには思わず笑顔がこぼれてしまうのだ。

 

 大門を抜けると、王城まで3つある門を走り抜ける事が出来る王族専用の馬車と、直ぐ側に背の高い20代中頃の女性が立っていた。見事な立ち姿の彼女は、リンディアでは珍しくない金の髪を肩口で切り揃えている。

 

 少女を落とさないよう気を付けながら馬を降りてその女性に顔を向けた。

 

「クイン、態々の出迎え済まないな。助かるよ」

 

 侍女の一人でもあるが、いくつかの特殊技能を持つクイン=アーシケルは、王族専任の相談役でもある。アストより頭一つ分低い位置にあるリンディアでは一般的な青い目をアストに向け、優雅に礼をした。

 

「お帰りなさいませ、殿下。 ですが、使用人が出迎えた事に礼は必要ありません」

 

「あー……わかったわかった、全く……」

 

 苦笑するアストにクインは言葉を重ねた。

 

「殿下……その子が先触れにあった者ですか?」

 

 マントに隠されているが、少女であると聞いている。

 

「ああ、クイン。今は落ち着いているが、昨夜はかなり魘されたのか苦しんでいた。 私達では何も出来ないからな、急いで帰って来たんだ……色々込み入った事情もある。詳しくは馬車の中で話そう」

 

 会話の後半は小声になった事でクインも緊張した面持ちで頷いた。

 

 

 

 

 

「致命傷を治癒ですか……? 殿下それは流石に……」

 

 アストを疑うなど不遜だが、クインは整った眉を僅かに歪めた。

 

「ああ。勿論信じられないだろう、だが事実だ。それにまずこれを見て欲しい」

 

 架けてあったマントを優しく捲る。不思議な色合いの髪が揺れて目を取られたが、そんな事はすぐに意識から消え去ってしまった。

 

「刻印……信じられません……これ程の……」

 

 整った(かんばせ)を再び歪め、眼を見開き少女の刻印をクインは見つめた。サラサラと黄金色の髪がかけてあった耳から零れ落ちるが、馬車の揺れも気にせず瞬きも出来ない。

 

「これ程とは、やはり強い癒しの刻印なのか?」

 

 クインは即座に首を振り否定の言葉を口にした。

 

「いえ……まだ詳しくはわかりませんが、癒しの刻印ではありません。驚いたのはここです」

 

 神代文字が連なりアストが蛇が首をもたげたと表現した左耳の後ろ辺りを指差し、少し震えた唇を開く。

 

「記憶が間違いなければ、これは<3階位>です、殿下。わたくしも実物は初めて見ます」

 

「3階位……神に至る架け橋か……」

 

「はい、人が到達出来る最も強力な階位です。勿論4、5階位とまだ上がありますが、それはもはや神の領域ですから……」

 

「想像を超え過ぎて混乱するが、癒しの刻印ではないのは間違いないのか?」

 

「それは間違いありません。実物も見た事が有りますし、文献で何度も確認しています。」

 

「ではあの奇跡はなんだったんだ……?私は間違いなく死んでいた。助かる筈のない致命傷だったのに……」

 

「殿下、癒しの力にそもそもそのような力はありません。薬効を高めたり、高熱を下げるよう働きかけたり、そのような刻印なのです」

 

「だが、ケーヒルやジョシュ、みんなも間違いなく見たんだ。私だけが見た夢なんかじゃない」

 

 美しい所作で右手を顎に当てたクインは、少し考えて告げた。

 

「……殿下、あちらを向いて下さい」

 

「なんだ?突然に?」

 

「この子に他の刻印がないか調べます。それとも一緒に服の中を見ますか?」

 

「っ! いや!わかった。」

 

 慌てて骨が折れるのでは、という勢いで体の向きを変える。

 

 アストが此方を見ていない事を確認して、胸元から服を持ち上げ覗き込んだ。

 

「ヒッ……!うそっ!」

 

 クインは普段被っている仮面も気にせずに声を上げてしまった。

 

「ど、どうした?クイン、大丈夫か!?」

 

 そこで振り向かなかったアストは褒められていいのかもしれない。

 

「い、いえ、あっあのっ……申し訳ありません。もう振り向いても大丈夫です」

 

 何とか本来の落ち着きを取り戻し、持ち上げていた服を整えてアストに答えた。だが、平静を装っても少女から眼を離せない。隠した動揺は暫く治らないだろう。

 

 

 

 

 

 もうすぐ王城に着く最後の門を抜けるところで馬車の揺れが緩やかになった。ここからは速度は出せない区域だからだ。

 

「大丈夫か?クイン?」

 

 再び少女を挟んで向き合ったクインに先程と同じ質問をする。

 

「はい。御心配をお掛けして申し訳ありません」

 

 しかしクインの様子は変わらず、白い頬が赤く染まったままだ。

 

「で……? どうした……刻印はあったのか?」

 

「……あったと言えば……ありました。その……いくつか……」

 

「……いくつか? はっきりと言ってくれ」

 

「未だに信じられませんが、見える範囲で3つの刻印が……ありました」

 

「3つだって? 喉にある刻印を入れて3つもあるのか!?」

 

「服の中に見えるだけで、です。つまり4つの刻印がこの子に刻まれているのです」

 

「なっ……」

 

 絶句するしかないアストは、唾液を無理やり飲み込んで何とか話を続ける。

 

「そんな事が有りうるのか……? 確か人が授かる加護の限界は2つだった筈だろう?」

 

「詳しくは調べてみないと……ただ恐らくですが癒しの刻印はありました。いえあったとしても、殿下の言われるような力はある筈もないのですが……」

 

 ふと思い付いたクインは言葉を重ねる。

 

「一つ気になることがあります。もし人の許容を超えて無理矢理刻印を刻まれたなら、この子は魂魄の限界を超えて力を行使したのかもしれません。長い眠りも昨晩の苦悩も人としての最後の抵抗と考えることが出来ます……」

 

「つまりこの子は自分の死の危険を顧みずに、私の命を救い、このまま眠り続けると……?」

 

 アストの顔が迷子の子供のように、涙が溢れそうになる。

 

「殿下、あくまで推測です。刻印も詳しく調べれば何かわかるかもしれません。お祖父様にも力を借りましょう」

 

「コヒンか……そうだな、この子はまだ生きている。きっと目を覚ますはずだ。クイン、体を清めてやってくれ。私は陛下に報告に上がる。何かわかったらすぐにでも教えて欲しい」

 

「はい、お任せくださいませ」

 

 

 

 

 王城に到着した三人は其々に別れた。クインと少女はそのまま浴場に行くのだろう。相手が子供とはいえクインがあっさりと抱き上げた時は驚いたものだが「凄く軽いですよ、この子 」と答えてそのまま姿を消した。

 

 アストは先ず自室に戻り、簡単に体を清めた後すぐにケーヒルと合流し、二人で王の間までの長い廊下を歩いていた。

 

「刻印が4つですか?そんな馬鹿な……」

 

「クインが確認した、間違いないだろう。あれだけの奇跡もそれなら納得出来るだろう?」

 

 とりあえず、クインが言った刻印の負担が体を蝕んでいる可能性は伏せて伝える。

 

「ふむ、そう言えばそうですな。刻印の調査はクイン嬢が?」

 

「ああ。コヒンの知恵も借りるみたいだが、クインなら間違いないだろう」

 

「クイン嬢の御祖父でしたかな?元宰相でありながら神代文字の大変な権威と伺っております」

 

「そうだ。クインがあれだけ刻印に詳しいのもコヒンの影響だろう」

 

 王の間に着くと二人は一度目を合わせ頷き、扉を押し開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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7.アスティアの日常とエリ

王女様が登場。重要なキャラの一人です。


 

 

 

 

 

 アスティア=エス=リンディアの朝は早い。

 

 侍女のエリが部屋を訪れる前にベッドから起きだし、自分で着替え父カーディルや兄アストと同じ白銀の髪を整える。腰まで伸ばしたその髪に一人で櫛を通すのはなかなか大変な作業だが、毎日のことだ。慣れたものだった。

 

 

 アスティアの住まうこの部屋は、精緻な正方形をしている。王族にしては小さめのベッドは部屋の中央からやや窓側にずれており、朝日が丁度に顔を照らしてくれるのだ。化粧台は人が三人は横に並べる程の大きなものだが、これは王妃アス……つまりアスティアの母が使っていた台を繋ぎ合わせて並べているからだろう。そしてそこにはアスが作った押し花の額が綺麗に飾られている。アスティアは毎朝母を感じる事が出来るこの場所が好きだった。

 

 自分を愛し、家族を愛してくれた優しい母はもういない。今から7年前に前線へと慰撫に訪れた時、アスティア達兄妹を守るため魔獣の前に立ちはだかったのだから。14歳になる自分は、兄のように魔獣を倒す事も出来ないし、政治に関わる事も出来ない。それでも自分に出来る事を探し、考えて始めてみればいい。もし間違っていても父や兄が守ってくれている。愛する母アスもそうしていたし、下を見ていても何も変わりはしないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 私は思う。

 

 大昔の王女は、着替えや入浴、果ては食事すら自分ではしなかったらしい。だが、今は時代がそんな事を許さないだろう。鈴を鳴らせば誰かがすぐにやってきたり、絶えず側に誰かが侍っているなどお伽話のお姫様だ。

 

 侍女のクインなどは、いつ休んでいるのかと城内の不思議に数えられる程だ。いや、そもそもクインは侍女なのだろうか?

 

 ただ()()()()()は、本当に仕事をしているのか不思議だけれど……

 

 確か兄様(にいさま)は黒の森周辺部の調査に同行しているから、今は城にいないはず。

 

 私は今日の予定を頭に浮かべる。お父様と朝食は一緒にしたい。祈りを捧げたあとなら、まだ時間はあるわ。エリを待って午前中の神代文字と紋様学の予習をしましょう。午後は神器や祭器を磨いて整頓したいし、兄様がいないなら訓練場に行って皆に声をかけたりしないと。よーし!今日もやる事がたくさん!

 

 でも……でも……先ずは一言言わせて!

 

「エリ、遅すぎ!絶対寝坊してるでしょ!」

 

 アスティアの朝の第一声は、部屋に虚しく響き渡った。

 

 

 

 

 

 

「アスティア様!アスティア様!大変ですよ!……あっ……お早うございます。それよりですね、大変なんですよ!」

 

 部屋をノックすらせずに入ってきたエリに、思わず私は怒りを通り越して溜息をついてしまった。頭の中には、寝坊した言い訳は?ノックは?お早うの挨拶はついでなの?とぐるぐると言葉に羽が生えて飛び回っている。

 

「エリ……はぁ……おはよう」

 

「あっ……アスティア様、わたし寝坊なんかしてませんからね?昨日とは違うんです」

 

「アナタ昨日も寝坊じゃないって言ってなかった?やっぱり寝坊したんじゃない!」

 

 流石に私も我慢出来なかった。悪くないわよね?

 

「あっ、えっと……そんな事より大変な情報を仕入れてきましたよ!」

 

 ほんとにもうっ!エリが居ると、心がいつも大きな音を立てて踊ってしまう。エリって私より7つも年上のはずだけど……明るい赤毛をいつものようにお団子にしているエリを、思わず観察してしまう。背の高さだって私と大して変わらないし、ホントは子供なんじゃないかしら……?

 

「あのー?アスティア様?」

 

「なによ?」

 

 あっ今のは王女に似つかわしくない……まあいいかエリだし。

 

「さっき聞いたばかりの熱々の情報です。アスト様のことですよ?」

 

「兄様の?」

 

 悔しいけど興味を引かれてしまう。兄様は質実剛健、文武両道を走る自慢の兄なのだ。変な噂なら真偽を問わないといけない。

 

 ただ勝ち誇った顔のエリの頬を抓りたいけど。

 

「はい!どうやら予定が変わったそうです。ついさっき外の大門に到着されたそうですよ!しかも……しかもですよ」

 

 さっき大門に到着って、城までどれくらい距離があるか分かってるのかしら?一体何処から噂を仕入れているの?

 

「何かあったの?兄様は無事?」

 

「アスト様は勿論ご無事です。それよりもですね、アスト様が一人の子供を大事そうに胸に抱いていたそうです。子供は寝ていたみたいで出迎えたみんなにシーって静かにするようにしたって……アスト様はお優しいから……はぁカッコいい」

 

「……それで、それがなんなの?」

 

「アスティア様。気をしっかり持って聞いて下さいね…?その子供なんですけど、実は凄く凄く綺麗な女の子らしいんです。アスト様は馬車に乗るまで一度も誰かに触らせることも無かったって」

 

「らしいって、おかしくない?」

 

「それがアスト様のマントに包まれていたので、最初は分からなかったみたいです。ただ馬車に乗る時に少しだけマントがはだけた時に目撃されました。ちなみにこの話はその目撃者に聞いたので間違いないです」

 

 だから、城までの距離……もういいや、エリだし。

 

「ふーん……女の子ね……」

 

「アスティア様、嫉妬の刻印が疼きますか……?」

 

「そんな刻印無いから……無いわよね? でも、嫉妬はともかくとして気にはなるわね。あまりそっちの方は兄様少なかったし」

 

「ふふふ……」

 

 してやったりの顔をしたエリの頬を思い切り抓りたい……いや抓っちゃおう……あっ柔らかい……

 

「アズディアざま、痛いです……」

 

 

 あれから少しだけ予習出来たけど、エリの頬の柔らかさの研究に時間を取りすぎたみたい。

 

「もう時間よ。お父様を待たせてはいけないし、お腹が空いたわ」

 

「アスティア様。少し待って下さい」

 

 そう言いながらエリは私を化粧台まで連れて行った。整えたと思った髪に再度櫛を入れて、着ていた青いお気に入りのフルレングスドレスを整える。うん……やっぱり侍女だよね?

 

「アスティア様……?何かすごーく失礼な事考えてます?」

 

「エリって私の侍女だったと、思い出しただけよ」

 

「やっぱり……寝坊したのを怒ってるんですね!謝りますから……!」

 

 部屋を出る私にエリは泣きそうな顔でついてきた。

 

「ふふっ……エリ行きましょう」

 

 今日も一日が始まる。

 

 

 

 

 

 

「お父様、お早うございます」

 

 食の間に入ってきたお父様は、少し疲れた顔をしてる。 最近は食事の量も減ってるらしいし、しっかり朝食を摂って貰わないといけない。

 

「ああ、お早うアスティア。今日も綺麗だな」

 

「ありがとうございます、お父様。さあ早く席について下さい。今日は話すことがたくさんあるんですから。食事を摂りながらでいいので聞いて下さいね?」

 

 兄様が戻って来たことは勿論お父様もご存知だろうけど、詳しい事は知らないはず。エリに感謝しないと。

 

 あっ、このお野菜美味しそう。

 

「兄様が帰って来たらしいですけど、何かありましたか?確か調査の為に黒の森に行っていたのでしょう?」

 

「ああ、まだ詳しい事は聞いてないんだよ。午後には顔を出すだろうから話してみないとな……」

 

 良かった……朝食もちゃんと食べるみたい。

 

「そういえばクインの姿を見ませんね。珍しいです」

 

「アストの迎えに出たからな。ん……? 確かに変だな。態々クインを呼ぶとは何かあったか……?」

 

「クインを……?それなら多分……兄様が連れ帰った女の子の世話がいるのでしょう。いつまでも抱き抱えている訳にはいかないですし」

 

「女の子?詳しくは知らないが、アストが連れているのか?」

 

「ええ、それはそれは()()()()らしいですね」

 

 あれ?私本当に腹を立ててるのかな?嫉妬の刻印でもあったかしら?

 

「そ、そうか?アストの事だから滅多な事はないだろうが……アスティアも同席するか?」

 

「お父様、軍のお仕事の邪魔はしたくないですから、遠慮しておきます。でも、お礼は言っておきますね。そうだ!それより聞いて下さい!エリったらまた寝坊したんですよ!」

 

「ん?それはいけないな。そうだな……アスティア、いい方法があるぞ。聞きたいか?」

 

 露骨な話題の変更にもお父様は合わせてくれた。それにお父様の悪戯好きな顔は兄様にそっくり!あれ?兄様がお父様にそっくりなのかしら……?いやそれよりいい方法が聞きたい!

 

「エリの寝坊がなくなるなら、聞きたいですお父様!」

 

「クインに伝えるんだ。エリが最近寝坊して困ってるって」

 

 クインに!?想像してみよう。

 

「エリが……?そうですか……」

 

 そう無表情で言うわきっと。そしてエリのところに行って何処かの部屋に連れて行く。暫くしたら魂魄の抜けたエリが部屋から出てきて私に泣きつくでしょう。そして寝坊はなくなる、完璧。

 

「お父様、それ楽しそう」

 

 思わず口角が上がるのを慌てて両手で隠した。

 

 エリ……あなたの運命は決まったわ。女の子の事もあるしクインを探しましょう!

 

「白神よ、恵みに感謝します……お父様ありがとう、食事をしっかりと摂って無理しないでね!」

 

 

 よし!今日は楽しい一日になるわね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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8.それぞれの思い

沢山の評価とお気に入りに登録を頂き、驚いています。もし良ければ、感想など貰えると更に嬉しいです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスティアとのひと時を過ごしたあと、王の間の一室で軍務長ユーニード=シャルべから報告を受けていた。

 

 

 

 軍務長とは作戦立案や補給の管理、部隊編成に関して王、或いは騎士団長に上申を行い、更に内務に関しては実行責任者でもある事務方の長である。

 

 アスト達からの詳細な任務内容の吟味はこの後行われるが、そういった情報以外の委細も重要なため、時間が許す限り普段から謁見している。

 

 また王の間とは所謂玉座の間だが、正面の大扉から真っ直ぐに玉座まで伸びる赤絨毯や高い天井を支える柱だけでなく、その左右には大小5つの部屋が配置されている。

 

 魔獣関連、国内経済、物資の供給、治安維持、祭祀等の議事は毎日の様に行われており、カーディルの臨席如何に問わず各専門の長が中心となって活発な意見交換が行われる。勿論最後に決定するのは王であるカーディルだが、各部屋には地図や調査書、歴史書などが絶えず更新され、まさしくリンディアの中枢と呼べるだろう。

 

 

 

 ユーニードは白く染まった髪を薬料で撫で付けた頭を左右にふりながら、大量の書類や地図を机に並べている。瘦せぎすな体に鋭い眼光は見る者に威圧感を感じさせるが、事実ユーニードは冷静なあるいは冷徹冷酷な軍務長として知られ、自身もそれを否定しない。感情だけでは滅びの運命から逃れられないと信念を持っているからだろう。

 

「陛下、北限のユニス村が森にのまれた事が判明しました。もともと無人ではありましたが北部の森の侵攻は想定より早く、何らかの対策を講じる必要があるでしょう」

 

「北部地域で残る町や村はこれで殆どが消えてしまったか……ユーニード、次の住民の移動や住居の準備は進んでいるか?」

 

「はい。工程は9割以上が完了致しました。残りも問題ありません。これが本日までの工程進捗書です」

 

 カーディルは軽く目を通し頷いた。

 

「流石だ、ユーニード。ただ北部への部隊配置も再度練り直さなければならないな」

 

「その点ですが……陛下、改めて具申致します。北部マリギの森に侵攻し、マリギを取り戻しましょう。マリギの街はまだ森にのまれてから数年、復興も十分可能です。橋頭堡とし、更なる侵攻も可能になります」

 

「ユーニード……森を切り開こうとすれば即座に魔獣どもが襲い掛かってくるだろう。どれだけの犠牲を出すか分かっているのか?お前の息子も帰って来れなかったではないか……いや……すまん、それは余計なことだな……」

 

「御配慮痛み入ります。ただ陛下、座しては滅ぶのみです。確かに犠牲は避けられないでしょう、ですから損耗を最小限に抑える作戦も立案済みです。何処かでやらなければならない事は陛下もよくお分かりのはず」

 

「ああ、だがカズホート王国の例もある。カズホートは小国だったとはいえ森に隣接した国だ。ある意味で我が国より森に詳しく、軍の構成も練られたものだった……だが結果は知っての通りだ。カズホートは一晩で滅んだのだぞ?魔獣が群れを成して来たらリンディアですら簡単に滅ぶかもしれん」

 

「カズホートは森の資源を残すため<燃える水>を作戦に使いませんでした。それが敗因だったのは間違いないでしょう。火の刻印持ちも隊に組み込み効果を増大させれば、十分勝機はあると考えます」

 

「ユーニード……もう一度作戦書には目を通しておく。今はそれしか言えない、わかってくれ」

 

「……はっ」

 

 ユーニードの目に魔獣への憎悪が強く滲むのが見えて、カーディルは悲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

「アスト、ケーヒル、ご苦労だったな」

 

「陛下、ただいま帰還しました」

 

 玉座に座るカーディルを見上げアストはゆっくりと答えた。王の間にはユーニードも入れて4人だけだ。公務である以上親子としての会話は後になる。

 

「さて、黒の森周辺部の調査はまだであろう。早い帰還となった理由を教えてくれ」

 

「はい。黒の森に至る前、休息地の丘で中型魔獣二匹に攻撃を受けました。ご存知の通り、街道からもほど近く森も彼方の場所です。想定外の戦闘により、騎士テウデリク一名が死亡。……油断していた私を魔獣から庇った事で魔獣の一撃を受けました。遺体はその場で火の清めを行い、ヴァルハラへと」

 

 カーディルは俯き唇を噛むアストを見ると、真っ直ぐに育ってくれた喜びと共に、こんな時代でなければと思う。

 

「……そうか。テウデリクには心から礼を尽くさなけれならない。王として強き騎士は、宝であり誇りだ。また一人の親として感謝の念は尽きない」

 

 暫しの黙祷でヴァルハラへの道が平坦である事を祈った。

 

「……テウデリクの遺品があります。出来るだけ早く家族の元に届けたいと……また丘陵地に魔獣が現れた事を各隊に伝達したい事、部隊の再編を行う事、救助者が一名いた事、以上の理由により作戦を中止する判断を致しました」

 

「わかった、お前の判断は間違っていない。そうだなユーニード?」

 

「はっ、殿下のご判断で間違いないかと」

 

「ケーヒルは何かあるか?」

 

 ここまで語る事がなかったケーヒルは、初めてカーディルの目を見た。

 

「そうですな……あの休息地に二匹も現れた理由が気になります。今までの調査でもあのような事はなかった。ただの偶然なのか、奴等があの場所に来る理由があった……」

 

「どうした……?」

 

 ケーヒルの突然の沈黙が気になったカーディルは問う。

 

「いえ、申し訳ありません。何にしても他の休息地での待機体制も変更しないといけないでしょうな」

 

「ふむ、詳しい事は今後詰めなければならんな」

 

 

 

 

 

 

 その他の様々な報告を一通り終え、一先ず落ち着いた事で空気が弛緩したのを感じたカーディルは、急に悪戯好きな子供のような顔になってアストを見た。

 

「アストよ。先程報告のあった救助者とやらは、随分美しい娘だそうだな?お前が大事そうに抱き抱えて帰ってきたと噂になっているぞ?」

 

「なっ……何を言われるのです!子供の上、怪我もしていましたので、大事をとっただけの事です。変な勘繰りはやめて下さい!」

 

「ほぉ……クインまで引っ張り出してとは、随分だと思ったのだがな? くくく……どうやらこれは父と息子として話さねばならないようだな。よし……ユーニード」

 

「はい」

 

「黒の森周辺部の調査はどちらにせよ早急に行わなければならない。すぐに編成に取り掛かってくれ」

 

「はっ、ではすぐに」

 

 ユーニードは、一礼をして王の間から去って行った。

 

 

 

 

 

 

 自室に向かう最中、ユーニードは先程から頭にある違和感が何なのか分からず立ち止まった。

 

「そうか……クインだ。救助者が孤児だとしたら、王都内にも孤児院はいくつもある。ましてやこの時代だ、子供をなくした親も多く里親探しにも困らない。城まで連れ帰るのも珍しいがクインに預けるなど、そもそもおかしい。子羊一匹に小隊をぶつけるようなものだ」

 

 ユーニードはクインが大変有能な女性である事を知っている。薬学、神学、神代文字に明るく、一流の侍女でもある。頭脳も明晰で王族の相談役を仰せつかってまでいる。だが子守に向いてはいない……いや出来なくはないだろうが、適任は他に幾らでもいる。

 

「ふむ、少しだけ調べてみるか……結果が殿下の想い人だったなら、それはそれで目出度い」

 

 違和感が解けたことで、ユーニードは再び歩き出した。

 

 

 

 

 

「で? アストよ、その娘について何かあるのだろう?」

 

 カーディルはあの場で話を広げたくない事を察し、ユーニードを遠ざけたのだ。

 

「陛下、いえ父上……先程の報告には入れていない事があります。実は……テウデリクが庇ってくれた時、私も魔獣の一撃を食らいました。死んでもおかしくなかったのです」

 

「なっなにっ! アスト大丈夫なのか!?」

 

 予想していなかった返答にさすがのカーディルも驚きを隠せず、立ち上がりアストに近づいた。

 

「父上、大丈夫です。もう殆ど完治しています。ただその事と連れ帰った少女についてお伝えしなければいけないのです」

 

 アストはあの日に起きた事の全てをカーディルに話した。

 

 

 

 

「そんな事が本当にあったのか……?信じられない……ケーヒルも見たのか?」

 

「はい、むしろ意識が朦朧としていた殿下より、私の方がはっきりと見ていたと言えます。全てが本当に起きた事です、陛下」

 

「それでクインか……刻印が3階位、しかも4つの刻印か……」

 

「今はクインに任せていますが、当面は情報は伏せて私が責任を持って保護したいと思っています。許可頂けますか?」

 

「ああ、寧ろそうする他ないだろう。ましてや聞けばアストの命の恩人ではないか?十分な対応をすることを許可しよう。部屋は来賓用の黒の間を使え、今や来賓室など使う事がないからな。それと典医を呼んでおくか?クインが様子を見る以上大丈夫だとは思うが念のためだ」

 

 

 この黒の間は後に<聖女の間>と名前を変え、カズキの為の部屋となるがそれはまだ先の話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クインはアスト達と別れたあと、そのまま来賓用の浴場に向かっていた。見れば赤黒く汚れた服一枚しか着ていない、黒髪も血や泥だろう汚れが付いたままだ。今の時間は人の流れも少ないが、念のため首元は持っていたハンカチを掛けて隠しておく。一人二人程度とすれ違う際は、ギョッと目を見開き何かを言いたそうな様子だが、連れているのがクインと知ると軽く頭を下げて去っていった。

 

 年齢はおそらく12から15といったところだが、初めて見る姿に確証はない。しかしクインとしてはやはり、刻印が気になってしょうがない。これから刻印を刻んだ神々はどの柱なのか、何よりどういった加護なのかを調べなければならない。その為にも早く体を清めなければいけないだろう。

 

 漸く到着した浴場のドアを開けるため一度少女を優しく下ろし、壁に寄りかからせたクインは懐から専用の鍵を取り出しドアの錠を解除した。もう一度少女の膝裏と背面に両腕を回し抱き上げて中に入る。

 

 更衣室には、新品の下着、体を拭く綿の手拭い、来賓用の絹の夜着、簡易ドレス等が常備されている。以前はもっと種類もあったらしいが、一人の少女には十分な量だろう。準備をする為、いくつも配置してあるソファの一つに横たえて浴場の中に入った。

 

 クインは黒く輝く清めの石台にお湯を何度か流し掛け、人肌程度になるよう調整する。

 

 清めの石台とは、クインの腰高くらいの高さで、大人一人が丁度横になれるような大きさの石、いや岩の塊と言えばいいだろう。まるで星空を固めたような色合いの立方体の石は、硬度も高く水捌けもよい。やはりこれも貴族が下女に体を洗わせる時に使用するものだが、今では殆ど使われていない。ただ今回のような意識のない人間を洗うには適しているだろう。そう考えながら、石鹸や香油、手拭い、手桶などを並べ更に鋏も配置した。クイン自身も浴着に着替えて少女を石台まで運びそっと寝かせる。

 

「さて、先ずはこの服から……」

 

 手首に巻かれた止血帯を取り除き、もう着る事もないだろうその生地に鋏を入れていく。チョキチョキと音をさせながら少しずつ少女の体が露わになっていく。

 

 

 

 

 

 クインは自身の息どころか、心臓すら止まったのでは…と思う程の衝撃を受けていた。

 

「信じられない……1,2,3,4……5,6……7つ、7つの刻印?こんな事、有り得ないわ……こんなのどんな文献でも見た事がない。それにこの紋様はどの神々の刻印なの……?印象で言うなら鎖というところだけど……」

 

 首、左肩、右胸、下腹、右太腿、左脛、左尻の計7箇所に大小の刻印が刻まれている。夢中になっていたクインは、このままではキリがないと頭を振り、少女も風邪を引いていけないだろうと体を洗い温めはじめた。

 

 

 石鹸を泡立て、先ずは素手で万遍なく洗いはじめる。濯ぐたびに真っ黒な汚水が流れたが、その内に透明になっていく。更に手拭いを泡立て仕上げに優しく磨き上げる。この頃になると、少女のしっとりした肌、僅かに膨らんだ乳房、腰のくびれから小さなお尻までその美しい体に、クインでさえも思わず溜息が出てしまう。泡立った体にお湯を回し掛けて漸く艶やかな全身が露わになった。

 

 

「本当に綺麗な子……この黒髪は初めて見るけど、まるで夜空の様に吸い込まれそう。少し痩せているかしら……肌も変わった色だけど綺麗ね。女性として完成に近づいてる……思ったより年齢は高いのかも」

 

 でも綺麗すぎるわ、この肌は異常と言っていい……

 

 王族であるアスティアですら、多少のシミやキズはあるものなのに。この子はシミひとつ、キズひとつ存在しない。だからこそ手首のキズは目立つけれど、それ以外はまるで生まれたての赤子か……あるいは……

 

 ある可能性を考えたクインだが、今は別にやる事がある。濡れた体を柔らかい綿の布で拭き上げ、肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪を包み込み優しく押さえて水分を取る。香油を薄く塗り、軽く揉みほぐしながら仕上げを行った。

 

 そしてクインも軽く体を拭き、予め用意してあった筆と用紙を手に取り刻印を模写し始めた。自身で調べるが、見渡した限り一部しかわからない。やはりコヒンお祖父様の力を借りなければならないだろう。そう考えたクインは丁寧に、時に興奮しつつ筆を動かし続けた。

 

 

 

 

 

 

 少女に下着と星空をあしらった濃い群青のワンピースを纏わせたクインは、客間の一室のベッドに少女を横たえる。絹の肌掛けで覆ったあと、少し乱れた黒髪を手櫛で整え、軽く柔らかい頬をひと撫でして部屋の鍵を閉めるとそこを後にする。

 

 あの様子なら目覚めるとしてもまだ先だろう。いや目覚めてくれればいい。

 

 美しい少女の目が開く時を想像しながら、祖父であるコヒンの元へクインは歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 




次回、漸く主人公が動き出します。


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9.聖女の目覚めと脱走 その顛末①

お気に入りが100件を超えました。ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 

 

「エリ、本当にここで間違いないのよね?」

 

「アスティア様……何回目ですかその質問。間違いありませんよ!クインさんの目撃情報と、客室の帳簿まで確認してきたんですから。それに、アスト様のこと聞くんですよね?」

 

「だって、間違って入ったら大変じゃない……」

 

 私はエリに何度も確認するが、不安でしょうがない。だってこんな風に人に会うって初めてだって気付いてしまった。今までは向こうから会いに来てくれたから。

 

 

 

「エリ……ノックしてくれない……?」

 

 うっ……エリのジト目が私に突き刺さる。

 

「わかってる、わかってるわ……よ……ふーーっ」

 

 コンッコンッ

 

 軽く拳を握って目の前の白いドアに二度当てた。

 

「静かね……」

 

「返事ないですね?まだ寝てるんでしょうか?」

 

「もう夕方よ?それはないと思うけど……お腹だって空いてるだろうし……」

 

 もう一度……コンッコンッ

 

「もう、どいて下さい!起きてますかー?お客様ですよー?」

 

 ドンドンドンッ!

 

 エリがおもむろに両手を上げてドアを叩き始めた!!

 

「ちょっ……ちょっとエリ! 何やってるの!?」

 

 驚いた私を置き去りにしてドアに耳を当てるエリを見て、固まるしかない。

 

「……やっぱり起きているみたいですよ?音がしますから」

 

 エリ……貴女やっぱりクインに教育を受け直してもらいましょう、お寝坊の事もあるし。

 

 懐から鍵束を出したエリは戸惑う事なく鍵をより分け、鍵穴に差し込み回した。

 

「入るわよ……」

 

 ドアをゆっくり開けると、カーテンが閉められたままなのか部屋の中は薄暗い。ぼんやりとベッドの上に上半身を起こした小さな体が見えた。

 

「やっぱり起きてるじゃない……返事くらいしなさいよね!」

 

 兄様が大事そうに抱いて帰ったらしいその姿を見た瞬間、僅かな怒りが浮かび口調がきつくなってしまったが、もう遅い。少し後悔……この子も驚いたみたいで体が震えるのが見えた。

 

「エリ……カーテンを開けてくれる?」

 

「はい、少しお待ちを」

 

 エリが窓の方に行くのを目で追ったあと、もう一度ベッドの上の少女を見てみる。明るくなった部屋にいるその少女が目に入って、胸が締め付けられたようにギュッとなったのがわかった。

 

 漆黒の髪は肩口で綺麗に切り添えられている。眼が綺麗……深い翡翠色で光が当たると少し明るく見えるのね……何処か不安そうだけど、さっき怒鳴ったから……肌も不思議な色合いだけどシミとかも無い本当にお人形みたい。群青のワンピースかな?少し慎ましやかな胸もこの子の雰囲気にぴったり。首には何だろう?ゆったりと薄手の絹だろうか……何かを巻いている。

 

「はぁー……確かに綺麗な子ですねー……でも不思議な髪だし、目もあまり見ない色だなぁ……」

 

 エリが無遠慮に近づいて容姿の品評を始めたので、頬を抓ってこっちに引っ張る。ほらこの子だって戸惑ってるじゃない!

 

「エリ!失礼でしょう!おバカ!」

 

「痛いです……アスティア様……」

 

「反省しなさい!まったくっ!」

 

 とにかく……とりあえず挨拶しないとね。

 

「驚かせて御免なさいね?私はアスティア、アスティア=エス=リンディア。このリンディア王国の王女よ。こっちはエリ、私の侍女」

 

 彼女の美しい眼を見ながら声をかけたんだけど……どうしたんだろう?酷く困惑した様子であちこちに目を逸らしている。

 

 なに?なんなのよ?

 

「ちょっと……挨拶くらい出来ないの?こっちをちゃんと見なさい!」

 

 思わず近づいて顔を両手で挟んでこちらに向かせようとしたら、慌てたのかベッドの上を後退りして向こう側にバタッと落ちてしまった。落ちた拍子に白い下着と何かが描かれた太ももや足が目に飛び込んできたが、先ずは怪我が心配だ。

 

「……ちょっと大丈夫!?」

 

 すぐに起き上がってベッドの淵に手を置き立ち上がったのを見てホッとするのも束の間、喉や口を指さして何かを訴えている。ここまでくれば私も理解できた。

 

「あなた……喋れないの?」

 

 

 

 彼女の手を取りベッドにもう一度座らせる。私はエリが運んで来た椅子に腰掛けて思わず頭をひねってしまう。

 

「困ったわね……これじゃあ何もわからない。エリ、どうしたらいいかしら?」

 

「アスティア様。筆談すれば良いのではないですか?」

 

 エリにしては鋭い助言ね!何かを察したのかまたジト目になったエリは置いておいて、それでいきましょう。

 

「そうね、ペンと紙を用意してくれる?」

 

 エリは部屋の窓側にある机の引き出しから紙を何枚か取り出して、ガラス製のつけペンとインク壺を取り出した。

 

「クインさんは筆派でしたけど、アスティア様はやっぱりペンですよね」

 

「羽筆は苦手……クインみたいに綺麗に書けたらいいのだけれどね……」

 

「どうしたの?」

 

 何故か目の前の少女が引き出しの方をチラチラと見て落ち着かなくなるのを見ながら、その引き出しを戻そうとして止まったままのエリに声をかける。

 

「うーん……確かここにはナイフと鋏があったはずなんですけど……」

 

「ふーん……まぁいいわ。さてと、ワタシノナマエハアスティアデス、アナタハ?っと」

 

 サラサラと簡単に書き込んだ紙を黒髪の少女に見せた。

 

 紙を暫く眺めていたが、彼女のその翡翠色の眼から涙がポタポタと溢れるのを見て私は思い切り動揺した。

 

「どっ……どうしたの?あなた、大丈夫?」

 

 俯き、ぐっとその細い腕で涙を拭い、側にあった枕の下から光るものを握って立ち上がったと思うとドアを勢いよく開けて走って消えて行った。

 

 突然過ぎて訳もわからず……呆然としてしまう。

 

「な、なに? どうしたの!?」

 

 エリを見ると同じく呆然と口を開けてドアの方を見ていた。

 

「ア、アスティア様。とにかく誰かに知らせないと……クインさんでも、アスト様でも」

 

「そ、そうね!急ぎましょう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 アストはカーディルと会話を終えて、クインを探していた。

 

 少女の状態も気になる上、黒の間で保護する事も決まった。刻印の事も何か判明したかもしれない。何よりまたあの少女に会いたい、そんな事を思いながら階下に降りてきた。

 

 先程会った者によると、クインはコヒンのところにいるらしい。おそらく刻印の事について早速話しているんだろうと、アストは歩みを進める。

 

 そのコヒンは文献等の保管庫のすぐ横に配置してある元は司書が居た部屋を独占して日々神代文字を研究している。宰相を引退する時にカーディルに願った褒賞がそれだった。

 

「クイン。いるか?入るぞ」

 

 軽くノックをして少し重いドアを開ける。蝶番が悪いのかギィと音を立てた。

 

 中に入ると、この狭い部屋に対して巨大と言っていいテーブルを挟んで手前にクイン、反対側には頭の髪を剃り上げている小柄な老人が座っている。クインによく似た青い眼をしたその老人こそ、リンディアの元宰相で今は自称神代研究家のコヒン=アーシケルだ。そしてクインの祖父でもある。

 

 部屋の壁には大量の本棚に並ぶ本や巻物があり、天井まで埋め尽くされている。すえた黴の匂いが鼻につくが、アスト自身もこの匂いが嫌いではない。少し暗いがテーブルの上にあるランプが淡く部屋を照らしている。幻想的と言ってもいいくらいだ。

 

「おお、殿下。こんなむさ苦しいところにようこそおいで下さいましたな。クインなら随分前からおりますぞ」

 

「殿下、お呼び頂ければいつでも参ります。自らが使用人を探すなどどうかお控え下さい」

 

 ある意味対照的な答えにアストは思わず微笑んだ。

 

「ふふっ、二人ともありがとう。クイン、あの子はどうだ?怪我の具合も見て貰えたか?」

 

 アストは椅子を本の山から引っ張り出して座りつつクインの方を向く。

 

「はい、今は客室の一室に寝かせてあります。怪我とは左手の事でしょうか? 傷口も塞がり、血色も心音も特に問題ありませんでしたので、一先ずは大丈夫かと思います。 外から鍵も閉めましたので、誰も入れないでしょう」

 

「そうか……良かった。クイン改めて礼を言うよ」

 

「殿下……」

 

「わかってる。使用人に礼は不要だろ?でも言いたい気持ちなんだ。受け取ってくれ」

 

「……わかりました」

 

「コヒンも聞いてくれ。先程父上に全てを話した。城内での保護、黒の間を彼女に開放する事も許可して貰ったよ。当面は刻印やその力に関しての情報は伏せる事になる。未知数な上、彼女の意思も確認出来ていない。それに半端に知られてしまえば良からぬ事を考える者もいるだろうからな……おっと……コヒンは詳細は聞いているか?」

 

「ほっほっ、クインから聞いておりますぞ。お命が助かって本当に良かった。その娘には感謝しなければなりませんのぉ。そして何より刻印!あれは凄いですな!この爺いは久しぶりに興奮しておりますぞ!」

 

「ほう……その分だとあの4つもある刻印の秘密が少しはわかったのか?」

 

「殿下……その事なんですが……」

 

 クインが馬車でのあの時のように、言いづらそうにしている。

 

「実は……」

 

 

 

 

「7つ……7つだって……? 嘘だろう? 詳しくない私だって、それがどれだけ異常な事なのか分かるぞ」

 

 クインからアストへ渡された紙には、刻印が刻まれている場所、判明している加護が簡単に纏められている。

 

「慈愛、癒しの力、憎しみ? 他に3階位の刻印だって!? しかも3つの刻印で? 首、下腹、脛。下腹が慈愛か……後の二つはまだわからないと?」

 

 少女には何度も驚かされたが、まだまだ足りなかったようだ。

 

「殿下……これはまだ不確定な上にまだ不明な点も多いのですが、癒しの力は……5階位……ではないかと思われます」

 

 その言葉に絶句し、クインの顔を穴が開くのではと言われるくらいに見詰めてしまう。

 

「5階位……5階位か……それではまるで物語に出てくる<聖女>のようだな。ほら、世界を救い王子様と幸せになる……」

 

 自身が王子である事も忘れてアストがこぼした。

 

「おお……聖女……殿下、見事、見事ですぞ……」

 

 コヒンが刻印の描かれた紙を震える手に見ながら呟いた。

 

「この神代文字が何なのか引っかかっておりましたが、見た事があるのに出て来なかったのです。ですが思い出しましたぞ……聖女、癒しの力<聖女>です。間違いありません。 殿下……これは……神々の、神々の救いですじゃ……遂に祈りが届いたのです……」

 

 コヒンは目尻に涙を溜め、万感の思いを込めて天井をいや天を見上げた。

 

 

 

 

 

「父上に伝えないと……日々の祈りが遂に届いたんだ。きっとお喜びになるぞ!」

 

 アストは立ち上がり部屋を出ようとした。だがすぐにクインから声がかかり足を止める。

 

「殿下、お待ちください。お伝えするのはもう少し待って頂けませんか? 皆に聖女の降臨を伝えられるのはまだ早いかと」

 

「なぜだ?父上だけじゃない。国民全て、いや世界が待ち望んだ救いかもしれないんだぞ!」

 

 思わず声を荒げたアストにも動じずにクインは淡々と言葉を重ねる。

 

「先程、殿下ご自身が言われました。彼女の意思を聞いていないと。意識のない彼女を無視して事を進めるのは感心致しません。殿下はそれで良いのですか?……それに……」

 

「それに……?」

 

 クインの言った事は尤もだと、心を落ち着かせてもう一度席に着き耳を傾ける。

 

「残りの刻印が気になります。一つだけですが……憎悪をしめす刻印です。慈愛を持つ彼女に憎しみの刻印など不自然だとおもいませんか?明らかに相反する刻印です。お祖父様、先程殿下が来られる前に言われた事をもう一度お願い出来ますか?」

 

 コヒンも少し落ち着いたのか、今は椅子に座って前を向いていた。

 

「うむ……実は先程刻印を刻んだ神は誰なのかを話しておったのです。これを見て下され」

 

 テーブルにあった幾つかの本を避けて出てきた古い文献をアストに見せてコヒンは続けた。文献には鎖のような紋様が数多く描かれている。間違いなく覚えのあるものだ。そう、最近目にしている。

 

「一般的に刻印、加護は白神が与えると言われております。よく知られているのが癒しや慈愛ですな。しかし我々人間は時に憎み、哀しみ、痛みを覚えます。それは悪いことのように思えますが、人が生きていく上で必ず必要な事ですじゃ。誰か近しい人が亡くなった時に痛みを覚えず、哀しみもしない。それが果たして人間と言えるのでしょうか?」

 

 アストは母アスを思い、自分を庇った騎士テウデリクを思った。

 

「黒神か……昔コヒンに習ったな」

 

「おお、その通りです殿下。正しく黒神ですじゃ」

 

 先程の鎖の紋様をその白い指でなぞりながら、クインは話を引き継いだ。

 

「おそらくあの子に刻印を刻んだのは黒神、黒神のヤト。憎悪、悲哀、痛みなどを司る強力な神です」

 

「太古から生きる神ですが、慈愛や癒しを司る神ではありません。決して邪な神ではないですが、素直に<聖女>だと受け止める訳にはいかない……何か大変な落とし穴があるかもしれないのです。殿下、お判り頂けましたか?」

 

「ああ……よく分かった。確かに安易な判断は許されないだろう……クイン、ありがとう」

 

 クインが居てくれて本当に良かったと、アストは熱くなった息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 ードンドンッ

 

 強めに叩かれ、アスト達三人はドアの方を振り向いた。

 

「誰だ?」

 

「兄様!いるのね!?大変なの!」

 

 血相を変え、ドアを勢い良く開けて入って来たのは、アストの妹でリンディアの王女であるアスティアだった。

 

「っと、どうしたアスティア?」

 

 胸に飛び込んできたアスティアを優しく受け止めて、アストは問い掛ける。

 

「大変なの! 兄様が連れ帰った子が、あの子が部屋から飛び出して……居なくなってしまったの!」

 

 アストとクインはお互い目を合わせて、慌てて部屋を飛び出して行った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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10.聖女の目覚めと脱走 その顛末②

 

 

 

 

 

 

 

  夢に微睡んでいた。

 

  小さな頃の夢は決して良いものでは無かったが、誰かが手を握って「大丈夫だ」と言っているような気がして……自分が今、目を覚まそうとしているのか、深い海の底から浮き上がるように感じて体が息を吹き返していく。

 

 

 

 

 

 

 ここは……?

 

  俺は、自分が涙を流しているのを知って思わず起き上がった。

 

  なんで涙なんかを……?

 

  見覚えのない濃い青色の服の袖を使いゴシゴシと涙を拭く。周りには誰も居ないことがわかって安心した。やはり体は女、いや女の子のままのようだ。あれだけ汚れていた体も綺麗になってい仄かな良い香りがする。小さな胸に両手を当てれば、柔らかな弾力を感じそのまま沈み込む。ただ嫌な予感、感触を覚えてあの時と同じく上から覗き混んだ。

 

  下着まで着ている……いわゆるブラだろう。白い柔らかい材質の布を巻き付けたような変わった下着だ。すぐに外したかったが今は周りの状況を把握したい。

 

  俺は信じられない程サラサラとした感触を覚えるシーツを避けて立ち上がってみた。

 

  くそっ……この服ってワンピースってやつだろう?

 

  星空がデザインされたスカート部分を両手で持ち上げて、上半身を軽く傾けて確認する。

 

  最悪だ……女物の白い小さな下着、ムカつく事に可愛らしいリボンまで着いている。そして真っ白な太ももの内側、脛にも入れ墨が入っている。上からも見えたが臍の下辺り、下腹部にも同じく入れ墨があった。おそらくこれがヤトの言う刻印だろう。あまりの変化に眩暈がする。

 

  とにかく今は状況確認だ。頭を上げて周りを見渡した。

 

  少し薄暗いが、見えない程じゃない。時間は夕方前ってところか?今まで寝ていたベッドに、窓側に古めかしい机と椅子。全て日本で言うアンティーク家具に見える。扉は二つ、一つは出口でもう一つはなんだろう?歩いて近づこうとした時に敷かれた絨毯の柔らかさにびっくりしながら開けて覗きこむと、衣装部屋らしい。ウォークインクローゼットの実物は見た事がないが、こんな感じだろう。

 

  さて、いよいよメインの扉だ。開いてくれればいいが……

 

 ガチャッ、ガチャガチャ……

 

  やはり都合良くは行かないか、内鍵を回してみたが結果は変わらなかった。……つまり()()()()()()()と言う事だ。耳を澄ましてみたが、おそらく廊下があるであろう扉の向こうからは気配はしない。誰もいないようだ。

 

  よしっ、何とか抜け出さなければ……小さな頃の孤児院と院長夫妻を思い出し、脱出の手段を探す事を決める。ベッドの反対側の窓に近づいて、そっとカーテンをめくる。やはり夕方か、沈んでいく太陽らしきものが見えた。外からの監視の有無を確認しつつ、カーテンをさらに開いてココから出られないか確認した。

 

  無理だ……高すぎるし、手や足をかけられそうじゃない。ましてや小さくなったこのひ弱な体では、自分を支える事も難しいかもしれない。

 

 くそっ……くそっ……いや落ち着け、何か道具を探すんだ。

 

  すぐ近くにあった机の上には何もない。引き出しを開け中を確認する。

 

 ナイフ?いやペーパーナイフか……中々鋭そうな鋏もある。最悪は脅し位には使えるか?こちらも無駄にアンティークな装飾でお高そうだ。よしこれは頂きだ。

 

 コンコン……

 

 ん?ノックか?

 

 動きを止めて様子を伺うと再び聞こえた……誰か来たか!

 

 急いでナイフと鋏をひっ掴みベッドに戻る。手に入れた武器達は枕の下に隠した。

 

 ここは様子見だ、大人しくしておこう。シーツを足にかけ上半身だけは起こしてドアの方を見た瞬間、ドンドンドンッ!とかなり大きな音がして、情け無い事にビクッとしてしまう。

 

 続いて女の声がして、ガチャと鍵が開く音がした。

 

 すぐにドアが開き、二人の女が入って来た。女と言うか、中学生くらいの子供だろうか?二人とも美人だが、銀髪の方は別格だ。というか絶対お姫様だろこいつ……これは頭を下げた方が良いのか、そもそもベッドの上では失礼にあたるかもしれない。俺には何が正解なのかわかる訳がない。

 

「やっぱり起きてるじゃない……返事くらいしなさいよね!」

 

 ダメか……何を言ってるのかさっぱり分からない。それにマズイ……何かいきなり怒ってるみたいだ……やっぱり頭を下げないとまずかったか?

 

 もう一人がカーテンを開けると、部屋が明るくなった。

 

「はぁー……確かに綺麗な子ですねー……。でも不思議な髪だし、目もあまり見ない色だなぁ……」

 

 更に赤毛の女が近づいて来て、じろじろとこちらを見ながら何か呆れた様に口を動かした。

 

 くっ、やっぱり何かまずったか……恐らく礼儀がなってないとか、そんな事を言ってるんだろう。銀髪の娘が赤毛の頬を抓ったのはよく分からないが……彼女達の後方にあるドアは鍵が掛かってない筈だ、逃げるか……?こんな子達をぶん殴る訳にも……なんだ?殴るって考えると胸がザワザワする……気持ち悪い……

 

「驚かせて御免なさいね?私はアスティア、アスティア=エス=リンディア。このリンディア王国の王女よ。こっちはエリ、私の侍女」

 

 銀髪娘が何か話しているが、どうせ意味もわからないなら聞いてもしょうがない。とにかく逃げないと……鍵が開いてるチャンスなんてココしかないだろう。ドアの向こうに誰かがいない事を祈る。

 

 俺が逃げる事を考えているのが分かったのか、更に怒りに満ちた青色の眼で睨み付けてきた。

 

「ちょっと……挨拶くらい出来ないの?こっちをちゃんと見なさい!」

 

 うお!首を絞める気か!?見た目以上にヤバいぞコイツ!

 

 思わず後退りしたら、ベッドから落ちた。痛え……

 

 とにかく意思疏通が出来ない事を伝えれば許して貰えるかもしれない。口や喉に指を指してみる。

 

「あなた……喋れないの?」

 

  困惑する表情を見せた銀髪お姫様は何かを呟いた。伝わったか?

 

 

 

 

 

 

 

 しまった……赤毛侍女がさっきナイフと鋏をパクった引き出しを開けて動きが止まったぞ……?盗んだのがバレたか……背中から冷や汗が出るのを感じて思わずベッドから腰が上がる。混乱の極致にいた俺に目の前のお姫様が紙に何か書き俺に見せて来た。

 

 

 あぁ……これは……

 

 

 知らない単語だとか、そういうのじゃない……()()()()()()()()()()()

 

 それが分かってしまった。さっきから聞こえる二人の言葉も綺麗な声とは思えるが、何かを察して感じることも不可能だ……ヤトは呪いと言っていた、正しく呪いだ。こんな……こんなの、どうしたらいいんだ……

 

 知らない場所に閉じ込められて、言葉を交わす事が出来ない?あの頃の孤児院の時のように、悲鳴を上げる事も、こんな少女の体では抵抗だってまともに出来やしない。

 

 腹の底から絶望感がヒタヒタとせり上がってくるのを感じて、思わず涙が溢れてしまった……くそっ、なんで簡単に涙なんか……男のくせに情け無い。

 

 

 クソッタレ!

 

 

 枕の下にあったナイフと鋏を引っ掴んで、俺はドアの外に走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クイン、アスティア、エリと合わせ4人で客室のある方へ歩きながら話しを続ける。

 

「クイン。確か鍵を外から掛けたと言っていたが……」

 

「はい、間違いなく掛けました。中からあの子がドアを開けるのは不可能です」

 

 アストは、アスティアとエリが何かを言いたそうにしているのを見て分かってしまった。

 

「兄様、ごめんなさい……私が話をしたくてエリに鍵を開けさせたの。私の所為だわ」

 

 エリも俯き唇を噛んでいる。いつも笑顔を絶やさないエリには珍しい表情だった。

 

「そうか……それはいい。何かあったのか?」

 

「……特別なことは……でも私……あの子に少し怒ってしまって……喋れないなんて知らなくて、挨拶出来ないのって……」

 

「喋れない?あの子は話せないのか……?」

 

 思わずアスティアを見詰めてしまう。アストは自身の怪我を治す時に声も上げずにナイフを突き刺した事、それに馬車の中で声無き悲鳴を上げていた事を思い出して理解した。そして、胸が締め付けられるのを自覚する。

 

「兄様も知らなかったの?」

 

「ああ、あの子は殆ど眠っていたからな……いや、それどころかあの子の名前すら知らないんだ」

 

 

 

 

 

「殿下、あの部屋です」

 

 クインの案内で辿り着いた部屋に入ると、仄かに優しい香油の香りがした。見るとベッドからは枕が落ちている。シーツも乱れあの子がついさっきまで寝ていた事を知らせていた。

 

「一体何故逃げたんだ……?あの子はどっちに?」

 

「ドアを出て左手に走って行きました。迷っているような様子は特に……」

 

「エリ、間違いなく走って行ったのね?」

 

 クインはエリに問い質すが、アストは不思議に感じた。

 

「クイン、それが何かあるのか?」

 

「いえ、気になる事が少し……あの子は眠り始めて今日まで一度も意識が戻っていないのですよね?怪我もあり食事すらしていない今、走り出したとは……体力すら戻ってない筈です」

 

 怪我と聞いてアスティアが目を蹙めたのがクインには見えたが、今はそれを説明している時間はない。それに少し思い当たる事もある。まさかとは思うが……そうクインが思考を深め始めたとき、アストの声で我に返って意識を戻す。

 

「たしかに……力を振り絞って逃げたとしたら、何処かでまた倒れているかもしれないな……」

 

「そんな……!私の所為だわ……兄様どうしよう……」

 

「大丈夫、ここはリンディアだ。俺たちが直ぐに見つけてあげればいい」

 

 アストはアスティアの柔らかい髪を優しく撫でて、目から溢れた涙を拭ってやった。

 

「よし手分けして探そう。怖がっているなら、何処かに隠れているかもしれない。不用意には近づかないよう気をつけよう」

 

 皆が動き始めたとき、後ろから小さな声がした。

 

「あ、あの……」

 

 エリが顔を上げて恐る恐るアストに話し掛けた。

 

「エリ、どうした?」

 

「あの、客室にあった紙切りのナイフと鋏が無くなっていました。飛び出す時に何かを掴んで出て行ったので、間違いないと思います。何かおかしな事を考えて無ければいいなって……」

 

「ナイフ、鋏……か……」

 

 

 魔獣の一撃に倒れた後、あの子は自分の手を躊躇なくナイフで傷付けた。その行為にどんな意味があるのかまだ分からないが、そうしてアストを助けたのだ。まるで傷付いた人を助けるためだけに在るような……聖女、そう聖女だ。あの子は聖女なんだ……アストの頭の中にある可能性が浮かんできた。

 

「まさか……?」

 

「兄様……?」

 

「また、自分を傷付けて誰かを……?」

 

 アストは黒髪の美しい少女が、あの時の様に声のない悲鳴を上げているのが目の前に浮かぶ。そしてそれを許せない自分の強い気持ちを自覚した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやらこの辺りには人は少ないみたいだ。少し息を吐き、すぐ側にある茂みに身を隠した。

 

 部屋からの脱走には成功したが、此処はまだ城内だ。下に降りる階段はすぐに見つかり、人の気配に気を配りながらここまで降りてきた。このワンピースには当初うんざりしたが、濃い青色は暗くなった闇に紛れるのに最適だ。星空まであしらっているのは皮肉が利いている。首に巻いていた布切れは邪魔になって階段の側にあった大きな植木鉢に突っ込んでおいた。すぐに見つかりはしないだろう。

 

 呼吸が落ち着いたのを確認して、もう一度そっと周りを見回す。さあここからだ……今から夜も深まり益々暗くなる。現代日本と比べ街灯もなく真っ暗な場所も多いだろう。窓から見えた街に逃げ込み身を隠して時間が過ぎるのを待つ。楽観的だが、たった一人の小娘にそこまで血眼になって探す事もない筈だ。

 

 とにかく絶対に捕まってたまるか……逃げ切ってみせる。逃げ切った後の事はその時に考えよう。今までもそうしてきたし、一人で生きて来たんだ。

 

 茂みから少しだけ離れたところに煉瓦を積んだ二階建の建物が見える。室内を照らす明かりも少なく死角も多い。まずはあそこまで移動するか……

 

 そう決めて、素早く腰を低くして音を立てない様に移動する。誰にも見つからずに明かりの届きにくい煉瓦の壁に張り付く事が出来た。

 

 いくつかの窓からは明かりが漏れているが、この小さな体なら下をくぐって行けば大丈夫だろう。ゆっくりと進み建物の角まで来たところで、その向こう側から声が聞こえてきた。

 

 ちっ……ここまで来て……さっきの茂みまで戻るか?いや、先ずは様子を見よう。腰を落としそっと角から声のした方を見た、見てしまった。

 

 

 ドンッ

 

 

 ああ……まただ、また俺の心臓が大きな音を立てて跳ね上がった。

 

 俺の視界に飛び込んできたのは、木製の巨大な台車の様なものだ。殆どには何も載っていないが、赤いペンキで濡れている……いや、あれは血だ。それも大量の。そして一台だけ何かが乗っている。人だ、鎧らしきものが砕けて脇腹から血を流して呻いている。さっき聞こえたのはあの男の声だろう……建物の中から何人かの怒鳴り声のようなものが聞こえる。

 

 ああ、逃げないと……早く……逃げ……

 

 俺の手には、鈍く光るナイフと鋏がある。ほら、()()()()()()

 

 助ける……助けないと……血が、血が沢山流れている。死んでしまう……あの化け物だ……奴らにやられたんだ……許せない……

 

 大丈夫……俺が、逃げる……助ける……すぐに……早く……

 

 俺の意思は何かに塗り潰されていく。

 

 くっ!ヤト、アイツ……一体俺になにを……

 

 俺は……奴の……思い通りには、ならない……ぞ……

 

 ふらふらと歩き出す自分はもう何かに操られた人形のようだろう。いつのまにか横たわり歯を食いしばり呻く男が俺の目の前にいる。

 

 俺は右手に持った鋏を強く握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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11.聖女の目覚めと脱走 その顛末③

 

 

 

 

 

 ヤトの声が頭に浮かんでは弾けて消えていく。

 

 

 

 ー癒し、慈愛は間違いなく君の力だ

 

 ーその二つは、決して裏切ったりしない

 

 ー世界を救ってほしい

 

 ー君の救いの道にも繋がっているかも知れない

 

 

 

 ーそう信じている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の目の前には脇腹から血を流し、脂汗を流しながら小さく呻いている20代であろう男がいる。縦に二本に裂かれた脇腹は、縫合も難しいだろう。ポタポタと血が流れ、彼の命が地面に吸われていくのが分かった。

 

 この傷痕には何故か覚えがある。あの化け物達だろう。

 

 さっきまで夢の中にいる様にボヤけた思考の中にいたのに、今は自分が何をしたいかよく分かるのだ。

 

 目の前の彼を助ける、化け物の餌食になんてさせない。

 

 いや、本当にこれは俺の意思なのか?

 

 俺はなんでここにいる?

 

 ()()()()()()()()()()()()()()。誰かが泣いている、苦しみを覚えている、痛みに蝕まれている。

 

 それが消えてなくなるなら、凄く嬉しい。

 

 右手を見ると良く切れそうな鋏がある。左手にはナイフ、こっちはあまり切れそうにない。

 

 ナイフは置いておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 典薬医見習いのクレオンは、この夜の不運を嘆いていた。

 

 

 明るいブラウンの癖毛を振り乱し、さっきまで寝ていた顔には目ヤニすら付いたままで、垂れ下がった目尻と合わせて泣き出しそうな少年のようだ。真っ赤に染まった両手は震えて止まりそうにない。

 

 昨日の晩は、行きつけの小さな店で典薬医見習い達とワインと肉詰めを味わいながら、上司である典薬医長のグチをどれだけ多く言えるかを競い合ったのだ。朝に帰宅したクレオンは、ついさっきまで惰眠を貪っていたところを典薬医助手の老女に叩き起こされて、休息日の筈の治癒院に連れて来られた。

 

 聞けば王都から程近い南部の森で大規模な戦闘が行われ、多くの死傷者が出たらしい。

 

 城下にある治癒院や治療医では間に合わず、来る筈のない城のすぐ側のここまでが、その戦場に選ばれてしまった。

 

 目の前には、鎧が砕かれて意識のない騎士がいる。木で出来たベッドの周りは足元まで滴った血で滑りそうになる。あと3人いた怪我人はこちらで対応出来ずに他へ運ばれていった。それでもまだ一人、外には台車に乗せられた騎士がいる。

 

 クレオンは思う。

 

 そもそも典薬医とは、治療医とは違う。薬草や霊芝、樹液やはたまた虫などを薬に煎じて患者に与えて治癒を促すのが仕事だ。

 

 しかもその対象は、王族やそれに準ずる貴き人々なのだ。騎士達も勿論大変尊敬すべき人々だが、こんな事は習ってもいない。ましてや自分は見習いで、ここには助手の老女と二人しかいない。他の見習い仲間はどこに行ったのだ?

 

「クレオン先生! 」

 

 老女に声を掛けられて驚いたクレオンは、手に渡された巨大な鋏を思わず受け取った。見た目は造園に使う植木鋏だ。

 

「え?」

 

「クレオン先生、鎧を外さないとどこを怪我してるのかも詳しくわからんでしょ?繋ぎ目を切って外して下さいな! まだあと一人外にいるんですよ、早くしないと!」

 

「あっ、はい」

 

 鎧を繋ぎ合わせている革紐や、細い金属の板を言われるがままクレオンは切っていく。なんとか上半身の鎧の繋ぎ目は切れた様だ。真っ赤に染まった鎧を両手で持ち上に引き上げようとしたが、何かが引っかかっているのか外れない。無理矢理引っ張ると騎士の体も僅かに持ち上がってしまう。

 

「おかしいな?」

 

 クレオンは切り忘れた箇所があるのかともう一度見渡すが、それは無さそうだ。

 

「クレオン先生。あれ……」

 

 助手が指を指す方向は、もう一人がいる玄関先だ。

 

「ん……?」

 

 もう一人の騎士がいる台車のすぐ側に、黒っぽい服を着た少女が佇んでいる。いや薄暗いし青色だろうか?左手からは血がポタポタと落ちていて、顔は俯き髪すら暗闇に溶けているのか良く分からない。

 

 

 はっきり言えば怖い。あれが噂に聞く亡霊だろうか?いや、浮かんだりしてないしあの騎士の親族か何かか……?

 

 クレオンはそんな考えに至って、それでも震えながら声を上げた。

 

「おっ、おい!」

 

 その少女は、今気付いたかの様にこちらを見た。クレオンは想像を超えたその美しい相貌に驚いたが、鎧を持ったままの手の先で騎士が呻き始めた事で自分が何をしなくてはいけないのかを思い出した。

 

「は、早くしないと……」

 

 騎士の方に顔を向け直して、力を思い切り込めて鎧を引っ張った。

 しかし鎧が取れた瞬間、腹部と肺辺りから大量の血が溢れ出してクレオンの白い前掛けを赤く染めてしまう……

 

「あ……変形した鎧が内臓に刺さっていたんだ……大変だ!血で呼吸も出来なくなって……!」

 

 目の前にいる騎士の口と鼻からも血が溢れ出て、苦しそうに悶え始めたのを見ると、クレオンはもう動く事が出来なくなった。

 

 ドンッ

 

 クレオンは柔らかい感触の小さな物体に押されてふらつき、よろけてベッドから数歩ほど離れてしまう。瞬間に僅かな優しい香油の香りがして、外にいた少女に突き飛ばされたのだと分かった。

 

「なにをっ!?」

 

 抗議の声を上げたクレオンは、少女を見て固まった。

 

 クレオンを突き飛ばした少女は、戸惑う様子も見せずに騎士の口に自身の小さな唇を押し付けたのだ。いきなり何を!? と思ったすぐ後に、少女が何をしているのか分かった。

 

 少女はその口で溢れた血を吸い出しては床に吐き出し、また唇を当て吸い出し、それを何度か繰り返し始めたのだ。不思議な事に肺辺りに置いた左手からは白い淡い光が溢れている。

 

 余りの衝撃で動けないクレオンと老女が見守る中、今度は腹部にその美しくも血に汚れた顔を押し当てて血を吸い出した。今度は何をと驚いた時には、吐き出した血の中から金属らしき破片が転がり出てその意味を悟る。

 

 腹部に溜まる血は決して綺麗なものではない。それを躊躇なく行った少女は近くにあったあの植木鋏を持ち上げて真っ赤に染まった左上腕に突き刺した。

 

「ひっ」

 

 老女が悲鳴を上げたのも当たり前だ。クレオンもただ呆然とするしかない。

 

 少女は先程金属片を吸い出した腹部に両手を当てて、赤く染まる顔でも美しい深い若葉色の瞳を閉じた。

 

 

 

 すっかり暗くなったこの部屋に白い明かりが灯る。

 

 その淡い光は決して強くはないが、ただただ暖かく優しく少女の手元から漏れ出している。

 

 

 

 呼吸が落ち着き、その出血すら止まった騎士を見たクレオンの口からは、自然とその言葉が出るのは当たり前なのだろう。

 

「奇跡だ……奇跡が起きたんだ……」

 

 クレオンは口から残った血をペッと吐き出し佇む少女の首元に、刻印が刻まれている事に今更ながら気付くのだった。

 

「聖女……黒い髪の聖女……」

 

 

 

 

 

 疲れたのか、黒髪の少女は騎士の横たわるベッドに腰を下ろして、深く息を吐いた。ベッドの方が少し高いのか細い足をぶらぶらと揺らしている。赤く染まった口を袖でゴシゴシと拭く様はまるで少年の様だ。

 

 

「ほれっ、これでお拭きなさい」

 

 ようやく正気を取り戻した老女は、奥から綺麗な布を持ち出して少女に渡そうと声をかけた。口周りは当たり前だがまだ血で赤いままだ。袖で擦った事でむしろ悪化しているかもしれない。

 

「……?」

 

 だが少女は……道に迷った幼児の様に疑問符を浮かべた顔で布を受け取り、おもむろに血で染まった騎士の体を拭き始めたのだ。

 

「こ、これっ!そうじゃなくて……自分の顔をお拭きなさい。せっかくの綺麗なお顔が血で……」

 

 だが少女はそれすら無視して、騎士の体を無心で拭いていく。その自身を顧みない献身を見た二人は、思わず両手で口を押さえて、零れそうになる声と涙をこらえるしかなかった。

 

 少女はその腕のキズさえ、二人に触らせる事すら拒むのだ。

 

 外に居るあと一人の患者の事も忘れて、二人は湧き上がるそのどうしようもない感情に、ただ翻弄されるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベッドに横たわっていた騎士が意識を取り戻して起き上がったのを確認したのか、少女は両足を一度振り上げて台から軽く飛び降りた。

 

 クレオンはずっとその少女を眺めていたから、ワンピースがフワッと舞い上がり見てはいけないものまで見えたので酷く慌てた。細い足や綺麗な太ももに、なにやら描かれているのも見えてしまった。

 

 固まるクレオンに見向きもせず、少女が玄関に向いた時だった。

 

 黒髪の少女は、あたふたと体を泳がし、キョロキョロと周りを見ると少しずつ後退りを始めた。見ると何人か玄関から入ってきたところだった。

 

 クレオンは顔を確認すると、驚いて直立不動となる。

 

「ア、アスト殿下!アスティア様も!」

 

 後ろにはあの有名なクイン女史とアスティアの侍女のエリもいた。アスティアの顔には驚きが、クインは達観が、エリには安堵が見て取れた。アストだけは、怒りや、悲しみ、色々な感情が入り乱れている様にみえる。

 

 起き上がったものの意識がまだ朦朧としていた騎士はまた、眠ってしまったようだ。

 

 そして、それも束の間、クレオンとアスト等の間にいた少女が此方の方に走り出したから更に驚いた。

 

「クレオン!捕まえてくれ!」

 

 クレオンは、アストが自分如きの名前を知っている事に感動しながらも、忠実に命令を守りその小さな体を抱き止めた。思いの外軽くて柔らかい感触に危うく放しそうになったが何とか自制する。腕の中の少女が暴れて逃げようとするが、大した抵抗には感じない。 少女はクレオンを恨みがましい顔で睨んでいたが、幸か不幸かクレオンは気付かなかった。

 

「クレオン。ありがとう、助かったよ」

 

 アストは少女の腕を取り自分の方に引き寄せた。引っ張られた少女はまるで、騎士団に引き渡された犯罪者のような顔をしている。

 

 クレオンは何故か少女がアストの側に行ってしまった事を寂しく思う自分に気づいたが、その気持ちに蓋をするしかない。

 

 アストはクインに少女の手を預けて、クレオンを見た。

 

「クレオン。悪いが此処で何があったか教えてくれないか?大事な事なんだ」

 

「は、はい!」

 

 

 

 

 少女を任されたクインは、その姿を見て心が痛むが、まずは腕や手の治療をと、アスティア達に声をかける。

 

「エリ、消毒用の薬草液と包帯、あそこにある綺麗な綿を取って来てくれる?」

 

「はいっ」

 

「クイン、私も何か手伝うわ」

 

 アスティアの言葉にクインも微笑み答えた。

 

「わかりました。兎に角、血を拭き取って上げないと可哀想です。濡らした布を取ってきますからアスティア様はこの子の側にいて、怪我している方の袖を捲って固定して下さい」

 

「分かったわ」

 

 

 

 クレオンはそんな少女と動き始めたアスティア達を見て、今更ながらにこれはマズイのでは?と思った。

 

 

 口の周りは血が付いていて、袖で拭いた事でより壮絶感が増し、首元まで垂れた跡がそれをより強くしている。左の掌と腕には刃物で傷付けた痛々しいキズがあり、すぐ側には凶器であろう巨大な鋏が落ちている。まるで暴漢にでも襲われたかのような同情心を酷く煽る姿だ。美しい容姿がそれにより拍車をかけている。しかも少女はまるで罠に捕まり猟師に囲まれた兎の様に悲壮感を漂わせた表情すらしている。

 

 

 少女の姿を客観的に見た場合は、そうなる。

 

 

「ちっ、違うんです!」

 

 悪さをした馬鹿どもの殆どが言う台詞を、クレオンは吐いた。

 

 少女の周りに戻っていたアスティア達女性陣の目線は、どこまでも冷たい。そう感じる。

 

 クレオンは、美しい少女との出会いの幸運と不運に天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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12.聖女の目覚めと脱走 その顛末④

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさか……?」

 

「兄様……?」

 

「また、自分を傷付けて誰かを……?」

 

 もし部屋から逃げたのではなく、聖女として戦いに赴いたとしたら……

 

 

「クイン」

 

「はい」

 

「城下周辺の地図が見たい。出来れば治癒院などが分かるものがいい、内円部までだ」

 

 アストの張り詰めた空気と表情を見たクインは、それだけでアストが考えた事が解った。

 

「分かりました、すぐにお持ちします。ここでお待ちを」

 

 廊下の角から素早く姿を消したクインと、普段見せない厳しい顔のアストを見てアスティアは不安になる。

 

「兄様……まさかあの子に何かあったと……?」

 

「いや、そういう訳じゃないんだ……アスティアにはまだ説明してなかったな、あの子は何て言えばいいか……そう、誰か傷付いている人がいれば助けに行ってしまう。そういう子なんだ」

 

「助けに……?」

 

「あの子が見つかって、落ち着いたらアスティアにも必ず教えてやるさ。大丈夫、治癒院に担ぎ込まれるって意味じゃない」

 

 アスティアはエリと目を合わせてその疑問をぶつけ合うが、後でと言われた以上、今は我慢しよう。そう考えるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

「殿下、周辺の地図です。治癒院だけでなく、孤児院や典医、治療医も網羅されています」

 

 クインがアストの考えの先を読んでいる事が分かる地図だ。

 

「ああ、流石だクイン。ありがとう」

 

「殿下、もう一つお伝えしたい事があります」

 

 アストは開いた地図から顔を上げて、クインを見る。クインが無駄な事をここで言う筈がない。そう確信している顔だ。

 

「なんだ?」

 

「本日早朝、南部地域を調査中の中隊が魔獣と交戦したようです。現在死者3名、重軽傷者多数。外円部の治癒院、治療師では対処が間に合わず、溢れた負傷者が内円部まで送られて来ています。そして数名ですが、リンディア城敷地内にある治癒院に運ばれました。現在は陛下の御指示により治癒師が出払っており、典薬医しかいないとの事。しかも2名が重傷者です。情報が錯綜しているのでしょう……そして運び込まれた時間は丁度あの子が部屋から消え去った頃です」

 

「陛下はどうされているか分かるか?」

 

「既に各所に御指示を出されております。殿下はご随意にと」

 

「わかった、その治癒院に向かおう。クインの予想通り、あの子はきっと治癒院にいる」

 

 

 

 

 リンディアでは魔獣との交戦は頻繁に起こっている。悲しい事だが死傷者が出る事も珍しくはない。ましてや南部は他地域と比べて王都リンスフィアから最も近い森があり、最前線と言ってよかった。

 

 魔獣は、森に入り伐採採集を行わなければ大挙して襲ってくることは滅多にない。だが、貴重な食料や水の確保や、薬草や霊芝類、一部樹液などは治癒院などで大量に消費されるため、生きる為には森に入るしかないのだ。

 

 漫然と滅びを待つか、勇気を持って森に分け入るか……

 

 それがリンディアや世界の現状である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まだ少し距離があるが、何台かの台車が乗り付けてある治癒院が見える。一台には騎士が一人横になっているのもわかった。各車には赤い血が多く付着している。

 

 あの少女の姿はない。

 

「3人は、ここで待っていてくれ。おそらく中はかなり厳しい状況の筈だ」

 

 アスティア達はお互いの顔を見て、すぐにアストを睨みつける。

 

「兄様、馬鹿にしないで下さい。私もエリも、時間が許せば治癒院には慰問に来ています。ましてや誇り高き騎士達が倒れ、自らの命を奪われない為に戦う姿を恐れる事などあり得ません。クインに関してはそれこそ愚問でしょう」

 

「そうか……そうだな。すまなかった、一緒に行こう」

 

 

 4人が治癒院に近づくと、かなりの血臭が鼻についた。まさにここは戦場だろう。エリは少しだけ青白い顔をしていたが、それでも誰一人とも歩みは止まらない。

 

 

 横たわる騎士の様子を伺うと、クインは何かに気付いたようだ。

 

「出血は止まっています。脈、血色も良好、頭部には目立った怪我もありません。おそらく意識もすぐに戻るでしょう、大丈夫です」

 

 クインのその返答に、皆が安堵の息を吐く。

 

「殿下……」

 

 そして騎士のすぐ横に置いてあるには不自然な物を指摘した。

 

「ナイフ……兄様、見て!」

 

 車輪の側には、血に濡れた鋏が落ちていた。

 

 

「間違いないな、あの子はこの中にいる」

 

「兄様の言う通り逃げたワケじゃなく、ここに来たかったの?それなら言ってくれたら……あっ……」

 

 アスティアはすぐに気付いた。

 

「ああ、話す事が出来なくて時間もない。それでもあの子が出来る精一杯の事をしたんだ」

 

 扉に手をかけながらアストは答えて、そして押し開いた。

 

 

 

 そして、少女はそこにいた。

 

 驚いた表情でこちらに気付き、付近を見回している。群青のワンピースには血であろう汚れが付いていて口元は吐血したかのようだ。小さな手や腕も真っ赤に染まっているし、綺麗に整えてあった漆黒の髪も乱れたまま。

 

 部屋には、典薬医見習いのクレオンと助手の女性。少女の近くにはベッドの上で眠っている騎士が一名いる。

 

 だがアスティアとエリが驚いたのは、それだけではない。少女の細い首に鎖のように描かれた刻印がある事だ。

 

「兄様、刻印が……それに腕から血が……」

 

「ああ、分かってる」

 

 少女はこちらから目を離さずに後退りを始める。

 

 どうやら警戒されているらしい事に、アストは息苦しさを覚えて唇を噛んだ。

 

「クレオン!捕まえてくれ!」

 

 背中を見せて走り出した少女の姿を見ると思いのほか大きな声が出て慌てたが、クレオンの懐に納まった少女を見ると早足に近付いて行った。

 

「クレオン。ありがとう、助かったよ」

 

 こちらを絶望した顔で見てきた少女は、抵抗もなくアストに引き渡された。

 

 何かを勘違いしているらしいこの少女に、酷いことなんてしない……そう伝えたいアストだったが、無言でクインに預ける。血に濡れた体も、腕のキズもそのままには出来ない。クインならすぐに対処してくれるだろう。

 

「クレオン。悪いが此処で何があったか教えてくれないか?大事な事なんだ」

 

「は、はい!」

 

 アストはクレオンに向き直り、話を聞く体勢を取った。

 

 

 

 

 

 

「そうか……」

 

 ちょこんと椅子に座り両手を膝の上に置いて、エリに濡れた布で顔を優しく拭き取られている少女を眺めながら、アストは自身の考えが間違っていなかった事を知った。

 

「もう一度聞くが、あの子がその力で癒す前に自分の腕を傷付けた、それは間違いないか?」

 

「は、はい! 決して私がやった事では……!」

 

「いや、君のことを疑っているわけじゃないんだ。誤解したなら謝るよ」

 

「い、いえ!こちらこそ申し訳ありません……」

 

 ホッとしたクレオンを見ながら、アストはあの子の……いや聖女の力の発露には、その余りに残酷な条件がある事を認めるしかないと拳を強く握りしめた。

 

 黒神ヤトは、何故そんな酷い事を……

 

 不遜だと知りながら、アストは心の中で怒りを感じてしまう。思考の海に沈みそうな時、アスティアの声が聞こえて現実に戻る。

 

「どうしてこんな怪我を……こ、こらっ……ジッとして!」

 

 見るとクインが腕の処置をしようと、薬草液であろう薬瓶を傾け、傷口を洗浄しようとしている様だ。先程までは大人しくしていたが、何かが嫌なのか掴まれた腕を振り解こうとしていた。

 

「痛いかも知れないけど、我慢して! 先ずは傷口を綺麗にしないといけないのよ? ねっほらっ……」

 

「暴れないでっ……傷口がもっと開いちゃう!」

 

 アスティアとエリも少女に声をかける。だが少女はどうしても嫌なのか、頑なな態度を崩さない。

 

「先程も処置しようとしましたが、それが嫌なようで拒否されました」

 

 声が横から聞こえたアストは、クレオンを見た。

 

「そうなのか?」

 

「あの子に渡した布も、自分の事も気にせずに騎士の体を拭いていましたから……我が事などどうでもいい……そう思っているのでしょうか?」

 

 クレオンからは悲痛な感情が見て取れた。

 

 そうこうしている内に少女はクインから薬瓶と綿、包帯を引ったくり、部屋の隅に行き背中を見せた。よく見えないが、自分で処置しているようだ。

 

「どうして……?」

 

 アスティアも、手伝っていたエリもクインまでもが、人の優しさや気遣いを受け取ろうとしない少女に、痛ましい気持ちになってしまう。

 

 疲れた顔をして戻ってきた少女の手中にある薬草液や包帯、綿は殆ど減っていない。傷口は袖の下に隠れて、どんな処置をしたのかも隠している。まともな処置をしていないのは明らかだった。そしてもう平気だから……という顔をして、側の机に包帯などを並べて椅子にストンと座り直す。

 

 皆にはそう見えた。

 

「まさか……薬や包帯を使うのは自分ではないと……?皆に……怪我をした騎士や患者に……?」

 

 クレオンの呟きは、皆の思いの代弁だった。

 

 もはやここにいる全員には、自身を顧みない絶対の奉仕の心を持った少女としか見えなくなっていた。だからクレオンは、抑える事の出来なくなった感情をアストにぶつける。

 

「刻印……あの子は神々の加護を受けた刻印持ちなのですね?あれはまるで……まるで聖女、聖女そのものです。黒髪(クロカミ)の聖女……」

 

 ギョッとしたアストは思わず聞いた。

 

「君は、刻印が読めるのか? 何故黒神だと?」

 

「……? あの美しい漆黒の髪は、他には無いと思いましたから」

 

「漆黒……そうか、そうだな」

 

 アストはその相貌を引き締めてクレオンや皆にいった。

 

「皆聞いてくれ。ここで起きた事や見た事は、当面の間秘密とする。他言無用、勿論刻印の存在もだ。これはリンディア王国の王子としての命令でもある。クレオン、わかったか?」

 

「は、はい! しかしなぜ?」

 

「事情があるんだ……永遠に黙るという事ではない、理解して欲しい」

 

 

 

 

 

 

 少女の乱れた髪を整え終えた一行は、騎士達の様子を念の為確認したが問題は無さそうと判り胸を撫で下ろした。

 

 城に戻ろうと立ち上がりクインとアスティアに両手を持たれた少女の後ろ姿を見たクレオンは、思い出したのか突然余計な事を言った。

 

「刻印……そういえば、"脛" と ''太もも" にもありました!」

 

 本人は良かれと思ったのだろう、自信に満ちた表情でアスト達に伝えた。当たり前だが、それを見られた少女がいる前で言う事ではない、いや居なくてもだろう。

 

 

「クレオン、どうやったらあの服の奥に隠れた太ももを見る事が出来るんだ……?」

 

 足首まで隠れるかと思える裾を指差しながら、アストは地から這い上がるような声で問うた。アスティア達も不穏な表情をしている。

 

「えっ……それはっ……あっ」

 

 

 クレオン今日の幸運と不運を再び嘆き天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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13.聖女の目覚めと脱走 その顛末⑤

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒の間

 

 

 リンディア城の中心部、階層では王の間より僅か二階程しか下がらない。

 

 最賓客を迎えるその部屋は、リンディアに伝わる絵画などの美術品を各所に散りばめている。そして絢爛でありながらも、黒と白を基調とした家具類により落ち着いた調和を見せる美しい空間だ。

 

 暖炉の上にはリンディアの国土をモチーフに美しく織られたタペストリーが掛かっている。精緻に彫られたクリスタルの二本角の馬はまるで生きている様な躍動感で前足を跳ね上げ、光を反射して輝きを放っていた。

 

 大きくせり出したベランダはそこだけで一つの完成された庭園の様に、美しい花々、磨き上げた黒い石材のテーブル、濃いブラウンの蔦を織り上げて組まれた椅子などが配置されており、大陸一と謳われた王都リンスフィアが一望できた。

 

 高層階でありながら、洗面所すら完備され水浴びやお湯を運び入れて身体を清めることすら出来るだろう。

 

 また、階下から直接そこに行く事は出来ない。一度王の間に向かう階段を経由しなければ辿り着けないその場所は、王国内でも有数の安全な場所とされ、そこに招かれる者は一握りしかいない。

 

 訪れた者は、故郷に帰りその素晴らしさを伝えずにはいられない。

 

 ここはそんな稀有な場所なのだ。

 

 

 その黒の間に置かれたゆうに大人4人は眠れるだろうベッドの端に寄り、真っ白で薄手のリネンワンピースを着た黒髪の少女が膝を両手で抱えて顔を埋め、コロンと横になっている。

 

 その愛らしさからは程遠い怨嗟の声を心で上げているとは、誰も想像など出来ないはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……本当は大声で泣き叫びたい。

 

 

 俺は情け無い事に目尻に涙を溜めながら、つい数時間前の事を考えていた。

 

 もしかしたら俺は、もう木崎和希ではないのかもしれない。

 

 見ず知らずの大人のために、折角のチャンスをふいにしたのだから。 突然訪れたチャンスだったとはいえ途中までは良かった。闇に紛れて城を抜け出すことが出来ただろう。

 

 なのに俺は朦朧とした意識で一人の怪我を治し、もう一人に至っては口から血を吸い出すまでして助ける事になった。 意識が全く無いならまだいい。 ところが記憶には存在していて、終わった後の安堵と満足感すら覚えている。いや、正直になろう。 今でも人の命を救えた事に喜びを感じている。そして暫くはそれに浸っていて、まだ残っていた脱走のチャンスすら失った。

 

 この城の連中が何を考えているのかは正確にはわからない。 しかし、俺すら理解不能な治癒の力を欲するであろう事は明らかだろう。 見た限り医学はそこまで進歩していないこの世界では、この力は破格の価値を持つのは馬鹿な俺でも分かる事だ。

 

 それはこの無駄に大きなこの部屋からもわかる……まさに籠の中の鳥だ。

 

 そして力が自分でコントロール出来るなら良い。それを家業として稼ぐ事も出来るだろう。ところが心すらヤトに操られているのだろう俺の体は、言う事をきかない。 言葉すら理解出来ない俺には金勘定も出来ず商売も不可能だ。

 

 こんな事なら意識ごと奪ってくれた方がましだった。

 

 

 さっきまでいた病院らしき建物の中で腕の治療をされそうになった時は、冷や汗が出たものだ。他人を治す力も大概だが、自身の体すら素早く治癒する事だけは知られたくないし、餓鬼の頃には戻りたくはない。

 

 どうやら不可思議な力はこの体を傷付ける事で発動するらしいが……人より早く治癒するこの体は、その性能の効率を高める事になる。俺にとってはいい迷惑だ。 あの化け物と戦争しているらしいこの国には尚更のこと知られてはならないだろう。

 

 それなのに俺は……もう逃げるのは難しいと結論付けるしかない。

 

 ここから見える扉には鍵はかかっていない。この体ではあの重い扉を押し開くのも一苦労ではあるが、不可能じゃない。 問題は外にいる鎧姿の男達だ。さっきそっとドアを開け、半分ほど顔を出して外を伺おうとしたら、何処かで見た事のある顔の鎧男がこちらを見てニヤリとしやがった。 逃げるのは無理だと言いたいのだろう。

 

 更に輪を掛けて、ここは脱走した部屋と違い階層も高く城下町から遠い場所だ。運良くこの部屋を出れたとしても以前の様にはいかないのは明白だ。

 

 せめてこのまま何も無ければいいが、それすら難しいだろう事はさっきの風呂場らしき場所でされた事からも想像がつく。

 

 あの背の高い女に連れて行かれた風呂場で裸にひん剥かれた俺は、身体中をペットのように洗われたのだ。

 

 まるで子猫や子犬が洗面器の中に居て、飼い主がお湯を掛けながら泡立てた両手でわしゃわしゃと洗われるアレだ。

 

 あの背の高い女は侍女服を麻か何かで出来た服に着替えて俺の前に現れ、無駄に広い風呂場であろう部屋に連れ込み、俺の身体を洗い始めたのだ。この身体は俺の物じゃないし、どうでもいいが疲れたのは間違いない。

 

 そして一番恐ろしいのは磨かれた身体中にある入れ墨、ヤトの言う刻印とやらを詳しく模写されていた事だ。 各刻印を書き写したであろうその用紙には、メモらしき言葉がびっしりと書き込まれているのが見えた。おそらくここに運び込まれた時だろう。 どんな刻印なのかは、俺も知らないが碌なもんじゃないのは間違いない。あれを調べられたら身体を操ったり、自由を奪われる可能性がある。 今でもそうなのだから。

 

 考えれば考えるほど、絶望的な状況だ。

 

 最悪は戦争の道具として使い回される可能性がある。 いや、この身体は小さな少女なのだ。 用済みになるか、反抗的な態度を続ければもっとタチの悪い奴等に引き渡される可能性すらあるのかもしれない……

 

 だから俺は、子供の様に膝を抱えている。

 

 堪えきれなかった涙が流れるのを感じたが、それを止める気力も無くなってしまう。そうしているうちに俺は、眠ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エリに頼んで内緒で厨房から持ってきた焼き菓子は、香ばしくて甘い香りがする。今のリンディア、いや世界では昔の様に頼めば何でも出て来る王族や貴族みたいな生活は出来ないけれど、あの可愛らしくも儚い少女に焼き菓子を渡すくらいなら神罰も当たらないだろう。

 

 アスティアはそんな事を考えながら歩いている。でも本当は、あの子と一緒にベランダのテーブルでリンスフィアを眺めながら話をしたいのだ。今日の一番の希望と目標は何時も何か辛そうなあの子の笑顔を見ることだ。

 

 辿り着いた黒の間には二人の騎士が立ち少女を守っている。騎士達に会釈しノックはするが、返事はないのは分かっている。

 

 アスティアが一人そっと扉を開くと折角の大きなベッドにもかかわらず、その端に小さく丸まって顔を膝に埋めた少女が見えた。

 

 後ろ手に静かに扉を閉めベッドの直ぐ傍まで近づいて顔を覗き込むと、眠りに落ち閉じた目から涙が零れているのが分かり悲しくなってしまう。

 

 人々の苦しみを、死を、この世界の痛みを悲しんでいるのだろうか?

 

 ハンカチを取り出してそっと涙を拭きサラサラとした黒髪を撫でたあと、起こさない様にシーツを掛ける。

 

 サイドテーブルに焼き菓子を置きもう一度頭を一撫でして部屋を出たアスティアは、締め付けられた胸をそっと押さえて黒の間を後にした。

 

 あの子の名前を知りたい。名前を呼んで、大丈夫だよと抱き締めて上げたい。

 

 兄様は、落ち着いたらあの子の事を教えると言っていた。早く教えて貰って出来る事をしよう。エリもきっと手伝ってくれる。

 

 アスティアは、強く思う、伝えたい。

 

 大丈夫、大丈夫だよ……と。

 

 

 

 

 

「ノルデ、どうだ何かあったか?」

 

「殿下……特には何も。ただ少し前ですが扉を開けて、半分程可愛らしい顔を見せてくれました。 すぐに閉められてしまいましたが」

 

 ノルデは苦笑して扉の方を見た。

 

「そうか、もう怪我も大丈夫そうだな。 良かった」

 

 それを見たアストはホッとした表情で、ノルデと同じく扉の方を見る。

 

「つい先程はアスティア様が。お菓子を一緒にと来られましたが寝ていたそうで……がっかりしてましたよ」

 

「ははは、そうか」

 

 アストの笑顔にノルデは目尻を下げて笑い、急に真面目な顔になりアストに真っ直ぐに体を向けた。

 

「殿下。このノルデ、知らなかった事とは言え殿下のお命を救おうとした、救ってくれた少女を殴り付けたなど許せるものではありません。この命に代えても必ず守ってみせます。御安心下さい」

 

「ノルデ、お前は考えすぎだ……まあいい、もしあの子が外に行きたいとか、察することがあれば出来るだけ応えてあげてくれ。陛下からも最大限の対応を許可頂いている。 何かあればすぐに言ってくれていい」

 

「はっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クインとコヒンは、ランプの光が淡く揺れるコヒンの私室にいた。 変わらず本や巻物に埋もれた部屋だ。

 

 二人は何処か疲れが見える顔で、刻印の事をまとめた用紙を眺めている。あの黒髪の少女の刻印だ。

 

 黒神ヤトの刻印と判明した事で解読は一気に進み、少女の刻印がどういった力を持つのか、意味を持つのか、そのほとんどが判明したと言っていいだろう。より正確に模写する事が出来たその資料も充分役に立った。

 

 だが、その解読を進める事が出来たクインに歓喜の色はなかった。

 

「お祖父様……これは……これではまるで……」

 

「うむ……クインの想定で間違いないじゃろう……認めたくなどないが……全ての刻印が影響し合うよう計算されているとしか思えん。 辻褄が合ってしまう。 一見矛盾した刻印たちはその為にある」

 

「そんな……そんなの悲し過ぎます……あの子は何のために……もし世界が救われたとしても、あの子を誰が救うと言うのですか……」

 

 普段は感情をあまり表に出さないクインの白い相貌と青い瞳に、神への強い怒りと、何も出来ない自分への悔しさが浮かんでいた。美しい金の髪は、怒りと哀しみに揺れている。

 

「クイン……この結果を陛下や殿下に報告するかを考えなくてはならんぞ。 全てを知れば苦しむかも知れん。辛い決断を迫られる事になろう……」

 

 クインはほんの少しだけ考え、コヒンを力強く見た。

 

「……お話しします。皆でもっと良い方法を見つけて見せましょう。必ず……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディアの懐に抱かれた聖女は絶望の中にいる。

 

 アスト達から送られた慈愛というケープに包まれて、その存在を許されている。

 

 大丈夫だと、許されている。

 

 しかし聖女はそれを知らない、知ろうともしない。

 

 

 

 

 

 

 そして、少しずつ、世界は動き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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14.聖女が名前を呼ばれる日①

お気に入りが200件を超えました。ありがとうございます。感想や評価を宜しければお願いします。


 

 

 

 

 

 

 

 クイン=アーシケルは両手で抱えられる小さな木箱、その上に重ねられた紙の束と共に長い廊下を静かに歩いていた。

 

 今日は白神も泣いているのか、朝から雨がザーザーと降り続いている。叩きつける雨音は只でさえ静かなクインの足音を完全に覆い隠し、そのまま流れていった。

 

「雨は嫌い……」

 

 嫌な事を全部洗い流すなら少しは好きになるかもしれないが、そんな気の利いた事などしてはくれない。 癖っ毛のクインは濡れるとぐにゃりと曲がる髪のせいで雨の日は憂鬱なのだが、それを認めるのが嫌なのだろう。

 

 聖女が住む黒の間までの道のりは、もう決して遠くはない。

 

 今日、クインが祖父コヒンと共に解読した刻印についてアストやアスティアに伝える事になっている。 そして王であるカーディルへいつ、どう伝えるのか考えなければならない。 これはカーディルへの信用の問題ではなく、王として決断を迫ることになるのは明白だからだ。

 

 黒神ヤトが刻んだ刻印は大きな力を与え、あの子を聖女とした。

 

 そう、あの子は間違いなく聖女なのだろう。

 

 言うなれば、黒神の加護を一身に受けた"黒神の聖女"だ。

 

 それを知っているクインだが、それでもアレを加護とは認めたくはない。

 

 ーーあれは、呪いだ。

 

 クインは不遜と知りながらも、黒神ヤトに怒りを覚えているのを自覚していた。 小さな、たった一人の少女に言ったのか……命をかけて世界を救え、と。

 

 雨は歩く足音を消してはくれても、クインの怒りは洗い流してはくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 アスティアとエリは一足先に黒の間に来ていた。しかし最初の第一声は、挨拶ではなく呆れと怒りへ変わる。

 

「おは……なんて格好をしてるの!」

 

 黒髪の少女は、部屋着さえ放り投げて下着姿でドアを開けたのだ。 すぐ側には警備の騎士2名が立っているのも気にしていない。

 

 慌ててドアを閉めた二人は、もう一度少女を見て言葉を失った。

 

「刻印……? 身体中に刻印が……」

 

 どうやら下着姿になって、洗面室の掃除をしていたらしい。植物の繊維を束ねたブラシが床に転がっているし、少女自身も少し濡れている。

 

 二人の頭の中は疑問符が頭を飛び回り、暫く動けなくなった。

 

 どうして黒の間の客人が掃除をしているのか、下着姿にもかかわらず平気でドアを開けるのか、首にある刻印だけでも驚いていたのにあちこちにある刻印は何なのか、そんな事が頭の中を駆け回っているのだろう。 少女が訝しげに首を傾けるまで、二人は動き出しはしなかった。

 

「これ……間違いなく刻印ですよね? もしかしなくてもこの子って凄い方なのでは……」

 

 妙な言い回しをするエリに呆れた視線を送りながらも、アスティアにはやっと理解出来た。

 

「兄様が事情があるって言っていたのはこの事ね。 クインが最初に呼ばれたのも納得出来るし、この後の話も刻印絡みでしょう」

 

「いいなぁ羨ましい……こんなに白神に愛されているなんて……あれ?腕の傷がもう塞がってる……」

 

 エリが腕を取って眺めた時、慌ててその腕を後ろに隠した少女を見ていたアスティアは気付いた。

 

「寒いのかしら? 急に震え出したみたい。 エリ、兄様が来る前に体を拭いてあげましょう。このまま着替えさせる訳にいかないでしょう?」

 

「そうですね、すぐにお湯を取って来ます。 少し待って下さい」

 

 エリはそう答えると、中を見られないようドアを少しだけ開けてスルリと出ていった。

 

 

 

 少女は最初自分で拭いていたが、様子を見たエリに手拭いを奪われた。 ごしごしと余りに乱暴な洗い方の為、肌が赤くなっていたからだ。

 

「もう、男の子じゃないんだから、丁寧に洗わないとね?」

 

 全くシミも黒子もない体を不思議に思いながら、エリは優しく洗う。

 

「はい、お終い」

 

 乾いた布で水分を拭き取ったエリは何故か変に嫌がる下着を付けさせて、少女がお気に入りらしい白のワンピースを着せて洗面室から連れ出した。

 

「終わった? 髪を梳かして上げるから、こっちへいらっしゃい」

 

 どうも意思疎通が上手くいかない気がして、アスティアは出て来た少女の手を取り化粧台の前に座らせる。 櫛を取り鏡に向いて座っている少女を背中から眺めた時、母アスを思い出した。それは暖かくて哀しい、でも離したくない……そんな気持ちだ。

 

 お母様もこんな気持ちだったのだろうかと少しだけ涙が滲んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ノックの音が聞こえてアスティアは我に返った。

 

「エリ、きっと兄様とクインだわ。開けて頂戴」

 

「はい」

 

 驚くほど指通りの良い黒髪を整えながらエリに任せ、 最後に鏡で確認し立ち上がってドアの方を向く。

 

「おはよう、エリ。 アスティア、今日も綺麗だね」

 

 カーディルと同じ事を言うアストに思わず笑顔になったアスティアは、少しだけ呆れながらも懐に抱えた木箱を見た。

 

「ありがとう、兄様。 その箱はどうしたの?」

 

「ああ、クインが持って来ていて重そうだから預かったんだ。なかなか渡してくれなかったけどね」

 

 苦笑するアストの大きな体の背後から、エリに軽く挨拶をしたクインが現れた。

 

「アスティア様、おはようございます。 殿下、何度も言いますが使用人の仕事を取らないで下さい」

 

「これだ」

 

 おどけながらアスティアに笑ってみせる。

 

「ふふふ、相変わらずね。それと……おはよう、クイン」

 

 振り返ると少女も立ち上がりこちらを見ていた。

 

「兄様、この子にも挨拶をお願い」

 

「ああ、勿論だけど、名前が分からないのは不便だな」

 

 アストはおはようと少女に言いながらも、眉間をしかめた。

 

「そうですね……何度か私達の名前を伝えましたが、分かって貰えたのかどうか……」

 

「殿下、それも含めて説明します。どうかお座り下さい」

 

 朝のこの時間は、大きくせり出したベランダで過ごすのが気持ちが良い。しかし残念ながら雨のため、クインは採光窓の側にある円形のテーブルに二人を促した。 窓は雨垂れで滲み、せっかくのリンディアの景色を隠している。

 

「クインも座ってくれ。落ち着いて話をしよう」

 

「殿下……そういう訳にはいきません」

 

 固辞しようとしたクインにアスティアも言葉を重ねる。

 

「クイン、座って頂戴。 私もそうして欲しいわ」

 

「……わかりました」

 

 二人に用意した紅茶を音も立てずに置いたクインも、これ以上は無駄と判断した上、失礼にも当たると仕方なく腰を下ろした。 そして少しだけテーブルから離れたところには、エリが椅子を二脚並べて二人で座った。 サイドテーブルには果物を用意してあり少女に食べさせてあげるのだろう。

 

 

 

 

 側に置いてあった木箱から幾つかに束ねた紙を取り出してアスト、アスティアの二人の前に丁寧に置き、その後エリにも渡したクインは木箱から更に幾つかの木製のブロックを取り出した。 端的に言えば積み木であり、球状のもの、円錐、立方体などだ。

 

「クイン……それは?」

 

「はい、後で使います。 まずは殿下もアスティア様もそちらをご覧下さい」

 

 先程置いた紙束を指し示したクインはエリにも視線を送った。

 

「エリ……」

 

 アスト達はクインの冷たい呼びかけに少し驚いて、エリを見て納得する。エリはフォークで刺した葡萄の一粒を少女に食べさせようとしていたが、少女は口を閉じて嫌がっているように見える。閉じた口に押し付けた葡萄は少し押し潰されていた。

 

「あ、あの……すいません……少し意地になってました」

 

「その子も子供ではありません。フォークは渡しなさい」

 

「はい……」

 

 渋々と葡萄の刺さったままのフォークを渡して、紙束を手に取り浮かしていたお尻を椅子に下ろした。

 

「はあ……」

 

 エリが居ると空気が緩むのを感じるが、同時に自分では出来ない事だとも理解するクインは溜息一つで済ました。

 

 

 

 

「それでは改めて、解読した刻印の説明を致します」

 

「クイン、ちょっと待ってくれ。 少しだけ目を通したが……女性の身体にある刻印を詳しく話しするのは拙いのではないか? ましてや本人のいる前でだ」

 

「はい、殿下の言われる通りです。 その事も含めて説明致しますので、少しだけ時間を頂けませんか?」

 

「そうか……余計な事だったな、すまない」

 

「いえ、とんでも御座いません」

 

「兄様も間違ってないのだし、いいじゃない。 クイン始めてくれる?」

 

 アスティアを見て頷いたクインは、もう一度少女を見て口を開いた。

 

「最初の1枚目を開いて2枚目を見て下さい」

 

 1枚目には、美しい筆致で[刻印の解読と考察]と書かれていた。クイン直筆の羽筆によるものだろう。 そして皆が紙をめくり、暫くは沈黙が続いた。

 

 

「ある程度は解っていたつもりだが、やはり驚くな……」

 

「7つもの刻印なんて、物語でも見た事ないもの……」

 

 アストもアスティアも何とか言葉をひねり出したが、やはり沈黙は続く。

 

「まずは、解読結果を説明します」

 

 クインは感情を抑えた声で告げ、二人に視線を合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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15.聖女が名前を呼ばれる日②

 

 

 

 

 

 

 右胸部ーー癒しの力[聖女] 5階位 封印

 

 下腹部ーー慈愛[狂?] 3階位

 

 左肩ーー-自己犠牲[贄の宴] 3階位

 

 喉、首ーー言語不覚[紡げず、解せず] 3階位

 

 右太腿ーー利他行動 2階位

 

 左脛ーーー自己欺瞞 2階位

 

 左臀部ーー憎しみの鎖[繋がり?] 1階位

 

 

 

 

「これが……加護、なの……?」

 

 アスティアは刻印の数々から、いかに神々に愛された子だろうかと少しだけあった嫉妬も消えていくのを感じた。エリがさっき言っていたではないか、白神に愛されて羨ましいと。 自分の体温が下がったことすら自覚する。

 

 クインとコヒンの解読が事実ならば一体どんな神が刻んだのか、冷たい怒りが湧き上がってくるのをアスティアは抑える事が出来なくなっていた。

 

「ああ、こんなのは加護とは言いたくない……これではまるで……」

 

 呪いではないか……思わず口に仕掛けたが、同時にすぐ側には少女がいる事を思い出してアストは口をつぐんだ。

 

 丁度少女は葡萄を口に放り投げ、失敗して小さな鼻に当てたところだった。 こちらの話には全く興味がない様子で、 逆に先ほどまで遊んでいたエリはじっと解読された内容を読んでいた。

 

「説明を続けます。 彼女がここにいる一つ目の理由です。言語不覚の刻印の影響で、話をする事は出来ません……ただ、もっと大きな問題があります」

 

「言葉を紡げないだけでも大変なのに?」

 

「はい。彼女はおそらく、我々が話す会話も、書かれた文字すらも理解が出来ないでしょう。 これは知能の問題ではありません。むしろこの子の知能は非常に高いと推測されますから」

 

「意味を理解出来ないって言うの……?」

 

「はい、これを見て下さい」

 

 クインは積み木を並べてみせる。

 

「丸い、四角い、小さい、軽い。 この積み木を隠しこれらの言葉を彼女に伝えても、それを導き出す事は出来ないのです。但し、彼女がこれを見たり触ったりする事でこれが何なのか、どういった形状や材質なのかをしっかりと理解出来ます」

 

 積み木を隠したり見せたりしながら説明をするクインを見て、その為の積み木だったのかと思いながら、よく理解も出来た。 言葉だけではピンと来なかったかもしれない。

 

「つまり積み木を理解出来ないのではなく、言語による理解だけが制限されているのか……」

 

「その通りです。この子は治癒院で騎士を癒し命を救ってくれました。 気管に溢れた血を吸い出して呼吸を確保し、更に腹部に残っていた金属片すら取り出し傷を塞いだそうです。治癒院にいたクレオンさんが間近で見ていたので間違いありません。 これは高度な知識や経験がないと成せない事です」

 

「クインは、この刻印が後天的に刻まれたと言いたいんだな? 生まれてすぐ見つかる刻印ではないと」

 

 アストが導き出した事を認めつつ、クインは更に答えを加えた。

 

「おそらく、いえ間違いなく[癒し]と[慈愛]は生まれつきあった刻印と思います。 優しく、慈愛に溢れた女の子だったのでしょう……寧ろ、そこに目をつけられて別の神に後から変えられたのです」

 

「変えられた? 別の神に?」

 

 アスティアの疑問に、アストとクインは目を合わせた。

 

「アスティア様、癒しと慈愛の刻印以外は黒神、黒神ヤトに刻まれました ……ヤトは……太古から在る憎悪や悲哀、痛みなどを司る強力な神の一柱なのです」

 

「憎悪や悲哀、痛み……そんな……」

 

 エリですら何時もの笑顔は消え、少女の横顔を見ていた。

 

「クイン、この子はこれからもずっと会話が出来ないの?」

 

 アスティアの今にも泣き出しそうな目を見てクインも哀しくなったが、刻印の説明は始まったばかりである事を思い、お腹がギュッとなるのを感じた。

 

「はい、残念ながら……そうです」

 

 出来る限り感情は抑えたつもりだったが、やはり声は震えていた。悲しげなアスティアを見れば、それを止める気も消えていく。

 

「続けます……殿下、言語不覚も問題ですが本質は他にあります。 ここからは私の推測も混じる事をご理解下さい。それと……アスティア様……これからの内容は非常に辛いものになるかも知れません。それでも、お聞きになりますか?」

 

 クインに真っ直ぐに見つめられ思わず怯んでしまうが、同時にアスティア想う。鏡の前でこの子の髪をとかしたときを。

 

「ええ、勿論聞くわ。続けて頂戴」

 

 アスティアの力強い言葉にクインだけでなくアストも感心し、彼女の成長を知り誇りに思った。

 

「分かりました。では、次を見て下さい」

 

 部屋に紙をめくる音が響いた。 雨は激しさを増し、まるで聖女を哀れんでいるかのようだ。

 

「彼女は慈愛の刻印を持っています。しかし[憎しみの鎖]は一見[慈愛]と相反した刻印だと思われませんか?」

 

「ああ、そう思う。 僅かな時間とはいえ見てきた彼女の行動からも、憎しみなど感じることもない」

 

 アスティアもエリも頷いている。

 

「彼女の刻印は全てのそれぞれが鎖の様に繋がって影響を与えていると考えられます。 黒神ヤトは計算して刻印を刻んだのでしょう……」

 

 その説明は、聞けば聞くほどアスト達三人の心に冷たい雨を降らしていく。

 

 憎しみの鎖は外に向いているのではなく、彼女自身に向けられている。これは何らかの過去が影響を与えているはず。また慈愛に反しないよう自己欺瞞で誤魔化し、これにより彼女は自身への価値を見出せない。 ひどく自己肯定の薄い人になる……

 

 アストはその内容に、したくもない納得をしてしまった。

 

「だから自らを傷つけても、誰かが心を痛めても、何も感じていないように……」

 

「はい……でも、それでもまだ終わらないのです」

 

 クインの推測は続いていった。

 

「黒神ヤトは癒しの力を用いて世界を救済するつもりでしょう。しかし5階位の力など人には過ぎたものです。魂魄の容量からも人は2階位、しかも二つまでしか刻印は刻めない筈でしたから」

 

 癒しの刻印に力を与えるため、魂魄の容量を犯さないために、[自己犠牲-贄の宴]を刻んだのだとクインは続けた。

 

 自己肯定の薄い彼女は、簡単に自らを傷つけて贄を用意してしまう。魂魄からではなく、自らの血肉を用いる事でその力を引き出すのだと。

 

「……利他行動……自分ではない第三者のために自己を顧みずに動き、狂わされた慈愛によってそれを簡単に実行に移すのでしょう……疑問を持ったとしても悲鳴をあげることも、誰かに助けを求める事も彼女には出来ないのですから……」

 

 言葉を紡ぎながらもクインの美しい唇は噛み締められ、同時に手を握り締めて心の葛藤と怒りを表していた。

 

「そんな……そんなの酷すぎるわ……この子はそんな事をする為にいるとでもいうの……」

 

「そんな事許されて良いわけがない……まだ大人にもなりきれていない少女じゃないか……それに……それではまるで、聖女じゃなく……」

 

 

 

「この子は聖女ではなく()()だと……そう思いますか?」

 

 

 

 黙ってしまったアスト達に、クインは自分も否定したいと思う。

 

 しかしコヒンも言っていた……辻褄が合うと。

 

「黒神ヤトは全てを計算して刻印を刻んだのです。 この子は放っておいても血の流れる戦場に赴き人々を癒す事でしょう。 自らの意思なのかも分からず、誰にも告げる事なく」

 

「でも……人々は癒され、もしかしたら世界は救済されるかもしれません……では誰が彼女を癒し救うのでしょうか……?」

 

 その言葉に誰一人として答える事が出来なかった。

 

「殿下……恐ろしくはないですか……? この子は腕を切り裂き、その血肉によって人々を癒すのなら……もし幾ら血肉を捧げても癒す事の出来ない大勢の人がいたら、次は何を差し出すのでしょうか……?」

 

「命を、命を差し出すと……?」

 

「刻印の全てが、それを表しています。 自己を顧みさせない慈愛と、それにより力を増す癒しの力が……そして、それが世界を救済する鍵なのかもしれません」

 

 

 

 

 

 

 黒の間には、ただ窓を叩く雨音だけが響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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16.聖女が名前を呼ばれる日③

 

 

 

 

 

  コロコロと転がってきた丸いもの、葡萄が足に当たってアストは我に返った。 少女はいかにも"拙いことになった"という顔をしていて、思わず笑みをこぼしてしまう。

 

 闇の中で迷子になった子供のように行き場のない気持ちを抱えていたアスト達にとって、それは一筋のそよ風のようで……少しだけ空気が弛緩したのを感じる事が出来た一瞬でもあった。

 

 クインが手を伸ばして葡萄を拾い、予備の紙に包んで懐に入れる。 後で処分するつもりなのだろう。

 

 ちなみに少女は益々顔色が変わって、下を向いて動かなくなった。

 

「殿下……カーディル陛下にどうお伝えしますか?」

 

「もちろんそのまま伝えるさ」

 

「殿下……陛下は大変責任あるお方で、同時にそれを行動に移す事の出来る王でしょう。 大勢の王国民の命と、たった一人の少女の命を天秤にかける事になる……陛下であれば御決断なされます。 それでも良いと思われますか?」

 

 王家の相談役としても意地悪な聴き方をしているのは自覚しているが、それは事実でもあった。

 

「違う、そうじゃない……陛下は、父上は分かって下さる筈だ……」

 

 クインは甘い考えだと一蹴しようとした時、アストは強い眼差しでその碧眼を向けた。

 

「クイン、教えてくれ。 黒神は邪悪な、邪な思いを抱く悪神なのか……?」

 

「いえ……そんな事はありません。黒神の中で最も力を持つとされる神は、死と眠りを司る神エントーです。 エントーは等しく人々に死と眠りを与えてくれます。 もしその加護がなければ……人は死を迎えた筈のあとも、生きた屍として彷徨い歩くと言われる程ですから」

 

「そうだ……私もコヒンやクイン、君にも教えて貰った。黒神は在りようや形は違えども、人々を等しく愛していると。 私はそれは間違っていないと思えるんだ」

 

 クインは、アストが何を言おうとしているのか分からずに困惑していた。 しかしアスティアは、何か希望を見出したかのように光を失っていた瞳の輝きを取り戻していく。

 

「クイン、もう一度考えてくれ。 癒しの力は何故封印されているんだ? クインの言う通りなら、封印などせずに直ぐに戦地に送り付ければいい話だ。 いや、他の刻印だって必要ないじゃないか。 私はそう思えるんだ」

 

「それは……死を迎えた時に解けるのでは……」

 

 言いたくもない考えを呟いたが、同時に否定の言葉を待つ自分がいると分かった。そして期待通り、アストは力強く確信すら持ったかのように高々と言葉を紡ぐ。

 

「そうじゃない、ヤトはヤトなりに聖女も愛しているんだ。 だから必ず皆が助かる道がある。 そうだと信じるんだ。 神々のご加護は間違いなく降り注いでいると」

 

 クインは眩しい光を見るように目を細めて、アストを仰ぎ見た。 アストは誇り高いリンディアの王となられるお方なのだと、彼は間違いなく、アスト=エル=リンディアなのだと。

 

 クインは涙が零れるのも構わずに、目の前の希望にただ頭を下げるのだった。

 

「はい、アスト殿下」

 

 雨は止み、雲の切れ間から光が黒の間に降り注ぐ。アストの白銀の髪と青い瞳はそれを反射してキラキラと光を放ち輝いていた。

 

 

 

「そうよ……兄様の言う通りだわ! きっと何か意味がある筈よ、だっていま私達と一緒にここに座ってるんだもの。 お父様と相談して、ケーヒルやジョシュ、みんなに力を借りましょう!」

 

 アスティアは、何時もの元気を取り戻してアストと同じように力強く声を上げた。

 

「はい、アスティア様。 本当に……本当にありがとうございます」

 

 クインは涙を取り出したハンカチで軽く押さえながら、思わず笑顔が溢れるのを止めなかった。

 

 

 

 

 少女はクインがハンカチを取り出した際、再び零れ落ちた葡萄を素早く拾い上げて自身のワンピースのポケットに入れた。危なかったと溜息をついた少女の横には、エリがしっかり目撃をして、ニヤついているのは気付いていないようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫くは涙が零れるのに任せ、ゆったりとした時間が流れた。雨雲は消えて暖かい日差しが降り注いで、光がカーテンの様に輝いている。ベランダに咲く花々はまるで宝石の様に彩られていた。

 

「申し訳ありません、殿下、アスティア様」

 

「いいのよ、貴女の泣き顔なんて随分貴重なものを見せて貰ったわ」

 

 アスティアは態とクインを茶化して笑った。

 

「はい……」

 

 クインもアスティアの優しさに甘えてそれ以上は何も言わない。

 

 

 

 少し落ち着きを取り戻した黒の間にアストの声が響いた。

 

「クイン、刻印の説明がまだ続いているようだが……?」

 

 もう全ての解説が終わったと思っていたが、最後にもう一枚だけ刻印の紋様を書き写した紙が残っている。 どうやら首に刻まれた刻印の一部を拡大したもの、そう見えた。

 

「あっ! はい、まだ重要な事が残っていました。 彼女にこの場所にいて貰ったもう一つの理由です」

 

 少し朗らかな声から悪いことではないとわかった三人は、少しほっとしながら耳を傾ける。

 

「これは、お爺様が見付けてくれたんです」

 

 刻印の模写を指し示しながら説明は続いていった。

 

「言語不覚の刻印、その紋様の一部に意味を成さない単語らしきものがありました」

 

 アスト達は幾ら眺めてもわからないパズルの様な紋様から探すのを諦めてクインの次の言葉を待った。

 

 

 

「一語一語は、時代も神々も違う神代文字のため、私達も最初は只の模様だと思いましたが、違ったんです」

 

 

 

「意味は含まれていません、ただ音を発音すればいいだけです」

 

 

「お爺様は結論付けてくれました。これは……彼女の名前だと」

 

 

 アストもアスティアもエリも、それを待ち望んでいたのだ。

 

 

 出会ってから今まで一度も声に出せなかった事を。

 

 

「こう読みます……」

 

 

「カ、ズ、キ……と」

 

 

 

 

 

 

 

 初めてこの世界に聖女の名前は告げられた。

 

 そしてこれから、人々は知るだろう。

 

 救いは舞い降りたのだと。

 

 神々は見捨ててはいなかったのだと。

 

 

 

 

 

 

 黒神の聖女「カズキ」が降臨したのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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17.森の胎動

お気に入り300件超えました。また、誤字報告も頂き助かりました。感想も沢山ありがとうございます。


 

 

 

 森人(もりびと)、と呼ばれる者達がいる。

 

 

 森に分け入り薬草や希少な樹液、霊芝や一部昆虫類を採集する人々、或いは森に生息する獣を狩り持ち帰る者達を総称してそう呼ぶ。

 

 昔はそれぞれの村には何人もいたし、ある程度管理された森の浅いところなら子供達の遊びや冒険の場の一つとして日常の風景に溶け込んでいただろう。

 

 森は恵みを齎すもので、人々の生活に寄り添う存在だった。

 

 しかし今、森とは恐怖と憎しみの対象となり、人に死と滅びを運ぶ代名詞となった。

 

 300年前から現れた魔獣が、恵みをもたらす揺り籠を奴等の棲まう恐ろしい巣に変貌させてしまったのだ。 森に入る狩人達も冒険する子供達の姿はない。

 

 

 森は変貌してしまった。

 

 

 森人と呼ばれる生業は……騎士達と並び畏怖と尊敬、そして僅かながら異物を見る目を向けられる、そんな人々だ。

 

 そんな森人達は必ず3人以上でしか森には入らない。

 

 採集や分業においてもそれ以下では効率が落ちる。

 

 しかし何よりも重要なのは、魔獣との遭遇だ。 森人達には魔獣に遭遇しない為の知識が受け継がれているし、経験も積む。しかしどれだけ森を熟知したとしても、魔獣と出遭えば死からは逃れられない。

 

 一人が倒れても、残った二人が別々の方向に躊躇なく逃げるのが森人が決めた絶対の掟なのだ。生き延びた者はその事を家族に伝えなければならない。その覚悟を持つ者こそが森人と呼ばれるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イオアンは身体の半分はあろうかと思える濃い緑と茶色に染められた背負袋を担ぎ、腰の小剣に手を添えながらひたすら無言で歩いていた。

 

 袋には使い古された小型のランプ、手彫りだろう木製のコップ、テント代わりにもなる外套、いくつかの革紐、大小数本のナイフが括り付けられている。 そして後ろには似た姿の二人が追従している。 二日前の昼に王都リンスフィアを出た3人は、南部の森を目指し見晴らしの良い丘をゆっくりと登り続け、あと少しで丘の頂上というところまで来ていた。 何年も掛けて大勢が踏みしめて来たのか、丘には曲がりくねった轍のように道が出来ている。

 

「あと少しだ」

 

 後ろの二人も知っている事と思いながらも自分に言い聞かせる様に呟いた。 休息予定地は丘を越えた先にある。もうすぐ夕闇が訪れる時間だが、休息地に間に合って胸を撫で下ろした。 闇の中で休息の準備などは御免だからだろう。

 

 

 

 

 

 外套を広げて鞘に入れた小剣で支え革紐で予め立てられている柱に括り付ける。そうして簡単な寝所を作ったイオアンと二人は、次に持ち込んだ廃材に燃える水を掛けて火を起こした。 これから簡単に食事を作り明日に備えしっかりと身体を休めなければならない。

 

「ローゼン、ヤッシュ。 疲れはどうだ?」

 

 頭をすっぽりと覆っていた毛糸編みの帽子を取り、髭で覆われた口を僅かに動かしてイオアンは聞いた。

 

「ああ、問題ないよ」

 

「はい、大丈夫です」

 

 イオアンは、二人の若者をその鋭く尖った両目で確認し、また燃える炎に視線を戻した。

 

「爺さんこそ大丈夫なのか? 引退してもおかしくない歳だろう?」

 

「ふんっ。お前に言われるほど耄碌しておらん」

 

「そんな事を言ってるんじゃない。まだまだ爺さんには教えて貰う事も多いが、体力だけはそうはいかないからな」

 

「ローゼンさん、心配ならそう言えばいいのに」

 

「ヤッシュ、また殴られたいか?」

 

 まるで兄弟の様に燻んだ赤毛を短く刈り込んだ二人を視界に収めながら、イオアンは明日入る森の事に考えを巡らせていた。

 

「明日は、夜が明ける前にここを発つ。 森には朝日が昇る頃に着くだろう。 だがつい最近も南部の森で魔獣と遭遇し、大きな被害が出たらしい。何かあればすぐに森を出る。わかってるな?」

 

「分かってるって。油断と慢心は森が死を運ぶ、だろ?」

 

「……そうだ、わかったなら無駄口を叩かず早く飯を食え」

 

「へいへい」

 

「……見張りは何時もと同じだ。ヤッシュ、いいな?」

 

「はい」

 

 残りの焼き締めたパンと薄めたワインを一気に流し込み、森人の3人はそれぞれが眠る準備を整えた。

 

 

 

 

 

 翌朝明けやらぬ時間に休息地を出た三人は、森が視界に入る場所で立ち止まり、岩陰に背負袋を降ろし僅かに離れた森を睨んだ。

 

 括っていた革紐を緩め袋から上半身を覆う程の毛皮を縫い合わせた上着を取り出す。 まだ獣臭も残っているそれを着込むと、更に地面に水を垂らして泥状にした土を体中に塗りたくっていく。 森人達が受け継いできた魔獣避けだ。彼等の間では、森に溶けると表現される。

 

 いくつか取り出した皮袋とナイフを持ち小剣を確認する。 背負袋はここに残し、帰りにまた回収するのだろう。 全員に手慣れた様子が窺えた。

 

 

「よし、いいな? まずはククの葉を採集に行く」

 

 ローゼンもヤッシュも昨晩の様な軽口は叩かず頷くだけで済ました。

 

「その後は深部から戻りながら、樹液を集める。霊芝は見つけたらでいい。 欲はかくな。 おかしな物を見つけたら必ず教えろ」

 

 イオアンの淡々とした言葉には、ずっしりとした重みがあった。 練達の森人は一種独特の迫力を持つ。 それは若い二人にはまだ無いものだった。

 

 

 

 

 

 イオアン達3人は、一定の距離を保ちながらほぼ平行に展開している。 約20歩分だろうか? これは採集物の発見の為であり、同時に3人同時に襲われないよう工夫されたものだ。 必ず両者は視界に収まる様に動き、大木等の裏側に姿が隠れた時はそれが現れるまで待ち前進する。 時間は掛かるが、長く先人から受け継いだ森人の知恵だった。

 

 イオアンは真ん中にいて、両方に気を配りながら四方に視線を送り森の深部を目指していた。苔生した地面は柔らかく、踏む度に青臭い香りと湿り気を帯びる。

 

 この辺りは木々が密集しており、所謂安全な場所と言える。 魔獣は体が大きく、木々が打ち倒されていない場所は即ち活動域ではないことの証明でもあるからだ。

 

 声は出さず手による合図だけを頼りに進む一行は、目的地であるククの葉が群生する水辺まで到着した。

 

 無言で採集を始めるローゼンとヤッシュを視界の隅に入れながら、イオアンは周りを警戒して周辺の確認をしていった。 これも勿論役割が決めてあり湖と言って良いこの場所は、同時に開けている為魔獣が現れてもおかしくない。

 

 

  足跡や草木の変化を見逃さない様に注意深く確認を終えたイオアンは、ようやく一息つく事が出来たのだった。

 

 

 

 皮袋一杯にククの葉を詰めたローゼンとヤッシュは、イオアンに合図を送った。 これだけあれば、小さな子供の命を何人も救えるだろう。 万能の薬草と呼ばれるククの葉は、熱冷まし、痛みや化膿止め、何より子供が罹患する風土病の特効薬として知られている。 典薬医、薬医には絶えず需要があり、治癒院等では在庫を切らせる訳にはいかないものだ。蝋燭から燃え上がる炎と同じ形をした葉姿は、森の奥深くでしか目にする事が出来ない。

 

 イオアンは地図を再度確認する。 森は変化することから沢山の注意書きが書き込まれていて、森人にとって宝と言っていいものだろう。

 

 今いる此処もかなりの深部だが、今から向かう場所は別の意味で危険なところになる。

 

 魔獣の活動域により近づく事になる。

 

 

 

 

 

 

 

 樹液の採取は多くの時間が必要だ。 ある種類の木の幹に、専用の工具で穴を開ける。 そこに親指程の太さの金属で作られた筒を差し込み、少しずつポタポタと流れ出る樹液を受けるのだ。 種類によっては1日から一週間程度で一杯になる。 しかしイオアン達が仕掛けたのは、約一ヶ月前だ。 それだけ粘性も高く、同時に希少でもある。 ククの葉と合わせ今回の目的の一つだ。

 

 

 

「おかしい……」

 

 イオアンは何かの違和感を覚えていたが、それが何なのか分からずに思わず呟いた。立ち止まり周辺を見渡す。 離れた二人は怪訝な顔をして、イオアンを見ている。樹液採取の最初の目的地まであと少しというところだ。

 

 ゆっくりと歩みを再開したが、違和感は拭えないままだった。

 

 

 

 

 そのまま何事もなく、樹液も回収出来た事でイオアンはとりあえず深呼吸をした。

 

 次の回収地点を目指すため、地図を広げて目的地の方角を見た時だった。

 

「地形が違う……」

 

 イオアンの記憶にない、地面の陥没や盛り上がりがあるのだ。木々はあるし、苔生した地面もある。 しかし何かが変わってしまっている事に漸く気付いたイオアンは、急いで二人に撤退の合図を送ろうと左右を見た。

 

「ヤッシュ……?」

 

 いつも視界に入れている筈のヤッシュが見えない。 イオアンは慌ててローゼンを探す。

 

 さっきまで樹液を回収していたローゼンの姿すら消えている。

 

 

 

 

 ーーーーグルルルル……

 

 直ぐ後ろから獣の様な唸り声が聞こえたイオアンは、咄嗟に小剣を抜き振り向いた。

 

 そこには……

 

 赤い壁が見えた。 無毛の肌、異常に盛り上がった筋肉、太い前足の巨大な爪、滴り落ちる涎……

 

 どうやってこんな近くまで……?後退りながらも魔獣の背後に避けられた茂みと黒い穴が見えた。

 

 地中だと……?

 

 深部とはいえ、ここは森人の活動圏内だぞ……木々の根も深い地下を潜るなど、こんな事ある筈がない……イオアンは絶望感を覚えながらも、必ず生きてこの事を報せなければならないと強く思い行動に変える。

 

「本能の赴くままに人を襲う獣では無かったのか……!」

 

 これは大変な事だ。 魔獣が計画的に森の地中を進み、リンスフィアを襲う、いや侵攻するつもりだとしたら……

 

 イオアンは全ての荷物を放り出して、大声で叫んだ。

 

「ローゼン!ヤッシュ! 生きてるなら、走って逃げろ!!魔獣が侵攻の準備をしていると伝えるんだ! 地中から……グハッ……」

 

 鋭い痛みと熱が走り、イオアンは自分の腹から赤い何かが飛び出しているのが見えた。

 

「く、くそっ……ローゼン……ヤッ……シュ……」

 

 無理矢理持ち上げた頭で見開いたイオアンの目には、二人が魔獣の側に倒れ、その原型すら留めていない姿が目に入った。

 

 遠のく意識には、妻や子供、孫達が不安そうにこちらを見ている気がしたが、それもすぐに消えて……暗い闇が訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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18.黒の間の住人

少しだけ趣を変えて。息抜き回。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まずは隙を窺う。

 

 従順な振りをして、少しずつ自由を得るんだ。

 

 そうしてこの鳥籠から出て、もっと警備の緩い部屋に行く。例えば侍女は無理でも下女ならどうだろう? 色々な場所へ移動出来るし脱走経路の下調べも出来る。

 

 もう一つ大事な事は、相手を観察することだ。

 

 ここは間違いなく君主制の国だろう。絶対的な支配者がいる以上、機嫌を損ねる訳にはいかない。 俺のことは置くとしても、現代日本とは違い個人の人権など吹けば飛ぶ埃のようなものだ。

 

 あの銀髪の美丈夫はおそらく王か王子、或いはそれに準ずる立場の人間だろう。 逆らっては不味い相手筆頭だ。

 

 さらに、銀髪娘はおそらくお姫様だ。 どうも怒りっぽいし、間違いない。いつもくっついてる赤毛は侍女だろうが、アイツはとりあえずは大丈夫だろう。

 

 もう一人の要注意人物は、あの背の高い金髪の女だ。ヤツはどうもヤバい気がする。この勘は間違って無い筈だ。

 

 

 そして、自分を知る事も大事だろう。

 

 この身体は昔と違い非常にひ弱だ。得意だった右拳も膝蹴りも使えない……いや、効果は望めない。金的への攻撃くらいしかないだろう。唯一の優位点は回復力だが、それは知られたくない。

 

 街の屑相手に少しばかり喧嘩が出来ていた俺も、この国の兵士に勝てるとは思わない。この国の兵士達は、あの冗談みたいな化け物と戦う本物の戦士だ。彼等からすれば、俺は只の餓鬼でしかないだろう。

 

 幸い、この身体は腹立たしいが可愛らしい。 情け無い事に涙脆くもなっている。庇護欲、同情心を掻き立てやすい筈だ。他人の怪我を治す力も、たまには披露して上手く利用すれば良い。

 

 

 

 これが大まかな流れだろう。

 

 生きていくのは一人が一番だ。 その為には、少し位の我慢など幾らでも出来る。

 

 最後に勝てばいい。

 

 俺なら大丈夫だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は朝から雨が降り続いている。 雨音で目が覚めた程だ。

 

 嘘みたいなベランダから見る景色は、さすがに俺も驚いたものだ。 行った事などないがヨーロッパの古い街並みはこんな感じなんだろう。

 

 石やレンガ造りの建物が放射状に広がり、石畳みの道が敷かれている。 かなり計画的に造成されたのが分かる。 全体的に白い建物で屋根は赤や茶色だろうか。 煙突からは煙が立ちのぼり、童話の世界にいると錯覚すら覚えるのだ。

 

 街全体は楕円形と言えば間違い無いだろう。 城壁が三重にあり、一番外の壁が最も高い。 防衛の意味が多く含まれているのだろうが、生憎その方面は明るくない。その外には、畑や草原が地平線の向こうまで続いている。 森が何処にも見えないのは不思議だった。

 

 俺にそんな感性があるとは知らなかったが、朝に見る景色はかなり気に入っている。しかし、今日は雨が降っていて、窓のガラスに滴りその景色もぼやけたままだ。

 

 良く眠くなるこの身体も今は目覚めたばかりで眠気も無い。はっきり言えば暇だ。 軟禁されている以上当たり前だが、やる事がない。

 

 ベッドの上にいつまでいても仕方がないし、顔でも洗うか……

 

 俺は洗面室に移動しようと裸足で床に足を下ろす。 いつも思うのだが、ここに敷かれている絨毯らしきこれは、ふかふかで柔らか過ぎるだろう。 俺が住んでいた六畳一間の和室の布団より柔らかいとはどういう事なんだ。

 

 そんな馬鹿らしい事を考えながら、洗面室に到着した。そう到着だ。無駄に広い部屋だから移動も楽じゃない。洗面室の床はタイルだろう陶器製だ。この間、金髪の女に犬猫のように洗われた大きい桶が置かれている。そちらを見て気付いた。あれは血の跡だろうか……血だらけの俺を洗い流した時の名残りで間違いない。

 

 下女として役に立つ事を見せるか……?

 

 一人暮らしをしていた俺は掃除も苦じゃない。 すぐ側の壁にはブラシだろう植物の束と白い粉状の石鹸らしきものがあるし、洗面台には桶に水もたっぷりと入っている。

 

 袖を捲って始めようとした時、ふわふわと揺れ動く服は邪魔だと気付いた。 それに服を汚して不興を買うのは不味いだろうと思い、一度部屋に戻って、頭からシャツを脱ぐように服を脱ぎベッドに放り投げる。

 

 白い下着は気になるが、流石に素っ裸ではよろしくない。

 

 そうして始めた掃除に思いの外集中していたとき、ドアの方からノックが聞こえた。

 

 今度は無視も不味いだろう。

 

 そう思い急いでドアを開けると銀髪お姫様と赤毛侍女が立っていて、いきなり怒っているようだった。

 

 ジロジロと俺の身体を見て何か言っている。 また何か間違ったか? 下着姿は失礼とか、そんな感じかもしれない。

 

 色々考えていたら、赤毛が俺の左腕を取り不思議そうにしていた。

 

 拙い……

 

 急いで腕を背中に回し隠したが、回復が早い事に気付かれたかもしれない……

 

 頭を悩ましていると、さっきまでいた洗面室に連れ込まれて、手拭いらしきものを渡された。 赤毛侍女がお湯を持ってきた事から身体を洗えと言う事か。お姫様の前で汚らしい不潔な体のままとは……それが許せないのだろう。

 

 仕方なく邪魔くさい下着を放り投げて洗い始めたが、すぐに赤毛が来て手拭いを奪われた。 よく分からないが洗ってくれるなら楽でいい。

 

 新しい下着と、また同じような服まで着せられて銀髪お姫様が髪を整えてくれる。 これも楽でいいが、お姫様にこんな事をさせてもいいのだろうか?

 

 お姫様の顔を鏡越しに確認したが、楽しそうなので良いだろう。おそらく人形遊びみたいなものだ。暫く微睡んでると、逆らっては不味い残り二人のご登場だ。

 

 流石に座ったままは不味い。 立ち上がって様子をみると正解だったのだろう、そのまま流された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら俺の入れ墨、所謂刻印についての話し合いらしい。

 

 紙の束には模様と文字が書かれているのが見えた。 正直気にはなるが……今はどうしようもない。

 

 それよりも、隣に座った赤毛侍女が、俺に葡萄らしきものを食べさせようとしやがる。 一粒は付き合ってやったが、二粒目はムカついたのでシカトしていると、金髪に怒られたのか俺にフォークを渡してきた。

 

 暫くはじっとしていたが、理解も出来ない会話など眠気を誘う睡眠薬みたいなものだ。

 

 余りに暇なので、葡萄に手を伸ばし食べることにする。 誰もこっちを見ていないし、暇つぶしに丁度いい。

 

 右手で摘んだ葡萄をぽいっと口に入れる。 味は正直そこまでではない。 現代日本の様に品種改良されてないのだろう。 それでも不味いわけではないし、そもそも味なんてどうでもいい。

 

 いてっ……鼻に当たったが上手く掴んで落としはしなかった。

 

 まあ、眠気も覚めたし良しとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 しまった……会議も佳境らしき時に、リベンジしていた葡萄を床に落として、更には銀髪王子の足元まで転がっていく。

 

 王子は怒りはしなかったが、金髪がこちらを睨んで葡萄を懐に入れたのが見えた。

 

 マズイぞ……後で何か言われるパターンだろう。せめて俺が自分で処分しなければ……

 

 何か不備でもあったのか、金髪が泣き始めてハンカチを懐から出した時、あの葡萄が転がり落ちてきた。

 

 チャンスだ! 素早く葡萄を拾ってポケットに入れ、証拠隠滅を図った俺は少しだけホッとした。 このまま有耶無耶になればいいんだが……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カ、ズ、キ……と」

 

 ……ん?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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19.妄執と暗躍

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燭台に灯された火は、部屋とそこにいる人間を照らしている。

 

 

 

 軍務長室では、白く染まった髪を薬料で撫で付けた初老の男が多くの書類に目を通していた。 痩せた体に不釣り合いな鋭い眼光は見る者に威圧感を与えるだろう。

 

 南部地域での被害状況をあらゆる角度から確認し、効率的に回復をしなければならない。 限られた資源を最適なところへ配分する、それが男の職務だった。

 

 南部での被害は厳しいものだった。だが騎士達の復帰もひと段落した事で、ほかの事に手を付ける事も出来るだろう。

 

 さらにその南部では森人も一組行方不明らしい。 無い事ではないが珍しくもある。 彼らは森の専門家であり騎士達とは違う知識と経験を持つ。 しかし森の近くで背負袋も見つかっており、森で魔獣に襲われたのは間違いないだろう。

 

 その男は次々と起こる問題に指示を与えるべく、書類に書き込みを入れていく。

 

 書類のいくつかは再び担当官に返して再考させる必要があるが、概ね予定通りと言っていい。

 

 

 目頭を押さえ首を回転させて疲れを少しでも無くす。

 

 それを繰り返してきたが 、今は入室してきた部下の話を聞く時なのだろう。 軍務長室に2人の男が向かい合っていた。

 

 

 

 

 

 

 軍務長ユーニード=シャルべは、執務室に来た軍務情報官から報告を受けていた。

 

 彼は若い頃から鍛えた腹心で、信頼出来る者にある調査を依頼していたからだ。

 

「どうだ? 何かわかったか?」

 

「はっ。残念ながら不思議な程に情報は伏せられています。 どうやらアスト殿下自らが緘口令を敷いている様です」

 

「殿下自らが……?」

 

 ユーニードは、顎を指で支えて暫し考えるが答えは出なかった。

 

「なぜ、1人の少女にそこまでする必要がある? 仮に殿下の想い人だとしても隠す理由にならない」

 

 この時代は血統をそこまで重んじない、いやそんな余裕はない。 リンディアの血は勿論重要だが、妃にまでそれを強く求めたりはしないのだ。現王カーディルの妻アス王妃も元は町娘だったのだから。

 

「何かあるのか……?」

 

 ユーニードも少しだけ興味がある程度で、そこまで深く考えていた訳ではない。 しかし緘口令を敷くとは尋常な状況ではないだろう。 リンディア王家には忠誠を誓っているし、尊敬もしている。 カーディル陛下もアスト殿下も民を想う立派な王族なのだ。 だが何かが引っかかっている。

 

「ユーニード様。噂話をお耳に入れるかどうか悩みますが、お聞きになりますか?」

 

 ユーニードは、思考を止めて耳を傾ける。

 

「ああ、何でもいい」

 

「先日、南部の森で起きた被害ですが……」

 

「死傷者も出たあれか。 命を落とした騎士達には、白神に抱かれる事を祈るしかない」

 

「はい。 あくまで噂話ですので、そのおつもりで」

 

「わかっている。 話せ」

 

 

 軍務情報官の話はこうだ。

 

 

 城下の治癒院に神の御使いが現れ、 血を流し運び込まれた騎士を光る手で癒した。闇に溶ける様な真っ黒な少女で、その姿はまるで亡霊のようだった。致命傷に思われた台車に横たわった騎士は、何も無かったかのように立ち上がった。

 

 

「ふん……よくある怪異の話か? だがそれだけではあるまい?」

 

 ユーニードは、目の前の情報官が有能であると知っている。自らが育てたのだから。

 

「はい。 暫くすると治癒院に人が訪れた……と。 アスト、アスティア両殿下、クイン様、侍女エリの方々です」

 

「……ほう。 噂話としてはいまいち出来が悪いな」

 

 その様な目立つ登場人物がいれば、直ぐに裏が取れてしまうだろう。

 

「その治癒院にいらっしゃったのか、事実はわかりません。ただ、お二人を含む4人が城を出たのは間違いないと」

 

「……その目撃された少女に、何か特徴があるのか?」

 

「いえ、なにぶん暗かったので、髪の色も顔も分からなかったようです。ただ濃い色の、星空をあしらったワンピースを着ていたと」

 

 殿下が連れ帰った少女は、珍しい黒色の髪だった……らしい。

 

「いや、だからこその噂話とも考えられるか……殿下が連れ帰った少女など、格好の噂話の材料になろう」

 

 やはり、ただの噂話か……そう考えをまとめかけたユーニードに情報官が重要な話をもたらした。

 

「治癒院にいた者は、わかっています。 典薬医見習いのクレオンだそうです」

 

「クレオン……確か会った事があるな。 典薬医長と一緒にいた」

 

 ユーニードの記憶には、ブラウンの癖毛の気弱そうな青年の顔がはっきりと思い出せた。

 

「少しだけ話を聞いてみるか。 大した手間でもない」

 

「はっ」

 

 独り言ではあっただろうが、情報官は律儀に返事をした。

 

 

 

 

 

 

 最近、クレオンは同僚から心配の声を掛けられる。

 

 上の空だったり、王城を飽きずに眺めたりしている。

 

 だがクレオンは申し訳ないと思いながらも治せるとは思わなかった。 病名は明らかで、ククの葉のように効く特効薬などないのだから。

 

 その病の名は"恋の病" と言った。

 

 

 クレオンにとってあの夜の事は忘れられない出来事だった。

 

 運び込まれた騎士、吹き出した血、何も出来ない自分。

 

 夜の闇に溶ける様な髪をなびかせ、現れた少女。

 

 僅かな香油の香り、淡い光、その美しい相貌。

 

 自らを顧みないその誇り高き精神。

 

 全てが今もそこにある様に感じる事が出来る。 一度だけこの胸に搔き抱いた小さな体を、今も思い出し心が震えている。

 ……群青のワンピースから僅かに見えた、その中も。

 

 時間が解決してくれるのだろうか? 誰にも話せないからこそ、気持ちは募るばかりなのだろう。

 

 だからクレオンは、今日も城を眺めている。

 

 

 

 

 

 

 

「クレオン! お客様だぞ! 大変な方だ。急いで行って来い!」

 

 薬草を種類毎に並べて数量を確認していたところ、いつも嫌味な典薬医長の声にクレオンは振り返った。

 

「大変な方ですか?」

 

 まさか、あの娘だろうか? そんな事を思っていたら、典薬医長からその解説があった。

 

「軍務長のユーニード様だ!そこは後でいいから急げ!」

 

「ユーニード様……? 」

 

 

 

 早足で応接室に向かう。ただユーニードと話す事など自分にあるとは思えないクレオンは、疑問符が頭に浮かんだままだった。

 

 

「失礼します。 クレオンです」

 

 軍の事務方の長たるユーニードにどう話しかければ良いかわからないクレオンは、とりあえず無難なセリフを言って応接室に入った。

 

「ああ……クレオン君。職務中に済まないね。近くに来たから用事を終わらせたいと思ってね」

 

 噂では血も涙もないユーニードと聞いていたクレオンは、その柔らかい物腰に少しだけ肩の力が抜け席に着いた。

 

「いえ、大丈夫です。 あの……僕に何か……?」

 

「いやいや、そんなに緊張しなくていいよ。 先日の南部での被害の確認をしててね。 人手も足りないものだから、私まで引っ張り出されてしまったよ」

 

 ははは……と頭を掻きながら笑うユーニードに、クレオンはホッとしていた。

 

 

 

 

 

「騎士2人は回復と。 いや助かったよクレオン君。 殿()()()()()聞いてはいたけど素晴らしいね」

 

 ユーニードはここで仕掛けた。 クレオンに反応が無ければそれでいい……重要な事はユーニードが関係者と思わせる事だ。ユーニードは一言もアストの許可があるとは言ってはいない。

 

 そしてクレオンはユーニードの思った以上に反応を示すことになる。

 

「素晴らしいなんてものじゃないですよ! 正に聖女です!2人の騎士様は助かる筈のない怪我だったのに、まるで御伽噺のような白く光る手で癒したのですから!」

 

「……ほう、そんなに凄かったのかい? 確か……黒髪の?」

 

「そうです! 黒髪の聖女です。 美しい若葉色の瞳、なにより刻まれた刻印! その慈愛の精神は心を掴んで離しません」

 

 刻印だと……? そうか、だからクインを……ユーニードの中で全てが繋がっていく。体から湧き上がる強い気持ちを何とか抑えながら、クレオンを更に煽る。

 

「……やはりそうか。 本当は国を挙げてお礼を言いたいけどね……何処にいるのかな?」

 

「アスト様とアスティア様が来られて、連れて帰られましたよ? きっとアスト様が側におかれているのでしょう……」

 

 ユーニードはクレオンの嫉妬を感じたが、そんな事はどうでもよかった。

 

「そうだったね。 私も近くでは見た事もなく、会ってなくてね……いいなあ……クレオン君は城に入るのを見たのかい?」

 

「勿論ですよ。 最後までお見送りしましたから」

 

 ユーニードは自分の悲願を、息子の仇を嬲り殺す手段がすぐ近くにある事を知り、全身が震えるのを抑える事は出来なくなった。

 

「……ユーニード様? 大丈夫ですか?」

 

「ああ、勿論大丈夫だとも。 クレオン君、()()()()()

 

 急に怜悧な空気を見せ始めたユーニードに、クレオンは一瞬見間違いかと思った。

 

「それでは」

 

 そのまま振り返ることもせずに立ち去ったユーニードを、クレオンは呆然と見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自室に帰ったユーニードは、僅かに灯る蝋燭の炎で最愛の息子からの手紙を読み直していた。

 

 

「アラン……いよいよだ。 お前を殺した魔獣共に裁きの鉄槌を下す時が来た。 奴等を一匹残らず消し去ってやる。必ずだ」

 

 

 

 妄執に駆られたその目は、炎の光を浴びて爛々と輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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20.リンディアの夜

 

 

 

 

 黒い木肌に手を添えて、その鼓動を感じているのだろうか。

 

 

 

 篝火に照らされた水面とカズキの翡翠色の瞳は、見る者に夜の闇にも映えた幻想の世界を見せていた。

 

 出会った頃肩で切り揃えられていた黒髪も少しだけ伸びて背中に触れている。 一筋の風がサラサラと髪を静かに踊らせて、首筋から耳の後ろまで刻まれた刻印を晒した。 踊る髪は絹の糸の様に絡まること無く風になびき、瞳と同じ色のドレスを着たカズキを精霊の似姿に変えてしまう。

 

 薄く紅を引いた唇からは、僅かな声を聞くことも出来ない。もし名を呼んでくれたなら、どれ程の想いに駆られるのだろうか……

 

 アストは初心な少年などでは無い。 この感情が何なのか理解している。

 

 だから思う。

 

 全ての人々に慈愛を向ける聖女に、たった一人の男が向けても良い思いなのかと……

 

 

「カズキ……」

 

 

 思わず零した呟きが聞こえたのか、カズキはその翡翠色の眼を向けた。その美しい瞳に自分が映っていることに幸福を感じ、そして罪の意識を覚える……それでも、もう少しだけ見詰めて欲しいと思うアストだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜のリンディア城は重要な場所を除きそこまで灯りを多く灯してはいない。 篝火の燃料となる木材すら、ある意味で貴重品だ。 勿論まだ伐採する場所はある。だが最も多くの木材が手に入る森は、魔獣の跋扈する魔境と化したのだ。

 

 防犯上問題はあるだろう。しかし魔獣に対抗出来る唯一の組織「騎士団」を統率するリンディア王家に牙を剥く馬鹿は多くない。

 

 ちなみに「騎士団」とあるが、その名前に反して騎馬による戦闘は余り行われない。 今はほぼ魔獣専門の戦闘集団となっているが、過去から連綿と続く国家防衛の剣と盾に、名誉ある「騎士団」の名前を冠しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 400年以上の歴史を誇るリンディア城には美しい庭園が現在も残されている。 斜陽の時代となって久しいが、だからこそ守られてきたのだろう。

 

 

 遥か昔……森がまだ人の手の届く存在だった頃、ボタニと呼ばれた湖があった。

 

 湖の真ん中にはたった一本だけ天へと伸びる木が立つ小さな島があり、透明度の高い翡翠色の水を湛えたとても美しい湖だったと言われている。

 

 庭園はその美しかったボタニ湖と森をモチーフにしたもので、円形に掘られた人口の泉には澄んだ水が佇んでいる。 その中央に作られた小島には真っ直ぐに伸びた大木が悠々と天に向かい伸びているのだ。 小島までは点々と飛び石が配置されて、大木の袂にある白神を讃える石碑やベンチまで足を運べる様になっている。

 

 森がまだ人々の揺り籠だった時に想いを馳せる、正にリンディアが誇る庭園だ。

 

 

 普段は薄暗いその庭園に、篝火が焚かれていた。

 

 炎が水面に反射する様は幻想的と言っていいだろう。 だが不思議な事に火を付けて回っているのは庭師達ではなく、 騎士達だ。簡易的な鎧姿で剣を腰に装備している騎士達が火を回し付けて、幽玄の世界へと遷移させていく。

 

 アストが倒れカズキに救われた、あの時の小隊の騎士達だった。

 

 聖女の存在を伏せている今、それを知る僅かな人数の騎士達にアストがお願いしたのだ。 自由に散策すら出来ないカズキに、リンディア自慢の庭園を見せてあげたいと。

 

 ノルデを始めとする騎士達は、訓練後の夜間にもかかわらず協力を惜しまなかった。

 

 余談だが、ケーヒルとジョシュは参加出来ず監修のみに留まっている。

 

 見えない各所には騎士達が警護に付き、万が一の侵入者にも万全の体制を整えたのだ。

 

 アストは、感謝の気持ちを胸に黒の間に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ! じっとして!」

 

 化粧台の前のカズキは、顔を逸らして逃げようとしていた。

 

 アスティアはエリを伴い黒の間に来ている。

 

「少しお化粧するだけよ?なんで逃げるの?」

 

 もうすぐアストも来てしまうだろう。

 

 月が美しい夜の庭園に散策に連れ出す予定なのだが、肝心のカズキがこの調子なのだ。

 

 瞳の色に合わせたミディ丈のドレスは何とか着てくれた。昔アスティアにアスから贈られた一着だ。 肩の刻印が露出し、右胸の癒しの刻印すらほんの僅かにあらわれていて、それが少女を少し大人びて見せている。 随分と伸びた髪も櫛を通して整えた。 後は薄く紅でも引こうとしたところでこの有様だった。

 

 エリは小指に紅を取り、何とかカズキの唇に引こうとすればあっちへこっちへ顔を逸らすのだ。

 

「こらっ! カズキ動かないで!」

 

 我慢出来なくなったアスティアは、後ろから両手でカズキの頭を挟んで押さえた。 大きな声に驚いたのか少しだけ体を揺らして大人しくなったところでエリに指示を出す。

 

「エリ! 早く!」

 

「はいっ!」

 

 もう諦めたのか動かなくなったカズキの唇に、淡い色の紅が引かれてアスティアとエリは溜め息をついた。

 

「もう、どうして嫌がるの? 見て、凄く綺麗よ」

 

 鏡に映るカズキは確かに綺麗だが、本人は少しムスッとしているのが可笑しかった。

 

「ふふっ……手間のかかる妹ってこんな感じなのかしら? なんだかとても楽しいわ」

 

「アスティア様、 名前が判って本当に良かったですね。 言葉は通じなくても少しだけ近づけたと思えますから」

 

「……そうね。 カズキが聖女だとしても、こうしていると可愛らしい女の子としか思えないわ。 これからもっと沢山の幸せがある事を教えていかないとね」

 

 

 

 刻印の意味するところが判明した日、アスト達はカーディルに全てを伝えた。

 

 そして出た結論は、カズキをもっと知る事。

 

 クインの示した結論は、もしかしたら正しいのかもしれない。でも刻印だけを見てもカズキが誰なのか、何者なのかは分かる筈がない。

 

 カズキに知らしめるのだ。 自分は世界から、人々から愛されているのだと。 自己犠牲? 贄? 血肉を捧げる? 一人の少女が抱えるには重い運命を私達が支えるのだと。

 

 生け贄などには絶対にさせない。

 

 その先に何かがあるとアストもアスティアも感じるのだ。 理屈ではない、間違っていない答えだと強く確信している。

 

 自身を顧みない慈愛は確かに美しい。 だがそれは、本当にカズキの願いなのか? 乏しい自己愛は作られたものではないのか? 人の思いが届かないなんて、そんな悲しい事を許したりしない……

 

 アスティアが癒し、救う。

 

 ーー黒髪の聖女を。

 

 

「カズキ、 もうすぐ兄様がくるわ。 私も行きたいけれど、今日は兄様に任せるつもり」

 

 通じてなくともアスティアは話し掛ける。 それも決めた事だ。

 

「凄く綺麗なところなのよ? 魔獣なんていなかった昔の森に、それは美しい湖があったの。 それを想ってつくられた庭園なんだって……」

 

「ボタニ湖よ。 今もある筈のそこには、もう人は辿り着けないけど……私もいつか見てみたいな。 その時はカズキも一緒に行きましょう?」

 

 鏡越しに見るカズキの翡翠色の目には困惑しか見て取れない。

 

 伝わっていないのだ。

 

 アスティアは涙を見せないように、アストが来る筈のドアに振り返った。

 

 

 

 

 

 

 

「アスティア……? 大丈夫かい?」

 

「兄様……大丈夫。カズキをお願いね?」

 

「ああ。 アスティアは行かなくていいのか?」

 

「カズキを見てたら泣いてしまいそう……そんなの嫌だから」

 

「……わかった。 あの庭園を見たらカズキだって驚くさ。 ノルデ達が張り切りすぎて心配なくらいだからね」

 

 少しだけ笑う事の出来た妹の額に口づけをして、アストはカズキを見た。

 

「凄く綺麗だ……さあ、行こう」

 

 アストはカズキの手を取り、黒の間から連れ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アストから見ても、カズキはあちこちに興味があるようだ。

 

 廊下、階段、たまに扉を開けて中まで見る程だ。 時にアストを見て様子を伺うのが面白い。

 

 ゆっくりと階下に降りて行くと、遠くにノルデ達が準備してくれた庭園と篝火が見えた。 上空には銀色の月が浮かび、柔らかい光をアスト達に届けている。

 

 カズキは茂みの向こうや柱の陰を確認していて、待機していた騎士達に驚いていたりする。 その都度こっちだよと声を掛けて手を取り誘導していった。何故騎士達が隠れているのが分かるのか不思議だったが、古傷を持つ者にジッと視線を送るのを見て分かった気がした。

 

 

 そうやって視線をあちこちに飛ばしていたが、庭園が近づくと流石に興味を惹かれたらしい。 月明りを反射する水面や、中央の小島と樹木に視線を奪われるカズキに今日の目的地を伝える。

 

「カズキ、あれがリンディアの庭園だよ。 私もこんな時間に来る事はなかったが、変わらず美しいものだな……」

 

 湛えられた水には水生植物が疎らに浮き、離れた小島にも花々が咲いているのが見える。 周辺にいくつも焚かれた篝火がゆらゆらと風に揺れていた。

 

 カズキは水の中が気になるのか、覗き込んだりしている。

 

「カズキ、こっちだ」

 

 飛び石のある場所へ案内して、ゆっくりと歩き出すと足が止まった。

 

「どうした?」

 

 引く手に抵抗を感じたアストは、カズキの顔を見て問うた。残る手でドレスの裾を押さえてみたり横にずらしたりする。

 

「ああ、足元が見えないのが怖いのか……すまない、男には分からない感覚だからな。アスティアは気にせずにいたから気付かなかったよ」

 

 アストは暫し考え、少しだけ泉の側から離れてカズキの横に並んだ。

 

 そして僅かにしゃがんで背中と膝裏に腕を回し、軽い小さな体を持ち上げる。 石の様に固まったカズキが可笑しくて、アストも思わず笑ってしまった。

 

「ははは、大丈夫だよ。 落としたりしないさ」

 

 歩き始めると怖いのか、アストの服を掴んで少し震えている。そうしているうちに再び飛び石まで来たアスト達は、そのままヒョイヒョイと渡って行った。

 

 

 

 島に辿り着いたアストはカズキをそっと下ろして大木を見上げ、自分とカズキへ言い聞かせるよう呟いた。

 

「この木に名前は無いんだ、態とそうしてるらしい。 理由も分からなくなってしまったけどね」

 

 カズキは俯いてまだ震えているが、そこまで怖かったのだろうか?とアストは心配になってしまう。

 

「怖かったかい? いきなりだったから……すまない」

 

 アストは通じないと知りながらも声を掛けた。

 

「ここに連れて来たのは、この木を見せたかったんだ」

 

 見上げると枝葉が風に揺れてサワサワと鳴いている。

 

「言い伝えがあるんだ。 この木に触れて耳を澄ますと、逢いたい人や亡くした人の声が聞こえるって……」

 

 そう言うとアストは幹に手を当てて目を閉じた。

 

「……?」

 

 カズキは首を傾げている。

 

 

「カズキが逢いたい人の声が聞こえたらいい」

 

 

 アストはカズキの手を取りその手を幹に添えさせ、数歩離れて優しく見守った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキは不思議に思っていた。

 

 化け物との戦争に利用するとか、慰みものにするとか警戒は解いてはいけないと思っていたのだ。

 

 ところが最近もその様な気配すらない。

 

 お姫様が現れてはドレスを試着させられるのは勘弁して欲しいが、お飯事(おままごと)や人形遊びの一環だろう。意識せずに動かなければ良いだけだ。

 

 どうも冷遇されている感じがしない……そう困惑している。

 

 脱出の可能性は捨ててはいないが、もう少し様子を見るか? と考えていた矢先だった。 お姫様と侍女がいつもの様に扉を開けて入って来たと思ったら、若草色のドレスらしき物を被せられ、髪をいじくり回し始めたのだ。 またか?と油断してたら口紅を塗ろうとするものだから、何とか逃げようとしていた。

 

 だが全ては無駄だったのだ。 結局口紅をベチョッと塗られて辟易したところで王子様の登場となった。

 

 逆らう訳にはいかない筆頭が連れ出した以上、ついていくしかない。 だがこれはチャンスなのでは?とカズキは意識を切り替える。

 

 経路、階段、窓、扉を観察しても王子様は何も言わない。 階段をずんずんと降りて、久々に土を踏む事すら出来た。

 

 行くか? そうして茂みや柱の陰に逃げ込む算段をしていたら、気付いてしまった。 見えないところに、鎧姿の兵士が潜んでいる。 しかも傷痕も痛々しい歴戦の勇士たる威容だ。

 

 お前は逃げられないとでも言いたいのか!と憤慨する聖女がそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 もうその後の事は思い出したくない。

 

 

 

 

 

 庭園らしき所は確かに美しかったが、そんな事は吹き飛んでしまった。敗北感に打ちのめされて、黒の間のベッドの隅に丸まってふて寝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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21.聖女の変化

 

 

 

 

 

 

 聖女はベッドの上で真っ赤な顔をして眠っている。

 

 

「ねえ、クイン。 どう思う?」

 

「……そうですね。 困ったものとしか言えないです」

 

「エリは?」

 

「んー……アレってもう手に入らない貴重なヤツでは?」

 

 

 

 

 

 アスティア達は最近わかってきたのだ。 聖女であるベッドに眠る少女は、思いの外にお転婆な娘だと。

 

 見た目は守ってあげたくなる儚い少女なのだが、まず女の子らしくない。 むしろ少年の様な振る舞いが多い。

 

 先日などは何処から見つけて来たのか、男性用浴着を着て部屋をウロついていた。 男性用浴着とは、ダボっとしたシャツと、膝まである薄手のズボンの組み合わせだ。 麻で出来ており、色合いも濃い目のベージュの地味な着衣だ。 入浴上がりなどに着る下着の延長の様なもので、人前で着るものでもない。

 

 そもそも体の小さな聖女様では、シャツは肩からずれ落ちているし、ズボンは脛まで届いている。 刻印や肌に至っては少し角度を変えて見れば丸見えになる。

 

 端的に言ってだらし無い上、全く似合ってもいない。 初めて見たとき、アスティアは悲鳴に近い大声を上げたものだ。

 

 ドレスなどの女性らしい衣服を着る事を好んでいないのは察していたが、その内にらしさに目覚めるだろうと思っていたのだ。 一体今までにどんな生活をして来たのか疑問に思ってしまう……アスティア達は頭を抱える日々が続いている。

 

 つい先日の夜の散策時も、少し紅を引くのすら嫌がる始末だった。 下着姿のまま平気で扉を開けるのも日常なのだろうか。

 

 

 

 

「それで今度はこれ……?」

 

 呆れてベッドに眠るカズキをアスティアは見ていた。

 

 

 

 

 クインが扉を開けてアスティアを中に促すと、最近良く聞くようになった悲鳴が上がった。 カズキが床の絨毯に倒れて、すぐ側には赤い液体が溢れた跡があったのだ。

 

「まさか癒しの力を誰かに……!?」

 

 そう思って慌てて近づくと、強い酒の匂いが皆の鼻をくすぐった。 側には倒れたビンとクリスタルのカップ……全員が冷ややかな目を聖女に向けたのも当然だろう。

 

「何処からお酒を……そもそも何で飲むのよ……」

 

 クインがカズキの様子を見ている横で、アスティアの声が響いている。

 

「完全に酔い潰れてますね……エリ、お酒を片付けてくれる?」

 

 クインはカズキを横抱きにして、ベッドに運ぶ。 真っ赤な顔をして、声なき呻き声でも上げているのだろう。 目尻に皺を寄せて苦しそうにしている。 だが同情心は湧いてはこない。

 

「あー……これって凄い高級なお酒で、もう作れなくなったヤツでは……?」

 

 原料も手に入らない上に蒸溜所は森に消えてしまった、正に幻の酒である。

 

「お説教しようにも話しは通じないし、困ったものね」

 

「この様子では起きたときに壮絶な二日酔いになるでしょう。 嫌でも懲りるのでは?」

 

「クイン、そういう問題じゃないわ! 今までは優しくしてきたけど、これは教育をしなくては駄目よ!」

 

 アスティアの中ではカズキは手間の掛かる妹なのだ。 姉として妹を立派な淑女にしなくてはならないと決意を新たにする。

 

「クイン、カズキ専属の侍女になるのでしょう? 厳しく教えて上げてね? 私も協力するわ」

 

「はい。 承りました」

 

 

 カズキが前後不覚になっている間に、戦いの火蓋は切って落とされた。

 

 

 

 この日より黒の間には悲鳴にも似たアスティアの声がいつも響く事になる。 カズキは部屋中を逃げ回り、意外と器用に体を使える事も判明した。 まるで街中を駆け回る悪餓鬼の如く、飛んでは跳ねて見事に逃げ回るのだ。 クインが静かに怒りを露わにするまでは、聖女が大人しくなる事はなかった。 流石の聖女もクインには勝てないらしい。

 

 

 そして同時に……聖女の誰も寄せ付けない雰囲気は少しずつ薄くなっていた。 アスティア達はカズキが心を開いてくれていると思い始めている。

 

 

 

 

 

 

「お父様、兄様、聞いてるの?」

 

「ん? ああ、聞いてるよ。 なあアスト?」

 

「はい。 アスティア、ちゃんと聞いてるさ」

 

「あのお転婆聖女を何とかしないといけないわ! 見た目に騙されてはダメ!」

 

 カーディルは14歳の若さで立派な王女であるために努力しているアスティアを愛しく思うと同時に居た堪れない気持ちを持っていた。 我を殺し、民の為にと日々を懸命に生きている。何より、母であるアスが急逝した事も影響したのだろう。

 

 だが目の前の愛しい娘はどうだ? 年齢に相応しい輝きを放っているではないか。それだけでカーディルは嬉しくなってしまう。

 

「アスティア。カズキが元気になってくれて良かったじゃないか。塞ぎ込むことも少なくなっただろう?」

 

「兄様! カズキは隠れてお酒を飲んでたのよ! 酔い潰れて、心臓が止まるとおもったんだから!」

 

「まるで悪戯坊主だな。アストも昔隠れて酒を飲んでいたなあ」

 

「父上……それは昔の話です」

 

「……二人とも! 真面目に聞いてください!」

 

 アスティアの怒りの声に二人は真剣な顔になった。内心はわからないが。

 

「そうだな……やはり外出も出来ないし、気分転換しないといけないかな?」

 

「少し前に庭園に連れ出したのだろう?」

 

「僅かな時間です、父上。リンスフィアを案内出来たらいいが……」

 

「無理なの?」

 

「カズキは目立つからな……刻印の事もある、何処から漏れるとも知れない」

 

「兄様、カズキの事を知られるのがそんなに悪いことなのかしら?」

 

 アスティアは純粋に聞いたのだろう。アストはカーディルと目を合わして、カーディルの頷きを確認した。

 

「アスティア。少しだけ嫌なことかもしれないが、君の大事な妹のことだ。 しっかりと聞くんだよ?」

 

 アストはアスティアの目を真っ直ぐに見た。

 

「……はい」

 

「カズキの癒しの力は人知を超えたものだ。致命傷すら短時間で治癒出来る、いや出来てしまう。自らの血肉を捧げるという問題もあるが、それだけではないんだ……アスティアも知っての通り魔獣を撃退する方法は数あるが、奴等を全て駆逐出来る程ではない。それはわかるね?」

 

 アスティアは神妙に頷く。

 

「森に奪われた街を取り戻す戦略をいくつか提示されている。父上は吟味した上で、今は実行に移していない。それは一定の犠牲を強いることが条件だからだ。 だが……」

 

「……カズキがいれば実行出来る……?」

 

「そうだ。 しかも一人や二人ではない、大勢の犠牲者を出す可能性すらある。そしてその時カズキに何が起こるか誰もわからない。 もしかしたら……何人かを癒して命を落とすかもしれない」

 

「……アスティア。 私は王として合理的に考えれば、一定の効果が望めると判断している」

 

「お父様!」

 

「まあ聞きなさい。 一つの街を取り返し、魔獣を多く葬る事が出来たとしよう。 カズキの癒しの力で犠牲も最小限に抑える。だがカズホートの例を挙げるまでもなく最後にはリンディアは負ける……カズキが何人もいれば可能性もあるが、考えても仕方のない事だ。 それに……」

 

「それに……?」

 

「アストの想定には一定の説得力がある。 癒しの力が封印されている事だ。 慈愛すら狂わされているのだろう? 他の刻印もカズキ一人に負担が掛かる様になっている。 まるでそう仕向けるかのように」

 

 クインが解読内容を知らせてくれた時、アストが力強く答えた事だ。

 

「アスティア。 カズキと触れ合ってどう思う? 黒神ヤトの操り人形のように、意識も個性もない道具なんだろうか?」

 

 アスティアはアストに負けないくらい強く告げる。

 

「そんな事ありません! あの子は……ひどくお転婆だけど、優しくて素敵な子です……。 黒の間で追いかけてる時、私が躓いて倒れたら慌てて駆け寄って心配そうにする、エリの悪戯にも本気で怒ったりしない。 刻印がなくたって人を思う事の出来る子です」

 

 カーディルはアスティアの白銀の髪を優しく撫でた。

 

「そうだな……ヤトの力ならカズキの意識すら改変出来ただろう。 でもそうしていない。 きっと何か意味があるんだ」

 

「お父様……」

 

 アスティアはカーディルの手の感触に目を細めた。

 

「今はカズキの事は伏せておきたい。 広く知られれば、あらぬ混乱を招く恐れもあるからな。 わかったかい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「まあ、だからと言ってお転婆聖女をそのままには出来ないな」

 

 アストはおどけて見せる。

 

「クインが教育してるけど、手を焼いてるって」

 

「リンスフィアに連れ出すか……準備して慎重にすれば、そこまで大事にはならないだろう。 多少の変装は必要だろうがな」

 

 カーディルの許可が降りた事で、カズキは初めて異世界の街を散策する事になった。

 

「わかりました。 では私が連れて行きましょう」

 

「ん? お前が行くのか? クインなり、騎士の若い者に護衛させれば十分だろう?」

 

 カーディルの顔に意地悪な笑みが浮かんでいるのも気付かずにアストは真面目な顔をして答えた。

 

「いえ、私が責任をもって保護すると最初に言いました。 自身の言葉に嘘はつけません」

 

「そうか…… なら任せるぞ?」

 

「はい」

 

 カーディルにはアストの明らかな独占欲が見えてやはり嬉しくなった。同時に後で冷やかすのも忘れないだろう。

 

「私も行きたいなあ」

 

 置いてきぼりのアスティアも上品に口元を隠して、ニヤつきを見えない様にしている。

 

「ああ、私達二人ではより目立つからな。 別々の日にしようか」

 

 真剣に答えるアストに、父娘は歯を食いしばり笑いを我慢するほかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディア王家の面々は知る事になる。この時の決断が鎖の様に繋がり変化して、王国に波乱の時代を招く事を。

 

 少しだけ柔らかくなった筈のカズキの心さえ、再び混乱へと落ちていく。

 

 

 

 

 

 美しきリンディア王国と黒神の聖女に暗い影が忍び寄っていたが、この時はまだ誰も気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 



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22.妄執の行き着く先①

題名の通り暗い話に入ります。いわゆる敵の本格的な登場です。


 

 

 

 

 

 

 

 

「駄目だ、やはりご再考頂けない……」

 

 軍務長ユーニードは、カーディルが決断しない事に憤りを覚え始めていた。

 

 癒しの力を持った少女の事は現在も伏せられたまま。カーディルやアストが何らの理由で伏せているとしても、折角の力を利用しない事が理解出来ないユーニードだった。

 

「今この時も騎士や森人が命を賭して戦っているのだぞ……もし又犠牲者が出たら何とするのだ……? 何より許せないのは魔獣共が今も我が物顔でのうのうと生きている事だ!」

 

 ガンッ!

 

 ユーニードは怒りが止められず、思わず机に拳を叩きつけた。

 

「……陛下は何をお考えなのだ……? このまま滅びを待つ訳にはいかないのだぞ……。 証言通りなら致命的な怪我さえ回復しうるのだ。 森を焼き街を取り返し奴らを駆逐出来るかもしれないのに……これは神々の………」

 

 そうだ……神々の御意志なのだ……

 

「刻印があったと、刻まれていたと言っていた……」

 

 もっと詳しく調べる必要がある……そう呟くとユーニードは席を立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 変装すると言っても、過去にあった敵対国や危険な地域に行くわけでもない。 特徴的な箇所を変化させればそう危険は無いだろう……そう考えたアストは、カズキの黒髪をなんとかしようとクインに相談に来ていた。

 

「まずは黒髪を隠した方が良いと思う。 他には何かあるかな?」

 

「……本当に殿下がお連れするのですか? カズキを隠しても殿下が側にいては無用の注目を集めるのでは?」

 

 クインは最もな事を包み隠さず言葉にした。

 

「……わかっている……だが私が責任を持って保護すると最初に誓ったんだ。 陛下の許可も頂いている」

 

「そうですか」

 

 クインは他の感情も多分に含まれているのが直ぐに分かったが、それには触れなかった。

 

「それでは髪は纏めて帽子でも被りましょう。 その上で大判で厚手のストールで隠します。 覗き込みでもしなければ、わからないと思います、首回りも隠せますから。 それとカズキには侍女服を着せて下さい。 殿下はお嫌でしょうが、わたくしも参ります。 護衛の騎士も連れて行けば、供の一人と見えるでしょう」

 

 クインは息もつかせずに話しきった。

 

「クインが来てくれるなら心強いよ。 よしその予定で行こう」

 

 クインのちょっとした冷やかしも意に介さずアストは笑う。

 

「いつがいいかな? 天気の良い日だといいが」

 

「……少し準備します。 殿下は騎士の方々にお声掛けをお願いします」

 

「そうだな。 ノルデなら快く着いて来てくれるだろう。 話しておくよ」

 

 そのまま立ち去るアストを見送りながら、クインはため息の混じった苦笑が出るのを止めはしなかった。

 

 

 

 

 

 王都リンスフィアは貴族などが住む内円部と街区である外円部に分かれている。それぞれに城壁があり、外円部の城壁はリンスフィアで一番の高さを誇る。昔には他国との戦争時の防壁として機能していたが、人同士が戦争をする時代は過去のものとなった。敵対者は人ではないのだから。

 

 魔獣がリンスフィアに現れた事は皆無だが、それがいつ起きてもおかしくないと皆が知っていた。だが強固な城壁と誇り高き騎士団の存在がその恐怖を和らげてもいる。どこかに感じる閉塞感の中で人々は日々を過ごしているのだろう。

 

 そんなリンスフィア外円部に、アストが供を引き連れ訪れていた。 王国民からの信頼も厚い王子の登場に、皆が沸き返り声を上げる。 アスト達は石畳の道をゆっくりと歩き、それを見て商店や出店などから人々が手を振っている。 路地には人が集まり始めていた。

 

 

 

 アストが王子でありながらも、自ら騎士として先頭に立っている事は周知の事実だ。 しかも魔獣を何匹も倒しており、英雄と言って差し支えない人気ぶりを示していた。

 

 最近も黒の森近くで魔獣を倒し少女を一人救助したとの噂も流れており、その人気に拍車を掛けている。

 

「アスト様! 我らの英雄だ!」

 

「王子殿下が街に来られてるって!?」

 

「この間も魔獣を打ち倒したらしい」

 

「子供を救出したって」

 

「クイン様だ……俺こんな近くで初めて見た……」

 

「もう一人の侍女は知らないな? 新人か?」

 

 

 アストは笑顔で手を振りながらも内心戸惑っていた。

 

「カズキが落ち着いて街を見学出来ないな……ん? あれは?」

 

 アストの視線の先には、いくつかの馬車と自分を遥かに超える身長をもつ大男と、赤髪の女性が一人立ち話をしていた。

 

「ケーヒル!」

 

 見えたのは副騎士団長のケーヒルだった。 集まった群集もそちらに視線が流れる中、アスト達に気付いたケーヒルもこちらを見て挨拶を返す。

 

「おお、殿下! クイン嬢も! 街中でとは珍しいですな」

 

「おや?アスト様かい? 久しぶりだねぇ……」

 

 ケーヒルの側にいた赤毛の女性も顔見知りの様だった。 耳の上あたりで切り揃えた髪と、クインよりも高い身長、垣間見える腕にも薄っすらとした筋肉が見えて精悍な印象を与える女性だ。 年齢は30ほどか、女傑や姐御と言う言葉を体現した様なすっきりとした美人である。

 

「ロザリー! 帰っていたのか……久しぶりだな」

 

「ロザリー様、お久しぶりでございます」

 

「……?」

 

 ノルデは初めてらしく、一歩離れて様子を見ていた。

 

「アスト様もお元気そうで何よりです。 クインも相変わらずだねぇ。 おや……初顔が二人いるね?」

 

 アストやケーヒルとも知己の女性にノルデは緊張を隠せない。

 

「はっ! 騎士ノルデであります! お、お見知り置きを!」

 

「はっはっは! しがない女一人に騎士様がご丁寧な挨拶だね! こちらこそ、私はロザリー、只のロザリーだよ。 よろしくね」

 

 クインの横に佇んでいたカズキだけは反応なく、ただ立っていた。

 

「もう一人のちっこいのは誰なんだい? 新しい侍女かい?」

 

 頭を覆うストールの所為で、いまいち顔が見えないロザリーは下から覗き込むように腰を屈めた。

 

「ロザリー。 彼女は少し訳ありで、私が預かっているんだ。挨拶がないのは悪気があってじゃない。 その……言葉が不自由で人見知りなんだ。 名前はカズキと言う」

 

「……そうかい。 まあいいさ! 私はロザリーだよ。よろしくな」

 

 ニヤッと笑いながらカズキの手を無理やり取って握りしめて顔を見たロザリーは驚きの声を上げた。

 

「こりゃ別嬪さんだね! アスティア様が太陽なら、この子は銀の月ってところだ! 笑ったらもっと最高だよ?」

 

 カズキはブンブンと振られる腕につられて、ふらついている。ノルデはそれを横に見ながら、ケーヒルに質問をぶつけた。

 

 

「副団長。 こちらの()()()はお知り合いですか?」

 

「ああ、彼女は隊商マファルダストの隊長だ。 我らの仕事柄会うことも多い。 ましてやマファルダストは優秀な森人の集まりだからな。 有名だよ」

 

「マファルダスト! 聞いたことあります! 採取も狩猟も行う専門の隊商ですね!」

 

 ノルデの大きな声に周りに集まっていた人々も納得の声をあげていた。

 

「マファルダスト……あの有名な……」

 

「隊長って女なのか……美人だな……」

 

「だからアスト殿下やケーヒル様と知り合いなんだな」

 

「ケーヒル様でっかいなぁ……」

 

 

「レディってやめておくれよ……なんだいそれは?」

 

 ロザリーは困惑した顔で嫌そうにノルデを見た。

 

「い、いえ! 美しい女性には当然の事ですから!」

 

 酷くどうでもいいが、ノルデは年上好きという噂がある。

 

 

 

 

 隊商とは森人の集団の事を指す。

 

 元々は各国々や街を渡り歩き、物品を売り買いする商売人の事を言っていた。 しかし森に侵略されつつある今では、森に分け入り採取や狩猟を行う者たちの一部を隊商と呼ぶようになった。

 

 隊商は個人で動く森人達とは違い、森から森へ長期的に移動を繰り返して大量の資源を集める事が特長だ。 採取狩猟組と運搬組に分かれており、集めては受け渡し次の森へと旅を続ける。 リンスフィアの生命線である大量の物資を賄う、アスト達とは違った英雄と言えるだろう。 マファルダストはその中でも最高と謳われる隊商である。

 

 もしカズキがその説明を聞けば、遠洋漁業のようだと答えたかもしれない。

 

 

 

「ケーヒルはなぜロザリーと?」

 

 ケーヒルはカズキの存在に気付きながらも、それには触れずアストの質問に答えた。

 

「殿下、イオアンを覚えておられますかな?」

 

「勿論だ……大変優秀な森人で、私も森について教わった事もある。 ユーニードから行方不明になっていると聞いたよ……魔獣にやられただろうとも。 もしそうなら本当に残念だ」

 

「そうですな、このケーヒルもご教授願ったものです。 イオアン程の練達の森人に何があったのか気になりましてな。 ロザリーはイオアンの一番弟子と言っていい程の森人です。 何か分かればと思いまして」

 

「そうか……確か南部の森だったな。 つい最近も騎士達に被害が出た……」

 

「偶然かもしれません。 ですが気にはなりますからな……」

 

「アスト様。 次の出発はまだ先だが、南部も回る予定だよ。 何が分かればすぐに連絡をよこすから、待ってておくれ」

 

「……わかった。 ロザリー、くれぐれも気を付けてくれ」

 

「ありがとさん。 しかし足止めしてしまったね……用事はいいのかい?」

 

「ああ、急ぎの用事という訳ではないんだ……」

 

 そう言いながらカズキを探すアストの目には馬車を興味深そうに見る少女の姿が見えた。

 

「なんだい? こんなボロ馬車が気になるのかい?」

 

 カズキはクインに手を引かれながら、いや逃げられないように捕まったまま馬車を眺めている。 中だけでなく、大きさや馬なども観察しているようだ。

 

「こんな物何が楽しいのかねぇ? 中を見てみるかい?」

 

 カズキの両脇に手を入れてヒョイと馬車の中に持ち上げ入れた。 カズキは驚いて逃げようとしたが、すぐに大人しくなり素直に馬車に乗った。その馬車の中に樽がいくつも並んでいるが、中は空のようだった。

 

「もう中身は下ろしちまったよ。 まあ見ても楽しいもんでもないさ」

 

 樽の中まで覗き見る少女に、ロザリー思わず解説してしまう。

 

「変わった子だねぇ……男の子でもないのに」

 

 森人は騎士と並び、国を守る英雄でもある。 小さな男の子には人気も高く、装備や馬車を見せて欲しいとせがまれる事も多い。 しかし残念ながら女の子には不評だ。 獣や虫などを大量に集める上、魔獣避けに泥まみれになる。 そういった点であまり人気はない。

 

 それでもロザリーは、まるで自分の娘を見る母親のように暖かい視線を送る。

 

 

「フィオナ……」

 

 ロザリーの呟きは、誰の耳にも届く事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで、街中でのカズキに特出して何かあった訳ではない。

 

 

 酸っぱい果物を食べて吐き出しそうになったり、剣を見つけて持ち上げようとして上がらなかったり、お酒を飲もうとしてクインに怒られたり、 何故か暗い路地裏に行こうとしたり。

 

 そんなところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外円部の街とは遠く離れた城内の一室で、一人の男が両手に何枚かの紙を持っている。

 

 ユーニード子飼いの軍務情報官は、手に入れた文書を見て震えが止まらなかった。 謎のままだった事がここに明かされたのだ。 まるで宝を見つけた様な、歓喜に溢れた表情を抑えることもなく呟きが部屋に響いた。

 

 

「これは素晴らしい……正に……神の御意志だ。 ユーニード様の仰る通りだった」

 

 

 

 丁寧な美しい字で、その書類の表紙にはこう書かれている……

 

 

 

 

 [刻印の解読と考察]

 

 

 

 

 それは……クインとコヒンが調べまとめた、聖女カズキの刻印の全てだった。

 

 

 軍務情報官は文書を小脇に抱えて部屋を出ると、早足に歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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23.妄執の行き着く先②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ユーニード様」

 

 軍務情報官が珍しく顔を紅潮させてユーニードに声を掛けた。彼は普段感情を余り表に出さない。崇拝するユーニードの真似をしているつもりはないが、似通ってしまうものなのだろう。

 

「どうした? 何かあったのか?」

 

 地図を眺めつつなにかを考えていたユーニードは、真っ直ぐに椅子に座りなおす。

 

 情報官は恭しく小脇に抱えていた文書をユーニードに渡した。

 

「これをご覧下さい。 正にユーニード様の言われた通り、神々の御意志だったのです」

 

「……ほう、これはクインの筆跡だな。 刻印の解読と考察、か」

 

 暫くはパラパラと紙のめくる音がしていたが、ユーニードの目には何度も驚愕の色が現れていた。

 

「……これの信憑性は?」

 

「はっ! 侍女であるエリ嬢が持っていたものです。 クイン様が度々にコヒン様を訪ねていた事も分かっています。 筆致や紙の状態からも、時間的に間違いないと判断致しました。 何より黒髪の少女など、一部しか知らない事ですから」

 

「そうか……」

 

 この時代は魔獣と言う新たな外患を憂慮はしても、中には警戒感が薄いものだ。 情報の管理も甘いのが当然か……ユーニードはアストが緘口令を敷いている情報が、いとも簡単に手に入る事に一抹の不安はあったが今は目を瞑る。

 

 ユーニードは再度目を落とした。

 

「聖女……神々の使い……癒しの力だけではないのか。 黒神ヤト、憎悪、悲哀や痛みを司る神……」

 

「信じられんな……5階位など。 神の力そのものが顕現するとでも言うのか? しかも封印とある」

 

「ユーニード様、クイン様も考察されています。 彼女は神々が遣わせた生け贄(いけにえ)であると。 私もそう思います」

 

「ふん……魔獣どもに捧げろと? 癒しの力は使い途がある。 北部の街マリギを取り戻すのだ。 聖女を中心に置き、騎士達を円周上にニ、三重に配置する。 更に外に[燃える水]を撒き火を付ければ魔獣は怒り狂って円に入って来るだろう。 負傷者は聖女が癒しつつ、戦線を保てばいい。 ケーキをスプーンで削り取る様に少しずつ森を喰らうのだ。 魔獣どもが火に巻かれ、騎士の剣に貫かれて死ぬ」

 

()()()()()()()()()()()

 

「それこそ愚問だな。 たとえ死ぬ事があったとしても、それは本望だろう? 生け贄として遣わされた聖女の役目なのだからな。 だがそれも調整次第だ」

 

「陛下も殿下もお優しい方々だ。 決断が鈍っているのだろう。 ならば、時に厳しい答えを突き付けるのも臣下の役目だ」

 

 ユーニードは自分の出した答えが一分の間違いもない完璧なものだと確信している。

 

()()()()()()()()。 演習をしようにも陛下は許可なさらないだろう。 そもそも演習するには怪我人と聖女の血肉が必要だ。 それに重要な点がこの考察には抜けている」

 

「重要な点ですか?」

 

「そうだ。 聖女の血肉を捧げる……自己犠牲とあるが自らの意思でない場合はどうなるか、その視点が欠けている。 聖女と言っても15にも満たない少女だろう? 戦場に当てられて逃げ出すかもしれない。 そんな不確定要素を許す訳にはいかない」

 

「慈愛や利他行動で縛られているとあります。 目の前に助けるべき人間がいれば、自ずと治癒するのでは?」

 

「そうかもしれないし、違うかもしれない。 そんな事に騎士達の命は預けられない」

 

 聖女の命を道具としている事を、少しも意に介せずユーニードは言った。

 

「魔獣を必ず根絶やしにする。 失敗は許されない……他者が血肉を捧げられるか、確認が必要だ」

 

 それはつまり、救われるべき人が聖女を傷付ける事を意味する。 もはやユーニードに正常な人の判断は出来なくなりつつあった。目は暗く濁り、息子アランの苦しみしか見えなくなっている。 復讐こそが全て、騎士達の命さえその為の手段でしかない。

 

「これは原本か? 急ぎ複製を用意して、原本は元に返すのだ。 今はまだこちらの動きを知られたくない」

 

 

 もしこの場にカズキが居てユーニードの目を見たら、幼い頃見た孤児院の院長と同じだと思っただろう。

 

 

 あの爬虫類の目の様だと……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒の間では、あいも変わらずアスティアの悲鳴が響いていた。

 

「カズキ! いい加減にしなさい!」

 

 今は天敵クインがいない。 カズキは培った技術を存分に使いアスティアから逃げ回っている。 フェイントを入れ、ベッドを飛び越え、時にはゴロゴロと床を転げ回る。 スカートが捲れて下着や素肌が見えるのも御構い無しだ。

 

「はしたないでしょ! カズキやめなさい!」

 

 エリはアスティアが着せたがっているピンクのルームワンピース、所謂ネグリジェを持ったまま突っ立っている。

 

「エリも手伝いなさいよ!」

 

「アスティア様。 ほらこれを持っておかないと」

 

 エリも明らかに楽しんで見ている。 良い子のアスティアがバタバタと部屋中を走り回るのを見ると、幸せな気持ちになるのだからしょうがない。 ちなみにこのネグリジェはアスティアと色違いのお揃いである。

 

 ベッドを挟んで向かい合い、視線でフェイントを入れている。

 

 そして小刻みに体を揺らしてアスティアにプレッシャーを掛けているのだ。 カズキがヤトに無理矢理に少女にされる前は、路地裏でいつもやっていた事だ。 隙を見せれば、ブン殴るなり蹴りを入れるなりしていたが、流石にそれはしない。

 

 まさに王女様のアスティアでは、勝負にならないのは仕方がないだろう。

 

 

 

 ガチャッ

 

 

「……何をしているのですか?」

 

 

 クインの冷たくも美しい声が黒の間に響き、ビシッと固まりアスティアは振り向いた。 そしてカズキは丁度扉が見える位置にいたので天敵の登場がわかってしまった。

 

 二人はベッドに座らされて、クインのお説教を聞く事になる。 カズキも話の内容は分からなくても、天敵が怒っているのがわかるので大人しくするしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 カズキはジンワリと暖かい幸せを感じていた。 追いかけっこも悪くはない。 このお説教らしきものだって嫌いじゃない。

 

 それは子供染みてるだろうか?

 

 もしかしたら、信じていいのだろうか?

 

 まるで本当の家族のようだと思うのは傲慢なのだろうか?

 

 

 カズキは今陽だまりの中にいて、微睡んでいる。

 

 すぐ側に、復讐と呼ばれる悪意が迫っているとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 王都リンスフィアは美しい都だ。

 

 

 区画毎に設けられた石畳の街路も整然と並び、それでいて生活感が溢れている。 夜には各所にランプが灯り、家庭やお店からも淡い光が零れてくる。 店々からは笑い声も絶えず、グラスを打ち鳴らす音も響いている。

 

 雨の日すら街路や窓も濡れて灯を反射する様は、現実を忘れさせてくれるだろう。

 

 

  だが、それでも闇は在る。

 

 光が溢れていれば、闇も生まれるのは世の常だから。

 

 

 

 

 薄暗い路地を抜けて、水路の側を歩く男がいた。 灯も少なく人通りもない。 それでもその男は迷い無く歩き続ける。やがて目的地に着いたのか、小さな一軒家の僅かに光の漏れるドアをノックした。

 

 扉の一部が横に開き中から人の目が見え 、同時に強く漏れた光が訪れた男の顔を照らす。

 

「……なんの用だ、ユーニード」

 

 目線だけが見える男から、低い嗄れた声が聞こえた。

 

「仕事だよ、ディオゲネス。 開けてくれないか?」

 

「……ちっ」

 

 ガチャガチャと内鍵を開ける音がして更に強い光が外に漏れ出した。

 

「入れ……貴様にやる時間など多くはない。 早くするんだな」

 

「わかっている。 これはお前にとっても悪い話じゃない。まずは聞いてくれ」

 

 木の床はギシギシとなり、扉のすぐ前には、2人掛け程度の丸テーブルがある。その上には酒と剣、砥石が置いてあった。

 

 蝋燭の数は多くなく、城と比べれば薄暗いと言っていいだろう。 ユーニードは持って来た酒を置き、椅子に座って改めて目の前の男を見た。

 

 焦げ茶色のザンバラ髪、無精髭、薄手のシャツ一枚から伸びた腕は傷だらけで日焼けしている。 一見すると浮浪者にも見えるが、髪と同じ色の鋭い眼光と鍛え上げた上半身はそれを裏切る。

 

 テーブルの上には、愛用であろう大剣が無造作に置かれている。 砥石で研ごうとしていたのだろう。 鈍い光を放ち、それが玩具でない事を嫌でも感じさせる。

 

「お偉い軍務長様が態々に来られるとは、どういう事だ?」

 

「……お前も元とはいえ騎士。 おかしな事でもあるまい」

 

「ふん……貴様が俺を元騎士にしたんだ。嫌味でも言いに来たなら早いとこ帰ってくれ」

 

 

 ディオゲネスは剣の腕に冴え、将来を嘱望された騎士だった。

 

 だがいつの頃からか魔獣を殺す事だけに執着するようになり、部隊を危険に晒すことが増えてきたのだ。 噂では近しい人が魔獣に殺され、復讐心が狂わせたと言われる。 この時代では珍しい事ではないがディオゲネスは強すぎたのだ。 日を重ねる毎に暴力性が増し、女子供が居ようとも魔獣を殺す事だけを追い求め始めた。

 

 そして、ユーニードは彼に騎士団からの追放を伝えた。

 

 ディオゲネスも仕方がないと理解はしているが、魔獣を殺す機会を奪われた事は許せなかった。

 

「仕事だと言っただろう。 お前に任せたい事がある」

 

「下らないな。 どうせ碌な事じゃ……」

 

 ユーニードは無言で紙の束をテーブルに投げた。

 

「読め」

 

「ちっ……」

 

 ディオゲネスは束を乱暴に掻っ攫い読み始めた。

 

 ユーニードは棚からグラスを二つ取り、持ってきた酒をそそいでテーブルに置いた。 ディオゲネスはチラとだけそれを見て、再び目を落とした。

 

「なんだこの下らない妄想は。 どこかの餓鬼が書いたのか?」

 

 ディオゲネスはテーブルに放り投げ捨てて酒を煽った。

 

「書いたのはクイン=アーシケルだ。 コヒン老も一枚噛んでいる。 聖女は今城にいる……おそらく黒の間に匿われている筈だ」

 

「クイン=アーシケルだと? 何の冗談だ。 ユーニード、貴様までおかしくなったのか?」

 

「殿下も緘口令を敷かれている。 アスティア様もご存知の事だ。 証言も取れているよ、ディオゲネス」

 

 事実だ……そう言ってユーニードも酒を一息に飲む。

 

「事実なら放っておけばいい。 その内に戦場に来るだろうよ。 そうして生け贄となり世界に平和が訪れるのだろう?」

 

 やはり吐き捨てるようにディオゲネスは言った。全く信じてないのだろう。

 

「もし事実なら? 魔獣を縊り殺すことが出来ると思わないか? やられても聖女に癒されてまた剣を握る事が出来るのだ。 何度も魔獣に剣を突き立てる事が出来る。 その為の手も用意してある」

 

「ならやればいい」

 

「……やる気がないのだよ、陛下は。 聖女の存在すら秘匿している。 この情報は裏からのものだ」

 

 ディオゲネスは内心酷く驚く。 ユーニードは冷酷な男ではあるが、リンディアへの忠誠は本物だった。 王家の思いを知りつつ、それを裏切るとは……そして、この話が真実だと思えたのだ。

 

「……その時が来たら俺を原隊に復帰させろ。 それが条件だ」

 

「いいだろう。 契約だ」

 

「仕事は?」

 

「聖女を攫う、そして試すんだ。 怪我人や病人を用意しろ、出来る限り重篤者がいい。 勿論証拠は残さずにだ」

 

「……それで?」

 

「どうやったら治癒の力が発露するのか知りたい。 聖女の意思がいるのか、第三者が聖女に力を強制出来るのか。 調整の効かない武器など危険極まりないだろう」

 

「ふん……どうやって黒の間から出す? あそこは王の間に行くのと変わりはしない」

 

「それは私がなんとかする。 お前一人では無理だろう。都合はつくか?」

 

「ああ、アテはある」

 

「よし、この件は絶対に漏らしてはならない。 表に出ればわたし達は終わりだ。 聖女は事が済めば一度城に返す。 次の手も考えてある。 行方不明のままでは動きも取れなくなるからな」

 

 

 

 二人は酒を注ぎ、乾杯もせずに同時に煽った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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24.妄執の行き着く先③

お気に入り500件を超えました。読んで貰えてありがたいです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホーッ、ホーッ…………

 

 フクロウだろうか……?

 

 この世界にもフクロウがいるのかとベランダに出てみるが、出た途端静かになってしまった。

 

 空を見上げると、僅かに欠けた銀色の月が浮かんでいる。 元の世界より随分と大きく見えるその月は、クレーターも少なく冷たい美しさが凛と張り詰めているようだ。

 

 ここから見える街は灯がポツポツと見えて夜景を彩っている。

 

 

 

 

 

 少し冷たい風に吹かれながら、カズキは悩んでいた。

 

 

 黒の間の各所に隠し、あるいは用意した武器もどき達をどうするかを。

 

 ベッドの柱の裏側に貼り付けた裁縫鋏。 暖炉の火かき棒は目の届く場所に、拳に巻く為の布も用意してある。 食事に出されたナイフは盗み、出来る限り研いで尖らせた。 そういえば暖炉の上にあるクリスタル製の馬は、良い鈍器になるだろう。

 

 だが、警戒していた危惧はなく平和な日常を過ごしている。

 

 いつまでもこの部屋に閉じ込められたくはないが、生まれて初めてかもしれない安らぎを覚えている事に驚きすら感じる。

 

 それどころか、脱走への準備も最近は滞っているのだ。

 

 自分はダメになってしまったのか……腑抜けになったのだろうか? それともこれが求めていたものなのか……カズキは答えが出ない事に、苛立ちと不思議な喜びを覚えていた。

 

 

 

 

 

 数日前に連れ出された初めての街も美しく見えた。 そんな事を心から感じたのはどれ程に前のことなのか、カズキ自身も思い出せない。

 

 観光しているよう……いや、観光したのだ。

 

 見たことも無い青色の果物を齧り、土産物屋にある木刀の如く剣を触った。 酒は飲めなかったが楽しかった。

 

 脱走の可能性も捨てきれずに路地裏をチェックしたりしたし、あの馬車は間違いなく街を出て別の所へ行くのだろう。 樽の影や中にでも潜り込めば、街を抜け出せる筈だ。

 

 そんな事を思いながらも、足は走り出したりしなかった。

 

 

 

 だからカズキは悩んでいる。

 

 この部屋で本当に必要な事は何なのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここにいたのか? ユーニード様がお呼びだ。 直ぐに向かえ」

 

 黒の間を警護する二人の騎士に、焦げ茶色の髪の男が声をかけた。 ユーニードと慣れた呼び方、何より歴戦の強者の雰囲気を強く感じた二人は慌てて姿勢を正す。

 

「はっ! いえ……しかし、ここの警護を命じられておりまして……」

 

「なら暫くは代わってやる。 急げよ、ユーニード様は怒らせない方がいい」

 

 少しだけ低い声を出された二人は、急いで軍務長室に向かって行った。

 

「こんな事で騙されるのか……? 騎士団も質が落ちたか」

 

 ディオゲネスは呆れた風に騎士が走り去るのを見て呟いた。ユーニードの手引きでここまでも簡単に来る事が出来た。 いや、実際には簡単では無いのだろうが……これでは王の間すら侵入出来るかもしれない。 リンディアにいるそんな馬鹿は俺くらいか……そんな事を思いつつ、もう一人の馬鹿に声をかけた。

 

「おい、もういいぞ」

 

 廊下の向こう側から現れた男は、手に大きな麻袋を持ちながら歩いてきた。 全身を真っ黒に揃えたその男は、少しだけ腹も出て圧迫感を覚える巨体を揺らしながらニヤニヤと笑っている。 背中にはナイフを二本用意してあり、 腰には革紐が丸めて括ってあるようだ。こう見えて動きも素早く荒事にも慣れた簡単に言えば泥棒だ。その界隈ではそこそこに名を売っている、名はボイチェフと言った。

 

「ディオゲネスさん、ここですかい? 噂に名高い黒の間に入れるとは、鼻が高いってもんだ」

 

「無駄口を叩くな。 中にいるのは女の餓鬼だ、声は出ない筈だが油断はするなよ? 見張りには立つが異変を感じたら直ぐに撤収する。 わかってるな?」

 

 ディオゲネスはミスによる撤収ならボイチェフは始末すると決めているが、当然ここで言う事ではない。

 

「へいへい、わかってますよ。 じゃあ早速」

 

 黒の間の扉が、ボイチェフの手により開かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキはベランダで扉の開く音を聞いた。

 

 振り向くと、初めて見る黒づくめの男がゆっくりと入ってくるのが見えた。 咄嗟に近くの椅子とテーブルの影に隠れて様子を伺う。

 

 あの動き……ろくな奴じゃないな……

 

 カズキは他には侵入者がいないか確認して、音を立てず静かに部屋に近づいて行く。 まずはベランダに通じるドアの側にある植木用の手持ちスコップをそっと手に取った。 植木用と言ってもかなりの厚みのある鋼鉄製だ。 先端も尖っており十分な凶器になる。

 

 何者か知らないが、明らかな不審者だろう。

 

 男は洗面室のドアを開け中に入って行く。 今だ……タイミングを計っていたカズキは静かに扉を開けて室内に入った。

 

 裸足の上にこの部屋の絨毯は恐ろしく柔らかい。 足音すらしないだろう。 もう一度部屋に戻ってきた瞬間を狙う。

 

 カチャ……

 

 巨体でありながら音も立てずに、姿勢も崩れない。 足をやるか……カズキは開かれたドアの裏側から出て腿を狙いスコップを腰だめにして突き刺した。 腕力が足りないのは体重移動で補う。

 

「……くっ!」

 

 声は殆ど出さなかったのは流石だろう。 男は見もせずに左拳を後ろに振り回す。 カズキも読んでいたので既にその場にはいない。 ベッドの下から鋏を取り出して、暖炉の側まで移動する。

 

「この餓鬼がぁ……」

 

 男は血走った目をしてカズキを睨むとスコップを抜き歩き出した。 深くは刺さらなかった事をカズキは知り、悔しさを覚えながらも気持ちを切り替える。

 

 カズキは男の動きを見ながら静かに後退りして、間合いを図った。

 

「とんだ跳ねっ返りだ。 躊躇なく刺すとは……こんな餓鬼はスラムでもそうはいないぜ……」

 

 ボイチェフは背中からナイフを抜き出してカズキに見せつける。 普通はそれだけでも怯えるものだが、目の前の少女の顔色に変化はない。 それを見たボイチェフは僅かにあった油断も捨てる。

 

 ナイフを見たカズキは暖炉の脇から火かき棒を取り、剣の様に構えを取った。 金属製のそれは勿論剣の様な強度はない。 先は手前側に曲がり尖っている。 ナイフ相手ならリーチも稼げるだろう。 今のカズキでも振り回す事が出来る数少ない長物だった。

 

 

 キンッ!

 

 

 腕を斬りつける軌道を取ったナイフを体を横にずらしながら受け流したカズキは、そのままの勢いで火かき棒を横に強振する。だがそれも思うほどの速度も勢いも無い。今更止める訳にもいかずに、そのままに任せるしかなかった。

 

「くっ……」

 

 服に引っかかる様に、尖った先端が脇に当たる。 ボイチェフの呻き声は聞こえたが大してダメージは無いだろう。 カズキは思った以上に力の無い非力なこの体を恨めしく思い始めていた。 なんなら最初の一撃で終わったはずなのだ。

 

 ドドッ!

 

 動きこそ眼を見張るが力が追いついてない事を知ったボイチェフは、当たるに任せて体ごとぶつかりにいった。 硬い革らしき靴が僅かに音を立てる。

 

「!?」

 

 巨体をただシンプルにぶつけられるのは、今のカズキには最も嫌な事だった。

 

 火かき棒を脳天に当てるべく、上段から振り下ろす!

 

 僅かに頭を反らせたボイチェフの肩に当たり、痺れたカズキは火かき棒を離してしまう。

 

「はっはー、ここまでだな餓鬼が……」

 

 カズキを抱え持ち上げて柔らかな体を堪能する。顔を胸に埋め、その感触と匂いすら下品に味わった。

 

 しかしカズキはそんな事を気にもせずに、直ぐ横にあったクリスタルの馬を両手で持ち上げて……躊躇なく叩きつけた。

 

 ガシャーーーン!!

 

「ガハッ………」

 

 ボイチェフはカズキを放して床に倒れ、そのまま起き上がってこなかった。

 

「……!」

 

 両手を付いて肩で息をするカズキは、少し血を頭から流すボイチェフを見て何故か治療をしたくなる。 頭を振りそれを追い出すと、ゆっくりと立ち上がって廊下に出ようと扉を見た。今は此処から離れるべきと判断したのだ。

 

 

 

 ……さっきまで有りもしなかった恐怖が湧き上がるのを強く感じて、思わず尻餅をついた。

 

 

 

 

 扉の直ぐ前に焦げ茶色のザンバラ髪をした戦士らしき男が立っていたのだ。 いつ入って来たかもわからない。 剣すら構えず只立ってこちらを見ているだけ、それが何故か恐ろしい……

 

 暫くカズキも動けなかったが、その男がゆっくりと近づきながら腰から剣を抜いたのを見て何とか立ち上がった。

 

 何とか逃げないと……勝ち目はない……

 

「おい、起きるんだ」

 

 抜いた剣でペシペシと尻を叩き始めたその行為に、巨体の男は少しだけ身動ぎするのがカズキには見えた。巨体男まで意識を回復されてはどうやっても勝ち目がないと判断し、ザンバラ髪の男の視線が倒れた男に行くのを見た瞬間カズキは横を扉に向けて走り出す。

 

 

 行ける!

 

 

 そう思った時には、頭に衝撃が走り一瞬で意識が刈り取られた。 カズキは何があったかも分からないまま絨毯の上に倒れ込む。

 

「……とんでもない聖女様だな。 思い切りが良過ぎるだろう……」

 

 ディオゲネスは聖女らしき黒髪の少女に感嘆の息を吐く。

 

「……ボイチェフ、早く起きろ。 殺すぞ」

 

「うぅ……頭が痛え……」

 

 頭を押さえながら立ち上がったボイチェフは、倒れたカズキを見て踏み付けようと近づき足を振り上げた。

 

「くだらん事に時間を使うな。 早く運ぶんだ」

 

 音も無く首元に大剣を当てられ、震えながらディオゲネスを見た。

 

「……あ、ああ。 分かった、分かったから剣を下げてくれ」

 

 下げられた剣の行方を目で追いながら、ボイチェフは麻袋を拾い倒れたカズキを乱暴に入れて肩に担ぐ。

 

「いいぜ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユーニードに呼び出されてはいなかったと気付いた騎士が急いで戻った時には、扉は開け放たれていた。 部屋には割れたクリスタルの破片と、僅かな血痕。 落ちている火かき棒と鋏しか見つからない。

 

 

 

 

 

 この夜、黒神の聖女は姿を消した。

 

 

 

 

 

 



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25.妄執の行き着く先④

お気に入りや評価、沢山ありがとうございます。
後半、人によっては少し嫌な表現があります。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒の間に暗い悲しみの帳が降りていた。

 

 いつものアスティアの明るい悲鳴も、エリの笑顔も、クインの暖かくも厳しい眼差しもそこには無い。

 

 

 

 

 

 

 いつもよく眠るカズキが使っているベッドの縁には、アスティアが茫然とした表情で座っている。エリもアスティアの直ぐ側に立ってはいるが、何をしたら良いのかとあちこちに目をやっていた。

 

 扉の近くでは騎士2人とアストが話をしていて、低い声が部屋に反響する。

 

「……ユーニードに呼び出された?」

 

「はい……ただ実際はそんな呼び出しはしていないと、急ぎ戻ったところ今の状況でした」

 

 アストは怒りが湧き出すのを感じ、無理矢理に抑え込んで続ける。しかしそれでも隠しきれない感情が溢れ出たが、もうそれを止めようとは思わなかった。

 

「……来たのは間違いなく1人なんだな? 風貌は?何か気付いたことは?」

 

「……は、はい。濃い茶色の髪と目、騎士の鎧をしておりました。鍛えられた体や、もつ雰囲気からも経験ある騎士と判断してしまいました。も、申し訳ありません!」

 

「……謝るのはカズキに対してだ。どれだけ恐ろしかったと思う? 周りの状況を見ろ、必死に抵抗したんだぞ! 今も……いや、もういい。任務に戻ってくれ」

 

 恐ろしい想像をしてしまいそうだったが、アスティアが肩を震わせたのを見て言葉を重ねるのは自重する。騎士達は敬礼をして足早に黒の間を去っていった。後で何らかの処罰が下されるかもしれないが、それはケーヒルに任せようとアストはクインを見た。

 

「殿下……これを」

 

 クインの手にはナイフがあった。食事用だが、凶器として使用出来るよう粗く砥がれている。

 

「これは?」

 

「洗面室の壁板の隙間に隠してありました。カズキは何かを警戒していたのかもしれません。 もしかしたらこの誘拐も……」

 

「……くそっ!! そんな兆候なんて……犯人は何が目的なんだ……」

 

 思わず俯くと割れたクリスタルの欠片がキラキラと輝くのが見えて、無力感がアストの体を苛んだ。考えたくも無いのに、カズキが出す事が出来ない筈の悲鳴を上げる顔を幻視してしまう。

 

「……殿下」

 

「ケーヒル! 何かわかったか!?」

 

 ケーヒルが戻って来たが、顔色は優れないのを見てより一層気持ちが落ち込んでいく。

 

「残念ながら黒の間までの間に、目撃者はおりませんでした。殿下……いかに上手くやろうとも、これは出来過ぎです。悔しいですが内通者を疑うべきかと。各城門には通達を出します。ここに至っては情報の隠匿も不利になるでしょう。全てでなくても構いません、許可をお出しください」

 

 少しだけ考え頷くアストを見てケーヒルは指示を出すべく、黒の間の扉をくぐっていった。

 

 

 先程から俯いたまま動かないアスティアの横に座ったアストは、自分に言い聞かせるように肩を抱き寄せて呟く。

 

「必ず見付ける。リンディアの外には出さない、助け出すよ」

 

 アスティアの碧眼からはポロポロと涙が落ちて、アストの服を濡らしたが誰一人指摘することなどなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エリがアスティアの手を引いて姿を消すのを見て、アストはクインに視線を移した。

 

「……どう思う?」

 

「恐らく情報が漏れたのでしょう。この黒の間まで一人の少女を拐いに来るなど考えられません。聖女としての価値を知られたとしか……」

 

「犯人はカズキを何かに利用する気か? 身代金目的もあり得るが……いやそれはないか……。リンディアの中では危険が過ぎる、かと言って他国に逃げるのも困難だ」

 

「やはり癒しの力を何かに利用する気でしょうか……? 治癒させたい誰かの為に拐ったのなら辻褄は合います」

 

 どうしたところでカズキにとって良い結末にはならない。やはり何としても見つけ出さなくては……アストは焦る気持ちを胸に黒の間を出て行く。 

 

 

 手に持ったままのナイフに目を落としたクインは、その鈍い輝きに自身が本当のカズキを知らずにいたことを認めるしか無かった。専属の侍女として、自身は不足だったのかと。普段泣くことの少ない目から一筋の涙が零れ落ちて、その雫はクリスタルに弾かれて消えていく。

 

 クインは暫くそこから動く事も出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これが聖女だと? 思っていたより子供だな。 刻印は……ふん、確かに刻まれているようだが」

 

 

 意識のないカズキは薄汚れた木の椅子に座っていて、頭は前側に深く俯き動かない。両足はそのままだが、肘掛けに両手は縛られている。更に細い腰回りには革の太いベルトが外れないように巻かれ、そこから鎖が伸びて石床に固定されている事で、両手が自由になっても鎖の届く範囲しか動けないだろう。その皮のベルトにも鍵が掛けてあり、自力では逃げる事も出来ない様になっていた。

 

 カズキ達がいる空間は全体を石で覆われていて、空気の循環用の小さな穴が二つ程ある。奥にはまだ部屋があるようだが扉は閉り、壁の蝋燭はユラユラとした光でカズキ達を照らしていた。

 

 

 リンスフィア郊外にある馬屋の跡地に、カズキは連れて来られていた。既に放棄されて久しい馬屋には人の気配はない。カズキ達がいる場所は、その馬屋から隠された階段を降りた地下空間だった。

 

 

 

 

「貴様まで来て大丈夫なのか? 今は正体を知られる訳にはいかないだろう」

 

「ああ、顔は隠す」

 

 ユーニードはディオゲネスに目だけが空いた白い仮面を見せて、それを着けた。

 

「何より聖女の力は自分で確認したい。ディオゲネス、怪我人は用意出来てるのか?」

 

 そのくぐもった声に、ディオゲネスは顎でしゃくって奥の扉の方を示した。

 

「家族を無くしたりした独り身の者達だ。借金で首が回らない連中ばかりで、少しばかり脅してある。病人は諦めろ、都合のいいのがいない。ただ騎士、戦士では無い者も必要と思ってな、一人だけ女もいる」

 

「そうか、後は聖女が目を覚ますのを待つだけだな」

 

「……聖女のイメージとは違って、なかなか根性のある餓鬼だ。思った様にはいかないかもしれないぞ?」

 

「ほう、どういう事だ?」

 

 一流の戦士であるディオゲネスが言った言葉に、ユーニードは興味を唆られた。

 

「大した事じゃないが、一部始終を見てたんだ。ナイフを持った大人に怯むこともなく対峙していた。なかなか出来る事じゃないし、慣れも感じたな。体の使い方もいい。決断も早いし実行する行動力もある。もし女でも子供でもなければ、良い騎士になれたかもな……ほら、そこにいるのが伸された大人だ」

 

 ディオゲネスは壁際に寄りかかり立っていたボイチェフを真顔で指差す。指摘された当人は苦々しい顔を隠さなかったが、流石に反論はしないようだ。

 

「ふん、まあいい……私は後ろで見ている。やる事はわかってるな?」

 

「ああ、任せておけ。貴様こそ耐えれるのか?」

 

 少女が痛めつけられる様を見る事に……ディオゲネスはカズキを見ながらそう言葉を続けた。

 

「全ては魔獣を根絶やしにする為だ、そんな事は些細なことに過ぎん」

 

 ユーニードには魔獣の断末魔しか見えてはないのか、妄執に駆られたその目は鈍く光を放つだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しずつ戻ってきた意識だが、まだ気絶したフリをしながら様子を伺う。

 

 カズキは腕を椅子に固定され、腰回りにも何かで縛られているのを感じた。周りには複数の人の気配がする。やはり話している内容は理解出来ないが、それは諦めている。

 

 最悪な状況で絶望の淵へ落ちてしまいそうな心を、何とか奮い立たせて機会を伺うしか無い。カズキはわからない様に薄っすらと目を開き、丁度見える腰回りを確認した。

 

「おい、こいつ意識が戻ってるぞ。様子を見てやがるんだ……やはり中々の奴だ」

 

 意味不明ながらも何処かで聞いた声だと記憶を探ると、意識を失う前に見た焦げ茶色の髪の男と思い当たった。分かってはいたが、やはり絶望感が襲ってくる。それでも何か情報をと俯いたまま目だけを動かしていた時だった。

 

 顎を持たれて強引に上を向かされたカズキは、痛みで思わず眼を見開いた。

 

「ほらな? ボイチェフ、油断するとまたやられるぞ?」

 

 あの時の男に間違いなく、すぐ横には頭にクリスタルの馬を叩きつけた大男がいる。

 

 こうなってはしょうがないと、カズキは二人の男を睨みつけて周りを見渡した。部屋の奥にはもう一人いて、気色悪い白い仮面を着けている。腕に力を入れて前後に動かしてみたが、全く外れそうにない。隠しても無意味だろうと、ガタガタと椅子にも力を入れてみたが結果は同じだった。

 

 カズキは何時ものように心を別にして、痛みや屈辱が来る事に身構えるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これが聖女の力なのかねぇ……こんな時でも狼狽えずに動けるなんて信じられんよ。こんな(なり)でどんな修羅場を潜ってきたのやら」

 

「……ディオゲネスさんよ、始めてもいいか?」

 

「んー? ああ、先ずは刻印の確認からだな」

 

「待ってました! 中々の美人だし、役得だよな。 ちなみに犯っていいのか?」

 

 ディオゲネスはユーニードを見たが、首を横に振るのを確認して答えた。

 

「ダメだ。指示された事だけに集中しろ」

 

「ケッ……まあしょうがねえ、仕事だしな」

 

 ディオゲネスの冷めた目には気付かずに、ボイチェフはカズキの前に立った。

 

 

 

「先ずは首回りだな。鎖の様な刻印で、首に巻き付けてある様に見えるな。一部は耳の後ろまで来てる」

 

 ボイチェフは右手で黒髪を掻き上げ、首筋からうなじにかけて鼻を着けて匂いを嗅ぐ。ワザとらしく音を立てながらだ。

 

「ふへへ……、餓鬼にしちゃ中々色っぽいじゃねえか……」

 

 イヤラシイ顔をしながら襟をつかんで無理矢理左肩を露出させた。折れそうな細い首からスッとした鎖骨と肩にかけて柔らかな曲線を描いている。蝋燭の灯りしかない地下でカズキの肌は妙に白く妖しく見えた。

 

「左肩にもあるな、こっちは神代文字が目立つ感じだ」

 

 イヤらしく肩に舌を這わせ、耳元までベロリと舐める。

 

 そのまま前に来たボイチェフは、掴んだままの襟を力尽くで下に引き裂いた。

 

 ーービッビリリッ!

 

 細い腰に巻かれた革ベルトのお陰で全てが引き裂かれはしなかったが、胸元からベルトのあたりまで縦に肌が晒されてしまう。下着はしていない。

 

「ククク……お次は右胸にある刻印を確認してやるよ」

 

 そう言いながらワザとらしく上からゆっくりと開き始めた時だった。

 

 ーーゴキャッ!

 

 カズキはブオッと頭を振り、ボイチェフの鼻っ柱に思い切りぶつけた。

 

「ぐえっっ……!」

 

 更に自由な足を使ってボイチェフの足の小指辺りを思い切り踏み抜く!

 

「痛え!……テメエ!」

 

 ボイチェフはカズキの髪を掴んで上を向かせた。 ブチブチと何本かの髪が抜けたが、ボイチェフは気にせずに平手で頬を打ち抜いた。 

 

 パーーン! ……ガタン!!

 

 カズキの軽い身体は椅子ごと横倒しになってしまう。口元からは僅かに血が滲み、頰は赤く痛々しい。胸も晒され、スカートは捲れてやはり白く見える太ももと下着すら見えた。意図せずして内腿と脛にもあった刻印が露出したが、カズキは涙ひとつ見せずにボイチェフを睨みつける。

 

「この餓鬼がぁ……!」

 

 情けない事に鼻血を出しながら、カズキを更に痛めつけようと髪を掴んだところでディオゲネスが待ったをかけた。

 

「もういい、確認は十分だ。 聖女で間違いないな?」

 

 ユーニードが無言で頷くのを確認したディオゲネスは、カズキを椅子ごと起こして元の位置に戻し感嘆の声を上げるしかない。

 

「こいつは予想以上のタマだ……ボイチェフ、お遊びは終わりだ。このあと好きなだけ痛めつければいい。わかったな?」

 

「……ああ、分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキの絶望的な夜は始まったばかりたった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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26.妄執の行き着く先⑤

残酷な描写があります。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディア王国の王都リンスフィアは、夜となれば静かなものだ。

 

 ランプの脂や燃やす薪も有限で、集めるには文字通り命を懸けなければならない。森人達は誇りを持っているが、だからと言って無意味に消費されれば気分を害すだろう。しかし、一部ではあるが酒場や食堂、遊戯施設などは夜も営業している。

 

 これらはリンディア王室からも推奨されている事だ。

 

 魔獣や森の侵略に抗う中で、ただ無為に過ごすことは誰にも出来ない事なのだろう。魔獣が猛威を振るい始める前には到底及ばないが、それでも人々は働き、食べ、そして生きている。

 

 そんな一部を除き静かなリンスフィアに騎士達の足音が各所で響いていた。

 

 僅かに灯る手持ちのランプが街路を照らし、路地や空き家まで足を運んでいる。リンディア王カーディルから直々の命令が下されていた。

 

 黒髪で翡翠色の瞳の少女を探し出すように、と。

 

 大変珍しい姿形だが、一部の騎士達の中では知られた少女だった。噂にも色々とあるが、リンディア王国の王子アストの想い人とされるものが有力だ。しかも眉唾ではあるが命の恩人でもあるらしい。次期王妃となる可能性すらあると思っている。

 

 カズキ本人がもし聞いたら、出もしない悲鳴を上げて走り去るかもしれない。だが当の本人の姿はなく、それを理解する事もない。そんなカズキを騎士達は使命感に駆られるままに探し回っていた。

 

 

 

 

「門の閉鎖は確認はしました。今のところ外部に出た形跡はないようです」

 

「ケーヒル、念の為リンスフィア内にある全ての治癒院や孤児院などに報せを出してくれ。カズキらしき人が現れたら必ず城まで知らせるように」

 

「……よろしいのですか? カズキの存在を隠すのは難しくなりますぞ? しかも今回は彼女の意思で動いているわけではないのですから」

 

 アストは迷いながらも答えた。

 

「……構わない、今は一刻も早くカズキを見つけたい。打てる手は全部打つんだ。出来れば癒しの力は衆目には晒したくないが、そんな事で万が一を起こす訳にいかない」

 

 先程から浮かんで来る嫌な想像を何度も打ち消しながら、この手で抱きしめたいとアストは拳を強く握りしめる。

 

 …………許す事など出来ない

 

 刻印の力など関係はない……一人の優しい少女なのだ。少女を拐かし、無理矢理に癒しを行使させるなどあってはならないことだ。 

 

 もしカズキが誰かに傷つけられたら……泣いていたら、自分は正気でいられるのだろうか……

 

 アストに今まで感じた事の無かった強い憎悪が宿り、その胸をジリジリと焦がしていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 痛みが胸の辺りを掠めた。

 

 先程切った唇や硬い床に叩きつけられた肩とは違う種類の痛みだ。奥にいる白仮面の男が持っている紙束が目に入った時、否定と諦観が同時に襲って来たからだった。

 

 ……あれは……あの時見た……?

 

 自身に刻まれた刻印の詳細が書かれている筈の紙束だとはっきりと分かった。最近過ごしている部屋で銀髪王子とお姫様、金髪と赤毛の侍女達が手にしていたものだ。

 

 

 

 ーーまるで家族のようだと思い始めていた

 

 ーー追いかけっこだって何回もしたんだ

 

 ーージンワリとした人の暖かさを感じていたのに

 

 

 

 ……こいつらは仲間なのか? 家族のようだと思い始めた人達が仕組んだのか?

 

 理性は否定を繰り返していた。盗んだかもしれないし、敵対した連中とも考えられるだろう?……カズキは必死になって頭の中に浮かぶ嫌な思いを消そうとする。

 

 そう……あの温もりの全てが嘘で、作られたものだなんて信じたくない。

 

 普通なら単純に仲間などとは思わなかっただろう。そしてそれは事実正解でもあった。

 

 ……しかし、カズキ本人すら自覚出来ない力が邪魔をする。刻印が……癒しの力を高める筈の刻印は、カズキの心を癒したりはしない。

 

 

 ーー憎しみの鎖[1階位]

 

 ーー自己欺瞞[2階位]

 

 

 二つの刻印は互いが影響し合って、カズキから思考を、強い意志を奪っていく。リンディア城で少しずつ形成されていた自己肯定感も、自己の否定へと塗り変わっていった。

 

 声が聞こえる……

 

 ーーお前は本当にそう思っているのか? 知っていたはずじゃないか……異常な治癒の力は利用価値があると。そうでないなら、たかが一人の餓鬼にあれ程過剰とも言える保護をすると、本当に思っているのか? 

 

 おめでたい奴だよ、何度も裏切られたじゃないか……

 

 母親にすら捨てられた癖に!

 

 

 

 アストに芽生え向けられた愛も、アスティアの姉妹愛も、クイン達からの暖かな親愛も、全てが蝕まれていった。

 

 クインが見たら驚いただろう、嘆き悲しんだだろう。

 

 聖女の刻印にかけられた封印がより強固になっていく様を知ったなら……

 

 アストは正しかったのだ。

 

 

 

 

 そうして、カズキの身体から力が抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お? さっきまでの強気はどうしたんだ? こいつ泣いてやがるぜ!」

 

 嗜虐的興奮を隠さないボイチェフは、乱れた髪の影から涙が零れたのを見逃さなかった。はだけた胸元も膝上までめくれ上がったスカートの裾から見える足も、ボイチェフを喜ばせる材料にしからならない。

 

「本当に言葉がわからないのか? 今から何をされるか理解したんだよな? ハハハッ……今更怖くなっても遅いぜ、お嬢ちゃん!」

 

 抜き出したナイフをカズキの前でちらつかせたボイチェフは、ディオゲネスに気色悪い顔を向けて言う。

 

「ディオゲネスさんよ! 早いとこ始めようぜ」

 

「……ふん」

 

 ディオゲネスは奥の扉に向かい、その先の暗闇に消えていった。

 

 ーーーーズル、ズル、ズザッ

 

 ディオゲネスは暗闇から何かを引き摺り戻ってくる。硬い筋肉に覆われた腕に掴まれたそれは、全身を縛られ猿轡をされた男だった。

 

 頭垢だらけの頭に、薄汚れた薄手の衣服、爪は何かで真っ黒なその男はウーウーと唸りながら涙を流し目を見開いている。何より目立つのは右足首があらぬ方向に曲がり、骨らしきものが皮膚から飛び出している事だろう。ディオゲネスによって取られた包帯も赤く染まった右足も、怪我をしたばかりだと物語っていた。

 

 

 

 下に俯いままのカズキは身動きもしていない。それを見たディオゲネスはカズキの背に回り、腕を後ろから絞める様に首にかけて上を向かせた。続いて首横の肩に自身の顔を置いて、耳元に口を寄せる。相手が理解出来ないのを知りつつも低い嗄れ声で囁いた。

 

「おい、見ろ……奴はこのままでは死ぬんだ。いいのか?」

 

 カズキは特に逆らう事もなく、ディオゲネスに顔を上げられて力の無い眼を正面に向ける。その涙の流した跡の見える翡翠色の眼には暗い諦観が感じられた。

 

 だがディオゲネスは直接触れていたから分かった。聖女の体が震えた事、そして男から目線が動かなくなった事を。

 

 暫くするとギシギシと椅子が鳴り始める。縛られた両腕が立ち上がるのを邪魔しているからだろう。力がそこまで入っているわけではない。まるで自分の置かれた状況が理解出来ていないような動きにディオゲネスは小さく呟いた。

 

「まるで黒神エントーの祝福を受けられない死人の様だな……」

 

 死と眠りの神エントー……その祝福がなければ死した後も彷徨い歩くと言われている。実際に見た事などは勿論ないが、物語で描かれた様を読んでいたディオゲネスには馴染みの感覚だった。

 

「ボイチェフ、縄を切れ。ついでにナイフも聖女に渡すんだ」

 

「……ナイフを? おいおい大丈夫なのか?」

 

 二度も痛い目にあっていたボイチェフが躊躇するのも当然だろう。ボイチェフも目の前にいる少女が只者ではないと認めている。

 

「怖いなら鎖の届かないところまで下がってろ。ナイフを寄越すんだ」

 

「分かった分かった! 切るから捕まえておいてくれ」

 

 そう言いながらカズキの腕を固定していた縄を右、左と切っていった。今なら聖女の肌も、女性らしく膨らんだ双丘も好きなだけ見ることが出来たが、緊張の為かそんな余裕はないようだ。

 

 そうしてナイフの持ち手を手元に向けても、聖女は握ろうともしない。

 

 舌打ちをしたボイチェフは立ち上がったカズキの手を開き、強引に握らせて数歩ほど離れた。

 

 まるで夢遊病患者の様にフラフラと怪我をした男の側まで歩き始めたカズキだったが、あと少しと言うところで鎖が張り、つんのめって進めなくなった。ジャラジャラと鎖を鳴らして外そうとするが、モタモタとするだけで何も変化は起きない。

 

「……おい」

 

「へいへい」

 

 嘆息しながらボイチェフはカズキの方に男を蹴り出した。

 

「ウグゥ……」

 

 猿轡の奥から呻き声が聞こえたが、ディオゲネスもボイチェフもユーニードさえも気にはしない。

 

 カズキは足元に転がって来た男の側に跪いて、不潔に汚れて血で真っ赤な足に右手を戸惑う事なく置いた。独特の据えた匂い漂う男は、痛みが走ったのか酷く怯えて更に呻き声が強くなる。

 

 その悲痛な声を聞いたからか、カズキはノロノロとナイフを左掌に押し当てる。プッと赤い玉が浮き上がったと思った時には音もなくナイフを引いた。近くで見ていたディオゲネスは、カズキの顔が僅かに歪むのが見えた。

 

 ーー痛みは感じるのか……掌からはポタポタと赤い糸が垂れていくのを見て、血もちゃんと赤いんだなと思いもした。

 

「……な、なんだと!?」

 

 冷静に観察していたディオゲネスでも、次に起きた現象には驚きを隠せなくなり思わず声が漏れ出た。 添えた左手が僅かに白く光ったと思ったら、目に見える速さで傷口が再生していくのを見れば誰もがそうなるだろう。

 

「く、くくく、素晴らしい……」

 

 近くに来ていたユーニードからも感嘆の呟きが溢れる。

 

「嘘だろう……? こんな事が有り得るのか……」

 

「ああ、想像を超える速さと正確性だ。()()()()()()()で開放骨折を治癒出来るとはな。これは使えるぞ……」

 

 見れば、スカートの裾を使って男の傷口に残った血を拭き取っている。自身の血を拭く事もせずに汚れすら気にしていないようだ。自らの出血など無かった様な振る舞いに、感情など魔獣に喰われたと思っていたディオゲネスですら心が揺れてしまう。

 

「これが聖女か……恐ろしいものだ……」

 

 刻印に操られる少女は、酷く歪で惨い(いびつでむごい)存在に見えた。

 

 縄に縛られたまま怪我が完治した男は、茫然と聖女を見て口を開けている。いや、そこに居るカズキ以外の全員が聖女の奇跡に動けなくなっていた。

 

 

「……ディオゲネス、次だ。 他の怪我人を出せ」

 

「……ああ」

 

 

 

 

 

 

 

 聖女は火傷、打撲、切り傷の全てを完治に至らしめた。男も女もなく、強制する必要も無かった。奥の部屋から連れ出しては戻しを繰り返して、治癒の力のデタラメさを確認していったユーニード達は最後の用意を始めた。

 

「もう一度動けなくさせろ。ナイフも取り上げるんだ」

 

「おう」

 

 椅子の後ろの石床から繋がった鎖を、ボイチェフは嬉しそうに引き始めた。

 

 跪いていたカズキは後ろに倒れて尻餅をつく。それでも鎖には逆らえず左手からは血が滴り、ボイチェフのいる場所までズルズルと赤い道を作っていった。 

 

 後ろからカズキの左脇に腕を差し入れて少女らしい膨らみを乱暴に触り、もう一方の腕は股から腿を抱えて椅子に座らせた。ボイチェフはその柔らかい感触を楽しんだが、全く反応が無いことに鼻白む。

 

 カズキを椅子に再び縛り付けたボイチェフは、それでも飽きもせずに肌に手を這わし続けた。

 

「くくく……どうだ聖女様よぅ……気持ち良いだろう」

 

 嫌そうに身動ぎを始めたカズキに、ボイチェフは益々興奮していった。 

 

「ほれ……見えてしまうぞ……どうするんだ? さっきまでの生意気な態度はどうし……グ、グギャッッ!!」

 

 前に回り込み両肩から破れた服を下ろそうとしていたボイチェフの腹から剣が生えた。

 

「グアアアッーー! ヒッ……な、なんで……」

 

「最後の確認だ。聖女の意思とは関係なく強制的に治癒出来るのかを、な」

 

 ディオゲネスは剣を引き抜きながら、血だらけなってカズキの足元に倒れたボイチェフを見下ろす。それを気にもせず口から血の泡を吐き出し始めたボイチェフの背中からナイフを取りカズキを見た。

 

「済まないな、ちょっと痛いぞ」

 

 カズキの力のない翡翠色の眼を見ながら、露出している左ももにナイフを勢いよく突き刺し抉る。全く躊躇ないその動きにカズキも何が起きたか一瞬分からないようだった。

 

 しかし直ぐに体が強張って歯を食いしばったカズキは、痛みに耐えられないのか声無き悲鳴が()()()。喉は何一つ声を紡がないのに、ナイフで抉った時にディオゲネスは聞こえた気がしたのだ。

 

「……さあ、死んでしまうぞ? お前に散々嬲って酷いことをした男だ。血肉すらこの俺が無理矢理捧げた。治したりなぞしたく……っないだろう!?」

 

 ボイチェフを引きずり上げて座っているカズキの手の辺りに腹を当てた時……今までと変わらない光が溢れて、傷口は癒されていった。 

 

 

 

 

 

 ……ここにユーニードの目的は達し、カズキの心は身体同様に傷付いたのだろう。カズキの眼から再び一筋の雫が落ちたが、赤い血を洗い流す事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蝋燭は短くなり、地下室を照らす灯りは弱い。

 

 ディオゲネスは無言で佇み、ユーニードはカズキを見ている。

 

 

 

「……やはり治癒するのか……これなら、これなら魔獣に対抗出来る……奴等を何度でも殺せる、殺せるのだ……」

 

 

 ユーニードが狂った様な呟きは、冷たい石に囲まれた地下に反射する事なく消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




これでも、ハッピーエンドになる物語なんです。


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27.妄執の行き着く先⑥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この後はどうするんだ? 聖女の力はわかったが、それをどうやって使うかだろう?」

 

 ボイチェフすら奥の部屋に放り込み鍵を閉めたディオゲネスは、ユーニードが白仮面を外すのを眺めて言った。

 

「ああ、まず聖女はその辺の治癒院にでも捨ておけばいい。殿下から捜索の指示が出ているだろうからな。お前は見つからないよう注意してくれ」 

 

「それで?」

 

「噂を流す。聖女が降臨した、王家が魔獣への反撃を準備している、復讐のときは近い、そういう噂だ。ついでに黒髪の美しい少女で、刻印が刻まれた神の使徒だとな。どの道リンディアの全軍を投じなければ、奴等を駆逐出来ない。ならば、陛下の背中を押せばいい。聖女の存在にはそれだけの力がある」

 

 王家は世論に圧されて座してはいられないだろう……そうユーニードは締めくくった。

 

「なるほどな……貴様らしい回りくどい手だ。俺の原隊復帰を急いでくれよ。魔獣の前にさえ立たせてくれたらそれでいい」

 

「わかっている。しっかりと剣を研いでおけ」

 

 気を失っているカズキを前に二人の話は淡々と進んでいく。

 

「ディオゲネス、奴等はどうするんだ?」

 

 奴等とは扉の奥にいる者達だろう。ボイチェフもその一人に数えられていたが、この二人は最早気にしてもいない。

 

 焦げ茶色のザンバラ頭を掻きむしりながら、ディオゲネスは質問に質問を返した。 

 

「聞きたいのか?」

 

「……いや、やめておこう」

 

「ああ、それが賢明だ」

 

「……我らはヴァルハラに行く事もないだろう。神の御使いたる聖女すら貶めたのだ。だが、魔獣を道連れに出来ればいい」

 

 ユーニードは少しだけ正気を取り戻した様子を見せたが、全ては終わりそして始まってしまった事だ。

 

 止められないし、止める気もない。

 

 

 ーー森との戦いは近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディアから見る地平線が少しずつ淡く色付いていく。闇が払われて朝を知らせているのだろう。

 

 アストは城に辿り着いていた。

 

 まだ戻る気など無かったが、フラつくアストを見たケーヒルが無理矢理連れ帰ったのだ。

 

 体は睡眠を欲しているが、冴えたままの頭はカズキの幻影を見せてくる。アスティア達は報せを待っているだろうが顔を見せたくなかった。酷い顔をしているだろうし、不安を煽るだけだろう。

 

 花壇の側にあるベンチに座ると、眼には少し先にある庭園が映った。カズキを横抱きにして渡った飛び石も大木も見える。その大木の下でカズキがこちらに振り返っている姿を幻視して、思わず頭を抱えてしまう。

 

 脂と汗で重くなった髪は、時の経過を意識させてアストをより深く強く苛んだ。

 

 

「カズキ……何処に……どこにいるんだ……」

 

 

 これ程の焦燥も、怒りも感じた事などなかった。

 

 魔獣に対してすらアストに覚えはないのだから……

 

 

 ベンチから動く事も出来ずに地面を見ていたアストにケーヒルの声が聞こえて来た。それは幻聴などではない確かなもので、アストのボヤけた意識を浮き上がらせる。

 

 

「……下!……殿下! ジョシュから報告がありましたぞ! カズキが見つかったと……!」

 

「……!!っどこだ!? 無事なのか!?」

 

 アストは勢いに任せて立ち上がり、走りくるケーヒルに声を荒げた。

 

「……命に別状はありません。ただ……」

 

「……ただ、ただどうした!?」

 

「怪我をしているようです……意識も戻ってはいないと。外円部西街区の治癒院から報せがあったようです」

 

「……くそっ!」

 

 疲れなど無かったかの様に、全力で走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 治癒院の前には馬が数頭、騎士も待機していた。人数こそ少ないが野次馬らしき住民の姿も見える。

 

「殿下!」

 

 扉の前にいたジョシュが、馬が止まる前に飛び降りたアストに呼びかける。

 

「ジョシュ! カズキは!?」

 

 アストの只ならぬ形相に住民達も驚きを隠せない。街で出会えば手すら振り、皆に笑顔で接するのが当たり前だからだろう。やはり運び込まれた少女はアストの大切な人なのか、カズキと言う珍しい響きの名前も手伝って印象を強くした。

 

「こちらへ……今は眠っています」

 

 早朝だからだろう、治癒室らしき広間には人影はなかった。

 

 ジョシュは無言でアストを誘導して、廊下の奥の一室を目指して歩く。木の床は足音を響かせたが、焦る気持ちをそのままに歩を進めた。そして、開いた扉の先にベッドに横たわるカズキの姿を見ると、早足に近づいて小さな手を両手で包んだ。

 

「カズキ……」

 

 左手に巻いたばかりの白い包帯が目に入る。衣服は黒の間にあるようなものではなく、治癒院の貫頭衣だろう。カズキの小さな身体には合っていないため、まるで白いシーツで包まれているようだ。

 

 両手の中でカズキの体温を感じる事が出来たアストは、漸く直ぐ側に人が立っているのが分かった。

 

「殿下、こちらがカズキを見つけてくれた方です」

 

 ジョシュはそれを見計らって横に立つ女性を紹介した。年老いた老婆だが、矍鑠とした立ち姿と優しい眼差しでアストを見ていた。頭髪は真っ白で後ろでまとめ白衣を羽織っている。皺くちゃの顔や手には人生の厚みが見えて、誰もが尊敬の念を抱くだろう。

 

「治癒師殿、失礼した。挨拶もせずに……」

 

「構いませんよ。アスト様にとって大事な方なのでしょう? 御心配は尤もな事ですから。わたくしはここの治癒師をしておりますチェチリアと申します」

 

 チェチリアと名乗った老婆は、優しい眼差しと同じ暖かい声音でアストに返答を返した。

 

「そう言って貰えると助かる。チェチリア殿、済まないが状況を教えてくれないか? カズキは……この娘は大丈夫なのか?」

 

「アスト様、チェチリアとお呼び下さいね?」

 

 やはり優しい声でアストに答えて、ニコリと笑った。皺くちゃの顔なのに何故か若返って見える不思議な笑みだった。

 

「今朝治癒院の前に横たわっていたんです。怪我をしていましたし、周りには人影もなかったので中に運び込んで簡単ですが処置をしました」

 

「……そうか」

 

「外傷は左の掌、腕、左大腿部、いずれもナイフ等のキズです。それと……両腕には鬱血の跡が……縄状のもので縛られていたのでしょう……腹部の両側にも擦過傷がありましたから身動きを取れないよう何かに固定されて……」

 

 カタカタと腰に差した剣が震えているのに気付いたチェチリアは、言葉を止めてアストの手を取った。唇を噛み締め、拳は痛い程に握っている。

 

「ごめんなさいね……アスト様も王子とは言え一人の人間。我等と同じ、か弱き白神の信徒……」

 

 チェチリアはアストはまだ若い青年である事にも思い当たったが、紡いだ言葉は決して消えたりはしない。

 

「……命に関わる様な怪我ではありません。それと……女性としての尊厳は傷付けられていません。どうか心を鎮めて落ち着いて下さい」

 

 優しくアストの手を摩り、ゆっくりと時間が過ぎるのを待った。

 

「……済まない……大丈夫だ、チェチリア」

 

「アスト様にそこまで心を砕かれるとは、この子も幸せな娘ですね。名前はカズキ……でしたか?」

 

「ああ、カズキと言う……チェチリアは見ただろう? カズキは普通の娘ではないんだ」

 

「刻印の数々は確かにそうなのでしょう……ですがアスト様。普通ではないなどと言ってはいけません。今は眠っていますが、最初に見つけた時は涙の跡がありました。アスト様同様か弱き一人の人なのです。まだ小さな少女ではないですか……あら、フフフ、偉そうな事を言ってしまいましたね」

 

 歳を取ると小言が増えていけません……そう呟いてチェチリアは自嘲して見せた。

 

「いや、その通りだ……私は何処かで距離を取っていたと思う。もっと寄り添って上げれば、いや寄り添いたいのに」

 

 アストはチェチリアの言葉に素直な気持ちを返した。

 

 窓から入って来た朝日の光の帯が部屋を明るく照らして、カズキの身体を浮き上がらせる。

 

 そこには世界にたった一人の聖女がいたが、アストには一人の愛する女性だと……そう思う事が出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チェチリアから城に連れ帰っても大丈夫だと聞いたアストは、優しくカズキを抱き上げて治癒院を出た。

 

 大きな貫頭衣はカズキの全身を包み、首元の刻印を隠せば只の少女でしかない。それでもアストの眼差しや壊れ物を扱う様に抱き上げた姿を見れば、アストの大事な人なのだと理解させる。残っていた住民達は、馬車に二人の姿が消えて立ち去るまで動く事は無かった。

 

「黒い髪とは珍しいなあ」

 

「だが見たか? 凄く綺麗な娘だった……アスティア様とは違う美しさだよな」

 

「遂にアスト様に想い人が現れたんだな。久しぶりに目出度い話だぞ」

 

「次期王妃か…… 」

 

 アストや騎士達がいなくなった治癒院の前では、ザワザワと噂話が花開いていた。 

 

「俺は知ってるぜ、凄い事をな……」

 

 あまり見かけない男が馬車が走り去った方を見ながら呟いている。大きくはないが通る声と男が持つ雰囲気に皆が興味を引かれて注目を集めていた。

 

「凄い事ってなんだよ?次期王妃以上の凄い事なんてあるのか?」

 

 噂話をしていた住民達の一人が思わず聞いた。

 

「刻印だよ、刻印。しかも一つや二つじゃないんだ。あれは間違いなく神々に愛された使徒だな……」

 

「はあ? 刻印だあ? 一つ二つじゃないって、まさか三つもあるってか?」

 

 冗談に皆から笑い声が上がったが、その男は微動だにせずにジッと見つめ返してくる。

 

「騎士様から聞いたんだよ……アスティア様もカーディル陛下もご存知らしい。ホントかどうかわからないが、黒の間に住んでるんだと」

 

「黒の間!? おいおい与太話じゃないだろうな?」

 

「いーや……黒の間は最近別の名で呼ばれるらしいぜ……」

 

 誰かがゴクリと唾を飲み込み、笑い声も完全に消えた。

 

「別の名って……?」

 

 焦げ茶色のザンバラ頭の男は、同じ色の眼を全員に這わせて答えた。

 

 

 

 

「……聖女の間、と」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスティアに知らせて上げないと……クイン達も心配しているだろう……」

 

 簡易的な馬車のため四人程度しか座る場所はない。アストの向かい側に横たわるカズキの意識はまだ戻らないが、手の届く場所にいるのを知ると安堵の溜息が止まらなかった。

 

 揺れる床に膝をつきカズキの側に来ると、初めて会った時を思い出していた。

 

「あの時もこうやって君を見ていた。やはり眠ったままで、その美しさに驚いたものだよ」

 

 カズキの頭に手を添えて、柔らかでサラサラとした黒髪を撫でて囁いた。

 

「……怖かっただろう……本当に済まない……」

 

 黒髪を優しく避けて現れた額に、アストはそっと唇を落とした。

 

「聖女だとか刻印とか、そんな事は関係ない……いつの日か私の横で笑っていてさえ居てくれれば……それだけでいい」

 

 チェチリアの言葉はアストの心に小さな変化を起こしたが、それは否定するようなものではない。アストはただ素直に受け入れて従うだけで良かった。

 

「最初からアスティアはそうしていた、カズキは手の掛かる妹だと。聖女などではなく一人の人間と認めていなかったのは私だけだった様だな……情けない話だ……」

 

 アストの自嘲は馬車の中に溶けていく。

 

 二度とカズキに怖い思いはさせないと、アストは誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




此処までやられっぱなしのカズキですが、数話先から少しずつ変化していきます。暗い感じもあと少しなので……


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28.枯れた心

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほんの数日前まで思っていた。

 

 

 ここから見える街や、遠くに見える雄大な地平線は何度見ても飽きる事なく美しい。

 

 遥か先には緩やかな丘が重なり、雨雲だろう灰色の綿が雨を降らしている。局地的な天候なのかその周辺は晴れていて、光と影のコントラストが緑色の絨毯を薄く染め上げていた。

 

 あれは確かスコットランドの高地だっただろうか、カレンダーに切り取られた景色が美しかったのを覚えている。それと似ているが、写真では伝わる事のない迫力が自分の目の前に広がっているのだ。

 

 

 

 

 目が覚めたとき、夢を見ていたと思った。

 

 薄暗い地下室は想像の産物で、ナイフをチラつかせた大男も焦げ茶色のザンバラ頭も存在しない。白い仮面はいかにも夢らしいではないかと。だが鈍い痛みが左腕と腿から走り、暖炉の上のクリスタルの馬の姿が見えないと知った時何かが変わってしまった。

 

 ゆっくりとベッドから起き上がり、何時もの様にベランダへ出る。好きになっていた朝から見る景色は同じ筈なのに、違う。

 

 

 ……変わったんじゃない、元に戻っただけだ。

 

 

 見えていた雨雲はいつの間にか消えて、丘に降った雨粒が反射してるのかキラキラと輝いて見える。でもそれだけ、ただそれだけの事だ。

 

 

 それなのにカズキは、そこから動かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何かわかったか?」

 

「黒の間まで誰一人として目撃者がいません。いくら油断があったとは言え、有り得ない事です。手引きした者がいるのは確実でしょう」

 

 カーディルの私室に三人の姿がある。

 

 祈りを終えたカーディルは、ケーヒルの言葉に耳を傾けていた。アストも何かを考えているのか椅子に腰掛けたまま身動きはしていない。

 

「油断か……」

 

 カーディルは油断が生じた理由が充分と理解出来るため責める事が起きなかった。

 

 今のリンディア、或いは世界と言い換えてもいいだろう。外敵とは即ち魔獣であり人ではないのだ。勿論悪さをする者もいるし、犯罪が消えて無くなったわけでもない。それでも対魔獣唯一の戦闘集団である騎士団とそれを指揮する王家に敵対するのは、自らに弓引く事と同義と言っていい。ましてや数百年前と違い国外脱出するには森を抜けなければならないのだから、天秤にかけるまでもない。

 

 黒の間であろうとも警備の緊張感は薄く、カズキのお世話係に近い騎士達だったのだ。本当の意味で命すら賭けていたのはノルデくらいだろう。昨晩ノルデは其処にいなかった。

 

「一晩で帰って来たのはやはり誰かの治癒が目的か……」

 

「たとえ誰かの治癒が目的であったとしても許せはしません。治癒師のチェチリア殿の話では、両腕と身体を縛られて身動きが出来なかっただろうと……」

 

 初めてアストは口を開いたが、漏れだすのは言葉だけではなく怒りだ。誰もが家族や身近な人を失いかければ我を忘れるだろう。だが免罪符にはならない、させはしない……それがアストの心の声だ。

 

「アスト、それは皆思うことだ。今やカズキはお前の命を救ってくれた娘でもあり、アスティアの妹なのだ。つまり家族だよ」

 

 もし言語不覚の刻印は無く、カーディルの言葉を聞いていたならカズキの願いは叶っていただろう。今も心の奥深く消える事のない渇望は、砂漠の如く渇き果てて家族と言う雨を待っているのだから……

 

「カズキを傷付けた者には報いを受けさせる。 ケーヒル、頼むぞ」

 

「はっ、無論です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漸く動いた足を部屋に向けたとき、目線の先にある扉が開くのが見えた。お姫様と侍女二人の姿が目に入って、その場に立ち止まる。ジンワリとした暖かさは消えたが、怒りが湧いて来たりはしなかった。

 

 他人(ひと)が来た、そう思って歩き出した筈の脚は動かない。

 

 足元を見てもスカートが邪魔で自分の足は隠れたままだ。膨らんだ胸は未だに慣れないが、しっかりと呼吸に合わせて動いているのに……

 

 おかしいな……?

 

 カズキは動かない身体が不思議で仕方がなかった。

 

 ジッと下を見ているとポタポタと水滴が落ちて、スカートに当たり弾けて消えていく。雨なんて降ってなかったのに通り雨だろうか……?

 

 空は青く、薄い雲は千切れて消えてしまいそうだ。

 

 カズキは見上げた視界が滲んでいって、目に涙が溜まっているのに初めて気付いた。

 

 そうか……この身体は泣き虫なんだな……

 

 他人事の様に思い、今の自分が在る意味を問う。

 

 あっさりと連れ去られて、何人も治癒した。終わったら元の場所に帰っていて、変わらぬ日常がある。また何かあればあの場所で他人を治さなくてはならないのだろう。部屋の中をキョロキョロと見渡しているお姫様達は、その間のお世話係というところか……

 

 

 もしアスティアがそんなカズキの心の声を聞けたなら……涙を流し、怒り、そして抱き締めるだろう。貴女は道具ではない、家族だと何度も伝える筈だ。

 

 けれども刻印は鎖となってカズキを縛り、解かれることは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いたわ、ベランダよ」

 

 クインとエリに教えたアスティアは、恐ろしい思いをした大事な妹を抱き締めようとベランダに出る。近づくと翡翠色の瞳が濡れているのが分かって、駆け足になった。

 

「カズキ!」

 

 あと一歩で手が届く……アスティアが両手を開いた時、カズキが後退りして距離を取った。

 

「カズキ……? どうしたの……?」

 

 初めて会ったあの時と一緒だった。ベッドで上半身を起こしたカズキに挨拶をした最初の時。刻印の存在を知らず、無理矢理に顔を掴もうと両腕を伸ばしたのだ。

 

 優しい妹がアスティアだけでなくクインやエリも警戒している様子を見て、酷く狼狽してしまう。それ以上逃げ出したりはしないが、アスティアは動けなくなった。

 

「……アスティア様……今は無理にしない方が良いでしょう。まだ落ち着いてないのです」

 

 クインの冷静な言葉に、カズキの体感した恐怖を垣間見てアスティアの胸は締め付けられる。

 

「そんな……どうして……」

 

 連れ去られたカズキに何があったか聞いた訳では無かったが、左腕に巻かれた包帯が物語っていた。

 

 ゆっくりと近づいてカズキの右手を両手で包むと、特に抵抗は無く俯いたままだ。振り払われたら泣いてしまうと思っていたアスティアは、少しだけ安堵して部屋の中に導いて歩く。

 

「エリ、温かいお茶をお願い」

 

「はい!」

 

 どうして良いか分からなかったエリは、役割を貰ってキビキビと動き出した。 

 

「クイン、怪我の具合は本当に大丈夫なのね?」

 

 何度も聞いた事をまた聞いてしまう。二人がテーブルの側の椅子に隣り合って座るのを見たクインも再び丁寧に答えていく。

 

「はい。酷かったのは太ももの刺し傷ですが、縫合もしなくて良い程度でしたから……ただ……」

 

 悩んだクインだが、アスティアとカズキを見て全てを伝える事にした。

 

「両腕には鬱血があり、胴体には擦過傷も見受けられたと聞いています。今はもう回復していますから分からないだけです」

 

「……? どういうこと?」

 

「……両腕を縛られ、胴体にも何らかの拘束具を付けられていたと推測されます。身動きを出来なくして無理矢理に聖女の力を行使させられたのでしょう……ですから……今はまだ精神が不安定でしょうから、先程のカズキの態度も理解出来ます」

 

 ガチャン……!

 

 エリにも聞こえたのだろう、用意していたカップが音を立てた。

 

 アスティアは我慢していた涙を止められなくなったが、同時に沸々と血が沸き立ち涙など気にならなくなる。強い怒りはアスティアの心を掻き乱し、視界は狭まって周りの音もしなくなった。

 

「許せない……絶対に……」

 

「はい、許せないでしょう。ですが私達に出来る事は復讐ではありません」

 

「我慢しろと?」

 

 アスティアには珍しい怖気を感じる声にもクインは怯まずにはっきりと答える。

 

「我慢ではありません。神々が、そして殿下が必ず罰を与えるでしょう。でも、アスティア様にしか出来ない事があります。カズキに寄り添い、心を癒し、守りましょう。聖女は人を癒しても、自らの心を癒しはしない様ですから」

 

 アスティア様ならお分かりでしょう……最後に優しくクインは囁いた。

 

「ええ……勿論、勿論よ……」

 

 エリが用意した紅茶の香りが立ち昇って、アスティアの鼻腔をくすぐる。濡れていたアスティアの蒼い瞳は既に渇いて、外を眺めるカズキを見つめていた。

 

 クインは知っている。

 

 アスティアは若き少女だが、誰よりも強く優しい一人の女性なのだ。刻印などなくとも、彼女も一人の聖女だと。

 

 リンディアは負けはしない……カーディル、アスト、アスティアがいるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 またいつもの日常が始まった。

 

 違ってしまったのはカズキが逃げ回る事がなくなり、アスティアが導くままに素直になったことだろう。

 

 お揃いの服も、下着も、化粧だって拒みはしない。 

 

 もともと眠り姫ではあったが、ベッドに横たわる時間が増えてきた。

 

 アストには近づく事もなく、目も合わさない。

 

 クインに怒られたりしなくなったし、お転婆でもはしたない少女でも無くなった。

 

 そして美しさに磨きがかかって、比喩でなく人形のようになった。瞳は宝石の如く輝くが、感情をうつしたりしない。以前も表情の乏しい娘ではあったが、それはより顕著になっていった。

 

 

 

 アスティアは挫けそうな気持ちを奮い立たせて、今日も黒の間の扉を開く。

 

 必ず妹を助けると誓ったのだからーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンディアの王都リンスフィアーー

 

 王都民の間で最近良く聞く噂話があった。

 

 

 

 滅びに瀕した世界に救いが差し伸べられた

 

 神々の加護を遍く(あまねく)受けた少女がいる

 

 刻印が幾つも刻まれた身体

 

 陛下をはじめ王家は反撃の準備をしている

 

 魔獣達を駆逐し、森を取り戻すときが来る

 

 戦争は近い

 

 

 珍しい黒髪と綺麗な翡翠色の瞳

 

 黒の間に住むその少女はどこまでも美しい

 

 司るのは慈愛の心と癒しの力

 

 

 知ればそう呼ばずにいられない

 

「聖女」と

 

 

 誰もが天を仰ぎ祈りを捧げる

 

 聖女が降臨した、と

 

 

 

 名を「カズキ」

 

 ーー黒神の聖女「カズキ」が舞い降り

 

 ーー世界は救われる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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29.クイン=アーシケル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキを街に連れ出すわ」

 

 

 

 ベランダから街を眺めているカズキを見ていたアスティアが呟いた。

 

「街にですか? 許可が出ますかねー?」

 

 随分前に思える星空をあしらった濃紺のワンピース姿、そんな可愛らしいカズキをエリも見ていた。それはカズキの黒髪と相まって優しい夜を幻想させるのだ。最近思い立って手に入れなおした一品である。ちなみに色違いがもう一着あるらしい。

 

「馬車はアレにするわ、ほら、周りがよく見えて天井だけ付いてる……」

 

「あー、パレードの時に使った馬車ですね? 名前は……なんでしたっけ?」

 

「名前なんていいの。馬車からは降りない様にして警護も付けるし、私も行くんだから滅多なことは起きないでしょう? 兄様が連れ出した時、カズキは凄く楽しんでいたらしいし……先ずは気分を変えた方が良いと思う」

 

「たしかにそれなら周りの目もありますし、悪い奴等がいても手出しは出来ないですかね?」

 

 エリは疑問符の付いたセリフばかりで、何時にも増して子供っぽい。悪い奴等と言う言葉選びがそれを加速させて、アスティアにも微笑が溢れてきた。

 

「買いたいものや食べたいものは、エリに手伝って貰うわ。それと特別にお酒を少しだけ飲ませてあげるのも良いと思っているから」

 

「可愛い聖女様はお酒が大好きみたいですもんね? あの幻のお酒はまだ手に入るのか!?」

 

 エリは可愛らしく拳を握って天を見上げる仕草をする。

 

 ちなみに、幻のお酒とは以前カズキが隠れて飲んだ赤ワインだ。

 

 葡萄畑も醸造所も森にのまれた為に、今では生み出す事の出来ない文字通りの幻の酒。貴重なワインを僅かに飲んだだけで酔ったカズキは床に転がり、ついでにワインボトルも転がってふかふかの絨毯に飲ませた。

 

 アストと歩いた街でもお酒を飲もうと周りを困らせたらしい。エリの言う通り、ベランダに佇む聖女は酒好きと判明している。

 

 帰り道で少しだけ飲ませて、眠るカズキを膝枕する事まで予定に組んだ。勿論優しく髪を撫でるのだ。全く癖のない黒髪を最近は撫でていない。スルスルと指通りの良いカズキの髪はアスティアのお気に入りなのだから。

 

「先ずはクインに相談しましょう。きっと助けてくれるわ!」

 

 大きな声にも反応しないカズキに寂しさを覚えたが、少しずつでも出来る事をしてお転婆な妹に戻って貰うと決めたアスティアは行動を開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 用事を済まして黒の間に帰って来たクインは、あっさりと答えた。

 

「駄目です」

 

「なんでよ!」

 

 隠す事すらしない溜息を零したクインにアスティアは喰い下った。

 

「殿下の時とは状況が違います。今王都にカズキを連れ出すのは賛成出来ません」

 

「私も着いて行くし、街を歩くつもりもないのよ? 馬車から眺めるだけでも気分転換になるし、早くカズキを助けたいの」

 

 アスティアの心からの健気な思いはクインを少しだけ動揺させたが、彼女の明晰な頭脳は否を唱えた。

 

「アスティア様のお気持ちはわかります。それでも賛成出来ません」

 

「それでカズキを黒の間に閉じ込め続けるの? そんなの可哀想じゃない!」

 

 カズキの事になると急に聞き分けが悪くなる王女に、クインは頭をひねって説き伏せるしかない。

 

「アスティア様もご存知の筈です。街にはカズキの噂が流れていますから、見つかったらどんな騒ぎになるか……カズキだって恐ろしい思いをするかもしれないですよ?」

 

 卑怯とは思うが、カズキを引き合いに出してアスティアの優しさに訴えかける。予想通りにアスティアの意気は消沈し、カズキの横顔を見て黙ってしまう。

 

「でも……この数日もカズキの様子は変わらないわ。なんとなくこのままでは駄目な気がするの」

 

 愛する妹を見る姉の瞳は、愁いを帯びて大人の女性を感じさせた。クインはアスティアの思いが痛い程にわかるが、同時に別の危険がある事を知っている為に協力は出来ないのだ。

 

 アスティアやエリに伝えてはいない新しい事実が判明し、予想以上に不穏な状況を知るクインには酷な話かもしれない。

 

 

 

 "主戦派(しゅせんは)"と呼ばれる者達がいる。  

 

 明確な組織ではないし、ある意味ではこの世界に生きる全ての人がそうだと言える。魔獣とは不倶戴天の敵であり、誰しもが差異はあれども憎しみを持っている。目の前に魔獣を打ち倒せる武器があれば、皆が手に取り立ち上がるだろう。

 

 だが、ここで言う主戦派は違う。

 

 憎しみに囚われて逃げる事も出来ない者達の一部は、自らが死する事も厭わず一匹でも多くの魔獣を道連れにする事だけを考えている。多少の犠牲やほかの人への配慮などはない。

 

 街に蔓延しているカズキの噂は、詳細に過ぎる上に決戦を煽る性質が強い。明らかにカズキを利用するつもりで、その哀しみや痛みなど気にもしていないだろう。

 

 今はまだ噂の段階だが、街に噂通りの容姿を持つ少女がアスティアと現れたらどうなるかは火を見るよりも明らかだ。

 

 上手い手だ……直接的ではなく搦め手を使い、こちらが逃げる事も出来ない様に計算されているのだろう。悔しいが、時間の問題だとクインは判断している。

 

 頭の良い誰かが指揮している……そう考えるクインにふと一人の男の名前が浮かんだ。

 

 その男は魔獣を強く憎み、それを指揮出来る能力を持ち、その頭脳が凡人の域を超えている事もクインは知っている。だが、冷酷と見られる性質も律した自我の生み出す結果でしかなく、何より高い忠誠心と王家への献身は疑う余地すらない。だからクイン達の想定するリストに浮かぶ事はあっても直ぐに除外されたのだ。

 

 でも……彼なら筋書きを書ける。

 

 黒の間へ不審な人間を導く事など造作も無いことだ。

 

 ユーニード=シャルべ

 

 彼ならやってのけるだろう。だがそれは彼の忠誠が変容してしまったと認める事になる。

 

 ほんの一瞬でそこまで思考したクインの耳に、アスティアの声が響いた。

 

「本当に人形みたい……どんなに美しいアンティークドールもいつかは壊れてしまう。磁器製の顔や手足が割れる様に、私達の元からいなくなったらどうしたらいいの……?」

 

「アスティア様……」

 

 静かにしていたエリも思わず声を上げる。

 

 もしユーニードが手引きしたなら、この黒の間すら安全とは言えない。クインの心にヒタヒタと怖気が近づいてくる。陛下に相談しなければ……そう結論付けたクインは口を開いた。

 

「陛下にご相談してみましょう。アスティア様のお話も大事な事ですから」

 

「クイン! ありがとう、大好きよ!」

 

 相談の中身にすれ違いはあっても、カズキを思う気持ちに違いはない。身動きすらせずに景色を眺めるカズキがそれを知らなくても、ここに居る三人には関係はないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿下、こちらです」

 

 ジョシュの案内で地下に降りたアストに血臭が届く。

 

 黒の間の半分にも満たない石造りの地下室には、真ん中に置かれた木製の椅子がある。足元には血溜まりの痕跡があり、そこから椅子の辺りまで血の道が出来ていた。あの椅子に縛り付けていたなら、この道はそうなんだろう。

 

 椅子の直ぐ後ろには床に固定された鎖と皮ベルトが打ち捨てられている。アストの太ももを縛りつける程の長さしかないベルトだが、小さな少女の腰回りには丁度良かったのだろうか?

 

 怒りは頂点を通り越すと冷たい氷の様になると知ったアストの目は、黒い細い糸が幾本か落ちているのを捉えていた。

 

「黒髪……」

 

 少しだけ震えている手に収まったその糸は間違いなく髪の毛だ。髪を掴んで無理矢理に引き上げたのか、きっと痛かっただろう……

 

 怒りなのか嘆きなのかが分からなくなっている。ただ冷たい氷の塊が、胸の内に積み重なっていくだけだ。

 

「あちらの扉の先に6名の死体を発見しています。男が5名、女が1名、全員が喉を切り裂かれていました」

 

「……身元はわかったのか?」

 

「いえ……一名しか分かっておりません。その界隈では知られた盗人で、名をボイチェフと聞いています」

 

「そうか……」

 

 勿論許せはしないが、誰かを治療したいが為に行った悪事だと思っていた。

 

 だが、違う。

 

 これは実験だったのだろう。聖女の力を試す、その為だけにこれだけの人を死に至らしめたのだ。正常な精神を持つ者ではない、狂った妄執を嫌でも感じられる。

 

「ここの所有者はわかるのか?」

 

「いえ……長い間空き家だったようです」

 

 これ以上ここに居ても何も分かりはしない。城に戻って次の対策を練ろう……それにカズキの顔を見たい……微笑んで貰えなくてもいい。

 

 そんな事を思いながら、アストの足は階段を踏みしめて自身を外へと導いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 持ち帰ったいくつかの紙束を自室の机に置いて、先ずは着替えるべくクローゼットに向かう。

 

 着慣れた侍女服は皺一つなく、今日一日着た痕跡は見えない。動作の一つ一つに気を配り、歩き方すら厳しく訓練されたバトラーの様に律している。  

 

 開いたクローゼットの扉には鏡があり、肩で切り揃えた金髪が少しだけクルンと癖毛になっているのが見えて眉が歪む。直ぐに視線を外してスルスルと侍女服を脱ぎ、見当たりもしない皺を伸ばしてハンガーに掛けた。僅かにデザインと色合いの違う侍女服があと五着あるのが興味深い点だろうか。

 

 下着姿で浴室に消え、一日の汚れを落として薄墨色のナイトウェアに着替えて部屋に戻って来た。そうしてさっぱりしたクインは化粧台の前に座り櫛で髪を梳かしてから、ラズベリーのシードルとグラスを持って机につく。

 

 注いだグラスを耳に近づけてシュワシュワと泡が弾ける音を暫し聞いてほんの少しだけ口を付けた。

 

「フゥ……さてと」

 

 カーディルの許可を得て持ち帰ったその紙束の表紙の全てに「ユーニード=シャルべ」のサインがしてある。それらはユーニードよりカーディルに報告或いは提案された物資、輸送、配置、そして対魔獣の作戦計画だった。

 

 過去3年分を読み解くのは大変な作業のはずだが、クインは臆する事なく手に取ると丁寧に素早く目を通し始める。暫くは紙をめくり、ノートに筆を走らせる音だけが部屋に響いた。

 

 注いだシードルの泡が消える前に少しずつ喉に通し、三度グラスに薄紅の液体が満たされた時にはクインの目的は達せられた。本当に読み解いたなら驚異的な速さだが、本人には当たり前なのだろう。それを誇る風もなくジッとまとめたノートを見直している。

 

「変わっている……残念だけれど……」

 

 クインにとってユーニードは身近な人ではない。軍務長はその名の通り軍務、ひいては戦争に関わる全てを内務で支える専門の人間だ。魔獣に剣を向けるのは騎士だが、彼は頭脳とペンで戦っている。冷酷と揶揄されるユーニードだが、クインは改めて尊敬の念を抱いた。

 

 目を通したそれぞれは、理論的に正しくまた美しかった。被害に遭った民の支援や物資の供給、騎士達や家族の補償、国土防衛の施策。限られた資源を如何に効率良く配置するかの苦心があり、リンディアと民を思う強い忠誠が透けて見える様だ。

 

 だが、時系列にまとめて読み進めればその変化は明らかだった。

 

 如何に被害を少なくして国を守るかの術を探していた筈が、魔獣を如何に効率的に殺すかへと変貌していく。どれも間違っているわけではない、しかし3年前と現在では同一人物かと疑いたくなる程だ。

 

 最も最近にカーディルに届けられた作戦計画書には、北部の街マリギの奪還が掲げられている。

 

 だがクインには違って見える。

 

 魔獣を出来るだけ多く殺すために、それだけの為に考えた作戦に後からマリギを付け加えたのだろう。騎士達の犠牲は元より、奪還した後の脅威が考慮されているのか疑わしい。カーディルは騎士の損耗率と未来を憂いて却下しているが、カズキの存在が全てを覆す事になる。

 

 王家としてカズキの存在は伏せてある。もし聖女の力を知り、利用したくてもカーディルが了承しないならどうするだろうか……?

 

 世論を誘導してカズキの存在を知らしめ、決断を迫る。勝てるなら、ほぼ全ての国民は決戦を支持するだろう。いや、厭戦(えんせん)すら許されない空気が醸成されていくのは間違いない。

 

 クインは足元から冷水を浴びせられた様に寒気と怖気が全身に這い上がってくるのを自覚した。

 

 ユーニードにとってはある意味で目的は達せられているのだ。ここに至って自身の命など歯牙にもかけないのは想像がつく。あれ程の忠誠を尽くしていたリンディアを投げ捨てでも進むユーニードには魔獣の断末魔しか見えていないのではないか。

 

 その妄執の行き着く先は、破滅だとしても憎しみの鎖は解けはしない。

 

 

 

 

 カズキを愛し憂いているリンディア王家は、もう既に負けてしまったのかもしれない。街に蔓延する噂は止まる事はなく、いずれ大きな波となり城を襲うだろう。

 

 ベランダに佇む哀しげな聖女が頭に浮かび、クインの胸を締め付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




苦しんだカズキですが、次話から活躍します。展開も変わっていきますので、また読んで貰えるとありがたいです。


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30.聖女の降臨

漸く主人公らしい活躍をします。カッコ良く書けたかな……


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全ては偶然の産物だろう。

 

 アスティアの優しさがほんの少しだけ早まった行動となり、この日この時この場所に馬車が通り掛からなければ起きなかった事だ。

 

 前の日に少しだけ降った雨と僅かに落ち窪んだ道に車輪がはまってしまうなど、誰にも予想など出来ないのだから。

 

 だから黒髪の少女が刻印を隠す事もなく街中に降りたち、歓声に包まれて大勢の人に取り囲まれているのも全ては偶然の産物なのだ。

 

 アスティアが美しい顔を青白くさせて、幾人かの騎士が人波に揉まれて聖女に近づく事も出来ないのはどうにもならない事だろう。

 

 

 この日初めて[黒神の聖女]が、リンスフィアに降り立った。

 

 風に揺られた黒髪はサラサラと踊り、宝石と見紛う翡翠の瞳と刻印が刻まれた肌は余りに美しい。

 

 神話が紡がれていくのを誰もが感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫ですかねー?」

 

「エリ、クインが相談すると言った事で駄目になった話なんてあると思う?」

 

 つまり決定と同じなの!とアスティアは人差し指をピンと立てて、エリに自慢気に言う。腰に反対の手を添えているのが可愛らしい。

 

「それに姿を見せない様に馬車もこれにしたし、カズキには前の様にストールを被って貰ってるのよ? 誰にも気付かれたりしないに決まってるじゃない」

 

 クインもアスティアの行動力を見誤っていたのだろう。クインが賛成に回ったと判断したアスティアは、即座に外にいたノルデに馬車の準備と護衛をお願いしたのだ。クインへの信頼と実績、その頼もしさは他の追随を許さない。ちなみにエリの事は大好きだとしか言えない。

 

 星空のワンピースをそのままに、軽いお化粧で整えたカズキの手を引き今から馬車に乗り込むところだ。

 

 ガラスのはめ込まれた窓はあるが、外からは反射して中を見えづらくした加工を施してある。勿論良く観察すれば中の様子もわかるだろうが、それをする人間など皆無だろう。

 

 本当はカズキと手を繋いで街中を散策したいが、クインの心配はよく分かるのでこれに落ち着いたのだ。

 

 カズキの乗る馬車とノルデ達騎士4名はゆっくりと城門を抜けて外円部の街区へ向かって行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あそこのお店ならあのワインが手に入るかもしれませんよ! ほら、あの店です!」

 

 エリは馬車の中で一番はしゃいでいる。 

 

 この子を元気にする散策ではない筈だけど……アスティアは7歳も年上の女性を内心この子呼ばわりしたが、エリだものと訂正はしなかった。

 

 しかしカズキを見れば少しだけ興味を惹かれるのか、チラと窓の外を見るのだから文句を言う気にもならない。さっきからアスティアが話しかけても鈍い反応しか返さないカズキなのだから、嫉妬してもおかしくないわと渋々納得するのだ。

 

 クインもよく言っていた、エリにしか出来ない事があると。

 

 だからアスティアはエリが大好きなのだ。 

 

 カズキと二人きりも嬉しいけれど、今はエリが居てくれて本当に良かったと思う。

 

「あのお酒の名前わかるの?」

 

「? いえ、知りませんよ?」

 

 ……それでどうやって買って来るつもりなのだろうか? エリの事だから、身振り手振りで捲し立てて店員さんを困らせるのは間違いないだろう。それでも最後はちゃっかりと手に入れて来そうだ。

 

「はあ……仕方ないわね、エリだもの」

 

 最近口癖になったセリフを吐いたアスティアの耳に、何かが倒れた様な轟音と女性の悲鳴が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやーーー!! ミーハウ!ミーハウが!」

 

 街道を緩やかに走っていた筈の馬車と大きな台車が横倒しになっている。大量に載せてあった材木が押し出されて地面に何本も転がっていた。母親の劈く悲鳴は木材の落ちる音など関係なく周辺に響く。

 

 窪んだ轍に車輪がはまり、昨日降った雨のせいで横に滑ったのだろう。重量のあった木材が仇となり姿勢を崩したと分かった。

 

「大変だ……子供が下敷きになってるぞ! みんな手伝え!」

 

 すぐさまに周りにいた者や、店番をしている男達が駆け寄って転がる材木を避け始める。馬車を引いていたであろう若い男は呆然と立ち尽くして動けない。

 

「馬鹿野郎! 先にこっちを上げるんだ!」

 

「そこを退け! これを置けないだろう!」

 

 男達の怒声が溢れるなか、少しずつ取り除かれていく。

 

「ああ……ミーハウ……どうして……」

 

 漸く姿を現したその男の子は5歳位か、胴体辺りに落ちたのだろう木材で潰され、口から血を吐いて意識を失っている。

 

「だれか!早く治癒師様を!お願い!お願いよ……」

 

 寄り添う母親の慟哭は高く響くが、誰もが助からない怪我だと絶望していた。僅かに上下する胸はまだ命がある事を知らせるが、例え治癒師がこの場にいてもその命の火が消えるのを止められるとは思えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「大変……! 馬車が倒れているわ!」

 

 僅かに高い位置にあった交差する街道からは、事故の状況が見て取れた。アスティアの悲鳴でエリも馬車の扉を開けて様子を見に外に出て眺める。

 

「……ああ……小さな男の子が倒れています……酷い怪我……」

 

 さっきまで元気一杯だったエリも、震える声で話し静かになった。

 

 騎士達も駆け寄りたいが任務を放棄出来ずに動けない。

 

 

 

 二人の目線は事故のあった方に向いていた。だから同じ様に外を見たカズキの無気力だった目に、力強い光が戻る瞬間を見逃したのもやはり偶然でしかない。

 

 

 

 

 

 

 我が子へ言い聞かせるように、ヤトは言葉を紡いでいた。

 

 癒しの力と慈愛の心は、カズキが最初から持っていたのだと。その力は決してカズキを裏切ったりしない。

 

 カズキは大人がどうなろうと知った事ではない。今まで癒した大人達も、刻印に縛られた精神と体がカズキの意思に反して動いただけだ。

 

 だから今、カズキを突き動かすのは刻印などではない。自らの意思で、朦朧とする事もなく立ち上がって血を流す子供を視界に収めた。

 

 子供の泣き顔など見たくはない。そんな事許しはしない、いつも笑顔でいなくてはダメなんだ……

 

 

 

 アスティア達に塞がれていない反対側の扉を開けて、馬車の天井を両手で掴む。逆上がりの要領で簡単に天井裏に上がったカズキは首を振り、子供がいる場所までのルートを決めた。

 

 膝を折り曲げて飛び上がった先にある木箱を踏み台にして、店先に突き出る雨避けの屋根に飛び移った。天井からの物音に気付いたアスティア達はここで初めてカズキの姿がないことに気付く。

 

「カズキは!?」

 

 もうその頃には次の屋根に次々と飛び移って行くカズキを止めるなど出来ない。突き出た看板を手をついて乗り越え、柱を躱す様に壁を蹴って走り抜けた。外に出る予定など無かったため緩やかに掛けていたストールは何処かへ飛んで行く。

 

 看板に引っかかるスカートを邪魔に思ったカズキは、思い切り端を破り飛ばして再び走り出した。

 

 店先にいた主人達は上から響く物音に怪訝な顔をするが、すぐに遠くへと消えていき興味は別に移る。

 

 はためくスカートはカズキの肢体を隠す役割を果たさず、馬車から見るアスティアの顔色が変わった。

 

「……大変だわ……下着も刻印も丸見えじゃない! ノルデ!止めて下さい!」

 

「は、はは!」

 

 しかし群がる群衆の波に飲まれるノルデ達にはなす術など無かった。

 

 前転して軒先きの幌に背中を預けたカズキは、その幌にビヨンと押し出されて次の屋根に辿り着いた。もう倒れた子供と母親はすぐそこだ。

 

 その頃にはカズキの軽業染みた体捌きと、時折見える白い下着や素肌が注目を集め始めていたが、カズキは意に関せず最後の屋根から倒れた馬車に飛び移った。

 

 もし現代人が見たらアクション映画の一場面か、パルクールだと騒いだだろう。

 

 立ち上がって下を見ると、泣き腫らした母親が必死で声を掛け続けている。折れた材木から何本かの釘が飛び出しているのを見たカズキは、フワっと地面に降りると同時に左手の甲を戸惑いなく打ち付けた。裏拳を当てたかの様な動作は簡単に釘を突き抜けさせる。顔色は僅かに変わったがそれだけで、溢れ出た血に染まった手をズルリと抜いた。

 

「う、うわっ! あの子自分で釘に手を……!」

 

「あれって刻印か……?」

 

 それを見た何人かが少しずつ騒ぎ始めたが、カズキはスタスタと子供に近づくと膝を地面に付けて子供を見つめる。

 

「な、なに? 変なことしないで!」

 

 破れたスカートや血濡れた手を見た母親が叫んだのは当然だろう。だが子供を抱き上げて優しく胸に抱いた時には、すぐに声は消えて静寂が支配する。

 

 パッ……!

 

 花が咲く様に、花火が夜空を彩る様に、白い光が重ねた胸から溢れ出したのだ。

 

 遠くから見詰めるアスティアやエリでさえ、柔らかい光が目に入り何が起きているのか理解出来た。実際に癒しの力を見るのが初めての二人は、その姿を陶然と見つめるしかない。しかし人混みに紛れていたノルデは、アストを救ったあの時とは違う光景に驚きを隠せなかった。

 

「……! 早い!一瞬で!?」

 

 光ったと思った時には、子供の顔色が戻るのが分かる。呼吸も落ち着いて口から溢れる吐血も消えていった。側にいた母親は信じられないものを見たと、喜ぶ事すら忘れて、ただ子供の手を握るだけだ。

 

 ()()()()()()()()()()()がこの世界に現出した初めての瞬間だった。

 

 聖女が自らの意思で強く願った癒しは、今までの力を簡単に凌駕して神の領域へと足を掛けたのだ。

 

「治った……?」

 

「嘘だろう……あんな怪我が一瞬で……」

 

「おい、確か噂で……」

 

「……黒い髪、翡翠色の瞳、美しい(かんばせ)……刻印……」

 

 

 風が吹き、触らずとも分かる柔らかい髪は踊る。破れたスカートは簡単に舞い上がり、見えてはいけない白い布まで衆目に晒された。

 

 首元に巻かれた鎖は間違いなく刻印で、チラリと見える左肩にもその欠片が刻まれている。それどころか舞い上がったスカートの下には別の刻印が見えたのだ。真正面にいた小さな女の子は、下腹部にある紋様すら目に入った。

 

「聖女様……?」

 

 小さな女の子の呟きはザワザワとした波となり、やがては大きな歓声へと変わっていく。

 

 

 

「聖女だ……! 噂は本当だったんだ!」

 

「なんて綺麗な子なの……あんなに沢山の刻印を持つなんて……」

 

「名前は……カズキ? 聖女、黒神の聖女カズキ様だ!」

 

「聖女さまが降臨した! 救いが遣わされたんだ!!」

 

 

 

 爆発したような声の嵐が体を震わせて、漸くアスティア達は正気に戻された。

 

「大変だわ……どうしましょう……」

 

 小さな命が救われたのは嬉しいが、これでは取り返しのつかない事になる。ノルデ達は大声で怒鳴り、近付こうとするが歓声に打ち消されて思う様に動けない。

 

 助かった子供を涙を流して抱きしめた母親は、立ち上がったカズキを見て慌てて礼を言った。

 

「あ、あの……聖女様、本当にありがとうございます。えっと……この子の名前はミーハウ、ミーハウです。助けて頂いて……」

 

 感情が昂ぶった母親は、混乱しながらも何とか言葉を紡ごうと必死にカズキの姿を目に捉えようとする。しかしカズキはまるで母親が居ないかの様に顔を上げて、スタスタとエプロン姿の男に近づいて右手を出した。

 

「せ、聖女様……なん、なんでしょう……?」

 

 パン屋から見に来ていた男は、見上げてくる聖女の美しい目と美貌に魂魄を抜かれた様に返すしかない。

 

 やはり無言のままでパン屋の男の右手を指し示して、再び手のひらを見せる聖女。

 

「こ、これでしょうか?」

 

 右手に持ったままだったのパン切り包丁を聖女に渡す。

 

 受け取ったカズキはおもむろに包丁を股辺りのスカートに突き刺すと、下にビリビリと破き始める。只でさえ目の毒だった聖女の肌が露わになると、誰かが唾を飲み込む音がした。だがその邪な情動に男は後悔する事になる。

 

 千切り出した幾片かの切れ端を持ち、意識のない男の子に残る血を丁寧に優しく拭き始めた姿を見た者は、思わず両手を口に当てて声を上げるのを我慢するしかない。聖女の左手からはまだ血が滴っていたが、その血を拭き取るどころか子供に散らないようにする始末なのだ。

 

 さっきまで歓声を上げていた群衆も、側で見ていた母親も声を出す事も出来ずに聖女の横顔を静かに見詰めるしかなかった。

 

 

 

 

「カズキ……」

 

 アスティアもエリも、その尊い行いに衝撃を受けて動けない。

 

 お転婆だったり、我儘だったり、最近は人形の様に大人しかった少女だと思っていたのだ。それが只人(ただびと)でなく聖女なのだと受け止める事がまだ出来ないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日、王都リンスフィアに聖女が降臨した。

 

 

 噂は真実に変わり、人々は救いが齎されたと喜びの声を上げる。

 

 

 黒神の聖女が一人で歩き始めた最初の日でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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31.脱走

聖女は自らの意思で行動を開始します。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どけ! どいてくれ!」

 

 騒めく群衆の中でノルデの声が木霊した。

 

 少しずつだが円の中心に近づいていく。残りの3名の内もう一人も人波をかき分けて進んでいた。あと二人はアスティアの護衛に残っている。

 

 だが円の中心に近づくにつれ、密集度が上がり人も動かないため進まなくなった。皆が降臨した聖女を陶酔した目で見ており、祈りを捧げている者も多いのだ。

 

 

 血で汚れたワンピースの切れ端を捨て、子供の口周りを別の切れ端で拭いている。先程から母親が遠慮がちに断るが、全く手は止まらない。お礼を言ってもどう言葉をかけても反応すらしない聖女に周りも何かがおかしいと気付き始めた。

 

「もしかして耳が聞こえない……?」

 

 実際は聞こえないのではなく、意味を理解する事が出来ないのだがそれを知る者は周りにはいない。離れた場所にいるアスティア達なら違っただろうが、話が届く様な距離ではないのだから。

 

「人を簡単に癒すのに、自分は治せないのか……?」

 

 誰かが呟いた言葉の意味を理解すると、皆はその余りの顧みない献身に慄く以外出来ない。

 

 やっと理解した母親は、そっと聖女の手を取った。そうして、なに?という顔をした少女を見て心からの笑みがこぼれた。

 

「聖女様、本当にありがとうございます。あとはわたくしがやりますから、どうか御手を癒して下さい」

 

 聞こえないならと、ゆっくりと話した言葉は残念ながら届かない。だが大凡は拭き取り満足したのか、今度は意識のない子供の頭を撫で始める。

 

「聖女様……どなたか羽織る物をお願い出来ませんか? 代金はお支払いしますから」

 

「代金なんて馬鹿な事を言うんじゃない。ほら、店の新品だ」

 

 服屋だろう群衆の一人が差し出した白い上着を受け取り、カズキの両肩にかけられた。真っ白な服はカズキの刻印を隠したが、その神秘性は失われたりしない。そうすると次々と人々がカズキに群がり、我先にと貢物を捧げたした。

 

 

 

「聖女様、包帯です。左手に巻いて下さい」

 

「ほら、暖かいお湯だよ。綺麗な顔にも血が付いてるじゃないか、早く拭きなされ」

 

「ウ、ウチのパンです。食べて下さい!」

 

「この果物は最高なんですよ! どうぞ」

 

 

 人から見たらキョトンとした顔に見えるだろう。だが何となく意味が分かるのか、おずおずと受け取る聖女に益々盛り上がり始めた。

 

「見ろ!俺んちのパンだぞ!」

 

 受け取って貰えたパン屋は、先程包丁を渡した男だ。商売道具を取られた事など忘れた様に嬉々としている。

 

「う、うー、んん……」

 

 意識のなかった男の子が目を覚ました事で、周りは再度歓声を上げた。 

 

「ミーハウ!大丈夫? 痛い所はない?」

 

 起きたら人だらけで、歓声まで上がっているのだ。ミーハウは目を白黒させてキョロキョロと周りを見渡して、すぐ近くに物語の中の様な美しい女性がいる事に気付いてポカンと口を開いた。

 

「まあ、そりゃそうなるわな」

 

 先程服を持ってきた親父が納得の声を上げる。周りもウンウンと頷くばかりだ。

 

 もしここに、アスト達がいてカズキの顔を見たならば驚きと歓喜の声を上げるか、顔を赤くして黙り込んだだろう。

 

 

 カズキに柔らかな笑みが溢れていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ました子供を確認したカズキは再び立ち上がって周りに視線を配った。

 

 先程までの柔らかい微笑はなりを潜め、いや強張った。見覚えのある男達が必死の形相で人垣を掻き分けて、こちらを目指しているのが見えたからだ。ノルデ達はただ聖女を護りたいが為に必死なのだが、カズキには自分を捕らえに来た国の役人にしか見えない。遠くには乗っていた馬車もまだある。

 

 カズキはパンを口に咥えると、貰った包帯を乱暴にぐるぐると左手に巻く。さらに地面に落ちているパン切り包丁を拾い上げると先程の子供の様にキョロキョロと周りを見渡し始めた。

 

 様子の変わった聖女にパン屋も服屋も怪訝な顔をしたが、次の瞬間には驚きの顔に変わった。

 

 カズキはおもむろに走り出し、先程飛び降りて来た店先に向かったのだ。普通なら人波に押されて進む事すら出来ないだろうが、聖女たるカズキの行動を止めるような者はここにはいなかった。

 

 人垣はカズキの進行方向に見事に割れ、店まで道を開いた。

 

 焦ったのはノルデ達だ。未だに中心にも達していない自分達を置いて、カズキが反対方向に走り出したのだから当然だろう。

 

「おい!止めてくれ!」

 

 アストやアスティアが叫んだなら変化もあっただろうが、若い騎士一人の言葉にはそれ程の力は無い。

 

 カズキは壁に向かって全速力で走り、周りがぶつかるのではと心配した時には店の壁を一度蹴って更に高い所まで伸び上がった。だが勿論屋根までは届かない、と思ったら振り上げた包丁をガツンと突き刺し、そこを支点にして身体を持ち上げ屋根に手をかけたのだ。包丁は根元から折れて突き刺さった刃だけが残ったが、カズキの身体は屋根の上に到達していた。

 

 羽織っていた服は残念ながら地面に落ちたが、下から見ていた男共には別のものが見えて、ニヤつきそうになる顔を必死に抑えている。

 

 そこから更に建物の屋根まで上がったカズキは、少しだけ振り返って馬車にいるアスティアを見た。

 

 翡翠色の眼は何を思うのか、誰にも分からない。

 

 ジッとアスティアを見たあと、聖女の姿は屋根の向こう側に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ! 待って、行かないで!」

 

 声が届いたところで意味など無いが、それでも耐えられずにアスティアは声を張り上げた。

 

「カズキ!!」

 

 カズキが消えた屋根に向かって手を伸ばしたまま、涙が溢れて来てアスティアは崩れ落ちる。

 

「カズキ……どうして……?」

 

 両手で顔を覆っても我慢出来ない嗚咽がこぼれた。

 

 心から愛しているのに……初めて出来た妹にアスティアは翻弄されるばかりだ。

 

「……アスティア様、早く知らせないと……」

 

 エリも衝撃から立ち直ったとは言えないが、何とか言葉を絞り出した。

 

「ノルデ様にはカズキをそのまま探すように伝えて下さいますか? 私達は城に戻らないと……」

 

 黙ったままのアスティアに代わり、エリが近くの騎士にお願いをする。周辺がアスティアに気付き始めたので、エリはここを離れる事にした。

 

「わかりました、私が城まで共に行きましょう。おい、ノルデに合流してカズキ様を探すんだ」

 

「は!」

 

 もう一人の騎士に指示を出すと、その騎士は御者に話をつけに行った。

 

「アスティア様、城に戻りましょう?」

 

 嗚咽が止まらないアスティアの背中をさすりながら、エリもカズキの消えた屋根を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 城に帰り着いたアスティアを待っていたのは、怒りの形相を隠しもしないクインと、心配そうなアストだった。

 

 だがこの世の終わりという顔をしたアスティアがエリに支えられて馬車から降りるのを見れば、怒りは消えて戸惑いの表情に変わった。

 

「カズキは……?」

 

 アストの問いにアスティアは肩を揺らして、再び泣き始める。クインもとりあえずはアスティアを支えるのを手伝うしかない。

 

「いなくなりました……申し訳ありません」

 

 答えられないアスティアに代わり、エリが返事をする。

 

「いなくなった……? どういう事なんだ!」

 

「殿下、落ち着いて下さい」

 

 ビクリと青白い顔をうつむかせたエリを見て、クインが諌める。アストはまだ何かを言いかけたが、唇を噛んで我慢した。

 

「エリ、落ち着いてもう一度教えてくれる?」

 

 クインの囁きにボソボソと話し始めるエリの言葉に、二人は焦りを隠せなくなる。

 

「自分から逃げた? 誰かに連れ去られたのではないのね?」

 

「……はい。姿を消す前にはこちらを、アスティア様をジッと見てました」

 

「……私が悪いの……ちゃんと皆んなに相談すれば良かった……ごめんなさい」

 

 アスティアの心からの懺悔は、アスト達に届いて暫しの沈黙を生む。

 

「意識もしっかりとして、カズキ自身の意思で行動しているなら、何か目的があるのかしら?」

 

 クインは連れ去られた訳ではない事に僅かだけ安堵して思い付いた事を呟いた。

 

「カズキがしたい事か……聖女として何かの使命を知ったとしたら、誰かを救いに行ったのかもしれない」

 

 勿論カズキは捕まりたくないから逃げただけだ。崇高な使命など存在しないし、今頃はパンでも齧りながら次の行き先を考えているだろう。

 

「エリ。教えて欲しいのだけど、その子供を癒す時に手をかざすのではなく、抱き締めたの?」

 

「……? はい、抱き締めたと思ったら白い光が溢れて一瞬で治ってしまいました」

 

「一瞬で?」

 

 先程聞いた子供の怪我は、アストが負った傷に匹敵する重症だろう。それを一瞬で治癒?

 

 顔を見合わせたアストとクインは、何かが食い違う事に戸惑ってしまう。

 

「……今はそれどころではないか……カズキを探そう。自分の意思だとしても、誰か悪意を持つ者に捕まらないとは限らないからな」

 

 

 

 

 

 

 

 直ぐに見つかるだろうと楽観していたアスト達だが、この日からカズキの姿は消える事となる。

 

 それから実に何日もカズキの続報は入らず、暫くはリンディア家に暗い影を落とす。

 

 だがカズキ発見の報が届いた時、聖女として使命を果たしに行っていたとアスト達は知るのだ。それが聖女の意思かは別として。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それと、カズキはリンスフィアに少しの変化をもたらした。

 

 

 カズキが咥えたパンは、聖女のお気に入りとして王都の名物パンになり、白い羽織りは聖衣として店先に飾られて、服屋は名所と化した。

 

 助けられた子供、ミーハウの名は流行りの名前となり名付け親がこぞって選ぶ事になる。カズキの名は畏れ多くて誰一人選んだりしない。

 

 壁に刺さったままのパン切り包丁の刃は、丁寧に飾られて新たな看板に変わった。

 

 事故のあった通りは、非公式ながら「聖女通り」と名前を変えて庶民の間で定着する事になる。

 

 

 

 

 久しぶりの明るい話題に、リンスフィアは暫らくの間沸き立つ事となった。

 

 黒神の聖女の名は全ての民の知るところとなり、その慈愛と癒しの力は多くの人々が語り継ぐだろう。

 

 これがリンスフィアに初めて聖女が降臨した日の出来事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次話、カズキにとって重要な人物が再登場。作者的にお気に入りのキャラです。


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32.マファルダスト①

全体の中盤に差し掛かりました。今話よりカズキに大きな影響を与えるキャラが再登場します。暫くはほのぼのする予定。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 耳辺りで切り揃えた赤毛が少しだけ伸びて、鬱陶しいのか乱暴に指先で掻き上げた。その時袖が捲れて見えた上腕は筋肉質で力強い印象を与える。だが、再び組んだ両腕に載せられた二つの柔らかな膨らみは、その人が男性ではない事を嫌でも意識させた。

 

 歳の頃は30位だろうか、凛とした立姿は姐御や姐さんと呼ばれるのが相応しい出で立ちだ。服装は男性が着るような濃い緑の上着とパンツだが、それが反対にその美しさを際立たせているように見える。

 

 その女性が持つ黄金色の瞳が見詰めるのは、多くの木樽。それぞれが焼き締められていて分厚く、頑丈であるのが触らなくても分かる樽達だ。

 

 幾人かの男達が底の縁周りを地面で転がしながら、視線の更に先の馬車に持ち上げて次々と載せていく。空とはいえ、かなりの重量であろう樽を簡単に載せていく様は、男達の身体が如何に鍛えられたものなのかを物語る。

 

 

「よく間に合ったね。流石だよ」

 

「ははは、ロザリー様の頼みとあらば魔獣にも打ち勝って見せましょうぞ!」

 

「はあ……ちょっと褒めたらこれだよ。なら代金は要らないね?」

 

「おっと、これはやられましたな! 代金は頂かないと家族が路頭に迷ってしまいますから、心苦しいですが受け取りましょう」

 

 禿げ上がった頭をペチペチと叩きながら、商人の男は大声を張り上げて笑った。

 

「ロザリー様、今夜一杯どうですか? お互い更に親密になる時かと……いかがでしょう?」

 

「あんたも懲りないね……商売相手を口説いてんじゃないよ、死んだ奥さんに申し訳なくないのかい?」

 

 何時もの冗談と冷めた流し目で冷やかすロザリーだが、商人の男は内心本気なんだけど……とツルッとした頭頂を撫でるしかない。

 

「残念ですなぁ……出発は明日ですかな?」

 

「いや、今夜立つよ。最初に西に行くからね、今夜は夜通し進むのさ」

 

「そうですか……マファルダストの御武運と御無事を白神に祈っておきましょう」

 

「ありがとさん! 最近噂の聖女様がお守り下さるさ……ははは! じゃあまた頼むよ!」

 

 そう言うとロザリーは、馬車に乗り込み男達に指示しながらゆっくりと去って行った。

 

 リンスフィアを支えるロザリーの一行を見送った商人は、心から無事を祈った。聖女など只の迷信だろうが、片思いの女性を守ってくれるなら何でもいい。

 

 馬車が角を曲がって見えなくなるまで商人はその場から動かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 樽を手に入れたロザリーは馬車を操りながら隣に座る男に声を掛けた。

 

「フェイ、他に用立てる物はなかったかい?」

 

「そうですね……姐さん、南部へ行くならククの葉が手に入るかもしれません。革袋は余計に持って行きますか?」

 

「ああ、南部なら確かにそうだね……イオアンの爺様がいたから任せっきりだったね……」

 

 ロザリーより小柄なフェイと呼ばれた男は、マファルダストの副隊長で40を超えるベテランの森人だ。粗野な男が多い森人の中では珍しい理知的なフェイは、隊商でも頭脳労働を請け負っていた。

 

「イオアンさん程の方でも森にのまれるとは、残念でなりません」

 

「爺様はいつも言ってたよ、森で死ぬってね。私達も死ぬなら森がお似合いだよ」

 

「姐さんは森で死んではいけません。ルーやフィオナちゃんとヴァルハラで会えませんよ」

 

「……はいはい、わかったよ。アンタが居ると調子が狂っちまうね」

 

「先代に頼まれましたから、嫌でも側にいますよ」

 

 溜息をついたロザリーをフェイは優しく見守っている。ロザリーの父から頼まれた事ではあるが、フェイにとってロザリーはリーダーであると同時に妹や娘みたいなものだ。

 

 家族のいないフェイを鍛えてくれたロザリーの一家には返しきれない恩がある。小さな頃から見てきたロザリーを無残に死なせたりはさせない……森人にとって死は身近なものだが、それは心の中でいつも思う事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 隊商マファルダストは30人程の森人の集団だ。

 

 昔は隊商を、街から街へ移動しつつ物を売り買いする商売人の事を指した。しかし森に囲まれた国々ではその様な商売は自殺行為でしかなく、時代と共にその意味が変化していった。大国であるリンスフィアも例外ではなく、多くの隊商が活動している。

 

 隊商とは森人が寄り集まり、採集や狩猟を行う集団と集めた物資を運搬する集団で組織される。マファルダストは中規模ながらリンスフィア最高の隊商として知られていた。

 

 

 

 

 革袋を多めに用意したロザリー達は、外円部大門の側にある宿営地に馬車を止めた。宿営地と言ってもまだ城壁内の街中で、隊商相手の商売人や出店で賑わっている。一括で借り上げている元宿屋にロザリー達が入ると、そこはガヤガヤと騒がしい食堂の様だった。

 

「姐さんおかえりなさい!」

 

「フェイ! これを見てくれ!」

 

 皆が思い思いに食事をしたりしているが、誰一人として酒を飲む者はいない。今夜一月ぶりにリンスフィアを出て森へ向かうのだ。程よい緊張感が熱を持ち、笑顔の中にも確固たる決意が見える。

 

 フェイはロザリーから離れて渡された資料に目を通している様だ。

 

 皆に挨拶しながら奥の部屋に向かうロザリーに若い男が声を掛けてきた。

 

「ロザリーの姐さん! 今夜の隊商には俺を連れてってくれますよね?」

 

 20歳にも満たないだろう若い男は、自分が全能であるかの様な自信に溢れて眩しいくらいだった。小さな器では支えられない力がこぼれるように、キラキラと輝いている。 

 

 艶のある長めの金髪と白い歯までもがキラッとしたのを見たロザリーはうんざりしてこめかみを指で押さえた。

 

「リンド、アンタは運送の手伝いだと言ってるだろう。ナマ言ってないで馬車に食糧を運びな」

 

「姐さん、俺なら大丈夫ですから! 俺の剣の腕を知ってるでしょう? 狼程度なら一撫でしたら終わりですよ!?」

 

 そんな事聞いてないし、何が大丈夫なのかさっぱりわからない……ロザリーは目の前のキラキラしている物体から目を離そうとしたら回り込んで来たので思わずぶん殴りそうになった。

 

「姐さん、落ち着いて」

 

 すぐ後ろにいたジャービエルが珍しく口を開いた。

 

「……アンタが喋るなんて、何かあったのかい?」

 

 女性にしては背の高いロザリーも流石にジャービエルを見上げるしかない。普段から無口な男だが、今回は何かあったのだろうか? 

 

 疑問符を浮かべたロザリーにジャービエルの珍しい二言目が耳に届いた。

 

「リンドは中々頑張ってる。連れて行ってみよう」

 

「……ジャービエル……アンタ負けたね?」

 

「カード、リンド強かった」

 

 つまり賭け事に負けて、リンドの味方をしているという事だ。

 

「……はぁ……もう好きにしな! 面倒はアンタが見るんだよ!」

 

 大きな顔に指を突き付けたロザリーは、溜息をついて自室に向かうしかない。

 

「よっしゃー!! 姐さん、俺なら一人でも大丈夫ですから!」

 

 だから何が大丈夫なんだ……頭痛がしてきたロザリーはぐったりして部屋の扉をパタンと閉めた。心なしか扉も元気のない音しか立ててくれないのが虚しい。

 

 

 

 

 

 部屋の鍵を閉めたロザリーはもう一度だけ溜息をつき、仮眠を取る為にベッドへ腰掛けた。 

 

「まあ、いつかは連れて行かなきゃならないからね……」

 

 無理矢理自分を納得させたロザリーは、厚手のジャケットを脱いで近くにある椅子に放り投げる。さっきまで五月蝿かったキラキラ光る物体のせいか、手元が狂って机にあったペンダント立てにジャケットが当たった。 

 

 パタンと倒れたそれに掛けてあったペンダントが机に転がり、カチャンと音を立てる。 ロザリーは慌ててペンダントが壊れてないか確かめ、傷も付いてない事にホッとした。

 

 そのペンダントは酷く不格好で、土を塗り固めた様な粘土で人の顔を形どっている。塗料で頭の部分を赤く塗られた顔はおそらくロザリーだろう。それを優しく指で撫でたロザリーはジャケットを脱いだ事で大きく迫り出した胸に抱きしめた。

 

「フィオナ……ママを許してね……」

 

 ロザリーは仮眠を取るのも忘れ暫くはペンダントを抱き締めて、身動きすらせずに愛した娘を思う。

 

 遮光性の高いカーテンは、ロザリーに光を届けずに流れた涙を光らせたりはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 階段を上がり扉を閉めたロザリーを見送ったリンドは、喜びを噛み締めながら軽口を叩き始めた。

 

「よしっ、やっと森へ行けるな! 剣も新調したし、俺も一人の森人の男だ!」

 

 周りのベテラン達は、俺も若い時はそうだったとか、あまり調子に乗ると怪我するぞ、などやはり自分が若い時に言われた言葉をリンドに届けた。しかし届けると同時にこの頃はどうせまともには聞かないと分かってもいる。

 

 ところが若さは時に予想を覆す喜びや驚きをもたらすが、それとは逆に間違いを犯すものだ。

 

「姐さんてあんなに美人なのに、男はいないんですかねー?」

 

 悪気は無くとも、言葉には時に人を傷付ける力が働く。話を終えたフェイがそれを耳にしてリンドの頭を平手で引っ叩いた。

 

「痛えっ、なんだよ! あっ……フェイさん」

 

「くだらん事を言うんじゃない、リンド」

 

「なんだよ! 只の軽い冗談ですよ!?」

 

 フェイは冗談では済まない軽口もある事を自分が伝えるべきが悩んだが、周りを見渡しても自らが言うしかないと切り出した。

 

「リンド、そこに座れ」

 

 普段はどちらかと言えば穏やかなフェイの厳しい声に慌てて席に着く。

 

「いいか、これから一緒に回るならお前も餓鬼じゃ済まない。一人の男として教えておいてやる」

 

「森人は騎士と並び死ぬ事が多い。それはお前もわかるだろう。森人達は身近な人の死を、時に泣き、笑い、悼む。だがそれは本人しか許されない事で、周りはただ見守って肩を貸すぐらいしか出来ない。恋や愛、男女や家族の話はおいそれとするな。わかったか?」

 

 フェイの淡々とした言葉は重く、リンドにも何となく理解は出来た。

 

「……姐さんには昔、夫と娘がいた。()()んだ、わかるだろう? 旦那さんの名はルー、優しい良い男だったよ。娘はフィオナ、姐さんと同じ赤毛でお転婆な子だった。フィオナが4歳の時に二人とも死んだ、たった8年前の事だ。もし生きてたらフィオナは12歳、可愛い盛りだろう。姐さんはそれから直ぐに森人となった。若い女が森人になる事がどれ程大変か想像はつくか? そして今俺たちマファルダストを率いている。俺たちは姐さんに惚れてここにいるが、それは愛や恋じゃない」

 

 わかるか? ……フェイの真剣な眼差しはリンドの心臓を煩くさせたが、頷く以外に出来る事などなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンスフィアの夜を誘う夕焼けが街を紅く染め始めて、夕暮れの薄闇が静かに降りて来た。

 

 宿営地にも同じ薄闇が訪れて、ポツポツと松明やランプに火が灯り始める。ロザリー達は眠りに落ち、マファルダストの皆は一部を除いて森への旅立ちを静かに待っている。

 

 

 

 樽をギッシリと載せた馬車の側に、小さな人影が見える。薄闇に隠れる装いは濃い群青色か。松明に一瞬照らされたその装いは、あちこちが裂けたり千切れたりしている。時折覗く素肌は妙に白く見えて、艶かしい。女性、いや少女だろうか? 起伏のある身体は大人を感じさせるが、どこか幼さを見せる動きに見たものがいれば視線を奪われるかもしれない。

 

 殆どの暗闇に覆われた宿営地の黒に溶け込むような漆黒は肩まで届く髪で、大して強くもない風にも揺られるそれはまるでシルクの細糸のようだ。

 

 髪を揺らしながらキョロキョロと周辺を警戒した人影は、まるで獣の様に軽やかに馬車に乗り込み、体を隠した後再び外を警戒して小さな顔をわずかに覗かせた。

 

 離れたところを歩く男が持ったランプの光が一瞬だけ顔を照らして、翡翠色の瞳を光らせたが誰も気付くことは無かった。

 

 スッと馬車の奥に消えた小さな影は、もう人の目には映らないだろう。

 

 

 

 

 緩やかな夜の時間が流れている。

 

 マファルダストの旅はまだ始まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




再登場のロザリーは重要な役割を担うキャラです。注目して貰えると嬉しいです。


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33.マファルダスト②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 扉が叩かれる音でロザリーは目を覚ました。

 

 何か夢を見ていた気がするが、ぼやけた意識にはその記憶は残っていないようだ。

 

「姐さん、そろそろ時間です」

 

 扉の向こうから落ち着いた声が響く。

 

「ああ……フェイ、ありがとう。直ぐに行くよ」

 

 起き上がったロザリーは机にあるペンダントを見て、その足で椅子に掛けてあるジャケットを手に取った。

 

 少しだけ汗臭い気がしたロザリーは手にしたジャケットをベッドに投げて、洗面室にある水桶に手拭いを漬ける。厚手のシャツとブラを外して上半身を拭く姿が鏡に映ったが、顔に涙の跡が見えて苦い葉を噛んだ様な顔をする。

 

 かなり大きいと言っていい胸は、重い上に汗も溜まりやすく好きではない。フィオナに乳を飲ませていた頃は大きい程沢山飲ませてあげられそうと嬉しかったものだが……今は邪魔と思っている。片胸ずつ持ち上げて簡単に拭くと再び衣服を整え、扉を開けて階段を降りた。

 

 

 

 

 

 

 広間兼食堂では、それぞれが装備を整理したり確認したりしている。水などは今から積み込む様だ。

 

 ロザリーも棚に整理された自身の装備を引っ張り出して最後の確認を始める。

 

 殆どが師と言っていいイオアンから教わり揃えている品々だ。

 

 木を削り出したカップ、アルコールランプ、固く縒り合わせたロープ数本、テント代わりにもなる大判のマント、大小ナイフを纏めたベルト、小剣、手斧、防寒着各種、革手袋、何種類かの布類、後で水を入れる革水筒、その他火付け石等の小物、それらを纏める背負袋に効率良く詰め込んでいく。

 

 個人の森人の場合は他にも食糧や着替えもいるが、隊商の場合は大型の馬車が追随するため、都度入れ替えたり補充出来る。

 

 一通り再度の確認を終えると、他の森人達を見回す。

 

 ロザリーの目に昼に騒いでいたリンドの姿が目に入り声を掛けに行った。

 

「リンド、用意は大丈夫かい?」

 

「あ、姐さん、大丈夫です。さっきフェイさんにも確認して貰いましたし、自慢の剣もバッチリです!」

 

 かなり大振りと言っていい剣は新品で、装飾の美しい鞘に収まっている。思わずフェイを見たロザリーだが、首を振る彼に放って置く事にする。

 

 森人は騎士と違い、まさに森の深部に入るのだ。大きい剣は重量と相まって邪魔にしかならない。振り回す場所すら殆どなく、魔獣には全く意味がない。近距離で魔獣に遭遇すれば、逃げるか死ぬかだ。まあ、道中に出会う狼などには多少なりとも役に立つだろう。使えなくて森に放り投げる姿さえ思い浮かぶが、これも勉強か……ロザリーは生温かい目ではしゃぐ若者を見る。

 

 しかし昼に比べると少し大人しく感じるが、まあ悪い事じゃないかとそれも捨て置いた。

 

 再び見回して全員の用意が終わっているのを確認したロザリーは、元宿屋らしく一段高いステージに立った。森の脅威もなく交易が活発な時代は、このステージも本来の使い方をされていたのだろう。考えても仕方ない事だが、ふと旅人達の姿を幻視する時がある。

 

「よし、皆準備はいいね!今回は一月程の森巡りだよ。西では狩猟組に思い切り働いて貰うから、楽しみにしてな。この季節なら穴蔵から出た獲物が面白い程いるだろうさ、ただ狼達も狙ってるから気合い入れていきな!」

 

「おう!!」「おっしゃー!」「新調した弓が唸るぜ!」「俺の尻に間違って射るなよ!」「ああ!? 誰がお前の汚ねえケツなんて狙うかよ!」

 

「うるせえ! 全く真面目な話も出来ないのかね? 誰だよコイツらのボスは?」

 

「「いや、あんただから!!」」

 

 毎度のお約束を終えるとロザリーは、空気を変えて静かに話を始めた。

 

「いいかい、今回は南にも行く。全員知っての通りイオアンの爺様もやられたかもしれない森だ。ククの葉も霊芝も取り放題だが絶対に油断するんじゃないよ。余裕があれば爺様達の痕跡も探す、これはアスト殿下からも頼まれてるからね」

 

「「おう!!」」

 

「さて、いつもの事だが確認だ」

 

 ロザリーは全員を見渡して、初めてマファルダストの本業に着いてくるリンドに視線を送る。

 

「魔獣に遭ったら採取した全て、背負袋も装備も全部だよ? 全部捨てて逃げるんだ。戸惑う事は許さない、守れないなら私がこの剣で刺す。そして逃げ切れないと知ったら大声で皆に知らせて、時間を稼ぎな」

 

 最後だ……そう呟いてロザリーは一度だけ目を瞑りもう一度黄金色の眼を開き続ける。

 

「誰が魔獣に襲われても助けには入るな、勿論わたしも例外じゃない。振り向かずに走る、それは見捨てるんじゃない。生きた証をリンスフィアに連れ帰るんだよ。帰ったら家族や知り合いに言って聞かせる仕事が待ってるからね」

 

 今度は声を誰一人出さず、全員が頷きそれを自らに課す。リンドは少し青白い顔をしてはいるが、目を逸らす事なくしっかりと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マファルダストの面々が出発の途に着いた頃、リンディア城ではカーディルとアスト、クインが顔を合わせていた。カーディル親子の手にはクインが纏めたノートが手渡されている。相変わらずの見事な筆致を褒めたくもなるが、内容は何一つ面白くはない。

 

 

「陛下、恐らく間違いないと」

 

「……ああ、そうだな」

 

 カーディルは何かを悟り、そして落胆した。

 

「ユーニードがカズキを利用する、か」

 

「間違いないのか……? ユーニードは長年に渡ってリンディアを支えてくれた忠臣なんだぞ……?」

 

 アストは信じたくないのだろう。幼少の頃は勉学の世話をしてくれた教師でもあったのだ。アストにとっては小さな頃から知る忠臣の中の忠臣、それがユーニードなのだから。

 

「殿下、まだ証拠がある訳ではありません。状況だけはそれを指し示していますが、直接関与した何かを見つけたとは言えないのです」

 

「……ユーニードが変わったのは気付いていた。息子のアランが魔獣にやられたのが2年前か……それでもユーニードなら立ち直ってくれると信じていたが、マリギ奪還のアレは……」

 

「カズキが拐われた日の足取り、その前後を調べるよう情報部へ指示頂けますか?」

 

「ああ、わかっている。アスト、カズキはまだ見つかっていないのだな?」

 

「はい、未だに報告は受けていません。何より大々的に探す訳にはいきません、主戦派にカズキの足取りを追わせる事になりかねませんから」

 

 ふむ、そう呟いて顎髭を触るカーディルは暫し黙考した。

 

「城下の噂を打ち消す事が出来れば良かったが、もはや遅きに失したか……ましてや今日の出来事はそれを決定づけてしまったな」

 

「陛下、一つ提案があります」

 

 クインは相談役として、またカズキを愛する者の一人としてカーディルに考えを伝える。

 

「言ってくれ」

 

 少しだけ頷いて、アストを見た後言葉を紡ぐ。

 

「噂を上書きしましょう。今流れて……意図的に流されている噂は、魔獣との決戦を促すものです。カズキは戦う力を持つのではなく、あくまで怪我や傷付いた心を癒す聖女。戦いを憂いている彼女は日々人々を想っていると。何より……それが真実なのですから」

 

「隠さずに広く知らせるか……」

 

「今日のカズキの行動はそれを裏付けてくれます。偶然だと思いますが、それは主戦派にとっても予想外だったのは間違いありません」

 

「確かに……彼等はカズキをいかに引っ張り出すかに苦心していただろうからな。カズキの意思が分からないのに決めたくはないが……」

 

 カズキの存在を勝手に決めてしまう事に、今でも抵抗があった。だが、結局はカズキを守る事も出来ずに傷付けてしまった。あの地下室で見た惨状はアストに暗い影を落としている。

 

「……カズキは一人の少女ではいられなくなります。アスティア様の妹ではなく、聖女として歩き始めるでしょう。しかし主戦派の動きを牽制し、時間を稼ぐ必要があります」

 

 稼いだ時間で主戦派と決着をつけろとクインは言っているのだ。 

 

「それしかないか……ユーニードが関わっているかは別として、明らかな作為を感じる以上止めるしかない。神々の加護を受けた聖女の行動を、只人(ただびと)の悪意で曲げるわけにはいかないからな。そして、我らが正しいかは神々が決めて下さるだろう」

 

 

 

 カーディルの決断により主戦派との戦いは明確になった。リンディアに長年燻っていた暗闇の火を、カズキと言う存在が表へと炙り出す事になる。

 

 

 全ては後の世が証明するだろう、カーディル達の想いが正しかったかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロザリーはフェイと道中に回る村々を確認していた。暗闇の中ランプに照らされた地図は絶えず更新され、少しずつ人の生きる場所が減少しているのを如実に表している。このままなら遠くない未来、人は姿を消すだろう。森の周辺には街も村も存在しない。まだ森にのまれてはいなくても、いつ魔獣が現れるともしれない場所には住めないのは当たり前だ。

 

 中継地となる村々は行程の半分程度でなくなり、後は野営を繰り返すことになる。

 

「姐さん、西部はまだ良いですが南部は苦労するでしょう」

 

「ああ、南部と一言で言っても広いからね。イオアンの爺様は何処を廻ってたかね?」

 

「ご存知の通りココとココ、それとこちらもです」

 

 地図を指し示すフェイの指を見ながらロザリーは決める。

 

「爺様なら……多分ココだね、間違いないよ」

 

「何故わかるんです?」

 

「何処に何を取りに行くかは森人にとって生命線だけど、爺様は哲学を持っていたんだ。今の時期は樹液が不足するだろう?それは勿論より深部に行かなければならない季節だからだけど、それを座して待つのは良しとしない頑固者だがらね……」

 

 ロザリーの目には悲しみと、イオアンへの誇りが見えてフェイは一瞬言葉に詰まった。

 

「……姐さんがそう言うなら間違いないでしょう。では行程に加えます」

 

「ああ、頼むよ」

 

 馬車の周りではマファルダストの皆が最後の荷造りをしていた。大筋の行程は決めてあったが、細かな場所の指定はギリギリになる。天候や魔獣の動向、それこそ小さな噂話すら重要なのだ。数日前に決めても変更はザラで、マファルダストは出発日にロザリーが決める事にしていた。

 

「よし! 準備はいいね!」

 

 宿営地には森人達の家族も集まりまるで祭りの様だが、もしかしたら生きた姿を見るのは最期かもしれない……それを知る皆に浮ついた空気などはない。

 

 心配な気持ちと誇りをむねにいだき見送りに来ている。いつも見る風景だが、その荘厳な美が陰る事などあるはずが無い。

 

 人々はただ懸命に生きている、その美しさに神々は加護を与えるのだから。

 

 

 

 

 

 マファルダストは今、リンスフィアを旅立つ。

 

 その懐に小さな黒髪の少女が抱かれていたが、それが何を生むのかまだ誰もわからない。

 

 馬の嗎と車輪が地面を蹴る音は、リンスフィアからゆっくりと離れていった。

 

 

 

 

 

 

 



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34.マファルダスト③

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 銀の月が柔らかな光を大地に届けていた。

 

 カズキのいた世界と違って大気は汚染されていない為に、星々は瞬く事さえなく夜空を彩り続ける。空には薄く雲が流れ空気は澄んでいて、月光のカーテンがまるで風に揺らめいているようだ。

 

 一瞬時が止まったかと錯覚するが、走る道には轍が幾本も走り、馬車に振動を伝えて時が流れているのを感じさせた。

 

 

 

 マファルダストが夜にリンスフィアを発ったのは、次の目的地の村との距離のためだった。朝か昼に発つと真夜中に村に入ることになる。それを避けるため丸一日と半分ほど走り、それで朝には最初の村に着く。

 

 道中に短い休憩は入れたが、この夜が明ける頃には村が見えるだろう。周辺には麦畑が一面に広がり、風と月光を受けてサワサワと音を届けていた。カズキが齧ったパンの原料はこの畑で生まれたが、本人は見ても分からないし興味ないかもしれない。

 

 

「リンド、村に着いたらカード勝負」

 

 ジャービエルは馬上で器用にカードを配るフリをする。定番の酒を賭けてと思ったのだろう、更に呑む格好まで披露した。言葉にした方が早いと思うがそれがジャービエルだった。

 

「いいですけど、酒ってあるんですか?」

 

「姐さんが馬車に2、3本忍ばせてる」

 

 まるで秘密の様な表現だが、実際はちがう。

 

 森が近づくと流石に深酒はしないが、旅は辛く楽しみの一つや二つは必要だった。ちなみに何本とは小さめの樽で換算されている。 空にした樽は特定の薬草を収めるのに役にも立つ。森人の知恵の一つで、僅かに残る酒精が薬草の劣化を防ぐのだ。 

 

 配られる酒は均等で、賭けの対象にする定番だった。

 

「へー……ならやりましょう!」

 

 リンドは内心勝ったと思っている。無口なジャービエルは喋らない分表情が豊かで手を簡単に読めるし、彼はそれに気付いてない。

 

 今回は楽しくなりそうと、リンドはほくそ笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 月明かりは少しずつ薄れて、なだらかな丘の稜線が僅かに赤らみ輝き始めた。遠目にも数軒の家屋が並ぶ小さな村が見えて、リンドは少しだけ興奮してくる。リンスフィアを遠く離れるのが初めてのリンドにとっては、これも冒険みたいなものだった。

 

 見えてからが長いかと思ったが、あっさりと到着した村は思いの外小さい。

 

「ジャービエルさん、何処に泊まるんですか?」

 

「此処には泊まらない、買い物したら直ぐに出発」

 

「えー? カードはどうするんですか?」

 

「昼には出るから、それまで勝負。景品は夜」

 

 ガックリしたリンドはせめて何か記念に買い物でもしようと、周りを見渡したが商店らしき姿は無かった。この村は麦を育てる数人が住む農家の集まりだから当然だろう。ほとんどが自給自足で、マファルダストと物々交換するのも決まった行程だった。それは隊商に残された本来の仕事なのかもしれない。

 

 先触れの届いている村に姿を見せるのは、その隊商が全滅していない事を報せる意味もあるがジャービエルはわざわざ伝えたりしない。

 

 

 昼前にはジャービエルが絶望感を漂わせる顔でトボトボと馬に向かう姿があったが、マファルダストの森人達はまたかと声を掛けたりはしなかった。ちなみにジャービエルの弱点を誰も教えたりしないようだ。

 

 短い時間で村の滞在は終わったが、リンドが馬上の人となったとき村人達が見送りに来た事が印象に残った。旅人気分を味わえて機嫌は上々だ。

 

「いやあ、良い人ばかりですね!」

 

 ジャービエルの暗い顔も気にせずリンドは明るい声を上げる。

 

「……今夜の楽しみが無くなった」

 

 流石に可哀想になってきたリンドは夜は少しだけ負けて上げようと決める。あくまで少しだけ。

 

「夜にもうひと勝負しますか?」

 

 コクンと頷く大男は全く可愛くないが、可哀想なのは良くわかった。

 

「今夜は野営地でしたよね? いやあワクワクする!」

 

 リンドは持ち前の気性で全部が前向きだった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「丁度いい時間だね、皆お疲れさん! 野営組は準備を始めておくれ!」

 

 ロザリーの声は夕方の空気に響き、割り振られた仕事を皆がテキパキと始める。街道に沿って平坦に踏みしめられた野営地は木製の柵に囲まれ、マファルダストの一行を迎え入れた。近くには小さいとはいえ小川も流れ、馬たちは喉を潤している。

 

 ロザリーは丘に登るために馬車から離れた。雲の形と流れを見て、明日の天候を予測するためだ。イオアンから教わった知識は多岐にわたり、雲や風を読むのもロザリーの大事な仕事だった。

 

 じっくりと空を眺めたが、当分は崩れそうにない空に安堵を覚えて軽く息を吐く。そうして野営地に視線を落としたロザリーに不思議な光景が目に入った。

 

 野営地から距離を置いていた事で最後尾にある幌馬車から顔を出す子供らしき姿が見えたのだ。おそらく他の者は気付いていない。なぜ子供が?と丘を下り始めたが、縁に手をつき嘔吐しているのを見たロザリーは丘を下る速度を上げた。

 

 まだ自分以外は気付いていないらしい……最後尾の馬車ということも手伝ったのだろう。右手を口に当てた子供の姿が少しずつはっきり見えてくる。再び地面に何かを吐き出したのは、どうやら女の子のようだ。黒っぽい髪は元気なく垂れてその表情は見えないが、細い腕や縁に押し当て潰れた胸はロザリーの予想を証明している。

 

 何かの病気だろうかと心配になったロザリーが馬車に近づくと、その少女はグッタリと馬車に寄りかかる。

 

「あんた、大丈夫かい!?」

 

 だが、そのロザリーの優しい言葉と気持ちは一瞬で呆れへと変わった。酷く酒臭いのだ。

 

「はあ?」

 

 思わず呆れ果てた声が溢れるのを誰が責められようか……クインやアスティア達がウンウンと頷くのが目に浮かぶようだ。

 

「……何処で忍び込んだんだい……おまけに酒まで飲んで……」

 

 両肩に手を掛けて少女の上半身を起こしたロザリーは、いくつもの理由で言葉を失った。

 

 

 一つ目は少女のあまりの美しさに、そして赤らんだ頬がそれに色気さえ加えている。薄っすらと開けられた眼は綺麗な翡翠色で、角度によって色の深みが変わった。 

 

 二つ目は着ている服の状態だ。あちこちが破れ、千切れている。素肌が露わになり女性であるロザリーでも思わず見入ってしまう程だ。元はワンピースなのだろうが、原型は留めていない。左手にはまだ新しい包帯が乱暴に巻かれて血が滲んでいる。

 

 三つ目は見覚えがある少女だからだ。騎士団のケーヒルと会っていた時にアストが現れ、連れ歩いていた俯く侍女と同じ顔が目の前にある。なかなかお目にかかれない美貌は強く印象に残っていた。あの時は髪は見えなかったが、こんな珍しい黒色は見た事がない。

 

 そして四つ目は首や肩、チラリと見える胸元、切れ切れになったワンピースの隙間から見える黒い模様と文字の数々だ。これは誰が見ても刻印だろうが、常識である刻印の数に全く合致しない。二つが限界とされる刻印が身体中に散りばめられているのだ。

 

 完全に酔っているのだろう……息遣いは荒く、今にも眠ってしまいそうだ。先程の嘔吐が原因か口元もヌラヌラと濡れ、薄く引いたであろう口紅も落ちかけている。 

 

 余りに情なくも衝撃的な姿に動揺したロザリーも漸く落ち着いてきた。

 

「全く……なんだいこの娘は。どれだけ飲んだのやら」

 

 馬車の中を見て再び腕に抱えた少女の顔を見た時、ロザリーはふと思い出した。

 

「確か……最近噂で……黒髪で翡翠色の目、身体中に刻まれた刻印……」

 

 勿論噂を信じてなどいなかったが、腕からは少女の高めの体温が感じられて嫌でも現実だと知らせてくる。

 

「聖女……か……」

 

 耐えられなかったのだろう眠ってしまった少女、いや聖女を見てロザリーは呟いた。

 

「どうすんだいコレ……」

 

 少しずつ暗闇に落ちていく野営地はロザリーの声には応えてくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 途方に暮れていたロザリーだが、陽が落ちた事で気温も下がり始めた事で我に返った。

 

 腕や胸に感じていた少女の体温が、少しずつ低くなるのがわかったからだ。決して寒い時期ではないが、腕の中の聖女さまは薄着に過ぎるのだから困ったものだ。

 

「兎に角何か毛布でも……」

 

 誰かに声を掛けようと口を開きかけたが、扇情的な少女の姿を見て思い止まった。酒に酔い眠りについた恥ずかしい格好の聖女を男達の目に入れるわけにいかない。何人か食事等の世話役に森人の妻達がいるが、近くに姿が見えない以上自分が行くしかないだろう。

 

 聖女を馬車の中に押し込んで着ていた上着を掛けたロザリーは、自身の背負袋に入っているマントを取りに歩き出した。なんでこんな事をと内心愚痴をこぼしていたが、同時に何処かで感じた暖かい気持ちに少しだけ戸惑っている。酒のせいもあるだろうが、特有の高い体温は未だ腕に残っている気がした。

 

 

 野営地にはマファルダスト一行しかいないため、かなり広範囲に皆が散らばっている。薪が燃える火もいくつか見えて周囲を明るく照らしていた。西は薪が多く手に入る地域だからこその贅沢だ。南はこうはいかないだろう。

 

 荷台に積んであった背負袋からゴソゴソとマントを取り出しているロザリーの背中に声が掛けられた。

 

「姐さん、どうしたんです? 今夜はそれはいらないでしょう?」

 

 フェイの声にロザリーは答えようとしたが、どう説明したら良いか分からず後回しする事に決める。

 

「ああ、ちょっとね……後で話すから待ってておくれ」

 

 そう言ったロザリーは再び馬車の最後尾に向かった。フェイは律儀にその場で待つようだ。

 

 

 ロザリーはもしかしたら幻でも見たかもねと幌をゆっくりと開けた。しかしそこには変わらず少女が横たわっていて、上下する胸が間違いなく目の前にいると訴えていた。

 

「幸せそうに寝て……酒癖の悪い聖女なんて、皆が聞いたらガッカリするよ……」

 

 掛けてあった上着を取って自分の袖に通し、持ってきたマントで頭から足まですっぽりと包む。まるで産着をきた赤子みたいで笑いを誘うが、残念ながらこんなに大きな赤子はいない。

 

 ロザリーは両腕を膝裏と背中に入れて持ち上げると、軽いねと思わず呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「姐さん、それは……」

 

「私も知らないよ、何処かで忍び込んだのだろうさ」

 

 ロザリーが抱える物体を見たフェイは二の句が告げなかった。顔だけちょこんと覗くそれはフェイにも少女と知れたが、この様な危険な旅に子供を連れ歩く馬鹿はいない。

 

「フェイ、ちょっとこっちへ」

 

 皆から見えない馬車の影にフェイと隠れると、ロザリーは何処か弾む様な声をあげた。

 

「街で最近流れてる噂知ってるかい? 黒髪の……」

 

「聖女降臨ですか? そりゃ知ってはいますが……」

 

 フェイの仕事の中に情報収集もあるため、最近妙に流れ出したその噂は当然知っていた。同時に信じてもいない。苦しい時代には時折そういった救世の話が流れるものだろう。酷いのでは魔獣こそが人に遣わされた救いなどと喚く馬鹿げたものまである始末だ。

 

「これ、聖女」

 

「はい?」

 

 フェイはポカンとしたが、ロザリーのニヤケ顔に冗談だろうと呆れた顔に変わる。

 

「フェイ、噂の中身を教えておくれよ」

 

「はあ……珍しい黒髪で、翡翠色の瞳、美しい顔と身体に刻まれた刻い……ん……」

 

 ロザリーは少女の肌が露骨に見えない程度にマントを少しずつ避けていく。ご丁寧にフェイの言葉に合わせて順番にだ。流石に眼だけはどうにもならなかったが、首の刻印を見せた時には呆れた顔は驚愕の色に変わった。

 

「ちなみに眼は綺麗な翡翠色だったよ、さっき見たから間違いない。見せられないが刻印は身体中にある」

 

 何故かしてやったりの顔をしたロザリーからとどめが刺された。

 

 

 

 ピューと風が吹き抜けてフェイとロザリーを冷やかしたが、聖女さまの黒髪が揺れるのを二人はしばらく見つめているしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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35.マファルダスト④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とりあえず仮眠用に広く取っている荷台の中に少女を横たわらせたロザリーは、振り返ってフェイに尋ねる。

 

「確か名前は……」

 

「カズキ、です。黒神の聖女だと……なぜ白神ではないのかわかりませんが……」

 

「ああ、そうだったね。殿下に紹介して貰ったけど忘れてたよ」

 

「?……姐さん会った事があるんですか?」

 

 寝返りをうつカズキを眺めながらロザリーは思い出していた。

 

「殿下とクインが街に連れ歩いてたのさ。あの時は侍女の格好で誤魔化してたからね。侍女特有の所作はないし、まぁ御忍びだよ。でも顔だけは見たから間違いない。聖女様かは置いておくとしても、やんごとなき人であるのは間違いないね……」

 

「しかし刻印があるのであれば、間違いないでしょう」

 

「だよねぇ、刻印ばかりは誤魔化しが効かないし……それよりどうしたものかねぇ……」

 

 何時ものように腕を組み、その大きな二つの女性の象徴を際立たせたがフェイは勿論気にもせずに答える。

 

「今から折り返す訳にもいかないですし、次の村に預けますか?」

 

「うーん……王室が預かる聖女様をポイと放り投げるのもアレだし、かと言って連れ歩く訳にもいかないねぇ……」

 

 そう言ったロザリーだが不自然な事に今更ながら気付く。 

 

 アストは聖女を大事に思っていたようだし、クインが手を繋いで愛おしそうな眼差しをしていたのも印象に残っている。ところが聖女であるカズキは手に包帯を巻き、高級そうなワンピースは切れ切れに破れていた。まるで何かから逃げて来たかのようだ。

 

 ロザリー達はリンスフィアで起きた聖女の降臨をまだ知らなかった。

 

「……最初の中継は西の森の手前、1回目の狩猟後だね……」

 

「まさか、このまま連れて行くんですか?」

 

「街を離れた事情があるかもしれない、先ずは殿下に知らせてから判断するしかないね」

 

 ロザリーは何かが引っかかってしょうがなかった。こういった勘は馬鹿には出来ない上、聖女であれば何かの使命を帯びている可能性がある。神々の行いを邪魔する訳にもいかない。

 

 地面に吐きまくって前後不覚になっている姿には一抹の不安を覚えるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軽く食事をして身体を拭いたロザリーは、聖女と共に寝る事に決めて先程の荷台に向かう。

 

 荷台に上がるとカズキは寝苦しいのか、マントを蹴り飛ばして膝を抱えて丸まっていた。スカートも捲れあがって小さなお尻が露わになっている。少しだけそのお尻に食い込んでいる下着は仕事を果たさず、思わずペチペチと平手で叩きたくなる。

 

「ん? うへぇ……お尻にも刻印があるよ……本当に身体中にあるんだねぇ……」

 

 ぶつぶつ言いつつも、はだけたマントを手に取ってカズキの背中側に寝転ぶ。 

 

「全く、しょうがないねぇ……」

 

 呆れながらも何処か嬉しそうにスカートの裾を直し、マントを掛けて聖女に腕枕をした。 

 

「次の町で服を手に入れないと、なんでも似合いそうだし何着か見繕うかね……」

 

 そう言いながらカズキの細い腰に手を回して、そっと身体を抱き締めた。すっぽりと収まる小さな身体はロザリーには丁度よく、どこか懐かしい香りがした。

 

 遠くからは草木を揺らす風と虫の音がする。まだ起きている連中の声は殆ど聞こえない。

 

 ロザリーは不思議な多幸感を覚えながら眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最近は浅い眠りばかりだったが、久しぶりの深い眠りは時間が一瞬で過ぎ去ったと思わせる。何処か気怠さのあった目覚めも今朝は全く感じない。まるで身体が新しく置き換わったようで、横になったままでも明らかな違いがあった。

 

 ロザリーは少しばかりの驚きを覚えながら、清々しい朝を迎えていた。

 

 くっきりした意識は胸元で身動ぎする柔らかな感触を思い出す。首を傾けると翡翠色の輝きが自分を映していた。どうやら思い切り抱き締めて顔が胸に埋まっているようだ。上目遣いでロザリーを見ているカズキは怒っているのか困惑しているのか、判断に迷うところだろう。

 

 思わずギュッともう一度抱き締めて、ロザリーは笑顔になった。

 

「おはよ、聖女様。酒は抜けたかい?」

 

 埋もれていた顔を剥がすと、上半身を起こして深い溜め息をつく聖女。それすら絵になるのだから、神々の寵愛とは凄まじいものだ。

 

「こら、挨拶くらいしなさいよ。こんな気持ちいい朝じゃないか」

 

 こちらを見た聖女、カズキのキョトンとした顔はロザリーにある事を思い出させた。

 

「確か、言葉が不自由と言ってたね……」

 

 アストがロザリーに紹介した時の事だ。 

 

「まあいいや、ほら朝御飯食べよう? 皆に紹介するよ」

 

 立ち上がったロザリーは両手でカズキを引っ張り上げてマントを羽織らせる。はだけない様にベルトで調整して皺を伸ばした。

 

 先に降りて、おいでと合図を送ると素直について来るカズキに優しい笑顔が浮かぶ。手を繋ぐような歳とは思えなかったが、ロザリーは欲求のままにカズキの右手を取り歩き出した。

 

 朝日に照らされた二人の影を見る人がいれば、誰もが幸せな気持ちになるだろう。先に起き出していた何人かの森人達は二人の姿を見て、困惑と小さな幸せを覚えている。見慣れない少女と、やはり余り見慣れないロザリーの慈愛の溢れた笑顔は、何か変化が起きたと皆に感じさせて視線を外せなかった。

 

 

 

「うひゃー、綺麗な娘ですねー」

「おい黒髪ってまさか……」

「なんでまた此処に……」

「新しい仲間か?」

「おい、見えてるぞ……やべぇ」

 

 

 

 最後の呟きを何とか聞き取ったロザリーは、カズキが座っている方を見ると慌てて駆け寄った。

 

「こら!そんな格好で膝を立てるんじゃないよ、丸見えじゃないか!!」

 

 抱えた膝を強引に横に下ろしてマントを足に掛ける。やはりキョトンとしたカズキに頭が痛くなった。

 

 この美しさなら嫌でも男の欲望を知っているだろうに、まるで最近女になりましたとばかりの恥じらいの無さは驚きしかない。少女とは言え女として生きてきたなら自然と身につくはずの何がが足りないのだ。クインあたりが許すとは思えなくて、ロザリーには不思議でしょうがなかった。

 

 ロザリーは知らない事だが、同じ様にアスティアやクインは頭を抱えている。

 

「お前ら!今度見たら承知しないからね!」

 

 無茶苦茶な事を言うロザリーに誰も反論はしなかった。こういった時、男は弱いのだ。

 

「とにかく……しばらくは同行するからね。森人として働きはしない、客人と思っとくれよ」

 

 それは当然だと皆が頷く。

 

「見たら分かるだろうから先に言っとくよ。この子はおそらく聖女だ、黒神の聖女だよ。皆も聞いた事くらいあるだろう? 手なんか出したら神々が怒り狂うし、私が承知しないからね!」

 

「「……お、おー!!」」

 

「凄え、聖女様が目の前にいるよ! 握手くらいは駄目ですか?」

 

「うおー! 滅茶苦茶美人だなー! 本当に翡翠色の眼だよ!」

 

 ワラワラと周りに集まる男達から握手を求められて、カズキは腰が引けたがその内に諦めて握手に応じていた。仲間と認められたと思ったのか、カズキの顔に少しだけ笑みが浮かぶ。

 

 それがどれだけ貴重なものか、初めて会う皆は知らなかった。

 

「ほらっ、もう終わりだよ! 名前はカズキ、事情があって話したり出来ないから気をつけなよ!」

 

 しっしっと両手を振りカズキの前に立ちはだかったロザリーは、朝飯持って来ておくれと声を張り上げた。

 

 

 

 

 

 リンドはスプーンを口に咥えたまま、ボーっと見ていた。

 

 目線の先には甲斐甲斐しくロザリーにお世話される聖女がいた。パンを齧り、片手に持った器からスープを飲む。決して上品な食べ方ではないが、たったそれだけなのに目が離せない。表情も乏しく先程見せた微笑も今は消えている。しかし兎に角美しく綺麗なんだからしょうがない……リンドは自分に言い訳していた。

 

「あんな生き物がいるのか……可愛い過ぎるだろう……」

 

 ロザリーの承知しない発言も何処かに飛んでいって、リンドの頭の中にカズキとの甘い生活が浮かんでいる。 

 

「両想いなら仕方ないよな、うん」

 

 気持ち悪い事を呟いて、リンドはもっと気持ち悪い目線をカズキに向けた。 

 

 横にいたジャービエルは可哀相な小鼠を見るようにリンドを眺めたが、当人は気付く事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宿営地での滞在時間の終わりが近づき、マファルダストは撤収を始めた。

 

 次は西の森に至るまでの拠点の町、テルチブラーノだ。村と呼ぶには大きく、街と呼ぶには小さい、そんなところだ。騎士が常駐しており西の守りの要所でもある。周辺の村々の中心で、西の森に向かう隊商なら必ず経由するところと言っていい。

 

 その先は人が立ち入らない領域で、向かうのは騎士か森人だけ。

 

 ロザリーはテルチブラーノにカズキを預ける事も考えたが、すぐに打ち消した。それは間違いなく勘ではあったが、何処かに一緒にいたいという思いがあることを否定出来ない。

 

 

 撤収は簡単に終わり、カズキと一緒に御者台に乗った。目的地があるのか、素直にロザリーに合わせるカズキは馬に興味があるようだ。 

 

 4頭引きの馬車は連結した荷台毎ゆっくりと進み出した。揺れる御者台に慣れないのか、お尻をずらしたりして丁度いい場所を探している。ロザリーは思わず自身の膝の上にカズキを抱えたくなったが、さすがに聖女はそんな歳ではないと諦めた。

 

「……なんだかねぇ……」

 

 ロザリーは自分の心に何が起きているのか、薄っすらと自覚する。だがそれを素直に認める事も出来なかった。

 

 ……フィオナを裏切ってしまう、そんな気がするからだ。

 

 呟きを聞き取ったのか、カズキがロザリーを見た。ゆっくりと進む馬車に乗る聖女は、朝の爽やかな風に揺れる黒髪を右手で押さえる。その姿が目に入ったロザリーは眩しいものを見るように目を細めた。

 

 

 

 

「貴女の名前はカズキだね。 私はロザリー、ただのロザリーさ」

 

 

 

 

 カズキの三度目のキョトンとした顔が可笑しくて、ロザリーは笑った。

 

 

 

 

 

 



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36.安らぎの色

 

 

 

 

 

 

 

 上からお姫様を見たとき、不思議な感覚に戸惑った。

 

 まるで、こちらに手を伸ばして行かないでと叫んでいると錯覚する。家族の幻想は泡の様に消え去った筈なのに、今でもそこにあると勘違いしていまいそうだ。 

 

 元から逃げ出すつもりだった、何故戸惑いなど……

 

 あの無駄に広い部屋でぬるま湯に浸かったように過ごし、時が来たら誰かを癒す? それは家族などではない、道具だ。薬箱に入った絆創膏と何が違うと言うのだろう。

 

 だから……お姫様の涙を見た瞬間、視線を外して意識から消した。これ以上耐えられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋根から屋根へ猫の様に飛び移り、カズキは城から離れる様に移動していた。

 

 

 以前も街には来ていて、建物の間隔が殆ど無い事を覚えていたが正解だったようだ。軽い体は屋根を踏み抜くこともなく音すら小さなものだ。 特に目的地があるわけではない以上、何処かに身を隠し夜を待つのが良いだろう。

 

 包帯を巻いた手の痛みはもう無くなっていた。過剰な治癒の力は呪いと思っていたが、こんな時は助かると現金な事を思う。随分距離を稼げたと思うが油断は出来ないと、カズキは姿勢を低くして下から見えないよう気を使って進んでいた。

 

 

 

 

 子供を癒す事が出来た時、カズキは初めてヤトに感謝したのかもしれない。言葉は分からなくとも側にいた母親だろう人の笑顔は眩しかったし、周りの群衆も嬉しそうだった。笑顔をこぼしたと自覚はないカズキだが、あちらの世界では味わえなかった感覚は嫌ではなかった。

 

 カズキ自身は理解はあまり出来ていないのだろう。他者に認められる事は大きな喜びを生み、自己を肯定される幸せがある。小さな頃から自分を嫌いだったカズキにとって、人からの肯定は不思議な暖かさを感じさせたのだ。

 

 そんな覚えのない感覚に少しだけ翻弄されながら、それでも足を動かし続けたカズキの目に興味深い物が映った。

 

 あれは……あの時見た馬車か?

 

 大量に載せられていく樽、向かうだろう先に見える門。如何にも行商に行こうと準備する集団を見つけて決断する。忍び混む為に夜を待とうと、屋根に腰を下ろしてパンを齧った。

 

 

 

 

 

 夕闇に包まれていく街を見ると、そろそろかなと準備を始めた。準備と言っても手には何もなく、邪魔くさい服を整えるだけだった。

 

 一度城から脱走した時と同じ服を着ているとカズキは内心苦笑する。あの時も星空の描かれた濃い色のワンピースは、夜の脱走に丁度いいと思ったのだ。あちこち破れているが、動きやすい分だけまだマシだ。 

 

 スルスルと器用に屋根から降りたカズキは、馬車の下に隠れた。松明やランプ程度の光度ではまず見つからないだろう。次から次へと移動するが、不思議な事に警戒らしい動きもなく、簡単に目的の場所まで来れた。

 

 今から出発する森人や隊商に悪さをする馬鹿はリンスフィアにはいないが、カズキはそれを知らない。警戒など誰もしないのだ。

 

 あっさりと荷台に乗り込んだカズキは、チラとだけ外を見ると樽の間に身を潜めて時が来るのを待った。

 

 

 

 いよいよ出発だろう。

 

 薄闇と丁度良い気温は疲れた体に睡眠欲を促し、カズキはウトウトと浅い眠りを繰り返していた。バレるわけにはいかないと、頑張って起きようとするが中々難しい。眠りに落ちてはハッと目を開ける姿は、膝を抱えている姿と相まって可愛らしい。本人にはそんな気は無いだろうが、精神は体に引っ張られるのかもしれない。 

 

 頭をフルフルと振ったカズキの耳に女性の声が聞こえてきた。見つからない様にそっと覗き込むと、何やら紙を見ながらもう一人の男と話している。ランプに照らされた紙は薄っすらと透けて、それが地図だと教えてくれた。

 

 この街を離れて別の国へ行く。以前から決めていた事を実行するだけ……お姫様の涙が一瞬だけ頭を掠めた気がするが、それも彼方に消えていった。

 

 

 

 馬の嘶きと座った尻から伝わる振動が、馬車が動き始めた事を知らせてくれる。

 

 この馬車は最後尾に位置しているらしく外の様子を伺い易い事は幸いだった。樽の影に隠れていながらも巨大と言っていい門をくぐった事まで把握出来た。

 

 少しずつ離れていく街を見る余裕さえあったくらいだ。

 

 カズキの目にはやはり城塞都市に見える。城から見えた街は二重、三重に壁に囲まれていたので想像はついていた。だがゆっくりと離れていく街や城は、まさに御伽噺の世界だ。三本の尖塔や、カズキのいたベランダも視界に入り感慨深い。

 

 たとえ夜でも、いや夜だからこその幻想的な風景だった。

 

 それでも、どんな美しい景色も延々と眺めていれば飽きてしまうのだろう。カズキは再び樽の間に身を潜めて、先程抗っていた眠気に身を任せたのだった。

 

 

 

 カズキは知らない。

 

 マファルダストは他の国になど行かない、行けはしない。リンディアの為に危険な森を回って資源を集める旅に出る事など想像すらしていない。世界は森に侵略され、そこを抜ける者など今や皆無に等しいことも。もはや他国が無事なのか滅びたのかさえ分からなくなった世界である事を知らないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酒を好きになったのはいつからだろう。 

 

 決して強い方ではないのも自覚している。

 

 煙草は好きとは違う。気付いたら吸っていた、そんな感じだ。酒か煙草を選べと言われれば間違いなく酒を選ぶ自信があった。

 

 確かキープされていたブランデーを貰った時だったか、年齢を誤魔化して働いていた店で手に入れた筈だ。酔った年配の男が何を気に入ったのか酒を寄越したのだ。理由は覚えていない。

 

 暫くは部屋に寝かせていたが、何処かの馬鹿とやり合った後に飲んだと記憶はしている。

 

 ブランデーをくれた男はお喋りで、飲み方までご教授してくれた。初心者ならソーダ割りかトワイスアップ、どちらかだろうと蕩々と語ってくれたのだ。大好きなウイスキーのハーフロックもその延長線上で覚えた飲み方でもある。

 

 あの時は炭酸水など冷蔵庫にはなく、ミネラルウォーターを使った。後で知ったことだが、トワイスアップは常温の水がいいらしい。当時はそんな事気にもせず冷やした水だったが、言われた通りに1:1で割り、それが美味かった。これも後から知った事だが、貰ったブランデーは馬鹿みたいに高い酒で、それも良かったのだろう。

 

 ビールやカクテルなども嫌いではない。

 

 ただ最初に飲んだ酒が良かったのか悪かったのか。今はウイスキーやワインが好きなオヤジ臭い趣味になってしまった。

 

 だから、しょうがない。

 

 樽の側で眠っては起きてを繰り返して、やる事もない。見える景色は代わり映えもせずに草原と道だけだ。樽の一つが酒なのはすぐに分かっていたが、まさか飲むわけにはいかないと我慢していたのだ。

 

 だから、しょうがない。

 

 休憩だろう止まる時に樽の蓋を開けたのは、何かの偶然が重なっただけだ。鼻腔をくすぐった香りが好みだったのもやはり偶然だ。側に木の柄杓を見つけたのも、止まる度口をつけてしまったのも偶然なのだ。おまけにチーズまで発見してしまった。

 

 だから、しょうがない。

 

 空腹に任せて飲んだ酒が悪さをして、気持ち悪くなったのは事故だ。

 

 朦朧とした意識に見た事のある女性が見えて、抱き抱えられたのを感じたのも、何故か安らぎを覚えたのも何かの勘違いだろう。

 

 薄れる意識の中で、そんな事を考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識を取り戻した時、カズキは自分の置かれた状況を理解出来なかった。

 

 息苦しさを覚えて開けた眼には深い緑が映っていた。

 

 深い緑が服で、柔らかい膨らみが女性の胸だと理解するまで一定の時間を要したのだ。自分の頭は腕枕され、背中に腕を回されて身動きが取れない。下半身も重ねられた足のせいで床に貼り付けられたままだ。悲鳴をあげようにも声など出ず、力の酷く衰えた体は抜け出す事を許してはくれない。

 

 それでも無茶苦茶に暴れてしまえば目を覚ますだろうと頭では分かっている。

 

 だが、心が言う事を聞かない。

 

 眠りに落ちる前に感じた安らぎが今も感じられるのだ。

 

 カズキはクエスチョンマークが浮かぶ頭に困惑しながら、ジッとしていた。ここからは赤毛と年上の女性である事位しかわからない。何処かで見た事のあるなと記憶を探ったが見つからなかった。

 

 

 ジッとする時間は大して長くなく、綺麗な黄金色をした瞳がカズキを捉える。

 

 目を覚ました女性に突然ギュッと抱きしめられて驚くまで、カズキの目は動かなかったのだ。

 

 

 

 どうやら敵対する事も無さそうと安堵したが、溜息は安堵からきたのかカズキには分からない。

 

 女性は何かを話しているが、全く意味が理解出来ないカズキには首をかしげる以外に出来る事はなかった。ただ追い出したり責める様子もないのは、この身体が弱々しい少女だからだろう。ヤトに感謝などしないが、今はそれに縋るしかない。

 

 

 

 連れ出された先には2,30人はいるだろう者達が思い思いに散らばっていた。赤毛の女性に座るよう促されたカズキは素直に従い、膝を抱えて腰を下ろした。

 

 この身体は以前より柔らかく、この姿勢が楽なのだ。

 

 慌てた様子で戻ってきた女性に足を下されたのは解せないが、まあ怒る事でもない。

 

 そのあとはむさ苦しい男達に囲まれて、思わず逃げたくなった。しかし握手を求められたり声を掛けてくる様子から仲間に入れて貰えたのだろうと安心出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 御者台に初めて乗ったが、乗り心地は悪い。

 

 まあ、馬車自体が非常に悪いのだから当たり前なのだろう。それでも朝の澄んだ空気と、時折通り過ぎていく風は気持ちが良い。

 

 邪魔に思えていた風に揺らされる長い髪も、右手で押さえてしまえば気にならなくなった。

 

 横を見れば手綱を握った女性が笑っている。

 

 やはり安らぎを覚えて、黄金色の瞳を真っ直ぐに見てしまう。

 

 朝日が照らしたその色は、カズキの心を染めていった。

 

 

 

 

 カズキはこの女性の名前が知りたいと、そう思った。

 

 

 

 

 

 



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37.マファルダスト⑤

 

 

 

 

 

 

 

 

 元々は、丘の上に数軒の家と斜面に果樹が並ぶ普通の田舎の村だった。

 

 しかし西の貿易を担う街が森にのまれ、人の生存圏は少しずつ後退していく。丘の上にあった村は、監視にも防衛にも適していた事から騎士達の拠点の一つとなった。騎士が常駐する事で整備も進み、今では人口1,000人以上を数える西の要所へと変貌したのだ。そのため周辺にある村々の避難所の役割も担っている。

 

 森はまだ見える距離にはないが、西側の丘は削られて魔獣の被害を抑えるよう形を変えていた。石垣と木組みで高い監視塔が立ち、丸太を削った杭を地面に打ち込んで壁としている。

 

 丘の反対側に馬車が多く並べてあるのは万が一の撤退用だろう。魔獣が群れを成して攻めて来たら騎士が時間を稼ぎ住民は逃げる。それはまさに決死の戦いだ。

 

 こんな危険な前線と言っていい場所から離れ、リンスフィアに閉じこもれば良いと考える者もいる。

 

 だが、人の営みは巨大な都市が一つあれば成り立つものではない。生きていくために必要な物資は、こうした村々などで生産されている事を知らない者の戯言だろう。そしてその土地を離れたくない人の心は、他人に推し量れるものでもない。

 

 隊商マファルダストの一行が間も無く到着する町、テルチブラーノはそんなところだ。

 

 

 

 ロザリー達が進む道の両側には馬の繋がれていない馬車が並んでいる。人影が見つからないのは夕方から夜へと変わる時間だからだろう。 

 

 視線の先には緩やかに丘へ登る道と、中腹に見える小さな門がある。守衛と言うよりは人の出入りを管理する入門管理といった場所だ。門の手前に広場が設けてあり、そこに馬車等を預けてテルチブラーノに入る。

 

 広場にゆっくりと入って行くロザリー達に大きな声ががかかった。

 

「ロザリー! 久しぶりだな!」

 

「ん? うげ……爺さんまだ生きてたのかい!?」

 

「当たり前よ! お前の乳を思う存分味わうまでは死なんと言っただろう?」

 

「爺さんに触らせるような安い身体じゃないんだ、死んでからもう一回来るんだね!」

 

 もう結構な歳のはずだが、腰も曲がらず槍を持つ腕もたくましい。若い頃に魔獣と一戦交えたとの話も案外本当なのかもしれない。ロザリーにとっては会う度に胸を触らせろと煩い爺さんでしかないのだが。

 

 うんざりしながら馬に止まるよう誘導して御者台から飛び降りる。

 

「爺さん、いつもの通り馬車を頼むよ。まぁ盗むような物なんて何も積んじゃないけどね」

 

「おうよ、今回は西で狩りか?」

 

「まあね、何か情報はあるかい?」

 

「いーや、特にないな。いつもに比べると狼が多いらしいが、それだけ獲物も多いって事だ。マファルダストなら大丈夫だろう」

 

 答えながらも御者台から軽やかに飛び降りて来た子供を見て眉を少しだけ顰めた。

 

「ロザリー、こんな子供を連れ歩くとはお前らしくないな。どうしちまったんだ?」

 

「爺さん、詮索はなしだよ。色々と事情があるのさ」

 

 カズキの頭まで被ったマントを整えながら、ロザリーははっきりと答えた。ロザリーの身体に合わせたマントはカズキを頭からすっぽりと覆い、まだ余る程だ。僅かに黒髪は見えるが、夕闇では誰も気付きはしない。

 

「ふん、じゃあ一揉み……」

 

「ブン殴るよ爺さん」 

 

 両手をワキワキしたがら下らない事を言い出す爺様にロザリーはピシャリと返す。

 

「仕方ねえ……では、ようこそテルチブラーノへ」

 

 マファルダストは西の町にようやく到着した。

 

 

 

「フェイ、少しばかり任せるよ。この子の服を揃えて来るから、宿で合流しよう」

 

「わかりました、こちらも簡単に用事を済ませます」

 

 ロザリーはカズキを連れて服飾の店を目指し歩き出した。新品などなかなか手に入らないが、下着位はなんとかしたい。そんな事を考えながら歩けば直ぐに馴染みの店に到着する。

 

 リンスフィアとは比較にならない規模の町だ。すべてを回るのに1日も要らない。

 

「あら……ロザリー、久しぶりね」

 

 真っ白な個人宅に見紛うドアをくぐると、棚中に大量の衣服を収めた部屋が目に入る。棚を整理していたのだろう、恰幅の良い女性が振り返った。厚手のエプロンにはマチ針や鋏などが綺麗に並んでいる。裁縫師兼店主として店を一人で切り盛りする女性だ。

 

「エレナ、久しぶり。しかし相変わらず服に埋もれた店だねぇ、その内に服で家が崩れるんじゃないかい?」

 

 着古した服などを組み合わせる、あるいは修繕して再び店先に並べる業態は一般的で、エレナの店の名でテルチブラーノでは知られている。

 

「もう閉めるところだよ、文句を言うなら明日にしておくれ」

 

「おっとすまないね、でも明日は勘弁しておくれ。今日はこの娘の服を揃えたいんだ」

 

 背中を押されてロザリーの後ろから現れたカズキを見ると、エレナも険しい顔を崩し笑顔になった。

 

「あら、綺麗な子ね。ロザリー、なんて格好をさせてるのよ」

 

 そんな事を言いながら、体に合っていないマントを取ると案の定エレナは絶句する。

 

「エレナ、何も聞かずに見繕ってくれる? あと下着も欲しいの」

 

「あんた……コレ……」

 

 フルフルと震える指で刻印を指差して、交互にロザリーとカズキを見る。分かってはいた事だが、ロザリーは溜息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マファルダスト一行はリンディアと町が斡旋する宿屋に分散する。買い物を終えたロザリーはフェイやジャービエル、リンド達数人と宿屋併設の食堂に来ていた。

 

 カズキはブラウンのカーディガンとミントカラーのロングフレアスカート、首回りには大判のふわふわのストールを巻いて完全に女の子の装いだ。ついでに熱の入ったエレナにより髪に櫛も通されて、本来の美を取り戻していた。思い切りロザリーの趣味が入った可愛らしさは周囲の注目を集める。

 

 道行く皆やリンドどころか、フェイやジャービエルまでがポケッと口を開けているのはおかしかった。

 

 

 

 

 カズキの食事を合わせて注文したロザリーは、少しだけ離れた席でフェイと向かい合わせに座った。

 

「明日はいつも通りに野営地で準備だ。聞くと猪や兎はよく獲れているらしいし、罠も用意しないとね」

 

「はい、罠の材料は先程追加を頼みました。明日の出発前には届く予定です」

 

「そうかい、ありがとうフェイ。」

 

 礼を言いながらもロザリーは考えてしまう、リーダーに見合うのはフェイではないかと。実際に今のマファルダストはフェイが支えていると言っても過言ではないのだ。

 

「……他の連中の体調はどうだい?」

 

「問題ないですね。寧ろ良過ぎるくらいで、今夜羽目を外さなければいいですが」

 

 苦笑しながらも少しだけ真面目な顔をしてフェイは続ける。

 

「これも聖女様のご加護でしょうか? 怖いくらいですよ」

 

「確かにねぇ、わたしも朝起きた時の違いにはびっくりしたよ……」

 

 まさか本当に……? 冗談半分で始めた会話だったが、今日の旅路すら疲れが少ない気がしてきた。

 

 思わず離れた席にいる聖女、カズキを見た二人の眼には隣に座るリンドの姿も映った。そして、その有り得ない光景が目に入ってきて二人の感情が抜け落ちる。

 

 あの馬鹿、いやリンドがカズキの肩に手を回して酒を飲ませていた。

 

 

 

 

 

 

()()()()()()、ほらお酒おいしいよ?」

 

 飲みの席で肩に手を回されるのは、男同士ならよくある事だ。ほぼ初対面の男としては馴れ馴れしいとも思うが、気にする程でもない。それよりも手渡されたグラスに入っているのはウイスキーの一種だろうか、ハーフロックと呼ばれるカズキ好みの酒だった。それは大きめの氷を入れたグラスに酒と水を同量入れた、味と香りを柔らかに楽しめる飲み方だ。

 

 スモーキーな香りは本当にウイスキーなのかもしれない、カズキは思わず小さな唇をグラスにつけようとしていた。

 

 ちなみにこの世界では、特に飲酒に関する法律などはない。しかし外見年齢が12,3歳の子供、ましてや女の子に飲ませるのは非常識なのは間違いない。しかも癖のあるウイスキーらしきものを飲ませるなど、リンドは馬鹿か間抜けか非常に格好悪い。下心も満載で鼻の下は伸び切っているだろう。

 

 舐めるように濃い琥珀の液体に口を付けたカズキの目は見開かれた。カズキが言葉を発したなら「うまい!」といったところだろう。

 

 すぐにふた口目を舌と喉で味わうカズキ。

 

 肩に組まれた手は身体をサワサワと撫でているが、酒に夢中でカズキは気付かない。おまけにグラスを渡して空いた手はフレアスカートの上に置かれている。服の上からでも柔らかい感触と体温を感じて、リンドは他人に見せられない顔になった。

 

 

 

「おい、リンド……何をしてる……?」

 

 

 

 地の底、いや血の底から響くような声はロザリーの唇から漏れた。

 

 はい?と振り返った間抜けな顔をロザリーはブン殴った。

 

 ゴッ……!

 

 ガチャーン!!

 

 床に倒れたリンドを冷たい目で見下ろすと、フェイに怒りの命令を出す。

 

「フェイ、この馬鹿をなんとかしろ。出来ないならココに置いていく」

 

「はい」

 

 ズルズルと襟を持ちながら外に引っ張っていくフェイを見ながら、ロザリーは怒りの熱を口から排出する。熱い溜息がこぼれたがイライラは落ち着いたりしない。

 

 今のロザリーの心情は、可愛い娘に手を出された父親といったところだろう。

 

 大丈夫かと振り返ってカズキを見たロザリーに更なる衝撃が襲う。一滴も逃さないと、両手で持ったグラスを思い切り傾けた聖女の姿を見れば誰でもそうなるだろう。グラスには既に液体はなく、氷に纏わり付いた最後の酒精を味わっている。ちなみに殴られたリンドには全く興味がないようだ。

 

「こ、こらー! カズキ駄目でしょ!!」

 

 母親、今度は間違いなく母親の叫びを発したロザリーの声に、カズキはビクッと身体を揺らしてトロンとした目を向けた。

 

 グラスを毟り取ったロザリーは情けない顔をして、空になったグラスを見つめるしかない。

 

 溶けて丸みを帯びた氷がカランと転がって鳴った。

 

 

 

 

 

 

 怪我をしていた手や破れた服からも酷い目にあったのではと気を揉んでいたが、気の所為な気がしてくる。もしかしなくても、とんでもないお転婆聖女なのだろう。いや、そもそも本当に聖女なのだろうか? 今わかっているのは噂とそれに見合う容姿だけで、それ以外聖女らしき姿を見たわけではない。

 

 今も真っ赤な顔をして、テーブルにあった野菜を直接指で摘んで食べている。一般的なイメージである上品で慎ましやかな聖女とはかけ離れた所作だ。 

 

 それが益々ロザリーの母性をくすぐっているが、本人は気付いていなかった。

 

「はあ……」

 

 カズキから奪ったグラスには勿論酒は残っていないが、溶けた氷水を煽ってテーブルに置いた。

 

 カズキの真似をして野菜を指で摘んで食べると、カズキがジッとロザリーを見ている。

 

「なんだい? お行儀が悪いのはお互い様じゃないか……」

 

 言葉が通じないのは不便だねぇ……酒癖の悪さも注意出来やしないよとカズキの頭を撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食事を終えたロザリーとカズキが果実酒片手に焼き菓子を味わっていた時、食堂の外が騒がしくなった。

 

「なんだい、こんな時間に……」

 

 二人の時間を邪魔された気がしてロザリーはイラつきながら外に出た。

 

 しかし外の喧騒を見て、ほんの僅かだけ酔っていた頭が嫌でも覚醒する。

 

 肩に担がれた男が3人程引き摺られるようにこちらに向かって来るのが見える。腕や足、首から出血している、あれは大きさから言って狼の咬み傷だろう。魔獣ではない。

 

 丁度三軒程先に治療を行う場所がある事から、仲間らしき男達が必死に声を掛けていた。 

 

「……! アイトール、アイトールじゃないか!?」

 

 ロザリーは見知った顔を見て思わず駆け寄る。よりにもよって首を噛み切られ、口元からも血が垂れている。意識は僅かながらにあるようだが、血の気を失った顔と紫色の唇は深刻さを嫌でも感じさせる。別の隊商とはいえ、同じ森人として切磋琢磨してきた同期と言っていい仲間だった。

 

「なんてこった……」

 

「若いのを庇ったんです……ヘマしたのは若いのだってのに……」

 

「くそっ!! 代われ!」

 

 ロザリーは必死の形相で担ぎ手を無理やり代わり、アイトールの肩を支えた。

 

 もう少し先だと前を向いたロザリーの目の前に小さな影が映った。

 

 左手の包帯は無く、僅かに赤い液体が垂れている?

 

「カズキ! 中で待ってな!」

 

 酔いの回った赤ら顔でジッとロザリーの黄金色の瞳を見ていたが、何かを納得したのか頷きアイトールとロザリーに向かい歩いて来る。

 

「カズキ! 邪魔だ!」

 

 思わず怒鳴ってしまうロザリーを僅かに見たあと、赤い液体に濡れた左手をアイトールの首に添えた。

 

 そして……

 

 闇に包まれていた路地に、淡く輝く白い光が滲んでいく。

 

 

 

 再び、リンスフィアで起きた奇跡がテルチブラーノに顕現した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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38.マファルダスト⑥

 

 

 

 

 

 

 

 アイトールの眼がパチパチと開き、ロザリーの肩から重みが消える。白い光の放たれた路地には数人の男達とロザリーがいたが、誰一人として声を上げていない。カズキは少し先にいた残り2人の手足にも左手を添えると、先程より小さな光が一瞬だけ輝いた。

 

 カズキは3人の傷を確認すると、ロザリーの手を取り宿屋に戻ろうとする。目は完全に座っており、勿論酔ってますよ?と開き直っているようだ。

 

 果実酒を飲み尽くし、あのウイスキーもどきを何としても飲みたいカズキの酔いに任せた行動だった。

 

「聖女……さま……?」

 

 ロザリーの手をグイグイと引っ張るカズキを見た1人が漸く言葉を口にした。

 

 ハッとしたロザリーはアイトールの様子を確認する。

 

「アイトール、無事かい?」

 

 アイトールはロザリーの声にも反応せずにカズキを目で追っている。変に力を取り戻した目を見るだけでも無事だと知れたが、ロザリーはイラっとした。

 

「ア、イ、トール! 鼻の下を伸ばしてんじゃないよ!」

 

 頭を引っぱたかれて漸く気付いたアイトールはロザリーを見た。

 

「ロザリー……? なんでここに?」

 

 頭に血がのぼるとはこの事かと、ロザリーは肩からアイトールを放り出した。

 

「さっきから居るよ! 全く男共ときたら綺麗な娘を見たらすぐにコレだ!」

 

「い、いや……済まない。でも驚いて当然だろう? 白い光が目に入ったと思ったら痛みが消えて、気付いたら目の前に聖女様だぞ?」

 

 取り敢えずは隠すつもりだったが、刻印は見えなくとも完全にバレバレだった。着替えさせた服も女性らしい美しさを際立たせて、カズキを大人びて魅せる。それがより注目を集める結果にもなっていた。

 

 黒髪と瞳、何より簡単に致命傷と言っていい怪我を治してしまう超常の力……もはや隠しようもない。

 

「まあ、無事で良かったよ。アイトール、何があったんだい?」

 

 未だ諦めずにロザリーの手を引くカズキを置いておいて、情報を聞き出す。明日からはマファルダストも移動するのだから当然の事だった。

 

「ああ、うちの若いのが……いや、特別な事があった訳じゃない。魔獣も関係ないし、マファルダストの活動に影響はないさ」

 

 衆目の中で若い後輩の恥を晒したりはしないのだろう、アイトールの気遣いが見て取れた。

 

「そうかい、じゃあ早いとこ血と汗を拭きな。あんたの臭い体臭なんて嗅ぎたくないからね」

 

 そんなに臭いかとロザリーの冗談を真に受けて自身に鼻をつけるアイトールに苦笑すると、先程から腕を懲りずに引っ張る聖女様に従う事にする。

 

「出来れば余り騒がないでおくれよ……アイトール、明日はリンスフィアに向かうのかい?」

 

 ふと思い付いてロザリーは問い掛けた。

 

「ああ、明日リンスフィアに発つぞ。正に聖女様に感謝だな」

 

 どうも感謝を素直に受け取りたくない様子の聖女を見て、アイトールは軽く言葉を伝えた。先程から顔を見せずに宿屋に戻ろうとするカズキに、謙虚で照れ屋だと勘違いするアイトール。本人はロザリーから酒をせびる為に必死なだけだが、周りからは顔を赤く染めて照れている美しい聖女に見えていた。

 

「……ちょっと人見知りでね、あとでよく伝えておくよ。それより明日でいいから手紙を預かってくれないかい? 大事な用事なんだ」

 

 酒好き酔どれ聖女とバレないよう話を逸らす。

 

「勿論だ、誰に届ける?」

 

「……それも明日話すよ」

 

「そうか、なら明日宿屋に顔を出すから準備しておけよ? では聖女様、本当にありがとうございます!」

 

 他の数人も頭を下げたり、手を振ったりと騒がしくしながら去っていった。

 

 もはや我慢ならないと更にグイグイと引っ張るカズキにロザリーは思わず呆れて声を出す。

 

「カズキ……お酒はもう飲ませないからね……」

 

 最後通告を受けているとも知らず、カズキは動き出したロザリーを見る。どんなに強く引っ張ろうとも動かなかったロザリーに、やっとかと勘違いしたカズキには果実水しか出てこないのだが……

 

 

 

 

 

 ジュースを眺める、いや睨みつけるカズキを見ながらロザリーは認めるしかなかった。

 

 目の前に座っている少女は、間違いなく聖女なのだと。

 

 自分で見た筈の治癒の力は今でも信じられない。だが事実アイトールは怪我が無かったかのように自分の足で歩いて去って行ったのだ。神々の奇跡、聖女降臨は本当だった……高揚感と小さな恐怖を覚えてロザリーは諦めてグラスを持ったカズキを見た。

 

 赤らんだ顔はそのままなのに、ロザリーにはカズキが何処か遠い別の人に感じて目を伏せたくなってしまう。

 

「あんた……それ……」

 

 左手に血の流れた跡がある。そういえば包帯も見当たらない。 

 

 グラスをテーブルに置かせると、ロザリーは赤く染まったカズキの手を取ろうとした。だが聖女の反応は今まで従順といってよかったものと明らかに違った。

 

「お、おい……」

 

 ロザリーに手を取られないよう左手を背中に隠したのだ。睨むという程ではないが、その目は言葉などなくとも分かる拒絶だった。それは僅かな時間とはいえ、共に過ごしてきて初めての事だ。

 

 何か理由があるのか無理強いをしてはいけないと、懐に入れてあったハンカチを渡す。カズキはそれを眺めて、ロザリーの目を見たあと受け取った。 

 

「転んだのかい? いや、傷口が開いたとか?」

 

 伝わらないと分かってはいても、聞かずにはいられなかった。だが、予想通りカズキはチラリとロザリーを見ただけだ。

 

 自分の怪我は治さない……? ハンカチを手に当てても白い光はなく、滲む血に変化も無かった。

 

 他人だけを癒すしか出来ないとしたら、酷く美しくて残酷だとロザリーは哀しくなった。

 

「……あんたは……やっぱり聖女なんだね……」

 

 その呟きも、悲哀もカズキには届かない。

 

 ロザリーの言葉も心に起きた波も、テルチブラーノの夜に溶けて消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、アイトールの手にはロザリーの預けた手紙があった。

 

 カズキが寝たあと用意したものだ。

 

「直接アスト殿下に渡るように取計らっとくれ、私からと言えば大丈夫だろうさ。無理ならクイン、クイン=アーシケルでもいい」

 

「……アスト殿下に? 内容は聞いても良いのか?」

 

「他に漏らさない……まあ、あんたなら大丈夫か」

 

 アイトールは不器用な男だが、ロザリーはその誠実さを信用している。

 

「聖女様の事だよ、近況報告と幾つかの質問ってところだね。少し思う事があって、他の人間を通したくないんだ」

 

 このロザリーの判断は主戦派、つまりユーニード達への情報伝達を遅らせる結果となる。ユーニード等は今もカズキが黒の間、あるいはリンスフィアの何処かに匿われていると思っているからだ。

 

 それは時間にすれば僅かな差だったが、後にカズキ達の運命を決める事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カーン!

 

 

 凡そ弓とは思えない音を放つと、風切り音すら置き去りにして矢は目標を貫いた。

 

 カズキが見たら鹿だと思うだろうその首に刺さった矢は、瞬時に獣を絶命させる。残心も見事な男は小さな声で、うっしゃと拳を握った。

 

「新しい弓はいいみたいだな、腕も相変わらずだ」

 

 マファルダストには狩り専門の者が少なくない。ロザリーの存在は大きいが、マファルダストを最高と謳わせる森人は1人や2人では無かった。

 

 

 

 カズキは馬車に残りロザリーと離れていた。当たり前だがカズキを森まで連れ回したりはしない。 

 

 ロザリーは森の手前で幾人かに指示を出し、彼等に狩りを任せている。自身も弓は扱えるし、獣を解体出来る。だが自分より優れた森人がいれば、あっさりと信じて任せていた。命を預かる身で他人を信じて任せる事がどれほど難しいか、それはロザリーがマファルダストの隊長たる所以の一つだった。

 

「前情報通り、これは凄いね……」

 

 例年と比べても狩りのペースは明らかに早い。これなら予定を前倒しで南へ行けるだろう。本命はあくまでも南なのだから。

 

 次々と運び込まれる獲物達に、思わず笑みがこぼれる。

 

 血抜き、皮剥、下処理、内臓の処分等は直ぐには出来ない。森周辺では危険過ぎるからだ。肉の質にも影響は出るが仕方のない事だった。もちろん森人に伝わる防腐処理はいくつもあるが万能ではないのだ。

 

「よし、予定を早める。今ある分は先に運ぶ、行ってくれ」

 

 ロザリーの判断で夜を待つ事なく荷馬車は走り出した。処理も早まり、肉質も向上するだろう。見送ったロザリーは再び森に目を移した。

 

「ジャービエル、リンドはどうだい?」

 

 護衛兼荷物運びのジャービエルは側に控えていた。

 

「森に入って周辺を警戒させてる。 あいつは目と耳が良いから」

 

「ほお、話には聞いてたがアンタが言うなら本物かねぇ」

 

 あの日のカズキへの行動は許せないが、フェイに絞られたのだろう。最近は大人しいものだった。まあ、それでもカズキをチラチラ見ているのは分かっているが。

 

 

 

 テルチブラーノを発って既に5日が経過していた。

 

 西部の森近くに陣取り、そこから狩猟組を引き連れて森へと入る。全員が毛皮を被り、見える素肌は泥で覆われている。たとえ直接森に入らないとしても、魔獣を引き寄せる可能性は少しでも減らさなければならない。

 

 ロザリーの綺麗な赤髪も、凛とした美貌も今は見る影もなかった。両腕を組み、森を睨むロザリーは1人の女性から森人へと変貌したのだ。

 

「運搬組は明日だったね、腹一杯に獲物を持ち帰って貰えそうだ」

 

 ロザリーは独り言ちながら、黒髪の少女の事を思った。

 

 運搬組に連れ帰らせて、安全なアストの元へ帰したほうが良いだろう。隊商と共に旅をするなど本来は有り得ない。いつ命の危険に晒されるか分からない上に決して楽な旅路ではないのだ。

 

 酒は例外として、この旅の中で我儘や苦しみを訴える事は一度も無い。言葉は勿論だが態度でもそれを感じさせない、少女としては厳しい環境の筈だが驚くべき事だろう。

 

 だから、帰してあげるべきだ……そう思うロザリーは未だに決断出来ていない。

 

 ふと見るとあの翡翠色の眼と視線が合う時がある。ロザリーの思い上がりで無ければ、少しだけ心を通わせていると感じるのだ。

 

 愛しい娘フィオナが生きていれば丁度カズキくらいの年齢になっている。似ても似つかないカズキなのに、どうしても重ねてしまう。

 

 フィオナの代わりなど誰も出来たりしないのに……これは許されない事なのだろうか? 罪深い行為なのだろうか?

 

 カズキは神々の使徒、世界に唯一人の聖女。

 

 たった1人の女が抱き締めていて良いのか、あの日からロザリーの心は千々に乱れて落ち着く事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「このまま一緒に……?」

 

 ロザリーの手元には運搬組が持ち込んだアストからの返答が来ていた。

 

 聖女を帰すべきと決めきれないロザリーには、ある意味で希望通りの答えだった。だがその理由は決して穏当ではない。想像以上に長文の手紙は、聖女カズキの力の源泉や性質が綴られていた。そしてロザリーに納得と怒りを浮かばせる。

 

「血肉を捧げるなんて……だからあの時に……」

 

 アイトール達を癒したカズキの血は、その為のもの。

 

 刻印に縛られた聖女の在り様は、ロザリーに少なくない衝撃を与えていた。最初にカズキを見つけた時も手には包帯が巻かれていたではないか。無邪気に聖女様などと興奮していた自分もアイトール達も殴りつけたくなる。

 

 感情のない手紙の文字なのに、アストの血を吐くような思いが見えるのだ。本当は直ぐにでも駆けつけたいのだろう。

 

 だが主戦派との見えない戦いは続いている。カズキを道具の様に扱い、それどころか拷問染みた事をするような集団に攫われる訳にはいかない。今はリンスフィアから離れた場所のほうが安全なのだろう。隊商も安全とは言い難いが、森に入らなければ大きな危険は確かに少ないのだ。

 

 手紙の最後には、南部付近へ訓練と称した部隊を派遣し後方で待機させておくこと、帰還時はその部隊と合流して欲しいとの要望、部隊長に顔見知りのケーヒルを当てた事が書かれていた。だが何より……カズキを頼むと綴られた言葉に隠された思いはロザリーに強く伝わってくる。

 

 手紙から目線を上げた先には、カズキが感情を見せない顔で燃える薪の火を眺めていた。女性であるロザリーの目にさえ、美しく何処か艶を感じて心臓が波打つのを感じさせる。

 

 ロザリーと似た深い緑色の厚手のパンツとシャツはまるで新米の森人のようだが、実際は過酷な運命を背負わされた聖女……何度も傷付き、血肉を捧げて人を癒してきたのだ。苦痛の叫びを上げる事も、人にすがる事も、笑顔すら殆ど浮かぶ事はない。

 

 ゆらゆらと揺れる炎に合わせて輝く翡翠色の瞳を見たとき、ロザリーは涙が流れていくのを止める事は出来なかった。 

 

 それに気づいたカズキが心配そうな顔で近付いて来る。

 

 その手には簡単な刺繍を施した白い布、テルチブラーノの食堂で血を拭ったあのハンカチだ。

 

 捨てたと思っていたそれを自分で洗ったの?

 

 一向に手に取らないロザリーに痺れを切らしたのか、おずおずと流れ出る涙を拭く。

 

 ああ……数々の刻印はカズキを聖女たらしめるのだろうが、それが何だと言うのだ……

 

 ロザリーは耐え切れなくて、カズキの小さな身体を掻き抱いた。

 

 拭いてくれた涙は再び溢れてきたが、カズキはロザリーのするがままにさせてくれた。馬車で一度嗅いだ懐かしい匂いが今も変わらず鼻をくすぐる。

 

 その涙は他の森人にも見えていたが、誰も冷やかすことなどない。

 

 優しく見守るその先には、母と娘の姿があるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





【挿絵表示】

えのき茸さんから頂きました。ロザリーにせびった筈のお酒はジュースだった!? お酒に変わらないかなと睨むカズキの図。 ありがとうございます!


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39.手紙

誤字報告頂きました。ありがとうございます。感想や評価も励みになっています。


 

 

 

 

 

 リンディア城の城門は昼間であっても閉ざされている。

 

 これは防衛上の理由では殆どなく、訪れる者が大きく減少したからだ。城を運営する上で大勢の人の力が必要になる。だが、それぞれは各通用門からの出入りが主となり城門には用は無い。

 

 リンディアの城門はその門よりも横に広い階段を五段ほど上がった先にあり、アーチ状の石積みの壁は高く圧迫感すら覚える。監視塔は城門を遥かに超えた高みに見え、絶えず篝火が焚かれていた。だが守衛の数は少なく、正面から見える範囲では数人しかいない。これも人の主敵である魔獣が遥か先の森に住む事と無関係ではないだろう。

 

 城門の横には人が二人程度なら並んで歩ける程度の通用門があった。高さもやはり大人二人分ほどか。城門を正面から見た場合、真横に入るかたちだ。

 

 その木製の扉の前で、3人の守衛と一人の男が立ち話をしていた。

 

 男は深い緑のパンツと上着を着ている。あちらこちらに大小のポケットがある特殊な形状の厚手の服だ。金属製の金具も腰辺りに数多くあり、何かを掛けたり収納に使うのだろう。更に元は泥汚れだろうか、洗っても取れていない跡が見えて決して綺麗とは言えない格好だった。

 

 その男、森人のアイトールは上手く運ばない状況に当惑していた。

 

 

 

「だから、直接渡して欲しいんですよ!」

 

「アイトール……いくら何でもそれは無理だ。俺はお前をよく知ってるから変な物じゃないのは分かってる。だが、いきなり来て殿下に直接とは簡単じゃないことくらい理解出来るだろう?」

 

 先程から似た様な押し問答を繰り返している。

 

 アイトールは生真面目な気質が災いしたのか、愚直にロザリーの要望を通そうとする。守衛たちもはいそうですかと認める訳にはいかない。話は平行線を辿るしか無く、時間だけが過ぎていった。

 

「……そうだ! クインさん、いやクイン様なら駄目ですか? せめてそれぐらい……」

 

「呼びましたか?」

 

 アイトールや守衛からは柱が影となって、丁度見えていなかった。その凛とした声音は煩くしていた彼等の耳にも届き、全員が慌てて顔を向ける事になった。

 

「クイン!」

 

 年配の守衛は顔見知りなのだろう、その声の持ち主が良く知る女性だと分かった。

 

 柱から顔を覗かせたのは袋を抱えたクインだった。袋からは果物が顔を出しており、買い物帰りなのは一目瞭然だ。リンディアでもかなりの重要人物なのだが、本人は一侍女でしかないと譲らない。昔の侍女は買い物などしなかったが、今の時代は侍女も下働きするのは当たり前なのだ。

 

 アイトールは有名なクインを勿論知ってはいたが、こんな近くで見るのは初めてで体が緊張で固まる。

 

「ああ、アイトール……こいつは森人なんだが、殿下に直接手紙を届けたいらしくてな。手続き上確認が入る事を納得してくれない。その説明をしていたんだ」

 

「納得出来ない訳じゃなくて、ロザリーに頼まれてるんですよ! 直接手に届く様にって。無理だったらクイン様に渡すように言われているんです」

 

「ロザリー様に? 確か今は隊商の旅でリンスフィアにいない筈ですね……」

 

 それとわたしに敬称は必要ありませんからと、付け足すのを忘れないクインだった。

 

 更にクインはアイトールに内容は聞いていますかと問う。美しい金髪に隠れたクインの耳に、緊張しながらアイトールは小声で囁いた。

 

「聖女様の事です」と。

 

 

 

 驚きを一瞬だけ見せたクインは守衛に断りを入れ、アイトールを伴って通用門を潜り抜けて行った。

 

 

 

 

 

 

 

「この手紙を持ち込んだのは誰だ?」

 

「森人のアイトール様です。ロザリー様のお知り合いだそうですが」

 

 流し読みをしたアストからは、驚きや歓喜、安堵と焦りが見えてクインも何か予感がした。

 

「カズキだ……マファルダストと、ロザリーと一緒にいると……」

 

「マファルダストと……? やはりリンスフィアから離れていたのですね……」

 

 アストの驚愕や歓喜の理由がよく分かった。それを知った自分もそうなのだから当然だろう。どれだけ探しても見つからないカズキは、何かの目的を持って行動しているとクインは考えていた。 

 

「そのアイトールと話がしたい、城に呼び出せるか?」

 

「まだ城内に待って貰っています。直ぐにお呼びします」

 

「いや、こちらから行こう。場所は客間だな?」

 

「……わかりました」

 

 クインはアスト自らが赴く事に少しだけ小言を言いたくなったが、カズキの消息が知れて焦るのも仕方がないと内心を納得させた。

 

 

 

 

 

 

 走る事を我慢しながら、それでも早足で廊下を進むアストの背中をクインは見詰めながら続く。

 

 あれから10日以上カズキの姿を見つける事は出来ず、さりとて大々的に捜索する訳にもいかなかった。主戦派の動きは不気味な程に無く、調査も一部を除き殆ど進んでいない。捕らえた者からは有用な情報が得られず、その姿の全容は掴めないままだった。

 

 アストだけでなく、アスティアもクイン自身ですら沈む心を止める事など出来なかったのだ。アスティアなどは目に見えて窶れやつれ、美しい銀髪も心なしかくすんでいた程だ。この後直ぐにアスティアに報せなければいけないだろう。

 

「殿下、お待ちください」

 

 その勢いのままドアを開けようとするアストに苦笑しながらも押し留める。クインはドアを緩やかに三度叩き、僅かな間を置いて開き優雅にお辞儀をする。

 

「アイトール様、お待たせ致しました。殿下、どうぞ……」

 

 中央に据え付けられた巨大な一枚板のテーブルの側に緊張した面持ちで座っていたアイトールは、慌てて立ち上がりガタンと大きな音を立ててしまう。

 

 アイトールからしたら手紙を届けるだけの簡単な仕事の筈が、有名なクインが現れ、更に王城の客間まで通されていたのだ。テーブルに置かれた紅茶と菓子は非常に美味そうだが、手をつけて良いものか頭を悩ませていた。

 

 それでも勇気を振り絞り恐ろしく薄い陶磁器のカップに手を伸ばした時にノック音がして驚き、クインが現れたと思ったらアスト王子殿下が部屋に入って来たのだ。

 

 不器用な男を自認するアイトールは、緊張の余りにテーブルに足をぶつけてしまった。

 

「ア、アスト殿下! こ、この様な格好で申し訳ありません! 自分は、自分はア、アイトールであります!」

 

 何処か焦った表情のアストに、何か粗相を働いたのかと緊張は最高潮に達した。

 

 アストは余りに緊張しているアイトールを見て、焦る自分を内心笑ってしまう。きっとこの内心を表に出したら、アイトールと変わりはしないだろう。

 

「アイトール、待たせて済まなかった。それと森人の姿は誇り高いものだ。いつもリンディアの為に尽くしてくれている事を感謝している。私もひとりの騎士でもある、君とはある意味で戦友なのだから緊張などしないでくれ」

 

 アイトールの手を取り、しっかりと握手をした。

 

「は、はい! 恐縮です……」

 

 緊張しないのは無理だとしても、アストの声音と柔らかな笑顔に少しだけ肩の力が抜けたアイトールだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 テーブルには入れ直された紅茶が二つ並び、芳しい香りを漂わせている。クインがいつの間にか用意したカップと種類の違う茶菓子だ。当人はテーブルから少しだけ離れた場所に静かに佇んでいる。

 

「テルチブラーノか……」

 

 最西端と言っていいあの町でアイトールは手紙を預かって来た。十分過ぎる程に信頼の置けるロザリーに保護されている事は、アストに一先ずの安堵をもたらした。

 

 何故マファルダストと共にいるのかは不明だが、森を廻る隊商に同行している以上何か意味があるのかもしれない。思わず考察を深めそうになったアストだが、頭を切り替えて質問を続けた。

 

「アイトール、ロザリーは手紙の内容は聖女に関するものと言っていたんだろう? 君は疑問に思いはしなかったか?」

 

「とんでもない! あの方は間違いなく聖女様です! 私や仲間の怪我を一瞬で治癒してくれました。白い光が放たれたと思ったら痛みは消え、意識もすぐに戻ったのです……あの美しい瞳は今から思っても……」

 

「……待ってくれ、済まない。 カズキは……君達の怪我を治したって?」

 

「……? ええ、はい。我々は狼にやられてテルチブラーノに運び込まれたのです。大勢が見ていたので間違いありません。きっと大変内気で大人しい聖女様なのでしょう。頬を赤く染め我々の礼など要らぬとばかりに、ロザリーの手を引き立ち去ろうとなされました」

 

 内気で大人しい、頰を赤く染め……色々と突っ込みたい描写が多いが、何より重要なのは衆目の集める中で聖女の力を行使した事だろう。

 

 噂は簡単に流れて、リンスフィアに届くのに時間はかからない。最早隠す事は不可能で、意味もないだろう。

 

「何より怪我が治って良かった。他に気付いた事は何かあるだろうか?」

 

「そうですね……ロザリーは直接アスト殿下に手紙を渡すように念を押していました。何か理由があるのでしょうが、不思議だと感じたくらいでしょうか」

 

「……ありがとう、よく届けてくれた。ところで、聞かせて欲しい……カズキは、聖女は元気にしていただろうか?」

 

 アイトールは未だに緊張は解けてはいなかったが、アストの年齢に違わない優しい質問に笑顔が溢れた。

 

「ええ、大変元気でいらっしゃいました。可愛らしいお姿で、ロザリーに懐いているのでしょう。まるで仲の良い母娘のようで、こちらまで幸せな気持ちになる程でした」

 

「そうか……ロザリーに手紙を返したいが、いち早く届けるにはどうしたら良いだろう?」

 

「それなら間も無くマファルダストの運搬組が出ます。通常の隊商とは違うルートを辿りますから到着は早いですし、彼等に預けるのが一番確実です。この後言付けておきましょうか?」

 

「アイトール、頼めるか?」

 

「勿論です。明日にはリンスフィアを発つはずですから、誰かを寄越すよう伝えます」

 

「助かるよ……少し冷めてしまっただろうが、お茶を楽しんで帰ってくれ。クインの入れたお茶も手作りの菓子も最高だからね」

 

 一瞬だけクインの頬が赤く染まったが、直ぐに平静な顔に戻ってアストに余計な事は言わないで欲しいと目で訴えた。

 

 アストはクインに軽くウインクを返して客間を後にする。

 

「手作り……」

 

 アイトールは思わず呟いて菓子を手に取った。

 

 クインの顔はまた少しだけ赤くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスティア、入ってもいいかい?」

 

 ノックをした手をそのままに、アストは声をかける。

 

 暫くすると物音がして、ドアが開けられた。

 

 部屋の中は薄暗く、カーテンが閉められているのが分かる。ベッドに横になっていたのだろう、少しだけ乱れた長い銀髪は力なく垂れている。リンディアの花と謳われる眩しい笑顔も、アストと同じ碧眼も光を放ってはいない。

 

「……兄様、どうしたの?」

 

「アスティア、良い報せだよ」

 

 万が一にも他に聞かれる訳にはいかないと、後ろ手にドアを閉めたアストはアスティアの手を取った。目線を合わせる為に少しだけ腰を落とし、アスティアを真っ直ぐに見た。

 

「カズキが見つかったんだ。リンスフィアにはいないが、元気にしていると報せる手紙が来たんだよ」

 

 先程まで力の無かった眼に一気に光が宿る。

 

「何処にいるの!? 直ぐに会いたいわ!!」

 

 アストの胸に飛び込み、上目遣いでアスティアは叫んだ。

 

「ああ、会いたいな。でも今は遠い場所にいるから、直ぐには無理だ……手紙を読むかい?」

 

「遠い場所……見せて、手紙が見たい!」

 

 懐から出した便箋に飛びつくように手に取ると、走り出してカーテンを勢いよく開ける。

 

 さっきまでは死と眠りを司る黒神、エントーの加護を失った人のようだった。今は白神の加護を一身に受けた少女の様に、本来のアスティアに戻ったようだ。

 

 ガサガサと音を立てて紙に穴が開くのではと心配したくなる勢いで文字に目を落としている。

 

 カズキの存在はアスティアにとり、どれだけ大きくなっていたのか……アストは優しくアスティアを見守った。

 

 

 

「良かった、無事で……無事でいてくれて……」

 

 帰ってきたカズキはまるで魂魄の抜けた人形のようだった。主戦派に攫われたカズキに何があったのか今でも詳しくは聞いていない。それでも、どれだけ酷い目にあったのかは想像が付くほどだったのだ。

 

 リンスフィアで起きた聖女の奇跡は、アスティアには必ずしも幸せな事では無かった。

 

 勿論男の子の命が救われたのは素晴らしい事だ。だがアスティアにとっては、カズキが遠い人に感じられ姿まで消した悲しい出来事だった。カズキの行方は杳として知れず、つい先程もベッドでカズキとの思い出に浸っていたのだ。

 

 

 アスティアの目に涙が滲んで、大事な手紙に一粒だけ落ちた。

 

 振り返ると開け放ったカーテンを整えて、窓を開けるアストの姿があった。アスティアの涙には気付いているだろうが、それを指摘などしない。

 

「兄様、この御手紙のロザリーって、どんな人?」

 

 最後に記されたサインは、ただロザリーとしか綴られていない。名前から女性と知れる上、その丁寧な文字からは人柄を察せられる。それでも愛する妹を預かる人が気になってしょうがない。

 

 アストはその気持ちを察して、指で優しくアスティアの涙を拭った。

 

「信頼の置ける素晴らしい人だよ。隊商マファルダストの隊長で、優れた森人でもある。名前からも解る通り、優しくて強い女性だ。ロザリーなら安心出来る、カズキを守ってくれる、それは保証するよ」

 

 アストの力強い言葉は、ようやく心からの安堵の溜息をこぼさせた。

 

「良かった……」

 

「アスティア、全部読んだんだろう? カズキがまたお酒で騒ぎを起こしたみたいだから、叱らないといけないな」

 

「……ふふっ、そうね! カズキったら相変わらずみたい、お酒好きの聖女様なんて格好がつかないもの!」

 

 真っ赤になったカズキの顔が手に取るように想像出来て、アスティアは久しぶりに笑った。リンディアの花の花弁は再び開いたのだ。

 

 兄妹は同じ色の瞳を合わせて、もう一度吹き出して笑う。アストを探していたクインも、戻ってきたエリも扉の向こうから二人の笑い声が聞こえて幸せな気持ちになった。

 

 リンディアに久しぶりの笑顔が帰って来たのだ。

 

 ロザリーが届けた報せは、間違いのない吉報だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




久しぶりのアスト達、如何だったでしょうか。


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40.マファルダスト⑦

評価頂いた方が50人に達しました!ありがとうございます。


 

 

 

 

 運搬組が離れて行くのを見守っていた。

 

 西の森からは少し距離がある野営地には、森人達が思い思いに寛いでいる。森でのひと仕事を終えた皆は、近くの小川で汚れを落として疲れを癒していた。

 

 身体中に塗り込んでいた泥は乾き、獣臭の強い毛皮も薄汚れて汗の匂いもキツかったのだ。森人である以上慣れたものだが、それでも解放感には抗えないのだろう。

 

 馬車が平原の遥か彼方に消えていき、ロザリーはホッと息を吐いた。

 

「姐さん、お疲れ様でした」

 

「ああ、お互い様だよ。嬉しい悲鳴とは言え、凄い成果だねぇ」

 

 西での狩猟は想像を超えて、質・量ともに過去最高だった。しかも予定より2日以上早く終了したのだ。見渡せばマファルダスト一行に笑顔が溢れ、乾杯を繰り返している。

 

 隊商は商売ではあるが、同時にリンディアの補給線でもある。皆が誇りを持ち、家族と故郷の為に命を賭けているのだ。そこに喜びがあるのは当然だった。

 

「「我らの聖女様に!!」」

 

 カズキを囲み何度目とも知れぬ乾杯の声が上がり、皆が歯をむき出して大声で笑う。カズキに笑顔はないが、何処か浮ついた雰囲気を漂わしていた。何より目線は自身の手元に向かっているようだ。

 

 カズキの手にも木製のカップが握られている。薄っすらと紅い頬を見れば、注がれた液体が何なのかは明らかだった。

 

 ロザリーは一瞬止めるべきかと足を踏み出しかけたが、今日くらいは良いかと苦笑する。勿論飲ませるのは今の一杯が最後だが。

 

「聖女様がおられるだけで、何処か明るくなりますなぁ」

 

 フェイの呟きはマファルダスト一行の総意だろう。 

 

 カズキ自身が何かをする訳ではない。普段はロザリーと一緒にいるが、何時も厳しいそのロザリーにも笑顔が増えた。カズキは滅多に笑う事はないが、それでも極稀に薄っすらと笑みを浮かべる時がある。皆は幸運の笑顔と有難がっていた。

 

「まあ、化けの皮が剥がれて、お転婆聖女とバレちまったけどね」

 

「ははは……いいじゃないですか。神々の使徒であっても、普段は一人の少女。皆喜んでますよ」

 

「例えばアレかい?」

 

 指差した先でリンドが鼻の下を伸ばし、チラチラとカズキを見ている。ロザリーにとって頭の痛いのは、聖女様の酒癖だけではない。恥じらいと言う言葉は聖女には無いのか、兎に角スキが多いのだ。注意したくても言葉は通じないし、今も際どい姿勢を気にしてもいない。

 

「……まあ、アレは良くないですが……」

 

 リンドが馬鹿な顔をしてカズキの胸元を見ているが、本人は気付いてもいない。それどころか前屈みで干し肉を取るものだから、襟元が開いて危うく素肌が垣間見える。今は大丈夫だが、スカートで膝を立てる事もしばしばだ。

 

「はあ……」

 

 その深い溜息は、お転婆娘への愛情の裏返しなのだろう。なによりフェイには懐かしさすら感じる。ロザリーの愛娘フィオナもお転婆で、よく溜息をついていたものだ。

 

 眩しい光を見るように目を細めたフェイは、リンドを懲らしめるべく輪に向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明日以降の天候を確認する為、ロザリーは焚かれた火の灯りから離れ空を見上げた。

 

 皆の騒ぎ声は聞こえるが、光が薄れた事で美しい夜空が目に入ってくる。地平線や緩やかな丘の稜線からも、はっきりと輝く星々が見える。だが、星の光の瞬きが何時もより多いとロザリーは気付いていた。

 

「直ぐにではないが、崩れるかもね……」

 

 一度テルチブラーノに戻っても良かったが、雨雲から逃げるなら南にそのまま向かった方がいい……ロザリーの頭の中には明日からの予定が組み上がっていく。雨は馬車での行程に想像以上の負担を強いるのだ。テルチブラーノに戻れば足止めを喰うかもしれない、せっかく稼いだ時間も無駄になるだろう。

 

 真上を仰ぎ見たロザリーは、そのまま南に向かう事に決めた。南限の町センは遠いが、結果的にそれが効率的だと判断する。

 

 そんなロザリーの耳に砂利を踏みしめる足音が響いた。

 

 振り返ると両手にカップを持つカズキがゆっくりと歩いて来ていた。液体が満たされているカップの所為だろう、少し用心深く歩く様はロザリーには微笑ましく可愛らしく見える。

 

「態々持って来てくれたのかい? ありがとうね」

 

 差し出されたカップを受け取り笑顔が溢れる。薄暗い今も翡翠色の瞳は輝き、ロザリーを捉えていた。

 

 カズキは笑顔を見せたロザリーに安心したのか、手に残ったカップに両手を添えて星空を見上げる。カズキが居た世界とは比べるのも烏滸がましい星の海に、暫し静かな時間が流れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 合っているのか確認など出来ない以上、只の妄想なのかもしれない。

 

 カズキは不思議な感覚を持て余していた。

 

 言葉は相変わらず解らない。人の名前だって一人として知る事など無かった。なのに最近ふと気付いたのだ。

 

 それは余りに急で、最初は遂に妄想癖まで患ったのかと諦観したものだ。だが耳に入る音だった物が何か単語になって響き始めた。頭を振っても、以前と比べ物にならない柔らかい頬を叩いても変わりはしなかった。

 

 間違いなく相手は大人の女性なのに、カズキを孤児院に捨てたあの女と変わりはしないのに……

 

 

 カズキの精神は持っていた暴力性が静まり、少しずつ穏やかに変わっていく。この世界に来た頃は昔と変わらず内心汚い言葉を吐いていたし、全てが敵に見えていた。それは女性の身体を持つ事による変化なのか、カズキ自身も気付いてはいない。

 

 逃げ出したあの部屋で会った連中すら悪意など無かったのではと感じる自分がいる。

 

 裏切られた筈なのに、拷問としか思えないあの治癒の強制も他人事のように思う。

 

 銀髪の王子様やお姫様、天敵金髪侍女やお間抜け侍女は敵などではない?

 

 

 黄金色の瞳を持つ赤毛の女性の名前。

 

 ()()()()()

 

 最近つい目で追ってしまう。視線に気付いて笑顔を見せられると慌てるが、それも嫌ではない。

 

 今も隣に座って二人夜空を眺めている。

 

 カップに唇を当てて、チラと横顔を見つめてしまう。 

 

 合っているのか、そもそも名前なのか聞く事も出来ない。それでもこの世界に飛ばされて、初めて言葉らしいものに触れた。拘ってしまうのもしょうがないとカズキは無理矢理に自分を納得させていた。

 

 だから、擽ったい、柔らかい、カズキはそんな感覚を持て余している。

 

 

 

 

 カズキの視線に気付いたロザリーは、指通りの良い黒髪に手を伸ばした。

 

「大して手入れもしていないのに、信じられない手触りだね……肌も荒れてないし、何処か良い香りもする。不思議な娘だよアンタは」

 

 鬱陶しいだろう顔はしているが、手を払ったりはしないカズキにロザリーは調子に乗って頬を撫でた。

 

 流石に驚いたのか、ビクっとしたと思うと立ち上がって去って行った。

 

「ははは! 悪かったよ!」

 

 すっかり暗くなった闇夜に、ロザリーの笑い声が響き渡っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 臀部に刻まれた憎しみの鎖は色が薄れている。

 

 脛の自己欺瞞は階位が一つ下がり1階位に変化した。

 

 姿形は変わらなくとも、首回りの言語不覚は2階位となった。

 

 そして……聖女封印の力は明らかに衰えていく。

 

 

 カズキ本人は勿論、共にいる時間が長いロザリーすら気付いていなかった。

 

 クインやコヒンが居れば直ぐに判っただろうが、今は望むべくも無い。

 

 変化は少しずつ、しかし間違いなく始まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガタガタと揺れる御者台の上から後ろを振り返れば、あれだけ青かった遥か彼方の空が灰色に染まるのが見えた。

 

 随分離れたから影響はないが、ロザリーの予想は間違っていなかったようだ。しかし流れ出した雲とは逆に進むマファルダストには今も燦々と光が届いている。

 

 リンディアは平原と丘の国で、ずっと遠くまで見渡すことが出来る。雄大な風景は何処までも続き、空と大地のコントラストは美しい。灰色の雲や雨すらも景色を彩る絵の具でしかない。

 

 感情の乏しいカズキでも、あのベランダから見る景色は気に入っていた程だ。

 

 

 

「次の野営地では薪は節約するからな」

 

「やっぱり南は大変なんですか?」

 

 珍しくフェイとリンドが馬を並走させていた。フェイが知る知識をリンドに伝える為だろう。リンドは素行こそ褒められたものではないが、目や耳が良く剣の扱いも中々のものだ。将来有望な森人と言って良かった。

 

「ああ、そうだ。南は最もリンスフィアに近い森があり、防衛の町もセンしかない。その分森の奥行きもあるから、魔獣との遭遇率も下がるがな」

 

「なら、木材も多く手に入るんじゃ?」

 

「いや、そうとも言えないな。何故か南は森に入って活動すると一気に遭遇率が上がるんだ。ただ入っただけならそうでもないんだが、採取や狩猟はかなりの危険を伴うと言われている」

 

「その分実入りも多いが……最近は騎士もやられたからな、西とは違うぞ」

 

 フェイには森人イオアンの姿も頭に浮かんだが、リンドには言っても意味がないと口にはしなかった。

 

「そうですか……それならセンで補給すれば……」

 

「勿論補給はするが、あそこは騎士の町だからな。森人に合う物資が少ないのさ……訓練所もあるし、新人騎士達で溢れているぞ」

 

「うへぇ、五月蝿そうですねぇ……」

 

 フェイはお前が言うなと呆れたが、これも無駄と捨て置く。

 

「リンド、お前は筋が良い……それは姐さんも認めている。だが、まだ浮ついた根性だけは気に入らない。聖女様への接し方といい、遊びじゃないんだぞ」

 

「うっ……すいませんってば……あの事なら随分謝ったじゃないですか……」

 

「相手は神々が刻印を刻んだ使徒、聖女様だぞ。不埒な考えを持つんじゃない」

 

 えーっという顔をするリンドにフェイは頭が痛くなった。

 

「フェイさんの言う事も分かりますけど、あんな美人見た事ないんですよ? おまけに何処か男らしいと言うか、落差がまた堪らなくないですか?」

 

 惚れない男がいる筈ないですと開き直るリンドに、フェイは放っておく事に決めた。

 

 神々の怒りを買うか、その前にロザリーの更なる制裁が待つだろう。フェイも余計なとばっちりは御免だった。

 

 

 

 南への旅路は特に事件も無く、マファルダスト一行の目線の先に平原ではない景色が見えて来た。

 

 テルチブラーノより面積は広い。ただ監視塔が目立つ程度で、町全体は低い建物が連なっている。森の監視、騎士達の訓練所、僅かな店や宿、鍛冶師達が腕を振るう町。

 

 南限の町センはすぐそこまで迫っていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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41.闇を歩む者

幸せなカズキ達の裏で、蠢く奴等。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森と町は融合しつつあった。

 

 それはつい最近の事で、森と呼ぶにはまだ早いと誰もが言うだろう。

 

 石造りの建物は姿を止め、石畳の街路や路地すら見つける事が出来る。店先に掛けられた看板も風に揺れてキーキーと音を立てていた。町を俯瞰して見れば三分の一程が少しずつ緑に塗り替えられているのが判る。

 

 一見その町は美しく、妖精と人が共に暮らす幻想の世界を生み出したかの様だ。

 

 だがそれも明るい朝日に照らされながら、町を歩く事が出来たとしたら……残酷な現実を世界を知るだろう。

 

 蔦に覆われ緑色をした建物には、抉られた様な溝が何本も刻まれている。乱雑に刻まれたそれは、全てが獣の引っ掻き傷に見える。しかし側に立ち見上げれば慄くだろう、熊どころでは無い巨大な傷に。

 

 あちらこちらに黒く変色した液体の跡がある。

 

 筆先に付けた黒い塗料を振り撒いた様な壁、桶に汲み置いた液体をぶち撒けた様な道。

 

 黒と相対する白も見える。

 

 黒く染まった地面に散らばった白は、棒状だったり、湾曲した弓の様だ。大小様々な白は町を縦横に走る道だけで無く、建物の中にも散見された。

 

 妖精がもし居るのだとしても、この町には人はいない。いや()()()()と言い換えるべきか。

 

 

 

 死だ。

 

 

 

 この町、いや町だった此処には死が蔓延している。

 

 魔獣に襲われた町は一瞬で色を変えたのだ。町のあちこちに散らばる錆びた剣や鎧は騎士だろう。折れたり曲がったりした剣は主人を失い、砕けた鎧は只の錆びた鉄と革の塊になった。

 

 草の緑の合間に見え隠れする黒の塗料は、間違いなく血で、大小の白は肉を失った哀れな骨だ。

 

 過ぎ去った日々は、帰っては来ない。

 

 悲劇の町。

 

 今となっては珍しくもない森にのまれた町、その名はマリギと言う。

 

 数年前に死んだ最北端の町、それでもマリギはまだ緑に染まり切ってはいなかった。

 

 世界のあちこちに在る、今となってはありふれた景色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうだ、それでいい」

 

 子供とは言えない、かといって大人でもない。 真新しい鎧と訓練用だろう木剣を振り回す様子は微笑ましくもあるだろう。年の頃は15歳から20歳程度の新人騎士達はひたすらに訓練を繰り返していた。

 

 だがそこに、新人らしい甘えを感じたりしない。

 

 体力作りや装備の管理、それこそ先輩騎士の世話など新人にやる事は多い……筈だった。

 

 しかし、時代は変わった。

 

 たとえ新人であろうとも一人の騎士であり、戦力に数えられる。他の騎士などに構っている余裕などリンディアにも世界にもありはしない。いつとも知れぬ魔獣との戦いは目の前に存在し、消える事など無いのだろう。

 

 訓練はあくまで実践的で、剣をまともに握るのは3年目などと言われていたのは過去の話だ。騎士を目指す若人は、そうなる前から自身を鍛え上げている。 

 

 家族や身近な人を殺す魔獣を打ち滅ぼし、美しきリンディアを護る。死の可能性すら飲み込んで、剣を王国に捧げるのだ。

 

 自らの命を賭けて国や人に奉仕する姿に誰もがこうべを垂れるだろう。

 

 

 

 

 

 ーー南限の町「セン」

 

 西の町テルチブラーノと同じく、森からの侵攻を監視している。しかし丘に築かれたテルチブラーノとの違いは多い。

 

 平原の海に浮かぶ巨船の様に平らな地に開かれた町。店や宿もあるが、目立つのは訓練所だろう。二階建ての宿舎が整然と建ち並び、鎧姿の若者が多く歩いている。基礎こそ石造りだが木組みの宿舎は色褪せてくすんでいて、所々に補修の跡がある事で積み重ねた歴史すら感じられる程だ。

 

 全体的に低い建物が多く、目立つのは監視塔くらいだろうか。

 

 

「剣の握りはそれでもいいが、魔獣相手では短くするんだ。力を抜き、叩きつけるより手前に引き絞る感じを心掛けろ。魔獣の皮膚に力尽くは通じないからな……一撃など不可能と言っていい」

 

 

 土が剥き出しの道が宿舎に沿って走り、向かいの建物からは金属を打ち鳴らす音が響いていた。複数の鍛冶師達が腕を振るっているのだろう。

 

 厩舎も訓練所に併設され、調教師や世話人が多く働いている。馬は水や餌を大量に消費し、鐙や鞍などに慣らす事にも大変な労力が必要となる。命を賭ける騎士達を支えようと、皆が誇りを持ち働いていた。

 

 南に向かう森人の宿場として重要な場所でもある事で、テルチブラーノよりも賑やかな町と言えるだろう。

 

「腕の力に頼るんじゃない、重要なのは足だ。強い踏み込みと柔軟な膝がないと魔獣に傷は負わせられないぞ。膝は絶えず柔らく、反撃に備えるんだ」

 

 若い騎士達は教導官の指導を熱心に聞いていた。

 

 教導官も数多く居るが、最近センに来た教導官は瞬く間に騎士達の心を掴んだ。

 

 怒鳴り声を上げ、訓練と称する拷問染みた鍛錬を課す者が多い。もちろんそれも無駄では無い。死と隣り合わせの戦場では生温い感情や個性など害ですらある。何人もの戦死者を見た教導官達は、心を奮い立たせて新人に相対するのだ。

 

 この教導官は違った。

 

 まず、一人一人と剣を切り結んだ。中には反抗心を持った新人騎士も居たし、腕に覚えのある者も多かっただろう。何より血気盛んな若人達なのだ。一対一とはいえ何十人も相手にするなど不可能と誰もが思った。

 

 彼は大して動きはしない。右手に握られた剣も下に垂れ、構えらしい構えも無かった。

 

 浅黒い肌や垣間見える腕の筋肉は只者では無いと知れる。しかし強者特有の覇気は感じられず、圧迫感は無いに等しい。

 

 だが、半日も掛かりはしなかった。全員を相手取るのにだ。

 

 まず、速い。

 

 緩やかに動き出した手足の筈なのに、気付いたら咽喉元に剣が添えられていた者が多数。ならば力でと近接戦を仕掛けた者達の手から、何本も宙を舞う剣。 

 

 それでいて良かった点を伝えた上で、改良点すら指摘してくれた。

 

 笑顔こそ多くは無い。

 

 だが低い嗄れた声ながら優しい響きすら感じて、瞬く間に新人達は尊敬の眼差しを送る様になった。

 

「騎士の真骨頂は集団戦だが、間違ってはダメだ。一人の剣が戦局に変化を齎す事もある。過信は罪だが、個人戦の腕を磨くのは思わぬところで役に立つ」

 

 木剣を振るう新人達に次々と歩み寄り、それぞれに見本を見せる。

 

 一度剣を置き、じっくりと魔獣との戦闘経験を伝えた。そこには自身の自慢話など無く、客観的な事実のみを口にする。

 

 疲れの残る訓練後も、この教導官は時間を割く事を厭わなかった。まるで追加の講習でも開くが如く、一人、また一人と参加者は増えていった。

 

 

「ディー教導官殿! 今日の剣技を私にもご教授頂けますか?」

「教導官殿は実戦時はどの様な装備を用意されますか?」

「今までで最も大きな魔獣は、どの程度のものでしょうか?」

「日常の訓練以外に行うべき事はありますか?」

 

 

 ディーは数々の質問にも嫌な顔すらせず、全て丁寧に答えていく。

 

 任官から3日目には、ディー自らが選抜した十数人達に特別講義すら始まった。不思議な事に剣の腕は余り考慮されていない様だった。明らかに腕の優れた者を差し置いて指名される騎士もいる。そこにも深い意味が隠れているのかと、やっかみも少なかった。

 

 選抜から漏れた者達も、更に腕を磨き認められるべく日々を過ごす。南限の町センに新たな風が吹き、騎士が育ち始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 センに新たな教導官が着任する前ーー

 

 

「どうだ?」

 

「はい、概ね順調に推移しています。特にマリギ出身者は簡単に賛同に転じました。目標数に届き次第、皆を集めます」

 

 数年前に魔獣の襲撃を受けた街マリギは、まだ記憶に新しい。出身者もいるし、親族の遺体すら回収出来ていない者も多い。 

 

 子飼いの情報官から手渡された紙には賛同者の氏名、所属、階位、更には人格や過去等が網羅されている。家族構成や魔獣からの被害は丁寧に調べてあり、動機の信憑性や裏切りの可能性すら明記していた。

 

「聖女の存在をどの様に捉えているか……ふむ、難しい定義だが良く調べてくれた」

 

「恐れ入ります」

 

「明日までに選抜しておく。マリギ周辺への配置を加速しなければならない。時間は有限だ……分かっているな?」

 

「勿論です……しかし、ユーニード様自らが表に出るなど……わたくしでも、誰でも当て込む事は?」

 

 ユーニードはあっさりと頭を振った。

 

「駄目だ。皆が言う所の主戦派の代表が捕まる……それが重要なのだ。ましてや、既に疑われているよ。聖女を試した日の足取りも探られているのは間違いない」

 

 カーディル陛下もアスト殿下も聡い方々だ、ましてやクイン=アーシケルもいるのだ……呟くユーニードには王家に背を向けた後でも忠誠は残っていた。

 

「油断と時間がいる。聖女をもう一度使い、マリギ奪還を成すのだ。マリギが奪還出来るなら我が故郷もとなるのは必然だろう。魔獣を恨み、故郷を追われた者は余りに多い。王都に流れる浮ついた噂もそれで消し飛ぶ」

 

「……私はどうすれば……」

 

「気にする必要など無い。私はすべき事を行い、魔獣の断末魔を牢獄で夢見るだけだ。直接魔獣どもを殺せない事だけが心残りだがな」

 

 俯く情報官にユーニードは答え、感情を見せない声で次の指示を出し始めた。

 

 物資や武器の配分、最も重要な[燃える水]を疑われる事無く配置する指令書、邪魔になる可能性がある人員を遠ざける作戦、全てを完結させてカーディルに会いに行かなけばならない。そして最期の具申を行う。カーディルは受け入れないだろうが、ユーニードの意地でもあった。

 

「よし、頼んだぞ。ディオゲネスは何処に?」

 

「外円部です。夕刻には来るように伝えています」

 

「そうか」

 

 頭を下げる情報官に背を向け、部屋からユーニードは出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 廃屋の崩れた天井から月が見える。

 

「ユーニード」

 

 それでも僅かだけ月を見続けたユーニードは、ゆっくりと振り返った。

 

「こっちだ」

 

 ディオゲネスに先導され、奥まった柱の影にある部屋に入って行く。其処だけはしっかりとした壁も扉も残り、蝋燭の灯りも外には漏れ出ていない。

 

 扉の奥には、思いの外片付いた部屋があった。

 

 低めのテーブルには酒と干し肉や乾燥した果物が用意されていて、簡単な宴会でも始まりそうだ。

 

「待たせたか?」

 

「いや、元々此処は俺が使う隠れ家の一つだ。いくつかの装備や金を集めていたら貴様が来た。それだけだ」

 

 見渡せば床の板が何枚か剥がれている。定番だが、其処に隠してあったのだろう。

 

「準備は出来ているな?」

 

「ああ、命令書は受け取った。今更餓鬼の相手など笑えるが、まあ面白い考えだな」

 

「リンスフィアでは……王都周辺ではお前の素性が明るみに出る可能性がある。ケーヒルあたりに見つかる訳にもいくまい。かと言ってマリギにいきなり配置は出来ない。あそこなら先ずは大丈夫だろう。それに、新たな仲間を募る事も出来る」

 

「ふん、聖女の居場所は分かったか?」

 

「いや、不明だ」

 

 言いながらもユーニードは懐から折り畳まれた書類を取り出した。

 

 無言で受け取ったディオゲネスは、酒とツマミを片手に読み進めていく。そこにはマリギ奪還に到るまでのあらゆる準備と、行うべき事が簡素に纏められていた。ユーニードも部屋に入って初めてグラスに手を添え、酒を口内で転がし始める。

 

「……貴様がその身を犠牲にするとは意外だな。魔獣の悲鳴を聞きたいとは思わないのか?」

 

「私が表に出れば警戒は薄れるし、聖女も姿を現わすだろう。その時、再びリンスフィアに戻り決行しろ。見つからなくともマリギ奪還は進める。大勢の尊い犠牲に世論は動き出し、再び機会が巡ってくる。その為の下地はもう作った」

 

 リンスフィアで起きた聖女降臨は、ユーニードに思った以上の衝撃を与えた。放っておいても噂が独り歩きを始め、王家に迫るのも時間の問題だった。聖女を隠せば隠す程良かったのだ。だが、聖女が子供の命を救い慈愛を示した事で流れに変化が起きたのだ。

 

 優しい光、治癒の力、自己を省みない献身、それに加えて可憐で儚い容姿は聖女の偶像を決定付けてしまった。正攻法で魔獣との戦闘に連れ出すなど今は困難と言っていい。

 

 まさに聖女にしてやられたのだ。

 

「神々の使徒である聖女の全てを知る事など不遜なのだろう。だが、時間を余り掛けては不利になる。お前は好きにやればいい」

 

「ふん、俺は大義など気にはしない。時が巡れば魔獣を殺す、それだけだ。だが、少しは貴様の手に乗ってやるさ。もう一度会う事があれば、魔獣の断末魔くらいは詳しく教えてやる」

 

 恐らく、生きて会う事はない……二人は確信を持っていたが、それを言葉にしなかった。

 

 ディオゲネスが騎士団を追放され、再び顔を付き合わせた二人だが相容れない壁があった。だが今宵、初めてグラスを合わせ無言の乾杯をする。友情でもなく、敵でもない。ユーニードとディオゲネスを結び付けた魔獣への復讐心はカタチとなろうとしていた。

 

 前もって受け取っていた命令書を見るディオゲネスに、簡易な文章と押印された紋章が目に入った。

 

 

 そこにはこう綴られている。

 

 

 ーーセン訓練所にて特別教導官を命ずる

 

 ーー直ちに任官し、騎士育成に尽せ

 

 ーー教導官としてあらゆる権利を付託する

 

 ーー教導官名  ()()()=ラズエル

 

 ーー承認者 ユーニード=シャルべ

 

 

 二人はこの時まだ、カズキがマファルダストと共に居る事を知らない。リンスフィアから逃げてテルチブラーノから南の森へ向かう事も、マリギから遠く離れて行く事も。

 

 アストの指示で、ケーヒル率いる部隊がセン付近に配置される事も知らなかった。

 

 テルチブラーノに聖女が現れたという噂がリンスフィアに届いたのは、ディオゲネスが発ってから直ぐの事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ひたひたと陽だまりに近づく闇でした。


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42.マファルダスト⑧

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 鍵を使い扉を開けた先には二つのベッド、テーブル、椅子、そして両開きの窓くらいしか目立つものは無かった。壁も木目が剥き出しで表面が粗く、手を這わせれば怪我をするかもしれない。

 

 こんな下らない怪我をして聖女に癒されたなら、立ち直るのに時間が要るだろう。

 

「しけた部屋ばかりだね……新人騎士の宿舎と変わらないじゃないか」

 

 ロザリーは愚痴を零しながら担いで来た背負袋をベッドに放り投げた。それだけでギシギシと鳴る寝床にウンザリとしてしまう。

 

「ほら、こっちだよ」

 

 扉の前で様子を見ていた様だが、ロザリーの手招きでゆっくりと部屋に入って来た。入ると同時に周囲を見回し、頭から全身を覆っていたマントを両手で脱ぎ始める。

 

 少しずつ露わになった小さな人影は、変わらない無表情そのままのカズキだった。

 

 ロザリーのマントはサイズが余りに違った為、今はテルチブラーノで手に入れたカズキ用の物だ。何処か騎士達に警戒心を持つカズキを少しでも安心させる為、隠蔽用に頭部はかなり余裕がある。色は森人らしい深い緑だった。

 

「暑かっただろう? 今日はやけに日差しが強いからね」

 

 一つしかない腰高の窓を両手で押し開きながら、新鮮な空気を部屋に導く。風だけで無く光を取り入れた事で、ほんの少しだけ気持ちも晴れやかになった。そしてどこか遠くに聞こえていた喧騒が、一気に近づくのを感じる。

 

「……やっぱり汗を掻いてるね、先に綺麗にしようか」

 

 勿論返答は無く、カズキは開け放たれた窓から外を眺め始めた。

 

 南限の町センに入ったマファルダストは、補給すら後回しで休息に入ったのだ。テルチブラーノを出てからまともな町など無く、僅かな集落と野営地の連続は流石の森人達にも堪えたのだろう。それを見てとったロザリーは明日までの休息を宣言した。

 

 翡翠色の瞳が窓枠から映す景色を一言で言うなら殺風景だろう。全体が画一的で色も少ない。高低の立体感も乏しい上に、それが延々と続くのだ。前線で、訓練所を兼ねた町なら仕方がないのかもしれない。

 

 

 

 

 ロザリーはカズキに此処で待つよう合図を送り、一度部屋から出る事にした。鍵を閉めた後、階段近くの部屋に入った筈の男に声を掛ける。

 

「ジャービエル、いいかい?」

 

 直ぐに扉は開き、中に促された。この間にジャービエルは一言も喋らない。

 

「はぁ……あんたねぇ、カズキと違って喋れるだろ? 何か言いなさいよ」

 

「……カードに負けて元気無い」

 

「……あっそ」

 

 部屋の造りは同じだが方角の所為だろう少し薄暗い。ベッドの上には数々の武器類が並んでいて、整理整備中だと知れた。勿論ロザリーは武器類の使用目的を理解している。しかし決して使って欲しい訳ではない。

 

「済まないね、休息日に」

 

「聖女様を守るの当然。それに聖女様優しい」

 

「そうなのかい? あんたと一緒にいるの余り見た事無かったけど」

 

「酒を分けてくれた」

 

 酒好き聖女が酒を分けた? 珍しい事もあるんだねとロザリーは感心した。大方ジャービエルが泣きそうな顔でもしてたのだろう。

 

「とにかく任せるよ。カズキに余計な手出しはさせないようにね。私は出来るだけ早くケーヒルの旦那に連絡を取る、それまでは付き合っとくれ」

 

 主戦派の動きを警戒するのは骨が折れるが、騎士の殆どは善良な者達だ。大きな問題が起きる可能性は低いが、前科がある以上手は抜けない。フェイとも相談し、武力に秀でるジャービエルに手を借りる事にしたのだった。

 

 因みにリンドも中々の剣を使うが、ロザリーにより却下されている。 ロザリー曰くアイツはある意味で主戦派より危ない、だそうだ。

 

「ちょっとお湯を取って来る。廊下の出入りをそれと無く探っておいてくれたら良いからね」

 

 コクリと巨大な身体に載った頭を傾けると、ナイフの研ぎを徐に始めた。シャッシャッ!と規則的な音を奏で始めたジャービエルに少しだけ溜息をついて、ロザリーは階下に降りて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキが眺めるセンの景色は確かに殺風景だろう。だが、喧騒と匂いに耳と鼻を向ければ違う世界が見えて来る。

 

 騒々しい。

 

 一言で言えばセンはそんな町だろう。

 

 街中を歩けば鍛冶師達の振るう金槌と金床が奏でる金属音。

 

 あちこちの広場では騎士達の掛け声と、教導官の怒声。

 

 馬の嗎きも何処からともなく耳に入るし、獣特有の匂いも漂う。

 

 森人らしき風貌の男達は酒場で大声を上げ笑っている。

 

 そしてそれが当たり前だと歩く商人たち。

 

 

 センに定住している人の数はテルチブラーノとそうは変わらない。だが訓練に来る騎士や追従者、隊商などの森人達が加われば、その様相は大きく変わる。勿論王都リンスフィアに比べるべくも無いが、それでもリンディア王国を代表する町の一つと言ってよいのだろう。

 

 そして休息日にも関わらず、此処にまた一人仕事をしている男がいる。

 

「おっ! フェイ。お前、まだくたばってなかったか!」

 

「お前こそ、子狼にでも喉を噛まれてその煩い口を閉じて貰え」

 

「がはは! お前が死んだらロザリーは俺が面倒見てやるからな!」

 

「ああ……姐さんは他に夢中になる人を見つけたよ」

 

「な、なに!? オ、オメエそりゃ大事件じゃねえか! そうか……立ち直ったのか、良かったな……」

 

 小さな店の人影も少ない角の席で一人チビチビと酒を呑んでいた男、森人ドルズスは口は悪いが根は優しく何より義理堅い……そんな男だった。リンディアでは代表的な金髪を短く刈り込み、太い眉は殆ど真ん中で繋がっている。短い手足はひょうきんな印象を与え、口の悪さを緩和するのだろう。

 

「相変わらず南専門か? 最近は南も物騒と聞く、一人はやめてウチに来ないか? 姐さんならいつでも良いと言ってるぞ」

 

「ほぉー! 天下のマファルダスト副隊長からスカウトとは俺も偉くなったもんだ!」

 

「真面目な話だ、茶化すな。イオアンさんが帰って来ない今、南に最も詳しいのはお前だ、ドルズス。どうも王都がキナ臭い、今は慎重になる時だぞ」

 

「……フェイ、ありがとうよ。だが俺は一人で森に行くのが好きなんだ。お前だって分かってるだろう? 危険とかそんなんじゃねぇのさ、南以外に行く気もない」

 

「そうか……もし気が変わったらいつでも声を掛けてくれ」

 

「ああ、分かってる。ロザリーにもよろしく言ってくれ」

 

 森人達は皆何かを抱えて生きているのだろう。ドルズスも南に拘る理由があり、フェイはそれを理解もしている。フェイでさえロザリーを守ると云う譲れない思いがあるのだから。

 

「酒を取ってくる。待っててくれ」

 

 一人カウンターに向かう。そして無言でグラスを拭いている親父に何かを言い、金と引き換えにボトルとグラスを二つ持って来た。

 

「つまみは分けてくれよ?」

 

「ほう、良い酒だ。仕方ねえ、好きなだけ食え」

 

 フェイは乱暴に酒を注ぎ、ドルズスの方に押し出した。自分にも注ぐとドカリと向かいに座った。

 

「森人に」

「……故郷に」

 

 厳つい男達らしからぬ優しい乾杯の音は、静かに店内に消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 つまみが皿から半分程消えた頃、フェイは突然に黙った。

 

「……ん? どしたフェイ」

 

「やっぱり気になってな。イオアンさんが何故消えたのか」

 

「……ああ、あの人以上の森人はいなかった。俺の方が長く南にいる筈なのに、あの人には勝てないと何時も思ってたよ」

 

「南は森が深い。魔獣の生息域はかなり遠いし、遭遇率は他より低い位だ。ましてやイオアンさんは、油断や無駄な冒険を最も嫌う人だった。森そのものよりも油断が人を殺すと、何時も繰り返し言っていたからな」

 

「「油断と慢心は森が死を運ぶ」」

 

 二人が口を揃えて出した言葉は、イオアンが何時も祈りの言の葉の様に使っていたものだ。

 

「一緒にいたローゼンも立派な森人だし、若いヤッシュすらイオアンさんが鍛えてた奴だからな……」

 

「実は今回の仕事の中にイオアンさんの痕跡を探す、まあ出来る範囲でだが……それもあるんだ」

 

「おいおい、深く潜る気か? 駄目だ、やめとけよ。今の森は嫌な予感がする、それこそ油断と慢心だ」

 

「ああ、俺も最初はそう思っていた……つい最近まで」

 

 二人のグラスは空になったが、何方も次を注ごうとはしなかった。

 

「最初は? 今は違うってか」

 

「そうだ。マファルダストの要、それは誰だ?」

 

「そりゃロザリーだろうよ。お前じゃない、勿論他の狩猟班でも採取班でもないさ」

 

「そうだ、間違いなく姐さんだ。あの人自身は認めないが……イオアンさんが居ない今、リンディア最高の森人はあの人以外いない」

 

「……悔しいが、それは認めるよ。イオアンの爺様が全てを教え込んだと公言した唯一人の森人だからな。しかもたったの5年で」

 

「マファルダストはリンディア最高と謳われるが、それは姐さんがマファルダストに居るからだ」

 

「ふん……認めるさ。だが、だからって深く潜る理由にはならん。魔獣共にそんな事は関係ないからな」

 

 漸くドルズスはボトルを手に取り、ドボドボと二つのグラスを液体で満たす。フェイは注がれた酒を一気に煽り、ドルズスからボトルを受け取るともう一度注ぎ直した。

 

「なんだ? 早く心変わりした理由を言えよ」

 

「姐さんは変わった。いや、戻ったと言うべきか」

 

「はあ? お前は偶に小難しい台詞を吐くなぁ。大昔の物語の主人公かよ」

 

「……最初に言っただろう? 他に夢中になる人を見つけたって」

 

「……ああ、言ってたな。おいおい、まさか新しい男を見つけたからって馬鹿な事言わないでくれよ?」

 

「馬鹿、誰が男なんて言った。姐さんはルーだけがただ一人の旦那だよ」

 

「じゃあ何だよ?」

 

「……使徒、神々の救い……」

 

「何だって? 良く聞こえないぞ」

 

 するとフェイは急に明後日の方を向き、もう一度ドルズスを真っ直ぐ見て淡々と言葉を続けた。

 

「そうだな、今回の調査にはお前を連れて行く。臨時で雇うよ、南ならお前だからな。それを認めるなら全部教えてやる」

 

「お前ズルいぞ!! 此処まで引っ張っておいて、今日気になって寝れねぇじゃないか!」

 

「お前を今回だけ雇い入れるのは、姐さんから頼まれた仕事の一つだ。因みに聞かないと絶対に後悔する程の話だからな?」

 

「くっ……この野郎、これだから頭の良い奴は嫌いなんだ!」

 

「早く決めろ。俺もそろそろ帰りたくなるかもしれんぞ」

 

「……分かったよ! 降参だ! 行く、行けばいいんだろ!」

 

「よし、じゃあ今この時から雇う。終了は南の調査が終わりセンに帰るまでだ。その間はマファルダストの一員として扱う。金は何時もの規定通りだが、姐さんから追加も了解を貰っている。しっかりと働いて貰うぞ」

 

 自棄になったのか、グラスの酒を煽ると更にボトルを口につけてゴクゴクと喉を鳴らし始めた。異常な酒の強さを持つドルズスだから出来ることだろう。偶に口を離してチクショーとか、またやられたとか、小声を出すのが哀愁を誘う。

 

 最後の一滴まで飲み切ったドルズスは、それでも殆ど酔ってはいなかった。更にカウンターに真っ直ぐに歩いて行き、別の酒を持って再び席に着いた。

 

「よし、聞こう。やるからには納得する迄だ。これでつまらん話なら違約金を払ってでも行かないからな」

 

「ああ、違約金など要らんよ。お前なら必ず一緒に来る、それこそ金を払ってでもな」

 

「いいだろう。我らがボスがどう変わったのか聞かせて貰うさ」

 

 フェイもドルズスも先程までの砕けた雰囲気を一瞬で消し、命を賭ける森人の顔に戻った。

 

 

 

 

 

 



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43.マファルダスト⑨

お風呂回。カズキ、脱ぐ。


 

 

 

 

 

 フェイは念のため周りに人が居ないのを確認する。

 

「遠回しの話はしない、答えをはっきり言うぞ」

 

「ああ」

 

「今マファルダストと……姐さんと一緒に聖女が居る。勿論紛い物でも無く、法螺話でも無い」

 

「……聖女? 使徒の? お前、それは幾らなんでも……」

 

 ドルズスが冷やかしの目をフェイに送ったが、焦る筈の当人は変わらずジッとドルズスを見てくる。

 

「お前なら聞いた事があるだろう、黒神の聖女を」

 

「そりゃ……だがあれは眉唾だろう? 刻印が身体中にあって、致命傷すら簡単に治癒するとか……そもそも刻印が二つ以上あるなんて有り得ないだろうよ。その辺の子供でも知ってる事だぜ」

 

「他に知ってる事は?」

 

「あん? 確か……えらい美人で、翡翠色した瞳、ああそれと真っ黒な髪だっけ? そんな髪見た事ねぇよな?」

 

「他は?」

 

「他……ああ、献身と慈愛だな。我が身を顧みず他者を癒すとか」

 

「ああ、そうだな。間違いないよ。もう一度言うぞ? 今聖女が姐さんと一緒にいる。リンスフィアからずっとだ」

 

「いやいや……はぁ?ホントなのか? お前がくだらん嘘をつくとは思えんが……」

 

「何度も言わせるな、俺も実際に何度も会ってる。黒髪も翡翠色の瞳も本当だし、幼いが見た事もない不思議な肌で美貌も間違いない。流石に俺は首以外身体中の刻印を確認して無いが、そっちは姐さんが見てる。全部で7つ刻まれているそうだ」

 

「7つだと……じゃあ西でアイトールを癒したって話は……?」

 

「姐さんの目の前で起きた事だ。喉を喰い破られた致命傷も一瞬だよ」

 

「信じられん……聖女……神々の使徒……」

 

「名をカズキと言う。聖女の保護は王室、アスト殿下直々の指示でもある。リンスフィアでの奇跡、聖女降臨はアスティア様と街を散策していた時の事らしい」

 

「……つまり、聖女が共に在るのは何かの意味があって、森人の代表ロザリーと同行しているのは神々のご意志って事か……」

 

「ああ、勿論それもあるな」

 

「はあ? それ以上何があるんだよ?」

 

 ゆっくりとグラスを置いたフェイは、森人から娘を思う父親の様に優しい表情に変えた。

 

母娘(おやこ)だよ、今の二人は本当の母娘の様だ。カズキはまるでフィオナが消えた穴を埋める様に、姐さんを癒したんだ。一番輝いていたあの頃の様に」

 

 最高の森人で聖女の母その人が南の森に入る、そこに意味があると思わないか? そう締め括ったフェイは、何かの希望をそこに見ているのだろう。聖女に会った事のないドルズスにすら、心の奥底から何かが湧き上がるのを止める事が出来なくなっていた。

 

「だから、俺達は森へ行く。きっとイオアンさんの痕跡も見つかるし、新しい発見だってあるかもしれない。さあ、どうする?」

 

 ドルズスは判り易く頭をガクリと傾けた。

 

「……はぁ、また俺の負けかよ」

 

 そしてやはり判り易く、目を見開いて声を荒げた。

 

「だが森では俺の指示に従って動いて貰うからな! 補給も任せて貰う、今の状況を知らせてくれ。足りない物があれば遠慮なんてしないからな!」

 

「ああ勿論だ。うちの若いのもどんどん使ってくれていい。明日引き合わせるし、聖女様にも会えるかもな」

 

「そ、そうか。言われてみればその通りだ。聖女様に……会える……」

 

「ドルズス」

 

「な、なんだ? 聖女様に失礼なんかしないぞ?」

 

「最初の仕事がある。最近センの訓練所と関係なく、近くに展開してる部隊がある筈だ。名目は同じ訓練だがな」

 

「なんだ、良く知ってるな。珍しいのは部隊長だな。かの有名なケーヒル副団長が直々に務めているらしい」

 

「ああ、うちの姐さんとケーヒルの旦那を繋いで欲しい。但し周りには知られない様に、何処かでゆっくり話がしたい」

 

「内密に? なんでまた……」

 

「主戦派だよ、奴等が聖女を狙っている。かなり良くない状況だ」

 

「はあ? 主戦派だぁ? なんでまたあんな面倒な奴等に……」

 

 そう言うドルズスだったが、直ぐに思い直した。嫌な事に考えれば気付く事だった。

 

「神々の使徒、聖女を只人が使う気か……不埒で不遜な奴等め」

 

「ケーヒルの旦那はそれを見越してアスト殿下が派遣したんだ。向こうも時期を見ている筈だ、早い方がいい」

 

「成る程な……分かった、なんとかする。報酬は?」

 

「何言ってる? もう雇った以上お前はマファルダストの一員だ。つべこべ言わずに働け」

 

「ひでぇ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふう、こんなもんかね」

 

 湯気が揺ら揺らと室内に立ち昇るが、開けた窓から入り風が直ぐに消し去って流れて行く。

 

 子供なら膝を折り畳み寝転んで入れる程の木桶には、7分目ほどお湯が張られていた。ロザリーが何往復かして運び込んだ熱目のお湯は、時間の経過で丁度良い湯加減だろう。

 

 桶の周りには借りて来たボロ切れが敷き詰められており、少々の飛散など気にする事は無さそうだ。

 

「手伝ってくれたアンタから入っていいよ。ほら手拭い」

 

 手伝うと言っても、やった事は周りに布を敷き詰めただけなのだが……

 

 ロザリーは開け放たれた窓をしっかりと閉め、再び振り返った。だが当のカズキは先程と変わらず、ただ立っているだけだった。

 

「気にしなくていいんだよ? しょうがないねぇ……」

 

 カズキに近づいたロザリーは、薄い空色をしたハイネックのブラウスを脱がしに掛かった。かなり大きめのボタンは4つしか無く、簡単に外せた。ついでに濃い青のロングスカートもベルトを緩めればストンと下に落ちる。細い腰にはスカートも留まり難いのだろう。そうすれば後は上下の下着だけだ。

 

 此処まで来ればカズキも理解して自分で下着を取り除いていく。一息吐くまでにはカズキは一糸纏わぬ裸体となった。

 

「……綺麗だよ、綺麗だけど……もう少し恥じらいは無いのかい? 全部丸見えなんだよ?」

 

 ロザリーは理解出来ていないが、カズキでも恥じらいはある。もし元の世界の身体ならロザリーの前で裸になんてならないだろう。だが自己欺瞞の刻印はカズキの精神に強くはたらき、未だ聖女の身体を自らの肉体と自覚出来ない。

 

 だからカズキは何時もの様にキョトンとするだけで、動揺は一切感じないのだ。

 

「困ったねぇ……どうやって教えたらいいんだよ、これ……」

 

 恥じらいの概念を言葉無しで伝えるのは、ほぼ不可能だ。良い方法があるなら誰でもいいから教えて欲しいロザリーだった。

 

 とりあえずは桶まで移動して腰を下ろさせる。お湯の嵩が少しだけ増して、カズキの丸い白い尻がギリギリ隠れる程になった。

 

 あとは手拭いを湯につけて、身体を拭うだけだ。

 

 今のうちに荷物を整理しておくかと、ロザリーは先程放り投げた背負袋を開く。そうして中にある荷物をベッドに並べていると、小さな小瓶が目に入った。

 

「そういえばコレがあったね……」

 

 振り返ったロザリーは、再び深い溜息をついた。

 

「カズキ……大丈夫かい?」

 

 見ればカズキは自分の小ぶりな胸に手を添えて、ただ動かずにいた。そこには聖女の刻印があり、周りを茨状の鎖の封印が施されている。立体感がないはずの茨なのに痛々しく感じて、今にもじんわりと血が滲み出しそうだった。それでも感情を感じさせない何時もの無表情はカズキの想いを教えてはくれない。

 

 手にした小瓶を手に持ち、カズキの目の前で腰を屈めたロザリーは無理矢理笑って見せた。

 

「香油だよ、花の香りが続くし疲れにも効く」

 

 ポタリポタリと数滴を湯に散らし、パシャパシャと軽く混ぜれば優しい花の香りが鼻をくすぐった。

 

「ほら手拭いを貸してみな。背中を拭いてやるよ」

 

 手櫛で黒髪を整えると後ろ髪を髪紐で一つに纏め、頭頂部辺りに髪留めで挟み固定した。これで(うなじ)が露出し刻印が刻まれた首回りも洗い易くなるだろう。

 

 カズキの背後に回り込んだロザリーは、少しだけ丸まった小さな背中に目をやる。

 

 頸が見えた事で刻印が首回りをぐるぐると巻き込んでいるのが分かる。何度見てもカズキの首を鎖で締めているようにしか見えない。いや実際に締めているのだろう……これは言語不覚の刻印なのだから。

 

 そこから湯に浸かったお尻まで背骨が真っ直ぐに繋がっている。痩せ気味なせいか背骨がはっきりと背中を這っているのが見えて、どこか淫蕩な美を感じた。

 

「ん?」

 

 ロザリーが視線を下げ、カズキの可愛らしいお尻を見た時だった。

 

「刻印が薄くなってる……まるでこのまま消えてしまいそうだね……」

 

 憎しみの鎖……臀部に刻まれた刻印は明らかに様子が変わっていた。カズキと馬車の荷台で寄り添って寝た時、ロザリーははっきりと見ていたのだ。

 

「……リンスフィアに帰ったらクインに知らせた方がいいかもね」

 

 余りに考えてばかりだったのか、カズキが不思議に思ったのだろう。 背後にチラチラと目をやり始めた。

 

「ごめんよ。直ぐに洗うからね」

 

 優しく肌を拭うと水気を弾き、その肌が若々しい事を知らせてくる。

 

「しかし……ホントにシミ一つありゃしないね。黒子も見当たらないし、刻印以外何も無いみたいじゃないか……これも聖女の力なのかねぇ」

 

 羨ましい……いやそうとも言えないか……聖女の過酷な運命を思うと、それは些細な事だろう。癒しの力を失って聖女ではいられなくなり、その代わりに言葉を紡ぐ事が出来たなら、それは幸せな事だと確信をもって言える。

 

 ロザリーはカズキの異常とも言える美しい肌を拭いながら、そんな事を思った。

 

「こんな小さな背中の……小さな女の子に、世界の運命を背負わせる事が正しい訳がない。そんな事間違ってるに決まってるじゃないか……何故この子が聖女でなければならないんだ……神々は何を思って……」

 

 意味など解るはずが無いのに、カズキは振り返ってロザリーをその翡翠色の瞳で捉えた。悲しい声音に何かを感じたのだろうか。

 

「……もう、終わったよ。 後は自分で出来るだろう?」

 

 カズキの目を見返すのが何故が辛くて、ロザリーは手拭いを押し付けた。

 

 パシャリと手拭いは水面に落ち、カズキはそれをもう一度手に取って身体を洗い始める。

 

 正面側のベッドに腰掛けたロザリーの眼に、何度見ても幻想的な聖女の姿が映った。

 

 首や肩、胸や下腹、太ももや脛、刻印達は未だカズキの肌を覆う。神代文字と紋様は超常の力を与え、神々の加護を人に齎す。遥か昔から当たり前だった世界の理なのに、やはりロザリーには理解が出来なかった。

 

 部屋には花の香りが揺蕩う(たゆたう)、それが不思議と物悲しかった。

 

 

 

 

 



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44.マファルダスト⑩

 

 

 

 

 

 

 ドルズスは自分がここ迄緊張するとは考えてもいなかった。神々の敬虔な信奉者ではあるが、それは目の前にいるフェイとて同じ筈だ。それなのに両掌から汗が滲み出るのを止める事が出来ない。

 

 此処はセンにある宿泊所の一つだ。どちらかと言えば安宿で、彼方此方にゴミも落ちているし薄汚れてもいる。ドルズスが座る椅子は脚の高さが合っていないのかガタガタと安定しない。今から会うであろう天上人が住う場所には相応しくないと憤りすら感じる、そんな安宿なのだ。

 

「……フェイ、ホントに此処なのか? 神々の使徒が寝泊りするには余りにボロいだろう……」

 

「ああ、間違いない。そもそも宿が空いてなかったんだからしょうがない。それに聖女は献身の塊りだとお前が言っただろう? 旅の間も苦しい顔すら見せず、付き従って来てくれたよ」

 

「そ、そうか……握手くらい大丈夫かな?」

 

「……くくく、お前がそんな繊細な人間だと初めて知ったよ。聖女はそんな堅苦しい人ではないと言ってるだろう。皆に別け隔てなく相手をする人だよ」

 

「聖女だぞ!? むしろ緊張しない方がおかしいだろうが!」

 

 フェイはカズキが酒好き酔どれ聖女で、恥じらいすら殆ど持たない少年の様な少女だと言うべきか悩んだ。余りに幻想を持ち過ぎては現実に押し潰されるかもしれない。まあ、それも面白いと思っているが。

 

「さっきも言ったが、聖女に言葉は通じないからな? 変な誤解をするなよ?」

 

「ああ、俺は聖女様に一目会えれば満足だ。分かってるって」

 

 人待ちは時間が経たないものだが、極度の緊張は逆に時を推し進めたのだろう。上階へ昇る階段の奥から扉の開ける音が響き、女性の声が聞こえた。ドルズスもよく知るその声は、間違いなくロザリーだった。

 

「カズキ、今日は少しだけ出掛けるから我慢しなさいよ。どうせマントで隠れるから、いいじゃないか……全く、何でそんなに嫌がるのかねぇ」

 

 ブツブツと愚痴らしき言葉を吐きながら、ロザリーは一人の少女を連れ歩いて来た。勿論ドルズスは聞いてはいたし、噂で想像もしていた。だが聖女の姿を見た時の衝撃は、結局和らぎはしなかった。

 

 大判のマントはロザリーが右手で抱えている。それが聖女の物だと知れたのは、ロザリーが別のマントを着込んでいたからだ。

 

「聖女さま……黒神の……」

 

 朝日を浴びて尚、艶やかな髪は漆黒で……翡翠色の瞳は涼やかな湖の湖面の様だ。少し小柄でありながらも女性らしい柔らかな曲線は、幼い純粋な空気を纏って僅かな混乱すら与えてくる。

 

 少女らしさを強調するハイネックのワンピースは、瞳と同じ翡翠色だ。 細い腰は力を込めれば壊れそうで、見詰めるのさえ罪と思えてくる……それに……

 

「……ドルズス、お前気持ち悪いよ……さっきから妄想が口から出てるからね……? 何が罪と思えてくる、だ。カズキに近づかないでおくれ!」

 

 ポカンと開いた口から出る言葉の数々は、ロザリーに寒気と鳥肌を立たせて思わず距離を取る。

 

「う、うぇ!? ち、違うんです聖女様! 決して疚しい意味では……」

 

 残念ながらドルズスは聖女との握手すら難しい様だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 テーブルを挟んでロザリーとドルズスは向かい合っていた。フェイはロザリーの隣で、カズキはロザリーの後ろに腰掛けている。ドルズスからはカズキの全身を見る事が出来なかった。

 

「ロザリー……勘弁してくれよ……別に悪さなんてしないし、聖女様の美しさに驚いただけだろ?」

 

「けっ……アイトールと言い、ドルズスと言い美人を見たら直ぐこれだ。うちのリンドもだし、油断出来ないね」

 

 ガックリと項垂れたドルズスは、フェイに目線で助けを求めた。ところが当のフェイは目蓋を閉じてドルズスを見てもいない。

 

 カズキはロザリーの肩口辺りからチラチラとドルズスを見ていて、ドルズスは嫌われては無い様だと少しだけホッとした。

 

「下らない事はいいんだよ。ケーヒルの旦那とは繋ぎ取れたのかい?」

 

 ロザリーの声音が変わり、森人の険しい顔付きに変わった。

 

「ああ、意外と簡単だったよ。向こうも手を探してたみたいだからな、町にも何人か連絡役がいたし」

 

「そうかい、朗報だ。ただ、何処に主戦派の息が掛かってる奴がいるか分からないからね。事は慎重に運ばないと。どうやって会うのがいい?」

 

「本当を言えば、直接会わない方が良いだろうと思う。それは難しいのか? 文書でのやり取りもあるだろう」

 

「……時間がないね。マファルダストは予定通り、明後日には森に向かうよ。町には長く居たくないからね。この娘に窮屈な想いはさせたくないし、町は人が多すぎる。危険だよ」

 

「この娘って……いや、そんな事はいいか。なら、逆をとろう。マファルダストは予定通り森へ向かう。そして偶然ケーヒル副団長一行に出会い、立ち話になった……そういう筋書きだ」

 

「ドルズス、センと森の間に部隊が出れば嫌でも目立つぞ。幾ら偶然を装っても噂が立つだろう」

 

 目蓋を閉じていたフェイは、あえて苦言を出し反芻出来るよう仕向ける。

 

「間には来ないさ。近くの村で補給したい物がある。マファルダストは樹液採取の道具が少ないからな、それを揃えに行くんだ。偶然にも騎士団が居る近くの村でね」

 

「成る程な……姐さん、問題ないと思います」

 

「ああ、それで進めよう。どの道完璧な案など無いからね、上手くやるしかない。それに考え過ぎなだけかもしれないし」

 

「じゃあ進めるぜ? 明後日にセンを出て翌日には会えるだろう。俺は今から動くから、そっちは準備をそのまま始めてくれ」

 

 ドルズスはガタガタと鳴る椅子を蹴り、早足に宿を出ようとした。

 

「ドルズス!」

 

 ロザリーの声に振り返ったドルズスは、思わず背筋が伸びた。ロザリーに手を引かれ聖女が自身の前に立ったからだ。背の高い方ではないドルズスでも聖女はやはり小さく見える。少しだけ困惑した顔も、やはり美しい。

 

「カズキ、コイツも仲間だよ。今からお仕事さ……ほらドルズス、手を出しな」

 

 ゴシゴシと服で掌を拭ったドルズスは、すぐに汗か噴き出るのを感じた。何度ゴシゴシと拭いても汚れている気がして、何故か申し訳ない気がしてくる。

 

 手をなかなか前に出せないドルズスだったが、カズキは察してくれたのだろう。躊躇などする事無くドルズスの右手を軽く握って二度優しく振る。

 

 これでいい?とばかりにロザリーを見たカズキは、直ぐに手を離して席に戻って行った。

 

「……俺、頑張るわ……」

 

「ああ、そうしな」

 

 ドルズスは踊る様に扉から姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキの下着を揃えたくて、ロザリーは町を歩いている。数歩離れた後方にはジャービエルが付き従っていて、隣にはマントを深く被ったカズキが遠慮がちに周りを見渡していた。

 

 テルチブラーノで揃えたつもりだったが、まさか隊商にここまで同行するとは当時想定していなかったのだ。その時揃えたのは、可愛らしく色合いも淡い少女らしい下着ばかりだった。ロザリーの趣味も入り、旅装とは程遠いと言わざるを得ない。

 

「成長期だろうし、適当に買う訳にもいかないしねぇ……」

 

 出来れば外に連れ出したくは無かった。町中は人も多く、気も配れなくなる。だが成長期の身体に合った物が大事だし、まだ暫くはマファルダストと共にいるのだ。頑丈で身体と旅に適した下着を揃えなければならない。

 

 そんな事を思い隣を見たが、案の定他に気を取られている様だった。

 

「本人は分かって無い様だけど」

 

 ロザリーは、苦笑なのか愛しい娘への微笑なのか、自分でも判然としない笑みを浮かべた。

 

 カズキは鍛冶に興味がある様だった。騎士達の剣だろう鋼をカンカンと叩く鍛冶師達の手元を歩きながらも眺めているのだ。

 

「変わった子だよ、すぐ隣りの装飾品には興味ないのかねぇ。あのイヤリングなんて似合いそうだけど……はぁ」

 

 年頃の娘なら汗臭い親父が叩く金属なぞに興味など持たないものだが、聖女様は違うらしい。隊商の馬車にも以前興味を示していたし、愛らしい姿でなければその辺の悪餓鬼と余り変わらない。

 

「少し見ていくかい?」

 

 それでもロザリーはカズキが見たいなら見せて上げたいと思った。再び目についた鍛冶師の匠の業を暫し眺める事にする。

 

「ん? なんだ、近づいたら危ねーぞ」

 

 森人だろう女と娘一人が立ち止まるなど、かなり珍しい。それでも美人の母親と、マントの影に垣間見える娘の美貌を見てやる気にならない男など少ないだろう。

 

「これは騎士の剣だ。魔獣にも通じる様に鍛え方が違う。こう……やって何度も折り畳んでは叩き伸ばすのさ。余計な不純物を取り除いて、硬くそれでいて柔軟な鋼にするんだ」

 

 弟子に教える様に畳んでは叩くを少しだけゆっくりと見せてくれる鍛冶師に、流石のロザリーも興味を持つ。因みに本当の弟子にはこんなに優しくなど無い。

 

「へえ……見事なモンだねぇ……まるで奇術を見てるみたいだよ」

 

「ははは、アンタ森人かい? 女だてらに珍しいな。ウチは小剣も鍛えてるから、興味あったら見ていきな。まあ、娘さんにはまだ早いかもしれんが」

 

「……今は間に合ってるけど、帰りにでも寄らせて貰うさ。ナイフは? この娘でも持てる様なナイフがあれば助かるけどね」

 

 森内部に連れて行く気は当然ないが、人相手の護身には必要かもしれないとロザリーは会話を続けた。

 

「ナイフなら奥にある。手前から奥に行くにつれ出来が良くなるぞ。まあ、その分高いがな」

 

「ほお……」

 

言われた通り、鍛冶場と離れた場所に簡易な陳列棚があった。

 

 ロザリーが気になったのは奥から二番目のナイフだった。少し長めだが良い造りだし、何より軽い。貧弱なカズキでも十分携行出来るだろう。

 

「これは拾い物かもしれないねぇ」

 

 柄から剣身まで通して鍛えられたのだろう。一体であつらえたナイフは装飾も美しく、淡い緑色をしている。色合いがカズキの瞳に近いのがロザリーには気に入った。

 

「親父、これ貰えるかい?」

 

「おう、思い切りがいいな。まだ刃を入れてないから、仕上げたら納品だな。2日くれ」

 

「明後日の朝にはセンを出るから、それが期限だよ。間に合うかい?」

 

「ああ、任せてくれ。明日夕方に来な、仕上げとくよ。代金は……」

 

「隊商マファルダストに回しておくれ。これが証文だよ」

 

「本物だな……マファルダストかよ……女って事はアンタ、隊長のロザリーか?」

 

「そうだけど、私は只のロザリーさ……現金でも良いが、どうする?」

 

「ああ、回しておくよ。 鞘はオマケしておくさ」

 

「太っ腹だね! 森から帰ったらまた寄らせて貰うからね」

 

 鍛冶師は知らない内に世界に唯1人しかいない、神々の使徒"聖女"に初めてナイフを納める事になったが……本人は最後まで気付く事も無かったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故か微妙に嫌がるカズキを押さえ付け、漸く何着かの下着を買う事が出来た。

 

 ロザリーは幾つかの拘りを捨てられず、それぞれを試着させてまで選び尽くした。この世界では試着は一般的では無く、店員に苦い顔を何度もさせた程だ。

 

「その髪留め早く着けて欲しいけど、町を出る迄はお預けだね……」

 

 お詫びついでに髪留めを購入したロザリーは、カズキの黒髪を触りたくてウズウズしていた。銀月と星をあしらった髪留めは、今着けてもマントに隠れてじっくりと見る事が出来ないのだ。

 

 

 

 カズキとの楽しい時間に少しだけ気が抜けていた。終始無言のジャービエルも女性の長い買い物に疲れを隠せていない。

 

 だから運が悪かったのだろう。

 

 強い向かい風が三人の間を吹き抜ける。

 

 風はロザリーの赤髪を踊らせ、ジャービエルの目に砂埃を喰らわせた。

 

 そして、カズキが被るマントが風に遊ばれて僅かな時間だけ素顔が晒されたのだ。それは一瞬で、周辺の人々は聖女に気付きもしなかった。慌てたロザリーも安堵の息を吐き、ジャービエルもその一瞬を見逃した。

 

 

 

 だから、通りの向こう側にある訓練用の広場で1人の男が驚愕の表情をしたのも本当に偶然だった。

 

 焦げ茶色したザンバラ頭は僅かに揺れ、同じ色の両眼は大きく見開かれた。その眼にどんな感情が込められているのか、直ぐに消えた表情からは何も分からない。

 

「ディー教導官、どうされました?」

 

「何故アイツがセンに……」

 

 ディーと呼ばれた男は徐に鎧を脱ぎ始め、訓練用の木剣を放り出した。

 

「教導官?」

 

「自主練に変更する……それぞれが与えた課題に取り組め。結果は明日確認する」

 

 吐き捨てる様に言葉をぶつけると、ディー……ディオゲネスは町の雑踏に消えて行った。

 

 広場に残された新人騎士達は暫く呆然としていたが、尊敬する教導官の指示を忠実に履行し始めて直ぐに混乱は治まった。

 

 そんな騎士達の声も剣撃の音も町の喧騒に混じり、全ては元通りになる。その内に違和感は消え失せて、センは日常に帰っていったのだ。

 

 

 

 

 

 

 




ディオゲネスに見つかってしまうカズキ。
次回は"赤と黒の狂宴①"7話構成です。この物語の大きな山場の一つが来ますのでので、続きを読んで貰えるとありがたいなぁ。内容は題から察して下さい……


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45.赤と黒の狂宴①

幸せだった時間は、少しずつ変化していきます。


 

 

 

 

 

 

 

 人死など、ありふれた世界ーーー

 

 家族を失い、泣き叫ぶ人を大勢見て来た。

 

 

 

 パチパチ、ゴウゴウと、森は赤い炎に包まれている。

 

 炎の壁は高く舞い、その向こうに見える赤い魔獣達を覆い隠す。奴等はユラユラと身体を揺らし、炎が消え去るのを待っているのだろう。

 

 所々に赤褐色の粘土らしき物が盛り上がり、その周辺には力付きた人形(ひとがた)が倒れ伏している。剣や矢は魔獣の死体に突き刺さり、幾本も折れて曲がっていた。

 

 魔獣との死闘は其処に終焉の世界を現出させたのだ。

 

 事象の中心にいる聖女は両膝を地面につき、真っ赤に染まった両手でユサユサと揺らす。

 

 起きて。 目を開けて……もう一度、黄金色の瞳をーーー

 

 

 

 

 ーー行かないで

 

 ーー捨てないで

 

 ーー置いていかないで

 

 ーーどうして、どうして

 

 

 

 

 慟哭は、悲鳴は、唇から零れたりしない。それなのに聖女の叫びは見る者の眼を通し頭蓋に直接反響する。魂魄を揺さぶるソレは、見慣れた筈の終焉の景色を涙で滲ませていった。

 

 黒神ヤト。

 

 司るのは悲哀、憎悪、痛み。

 

 ヤトの加護を一身に受けた聖女の、悲哀と憎悪の叫びは只人とは違うのか……ケーヒルはボンヤリとする意識で周りを見渡した。

 

 森人のフェイは、両膝を泥に落として頭を抱えて泣き叫んでいる。

 

 ジャービエルは珍しい雄叫びを上げて、赤い死体に剣を何度も突き立てている。

 

 新人と聞いたリンドは、両手をダランと落として茫然と立ち竦んだままだ。

 

 そして、ケーヒルの足元には血に染まった男が倒れている。さっきまで狂気を振りまいていたその男は、最早ピクリとも動かない。先程ケーヒルがトドメを刺した。

 

 

 ユサユサ、ユサユサ……聖女は飽きもせずに揺らし続ける。あの美しい翡翠色の瞳には涙の跡があり、その跡も新たに流れ出た涙に上書きされていく。

 

 声は出ていない、言葉は紡がれていない。それなのに声が聞こえる……それは幻聴なのか。

 

 それとも紡がれた言葉の幻視?

 

 今、間違いなく聴こえ、視えたのだ。

 

 ーーお母さん、と。

 

 その時、世界は真っ白な光に包まれていった。

 

 それは癒しの光なのか、それとも只の幻なのか。

 

 ケーヒルには判らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし、出るよ!」

 

 ロザリーはセンを発つマファルダストの面々に視線を送り、鞭を入れた。

 

 御者台の横には変わらずカズキが居て、先程手に入れたばかりの物を嬉しそうに眺めている。そう、両手で持つソレを嬉しそうに見ているのだ。

 

「揺れるし、危ないから仕舞っておきなさい……はぁ、聞いてないよねぇ」

 

 センで見つけたナイフは見事に仕上がっており、鈍い光沢と美しい刃紋すら滲んでいる。そして磨かれた事で益々聖女の瞳の色に近付き、偶然だろう真っ黒の鞘は象徴的な黒髪を具現しているようだ。

 

「そこまで気に入ってくれるなら、手に入れた甲斐があるけど……何か釈然としないねぇ……」

 

 別の店で見繕った可愛らしいイヤリングは、チラと見た後に箱に収まってそのままだ。 銀月と星の髪留めをしてくれただけ、まだマシなのだろうか?

 

「酒とナイフ……アンタ、ホントに女の子かい?」

 

 何処から見ても可愛らしい女の子にしか見えない相手だ。そのカズキに冗談をぶつけながらロザリーは馬を操っていた。

 

 

 

 マファルダストは予定通り直接は南に向かわない。ドルズスが計画した道を辿り、ケーヒル達に偶然を装って会う手筈だ。念には念を入れているが、果たしてそこ迄警戒するべきかロザリーにも判断出来ない。此処まで主戦派の気配は僅かにも感じ無かったのだ。

 

 カズキはセンに居た時と違い、森人と同じ服装に身を包んでいる。手に入れたナイフも腰や背中などに装備出来るだろう。

 

 未だ人の目がある以上マントを被っているが、漸く陽光を黒髪に届けられる。窮屈な思いをさせて来たが、もう少しだとロザリーは息を吐いた。

 

 ドルズスの話では訓練と称して村周辺を回っているらしい。早駆けと急停止を繰り返し、隊列を崩さない訓練を実際に行なっている……と聞いている。

 

「アンタとも、此処までかね……」

 

 一月にも満たない時間だったが、ロザリーにとってはキラキラと輝く日々だった。もう二度と会えない事は無いだろうが、カズキは聖女なのだ。一般の人間とは違う。リンディア王家は身近な存在ではあるが、それでも限界は存在する。

 

 ケーヒルがカズキの保護を求めたらロザリーは応じるつもりだし、それしかない。仮に主戦派が紛れていてもケーヒルなら御するだろう。

 

 ジッとマントから見え隠れする横顔を見ていたからか、カズキはナイフから眼を上げてロザリーを見返した。見る?と綺麗なナイフを差し出したカズキにロザリーは思わず吹き出す。

 

「ふっ……はははっ! いいよ、大事に抱えてな! ふふふ……」

 

 いきなり笑い出したロザリーに、カズキは意味が分からないと整った眉を歪ませた。

 

「くくく……やっぱりアンタは最高だよ。世界にたった一人しかいない聖女様なのに、まるでその辺にいる餓鬼じゃないか……ふふふっ……」

 

 寂しさはある。それでもカズキが居るリンディアなら、きっと幸せなんだろう。母親の真似事をもう一度出来るなど考えてもいなかったが、ロザリーは森人なのだ。森に潜り命を天秤にかける仕事に、本人が望みでもしない限り連れ回す事など出来ない。

 

 だから……心の中に浮かんでは消える寂しさを誤魔化し、笑顔で前を向いて進む。

 

 森人にとって別れは日常なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫くは無言の時が流れて、カズキは素顔を晒していた。

 

 風に僅かに揺れる黒い前髪と銀月と星の髪留めがキラリと輝く。伸びて来た後髪をクルリと纏め、髪留めでしっかりと固定している。うなじを隠しもせず刻印も露わになった。

 

 どうせこれから会う皆は聖女を知る者ばかりだ。窮屈な思いをして来たカズキに、少しでも気楽に過ごして欲しい。そう気遣うロザリーだが、万が一には備えている。マントはそのままで、頭部は何時でも隠す事が出来るだろう。

 

「姐さん」

 

「どうした?」

 

 前から後方に下がって来たフェイが隣に並んだ。

 

「前から連絡です。まだ遠いですが、騎士の一団が近づいて来ています。動きは緩やかで、危険な兆候はない様だとリンドは言ってますが……」

 

「へえ、リンドは本当に目が良いんだねぇ。まあ、挨拶くらいなら大丈夫だろうさ。もし情報が手に入る様なら呼んでおくれ。カズキには一応隠れて貰おう」

 

「分かりました。とりあえずは私が対応します」

 

「ああ、頼んだよ」

 

 ロザリーと合わせてフェイを見ていたカズキは、用事が終わったと感じたのだろう。再びナイフに視線を落とし、クルクルと鑑賞を始める。

 

「カズキ、人が来るみたいだから少しだけ我慢しておくれよ」

 

 意味が伝わりはしなくてもロザリーは言葉にしてカズキの顔を覆い隠した。カズキも特に逆らう事も無く、ロザリーのするがままだ。

 

「いい子……とは違うかね……? 夢中なもの以外に目がいってないだけ、かな」

 

 ロザリーは足の止まった馬車達を見て、御者台に立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マファルダストの御一行ですね? 同行をお願い出来ますか? 我らの()()がお待ちです」

 

 三騎の騎士達は馬上からヒラリと降りると、通る声で先頭にいたフェイに話しかけた。

 

「確かに我らはマファルダストです。 しかし、上官がお待ちとはどういう事でしょう?」

 

 ドルズスの話では偶然を装って合う筈だった。迎えを寄越すなど予定には無い。

 

「貴方はフェイ殿ですな? 皆さんなら良くご存知の筈だ。しかし、不測の事態により急遽の変更となった事をお詫びしたい。詳しくは上官よりお聞きなさるが良かろう」

 

 三人の中ではベテランなのだろう。フェイよりは歳下だろうが、それでも十分な貫禄を感じた。申し訳ないと顔を歪ませ、最後には柔らかな笑顔すら見せた。

 

「……少しお待ち頂きたい。隊長に取り次ぎます」

 

「勿論です」

 

 フェイはひとまずロザリーに状況を伝える事にした。

 

 道中に騎士や森人と出会う事はままある。その際はお互いに情報交換を行うのは一般的だし、立ち話すら珍しくは無い。今回もそのつもりだったが、どうやら事は単純では無さそうだ。

 

「判断に迷うところだな……」

 

 特におかしなところは無いが、事は聖女に関わる事だ。一応念を押しておく方が良いかもしれない。そう考えたフェイはリンドにロザリーへの伝言を頼み、騎士達に向き直った。

 

「暫くお待ち下さい。そういえば、訓練の真最中だとか。重い装備を抱えながらの訓練など、さぞ大変でしょう?」

 

「はっはっは……フェイ殿。誇りある森人にそう言って貰うのは嬉しいものですが、その内慣れるものです。リンディアの為、魔獣を倒す為の訓練となれば気合も入るものですよ」

 

「そういうものですか……? 国の剣と盾である騎士には何時も頭が下がる思いです。今はどういった訓練を?」

 

 ロザリーが来るまでに少しでも裏を取るべく、フェイは会話を続けた。

 

「……そうですな。色々とありますが、今は隊列組みの訓練です。崩さないまま突進し、即座に止まりて抜剣する。弓兵は背後に位置し距離を間違わない。単純ですが重要な訓練ですよ」

 

 ドルズスから聞いた訓練で間違いない。確定は出来ないが、一先ずは安心か……

 

「単純な行動には、時に他には無い力を発揮するものです。それを繰り返す事には深い意味があるのでしょう。そういえば、お名前を伺って無かった様です」

 

「おお、これは失礼した。 私の名は……」

 

 

 

 

 

 

「フェイ、待たせたね」

 

「状況は聞かれましたか?」

 

「ああ、不測の事態で迎えを寄越したんだろう?」

 

「ドルズスに聞いた訓練内容は一致しました。どうします?」

 

「……ケーヒルの旦那の名前は?」

 

「あちらも、こちらも出していません」

 

「ふん……従うしか無いだろうね……元々の予定地までの距離は?」

 

 フェイは離れた場所にいる騎士達に目を配り、答えた。

 

「単騎なら数刻でしょう。速い奴ならまだ短縮出来る」

 

 ロザリーは何時もの様に腕を組み、女性らしい膨らみを押し上げた。

 

「今のところ主戦派の影は見えないが……念を押しておこう。足の速い奴を2、3人予定通りに走らせる。理由は適当に作るさ」

 

 フェイに指示を出したロザリーは騎士の元へ向かった。

 

「待たせたね」

 

「ロザリー殿ですな。私はヴァディム、お見知り置きを」

 

「ロザリー殿はやめておくれよ。私は只のロザリーさ」

 

「ほう、噂に名高いマファルダストの隊長ですが、やはり素晴らしい御人柄ですな。了解しました、私の事もヴァディムとそのまま呼んで下さい」

 

「あいよ。直ぐに向かいたいところだが、センに重要な装備を忘れてきてね……今から隊を分けて戻すから待ってくれるかい?」

 

「ふむ、センならそう時間は掛かりませんな。ではこうしましょう。ロザリー達は我等に同行して下さい。上官にお会いになる頃には再び此処に戻られるでしょう? 我が隊から迎えを寄越します。残念ながら此処で留まっておく訳にもいきませんからな」

 

「ヴァディム、世話掛けるね。じゃあお願いするよ……フェイ! 聞いた通りだ、2、3人残しておくれ!」

 

「了解しました。では、移動するぞ!」

 

 少しして騎士達に先導されたマファルダスト一行は移動を開始した。

 

 

 

 

 ロザリーもフェイも……他のマファルダストの隊員達も、善良な人々だった。人の悪意を知ってはいても、自身の常識を超える想像など中々出来る物では無い。聖女との旅路は思いの外に幸せで、皆が浮ついていたのも否定出来ないだろう。

 

 魔獣の狂った悪意を良く知る森人達は、人が時に魔獣すら霞む行動に出る事を信じはしない。彼等にとって最も強い悪は魔獣以外にはいないのだから。

 

 その先に狂った宴、狂宴が待っている事も知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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46.赤と黒の狂宴②

 

 

 

 

 道中は有意義な時となった。

 

 ヴァディムは優秀な騎士なのだろう。幾つかの魔獣の情報を惜し気もなく晒し、森人の話を熱心に聞いた。ユーモアも交えて時に笑いすら起こったほどだ。

 

「そういえば聖女様は何処に?」

 

「人見知りだからね。馬車に隠れてるよ」

 

 どの馬車とは答えなかったが、ロザリーは正直に返した。

 

「ほう、やはり奥ゆかしい方なのでしょうな。我等のような無骨者では、お会いした途端に泣かれてしまうかもしれませんな……はははっ」

 

 奥ゆかしい……カズキを形容する言葉として、これ程に遠いものがあるだろうか。まあ、見た目だけなら何とか通じるかもしれない。

 

 ロザリーは内心笑いながらも、カズキの名誉の為に黙っておいた。

 

「まあ、そんなとこさ。ところで目的地はまだ遠いのかい?」

 

 位置としては当初と逆で南の森に近づいている。このままなら森を遠くに目視出来る程に接近する事になる。

 

「もう間も無くですな。目立たない様にあの丘の裾野に待機しています。此処からでは見えませんが、丘を越えれば直ぐに合流出来るでしょう」

 

「そうかい。ケーヒルの旦那は相変わらずかい?」

 

 此処までセンから離れればもう気は使わなくて良いだろう。そう思ったロザリーは漸く聞く事が出来た。

 

「副団長は変わりようが無いですな……王家への絶体の忠誠は誰にも勝てません。我等の魔獣への強い思いを束ねても追い付かない程です」

 

 何かが引っかかってしまうロザリーだが、そこ迄おかしな話でもない。気にせず続けた。

 

「へえ……おっ、見えて来たね」

 

 丁度丘を登り切った事で裾野に展開している部隊がみえた。人数としては中隊規模というところか。

 

 此処からはケーヒルの巨体は見えはしないが、何処かにいるのだろう。

 

「では、先行して皆さんの到着を報せて来ます。御一行はゆるりとおいで下さい」

 

 そう言うとヴァディムは騎士2人を残して丘を駆け下りて行った。中隊も今起き出したかの様に動き始めている。あちらからも当然マファルダストが見えているのだろう。

 

 ロザリーは乗っていた馬を預けてカズキのいる馬車迄歩く。御者台に幌から顔を出していたらカズキは、ロザリーが戻ったからか元の位置にちょこんと座った。

 

 丘から見える景色は特に代わり映えしないが、特徴的なのは彼方に森が見える事だろう。森までの間に僅かに見える盛り上がりは岩の塊だ。一部の森人はそこで準備を行い、森に入る。偶然なのか、そこはイオアン達が一時を過ごし背負袋を下ろした場所だった。

 

「あれは……爺様がよく使っていた岩だね。面白い偶然もあるものだよ」

 

 暫しイオアンを想ったロザリーだが、此処で立ち止まっていてもしょうがない。カズキの頭を撫でたあと、鞭に力を入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロザリーは先行して中隊に近づき、騎士達の顔が見える距離になる。目立つのは新人らしき若者達が多い事だろうか。ヴァディムの様なベテランはむしろ少なく、如何にも訓練している集団という趣だ。

 

 どの道既に伝わっている以上隠してもしょうがないと、カズキは素顔を晒している。やはり騎士達に警戒感があるのか顔が強張っていた。ロザリーはもう一度カズキの頭を撫でて安心させるよう笑顔を見せた。

 

「本当に黒髪なんだな……」

「ああ、眼も聞いていた通りの色だし、何より……」

「刻印だな……間違いない」

「献身と慈愛、リンスフィアの奇跡……」

「……アレが聖女か……」

 

 まだ多少距離があるとはいえ、カズキの特徴的な容姿と首元に見える刻印に騎士達はざわつき始める。不躾な視線を隠しもせず、遠慮のない言葉が耳に入りロザリーは気分が悪くなった。

 

「最近の騎士は礼儀がなって無いね。カズキが怖がってるじゃないか」

 

 言いながらも馬車を止めて、御者台から飛び降りたロザリーの耳に嗄れた声が響いた。

 

「それは失礼した。まだまだヒヨッコ共だ、多少はお目溢し願いたいな」

 

 集団から少し離れた方から一騎の騎士がゆっくりと近付き、ロザリーに声を掛けたのだ。

 

 焦げ茶色のザンバラ髪、無精髭、同じ色の瞳。

 

 側にはヴァディムが控え、彼が一定の立場にいる者と理解出来る。

 

 だが、その騎士を一目見たロザリーは顔色を変えた。忘れたくても忘れられないあの時、年齢こそ重ねたが間違いなく()()()が居たのだ。

 

「ディオゲネス……何故お前が騎士団に……お前は追放された筈だろう!!」

 

 ロザリーの憤怒の怒声は周辺に響き渡り、騎士団だけで無くマファルダストすら騒然とさせた。

 

「……会った事があるか? こんな美人を見たら忘れる筈もないが」

 

「お前が忘れても私は覚えているぞ……マリギの悲劇の元凶め、よくも私の前に顔を出したな!」

 

 ロザリーは今にも腰の小剣を抜きそうで、フェイやリンド達にも緊張が走る。

 

「落ち着けよ隊長さん。今の俺は教導官のディーだ。お前達と争う気は無いし、やるなら只では済まないぞ」

 

 ディオゲネスは変わらず脱力したままで、ロザリーの怒りすらまるで無い様に振る舞う。事実脅威には感じていないのだろう。

 

「教えろ! マリギで、撤退命令が出ていた筈だ……どうして命令を無視して魔獣どもを呼び寄せた!? アレさえ無ければ……フィオナは、ルーは、皆が助かったのに!」

 

「……ああ、お前マリギの生き残りか? 決まっている、魔獣がそこにいるなら斬るのが俺の仕事だ」

 

 新人達の中にはマリギ出身の者も居る。ロザリーの慟哭は幾らかの動揺を与えたが、ディオゲネスにはそんな事は関係ない。1人になったとしても剣を持ち魔獣に叩き付ける事しか頭には無かった。

 

「貴様……」

 

「姐さん、落ち着いて……拙いです、何処にもケーヒル副団長の姿が無い。此処を離れた方がいい」

 

 フェイの小声で我に帰ったロザリーは思わずカズキを見る。そしてカズキの様子がおかしい事に気付き、ロザリーは自らの怒りが消え去るのを感じた。

 

 胸に抱えたナイフがガタガタと揺れている。

 

 あの美しい翡翠色の瞳は一点から動く事もせず、薄紅色の唇は青白く変色していた。その内背後には背凭れがあるにも関わらず、少しでもそこから距離を取りたいのか後退ろうとしている。

 

 震えている?

 

 ロザリーは感情の発露が乏しいカズキが此処までの怯えを見せた事に酷く衝撃を受けていた。ならば動かない視線の先は……

 

()()()()()()()()()。 あの地下室以来か?」

 

 ニヤリともしないディオゲネスは、胸に装備したナイフを少しだけ抜いてカチリと戻した。

 

 ガタン!!

 

 それだけでカズキは馬車から飛び降り、反対側へと駆け出して行く。

 

「カズキ!!」

 

「追います! 姐さんも早く!」

 

 騎士達はマファルダストに危害を与える気は無い様だ。むしろディオゲネスの言葉に動揺すらしていた。

 

 目の前には愛する家族を殺したも同然の男が無表情で立っている。アレは事故だと理解はしているが、許す事など出来よう筈が無い。そのディオゲネスはカズキを見てはいるが、追う様子も見せず佇んだままだ。

 

「ディオゲネス、お前一体……」

 

「聖女様に久しぶりに会ったからな、少し悪戯が過ぎたか。アイツの力は凄いぞ、流石の俺も開いた口が閉じられ無かったよ」

 

 地下室、聖女の力、カズキの恐怖……

 

「……お前が、お前がやったのか!? カズキを傷付けて……」

 

 ここで初めてディオゲネスは笑い、ロザリーを見た。酷く気色の悪い笑顔だった。

 

「只の実験だよ。そして、その力は使える。正に聖女様だ」

 

 ロザリーは我慢出来ず遂に小剣を抜いた。コイツはフィオナ達だけでは飽き足らず、カズキすら殺す気だ。走り去ったカズキは気にかかるが、ディオゲネスだけは行かせる事を許せない。

 

「そんな事させない……」

 

 ロザリーが剣を抜いた事でマファルダストも騎士達も目が座った。

 

「お前ら!手は出さなくていい。ちょっとした勘違いだ。少しだけ話せば誤解も解けるさ、な?」

 

「ふっ……!」

 

 鋭い踏み込みで瞬時に接近したロザリーの剣は、小剣らしい小さな軌道で即座にディオゲネスに到達した。

 

 キンッ!!

 

 さっきまで無手だったディオゲネスの手には、既に剣が握られている。

 

「おー、痛ぇ……手が痺れるな。信じられない女だな、聖女といい最近の女は恐ろしいねぇ」

 

 全くその場から動かず、大袈裟に手を振って見せるディオゲネスからは余裕しか感じない。

 

 ディオゲネスの余裕の態度にも姿勢を変えず、ロザリーは真っ直ぐに小剣を構えて身体ごと突っ込む。鋭い突きはディオゲネスからは一つの点にしか見えないだろう。新人達もその速度と剣技に驚きを隠せなかった。無駄な動きすらなく、基本に忠実な足捌きと踏み込みを見れば、自らが防ぐ事が難しいと理解出来たからだ。

 

 キン!!

 

 だが……ロザリーの手には小剣は既に無く、音の直ぐ後には空をクルクルと舞い背後の土に突き刺さった。

 

「くっ……」

 

「はい、おしまい。さて……隊長さんよ、いいのかい? 言葉の理解出来ない御偉い聖女様は、何故か森へと向かっているようだ。あの餓鬼は森が危険だと本当に知っているのかな?」

 

 最早ディオゲネスは言葉を選ぶ事すらしない。

 

 逃げ出す時は丘では無く森に誘導する様に部隊を配置はしていた。しかし此処まで上手く行くとは笑いが止まらんよ……そう1人呟くディオゲネスの前でロザリーは慌てて振り返った。

 

 カズキは見事に馬を操り、南へと走り出していた。今回の旅の合間にロザリーが少しずつ教えていたからだ。

 

「……カズキ! 駄目よ!!」

 

 ロザリーは小剣を拾う事もせず、近くにいた馬へ飛び乗った。

 

「くくく……いよいよだな……」

 

 ユーニードには悪いが計画など関係ない……森は直ぐそこにあり、聖女は森へ向かっている。おまけに()()()()()()()()()()()()のだ。ならばやる事はただ一つ、漸くこの時が来たのだから……

 

 ディオゲネスは剣を鞘におさめると、振り返って命令を発した。

 

「聞け! 皆見た通りだ……聖女様は我等に森に来いと言っている。魔獣共に聖女を捧げるのか? 皆には何度も言った筈だ、癒しの力は我等に永遠の力を授けてくれる! 魔獣に剣を叩き付ける時が来たのだ! 我等には聖女がいる、全員騎乗!!」

 

 ザワザワと落ち着きのない新人達に更に声が掛かった。

 

「全員聞いただろう! ()()()()()の御命令だ! 復唱しろ!」

 

 ヴァディムはロザリー達に見せた笑顔は無く、新人達を睨み付けた。

 

「はは! 全員騎乗し、聖女と共に魔獣を!!」

 

 動揺していなかった新人の1人が復唱すると、次々と声が上がり始めて全員が騎乗する。中には混乱の中にいた者もいるが、集団心理には抗えなかった。

 

「よし、行くぞ! 森人達は相手にしなくていい! だが逆らったら思い知らせてやれ! 聖女は俺が確保するから牽制を頼む!」

 

 実際にカズキを見た興奮も其れを助けたのだろう、ディオゲネスの狂気は伝染していく。

 

 森人達の馬は脚の速さよりも、体力と膂力に特徴のある種類だ。重量物を長い距離に渡り引っ張る為には当然だろう。一方騎士達が操る馬は、速度と正確性を鍛え上げた馬種で追い付くのに問題は無い。

 

 マファルダストの一行も殆どは離れた場所にいた為、状況を未だ把握出来ていなかった。

 

 その中で動き出したのは、フェイ、ジャービエル、リンド、そしてロザリーだけだ。

 

「元の目的地にケーヒルの旦那がいる筈だ! ドルズスも居るから急ぎ知らせな! 奴等は……」

 

 主戦派だ……!

 

 ロザリーの悲鳴にも似た声はマファルダストの皆に響き渡った。

 

 随分先に達したカズキだが、まだ不慣れだからだろう。まだ十分追いつける!

 

「森に入るのだけは止めないと……」

 

 ロザリー達はカズキを救うべく全力で走り出した。

 

 そして、背後では騎士達がゆっくりと動き始める。

 

「カズキ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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47.赤と黒の狂宴③

 

 

 

 

 

「危ない……!」

 

 駆けるロザリーの視線の先には、先行していたフェイと今にも落馬しそうなカズキが見える。

 

 ただ無心に鞭を振るい、踏み固められていない平原を走るには余りに技術が足りないのだ。馬にもカズキの混乱は伝わり、明らかに制御出来ていない。

 

「カズキ! 落ち着いて!」

 

 伝わらないのは分かっているが、だからと言って我慢出来る訳が無いのだろう。

 

「姐さん、後ろを!」

 

 速度を落とさずに背後を見たロザリーは絶望感を覚えた。

 

「速過ぎる……くそっ!」

 

 既にディオゲネスの顔が判別出来る程の距離まで接近され、ロザリーは判断に迷う。これでは例えカズキに追いついても意味が無い。

 

「姐さん、森に入りましょう! 今はそれしか無い!」

 

「くっ……」

 

 ジャービエルとリンドが報せに走った。時間が経過すればケーヒル達が駆け付けるだろう。絶対にディオゲネスにカズキは渡したりしない!

 

「仕方がない! そのまま速度を落とさずにカズキと並走する……! フェイ、少し東にずれたところ……そう、アレだ! あの先は複雑な樹々が溢れる密集地帯だから騎士達も突入に躊躇する筈!」

 

「……流石です! 森なら我等が有利、なんとしても時間を稼ぎましょう!」

 

 もう森とカズキは直ぐそこで、なんとか森へ間に合うだろう。そう思った矢先だった。

 

 グラリとカズキが制御を誤り、馬に振り落とされた。

 

「ああ……カズキ!」

 

 あの速度で振り落とされれば、大怪我は免れない……思わず目を瞑りそうになったロザリーだったが、カズキはまるで獣の様に姿勢を空中で変えた。

 

 見事に地面に叩き付けられるのを防ぎ、ゴロゴロと草原を転がって衝撃を逃がす。いつの間にかナイフも掴んでおり、少しだけふらつきながらも立ち上がった。

 

「凄い……姐さん、そのまま走りましょう!」

 

「ああ!」

 

 カズキが立ち上がった瞬間に体を傾けて、走り抜き様に軽い身体を抱き締め馬上に戻す。

 

「カズキ! 私よ! お願いだから暴れないで!」

 

 ジタバタとロザリーの胸元で逃げだそうとしたカズキだったが、その声に暴れるのをやめてロザリーを見上げた。

 

 直ぐに身体の動きを止めたカズキに、拒否されて無いことを知る。危機的な状況ながら何処かホッとするロザリーだった。

 

 再度背後を振り返ると当然だが距離を詰められている。ディオゲネスの気色の悪い笑みさえ見えるかの様だ。

 

「行けるところまで突っ切るよ! 最悪馬は潰してもいい……!」

 

「先に! 少しでも時間を稼ぎます。ククの葉の泉で会いましょう!」

 

 森に入った瞬間速度を落としたフェイは、小剣を抜き辺りの枝木を折り始めた。只でさえ障害物の多い森にササクレだった木々や枝は武器にすらなる。飛び込む速度によってはタダでは済まないだろう。薄暗い森に騎士達も慣れてはいない、ましてや殆どが新人だ。

 

 一見視界が開けた様に見えるだろうが、足元や馬上の高さには障害物ばかりになる。ついでに馬にくくり付けてあった縄を放り投げて樹々同士を繋ぐ。態と黒く染めた縄はやはり見えないだろう。下手をしたら死人が出るが、奴等こそが死を運ぶ主戦派の連中だ。

 

「フェイ……済まない!」

 

 言葉が分からないカズキすら、フェイが決死の時間稼ぎを行うと理解出来た。やはり彼等は味方なのだ……カズキはそう思い、フェイに視線を送った。

 

 丁度ロザリーの声に応えて視線を向けたフェイに、カズキの翡翠色の瞳が交錯した。ニヤリと笑うフェイは更に力が増し、騎士達に立ち向かう勇気が溢れてくる。

 

「聖女よ! 姐さんを、ロザリーを頼む!」

 

 カズキから離れて行くフェイは見えなくなる最後まで笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 既に数人が落馬し動けなくなっていた。

 

「こりゃ凄まじいな……やはり森では奴等が一枚上手か」

 

 ディオゲネスは馬を捨て、既に森に降り立っていた。黒い縄に気付き声を上げる暇もないまま最初の1人がやられた。未だ意識はあるが助かりはしないだろう。他にも、槍の如くに尖った樹々の枝に傷を負わされた者も多い。

 

「どうしますか?」

 

 ヴァディムは動揺すらせず、ディオゲネスに指示を仰ぐ。

 

「このまま進むさ。奴等も馬は捨てるだろうし、俺達には幾つも手があるからな」

 

「そうですか……では隊を分けますか?」

 

「その必要は無い。奴等には考えも付かないだろうが、この森には俺達以上の狩人がいるからな。奴等を焚き付ければ簡単に居所は割れる。それに聖女を抱えている以上、速度は出ないさ」

 

 つまり魔獣を利用する、そう言っているのだ。

 

 ディオゲネスの狂気は今やユーニードを超え、笑みさえ浮かんでいた。

 

「全員に燃える水を用意させろ、直ぐに必要になる」

 

「はっ!」

 

「聖女よ、その力、存分に見せてくれよ……お前はその為に神々から加護を受けたのだろう?」

 

 ディオゲネスもナイフと燃える水を両手に持つと、森人が進んだであろう薄暗い森の奥を睨み付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロザリーとカズキは既に馬を降り静かに森を進んでいる。行方を悟られない為に馬の尻を叩き、自分達とは違う方向に走らせた。

 

 だがロザリーが思う程の速度は出せていない。

 

 理由は簡単で、カズキが余りに無頓着に森を進もうとするからだった。背後の追手こそ気にしているようだが、むしろ恐怖の象徴である森の最奥に気配りは無い。

 

「カズキ、もっと静かに……! 奴等に気付かれるよ……」

 

 小声でカズキの腕を取り、大木の幹へ体を潜ませる。

 

 カズキは、どうしたの?と怪訝な顔を見せた。

 

 カズキの異常性を今程感じた事はなかった。聖女の異質をロザリーはまざまざと目にしている。

 

 この世界で生きていれば赤子以外は森に恐怖を抱くだろう。死と恐怖の象徴である魔獣の住処は森なのだ。森の側にいないリンスフィアの住民さえ、姿の見えない魔獣に漠然とした怖気を絶えず感じているのに……森人でない人間が森に放り出されたら、余りの恐怖に身動きすら出来ないのは間違いない。

 

 これではまるで……まるで本当に何も知らない赤子ではないか。それとも黒神の加護がそうさせているのだろうか……

 

「……とにかく進まないと……」

 

 森の中で手を塞ぎたくはないが、これでは仕方がない。カズキの手を強く握り再び足を動かして進む。

 

 その時、背後から僅かに森の大地を踏みしめる音がした。一気に警戒感を強めたロザリーだったが、すぐに緊張を解く。

 

「フェイ、無事かい? 怪我は?」

 

 現れたのは先程別れたフェイだった。見る限り負傷はしていないようだ。

 

「私は問題ないですが……」

 

 目は余りに遅いと非難すらしていたが、当然だろう。生きて会えるかも不安だったのに、僅か数刻で再会するなど想像もしていない。いくらカズキがいたとしても、ククの泉まで追い付けるとは思ってもいなかったのだ。

 

「分かってる……今は説明するのも惜しい、行くよ」

 

 フェイは何かを言い掛けたが、無言で肯きロザリー達から距離を取った。森人達の知恵であり、イオアンからも教わった警戒行動だ。本来は三人以上が必要だが、それを言っても仕方が無い。

 

 カズキは未だ眉を顰めて、何をしてるのだろうと不思議がっている。ロザリーは大声でカズキに魔獣の脅威を教えたかったが、二重の意味でそれも叶わない。

 

 カズキの視線を無視して、少しずつ前へと奥へと足を動かすしかないのだ。騎士達も森の恐怖に駆られ遅々として行軍出来ていないだろう。

 

 だが彼等の……ディオゲネスの狂気は、そのロザリーの想像を簡単に踏みにじっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「馬鹿な……奴等死にたいのかい……?」

 

「これでは直ぐに魔獣に見つかります……どうしますか?」

 

 ディオゲネスを筆頭に、静かに進むべき森を堂々と行軍しているのだ。中には松明すら持ち、ロザリー達の痕跡を探している者までいる始末だ。当然だがロザリーやフェイの速度と比べるのも馬鹿らしい。最早目視出来る距離で、見つかるのも時間の問題だ。時間に追われ、痕跡を消していかなかった自分達の失敗だろう。

 

「くそっ……仕方がない……何とかやり過ご……」

 

 バキッ! ……ズドン!

 

 ……来た……奴等だ……赤褐色の、死を運ぶ人の天敵……魔獣。

 

 無毛の肌、鋼の如き筋肉、食物を摂取するのか想像も出来ない長い牙、人の腕ほどもある爪、歪な短い後ろ足と尾の無い臀部。

 

 とても森に最適化した生物とは思えない。人より遥かに巨大な体躯と、保護色でもなく捕食者の工夫も見えない体色は遠くからでも分かる程だろう。なのに、此処まで近づかれて初めて気付く……どうやって気配を消しているのか想像も付かない。

 

 だがある一点のみ、どんな生物より最適化されている。

 

 人を殺す……ただそれだけを追い求めたが如く、奴等は存在するのだから。

 

「……まだ数匹だが、騒げば騒ぐほど集まるよ」

 

「もう動かない方がいい。くそっ、装備があれば……」

 

 森人の装備の大半は馬車に置き去りだ。悔いても仕方がないが、この場面では一つでも欲しい。

 

 ロザリー達から見て左側からゆっくりと騎士達に近づいている。騎士達は今頃になって気付いたのだろう、松明を放り投げて抜剣した。

 

「馬鹿が……やはり戦う気か……」

 

 勝てる筈が無い。奴等に出会えば松明だけで無く、全てを捨てて走り出すしか無いのに……

 

 ガァーーグオォォォーーー!!!

 

 先頭の魔獣は腹に響く唸り声を上げて、僅かに浮き上がる程の速度で騎士達に躍りかかる。

 

 ゴギャッ!

 

 一振り……たった一振りした腕と爪に、騎士2人は剣ごと真っ二つにされた。勿論比喩などでは無い、文字通りの肉塊になったのだ。

 

「う、うわーー!!」

「こんなの、こんなのどうすれば……!」

「剣も鎧も意味なんて……」

 

 血に塗れた爪をそのままに、魔獣は歓喜の雄叫びを上げる。

 

 グァァーーー!!

 

 笑っている……そうとしか思えない……直ぐ近くに獲物である人がいるのに、それ以上は襲い掛かってこないのだ。捕食ではない、ただ殺戮を楽しむだけに其処にいる。

 

「うらぁ!!」

 

 ズドンッ!!

 

 およそ生物が出すモノとは思えないそれは、赤褐色の腕が一本吹き飛んだ音だった。

 

 グ、グギャーーー! キーーーッ!

 

 魔獣も痛みは感じるのか、無茶苦茶に残った腕を振り回して暴れ始めた。それを成したディオゲネスは笑いながら声を発する。

 

「はははっ! 見ろ! 魔獣であろうと血は流れ痛みを覚えるんだ! 怯むんじゃねぇ! 円陣形を組んで声を出せ! 必ず近くに聖女がいる。餓鬼の興味を引くんだ!」

 

 仲間がやられた筈の魔獣達は、何故かそこから動かずに見物するようだった。

 

「奴は何を言ってるんだ……?」

 

 見つからない為に今は動けない。騎士達の僅かに距離を取れたロザリーは、少しだけ余裕があった。それに逃げたくても自分達の背後はかなりの崖になっていて、魔獣達の側を抜けるしか手はない。腹立たしいがそれを知る魔獣達は、人間をじっくりと弄ぶ気なのだろう。

 

「姐さん、今の内に少しでも森に溶けましょう。まだ、大きな動きは出来ない」

 

 見物しているとしか思えない魔獣達に見つかれば、やはり終わってしまう。幸い魔獣の悲鳴と騎士達の怒声はロザリー達に味方する。

 

「ああ、そうだね。カズキ、暫くは此処でジッとしていておくれ」

 

 今は何とかやり過ごすしかない。出来るだけ森に同化して魔獣の意識外に居なければならないのだ。

 

 多少落ち着いた騎士達は距離を取りつつ、切り付けては離れを繰り返し始めた。魔獣も振り回す片腕では、決定的な致命傷は与えられない。それでも何度も吹き飛ばされたり、鎧ごと爪の餌食になって後退する騎士達がいる。今は助かってもあの出血量では、どの道時間の問題だろう。

 

 ロザリーは敷き詰められた苔や根を躱し、柔らかな土壌から泥状の土を掘り始める。合わせて静かに枝木を手折り、目隠しを作っていく。

 

 フェイもロザリー達を何としても守るため、2人から視線を外して使えるモノに当たりをつけていた。

 

 

 

 

 だから、2人は気づかなかった。

 

 カズキから表情が消え、騎士達に視線を送っている事を。血を流し、のたうち回る若き騎士から目が離せなくなっている事を。

 

 ゆっくりと立ち上がり、胸に抱いていたナイフを鞘から抜いた姿も。

 

 フラフラと数歩ほど歩き出し落ちていた枝を踏み抜く音がするまで気付かなかったのだ。

 

 そして……ディオゲネスが直ぐに此方に気付き、壮絶な笑みを浮かべた事も見てはいなかった。

 

 狂った慈愛と自己犠牲、利他行動の刻印はどこまでも働きかけてカズキを突き動かす。

 

 そして癒しの力……聖女を聖女たらしめるのだ。

 

 ロザリーが気付いた時には全てが遅かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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48.赤と黒の狂宴④

 

 

 

 

 魔獣の恐ろしさは数多く語られている。

 

 人を遥かに上回る質量は、それ自体が武器になる。走り寄られるままに踏み付ければ人など只の風船だ。繰り出される腕や爪をまともに受ける事は自殺行為以外何者でもない。

 

 また、巨体で有りながら気付けば背後にいた……そんな話も森を恐怖の園にしている理由の一つだろう。

 

 他にも恐怖を体現した体躯もそれに数えられる。腹に響く唸り声や叫びと合わせ、心の弱い者は身動きも出来なくなるのだ。

 

 だが……魔獣と戦う、戦った者なら違う証言をする。戦場から生きて帰った者のほぼ全てが必ず、体を震わせながら口にするのだ。

 

「恐ろしいのは、数だ」と……

 

 確かに魔獣は恐るべき怪物だが、倒せない相手ではない。過去、或いは現在の英雄達が何匹も葬ってきた。指揮を取るケーヒルや、王都に居るアスト、若き日のカーディルなどもそれに数えられるだろう。

 

 森で魔獣と遭遇したら、全てを放り投げて逃げろ……森人達が口を揃えるのは、過去からの経験が物語るからだ。

 

 たった数匹なら……そう考えた者は、最期は埋め尽くす赤い壁に囲まれて絶望するしかない。

 

 

 

 

 

 

「カズキ……何を……!」

 

 ……そうか……しまった! アスト殿下からの手紙に……

 

 ロザリーは此処に至って漸く思い出した。

 

 テルチブラーノでの癒しもカズキ自らの意思だったし、血肉を捧げるとは言えこの様な状態を見てはいなかったのだ。

 

 しっかりとあの長文には書かれていたではないか……!

 

 救うべく人が目の前にいれば、カズキの意思とは関係無く聖女の力を行使する。その強制力は想像を超え、カズキから自由すら奪うのだと……

 

「カズキ……!」

 

「姐さん、もう遅い! 奴に見つかってしまう。今は隠れて機会を窺うんです!」

 

 今にも飛び出しそうなロザリーを無理矢理押さえ付けて、フェイは何とか木の影に押し込んだ。勿論ディオゲネスも付近にロザリー達がいるのは分かっているだろうが、態々探す事などしないだろう。その可能性に賭けるしかない。

 

「ああ……カズキ……」

 

 あれ程恐怖に駆られた筈のディオゲネスにあっさりと捕まり、カズキはズルズルと騎士達の近くに連れて行かれた。

 

「姐さん、落ち着いて! 奴等にとって聖女は生命線だ、何としても守るでしょう。兎に角近づくんです!」

 

 薄汚いディオゲネスの腕にカズキが捕まり、素肌に触れているのを見ればロザリーは怒りで狂いそうになる。

 

「くそっ……! ディオゲネス……!」

 

 早速倒れた騎士に近づいて、カズキは手にナイフを当てた。あの美しいナイフはカズキを守る為に渡したのであって、そんな事に使って欲しくはない。そうして直ぐに白い光が溢れ、暫くすると若い騎士は立ち上がり奇跡に慄いている。

 

 魔獣と戦いながらもどよめきが立ち、騎士達の士気は見るからに上がった。

 

「見たか! 我らには聖女がいる。死ななければいい! 直ぐに聖女が癒して下さるぞ!」

 

 ギリリ……!

 

 ロザリーは余りの怒りに歯を強く噛みしめたが、本人は気付く事も無かった。

 

 それを知った訳ではないだろうが、ディオゲネスは更に指示を出す。

 

「あの崖まで下がれ! 円陣はそのままで燃える水を使うんだ! 魔獣は火を恐れるぞ。各個にブチ殺せばいい!」

 

 背後の憂いを絶てば、聖女を中心に戦い続ければいい……ディオゲネスはそう考えたのだろう。いつかは力尽きるが、それまで魔獣を殺せば良い……その狂気は最早正常な思考を許しはしない。

 

 奇しくもロザリー達に近づいて来たディオゲネス達は、隠れる2人に気付く事も無く直ぐ側に陣形を組み直していく。

 

 これなら……未だ方法など浮かばないが走り出せば手の届く場所まで来れば助ける事も出来る!

 

 ディオゲネスは物を引き摺る様に首に腕を回し、数歩先の大木にカズキを押しつけた。そしてカズキからナイフを奪い取ると、細い右手を幹に押しつけて掌を開かせた。

 

 まさか……!? よせ!

 

 グジュ!

 

 そう思うロザリー達の目の前で、躊躇無くカズキにナイフを突き立てたのだ。貫いたナイフは幹に深く刺さり、カズキを磔にする。そして真っ赤な血が直ぐに流れ出して、細い腕を赤く染めていった。カズキは悲鳴こそ上げないが、綺麗な顔を酷く歪ませて強烈な痛みを表している。

 

 もう我慢出来ない! フェイの持つ小剣を引き抜き駆け出しかけた時だった。

 

「……姐さん! アレを!」

 

 やっと……やっと味方が来たのだ! アレは間違いなくケーヒル達で、側にはジャービエルとリンド、ドルズスの姿もあった。

 

 距離はあるが、頼もしいケーヒルの声が森に響き渡る。

 

「全員抜剣! 魔獣を蹴散らしつつ、聖女を奪還して森を出る。残念だが彼奴らも敵だ、神々の使徒である聖女を傷付けるなど許す事は出来ない! 行くぞ!」

 

「「「おう!!」」」

 

 残りの魔獣達も新たな獲物の登場に歓喜したのだろう、ギャーギャーと騒ぎ始めた。

 

「フェイ、行くよ!」

 

「ええ、行きましょう。 俺が背後から近付き奴の気を引きます、姐さんは後から聖女を!」

 

「ああ!」

 

 新たな騎士団の登場に目を向けるディオゲネスを殺してやりたいが、ロザリーは早くカズキを抱き締めたかった。

 

 混乱に乗じ、2人の森人も動き始める。

 

 狂乱の宴は始まったばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちっ……ケーヒルの旦那かよ。流石に旦那を相手にするのは骨が折れるな」

 

 だが今は魔獣がいる……手にした燃える水の瓶を振り被り、見事な狙いで騒いでいる魔獣まで放り投げた。

 

 ディオゲネスは続いて燃え盛ったままの松明を掴み、思い切りぶん投げる。執念の成せる技か、此れも見事に届き、爆発する様に炎が立ち昇った。

 

 キーーー!!

 ギギャーーー!!

 

 赤い炎に包まれた魔獣の悲鳴は、更なる狂気を呼び込んだ。続々と森の奥から魔獣が集まり始めたのだ。

 

「マリギと一緒か。くくく……魔獣共は代わり映えしないな。全部殺してやるよ!」

 

 痛みに苦しみ、もう片方の左手でナイフを抜こうとするカズキにディオゲネスは顔を向けた。ディオゲネスが力を込めたナイフは硬い幹に深く刺さり、カズキの力では抜く事が出来ない。

 

「聖女様、お手伝いしましょう」

 

 汚い笑みを浮かべたディオゲネスは残る左手を掴み、磔を完成させようとする。

 

 折角の宴から聖女が退席するのを許す訳にはいかないし、自らが聖女のお世話などやっていられない。魔獣の悲鳴をもっと、もっと聞きたいのだ。この大木を治癒院に見立てて、負傷者を運び込む……そう考えたディオゲネスの行動だった。

 

 その時背後から近づいたフェイは、ディオゲネスの首を狙って小剣を素早く横に薙いだ。その技量はケーヒルが見ても見事だと唸るだろう。

 

 ビュッ!

 

「っと……危ねぇ……流石森人だな。気付かなかったよ。だが、惜しむらくは首じゃ無く胴を狙うべきだったな」

 

 それ程の剣にも余裕を崩さないディオゲネスは、いつの間か抜いた剣をユラユラと揺らした。

 

 ブシュ……! 分かりやすい音がしたと思うと、フェイの右腿から血が吹き出した。躱し様に抜いた剣を振りかぶること無く、短く引いたのだ。

 

「な、なに!?」

 

 揺れるディオゲネスの剣には真新しい血が付着している。ロザリーもフェイも剣の達人とは言えないが、それでもディオゲネスが尋常では無い剣士だと思い知った。

 

「俺をやりたいなら、ケーヒルの旦那かアスト殿下でも連れてくるんだな。お前らでは力不足だよ」

 

 ケーヒルは勿論だが、アストも只の騎士では無い。ディオゲネスをして、勝てると言い切れない相手はやはり存在する。

 

 だが……

 

 果たしてアストやケーヒルはコイツに勝てるのだろうか? 軽い口調に反して、ディオゲネスが人に見えなくなってくる。フェイは絶望感が湧き上がるのを止められなくなっていた。

 

「なぜ……それ程の強さを持ちながら……」

 

「あーあー……もう聞き飽きた。いいから早くかかって来いよ、其処の隊長さんもな」

 

 フェイの負傷に動揺しながらも、息を潜めていたロザリーにも目線を送った。

 

「来ないなら、聖女様にお仕事をして貰うまでだ。俺は早くあの戦場に行きたいんだよ。下らない時間稼ぎに付き合うつもりはない」

 

 周囲は阿鼻叫喚の絵図へと変貌したが、ディオゲネスは変わらずに平坦な嗄れ声をこぼした。

 

「……ディオゲネス……それ以上カズキに手を出したら……」

 

 あっさり見つかったロザリーは、立ち上がって気を吐いた。

 

 ディオゲネスは胸の剣帯からナイフを抜くと、ほぼ視線すら送らずに肘から先の振りだけで其れを投じた。そのナイフは背中を見せていたカズキの肩に刺さり、やはり聞こえない悲鳴が上がる。脱力したカズキは思わず腰が落ちたのだろう。刺さったままの右手のナイフが更に傷を深く抉り、瞳から涙が流れ出るのが見えた。

 

「貴様!! 何を!」

 

「時間稼ぎには付き合わないと言った。 俺は魔獣に用があるんだ、よ!」

 

 一気に踏み込んだディオゲネスは、小剣を持つフェイの手首を簡単に切り裂いて笑う。

 

「ぐっ……!」

 

「フェイ!」

 

「あらら、大変だ。早く治療しないと出血で死ぬぞ。おっと、丁度目の前に治癒が大好きな少女がいるじゃないか。安心していい、聖女の意思など関係ない事は実験済みさ」

 

 何処までも巫山戯るディオゲネスにロザリーは憤怒の感情を抑えられないが、同時に奴の異常な強さに手を出す事も出来ない。

 

 悔しいが、旦那の力に頼るしか……!

 

 一瞬だけロザリーはケーヒルを探したが、次の瞬間には驚くべき現象が起きた。

 

 ズドッ! 

 

 ディオゲネスの肩に矢が生えた。いや、誰かが放った矢が見事に突き立ったのだ!

 

 見ればマファルダストの一団が近付き、其処から矢が放たれた様だった。

 

「……っつ! ちっ……こりゃお遊びが過ぎたか……流石に森人の弓は凄まじい」

 

 森の中の森人は弓兵などより遥かに強力な兵士だ。矢は黒く染められ、ご丁寧に黒羽すら使われている。薄暗い森で放たれた矢を目視するのは至難だろう。

 

 流石のディオゲネスも、素早く側の木に隠れて射線から逃げるしかない。

 

「ドルズスか! 姐さん、今だ!」

 

 フェイには、残心の姿勢を崩さないドルズスが見えていた。

 

「ああ! カズキ待ってな……今行くよ!」

 

 膝を落としているフェイも気になるが、兎に角カズキを助けないと! 背中に刺さったナイフすら抜く事が出来ていないのだ。痛みで震えていても、右手のナイフが蹲るのを許さない。

 

 ロザリーは素早くカズキが磔にされた大木に駆け寄った。

 

 だが、肩から矢を引き抜いたディオゲネスは信じられない行動に出る。

 

 未だ構えを解いていないドルズスに構わず、姿勢を低く飛び出してロザリーに肉迫したのだ。驚いたドルズスも再度矢を射掛けようと弦を引いたが、出血で膝をついたフェイの背後に入り、そのままロザリー重なれば放つ事など出来なかった。

 

「さて、ねーちゃん……って程の年でもないか」

 

 既にドルズスの位置も見切っているディオゲネスは、ロザリーを射線に立たせて背に剣を当てる。

 

「見ろよ、あの魔獣の数を。マリギの再現だが、唯一の違いは聖女だ。俺とケーヒルの旦那、お前達森人が居れば勝てるかもしれない……な。お前等! コイツらを見張ってろ! 魔獣が近づいて来たら放り投げていい。勝手に聖女の為に戦うさ!」

 

「「は!!」」

 

 ドルズスも魔獣の接近に此方を気に掛ける余裕が無くなりつつあった。

 

「くそっ……カズキを……」

 

「負傷した者は引き摺ってでも此処に連れて来るんだ! 治癒が遅れる様なら、死なない程度に聖女を傷付ければいい! それが聖女の使命だ、気にする必要はない……見ろ、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 余りに悔しく、自分の無力感に思わずカズキを見て……ロザリーはヒッと小さな悲鳴を上げた。

 

 先程まで痛みに苦しんでいたカズキは、フェイの怪我を見て身体を傾けていたのだ。右手のナイフが邪魔をしているのに、それすら無視してフェイに左手を伸ばしている。引かれた右手は更に出血が激しくなり、今にも掌を引き裂いてしまいそうだった。

 

「そんな……なぜ? カズキ、やめて……お願いよ!」

 

「なんだ、隊長さんはアレを見るのは初めてか? あれこそ聖女だよ。ハハッ! 献身と慈愛、素晴らしいじゃないか!」

 

 早くフェイとやらを聖女に助けさせた方がいい、手が裂けるぞ? そんな残酷な台詞を吐きながら、ディオゲネスは魔獣の群れへと歩き出す。

 

「その森人を治癒させろ! 折角だからやり方を覚えるんだ。左手に患部を当て、足りないなら左手も切り裂けばいい! 聖女だけは逃すなよ!」

 

 見張りに来た騎士三人は戦場の狂気に当てられたのだろう、歪んだ笑みは常人では無かった。

 

 カズキが自らの意思で聖女の力を行使したならば、左手どころか何処かに触れるだけで瞬時に完治する。リンスフィアの奇跡を詳しく知らないディオゲネス達には、左手こそが力の発現場所にみえるのだろう。

 

 今の聖女には本来の力など出す事は出来ないのに……

 

 ディオゲネスは狂気の眼をギラリと輝かせると、緩やかな歩みを止め剣を抜く。そして駆け出していった。魔獣蠢く戦場へ……心の中で狂気の怨嗟を叫びながら。

 

 

 

 

 漸く、漸くだ……この時を何年も待った。

 

 魔獣め、好きなだけ叫べ。

 

 ()()()()……お前の死と苦しみを何倍にもして、奴等を縊り殺してやる。

 

  待ってろ、直ぐにーー

 

 殺す。叫べ。

 

  俺も直ぐに行くーー

 

 必ず殺し尽くす。

 

  待っていてくれーー

 

 

 

 

 刻印、つまり神々の加護は力を与える。それはときに精神にすら影響を及ぼすのだ。幾人もの人が英雄となり、中には常識を超えた戦士も居たと言う。今や万人に一人と言われる使徒は非常に少ない。だが、ゼロ、では無い。

 

 ディオゲネスの頭部に刻まれた刻印……黒神ヤトの加護、憎悪の鎖縛(さばく)

 

 焦げ茶色の髪に紛れて、其れは見えない。

 

 ずっと昔に刻まれた刻印は、ディオゲネスを導くのか……それとも聖女の刻印、例え薄れても消えない憎しみの連鎖と共鳴しているのか。

 

 ディオゲネスは今まで感じた事の無い万能感を覚え、歓喜していた。

 

 その憎悪が魔獣にのみ向けられるのは、神々の意思なのだろう。

 

 黒神ヤト……司る力、加護は……

 

 悲哀、そして、()()()()()

 

 魔獣への神の尖兵、たった一人しかいない聖女の(しもべ)……其れを自覚しないディオゲネスは剣を両手で強く握り、雄叫びを上げた。

 

 

 

 

 

 



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49.赤と黒の狂宴⑤

 

 

 

 

 

 赤い炎は魔獣の身体を更に濃くして、その悲鳴は次々と悪夢を呼び寄せるだろう。

 

 森の奥からは一匹、また一匹と集まりつつあった。

 

 

「よし、そいつはいい! 左手を牽制しながら聖女の方に近づくぞ!」

 

 ケーヒルは放たれた矢が魔獣の頭蓋に刺さるのを見て、素早く周囲を確認した。

 

 聖女のいる場所まで魔獣の壁はまだ二匹いる。時間を掛ければ直ぐに不利となる事を知るケーヒルにとって、今は少しでも早く森を出る必要があった。

 

 だが、どうする……このままでは……

 

「副団長さんよ、アンタはあそこから回り込んで聖女の元へ行け。ジャービエルとリンドも使っていい、こういう時は森人が役に立つ。それに見えないが、あの先は崖で背後に逃げ場はないんだ。なんとかこっちに連れて来るしかない」

 

 南の森をよく知るドルズスは、此処からは見えない地形も把握していた。更に言うとあの焦げ茶色の騎士は只者じゃない。さっきの動きといい、森に同化している森人をあそこ迄簡単に見切るなど信じられない。

 

「あの男は普通じゃない……ロザリーもフェイもその辺の騎士には引けを取らないのに、相手にもなってないとは。それに時間を掛けられないのはご存知だろう? 直ぐにこの辺りは魔獣で埋まってしまう」

 

「それはそうだが……此処をどうする?」

 

「魔獣を倒すのでは無く、アンタが戻るまでの時間を稼ぐのなら何とかなるだろう! そうだろ!?騎士さんたちよ!」

 

「おう!! ……副団長、アイツは間違いなくディオゲネスです! 生半可な奴では歯が立たないし、此処は何とかしますから……うおっ!」

 

 危うく魔獣の餌食になりかけたが、見事に姿勢を低くして躱した騎士が叫んだ。古株の騎士にとってディオゲネスは、憧れであり恐怖でもあった。

 

 あの狂気が無ければ、アストと並ぶ英雄となっただろう。噂では近しい人が魔獣にやられ、気が狂ったと言われている。家族を失くした者は多いが、ディオゲネスは突出して強く魔獣を憎んだ。

 

「それしか無いか……私が戻るまで何とか耐えてくれ!」

 

「牽制する! 構え……放て!」

 

 魔獣とその向こう側にいる主戦派の騎士達に、矢をばら撒いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「下がれ! 聖女のところへ連れて行くんだ! そっちはもういい、死んでる!」

 

 ヴァディムは声を荒げて指示を出していた。

 

 魔獣共が本気で掛かって来ない事が一番の理由ではあるが、新人達にしては良くやる。間違いなく聖女の加護のお陰だろう。即死さえしなければ、彼女が癒すのだから当然だ。

 

 素晴らしい……たったこれだけの戦力で、しかも大半は素人同然のヒヨッコばかりだ。もし戦力と戦略を整えて魔獣と相対したら、どれだけの戦果になるのか想像もつかない。

 

 ヴァディムはディオゲネスの強さを信じているが、聖女に関しては半信半疑だった。だが、明らかな過小評価だったと詫びなければならないだろう。

 

「治癒は勿論だが、魔獣への恐怖をここ迄軽減出来るとは……聖女が居るだけでこれ程違うのか」

 

 実際は聖女の力は封印されているし、カズキの意思が無いのなら十全に発揮すらしていない。それでも聖女を初めて見た者には衝撃的な事だった。

 

 ドッ……!

 

 ヴァディムの横に誰かが吹き飛んで来た。剣で受けようとしたのだろう、両手は歪に曲がって原型は留めていない。

 

「う、うぎゃーーー!! 腕が……俺の腕が!?」

 

「力は受け流せと教わっただろう? 足が動くなら自分で聖女の元へ走れ!」

 

 涎と涙を流し這うように戦線から離脱する騎士に目もくれず、ヴァディムは空いた穴に自らを滑り込ませた。

 

「ふっ」

 

 それと同時に魔獣の上腕を愛剣で薙いだ。基本に忠実に一撃に賭けたりせず、浅くとも傷を負わせる事に注力する。

 

 ウギィィァァ……!

 

 僅かとは言え傷付けられた事に怒りを覚えたのか、魔獣はヴァディムを睨んで反対側の腕を叩き付けようと振り落とした。

 

 ドゴッ!

 

 柔らかい腐葉土は鈍い音を立てながら、抉れて弾ける。だが、ヴァディムの姿は其処に無く、更なる追撃を与えながらも数歩分距離を取った。

 

 身体が軽い!

 

「弓兵! 次だ、放て!」

 

 間合いを取りながら、構えを解いていなかった兵達は即座に反応した。

 

 ビィン!

 

 まるで一つの音の様に同時に放たれた矢は、吸い込まれる様に魔獣に殺到する。

 

 ズドドッ!

 

 眼球や頭蓋、咽喉元にも突き刺さった矢に魔獣は悲鳴すら上げずに倒れ伏した。

 

 いける……魔獣め、苦しんで死ぬがいい!

 

 魔獣は尽きる事なく次々と姿を現し始めていたが、戦場に酔う騎士達に後退の意思は無かった。ヴァディムすら例外では無い。魔獣の真の恐怖はこれからなのに、魔獣打倒の歓喜は正常な判断を狂わせていく。

 

「いいぞ! 我等は聖女の加護に守られている! 左翼は更に展開、燃える水で壁を作れ! 魔獣の攻め口を限定させる!」

 

「「おう!!」」

 

 当初の予定通り、魔獣共が四方から殺到するのを防ぐ為に炎を使う。魔獣が恐ろしいのは数だ、それさえ抑えれば後は聖女の治癒が支えるだろう……ディオゲネス、いやユーニード軍務長が以前から提唱していた作戦の通りになるのだ。

 

 あとはディオゲネスが合流すれば、全ては上手くいく……ヴァディムに恐怖は無く、歓喜だけが身体を支配していた。

 

「よし、火を放て!」

 

 ヴァディムから見て左手に炎の壁が出現する。燃える水は長時間火を放ち続け、魔獣を遠去けるだろう。

 

 背後にあるのは聖女と崖だ。偶然の地形だが、神々が味方して下さる……そう思うヴァディムには何も見えていなかった。既に数人は死亡し、聖女は凄惨な姿に変わっている。炎に遮られた先には騎士を上回る数の魔獣がひしめき合っているのに。

 

 そして……魔獣は決して本能のままに動く獣などでは無い。此処から程遠くない場所で、練達の森人イオアンが命を替わりに知った事実だ。

 

 間も無く騎士達は蹂躙されるだろう。若い騎士も老練の戦士も、森人すらも。

 

 魔獣はその為にいるのだから……

 

 

 

 

 

 

 

 

「副団長、もっと身を低く」

 

 ジャービエルは普段開かない口を頑張って動かしていた。リンドは側にいるが、流石に新人の森人に求めるのは酷だと思ったのだろう。

 

 煩かったリンドも今は顔を青くして、ひたすら無言で足を動かしていた。リンドを動かすのは、傷付けられていくカズキを救いたいと言う一心だ。英雄が如く助け出し、カズキに抱き付きたいと言う下衆な思いもあるが。

 

「済まない、だがこれ以上どうやってアチラへ行くんだ?」

 

 此処からは聖女もロザリー達も見えない。方向は間違いないだろうが、道など存在しないのだ。

 

「一度崖に降りる。勿論下までじゃない。これで」

 

 言葉を切る様に話すジャービエルは、黒く染められた腰にある縄の束を指差した。

 

「……そんな細い縄で大丈夫なのか? 直ぐにも切れそうだが……」

 

「これは森人が使う特殊なモノ。副団長が3人いても大丈夫、多分」

 

 ケーヒルは最後の台詞は聞き流し、直ぐ足元の崖への入り口を眺めた。

 

「とにかく急ごう、聖女を奪還後は森を無理矢理にも突破する。ディオゲネス……あの騎士は私が相手をするが、他は頼むぞ」

 

「姐さんもいる。剣さえ有れば、その辺の騎士には負けない」

 

 先程チラリと見えた様子では、ロザリーもフェイも後ろ手に縛られて自由はない様だった。ジャービエルも十分戦えるが、3人の騎士相手は流石に無理と思っている。

 

「ああ、そうだな。聖女は怪我をしているから、君に任せるかもしれない。頑張ってくれ」

 

「は、はい!」

 

 王都でも有名なケーヒルの迫力にリンドは緊張を隠せない。騎士をあまり好きではないリンドも、名高い副団長には頭が上がらないのだろう。

 

「行こう」

 

 森人特有の結びを終えたジャービエルから、ゆっくりと崖の中腹を目指して降りていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 振り上げた手の先には剣と見紛うばかりの爪が並んでいる。魔獣の筋肉が震えて、斜め上から猛烈な速度で振り下ろされた。受ける事は勿論、受け流すのすら不可能と誰もが思った。

 

 ズバンッ!!

 

 だが、ディオゲネスには通じない。

 

 爪の根本、指先を一瞬で切り離された魔獣は耳に響く煩い悲鳴を上げた。そして迫り出した口蓋を天に向けた魔獣の悲鳴は途中で途切れる。斬り飛ばしたディオゲネスの剣は止まらず、そのまま下から咽喉元に突き刺したからだ。強靭な筈の魔獣の肉と骨は役割を果たさず、頭頂まで切っ先が抜けた。

 

 壮絶な笑みはそのまま、倒れ来る魔獣の首を切断する。魔獣の体重が助けたとは言え、尋常な膂力では無い。周辺に居た騎士も思わず見入ってしまう程だ。

 

「すげぇ……教導官ってこんなに強かったのか……」

 

 騎士一人が魔獣一匹を殺すなど、ケーヒルにもアストにも不可能だ。その異常性を知らない若き騎士は、ただ感嘆するだけだった。

 

 雨の如く降り注ぐ魔獣の血を浴びながらディオゲネスは次の獲物に向かっていく。

 

「うらぁ!!」

 

 背を向けていた魔獣の後ろ足を断ち切って、姿勢を崩した魔獣の上に立ったディオゲネスは、剣を逆手に持った。やはり笑みはそのまま首の後ろに深く突き刺す。

 

「どうしたぁ!! 魔獣共! 獲物は此処だ、かかって来いよ!」

 

 ドスドスと二匹の魔獣が赤い眼をギラつかせ、ディオゲネスに走り寄って来る。

 

「お前等、遊んでんじゃねぇ! 矢を放て、右だけでいい!」

 

 響く号令に慌てて弓を構えた騎士達は、それでも訓練のまま正確な狙いで矢を放った。これも訓練の成果か、見事な迄に同時に放たれた矢は右側の魔獣に殺到する。

 

 ディオゲネスは矢の行方を横目で見ながら既に走り出していた。足音を鳴らす魔獣は、勢いはそのままに爪を叩き付けようとする。

 

「魔獣は皆同じだ……それしか能が無いのかよ!」

 

 簡単に其れを躱したディオゲネスは一旦背後に回り込み、矢の放たれた片方を見た。幾本か突き立った矢は魔獣の悲鳴を呼び込み、脚にも当たったのかつんのめって倒れ込んでいた。その間抜けな姿に笑みを更に深めると、此方に向き直った魔獣に目を細める。

 

 今度は無言で間合いを詰めると、ヤツは拍手をする様に両手を挟み込んできた。

 

 グアアアァーーーーッ!!

 

 だが、やはりディオゲネスには通じない。いつの間にか鞘に収めた剣を背後に前転して懐に入る。その姿勢から両手で引き抜いたナイフ二本を魔獣の腹に突き刺すと、折れるのも構わずにグルリと抉った。

 

 魔獣は痛みか怒りなのか、自らの腹目掛けて無茶苦茶に腕を振り回す。だがディオゲネスの姿は其処には無く、剣を上段に構えて壮絶な笑みを浮かべていた。

 

「馬鹿が……」

 

 さほど力が入っているとは思えない振りで、ディオゲネスは剣を振り下ろした。

 

 魔獣を切り裂いた剣は少しだけ曲がっていたのか、鞘は既に壊れて地面に落ちている。

 

 心地良い断末魔を少しの時間だけ聞いて、ディオゲネスは隣の獲物へ駆け出した。見れば最早助かる事もないであろう騎士が数人倒れている。負傷した魔獣に油断したのか、或いは間抜けか……ディオゲネスは僅かにも心を動かす事無く、真っ赤に染まった剣ごと体当たりを敢行する。

 

 あっさり絶命し倒れた魔獣に唾を吐き、周辺を見廻す。

 

 炎の壁は完成しつつあり、少し場所を移す方が良いだろう……ディオゲネスは聖女の位置を確認しようと、磔にした大木を見て動きが止まった。

 

 浮かべていた笑みは消え、焦げ茶色の両眼は据わる。

 

 大木の背後、崖の方から近づく3人の姿が見えたからだ。見張りに残した騎士達は、まだ気付いていない。大木の反対側で見えないのだろうが、寧ろ聖女に屯って遊んでいるからだ。聖女の顎を手で掴み、無理矢理に上を向かせようとしていた。 

 

 森人の女……ロザリーは叫び声を上げて騎士を非難している。

 

「はぁ……所詮は只の騎士か……」

 

 聖女をその辺にいる街娘と勘違いでもしてるのか、それとも戦場にいる事すら忘れたか。ディオゲネスは何故か聖女に触れる若い騎士に怒りを覚え、下らない感情だと直ぐに捨てた。

 

 助ける気など毛頭無いが、聖女を奪われるのは上手くない。戦場は幾らでもあるのだ……此処に拘る必要も無いか……ディオゲネスは何かを諦めたのか、戦線の背後に積まれた燃える水を両手で掴むと溜息をついた。

 

 表情すら変えずに、魔獣を押し留める騎士達の背後へばら撒く。何本も何本も……独特の揮発臭が鼻をくすぐり、ディオゲネスは矢張り無表情で火を放った。

 

 ドバッ!!

 

 簡単に燃え上がると、聖女を背後に半円の赤い壁が出現する。気付いた騎士達は叫び声を上げているが、既にそちらを見ていないディオゲネスには聞こえていない。いや、聞く気すら無いのだろう。

 

 騎士達は魔獣の群の前に取り残され、逃げることさえ叶わない。背後には炎の赤い壁、前には魔獣の赤い肉の壁があるのだ。生き残るには炎が消える迄の長い時間を稼ぐしか無い。

 

 魔獣の数は既に百に届いているだろう。そして取り残された騎士はもう20人程度しか残っていない。負傷を癒す為に聖女の懐へ飛び込む事も不可能となった。

 

 やがて、騎士達の悲鳴が森に響き始めたが、救いの手は差し伸べられる事もない。その悲鳴の中にはヴァディムの声もあったが、それすらもやがて消えていった。

 

 

 

 

 

 

「さて、ケーヒルの旦那と一戦交えるのは何年ぶりかな……あの頃は何度挑んでも勝てる気はしなかったが、今はどうだろう? 今の俺は強いぜ?旦那よ」

 

 ディオゲネスは消えていた笑みを再び浮かべ、低木や草に隠れて近づくケーヒルを見る。

 

 ケーヒルもディオゲネスに気付かれた事を知った。

 

 そして、ロザリーの悲鳴だけは何故かしっかりと聞こえる。手を出すな、汚い手でカズキに触れるな、と。

 

 其れは深い愛と怨嗟の叫びとなり、間違い無く聖女へ届いていた。

 

 森は赤く染まり周囲を明るく照らしている。

 

 宴は佳境へと差し掛かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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50.赤と黒の狂宴⑥

 

 

 

 

 パチパチ、ゴウゴウと森は赤い炎に包まれている。

 

 炎の壁は高く、消える気配も無い。燃える水で人工的に作られた壁は暫く形成したままだろう。木々にも延焼を始め、パキパキと膨張した水や空気で爆ぜる音もする。集まった魔獣達は炎の壁の向こうで揺ら揺らと体を揺らしていた。

 

 そんな激変した森に目もくれず、聖女を囲う男はニヤニヤと腕を伸ばした。

 

 カズキの顎を手で掴み、俯く顔をグイと上向かせた騎士の顔は歪んでいる。加虐心と独占欲、血と戦場の興奮は騎士を汚い屑へと変貌させていた。

 

「聖女さまぁ、泣かないで下さいよ。今は怪我人もいないし、少し遊ぶのはどうですか? ほら、綺麗な顔をもっと見せてください」

 

「汚い手で触るんじゃない!! それでも誇り高い騎士なのかい!」

 

「黙ってろ!」

 

 両手を後ろ手に縛られたロザリーは、地面に押さえ付けられながらも声を張り上げた。カズキを弄ぶ騎士は情欲すら感じさせて、吐き気を催す程の醜さだ。残り二人の若い騎士も、ロザリー達の背後から怒鳴り声を上げるだけだった。

 

 両腕を破壊され這う様に聖女の元へ来た騎士も、先程嬉々として戦場に帰った。

 

「ちくしょう! お前らは人間じゃ無い! 魔獣よりも醜い化け物どもめ!!」

 

「黙ってろって言っただろう!」

 

「ぐっ……」

 

 騎士は右手でロザリーの頭を地面に押し付けて、グリグリとなすりつける。ロザリーは余りの悔しさと怒りで気が狂いそうだった。

 

 最初に癒されたフェイは気絶させられたのか、ロザリーの横で倒れたまま動かない。

 

 カズキは右手が痛むのだろう、整った顔を歪め騎士を睨み付ける事も出来ない。それでも涙に濡れた眼は赤い炎に照らされて美しかった。

 

「本当に綺麗な翡翠色ですなぁ。私の傷付いた心も癒しては下さいませんか? ははっ、俺も上手いこと言うよな」

 

 周辺は炎に照らされ、戦死者も多数出ている。運び込まれた騎士達は殆どが重症で、戦場の苛烈さを示していた。それなのに……再び戦場に嬉々として戻る騎士も、カズキに纏わり付く屑も狂気を隠しもしていなかった。

 

 押さえ付けられたロザリーが目に入ったのか、カズキに少しだけ力が戻る。映すのは純粋な怒りだろう。自らの血はどうでもいい、ただロザリーが傷付き涙するのを見るのが嫌だった。

 

「おや? 聖女様ともあろうお方が、そんな物騒な眼をする物ではありませんぞ。ほら、笑顔を絶やさないで」

 

 正に異常者の言動だった。それを耳にしたロザリーに怖気が走る。こんな奴がカズキの肌に触れるなど、絶対に許せはしない。

 

 歪んだ笑みを浮かべながら顎から首へツツツと指を這わせる。見事な刻印に触れる自分に、感じた事の無い陶酔感を覚える。まるで神々へ触れているかの様に感じていた。

 

 その時だった。

 

 グヴァン!!

 

 背後から今迄以上の炎が上がり、爆発する様な音が全員に届いた。流石に騎士達も背後を振り返って新たな赤い壁が形成されたのを知る。丁度自分達、つまり聖女を中心にした半円だ。

 

 カズキは空いた左手で目の前の騎士に手を伸ばした。腰に刺してあるナイフをそっと抜き取ると、ロザリーの方へ放り投げる。見張りの騎士二人も炎に気を取られ、全く気付いていない。

 

 もぞもぞとナイフを体の下に隠したロザリーは、カズキを見て頷いた。

 

「な、なんだ!? 何が起きた? 誤爆?」

 

 そして此方に歩み寄るディオゲネスを見た。

 

「き、教導官殿、何が?」

 

「馬鹿どもが! 背後を見るんだ!大木の後ろだ!」

 

 慌てて振り返った騎士達の眼には、立ち上がったケーヒルと、二人の森人らしき男達が映る。

 

「ケ、ケーヒル副団長!? どうやって背後から……」

 

 騎士達には明らかな動揺が走った。当然だろう……ケーヒルはアストと並ぶリンディアの英雄で、最強の騎士の一角だ。炎と魔獣に分断され此方に来るとは思っていなかった。

 

 ケーヒルは背中から大剣を抜き出し、早足から駆け足に変わりつつあった。

 

「聖女を離すんだ! 貴様も騎士の端くれなら誇りがあるだろう!」

 

 先程までカズキを甚振っていた騎士のなんと情け無い事か、尻餅をつきズルズルと後退りを始める。

 

「旦那ぁ……アンタの相手は俺がするよ! お前らは森人をやれ! その程度、魔獣の比ではないだろう!」

 

 ディオゲネスは血のりを拭うこともせず、赤い剣身をそのままに駆け出す。騎士達もディオゲネスの言葉に正気を取り戻し、剣を抜き放った。

 

 赤い炎は何処までも高く舞い上がり、周囲を照らす。熱量は強く、離れたケーヒルにすら感じられる程だ。

 

 それでも聖女の黒髪は赤く染まる事なく、何処までも漆黒を保ち輝く。

 

 そして、南の森は血をどこまでも吸い取っていくのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ディオゲネスは先程まで浮かべていた笑みを消し、ケーヒルに肉薄していた。ケーヒルも先にカズキを助けたかったが、ディオゲネスの想像以上の速さに相対するしかなかった。

 

「ディオゲネス……貴様、そこまで落ちたか!」

 

 ケーヒルは若きディオゲネスに大きな期待をしていた。尋常ならざる剣の才はアスト以上で、精神力も並外れていたからだ。ある街の悲劇が彼を変えたらしいが、この時代にはありふれた事の筈。悲しいがそれが事実だ。

 

「旦那、語る事など無い。聖女は渡せないな」

 

 ズバッ!

 

 乗った血糊すら空中に置き去りにして、ディオゲネスの突きはケーヒルに迫った。ケーヒルは身体を躱す事なく大剣で受け流そうとする。

 

 ガキン!

 

 ケーヒルは思わず眼を見開いた。触れた剣身から伝わる力が想定を大きく上回ったからだ。崩れた体勢を補う為、左脚を後退させ踏ん張る。倒れはしなかったが、反撃は不可能だった。

 

「くっ……」

 

 ケーヒルは敢えて身体ごと後ろに流し、ディオゲネスから距離を取った。身体のあった空間にはディオゲネスの追撃が走り、ブオンと空気が切り裂かれる。

 

 ディオゲネスは流石だなと小さく呟き、前傾姿勢を元に戻した。

 

 瞬きをする程の僅かな時間と言うが、正に一瞬の出来事だった。

 

 ケーヒルもディオゲネスも正眼に構え、ジリジリと間合いを取り始める。騎士が学ぶ基本の構えは二人の間に鏡を作り出したかの様だ。しかし、片方の剣身は歪に欠けて魔獣との激戦を物語る。

 

 剣先が僅かに触れ、キキと金属の擦れる音がした。

 

 ふっ……!

 

 ディオゲネスは息を吐き、ケーヒルの左腕を狙う。フェイもロザリーも見切る事が出来なかった剣はしかしケーヒルには通じない。

 

 巨体とは思えない動きで右にずれると、それでも残した腕ごと大剣を真横に振り抜いた。ディオゲネスの剣から僅かの隙間しか無い見事な見切りだった。

 

 大剣を受ける事はせず、身体を前に放り出して躱す。ケーヒルの背後に回ったディオゲネスは、さらに自身の背後にいる聖女をチラリと見た。

 

「やはり旦那は強いな、ちょっと時間が足りない。俺も無傷では無理そうだ」

 

 言外にケーヒルに勝てると言うディオゲネスに、ケーヒルは反論しなかった。僅か二合の斬り合いだったが其れは事実と分かったからだった。

 

「貴様、それだけの腕をどうやって……? 実戦からは遠ざかっていた筈だ」

 

 ケーヒルは森人の攻勢に賭けるしかない。ディオゲネスの尋常ならざる力は、最早手に負えない差となっていた。

 

 当の本人であるディオゲネスすら、自らの力に驚きを感じていたのだから当然だろう。元々ケーヒルと互角と読んでいたが、今の間で勝てると確信した。刻印はディオゲネスに力を与え、背後の聖女すら身近に思えるほどだった。

 

 人外の聖女を近く感じるとは、俺も焼きが回ったか。幾ら強くとも所詮は一人。神々の使徒、聖女を側に感じるとはな……神々から見放されたと堅く信じ、強く憎むディオゲネスは思わず自嘲した。彼はその憎しみすら糧となる事を知らない。

 

「だが、それも一興か……魔獣が殺到するのが先か、旦那が倒れるのが先か賭けてみよう。聖女よ、お前の為に死に行く者達を其処で眺めていろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジャービエルは何とか時間を稼ぎたかった。リンドがロザリーの縄を切る時間をだ。

 

 だが、参戦した者を合わせると三人となった騎士達相手では、リンドをロザリーの元へ送る余裕など無かった。何とか横を伺うとリンドも躱すのが精一杯の様子だ。

 

 リンドの若さで戦闘集団である騎士と互角である事は驚愕に値するが、今は褒める暇も意味も無い。

 

「くそっ!」

 

 此処でリンドの若さ、経験不足が出てしまう。騎士達は態と追撃せず、相手が焦れるのを誘っていたからだ。

 

 自慢の剣を大振りしたリンドは誘い込まれた事を知ったが最早間に合わない。泳いだ身体は言う事を聞かず、騎士の前に晒された。

 

 リンドは振り上がった剣身を呆然と見上げるしかない。死の予感は何故かしなかった。

 

「ぐわっ! な、なんだ!?」

 

 その騎士の左手に小さなナイフが刺さっていた。縄を切ったロザリーは即座に立ち上がり、そのままナイフを投じたのだ。その結果など気にもせず、横に倒れたフェイの剣を掴むと猛然と走り出す。

 

 ロザリーはカズキを助けたかったが、先程のケーヒル達の戦いを見て判断を変えた。騎士達を倒し、ケーヒルの援護に入るしか打開出来ないと悟ったのだ。何より時間が無い。炎の壁が失われたら全滅する。カズキだけでも救わなければ……

 

 ロザリーはただ無言で騎士の一人に狙いを定める。勿論相手はカズキを薄汚い手で触れ、甚振ったアイツだ。その腕を切り落として、後悔させてやる……ギラつく眼は一点を睨み付ける。

 

 リンディア最高の森人の参戦は、簡単に情勢を逆転させた。

 

 僅かな時間で騎士の腕は切断され、悲鳴を上げる。慌てた残りの騎士もそれぞれ、ジャービエルとリンドに取り押さえられた。

 

「リンド! コイツらを見張っておきな! ジャービエル!ケーヒルの旦那を援護する。相手は半端じゃ無い、援護に徹するんだ!」

 

「姐さん、俺も戦える……あっ……」

 

 リンドは本気のロザリーの怒りを受け、余りの恐怖に身体が震えた。そう、練達の森人には常人に理解出来ない迫力があった。直ぐにリンドから目を離したロザリーは、ジャービエルを一瞥すると呻く騎士を置き去りに再び走り出す。

 

 カズキ! もう少しだけ待ってなよ!

 

 カズキも先程の絶望感すら無く、落ち着いてロザリーを見返した。ロザリーは思わず微笑を零した。聖女は動じる事なく、自分の意図を知り見返したからだ。

 

 流石聖女だよ! いや、私の愛する娘、カズキ!

 

 だが……絶望はそんな人の思いなど簡単に塗り潰していく。

 

 炎に焼かれながらも一匹の魔獣がロザリーの前に転がり出して来たからだ。

 

 思わず立ち竦んだロザリーは呻く。

 

「くそっ、こんな時に……!」

 

 火傷を気にもせず、倒れ込んでいた魔獣は立ち上がり咆哮する。

 

 グガアァァーーーー!!

 

 魔獣の背後で鍔迫り合いをしていたケーヒル達も、一旦間合いを取り直していた。

 

「くっ……仕方がない、回り込んであの男を巻き込んでやる。ジャービエル、わかるね!」

 

 コクリと無言で頷くとジャービエルはロザリーと左右に分かれて移動を開始する。

 

 一方ディオゲネスも新たな獲物の登場を喜んでいた。ケーヒルとの戦いも面白かったが、やはり斬るのは魔獣がいい。

 

「旦那、一時休戦だな。それとも続けるかい?」

 

「黙れ、早く潰さないと次を呼ぶぞ」

 

 今ここにリンディア最強の二人、そして最高の森人が並び立った。今までで最も大きい魔獣だが、戦力に不足は感じない。

 

 回り込む森人達を待つまでも無い。ディオゲネスは簡単にケーヒルに背中を見せると、満面の笑みを浮かべて歩き出した。自分の倍はある赤い巨体に動じる事など無く、只笑う。

 

 そして、カズキは赤い魔獣と立ち向かう戦士達に現実感すら消え去るのを感じるのだ。頭を振り、再び刺さったナイフを抜こうと痛みと戦う決心をした。何が出来るかなど分からないが、倒れた戦士を癒す事なり出来る筈。はっきりとした意識は聖女の力を取り戻し始める。

 

 そんなカズキを嘲笑う様に、悲劇は直ぐ其処に迫っていた。

 

 

 

 



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51.赤と黒の狂宴⑦

 

 

 

 

 やはり抜けない……痛みに耐えながらもナイフを抜きたいと思うが、力が大きく衰えた少女でしかないカズキには無理からぬ事だろう。更に出血が激しく、少しだけ意識が朦朧としている。

 

 これ程の傷と血では狂った様に悲鳴を上げてもおかしくは無いが、カズキには無縁の事だった。

 

 それでも何とかしたいと、痛みに耐え踠く。

 

 そして掌を引き裂けば外れると、酷く凄惨な決意をし掛けたカズキに魔獣の悲鳴が響いた。

 

 振り返ると魔獣の片腕が、焦げ茶色の男の剣に貫かれた様だった。

 

 

 

 

 

 

 

「旦那、右に回れ! こっちは何とかする!」

 

 漸く一撃を加えたが、コイツはかなりやる。今迄の魔獣と比べて、ただ人に腕を振り回すだけの獣では無かった。牽制と思われる動きもするし、先程貫いた腕も短い悲鳴で済ました。

 

 そろそろ本物がお出ましか……コイツらこそ本来の仇、憎っくき化け物どもだ。ディオゲネスは一人で相対するには、かなり厳しいと判断した。

 

「おい姉ちゃんよ! あっちに弓が転がってるぞ。コイツを倒さなければ、愛しい聖女様の番だ。急ぐんだな!」

 

 ロザリーも斬り殺してやりたい相手からの指示とは言え、森人では接近戦は難しいと理解していた。一刻も早くカズキを助けたいが、魔獣に騎士達が倒されては意味がない。

 

「ちっ! ジャービエル、弓だ!」

 

 掴んだ弓を投げ渡したいが、壊れては使えない。金属の剣とは訳が違うのだ。

 

 その時離れた場所で奮闘するドルズス達も目に入ったが、今はどうする事も出来ないと視線から外した。

 

 走り込んできたジャービエルに弓矢を渡し、ロザリーも位置につく。狙うのは眼か口、幸い相手は無駄にデカい。当てるのは難しく無いだろう。

 

 流れ矢がカズキに向かっては堪らないと、射線から外し右にずれる。ジャービエルも分かっているのだろう、ロザリーに追随して来た。

 

「ジャービエル、眼を狙う。矢は腐る程あるから少々は外していい、当るまで打て。それと……勝負がつきそうになったら、奴をやるよ。その後直ぐに脱出する、分かってるね?」

 

 勿論、と頷くジャービエルを見て弦を引き絞った。

 

 回り込んだケーヒルが脛に切り傷を与えたのを見て、ロザリーは矢を放つ。当るかを判断もせずに次の矢を素早く構える。

 

 そして見上げると、頭蓋辺りに当たった矢は刺さる事もせず、地面にポトリと落ちるのを見えた。

 

 ロザリーは叫ぶ。

 

「ジャービエル! 遠過ぎるし、下からだと力が伝わらない。ギリギリまで近づくよ!」

 

 幾本かの矢筒を肩に掛けると、やはりジャービエルを見る事もせずに走り出した。

 

 

 

 

 

 

 悔しいがやはりあの男の腕は凄まじい。

 

 左脚は切断は出来なかったが、かなりの深手を負わせたのが分かる。膝を突き掛けた魔獣の顔は低い位置に変わり、ロザリーは戸惑う事なく矢を放った。

 

「ジャービエル!撃ちまくれ!」

 

 直ぐ横に位置したジャービエルは無言で追撃を放つ。喉あたりに突き立った矢は痛みを伴なったのだろう、魔獣は再び悲鳴を上げた。

 

 グゥーィィッ!!

 

 普通なら無茶苦茶に腕を振り回しそうなものだが、この魔獣は違った。近くに転がっていた石……人から見れば小さな岩を掴みロザリー達に向け放って来たのだ。

 

「な、なに! くっ……!」

 

 何とか躱すことが出来たが、矢筒は放り投げられ幾つかは岩の下敷きになる。しかも最悪なのは、次を掴むと大木で足掻くカズキを見た事だ。

 

「まさか……!? 止めろ!」

 

 カズキは未だ其処から逃げたり出来ないのに!

 

 何とか牽制しようと太い腕に向けて矢を放つが、焦った構えではマトモに当たりはしなかった。

 

「カズキ!!」

 

 先程よりは小さな岩だが、カズキを絶命させるには十分な大きさと速度だ。

 

 思わず眼を閉じかけたロザリーに信じられないものが見えた。人とは思えない速度でカズキの前に立つと剣を岩にぶつけて軌道を逸らしたのだ。

 

「お、らぁーー!!」

 

 ディオゲネスは半ば吹き飛びながら、見事にカズキを危機から守った。

 

 ケーヒルも間に合わず最悪の結果を招くところだったのだ。しかし、それでも冷静さを失わないケーヒルは魔獣の背後から膝裏に突きを放ち、遂に魔獣を跪かせる事に成功する。

 

「ロザリー! 今だ!」

 

 ロザリーもカズキの助かった事を理解すると、今度は見事な構えを取る。ディオゲネスは地面に倒れ、動く事も無かった。

 

 やはり見事な軌道を辿った矢は魔獣の右眼に突き立ち、その頃にはニ矢目すら放つ寸前だ。ケーヒルすら唸る技術にロザリーは誇る事もせず、冷静に左眼を狙い放つ。

 

 暴れる魔獣を物ともせず、左眼も破壊したロザリーは、次の矢で膝を狙った。

 

「旦那! トドメを!」

 

 ジャービエルもそつなく魔獣の耳へ当てていたが、ケーヒルは渾身の一振りはそれ毎両断した。

 

 魔獣はグラリと傾き、血を噴水の様に噴き出しながら地面へと倒れ込む。

 

 遂に倒したのだ……たった四人であれ程の魔獣を。

 

「カズキ!」

 

 ロザリーは倒した魔獣には目もくれず、弓も剣も放り出しカズキの元へ駆け出した。意識を失っていたフェイも頭を振りながら地面に手をついている。

 

 ケーヒルは倒れたままのディオゲネスにゆっくりと近付き、見下ろした。

 

「ディオゲネス……見事だった」

 

 ディオゲネスの左腕は曲がり、殆ど千切れ掛かっていた。そして折れた剣先は腹に刺さり、今もドクドクと血が流れ出ている。口と鼻からも赤い血が溢れ、最早言葉すら出せないだろう。

 

 僅かに身動ぎするディオゲネスに未だ命がある事は分かった。

 

 ケーヒルはディオゲネスの最期の良心を認め、許す事など出来なくとも手向けの言葉を送ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、ディオゲネスはただ怒りに燃えていた。

 

 ディオゲネスは一寸たりとも聖女を助ける気など無かったのだ。そして同時に理解もしていた……自らが使徒だと、神々の人形だと。

 

 自分でも理解出来ない思考に支配された身体は勝手に動いたのだ。まるでカズキが数々の刻印に弄ばれる様に。

 

 おのれ……最期まで邪魔をしやがって……許せない……アステルを助けなかった癖に、あの娘なら助けるだと……何が違うと言うんだ……憎い、憎い……神め、聖女め、何が使徒だ……!!

 

 憎しみの鎖縛、ディオゲネスの刻印は憎悪を糧とするもの。今、黒神ヤトも想定出来なかった事態が起きようとしていた。

 

 こうなれば……もう終わりだ……生贄を捧げてやる……それが望みなんだろう? 聖女よ……

 

 贄の宴に相応しい狂宴だ。聖女の刻印は俺が解放してやるよ……くそったれの魔獣共にやらせはしない……!

 

 

 ケーヒルはロザリーがカズキの元へ辿り着いたのを眺め、ディオゲネスが剣を右手に掴んだ事に気付かない。その剣は先程ロザリーが放り出したフェイの愛剣だった。

 

 腹や口からは血が溢れ、立ち上がる事すら不可能な出血だ。それでもディオゲネスは無理矢理に身体を起こし、血だらけの顔を持ち上げた。

 

 ケーヒルが気配の異常を感じ、再び足元を見た時にはディオゲネスは走り出していた。ボタボタと零れる赤い血はディオゲネスまでの道を作って行く。

 

「馬鹿な!? ロザリー!背後だ!」

 

 ナイフに手を掛けていたロザリーは直ぐに振り向いたが、ディオゲネスはもう目の前にいた。切っ先は間違いなくカズキを捉え、躱す事など不可能だった。

 

 だから……ロザリーがする事など一つしかない。

 

 迷いなどあろう筈も無い……この一撃すら何とかすれば、駆け寄るケーヒルが何とかするのが理解出来ていたから。

 

 それは聖女を、世界を守る責任感では無い。ましてやマファルダストの隊長としての義務でも無かった。

 

 それは当たり前の事だ。

 

 私は娘を愛する母親なのだから……

 

 ディオゲネスの命を賭けた剣は簡単にロザリーを貫いたが、決してカズキには届きはしなかった。

 

 背中から心臓を突き抜けた刃はロザリーの血で染まり、カズキの目の前で止まった。即死の筈のロザリーは優しく微笑むと、カズキの涙を拭いそして小さな胸に倒れ込む。カズキは母の身体を支える事も出来ずに、ズルズルと下がり地面に伏した。

 

「ロザリーー!!」

 

 ケーヒルは絶命間近のディオゲネスの背中を斬り裂いて、二人から突き放すくらいしか出来ない。

 

「……ディオゲネス……貴様、何故……!」

 

 見ればディオゲネスは既に絶命していた。その形相は常軌を逸していて、ただ恐ろしい。ケーヒルは呆然とするしかなく、立ち竦むのみだった。

 

 ふと、耳にギシギシと木が鳴る音が聞こえた。虚になった目でそちらを眺めると、ある意味で想像通りの光景が映る。

 

 カズキがあと少しで届きそうな手をロザリーに伸ばし、右手のナイフが抜け掛けていたからだ。

 

 痛みなど感じていないのだろう……カズキは無理矢理に右手を振ると、あれ程抜けなかったナイフはあっさりと地面に落ちた。直ぐにロザリーに抱きつく様に縋り付くと、両手でロザリーを貫く剣を抜き赤髪の頭を膝の上に乗せる。

 

 仰向けになったロザリーは、何故か薄らと笑みを浮かべて目を閉じている。カズキは傷口に両手を当てて暫く身動きをしなかった。

 

 だが、何時もの白い光は溢れ出たりはしない。

 

 カズキはもう一度手を当てて、その内身体ごとロザリーに覆い被さる。それでも、決して光を発する事はない。黒神エントーの加護を受けた者には避けられない定めなのだから……

 

 周りを取り囲む者達にも、それは分かった。分かってしまった。

 

 ロザリーの命は尽きてしまった、と……

 

 燃える炎もその先にいる魔獣達すら忘れさせた、それは悲しい現実だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人死など、ありふれた世界ーーー

 

 家族を失い、泣き叫ぶ人を大勢見て来た。

 

 

 

 パチパチと、ゴウゴウと、森は赤い炎に包まれている。

 

 炎の壁は高く舞い、その向こうに見える赤い魔獣達を覆い隠す。 奴等はユラユラと身体を揺らし、炎が消え去るのを待っているのだろう。

 

 所々に赤褐色の粘土らしき物が盛り上がり、その周辺には力付きた人形(ひとがた)が倒れ伏している。剣や矢は魔獣の死体に突き刺さり、幾本も折れて曲がっていた。

 

 魔獣との死闘は其処に終焉の世界を現出させたのだ。

 

 その終焉の世界の先……炎の壁の向こう……事象の中心にいる聖女は両膝を地面につき、真っ赤に染まった両手でユサユサと揺らす。

 

 起きて。 目を開けて……もう一度、黄金色の瞳を……

 

 

 

 

 ーー行かないで

 

 ーー捨てないで

 

 ーー置いていかないで

 

 ーーどうして、どうして

 

 

 

 

 慟哭は、悲鳴は、唇から零れたりしない。それなのに聖女の叫びは見る者の眼を通し、頭蓋に直接反響する。魂魄を揺さぶるソレは、見慣れた筈の終焉の景色を涙で滲ませていった。

 

 黒神ヤト。

 

 司るのは悲哀、憎悪、痛み。

 

 ヤトの加護を一身に受けた聖女の、悲哀と憎悪の叫びは只人とは違うのか……ケーヒルはボンヤリとする意識で周りを見渡した。

 

 森人のフェイは、両膝を泥に落として頭を抱えて泣き叫んでいる。

 

 ジャービエルは珍しい雄叫びを上げて、赤い死体に剣を何度も突き立てている。

 

 新人と聞いたリンドは、両手をダランと落として茫然と立ち竦んだままだ。リンドが見張っていた騎士達は既に何処かへ逃げ出している。

 

 そして、ケーヒルの足元には血に染まった男が倒れていた。さっきまで狂気を振りまいていたディオゲネスは、最早ピクリとも動かない。つい先程ケーヒルがトドメを刺した。

 

 

 ユサユサ、ユサユサ……聖女は飽きもせずに揺らし続ける。あの美しい翡翠色の瞳には涙の跡があり、その跡も新たに流れ出た涙に上書きされていく。

 

 声は出ていない、言葉は紡がれていない。それなのに声が聞こえる……それは幻聴なのか。

 

 それとも紡がれた言葉の幻視?

 

 今、間違いなく聴こえ、視えたのだ。

 

 ーーお母さん、と。

 

 その時、世界は真っ白な光に包まれていった。

 

 それは癒しの光なのか、それとも只の幻なのか。

 

 ケーヒルには判らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザワザワ、ザワザワ……炎の壁が低くなり、その先の光景が明らかになった。

 

 大勢の騎士達が倒れ伏す先、そこには赤い壁が続く。最早数えるのも馬鹿らしい数の魔獣達はゆっくりと動き出していた。魔獣の目線の先には、二つの獲物の集団がある。

 

 先程からチクチクと刺さる矢を幾本も飛ばしてくる群れと、僅か数人程度の獲物の集団だ。

 

 魔獣達にとって愉悦の、ケーヒル達にとって絶望の戦いが始まろうとした時……辺りは白い光に包まれていった。暫くすると、あれ程煩かった音すら消えていき、何も見えなくなっていく。

 

 聖女の力、その顕現が始まった。

 

 

 

 

 

 




この流れはロザリーを生み出した時から決めていました。色々と思うところはあるのですが、カズキにとって非常に大きな影響を与えていきます。


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52.白き世界に

ロザリーの愛の深さを


 

 カズキは真っ白な世界に居た。

 

 周りはただ白く、前後も左右も、天地すらも曖昧だ。

 

 だけど不安などは感じない。

 

 先程迄の喧騒も痛みも悲哀も無く、ただ静かに揺蕩う。ゆらゆらと水面に浮いている様だった。思わず目を閉じかけたカズキの耳に僅かな物音と人の声が聞こえてくる。周りに人などいないが、何故か方向を理解出来た。

 

 近づいているのだろう……声は少しずつ明瞭となり、人の姿もぼんやりと見え始める。

 

 

 

 

 最初に見えたのは女性だ。背中越しで顔は見えないが、立ち姿から若い女性だと知れた。ブラウンの髪は肩まで伸びていて、少し癖毛なのかあちこちに跳ねている。

 

 そのうち、その女性に話し掛ける青年の姿が見えてきた。焦げ茶色の髪と目、ザンバラ頭は変わらないがカズキの記憶より随分若い。それに、女性を見る眼差しは何処までも優しかった。

 

 

「アステル、分かってくれ。俺はこの町を守りたいんだ。君が住むこの町を」

「あの地獄から救い出してくれたのは、アステルだ。あのまま全てを憎んで生きる屑だった俺が、今や人々を守る騎士だとは笑えるだろう?」

「え? 私は何もしていないって? ははは、慈愛の刻印は謙虚さを強制するのかい?」

「……君は聖女だ。だから守る、守らせてくれ」

「慈愛の刻印が聖女の証なら、他にも沢山いる?」

「そうかもしれない……でも俺には、君がただ一人の聖女なんだ。あの憎しみの連鎖から連れ出してくれた……君だけが俺を……」

 

「行ってくる……待っててくれ。決して、他の人を助ける為に無茶なんてしないでくれよ? 必ず戻るから……アステル、愛してるよ」

 

 女性の顔も声も分からなかったが、カズキは何故か男が話す言葉が理解出来た。耳ででは無く、別の何かだった。同時に彼の憎悪の源泉が何だったのか、それすら分かってしまう。女性に向ける表情はどこまでも柔らかい笑顔だ。

 

 

 

 

 そしてまた遠くから声が聞こえて来る。何処か嗄れたその声は老人だろうか? 男性らしき声はカズキを呼び寄せて何かを伝えようとしている。

 

 揺ら揺らとそちらへ近づくと、先程と同じく人影が見えて来た。何かを指差してカズキへ同じ言葉を繰り返す。

 

「どうか伝えて欲しい。奴等は本能に生きる獣などでは無い。周到に準備して狩りの時を待っているのだ。このままでは愛するリンディアが、家族が、奴等に滅ぼされてしまう」

 

 その老人が指差す先には、草木で擬態し隠された大きな穴があった。地面にポッカリと空いた穴からは不気味な唸り声が響いている。周囲は森で、僅かな距離では火事になっている様だ。そして、その火事には何処か見覚えがあった。

 

「奴等は森に潜んでいるのでは無い。奴等は地下に居るのだ。地中奥深く、今も数を増やし続けている。どうか伝えて欲しい、このままではリンディアが……」

 

 リンディアと言う言葉はよく分からないが、老人が愛する家族を憂いているのはよく知れた。

 

 老人の服……その姿はカズキのよく知る人物にそっくりだった。あの赤髪の女性の父親か祖父だと言われたら信じるだろう。だからなのか、その願いを聞いて上げたいと思った。

 

 

 

 

 他にも沢山の声があちこちから響いて来て、カズキは少し混乱する。だが……ふと、優しい、大好きな声音が聞こえて強く惹かれる。

 

 早く、早く会いたい……

 

 カズキは今や脚の感覚すらない身体を急いで向かわせた。だから直ぐに見えて来る。カズキの記憶より随分長い赤髪だが、その色には覚えがあった。彼女の足元には同じ色の髪をもつ小さな女の子がいて、脚に抱き付いている様だ。そして傍らには背の高い男性が立っている。

 

 やはり皆の顔は見えないが、赤髪の女性だけは振り返ってカズキに素顔を晒してくれた。黄金色の瞳は優しげで、カズキに安らぎを与える。声すらも懐かしい……

 

 

 

「フィオナったら、あんなにお転婆なのに泣き虫さんね。大丈夫よ、ママがいるでしょ?」

「転んだの? あらあら、膝を擦り剥いてるわ。ちょっと待っててね」

「ほら、これで大丈夫。痛くないでしょう? ふふふっ……放してくれないと歩けないわ」

「ルー……笑ってないで、少しは助けてよ。えっ……バカ……恥ずかしい事言わないで、もう」

「フィオナ……抱っこならパパにお願いしたら? あんなに細くても力が強いんだから、ね?」

「困ったわ……そうだ! フィオナに凄い話を教えて上げる。ルーも聞いてくれる?」

 

「フィオナにお姉ちゃんが出来たのよ? 凄く綺麗な子で、誰よりも優しいの。フィオナのお人形も可愛いけど、お姉ちゃんはもっと素敵かも! 髪は黒くて眼は宝石みたいな翡翠色」

 

 

「そう、刻印なんて関係ないわ」

 

「貴女は私の娘。フィオナと同じくらい愛してる」

 

「カズキ」

 

 

 

 カズキは手を伸ばして、()()()()に抱き付きたかったが、どうしてもそれ以上近づく事が出来ない。

 

 ロザリーはカズキに手を振り、行きなさいと呟いた。貴女は私の……皆の自慢の娘……

 

「貴女を待っている人が居るわ……リンスフィアに帰りなさい。大丈夫よ? カズキなら大丈夫……」

 

「だから泣かないで……」

 

 

 真っ白な世界なのに、カズキの視界は更に白く塗りつぶされていく。ロザリーの赤い髪だけは最後まで見えて、悲しいほどに綺麗だ。

 

 感情の爆発は起こらない。

 

 涙も流れているのか、渇いているのか……一度消えた色が再び見えるまで時間は掛からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サワサワ……

 

 風に揺れる葉擦れの音。

 

 優しい風はかなり伸びたカズキの黒髪を揺らす。

 

 ゆっくりと目を開けば、目の前に大好きな赤い髪。

 

 でも安らぎの色……さっきまで見えていた黄金色の瞳は閉じられたまま。頬に散った赤い血は渇き、膝に乗せた頭は動かない。

 

 ポタポタと落ちる透明な雫は、少しだけ血を溶かして流れて行った。

 

 ロザリーは行ってしまった……もう戻って来ない。何処の世界でも、失われた命を取り戻したり出来ないのだから。

 

 カズキは顔を上げて周囲を見渡した。

 

 皆が立ち竦み、茫然と辺りの様子を伺っている。あれだけ燃え盛っていた炎の壁は消え、同じくらい赤かった化け物達もいなかった。

 

 そして……一人、また一人と此方を振り返ってカズキを……聖女を見詰める。絶望が支配していた森からは鳥の囀りすら聞こえてきた。全ては聖女が起こした奇跡だったが、本人は分かっていないのだろう。それを誇る事もせずに優しくロザリーの髪を撫でていた。

 

 直ぐ側にいた者に手招きをすると、呼ばれたフェイはゆっくりと二人へ近づいて膝をついた。カズキはロザリーを抱えてフェイに預ける。地面にロザリーの頭を下ろしたくなかったのだろう。

 

 皆がカズキの歩みを見詰める中、その先には焦げ茶色の頭をした男が倒れている。まさか怨みをぶつけるのかとケーヒル達は思ったが、ディオゲネスを見る翡翠色に怒りは無かった。

 

 膝を折り、両足を抱える様に腰を下ろしたカズキはそっと左手を上げた。全てを憎んだその形相は恐怖すら覚えるが、優しく目蓋を閉じてやれば幾分か和らぐ。

 

 あの白い世界を知らない皆にはカズキの行いを信じる事が出来なかった。聖女の慈愛は死者にも向けられ自らの心体をあれだけ傷つけた者にも降り注ぐのか……全員がその光景を尊く感じ、指一本すらも動かせない。

 

「これが……聖女……」

 

 誰かの呟きは、同時に全員の想いの代弁だった。

 

 一挙手一投足を注目されるカズキは立ち上がりケーヒルを見た。ケーヒルも騎士団に命令すら出来ずに立ち竦んだまま。カズキの瞳の色を見て漸く正気を取り戻し、撤退の指示を出そうと身動ぎする。

 

 周囲には何故か魔獣の姿は無いが、此処は未だ森の深部。早く脱出しなければロザリー達の犠牲すら無駄になってしまう。

 

 いつの間にか目の前に来ていたカズキはケーヒルの手を取り引っ張った。聖女に直接触れたのはコレが最初ではと、少し緊張する。だが聖女、カズキが引っ張る先は更なる深部。脱出する方向では無い。 

 

「カズキ……あっちは森の深部だ。帰るなら反対に……おっ、おい!」

 

 カズキはケーヒルの手を離すと、引っ張る方向に向かって走り出した。その先には魔獣の死体や倒れた騎士達がいる。まさか全員に手向けを?と慌てて追いかける。

 

 だが、カズキは凄惨な周囲をチラリと見ただけで、そこを通り過ぎて行く。

 

「カズキ! そっちは駄目だ! まだ魔獣が居るかも……」

 

 声が聞こえたからでは無い。立ち止まったカズキは振り返って此方を見ると、再び森の奥へと駆け出して行く。

 

「ついて来いと……?」

 

 決断する。神々の使徒、聖女カズキが来いと示しているのだ。何かがあるに違いない。

 

「ジャービエル、ドルズス! 済まないが一緒に来てくれ! 森人の助けがいるかもしれない……」

 

 森人の二人は直ぐに頷き、ケーヒルの横に並んだ。

 

「皆は撤退の準備を! 聖女を連れ戻したら即座に撤退する! 負傷者は治療を、戦死者の確認と遺品を集めてくれ! ああ、聖女を見ただろう!主戦派も何もない、区別無くだ!」

 

「副団長よ、聖女様がお待ちだ。見ろよ、頬を膨らませて御怒りだ」

 

 実際には頬など膨らませてないが、早くしろと催促してるのは分かった。

 

「ああ、急ごう。二人は周囲の警戒を頼む」

 

 長い騎士としての経験と勘は危険を報せはしなかったが、緊張を解く訳にもいかないだろう。

 

 既に小さくなっていたカズキの背中を三人は追いかけて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ドルズス、コレを見た事は?」

 

「ある訳ない。此処まで偽装されては、近付かなければ判らない……副団長、これは大変な……なんてことだ……」

 

 カズキが案内した場所は直ぐ近くだった。

 

 視線の先で立ち止まったカズキは、ガサガサと其処にある草木を取り除く。最初は意味が分からなかったが、地面からスポスポと抜ける異常に目を凝らすしかない。そして程なく現れたのがこの黒い穴だ。底は全く見えず、その先がどれほどの広さか判らない。

 

「魔獣の通路……いや、巣か?」

 

 奴等は知能の低い化け物では無かったのだ……ケーヒル達は怖気が走るのを止める事が出来なかった。魔獣はゆっくりと深部から進んでいる。そして向かう先は……

 

「セン、そしてリンスフィア……攻め滅ぼす気か……」

 

 今迄見つからなかった筈だ。偶然にも近づいたら魔獣の餌食となるだけだし、森に溶け込む偽装は森人すら唸らせるのだから。

 

 今は聖女の奇跡により目の前にあるが、普通なら魔獣が殺到していてもおかしくない。先程がそうであった様に……

 

「副団長、ドルズス」

 

 カズキに手を引かれたジャービエルが何かを見つけて来た。それは小剣で、ところどころが錆び始めている。意匠は少ないが見事な作りだったのだろう……錆びを浮かべても、それは分かった。

 

「見た事がある。此れはイオアンの爺様の小剣だ。此処のキズ……ああ、間違いない」

 

「イオアン殿か……聖女を導いてくれたのは」

 

「ああ、きっとそうだ。聖女様は神々の使徒、爺様の最期の叫びを聞き届けて下さったんだ……」

 

 ドルズスは思わず祈りを捧げ、そして聖女を崇める様に視線を送った。そのジャービエルに手を繋がれたままの聖女は、どうしたの?帰ろう?と目で訴えている。まるで何事もなかったかの様だ。

 

「聖女……やはり救済の為に世界に遣わされた……使徒、か」

 

 あれだけ血が流れていた右手は、出血が止まっていて痛みすら感じているとは思えない。赤く染まったままの右手があった事をただ伝えるだけ。

 

「帰ろう……リンスフィアへ。陛下に、殿下に伝えなければ……」

 

 近い将来、魔獣は攻め入って来るだろう……防御を固めないと大変な事になる。魔獣への警戒は森との距離分緩やかなのだ。だが、今なら分かる。マリギや他の街、他国すらもそうして滅ぼされたのだ。そう、一夜にして。

 

 遂に……魔獣が現れて既に数百年を数えるが、長い歴史の中で初めて判明したのだ。人々の天敵、赤い化け物達……魔獣の生態と、その新たなる恐怖が……

 

 カズキの……黒神の聖女の伝説に、また1ページが刻まれた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 




書き足りないので、もう1話ロザリーとカズキの話を投稿します。


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53.ロザリー

「アスティア」

 

 訓練の後に会いに行く予定だったアスティアが目の前を通り過ぎたので思わず呼び止める。

 

「兄様?」

 

 後ろから聞こえた声が誰なのか分かり、直ぐに振り返る。側にはエリが控えていたが、壁際に寄りアストへ譲った。

 

「少しだけ大丈夫かい?」

 

 アスティアは黒のワンピースを揺らしアストの正面に立った。裾には星空をあしらわれ、まるで夜を纏っているかの様だ。色違いはカズキが何度も破いたが今も大事に着こなしていた。王族と云えど贅沢は敵で、着潰す事も有る程だ。

 

「はい、勿論です。どうしたの?」

 

「ああ、実は……」

 

 口に仕掛けた言葉をアストは飲み込んだ。周辺に人影は無く警戒し過ぎと思うが、新たな報せを聞いた者にとっては大袈裟でも無い。

 

 昨晩遅く早馬が来た事は知っている。兄様が態々報せてくれるなら、きっとあの娘の事……逸る気持ちを抑え、アスティアは即座に返した。

 

「兄様はこれから訓練でしょ? 私は今から白祈の間で神器や祭器のお世話をするの。急ぎでは無いし、エリとゆっくり進めておくわ。白祈の間なら気にする事も無いから」

 

 白祈の間は王族と一部の関係者しか入れない。エリすらも外で手伝う位しか出来ないのだ。リンディア王家は王政の主でありながらも同時に祭司でもある。日々カーディルは神々へ祈りを捧げていた。

 

「そうだな……到着まで時間はある。必ず顔を出すよ」

 

「ふふっ……湯浴みを終わらせてからにしてね? 前みたいな格好で来たら追い返すから!」

 

 到着と言う言葉で確信を得たアスティアは、嬉しくなってアストを弄ってしまう。

 

「勘弁してくれ……アスティアに叱られてからはケーヒル達に冷やかされてばかりなんだ。白祈の間に汚い格好で行くわけないだろう?」

 

「あら? 兄様なら分からないわ。以前だって……」

 

「わかったわかった! 必ず身綺麗にして行く……これでいいだろう?」

 

「仕方ないから許しあげる。待ってるわ!」

 

 アスティアはアストに笑顔を見せて、手を振りながら去って行く。慌てたエリは一礼して追いかけて行った。リンディアの花と言われたアスティアの笑顔は最近よく咲き誇る。大事な妹が消えた時、二度と咲かないのではと心配された程だったのだ。

 

 角を曲がる最後まで笑顔だったアスティアに、アストは何処か救われた気持ちになった。カズキが戻ってくる事実は勿論嬉しいが同時に悲しい報せも含まれていたのだ。騎士団の長として今回の悲劇は許されない事……ロザリーの死は余りに重い。

 

「アスティア、ありがとう……」

 

 つい最近まで子供だった。姿形では無い、その精神は成長途中で妹そのものだったのだ。だが今はどうだろう……気遣いは勿論、我慢強くなった。間違いなくカズキの存在がアスティアを変えたのだ。

 

「成長か……」

 

 自分は成長出来ているだろうか? カズキだけに過酷な運命を背負わせてばかりで……私も変わらなければならない。今度こそ護ってみせる、カズキも皆も。

 

 リンスフィアに聖女が帰ってくる。アストにとってカズキは聖女であり、同時に……命を賭けても護りたい存在なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 南の森から脱出したケーヒル達は、森の側まで来ていたマファルダストと合流した。森人達が今にも決死の突入をしようと準備をしていた時だった。 

 

 カズキの姿を見たマファルダストの森人達から歓声が上がったが、カズキが膝に抱くロザリーの姿は其れを打ち消していく。

 

「隊長が……」

 

「姐さん……」

 

「嘘だろう……どうして……どうしてだ!!」

 

「奴等から……主戦派から守ったんだ。その身を投げ出して……」

 

 泣き崩れる者、呆然とロザリーを見る者、主戦派に怒りをぶつける者、全員の嘆きが響く。

 

 また想いが蘇ったのだろう……枯れ果てる事の無い涙がカズキの目から零れる。ポタリと落ちた雫はロザリーの頰を濡らした。聖女の涙は儚くも美しく、人々の涙を強く誘いあちこちで啜り泣きに変わっていく。

 

「本当に……どこまでも見事だった。ロザリーは素晴らしき森人であり、聖女の母として……カズキを救ったのだ。私は一人の友人として、彼女を心から誇りに想う」

 

 リンディアの英雄ケーヒルの言葉は決して大きくは無かったが、微笑を浮かべたままのロザリーへ届き、皆へと伝わった。

 

「帰ろう……リンスフィアへ……」

 

 カズキは赤い髪に顔を埋め少しだけ肩が震えている。なのに、聖女の泣き声は聞こえない。それが……どこまでも哀しかった。

 

 

 

 

 センで手に入れた棺にロザリーを横たわらせ、休む事もせずにリンスフィアに向かう。棺は蓋棺(がいかん)せずにカズキが乗る馬車へと納めた。その方がロザリーも喜ぶと思ったからだ。それに聖女がロザリーから離れたがらないのも理由の一つだろう。

 

 早馬を出し、カズキ帰還の報せを持たせる。そして、アストにロザリーの死を伝える事も忘れなかった。王家として、聖女を救った偉大なる母へ然るべき迎えをしてくれるだろう。主戦派は気になるが、ケーヒルは命を掛けて聖女を守ると決めていた。

 

 それと……センからリンスフィアへの道中、聖女は不思議な行動を取る事があった。

 

 休息地に着いた時のことだ。

 

 周辺に咲く野花、特に美しさで有名な花を何本も手折り、馬車へと運び始めたのだ。その小さな手では一束分しか持てないのか、何度か往復している姿は皆の興味を引いた。

 

「何をしてるんだ?」

 

「花を持って帰るつもりかな?」

 

「いや、見ろ……」

 

 騎士団やマファルダストの一行が見守る中、カズキは適度な長さに茎を手折り棺へと入れていく。

 

 この世界では花を棺に入れる習慣は無い。盾や小剣に名を刻み、幾らかのコインと埋葬するのが一般的だ。騎士や森人が所縁の装備を入れるのが例外的扱いとされる。何より栽培される花など無いし、そんな余裕などこの世界には存在しない。育つ畑があるなら芋の一つでも植えるだろう。

 

 何人かが馬車に近づき、様子を伺う。

 

 ロザリーの顔や組まれた手、その周りに花を丁寧に並べていく聖女。色合いも考えているのだろう、ロザリーの美しさが際立ち始めた。

 

「姐さんへの手向けか? 何処の風習だ?」

 

「聞いた事ないな。でも綺麗だな……」

 

「勝手に……いいのか?」

 

「馬鹿か……神々の使徒が手向けるなら、其れが正しいに決まってるだろ。あの娘、いやあの方は聖女様だぞ」

 

 棺に花を捧げる風習は、この時から始まった。リンディアに広がるまで時間は掛からず、その方式が一般的になっていく。また森人の技術を応用し枯れ難い花も用意される様になる。この時カズキは好んで赤や黄色の花を選んだ為、その配色も伝承されていった。

 

 

 

 美しく花に囲まれたロザリーを乗せゆっくりと進む馬車ではあったが、センからリンスフィアまでは時間は掛からないだろう。南は王都から最も近い森だからだ。カズキの視線の先には霞む王都が見え始めていた。

 

 逃げ出した街だがカズキは帰る事に躊躇は無い。あの白い世界でロザリーが帰りなさいと言ったからだ。待っている人がいるとも……この世界で初めてのロザリーの言葉は、全てが優しかった。

 

 もう一度、しっかりと向かい合う……

 

 待つ人はおそらく、あの人達の事だろう。あの街に顔見知りなど、僅かしかいない。何となく分かっていたのに……あの人達に敵意など無いと。

 

 カズキは少しだけ強くなった。

 

 どんなに暴力に慣れ、痛みや死すらも遠くに感じたとしても……そんなものは強さとは違ったのだ。

 

 人を信じる事は簡単で、それでも酷く難しい。

 

 愛など理解出来ないが……ロザリーは自分を庇った。自らの命を投げ出して。

 

 アレが愛だったのだろうか? 失った筈の親の……母親の……

 

 

 

 

 

 気づけば、あの街はすぐそこだった。

 

 白亜の城、三本の尖塔、三重の城壁。何処までも続く緑の絨毯はユラユラと波が伝わっていく。

 

 景色を眺めたベランダ、その奥にはカズキ達が追いかけっこをした部屋。

 

 見ると、まだ距離があるのにあの巨大な門がゆっくりと開くのが分かった。

 

 真っ直ぐに伸びる道の両脇には鎧姿の男達が整然と何処までも並んでいる。剣を天に向け、微動だにしない。騎士達の後ろには民衆達が立ち、肩車の上には子供達の姿もあった。

 

 

 だが、凱旋では無い。 

 

 

 帰還を喜ぶと同時に、聖女の母ロザリーの葬列でもあるからだ。

 

 楽隊の演奏も無く、紙吹雪も舞っていない。

 

 ただ静謐を纏っている。

 

 聖女を乗せた馬車が門をくぐった時、僅かな騒めきすら止まった。

 

 瀕死の騎士や少年の命を救い、テルチブラーノでは森人を助けた……南の森では魔獣の新たな生態すら発見したと漏れ伝わっている。黒髪や翡翠色の瞳も噂通りだ。首周りには刻印が色濃く刻まれ、神々の使徒である事を示していた。その美貌は想像を超え、目が離せなくなる。

 

 だが、人々から言葉を奪ったのは其れ等だけでは無い。

 

 棺に隠れてはいるが優しく触れているのだろう細い手。何度も泣いたのだろう赤く腫れ上がった瞳。そして一筋だけ流れ出た涙の雫。

 

 悲しいだろうに、しっかりと前を向く強い心。

 

 少女の小さな身体は、誰よりも大きく見えるのだ。

 

 聖女……黒神の聖女……

 

 思わず溢れた誰かの呟きにも、怒りの言葉は出ない。

 

 そうして……カーディルを中心に、アストとアスティアが待つ城門前に辿り着いた。

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 この時の様子を描いた作者不詳の絵図は、この時代の最高傑作の一つとして後の世に語られる事になる。

 

 人が滅びに瀕していた時代、絵画や音楽などを楽しむ余裕など無かったのだろう。現存する物自体が少なく色彩は特徴的だった。悲惨な時代背景からか血や魔獣を思わせる赤は嫌悪され、死を連想させる黒も例外では無かった。

 

 しかし、この最高傑作は「赤と黒」の髪を中央に配置し、周囲はソレを際立たせる背景でしかない。当時の王子アストや王女のアスティアすら例外では無く、背景の一部として扱われているのだ。

 

 長らく事の真贋を疑われた本作は、ある時発見された文書に依り脚光を浴び一時代を築く。

 

 見つかったのは王女アスティアの日記だ。そして其処には感情の爆発と嘆きが記されていた。

 

「私の気持ちを表せば、矮小で卑屈な嫉妬だろう。人の死を嘆く事もせずに、ただ醜い嫉みを覚えたのだ。私が愛する妹、カズキの愛を一身に受ける女性に。この私にカズキはあれ程の愛を向けてくれるのだろうか? 亡骸に両手を添え、声を上げず、一心に嘆き涙を流す聖女。私は自分の情け無さに涙を流す事も出来なかった」

 

 この発見で描かれた聖女は真実と判明し、同時に聖女が縋り付く女性が何者であるかが新たな論争を呼ぶ。

 

 だが、それはあっさりと判明した。

 

 血は繋がっていないし、共に過ごした期間すら短く判然としない。だが間違いのない真実がある。

 

 彼女はその身を呈し聖女を守った。当時溢れていた狂人の刃の前へ我が身を顧みず投げ出したのだ。もし、彼女が居なければ世界は滅んでいたかもしれない。黒神の聖女が死ねば、後の救済は無かったのだから。

 

 だがそれは義務感でも、もちろん世界の為でもない。

 

 彼女を突き動かしたのは、愛だ。

 

 皆が良く知る慣用句や諺に登場する固有名詞、つまり人の名がある。

 

 人への無償の愛を表したり、人の優しさを讃えるあの名前だ。

 

 黒神の聖女やリンディアの面々と並び、誰もが知っているだろう。

 

 その女性の名は「ロザリー」

 

「聖女の母、ロザリー」と。

 

 ロザリーの様に……

 

 ロザリーの愛の如く……

 

 今語られるロザリーの名はこの傑作から生まれたのだ。

 

 

 

 〜黎明の時代 聖女カズキの軌跡〜

 

 第七章,聖女の母、より抜粋。

 

 

 

 

 

 

 




何となく書き足りなくて、幕間的に入れました。ロザリーの設定から抜き出した感じなので、多少展開に無理があったかも。


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54.刻印

刻印に変化が
誤字報告頂きました。ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 あの時みたいに避けられたらどうしよう……

 

 ()()()()へ帰って来たカズキを抱き締めたかった。だが、同時に恐ろしさを覚える。

 

 帰って直ぐ、ベランダに出たカズキはリンスフィアや先の景色を眺めている。運ばれていく棺に先程まで縋り付き泣いていた妹を慰めて上げたい。後ろには兄様も居るし、クインはお茶を入れてエリはカズキの着替えを用意してる。

 

 ……私はどうするの?

 

 頭の中にグルグルと浮かぶそんな言葉は、アスティアを混乱させていた。

 

 

 

「アスティア、きっと大丈夫だ。聞いただろう?ロザリーがカズキを癒してくれたのだから」

 

 アスティアの肩を優しく撫でて勇気づける。

 

 丁度カズキが此方に振り返り、部屋へと戻って来る。少し伸びた髪がフワリと舞い踊り強く目を引いた。

 

「そう……そうだよね? ロザリーさんを初めて見たけど、優しそうで綺麗な人だった。カズキを癒して下さったなら、ちゃんとお礼しないと……」

 

「ああ、落ち着いたらカズキも連れて行かないとな」

 

 ロザリーはリンスフィアにある小高い丘に埋葬される。そこには夫であるルーと愛娘のフィオナが眠り、何より聖女の間を遠くに見る事が出来た。国葬などは難しいが、カズキが会いに行きやすい様に道程は整備される予定だ。墓石に刻まれる文言は、これから議論されるだろう。

 

 カズキは名を変えた聖女の間、そのベランダからの扉を開けてゆっくりと戻って来る。アスティアは自分の心臓が激しく鳴るのを自覚していたが、カズキの目を見た時には不意に力が抜けた。

 

 あの瞳も変わっては無い。僅かな間に人は劇的に変化などしない。背が伸びた訳でも、言葉を紡げる様になってもいなかった。

 

 其れでも……アスティアにはカズキが大きくなったと感じられる。何時もと変わらぬ無表情なのに、何かが違うのだ。

 

 そして、直ぐに気付いた。

 

 カズキは此方を見ている。アスティアの瞳を、アストの目を……逸さずに見ていた。

 

 何処か突き放す様な……人を寄せ付けない色だった瞳は、暖かい。アスティアにはそう感じられたのだ。

 

「カズキ……!」

 

 もう躊躇う事もなくカズキの身体を強く抱き締めた。其処に感じる体温と優しい花の香りが届く。

 

 帰って来たのだ……勝手に決めた事だけど、私の妹が……! アスティアは漸く心から安堵して、もう一度ギュッと腕に力を込める。

 

 その時、聖女の間にいたカズキ以外の者は心から驚いた。当事者であったアスティアは余りの驚きで身体を震わせた程だった。

 

 おずおずとカズキは両手を持ち上げて、アスティアの背中へと回したのだ。右手は背中へ、左手は腰へと添えられた。不慣れなのか強い力は感じない。それでも皆には衝撃的な光景であった。

 

「カズキ……? あなた……」

 

 今迄カズキは感情表現、いや愛情表現などを表に出す事など無かったのに……アスティアをカズキは抱き締め返したのだ。

 

 顔を上げたカズキはほんの少しだけ頬を紅く染め、あの美しい瞳をアスティアに向けた。

 

「殿下……」

 

「ああ……ロザリーは、救ってくれたのかもしれない……カズキの命だけで無く、その心も」

 

 クインは姉妹の再会を喜び、同時に何かの違和感を覚えた。何かが違う……?

 

 その感じた違和感は決して悪い物では無いが、クインは疑問を解消するべく目を凝らし始める。

 

「……私も!!」

 

 着替えを選び終えたエリは我慢出来なかったのか、二人に重なりぐるりと腕を回した。

 

 エリの奇行に意識を取られたクインは集中力を失ってしまう。だが、その微笑ましい光景に文句の一つすら言えないのだ。そしてカズキも嫌がる事無く受け入れていた。抱き締め返しては無いが。

 

「ケーヒルと話をしてくる。警備は万全にしたが出来るだけ目を離さないでくれるか?」

 

「勿論です。専属の侍女として、必ず」

 

 黒の間は名を変え、聖女の間となった。

 

 最早隠す事も無くなり、アスト自らが選抜した騎士を各所に配置してある。以前の様な失敗は絶対に許さないと、警備体制を大幅に見直したのだ。昼夜を問わず巡回も行い、本来の賓客室へと戻っていた。

 

 アストが立ち去ろうとした時、カズキが小さく手を振った事も変化の一つなのだろう。アストは軽く手を振り返したが、少しだけ動悸が早まった気がする。

 

「……参ったな……初心な少年に戻ったみたいだ……」

 

 アストは頭をかきながら、何とか気持ちを切り替えて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ケーヒル、本当にご苦労だった」

 

「いえ……不甲斐無い結果となり、ロザリーに……カズキにも申し訳ないと思っております」

 

 謙遜等では無い。ケーヒルは心から悔いていた。あの時あの場所で油断などしなければ……今頃は……

 

「森人のロザリーか……マファルダストの隊長として名高いが、同時に素晴らしい人間であったのだろう。心から祈りを捧げなければならない。打ち合わせ通り、埋葬地への整備は急ぎ行おう」

 

 カーディルは目を細め、天空を暫し見つめて祈りを捧げた。彼女の尊い犠牲は、もしかしたら世界すら救ったかもしれないのだ。唯一無二の存在、聖女を凶刃から守ったのだから。

 

「そして公式に聖女の母として呼称する事を許可する。勿論、娘のフィオナと夫のルーの家族である事も当然だがな」

 

 カーディルは名を送る位しか出来ない自分に僅かな怒りを覚えたが、その命に誓い行うべき事がある。その聖女が導いた森の奥……魔獣の住処への対応だ。

 

「ケーヒル、悔いるのは後だ。ヴァルハラで出会ったら共に詫びよう。我らが騎士の暴走と暴挙をだ。だが今はやらなければならない事がある」

 

「……はっ。 間も無く殿下も来られるでしょう、暫しお待ちを」

 

 まさにその時、王の間へアストは到着した。そのアストは来る途中カズキの顔や仕草がチラついて困惑したが今は切り替え済みだ。

 

「陛下、お待たせしました。ケーヒルもご苦労だった」

 

 ケーヒルは深く頭を下げ、アストへ道を譲る。

 

「今は我等だけ。堅苦しいのはよせ」

 

「……陛下、今は軍議の場でしょう? そういう訳には……」

 

「その割には何処か浮ついているな。聖女と何かあったか、うん?」

 

「……その手には乗りませんよ、父上。ましてや不謹慎でしょう」

 

 父上と返しただけで、カーディルの掌の上だろうが気にしてもしょうがないのだろう。

 

「生きている者は生を謳歌すべきだ。それが亡くなった者への鎮魂ともなるだろう。昔教えた筈だがな」

 

「父上……」

 

 カーディルの不真面目なところは昔からだ。だがそれに救われた事も多くあり、文句もつけられない。

 

「殿下、此度の悲劇は全て私の責任。責めるべきは騎士であり、私でしょう」

 

「それを言うなら騎士団長として私に最も重い責任がある。ロザリーにどれ程詫びても足りないだろう」

 

「もうよい。ロザリーの為にもカズキを必ず守る。主戦派からも、魔獣からもだ。ケーヒル、報告を」

 

「はっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やはり地中か……森では木々の根も深いだろうに……」

 

 事前にある程度は聞いていた為、驚きは少なかった。カズキが導いた先にはイオアンの遺品と、巨大な穴があった。まさか世界に一つだけしかない穴では無いだろう。今まで気配や前兆無く現れた魔獣の謎も説明出来る。滅ぼされた国や街へ突如として襲い掛かった魔獣の群は、周到に準備された行軍だったのだ。

 

「恐らく少しずつ地中を掘り進み、各所に地表への出入り口を作っているのです。奴等は森の深部に居るのではなく、網の目の様に広がっているのでしょう」

 

 明らかに隠蔽された穴は奴等の知能が高い事を示している。

 

「掘り進んだ先に森が無ければ……」

 

 アストの懸念は当然だった。

 

「溢れるのだろう。かつての国々や街が滅ぼされた様に……」

 

「南の森は最早限界です。半日も進めば奴等の巣穴へと届く。いつ溢れてもおかしくありません。センに避難勧告を出しましょう」

 

「そうだな……そして防御を固めなければならない。センはこのリンスフィアから最も近い町。今や此処も安全では無い」

 

 リンディアに逃げる様な国土は残っていない。決戦に備え、奴らを撃退する他ないのだ。

 

「カズキが居なかったら……我等は何の手段も講じずにセンを失ったかもしれないな。どれ程の犠牲者が出るか、考えたくも無い。もしや聖女は既に救済を始めているのか……」

 

「幸い南側なら防衛は容易です。元々警戒している方角ですからな。城壁も厚く、防衛に向く地形もあります。今の内から戦略を練れば……」

 

「ケーヒル、一つ残念な報せがある」

 

 アストは戦略という言葉が出た以上、伝えなければならない。

 

「……ユーニードの事ですな?」

 

「知っていたか……昨晩の事だ。今は拘束し幽閉している。マリギ奪還の直訴と合わせ、カズキの軍事利用を堂々と言ってきた。カズキの誘拐も自白し悪びれもしていない。本当に……残念な事だ」

 

 カーディルの回答は予測していた事だ。しかし……目を瞑ったケーヒルへアストが言葉を重ねた。

 

「軍務長がいない以上、センの撤退と防衛を同時に行うのは困難を極めるだろう。勿論有能な者は他にもいるが、ユーニードに敵うわけもないからな」

 

「騎士団からも何人か出しましょう。今は慣例に縛られている場合では無いですからな」

 

「ああ、任せる。父上、国民への周知はどうしますか?」

 

「詳しくは伏せておくしかあるまい。どの道カズキが魔獣の謎を解明した事は噂になっているし、センの事も有る。求めに応じて話はするが、今は準備が先だ」

 

「了解致しました。 では……」

 

「暫しお待ち下さい。確認したい事があります」

 

 ケーヒルにはどうしても確認したい事があった。

 

「言ってくれ」

 

「ユーニードは何故今になって自白など。奴ほどの者が考えもなく表に出るとは信じられません」

 

「ああ、勿論私達も疑問に思った。ユーニードは言ったよ、今しか無いと。昨晩である以上、カズキの発見が耳に入ったのだろうな」

 

「他には?」

 

「押収した資料は確認中だが、今のところ不審な物は見つかっていない。だが範囲が広過ぎて時間が掛かるだろう。カズキを利用する方法は幾つも話すが、他に関しては黙秘のままだ」

 

「自白させましょう。手段を選んでいる場合ではありますまい」

 

「無理だ……ユーニードに家族は無く、自らの命など歯牙にもかけていない。ケーヒル、奴はもう……」

 

 ……狂気に囚われて、正気ではない。

 

 アストは拳を強く握り、歯を食い縛るしかなかった。幼い頃からアストやアスティアを世話してくれた忠臣、それがユーニードだったのだ。

 

「しかしそれでは……」

 

「今は資料の確認を急がせるしかない。全てを迅速に行わなければ……何が起こっても対処出来る様にな」

 

「……わかりました。今は出来る事をやりましょう」

 

「たのむ」

 

 三人はそれぞれの役割を果たすべく、動き始めた。

 

 過去一度も魔獣の侵攻を受けて来なかった王都リンスフィア。誰も未来など分からないが、魔獣との戦闘は避けられないだろう。

 

 リンスフィアはカーディルの治世の元、防衛の取捨選択を行なって来た。当然だが王都防衛は重要で、かなりの手を加えている。

 

 そして南側は森に最も近い。

 

 その為南の城壁等も含め拡充と改良を進めていたし、リンスフィアに至る途中にも備えを用意していた。万全とは言い難いが神々が味方してくれたのだろう。

 

 聖女が南の森へ入ったのも、きっと神々の導きの結果だ。

 

「だから大丈夫だ。必ず守ってみせる」

 

 図らずも、別れた三人は同時に呟いた。

 

 決戦は近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな……そんな事が……有り得ない……」

 

 アスティアがカズキの伸びた髪に櫛を通している姿を見て、クインは呟いた。幸せそうな王女の笑顔以上に意識を取られてしまう。

 

 出会った頃は肩口に掛かるくらいだった黒髪は、既に背中の半ばまで伸びていた。無造作に伸ばせば個人差はあれど多少は荒れる筈だが……

 

「相変わらず綺麗な髪ね……この指通りなんて何度やっても信じられないわ」

 

 軽く整えただけで艶は強まり、癖毛も枝毛も無かった。それでも前髪は少し邪魔だろうと、幾らかを束ねて括ってみた。額も僅かに見えて、表情が明るくなった気がする。

 

「ホントですねー。森人さん達と旅して来たなら、お手入れなんて難しかったと思いますけど。やっぱりロザリーさんがお世話してくれたんでしょうか?」

 

「そうね……あの方も美しい人だったし、きっと……」

 

 アスティアは気付いた。 

 

「カズキ、あなた……今、エリの言葉に反応しなかった……?」

 

 間違いない。

 

 エリの言葉を聞いて、そちらを見たのだ。

 

「エリ、もう一度話して……ゆっくりよ」

 

「は、はい」

 

 ホントですねー……森人さん達……お手入れ……

 

「やっぱりロザリーさんが……」

 

 カズキの瞳が揺れ、何かを思い出している様な……

 

「ロザリー……ロザリーよ。あの方の名前を理解してるのね?」

 

「クインさん! 今の見ました!? クインさん……?」

 

 エリは先程から話さないクインを見て、眉をひそめた。アスティアもクインの異変に気付く。

 

「クイン? どうしたの?」

 

 どうもカズキの反応に対してでは無さそうだった。ただカズキを凝視して、微動だにしない。

 

「……信じられません……こんな事が……」

 

 漸く呟いた言葉も意味を成さない。

 

「クイン! しっかりしなさい!」

 

 クインはアスティアを見て、その理由を語った。

 

「刻印が……刻印が変化しています。言語不覚の階位が3から2へ……」

 

 震える指で指し示した先……カズキの耳の後ろ、蛇が首をもたげたと表現された箇所。複雑な紋様の中に隠れた階位を、クインは読み取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




いよいよロザリーの愛によって齎された変化がカズキを変えていきます。真の聖女へと……


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55.幸せの時

誤字報告頂きました。何度チェックしても出てくる……本当にありがとうございます。それと評価も沢山、合わせてお礼を。
幸せで優しい時間を書きました。


 

 

 

 

 無理矢理裸に剥くわけにはいかない。

 

 クインは今直ぐにでもカズキの刻印を調べたい様子だが、流石にアスティアが止めたのだ。

 

「はぁ……クインも刻印の事になると人が変わるのね……」

 

 しかし重大な事であるのは確かだろう。

 

 刻印は神々の加護であり、力を与えるものだ。

 

 階位は1から5まであり、通常は2階位が人の限界とされる。刻まれる刻印も二つで例外は無かった、今迄は。アスティアの目の前に座り、先程淹れたお茶にフーフーと息を吹きかけている娘を除けばだ。

 

 一部を除き刻印は普通生まれた時に発見され解読される。刻まれた刻印は生涯変化せず、使徒と共に生きていくのだ。そんな使徒もずっと昔は大勢いたらしいが、今は万人に一人と言われ更に減少している。

 

「クイン、間違いないのよね?」

 

「はい、階位は2へと変わっています。ここが……こうなって……やっぱり信じられない……」

 

 お茶を楽しんでいる時に耳辺りを触られたら誰でも嫌がるだろう。カズキも例外では無かった。

 

「クイン……カズキに嫌われても知らないからね。見てみなさい、クインを睨んでるわ」

 

 アスティアの指摘に慌てて指を引いたクインは、少しだけ動揺している。

 

「それは困ります。専属として職務に影響が出ますから」

 

 間違いなく職務の為ではないだろうが、アスティアは許してあげた。此処にいる誰もがカズキに嫌われたら泣くだろうから。

 

 空気を読まないエリはマジマジとカズキの刻印を眺めて煙たがられている。動じないのは凄いのか、図太いだけなのか。

 

「階位が下がるって、聖女の力も衰えたんですかね?」

 

「それは見てみないと……」

 

「駄目よ、後にしなさい。もう夕刻なんだから、直ぐでしょうに」

 

 クインはウズウズしているのだが、アスティアは我慢させる。湯浴みの時にでも確認すれば良いのだから。

 

「……そうですね」

 

 申し訳ありません……そう返したクインだが、逸る気持ちは変わらないのだろう。

 

「無理矢理でなければ、ね。何か分かったらお父様と兄様に伝えないと」

 

「はい」

 

 たとえ聖女で無くなっても、カズキはカズキなのだから……言語不覚の刻印が消えたら、カズキの声を聞けるかもしれないのだ。それは何て素敵な事だろう。 きっと最高の、幸せな時に違いない。

 

「だから、そんな事……」

 

 救済の道が絶たれたら、聖女の犠牲が必要なんだろうか?……頭に浮かぶ嫌な思いをアスティアは無理矢理追い出した。

 

 カズキの身体には合計七つもの刻印が刻まれている。常識を遥かに超えたソレは、カズキを聖女足らしめているのだ。アスティアからしたら加護どころか、呪いとしか思えないが……

 

 だが同時に人々の助けになっているのも事実だ。

 

 男の子の命を救った瞬間はアスティアも目撃したし、他にも沢山の救いを齎したのだろう。今やリンスフィアで知らぬ者などいないのがカズキなのだ。

 

「ロザリーさんの名前を理解出来ているのは、それが理由なんですかね?」

 

 まだ刻印を見る為に、ぐるぐるとカズキの周りを回るエリが言った。 カズキは諦めたのか完全に無視している。

 

「クイン、どう思う?」

 

「そうですね、可能性はあります。言語不覚は弱まれば弱まる程、言葉への解放を意味するでしょうから」

 

 その瞬間、ハッとアスティアとエリは顔を見合わせた。

 

「「もしそうなら……私の名前も覚えて貰える……?」」

 

 二人はやはり同時にカズキを見詰める。

 

 不穏な空気を感じたのか、カズキはカップを置き椅子を引いた。

 

「ね、ねえカズキ? 私の名前はアスティア、アスティアよ? お姉ちゃんでもいいわ」

 

「あっ、ずるいですよアスティア様! 私の名前はエリ!エリ?エリ、エリよ!!」

 

「はぁ……」

 

 久しぶりに追いかけっこが始まり、やはり久しぶりにクインは幸せな溜息をついた。

 

 バタバタと走り回る三人を叱り付けるため、クインもカップをテーブルに戻す。音をたてずカップを置いたクインは立ち上がり、腰に両手を当てて唇を震わせた。

 

「三人とも……いい加減に……」

 

 黒の間、いや聖女の間に活気が戻ってきたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスト殿下」

 

 フェイは静かに立ち上がり、一礼をした。傍らには丁寧に包まれた小箱らしき物がある。

 

「フェイ、久しぶりだな」

 

 座ってくれ……そう促したアストだが表情は固い。フェイからの願いを受け、何をさておいても時間を作った。寧ろ早く会いに行くべき相手と思っていたからだ。

 

 アストはフェイから強い叱責や、怨みをぶつけられても耐えなければならないと思っていた。だからこそ、この席に同席者は連れていない。第三者が居てはフェイが不敬罪に問われかね無いからだ。

 

「直ぐに面会の許可を頂けるとは……感謝致します」

 

「……いや、私から会いに行くべきだった。マファルダストには、フェイには本当に申し訳ないと思っている。詫びて済むものではないが、どうか許して欲しい」

 

「……何故詫びなど……殿下に頭を下げさせる事などございません」

 

「勿論ロザリーの事だ。我が騎士団の暴挙、許されるものではない。私も含め厳正な調査の上、厳しく対処するつもりだ」

 

「殿下、おやめ下さい。騎士団ではなく主戦派の暴挙です。主戦派の存在は人々の悪意の澱。責めるなら全員であり、人の心の弱さでしょう。我らマファルダストは誰一人として殿下に恨みなどごさいません」

 

「だが……」

 

「姐さん……ロザリー隊長をはじめ、我らは殿下に感謝しております。常日頃からの森人への援助と配慮は皆が知っていること。自らを責めるなど、どうかしないで頂きたい」

 

「……しかし……いや、わかった。今はよそう」

 

 フェイは眩しい光を見る様に、目を細めた。まだ若い王子は人格に優れ、武勇の誉れ高い。忠誠を誓う王家が偉大である事に何の不満があるだろうか。

 

「今日伺ったのは、その事ではありません。いや、ある意味関係はありますが……」

 

 フェイは恭しく、傍らの小箱をテーブルに置く。綺麗な翡翠色の包みを取ると、中から大小二つの木箱が現れた。

 

「これは?」

 

「ロザリー隊長が、旅の途中でカズキ……聖女様へ贈った物です。お渡し頂きたいと思いお持ちしました。その方が喜ぶでしょうから」

 

「私が見ても?」

 

「勿論です」

 

 小さな木箱を開けると、太陽に銀色の光が反射する。

 

「髪飾り?」

 

 丁寧に磨かれたのだろう、銀月と星を象った美しい髪飾りだった。カズキの黒髪は優しい夜を幻想させ、よく映えるのがありありと分かる。

 

「聖女様は……不思議と女性らしく着飾る事を好みませんでしたが、これだけは気に入ったのでしょう。良く似合っていました」

 

「……ああ、確かによく似合うだろう。カズキは……少し個性的な子だが、あの通り美しい娘だからな」

 

「ははは、個性的ですか。まあ、失礼を承知で言えば確かにそうですな」

 

「……やはり、隊商でも?」

 

「まるで少年の様だと皆が笑っていました。隊長も随分苦心していましたが……効果は余り無かった様です。その髪飾りはその一つですな」

 

 二人とも酒の事は言葉にしなかったが、暗黙の了解なのだろう。

 

「アスティアも嘆いていたよ。あんなに綺麗なのにドレスすら嫌がるし、化粧などしようものなら逃げ回るから困る、と」

 

「それなら……次の品こそ、その最たる物ですな。手に入れてからは、肌身離さず持ち歩いてました。いつも眺めては隊長に叱られていましたよ、危ないからと」

 

「危ない?」

 

 言いながらも上蓋を取ったアストは、ひどく納得してしまった。

 

 それは少し長めに誂えたナイフだった。刃から持ち手まで一体で鍛えられたソレは大変珍しい色合いをしている。しかも見た目に反し、非常に軽い。これなら非力なカズキでも持てるだろう。

 

「まるでカズキの瞳の色だな……それに軽い」

 

「センで手に入れた様です。 偶然でしょうが、南へ入る前に……身を守る為、道具としても優秀ですからな」

 

 騎士や森人に限らずナイフは一般的な持ち物の一つだ。一人前と認めたとき贈ることも珍しくない。

 

「そうか……」

 

「殿下の御懸念は良く分かります。事実、そのナイフは違うことに使われてしまいました。それでも……贈られた品々の中で最も喜んでいたのがそれなのです」

 

 アストの苦い表情をフェイは驚いたりしなかった。

 

 普段使いでは無く、お住まいに飾るのでは如何ですか? そう投げ掛けたフェイの表情はどこまでも優しかった。

 

「……そもそも、私が決めるものでは無いか。ありがとう、必ずカズキに渡すよ。フェイは会っていかなくていいのか?」

 

「今は……マファルダストを立て直さなければなりません。それが私に課せられた急務でしょう。いずれまた」

 

 他にも理由があるとアストは理解したが、まだ割り切れない思いもあるのだろう……アストは深く触れたりはしなかった。

 

「そうか。フェイ、分かっていると思うが南だけは行くなよ? 近々動くがセンは撤退させる。先程陛下が決断されたんだ」

 

「ご心配ありがとうございます。今は南どころか、動く事もままなりません。当面はリンスフィアで身体を休め、情勢を見て決めます」

 

 フェイは南へ行かないとは言わなかった。どれだけ危険でも南は貴重な資源の宝庫だ。森人として……イオアンやロザリーを知る者として決断する時が来るだろう。フェイの眼は森人の誇り高さを示していた。

 

「……分かった。 もし何かあれば連絡してくれ。私に直接で構わないし、通達は出しておく」

 

「御配慮に感謝します。それではまた」

 

 立ち去るフェイを見送った後、アストは木箱を持ち歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖女の間に辿り着くと、扉を少し強めにノックする。勝手に入る事はしない。相手は女性の上、言葉を紡げないのだから当然だろう。

 

 此処へ向かう途中、警護の者と何度もすれ違った。アストから見ても皆が緊張感をもっているのは十分に理解出来た程だ。カズキに悪意を持って近づくなど不可能と考えていい。

 

 やがて扉が僅かに開き中からクインが顔を出した。アストの姿を確認すると、更に大きく開き脇に避ける。

 

「殿下」

 

「ああ、ありがとう。あれは……何をしてるんだ?」

 

 アストの視線の先には、部屋の隅へ追い込まれたカズキと取り囲むアスティア達が見える。ジリジリと近づくアスティアは、両手でカズキを捕まえる気なのだろう。カズキは絶体絶命の状態と言っていい。

 

「……何と言えばいいか……カズキに名前を覚えて貰おうと……」

 

「名前を?」

 

 その瞬間アスティアは躍りかかったが、カズキはヒラリと身体を回転し見事に躱した。躱した反対側にエリが居るが、手は届かないだろう。

 

「もう! なんて逃げるのが上手いの!? エリ! 作戦はないの?」

 

 最早当初の目的と、その為の手段が入れ替わっているのは明らかだった。一方エリはアストに気付いたのか、我関せずとその場から離れていく。

 

「に、兄様!? いたの!?」

 

 漸く気付いたアスティアは、顔を赤らめて姿勢を正した。カズキはアストの背後へ回り込み、小さな顔をチラリと覗かせている。

 

「アスティア、余りカズキを苛めるなよ?」

 

 勿論本当に苛めている訳もないが、アストは微笑を浮かべ冷やかしておく。

 

「ち、違うのよ! カズキが……」

 

「ははは、冗談だよ。怪我をしない様に気を付ないとな?」

 

「……はーい。エリ! 何を関係ないって顔してるのよ! あとで覚えてなさい……」

 

「殿下、その木箱は?」

 

 キリがないとクインは目的であろう箱に目をやった。

 

「ああ、フェイ……森人の、マファルダストの副隊長から預かったんだ。カズキへ手渡して欲しいと、先程ね」

 

 アストは残りの手でカズキを優しく誘導すると、室内の椅子まで促した。カズキも逆らう事なく従い、ストンと腰を下ろす。

 

「くっ……素直ね……」

 

 アスティアは呟きながらも、興味を惹かれて横に腰掛け……しっかりとカズキの隣を確保するアスティアにアストは益々笑顔になった。

 

 テーブルにそっと木箱を置くと、まずは髪飾りを披露する。

 

「まあ……綺麗ね……銀月と、星……大人しい飾りだけど、上品で素敵。これをカズキに?」

 

「ああ、選んだのはロザリーらしい。少しでも女の子らしくと願い、贈ったと聞いた」

 

 カズキは両手で箱を持ち、ジッと髪飾りを眺めている。ロザリーを思い出しているのだろう、目を離す事は無かった。

 

「カズキ、着けてあげるわ」

 

 そっと木箱を下させると、アスティアは宝物を扱う様に手に取った。クインは気を利かせ、鏡を取りに行く。 

 

 鏡の世界には月と星を纏った聖女がいる。艶やかな黒髪は夜を思わせて、髪飾りが際立って見えた。同時に銀色の煌めきは控えめで、ひっそりと夜を彩る。

 

「……本当に素敵……カズキにぴったりね……」

 

「ああ、流石ロザリーだな……本当に綺麗だ」

 

 アストの綺麗と言う言葉の贈り先……それは髪飾りなのか、それとも別の何かなのかは本人すら分かっていないだろう。

 

 カズキにしては珍しく、鏡に映った姿を確認するよう顔を傾けたりしている。その仕草は少女そのものだった。

 

「こんなに素敵なら、もう一つもきっと凄い物ね! 早く開けて見せて!」

 

 アスティアの期待通りでは無い気がするが、カズキが喜んでくれたらいい。そう願い、アストは手を伸ばした。

 

 長細い木箱を開けると、中からは翡翠色の輝きが溢れ出す。皆が息を呑み、目を凝らした。

 

「……ナイフ?」

 

 王女であるアスティアには、余り馴染みの無い物だ。ネックレスなどの装飾品を期待していたから、肩透かしをされた気分でもあった。

 

「綺麗ですけど……ナイフって、大丈夫なんでしょうか……?」

 

 エリの言葉はアストも懸念した通り、血肉を捧げる事で力を現すカズキには持って欲しく無いと考えたのだろう。

 

 だが、直ぐにその心配など掻き消えてしまった。

 

 カズキが両手でナイフを持つと……その胸に抱き締めて身体を震わせたからだ。揺れる黒髪の奥からは涙が落ちるのが見えて、それがどれだけ大切な物か分かった。

 

 アスティアは寄り添ってカズキの背中を優しく撫でた。やがて抱き締めたアスティアも涙を浮かべ、ゆっくりと時が流れていく。

 

 アスト達は、その時間をただ見詰めるだけ。

 

 それは哀しくも、幸せな時だった。

 

 

 

 



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56.予感

封印からの解放、そのヒントをクインは掴みます。


 

 刻印の神秘への探究はクインにとって最早娯楽といっていい。小さな頃から祖父コヒンの薫陶を受け、同時に沢山の神話に触れた。

 

 その力で人々を助ける英雄、知恵を結晶させた探究者、そして慈愛の心を以って癒しを与えた聖女……少女の頃から多くの物語を読み漁り、難解な文献に手を伸ばすまで時間は掛からなかった。

 

 全ては神話でありながら、同時に真実の欠片を顕している。

 

 そして出会う事など夢物語だった神秘が今、近くいるのだ。

 

 黒神の聖女、カズキ。

 

 封印されているとはいえ、5階位の刻印が刻まれた世界に唯一人の使徒。7つもの刻印を全身に散りばめられ、この世界に遣わされた。

 

 何度見ても、どれだけ見慣れた筈でも、ふと目を奪われてしまう。漆黒の髪、独特の色合いを持つ素肌、ボタニ湖を想起させる翡翠色の瞳、少女らしい淑やかな肢体。

 

 それらが、見事に調和した美貌。

 

「それだけでも、十分驚いていたのに……」

 

 先程まで湯浴みを理由にして、そのカズキの身体を清め、その後それぞれの刻印を調べたのだ。不思議な事に、カズキは協力的で困る事は無かった。

 

 元々書き溜めていた物に追記という形で補足していく。驚いたのは一つでは無く、複数あった。

 

「陛下に、殿下にもお知らせしなければ……先にお祖父様にも見て貰おう」

 

 動揺しながらも、何とか纏めながら独り言ちたクインは歩き出す。何処かその歩みは軽やかだった。

 

 

 

 

 

 

 

「……階位が変化するとは、驚かされてばかりじゃな……」

 

 何時もと同じコヒンが、何時もと同じ様に腰掛けている。体に不釣り合いなテーブルには数々の文献や資料が並び、最早それ以上何も置けないだろう。人によっては顔を顰めるかもしれないが、クインには見慣れた光景だ。それどころか、寧ろ羨ましい気持ちすらあるかも知れない。

 

 今は手を止めて、クインが持ち込んだ紙の束を眺めている。

 

「簡単に信じるのですね?」

 

 実際に見たクインですら幻を見た気持ちになるのだ。軽く目で追っただけのコヒンが疑う事すら無いのは不思議だった。

 

「うむ。あの後も色々と調べたからじゃな……特にヤトに関して」

 

「黒神のヤトを?」

 

「中々面白い神じゃよ、ヤトは。司る加護に対し、その在り様は白神の如くじゃ。最近は俄然黒神への興味が尽きないのう」

 

「ヤトが白神の如く……ですか?」

 

 クインには俄かに信じられない話だ。カズキの刻印はとても加護とは言い難い物だから。

 

「人の心では理解が難しい……人を痛め付ける様な加護も多いし、だからこそ白神程に皆が身近に思ってないからのう。ワシも最近までそうじゃった」

 

「確かにカズキの変化には一定の意味があると思います。それでも……余りに過酷ではありませんか? たった一人、しかも女の子に」

 

 コヒンはうむうむと頷きながら、出来過ぎな孫へ言葉を返した。

 

「それじゃよ、正に過酷で残酷な仕打ち。それこそが人の限界であり、愛すべき弱さでもある。神々は時に人の理解を超えた、想像も付かない事を行うものじゃ」

 

「……どういう事でしょう?」

 

「ヤトが関わったと思われる加護はそう多くは無い。大半が表にさえ出ていない可能性も高いがの。面白いのは……例えばこれじゃな」

 

 クインに見せた文献はそう長くはない。それでも通常は読み込むのに一定の時間を要するだろう、だがクインには関係ない。コヒンがクインの資料を読み直した頃には顔を上げていた。

 

「……復讐心に駆られた男が暴走し、相手を殺そうとする。その相手を庇った女性は男の妹で、真実の愛に気付いた男は改心した。最後は妹の愛を祝福する……ありきたりな物語と思えますが……?」

 

「その男には憎悪を糧とする刻印が刻まれていたんじゃ。暴走したが、妹の慈愛により生まれ変わる。その男の名はモルス、聞いた事があるじゃろう?」

 

「英雄モルスですか? 救国の英雄として描かれたあの?」

 

「うむ、そのモルスじゃな。妹には慈愛の刻印があったとされる。運命を振り回し、結果へと導く……ヤトが好んで行う加護じゃよ」

 

「しかし……間違って相手を殺めたり、憎悪に呑まれたら結果は変わってしまうでしょう。寧ろ悪化する可能性も」

 

 コヒンは我が意を得たりと膝を叩く。パシンと見事に響いた音は部屋に反響した。

 

「其処が人の限界じゃ。神々はあくまでも機会を与えるのみ。結果に繋がる可能性を加護として授けるが、行うのは人。その加護は、慈愛も憎悪も変わりはしない。そう考えると違った側面が見えて来るのではないか」

 

「……確かに理解はしますが……」

 

 運命に振り回される人は堪ったものではないだろう。

 

「力や治癒、親愛や火の加護などが良く知られているのぅ。しかし世界を動かした出来事の裏には、殆ど黒神が関わっていると言っていい。特にヤトはそれが顕著だったのじゃよ。目立たない上、偶然の産物にしか見えないのが難点じゃ」

 

「犠牲になり、人生を悲観する人も多いでしょう。私には納得出来ません」

 

 カズキを見れば、尚のことだ。

 

「それが愛すべき人の弱さじゃな。我々には推し量れない何かがあるのじゃろうて」

 

「ではカズキの刻印は……?」

 

「以前は呪いか何かで、生贄を求めていると考えたが……言語不覚の階位は、寧ろ聖女の力を高める効果があると考えて良いじゃろう。ヤトの加護……その力が失われた時、本当の聖女が降臨するのかもしれん。ヤトは負荷をかけて、世界を救済させる気……あくまで憶測じゃがな」

 

「聖女の封印は、ヤトの加護が弱まれば解けていく……?」

 

「人には余る力じゃ。 慣らす時間を稼ぐ為、聖女を守っている……ヤトなりのやり方でな」

 

 多分じゃが……コヒンはそう締めくくった。

 

 到底納得など出来ない……人の感情や想いを弄んでいるとも感じる。カズキを守るどころか、苦しめてばかりではないか……クインはやはりヤトが嫌いだった。しかし、何処か理解してしまう自分がいる。

 

 事実、クインが驚いた最大の変化は聖女の封印だ。憎しみの連鎖が消えかかっているのにも驚いたが、何より封印の弱化こそが全てだろう。

 

 聖女の刻印が完全に解放されたなら、世界は救済されるのだろうか?

 

「お祖父様、封印を解く方法には思い当たりますか?」

 

「それはお前も気付いているじゃろう? やはり偉大なるリンディアの血よ、アスト殿下が以前示された通り……」

 

 ヤトの加護を振り切り、狂わされた刻印すらも元に戻す……アストは言った、決して生贄などでは無いと。

 

 そう……真の慈愛に目覚める、その時こそが……

 

 

 

 

 黒神に関する幾つかの資料を受け取って、クインはコヒンの部屋から立ち去ろうとしていた。救済への道が開けたかもしれない……それを知らせなければ。

 

 片手には資料、もう片方には幾つかの物語。

 

 物語はクインの完全な趣味で、刻印とは全く関係ないがコヒンは何も言わなかった。ああ見えて意外と夢見がちな可愛らしい側面を持つ孫を微笑ましく思うくらいだ。

 

 コヒンはふと思い出し、クインを呼び止めた。

 

「クイン」

 

「は、はい? 少し参考にするだけで、直ぐに返却しますから」

 

 持ち出した物語を指摘されたと思ったのか、クインは珍しく吃る。

 

「それを読みたいなら、ついでにこれも持っていきなさい。呼び止めたのは他の事じゃ」

 

 墓穴を掘ったクインは僅かに赤くなり、それでも追加を受け取る。

 

「なんでしょう?」

 

「殿下から頼まれた分析……まあ、確認だな。軍務官の……なんだったか……」

 

「ユーニードさ……ユーニード、元軍務長ですか?」

 

「おお、そいつじゃ。奴の指令書や、配置図などで違和感が有れば報せてくれと……これじゃな」

 

 ユーニードが主戦派の首魁であった事は、クインにとり驚く事では無かった。しかし、ユーニードが関わっていた軍務は多岐に渡り、調査が間に合っていない。アスト達は手の空いている者へ資料の違和感や間違いを指摘して貰えるよう頼んでいた。

 

「兵站に関するものですか? 私も余り詳しくはないですが……」

 

 兵站……配給や整備、騎士の配分や駐屯地に関するまで含まれるが、流石のクインも専門外だった。これはテルチブラーノに対する数値の様だ。

 

「まあ、大した事では無いがな。知っての通り、リンスフィア以外の駐屯地には騎士が配置されている。定期的に交代し、装備類も例外ではない。ここを見てくれ」

 

 コヒンが指し示した数値は、軍備品に関する配分表だ。例年と変わらず、特に違和感はない。寧ろユーニードの苦心すら見える程だ。

 

「お祖父様? おかしなところは別に……」

 

「だから大した事ではないと言ったじゃろう。此方がリンスフィアへの入庫と出庫量の推移じゃな。ここと、ここ、ここもじゃな。僅かに誤差があるじゃろう? 全ては許容範囲じゃし、現場では良くある追加だろうが、まあ指摘しろと言われたからな」

 

 殿下に渡してくれ、そう頼まれたクインの荷物はさらに増えた。

 

「よくある事ですか?」

 

「現場なんてそんなもんじゃろ。配給量通りなどいかないからな……割れたり、切れたり、不測の事態など日常茶飯事じゃ」

 

「分かりました。殿下へお伝えします」

 

「助かったわい。階段を上がるのは年寄りに堪えるからな」

 

 腰をトントンと叩く仕草にクインは苦笑した。

 

「お祖父様、また来ますね」

 

「ああ、いつでも来るがいい。 待っとるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖女の封印を解く鍵を見つけたクインは、少しだけ興奮していた。早く伝えたいと気が早るが、ふと気付く。

 

 立ち止まり暫し考えを深めた。

 

「……大した事ではない、普通の事だと」

 

 思い立ったクインは自室に戻り、コヒンから預かった兵站に関する表に目を通していく。

 

「乾草……馬の餌、ククの葉は、痛み止め。早駆けの馬具、そして……燃える水……」

 

 燃える水は保管期限があり、効果が減少する。だから使用予定前に調合するのが一般的と言われるのだ。勿論例外はあるし、絶えず一定量は常備しているだろう。表からは異常を感じる程ではない。

 

「特におかしくはないけれど……」

 

 この数値はあくまでテルチブラーノ単体だ。僅かな誤差など、誰も気にしてはいない。実際良くある事らしく、不自然な点も見つからない。

 

「でも……相手は……あの、ユーニード……」

 

 彼が奪還を願い出たマリギは? 普通に考えれば増加している筈。奪還するとなれば、兵力も集中しなければならない。しかし、実際はマリギに関するものは重点的に調べているだろう。異常が見つかったなど聞いていない。

 

「殿下に伺ってみましょう。只の気のせいなら、それでいい……」

 

 クインは自室を出て、王の間に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿下、もう一度お願い出来ますか?」

 

「マリギの資料には不自然な点は一つも無い。これはケーヒルも同じ意見だ。そうだな、ケーヒル」

 

「はっ……悔しいですが、奴の仕事は見事なものです。最適で最低限の物量を割り出していますな。無駄一つなく、計算されている」

 

「クイン?」

 

 彼女の思案顔に不安がよぎった。クインは軍務には疎いが、ユーニードに匹敵する頭脳を持つのは周知の事実だ。カーディルの問い掛けに更に返す。

 

「北部を警戒する部隊への補給、それに不自然な点は無いと……」

 

「ああ、残念ながらマリギに駐屯地はもう無い。付近の村々から遠征し、日々警戒にあたっている。しかし軍務長側から、便宜を計られた形跡は全くないな」

 

「皆様に伺いたいのですが、この内容から何を思い浮かべますか?」

 

 クインが見せたのは、コヒンが指摘した誤差がある補給品だ。だが、先入観をなくす為品名しか記入していない。

 

「撤退行動だな」

 

 あっさりとケーヒルは答えた。

 

「撤退行動、ですか?」

 

「ああ、魔獣の襲撃を想定した場合だが。ククの葉を混ぜた乾草を馬に与え、鎮静効果……つまり痛みに耐性を持たせる。馬具は騎士が囮になって魔獣を撹乱する時に使うし、燃える水もその時に使うな。魔獣は火を恐れ近付いて来ない……奴等の進路を狭める為だ」

 

 ついでに言うと、ククの葉を騎士は噛みながら早駆けする……アレは長引くと痛みとの戦いになるからな……ケーヒルはそう締めくくった。

 

「クイン、説明しろ。何を気にしている?」

 

 カーディルは嫌な予感しかしなかった。

 

「まだ他を見ないと確証はありませんが、少量ずつ各駐屯地へ集められている可能性があります。彼が何度も間違えたとは思えませんし、マリギ周辺だけ綺麗なままでは逆に不自然かと」

 

「ユーニードは魔獣を懸念し、撤退戦の準備をしていると? それでは、言行不一致としか思えないが……負け戦を想定しているのか……?」

 

 ユーニードの魔獣への怨嗟は狂気の域で、負け戦では魔獣を駆逐出来ない。それでは悲願は達成しないだろう。答えが導き出せない、だが確かに引っかかる……そうアストは思う。

 

「先ずは他の地域を調べ直そう。テルチブラーノだけなら間違いで済む。許容範囲の誤差を弾かず、拾い上げてみるか。そう時間は掛からないだろうからな」

 

 

 

 

 

 カーディルの指示により再調査が行われ、結果は簡単に出た。一部地域を除き、誤差の範囲ながら補給物資の品目は大まかに共通したのだ。 

 

 マリギ周辺は警戒していた為、入念な調査を行なっていた。他地域はそれぞれに配分し、広く網を掛けていなかったのだ。カーディルからすれば、それを任せる人員がいなかったと言い換えるだろう。

 

 差異はあれど、それらはクインが指摘した品々に間違いなかった。

 

 

 

 

 

 




誤字報告ありがとうございます。


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57.ユーニード=シャルべ

ユーニード再登場。策略が明らかに。


  

 

 

 

 

 クインは森が最も遠い東部を調べていた。顔を上げれば、アストすらも何枚もの資料を相手に戦っている。

 

 残念ながら慌しくなった事で、カズキの刻印について説明する時間は無くなった。

 

 落ち着いて考えれば未だ確証は無く、何か出来る事があるとも思えない。慈愛に目覚めると言っても、カズキは十分に優しいし特別な手段など無いだろう。今まで通り、いや以上に寄り添い続ける……それが最も重要な事の筈だ。黒神の資料を見直し、詳細を詰めたら報告すればいい。

 

 そんな事を考えながらも、クインの手は止まっていない。

 

「東は特に不自然な点が無い……避難を開始するなら、東こそ急がなければならない筈なのに」

 

 他の地域と比べ、東に不自然な点は見つからない。新たな補給は行われておらず、誤差もない様だ。

 

 ユーニードが各地域に散らばる人々を心配しているなら、撤退が困難な町や村から始めるだろう。しかし今判明している範囲では、それを裏切る。

 

 全体的には、リンスフィアからそう遠くない駐屯地から差異が見つかっていると言えるだろう。

 

「殿下、如何ですか?」

 

「かなり極端な分布だな。クインの言う通り意図的だと考えていいと思う」

 

「ならば地図上に表してみましょう。何か見つかるかもしれません」

 

「ああ、試してみるか」

 

 壁に用意された地図……リンスフィアを中心として描かれており、四隅は森に囲まれている。細かな修正を繰り返したのか、塗り潰した場所や後から貼り付けた付箋が目立つ。

 

 数値的違和感が有る駐屯地を二人で色分けしていく。数は多く無く、作業は直ぐに終わった。

 

「特に同心円上に有るわけでは無いですね……距離もバラツキがありますし……やはり偶然でしょうか?」

 

「ああ……」

 

 答えたアストだが、何処か思案顔をしていた。

 

「殿下、何か気になる事でも?」

 

「この駐屯地、いや町だが……この分布を何処かで見た覚えがある。思い出せないが……」

 

「分布に覚えがあるなら、何かしらの意味がある筈ですね……何種類かの地図を調べましょうか?」

 

「見たのは城の中じゃない、それは間違いないんだ。確か文字が多く書き込まれた地図で……街道とは違う線が……」

 

「街道とは違う線……特別な道程を利用するなら、隊商でしょうか?」

 

「クイン、それだ……ロザリーに見せて貰った地図で間違いない。マファルダストの宿舎で見た」

 

「ロザリー様の……ではマファルダストの何方かに見て頂きましょう。直ぐにお呼びします」

 

「ああ、頼む。どうも嫌な予感がする……」

 

 一見意味の無い配置に見えるが、隊商の地図と偶然一致するなど有り得ない。ユーニードが意図的に行ったとすると何か判明するだろう。

 

 クインが戻るまで残りの資料を片付けてしまおうと、アストは袖をまくった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「フェイ……態々済まない。それと以前預かった物はカズキに間違いなく渡したよ。凄く嬉しかったと思うし、ロザリーを思い出したのか涙も溢れて……とにかく、本当にありがとう」

 

「そうですか……きっと姐さんも喜んでいるでしょう。今日の用件をお伺いしても?」

 

 当たり前だが、ロザリーの名を聞くと辛そうな表情を見せる。話題を広げる事もせず、端的に話を進めようとするフェイだった。そしてアストもそれを察し、深くは説明しない。

 

「ああ、教えて欲しい事があって……私の記憶違いで無ければいいが……」

 

 アストが指し示した地図には更に色分けが進んだ駐屯地があった。仮に駐屯地同士を線で結んでも歪な形にしかならないだろう。この分布をマファルダストで見た覚えがあると、アストは続けた。

 

「……全てリンスフィアから二日以内に到着出来る町ですね。但し狩猟採取組でなく、運搬組がですが」

 

 ひと目見て、フェイはあっさりと答えた。

 

「待ってくれ……全てだって? しかし、距離にバラツキが有りすぎるだろう?」

 

「距離も問題ですが、街道では無いので……登坂や下り、障害物などを考慮しています。森人が受け継いで来た、特別な道程がありますから」

 

「二日以内……全てが……」

 

 そして、その駐屯地に特定の物資が流れている。ケーヒル曰く撤退行動に使うものに限定され……撤退先は当然……

 

「王都リンスフィア」

 

 まだ全ては分からない……だが、アストもクインも寒気を感じて身体が震えるのを自覚した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フェイ、何でもいいから他に気になる事があれば教えてくれないか?」

 

 やはり森人には森人の知恵がある。何か違った側面を見せてくれるかも知れない……アストはもっと早くから森人と連携していればと、後悔すら覚えていた。

 

 事実、南の森ではマファルダストとの連携により魔獣を倒す事が出来たとケーヒルは言っていたのだ。アストは元軍務長が主戦派で、何かを企てでいたとフェイに伝えた。軍事に関わる資料も見せ、その違和感の意味を探していると。

 

「主戦派ですか……」

 

 フェイから感情の揺らめきを感じる。ロザリーの仇、そのものだ。

 

「奴等は南で戦った時、巫山戯た事を言っていました……これ程の効果があるとは素晴らしいと。聖女を中心に据え、周囲を三重に円陣隊形を組み戦う。更に燃える水をばら撒き、壁としながら負傷者を聖女の元へ……確かに暫くは戦線を維持出来ていた様です。あれ程の魔獣の群れに対してなら、驚異的と言っていいでしょう」

 

「ああ、ケーヒルからも聞いている。大半が新人の騎士で、動きは拙くとも戦えていたと。カズキが控えている事で、心が安定するのだろうと分析していたな。それが?」

 

「主戦派は狂気の塊り。人の常識では計れず、その行動もそうでしょう」

 

 フェイからは怒りと後悔が透けて見える。その狂気の中心にいて、ロザリーの死を間近で見たのだから当然だろう。

 

 アストもクインも未だよく分からないと、困惑していた。フェイは何かを掴んだ様だが……

 

「その元軍務長、ユーニード=シャルべですね。奴があの連中と同じ狂気を持つのなら……恐らく、こう考えたのではないでしょうか」

 

 フェイが示したユーニードの考え……それは正に狂気の沙汰、余りに常軌を逸していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アストはユーニードの元へ走っていた。フェイの考察は真実だと理解したからだ。そしてクインは、カーディルに知らせるべく王の間へ向かっている。早く対策を講じないと大変な事になると確信していた。

 

「何とかユーニードから指揮命令系を聞かないと……止められない……」

 

 地下に設けられた牢獄は、そこまで使われていなかった。今はユーニードを含め、僅かしか捕らえられていない。

 

「で、殿下! ど、どうなされました!?」

 

 看守の一人は椅子に凭れ掛かり、腕を頭に組んで考え事をしていた。怠けていたわけでは無いが褒められたものでも無いと、慌てて立ち上がって大きな音を立てる。

 

「ご苦労。 ユーニードと話がしたい、入れてくれ」

 

「はっ! 殿下……護衛の騎士は……?」

 

「必要ない……急いで欲しい」

 

 アストの焦りは怒りとして伝わり、看守は震え上がった。普段は温厚な王子だが、リンディアを代表する騎士であり英雄の一人だ。歴戦の戦士が相手では、恐怖を覚えるのも仕方のない事だろう。

 

「も、申し訳ありません! 直ぐに! おい、急げ!!」

 

 慌てた様子でもう一人の看守は鍵束を取りに走った。途中躓きそうになるが、誰一人笑いもしない。

 

 アストは牢獄へと続く鉄格子を睨み、右手で掴んで腕を引いた。狭い空間にガチャンと音が響き、看守の震えは更に強まる。

 

「ユーニード、何故だ……」

 

 普段のアストなら看守へ気遣いも出来ただろうが、そんな余裕はない。

 

 早く戻って来いともう一人の看守へ矛先が向かった時、震えていた看守の耳にバタバタと足音が聞こえて来る。アストに気付かれないよう、看守はホッと息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿下、久しぶりですな」

 

 普段は薬料で撫で付けていた白髪も、今は流されたままだ。しかし鋭い眼光は変わらず、独特の威圧感を放っている。もう数日間この牢獄から出ていない筈だが、疲れた様子も見せず背筋を伸ばし立ち上がった。

 

「ユーニード……」

 

 二人は鉄格子を挟み、内と外で向かい合う。

 

 狭い空間には住む人間への配慮など無い。簡易なベッドと剥き出しの地面、手の届かない位置に小さなランプ。油を注ぎ足す時は上にある穴から行う仕組みになっている。気の弱い者なら、数日と言わずに泣き出すかもしれない。

 

「殿下自らがこの様な場所へ来てはなりませんな。ここは不浄の場所、早くお戻りなさい」

 

 昔の様にアストに語り掛ける。アストが子供の頃、ユーニードは教師として日々寄り添っていたのだ。厳しくも正しかったこの男はアストにとって第二の父親だった。

 

「……私もこの場所で鉄格子を挟んで話すなど、したくは無かった」

 

 下を見れば手のつけられていない食事が置いてある。水すらも飲んでおらず、その矍鑠とした姿に脅威すら覚えてしまう。

 

「殿下が態々来られるとは、如何なされました?」

 

 アストは普段と全く変わらない態度に、ユーニードの狂気を見た。異常な環境と状況に眉一つ動かさないユーニードは、正に狂人だろう。

 

「もはや語る事もない。お前達の指揮系統を教えてくれ。あんな馬鹿な事はやめさせなければ」

 

「さて、何の事でしょうか?」

 

「乾草、ククの葉、馬具、そして燃える水。分かっている筈だ」

 

「成る程、良く気付かれましたな。まあ、さほど難解なものではありません。しかし、何故私がそれを教えると?」

 

「……ユーニード、本気なのか? あれ程に愛してくれたリンディアを……リンスフィアを戦場にするなど……私は認めたくない」

 

「殿下、私は今も昔も変わってなどおりませんよ。聖女がリンスフィアに居る今、この時こそ魔獣殲滅の好機。以前から何度も具申致しましたが、陛下はご決断なされない。よくご存知の筈です」

 

 アストはここに来るまで最後の希望を持っていた。ユーニードが否定してくれるのを……フェイが辿り着いた考えを笑い飛ばしてくれるのを。

 

 だが……ユーニードの返答は全てを肯定している。アストに冷たい絶望感が襲い掛かってきた。

 

「お前が具申していた魔獣殲滅の方法……三重の円陣と炎の壁、円陣の中心まで補給運搬路を確保。そしてその中心に……」

 

「聖女を据える。絶えず負傷者を癒し、壁を維持しつつ戦い続ける。我々が死に絶えるか、魔獣どもが断末魔の悲鳴を上げるか……私は勝利を確信しておりますよ。我等には聖女がいる、そう……生贄として神々より遣わされた聖女カズキが!」

 

 最早狂気を隠す事もせず、唾を吐き出して血走った目を剥く。

 

「ふざけるな!! だからと言って魔獣をリンスフィアに誘い込むなど……リンスフィアには戦う事も出来ない女子供や老人達がいるんだぞ!」

 

「このリンスフィアには三重の城壁と、この王城まで整備された道、そして我が王国の民の半分を超える人が居る……三十万の人が! 大丈夫です……例え傷つき倒れても、その中心に座す聖女が癒してくれるでしょう!!」

 

 言葉を出す事すら出来なくなるのをアストは感じた。私の目の前にいるのは本当にあのユーニードなのか? 厳しくも正しい答えを教えてくれたあの……だが、それでもアストは聞かなければならなかった。愛する家族と民、リンディアと……カズキの為に。

 

「もういい、誰が指揮を取っているのか言うんだ。ユーニード、私はもう手段は選ばないぞ」

 

「殿下、その厳しさ素晴らしいですぞ。陛下も貴方も良い為政者ですが、余りに優し過ぎる。時には非情な決断をしなければならないと、何度も申し上げました。私は嬉しい」

 

 アストは拷問も辞さないと恫喝したのだ。それを……

 

「ユーニード! 言うんだ!!」

 

「殿下、では答えましょう。指揮する者など、おりませんよ。私はただ、聖女の存在と使()()()を諭しただけ。軍務長として奴等に勝つ方法を授けただけなのです。皆がそれに応え、それぞれが動き出した。ですから……貴方やケーヒルの様に指揮する者など居ないのです」

 

「馬鹿な! それでは……いや、そんな筈は無い!」

 

 それでは止めようが無い……それこそ全員を、主戦派に属する全員を見つけ出し、捕らえなければ……アストはユーニードが真実を話している事がわかった。認めたくない真実を……

 

「付け加えるなら……この戦い、聖戦を始めるのは、聖女が円陣の中心へ還った時。それが合図です」

 

「……嘘だ」

 

 それが本当なら、もう……カズキが帰って来て、数日が経過して……アストは自らの血の気が失われて行くのを止められない。

 

「もう遅いのです、殿下。神々の加護の元、我等が勝利するでしょう」

 

 ここは地下牢で、天の光など届きはしない。薄暗いランプと石の壁、少し錆の浮き出た鉄格子。

 

 それでもユーニードは天へと両腕を上げ、その天を見上げた目は映っている筈のない神々へと向けられている。

 

その姿は敬虔な神の信徒、殉教者そのものだった。

 

 

 

 

 

 

 



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58.絶望への足音①

佳境への入り口まで来ました。


 

 北限の街、マリギーーー

 

 つい数年前までマリギはそう呼ばれていた。森が見えるところまで迫って来た頃、街を捨てるか留まるかを決めかねていたのだ。この頃は魔獣が地下に棲み、森の隅々まで巣を広げていると知られていなかった。イオアンが発見し、聖女がその想いを拾うまでは誰も……

 

 森と言う緑に半分が覆われつつあっても、マリギはまだ人の営みの跡を残していた。マリギ名物の郷土料理を振る舞っていた店には、皿やカップが埃を被りながもそのまま残っている。錆びたナイフや形が崩れた金具が店先に放置されているのは鍛冶屋だろう。

 

 そして、馬車が行き来していた轍は街の南から、森に呑まれた北へ消えて行く。

 

 

 

 

 

 カズキが聖女の間へ帰り、アスティアに優しい抱擁を返していた頃……

 

 静寂に包まれていたそのマリギは、その沈黙の時を終えつつあった。

 

 人の荒い息遣い、土を踏み付ける蹄、剣や鎧の奏でる金属音……三つ程の小隊か、騎士達が規則正しく行軍している。南から入った彼らは、それぞれの目的地へと分かれ手には松明が掲げられていた。

 

 騎士の全ては決められた行動で、これから数日馬から降りる事は無いと覚悟している。小便も馬上で行い、口にするのは水と干し肉、焼き締めたパン、そしてククの葉だ。

 

 陶器の擦れる音は全ての騎士から聞こえ、液体で満たされたそれはチャポチャポと揺れる。燃える水と呼ばれる液体は、一度火を付ければ水を掛ける程度では消えない。

 

 他の駐屯地の隊は森へ侵入し、大量に貯められた燃える水をばら撒くだろう。しかしマリギには生木とは違い燃え易いものが多い。それは人が住まなくなった沢山の家達だ。装備はずっと前に準備を終え、あとは合図を待つのみだった。

 

 目配せを終えた各隊は散り散りとなり、かろうじて形を残す家屋へ燃える水を振り撒き始める。 直ぐ目の前には鬱蒼としげる樹々があり、その先は薄暗い。それを確認した小隊は再び後退し、火矢の準備をする。あとは怒りに駆られた魔獣共が現れるのを待てばいい。

 

 奴等が我を忘れるまで痛め付け、そして誘導するのだ。

 

 あとは()()()()()リンスフィアまで死と隣り合わせの旅をするだけ。

 

 その覚悟と動きは南の森で魔獣の波に呑まれた新人騎士達と違い、此処にいる者達の練度を物語る規律ある行動だ。

 

 馬に括り付けた矢筒から先端にボロ切れを巻き付けた矢を取り出す。油を染み込ませた布は松明の火を簡単に移し、赤々と燃え上がった。そうして放たれた何本もの火矢は、美しい放物線を描いて飛んで行く。やがて赤く燃え始めた炎は、巨大な火柱となって天を焦がし始めた。

 

 

「長い……本当に長い間、我等は怯えていた。皆の家族、仲間、多くの人々が恐怖の中で暮らしていた。だが、それも終わる! 今日この時から人は反撃を開始するのだ! 聖女様は()()()、尊い言葉を()()()()()()! リンスフィアで待つ、と!! 神々と神の使徒、聖女が見ておられる。例え自らが死するとも、悔いる事は無い。最後の一兵が魔獣を王都へと誘えばよいのだ!」

 

 そうすれば、憎き魔獣は全て死に絶えるだろう。神の御意志のままに……

 

「さあ、始めよう……」

 

 誰かが掲げた言葉は、新しい時代への足音か、それとも滅亡への悲鳴か……今はまだ誰にもわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 マリギから北、森の深部の手前……大木の側に動く何かがいる。いや、動いているのは若葉の茂る低木達だ。まるで脚でも生えている様に左右に離れていくのだ。どう見ても根など張って無い筈なのに、青々とした葉に活力があった。

 

 そうして現れた地面には黒々とした穴が有り、中から赤褐色の太い腕が伸びている。指先からは剣と見紛うばかりの爪が光り、続いて低い唸り声が響き始めた。

 

 魔獣達は一匹、また一匹と姿を現して燃え始めた森を睨み付ける。歪な犬を思わせる飛び出した口は、涎に濡れた牙が幾本も生えていた。充満する煙の中から人の匂いを見つけたのか、鼻がヒクつき唸り声は怒声へと変化しつつあった。

 

 魔獣達の棲家は其処だけでは無い。横にずれた岩、倒れ苔むした大木の下、人の立ち入らない崖の洞窟、凡ゆる場所から魔獣は溢れて来る。

 

 再び、マリギへと魔獣が襲来するまで時間は掛からなかった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ロザリー……アンタ、馬鹿だよ……」

 

 エレナはロザリーの最期を知り、思わず呟いた。

 

 マファルダストがテルチブラーノに久しぶりに来たあの日、それがロザリーに会う最後とは……エレナは只、泣く事もせずに手紙を読んでいた。

 

 あの少女が聖女だと直接聞いた訳では無い。だがマントの下から現れた服は酷く破れ、刻印が露わになっていた。今や知らない者など居ない黒神の聖女だが、あの頃は噂話程度だったのだ。

 

 あの美しい少女を救うため我が身を犠牲にしたロザリーは、聖女の母として尊敬を集めているらしい。

 

 ロザリーとエレナは腐れ縁の仲だ。森人となる前から知るエレナにとって、ロザリーは決して強い女性ではない。会う度に憎まれ口を叩くが、いつか大変な事になるのではと気を揉んでいた。

 

「それが、聖女様を守るために死ぬなんてね……ルーやフィオナも泣くか笑ってるよ。私は泣いてなんてやらないからね」

 

 エレナは手紙を収め、目の前にある布切れへ鋏を入れる。明日までに預かった服を修繕しないといけない。他にも頼まれ事は多く、忙しいのだから。

 

「歳かね……よく見えないよ……」

 

 エレナは何故か見え難くなった鋏を置き、袖で両眼を拭った。

 

「……げろ! もう直ぐそこまで来てる!」

「早く……!」

「もういい、放っておけ!」

 

 外から聞こえる大声に、エレナは立ち上がって扉を開けた。

 

「なんだいこれは……?」

 

 西側から大勢の住民が流れて来ていた。皆が緊張した面持ちで、中には泣いている者までいる。少し離れた家の屋根には騎士が登り、叫び声を上げていた。

 

「エレナ、まだ居たのかい!? 早く逃げないと!」

 

 治癒院にいた手伝いの婆さんがエレナの姿を見て声を掛けた。

 

「逃げる……? 婆さん、何が……」

 

「魔獣だよ!! 魔獣の群れが直ぐそこまで……いいから来な! 逃げないと!」

 

 婆さんに強引に手を引かれたエレナは、逆らう事も出来ずに人の波に紛れて行く。店には沢山の衣服が残るが、今更流れに逆らう事など出来そうにない。エレナは振り返り、自分の店が遠くなっていくのを他人事の様に見て、不意に悲しくなった。

 

 

 

「早く馬車へ!!」

「そんな荷物は捨てろ! 一人でも多く乗せるんだ!」

「子供が先だ、早く……」

「全員振り向かず、リンスフィアまで止まるな!分かったな!」

「ああ……家が……」

 

 テルチブラーノが壊滅するのを、生き残った住民達は眺める事しか出来ない。

 

 カズキの服を揃えたエレナの店も、ロザリーと焼菓子を味わった宿屋も、全てが赤い波に飲まれて行く。

 

 

 

 

 それは余りに……魔獣の襲来は余りに突然だった。

 

 確かに兆候はあった。遠見の者が燃える森を見つけて上官に報告し、その上官が調査の隊を編成しようと動き出したりもした。それでも活動中の森人も騎士団もいないと分かっていた皆は、時に起こる自然発火の一種だと思ったのだ。騎士によっては魔獣の棲家が燃えるのを嘲る者すらいたくらいだ。

 

 土煙を上げ、逃げて来る小隊を発見したときは何かの冗談だと思った。その後ろから赤い波が押し寄せて来て、それが魔獣の群れだと理解した頃には全てが遅かったのだ。

 

 魔獣を警戒してテルチブラーノの森側の丘は削られ、幾本もの丸太で壁を作っていた。騎士も常駐し、避難までの訓練も怠ってはいなかった。ところが防衛の準備をする時間を稼ぐどころか、逃げて来る騎士達は魔獣へ当たりもしない矢を射る始末だ。 

 

「奴等は何をやってるんだ! アレでは魔獣を誘導するだけだぞ!?」

「何故燃える水を使わない!? 魔獣の進路を限定しろ!!」

 

 遠見の者達は、我慢出来ずに叫び声を上げる。聞こえる筈もないが、それも仕方がないだろう。テルチブラーノは未だ防衛の準備は整っておらず、混乱の一途を辿っているのだ。せめて住民が避難する時間を稼ぐのが騎士の責任なのに……

 

「あれではまるで……」

 

 テルチブラーノへ……呟いた者は想像もしてないだろう。主戦派に与した彼等が正にテルチブラーノを生贄にして、更にリンスフィアまで引き連れて行くつもりなどと。

 

 

 

 

「ギャッ!!」

 

 また一人、若い騎士が魔獣の爪を受け損ねた。肩から胴体まで切り裂き、一瞬で絶命する。その魔獣は満足出来ないのか、もう片方の腕を横に振った。肉塊となった騎士を見ていたもう一人は呆然としたままで、鈍い音を立てながら宙を舞う。首から落ちた彼は、ゴロゴロと転がりピクリともしなかった。

 

「くっ……接近し過ぎるな! 倒す事は考えなくていいんだ! とにかく時間を稼いで……」

 

 声を荒げた小隊長は自分に影が落ちるのを見た。

 

 見上げた空には赤い塊があって、逃げる事すら意味が無いと知る。

 

 ズガッ!! ドッッ!!

 

 魔獣の巨大な身体が地面に落ちた時には、小隊長の声は簡単に途切れた。地面に咲いた赤い花は、ゆっくりと花びらを広げていく。その中央には濁った赤褐色の魔獣が立つのみ。

 

 グィィウゥガァーーー!!

 

 歓喜の雄叫びか、魔獣は両腕を上げ尖った口を大きく開いた。

 

「しょ、小隊長が……」

 

「駄目だ……後退、後退する!!」

 

 時間稼ぎすらままならず、騎士達は後退を開始するしか無かった。

 

 魔獣の群れはテルチブラーノの丘まで取り付き、まるで押し寄せる波の様に赤く地を染めていく。

 

 せめてもの反撃にと燃える水を丸太に振り撒き火を付ける騎士も数人いたが、それすら意味があるとは思えない程の魔獣。そんな数えるのも馬鹿らしい魔獣の群れが襲い掛かったのだ。

 

 未だ残る住民達は多く、どれ程の犠牲者が出るか想像するのも恐ろしい。

 

「仕方がない……西側の壁と家々に火を放て! 住民の逃げる時間を稼ぐぞ!」

 

 テルチブラーノが滅びるのは止めようがないだろう。しかし、一人でも多く避難させないと……残る小隊長は僅かしかいない。単純で分かり易い命令くらいしか実行は難しい。

 

「お前! ああ、お前だ! 隊から離れ、リンスフィアに走れ! 陛下にお伝えするんだ、テルチブラーノは壊滅、撤退を開始すると! 止まらず走り抜けろ! 分かったら復唱しろ!」

 

「は、はい!! 隊を離れリンスフィアに向かいます。 テルチブラーノは壊滅し撤退を開始すると陛下にお伝えします! と、止まらず走り抜けます!」

 

「そうだ! 行け!!」

 

 若い騎士はバタバタと東に走り去って行く。振り返る事もせず人の波に消えたのを確認して、小隊長は戦場に目を向ける。

 

「なんだ?」

 

 隊の皆は緊張しながらも、ほんの少しだけ笑みを浮かべていた。まだ若い騎士を逃す為、小隊長が命令を下したと知っているからだ。勿論カーディルへ伝えるのも重要だが、報せの早馬は他にもいるだろう。

 

「へ、変な勘繰りをするな! 早く火を着けて回れ!」

 

「分かってますよ、小隊長。まあ、一花咲かせますか!」

 

 隊の皆の士気は高まり、皆はキビキビと動き出す。助かる者など誰一人いない戦場なのに、絶望感を顔に浮かべる騎士など存在しなかった。

 

 彼等の戦いは正に死への旅路と同じだったが、それにより助かった住民達は百を数えた。誇りある騎士達は魔獣を数体討伐せしめたのだ。

 

 そんな魔獣との戦闘はあちこちで起き、テルチブラーノ壊滅まで僅かな時間を稼いだ。

 

 

 

 

 

「随分とテルチブラーノの連中はやるな……予想より魔獣の進行が遅れているぞ。だが、愚かな連中だ……これが聖戦だと何故気付かない。リンスフィアには聖女様がお待ちなのだぞ」

 

 テルチブラーノの東側、つまり森とは反対側で足を止めた主戦派の騎士は、少しだけ数の減った隊を眺めた。

 

 その言葉は空間に溶けて、誰にも届かない。周辺の者も無言で燃えるテルチブラーノを見るばかりだった。

 

 避難民はリンスフィアに向け列となって街道を駆け抜けていく。あれなら追いつかれないだろう、魔獣の進行速度は決して早くはない。

 

「暫く待機し、波が止まる様なら再び仕掛けるぞ! 今のうちに馬に水を!」

 

 馬から降りる事もせず、近くの小川に移動を開始する。魔獣の動きは読み難く、即座の対応が望ましいからだ。

 

 彼等の目には正義への誇りが見える。神々と聖女が望む戦いに貢献していると士気は旺盛だ。それがどれだけ身勝手で、歪んだ正義かと疑う事もない。

 

 主戦派、いや狂信者達には当たり前の理屈など通用しないのだろう。

 

 

 テルチブラーノの空は赤く染まり、それが消える頃には周囲に生き物の気配は無くなった。

 

 

 

 




またまた誤字報告頂きました。ありがとうございます。


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59.絶望への足音②

 

 

 

「……このリンスフィアを陣に見立てて、だと?」

 

「はい。三重の城壁、整備された道、多くの騎士と民衆……何より、中央にはカズキがいます。ユーニードが提唱していたマリギ奪還の策をそのまま当て嵌め、リンスフィアを戦場にするつもりです。今、殿下が確認に行っておられますが、全ての状況が真実だと……」

 

「撤退などでは無く、魔獣をリンスフィアに誘導する為に……マリギすら囮の一つか……」

 

「間違いならそれでも良いでしょう。周囲の村などに避難命令を出してください。主戦派は全てを巻き込む可能性もあります」

 

「時間が有れば良いが……直ぐに……」

 

 カーディルが避難の準備を指示しようと腰を上げたとき、王の間にアストが入ってきた。アストには珍しく挨拶も無く、足早にカーディルの元へ歩み寄った。それだけでカーディルもクインも最悪を想定する。

 

「アスト……どうだ……?」

 

「間違いありません、魔獣を呼び寄せる気です」

 

 覚悟していたとは言え、カーディルに絶望感が湧き上がる。ユーニードの最後の良心すら失われた事を知り、戦場が幻視された。しかしカーディルは強い意志で押さえ付け、対策を練ろうと問い掛けた。

 

「実行はいつだ? 避難を優先する地域を……出来るなら、指揮する者を捕らえなければ」

 

「陛下、間に合いません……カズキがリンスフィアに帰還した時が決行の時。既に始まっていると……」

 

「なんだと!?」

 

 一度腰を下ろしていたカーディルは、再び立ち上がり悲鳴染みた声を上げた。

 

「先ずは情報を集めます。北、西、南へ伝令を出しましょう。東は……」

 

 間に合わない……アストは拳を握り締め、自らの無力を嘆くしかなかった。

 

「アスト、諦めるな。東にも勇敢な騎士は大勢いるのだ。彼らなら民を逃しつつ、撤退戦を完遂するだろう。受け入れの準備を急げ」

 

「……はっ」

 

「軍務官、情報官を此処へ! 居るだけでいい!」

 

 カーディルは侍従へ指示を出す。同時にクインへと問い掛ける。

 

「避難と合わせ、防衛網を構築しなくてはならない。クインはそのマファルダストの副隊長から情報を集めろ。魔獣が誘導されて来る方角を見極めたい。それと、お前の考えも加えてくれていい」

 

「はい」

 

「それから……」

 

 カーディルが更なる指示を出そうとした時、絶望の足音は既に鳴っている事を知った。

 

「伝令! 火急の報せです!!」

 

 衛兵が開けた扉の先で、息を荒げた騎士が倒れ込むように膝をつく。

 

「申せ!」

 

「はっ! マリギ方面より魔獣の群が南進中! 数は不明ですが、増える一方と! テルチブラーノは既に陥落寸前、撤退戦に移行すると……死傷者多数!」

 

「くっ……」

 

「伝令!」

 

 報せは止まらない。次の伝令も届き、同時多発的に発生した事を物語っていた。

 

「センより報告! 南の森全域より魔獣が溢れたと! 動きは緩やかながら、その数は千に迫る勢いで更に増加との事です! 撤退の許可を求めてきています!」

 

「許可する! とにかくリンスフィアまで避難させろ! 受け入れは此方でやる!」

 

「はっ!」

 

「陛下、私はこれで。ケーヒルと防衛網を組みます」

 

「ああ……」

 

 立ち去るアストを見た時、言葉に出来ない気持ちが溢れてくる。今は戦時となったが、カーディルは我慢が出来なかった。

 

「アスト!」

 

「はい」

 

「……無事で……生きて帰ってくれ、皆と共に……」

 

 父として、心からの願いだった。愛する妻に続き子供まで魔獣に殺されるなど耐えられる訳が無かった。それでも王として、国と民を守らなければならない。

 

「私は……私はリンディアの王、父上と偉大な母の血を受け継ぐ者です。魔獣などに負けはしません! では、行って参ります!」

 

 扉の向こうへ姿を消したアストを最後まで見て、次の伝令から話を聞く。もしかしたら、アストの姿を見るのは此れが最後かもしれないと、そう思う自分が嫌だった。

 

「……負傷者の受け入れを求めています。治癒院からは応援を……」

 

「東にも兆候あり、騎士隊から指示をと……」

 

「村々から続々と避難民が……」

 

 カーディルはリンディアの王、その顔となり指示を返す。

 

 必ず、この危機を乗り越えて見せると。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿下」

 

 ケーヒルはアストの姿を認め、歩み寄って来た。悲壮なケーヒルの表情は全てを理解していると物語る。

 

「ケーヒル、すぐに防衛の準備だ。魔獣の数は不明だが、凄まじい数になるのは間違いない。今のところ、北、西、そして南から魔獣が侵攻中だ。それと避難民が辿り着く時間が必要になる。リンスフィアからも部隊を派遣しなければ……」

 

 足早に歩きながらも二人は言葉を淀みなく続けた。直ぐに軍務室に着き、扉を開く。

 

「部隊編成はある程度終えています。それと南はある程度保つでしょう。センから退避して来る騎士も加わります。問題は北と西ですな……南と比べると城壁も薄く、戦い辛いのは間違いないですからな」

 

 戦略を練る為リンスフィア周辺の地図を広げる。丁度軍務官や情報官も集まりつつあり、何人かはカーディルの元へ向かった。全員の知恵を集め、なんとしてもリンスフィアを守らなくてはならない。

 

「燃える水の備蓄は?」

 

「魔獣到達の時間によりますが、充分にあります。聖女様が発見された魔獣の穴、あれは警戒感を高めましたから」

 

 情報官は答え、カズキの偉業を讃える。

 

「なら北と西に運ぶ、惜しむ必要は無い。南は北と西の波を止めた後、全員でかかる。移動の確保だけは確実にしよう、それとクインが森人の知恵を借りに行っている。主戦派は森人の知恵を使い、最短距離を抜けて来るはずだ。リンスフィア手前で陣を組めるなら、それに越した事はないからな」

 

「避難民はどうしますか?」

 

「内門の中まで避難させる。外門の周辺は場合によっては火を着けるぞ」

 

「殿下、森人に協力を仰ぎましょう。急造ですが、隊に組み込むのが良い。彼等は時に騎士を上回る力を発揮してくれますぞ」

 

 ケーヒルは南で見たロザリーの戦い振りに感銘を受けていた。素早い判断、見事な剣技と弓の腕、決して臆さない精神、そしてカズキを救った慈愛。どれも熟練の騎士にも負けない見事な戦いだったのだ。

 

 フェイは勿論ドルトスやジャービエル、あの若い森人すら充分な戦力になる。

 

「ああ、それもクインに頼んでいる。私は昔ロザリーと模擬戦をした事があるんだ。正直驚いたよ、あれは」

 

 勿論負けはしなかったが、それは訓練所と言う限定した空間だからだ。森人の庭である森では苦戦するか、戦いにすらならないかもしれない。

 

「そうでしたか……彼女が居てくれたらどれだけ心強いか……無念です」

 

「言っても仕方がない。ロザリーの為にもリンスフィアを守らなくては」

 

「アスト様、これをご覧下さい」

 

 軍務官は新たな地図を持ち出し、アスト達に示す。

 

「これは?」

 

「リンスフィアが出来る前の地形を表しています。此処は利用されない場所なので整備されていませんが……」

 

「砂地か……」.

 

「整備されないのは地盤が緩く、重量物を運べません。畑程度しか利用出来ないのは其れが理由です。馬の足はともかく、馬車は進めないでしょう。つまり魔獣の体重なら間違いなく足が止まります」

 

「城壁から充分矢が届く距離だな……素晴らしいじゃないか、君が?」

 

 軍務官は言いづらそうに顔を顰めたが、素直に返す。

 

「軍務長です、アスト様。随分昔の事ですが……リンスフィア防衛に関して苦心されていましたから」

 

 ユーニードが復讐心に狂う前、まだ厳しくも愛国心に溢れていた頃だろう。

 

「……そうか。それでも良く教えてくれた。他の皆も考えを遠慮なく言って欲しい。今はどんな些細な事も助かるんだ」

 

 皆が集まる軍議室にアストの声が響き、更に活発な意見交換が始まった。

 

 それは魔獣襲来まで、あと二日の事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幾つかの魔獣対策も出て、軍務官や情報官が部屋を出て行く。アストからの指示を忠実に履行し、皆へ伝達する為だ。

 

「殿下……一つ確認したい事が」

 

 ケーヒルはアストと二人になった軍務室で静かに言葉を紡いだ。

 

「言ってくれ」

 

 アストは察したがケーヒルの質問を待った。

 

「カズキ……聖女の事です」

 

 予想通りの言葉にケーヒルの言いたい事すら理解する。

 

「カズキには絶対に関わらせない。間違いなく大勢の負傷者が出る戦いだ。カズキ一人で支える事など出来ないよ」

 

「しかし、彼女の力は間違いなく必要になるでしょう。せめて殿下のお側に控えさせて……」

 

「駄目だ!!」

 

 アストの叫びは室内に響き、ケーヒルの身体すら震わせた。

 

「殿下、カズキを思う気持ちは理解しているつもりです。ですが、リンディアにとって殿下は希望……失われる事などあってはなりません。陛下もアスティア様も悲しまれるでしょう」

 

 ケーヒルは初めてカズキと出会った東の丘を思い出す。白い光、癒えるアストのキズ、崩れ落ちるカズキ。全てを昨日の事の様に覚えているのだ。

 

「カズキを戦場に連れ歩くなど許さない。それでは主戦派と変わらないじゃないか……ケーヒルの言う通り、私情も入っているのは否定しない。でもそれは違うと、駄目だと感じるんだ」

 

 アストはカズキを想っている、それは否定出来ない事実だ。何時からなのか分からない。もしかしたら初めて会った日、あの翡翠色した瞳を間近で見たあの時かもしれない。

 

 魔獣にやられた肩口の傷に手を添える姿を……薄れる意識で見たカズキを見たときに……

 

「しかし……」

 

「殿下、ケーヒル様」

 

 凛とした美しい声は間違いなくクインだった。フェイと話を終えたのか、アストを探していたのだろう。これ程の非常時にもクインは変わらない。

 

「クイン、フェイは?」

 

「森人の協力を取り付ける為、戻られました。全面的に騎士団と連携して頂けると」

 

「そうか……ご苦労だった。魔獣の進路については?」

 

「はい、これをご覧下さい」

 

 クインがクルクルと広げた地図には、沢山の矢印と文字が溢れていた。筆跡に違いがあるのはフェイとクインが二人で書き込んだからだろう。

 

「思ったより限定的な進路だな……これなら戦略を立て易い。勿論確実ではないだろうが」

 

「フェイ様曰く、ここと、この進路は間違い無いそうです。此処から逸れるのは森人でも難しいと。ですから、まずは網を掛けるならココが良いとの事」

 

 クインは注意書きや矢印を指し示しつつ、説明をする。

 

「分かった。ケーヒル、フェイを信じて動く。どちらにせよ近い場所で網を張るしかないからな」

 

「了解致しました」

 

「お二方にお伝えしたい事があります。 カズキの事ですが……」

 

 アストはクインまで連れて行けと言い出したら、どう反論すれば良いかと悩んだ。カズキに関しては予感めいたもので、理論的説明など出来ないからだ。

 

「クインまで連れて行けと言うのか? 私はそんな事をするつもりは……」

 

「殿下、落ち着いて下さい。私はカズキを連れて行くべきか分からないのです。殿下や皆様の御命は勿論大切ですが、カズキの刻印について新しい発見が……」

 

 話そびれていた刻印の変化を、クインは伝えなければならないと思った。

 

「新しい発見?」

 

「はい、信じられない事ですが……刻印が変化しました。憎しみの連鎖は薄れ、言語不覚は3階位から2階位へと」

 

「待ってくれ。確か刻印は一度刻まれたら変化する事はないと……」

 

「その通りです。其れが一般的な解釈ですし、文献等でもそれは証明されていますから。しかしカズキは例外で……やはり5階位の刻印を持つ使徒は常識で考えては駄目なのでしょう」

 

「もうカズキの事では驚いても仕方がないかもな。それで? まだ続きがあるんだろう?」

 

「はい……5階位の刻印、癒しの力[聖女]の封印が弱まりました。棘状の鎖は細く弱々しくなって、数すらも減りましたから……間違いないと判断しています」

 

「……つまり、聖女本来の刻印に近づいていると?」

 

 ケーヒルは尚更アストの側へ控えて欲しいと思う。封印時すらあの力なのだ。もし本来の力ならどれ程の結果をもたらすか、想像するのも難しい。

 

「恐らく。しかし変化した理由が重要なのです。お祖父様の考察ですがお話しします」

 

 クインはコヒンと話したヤトの加護、其れが齎す結果について説明をする。そしてカズキが聖女として本当に目覚める可能性を。

 

「真の慈愛、か……」

 

「以前と今、違いはマファルダストとの旅路。何よりロザリー様の存在でしょう。お二人もご覧になった通り、カズキの哀しみの大きさは如何ほどだったか……」

 

 リンスフィアに帰還し、ロザリーの眠る棺を運び出そうとした時だった。それまで動かなかったカズキはロザリーに縋り付きポロポロと涙を流したのだ。声を出せないカズキだが、震える肩を見れば誰でも察する事が出来た。

 

「そうだな……あれ程の感情の発露など、今迄のカズキでは考えられなかった」

 

「封印を解かれていないカズキはそれでも、確かに人を癒す事が出来ます。しかし、それは本当に聖女本来の役目なのか……此処からは私の想像ですが、聞いて頂けますか?」

 

「勿論だ、是非聞かせて欲しい」

 

 ケーヒルも無言ながらも深く頷いた。

 

「カズキは最初の頃、人を信じていませんでした。誰にも頼らず、いつも何か隙を伺う。癒しすら自らの意思とは思えない……何時も無表情で、冷たい目をしていたのです」

 

 アストも頷き、続きを促す。カズキへと伝わらない想いはアストに限らず、アスティアも焦れたものだ。

 

「変化を感じたのは……アスティア様がカズキを妹として心から愛し始めた時です。そして今は……」

 

「母親……ロザリーが母としてカズキに寄り添った」

 

「はい……あくまでも仮定ですが、カズキの封印を解くのは……」

 

 家族との……誰もが当たり前に持つ筈の、家族との愛ではないかと……

 

 クインの言葉は恐らく真実であり、そして悲しい事だった。これまでに封印が解かれていなかったと言うことは、大人になりきれていないカズキに家族など存在しないと証明しているのだから……

 

 そして、家族愛と戦場は対極に位置するものだろう。血と肉が溢れる、男達の世界。相手は愛など存在すら許さないであろう魔獣だ。

 

「ケーヒル、私もクインの話は正しいと思う。悲しい事だがカズキは……家族と呼べる人が居なかったのかもしれない。やっと出会えた母を失った少女を、戦場に連れ歩くなど考えられないだろう? ましてや世界を救済するかもしれない聖女だ」

 

「……分かりました。ですが、殿下。貴方様はカズキ同様リンディアの希望です。決して軽んじられないよう、宜しいですな?」

 

「ああ、分かっているよ。 私もカズキに家族として認めて貰いたいからな」

 

 絶望的な戦いに赴く戦士達にひとときの笑顔が浮かぶ、そんな一瞬だった。

 

 

 

 

 

 



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60.絶望への足音③

お気に入りが800件を超えました。有難うございます。


 

 

 

 

 

「ジョシュ、帰っていたか」

 

「殿下、遅くなりました」

 

 アストの側付き、そして騎士でもあるジョシュはいつも通り口数は少なく答えた。周辺の状況を調べて貰う為、聞き込みを頼んでいたのだ。

 

「どうだった?」

 

 ジョシュの表情は分かりにくい。だが、決して思わしく無いのは明らかだった。

 

「伝令の者、避難して来た者達に確認しました。間違いなく主戦派らしき騎士隊が誘導しています。テルチブラーノもマリギも先に森が燃えるのを目撃しておりました」

 

「そうか……ならば森人の知恵を使い、最短距離で突っ切ってくるぞ。リンスフィアまで長くても二日しかない。避難民を収容するまで時間を稼がなければ……」

 

「リンスフィアに入らず、他の地域では?」

 

「ああ、それは最初に検討したよ。だが駄目だ。リンスフィアに誘導するだけならテルチブラーノを経由する必要がない筈だ。だが主戦派は態々人の多い町を進路に選んでいるだろう? 出来るだけ多くの魔獣を呼び寄せる為に、住民の命を気に掛けないどころか利用する気なんだ。平原や丘で襲われては、ひとたまりもない」

 

「分かりました、私は火の加護を持つ者を配置します。リンスフィアに延焼しては目も当てられません」

 

「ああ、頼む。南は時間稼ぎに集中してくれ、西と北を早く終わらせ押し返すぞ。私は北を……」

 

 ジョシュは首を横に振り、有無を言わさずに返答する。

 

「殿下は南の指揮を。これはケーヒル副団長と決めています。よろしいですな?」

 

 南は城壁も含めて防衛が強固だ。リンスフィアから最も近い森があるのは南で、カーディルも特に力を入れていた。アストも当然関わっており、南側を熟知する一人だ。城壁の再設計にも知恵を出していた。

 

 逆に北は城壁こそ強固だが、平地が多く全面で魔獣を受け止める事になる。戦闘範囲も拡大し、戦力の集中が難しいのは間違いない。

 

「殿下、反論は受け付けません。私が北を、副団長が西へ参ります。指揮系統は維持しますから、南でお待ち下さい」

 

 何かを言い掛けたアストにジョシュはたたみかける。反論すれば戦場にも出さない勢いだ。話し合う時間も足りない今、議論している場合ではない。どの道危険であるのは変わりはしないし、南は最後の決戦の場となる。

 

「分かった……だが、戦局が動けばその限りでは無い。それは理解してくれ」

 

「はっ……無論です。ですが殿下の出番など用意するつもりはありません。それはご理解頂けますな?」

 

 ジョシュにしては珍しい冗談に、アストはニヤリと笑った。

 

「ほう……それは楽しみだ。泣いて私のところに駆け込んでくるなよ?」

 

「ふっ……ご冗談を。では、後ほど」

 

「ああ……ジョシュ、後でな」

 

 ジョシュは礼をしてアストから離れて行った。その姿を見送ったアストには、城を出るその前に必ず会わなければならない者達がいる。

 

 騎士である以上、死はいつも側に在る。

 

 だが、死の恐怖より恐ろしいものがあるのだ。それは失いたくは無い愛する人に会えなくなる、それが何より怖い。残していく事が……もしかしたら泣き崩れるかもしれない姿を想うと、身体が震えるのだ。

 

 アストにとってそれはリンディア王国であり、父カーディル、妹のアスティア、クイン達臣下、大勢の民……昔の様に、母アスの様に失いたくない者は多い。

 

 そして、今はもう一人増えた。

 

 たった一人だが、失うどころか傷付く姿だってもう見たくはない。泣き顔で無く、いつか笑い掛けて欲しい。もし出来るなら一声でいい、自分の名前を唇に乗せてくれたならどれだけの歓喜に包まれるだろう。

 

 だから、アストは聖女の間へ向かうのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんだが騒がしいわね……?」

 

 アスティアは銀月と星の髪飾りに合わせた衣装を吟味するべく、無表情のカズキに次々と当てていた。黒髪のカズキだから、明るい色で際立たせたいが今一しっくり来ない……アスティアが次のスカートに手を掛けた時だった。

 

 城内からも何か走り回る足音が響いているし、怒鳴るように声すら耳に届く。聖女の間は奥まった場所だし、王の間に近い。街や階下の喧騒などなかなか届くものでは無いのだ。

 

「そうですね? 今日何かありましたっけ?」

 

 エリも次のワンピースを選び、手に持って首を傾げた。

 

 カズキは良い機会だと思ったのか、煩わしい衣装から離れてベランダに向かった。もう二人を信じているが、それとこれとは別なのだろう。

 

「あっ! カズキ、まだ終わってないわよ!」

 

 アスティアの声は当然届かず、カズキは扉に手を掛けた。何とか引き止めようとアスティアとエリはカズキの後を追う。 

 

「……やっぱりおかしい。 此処まで届くなんて……」

 

 カズキが扉を開けた事で、城下の喧騒が聖女の間へ届いていた事をアスティアは知った。

 

 アスティアとエリはカズキの隣に立ち、リンスフィアを眺める事にする。

 

 そうして3人の眼に街の様子が飛び込んで来た。

 

「どういうこと……?」

 

 アスティアの呟きはエリも同感だった。

 

 大門は解放され、騎士団が物々しい準備をしているようだ。王都周辺の村々からだろう民衆が少しずつ集まって来ている。城からは何頭もの馬が行き来し、あちこちで焚き火を熾していた。

 

 アスティアには馴染みが余りないが、戦時体制そのものだ。

 

「何かあったんだわ……クインなら何か知ってる筈よ。エリ、探しましょう」

 

 決して雰囲気は良くない。間違いなく悪い事が起きたのだろう。ベランダからカズキの手を引き聖女の間に戻った2人は目を合わせた。

 

「アスティア様はカズキと一緒にいて下さい。また、行方不明とか嫌ですからね!」

 

 エリが聖女の間を出ようと歩き出した時だった。

 

「アスティア、いるかい?」

 

 くぐもった声がノックと共に扉の向こうから聞こえる。アスティアもエリもよく知る声だ。

 

「兄様? 待って、今開けるわ」

 

 普通ならエリが扉を開きアストを迎え入れるが、何かを感じたアスティアは走り寄り扉を開けた。

 

 そして扉の先に立つアストを認めた時、アスティアは酷い不安に襲われる。訓練用では無い愛用の鎧を着込み、使い込まれた剣を腰に差していたからだ。

 

「兄様、何が……」

 

 今日は訓練は勿論、遠征の予定も無い。アスティアは何時もカーディルやアストの予定を把握して、手伝えることを探しているから不思議に思って当然だった。

 

「大事な話がある……エリも聞くんだ」

 

 カズキも言葉は分からずとも、何時もの緩やかな時間には思えないのか大人しくしている。アストはカズキを見詰め、アスティアに再び目を向けた。

 

「2人に頼みたい事がある。凄く大事な事だ」

 

 カズキが座り大人しく待つテーブルへ皆が集まった。エリは何か怖くてお茶を準備する事も出来ない。

 

 アストの優しい瞳はなりを顰め、リンディアの王子として……一人の騎士としてアスティアに話しかけていた。

 

 アスティアは一人の少女から、リンディアの王女へと変わり……凛と背筋を伸ばした。

 

「お聞きします」

 

「現在リンスフィアに向け魔獣の群れが侵攻中だ。テルチブラーノは壊滅し、センも放棄した。マリギ……北部からも南進していて、止められない」

 

「……避難は……皆は無事ですか?」

 

 アストは自らで無く、先ず人の心配をする妹を愛おしく思った。だが事実は優しくはない。

 

「テルチブラーノは避難する暇も無かった様だ。駐屯している騎士達が頑張ってくれただろうが、かなりの死傷者が出たのは間違いない。今は避難民の受け入れと、その時間を稼ぐべく部隊編成を急いでいる」

 

 死傷者という言葉に、アスティアの瞳は揺れた。揺れはしたが、強い光を放つ瞳は変わらずアストを見ていた。

 

「そうですか……騎士の皆様の奮闘に心からの感謝を。それではこのリンスフィアが戦場に?」

 

「ああ、その通りだ。残念だが……この侵攻は主戦派が画策したものだ。人為的に発生させたんだよ」

 

「なんですって!? では……魔獣を誘い込むと?」

 

 流石にアスティアは動揺し、声を荒げた。エリだけでなくカズキの肩すら揺れたのを見て、アスティアは腰を落ち着ける。

 

「そうだ。主戦派はリンスフィアが決戦の場所だと思い込んでいるんだろう。もう止められる時間は無い。2人に頼みたい事はそれに関係しているんだ」

 

「私達に出来る事……騎士の皆様にお役に立てるとは思えませんが……」

 

「主戦派が以前から唱える魔獣殲滅の方法がある。以前アスティアに少しだけ教えたやり方だ」

 

「聖女……カズキを円陣の中心に据えて、騎士を癒しつつ戦う……その事ですか?」

 

「ああ、その通りだ。今カズキがいるのはリンスフィア、その中心だ。 だから……」

 

「リンスフィアを巨大な陣と見立てて、カズキを利用する気ですね……」

 

 戦争に疎いアスティアだが、見事に的を得ていた。

 

「そうだ。2人に頼みたいのはカズキを聖女の間から絶対に出さない事、それだけだ。ベランダも避けて欲しい」

 

「カズキを……聖女として利用させないと?」

 

「カズキは刻印に縛られて、無理矢理に聖女の力を行使するからだ。ベランダから戦場を見てしまったら、それだけでカズキの意思は奪われてしまう」

 

 今なら分かる。東の丘で自らを癒したカズキは刻印に操られていたと。美しくも意志の感じない瞳、ナイフで傷付ける事に躊躇などしなかった。残酷な運命に縛られた、唯の少女だったのだ。

 

「詳しくはクインから聞いて欲しいが、カズキはリンディアの……いや、世界の希望なんだ。まだカズキは聖女として目覚めていない。だから、今は刻印に弄ばせる訳にはいかない」

 

 アストは愛おしい聖女を見て、美しい瞳に目を奪われてしまう。世界の為……それは建前だと自覚している。身勝手な、一国の王子にあるまじき思いだと分かるのだ。

 

 それでも……1人の男として愛する女を守りたい、きっとそれだけなのだろう。アスティアも、クインやエリも皆を守る。リンディアも全てが愛おしい。でも、カズキへのソレは渇望だ。押し流される、抗うことなど出来ない強い感情の波なのだから。

 

 必ず生きて帰り、この胸にカズキの小さな体を抱き締める。

 

「分かりました。必ずカズキを守ります」

 

 アスティアの返事にアストは妹を見る。

 

「ああ、頼んだよ。暫くしたらクインが来るだろう。護衛の騎士……ノルデ達を残していくから安心してくれ」

 

 若き騎士ノルデは絶対の忠誠を聖女に誓っている。一度だけカズキを傷付けた事を悔い、自らの命すら捨てるとアストに言った程だ。

 

「はい……に、兄様……」

 

 王女から優しい妹へと戻ったアスティアは、アストの広い胸へと飛び込み強く抱き締めた。鎧越しでもアストの力強さが伝わるようだ。

 

「アスティア……大丈夫、必ず勝つさ。ケーヒルもいるし、ジョシュも戻って来た。森人だって協力してくれる。アスティアを悲しませる事なんて私がする訳がないだろう?」

 

 アストはアスティアの小さな頭を撫で、銀色の髪へ唇を落とした。アストの鼻腔には妹の優しさそのものの香りが届く。

 

 抱き合う二人は気付かなかったが、仲の良い兄妹の姿をカズキは眩しそうに見ていた。それは物語を読むように、カズキのいた世界の映画を見るように……だからこそ、遠い世界に感じていた。

 

 だから、アストの次の行動にカズキは反応すら返せなかったのだ。

 

 アスティアから離れたアストはカズキに近付き、妹にする様に抱き締めた。まだ椅子に座ったままだったカズキは、アストに包まれて小さな身体を隠す。少しだけ身体を震わせたカズキだが、身動きはしなかった……いや、出来なかった。遠い世界がいきなり目の前に現れて、驚くしかなかったから。

 

「カズキ……大丈夫だよ。必ず守ってみせる……愛しているから……」

 

 アストは伝わらない事を承知で言葉を紡いだ。言いたかったから言った、それだけだ。

 

 アストはサラサラと揺れる黒い前髪を指で避けて、綺麗で小さな額へ口づけをした。ビクリと震えるカズキが可笑しかったのか、アストも笑みを浮かべてもう一度唇で触れる。

 

「では、行ってくる」

 

 エリの頭を軽く撫で、アストは剣に片手を添えて聖女の間を後にする。扉から出る時、もう一度だけ振り返った。

 

「兄様、御武運を……」

 

 アストの目には祈るように胸へ両手を合わせるアスティアと、未だに呆然とするカズキ、ちょっと吃驚顔のエリが映る。

 

「必ず帰るさ……」

 

 三人には聞こえなかっただろうが、それはアストの願いそのものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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61.リンディアの騎士

それぞれの騎士達にスポットを当てました。


 

 

 

 

 

 

「なあ、なんでリンスフィアで戦うんだ? 幾ら主戦派が誘導してるとは言え、戦線をリンスフィアから遠去ければ……」

 

 リンスフィアを出立した中隊は一路西へと進軍していた。6個小隊が順次並び、各小隊長の元で纏まっている。今朝の軍議で決まった通り、西と南には中隊が派遣された。

 

「お前……ケーヒル副団長の話を聞いて無かったのか?」

 

 その質問に同期の騎士は呆れた顔をする。実際他の事に気を取られていたのは事実で、言い訳も出来ない様だ。

 

「スマン……アスティア様とカズキ様の姿が見えて……思わず……」

 

 聖女の間から出て、ベランダから様子を見ていた二人は何人かの注目を集めていた。アスティアは皆によく知られた王女だが、聖女は知られていても尊い姿を見た者は限られる。それなら仕方がないと溜息を我慢して、答えを返した。

 

「北、西、そして南。想定される魔獣の数が多すぎるんだ。お前も知っての通り、リンスフィア周辺は平原と丘しかない。想像してみろ、平原で魔獣の群れに囲まれるのを」

 

「ああ、成る程……」

 

「燃える水にも限界があるし、魔獣を全面で受け止めるなぞ不可能だからな……業腹だが、城壁を利用するしかないのさ。最初は勿論色々と考えたらしいが、結局はリンスフィアで防衛するのが一番だって結論になったらしい。もう少し時間があれば、また違っただろうが……」

 

 カーディルもアストも当然リンスフィアを戦場にはしたくなかった。しかし肥沃な大地を抱えるリンスフィアは皮肉にも防衛には向いていない。勿論対策も幾つか講じられてきたが、そもそもの資源が無い。魔獣が現れてから、資源の確保は困難を極めていた。

 

 カーディルは苦心し出来る事から行っていたが、実際には絶望的な状況だったのだ。誰もが時間の問題だと知りながら、日々を過ごしていた。黒神ヤトは滅亡の危機にあるとカズキに言ったが、それは真実を捉えていた。

 

 今回の主戦派の暴走は、リンスフィア到達まで時間が余りに少ない。ユーニードが周到に用意していたソレは、他の手段を許してはくれなかった。

 

「そうか……くそっ、主戦派め……ふざけた事を……」

 

「正直かなり危険な状況だよ。魔獣は万を超え、まだ増えているらしい」

 

「万か……単純に計算してもリンディアの全軍でギリギリだな……それ以上増えたら……」

 

 もう、終わりかもな……そんな言葉が出そうになって歯を食いしばる。

 

 未だ魔獣の赤い姿は見えないが、今も足音をたてながらリンスフィアを目指しているのだろう。誰もが逃げ出したいが、逃げる場所など何処にもない。リンスフィアの四方は森に囲まれているのだから……

 

 遠征する騎士達はあちこちで似た会話していたが、最後の言葉だけは口にしなかった。それをしてしまえは、身体は動かなくなると知っていたからだ。それに……皆が僅かに希望をもっていたのもあるだろう。

 

 黒神の聖女がリンスフィアにーーーー

 

 神々の使徒、最後の希望。

 

 今では珍しくなった刻印を7つも刻まれた、唯一人の少女。

 

 もしかしたら……そんな希望を持つ事を、誰が責められるだろうか?

 

 だが……クインの祖父コヒンは言っていた。加護と言う手段は渡すが、それを救いへと導くのはあくまでも人。無条件の救済など、この世界には存在しない。

 

 だから人は戦うしかない。それがどんなに絶望的な戦いだとしても、剣を取り振り下ろすしかないのだ。

 

 それを成すのは騎士の誇りか、森人の知恵か。

 

 それとも……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンスフィアの北、小高い丘の麓に樹々が生い茂る林があった。魔獣が跋扈する森とは違うが、整備された道は無く薄暗い。それでも人のいた気配はあった。小さな泉もあり、どこか長閑な雰囲気すら感じる程だ。

 

 森人によれば遠くに見える街道よりも早く、リンスフィアに到着出来るらしい。今や騎士と森人は協力し、持つ力と知恵を集めていた。

 

 お互いが手段こそ違えども人々の為に存在する。それでも独特の隔意があり、遠慮すらあったのだ。騎士からすれば森に紛れコソコソと動き回る森人は奇異に映ったし、森人からすればドタバタと走り回る騎士は滑稽に思えた。

 

 だから、騎士団の中に数人の森人が紛れているのは酷く珍しかった。

 

 だが、聖女の存在が全てを変えたのだ。瀕死の騎士を救い、森人も例外では無い。小さな子供にも慈愛は注ぎ、遍く存在に降り注ぐのだ。

 

 南の森では、騎士と森人が共同戦線を張って戦った。その結果、聖女は信じられない発見を齎したのだ。魔獣は森の奥深くにいるのでは無く、地中に巣を作り広く潜んでいると。

 

 様々な出来事が鎖のように連鎖し、編まれて広がっていく。危機感を強めた皆は、アストを筆頭にして繋がっていった。また一つ聖女が変化をもたらせた一例だ。

 

「ここだ」

 

 森人の一人が並走していた中隊長へ声を掛けた。

 

 中隊長は馬の足を止め、隊へ合図を送った。僅かな囁きすら漏れず、団はピタリと動きが無くなった。

 

 地図を広げた中隊長は暫し考え、質問を投げ掛ける。

 

「避難民は此処を使わないのは間違いないかい? 避難路を絶っては元も子もないからね。北から流れて来る時、冷静でいられる訳もないし」

 

 緩い投げ掛けだが、重要な事だ。彼等の任務は避難民がリンスフィアに入る時間を稼ぐ事なのだから。

 

「ああ、間違いない。北からは此方側が遠く見える上に、傍目には森と思えるだろう。それに……実際は錯覚だが、丘が酷く高く感じるからな。知らなければ絶対に進路を変えない」

 

「ふーん……もし、避難民に森人が紛れていたら?」

 

 やはり緩い言葉だが、万が一の可能性も許さない意志を感じる。

 

「街道は大勢が進むなら間違いなく効率がいい。仮に俺が居ても、群衆の流れに逆らってまで向かわないな。こっちは見ての通り、面倒な道だ。もし来ても……そいつらは森人だ。気にしなくてもどうにでもするさ」

 

「魔獣だって来ないかも知れないよ? あっちに行ったらどうするのさ?」

 

「はあ……あんた分かってて言ってるだろう? なら誘い込めよ。何の為の隊なんだ」

 

 中隊長はふふふと笑い、森人へ戦友としての賛辞を心で唱えた。

 

「終わったら酒を飲もうよ。噂じゃ聖女様も酒が大好きらしくて、よく酔い潰れてるってさ」

 

「そんな訳ないだろう!? 俺は聖女様を遠目だが見たんだ。あんな儚い美しい方が酒に呑まれるなどある訳がない!」

 

 残念ながら、噂は真実だ。アスティアがいれば、そうなのよ!と深く頷いただろう。

 

「そうかい? 出来るなら聖女様に酒を注いで貰いたいなぁ……君もそう思うだろう?」

 

「そりゃ……」

 

 森人は思わず聖女が隣に座り、優しく微笑むのを想像する。手には酒があり、さあどうぞと此方を見て笑うのだ。正に神々、いや女神が降臨する……隣に。

 

 ふと見ると中隊長がニヤニヤと森人を見ていた。

 

「あれぇ? 何を想像してるのかなぁ? 神々の使徒、聖女様に対して失礼が無いようにね?」

 

 静かにしていた周囲の騎士達からも笑いが溢れて、空気が弛緩した。

 

「くっ……てめえから振っておいて……」

 

 森人は嵌められたと知ったが、同時に指揮官として緊張を解きほぐしているのが分かる。実際に自然な目線を周囲に配っているのだ。見た目は若いが、中隊長となれば数百人規模を指揮する。それこそ見た目や年齢など当てにはならない。リンスフィア最高の隊商、マファルダストの隊長すら美しい女性だったのだ。

 

「さて、旨い酒を飲む為にも仕事を頑張りますかね」

 

 中隊長は馬を回し、後ろから追随していた隊へ振り返った。

 

「各小隊長は予定通りだ。二隊は林の反対側へ、状況に応じ魔獣の流れを此方に誘導しろ。残りは燃える水を決められた場所へ配置。この林は燃やしてもいいが、隊が抜けるまでは我慢しろよ。それと……確認だが、任務は時間稼ぎだ。下らない誇りなどその辺に捨てておけ、突出する様な馬鹿は我が隊にはいない筈だ!」

 

「「おう!!」」

 

 案の定、先程までの中隊長は消えて本物の騎士がいた。

 

「森人の皆は牽制に加わって欲しい。騎士など到底及ばない弓の腕、拝見させて頂く。それと指揮権は私が持つが、君たちには独自に動いて貰いたい。森人の知恵に期待している」

 

「……任せておけ。燃える水の配置には森人の意見を参考にして貰いたい。此処は森では無くとも役には立つだろう。それと……」

 

「それと?」

 

「さっきの話だ。お互い最高の店を用意して、最高の酒を呑む。勝負だな」

 

「ははっ、いいね! まあ、負けないけどね!」

 

「言ってろ」

 

 それを合図に中隊と森人は動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連なる馬車の列は一路リンスフィアに向かっていた。何人かの騎士はいるが、殆どは着の身着のまま逃げてきた住民達だ。

 

「もう少しでリンスフィアだ……」

「くそっ……魔獣め……」

「魔獣もだが、騎士が誘導したって……嘘だと思いたいが」

「馬鹿を言うな! あの戦いを見なかったのか! あれ程の群れに立ち向かった騎士達を愚弄するなど許されないぞ! 誰のお陰で……」

「だが見た奴がいるんだよ! 態とテルチブラーノに引き込んだって!」

「お前……!!」

 

 今にも殴り合いになりそうな男達を誰も止めたりしない。疲れは勿論だが、故郷が失われた事を受け止める事が出来ないのだろう。皆が疲労感と悲壮感を漂わせ、下に俯いていた。

 

「主戦派だよ……」

 

「……なんだって……?」

 

 俯いていた一人がボソリと呟いた。

 

「知らないのか……? アイツらは主戦派の連中だよ。奴等は人の命なんて気にしちゃいないのさ……ただ魔獣と戦えればいいだけ。頭の狂った狂信者どもめ……不遜にも聖女様を巻き込もうとしてるんだよ……」

 

「聖女? 黒神の聖女か?」

 

「ああ……俺は聖女様を見た事がある、噂通りのお人だよ。瀕死の森人達を一瞬で癒したんだ。しかも見返りすら求めずに、すぐに居なくなっちまった。あれ程の慈愛と癒しの力を持つのは、間違いなく聖女さ。奴等はリンスフィアなら聖女様が助けてくださると思ってるんだ……聖女とは言え、まだ子供なのに……クズどもが……」

 

「なら、奴等のせいで……」

 

 テルチブラーノからの避難民の会話は、新たな声に掻き消された。何人かは荷台の後方へ駆け寄り、遠ざかる西側を確認する。

 

「魔獣だ!! 奴等が逃げて来るぞ!」

 

 追随していた騎士達は列の後方へ走りつつ、声を荒げた。

 

「全員リンスフィアへ急ぐんだ! 余計な荷物は捨てて出来るだけ荷台を軽くするんだ! 走れ!」

 

 言いながらも間に合わないと分かっている。当たり前だが騎馬が駆ける速度と人を満載にした馬車など比較するのも馬鹿らしい。だが少しでも時間を稼がなければ……

 

「騎士隊、抜剣! 走り来る騎士は主戦派だ! 今更相手にしても意味がないぞ! 燃える水を!時間を稼ぐ!」

 

「「おう!!」」

 

 間違いなく捨て石となる騎士達だが、士気は衰えていない。彼等の家族や顔見知りが馬車に乗っているのだ。騎士の誇りを汚すなど決して有り得ない。

 

 テルチブラーノの住民達は騎士へ祈りを捧げ、同時に心からの感謝と詫びを告げる。 

 

 既に迫り来る主戦派の騎士達、奴等の顔が判別出来る距離まで迫っていた。少し間を置き赤い波が追いかけて来る。主戦派達は当たりもしない矢を放ち、魔獣を挑発する。時には数騎が突撃し、自らの身体を撒き餌にすらしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「前方に避難民! 列になってるぞ!」

 

 主戦派の騎士達は、ここから右に折れて最短距離でリンスフィアに向かう予定だった。森人が使う道を辿れば半日は短縮出来る筈だったのだ。避難民に追い付く事は無いと思っていたが、思いの外速度が出ていない。

 

「……予定を変更する! このまま街道に沿って進むぞ! 魔獣共が列に突っ込ませて、俺達は離脱! リンスフィアへ彼らが誘導してくれるだろう!」

 

 余りに非道な宣言だが、狂った信仰は人を歪ませていく。先を走る避難民すら、聖戦への尊い犠牲に見えていた。

 

「騎士数騎あり、分隊規模!」

 

「気にするな! 走り抜ければいい!」

 

「よし、もうすぐリンスフィ……ぐぇっ!」

 

 先頭を走る騎士の肩に矢が突き立った。たまらず落馬する姿に周囲の者は射線を確認しながら散開する。

 

「予定進路方向だ! くっ……小隊だと! リンスフィア本隊か!」

 

 見れば林の方から二つの小隊が走り来ている。土煙を上げながらも矢を放つ腕は相当なものだ。中には森人らしき姿もあり、混成部隊の様相だった。

 

「仕方ない、奴等になすりつけるぞ! 避難民は放っておけ! 牽制の弓と燃える水を! 燃える水は街道に撒け!」

 

 そのうち魔獣の群れは進路を変え、遠くに見える林へと向かって行く。

 

 その数は優に数百を超え、後ろには第二第三の波が続いていた。その全てが見事に誘導される様は、皮肉にも主戦派達の練度の高さを示している。

 

 流れが変わった魔獣の波を確認し、小隊も転進。残りの隊が待つ林へと誘導して行った。

 

 リンディアの騎士、その誇りは多くの命を救ったのだ。

 

 そうして……残ったテルチブラーノの住民達の殆どは、無事リンスフィアに到着する事になる。

 

 これは各地で起きた小規模戦闘の一部……南でも、北でも、報せの少ない東ですら例外では無い。

 

 騎士は正に、リンディアの剣と盾……そのものだった。

 

 

 

 

 

 

 




次話、聖女が自らの意思をもって歩き出します。


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62.聖女の歩む道①

魔獣との決戦が始まる。そして聖女は自らの意思で歩き出します。


 

 

 

 

 

 細く黒い糸はサラサラ、フワフワと空に舞い、唯の一本すらも絡まる事は無い。それはまるで摩擦など存在しないかの様で……そう誰もが思うだろう。

 

 

 

 

 前線からは次々と負傷者が運ばれて来ている。大半が騎士で、中には森人らしき姿もあった。台車の数が足りないのだろう、肩を貸したり、背負われたり……運ぶのに性別も年齢も関係は無かった。

 

中には既に絶命した者もいて、血と叫びが溢れる道、通称[聖女通り]は正しく戦場だった。

 

 鎧ごと肉体を切り裂かれた人、まるで巨大な鈍器に殴られたかの様な者、腕や脚があり得ない方向に曲がった男、そして意識すら無くピクリとも動かない騎士。 他に目立つのは火傷を負った者達だろうか。

 

 戦いに慣れた騎士や森人さえも目を背けたくなる、そんなリンスフィアの街角に一人の少女が立っている。王城に背を向け、つい先程歩いて来たのだ。少女の背後に連なるその道は、真っ直ぐ王城へと向かっていた。

 

 立ち止まる少女の目蓋は閉じられ、右手には若草色をした長めのナイフが握られていたが……そのナイフも黒い鞘へと収まって、少女の腰に巻かれた太い革帯の元へ返った。

 

 誰もが一瞬我を忘れて見入っていた。静謐が訪れ、その中心に居る少女は両手を掲げる。まるで天に捧げる様に、祈る様に、その手から糸が流れ出て行く。

 

 次の瞬間、人々は息を呑む。ゴクリと唾を飲み込む音すら響いた。

 

 黒い糸が舞い踊るのを、誰もが見ていた。ところがその糸達は地面に落ちる事も、空に高く舞い上がる事もなかった。

 

 サラサラ、フワフワ、と……

 

 その黒い糸……聖女の黒髪は、空間に音も無く溶けていく。何本かは見守る民衆の掌へ落ちたが、それすらも僅かな光を放つと幻の様に消えていった。

 

 黒髪の放つ光は、暖かく少しだけ眩しい。だがその光すらも、これから起こる奇跡の始まりでしかない。

 

 神々の加護を受け降臨した「黒神の聖女」は世界に唯一人……癒しと慈愛、聖女の刻印を刻まれた使徒ー--

 

 民衆は声を上げる事も出来ず、聖女のゆっくりと開かれていく瞳に見入るしかない。その瞳は噂に聞こえた通り、とても美しい翡翠色をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「テルチブラーノからの避難民、収容を確認しました!」

 

 ケーヒルは報告を受け、一先ず安堵の息を吐いた。魔獣や主戦派を誘導してくれると信じてはいたが、戦場では何が起こるか分からない。目を覆いたくなる様な結果が出ても驚くには値しないのだ。

 

「よし! 中隊に伝令を! 時間稼ぎは終わり、必ず生きてリンスフィアに帰れ、と」

 

「は!」

 

 伝令は礼も簡単に済ますと全速力で走り去って行った。僅かな時間が何人もの命を奪うかもしれないのだ。誰もが気を強く持ち、戦っている。

 

「救護の準備を! 魔獣を引き連れてくるぞ!」

 

 負傷者などいない方が良いが、魔獣相手にそんな都合良い事はないだろう。

 

「素早さが全てだ! 中隊を収容するまで、死守する! 各隊戦闘態勢!」

 

 弩や燃える水を確認する者、長弓を準備する森人、鎧紐を締め直し頬を強く叩く者……全員に適度な緊張感が漂い、空気が張り詰めていく。しかし恐慌に陥る者も、逃げ出す者もいない。ケーヒルはやれると確信を持った。

 

「北や南と違い、密集状態で突っ込んで来るだろう。最初の流れを止めなければ、蹂躙されるぞ。予定通り砂地を使う。帰還する中隊へ指示を出せる様、準備を怠るな!」

 

 ユーニードが示唆した地面の特性を利用し、魔獣の足を止めるのだ。人より遥かに重たい魔獣は間違いなく戸惑うだろう。

 

「副団長、燃える水の散布は完了しました。上手くすれば炎の壁が出来るでしょう。中隊が抜けたら火矢を放ちますか?」

 

「出来るなら魔獣を巻き込みたい。魔獣の群は数百を数える。減らせる時に減らしたいからな……可能か?」

 

 ケーヒルは皮肉気に笑みを浮かべ、お前達なら出来るだろうと暗に伝える。

 

「副団長は手厳しいですな。ですが、やれと言うならやってみせましょう。ついでに討ち漏らした魔獣は狩らせて頂いても?」

 

「ほう? お手並み拝見といこうか。矢の無駄撃ちはならんぞ?」

 

「はっ! 我らの剣、ご覧あれ」

 

 ケーヒルの笑みは皮肉から感嘆へと変わり、立ち去る騎士へと届いた。

 

 リンスフィア、いや人の運命を決する戦いまで、あと少し……かならず勝利してみせる。我がリンディアに敗北などあり得ない。魔獣に屈するなど許す事はないのだから。

 

 ケーヒルはアストのいる南に視線を送り、カーディルの座する王城を仰ぎ見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リンスフィアの南側、高い城壁の上にアストは居た。アストの目には遠くセンから流れて来た人々の列が見えている。殆どが既にリンスフィアに入り、食事と水を振る舞われているだろう。

 

 魔獣の姿は未だ無く、リンスフィア存亡の危機など夢ではないかと錯覚する程だ。テルチブラーノから逃れて来た民は、騎士の働きで急死に一生を得たらしい。アストは見事な騎士達に敬意を送り、救われた命に神々へ感謝を想う。

 

 テルチブラーノがある西は南北と違って多少の林や丘があり、景色に凹凸が感じられる。一方、アストが居る南の城壁やその周囲は他とは違う特徴が幾つも散見された。

 

 城壁は何箇所も巨大なスプーンで削られた様に街側に凹んでいる。城壁は僅かに低くなっていて、削られた方向へ弩が並んでいた。そして低くなった分地面が掘られ、その場所に立てば城壁を見上げる様に眺めるしかないだろう。燃える水や弩の矢が降り注げば、魔獣と云えど堪ったものではない筈だ。

 

 逆に外へ迫り出した城壁部分には多くの弓矢が用意されていて、長弓を使えば遠方を狙い打ち魔獣を誘える様になっている。勿論魔獣の数が少なければ、近づく前に無数の矢が襲うのだ。

 

 また城壁は僅かに外側へ反り返っていて、魔獣がよじ登る事も出来ない。

 

 

 

 

「殿下、これを」

 

 カーディルへの報告を済まし戻った騎士が、アストの元へ駆け寄った。

 

「なんだ?」

 

 戦場には似つかわしくない白い布に包まれたソレを、騎士は恭しく開く。中からは白い小さな花があった。名前も無いその花は、野花の一種で珍しいものでは無い。リンスフィアの街中や、城内のあちこちで見つける事が出来る。だがアスト、そしてアスティアの母アスが好きで、よく押し花にしていたのを思い出す。

 

 アスティアの部屋にある化粧台には、アスが押し花を額に入れた飾りが並んでいる。今アストの目に映る花は生花だが、その特徴はよく覚えていた。

 

「戻り際、アスティア様より預かりました。殿下へ渡してほしいと。命護り、だそうです」

 

 命護りとは戦場に赴く騎士達に家族や妻、恋人が持たせるものだ。生きて帰って欲しい……そんな当たり前の願いを込めて、衣服の切れ端に包む。包む物は決まっていて、背中に垂れる髪を一本だけ……身近な者に抜いて貰う。それを切れない様に結ぶのだ。 騎士が家族を想う、そんな小物へと。

 

 アストが手に取った花の茎には、間違い無く髪が結ばれていた。

 

 アスティアの髪はアストと同じ銀髪だ。勿論男女の違いから長さも質も同じでは無い。それでもアストにはその姿が目に浮かぶ様だ……アスティアが髪の糸を結ぶ様子が。

 

「これは……まさか」

 

 花弁のすぐ下にあった為、直ぐには気付かなかった。それは長さも色も違う、もう一本の糸だった。

 

 アスティアは髪は腰にも届く長いものだ。アストは眠る時に大変なのではと、いらない心配をしたりもした。もう一本の髪はおそらく半分の長さもないだろう。前はもっと短かった……アストは出会った頃を思い出していた。あの頃は肩口で切り揃えてあって、不思議と少年を思わせたのだ。

 

 アスティアの銀髪とはある意味で対極の色だ。リンディアや他の国でも見かけた事は無い珍しい髪色は、持ち主から離れた後も艶やかな漆黒。

 

 今やリンスフィアで知らぬ者はない、翡翠色と黒。 

 

「アスティア……ありがとう」

 

 あのお転婆聖女が自ら結んだとは考え難い。アスティアが気を遣ってくれたのだろう。もしかしたら、いつもの様に逃げ回るカズキを頑張って捕まえたのかもしれない。

 

「殿下、羨ましい限りです」

 

 フンワリと微笑むアストへ、手渡した騎士は言葉を掛けた。言葉とは裏腹に、騎士の顔に嫉妬の色は無い。

 

「君は?」

 

「私も妹が文句を言いながら指輪に……なんでもお気に入りだそうで、必ず返せと最後まで煩くて……大変でしたよ。露店売りの安物なのを私は知っているんですが」

 

 余りに微笑ましいお互いの妹に、身分差を超えて二人は笑い合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「辿り着けなかったか……」

 

 ジョシュの目には魔獣の波に飲まれていく最後の騎士の姿があった。顔など判別出来ないが、間違いなく主戦派の一人だろう。最後に王城の方へと何かを叫んだ様だが、全ては狂った想いしかないだろう。

 

「聖女へ救いでも求めたか……身勝手なものだ」

 

 ジョシュは敬愛するアストの命を救ったカズキを間近に見たが、聖女と言われても印象は変わらない。只の、少しだけ普通とは違う一人の少女だ。あの少女に救いを求める? ジョシュには全く理解出来ない考えだった。

 

 蹂躙し尽くしたのだろう。一雫の甘露に群がる虫の如く、魔獣達は群れ固まっていた。しかしその甘露も失ってしまったのか、新たな餌へと流れが変わっていく。

 

「来るぞ……予定の防衛線を越えるまでは、絶対に打つなと徹底しろ。全員に通達を」

 

「はっ……通達! 防衛線……」

 

 ジョシュは視線を動かすこと無く、ゆっくりと蠢く赤い波を睨み付けていた。

 

 マリギを食い尽くしたのに、それでも足りないのか……魔獣の底無しの欲望は尽きる事はない。もし人の姿が世界から消えたら、奴等はどうするのだ? 笑うのか、遊び相手がいないと気付いて泣くのか、それとも地中で眠るのか?

 

 北は無限とも思える程の平原が続く緩やかな地形だ。リンスフィアを守る城壁も、真っ直ぐ東西へ広がっている。赤い波も合わせる様に横に展開して、少しずつ近づく。

 

「波の薄いところに集中する。先ずは波の形を崩して、騎士隊の前線を押し上げるんだ。穴を少しずつ広げ、燃える水で混乱させる。巨大な波へと姿を変えたら止められないぞ。こちらが騎士の波を作り、返した波で矢の雨を降らす。持久戦だ……諸君の奮闘に期待する」

 

 ジョシュは周囲の隊長へ魔獣の群れを指差して命令を出す。隊長達は無言で頷き、それぞれの隊へ戻って行った。

 

「森人の皆は城壁に散らばり、弓の準備をお願いしたい。事前に伝えた通り、止め切れない時は周辺に火を放つ。この城壁も火の壁にして、体勢を整える時間を稼ぐ予定だ。北は外円では支え切れないだろう。誘い込んで一網打尽にする」

 

 それはリンスフィアの街中へ魔獣が入る事を意味したが、それしか手は無かった。北側は防衛を行う面が広過ぎたのだ。同数で魔獣に立ち向かうなど正気の沙汰では無い。何としても波状から線へと変える必要があった。

 

「集中したところへ矢と火を放つ。街を森と見立てた皆の戦い、期待している」

 

 大半の魔獣は知能が低いのか刺激に集まり易いのだ。主戦派がやった様に、魔獣をうまく誘導するしかない。中型以上の魔獣は、応じて知能が高いのは知られている。南の森での戦い、聖女が発見した巣穴、奴等が只の獣ではない事は証明された。

 

 散り散りに配置へと動き出した森人達は、騎士とは違って装備がバラバラだ。それでも……何かをやってくれそうな、何かが起きそうな、そんな予感がするのだ。騎士と森人、全てが違う両者だが、一つとなって魔獣に剣と矢を突き立てる。

 

「そうだ……必ず勝つ。リンディアは負けない」

 

 ジョシュの目と耳に新たな情報が入った。 

 

「いよいよ、か」

 

 皆が配置に付き、それまでは聞こえてこなかった魔獣の足音を聞く。

 

「間もなく防衛線を越えます!」

 

「よし!」

 

「防衛線まで、5、4、3……2、1」

 

「放て!!」

 

 ヒュンヒュンと風切り音が無数に広がり、放物線を描く膨大な量の矢が降り注ぐ。

 

 最初の、魔獣との接敵は北から始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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63.聖女の歩む道②

 

 

 

 

 

 

 弩の矢が前脚を貫いたのだろう、魔獣は転がる様に倒れ込んだ。それでも前へ進もうと顔を上げた瞬間、何本もの矢が顔面に突き立つ。赤い目や口蓋、喉や肩口に深く刺さった矢は、魔獣に悲鳴を贈る。

 

「グギィーーッ!」

 

 倒れた魔獣を踏み越え、次の魔獣が前へ躍り出たが、それも降り止まない矢の雨では無力だった。

 

「ギーー!」

「ガッ」

「ギャーーーッ!!」

「グアー!!」

 

 魔獣の立つ位置からリンスフィアを見れば、遠い城壁から放物線に線を引く矢が空を染めるのを眺めるしかない。 

 

 赤い波は少しずつ形が崩れ、防波堤に遮られる様に小さくなっていった。それでも魔獣は止まる事も無く、次から次へと迫り来るのだ。

 

 ジョシュは見事な戦果に驚きを覚えていた。凄まじい弓の精度だ。まだ距離があるのに、長弓から放たれる矢は吸い込まれる様に魔獣へと集まった。

 

「これが森人か……弓の腕は知っていたつもりだが……」

 

 波の形を崩したい箇所を指定すれば、冗談みたいに魔獣に矢が当たるのだ。勿論それだけで致命傷にはなっていないが、弩も狙いやすくなる。そして何より……

 

 ズドン!!

 

 薄くなった波へ火矢が放たれると、巨大な火柱が上がった。予めばら撒いておいた[燃える水]に加え、同じく森人が弓矢で送り付ける同じ[燃える水]が燃え出すと魔獣の悲鳴や絶叫は幾らでも増えていく。

 

 だが、それでも弓矢は足らない。燃える水も有限だ。このまま安全な城壁から魔獣が死に絶えるまで矢を降らせたいが、現実は甘くは無かった。

 

 だが今や完全に波は消えて、魔獣は散開してしまっている。間違いなく好機だ。森人に頼り切りでは、余りに情け無い。

 

「よし! 森人は逸れた魔獣を頼む! 残りの矢は森人へ! 騎士隊、出るぞ! 跳ね橋を!」

 

 堀は無いが、騎士隊を一気に外へ排出する為用意された物だ。

 

 ギギギ! ドンッ!

 

 高い位置から縦に開いた跳ね橋は、其れそのものが坂道に変わり騎士の道を形作った。城壁に穴が開き、リンスフィアの外へ繋がったのだ。

 

単横(たんおう)陣形! 後陣は短弓! 初撃は走り抜ける、とって返せ! 後陣狙え!」

 

「「「おう!」」」

 

「逸れは放っておけ! 森人へ任せる! 行くぞ!」

 

 ジョシュは鞘から剣を抜き、全員を鼓舞する。そして自らが先頭へと走り出し、大声を上げた。

 

「おおおーーー!!!」

 

 少しずつ前傾姿勢へと変わったジョシュ達は、最高速に達した瞬間魔獣へと接敵。唸る魔獣の腕を躱し、許すなら剣で傷を負わせる。密集状態で無くなった魔獣の群れの間を騎士達は次々と走り抜けて行った。

 

 それでも、全員が無事に済ますなど不可能で、何人かが魔獣の餌食になっていく。

 

「こ、この……! あっ……」

 

 ギリギリで避けた腕を見送り、前を向いた瞬間に真っ白な牙が並ぶ赤い口が見えた。

 

 バクンッ……

 

 瞬時に頭部を喰い千切られた騎士の一人は、そのまま暫く走りドサリと馬から落ちる。馬は軽くなった背中を気にもせず、赤い波に消えて行った。

 

 ガキン!

 

 違う方向を向く魔獣を見つけた者は、欲をかいて剣を振るった。しかし首を狙った筈が、僅かに逸れて硬い頭部へと向かう。まるで金属を殴ったかの様な音がすれば、握っていた剣はクルクルと地面に飛んで行った。

 

 その勢いで馬上から落ちた彼は、素早く立ち上がって自分の愛馬を探す。しかしその時には魔獣の前脚が体を押し潰し、悲鳴も断末魔も上がらなかった。

 

「走れー! 裏に抜けるんだ!」

 

 横一線に並ぶ陣形は殆ど崩れず、大半が魔獣の背後に抜ける。魔獣達は獲物達に目を奪われ、足を止め転進しようと体を傾けた。

 

 魔獣は単純な思考なのか、或いは人を玩具としか捉えられないのか、ほぼ全ての魔獣がリンスフィアに背を向けた。総数は約1000、既に3割程度も減じているのに、だ。

 

「よし、単横止め! 各自短弓で魔獣を!」

 

 ジョシュ達から離れていた後陣はさらに散開し、魔獣の群れに近づき一斉に短弓を放つ。短弓の特徴である速射を存分に生かし、魔獣の背へ近距離から何度も狙った。

 

 ギーーー!!

 

 再び魔獣の悲鳴が木霊して何体も地に伏した。走り抜けた騎士、短弓を構える騎士、魔獣から見たら完全な挟み撃ちで、単純な脚の速さは馬に敵わない。短弓は近距離なら長弓にも匹敵する威力を誇るのだ。狙いもつけやすい距離は、予想を超える結果をもたらした。

 

 魔獣達は完全に混乱し、もはや波は跡も形も無くなった。

 

 ジョシュは背中越しに後陣の働きを確認し、そして転進を指示。

 

「単横のまま転進! 奴等に食らいつけ! 次は遠慮はいらんぞ!!」

 

「単横のまま転進!」

「剣を振れ! 騎士の誇りを見せる時だ!」

 

 各隊長が連呼し、士気は極限まで高まる。

 

「「「おー!!!」」」

 

 いける!!

 

 ジョシュは確信する。戦死者は出ているが、誰一人欠けない戦争など存在しない。ましてや相手は魔獣どもだ。 だが……勝てる!

 

 我等は勝つのだ!

 

「リンディアに栄光を!!」

 

 再び速度を上げた第一陣は、後陣に引っ張られる魔獣へ殺到した。 

 

「短弓の射程に入るんじゃない!」

「右を! ここはいい!」

「やった! 次は!?」

「回り込め! 後脚に注意しろ!」

「コイツ等は飛ぶぞ! 密集するな!」

「お前は後退しろ!」

「まだやれる! 俺は……!」

 

 ジョシュは無心で剣を振るう。魔獣の叫びも吹き出す血も気にならない。味方の声と自分の粗い息遣いだけが耳に残る。

 

 剣を振り抜く、体を倒して攻撃を躱す、膝を付いた魔獣の顔面へ突きを入れる……次、次は!?

 

 目の前の魔獣の頭蓋に短弓の矢が刺さり、魔獣はゆっくりと倒れ込んだ。

 

「よし、ここはもう……」

 

 酸欠で少しだけ朦朧とする意識を、頭を振って振り払い再び目を開けた。

 

「……魔獣は……?」

 

 遠くで魔獣がズシンと後ろ向きに倒れるのが見える。そう、遠くだ。

 

 ゆっくりとその場でグルリと回転したジョシュは、自分の周囲に生きた魔獣が居ないのに気付く。僅かに蠢く魔獣も騎士がトドメを刺していた。

 

「勝った……?」

 

 城壁を放棄し、リンスフィアの街中へと誘導する覚悟すらしていたが、背後になった城壁は全くの無傷。何一つ音を拾わなかった耳に、何かが聞こえて来る。

 

 おー、おー、と聞こえるソレは人の唸り声……?

 

「やっ……」

「俺達は……」

「リンディア……」

「騎士の誇り……」

「森人は……」

 

 漸く言葉としてジョシュは捉え始めた。

 

 そう……勝鬨だ……!

 

「やった……!!」

「俺達は勝ったんだ!!」

「リンディアへ栄光を!」

 

 ジョシュは堪らず無理矢理に手から剣を引き剥がし、地面に放り投げる。そして高々と両腕を天に向け掲げた。

 

「白神よ……黒神よ……我等は……」

 

 ジョシュは無言のまま腕を上げ立ち竦んでいたが、周囲にいた騎士達に抱き付かれ揉みくちゃになる。

 

 やっと……やっと勝利を実感する。

 

 魔獣はリンスフィアどころか、その城壁へも辿り着く事は無かった。リンディアの騎士と森人は勝利したのだ。

 

「みんな……皆、ご苦労だった。 見事だ……!」

 

 ジョシュの目には涙が僅かに浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「中隊視認! 魔獣を引っ張っています!」

 

「予定の場所へ誘導しろ。奴等へ贈り物をする。総員準備を!」

 

「今日くらい副団長は指揮に徹しては?」

 

「ふん、下らない事を言わなくていい。突貫こそ騎士の花。南では遅れを取ったのだ、せめて働かなければ笑われてしまうわ」

 

 ロザリーの死は自分の責任だとケーヒルは悔いている。カズキの涙、聖女を悲しませる事など許せはしない。そして偉大な母は死んでしまったのだ。

 

「取り返す事など出来ない……この命など安いものよ……」

 

「副団長?」

 

「何でもない。いよいよだぞ」

 

 顎で示した先に中隊が迫るのが見えた。予定の場所……砂地と緩い地盤は魔獣の足を止める。中隊に旗を振り、作戦通りに進めていくだけ。

 

 中隊は蛇行を繰り返しながらも、どんどんと近づいて来ていた。

 

 目印の旗は地面にも立っていて、その外を沿うように誘導の騎士はリンスフィアに戻ってくる。追い付いた中隊も砂地には入らず、大きく二手に分かれながら包むように躱した。蛇行した所為で多少速度が落ち、魔獣との距離は縮まっていく。

 

「よし、任せるぞ」

 

「はっ!」

 

 ケーヒルは城壁から下に降り、待機していた部隊へ合流する。

 

「合図を待て。跳ね橋が降りたと同時に全速だ! 中隊と交差する、注意しろ!」

 

 ケーヒルは馬を一番前に移動させ、誰よりも早く到達すると決めていた。目の前には駆け下りる跳ね橋のみ。

 

 

 

 

「構え! 好きなだけ喰わしてやれ!」

 

「「「おう!」」」

 

 城壁の上からは魔獣の侵攻が手に取るように分かる。下を見れば副団長のケーヒルが今か今かと待ち侘びているのが見えた。大隊長は手を高く上げ、一斉射の時機を待った。

 

 予想通り魔獣は直線的に追い掛けて来て、間違いなく砂地へと突入するだろう。

 

 最初の一匹は砂地に入った瞬間、笑い話のように転んで顔面から地面に突っ込んだ。前脚が軽く埋まり、体勢が崩れたのだ。だが後ろから迫る魔獣は止まる事などせず、次々と砂地へ飛び込んでいく。何匹かは魔獣の下敷きになり絶命……これも共喰いと呼んでやろう。そう大隊長はほくそ笑み、腕をバサリと下ろした。

 

 バタバタと倒れて、堰き止められた魔獣達はギャーギャーと騒いでいる様だが、頭上に降り行く雨に気付いているのだろうか?

 

 その雨の先端は鋭く砥がれ、鏃という名を持つ。

 

 一本ずつ、職人が魔獣へ届けと祈ったソレは間違い無く叶うだろう。高さと言う力が加わった矢は、絶大な力を発揮して魔獣へと到達する。

 

 ドドッ! ドドドドドッ!!!

 

 無数の矢は硬い魔獣の体を貫き、奴等の命を刈り取っていった。

 

「二射後、騎士隊を前面に! 跳ね橋用意!」

 

 大隊長は再び視線を下げ、ケーヒルを見た。ケーヒルは頷き、後ろを振り向く。

 

「そろそろだ! 奴等はテルチブラーノを滅ぼした奴等だ! 大勢が死んだ! 我等の同胞も、無辜の民もだ! 許せるのか!!」

 

「「「許せるか!!」」」

「よくも俺の故郷を!」

「友を!」

「鉄槌を、剣を!!」

 

 ケーヒルの背後から光が漏れ、ギギギと跳ね橋が降り始めた。

 

「さあ、反撃だ!!」

 

「突撃……!」

 

「「「突撃!!!」」」

 

 ドン!!

 

 跳ね橋の先端は地面に触れ土煙りを上げたが、その煙を吹き飛ばす騎士隊は止まりはしないだろう。

 

「リンディアに栄光を! カーディル陛下へ勝利を!!」

 

「「うおぉぉーーーー!!」」

 

 走りながらもケーヒルは大剣をゆるりと抜き、鈍く光る剣の腹へ自らを映した。一瞬だけ目を瞑り、神々と……聖女へ祈りを捧げる。

 

 最早僅かたりとも恐怖も後悔も無い。

 

 ただ剣を振るのみ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「伝令! ジョシュ様より伝令です!」

 

 伝令の騎士の顔には歓喜の色が見える。伝令を受けるケーヒルの顔にも満足感が浮かび、僅かな疲労さえ喜びを彩っていた。

 

「聞こう」

 

「はっ! 北は城壁に魔獣を近づける事なく殲滅! 負傷者は多数ですが、戦死者は僅か! 勝利したと……! リンスフィアは救われたと!」

 

 最後は涙すら見せたが、ケーヒルは咎める事もない。残るは最も強固な城壁を誇る南のみ、指揮するは英雄アスト。少しだけ休めば自分達も応援に向かうのだ。ジョシュの隊と合わせればリンディア全軍で南を防衛出来る。

 

「ご苦労だった。少し休め、まだ仕事は残っているがな」

 

「はっ!」

 

「負傷者の確認と、戦死者を! まだ南が残っているぞ! 獲物はまだ待ってくれている様だからな!」

 

 皆に疲労はあるが、勝利に勝る活力剤など無い。最高品質のククの葉も敵わないだろう。

 

「ははは……副団長は相変わらず手厳しい! 水浴びすら出来ないとは!」

 

 大隊長はそう言いながらも、自身の装備を整えて散らばる矢すら拾い始めた。

 

「「大隊長が言うなーー!!」」

 

 周囲の部下達は冷やかしながらも笑いが絶えない。戦死者はいるが、勝利に歓喜することこそがヴァルハラへの手向けとなる。

 

 ケーヒルもジョシュも戦った皆は喜びを噛み締めていた。

 

 

 

 ズズン……!!

 

 

 

 その時、地響きを体に感じた騎士隊は南に振り向いた。いや、間違い無く地面が揺れたのだ。音だけで無く、衝撃すら覚えたから方向はすぐに分かったのだ。

 

 そして……

 

 西に居たケーヒルの目にも、北に居たジョシュの目にも、信じられない……信じたくない現実が映った。

 

 城壁が崩れていく。そしてその城壁の高さに迫る程の巨大な火柱が上がり、周囲を赤く染めていた。

 

 最も強固な南の城壁が崩れていく様は、世界の終焉すら幻視させて、全員から言葉を奪う。

 

「城壁が……」

 

「あの炎は……?」

 

「貯蔵していた燃える水に引火したんだ……一気に……」

 

 立ち竦んでいたケーヒルは意識すらせず呟き、その言葉に慄いた。

 

「殿下……アスト、アスト殿下!!」

 

 南にはアストが居る。 あの崩れゆく城壁辺りで指揮を取っている筈だ……!

 

 

 ケーヒルは部下への指揮も忘れ、馬へ飛び乗った。

 

 

 

 

 

 

 



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64.聖女の歩む道③

 

 

 

 

 アストを見送った後、アスティア達は忠実に指示を守ろうと頑張った。アスティアもカズキに傷付いて欲しくは無いし、外に興味が行かない様に手を尽くしていた。それが衣装合わせなのは見当違いだったが、仕方が無いだろう。

 

 カズキは直ぐに飽きて、アスティア達を振り切りベランダに出ようとしたのだ。慌てたアスティアとエリは最終手段を使う事を決断した。

 

 それは、酒だ。

 

 背を向けたカズキにエリはニヤリと笑い、チャポチャポと鳴る瓶を持って来た。案の定カズキは直ぐに振り返り、ふらふらと近づいて来る。余りに単純なカズキの行動にアスティアは呆れたが、今は丁度良い。

 

「貴女、変な人に付いて行かないわよね? 私、不安なんだけど……」

 

 愛しい妹は言葉が分からない。それどころか声を発する事すら出来ないのだ。もし以前の様に誰かに拐かされたりしたら、アスティアは泣いてしまう。助けを求める事も出来ないカズキに、アスティアは不安が募るばかりだ。

 

 でもその手口が酒だったら、余りに情け無いだろう。

 

 アスティアの心配を他所にカズキはエリからグラスを受け取り、ジッとワインの瓶を眺めている。早く注いでくれと、翡翠色の瞳は訴えていた。

 

「アスティア様……?」

 

「はあ……仕方がないわ。でも少しずつよ? 最後は眠ってくれたらいいけど……」

 

 許可を得たエリは、カズキの持つワイングラスにゆっくりと注ぎ込む。真紅の液体は少しだけ波打ちながら三分目まで満たされた。

 

 これだけ?と珍しく分かり易い表情を見せるカズキに、アスティアはもう溜息すら出ない。

 

 不満顔で赤い液体も眺めながらも、その小さな口をグラスに付けたカズキ。おっ!という顔はお気に入りの味だったのだろう、一度離した唇も直ぐに戻されて喉を鳴らした。最後の一滴も惜しいと舐める様に流し込むと、もう一杯頂戴とグラスを差し出す。

 

「アスティア様、これじゃ直ぐに無くなりますよ? カズキもお酒に強くなってるみたいですし」

 

「何処で味を覚えたのかしら……この娘の過去が気になってしょうがないのだけれど……」

 

 アスティアからすればカズキは不思議の塊だ。

 

 信じられない美貌を持ちながら所作は少年そのもので、お化粧も着飾るのも好きでは無い様だ。表情も乏しく、余り感情を表に出さない。紡がれない言葉も相まって、その想いを汲み取るのは一苦労だ。

 

 それでいながら、ふとした時に優しさを感じる。それこそ男性の様に、手を差し伸べてくれたりもする。何よりリンスフィアの街中で見た聖女の癒しは、アスティアの想像を軽く超えていった。自らを簡単に傷付けて、命を失いかけた少年を救った。そしてそれを誇る事も、恩に着せる事もない。

 

 寧ろ、それが当たり前の様に……

 

 だからアスティアはカズキがどんな人生を歩んで来たのか、気になって仕方が無いのだ。

 

 ボンヤリと考えごとをしてる内に、カズキは二杯目を注がれて嬉しそうにしている。

 

 そう、嬉しそうだ。

 

「カズキの感情が分かり易くなったわね……お酒が理由というのは情け無いけれど、これも封印が弱まったからでしょう?……全てが解放されて、本当の笑顔を見せてくれたら幸せね」

 

「そうですね! 想像しただけでも幸せな気持ちになります。あっ……もう飲み終えた!?」

 

 先程注いだばかりのワインは、奇術の様に消えて無くなった。勿論、種明かしは簡単だが。

 

「本当に美味しそうに飲むのよね……食事も酒の肴も無いのに、私には無理だわ」

 

 アスティアも薄めたワインや、寒気が強い時にホットワインくらいを口にした事はある。しかし特有の苦味や酸味は、アスティアには美味しいと感じさせなかった。

 

「もしかして、本当に美味しいのかしら……?」

 

 興味が出たアスティアは、エリにワイングラスをもう一つお願いした。カズキと二人なら美味しいのかもしれない。

 

 エリはワイングラスと一緒にチーズと揚げ芋を持って来てくれた様だ。カズキが空けたグラスと合わせ、ワインは二杯注がれた。

 

 そっと両手を添えて持ち上げ、ワインに透かしてカズキを見るともう半分減って見えた。何故か負けたく無いと急いで口に含んだが……やっぱり駄目だった。

 

「うぇ……苦い……」

 

 予想していたエリは水をどうぞと渡す。

 

「ありがとう、エリ」

 

 行儀が悪いのも承知でアスティアは口を濯いだ。やはり本格的な酒は合わないと、チーズを小さく齧る。普段なら手で千切って口に運ぶところだが、今は乱暴にしたい気分なのだろう。

 

「もう半分もないですよ? どうします?」

 

「うーん……あっ、見て」

 

 促されたエリはカズキの様子を伺うと、漸くかと安堵する。さっきまで蘭々と輝いていた瞳は、トロンと下がり頬も赤くなって来ている。どうやら三杯目が効いたらしい。酔いは急激に回り、カズキから意識を奪うのに時間は掛からなかった。

 

「益々不安だわ……悪い人に誘われてお酒でも飲まされたら、抵抗も何もないじゃない……」

 

 アスティアは姉として、妹の躾けに力を注がなくてはと誓いを新たにする。前後不覚とはこの事かと、カズキはテーブルに突っ伏したのだ。

 

「結果的に目的を達成しましたね。これなら当分起きないでしょう。着替えさせますから、アスティア様も休んで下さい」

 

「私も手伝うわ」

 

 妹のお世話は姉の仕事だと、アスティアは袖をまくった。ついでに弱まったらしい聖女の刻印、その封印を見てみよう。そう決めたアスティアはエリと二人でカズキを抱え、直ぐ側のベッドへ連れて行く。

 

「全く起きませんね……?」

 

「クインに言って、教育を早めて貰わないと……困ったものだわ」

 

 しかもカズキはただの女性ではないのだ。王女は世界に何人かいるだろうし、過去にも大勢いただろう。しかし、物語以外で聖女など存在した事も無い筈。まさに世界に唯一人、代わりなどいない聖女だ。

 

 そんなことを考えながら、カズキの服を剥いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の闇に浮かぶ銀月。

 

 ロザリーがカズキに贈った髪飾りは、黒髪を夜に見立てて選んだ物だ。少年の様な聖女に少しでも女らしくと母が見つけたが、その効果が有ったかは分からない。しかし不思議と女性らしさを嫌がるカズキが気に入った数少ない装飾だろう。

 

 そして今、聖女の間に美しい夜と銀月が浮かんでいる。

 

 二人の少女が隣り合って眠っていた。

 

 アスティアは長い髪を纏めることもせず、ベッドの上に広がって銀月を表して。隣りに眠るカズキは黒髪をやはり気にせず、枕から零れ落ちていた。

 

 まるで姉妹の様に眠る二人は、僅かだけ肩を揺らしてシーツに包まれている。もし絵師が居たら筆を走らせる欲望を止められないだろう。

 

 

 

 アスティアが先に眠るカズキの隣へ横たわった結果だが、カズキが簡単に起きないと確信していたアスティアは調子に乗った。

 

 まずカズキの細い腰に腕を回して自分の方に抱き寄せ、自分の顔を同じ枕に預けた。目の前には眠るカズキがいる。あどけなさと不思議な艶を持つ聖女は、同じ女性であるアスティアの胸をドキリとさせるのだ。

 

「眠っていたら、あのお転婆なんて嘘みたいね……本当に綺麗……黒髪も肌も、今は見えないけど瞳も……カズキが世界を救う聖女だなんて、こうしていると信じられない」

 

 アストが告げた魔獣の襲来は気に掛かるが、あの頼り甲斐のある兄ならきっと大丈夫だろう。ケーヒルや沢山の騎士がいるのだ、リンスフィアを守ってくれるに決まっている。

 

 僅かな不安を押し殺し、アスティアは再びカズキを見た。

 

「刻印に縛られて……まだ封印は解かれていない……」

 

 カズキが眠る間際までいたクインに、聖女の現在を教えて貰ったのだ。弱まったとは言え封印は未だ厳然と存在し、カズキを聖女へと縛っている。封印を解く鍵も教えて貰ったが、アスティアには自信が無かった。

 

 マファルダストのロザリーは僅か一月の間にカズキを変え、あの頑なだった心すら解きほぐした。もっと長い間、一緒に居た自分は何が出来たのだろう。

 

 隠していない首には、鎖にしか見えない黒神ヤトの刻印がある。言語不覚のソレはカズキから言葉を奪ったのだ。なのにカズキは「ロザリー」の名を理解している。自己欺瞞や自己犠牲も、憎しみの鎖も、狂わされた慈愛も……全てを振り切って聖女へと至るなら、幾らでも愛したい。

 

「本当の慈愛? 慈しむ心なら私だって……何が足りないの? 教えてよ、カズキ」

 

 アスティアの心からの言葉は眠るカズキには届かず、例え起きていても響きはしない。それが堪らなく悲しくて、アスティアは肩を震わせた。

 

 そうしている内にアスティアも眠りに落ちて、ベッドの上に夜と銀月が浮かんだのだ。

 

 様子を見に来たクインとエリも少しだけ微笑み、そっと扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

「……!」

 

 カズキは思わず息を飲み、声を出しそうになった。同時に音を発しない喉に現実を思い出す。

 

 目を開けた先には目蓋を閉じ、緩やかな吐息を漏らしながら眠るお姫様が居た。長い睫毛も触り心地の良さそうな髪も艶のある銀髪だ。どうやら二人並んで眠っていた様で、向かい合わせで顔を寄せ合っていたらしい。

 

 カズキは夢か現実か一瞬混乱したが、自分の腰に巻き付いたお姫様の腕の感触が幻では無いと教えてくれた。見えないが、脚も絡ませている……ハッキリしてきた意識は状況を理解させた。

 

「んん……」

 

 身動ぎしたカズキに気付いたのか、腰に回した腕を更に強く巻き付けてくる。これでは動きようがないと、カズキは起き出すのを諦めた。

 

 あの酒はなかなか美味かったが、やはりワインよりもっと強い酒が飲みたい。舐める様にチビチビと味わい、喉が熱くなるのが良い。そんな身勝手な事を考えながら、お姫様の様子を伺う。

 

 カズキからしたら歳下の女の子だが、あの王子様といい身分の高い人だろう。そんなお姫様と同じベッドに横たわっているとは、人生とは不思議なものだ。

 

 カズキは昔の自分……チンピラ同様だったあの頃が、遠くに行ったと理解している。この華奢で貧弱な子供の体になって僅かな時間しか経ってないが、もう自意識も変化したと自覚すらあった。実際目の前に綺麗な女の子が眠っていても特別な感情は湧いてこない。いた事など無いが、妹ならこんな感じだろう。

 

 目の前で自分を庇って死んでしまったロザリーを、あの時「お母さん」と呼んでしまった事を覚えている。

 

 この子の名前は何と言うのだろう?

 

 カズキは知りたいと、そう思った。自分が他人に興味を持つとは笑えるが、否定など出来ない……それが正直な気持ちなのだから。

 

 

 ズズン……

 

 

 遠くから空気が震える音と、僅かに遅れて振動を感じた考え事をしていたから、カズキは一瞬何があったのか分からなかった。しかしベランダの方が赤く染まり、何が爆発でもしたのかと不安になる。この部屋に来て初めての事だった。

 

 カズキは巻きついたお姫様の腕をそっと外し、やはり起こさない様に、そっとベッドから降りた。この部屋の敷物は異常に柔らかく、足音など立ちはしない。

 

 ベランダから見る景色はカズキにとって好きな事の一つだから、迷う事なく扉へ近寄った。ベランダに飾られた花々も元気よく咲いている。花壇や椅子などを避けながら、景色の見える端まで歩み寄った。ふと風を感じて足元を見れば、いつの間にか夜着へと変わっていて可笑しい。

 

 まず目が捉えたのは立ち上がる炎だ。かなり高いソレは通常では起きえない事だろう。何かの事故か、良くない事なのは間違いない。それと城壁が一箇所崩れている。まだ土煙もあってよく見えないが、やはり爆発だろうか。

 

 カズキはじっと目を凝らし、何が起きているのか確認しようとする。

 

「カズキ!! 駄目よ!」

 

 背後から何かの声が聞こえたが、カズキには何処か遠くに聞こえて良く分からない。直ぐに背中に誰かが抱き着いたが、やはりそれも遠くに感じられる。

 

「エリ!クイン! 早く来て!! お願い!」

 

 だがアスティアも燃え上がる炎と崩れた城壁に絶句して動きが止まってしまう。

 

「に、兄様……」

 

 カズキとアスティアの背後からクインとエリが駆け込んで来ていたが、二人はそれぞれの意味で動く事が出来ずに振り返りもしなかった。

 

 そして高い位置にあるベランダからは、崩れる城壁の先もはっきりと見える。

 

 それは赤い平原。

 

 風に吹かれる草花の様に、蠢くのは赤褐色の怪物。

 

 見渡す限りの平原は魔獣に覆い尽くされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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65.聖女の歩む道④

 

 

 

「殿下……!」

 

 ジョシュに勝利の余韻など一滴も残っていなかった。リンディアの王都リンスフィアは巨大な街だ。それでも北の城壁からは王城とその向こうにある城壁が見える。いや、城壁だったものだ。爆発的に立ち上がった炎は間違い無く[燃える水]だろう。アレは簡単に消えたりはしない。暫くは魔獣の侵入を防ぐだろうが、何の朗報にもならない。

 

「何故……」

 

 部隊の再編成を急がせながらも、ジョシュは逸る気持ちを抑えられない。たった一人向かったところで意味は無いと理解はしている。戦力を整え、急ぎ向かうしか無いのだから。

 

 南は最も安全で、何より対魔獣に改築した城壁があったのだ。アストの指揮はケーヒルには劣ってもリンディアに並ぶものなど少ない。それ程の条件で起きたのなら、予想外の……不測の事態が……

 

「北も西も主戦派が人為的に誘導したのだぞ……南は違った筈……溢れたと……」

 

 ジョシュは此処に至って、気付いた。馬鹿らしくなる程の簡単な事実に。

 

「北も西も魔獣は主戦派に釣り出されただけ……南は魔獣自らが集まり、奴らの意思と戦略で出て来たんだ。奴等が本能で動く獣では無いと聖女が暴いたでは無いか……!」

 

 拳を握り、ジョシュは自らの浅慮を責めた。

 

 一夜にして滅んだマリギ。いや、街どころでは無い、小国とはいえカズホートすら1日と保たなかったのに……

 

「本命は南……魔獣共はリンスフィアを本気で滅ぼしに来たんだ。北や西とは訳が違う……」

 

 所詮、主戦派のやった事など魔獣には関係は無かったのだ。奴等は奴等の理屈で動いている。

 

「……再編成はまだか!! 急ぐんだ!」

 

 このままでは……殿下は、リンスフィアは……いやリンディア王国は滅びる、カズホートの様に。

 

「急げ!!」

 

 ジョシュの叫びは悲鳴へと変わっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ケーヒルは流れる汗を拭う事もせず、無人となった街中に馬を走らせていた。並ぶ建物の所為で城壁は見えないが、空が赤く染まるのは嫌でも分かる。途中王城の側を抜ける時は何人もの人々が不安そうに南を眺めていた。

 

 ケーヒルもジョシュが辿り着いた簡単な事実に思い至り、自らの思い違いを罵るくらいしか出来ない。ユーニードの存在が目を曇らせていたのだろう。ユーニードを過大評価し、魔獣を過小評価する愚を犯した。

 

 聖女がマファルダストと同行し、南の森に向かったのは……全てはこの警告の為では無かったのか! その思いを汲み取ることもできず、ケーヒルは自分の愚かさを嘆く。

 

「私はどこまで愚かなのだ……殿下……」

 

 歯を食いしばるケーヒルの向かう先に大通りが見えて来た。今は最短距離を抜ける為、路地裏をギリギリの速度で走っていた。もう目的地は近く、大通りから全体を把握した方が良いだろう。

 

 ケーヒルはそう判断し、馬に鞭を入れる。

 

 そうして、見たくもない現実が迫って来たのだ。馬が二頭並んで走るのは厳しい路地裏から大通りを見ると、南から王城に向かう人の流れがあった。そして、それが何なのか皆に聞くまでも無かった。

 

 膨大な数の負傷者だ。何処かから外して来た扉と思われる上に意識のない騎士らしき男が横たわる。担架の替わりにした扉は赤く染まり、元の色も分からなくなっている。他にも両脇で肩を貸し、足をずるずると引き摺られながら運ばれていく者。背負われた若い騎士。意識を朦朧としながらも何とか前へと歩く人々。中には壁に寄りかかり、動かない者もいる。力尽きたのか、休んでいるのか……

 

 それに火傷を負ったもの達が多い。赤く爛れた皮膚をそのままにひたすら逃げ惑っている様だ。今は痛覚が麻痺してるだろうが、後に凄まじい激痛と戦う事になる。

 

 息を飲みながらもケーヒルは、馬から降りて大通りに飛び出した。

 

「殿下は……?」

 

 まだ先だが、瓦礫と化した城壁の残骸と、未だ燃え続ける火柱が見えた。絶望感が襲って来るが、ケーヒルは自らの脚に喝を入れ前を向く。

 

「ケーヒル副団長……」

 

 背後からの自分を呼ぶ声にケーヒルは振り返った。そして見た事のあるその顔は疲労の色が濃い。

 

「君は……確かリンド、無事だったか」

 

 リンド達マファルダストはケーヒルの要請を請け、アストの隊へ合流していた。リンドが無事なら殿下も……

 

「北と西は? 早く援軍を……」

 

 リンドはフェイに頼まれ、援軍の要請に走っていた。ケーヒルは最初疲労の色と思ったが、様子がおかしいともう一度リンドを見た。

 

 疲労の色ではない……絶望と恐怖、そして諦観。

 

「援軍は直ぐに来る。何があった?殿下は?」

 

「全軍を……リンスフィアの全軍を……」

 

「リンド! しっかりしろ! 何があったのか説明するんだ!」

 

 ケーヒルの大声に周囲の皆も顔を向けるが、構う余裕など無かった。 チラリと見た後は、王城に向かい足を前に動かし始める。

 

 肩を掴まれ揺らされたリンドは、漸くその目の焦点をケーヒルに合わせた。

 

「魔獣が……次々と……地中から現れて……一瞬で大群に……まるで自殺する様に城壁にぶつかって来て、崩れるのも……簡単に」

 

 ポツポツと話す言葉に要領は得ないが、最悪の状況である事は分かる。奴等は組織的に、戦略的にリンスフィアを襲っているのだ。

 

「殿下は!? ご無事なのか!?」

 

「わかりません……崩れた城壁の上で指揮を取っていたのは見ましたが、その後は……身体を燃やしながら突っ込んで来た魔獣が燃える水に……爆発して……」

 

「くっ……案内出来るか?」

 

「早く援軍を……南は魔獣で一面が真っ赤です。数は何千も、もっといるかも……負傷者も沢山……あんなの、どうして……」

 

「君は避難しろ! 流れに任せて走るんだ! さあ、行け!」

 

 新兵がよくなる恐慌状態だ。こうなるとまともに戦うなど不可能だし、もしかしたらもう剣を握る事すら出来ないかもしれない。背中を押されたリンドはフラフラと人の流れに飲まれていった。

 

「リンドも南で魔獣を見たのに……あれ程に……」

 

 ケーヒルから見ても剣の才能に溢れ、精神も強いと感心していた。そのリンドが恐怖に飲まれるなど、どれ程の戦況か。

 

 西の隊に指示はしていないが、あの大隊長なら的確な行動を取るだろう。とにかく今は殿下の無事を確認しなくては……ケーヒルは人の流れに逆らい、南へと足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「城壁が……」

 

 アスティアはカズキの背中に抱き着いたあと、その先の景色に目を奪われる。カズキをベランダから部屋に戻さないと駄目なのに、それすらも思考の外へと消えていった。

 

 直ぐに走り寄り、側に来たクインとエリも直ぐに動けなくなる。崩れた城壁も立ち上がる火柱も恐ろしいが、何よりその先……普段なら美しい緑の平原が見える其処には、赤く蠢く怪物が埋め尽していた。

 

「あれは……魔獣? あの全てが?」

 

 エリは震える声で言葉を絞り出す。全身も震えて、その場に座り込みそうになった。

 

「エリ、しっかりしなさい。今はカズキを……」

 

 クインはカズキが意識を奪われて、それこそベランダから飛び降りるのではと気を張っていた。ピクリとも動かないカズキは、両手を手摺りに乗せたまま先を眺めているのだ。遠いが、怪我人が目に入ったのかもしれない。エリも何とか正気を保ち、カズキを見る。

 

 アスティアはカズキの前へ無理矢理回り込み、まるで抱き付く様にする。両手でカズキの頬を挟み、何とか意識をこちらに向けようとした。

 

「カズキ! お願い、しっかりして! 私を見るのよ!」

 

 しかしカズキはまるで魂魄が無くなった様子で、明らかに刻印の影響を受けている様だった。その瞳はアスティアに向いているのに、まるで別の世界を見ていると感じる。このままでは、カズキは本当に戦場に向かってしまうかもしれない。アスティアは恐怖に駆られ、思わずカズキの頭を胸に抱きしめて両腕で包む。

 

「お願い……カズキ、貴女は私の大事な妹……心から愛しているのよ。 私を置いて行かないで……お願いよ……」

 

 カズキが消えてしまう恐怖はあの時で十分だ。もう放したりしない。堅く誓ったアスティアは涙を流し、更に力を込めてカズキを抱き寄せた。

 

 側から見ていたクインは気付く。カズキが身動ぎするのを。それはアスティアを拒否する様なものでは無く、まるで意識を取り戻したようで……何故かクインは希望を想った。

 

「アスティア様……カズキが……」

 

 カズキがアスティアの背中をポンポンと叩く。アストがアスティアにする様に、カーディルやアスが我が子をあやす様に、それは慈愛を感じさせた。

 

 ゆっくりとアスティアの胸から顔を起こしたカズキの目には、誰が見ても明らかな強い意志が感じられたのだ。

 

 そう、聖女は自らの意思を取り戻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキはあの時に似た白い世界に居た。

 

 見渡しても……周囲は真っ白で距離感や上下すら曖昧になる。なのに不思議な安心感と、何処か懐かしい気持ちが浮かんだりもした。

 

 ついさっき見えた惨状は間違いなく自分の心に影響したと分かった。今までと同じ、自分なのに自分では無くなる……まるで意識だけ離れてしまったと思ったのだ。

 

 大勢が大怪我を負い、叫んだり呻いたりするのを見た。そしてそれよりも多く、人が死んだのも理解する。地獄が現出し、赤い化け物はまるで鬼だ。

 

 行かなくては……早く助けないと……人が苦しんでいる、泣いている。人の涙など見たくはない。

 

 その瞬間、白い世界に飛んでいた。

 

「助けて……」

「痛い……」

「どうして」

「炎が、熱い……」

「母さん……」

 

「「「聖女様」」」

 

 全員が救いを求めている。この世界では言葉は何故か伝わり、その意味を理解出来る。あの森で起きた様に、フラフラとそれぞれの声の元へと近付いて行く。

 

 誰もが顔を伏せていたり反対を向いていて、その表情を窺い知れない。なのに皆の声が響くのだ。それは空気を震わせる音では無く、別の何かなのだろう。

 

 皆が口々に「聖女」へ救いを求めている様だ。

 

 カズキは首を傾げる。

 

 聖女とは物語などで描かれる女性の事だろうか? 殆どが慈愛と笑顔に溢れ、優しくて、全ての人の母である様な、そんな人の筈だ。

 

 そして直ぐに思い当たる。

 

 自分が聖女だと勘違いされていると。確かに人の怪我を癒す力は、如何にも聖女らしい。だが自分は優しくも無いし、慈愛や笑顔とは遠い存在だ。ましてや母など……母親の存在すら理解出来ない自分が聖女? 余りに馬鹿らしい勘違いに違うと叫びたいが、この世界でも声は出せない。

 

「本当に?」

 

 懐かしい声がカズキの耳に届く。早く顔を見たくて、あの黄金色の瞳に自分を映したくて、急いで振り返った。

 

 ロザリー!!

 

 カズキの唇から言葉は紡がれなかったが、右手を伸ばしてロザリーに触れようとした。だがやはり、どんなに足掻いても近付く事が出来ない。

 

 ロザリーは哀しげに微笑み、それ以上来ては駄目と手を上げた。突き放す様な仕草にカズキは泣きたくなる。

 

 どうして! ロザリーだけが自分を暖かく包んでくれた人なのに……もう、現実の世界になんて帰りたくは無い。この世界でずっと……

 

「馬鹿な事を思うんじゃないよ。私だけ? アンタは何も判っちゃない。今なら分かるよ、アンタが大変な人生を歩んで来たと。哀しい事だけど、過去は変えられない。私の愛するフィオナも、ルーも、その死から逃がれられないから」

 

 過去なんてどうでもいい……只、辛いだけ。

 

「なら、私との出会いも過去の事だね。もうアンタを抱き締める事も、一緒に酒を飲む事も出来ないんだよ? 人は弱い、哀しい程に。だから肩を寄せ合って生きて行くのさ。アンタは本当に一人なのかい?」

 

 そんな事……昔からずっと一人だった!

 

「耳を澄ますの。ほら、聞こえるでしょう?」

 

 何を……

 

 

 

 お願い……

 

 お願い……

 

 カズキ、貴女は私の大事な妹……

 

 心から愛しているのよ。 私を置いて行かないで……お願いよ

 

 お願いよ……

 

 お願い……

 

 

 無かった身体の感覚を感じた。誰かに抱き締められて、耳元で自分に囁いている。 

 

「ね?」

 

 妹?

 

「ははは! しょうがないじゃないか! カズキ、アンタは誰が見ても可愛いらしい女の子さ! その子の名はアスティア、カズキの新しい家族だよ!」

 

 家族……?

 

「そうさ! カズキ、周りを見てご覧……貴女は一人じゃない。世界の救済なんて私には分からないけど、貴女は聖女なのさ。でも、一人の女の子として生きたっていい。誰も咎めたりしない、私もね」

 

 ロザリーは愛おしい娘に生気が戻るのを見て、嬉しくて……少し哀しかった。

 

「行くのかい?」

 

 分からない……でもやりたい事がある。

 

「なら……貴女の道を行きなさい。私の娘、カズキ。愛しているわ」

 

 そうして白い世界は新たな白に塗り潰されて、カズキの意識は遠のいていった。 最後に見えたのはロザリーが哀しそうに微笑む姿だった。

 

 

 

 

 

 

 



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66.聖女の歩む道⑤

 

 

 

 

 

「カズキ……?」

 

 背中を優しく叩かれたアスティアは、腕の力を抜いてカズキを解放した。見れば先程まで刻印に縛られていたカズキは消え、何時もの瞳がアスティアを捉えている。

 

「戻った、の?」

 

 エリも少しだけ安心して呟く。

 

 ゆっくりとアスティアの胸から体を起こし、もう一度ベランダの縁に立ったのは普段のカズキだった。

 

「刻印の力を振り切ったの?」

 

 カズキは城下の凄惨な状況を目に収めている筈なのに、ふらふらと歩き出す事も無い。実際はカズキの力だけで戻った訳では無いが、あの白い世界を知らない者にはそう見えないだろう。だから隣から心配そうに見ているアスティアの名前をカズキが理解した事も知らない。

 

 カズキは再びアスティアの前に立ち、()()()()()()()

 

「あっ……」

 

 アスティアは今の大変な状況も忘れ、頬が赤らんだのを自覚する。その微笑みは僅かだったが、アスティアには宝物の様に思えたのだ。クイン達二人にはその微笑みは見えて無かったが、次のカズキの行動に驚かされた。

 

 アスティアの瞳から溢れかけた涙の滴を折り畳んだ人差し指で優しく拭った。その仕草はアストがアスティアに……まるで兄が妹へする様で、優しい愛を感じられたのだ。

 

「カズキが……あんな……」

 

 クインやエリからは二人が向かい合い、寄り添う姿が見えている。背後には燃え盛る炎の柱があり、崩れていく城壁すらあるのに……二人はまるで絵画の様で、現実を忘れさせる美しさを空間に映していた。

 

 何かが変わった……変化したのを感じる。そうクインは思い、それは直ぐ現実になった。

 

 そうしてアスティアから離れると、ベランダから聖女の間へと歩き出した。その歩みはしっかりとしていて、力強さを疑う事もない。

 

 部屋の奥、ベランダから離れた場所にカズキは戸惑う事もなく進み、ドアを開く。程なくしてカズキは戻って来た。

 

「あれは……森人の服?」

 

 アスティア、クインとエリも聖女の間に戻り、カズキの一挙手一投足を観察するしかない。カズキが抱えて戻った両手の中は、深い緑色をした服だった。マファルダストとの旅路で与えられた服で、ロザリーやフェイも似た様な装備をしていた。

 

「……行くのね……」

 

 アスティアは思いもしない言葉が自分から漏れ、同時に驚いて口を押さえる。だが言葉にした事で、それが間違いない事だと確信してしまう。

 

 カズキは夜着を両肩からスルリと落とし、下着姿になった。薄い水色の下着は、カズキの小さなお尻と胸の膨らみしか隠しておらず刻印も顕になる。背中から見えないのは癒しと慈愛の刻印だけ。お尻に刻まれた憎しみの鎖も少しだけ姿を見せていた。3人は声を上げる事も出来ずに森人の服を着込むカズキを眺めるしかない。

 

 森人の服に着替えた後は暖炉に向かう。もう素肌は隠れて、黒髪だけが背中へと流されていた。

 

 カズキは僅かに背伸びをして、暖炉の上に飾られた物を手に取る。黒い皮製の鞘に収められたナイフは、カズキの瞳に似た翡翠色の筈だ。カズキの細い腰には不釣り合いな太い皮ベルトにナイフを固定すると、不器用に後髪を纏めようとする。

 

「私がやって上げる」

 

 アスティアは自分の行動か分からなかった。カズキは間違いなく戦場に行こうとしているのに……自分の側から離れて行こうとしているのに。なのにアスティアの手は止まらないのだ。大好きなカズキの黒髪は直ぐに纏まって、銀月と星の髪飾りが彩る。

 

 最後にやはりマファルダストとの旅路で手に入れた皮靴で足を包むと、カズキはアスティア達に振り向いた。

 

 僅かにコクリと頭を振ると、そのまま聖女の間を出て行こうとしたのだ。

 

「カズキ! ま、待って……」

 

 アスティアはカズキの手を取り、何かを言おうとした。だが、言葉を紡がずカズキを見詰めるしか出来ない。カズキはベランダの時と同じように手をポンポンと叩き、アスティアを引き離した。やはりその目には優しく強い光が浮かんでいる。

 

「……どうか無事で……お願い……」

 

 カズキは最後にアスティアの頭を撫でて、聖女の間の扉を開く。クインやエリにも視線を送り、まるで行ってきますと言っている様だった。

 

 結局、誰一人カズキを止める事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うっ……」

 

 アストは鈍い痛みと身体を覆う重みに思わず呻く。どれくらい意識を失っていたのか、暫くはボンヤリする頭が動いてはくれなかった。

 

「ここは……」

 

 熱と光を右側から感じ、アストはそちらを見る。

 

「炎……何が……」

 

 覚醒したアストは自分の置かれた状況が少しずつ分かってきた。騎士が二人折り重なる事でアストに重みを伝えている。二人とも息は無くアストを危険から庇ったのは明らかだ。

 

 熱を伝える炎は城壁の内側に保管していた燃える水だろう。

 

 ゆっくりと二人の騎士の身体から抜け出し、アストは瓦礫を頼りに立ち上がった。

 

「そうか……魔獣が城壁を破って……燃えた身体のまま突っ込んできたのか……」

 

 未だ崩れた城壁の上に居たが、周囲は一部を除き瓦礫に埋もれて見渡す事が出来ない。しかし、声は聞こえるのだから全滅などではないだろう。アストが立つ場所からはリンスフィアの街並みは見えないが、平原は見渡せた。

 

「何故だ? 魔獣は動いてない……?」

 

 弓矢の届かない範囲まで後退していて城壁まで距離があった。蠢く魔獣は奴等が生きていると証明しているのに……

 

「炎が消えるのを待っているのか……」

 

 それしか考えられない。 魔獣はやはり知能を持つ異形だった。城壁を破壊しなくても、時間が解決すると理解しているのだろう。

 

 魔獣はみるみる数を増やす……平原の何箇所も地中から魔獣が溢れて来たのをアストは見た。リンスフィアからは遠かったが間違いない。そして、あっと言う間に平原を埋め尽くした魔獣の群れは一本の矢となって城壁に殺到したのだ。 

 

 何をと思った時はもう遅かった。どれだけ矢を打ち込もうと燃える水を燃やそうと、怯む事すらしない。そして信じられない恐怖の光景を見る事になる。

 

 先端に居た最初の魔獣は我が身を顧みずに城壁へと衝突し、絶命した。余りに呆気ない魔獣の死に様は、その一度だけではない。それを次々と続け、アスト達が対策を講じる事もできないまま城壁は崩れたのだ。

 

 あれだけの異常な行動を取ったのに、今は冷静に時を待っている。その余りの落差にアストは怖気が走るのを止められなかった。

 

「恐ろしい奴等だ……そうまでして人を殺したいのか……」

 

 アストは自分を庇ってくれた騎士に祈りを捧げ、瓦礫の山を登る事を決意した。今は騎士をヴァルハラに送るよりリンスフィアを守らなければ……それこそ騎士の望みなのだから。

 

「……くっ、挫いたか……」

 

 右足の痛みは今頃になって響き、アストを苛んだ。それでもアストは止まらずに瓦礫に向かう。まるで壁と思える瓦礫の山が立ちはだかるが、アストには関係は無かった。それに、この状況では救出もままならないし、二次被害だって想定される。

 

 それでも……まだ戦っている者がいるのだ、自分だけ休んでいる事など出来る訳が無い。

 

 アストは右手を瓦礫にかけて、少しずつ登り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「燃える水の備蓄を移動するんだ!」

 

「お前! 殿下を見たか!?」

 

「崩れた城壁辺りに……最後の瞬間まで指揮を……」

 

「くそ……俺が行く! 何人かついて来てくれ!」

 

「馬鹿野郎! あれが見えないのか! 直ぐにでも崩れるぞ。これ以上負傷者を出す訳にいかないんだ!!」

 

「殿下を放っておけというのか!?」

 

「分かっている! だが……」

 

 騎士達は混乱の中にいて、誰もが的確な指示を待っていた。アストを始め、ケーヒルやジョシュ、大隊長達は指揮能力に優れていたため、頼りきりだったのを皆が自覚するしかなかった。

 

 それでも……生き残っていた中隊長数人は、それぞれの騎士や森人と懸命に動いていた。平原を見れば絶望感しか湧かないが、それでも出来る事をしなけれは狂いそうになる。

 

「負傷者は城へ! 北と西から増援は……伝令は?」

 

「北からは既に来たぞ。北は魔獣を駆逐し、再編成が終え次第向かうそうだ。ジョシュ様なら早いだろう。 西はまだだが……」

 

「負傷者の数は?」

 

「はっきりとは……確認中ですが、数百は……」

 

「戦死者の数など数えたくもない……今は対策を急がないと……」

 

「おい!見ろ!」

 

「あれは……ケーヒル副団長か!」

 

 英雄の一人、ケーヒルの姿を認めた皆に活力が戻る。ケーヒルは実力、経験、胆力、全てにおいてリンディア最高の騎士だ。アストも将来はその域に達するだろうが、今はまだその背を追っていた。

 

「副団長!」

 

 ケーヒルも隊長格が集まる場所を見つけ、急いで駆け寄った。そこは崩れ落ちた城壁から少しだけ離れた広場だ。燃える水が尽きる前に次策を練る必要があったし、場所は限られていた。

 

「お前達! 無事だったか……殿下は?」

 

 ケーヒルは何人もの騎士達が組織的に動いているのが分かり、少しだけ安堵した。だが、アストの姿がない事に不安が募り始める。

 

「あちらの崩れた城壁の上で指揮を取られていました。その後は不明です……確認に行きたくてもあの状況では……何か手はないかと話し合っていました」

 

「不明だと……あの瓦礫に……」

 

 思わず最悪の事態を考える。否定したくとも、目の前に散らばる瓦礫を見れば絶望感が湧き上がるのだ。騎士達が救出に向かうのを戸惑うのは当然だった。二次被害が起きるだろうし、新たに崩れてそこから魔獣が殺到するかもしれないのだから。

 

「副団長、応援は? 外は魔獣で溢れています。炎の勢いが無くなれば奴等は再び……防御を固めないと」

 

「……西の殲滅は終えた。間も無く来るだろう……現在の状況は?」

 

 ケーヒルは感情を押し殺し、指揮を受け継ぐ。アストの為にもリンスフィアを守らなければ……そうやってケーヒルは無理矢理に意識を変えた。

 

「どうかご無事で……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ様……?」

 

 聖女の間の扉が開きカズキが姿を現したのをノルデは怪訝に思った。何時もの可愛らしい服は形を潜め、森人が着るような厚手の上下に揃えていたからだ。皮靴もやはり聖女には不似合いに感じたし、黒髪も後ろで纏められている。

 

 キョロキョロと左右を見渡す姿を見れば、ナイフすら装備しているのが分かった。

 

 アストからはカズキを暴走させない様に指示があったが、ノルデは当然そのつもりだった。聖女を命に替えても守ると決めたのは、同時に誓いでもある。

 

 何かあったのかと駆け寄れば、部屋からアスティア達も現れた。焦った雰囲気は無いと一先ずは安心したノルデだったが、違和感が解消した訳ではない。

 

「騎士ノルデ」

 

「はっ!」

 

 アスティアの声には不安が含んでいたし、その碧眼は少しだけ潤んでいる。だが王女として生まれ育った強い意思の光は消えてはいない。

 

「カズキが行きたい場所に連れて行って下さい。おそらく……前線、崩れた城壁辺りでしょう。違うならそれでも構いません」

 

「前線ですか? しかし、危険です。カズキ様を連れて行くなど、アスト様からもお叱りを受けるのでは……」

 

 ノルデは聖女の力を良く知っているつもりだが、それでも限界があると思っている。あの戦場は一人や二人の負傷者では済まないのは周知の事実だろう。

 

「承知しています。ですが、これは聖女として決めた事の様ですから……自らの意思で歩む聖女を、誰が止められるのでしょう? 私は……神々の御加護を信じます」

 

 少し俯いたアスティアは直ぐに顔を上げ、ノルデを見詰めた。

 

「カズキ様が自ら……」

 

「騎士ノルデ……いえ、騎士に限らず皆の命は大切です。それでも……どうかお願いします。聖女を、カズキを守って下さいますか?」

 

 アスティアの言葉を聞いたノルデは身体から噴き上がる熱を感じた。そして経験した事のない強い使命感を覚えたのだ。震える身体からは無限とも思える力が湧き立ち、やがて震えすら止まった。

 

「分かりました……必ずやカズキ様が望む場所までお連れします。騎士の誇りにかけて、カズキ様を守ると誓いましょう」

 

「貴方もご無事で……宜しく頼みます」

 

 ノルデの方へカズキを促し、アスティアはカズキに微笑んだ。

 

「カズキ……彼に連れて行って貰いなさい。貴女の思うままに、道を真っ直ぐに進むのよ」

 

 愛しているわ……アスティアはそう言うと、カズキの姿を目に焼き付けた。聖女が失われるなら、このリンディアも終焉を迎えるだろう。カズキがもし死んだら、神々の御許まで共に行きたい……

 

 カズキの姿が見えなくなった後も、アスティアは其処から暫く動かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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67.聖女の歩む道⑥

 

 

 

 

 

 燃える水の爆発は炎の柱を創り出し、大勢の騎士や森人を巻き込んだ。どれ程の犠牲が出たか、生き残った者は考える事を放棄するしかない。更にそれだけに留まらず、一部破壊していた城壁を更に崩落させたのだ。

 

 崩れてしまった城壁の上には、魔獣の群れへ矢を放っていた騎士達がいた。その中にはリンディアの王子で騎士団長のアストも含まれており、それを知る皆に暗い絶望感を覚えさせる。

 

 皮肉にも燃え上がった火柱は魔獣の侵入を拒み、人へ僅かな時間を与えているが……それは希望なのか。残った騎士はケーヒルの元に集まり、魔獣の再侵攻に備えて動き始めていた。

 

 

 

 

 城壁の上を崩落した方向へ走る二人の姿があった。

 

 深い緑色をした服、背中に掛けた弓矢、肩掛けの縄、小剣とナイフを数本ベルトへ挿した姿は間違いなく森人だろう。

 

 フェイは見たのだ。

 

 爆発した燃える水の脅威からアストを庇った二人の騎士を。離れてはいたが、森で鍛えた眼は裏切ったりしない。崩れゆく城壁に呑まれたが、爆発の直撃を受けていないなら生存の可能性は十分あるだろう。

 

「このままでは士気が保たない。副団長は来たが殿下の存在は大きい。分かるな?ドルズス」

 

 上から見ても混乱は治まっていない。ケーヒルが来た事で多少の規律は戻っただろうが、人の心には拠り所が必要なのだ。ましてや絶望と隣り合わせなら尚更だ。

 

「ああ、分かってるよ。間違いなく見たんだな?」

 

 二人は脚を止めずに、しかしはっきりと意思疎通を続けていた。

 

「騎士が二人、殿下を庇った。飛び散る破片からは守られた筈だ。殿下も鍛えられた騎士、簡単には死なんよ。だが崩落した瓦礫から抜け出るのは簡単じゃない。それに、五体満足とも限らないからな」

 

 フェイはアストが生きていると信じて向かうと決めた。崩れる瓦礫に呑まれる二次被害の危険性はあるが、鎧を着込んだ騎士には無理だろう。身軽で装備もある森人が適任なのだ。

 

 アストを救出し、士気を高めなければ僅かな勝利の可能性すら失ってしまう。命を賭ける価値は充分にあった。

 

「ドルズス、縄を」

 

 見下ろせば抉れた城壁と瓦礫の山が見える。歪に積み重なった瓦礫は視界を遮り、死角も多くあるのは間違いない。大声で確認したいが僅かな振動も危険だろうし、何より魔獣を刺激したくは無かった。

 

 救出するなら魔獣が侵攻を始める前でなければ。

 

「気をつけろよ? 俺はお前を抱えて引上げるつもりなんて無いからな。魔獣や森じゃなく、瓦礫に埋もれて死んじまう情け無い奴に同情はしないぞ」

 

 ドルズスの捻くれた喝に苦笑を浮かべながらフェイは慎重に身体を降ろしていった。先程まで悪態をついていたドルズスも不安そうに縄を捌いている。

 

 フェイは瓦礫を崩さないよう慎重に足場を確認する。救助に向かう自分が要救助者になるなど笑い話にもならないし、実際笑えない。

 

「先ずはあそこに降りるか……」

 

 上を仰ぎ見ればドルズスどころか、降り始めた場所すら視界から消えていた。比較的に安定してそうな場所を見つけたフェイは、ゆっくりと其処へ降りたった。

 

 幾つか視界が開けたところもあり、フェイは慎重に視線を配る。

 

 予想はしていたが、騎士や少数ではあるが森人の凄惨な遺骸が目につく。爆発に巻き込まれた者、飛び交った破片の直撃を喰らった者、崩落した瓦礫に半ば埋まった者。

 

 見えない瓦礫の下にはもっと多くの人が埋まっているだろう。 だが、きっと生き残っているはず。

 

「たったあれだけの時間で……魔獣め、奴等は一体……なんなんだ……」

 

 フェイも魔獣の自殺染みた突撃を目撃したのだ。まさか壁に死ぬ勢いでぶつかって来るなど想像すらしてなかった。指揮系統や階級などが魔獣にはある、或いは群体として一個の生物の様に動いているのか……

 

 パラパラ……

 

 思考の海を泳いでいたが耳が僅かな物音を捉えて、フェイを現実へと引き戻した。

 

「まだかなり下だが……真下辺りか」

 

 やはり生存者がいる……フェイは縄を再び握り、崖同然の斜面に体を預けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「確認しました。やはり魔獣は炎が火が鎮まるのを待っている様です。 矢の届かないギリギリに留まり、其処からは動いていません」

 

 ケーヒルはその報告を聞き、安堵と恐怖が同時に湧き起こるのを感じた。

 

 間違いなく何らかの意思が働き、奴等は行動を決めているのだ。秩序無く攻め入られるのも対処に困っただろうが、知恵を以って戦う化け物ほど厄介なものはない。カズキが森で其れを報せてなければ、より悲惨な結果を招いたに違いなかった。

 

「燃える水を注ぎ足しますか?」

 

「……いや、それではジリ貧だ。苦しいが何としても撃退しなければ」

 

「しかし我等の数が足りません。ジョシュ様等が合流したとしても、奴等と戦うには半分にも満たないのです」

 

「分かっている……負傷者は全員後退したか?」

 

「先程の者達で最後かと。西からの隊は合流しましたが……それでも……」

 

 ケーヒルの信頼通り、西の部隊は素早く隊を整えて合流していた。しかし、魔獣の数に対して余りに足りないのだ。死傷者全員を足して、やっと戦える……それ程の差があった。

 

「森人はどうだ?」

 

「俺達も対して変わりはありません。矢は足りてますが、射手が減りましたから……さっきのアレが効きました」

 

 アイトールは森人を代表して軍議に参加していた。本来ならフェイに頼みたいところだったが、本人がやる事があると辞退したのだ。

 

「そうか……よし、確認しよう。今の我々では正面切って戦いを挑むのは無謀だ。そもそも騎士も森人も足りないし、奴等に喰いつく事も難しいだろう。ならば誘い込んで、少しずつ数を削るしかない。幸い奴等の侵攻の時も場所も分かっている。外円内に誘い込み、円陣で囲むんだ」

 

「副団長、しかしどうやって?」

 

「あくまで、これ以上城壁が崩されない事が条件だが……一定量誘ったら再び火を放ち分断。火が収まるまでに撃破し、次を待つ。単純だがそれを繰り返すんだ。苦しい持久戦だが、城壁の上からの援護がそれなら可能だろう。無論、我等騎士が餌になる……美味い餌でなければな」

 

 城壁側に興味を持たれない様に、上手く誘わなければならない。

 

「森人の皆も危険は承知で登って貰うしかない。頼めるか?」

 

 城壁を指差し、ケーヒルはアイトールを見た。

 

「危険など……全員が承知の上ですよ。我等は騎士の様に戦う事など出来ません。援護程度では情け無い限りですが……」

 

「何を言う。それこそ騎士は森人の様に戦う事も出来ないし、弓など放り投げて任せるしかないぞ? そうだろう?」

 

 周囲に居た騎士もウンウンと頷き、偽りのない尊敬の眼差しを送った。

 

「まさに。アレを見せられては我等の弓など児戯に等しい。ならば騎士に出来ることを愚直に行うしかありますまい」

 

 お互いを称え合い、これからの戦いに意気を高める。

 

「よし、皆配置についてくれ。分断の時は合図を送るから容赦無く火を放ってくれていい。森人に興味が行かない様、適度な援護を頼む」

 

「「おう!!」」

 

 散り散りになった皆を見送ったケーヒルは、無理矢理に意識から外していた事をどうしても考えてしまう。

 

「殿下……何処に……」

 

 本当なら鎧も剣も放り出して、瓦礫の山に向かいたい。もしアストがいないなら、この戦いに意味などあるのか……

 

 そうして崩れた城壁を見上げたケーヒルに、不思議な光景が飛び込んできた。

 

「アレは……ドルズスか?」

 

 崩れたギリギリのところでドルズスが何かをしている。見れば垂れ下がった縄を捌いている様だった。

 

 ドルズスの捌きとは別に縄が波打っているのを見れば、その先に誰かがいるのは明らかだろう。

 

「フェイか……」

 

 先程の軍議に居なかったフェイを怪訝に思っていたが、別の目的があったのだ。そしてその目的は間違いなくアストの救出だ。自らの命が危険に晒されるのも構わず、フェイとドルズスは戦っている。自分も呆けている場合では無い。

 

「殿下が戻られた時、笑われてしまうな」

 

 少しずつ消えていく炎を睨み、自分に出来る事に集中すればいい。誰もが一人で戦っている訳ではないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれは……」

 

 慎重に降りてきたフェイは、蹲る一人の男の姿を見つけた。鎧は脱いだのか、膝の上に剣を抱えている。

 

 何度も登ろうとしたのか、あちこちが泥と埃に塗れていた。補助も無くこの瓦礫の山を登るなど不可能なのに、彼は諦められないのだ。息を整えた彼は再び立ち上がった。

 

「ああ……」

 

 フェイは息を吐いた。

 

 泥に染まった髪は間違いない白銀色で、青い瞳に諦観の色はない。強い意志、戦う意気、民を思う心。

 

「殿下……」

 

 生きていた。リンディアの王子が、我等の希望が……

 

「フェイ……か……?」

 

「殿下、そのままで。直ぐに引上げます。そこから動かない様に」

 

 足を挫いたのか、右足を引きずっている。あれでは登るなど不可能と言っていい。登坂は見た目より遥かに困難な作業だ。

 

「殿下、お怪我を……一度上がります。直ぐに戻りますから、無茶をしないで下さい。良いですね?」

 

「ああ、動きたくても動けないさ。大人しくしていよう。皆は……大丈夫か?」

 

「先程ケーヒル副団長が合流しました。今は再編成を急いでいます」

 

 多くの死傷者が出ているが、今は伝える必要は無いとフェイは会話を打ち切った。

 

「では……直ぐに」

 

「ああ、頼む」

 

 絶望の中に僅かな希望が光り、フェイの顔に微笑が浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フェイ……!」

 

 ドルズスは下からフェイが登ってくる姿を捉えて小さく叫ぶ。明確な意思を持って這い上がって来るフェイに、ドルズスは希望を感じた。

 

 最後の瓦礫に手を掛け、フェイは身軽に身体を引き上げた。

 

「見つけたぞ、殿下は生きておられる。だが、負傷していて自力で上がるのは無理だ。上から引き上げるぞ。ジャービエルを呼べ」

 

 森人に似つかわしく無い巨体と怪力は、間違い無く役に立つだろう。

 

「分かった。待ってろ」

 

 ドルズスは体を翻し、森人が固まる場所へと駆け出していった。

 

 フェイは城壁から下を見下ろしケーヒルの姿を探した。だが、炎が消えるまで時間が無いのだろう。皆が円陣を組み始め、慌ただしく動いている。

 

「引き上げてここから声を上げて貰うか……士気も高まるだろう」

 

 そう決めたフェイは、アストを引き上げる為に準備を始めた。戦闘は直ぐに再開する。少しでも早い方がいい。

 

 見ればドルズスがジャービエルを引き連れて此方へ向かうのが分かった。他にも数人付いて来ている。あれだけ居れば引き上げるのも容易だ。

 

「よし……行くか」

 

 戦いはこれから、勝利は薄氷の上だ。それでも負ける訳にはいかない。フェイは視線を東に見える丘に向けた。あの頂きには、ロザリーとルーやフィオナが眠っている。魔獣なぞにその眠りを妨げたりはさせない。

 

 そして、カズキも哀しむだろう。唯一残されたロザリーの娘を失うなど、フェイには断じて許せはしない。

 

 炎は殆どが立ち消え、平原に群れる魔獣が動き始めた。ゆっくりと侵攻する姿は余裕の現れか、まるで軍隊の行進だ。

 

「姐さん、皆を見守ってくれ……」

 

 フェイはドルズス達が到着するのを確認すると、スルスルと瓦礫の崖を降りていった。

 

 

 

 

 



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68.聖女の歩む道⑦

聖女、大活躍


 

 

 

 聖女通りーーー

 

 最近そう呼ばれ始めた通りには、その名に似つかわしくない悲鳴や慟哭が溢れていた。

 

 

 元々は違う名前だったし、正式に変更した訳でもない。少し前にそうなる出来事があったのだ。

 

 崩れた材木が側にいた子供の上に落ち、不運なその子は命を失う運命だと思われた。しかし何処からか現れた聖女は、優しい光と共に癒しを与えたのだ。自らを傷付け、何かを要求する事もなく、助けたのは当然だと佇む少女はどこまでも尊かった。

 

 それを目の当たりにした民衆が、その場所を口々に呼ぶのだ。そうして名付けられた通りの名が聖女通り。今や常識となり、所縁のパン屋などは面白い程に繁盛した。

 

 だが……賑やかで笑顔が溢れた通りは様相を大きく変えていた。唯一つ、以前と変わらないのは、あの時と同じ少女が在る事か……

 

 

 戦いに慣れた騎士や森人さえも目を背けたくなる、そんなリンスフィアの街角に一人の少女が立っている。王城に背を向け、つい先程歩いて来たのだ。少女の背後に連なるその道は、真っ直ぐ王城へと向かっていた。

 

 佇む少女の目蓋は閉じられ、右手には長めのナイフが握られていたが……そのナイフも黒い鞘へと収まって、少女の腰に巻かれた太い革帯の元へと帰った。

 

 誰もが我を忘れて見入っていた。静謐が訪れ、その中心に居る少女は両手を掲げる。まるで天に捧げる様に、祈る様に、その手から糸が流れ出て行く。

 

 次の瞬間、人々は息を呑む。ゴクリと唾を飲み込む音すら響いた。

 

 黒い糸が舞い踊るのを誰もが見ていた。ところがその糸達は、地面に落ちる事も、空に高く舞い上がる事もなかった。

 

 サラサラ、フワフワ、と。

 

 その黒い糸……聖女の黒髪は、空間に音も無く溶けていく。何本かは見守る民衆の掌へ落ちたが、それすらも僅かな光を放つと幻の様に消えていった。

 

 黒髪の放つ光は暖かく少しだけ眩しい。だがその光すらも、これから起こる奇跡の始まりでしかない。

 

 神々の加護を受け降臨した「黒神の聖女」は世界に唯一人……癒しと慈愛、聖女の刻印を刻まれた使徒ー--

 

 民衆は声を上げる事も出来ず、聖女のゆっくりと開かれていく瞳に見入るしかない。 その瞳は噂に聞こえた通り、とても美しい翡翠色をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 王城への道は混乱の一途を辿っていた。

 

 大半が騎士だが、森人も含まれた人の列は途切れる事は無い。火傷を負った騎士は朦朧とした意識を繋ぎ止め、ふらふらと足を前に出している。骨折した者も多いのか、腕が動かない者や足を引き摺る者が目立った。

 

 見かねた民衆が肩を貸したり担架を用意したりしているが、手が足りないのは明らかだ。暫く先に進めば治癒師達が救護している広場があったが、其処も半ば溢れている。それは命を賭けた戦場そのものだろう。

 

 

 

「もう少しだ! 頑張れ!」

「あの先だぞ!」

 

 肩を貸していた騎士に声を掛けた二人は、その騎士が呼吸を止めた事に気付いた。酷い無力感に襲われた二人の男は、騎士をゆっくりと壁に寄りかからせて溜息をつく。

 

「これじゃ、前線はどうなっているか……まともに魔獣を撃退出来るかも分からないな……」

 

 それはつまり……リンスフィアの、リンディアの滅亡を意味する。数百年前から今まで多くの国が森に消えて行ったが、遂にリンスフィアに最期が訪れたのだろうか。

 

 それは民衆の殆どが感じた事であり、何処か諦観すら漂う。

 

 もしかしたら、いつか、近い将来、そんな事は漠然と頭にあった。人は滅亡への道を歩んでいる……神々の声も最近は聞こえない。

 

「来る時は呆気ないな……俺は家族のところに帰るよ。最期くらいは一緒に……騎士団や森人には申し訳ないが……」

 

 逃げようにもリンスフィアの外に行き場は無い。テルチブラーノもセンも、付近の村々も滅んだ事は耳に届いていた。罪悪感を押し殺し、目の前に横たわる騎士に祈りを捧げようと男は目蓋を閉じた。しかしそれが深まる前に自分の肩がバシバシと叩かれ、祈りは中断される。

 

「おい、今祈りを……」

 

 不謹慎な友人の手を払った男は、それでも強く肩を叩かれては怒りが湧くのも仕方が無いだろう。

 

「いい加減に……!」

 

 怒りに任せて振り返った男は、友人の視線が自分に向いて無い事に怪訝な気持ちになる。思わずその先に視線を送った男は友人の奇行の意味を理解した。

 

 戦場と化していた広場はシンと鎮まり、誰もがある一点を見詰めている。数人の騎士を連れ立ったその姿は、たった一人の少女。華奢で小柄な身体、色気など無い森人の服、唯一女の子らしいのは髪を纏めた髪飾りか。

 

 後ろに纏めた黒髪を僅かに揺らしながら、無言で歩みを進めている。細かな表情すら見える距離まで広場に近づくと、足音すら無く少女は立ち止まった。

 

「聖女様……?」

 

 間違いない。ドレスも何もない衣装だが、誰もが知る特徴は隠されていない。

 

 

 

 背中まで伸ばされ、纏められた漆黒の艶やかな髪。

 

 まん丸で大きな瞳は宝石と見紛うばかりの翡翠色。

 

 少しだけ黄味がかった肌は僅かに赤く色付いている。

 

 殆どが隠されているだろう刻印も、首回りは露出して皆の目に映った。

 

 少女らしい可愛らしさなど無い姿なのに、その特徴的な美貌は隠せない。

 

 

「まさか、戦場に……?」

 

「慰問じゃないか?」

 

「癒しも何も、こんな状況じゃ……」

 

 

 何人かは聖女の癒しを知っていたが、負傷者の数も度合いも以前とは比べ物にならない。一人二人癒したところで、それ以上の怪我人が運ばれて来るのだ。

 

 救いを求めて良いのか、聖女の歩みを遮る訳にはいかないと道を開けた方が良いのか、誰もが口を閉ざした時だった。

 

 立ち止まって周囲を見渡していた聖女は、ゆっくりと腰の後ろからナイフを抜いた。ナイフは不思議な色をしていて、一度も使われてないかの様に翡翠色の光を放つ。

 

 その行動に皆が唖然とする中、聖女は目蓋を閉じる。全てが無言で行われた為、その意味を理解出来ない。祈りを捧げるとしても、ナイフなど必要ないのだから。

 

「何を……」

 

 誰かが呟いた疑問は、聖女が左手で後髪を掴んでグイと持ち上げた瞬間に消えた。おもむろに右手のナイフを髪に当てると横に滑らす。柔らかであろう髪は抵抗すら見せず、あっさりと切断された。

 

 少女とは言え女性の髪を切る姿に誰もが驚きを隠せなかった。あれ程長かった髪は肩辺りで切られて、乱れている。聖女の美しさは決して損なわれて無いが、それでも衝撃的な光景だった。

 

 切られた髪を左手に握り、右手のナイフは再び鞘へと収まった。躊躇ない動きに騎士も周囲の者も固まったままだ。髪飾りこそ残っているが、何処か少年の様な……不思議な印象を与える。

 

 黒髪の束を両手に持った聖女は、目蓋を閉じたまま持ち上げた。まるで捧げる様に……

 

 静かに開かれた掌から一本、また一本と滑り落ちていき……やがて風に吹かれてその全てが空に舞う。

 

「ああ……」

 

 美しい髪が地面に落ちていく様に、治癒師の一人が思わず吐息を漏らした。だが、地面に落ちて泥に汚れる筈の髪は、予想通りにはならなかったのだ。

 

「消えていく……白い光が……」

 

 聖女の髪は決して地面に落ちたりはしなかった。

 

 僅かな白い光を放つと空間に溶ける様に消えていく。数本は周囲の人々に届いて、壊れ物を扱う様に掌に受けた者もいた。しかしそれも目の前で光を放つと目に映らなくなった。

 

 まるで季節の変わり目に舞い散る花弁の様に、周囲はキラキラと白く輝き始める。

 

「何が起きて……」

 

 カチャ……

 

 肩を叩き叩かれた男達は、先程壁に寄り掛からせた騎士から物音を聞いた。

 

「えっ……?」

 

 見れば息を引き取ったと思った騎士が身動ぎしている。肩も上下してすぐに目蓋すら薄く開いた騎士に二人は驚きを隠せなかった。

 

「生き返ったのか……まさか、聖女様が?」

 

 周囲は先程の静けさが嘘の様に、あちこちで声が上がっていた。

 

「怪我が……」

「痛みが消えたぞ!」

「折れた腕が、腕が……」

「見てくれ! 火傷が……」

「信じられない……」

「助かったの、か?」

 

 多くの者が自分の身体を、半信半疑に動かしたり触ったりしている。にわかに動き始めた広場は同時にどうしようも無い現実を突き付けた。

 

 癒されたのは全員では無いのだ。横たわったまま動かない者も居るし、明らかに死んでいる者に変化は無かった。つまり、先程の騎士は僅かに命を繋いでいたのだろう。

 

「見ろ……」

 

 いつの間にか聖女は翡翠色の瞳に光を映し、ぴくりとも動かない森人に近付き膝をついた。そして、手を添えたのだ。

 

 森人の見開かれたままの目蓋をそっと閉じて眠りを与え、聖女は立ち上がって南を仰ぎ見た。癒しの事実すら無かったかの様に、スタスタと道を歩き出す。民衆を避けながら、ひたすらに南を目指して行くだけ……その行き先には魔獣の群れと戦場が待つのに。

 

 感謝も称賛も聖女は求めていない。それは彼女にとって、どうでもいい事なのだろう。見返りなど求めない慈愛と癒しは本当だったのだ……

 

 癒された者達に消えかかった熱が熾る。

 

 騎士や森人達は……一人、また一人と剣や弓を手に取って立ち上がった。それは数人の集まりとなり、直ぐに一群へと変化する。聖女の後ろには新たな軍団が形成されて、その数は数百を数えた。

 

「奇跡だ……神々は我等を見捨ててなどいなかったんだ……」

 

「聖女……」

 

「ああ、間違いない」

 

「黒神の聖女……慈愛と癒しを身に宿した……」

 

 誰もが去り行く聖女に祈り、僅かな希望を見出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カズキは不思議な感覚に包まれていた。

 

 ついさっき髪を切った事もその一つだ。ボンヤリと記憶に残る治癒の力に、あれ程の効果は無かった。周囲に居た人に触れる必要も無く、自らの血を求めもしなかった。

 

 やり方なんて誰も教えてはくれない。

 

 なのに……そうすれば良いと分かった。

 

 未だ治癒の力は残っている。この道に避難して来る者達を何度も助ける事が出来る程だ。何が自分に起きているのか、何故か人々の感情すら朧げに感じるのだ。

 

 錯覚? それとも妄想?

 

 でも一つだけ間違いのない気持ちがある。

 

 みんなを助けたい……

 

 子供だけじゃなく、苦しむ人を見たくない。

 

 涙も苦痛も、絶望に歪む顔なんて消えて無くなればいい。

 

 

 視線の先に行きたいと感じる場所がある。自分が聖女かどうかなんて分からないけれど、それを演じて欲しい人がいるなら構わない。 

 

 やっぱり不思議な感覚だ。

 

 あの先に自分を求めている人がいる。救いを? いや、違う。 

 

 会いたい、触れたい、抱き締めたい、抱き締めて欲しい。

 

 来ちゃ駄目だ、どうか逃げて欲しい、君だけでも……

 

 誰の叫びだろう? 勿論それは言葉では無い。けれど、そう感じるのだ。会いたいけれど来て欲しくない……そんな複雑な意味を纏う感情。

 

 他の人々と違い、救いを求めていない。

 

 この感情の波はなに?

 

 今まで経験した事が無い。アスティアからもロザリーからも感じない、別の何か。

 

 ただそれが知りたくて、カズキは迷う事無く歩みを進めた。ナイフで乱暴に切ったせいか、首周りが少しチクチクする。うざったくて、両手で後ろ髪を払った。

 

 僅かに残っていたのか再び白い光を放ち、それは空間に溶けていく。 その時カズキの手にあの髪飾りの感触が伝わって、ロザリーを想った。

 

 ロザリーは()()()

 

 待っている人がいる……

 

 家族?

 

 元の世界では望む事すら出来ない。血の繋がった存在は在ったが、アレは只の他人(ひと)だ。

 

 カズキは思わず笑ってしまう。

 

 こんな訳の分からない世界に来て、気付けば子供の身体になった。それどころか性別は女で、もっと意味の分からない力をもった。言葉も理解出来ず、感情に任せて叫ぶ事も許されない。

 

 なのに、家族?

 

 この世界に血の繋がった者など一人もいないだろう。

 

 でも、それが自分だと自覚している。

 

 違和感は消えていく。

 

 子供で、女で、一人じゃなく、多分……聖女だと。

 

 

 

 

 

 

 

 森人の深い緑色の服に隠されたソレは、誰も見る事が叶わない。

 

 この世界に唯一つの刻印。

 

 

 

 癒しの力(聖女)<5階位> 封印管理

 

 

 

 刻印は変化していく。

 

 痛々しい棘状の鎖は解けて、幾本も姿を消した。

 

 僅かに残る封印も、少しの刺激で千切れてしまいそうだ。

 

 全身に刻まれた刻印……黒神ヤトの加護はカタチを変えて薄まった。

 

 より輝くのはカズキが本来持っていた力。

 

 癒しと、慈愛。

 

 黒神ヤトは言った。

 

 それ等は決して裏切らない、と。

 

 

 

 聖女は真っ直ぐに、その道を歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 



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69.聖女の歩む道⑧

 

 

 ゆっくりと蠢いていた赤い波は少しずつ速度を上げ始めた。身体と同じ魔獣の赤い眼には、人と言う獲物しか映らないのだろう。視界と道を遮っていた炎は消えて、その先が見渡せた。

 

 上空から見る事が出来たなら、鏃の先端の如くに波が変化していくのを見れたかもしれない。そしてその先端が狙う先は崩落した城壁跡だ。

 

 涎をダラダラと垂らし、太い腕と短い後脚を交互に動かす。長い爪は走るのに不便だろうに、器用に……いや不器用に不格好に駆けている。

 

 低い唸り声は、踏み鳴らす足音に掻き消されて聞こえはしない。

 

 

 遂に来たのだ……最早頑強な城壁は無く、か弱い人の身体で戦う以外は無い。ここを抜かれたら、背後には戦う術を持たない民衆が居るだけ。女子供や、年老い逃げる事もままならない人々が身を潜めている。

 

 王城にはリンディアの花、アスティアが凛と立っているだろう。

 

 そして我等が玉体、カーディル=リンディアが在る。

 

「来たぞ!! 奴等に美しいリンスフィアは似合わない! 陛下もアスティア様も見ておられるだろう! 我等の真の力を見せてやれ!!!」

 

 騎士は剣を抜き放ち、森人は弓を絞った。

 

「うおぉぉぉーーー!!」

 

 ケーヒルは吠えて……大剣を振りかぶる。

 

 そして突進した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初の接敵は意外にも騎士の一撃から始まった。

 

 決壊した土塁から溢れる水の様に、一点だった魔獣の鏃は広がりながらリンスフィア内に侵入する。

 

「お、らぁ!」

 

 若い騎士が十分に引き付けた魔獣の一撃を躱し、魔獣の勢いを利用して足元を斬りつけた。魔獣は躓くように倒れ込み、地面を削った。

 

「脳天から突き入れろ!」

 

 騎士の波も負けじと流れをぶつけて、魔獣の勢いが僅かに鈍った。僅かに堰き止められた魔獣の波は怒りの声を上げる。

 

「ガァァァァーー!」

「ギァァァ!!」

 

 その瞬間を見逃さなず、上空から無数の矢が降り注ぐ。騎士が堰き止めた円陣から後方に雨が降り、更に流れが歪になった。

 

「右だ! 溢れるぞ!」

 

「俺が行く!」

 

 それでも受け止め切れなかった魔獣が、仲間の死体を乗り越えて来た。崩れかけた円陣を支えるべく新たに騎士が向かった。一人また一人と加われば、流れは止まっていく。

 

 最前線で戦う騎士は思う程の圧力を感じ無い。不思議に思っていたが、目の前の魔獣が倒れた事で理由が判明した。後方で蠢いている魔獣に何本も矢が刺さっているのが見えたからだ。森人が波を乱す様に矢を降らせているのだろう。

 

「やるなぁ……」

 

 こんな事ならもっと前から連携しておけばと思うが、同時に難しい事も知っている。自分も何処か森人を馬鹿にしていたし、コソコソと魔獣に遭わないよう動き回る森人を理解していなかった。

 

 だがどうだ……明らかに違うじゃ無いか……

 

 南の森で聖女が森人と同行しているのを知ったとき、浮かんだのは嫉妬心だった。何故最前線で魔獣と直接斬り結ぶ騎士では無いのかと。

 

 だが今なら分かる。

 

 聖女はそんな矮小な考えなぞ鼻で笑っていたのだろう。魔獣と対抗するには騎士と森人の連携こそが必要だと。

 

 ふつふつと沸き立つこの思い、今は高まる戦気をぶつければいい。次の獲物を……

 

 

 

 

 既に城壁内に数十匹は侵入しただろうか?

 

「よし、燃やせ!」

 

「燃やせ!」

 

 ケーヒルの掛け声に森人は瞬時に反応。先程まで燃え盛っていた場所、今は魔獣が屯ったところへ燃える水と火矢が飛ぶ。

 

 ドグン!!

 

 ギャァァァァ

 イイイィーー

 

 一気に視界が赤く染まり、再び炎柱が出現する。当然燃える水を浴びた魔獣ごと、周囲を巻き込んた。

 

「どうだ! さっきのお礼だ、受け取れ!」

 

 火矢を放った森人は思わず叫ぶ。 多くの森人、その仲間が死んだのだ。弔いは奴等を駆逐する以外はない!

 

「城壁外を確認しろ! 進路や動きに変化は!?」

 

 何人かの森人は外を確認する。魔獣は愚直に崩落した穴を目指していて、他に興味は移ってない。数匹は城壁の下で登れもしないのに壁を引っ掻いているが、森人の矢の的になっていた。

 

 つまり、流れは止まった。

 

「変化なし! 馬鹿どもめ!」

 

「変化なし!」

 

 乱戦の最中だが、森人からの報せは騎士へと届く。

 

「よし……」

 

 ケーヒルは魔獣の群れに突貫する。

 

「ぎっ……」

 

 食いしばった歯が鳴き声をあげたが、その音を残しケーヒルの大剣は魔獣へと達した。

 

 他の騎士に片腕を傷付けられていた魔獣は、避ける事も出来ずに金属の塊りを受ける。首の半ばまで喰いこんだ大剣は、鋸を引く様に手前に返せば魔獣は耐え切れずに絶命する。

 

「森人よ! 内側に遠慮は必要ないぞ! 存分に喰らわせてやれ!」

 

 まだ残る魔獣に狙い澄ました矢が突き立つ。魔獣からしたら後方や真上から高速で迫る矢に、何一つ対処は出来ないだろう。

 

 ケーヒルはソレを確認するのも惜しいと、次の魔獣へと殺到する。魔獣の攻撃を受けたのか倒れ込み、致命の一撃を見上げた騎士の前に躍り出る。大剣で腕の付け根、つまり脇を斬りつければ魔獣は悲鳴を上げる。

 

「下がれ! 円陣の外へ!」

 

 腕を負傷したであろう騎士は素直に撤退する。ここでは邪魔にしかならないと理解していた。

 

 よし……いける……

 

 ケーヒルは油断はしないと周囲を見回し、手応えを覚えた。

 

 だが同時にそこまで甘い筈は無いと、警戒を止めない。魔獣は知恵のある獣。何度も同じ手に掛かるとは限らないのだから。

 

「外は変化ないか!」

 

 ケーヒルは再度確認する。進路の変更や戦法の変化があっても驚きはしない。

 

「変化なし! 炎が収まるのを待つ様です!」

 

「何れは勝てると思っているのか……?」

 

 怪訝に思うが、次の一当てで何かが分かるかもしれない。先ずは予定通りに事を進めるか……

 

「最後だ!」

 

 まだ炎柱に余裕がある。予想より遥かに早く魔獣を駆逐せしめたのだ。やはり森人の存在は大きく、魔獣は騎士に集中出来ていない。

 

「被害報告を!」

 

「はっ! 死亡が……」

 

 ケーヒルは報告を聞きながらも、次の一手を考えるのを止めはしない。二度と間違いは犯さないし油断もしない。もしそれをするなら自らに剣を突き立ててくれる。

 

「よし、負傷者は城へ! 戦線を右にずらすぞ!」

 

 魔獣の死体は壁になるが邪魔にもなる。まだ陣を下げる程ではない。どの道ズルズルと下げるしかないが、出来るだけ城壁から離れたく無いのは当然だ。

 

 最初の一戦は見事な結果となった。魔獣はリンスフィアを蹂躙出来なかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿下、今降ります。少し下がって下さい」

 

 アストは逸る気持ちを何とか抑えていた。先程から魔獣の侵攻が再開したと分かったからだ。剣戟の音も聞こえてくるし、叫び声や魔獣の咆哮も届いていた。

 

「フェイ、魔獣は……?」

 

 目の前に降り立ったフェイにアストは思わず問い質した。普段のアストならフェイに労いと礼を伝えただろう。フェイもそれに気付いたが、気にする事もない。

 

「戦端が開かれる前に降りて来ましたから……おそらく誘い込み分断させるのでしょう。古典的ですが有効です。それしか手は無いのもあるでしょうが……」

 

「そうか……済まない、フェイ」

 

 少しだけ息が荒くなったフェイに、此処までの苦労が見えたからだ。いつ崩れるとも知れない崖を降るのは生半可な負担ではないだろう。

 

 フェイは頷くだけにして、直ぐに手繰ってきたもう一本の縄を腰から外す。今からアストを上に引き上げるのだ。

 

「殿下、此れを腰から両肩に回します。少しキツいですが我慢して下さい」

 

 万が一にアストが滑落しても、解けたり外れたりしないようフェイは独特の固定をする。森では崖や峡谷になった箇所もある。時には未知の場所へも侵入するのだ。熟練の森人なら誰もがそうするだろう。

 

「ありがとう。だが、痛みがあるのは脚だけだ。支えがあれば自力で……」

 

「分かっています。縄に合わせて少しずつ上がって下さい。上にジャービエル達が居ます。殿下は下を見ずに横にいる私を見ればいい。疲れた時は止まって構いません。彼等なら縄から伝わる感触で理解する」

 

 アストは子供染みた意地を見せた自分に恥ずかしさを覚え、素直に従う事に決める。この様な動きなら森人に敵うわけがないのだから。

 

 アストの愛剣はフェイが担ぐ。鎧は諦めた方が良いだろう。会話しながらもフェイは素早く縄をアストに通した。

 

「では……」

 

「待ってくれ……大事なモノを……」

 

 情け無い事に余裕が出た事で思い出したのだ。まだ遊びがある縄を引き摺りながら、打ち捨てていた鎧に近づく。内側を探ると、小さな白い花を手に取った。

 

「命護り、ですか?」

 

 フェイの鍛えられた視力は、結ばれた髪を捉える。白銀と黒、二本結ばれているのも分かった。夜と銀月を思わせる二色は、それが誰から贈られた物か直ぐに理解させる。

 

「アスティア様は分かりますが、カズキからは意外ですな」

 

 あの少年の様なお転婆の聖女に、そんな女らしい側面があったとは……失礼を承知でフェイはアストに投げ掛けた。以前に城で二人はカズキについて話したから隠す事もない。

 

「直接聞いてはいないが……恐らくアスティアが気を利かせたんだと思う。フェイは見た事がないだろうが、聖女の間でいつも追いかけっこしていたよ」

 

 逃げ回るカズキを捕まえて、黒髪を一本拝借したのは間違いない。愛おしい二人の姿は目の前にある様に想像出来た。

 

「ほう……それは興味深いですな。カズキが走り回るのは想像出来ますが、アスティア様は……まあ、聞かないでおきましょう」

 

 リンディアの国民からしたらアスティアは正に王女そのものだ。凛とした立ち姿、花が咲く様な笑顔、誰にも届く優しさ、美しい白銀の長髪は王家の直系を顕わす。勝手な想像だろうとも、王女に対する想いは皆似た様なものだろう。

 

「アスティアはああ見えて中々のお転婆だ。流石にカズキには勝てないが、上手く誤魔化すものだよ」

 

 アストは悪戯な表情を隠さず薄らと笑みを浮かべた。命護りは腰の革袋に大事に納め、もう一度フェイの横へ並んだ。足は引き摺ったままだが、笑顔に偽りは無い。

 

 剣戟の音は激しさを増している。悠長な時間を過ごすのはここまでだ。アストは表情を引き締め、崖の上を睨んだ。

 

「では、殿下。私の指示に従い、指定した場所に手足をかけて下さい。宜しいですな?」

 

「ああ、遠慮無く言ってくれ。必ず指示に従うよ」

 

 アストは何度も挑んでは滑り落ちた瓦礫の山に、再度右手を掛ける。この右脚ではまともに参戦出来ないかも知れないが、矢の一本くらいなら放てる筈だ。

 

「行きます」

 

 フェイは縄を引き、上へ合図を送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「第二波、来ます!」

 

 どうにか間に合った再編成は、魔獣の波を再び迎え打った。魔獣は先程と変わり無く、ひたすらに前を目指す。人を見れば我先に殺到するのだ。騎士達は戦いに慣れて、より効率的に戦い始めていた。森人の援護を考慮して無理に前に出ない。

 

「円は多少崩してもいい! 負傷を避けろ!」

 

 この戦いは持久戦だ。相手の数が削れていく様に、騎士の数も減るのだ。そしてこちら側に余裕はない。疲労も蓄積するだろう。

 

「ジョシュの隊は……?」

 

 今は保つだろうが、あと何戦かやれば疲れで動けなくなるかもしれない。出来るなら交替しながら……円陣から少しだけ離れたケーヒルは北側に振り返る。 

 

 ジョシュなら間違いなく此方へ向かう筈だが……

 

 伝令の届いた時から考えても、合流していておかしくない。

 

「ジョシュの隊を確認に行ってくれ! 此処は支えられる!」

 

「は!」

 

 若い騎士は命令を忠実に守り、北へと走り去って行く。

 

「何かあったか……? いや、北は殲滅を終えたと。被害も最小だった筈、例え更に魔獣が現れたとしても北側の城壁は崩れていない」

 

 今は考えても仕方が無いし、伝令を待とう……ケーヒルは再び大剣に力を込めて魔獣の群れへと向き直った。

 

 だが、漠然とした不安はケーヒルの心から消える事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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70.聖女の歩む道⑨

評価ありがとうございます。

ラストスパートに入りました。
今日も含め毎日1話ずつ投稿し、24日に完結予定です。
よろしくお願いします。


 

 

 

 

 第三、第四波までは良かった。魔獣を誘い込み分断、そこから囲い込み殲滅する。森人が降らす矢の効果は絶大で、騎士は力を存分に表す事が出来たのだ。

 

 しかし魔獣も少しずつ学習したのだろう。我先にと無闇に突っ込むしか無かった魔獣は、円陣を崩そうと薄いところを狙い始めた。それを防ぐためにと騎士を動かせば、また別の場所が狙われる。そうしている内に内側の円が抜かれて、今は後陣でも対応する必要が出ていた。

 

 更に言えば魔獣の死骸も少しずつ邪魔になっている。ある程度の広さが必要な戦いだが、戦線は下がっていくだろう。

 

 つまり、円陣は崩れかけていた。

 

 負傷者も加速度的に増加し交代もままならない。勿論予定通りにならないのは戦場の常だ。

 

「くそ……応援の隊はまだか……」

 

 疲労も効率的な戦いを阻害する。今まで躱せていた攻撃も僅かに当たり始め、森人の命中率も下がる。とにかく今は増援と補給が必要だった。

 

 ケーヒルはその空気を感じ、士気を保つべく声を上げようとした。厳しいのは承知だが、楽な戦いではない。これからも綱渡りの状況が続くのだから。

 

「副団長、あれを……!」

 

 となりで折れた剣を入れ換えていた騎士の一人が叫ぶ。城壁を指差し叫ぶ先にはフェイ達の姿があった。

 

「まさか……」

 

 ケーヒルのその声には歓喜の色が滲む。何度否定しても消えなかった絶望感は、今消え去った。

 

「殿下……! アスト殿下!!」

 

 フェイに支えられながらも、アストははっきりとした意識でケーヒルを見返し頷いたのだ。後陣に配された騎士達も少しずつ気付き始め、俄かに士気を高め始める。

 

 そしてアストは……リンディアの王子、そして英雄の一人であるアストは高らかに宣言した。

 

「リンディアの騎士よ! 森人よ! 私は生きている!」

 

 混乱する戦場にアストの声は響く。騎士達どころか、何匹かの魔獣すら振り向いた。それを気にもせずに続く。

 

「皆の戦い、見事だ! 力及ばずとも……私も参戦させて貰う。私達は必ず勝てる! 我等はリンディアの誇り高き騎士、そして魔獣など意に介さない森人なのだがら!!」

 

「「「おおーーー!!」」」

 

「そうだ! 我等はリンディアの騎士!」

「魔獣がなんだって言うんだ!」

「俺達は勝つ!」

「リンスフィアを魔獣にくれてやるものか!」

 

 それはまさに爆発だった。

 

 消えかけていた士気も、希望すらも光り始める。崩れかけた円陣、疲れ果てていた戦士達、全てが息を吹き返していった。

 

 アストはケーヒルに合図を送り、城壁から指揮を取ると伝える。フェイに支えられているのはケーヒルからも見えているだろう。アストは弓を持ち膝立ちに構えた。

 

 もう一度だ……何度でも立ち上がって剣を取れ。私達に敗北は許されない。背後には絶望に震える人々が、家族がいるのだから。

 

 アストは一瞬だけ目蓋を閉じ、そして矢を放った。

 

 開いた視線の先には倒すべき魔獣しか映らない。その赤褐色の身体に、鏃は突き立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスト生存の報は皆に希望を与え、戦線は持ち直した。第六の波も防ぎ、今は次の波に備え準備を行なっている。それぞれが簡単な休憩や治療を済ましていった。

 

 魔獣の死骸は既に300以上あるだろう。腐敗臭などは当然まだ無いが、独特の血臭は充満している。

 

 皆の蓄積した疲労は無くなったりしなかったが、全員が力尽きるまで戦うと誓ったのだ。

 

 ケーヒルは城壁に登り、アストの手を万感の思いを込めて握った。

 

「殿下……良くご無事で……陛下もアスティア様もさぞ喜ばれましょう。 本当に……良かった」

 

「皆に助けられてばかりだよ……自分の力ではない。フェイ達が来てくれたんだ」

 

「ええ、森人の助力たるや凄まじいものがありますな」

 

 二人は騎士の中では森人の有能さを理解していた方だが、実際の結果は予想を超えていた。ロザリーとの知己には戦闘に関するものは殆ど含まれていなかったのだ。

 

「もし、カズキがロザリー達と同行していなかったらと考えると……ゾッとするな」

 

 そうですな……そう呟きケーヒルは周囲を眺めた。

 

「ケーヒル、死傷者の数は……?」

 

 アストは聞きたくなく、それでも聞かなくてはならない事を言葉にする。

 

「まだ把握出来ていません……生き残った者は城へと向かわせましたが、おそらく半数近くが……」

 

「そうか……もっと警戒していれば……」

 

「自らの命も厭わずに突っ込んで来たと聞きました。誰も予想など出来なかったのです……御身を責めてはなりません。それに、今は前を向き戦わなければ」

 

「ああ……その通りだ……皆の為に。教えてくれ、奴等の状況は?」

 

「何故か魔獣は他の突破を試みません。助かりはしますが……しっくり来ませんな。奴等は知恵有るモノ、愚直に過ぎます。何かを狙っているのか……」

 

 魔獣の死骸は積み重なり、あまりに邪魔なものは脇に避ける作業を行なっている。魔獣の侵入は崩壊した跡だけであり、燃える水が燃焼している内は動かないようだった。

 

「上から眺めたが……しっかりと統率されていると感じた。ケーヒルの言う通り、不自然だな」

 

「ですが、分からない。北も西も殲滅を終えましたが、特に変わったところは……南も数は驚異ですが耐え抜けば何とか。それに、応援が来れば休息を挟めます。このまま何もなければ良いですが」

 

「……ジョシュは? 姿が見えないが」

 

「北の殲滅は終えたと報告はありましたが、まだ合流しておりません。先程確認の伝令を向かわせました」

 

 アストはジョシュの動きに疑問を抱いた。側付きとして仕えて来たジョシュは任務に厳格で、冗談すら中々通じない程の堅物だ。この混乱の中ではあるが、だからと言って普段の行動を変える者ではない。

 

「何かあったか……? 北に異変は感じないが……」

 

 振り返り北側を確認する。戦闘の気配は感じないし城壁に変化もない。はっきり言えば静かなものだ。まだリンディア城周辺の方が騒がしく思えた。

 

「とにかく伝令を待とう。ケーヒル、ここの戦いをどう考える? 正直に言ってくれ」

 

 アスト達の周囲には誰もいない。フェイも森人へ指示を出していた。アストはケーヒルの目を見て、本心でと促す。

 

「……このままでは勝てません。我等に数が足りなさ過ぎる。あと数回凌ぐうちに……疲弊し、負傷者は増えていく。先程も殿下の声が無ければ危うかったでしょう。何より魔獣共が学び始めています……円陣を崩そうと動きが変わりました。何らかの伝達方法を持つとしか……」

 

「ああ……魔獣はまだ五千を越える数だ。しかも増えないと言い切れない……やはり最初の城壁崩しが効いたな。ジョシュが合流出来て、何とか時間は稼げると思いたいが」

 

 二人には平原で炎が消えるのを待つ魔獣の姿が有り有りと見える。それは酷く恐ろしい光景だった。蠢いていて生きているのは分かる。なのに生物としての躍動や意思を感じない。全ての魔獣は此方を向き、今か今かと攻め込む時間を待っているのに……

 

「奴等は一体何なのでしょうか……? およそ獣や動物とは思えません。現れ出て数百年、未だに分からない事が多すぎる」

 

 ケーヒルは下を眺めながらも、何処か悍ましさを感じるのだろう。僅かに声が震えていた。

 

「……俺にも分からない。だが奴等の目的だけならはっきりしている」

 

 人を殺し尽くす……ただそれだけは間違いない。和解も出来ず、どちらかが滅びるまで戦うのだ。絶望がヒタヒタと近づくのを感じる。アストもケーヒルも、それを感じるのだ。このままでは負けてしまう、逆転の方法も思い浮かばない。どれだけ言葉を重ねても勝つ手段は浮かばなかった。

 

「炎が消える……」

 

 炎が消える様子は、リンディアの希望が消えていくのを示しているのか……

 

 だが……絶望が何処から現れるのか分からない様に、希望も突然に姿を見せるのだ。その希望は二人の背後、リンディア城へと続く道から近づいて来る。

 

 

 俄かに皆がざわつき始めた。

 

 疲れ果て座り込んだ騎士は顔を上げた。

 

 痛みを堪えて包帯を巻く森人は不思議な表情を隠さない。

 

 負傷が激しく、肩を貸されながら後退していく者達は、一人で立ち竦む。まるで先程までの有り様など無かったかの様に、その場に立ったのだ。

 

「な、なんだ?」

「痛みが……」

「出血が止まった?」

「折れた脚が……」

「見てくれ……立てるぞ……」

「う、嘘だろう?」

 

 怪我を負った者も、無事な者も、自分達に何かが起こっていると知った。そして、城へと繋がる道に多くの……沢山の騎士や森人が歩み来るのが見えた。

 

「なんだ……?」

 

「まさか……」

 

 アストはジョシュの応援かと思ったが、明らかに様子が違う。そして、その様な不可思議な現象を起こす事が出来る人物など一人しかいない。だが、あの娘がこんな場所に来る筈など無いのに……

 

 やがて戻って来た騎士や森人達は、歩みを止め走り出した。消えゆく炎を見て自分達が参戦する為、そして何よりリンディアと……救いを齎らした彼女の為に!

 

「皆は休んでおけ! 俺達が代わるぞ!」

 

「我等は救われる!」

 

「死の淵から、ヴァルハラから舞い戻ったんだ!」

 

「俺達の後ろを見るんだ!」

 

「見ろ、分かるだろう!」

 

 魔獣へと立ち向かう者達が口々に叫ぶ。

 

 炎が消えゆくのすら忘れ、戦い疲れた全員がその姿を捉えた。そして、それが誰なのか直ぐに分かった。幻の様で、それでも決して消えたりはしない。

 

 幻に人々を癒す力など無いのだから。

 

 

「殿下……あれは……」

 

「何故……どうして此処に……?」

 

 

 多くの者が配置に付いた事で、漸く希望が姿を見せた。周囲には数人の騎士が残るだけ。その騎士達と比べればあまりに小さい。なのに目は離せなくなる。戦場には似つかわしく無い少女は、目の前に広がる凄惨な光景に怯える事もしなかった。むしろ少しだけ足早になってアスト達が佇む城壁へと近づいて来た。

 

 だから……城下の広場で誰もが驚き、そして歓喜した現象は当然ここでも起きた。

 

 

「聖女様……黒神の聖女……」

「カズキ様だ……」

「癒しを我等に?」

「神々の救いだ……」

「見ろ、怪我なんて跡形も無い!」

「戦えるぞ!」

「応援だってこんなに!」

 

 

 それはある意味でアスト生存の報より大きなうねりを産む。聖女の降臨は全ての者に希望を齎したのだ。

 

 

 

 だが、聖女の力は発露にカズキの血肉を求める。それを知るアストは寧ろ焦りと怒りすら浮かんでいた。今も刻印に縛られて、カズキの意思など消え去っているかもしれないのだ。歓喜の声を上げる皆を見ながら、アストは恐怖に駆られた。

 

「カズキ……こんなところに来てはダメだ……」

 

 刻印に縛られたカズキが血肉が溢れる戦場になど……アストはカズキの傷付く姿など見たくは無かった。騎士や森人に決死の戦いを求めながら、それは余りに理不尽な思いかもしれない。それでもアストは自分の気持ちを否定など出来なかった。

 

 その時……まさか呟きが聞こえた訳でも無い筈なのに、カズキがアストを見た。間違いなくカズキの瞳がアストを捉えたのだ。

 

「カズキ……なっ、なに……!」

 

 アストの負傷した脚にジンワリとした暖かさを覚えた。思わず下を見たアストの感覚に、優しく掌で包んだ様な、陽の光を浴びた様な、そんな暖かさを感じたのだ。

 

 そして痛みはあっさりと彼方へと消えて、完治したと報せる。

 

「殿下……?」

 

「治った……この距離で、触れる事もなく……」

 

 アストは呆然としながらも、脚を上下に動かしていた。

 

「信じられない……これ程距離が離れているのに、それどころか全員の傷を癒すなんて……」

 

「殿下、カズキの髪が……」

 

 ケーヒルの呟きに、アストはカズキを視線に入れる。情けない事にアストは今更気付いた。出会った頃の様に、カズキの後髪が短く切られていることに。あの特徴的で美しい黒髪は肩口で乱暴に垂れている。

 

「髪を捧げたのか……皆の為に……」

 

 アストの胸には熱い……強い想いが湧き起こった。愛おしい、哀しい、そして抱き締めたいという欲望だ。

 

 カズキはアストの姿を捉えて、薄く微笑んだ。

 

 アストはもしかしたら初めて、カズキの微笑を見る事が出来たのかもしれない。激しく鼓動は高まり、強い多幸感が浮かぶ。

 

「カズキ……」

 

 今ここに居る全員が感じた。

 

 魔獣の侵攻に打ち勝ち、再びリンスフィアに平穏が齎らされると信じたのだ。

 

 

 

 

 

 

 だから、アストもケーヒルも一瞬忘れてしまった。

 

 此処にジョシュの姿が無く、伝令すら戻らない事を。

 

 そして炎は消え去って、魔獣が動き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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71.希望と絶望と

ラストまであと少しです。


 

 

 

 

 

 

 それは凄まじいまでの結果だった。

 

 騎士は獅子奮迅の突撃を試み、森人の放つ矢はその数を増やした。幾人も魔獣に蹂躙されるが、時間を置けば直ぐに戦線に復帰する。支えるのか精一杯だった円陣は、魔獣を包囲殲滅する二重の線へと変わった。響くのは魔獣の悲鳴と人の歓声、そして肉を断つ剣戟。

 

 そこには絶望感など無く、勝利の余韻すら生まれる。

 

 何より皆に恐怖は存在しないのだ。例え傷付き倒れても、聖女の癒しが自らを暖かく包む。優しく抱き締められた様なジンワリとした癒しを感じるのだ。

 

 ふと後ろを見れば、隔絶した美貌を隠しもしない聖女が佇んでいる。翡翠の瞳には恐怖の色は無く、自分達と戦場を見守る。

 

 これは戦争なのだろうか? もしかすると神々が齎らした聖戦ではないか……士気は衰えることも無く、活力は溢れ出るばかりだった。

 

「最後だ……!」

 

 勝利は簡単に訪れた。脳天に数本の剣を突き立てれば、断末魔すら上がらず魔獣は絶命した。見ればついさっき立ち上がった炎は、衰えてもいない。

 

 時間にして半分にも満たないだろう。先程までの苦戦は嘘の様に駆逐されたのだ。これなら連戦も厭わず、城外の魔獣も遠からず消え去ると誰もが思える程だった。

 

 

「やったぞ!」

「魔獣め、思い知ったか!」

「俺達は負けない!」

「次も任せておけ!」

 

 

 口々に勝鬨は上がり笑顔が浮かぶ。 そこには正に希望があったのだ。

 

 

 

 

 

 

「カズキ……!」

 

 アストは癒えた脚を動かして城壁を駆け降り、足早に近づくと思わずカズキの両肩に手を置いた。短くなった黒髪がフワリと揺れてカズキの香りが漂う。思っていた以上に華奢で細い肩にアストは驚いたが、それを無視して綺麗な瞳に目を合わせた。

 

「何故ここへ……? 怪我は!?」

 

 おそらく髪を捧げたのは間違いないだろうが、あれ程の癒しだ。もしかしたら他にも傷付けているかもしれない。アストは我慢出来ずに、カズキの身体を眺めた。

 

 そして側に来たことでアストは理解した。今まで何処か人から距離を置いていたカズキは、ジッとアストから目を離さない。それは睨んでいる訳ではなく、まるでアストを気遣っている様だった。

 

「カズキ……意識が……」

 

 カズキの瞳からはしっかりとした意思を感じる。刻印の影響を受けた様子は無いし、寧ろ強い感情すら覚えた。

 

「殿下……御命令に背いた事お詫び致します」

 

 側に控えていたノルデの声にアストは漸く現実へと帰る。

 

「ノルデ……」

 

「此処までカズキ様を案内したのは私の意思、誰に強制されたものでもありません。殿下の御命令は重々承知しております。ですが……正しい事をしていると信じています」

 

 あの若かったノルデはまるで幾千もの戦いをくぐり抜けて来たかの様だった。それ程までに強い力をノルデから感じるのだ。

 

「説明してくれるか? それにアスティアやクインは……?」

 

「アスティア様が仰っていました。聖女として歩むなら、それを止める事など出来ないと。そしてカズキ様自ら此方へと歩みを……城から真っ直ぐに道を進んで来られました」

 

「聖女として……」

 

「では、アスティア様もご存知の事か?」

 

「副団長、その通りです」

 

 そして、ノルデは聖女へ忠誠を誓った騎士だ。自らの命すら賭ける事を厭わないだろう。

 

「カズキの髪はどうしたんだ?」

 

 アストは思わず黒髪を優しく撫でた。カズキも特に嫌がったりしない。

 

「殿下、先程参戦した者達を癒したのです。カズキ様は広場に訪れると腰のナイフで髪を切りました。全ては一瞬の事でしたが……髪は光へと変わり、次の瞬間には火傷や怪我は無かったかの様に消え去ったのです。既に命を失った者は駄目でしたが……それでも、カズキ様の癒しは我等を救いました」

 

「血肉でなく、髪を捧げて聖女の力を」

 

「はい」

 

 事実、カズキにいつもの様な出血は見当たらない。ノルデの言う通りなのだろう。

 

「聖女の力に目覚めたのか……? もう血肉を捧げる必要も無くなったなら……」

 

 此処に居てもいい?

 

「いや……また戦いは続く、何時か血を求めるかもしれないじゃないか……そんな事……」

 

 呟くアストはドキリと胸が波打つのを感じた。カズキはアストの汚れた手を握り、背の高い自分を見上げてきたからだ。ジッと探る様にアストの碧眼を眺めると、カズキは何かを納得したのか僅かに頷いた。まるでアストの気持ちを確かめているようで、少しだけ擽ったい。

 

「カズキ、どうしたんだ?」

 

 問われたカズキは意味など分からない筈なのに、アストに微笑み手を離した。そう、間違いなく微笑んでくれたのだ。いつか自分に笑顔を向けてくれたならと夢見ていたが、それは想像を超えて美しく優しかった。

 

「カズキ、一体……」

 

 別人とは言わないが、此処まで感情を露わにするカズキを初めて見たアストに戸惑いは隠せない。それは堪らない喜びであり、戦場にいる事を忘れさせた。

 

 周りで様子を伺っていた騎士達も同様で、勝利への確信を強固にする。アスティアの様に大輪に咲く訳では無いが、カズキの微笑は夜風に揺れる小さな一輪の花だ。その花は世界にたった一本しかないだろう。

 

 城壁付近で燃え盛る炎は衰えていったが、その事に恐怖を覚える者はもう誰一人いなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 行き過ぎた妄執は人の判断を狂わせる。それだけでは無い……どんなに優れた頭脳を持とうとも、人は時に間違いを犯すのだ。復讐心に追い立てられ、いつしか振り返る事も出来なくなった。

 

 魔獣を根絶やしにする……その為に、その為だけに考え出したソレは、いつしか変容していく。希少で優れた力を利用して、魔獣を血祭りに上げる筈だったのだ。

 

 聖女の存在は復讐を遂げる為に在った。

 

 いつしか手段が目的に変わり、それを達するなら何にも構わない。人が勝つ為なのに、人を愛するからこそだったのに……

 

 そう、全ては狂っていく。

 

 

 

 

「おい、本当にいいのか?」

 

「当たり前だ。 全ては魔獣を一匹残らず殺し尽くす為だ。 お前も知っているだろう? 聖女はこの世界に遣わされた()()で、魔獣を導く必要がある。完結させなければ……リンスフィアまで導いて来た仲間に申し訳がたたない」

 

「だが……」

 

「貴様……今更怖気付いたのか? 全てはあの方の予想通り……ならば我等も従うだけの事だ。城から離れたのは流石に驚いたが、居場所が城から南へと変更になっただけだ」

 

「城門を解放すれば南だけじゃなく、街中へ魔獣が入る事になるぞ。当初は城壁の外で戦う予定で……」

 

 話している途中だったが、続く言葉を紡ぐ事など最早出来ないだろう。その騎士の胸には深くナイフが刺さり、呼吸すら瞬時に止まった。それを行なったもう一人の騎士は侮蔑の視線を地面に送る。絶命した男は無言のまま地面に横たわり、周囲に居た数人の騎士達は気にもしていない。

 

「ふん、愚か者が。この聖戦を邪魔する者は反逆者と同じ、それが判らないとは呆れる……」

 

「そろそろ時間だ……間も無く到着するぞ。あの方の言葉通り、他の連中は南へ集結済み。奴等が何処に向かうのか判らないが、直ぐに気付くだろう。南の隊も慌てて駆け付けるさ。そして聖戦を理解出来ない奴等は蹂躙され、聖女の力に頼るしか無くなる。尊い犠牲だな」

 

「ああ、門を開け放とう。聞こえる……予定通りだ」

 

 ギギギ……

 

 ()()はゆっくりと開き、城壁の外が露わになった。未だ遠いが、数人の騎馬と追いかけて来る赤い波が見える。地響きすら耳に届き、奴等が幻影でない事を教えてくれた。

 

 幾人か波を止めようと戦いを挑むが、数瞬の内にはその波に消えて行く。

 

「主戦派だと……好きに呼べばいい。我等の志しは語り継がれ、英雄となるのだ」

 

「そして、導く者……()()()()()()は、神へと召されるだろう」

 

 最後の騎馬が波に消えると、魔獣達は次の獲物へと方向を変えた。その先には開け放たれた東門と数人の騎士だけ。

 

 南の希望と東の絶望、二つが相見えるまで時間は掛からないだろう。

 

 全ては狂った妄執が呼び寄せた、間違いない現実だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ジョシュ様! 大変です!」

 

 カズキがアストの元へ辿り着くより前、ジョシュは隊の編成を終えて南へと馬を向けていた。此処からは何度が上がる炎も見え、その戦い方も予想がつく。時間は少ないがケーヒルもいるのだ、ジョシュは間に合うと確信していた。そこへ慌てて駆け込んで来た騎士が叫び声を上げたのだ。

 

「どうした?」

 

「東門が解放されています! 数は不明ですが魔獣が……!」

 

「なんだと!?」

 

 隊は町の東側を回る予定で、数騎先行させて道筋を確定させる筈だった。その先行した騎士の一人が報告に戻ったのだろう。

 

「どうやら内側から誰かが開けた模様で……閉めようとした皆は何者かに足留めされました。恐らく主戦派かと……!」

 

「馬鹿な! 自らがリンスフィアの中に導くなど……気でも狂ったか!」

 

 ジョシュは即座に判断する。東側に防衛網は殆どほぼ敷かれて無い。そもそもそんな余裕などないし、報告にも東の脅威など存在しなかったのだ。それは周到に組まれた作戦に違い無かった。

 

「我等は東へ向かう! 何としても魔獣を止めなければ!」

 

「「「おう!」」」

 

「君は伝令に! 陛下とアスト殿下に急ぎ知らせてくれ!」

 

「はっ! 必ず!」

 

 ジョシュ達は素早く準備を終えると、蹄の音を立てながら走り去って行った。残された騎士はそれを確認すると、自分も目的を果たそうと馬へ近寄る。その時リンディア城の方からもう一騎、別の騎士が向かってきていた。

 

「伝令!」

 

 その騎士はケーヒルに指示された伝令の役目を果たすべく、大急ぎでジョシュの元へと駆け込んで来たのだ。

 

「ご苦労、伝令は?」

 

「副団長からです! ジョシュ様に至急の救援を! 南は魔獣の群れにより城壁が決壊。今は持久戦に入りました。ジョシュ様は? 応援が必要です!」

 

 周囲にジョシュの姿は無く、騎士達の存在も感じない。少しだけ怪訝な表情を残る騎士に向ける。

 

「そうか……若いな、君の名は?」

 

 問いながらも近づく。伝令に来た騎士は若く、入隊したての新人に間違いなかった。

 

「は! 自分の名はジ……えっ?」

 

 若い騎士は腹に生えた小剣を見た。背中まで突き抜けた小剣には赤い血が付着し、それが自分から流れ出たものだと理解した頃には暗闇が訪れる。彼は最後まで自分が死んだと理解出来なかったのかもしれない。

 

「残念だ……だが、今は邪魔なだけだよ」

 

 ジョシュの言葉はアストへ届く事は無く、最後に若い騎士の死体だけが取り残された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いたぞ! あそこだ!」

 

 ジョシュの隊は急ぎ東門に向かっていた。魔獣は何故か中央には向かわず、南側へ進路を取っていた。不慣れな街中が幸いしたのか、速度は出ていない様だった。だが、そこには統率された意思を感じて、ジョシュは怖気が走る。

 

「南を急襲するつもりか……!? 挟撃になるのを理解しているのか……? 何としても止めなければ!」

 

 やはり魔獣は知恵のある化け物なのだ。人の気配は城からもする筈なのに、奴等は目もくれない。

 

 せめて先程の伝令が辿り着く時間を稼ぐ必要がある。魔獣の数はジョシュの隊に匹敵する。つまり……勝てない。ましてや身を守る城壁も無く、精密に隊列を組む事もままならない。だが、少しでも数を減らし時を稼がなければ!

 

 ジョシュは死ぬ覚悟を決め、皆に声をかけていく。

 

「このままではアスト様の隊へ挟撃がかけられてしまう! 何としても止めなければならない!」

 

 並走する皆は同様に覚悟を持った表情へと変わった。 自分達の役目が何なのか理解したのだ。

 

「奴等を少しでも減らし、伝令が着くまでの時間を稼ぐ! 側面から攻撃を掛ける、いいな!」

 

 皆に戸惑いなどカケラも無かった。元より死ぬ覚悟など当たり前にあったし、愛するリンスフィアに魔獣が存在するなど許せなかったのだ。

 

「行くぞ!!」

 

 魔獣も迫りくるジョシュ達に気付き、何匹かは方向を転進した。だが全部では無い。やはり意思を持って挟み撃ちをするつもりなのだ。

 

「「おお!!」」

 

 だが……命を賭けたその願いは決してアストの元へ辿り着く事は無い。

 

 

 数匹の魔獣を倒し、ジョシュが力尽き、命果てるその時も……それを知る事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 



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72.叫び

 

 

 

 

 

 

「よし、これなら次も……」

 

 ケーヒルはもう勝利を疑ってはいなかった。懸念していた魔獣の戦い方に変化は無く、此方の戦力は寧ろ高まったのだ。癒しの力は全ての不利を覆し、何より皆の士気は衰えない。

 

 まるで自分達を見守る様に、聖女は寄り添う。

 

 アストも復帰して剣を振るっている。森人は疲れを知らずに弓を操っていた。

 

「みんなご苦労だった! 次に備えて休息を取ってくれ!」

 

 皆を労いながら後方へと下がった。誰を見ても士気は旺盛で、アストが声を掛けるまでもないと笑ってしまう。

 

「殿下も休息を……水をどうぞ」

 

 ケーヒルも水袋を手渡して笑った。まだ魔獣の数は膨大だが、負ける要素が無いのだから当然だろう。アストも礼を言って水を受け取った。

 

「……ふぅ、ありがとう。今回は死者も出なかった。このまま何も無ければいいが」

 

「そうですな……油断は出来ませんが、魔獣に打つ手はありますまい。例え再び城壁を崩したとしても押し返す事も可能です。燃える水も補給出来ましたし、矢も潤沢。もしかしたら我等に新しい時代が訪れたのかもしれませんな」

 

 ケーヒルは饒舌になり、未来に想いを馳せる。もしカズキに負担が少ないなら、森へと侵攻する事すら可能かもしれないのだ。失って久しい森が再び人の手へ帰る。忍び寄る絶望は希望へと変わっていくのかもしれない。

 

「新しい時代か……」

 

 視線を上げればノルデに甲斐甲斐しく世話をされるカズキの姿が目に入る。何処から持ってきたのか中々に大きな椅子に腰掛け、両手でカップすら持っていた。あの中身は流石に酒では無いだろうが、そんな事を思う余裕すらある事に苦笑するしかない。

 

「殿下、カズキの元へ行かないのですか? 此処なら任せて頂いて大丈夫ですぞ。我慢などする必要もないでしょう」

 

 アストの視線が何処に向いているのか分かり、ケーヒルは久しぶりに軽口で冷やかした。何時ものアストなら馬鹿を言うなと顔を赤らめて否定するだろう。

 

「ああ、頼むよ。何かあれば声を掛けてくれ」

 

 ケーヒルは内心少しだけ驚き、そして喜ぶ。あっさりとカズキの元へ行くとは思わなかったのだ。だがカズキが変化した様にアストも変わったのだろう。ならばとケーヒルも冷やかすのはやめた。

 

「分かりました。 その時はお呼びします」

 

 アストは頷き、カズキの元へと歩き出した。ケーヒルも暫し見送ると、森人と打ち合わせするべく背を向ける。

 

 血臭が漂う戦場は、僅かだけ優しい空気に変わった気がした。

 

 

 

 

 

 

「ノルデ、カズキは大丈夫か?」

 

「殿下、カズキ様に大きな変化はありません。血を求める事も無いようで安心ですよ」

 

 歩み来るアストに気付いていたノルデはカズキの側を譲る。ノルデにとって、カズキの横に立つのはアストであるのは当たり前だった。それを数歩離れて守ることが自分の使命だと思っているかのようだ。

 

 アストはカズキの前に膝をつき、目線を合わせる。短く切られた髪は痛々しい。しかし瞳には何時もの輝きがあって、アストは心から安堵した。変わらぬ愛おしさが溢れてきて、其れを抑えるのに苦労する程だ。

 

「カズキ……」

 

 躊躇なくカズキの手を取り、アストはカズキの瞳を見つめた。

 

 もっと何かを言いたいのに、次の言葉が出ない。何故こんな危険な場所へ、髪をどうして、皆を救ってくれた、もう血を求めなくてよいのか……色々な疑問が浮かんでは消えていく。

 

 

 

 

 そんなアストにカズキは疑問符を浮かべ、包まれた自分の手を見る。嫌では無いが、少し照れ臭い。何時の間にか変わってしまった自分に、こんな時に気づく……もうあの頃とは違うと。

 

 顔を上げれば周囲には沢山の男達が走り回り、あの緑色をした服を着ている者も多い。剣や弓が背中にあり、彼らが化け物と戦う戦士だと示している。傷付く事も恐れず立ち向かう姿を何度も見た。そして目の前で膝をつく王子様もその一人なのだ。

 

 カズキはあの不思議な感情……会いたいのに来て欲しく無い、そんな相反する感情の爆発がこの王子様から発していたのを理解していた。それは一体何なのか聞きたいがそれは叶わない。だから、動かず待つだけだ。

 

 

「どうか無茶をしないでくれ……もし血肉を求めるなら、いつでも逃げ出して欲しい……でも」

 

 カズキの癒しの力は今や欠かすことが出来ない。それを理解するアストは自分が情け無くなった。出来るならノルデに命じて今すぐに城へと帰したい。なのにそれは言葉にならないのだ。

 

 キョトンとするカズキに、アストは胸を掻き毟りたい衝動に駆られる。カズキの意思で聖女として此処に赴いたなら、それを否定など出来ないのに……

 

 そうしているうちに、燃える水の勢いは衰えてアストはカズキの手を離すしか無かった。もっと声を掛けたかったが、戦いは続いている。次の一戦の後、もう一度来よう……立ち上がり、背を向けた。

 

 そして、アストは後悔する。どんな時も悔いは後になって襲うものだから……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「次が来るぞ! 全員確認しろ!」

 

 また撃退してくれると全員が意気を高めて声が溢れた。もはや勝利を疑う者は無く、祝杯を思いもした。

 

 そして魔獣が襲い来る。

 

 それは今迄と変わり無く、崩壊した城壁を目指して進んで来た。ならばと森人は矢を放ち、騎士は魔獣の注意を引く。さらに多くの魔獣を誘い込み、ケーヒルの合図に合わせて火を着けた。今までと同じだ。

 

 爆発する様に火柱が上がると魔獣は悲鳴を上げて、炎の中で息絶えていく。城壁の内側に残された魔獣は暴れて何人もの騎士を吹き飛ばしたが、望み通りに殺したのは僅か数人で、その殆どが剣と矢の餌食となったのだ。

 

 だが、ここから……魔獣の真の恐怖が現れた。

 

 後退する筈の群れは全く止まらない。それどころか何匹も火柱に飛び込んで次々と積み重なっていく。直ぐに空気の供給が絶たれると火の勢いは失われていった。

 

「馬鹿な……そんな方法で!?」

「気を抜くな!来るぞ!」

「もう作戦は通じない、総力戦だ!」

 

 それでも士気は衰えない。何故なら聖女の加護は変わらずに降り注いでいるのだから。

 

「殿下! 陣を押し上げなければ! 森人が孤立してしまいますぞ!」

 

「分かっている! 後陣も参戦しろ!押し返せ!」

 

 叫ぶとアストも駆け出し魔獣へと剣を振るった。目の前の魔獣が倒れると視界が開けて城壁が視界に入る。

 

「くそ! ケーヒル!上だ! 城壁に取り付いた魔獣がいるぞ! 森人の援護に回ってくれ!」

 

 此処は俺が……!

 

 アストはぐるりと周囲を見廻し、ケーヒルに指示を出した。

 

「私達が行きます! 副団長は殿下のお側に!」

 

 カズキに癒された騎士達が突貫し、魔獣の群れに見え隠れする階段へと走り出した。

 

「うおぉーーー!」

 

「お前たち!」

 

 ケーヒルは叫ぶがもう間に合わない。

 

 そして数人が魔獣の囮になり、活路を見出す。 魔獣と斬り結ぶ騎士の一人が走り去る仲間へ声を掛ける。

 

「行け! 森人を後退させろ!」

 

 他の者も更に参戦し、多くの騎士が城壁の上へと駆け上がっていった。 今まで何度も森人の弓に助けられたのだ。 騎士の誇りにかけて、必ず助けると心に誓う。

 

 そして……ついに炎は完全に消え、燃え尽きた魔獣の死体を踏み越えて、赤い波がリンスフィア内部に溢れ出していく。地上と城壁双方で決戦が始まってしまったのだ。

 

 総力戦になれば自ずと死者が出て、同時に負傷者が増加していく。それはカズキの負担がより強まることを意味するのだ。あれ程に感じていた癒しの力が急激に減少に転じ、カズキに変化が訪れようとしていた。

 

 両手で自らの身体を抱き、震えが止まらなくなっていく。周囲を警戒するノルデは勿論、前線のアストすら其れに気付いた。

 

「カズキ様!」

「カズキ!!」

 

 二人に最悪の状況が頭に浮かぶ。再びナイフを握り、何度も血肉を求めるのだ。だが負傷者は加速度的に増えている。直ぐカズキに限界がくるのは明らかだろう。

 

 だが、二人の最悪は、更なる絶望に塗り潰されていくのだ。真の恐怖は直ぐ側まで来ているのに……

 

「ノルデ! せめてカズキの視界を遮ってくれ! 建物の影へ走るんだ! もしもの時は……構わずカズキを連れて逃げろ、いいな!」

 

 アストの言葉にノルデは従い、カズキの手を取り走り出した。

 

 走り出した先には、比較的に大きな倉庫らしき建物。 戦場との距離は大きく変わらず、カズキの癒しはまだ届く筈。 本当は戦場から離脱したいが、ノルデは聖女の意思を尊重すると決めている。 最後まで付き従うのみだ。

 

 辿り着いたその倉庫は、()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 最初にその違和感を覚えたのはケーヒルだった。

 

 魔獣の波が西側へと移動していると感じる。勿論偶然かもしれないが……自分達から離れていく訳では無い。ただ南側から数に任せて猛威を奮っていた群れは西側に集結しつつあった。

 

「これは……」

 

 その事をアストも理解し、嫌でもその意味を考えさせられる。

 

「なんだ……? 気のせいとは……」

 

 自分達を誘っている?

 

 西方へ意思を持って誘うなら、単純に陽動か。

 

 或いは、援軍が待って……

 

 アストはその想像に酷い怖気が走った。魔獣が知恵ある獣なら……そして西に誘導しているなら、残る方角と援軍はその背後……つまり東……そして其処には魔獣を幾度も苦しめた強い要因、聖女カズキがいる。

 

 もし、奴等が聖女の存在を理解し行動しているなら……

 

「まさか!?」

 

 魔獣を前にした危険を承知の上で、でアストは後ろを振り返る。

 

 そして隣に居たケーヒルは走り出していた。ケーヒルはアストを置き、聖女の元へ駆けて行く。アストを見もせず、必死な表情をして……

 

 其処には絶望が迫っていた。

 

 アストの想像通り、いやそれ以上の光景があったのだ。

 

 数々の細い道から魔獣の赤い身体が姿を現し、建物の屋根にすら数匹が下を伺っている。何より音は無く、静かに足を動かす魔獣の恐ろしさよ。ノルデ達は気付いてもいない!

 

 魔獣はアスト達に挟撃を仕掛けて来たのだ。

 

 そして魔獣達のすぐ側には小さな少女と、僅か4人の騎士のみ。カズキの隣にノルデが居るが、何一つ希望にはならないだろう。

 

 アストは自分が震えているのに気付かない。どんなに頭が指令を出そうとも、体が動いてくれないのだ。それは恐怖、自分の命の危機では無い。世界で最も愛するヒトが喪われる恐怖だ。

 

「カ……ズキ……」

 

 1人目はあっさりと背後から切り裂かれた。2人目の騎士すらも振り返った時には意識は暗闇に消えた。彼らは自らの死を自覚出来ただろうか?

 

 それを見たカズキは強い慈愛から声無き叫びを上げた。大きく開かれた口がそれを証明している。何より腰からナイフを抜き、まるで戦うかの様に構えた。それを見たアストの脚は力を得て縺れるように前へと突き進む。

 

 ノルデは魔獣の攻撃を躱したが、カズキとの間に魔獣の身体を入れてしまう。屋根から飛び降りて来たもう一匹はカズキのすぐ横に着地する。ズシンと響く振動は離れたアストに届いたと錯覚する。そして……ノソリと腕を上げ、カズキの頭上へと固定された。

 

 アストは叫び声を上げたが、自分の耳には入って来ない。

 

 死ぬ?カズキが?

 

 そんな言葉だけが頭に響き、走っている筈なのに一向に近づいてくれない。

 

 致命の一撃が振り下ろされてカズキは呆然と天を見上げた。

 

「させん! それ以上は……絶対に!」

 

 先に駆け出していたケーヒルは、カズキの小さな身体を隠すように魔獣との間に飛び込んだ。ケーヒルだけなら躱すか去なすか出来ただろう。だがその背後には守ると誓った聖女がいる。

 

 ケーヒルの懺悔はどこまでも強い。

 

 あの時ディオゲネスにトドメを刺していれば、油断さえしてなければ……カズキは母ロザリーの懐に抱かれていた筈なのだ。今この時も、ケーヒルに死への恐怖は無く、ただ自らの不甲斐なさを悔いているのみだった。

 

 だから、魔獣の長い爪はケーヒルの大剣を砕き、肩から腹に掛けて切り裂いてもカズキへ届くことは無い。

 

 長い爪はカズキの寸前、僅かなところで止まった。降り注ぐ血の雨はカズキを染めても、死を遠ざけたのだ。

 

「ケーヒル!!」

「副団長……!」

 

 魔獣は思い通りにならなかったのが気に障ったのか、もう一方の腕を虫を払うように横に振ろうとする。 今度はカズキがナイフを頭上に掲げてケーヒルを庇おうとした。だが、カズキではケーヒルを助けるどころか、簡単に命を失うのは明らかだった。

 

「が、は……だ、駄目だ……よせ……」

 

 先の一撃で気を失っていてもおかしくない負傷を無視して、ケーヒルは力を振り絞る。せめて致命の一振りから逃がさなければ……

 

 そしてケーヒルが割り込み、肩と脚に爪が突き刺さった。最早剣は握る事は出来ないであろう、騎士として終わった瞬間だった。その命すら時間の問題だろう……それでも、ほんの僅か、魔獣の爪の先、たったそれだけがカズキの右肩辺りに当たった。まだ辿り着いてないアストには当たった事すら視認出来ない程の僅かな接触だ。 なのに、小さな少女でしかないカズキには十分過ぎたのだ。

 

 ほぼ水平方向に飛んだカズキの身体から何かが弾け飛んだ。クルクルと回転し地面に落ちた長細いソレは、カズキの右腕だ。その手にはあのナイフが握られたまま。

 

 それを見てしまったアストは今度こそ絶叫した。

 

 そして目の前にカズキが転がり込んで来たのだ。 既に意識はなく、ぐったりと体を投げ出している。右肩からはドクドクと赤い血が流れて更に森人の服を染めていった。

 

「う……カ、カズキ……そんな」

 

 アストは剣すら放り投げて、縋り付くように膝を付き小さな身体を抱き上げた。

 

「あああーー! カズキ、カズキーーー!!!」

 

 気が狂ったのかと思う程の様相を抑えもせず、アストは叫びを繰り返すしかない。その叫びは戦場に響き渡り、戦況がひっくり返った事を報せてしまった。

 

 ケーヒルは地面に倒れ、ピクリとも動かない。叫んだアストは剣を持たず、聖女を抱き止めていた。そして癒しの力が消えたのを皆が感じて、何人も脚が止まってしまう。

 

 それを悠長に待つ魔獣など其処にはなく、ほんの僅かな時間で騎士の半数近くが絶命していく。そしてそれは森人すら例外では無かった。

 

 フェイやドルズスは声を荒げて指示を出し続けていたが、混乱した戦線は息を吹き返したりしない。ジャービエルさえ脚が止まった。

 

「だ、駄目だ……負ける……リンディアは……」

 

 誰かが呟く。

 

 リンディアの騎士、そして森人は諦観に襲われて、全ての気力すら消えていった。それを知ったのか、魔獣は動きを緩めて人を弄び始める。

 

 

 

 だが……勝利を確信した筈の魔獣も、滅亡が頭を過ぎった人々さえも気付いてない事実があった。

 

 魔獣がこの世界に現れて数百年、今日がその長い歴史の中で初めての事だ。

 

 

 

 それは……

 

 

 

 魔獣の手に依って、初めて捧げられた。

 

 魔獣自らが捧げたのだ。

 

 この世界に唯一人の聖女。

 

 その聖女の血肉を……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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73.聖女の願い

 

 

 

 

 

 ゆっくりと目蓋を開くと眩しい光が網膜に届く。そして自分が何処にいるのか理解した。

 

 其処は上下すら無く、境界線も見えない。限りないと思う程の先は地平線も存在しないのだ。

 

 真っ白な世界にカズキは1人、佇んでいる。

 

 何度も来れば少しは慣れて、カズキに混乱は訪れなかった。自我がはっきりすると、周囲から人々の声が聞こえてきた。その殆どが聖女への救いを求めるもので、何も出来ないカズキは少し哀しくなる。

 

 ふと、カズキの目に懐かしい色が映った。

 

 それは同時に黄金色の瞳を思い出させる鮮やかな赤色だ。ふらふらと其処に近づき、カズキは目と耳を澄ました。小さな女の子と背の高い男性に挟まれた女性は間違いなくロザリーだ。何度も何度もカズキを気に掛けてくれた母は、其処にいる。なのにロザリーは振り返らない……ずっと3人で話すだけ。どんなに足掻いても、背中を眺める事しか出来ない。あの眼差しがカズキを見る事は無かった。

 

 だからカズキは理解した。それが何を意味するのか……誰にも例外なんて無い事に。

 

 母は……ロザリーは行ってしまったのだ。もう自分の手が届かない場所へと旅立った。きっと残していく自分が気に掛かって、留まっていてくれたのだろう。それは辛く悲しくて、幻の筈の自分に涙が溢れてくるのを感じた。

 

 周りを見渡せば、誰一人としてカズキを見ていない。以前よりもずっと多くの人が居るのに、顔が見えない。殆どが鎧や緑色の服を着込んでいた。彼らは戦士だ、力の限り戦い続ける。それでも、時に傷付き、時には命を失う。

 

 あんなに多くの人が此処にいる……そして増えていく。

 

 それが意味するところが分かってしまう。

 

 怖くなったカズキは其処から離れようと脚に力を込めた。ユラユラと前へと進み、救いを求める声も聞こえなくなった。

 

 だからその声が耳に届いたのだろう。

 

 その声は救いなど求めていない。それは……何処かで聞いた事がある。

 

 懐かしい?

 

 いや、ついさっきも、何時も、沢山聞いた声だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふふっ……。 手間のかかる妹ってこんな感じなのかしら? なんだかとても楽しいわ」

「ボタニ湖よ。 今もある筈のそこには、もう人は辿り着けないけど、私もいつか見てみたいな。 その時はカズキも一緒に行きましょう?」

「何処にいるの!? 直ぐに会いたいわ!!」

「良かった、無事で……無事でいてくれて……」

「言語不覚の刻印が消えたら、カズキの声を聞けるかもしれない。それは何て素敵な事だろう……きっと最高の、幸せな時に違いないわ」

「本当の慈愛? 慈しむ心なら私だって……何が足りないの? 教えてよ、カズキ」

「カズキ……彼に連れて行って貰いなさい。貴女の思うままに、道を真っ直ぐに進むのよ」

 

 

 アスティア……この声はアスティアだ。

 

 

 そうしている内にぼんやりと姿が浮かんで来た。あのベランダの端でアスティアは祈りを捧げている。腰まで届く綺麗な銀の髪は床に付いてしまって、膝を折り曲げているのが分かった。でもアスティアは気にもしていない。あの碧眼は目蓋の奥に隠れて見えなかった。

 

 薄く紅を引いた唇からは途切れそうな音が震えている。

 

「どうか……神々よ、カズキをお護り下さい。あの子は聖女なのでしょう、でも……私にとっては愛する妹なのです。お願い……あの子を護って……」

 

 それは祈りなのか、アスティアの心からの願いだった。

 

 

 そして、他にも心地良い声音が響く。

 

 

 

 

「はぁー……確かに綺麗な子ですねー……でも不思議な髪だし、目もあまり見ない色だなぁ……」

「もう、男の子じゃないんだから、丁寧に洗わないとね?」

「あそこのお店ならあのワインが手に入るかもしれませんよ! ほら、あの店です!」

 

 ロザリーとは色の違う赤髪をお団子で纏めている。多分歳上だろうに、何処か幼い。

 

 エリ……名前はエリ?

 

 

「そんな……そんなの悲し過ぎます……あの子は何のために……もし世界が救われたとしても、あの子を誰が救うと言うのですか……」

「カズキは最初の頃、人を信じていませんでした。誰にも頼らず、いつも何か隙を伺う。癒しすら自らの意思とは思えない……何時も無表情で、冷たい目をしていたのです」

「変化を感じたのは……アスティア様がカズキを妹として心から愛し始めた時です。 そして今は……」

「はい……あくまでも仮定ですが、カズキの封印を解くのは……」

「家族との……誰もが当たり前に持つ筈の、家族との愛ではないかと……」

 

 理知的な青い瞳、肩で揃えた金の髪。

 

 その髪は癖毛なのか、少しだけ曲がってる。

 

 クイン……あのお説教のお姉さんだ。名前はクインって言うのか……

 

 

 

 

 そして遠くから、いや直ぐ近くから、また声が聞こえた。この声には間違いなく覚えがある。

 

 

「……ありがとう、よく届けてくれた。 ところで、聞かせて欲しい……カズキは、聖女は元気にしていただろうか?」

「信頼の置ける素晴らしい人だよ。隊商マファルダストの隊長で、優れた森人でもある。名前からも解る通り、優しくて強い女性だ。ロザリーなら安心出来る、カズキを守ってくれる、それは保証するよ」

「アスティア、全部読んだんだろう? カズキがまたお酒で騒ぎを起こしたみたいだから、叱らないといけないな」

「いや、その通りだ……私は何処かで距離を取っていたと思う。もっと寄り添って上げれば、いや寄り添いたいのに」

「あの時もこうやって君を見ていた。やはり眠ったままで、その美しさに驚いたものだよ」

「最初からアスティアはそうしていた、カズキは手の掛かる妹だと。聖女などではなく一人の人間と認めていなかったのは私だけだった様だな……情けない話だ……」

 

 アスティアにそっくりな銀髪は彼女と違って短い。

 

 いや、アスティアが彼に似ているのかな。

 

 二人は兄妹なんだから当たり前か。

 

 

 

 また、変わっていく、景色が……

 

 

 あそこは……確か……綺麗な月が浮かんでいた……

 

 長い階段を降りて、遠くに大きな木が見えた。沢山の篝火がユラユラ揺れて、美しい泉があって、大きな木は真ん中の小島に立ってる。

 

 ()は私を抱き上げ、飛び石を飛ぶように跳ね連れて行く。恥ずかしさと、ちょっとした怒り、情けなさ、それと少しだけ怖かった。なんで私は怒ってたのかな……

 

 手を大木の幹に添え、声が聞こえた。

 

 今なら分かる……彼はただ、私の為に連れて行った。少しでも気が紛れる様に、あの庭園の美しさを見せたくて、そして話せない自分に声を聞かせてあげたならと、手を取ったんだ。

 

「言い伝えがあるんだ。 この木に触れて耳を澄ますと、逢いたい人や亡くした人の声が聞こえるって……」

 

「カズキが逢いたい人の声が聞こえたらいい」

 

 そうやって、青い瞳をずっと向けていた。そこには暖かい眼差しと、少しだけ悲しげな色がある。

 

 

 彼の声は、他の者とは違う。

 

 決して救いを求めない。寧ろ危険から遠ざけようと……来ては駄目だと、なのに会いたいと、抱き締めたいと願っていた。それは不思議な感情の波、でもこんな感情は知らない。けれど……心地良い。

 

 何だろう?

 

 そう思うと目の前に新たな景色が映る。

 

 叫んでいる……何度も、何度も、名前を。

 

 その名前には憶えがある……当たり前だ、自分の名前なんだから。

 

 血だらけの小さな女の子を胸に抱き、悲壮な絶叫を繰り返す。涙が幾筋も流れて、ポタポタと顔に掛かる。

 

 ああ、あれは……()()

 

 ついさっきあの化け物の爪に引っ掻かれて、情けなくも意識を失った。よく見れば右腕が無い。血が流れて今にも死んでしまいそうだ。

 

 他人事の様にそれを眺め、もう一度私を抱き締める彼を見た。

 

「カズキ……頼む、お願いだ……死なないでくれ……」

 

「神よ……どうか救いを、私の命を代わりに捧げてもいい!」

「何故、こんなの酷すぎる……」

「こんなに血が……ああ、死んでしまう……カズキが、カズキが……!」

 

 それは正に慟哭だ。魂からの叫び、心からの願い。

 

 そして理解した。彼の名前を、彼の気持ちを。

 

 それはつい最近の記憶。あの大きな部屋で、()()()が私に言った。

 

「カズキ……大丈夫だよ。必ず守ってみせる……愛しているから……」

 

 そしてアストは口付けを落としたのだ。

 

 

 

 

 愛を囁いた?

 

 そんなの知らない……こんな気持ち、知らない!

 

 アストは、あの血だらけの女の子が好き?

 

 だから死なないでと叫んでいる?

 

 駄目だよ……そんなの……

 

 だって……アストが抱き締めてるのは、その女の子は……カズキ、私なんだから……

 

 私は……ワタシ? アレ?いつから……だって、自分はあんな小さな少女なんかじゃ……

 

 ううん、あの子は私。

 

 あっちの世界にいた和希も、この世界にいるカズキも、同じ。

 

 ほんの少し変わってしまったけれど、それは嫌なことじゃないから。

 

 ほら、やっぱり……暖かいよ……

 

 

 

 

 

 もし、クインがそれを見たら、叫び、泣き、そして歓喜しただろう。其処に顕われたのだから。

 

 右胸に僅かに残っていた封印は今、その力を全て失った。其処に在るのは、世界にたった一つしかない刻印、人がどんなに望んでも手に入れる事が出来る筈のない力。

 

 黒神の加護、5つの刻印はカズキから去っていく。

 

 

 

 かつて、黒神ヤトはカズキに言った。

 

 

「もっと……もっと優しくされたい、愛されたい、誰かに抱きしめられて、もう大丈夫と言って欲しい。そして、そんな事を思う弱い自分が世界で一番嫌い」

 

「本当にすまないと思ってる……どうかあの世界を救って欲しい。 勝手だけれど、これは君の救いの道にも繋がっているかも知れない、そう信じているよ……」

 

 

 アストもアスティアも、世界に住まう人々はまだ気づかない。

 

 赤い身体を震わせる魔獣ですらも、理解出来ない。目の前に在るのに……

 

 

 力無く、意識もない。

 

 小さな身体の非力な少女。

 

 戦うことも、叫ぶことも出来ない。

 

 だけど、変わったのだ。

 

 

 

 

 5階位の刻印、その力は神そのもの。

 

 司るのは癒し。

 

 それは傷付いた者を助け、傷付いた世界すら癒すだろう。 

 

 カズキは全てを理解した。

 

 この世界も、アスト達の愛も、人々の希望も……そして魔獣達の悲鳴さえも。

 

 魔獣に依り捧げられたカズキの血肉は、その対象を選びはしない。泣いているなら助けるだけ、泣き顔なんて見たくない。

 

 魔獣は別の世界から飛ばされて来た。カズキのいた世界では勿論ないし、此処とも違う。それは事故だったのだろう。

 

 魔獣達は見た事もない世界と、嗅いだこともない匂いに慄いた。そして未知の生物と遭遇した時、その恐怖は限界を超えたのだ。ただ怖くて、元の世界の様に地面を掘った。見慣れない光から逃げたくて暗闇へと潜る。

 

 一人は怖い。

 

 だから本能に任せて仲間を増やし、力を強くした。痛いのは嫌だし、死にたくない。何より元の世界、自分の家に帰りたい……だから遠くへと掘り続けた。いつか帰れると信じて。

 

 怖いから戦う。

 

 あんな生き物なんて見た事が無いのだから。

 

 魔獣の心には、恐怖と怒りが渦巻いている。どうしたら良いのか分からずに、ただ迷子になった子供の様に泣いている。

 

 カズキは助けたいと思う。

 

 だって、みんな泣いてるから。

 

 

 

 アストも泣いてる。

 

 アスティアも、クインやエリも。

 

 ロザリーも哀しそうな顔をしていた。

 

 見渡せばカズキを想う人がいる。

 

 フェイ、リンド、ジャービエル、ドルズス。

 

 カーディル、ケーヒル、ジョシュ、ノルデ。

 

 クレオン、アイトール、チェチリア、エレナ。

 

 他にもたくさん……

 

 

 

 だから行かないと……私を待っている人がいるから……そうカズキは思って、目を覚ます事にした。

 

 

 そうして、世界にたった一人の……

 

 異界の血を持ちながらも、この世界の加護を持つ。

 

 それは、慈愛と、癒し。

 

 真の力。

 

 本当の……今度こそ本物の……

 

 

 

 世界に、黒神の聖女が降臨する。

 

 

 

 

 

 

 



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74.黒神の聖女

このシーンが最初にあって、この物語が生まれました。
作者的にお気に入りのシーンです。


 

 

 

 

 

 もう、陣は崩壊して人と魔獣が入り乱れてしまった。

 

 アストは自分の罪を自覚する。

 

 遠くではノルデが頭から血を流しながらも、必死で此方に近づこうと剣を振る。折れた弓を放り投げたフェイは声を荒げて腰から小剣を抜いた。ドルズスはジャービエルに喝を入れ、無事な矢を放っている。皆がアストとカズキを助けようと血を流して……

 

 本当なら直ぐ側に落ちている愛剣を握り、駆け付けなければならないのに……それでもアストは動けない。

 

 抱くカズキを地面に放り出し、一人になんて出来ない。それは弱さなのか、傲慢なのか……カズキの身体は温かいのだ。

 

 もう……勝てないだろう。

 

 全て自分が不甲斐ないばかりに……アストは心から懺悔するしかない。

 

 カズキから流れ来る癒しの力は細まり、僅かに感じるだけ。魔獣は遊んでいるのか、必死に抗う人々を弄ぶ。

 

 だから、せめて、アストは呟く。

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ……済まない、君を巻き込んで……」

 

 鈍い意識にアストの声が響いた。

 

「私がリンディアにいなければ、あの時出会わなければ……君は違う道を歩めたのだろうか……」

 

 それは哀しい音だ。

 

「守ると誓ったのに……情け無い男だ、私は」

 

 カズキは目を開けようと力を入れるが、まだ身体に感覚が戻らない。右肩から痛みが走るし、流れ出る血液さえ感じることが出来るのに……アストが見えない。

 

 周囲から沢山の悲鳴が聞こえてくる。それは人であり、魔獣でもあった。何とか助けたくて必死に目を開けようと頑張るが、痛みだけが強く感じて泣きたくなった。

 

「もう此処まで、か……アスティア、本当に済まない。父上、申し訳ありません……私は誰一人救う事が出来ない様だ。ヴァルハラで必ず詫びます、どうか最期まで安らかに……」

 

 また哀しくなる。

 

 今迄もアスト達は自分を想ってくれていたのに、その気持ちを信じる事すらしなかった。この世界に着いた時からアストは助けてくれて、リンスフィアでは暖かく迎えてくれたのに。まるで家族のように、そして一人の人として愛してくれた。ロザリーに出会うまで、そんな当たり前の事すら知らなかった。

 

 大丈夫……必ず助けるよ……

 

 カズキはそう伝えたかった。 

 

 だけど、この身体は酷く弱っていて、指一本を動かすのすら簡単じゃない。

 

 すると肩とは違う別の痛みが胸の中心に走る。

 

 その痛みは肉体の叫びでは無い。カズキはそれを理解して、時間が足りないと焦る。

 

 人には過ぎた力、5階位の刻印が魂魄を削るのが分かった。ジリジリと魂魄は削がれていく、急がないと……目蓋を力一杯開き、何とかアストを視界に捉えようとした。

 

 肩に鋭い痛みが走ったが、無視する。

 

 そして光を感じ、視界が戻っていった。

 

 丁度リンディア城を見ていたのか、アストはカズキの瞳を見ていなかった。少しだけ腹が立って、カズキは身動ぎする。アストは直ぐに気づき、ハッとカズキを見た。

 

「カズキ……! 意識が……」

 

 カズキは笑おうとしたが、やはり身体は言う事を聞いてくれないようだった。周囲から剣戟の音がしてきて、此処が戦場だと思い出した。

 

 泣き腫らした目を隠しもせずにカズキを見ると、アストは肩に負担を掛けないよう優しく抱き締める。震えも隠さず、ただカズキに謝った。

 

「カズキ、君を守れなかった……本当に済まない……痛いだろうに……せめて最期まで一緒にいよう」

 

 心からの懺悔は、アストの気持ちを物語っていた。今なら、其れを受け止める事が出来る。 

 

 だから力を振り絞るのだ。

 

 もう、カズキを縛る(くびき)は存在しない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ア……ス、ト」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 周りは人と魔獣の悲鳴が溢れ、剣や矢が折れる音がする騒がしい空間なのに……抱き締め耳元に寄せられていた唇から紡がれた言葉は、間違いなくアストへと届いた。

 

 初めて聞いた声は、擦れて、少しだけ低い。でも戦場に不釣り合いな少女の声音に疑いなど無かった。儚くて、美しい……

 

「……カズキ……君が言葉を……? 私の名前を紡いでくれたのか……!」

 

 アストは今の状況すら忘れ、大きな幸せを噛み締めた。夢見て祈った回数は数え切れない。それが叶うなら、全てを捧げても良いと思うほどに。

 

 そっと離したカズキの顔には僅かな微笑が浮かんでいる気がした。まさか本当に幻聴だったのだろうか……アストは不安に襲われる。だけどその不安もすぐに掻き消えた。

 

「ア、スト」

 

「カズキ……」

 

「ごめんなさい……」

 

 

 魔獣も人も泣いている……早く気づいていれば、もっと沢山助ける事が出来たのに。今迄、ずっと気付かなくて、みんなを信じる事を諦めて、耳と目を塞いでいた。心さえも閉ざし、貴方を見なかった。これ程までに愛してくれていたのに……私の願いはずっと前に届いていたのに。

 

 カズキはもっと沢山の言葉を紡ぎたかったが、失われた血液は余りに多く、身体に力が入らないのだ。ましてや随分長く喉を使って無かったから……

 

 だから、ごめんなさい。

 

 言葉を紡ぐって、こんなに大変だったんだ……伝えたい何分の一も言葉にならない。

 

「なんで……君が、君が謝る事なんて無い! カズキがどれ程の救いをもたらしてくれたか……お願いだから、謝らないでくれ……」

 

 心の中で叫ぶ。

 

 違う、救われたのは私の方……!

 

 貴方だけじゃない、アスティアは妹として愛してくれた。

 

 クインやエリはまるで友達みたいに……

 

 ロザリーは私の母になってくれた!

 

 他にも沢山、救ってくれたんだ!

 

 だから……

 

 

「アス、ト……」

 

 

 カズキはアストの体温を感じて嬉しくなった。今も強く抱き締めてくれている。

 

 どうしたらこの感情を、この気持ちを伝えられるのだろうか……カズキはもどかしく、アストの瞳に自分を写す。

 

 言葉が力を持たないなら、人はどうやって愛を伝える?

 

 アストが苦しむ必要なんて無いのに……

 

 今になって後悔する。何年も生きてきて、こんな単純な事も分からないなんて。小さなアスティアだって、簡単に出来てたのに……言葉なんて無くても困らないと強がっていた。

 

 伝えたい。

 

 白い世界で聞いたよ……そして見たんだ。

 

 ロザリーだけじゃ無い、アストも私を愛してくれている。

 

 アストの端正な顔は涙に歪み、悲しみに濡れている。

 

 泣かないで……

 

 カズキは自分に出来る事を探す。

 

 削れていく魂魄は絶えず痛みを届けてくる。右肩の感覚は遠くに避けてしまえばいいけど、時間が無いのに……

 

 あの部屋は沢山の安らぎを与え、アストは愛を囁いてくれたのに……

 

 ああ……あるじゃないか……言葉を紡がなくても、伝えられる。カズキは簡単だったと安堵した。

 

 嫌悪感は無い。自分は変容し、今は女だ……いや、それは些細な事。

 

 カズキは残る左腕を上げ、アストの頬を撫でる。汗と涙、赤い血も少しだけ。身体を無理に動かしたからかカズキの顔は痛みに歪んだ。

 

「カズキ、無理をしては……」

 

 直ぐに微笑を浮かべ、もう一度アストを見る。左手をアストの後頭部に優しく回すと、ゆっくりと下に力を入れる。アストはカズキが何かを伝えるつもりかと、それに逆らわない。二人は鼻が触れ合う程に近づき、アストは耳を澄ました。

 

 その言葉を絶対に聞き逃さないと、アストは集中していた。だから、カズキの、簡単な感情の伝え方に反応はしなかったのだ。

 

 

「ん……」

 

 

 柔らかな感触はそれぞれの唇が重なった事を教えてくれる。ほんの少し暖かく、血の味がした。こんな戦場で無ければ、それは一つの絵になっただろう。周囲は魔獣と人が入り乱れ、アスト達まで、距離も縮まってきている。

 

 二人にとって長い時間、現実には僅かなひととき、アストとカズキは口づけを交わした。再びゆっくりと離れると、碧眼と翡翠色の瞳にお互いが見えた。

 

「アスト、ありがとう……」

 

 アストは我を忘れて、呆然とカズキを見る事しか出来ない。何が起きたのか分かるのに、それは夢の中にいる様で……全ての現実すら忘れさせた。今この時だけは魔獣もリンディアも消え去って、アストはカズキが自分の腕に抱かれているのを確かめる。

 

 そしてカズキは……時と力が満ちた事を実感し、同時にアストのお陰だと目を細めた。もう大丈夫、出来るよ……

 

「大丈夫……必ず助けるよ……待ってて……」

 

「カズキ、何を……」

 

「待ってて……直ぐに、大丈夫だから」

 

 

 

 

 

 

 

 その時、アストの側で光が弾けた。

 

 

 

 その白い光は、まるで花のように空間に咲く。

 

 パッ……

 

 パパッ……

 

 一つが二つに、そしてもっと沢山。

 

 パパパ……パパパパパパッ……

 

 気づけば周囲に白い光が次々と放たれ、アストの視界を染めていく。

 

「これは……」

 

 これはカズキの癒しの力、優しい光に間違いなかった。白い光から花びらが飛ぶように、小さな火花が飛び散る。

 

 その一雫に触れた騎士は瞬時に癒され、胸を貫かれていた森人から痛みは消えた。命を繋いでいれば、一瞬後には絶命したであろう者すら目を開ける。そう……死と眠りの黒神エントーから加護を受けてさえいなければ、例えヴァルハラが彼方に見えたとしても簡単に戻る事が出来たのだ。

 

 意識の無かったケーヒルもパチリと目を開いた。

 

「癒し……聖女の力か……」

 

「助かった……?」

「痛みが消えたぞ!」

「また、癒しの力を感じるなんて」

「いや、前より強くないか……?」

「見ろよ……! 吹き飛んだ指が、元通りだ」

「やはり……聖女様が?」 

 

 降り注ぐ力は、人だけでは無く魔獣にすら届く。

 

 白の一雫に触れた魔獣は、まるで空に溶けるように消えていったのだ。身体の大きさなんて関係は無かった。やはり生きてさえいれば、魔獣の姿は消えて行く。

 

「魔獣が……」

 

「消える……?」

 

 実際には魔獣を送還しているのだが、騎士や森人には理解出来ないだろう。勿論それを眺めるアストにも。

 

 パパッパパパッ……カズキを中心に白い花は広がる。もし上空から様子を眺める事が出来たなら、まるで波紋が伝わって行くように、世界すら包むのを知っただろう。祈るアスティアは白い光に一瞬目を閉じて、それが何なのか理解した。そして……その力はリンスフィアを超え、周囲の森すら通り過ぎていく。まだあるかもしれない他国へも届くのだ。

 

 

 

 黒神の聖女、その癒しは皆を包む。

 

 

 正に救済だった。

 

 人々の命を助け、赤い魔獣すら送還した。

 

 そう、聖女は世界すら癒す。

 

 

 

 少しずつ光はおさまり、全員が視界を取り戻していった。皆が目にしたのは、癒しが間に合う事の無かった人々と魔獣達。その全員が、魔獣の全てが息絶えている。等しくエントーの加護が降り注いだのだろう。

 

「どうなったんだ……?」

 

「魔獣が一匹も……」

 

「ああ、溢れる程にいたのに」

 

「信じられない……助かったのか……」

 

 騎士達は立ち竦み、呆然と周囲を見回す。森人も尻を地面に下ろしたり、膝をついたりしてキョロキョロと首を捻った。

 

 崩れた城壁に変化は無く、これが夢では無いと実感させられる。

 

「あっ……」

 

 見れば何時の間にか蝶が舞い、空には小鳥が羽ばたいている。その囀りは広い空に消えていった。

 

 そうして、静寂がリンスフィアを包む。

 

 誰もが未だ現実を受け入れられないのだ。ついさっきまで最期だと諦めていたのに。

 

「救済……神々の、聖女様……?」

 

 誰かが呟いたのだろう、その言葉は響き次々と伝わっていく。

 

「そうだ、救済だ……」

「ああ、癒しの力を感じたよな……?」

「あの光、俺は南で見たことがあるぞ……」

「魔獣まで消し去るとは」

「そうだよ、間違いない!」

 

「「聖女様の救済だ!!!」」

 

 静けさは爆発的な叫びに追いやられ、リンスフィアに歓声が鳴り響く。その声は戦場だけで無く、次々と伝播して、リンディア城まで届いた。 ベランダで祈りを捧げていたアスティアにも、直ぐ隣でそのアスティアを支えるカーディルにも、側に控えるクインやエリにさえ届いたのだ。

 

 

 

「カズキ……やった、やったぞ! 君が癒しを……」

 

 胸に抱くカズキに視線を落として、アストは言葉を失った。目蓋を思い切り瞑り、嘘だと、冗談だと言って欲しくて、もう一度カズキを見る。

 

 

 

 千切れた腕の付け根、肩口からは血はもう流れていない。

 

 さっきまで頬に添えてくれていた左手はダラリと泥に落ちていた。

 

 言葉少なに紡いだ唇は僅かに開いて、動かない。

 

 あの美しい(かんばせ)は白くなって、まるで陶磁器の如くヒビ割れている。アスティアが例えたアンティークドールの様に。

 

 ボタニ湖を思わせる翡翠色の瞳は、薄く開いた目蓋の奥に見え隠れするだけ。強い意思も暖かな慈愛も感じる事は出来ず、輝きは消え去った。

 

 

「嘘だ……」

 

 

 魂魄を捧げ、カズキは聖女の救済を成したのだ。

 

 

「そんなこと有り得ない、有っては駄目なんだ……」

 

「私の目を見てくれ、もう一度私の……」

 

「カズキ……なぜだ……」

 

 

 ヒビ割れた頬に震える手を添えると、正に陶器の様な感触と冷たさが返ってくる。ついさっき、ほんの少し前に交わした口づけの、あの柔らかさは……アストは胸が締め付けられ、酷い痛みを覚えた。

 

 そして耐えられなくなる、いや耐えられる訳がない。

 

 だから、叫ぶ。

 

 それしか出来ない。

 

 

「あ、あああぁぁーーーーー!!!」

 

「誰か、誰か助けてくれ……だれか!」

 

 

 魂の声は、救済の全て、その歓喜、そして大きな歓声に埋もれて周囲に響かない。直ぐ側に天を仰ぎ見る人達がいるのに、彼らは涙を流し、互いに抱きついて叫んでいる。

 

 

「なんでこんな……酷すぎる、なぜ……」

 

 

 アストはもう一度カズキを抱き締め、嘆きを世界にぶつけた。さっきまでは痛いだろうと力を込めたりしなかったのに、今はそれが出来る事が悲しい。

 

 肩を震わせるアストの元へ歓声が止まらない群衆の中から二人の男が歩み寄って来た。巨体を揺らすケーヒルと、青白い顔をしたノルデだった。

 

「殿下……」

 

 身体中が血で濡れているが、ケーヒルも癒されていた。ノルデも数多く負傷したが、笑うほどにあっさりと傷は消えたのだ。

 

 ケーヒルの投げ掛けにもアストは返さず、ただカズキと二人蹲るだけ。肩が震え、小さな嘆きが耳に届いた。

 

「カズキ様……」

 

 ノルデは足を止めて立ち竦む。

 

 ケーヒルはカズキの姿を目に入れると、両膝を地面につけ、眼を薄く開き天を見る。無言のそれは神々への祈り、そのものだ。そしてノルデもそれに倣い膝をつく。

 

 歓声は少しずつ鎮まり、アストを中心とした祈りが円周上に広がっていった。

 

 何を以って、何を成したのか分かったのだ。

 

 聖女は癒しの力だけでは無く、万人に降り注ぐ慈愛を司るのだから。

 

 そうしてまた沈黙が支配したが、アストの嘆き、震える泣き声だけは決して消えたりはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 




話せないヒロインが初めて言葉を紡ぐ。このシーンが最初にありました。カズキがどうなったのか……残る回は明日から三日連続、エピローグ三話構成です。


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エピローグ 前編 〜祈り〜

3話のエピローグ。先ずは前編です。


 

 

 

 

 

 後の時代に"救済の日"と呼ばれる事となる魔獣が消えた日から、既に二十日以上が経過している。

 

 鎮魂の祈りはリンスフィアを包み、同時に世界は救われた事を実感していた。

 

 ジョシュや他の騎士や森人、北を防衛した者達が東で戦い散った事実も直ぐに知れた。彼らが命を賭けたであろうその事実は、側で倒れている魔獣の死骸達が証明したのだ。間違いなく南へ魔獣が流れるのを防ぐ為に決死の戦いに臨んだのだろう。もしかしたら僅か数匹とは言え、その魔獣がカズキの命を奪ったかもしれない。その犠牲に皆が祈りを捧げた。

 

 主戦派の残党は自ら剣を捨て、全員が捕縛されて牢へ繋がれた。復興が始まる時、裁かれる事になる。身体の怪我では無く心すら癒されたのか、全員が素直に自供すると誓った。また、ユーニードは牢獄で自害しているのが見つかった。首謀者の死は主戦派の終わりを象徴して、全てが変わったと誰もが思っただろう。

 

 そして、まだ僅かだが森の開拓は進んでいた。

 

 魔獣が消え去ったとはいえ、心の奥底に根付いた恐怖は簡単には拭えない。森人を中心に騎士が同行して調査が行われているが、それは決して早いとは言えない。それでも従来を上回る資源が手に入り、リンスフィアは復興の足掛かりを掴んでいた。

 

 周辺の村々にも少しずつ人が戻り、破壊された家や柵、家畜や畑の手入れにも力が入る。それは大変な労力なのに、人々に笑顔は絶えない。

 

 勿論多くの犠牲者が出た事で、実態の把握も未だ終わっていない。悲しみが消える訳など無いが、世界が救済された事はやはり喜びを生むのだろう。滅亡は直ぐそこにあると考えていた人達にとって、それは奇跡だったのだ。

 

 聖女による世界の救済は今や皆の知るところとなった。リンスフィアに避難していた国民の多くは救済の光を目撃したし、何より騎士や森人の証言が物語っているのだ。光に包まれた魔獣は世界から消え去り、命を繫いでいた人々は尽く癒された。他国からの報せはまだ無いが、光が世界を包んだ事を誰もが確信している。

 

 

 

 

 

 あの日、アストはカズキを抱き上げリンディア城に帰った。その途中、アスト達は多くの歓声に包まれた。誰もが二人を讃え、涙を流す者も多い。両手を天に突き上げ、大きな声を上げている。

 

 リンディアの栄光、騎士や森人、新たな英雄、そして聖女……実に300年も続いた斜陽の時代に終止符を打った。民衆は大きな喜びに包まれたのだ。それも当然だろう。

 

 だがその内、一向に目を覚まさない聖女の姿に静けさが広がっていった。

 

 悲壮な表情と涙の跡を隠さないアスト。

 

 その腕に抱かれた聖女。

 

 失われた腕、短く切られた黒髪、まるで陶磁器の様にひび割れた容貌、薄っすらと開かれた目蓋の奥に見える翡翠色の瞳に力は無い。

 

 そして、誰もが如何にして救済が行われたのかを理解したのだ。

 

 慈愛と自己犠牲に溢れた聖女が何をしたのか。自らの命を失う事すら厭わず、世界と人々の為に捧げた……それが伝わったとき、聖女の道にシンと静寂は訪れた。

 

 そして一人も欠けることなく、静かに神々へ祈り始めた。膝をつき、空を見上げる。

 

 そんな聖女の道を、アストはゆっくりと歩んで行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの髪飾りの様に銀月と星々は静かに瞬いている。リンディア城は夜の帳が降り、篝火が風に吹かれて揺れて星光が届く。

 

 そして聖女の間からも光が漏れている。

 

 そこには、カズキの無事な方の手を両手で包むアスティアの姿があった。

 

 聖女の間、その中央にあるベッドにカズキは横たわっていた。毎日クインやエリに体を清められ、時にはアスティアも手伝う。失われた右腕や傷だらけの身体を見るのは何より辛い。それでも優しく、いたわる様に世話をした。

 

「アスティア様……そろそろお休みにならないと……」

 

 エリは心配そうにアスティアに声を掛けた。日が沈んで随分と時間が経過している。ランプと暖炉が灯す明かりだけがカズキとアスティアを浮かび上がらせて、哀しさを誘った。

 

「もう少しだけ……二人とも先に下がっていいわ……私なら大丈夫だから」

 

「アスティア様、そうは参りません。貴女が体調を崩してはカズキも悲しみます。どうかご自愛を」

 

 アスティアが最近体調を少し崩しているのは分かっている、勿論その理由も。だからクインは、心を震わせながらもカズキの名を出すのだ。アスティアは暫く動かなかったが、立ち上がりカズキの頬へ唇を落とした。振り返ったその瞳は揺れ、少しだけ赤い。

 

「カズキは生きて、いつか目を覚ますでしょう。その時アスティア様が笑顔でいなくてはカズキが心配します。さあ、こちらへ」

 

 クインは促してアスティアの手をエリに預けた。そしてベッドに身を沈めるカズキを眺め、ゆっくりと全身を視界に収める。

 

 あれから何日も経過したが、不思議な事にカズキに変化は無い。エントーの加護が舞い降りる事も、身体に異変が起きる事も、そして目を覚ます事も。聖女に死は訪れていないが、同時に時が止まったかの様で……アスティアは恐怖に駆られて毎日カズキの元へ参じていた。

 

 カズキの右肩から先に腕は無く、魔獣に引き千切られたソコから出血はしていない。あれから何人も掛けて探したが、右腕は見つからなかった。あったのは輝きを失わないナイフだけ。肩の傷口はまるで消え掛かる炭の様に小さな光が灯り、ゆっくりと明滅している。その付近は細かな傷が走り痛々しい。

 

 あの美しかった貌はまるで古い陶磁器の様に小さな割れ目が幾筋も走る。以前アスティアはアンティークドールの様にカズキが消え去ったらと心を痛めたが、今のカズキは正に人形そのものだ。

 

 短く切られた黒髪は伸びない。クインが綺麗に整えたが、それから全く変化しないのだ。

 

 そして、綺麗な翡翠色の瞳からは生気は感じられず、あの強い意志も宿っていなかった。

 

 聖女は封印から解き放たれ、残るのは慈愛とその癒しの力のみ。そう、カズキから黒神の加護は失われた。言語不覚も自己犠牲も、利他行動や欺瞞も憎しみも全ての黒神の刻印は消え去った。

 

 今、カズキは慈愛と癒しを心と身体に刻む一人の聖女。もし目を覚ましたら、笑顔を浮かべ皆の名を紡ぐのだろうか?

 

 その小さな唇から……

 

 クインは涙が溢れそうな自分を自覚する。アスティア様が立ち去るまで我慢しなくては……そうボンヤリと思ったクインの耳に規則的な音が響いた。

 

 それは聖女の間に人が訪れた音。そしてこの時間に現れる者など一人しかいないだろう。静かに叩かれた扉はエリにより開かれ、予想通りの人が立っている。

 

「アスティア……いたのか」

 

「兄様……」

 

 アストも毎日カズキの元を訪れていた。

 

 復興に向かうリンディアは酷く忙しい。王国を纏める王家、カーディルとアストの役目は激烈を極め、正に目が回るかの様だ。それでもアストは毎朝毎夜必ず聖女の間を訪ねる。アスティアと同じ恐怖が心から離れないのだ。

 

 もしエントーが加護をもたらしたら?

 

 痛みや苦しみに苛まれていたら?

 

 もし目を覚ました時に一人ぼっちだったら……

 

 そんな想いが溢れ出て来て、アストの足は此処に向かう。

 

「大丈夫か? 最近は体調が優れないのだろう?」

 

 アストはアスティアの額に手を当て辛そうな表情を隠さない。カズキが心から離れたりしなくとも、アスティアが愛する妹である事に変わりはないのだから。

 

「はい……心配させてごめんなさい……でも大丈夫。兄様こそ大変でしょう?クインからも聞いているわ……凄く忙しいって」

 

「ああ、確かに忙しいな……でもそれは幸せな忙しさだよ。カズキが与えてくれた平和だから……皆も少しずつ元気になって、笑顔も増えてきたからね」

 

 アストは無理に笑顔を浮かべ、アスティアの髪を撫でた。

 

「今日はマリギの復興について話し合ったよ。北は長い間ずっと森に入って無かったからね、沢山の資源があるはずだ。マファルダストが中心になって向かってくれる」

 

「マファルダスト……カズキが一緒だった」

 

「そうだね、ロザリーが率いていた隊商だよ。今はフェイが纏めている。以前にカズキの髪飾りやナイフを持って来てくれた人だ」

 

 別に意識などしていないが、二人の会話からカズキの存在が消える事は無かった。だから二人は目線を眠るカズキに向けた。側にはクインが静かに佇んでいる。

 

 

 その時アスト達は気付いた。

 

 

 聖女の間には自分達しかいない筈なのに、ベランダへと続く扉の前に一人の男が立っている事に。その男はアストよりも長身で、高さだけならあのケーヒルにも匹敵するだろう。細身の身体に不思議な衣装を纏っていた。髪は薄い金で、その顔は非常に整っている。

 

 もしカズキが見たなら大声で叫んだに違いない。カズキだけはその男を知っているから。

 

 纏う衣装はグレーのチノパンとジャケット、中に白いTシャツ。

 

「誰だ!?」

 

 アストはアスティアやクイン達を背に回し、男を睨んだ。手元に剣は無いが、一人くらい何とかなる……考えながらも不安を消せない。今の今まで気配すら感じさせず、見つかった後も動揺が見えないのだ。

 

「誰かいないか!侵入者だ!!」

 

 続けて応援を呼ぶ。万が一にもアスティア達を危険に晒すわけにはいかない。だが、直ぐ外に控えている筈の騎士達が雪崩れ込んで来る事は無かった。

 

「誰か……」

 

「悪いが、聞こえないよ。邪魔はされたくないからね」

 

 背の高い男は遮り呟く様に話すが、その言葉はしっかりと耳に入る。アストは異様な凄みを感じ、身体に力を込めた。せめて三人だけでも……そして何よりカズキを置いてはいけない。そう思うアストに男は言葉を重ねてきて思考が逸れる。

 

「信じられないだろうけど、僕には君達に危害を加える気などないよ。用があるのは()()()だからね」

 

 男の視線の先……そこには未だ目を覚まさない聖女の姿があった。

 

「貴様……カズキを……」

 

「兄様……」

 

「おや?君達はこの子の名前を解読したんだね。アレは中々に難しかった筈なのに」

 

「何を……」

 

 アストの疑問に男は警戒しているクインを見る。クインは最悪その身を犠牲にしてもアスティアやカズキを護る覚悟をしていた。

 

「ああ、確か君はクインだったかな? ()()()()()()にも詳しかったから、不思議でもない。カズキは見事に君達を探し当てたんだね」

 

 三人は意味が分からない言葉を紡ぐ男に益々警戒を強めた。だがクインだけは漸く理解して、アストの大きな背から離れ横に並ぶ。

 

「クイン!隠れていろ!」

 

「殿下、大丈夫です。おそらく彼が……いえ、この方が言う事は真実。私達に危害など加えないでしょう」

 

「何を言ってるんだ……?クインはこの男を知っているのか?」

 

「殿下ならお分かりになる筈。この方は皆がよく知る……とても身近な存在なのですから」

 

「いや、ちゃんと自己紹介するよ。僕は君達に礼をしなければならないからね。リンディア王国の王子アスト、そして王女アスティア、侍女のクインとエリ。他にも沢山の人の幸せを願わなければならないけれど、先ずは君達に心から礼を言わせてくれ。世界を……そしてカズキを救ってくれてありがとう」

 

 表情は変わらない。その姿は目に映るのに何処か存在が遠くに感じる。なのに大きく強い。

 

「僕の名はヤト。君達には黒神のヤトの方が分かりやすいかな?」

 

 ヤトは名乗り、そして微笑んだ。

 

「黒神……ヤト……」

 

「カズキに刻印を刻んだ……そして聖女に……」

 

 アスティアは呆然と呟き、アストは複雑な想いを言葉に込める。世界が救済されたのはカズキのお陰だが、それを遣わせたのは黒神のヤト。だが同時にカズキは苦しみ、血を何度も流した。そして今は覚めない眠りに囚われているのだ。

 

 痛む心、憎悪、悲哀、そして複雑な感謝の想い。

 

 凡ゆる感情が暴れてアスト達は拳を握った。何かを言いたいが、其処に怒りが篭りそうで言葉を紡げない。だが一人クインだけはヤトへ臆せず返答した。

 

「貴方のお陰で世界は救済されました。多くの人が感謝するでしょうし、私もその一人です。ですが、最後の言葉には納得出来ません。カズキが救われたなど……貴方にはカズキの姿が見えないのですか?どれ程辛かったか……訂正して下さい……!」

 

 ヤトは変わらず微笑を浮かべ、クインを見返す。

 

「そうだね……カズキが出会えた相手が君達で本当に良かった。それこそまさに奇跡、一つでも掛け間違えたなら救済は成らなかっただろう。でも訂正は出来ないかな……カズキが救われたのは間違いのない事実。勿論救ったのは僕じゃなく、この世界の人々だ。君達はカズキの心からの願いを叶えたのだから」

 

 心からの願い……その言葉を聞いたアスティアは怒りを抑える事が出来なかった。

 

「願い?黒神ヤト……カズキは貴方が刻んだ刻印に縛られて無理矢理に人々を癒したんです!何故救われたなどと!今更……いまさら礼を言うなど、カズキを馬鹿にしないで!!」

 

 それに私はカズキに何もしてあげられなかった!アスティアの慟哭が響く。

 

「王女アスティア、そして皆の憎悪を感じるよ。僕には慣れ親しんだ感覚だけど……決して馬鹿にしてはいない。だから説明するよ、全てを」

 

「説明?どういう事だ?」

 

 アストも神への気遣いなど忘れ、怒りを露わにする。リンディア王家にとり神々は不可侵の存在だが、アストは構わなかった。

 

「如何にして聖女となったか、魔獣とは何なのか、僕が此処に来た理由……そして、カズキとは誰なのか」

 

「カズキが誰なのか……」

 

「そう……僕はカズキを連れて来た。遠く、想像も出来ない程に遠くから」

 

「遠くから……私達に教えると?」

 

「勿論そのつもりだ。だって君達は……」

 

 

 

 カズキの家族なのだから……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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エピローグ 中編 〜其処にある意味〜

急にお気に入りが増えたんですが……嬉しくて不思議です。理由は分からないですが、ありがとうございます。宜しければ、感想や評価を頂けると有り難いです。では、エピローグ中編です。


 

 

 

 

 

 聖女の間に一瞬の沈黙が舞い降りた。

 

 横たわるカズキは身動ぎ一つせず、呼吸すら感じられない。

 

 ヤトは暫くカズキを愛おしそうに眺め、そして再びアスト達に向き直る。

 

「何から話そうか……そうだね、先ずは今のカズキの状態を説明しよう。君達も心配だろうから」

 

 アスティアもアストの背から離れ、カズキに寄り添いヤトを睨む。未だに怒りは治らなかったのだから仕方がない。ヤトも気付いているだろうに、それを受け流していた。

 

「カズキは……生きて、生きているのか……?」

 

 アストは何度も否定し、それでも頭に浮かぶ嫌な思いを口にした。

 

「ああ……生きているとも、生きていないとも言える。ただ、エントーはカズキに気付いてはいない」

 

「死と眠りの黒神……もし、エントーに気付かれたら……」

 

「カズキは死ぬ。それがエントーの加護そのものだから」

 

「どうしたらいいの!?カズキが死ぬなんて絶対に許さない……!」

 

「エントーの加護は救いの一つだけど……君の気持ちは分かるつもりだよ。だから僕が来たし、このままにする気は無いさ。今のカズキは魂魄を酷く削った状態だ。癒しの力を行使するために自分で捧げたんだよ。あれだけの奇跡を起こすには必要だったのだろうね……」

 

「だろうって……貴方にも判らないのですか?」

 

「聖女の刻印は僕の及ぶところじゃ無いし、最後の決断はカズキ自身が行った結果だ。僕が出来たのは聖女の刻印に力を注ぐ手助け、いや……小細工だけ。普通の人では耐えられない力だから、少し弄ったんだ」

 

 以前のコヒンやクインの考察は正しかった。人は5階位の刻印に耐えられず、すぐに魂魄を失ってしまう。それを阻止する為、ヤトは新たに刻印を刻んだ。そして癒しの力を聖女へと変容させたのだ。捧げるのはカズキの血肉……それは酷く残酷だが、ヤトは踏み切った。

 

「そんな簡単に……カズキがどれだけ苦しんだか……貴方には分からないのですか?」

 

「カズキが苦しむだろう事は理解していたつもりだよ。それに関しては謝るしか無い。でも……愛するこの世界を救うには時間も力も無かったんだ。魔獣の脅威は日に日に増し、白神の加護も失われた。だから僕はカズキを無理矢理に連れて来た。そこにカズキの意思は介在していない。つまり拐ってきた」

 

「拐って……」

 

「白神の加護は失われたと?しかし現にカズキには白神の加護が……」

 

「その説明をする前に伝えておくよ。カズキは死なない……僕はその為に来たからね。だから安心して欲しい……ただ、全てが君達の希望通りになるかは分からない」

 

「私達の希望通り?どういう事?」

 

「カズキが選択する事だから……かな」

 

 ヤトはそれ以上言葉を続けなかった。

 

「じゃあ、先ずはカズキが誰なのか……だね」

 

 その意味する事に全員が心を奪われ、疑問は隠された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 暖炉の炎は少しだけ弱まり、聖女の間に立つ皆の影が揺れている。けれど誰一人動かず、ヤトの言葉を待った。

 

「カズキは遠い場所から来たんだ。所謂、異世界だ」

 

「イセカイ?」

 

「異なる世界、僕達が居るこの世界とは違う場所だよ。カズキが生まれた世界は……鉄の馬車や鉄の鳥、遙か遠い国にも空を飛び旅が出来る。沢山の人間が居て、君達が住むリンディアより遥かに巨大な国が幾つもあるんだ。剣や弓は戦いには使われないし、魔獣など存在しない」

 

 アスト達は頭に疑問符が浮かぶのを止められなかった。全く意味が分からないし、別の世界など理解など出来ないのだから。

 

「そしてカズキの世界には、神々が居ない。いや……居るかもしれないが、僕達の様に存在しない。刻印も加護も無いし、救いなど想像の産物だ」

 

「神々が居ない……そんな事あり得ません。では人々はどうやって生きているのですか?貴方や、エントーも白神も居ないなら生も死も存在しないではありませんか」

 

「変わらないよ。人や生き物は親から生まれ、そして死んで行く。其れを長い間続けて世界を紡いでいるんだ。生も死も当たり前に存在する……神々の加護など無く、全ては自らに内包しているんだ」

 

 最早全員は理解を諦めていた。ヤトが言う通りに全く異なる世界なら理解する方が難しいのだろう。しかしアスティアは、カズキの不思議に触れた気がして少しだけ嬉しかった。

 

「待って下さい。では何故カズキが刻印を?貴方は黒神、聖女の刻印に力は及ぼせないと」

 

「ああ、直接にはその通りだ。だから奇跡なんだよ……僕は凡ゆる世界を巡り、救済のきっかけを探していた。この世界にある力では魔獣の脅威から守れないと気づいたからね。だけど……どの世界でも見つからず、残った力で最後に辿り着いた世界には神すら居なかった」

 

 僕は絶望したよ……ヤトは俯き、何かを思い出す様に苦笑した。

 

「その時……カズキを見つけたんだ。何度も自分の目を疑い、暫くカズキを観察したよ。刻印として現れてないけど、カズキから癒しの力を感じたからね。更に慈愛も……正に聖女の素質を持つ人だった。だけど……足りない、当たり前だけど階位は2だし、僕の権能は知っての通りだ。ところがカズキは同時に強い憎悪を心に抱き、痛みや悲哀すら日常にあった。その力は僕が加護を強く与える事が出来る程で……想像出来るかい?慈愛を持ちながら憎悪を抱き続ける心を……」

 

「カズキは……最初から自己愛に乏しかった。人を信じず、まるで何かに絶望しているようで……貴方に刻まれた刻印の所為だと」

 

 実際にアスト達は刻印を刻んだヤトを憎みもしたのだ。そしてカズキの悲哀を想った。

 

「僕がカズキを弄ったのは事実だ。その罪は消えない……だけど無垢な赤子でもないと、全く存在しないモノに加護を与えるなんて誰にも出来ないよ。僕はカズキが持つ心に働き掛けただけ、そして利用した」

 

「でも……カズキは何を憎んでいたの?カズキは何時も優しかったし、誰かを傷付けたりなんてしなかったわ。この子に憎悪なんて……」

 

 アスティアはベッドに腰掛けカズキの頬を優しく撫でた。

 

「全てだよ。世界も人も、そして何より……自分自身を」

 

 触れていた手が震え、側にいたアストは歯を食いしばった。クインやエリは悲しい表情を浮かべるしか無い。

 

「そ、そんな事、ある筈ないわ!カズキは……!」

 

「7歳の時、母親に捨てられたんだ。父親の顔なんて記憶にも残ってもいない。最も信頼出来るはずの大人に捨てられて、カズキは心を閉ざした。でも……そんなカズキにもっと辛い出来事が続く」

 

「嘘よ……そんなの……」

 

 だが同時に全員が理解していた。聖女の封印を解く鍵は他でも無い、誰もが持つはずの家族の愛。それはカズキが持たざる者だと証明していたのだ。

 

「預けられた孤児院が良くないところだったらしい。そこで何年も……酷い虐待を受けていたんだ。皮肉にも癒しの力はカズキ自身に働き、傷付いた身体は簡単に治ってしまう。だから何時も、毎日、何度も……身体から怪我が絶えることは無かった」

 

「……だから何時も……」

 

 治癒院でもカズキは自分の怪我を見せようとしなかったのだ。何時も他人の心配など無視する様に……カズキの心が少しずつ垣間見えてアスティアは胸が締め付けられる。

 

「そして孤児院の大人を憎み、自分を捨てた母親を他人だと思い込んだ。それは強い大人への憎悪を産み、同時にカズキを成長させる。だけど……そんな環境なのにカズキは慈愛を失ったりはしなかったんだ」

 

 ハッとアストは顔を上げ、ヤトを見た。

 

「カズキはある日思った。自分が孤児院の大人に興味を持たれている間は、他の子は無事だと。だから……何度傷つけられても、挫けず、時に笑ってさえ見せた。カズキは其処に救いを求めて、時に幸せすら感じていたよ。自分の特異な力はこの為に、子供達を守る為にあると信じたんだ。この時まだ8歳、カズキ自身も小さな子供だ」

 

 エリは最早聞きたくないのか、耳に両手を当てついる。アストもクインも立っていられないと椅子に腰掛けた。

 

「大人に近づいたカズキは憎悪を募らせ、遂には辛い現実を産み出す原因は自分の存在だと考えるようになる。僕が最初に見つけた時、カズキは叫んでいたよ……心の中で、世界や大人に消えて無くなって欲しいと。そして何よりそんな事を思う弱い自分が嫌いだってね」

 

「では刻印は……」

 

「クイン、君は解読したのだろう?全てカズキが持つ強い感情を利用したんだ。自己犠牲も欺瞞も、利他行動や憎しみの鎖も、全てカズキと共に合った。更に言語不覚の呪鎖(じゅさ)すら刻む事が出来たんだ。そして、僕はカズキの感情を利用して癒しと慈愛に無理矢理に力を送った。幸い僕が司るのは憎悪、悲哀、痛み……全てをカズキは持っていたからね」

 

「そして癒しの力は聖女に変貌したのか」

 

「僕はカズキの意思を無視して強引に刻印を刻んだ。人生と不幸を利用したのさ。だから罪は僕が償うしか無いし、君達が僕を責めるのは当然だよ」

 

「全ては貴方が悪いと?」

 

「そうだ」

 

「お祖父様が言っていました、貴方なりのやり方でカズキを守っていると。封印などせず、カズキの魂魄の容量すら無視すれば良い筈なのに……封印が解ける鍵は真の慈愛でした。カズキが心から求めていたのは家族との当たり前の愛。何故そんな周りくどい事を?」

 

「参ったね……憎悪や悲哀を司る神に其れを言わせるのかい?」

 

 答えは既に出ているが、クインは直接聞きたかった。それは何より、ヤトが決して悪神ではないと分かったからだ。今迄の言動にはカズキへの愛が感じられた。

 

「私も聞きたいわ。兄様もそうでしょ?」

 

「ああ、勿論だ」

 

「分かったよ……カズキは心の奥底で何時も想って、それを無理矢理抑え込んでいた。それはとても、とても強い願いだ。誰かに抱き締められて優しく大丈夫だよと呟いて欲しい、心から愛していると囁いて欲しいと……そう心から願っていた」

 

 エリも塞いだ耳を再び傾けている。

 

「だから、もしかしたら……この世界なら救われるかもと思ったんだ。君達の様に、慈愛に溢れた人が沢山いるこの世界ならと……そしてぼくは賭けに勝った。カーディルやケーヒルは父として、ロザリーは優しくて強い母親、アスティアや君達は姉妹や友人として、騎士や森人は本当の大人の愛を、そしてアスト……君は一人の男としてカズキを愛した」

 

 全ては奇跡だよ……さっきも言ったけど、たった一人欠けても世界は救われなかっただろうね。そうヤトは締め括った。

 

「カズキが救われたって最初に言ったのは……だから貴方は礼を?」

 

「そうだね……奇しくも君達はカズキの心からの願いを叶え、そしてこの世界に癒しの光は降り注いだ。僕には感謝しかない……その慈愛と癒しは魔獣にすら届いたのだから」

 

「魔獣に、ですか?」

 

「魔獣はカズキとは違う、また別の世界から来たんだ。原因は分からないけどね。彼らは何時も苦しみ、恐怖に震えていた。訳のわからない世界に飛ばされ、周りには見た事もない生き物達。だから地中に潜り、暗い世界に閉じ篭もった。そして本能に従い敵を駆逐するしか出来ない」

 

「カズキはそれを知っていたんですか?」

 

「分からない……でもまだ生きていた魔獣たちは元の世界に帰ったよ。聖女の癒しが魔獣を救ったんだ」

 

「そうか……カズキは本当に……何処までも聖女なんだな……」

 

 アストもカズキに寄り添い、その黒髪に指を這わせた。眠る聖女はただ其れを受け止めるだけ。

 

「さて……カズキが誰で、どうやって聖女となり、魔獣が何なのか……全てを答えた。後は僕の目的を果たすだけだ」

 

 ヤトは一歩たりとも動かなかったソコから歩き出した。行き先は勿論カズキの眠るベッドだ。側にはアストとアスティアが腰掛け、反対側にクインとエリが佇む。

 

「今から削られた魂魄を修復し、肉体と心を復活させる。そして……聖女の刻印を再び封印する」

 

「封印だって!?また刻印を刻むのか?」

 

「そうだ。5階位の刻印は彼女を縛っている。その力で癒されてはまた魂魄が傷つく、それを繰り返していて意識を取り戻せない。このままでは時間の問題だし……本当なら聖女の刻印を消したいが、それを可能とする神などいない。カズキは最早、我等と同一の存在に等しい……だから人に近づけないと」

 

「そんな……じゃあまた刻印に縛られて、意思に関係なく人を癒すの?自分を傷付けて……そんなの、そんなの……」

 

「貴方は最初に私達の望む様にならないと……そういう意味だったんですか!」

 

 クインはヤトの想いを知りながらも、叫んでしまう。

 

「カズキは本当に愛されているんだね……本当に良かった」

 

「ヤト!茶化さないで下さい!」

 

「茶化してなどないよ。説明は途中だ、先ずは聞きなさい」

 

 此処で初めて皆は目の前にいる存在が神だと実感した。心にあった憎悪は瞬時に消え、口を閉じてしまう。

 

「カズキに刻むのは言語不覚の1階位、それだけだ。多少耳が不自由になるし、話す言葉は片言になるだろう。しかし心に作用する刻印は刻まない、それは約束する。だから、カズキを守る為に理解して欲しい」

 

「1階位……私達の名前を理解、いえ……意味など分からなくても呼んでさえくれたら……」

 

「アスティア、カズキは君達の名前を既に理解しているよ。言葉を紡げなくともカズキはそれを知ったんだ。アスト、君なら知っているだろう?」

 

 ヤトは笑みを浮かべ、我が子を見る様に優しい眼差しを送った。

 

「今となっては幻だと思っていたが……やはりあの時……」

 

「兄様……?」

 

「ああ、ヤトを信じよう。後で話すよ、聞いて欲しいんだ」

 

 アスティアの頭をポンと叩き、笑った。

 

「では、少し離れていてくれ」

 

 アストはアスティアを伴い、ベッドから数歩離れる。

 

「そうだ……もう一つ大事な話しをしないといけなかった……君達は知るべきだ」

 

 ヤトはカズキに伸ばした手を戻し、顔を上げた。

 

 

 

 

 

 

 



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エピローグ 後編 〜願いの先へ〜

ラストです。此処まで読んで頂いた方、本当にありがとうございました。それでは……最後の1話、お付き合い下さい。


 

 

 

 

 

「戻るかどうか、カズキが決める事だ」

 

 ヤトは一言ずつ丁寧に言葉にした。

 

「どういうこと?」

 

「カズキが死にたがっていると言いたいのか……?」

 

「まさか、そんな事は無いさ。カズキは君達に愛を教わり、生きる幸せを知ったのだから」

 

 肩を竦め、はっきりと答える。

 

「では……何故?」

 

「カズキはこの世界の住人では無いから……もし彼方へ帰る事を希望したら叶えてあげたい。せめてもの罪滅ぼしさ……今のカズキなら人生をやり直す事が出来るはずだからね。それに、想像は出来ないと思うけどあの世界は……豊かで、日々を平穏に生きる事が出来る。食べ物も水も、夜や森も暖かく人を迎え入れるんだ」

 

 滅ぶ寸前だったこの世界とは違うのさ……そう呟くヤトはカズキの頭を撫でて慈しむ。

 

「カズキが帰る……?」

 

 アスティアはその意味を理解し、そして拒んだ。それはカズキに二度と会えない事を意味するからだ。

 

 動揺を隠せずアストも全身から力が抜けるのを自覚する。クインやエリも感情は拒否しても、言葉自体を否定は出来なかった。

 

「そんなの……そんなの嫌!兄様、兄様だってカズキに会えなくなるなんて嫌でしょう!?クイン、エリだって!」

 

 皆が俯き言葉を返せない。ヤトが言う事が理解出来るから……

 

「アスティア様……」

 

「みんな……なんで黙っているの……?カズキが居なくなるかもしれないのよ!!」

 

 アスティアはアストに縋り付き、何度も胸を叩いた。アストにとってそれは大した衝撃では無い筈なのに、酷く痛む。

 

「嫌よ……折角カズキが自由に……言葉だって……」

 

 呟く言葉は皮肉にもヤトの想いを肯定していた。カズキは自由で、進む道は自分で決めることこそが其れを意味するだろう。その意思を言葉で紡ぐ、カズキが自らの心に従うのだ……

 

 そしてアスティアも理解する。

 

 ヤトの言葉を否定できない事を……

 

 力が抜けたアスティアはアストに体を預けて肩を震わせる。そして、小さな泣き声が聞こえてくるまで時間は必要無かった。

 

 アストはアスティアを優しく抱き締め、ヤトへ頷いた。エリも涙を流し、クインすら目頭に光があった。

 

「ではカズキを助けよう。もし君達の前から姿を消したなら、そう理解してくれ。申し訳ないが別れの挨拶は出来ない。だが、この子が望むなら……最後の言葉だけは伝えに来るよ、約束する」

 

 アスティアの泣き声は今や慟哭に変わり、聖女の間に響き渡る。

 

 

 

 そして……

 

 神の奇跡が今、世界に顕現した。

 

 

 

 ヤトの右手の小指が消え、カズキの失われた腕が元の姿を取り戻す。使徒であり、人の領域を超えた聖女だからこそ、神を直接に受け取る事が出来た。

 

 続いて細い首に刻印が刻まれていく。以前にあった刻印と比べれば遥かに弱々しいが、明らかな鎖を形造る。見えないが右胸にある聖女の刻印に封印が施されただろう。

 

 全身にあった細かな傷は消えた。

 

 黒髪は艶やかに、ランプの光を反射する。

 

 そしてひび割れた相貌は少しずつ血の気を取り戻して、以前の美しさを湛えていった。

 

「アスティア、見てごらん。凄く綺麗だよ」

 

 泣き止まないアスティアに声を掛けて、ゆっくりと促した。

 

 もしかしたら愛する妹を目にするのは最期かもしれない。アスティアは気持ちを強く持ち、無理矢理に瞳を向ける。

 

 そこには間違いのない、何時ものカズキがいた。

 

 黒髪、シミひとつない肌、やはり綺麗な両手、ゆっくりと上下する胸、そして僅かに揺れる唇。

 

 何より、目を離せなくなる美貌。

 

 そこにはアスティアの妹がいて、アストが愛する女性が眠っている。

 

 それが分かって全員から吐息が漏れた。

 

「カズキと会ってくるよ……もう一度、お礼を言わせてくれ。みんなありがとう……神々の加護があらん事を」

 

 黒神のヤトは言葉を残し、その姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヤト……」

 

 カズキは蹲っていた道から体を起こした。

 

 そこはヤトとカズキが初めて会った路地裏だった。遠くにネオンの光すらある。周囲にはゴミが散乱し、頭上の街灯は点滅を繰り返している。

 

 向こうから長身の男が歩いて来て、カズキはそちらを見たのだ。

 

 まるで焼き直しだが、違いは明らかだった。

 

 周囲に藤堂達三人のチンピラは転がっていないし、ヤトの髪は薄い金で真の顔そのままだ。胡散臭い黒髪でもなく、皮肉めいた笑みも張り付いてない。そして現実感が薄く、あの白い世界に似た場所なのだと分かった。

 

 何より……カズキの身体は小さな少女で、あの星空のワンピースを着ている。髪を触れば懐かしい髪飾りが揺れるのだ。

 

 記憶には暖かな思い出が残り、唇にはアストの柔らかな口付けの感触すらあった。思わず指を添え、僅かに赤らんだ。不快感は無い。

 

 はっきりと憶えている。

 

 優しいロザリー

 

 可愛らしいアスティア

 

 クインやエリも

 

 他にも沢山の人々

 

「アスト……」

 

 カズキは自分の在りようが変化している事を改めて自覚する。そしてそれが嫌じゃない。

 

 ふと自分の口から言葉が紡がれているのに漸く気付いた。その声は間違いなく少女のもので……少しだけ低いけど、可愛らしい声。

 

「カズキ、久しぶりだね。この路地で君に殴られたのが随分昔に感じるよ」

 

「久しぶり……だね」

 

 もう黒い憎悪は感じない。ヤトに対する警戒も、自らに思う絶望すらも。

 

「先ずは謝らせて欲しい、本当に済まなかった。君の意思を無視して僕の世界に飛ばしてしまった。そして刻印を刻み、多くの痛みと血を……」

 

「ヤト、謝る必要、無い。私なら、大丈夫……」

 

 カズキは言葉が上手く操れ無いと知る。何やら少し制限を感じるのだ。それが言語不覚の刻印と直ぐに理解し、同時に階位も掴んだ。

 

「聖女の刻印を封印する為、再び呪鎖を刻んだ。僕の責任だ……だけど刻印を消す事はしない。幾らでも罵ってくれていいよ」

 

 直ぐに首を横に振り、慈愛に溢れた瞳を向けた。そこには責める意思も、怒りも無い。

 

「ありがとう……そして改めて感謝を……僕達の世界を救ってくれた。どうお礼を言ったらいいか……人の世界ではどうするのか、こんな時は自分の権能が恨めしいよ」

 

 漸く皮肉めいた笑みが浮かんだ。だけどヤトの皮肉はカズキには向いてはいない。

 

「ヤトは言った。救いになるかも、と。その通り、だった……よ」

 

 カズキは全てを理解していた。刻印の意味も、ヤトの気持ちも、魔獣の存在も、聖女の在り様も。

 

 だから心は穏やかなままだ。

 

 寧ろ安らぎを感じる。元の世界の元の自分では決して知る事すら無かった。

 

 アスティアの様に、とは言えないが花が咲く様に笑う。

 

「綺麗だ……美しい女の子になったね。正に聖女だ、何処までも暖かな慈愛を感じるよ。昔に在った白神を思い出す……もしかしたら、君は……あの白神の生まれ変わりなのかもしれないね……不思議だ」

 

 カズキは首を傾げ、どうしたの?と聞いている。そこには言葉は無いが、直ぐに分かるのだ。

 

「ふふ……何でもないよ。しかし、何でここなんだい?君ならもっと他の場所を用意出来ただろうに」

 

「そろそろ、来る、知った。だから」

 

「だからここ?君らしいのかな……そうだ、要るかい?」

 

 懐から器用に煙草を取り出し、ヤトはグイとカズキに向けた。出会った時カズキが煙草を探していたからだ。ご丁寧にメンソールじゃないキツイものだった。親切なのか皮肉なのか分からないが、ヤトに悪戯じみた表情は見えない。

 

「要らない……お酒、は?」

 

「ああ、酒好きの酔いどれ聖女だったね。ちょっと待って……」

 

 ふと見ればその両手にはグラスが二つ。琥珀色の液体に丸い氷が浮かんでいる。薄く陽炎の様にユラユラと琥珀が揺れて、それがカズキの好きな酒と知れた。

 

 ニコリと笑い、小さな両手でカズキは受け取る。

 

 側から見れば背の高い男と少女が薄汚い路地裏で酒を酌み交わす姿に違和感が湧くだろう。だが此処には二人しかいない。キンッとグラスを重ね、同時に口を付ける。

 

「悪いけど酔わないからね?これは本当のお酒じゃないから……」

 

 聞いているのかいないのか、カズキは気にせず、嬉しそうに喉を鳴らしている。

 

「美味しい」

 

 どうやらお気に召した様で、ヤトは安堵する。

 

「それは良かった。もう煙草は要らないのかい?」

 

 両手でグラスを持ったままコクリと小さく頷くカズキは、何処から見ても少女だった。そのグラスを満たす液体が酒でなければもっと良かったかもしれない。

 

「そうか……野暮だったかな」

 

「ふふふ……でも、ありがと」

 

 ヤトは神でありながら、聖女の美しさに目を奪われた。それ程にカズキの笑顔は綺麗だったのだ。

 

「やはり聖女は凄いね、びっくりだ」

 

 肩を竦めて表情を変える。今から大事な話をするのだから当然だろう。

 

「カズキ……君に話がある」

 

「はい」

 

 二人の手からグラスは消え、そしてそれを驚きもしない。

 

「生きる世界を選んで欲しい。どちらを選んでも、僕は全てを賭けて助けるつもりだ。君には幸せになって欲しいからね」

 

 身体は既に修復し、いつでも目を覚ませる。青年の身体に戻す事も出来るし、元の世界なら刻印の力も消える。言語不覚も今の様に君を邪魔したりしない。心の平穏は勿論そのまま、安らぎも幸せな記憶すらしっかりと残るから安心して欲しい。

 

 もう一度人生をやり直す事だって可能だろうし、出来るだけ援助する。

 

 そう説明を尽くしたヤトは口を噤んだ。

 

 カズキは一度、少しだけ瞳を閉じた。そして、静かな吐息を吐く。周囲を見回し、積み重ねた段ボールに腰を下ろしてユラユラと体を揺らした。

 

「不思議、まるで……本物」

 

「ああ」

 

 サワサワと段ボールを撫で、もう一度目を閉じる。

 

「私の、知ってる、でしょ?」

 

「まさか……僕にはそんな力は無いよ。過去と違って人の心は水の様に揺蕩い、空の様に色を変える。それは世界を違えても一緒だと学んだからね」

 

「そう?」

 

「間違いない、ホントだ」

 

 翡翠色の瞳を向け、その小さな唇で言葉を紡ぐ。

 

「私の願い……それは……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 

 ヤトが姿を消して、時間はそう経ってはいない。

 

 クインが先ほど継ぎ足した暖炉の薪がパチリと弾け、アスティアは其方を見た。その暖炉の上にはカズキのナイフが飾られていて、翡翠の色を思い出させる。

 

 横たわるカズキの目蓋は閉じたまま。

 

 今にも消えてしまいそうで、アスティアは抱き締めたくなる。でも、触れた瞬間にフッといなくなったらと、直ぐ近くで見守るくらいしか出来ない。直ぐ隣にはアストがいて、きっと同じ気持ちなのだと思った。その視線は決してカズキから離れたりせず、その想いの強さを理解させる。

 

 もう随分な夜半だが、クインもエリも寝なさいとは口にしない。クインには珍しく周囲の気配りを忘れている様だ。

 

「カズキが……」

 

 ふとアストが話し始めた。独り言と思わせる程の小さな声だが、不思議と皆に届く。

 

「癒しの光が溢れる前、カズキが話し掛けて来たんだ。もう全てが終わったと諦めていた。魔獣に囲まれて……リンディアとみんなの最期を覚悟したよ。そんな時、声が聞こえて」

 

 幻聴なんかじゃない……初めて聞いたのに、それが誰なのか直ぐに分かった。アストはカズキから視線を外さないまま呟く。

 

「最初はアスト、と。その後はゴメンなさいって……今も何を謝ったのか分からないんだ。謝るのは自分の方なのに……そして、ありがとうって、私を見た。助けるから、大丈夫だよって……酷く腕や肩が痛いだろうに、笑顔すら見せて」

 

 アストはアスティアの前で泣いた事など無い。強く誇りある騎士として、アスティアを守る兄として、リンディアの王子として弱さを見せたりしないからだ。

 

 だけど……今は我慢など出来ないし、したくない。

 

 アストの碧眼から一筋の涙が落ちた。

 

「何で謝ったのか聞きたい……失いたくないんだ。カズキの意思を無視してでも掴んでいたい……」

 

「兄様……」

 

「情け無いよ、ついさっきアスティアの声に応えなかったのに……私は……」

 

 俯いたアストにアスティアは手を伸ばす。そんなアストは決して弱い訳じゃない。愛する人が消えてしまうと知った者に涙が浮かんだとしても、その涙に弱さを感じたりしない。

 

「あ……」

 

 その時、エリから小さな呟きが漏れる。

 

「殿下……アスティア様……」

 

 そしてクインも両手を口に当て、目を見開いて二人に声を掛けた。

 

 クインとエリの視線は全く動かない。

 

 サラ……サラサラ……

 

 それは真っ白で柔らかな掛け布が擦れる音。

 

 その白は聖女に掛かっている。

 

 そしてそれはハラリと少しだけ落ちた。

 

 眠っていた聖女がゆっくりと上半身を起こしたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 優しい微笑が……暖かい笑顔が浮かぶ。美しい瞳は、どこまでも澄んだ翡翠色。短くなった黒髪はフワフワと靡いて、命を吹き返した。

 

 皆が強く望んだ願い、いつの日かカズキが言葉を……その唇から名を紡いでくれたなら。

 

 それは、どんなに幸せな事だろう……と。

 

 

 

 

 

「エリ」

 

 

 カズキは驚きで腰を床に落としてしまったエリを見た。

 

 

「クイン」

 

 

 癖毛を気にもせず、今も両手で口を塞ぎ、薄らと涙を湛えたクインも。

 

 

「アスティア」

 

 

 その声は少しだけ擦れているが、カズキによく似合って美しい。瞳はしっかりとアスティアを捉えている。アスティアは涙でカズキが見えなくなって何度も目を拭う。なのにその涙は次々と溢れてくる。

 

 

「アスト」

 

 

 翡翠色がキラキラと光を放ち、それは遠いボタニ湖を思い出させた。アストの胸にどこまでも熱い、強い、激しい感情が隆起する。それは斬ることの出来ない風、押し寄せる波、降り注ぐ雨。フルフルと震える手は決して止まらない。それでも無理矢理にその手を伸ばす。何故か酷く重い。

 

 

 

 

 

「ただいま」

 

 

 

 

 

 そして……

 

 4人は一斉に、聖女の元へ飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




如何だったでしょうか?
暗い話でしたが、最後は幸せな気持ちに……そう決めてました。
読んで貰った皆様もホンワカ出来たら嬉しいです。
ありがとうございました。


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長めの後日談、或いは第二章
a sequel(1) 〜新たな時代〜


カズキ達の幸せな日々を書きました。後日談としては長めの予定ですが、救済の日のその後をご覧下さい。


「待ちなさい!」

 

「アスティア様!あっちです!」

 

「エリ!回り込んで!」

 

「はい!」

 

 

 聖女の間はリンディア城最奥と言って良い場所にあるが、元は来賓を招いた際に通した貴賓室だ。室内だけで無く、そこに至る道や廊下にも気配りがあり、絵画などの美術品も飾られている。当然に気品溢れる静謐と、何処か凛とした空気が漂う空間だ。いや、だった。

 

 今日、いや毎日、その静謐は破られる。

 

「もう!何て素早いの!」

 

「見失った……」

 

 地団駄を踏むアスティアは大国リンディアの王女として相応しくない態度と理解していたが、我慢出来ないのだから仕方がない。エリは溜息をついて呆然と廊下を眺めている。警護の騎士が数人目に入るが、誰一人驚いて無い。寧ろまたかと呆れているし、明らかに笑いを我慢して口を押さえる者さえいた。

 

「何で逃げるのよ……暑くなって来たし、珍しい新しい衣装が届いたのに……復興の大変な時に献上してくれた方に申し訳ないわ……」

 

「はぁ……おかしいですよね、随分と女の子らしくなったと思ってたのに、また元通りなんて……」

 

 救済の日……聖女が自らの魂魄を削り救いを齎らした時から既に半年は経過していた。リンスフィアを基とするリンディア全域では戦後の復興が始まっている。当初に心配された魔獣の生き残りも見つからず、森からの資源回収は大きく進んでいた。それにより復興への速度は日々増しているのだ。

 

 今や聖女の行い、その慈悲と癒しはリンディア国民の知るところとなり、多くの品々が届く。大半が衣類や反物、装飾品だ。実のところ愛らしい聖女は沢山の絵姿になっていて、当然の如く大流行となっている。そして特徴的な髪や瞳はその代表例で、それに似合うのではと献上されてくるのだ。

 

「献上する人達に言いたい……聖女は信じられないくらいお転婆だって……想像する様な女の子じゃないって……」

 

「お酒を献上したら喜ぶのになぁ……」

 

 酒好き酔いどれ聖女を知る者は少ないが、街に出回る噂の一つに「聖女は酒に目が無くて、いつも酔っ払って寝ている」というものがあるのだ。大半の人々はタチの悪い噂と一蹴しているソレが、実は正確に真実を捉えているとは信じてもらえないのだろう。

 

「知ってる人は知ってるのよ……カズキが酒好きだって。あの子に隠すつもりなんて無いから、その内に……そもそも恥じらいがあるのかしら……クインの教育からも逃げ回ってるらしいし、どうしたらいいの……」

 

「困りましたねぇ……今後他国から報せが届いたら、御目通りさせてくれって大勢が押し掛けますよ?聖女様は神々にも等しい方ですから、それなりを求められてしまいます」

 

「どうしよう……」

 

「アスティア様ってば、陛下に任せてください!って言っちゃいましたもんねー」

 

「うぅ、ロザリー様に教えて貰いたい……カズキに髪飾りを贈った時どうしたのか」

 

 カズキが唯一片時も離さないのが銀月と星の髪飾りだ。走り去ったカズキの黒髪には星々が輝いていた。

 

「ヤトがもう少し教えてくれたら良かったですよね。カズキが誰なのか……なんて言いながら、大事な事を忘れてますよ!」

 

 救済のきっかけを創った黒神に対して酷い言い草だったが、アスティアは否定しなかった。だって同じ気持ちだから。哀しい過去を知り得たのは重要だが、これから幸せになる為には今が大事なのだ。

 

「とにかくあの格好だと暑いでしょうし、探しましょう」

 

「前みたいに下着姿で歩き回って無ければいいですけど……」

 

「……急ぐわよ」

 

 王女と侍女の二人は足早に其処を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ、どうしたんだ?」

 

 棚に数多くの文献、壁一面に貼られた地図や紙、今も執務机には書類の山。一見乱雑な一室で有りながらも、実用的に且つ見事に配置された品々は部屋の主人の有能さを示している。

 

 窓からは明るい陽射しが届き、落ち着いた色合い……濃い空色をした壁紙を照らしていた。僅かな花の香りは、窓際の花瓶から漂っているのだろう。

 

「退屈」

 

「退屈か……アスティアは?」

 

「し、知らない」

 

「そうかい?確か新しい服が届いたからと、ついさっき君に会いに行った筈だけどな」

 

 指摘すると、ギクシャクと鈍い動きで椅子に座る。その可愛らしい仕草がアストには堪らなく愛おしい。何よりカズキの声を聞ける事が幸せを運んでくれる。そんな聖女は厚手のドレスには未だに慣れないのか、何度もお尻を動かしていた。

 

「知らない」

 

「アスティアはカズキと共に過ごせるのが本当に嬉しいのだから、余り邪険にするなよ?」

 

「なに?」

 

「難しかったかな……アスティアを好きでいて欲しい」

 

 1階位とは言え言語不覚の刻印はカズキに影響を与えている。長文や単語によっては理解出来ない様だった。時には誤解を招く事も有り、アスト達は苦心していた。それでも、カズキとの会話は宝物ではあったが。

 

「アスティア、好き」

 

「ははは……それをアスティアに言ってあげてくれ。きっと喜ぶよ」

 

 愛しい人との時間を過ごす為、ペンを置く。しなくてはならない事は多いが、カズキが自室を訪れてくれるなど多くはない。席を立ち、扉を開けると近くの者に声を掛けた。

 

「カズキはお腹空いてるかい?」

 

「お腹……?」

 

「何か食べるかな?」

 

「うん、食べる」

 

 アストはカズキの側に腰掛けてニコリと笑う。

 

「そのドレスも綺麗だけど、暑いだろう?」

 

「暑い……」

 

 パタパタと首元の襟を持ち上げて扇ぐ仕草をして見せて、言葉の意味を伝える。

 

「うん、暑い」

 

 カズキも真似をしてドレスの裾をパタパタ、いやバタバタした。それが余りに大きな動きだった為、アストには綺麗な太ももまで目に入り思わず視線を逸らす。

 

「カズキ……男性の前でそんな仕草は駄目だ……君は美しい女性なんだから、気を付けないと」

 

「うん?」

 

「参ったな……クインが言ってたのはコレか……」

 

 因みにクイン達だけでは無く、母であるロザリーも同じ悩みを抱えていたらしい。

 

「好き」

 

「ん?何だって?」

 

「アスティア、クイン、エリ、好き」

 

「ああ……さっきの」

 

「好き、アスト」

 

「……カズキ、それはどういう……」

 

 思わずその意味を詳しく聞きたくなったアストの耳にノックの音が響いた。

 

「入れ」

 

 カチャリと扉が開くと、ティーワゴンを押すクインがゆっくりと入ってきた。扉の側に立ち止まると綺麗な姿勢と声で挨拶をする。

 

「殿下、()()()()、お茶をお持ちしました」

 

「ああ、ありがとう。そちらに用意してくれ」

 

「はい。殿下、それと……」

 

「礼は不要か?分かってるさ」

 

 二人は毎度の様にやり取りするが、やはりどちらも変化はない。クインは応接のテーブルに並べて、部屋の隅に下がる。

 

「クイン」

 

 クインはカズキが呼び掛けてくれた事に喜び、思わず笑顔になった。

 

「はい、カズキ様」

 

「やめて」

 

「えっ?」

 

「やめて、嫌」

 

「な、何が……」

 

 カズキの明確な否定にクインは思わず吃り、笑顔は消えてしまう。失礼に当たると知りながらも、アストを差し置き近寄るクインは泣きそうだった。ジッとクインを見るカズキは不満を隠していない。

 

「クイン……前もカズキが言ってただろう?その呼び方だよ」

 

「えっ……しかし、以前に説明を」

 

 クインの真面目な性格は呼び捨てにする事を許さなかった。エリですら未だにカズキと呼び、その差は明らかだったのだ。聖女、しかも救済を成したカズキは今や天上人だ。考え方によってはリンディア王家すら立場が違う。今後の事も考え、専属の侍女であるクインはカズキに説明を尽くしていた。だが、伝わっていなかった様である。

 

「さっき……クインが来る前、カズキが言ってたよ」

 

「……何をでしょう?」

 

「クインが好きだって、はっきりと」

 

「うっ……それはありがたいですが……」

 

 チラリとカズキを見れば、目線を逸らさずクインを見詰めたまま。以前では考えられない事だ。その翡翠色に捕らえられると、思わず力が抜けそうになる。

 

「カズキ……」

 

「ん」

 

 ニッコリと浮かべた笑顔にクインは本当に腰が抜けそうになり、思わず踏ん張って耐える。この眩い笑顔も、やはり以前には考えられなかった事だ。

 

「良かったな」

 

「うん」

 

「殿下……」

 

 気持ちは嬉しい、いや凄く嬉しいが、今後に差し障るのではとクインは心配になる。城を訪れカズキに会う人は不思議に思うだろう。聖女であるカズキに侍女が呼び捨てで話し掛けるなど、衆目を集めるのは間違いない。

 

「分かってるよ、後で話そう。それより今はクインお手製の菓子だ。お茶も冷めてしまう」

 

 目の前には香り豊かなお茶、そして色とりどりの焼き菓子がある。カズキも嬉しそうに眺めていた。それだけなら正に可愛らしい少女、いや女性だろう。

 

 短かった黒髪は肩まで届き、艶やかな光を放っている。首回りの刻印は目立つが、その意味を知る皆はそれすら綺麗に見えるのだ。ヤトや白神の愛を一身に受ける聖女は何処までも美しかった。

 

「食べる、いい?」

 

「ああ、勿論だ」

 

 乾燥させた果物を散らした焼き菓子を手に取ると、パクリと半分まで口に入れる。その大きく開いた口は決してお行儀が良いわけでは無い。しかもポロポロと食べかすがテーブルに落ちていく。

 

「カズキさ……カズキ、お行儀が悪いですよ。もう少し小さく食べないと。それと片手で無く、もう片方を添えて……また練習ですね」

 

「え……」

 

 練習……その言葉に絶望感を隠さないカズキを見て、アストは我慢出来ない。

 

「くくく……ははは! カズキ、頑張れ」

 

「嫌」

 

「ふっ……ふふっ、こればかりは味方は出来ないな。クインが正しいよ」

 

 もう諦めたのか次々に菓子を手に取るカズキは、パクパクと食べ進める。その小動物の様な動きにアストは思わず黒髪を撫でた。アスティア曰く、信じられない手触りと指通り……その感触に感動すら覚えてしまう。

 

 そして、更なる来客でアストの周りは随分騒がしくなるのだ。

 

「兄様、カズキがいるでしょ!」

 

 ノックも適当に済ませたアスティアが執務室に入って来た。

 

「げっ……」

 

「カズキ……何よその反応は!」

 

 咥えていた焼き菓子を皿に落とすと、カズキは思わず椅子を引く。

 

 そう、臨戦態勢だ。

 

「はあ……」

 

 クインの溜息も、アストやエリが楽しそうに見詰めるのも何時もの事。

 

「あっ!待ちなさい!!」

 

 そうして黒と銀の少女達が走り去ると、再び執務室には静けさが戻った。残る空気には幸せが混ざる。それはアストにもクインにも感じられて、目を合わせて笑う。そうして二人はひとしきり笑みを浮かべると、次第に王子と侍女へと戻った。

 

「クイン、他に用事があるんだろう?」

 

 ティーワゴンの下、下段の棚に紙の束を見付けていたアストはクインに話しかける。幸せな空気は残るが、そこにはリンディアの王子アストが居る。

 

「はい。此方を……陛下より直ぐに伝える様にと」

 

 クインより手渡された書類には、幾つかの発見と重要な報せが記されている。丁寧に、しかし素早く読み込むと、アストは顔を上げた。

 

「素晴らしい発見だ。やはり生き残っていたんだな……」

 

「はい……カズキの、聖女の癒しは世界に遍く(あまねく)届いた事が証明されました。これから更に忙しくなります」

 

「嬉しい事だよ。私や父上より……もしかしたらアスティアやクインの方が大変かもしれないぞ?」

 

「それは……重々承知していますが……少し自信が無くなって来ました」

 

 クインの視線は王女と聖女が走り去った扉の先に向く。アストは其処まで心配していないし、カズキの個性を寧ろ好んでもいる。何処か少年の様な聖女は本当に可愛らしい。

 

「まだ時間はあるが、準備を進めないといけない。我がリンディアにとっても非常に重要な事だが、今やこんな事は過去の文献を調べて対応するしかないからな」

 

 アストが机に置いた書類は南の森を調査していた部隊からの物だ。フェイやドルズスも参加した調査は半年で大きく進み、そして遂に発見した。その名称や位置、幾つかの情報はリンディアに有ったが、実際には過去の事実でしか無かったのだ。

 

 そこにはこう記されている。

 

 調査対象だった一つ、生存者や国の発見に進展あり。

 

 南の突端、半島の先。

 

 その名は「ファウストナ海王国」、その海に面した小国は未だ存在していると。

 

 そして、ファウストナを治める女王ラエティティより、カーディルへの会談の申し込みと……何より、聖女カズキへ拝謁したいと言う要望が。

 

 救済の日、その時から新たなる時代が訪れようとしていた。 

 

 

 

 

 




新キャラが登場します


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a sequel(2) 〜ファウストナ海王国〜

 

 

 

 

 

 

 ファウストナ海王国ーーー

 

 

 リンディア王国より遥か南、森をぬけた先に半島が横たわり、その突端にその国は在った。当時の資料にはリンディアと比べれば国力は30分の1、人口は最盛期でも10万に満たないと記されている。海産物と塩が貿易の殆どを占め、国民の大半が水の上を泳ぐ事が出来ると言われる不思議な国だ。

 

 特徴は幾つもあるが、小国でありながらも精強な戦士団が筆頭に上がる。槍を用いた戦士は世界的に有名なリンディア騎士に迫ると言われていた。彼らは錆びやすい金属鎧を使わない。革鎧を主とした戦士は動きが素早く、長い槍も相まって名を売った。

 

 貝や海藻すら調理し、魚を生で食すことから森人対して海人(うみびと)と呼ばれる事もある。そこには変わり者を見る意味が多分に含まれ、森人に対する様な畏怖は含まれていない。

 

 リンディアには及ばないものの、数百年前から在る数少ない国で、基本的に女王が統治する。ファウストナでは海にも神々が居て女王、つまり女性が好まれると信じられているからだ。その為、大変珍しい女性の戦士も存在していたらしい。

 

 だが……魔獣が現れ半島からリンディア等への街道が閉ざされると、情報は届かなくなった。リンディアでも嘗ての友好国を心配する余裕は無くなり、滅亡していてもおかしくないと思われていたのだ。

 

 ファウストナ海王国は、そんな小さな国だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それは本当ですか?」

 

「はい、間違いなくリンディアの騎士です」

 

 ラエティティが居る王宮は焼き締められた木材を主に使用した黒い建物だ。海風から守る生活の知恵は今も連綿と受け継がれている。リンディア城と比べるのは烏滸がましいが、歴史を積み重ねた見事な城だった。

 

「やはりリンディアは生きていましたか……あれ程の大国が簡単に滅びるなど考えられませんでしたが……魔獣の攻撃をどう躱していたのか」

 

「まさに……我等も風前の灯火でした。あの不可思議な白い光が無ければ、今頃はヴァルハラへと旅立っていたでしょう」

 

「癒しの光ですね……魔獣を消し去るだけでなく、負傷者すら助けて頂けるとは……白神の御加護でしょう」

 

 編み込まれた赤い髪は背中側に流れ、玉座に垂らされている。琥珀色の瞳は天に向かい、その鋭い眼光は閉じられた。メリハリの効いた肢体は目を引くが、同時に苦難の時代を生き抜いた女王に誰もが畏怖を覚える。年齢は40を超えるが、未だ生命力に溢れた女王には関係など無いだろう。

 

「騎士の代表が謁見を求めています。如何しますか?」

 

「騎士は何処に?」

 

「北の森を抜けて直ぐ、抵抗はありません」

 

 つまり侵略の意図は無いと考えて良いだろう。まあリンディアに併合された方が国民は幸せかもしれない……ラエティティは口にしなくとも思ってしまう。それ程までに国力には差が有り、ましてやファウストナは滅びる寸前だ。正直今すぐにでもリンディアに援助を求めたい。

 

「我等は誰が対応を?」

 

「ヴァツラフ殿下です。安心して下さい」

 

 ヴァツラフはファウストナの第二王子で、この国の戦士にしては理知的な出来た息子だ。因みに第一王子は戦うのが大好きな如何にもファウストナらしい海の男で、交渉には向いていない。臣下にも知られているし、本人も難しいのは弟に任せたと普段から豪語している。

 

「そう……では謁見の許しを与えます。丁重に迎えて下さい。その騎士の名は?」

 

「はっ……ケーヒル殿と。リンディア騎士団の副団長だそうです」

 

「そっ、それを早く言いなさい!副団長など……リンディアの重鎮ですよ!待たせないで!」

 

 急いで!お願いだから怒らせないでね!そう叫ぶラエティティは意外と可愛らしかった。その顔は青白くなってはいたが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小国にとって近くにある大国を知る事は非常に大切な事だ。冗談で無く存亡の鍵を握るし、日常の生活にも相手国との貿易が欠かせない。軍事と経済に巨大な影響を与える以上、研究を怠る訳にはいかなかった。

 

 ファウストナ海王国にとってリンディア王国がそれにあたり、ラエティティは小さな頃から文献等で学んでいた。つまり、魔獣襲来に向けて援護を頼める相手など他には無いのだ。しかし……森を抜ける為、何度となく部隊を送ったが、結局成果は生まれなかった。

 

 

 

 リンディアを大国足らしめるのは多くの要因がある。

 

 肥沃な大地、連綿と続く王家、刻印保持者の数、そして圧倒的な軍事力だ。

 

 ラエティティはファウストナの戦士団は精強であると自負を持っている。彼らは確かに強く、そして勇猛だ。リンディア騎士団に並ぶと称された事もある。そう、リンディア騎士団、だ。強さの尺度にリンディアを用いる意味は誰でもわかる事だろう。遥か昔から、かの騎士団は象徴だったのだ。

 

 そして、文献や資料でしか見た事のないリンディア騎士団の部隊がファウストナへ現れた。ましてや副団長など、ラエティティにすれば怪物にも等しく同時に英雄でもあるのだろう。

 

 記憶にある資料によれば、騎士団長は王、或いは王子が兼務する。ある意味で団長位は名誉職で、副団長こそが実質の頂点だ。個人の戦闘力は勿論、指揮や組織の運営にすら関わる要職で、大袈裟に言えば世界最高の戦士と答えるだろう。

 

 ファウストナから見れば、他国の王に等しき人なのだ。ラエティティは何故こんな小国にと深く悩んでしまうが、同時にこれを生かさない手はないと覚悟を決める。

 

 まずファウストナに限らずどの国も疲弊してある筈で、それはリンディアも例外ではないだろう。もしかしたら過去の大国は力を失い、この小国に助けを請う可能性すらある。楽観的過ぎるが、あの肥沃な大地へとファウストナが影響を及ぼす事も有り得るかもしれないのだ。

 

 交易が途絶えて久しいが、時代は動くもの。

 

 今がファウストナ変革の時期であるかもしれない。なれば副団長との会合は重要な意味を持つ。女王として、自国の利益を願うのは間違っていない筈だ。一手を慎重に、しかし大胆に打たなくては……ラエティティは震える手を摩り、鋭い眼光を北へと向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ケーヒル副団長殿、ラエティティ陛下より許可が……ファウストナへご案内致します。出来れば直ぐにでも出立したいと思いますが」

 

 切り株にドカリと腰を下ろしていたケーヒルは閉じた目を開く。遥か彼方ではあるが、ファウストナの街が見える。何より、生まれて初めて見た海は圧巻だ。あれが全て水ならば、リンディアは苦難の時をもっと健やかに過ごせたかもしれない。

 

「了解した、我等は直ぐにでも。ヴァツラフ殿下はおいでか?」

 

「はい、今こちらに向かっております」

 

「使者殿、ご苦労だった。では準備に入る」

 

「はっ」

 

 そうしてケーヒルは立ち上がり、立ち去る使者を見送って背後に待機する2小隊に目を配った。森人も含まれる彼らは、恐怖の象徴だった森を踏破した強者達だ。だが……小国とは言え、かの有名だったファウストナ戦士団も控える中、覚悟は要るだろう。友好国であったのは事実だが、それも過去の事。何があるかは分からない。騎士はともかく、森人には説明が必要だ。

 

「ファウストナ海王国か……魔獣の脅威に耐えぬいたのだ、小国などと侮る訳にはいかない。だが、聖女の慈愛は戦いを望まないだろう。会談は慎重に対応しなければ……」

 

 ケーヒルが近づくとフェイは気付いて全員に合図を送る。まだ説明はしていないが、あの森人ならば驚く事では無い。最近共にする機会が増えたが、フェイの有能さは想像以上だった。

 

「フェイ、会談の許可がおりた。我等はこのままファウストナに入る。準備してくれ」

 

「大体の準備は終えています。それとこれを……」

 

「これは?」

 

「カズキ……聖女の絵姿です。必要な場合もあるでしょう。無ければ、命護りの替わりにして下さい」

 

 カズキの横顔が見事に描かれた絵は丁度ケーヒルの掌に収まる大きさだ。翡翠色の瞳、銀月と星の髪飾り、そして腰まで届きそうな黒髪。髪の長さは昔の物だが、カズキの特徴をしっかりと捉えている。何より……首回りには刻印が精緻に書き込まれていて、作者はカズキを見た事があるのは明らかだった。

 

「最近リンスフィアで流通しているやつか……何種類あるんだか……」

 

「知ってるだけでも、二十……いやもっとあるかもしれません。中には癒しの光を放つものや……酒に負けて居眠りする姿まで、まだ増えていくでしょう」

 

「酒……全く、困ったものだ。皆がカズキを愛する余りの行動だけに、取り締まる訳にもいかないからな」

 

「そうですね……その絵は敬虔な神々の信奉者が描いたものです。流石にあの美貌を絵に著すのは難しかったようですが、よく特徴を捉えていますから」

 

「確かに……余程身近に見ないと、これ程正確に描けない筈だ……誰なんだ?」

 

 フェイはニコリと笑い、チラリと視線を送る。それを追ったケーヒルの瞳はクワッと見開き、驚愕でワナワナと震えた。

 

「ま、まさか……本当なのか?」

 

「ええ、描く途中も見ましたし……何度も描き直して、それが五作目の筈です」

 

「人は……不思議なものだな……信じられんよ……」

 

 二人が視線を送る先……森人の背負袋に寄り掛かり、涎を垂らし鼾すら隠さない男。一流の森人で南の森であれば右に出る者はいない。短い手足と繋がった眉毛は愛敬があるが、口を開けば皮肉しか吐かない捻くれ者。

 

「起こして来ます」

 

 フェイに頭を叩かれたドルズスは「んあ?」と間抜け顔を晒し、キョロキョロと顔を振ると慌てて立ち上がる。

 

「な、なんだ!?魔獣か!?」

 

 そして側にあった背負袋に躓き、ドルズスは再び地面に転がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヴァツラフ殿下」

 

「ケーヒル副団長」

 

 しっかりと握手を交わす二人は、姿形こそ違えど共に一流の騎士であり戦士だった。鍛え抜かれた身体、鋭い眼光、使い古した鎧には多くの傷痕。魔獣の脅威から国を守ってきた矜持が、その全てを物語っているようだ。

 

「殿下、ラエティティ陛下への謁見をお許し頂き感謝いたします。我がカーディル王もお喜びになるでしょう」

 

「いや、此方こそ光栄だ。かの名高いリンディア騎士団、しかも副団長となれば陛下も楽しみにされているだろう」

 

「ファウストナ戦士団の勇猛さこそ……魔獣どもと共に戦う事があれば、さぞ頼もしかったでしょうな」

 

「時間があれば是非一戦お願いしたいものだ。きっと我等にとって有意義なものとなる」

 

「ははは……その際は御手柔らかにお願いしたいものです。先日の戦いでは死に掛けた老骨ですからな。この通り、愛剣も砕かれて新兵の如くです」

 

 鞘からは抜かないが、明らかな新品の大剣は陽の光を鈍く反射している。

 

「死に掛けたなど……そうは見えないが、白い光を?」

 

「ええ、間違いなく。遍く癒しが世界に降り注ぎました。本当に……全てが奇跡でしょう」

 

「あの光が何なのか知っているのか?」

 

「そうですな……良く知っています」

 

 目を細めたケーヒルは目の前に立つファウストナ第二王子のヴァツラフを改めて観察する。勿論失礼のないようさり気無くだが、彼の特徴を捉えるのは難しくない。

 

 目立つのは日に焼けた浅黒い肌だ。ファウストナの人々に共通はしているが、ヴァツラフは群を抜いて焼けている。それだけ熱い陽に晒される中、日々戦いに明け暮れたのだろう。

 

 赤髪だろうが、全体を短く刈り上げているため分かりにくい。身長はケーヒル程では無いが、長身と言っていい。アストと並べば丁度視線が合うかもしれない。戦いにより鍛え上げた体は硬い筋肉に覆われているが、細身に纏まりアストとは違った種類の美丈夫だ。男を体現するヴァツラフ、歳の頃は20……そんなところか。

 

「では……神々の加護が」

 

 そう呟くヴァツラフの最大の特徴……それは露出した両肩の左、そこに刻まれた刻印だ。ヴァツラフ曰く力の刻印で、驚くべきは2階位らしい事だろう。聖女を知るケーヒルに驚きは少ないが、それでも珍しい事に変わりは無い。

 

「殿下、それはラエティティ陛下がおられる時が宜しいかと。参りましょう」

 

「……そうだな……」

 

 ファウストナの王宮まで半日はかかるだろう。両国にとって時間は有限で、早いに越したことはない。

 

 リンディア、ファウストナ両軍はゆっくりと海へ向けて動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(3) 〜口吻〜

 白祈の間に二つの人影がある。

 

 共に銀髪の男達はリンディアに住う者なら誰もが知っている。父子は祈りを捧げ、神々へ感謝の言の葉を呟いた。

 

「ふう……どうだ?」

 

「やはり気が引き締まります。まるで神々が此処に座すと感じられる程に」

 

「ああ、そうだな。遥か昔、リンディア勃興の神代より祈りを捧げてきた。先般の聖女降臨も積み重なった祈りが届いたのかもしれん。アスは何時も言っていたよ、祈りに終わりは無いと」

 

「母上が……」

 

「カズキが現れる前、一度だけ挫けそうになった事がある。その時ふと思い出したんだ……アスの言葉を。だから私は今も変わらず此処に来るし、お前もそうしなければならない。分かるな?」

 

「はい……父上、この祈りは黒神にも届いているのでしょうか?黒神ヤトは我等を知っていました。白神だけでなく、黒神にも祈りを捧げなければならないのでは?」

 

 カーディルは真っ直ぐに育ってくれた王子を優しく眺め、同時に誇りに思った。何より愛する妻、アスに深く感謝する。

 

「白祈の白は、白神だけを表しているのではない。白き……つまり濁りの無い祈りこそが重要だと教えているのだ。私もその意味を履き違えていたが、今なら先代から受け継いだ祈りが分かる。私利私欲にまみれた祈りなら、神々には届かない……白祈にはそんな意味が込められているのだろう」

 

「濁りの無い……」

 

「カズキの瞳の様に、澄んだ色を湛え続けたいものだ」

 

「まだまだ修行が足りませんね……救済を果たしたカズキに堂々と並び立つには全てが不足していると感じます」

 

 此処でいきなり悪戯好きの子供……つまりカーディルのもう一つの本性が露わになる。天に向かうアストの瞳はそれに気づかない。

 

「アストよ……もう済ませたのか?」

 

「何ですか?」

 

「お前も一人の男……私は許すぞ?」

 

「父上……」

 

 アストはカーディルの悪戯好きな瞳に此処で気付き、溜息すら隠さなくなった。

 

「何を躊躇うのだ?あれ程の器量を持つ娘なぞ、この世界に二つとない輝く光だぞ?それにカズキはお前を嫌ってなどいない。まだ色恋には疎そうだが、そのうちに理解する。だがその時、隣がお前である保証などないのだ」

 

「カズキは救済を成したばかりの聖女です。ましてやヤトから聞いた過去はご存知でしょう。今は優しく見守るとき、そう考えているのです。先ずは彼女自身が癒されて欲しい……間違っていない筈です」

 

「ふん、怖気付いた言い訳だな。愛する人を癒すのに、自らが動かずしてどうする?せめて抱き締め、口吻(くちづけ)くらいしてみせろ」

 

 言葉は大層立派だが、ニヤつく表情が台無しにしている。勿論カーディルは分かってやっているが。

 

「口吻は……いや、何でもありません」

 

「ほうほうほう!いや謝ろう!余計なお世話だったな……で?何処で何時()()()のだ?」

 

「言うわけないでしょう!失礼します!」

 

「なんだ!逃げるのか!?ははは!」

 

 足早に白祈の間を立ち去るアストの背中にカーディルの笑い声が突き刺さった。アストの肩は震えていたとか無いとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全く……父上は相変わらずだな……」

 

 湧き上がった羞恥心を抑え込み、呼吸を落ち着かせる。同時に今や幻だったのではと想う、あの救済の日を頭に浮かべた。息を吹き返したカズキがいるからこそ大切な思い出となっているが、あの状況を忘れる事など出来ない。

 

 

 失われた右腕

 

 流れていく赤い血

 

 溢れた魔獣

 

 そして絶望

 

 そんな中、初めて聞いたカズキの声

 

 

 カズキは自分の名前を紡いでくれた。そして「ごめんなさい」「助ける」と……瞳と同じ澄んだ声で語り掛けたのだ。

 

口吻(くちづけ)、か……」

 

 そういえば、あの謝罪の意味を聞いていない。そしてあの口吻も。言語不覚の刻印がカズキを縛るが……以前の様に意思疎通が不可能な訳では無いのだから、もう一度聞いてみて良いのかもしれない。アストは何故か明るい気持ちになって、その足は聖女の間に向かった。

 

 そして、何時もの、もはや風物詩と言って良い声が響く。

 

 

「カズキ!待ちなさい!」

 

「アスティア様!早く!」

 

 

「おっと……」

 

 アストの胸に柔らかい物体が収まり、ふんわりと香油の香りが鼻をくすぐった。曲がり角から飛び出して来たソレは、吃驚顔でアストを見上げる。

 

「あっ……兄様!逃がさないで!」

 

「運が悪かったですね、カズキ」

 

 やはり何時もの二人が現れ、心から幸せな気持ちが溢れるのだ。

 

「放して」

 

 逃げようと力を入れる聖女だが、アストには心地良く感じる程度の抵抗で微笑ましい。

 

「カズキが悪く無いなら味方をするよ。何があったんだい?」

 

 続いてクインが現れ、アスティア達に従う素振りを見せれば、もはやカズキに勝機は無い。アストは苦笑し、もう一度下を見る。案の定バツの悪い表情で、更に目線すら外せば事実は明らかになった。

 

「兄様、カズキったらまた勉強から逃げたのよ!別に難しい事じゃ無いのに、何が嫌なの?」

 

「カズキ?」

 

「……は」

 

「ん?」

 

「恥ずかし、嫌」

 

「恥ずかしい?」

 

 コクリと頷き、ハァと溜息すらつく。

 

「恥ずかしいって……ドレスの捌き方とか、仕草、歩き方なんて、女の子なら誰でも習う事よ?お化粧も覚えないし……折角の綺麗なカズキなのに」

 

 化粧すらせず、所作は乱雑そのもの。それでも聖女の美しさは群を抜く。もし着飾って()()()を身に付けたなら、どれ程の花が咲くだろう。

 

「そうか……カズキ自身が嫌なら強制はしたく無いが、先ずは話をしようか。私もカズキと話したくて此処に来たんだ」

 

「話?」

 

「ああ、質問があるんだ。いいかい?」

 

「うん」

 

 その表情は勉強しなくてよいと安堵の色があったが、果たしてそう上手くいくだろうか。クインが反論しないという事が、何を意味するか聖女は考えて無い様だ。

 

「では、用意します。エリ、行きましょう」

 

「はーい」

 

 二人の侍女はアスト達に礼をすると、立ち去った。

 

「兄様、私も居ていいの?」

 

「勿論だよ。アスティア達にも聞いて欲しい」

 

 口吻以外だが……内心アストは付け足した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキって……兄様の言う事は聞くのよね……」

 

 聖女の間に地を這う様な声が響いた。アストはそう思わないが、接する時間が違いすぎて参考にならない。目の前に座りカズキを睨むアスティアにとっては気になるのだろう……まるで仲の悪い姉妹だと言わんばかりだが、色違いでお揃いのドレスを着こなす二人には見当違いとしか思えない。

 

 以前の星空をあしらった物とは違うが、シンプルな蒼と若草色はアストには可愛らしく、微笑ましく見えるのだ。膝上まで披露して、健康的な脚が眩しい。

 

「まるで本当の姉妹の様に見えるが、違うのかい?」

 

「そ、それは……そうなら嬉しいけど」

 

 少し頬を赤らめるアスティアはやはり愛らしい。チラチラと隣に居るカズキの反応を伺う妹に、アストは笑みが溢れるのを止められないのだ。

 

「赤」

 

 赤らむアスティアを見てカズキは曰う(のたまう)。悪気は無いのだろうが、少しだけ笑みまで浮かべるのでタチが悪い。

 

「貴女ね……」

 

 愛する妹である聖女だが、腹立たしいのは仕方がない筈だ……アスティアはエリにする様に頬を抓りたくなった。

 

「お待たせしました」

 

 測った訳ではないだろうが、クインがエリを伴い入室して来る。扉を叩かなかったのは、アストが気を利かして開放していたからだろう。

 

「こっちだ。クイン、君達にも聞いて欲しいから座ってくれ」

 

 クインは眉間にシワを寄せたが最近は諦め気味だ。アストの身分を問わない優しさは美徳だろうが、時には負を呼ぶ事もある。ましてや他国の存在が明らかになった今、それは尚更なのだ。カズキの事も含め、しっかりと話し合う必要があるだろう。

 

 そんな事を考えながらも手は止まらず、真円のテーブルには紅茶が用意された。クインの優しさか香り付けの酒を僅かに垂らす。カズキの視線は紅茶では無く、クインの手元に釘付けなのは笑って良いのだろうか?

 

「失礼します」

 

 クインとエリも席に付き、五人はテーブルに集った。

 

「いい香り……クイン、これは?」

 

「果実酒を更に蒸留した物です。大変貴重ですが、先日カズキへ献上されました。あの戦いの中、僅かに残っていた正に奇跡のお酒ですね」

 

「確かに素敵な香りですよね……凄く甘い香りなのに上品で、幸せな気持ちになります」

 

 手を軽く振り、その香りを楽しむエリも笑顔一杯だ。

 

「お酒を献上ね……本人は大喜びだろうけど」

 

 その本人は未だにクインが片付けたソレを目で追っている。もう怒る気も失せたアスティアだった。

 

「強いお酒ですから、ほんの少しだけ垂らせば十分です。焼き菓子にも入れる事がありますし、使い途は多い……カズキ、勉強を終えなければ上げませんよ?」

 

 いつ迄も後ろ側に集中するカズキに、クインはトドメを刺す。そんな……と哀しい顔をするカズキに、これは使えるとクインは利用を決めた。

 

「献上品か……随分増えたが、未だに減る事も無いな。復興の大変な時期でもあるし、無理はして欲しくないが……」

 

「寧ろ熱狂は高まるばかりです。カズキは街に姿を現す事も殆ど無いですし、直接感謝も祈りも捧げられないならと、せめてもの贈り物なのでしょう」

 

「なるほど……ロザリーに会いに行く時に、何か考えてみるか……聖女を私達が独占するのは申し訳がないからな」

 

「ロザリー……」

 

 興味が酒から此方に移ったカズキは、アストを見詰める。

 

「ロザリーの墓まで整備を進めているんだ。丘の上だからもう少し待ってくれ。もう一度必ず連れて行くよ」

 

「?」

 

「カズキ……お墓よ。ロザリー様が眠る場所。今度行きましょう」

 

「眠る」

 

「ああ、私達もお礼を改めて伝えたい。君を守ってくれた事を」

 

「私を?守った……」

 

 思い出したのか少し俯くカズキに、アストは話題を振る。

 

「カズキ、君に聞きたい事があるんだ。教えてくれたら嬉しい」

 

「うん、良い、どうぞ」

 

 紅茶で唇を潤わしたアストは、ゆっくりと言葉を重ねた。

 

 

 

 

 

 

「あの日、カズキが世界を癒してくれた日。君は言っただろう?私の名、ごめんなさい、そしてありがとうと……何故謝ったのか気になっていた」

 

「ごめんなさい」

 

「その言葉だ」

 

 アスティア達も以前少しだけ聞いていた。ヤトが去った夜、眠るカズキを見詰めながらアストが涙を見せた時だ。

 

 救済が降り注いだあの時、カズキがその身を削りながらも成した奇跡、その中心にアストはいたのだから。

 

 言葉を探しているのか、中空を見詰めながらカズキは暫し沈黙する。皆は急かす事もなく、緩やかな時間を感じていた。

 

「……知る、ない、気付きない」

 

「ああ、続けてくれ」

 

「アスト、アスティア、クイン、エリ、全部」

 

 名を呼ばれただけなのに、何故だか幸福を覚える。

 

「好き、ありがとう」

 

「見てない、駄目」

 

「沢山、助けて、出来た」

 

「見て、ない、ダメ、知らない」

 

「私、弱い、凄く」

 

「ごめんなさい」

 

 切れ切れの単語なのに、アストには全てが理解出来た。ヤトから聞いたカズキの過去に、全てが符合する。もし自分がその立場なら、憎しみの鎖を断ち切れただろうか?それは不可能だと感じる、いや確信を持てる。人を信じられないカズキは、言葉を交わすことすら出来なかったのだ。ヤトが奇跡と言う言葉を選んだのは当然だろう。

 

「カズキ……」

 

 女性達は感情が昂ぶったのか、ジッと聖女を見詰める。

 

「ありがとう……教えてくれて。だから、もう謝らないで……私達も哀しくなってしまう」

 

 カズキもアストを見詰め返し、更に言葉を紡いだ。

 

「好き」

 

「な、なにを……」

 

「伝える、足る、ない」

 

「ああ……みんなへの気持ちか」

 

「だから、キス」

 

「「「キス?」」」

 

 聞いた事の無い単語にカズキ以外は首を傾げる。皆は分からないが、何故か元の世界の言葉そのものだった。

 

「どういう意味?」

 

「さあ?クインさん分かります?」

 

「分からないわ……何か感謝を表す言葉かしら」

 

 皆に伝わらない事が嫌なのか、カズキは徐ろに立ち上がりアストの元へ行く。身長差から座るアストの顔は僅かにカズキより下だ。不思議な事にカズキの頬が赤い。

 

「まさか……」

 

 クインは何かを察して、でも止めない。

 

「クイン、何か分かっ……」

 

 アストの言葉は途中で途絶えて、アスティア達3人も絶句した。重なり一つになった二人に言葉なぞ必要無いだろう。

 

 そしてアストとカズキは再び二つに分かれる。

 

「キス」

 

 聖女の言葉は三人の耳に届き、その意味を理解させた。

 

 

 

 

 

 

 

「「ええぇーーー!!!」」

 

 アスティアとエリの悲鳴は部屋中に広がり、クインすら赤ら顔を隠せなかった。

 

 

 

 

 

 




何処にしたのか、ご想像にお任せします。


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a sequel(4) 〜ラエティティ〜

沢山の誤字報告頂きました。チェックしてるつもりなんだけど……無限に出てきます。 報告頂いた方、ありがとうございます。


 

 

 

 

 

「ラエティティ女王陛下、御尊顔を賜り光栄に存じます」

 

 一段下がった木床(もくしょう)に片膝を着いたケーヒルは、流れる様に言葉を紡いだ。視線を僅かに落とし、直接ラエティティの眼は見ない。直ぐ後ろにはフェイが同じ姿勢のまま微動だにせず、やはり顔を下げたままだ。

 

 ラエティティは場合に寄っては大国を笠に着て、尊大な態度を示すかもと考えていた。それならそれでやりようがあったし、寧ろ組し易いと内心笑っただろう。

 

 しかし予想は見事に外れ……明らかな強者で有りながらも、礼を尽くす理知的な瞳はラエティティを緊張させた。後ろに控える男も只者では無いだろう。当然だが武器などは装備していない。

 

「……ケーヒル副団長、顔を上げて下さい。我等は遥か昔より友誼を培った国同士。あの苦難を良く耐え抜かれました。先ずは互いを称えましょう」

 

「はっ……その言葉、必ずリンディア王へ伝えましょう。突然の訪問にも関わらず、謁見の許可を頂き感謝致します。女王陛下の寛大なお心に神々の御加護がありますこと、祈りを捧げさせて頂きましょう」

 

 ラエティティは更に緊張を覚える。先ずリンディアの王が指揮している事、そして予想通り目の前の男は王へ直接進言出来る立場の者である事だ。しかも明らかに謙った言動は何を意味するのか……

 

「リンディア王……リンディアを治めるお方、さぞ偉大なるお人なのでしょうね」

 

 言葉を震わせないよう、それを気付かれないよう短く済ました。そして、これも予想通り副団長は視線を全く逸らす事無く答えた。

 

「カーディル=リンディア陛下は王の中の王。我がリンディアは魔獣の戦いにも挫ける事無く、此処まで来ました。女王陛下と同じく、国を見事に統治されています」

 

 王の中の王……やはり大国の力は健在か……

 

 ラエティティは、初めてケーヒルから大国の誇りと傲りを感じた。

 

「それは素晴らしいですね。そうですね……先ずはこの者を改めて紹介しておきましょう。顔と名前は既に知っているでしょうが。ヴァツラフ」

 

「はい、ケーヒル副団長殿、改めて名乗らせて貰おう。俺はヴァツラフ、ヴァツラフ=ファウストナだ。陛下の第二子でファウストナ戦士団団長だ。兄上がいるが、今は生憎の不在。許せ」

 

「ファウストナ戦士団団長とは……その見事な刻印といい、さぞ魔獣との戦いではご活躍されたのでしょうな。それと急な来訪は我等の非、殿下には心遣い無用とお伝え下さい」

 

「伝えよう。ケーヒル殿、呼び方は構わんな?親愛の証だ。ああ、ありがとう。それで、隣の者は誰だ。副官か?」

 

「いえ……この者は森人。リンスフィア最高の隊商、マファルダストの隊長です。森を抜けるには、森人の助力が不可欠。更に言えばファウストナ海王国との情報交換には必要でしょうからな」

 

「名は?」

 

「はっ!フェイ、と申します。それと……一つ訂正を、私は隊長では無く、副隊長です。お見知り置きを」

 

「ふむ?まあいい。では、陛下。時間も限られております。早速、話を詰めましょう」

 

「そうですね。ケーヒル殿、彼方で詳しく話しましょう」

 

「はっ」

 

 後のファウストナはリンディアと硬い絆で結ばれるが、今は未だ互いを探り合っていた。これも聖女降臨により起きた時代の趨勢で、その影響力は大きな流れを生んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 玉座から離れ、会談を行う為ケーヒル達は席についていた。目の前には香ばしい香りのお茶が置かれている。深い焙煎を行ったソレはリンディアではお目にかかれない。茶菓子もやはり変わっていて、改めて他国に来たと感じさせた。

 

 ケーヒルは感慨深く思い、同時に癒しを世界に与えたカズキに感謝する。相手が警戒しているのは理解出来るが、聖女は平和を望むだろう。そしてそれはリンディアの総意でもある。

 

 

「魔獣は完全に消えたと?」

 

「そうです。その証拠に我等は森を抜けて来ました。ご存知の通り、魔獣らは森への侵入を許しませんからな。そして……他にも、判断出来る要因があります」

 

「確かに……あの日、目の前から魔獣は消えた。それはファウストナの知るところだが、世界全てなど、理解の範疇を超えている」

 

「では、ファウストナ海王国の情勢は如何ですかな?」

 

 ラエティティは息を飲む。反対にそれこそが聞きたい事で、同時にこちらの窮状は明かしたくはない。勿論城に来るまでの街を見ればある程度は分かるだろうが、態々教えるのは間抜けな所行だろう。ケーヒルは理知的な男と思ったが、此処まで明け透けに聞かれると、判断を間違えたかと考えてしまう。

 

「それは……」

 

 何と誤魔化すか言葉を選んでいた時、ラエティティもヴァツラフすらも驚く発言がケーヒルから齎された。

 

「失礼しました。人に尋ねるなら先ずは我等が先。リンディアの現状をお知らせしましょう」

 

「そっ……」

 

 それは助かるが……何故……?

 

 ラエティティもヴァツラフも、言葉を失う。しかしケーヒルは意に返さずにつらつらと話し始めるのだ。

 

「先程お伝えした通り、現王はカーディル陛下。そしてアスト王子殿下、アスティア王女殿下が健やかに育ちあそばれました。アス王妃陛下は7年前、両殿下を守る為魔獣に立ちはだかり、その牙に……しかし王妃陛下の優しいお心は受け継がれております」

 

 この時代なら盤石と言っていいだろう。ファウストナにも二人の王子がいるのは、心強いばかりだ。

 

「先の魔獣襲来で、騎士団の半数が戦死、森人もその3分の一が犠牲になりました。襲った魔獣は総数が万を超えましたが……しかし王都リンスフィアは殆ど無傷、城壁が一部壊されましたが問題はありません」

 

「万、だと……」

 

 あのリンディア騎士団の半数が死すとは、それだけでも明かしたくない重要な軍事機密の筈だ。半数が死んだのなら負傷者は更にいる……つまり騎士団は壊滅したと同義だ。今も病床は溢れているだろう。

 

 しかし何より魔獣の数が想像を絶している。ファウストナを襲った魔獣は数百だが、それすら絶望的な数だったのだ。もし万を数える魔獣に襲われたなら僅か一晩で滅んでいただろう。

 

「はい。今は陛下の元、復興が始まっています。現在各地に我等の様な調査団を派遣して、生き残った人々や嘗ての友好国を調べていました。そして我等は此処にいます」

 

「失礼ですが、リンディアの騎士団は壊滅したのでしょう?その様な余裕などない筈ですが……」

 

「女王陛下、恐れながら壊滅などしておりません。半数とは言え、我が騎士団は健在。アスト騎士団長の元、再編成も完了しております。そしてなにより森人の助力は計り知れません」

 

「癒しの光……あの光はリンディアにも降り注いだのですね?なれば負傷者も……」

 

「御慧眼の通りです。1人も欠ける事なく癒しは届きました。ではこのファウストナにも?」

 

「その前に聞かせて下さい。リンディアは未だ……あの強きリンディアですか?」

 

 ケーヒルは笑みを浮かべはっきりと答えた。

 

「無論です。寧ろ更に強くなりました」

 

「そうですか……」

 

 ラエティティは全てを信じる事は出来ないが、ケーヒルが真実を話していると思えた。どの道、自国だけでは如何にもならない状況なのだ。

 

「我がファウストナは……魔獣数百に襲われ、戦士団の奮闘も虚しく壊滅寸前でした。今や戦士団は形を成していません。ここのヴァツラフこそ強き者ですが、所詮は1人。後はヴァルハラへと旅立つ時を待っていたのです。全てを諦めた時、世界に白き花が咲き始め……次に目を開いた時には赤い魔獣はただの一匹も」

 

「俺は丁度魔獣の一匹にトドメを刺す瞬間で、手応えを失って戸惑ったのを覚えている。しかしこの国は疲弊し、もしかしたら在るはずのリンディア王国へ決死の旅を始める時だったのだ。その時ケーヒル殿と出会った訳だ」

 

「なるほど……」

 

「先程の話だが、魔獣は間違い無く消えたのだな?森の深部を踏破した皆を疑いたくはないが」

 

「殿下、一つ誤解を解いておきましょう」

 

「誤解を?」

 

 ヴァツラフは消え去った事実に間違いがあるのかと、眉を潜める。

 

「はい。フェイ、説明を頼む」

 

「発言をお許しください。殿下、魔獣は森の深部に棲んでいるのではありません。いえ正確には深部だけで無く……ですが」

 

「森に棲んでいないだと?」

 

「奴等は地中に棲んでいたのです。地中深く穴を掘り、網を掛けるように森を包んでいました。其れ等は巧妙に偽装され、森人すら知らない事実。掘り進む先に森が無ければ、奴等は溢れて周囲を襲います。それこそが魔獣の生態なのです」

 

「地中だと……森には根も深く、そんな余裕など……」

 

「お二人もご存知でしょう。気配無く現れる魔獣、森に特化したとは思えない巨体と体色、次々と溢れる数、その全てが説明出来るのです。そして我等は幾つもの巣穴を発見しております」

 

「では一度も?」

 

「はい、ただの一度も魔獣とは遭遇していません。つまり……森は数百年の時を経て、人の手に還ってきたのです。殿下」

 

 森が人の手に……ラエティティもヴァツラフも、体と心が震えるのを感じた。それが事実なら復興に向けて木材をは初めとする資源を回収出来るのだ。何より、ククの葉があれば沢山の子供達を助けられる。

 

「ヴァツラフ……」

 

「直ぐに隊を編成しましょう。ククの葉を手に入れなければ」

 

「お待ち下さい」

 

「ケーヒル殿、済まないが俺達に余裕など無いんだ。急ぎ……」

 

「ククの葉を提供しましょう」

 

「な、何?」

 

「ククの葉はフェイ達が多く採取済みです。直ぐに用意します」

 

「馬鹿な……」

 

 ククの葉は森の奥深く命を賭けて探し出す貴重な品だ。同時に重要な軍事物資でもある。痛み止め、止血、解熱、他にも……使用には枚挙が無い。万能と呼ばれる所以だ。

 

「フェイ」

 

「はい」

 

 直ぐに立ち上がったフェイは戸惑う事なく部屋を後にする。

 

「何故そこまで……何が狙いだ!」

 

 ヴァツラフは堪らず叫ぶ。余りに都合が良すぎて疑問しか浮かばない。リンディアの状況が真実ならば、直ぐにでもファウストナを占領出来るのだ。この状況で恩を売る必要など存在しない。

 

 その恫喝にもケーヒルは全く動じない。それどころか同情心すら感じられて、ヴァツラフの頭の血は沸き立った。

 

「ヴァツラフ!落ち着きなさい!」

 

「しかし!」

 

「私の言葉を聞けないと?」

 

「い、いえ」

 

 同じく動いていなかったラエティティは、まさに王だった。最上の戦士であろうヴァツラフすら青白い顔に変わっている。

 

「ケーヒル殿、失礼しました。我が子の無礼お許し下さい」

 

「いえ……民を、国を想う余りの言動でしょう。寧ろ見事と感じ入ります。敬愛するアスト王子殿下も、国民の為なら全てを投げ打つ事が出来るお方。ヴァツラフ殿下とは話が合うでしょうな」

 

「まあ……それは素敵ですね……」

 

 ラエティティは既に気付いていた。ケーヒルに他意は無く、ただファウストナの民を想っての行動だと。

 

 だが、だからこそ聞かなくてはならない。この世界に……自己を顧みない、全てを犠牲にしてまで行う救いなど無いのだから。

 

「教えて下さい。何故ケーヒル殿はこのファウストナへ?」

 

 だが事実はラエティティの想像を超えて、そして同時に救いは齎されたと知るのだ。有り得ないと思う、全てを捧げ慈愛に溢れた救済が行われたと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この会談の後、ラエティティはリンディアを訪れる事を決める。復興も未だ途中のファウストナだが、リンディア王との会談には大きな意味があるだろう。寧ろ復興の為には友誼を深める事こそが肝要だ。

 

 だが、何より……会わなくてはならない。

 

 このファウストナを救い、今はケーヒルの手によりククの葉すら届いた。

 

 見せられた絵姿はあまりに美しく、首の刻印が目につく。そして、見た事のない黒髪と翡翠色の瞳はその者を超常の世界へと誘う。

 

 慈愛と癒しを司り、黒神にすら愛された人。

 

 神々の使徒とは、この方を指すのだろう。

 

 ラエティティは疑う事すらなかった。

 

 何故か分かったのだ。

 

 この少女こそが救いを与えたのだと。

 

 その名は……

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(5) 〜家族会議〜

 

 

 

 コヒン=アーシケルは痛む腰をトントンと叩きながら階段を登っていた。一歩ずつゆっくりと脚を上げ、右手は壁に這わしている。額には少しだけ汗が浮かんでいるようだ。

 

 クインの祖父であり、自称神代研究家のコヒンは剃り上げた頭を布で拭きながら息を吐いた。

 

「ふう……殿下もこの老ぼれに無茶を言うのぉ……今更現場仕事なぞ無茶苦茶じゃわい」

 

 城の地下深く文献や資料に埋もれながら過ごす事が幸せだったコヒンはぼやく。リンディアでは珍しくない青い瞳は歳のせいか少し濁っているが、優しい人柄は十分に察せられた。

 

 先の戦争で多くの犠牲者を出したリンディア王国は、復興に向けて人材不足に陥っていた。騎士達は再編成されたものの、内務にも多くの穴が開いており、カーディルやアストへの負担は増加した。そこで名誉の指名を請けたのがコヒンだ。元は宰相をしておりリンディア内務に詳しい。何よりクインを見ても分かる通り、明晰な頭脳は健在だ。リンディアにとって生かさない手はない人材だった。

 

 そして再び宰相へと返り咲いたのだ。

 

「そうぼやかないでくれ、コヒン」

 

 登り切った階段の踊り場にアストの声が響く。徐にコヒンが脇に抱えた資料を取り、負担を軽くするアストはやはり優しい王子なのだろう。そこには苦笑が浮かんでいるが。

 

「おお、殿下。荷物は助かりますが、出来るならあの穴蔵に戻して頂きたいですな。明日もしれない爺に無茶をさせるものではないですぞ?」

 

「済まないが、陛下にも許可頂いた結果だ。諦めてくれ。私もコヒンの知恵に縋りたいし、どうか助けて欲しい」

 

 ゆっくりと王の間に歩みながらも、2人は互いの思いをぶつけ合う。何処か楽しそうに。

 

「知恵などクインに頼めば何とかするでしょう。あれは身内贔屓を忘れても頭の切れる孫ですじゃ。カビの生えた爺いでは敵いませんぞ」

 

「クインは確かに大変有能な女性だ。いつも助けて貰っているよ。だが、今必要なのは古い古い知識だ。コヒン曰くカビの生えた知恵だよ。それにクインは聖女の相手で手一杯だ」

 

「聖女といえば、孫もぼやいていましたのぉ。中々珍しい事で、最初は驚いたものですじゃ」

 

「ははは……流石のクインも聖女には手を焼いているよ。毎日が賑やかで大変だ」

 

 カズキの淑女への教育は中々、いや全く上手くいっていない。酒で釣るのにも限界があり、逃亡の技術は磨かれて行く。最早リンディア城から自力で抜け出す事すら可能だろう。アストすら知らない抜け道を駆使する聖女は、リンディア城内の名物になっている。

 

「聖女は元気ですかな?」

 

「クインのぼやき通りさ。笑顔も良く浮かべてくれて、城の中は明るくなった」

 

「ほほっ、それは良い事ですな。あの救済を果たした聖女が健やかならば、こんな良い事はないですからの」

 

 その通りだ……呟くアストにも笑顔が浮かび、世界に平和が訪れた事を実感する。

 

「さあ……仕事だ。コヒン、頼んだぞ」

 

「仕方がないですなぁ……」

 

 再び腰を叩くコヒンを伴い、アストはカーディルに会うべく大きな扉を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっと終わった……」

 

 何時も明るく元気一杯のエリは、珍しくグデンと椅子に倒れ込んだ。お団子に纏めた赤毛も心なしか萎れている。燃え尽きました……更に呟くエリにアスティアはやはり珍しくご苦労様と労を労った。

 

「でもエリ……頑張った甲斐はあるわよ……きっとみんな驚くわ」

 

「それだけは自信あります……でもちょっと休憩……」

 

「後で御褒美を貰うわね。お父様もこれなら何でも言う事を聞いてくれるでしょう」

 

 先程まで一緒に手伝っていたクインは先に王の間に向かっている。エリと違い疲れた様子は見せなかったが、扉を閉める寸前に肩で溜息をついたのをアスティアは目撃したのだ。

 

 

 

 今日も朝から厳しい戦いの連続だった。

 

 早朝、様子を見に行ったクインは目的の人物がベッドに居ないのを知る。明晰な頭脳は容疑者が既に部屋を脱走済みと判断。取って返すと、交代の騎士を総動員し捜索を開始した。まさか容疑者もアスティア、クイン、エリの三人だけでなく騎士まで動員するとは思っていなかったのだろう。

 

 時を待たずして、逃走先は判明。

 

 見つかったのは厨房だ。あちこちの棚や箱の中身を確認していたのだろう。流石に盗みは働いてないが、綺麗に整頓されていたソコは、乱雑に荒らされていたのだ。

 

 アスティア達三人、更には騎士にまで囲まれた容疑者……まあ聖女だが……は逃走を断念。次には容疑を軽くする為、弁明と言う名の言い訳を始めた。

 

 聖女の途切れ途切れの言葉を好意的に受け取り繋げれば、以下のものとなる。

 

 

 昨日は夕餉が早く、お腹が空いた。

 

 早朝だし誰かを起こすのは忍びない。

 

 ならば自分で探そうと此処に来た。

 

 色々探していたら楽しくなって、こうなった。

 

 

 以上だ。

 

 

 だが、残念ながら慌てて作った言い訳ほど論旨が破綻しているものはない。ましてや美しい瞳をふらふらと動かして、挙動不審なら尚更だろう。

 

「カズキ」

 

「なに?」

 

「何故、食べ物じゃなく飲み物があんなに沢山出ているのかしら?」

 

「食べたら渇く、普通」

 

「水ならソコにあるでしょう」

 

 指差す先には透明な水を湛えた水瓶がある。アスティアはジッとカズキから視線を外さない。

 

「あ、甘い、飲む」

 

「甘いのは、どれも果実の漬け込みばかりだわ。それは飲み物と言わない。私が言ったのは、あっちよ」

 

 更に細くて白い指先をアスティアは動かす。

 

 そこには調理に使う果実酒や蒸留酒、ハチミツ酒などがそこだけ綺麗に並んでいた。殆どが料理に使われている為、バラバラに減っている。だが飲んだ形跡はない。明らかに目的の品があるのだ。

 

「間違い」

 

「そう……そう言えばカズキ、以前にクインがお茶に垂らしたお酒は飲まして貰えた?かなり気になってたみたいだから」

 

 クインはカズキの勉強の進み具合で提供するつもりだったが、残念ながら合格していない事はアスティアも知っている。

 

 此処でカズキの挙動は更に悪化する。

 

「あの時クインは言ったわ。焼き菓子とか使い途は多いって。此処はクインも使うし、特にお菓子に使う材料辺りが一番荒らされているわね」

 

「ま、間違い」

 

「カズキ……謝るなら今しか無いわよ?」

 

 騎士達は笑いを堪えるため、必死で口を押さえている。涙が溢れそうな者は明後日の方向を眺めるしか無い様だ。

 

 事実は明白だが、未だに言い訳を考える聖女にトドメが刺された。クインの一言は非常に重い。

 

「悪い聖女には二度とお酒は上げませんよ?」

 

 そして容疑者の目的は達成されず、逮捕されたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほう……」

 

 カーディルとコヒンは感嘆の溜息をつき、隣のアストは呆然と立ち竦んでいる。側に控えるクインは何故か誇らしげだった。

 

 アスティアが先に入り、エリに片手を支えられたカズキが王の間に入った瞬間の出来事だ。

 

 誰もが聖女だと知っているが、これなら会った事の無い他国の者すら確信するだろう。

 

 

 

 足首まで隠すロングドレスは加護を齎す神々を表し、黒を基調としている。だがよく見れば全体に白と銀の線が斜めに彩られていて、重い印象を和らげた。肩は大胆に露出し、背後に回れば綺麗な背中も目に入るだろう。封印を施された聖女の刻印こそドレスに守られているが、ヤトの鎖はところどころ顔を見せている。肩から先、素肌のままの両腕には煌びやかな腕輪が幾つか並ぶ。

 

 首回りの言語不覚はあえて隠さず、まるでソコに繋がっている様なネックレスが逆に脇役だ。

 

 一房だけ編まれた黒髪は銀月の髪飾りも相まって、少女を大人に見せた。翡翠色が映える様、瞳周りの化粧は最小限だが、唇に引かれた紅は明るい花の様に淡い色を湛える。薄っすらと水白粉(みずおしろい)がのる頬は優しさを表しているようだ。

 

 誰もがカズキの美しさを知っていたつもりだが、聖女として着飾った姿に自らの無知を恥じ入るしか無かった。

 

 

「これは……驚いたな……想像以上だ」

 

「まさに。宰相になった甲斐がありますな」

 

 

「殿下……しっかりして下さい」

 

 クインの小声で我に返ったアストは、しかし再びカズキを眺めるしか出来なかった。

 

「兄様……何か一言ないの?」

 

「あ、ああ……綺麗だ……」

 

「それだけ?」

 

 カズキの手を取ったアスティアは近くまで連れて来る。少しだけ機嫌が悪いのか、笑みは浮かんでいない。それでも見上げて、カズキの瞳にアストを映した。

 

「カズキ……本当に綺麗だ……まるで夢の中にいる様だよ。本当に、凄く……」

 

 だがアストの視界に何時ものニヤついた笑みを浮かべるカーディルが入ると、慌てて口を閉じた。

 

「なんだ?息子よ、続けていいんだぞ?何なら席を外そうか?」

 

「くっ……父上、始めましょう。大事な事ですし」

 

 見ればアスティアまでニヤニヤしていて、アストはうんざりした。

 

 こうして……朝から始まった戦いは結実し、エリ達の勝利となった。今回一番頑張ったエリは可愛らしく拳を握って満足感を全身で表していたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ファウストナ海王国でしたかな?」

 

「ああ、女王であるラエティティが治める国だ。リンディアには無い海に面していて、戦士団が有名だな」

 

「私には魚を生のまま喰らう海人の方が印象が強いですじゃ」

 

「魚を生で食べるの?」

 

「そうですな。他にも貝や海藻も食すと文献にあります」

 

「お腹が痛くなりそう……それより美味しいの?それ」

 

「確かに不思議だな。私達には無い食文化だし、何でも国民の殆どが海に潜るらしい」

 

「魚みたいにエラとかあるのかしら?」

 

「アスティア様……」

 

「分かってるわよ……冗談でしょ」

 

 ケーヒルより齎された報せはファウストナが未だ在る事だけでなく、会談を行なった事も含まれる。そして女王自らがリンディアを訪れる上、カーディルとの会談を申し込んで来たのだ。それ自体は素晴らしい事で、既に了承と歓迎の返答を返している。まだ暫く掛かるが、森も切り開き街道の整備も進行させているのだ。小国とは言え王族が訪れる以上、しっかりと応対しなければならない。

 

「他国からの来訪者、ましてや一国の主だ。実際には我等としても初めての事。皆で用意しないといけない。合わせて言うと第二王子のヴァツラフも伴うそうだ」

 

「彼方も復興が大変なんですよね?なのに女王陛下と第二王子殿下もですか?」

 

「ケーヒルからの報告によると、ファウストナは壊滅寸前だったらしい。考えられるのは復興支援の打診だろう。だからと言って女王自らとは驚くがな」

 

「ふむ……それなら想像がつきますな。あくまで資料からの推察でございますが」

 

「うむ。コヒン、皆に説明を頼む」

 

 はい……そう返したコヒンの説明に全員が納得する。当時の数字と言えど、ファウストナとリンディアでは比べるのも烏滸がましい程の差があった。それは今も変わらず、ケーヒルからの簡単な報告からも察せられる、と。

 

「ファウストナから見たら、リンディアは超大国に等しいか……成る程な」

 

「国力、兵力、人口、資源、全てに於いて比べる事すら諦めるでしょうな。ましてやどちらも戦後の厳しい時。なれば想定は簡単ですじゃ」

 

「その通りだ。だが……大きな目的はそれだけでは無い。分かるだろう?」

 

 全員が頷き、視線を移す。

 

 その先には美の化身と化したカズキが座している。口にはエリから与えられた果物を頬張っていなければ尚良かったが。クインの教育は未だ途中なのだ……終わるか誰も分からないのが不安を掻き立てる。

 

「くく……まあ、そう言う事だ。聖女カズキへの拝謁、そう拝謁だよ。我等には会談で、カズキには拝謁だ。もう隠す気すらないな。まあ、救済の謝意を述べたいとあるが、その御加護に肖りたい(あやかりたい)のは間違いない」

 

「逆の立場なら私達もそうしたでしょう。父上としては、如何なさるつもりですか?」

 

「ん?こんな都合の良い事などないからな。海の資源も取り放題だし、何より塩は欲しい。占領でもするか」

 

「お、お父様!」

 

「それが一国を預かる者の役目だ。時には冷酷に判断しなければならない」

 

「そ、それは……」

 

 俯くアスティアを見て、カーディルに呆れた顔を送るアストは仕方がないと話を受け継いだ。

 

「父上……私やコヒンなら良いですが、アスティアにはやめて下さい。悪い癖ですよ」

 

「殿下、私も嫌ですじゃ」

 

 その言葉は敢えて無視して、カーディルを視線で促した。

 

「なんだ?間違ってなど……」

 

 クインにすら非難の視線を受ければ流石のカーディルも観念した。

 

「分かった分かった。全く……アスティアよ、それも一つの考えだが、私には出来ない事だ。何故なら……此処には聖女であるカズキがいる。慈愛と献身の使徒、癒しの刻印を裏切れば、どんな神罰が降るか分かったものではないからな」

 

「お父様……」

 

「ケーヒルは不足していたククの葉を無償で提供したそうだ。それは奴なりの聖女への恭順なのだろう。それは私も変わらない」

 

「では……?」

 

「勿論友好国として歓迎し、出来るだけの援助をしよう。今は力を合わせる時だ」

 

 アスティアは安堵の吐息を漏らすと、再び聖女を見る。

 

 カズキは話し合いが全て理解出来ないのか、興味を失い「今日は、いい?」とエリ聞き、そして否定されている。何がいいのか、カップを傾ける仕草で判明した。

 

「では、今日のカズキ、この子の美粧(びしょう)は」

 

「ああ……聖女として拝謁に臨んで貰う為に、試しと心算を願う筈だったのだが……」

 

 酒を断られたカズキの分かり易い落胆を見ると、全員に一抹の不安が過る。

 

 皆が思ったのだ……コレ、大丈夫なのか?と。

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(6) 〜白祈の酒〜

 

 

 

 

 白祈(はくき)の酒ーーー

 

 文献から詳細に調べた結果、此れが適しているとコヒンは判断し報告した。カーディルも名前は知っている。だが、戦乱の世、ましてや国交すら失われた世界では必要性が無くなってしまっていた。

 

 リンディアの主食は小麦を主とした品が大半を占める。肉やパンに合う酒が市場に流れていて、その全てに()が付いているのだ。

 

 白祈は希少な穀物を限界まで磨き原料とする、更に特殊な製法で仕上げる酒だ。原料それ自体に糖分が含まれない為、一度糖化させた後に発酵させるという面倒な工程をふむ。例えばワインなどは果実に最初から糖分があるため、そもそもが違う。

 

 何より最大の特徴は無色透明である事だろう。濁った白い酒もあるが、それは該当しない。一見澄んでいるモノを更に何度も濾し、最後は約二十分の一に減少すると言われる。

 

 その僅かに生み出された酒を、白祈の間に安置。そして歓迎の相手が来る日まで、祭司……つまりカーディルが祈りを捧げ続ける。まあ、普段から祈りは捧げているから、祭壇にそれを置くだけなのだが。

 

 そうして神々の加護を求めて供されるのが"白祈の酒"で、いわゆる神酒だ。

 

 僅かな濁りも無い酒は、他意のない歓迎の意を表すと同時に白神を象徴している。約150年の時を経て復活した奇跡の酒だった。

 

 

 

 

 

「それをカズキに少しだけ運んで貰えば、更に聖女の加護も加わり……これ以上の歓迎はありますまい。その価値は計り知れませんぞ」

 

 聖女などリンディアの長い歴史にも存在しない。つまり史上初の白祈だ。

 

「ああ。出来るならカズキに注いで貰えれば、それは名実ともに神酒となろう」

 

 正直、余り旨いものではないらしい……と言うか、不味い。そもそも慣れない味だろうし、パンなどには全く合わないのだ。要は一種の神事に当たる。

 

「間も無く納められる筈。予備はありませんから、注意くだされ」

 

「怖い事を言うな……まあ、透明な液体など、誰も酒などと思わないだろう。寧ろ水と間違ってしまいそうだ」

 

「確かに……陛下、これを」

 

「神事の言の葉か……短いな。これなら毎日出来そうだ」

 

「この空欄にはラエティティ女王陛下の名を。必ず2回ですぞ」

 

「分かっている。しかしコヒンよ……正に時代は変わったのだな……まさか我が代で他国との交流が復活するとは。未だに夢の中にいるようだ」

 

「然り。全ては聖女の慈悲ですじゃ。陛下を始め全ての祈りが届いていたのでしょう。リンディアは矢張り偉大でしたな」

 

「ふっ……アストの代では、更に変革が起こるかもしれんぞ?何せ、その聖女が隣りにいるのだ。もし子を授かれば、それは正に神の子であろう」

 

「ほっほっほ……それは素晴らしい未来ですなぁ。しかし殿下も何を遠慮しておるのやら、まさかあそこまで奥手とは。時代によってはもう御子がいてもおかしくない」

 

 コヒンはやれやれと刈り上げた頭を撫でた。

 

「戦いに明け暮れた人生だったのだ。アストはある意味で子供と一緒なのかもしれん。まあ、様子を見るしかあるまい。幸い聖女はアレを嫌ってはおらん」

 

 それは重畳……コヒンは答えるとカーディルと共に笑い合い、その声は白祈の間に届いたとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「白祈の酒……そんなものがあるのね……」

 

「お祖父様が調べて、それが一番歓迎に見合うと話していました。陛下も賛成されたそうです」

 

「でも、そんなに直ぐ作れるものなの?」

 

「リンスフィアで作る物だそうです、そして現存していると。約一年前に仕込まれたそうですが、カズキがこの世界に降臨した頃ですから……これも運命なのかもしれませんね」

 

 商売ではなく、連綿と受け継いで来た一族がいたのだ。それは何て素晴らしい事だろうと、クインは感動すら覚えてしまう。

 

「まあ!素敵ね!ラエティティ様も喜んでくださるわ。私も味わってみたいけど、無理でしょうね……」

 

「アスティア様、残念ながら余り美味しいものではないそうです。白祈の間にある神器と同じく、祭祀の一部ですから。一口、舌に乗せるだけだそうですよ」

 

「そうなの?それならいいわ。元々お酒は得意じゃないし、誰かさんと違いますから」

 

 その誰かさんはベランダに出て景色を眺めている。リンスフィアと平原はカズキも好きらしく、良くあの場所に立っているのだ。余談だが、街からもベランダは何とか見える為、国民の間ではかなり有名だ。天気が良ければカズキの姿が遠くに見える事もあり、祈りを捧げる者は後を絶たない。

 

 今日も街では噂が立っているだろう。

 

 俺は見ただの、目が合っただの、中には絵に残す為に毎日座り込み待ち続ける者までいる。

 

「カズキが良ければラエティティ陛下に注いで貰おうと願っているそうですよ?神々からの加護を授かれば、それは神酒となりますから」

 

「逆に不遜になりそうだけど……?」

 

 その聖女を妹にしたアスティアは自分を差し置いて曰う。

 

「刻印を与える神々の似姿ですね。ですから行うかどうかはカズキが決めてよいのです」

 

「ああ、そういう……ねえ、あの子間違って自分で飲まないわよね?」

 

「先ずお酒と気付かないと思いますし、そもそも美味しくないなら、一口飲めば諦めるでしょう。でも、最初から少しだけ飲ませた方が良いかもしれませんね……カズキも味を知れば手は出さないでしょうし」

 

 クインはそれをカーディル達に相談し、了承を得た。聖女が真っ先に口にしたのなら、神性も高まるというものだ……そう判断したのだろう。

 

 

 だが、此れが全ての始まりだった。

 

 

 カズキが白祈の酒を飲み尽くした訳ではないが、結果的には事件となり、ファウストナ来訪にすら大きな影響を与える事になる。

 

 そしてアストにもその波は届くのだ。

 

 それは大変ではあるが、幸福を運ぶ。

 

 ただ、当事者はたまった物では無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いいの?」

 

 神妙な顔をしたカズキは2回目の確認をした。

 

「ええ、飲んでいいのよ?」

 

 アスティアもにこやかに肯定する。

 

 小さな薄い皿状の特注カップに透明な液体が注がれている。真っ白なカップは良く見なければ酒が注がれているか分からなくなる程に綺麗だ。

 

 カズキは不信感を隠さない。アレ程に酒から遠ざけていたアスティアが、今はニコニコと勧めてくるのだ。

 

 何故良いのか、説明はない。

 

 今日のお勉強とやらも逃走したし、何か改善したとは思えない……我ながら、と。

 

 アスティアも敢えて説明を省いていた。此れが白祈の酒で、貴重な神器の一種だとも。少し意地悪なのは承知だが、余り……いや全く勧められた物ではない味もだ。

 

 一種の意趣返しで、いつも困らせるカズキに悪戯を仕掛けているのだ。この後、不味そうに顔を歪めるのを一頻り笑い、仕方が無いなぁと口を拭く。そして説明して謝ればカズキは怒ったりしないだろう。愛する妹は優しいのだ。

 

 後ろに控えるクインやエリも知らん顔だし、カズキは決断した。まあ、許可があるのだから良いのだろう。

 

 先ずは香りを愉しむ。

 

「コレ……」

 

「うん、珍しいでしょ?私も透明なお酒なんて初めて見たわ。凄く貴重なのよ?」

 

 驚いた顔のカズキも可愛いが、早く悪戯が成功して欲しい……そんなアスティアの笑顔は零れんばかりだ。

 

 だが……アスティアは勿論、聡明なクインですら知らない事はあるのだ。この世界の人々にとっては非常に珍しい酒だが、特定の人にはそうでは無い事を。

 

 流通していないどころか、神器である飲み物は誰一人馴染みが無い。当然舌も鍛えられず、ほぼ間違いなく美味と感じられないのだ。ところが……異世界の酒を飲み尽くしたカズキには慣れ親しんだ酒なのだから、世界は不思議に溢れている。

 

 カズキは香りだけで分かった。あの国では日常に溶け込んだ穀物を利用した酒。正直一流どころには敵わない。香りに雑味を感じるし、麹菌(こうじきん)も合わないのだろう。アレは歴史を積み重ねた匠が、やはり連綿と受け継いだ麹菌にて創り出されるものだ。気候や環境にも大きく左右されるのだから、単純に同じ物を作れる訳が無い。しかし……それでも、カズキにとっては懐かしく感じる。

 

 その名は……ニホンシュと言った。

 

 クイッ……慣例に倣い、カズキは一口で口に含んだ。

 

「あっ!だ、大丈夫?」

 

 まさか一気に飲むとは思っていなかったアスティアは吃驚して、思わず心配の声を上げた。

 

 だがカズキは顔色すら変えず、刻印が彩る喉へと流し込む。

 

「カズキ……ご、ごめんね」

 

 アスティアはカズキの優しさが無理をさせたと勘違いしていた。無理矢理飲まされたとはいえ、勧められた以上ちゃんと飲まないと……そうカズキが考えたと思ったのだ。

 

 クインも心配そうに口を濯ぐ水を持って来る。

 

 だが次の聖女の行動で動きが止まってしまったのだ。

 

「ありがとう」

 

 それは、心からの笑顔に見えた。まるで故郷に帰った息子を迎え入れる母の様に、暖かで慈愛に溢れた笑みだったのだ。

 

 その美しさに魂魄を抜かれたアスティア達は、カズキの更なる行動にも動けない。

 

 徐に立ち上がると、小さな酒樽を持って部屋をあとにする。躊躇ない歩みに、クインも見送るのみ。

 

「えっ?」

 

 暫くの沈黙の後、アスティアの声で時間が動き出した。

 

「美味しい……訳ないわよね?あの香りも独特だったし」

 

「え、ええ」

 

「あのー、大丈夫なんですか?持っていっちゃいましたけど」

 

「え……あっ!大変だわ!」

 

 あれは貴重で予備など存在しない酒なのだ。捨てるにしろ、間違ってカズキが飲むにしろ、無くなっては困るのだ。

 

「エリ!取り返すのよ!」

 

「はーい」

 

 

 

 そして何時もの追いかけっこが開始された。

 

 

 

 だが、普段と違うのはカズキが反論を繰り返している事だろう。

 

「嘘、悪い」

 

「カズキ、説明するから先ずは返しなさい!」

 

「飲む、いい、言った」

 

「うっ……そうだけど、事情があるの!」

 

 バタバタと走りながらも器用に会話する聖女と王女だが、普段磨かれた技術だろうか。

 

「お風呂、飲む」

 

「な、何を言ってるのか分からないわ!とにかく返して、ね!?」

 

 湯船に浮かべた酒を幻視しているとはアスティアも分かるはずがない。

 

「一杯、頂き」

 

 全部自分が貰ったと主張する聖女に、アスティアは益々顔が青くなった。

 

「もう、酒樽を抱えてるのに何であんなに速いの!?」

 

「アスティア様、これは拙いのでは?」

 

「分かってるわよ!エリ、作戦は!?」

 

 カズキは見事に騎士がいない廊下を辿り、尻尾を掴ませない。最早これまでかと思ったが、廊下の先から聞き慣れた声が聞こえた。「うわっ……なんだ?」そう呟いたのは間違いなくアストだ。

 

「兄様!カズキを捕まえて!」

 

 案の定、アストが廊下の先に走り去るカズキを見送っている……と言うか本当に速い。

 

「また追いかけっこか?怪我するなよ?」

 

 真相を知らないアストは楽しそうにアスティアに言葉を掛けた。しかし妹の次の発言に兄は血相を変えるしかない。

 

「カズキが持ってるのは白祈の酒よ!全部飲む気だわ!」

 

「な、なに!?」

 

「事情は後で説明するわ!兄様、捕まえて!」

 

「わ、わかった!」

 

 リンディア最高の騎士の一人、そして英雄であるアストが参戦した事でカズキが一気に不利になった。忙しいとはいえ、訓練は欠かしていない。そもそも歩幅も速度も違いすぎたのだ。そして、程なくすると肩で息をする聖女は御用となった。

 

 因みにアストも息切れしており、聖女の逃走技術の凄まじさを示していたりする。

 

「アスティア、悪」

 

「ご、ごめんね。理由があるの」

 

「2回、確認、おかしい」

 

「そのお酒は違うの……えっと、何て言えば」

 

「どうしたんだ?」

 

 息を整えたアストも、疑問をぶつける。

 

「まさか、そのお酒が好きだなんて思わなくて……悪戯のつもりで……加護を、神酒に……えっと」

 

 アストはそれだけで十分察したが、言語不覚を持つカズキには通じない。

 

「悪戯?」

 

「あ……」

 

 カズキは本気で怒ってなどないかもしれないが、アスティアにはそれが分かる余裕などなかった。

 

「カズキ、アスティアは……」

 

「いい、大丈夫」

 

 そう言うと、カズキはその場をあとにする。立ち去るカズキを止められないアスティアは泣きそうになった。クインもアスト達に礼をするとカズキを追う。

 

「アスティア、クインが説明してくれるさ……暫くしたら謝ればいい。大丈夫だよ」

 

「うん……」

 

 これが初めての姉妹喧嘩となり、仲直りまでほんの少しだけ時間が掛かる。カズキ自身もそこまで怒ってはいなかったが、その僅かな時間に事件は起こったのだ。

 

 カズキの悪知恵と、僅かに残る男らしさが生んだ行動がリンディアに騒動を巻き起こす。

 

 それはファウストナ一行が、リンスフィアに到着する僅か十日前の事だった。

 

 

 

 

 



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a sequel(7) 〜ノルデの忠誠〜

 

 

 

 

 

 治癒の力は無くなってしまった。

 

 いや、ヤトの言葉を借りるなら封印されたのか。魂魄は痛まないし、その使い方も分からない。あれ程簡単だった癒しの行使は、まず不可能だろう。

 

 封印を解けば良いのだろうけど、方法は教えてくれなかった。

 

 あれから怪我なんてしてないけど、きっと回復も普通?になった筈。まあ、死ぬほど過保護な環境だし、余り心配していない。

 

 

 

 自分が変わってしまったと理解している。

 

 

 

 性自認は女性に傾いているし、昔の様な攻撃性は失われた。あの憎悪が何なのか分かるのに、もう遠くに感じてしまう。

 

 ロザリーを思い出すと暖かい気持ちと悲しさが浮かぶし、人を好きになれて幸せだと強く思う。

 

 好き、愛している、愛おしい、焦がれる……多くの言葉は知っていたが、その本当の意味など実感していなかった。世の中にはそんなモノもあるのだろうと、他人事の様に思っていた。だけど……幸せとはこれだと、今こそ幸せなんだと確信することが出来る。

 

 それをこの世界の人が教えてくれた。

 

 沢山の人……そしてアスティアや、アストが……

 

 だけど、同時にまだ変わらないモノもある。

 

 着飾るのは面倒くさいし、少し恥ずかしい。化粧などは特にそうで、顔に何かを塗りたくると違和感が凄い。正直、直ぐにでも洗い流したくなるが、周りが嬉しそうにしてると我慢しようと思う。

 

 あの日、クインとエリにごちゃごちゃと飾り付けられた時はクリスマスツリーにでもなった気分だった。まあ、昔の家にそんなモノは無かったけど。

 

 アストが喜んでいたみたいだし……良かったのかな。

 

 

 

 

 でも、最近不満が溜まっている。

 

 この城、リンディア城には沢山のお酒が眠っている。昔飲んだ様なモノもあるし、ワインなんて中々の種類だ。流石に冷えたビールは見た事がないけど、舌で味わいたいものが多い。

 

 だけど……近頃は殆ど楽しめてない。

 

 アスティア達が何をしたいのかは分かってる。この世界の女性なら当たり前の事を自分は出来ない。それを教えようと気を遣ってくれているのだろう。

 

 御褒美扱いのアレが本当に遠いのだ。

 

 あの蒸留酒は間違いなくブランデーだったから、何としても飲みたかった。まあ、失敗に終わったけど……

 

 だが今は別の事に少しだけ腹を立てているのだ。

 

 つい先ほど、あの懐かしい酒を貰えたと喜んでいたら、直ぐにお預けとなった。アスティアは何か話していたし、事情があるのだろう。だけど、一度手に入ったはずの物を奪われるのは落胆が激しい。それなら最初から期待させないで欲しいものだと思う。

 

 もう怒りは消えたが、だからこその欲求がムクムクと迫り上がってくる。

 

「作戦、いる」

 

 そうだ、何か手を考えよう。

 

 要は飲めればいいし、別に城に限定する必要なんて無いのでは?街に出れば店はあった筈だし、多分飲み屋もあるだろう。城の構造は殆ど理解したから、逃げるのは難しくない。心配を掛けたくないし、時間は最小限に。

 

「問題、あり」

 

 自慢する気なんてないけど、今の私は有名人だ。街には絵が沢山配られているらしいし、顔を見られた事もある。もし脱走出来ても、直ぐに騒ぎになって終わりだろう。

 

 どうやら黒髪は珍しいらしく、確かに自分以外見たことがない。黒髪とこの眼は特に知られているのは間違いないのだ。

 

 隠す……

 

 いや、逆に不自然だ。今は夏らしく、暑い。それに、そんな格好では目的の酒を楽しめない。

 

「髪、塗る」

 

 染料で染めるか、脱色すればいいのでは?

 

 染料が一番だけど、絶対そんな都合のいいものは無い……そんなの余裕のある世界じゃないと需要なんてない。此処はつい最近まで滅亡の危機にあった世界だ。

 

 脱色は戻せないから、バレる。

 

 そもそも脱色剤なんて……いや待てよ?

 

 確か酒、ビールなら抜けるはずだ。実際はアルコールの力じゃなく、炭酸が重要らしいけど……しかも何回もかぶらないとだめらしいし。でもやる価値はある。そのうち色は戻るし、暫くは気分転換だと思えばよい。

 

 ここは別世界だが、酒や食べ物は似通っている。炭酸飲料は見た事ないけど、似た物はあるかもしれない。

 

「いくか」

 

 

 

 いや駄目だろ……そう否定してくれるアスト達もヤトも居ない為、カズキの決心は強くなっていったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ様、どうされました?」

 

 ノルデは敬愛する聖女が目の前に立ち止まったのを確認すると声を掛けた。

 

 あの魔獣との戦いでも、使命を果たせなかったと強い後悔の念を持っている。だから、カズキが望む事なら出来るだけ叶えようと思うのだ。

 

「探し、ない」

 

「探し物ですか?」

 

「そう」

 

 コクリと頷く聖女を見て、見つかるまで共に探すと決める。例え森の中であろうとも、自分は止まらないだろう。

 

「何でしょうか?協力しますよ?」

 

「シュ、シュワ」

 

「シュシュワですか?」

 

 残念ながらノルデには分からない。何か女性が使う様な道具だろうか?響きから髪飾りとかその辺りか……役に立てそうにないと落胆する。

 

「違う」

 

「はい」

 

「ん……飲む、シュワ、シュワ」

 

 カズキは頑張った。

 

「飲む……酒なら駄目ですよ?殿下から禁止されてます」

 

 酒好き酔いどれ聖女の真実は、城内の者なら誰もが知っている。

 

「酒、飲む、ない」

 

「飲まない……飲み物じゃない?」

 

 伝わらない事にカズキは悩む。そうだ……ぼでーらんげーじ、だ。

 

 可愛らしい両手を泡に見立て、指先を使い表現する。

 

「シュワ、シュワ、シュワ」

 

 ふむふむとノルデは見詰め、可愛いなぁと和む。

 

 どうやら何かの液体を探しているらしい。飲み物じゃ無く、シュワ、シュワ……何かの薬剤か?

 

「シュワ……泡ですね!シュワシュワー!泡がシュワシュワーって」

 

 負けずに全身で表現する。離れた場所に立つ騎士の一人は何か可哀想な者を見る目をノルデに送っていたが、幸い気付いていない様だ。

 

 ノルデの溢れるカズキへの気持ちは答えを導き出したのだ。

 

「泡!そう!」

 

 笑顔を浮かべたカズキを見て、先程の騎士は悔しそうな顔色に変わった。

 

 飲み物じゃ無く、泡立ちがある薬剤……騎士なら誰もが思い浮かべるものがあるが、アレは危険な物質だ。このリンスフィアにも、リンディア城にも存在する。

 

「カズキ様、何故そんな物を?」

 

「つ、つらい」

 

 聖女は何やら吃ったが、ノルデは特に気にはしない。

 

「出る、駄目、出られな」

 

「出られない、ですか?」

 

「そう!」

 

 ノルデはさらに思考を深める……態々騎士である自分に聞いてきた以上、何か意味があるのだろう。だが、行動は殆ど共にした事が無いし、ましてや男だ。何か女性らしい意味は含まないだろう。行動、か……そういえば最近一度だけ街に出たな。外円部西街区の治癒院だ。治癒師のチェチリア殿に会い、治療中の患者を慰問した。その中に一人、火傷の患者が寝込んでいて、家に帰りたいと泣いていた。

 

「街、ですか?」

 

「う……そ、そう」

 

 もう癒しの力は行使出来ず、カズキ様は酷く悔やんだのではないか……悔やむ必要などないのに、深い慈愛はそれを許さないのだろう。

 

 街、火傷、家に帰りたい、つらい、出られない、そしてカズキ様が望んでいるのは、あの液体。

 

「そうか……」

 

 癒しの力が無くとも、何か手段は無いかと()()()()()のだ……彼を、いや他の誰であっても。少しでも負担を和らげる為に、その原因を調べようと……

 

「カズキ様、一つだけ教えて下さい」

 

「はい」

 

「まだ助けたいと?もう力は失われたのに」

 

「助けた、い……そう!」

 

 助けて……そう言葉を結んだカズキは、主語がない。因みに主語は()、だ。

 

「分かりました、案内しましょう。但し、アレは危険な物ですから、私がそばにいる時以外、無闇に触ってはいけません。約束して頂けますか?」

 

「?? わ、分かった……?」

 

 ノルデはカズキを優しく導きながら、階下へと降りて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "燃える水"と呼ばれる液体がある。

 

 使用用途は色々とあるが、この時代に最も多用したのは騎士だろう。魔獣が炎を恐れる事はよく知られており、軍事上の必需品だ。攻撃そのものにも使われるが、逃走時の撹乱や魔獣侵攻の経路限定など……戦争末期には主戦派が利用し、アスト率いる防衛軍も大量に消費したのだ。

 

 その液体には使用期限があり、時間と共に効果が減少する。その為、使用の必要に迫られてから大量生産するのが普通だ。もちろん常備品はあったが、大半は使用せず廃棄になっていた。

 

 基本的には2液式だ。つまり保管時は二つの液に分かれており、使用が近づくと混合する。それぞれ一液(いちえき)二液(にえき)と呼ばれ燃焼はするが、混合時は当然比較にならない。完成品は爆発的に燃焼し、しかも少々の水では消火も不可能になる。扱いには注意が必要で、西街区の治癒院にいた男は事故に遭ったのだろう。

 

 ノルデは其れ等が出来るだけ簡単に伝わるよう基本的知識をカズキに教えていた。当然大半が伝わらないが、それでも何かの助けになればと言葉を噛み砕いた。

 

「とにかく完成品は危険な液体です。西街区の彼は調合師でしょう、不幸にも事故にあったのです。一液は振ると大量の泡が立ちますから、カズキ様の探し物だと思います。混合前ですから、触れない事もないですが……肌は荒れますよ?」

 

「あ……うん」

 

 全く分からない……カズキは思った。しかし探し物という言葉から目的は伝わったようだ。泡が立つが危ないらしい。まあ、振れば蓋も吹き飛ぶだろうし、危ないといえば危ないだろう。やはり炭酸はあったのだ。

 

「ありがとう」

 

「いえ……礼を尽くすのは我々です。カズキ様の助けになる事なら、いつでも声を掛けて下さい」

 

「?」

 

「いつでも、助けます」

 

「そう」

 

「はい」

 

 そうしている内に二人は外の廊下を進み、目的地に到着する。万が一の事故に合わせ、城外に設けた頑丈な煉瓦造りの施設だ。

 

「失礼する」

 

 一声掛けて、ノルデは入室した。ノルデにとっては何度も来た場所で、よく備蓄を回収して部隊に届けていたのだ。

 

「ん?ノルデか?今日は回収日じゃ……あ……」

 

 顔見知りの調合師はノルデの後から入室して来た小さな人影に言葉を失う。遠目では見た事があるが、手の届くような近さは経験が無いのだ。しかも今着ている作業着はひどく汚れているし、髭も剃ってない。神々の使徒……いや、神そのものと言っていい聖女が目の前に現れて混乱する。彼女の目に自分を映すのすら失礼な気がして、身体が固まってしまった。

 

「リリュウ、カズキ様が一液を見たいそうだ。急で済まないが、頼めるか?」

 

「あ、ああ」

 

「よろ、しく」

 

 リリュウはカズキの声を聞き、瞳を見た瞬間痺れて震えた。しかも、自分の汚い手を両手で握って握手されたから、今にも神罰で死ぬんじゃないかと思った。

 

「聖女様、汚いです!」

 

「汚い?ごめんなさい」

 

 何故か自らの綺麗な手を見て謝る聖女。その腕と手にはシミひとつ、黒子すら無い。

 

「い、いえいえいえ!汚いのは俺、いや私の方でして!す、すいません!」

 

 ノルデは慣れているのか、特に反応はない。カズキに初めて会う者は大なり小なり一緒だから。

 

 暫く互いが謝罪し合うと言う不思議空間が生まれたが、時間が解決してくれた。

 

「ノルデ、なんで一液なんか……何一つ面白くないだろう」

 

「理由は後で話す。先ずは用意してくれ」

 

「そりゃ構わないが、二液は流石に駄目だぞ?あれは身体に悪過ぎる」

 

「そのつもりだ。カズキ様は泡立ちを気にしているんだ。だから二液は関係ない」

 

「ああ、成る程な。量はいるのか?」

 

 因みにリリュウはこの間、カズキに目線を合わせていない。目に入ったらまともに喋れない自信がある。

 

「カズキ様、大量に……沢山、要りますか?」

 

「要る、ない。少し、試す?」

 

「分かりました。とりあえず、瓶でいいだろう」

 

 瓶は混合した燃える水を入れて持ち運ぶものだ。男なら片手で握れる程の大きさだろう。

 

「分かった。なら、待ってろ」

 

 

 

 そして用意された瓶には、半分程の一液が満たされている。軽く振るとシュワシュワと泡が立つ音が響く。しかもかなりの時間泡が保たれる様だ。カズキは了解の元で蓋を取り、小さな鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。

 

「ん、臭い」

 

「余り嗅がない方がいいですよ?肌に悪いですし、間違って触れたら少し痛いです」

 

「分かった」

 

 カズキは目的をあっさり達成して内心喜んでいた。飲み物ではないのは当然だが、アルコール臭、いや車の燃料であるアレに近い。"燃える"と言う単語からも類似しているのは間違いないだろう。だが今回重要なのは炭酸だ。当然試したい。

 

「これ、壊れて、駄目?」

 

「壊れて……?」

 

「カズキ様、何か試しますか?」

 

「うん」

 

「使ってしまっていいか……そういう意味だろう。どうだ?」

 

「ああ、構わんよ。大した量じゃないし、今はもう戦時ですら無い。聖女様のお陰で、な」

 

「ありがと」

 

「い、いえ」

 

 礼を伝えたカズキは肩の前に垂れ下がった黒髪を手に取り、寄り分けていく。そうして一本だけ指に挟むと、思い切り引っ張った。

 

「ああ……」

 

 話に聞いた癒しは、この美しい黒髪を捧げて行われたらしい。優しい光に溶けていくと、次々と人々を治癒していったのだ。リンディアの国民なら子供でも知っている話だ。ましてや目の前のノルデは正に間近で目撃した一人である。

 

 僅か一本ですら、宝石に見えてリリュウは目が離せない。光を放つ事もないが、その美に変わりはなかった。

 

 そうして指に挟んだ髪を瓶の口からゆっくりと入れる。

 

 カズキは暫くそのままにして、落ちない様に縁に髪を掛けた。

 

 ノルデはやはりと思いを深める。間違いなく肌や人体への影響を調べているのだ。少女に何が出来るのかと知らない者は思うかもしれない。しかし目の前に佇む彼女は癒しの力を司る聖女。5階位の刻印を刻まれた使徒なのだ。ノルデは最早確信すらしていた。

 

「帰ったら母ちゃんに教えないとな……聖女様に会ったって。信じて貰えるか……無理だろうなぁ」

 

 あの偏屈な婆では不可能だ、更にそう心で呟いていたリリュウの手に再びカズキの手は添えられた。驚いて見ると、掌に一本の黒髪。瓶にはまだあるから別の髪だろう。

 

「聖女様……?」

 

「信じる」

 

「えっ?」

 

「お母さん、大事」

 

 お母さん……その言葉だけは片言で無く、はっきりと伝わる。聖女の母が今どこに居るのか、二人は良く知っている。だから、カズキの言葉は心に突き刺さるのだろう。

 

「あ、ありがとうございます。今日は何か美味いものでも土産に買って帰りますよ。そして自慢して……この髪に触れて……」

 

「うん」

 

「良かったな。その髪、落とすなよ?」

 

「落とす訳ないだろう!素裸になってもこれだけは……」

 

 そんなやり取りを他所に、カズキは瓶から髪を引き上げた。そして……実験は成功したのだ。液体に浸かった毛先は、燻んだ灰色に変色していた。艶も失われ、まるで老人の髪の様だ。

 

「どうですか?」

 

「うん、大丈夫」

 

「そうですか……では行きましょう。アスティア様が心配されてしまいます」

 

「はい。リリュ、これ、いい?」

 

「は、はい!どうぞ!」

 

 一液が入った瓶を受け取り、ニコリと笑う。

 

 そうして、聖女の……街へ変装して繰り出そう作戦は用意が整った。

 

 

 当たり前だが、カズキに治癒院の事など頭には無い。勿論治せる手段があるなら実行しただろうが、今のカズキには不可能だ。それよりも脱色の方法を見つけて、カズキは嬉しそうだった。

 

 その笑顔を見てノルデも安堵する。そして、更に聖女への忠誠を強くしたのだ。酒を探していたと勘違いした自分はやはり矮小な存在なのだろう……隣を歩く聖女を眺め、ノルデは笑った。

 

 

 

 

 

 

 残念ながら、ある意味でノルデの勘違いは正解だった。カズキはただ酒が飲みたいと、街に繰り出す手段を探していただけだ。アスティア達に聞く訳にもいかないし、顔見知りの彼に質問しただけ。何故かトントン拍子に事が進み、本人が吃驚した位だ。

 

 

 カズキが内心ほくそ笑んだこの時、ファウストナ一行はリンスフィアまであと五日の距離まで近づいていた。

 

 

 

 

 

 

 




脇役で登場機会はないと思ってたノルデだったのになぁ


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a sequel(8) 〜家出娘〜

 

 

 

 

 

 

 ラエティティの前に、王都リンスフィアの威容が横たわっている。

 

 全景は見えるのに、今いる此処から一日中馬車を進めないと辿り着けない距離。あの都が如何に巨大かを表していた。

 

 国交が途絶えて久しいが、それでも凡ゆる文献や物語にさえ描かれていた都なのだ。小さな頃からリンディアについて学んでいた彼女にとって、ある意味で空想の産物だった。他国でありながらも、何処か夢見ていたかもしれない……口には出さないが、心躍るのが分かる。

 

 三連の尖塔は天にも届かんばかり。あの奥には有名な白祈の間や黒の間があるのだろう。魔獣との戦いで崩壊したと聞いていた城壁は既に姿を取り戻している。大門は未だ閉じられているが、あの先にはファウストナが幾つも入る程の街並みが広がっている筈だ。

 

 ファウストナは海風の影響から守る為に材木を焼き締めている。防虫の意味もあるそれは、全景を黒く染めていた。

 

 しかし、あの都は対極に位置する都だろう。全体が白く、リンディア城はまるで珊瑚の城だ。王都の周辺は淡い緑色の平原が何処までも続き、広大な畑が作付けされ、放牧も多く行われている。

 

 肥沃な大地……よくリンディアを表す言葉として使われるが、それを証明する光景だった。

 

「美しい……」

 

 ラエティティは周囲に人が居ないのを知り、我慢していた心の声を吐き出した。

 

 国力の差はあれど、これから国の行く末を左右する会談が待つのだ。本来あってはならない事だが、羨望の気持ちが溢れるのを止められなかった。

 

 そのラエティティの元へ、少しだけ離れた場所でケーヒルと話をしていたヴァツラフが歩いて来た。

 

「陛下……あの先で休息し、明日リンスフィアに入ります。既に寝所は設営済みとの事。今夜は雲一つない夜となり、違った姿のリンスフィアが見れるそうです」

 

「そうですか……」

 

「既に第二戦士団は先行しています。安全とは思いますが、一応警戒させていますのでご安心ください。女官も寝所の確認をする為、数人入らせました」

 

 ヴァツラフは風に揺れるラエティティの長い赤髪を眺めつつ、気休めだがと内心呟く。事実、もしリンディアに害意があるなら止めようがない。短時間で包囲殲滅されるだろう。

 

「ヴァッツ」

 

 ヴァツラフの愛称を呟く。

 

「はい」

 

「今は人が居ないわ。普通に話して」

 

「陛下、油断しては……はぁ、分かったよ。どうしたんだ?」

 

「リンスフィアを、リンディアをどう思う?此処まで同行して」

 

「どうもこうも……母上と同じさ。伝え聞いていたまま、いや以上の国だ。俺は母上ほどに詳しくないが、文献を読んだ事もある。あの城壁を見れば魔獣と戦う方がマシだと思ってしまう。それに騎士もそうだ。あの副団長は生半可な相手じゃない、負けるとは思わないが……手一杯になるだろう。あと森人も拙いな……あのフェイとやらは只者じゃない」

 

 如何にも戦士らしいヴァツラフに、ラエティティは思わず苦笑する。自分は乙女染みているのだろうか?そう思ってしまった。

 

「私は……美しいと思ったわ。ただそう思ったの。国土も城も、そして民も……分かる?彼らに害意はないわ。心から私達を歓迎しているのよ……そして恐ろしい。あの彼らをして、絶対の忠誠を捧げるリンディア王が……あの城に座す(おわす)聖女様が」

 

「聖女が? 怖いのか?」

 

「貴方は怖くないの? 彼らの話を聞いたでしょう?」

 

「その身を犠牲にして、癒しの光を放った。逸話も多く、遽には信じがたいが……好きなだけ街に繰り出し聞いてくれていいと言われれば、疑うのも馬鹿らしい。でも、慈愛と癒しを司る聖女を怖いとは思わないな」

 

「彼らは一つの塊となって外敵と戦うでしょう……忠誠を誓う国の為に。でも……自らの背後に聖女様がいる時、それは巨大な生命となって不滅の戦士になるのよ。貴方の力の刻印など意味を成さない……魔獣すらも消し去る力の前では……全ての人々が(こうべ)を垂れなければならないのだから」

 

 そして、その聖女はリンディアに抱かれている……ラエティティは自らに言い聞かせる様に締め括った。

 

 

 

 その聖女の座すリンスフィアまで、あと一日……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラエティティ曰く、恐ろしい聖女様の作戦は佳境を迎えていた。夜の帳が降りた聖女の間にはカズキ一人しかいない。クインも下がり、騒がしいアスティアやエリも夢の中でカズキを追い掛けているだろう。

 

 イチエキとやらを手に入れてから、周囲に見付からない様に実験を繰り返して来た。髪の先や髪飾りに隠れる場所、その全てが脱色されたのだ。髪先はすぐに切断し証拠隠滅は疎かにしていない。

 

 明日早朝に脱走する。夕方までに帰ればいいだろう……この期に及んで聖女は戯けたことを考えていた。置き手紙があれば安心と……

 

 因みに……夜に出歩くのは抵抗があった。カズキにとって不思議な感覚だが、何処か恐怖心が湧き上がるのが分かってしまう。それでも朝から脱走するのは諦める気は無いようだ。

 

 帰った後、何が起こるかは敢えて考えてない。それよりも酒を飲みたい……積み上がった欲望は正常な判断を狂わせるのだ。

 

 お金も既に準備万端。僅かだが街に出た時に貰った物を貯め込んでいた。正直貨幣価値は分かってないが、テーブルにでもぶち撒ければ計算してくれる筈。

 

「完成」

 

 完璧と言いたかったカズキだが、間違いも気にしない。と言うか、完璧な訳がないのに。

 

「いく」

 

 やるか……そう呟いたつもりのカズキは洗面室に向かう。

 

 相変わらず無駄に広いその()()には、澄んだ水を蓄えた桶がある。ある程度時間を置いて洗い流す算段だろう。いそいそと一液の入った瓶を取り出すと、鏡の前に立った。

 

 其処には黒髪を湛えた少女がいて、我ながら綺麗だと思う瞳と目が合う。髪は随分伸びた為に、液はギリギリだろう。慎重にかつ大胆に実行しなければ……いよいよカズキ立案の"街に出て酒を楽しもう作戦"、その時は満ちたのだ。

 

 先ずは薄い夜着を脱ぎ去り、側の台に置く。今は暑い季節らしく、それだけで下着姿になった。胸の形状は比較的に元の世界の物に近いが、巻きつける様に装着するのが違う。小さなお尻を覆う下着は伸び縮みが弱いくらいで、ぱっと見はそっくりだ。

 

 首だけでなく、胸や下腹部に刻まれた刻印が目に入った。聖女と慈愛の刻印だと今のカズキは理解しているが、いまいち実感が無い。貴女は聖女……そう言われても、困ってしまうのだ。

 

 そんな聖女の露わな肢体に、見る人が見れば陶然とするか、恐れ多いと走り去るだろう。だが、本人は僅かにズリ下がる下着に目もくれず、次の行動に移った。

 

 手荒れは無視して、手のひらに液体を垂らす。

 

 両手で広げると頭頂部から塗るように髪に馴染ませていった。それを何回か繰り返し、万遍なく染み込ませる。均一には無理だったが、まあこんなものだろう……そう思っていたカズキだが、鏡の中のカズキも眉間に皺が寄っているのが分かった。

 

 先ず、何度も液体を垂らした手がヒリヒリし始めたのだ。そして頭頂部、側頭部、液体の垂れた首回りまでに違和感が走り始めた。

 

「痛、い」

 

 これは拙いと溜めた水桶に直接頭を浸けて、ワシャワシャと頭を濯ぐ。近くに掛けていた布にも水を染み込ませると首回りも拭った。

 

 しかしそれでも治らず、再び頭を浸す。

 

「み、水……」

 

 砂漠に倒れた旅人のような台詞を吐くが、今は深夜……世話焼きのクインもいない。

 

 暫くの間、洗面室からは水のバタつく音が響いたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大変……」

 

 聖女は美しい顔を真っ青にして鏡に向かっていた。

 

 左耳から巻き付く刻印が刻まれていた細い首は、肌が荒れて赤く染まっている。勿論刻印は見えるが、無事な肌が綺麗なだけに赤が非常に目立つ。

 

 今は下着姿の為、肩にも荒れは伝わっており痛々しい。聖女の刻印が無事なのはせめてもの救いか。

 

 何より……あの聖女の象徴である黒髪は無残な姿に変わっていた。

 

 基本的な印象は灰色だ。だが、慌てて濯いだ為に浸透に差が出たのだろう、疎らに色が抜けて統一感は無い。それは斑模様(まだらもよう)で、黒、灰色、白が入り乱れている。はっきり言うと汚らしい。あれ程艶やかだった髪からは生命力が失われ、まるで老婆の如くだ。

 

 顔立ちが非常に美しいだけに、違和感が激しい。まるで希少な宝石を態々汚している様だ。

 

「怒る、大変」

 

 怒られる自覚があるなら最初からするなと、誰もが言うだろう。酒飲みたさで行った所業だと知れたら、生涯禁酒させられるかもしれない……カズキはまた青くなった。

 

「怒る、一緒」

 

 カズキは持ち前の男らしさ?を発揮し開き直った。明日は浴びる程に飲んで、捕まるまで逃げよう。その内に諦めるかもしれない……そんな訳ないでしょ!とアスティアの声が聞こえた気がするが努めて無視する。

 

 決意した聖女は髪から布で水分を抜き、ベッドに横たわった。

 

 

 

 これが、ラエティティ曰く「恐ろしい」聖女の昨晩の所業だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「探す怒る、無し、安心、有り、夕方、大丈夫」

 

 アスティアはワナワナと置き手紙を握る手を震わせ、短い言葉を二回読んだ。妙に美しい文字が逆に腹立たしい。

 

 早朝自ら起き出す前に何故かクインから起こされたアスティアは予感がしたのだ。エリは毎度の如く寝坊していて、まだ側には居ない。そして髪を整える暇も無く飛び込んだ聖女の間は……もぬけの空。

 

 クインは既にアストに報せに走り、リンディア城は騒然としていた。

 

 あちこちに騎士が走り、他の侍女すら慌ただしく早足だ。

 

 それはそうだ……聖女カズキはこの城の最重要人物といっていい。カーディルやアスト達は当たり前だが、カズキは重要の意味が違う。

 

 白神と黒神に愛された使徒で、その身を救う為に黒神ヤト本人すら降臨した。何かあれば神々が怒り狂うのは明白だ。

 

 つい半年前にはリンディアを救済した。いや、リンディアだけでは無い、世界を救ったのだ。癒しの力を浴びて命を繋いだ人は数知れない。今も貢物が大量に届き、祈りを捧げたいと願う来城者は後を絶たない。

 

 街にはカズキの絵姿が溢れ、演劇も多く予定されている。聖女役の演者が尽く辞退し、未だ進んでは無いそうだが。余りに恐れ多い……それが理由だ。

 

 何より時期が悪過ぎて、報せを聞いたカーディルは暫く呆然としたらしい。

 

 正に今日、約200年ぶりに他国から訪れるのだ。ファウストナ海王国から統治者たる女王と王子が。リンディアの総力を挙げて、準備を進めて来た。会談が目的とされているが、来国最大の理由は聖女への拝謁なのだ。カーディルとしても、和平交渉の切り札はカズキだと確信していた。

 

 その聖女が家出……多分夕方には帰るのだろうが、間に合わない。昼過ぎには到着するのだ。カズキにはこの行事を深く伝えていなかった。ただ側に居てくれたら良いし、席をたってもいい。ただ、姿が其処にあれば祝福されるのだ。久しぶりに軽く酒も上げるつもりだったし、絶えずアスティア達が付くはずだった。

 

 あの切れ切れの手紙を訳すと……

 

 探したり怒ったりしないで下さい。私は大丈夫なので安心してね。夕方には帰ります……となる。

 

「拙いぞ……コヒン、どうする?」

 

 手紙を読んだカーディルは頭を抱えた。

 

 カズキが居なくとも会談は進む。だが、一向に聖女が現れないとなれば、相手はどう思うだろう?

 

 当然なにかを勘繰る筈だ。リンディアに聖女を抑えられ、政治的に利用すると判断してもおかしく無い。或いは、ファウストナに聖女の加護は渡さないつもりかと内心怒りを溜める可能性すらある。

 

「とにかく探すのですじゃ。準備や何かで遅れていると時間を稼ぎましょうぞ。カズキなら目立つでしょうし、直ぐに見つかる筈。陛下は話を引き延ばし、場合に依ってはリンスフィアを案内するなりすれば……」

 

 その街に聖女は繰り出しているが。

 

「仕方がない、そうするか……目立たないよう騎士団も使え。鎧や剣は無しだ。物々しい雰囲気など与えたくは無い」

 

「それが宜しいでしょうな。ケーヒル副団長にも内々で報せを送ります。少しでも時間を稼いで貰わなければ……」

 

「ああ……アストは何処だ?」

 

「到着ギリギリまで探すつもり、ですかな?まあ殿下なら思い付くところもあるでしょう」

 

「お転婆娘を抱える父親の気分を味わえるとはな……アスに笑われてしまう」

 

「アス様なら腹を抱えて笑うに決まっておりますな……」

 

 二人は互いを見ると、深くて長い溜息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戦士団の皆様は此方で陣を張り、お待ち下さい。水や食料は騎士に運ばせます。人も付けますので、何なりとご要望を」

 

 リンスフィアにほど近い場所にケーヒル達はいた。流石に他国の軍を街中に入れたり出来ないし、それは不文律だろう。戦士団も不服を申し立てる事なく従っている。

 

「女王陛下、何時でも出発出来ます。しかし長旅の疲れもあるでしょう、御希望に添いますので、ゆっくりなさって下さい。同行者は決まっておりますか?」

 

 馬車から既に降りているラエティティは、もう一度リンスフィアを眺めていた。そしてケーヒルへと向き直る。

 

「ありがとうございます。同行者はヴァツラフと戦士を如何程か、女官は三人を予定しています。構いませんか?」

 

「勿論です。此方も騎士をつけますので、御身には不安の欠片も近づけません。ご安心下さい」

 

 当然見張りはつけるが、それはラエティティも承知だろう。特に反論もせず頷く。

 

「ご配慮に感謝します。先程も申されましたが、王都内を散策して構いませんか?やはりファウストナと違い、とても興味深い。特にヴァツラフには学ぶ事も多い筈」

 

「カーディル王より既に許可頂いております。ヴァツラフ殿下には私が。是非案内させて下さい」

 

「副団長自ら……光栄ですね。ヴァツラフ、迷惑を掛けないようにしなさい」

 

「はっ。ケーヒル殿、宜しく頼む」

 

「城へは陽が高く昇ってからで構いませんぞ。先に軽く街を散策なさいますか?」

 

 ケーヒルは内心、懇願する。頼むから出来るだけゆっくりしてくれと。

 

「陛下、如何なさいますか?」

 

「そうですね……ではお言葉に甘えましょう。リンディア王国の王都を見る機会など中々ないでしょうから」

 

 会談前にリンディアの実情を少しでも知りたい。相手も当然理解しているだろうが、全てを覆い隠すなど不可能だ。何かあるなら違和感を覚えるだろうし、聖女の本当の姿が分かるかも知れない。しかも今朝はケーヒル副団長に落ち着きがない。理由は不明だが、リンスフィアが目の前と言うことに関係すると考えていいだろう。その割に街を案内するとは矛盾するが、無駄ではない筈。

 

 ラエティティはケーヒルの顔色を盗み見ながら思考した。

 

 聡明なファウストナの女王も流石に見抜けないだろう。

 

 聖女が家出して、リンディアが慌てふためいているなど。今朝早く報せを聞いたケーヒルが天を仰いだなど想像の埒外なのだ。

 

 

 

 



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a sequel(9) 〜酒場のある風景〜

カズキ「酒、酒を……くれ……」




 

 

 

 

 

 "力の刻印"

 

 ヴァツラフにとってそれは誇りであり、同時に呪いでもあった。ラエティティと同じ赤髪と琥珀色の瞳は、何一つおかしくは無い。神々の加護はあれども、自分は皆と同じ人なのだ。

 

 今朝ラエティティの元を訪れた時もそうだ。応対に出た女官の眼には尊敬と畏怖、いや……それは恐怖の色。刻印はヴァツラフをファウストナ最高の戦士へと変えたが、あの恐怖の色にヴァツラフは何時も心が傷んだ。

 

 その気になれば女官の細い首など簡単にへし折る事が出来る。魔獣の腕すら上手くすれば一撃の元で切断も可能だ。守るべき国民に手を下すつもりなどヴァツラフには無い……だがその民が自分に心を開く事などないのだ。

 

 二十歳を超えるヴァツラフは女を何人も抱いた。誰もが耳元で愛を囁くが、その奥の恐怖は隠せていない。一時の快楽は満たされても、その心は何時も渇いたまま……

 

 だから……リンスフィアに住う民が物珍しそうに自分を見ても、其処に恐怖の色がない事が嬉しいのだろう。リンディアの人々は自分の様に陽に焼けていない。しかし案内役のケーヒルの方が目立っているかもしれない程だ。今は鎧も脱ぎ、肩も露出していないから刻印は見えないだけだが……ふと、刻印を見られたくないと思う自分が居る。

 

 

「長旅で心まで疲労したか……戦士団団長が聞いて呆れるな……」

 

「ヴァツラフ殿下、何かありましたかな?」

 

 ラエティティ達を乗せた馬車に並走するケーヒルは、ヴァツラフが何か呟いたかと反応する。

 

「いや、大丈夫だ。外からのリンスフィアも素晴らしいが城壁内も格別だ。それに活気がある」

 

「はは、お褒めに預かり光栄です。先程抜けた大門は開国から続く歴史ある物、そしてこの通りもその名残りだそうです」

 

「確かリンディア王国は数百年以上の時を重ねた古き国。素晴らしい事ですね」

 

 ゆっくりと進む馬車はそれ程の音を立てず、ラエティティも会話に混じり、王都内の様子を何度も言葉にしていた。リンディアが用意したその馬車は、日除けこそ付いているものの周囲を観察し易い構造となっている。緩やかな風も通り、女王の髪も揺れる。

 

 ファウストナの戦士もいるが、リンディアの騎士が前方に配され、誘導していた。王都の民も噂には聞いていたのか、其処まで騒いではいなかった。まあ、物珍しそうにはしているが。

 

「女王陛下。その言葉、王も喜ばれるでしょう。魔獣に蹂躙された戦場は少し離れていますが、此処が崩されなかったのは僥倖だったのかもしれません」

 

「つい半年前に魔獣が侵攻してきたとは信じられないですね……本当に素晴らしい……」

 

 戦後復興の最中ではあるだろうが、皆には笑顔があり命の輝きが見える。リンディア王の治世が順調なのは明らか……ラエティティはファウストナとの差を嫌でも感じていた。

 

「いえ……我等も絶望の淵に立たされましたぞ。城壁も崩れ、多くの騎士や森人がヴァルハラへと旅立ちました。今も家族の死から立ち直る事が出来ない者も居るでしょう。それでも……立ち上がれたのは、神々の加護が今も在ると感じるからです」

 

「聖女様……聖女カズキ様が座す街、ですからね……」

 

「はい。あそこに見える……ええ、尖塔の半ばに聖女の間がありまして、天気の良い日にはあのベランダに姿を見せてくれます。遠くからも黒髪が揺れるのは何とか分かりますから、民の間では有名ですな。時には街に降り、治癒院などを慰問する事もありますし」

 

「神々の愛を全身で受ける聖女様なら、目に入るだけで祝福があるのでしょう。お会い出来るのが楽しみですが、緊張しますね」

 

「はは……私も何度となく会っていますが、誰にも別け隔てなく接するお人ですよ。寧ろ気軽過ぎて、初めて会った者が戸惑う程です……はっはっは」

 

 実は酒好き酔いどれ聖女で、お転婆でもあるとは言えないケーヒルだった。今頃は家出した時間を楽しんでいるだろう。もしかしたらその辺りでグラス片手に笑顔を浮かべているかもしれない……いや、そんな事があれば街は大騒ぎだろうし考え過ぎか。ケーヒルはラエティティ達に分からないよう苦笑する。

 

「慈愛は誰にも降り注ぐのですね……」

 

 ヴァツラフまでも聖女の間を眺め、何かを考えている様子だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オ、ジジィ、酒、強い?」

 

 親父さん、強い酒をくれ……そう言葉にしたつもりだが、当然相手には違う伝わり方をしてしまう。

 

「ああ!?誰がジジィだ!俺はまだ若い!余計なお世話だ……てか、いきなり酒強いとか何なんだ!?」

 

 振り返った店の主人ダグマルは、厳つい顔を更に歪め怒りの声をぶつけた。見た目は50にも迫ろうかと誤解される顔立ちだが、実は三十後半の彼は気にしている。眉も目も全てが茶色いダグマルは、少しだけ薄くなった茶色の頭髪を思わず触った。

 

 まだ早朝だが、この店は深夜から開けている。森人がよく利用するので、時間を他の店とずらしているのだ。因みに森人は「森にいなければ酒場を探せ」とよく言われる。事実、満員とは言わないが、中々の盛況だ。

 

「あん?なんだ?」

 

 ダグマルを囲む様に長いテーブルを配しているが、その隅の席にスタスタと歩く小さな人影。高めの丸椅子にヨイショヨイショとよじ登り、フゥと息を吐いた。

 

「今の、嬢ちゃんか?」

 

 遠慮なくジロジロとダグマルは観察する。周囲の客も思わず注視してしまう不思議な雰囲気を少女は持っていた。

 

「オ、ジジィ。ハゲ……早く」

 

「やっぱりテメェか……可愛い顔して喧嘩売ってんだな?よし、買ってや……」

 

「「「ギャハハ!!」」」

「ダグマル、本当の事言われたからって怒るなよ!」

「そうだそうだ!」

「嬢ちゃん、もっと言ってやれ!俺が許可するぜ!」

 

「うるせえ!テメェらツケ払わせるぞ!」

 

「おっと……嬢ちゃん、ダグマルさんは若い……見ろよ、あの頭を……ププッ」

 

「一人残らずブン殴ってやるからな……」

 

「ダ、グマル?酒、強い?」

 

「変なとこで切るな……俺はダグマルだ。酒なら当然強い……なんだよその質問は……」

 

 服装は間違いなく森人のものだし、何処かの隊商で下働きでもしてるんだろう……ダグマルはそう判断した。しかし……勿体ねぇなと内心呟く。顔立ちは相当な美人だが、髪はボロボロで斑模様な上に寝癖も酷い。後ろ姿だけなら老婆に間違えそうだ。首回りには何かを巻いているが、垣間見える肌は赤く爛れている。一言で言うと、美人が台無し、だ。瞳は酷く綺麗で益々違和感が強まるのだ。

 

「酒、飲む、強い」

 

「何を言って……」

 

 此処で漸くダグマルは気付く。多分言葉が不自由なのだろう。首回りの爛れも関係があるかもしれない。

 

「飲む、くれる!」

 

「ははあ……背伸びしたい年頃か……周りも酒好きだらけだろうし、偶に居るよな。まあ、女の子は珍しいが」

 

 ふむ……ダグマルは少しだけ考える。

 

 普通なら果実の搾り汁で薄めた物を出すところだが、ハゲ呼ばわりした意趣返しをしてやろう……少し強めの酒を舐めれば、泣き出して消えて居なくなる。

 

「嬢ちゃん、強い酒がいるのか?」

 

「そう!ハゲ、ジジィ!」

 

 嬢ちゃん、つまりカズキは「早く、親父!」と言っているつもりらしい。

 

「……いいだろう。泣いても知らないからな」

 

 若い娘への最後の心配も消え去り、蒸留酒を手に取った。小さなグラスに注ぐソレは勿論原液のままだ。森人なら若い頃から飲む奴はザラに居るし、眠っても仮眠する場所もある。酔った女に手を出すほど落ちぶれてもいない。そんな事を思考しつつ、ダグマルはグラスを差し出した。

 

「小さい……」

 

「……それを飲めたら次を注いでやるよ。言っとくが、中々強い酒だからな?気を付けろよ?」

 

 カズキ語を何故か理解したダグマルはやはり気遣ってしまう。

 

「次、よし」

 

 カズキは香りをまず愉しむ。久しぶりの酒だし、周りに天敵はいない。つまり、飲み放題だ。

 

「好き、香り」

 

「ほう……」

 

 慣れない奴なら匂いだけで、顔を顰めるだろう。だが、カズキは心から愉しんでいた。濃い赤銅色の液体を横から眺めたあと、グラスの縁を唇に付ける。

 

 一口だけ含み舌で転がした。鼻に抜ける強い香りを味わうと、喉に通す。まるで熱湯を飲み込んだかの様に食道と胃が在るのを強く感じた。

 

「ん」

 

 再びグラスを傾けると、今度はグイと残り半分を飲んだ。注目を集めていたカズキの周りはザワつく。量は大した事ないが、あれはかなり強い酒の筈だ。

 

「お、おい……大丈夫か?」

 

 まさかそんな勢いで飲むとは思っておらず、ダグマルは焦る。普通は舐める様に味わうものだから。

 

「ジジィ、美味い、好き」

 

 最早ジジィ呼びすら気にならず、思わず唾を飲む。そう言うと、残りを流し込むカズキはニコリと笑った。

 

「すげぇ……」

「飲んじまった」

「なんだあの嬢ちゃんは……」

「負けた」

「なんか見た事ある様な?」

 

 早く頂戴と、グラスをカタンと置いた。

 

「ジジィ、氷、半分」

 

 ハーフロックで飲みたいとカズキは曰った(のたまった)。だが、それにより酒場は更に騒然とする。氷は高級品で今は夏、最も価値が高まる時期だ。この世界には製氷機も冷凍庫も存在しない。ましてや魔獣の所為で手に入り辛くなる一方だったのだ。

 

「何処のお嬢様だ……氷なんてまあ、あるが」

 

「氷」

 

「持って来るのはいいが、手持ちはあんのか?」

 

「?」

 

「金だよ、か、ね!」

 

 ロザリーから貰った肩掛けの皮製ポーチから小袋を取り出すと、カズキはダグマルに見せる。そしてダグマルはガクンと顎を落として固まった。

 

「ば、ばか……何でそんな大金……早く仕舞え」

 

「足る、無理?」

 

「何処かの大隊商のお嬢か?それにしては世間知らずだが……あの戦争で褒賞が出たとか?マファルダストの幹部……いやいや……」

 

「氷、半分」

 

「あ、ああ。ちょっと待ってろ」

 

 地下室の奥深く、藁に包んだ氷の塊りを削り出しに行く。もう残り僅かだ。

 

「まあこの冬は心配いらないか……聖女様のお陰で森にも入れるだろうし、北も随分拓かれたからな……」

 

 今は誰もが希望を持っている。アレも、コレも、諦めていたあんな物も……そんな話題で一杯だ。騎士や森人の苦労が報われた訳だが、やはり聖女の救済が全てだろう。ダグマルも遠目なら見た事がある。

 

「ほんと、夢みたいな話だな……」

 

 そう呟きながら、妙に金を持った生意気な客に氷を持って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「聖女だ!」

「ああ、間違いない!」

「加護が舞い降りたぞ!!」

 

「「「乾杯!」」」

 

 ダグマルの店は喧騒の中に在った。店にいる客は酒を掲げて声を上げている。誰もが笑顔を浮かべ、その幸運を神々に感謝していた。

 

「せ、聖女、違う!」

 

 カズキは酒を楽しむのも忘れ、必死に否定に走っていた。だが、酔いに任せた男達は「いや、君は聖女だ!」と聞く耳を持たないのだ。

 

「口、閉めて!違う、聖女」

 

 ダグマルは余りに必死な顔で否定の言葉を紡ぐ少女に苦笑した。

 

「まあ、恐れ多いわな。騎士に知れたら怒る奴もいるかもしれん」

 

「酒の女神!カズキ様が癒しの聖女なら、君は酒の聖女だな!ガハハ!」

 

 頑張って否定するカズキに初老の森人が肩をバシバシと叩く。

 

「諦めろ、奴等に施しなんてするからだ。まあ、俺はツケが帳消しで万々歳だな。いいじゃないか、酒の聖女……プッ、ククク」

 

 このリンスフィアで聖女を騙れば、間違いなく袋叩きになるだろう。子供から大人まで老若男女が聖女に祈りを捧げているのだ。なので目の前のお嬢様が必死に否定するのは理解出来る。

 

「必死過ぎるような気がするが……」

 

 お嬢様は男達の背中や腕を叩きながら、血相を変えて違うと叫んでいる。まるで、外に漏れるのを恐れている様だ。

 

 先程革のポーチから金を出したカズキだったが、その額は今客に出している全てを賄える程だったのだ。律儀に説明するダグマルだったが、お嬢様には中々通じない。何とか理解した時には、いや理解したのか怪しいが……全部払うと言い放った。

 

 そして、店は大騒ぎとなり、お嬢様が酒の聖女様へと相成ったわけだ。

 

 最早耐えられないのか、ダグマルに「次、来た」と言い残し店を出ようとしていた。多分、また来る、だろう。

 

「嬢ちゃん!待ちな!」

 

 何?急いでるから……そんな焦った様子で振り返ったカズキにダグマルは大小二本の瓶を渡した。この店で数少ないガラスの瓶には液体が波々と満たされている。

 

「まだ貰い過ぎだ。これを持って行け、それと次に来たらまたやるよ、お土産。嬢ちゃん程の酒好きなら知ってるだろうが、こっちの酒は銀月だ。月が丸くなる日に開けろよ?必ずだ」

 

 如何にも高級そうな酒は名を銀月と言い、満月の夜に飲み始めるのが昔からの風習だ。由来は失われたが、その時期だけは伝わっている。瓶は小さいが、白い布に覆われているようだ。大きい方のもう一本は裸なのだから、違いは明らかだろう。

 

「銀月、丸、ん?貰う?」

 

 無理矢理押し付ければ分かった様で、嬉しそうな顔色に変わった。

 

「いい?」

 

「ああ、また来な」

 

 ギュッと瓶を抱えると、まだ騒がしい店から出るべく、カズキは扉を背中で開ける。

 

「聖女様!またな!」

「ありがとう!」

「もう一度聖女様に乾杯だ!」

 

「うっ……か、帰る。静かに」

 

「後で黙らせておく。安心しろ」

 

「ん!ありがと、ダ、グマル、ジジィ!」

 

 最後まで酷い台詞を吐きながら、カズキは走り去って行った。斑ら模様の髪は力が無いのか、余り風に踊りはしない。それでも素早い足捌きは中々のものだった。

 

「くっ……最後までジジィ呼ばわりしやがって……」

 

 聖女様か……確かに瞳だけなら、あの聖女にそっくりなんだろう。髪や首に巻かれた布の隙間から見える肌に反して、瞳だけは最後まで輝きを放ち、綺麗な若草色をしていた。

 

「なんか見た事あるんだよなぁ」

 

「あん?」

 

 客の一人が背後で話している。走り去る姿を見送っていたのだろう。

 

「知ってるのか?」

 

「うーん……見覚えがある、気がする。美人だったし、忘れるのもおかしいけど」

 

「まあ、印象には残る奴ではある。あの口とか」

 

「ははは!確かに!ダ、グマルのジジィ!つまみを頼むぜ!」

 

「うるせぇ!料金を倍にするぞ!」

 

「俺はついさっきツケが消えたんだ。高いの持ってこいよ!」

 

 小突き合いながら、二人は店の中に消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(10) 〜聖女捜索隊〜

またまた誤字報告を頂きました。本当にありがとうございます。お気に入りや評価も増えたようで、感謝です。


 

 

 

 

 

 

 

 ダグマルの店から歩いて直ぐ、建物同士の隙間にカズキはいた。腰を落とし身体を小さく丸めて警戒している。

 

 

 

 お土産を2本も貰って上機嫌になったカズキは次の店を探すべく街中を闊歩していた。目的は当然に梯子酒(はしござけ)だ。偶に注目する者もいるが、まさか堂々と歩いているとは思わないのか、カズキ本人だと露見はしない様だった。そして、早朝は開いてなかった気になる店が看板を出している。

 

 カズキはその店に狙いをつけ「此処だよねやっぱり」と内心、身体と視線を向けた時に気づいたのだ。

 

 丁度その店から出てきた二人組の男達。一見普通の客に見えたが、カズキには分かった。自身の経験が警報を鳴らしたのだ。元の世界で中途半端にアウトローだったカズキは、警察……この世界でいう騎士達の匂いを嗅ぎ取った。

 

 袖の下から僅かに見える腕は鋼の如くに引き締り、眼光はさりげない様に周囲へと配られている。何より酒の気配を感じない。

 

 自分の直感を信じたカズキは、素早く建物の影に隠れたのだ。そして、お土産を落さないよう少しだけ顔を出していた。

 

「素早い、さすが」

 

 地図まで出して打ち合わせを始めた二人を確認し、直感は確信へと変わった。多分アスティアかクインが手を打ったのだ……カズキは愛する人達の行動力を侮ってはいない。しかし、昼から酒場を狙うとは……何故だろう?

 

「見つかる、お土産……」

 

 酒臭いであろう自分が補導され、事情聴取を受けたら……カズキは酔いが冷めていくのを感じた。

 

 先ず酷く怒られるだろう、そして髪のことを聞かれる。今後の脱出はもっと警戒されるし、何より……お土産が没収される!

 

 ジジィは月が丸くなって開けろと言っていた。詳しくは不明だが、味が最高になるとか神事に関わるとか、そんなところだろう。見るからに高級で旨そうだし、絶対に飲みたい。つまり、最悪捕まったとしても此れだけは死守しなければならないのだ……カズキは強く決意し、頭を回転させ始めた。

 

 側から見るものがいれば、美しい顔をキリリと引き締め、光を湛えた瞳に目を奪われるだろう。その頭の中が欲望に染まっているのを知らなければ、だが。

 

「守る、大丈夫、待ってて」

 

 世界を救済した時と同じ言葉を紡いだカズキだが、アストすら微妙な顔になるのでは無いだろうか?

 

 騎士達が次の目的地へと移動を開始して、それを確認したカズキも動き出す。その瞳には迷いは無く、何かを決断したのだろう。歩み出した脚に迷いは感じない。

 

「病院、チェチリア、近く」

 

 呟いて、カズキは人波へと消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いた?」

 

「いえ……やはり城内には……」

 

 部隊長を拝命したアスティアは副隊長のクインに確認した。因みに、部隊名は聖女捜索隊だ。撒き餌に酒を用意し、あとは行方の糸口を掴むだけだった。"酒の聖女"の名を賜ったカズキには二重の意味でピタリだろう。

 

「いくら何でも不自然だわ……誰一人として見てないなんて。あんなに目立つし、隠していたらそれも印象に残るだろうから」

 

「はい……しかし、正門も通用門にも確認しましたが、誰もカズキを見ては……もしかしたら、私達すら知らない抜け道を見つけたのかもしれません」

 

「まさか、また誰かに拐われたとか……」

 

「アスティア様、それは無いでしょう。置き手紙もありましたし、あれは間違いなくカズキの筆跡です。何より声を出せて、警備の騎士達を掻い潜るなど不可能でしょう」

 

「そうよね……私が昨日意地悪したから……嫌になったのかな……」

 

「カズキはそれくらいで怒ったりしません。それに……もしそれが原因なら、見て見ぬ振りをした私達にも責任があります。余り難しく考えないで下さい」

 

 二人の気持ちが少しずつ落ち込んでいったその時、アスティアの居室の扉が叩かれた。あの音、あの叩き方なら兄様だろうと、アスティアはクインに合図する。

 

「アストだ」

 

「はい、今開けます」

 

「兄様、カズキは見つかった?」

 

 アスティアに視線を送りつつ、ゆっくりと入室する。右側にはアスの部屋にあったいつもの化粧台があり、カズキの絵が追加で飾られていた。カズキがこの部屋を訪ねる事は何故か無いが、見つかったら少し恥ずかしいのではないだろうか……そうアストは思考したが言葉にはしなかった。

 

 

「まだだけど、有力な情報が手に入ったよ。ノルデだ」

 

「有力な情報!?」

 

「ああ、捜索隊隊長に聞いて欲しくてね。ノルデに話を聞くかい?」

 

「勿論!ノルデは?」

 

「そう言うと思って外で待たしているよ」

 

 流石に王女の居室には入れない。アストもそれを理解し、少し離れた場所に待機して貰っている。

 

 アスティアは簡単に身支度を整えると、足早に扉へと向かった。焦りは其処まで無いが、早くカズキを連れ戻したいのだろう。廊下に出ると左右に視線を配る。そして直ぐにノルデは見付かった。

 

 先の廊下、その曲がり角に直立不動で立っているのだから当たり前だ。

 

「騎士ノルデ、ご苦労様」

 

「はっ!」

 

 後からついて来るアストとクインは、ノルデの姿勢に苦笑してしまう。基本的に真面目な彼らしいと思ったのだ。

 

 因みにエリは寝坊の罰を受けてクインの指示の元、廊下に立たされている。当然朝ご飯は抜きだ。救いを求めてアストを見たが、やはり苦笑して頑張れと無言で口を動かした。それを見て絶望感を全身で表すが、誰一人同情はしていない。

 

「聞かせてもらえますか?」

 

「は!アスティア様、何方かのテーブルで……」

 

「お気遣いありがとうございます。でも今は非常時、急いでいますから」

 

「分かりました。では……」

 

 

 

 

 

 

 

「西街区、治癒院ですか……」

 

「はい。以前にカズキ様が慰問に」

 

「確か……治癒師のチェチリア様ですね?」

 

「それと、以前にカズキ様を助けて頂いた方でもあります」

 

「そうですね……大変御心の優しい、そして矍鑠とした人ですね」

 

 同時に私財を投げ打って孤児の治療を行う事でも有名だ。病気や怪我をした孤児は西街区に行け……そういう噂が流れる程だった。アスティアは自身に課した責任において慰問などを良く行う事から知っていた。カズキとは違ったカタチの聖女と言っていい。

 

「仰る通りです」

 

 そして、チェチリアはアストにとり思い出深い治癒師だ。カズキへの無意識の壁を取り払う言葉を授けてくれた。だからアストも先程聞いたノルデの報告に再び耳を傾けるのだろう。

 

「火傷で……そして燃える水を?」

 

「その通りです。街、つらい、出られない……そして探し物を、と」

 

「でも……カズキの、聖女の刻印は……」

 

「はい、封印されています。ですから、何か別の手段を考える為に燃える水を探し求めたのでしょう」

 

「そんな……多くの治癒師や薬医、典医すら研究を重ねているのですよ? 如何にカズキが聖女であろうとも、不可能な事は」

 

 此処にいる誰もが気付いていない。

 

 ノルデの……カズキに対する忠誠と尊敬の念は既に限界に達している事を。本人すらそうだから仕方が無いのかもしれない。その過ぎた忠誠はあらぬ方向に考えを到らしてしまうのだ。

 

「カズキ様は……それでも、せめてもの慰めを与える為に向かったのでは無いでしょうか?もしかしたら、泣き崩れているかもしれません……あの方は深い慈愛を司る聖女なのですから」

 

 同時についさっき、酒の聖女になりました。

 

「何故……もっと早くに……いえ、すいません。良く報せてくれました。ありがとう、ノルデ」

 

「アスティア、私から謝るよ。実は直ぐに報告は貰っていたんだ、燃える水を探していたとね。だが、カズキの意思を制限したくなかったし、何より、今のカズキは只人と変わらないと自覚して欲しかった。あんな無茶はもう沢山だから……だから、ノルデは悪く無いんだ」

 

「そうですか……それでは大々的に騎士を送るのは良くありませんね。チェチリア様にも迷惑が掛かるでしょうし……」

 

「アスティア、君が行けばいい。護衛はノルデを始め何人か付けるが、大勢は要らないさ。馬車を使えば時間は掛からない。ラエティティ女王陛下も街を散策中で暫くは大丈夫だろう。仮に来られても、父上と私でとりあえずは問題ない」

 

「兄様……」

 

 アストは仲直りの良い機会だと役目を譲ってくれているのだ。それが分かって、アスティアは幸せを強く感じた。私は家族に何処までも恵まれていると……カズキの過去など私が包んでしまえば良いのだと、アスティアは誓いを新たにする。

 

「行ってきます。兄様、ありがとう!」

 

「ふふ、泣いていたら慰めてあげてくれ。ノルデ、クイン、頼むぞ」

 

「はっ!!」

「はい」

 

 そうして、リンディアの王女が街へと向かったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「不完、成……?」

 

 出来るだけの事はしたが、完璧とは言えないだろう。しかし、今は時間も無いし仕方が無い。

 

 カズキはこの辺りで唯一知っている建物に先程侵入したのだ。チェチリアという老婆が管理人らしい場所……多分病院らしき建物だ。以前回った際に、壁際に使われていない様子の棚が沢山あった。中には瓶や木箱などが置かれていたのをはっきりと覚えていたのだ。あの場所なら再び迷わずに来れるし、誰かと一緒に行く可能性すらある。

 

 チェチリアの姿はあったが、何かを書いているのか集中していて、カズキには気付きもしなかった。不法侵入の罪悪感を覚えながらもやり切った……瓶達を奥の方に並べて素知らぬ顔で脱出に成功。その部屋には何人か入院していたらしいが、皆んな寝ているのか静かだった。まあ、チェチリアはまた何時でも来て下さいと言っていたし。

 

 後は月が満ちる時に来れば良い。

 

 計画が雑なのは理解しているが、緊急事態なのだから仕方が無いのだ。もっと大きな鞄を持っていれば良かったと後悔しても後の祭りだった。

 

「夕方、時間、何処か」

 

 もう少し時間はある。さっきの店はどうだろう?調べたばかりの店には当分来ない筈では……そう思ったカズキは随分と抜けた酒を身体に補充しようと、再び歩き出した。どうせ捕まるなら、最後まで酒場に齧り付く……そんな情け無い覚悟を誓いながら。

 

 だが、大きな道に出た時カズキの胸はギュッと締め付けられる事になる。懐かしい色が目に入ったから……それが信じられないから……

 

 

「ロザ……」

 

 一人の女性が立っている。薄くて長い布を何枚も重ね巻きした様な服は見た事が無い。白と青、僅かな緑が淡く重なり綺麗だ。その女性の向こうにはケーヒルが居て、立ち話をしている。形こそ違うが馬車すら近くにあった。ずっと前、アストに街へ連れて行って貰った時……同じ様に話して……

 

「もう……いなく」

 

 その女性の背中には長い髪が、あの赤い髪がクルクルと纏められ垂れている。でも、あの白い世界にいた時はあれ位長かった。何より色が同じだ。

 

 帰ってきたの……?

 

 それとも此処はあの白い世界?

 

 見つかるのに、脚が前に出るのを止められない。ゆっくりだった自分の脚は何時の間にか駆け足に変わっていった。

 

「ロザリー!!」

 

 だが後もう少しと言うところで見知らぬ浅黒い肌の男に捕まってしまう。振り解こうにも、まるで鉄の様にびくともしない。

 

「離、せ、ロザリ」

 

「近づくんじゃない。此方はファウストナの女王陛下その人だぞ」

 

 ヴァツラフから見て危険は感じなかったが、戦士団の一員として義務は果たす。ましてや自分の母だ。身体ごと捕まえ持ち上げた少女も意味が分からないが、何より不思議なのはケーヒル副団長だ。彼なら少女とは言え近づくのを許す筈が無いと思う。

 

 見ればケーヒルは茫然自失を全身で表現し、特に少女の頭辺りを凝視している。如何にも不自然だった。

 

「ロザリー、違う……」

 

 勿論、カズキにはあの黄金色の瞳は映らない。

 

 ヴァツラフにとっては抵抗どころか、細い身体を潰してしまわない様に注意していた位だったが、明らかに少女から力が抜けるのが分かった。

 

「ヴァツラフ、大丈夫です。人違いかしら? 私の名前はロザリーではないわ……ゴメンね」

 

 ヴァツラフの右腕に包まれた少女に視線を合わせ、ラエティティは優しく微笑みを浮かべる。ヴァツラフもゆっくりと少女……カズキを下ろした。

 

「間違い、ごめんな、さい」

 

 直ぐに言葉が不自由な事に気付いたラエティティは、その哀しくも美しい顔に目を奪われる。何となくだが、勘違いの理由も分かってしまった。

 

「貴女のお知り合いに似ていたのですか?」

 

「うん、お母さん、もう、居る、無いの、に」

 

「そう……」

 

 先の戦争で母が亡くなったのだろう。面影を重ねて思わず飛び込んで来たのか……人の死を理解出来ない年齢には到底見えないが、何か理由でもあるのかもしれない……ラエティティはそう判断する。

 

「私はラエティティ、貴女は?」

 

 何故かケーヒルはビクリと肩を震わせ、そして近づく為に体を傾けた。ラエティティもヴァツラフもそれに気付いたし、カズキも状況を思い出して素早く反転する。質問には答えない。

 

「ごめん、間違え!」

 

「お、おい! カ……」

 

 ケーヒルの声が聞こえたが、カズキは当然無視する。

 

 ロザリーでは無いし、と言うか当たり前だ……ならば捕まる訳にはいかない。髪は見られたが、隠れ家なら近くにあるのだ! その決断と行動は早かった。

 

 そして、森人に追い立てられた兎の如く脱兎する。カズキは見事に人混みに紛れると、直ぐに姿は見えなくなっていった。

 

「速いな……あんな細い身体で」

 

 ヴァツラフは先程まで感じていた柔らかさと温かさを思い出して、思わず呟いた。何故か花の香りに酒が匂った気がしたが。そしてケーヒルへと振り返る。

 

「ケーヒル殿。あの少女を知っているな?」

 

「殿下……確かに知ってはいますが……その前に女王陛下に安易に近づいた事、お詫びさせて下さい。ヴァツラフ殿下に助けて頂きましたな」

 

「気にしないでください。良くご存知の子なのでしょう? 本来なら此処にいない筈、ですね?」

 

 ケーヒルは内心唸った。

 

 あの()()()()()()、隠された刻印、名前も明かさなかった。何かを隠していて正体も伏せているなら、今は安易に言うべきでは無いのかもしれない。何より、走り去ったカズキが聖女だと、信じて貰えるだろうか? 彼女の周囲に護衛すら付いていないのだ。

 

「言える事は……決して怪しい者では無いと言う事。次に会う時は挨拶させましょう」

 

「ほお……」

 

「ケーヒル副団長、追って下さい」

 

 明らかに挙動が怪しくなったケーヒルを見て、答えが欲しくなってしまう。それに……何故か、もう一度会いたいとラエティティは思ったのだ。それは不思議な直感と確信だった。

 

「いえ……その必要は……」

 

「私はもう一度話がしたいのです。本心ですよ?ですから……連れ帰って下さい」

 

「ケーヒル殿、行こう。追い付けなくなる」

 

「……了解致しました……女王陛下、我儘をお許しください」

 

 馬車と騎士達を待機させて戦士団数人を伴い捜索へと加わる。ラエティティは笑顔を浮かべて見送り、ヴァツラフにも視線を合わせた。

 

 目的であるカズキが向かった先は、西街区だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(11) 〜かけちがい〜

ちょっと真面目な回


 

 

 

 

 

 流れ行く景色は何時もと変わらない。

 

 半年前に起きた魔獣侵攻も聖女に依る救済すらも夢の様だ。王都リンスフィアそのものは大きな被害を免れたが、騎士や森人には多大な犠牲が出たし、その家族も立ち直るには時間が少ない。

 

 だが、馬車に乗るアスティアには生命の輝きと生きる喜びが感じられた。大量の物資が日々運び込まれ、リンディアは一種の好景気だ。街を進めば、あちこちに店が出ていて、多くの人だかりが見つかる。

 

「皆が笑顔ね……私もカズキが居て日々の幸せを感じる……でもカズキは今も人々に慈愛を向け続けているわ。癒しの力は封印され、自己欺瞞も自己犠牲、贄の宴も消え去ったのよ……? もう捧げるものも、その必要すら無くなったのに……」

 

 ヤトは言っていた……慈愛と癒しはカズキが最初から持っていたと。

 

 狂わされていた慈愛は本来の姿を取り戻したのだ。今こそが、あの子のまま、ありのままのカズキ……アスティアはクインに聞こえないよう一人呟く。

 

「間も無く西街区に入ります。居てくれたら良いですが……」

 

 クインも何かを思っていたのか、言葉に力が無かった。

 

「いるわ……そんな気がするの……クイン、今まで人を癒してきたカズキがその力を失ったら、やっぱり哀しいのかしら……もう血を流す必要も痛みに顔を歪める事も無いのに」

 

「私達の前では何時も楽しそうでしたね。今度こそカズキは自分の幸せの為に歩み始めたと、そう思っていました。でも……封印されていても、やはり聖女なのでしょう……」

 

「もし泣いていたら……どう慰めてあげればいいの……? もう力は出せないのだから諦めろと、そう伝えなければいけないの?」

 

「私にも……分かりません。ただ、寄り添うくらいしか……」

 

 王女と侍女の二人は答えの見つからない心に戸惑い、もう一度流れる街並みに目を合わせるしか無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チェチリアが個室に姿を消したのを確認して、更に奥に進む。確か酒を隠した部屋の手前に丁度良い場所があった筈だ。入院患者が一人寝ていたが、火傷の治療で寝ている事が多い。癒しの力があれば治してあげたいと思うが、もうあの力は感じなくなってしまった。それが何故か分かるのだ。

 

 多分薬か何かで眠らせているのだろう、良く眠っていた筈だ。それに広い部屋に一人だったし、隠れるベッドには空きが沢山あった。あそこで一眠りしながら、ほとぼりが冷めるのを待てばいい。

 

 醒めかけとは言え、酒の力はカズキに冷静な思考を許さなかった。チェチリアが確認に来たらどうするとか、寝ている間に夜になったら約束通りに帰れないとか、考える事は出来るだろうに。

 

「ここ、うん」

 

 辿り着いた部屋は記憶の通りだった。ただ、沢山のベッドにはシーツやマットが無く、骨組みだけの物が多いのが目に付く。

 

 洗濯でもしてるのだろうと、カズキは余り気にせずに奥へと入って行った。

 

 間違いなく此処に寝ていた男が居なかった。帰りたいと話していて、強く印象に残っている。火傷は後から来る痛みが酷いと聞いた事がある。きっと辛かったのだろう。でも、退院出来たなら良かった……カズキはそう思いながら窓際まで歩み寄り、窓枠に隠れて外の様子を窺う。

 

「ない」

 

 追跡者なし。安心感が全身を染め、カズキは後ろのベッドへと腰を下ろす。そうすると再び酒への欲求が生まれて来た。外は夕方間近だから、少しだけ暗くなって良い雰囲気なのだ。

 

 朝から飲んでいたとは思えない心の声だが、それを叱るべき人は周囲に居なかった。

 

「捕まる、時間」

 

 もう直ぐ夕方だし捕まらなくとも帰る時間だ。流石にアスティア達をこれ以上心配させる訳にはいかない。だけど、もう少し……

 

 直ぐ隣の部屋に酒が二本ある。片方はまだ開けられないが、もう一本なら。

 

 ベッドから静かに飛び降りると、カズキはスススと廊下へ繋がる扉に張り付く。その動きは不審な侵入者そのもの。可愛らしい少女でなければ泥棒にしか思えないだろう。

 

 コクリと人の気配が無いことに満足し、音無く廊下へ出る。素早い動きで隣の部屋に忍び込むと、目的の場所へ直行だ。

 

 しっかりと二本隠れているのを確認し、大きい瓶を奥から取り出す。そして立ち上がり部屋を見渡した。

 

「駄目」

 

 やっぱり何人か寝ているし、何より万が一に此処で現行犯逮捕されたら、あの月のお酒へと辿り着かれるかもしれない。それだけは回避するのだ……

 

 大きな瓶を小さな胸に抱き、再びさっきの無人の部屋へと舞い戻った。

 

 そして、カズキの一人宴会が始まった。グラスも無いので瓶を傾けラッパ飲みする暴挙すらオマケされる。もし黒髪のカズキであったとしても、聖女だと判断出来ないかもしれない。

 

 身体に合わなかったのか、或いは逃走の疲れが出たのか……直ぐに眠気が襲ってくる。

 

 カズキは梯子酒擬きを断念するしかなかった。証拠隠滅に走ったところ、途中足の小指を角で打ったり、危うく転びそうになって肘を床で打ったりして涙が溢れた。大瓶を守ろうと手を突かなかったからだろう。

 

 それでも、薄れていく意識を何とか保ち、僅かに減った大瓶を再び隠してベッドに横になったのだ。

 

「少し、だけ」

 

 カズキは直ぐに意識を手放し、夢の世界へと旅立っていく。追跡者が迫っているのも知らずに……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスティア様、どうされました?」

 

 正面に馬車が止まったのに気付いたチェチリアは、正門へと回った。そして騎士に手を預けながら降りて来たアスティアに声を掛けたのだ。

 

 今日は慰問の予定など無いし、それどころか最近訪れたばかりだ。聖女カズキも伴い、患者も大変喜んでいた。アスティアは心優しい王女だが、予定も無く現れる立場でも無い。

 

「チェチリア様……突然の訪問をお許しください。あの、もしかしたらカズキが来てないかと」

 

 チェチリアは何時もの皺くちゃな笑顔を浮かべ、アスティアのお姉さん然を暖かく思う。白衣はそのままで心配そうな表情を眺めた。

 

 此処で以前カズキを治療した。早朝に血だらけで門の前に倒れていたのだ。その時は聖女の存在は噂程度で、衣服を裂いた時ひどく驚いたのを覚えている。身体中に散りばめられた刻印と、腕や脚の出血。擦過傷も見つかり、不穏な状況がありありと分かった。

 

 報せるとアストが飛んで来て、再び驚いたりもした。

 

 暫くすると聖女が世界を救済する。あの時治癒院にいた全ての患者が治癒して、開いた口が閉じられ無かった。老婆である事は当然自覚しているが、寿命が縮まって、同時に伸びた気がした日だったのだ。

 

「カズキ様ですか……? 姿は見ていませんが……」

 

「そうですか……」

 

「アスティア様?」

 

「ごめんなさい。必ず此処だと思っていたので……」

 

 落胆がアスティアを襲い、僅かに俯いた事で銀の髪はサラサラと揺れる。少しだけ薄暗い治癒院前でもその輝きは衰えたりしない。夜に溶けるカズキの髪とは対極の色だ。

 

「チェチリア様。大変申し訳ありませんが、少しだけ中を見てよろしいですか? 私とアスティア様だけで構いませんので」

 

「クインさん、構いませんよ。今は診察も終わってますし、書類仕事をしていただけですから。ただ、理由を教えて下さいますか? 私も神々の信徒として聖女様が気に掛かります。それと、奥の部屋には……」

 

「風土病……孤児の子たちですね? 今も?」

 

「ええ、ククの葉が間に合わなくて……もう、眠ったまま衰弱していきます。こうなってはククも効きませんし、せめて身体の痛みを和らげてあげるくらいしかありません」

 

「今年は……大量にククの葉が消費された上に、補充もままならなかったと聞いています。魔獣の襲来後、暫くは森に入れなかったのですから……聖女救済の後、その発症ではどうにも……」

 

「今は足りていますか? 何かあれば」

 

 クインの説明は当然知っているアスティアだが、せめて何か協力をと申し出る。しかしチェチリアはやんわりと断り、そしてアスティアに返した。

 

「アスティア様をはじめ、陛下やアスト様からも多大な援助を頂いています。私にはお礼の一つも出来ませんが……」

 

「そんな……チェチリア様は偉大な治癒師です。きっとカズキだって」

 

「ふふふ……そういえばカズキ様の事でしたね。中にどうぞ、説明は歩きながらでも」

 

 騎士達を残して二人はチェチリアの後を追った。やはり年老いた女性とは思えないしっかりとした足取りと姿勢に、アスティア達は尊敬の気持ちが強くなるのを感じていた。

 

 

 

 

「火傷……パジさんですね……」

 

「はい。カズキは燃える水に注目し、何かを探していたそうです。そして心当たりはその方だけ……ご存知の通り聖女の刻印はヤトによって封印されています。せめて何か出来る事をとカズキは此方に来たのでは、そう考えたのです」

 

「アスティア様……パジさんは今朝亡くなりました。元々、別の病気も患っていましたから……火傷は其処に追い討ちをかけたのです」

 

「そ、そんな……」

 

「では……パジさんは?」

 

「クインさんの考えた通り、もう此方にはいません。前から望んでいた家族の元へ。昨晩から来て頂いておりましたから」

 

「昨晩、今朝……」

 

 時間からカズキの行動と合致する。封印されているとは言え、聖女の刻印は5階位。常人には計り知れない力があっても何ら不思議ではないのだ。そのクインの独り言にアスティアも察する。

 

「クイン……」

 

「ええ……チェチリア様、パジさんが居らした部屋に案内して頂けますか? もしかしたら……」

 

「ええ、勿論です。あの部屋は清浄換気中で誰も居ませんから構いません。ただ隣はあの子達が眠っていますので、お静かにお願いします」

 

「はい。アスティア様、行きましょう」

 

「ええ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一番奥、窓が側にあるベッドに小さな身体が見えた。あちら向きに横になり、いつもの様に膝を抱えている。丸まった背中は悲哀を表わしているのだろうか。

 

 薄暗い部屋を静かに進むと、アスティアはその異変に気付いた。

 

「カズ……!」

 

 静かにと言われた事を思い出し、アスティアは口を両手で塞いだ。だが、身体が震えるのを止める事は出来ない。カチカチと歯が鳴っているが気にもならなかった。

 

 クインとチェチリアも余りの衝撃に足を止めたのだ。

 

「嘘よ……」

 

 フラフラと近づき、アスティアは触れたら壊れてしまうのではと不安になるカズキの元へ縋り付いた。

 

 眠っている……上下する肩に息があるのだと思った。

 

 あの瞳は光を放ってはいないが、僅かに涙の跡がある。それを見て三人は心が締め付けられるのだ。カズキが眠る其処は間違い無くパジが居たベッドだった。漸く辿り着いた時、パジが居ない事にカズキは何を思ったのだろう……

 

「こんな……髪が……」

 

 恐る恐る指を当てると、あの指通りは消えて無くなっていた。ゴワゴワと抵抗を感じて艶やかな生命力を感じ取れない。夜に溶ける漆黒は姿を変え、まるで燃え尽きた灰の様だ。

 

「何があったの……カズキ……」

 

 余りの姿にアスティアは言葉を上手く紡ぐ事が出来ない。

 

 続いてクイン達もカズキを囲い、呆然と灰色の髪を見る。間違いないはずなのに、まるで刻印に縛られていた頃の強い悲哀と苦痛を感じてしまった。

 

「無理矢理……」

 

 クインはアスティアに目を合わす事無く、独り言の様に震える声を紡いだ。

 

「無理矢理に封印を解こうとしたのでは……もはや贄の宴は無く、聖女の刻印に力を送る事は出来ません。それはつまり、カズキが力を……癒しの力を出せないと、それを知り封印に挑んで……カズキにはもう一つの強い刻印がありますから……」

 

「慈愛……ね」

 

「はい……しかし相手は神、しかも強力な一柱……太古から在る黒神のヤト。力を失ったカズキには到底勝てなかったのでしょう。それでも諦めず、その負荷が髪へと……」

 

「ああ……」

 

 もう耐えられず顔を覆うアスティアから涙が溢れていく。チェチリアは無言のまま、アスティアの背中を摩った。

 

「何らかの力で、カズキはパジさんの最期を知ったのでしょうか……?南の森では森人の……死者の声を拾ったと聞いています。そして、間に合わないのを知りながらも、城を飛び出した……」

 

 全てが嘘であって欲しいと願うが、丸まった身体に纏わり付く髪は変わりはしない。

 

「きっとクインの言う通りだわ……見て」

 

 カズキのスカーフを優しく取ると、ヤトの封印である言語不覚が目に入る。だが、それは問題では無い。その刻印の周りは赤く爛れ、美しい肌は見る影もなかったのだ。

 

「刻印に抗ったのですね……パジさんと同じ症状です。まだ軽いですが、まるで火傷の様……」

 

 チェチリアは瞬時に判断し、棚に包帯と薬を取りに行く。

 

「きっと、パジさんの痛みを身代わりとして受け取ったのね……」

 

 チェチリアがククの葉と軟膏を混ぜた塗り薬を持って来て、慣れた手つきでカズキの治療を始めた。包帯を巻き、苦しくない程度に縛る。言語不覚は再び隠され、白い包帯が痛々しい。

 

「起きないですね……目を覚ましてもおかしくないですが……」

 

「疲れてしまったのよ……騎士の方、ノルデに馬車まで連れて行って貰いましょう」

 

 そう話すアスティア達は気付いた。

 

 窓の外、新たな来訪者が来たことを……

 

 

 

 

 



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a sequel(12) 〜リンディアの王女〜

アスティアの格好良いところ


 

 

 

 

 

 女王の命令とは言え、何故ここまで自分が必死なのか分からなかった。確かに美しい娘ではあったが髪はボサボサ、肌にも爛れがあった。化粧も全くしてないし、所作も乱雑だ。

 

 なのに、ヴァツラフは命令ではない別の何かに追い立てられていた。それは初めての、不思議な感覚だった。

 

「ここか……」

 

「恐らく……治癒院です」

 

 ケーヒルが案内役で、周囲に聞き込みすれば簡単に居所は割れた。綺麗な少女が髪の乱れを意に介さず走り去って行けば、注目を集めて当然だったのだろう。

 

「あれは……」

 

 正門前に留まる馬車にケーヒルは見覚えがあった。周囲には騎士が数人、中にはノルデの姿もある。彼が居るなら最早間違いないだろう。

 

「見事な馬車だ。ケーヒル殿?」

 

「恐らくアスティア王女殿下かと……目的も同じと思われます」

 

「王女殿下が此処に?」

 

「はい」

 

 ヴァツラフは疑問を深める。何故少女一人に王女自らが?と頭に浮かんだ。

 

 リンディアは昔と変わらず大国だ。ファウストナの様な小国でも簡単に街に出るわけではない。ましてや、たった一人の王女が態々に迎えに来るなど、ヴァツラフには分からなかった。

 

「ケーヒル殿……何故」

 

「殿下、ラエティティ女王陛下をお待たせする訳にはいきません。先ずは……確認しましょう」

 

「……分かった」

 

 どうもケーヒルは全てを明かしたくない様だ。そもそも此処は他国で、しつこく聴き回る事でもないだろう。ヴァツラフは無理矢理に納得し、ひとまずは口を閉じた。

 

 ノルデ以下待機中の騎士はケーヒルに気付き、そしてヴァツラフと見慣れない男達も目に入った様だ。剣こそ抜かないが僅かに警戒する。

 

「控えよ。此方はファウストナ海王国の第二王子、ヴァツラフ殿下だ」

 

 言葉が終えた瞬間、騎士団が一糸乱れず膝をつき、(こうべ)を垂れた。その規律ある行動にヴァツラフは息を飲んだが、努めて表情には表さない。

 

「ケーヒル殿、今は公式の場ではない。騎士の皆には力を抜いて欲しい」

 

「はっ。お心遣いありがとうございます。全員、楽に」

 

「「「はっ!」」」

 

 やはり見事に起立し同時にヴァツラフには目を合わさず、僅かに視線を下げている。

 

「ノルデ、中にはアスティア様が?」

 

「はい。クイン様も同行されています」

 

「そうか。殿下、リンディア城に参られる前ですが、先ずはアスティア王女殿下とお会い下さい。段取りも何もありませんが……申し訳ない」

 

「気にするな。そもそも此処にいるのはラエティティ陛下の我儘。此方こそ済まない」

 

「では……」

 

「お前達は此処で待て。王女殿下に厳つい貴様らを見せては不興を買う」

 

 戦士団は無言で頷き、各々が建物の壁際に寄った。騎士団には僅かに視線を送るのみでドサリと腰を下ろす。浅黒い肌を惜し気もなく晒し、汚れた革鎧は確かに荒くれ者に見えなくもない。短槍もリンディアでは珍しいだろう。

 

「……済まんな。我が戦士達は礼儀を知らないのだ」

 

「ははは……戦士とは斯くあるべき、ですかな」

 

 そうしてケーヒルとヴァツラフ両名も治癒院へと入って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「此方です」

 

「ありがとう、チェチリア殿。殿下、暫しお待ち頂けますか?」

 

「勿論だ。王女殿下がいる部屋にいきなり入る程非常識ではない。まあ、奴等を見れば信じて貰えないかも知れんが」

 

「彼らは魔獣との戦いで国を守った英雄。私は身近に感じておりますぞ。では……」

 

 肩を竦めたヴァツラフを見て、ケーヒルはチェチリアに続いた。

 

 閉まった扉を確認しケーヒルは部屋へと目を配った。窓の近く、ベッドの横にアスティアは腰掛けている。すぐ側にはクインが凛と控えていた。そして近づいて見れば、森人の服を着たまま横たわるカズキが視界に入る。チェチリアは気を遣って扉の前に残った。

 

「アスティア様……どうやら目的は同じですかな?」

 

「ケーヒル、先ずは無事な帰国嬉しいわ。ご苦労様」

 

「おっと、確かにそうでした。やはり歳ですかな……」

 

 口髭を撫で、アスティアの表情を再び確認する。明らかに泣いた跡があり、未だ哀しみに暮れているのだろう。

 

「確か……ファウストナの皆様と一緒では?リンスフィアを散策中だと聞いたわ」

 

「正にその通りです。今、廊下にヴァツラフ王子殿下がいらっしゃっています。事情を説明しますが、殿下に入室頂く前に話をしておかなければなりません」

 

 その視線の先には灰色に染まった聖女が眠っていた。

 

「王子殿下が……?分かりました、手短に。クイン、お願い出来る?」

 

 クインの方が要点を端的に纏め、直ぐに答えを導いてくれるだろう……そう考えたアスティアは任せる事にする。

 

「はい。では、此方から……」

 

 それぞれがカズキに引き寄せられ、此処に出会った理由を語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なるほど……」

 

 クインらしい説明は端的に、そして見事に要旨が伝わってケーヒルを納得させた。ノルデの行き過ぎたカズキへの忠誠が生み出した仮説は、最早止まらない真実へと変貌したのだ。もし酒に飲まれていないカズキが目を覚ましていたら、余りの勘違いに顔を覆ったかもしれない……いや、悪巧みがバレないと密かに笑うかも。

 

「確かにパジとやらのベッドで涙を流す理由など、他には思い当たらんな。慈愛の刻印を持つ聖女が"燃える水"に興味を持つなど不自然な事だ。慈愛と対極の、破壊の象徴と言える」

 

「はい……この髪は、余りに見る影もありません。どれ程に苦痛と戦ったのでしょうか……言語不覚の周りの肌は、赤く爛れていたのですから。確認しましたが、喉から肩口まで広がっていました」

 

 まあ、確かに苦痛とは戦った。水桶に頭ごと突っ込み、皮膚の炎症に抗ったから。原因は自業自得と断定していい。

 

「ケーヒルはどうして此処へ?しかもファウストナの王子殿下と一緒なんて」

 

 負けじとケーヒルも、此処に来るに至った理由を説明する。やはり、端的で分かり易かった。そしてロザリーの名が出る事で、カズキへの同情はより強まってしまう。

 

「弱った心で彷徨っていたのね……其処へロザリー様と似ている女王陛下が目に入った。直ぐに現実に突き当たったカズキは此処に戻ったんだわ。そして、眠りに着いた」

 

 実際は酔った頭で次の店を探し、偶然にラエティティに出会っただけ。そしてケーヒルに捕まるのを恐れたカズキは逃走し、隠れ家と勝手に決めた治癒院に来たのだ。

 

「アスティア様。カズキは先程も名乗っていません。刻印も隠し、まるで聖女と知られたくない……そう感じました。ましてや、今は髪も灰色になって癒しの力すら封印されています。ヴァツラフ殿下、そしてラエティティ女王陛下にどう説明するか……慎重に考えませんと」

 

 聖女の存在は高度な政治問題に成りかねない。神々の使徒を矮小な人の(まつりごと)に当て嵌めるなど不遜の極みだが、それが避けられない現実でもあった。

 

 カーディルも懸念していた様に、リンディアが独占を目論んでいると誤解するだけで、新たな戦争の火種になるかもしれないのだ。逆に象徴であった黒髪は灰色となり、刻印は痛め付けられたかの様に見える……その現実に、事情を知らない神々の信奉者は怒りに震えるかもしれない。そして、ラエティティは間違いなく敬虔な神々の信徒だ。

 

 肝心の聖女も今は眠りに落ちている。疲れ果てたカズキを無理矢理起こしたくはないし、仮に起きても本人から説明させるのは困難なのだ。言語不覚は今もカズキを縛っている。

 

 そう瞬時に考えたアスティアは、事の大きさに胸が痛んだ。王女とはいえ、自分は何も知らない子供だと悔しくなる。

 

「私には判断など出来ないわ……お父様か兄様に相談しないと……クイン、どう思う?」

 

「余りに、全てが予想外で突然過ぎました。今は答えを出す事は早計かと。此処は時間を稼ぎましょう。それに……聖女が正体を明かしたくないなら従う方が良いと思います。救済の時もそうでしたが、我等には不思議に思える行動にも意味がありましたから」

 

 あの日……突然森人の服に着替え、無謀としか思えない戦場へと歩んで行ったのだ。そして、世界は救済された。

 

「そうね……とりあえずは隠しましょう。帰って相談しないと。ヴァツラフ王子殿下には嘘をついてしまう事になるけど、後で私からお詫びします」

 

「分かりました。では、ヴァツラフ殿下をお呼びします」

 

「偽名を考えませんと……カズキにも後で分かり易い簡単な響きが良いでしょう」

 

「そうね……カズキ……カーラはどうかしら?昔読んだ物語に、そんな聖女がいた気がする」

 

「"パウシバルの指輪"ですね。あれはリンディアを舞台にした古い物語ですから、ファウストナの方々には聖女へと繋がらない筈です。アスティア様、とても良い名前だと思いますよ」

 

「決まりですな。では」

 

 本当はもっと深く設定を考えるべきだろうが、客人であるヴァツラフをいつまでも待たせる訳にはいかない……ケーヒルはそう考えて、直ぐに行動した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスティア王女殿下。こうしてお会い出来て大変光栄だ。此度は押しかける様な訪問となり、申し訳ない。また、快く会談を承諾頂いたこと、ラエティティ女王陛下もお喜びだった。私からも感謝を伝えさせて欲しい」

 

 公式の場ではない為、アスティアもヴァツラフも正装ではない。それでも男らしさを体現した美丈夫のヴァツラフと、銀の髪を腰まで伸ばした美しきアスティアは、やはり絵になった。

 

 余り感情の篭らない言葉をつらつらと並べ、ヴァツラフは礼儀として軽く頭を下げた。まさか此処でリンディアの王族と会うなど考えてもいなかったのだから仕方が無い。

 

 ファウストナとしては、リンディアに恭順な態度を取るか、争いを覚悟で接するか決めかねていたのだ。ましてや戦士でしかないヴァツラフには、どんな対応が正しいのか分からない。それが中途半端で気持ちの篭らない態度に出てしまったのだ。内心拙いかと不安になったヴァツラフに、涼やかで凛とした声が届く。

 

「ヴァツラフ王子殿下、私はアスティア=エス=リンディア。このリンディアを纏めるカーディル陛下の娘です」

 

 ヴァツラフは此処で自らの名を名乗っていない事に気付き、自分が冷静で無いと理解した。チラリと王女を見れば、薄い笑顔を浮かべ、まるで睥睨されていると感じてしまう。自分より歳下の娘なのに、大きく見えるのだ。

 

「先ずは遠い旅を終えられリンディアに来られた事、王女として感謝と歓迎の意を贈りたいと思います。また、共に苦難の時代を互いに生き抜いた同胞(はらから)として、尊敬の念に絶えません。本来なら我が父から労いの言葉を紡ぐべきですが、此処は非公式な場。お許しくださいね」

 

「……同胞、と?」

 

 まだ会談も終えて無く、その結果もどうなるか判らないのに。ましてや自分達は王でも女王でもない……不用意な発言と言って良かった。ヴァツラフは下らない誇りだと自覚しつつも、アスティアの言葉の揚げ足を取った。そして、それを後悔する。

 

「はい、同胞です」

 

 そのヴァツラフの言葉に動揺するどころか、更に笑みを深めて堂々と肯定してきたのだ。まるで、自分の下らなくて情け無い男の誇りを包み込む様に。

 

「ヴァツラフ殿下。貴方様の身に、そしてファウストナ海王国に癒しの光は降り注ぎましたか?」

 

「ああ、勿論だ。命を繋いでいた民も戦士も、その全てが癒された」

 

「聖女カズキの慈愛は全ての、世界全てに降り注いだのです。その慈愛は魔獣にすら届き、救済は成りました。貴方様も知るでしょう……聖女の慈愛の前では、我等は余す事無く同胞なのだと」

 

 アスティアの碧眼を見たヴァツラフは、魔獣にすら退いた事のない脚が一歩下がるのを止められなかった。ラエティティ、母は言っていたではないか……聖女が恐ろしい、と。

 

 そして、アスティアには僅かな怒りすらあった。あの日、カズキの魂魄すら犠牲にした献身と慈愛を目にしたのだ。それを知らないヴァツラフに怒りを覚えるのは理不尽な事と思う。だが、この気持ちは止められないのだ。

 

 

 失われた右腕、ひび割れた顔、伸びない黒髪、力を失った翡翠色の瞳。

 

 そして、ヤトから聞いたカズキの過去。

 

 黒神の刻印という名の呪いすら振り切り、カズキは世界を救った。

 

 そして今、あの美しい黒髪を犠牲にしてでもカズキは戦っていたのだ。聖女の慈愛、その前にいる我等の何と小さき事か…て

 

 

「ヴァツラフ殿下……どうか心安らかに。私の言葉は、我が父カーディルの言葉と受け取って頂いて構いません」

 

「わ、分かった」

 

 やはりリンディアの血か……常々に母ラエティティはリンディアを敬い、そして恐れていたが、その理由が分かった気がする……ヴァツラフは心が震え、もう一度アスティアを見る。

 

 そこには変わらない笑顔が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(13) 〜慈愛〜

お気に入り件数が1,000を超えました。ありがとうございます。


 

 

 

 ほんの僅かな時間、ヴァツラフはアスティアの前に佇み無言だった。少しだけ固まっていたと言っていい。しかし、その沈黙を破ったのも、やはりリンディアの王女だった。

 

「ケーヒル。ラエティティ女王陛下は何処に?」

 

「はっ。直ぐ近く、西街区の境にお待ち頂いております」

 

「まあ!それは……長旅を続けられた女王陛下をお待たせするなど許されません。直ぐにお迎えに上がり、リンディア城にご案内しましょう」

 

「いや、元々は此方の我儘。余り気を使わないで欲しい。目的は其処に眠る少女だ。ラエティティ陛下がもう一度その少女と話したいと言って、我等は此処に来た。だが、どうやらこの少女は貴女もよく知ってある様子だ。誰なんだ?」

 

 既に落ち着いた雰囲気のヴァツラフに、アスティアも息をついた。

 

「この子……名前は()()()と……事情がありまして、今は城で保護しています」

 

 全てが完全な嘘では無い。アスティアは心で言い訳を唱えた。

 

「保護……成る程、ケーヒル殿が慌てるのも頷けるな。普段は街にいないのだろう?」

 

「その通りです。ヴァツラフ様もお気づきでしょう、この子には……少しだけ変わったところがあって……」

 

「そうだな。だが、美しい娘だ。最初は驚いたし、今もつい引っ張られる様な不思議な感じがするな」

 

 だってこの子は、世界に二人といない5階位の刻印を持つ聖女だから……内心アスティアは呟き、判らない様に溜息をつく。

 

「今は体調が優れない様ですので、後ほど改めて女王陛下にもご挨拶に伺わさせます。今はラエティティ様をお待たせしたくありません。カズ……カーラを馬車まで連れて……」

 

 ケーヒルがカズキを連れて行こうと動き出した瞬間、ヴァツラフから思わぬ言葉がかかった。

 

「ならば私が連れて行こう。俺は力の刻印を持つ者、少女を運ぶなど何の負担にもならない」

 

 アスティアは驚愕し思わずヴァツラフを観察してしまう。だが、そこには男としての劣情や打算も無かった。ただ、当たり前に想いを言葉にしたのだろう。

 

「ですが……」

 

「何、先程は失礼した。せめてものお詫びだと思ってくれればいい。それにラエティティ女王陛下に顔を見せたいと思う」

 

 今は聖女で無く、ある意味で一般の国民と一緒だ。ラエティティに見せたいと言われたら、断り難いアスティアだった。ついた嘘は我が身に返ってくるものだ。

 

「……分かりました。では、私の馬車について来て頂けますか?」

 

「了解した。この娘は此方の馬車に乗せよう」

 

 ヴァツラフはベッドまで近づくと、丸まったカズキを抱き上げる。横抱きにしているが、確かに軽いとは言え人を持ち上げているとは思えない様子だ。力の刻印は文字通り、個人の体力に直接影響する事はよく知られている。

 

 今まで固い表情だったヴァツラフに、ほんの少しの笑顔が浮かんだのをアスティアは見て……何故か強い不安に襲われる。そしてその理由に思い当たった。

 

 愛する妹をその手に抱くのは、兄だと当たり前に思っていたからだ。その二人の側に自分も佇むだろう。なのに今、今日初めて会った男がカズキを抱き上げている。間違いなく男に情欲など無いが、その見慣れない笑顔にアスティアは不安を覚えたのだ。

 

 ああ……そう、アスティアは気付いてしまった。

 

 カズキの隣には兄様が居る、それは当然だったのに……未来は誰にも分からない。もしカズキが彼に、或いは誰かに心を寄せたなら、私はそれを否定出来るのか……

 

 嫉妬とも違う独特の感覚に戸惑う。

 

 兄様はカズキと愛し合っているのだろうか? そうでなくとも時間が解決すると考えていたのではないか? このリンディアで兄様を差し置ける者など、いない。だが、目の前の男はどうだ? 小国とは言え、王子として魔獣に打ち勝って来た戦士。私から見ても立派な男性だと分かる。そして何より……彼は力の刻印を持つと言う。

 

 カズキと同じ神々の使徒なのだ。

 

 ()()()()()()

 

 彼は引っ張られると表現した。意識のあるカズキが同じ感覚を覚えてしまったら……アスティアは酷く後悔していた。

 

 

 カズキを聖女だと紹介しなかった事で……聖女ならば彼はカズキの肌に触れる事も、横抱きのまま自分の前から連れて行かれる事も無かったのに……

 

 

 

 扉の向こうに消えて行った二人を、アスティアは呆然と見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カーラ? この子の名前ですね」

 

 ヴァツラフが別れた場所まで戻り、カズキを預けた最初の言葉にラエティティが返す。

 

「はい。直ぐにアスティア王女が此処に来ます。そのまま城まで案内するそうです」

 

「王女が自らなんて、余程大切な子なのでしょう。でもそれなら何故此処へ?」

 

「女王陛下が先程、話がしたいと……余計な事でしたか?」

 

 言葉は丁寧だが、ヴァツラフには困惑と怒りがあった。意味深な視線まで送ったではないかと。

 

「そうでしたね……でも、何故でしょう? 不思議と、もう一度話がしたい、顔が見たいと強く思ったのです」

 

「確かに……何か引っ張られる感覚があります。それが何かは分からないですが……」

 

「まあ……貴方がそんな事を言うなんて……確かに可愛らしい女の子ですものね」

 

「陛下……この娘は他国の、しかもアスティア王女が保護しているのです。下世話な話は感心しません」

 

「そうね、ごめんなさい……でも、カーラ……」

 

「どうしました?」

 

「いえ……そう言えばこの子、瞳が綺麗な翡翠色でしたね。まるで聖女カズキ様の様です。これで髪も黒ければ、ですが」

 

「はあ……」

 

 次から次へと会話が流れ、ヴァツラフは返事に力が無くなった。よくある事なのだろう。

 

「この包帯は?」

 

 首回りには先程無かった白い包帯が巻かれていた。その下には聖女の象徴の一つ、言語不覚の刻印が刻まれている。

 

 数歩離れて見守っていたケーヒルが身動ぎしたが、幸いラエティティは気付かなかった。

 

「居たのは治癒院です。治療したのでしょう」

 

「痛々しいですね……この髪も何かの理由で傷んだ筈です。眠りも深い……」

 

 決して手触りが良くない髪を撫でながら、ラエティティは改めて観察する。顔立ちは非常に整っていて、着飾れば誰よりも映えるだろう。

 

 耳元に掛かる髪を指先で流そうとした時、アスティアが乗る馬車が視界に入った。そして、カズキを馬車の寝台に乗せて背筋を伸ばす。

 

 子供を優しく見守る大人の女性から、ファウストナの女王へと変化したラエティティは顔を上げた。ラエティティにとっても、ファウストナにとっても、大事な時間が迫っているのだから……

 

 

 

 

 結果だけ言うなら、ラエティティとアスティアは意気投合したと言っていいだろう。ヴァツラフは王子とは言え二人の会話に入らず、護衛の一人として振る舞った。

 

 二人の会話を取り持ったのはアスティアから見てカズキ、ラエティティから見ればカーラだった。

 

 いきなりラエティティの元へ飛び込もうとした事。ヴァツラフに捕まり、母と間違えたと分かったこと。その母はつい最近に亡くなった事。言葉が少し不自由ながらも活発で優しい娘。お転婆で手を焼いている事も二人の会話に彩りを添えた。

 

 アスティアは最初こそ緊張していたが、ラエティティの包み込むような暖かさは何処か母であるアスを思い出させたのだろう。

 

 勿論他国の女王と王女だから、全てを開け広げた訳では無い。それでも会話の間にはカズキが居て、何処か優しい時間になったのだ。

 

 ありがとう……アスティアの感謝の言葉は心の中だったが、それは本心だった。

 

 そうして暫く会話を楽しむと、両国の王族を乗せた馬車はリンディア城へと消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうしようか……

 

 

 意識を取り戻したカズキは、薄っすらと目を開けて内心呟いた。

 

 その視界には見慣れた高い天井があり、此処が自分の住う部屋だと知れた。離れた場所には人の気配があるが、恐らくクインだろう。気を遣い、出来るだけ静かにしてくれているのは直ぐに分かった。身体の感覚からロザリーに貰った服は着ていない。毎度の如く着替えさせられたのだ。

 

 つまり……髪どころか首から肩にかけた炎症にも気付いた筈。しかし何故あの場所が分かったのだ?不思議な話だが事実である以上、仕方が無いのだろう。

 

 分からない内に目を閉じる。

 

 どうしよう……

 

 心構えも何も無い。

 

 記憶の最後はチェチリアの病院だが、あの酒はどうしただろうか? あれまで見つかっていたら、もう終わりだ……酷く怒られて、間違いなく禁酒令が出る。いや、少なくとも月の酒はバレてない筈。あの酒だけは諦めたくない。満月の夜に必ず脱走するのだ。

 

 となれば、何か言い訳を考えないと……

 

 いや、言い訳は逆効果だ。

 

 此処は殊勝な態度が大事なのでは?

 

 いきなり謝ろう……ひたすらに謝罪するのだ。

 

 満月まではまだ何日もかかる。ならば、目の前の酒は我慢して油断を誘う。

 

 クイン相手にそれが通じるのか……?

 

 間違いなく頭の良い女性で、自分の悪巧みなんて簡単に見抜きそう……

 

 

 

 ギュッと目を瞑り、カズキがそんな下らない思考を巡らせていた時だった。

 

 聖女の間、その扉が開かれた。正確にはノックの音の後、クインによってだ。

 

「クイン、カズキはどう?」

 

「まだ目は覚ましません。ただ、呼吸は安定してますし眠っているだけですから、安心して下さい」

 

「そう、良かった」

 

「肌の炎症は暫く掛かります。少なくとも10日以上は……特に首回りが一番酷いですね」

 

「ええ……クイン……髪は、カズキの髪は大丈夫なの?」

 

「分かりません。まるで髪から色を抜き出したようで……生え変われば治るのか、別の要因が必要なのか……癒しの力が有れば直ぐに治ったと思いますが」

 

「それは期待出来ないわ。ヤトにより封印されているのだもの」

 

 そうですね……アスティア達二人は会話しながらカズキの元へと寄り添った。

 

「ラエティティ女王陛下は?」

 

「先程来賓室に。この聖女の間とは王の間を挟んだ反対側ね。状況はお父様と兄様に伝えたから、答えは出してくれると思う。このままカーラとして暫く過ごして貰うかもしれないわ」

 

「最初の会談は明日ですね。時間も遅くなりましたし……会談は何度か行われるでしょう」

 

「ええ、今日は顔合わせだけよ。歓迎の宴も元々明日の予定だし。それまでにカズキをどうするか決めないと」

 

 長い会話を聞いていたカズキだが、殆どが意味不明だった。だが最後の言葉はやけにはっきりと聞こえた。そのアスティアの台詞には内心冷や汗が流れる。

 

 どうするか決めるって……やっぱり禁酒令か? お勉強の時間が伸びるのか?それとも両方?

 

 大変だ……恐怖心を煽られたカズキは我慢が出来なくなり、恐る恐る目を開く。

 

 うう……脱走なんてするんじゃなかった……後悔とは後に募る悔いなのだ。とにかく謝ろう……勝手に居なくなって、髪まで灰色になったし……カズキは情け無い覚悟を決めた。

 

「ごめん、なさい」

 

「カズキ……目を覚ましたのね」

 

 アスティアの声を聞いて、ゆっくりと首を動かすカズキ。しかし此処で顔は歪み、僅かに涙が溢れた。

 

 首周りが痛い……首も肩も、頭もひりひりする……化学火傷も後から痛くなるんだ……カズキは呑気にそう思った。

 

「ごめん、なさい。勝手に……」

 

 綺麗な瞳から涙が溢れるのを見たアスティアは、心の痛みを我慢して無理矢理に平静を装った。

 

「カズキ、痛いの?」

 

「え?う、うん。首、痛い」

 

 其処にはカズキを縛る刻印が在る。

 

「アスティア、クイン、ごめ……」

 

「謝る必要なんて無いわ」

 

 謝る事すら許して貰えないなんて……見ればアスティアの表情は何かを我慢しているようだ。まるで溜め込んだ怒りを押さえ付ける様に。

 

「クイン……」

 

 危険……此処はクインに退避だ……カズキから見たら歳下のアスティアからあっさり逃げたが、クインを見て後悔する。

 

 私は知りませんとばかりに違う方向を向いている。しかし僅かに肩が揺れているのを見れば、怒りに震えているのは明らかだろう……カズキは罪悪感からそうとしか思えなかった。

 

「カズキの包帯を変えてあげて。クイン、私はお父様達と話してくるわ……決めないと」

 

「アスティア……何?」

 

 何を決めるの……?

 

「カズキ……今日はゆっくり休みなさい。明日話しましょう」

 

 明日、禁酒令発動?

 

「ア、アスティア……ごめんなさ」

 

「謝らないで!」

 

 ビクリと肩が揺れる。

 

「お願いだから……謝ったりしないで。私、泣いてしまうわ……」

 

 泣くほど怒ってる……

 

 禁酒は決まりか……

 

 カズキは絶望感に襲われてしまう。

 

「アスティア様……」

 

「クイン、お願いね」

 

 足早にアスティアは出て行ってしまった。

 

 真新しい包帯と、何やら塗り薬らしい物を用意しているクイン。背中越しだが、やはり怒っているのだろうか? カズキは耐えられなくなり聞いてしまう。

 

「クイン……怒る?」

 

「そうですね……怒ってます」

 

 やっぱり……

 

「さあ、包帯を変えましょう」

 

 それからは無言で処置が行われて、カズキの包帯は巻き直された。

 

()()()()、今日はもうお休み下さい。明日、起こしに来ますから。それと……もう私達に言わずに居なくなったりしないで下さい……どうかお願いします」

 

「は、はい」

 

 こ、怖い……今日は大人しくしていよう……

 

 カズキはクインが部屋を出るまで身動きが出来なかった。

 

 心の中は後悔で一杯だったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クインが静かに扉を閉めると、直ぐにアスティアの佇む姿が目に入った。カーディル達との打ち合わせは嘘では無いが、時間には余裕があったのだろう。

 

「ごめんなさい……クインに任せきりで」

 

「アスティア様、先程はよく我慢されましたよ。私の方が先に涙が出そうでしたから」

 

「最初、クイン我慢してたものね……」

 

「あんな……哀しい顔で謝られたら……誰でも泣いてしまいます。カズキが謝る必要なんて無いのに……パジさんを助けられなかった事は誰の所為でも無いのですから」

 

「きっと刻印が痛むのね……いえ、それとも慈愛が哀しみを誘うの?」

 

「きっとそうなのでしょう……アスティア様、先程質問されました。カズキに」

 

「何を?」

 

「怒っているか、と」

 

「そう……私も一緒よ。凄く怒っているわ」

 

「はい。私達に何も言わず、一人で行動したこと」

 

「そうね……でも何より」

 

「はい」

 

「何も出来ない、してあげられない自分に……」

 

 クインは少しだけ頷き、静かになった聖女の間に顔を向けた。

 

 

 そうして、ファウストナ来訪の初日は更けて行ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(14) 〜聖女の座す街〜

リンスフィアの人々。その声をお聞き下さい。


 

 

 ある日、あるパン屋ーーー

 

 

 

「はいよ! 最後の大麦パン4つだ」

 

 騎士か森人かと疑いたくなる鍛えられた腕を伸ばし、パン屋の親父は商品を渡した。まだ十分明るいが暫くすれば空は紅に染まり、やがて星々の光が降るだろう。そんな街中は未だ眠りそうにない。

 

 馴染みの客は最後のパンを革袋に入れて、ありがとうと返した。

 

「しかし……どれも美味いから不満は無いけど、大麦パンが最後とは驚きだよね」

 

「ああ、肉や果実を使った高いパンから売れていくよ。ほんの少し前は死ぬもんだと思って、道具を仕舞ったりしたんだが……今でも夢の中にいるみたいだな」

 

「参ったな……早く来たくても時間が合わないよ……」

 

「ははは……アンタなら取り置きしておくさ。必要な時は朝に注文してくれりゃいい」

 

「ほんとかい!?それはありがたいよ。親父さんのパン以外は食べる気しないからね」

 

「そこまで気に入ってくれるのは嬉しいが、其処まで美味いか?材料も腕も普通だがな」

 

 照れ臭そうにしながらも正直に本音を話す。実際、パンは誰もが食べる主食で何処でも手に入る。心を込めて作ってはいるが、それは他の店でも同じだ……そう思う親父は謙虚だった。

 

「親父さんのパンは最高さ。それに……アレを知ったら他には買いに行けないよ」

 

 大きな矢印が指し示す木製の壁は、パン屋の看板より目立っていた。近くで見ないと分からないが、其処には折れたパン切り包丁の刃先が突き立っている。少し錆び始めたそれは、ご丁寧に小さな屋根が設けられて雨露を凌いでいるようだ。

 

「今でも思い出すなぁ……坊主は元気か?」

 

「ミーハウかい? そりゃ元気一杯さ! 寧ろ元気過ぎて大変だよ……妻も私も苦笑いするばっかりだ」

 

「そりゃそうか。何せ聖女様の癒しを受けた訳だしな。今だから言えるが、ありゃ助かる怪我じゃなかったぞ? 正に聖女様の御慈悲だな……」

 

「妻から何度も聞いたよ……でっかい丸太に押し潰されて今にも死んでしまいそうだったってね。そうしたら天から聖女様が舞い降りて、恐れ多くもその身体に抱き締め……瞬きする間にミーハウの怪我は消えてしまった。直接感謝を伝えたいけど、お会い出来るものでもないし……」

 

 親父は店先に残る道具を片付けながらも、嬉しそうに言葉を返す。

 

「ああ、その後さ。聖女様が走り出して……その壁をササッと登っていっちまった。包丁はその時の支えにしたんだ。何て言えばいいか……人から礼を言われ慣れてない、いや感謝なんて必要ない。そんな感じだったな」

 

「慈愛と献身、だよね。聖女様は自分の血を捧げて癒しを与える……後から聞いたよ」

 

「ほんとになぁ……今や世界を救ってくれた方だ。あのパン、食べてくれたか聞いてみたいもんだ」

 

「親父さん、目の前で見たんだろう?」

 

 羨ましい。その気持ちを隠しもせず片付けを目で追う。

 

「目の前どころかあの包丁を渡したからな……最初は何がしたいのか分からなくて困惑したぞ。自らの御召し物を裂いて、ミーハウの血のりを拭った時は言葉が無かったな」

 

「……やっぱり何か御礼をしたいな……」

 

「聖女様が望んでいるとは思わないが、献上品を贈る奴は多いみたいだな。アンタも考えてみたらどうだ?」

 

「献上品か……ありがとう、親父さん。合わせてミーハウに手紙でも書かせてみるよ。例え読んで貰えなくても、何かしないとね」

 

「そりゃいい。きっと読んで下さるさ」

 

「はは……じゃあまた」

 

「おう、またな」

 

 二人は今の平穏と時間に感謝しながら別れた。それはリンスフィアの凡ゆるところで起きている一場面だった。

 

 

 

 リンディアの王都リンスフィアは、多くの犠牲者を出した先の戦争から立ち直りつつある。

 

 戦死した騎士や森人の家族から哀しみが消える事は無いが、誇りある彼らの家族も気高い人々だ。戦場に死はつきもので、覚悟は済ましていたのだろう。顔を上げ、前を向き歩き始めている。

 

 森から絶えず供給される資源……それは食料であったり、薬だったり、木材や水だ。人が生きていく上で必須な物資が市場に流れてくれば、自ずと活気は取り戻されていく。

 

 薪や油の不足も解消されつつある今、リンスフィアのあちこちに明かりが灯り夜すらも眠りはしない。

 

 酒を酌み交わす彼らが最初に口にするのは聖女への感謝だった。大多数とは言えないが直接に癒しを目撃した者が居て、如何に救済が成ったかを知らしめる。たった一人の少女が自らの死を恐れずに戦った。その美しさも相まって、カズキの名を知らぬ者など居ない。

 

 だから、酒場や家庭でも祈りは捧げられている。

 

 パン屋に限らず、直接聖女に会った者はある意味で人気者だ。絶えず話をせがまれて疲れ果てる者までいるらしい。

 

 それでも、その者から笑顔は消えたりしない。目を閉じれば今も、聖女の姿が頭に浮かぶのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 ある日のある絵描きーーー

 

 

 

「おかしいな……」

 

 彼は聖女を間近で見ると言う幸運に見舞われた。

 

 徐にナイフを抜いた聖女は躊躇う事も無く、あの有名な黒髪を切り離した。呆然と見ていたが、散り散りに空を舞った髪の一本一本が淡い光に溶けた時に奇跡が周囲を包んだのだ。

 

 偶然に飛んできた黒髪は掌の中で消えてしまった。それでもあの僅かな感触は忘れる事など出来ない。自身の知り合いも命を繋ぎ、それどころか世界すらも救った。だから、絵描きは何時も聖女を描く。

 

 決して金儲けをするつもりは無い。だけど、実際に尊い聖女の姿を見た絵描きなど少なく、ましてや自分はすぐ側に立っていたのだ。咽喉元に刻まれた刻印は今も記憶に残っている。自分より腕の上等な者は多いだろうが、心を込める信心だけは負けたりしない。

 

 最近は朝早く起き出し、知り合いの家の屋根に登らせて貰っている。

 

 聖女は天気の良い日には必ずベランダに姿を現す。黒の間……現在は聖女の間となったそのベランダに黒髪を靡かせて聖女が立つ。その姿を目にする時、身体中を幸福が襲い震えてしまう。遠いため黒髪同様に有名な翡翠色の瞳は見えないが、その瞳が映す景色に自分が居ると思うと、言い様の無い幸せを感じるのだ。

 

「これだけ天気が良い日に二日も……」

 

 昨日今日と聖女は姿を見せてくれない。無論不平など言うつもりは無いが、何かあったのかと心配になってしまう。

 

 絵筆を手にしたまま未完成の作品に目を落とす。

 

 尊いお姿をリンディア城と共に描いたコレは、未だ完成には遠い。何度描いても満足出来ない聖女の姿に今日こそはと意気込んでいた。

 

「お身体に不調など無ければいいが……救済をあの小さな身体で起こしたのだから、何らかの負担があってもおかしく無い」

 

 傷ついた聖女も目にした絵描きには、尊くも儚い……そんな美しい姿が目に浮かぶのだ。

 

 顔を上げればリンディア城の全景と3本の尖塔が目についた。見飽きた風景なのに、聖女の姿が無いと価値は半減してしまう。風景画を多く描いて来たが、景色に隠れた人々にこそ魅力があると今なら分かる。人を描かずとも絵の中に命を宿すのだ。

 

 聖女の存在は、そんな当たり前の事を思い出させてくれる。

 

 だから今日も、絵筆を持ったまま佇むだけ。

 

 そして祈りと感謝を捧げる。

 

 いつか描いた絵を聖女に見てもらえたら……叶わぬ夢と知りつつも絵描きは日々を生きていた。

 

 

 

 

 

 

 

 新人舞台女優ジネットーーー

 

 

 

 じっとりと手に汗を感じ、逃げ出したくなる。

 

「座長……私には無理ですよぉ」

 

「無理なもんか! お前なら出来る!」

 

「先輩達にお願いして……ほら、この間のあの人なんて」

 

「こんな機会なかなか無いぞ!主演だぞ主演!お前の夢だったじゃないか!」

 

「……座長」

 

「なんだ?」

 

「私、知ってますから」

 

「な、なにを?」

 

「断られたんですよね? 皆さんが恐れ多いって」

 

「うっ……!」

 

「私だって無理ですよ!怖くて街を歩けなくなったらどうするんですか!」

 

「こ、断られたのは事実だ。だけど、俺はお前なら出来ると分かってるんだ。普段気弱な奴だが……舞台に上がれば役が舞い降りる。お前には天性の才能があるんだ。それは前から言ってるだろう?」

 

「そう言って貰って嬉しいですけど……無理です」

 

「なんでだよ!? 俺が此処まで頼んでるんだぞ!」

 

「でーすーかーらー……」

 

 聖女カズキ様の役なんて、恐れ多くて無理なんですってば!!

 

 新人の舞台女優ジネットの魂魄の叫びが部屋に木霊した。

 

 

 

 

 

 

 座長のロヴィスは偶然に恵まれて、ある騎士から話を聞く事が出来た。

 

 その騎士は間近で聖女の癒しを目撃した。最初の一花が咲く瞬間すら見た彼は、如何にして聖女が癒しを齎したのか、その全てを見ていたのだ。

 

 魔獣に吹き飛ばされた腕、流れ行く血潮、アストへと伸ばされた手、そして……

 

 気付いた時には世界に慈愛が降り注ぎ、魔獣は姿を消した。

 

 誰もが歓声を上げている中で聖女は力無くアストに体を預け、そして見えない慟哭が王子から吐き出された。

 

 騎士は見たそうだ。

 

 聖女は自らの苦痛も血肉にすら目もくれず笑顔を浮かべていたと。

 

 それを聞いたロヴィスはまるで天啓を受けたが如く脚本を書き上げ、間違いなく最高傑作だと確信した。そして何としても舞台に昇華させ、神々と聖女へ奉ずるのだ。

 

 だが……最初から躓いてしまう。

 

 肝心の聖女を演ずる女優が尽く辞退していく。理由は皆同じ、恐れ多くて出来ないと。過去の王族や神々すら演じた俳優が声を揃えるのだから堪らない。

 

 確かに聖女カズキは今もリンスフィアに座す。過去や想像の産物などでは無い。それでもロヴィスはこの脚本を諦めたくなかった。聖女は誰もが知る献身と自己犠牲を体現する使徒だ。何も望まず、ひたすらに癒しを与えたと聞く。

 

 だが、本人が望まずとも……世界と人々を救った事に心から感謝の気持ちが溢れてくるのだ。その気持ちをロヴィスは脚本に書き上げるしか出来なかった。ただ、それだけだ。

 

 このままには出来ない。

 

 劇場に聖女が来る事は無いだろう。それでも……聖女がどれほどの大変な想いをしながらも、我等を救済したのか皆に知って貰いたい。

 

「ジネット……」

 

「なんですか?」

 

「お前は聖女カズキ様がどんな風に救済を果たしたか知っているか?」

 

「え? そんなの誰でも知ってますよ。あの有名な黒髪を捧げたんです。光に変わって人々は癒されたって。私は見て無いですけど、友達の子はあの場所に居たから教えて貰いました」

 

 やはり……騎士や森人が知る事実とは違うのだ。無論黒髪を捧げたのは間違いない。目撃者も多く、あそこには治癒師や多くの民がいたのだから。だからこそ、その後の決戦で聖女が全てを捧げた事を知らない者がいる。あの少女が腕も血も、そして魂魄さえも……自らを顧みず捧げた事を。

 

 本人は誇る事もなく、吹聴もしない。

 

 真実は一部の人しか知らないのだ。最近は自分も怪我や病気をしたから治して貰いたいと気楽に話す者すら居ると聞く。それを聞くたびにロヴィスは血が沸き立つのだ。それが如何に不遜で、許されざる事なのか知らないのかと。

 

「やはりか……」

 

「座長?」

 

「コレを見てくれ。言っておくが想像や脚色なんてしてない。ある騎士から何度も聞いて確認した事実だ。街の皆は何も分かっちゃないのさ。俺は聖女様が何をしたのか……いや、どれほどの慈愛をお持ちなのか、それを知って欲しい」

 

 ジネットは不安を隠せずに、しかしロヴィスから受け取った。

 

 それはロヴィス自筆の脚本だ。不思議な事に題名も作者名すら書かれていない。脚本と云うより何かの記録の様に見えた。ただ"聖女カズキ様の慈愛"とだけ記されている。

 

 そして……ジネットは涙する。

 

 何処か遠く他人事だった聖女は、儚くも尊い人だったと知ったのだ。決して不死でも無いし、自分達と一緒で痛みも哀しみも持つ少女だと理解することが出来た。

 

「分かりました……私では力不足ですが、これは伝道書なのですね。リンスフィアに住む、いえ世界の誰もが知る義務があります。カズキ様は偉大なる聖女。慈愛と献身の使徒、それを少しでも伝えなければ……」

 

「ああ……頼む」

 

「精一杯……やります」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

 稀代の大女優ジネット=エテペリの代表作は?

 

 そう聞かれたら誰もが簡単に答えるだろう……決まってる、聖女の座す街、だと。

 

 当初、ジネットが聖女を演ずる事に難色を示していたと知っているだろうか? 数多くの物語にすら描かれたジネット本人だが、その実態は思いの外知られていない。

 

 彼女は自伝を残さなかった。

 

 私はただ伝えたかっただけ、演じたのではなく伝導書を読んだのだ。聖女の万分の一でも慈愛を持てたなら幸せだから……

 

 聖女カズキを演じた際に残した有名なこの言葉の真意……これを誤解している人は多い。

 

 だが、別の真実を解き明かした時にそれは白日の元に現れた。

 

 ここに書き記した事柄は、全てが確証高い文献や資料、或いは子孫の方々からの証言を元にしている。中には聖女の姉を自認した王女アスティアの日記や当時専任侍女だったクイン女史の手記、はたまたリンディア王家の公文書すら閲覧させて頂いたのだ。

 

 ここに、助力してくれた全ての人へ礼を書き残したい。

 

 同時に……この世界に命がある事。即ち、聖女カズキへの感謝の心を忘れる事がないよう今を生きると誓おう。

 

 では……どうか最後まで読み進めて貰える事を祈って

 

 

 〜黎明の時代 聖女カズキの軌跡〜

 

 序章,全ての人へ より抜粋

 

 

 

 

 

 



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a sequel(15) 〜見習い侍女カーラ〜

 

 

 

 

 

 今日は色々な意味で大切な日となる。

 

 今のリンディア王国にとって初めて、国を分けての会談。

 

 遥か昔には当たり前だった国同士の繋がりが、此処から再び始まるのだ。それは交易であったり、人の交流であったり……長い時間を掛けて文化の融合も進むだろう。

 

 共に神々を信奉する国として手を携えてゆく。

 

「神々よ……どうか、そのお慈悲を我等に」

 

 カーディルにとって日常だった白祈の間は、救いを求めるだけの場所ではなくなった。

 

 最初の一手としては良くはない。カズキこそが復興の旗印であり、事実上の御加護そのもの。だが、肝心要の聖女は昨晩保護されて、心と体を傷つけてしまった。クインからの報告では、あの美しい黒髪は見る影も無く……言語不覚の刻印は負荷により爛れてしまったらしい。

 

 だが、誰がそれを責められようか。

 

 人には支え切れない刻印がカズキにもう一つあるのだ。3階位は神への架け橋と呼ばれ、人の領域を僅かに超えた先にある。その刻印こそが慈愛……誰もが持つ筈の心の形なのに刻印として刻まれた少女。

 

「それこそが聖女足らんとする全てなのかもしれん……」

 

 聖女が望み成すべき事なら我等は受け入れるのみ。

 

「癒しの力に頼るしかない……ラエティティがリンスフィアに居る間に戻ってくれればいいが」

 

「何としても平穏に会談を終えなければ……カズキ抜きでは心許ないが、時間を稼ぐしかあるまい」

 

 歓迎の宴で供するはずだった"白祈の酒"は未だに此処にある。カズキが一口含み、その胸に抱き抱えたらしいコレは、正しく神酒だろう。本来の役目を果たして貰うためにも、もう少し此処に居てくれ……カーディルは白祈の酒に手を添え、これからの時間を思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おかしいな……最近の自分は妙に子供じみている気がする。だから色々と思い返していたのだが……

 

 顔面蒼白。自分では見えないがカズキは自身が今その状態だと確信した。

 

 昨晩の失態……髪を脱色し家出、からの飲酒、更に不法侵入しての確保と、典型的な小悪党を演じてしまった。以前の自分なら余りの情け無さに、見つけ次第ブン殴っていただろう。

 

 だが、顔面蒼白の理由は其処だけでは無い。無論禁酒令が発布されるのは恐ろしい事だ。しかし、それも理由の一つでしか無いのだ。

 

 気付いてしまったのだ……単純で酷い事実に……

 

 柔らかいベッドの上で頭を抱えて泣きそうになっている。カズキの身体が全部乗るほどの枕に顔を埋めて、聞こえない程度の呻き声すら上げていた。

 

 その事に気づいたきっかけは分からない。しかし、現実なのだ。

 

 

 

 もしかして……私って、無職ではなかろうか?

 

 

 

 最近の自分を振り返ってみよう。

 

 朝は中々の早起きで、先ずは顔を洗ってベランダに出る。雨の日は例外だけど殆ど毎日だ。暫く景色を眺めているとクインが現れる。何時も笑顔で着替えを手伝い、髪も整えてくれて……時間がある時はアストやアスティア、カーディルと朝ご飯を食べる。

 

 その後はゴロゴロして偶にお勉強。だけど、化粧やドレスの種類、女性らしい仕草を習うのは恥ずかしくて脱走。

 

 汗を掻いたら温いお湯で体を拭く。今日も逃げ切ったと満足しているうちに昼食と午睡。

 

 午後はアストの部屋で仕事を邪魔して、カーディルの顔を見たり、ケーヒル達が訓練してるのを見学する。

 

 仕事らしいと言えば、街に慰問?に行ったくらい。

 

 何をしてたかも判らない内に夜が来て、お酒を催促。最近は巨大な台所に侵入して物色までした。捕まったけど。

 

 そして昨日の蛮行、だ。

 

「酷い……悪い」

 

 昨日の私は何を血迷ったのか……

 

 アスティアもクインも殆ど話を聞いてくれなかったけど……寧ろよくあれだけで済んだものだ。

 

 おかしいな……前は色々働いてたし、働く事はそこまで嫌いじゃなかったのに……

 

「私、バカ」

 

 反省しよう……いや、働こう。

 

 

 

 

 でも、今の私に何か出来るのか……だからカズキは頭を抱えている。

 

 そして大抵は碌な事にならないのが最近の聖女なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……カズキ……貴女、何してるの?」

 

 昨晩の事を慰めようとアスティアは聖女の間へ向かった。まだ掛ける言葉すら見つからないが、せめて手を添えるくらい出来るはずだ。寝坊しているエリは当然放っておいて早起きしたのだ。そして聖女の間の手前、長い階段をクインと上がっていた時……灰色の髪を揺らすカズキを見つけて、そして何とか言葉を絞り出した。

 

 クインは訳が分からないと階段に一段足を掛けたまま微動だに出来ない。

 

「仕事」

 

「仕事って……」

 

 もう随分前になるが、アストがカズキを街に連れて行った事がある。城に閉じこもりきりの聖女の気分転換になるよう、侍女に変装して出掛けたのだ。其処で初めてロザリーに会ったりしたのだが、カズキはその時の侍女服に再び身を包んでいた。

 

 その手には何処から入手したのか、箒と塵取り。

 

 小さな可愛いお尻をフリフリしながら、見事な箒捌きを披露している。

 

「避けて」

 

「あ、はい」

 

 クインの足元をサッサッと掃き取ると、次の段に移動。妙に手際が良くてクインも思わず素直に避けてしまった。

 

「な、何してるの?」

 

「仕事」

 

 それはさっきも聞いたけど、聞きたいのはそうでは無くてね……アスティアはモゴモゴと口籠る。

 

 アスティアもクインも気が遠くなるのを感じた。

 

 目の前の少女は世界を救済した聖女で、まだ公言はされて無いがリンディアの王子であるアストの想い人だ。つまり順当に行けば次期王妃で……いや、そうで無くても神々に愛された使徒で……5階位の刻印を持つ……ある意味神にも等しい……

 

 そんな聖女が殆ど人の通らない階段を箒で掃いている。しかも侍女服を装備済み。

 

 クインは明晰な頭脳を使って意味を探したが、やはり分からない。そもそも専属の侍女は自分で、仕えるべき相手はカズキなのだから……

 

 素早く階段を掃き終えたカズキはもう一度二人の前に来ると、言葉を紡ぐ。世界に唯一人、神々の使徒、聖女が紡いだ貴重な言葉は「雑巾」だ。

 

「窓、洗う、桶」

 

「カ、カズキ……ちょっと部屋で話をしましょう。ね?」

 

「仕事」

 

 それ、もう3回目だから……アスティアは内心叫ぶと、努めて冷静を装いカズキの手を取った。

 

「とにかく、少し話を聞いて……クイン、何か言いなさいよ」

 

 漸く正気を取り戻したクインが、最適解で優しく答えた。

 

「雑巾の事、教えますから」

 

「そう?」

 

 素直に言う事を聞くと聖女の間に三人は歩いていく。聖女の手には箒、階段には塵取りが残されて寂しそうにしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クイン、お茶を……カズキ、座りなさい」

 

 クインより先にお茶を入れようと立ち上がるカズキを静止した。

 

「し……」

 

「仕事でしょ? 今は話を聞いて欲しいの。お願い、ね?」

 

「お願い……分かった」

 

 漸く椅子に腰を落ち着けたカズキは、アスティアをジッと見つめている。

 

 愛する妹の考えている事が分からない……内心頭を抱えてアスティアはニコリと笑う。

 

「クインが来てくれるまで待ってね?」

 

 私一人では無理……更に内心呟く。

 

「はい」

 

 アスティアは昨晩からどうやってカズキを慰めて良いか悩んでいた。

 

 封印された聖女の刻印は癒しの力を齎せない。しかし変わらず慈愛の刻印は在り、昨日は泣いていたのだ。ごめんなさいと何度も謝って……パジは決してカズキを責めたりしないのに……聖女は諦めたりしない、刻印に抗ってでも癒しを施そうとした。

 

 カズキは十分過ぎる程に戦ったのだ。血肉を捧げ、更には魂魄すらも削った。ヤトが降臨しなければ今頃は……アスティアは今でもあの姿を夢見る事がある。腕を失い、いつ迄も眠ったままのカズキがベッドへと沈み込んで消えてしまうのだ。どんなに手を伸ばしても届かない、そして暗闇が襲う。

 

 最近見なくなっていた悪夢が昨晩再び現れた。それ程にカズキが痛々しくて、悲しかったから。

 

「どうぞ……ククの葉の抽出液を垂らしています。落ち着きますから」

 

 芳しい紅茶の香りに僅かに清涼感を感じる。疲れた時や心が乱れている時によく飲まれるものだ。

 

「ありがとう」

 

「入れる、方法、勉強」

 

 カズキはまだ諦めてない。

 

「クインも座って」

 

「はい」

 

 今回は流石にクインも固辞しなかった。

 

「さて……クイン、お願い」

 

 クインに丸投げのアスティアだったが、仕方ないのかもしれない。聖女の間に三人が居て、ほんの少しだけ沈黙が支配した。

 

「カズキ。雑巾は用意しますから、朝からお掃除をしていた理由を教えてくれますか?」

 

「仕事」

 

「……何故仕事を?」

 

 アスティアもクインも、それは何回も聞いたからね、そう言いたいのを我慢する。

 

 目線を逸らし、まるで本心を悟られたく無いと俯くカズキ。それを観察していたアスティアは、昨日のカズキの哀しい嘆きを思い出した。そしてその予感は当たったと、次のカズキが紡いだ言葉が教えてくれたのだ。

 

「私、出来ない、何も」

 

「駄目、役に立つ、ない」

 

「仕事、頑張る?」

 

 アスティア達は思わず涙が溢れてしまいそうで天を仰ぐ。治癒院に向かっていた時、アスティアは言ったのだ。癒しの力は失われた、だから諦めろと伝えなえければならないのか、と。

 

「何か役に立ちたいから……出来る事をしていたの?」

 

「そう」

 

「カズキ……」

 

 強く抱きしめて、大声を上げたくなる。

 

 貴女は充分過ぎる程に人々の為に頑張ってきたと、これ以上自分を責めないでと叫びたかった。

 

 だが、カズキはそんな言葉を探してなどいないとアスティアは叫ぶ心に蓋をする。

 

「アスティア様、ちょっと……」

 

「カズキ、少し待っててね?」

 

「雑巾?」

 

「そ、そうね」

 

 夏の為、暖炉に火は灯っていない。二人は暖炉の前に移動するとカズキの今後について話を始めた。

 

「私、泣いちゃいそう……カズキはどうしたら分かってくれるの? もう自分を癒す時だって……」

 

「力の有無が問題では無いのです。聖女の証は癒しの力では無く、慈愛の刻印なのかもしれませんね……」

 

「聖女の刻印ばかりに目が奪われるけど、慈愛は3階位だものね……」

 

「はい……アスティア様、カズキの要望通りにしましょう。侍女として働いて、いえ……見習いでよいです」

 

「カズキを働かせるの?」

 

「頭から否定はしない方が良いと思います。それに……何かをしていれば、哀しい気持ちから離れる事も出来るでしょう。つまり、気分転換になれば、と」

 

「そうね……そんな考え方もあるわね」

 

「勿論本格的に仕事をしなくていいですし、カズキの気が晴れるなら……私が見ておきます。あとは……」

 

「なに?」

 

「昨晩の陛下のお言葉を思い出して下さい。カズキの優しさを利用する様で心苦しいですが、丁度良いと思います」

 

「お父様の……カズキをどうするか、ね?」

 

「はい」

 

 クインの投げ掛けは昨晩の記憶をアスティアに思い出させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やはり、伏せるしかあるまい」

 

 それが、カズキの様子を聞いたカーディルの言葉だ。

 

「でも、お父様……ラエティティ様に嘘をつき続けるの?」

 

 一足先にラエティティと会話したアスティアは、その人柄を知ったが為に心が痛んだ。

 

「難しい問題だ……今のカズキを聖女としてお披露目するのは、些かの悪い可能性がある」

 

「アスティア、カズキには負担を掛けたくないんだ。体力も落ちているだろうし、何より今は癒しを自らに向けて貰いたい。それに……そもそも聖女が居なければ成り立たない会談などにする訳にいかないよ」

 

「兄様……」

 

「アスティアから聞いたラエティティならば大丈夫かもしれん。しかし……カズキとの出会いが拙い。たった一人街に出て、髪も肌も見る影は無い……私なら勘繰るだろう」

 

 聖女を無理矢理にリンディアに従わせている……それは暴力であったり、人質を取ったり。そう疑うかもしれない。理由はあっただろうが、ケーヒル達騎士から逃げる素振りすらラエティティは見たのだ。

 

 更にカーディルは続ける。

 

「親書やアスティアから聞いた話を総合すると、ラエティティは神々への信奉が非常に強い女王だろう。使徒である聖女が不遇な扱いを受けていると少しでも疑えば、会談など吹き飛んでしまう。そして、その疑いを晴らす事が今は出来ない」

 

「そんな……カズキに聞けば分かる事です」

 

「ああ……言語不覚が無ければ、だな。一度疑われたらカズキの言葉すら無理に言わせていると思うだろう。彼らは真相を追う事もしない。此処はファウストナではなくリンディアだからな。最悪は偽物と思われる可能性すら有る」

 

「アスティア、いつ迄も隠す気はないよ。カズキが元通りになれば、堂々と紹介すればいい。それまでは出来るだけ聖女の間に居てもらおう。いいかい?」

 

「……分かりました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「つまり、カズキに侍女見習いのカーラとして働いて貰う……そういう事ね?」

 

「はい。そうすればカズキは今迄通りに城内を自由に歩けるでしょう。聖女の間に閉じこもる必要がありません。ラエティティ女王陛下に出会っている以上、姿を隠すのは逆効果の可能性もあります」

 

「でも、どうやってカズキに説明するの?」

 

「お任せ下さい。私が説明します」

 

「分かったわ。それでいきましょう」

 

「では」

 

 見ればカズキは大人しく待ってくれていた。いや、ティーポットを触っているのは、本当に勉強しているのかもしれない。どこか微笑ましいカズキにアスティアは漸く笑う事が出来た。

 

「カズキ、お待たせしました」

 

「雑巾、ある?」

 

「ええ、勿論ありますよ。その為にも少し話を聞いて下さい。いいですか?」

 

「はい」

 

 城内の仕事に着くならばクインは上司に当たる……多分カズキはそう考えたのか、背筋を伸ばして聞く態勢になった。

 

「カズキ。貴女自身の気持ちと関係なく、皆カズキが聖女だと知っています。それは分かりますか?」

 

「聖女……はい」

 

「カズキがいきなり侍女の格好で働き始めたら、吃驚しますよね? 先程の私達の様に」

 

「う? ごめん、なさい、分からない」

 

「聖女が侍女、みんな、吃驚します。私達も」

 

「驚く?」

 

 うんうんとアスティアも頷き、カズキの正解を教えてあげる。

 

「だから、変装しましょう。変身です」

 

「うん」

 

「お城で働くなら、侍女のカーラ……カーラに変身。どうですか?」

 

「カーラ……名前?」

 

「そうです」

 

「変身……雑巾、ある?」

 

「侍女に変身なら、教えますよ? 私が先生です」

 

「働く、良し?」

 

「はい」

 

 契約成立だ……先ずは仮契約だとしても頑張れば本採用になる。そうすれば無職とはサヨナラだ!

 

 クインもアスティアも、カズキがそんな事を考えているとは思いもしない。見習いどころか本気で求職してるなど、想像の埒外だった。

 

 仮に……聖女の救済を金額的価値に置き換えたなら、リンディアどころかファウストナを買ってもお釣りが来るだろう。まだあるかもしれない他国すら例外ではない。それがカズキ以外の人々の常識であり、事実だ。

 

 その奇跡を齎らした本人を除いて。

 

 こうして……カズキ改め、見習い侍女カーラが誕生したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




無事に就職が決まった。


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a sequel(16) 〜二度目の邂逅〜

 

 

 

 ゴトン……

 

 会談に向けた各書類が飛ばない様、重しを置こうとしていた時だった。余りの驚きにアストは重しを机の上に落としてしまう。それは中々の音だったが、固まったアストは動いていない。

 

「殿下? アスト、お茶、どぞ」

 

 何とか意味を汲み取る事は出来た。

 

 まあティーワゴンを押して入ってくれば当たり前ではある。当然だが、驚いたのはそれでは無い。

 

「カズキ……何をしてるんだ……?」

 

「私、カーラ?です。アスト」

 

 カチャカチャと中々の手際で用意しながら答えるカズキ。するとその手が止まり、顔を上げてアストを見る。

 

「殿下」

 

 殿下を付けるのを忘れたらしい。

 

「……成る程。そういう事か」

 

「御理解が早くて助かります」

 

「クイン……」

 

 カズキの後ろに控えていたクインは、淡々と言葉を並べる。

 

 再びお茶の用意に戻ったカズキを見ながら、アストは苦笑するしかない。

 

 白いブラウスに深い青色の侍女服を重ねたカズキは、変色してしまった髪を一纏めにしている。エリと比べると低い位置だがお団子に纏めていて、カズキを何時もより幼く見せている。首の包帯が目立つが如何にも見習いですと分かる格好だ。

 

「カーラ、か。"パウシバルの指輪"の聖女の名前だったかな」

 

「はい。アスティア様が名付けられました」

 

「しかし……侍女を?」

 

 一見華やかな役目だし、事実羨望の目を向けられる仕事だ。しかし、当然ながら楽なものではなく覚える事も多い。昔の様に雑務を下女に投げる事も出来ないので、実際は目の回る様な忙しさだ。

 

 クインに仕込まれたのか、見事な香りを放つお茶がアストの前に置かれた。

 

「見習いです、殿下。それに今は……」

 

「ああ……そうだな……」

 

 再び心も身体も傷ついたカズキが何か気を紛らわす事が出来たらと、そんな苦肉の策なのだろう。本格的に侍女をして貰う訳ではないし、クインも付いている……アストは無理矢理納得した。しかし同時に、カズキが手ずから入れてくれたお茶を飲めて幸せだとも思う。

 

「美味しい……カズキ、初めてなのに上手だな」

 

 赤ら顔……には残念ながらなっていないが、褒められて嬉しいのか僅かに笑みが浮かんでいる。

 

「うん。あと、名前、カーラ」

 

「そうだった。カーラ、美味しいよ」

 

「アスト、今日は?大変?」

 

「ん?」

 

「……殿下」

 

 また忘れたらしい。ついでに言えば、王子に対し今日はお仕事大変なのかと聞く侍女など居ないが。

 

「そうだな……来客があるから、少しだけ大変かもしれない」

 

 実際には大変どころでは無い。和平の要、友誼を繋ぐ鎖である聖女が不在なのだ。利用などしたい訳では無いが、その存在は非常に大きい。ただ其処に居てくれるだけで、その場は祝福されるのだから。

 

「ラエ、ティティ?」

 

 カズキが友達を呼ぶ様にファウストナの女王の名を語り、アストは思わずギョッとしてしまう。アストが何気無くクインを見れば溜息をついたのが分かった。

 

「そうだ。カズ、いやカーラ。ラエティティ女王陛下だよ。君が侍女をするなら気を付けないと」

 

 本当はラエティティだろうが、カーディルだろうが、好きに呼んでも良い。神々の寵愛を全身で受ける聖女には、現世の地位など意味を為さないだろう。しかし、リンディアの侍女ならば話は違ってくるのだ。

 

「分かった」

 

 しっかりと頷くカズキを見て、アストは再びクインに合図を送った。ラエティティの前には姿を見せない様に……そう言う意味だ。当然クインも分かっていますと合図を返した。

 

 まあ、直ぐに飽きて部屋にでも戻るだろう。その内に酒でも飲みたくなって、エリあたりに会いに行くかもしれない……そう内心苦笑したアストは、少しだけ冷えたお茶を口に含んだ。

 

 

 残念ながらアストの考えは大きく間違っていた。カズキが無職である自分を憂い、必死で就職活動中だとは思いもしないのだ。今は試用期間で、必要以上に頑張らないと!などと決意しているなど想像もしていなかった。アストやクインには可愛らしい聖女にしか見えてないし、実際は掃除洗濯もお手の物などと知らないのだから。

 

 最近の聖女……彼女がやる事なす事は小さな波乱を巻き起こすという事実に、二人の自覚は足りてなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「聖女様がお留守?」

 

「ああ、どうやらそうらしい。この後リンディア王から説明があるだろうが、間違いない」

 

 カズキがアストの名前に殿下を付け忘れていた頃、ラエティティはヴァツラフと会談前の打ち合わせをしていた。

 

 通常なら内外務を司る大臣がいる筈だが、残念ながらファウストナにそんな余裕は無い。国と言ってもリンディアの街一つと変わらない、いやそれ以下の状況だ。結局はラエティティが全てを決断するしか無く、幸か不幸か女王にはその能力があった。

 

 二人が居るのは所謂貴賓室だ。

 

 ヴァツラフは本来別の部屋だが、今は女官を除けば二人だけだった。扉の前には正装に召し替えたファウストナ戦士団が居て、離れた場所からはリンディア騎士達が警護に当たっている。

 

 扉や壁は厚いが何処で聞かれるか分からない以上、余り不用意な会話は控えていた。しかし、ラエティティにとって聖女への拝謁は主目的と言っていいのだ。カーディルとの会談と合わせ絶対に外せない要件だ。

 

「……おかしいわね。事前にリンディア王国へ通達は出していた筈。日程だって1日もずれていないのよ?」

 

「ケーヒル副団長が言うには……それが事実ならだが、聖女の行動には制限などしていないそうだ。神々の使徒、しかも聖女となれば人が口は出さない……まあ、理解は出来る」

 

「ヴァッツ……聖女様、よ。言葉に気を付けなさい。此処は他国でカズキ様が住む城なのよ? 私ですら不遜に感じるのに、いきなり斬りつけられても文句は言えないわ」

 

「ああ……悪い。副団長の言動を見聞きすると、つい身近に感じてしまって……確かにその通りだ」

 

 ヴァツラフにも悪気がある訳では無い。ファウストナと多くの民を救ってくれた聖女を敬っている。だが、何処か実態の掴めない不思議なお人なのだ。

 

「先ずは話を聞かないと進まないわね。両国の会談に聖女様がいて頂く必要は確かに無いけど……正直、残念だわ」

 

「間に合う様に帰って来るらしいが、確実とは言えないな」

 

 元々ヴァツラフは言葉遣いが良い方では無いが、ラエティティは教育を疎かにしてきたツケが回ってきたと溜息をつく。帰って来る……聖女様は友達か知り合いかと問い詰めたくなる。

 

「貴方は黙ってなさいよ? お願いだから」

 

「……分かってる。アスティア王女にも勝てる気はしないからな」

 

 勝ち負けじゃないからね……内心ラエティティは決意した。教育をやり直しだ、と。

 

「今日はお互い様子見になるでしょう。ヴァッツは時間が許す限りリンスフィアを散策して、気付いた事を教えなさい。些細な情報も今は必要なんだから。但し……失礼はない様に、羽目を外し過ぎないで」

 

「俺は餓鬼じゃない。それくらい分かってる」

 

 

「そろそろ時間でしょう。行きますよ」

 

「はっ、ラエティティ女王陛下」

 

 無理矢理に切り替えた二人は、丁度鳴った扉を叩く音に立ち上がった。

 

 いよいよ、リンディアとファウストナ両国の会談が始まるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 臆してはならないと、ラエティティは気付かれないよう気合を入れていた。

 

 

 正直に言えば、この会談に勝利など無いだろう。そもそも両国の間には埋める事が出来ない国力の差があり、対等な関係など有り得ないのだ。カーディルが一言開戦と言えば、その瞬間にファウストナの滅亡は決まってしまう。

 

 此処で騙し討ちなどは先ず考えられないが、実際のところは何も分からない。

 

 ラエティティの肩には、ファウストナの民の命がのし掛かっているのだ。勝利は無理でも、何らかの答えを持ち帰らなければ……

 

 そんな健気な決意をしていたラエティティだったが、案内された広間に入った時には全てを忘れてしまった。目の前には何度も何度も文献や物語に描写され、夢にさえ見たあの場所があったからだ。

 

「白祈の……間」

 

 勿論白祈の間そのものに入った訳ではない。あれはリンディア王家しか入れない特別な場所なのだ。自分達が立つのは手前の広い空間。元々は広間ですら無く、通路とは間違っても言えない程の広さを持つ白祈までの路だ。

 

 其処に態々運んで来たであろう巨大なテーブルと、ピッタリ人数分の腰掛けがある。少し離れた場所にある机は書記用だろう。そして、リンディア王カーディルその人が居て、隣に立つのアスト王子で間違いない。一度会ったアスティア王女の姿は無いようだ。警護の騎士や戦士達が随分遠くに感じられる。

 

「女王ラエティティよ、よくご存知だ。ひと目見て白祈の間と判るとは……随分と博識だな」

 

 もう後悔しても遅い。呆然と呟いた言葉は聞き止められ、思わず放心仕掛けた心すら見透かされただろう。何より、カーディルの堂々たる立ち姿よ。アレこそが世界に冠たるリンディアの王なのだと、ラエティティは理解させられた。

 

「本来の会談を行う場所は他にある。しかし、我等が此処に生きて居るのは聖女カズキの救済のお陰。そして、神々の祝福があったからこそ。なれば神々の御前に感謝しつつ話がしたいと思ってな。白祈の間をご存知なら、決して礼を欠いてないと理解頂けるだろう。寧ろ説明する手間か省けたというものだ」

 

「神々が祝福して頂けると信じています……お待たせしましたか?」

 

 聖女カズキ様が此処にいれば、それはもっと素晴らしいことだっただろう……ラエティティは思ってしまう。白祈の間から尊い空気が流れて来るかのようだ。

 

「ん?何を言う? 此方こそ長らく待たせてしまった。遠くファウストナよりよく来てくれた。改めて名乗ろう。私はカーディル、カーディル=リンディアだ」

 

 待たせた……実質的救援となったケーヒル達の事……最早立場は決しているとでも言うのか……呑まれてしまった自分を叱咤し、カーディルの青い目を見返した。

 

「手厚い歓迎に感謝します。私がファウストナ海王国の女王、ラエティティです。コレはヴァツラフ……」

 

「ヴァツラフ=ファウストナ。第二王子として臨席させて頂きます。陛下の御前に立つ光栄に感激しております」

 

「うむ、其方がヴァツラフ王子か。ケーヒルから一流の戦士と聞いていたが、目の前にすれば一流どころか稀代の戦士と分かるな。そう思うだろう。アスト」

 

「はっ!陛下の言われる通りです。近くに立つと圧倒されますね。ラエティティ女王陛下、ヴァツラフ王子。私はカーディル陛下の子、アストです。この会談が実り多き事、お祈りしております」

 

 この男が……僅かに漏れ伝わる噂では、聖女カズキ様に想いを寄せるリンディアの王子。次期リンディア王にして、もしかしたらカズキ様を王妃に迎えると……ラエティティは男にしては美しさを感じるアストに、何処か納得すらしてしまう。

 

「では、二人とも座ってくれたまえ。お互いに胸襟を開こうではないか」

 

 カーディルの声は広い空間に響き、会談の開始を皆に伝えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予想通り、一回目の会談は挨拶程度だったと言っていいだろう。互いの状況は少し話したが、殆どは聖女カズキの救済についてだった。ケーヒルから聞いていたが、直接目の前に見たアスト王子の証言が事実であれば何処までも尊い行いだと思う。母ラエティティではないが、直接会えないのは本当に残念だ。

 

「北の街マリギ復興に助力か……カーディル王は間に合うと言っていたが……」

 

 ヴァツラフにはラエティティより指示が出ていた。リンスフィアに下り、王都の状況を知る事。そして救済の詳細を調べ、リンディアが話す内容の裏付けを追う。無論リンディアのお膝元で何処まで真実に迫れるかと疑問には思う。しかし情報の統制など完全には不可能だし、街の規模が違い過ぎる。

 

 もし嘘が紛れるなら必ず綻びがあるーーー

 

 母が何を心配しているのか、本当のところは分からない。息子である自分から見ても彼女は頭の切れる女性だ。だから忠実に指示を全うするしかない。

 

 城内と有名らしい庭園を案内され、子供の様に興奮を隠せない母に僅かな不安が過ったのは無視する。まあ確かにあの庭園と泉、中央の小島と大木には思う事もあったが……ヴァツラフは分からない様に苦笑した。

 

「ん?」

 

 廊下を歩いていたヴァツラフは視界の隅に動く物を捉えた。数歩離れて付き従う騎士と先導する女官は気付いていない様だ。

 

 ファウストナではまずお目にかかれない巨大なガラス製の窓、その外側だろう。窓と言っても長く続くベランダに出られる様で、ガラス扉と言っていいかもしれない。

 

 最初に気付いたガラス扉には誰もいないが、約五歩分程度離れた次の扉に人影が見えて、拭き掃除か何かと納得する。

 

「あの娘は……」

 

 直ぐに分かった。

 

 手が届かないのか木箱を移動し、目一杯背伸びをして拭いている。段々と下に降りて来ると、膝を折り曲げて隙間無く磨いていった。拭き掃除は丁寧な仕事だが、自らに無頓着なのかスカートの中まで見えてしまっている。

 

「確か……カーラ、だったか」

 

 今更女の下着を見たからと慌てたりしないが、大丈夫なのかと心配になった。この城で出会う侍女達は自国の女官よりも遥かに洗練された者ばかりだった。中には唸りたくなる様な所作を当たり前に行うのを見て、大国の偉容はこんなところにも表れるのだと納得したりしていたのだ。

 

 だが彼女だけは全く違う。下品とは言わないが、女性らしい嫋やかさを殆ど感じない。はっきり言えば異質と言っていい。確か言葉も不自由で、幼さも感じるが……

 

 そしてヴァツラフは思いつき、足を止め振り返った。

 

「ヴァツラフ殿下。如何なさいました?」

 

 付き従っていたリンディアの騎士が、同時に足を止めて問い掛ける。

 

「先程の話……街の案内役だが」

 

「はい。ケーヒル副団長がお供したいとの事ですが、生憎席を外しております」

 

「他の者でも良いか? 諸君らも同行して貰いたいが」

 

 監視役はつくのだろう?

 

「それは勿論です。陛下からは殿下の散策を妨げてはならないと聞いておりますので。街に詳しい者を付けましょう」

 

「いや、思い当たる者がいる。誰でも良いなら指定したい。構わないな?」

 

 隠し立てが無いなら否定出来ないだろうと、少し語彙を強める。

 

「はっ! では呼んで来ましょう。誰ですか?」

 

「いや、呼んで来てもらう迄もない。あの侍女にお願いする。断っておくが下世話な意味ではない。ラエティティ女王陛下とも面識があって、私も会った事がある。アスティア王女が保護しているのも知っているからな」

 

 指差す先には一生懸命窓拭きを続けていた灰色の髪を揺らす侍女見習い……聖女カズキが変装したカーラがいる。

 

 騎士が身体を震わせて動揺したのを見て、この考えに間違いないと確信する。

 

 やはり彼女はある意味で不可侵な存在なのだ。アスティア王女自らが探しに来る程で、気に入っているのだろう。それを知る皆からはもしかしたら在る隠し立てや、情報の統制が及ばないのではないか?

 

 それにあの"引っ張られる"感覚が何なのか興味がある。

 

「で、殿下……あの者は、多少言葉が」

 

「不自由なのだろう? 知っているから構わないし、話は此方でするから気にしないでくれ。私はただ、この偉大なる王都を学ばせて貰いたいだけだ。これはラエティティ女王陛下の願いでもある」

 

 母の名を出せば、騎士には反論は出来なくなった。

 

「……少々お待ち下さい。聞いて参ります」

 

 もう一人の騎士を残し、そう返した彼は足早に立ち去って行く。

 

 面白くなってきた……ヴァツラフは周囲に分からないよう笑いを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(17) 〜街へ〜

 

 

 

 

 

 面白い……澱の様に溜まっていた精神の疲労が消えて行くのを、ヴァツラフは感じていた。

 

 以前に見て知っていたつもりだったが、その美貌は群を抜いている。髪も整えたのか後頭部で丸く纏め、首回りの包帯が目に入った。青色の侍女服は新品同様だから見習いなのは本当なのだろう。

 

 だが、ヴァツラフの心を捕えたのは其れ等だけでは無い。

 

「ヴァッツ……こっち」

 

 母ラエティティ以外では、兄くらいしか呼ばない愛称を簡単に口にしてカーラは手を引いてくれる。

 

 誰もが自分から一歩引いて構えている……それは恐怖なのだろう。

 

 力の刻印への尊敬は当然ある。

 

 万が一にもその力が自分に向けば、魔獣に相対する様に肉体を破壊されてしまう……そんな可能性が頭をよぎるのだ。

 

 それを感じさせないのは母と兄だけだった。

 

 手を引き歩くカーラも力の刻印を見たら逃げ出すのだろうか? そんな今迄考えた事もない様な感情が渦巻き、同時に知られたく無いとも思う。

 

「ふん……下らないな……」

 

 そう呟きながらも、自身に笑みが浮かんでいるのをヴァツラフは自覚していた。距離を置き付き従う騎士には分からない様に、その笑みはすぐに消える。

 

 そして、リンディア城から離れていったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何故あちらまで……」

 

 騎士の言葉に頭を抱えたくなったクインだが、今は結論を出さなくてはならない。

 

 確かに窓拭きをやりたい様子だったが、膨大な数量に逃げ出しても驚きはしなかっただろう。クインが予想していたよりずっと掃除が上手で、しかも早い。横の窓を見ても手抜きはしていないのは明らかだ。それでもファウストナ一行がいる場所へは行かない様に言い含めていたが、伝わっていなかったのだ。言語不覚は思わぬところで意思伝達を妨げるもの、それは分かってはいたのに……

 

 流石に止めなければならない。

 

 余りに長い時間を共に過ごせば、折角の時間稼ぎの意味が無くなってしまう。カズキからカーラへの変装が表沙汰になれば余計な誤解を重ねるだけだ。首の包帯が取れたり、カズキ自身が間違う事だってあるだろう。それにあの翡翠色した美しい瞳は隠せないのだから。

 

「私が参ります。ヴァツラフ殿下はどちらへ?」

 

 場所を聞くと、合わせてアストへ報せる様お願いする。

 

 そしてクインは、足早にヴァツラフとカズキの元へ向かった。

 

 

 

 曲がり角まで来た時、クインの耳に余り聞いた事のないカズキの笑い声が聞こえて来た。思わず足を止めてしまったのは、あんな風に楽しげな笑い声を上げる事すら知らなかったから。笑顔を見せてくれる様になったカズキだが微笑と表現出来る笑顔ばかりだった。今更に、声を上げて笑う姿を見た事が無いと気付いたのだ。

 

 何故か動揺してしまったクインの背後にアストも近づいていたが、やはり足を止めてしまっていた。

 

「まあ、そんなところだ。俺はまず酔い潰れたりしないから、馬鹿な連中の間抜けな姿を何度も見ているからな」

 

「ヴァッツ、酒、強い?」

 

「ああ、負けた事はないな。一度でいいから記憶を無くしてみたいくらいだ」

 

「凄い! 私、悔しい!」

 

 多分悔しいではなく羨ましい……だろうが、驚いたのはヴァツラフの愛称らしい名前を既に呼んでいる事だ。ほんの僅かな時間なのに……ふと背後を振り返れば、アストが複雑な心境を表しているのが見えた。

 

「カーラも酒が好きなのか?」

 

「大好き。毎日、飲む、欲しい」

 

「俺も大好きだが、情け無い事に母も兄も酒に弱くてな。飲み倒したくても難しいんだ」

 

「飲む、行こ?」

 

「ん?」

 

「一緒、二人」

 

 クインは顔が青くなり、我慢出来なくなって飛び出した。

 

「カ、カーラ!駄目ですよ!」

 

 女性からお酒を誘うなど、カズキは意味が解っていないのだ! カズキの生きた異世界では常識が違うのかもしれないが……

 

「お前は……確かクイン、だったか?」

 

「し、失礼しました。聖女カズキ様の専任侍女、クインです。それとカーラの教育係を務めております」

 

「ああ。クイン、心配するな。別に()()()()で捉えたりしない。カーラは分かっていないのだろう?」

 

「……殿下のお心遣いに感謝致します。カーラには後でしっかりと教えておきますので」

 

 ヴァツラフが理知的に対応してくれて、クインは助かっていた。

 

 女性から酒に誘い、男性が受ければ……つまりは夜を共にすると言う事だ。カズキは酒が飲みたい一心だろうが、クインは心臓が止まりそうだった。

 

 カズキを見ればキョトンとしていて頭が痛くなる。先程自らの貞操をヴァツラフに捧げるところだったと理解出来ていないのだ。恥じらいどころか女性としての常識すら知らないカズキに、クインは大きな不安を覚えていた。

 

「ヴァツラフ王子……見習いとは言え失礼した。案内の事は聞きました。誰かを付けますので」

 

 同じく焦りを隠せていないアストが現れ、その雰囲気にヴァツラフは違和感を感じた。両国の会談時すら飄々と対応していたリンディアの王子とは思えない姿だ。間違いなく何かが心を乱している。そしてそれはファウストナにとって悪い要素ではない。

 

「アスト王子、気にしないで欲しい。それと……先程カーディル陛下が胸襟を開くと言ったが、せめて我等だけでもどうだろうか? 俺は元々畏まった態度が苦手でね」

 

 態とらしく肩を竦め、後半は砕けた言葉に変えた。ヴァツラフとしては、年の近い王子として友に近づいていければと腹心もあったが。

 

「……そうだな、公式の場以外はそうしよう。ヴァツラフと呼んでも?」

 

「ああ、アスト。改めて宜しく頼む」

 

 これで何度目かの握手をして、アストの碧眼はヴァツラフの琥珀色した瞳を見た。

 

「話を戻そう。リンスフィアを好きなだけ見てほしいが、このカーラはそもそも街を良く知らないんだ。普段は城にいるし、案内には不向きだと思う。詳しい者を付けるから……」

 

「気にしないでくれ。寧ろその方が楽しいかもしれない。俺は在るが儘のリンスフィアを見てみたい。それに見習いと聞いた。この広いリンディア城の運営に大きな影響を与えたくない」

 

 隠し事なぞ無いのだろう? そうヴァツラフは言っている。そして、見習いなら居なくても負担にはならない筈だ。

 

「……しかし、カーラは少し言葉が……」

 

 言いたくは無いが、アストに焦りがあったのだろう。すぐ側にカズキが居る事を失念していた。

 

「私、大丈夫、嫌、言葉」

 

 間違いなく苛立ったカズキに、アストは言葉が詰まる。大丈夫だし、嫌な事を言わないで。そう言っているのだろう。

 

「ち、違うんだ……カ……」

 

「ヴァッツ、行こ?」

 

「カーラ、勝手には行けない……お、おい……!」

 

「失礼、します。殿下?」

 

 カズキは適当に挨拶を済ませると、ヴァツラフをグイグイと引っ張る。知らないとは言え、力の刻印を刻まれた自分に遠慮が無いカーラにヴァツラフは言葉を失う。温かい小さな手を感じて、少しだけ喜びを覚えたのも事実だ。

 

 ヴァツラフが慌てて振り向いてもアストは動いていなかった。いや、動けないのか。

 

 何処か異様な空気を感じ、ヴァツラフは抵抗せずにその場を去るしかなかった。離れて見守っていたノルデが首を縦に振り二人について行ったのがアスト達には、せめてもの救いだろうか。

 

「殿下……」

 

 そのクインからの問い掛けにも答える事が出来ず、カーディルの言葉を思い出していた。

 

 まだ色恋には疎そうだが、そのうちに理解する。だがその時、隣がお前である保証などないのだ……カーディルはそう言ったのではなかったか。

 

 自分は自惚れていたのではないか? カズキは自分を見てくれていて、これからも隣に佇むと。

 

 二人は愛を誓った仲ではないし、あの口吻だって深い意味があったのか確認した訳ではない……

 

「カズキ……」

 

 こんな気持ちになるならば、もっと強引に強く抱き締めれば良かった。何度でも愛を囁き、肌を合わせ、決して離したりしないと伝えるべきだったのだ。

 

 その子はたった一人しかいない聖女だと、連れて行かないでくれと、叫ぶ事すら出来ずにアストは立ち竦むばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのパン、美味し」

 

「森人、強い」

 

「みんな、優しい」

 

 聖女カズキ改め、見習い侍女カーラは言葉少なくもヴァツラフを案内していた。とは言えリンスフィアの何処に何があるかなど殆ど知らないのだ。後半は街の案内ですらない。

 

 数歩離れてノルデ達数人の騎士がついて来ているが、二人の会話に混ざる事はない。当たり前だが、ノルデから見れば敬愛する聖女と他国の王子だ。恐れ多くて呼ばれなければ距離を縮める事すら考えていなかった。

 

「カーラ、最後の戦いの場所は分かるか?」

 

「戦い?」

 

「魔獣が沢山来ただろう? その時、聖女カズキ様が歩んだ道と城壁を見てみたいんだ」

 

「聖女……様……」

 

「ああ、カーラは会った事あるのか?」

 

 気楽に聞いたつもりだったが、ヴァツラフからすれば予想外の反応があり驚いてしまう。

 

「別に……弱い、人。助けた、自分。違う……」

 

 会った事があるのは直ぐに分かったが、他の者とは明らかに違うのだ。正直言葉の意味は理解出来なかったが、否定的な響きにヴァツラフは目を細めた。

 

「何か知ってるのか?」

 

 母が知りたい情報は此処にあるかもしれない……やはり何かがおかしい。声を潜め騎士達に聞こえない様にする。

 

 だが、顔を上げジッと視線を合わしたカーラにヴァツラフは何故か怯んでしまう。美貌は知っていたが、その瞳が余りに美しい事に今更気付いたのだ。そして、その奥に在る何かが自分を見ている事も。

 

「何故、知りたい?」

 

「何故って……」

 

 それは誰もが知りたいだろう。世界を救済した聖女がどんな女性で、どれ程の慈愛を持つのか。子供から大人まで、会えるなら会いたいと熱望している筈だ。今迄聞いた者の全てが、例外無く称賛を惜しまない。中には恍惚と宙を見詰めながら、まるで神々を見たかの様に言葉を詰まらせる者までいた。

 

 だが、目の前の侍女見習いだけは違う。

 

「聖女、違う、ない。探し、こと、無し」

 

「我等と変わらない。探すまでもない?」

 

「そう」

 

「カーラ、一体なにを……」

 

 圧倒されている?俺がカーラに?

 

 ヴァツラフは横を歩く小さなカーラが、別の何かに感じ始めていた。ついさっきまで可愛らしい侍女見習いの少女だと思っていたのに……

 

「この場所」

 

 いきなり立ち止まり言葉を紡ぐ。次の台詞を探していたヴァツラフは止まれずに慌てた。

 

「なんだ?」

 

「髪、切った。沢山、怪我、人が多い」

 

 丁度広場に差し掛かり、カーラが呟く。

 

「髪?」

 

 いきなり過ぎて訳がわからない……戸惑ってしまうヴァツラフだが、直ぐに理解した。カーラが先程の自分の要望通りに案内してくれていると。

 

 まるで自分が髪を切ったかの様に、その仕草まで再現してくれたのだから当たり前かもしれない。

 

「此処であの黒髪を切って捧げたのか……?」

 

 幾つかの証言を聞いていたヴァツラフには、黒髪なびく聖女と周囲に大勢の負傷者が幻視された。魔獣にやられたり、重度の火傷を負った者達で溢れていたのだろう。城から歩み来た聖女が無言のまま髪を捧げ、命を繋いでいた騎士や森人を癒したのだ。

 

 自身も癒しを浴びた者として、その想像は容易だった。

 

 感慨深く周囲を見渡したヴァツラフだったが、教えてくれたカーラは特に何も感じていないのか、そのままスタスタと歩み出した。まるでどうでもいいとばかりの態度にヴァツラフの違和感は益々募っていく。

 

「あっち、城壁……?」

 

 最後の決戦、その場所だろう。

 

 見れば確かに組み上げたばかりの城壁が遠くに見えた。魔獣の突進により崩落した城壁で間違いない。

 

 ならば今自分が歩くこの石畳こそ聖女が歩んだ道なのだ。母ほどに敬虔な信徒では決してないが、それでも背筋が伸びる。街の喧騒が今になって耳に届き、平穏が取り戻された事を実感した。見渡せば住民達が興味深そうに此方を見ていて笑ってしまった。

 

 暫く歩くと、見上げる高さを持つ城壁の元へ到着した。山の様なこの壁が崩れて来たら、確かに絶望しかないだろう。

 

「このあたり、アスト、いた」

 

 地面を指差し、カーラは何かを思い出したのか微笑を浮かべる。それが綺麗で侍女見習いが王子を呼び捨てした事に気付かなかった。

 

「此処で腕と魂魄を捧げて……あの白い光はファウストナまで届いたのか……」

 

 10日以上かけて旅して来たあの距離すら聖女には関係が無かったのだろう。改めて、聖女の偉大な癒しを感じるヴァツラフだった。

 

「しかし、カーラはよく知ってるな。案内役に指名して正解だった。聖女カズキ様はマリギだったか? 一度でもいいから、お会いしてみたいものだ」

 

「会いたい、の?」

 

 その顔は何故?と言っていた。

 

「俺も祖国も救われたからな。会ってお礼くらい伝えたいものだろ?」

 

「ふーん……」

 

「なんだ?」

 

「お礼、要らない。ただ、弱い。それだけ。もっと沢山、助けて、出来た。だから」

 

 さっきと一緒だ。

 

 聖女を敬うどころか、寧ろ……

 

 多くの疑問が頭に浮かび、それをぶつけたい。そう思っているのに、ヴァツラフの唇は言葉を吐き出したりしなかった。カーラの横顔が余りに哀しげだったから……

 

「行こう?」

 

 再びヴァツラフの手を取り、カーラは次の場所へと促す。

 

 やはり興味もないのか、いずれ記念碑の一つも建つだろう救済の場所を振り向きもしない。

 

 だがヴァツラフは救済の真実を知りたい欲求と同じくらい、カーラに惹きつけられていくのを感じていた。

 

 だから、何も言わず手を引かれるままにその場を後にするしかなかったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(18) 〜酒の聖女様〜

 

 

 

 

 

 

 その酒場は普段以上に盛り上がっている。

 

 そこら中で乾杯の掛け声があがり、赤ら顔には沢山の笑顔が溢れていた。美味しそうな料理の香りも相まって、幸せと平穏が此処に在ると感じさせてくれる。

 

 大して広くは無い店だが、掃除は行き届いていて居心地は良い。床も天井も飴色に染まった木材で組まれていて、少ないランプが色を加えている。その店内には10にも満たない丸テーブルがあり、大勢の男達がいて満員の様相だ。店の主人を囲う様に配置された長テーブルには何故か二人しか居ないのが不思議なところだろうか?

 

 だが誰一人として文句も言わず、距離を置いて邪魔をしていない。

 

 店の主人…ダグマルは手元で簡単な炒め物を完成させると二人とは反対側の長テーブルにドカリと置いた。

 

「おい!出来たぞ!」

 

「ダグマル、客に取りに来させるのかよ!」

 

「うるせえ!要らないなら下げるぞ!」

 

「誰も要らないとは言ってないだろう!?仕方ねえ、取りに行くよ!」

 

「ついでに此れも頼むわ。隣りの馬鹿にな」

 

「給仕までさせる気か!」

 

 馴染みの客と何時もの掛け合いを済ませて、ダグマルは次の注文へと取り掛かった。因みにエールや水は客自らが自己申告して注いでいる。ダグマル一人では捌き切れないし、皆も慣れたものだ。

 

 限られた酒、そして料理だけはダグマルが必ず用意している。そこは手抜きをしないし、何よりダグマル自身が好きだからだ。口は悪いが料理の腕と酒への拘りは深く、客足は途絶えない。何よりその裏にあるお人好しの気質は、常連なら誰もが知っているのだ。

 

 

 

 

 

「待たせたな」

 

 コトリとグラスを置き、味付けした豆類と炙った肉を満杯にした皿を用意する。

 

「しかし、聖女様は本当にいいのか?」

 

 ダグマルは果実を絞った水をカズキの前に差し出し、おまけだと言いながら追加の氷を落とした。

 

「聖女様?」

 

 不可思議な響きにヴァツラフは思わず繰り返した。

 

「聖女、ない。やめて」

 

「おっと、すまないな。もう慣れちまって」

 

「ダ、グマル、じじい、約束」

 

 以前に黙らせておくと約束したのは自分だろうと、カズキは責め立てる。

 

「どういう事だ? カーラが聖女なのか?」

 

 何気に正解を口にしたヴァツラフだが、ダグマルの次の説明に納得する。

 

「おっ、名前がやっと分かった。カーラ、か。良い名前じゃないか……にーちゃんに教えてやるよ。カーラが何故聖女なのかを、な」

 

 そして、以前にあった太っ腹な支払いを面白おかしく伝えた。少しだけムスッとしている酒の聖女様がおかしくて、ダグマルは笑ってしまう。

 

「ガハハハ!まあ、いーじゃねーか! 誰も怒ったりしないさ。カズキ様だって笑って許して下さる……多分だが」

 

「そーだそーだ!」

「我等が酒の聖女様に乾杯だな!」

「おう!」

「では……」

「救済を果たして下さった聖女カズキ様と、我等が酒呑みへ救いを授けたカーラ様に……乾杯!!」

「「「乾杯!!!」」」

 

「や、やめて!」

 

 外にはノルデを含む騎士がいるのだ。これ以上の失態をアスティア達に知られれば、禁酒令が強化されてもおかしくない。周りに迷惑にならないよう距離を取っている筈だが、大声なら聞こえるかもしれないのだ……カズキは顔色を変えるしかなかった。

 

「成る程な。此処はカーラの馴染みの店か」

 

 ダグマルの店に態々来た訳ではなかった。偶然通り掛かり、更に偶然店先に出て来たダグマルに見つかり、強引に店の中に連れ込まれた。ヴァツラフもファウストナの王子としてではなく、カーラの友人として振る舞っていた。

 

「おうよ!まあ、来たのは一回だけだが、まだ金は余ってるからな……周りにいる馬鹿達と違って良客だ」

 

「くっ……言い返せねぇ」

「待てよ、俺達のツケは帳消しに……」

「馬鹿野郎、そんなのは前回で消えちまったよ!」

「な、なに!?」

 

 周囲の馬鹿野郎達に溜息を吐きながら、ダグマルは続けて話す。

 

「それに何か印象深い娘でな……口は悪いし、酒呑みだし。だがこの美貌だから忘れる事も出来やしねぇ」

 

 ちびちびと果実水を飲む少女に目を向けるが、男性からの称賛には全く興味が無いようだ。皿から豆を細い指で摘み、ポイッと口に放り込む。格好から侍女だろうかと思うが、誰一人として信じていないだろう。そんな少年か悪餓鬼のような少女だった。

 

「しかし……カーラよ、飲まないのか?」

 

 最初の注文には耳を疑ったものだ。隣りの男には酒を頼んだが、自分は適当な冷たい飲み物をとたどたどしく伝えてきた。逆だろ?と疑ったダグマルは悪くないだろう。もし、アスティアやクインがいても同じなのは間違いない。

 

「飲み、なし。仕事、頑張って」

 

 仕事中だから飲まないし、外には騎士が見張ってる……これ以上の失態を重ねるわけにはいかないカズキの台詞だが、ダグマルには理解不能だ。

 

「前は朝から飲んでたじゃねーか……今更なに言ってやがる……」

 

「知らない」

 

 再び豆を摘むと口に放り込む……筈だったが上唇に当て、両手を使い慌てて落ちるのを防ぐ。何気に動揺していたようだ。

 

「店主、聖女カズキ様を知っているのか?」

 

 疑問が解けたヴァツラフも提供された酒に口をつけた。美味いなと呟きを足す。

 

「にーちゃん、へんな事を聞くな?知らない奴なんている訳ないだろう。この店に居る誰もが知っているさ」

 

「ヴァッツだ。聞き方が悪かったな……会ったり見た事はあるか?」

 

「ヴァッツか、中々男らしい良い名前じゃないか。母親に感謝しろよ?」

 

 その母親なら今リンディア城にいるよ、そう返しても良かったがややこしいので止める。

 

「まあ……俺は遠目に見たくらいだな。何時かは間近でお会いしたいものだがな。この店に居る奴は殆どがそうだぜ?」

 

「そうか……」

 

「お前さんも会いたい一人か?最近は聖女の間のベランダにも姿を見せないと、知り合いがこぼしてたが」

 

 カーディルから聞いているヴァツラフには当然の事だった。リンディア滞在中にマリギから帰って来てくれればいいが……此処で態々は明かさないが、それがヴァツラフの本心だった。

 

「俺や知り合いも命を救われた。だから、礼の一つくらいしたくてな。会えなくとも、為人(ひととなり)に興味があるのは当然だろう?」

 

「ほお……アンタは騎士じゃないし、森人でもない。だが、戦う者だ。その腕やキズ、持つ雰囲気もそう感じる。もしかして、他国の戦士か?」

 

「ああ、ファウストナ戦士団の一員だ。今はこの国に招かれていて、カーラに街を案内して貰っていたんだ」

 

「おお……やっぱりか……そりゃすげ……」

 

「ファウストナ戦士団だって!?」

「なんだそりゃ?」

「知らないのか? 女王がリンスフィアに来てるだろ?」

「ああ、あれか!」

「ファウストナと言えば、屈強な戦士団が有名だからな……革鎧と槍、そして陽に焼けた浅黒の肌。昔から有名だぞ」

「おお、確かに良く陽に焼けてるな! にーちゃんも槍を使うのか?」

 

 ドヤドヤと聞き耳を立てていた森人達が、会話を遮り近寄ってきた。カズキは完全に置き去りだが、気にせずに肉を頬張っている。会話が長いと理解出来ないのも大きい。ダグマルも限界を超えない限り、邪魔をする気はないようだった。

 

「槍なら得意だな。街中では短槍くらいしか無いが」

 

「本物かよ!」

「信じられん!生まれて初めて他国の人間に会ったぞ!」

 

「それは此方も、だな」

 

 酔いに任せた森人達は戦勝記念だと乾杯を重ね、次々と酒を注ぎ始めた。しかし無類の酒豪であるヴァツラフには関係無い。いくらでもかかって来いとグラスを空けて行った。

 

 その内に肩を組み、叩き、腕の筋肉を囃し立てたりする。彼らはその相手が貴人たる王子だと知らないから出来る事だろう。もし騎士がこの場に居たら慌てて止めに入った筈だ。因みにファウストナ戦士団なら気にせず飲み続けた可能性が高い。

 

 その騒ぎが最高潮に達した時、誰かが溢した一言が全員の耳に入った。そして、静けさが支配しはじめる。

 

「こ、刻印だ……」

「使徒か……」

 

 はだけた肩口の袖から刻まれた刻印が現れ、森人達は酔いが醒めるのを感じた。かなり有名なその刻印は、戦う者なら良く知っているからだろう。

 

「力の刻印……間違いない」

 

 力の刻印……殆どの男達が憧れ、そして恐れた。その加護が舞い降りれば、偉大なる戦士にも成り逆に残虐な殺人者にも変わる。その力は魔獣の腕すらもへし折ると言われるのだ。制御を誤れば人の骨などその辺りに落ちている枝と同じ……

 

 ヴァツラフは内心傷ついていたが、同時に仕方がない事だと諦めていた。此処は他国で、ファウストナの者ですらそうなのだから。自分から距離を取られたヴァツラフにとっては日常であり、現実だった。

 

 先程迄の騒ぎはおさまり、ダグマルですら動きが止まっていた。だが……

 

「刻印?」

 

 ヴァツラフの背後から響いた涼やかで綺麗な声に、全員が惹きつけられる。

 

 カズキは立ち上がり、ヴァツラフの前に回り込んだ。

 

「カーラ……黙っていて済まない……俺は……」

 

 もし知られてしまったら、この暖かい時間も終わりを告げる。ヴァツラフは心の何処かで否定していた気持ちを自覚するしかなかった。

 

 カーラとの時間を楽しんでいた、と。

 

 だがカズキの行動にヴァツラフだけでなく、距離を取った全員がギョッとした。

 

 徐に袖を捲ると、顔を近づけてマジマジと観察を始めたのだ。挙句にはペチペチと小さな手で叩き、ヴァツラフに問うた。

 

「力?」

 

「あ、ああ……そうだ。力の刻印だ……」

 

「力、強い?」

 

「まあ、そうだな」

 

 パァッと表情を明るくすると、カズキは興奮した様に声を荒げた。

 

「人、上がる?」

 

「何だって?」

 

「人!上げて……グルグル!」

 

 つまり、人を持ち上げてグルグルと回したり出来るかと聞いている様だ。()()()()()()()()()()()()……

 

「それくらい簡単だ。そこの親父でも出来るな」

 

 漸く意味を理解したヴァツラフは、ダグマルを指差して返答する。

 

「凄い!」

 

「それがなん……」

 

「やる!」

 

「なに?」

 

 カズキ……ヴァツラフから見てカーラは邪魔になるテーブルや椅子を避け始める。それを見れば何がしたいか判ったが……

 

「此処でやるのか? 今?」

 

 カーラは言葉こそ不自由で幼く感じるが、女性らしい起伏もしっかりとあり、ふとした時に色気すら感じる程の年齢だ。その美貌も相まって情欲を抱く男も多いだろう。準備を終えたのか再びヴァツラフの前に立った。

 

 そして両腕を上げ、まるで抱き締めてと願う様な格好になった。目を見れば冗談などでは無い事が分かる。

 

 突然の奇行に全員が先程とは違う意味で静かになった。

 

 求めているのは家族との愛である事を知らないヴァツラフには、不思議にしか思えないのだろう。逆にカズキの過去を知るアスト達がいれば、その笑顔に痛々しい気持ちを抱いた筈だ。

 

「まあ、構わないが……」

 

 両脇に手を入れ、ヴァツラフはヒョイと持ち上げる。まるで重さなどない様な仕草に、周囲は力の刻印の加護を見た。

 

 女性経験豊富なヴァツラフですらも、余り覚えの無い状態に苦笑いを隠せない。

 

「グルグル。速い」

 

 速めで頼みます……真剣に依頼してくるカズキを見たヴァツラフは、仕方が無いと覚悟を決めた。

 

「じゃあ……やるぞ?」

 

「はやく!」

 

 早くしろなのか、速くしろなのか不明だが、ヴァツラフは少しずつ速度を上げて回り始める。

 

「凄い!好き!」

 

 俺は一体何をしてるんだ……内心呟くヴァツラフにも気付かないうちに笑顔が浮かぶ。目の前に咲く美しい笑顔が見れただけでも良かったのだろうと幸せな気持ちになった。

 

「おい!見えてんぞ!」

 

 速度が上がった時、ダグマルからの声が届いた。最初は意味不明だったが、バタバタとはためく侍女服の裾を見てヴァツラフは理解する。慌てて回転を止めると、身体を抱き止めて床に下ろした。

 

「終わり?まだ?」

 

 周囲に居た全員に下着や素肌を見られた筈だが、当人は全く気にしていない。それどころか、もっと回せとせがむ始末だ。流石のヴァツラフも溜息をつくしかない。そして、その姿はお転婆娘に振り回される父親そのものだった。

 

「ぷっ……」

「クク……」

 

 我慢出来なくなったのか、森人達が肩を震わせ始める。ヴァツラフが悔しそうな表情を見せた時、ダグマルの店に再び笑い声が響き渡った。

 

 そして……さっきまであった蟠りは消え、幸せな時間が流れ始めたのだ。

 

 それを知ったヴァツラフは、何処か不機嫌になった酒の聖女に愛おしさを覚えて思わず頭を撫でる。ゴワゴワとした感触だったが、何故か優しい。

 

「酒の聖女か……」

 

 確かに聖女様だ。酒場に舞い降りた使徒だな……更に呟き、クシャクシャと小さな頭を撫で回す。

 

 ヴァツラフにも満面の笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ヴァツラフ、陥落。


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a sequel(19) 〜嫉妬、そして〜

 

 

 

 

 

 癒しの力……戦士である自分にとっては治療の一種だと思っていた。魔獣の爪や牙、あるいは体積と膂力に任せ腕や脚に傷付けられた身体に対する力だ。

 

 自分に限らずファウストナ戦士団には、それを恐れる者などいないだろう。心身共に戦う為に鍛えられ、小さな頃から戦士であれと支えあった。

 

 だから、いま起きている現象は新鮮で懐かしい。小さな頃、父や母に抱かれた時に感じていたのかもしれない。記憶の遠い彼方へと流れ、存在すら忘れていた。

 

 隣りを歩む侍女見習いは其れを齎してくれた。

 

 ダグマルの店に入る前から心の疲労が消えていくのを感じてはいた。でも……今は、違う。

 

 見ないようにしていた心の傷を、カーラが癒してくれた……刻印に縛られていた自分を助けてくれたのだ。

 

「カーラ……」

 

 ん?と此方を見上げて瞳の色を見せてくれる。

 

 その視線の先に自分が居る……ただそれだけなのに、幸福を覚えるなんて。

 

 そうか……これこそが……

 

「いや……まだ時間がある。次は何処に行く?」

 

 この時間がずっと続けばいい……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 象徴的な白から赤へリンディア城は変化していく。

 

 陽の光は横から届き、色彩は赤く淡い。夜を迎えるまで少し、しかしリンスフィアは活気を失ったりしていない。寧ろこれからが本番とばかりに多くの人々が街に繰り出している。

 

 恋人同士、家族連れ、友人達、買い物を頼まれたのか兄弟らしき二人が荷物を嬉しそうに抱えている。きっと今夜はご馳走様なのだろう。

 

 かなり広い道なのに人波で石畳すら見えない。

 

 野菜を並べた台の後ろで男が声を掛けている。肉切り包丁片手にガツンガツンと骨ごと断ち切る主人は、次の注文に答える。にこやかに笑う女性の手は、客と談笑しながらも茶葉を詰めていった。

 

 大量の薪を束ね積まれた前では値交渉と呼ばれる戦いが繰り返される。衣服や靴を特別だぞと叩き売る若者は、昨日も同じ事を言っていた筈だ。両脇に並ぶ店々からは明かりと笑い声が溢れて、リンスフィアを染めていく。

 

「本当に素晴らしいな……皆が笑顔だ……」

 

 それは本心だった。ヴァツラフは羨望の感情を抑えられず、どうしても祖国と比較してしまう。母ラエティティがあそこまでリンディアに特別な想いを抱く理由が分かった気がしていた。

 

「アレは……銀細工か」

 

 其処だけポツンと人集りが消え、無愛想な親父が腕を組んでいる。ドカリと地面に腰を下ろした前に黒い敷物が投げ出され、数点の細工物が並ぶ。気の小さい者ならば間違いなく近づかないであろう親父だが、ヴァツラフには関係がない。カーラを促し、人集りを何とか抜け出した。

 

「……らっしゃい」

 

 ボソリと低い声を出した親父は、そのまま黙ってしまう。本当に売る気があるのか疑わしいが、逆に興味を唆られるのがヴァツラフだった。自分の槍や鎧を生み出すファウストナの職人達は、皆が例外無く無愛想なのも理由の一つだ。揃って一流の男達ばかりなのだから。

 

「ほう……親父、手に取っていいか?」

 

 無言で白い布を手渡し、ほんの僅かだけ頷く。膝をつき苦笑したヴァツラフだが遠慮なく気になる商品を持ち上げた。勿論指の油が付かないよう、渡された布越しだ。

 

 その指輪は一見ただの輪でしかない。しかし夕日に照らせば、陰影が匠の技を浮かび上がらせる。僅かに掘り込んだ其れは何かの文字だろう。信じられない程に細かな細工だった。

 

 目を細め、左右裏表をじっくりと確認したヴァツラフは大きく首を振った。

 

「見事な細工だ。これは親父が?」

 

「……ああ」

 

「カーラ。何か一つどうだ?」

 

「一つ?」

 

 隣りに立っていたカズキは初めて細工に関心を持った。ヴァッツが何か土産でも買うのかなと時間潰しに周囲を見渡していたのだ。言われるがまま両膝を折り視線を落とした。クインの教育が生きたのか、侍女服の裾は膝裏に畳む。その仕草は当たり前だが女性らしい。クインも嬉しいだろう。

 

「この指輪……侍女では逆に邪魔になるか……」

 

 細かな作業、水を使う仕事、時には食事やお茶を用意するのだ。リンディアで指輪をしている侍女は見掛けなかったヴァツラフは指輪をそっと置いた。

 

「なら、これは?」

 

 続いて取り上げたのは革紐に銀の飾りをつけた髪紐だ。侍女服に近い青色はカーラの灰色の髪にも合うだろうと選んだのだ。銀細工は小さいが花が幾つも並び、今にも風に揺れそうな程に精緻だった。

 

「……ヴァッツ」

 

「どうした?」

 

「私、お金、無い、手」

 

 お金を持って来てないと真顔で返され、ヴァツラフは言葉に詰まってしまう。当然金など出させる気は無かったし、今日のお礼のつもりだった。言わなくとも、それくらい気付きそうなものだが……自分がおかしいのだろうかとヴァツラフは考えてしまう。

 

 今まで相手にしてきた女達は男から与えられる気配を見事に感じ取っていたものだ。ましてやカーラ程の美貌なら、今まで近寄ってきた男も多かっただろうに。良し悪しに関係なく女なら慣れもする筈だが……

 

「カーラ、今日のお礼だ。俺が出すから選んでくれ」

 

「お礼? なんで?」

 

「なんでって……」

 

 楽しかったし、何より癒しを与えてくれた……それを言葉に出し掛けたとき、続いて片言の声が届く。

 

「仕事、案内。お礼、なし」

 

 その意味を理解したヴァツラフは心が軋む音を聞く。俺は仕事とは思っていなかったと。先程の眩しい笑顔も役目だと言うのか……と。

 

「男なら選べ。で、無理矢理でも渡す。それでいい」

 

 ずっと黙っていた親父がボソリと溢し、思わず二人はギョッとしてしまった。

 

「今日は店じまいだ。決めるなら早くしろ」

 

 やはり売る気がないのでは?そう疑うヴァツラフだが、さっきの台詞は彼なりの助言だったのだろうと苦笑する。

 

「そうだな……では、コレを……」

 

「あっ……」

 

「どうした?」

 

 小さな声が横から聞こえ、カーラの様子を伺う。どうやら片付け始めた親父の手元を見ているようだった。重ねた木箱の二段目、隠れていた細工に目を奪われている。ヴァツラフの目には普通のブローチにしか見えない。敢えて言うなら他の商品には無い色合いだろうか。

 

「見るか?」

 

「うん」

 

 あっさりと受け取り、そっと両手で優しく支える。同じ品が幾つも箱にあり、一種の量産品と分かる。値段も大した事は無いだろう。細工は変わらず見事だが、それでも他との差は明らかだった。

 

「これ……」

 

「嬢ちゃん、知ってるみたいだな」

 

 丸い縁の中に、一人の女性がいる。横顔と風に靡く髪、胸に両手を当てて真っ直ぐに前を見ているようだ。上半身だけだが成人と分かった。

 

「カーラ、誰なんだ?」

 

「お母さん」

 

 靡く髪は夕陽にも負けない赤、何かの鉱石か瞳は黄金色。抱く両手は無限の愛を示す。

 

「良く知ってるな、正解だ」

 

「うん」

 

「リンスフィアでは有名なのか?」

 

 すると突然に親父は饒舌になる。

 

「これから誰もが知る事になるんだ。リンスフィアだけじゃない、世界が感謝する。名はロザリー。聖女様の母、そしてその身を賭してカズキ様を救った。彼女が居なかったら救済は果たせなかったんだ」

 

 あの丘に埋葬されている。今は王家の号令で道を整備中だ……遠くに見える丘を指差し、親父は再び無言になった。

 

「聖女様の母、か」

 

「ヴァッツ、此れ、いる。いい?」

 

「ああ、勿論だ。親父、幾らだ?」

 

 ついでに髪紐も渡して、値切りもしない。

 

 

 

 カズキは嬉しそうに紙袋を受け取る。

 

 それを眺めながら、ふと疑問が頭に擡げた。ロザリー……何処かで聞いた気がする、と。

 

 

 

 

 

 

 

 空には夜の闇が訪れていた。しかし店から漏れ出る明かり、そして周囲にも大量の灯が灯り暗さを感じない。近寄ってきたノルデの手にはランプがあって足元を照らしている。

 

「ヴァツラフ殿下。そろそろお戻りになられては?」

 

 質問の形式をとっているが、実際には指示に近いだろう。ましてや若い女性を連れているのだから当然だ。

 

「済まない、遅くなってしまった。直ぐに戻ろう」

 

 明日は中休みだが、その後も会談は続くのだ。

 

「はっ!ではご案内します」

 

「頼む」

 

 先導を始めたノルデは、時に後ろを振り返りながら歩みを進める。

 

 隣にカズキを伴い、何処か厳しかった視線も和らいでいる。そうノルデには見えた。だから失礼と知りながらも口を開くしかない。

 

「ヴァツラフ殿下、如何でしたか?リンスフィアは」

 

「ああ、素晴らしいな……街も人も、皆が生きている。我等が忘れてしまっていた人々の営みが此処には在ると思えた。我が祖国もそうありたいものだ」

 

「カ、カーラは……失礼を働きませんでしたか?」

 

 ノルデは口籠もりながらも、何とか言葉にする。それこそがノルデの知りたい事だから。

 

「ん? いや、助かったよ。楽しかったと言っておこう」

 

 そう返しながらもカズキに笑顔を向ける。そしてカズキはそれを嬉しそうに見返した。ノルデに不安が募っていく。聖女の隣りには我が王子こそが立つと信じているからだ。

 

「そ、そうですか。それは良かった」

 

 全く良くは無い! 内心叫びながらもノルデは無理矢理に前を向く。

 

 リンディア城は見えるのに、酷く遠くに感じられてノルデを苛むのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 五段上がった先にある城門は大きく開け放たれている。篝火も焚かれ煌々と光を放つ門の前には、間違いなくリンディアの王子であるアストが立っていた。それを見たヴァツラフは別れる前に覚えた違和感が再び擡げるのを感じる。

 

 何故そこまで……そう言う疑問だ。例え自分を迎える為だとしても、その違和感は消えたりしない。その表情は固く視線がカーラに向かっていれば当たり前だろう。

 

「ヴァツラフ……遅かっ……リンスフィアはどうだった?気になる事があれば何でも聞いてくれ」

 

「いや……堪能させて貰ったよ。カーラがいてくれて良かった」

 

 間違いなく歪んだ眉を見て、アストの乱れた心を感じる。聞きようによっては、穿った見方が出来るだろう。まさかと思い選んだ言葉は、アストへと突き刺さったのだ。

 

 そしてヴァツラフの心も沸き立つ。

 

 目の前の王子は聖女を一途に想う一人の男だと聞いていた。しかしアストは間違いなく嫉妬している。聖女ではなく侍女見習いのカーラを見詰めているのだ。無論文句を付ける気はない。リンディアにはリンディアのやり方があるだろうし、この時代に妃が一人である方が不自然とも言える。

 

 しかし……ヴァツラフは何処かでアストへ同族意識を持っていた。この時代だからこそ、一人の女性をひたすらに愛する。その美しさに憧れを抱くと勝手に思っていたのだ。

 

 だから友になりたかったし、もっと話がしたかった。それが勝手な期待だとしても、それがヴァツラフの本心なのに……

 

 先程まで自分の隣を歩いていた女性の手を取り、まるでこの女は自分の物だと言わんばかりではないか。アストはカーラをクインに預け、再び此方を向く。何故か怒りが湧き、ヴァツラフはアストを睨む。そして、この感情は伝わっただろう。隠す気もない。

 

「……ヴァツラフ、君も休んだらいい」

 

「アスト、カズキ様から報せはあったのか?」

 

「いや……未だマリギにいるのだろう。その内に戻ってくる」

 

 小さな紙袋を持ち立ち去ったクイン達を眺め、二人の男は言葉を紡いだ。まるで他人事のように話すアストにヴァツラフの怒りはより強まっていく。

 

「そういえば質問があったな」

 

「何でも聞いてくれ」

 

「カーラの事だ」

 

「ああ……なんだ?」

 

「彼女だけ、聖女への想いに違いがあった。皆が例外なく讃える聖女だが、カーラは……あくまで穿った見方だが、何処か否定的だ。まるで聖女など居ないかのように」

 

「……何と答えたんだ?」

 

「救済の礼は不要、弱いだけ。もっと沢山の人々を助ける事が出来た筈だと」

 

 アストは俯き、言葉を返すことも出来ない。ヴァツラフにはそう見えた。だが暫くすると振り絞る様にアストは呟く。

 

「私が言えるのは……聖女は、カズキは何処までも優しい、人々の為に全てを捧げる事すら厭わない、愛おしくて放ってはおけない……そんな女性だ。あれ以上、自分を責める必要なんて無いのに」

 

 ならば何故……そう返したくなったヴァツラフに言葉は重ねられた。

 

「もう休もう。夜も遅い」

 

「……ああ、また明日」

 

「また」

 

 そうして二人の王子は別れ、夜の闇に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(20) 〜盲信の功罪〜

 

 

 

 "主戦派"

 

 聖女カズキが救済を果たす前、そう呼称される者達がいた。それを知る者の殆どは狂人の集団だと思っているだろう。彼等が起こした数々の事件や凄惨な行いを見れば、狂人の謗りから逃れられない。

 

 だが、その狂気を回す原動力は何だったのだろうか。

 

 残された当時のリンディア王国公文書には、身近な者……愛する配偶者や想い人、子供や親などの近親者、友や仲間の命を奪った魔獣への強い憎悪が生み出した「復讐心」だと記されている。

 

 ある一面で、それは正しい。

 

 例えば、リンディア王国の重鎮であったユーニード=シャルべは、騎士であった息子アランが死した後に狂った。元々は大変有能で、厳しくも民と国を想う軍務長だったのだ。

 

 後に主戦派の首魁となり、獄中で自死するその時も魔獣に怨嗟の言葉を吐いていたと言われる。

 

 しかし、もう一つの面に注目する者は少ない。

 

 批判の向きもあるだろうが、指摘しておきたいと思う。

 

 復讐心と同等の、いや時にはそれを上回る力の源。それは……神々への強い信仰心だ。

 

 前述のユーニードは、獄中でも神々への祈りを欠かさなかったと言われる。魔獣との戦いで最大の犠牲者を出したリンスフィア防衛戦で、避難民溢れる街に魔獣を誘導した騎士達は口々に「聖戦」を叫んでいた。余りに馬鹿らしいが、彼等は聖女カズキの望みを叶える為と心から信じていたのだ。

 

 偉大なる神々がいなければ世界は無に包まれる。当たり前の事であるが、私達はそれを享受し日々を生きているのだ。

 

 だが、神は無償の加護を与えてくれるのだろうか?

 

 答えは、否だ。

 

 それを示す寓話は枚挙に暇がない。

 

 例えば……聖女カズキへ加護を授けた黒神ヤトが司るのは、憎悪、悲哀、痛み。彼の使徒には絶望の内に死んだ者、復讐心に飲まれて正気を失った者、殺戮に狂った者も多い。

 

 ならばヤトは邪神なのか?

 

 やはり、答えは否だ。

 

 理由は数あるが、最も分かり易いのは聖女カズキの救済だろう。救済を果たした聖女の元へ降臨し、傷ついた身体と魂魄を癒したのは余りに有名だ。

 

 つまり……神々は加護を授けるが、結果を導き出すのはあくまでも人。加護はきっかけでしかない。

 

 主戦派を代表する者達が、道を違えた理由……

 

 それは過ぎた信仰心……そう、それは"盲信"と呼ばれる。

 

 聖女カズキや主戦派は今を生きる私達に教えてくれている。

 

 どんなに優れた頭脳であっても、誰にも負けない強靭な身体を持とうとも、"盲信"は道を迷わせ正しき道を導くこと……其れを妨げるのだと。

 

 

 〜黎明の時代 聖女カズキの軌跡〜

 

 第五章 血と鉄の時代 より抜粋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

 3回目の会談も終了し、ラエティティは随分と慣れた部屋に帰っていた。

 

 会談自体は順調と言っていいだろう。

 

 カーディルに開戦や占領の意思はなく、友好的に進めるつもりなのがよく分かる程だ。潤沢となってきた医療品やククの葉が提供される替わりに、特産の塩などを渡せばよい。また、南の森……ファウストナから見れば北の森を共同で開拓していくことでも大筋で合意。更にはリンディア騎士団とファウストナ戦士団の模擬戦闘を含む訓練も実施する予定だ。当然だが軍事力を開け広げるには、信頼が必要だろう。

 

 幾らかの物資は先行して王都リンスフィアを発っている。数日後にはファウストナに到着し、此方からの指示も伝わる事になる。

 

 つまり、順調なのだ。順調なのだが……

 

「おかしいわね……」

 

 その独り言はヴァツラフに届き、書類を整理していた手を止める。

 

「母上、何か言ったか?」

 

「先程のアスティア王女よ。貴方は不自然に思わなかったの?」

 

 此処に戻る途中、二人は侍女を伴ったアスティアに出会ったのだ。それは間違いなく偶然だったが、数日ぶりの出会いに会話が弾んだ。その会話の中には当然聖女カズキの話題が上ったのだが……

 

「そうか? 前と同じ、如何にも大国の王女だと思ったくらいだが」

 

 治癒院で初めて会ったヴァツラフにとって、王女は歳下でありながらも尊敬に値する王族だと思える相手だ。凛とした立ち姿、所作、何事にも臆さない精神、勿論美貌だって飛び抜けている。リンディア王家独特なのであろう銀髪は、夕陽に照らされても輝きを変えたりしない。

 

「ヴァッツ……貴方は戦闘に於いては一流なのだろうけど、人を知る事を学びなさい。全く……恋の一つくらいしないと駄目なのかしら……」

 

「仕方が無いだろう。人と相対する以上に魔獣と戦ってきたんだ。大体、余計なお世話だ」

 

「あの娘とはどうなの?」

 

「……別に何でもない。そもそもカーラは他国の侍女だぞ? ましてやアスティア王女のお気に入りだ。下らない諍いの種をまくのも馬鹿らしい」

 

「カーラとは一言も言ってないけど?」

 

 明後日の方を向き、反論すら止めるヴァツラフは賢いのだろう。慌てて言葉を重ねればラエティティに揚げ足を取られるのは明らかなのだ。言葉の応酬でラエティティに勝った事など一度もない。

 

「ふふ……話を戻しましょう。さっきの王女はやはり不自然に思うわ。貴方が集めた情報から見て、カズキ様への想いを教えてくれるかしら?」

 

「そうだな……自他共に聖女の姉、というところか。溺愛振りはかなりのもので、その想いも深いのだろう。お揃いの服を揃え、何時も一緒にいるらしい。それに、あの日も王女に諭されたくらいだ……聖女の前では我等は等しく同胞なのだと」

 

 其処には間違いなく怒りが篭っていたな……ヴァツラフは数日前を思い出していた。

 

「概ね合ってるわね。じゃあ、もう一度思い出してみなさい」

 

「そうだな。聖女の話をする時は……言葉を選び、慎重だったか。それと」

 

「それと?」

 

「確証は無いが、哀しげだった……と思う」

 

「あら? ヴァッツも中々やるわね、其処に気づくなら上出来よ」

 

「茶化さないでくれ。今は遠くの街にいるんだ、寂しくもなるだろう。別に不自然とは思わないな」

 

 ファウストナから同行してきた女官がお茶を用意し、二人の前に並べる。クインなどと違い、会話には一切入らず壁の花へと戻った。王族の会話は耳に入っても記憶に残さない。それが女官に課せられた義務の一つだ。

 

「ヴァッツ、矛盾してるわよ?貴方はさっき如何にも大国の王女だと言ったじゃない。なのに、他国の私達を前に子供染みた感情を見せる?私から見てもアスティア王女は立派な王族だわ。それなのに肝心要の聖女について隙を見せるなんて……何かあるのよ」

 

「何か、とは?」

 

 お茶に口をつけ、ラエティティは僅かに沈黙した。

 

「カーラ……あの子も……」

 

「やめてくれ……冷やかしなんて必要は」

 

「カーラの名前を他で聞いた事はある?」

 

 偶にあるラエティティの会話の暴走にヴァツラフは辟易したが、仕方なく答える。

 

「いや、そういえば聞かないな……普通の名前の筈だが……実際には」

 

「当然よ。アレは偽名、多分間違いない」

 

「はあ?」

 

「パウシバルの指輪……リンディアの古い物語よ。そこに描かれる聖女の名が、カーラ。そして、古来より聖女の名を騙る事は嫌悪されるの。それはどの国も例外はない。ましてや"パウシバルの指輪"は此処が舞台よ」

 

 彼女の知識はコヒンすら及ばない頂きにまで到達していた。簡単に言えばリンディアが幼い時より好きで、数え切れない数の文献等を見てきたからだが……物事を愛した時、それはとてつもない力を齎すものだ。アスティアはなんとなく名付けたし、クインすら深く考えたりしなかった。まさか他国の女王がリンディアを誰よりも詳しいなど想像出来ないのだから。

 

「……それで?」

 

 ラエティティが何を言わんとしているのか、ヴァツラフにはさっぱり分からなかった。

 

「カーラの瞳の色、分かるでしょ?」

 

「色?」

 

 酒の聖女の瞳なら間近に見た。子供をあやす様に空中を舞い躍らせたのだから。その笑顔と共に強く記憶に焼き付いている。

 

「そうだな……深い緑、光によっては若草の様な」

 

「或いは……翡翠色、ね」

 

 翡翠色の瞳……それは最近何度も聞いた。そう、聖女カズキの瞳は美しい翡翠色だと聞いている。

 

「何を言って……それは聖女カズキの……」

 

「アスティア王女は哀しげだった。そうよね?」

 

「おい……話をどんどんすり替えないでくれ。頭がついていけないだろう……」

 

「すり替えてないわ。カズキ様とカーラは深い関係がある……アスティア王女はカーラを大事に想ってるのは間違いない。態々街まで迎えに来たし、何時も気に掛けてる」

 

 話しながらだったが結果的に頭が整理され、ラエティティはある結論に達しようとしていた。そして、確信へと変わっていく。

 

「もういい、早く答えを言ってくれ……頭が痛くなる」

 

 溜息をついたヴァツラフを見て、ラエティティも肩から力が抜けた。

 

「もう……少しは付き合いなさいよ」

 

 そして、ラエティティは答えを口にする。何処か哀しい色を纏って。

 

「あくまで予想だけど……聖女カズキ様は……」

 

「なんだ?」

 

「お隠れになった」

 

「お隠れ……?」

 

「……亡くなった、そういう意味よ」

 

 ヴァツラフは口をポカンと開け、自らの母を眺める。

 

「死んだ? 聖女が!?」

 

「馬鹿! 大きい声を出さないで!」

 

 

 

 

 

 もう一つの可能性は勿論頭に浮かんだが、ラエティティは即座に否定した。

 

 聖女とは尊く、美しく、一目見れば幸福に包まれる。王女アスティアよりも洗練された所作、儚い微笑、万人に届く慈愛。幼くとも母、いやそれ以上の愛を抱く。5階位の刻印を刻まれた使徒は、もはや人を超え神々と同一だ。

 

 それがラエティティにとっての聖女であり、全ての真実だった。決して違う事(たがうこと)は無い。

 

 恥ずかしくて言えないが、もし出会えたなら……その胸に抱き止めて、苦難を乗り越えた自分達を包んで欲しいと夢見ていた。ずっと昔、母が抱き締めてくれたあの日の様に。

 

 カーラは確かに美しい娘だ。瞳はそっくりかもしれない。

 

 しかし、まるで少年の様な彼女は聖女とは対極だろう。ヴァツラフの証言からもそれは明らかだ。酒好きで、女から男を誘うなど語るまでも無い。

 

 だから、もう一つの可能性に至ったのだ。

 

 それなら全てに説明が付く、付いてしまう。

 

 聖女の死という世界の悲劇は既に起きてしまったのだろう。そして、リンディアはそれを隠蔽している。

 

 ラエティティは結論に達した。

 

 

 

 

 

 

 余りの衝撃に動けない。ヴァツラフは何かを言わなくてはと思っても、縫い付けた様に唇は開いてくれないのだ。

 

「そう考えると辻褄が合うのよ……予定通りに到着してみれば聖女様は御不在。聞けば、北部の街に旅立ったと。おかしいでしょう? 専属の侍女は残っているし、最高戦力のアスト王子もケーヒル副団長も護衛についてない。私達よりも余程大切な聖女様を差し置くなんて考えられない」

 

「……他にも騎士はいるだろう。森人も」

 

「そうね。でも理由は他にもあるわ」

 

 ヴァツラフだってそれは分かっている。

 

「一つ目」

 

 細い指を立て、ラエティティは蕩々と言葉を紡ぐ。

 

「さっきも言ったけど、アスティア王女の態度。北の街に行っているだけなら、言葉を選ぶ必要も無いし哀しげな感情を感じさせたりしない。もしカズキ様が二度と帰って来ないなら、それに納得出来るでしょう」

 

「二つ目」

 

 二本目の指には、亡き夫から贈られた指輪が光る。

 

「今は隠す理由もある。復興の最中に旗印、いえ希望そのものの聖女様がお隠れになったなど公表出来ない。立ち上がる力は再び衰え、下手をすれば内紛や王家への反発を招くでしょう。そして、ファウストナとの会談には本来欠かせない方だった」

 

「三つ目」

 

「幾つかの証言を集めれば分かる。救済を果たすため、カズキ様は大量の血肉と片腕すら捧げたの。そして何より……何処までも尊い聖女様の魂魄も。ヴァッツ、街の声は?」

 

「ああ……アストに抱き抱えられた聖女は、千切れた肩からは血も流れず、身動ぎもしなかったらしい。顔も白くひび割れ、力なく体を預けていたと」

 

「奇跡が起きて一時的に回復したとしましょう。でも身体は私達と同じか弱き肉体でしかない。ましてや少女、貴方みたいに鍛えられた戦士でもないのよ? その後悪化したとしても何もおかしくないわ」

 

 確かに……ヴァツラフは少しずつ理解していく。

 

「四つ目」

 

「カーラの存在。アスティア王女は悲しみに暮れたでしょう。何よりも大切だった妹が死んでしまったら拠り所を探すのは当然よ。あの子は髪こそ違うけど瞳はそっくりな筈。もしかしたら……カズキ様の身内なのかもしれないわ。親戚か、或いはもっと近い近親か」

 

「それになんの意味がある?」

 

「……言いたくないけど、一種の身代わりね。瞳は同じ色をして名前をカーラに。だから物語に描かれた聖女の名を付けたのよ。普通は考えられない、聖女の名を付けるなんて。流石にカズキ様の名前そのままでは許されないでしょう? だから誰よりも大切にするし、同時に街へは行かせたくない。何処から真実が漏れるか分からないから」

 

「そういえば……アストも随分焦っていたな。違和感を覚えたが、それが理由か……」

 

 だが、あの嫉妬はなんだ? 間違いなくアストはカーラを連れ出した自分に嫉妬していた。まさか聖女の死から僅かの間に想う相手を変えたと?ヴァツラフは何処か釈然としなかったが、ラエティティの五本目の指が立って気を取られる。

 

「最後、五つ目ね」

 

「まだあるのか?」

 

「ええ……カーラの肌、そして首回りの包帯ね。聖女カズキ様は首回りに刻印が刻まれているそうよ。カーラの肌は赤く爛れ、もしかしたらあった刻印が消えたと言い訳でもするつもりで……つまり、本当に身代わりにするのかもしれない」

 

「カーラに聖女を演じさせたいと?」

 

「そうよ。いつ迄もカズキ様が不在では不自然でしょう? 私達が帰ったあと、あの子をベランダに立たせればいい。救済を果たした聖女様は身体に不調をきたしていると噂を予め流して、ね。万が一近くで見られても、瞳は同じ色だし刻印のあった肌は爛れている。何より……」

 

「カーラは言葉が不自由だ……どうにでも出来る」

 

 言語不覚の刻印が生み出す結果は殆どの者が知らない。カズキのそばに居た者達を除き、国民の大半が知らない事なのだ。アスト達も態々知らせたりしないし、ヴァツラフの耳に入る情報に含まれていなかった。

 

「そうよ。そして恐らく……本心ではソレをしたくない、嘘なんてつきたくない、小さなカーラはそう思っているのよ。だからあの日、たった一人で街に逃げ出したの。私達が到着する当日によ? それを偶然と片付けられないし、私を既に亡くなった母親と間違って走り寄って来た。きっと精神に疲労があって……あの年齢で死の概念を理解出来ない筈はないし。彼女は治癒院に隠れ、泣いていたのでしょう?」

 

「ああ、涙の跡があった」

 

「カーラと街を散策したとき、貴方はどう感じたのだっけ?」

 

「……おかしいと思った。カーラだけが聖女に否定的で、まるで関係ないとばかりに……寧ろ、聖女を嫌ってさえ……」

 

 証明終了とばかりに、ラエティティは冷めたお茶を飲み干した。

 

 ラエティティの想定は一定の説得力をもってヴァツラフを納得させる。確かに辻褄が合う……そう思えるのだ。何より、カーラの聖女に対する考えは余りに不自然だ。今まで集めた証言の中には、只の一人でさえ聖女に否定的な者はいなかった。そう、彼女だけを除き……

 

「ならば……カーラはリンディアに捕らえられているのか? 彼女の意思を蔑ろにして、無理矢理に……」

 

 もしかしたら、あの爛れた肌さえ無理矢理……そんな恐ろしい考えが頭に浮かんでしまう。その恐怖ゆえに逆らえないのだとしたら……力の刻印は怒りの感情に当てられ、ヴァツラフに常人を軽く上回る筋力を与えた。

 

 バキッ……!!

 

 気付けば握り締めていたテーブルの端は見事に割れ、割れた欠片すらバラバラになった。

 

 そして、ラエティティも怒りを覚えている。

 

 神々の使徒、そして強い慈愛によって救済を果たした聖女カズキ様を利用するのか、と。為政者として聖女不在を隠す考えは分からなくはない。国と国民を愛しているのは、この数日で十分に理解出来た。だが、カズキ様は誰よりも尊いお方……人々が軽々しく触れて良い方などでは無い!

 

 確証を得られた訳では無いが、二人は怒りに震えて本来の真実には辿り着けなかった。

 

 ……まさか尊い筈のお方は酒好き酔いどれ聖女で、酒欲しさの子供染みた蛮行だったなど想像の片隅にすら浮かばなかったのだ。真実は遠くにあるようで、意外にもすぐ側に寄り添うもの。

 

 カーラは別名、酒の聖女なのだから。

 

 

「今後の会談は、色々と考えて臨む必要があるわね。我等の一線を譲る訳にいかない……神々を愚弄すれば、必ず神罰が降るでしょう」

 

「ああ……」

 

 出来るなら、カーラを助け出したい……あの笑顔は自分だけに向けてくれたのではないか?

 

 ヴァツラフの眼には、強い決意が宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ラエティティさん……


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a sequel(21) 〜二人の王子〜

誤字脱字報告を頂きました。ありがとうございます。何回チェックしても無くならない誤字脱字。何故なんだろう……


 

「……エリ、見て」

 

 お昼をかなり過ぎた頃、リンディア城内の訓練場へと向かう途中だった。城をくるりと囲うように外廊下が走り、見事な彫刻で飾られた柱と柱の間から見えたのだ。陽射しは強いが、アスティアとエリが居る廊下には届いていない。風も通り、気持ちが良いくらいだ。

 

「カズキ、じゃなくてカーラですかね?」

 

 青い侍女服に身を包んでいるのが見える。

 

「ええ……今日もヴァツラフ様と街を散策するのよ……1日では回り切れないって」

 

「リンスフィアは広いですからねー。本気で回れば数日じゃ足りないかもしれません。昨日は南街区でしたっけ? いいなぁ……楽しそう……」

 

「はぁ……」

 

「どうしたんですか?」

 

 酷く不安そうなアスティアの顔色を見て、エリとしても心配になる。二人は長い付き合いだが、アスティアは基本的に笑顔の絶えない王女なのだ。

 

 馬車に乗り込んだ二人と護衛の騎士達が走り去る後ろ姿を見送ったアスティアは、再びゆっくりと廊下を進む。すぐ後ろにはエリもいて会話が続く様だ。

 

「エリは心配じゃないの? 二人を見て」

 

「え? 何がですか?」

 

 チラリとエリを見ると、心から分かっていない表情にアスティアは不思議でしょうがなかった。

 

「何がって……カズキが兄様以外の男性と……勿論ヴァツラフ様から頼まれた仕事なんだけど……あの子、分かっているのかしら……」

 

 言葉にすれば、アスティアの不安はより強くなっていく。女性としての常識はまだ教え切ってないし、髪と荒れた肌以外は聖女としての美貌を失っていないのだ。同性であるアスティアから見てもカズキは間違いなく可愛いらしい女の子で……あの王子は誰が見ても力強く、兄とは違う魅力を持つ男性だ。

 

「むむ……つまり、カズキが浮気するのでは!?って気にしてるんですね! ふふふ、アスティア様も大人になりましたねー」

 

「うっ浮気って……馬鹿な事言わないで!」

 

 思わず振り返り、真っ赤な顔で怒鳴り付ける。しかしエリはニンマリと嫌な笑みを浮かべ、まあまあと分かった風な顔を返すのだ。それが腹立たしくて、いつもの様に両頬を抓った。いつもより少し強めだ。

 

「ひてて……ひたいでふ……」

 

「アスティア様、この様な場所で……はしたないですよ。お気をつけ下さい」

 

「ひっ……! ク、クイン!?」

 

 丁度背後の曲がり角から聖女専属の侍女クインが現れ、アスティアの背中にほんのり怒りの篭った声がかかる。

 

「聖女の間では大目に見ますが、貴女様はこのリンディアの王女……衆目のある場所では気を引き締めて下さい」

 

「ご、ごめんなさい……気を付けます」

 

 此処で言い訳などしないアスティアにクインは微笑みを返す。流石リンディアの誇る花、アスティア王女だと誇りに思ったほどだ。

 

「はい。それで、どうされました?」

 

「カズ……カーラの事でちょっと……さっき姿が見えたから……」

 

「なるほど。先程ヴァツラフ殿下と街の案内に出ました。夕方には戻るそうですが……」

 

「その……クインは心配にならない?」

 

 主語は伏せてあって内容すら含まれていないが、クインはアスティアの気持ちが理解出来た。つい先程も同じ心配を胸に見送ったのだから当然かもしれない。

 

「そうですね……気にならないと言えば嘘になります。カーラにはまだ早いと感じますが、お相手には関係ないでしょうから」

 

「やっぱり……」

 

「それに……ヴァツラフ殿下から変化を感じたので、実はそれを考えていました」

 

「変化って?」

 

「向ける視線、二人の距離、何よりカーラの表情……僅か1日なのに随分近付いたと……案内役はヴァツラフ殿下達ての御要望だそうです」

 

「……兄様は? どうしてるの?」

 

「特には……昨日すれ違いがありましたし……声をかけづらいのかもしれません」

 

「大変だわ……どうしましょう……」

 

「お二人の個人的な事とはいえ、凡ゆる影響があります。これからのリンディア、いえ世界にすら……」

 

「もう……兄様ったら何をしてるのよ……カズキが離れて行ったらどうする気……?」

 

「もしファウストナに行くなら……」

 

「あのぉ……お二人とも……」

 

 おずおずとエリが会話に混ざってくる。ヒョコっと右手を上げているのが幼く見せた。グルリとアスティアとクインが顔を向けるものだから、エリはビクリとしてしまう。

 

「なに?」

 

「つまり……カズキがヴァツラフ殿下に惹かれていくのが心配なんですか?」

 

「当たり前でしょ……何を聞いてたの?」

 

「はあ……」

 

「エリ、何かあるのですか?」

 

「えっと……そんな事、心配しなくても……あの二人なら大丈夫だと思いますけど……」

 

「……クイン、エリがこんな事言ってるけど?」

 

「人の気持ちなんて、どう変わっても不思議じゃないでしょう? カズキは聖女の前に一人の女性なのよ?」

 

「クインの言う通りよ。余計なお世話かもしれないけど兄様に話をする。確か……今なら執務室ね。エリ、訓練場はまたにするわ」

 

 クインを伴うアスティアの背中を見ながら、エリは首を傾げて追いかける。だがエリは不思議だった。

 

「あの二人……誰が見ても両想いなんだけどなぁ……?」

 

 その呟きは誰にも届く事なく、廊下に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明日明後日の会談で、ほぼ全ての結論に至るだろう。元々敵対するつもりは無い上に、ファウストナの逼迫した状況から決裂は考えられない。リンディアも復興の最中とは言え、聖女が直ぐ側で見守る街と国なのだ。日々届く報告は殆どか明るい内容ばかりだった。

 

 全てが前に進んでいる。

 

 明るい時代へ、魔獣のいない世界へと。

 

 ふと見上げれば、変わり易い天候なのか雲が流れてくる。執務室を出た時は星の光が見えていたのに。十三夜月も隠れてしまった。

 

 日中は汗ばむ陽気だが、冷たくなった風がアストの頬をくすぐった。その冷たい空気に当てられている筈なのに、自分の体温は高いだろうと自覚している。

 

 今日の侍女見習いとしての仕事を終え、カズキは部屋に戻ったのは先程聞いた。ヴァツラフとの散策は問題なくすすみ、ファウストナの王子は上機嫌だそうだ。

 

 夕方に執務室に現れた妹は、こちらの仕事も意に介さずに喋り続けた。

 

 曰く……

 

 

 今日もヴァツラフと二人街に出て行った

 

 二人はより親密になっている

 

 クインから見ても雰囲気が変わった

 

 このままにするのか

 

 一人の男性として、もっとしっかりして欲しい

 

 

「しっかり、か……」

 

 片手を頭に置き、これから訪れる聖女の間に想いを馳せる。

 

「なんて言えば……困ったな……」

 

 今まで何度も訪れているはずなのに、緊張してしまう。アスティアに言われるまでもなく、このままでは駄目だと思ってはいた。だが日々の仕事に追われて考える余裕がなかった。

 

「いや、考えないようにしていたのか……」

 

 もしかしたら怖いのかもしれない。カズキに否定され、ただの兄だと言われてしまうことに。魔獣も死の恐怖すら抑える心なのに、まるで子供に戻ったみたいだ……アストは自嘲を止められない。

 

 貴重な樹液を何度も塗り重ねた光沢のある黒い扉、聖女の間の前に立った。警護の騎士達は気を利かせたのか距離を取る。無論聖女の間へ続く廊下から目は離さないだろう。

 

 いつ迄も立っていてもしょうがないと、右手を上げる。だが命令を必ず聞くはずの手は動かない。ただ扉を2、3度叩くだけの簡単な任務なのに。

 

 ギギ……

 

 何もしていないのに、黒い扉が開いた。

 

「クイン、は……ん、アスト?」

 

 廊下にいるはずの騎士にクインへの言付けを頼もうと、カズキが隙間から顔を見せた。目の前に立つ男を見上げ、それが誰なのか気付く。

 

「や、やあ」

 

 心構えも言葉も用意していなかったアストは吃る。情け無いことに挙げた手は僅かに震えていた。

 

 カズキは更に扉をよいしょよいしょと開き、再びアストに向き直った。

 

「どうぞ? アスト」

 

「ありがとう」

 

 あっさりと聖女の間に入り、見慣れた筈の部屋を見渡した。気にした事もなかった柔らかい花の香りが鼻をくすぐり、フワリと香ったのがカズキ自身だと理解する。

 

 トコトコとアストの横を通り過ぎると、もう慣れたのかお茶の用意を始めた。

 

「星空の……」

 

 濃い群青色したワンピースの裾に星空があしらっている。何度も破いた服は再びカズキを包んだようだ。髪が灰色でなければ外と同じ夜が訪れただろう。

 

「こっち」

 

 促されたアストは窓の側にある丸テーブルへと向かう。普段カズキが休んでいるベッドが視界に入り、何故だが目を逸らしてしまった。

 

 腰掛けたアストをチラリと見て、無音の中でお茶が用意された。カチャリと置かれたカップには薄紅の液体と小さな白い花が一つ浮いている。鼻を抜けるハーブの香りは少しだけアストを落ち着かせてくれた。

 

「どぞ、召し、上がる?」

 

「ああ、頂くよ」

 

 口に含めばより強い香りと僅かな苦味が感じられて、自分好みだと嬉しくなる。

 

「美味しい……カズキ、本当に上手だな。香りも最高だ」

 

「良かった」

 

 カズキに薄く笑みが浮かび、再び胸が高鳴ってしまう。同時にヴァツラフと交わした笑い声とは違う笑顔に嫉妬を覚えもするのだ。

 

 アストの真正面ではなく左隣りに腰掛け、カズキは瞳を向ける。

 

「どうして、アスト」

 

 どうしたのと聞くカズキを抱き締めたい欲求が襲い、内心驚くアストは頑張って表には出さなかった。変わりに口が勝手に動く。

 

「少し散歩に行かないか?夜なら涼しいし、静かだから……遠くには行かないけど」

 

「ん?散歩……分かった」

 

 あっさりと了承するカズキを見てアストはホッとする。特に決めていた訳ではないが、不自然では無かった筈と胸を撫で下ろした。半分残ったお茶を飲み干して立ち上がる。

 

「準備を……クインを呼ばないと……」

 

 扉を見たアストの手にそっと添えられたカズキの手は温かい。力が抜け、幸せが訪れる。

 

「行こう」

 

「……ああ」

 

 リンディアの王子と聖女は扉を開き、其処から去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「体を動かしたい。頼めるか?」

 

「そうですな……会談ばかりでは気疲れもお有りでしょう。私も名高いファウストナ戦士団の戦い振り、興味があります」

 

「決まりだな。何処でやる?」

 

「少し歩きますが、城内にも訓練場があります。夜とはいえ明かりも届きますし、夜間の訓練もありますからな。今は誰もいませんし、騒がしくないでしょう」

 

 リンディア最高の騎士ケーヒルとファウストナ戦士団団長のヴァツラフとの試合となれば、金を払ってでも見たい者が大勢いるだろう。しかし、二人には当然そんなつもりなどないし、二人だけなら思う存分腕を振るえるのだ。

 

「それは良い。手加減など無用だぞ? ケーヒル殿」

 

「ははは、此方こそ御手柔らかに頼みますぞ? 老骨には堪えますからな。では、ご案内しましょう」

 

「頼む」

 

 生まれも育ちも違う二人だが、魔獣相手に何度も死闘を繰り返してきたのだ。何処かに親近感はあるし、何より他国の戦い方には興味が尽きない。ファウストナにいた頃から話には出ていたが、漸く念願が叶ったかたちだ。

 

 二人の男はゆるりと歩みを進めながら会話が続く。

 

「そういえば、リンスフィアを散策されたとか。如何でしたかな?」

 

「お世辞抜きで素晴らしいと思った。ファウストナにも資料は有ったが、実際に目にすると印象は変わってしまったな。それと……聖女カズキ様の歩んだ道も案内して貰った。救済を成した場所も立ち寄ったが、未だに信じられない。体が震えたのを覚えている」

 

「直接間近で見た私でも神の奇跡以外に思えませんから、それも当然でしょう。今でこそ街は平和ですが、あの時は絶望に溢れておりましたから……」

 

「ケーヒル殿、質問がある」

 

「はっ、何なりと」

 

「救済の日、カズキ様は大変な怪我を負ったと聞いた。アストの話では魂魄すら捧げたと。今は北の街に慰問に向かわれているのは知っているが、お身体は大丈夫なのか?」

 

 ラエティティと話した内容は当然伏せているし、ケーヒルが真実を話すとは思えない。それでも何かが分かればと言葉にした。

 

「……正直万全とは言えないかもしれません。平和の訪れた世界ですが、聖女は今も慈愛を強くお持ちですので……つい最近も……いえ、それはいいでしょう。ご質問の答えですが、カズキ様は間違いなく世界を見守っています」

 

 取りようによって変わる曖昧な返答だが、ラエティティの考察を否定はしていない。聖女が死んだとしても、神々の御許へと抱かれている筈だ。そして今も救済した世界を見守っている。

 

「そうか……話は変わるが」

 

「何でしょう?」

 

 少しだけ安堵したケーヒルを見て、更に言葉を紡ぐ。

 

「カーラは何者なんだ?」

 

「……何者、とは? ただの……」

 

「ただの侍女見習いか? 違うだろう?」

 

 少しだけ戦意を込めヴァツラフはケーヒルを見た。だがそれに動揺するような男などではない。

 

「確かには事情はあります。しかし、それが何か?」

 

 貴方には関係ない事だと暗に伝える。一歩間違えば不敬に当たるだろう。しかしケーヒルは戸惑ったりはしなかった。

 

「いや、余計な事だったな。数日も共に居ると、身近に感じてな……そろそろ目的地か?」

 

 話を逸らしたヴァツラフだが、内心は確信へと変わっていった。やはり何かあるのだと不信が募る。

 

「あの先です……おや?」

 

「あれは……」

 

 訓練場の前、その入り口に配置されたベンチの一つ。そこに二人の人影が見えた。

 

 片方はヴァツラフと同じ位の長身の男。白銀の髪は男にしては長いだろう。少しだけ肩に掛かっている。細身だが、背中だけでも鍛えられた戦士だと分かる。

 

 その隣に座っているのは小さな女の子だ。いや、身長こそ小柄だが大人になりかけの女性とも言える。灰色の髪には見覚えがあるし、侍女服こそ着ていないが今日も街を共に歩いた。

 

「カーラ」

 

 聞こえたのだろう、二人の男女は振り返る。

 

 間違いなく、リンディアの王子アストと、侍女見習いのカーラだった。

 

「ヴァツラフ、か……」

 

 まるでカーラを隠す様にヴァツラフの前にアストは立った。

 

 そして二人の王子は真正面から視線を合わせ、暫しの無言の時間が流れていく。

 

 言葉は必要なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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a sequel(22) 〜全ては聖女の為に〜

 

 

 

 

 

 この季節の天候は変わり易い。

 

 蒸し暑さこそ無いが風の流れは早く、先程まで見えていた月明かりもボンヤリと雲を照らしている。雨は降らないだろう事が朗報と言えるのかもしれない。

 

 散歩と言っても夜のリンディア城では行ける場所が限られる。篝火はあるが大量に設置している訳ではないし、人員もあの戦いで大きく減じたのだ。

 

 資源も人も、各街や村の復興や森の開拓に注がれている。王城に手を加えるべきとの言もあったが、カーディルは城よりも民にと願った。

 

 無計画に歩むアストは内心少しだけ頭を抱えている。カズキが喜ぶところなど、あるだろうか?と。

 

 庭園は薄暗く、危険だ。

 

 昼間なら花を楽しむ事も出来たが、言っても仕方が無い。アストの隣りには特に不満も言わず歩くカズキが居る。愛おしさは溢れてくるが、何を話せば良いのか。

 

 自分はこんなに情け無い男だったのかと笑うしかない。

 

「アスト」

 

「あ、ああ。なんだい?」

 

「ロザリー、お、はか? いつ?」

 

「ロザリーのお墓だね? もう少しだ」

 

 見上げるカズキに視線を合わせ、言葉が伝わったのを確認する。

 

「街の人も沢山手伝ってくれているんだ。特に賃金は払えないのに、皆が毎日……」

 

 ここで綺麗な瞳に疑問の色が浮かび、アストは言葉を切った。

 

「?」

 

「皆、手伝ってくれている。もう少しだけ待ってくれるかい?」

 

「分かった」

 

 少し会話して緊張が解れたのを感じ、これも癒しの力なのかなと笑ってしまう。

 

「ロザリーもカズキと早く会いたいだろう。準備出来たら一緒に行こう」

 

 コクリと頷き顔を上げて周囲を見渡すカズキは、遠くに見える庭園に気付いた。暗いからよく分からないが、聳え立つ大木は嫌でも目立つのだ。言語不覚に強く縛られていた頃、鏡の前でアスティアが教えてくれていた。後になって、あの白い世界で理解した事だ。

 

「ボタ……ボタニ、湖?」

 

「えっ!? カズキ、分かるのか?」

 

「前に、アスティア、教える。白、世界」

 

「アスティアが……」

 

 白、世界……その意味は分からないが、間違いなくアスティアの言葉は伝わっていたのだ。

 

「いつか、行こう、一緒に……遠く?」

 

 アストは心がジンワリと温かくなるのを知って、それでも僅かに残っていた緊張も溶けて消えていくのが感じた。

 

「確かに遠いな……でも必ず連れて行く。絶対だ」

 

「嬉しい」

 

 何度見ても飽きない微笑を見て、カズキの左手を自然に取ることが出来た。優しく、でも離したくないと力を込める。カズキは、チラリと繋がれた二人の手を見てそのまま前を向く。

 

 足音は響き、それ以外は沈黙が流れていく。でも嫌な時間なんかじゃないとアストも前を向く事が出来た。

 

 視線を向けた先、ぼんやりと火に照らされた広場が目に入った。其処は長い年月を掛けて騎士達が踏み固めた訓練場。今や雑草すら生えず地肌だけが露出している。魔獣との戦いに備え多くの男達が木剣片手に日々を過ごした、そんな場所だ。

 

 カズキを態々連れて行くような場所では無いが、少し案内だけするか……アストは「こっちに」と促して、ゆっくりと近づく。

 

「此処は、訓練場だ。カズキは初めてだろう?」

 

「訓練?……うん?」

 

「其処に座って……」

 

 長椅子に何枚か落ちていた葉っぱと土埃を払い、腰掛けるよう伝える。そして小さな小屋から重い木剣を引っ張り出して、ゆっくりと剣舞を見せることにする。。別に自慢なんてするつもりは無く、この場所を分かり易く説明するのに丁度良いだろうと思っただけだ。

 

 ……ビュ!

 

 ザザッ!ブブン、シュッ!!

 

 上段に構え、振り下ろす。右足を引き、払いを二度、そのまま空間に突きを入れた。僅か数瞬、突きの姿勢を保つ。木剣は微動だにしなかった。

 

 アストからすれば本番には程遠い速度だが、それでも鍛え上げた剣技は風を裂く音を奏でたのだ。そして力を抜く。

 

「訓練する場所だ。騎士の皆が日々鍛えている。カズキが癒してくれた世界だけど、今も訓練は欠かしていない」

 

 ポカンとアストの剣舞を見ていたカズキだが、パチパチと小さな手を叩き拍手を贈る。やはり本物の戦士は違うと感心するしかないのだろう。

 

「はは……実際には隊としての訓練が多いけどね。カズキに拍手されると嬉しいよ」

 

 木剣を長椅子に立て掛け、アストはカズキの隣に座った。ほんの少し近付けば身体が触れ合う、そんな微妙な距離。

 

「今日は付き合ってくれてありがとう。もう疲れが全部消えてしまったよ」

 

 本心だった。やはりカズキは癒しの力を司る聖女なのだと思い、同時に自分の隣に佇んでくれている事に幸せを覚える。こんな幸せが訪れるなんて、夢なのではと疑ってしまう程だ。すぐ側にいるカズキの存在を感じようと、感覚を研ぎ澄ました。

 

「いつで、も」

 

「うん?」

 

「いつでも、言って。大丈夫」

 

 何処までも綺麗な翡翠色が自分を見上げている……目を合わせてもカズキは視線を外さない。だから、その色に吸い込まれそうになろうともアストは見詰め続けた。

 

 あの黒髪はくすんだ灰色になって、首回りの肌は傷んだまま。もしかしたら跡も残るかもしれない。目の前の少女は我が身を顧みず人々を想う聖女だ。だが、見た目が少し変わってもアストの気持ちに変化など無い。寧ろ……より高まり強くなったと思う。

 

 ほんの少しだけ左手と右手が触れ合って、互いの体温が届く。遠くに思えるのに、すぐ側に在る。強く感じるのだ。

 

「カズキ……綺麗だ……私は、君の事を」

 

 

 

 

 

「カーラ」

 

 背後から低い男の声が届いた。アストもカズキも振り向き、近づいて来る二人が視界に入る。巨体を揺らすのは間違いなくケーヒルだ。アストに僅かだけ目礼する。

 

「ヴァツラフ、か……」

 

 少しだけ絡んでいた指を離し、アストは腰を上げた。そしてもう一人の男、ヴァツラフの前に立つ。

 

 ケーヒルは回り込み、カズキの近くで立ち止まり静かに待つ様だ。

 

 二人の男、リンディアとファウストナの王子は向かい合い暫し無言の時間が続く……カズキが立ち上がる音がするまで動かなかった。

 

「アスト、こんな時間に()()か?」

 

「……君こそ、どうしたんだ?」

 

「一緒さ。ケーヒル殿に付き合って貰って一汗掻こうと、な。会談ばかりじゃ身体も鈍ってしまう。俺は元々一人の戦士だ」

 

「そうか……なら邪魔はしない。私達は行くよ」

 

 カズキの手を再び取ろうと、アストは視線を外す。いや、外しかけた。

 

「アスト、ケーヒル殿にも負けない腕だと聞いている。一手、手合わせ願いたい」

 

「……いや、私は……」

 

「話したい事もある。同じ王子として、一人の友として。カーラ、構わないか?」

 

 ケーヒルの方を伺っていたカズキは少しだけ驚き、勢いで頷く。もしかしたら意味は伝わっていないかもしれないが、今は関係ない。ヴァツラフの心は粟立ち、沸々と何かが溢れそうだった。

 

 何か、ではない。これは……怒り、そして嫉妬。失望や自身への戸惑いなのだろう。母の考察は確実とは言えないかもしれない。しかし、もし真実を捉えているのなら、目の前に立つアストは聖女を差し置いて此処にいるのだ。亡くなったしまった聖女に寄り添う事は出来なくとも、心だけでもと……

 

「……分かった。私もヴァツラフの戦士としての力に興味はあった。ここなら明るいし、ちょうどいいだろう」

 

「決まりだな。ケーヒル殿、済まないが……」

 

「いやいや、構いませんぞ。寧ろお二人の試合、楽しませて頂きます。宜しければ私が審をとりしょう」

 

「光栄だ、頼もう」

 

 

 

 顎髭を撫でながら、目尻には笑みが浮かぶ。ケーヒルとしても、騎士と戦士の戦いには興味が唆られる。何より……

 

「良いきっかけになるかもしれん……」

 

 聞こえないよう呟くケーヒルから見ても、アストとカズキの関係にはヤキモキされたものだ。情勢が動かないとき、何かを起こすのは外圧と決まっている。ヴァツラフがそうなのか分からない。しかし、明らかにカズキを意識しているのだ。カーラとカズキ……状況は複雑だが、戦う者なら剣と槍を交えれば良い。

 

 二人は両国を代表する騎士と戦士。騎士団長と戦士団団長、幸い煩わしい観客も目撃者もいない。思う存分にぶつかればいい。二人にとって最も大切な人なら直ぐ横で見守っているのだから。

 

 若人達が広場へと足を進めるのを見て、もう一度呟く。

 

「若いとは……素晴らしいな……」

 

 万が一、破片や武器が飛んでくるとも限らない。ケーヒルはカズキの側に控え、聖女を僅かな危険からも守るよう集中する。勿論、二人から目を離さない。

 

「ケーヒル?」

 

「ん? おお、どうした?」

 

「怪我、鎧、なし」

 

「心配か……そうだな……二人は一流、一撃すら軽くは無い。だが、万が一の時は私が止める。大丈夫だ」

 

「……分かった」

 

 アスト、ヴァツラフ両名は広場の中央に並び、距離を取った。まだ構えてはいないが、空気は張り詰めていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 槍の代わりだろう。ヴァツラフは細い棍棒を手にしている。リンディアにも槍はあるが、伝統的に剣を使う。森人も小剣を必ず装備していて、森では長めの武器は忌避されるからだ。

 

「ヴァツラフ、それで大丈夫なのか?」

 

「これか? 問題ないな。我が国では訓練時に"棍"を使う事もある。寧ろ重みもあってしっくりくる程だ」

 

「"棍"か……聞いた事がある。ならば遠慮は要らないな」

 

「当たり前だ」

 

「では……」

 

「アスト」

 

「……どうした?」

 

 ヴァツラフは離れた場所にいるケーヒルと、その後ろで此方を伺っているカーラを見た。話し声は聞こえないだろう。読唇術を駆使すれば可能だろうが、態々それを行う時ではない。

 

「遠回しな話しなど俺は好まない。はっきりと言うぞ?」

 

「ああ」

 

「俺はカーラをファウストナに連れ帰りたい。無論彼女が認めてくれたならだが。カーラが侍女としてリンディアに仕えているのは知っているが、これは正式なファウストナ王子としての言葉だ」

 

 その訴え自体に驚きは少なかった。アストも自覚している嫉妬の矛先は目の前のヴァツラフなのだから。男としてカズキに惹かれているのは分かっていた。何より自分もそうなのだから。

 

 だが……何と返すべきなのか……

 

 カーラはカズキ、聖女なのだと伝える? だが、それに意味はあるのだろうか? ヴァツラフが聖女と知ったからと諦めるのか?

 

 自分に置き換えてみればいい。この瞬間カズキが聖女でなくなったとして、この気持ちは消えてなくなる?

 

 否だ。

 

 自分もヴァツラフも、聖女であるかどうかに意味などないのだ。二人ともカズキの在り様と優しい心に惹かれている。癒しの力など消えて無くなっても構わない。

 

 ならば、答えは決まっている。

 

 今と同じ……戦うのだ。くだらない言い訳など必要ない。カズキの心を決めるのはカズキ自身なのだから……少しだけ俯いていた視線をヴァツラフに戻す。

 

「……もし、カーラがヴァツラフを選ぶなら……私に止める権利などない。だが、彼女の意思こそが大切だ。無理矢理や立場を利用しないなら」

 

 無理矢理?立場? それは自分の心に問えるのか!どの口が……死んだ聖女を演じさせる罪の深さを、城を抜け出したあの日を知らないとでも言うつもりなら……そう叫びたいヴァツラフは歯を食いしばり、努めて冷静に返す。今は感情に左右される場合ではない。囚われたカーラを必ず助ける。此処でアストの心を折ってしまえばいい……

 

「……そのつもりだ。カズキ様にお会いしたいが、それも叶いそうにない。カズキ様に伺いをたてる必要はないか?」

 

「うん? いや、聖女に聞く必要などない。何故そんなことを?」

 

 やはり……そうなんだな、アスト……

 

「……いや、必要がないならいい。では、始めるか」

 

「……ああ。ケーヒル、頼む」

 

「はっ」

 

 ヴァツラフの質問の意図は不明だが、これ以上話しても仕方が無い。はっきりと気持ちを伝えなければ……そうアストも強く思い、この戦いにも勝つと決めた。同時にヴァツラフも、アストに打ち勝ち勝者としてカーラに向き合いたいと思っている。

 

 くしくも両王子は試合の域を超えた決意を固めていた。

 

 

 

 

 

 リンディアのアストは正眼に構え、ファウストナのヴァツラフは左前半身で構える。

 

 ヴァツラフの持つ棍はアストの木剣の倍は長いだろう。当然間合いも変わり、戦い方にも大きな差が出る。対魔獣として鍛えた技術ながら、根本が違うのだ。

 

 カズキはケーヒルに促され、先程長椅子に腰掛けなおしていた。興味津々なのは丸分かりで、瞳はキラキラと輝いている。

 

 まさか自分という女を争って戦っているなどと、想像もしていないのだろう。世の女性の大半が憧れる二人の王子による取り合いも、聖女には関係がないらしい。

 

 白銀の髪を風に揺らし、微動だにしない碧眼のアスト。短く刈り揃えた赤髪と琥珀色の瞳を持つヴァツラフ。身長は殆ど同じ、体格はヴァツラフが上。アストが美を併せ持つ王子ならば、ヴァツラフは男らしさを全身から放つ丈夫(ますらお)だ。

 

 ケーヒルは右手を高く上げ、そして振り下ろした。

 

「はじめ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(23) 〜勝てなくとも〜

 

 

 

 

 

 

 視線だけで何合か斬り結ぶ。時には肩を揺らし、切先を左右に振った。

 

 摺り足はいつの間にか二人の立ち位置を入れ換え、剣先と棍が触れ合う寸前まで近寄っていく。

 

 剣はまだ届かない。

 

「ふっ……!」

 

 アストから見て棍が一つの点になった時、ヴァツラフは片手だけで突きを放った。普通なら下半身を使い重心を動かす必要があるのに、力の刻印が常識を破る。腕力だけで必殺の一撃に変わった。

 

「っ!」

 

 油断などしていなかったが、予想外の攻撃にアストは半身ごとずらし躱すしかない。それは当然隙になって、ヴァツラフの踏み込みを許した。棍はそのまま円運動を開始して首筋を狙う。

 

 ガガッ!

 

 体勢が崩れるのも構わず、アストは無理矢理に剣を間に入れた。だが、更に予想を超える結果を生み出す。

 

「ぐ……」

 

 信じられない事にアストの身体が僅かに浮き、数歩後方まで空中を移動する。背中を打ち付ける前にそのまま後転に入り、ゴロゴロと地面を転がって、何とか距離を取った。

 

 ヴァツラフは追撃せず、様子を伺う。明らかな余裕の現れだった。絶対的な差をまざまざと見せつけ、アストの心を折る事が目的だから当然なのだろう。

 

「これが……力の……」

 

 5階位の超越した力を知るアストだったが、2階位の刻印の恐ろしさを改めて実感する事になった。まるで魔獣の一撃を受けたかの様に、腕が痺れている。

 

「よく躱した。大抵の奴は今ので終わりか戦意が喪失するものだが……違うのだろう?」

 

「正直驚いたが……やりようはある」

 

「……続けるぞ」

 

 立ち上がったアストに肉迫し、ブォンと大振りに胴を払う。アストも間合いを読み、敢えて前に突進する。中間あたりなら棍先より力が伝わらない、それを狙って前へ出た。

 

 ガン!

 

 アストは今度こそ体勢も崩さずに、剣の届く距離まで踏み込み初めて攻めへ転ずる。身体を傾けながらヴァツラフはアストの最初の突きを避け、同時に棍を引いて両手に持ち替えた。

 

 カッカカッカン……

 

 続くアストの剣を右左とすらし、更に踏み込んできた払いを跳ね上げてビュンビュンと腰に巻きこみながら距離を取る。間合いを離したくなかったアストだったが、足元に突きを入れられて後退するしかない。ドカリと木製の棒とは思えない音が当たった地面から響く。

 

 やり難い……悔しいがアストは力の差を感じていた。ヴァツラフは間違いなく本気ではない。刻印の力を利用したのは最初だけで、それ以降は技術だけだ。共に技術に大した差は無いだろう。つまり筋力で押し負ける……

 

 再びジリジリと間合いを測り始めた二人を見ながら、ケーヒルはふむふむと顎を摩っていた。

 

 実力そのものに大きな違いは無いが、このままならアストが勝つ確率は低いと思える。だが……それは常識の範囲、対人の戦いならば、だ。それに気付くかどうかで、勝敗は簡単に決まるだろう。しかし思った以上に戦気を感じる。まるで仇敵を相手にしている程だ。やはり女の存在は男を変えるのか……よく事情を理解していないケーヒルは呑気に思った。

 

 視線を下げれば、当の聖女はポカンと可愛らしく口を開いている。思わず吹き出しそうになったが、ケーヒルは顎に添えていた手で口を覆った。

 

「次だ!」

 

 ヴァツラフの掛け声はその先にある篝火にすら届いたのか、僅かに揺れた様に思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女王の願いを受け、クインはラエティティの元を訪れていた。只の侍女が一人など不自然な事だが、カーディルより王室相談役でもあり聖女専属として紹介されていたからだ。

 

 長らく続けていた世間話は少しずつ変化していく。

 

 

「白祈の間……予想通り、荘厳な空気を感じる素晴らしい場所ですね。確か、祈りの言の葉を紡いで語り掛けるのでしたか? 銀円盤、他に何種類か祭器があると何かの文献で見ましたが」

 

 実際にはどの文献にどれだけ表記されているか鮮明に覚えているが、ラエティティは敢えてぼやかした。態々教える意味も無いし、少し恥ずかしさもある。

 

「女王陛下、素晴らしい御見識です。祭器には他に、中広形の鉾、銀製の短剣と鐘、神酒を汲む酒器、古代より受け継ぐ言の葉の綴りなどが有ります。細部はリンディア王家に口伝にて伝わる為、私も全てを知る訳ではありませんが……長い祈りが神々に届いていたと、そう信じています」

 

「まあ……貴女も良くご存知ですね。只の侍女ではないと教えて貰いましたが、流石に聖女カズキ様専任……深い神代の知識も必要になるでしょうから。今はカーラさんの教育係でもあるのでしょう?」

 

「日々を懸命に生きる事で精一杯ですが、確かにカズキ様の専任侍女の大役を仰せつかっております。カーラは、見習いとしてこれからですので……失礼無いよう気を付けます」

 

 言葉にせずともラエティティは二人の息子を、クインはカズキを思った。

 

「……お互い教育に力を入れないとなりませんね……」

 

「はい……」

 

 二人……ラエティティとクインは小さく溜息をつく。

 

「聖女カズキ様……貴女から見てどんな方なのでしょう?是非教えて欲しいですね」

 

 予想された質問ではあったが、クインは気を抜かないよう、それでも心を込めて答える。

 

「カズキ様は……目が離せない、ふと居なくなってしまう、そんな心配の絶えない方でした。溢れる献身、強い慈愛は眩しいばかりで……偶に見せる笑顔に全員が幸せを感じる。でも……」

 

「でも?」

 

「何処か物悲しくて心には悲哀が絶えない……カズキ様の過去を聞きましたから、納得も出来たのですが……辛い境遇の中でも慈愛を失わなかったのは奇跡としか言いようがありません」

 

「そうですか……貴女はカズキ様の刻印を解読したと聞きました。何でも七つの刻印が刻まれていたと。本当なのでしょうか?」

 

「私一人の力ではありませんが、その全てを拝見しました。初めて見た時は本当に驚いてしまって……5階位の、聖女の刻印は信じるまで何度も確認してしまったほどです」

 

「やはりカズキ様にお会いしたい……マリギからのお戻りはまだでしょうか?」

 

 此処で初めて、ラエティティから微笑が消えた。しかしクインは顔色すら変えず、淡々と質問に答える。女王の琥珀色した瞳から視線すら外さない。

 

「未だマリギにおられるようです。何か心残りがあるのでしょう。あの救済にすら満足せず、それどころか犠牲者に懺悔のお気持ちを……もっと何か出来た筈だと後悔を持たれたままなのです」

 

 つい最近も、一人治癒院へと向かったのだから……クインは灰色に変わってしまった黒髪と、今朝も処置した首回りの肌を頭に浮かべた。

 

 ジッと視線を外さないラエティティは暫く動かなかったが、クインの碧眼が揺れないのを確認して力を抜いた。

 

「ファウストナには刻印持ちは非常に少ない。ヴァツラフこそ2階位ですが、そもそも珍しいのです。ですから……時に人は神々の加護を忘れてしまう。ましてやこんな時代、人の心は簡単に乱れ荒む……」

 

 いきなり流れが変わったかに思えたが、クインは次の言葉を待つ。

 

「情けない事に、ファウストナの民ですらヴァツラフを恐れるのです。人の肉体を簡単に破壊する力は魔獣にだけ向かうのではないと。我が息子ながらアレは気の優しい男です。それでも人は愚かな思考を……私は怒りを覚えるのを抑えられない」

 

「それは……畏れながら陛下も一人の母。そのお気持ちは当然の事でしょう。気に病むなど……」

 

「違います」

 

「……どういう事でしょう?」

 

「ヴァツラフは優しい男ですが、弱くは無い。ましてや王族として国に身を捧げるのは当然のこと。彼の心情など些事でしょう。ましてや彼は使徒。人の常識と並べるのは愚の骨頂」

 

 謙遜でも、ましてや虚実でもない。ラエティティの心からの本心。そして続く言葉には、誰よりも強い神々への信心が溢れ出す。それはジワジワとラエティティから滲み出し、クインまで伝わっていった。

 

「私の怒りの矛先は、神々の加護を軽んじるその思考です。人は人、使徒は使徒。ヴァツラフでなくとも刻印持ちを恐れるなど不遜の極み。使徒は人の身を持ちながらも同時に、神々に最も近い存在です。()()()()()()()()()()()()()()()()、絶対に許せません。そう、絶対に……」

 

 もちろん貴女もそう思うでしょう?

 

 ラエティティの声はクインへと突き刺さった。動揺など見せるつもりは無かったのに、王としてのラエティティの凄みと、何より紡いだ言葉の意味を察して……

 

「そ、それは……」

 

「あら? 気になる事でもありましたか?」

 

 間違いない。ラエティティはカズキに課した嘘を知った……いや、疑っている? ならば、今の話は探りを入れて……もう一度その琥珀色した瞳に視線を合わせたが、蘭々と光を放つ其処には確信が見える。そんな気がするのだ。

 

 どうする……クインは思考を更に加速させる。しかし、ラエティティはリンディア屈指の頭脳を更に混乱させる台詞を繋げていく。

 

「カーラ。確か"パウシバルの指輪"に登場する聖女の名ね。ファウストナでは考えられないけど……聖女の名を付けるなんて、やはり国が違うと()()も違うの? 軽々しく使徒を扱うなど、許されないと思うけど」

 

 最早敵意すら隠さず、クインに相対する。

 

 ジンワリと汗が流れるのを自覚したクインは警戒を強めた。あの古い物語すら知識にあるとは余りに予想外……あれはリンディアの物語なのに。

 

 此処にカーディルもアストも、優しい祖父コヒンも姿は無い。そして話している内容はギリギリ世間話の域を超えていない。なのに、吐いた嘘が責め苛む。

 

 だが……理屈に合わない。

 

 カズキとカーラが同一人物と疑っているなら、カーラの名付けそのものに怒りなど覚えないはず。ラエティティの怒りは、使徒でもない少女に尊い名を授ける事に向いているのだから。

 

 カズキは世界に一人しかいない正真正銘の聖女なのだ。

 

「……ラエティティ様……」

 

「いけない! もうこんな時間ですね。クインさん、遅くまでありがとうございます。今日は大変有意義でした。また、お話しをしましょう」

 

 先程までの氷の中にいる様な空気は溶けて、ラエティティは少女の様な笑顔を見せた。

 

「……はい。此方こそ、光栄でした。またいつでもお呼びください」

 

「嬉しいわ。是非カーディル陛下に()()()()()()頂きたいです」

 

「……はい、必ず。それでは、失礼致します」

 

「クインさん、お休みなさい」

 

 深々と頭を下げ、クインは扉が閉じるまで動かない。今は表情を見られたく無かった。

 

 パタンと耳に響いて、クインは背を向け歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿下、お気づきになられましたな……」

 

 先程とは明らかに違う。

 

 一撃に全てを賭けたりしない。小さな傷でも良いと、脚を使い始めたのだ。大振りもないし、狙いは手首や脚。致命となる頭や首は殆ど狙わない。

 

 斬っては離れ、少しでも相手に攻撃の素ぶりがあれば即座に離脱する。

 

 卑怯?

 

 いや違う。これは対魔獣の戦法だった。

 

 ヴァツラフは魔獣にも劣らない膂力を振るう戦士。身体こそ魔獣より小さいが、その一撃は重い。あの長い棍は爪と牙だ。

 

「くっ……」

 

 変則的な動きに、ヴァツラフも的を絞れなくなっていた。

 

 元々自分より力が強く、大剣を扱うケーヒルを相手に訓練してきたのだ。相手を自分より強者と認めれば、やりようはあった。

 

「凄い……」

 

 呟くカズキもアストの戦法が理解出来るのか、感嘆の言葉を紡ぐ。或いはそれすら見事に躱すヴァツラフに届けたのか。

 

 自分の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じる……周囲の景色も、風も、音も遠くに消えていく。愛するカズキすら今は見えなくなった。

 

 見えるのは、自分と剣。ヴァツラフと棍。それだけだ。

 

 まるで決められた演舞を舞うかの如く、全てがゆっくりと流れていく。合わせるのは簡単で、迫り来る全てに軌道の線が引かれている。

 

 焦れたのか、長い棍は左脚を狙う()()()()()()()()()()()。態とギリギリまで待って、地面が抉れて埋もれていくのを確認した。

 

 ガガッ!

 

 ヴァツラフは引上げながら、手前に戻そうと動く。だからアストは半身になりながら、右脚で上から踏み抜いた。

 

 バキィッ!!

 

「ちっ!」

 

 あれ程に硬い棍はあっさり折れて、全長は七割程度に減じた。その長さはアストの持つ木剣と殆ど変わらない。つまり、槍としての強みは失われたのだ。

 

「貰った!」

 

 勝利を確信して、そのままヴァツラフに肉薄する。

 

 だがアストは自らの間違いに気付いた。しかしもう遅い。ヴァツラフの眼は変わらず冷静で、余裕すらあった。

 

 カッ

 

 長剣程になった棍は先程とは比べられない速度で回転し、同時にヴァツラフにのみ許された膂力で剣は上方へ跳ね上げられてしまう。その衝撃に耐えられず、手から感触が消える。

 

 そのまま折れた先をアストの咽喉元に当て、動きは止まる。暫くすると二人の側に木剣が落ちてきて、カランと鳴った。僅かに刺さった事で、アストの首筋からほんの少しだけ血が滲んでいった。

 

「……私の負けだ」

 

 感情の篭らない声を出し、目を閉じた。

 

「どうだかな……アストはファウストナをよく知らなかっただけで、俺は剣の戦いを知っている。それが理由かもしれない」

 

「それまで!」

 

 ケーヒルは僅かに笑みを浮かべ、二人の王子の元へ歩み寄った。

 

「お二人とも見事!この老骨も血が滾りましたぞ!」

 

 ヴァツラフも折れた棍を下ろし、ケーヒルを見る。其処に勝者の歓喜はない。

 

 対魔獣には長槍を使う。しかしファウストナでは短槍を街中や対人戦でふるうのだ。先程はより対人戦に適した長さに変わっただけで、最初から短槍であればアストの戦い方にも違いがあっただろう。

 

 次も必ず勝てるとはヴァツラフも思えなかった。それ程に尋常ならざる動きをアストは見せたのだ。心を折ると考えた自身の傲慢を思う。しかし同時に納得出来ない……それ程に鍛え上げた精神は気高きもの。カーラや聖女に対する行動と気高き心が相反していると感じるのだ。

 

 もう一度アストを観察しようとした時、場にそぐわない柔らかな声が響いた。

 

「アスト、ヴァッツ、お疲れ、驚き」

 

 素直に称賛を贈るカズキも瞳を輝かせている。

 

 ヴァツラフには勝利の余韻はなく、敗者であるアストも当然笑顔はなかった。しかし、あまりに真っ直ぐな感情を放つカズキを見れば、二人は力が抜けていった。

 

「……ヴァツラフ、良い経験が出来た。ありがとう」

 

「俺も……またやろう」

 

 握手を交わし視線を合わせる。変わらず複雑な感情だが、今は彼女の前だ。

 

「ケーヒル殿、カーラ。アストともう少し話がしたい。悪いが、先に戻ってくれるか?」

 

「分かりました。殿下、よろしいですか?」

 

「ああ、カ……カーラを部屋まで送ってくれ。カーラ、お休み。また話そう」

 

「うん。アスト、ヴァッツ、お休み、なさい」

 

 カーラを見送り、もう一度向き合う。

 

 

 二人の影は深夜まで消えることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




来週末に完結予定です。
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a sequel(24) 〜晩餐と月〜

今週末に向けてラストスパート。完結間近です。


 

 

 

 

 

 

 

「ラエティティよ、前も言ったがカーディルと呼んでくれていいのだぞ?」

 

「もう癖みたいなものです。気にしないで下さい、カーディル王。私の名はそのままでお願いしますね」

 

「うむ……それは構わないが、友好国としてだな……」

 

「決して二心はありません。本当に此れが私ですから。我儘を許して下さい」

 

「……分かった」

 

「それにしても見事な晩餐です。ファウストナでは味わえない一品ばかり、毎日が楽しみで太ってしまいそうでしたから」

 

「貴国から提供された塩は素晴らしいと、料理長が言っていたそうだ。間違いなく其のおかげだよ。雑味がここまで消えるとは、私も驚くばかりだ」

 

「まあ!それは嬉しいです。国の製塩職人に必ず伝えますわ」

 

 

 ほぼ全てが合意に達し、両国は新たな時代へと歩み出す事となった。明日の夕方にはカーディルとラエティティの二人が調印し、同盟国として復興を推し進める事になるだろう。

 

 それを祝し、両国の王は白祈の間に広がる広間にて晩餐を楽しんでいた。カーディルからの提案だったが、快諾したラエティティがこの場を願ったのだ。

 

 カーディルはあと一歩足りないと思っている。出来るだけ砕けた態度も隠してないし、先程も名を呼んで欲しいと伝えた。しかしラエティティから隔意は消えない。元々の性格といえばそうだろうが、アスティアから聞いた女王はそうではないのだ。ファウストナから見れば隔絶した国力を誇るリンディアに警戒を解いていない?いや、それはない筈だ。我等にファウストナに対する敵意は全く存在しない。

 

 やはり……カーディルは内心呟く。

 

 聖女不在が効いているのだろう。僅かな時間稼ぎのつもりが此処まで掛かるとは……嘘を吐くなど下らない決断をしてしまった。だが、あの時の懸念は間違っていなかったし、カズキの痛ましい変化は予想出来なかった。

 

 もしこの場にカズキが聖女として在れば、ラエティティに心からの笑顔が浮かんでいただろう。それどころか他人行儀な女王を聖女は嗜めたかもしれない。クインにすら敬称呼びを嫌う娘なのだから。

 

 カズキのムッとした表情を思い出し、思わず苦笑を浮かべる。

 

「どうされました?」

 

 食後のワインが二人の前に並ぶ。同時に砕いたナッツとチーズ、そして蜂蜜が垂らされ貴重な黒胡椒とファウストナの岩塩が少量散らされたビスケットが供された。

 

「いや、済まない。少し思い出してしまってな」

 

 

 更に笑顔を隠さなくなったカーディルを見ながら、赤い液体を口に運ぶ。リンディアのワインは本当に美味しいと何度も思う。ヴァツラフ程酒に強ければ、浴びる様に飲んでみたいわね……そんな馬鹿らしい事を考えながら、そろそろかしらと様子を伺った。

 

 両国は明日、正式に同盟を結ぶ。

 

 それは素晴らしい。ファウストナにとっては望外の成果で、リンディアを訪れる前の覚悟を返して欲しいと笑ってしまいそうだった。

 

 だけど……本当の友好国にはなれない。

 

 どんなに強く素晴らしい王がいても、神々を蔑ろにする国に未来はない。いずれ神の怒りに触れ、神罰が降るのだ。聖女を愛した黒神ヤトはもう既に怒り狂っているかもしれない。憎悪を司る神の逆鱗に触れるなど、想像するのも恐ろしい。

 

 そして、自分も許す事など出来ないだろう。

 

 命尽きたのはリンディアの責任ではない。カーディルやアスティアの人柄を知れば、聖女を愛していたのは本当の筈だ。それでも……国を守る為だとしても、神々を軽んじたその時、全ては罪へと落ちるのだ。

 

「女王としては、駄目なのかもね……」

 

 もしかしたら、ファウストナの民に辛い結果を生むかもしれない。でも、許せない……

 

「ラエティティ、何か言ったか?」

 

 音もさせず、ワイングラスを置く。

 

 そして、ラエティティはカーディルの碧眼を真っ直ぐに見る。

 

「カーディル王。白祈の間、其の前で嘘を言葉にしたくありません。それは貴方様もでしょう。ですから……どうか本当の事を教えて欲しい。そうでないなら、私は答えを決めなければなりません」

 

「……そうだな。分かった」

 

 カーディルも全てを察して短く済ませる。吐いた嘘の責任を取らなければ……心から謝罪し、カズキを聖女としてラエティティの前に。

 

 もしかしたら信じて貰えないかもしれない。黒髪は燻んだ灰色に変わり、あの言語不覚の刻印も傷付いている。言葉を紡ぐ事が不自由なカズキでは、自身を聖女として認めさせる事も難しい。いや、それを望んですらないだろう。聖女として扱って欲しいとは思ってないし、そもそも自覚があるのすら怪しいのだ。癒しと慈愛の刻印を目にすれば違うだろうが、女性の肌を他人に晒す事を強制するなど許されない……カーディルは背筋を伸ばし、椅子に深く座り直す。

 

 

「私が伺いたいのは……聖女カズキ様の事です」

 

 

 真摯な、綺麗なラエティティの言葉は響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 両国の王は今頃晩餐を楽しんでいるだろう。

 

 一昨日、カズキと歩いた夜はヴァツラフに敗北する結果で終わってしまった。昨日は同盟の為の詰めを行なっていて、時間が作れなかったのだ。

 

 だがあの勝負とヴァツラフとの会話は、アストを決定付けた。アスティアの発破も意味があっただろう。

 

 カズキとカーラ、違いはあれども同じ女性を愛してしまった二人は、やはり友であり好敵手だ。だから今日、アストはカズキの元へ向かう。心にある言葉と気持ちを伝えるのだ。どんな結果になろうとも認めなければならない……そんな強くて弱々しい決意を秘めて脚を動かす。

 

「私は……カズキを愛している。いつまでも隣りにいて欲しい、ただそれを伝えるだけだ」

 

 一人呟き、アストは前へ進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんなところに……」

 

 ある決意を秘め、探し回っていた。

 

 漸く見つけた彼女は、ゴソゴソと何かをやっている。

 

 見えるのは巨大な厨房の手前の一室だ。人が十人並んでも埋まらないテーブルの前で一人立っている。見える範囲で幾つかの調味料や食材が並び、何かを作っていると知れた。

 

 ゆっくりと近づき、様子を伺う。

 

 甘い香り、何かを炒った香ばしい匂い、紙袋にはビスケットが数枚。

 

 真っ白な皿にビスケットを並べ、炒めたナッツ類を砕いた物を散らす。更にチーズ、蜂蜜、その上にはリンディア産の黒胡椒とファウストナの塩を少し振りかける。絵を描く様に、お皿は彩られた。

 

 これからカーディルとラエティティに出される一品をカズキは作っていた。前の世界、とある蜂蜜屋で教えて貰ったレシピだ。ワインにも合うし、おやつにもなる。

 

 青い侍女服を隠すエプロンは少し汚れてしまったが、満足出来たのだろう。小さな頭がウンウンと揺れた。

 

「OK」

 

 この世界では誰一人として理解出来ない言葉を紡ぎ、散った汚れを皿から拭う。

 

 完成だ。

 

「カーラ」

 

 作業が終わったのを見計らい、後ろから声をかけた。

 

 銀細工の花が揺れる青い髪紐で括った灰色の髪。それを揺らしながらカズキは振り返った。そして声をかけてきた男の姿を認める。

 

「ヴァッツ」

 

 カズキ、いやカーラの前に立ったのはアストではなく……ファウストナの王子ヴァツラフだった。

 

「少しいいか?」

 

 頭を横に傾けカーラは暫し考える。

 

「いい」

 

 自分で持っていくつもりだったが、別に拘りはない。仕事の一環だし、ヴァッツの相手も其の一つだ。

 

「少し、待つ」

 

「ああ」

 

 厨房の中に声を掛けて、カーラは戻って来た。完成を伝えたのだろう。

 

「何を作っていたんだ?」

 

「ん?」

 

 ハニークリームチーズクラッカー黒胡椒を添えて……言っても伝わらないし、長過ぎて言葉に出来ない。なら答えは一つだろう。

 

「食べる?」

 

「いいのか?」

 

「うん」

 

 材料が有れば作るのは簡単だ。パパッと再び完成させ、どうぞと差し出した。

 

「頂こう」

 

 思わぬ収穫にヴァツラフは嬉しくなった。好きになった女性の手料理を味わうなど、初めての事だ。それがどんなに簡単なモノでも変わりはない。

 

 パクリと半分口にして、ゆっくりと咀嚼する。

 

「これは……美味いな。甘みと酸味、香ばしさもあって、酒が進みそうな味だ」

 

 残り半分も放り込み、幸せの味を楽しんだ。

 

「美味し?」

 

「ああ、最高だ」

 

 笑顔をほんのり浮かべ、カーラは材料などを片付ける。それも直ぐに終わり、口の中を水で濯ぎそのまま飲み込んだヴァツラフの前に戻った。

 

「待つ、ありがと」

 

「いや、俺が勝手に来ただけだ。もういいのか?」

 

「うん」

 

 ヴァツラフは予め考えていた場所へカーラを伴い向かう。他の者に話は聞かれたくないし、かと言って個室に連れ込む訳にもいかない。ならばと決めたのは、リンディア城の周囲を囲む廻廊だ。夜なら人も少ないし、見通しも良い。

 

 暫く無言で歩けば、すぐに到着する。厨房からはそう遠くない。

 

「カーラ、大事な話がある。ゆっくりと話すが、分からなかったら言ってくれるか?」

 

「はい」

 

 予想通り人影は無いし、壁側に寄れば周囲からも見え難いだろう。

 

 余計な言葉は要らない。ただこの気持ちを伝えるのだ。もしかしたらリンディアに強制されている役割からも遠去けたい。もう嘘をつく必要もないし、ファウストナに来ないかと。許されるなら自分の妻として共に生きて欲しい……それだけだ。

 

「カーラ……俺は」

 

 壁を背に立つカーラ、更に一歩近づくヴァツラフ。

 

 右腕を壁に押しつけ、もう目と鼻の先にいるカーラを見詰める。細い顎に左手を添えて、ほんの少し上向かせた。巻かれた包帯すらカーラを彩る飾りに見える。

 

 一方のカズキは突然雰囲気を変え、にじり寄って来るヴァツラフを見て、うん?と表情を変える。

 

 何か様子がおかしいぞ……その表情はそう言っていたが、何故か振り払えない。真剣なヴァツラフを見れば、何か巫山戯ている訳では無いのがわかってしまった。

 

 そして、フラフラと泳いでいた視線をヴァツラフに合わせた。

 

 どうしたの? そう疑問を浮かべるカーラにヴァツラフは強い眼差しを向ける。

 

 見上げる瞳は、確かに聖女と同じ翡翠色。

 

 今頃になってヴァツラフの胸は強く鳴り始め、少しだけ戸惑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ……ヴァツラフ……」

 

 聖女の間に居なかったカズキを探してアストは城を歩き回っていた。まさか晩餐向けにカズキが料理を作っているなど、アストはもちろんだがクインすら驚いたのだ。

 

 料理長に聞き、カズキが向かった方へ歩むアストの目に二つの人影が映る。

 

 それは見たくない、しかし此処から離れる訳にいかない光景だった。ヴァツラフが何をしたいのか遠くても判る。緊張した顔色、二人の距離、何かを待つ様なカズキ。

 

 壁に寄り掛かり距離を詰めたヴァツラフは、カズキの顎に手を添えた。

 

 それを見たアストは、脚は動かなくなった。

 

 心は叫んでいるのに、声にならない。

 

 

 やめてくれ……

 

 離れろ……

 

 触れるんじゃない……

 

 その女性は私の……

 

 

 嫉妬、怒り、恐怖、悲哀、そして痛み。

 

 まるで黒神が加護を与えたかのように、アストの心は乱れていく。

 

 一歩近づいたその身体は大きく、背後の壁とヴァツラフに挟まれたカズキは身動きも出来ないだろう。

 

 言葉は聞こえない。でも、嬉しそうにカズキが頷いたなら、自分は正気でいられるのだろうか……力一杯に拳を握り締めても、何の慰めにもならない。

 

 もっと早くカズキに伝えていたならば……白祈の間でカーディルに言われた言葉が再びアストを責めた。自惚れていたのだ、自分は。大事なものはこの手で掴んでおくべきなのに、失われそうになってから気付くなんて……千々に乱れる心と裏腹にアストの眼は動かず、瞬きも出来なくなった。

 

 

 

 

 二人の王子、そして両国の全てに亀裂が入ると思われた瞬間だった。

 

 でも……

 

 望んでなくとも、それを理解していなくても、聖女が見守る前では全ての争いは露と消えていくのか……カズキは空を見上げて翡翠色が瞬く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっ……!」

 

 何かを言おうとしているヴァツラフの肩口の先、廊下に立つ柱の横から銀色の光が漏れ出した。その光は目蓋を閉じる程ではないが、カズキに焦りが生まれる。

 

「なんだ? どうした?」

 

 ヴァツラフが何か言ってるけど、今はそれどころじゃなくて……カズキは冷静さを失っていた。

 

 元の世界より遥かに巨大に見える衛星。この世界では銀月と呼ばれる星。クレーターは少なく、冷たい凛とした光を放つ。その銀月は()()()()()()を描いている。

 

 美しい、見事な、満月だ。

 

 もう夜だし、前と違って簡単には抜け出せないのに……チェチリアの病院まで遠いのに……

 

 忘れていた……大事なことを……

 

 酒場でダグマルの親父が言っていた。

 

 ……こっちの酒は銀月だ。月が丸くなる日に開けろよ? 必ずだ……

 

 つまり満月の日にあの酒を開けなければならないのだろう。それに何の意味があるか分からないが、此処は異世界。今日開けなければ水になるとか、腐り落ちるとかしても不思議じゃない……カズキは悲惨な結果を想像した。

 

 大事な酒が死んでしまう……?

 

 

 

 

「大変……死んで、しまう……駄目、いや、だ」

 

 真っ青な顔色に変わったカーラを見てヴァツラフは焦る。まるで何かを見詰める様に空を見上げている。切れ切れの言葉は不吉な響きを纏った。

 

 唇は紫色になり、綺麗な瞳には僅かだが涙が滲む。

 

「カーラ……大丈夫か!? 何があった!」

 

 小さな身体は震え出し、もうヴァツラフの姿は映っていないのか……

 

「行く、行かない、と……大変、許し」

 

 そして何かを決意したのか、ヴァツラフをもう一度見た。そこには強い意志が宿る。まるで戦いに赴く戦士の如く、強く凛々しい。

 

「カーラ……?」

 

「ヴァッツ、ごめん、なさい。また後、話、急ぐ」

 

 ごめん!

 

 そう叫ぶとカーラはヴァツラフの横をすり抜け、走り出した。何かに追い立てられるように、全力の疾走だ。侍女服がはためき、チラチラと綺麗な脚が見える。しかしそれも気にせず、廻廊の向こう側に姿を消してしまった。

 

 カーラが見ていた空を見れば、銀月が雲に消えていく。深い黒は雨を降らせるかもしれない。

 

「なにが……どうしたんだ……?」

 

「ヴァツラフ!」

 

 すぐ後ろから声が聞こえてくる。振り返れば駆け寄ってくるアストが見えた。

 

「ヴァツラフ、何があった!? まさか酷い事を……無理矢理など、あの時の話を反故にするのか!」

 

「馬鹿を言うな! そんな事はしない!」

 

「では何故!」

 

「俺にだって分からない! 突然顔色が悪くなって、言葉を……」

 

「言葉? どんな言葉を……教えてくれ!」

 

「切れ切れで……死ぬ、大変、駄目、行かないと、瞳に涙を浮かべて……」

 

「死ぬ、行かないと……まさかまた……聖女として……」

 

「何を言ってる? 聖女?」

 

「ノルデ!!」

 

「はっ!」

 

 遠くに控えていたノルデはアストの元へ駆け寄り跪く。深く頭を下げ、微動だにしない。

 

「追ってくれ! 行き先は伝達出来る様に、私は皆に知らせる……父上に、アスティアに……」

 

「必ず!」

 

 走り去るノルデを見送り、ヴァツラフに向き直った。

 

 本当なら自分が追いかけたい。だが、聖女として歩むならそれを止めたりしないと決めている。それに……ファウストナについた嘘を詫びなければ、もうこれ以上は許されない。ヴァツラフは心からカズキを好きになり、真正面から伝えようとしたのだから。

 

 ラエティティと目の前で困惑しているヴァツラフを連れて……聖女の本当の姿を……

 

「ヴァツラフ」

 

「……ああ」

 

「一緒にきてくれ、話したい事がある。友として、神々の信徒として」

 

「いいだろう。説明してくれるのだろうな?」

 

「ああ、全てを。カズキとカーラ、聖女の全てを」

 

 二人の男は走る。

 

 向かう先は白祈の間……そして……

 

 

 

 




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a sequel(25) 〜銀月の夜〜

いよいよ佳境に差し掛かりました。


 

 

 

 

 

 

 

「私が伺いたいのは、聖女カズキ様の事です」

 

 もう隠す意味もなくなった。リンディアの真意を聞くまでは、この会話も終わらせない。

 

 もしかしたらカーディルは怒り狂い、同盟は破棄され、両国は戦う事になるかもしれない。そうすればファウストナは簡単に滅びるだろう。今も生きる懸命な民には詫びても許されないこと。だけど、真実を伏せて形だけの同盟にはしたくない。使徒と共に歩む事の出来ない彼等とファウストナは違うのだから。

 

 ラエティティは想う。

 

 もし本当に聖女が亡くなったなら共に哀しみ、そして泣きたいと。それこそが友であり強固な同盟となる筈だ。亡骸に縋り付き、救済の礼と交わせなくなった言葉を伝えたい。

 

 どうか安らかに、世界を見守って欲しいと……いや、救済から解放されて穏やかに神々の御許へと……死した後、人々の醜く矮小な心に寄り添う必要などないのだ。

 

「ラエティティ。先ずは謝罪を……我等は、いや私は君達に……」

 

 カーディルの悲壮な声、伏せる瞳。 

 

 やはり……予想通りだった……なのに全く嬉しくはない。尊いお顔、声、刻印、何処まで深い慈愛、そして……でも、それは叶わない願いとなってしまった。

 

「やはり聖女様は……」

 

「ああ、恐らくラエティティの想像通りだ。本当に済まない。全ては私が決めた事、決して悪意ある嘘では……」

 

 最初から正直に言えば良かったのに……もう遅いのよ、カーディル王……ラエティティも哀しくなる。

 

「やはり御隠れになったのですね……」

 

「……ん? 御隠れ? まあ、隠したのは間違いないが……」

 

「……なにを……隠した!? まさか、その手に掛けたと!?」

 

 ガタリと立ち上がり、ラエティティは怒りに震える。懺悔どころではない。使徒を殺したと言うのか! 何と罪深い事を……

 

「手に掛けた……? ラエティティ、一体何を……」

 

「ふざけないで! 聖女様を殺すなど神罰を受けるがいいわ! いえ、私自らが……」

 

 首を締めようと両手を上げ、にじり寄る。相手は元騎士だろうが関係ないとラエティティは覚悟すら決めた。

 

 困惑するカーディル。一触触発の状況だったが漸くカーディルは理解した。ラエティティは大きな誤解をしていると分かったのだ。

 

「ま、待て!誤解だ!聖女は……」

 

「もう言い訳なんて出来ないわ! この国は神々の怒りの元で滅びるのよ! いえ、滅んでしまいなさい!!」

 

 物騒な事を叫ぶラエティティに、カーディルは必死で言葉を紡ぐ。

 

「落ち着け! 聖女は生きている! 殺したりしてないぞ!」

 

「息の根を……ん? 生きている……?」

 

「あ、ああ! 誤解だ、カズキは元気だ! 今日だって……ラエティティ、さっき出された……名前はなんだったか……とにかく此れはカズキが作ってくれたものだ。私達の為に一人で頑張って……」

 

 指差した先にはカズキお手製の"ハニークリームチーズクラッカー黒胡椒を添えて"がある。

 

「聖女様、作った?」

 

「そうだ! カズキの、聖女の手料理だ!」

 

「何を訳の分からない事を……」

 

 

「父上!」

 

 失礼を承知の上で、アストはカーディルへと近づいた。見れば何故かラエティティが怒りの表情で両手を上げている。だが、時間がないのだ。

 

 今この時もカズキは聖女として前に向かっているのだから。

 

「ラエティティ女王陛下。突然の事お詫び致します。しかし、緊急なのです!」

 

 ラエティティはまだ混乱の中にいたが、アストの必死な顔と付き従うヴァツラフを見て、取り敢えず両手を下ろした。何より聖女は生きていると聞こえたのだ。

 

「……構いません。どうぞ」

 

 近寄るヴァツラフの様子を伺って、ラエティティは返す。

 

「父上、こちらに……」

 

 父と息子はその場から離れ、ファウストナの二人に聞こえないよう話し合う。内密にしたいと言うよりは、どう伝えるかを決めなければならないからだ。

 

「なんだ?」

 

「実は……」

 

 カズキが呟いたと聞いた言葉を交え、アストは全てを伝えていく。

 

 死、駄目、急ぐ、そして涙……聖女として再び歩んで行ったのだ、と。

 

 

 

 

 

「ヴァッツ、何があったの?」

 

「いや、俺もよく分からない。アストは全てを話すと言っていたが……聖女の事だ」

 

「聖女様の……どういう事? 手料理、今日も元気に……生きておられるとしても、北の街に……」

 

 もしかして、何かとんでもない間違いをしているのか……怒りは消えて、不安になってくるラエティティは答えを求めて息子へ言葉を重ねる。

 

「詳しく話しなさい」

 

「いや……大した事では……」

 

 自分の母親に女への告白を白状するなど、拷問に等しい。ましてや、告白は未遂に終わり返答すら不明なのだ。

 

「大した事じゃない? 貴方ふざけてるの? 今の状況が理解出来ないなら、姿を消して!」

 

 怒りの矛先はヴァツラフに向かい、当人は頭を抱えるしか無い。

 

「実は……カーラに……」

 

 仕方がないとヴァツラフは苦渋の決断をして説明に入った。しかし、他国の王が救世主となる。

 

「ラエティティ。よいか?」

 

「……ええ、納得のいく説明を求めます。もう、嘘は許しませんよ?」

 

「ああ、申し訳ない。だから……言葉じゃなく、その目で見てみないか?」

 

「見る?」

 

「聖女カズキに会いに行こう。勿論、生きているぞ」

 

 聖女に、会いに、行く?

 

 生きて、いる?

 

 頑張ってカーディルの言葉を反芻する。

 

 鳥肌が立ち、体温が上がり、頭に血が上るのを感じる。もしかしたら目眩もあるかもしれない。ラエティティは自問する……聖女カズキ様に会える? 今から?

 

「ラエティティ?」

 

「は、はい!」

 

 逆上せる頭に喝を入れ、返事は大声になった。

 

「どうす……」

 

「行きます! 早く……いけない、お化粧を……ヴァッツ、私変じゃない? 髪も……こんな、駄目よ、失礼だわ……」

 

 さっきカーディルに罰を与えるべく暴れたからだ。

 

「母上……」

 

 最早演技も忘れ、どうしましょうとアタフタする母にヴァツラフは呆れてしまう。憧れの人に出会う少女の様にラエティティは落ち着かなくなった。

 

「……ラエティティよ、大丈夫だ。聖女は細かい事など気にしないし、心は誰よりも広く深い。司るのは慈愛と癒しだぞ? それに……貴女は十分に美しいさ、なあアスト」

 

「ええ。女王陛下、父上の言う通りです。それに時間がありません。急ぎませんと」

 

「わ、分かりました。で、どちらに?」

 

「ご案内します。それと、アスティア達も同行する事をお許しください」

 

 結局落ち着く事なく、ラエティティは素直についていった。その手に"ハニークリームチーズクラッカー黒胡椒を添えて"を皿ごと大事そうに抱えて。

 

 だってカーディル王が言った事が真実なら、コレはまさに聖女様のお手製なんだから……大変な宝物を手に入れたとラエティティは小さくニヘラと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ様!」

 

 城外へと走り去りそうだったカズキを見つけ、ノルデは呼び止めた。立ち止まってくれた聖女に安堵して足早に近寄っていく。

 

「ノルデ」

 

「カズキ様……いえ、お急ぎでしょう。私が馬でお連れします。どちらへ?」

 

 その意味を何とか理解しカズキは考える。ノルデは矢継早に言葉を紡ぐので、半分以上分からない事が多いのだ。

 

 細い指を整った顎先に添え、暫しの時間を要した。

 

「西、チェチリア、病院……治癒院?」

 

 こうなればノルデも巻き込み、道連れだとカズキは決めた。もしかしたら酒の事も庇ってくれるかもしれないし、アスティア達にバレなければ何とかなる……そんな都合の良い事を考えながらカズキは目的地を伝える。

 

 まさかアスティアどころかカーディル以下全員が追ってくるとは想像出来ないカズキだった。

 

「チェチリア、治癒院……カズキ様、まさかまた……」

 

「また?」

 

 まさか、もうバレているのか? カズキに焦燥感が走った。

 

 怒られるかも……また禁酒なのかと戦々恐々していたカズキにノルデは痛ましい、優しい声をかける。

 

「いえ……貴女の望むままに。直ぐに馬を回します。暫しお待ちを」

 

「……うん」

 

 やはりノルデは味方だと安心する聖女。残念ながらノルデは行き先を他の者に伝えて帰って来るだけだが。

 

 そして、時を置かずノルデは愛馬と共に戻った。

 

「カズキ様、此方に」

 

 馬上からカズキを引き上げ、懐に収める様に自分の前に座らせる。手綱を握る両腕で挟み、絶対に落とさないようにと力を入れた。

 

 見上げれば銀月は厚い雲に覆われ、僅かに光を届けるだけ。流石に巨大な月だけはあるが、それでも月明かりはいつ消えるかも分からない。焦ったカズキはノルデにお願いをする。

 

「急ぐ、早く、お願い」

 

 ノルデの中に聖女の声が入り、救済の時と同じ熱い万能感が生み出されていく。自分は聖女の救済の道を共に歩いているのだと……僅かな助力だとしてもこの喜びに変化などない。

 

「はっ! では、しっかりと私に体を預けて下さい。揺れますよ!」

 

「はい」

 

 間に合うか……あの酒、銀月とやらを必ず味わうのだ。最近飲んでなかったし、仕事も頑張ったから御褒美くらい大丈夫。バレてもそんなに怒られないかもしれない。そんなに量は無かったし、この際飲み切るかな……まあ、ノルデにも少しだけ御裾分けしてあげよう……

 

 聖女の頭の中にこんな阿呆らしい独り言が流れているとは知らず、ノルデは偉大な聖女に付き従う自分を誇りに震えている。

 

 騎士と聖女は互いに強い意志を秘めて、大門を抜けて西街区へと走り去って行った。

 

 

 

 

 

 ザーザーと突然の雨が襲う。

 

 当たれば痛い程で、馬上では雨宿りも出来ない。

 

 ノルデは少しでもカズキを雨の矢から守ろうとしたが、意味は為してないだろう。

 

「カズキ様、何処かで……」

 

「駄目!時間、ない!」

 

 焦りは最高潮に達したが如く、カズキは必死の形相に変わっている。通り雨だろうが、銀月には関係ないかもしれない。このままでは最高の酒を楽しめないと焦るばかりなのだ。

 

 一方のノルデもカズキの表情を見て、かなり逼迫した状況と理解した。もう一刻も猶予がないのかもしれない……誰かの助けを呼ぶ悲鳴が聖女には聞こえているのだろう。

 

「くっ……」

 

 手綱は湿り、重い。

 

 何より懐に収まる聖女は濡れ、感じる体温も低くなったと感じる。侍女服からは雨水が滴り、灰色した髪はベタリと頬に貼り付いている。首に巻かれた包帯は薄く透けて、赤い肌と刻印すら見えた。

 

 せめて少しでも早く……幸い雨のせいか人通りはない。角は気を付けるが、かなりの速度を出せるだろう。

 

「あの先です!」

 

「うん!」

 

 遠くに治癒院が見えてくる。明かりも灯り、今日も遅くまでチェチリアは詰めているのだろう。

 

 もう止まるのも煩わしいとノルデはカズキを抱えて飛び降りた。雨で足場も悪いだろうに、見事な着地を見せる。勿論カズキはしっかりと抱き止めたままだ。

 

「カズキ様!」

 

「ありがとう!」

 

 二人はボタボタと滴を垂らしながら、治癒院の玄関に辿り着く。勢いよく扉を開け、カズキは声を出す。

 

「チェチ、リア! あの!」

 

 奥の方から物音がして、すぐに人の気配が近づいてくるのを感じる。以前は内緒で不法侵入したカズキだが、流石に反省しているようだ。いや、隣りにノルデがいるからかも。

 

「あっ……」

 

 待つ間に足元を見れば、かなりの水溜りが出来てしまっている。まさかこのまま病院に入るわけにもいかないと、直ぐに行動に移す。

 

 肩から左右の腕を抜き、上半身は白くて薄いシャツ一枚になった。革の胴締め、つまりベルトがあるため全てを脱いだ訳ではない。

 

 抜き出した侍女服を頑張って絞り、ついでシャツも引っ張り出してギュッとする。綺麗なお腹が見えて、慈愛の刻印が少しだけ露わになった。カズキは当然気にもせず、スカートを持ち上げて同様に絞る。ふと身動きしないノルデを見れば、真っ赤な顔をして此方を見ていた。

 

「ノルデ?」

 

「す、すいません……」

 

 まさかこんなところで、偉大なる慈愛の刻印を見る事になるとは……余りの興奮と聖女の柔肌を見てしまった自分に嫌悪する。少しだけ男としての肉欲を感じてしまい、情け無くなった。目の前の聖女はただただ人の為に歩んでいるのに……

 

「ノルデ、も……」

 

 ノルデも濡れ鼠だ。そんな格好では入れないし、何より最高級のお酒に失礼だ……カズキはそう考えて促す。しかし他の事に気を取られる事になった。

 

「カズキ様?」

 

 奥からチェチリアが現れたのだ。

 

 何時もの白衣、同じ真っ白な髪、皺くちゃの顔、優しい瞳。

 

「チェチ、リア。あの……中、に……」

 

 何とかバレない様に中に侵入したい。焦っていたカズキは何の作戦もない事に今更気付いてしまう。まさか一人だけあの部屋に入って「酒盛りさせてちょーだい」などと言える訳がないのだ。 

 

 どうしよう……言葉が続かないカズキにチェチリアは優しく声をかける。其処には感謝と悲哀、そして自分への無力感が混じっていた。

 

「カズキ様、もしかしたら……今日こちらに来られるかもと考えていました。貴女にあの子達の声が、時間が無いと届くのではと僅かな希望を持って……そしてこの雨の中、此処にいる。やはり貴女は……」

 

「チェチ、リア?」

 

 声? 何だろ? チェチリアに酒の事は知られていない筈だけど……

 

 時間が無いとか、もしかしてあの酒は会話までする不思議な酒なんだろうか? どれ程貴重なのか、カズキの期待は高まっていく。それに、チェチリアの話し振りから間に合ったと感じるのだ。

 

「いい?」

 

「勿論です。どうぞ奥へ」

 

「一人、入る、駄目?」

 

「……貴女が望むなら。でも辛い時は必ず呼んで下さいね? 一人で苦しまないでください」

 

「あ、うん」

 

 まあ、酔っ払って吐いたりしたら迷惑だろうし……しかしチェチリアは分かってくれていたんだな。なんてありがたい人なんだろう……そんな事を思いながら奥へと進む。以前隠れた部屋の更に奥、少し薄暗かった広いところ。

 

 もうノルデへの御裾分けも忘れて、カズキの胸は高まっていく。

 

 ついにあの酒を味わう時が来たと、ダグマルにも感謝を忘れない。今度お礼もしなくちゃ、いや美味かったら入手方法を聞かなくては……カズキは決意を新たにしながらも進む。

 

 その横顔はまるで戦場に向かう戦士の如くだ。

 

「……カズキ様、身体を拭いて下さい。貴女が体調を崩しては、皆が悲しみます。それと……騎士の方?」

 

「は、はい!」

 

「理解はしますが、余りジロジロと見るものではありませんよ? まあ貴方ほど若いなら我慢も出来ないのでしょうが……騎士としてしっかりしないと」

 

 濡れた白いシャツはカズキの肌を守る事をせず、薄紅色の下着は透けて見える。それどころか、慈愛の刻印も、そして5階位の癒しの刻印すら僅かに顔を出している。そして面倒になったのか、首から包帯を取ってしまった。つまり聖女である証、全ての刻印が目の前に顕れているのだ。

 

 その尊くも余りに美しい聖女から目が離せなくなっていたノルデは慌てて視線を外す。

 

「も、申し訳ありません!」

 

「ノルデ、声、大き、い」

 

「あっ……もっ!申し訳ありません……」

 

 そして……ついに聖女は辿り着いた。

 

 世界にたった一人しかいない"黒神の聖女"が……いや"酒の聖女"と呼んだ方が正しいかもしれない。

 

 そうして……二つ名を持ってしまったカズキは扉を大きく開いて、逸る気持ちのまま病室に入っていった。

 

 

 

 

 

 

 



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a sequel(26) 〜ヤト〜

カズキに変化が……

評価や感想・誤字報告も頂き、それと投票者の方が100人を数えました。いつもありがとうございます。


 

 

 

 お裾分けも忘れ、一人酒に洒落込もうとする聖女。

 

 扉の外でいつでも飛び込み聖女を支えると待機するチェチリアとノルデ。

 

 再び聖女として歩み出したカズキを追う、両王家の者達。

 

 銀月が丸く輝き、その全てが集う夜が来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の様相は変わっていなかった。

 

 ただ以前より暗く、幾つかある蝋燭の光は心細い。月明かりも無く、人によっては恐怖を抱くかもしれない。

 

 しかし、カズキには関係ない。軽く見渡すと目的の場所へ歩き出した。バレたらマズかったが、チェチリアの態度で安心したカズキは落ち着いている。扉から右側に並ぶ棚の奥に突っ込んだはず……記憶を頼りに腰を屈めるカズキの瞳は嬉しそうに左右に動く。

 

「……何処、だ?」

 

 もう一本はすぐに見つかった。美味かったが身体には合わなくて、眠ってしまったのだ。今回は先に手をつける訳にはいかないだろう。

 

「あれ?」

 

 間違いなくこの辺りに隠した筈だと、カズキは何度も確認する。高級そうな布らしきモノに包まれた銀月の姿が見当たらない。

 

「……ある、筈」

 

 だってチェチリアも許してくれてるのだし……もう一度最初の棚から探してみようと扉の近くまで戻る。そして眼を皿にしながら、観察を始める。もし側でカズキを見る者がいれば、その凛々しい美と真剣な瞳に息を飲むだろう。その心を知らなければ、だが。

 

 間も無く酒盛りが始まる、そんな時間……だが、その全てが変わる事になる。

 

 それはカズキの後ろに在った。

 

 

 

 ギシ……

 

 カズキの耳に何かが軋む音が届く。

 

 背後に並ぶベッドだろう。そういえば入院患者がいるなら静かにしないと怒られてしまうと暫くジッとしてみる。そして恐る恐る様子を伺うと、合計八つのベッドがあるのが分かった。しかし眠っているのは五人で、残り三つは誰もいない。

 

 どうやら眠ったままの様だ……ホッとするカズキだったが、ふと不自然な事に気付いた。以前に訪れた時は昼から夕方にかけてだが、あの時も全員が寝たままだった気がする。今は確かに夜だが深夜という訳ではない。雨音も激しいし、先程は扉をガチャリと開けて入って来たのだ。

 

 一人くらい起きていてもおかしくないし、誰一人自分に気付かないのは不思議だなと思う。

 

 暫しお宝探しを中断し様子を見に行く事にした。気になって酒も楽しめないし……そんな事を考えながら足音を抑えて近づいて行く。

 

 そう……聖女は歩み出した、前へ。

 

 

 

 カズキは知る。

 

 

 そして動けなくなって、立ち竦んだ。

 

 

 声が聞こえた……それは、か細くて小さい。

 

 少しだけ高く、力を感じない。

 

 でも、間違いなく聞こえたのだ。

 

 さっきまで物音すらしなかったのに、彼等の顔を見た瞬間に耳に響いてきた。

 

 

 痛い……

 

 

 助け……聖女、さ、ま……

 

 

 苦しいよ……

 

 

 そして……涙が流れ出るのが見えた。暗い部屋なのに、何故か光って落ちていく。

 

 目を閉じ眠るのは、小さな子供達。

 

 カズキから見れば小学生くらいの男の子と女の子が苦しそうに横たわっていた。すぐに酒のことなんて頭から消え去って、ギュッと爪が喰い込む程に指を握り込む。

 

 そして一歩、二歩と子供達の元へ……

 

 黒神の聖女……カズキは皆に寄り添うように、包む様に、其処に立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「陛下、西街区の治癒院です。到着しました」

 

 開いてある伝声管から護衛の騎士の声がした。

 

「分かった」

 

 かなり大型の馬車に合計5名の姿があった。雨音はするが声を遮る程ではない。王家専用である以上、防音や矢除けは当たり前に備えている。

 

「さて、此処が目的地だ。ラエティティよ……謝罪は後でさせて貰う、今は許して欲しい。そして、詳しい説明も言葉を幾つ重ねようとも、今は信じられないだろう。だから、君達の目で全てを知る事こそが答えとなる」

 

「カーディル王、此方に聖女様が?」

 

 ガラス窓から見える建物は決して立派とは言えない。治癒院と聞いている以上当然とは思うが、聖女の座す場所として相応しくないのではと考えてしまうのだ。ましてや北の街でなく、このリンスフィアにいたなど、王城から大した時間も経過していない。

 

「ああ、間違いないな?」

 

「はい、共にいる者の言付けがありました。それに……あれはノルデの愛馬です」

 

 アストも逸る気持ちを抑えつつカーディルの問い掛けに答えた。

 

「兄様、チェチリア様が……」

 

 雨の中、チェチリアが玄関まで迎えに出ていた。屋根はあるが、風雨は激しく老治癒師を守ってはいない。しかし変わらぬ矍鑠とした姿勢は揺るぎなかった。

 

「待たせては悪いな……女王陛下、ヴァツラフ王子、参りましょう。聖女の元へ」

 

 見れば追随していたもう一台の馬車からクインとエリも降りて、チェチリアの元へ駆け出すのが分かった。何かあればカズキの世話が要ると、クイン達にも来て貰っていた。まあ断ってもついてきた可能性は高いだろうとアストは思っている。

 

「はい……」

 

 両開きの扉を開けば、遠かった雨音が耳に届く。僅かな距離でも雨に塗られるのは間違いないが、無論リンディア騎士団がそれを許しはしない。

 

 両脇に整列し、まるで隧道(ずいどう)を作る様に治癒院まで道を作る。真新しいマントで屋根を構成し、作られた道から雨は止んだ。地面には大量の大鋸屑(おがくず)が撒かれ雨水を吸収させている。石畳にはもう僅かな水分しかないだろう。

 

 それを見たラエティティは少しだけ息を飲んだが、今は気にしている場合ではないと歩みを進める。カーディル、アスティア、ヴァツラフ、そしてアストが続き、両王家の全員が治癒院に到着した。

 

「チェチリア様! 夜分にごめんなさい。あの……カズキは、来ていますか?」

 

 ラエティティは居てもアスティアは我慢出来なかった。玄関から入り思わず聞いてしまう。

 

「アスティア様、カズキ様は来られていますよ」

 

「そう……やっぱり……カズキは知っていたのね……」

 

「きっと、祈りが届いたのでしょう。あの子達の命の炎は消え掛かっています……この雨の中でさえ、カズキ様は聞き届けて頂いた。もうそれだけで、あの子達は……カーディル陛下、お久しぶりです。この様な場所まで……狭いところですが……」

 

「チェチリア、此処は今や聖殿だよ。君が作り上げた治癒院は聖女によって祝福された。なるべくしてなった……そういう事だろう」

 

「カーディル王?」

 

「ん? ああ……済まない。この者はこの治癒院で長年人々を癒してきた治癒師、チェチリアだ。そして、1階位の癒しの刻印を持つ使徒でもある」

 

「癒しの刻印! それは聖女様に連なる……なんて素晴らしい……握手して貰えますか……あっ、い、いえ……わたくしはファウストナから参りましたラエティティと言います。使徒様に出会えるとは光栄です」

 

「あらあらまあまあ……この様な婆に恐れ多いですわ、ラエティティ女王陛下。気軽にチェチリアとお呼び下さいね。ヴァツラフ殿下、数日振りですか。汚いところですが、どうぞ」

 

「ああ、失礼する」

 

 誰が見ても老婆には見えない真っ直ぐの背筋で、美しい姿勢のまま全員を案内する。顔を見れば確かに老婆なのに、何故か若返って見える微笑だった。

 

「アスティア……」

 

「私も知らなかった……」

 

 実は二人とも知らなかったのだ。チェチリアが癒しの刻印を持つ使徒だと。本人も言わないし、まさかこんな身近にいるなんて……しかし言われてみれば当たり前かもしれない。無償で孤児を預かり、治癒を行うような人なのだから。

 

 カズキもそうだが、癒しの刻印を持つ者は謙虚に過ぎるから困ったものだ……アストは独言る。

 

「聖殿、か……確かにそうかもな……」

 

「お父様は知っていたみたいだけど……」

 

「また後で聞いてみよう。今は、カズキだ」

 

「……そうね」

 

 兄妹は目を合わせ、皆の後に続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駄目だ……

 

 カズキは何度も挑み、そして挫折していた。

 

 あれ程簡単だった癒しの力を感じる事が出来ない。かと言って血肉を捧げたところで意味が無いと理解している。もう"贄の宴"は失われたから、この身体を捧げる事も出来やしない。

 

 どうしたら……

 

 もう一度周囲を見渡した。

 

 変わらず子供達は眠り、苦しんでいる。

 

 なのに、親の姿が一人も見えないのだ。ならばこの子達は……カズキは諦めたくなかった。

 

 泣き顔なんて見たくない、苦しむなんてあっては駄目だ、子供は何時も笑顔を浮かべて……思わず泣きそうになり、細い両肩を自身で抱き締めた。自分にはこの子達を助ける力がある筈なのに、それを感じることも出来ないなんて……

 

「神いる、なら、助け……」

 

 思わず呟いたカズキはハッとなった。

 

 そう、一人だけ知っている。彼は私を助けたいと言っていた……

 

「ヤト!」

 

 返事を待つ……そして何処かに現れないかとグルリとその場を回った。

 

「……ヤト! 聞こえ、私!」

 

「ヤト!!」

 

「……お願い、ヤト、声」

 

 思わず蹲り、涙がポロポロと溢れていった。

 

「お願い……」

 

 

 

 ……仕方がない子だ

 

「ヤト!?」

 

 ガバリと顔を上げ、カズキはヤトの姿を探す。しかし何処にも彼は見えない。幻聴だったのか……再び涙が溢れてきた時、今度は間違いなく響く。

 

 ……カズキ、君の声に応えるのは此れが最後だよ? 僕は君を見守るけれど、困ったら神に頼るなんて堕落への一歩だからね。でも……まだ恩返しは終えてないから……

 

「うん、うん! 分かった!」

 

 ……それで用は……まあ、聞かなくても分かるけど

 

「封印、消して!」

 

 ……それは出来ない

 

「……何で」

 

 ……忘れたのかい? 封印は君の魂魄を守る為に刻んだんだ。もし呪鎖を解けば、君の魂魄は削れて、あの時のようにゆっくりと死んでいってしまう。アスティアがまた泣いてしまうよ?

 

「アスティア……」

 

 ……そしてアストは絶望するだろう

 

「アスト……うぅ……」

 

 ……辛いだろうけど人はいつか死ぬんだ。エントーが眠りを授けてくれて、苦しみから解放される。僕が君の悲哀を包むから、辛い事も直ぐに忘れて……

 

「駄目!」

 

 ……カズキ、我儘は

 

「ある、でしょ」

 

 ……困った子だ、本当に

 

「分かる、やり方、ある、ヤト、早く」

 

 ……何故そう思う?

 

「ヤト、だから」

 

 ……僕だから、か

 

 カズキは立ち上がり、誰もいないはずの空間を睨み付ける。もう涙も乾き、シャツも肌を隠してくれた。

 

 ……いいだろう、但し此れが最後だ。二度と僕は君の前には現れない。遠くから見守る、それだけだ。

 

「うん」

 

 ……強く願うんだ。癒しと慈愛の刻印は決して君を裏切らない。そう教えたはずだよ? 君の刻印はちゃんと寄り添っている。神の加護を信じて

 

「願う……でも」

 

 ……もっと強固に、もっと深く、もっと高く、世界に届くように

 

「分かった」

 

 瞳を閉じて、カズキは祈りを始める。

 

 ……君は此の黒神ヤトに勝たなくてはならない。それが僅かな時間だとしても、封印を破るんだ。僕は君を守りたいから封印を解きたくはない。封印を消すのではなく抗うなら、一時的に魂魄は守られるだろう。でも……

 

「……でも?」

 

 ……私は憎悪と悲哀、そしてもう一つ司る加護がある。だから、コレを

 

 変わらず閉じていた瞳を開き、目の前にある物を掴んだ。今迄気付かなかったのに、こんなところにあった。

 

 それは白い布に包まれている。中は液体で満たされているのだろう、チャポンと音がする。感触はガラスの瓶だ。知っている、名を銀月。

 

「……お酒」

 

 ……それを飲み、首と胸の刻印に振りかけるんだ。せめてもの手助けだよ

 

「いいの?」

 

 ……ああ、僕の最後の加護はなんだ?

 

「……痛み」

 

 ……抗うなら覚悟しないと、分かるね?

 

「そんな、の。関係、なし」

 

 ……だろうね、君はそういう子だ。では、始めなさい

 

 コクリと頷き、包んでいる布を取り除く。白く濁った瓶にはサラサラとした酒が満たされている。色は分からない。

 

 コルクに近い蓋を取り除き、強い香りがカズキの周囲を満たした。強い酒精とやはり強い清涼感。少し薬を思わせる匂いだった。見れば僅かに濁っただけの透明に近い酒だ。

 

 そして、カズキは、瓶を傾けて喉へ流し込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うぅ……あ、ぐ……

 

 

 もう少しで孤児達が眠る病室、つまりカズキがいるはずの扉が見えた。

 

 ほんの少し、気のせいだと言われたらそうかもしれない。でも、アスティアはハッとする。隣りのアストも気付いて頷いた。

 

 間違いなく聞こえたのだ。

 

 あの扉の向こう。

 

「どうした?」

 

 足早に全員を追い越し、兄妹は我先にと扉に飛び付く。

 

「カズキの声が聞こえたんです。苦しんでる……早く……」

 

「この奥に聖女様が……」

 

 ラエティティの緊張は頂点に届いたが、其処に喜びは混ざらない。聖女が苦しんでいるなら、何としても助けないと……ラエティティもヴァツラフを見て、そして強く想う。

 

「行こう」

 

 アストは目の前の障害、カズキへの道を遮る扉を押し開く。もう二度と泣き顔なんて見たくはない。寄り添うくらいしか出来なくても……

 

 

 

 

 

 

 

 




いよいよ次回……カズキが主人公になる!


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a sequel(27) 〜抗い、甦る力〜

主人公らしい主人公が漸く……


 

 

 

 

 

 薄暗い部屋の中央、其処に一人の少女が立っている。少しずつ雲が晴れた夜空から月明かりが降り注ぎ、窓から銀色の光を届けてくれた。そして、照らされた少女の全てを映し出す。

 

 両肩を抱き、寒さに震えるように身体が揺れている。だが今は暑い季節、震える様な寒気など在りはしない。

 

 ポタリと何かが床に落ちた。

 

 雨に濡れたかの様に全身が濡れている。上半身には白い服しかかかっていないから、濡れたソレが肌に密着して柔らかい女性らしい曲線を隠せない。

 

 そして、全員が気付いた。

 

 強い酒の香り、鼻を抜ける若い草花の様な青臭い清涼感。

 

 側には白く濁ったガラス瓶がある。

 

 

 

「カズキ……」

 

 アスティアの声は皆に届いた。

 

「カズキ……?」

 

 事情を知らないファウストナの二人は、もう一度肩を抱く少女を見詰める。だが何度見ても、その姿は変わらない。

 

 ヴァツラフが贈った髪紐で丸く纏めた灰色の髪。上半身は濡れたシャツ一枚だが、腰から垂れた青い服は侍女のものだ。そして首周りは赤く爛れ……

 

「あれは……刻印か?」

 

 今頃になって気付いた黒い鎖が赤い肌を縛る様に巻かれている。それはヴァツラフと同じ使徒である証……

 

「カズキ!」

 

 愛しい妹の元へとアスティアが駆け寄ろうとした時、此方に来るなとカズキは腕をあげた。そして全員に向けた掌をそのままに、ゆっくりと目蓋を開く。少し力が抜け、身体を休める様に僅かな震えが止まる。

 

「どうして……」

 

 素直にその場に立ち止まったアスティアも、カーディルやアスト、ラエティティ達も何故かその場を動く事が出来ない。独特の、何処か神聖な空気が漂う。カーディルは先程、此処は聖殿だと言ったのだ。

 

「チェチリア様……あれはまさか」

 

 クインの視線はガラス瓶に固定されている。もう中身は少ないだろうが、珍しい色合いと鼻をつく強い香りが理解させてくれた。

 

「ええ、間違いなく"銀月"ですね……あんな物が何故此処に……もう簡単に手に入る筈は……」

 

 クイン達二人を除き、周囲の皆は怪訝な表情を隠せない。まさかカズキがこんな場所で酒盛りでもしていたというのか……見た事はないが、あれは間違いなく酒なのだ。カズキを知る者ならあながち可能性がないわけではないと思ったが、不思議なことに酒への喜びを感じない。

 

「チェチリア様……? 銀月、ですか?」

 

「銀月……確か"パウシバルの指輪"で……」

 

 ラエティティの呟きはクインに少なくない驚きを与えたが、アスティアの疑問に答えようと口を開いた。チェチリアも任せるとクインを見たからだ。

 

「ラエティティ女王陛下、その知識の深さには驚くばかりです。あの物語では()()()は違いますのに……あの酒は正式名称を銀月と言いますが、遥か昔には別の名で呼ばれていました。アスティア様……その名は"クク酒"です」

 

「クク酒? ククの葉を使ったお酒?」

 

「いえ、違います。葉ではなくククの花を原料にしたお酒です。森を失って久しい私達では、入手する事すら困難になっていました」

 

「クイン、ククに花なんて咲くのか? 作り話だと……」

 

 アストは思わず聞いてしまう。

 

「数年に一度だけ、銀月が丸く空を彩る時に咲く大変貴重な花です。小さく真っ白な花弁で、その枚数は三枚とされています。私も直接見た事はありませんが……咲く周期も不規則で、未だ解明はされていません。ましてやこの時代、いえ救済の前では」

 

「でも……お酒、なのよね?」

 

 カズキの()()を知るアスティアも思わず呟く。だが、それを聞いたクインは笑う事なく返した。むしろ哀しげに……

 

「元々は違うのです……"パウシバルの指輪"では、こう表現されています」

 

「…… 右腕を失い血を流す戦士に聖女カーラが話しかける。これを飲みなさい、偉大なる戦士よ。銀の月はいつ迄も貴方を見守っています……ね」

 

 クインの言葉を引き継いだラエティティは何かを知ったのか、佇むカーラを眩しい光を見る様に目を細めている。ヴァツラフだけはまだ理解が及んでいないようだ。

 

「はい。それこそが銀月の名の由来、別名クク酒は……毒消し、化膿止め、病除け、凡ゆる効能がある万能な薬酒。しかし、最も良く知られた力は鎮痛……つまり……」

 

 此処で初めてクインはアスティア達を見て、短い言葉を紡いだ。

 

「痛み止め、です」

 

 

 

 

 

 全員が銀月に照らされた少女を見る。

 

 かなりの量を飲んだのだろう、その頬は赤く染まっている。そして身体中に振り掛けたのか上半身は濡れていた。

 

 両手を下ろした事でカズキの肢体は明らかになり、その女性らしい起伏ははっきりと露わになった。ノルデも見た薄紅色の下着は誰の目にも映り……薄っすらとだが、右胸と下腹部に何かが見える。

 

「カズキ……もう一度、抗うのか……」

 

「間違いなくそうでしょう。ヤトの封印に挑み勝つ……それはきっと厳しい、そして痛みとの……」

 

 ラエティティは耐えられず、両手を口に当てて出そうになる声を抑える。最早真実は明らかになり、自分は神の奇跡の前に立っているのだと心が震えた。

 

「ではカーラは……」

 

「ヴァツラフ、恐らく直ぐに分かる。子供への慈愛は誰よりも深い。今度こそ、必ず」

 

 小さな子供への愛は、カズキが聖女と成る前から持っていた強き慈愛なのだから……過去を知るアスト達は確信すらあった。

 

「アスト……」

 

「兄様、見て……!」

 

 カズキは息をついたのか、誰が見ても明らかな程に身体に力が入った。まるで祈りを捧げるかの様に、あの瞳を閉じたのだ。

 

 短い、いやもしかしたらずっと長いかもしれない時間が流れた時、変化が起こる。無音……あるとすれば、カズキが噛み締める歯が泣く音か。

 

「ぐ……うぅ……」

 

 右腕を失った時でさえ笑顔を浮かべたカズキが、苦しそうに小さな悲鳴を上げる。痛い程に手を握り、血の流れが止まって白く変わった。ブルブルと震え出し、立っているのさえ辛そうだ。それでも止まらない……何故なら……

 

「聖女カズキ……刻印か……」

 

 ヴァツラフの声に誰一人答えられない。目を覆いたくなる更なる変化が起き始めたから。

 

「ああ……血が……カズキ……」

 

 言葉はアスティアが発したが、それは皆が思った事だった。

 

 

 

 

 

「あの刻印は、言語不覚。ヤトに依って刻まれた呪鎖。カズキから自由な言葉を奪い、絶えず縛っています。その呪いは聖女の刻印、癒しの力をも封印する。しかし……同時にカズキを守っているのです、ラエティティ女王陛下」

 

「守っている?」

 

 クインは失礼を承知でカズキから目を離さずに言った。その声は皆に届き、ヴァツラフは拳を強く握る。

 

「5階位の刻印は聖女といえど御しきれず、放っておけばたちまち魂魄を削ってしまう。救済を果たす程のカズキの魂魄は、いとも簡単に消え去るのです。ですから……ヤトは封印しました」

 

「では、聖女様は……」

 

「はい……封印されているのは癒しの力のみ、象徴たるもう一つの刻印は決して……3階位はカズキにとっては小さなものなのでしょう……」

 

「慈愛……」

 

「その通りです、女王陛下」

 

 

 

 二人の会話は聞こえているが、アスティアはそれどころではなかった。愛する妹が今も一人戦っているのに……ただ立っている様に見える? 違う……カズキは誰も経験した事のないヤトの力に抗っているのだから。

 

 ジワリとカズキの首筋から血が滲み始めた。刻まれた鎖から次々と赤い液体が溢れてくるのだ。

 

「ああ……」

 

 よく見れば鎖はまるで首を絞める様に、細い首に喰い込んでいく。だがカズキは負けじと押し返しているのだ。

 

 絞まるたびにカズキの美しい眉は歪み、歯を食い縛る。

 

 今直ぐにでも駆け寄り、抱き締めてあげたい……でもカズキはそんな事など望んではいないのだ。

 

「頑張って……」

 

 だから、祈るしか出来ない。

 

 あの日の様に、祈るだけ……

 

 アスティアは膝をつき、両手を重ねた。でも目は決して離さない。せめて、共に……

 

「う……駄目……」

 

「カズキ!」

 

 フラリと倒れそうになったカズキだが、耐え切って声を荒げた。それは酷く珍しい。

 

「来ない、で!! 大、丈夫!」

 

 そして残った銀月を口に含み、更に首へ回し振り掛けた。

 

「絶対……こんな、の、大した……」

 

 細切れに呟く言葉は強く、そして儚い。

 

 もう半分は酒に変わったのではと思うシャツは、よりベタリと肌に這う。だから、次の変化に皆が気付いた。

 

「クイン……あそこは」

 

「……ええ、間違いなく。あれは癒しの力、聖女の刻印です……そして其処には封印が」

 

 柔らかな起伏を見せるカズキの胸、右胸の上あたりも赤く滲み始めたのだ。白いシャツは少しずつ赤く染まっていく……首元からも血が流れ込み、すぐに赤色のシャツへと変わってしまうだろう。

 

 それを隠す様にカズキは自分の肩を再び抱き抱えた。聖女の刻印は隠されたが、苦痛に耐える表情を見れば戦いが続いているのは明らかだ。

 

「大丈夫……必ず、助ける、よ……待ってて……」

 

「カズキ……君は」

 

 聞こえたそのカズキの言葉、それは間違いなく救済の日に呟いた。あの時、アストの腕の中で薄っすらと笑顔を浮かべ紡いだのだ。そして世界は……

 

 皆の前に聖女の奇跡が訪れようとしていた。

 

 最初は音だ。

 

 チチ……チチチ……

 

「な、何の音?」

 

 チチチ……

 

 カズキは鬱陶しくなったのか、髪紐を乱暴に取った。濡れたとは言え、元々老人の様な灰色の髪はバサリと背中に垂れる。留めていた跡も残り、グニャリと曲がっている。軽く引っ張ればブチブチと千切れそうな……そんな弱々しい糸だ。

 

 次は光、白い光。

 

 小さな火花、白い花が咲く。音と共に……

 

「背中……?」

 

「違う、髪だ……カズキの髪の先から……」

 

 チ、チチ、チチチチ……

 

「髪色が……」

 

 その呟きは誰のものだったか。

 

 灰色が黒に、いや優しい夜と同じ漆黒に。

 

 生え変わっているのではない。その証拠に根元ではなく毛先から変化は起こっていく。

 

「ぐ……」

 

 苦痛に耐えるカズキの声が響く。だけど、封印は少しずつ破られているのだ。

 

「もう少しよ……頑張ってカズキ!」

 

 アスティアの声が届いたのだろう。その変化は急激だった。

 

 チチチチチチ……!

 

 パァ!!

 

 一気に白い花が咲くと、一瞬だけ視界が消えた。余りの眩しさに見る者は眼を閉じるしかない。

 

 そして、再び視力が戻ってくるーーー

 

 其処に……

 

 一人の美しい女性が立っている。大人になりかけの、少女から大輪の花へと変化するほんのひとときの美。

 

 濡れていた筈の髪は、一本一本が風に揺れる。絡まる事など有りはしないと、それぞれが空中で踊り始めた。

 

 サラサラ、サラサラ……

 

 艶やかな漆黒の糸は稀有な輝きを放ち、銀色の月光を反射する。

 

 キラキラ、キラキラ……

 

 言語不覚を刻まれていた細い喉は、元の肌を取り戻していく。赤く爛れた肌は本来の艶が戻った。最初はジンワリと変化が始まったが、ふと気付いた時にはシミ一つ残っていなかったのだ。

 

 まだ終わらない。

 

 光を閉じ込めていた目蓋が上がり、長い睫毛にも月の光が降りていく。横顔だけれど、その瞳の色は間違いのない翡翠色。今まで何度も見た筈なのに、カーラと同じ色なのに……

 

「なんて……美しい……」

 

 今なら分かる。カーラの瞳の色も封印されていたのだ、と。ラエティティから茫然と感嘆の声が上がった。

 

 同じ色。でも明らかに違う。

 

 光の当たる角度で深みが変わった。宝石だったり、ボタニの湖だったり、若草や木々の色すら纏う。それ自体が光っている訳ではないのに、ボンヤリと不思議な輝きを放っている。

 

 コトリ……

 

 残っていた銀月の瓶を床に置き、カズキは佇み待つ皆に身体を向けた。

 

 全員に目を向けて、フゥと息を吐く。

 

 それすら絵になるのだから、神々の寵愛とは恐ろしいものだ。

 

 まだ痛むのだろう、時々顔を顰める。しかしカズキはあっさり無視して、聖女としての言葉を紡いでいく。

 

 五人の孤児が眠る部屋に、涼やかで凛とした声音が広がっていった。

 

 

 

 

 

 




聖女、復活。


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a sequel(28) 〜紡ぐ言の葉〜

聖女として、再び前に進む。
ラストまであと少しです。


 

 

 

 

 

「ラエティティ」

 

「ひゃ、ひゃい!」

 

 真っ直ぐこちらを見られた時、ファウストナの女王は人生最高と言って良い胸の高まりを感じていた。その上尊い唇から自らの名が紡がれたものだから、心臓が止まったと思いもした。

 

 裏返った声は吃驚するほど大きく、隣にいたヴァツラフまで驚いた程だ。

 

「貴女に謝らないと……最初に会った時、名乗れなくてごめんなさい。私の仕出かした事でみんなにも迷惑をかけたんです。あの時は逃げる事しか考えてなくて……」

 

 カズキに注目していたアスト達リンディアの皆は、眼を見開いて身動きが取れなくなった。

 

 今まで片言とは言え耳に聞こえていたカズキの言葉が、清流の様に流れて来たからだ。此れがカズキの本当の声……紡がれていく美しい世界……ブワリと鳥肌が立つのを止められない。

 

「と、とんでもございません! 聖女様が気に病むなど」

 

「違うんです。このリンディアにも重ねて迷惑をかけました。私のくだらない欲が馬鹿な行為を、情け無くて……」

 

 カズキ本人からしたら、酒欲しさの蛮行だったため当然の謝罪だった。しかし周囲はそれを許さない。

 

「そんな事ないわ! カズキは出来るだけのことをしたの! 謝るなんて」

 

「その通りだ。皆分かっているよ」

 

 二人の兄妹はカズキの懺悔を否定する。それ以上悲しい顔をしないでと……

 

「そ、そう?」

 

 うんうんと頷く二人を見て、意外と大丈夫なのかなと勘違いしたカズキだが、礼儀は通さないといけないと話を続けた。

 

「カーディルは、私の行為を守る為に嘘を……ファウストナを騙すつもりなんて無かった。だから謝らないといけません」

 

「お父様、だ」

 

「……はい?」

 

 いきなりカーディルが真面目な顔をして、意味不明な言葉を吐いた。

 

「お父様と呼びなさい。アスティアの妹なんだから、私は父だ。分かったかい?」

 

 カーディル、今までそんな事言わなかったよね? そうカズキは思ったが、反論する空気は存在しない。

 

 何故なら将来本当に娘になると、カーディルは思っている。アストの尻を叩かねばと決意を新たにするリンディアの王。否定を許さないカーディルの雰囲気にカズキは頷くしかなかった。

 

「お、お父様……は、悪くありません」

 

 言語不覚を抑えている筈のカズキが再び片言になったが、周りは生温かい視線を送る。カズキの肌は先程とは違う意味で赤く染まった。

 

「カズキ様……全ては理解出来ました。もう気に病まないで下さいませ」

 

「ありがとう、ラエティティ」

 

 薄く笑みを浮かべたカズキを見て、ラエティティも少女の様に頬が真っ赤になった。絶対に忘れないとカズキの笑顔を記憶に刻む。

 

「クイン、チェチリア」

 

「はい」

「はい!」

 

 キリリと引き締まった表情を湛え、カズキは頼りになる二人の女性に呼びかけた。頑張って意識を切り替えたのだ。

 

「今から子供達を目覚めさせます。二人はみんなに水分補給を……水を飲ませてあげてほしい。嫌がるかもしれないし、意識もはっきりしないでしょう。でも、お願いします」

 

「「分かりました!」」

 

「私も手伝うわ!」

「私も!」

 

 アスティアとエリも何かしたいとカズキを見る。するとカズキはニコリと笑うのだ。

 

「ありがとうアスティア、エリ。お願いします」

 

「お姉様、よ。若しくはお姉ちゃんでもいいわ」

 

「……え、あの」

 

 ジッとカズキの返事を待つアスティアの碧眼は離れない。絶対に耳にするまで離さない。流石親子だとカズキは溜息をついた……ほんの少しだけ微笑を浮かべて。

 

「お姉ちゃん、お願い」

 

 とはいえ、お姉様は恥ずかしいみたいだった。変わらず真っ赤で言葉にする。

 

「お姉ちゃんに任せなさい! エリ、行くわよ!」

 

 アスティアの足元から震えが走り、同時に力が溢れてきた。今なら空でも飛べるだろう。

 

「は、はい! いいなぁ……私も……」

 

 ぶつぶつ言いながら、エリも準備をするクイン達を手伝いに行った。

 

 大変な状況なのに何処が弛緩した空気が漂ったが、努めてカズキは無視した。まあ、バレバレだが……カーディルあたりは得意の悪戯顔を隠していない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヴァッツ」

 

「……ああ」

 

「貴方にも」

 

「いや、いい。母上じゃないが、分かったよ全てが」

 

 愛おしい、そして遠くに行ったカーラ、いやカズキをヴァツラフも見返した。今なら分かるのだ。カズキは特に隠していたりしなかったのに……

 

 最初に会った時、彼女は母の名を言った。その名は"ロザリー"。銀細工の飾りを一緒に見たときも、カズキは"お母さん"と言ったではないか……何より、救済を果たした本人の聖女に対する言葉。その全てがカーラをカズキだと言っていた。答えはすぐ側にあったのだ。

 

 彼女は"酒の聖女"でもあるのだから。

 

「お願いがある」

 

「言ってくれ」

 

「塩を持っているでしょ? 貴方達ファウストナの戦士は皆、懐に忍ばせている」

 

「……なんで、知ってるんだ?」

 

 カズキはニコリとして答えなかった。ヴァツラフもそれ以上は聞かず、裏地にあるポケットから紙包を出す。

 

「その塩を用意する水にひと摘み、お願い」

 

「分かった」

 

 カズキが何を狙っているのか分かり、ヴァツラフは直ぐに肯定する。正にその為に戦士は必ず持っているからだ。長期戦に臨む際、暑いファウストナでは水分と合わせて塩を舐める。昔から受け継がれた体力維持の方法だ。

 

 水差しから注がれ、清水を湛えた木製のコップが運ばれて来る。ヴァツラフは包装紙を開け、それぞれに塩を落としていった。

 

 準備は整ったのだ。

 

「カズキ、いいわ」

 

「うん」

 

 アスティア達はいつでもいいと子供達の側に待機する。五人に対し四人だから一人足りない。最後まで声をかけられなかったアストは、内心悲しみを堪えながら手伝おうと足を前に出した。何かしたいし、しないと辛かったからだ。

 

 その歩く姿を見たカズキは少しだけ口籠もり、それでも頑張って唇を開く。

 

「アスト」

 

「ああ、分かってる。皆を手伝うよ。それくらい……」

 

「違う」

 

「……なんだ?」

 

 少しだけ視線を逸らしていたカズキだったが、直ぐにアストを真っ直ぐに見た。美しい翡翠の輝きが瞬く。

 

「側に……」

 

「済まない、聞こえないよ」

 

「……私の側に、来て」

 

「あ、ああ」

 

 戸惑いながらも前に立つと、強い酒の匂いが漂う。目の前には美しい肌、透けて見える下着、血に濡れたシャツ、思っていた以上に女性らしい線、その全てがアストの前に隠されもせずに在る。けれど、それらは神聖でただ美しかった。その赤き血すらも……

 

 誰も近づけさせなかったカズキに、自分は何が出来るのかと自問する。しかし、答えは直ぐに齎されたのだ。

 

「私を……支えていて。倒れないように」

 

 これから聖女としての戦いに赴く……瞳はそう語っている。アストは強い感情を抑える事が出来ず、ゆっくりとカズキの背後に回った。上手く言葉にならない。

 

「アスト」

 

「ああ、いるよ」

 

「支えて、私を……離さないで、お願い」

 

 もう瞳はアストを見ていない。それでも……

 

「絶対に離したりしない。今も、此れからも……君を支えたい。ずっと……」

 

「……ありがとう」

 

 優しく両手をカズキの肩に置き、小さな背中に寄り添う。届く月光は二人を一つの絵画に変えてしまった。

 

 そのやりとりは皆に伝わったが、冷やかす者は一人としていない。ただ一人、ヴァツラフだけは拳を握り、悔しそうに俯いた。

 

 ラエティティはヴァツラフの心の内が見えたが、言葉をかけない。この経験も彼を成長させるだろう。失恋は悲しみを呼ぶが、人を強くもする。ヴァツラフならより強くなって立ち上がると確信があったから。

 

 そして、優しく見守る母にリンディアの王より言葉が投げかけられた。

 

「ラエティティよ。遅くなった事、もう一度心から詫びさせてほしい。そして改めて紹介しよう。彼女こそ、5階位の刻印を刻まれた使徒。白神の加護と黒神の寵愛を遍く受けた、黒神の聖女」

 

「カズキだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アストの手の暖かさを感じるのか、瞳を閉じた。

 

 直ぐ後ろに離さないと誓ってくれた人がいる。それはカズキにとって何よりも大事な事だった。だから、今から訪れる痛みなど怖くはない。

 

 ゆっくりと閉じていた瞳を開くと、眠ったままの子供達。アスティア、クイン、エリ、チェチリア、そして更にはラエティティまで待機していて、カズキは笑ってしまった。

 

 なんて素敵な人達なんだろうと、笑顔が自然に溢れてしまうのだ。

 

「みんな、お願い」

 

「ええ」

「任せて!」

「勿論です」

「御心のままに」

「いつでも」

 

 聖女は祈りを捧げる。

 

 もっと強固に、もっと深く、もっと高く、世界に届くように……何処までも……

 

 聖女が佇む、その直ぐ前。丁度胸の高さの空間に光虫が集まる様に、光が収束していく。一つ、二つ、四つ……光が光を呼び、また多くの光があちこちから飛んでくる。

 

 その光は曇りのない純白。真っ白な火花。

 

 寄り集まった光達はもっと大きく束ねられていく。

 

 少しずつ、少しずつ、真円を描き始めた。まるで空に浮かぶ銀月がその場に現れたかの様だ。

 

 肩に両手を置いているアストには分かった。カズキの身体が再び震え始めた事を……痛みに耐える悲鳴こそないが、時々フラリと倒れそうになるのだ。その度にアストは支え、止めたくなる気持ちを抑える。

 

 愛する人の苦しむ姿を見たい者など、この世界に一人もいないだろう。それでもアストは決してカズキを否定しない。ずっと支えて、離れないと誓ったのだから。

 

 頑張れーーー

 

 アストは心の中で声を上げ、ほんの少しだけ肩に置かれた両手に力を込める。伝わればいいと思って……

 

 浮かぶ真っ白な球は、両手で抱えるくらいの大きさになった。右胸の封印が時に邪魔をするのか、未だに血が滲み出すのが見える。シャツはもう真っ赤だ。しかし、止まらない。聖女は決して止まりはしない。

 

 子供達の泣き顔なんて見たくは無い。

 

 そして言葉は紡がれた。

 

 

 

「もうすぐだから、待ってて」

 

 

 

 カズキの呟きが部屋に木霊した瞬間、白い球体はほんの僅かに膨らみ、蕾が咲く様にゆっくりと開く。そして……眩い光が弾けた。

 

 誰もが光を直視出来ず、目蓋を閉じたり手を翳したりする。それでも次々と光の波が襲って来るのだ。

 

 暫くは誰も動かなかったが、ジンワリと光が収まって夜の闇が降りて来たとき……それぞれのベッド、子供達から音が伝わってくる。

 

「う、ん……」

「あ……」

「聖女さま?」

「痛く、ない」

「……あれ?」

 

 子供達は目を覚まし可愛らしい声を上げる。夢の中でカズキに会ったのか、何処か幸せそうな笑顔すら浮かんだ。

 

「やった!」

「みんな、目を覚ましたわ!」

「さあ、コレを飲んで」

「少しずつ、ゆっくり……」

 

「うぇ…塩っぱい」

「普通の水は……?」

「飲みたく、ない」

 

 辛そうに上半身を起こす子達を支え、アスティアやエリも頑張って水を飲ませていく。

 

 にわかに活気が溢れて、見守っていたカーディルにも笑顔が浮かぶ。辛そうだったヴァツラフすらも、喜びの息を吐いた。

 

「……やったな、カズキ」

 

「う、ん……」

 

 フラリと倒れたカズキをしっかりと抱き留める。

 

 アストの目には再び力を取り戻していく言語不覚の刻印が映った。ジリジリと鎖を形作り、グルリと首に巻きつく。

 

 それを悲しげに、そして安堵の色で見詰めるアストはカズキを横抱きにする。もう、眠ってしまったのだろう、ゆっくりとした呼吸を繰り返している。

 

「お疲れ様……また、救ってくれた。ありがとう」

 

 濡れた衣服の先からもカズキの体温が伝わり、強い愛しさが次々と溢れてくる。堪らず力を込めて抱き締め直す。もう離さないとばかりに、アストは黒髪に唇を落とした。

 

 強い酒の香りの中に、少しだけカズキの匂いを感じた気がして……

 

 見上げた先には、意識を取り戻した子供達と皆の姿がある。首を振れば、父と頷くヴァツラフ。

 

 窓からはもう雲ひとつ残っていない星空と真円の銀月。

 

 アストは、もう一度カズキの美しい(かんばせ)を見て……笑う事が出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




カズキの格好良くて可愛い感じ伝わったかな……

評価、お気に入り、ありがとうございます。


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a sequel(29) 〜リンディアの朝〜

今日の投稿で"a sequel"完結予定。30話で終わりですが、1話完結の特別編を準備しています。


 

 

 

 

 

 

 

 小さな奇跡が治癒院に舞い降りた夜は、新たな陽の光に塗り替えられていく。藍色の空は赤く白く染まれば、やがて朝が訪れるのだ。リンディア王国に、王都リンスフィアにまっさらな日は必ずやってくる。

 

 

 

 薄い暗闇が空とリンスフィアを覆っていた頃からカズキは何時ものベランダに出ていた。昨日は早く眠ってしまった為か、随分早く目が覚めてしまったのだ。

 

 目の前の景色に彩りが追加されていき、街にも光がポツリポツリと灯り始める。

 

「パン……」

 

 新しく灯ったあの辺りは嘗て知ったるパン屋だろう。早朝から動き出す店など限られるし、間違いないとカズキは思った。そういえば借りたパン切り包丁を返却出来てない。まあ、折れてしまった包丁を貰っても困るだろうが……そんな事が幾つも頭に浮かび、目を凝らした。

 

「う、ん?」

 

 目を凝らしたから分かったが、屋根の上に座っている男が見えた。キャンバスらしき物が立っているし、絵筆みたいな細い棒を持っているから画家だろう。丁度陽の光が当たり眩しくて右手を翳した。すると画家の人が慌てて立ち上がり、あたふたした後に手を振った。

 

「あ」

 

 多分翳した事で、手を振る姿に見えたのだろう。思わぬ間違いに恥ずかしくなったが声など届かない。仕方なく手を振り返す。ビシッと固まった画家は、益々慌てると最後はストンと椅子に腰を下ろした。まるで力が抜けた様子で心配になったが、凄い勢いで絵に向かった姿を見て安心する。きっと向こうも恥ずかしかったのだろう。

 

 リンスフィアに朝が訪れて、遥か彼方まで見渡す事が出来る。昨日の大雨が嘘の様に雲ひとつない。見慣れた筈の緑の草原、なだらかな丘、何処までも遠くに繋がる石畳。その全てに光が届き、カズキは感嘆の溜息をつく。

 

「綺麗……」

 

 再び言語不覚に縛られてしまったが、この言葉に変化などないだろう。奥深くからの心地や情感を並べただけだから。

 

 長い間大好きな景色を眺めていた。時間は少しずつ昇っていく太陽を見れば流れていると分かる。家々の煙突から煙が上がるのが見えて、街が目を覚ましたとカズキは知った。

 

 それを確認すると部屋に戻るべく振り返る。するとベランダと部屋をつなぐ扉の前に一人佇む女性が居るのに気付いた。陽の光に当てられた髪はキラキラと光る黄金だ。青い瞳には何処までも優しく知性的な色を纏う。

 

 カズキが飽きるまで待っていてくれたのだろう。

 

「おはようございます、カズキ」

 

「クイン……おはよ」

 

 ずっと見られていたなら恥ずかしいな……そんな事を思う自分に不思議な気持ちになる。こんな時、変わってしまった自分を感じるのだ。

 

 歩き出した自分を意識してしまい、今更に別の事に気付いた。

 

 記憶では身体が酒と血に染まっていた。髪だってボサボサだっただろうし、下着も汚れていて……肌にも血はついていたから、酷い有様だった筈だ。

 

 ところが服は前ボタンの白いワンピースだし、下着だって変わっているのが分かる。血なんて何処にも見えないし、鼻をくすぐる髪からは良い匂いだってする……チラリと見えた癒しの刻印もバッチリ封印されていた。

 

 何度意識がない時に着替えさせられただろう。

 

 もう数えるのも馬鹿らしい。クインやエリが自分の衣服を剥いで、身体中を洗ったと思うと堪らない恥ずかしさが襲う。

 

「う……」

 

 この恥ずかしい気持ちは何だろう……初めて感じた感情にカズキは頬が染まったのを自覚した。

 

「どうしました? 顔が赤い……まさか、何処か体調が!?」

 

「ち、違う! だ、大丈、夫」

 

 慌てて手を伸ばしたクインに、カズキはブンブンと両手を振って否定した。まだ感情を上手く抑えられないのだ。しかし、その手の否定など全く信用出来ないカズキだから止まる訳はない。

 

 額に手を当て、クインは真剣な顔でカズキの瞳を見た。そこには間違いない心配と、焦りがある。

 

「体温が少し高い……心音も……」

 

 続いて胸に耳を当てられて、益々カズキは恥ずかしくなった。

 

「もう少し寝ていて下さい。無理は絶対に駄目です。カズキ、分かりましたか?」

 

 有無を言わせない雰囲気を醸し出し、クインはカズキの手を引いていく。

 

 大丈夫なのに……引かれる手を見ながら、言葉にしようとしても出来ない。もう全く眠くないのだ。仕方なく別の事をカズキは話す事にした。

 

「クイン」

 

「はい」

 

 ベッドに腰を下ろされ、横になるよう促がしてくるクインに頑張って声をかけた。やんわりと抵抗しながら、上半身をそのままにする。

 

「昨日、子供、だいじょぶ?」

 

「勿論です。あの後、乳粥も口にしていましたから。直ぐに元気になります。皆がお礼を言っていましたよ」

 

「お礼、要らない。だって」

 

「それ以上言わないで下さい。分かっていますから」

 

 カズキからしたら酒盛りに内緒で行った時、偶然子供達を見つけただけだ。寧ろあんな場所で酒を飲もうとした自分は最低な奴だろう。

 

「でも、お酒……」

 

「クク酒が何故あったのか不明ですが、きっと神々のお導きでしょう。カズキが気にする事では……」

 

 思わず長々と話してしまい、カズキから困惑を感じたクインは口を閉じる。そして言い直した。

 

「カズキ、大丈夫です。誰も怒ってません」

 

「そう?」

 

「ええ」

 

 何故か内緒の酒盛りにお許しが出て、カズキはホッとする。いや、もしかしてバレてないのかも……そう安堵した。禁酒令が出ないなら良しとしよう。チラチラとクインの目を見るが、疑っている様子はない。

 

「あのお酒を何処で?」

 

「ヤト、が……飲め、言って」

 

「……ヤトと話したのですか?」

 

「うん」

 

 鳥肌が立つのを自覚したクインは、感動に打ち震えた。目の前のカズキは、神々の寵愛を全身で受ける聖女なのだと想いを新たにするしかない。

 

 見ればカズキの頬から赤みが消え、落ち着いた様子だった。クインは手を取り脈を測る。そして心から安心したのだ。

 

「大丈夫そうですね。朝食を摂りますか?」

 

「うん、お腹、減る」

 

「では、此方に」

 

 鏡の前に座らせ、クインはカズキの身嗜みを整え始めた。清らかな水に浸した手巾を絞り、カズキの顔を拭う。自分でするとカズキは手を伸ばすがクインは巧みに躱して終わらせた。続いて櫛を持ち、色と艶を取り戻した黒髪を梳く。全く抵抗を感じない黒き糸に幸せを感じながら。

 

「夜着は着替えましょう」

 

 前ボタンをプチプチと外し、スルリと脱がした。やはり自分で着替えると手を伸ばすカズキを見事に躱す。何気に頑固なクインは、この幸せを誰にも渡さないと決めているのだ。私は専任の侍女なのだからと、言い訳を呟いて……

 

「はい、足を上げて下さい」

 

 微笑を浮かべるクインに、カズキはもういいやと諦めるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキ!おはよう!」

 

 食の間に向かうカズキの前に元気なアスティアが現れた。早朝なのに珍しくエリが側にいる。眠そうな目はシパシパしているが。

 

「アスティア、おはよ」

 

 するとアスティアはムッとして、カズキの前に立ち塞がった。納得するまで動かないと、肩幅まで両脚を開いている。それを見て戸惑ってしまったカズキだが、クインは助けてくれないようだ。

 

「カズキ……」

 

「な、なに?」

 

「もう一度よ。おはよう」

 

 声でも小さかったかなと、カズキは口を開く。

 

「おはよ、う?」

 

 しかし許しは出ず、全く動かない。エリは珍しく溜息をつきながらアスティアを横目で見る。意味が分からないとカズキはクインに助けてと視線を送った。

 

 このままではキリがないと、クインはカズキの耳元で囁く。アスティアも止めたりしない。

 

「呼び方、です。昨日、覚えてますか?」

 

「呼び方?」

 

 一体何の話だと首を傾げるが、すぐに思い出し……思わず「えぇ?」と唸った。

 

 動かないったら動かない、カズキがちゃんと呼ぶまでは。アスティアからそんな強い覚悟を感じる。

 

「お、お姉ちゃん」

 

 うんうんと頷き、さあもう一度と促してくる。

 

「……おはよ、お姉ちゃん」

 

「おはよう、カズキ」

 

 満足したのか、ニコリと笑顔を浮かべるアスティア。溜息を隠さないクインとエリ、でも何故か暖かい時間。

 

 カズキの隣りに並び、再び歩き出す。アスティアにとって当たり前の事だった。

 

「身体はどう?」

 

「大丈、夫」

 

 やはりカズキの"大丈夫"を全く信用していないアスティアはクインを見る。エリすらクインの目を見た。コクリと軽く頷いた姿を見て、漸くホッとする王女と侍女だった。

 

「カズキ」

 

 姦しく歩く四人の女性陣に、柔らかくて力強い男性の声がかかった。廊下の反対側からアストがゆっくりと歩いて来る。高い身長と、細身ながら鍛えられた身体を揺らし真っ直ぐにカズキを見る。

 

「兄様、私もいるのだけど?」

 

「アスティアとはさっき会っただろう……」

 

「ふふ……そうだったかしら?」

 

「全く……カズキ、身体のほう」

 

「大丈、夫!」

 

 何回も聞かれて思わず早口で返した。ちょっと強めになってしまい、手で口を押さえる。それを見たアストだが、やっぱりクインに確認。カズキは少し不機嫌になり、ムスッとしながら歩き出した。本人からすれば、最初からクインに聞いたら?と思うのは当然だろう。

 

「大丈夫なら良かったよ。カズキ、機嫌を直してくれ」

 

 慌てて横に並ぶアストをチラリと見て、分かりやすく、これ見よがしに溜息を吐いた。カズキも本気で怒った訳ではないし、仕方が無いとアストを見上げて言葉を返した。

 

「アスト、おはよ」

 

「ああ、おはよう」

 

 見詰め合う二人だが、さっき迄カズキの隣に居たアスティアさえ後ろから観察している。エリと二人視線を合わせ、ムフフフとイヤラシイ笑みを零す。クインは何度目か分からない溜息をつき、はしたない王女とついでに侍女も後で叱らなければと決めた。それを知らないアスティア達はニヤニヤとアスト達を追跡するのだった。

 

 

 

 因みに……朝食後、居室に帰った王女は涙目になったらしい。王女専任の侍女などは遠い目をして動けなくなり、ガクリと顔を倒したという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

 リプトヘッサ病

 

 聖女が降臨した時代では、単純に風土病と呼ばれていた。

 

 罹患するのは5,6歳から12歳前後の少年少女で、発熱や嘔吐が初期症状に現れる。適切な対処が行われない場合、意識が混濁して最悪死に至る恐ろしい病だ。

 

 適切な対処とは現在も優秀な薬材として知られるククの葉だ。煎じたククの葉を湯に溶かし、数日間飲み続ける。嘔吐が激しい場合には歯茎に塗り込むなどを行ったという。

 

 致死率は伝承に描かれる程に高くは無かったらしい。ククの葉さえ有れば、ほぼ間違いなく完治するのだから当然だろう。

 

 しかし賢明な皆なら分かる筈だ。当時、魔獣の脅威に晒されていたリンディアをはじめとする各国は、絶えず物資の不足に悩まされていた。ましてやククは森に生息する植物だ。

 

 治せる方法が有るのに足りない物資の前で死んでゆく……そんな子供達を見る大人の苦悩と絶望は如何程だっただろう。当時の文献には多くの悲しい死が描かれている。

 

 救済の日前後は最も過酷な時代で、数多の小さな命が失われた事は間違いない事実だ。

 

 だが……不思議に思わないだろうか?

 

 リプトヘッサ病など、とうの昔に消え去った病だと。史実には残るが、もう影も形も存在しない。

 

 此処で新たな事実を提示しよう。

 

 聖女カズキの奇跡は誰もが知っている。絶望に包まれていた世界を救い、そして癒したのは数多くの証拠が物語っている。この事実を否定する者は存在しないだろう。

 

 だが……殆ど知られていない()()()奇跡がある。

 

 それは今も残る聖堂の一つ、旧名「西街区治癒院」で起きた。後の備考に示すリンディアの公式文書を参考にして貰いたいが、当時はまさに小さな奇跡でしかなかった。

 

 リプトヘッサ病に罹患した五人の子供達を聖女カズキは救った。この時既に刻印は封印されており、癒しの力は行使出来なかったらしい。しかし、またも奇跡を起こした聖女によって死を待つだけだった子達は救われたのだ。

 

 だが驚くのは其処ではない。いや、充分に素晴らしい事なのだが、聖女の齎した奇跡は留まることをしなかった。

 

 続く表②を見て欲しい。

 

 難しいものではない。残る資料や公文書をまとめ、数値化した。一目瞭然だと思う。赤い線を入れているのが、聖女が小さな奇跡を起こした年だ。

 

 そう、聖女は五人の命を救った小さな奇跡を起こしたのではない。

 

 その年以降、子供達の死者数は有意に減少した。しかも偶然でなく、それ以降ずっとだ。風土病と言う単語は、この後の時代の文献には殆ど登場しない。救済の年、それ以前は探すのに苦労しないのに!

 

 そう……リプトヘッサ病は研究者が特効薬を作った訳でも、変化した街並みによって消え去った訳でもないのだ。

 

 それ以降のリンディアの発展に多大な貢献に寄与したのは想像に難く無い。救われた者達から綺羅星の如く、数々の英雄は生まれていった。

 

 断言出来る。

 

 根絶させたのは、聖女カズキによる()()()奇跡だと。

 

 

 

 

 〜黎明の時代 聖女カズキの軌跡〜

 

 第十一章 聖女が照らす世界 より抜粋

 

 

 

 

 

 

 

 




あと一話で"a sequel" も完結です。特別編の一話を加えて、本当の完結になります。


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a sequel(30) 〜続く世界に〜

長めの後日談"a sequel"は今回で完結です。本編から連なる長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。


 

 

 

 カズキの手により"白祈の酒"が運ばれてくる。

 

 澄んだ透明のガラス瓶に、やはり濁りのない白祈の酒が満たされていた。歩むカズキに合わせ、液面はゆらりゆらりと揺れて、其処にしっかり在ると見る者は理解出来た。

 

 その大変珍しい酒に誰もが目を奪われている。

 

 しかし良く見れば、視線は酒に行っていない。一人として目を逸らさず、右から左へと顔を振るだけ。その先は当然に聖女だった。近付いてくるカズキを見るラエティティもヴァツラフも、夢でも見ているのかと恍惚としている。

 

 

 

 

 足首まで隠すロングドレスは加護を齎す神々を表し、黒を基調としている。だがよく見れば全体に白と銀の線が斜めに彩られていて、重い印象を和らげた。肩は大胆に露出し、背後に回れば綺麗な背中も目に入るだろう。封印を施された聖女の刻印こそドレスに守られているが、ヤトの鎖はところどころ顔を見せている。肩から先、素肌のままの両腕には煌びやかな腕輪が幾つか並んでいた。

 

 首回りの言語不覚はあえて隠さず、まるでソコに繋がっている様なネックレスが逆に脇役だ。

 

 一房だけ編まれた黒髪は銀月と星の髪飾りも相まって、少女を大人に見せた。翡翠色が映える様、瞳周りの化粧は最小限だが、唇に引かれた紅は草原に咲く花の様に淡い色を湛える。薄っすらと水白粉(みずおしろい)がのる頬は優しさを表しているようだ。

 

 誰もが美しさを知っていたつもりだが、それすらも簡単に裏切って聖女は歩む。白祈の酒さえも、聖女を彩る道具の一つだった。

 

 

「ラエ、ティティ。どうぞ?」

 

「はい……カズキ様」

 

 恭しく差し出した盃に、トクトクと透明な神酒が注がれた。ちょっと多目に入ったが、寧ろありがたいと幸せになる。

 

 見守るリンディアの者達は同情の視線を送っていたが、幸か不幸かラエティティは気付いていない。カズキ以外美味いと思えない神酒と伝えているのだが、信じてくれないのだ。

 

 聖女カズキ様が口に含まれた神酒が、美味しくない訳がないと。

 

 聖女に直接注がれた酒を口にする……酷く不遜に感じもするが有り難さが上回る。ラエティティ暫く透き通った液面を眺めていたが、ゆっくりと口元へ近づけていった。

 

 スイと盃を口に当て、そのまま流し込んだ。瞬間彼女の眉は歪んだが、努めて表情に出さない。リンディアの面々の同情心は益々強くなり、同時に女王への尊敬の念も強まった。

 

 ゴクリ。

 

 喉を鳴らすラエティティ。何処か辛そうだ。

 

「美味しいです、聖女様」

 

 頑張った、私……内心自画自賛していたラエティティに更なる試練が襲う。

 

「そう? なら、もう一杯、どぞ」

 

 トクトクトク……さっきより多く注がれた神酒。

 

 それを見事な笑顔で見詰めるラエティティ。でもピクピクと整った睫毛が揺れている。ニコニコ顔のカズキと静まる広間。

 

 誰かが小さな声で言った。

 

 頑張れ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カーディル王、後でお話ししたい事があります」

 

「うむ、構わない。他には誰か必要か?」

 

「よろしければ……アスト、アスティア両殿下。コヒン宰相、そしてカズキ様にも……宜しいでしょうか?」

 

「アスト達は勿論大丈夫だが、カズキは……」

 

 歓迎の宴を再度催したリンディア王国は、予定していた白祈を贈る事が出来た。聖女から注がれた酒は名実共に神酒となったのだ。味はともかくとして。

 

 宴も佳境となり、其々が楽しそうに酒を酌み交わしている。そして二人の王が視線を送った先にいる聖女を見て不安になったのだ。

 

 ()()()誰も飲まない白祈の酒を嬉しそうに独占すると、チビチビと飲み続けている。その表情には幸せが溢れていて、見る者に神々の祝福があるだろう……多分。

 

 両隣にはアスト、アスティアの兄妹がいて、飲み過ぎないように注意を払っている……残念ながら聖女本人は気にもしていないのが丸分かりだ。

 

 ヴァツラフも吹っ切れたのか、アストと乾杯を繰り返しているようだ。会話に耳を済ませば、また試合をするぞと語り合っている。その内、戦法や力の刻印にも話が広がり、真剣味を増していく。

 

 直ぐ側にそんな空気があるのに、聖女様は我関せずと残り少ない酒を盃に注ぐ。自分で、幸せそうに。

 

「お、お幸せそうですね……」

 

 ラエティティは空笑いを浮かべ、何とか言葉を紡ぐ。二杯も飲んだあの酒だが、あんなに美味しそうに飲むカズキを見れば中身は別ではと錯覚してしまうのだ。

 

「酔い潰れなければ、だな」

 

 自称お父様も呆れてしまい、それ以上言葉は続かないようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お待たせしました」

 

 遅れていたアスティアがカズキを伴って入室する。直ぐ後ろにはクインも居て、眠そうなエリが続いた。

 

 案の定夢の中に旅立った聖女を起こし、頑張って連れてきたのだ。最初はぐずったカズキだが、話しを聞いてくれるならファウストナの最高級酒をラエティティが提供してくれるらしいよ……そんな餌をぶら下げられて、フンフンと鼻を鳴らしながら歩いて来た。騎士が操る軍馬でさえ、そこまで露骨な行動を取らないのは間違いない。

 

「よし、揃ったな」

 

 アスティアとカズキが腰を下ろすのを確認して、カーディルは始まりの合図を送る。クインとエリは壁際まで下がり、時に全員の飲み物を給仕するのだろう。

 

「皆さん、お集まり頂きありがとうございます。わたくしの我儘ですが、どうしても聞いて欲しいのです」

 

 全員に視線を合わせ、ラエティティは礼を述べる。先程までの浮ついた空気は存在しない。隣にいるヴァツラフも何かを決意した眼をしている。

 

「気にする必要はない。我等は真に友好国となれた筈だ。少し遅れたが、な。コヒン、調印書はあるな?」

 

「はい、此方に。後は署名を待つのみですじゃ」

 

「よし」

 

 片目を瞑り、和やかな空気を作り出したカーディルだったが、続くラエティティの言葉に視線は鋭くなってしまう。

 

()()()()()()()、まさにその言葉でございます」

 

「……どういう意味だ?」

 

 益々他人行儀になったとカーディルもアスト達も緊張する。カズキだけはよく分からなくて左右に首を振って様子を伺って、アスティアは思わずそのカズキの手を握った。

 

「予定していた同盟への調印、其れを再度やり直したい。そう考えております」

 

「……何故だ? カズキへの、使徒との関係なら確かにラエティティには納得出来ないだろう。しかしカズキが望むのは家族の存在、貴女にも説明した筈だ。確かに嘘をついたのは謝ろう。だが……」

 

「聖女カズキ様の望みを叶えるなら、私達の常識など其れこそ無意味です。その幸せそうな笑顔を見れば、否定などする訳がありません」

 

 ラエティティはフワリと笑顔を浮かべ、手を繋ぐ姉妹を眺めた。

 

「では何故……同盟を」

 

 調印書を机に置くコヒンは力無く俯いた。

 

「……時に、ロザリー様の眠る丘への道、整備は進んでおりますでしょうか?」

 

 突然の話題転換に周囲は戸惑う。だが、ラエティティの悪癖を知るヴァツラフだけは溜息を隠さない。毎度の事ながら面倒臭い母親だと思うのだ。

 

「アスト」

 

「はっ。実は今滞っております。道を緩やかにする為、丘を一度削り再整備を行う予定でした。しかし、想定外の巨岩が複数見つかり躱す方法を再協議しております。破壊する事も難しく、運ぶにも時間が必要です」

 

「やはりそうですか……わたくし達も是非ロザリー様へ謝意を伝えたいと思っています。何より聖女カズキ様の御命を救い母となられたお方。聞けば私達と同じ髪色をなされていたとか。ロザリー様に間違えられるなど、光栄の極みですが……この世界に母親は一人だけ。一日も早く参じたいものです」

 

 流れるように言葉が全員の耳に届くが、混乱は強まる。同盟の話は何処に行ったのだ、と。

 

「それは良いが、何の話だ?」

 

 ヴァツラフ以外の全員に疑問符が浮かんだ。カズキにもだが……彼女はほぼ最初からだ。

 

「このヴァツラフですが、乱暴な上に礼儀も知らない粗忽者です。母として情け無い限りですが、同時に誇りに思う息子でもあります。魔獣を何匹も討伐しましたし、何より力の刻印を刻まれた使徒の端くれですので」

 

 更に道が変わり、流石のカーディルも眉を歪めた。

 

「ラエティティ……」

 

「お願いがあります」

 

「……ああ」

 

「その巨岩とやら、取り除くのにヴァツラフをお使いください。勿論我が戦士団も。数人ですが選りすぐった強者ばかりです。礼儀は御勘弁下さいね」

 

「それは有難いが……」

 

「ありがとうございます! 少しでもカズキ様のお役に立てるなら、これ以上の幸福はありませんわ! ね?ヴァツラフ」

 

「……はい。光栄です」

 

 嫌そうな表情だが、与えられた仕事に対してではないだろう。自身の母の悪癖に腹が立つやら恥ずかしいやら……複雑な心境なのだ。

 

 もう何が何やら分からなくなって、カーディル達はお互い目を合わせる。

 

「それが話したい事か?ラエティティよ」

 

「あら? ()()、お分かりになりませんか?」

 

 何処か砕けた雰囲気を出し始めたラエティティに、天を見上げるしかない。

 

「母上、いい加減にして下さい。悪い癖ですよ、本当に」

 

 もう我慢ならないとヴァツラフが口を出した。本当にすいません、うちの母が……そんな言葉が不思議と見えたりした。

 

「……なんで皆そうなのかしら?」

 

 まるで分からないと悲しみを浮かべるラエティティだが、誰も同情などしなかった。本人は踊る会話が大好きなのだが、舞っているのは一人だけ。観客も呆れているぞとヴァツラフは言いたいだけだ。

 

「母上が話さないなら、俺が……」

 

「俺とは何ですか……この場でふざけた言葉は許しませんよ?」

 

 貴女がそれを言うのか……女王らしい張りのある言葉に全員が思う。

 

「仕方がありません。では結論を」

 

「頼むよ、ラエティティ」

 

 どうやら悪い雰囲気では無さそうだと、一同は安堵の息を吐いた。壁際のクインと佇むコヒンだけは理解が及んだのか、緊張は解けていた。

 

「はい。我がファウストナ海王国は、偉大なるリンディアの元へ……カーディル陛下へ忠誠を誓わせて頂きたいと考えております」

 

「……つまり、同盟ではなく?」

 

「併合を求めます」

 

 ラエティティは永らく続いた祖国をリンディアの領土とする……そう宣言したのだ。余りの発言に全員が唖然とした。王家断絶は重い。誰もが返す言葉を持たなかった。

 

「ラエティティよ……幾ら女王とは言え、遠く離れたファウストナには民もいるだろう。多くの臣下も。簡単に決める物ではない筈だ」 

 

「御心配には及びません。実はリンディア王国を訪れる前に皆で話し合っておりまして。もしリンディアが弱体化していたら上手いことして領土を頂き、やっぱり大国のままなら併合して貰うのもあり。そう答えが出ております。ですので結論はこの不肖ラエティティが決めて良いのです」

 

 正直な話、ファウストナは国の体をなしていないのだ。あとは滅びを待つだけだったし、リンディアの助けが無ければ王家も何もない。何より、かつての同盟国リンディアに対する憧れは強く醸成されていた。

 

 余りに明け透けなラエティティの言に、暫く呆然とするリンディア一同。その中でも意味が分からないカズキだけはフラフラと視線を泳がせていた。最高級のお酒は何処だろうと目を皿にしているのかもしれない。

 

「ただ……」

 

「ただ、なんだ?」

 

「もし、カズキ様や神々を軽んじる事が有れば……我等は最後の一人となるまで戦います。それが例え、忠誠を誓ったリンディアであったとしても」

 

 それは宣誓だった。

 

 忠誠は捧げるが、それは聖女の愛するリンディアだから。此処は神々の祝福が燦々と降り注ぐ奇跡の国なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カーディルはラエティティの願いを聞き入れ同盟案を破棄。ファウストナをリンディアの一部とした。しかし、此処でカーディルは新たな条件をつけたのだ。

 

 ただの領土ではなく、ファウストナを公国とするーーー

 

 リンディアに忠誠を捧げて貰うが、自治権はあくまでファウストナにあり、独自の軍もそのまま継承された。初代公爵にラエティティを充て、リンディアの発展に寄与せよと発したのだ。

 

 これをラエティティは受諾。

 

 後に大量の資金を投じられたファウストナは、大きな発展を遂げる事になる。海の無かったリンディアはファウストナを海の玄関口とした。それにより、後に次々と見つかる他国との貿易に大きな貢献を果たすのだ。瞬く間に巨大な街へと変貌した元ファウストナ王都は、リンディアを代表する貿易都市として機能する事となった。

 

 リンディア王国は更なる発展を謳歌し、世界に冠たる大国へと進化を遂げていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 初代公爵、後の大公ラエティティの言葉が残されている。

 

 ーーーファウストナ公国は偉大なるリンディアの槍。仇なす者には我が戦士団が襲い掛かるだろう。だが、我等の忠誠はただ王国に向かうのではない。聖女カズキ様が愛した此処は、神々の加護が降り注ぐ神の国。その慈愛にこそ忠誠が相応しい。仇なすとは聖女を軽んじる者。それが例えリンディアであったとしても、例外ではないーーー

 

 ファウストナには今も大切にされている銅像がある。

 

 祈りを捧げる聖女カズキ、寄り添うのはアストとアスティアの兄妹。その瞳と祈りは遥か彼方のリンスフィア、その小さな丘に向かっている。聖女が愛した母の眠るその丘には、優しく抱き合う母娘の対となる像があった。隣りには碑文の彫られた石碑。

 

 

 

 その言葉ーーー

 

 

 

「偉大なる貢献を果たした者にも"家族の愛"は寄り添っている……神々の愛し子、癒しと慈愛を司る"聖女カズキ"であったとしても」

 

 

 

 

 

 

 

 




"a sequel"完結です。ありがとうございました!
次の特別編で黒神の聖女もフィナーレを迎えます。

沢山の感想やコメント、お気に入りに登録して頂き、感謝しかありません。重ねてお礼申し上げます。


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特別編 〜祝福のリンスフィア〜
Engagement kiss


第一話から数えて108番目の特別編。約三話分のボリュームがあるのでご注意下さい。内容は題名そのままです。



 

 

 

 心で糸を、優しさを紡ごう

 

 花の名は想い

 

 紡いだ優しさで束ねたら

 

 慈愛と呼ばれる花束になるよ

 

 ほら、それは世界を彩って

 

 君と誰かを愛色に染めるから

 

 

      ダルグレン=アビ

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 

 

 王都リンスフィア、それどころかリンディア王国全土に駆け巡る噂があった。

 

 いや、噂では語弊があるだろう。

 

 リンディア王室からの正式な告知があったのだから。

 

 その告知自体は非常に短い内容だっだが、復興最中のマリギやテルチブラーノ、南の森を切り拓く為に造られた開拓村すら例外ではなかった。遠くファウストナ公国までも届いたのだ。

 

 予定された日程に合わせ続々と人が集まって来ている。王都リンスフィアは未曾有の人口爆発に見舞われ、凄まじいまでの活気に溢れていた。日々大量に消費される食料や酒、宿や劇場から人が途切れる事はない。

 

 リンスフィア各所に騎士団が派遣されており、来たる日に向けて着々と準備が進んでいる。最適な順路と警備、その中で可能な限り人々と触れ合える方法を決めなければならないからだ。大変な作業だが、騎士の誰一人として嫌な顔をしていないのが分かった。寧ろ誇りある任務だと笑顔すら浮かぶ。

 

 街の住民からは「是非この道を」「許されるなら足を運んでください」「休憩所として自由に使って欲しい」「花を献上したい」などなど、処理し切れない嘆願や申入れが王室へと届いている。

 

 それら全てが魔獣からの解放……つまり"救済の日"以来最大の活況、ある意味の好景気を生み出す事になっていた。

 

 

「本当なんだよな?」

「おいおい、しつこいぞ」

「態々来たんだ、仕方ないだろう」

「リンディア城前に告知が出てるよ。心配なら見てくればいい」

「そりゃ聞いてるが、事が事だからな……」

 

 似たような会話があちこちで交わされている。

 

 

 

 聖女カズキがリンスフィアに、国民の前に姿を見せる……

 

 遠目にリンディア城を仰ぎ、運さえ良ければ聖女を見る事が出来るのは知られていた。特に天気の良い朝は確率が高く、目にする事が可能な最高の場所は何処かと論議が絶えない程だ。

 

 しかし、聖女自らが街に姿を見せる事は殆どなく、誰もが叶わない願いを抱えていた。救済の礼を伝えたい、家族を救ってくれた、魔獣に怯えなくてよい国になった。そんな感謝の気持ちをずっと抱き締めていたのだ。

 

 今や何処を歩いても目にする聖女の絵姿は、人々の想像を掻き立ててしまう。

 

 

 

 美しき面差し

 

 艶やかで夜を溶かした黒髪

 

 慈愛を湛えた翡翠色の瞳

 

 黒神の寵愛、白神の加護

 

 刻まれた数々の刻印

 

 

 

 誰もが知る事実だが実際に会った者は非常に少ない。大半が騎士か森人で、あとは黒髪を捧げた広場にいた一部の者達だけだ。

 

 その為、聖女を描いた絵姿は飛ぶように売れている。

 

 幕が上がった舞台「聖女の座す街」は終日の満員となって、あの日聖女が如何に救済を成したかが明らかになった。その舞台は大変な話題を呼ぶ事となったのだ。

 

 捧げた黒髪によって人々を癒した事実が余りに有名で、其れが救済の手段だと思われていた。

 

 小さな身体でケーヒルを守ろうと立ち向かった勇気、千切れた右腕、流れ出る尊き赤い血。それでも王子へ笑い掛け、そして魂魄すら捧げて世界を救済した。その献身と慈愛の何と偉大な事か……何日も目を覚まさず、黒神ヤトが降臨しなければ間違いなく命を落としていたと。

 

 ジネット=エテペリ演ずる聖女カズキは、其れらを知らしめる事になった。後に語られた騎士や森人の証言が全てを裏付けしていく。今や真実を知らない者が少数だろう。

 

 演ずる前、ジネットは必ず観客に伝えるらしい。

 

「私は聖女カズキ様を演じているのではありません。救済の日に何があったのか……其れを人々に伝える義務があるのです。あのお方は感謝も称賛も、そして涙も望まないのでしょう。声高に事実を語る事には興味などないのです。ですから……私達が語ります。この舞台は伝道への一石であり、真実を照らす篝火。カズキ様の万分の一でも慈愛を抱く事が出来たなら、それは幸せな事だと確信しています」

 

 その聖女が街へ……

 

 今やその話でリンスフィアは沸騰し、それも仕方がないと誰もが語り合っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 告知される数日前ーーー

 

 

 

「お墓……行く?」

 

 聞きようによっては不穏な言葉だが、経緯を知る皆には感慨深いものがあった。

 

 予定外の整備の遅れからカズキは勿論、ロザリーも待たせてしまった。ヴァツラフを筆頭とするファウストナの戦士団が参加した事で、漸く完成に漕ぎ着けたのだ。

 

 因みにラエティティを始めとするファウストナ一行は既に帰路についている。ヴァツラフも力仕事が終われば挨拶もそこそこに立ち去った。公爵と息子は少し離れた場所から聖女の母へ言葉と気持ちを贈り、最初に霊廟の元へ参ずるのは聖女だと頑なだったらしい。そして、ファウストナ復興を果たしリンディアに貢献すると帰って行ったのだ。

 

「ああ、待たせてしまったね。皆が協力してくれて……遠いけど見えるだろう?」

 

 何時ものベランダから僅かに丘が見える。緩やかに立ち昇る煙の様に見える真っ白な道も、整備されたのだとカズキにも分かった。

 

「うん、皆、ありがと」

 

「ふふ、それを聞いたら喜ぶと思うよ」

 

 二人の距離はほんの僅かだけ縮まったかもしれない。アストはみだりにカズキに触れなかった為、大抵は半歩離れていたからだ。今はもう少しで触れ合う程の近さまで身体を寄せ合っている。

 

「お礼言う、どする?」

 

「そうだな……」

 

「カズキに皆が会いたいと願っているのだ。街へ行き顔を見せてあげればいい。それが何よりの礼となるだろう」

 

 いきなり背後から声が響き、二人は慌てて背後を振り返った。

 

 見ればカーディルが扉の陰から顔を覗かせている。一見真面目な表情だが、目は笑っていて隠せてない。如何に王といえど、女性の居室に勝手に入るなど許されない……アストは怒りの声を上げようと口を開きかけた。だが、原因がヒョコリと父の背中から顔を見せれば呆れて声が出なくなってしまう。

 

 性差はあれどもやはり親娘。ニヤニヤとイヤラシイ笑みはそっくりだ。

 

「二人とも……」

 

 それでも正気を取り戻し、アストは叱りつけようと脚を動かした。しかしそれに動ずる親娘ではやはり、ない。

 

「私はアスティアに確認して入室したぞ? クインもいる。それに、つい昨日カズキから何時でも会いに来て欲しいと言われたからな」

 

「それは一種の社交辞令でしょう……」

 

「いや、カズキはお前達と同じ我が子となったのだ。愛する娘に会いに行く親に何の罪があると言う気だ? そうだろう? カズキ」

 

「え……あ、うん」

 

 長い言葉で間違いなく意味は伝わってないが、勢いに負けたようだ。

 

 完全な詭弁を飄々と語るカーディル。言葉だけなら立派なだけにタチが悪い。しかし何時もの悪戯好きな顔は変わらないのだから台無しになっている。

 

「全く……変わりませんね父上は」

 

 アスティアはカズキの元へ行き朝の挨拶をかわしている。最初にアスティアと呼んでしまったカズキは、再び「お姉ちゃん」と言葉にするまで許してもらえない様だ。そんな姉妹を離れて見守りながら、カーディルは語り掛けた。

 

「アストよ、何故だ?」

 

「……何ですか?」

 

「肩を抱き寄せ、耳元で語る。時には頬へ唇を落とし、瞳を見詰め愛を囁く。まさに絶好の機会ではないか。ヴァツラフが帰ったからと()()してはならん」

 

「ならばお答えしましょう。父上が何処に潜むか分からない為、()()が出来ないのです。聖女の間すら安全ではないなら、ファウストナにでも身を寄せるしかないですね」

 

 意趣返しくらい許されるはずと、アストは横目を送った。

 

「ほう……少しは前進したか。これぐらいで許してやろう」

 

 許すのは此方だと思ったが、キリがないのでやめた。カーディルの性質は生涯変わりはしないし、言っても無駄だ……そうアストは思ったのだろう。

 

「しかし……街に、ですか?」

 

「ん? ああ、どうだ?」

 

「確かに良いかもしれません。献上品に代表する様に、皆の気持ちは膨れ上がっているのが分かります。流通するカズキの肖像画は今や数えることも出来ませんからね」

 

「最近開演した舞台は大変な盛況らしいな。聞けば随分と詳細な内容らしい。まるで命を燃やす様に演ずる女優だとな」

 

「ジネット=エテペリですね。私も内容を聞きましたが誇張も嘘もない様です。カズキは自らの行いを喧伝などしませんから、私は寧ろ嬉しく思っています」

 

「ほう、ジネットか。しかし、何故そこまでに詳細が伝わっているのだ? 隠す事でもないが目撃した者は少ないだろう」

 

「脚本にノルデが関わっていますので。座長と知り合いだそうです」

 

「……なるほどな」

 

 少し呆れた様子のカーディルだったが、最も間近にいたアストが良しとするなら構わないか……そう納得したようだった。

 

「しかし重要なのはカズキの意思でしょう。ロザリーとの時間にも関わりますから」

 

「確かにその通りだ。ならば早速聞いてみよう」

 

 先程から少しずつ追い詰められているカズキを救出するべく、父と息子は歩み寄った。恥ずかしそうに頬を染めるカズキを見るのも楽しいが、そろそろ限界だろう。

 

「アスティア」

 

「ほら、もう一回……恥ずかしくなんてないわ。一言"お姉様"と言えば許してあげるから」

 

「……アスティア、聞いているか?」

 

「に、兄様!?」

 

 直ぐ背後にいる事に吃驚したアスティアは、分かりやすく肩を震わせた。後ろめたいことがあったら当然かもしれない。父といい妹といい人を困惑させる才能でもあるのだろうかとアストは考えてしまう。しかし「助かった、ありがと」とカズキからの視線が届けば嬉しくなってしまう自分も同じかと苦笑した。

 

「少しカズキと話したい。姉妹として分かり合うのは待ってくれると助かるよ」

 

「も、もちろんどうぞ!」

 

 恥ずかしさ一杯のアスティアは真っ赤な顔でカーディルの横に並んだ。立ち去らないのは流石と言っていいのか。

 

「カズキ、君の意見を聞きたいんだ」

 

「はい」

 

 恩人?のアストの言う事は素直に聞く。そんな聖女にムムムと唸るリンディアの王女がいたが、街への誘いと聞けば嬉しくなったようだ。堂々と一緒に街を歩けたら幸せだと何度も思っていたアスティアにとって、それは朗報なのだろう。

 

「街……行く」

 

 そう答えたカズキの一言によって、リンスフィアの活況と歓喜は決定づけられたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 丘の麓、馬車を停めるため広く取られた広場へとカズキ達は到着した。

 

 本来の目的であるロザリーの霊廟、その訪問に人影は全くないようだ。今日の日を当然に知られているが、聖女が母へ会いに行く事を邪魔するなどあり得ない……そう誰もが考えて国民達はひっそりと待っている。驚くほどにリンスフィアは静まり返っていた。

 

 周囲は騎士団が警護しているが、その必要性もないかもしれない。

 

 愛する偉大なる母との会話も、久しい時間も、もしかしたら流れる涙も、それは聖女一人のものだから……

 

 しかも今日は街をゆるりと歩き、人々と触れ合う時間すら設けるのだ。聖女自らもそれを望んだと伝わっていて、もしかしたら直ぐ側でお顔を拝見出来るかも、尊い声を聞き美しい掌で触れてくれるかもしれない……そんな願いを抑えるのは大変な労力だ。

 

 だからこそ、膨れ上がった民衆は誰一人として霊廟へ近づくことはないのだろう。

 

 

 アストに支えられて馬車から降りたカズキは、丘を見上げる。朝から見事に晴れ上がった青い空と丘の緑が美しい。石畳と時折見える階段は真っ白な石材だ。塵一つ落ちていない。

 

 王家の面々も揃い、優しく見守る。

 

 濡羽色(ぬればいろ)の落ち着いたドレスの上に、やはり濡羽色の上着を羽織っている。首元は暖かな襟巻で覆われ、言語不覚の刻印も肌も見えない。よく見れば襟巻には赤と黄金色の刺繍が薄っすらと施されていた。特注の其れにはアスティアやクイン、エリが意見を出したのだ。ロザリーの色を纏い、カズキも少し嬉しそうだったから正解だった筈だ。

 

 全体的に暗い色合いだが、襟巻以外にも目立つものがある。

 

 アストから手を放し、両手に持ち直した花束は赤や黄色が眩しい。有志の森人が集めた花々は特有の技術により鮮やかで花弁も永く咲くそうだ。酒精の力を借りた為ほんの僅かだけ酒の匂いが香るが、逆にカズキはお気に召したらしい。フェイが意見を出しているから当然かもしれない。

 

 そして、黒髪を彩るのは銀月と星の髪飾り。艶やかで控えめな銀の光を反射している。

 

 なにより美しいのは、陽の光に当てられた瞳だろう。

 

 角度によって色合いが変化して、まるで清らかな水を湛えた湖の様だった。

 

「カズキ、行こう。足元に気を付けて」

 

「うん」

 

 寄り添うが手は繋がない。カズキの両手は花で一杯だ。万が一にも転んだりしないようアストは気を配っているが、それを相手に気付かせたりはしていない。

 

 すぐ後ろからアスティアが続き、クインとエリもいる。エリの手には小さな木箱があって、耳を澄ませば液体が揺れる音色に気づくだろう。テルチブラーノで飲み交わした甘い果実酒を用意した。クインも同じ木箱を持っているが、中身は磨かれたグラスと軽食だ。

 

 騎士達は丘の麓で待ち、誰一人として侵入出来ないように囲っている。

 

「こっちだ」

 

 登り切ったカズキを促しなからアストも真新しい霊廟を見上げた。

 

 埋葬されている場所を覆うように霊廟は建立されている。参道と同じ真っ白な石材を積み上げ、神殿や聖殿の如く見事な彫刻が美しい。全てのモチーフは家族、そして母子だ。

 

 黒く染められた両開きの扉を開くと、人が十人入れば窮屈に感じるだろう空間が広がっている。奥には墓碑が三基。夫のルーと愛娘のフィオナが眠り、直ぐ側のまだ新しいものがロザリーだ。

 

「カズキ」

 

 コクリと頷き、カズキはゆっくりと歩み寄った。アストを始めアスティア達も離れて佇んでいる。今はカズキとロザリー、そして家族が語り合う時間なのだから……

 

 両膝を折りたたみ花を供えたカズキは暫く動かなかった。

 

 静謐と澄んだ空気、見えない筈の家族の幻影が見えた気がする……見守る誰もが感じたのだ。ロザリーがカズキに寄り添うように腰を下ろし、そして抱き締める姿を。赤い髪を靡かせて愛する娘の側に……

 

 カズキは俯き、少しだけ肩が揺れていた。

 

 

 

 

 

 随分と長い時間を同じ姿勢だったカズキだが、クインがそっと用意してくれた果実酒を受け取るとカチンとグラスを合わせた。一口だけ口に含むと、残りと合わせて並べ置く。ひとしきり会話を楽しむと両手のひらを綺麗に合わせて瞳を閉じた。

 

 そして「また、来る、ね」と呟いて立ち上がると、待っていてくれた新しい家族へと振り返ったのだ。

 

「もういいのか?」

 

「うん」

 

「いつでも来たい時は言ってくれ。カズキが良いなら私も一緒に行く」

 

「分かった。ありがと」

 

「ねえ、カズキ」

 

「ん?」

 

「さっき掌を、こう……合わせたじゃない?」

 

 カズキが行った不思議な行動をアスティアが真似をする。何となく祈りの姿勢だとは分かるが、初めて見た形だった。

 

「こう」

 

 指先を人に向ける様にしたアスティアに、カズキは訂正する。ほぼ真上に指先を向き変え、両手で柔らかく包み教えてあげた。

 

「もしかして、カズキの居た世界の祈りかい?」

 

「う、ん。多分」

 

 合掌が祈りなのか鎮魂なのかカズキには分からなかった。それを教えてくれる人はいなかったし、行う場所にすら訪れた事などない。ただ、何となく。ロザリーに届くなら形なんて気にしたりしないだけだ。

 

「多分……」

 

 聞こえないよう呟いたクインだが、カズキの過去を想い言葉尻を取らなかった。ヤトは神々すら感じる事のない異世界だと言っていたのだ。ましてや子供だったカズキには家族も、包む愛すら存在しなかった。時に垣間見えるカズキの過去に明るい色を感じる事はない。

 

「カズキ、行きましょう。リンスフィアを皆で歩くなんて滅多にないから楽しみね」

 

 アスティアも何かを察して話しと歩みを進めた。きっとカズキだってその方が良いと……

 

「そ、だね」

 

 

 

 

 

 

 騎士達が慌ただしく動き始めるのが見えて、待ち望んだ瞬間が来たのだと誰もが分かった。丘から最も近い東の街道を埋め尽くした民衆は固唾を飲んで曲がり角を見守っている。順路が間違い無ければ聖女が乗る馬車はここを通る筈だ。

 

 前列には小さな子供達が着飾って並んでいる。聖女の目に我が子が映れば、僅かなりとも加護に肖る事が出来るかもしれない……そんな親の気持ちを誰が否定できるだろうか。聖女の慈愛はより強く子供に向かうと聞いているのだ。

 

 間に合わなかった者達は肩車やら台を持ち込んで何とか視線を確保しようと躍起だ。幸運にも店や住居に知り合いがいた人々は、窓から身体を乗り出して見下ろしている。騎士団は周囲を見渡し万が一に備えていて、その注意は平面だけでなく上方にも向いているのは弓矢などを警戒しているからだろう。しかし、仮に弓などを構えたら周囲の民衆に捕まり袋叩きに遭うのは間違いない。

 

 まだかまだかと人々は待っている。

 

「そろそろ?」

「ええ、もう少しよ」

「手を振っていい?」

「大丈夫、聖女様は怒ったりしないわ」

 

 そんな親子の会話。

 

「此処なら絶対見逃さないな!」

「ああ、最高の場所だろう?」

「約束通り後で酒を奢るぜ」

「高い酒を頼んでやる」

「仕方ねぇ、今夜は許してやるよ!」

 

 閉めた店の二階から屋根まで身体を出して、声を荒げる二人。そんな姿はあちこちで見られた。

 

「なあ、怪我を見せたら癒してくださるんじゃないか?」

 

 そんな姑息な手段を軽い気持ちで話した若者は、周囲から非難の視線を浴びた。

 

「お前……何処の奴だ? 何も知らないのか?」

 

 直ぐ側にいた森人らしき初老の男から厳しい声がかかる。

 

「え……いや、何が」

 

「カズキ様の癒しの力は既に消え、神々により封印されているんだよ。救済の日、身体も魂魄すら捧げて下さったんだ。命すら失う寸前に黒神ヤトが降臨しなければこの時間すら無かったんだぞ!」

 

「その通りだ。癒しを求めると言う事はカズキ様の命を求める事と同じなんだ。ましてや世界を救済して傷付いた方に馬鹿な事を言うんじゃない。聞く人が聞いたら大変な目に合うよ」

 

「いいか、怪我人なんて聖女様の前に連れ出すな。もうリンスフィアでは常識だぞ。分かったな?」

 

「は、はい。すいませんでした」

 

 周囲からの非難を受け、大変な事を言ってしまったと反省する。そんな彼は悪い人間ではないのだろう。それが分かり皆も優しい表情に変わった。

 

 その瞬間騒めきが起こり、ついで掛け声がかかり始めた。

 

 遂にその時が訪れたのだ。

 

 

 

「カズキ様だ!!」

 

「聖女様!」

 

「見て! 本当に綺麗な黒髪よ!」

 

「カズキ様、救済に感謝しています!!」

 

「ありがとう!!」

 

「此方を見てくださったわ!」

 

 

 

 爆発的に声と歓声が上がり、同時に沢山の花びらが舞った。聖女が死者への手向けに花を贈る、それは皆も知っていたからだ。カズキを迎えると同時に、偉大なる母へ自分達も何かしようと考えた結果だろう。

 

 高い建物から花が撒かれ、風に舞い踊って夢の中の様だ。

 

 

 

 

 想像を超える

 

 憶測を上回る

 

 そんな言葉の羅列がカズキを見た者を襲う。大量に出回る絵のお陰で特徴は誰もが知っている。だから天井を取り払われた馬車に佇む女性が聖女だと直ぐに分かったのだ。両隣りにアスト、アスティアの兄妹が居て、手を振っているのだから間違えようがない。カズキも少し恥ずかしそうに小さく手を振っている。

 

 だがどんな著名な画家が描いても、特徴は見事に捉えていても、その美を描き残すなど不可能だったのだろう。

 

 ある絵描きは「あの瞳の色を創り出せない」そう言ったらしい。

 

 子供達はゆっくりと進む馬車の上をポカンと眺め、先程まであちこちで騒いでいた者も固唾を飲んで見守るしかないようだった。そして我慢出来なくなって叫び声を上げるのだ。自分でも何を言っているのか分からなくなって、それでも止まらない。

 

 視界から離れて、そして消えても暫くは固まったまま。それは埋め尽くした民衆のほぼ全てに言えることだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミーハウ、覚えている? あの方が命を救ってくださったんだよ。押し潰された身体を……血を捧げて」

 

「うん! 覚えてるよ! カズキさまーー! ありがとーーー!」

 

 現在は南街区の「聖女通り」と呼ばれることが増えた道に、ミーハウ達家族が待ち望んだ聖女が見えて興奮していた。沢山の声に掻き消されてしまうが、構いはしないと父も母も、勿論ミーハウも声を出す。聞こえなくてもいい、心からの感謝を……

 

 ふらふらと視線を彷徨わせながら、カズキは手を振る。正直かなり吃驚している。余りの人と声に、現実感すら失っていた。両隣りの兄妹は慣れたものなのか、笑顔で民衆に応えているようだ。それを見たカズキは出来るならアストの広い背中の後ろに隠れたいと思って、スススとお尻を下げた。

 

「あっ……」

 

 その時、カズキの視線の先に見えたのは男の子だ。声は届かないが、一生懸命に手を振っている。隣りに立つ母親らしき女性にも覚えがあるから間違いないと思った。

 

「手紙」

 

 名はミーハウ。拙い文字で頑張って書いたであろう手紙を貰っていたのだ。言語不覚を持つカズキにとって、子供が綴った文字は他より遥かに読みやすかったから強く印象に残った。

 

 アストの背中から再び現れたカズキはミーハウに向かって手を振った。周囲にいた皆も興奮した様子で、俺に自分にと騒ぎ始める。だからカズキは更に頑張った。

 

「ミー、ハウ! ありがと、手紙!」

 

 ブンブンと動きが激しくなったカズキにアストも漸く気付いた。

 

「カズキ、知っている子かい?」

 

「え、うん」

 

「そうか。馬車を止めてくれ!」

 

 アストの指示は直ぐに実行され、ピタリと止まる。元々ゆっくりと進んでいたからだろう。

 

「せっかくだから、少し話しておいで。アスティア、頼めるかい?」

 

「はい!勿論! カズキ、行きましょう」

 

「いいの?」

 

「今日はカズキの好きな様に。但し、いなくなったりしないでくれよ?」

 

 アストの冗談はカズキに届き、分かった!と頷きながら馬車から降りる。直ぐ側を並走していたノルデも馬を止めてカズキについて歩いて行った。

 

 驚いたのは聖女を見に来た王都民達だった。アスティア王女が人々の近くに歩み寄るのも余りあるわけでは無い。しかし今回はその隣に幻同然の聖女までが向かって来たのだ。喜んで良いやら、膝をつき祈れば良いのか、誰も分からなかった。

 

「ミー、ハウ」

 

 間違いなく自分の名前なのに、耳に入って美しい音楽に変わった。それだけ綺麗で信じられない事だから、ミーハウも両親も呆然と目の前の聖女を見るしかない。

 

「手紙、ありがと。読んだ」

 

 手紙をありがとう。読んだよ……あのとき話す事すら出来なかった聖女が名を呼び、ミーハウを見ている。そして腰を曲げて視線を合わせた。絵姿や噂通りの色をした瞳が降りて来たのだ。

 

「身体、だいじょぶ?」

 

「う、うん」

 

「良かった」

 

「あの……聖女様! 助けてくれてありがとう! 僕、僕……」

 

 するとカズキは右手を上げて小さな頭に添えて優しく撫でる。そして言葉を紡いだ。

 

「お母さん、大切に、ね?」

 

 どこまでも暖かい、しかし悲しみを僅かに帯びた言葉だった。皆が知っているのだ……母を失った聖女の悲哀を。

 

 そうして戻ったカズキとアスティアを乗せて、馬車は再び動き出した。

 

「もういいのかい?」

 

「うん」

 

「カズキ、良かったわね」

 

「うん」

 

 聖女が街に来て、人々と触れ合う……それは大袈裟な話ではなく、真実だと誰もが思った瞬間だった。

 

 

 この後は西街区から北へ抜けて、城に帰る予定となっている。途中の市場で食事を取りながら、ゆっくりと進むのだ。戻るのは夜になるだろうが、カズキの様子を見れば安心出来たアストとアスティアであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そろそろか?」

 

「じゃねーか?」

 

「ダクマルよ、店はいいのか?」

 

「誰も来ねーよ……お前等だって外に来てるじゃねーか」

 

「がはは、それもそうか!」

 

 ダクマルを中心に常連客の森人達は店の前で待っている。はっきり言ってこんな寂れた路地が選ばれた理由がさっぱり分からないが、聖女様は目の前を通るらしい。何度か確認したが間違いないのだ。周囲に散らばる騎士達を見れば明らかだし、気のせいか店の周りに多い気がする。

 

 まあ他の街区では大通りを通る訳だし、気分転換か人々の生活に寄り添うとか、そんな理由だろう。茶色の薄くなった髪を撫でながらダクマルはそんな事を思った。

 

「しかし……こんな近くを歩くとは……信じられんな」

 

「だよなぁ……俺だって遠くからしか見た事ないんだぜ?」

 

「森人はみんな城壁にいたんだろ?」

 

「……気を失ってました……肝心な時に」

 

「そ、そうか」

 

 未だ聖女の姿はないが、少しずつ緊張してくるのが分かる。絶望を希望へと、未来への道を照らしてくれた神々の使徒。白神の加護と黒神の寵愛を受けた聖女がもう少しで目の前を通る……大抵の事では慌てないダクマルや森人達も、口数が減っていった。

 

 暫く沈黙が続き、そして遠くから人々の声が響き始めていよいよだと理解する。近付いて来るのだ。

 

「おい」

 

「ああ……」

 

「お前等は顔が怖いから笑顔を忘れるなよ。聖女様が逃げ出さない様にな」

 

「ダクマルに言われちゃおしまいだな。老け顔を勘違いされなければいいが……ジジィって」

 

「あん?」

 

「おお?」

 

 くだらない話をしていたが、睨み合いを始めた男二人の肩がバシリと叩かれる。横に居たもう一人が報せてくれたのだ。

 

「馬鹿はいい加減にして、見ろよ」

 

 直ぐに気付いた。誰もが知るリンディアの王子アストがゆっくりと歩む。左右に笑顔を振り撒きながら、慣れた様子で民衆に応えているようだ。何人かの騎士が追従しているが、邪魔になる程ではない。まあアスト自身がその辺の騎士より強いのだから当たり前かもしれない。

 

 数歩離れた後方にはリンディアの花、アスティア王女。花に例えられる通り、咲き誇る笑顔と銀髪が眩しい。王国民に愛される二人の登場に俄かに騒がしくなる。

 

 そして……アスティアより僅かに小柄な少女が手を引かれながら並んで足を動かしている。王女に合わせて手を振りはするが、笑顔は少しぎこちない。それでも彼女こそが今回の中心なのだ。皆の注目を集めながら、だんだんと近付いて来るのが分かった。

 

「あの方が……聖女様か」

 

 ボソリとダクマルが呟くと、後は無言だ。魂魄が抜けるとはこの事かと、ただ立ち尽くして眺めるだけ。

 

 陽の光に反射して銀色の髪飾りが光り輝いた。風に揺れる黒髪は、聞いた通りの優しい夜を纏っている。その一挙手一投足を注目される聖女が左右に振る顔を固定した。

 

 何かに気付いたのか視線は動かない。

 

「なんか……こっち見てないか?」

「いやいや、気のせいだろ?」

「でも、視線が」

「まさか本当に俺等って怖いのか?」

「んなアホな……」

「笑顔だ……笑えって、泣いちまうかもしれないぞ」

 

「この状況で無茶言うな……ダクマルよ、此方に向かって来てるよな?」

 

「お前等、なんかヤバイ事したか?」

 

「いや、あれは間違いなくダクマルを見てるだろ……」

 

「お、おい……なんで距離を置くんだよ……」

 

「ダクマル、俺達は他人だ」

 

「汚えぞ!」

 

 見れば、聖女は両殿下に「ちょっと、待って、て」と言い、スタスタと真っ直ぐに歩いて来るではないか!

 

 そして否定など無意味と、聖女カズキはダクマルの真ん前に立ち止まった。顔を上げてないから、彼女の足元だけがみえる。

 

「……ええと……な、何か粗相を致しましたでございましょうか……」

 

 緊張の余りに訳の分からない敬語を操るダクマル。恐ろしくて顔を見る事も出来ない。あれだけ見学したかった聖女様が直ぐ側に立っているのに……静まる民衆と空気に、ダグマルは汗が背中に滲むのを感じる。周囲にいる騎士達に捕まるかもしれないと、身動きも出来なくなった。

 

「……お礼。月の、酒」

 

「……は、はい?」

 

 オレイツキノサケ? 何語だ? まさか神代の言葉? 頭の中は意味の分からない単語が跳ね回っている。やはり聖女様となれば神々の言葉を操るのだろうか? ダクマルは助けを求めて森人達を見たが、全員が目を逸らしている。

 

「……ねえ」

 

「……なんで、すか?」

 

 チラリと見れば、両手を細い腰に当てて此方を見上げている様だ。だが、恐ろしくて瞳を見れない……

 

「……はぁ」

 

 溜息だと……これはヤバイ……緊張感が限界に来ていた時、聖女様が何かを言った。

 

「ダ、グマル、ジジィ! 酒、強い?」

 

「……ん? うん?」

 

「銀の酒、ありがと!」

 

「誰がジジィだ!って……」

 

 つい聖女の顔を見たダクマルは「ほげっ!」と気持ち悪い声を出して、まじまじとカズキの顔を眺めた。もう遠慮はない。

 

「ダ、グマル。また、土産」

 

「……お前、カー、カーラか?」

 

「ん。ほんと、名前、カズキ」

 

 ダクマルは絶句し、周囲で耳を澄ましていた森人達も同様だ。そして……

 

「「「な、なにぃーーー!!??」」」

 

 それは爆発だった。驚きと衝撃、歓喜と少しの絶望。

 

「うっ、うっそだろ!?」

「まじだ! あの綺麗な顔だ!」

「でも髪が、黒、黒髪……」

「目は一緒だ! いやいや、もっと」

「肌も治ったのか!?」

 

「うん」

 

 そう返したカズキは襟巻を取って見せた。当然だが、そこには言語不覚の刻印がある。何枚もの絵姿や最近有名な演劇でも似たものを見る事が出来る、本物の黒神ヤトの刻印。

 

「「「ほ、本物だぁーーー!!!」」」

 

「うん?」

 

 騒がしい男達に首を傾げるカズキ。治った肌を見せたのに何その反応は?と。それだけ見れば癒しと慈愛を司る、美しい聖女だ。

 

 だが次のダクマルの一言に、カズキは慌てふためいてしまう。

 

「聖女カズキ様は"酒の聖女様"でもあったって訳か!」

 

「ジ、ジジィ! 約束!」

 

 カズキからしたら待ってくれているアストやアスティアにバレる訳にいかない秘密なのだ。余計なことを言わないでと慌て出す。背後をチラチラと伺うのが哀愁を誘った。

 

「そうだな……確かに!」

 

「「ありがとう!! 酒の聖女様カーラ……いやカズキ様!」」

 

「や、やめて! 違う!」

 

「我等が酒の聖女さま!!」

 

 

 

 だ、だめーーー!!

 

 

 

 其処は大して広くもない路地……

 

 世界にたった一人の聖女、神々の使徒であるカズキの声が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 コトリ……

 

 殆ど無音だが、静かな夜だから耳に届く。

 

 クインが用意した焼き菓子はテーブルの中央に置かれている。皿は美しい緑と青い空を思わせて、リンディアの平原を模しているのが分かった。先程の小さな音は最後にカズキの前に用意した果実酒の入ったグラス。同じものが隣に座るアストの前にもある。

 

「失礼します」

 

 見事な、しかし控えめの礼をしてクインは退室していった。

 

 アストとカズキの二人がいる場所は聖女の間のベランダだ。クインたちが気を利かせたのか、各所に配置された蝋燭の柔らかな光が二人を照らしている。テーブルにもランプがあるが、夜景を阻害しないように最小限の光度に落としていた。時に風に揺れて、ユラユラと明滅する。

 

 カズキお気に入りの景色、それは夜に彩られて別世界へと変わった。まだ真夜中でもなくリンスフィアのあちこちで灯りが灯っている。今日は聖女が街に降臨したため、皆が酒を酌み交わして話も尽きないのだろう。

 

 上空にも星光はあるが、下を見れば人々の営みと言う名の街の光があった。

 

 それは幻想的で、でも現実に在る美しさだ。

 

 

 

「カズキ、疲れたかい?」

 

「少し?」

 

「そうか……先ずは飲もうか」

 

「うん」

 

 乾杯とは言葉にせずグラスを合わせる。キンとガラスとは思えない澄んだ音がして、二人は微笑んだ。

 

「美味し」

 

「ああ。余り甘くないし好きな味だな」

 

「アスト」

 

「ん?」

 

「ありがと。ロザリー、街に、全部」

 

「私こそ礼を言うよ。君が居てくれて良かった」

 

 カズキの瞳は何故?と言っている。

 

「街のみんな、喜んでいただろう。だから、ありがとう。分かるかい?」

 

「……うん」

 

 アストの心の中にはもっと沢山の感謝があった。

 

 

 世界を救ってくれた。だから皆に笑顔がある。

 

 リンディアもファウストナも、ほかの国々も感謝は尽きないだろう。

 

 誰もが未来に希望を持っていて、幸せを感じている。

 

 そして……今、隣にいてくれて……生きて側に。

 

 あれ程の憎悪と悲哀を抱えながら、カズキは全てを振り切って此処にいるのだ。

 

 だから、全てにありがとうを伝えたい。でも、そんな長い言葉は分からないだろうし、きっとカズキは望んでもいない。聖女の望みは些細な……誰もが持つはずの家族との時間、優しい愛と温かい場所。

 

 アストは言葉を飲み込んで、すぐ側に佇むカズキを見た。

 

 もう果実酒は飲み切ったのか、グラスはテーブルの上だ。遠くに見える夜景を楽しそうに眺めている。何度見ても目を奪われてしまう、希有な横顔……

 

「綺麗だ……」

 

「うん、綺麗。リンスフィア、好き」

 

 夜景の事だと思ったのか、視線をリンスフィアに向けたままに答えた。悠久の時を超え、魔獣の侵略にも耐え切った王都はこの瞬間に祝福されたのか……聖女の声に応えるかのように瞬く。もしかしたら、カズキは初めてリンスフィアと言葉にしたかもしれない。

 

「カズキ、おいで」

 

 手を取り、立ち上がらせたアストは手摺りのある端まで促した。二人の前にはリンスフィアと闇に包まれた広大な平原がある。街は浮かび上がって見えて、何処までも美しい。あの灯りの一つ一つに人々の営みがあると思うと、不思議な感覚に襲われてしまう。

 

 老夫婦だったり、小さな子供達に食事を振る舞ったり、恋人同士が語らったりしているのだろう。沢山の家族のカタチが存在しているのだ。

 

「あそこはダクマルの店辺りかな。カズキ、どう思う?」

 

「た、多分」

 

「酒の聖女だったかな?」

 

 ビクリと肩を震わせたカズキを見て、思わず吹き出すアスト。

 

「くっ……ははは! カズキ、大丈夫だよ」

 

「うん?」

 

「ヴァツラフから聞いたよ。あの店に二人で行ったのだろう? 気にしなくていいさ……」

 

「?」

 

「ふふ……ロザリーとは話が出来たかい?」

 

「うん。出来た」

 

「そうか……」

 

 カズキは母を、アストもロザリーを想っていた。それは別々の理由だけれど……

 

「カズキ」

 

「はい」

 

「話を聞いて欲しい、今から」

 

「うん、だいじょぶ」

 

 アストはカズキに向き直り、それを見たカズキもリンスフィアから視線を外した。星空の下で二人は向き合っている。

 

「今日、私もロザリーに話をしたんだ。勝手に、一方的にだけど」

 

「そう」

 

「貴女の大切な娘に私は伝えたい事がある、その許しを貰いたくてね」

 

「伝え、る」

 

「ああ。前から言いたくて、でも言えなかった」

 

 翡翠色を真っ直ぐに見詰めながら、アストは言葉を紡ぐ。紡ぎ続ける。

 

「カズキ……私は君を愛している。家族としてだけじゃなく、一人の女性として」

 

 カズキも瞳を一度伏せて、その後に見上げた。

 

「だから、私と……君にも私を愛して欲しい。今もこれからも……結婚してくれないか、私と、カズキで……」

 

 カズキは動かない。変わらずにアストを見上げている。暫くの間動かない二人だったが、アストは不安になってきた。もしかして伝わっていないのか、と。言い直すのは少し不格好だが、伝わるまで何度でも言い続ける……そう決めて、アストは口を開きかけた。

 

 そのとき、カズキは両手を伸ばして高い位置にあったアストの首に掛けたのだ。少しだけ背伸びして、踵が浮く。

 

「……抱っこ」

 

「あ、ああ」

 

 言われるままにアストは、カズキの背中に手を回し持ち上げた。カズキの両足は今や宙に浮きプラプラと揺れている。随分と近づいて、互いの瞳に自身の顔が見えた。

 

「もう、一度」

 

「……私はカズキを愛している。だから、結婚して欲しい。私と、二人で……」

 

「……はい」

 

 そう呟くと、カズキは三度目の愛を伝える行為を行った。

 

 カズキのいた世界では、たった二文字で表すもの。

 

 星光に照らされて、二人の影は一つになる。

 

 今迄よりずっと長い時間、強い力で。

 

 アストはもう二度と離さないと、カズキはずっと離さないでと確かめ合う。

 

 その、愛を伝える名は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




エンゲージリングと呼ばれる指輪がありますが、正しくはエンゲージメントリングだそうです。其処から言葉を借りて、"engagement kiss"としました。

如何だったでしょうか?

それでは、ありがとうございました!

すぐ下に評価や感想を入れるところがあります。感想やコメントなど頂けると嬉しいです。

また何処かでお会い出来たら最高ですね。 それでは!!


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番外編
ある日の出来事 〜黒神の聖女 番外編〜


ふと思い付いて、一日で書いた番外編です。



 

 

 

 

 "加護争宴"

 

 "神々の諮詢(しじゅん)"

 

 "刻印哀歓"

 

 此れ等の言葉達は異型の同義語だ。全てが古代の文献から拾われた古いもので、人の手により解読して創り出された。

 

 詳しく神々を研究している者達を除き、現在では所謂死語となっている。リンディア国内で最も人口の多い王都リンスフィアでも、各地で再開発が進む街や村も、今や四ヵ国を超えた友好国の国民であっても、知らないと答える人が大半だと言えるだろう。

 

 しかし、何事にも必ず例外がある。

 

 勃興の遥か古代から……連綿と神々へ祈りを捧げて来た"リンディア王家"が一例だ。一般では全く知られていないが、其れに該当する"祈りの言の葉"の綴りも現存している。その為、祭司でもある王にとっては比較的身近な言葉と言って良いのかもしれない。

 

 そして、趣味の域を超えた神代の知識すら有する女性……聖女の専任侍女クインが其れ等を呟いたのも自然な事なのだろう。

 

 

加護争宴(かごそうえん)刻印哀歓(こくいんあいかん)……神々の諮詢がカズキにも訪れたのですね……良かった、本当に良かった……」

 

 1日も欠かさず毎朝"聖女の間"に訪れるクインが万感の思いを口にした。

 

 

 静かに扉を開き、いつもの様にカズキの姿を探す。ベランダに立っているか、ベッドにクルリと丸くなって眠っている事が多い聖女。しかし今日はベッドの直ぐ横に立って背中を向けていた。俯いて後ろに振り向きもしない。

 

 不安になったクインが足早に回り込み、立ちすくむカズキを見て呟いたのが古き言葉達だった。安堵、喜び、少しの同情。

 

 そして優しい声を愛する聖女へと紡いだ。

 

「大丈夫です。カズキ、最初は誰でも驚くものですから。直ぐに戻るので待っていて下さい」

 

 足早に退室するクインの口元には、柔らかな微笑が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 クインの口元に微笑が浮かぶ日より数日前ーー

 

 

「由々しき事態……皆の知恵を借りたいの」

 

 約二十名程だろうか。性別こそ同じだが年齢もバラバラな者達が一室に集まっていた。皆が注目するのは敬愛し忠誠を誓う可愛らしい女の子だ。だが雰囲気が普段と違う。

 

 其処には、花の様に咲くいつもの笑顔が無かった。寧ろ珍しい鋭い視線に誰かが唾を飲む。

 

 腰まで届く銀髪は後頭部で纏められている。随分と背が伸びて歳上の筈のエリと高さは変わらない。間もなく追い抜き、寝坊助専任侍女を睥睨する日も近いだろう。ほぼ毎日寝過ごす赤髪の女性は、未だ眠そうに目を擦っていた。

 

「な、何があったのですか? アスティア様」

 

 早朝の忙しい時間にも関わらず、城の運営に関わる女性達が集められたのだ。勿論全員では無いが、要職や纏め役、経験豊富な者達が厳選されている様だった。

 

 因みに、本件は王であるカーディルの承認の元に行われている。

 

「今から説明するわ。クイン、お願い出来る?」

 

 アスティアの唇から耳に心地良い声が響いた。

 

「かしこまりました」

 

 後ろに控えていたクイン=アーシケルが前に出る。彼女の存在が益々全員の緊張感を高めていた。誰もが知るクインは王室の相談役を拝命し、カーディルにすら直言出来る立場だ。大変有能な事は誰もが認めるところだし、自らを強く律する見本とすべき女性なのだ。

 

 何より……この城に住まう「黒神の聖女」唯一人の専任侍女でもあるのだから。この時間ならばカズキの側に控えている筈で、この集まりが如何に重要かを示していた。

 

 全く皺のない侍女服を靡かせ、ほんの少しだけ曲がった金髪を揺らしてアスティアの側に立ち止まる。

 

「これを見てください」

 

 直ぐ隣にあった黒い袋からクインは何かを取り出した。袋は厚めの革製で、中身が何かは誰も分からなかったのだ。だから取り出された()()の長細い物体に全員が怪訝な顔をした。

 

「瓶?」

「見た事ないけど」

「調味料かな?」

「私、知ってる」

 

 最後の台詞に全員が注目する。薄い緑色した半透明の瓶。それが何なのか教えて欲しい、そう思って視線を合わせた。

 

「えっと……多分だけど、お酒だと思う」

 

「はい。その通りです」

 

「お酒? でも……」

 

 ほぼ全員が各所の清掃や管理に携わっている。だから酒の一本一本や、使われる調味料、凡ゆる食材にも目を光らせているのだ。王族などが口にする可能性もある以上、一般の想像を超えた厳格な管理に置かれている。もし減ったり、異物が紛れ込めば即座に判明するだろう。

 

 だから不思議だった。

 

「あまり目にする事が無いのは当然です。此れらはアスティア様自らが管理し、保管に関しても直接御指示されていますから。その保管場所もリンディア城内ではありません」

 

 約七割の女性陣には変わらず疑問符が浮かんでいたが、残り三割はもしかしてと思い当たった様だ。

 

「此れはほんの一部。理解した方もいらっしゃいますが、全てが城へ贈られてくる"献上品"です。深い信心と感謝、溢れる愛が込められているのでしょう。本来なら直接お渡ししたいところですが……」

 

 献上品……その一言で残る全員にも納得の表情が浮かんだ。信心、感謝、愛、献上品、何よりも"酒"。

 

 全員の頭に浮かぶ。

 

 ある意味で忠誠を誓う王家すら超えた存在が。

 

 優しい夜を溶かした黒、ボタニ湖を彩る輝きと同じ翡翠色、僅かに色付いたシミ一つない肌、最近少しだけ成長した女性としての線、何度見ても目が離せなくなる美貌。

 

「カズキ様……」

 

 誰かが呟いた尊い御名……世界を、人々を救済した偉大なる神々の愛し子、黒神の聖女その人だ。

 

 因みに、"酒の聖女"としても知られている。残念ながら。

 

「この()()は、城内のとある場所で発見されました。巧妙に隠蔽されていて、偶然が助けなければ見つからなかったかもしれません。昨晩の事です」

 

「それはつまり……その……カズキ様が?」

 

「それ以外考えられません。ご存知の通り、()()は城内を熟知しています。以前など誰にも気付かれる事なくリンスフィアに()()しましたから。最近は騎士の皆様を動員しても()()に時間がかかります」

 

 言葉の端々に棘がある。クインの秘めたる怒りが垣間見えて皆に怖気が走った。

 

「保管場所ですが……現在移築中の"燃える水"の製造工場の直ぐ側の、一見するには古びた使われてない倉庫の地下。事実、上階はほぼ物置と化しています。室温も安定していますし、整備も簡単でしたから。一応の見張りはいましたが、まさか城内側から()()()が来ようとは思いもしなかったのでしょう」

 

 クインは何処までも淡々と説明しているが、逆に其れが怖い。そして王女が由々しき事態だと言葉にした意味も理解出来た。

 

「ここに居る皆なら知ってるでしょう?」

 

 黙っていたアスティアが言葉を挟む。全員が信頼のおける顔馴染みであり、強い忠誠心を持つ女性達だ。

 

「凄く嬉しくて幸せな事だけど、兄様がカズキに婚約を申し込んだわ。そして其れを受け入れ、二人は晴れて家族になるの。まだ色々と段階が必要だから直ぐに結婚には至らないけど、近いうちに国内外へ発表もされる。そうなると当然に考えるのが二人の子供、つまり兄様に続く次代のリンディアを受け継ぐ愛の結晶……聖女は本当の意味で国母となるわ」

 

 幸せな話の筈なのに、話す表情には不安と心配があった。

 

「クインによると、まだカズキに"最初の日"は訪れてないの。だから直ぐの心配じゃないけど、大人になる日は遠く無い。でもその時が来てこんな事を許していたら立派な母親になれるかしら?」

 

 確かに……全員が頷いた。

 

「アスト殿下からは多少言いづらい面もあります。そうである以上は同性である私達が気を配りたいと考えているのです。しかし、聖女はもしかしたら城内の構造を誰よりも把握しているかもしれません。かと言って四六時中監視下に置くのも不可能な上、そもそもそんな事をしたくもない。カズキ様には安らかに過ごして頂きたいですから」

 

 カズキに懇々と説明しようにも、言語不覚がある以上細部を伝えられない。ましてや女性らしさもまだ薄く、それどころか常識すら欠けている。以前などファウストナのヴァツラフに酒の誘いを行なった過去すらあってクインは肝を冷やしたものだ。自身の貞操への意識や女性としての恥じらいも未だに足りず、教育は遅々として進まない。

 

 何より、すぐ逃げ出すし。

 

 酒に関する話には特に敏感で、非常に勘も鋭い。即座に察知すると全速力で走り出すのだから堪ったものじゃないのだ。

 

「カズキへの教育は引き続き行うわ。ただ時間が必要で、それまでは何とかして聖女から守らないといけない。()()()()()

 

 アスティアは細い指で二本の瓶を指し示した。

 

 廃棄する事など出来ない。全てに人々からの気持ちが篭っているのだから。

 

 侃侃諤諤の議論が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「見つ、かた……?」

 

 まだ薄暗い早朝。

 

 古びた倉庫の周囲には今まで無かった篝火が見える。見張りは居眠りもしてないし、人数も違う。扉の取手に頑丈な金属光を放つ錠すら目についた。

 

「た、大変」

 

 完璧と言っていい作戦が明るみに出てしまったのだ。そうでなければ説明がつかない。カズキの翡翠色をした瞳に絶望と涙が滲んで行く。何やら最近クインの態度に変化があったのは気付いていた。言葉少なだし、心なしか笑顔も減ったり。

 

 ただ心当たりが有り過ぎて原因が掴めなかったのだ。まさか最も知られてはならず、さりとて内緒に出来る自信があった酒絡みとは……

 

「ど、どする?」

 

 何故かまだ叱られてない。昨晩のお休みの挨拶をした時にも話題には上らなかった。

 

 先ずは急いで部屋に帰らなければ……カズキは踵を返して足音を殺しながらも駆け足になる。腕の良い泥棒も感嘆のため息を吐くだろう素晴らしい足捌きだ。何の自慢にもならないが。

 

 見張りの騎士にも発見されない自慢の経路を使い、聖女の間へと向かう。当然だが部屋前の通路には警護の騎士が居る。最近特に勘の鋭いノルデが居て油断ならないのだ。ならばどうするかと言えば……何とベランダ側からの入退室を可能としている聖女だった。かなりの高所なのだが、微塵も恐怖を見せずヒョイヒョイと近づく。

 

 よく見れば各所に有る筈のない足場が用意されていた。巧妙に草花で隠蔽されており、かなり近づかないと分からない。まあ誰が制作したかは明らかだろう。

 

 城内の皆も流石に驚く筈だ。まさか鋸や釘、木材に加えて金属板などを流用して制作する技術を偉大なる聖女様がお持ちとは。一体いつ何処で培った技なのやら。

 

 カズキは大胆に縁を乗り越える。スカートは捲れ薄闇でも白い下着が丸見えだが、本人は気にして無い様だ。まあ誰も見てないし、と。

 

「ふう……」

 

 無事到着し、一先ずの安堵が口から漏れた。

 

「早起きですね、カズキ」

 

「ひぅっ!!」

 

 部屋へと続くいつもの扉へ向かい、手を伸ばした瞬間だった。柱の影から聞き慣れた声が聞こえて、カズキは情け無い悲鳴を上げた。何気に女の子らしい可愛い悲鳴だったが、誰も褒める事はない。

 

「あんな危険なところから……しかもそんな格好で」

 

 クインの声にははっきりとした怒りが込められていて、カズキの背筋がピンと伸びる。

 

「ク、クイン」

 

 普段なら優しい声音で朝の挨拶をするだろう。しかし目の前の侍女からは挨拶どころか突き刺す様な厳しい視線だけが届いた。

 

 もうカズキは動けない。

 

 まだあの赤い魔獣の方が怖くないと確信した。

 

「何か言いたいことはありますか?」

 

 パクパクと唇は動くが声は出なかった。因みに、言語不覚は全く関係ないと断言出来る。間違いなくヤトも呆れているだろう。

 

「最後の機会です。私に、いえアスティア様に対してでも構いません。正直に話して下さい、カズキ」

 

 佇むクインは微動だにせず言葉を待った。

 

「あ、あ……」

 

 再び涙が滲んだが、見える眼差しに変化は起きない。泣き落としなど効果がないのは当然で、もう全ては遅いのだとカズキは脱力した。

 

「カズキ」

 

「は、はい」

 

「何処に行っていましたか?」

 

「外、です」

 

「其れは分かっています」

 

「城、近く、大きな建物……」

 

「其れだけでは分かりません。もう一度言います、最後の機会ですよ?」

 

 カズキの涙に絶望の色が加わった。

 

「さ……」

 

 クインはただ待っている。

 

「お酒を取りに、行きま、した」

 

「一滴も飲んでは駄目だと、私達は言いましたか?」

 

「……言わない」

 

「出来るだけ、カズキの身体が悪くならない様に、何度も話しましたよね?」

 

「うん」

 

「みんなカズキが大好きで、だから心配なんです。アスト殿下も気にしています」

 

 アストの名前を出すと、流石のカズキもバツが悪そうだった。

 

「あんなところから出入りして、落ちたらどうするつもりなんですか?」

 

 想像したのかクインの瞳も少しだけ濡れている。

 

「ご、ごめんなさい」

 

「今日から暫く、禁酒とします」

 

「うぅ……」

 

「ベランダからの移動も許しません」

 

「は、はい……」

 

 

 こうして、聖女の禁酒は決定した。

 

 それも明日以降の様々な出来事で彼方へと飛んでいくのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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大人になった聖女 〜黒神の聖女 番外編〜

 

 

 

 聖女の罪が白日の元に晒された日の夕方。

 

 アスティアに呼び出されたクインは王女の居室を訪れていた。本来ならばエリが控えているのだが、2人の機転により用事を与えて遠ざけたのだ。

 

「エリは悪い子じゃないけど……カズキに平気で言いそうだものね」

 

「そうですね。あの子の人柄は本当に素晴らしいですが、内緒話は苦手ですから。隠すつもりでも顔に出るでしょう。改めて私から説明しておきます」

 

 最近歳上のエリに対し、アスティアは子供呼ばわりする事が増えて来た。クインも気付いているが、指摘する気は無い様だ。まあ当事者で有るエリが何も言わない訳で、多分構わないのだろう。

 

「お酒は移動させた?」

 

「はい。暫くは時間が稼げると思います」

 

「結局あの場所がカズキに知れたのも、エリが余計な話をしたからだし。今日の大事な話し合いに不参加なのも仕方無いわ。少しだけ可哀想だけど」

 

「二人とも仲が良いですから」

 

 気が合うのか、カズキとエリはまるで昔からの友達の様だ。正直な話、羨ましい気持ちをクインも持っている。

 

「そうね……時間もないし、教えてくれる?」

 

「はい。ただ殆どは仮説で、確証もありません。それは御理解下さい」

 

「分かった。先ず確認だけど、まだ()()()()()のよね?」

 

「それは間違いなく。カズキの着替えは全て用意してますし、何より其れらしい変化もありません。初めてであれば誰もが冷静ではおれないでしょう。実際私もそうでした」

 

「ええ、私だって分かってはいても泣いてしまったわ。すぐにエリが助けてくれて落ち着いたけどね。でもそうなるとやっぱり心配よ。あの子の体つきは既に完成に近づいてると思うし、下着だって合わなくなってるでしょう? なのに()()なんて」

 

 リンディアの血を繋ぐ為には非常に重要な事で、婚約を内外に発表していない一つの要因でもあった。聖女に対して不遜とも思うが、アスティアにとっては何にも変えられない大切な妹なのだ。例えアストと結婚し姉となろうとも、其処に変化はないと確信している。

 

「恐らく、大丈夫だと思います。考えれば理屈が通りますから」

 

「加護、そして刻印……カズキだからこその不順ね?」

 

「はい。詳しくお聞きになりますか?」

 

「勿論よ。その為にクインに来て貰ったんだから」

 

 

 

 

 

 

 "加護争宴"

 

 "神々の諮詢(しじゅん)"

 

 "刻印哀歓"

 

 此れらの全てが女性に訪れる毎月の身体の変化を示している。意味なく解読された訳ではなく、それぞれにその論拠も存在した。クインは知っていた知識であっても再度研究し直して、ある結論を導き出したのだ。

 

 加護争宴……此れから産まれ来る赤子に対し、神々が競い合う。自らの加護を無垢な愛し子に授けるべく、日々戦いを繰り広げて大半は勝敗がつかない。

 

 神々の諮詢……諮詢とは所謂話し合いの意味だ。競い合うのではなく神々が集い話し合いを行う筈なのだが、戦争にも等しい其れは非常に激しいものとされ、誰もが一歩も引かない。それ故にやはり勝敗がつかない場合が殆どだ。

 

 刻印哀歓……授ける刻印を決めるために神々が心を曝け出し、時には泣き、時に歓喜する。哀歓はその悲哀と喜びを表していて、溢れた涙と歓声の所為で矢張り答えは判別出来ない。

 

 つまり、刻印を授かる人の数が少ないのは()()が理由とされている。事実、降臨した黒神ヤトも「無垢な赤子でもない限り、全く存在しないモノに加護など授けたり出来ない」とアスト達に言葉を紡いだのだ。

 

 結論が出ず、加護を与えるべき神々すらも決まらない。それどころか争い疲れた神は眠りにつき、目を開く事もなくなってしまう。

 

 それが形として現れるのが毎月、周期的に来る女性だけに起こる変化だ。

 

 太古では加護が授からずとも神々が見守っている証明とされた。刻印が刻まれなくても愛されている証として祝福の対象となる。それは当たり前の事だ。

 

「加護争宴」「神々の諮詢」「刻印哀歓」

 

 現在では全く別の言葉に成り代わったが、内包する祝福の意味に変化があろうはずが無い。

 

 必ずしも全てが上手くいく訳でないし、女性側の準備だけで終わるものではない。だから、やはり女性だけが持つ生命の揺り籠から血が流れ出るのだ。

 

 "人が、生き物が、生まれくる理り"

 

 つまり、生理だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「カズキには誰よりも強い刻印が刻まれています。人では授かる筈のない5階位の加護が。更には封印まで施されました。癒しの加護を司る白神も、呪鎖を刻んだ黒神も、非常に強力な太古から在る神々です。ほぼ最上位と言って良いほどの。大半の神は近寄る事すら逡巡するのかもしれません」

 

「本来なら毎月訪れる筈の神々の宴がカズキの側では難しい、そう言う事ね?」

 

「はい。通常なら二つしか刻まれないとされるのも、此れが根拠の一つです。争い、加護を競い合う。最後に一柱が示され、漸く刻印が刻まれます。だから、二つも刻印が在るのは奇跡とされているのでしょう」

 

「成る程ね。でもそれなら……カズキに諮詢も哀歓も起きない事になってしまうわ。子を授かる事が出来ない、そんな悲しいことが」

 

「ヤトが私達に言った事を思い出して下さい」

 

「ヤトが……?」

 

 クインは優しく、微笑を浮かべてアスティアに返した。

 

「はい。彼はこう言いました。この世界でカズキは生きる喜びを知ったと。そして幸せになって欲しいと心からの言葉を紡いだのです。ヤトが司る加護に悲哀がありますが、司るからには取り除く事も容易な筈です。聖女が望むのは家族との幸せな日々。母として子を産み育て、そして愛する喜びすらもロザリー様が示されました。ならば」

 

「ヤトがカズキから幸せを奪う筈がない……確かに、その通りね」

 

 それは確信で、揺るぎない強い信頼だった。

 

 確かにクインの仮説でしかないが、アスティアには真実だと思える事実だ。

 

「ですから、殿下との幸せが目の前にある今、カズキにその日が来るのは間近だと……そう思います」

 

「うん」

 

 やっぱりクインに話をして良かった。アスティアは心から安堵し、最近心配だった懸念が溶けて消えていくのを感じた。

 

 そして翌朝、僅かに残った搾り粕のような心配の澱も完全に消え去っていく事になる。

 

 まあカズキにとってはそれどころでは無かったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 

 

「ん?」

 

 絶対的禁酒令が出された悪夢の日が明け、カズキは微睡みの中にいた。昨晩からシクシクと下腹が痛んだが、大した事もないと誰にも話していない。多分禁酒令を出されたストレスだなと、酷い自己判断を下したのだ。

 

 まあ、流石にアレは拙かったとカズキも観念していた。何より、落下の危険を心配したクインの涙はグッと心を締め付けたのだ。()()我慢しようと眠りについた翌朝、違和感を覚えた。

 

 外を見ても薄暗く、開けた目には殆ど何も映らない。だから違和感は感覚だけだ。

 

 下半身、詳しく言えば股間周辺から感じる。はっきり言うと濡れている。

 

 カズキは自分の血の気が引く音を聞いた。

 

「ま、まさか、お、おね……」

 

 信じられない……この歳になっておねしょなんて。恐る恐る右手を這わした。濡れ具合は予想より少ないが、やはり間違いない様だ。勇気を振り絞り、下着の中に手を入れる。

 

 ベッドまで漏れ伝わってない事を祈りながら。

 

 指先にヌルリとした何かを感じた。

 

「う、うそ、だ!」

 

 思わず飛び起き、膝までしかないスカートを捲り上げだ。ワンピースのパジャマだから左手で支えた。暗いからよく見えないが、白い繊維にシミがあるのが分かる。続いて下着を指で挟み、一気に膝下までずり下げた。

 

「あ、あ……」

 

 最悪だ……凄くビシャビシャだし、何か汚れている様に見える。もうベッドに振り返るのすら恐怖になって固まってしまった。

 

 どうしよう……もうすぐクインも来るだろうし、証拠隠滅の時間も知恵も浮かばない。

 

 その時、漸く陽の光が聖女の間に降り注いだ。遮光性などないカーテンだから、一気に部屋が明るくなる。そしてカズキが見たくない、信じたくない現実が視界に飛び込んで来た。

 

「……血?」

 

 見れば下着も捲り上げたパジャマの一部も、さっき下着の中に突っ込んだ右手の指先も赤い。鮮やかな赤ではなく、何か根源的な生命力を感じる強い色だった。

 

「ああ……せい、り」

 

 カズキの知識にも当然に其れはあり、元の世界では初潮と呼ばれる女性に訪れる身体現象だろう。おねしょじゃなくて良かった……頭の中に声は踊るが、固まった身体は一向に動かない。フワフワとした非現実間と、何やら熱に浮かされた様なボーッとする感覚。

 

 自身が女である事に違和感は既に無い。アストから聞いた言葉は幸せを運んだし、何となく将来の家族の姿を想像したりもした。恥ずかしいけど温かくて、フニョフニョした柔らかな気持ちを持て余すだけ。

 

 だが、今見えている現実が起こした衝撃は消えたりしない。

 

 ノックの音がしても、クインの朝の声も耳に入ったけど、石のようになった心と身体はやっぱり動かない。

 

 パタパタと回り込み、カズキの専任侍女は少しだけ絶句した。それでも瞬時に立ち直ると、薄く浮かぶ笑みと合わせて声をかけてくる。

 

加護争宴(かごそうえん)刻印哀歓(こくいんあいかん)……神々の諮詢がカズキにも訪れたのですね……良かった、本当に良かった……」

 

 何やらクインが難しい言葉を呟くが、言語不覚も助けて意味は分からなかった。だが何処か幸せそうだから、怒ってる訳じゃない様だ。

 

「大丈夫です。カズキ、最初は誰でも驚くものですから。直ぐに戻るので待っていて下さい」

 

 そう言うとクインは足早に退室して行く。軽く黒髪を撫でて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 直ぐに戻ったクインはテキパキと準備を整えた。

 

 お湯、多めの柔らかな綿、替えの下着、専用の当て布、お腹を温める為の道具。その道具はカズキが見たら小さめの"湯たんぽ"と思ったかも知れない。そんな余裕は無かったが。

 

「痛みますか?」

 

「少しだけ」

 

「痛む様なら言って下さい。温めたら和らぎます」

 

「うん」

 

 言葉は返るが、何処かボンヤリしている。今はクインがゆっくりとお腹をさすってくれていた。カズキは横になり、天井を見上げるくらいしか出来ない。

 

「先程も言いましたが、最初は誰もが驚くものです。でも幸せで素敵な事ですから。一体どんな神々が争っているのか……きっと誰よりも沢山集まっているのでしょうね」

 

 カズキの瞳に疑問符が浮かぶが、何を聞いたら良いかも分からず口を閉じる。でも黙っているのも何故か嫌で、とにかく何かを言いたくなった。

 

「クイン、ベッド、汚く?」

 

「ふふ、大丈夫ですよ。もしそうでも叱ったりなんてしません」

 

「そう」

 

 その時、ノックの音と同時に扉が開け放たれた。当然に入室の許可など間に合ってない。早起きが苦手な筈のエリが蘭々と目を輝かせて飛び込んで来た。

 

「カズキ〜!! 良かったね! はい、これお土産!」

 

 寝姿のカズキに果物が突き出され、ニコニコ顔が眩しい。何故か少しだけイラッと来るのが不思議だ。

 

「あ、ありがと?」

 

「エリ! いい加減にしなさい!」

 

 後から入ってきたアスティアはツカツカと近づくと、エリの頬をいつもの様に引っ張った。

 

「ひたた……ひたいでふ、アズディアざま」 

 

 涙目になったエリだが、引っ張る力は弱まったりしない。寧ろ強くなったかも。

 

「全く! こんな日に限って早起きして!」

 

 クインは黙っていたが、少しはしたない王女にも注意はしない。つまり同じ気持ちなのだ。

 

「そっちで反省してなさい、本当に困った子ね」

 

 睨んでいた碧眼は優しい色に変わり、クインが用意した椅子に腰掛けた。そしてカズキの頭を緩やかに撫でて、愛する妹を見詰める。そこには聖女にも負けない慈愛が在った。

 

「吃驚したでしょう? でも大丈夫、私もクインもいるわ」

 

 エリが自分を指差しているが、誰一人見ていない。

 

「ありがと」

 

「今は大変だと思うけど、カズキは母になる準備が出来たの。怖いけど、でも凄く素敵な事だと思わない?」

 

 まだよく分からないのだろう。美しい瞳には不安な色しか見えない。だからアスティアは用意していた言葉を紡いだ。

 

「カズキ、たった一日も忘れた事はない筈よ。貴女を、全てを賭けて愛してくれたロザリー様を。あの方はカズキにとって誰なのかしら?」

 

「……お母さん」

 

「そうね。アスお母様、お母さんも兄様と私を守るために魔獣の前に立ち塞がった。寂しいけれど、決して色褪せたりしない優しい人よ」

 

「うん」

 

 慈しむ心は撫でる手から伝わって、カズキに届く。もしかしたら全ての言葉は伝わってないかもしれない。それでも、アスティアは止めたりしなかった。

 

「カズキは、誰よりも優しくて幸せなお母さんにだってなれるの……その大切な最初の日が今日。そう考えたら、素敵だと思わない?」

 

 言葉は紡がれなかったが、コクリと小さく首を振った。それだけで見守っていた全員に笑顔が浮かんだ。赤い頬を摩るエリも優しい空気を感じて笑う。

 

「今日はゆっくりしていなさい。食べられるなら此処に運ばせるし、兄様にはうまく言っておくからね」

 

 アストを思い浮かべたのだろう、聖女の頬も赤くなった。

 

「可愛いわ……でも、お酒はもっと我慢しないと駄目になったから、頑張りなさい」

 

 少しの驚きと疑問。カズキはアスティアとクインに視線を配った。

 

「アスティア様の言う通りです。お酒を飲むと子供に良い事などありません。元気な赤ちゃんだって病気になりますから」

 

 至極当たり前の事をクインは言葉にした。態々言わなくても誰もが知っているし、カズキを叱る時すら伝えた事はない。

 

「走り回って転んだりしたら、どうなるか分かるでしょう?」

 

 何度言っても聞かず、凡ゆる勉強からも逃げていた聖女。隠れて酒を飲むのは当たり前で、最近では森人が集まる小さな酒屋で目撃例もあったほどだ。

 

 だからアスティアもクインも余り考えずに言葉にしたのだ。女性にとって余りに当たり前で、教え込む事でもないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 諮詢や神々の争いが聖女の元を訪れたその日からカズキは走り回る事が少なくなり、回数や時間こそ僅かだが勉強も頑張る様になった。

 

 そして何よりも……

 

 赤ら顔になる事も、突っ伏して眠る事も、酒を所望する声すらも……

 

 

 カズキは少しだけ大人になったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 




番外編終わりです。
ありがとうございました。


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聖女の座す街で 〜黒神の聖女 番外編〜

a sequelを読み返していて、何となく書きました。なので、後日談を読み直して貰えると今話が分かり易くなると思います。特にお知らせもしてないので、気付いた方に読んで貰えるだけで嬉しいです。


 

 

 

 

 リンディア王国の王子アスト、そして神々の寵愛を遍く受けた聖女カズキ。

 

 二人の婚約が国内外に発表されて三日経ったある日。大きな朗報に沸き立つ王都リンスフィアの街中で、それでも毎日の日常は繰り返される。

 

 それはきっと幸せな事なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 忙しいお昼も過ぎ、パン屋の人影は疎らになったようだ。

 

 店の親父は顔を上げて最後の客を送り出し、並んだ商品達を確認する。足りない分は夕方までに追加で焼かないといけないからだろう。

 

「やっぱり間に合わないな」

 

 ただの小ぶりな白パンなのだが、この店で最も人気な其れは今日も売り切れだ。バターは多めに使っているから、噛めばジンワリと甘さが広がり、各種ジャムとの相性も良い。客にもよるが十数個纏めて買って行く事もある。

 

 人気の理由を改めて見上げた。

 

 視線の先には店の壁に突き立った包丁の刃先。親父自らが金槌を持って小さな屋根を作ったり、分かり易い様に矢印状の看板を向けている。

 

「アレから随分経ったな……」

 

 あの時、大勢が何か捧げようと群がった。果物、服、血を拭う布や水、きっと他にもあっただろう。その中から白パンを手に取ってくれたのだ。そしてパンを口に咥えると、徐に走り出したものだから酷く驚いたのを覚えている。

 

 リンディアは今や世界に冠たる王国となった。いや、神々が祝福する奇跡の国かもしれない。他国から来た者まで態々白パンを探して訪れるのだから笑うしか無いだろう。

 

「買う、いい?」

 

「ん?」

 

 ツンと背中を突かれ声のした方を振り返る。どうやら二人組で、すぐそばに立つ小柄な女が話し掛けてきたようだ。声や身体つきから女性であるのは確実で、少し離れた場所に立つ若い男は腰に剣を差している。

 

 若い男は精悍な顔立ち。鍛えられただろう腕が袖から覗いていた。服装からもリンディア王国民で間違いない。何処かの街から王都に来た、そんな感じだろう。彼は護衛を兼ねた同行人というところか。

 

「勿論大丈夫だ。もう何種類か売り切れだがな」

 

 不思議なのは女性の方で、足首近くまで届くローブを着込み、頭部も矢張り隠れたままな事だ。薄く紅を塗った唇や細い顎は見えるが、瞳も髪も全体の輪郭すらも見る事が出来ない。しかし、それだけでも相当な美人だと察せられた。

 

「オススメ、あり?」

 

「あ、ああ。そうだな……売り切れも多いが、此れも美味いぞ」

 

 妙な口ぶりだと思ったが、そんな指摘は不要だと乾燥果実を散らしたパンを指し示した。

 

「ん。それ、三つ、いや四つ」

 

「ありがとさん。少し大きめだから、半分に切ろうか?」

 

 木製のパン挟みで一つずつテーブルに乗せた。ローブの女は何故かパン切り包丁をじっと眺めている。

 

「うん」

 

「あいよ。支払いは……」

 

「ノルデ、いい?」

 

 ノルデと呼ばれた男がコクリと頷き、懐から財布を出して来る。同行者と言うより召使いみたいだな……親父は内心で呟きながら金を受け取った。

 

「確かに。ほい、分けて紙で包んだからな。後で食べるなら軽く火で炙るといい」

 

「ありがと」

 

「美味かったらまた来てくれ。知ってるだろうが、一番人気の品があるからな」

 

「なに?」

 

 自画自賛になるが、黒神の聖女が口にした白パンは有名だ。しかし、彼女は分からないらしく首を傾げている。

 

「カズキ様に食して頂いたパンだよ。まあ、実際には見てないが」

 

「え?」

 

「だから、聖女カズキ様が……」

 

「う……いい、分かった。ノルデ」

 

「はい」

 

 ノルデは背中に掛けていた皮袋から細長い木箱を取り出し親父に渡した。大きさは成人男性の肘から指先を少し超えるくらいか。思わず手にしたが意味が分からない。困惑を隠せないのも仕方がない筈だ。

 

「何だよ一体……」

 

「遅く、ごめん。お詫び、どぞ」

 

「はあ?」

 

「じゃあ、バイバイ」

 

「バイバイ? 何処の言葉だ?」

 

 意味不明な単語を残し、二人組は去って行く。

 

「お、おい! 何だよこれは!」

 

 振り返る事もなく、すぐ角を曲がって見えなくなった。何だか夢でも見た様で、手にした木箱を呆然と眺める。仕方無く奥のテーブルに箱を置き、腕を組んで考えたが分かる訳が無い。

 

「お父さん、どうしたの?」

 

 大きな声が聞こえたのか、店の奥の住居を兼ねた部屋から娘が顔を出して来た。

 

「それがなぁ……」

 

 擡げた疑問を消化出来ない親父は、丁度良いと先程の出来事を聞かせてみる。

 

「そんなの開けてみたら何か分かるよ。入ってるもので思い出すかも」

 

「まあそうなんだが……」

 

 如何にも高級そうな木箱だ。丁寧に磨かれたであろう表側には何も書かれていない。開けたあと間違いだったと言われたら困る。外観の見た目通りならば、中身だって高級品だろう。

 

「もう、私が開けてあげる!」

 

「こ、こら!」

 

 パカリと持ち上げた上蓋、中には白い布に包まれた何かと折り畳まれた紙が入っているようだ。遠慮なく布を開くと、鈍い金属光が目に入った。

 

「包丁だね、パンを切るヤツかな……わっ、此れって最近有名なセンの職人のだよ! ほら、聖女様にナイフを納めた人!」

 

「マ、マジか⁉︎ 騎士や森人の剣の匠だろう⁉︎」

 

 そのナイフは黒髪を切り離した事で知られている。贈った者が聖女の母であるロザリーである事も。

 

 本人は当初全く知らなかったらしいが、ナイフの研ぎと修復の為、聖女自らが訪れた事で判明したのだ。魔獣侵攻の際に一度放棄した南限の町センは、今やリンディアを代表する工匠……そんな男達が集まる場所となった。

 

「綺麗……よく見たら少し青色だよ。凄く切れそう。それと手紙だね、これ」

 

 カサリと三つ折りした紙を父親に手渡す。その便箋すらも手触りで簡単に分かる高級紙だろう。仄かに花の香りがする。

 

「訳が分からんな」

 

「早く読もうよ。名前が書いてあるかも」

 

「ああ」

 

 何となく丁寧に開き、綴られた美しい文字を目で追った。半ばに差し掛かると親父の手は震え、横で同じく見ていた娘などは何度も目を擦って嘘だよねと呟く。何かの夢かと再び読み返すしかない。

 

「……最後に、借りた包丁を折ってごめんなさい。色々あって返すのが遅くなりました。お詫びに知り合いの人に作って貰った包丁を贈ります。それと貰ったパン、凄く美味しかったです。ありがとう……」

 

「カ、カ、カズ……」

 

「……カズキ」

 

 聖女の名を騙る様な者はこの世界にいないだろう。余りに恐れ多いし、何より神々の神罰が降る恐怖に抗えない。司るのは慈愛と癒しだが、寵愛している神は憎悪と悲哀、そして苦痛を支配する黒神のヤト。その怒りに触れたなら……いや、想像するのすら恐ろしい。

 

「ね、ねえ、お父さん……」

 

「じゃあ、さっき会ったローブの女性は……そう言えば、まるで片言の喋り口で……」

 

 首に刻まれた言語不覚の刻印により、聖女は少しだけ話すのが苦手らしい。それも世界を救済した代償だと噂が流れているのだ。

 

「ほ、本物……?」

 

「「え、ええ〜〜〜‼︎」」

 

 親娘の叫び声が響き渡り、奥から怪訝な顔した母親まで現れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の一筆を終え、絵筆をゆっくりと置く。

 

 近くから、そして遠くから確認し、ふむと頷いた。

 

 未だ完成に程遠いコレは何枚目か。いや、もしかしなくても生涯完成などしないだろう。そんな事を思いながらも、露店用の机に立て掛けた。

 

 売るつもりなど無かったのだが、いつの間にか噂となり声が掛かるのだ。最初は戸惑いを感じて首を縦に振らなかった。描くのは奉ずる為で、同時に自己満足の極みでもある。しかし、ある知り合いから諭され、今はこうして露店を出している。

 

 もう直接見る必要すら感じないリンディア城。そして佇む一人の女性。もちろん素描出来たならば此の上ない幸福だが、その女性にお願いする気もない。其れどころか絶対に不可能だろう。そもそも緊張の余りに指先が言う事を聞かないのは明らかだ。

 

「へえ……見事だね。リンディア城と空、そして」

 

 早速一人目の客が来た様だ。手を抜くつもりなど無いから完成時期は判然としない。更に予約など受けてない事で出会いは偶然の産物となる。それも神々の導きだと、絵描きは思っていた。

 

「聖女様だよ。遥か先にいらっしゃる御姿だけど、一度だけ此方に手を振って下さったんだ。まるで夢の様だった」

 

「カズキ様に⁉︎ 本当かい⁉︎」

 

「聖女様に対して嘘なんて付けないさ。分かってるだろう?」

 

 描かれた聖女は右腕を持ち上げて、絵を眺める者へと手を振っている。風に揺れる黒髪、残念ながら有名なあの瞳は映らない。

 

「そりゃそうか。そんな幸運もあるんだなぁ。これ、幾らだい?」

 

「まだ乾いてないから売れないよ。前に描いたので良ければ」

 

 真っ白な布に包まれた作品を嬉しそうに抱えて客は去って行った。何となく溜息をつき、一度絵筆を洗おうと足元に視線を落とした時だった。次の客の革靴が見えて顔を上げる。小さめな靴だし、踵の高さや足首の細さから性別が分かった。そして予想通り、一人の女性が立っている。

 

「見た、いい?」

 

「ご自由に」

 

「ん」

 

 予想よりずっと若く、何より印象に残る綺麗な声だ。何となく筆を取りたくなった。しかし残念な事に、その女性はローブで全身を覆っている。人物画を描くとき、命を吹き込む為に最も重要な瞳も見えない。

 

 腰を少し曲げて一枚ずつ観察している。基本的に全てが同じ画題で描いた為に、其々に微妙な違いしかないのだ。風景画を主としているが、最近消費する色は白と黒が多い。

 

「城ばかり。丘、平原、は?」

 

 ひとしきり終えたのか、再び前に来ると何やら曰う。

 

「最近は描いてないな」

 

「んー。城、高いところ、風景、絵、欲しい。風、草、雨、雲、綺麗」

 

「何だって?」

 

 どうやら話すのが不自由な様だ。それを置いても意味が分かりづらい。城ばかりと言いながら、最初に城と言う。草原の風景画を探しているのだろうが、あのような珍しくもない画題は面白みに欠けるのだ。

 

「済まない。つまり、リンディア城から眺める景色が描かれた絵が無いか、そういう意味だ。高い位置からで、リンスフィアが入っていればもっと良い」

 

「……無茶苦茶だよ。リンスフィアも、城壁の外もなんてどれだけ高い位置から描けばいいんだ。それこそ白祈の間や聖女の間とか……陛下や聖女様が座すベランダからじゃないと。想像でいいなら描く人もいるんじゃないか? でも僕はゴメンだね。その風景は聖女様が見てる訳だし」

 

 付き添いか付き人、護衛を兼ねているだろう若い男が会話に入って来た。恐らくローブの女性は金持ちの娘か何かだろう。もしかしたら城に招かれて、一度くらい其の景色を眺めたのかもしれない……そんな風に絵描きは思った。

 

「無いらしいです」

 

「残念」

 

 哀しそうな声音が耳に入り、思わず謝りたくなる。

 

「ねえ、手、振って、描く?」

 

 先程仕上げたモノを指差し、再び質問して来た。指を指す仕草に何となく怒りが湧いてしまった。ただの絵だが、そこにはどれだけ敬愛しても足りない聖女が佇んでいるのだ。

 

「まあね、一度だけ手を振って下さったんだ。まあ信じてくれなくてもいいよ」

 

 つい突き放す様な言い方になって後悔する。彼女だって自分と同じくらい聖女様を敬っているに決まってる筈だ……そう思って居た堪れたくなった。誤魔化す為に絵筆を触るしかない。

 

「ねえ、どこ?」

 

「え?」

 

「描く、居た場所」

 

「……あの建物、屋根の上さ。見えるだろう? 屋根の色が珍しいから分かり易いんだ」

 

 女性は教えてあげた屋根を見ると、リンディア城のある方向と交互に目を配った様だ。

 

「やっぱり。あの日、朝」

 

「えっと……何だい?」

 

 疑問符が浮かぶ。

 

「ノルデ?」

 

「はっ。今なら人目もありません。周囲は()()()()で警戒致します。御安心下さい」

 

 意味不明なやり取りに、絵描きは押し黙るしかない。しかし次の瞬間、全く別の意味で全身が固まった。まるで石や岩になった様に全てを動かせない。呼吸すら止まったのが分かった。

 

 女性が頭に掛かったローブをゆっくりと後ろに流したからだ。

 

 目に入ったのは陽の光を反射し、そして包み込む黒髪。一度閉じていた瞼が開いたとき、描く事は不可能とされた翡翠色が瞬いた。妙に白く艶かしい首には鎖を思わせる刻印が刻まれている。

 

 その世界と切り離されたかの様な、隔絶した美貌が目の前に顕れたのだ。

 

 黒髪を捧げた広場でも聖女を見たが、あの頃は少女らしさが強かった。しかし、目の前にいる人は……

 

「カ、カズキ、さ、ま」

 

「うん」

 

「な、何故……あっ!」

 

 余りの衝撃に思考が止まっていたが、神々の使徒、救済を果たした聖女を見下ろしている不遜に血の気が引いて行く。慌てて膝をつこうと腰を落としたとき、聖女はやんわりと手を取り、そして制止させた。

 

「やめて、普通、お願いします」

 

 絵描きは尊い御手が自分に触れている事に気付き、内心で思い切り叫ぶ……いやいや、普通とか無理でしょー‼︎と。

 

 

 

 聖女とノルデからの説明で、今日の訪問の意味が分かった。以前手を振った人は多分画家で、描かれる絵に興味があったと。とある要件でリンスフィアを散策していて、目に入った絵に惹かれて来たらしい。そして勘は当たり、見事に当人へと行き着いたのだ。

 

「もし、他を描く、また見たい。あ……無理、なし。お願い」

 

 風景画を描く事が有れば、また見てみたい。でも無理にはしないで。お願いします。

 

 黒神の聖女カズキはそう言い残し、そこから去って行った。

 

 

 次の日から絵描きは城外を歩き回り、凡ゆる場所で素描(スケッチ)を集め始めたのは言うまでも無いだろう。聖女の間に行ける訳がないし、それでも奉ずる風景を切り取る為に絵描きは今日も脚を動かしている。

 

 そこには、誰もが幸せを感じる笑顔が浮かんでいたと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 一通りの準備を終えたロヴィスは、外の空気を吸って伸びをしていた。

 

 主演のジネットは正しく命を燃やす様に演ずるから、一日一回しか公演が出来ないのだ。観客からはもっと沢山やってくれと要望が来るが、ジネットは演じているのでは無く伝えているのだと話す。そこには揺るぎない信心があって、公演回数を増やす気など無かった。

 

 そんな座長のロヴィスの目に、ある意味恩人である者の姿が入った。最近メキメキと腕を上げ、騎士団でも屈指の剣士へと成長したらしい。無論アスト王子殿下やケーヒル副団長には及ばないが、一目置かれる存在となっている。

 

 生み出す原動力は正に自身と同じであり、限界を超えた忠誠心を疑うこともない。

 

「ノルデ!」

 

 耳に馴染んだ声に、ノルデも顔を向けた。

 

「ロヴィスさん」

 

 呼び方は同じだが、何やら他所行きな空気を感じる。そう思ったロヴィスは歩み寄り、肩を掴もうと脚を動かした。しかし、何やら慌てたノルデが顔色を変えて此方に向かって来る。

 

「その格好、剣こそあっても今は非番だろ? 何を慌ててるんだ?」

 

「今は事情があって……ほら、あっち」

 

 チラリと向けられた視線の先、ローブにすっぽり包まれた人が居る。分かりづらいが多分女性だろう。

 

「ははーん。お前にも漸く良い人が現れたか……歳上好きと思ったが、最近売出し中の騎士様なら不思議でもないな。で? 誰なんだ?」

 

「や、やめて下さい! そうじゃなくて!」

 

 基本的に誠実でかなり堅物。ノルデはそんな男だ。まあ美人で歳上の女性を前にすると変身するが。珍しく慌てる様子を見て、ロヴィスは益々興味を惹かれた。

 

「知り合い?」

 

 トコトコと歩いて来たローブ姿の女性が問い掛けて来た。声の響きと張りから、随分と若い女と理解する。もし何か歌わせたなら映えるかもしれない。固まったノルデを放っておいて、ロヴィスは言葉を返した。

 

「まあな、俺はロヴィスと言う。コイツとは長い付き合いだが、恩人でもあるんだ」

 

「恩人?」

 

「ああ、あんた名前は?」

 

 更に慌て出したノルデを怪訝に思いながら、やっぱり無視した。何やら面白そうな気配だなと。

 

「ん、カーラ」

 

「カーラか。中々良い名前だ。今日は天気も良いし逢引きか? その割にローブで暑そうだが」

 

「あい、びき? なに?」

 

「ロヴィスさん! 本当にやめて下さい!」

 

「ノルデ、あい、びき、教えて」

 

「え⁉︎ いや、それは後で……何なら帰ったら聞いて」

 

 まさか愛を誓った男性と女性が二人出掛ける事だと説明出来ない。城に帰ったらアスト王子殿下にでも教えて貰って欲しいノルデだった。

 

「何だかよく分からんが、どうだ? そろそろ幕が上がるし見て行けよ。ノルデはある意味で原作者だし、金は要らん。勿論連れの女性もな。今やってるのは新作だから見た事もない筈だ」

 

「いや、またの機会に……」

 

 断ろうとしたノルデにカーラが被せてくる。

 

「お金なし?」

 

「ああ、約束しよう」

 

「何、見る」

 

「ん? あそこに看板が出てるだろう? 芝居、舞台、そして伝道かな」

 

 首を傾げる仕草から意味が分からないのだろう。看板を眺めて其れを読んだ。

 

「銀月、小さな、奇跡?」

 

「ああ、副題は降り注ぐ光、だ」

 

「カ、カーラ、行きましょう、今日は」

 

「見たい。お金なし、お得」

 

 何やら格好良い題名だ。多分感動作か、お涙頂戴系の劇だろう……そんな風に考えたカーラ。しかも無料(タダ)

 

「い、いや、この演劇はですね」

 

「だめ?」

 

「うっ」

 

 甘える様な声に、ノルデの気力は削がれた。何より目の前の人が望むなら何処であろうと連れて行くつもりだ。

 

「……わ、分かりました。ただ、怒らないで下さいね」

 

「ん?」

 

「行きましょう」

 

「うん」

 

 ロヴィスの案内で、二人は天幕の中へと消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カーラ、つまりカズキは両手で顔を覆っている。間違いなく真っ赤になっていて、涙も溢れているだろう。ローブのお陰で周りに見えないのがせめてもの救いか。

 

 これ程の羞恥、居た堪れない気持ち、今すぐ走り出して此処を出たい。しかし女優の心地の良い声が嫌でも届くのだ。流石主演の女優らしく、力強い中に女性らしい柔らかさも秘めている。言葉は沢山流れて行くから全てを理解出来るとは言わない。しかし、全ては自身が経験した事だけに、分かってしまうのだ。

 

「うぅ……」

 

 まさか演じられる主人公が自分だとは……勘弁して下さいと叫びたいだろう。

 

「違う、違う、からぁ」

 

 ブツブツと呟きがノルデに届いたが、敬愛する聖女の反応は予想出来た為に驚きは少ない。

 

 慈愛と癒しを司る聖女は、同時に献身と謙虚の象徴でもある。成した救済も、癒した人々や世界を誇る事もない。寧ろ自身は何も出来なかったと嘆くほどだ。刻印を自慢することも、身分すらも全く気にしない。敬称呼びを嫌うくらいだから当然だろう。

 

 そして今、演じられているのは治癒院で起こした奇跡そのもの。風土病に冒された子供達のため、ヤトの封印すら振り切り救いを齎した。因みに、本劇はファウストナ公国の大公ラエティティが全面的に後援しているとの事だ。

 

 ノルデは外に居たから全てを目撃した訳ではない。だから非常に興味深く演技を見ているし、限界を迎えた筈の忠誠心がより高い所へと羽ばたくのを感じた。

 

 ところが、当人である救いの使徒は、自分を救ってと頭を抱えている様だ。だがノルデとしても少しくらい誇って欲しいと思うから連れ出したりしない。何より続きが気になるから。

 

 

 

 

『駄目、時間、ない!』

 

 ジネットの魂魄からの声が劇場に響く。

 

 ここは提供した場面だろう。子供達の祈りを聞き届けて馬上で声を荒げた。雨が降り注ぎ、何処かで休もうと提案した時に返した言葉だ。

 

 尊いお身体がどれほど濡れようと、救うべき子供達が待っている限り走り続ける。そう、決して止まりはしない。

 

「違うの……銀月、死ぬから」

 

 カズキの言葉が届いた時、ノルデはブルリと震えた。

 

 天空に浮かぶ巨大な銀月すらも、聖女の前では救うべき存在なのか。いや、きっと神々が座す世界を見ているのだ。

 

 

 

 

『一人、入る、駄目?』

 

 治癒師のチェチリアに告げた。たった一人、聖女として戦場に赴くと。まるで全ては自分の責務だと言わんばかり……

 

「だから違う……あれは、あれは、ね」

 

 再び聞こえた聖女の呟き。あの程度は当たり前だと、いや誰一人として悲しみを背負わせたりしないと言うのか。

 

「カズキ様……」

 

「ちょっとだけ、一人で、銀月、を、もう、許して……」

 

 遂には頭を抱えてしまった。

 

 どこまでも、その行いを誇る事をしないのか。何故かノルデに怒りが湧いて来た。どうしてそこまで自身を責めるのですか、と。

 

「……カズキ様には当然であっても、救われた者達は忘れたり出来ないのです。どうか、それ以上御自分を……」

 

「ノルデ」

 

「は」

 

「静かに、お願い」

 

「……分かりました」

 

 

 

 

 

 結局カズキは幕が降りるまで動かなかった。

 

 いや、動けなかった。

 

「抗議、大事、ロヴィス、消去」

 

 何やら不穏な事を言っている。

 

 少しずつ客が天幕から去り、残ったのはカズキとノルデ、そして間違いなく変装した騎士が何人か。隠れて護衛していた精鋭達だ。全員アストが厳正に選抜し、忠誠心と戦闘力がずば抜けている。

 

「……カズキ様。アスト殿下もアスティア様もご心配されます。そろそろ戻りませんと」

 

「駄目、消去」

 

 ローブの所為で見えないが、きっと恥ずかしくて堪らないのだろう。言葉こそアレだが、ノルデには可愛らしさの方が勝る。

 

「私は良かったと思いますが……」

 

「おう、ノルデ!」

 

「ロヴィスさん、それとジネットさんも」

 

 汗と化粧を落とした女優ジネットも同行していた。舞台では恐ろしさすら覚える女性だが、一度(ひとたび)演技から離れた時、気弱そうで優しい人になる。

 

「ノルデ様。この度も色々と教えて頂き、感謝しかありません。カズキ様を演ずる不遜を神々が赦してくださいます事を願います」

 

「ジネットさん、前も言いましたが様付けはやめて下さいよ。何だかお腹がムズムズしますから」

 

「貴方はカズキ様を守護する騎士様、此方こそ敬語をやめて頂きたいです」

 

「はぁ、参ったなぁ」

 

「ノルデ、どうだった?」

 

「ロヴィスさん、素晴らしいですよ。カズキ様の慈愛が伝わって来る様でした」

 

「ははは、お前に言われると嬉しいよ。まあ、全てはジネットが居るからだがな」

 

「や、やめて下さい! 恥ずかしいですから!」

 

 座長に人々の面前で持ち上げられ、ジネットは真っ赤になった。先程観衆を強く掴んだ女優とは思えない態度だ。

 

「恥ずかし、こっち」

 

「ん?」

 

 ボソリと横から聞こえた。

 

「おお、キミはどうだった? あの深き慈愛を顕すのは不可能だが、ほんの少しでも感じられたなら嬉しい。化粧を落としたし、パッと見は分からないだろうが、この娘がカズキ様を演じたんだ。ジネット、此方はカーラ。因みにローブに関しては触れない方が良いと思う」

 

「あ、はい。えっと……カーラさん、私ジネットです。いつもノルデ様にお世話になっています」

 

「ノルデ、お世話? なに?」

 

「え⁉︎ そ、それはですね」

 

「カズキ様の深き慈愛、その救済の全てを教えてくださったんです。例えば先程の馬上での掛け合いは、ノルデ様から聞いた……」

 

「あ、あー‼︎ さ、さあ、帰りましょうか、時間が」

 

「……ノルデ」

 

「は、はい!」

 

「説明、早い。私、知らない、けど?」

 

「ひ、ひぃ⁉︎」

 

 ジリジリと迫るローブ姿の女、後退りする騎士ノルデ。その不思議な光景にロヴィスとジネットは目を合わした。

 

「それに、これ、新作。前作、は?」

 

「カーラさん、前作は勿論"聖女の座す街"ですよ? そちらはノルデさんの証言を元に座長が書き上げたんです。ですよね?」

 

 ビシリと固まったカーラ。やはり不思議だと劇団の二人は首を傾けた。

 

「まあそうだ。しかし、知らないのか……俺も自惚れていたな。もっと強くカズキ様の行いを伝えないと……」

 

「ダ、ダメ〜〜!」

 

 突然叫んだものだから、全員がビクリと肩を揺らしてしまう。

 

「一体何を……げっ」

 

「あっ」

 

 ノルデは額に手を当て、周囲の偽装した護衛達も天を仰ぐ。黒神の聖女カズキがローブから顔を出したからだ。アストより、大勢に正体を明かさないならと言う条件で街に出たのだが……先程のジネットより真っ赤な頬、涙に濡れる翡翠色した瞳が綺麗で眩しい。

 

「え? は? な、なにが……」

 

 ロヴィスは疑問をぶつけながら、目を見開いて聖女を見詰めている。ジネットに至っては魂魄が抜けたのか、人形の様に動かない。

 

「抗議、あとノルデ、叱る!」

 

 涙目のままの聖女は、やっぱり何処か可愛らしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 座長のロヴィスは聖女の抗議を受け、一時は開演を断念しかけたらしい。

 

 しかし、それから僅か二日後。

 

 何とリンディア次代の王にして、聖女の婚約者であるアスト王子が劇団を訪れる。

 

 そして舌足らずだった聖女の言葉、その真の意味を伝えたのだ。

 

「大丈夫。カズキは凄く照れ屋なだけで全く怒ってない。だから安心して公演を続けて欲しい。私としても、ジネットが演じてくれるのは凄く嬉しいんだ。それと、聖女にはしっかりと言っておくよ。アスティアも今度見に来たいと言っていたからね」

 

 

 そして、ジネットは稀代の大女優へと成長していくのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




今でも読みに来てくれる人がいます。本当に嬉しくてまた書いちゃいました。それではまたいつか。


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white cream stew 〜黒神の聖女 番外編〜

つい最近すっごく涼しい日がありまして、サブタイトルの料理を作りました。人参が甘くて美味しかったのです。その時にふと思い付いただけの短いお話です。お気軽にどうぞ。


 

 

 

 皺ひとつない紙をテーブルに何枚も並べ、その内の一枚に白くて細い指を当てた。

 

「こっちの方が良くないかしら?」

 

「そうですかねー? カズキは小柄ですから子供っぽく見えるかもしれないですよ? まあ、何でも似合うとは思いますけど?」

 

 いつものように赤髪を丸く纏めたエリは、疑問符多めで答える。慣れたもので、王女であるアスティアも指摘はしない様だ。何方が歳上なのか、初めて会う人は首を傾げるかもしれない。

 

「確かに……そうかも。可愛いからつい着せたくなっちゃう」

 

 エリと似た様に髪を纏めているが、アスティアの銀の髪はずっと長いだろう。複雑に編み込まれた其れは宝石と見紛う程に美しい。

 

「やっぱりフィーネ(細い)が良いですよ。献身の表現にも合いますし。装飾は抑えて、もちろん色は白! それに体つきも女性らしさが際立って来ましたから、線が素敵に見えると思いますよー?」

 

「ドレスは白で良いけど、花飾りとか、さり気無くロザリー様の赤と黄金を入れたくない? カズキも喜ぶと思う」

 

「わ、素敵です! じゃあ仕立て屋さんに伝えて試作をお願いしないと」

 

「そうね。エリ、早速……」

 

「あ、でも誰に任せます? 献上の申し出だけでも凄い数ですもん。試作だけでも聖女の間から溢れそう」

 

「うっ……」

 

 少し離れた机の上に積み重なった嘆願の山がある。何枚も信心を綴った便箋、既に思案を重ねたであろう絵図、魔獣の脅威に晒された時代でも服飾の腕を磨いてきた実績。凡ゆる角度から、真心の籠った想いを書き記した献上の声達だ。

 

 黒神の聖女、神々の使徒であるカズキが身を包むドレスを捧げたい。そんな願いが顕れた文字の連なり。

 

「吃驚ですけど他国からも来てますからねー。そもそも今回のドレスって一般には御披露目が無いのになぁ」

 

「白祈の間で、兄様と二人だけだもの。式はまだ先だと皆は分かってる筈だから、ある意味で驚きね」

 

「ですよね」

 

 リンディアが紡いで来た歴史の中に、白祈と神々への報告の儀式がある。つまり披露する式ではなく、神事の為のドレスだ。白祈の間には王家の者しか入る事が出来ない。エリは勿論、クインやコヒンも、城内の誰であっても許されないのだ。当然に聖女は例外となる。つまり、献上品として納められたとしても、製作者ですら目にする事は無い。一般への披露も、だ。

 

 それを含めて依頼を掛けたのだが、いつの間にやら話は拡がり、今や国を問わず嘆願がアスティアの元へと届いていた。そもそも献上ではなく買上げの筈だったが、代金など受け取る訳にはいかないと全てに記されている。

 

「カズキはあの調子だし、私が準備するしかないけれど……」

 

 つい先日の事。なんと、黒神の聖女はドレスの選定から逃げ出した。信じられない事だが事実だ。アスティアやエリからしたら、女性として拘るだろう衣装への気持ちの薄さに一言申したくなるのだ。

 

 最近は随分と女性としての魅力が増し、時に妖しい色気を感じる瞬間すらある。小柄で細身の身体はそのままだが、柔らかな線が現れて美しさが際立って来た。そして化粧にも耐性が出来てきたのか、以前よりはマシになっている。まああくまで以前に比べてだが。

 

 ただ、衣装や下着に対してだけはイマイチなのだ。

 

「カズキって狡賢いですよねぇ。こんな時だけ"お姉様"って。言語不覚の刻印、力を失ってません?」

 

 儀式に向けドレスの話を持ち出した時だった。ちょこんと椅子に腰掛け、大人しくアスティアの会話に耳を傾けていたのだ。しかし、途中で意味を理解したのか興味を失い去って行った。その際笑顔で口にした言葉の所為で、自称姉は思わず頷いてしまった訳だ。

 

「ホントにね……困った子だわ」

 

「お任せ、ね、()()()、好き……でしたっけ? アスティア様もかなり幸せそうだったですけど?」

 

 プイとエリからの視線を躱したアスティアは話を逸らす。

 

「仕方無いわ。忙しいでしょうけれど、クインにも協力を仰ぎましょう」

 

 対外的にも知己の多い聖女専属の侍女ならば、助言を貰うのに最適だ。何よりも、他の追随を許さない明晰な頭脳を疑う事もない。

 

「頬が赤いですよ?」

 

「エリ、黙りなさい」

 

「ひ、ひたいでふぅ!」

 

 何時もの様に頬を両手で抓った。強めに。

 

 柔らかな頬を引っ張り、何処まで伸びるのか調査が開始された時、居室の扉から規則正しい音が届く。これ幸いと立ち上がったエリが近付いて声を掛けた。

 

「はい、何方様でしょうか?」

 

「クインです。アスティア様に……」

 

「あっ、クインさん! 今開けますねー」

 

 本来ならばアスティアにお伺いを立てる必要がある。しかしエリはあっさりと扉を開けた。それを見たクインは勿論、アスティアも溜息を溢す。ちなみに、後程クインから厳しい叱責を受ける事になるが、其れを知らないエリはニコニコと笑っていた。

 

「……失礼します。アスティア様、少し宜しいでしょうか?」

 

「クイン、構わないわ。私も用事があったから。先に用件を聞きましょう」

 

 背筋が真っ直ぐだから、クインの高めな身長が益々際立つ。凛とした美貌と癖毛の金髪。碧眼を軽く伏せて、忠誠を誓う王女へ頭を下げた。

 

「ありがとうございます。用件ですが……」

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

「アスティア様、クインさん、見つけました!」

 

 侍女や護衛すら伴わず、姿を晦ましていた聖女発見の報は思ったより早かった。

 

 リンディア王国は世界を見渡しても最大で、強い羨望を集める巨大な国家だ。その国唯一の王女であるアスティアは国民にも愛される王族の一人と言えるだろう。本来であれば自らが城内を歩き回り、そして探し物をするなど考えられない。しかし残念な事にリンディアでは日常になっていた。理由は単純で、御転婆な妹の所為だ。まあ昔ほどに走り回る事は無くなったけれど。

 

 まさかと思いながらも酒類の貯蔵庫を覗いていた二人に、嬉しそうに報告を持って来たエリが声を掛けたのだ。

 

「良かった。何処に?」

 

「厨房です。御案内しますねー」

 

「厨房? お腹でも空いたのかしら?」

 

「其れは無いと思いますが……カズキは少食ですし、朝もしっかりと摂っていました」

 

「クインが言うなら間違いないわね」

 

 内心で色々と考えながら二人はエリについて行く。貯蔵庫からは大して離れていないために直ぐ到着した。報告の通り小柄な後ろ姿が見える。

 

「またあんな格好で……はぁ」

 

 室内着とは言わないが、薄手のシャツワンピース一枚、細い腰には太めのベルトが目立つ。空色した淡い色合いは可愛らしいが、淑女が外を歩き回る服装では無かった。最近益々らしさが増した身体の線。お尻は随分丸くなり、つい先日も下着を新調したばかりだ。黒神の聖女に不埒を働く者など城内には居ないが、姉として不安が湧き上がる。

 

「カズキ、少しは恥じらいを……何をしてるの‼︎」

 

 呆れた物言いは一瞬で悲鳴染みた叫びへと変わってしまう。王女らしくない素早さでパタパタと駆け寄った。何故ならば、カズキの両手が真っ赤に染まっているからだ。何より左手の指からは出血が見えた。そして反対側の右手には鈍い金属光を放つ長めの刃物。形状から包丁と知れたが、聖女の過去を知る三人は血相を変えるしかない。

 

「エリ! 血止めを……治療箱を早く!」

 

「はい! 直ぐに!」

 

 クインには珍しく、包丁を乱暴に奪い取る。顔色は青くなり少しだけ涙も浮かんでいた。

 

「まさかまた誰かの為に⁉︎ カズキ、貴女にはもう"贄の宴"が無いのよ! 封印だってされてるし、血肉を捧げても……!」

 

「痛い」

 

「当たり前でしょう! お願いだから無茶を……」

 

「……此れは」

 

 よく見れば、傍に置いてある皿に大き目に刻まれた赤い何かが積まれている。其れは僅かに血も滴り、新鮮だと訴えかけてきた。滋養に良いとされる種類の肉だ。

 

「カズキ、もしかして料理を?」

 

「うん」

 

 つまり、料理中に誤って指を切ってしまったのだろう。そもそも此処は厨房で、考えてみれば当たり前だ。しかし何度も見て来たのだ、我が身を顧みない聖女の姿を。

 

 安堵の息を吐いたクインの肩と髪が揺れた。そして、奪い取り握り締めていた包丁をコトリと置く。

 

 アスティアはそれでもカズキの手を離さない。

 

「とにかく切り傷を処置するわ。手を洗いなさい」

 

「料理、まだ、終わる」

 

「駄目よ。大体食べたいモノがあるなら誰かに伝えて……」

 

 カズキ本人は自身の立場を全く理解していない。いや分かってはいるが、聖女だ何だと傅かれるのを避けている。リンディア王家すら横に置ける、神にも等しい女性なのだが。

 

「そう言えば……お酒を我慢する様になって、カズキから何か欲しいって頼まれた事、無いかも」

 

 幸せな日々の中で気付かなかった。アスティアはカズキに聞こえないよう呟く。例え耳にしても、長い言葉は伝わらないかもしれない。でも、何となく聞いて欲しくなかった。

 

 衣服も食べ物も、装飾品やお化粧だって……何一つ要求をして来ない。刻印が何か影響しているのだろうか。そんな風に思ってしまう。そして不安そうな表情を感じたのか、カズキも静かになった。

 

「……あ、ごめんなさい。何を作ってたの? 誰かに頼むから」

 

「ん、無理」

 

「無理って……城の料理長は」

 

「アスティア様」

 

 その呼び掛けに反応して隣に立つクインの顔色を伺った。

 

「恐らく不可能と言う意味で無く、別の言葉かと。駄目、などでしょうか」

 

「つまり、自分で作りたいって事かしら?」

 

「はい。カズキ、なぜ料理を?」

 

「ん。元気、帰す、食べる。心配」

 

 瞬間は分からなかったが、少しだけ赤らむ頬を見て姉は察した。

 

「もしかして、兄様に?」

 

「……殿下の疲労を鑑み、体力のつく料理をと。そう言う意味でしょう」

 

 答えが見えたとき、エリが戻って来た。

 

「とにかく傷はそのままじゃ駄目よ。いい?」

 

「うん?」

 

「……兄様に作りたいんでしょ? きっと喜ぶわ」

 

 どうやら許可が下りたらしいと、カズキにも笑みが浮かんだ。

 

「……可愛い」

 

 ついボソリと溢す。

 

 何度見ても、その微笑に魂魄を奪われてしまう。そんな罪つくりな妹の手は小さくて、でも包み込む様な慈愛を湛えているのだ。

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

 

「殿下、如何しました? 近頃溜息が多いですぞ?」

 

 国内の治水に関する打ち合わせを行い、ひと段落した時だった。見事に禿げ上がった頭を手で撫でながら、クインの祖父であるコヒン=アーシケルが問うて来たのだ。

 

「いや、何でもない」

 

 何でも無くはない。答えたアストも十分に分かっている。ただ、心に渦巻く不安を言葉にするのが情けないだけだった。

 

「貴方様は大変に立派な王子ですじゃ。しかし失礼ながら、人生に於いては未だ若輩者でもある。悩みは尽きぬ物ですが、誰かに話すだけでも違うものですぞ?」

 

 恐らくコヒンには心当たりがあるのだろう。態々指摘しないのは、正に年月を重ねた年長者の心配りかもしれない。

 

「大丈夫だ」

 

「誰でも良いのです。陛下でも……いや陛下は不向きですが」

 

 あっさり不敬を曰うが、息子であるアストも同意なので指摘する気もない。間違いなくイヤらしい笑みを浮かべて揶揄って来るのは明らかなのだ。

 

「……そんなに分かり易いか?」

 

「ほほ、殿下が頭を抱える理由など城の誰もが分かっておるでしょうな。あの御方も罪つくりな女性ですのぉ」

 

 現在世界最大であり、未来すらも燦々と輝くリンディア王国。その次代の王であるアスト=エル=リンディアはたった一人の女性に思い悩まされているのだ。

 

 救済を果たした黒神の聖女に並び立つ男にならなければ……アストはそんな風に自身を奮い立たせて来た。其れはある意味で功を奏し、父であるカーディルからも褒められる機会が増えている。だが……そんな王子としての立場など、今は何一つ役に立たない。

 

「カズキは……私との結婚を本当に喜んでくれているのだろうか……最近分からないんだ」

 

 滅多に弱音を吐かない。其れが王子アストの側から見た印象だろう。国を代表する騎士でもあり、戦いの中で心身共に磨かれて来た。例え魔獣を目の前にしても足は震えず、握った剣が折れる事もない。だが、勝てない相手は何処かにいるものだ。

 

「ふむふむ、何故そう思うのです?」

 

「元々感情表現に乏しいのは理解している。過去の影響や言語不覚もある以上、カズキに罪は無い。だが、ドレスの選定からも逃げ出したらしいし、何と言えばいいか……結婚を意識してくれていると思えないんだ。もしかしたら……」

 

「ふむ?」

 

「あの娘には慈愛の刻印がある。何より自身の幸福など二の次にしてしまうだろう? 私の気持ちを裏切れない、悲しむ事が分かるから断らなかったのかもしれない。そう考えてしまうんだ」

 

 正直な話、コヒンは呆れていた。

 

 孫であるクインからも聞いているが、相思相愛とはコレだと誰もが思っている。きっとリンディアに深く名を刻む王夫妻となるだろう。決して、カズキが聖女である事だけが理由ではない。其れは想像や仮説ではなく確信だった。

 

 救済の日。カズキは皆の心を感じ、そして見たという。

 

 寵愛する神であるヤトが紡いだ筈だ。聖女カズキに幸せを運んだのはリンディア王家の面々であると。家族としての愛を授けたのはカーディルやアスティアであり、クインやエリ、そして何よりもロザリーであろう。だが、()()()()()()()愛したのはアストなのだ。そうヤトは言葉にしたではないか。あの時、呪いに近い封印が解かれた意味、其れが全てを物語っている。

 

 随分あとになってだが、孫より詳しく聞いていたコヒンにとって当然の考えだった。

 

「恋は盲目、よく言ったものじゃのぅ……」

 

「何だって? 聞こえなかったぞ?」

 

「いやいや、何でもないですじゃ。殿下、決して下世話な意味でありませんぞ? 寝所は共にしておらんのですかな?」

 

「バカな事を言わないでくれ。カズキは幼いところがあるし、さっき言った様に気持ちだって定かじゃない。望みもしない事を強制したくないんだ」

 

 アストらしい清廉な言葉、そう受け取ることも出来るだろう。しかしコヒンの頭に浮かんだのは別の言葉だった。

 

 そう、ヘタレ、と。

 

 これはカズキの友人であるエリの証言だが「殿下が望めばアッサリムフフで間違いありません。もし違ったら? その時はお寝坊を二度としないと誓います!」だそうだ。城内の皆ですらヤキモキして、そして半分楽しみながら眺めているのに。

 

「ふーむ、そうですなぁ……」

 

 ゴチャゴチャ考えずに陽が落ちたら聖女の間に行きなされ。艶やかな黒髪と肌に指を這わせ、そして翡翠色の瞳をジッと見詰めれば良いのです。そう言いたい気持ちを何とか抑えて天井を仰ぐコヒン。見れば益々暗い表情になるアスト。

 

 そんな重い空気が漂い始めたとき、執務室の扉が軽やかに叩かれた。誰かの来訪を告げたようだが、特に予定は無かった筈と二人は首を傾げる。

 

「何だ?」

 

「アスト、私」

 

 警護の騎士の反応を待ったが、響いたのは予想と違う声だった。聞き間違うなど有り得ない。

 

「カズキ?」

 

「うん」

 

 心から愛する婚約者、そのカズキの話をしていたからアストは酷く慌てた。何となく声も震えてしまう。

 

「は、入っていいよ」

 

「手、ごめん、一杯」

 

 クインには遠く及ばないものの、最近は慣れて来たから意味を捉える事が出来る。つまり、手が塞がっていて扉を開けられない、御免なさい。そう言う意味だろう。さっきのノックだけは誰かが行ったのか。

 

「待ってくれ」

 

 ドタバタと駆け寄り急いで扉を開けた。愛しい人の姿が目に入ったが、同時に何やら美味しそうな香りが鼻をくすぐる。見渡しても騎士達の姿は見えない。きっと気を利かせてくれたのだ。

 

「ありがと」

 

 上目遣いだ。見上げながらカズキは言う。その仕草だけでアストの胸は高鳴った。静々と入ってきたカズキの両手には大きめの銀色に光るトレーがある。その真ん中には真っ白な皿が二枚。片方は白パン、もう片方には何かの煮込みだろうか。肉らしきものが幾つも浮かんでいる。

 

「ど、どうしたんだい?」

 

「ん、お腹、食べて」

 

「私に?」

 

「うん」

 

「ああ、クインか誰かに頼まれた……イタッ」

 

 足先から痛みを感じて下を見れば、カズキがグリグリと踏み付けている。ほんの少しだけ頬も膨らんでいるようだ。珍しい感情の発露にアストは戸惑う。しかし同時に幸せな気持ちが溢れて来た。

 

「……もしかして、カズキが作ってくれたのか?」

 

「そう」

 

「でも何故」

 

「アスト、元気、小さい」

 

「え?」

 

「心配、ダメ?」

 

 ついさっきまで暗闇の中を彷徨っていた。行き先も出口も、希望すらも見えていなかったのに。比喩でなく、アストの視界は一気に開けて眩い光が降り注いで来たのだ。

 

「まさか! 嬉しいよ!」

 

「良かった」

 

 フンワリとした微笑。言葉に出来ない感情が溢れて来て、胸の中が熱くもなった。

 

 執務室の中央に配置されたテーブルにトレーを置き、更には椅子も引いてくれたようだ。言葉は無いが、どうぞと聞こえた気がする。ドギマギしながら無言のままにアストは座った。

 

「はい」

 

 白い布に包まれていたのはスプーンだ。

 

「ありがとう。此れは……何だい? 見た事のない料理だけど」

 

「うん?」

 

 とんでもなく嬉しいが、初めて見る煮込み料理にアストは戸惑っている。色合いが大変珍しいのだ。

 

 まず()()。ドロドロとしたスープ、そんな感じだ。野菜も見えるが、目立つのは肉だろう。良く煮込まれているのが分かる。しかし味の想像がつかない。リンディアの煮込み料理といえば茶色に濁ったものが殆どなのだ。

 

「んー、昔、あり、普通」

 

「昔?」

 

「も、もしかして、カズキ様の居た世界の料理ですかな?」

 

 黙って見守っていたコヒンだが、流石に我慢出来なかったようだ。研究熱心で博識な爺様でも、全く異なる世界の食べ物など知るわけがない。

 

「そう」

 

「儂にはありませんかの?」

 

「ない、今」

 

「そ、そうですか」

 

 ガクリと首を折り、乗り出していた体も椅子に預けた。本当に残念そうだ。実際には厨房の寸胴に残っている。しかし言葉足らずのカズキでは仕方無いのだろう。後でねと伝えたつもりだが、今はアストの反応が大事なのだから。

 

「カズキの居た世界……頂くよ」

 

 例え口に合わなくてもきっと幸せだ。アストは強く思った。スプーンで軽く掬って野菜と肉ごと頬張ると、ホロホロと崩れて行く。そして優しい甘さと柔らかな旨味が口内に広がった。上品に顎を動かしゆっくりと咀嚼する。カズキも見つめる中、暫く沈黙が支配していた。

 

「……美味しい。本当に美味しいよ、カズキ。初めて食べたのに、何処か懐かしい気持ちになる」

 

 まだ食べ足りないとアストは次々に口へと運んだ。誰が見てもお世辞などではない、それほどに食べ進めて行く。

 

「パン、付けて」

 

「ああ」

 

 パンを手に取り、白いスープを付けてみる。ドロリとしているから垂れたりしないようだ。それも我慢出来ないとばかりに噛み付く。王子としての作法など明後日の方向へ飛んでしまった。

 

「これも最高だ……こんなに合うなんて」

 

 ほんの少しも残したくないとパンで拭い取る。そして最後の一切れを食べ終わる頃には悩みなど欠片も存在していなかった。全てがあっさりと消え去ったのだ。

 

 因みに、最後の希望も消え去ったコヒンは絶望感を隠していない。一口だけでもと思っていたらしい。

 

「カズキ、ありがとう」

 

「ううん、元気、大きく」

 

「ああ、分かってるよ」

 

 最近勝手に沈んでいたアストを心配してくれていたのだ。

 

 感情表現が乏しい? 言語不覚が何だって?

 

 アストは、内心で自身を叱り飛ばすしか出来なかった。カズキはこうやって私を見てくれているじゃないか……もし恨めしそうに此方を眺めるコヒンが居なければ、目の前に立つ彼女を思い切り抱き締めただろう。

 

 だから、今は気持ちに蓋をして明るく声を出した。

 

「本当に美味しかったよ。この料理の名前は何て言うんだい?」

 

「ん、名前は……」

 

 

 

 翡翠色した瞳が映す先には自分が居る。言葉少なでも心を通わせる事だって。ああ、これ以上の幸福があるだろうか……アストは早く夜が来て欲しいと、初めてそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




久々のカズキ達は如何だったでしょうか? 思い切り自己満足のお話ですけど、感想など頂けたら嬉しいです。


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溶け合う二人 〜黒神の聖女 完結編〜
姉と妹 〜黒神の聖女 完結編①〜


頂いた感想やコメントを見返していて、幾つか書き残していたことに気付きました。カズキが持つ最後の不安が消え去り、アストと共に歩み出す本当の完結編。全4話構成、隔日投稿にて。


 

 

 

 

 

 王都リンスフィアは朝靄の中で目覚めようとしていた。

 

 オイルランプや薪でボンヤリと浮かび上がり、そんな家々が一枚の名画のように広がっている。人々の営みが在る証だからか、ただ暖かく優しい。

 

「綺麗、ホント」

 

 少し肌寒い。

 

 でも、朝の澄んだ空気と共に幸せを包む。

 

 幾日も眺めている筈なのに、ただの一度として同じ景色がない。晴れやかな陽の光、シトシトと濡れる雨、銀月の輝きが残る明け方、その全てが美しい。飽きる事なく眺めるこの時間を、言葉に例える事が出来ないのだ。言語不覚の刻印が刻まれていなかったとしても、きっと答えは変わらないだろう。

 

 いつもの朝と同じように、聖女の間からベランダに出て風景を眺める時間。

 

 薄墨のナイトドレスの裾は風に揺れ、そんなドレスにも負けない黒髪もサワサワと靡く。素肌は露出していない。肩から薄手のカーディガンを羽織っていて、手足の先くらいしか空気に触れていないからだ。

 

 こんな自分の姿を遠くから眺める人々が大勢いると噂に聞いてしまった。どうやら日課になっている朝の時間が王都民の間で広がっているらしい。それを知ったカズキは寝癖や肌が気になってしまうのだ。

 

 何だか恥ずかしいーーーー

 

 そんな気持ちを感じるとき、変わった自分を想う。

 

「不思議……」

 

 そして同時に、今は一人の女である事に違和感など無いのだ。

 

 和希(カズキ)とカズキは溶け合ったのか。大好きなハーフロックを横から眺めたとき、満たされた液体は陽炎の様に揺れて混ざる。一つのグラスなのに別々のモノ。でも、幸せな色だ。

 

「で、も、困る……?」

 

 実は、そんなカズキが最近困っていた。

 

 勿論嫌では無い。それはきっと大切で、この景色とも違う幸福を運んで来る。胸の奥はドキドキするし、思わず視線を外せなくなる事だって。何よりも体温が上がり顔が真っ赤になるのが分かってしまうのだ。

 

 スキンシップが激しいーーーー

 

 そう。

 

 大切な家族の一人であり、そして愛する婚約者でもある。そんなリンディア王国の王子アストが最近グイグイ来るのだ。どんな心境の変化があったのか不明だが、大人しめだった愛情表現が全然大人しく無くなった。

 

 

 朝の挨拶はキスと共に。

 

 背後から抱き締められるのは吃驚する。

 

 頬や耳、肩を撫でられたら擽ったい。

 

 髪に指を通されたら身体が震えてしまう。クインにされてもそんな風にならないのに。

 

 

 彼は男性で、自分は違う。だから何を望まれているのかも理解している。でも、全部が急でどうしたら良いのか分からない。相談しようにも言葉をうまく紡げないし、間違って伝わる時もあるから勇気が必要なのだ。そもそも誰に聞けば良いのか……

 

「結婚、して」

 

 そもそも二人は夫婦になるのだから、こんな悩みなんて不自然な気がしてしまう。

 

 嬉しいのに恥ずかしい。優しく髪を触られているとき、小さな笑みが浮かんでいるのを自覚していない。そんなカズキは朝の景色を眺めつつ、前髪を少しだけ触った。その仕草は誰が見ても愛おしさを覚えるだろう。

 

 だから……初々しい恋の気持ちだと自覚出来ない聖女は、自称姉である人に相談しようと決めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

 

 

「そろそろですねー?」

 

「そうね」

 

「あ、それ決まりました?」

 

「候補はあと二つよ。髪飾りもドレスも大人しめだから合わせた方が良いかしら……」

 

 ロザリーから贈られた銀月と星の髪飾りは外せない。ドレスも刺繍や飾りの少なめなフィーネだから悩ましい。謙虚と献身の象徴である黒神の聖女にはきっと似合っているのだろう。しかし、愛する妹にはもっと美しくなって欲しいのだ。だからネックレスにも妥協を許さない。

 

 嵌める宝石は瞳に合わせてグリーン基調にしている。

 

 カズキの居た世界ではアレキサンドライトと呼ばれる変性色の石だ。昼は森の泉の如く煌めき、夜の灯火の前なら艶やかなバーガンディーに。

 

 後は全体の造りを決定すればいいのだが、それを先程から悩んでいるのが王女であるアスティアだった。

 

「それくらいならカズキに決めて貰いましょうよー? 何だか最近女の子らしさが戻って来ましたし。ほら、救済の日から数日だけはあんな感じでしたよ?」

 

 思い出しつつ、王女付きの侍女エリは疑問符多めで返す。

 

「……それもそうね。エリ、悪いけどカズキを呼んで来てくれる?」

 

「はーい!」

 

 元気よく声を上げ、同じくらい元気に右手まで持ち上げる赤毛の女性。その姿に益々子供っぽいと思われているとは気付いていない様だ。七歳も下のアスティアが呆れているのにも。

 

「じゃあ行ってきま……あれ?」

 

 ノックも無しにアスティアの居室の扉が僅かに開いた。王城に勤める者達にそんな非常識で礼に失した行動を取るものは居ない。兄であるアストは当然、父親のカーディルも違うだろう。もしクインに見つかってしまったら大変な叱責を受けるのは確実だ。

 

 つまり、それを行う者など限定されている。

 

 そして予想通りの美しい顔が隙間から覗いていた。サラサラと肩から零れ落ちる黒髪と、翡翠色した瞳に視線が奪われるのも驚くことじゃない。

 

「アスティ……お姉ちゃん、とき、だめ?」

 

 きっと「今時間良いかな?」と聞いているのだろう。しかも酷く珍しく"お姉ちゃん"と言っている。指摘しないと言い直さない事が多いのがカズキだ。

 

「……え、ええ。大丈夫よ」

 

 何だこの可愛らしさは。アスティアはそんな風に内心慄き、エリですら固まっていた。

 

 星空を纏う藍色したカズキのワンピースは少し懐かしい。何枚も破いたが今も偶に着こなしている。色違いはアスティアも持っているが、最近は衣装部屋に納まったままだった。

 

 許可を得て扉を大きく開け、トコトコと近付いて来た。そして椅子に腰掛けてキョロキョロと周りを見渡している。

 

「どうしたの?」

 

「初めて、入る」

 

「そう言えばそうかも。私がカズキに会いに行く事が多いもの」

 

「……アレは?」

 

 細いスラリとした指を向け、カズキは疑問をぶつけて来た。その指先が示す先は化粧台の様だ。母であるアス王妃が好んで作った押し花の額と、隣にはお気に入りの絵が立て掛けてある。鏡は大きく邪魔になるほどではない。だからカズキが気になったのは別のことだ。

 

「……あ! あ、あれは、ほら、貰い物で……」

 

 挙動不審になったアスティアは真っ赤になっている。

 

 立て掛けてあった絵にはカズキが描かれていた。黒も翡翠色も大変珍しく、間違いようがないだろう。毎日会うことが当たり前である妹の絵を、毎朝使う化粧台に飾っている姉など多分少ない。自覚のあったアスティアは焦ったのも当然だ。一度もカズキが訪れた事が無いために、完全に失念していたようだ。

 

 不思議そうなカズキを見ればアスティアは益々恥ずかしくなる。因みに、すぐ隣に立っているエリはニヤニヤしていて、後で頬を思い切り引っ張られるのは確実だ。

 

「そ、それより! エリ、お茶をお願い、ほら!」

 

「ムフフ……承りましたぁ」

 

 ニヤニヤが最高潮に達したエリがお茶の準備を始める。暫く待てば華やかな香りが鼻に届き、少しだけ落ち着いた。

 

「カズキ、丁度良かったわ。これを見てくれる?」

 

 とにかく話題を変えようと二枚の図を見せる。普段ならカズキが訪れた理由を最初に問うだろうが、アスティアもまだ冷静ではない。気遣いも忘れて紙を持ったカズキを眺めた。

 

「首、飾る?」

 

「そうよ。ネックレス」

 

「こっち」

 

「あら? 簡単に決めるのね? もっと早く聞けば良かったかも」

 

「アスティア、白、肌。強い形、似合う、かも」

 

「え?」

 

「いや?」

 

「違うの……そうじゃなくて、コレは貴女のネックレスよ」

 

「あぁ……そか」

 

 ドレスの選定から逃げ出した聖女だから、思い付かなかったようだ。なのでまた適当に考えるかもと、アスティアは諦めすら覚えた。何となしに視線を落とせば、エリが置いた二つのカップに小さな花がプカプカと浮いている。

 

「……ん、難し」

 

 想像と違い、カズキは真剣に考え始めた。思わずアスティアとエリが目を合わせたのも仕方ないだろう。やはり最近女性らしさが増したと思ったのも間違っていなかったようだ。兄であるアストも積極的で、意識し始めたのかもしれない。それは嬉しい変化で姉としても誇らしい。淑女であれと頑張って教育してきたからだ。

 

「こっちがドレス。細い線だけど素敵でしょう?」

 

 ならばと最終案となった絵図も見せる。専門の者が描いたそれは、カズキが纏った姿を容易に想像させた。

 

「肩、出てる、背中も」

 

 アスティアは内心更に驚く。肌の露出など気にしない娘だったのだ。それどころか下着が見えるのも気にせず走り回っていたのが目の前の聖女様だ。

 

「うーん、どれもこんなものよ? 胸の上でしっかり固定するからずり落ちたりしないし、でも聖女の刻印は少しだけ外に出したい……あ、ごめんなさい。言葉が長すぎたわね……つまり、兄様もきっと気に入るわ」

 

 途中でカズキの顔に疑問符が浮かび、アスティアは言い直した。兄の話題を出せば間違いないと直感が囁いている。

 

「アスト?」

 

「そうそう」

 

「分かった」

 

 やはり予想通りに納得したようだ。

 

「じゃ、こっち、で」

 

 カズキは先程アスティアに似合うと言った方を指差した。少しだけ意外だった自称姉はつい質問を返す。

 

「私とカズキ、同じで良いの?」

 

「うん。アスティア、好き。だから」

 

「そ、そう」

 

 心の中で叫びながら踊るアスティアだが、頑張って表には出さなかった。しかし当然エリにはバレていて楽しそうに笑っている。両頬肉引っ張りのお仕置きは追加されるかもしれない。かなり強めで。

 

「じゃあ決まり。早速進めるわ」

 

 エリに目配せして頼んだ。侍女として長年仕えるエリだから、見事に理解して頷く。

 

「後で依頼しておきますねー」

 

「お願い」

 

 カップを両手で持ち、フーフーと息を吹きかけるカズキは幼く見える。近々正式にアストへと嫁ぎ、将来にはリンディア王国の王妃になる妹だが、今はまだ想像出来ない。

 

「そう言えば、カズキの用は何かしら?」

 

「……アチチ、ん?」

 

 まだ冷めようが足りなかったのか、益々子供っぽい仕草を見せてくれた。少しだけペロと舌を出す本人はきっと気付いていないだろう。

 

 思い切り抱き締めて守りたくなるカズキだから、兄様はもっと大変ね……そんな風にアスティアは思った。

 

「用事。何かあるんでしょう?」

 

「あ、うん、ある、かも、少し、吃驚」

 

「カズキ?」

 

 余り感情が表に出ない方だから、慌てふためく妹に違和感を持った。同時に、愛するカズキを悩ませる何かに怒りを覚えてしまう。

 

「大丈夫よ。私が絶対に助けてあげる」

 

 私はお姉ちゃんなんだから、と。

 

 真正面から視線を合わせ、真剣に言葉を紡いだ。言語不覚が邪魔しようとも必ず伝わるだろう。

 

「う……その、んー、難し」

 

 だが、言語不覚は自身が紡ぎ出す言葉も制限する。カズキを護る為とは知っていても、やはり悔しく思うアスティアだった。だから優しくゆっくりと続きを促す。

 

「気にしないでいいの。カズキが思う事を言葉にして? それともクインを呼ぶ?」

 

 聖女専属の侍女、クイン=アーシケルならば片言の言葉から真意を汲み取るだろう。誰もが認める明晰な頭脳は神代文字や刻印の解読のみに活かされる訳が無いのだ。

 

「……アスティア、だけ」

 

「いいの?」

 

「うん」

 

 コクリと頷くカズキにアスティアの使命感が余計大きくなった。

 

 余談だが、ワクワクと待っていたエリは追い出される事になる。非常に残念そうで、流石の王女も同情したらしい。

 

 

 

 

 

 




最近書くことが上手く出来なくて、かなりゆっくりな感じです。隔日投稿と決めて頑張りますので、あと3話を宜しくお願いします。皆様からの感想とコメントで生まれた話ですので、感謝を込めて……


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妹と姉 〜黒神の聖女 完結編②〜

 

 

 

「アストの、こと」

 

「兄様の?」

 

 アスティアは少しだけ意外に思った。二人の仲は順調で、兄の誠実さや優しさに疑念も無い。白祈の間で行われる予定の神事に向け、凡ゆる準備が進んでいるのだ。専属の侍女であるクインがこの場にいないのも、その神事に深く関わっている事が理由の一つだった。

 

 言葉で表すのが苦手なカズキだが、アストに向かう想いに疑いの余地はないだろう。

 

「喧嘩でもした?」

 

「違う。優しく」

 

「そうよね……兄様はお人好し過ぎるくらいだし」

 

 婚姻前、将来への不安から仲違いする場合があると聞いた事があるが、アスティアの心配は外れたようだ。まあベタ惚れの域を超える兄の恋慕は誰が見ても明らか。ならば一体何だろうと考えるが答えなど見つからない。

 

「うーん、まさか、お酒……とか?」

 

 兄から発せられた禁酒令は解除されて久しい。今のカズキは以前のように酔い潰れることもなく、"酒の聖女"の二つ名は返上間近だったはず。もしかしたら長い間我慢して欲求が限界に達したのだろうか。婚姻を前に考えることも増えていて、精神的な疲れもあるだろう。偶に一口二口くらいは嗜むが、これでは足りないと聖女様はお怒りを溜めているかもしれない。偉大な使徒であろうともカズキはカズキなのだから。

 

 そんな事がツラツラと頭に浮かび、アスティアは両手に顎を乗せ顔を少しだけ傾けた。

 

「違う、いや、少し」

 

「子を授かったら駄目だけれど、もう少しだけ増やす?」

 

 我慢も体に良くないと知っているアスティアが妥協案を出した。きっと酒精の弱い種類はあるだろう。献上されたお酒にもその様なモノがあるはずだ。クインに相談しようかしらと考え始めたとき、様子がおかしいことに気付いた。

 

 具体的に言えば、ほんの少し苛立ち、こちらを軽く睨み付けている。全く怖くない上に寧ろ可愛らしいが、無視する訳にもいかない。身体の成長とは全く逆に、幼さを感じさせる事もあるのが最近のカズキだ。

 

「お酒でもないの?」

 

「ん……アスト、沢山、変」

 

「えっと……例えばどんな?」

 

 意味は何となく分かるが、ピンと来ない。

 

「……」

 

「カズキ?」

 

 何やら赤くなった。

 

「朝、口を、ココ、とかココに」

 

 額や頬に指を当てつつ、囁く様に話した。

 

「あと、グッて背中、が、抱く?」

 

「それから、髪、触れ。あ、耳とか」

 

 一つ一つ丁寧に体を使いながら説明してくるカズキ。言語不覚を自覚しているからか、かなり大きな動きだった。そしてアスティアは益々理解出来なくなった。確かに良く見かけるが、微笑ましいなと和んでいたくらいだ。エリやクインとの話題にもよく上るし、漸く"らしさ"が出て来たみたいと安心していた。

 

 そもそも夫婦や恋人同士ならば当然で、愛する父や母もそうだった。毎朝の口づけ、抱き締めて愛を囁く。仲睦まじい二人を眺めるとき、アスティアはいつも素敵だと思っていたのだ。

 

 そして同時に気付く。

 

 闇色した過去、誰も信じられなかった心の深いキズ、そして癒しの力は自らを助けたりしない。あの刻印の数々はカズキが元々持っていた精神に働き掛けて刻んだのだと、そう黒神ヤトは話したではないか。憎悪、悲哀、痛み……かの神が司るソレは白神と異なる。

 

 憎しみの連鎖、自己欺瞞、利他行動、贄の宴、狂わされた慈愛……全てはカズキが持っていた内面の顕れだ。

 

 恥ずかしそうに俯く妹は、起こっている変化に戸惑っている。でも、()()ならば否定など不要だ。迎え入れ、共に生き、抱き締め続けて欲しい。誰もそれを責めたりしないのだから。

 

 ガタリと椅子から立ち上がり、アスティアはカズキにも促した。不思議そうにしながらも従う可愛い妹は、ほんの少しだけ背が低い。

 

「ジッとしてて」

 

「うん」

 

 サラサラの黒い前髪を優しく掻き分け、アスティアはカズキ額に口づけをした。そのまま頬に何度も。緊張で固まるカズキを感じたが、決してやめたりしない。自身の欲求に任せて妹の身体を思い切り抱き締めた。すっぽりと収まりが良いので抱き心地は最高だ。暫く堪能した後、大好きな髪に指を通して愉しむ。その指先は耳や頬を這い、吃驚顔のカズキは益々驚いているようだ。

 

「フフ……可愛いわ」

 

「アスティア……?」

 

「違うでしょ?」

 

「……お姉ちゃん」

 

「うんうん、ねえカズキ。嫌だったらやめるけど、どう?」

 

「別に、でも」

 

「私は貴女が大切で、心の底から愛しているの」

 

「う、うん?」

 

「言葉だけじゃ届かない。だから、こうしていたら幸せ。カズキは何も感じないかしら?」

 

 フルフルと頭を振り、アスティアの質問と自身の疑問を否定した。

 

「兄様だって同じ。貴女をもっと知りたい、気持ちを伝えたい、大切な人だと分かって欲しい。ほら、普通のことでしょう?」

 

「普通……?」

 

「勿論!」

 

 もう一度抱き締め、カズキが此処に居てくれる事に感謝した。こんな沢山の幸せを運ぶのは正しく聖女だ。この世界に唯一人、何者にも変えられない。

 

「貴女は私の妹で家族なの。いつでもお姉ちゃんを頼ってね」

 

 ありがと……

 

 そう言ったあと、カズキに微笑が浮かんだ。

 

 その余りの美しさと尊さに、姉の腕には更なる力が加わる。

 

「私に任せなさい!」

 

 声が思った以上に大きくなって、両腕の中の妹は再びビクリと身体を震わせた。

 

 

 

 

 ○

 

 ○

 

 ○

 

 

 

「そう言えば、もう少しで()()()()()()()()()になりますねー」

 

 ポロリと曰う。

 

 聖女の間に四人の女性が集まっていた、その合間のことだ。

 

 此処に住う聖女カズキ、リンディア王国の王女アスティア、王室相談役でもあるクイン、そして朝寝坊が得意な侍女のエリだ。

 

 その声を発したエリ本人に他意が無いのは笑うところか。何気ない話題が広がって、周囲の空気を変えてしまう。

 

 アスティアはカチンと固まった。

 

 カズキは「ん?」と不思議そうにしている。

 

「バ、バカなコト言わないで!」

 

 当然にアスティアは分かってていたが、カズキが気付かないから黙っていたのに……

 

 兄であるアストの妃となればアスティアは妹になる。だが、自分は間違いなく姉であり、これからも決して変わらない。少し御転婆だけど、放っておけないカズキだから尚更だ。

 

「ち、違うわよね? ね、カズキ」

 

 滅多に見る事が出来ない笑みをカズキは浮かべている。残念ながら微笑でも、そして花の様に咲く笑顔でもなかった。皮肉めいた色を讃える瞳、クニャと釣り上がる唇……簡単に言うならば、イヤらしくニヤリと笑った訳だ。

 

「ん、お姉、ちゃん、で? あと、お姉、様?」

 

「くっ……」

 

 化粧に始まり、身嗜みや下着だって自分で決められないのに、身長も段々と差が開いているのに、カズキは姉だと言っている。たった今自称を始めた聖女はニヤニヤと笑った。アスティアを見上げながら。

 

「……アスティア様。どちらでも良いとお考え下さい。姉妹である事に変わりはないのですから」

 

 溜息を隠し、クインが口を開いた。その言葉の意味を何とか理解したカズキは益々調子にのる。王室相談役である彼女の言葉は重いのだ。因みに、自身の侍女がそんな役を持つ事を未だ知らないカズキだった。

 

「偉い、ありがと」

 

「うぅ……クインもカズキが姉だと思うの?」

 

 だが、返したのはカズキだ。

 

「当然。ね、クイン」

 

 カズキのその問い掛けに何故か答えない。それどころか話題転換を図るクイン。

 

「カズキ……さあ、続きを」

 

「なん、で、私、見ない」

 

 当然だよね?と訴えかける視線からも逃げる。何かを察したカズキの言葉にもやっぱり答えない様だ。クインにしては珍しく言葉に窮したが、丁度呼び出しが来たので聖女の間を後にする。立ち、いや逃げ去る背中に安堵の色が見えたのは誰の目にも明らかだった。

 

 アスティアにも其れは見えたが指摘はしない。藪蛇にもなるだろう。

 

「……とにかく続けるわ。準備も大詰めなんだし」

 

「ん」

 

 ついさっきまでクインが着替えの補助に入っていた。だが、色々と忙しい彼女が居なくなった以上、カズキ自身で行うしかない。アスティア達はその手伝いに来てくれているのだ。

 

 カズキは胸の下着を外そうと両手を背中に回した。反対に左手を動かし、今度は右手の向きを変える。何度か試すが一向に脱ぐ事が出来ない様だ。

 

「……カズキ?」

 

「……待ち」

 

 一種の矯正下着だから強めに締めてあるのは確かだ。それを置いても下着一枚にここまで苦戦する女性が居るのだろうか? アスティアは呆れているし、エリからもクスクスと笑みが漏れている。暫く無言の時間が過ぎたが、結局のところ何も変化は起きない。

 

「ほら、背中を向けなさい」

 

 可哀想になってきて思わず声を掛ける。ついさっき自称姉を始めたカズキも仕方無く従った。

 

 細い金具を三箇所捻ると簡単に外れる。同時に双丘が晒されたが、カズキは直ぐに両手で隠した。慎ましやかであっても十分な膨らみがあり、その仕草は決して不自然でもない。しかし、それをしたのが聖女ならば別だろう。毎日長い時間を共に過ごすアスティアさえも思わず息を呑んだくらいだ。それ程に希少で、可愛らしかった。

 

 でも、指摘したらきっと恥ずかしいだろうと、アスティアはそっと見守るだけだ。

 

「はぁ……カズキも成長してるんだなぁ。やっぱり愛は女性を変えるんですねぇ」

 

 ところが、空気を読めない、いや読まないエリが言う。それを聞いたカズキの耳が紅くなった事にも気付かない。

 

「エリ……貴女はホントに!」

 

「ヒダダダッ!」

 

 思い切り頬を抓り、おまけにグルリと捻った。

 

「全く……カズキ、気にしないで。何もおかしくなんてないの。さあ、今度はこれを付けてね。少しだけ緩いから苦しくない筈よ」

 

「……うん」

 

 だが、やっぱりモゾモゾと動くだけで装着出来ない。鏡に背を向けてみたりと色々試すが……時間だけが過ぎていった。

 

「確認だけど、毎日どうしてるの?」

 

「クイン、仕事、だって、お任せ」

 

「そう……」

 

 聖女専属の侍女は結局甘やかしているらしい。朝の準備は余程の事でなければ譲らないと聞いていたが、何となく理由も察する事が出来る。多分だが「専属ですので」などと尤もらしく話すのだろう。クインはクインとしてカズキを溺愛しているのは確実だ。

 

「貸してみて。夜になっちゃうわ」

 

「……ん」

 

 ドレスに合わせて下着も新調していて、幾つかの中から試着を繰り返していた。先程のはキツイらしく、苦しいとカズキが溢したのだ。なので次は少し緩めの物を当てている。アスティアの細い指が留め金具を捻り、しっかりと固定された。

 

「はい、おしまい。どう? まだ苦しい?」

 

「……だいじょぶ」

 

「軽く歩いたり、屈んだり、分かる?」

 

「ん」

 

 短く呟くと、下着姿のカズキは聖女の間をゆっくりと歩いた。続いて屈んだり身体を捻ったりする。ズレ落ちる事もなく、違和感もない様だ。

 

「丁度良い感じかしら……ちょっと、エリ?」

 

「本当に綺麗だなぁ。シミひとつ無いし、スベスベ……ほら、慈愛の刻印なんて浮き上がって見えますもん。はぁ、素敵」

 

 サワサワと脇腹や背中を撫でられ、カズキは嫌そうに犯人から離れる。擽ったいし勝手に触るなと聖女様がお怒りだが、当人は全く気にしていないのは流石だ。

 

「エリ……!」

 

「わぁ! 御免なさい! でも触り心地最高ですよ? ほら、此処なんて」

 

 調子に乗って、カズキの太ももまで指を這わした。

 

 なので、聖女と王女は両側から思い切り……頬を捻り上げる。

 

 続く悲鳴。

 

 でも、二人は息ぴったりで力を込め、エリが涙目になっても止めたりしなかった。

 

 姉と妹、妹と姉。

 

 翡翠色の瞳と視線が交差したとき、アスティアは上品に笑う。そしてカズキにも微笑が浮かび、笑顔の花が二輪咲いた。

 

 

 

 

 

 

 

 




次話から少しシリアスな感じです。


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祀白捧詠の儀 〜黒神の聖女 完結編③〜

 

 

 

 

 "祀白奉詠の儀"まで数日。

 

 祀白奉詠の儀(しはくほうえいのぎ)とは、リンディア直系の男子が夫婦(めおと)となる伴侶を神々へ伝え奉る儀式だ。"白祈の間"と同じく幾星霜の刻を越え、連綿と受け継がれて来た。

 

 王国の歴史そのもの。

 

 その様に例えたとしても、過言ではないかもしれない。歴代の王夫妻から新たな血が生まれ、そして育まれたのだから。

 

 そんなリンディアの国王は、政の主でありながら同時に祭司でもある。そして、その王家に嫁ぐと言うことは、神々へ一歩近づく事と同義だ。だからこそ御赦しを賜り、何よりも祝福を受けなければならない。

 

 その為に白祈の間へ赴いて祈りと詠を奉ずる。王家により伝承されて来た"言の葉"は一言一句たりとも変容していない。数百年もの間、魔獣の脅威に晒された暗い時代すら超えて……

 

 だが、今回の儀に関してはある意味で全くの例外となるだろう。

 

 現リンディア王カーディルや王子アストに至っては、祭司である此方こそが神々へ赦しを求める立場だと、強く緊張を高めている程だった。

 

 司る白神達の慈愛と癒し、同時に黒神の強い寵愛を受けている。そう、彼女こそが5階位の刻印を刻まれた"聖女"。黒神ヤトが言葉にした様に、カズキは神々に等しき存在となっている。

 

 つまり、アストは人でありながら、女神を妻に迎える初めての王となるのだ。

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 それは、アストの一言から始まった。

 

 

「ははは、カズキは本当に()()()みたいだな」

 

 

 アストに悪気などなく、寧ろ溢れる愛情を内包した言葉だった。以前より思うこともあったし、アスティア達との会話でも当たり前に話題となっていたのだ。

 

 儚く美しい容姿は聖女の魅力を示すごく一部でしかない。誰よりも優しく、湛える慈愛は眩しいばかり。謙虚で献身的で、封印されていても強い癒しの力を感じる事が出来るだろう。

 

 それでいて何処か"御転婆"で"酒好き"だったりもする。でも、恥じらいは乏しくとも、その愛らしさに翳りなど無いのだ。いや、寧ろ際立つ要因にすらなっているかもしれない。

 

 そんな愛を含んだ言葉達は、言語不覚を持つカズキへと()()()()届いた。

 

「……え?」

 

 笑顔を浮かべる時間そのものは決して長くないが、随分と機会も増えている。そんな微笑が突然(なり)を潜め、何かに気付いた様に固まってしまった。

 

 驚いたのはアストだ。隣に座っていたアスティアも思わずカズキを凝視してしまう。

 

「い、いや、違うんだ。決して悪い意味じゃなく」

 

「そ、そうよ? 兄様は……えっと、何て言えばいいか」

 

 例え話、比喩、照れを含んだ愛情、言葉とは裏腹な心の声。伝えたくてもカズキに理解して貰うのが酷く難しい。1階位とは言え言語不覚は刻印なのだ。黒神ヤトがカズキを護るため刻んだ証は決して脆弱ではない。

 

「男、の子……」

 

 まるで今知ったかの様に驚き、ゆっくりと俯いた。翡翠色の瞳が見えなくなって兄妹は不安に襲われる。垂れた黒髪に隠れたから尚更だ。クインならば上手く伝えて変化があったかもしれない。しかし、有能な専属の侍女は此処にいなかった。

 

「済まない……謝るよ。言葉の、いや配慮が足りなくて」

 

「ううん、違う」

 

 アストの心からの謝罪を聖女は受け取らない。

 

「兄様は悪い意味で言ったんじゃないの。ほら、顔を上げて……」

 

「違う、全部。私、が」

 

 片言の言葉の羅列は哀しさを帯びていて、耳にした二人にも分かる。以前のカズキが自己を否定的に捉えていたからこそ"自己欺瞞"や"贄の宴"を刻む事が出来たのだ。それを知るアストやアスティアが戸惑うのも当然だろう。

 

「ごめん、なさい。少なく、時間」

 

「カズキ?」

 

 掠れた声で呟き、二人を"聖女の間"から追い出す。

 

 そうして一人になった景色を眺めた。映るのは、さっきまで談笑していたテーブル、果物とカップ。温かいミルクに蜂蜜が垂らされ、甘い匂いが鼻をくすぐる。

 

 そして巨大と言ってよいベッドへ小さな身体を投げ出し、枕に顔を埋めれば先程の蜂蜜にも負けない香りが襲う。嗅ぎ慣れた甘さは自分の体臭なのか、今更に違和感を感じてしまった。ごく稀だが、アスティアがカズキの頭に顔を埋め、クンクンと鼻息荒くするのは此れが原因なのかもしれない。

 

 長い時間ずっと考え続けていた。時に丸まり、時に寝返りを打ち、ボンヤリと天井を眺めて。

 

「そう、だ。そうな、のに」

 

 自分の声。耳をくすぐる可愛らしい音色。サラサラの髪やシミひとつ無い肌も、胸の柔らかな膨らみすら全てが怖くなってしまう。まるで生まれたときから()()ように思っていた世界と()。違和感は唐突に襲って来たのだ。

 

 忘れていた?

 

 いや違う。

 

 あの頃の記憶はそのままで、何者であったかも理解していた筈なのに。

 

 5階位の刻印"癒しの力"はカズキが聖女である事を証明している。本人もしっかりと把握しており、同時に遠くにも感じる不思議な感覚だ。「貴女は聖女様」と言われたら困惑するしかないが、しかし否定も出来ない。それは事実なのだから。

 

 でも"木崎(このさき)和希(かずき)"の存在もまた事実。

 

 多くの痛みを受け、同時に沢山の人を傷つけた。

 

 何よりも"男"だったのだ。

 

「言った? 男、だ、って、昔」

 

 自己意識は既に女性だ。身体も()()だから誰も疑う事などないだろう。だけど、精神の変容が刻印の影響なのか分からない。

 

 愛する二人に……皆に真実を伝えていないのだ。

 

 喧嘩に明け暮れ、理不尽な暴力は日常にあった。そんな自分を、過去を全部忘れて過ごす? 全てが偽りかもしれないのに? 本当の姿を誰かに話しただろうか?

 

 そんな疑問が浮かんでは消え、カズキは震える自分を両腕で抱き締めた。今更ながらに、この身体は小さく細いと思う。

 

 アストは心から愛してくれている。

 

 アスティアは姉として優しく包んでくれているのに。

 

 そう、家族として。

 

「話し、ちゃんと」

 

 今更だけれど。

 

 怒られても、悲しくなっても。

 

 もし……嫌われてたとしても。

 

 一人悲壮な決意を秘め、カズキはゆっくりと身体を起こした。何となく重い脚を動かして扉を押し開く。すると不安そうな顔の二人が直ぐ近くに立っているのが分かった。随分と時間が経過した筈なのに、立ち去ることも無かったのだ。

 

 大好きな二人は誰よりも優しくて、人を思い遣る事が出来るのだから当たり前か……そんな風にカズキは内心で呟き、勇気を振り絞った。

 

「カズキ……もう一度話を」

 

 泣きそうな顔のアストは、最近益々距離が縮まって調子に乗り過ぎたのだと考えていた。つい先程、妹に指摘を受けたのもあるだろう。その謝罪の言葉はしかし、カズキの手により抑えられた口から溢せない。

 

「アスト、違う、話、二人にも、みんな」

 

 首を振りカズキは言葉を続けた。それは謝罪を拒否したのでは無く、その必要が無いから首を振ったのだ。だがアストは知る由もない。

 

「みんな……クイン達も、だね?」

 

「うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 "祀白奉詠の儀"の最終確認のため、指名のあったクインや祖父であるコヒンと共に調べ物をしていた。滞りなく進行しなくてはならないが、今は別の課題に取り組む必要があったのだ。

 

 儀式や紡ぐ言の葉などに疑問がある訳では無い。カーディルとアスが同じく行っており、やはり滞りなく終えている。

 

 だが、今回は明らかに以前と違う。

 

 迎え入れる人は"聖女"。神々に近づくどころか、赦しを請うのは王家そのものとなるだろう。王家の持つ覚悟と不安はそのままクイン達に伝わっていた。

 

「ふむ、やはり変えるべき箇所は……」

 

「お爺様、この歩む順序をどう思われますか?」

 

「……おお、確かにそうじゃの。妃となる者を背後に追随させ、瞳を必ず伏せて……確かに不遜かもしれん。せめて隣り合うべきか」

 

「はい。手を合わせ並んで頂くのが良いかと。勿論聖女が視線を伏せる事も不要と思います。黒神ヤトと話した感覚からも間違いありません」

 

 ヤトはカズキを愛おしく思っている。まるで娘を想う父親の様に……それがクインの印象だった。

 

「無論私達が決める事ではありませんが、陛下にお伝えした方が良いかと。如何ですか?」

 

「うむうむ。それで良いじゃろう」

 

 そんな風に話す二人が答えを導き出した時、呼び出しの報せが届いた。アスティアの元から離れたエリが、珍しく神妙な顔をして言葉にしたのだ。どうやらクイン達だけでなく、アスト達やカーディルまでも呼び出しに含まれている。

 

 カズキから話したい事がある、と。

 

 クインはコヒンと視線を交わし、何かを感じた。

 

 儀式まで日は少ない。

 

 もしかしたら神々から神託が降りたのかもしれない。そう考えていつも以上に気を引き締める。黒神ヤトが聖女の元に直接降臨する事は周知の事実なのだから。

 

「直ぐに参ります。エリ、他に何かありますか?」

 

「特に何か指示はないですけど……」

 

「けど?」

 

「えっと、みんな凄く真剣だなって……カズキも何だか怖くて」

 

「……そう、ですか」

 

 そうして、皆が集められた。

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 

 

「コノサキ」

 

 最初の、カズキの言葉は皆に届いた。

 

 カーディル、アスト、アスティア。クインやエリ、コヒンも珍しく椅子に腰掛けている。丸いテーブルだから円状に座り、全員がカズキを見守る様な配置だ。

 

「こ、のさき? クイン、分かるか?」

 

「いえ、聞いた事が無い言葉です。申し訳ありません」

 

「コヒンは?」

 

「神代の言語とも違いますな……ふーむ」

 

「そうか……カズキ、済まないが意味を教えてくれないか?」

 

「意味、違う、名、私、昔、ホントに」

 

 耳を傾けていた皆だったが、やはり分からなかった。浮かぶ疑問の顔色は、カズキに悪くて表に出さない。そのままでは解決に至らないだろう。だが、すぐに次の言葉が届く。

 

「……コノサキ、カズキ。アーシ、ケル? クイン。リンディア、アスト」

 

 一人残らず鳥肌が立った。何を言わんとしていたか理解出来たからだ。

 

「まさか……キミの、名前?、いや、家名か?」

 

「ん」

 

 カズキは過去を語ろうとしている。そして同時に、全員が小さな衝撃を受けてもいた。

 

 黒神ヤトから幼き頃の日々を聞いていた。此処にいる全員が知っており、絶望と苦痛を与えた者に憎悪を覚えもしたのだ。

 

 母に捨てられ、孤児院で辛い体験を重ね、強い憎しみを溜め込んだ。でも、それでも、決して慈愛を失うことは無かった。自らの力は心を癒すことなく、慈しみは他者へ向かう。

 

 この世界を司る神が語った全てを、アスト達が疑うことなど有り得ないだろう。ましてや刻まれた刻印は真実を照らしていたのだ。世界を渡った後、呪いに近しい加護すら振り切って聖女へと至った。

 

 分かっているよと伝えたい。

 

 辛い過去を、忘れたい筈の日々を語らなくても良いのだと。だが同時に気付いてしまった。

 

 此れが初めての事だ。()()()()()()()()()()()()()

 

 アスティアでさえジッと耳を傾けている。クインは一度止めようと腰を浮かしたが、結局は元の姿勢に戻った。

 

「カズキ……」

 

 

「私、違う、人」

「ホント、変わる、全部」

「嫌い、全部」

「消えたい、昔、思う、沢山」

「世界、違う、私、場所、違う」

 

 

 全て否定的な響きだ。単語の羅列はヤトが伝えたカズキの人生をそのまま表している。

 

「遠い、沢山、遠くから、来た、私は」

 

 カーディルすらも唇を噛み締め、溢れ出る感情を押さえ込んでいた。エリは悲しそうに俯く事しか出来ない。

 

「カズキ、もう……」

 

 思わず止めようとしたアストに、カズキはしっかりと視線を合わせて言葉を紡いだ。強く、明確な意思を乗せて。

 

「皆、好き、家族。だから、話す、聞いて、欲しい」

 

 お願い、と……

 

 

 

 

 

 

 

 過去と現在。

 

 自己の変容と欺瞞。

 

 隔てられた世界。

 

 闇色の憎悪や冬の雨より冷たい悲哀、そして深く刻まれた痛みも。

 

 カズキは三度向き合って、本当の自分と溶け合うのだろう。

 

 きっとそれは必要な事。

 

 真の意味で"幸福"を迎え入れる為に、ヤトが予言した通りに。

 

 

 

 

 

 



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溶け合う二人 〜黒神の聖女 完結編④〜

これでラストです。


 

 

 

 

 魔獣の猛威に晒されていたあの頃、所謂"外交"はリンディアを含む各国で途絶えていた。森の拡がりを止める事も叶わず、領地は分断され、街道や国境すらも消えかかろうとしていたからだ。

 

 滅びは目の前に横たわり、絶望は誰の胸にも巣食っていただろう。

 

 しかし今、聖女に依る救済は成った。

 

 全ては元のカタチに戻ろうとしているのだ。それはリンディア王国も例外ではない。

 

 王城内の円テーブルが配置されたこの場所は、他国との会談や交渉に利用される。かなり巨大な木製のテーブルで、詰めれば十名ほど並ぶことが出来るだろう。"合議の間" と呼ばれており、密室性や遮音性も非常に高い。その為、城内にありながらも、ある種独立した離れと言って良い作りとなっている訳だ。

 

 そんな合議の間に、リンディアの面々が集っている。

 

 聖女の真向かいにはカーディルが座し、少し離れた席にクインとエリも居る。コヒンは王を補佐する宰相として、直ぐ近くに腰を下ろしているようだ。アストとアスティアの兄妹はカズキの両隣で、真剣な顔色を隠していない。紡がれる片言の言葉を聞き逃すことのないよう集中しているからだ。

 

 一生懸命に伝えようとするカズキを見て、皆は改めて思い当たっていた。異世界での半生を黒神ヤトから聞いたこと、それ自体を彼女は知らないのだと。寵愛する黒神とは言え、他者から語られていたなど……使徒である聖女であっても当然だ。

 

 ヤトが降臨した夜。カズキは魂魄を削り、死の淵に立っていた。意識など無く、覚めない眠りに囚われていたのだ。まるで全部を分かった気でいたが、聖女自身が自らを語るなど無かったのだから。

 

 

 全く異なる場所、所謂"異世界"から此処に訪れたこと。

 

 小さな頃に母親に捨てられ全てを諦めてしまったこと。

 

 預けられた孤児院で体罰を受け続け、憎悪を膨らませた日々。

 

 それでも……子供達の為になるならと自らを捨てた。

 

 ありふれた家族の姿は幻影でしかなく……求めたのは温かな愛情と穏やかな日々、それだけ。ずっと後、世界を渡ってから気付いた事だ。

 

 

 ヤトの言葉を補完する様にカズキは語り続ける。

 

 訥々と話す姿は小さくて、まるで泣いている子供の様だった。

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 幼き頃の詳細や成長した後の日々は、ヤトが話さなかった内容も含まれていた。喧嘩にも慣れ、酒を覚えたのもその頃らしい。何処か少年を思わせる精神や、御転婆が培われたのも理解出来る。それに、辛い日々から逃げ出すため酒に溺れたのならば、あれ程の嵌りようだって仕方無いのかもしれない。

 

 異世界に連れ去られる前、ヤトを殴り飛ばしたと聞いた時は、流石のリンディアの面々も慄いていたが。知らなかったとは言え、相手は憎悪や悲哀、そして痛みを司る神だ。

 

 片言でも、何とか伝わっている。

 

 アスティアはカズキの過去が見えて来て、不謹慎と思いつつ嬉しかった。エリは悲しそうな表情だ。クインや宰相のコヒンは例外で、異なる世界の日々に興味を隠せていない。アストは全く動かず、ただカズキを見詰めていた。

 

 すると、言葉が止まった。

 

「私は……」

 

 そう言ったあと、俯いたのだ。

 

「カズキ、どうした?」

 

 カーディルが問うと不安そうに顔を上げる。何か言い辛いのだろう。それを受け、アストが続けた。

 

「私達も、少しずつ分かり合えば」

 

「……駄目、今、アストと二人、直ぐ」

 

 自分の名が出たことで止められない。恐らく結婚に纏わる大切な話なのだろうとアストは思った。皆も同様で、視線を合わせて頷く。

 

「私は、女、今」

 

 再び皆が視線を合わせるが、そこには疑問符が浮かんでいる。当たり前だし、アスティア達やクインに至っては何度も裸に剥いて着替えさせたからだ。シミひとつ無い肌や刻まれた刻印、慎ましやかながらも美しき身体も。ましてや女性だけに訪れる"加護争宴"をカズキは迎えている。

 

「でも……」

 

 やはり言葉に詰まった。だからアストは分かった気がしたのだ。ならば謝らなければ……そしてもう一度伝えようと口を開く。キミは何も悪くない、そんなカズキを心から愛していると。言語不覚を持つ女性(ひと)であると認識が足りなかったのだ。

 

「カズキ。やっぱり先程の言葉の所為だね。本当に済まない……私はキミを心から」

 

「……分かって、る。ありがと。でも、聞いて」

 

 翡翠色が真っ直ぐにアストを射抜く。

 

「あ、ああ」

 

 はっきりと分かる強い決意を瞳に乗せ、カズキは言葉を紡いだ。

 

「私、ううん……男、男で」

 

「男……?」

 

「そう、昔、男、大きく……」

 

 決意の色は少しずつ曇り、そして滲んでいく。まるで雨がポツリと地面に落ちるようにテーブルへ滴り、ヤトの司る悲哀を強く感じて皆の心が揺れた。

 

「まさか……」

 

 クインが呟いた。そしてアストに視線を合わせて小さく頷き、同時に心から願う。どうかカズキを救って欲しい、と。

 

「ずっと前、男。黙った、ごめん、な、さい」

 

 何かに気付いたのかアスティアは両手で顔を覆い、嗚咽が溢れないように耐えている。エリはそんな王女の背中を摩り、目頭に溜まる涙を自覚していた。カーディルやコヒンはただ黙ったまま、アストを厳しく見詰めている。

 

 だから、いや、自分の意思でアストは立ち上がった。涙に濡れた翡翠色にしっかりと視線を合わせ、同じく立ち上がるようカズキにも促す。逆らう気力も無いのだろう、素直に従った。

 

「カズキ。私を見るんだ」

 

「……うん」

 

 まるで叱られる子供の様に怯えている……アストはそう感じている。

 

「辛いだろうに……キミの過去を私達に語ってくれた。だから」

 

「辛い、ない。全部、嘘、で」

 

「じゃあ、私達は家族じゃないのか?」

 

「違う」

 

「アスティアは?」

 

「……お姉ちゃん」

 

「私の事が嫌いなら、そう言ってくれ」

 

「違う! でも、私は、おと……んむぅ⁉︎」

 

 アストにより無理矢理塞がれたせいで、カズキはそれ以上言葉を紡ぐ事が出来なくなった。今までは軽いものが全てで、乱暴に奪う様な口吻(キス)は此れが初めてだ。背中と腰は強く抱き締められ、逃げ出すなど絶対に無理だろう。周りに人が居て酷く恥ずかしい筈なのに、そんな全ての感情すらも溶けていく。

 

「……んはっ。ア、アスト……皆が、んん」

 

 再び塞がれたから呼吸すら儘ならない。でも、少し苦しくても、嫌じゃないとカズキは知ってしまった。

 

 どれだけの間そうしていたのか、もう全部が分からなくなったころ、漸くアストが離れる。

 

「全てを。過去も今も、私は全てのキミを愛している。どうかこの想いを否定しないでくれ。お願いだ」

 

 ボンヤリする意識のまま、カズキはコクリと頷いた。それは無意識の発露だったが、否定など不可能だ。紛れもない本心だから。

 

 トロトロと溶けていく。

 

 強張る身体も、心の緊張も、渦巻いていた不安も。そして……和希とカズキも、二人が一人へと溶けて混じり合うのを感じた。

 

 少しずつ晴れていく意識に愛する人の声が響く。

 

「ふぅ、良かったよ。お願いを聞き入れてくれるまで、何度でも()()()と思っていたから」

 

「え、えぇ……?」

 

 何だかいつもの優しいアストじゃない……カズキは内心で呟いた。

 

「コホン……あー、二人とも」

 

 カーディルの咳払いと声が聞こえて我に帰る。そして経験した事のない羞恥心が黒神の聖女を襲った。

 

「あ、え、私、ちが、う」

 

「父上。祀白捧詠の儀、急ぎましょう」

 

「お、おお。そうだな、うむ」

 

 真っ赤になりアタフタするカズキに対し、アストは平然としている。寧ろカーディルの方が平静を無理矢理保っているようだ。アスティアとエリはニヤニヤ顔を隠さず、先程の泣き顔など幻だったと誰もが思うだろう。普段冷静なクインですら幸せそうな笑みが浮かんでいる。コヒンはピタピタと禿げ上がった頭を叩いていた。

 

「ア、アスト、ね、これ」

 

 細い腰に巻き付いたアストの腕は、カズキの力では外れそうにない。何より恥ずかしい。

 

「ん? まだ足りないか?」

 

 クイと上げられた顎と視線が上を向き、何やら分からない震えが全身を走る。だから、言語不覚が邪魔しようとも抗うしかなかった。もっと真っ赤になりながら。

 

「ダ、ダメ‼︎ アストが……」

 

 残念な事に、いや幸せな事に、その叫びも途中で消えたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昔に男だった事を曝け出しても、包み込んでくれたアストに感謝していた。アスティアや他の皆も変わらず接してくれる。こんな幸せが、ヤトの言った救いは在ったのだと、カズキは噛み締めることが出来たのだ。

 

 言語不覚の扱いは難しいが、頑張って伝えた甲斐があると自信を深めたりもしている。

 

 しかし……

 

 事実は違った。

 

 カズキが言語不覚の刻印を刻まれている以上、紡がれる言葉通りに受け取ることは難しい。綺麗な咽喉元に刻まれた鎖は、誰の目にもはっきりと映るのだから。クインは言葉の()を読み、カズキの過去を想像した。

 

 世界から隔絶したかの様な美貌は、幼き頃から片鱗を見せていただろう。母親に捨てられ預けられた孤児院でも、きっと光を奥底に秘めた原石に見えた筈だ。ましてや、慈愛と癒しは元々持っていた。

 

 カズキは何度も"男"と言葉にしたのだ。

 

 きっと話したくもない辛い経験をした筈……幼少期ならば尚更だ。自らの身を守る為に"男らしく"振る舞い、もしかしたら私は"男"だと言い聞かせていたのかもしれない。寧ろその方が自然と思える。

 

 クインのそんな想像はそのまま伝わり、王子は決意し、王女達は涙を浮かべた。

 

 アストの行為は危険な賭けだったかもしれない。しかし、カズキは此れから幸せが訪れる女性なのだと自覚させる良いキッカケになった筈。あの紅く染まった頬と、隠せない微笑が証明してくれている。

 

「本当に、良かった……」

 

 儀式に向けて袖を捲り、クインは呟いた。

 

 カズキの想いは僅かにすれ違っていたが、きっとそれが正しいだろう。黒神ヤトは最後まで聖女の昔の姿を伝えなかった。

 

 全てを悟り、あの言葉達を残したのだ。

 

 

 カズキ。

 

 本当は自分の心の中を分かっている筈。

 

 もっと優しくされたい。

 

 愛されたい。

 

 誰かに抱き締められて、もう大丈夫だよと言って欲しい。

 

 

 キミの、救いの道へ繋がっているかもしれない、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 

 

 

 ほんの少しだけ騒がしい。

 

 普段なら静謐に包まれ、荘厳な空気さえ漂う空間。それなのに、幾人かの人々が集い、今か今かと時を待っている。

 

 白祈の間の前に横たわる広間……実際には奥行きのある、廊下だと言い辛い場所。以前には公国になる前のファウストナ海王国女王とカーディルが会談したほどだ。それだけの広さである以上、初めて訪れる者は絶対に広間と勘違いするだろう。

 

「いよいよですね、陛下」

 

 赤髪を丁寧に括り、背中に垂らした女性がカーディルと会話している。もしかしたら誰よりも黒神の聖女を敬う人かもしれない。

 

「うむ。色々とあったが、ラエティティにも感謝しているぞ」

 

「まあ! わたくしは何もしておりませんわ。カズキ様、そして王子殿下御二方の愛が育んだのですから」

 

 謙遜などではなく、本心からの言葉だ。

 

「いや、お前達がリンディアに来たことで変化が促されたのだ。あの頃のカズキはまだ幼く、アストも自覚が足りなかったからな。ヴァツラフには辛い役割となったが……」

 

 ラエティティの隣に立っていたヴァツラフは、軽く首を振り優しい響きで返す。以前は短く刈っていた髪も少し伸ばしているのか、母である大公と似た赤髪が目に眩しい。

 

「カーディル陛下。私は今も後悔などありません。確かに聖女カズキとも知らず恋慕があった事も否定はしませんが……しかし、今は心から御二人の門出を祝っております」

 

「そうか。ではせめて、感謝を受け取ってくれ」

 

「はっ。有り難く」

 

 恭しくヴァツラフが頭を下げたとき、騒がしかった広間にシンと静寂が訪れた。廊下の先、薄い青色のドレスを纏ったアスティアが静々と歩んで来たからだ。その美しい銀髪も相まって注目を集めるのも当然だろう。しかし、この時だけはリンディア唯一の王女であろうとも脇役に甘んじるしかない。誘導役のアスティアの後ろ、真っ白な衣装に包まれた男女が続いているのだから。

 

 ゆっくりと歩む二人。

 

 長いドレスの裾を捌くクインとエリが追随している。

 

 ベールに包まれていても翡翠色に翳りはない。幸せそうに、不安そうに、腕を預けるアストを見るのだから。そのアストも笑顔を浮かべ、カズキを気遣いながら歩みを進める。

 

「あ、ケーヒル、来た?」

 

「ええ、この様な光栄はありませんからな。カズキ様には最大限の感謝を送らせて頂きます」

 

「様、やめて」

 

「ん? おお、参りましたな、これは」

 

 最初は畏れ多いと辞退したケーヒルだったが、カズキ本人から招待されては断る事も出来なかったようだ。参列者の一人としてゆっくりと通り過ぎるカズキ達を見守る。どんな光よりも眩しいと目を細め、髭は揺れていた。

 

「カズキ、彼にも声を」

 

「うん」

 

 アストに言われ、勿論とカズキは返す。

 

 ケーヒルに隠れる様に立ち、頭も下げている。しかし見間違えようがないだろう。

 

「ね、顔、見せて」

 

「……はっ」

 

 隊商マファルダストの隊長、いや本人は未だに副隊長だと言い張るフェイが顔を上げた。ケーヒルにも負けないほどに万感の想いが透けて見える様だ。カズキの黒髪を彩るティアラ。だが、目に飛び込んで来たのは"銀月と星"の髪飾りだった。ティアラと比べたら、ずっと大人しく控えめな輝き……それなのに、何よりも聖女を引き立てる。

 

「それは……」

 

 続いて目に入って来たのはカズキの胸元だ。決して邪な欲からではない。ある意味で見慣れた、そして懐かしい二色が見えた。聞いた話では、ヴァツラフとのリンスフィア散策で手に入れたらしい。髪飾りよりも更に安価だろうブローチなのに、フェイの胸に去来したのは強い郷愁と後悔だった。カズキには珍しい装飾の強いネックレスも目に付くが、やはり目を奪われたのはそんなブローチだった。

 

 そのブローチに佇む横顔の女性は真紅の髪を靡かせ、黄金色の瞳に強い安らぎを覚えるだろう。今やリンディアの誰もが知るその女性は、フェイにとって妹であり、娘であり、何よりも守りたかった人だ。

 

「姐さんの……」

 

「ん。ロザリー、お母さん、一緒、ずっと」

 

 聖女の唇から"ロザリー"と溢れたとき、何故か救われ、そして癒された気がしたのだ。目の前の人は癒しと慈愛を司る聖女なのだから当たり前か……フェイは聞こえないよう呟き、小さく頷いた。浮かぶ微笑には母と出会えた喜び、そして消えない悲哀。それでも、やはり美しかった。

 

 エスコート役のアスティアも気を利かせ、少ないながらも参列した者との時間を取っているようだ。会話が一区切りすると再び静々と進む。

 

 白祈の間の閉じられた大扉が見えて来た。両隣には騎士達が整然と並び、直立不動の姿勢を崩さない。両手には高く掲げる剣。当然だが刃を潰した儀礼用のものだ。一糸乱れぬ彼等の祝福の気持ちに疑いはないだろう。

 

「騎士ノルデ」

 

「はっ」

 

 アスティアの指示は伝わり、そばに控えていたノルデが大扉の前に立つ。そして扉をゆっくりと力強く押し開き、スッとその場を離れた。その向こうには真っ白な壁と床、抜ける青い空。リンディア城の最も高い位置にある白祈の間は、外に迫り出す様に設けられている。その為、広く感じる空間と空が見えるのだ。中央あたりには一段高い祭壇と、並ぶ祭器達。

 

「ノルデ、ありがと」

 

「カズキ様。これ以上の光栄な役割など御座いません。この時を皆が、王国民が、いえ全ての者達が祝福しているでしょう。何より神々も……アスト殿下」

 

「ああ、ありがとう。此れからも宜しく頼む」

 

「はい!」

 

 因みに、ノルデは矢継ぎ早に言葉を紡ぐため、カズキへ上手く伝わらない。先程の言葉達も残念ながら半分程度だ。顔色に疑問符を浮かべないだけ、聖女は大人になったのかもしれない。

 

 

 

「カズキ」

 

「アスト」

 

「行こう」

 

「うん」

 

 

 

 リンディア王家しか入る事を許されない空間へ。

 

 

 一歩、また一歩、と。

 

 

 皆が見詰める二人の背中は寄り添い、そして白祈の間に包まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰も気付くことのない片隅ーーーー

 

 ただ静かに聖女を見守っていた。

 

 カズキが本当の意味で救われたのか、他の誰も分からない。

 

 けれど、あの翡翠色が眩く輝いたとき、見守る者……黒神ヤトも微笑みを浮かべ、そして空へと溶けて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




和希とカズキ、アスト、そして。それぞれが溶け合う話でした。タイトルにそんな意味を込め、この物語は完結とします。此処まで読んで頂いた皆様、本当にありがとうございました。
感想や評価など貰えたら凄く嬉しいです。それでは、また何処かで。


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