短針が動くとき (月見肉団子)
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短針が動くとき
朝日に輝く硝子片。濃い緑と、ひび割れたコンクリート。鳥の声。
四車線の横断歩道を辿ってみる。痛い位に静かな場所。
ここはかつて都心、だったもの。
空気が抜ける様な奇妙な音と、外部音声が耳に届く。重たい生命維持装置を背負いながら、誰もいないビル街を歩いていた。
コツコツと歩いてみれば、苔むした信号機と、サビにまみれた児童注意の看板。
もう、ここらの小学校は全て廃校なのに、それでも彼らはひたすらに子供たちを守ろうとする。もう、ここは大丈夫だよ、なんて声を掛けてみても、彼らは動くことはない。そう思う。
役割をとうに終えた汚れまみれの労働者たち。彼らは誇らしげに今も子供たちを守り続ける。
道路にはたくさんの忘れ物がある。誰かの靴。アクセサリー、そして、乗り捨てられた車。
その一つを覗き込んでみれば、ボロボロになったシート。そこには置き忘れであろう携帯端末が、むすっとした顔で持ち主を待っていた。
数十年前の端末は当時流行ったモデルで、いまだに新作を望むユーザーも多い。
それ故に尚の事、ここに置いて来てしまった時間たちを実感してしまう。
きっとこの端末はロックが掛かっている。仮に電源がついたとしても、持ち主にしか動かせない。また待ってもらうしかない。きっと帰ることのない持ち主を。
歩く。歩く。
もぬけの殻になったコンビニへと入る。泥棒が入った後の様で、外側から硝子が割れていた。
壊されたレジスター。こじ開けられている事務所の扉。荒らされた配線の痕。それらを眺めながら、何も残ってないコンビニを物色する。
当時、もう物の安定供給なんてものは無くなって、食べ物すらも来たものを売っているような状態の場所が殆どであった。それ故に現品限り、なんて手書きされたPOPも多く残されていて、当時のせわしなさを思い出させてくれる。
忘れられたように残る物。セルフサービス用の紙コップを一つ失敬する。
埃が積もってよれよれになったコップを持って、落書きの酷いマシンの前に立つと、当時の美味しくも不味くもないコーヒーの味を思い出す。
あの頃は、なんて高齢者の決まり文句ではあるけれど、それでも言いたくもなる。
──あの頃は、よかった。
随分と歳を取ってしまった。そう実感する。
コーヒーカップを置いていく。ここの物は持ち出せない決まりになっている。
コンビニを出るとき、せわしないながらもどこか充実している声を幻視する。
「ありがとうございました」
そう言われた気がした。
鳥の声、虫の歩み。この防護服は蚊とかは気にならないけれど、それでもたまに止まる羽虫は気になってしまう。そんな虫を払い目的地へと向かっていく。
かつて整備された道はボコボコになっていて、ひび割れた箇所からは植物が顔を覗かせる。
もう、ここを車で走る事は無理だろうな、と、ひっきりなしに車が通っていた時の事を偲ぶ。
この都市は閉鎖になります。そう告げた国の人は悔しそうにしながらも、どこか安堵していた事を思い出す。
色々と限界を迎えていた当時。それらの批判を受けながらも最後まで職務を全うしたのは、今思えばすごい事だったのかもしれない。
ともかくとして、その言葉が起爆剤になり、この道路は県外へ、国外へ行こうとする人たちで溢れかえった。
もうどこにも逃げ場なんてない、と心のどこかで分かっていながらも、何かにすがりたい。そんな心持ちだったのだろう。
そんな溢れかえっていた時間もいずれは終わって、そして誰もいなくなった。
どこかへ行こうとしていた人たちは、ここに帰れる、とか思っていたりしたのだろうか。
当時のけたたましく鳴るクラクションの大合唱が耳に残っている。今はそれだけだ。
途中、駅を見つけた。地下駅もあったが残念ながら浸水が酷く、とても入れるような状態でなかった為に、実質ここが初めての駅となる。
時間が止まってしまった時刻表。一個だけ無くなった無機質なベンチ。自動販売機は壊され、中身が抜かれていた。券売機には埃が積もっていて、発売中止。と黄色いプレートがすすけて変色していた。
駅中の販売店はシャッターを破られたのか、何もない中身が覗く。乗降客の無くなったホームに腰掛ける。電車を待つ人たちは、もう何処かへと消えてしまった。
未知のウイルスが発見されたのはずっと前。それからというものの、白いテーブルクロスにコーヒーをこぼしたみたいに、世界は瞬く間に変わっていった。
いや、元より歪んでいて、テーブルクロスをどけた時に目に見えてしまっただけかもしれない。
ともかくとして、世界は様変わりを果たし、日常はじくじくと血が滲み出るように変わっていった。
毎日電車で見る名も知らぬ人を見かけなくなり、いつも満員電車だった時間帯に座れるようになり。そしてついにはこうなってしまっていた。
物思いにふけっていると、時間はすぐに過ぎてしまう。もうお日様は高い位置。そろそろ行かないといけない。
座っていたベンチから立つと、不意に風が強く吹いた。ホームを駆け抜けていったそれは忙しさを孕んでいて、無機質なアナウンスと共に、ぎゅうぎゅうに人が詰まった特急が通過した。そんな気がした。
「第一高等学校」そう書かれた校門に辿り着く。随分とかかってしまったけれど、ここが今回のゴール。
野生化した並木の中でも桜は咲き誇っており、通学路には色鮮やかな緑と桜色の絨毯。
赤さびた校門をくぐって、向かうのは体育館。
中へ入ると、建物の歪みに耐えられなくった硝子が砕けていて、二階へと上がる階段はボロボロになっていた。そこに日が差し込んでは、広い空間を穏やかに照らす。それはどこか宗教画のようでもあった。
随分と老朽化したようにも見えるこの場所で、自分たちは笑い、そして限りある時間を過ごしていた。
用具庫を覗くと、埃臭さが防護服を貫通してきそうな程に懐かしい感触。倉庫の隅にはくたびれきったボールが転がっていた。懐かしさに思わず手が伸びる。
空気が抜けたバスケットボールを抱えて、比較的綺麗なリングへと放り込む。
外した。にぶい音を立ててリングは弾き返す。ボールは弾力を失っていてべしゃり、と音を立て、力なく転がった。
リングが揺れる音が反響して体育館を駆け抜けた、力ないながらも、それは当時を思い返すようなこの場所のやりとりで、どこかボールもリングも嬉しそうに自分を迎えてくれた。
それが何よりも嬉しかった。
「卒業おめでとう 2036年卒業一同 with 第一高」
そう書いてあったのは黒板。教室を見ると寂しそうに佇む机が六つ。机の上の落書きも、染みも当時のままだ。
この学校は、あなた達をもって閉校となります。そう自分たちに告げたのは50越えのベテラン教師、学年問わずに人気のあった先生。確か学年主任だったかと思う。
彼は禿げあがった頭を撫でながら、その事を伝えた。きっとなんと伝えるのか悩んだのだろう。眼鏡の奥の目は落ちくぼんでいて、クマが透けていた。
僕たちもそれを何となく察していて、特に騒ぐことなくその決定を聞いていたのを覚えている。
その卒業式の日。学校が終わる日。その日に自分たちはあることをしたのだ。
自分の座っていた椅子に座ろうとするも、防護服が邪魔して上手く座れない。あの頃ガタガタと遊んでいた椅子もずいぶんと小さくなったものだ。
日が落ちかけては、長い影を教室に落とす。僕と机、影が二つ。
まるでここだけは当時のままだと、自慢気に黒板は胸を張っていて、立ち尽くしてしまう。
ずいぶんと居たのだろうか、それともここの魔力だろうか。穏やかに揺れる時間に、確かに僕は学友の騒ぎ声を聞いた。そんな気がする。
「起立、礼」
誰かがいた教室。自分がいた教室。そこに別れを告げる。分厚い手袋も、宇宙服みたいなヘルメットもこの瞬間だけは忘れた。
下駄箱を通り抜け、目指したのはこの学校で一番の桜の木。そこには自分たちが置いてきたものが埋められていた。
「なぁ、タイムカプセルを作らないか?」
「いいなー」
「なんて書くよ?」
「そもそも堀りにこれるのか?」
「それでも来たいけどなー」
「あ、決まったかも」
ワイワイと、自分の隣を影が走り抜けていく。
まっすぐに、そして、迷いなく。再びの出会いを確信して、ひたすらに走っていた。
その長い影を追いかけるように、ふらふらと木の下へと歩いていく。
なんと、書いていたんだっけかな。
カツン、と何かがスコップに当たる。掘り出したのは土まみれの古びた缶。
タイムカプセルの名前に恥じぬように、当時の空気と一緒にその缶はずっと自分を待っていた。
「おかえりなさい」
蓋を開けると、そこにあったのは大きく描かれた一言。
ずっと、止まった時の中で、その一言だけは輝いていた。
そこに、自分が、自分たちがいたことの証。
ぽたり、と雫が落ちる。
どこか他人事のように現状を観察していた自分と、ひたすらに歩き続けた自分が重なっていく。
涙は止まることを知らずに、目の端から溢れていく。
「あぁ、戻ってきたよ………ちゃんと戻ってきたんだ」
もう、見ることはないだろうと諦めていた。もう、来ることなんて出来ないだろうと押し殺していた。
それでもなお、自分はここに来て泣いている。それでよかった。それだけでよかった。
ひとしきり泣いたあと、地面に埋め直しては学校を発つ。もう帰投時間を過ぎかけている。
それでも、名残惜しく学校を眺めると、昨日と今日が混じりあう空に桜が舞う。
「卒業おめでとう」
確かにそう言っていた。
誰もいない都市を足早に歩いていく。
口ずさむのは、仰げば尊し。我ながら古臭いとは思う。
けれど、この場所にはふさわしい気がする。
また戻ってこれる。そう確信出来たのだから。
「今こそ、わかーれめ」
──いざ、さらば。
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