いま思えば、あの時が初めてだったのかと。
華扇はふと、立ち還る記憶の中に懐かしき感情を覚えた。
鈍色に霞む遠い記憶、いつ頃だったのかもイマイチ思い出せないほど遠い昔。
最早過ぎたモノ、永劫手に入らぬモノ。
童心を失った事に気付いた時のような、切ない喪失感。胸の奥が微かに疼く。
大切に頭の奥へ仕舞い込んでしまい、記憶の中に埋没していたのか。それとも所詮は取るに足らない出来事に過ぎなかったのか。
なんにせよ、とても残念な事だと思う。
暗雲と輝きの狭間にあった僅かな時間が、華扇の枯れ果てた臓を潤してくれたことは間違いない。故にもどかしく、焦れったかった。
かつて、ひとりの人間に焦がれていた。
一方的な想いではあったものの、その心に偽りなどなかった。
姿を知らぬ、素性を知らぬ。
思想を知らなければ、性別も知らぬ。
華扇が知っているのは、かの者の声音だけ。
衰微する
かの者が詠んだ漢詩を誦したところ、華扇は
本当なら語り掛けるのは良くなかった。手を叩くなりして今の想いを伝える事ができれば良かったのだが、華扇には片腕が無い。当時、喪ったばかりであった。故に溢れんばかりの歎美を示すために、華扇は自らの声で讃美を贈ったのだ。
それからというもの、荒廃した大門の下、宵闇の包み込むあの奇怪な時間は、二人の独壇場となった。互いに心を寄せ合うような詩を上の句、下の句と詠み、その度に華扇は嘆美な詩を褒めそやす。
かの者から薫陶を受ける事もままあり、人間──かの者へ少しでも近付きたいと、いつからか願うようになっていた。
ひと時の潤いは華扇に光を与えてくれた。屈辱や憎しみよりも、喜びと安らぎを感じていた。
同時に、自らの正体が露見する事についての不安や恐怖も……。
一抹の陰りが、華扇の心に深く根を張っていた。
ある日、かの者は言った。
貴女に逢いたいと。
陰りが膨張する。
受け入れてもらえるはずがなかった。華扇の身は常人のものではない。人間にとっての大敵そのものであった。
故に、断り続けるしかない。
だが門を挟んでの詩詠みでは、これ以上は望めまい。この時点で華扇の儚き想いなど、終わっていたようなものだ。
これが二人の限界だった。
いつの日からか詩詠もそっちのけになり、逢いたいと繰り返すばかり。華扇にはそれが苦痛で仕方なかった。
自らの心の在り方を決めなければならない。
かの者との関係を断ち切るのか、それとも……己の埋め合わせの十欲に従うのか。
華扇は意を決して、大門の先へ呼び掛けた。
最期に、名を──と。
「よしか」
かの者はなんとなしに、そう答えた。
数瞬の沈黙の後、遠ざかる足音が聞こえた。
数年後、かの者が姿を消したと、民草の流れ話に聞いた。曰く「流行り病に冒され、呆気なく逝った」とも「妖に魅入られてしまった」とも。だがある人は「山の中でかつてと変わらぬ『よしか』を見た」とも言った。
その真相を華扇は知っていた。
だが、思い出す気にもならなかった。所詮はその程度だった。
確かなのは『よしか』が天寿を全うできずに、命尽き果てた事。そして自らの想いを、自らの手で断ち切った事だけ。
「また会いましょう。さようなら」
果たしてどちらが発したものだったか、記憶も朧げで思い出せないが、二人の今生の別れはこの言葉で締め括られた。
約束と呼ぶには弱過ぎる。
なにより、それを違えたのは華扇自身の過ちであり、罪である。
大悪党、茨木華扇は未だ健在。
揺蕩う心に、かつての想いを馳せた。
都良香らぜうもんを過て一句を吟じて曰く、「気霽風梳新柳髪」と。
その時鬼神一句をつぎていはく、「氷消波洗旧苔鬚」と。
後、渡辺綱がために腕をきられ、からきめ見たるもこの鬼神にや。
鳥山石燕 『百鬼夜行拾遺 雨』(妖怪画集)
『十訓抄』
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2話
霍青娥は欲深い仙人である。自らの欲求には常に正直であり、目的の為なら外道の術を行使することも厭わない。その名は中華全土に知れ渡り、事件ある所にあの魔性ありと言わしめるほどだった。
天下の知る人であった青娥であるが、その半生は孤独である。深い繋がりを持とうとせず、山の中に隠れて暮らしてきた。邪仙である彼女がまるで仙人の模範解答のような生活を送ったのには、其れ相応の訳がある。
簡単な話、そこら俗物に興味がないのだ。
強い者が好きだった。故にその者に取り入り、自分の存在を英傑の人生に刻み込むのが何よりの快楽であったのだ。
中華に飽きを感じ、極東の島へと渡り、大器たるモノを兼ね備えた皇子に道教を伝授したのもそう。青娥は何時だって強い者の味方だった。
少し時が経ち、またひとり青娥のお目にかかった者がいた。漢詩人として都に名を馳せるかの者は、強烈な魅力を持っていた。
人ひとり程度なら軽々と持ち上げるほどの剛力、口に入る物なら何でも食べてしまうほど豪胆。それでいて思慮深く、人を見る目に優れていた。
そして、その嘆美な詩は妖の心さえも崩すと謳われ、人々は
青娥が興味を抱かないはずがなかった。蓮も咲かない泥沼のような欲望が彼女の心を埋め尽くした。心酔してしまった。
あの手この手を使い、青娥は『よしか』の気を引こうとした。不思議な術に、大陸の調度品、そして不老不死と。
しかしかの者はそれらを一笑に伏し、優れた話術の前には子供のように軽くあしらわれてしまう。
聖徳王ですら籠絡せしめた己の駆け引きが全く通用しない事に、青娥はひどく驚嘆した。またそれと同時に、かの者の才だけではなく、人柄にも惹かれ始めていた。彼女は本気でかの者に入れ込んでしまったのだ。
かの者は時折、人目を忍び荒れ果てた門にて、隻腕の鬼と詩を詠み合っていた。鬼は決して姿を見せず、詩を褒め称え、下の句を返すだけ。
鬼に対して嫉妬を抱いた青娥は、かの者に幾度も諌言を繰り返した。「相手は人喰らう鬼である」「いつか貴方を攫い、喰らう事を狙っているのかもしれない」と。
だが、聞き入れなかった。鬼ですら優れた詩人の前では恐るるに足らない存在であるらしい。
「鬼に漢詩の如何たるを講釈垂れるなど滅多な事ではない。僥倖だ」
ひたむきに詩を愛するその姿は、まるで無垢な子供のようだった。
その姿にやはり心打たれつつも、心を砕く対象が自分でなければ意味がない。嫉妬が憎悪に変わるのは時間の問題だった。
幾許かの時を経て、鬼は姿を消した。
それから間を置かず、かの者は流行り病に冒され、死の床へと近付きつつあった。心身を蝕まれ、まるで死体のように窶れてしまった。
詩を書き残す気力さえ尽きかけていたが、その創作意欲は衰えるどころか日に日に増していく。取り憑かれたかのように、詩を呟く。
青娥はかの者を献身的に介抱し、時には代わりに詩を書き留めた。だが、決して病を治す為の踏み込んだ治療を施すことはしなかった。
流行り病の正体は知っている、治療方法も心得ている。しかし、このままの状態であれば『よしか』を独占できると青娥は信じていた。
もはや仙人、邪仙ともつかない中途半端な存在に成り果てていた。その姿は痩せ細った『よしか』よりも惨めなものだった。
とうとうかの者は息も絶え絶えとなり、死を待つのみとなった。もはや、仙術でさえも意味を成さない段階であった。
痛烈な後悔を胸に抱きつつも、青娥の歪んだ心は、安らぎに似た満足感に満ちていた。なけなしの償いの為、後を追って添い遂げようとすら思っていた。
ふと、泡のようなか細い声がかの者の口から零れ落ちる。もしかしたら自分への遺言かと思い、青娥は耳を近付けた。
「かせん、しにたくない、しぬのはいやだ」
『よしか』は事切れた。
骸の傍らで、青娥は崩れ落ちた。邪仙の瞳から流れ出る涙の意味に、彼女は終ぞ辿り着くことはなかった。
その日以来、二人を見た者は居ない。
百余年を経た後、何処ぞの山奥で二人を見たという者も居たが、果たして同一の者であるかは、誰にも分からない。
その者曰く、二人は、かつてと変わらぬ若々しい姿で、健やかに暮らして居たそうだ。
遂に仕へを止めて金峯山に入り、 其の終る所を知らずなりしと云ふ。
かくて百余年を経たる後、或人大峯山に詣でて、岩窟の中に人の居るを見て、 誰人にて渡らせ給ふぞと尋ねければ、我は是れ都良香と云ふ者なりと答へしによりて、 良香の仙人となり居ること、世にも知らるゝことゝ成りけるが、 其の時の顔色少しも衰へず有りけるとかや。
『本朝神仙伝』(抜粋)
『日本三代実録』──「姿態軽掲、甚有膂力」より
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3話
宮古芳香は夢を見下ろした。
枯れていくこの想いは、果たしてただの勘違いなのか? いつかの日か、遠い夢の中で忘れたモノも同じだった。
腫れ物のように焦ったくて、病魔のように纏わりつく不快感。
底がないほどに落ちているような、そんな感覚。水面はどんどん遠ざかっていく。
心を掴めない、触れることすらできない。
己を知ることは能わず、それにこだわる意味すら忘れた。打ち棄てられていく思考。
寄生された蟲のように、支配され、朽ち逝く。病の果てに、腹の内に黒いモノを孕んだ気がした。これが自身の罪という物なのか。
罪というなら、そうなのだ。
誰かの為だけに生きていきたかっただけなのに。貴方の為だけに、生きていきたかったのに。
どうして心は壊れてくれなかったのか。
こうして時折、自分の朽ち果てた思考と身体を覗きながら、苦しみ続けるのだろう。そしていつか忘れて、思い出して、また嗤う。
自身が流す涙の訳も知らないまま、死と夢の狭間を彷徨うのだ。
あなたさえ──今、欠けて、消えてゆく。
澄み渡る秋空を仰いだ。目一杯視界に収めたくなったが、首が固くて思うように曲がらない。すとん、と地に倒れた。
悪くない。
では、舞い散る紅葉を棺としよう。
「おー」
どう表現したものか。
込み上げる変なモノに対して、訳も分からず声を上げてみる。取り敢えず声を出せばどうにかなると思った。
ゆっくりと悲しげに、或いは極めて憂鬱で緩慢。そんな表情で唸る。
時折、こうして景色に見惚れては、胸の奥からナニカが持ち上がるような、そんな感覚に苛まされていた。煩わしくて仕方ない。
家に帰れば青娥が直してくれる。彼女が少し弄れば、しばらくは煩わしい『それ』に悩まされることはない。
伸びきった腕を地面に叩きつけ、その反動力で直立する。棺としていた紅葉が風に煽られ、飛んでいった。やはり、何故だか残念だった。
「貴方が宮古芳香さん、でよろしいでしょうか」
「ん、誰だあぁ?」
呼び止める声に身体を反転させる。舞い降りたのは包帯ぐるぐる巻きの大怪我をした女。多分、初めて見る者だった気がする。
だが彼女からは、主人と同種の匂いがした。
「そのやんごとなき格好は仙人様だな! 私の主人は此処にはいないぞぅ」
「ええ、みたいですね。彼女はとても身勝手で利己的な人、そう簡単に会えるとは思っていません。貴方も、苦労されてるでしょう?」
「青娥を悪く言うのは、良くない!」
備え付けられた闘争本能が過敏に反応し、牙を剥く。これに対して、仙人は謝意を込めて一礼するに留めた。
「ふふ、かの仙人が使役する死体。どのような者かと思い、要らぬ探りを入れてしまいました。申し訳ない」
「なんだ悪戯か。ほどほどになー」
「ぞんざいに扱われている死体がこれほど綺麗なわけがない。よく手入れされているのでしょう」
「おぅ。肌のケアには気を使ってるぞぉ」
「そうですか。それは良かった」
朗らかに笑うその姿に、とてもじんわりとしたもの感じた。コレも嫌いだ。やっぱり今日は悪い事ばかりだ、と。らしくもなくうんざりする。
そんな死体の存在もあやふやな心情を察したのか、仙人は目を細めて首を垂れた。
「近くに居ないのなら仕方ないですし、それでは、日を改めますね。お忙しそうなところ失礼しました」
「おー構わんよ。じゃーなー」
手を振る事はできないので、身体全体を振り回して別れを表現した。そんな姿に微笑ましいものでも感じたのか、仙人は微笑みながら、死体の頬を撫でる。別離を惜しむかのように。
「また会いましょう。……さようなら」
そうとだけ言うと、仙人は身を翻し、色艶やかな山へと消えていく。
残された『死体』は、やはり気持ちの悪いものを感じずにはいられなかった。触れられた頬が爛れたように熱を帯びていた。
何の問題もない。痛みを感じるすべはない。気に留める事ではない。
決して──何も──。
「──今度こそ、本当に死ねるといいですね」
『よしか』は、何も聞かなかった事にした。
本当の愛を知っていたのはにゃんにゃんだけというオチです。
ちなみにこれは関係のない話ですが『よしか』が流行病に罹った時期は、当時四煌と呼ばれていた黒谷ヤマメの全盛期でもあります。そしてそのヤマメを討伐し、後に賢者となるほどの名声を手に入れたのが華扇なんですよね
なんでヤマメと戦ってたんでしょうね?
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