野郎どもに花束を (小川 帆鳥)
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プロローグ

「ソードアートオンラインって知ってるかい?」

 

 病室のベッドの背もたれを起こして医師と話していた少女は、唐突な質問に首を傾げた。

 

「それって、最近ニュースで話題のゲーム?」

「そう、それ。最近発表されたVRゲームだよ」

 

 これを被るんだよ、と医師──倉橋はヘルメット型のゲームハードを少女に手渡す。

 

「なかなか画期的でね、僕もやってみたいところなんだけど残念ながら入手は出来なかったんだよ。自分の五感をゲームの中に反映させる、いわゆるゲームの中に飛び込んでいく感覚を味わえるんだって」

「ゲームの中に? それホント?」

 

 食いつくような質問に、倉橋医師は苦笑しながら頷く。

 フルダイブ技術。

 ナーヴギアと呼ばれる、少女が両手に持つヘッドギアが延髄部で脳からの命令信号を回収し、デジタル信号に置き換えることで、ゲーム内で受信した擬似的感覚を脳に本物だと錯覚させる技術である。

 

「でも、なんでそれがボクのところに来たの?」

「そのことなんだけどね……」

 

 少女の疑問に、倉橋は言葉を詰まらせる。説明せねばならない、しかしどうしても迷いがある。それでも、と。これは少女のためになることだと信じて、倉橋は閉じた口をまた開く。

 

「その、だね。言いにくいことなんだけど……臨床試験として。ナーヴギアの、フルダイブの技術を医療に活用するためにつくられた試作機の被試験者になってみないかと提案しに来たんだ」

 

 もちろん、無菌を保つクリーンルームで行われることで日和見感染を防げるから、症状の進行を妨げることができるというメリットがあることも伝えた。

 実はもう、すでに彼女の両親には話してあった。彼らはとても悩まれたようだったが、最終的には娘の判断に任せる、と言ってくれている。

 あとは、彼女の判断だけだ。

 

「そっか……試験……」

 

 少女はポツリと呟き、手元のナーヴギアをそっと撫でた。

 医療の場において、命をお試しでかけるなど許されることじゃない、と倉橋は強く思っている。だが、彼女に提供されるクリーンルームという環境は彼女自身の症状に有効であることも事実。今後の医療への貢献にも役に立ち、さらにはひょっとしたら、彼女自身の病気にも有効な手段が見つかるかもしれない。

 そのわずかな可能性にかけたくて、倉橋はこの話を持ちかけた。

 

「……」

 

 少女は俯いたまま、何も言わなかった。急な話だ、そう簡単に決められるものでもないだろう。

 

「ゆっくり考えてみてください。ゲームはいつだって始められる。急ぐ必要はありませんから」

 

 倉橋はそう言って病室を出ようと扉に手をかけたところで、後ろから声がかかった。

 

「……先生」

「うん?」

 

 振り向くと、彼女のまっすぐな瞳にぶつかった。

 

「お父さんとお母さんは、ボクに任せるって言ってたんだよね?」

「うん。君の判断でいいと言っていたよ」

「そっか」

 

 うん、とひとつ、彼女は頷いた。

 そして、ナーヴギアに手をかける。

 

「ねぇ、先生?」

「うん」

 

 彼女の目に、迷いはなかった。

 すっぽりとヘッドギアを被って、彼女は言う。

 

「ボク、ゲームの中、入ってみたい!」

 

 そしてバイザーを上げて、にこやかに笑ってみせたのだった。



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はじまりの日

「リンク・スタート」

 

 起動の合言葉を口にした途端、意識が一瞬だけ途切れ、そしてすぐ真っ白い空間をまっすぐに進んでいるかのように色とりどりの光の柱が通り過ぎていった。

 軽快な電子音とともにさまざまな認証のコマンドが現れては消え、ふたたび光の柱群の中を抜けると、にわかに視界が暗転する。

 そうしてまぶたを開けると、そこは異世界だった。

 

「おお……」

 

 自室のベッドで寝ているはずの俺が見ているのは、青い空と遠いところで空を舞う鳥ではないなにか。うっすらと空の上に透けて見えるのは次の層の底らしい。

 手を持ち上げて開閉すると、確かな指の感覚。

 いつのまにか履いていたブーツの裏に感じるのは石畳の圧。とんとんと踵を打ちつけると、コツコツと音が返ってきた。

 

「すげえ……」

 

 これが仮想現実。

 これが、ゲームの中。

 とてもじゃないがそうとは思えない。思えないが、俺の五感はこれが現実だと嫌でも知らせてくる。

 なんとも言えない衝動が体の内側からせり上がるとともに口角が釣り上がるのがわかって、それを隠すように右手を口にやる。いてもたってもいられなくなって、俺はついに第一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

「あ、いたいた。おーい」

 

 ひととおり街の中を歩き回ってスタート地点の噴水広場まで戻ってくると、ちょうど待ち合わせていた知り合いがログインしたところだった。

 長身痩躯に、俺と同じ革製の初期装備。そして鮮やかな、赤のロングヘアー。事前に打ち合わせて知らせてくれたとおりのイケメンっぷりだ。顔の造形もかなり整っていて、アバター作成にかなり時間をかけたらしいことが伝わってくる。

 パーティを組むと、視界の左端に彼の名前とHPバーが表示される。名前はクライン。これも聞いていたとおりだ。

 

「遅えぞー。俺もうこの街をひとまわりしちまった」

「マジか? それはスマンかった。許してくれ、このとーり!」

 

 ぱち、と拝むように頭を下げる。その動作が現実の彼の顔を思い出させて少し笑えたので、それで許してやろう。

 俺が来るのが速すぎたってのもあるだろうし。なんたってサービス開始直後の時刻にログインして、アバターをテキトーに作ってしまったからな。噴水広場に一番乗りだった。

 

「それにしても、フルダイブってすごい技術だよなあ」

「なんでえ、藪から棒に」

「いやな、さっきも思ったんだけどさ、改めて」

 

 ゲームの中に入り込むなんて、夢のまた夢だと思っていた。剣や魔法でモンスターを倒したり、お宝を求めて冒険をするという行為ができるのは小説や漫画やゲームの世界だけだと思っていた。

 その夢物語を、ナーヴギアというヘルメット型ゲームハードはそれを現実のものにした。詳しいことは俺自身よくわかってないけど、脳から出た電気信号を汲みとってゲームハードに読み込ませることで五感をこちらに持ってきているのだとか。そのおかげで、現実の体はベッドに寝転がったままでもこうして動き回ることができる。うん、理屈はわからんけどやっぱすごいことだよな、コレ。

 

「見る聞くはともかく、触れるって凄くね? ほら、剣とか持てるんだぞ」

 

 さすがに街中だし抜きはしないけど。それでも腰に下げた初期装備剣の柄を撫でると、グリップのザラザラ感がざらざらと伝わってくる。昔、小さいころにじいちゃんの家に飾ってあった日本刀の柄と似たような感触。あるいは高校まで使い込んだバットのすり減ったグリップのような。

 

「あー、そうなぁ……あ! おーい、そこの人! 待ってくれえ!」

「おい、聞いて?」

 

 だが赤毛のイケメンはまともに聞いてくれていなかった。それどころか見知らぬ人に向かって走っていく始末。待ってくれは俺のセリフだ。

 

「えっと……どうかしました?」

 

 いきなり呼び止められた青年は、困ったように頬をかいていた。いざ冒険だというところで止められたら、そりゃ誰だって戸惑うわ。

 だがその困惑を無視して、クラインはがっしと彼の両肩を掴んだ。

 

「その迷いのない走り! アンタ、ベータテスターだろ?」

「え」

「なぁ頼む、オレら初めてなんだ。レクチャーしてくれないか?」

「あの」

「あ、まだ名前がまだだったな」

「いや」

「オレはクラインってんだ。こっちがシュウ。よろしく!」

 

 ばしっ、と背中をはたき、イケメンかつ人好きのする笑顔であれやあれよと話を進めていく。ちらりと黒いほうのイケメンが助けを求めるようにこっちを見たが、俺だってレクチャーは受けたい。ので、ふるふると首を振って、拝むように手を合わせた。

 

「はぁ……わかった。俺はキリト。とりあえず、武器屋行く?」

 

 おう頼む、とクラインが満面の笑みを浮かべる。

 こうしてかなり強引ながら、アドバイザーを仲間にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 クラインとは、リアルの知り合いだ。と言っても直接の接点はない。俺の大学の先輩の、会社の同期の大学の先輩。ややこしいけど、知り合ってしまえば友人である。二十歳の誕生日に先輩が連れてってくれた飲み屋で席が隣になって、なかなかに話が弾んで、たまたま俺とクラインが同じゲームを買えていて、なら一緒にやろうやということになった。

 クラインはクラインでリアルの知り合いとやる予定らしいし、俺は俺で一緒にやろうかと話がついている知り合いがいる。だがスタートはズレる予定だし、けど俺とクラインはサービス開始直後にログインできるから、なら始めだけでも、ということで。

 

「オレ、敬語使われんの苦手なんだよなー。なーんかこう、ムズムズするっていうか」

「俺は別に構わないんですよ? 敬語にしても」

「オレがヤなの。ネットゲームのときくらい先輩後輩は忘れたいだろ」

「直接の先輩じゃないからリアルでも使う気ないけど」

「なんだとこのやろ、ちょっとは敬えよ?」

「はは、仲良いんだなふたりとも」

 

 そんな話をしていると、いつの間にか夕焼けが草原を染めていた。

 ログインしたのは昼過ぎだった。それが今や中天にあった太陽が大きく傾き、少しずつ朱色の空に紺色を交え始めている。

 どうやらゲーム内時刻は現実とリンクしているらしく、もう五時をまわろうとしていた。この仕様、俺はいいけど社会人とかどうなの? 夜しか見れなくない? 

 

「スイッチ」

「おうよ!」

 

 俺の掛け声に合わせて、敵前にクラインが躍り出る。右肩に担ぐように構えた曲刀がオレンジの光を纏い、一閃。

 キリトのレクチャーはぶっちゃけわかりづらくて、最初はものすごく戸惑った。なんだよ、グッとやってズパーンって。わかるかそんなん。感覚派か。

 だがひとつの動作をひたすら練習していると嫌でもコツが掴めるもので、そうすると不思議なことに、グッとやってズパーン! がわかるようになってしまった。その説明にぶーたれていた俺も、グッとやってズパーンとしか説明できない。腑に落ちない話だ。

 

「これで終わりだ!」

 

 キリトの剣が光る。3分の1くらいまで減っていた敵のHPが一気に削られ、ガラスの砕け散る音が響いた。

 

「うん、上出来。すごいな、もうスイッチまで完璧じゃないか」

「へっへ、オレたちゃ最強パーティだからな!」

 

 キリトの言葉に、クラインはものすごく自慢げに胸を張る。まだ序盤も序盤、イノシシしか倒してないけど。まいいか。

 せっかく3人いるのだから、とパーティを組んでみると、それはもう楽々サクサクと戦闘が進んだ。スイッチというパーティならではの戦闘員入れ替わり戦法みたいなのがあったが、これがまた面白いくらい決まる決まる。経験値の共有もされるようで、あっという間にレベルがひとつ上がり、新たにひとつスキルを選べるようになった。

 

「それにしてもシュウよ、お前なんでそんなにパリィが上手いんだよ? あれかなり難しいってダチが言ってたぞ?」

「ん? パリィ?」

「敵の攻撃を弾くことだよ。怯ませたりしやすいタイミングがあるんだ」

「ああ、アレのことか」

 

 キリトの説明で合点がいく。

 ソードスキルの練習のときにたまたま上手くできたアレのことだな。なんだか俺の攻撃を当てて動きを止めた瞬間のモンスターが驚いてるように見えて可愛かったから狙い続けて、そうするとだんだん上手くなっていって今度はちょっと楽しくなったアレ。

 

「ベータをやってた俺もパリィはそうそう上手くいかないんだが、シュウはほとんど成功するよな」

「そうそう、そうなんだよ! なぁコツとかあるのか?」

「そんなこと言われてもな……」

 

 コツ、コツねぇ……。

 

「忖度、とか?」

「ソンタクぅ?」

「相手の気持ちを考えるんだ。相手が動きそうなタイミングで、いちばん狙われたくない部分を狙うんだよ。右足で蹴ろうとするから軸足になる左足を蹴飛ばす、みたいな。わかるようになってくると、右で蹴るからその前に右を切る、みたいなこともできそうだよな」

「うわ……」

「ヒデェ」

「おい」

 

 聞かれたから答えたのになぜ引かれる。いやまあ、忖度の使い方を間違ってることはわかるんだけど。たぶんそこじゃないよな。コイツらはアホの子を見るような目で他人を見る奴らじゃないって信じてる。

 

「やってみれば案外できるって。次の戦闘でやってみろ?」

「いやぁ、オリャとりあえずソードスキル磨くわ。それに頼んどいたピザがそろそろくる時間なんだよな。いったん落ちるぜ」

「ああ、じゃあいい頃合いだな」

「そうか、もうそんな時間か。シュウは?」

「そうだなぁ……待ち合わせとは言ったけど、今日じゃないしな。キリトがまだやるなら、それについていこうかな」

「お、じゃあ次の村まで行ってみるか?」

「いいね」

 

 太陽はもう半分も沈んでいる。これもしかして、このエリアの端っこから見たらずっと太陽が見えたりするんだろうか。あとで街の外縁部に行ってみよう。

 じゃあ解散だな、楽しかったぜ、またな、とクラインに別れを告げる。

 そしてキリトと連れ立って、ログアウトをするクラインに背を向けて歩き出したところで。

 

「……あれ? なぁキリト、ログアウトってどこからやるんだっけ?」

 

 クラインのどこか間抜けな質問に、かくんと膝から力が抜けていった。

 

「メニューの奥深いところだろ? 右手振って出るウィンドウのいちばん下のはずだけど」

「そうだよな? そこで合ってるよなぁ」

 

 キリトの解説に、クラインは煮え切らない返事をする。

 

「なに、どした?」

「いやな、ログアウトのボタンがみつかんねえんだ。キリトが言ってたいちばん下とか、そのあたり探してみたんだけどな」

「ログアウトできないってことか?」

 

 俺の質問に、クラインは心なしか泣きそうな顔で頷く。なんでそんな悲しそうな……ああ、ピザ。

 

「ログアウト! 脱出! GM! ピザ! ピザぁ!」

「いや叫んでも……」

 

 ていうかピザはコマンドじゃない。

 しかしじっさい、これは由々しき事態だ。ゲームをやめられない、というとなんか違う意味になりそうだが、ゲームを止める方法が見つからないというのはかなり危ない。ましてサービス初日だ。こんな大きなバグはマズいんじゃないのか。

 

「ほかに方法は?」

「ないことはない、と思う、けど……」

 

 キリトの声がだんだんとしぼんでいく。けど? と問いただすと、明記されていない、と首を横に振った。

 

「少なくとも、ゲーム内部からの手段としてはログアウトボタンを押すこと以外に俺は知らない。……くそ、ナーヴギアの説明書とかもちゃんと読んでおけばよかったな」

 

 知らされない、というのも不手際だ。いや、知ろうとしなかった俺たちもそこは同じか。俺なんてゲームのパッケージすらチラ見した程度だ。なお悪いな。

 しかし本格的にマズい。これじゃあピザもそうだがトイレとかどうするんだ。嫌だぞ、部屋のベッドで気づいたら漏れてるとか。

 そんな俺の焦燥を察知したのか、《はじまりの街》の方角から大きな鐘の音が鳴り響いた。ゴォン、ゴォン、と規則的にゆっくりと打ち鳴らされるそれは心音に合わせているようで、少しだけほっとした。

 だが同時に、嫌な予感もした。鐘の重く低い音が、腹の底を叩いた。

 

 体が青白い光に包まれる。

 

 気づけばゲームを始めたときと同じ場所に立っていた。《はじまりの街》の中央、噴水のある大きな広場。周りのあちらこちらでも同じように、光の中からプレイヤーが続々と現れる。

 そうして人で埋め尽くされたとき誰かが、上だ、と声を荒げた。

 赤い空に広がる、より深い赤の市松模様。warningと読めるパネルの隙間から漏れ出したどろりとした赤黒い液体は見えない器でもあるかのように空中でひとつにまとまり、それはやがてヒトのカタチを成す。

 巨大な、フードを被った誰か。

 そいつは両手を広げて言った。

 

「プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ」

 

 

 

 

 

 

 ──なんの冗談だ。

 ようこそ、ときた。このゲームから出る方法がないと騒いでいるこのタイミングで、よりによって歓迎の意を示す。ふざけてんのか。

 巨大なアバターから発せられた言葉で、キリトやクラインや、そのほか周りに集められたプレイヤーからも戸惑いや不安によるざわめきが消え、ただ宙に浮いたアバターを呆然と見上げるだけとなる。

 そしてそれを狙いすましたかのように、広げていた手を下ろし、その声は続けた。

 

「私の名前は茅場晶彦。今やこのゲームをコントロールできる唯一の人間だ」

 

 途端に、広場にざわめきが戻った。隣に立っていたふたりですら空いた口が塞がらないといった感じだ。茅場、とあちこちからつぶやきが漏れてくる。

 だが、フードのアバターはそれらを気に留めず話を続けた。

 

「プレイヤー諸君は、すでにメインメニューからログアウトボタンが消滅していることに気づいていると思う。しかしこれは不具合ではなく、ゲーム本来の仕様である」

「……は?」

 

 フードの、茅場の言葉に、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

 仕様、と言ったか。ログアウト不可が不具合じゃない、と? 

 いや、ナーヴギアを外から外せば、まだ可能性はある。ゲームに詳しいキリトですら内部からの手段しか知らないと言った。なら、外部は──

 

「ゲームからの自発的なログアウトは不可であり、また、外部の人間の手によるナーヴギアの停止あるいは解除も不可である」

「……おい」

「もし外部からの強制解除が試みられた場合、ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが諸君らの脳を破壊し、生命活動を停止させる」

「……おいおい」

 

 なんだそれは。内側からはダメ、外からもダメ。無理にでも出ようものなら──死。

 たかだかゲーム機でそんなことができるのか、という疑問は、茅場の周りに現れたウィンドウに映るニュースでかき消える。死者213人。残された遺族は。ナーヴギア、ソードアートオンライン。そんな文字列ばかりが並んでいて、その中には実際に外そうと試みて命を落としてしまったという報道もあった。

 

「……マジか」

 

 隣でクラインがつぶやく。その声がやけに大きく聞こえるほど、広場は静まり返っていた。キリトもウィンドウを凝視して言葉を発さない。

 

「そして、じゅうぶんに留意してもらいたい。このゲームにおける、いかなる蘇生手段も機能しない。HPが0になった瞬間、諸君らのアバターは永久に消滅し、同時に……ナーヴギアによって脳が破壊される」

 

 沈黙のなかで、茅場の声だけが大きく響く。

 

「諸君らがゲームからログアウトする方法はただひとつ」

 

 そして、上を示した。

 

「この城の頂を極めることだ」

 

 みたび、広場に喧騒が戻った。

 不安と、それから諦念。周りから聞こえるのは、βテストの二ヶ月間でも十層にたどり着いていないというものと、それも死に戻りを前提とした特攻による結果だという話だった。

 キリト曰く、死に戻りというのはこういったゲームではよくあることだという。各フロアに一体ずつ配置されたボスは先ほどのイノシシとは比較にならないほど強い。それに何度も挑み、ボスの行動パターンを知り、対策を立て、初めて討伐を可能とする。それが一般的だと。

 

「だが、それができなくなった。ボスに対して、死に戻りという情報収集の手段が消えたんだ」

「……それは、マズイな」

「まずいなんてもんじゃねえ。無茶苦茶だぜ」

 

 クラインは頭痛でもするかのように頭を抑えた。

 俺はあまりゲームをする人間ではなかったからあまり実感がなかったが、慣れている人間からすればたまったものじゃないはずだ。現に、さっきの簡単な説明を聞いただけの俺でもヤバいことはわかってしまう。

 それを、第百層まで続けなければならない。

 死んだら、終わり。

 ぞわ、と背筋をなにかが這う感覚がした。

 

「こんなの、ゲームでもなんでもないだろ」

 

 キリトが吐き捨てるように呟く。

 クラインもまた、信じねぇぞ、信じねぇ、と頭を抱えたままぶつぶつと喋っている。

 ふと、なにかの記事に書いてあった言葉を思い出した。

 

「……これはゲームであっても、遊びではない」

「なんだ、それ」

「茅場の言葉だよ」

 

 とあるインタビューで茅場が放った一言だ。読んだときはゲームも遊びも同じだと思っていた。だが、今ならこの意味がわかる。

 遊びにかまける余裕はない。

 このゲームを全力でプレイしなければ死ぬ。

 この事態を踏まえての言葉だったのだとしたら。茅場という男は、とんでもない大悪党だ。

 

「これはゲームなんだ。これが茅場の仕組んだことであるなら、間違いなく。止まることなく、クリアを目指さなければならないということなんだろう。そこに遊びの入る余地はない、と」

 

 やめどきが見つからずに困るくらいなら、やめどきをなくしてしまえばいい。つまるところ、そういうことなんだろう。

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

 キリトはやはり、吐き捨てるように呟く。

 まったく同感だ。自分なりに受け入れられるよう試みてはみたが、それでもゲームから脱出できないなんて事態は夢想が過ぎる。

 いやまあ、わかるところはわかる。やめどきの例えなんか、なかなか的を射た表現じゃないかと思う。

 だが、だからってこれが現実とは思えないし、思いたくもない。

 

「それでは最後に、諸君にとってこの世界が現実であるという証拠を見せよう」

 

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、はたまた広場の喧騒がある程度治まったからなのか。茅場は、最後の託宣を下した。

 

「諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれ給え」

 

 茅場が言い切る前に、広場のあちこちで鈴の鳴るような音がしていた。キリトやクラインもまた、右手指二本を縦に振ってアイテムを確認している。

 

「手鏡……?」

「こんなもん、どうしろってんだ?」

 

 彼らは四角い小さな鏡を手にしていた。しかし何も起こらない。俺も手元に出してみたが、俺の呆け顔が映っているだけだ。三人で顔を突き合わせ、首を傾げる。

 ──瞬間。

 視界が、真っ白になった。

 だがそれもほんの二、三秒のことだ。視界はすぐに元に戻り、元の風景が……あ? 

 

「誰だ、お前ら──あれ?」

 

 見慣れた風景ではあった。石畳、噴水広場。だが、立っている人間が違った。黒髪赤髪のイケメンが消え、代わりに女顔の少年と髭面のおっさんが、そこにいた。少年はともかく、おっさんのほうはもしかして。

 

「そういうお前こそ、誰?」

「ぅおっ、なんじゃこりゃ!」

 

 周囲がにわかにざわつき始めた。

 慌てて周囲を確認すると、変化があったのは目の前の二人だけじゃないようだった。広場にいたプレイヤー全員が、姿を変えている。服装は変わらずに、顔のつくりや体型を変えている。

 ──まさか。

 はっとして鏡を覗くと、映り込んだのは見慣れた男の顔だった。

 見紛うはずもない。これは俺だ。

 

「……てことは、ふたりとも」

「お前クラインか!?」

「おめぇキリトか!」

 

 赤髪のイケメンだったおっさんと黒髪のイケメンだった少年が互いを指差している。まあクラインの顔は見たことあるからわかる。ということは消去法で少年がキリトになるのか。可愛い顔してんな、こいつ。中学生くらいか。

 そうか、つまりそういうことだな。今のアイテムの影響でプレイヤーが作ったアバターは消え、体格や顔の造形が現実準拠のものになったと。

 見渡してみれば確かに、ゲーム開始時に多かった美男美女は消えていた。代わりに、同じ服装の別人ばかりが広場を埋め尽くしている。

 ……別人すぎやしないか。美形が減るのはともかく、体格差が生まれるどころか男女比までごちゃごちゃだぞ。

 

「リアルの顔……そうか、信号素子で顔を覆っているから……でも身長や体格は……」

「それアレじゃねぇか、キャリブレーション? とかいう。体のあちこち触ったぜ」

「そういうことか……でも、どうして……そうか」

 

 ふたりはぶつぶつと推論を重ねていく。そうして、キリトは顔を動かさずに視線だけを左上に動かした。そこには、青の横線が輝いているはずだ。

 アバターが現実の姿に戻っても、その存在までは消えていなかった。

 

「……これもまた現実だと、そう言いたいのか」

 

 キリトはそう呟いて、はっと顔を上げる。まるで聞こえていたかのように、茅場は満足げに頷くようなジェスチャーをした。

 

「これで、私の目的は達成された。この世界を創り出し、観賞する。そのためのナーヴギアであり、そのためのSAOである」

 

 その声は、今までの無感情なものとはどこか違った。目的達成の嬉しさか、観賞できる喜びか。あるいは──到達点への、憧れか。

 だがそれも、短い間を空けた次の言葉にはもう含まれていない。機械的な声がいんいんと響く。

 

「以上で、《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の健闘を祈る」

 

 その言葉を残して、巨大なローブがどろりと溶けた。

 逆再生でもしているかのように、水滴が上へと落ちていく。同時に、空を一面に赤く埋めていたパネルもまた閉じていった。環境音やBGMが次第に耳に届くようになり、やがて一陣の風が頬を撫でる。

 そうして俺たちは、ゲームに戻された。アバターを現実の姿にされたまま。

 

「──いやぁぁぁああああ!」

 

 ひとりの少女の、悲鳴。

 それが、パニックの始まりだった。

 悲鳴、怒号、絶叫。なんだそれは、ありえない、戻せ。そんな声が声にならないほどの大音量で空気を震わせる。たとえゲームのアバターとわかっていても、鼓膜が破れるんじゃないかと思わず耳を塞いでしまうほどだった。

 理解ができない、追いつかないのも無理はない。俺だって、キリトやクラインがいてくれなければこうまで落ち着いてはいられなかったはずだ。というかふたりが、特にキリトが落ち着きすぎなんだよな。こいつ見た目だけならまだ高校生くらいだろうに、大したもんだ。

 

「ふたりとも、こっち」

 

 そんな賛賞を心の中で贈っていると、キリトに腕を引かれた。なにやら思いつめた表情で、ずんずんと集団の外側へと引かれていく。もともとの立ち位置が外側寄りだったようで、あっという間に人垣を抜けた。

 ──そのとき、ひとりのプレイヤーが目に止まった。

 ただ立ち尽くすだけ。罵声も懇願もせず、流す涙すらなく、ただ立ち尽くしている。その表情は、ほかのどのプレイヤーとも違っている。その顔は、どこか見覚えがあった。

 

 

 

 

 

「次の村へ行く。お前らも一緒に来い」

 

 物陰に隠れるようにして、息を潜めて。しかし真剣な声音で、キリトは告げる。

 

「茅場の言葉は事実だと考えていい。あれだけやって嘘でした、なんてことは絶対にない」

 

 よほどの悪趣味でなければ、あのチュートリアルに嘘はない。それについては俺もクラインも異論なしだ。

 同時に頷くのを見て、キリトは続ける。

 

「であるならば、生き残るためには強くならなきゃいけない。そう簡単にHPの全損がされないレベルまで。幸い、俺はベータテスターだ。危険な場所、安全なルートは知ってる。お前たちふたりなら実力も知ってる、問題なく案内できる」

 

 やや早口になりながら、それでもできると断言してキリトは言いきった。

 だがそれに、クラインは顔を歪める。

 

「悪りぃが、そりゃムリだ。ダチとやるってんで、みんなして徹夜で並んだんだ。あいつら、きっとまだ広場にいる。置いてけねぇよ」

 

 その言葉に、キリトは眉を寄せる。わずかに、瞳が揺れた気がした。

 少しの逡巡ののち、

 

「……わかった」

 

 と眉を寄せたまま頷く。

 そうして、俺を見た。なにも言ってはこなかったが、視線はどこか縋るようなものだった。

 正直なところ、俺はついていきたい。間違いなくキリトが一緒なら安心だろうし、置いていけないというクラインの言葉を借りるなら、俺はキリトを放っておけない。

 しかし、だ。それでも俺は、ここに来るまでにすれ違ったひとりのプレイヤーが気がかりで仕方なかった。

 見覚えのある女性のプレイヤーだった。まさかこんなところにいるはずないとは思うんだけど、他人の空似にしてはよく似ている。それに、あの表情。一歩間違えば、ひょっとしてしまうかもしれない。

 

「……すまん。俺も、気になることがある。捨て置けない」

 

 杞憂ならいい。だが、もしも万が一が実現してしまえば取り返しがつかない。たとえ名前の知らない他人でも、俺はその万が一を起こして欲しくない。俺はその顔に見覚えがあるから、余計に。

 

「……そっか」

 

 わかった、とキリトはまた小さく呟いた。俯いたときのその目が、やはり一瞬だけ、小さく揺れた気がした。

 だが次に顔を上げたときにはもうそんなそぶりは消え、勇者顔のときのような爽やかな笑顔に戻っていた。

 

「じゃあ、ここでいったんお別れだ。なんかあったらメッセージ飛ばしてくれ」

 

 そう言って、背を向ける。その背中がやけに小さく見えたのはきっと俺だけじゃない。

 

「待て、キリト」

「ちょい待ち、キリトよ」

 

 気がつけば、俺は呼び止めていた。クラインも同じタイミングで。

 ふたりで顔を見合わせ、そして頷いた。

 

「俺らと一緒に行くことはできねえのか? 急がなくても、大人数でなら安全に進めるだろ?」

「それか俺と一緒に行こう。こっちも増えたってひとりだ。クラインの代わりと思えば──」

「オイこらシュウ、俺をのけ者にしようってか?」

「うん」

「このやろ」

 

 軽く小突き合う。クラインがこういうノリのいい奴でよかった。あんまりしんみりしたって、いいことなんかない。振り向いてくれていないからわからないが、キリトだって笑ってくれているはずだ。

 それでも、キリトの首は横に振られた。ややあって、

 

「……やめとくよ」

 

 肩越しに聞こえたのは短い言葉だった。そうしてすぐに、歩き出してしまう。

 そう言われてしまえば止められない。キリトの中で、きっとなにかしらの強い決断があったはずだ。

 だから、最後に呼びかけた。

 

「キリト!」

 

 再び、足が止まる。

 

「またな!」

 

 一瞬だけ肩を震わせて、キリトは親指を立ててみせた。

 

「クラインも」

「おう、達者でな」

 

 こっちはこっちで、ごつんと拳をぶつける。

 

 ──また、会う日まで。

 

 そうして、俺たちはそれぞれの方向へ歩き出した。




21/3/24 誤字修正


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はじまりの日ー2

 いまだ混乱のおさまらない広場に戻ったときには、さっきの女性プレイヤーはいなくなっていた。どこかに立ち去ったのだとして、ならばどこに。

 こういうときクラインが一緒にいてくれれば心強いのだが、奴は奴で仲間と連絡がついたらしくさっさとそちらへ駆け出してしまっている。しばらくは彼らのケアでいっぱいいっぱいになるだろう。つまり人海戦術は使えないということだ。

 ならば考えるしかない。だが他人の考えなど読めるわけもなく、かといってがむしゃらに探したって見つかるはずもない。

 どうしたものかと考えて、ふと思い出したことがあった。

 ──外縁部。

 宙空に浮かぶ鋼鉄の城の外縁から太陽を見たらどうなるのか、という考えが頭をよぎったのを思い出す。どこまでも太陽が見えるのだとしたら、地平に沈んだ後の太陽を見れるかもしれない、と。

 さらに言うなら──これはこじつけだろうが──飛び降りの可能性、という言葉が頭に浮かぶ。絶望した人間が自殺に身投げという手段を選びがちというのは、手ごろだからなのか、あるいはそのときになってみないとわからないなにかがあるのか。

 地面に叩きつけられるのではなく空に落ち続ければひょっとしたら、なんてこともあるのかもしれないが、そんな簡単な抜け道を茅場が用意するとは思えない。むしろ空中でアバターが爆散する未来しか見えない。

 だがなんにしても、手がかりがないなら直感に縋るしかない。

 とにもかくにも、俺は駆け出した。

 ──のだが。

 

「いねぇな……」

 

 外縁をひととおり確認したが、探し人は見つからなかった。

 それを良しとするか否とするかでまたも考え込んでしまう。まだ事が起こる前なら良し。だが、もしも万が一のことになってしまったあとなのだとしたら。

 お節介だというのはわかっている。赤の他人の心配をしていられる状況じゃないのもわかっている。わかっているが、気になってしまっては放っておけない性分なのだ。

 だがどうしたらいいだろう。手がかりはあてにならない。というか、俺の直感がそもそもあてにならない。でも放っておくのはもやもやする。

 どうしたものか。そう悩んでウロウロしているうちに、人が近づいてきているのに気づかないでぶつかってしまった。

 

「おわ」

「わっとト」

 

 小柄な体躯の女性だった。フードを目深に被っているが、その奥から発せられるくぐもった声は女性特有の高さがある。

 それと、語尾に独特なイントネーションのクセ。

 

「すまん、考え事してて周りを見てなかった。大丈夫か?」

「いや気にするな、オイラも同じようなものダ」

 

 ひらひらと手を振って、少女はにゃハハ、とおどけるように笑う。演じているという感じはしない。これが素というわけはないだろうが、自然体だった。

 

「それで、おにーサン。こんなところに何の用ダ? この先は黒鉄宮しかないケド」

「ん?」

 

 言われて、あらためて周りを見渡した。外縁部をぐるっと回って、とりあえず街の中央近くまで歩いてみただけだったが……いつの間にか、また街の端っこまで来てしまっていたのか。俺の進んでいたであろう道の先には、黒いタマネギ型の建物が鎮座している。あれが黒鉄宮か。

 

「いや、人を探していてな。でも見つからなくて途方に暮れていたところなんだ」

「人探しカ。広場は──見たナ、その感じだト」

 

 フードの奥でキラリと目が覗く。

 ゲームならではの表現なのだろうか。完全に陰になっているのに、目の輝きははっきりと見えた。

 

「ああ。それでとりあえず外周から街中をひとまわり見てみて、見つからなかった」

「なぜ外周?」

「落ちてみたら出られる、みたいなことを思ったりしないかなって」

「そんな簡単な抜け道はないダロ」

「だよなぁ」

 

 手すりに手をかけて、下を覗いてみる。足場がある、とかそんなことはなかった。つるりとした、こういうのを白磁というのかな、真っ白な壁が球体を描いてこの鋼鉄の城を支えている。本来なら地平線に消えるはずの太陽は沈む場所がなく戸惑っているのか、朱色とも金色ともつかない曖昧な色合いの光でこの城の外縁を照らしていた。

 その幻想的な風景に、思わず見惚れてため息が出る。

 

「……オニーサンの恋人か?」

「いや?」

「違うのカ。ため息までついて、深刻な顔してるケド」

「あー……知り合いのそっくりさんだからかな。ま、美人なのは間違いないけど」

「ふぅん……ん? てことハ、他人カ?」

「たぶん」

 

 少なくとも、俺の知るあの子はゲームなどしない。知識としては知っているだろうが、それが手近に置かれる環境ではなかったはずだ。

 

「他人のために、わざわざ?」

「もしかしたら知り合いかもしれないだろう?」

「もしかしたら知り合いじゃないかもしれないんダロ?」

「うん、そうね」

 

 なにも言い返せなかった。認めてしまっちゃおしまいだな。

 

「余計なお世話ダ、とか思わなかったカ?」

「それは思うけど」

「ケド?」

 

 フードの奥から、俺の目をじっと見つめる光があった。よくわからないものを観察する、というのか。まるで──そう、あれだ。値踏みするような、という表現が正しいか。

 自分のなかで相手をどう位置づけるか考えているときの視線だった。

 だから、端的に言いきった。

 

「まだ、諦めるのは早すぎる。そう思わないか?」

 

 まだ閉じ込めたと言われたって一日目だ。もしかしたら、それこそ俺が考えたようにどこかに抜け道があるかもしれないし、現実──外からの救援ができる場合があるかもしれない。ひょっとしたら、ベータ版よりも難易度が下がっていることだってないとは言い切れない。

 それら全てが楽観的な思いからきている淡い希望だってこともわかっているし、ここまで大掛かりな事件を起こした茅場がそんなあっさりとゲームを終わらせられるよう仕組むはずがないこともわかる。このゲーム、この世界に並々ならぬ思いを込めて作り上げたのだろうから、そう簡単には抜け出せないだろう。

 しかし、だ。

 それでも、諦めてしまうのはよろしくない。まだ想像でしかないし、見つからない以上はもしかしたら手遅れの可能性だってある。けど、止められるものなら止めたい。気づいてしまったからには、気づかなかったフリはできない。

 そんな考えをぶちまけてみると、フードの少女は陰になっていない口元を少し歪ませてみせた。

 

「……なるほド?」

「まあ、そういうわけだ。女性プレイヤーで、明るめの、あれは栗色って言うのかな? そんな色の髪を背中の中ごろあたりまで伸ばしてる子を見かけなかった? あと美人さん」

「ンー……いや、知らないナ。女が少ないぶん目立つとは思うが、オイラも全員を把握してるわけじゃナイ」

「だよなぁ」

 

 うーん、本当にどうしたものか。これはマジで行き詰まった。

 

「名前さえわかるなら、少なくとも生死の確認はできるけどナ。他人ってことは、プレイヤーネームも知らないんダロ?」

「うん、わからん」

「よくそれで人探しなんてやろうとしてたナ」

「……たしかに」

 

 よくよく考えれば、手がかりの少なさにあらためて驚かされる。名前は知らない、髪が長めで明るい色をしていたという以外に特徴を覚えているわけでもない。よくこんな状態で動いてたな、俺。さすがに無茶が過ぎるだろう。

 目の前の少女も呆れるように肩をすくめる。あ、いま鼻で笑われた気がするぞ。

 

「仕方ないだろ、気になっちまったんだから。やれることをやろうとした結果なんだよ」

「その結果がコレなんだロ?」

「うぐ」

 

 なにも言い返せない。明らかに俺にとって分の悪い状況が出来上がっている。いやでも、他人を助けようって心意気は立派だと思うんだよ、うん。こんな状況だからこそ、助け合いってのは大事だと思うんだ。さっきキリトたちと話してたけど、死に戻りができないって時点でひとりひとりが大切になってくるはずなんだ。そう、そういうことなんだよ。決して考えなしってわけじゃない、はずだ。

 言葉に詰まっていると、今度こそぷすーと鼻で笑われた。

 

「……なんだよ」

「ああいや、すまんナ。なかなかの阿呆っぷりがおかしくてナー。……ぷくく」

「悪かったな、阿呆で。そろそろ俺は行くぞ」

「待って待って、悪かったヨ」

 

 少し慌てるように、服の裾を掴んで引き止められる。く、と引かれた力は思ったよりも強かった。

 

「そんなオニーサンに提案があるんダ。悪い話じゃないヨ? それどころかとっても美味しい話ダ」

「……なんだよ」

 

 人探しが進まないなら全部マズい話だ、とまでは言わないけどさ。有用な話なんだろうな、それは。なんかうさんくさいんだけど。

 

「まぁもちろん、悪い話も混ざるんだけどサ。聞いてくれるカ?」

「聞くだけな」

 

 んん、と咳払いして、少女は告げる。

 

「オレっちと組まないカ?」

 

 そうして少女は、フードを取っ払って笑ったのだった。

 

 

 

 

 

 

「自己紹介がまだだったナ。オレっちはアルゴってんダ」

 

 場所は移り、外縁部のカフェテラス。とりあえず手頃な位置にあったそこで、俺たちは向かい合って座っていた。コーヒーを頼んでみたが、なんか違うな、これ。味がいまいち足りない。

 アルゴと名乗る少女は、フードを取ったら金髪の美少女だった。そして両頬に引かれた3本ずつの線が非常に気になる。なにそれ。ペイント? 

 

「あんまり大きい声じゃ言えないが、オレっちはベータテスターでナ。鼠、なんて呼ばれてたんダ。情報屋をやってタ」

「情報屋」

 

 そんなのあるんか。あーでも、ゲームなら攻略法とかそういう情報が出回ったりするもんな。その出どころというか、拡散の主体をやってたってことか。

 いや待て、ベータテスター? 

 

「ベータ……ってことは、キリトとも知り合いか?」

「キリト?」

 

 あれ、知らないか。あいつも確かベータテスターだって言ってたような。情報屋ってくらいだからてっきり知り合いかと。

 顎に手をやって考えているふうのアルゴ。ややあって、ぱちんと指を鳴らした。

 

「……ああ、名前なら聞き覚えがあル。凄腕だってんで有名だったやつカナ。でも直接の面識はないゾ。オニーサンこそ知り合いなのカ?」

「昼頃にな。初心者のやつとふたりで世話になった。なるほど、あいつやっぱ凄腕なんだな」

 

 ひとりで行かせて心配だったけど、このぶんなら少しは安心かな。できるなら誰かと組んでいてほしいところだけど、どうだろ。

 

「……ほほウ。ますますオニーサンと組みたくなってきたナ」

「え、なんで?」

「そのキリトってヤツ、もう先に進んでるんだロ? オレっちはそういうのをフロントランナーって呼ぶんだケド、そいつらとコネを持ってるってだけでも情報屋としては羨ましい話なんだゼ」

「ああ、そういう」

 

 情報屋としてはゲーム攻略の最前線情報がなにより有用だということだろう。

 だがそういうことなら、俺としても確かにありがたい話だ。人探しにおいて、情報を取り扱うというのはこれ以上ないアドバンテージになる。

 

「お、乗り気になったカ?」

 

 なぜバレてる。そんなに顔に出やすいタイプじゃなかったはずだ。火傷痕を隠すのにマスクしていたのもあって、むしろ顔はあまり見られることはなかったんだけど。……待てよ、それが原因か? 

 

「……オニーサン、アレだナ。情報屋は向いてないかもナ」

「なんで?」

「鏡を見てみナ。さっきから百面相してるゾ」

 

 呆れ笑いをしながら、手鏡を投げてよこしてくる。のぞいてみると、眉間に皺の寄った俺の顔が映っていた。

 

「……しかめっ面なだけだぞ」

 

 そう言って顔を上げると、両手で頬杖をついてニマニマと笑うアルゴと目が合った。

 

「ぷくく」

「話は終わりだな。ここは払っとく」

「待て待て、今のはオレっちのお茶目っぷりをだナ」

 

 立ち上がろうとする俺の手を掴んで、またも引き止められる。

 コイツ、俺をからかって楽しんでるだけなんじゃないのか? 

 

「笑って悪かったヨ。でもオニーサンと組みたいのは本気ダ。コネがあるって魅力もだが、それ以上に個人的に気に入ったンダ」

 

 くいくいと手を引かれて座りなおした。金色の眼が、真っ直ぐに俺を捉えている。

 

「こんな現場でも他人のために動ける器量と、その動き出しの速さ、それから持っているコネ。ここまでピースが揃ってるんダ、オレっちはツバのひとつやふたつはつけておきたいのサ」

「コネに目が眩んでるようにしか聞こえてこないけど」

「気のせいダ」

 

 肩をすくめ、アルゴはにししと笑った。

 まあ、悪い話じゃないというのは間違いない。ひとりでの行動には限界があるだろうし、そこで組んでいるのがベータテスターってのは心強いだろう。基準をキリトとするなら、だけど。

 それに、今後の方針を考えていたわけではないのだ。ひとまず、この話に乗っかってみるのもありだろう。情報屋というくらいだ、あの子を探すのにも役に立つはずだし。

 

「わかった、組もう。よろしくな、アルゴ」

 

 頷き差し出した手を、小さな手が握り返した。

 

「よろしくナ、相棒」

 

 

 

 

 

「それで、組むのはいいんだけどさ。さっきの悪い話ってなんだ?」

 

 組むと決めたあとで今さら聞くのもどうなのかと思いつつ聞いてみる。まして悪い話なんて正直なところ聞きたくもないが、聞いておかねばなるまい。

 そんな葛藤を知ってか知らずか、アルゴはあっけらかんと言い放った。

 

「ああ、あれカ。簡単な話だヨ。人探しは諦めナ」

「……おい情報屋」

 

 実に簡単に言ってくれる。わかるんだけどさ、もうちょっとこう、言いにくそうにするとかさ、あるじゃん。言いかたがさ。

 

「見つかりっこないよ、見た目だけで探そうなんてサ。まして今日は初日だ、それも午後だけで1万人も把握できるわけないダロ。だから祈レ」

「……クソ。なんか納得いかん」

 

 言いたいことはわかるし、俺が無茶言ってるのもわかる。わかるんだけど、じゃあこのモヤモヤはどうしたらいい。

 

「ま、そのうち会えるヨ。きっとネ。オレっちの勘はよく当たるんダ。女の勘ってやつダナ」

 

 ……信じるからな、その言葉。

 

 

 

 

 

 

 

 

 コンビを組むことにしたその日のうちに、俺たちは《はじまりの街》を出ることにした。キリトを追いかけるのだ。おそらく誰よりもスタートの早かったあいつがゲーム攻略の先頭を走っているはずで、畢竟、あいつの持つ情報が最前線のものになるはずなのだ。

 すでに夜を迎えている。天を仰げば、うっすらと第2層が透けて星空が見えていた。日付が変わるまでには、次の目的地である《ホルンカ》にたどり着くはずだとアルゴは言う。

 もちろん、速さを求めたぶん安全からは遠ざかるようなルートでの話だケド、とも。

 

「シュウ兄、武器防具その他、不備はないナ?」

「おう」

 

 腰に下げたカトラスの柄に手を当てて頷く。

 俺はこの機に、アルゴに見繕ってもらって装備を一新した。キリトたちと動いていたときに溜まったアイテムをほぼ全て売却し、現状で入手でき得る最も優秀な装備で身を固めた。

 特に武器は、曲刀を使い続けるとカタナというスキルが発現するらしいとアルゴが言っていたことをきっかけに初期装備の片手直剣を売り払ってまで新調している。カタナって憧れるよね。

 

「確実な情報ってわけじゃないんだけどナー」

「可能性があるなら賭けるのが俺だよ」

「絶対ギャンブルには手を出すなよシュウ兄」

 

 失礼だな。分の悪い賭けはしない主義だぞ。

 

「というか、なんだシュウ兄って」

「なんとなくだヨ。面倒見良さそうというカ、世話好きというカ。その感じ、オニーサンって感じするとおもっテ」

「よくわかったな、弟がいる。年はちょっと離れてるがな」

「今のは聞かなかったことにしといてやろウ。あんまりリアルの話はするもんじゃなイ」

「じゃあ本名で呼ばないでくれる?」

「そういうとこだゾ?」

 

 そんなことを話しながら、はじまりの街の大門にたどり着く。スキルの組み合わせも、アルゴに教わりつつ最短でキリトに追いつくよう設定し直した。といっても、レベルが低いので2つまでしか使えない。《隠蔽》でとにかく人目にもモンスターにも見つからずに駆け抜ける。どうしても避けられない戦闘もあるかもとのことで、そのときのために戦闘用スキルの《曲刀》も忘れない。

 

「さて、行こうか」

「ン」

 

 目指すはホルンカという町。村? どちらでもいい、とにかくそこが目指すべき場所のはずらしい。第1層では有用なアイテムが手に入るクエストがあるとかなんとか。

 

「──と、その前に」

「なんだヨ、忘れ物カ? それとも催したカ」

「おい女子」

 

 恥ずかしげもなくそんなことを言うんじゃありません。あと催してもないわ。そもそもこのゲームで催すことってあるのか? 

 

「キリトにメッセージ送っとこうと思って。夜ってことは宿だろ、会うの。場所知らないと合流できん」

「その抜け目なさは情報屋なんだけどナァ」

「なんだよ」

「いーや、なんでもないヨ。ほら、行くゾ!」

「おわ」

 

 ぐいと手を引いて、アルゴは満月が照らす草原に踏み出した。待て待て、まだメッセージ送れてないんだけど。俺そういう操作に慣れてないから歩きながらとかできないんだけど? 

 初心者ってことを知ってるはずの──いや、知ってるからなのか、アルゴはずんずんと進んでいってしまう。……俺の手も引きながら。

 あんまり急ぐと転ぶぞ。俺が。

 

 

 

 

 

 

《森の秘薬》というクエストがあるそうだ。

 片手用直剣を使用するプレイヤーで、なおかつベータテスターであるならば十中八九それを受注するはずだとアルゴは言う。クエストの報酬がなかなかのもので、ここで手に入れておけばしばらくは装備を変える必要がなくなるほどであるとも。それもっと早く言えよ。それなら曲刀にしなかったぞ俺。

 そう追求すると、

 

「でもカタナは取れないゾ」

 

 とのこと。うむ、やっぱ曲刀だな。言い募って悪かった。

 ホルンカまでの道のりは、そこそこ順調といえた。聞くところによると蜂だの捕食植物だのと見た目で危険だと判断できるモンスターが湧くらしく、さらには毒だなんだと状態異常を与える特殊性も備えだすとか。草原を抜けて森に入るころにそんなことを聞かされれば、慎重にならざるを得ない。等身大の毒蜂とか怖すぎる。「だから隠れるんだヨ」というアルゴの言葉と慎重さが、非常にありがたかった。

 ところが、やはり弊害もあるわけで。

 

「シュウ兄、そっちいっタ!」

「あいよ!」

 

 明かりの差さない森の闇から、キシキシと嫌な音がする。うっすらと判別できる影から、触手のようなものが伸びているのが見えた。

 

「正面ダ!」

 

 アルゴの声を頼りに、カトラスを肩に担ぐように構える。一瞬のタメののち、オレンジの光が微かに森を照らした。

 わずかに見えたのは、丸い頭部にパックリと割れて鋸のような歯の並んだ巨大な口。触手が波打つように蠢く。《リトルネペント》とアルゴは呼んでいた。森に入る前に説明のあった捕食植物型モンスターだろう。これはキモい。キモすぎる。

 

「──せい!」

 

 頭を狙う、鞭のように横薙ぎに振るわれる触手に向けて肩に担ぐように構えたカトラスを振るう。バチンと鈍い音がして、奴と俺と、お互いの体が離れるように弾ける。

 

「スイッチ!」

 

 俺の声とほぼ同時にアルゴが後ろから飛び出す。短剣に淡い光を纏わせて、駆け抜けざまに一閃。敵の頭が重い音をたてて落ちた。

 残光が視界を焼き、そしてガラスが砕けるような音とともにさらに大きな光がはじける。耳障りな断末魔を最後に、森はまた静寂を取り戻した。

 

「ヨシ、進もうカ」

「……アルゴ?」

「ン?」

 

 何事もなかったように進もうとするアルゴを呼び止める。足を止めた彼女は、振り向きつつ首を小さく傾げた。

 

「どしタ、シュウ兄」

「どした、じゃないよ。なんだ今の」

 

 さっきまで奴がいた空間を指さす。もう影も形もないが、そこはそれ、雰囲気だ。それよりも重要なことが今はある。

 

「隠蔽が全く効果なかったみたいだけど?」

 

 隠蔽というスキルは、読んで字の如し、隠れるスキルだ。それを使用するということは、俺はモンスターの感知の外側にいることになるはずなのだ。だというのに、あの《リトルネペント》はスキル発動中の俺を認識していた。あまつさえ攻撃まで仕掛けてきた。

 見つかったナ、と呟いて先制攻撃を加えようと構えたアルゴではなく、《隠蔽》でその横に身を潜めていた俺を狙って。その後も、狙われていたのは俺だった。

 これはどういうことか。

 

「ああ、そのことカ。奴の頭、見たカ?」

「デカい口しかなかったが?」

「てことは目もないだロ。そういうこっタ」

「そんなんアリかよ……!」

 

《ネペント》は視覚以外で敵を捉えることができるモンスターだということ、そして《隠蔽》は視覚にしか作用しないこと。つまりそういうことだと言う。特殊が過ぎないか。まだ第1層だぞ。

 

「だからほら、オレっちは《隠蔽》じゃなくて《索敵》を取ったんダ。見つかるより先に見つけようと思っテ」

「なら俺も《索敵》にしたほうがよくないか?」

「ふたりで同じモノ持ってても意味ないダロ。基本オイラが先導するんだし、対応が早いに越したことはなイ」

 

《鼠》の逃げ足を舐めるなヨ、と強気なのか弱気なのかわからない言葉を放ちながら、アルゴはさらに獣道を森の奥へと進んでいく。……《隠蔽》に頼りすぎてもいけないという教えなのだろうか。意外とスパルタだな。

 

 

 

 

 その後も何度か戦闘を行い、そのたびにノウハウを叩き込まれながらようやっとホルンカへと辿り着いた。

 どうやら村の中は圏内の設定らしい。建物の数や質──と言うとなんだが、ボロさはどうやってもはじまりの街のそれとは比べるまでもない。向こうが石やレンガでずらりと建てられていたのに対し、こちらは木造が多く見られ、建物の配置もまばらだった。だが、きちんと拠点としての機能は持っているゾ、とアルゴは明らかに気の抜けた声でそう言う。じっさい、村の中にモンスターが入ってくる様子はなかった。

 

『赤い屋根の二階だ』

 

 キリトから、その数棟しかない家屋の一室をしばらく借りているのだと連絡があった。宿屋として売りに出していなくとも部屋を借りることができるらしく、訪れた家は商いとは無縁の民家だった。

 アルゴによれば《森の秘薬》も同様で、あからさまなクエスト表示や宿屋表示がないものでもシステムとしては存在するそうだ。ゆえに知る人ぞ知る隠れたポイントであり、それをこの段階で既に気づくというのは相当な幸運か事前知識の賜物であるに他ならないという。

 部屋を訪ねてドアをノックする。あらかじめ伝えていた独自のリズムで扉を叩くと、鍵の動く音がした。

 

「はいはーい!」

 

 快活な声とともに扉が勢いよく開かれる。そうして俺を迎えてくれたのはしかし、キリトではなく見知らぬ少女だった。



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はじまりの日ー3

 男の友人を訪ねた部屋で、見知らぬ少女に出迎えられた。

 

「はじめまして、ボクはユウキっていいます! よろしくね!」

 

 俺の戸惑いをよそに、さあさあどうぞと部屋に招かれ、ソファに座らされ、お茶を出してもらい、自己紹介まで。至れり尽くせりはありがたいが、ちょっと待って欲しい。俺のほうで整理が追いつかない。何が起こったというんだ。

 

「オレっちはアルゴってんダ。よろしくナ。こっちのデカいのはシュウ。お兄ちゃんって呼ぶと喜ぶゾ」

「コラ待て」

「アルゴに、シュウだね。よろしく!」

「おう、よろしく──じゃなくて」

 

 無垢な笑顔で求めてきた握手につい応じてしまったが、そこでどうにかストップをかけた。ふたり揃って首を傾げるんじゃないよ。

 

「キリトは? メッセージは送ったはずなんだけど」

「あ、キリトなら」

「ただいま。ほらユウキ、メシ──お、シュウ」

 

 ユウキが言いかけたところで、俺たちが入ってきた扉から新たに現れたのは、今度こそ紛れもなくキリトだった。

 

「説明求む」

 

 ユウキを示しつつキリトにそう言うと、苦笑しつつ俺の向かいに腰を下ろした。

 

「それはお互いに、だな。俺のほうもそうだけど、シュウのほうでも何かあったんだろ?」

 

 言って、アルゴに視線を向ける。そこからお互いの情報交換が始まった。

 アルゴと会い、情報屋として動こうと思ったこと。そのためのコネクションとして、まずは俺の知るフロントランナー、つまりキリトとの接点をはっきりと持つためにここに来たこと。

 俺たちのぶんだと渡された晩メシの黒パンをもさもさと食いながら、これまでの経緯を話す。ありがたい、腹減ってたんだ。

 

「俺のほうはそのくらいかな」

「……アルゴって、もしかして」

「《鼠》だヨ」

「やっぱりか。聞き覚えはあったよ。5分も話せばネタをひとつ抜かれてるって噂だった」

「誰だ、そんな噂立てたのハ。ちゃんと裏を取ってから売ってるんだゾ」

 

 否定はしないのかよ。というか、お互い名前なら聞いたことはあったのか。どうなってんだ、こいつら。確かベータテストって1000人もいたって聞いたぞ。その中で抜きん出たってのか。

 

「なになに、ふたりとも有名人なの?」

「らしいぞ。前のゲームですごく強かったって」

 

 ほえー、とわかったのかわかってないのかイマイチ伝わってこない呆けた声を出しながら、ユウキはもくもくとパンを食べていた。

 

「だからかー」

「なにが?」

「キリトってば、すっごく強いんだよ。ボクが森で気持ち悪い敵に囲まれてたとき、ズバズバズバーって助けてくれたんだ」

「ソレ、《リトルネペント》カ?」

「うん、たぶん。キリトがそんな名前を言ってた。だよね?」

 

 ユウキの言葉に、キリトは苦笑いして頷く。

 

「《実つき》だ。あの集まりかたはそれ以外にない。知らないと割っちゃうんだよな、あれ」

 

《実つき》。アルゴの話によると、ホルンカで受けられるクエストの壁とも言えるモンスター。《花つき》が討伐対象とされるが、それに付随して現れる厄介な奴だと聞いている。誤って実を割ってしまうと、周囲にいる同種のモンスターを集める習性があるとか。

 キリトは、知ってて割る奴もいるけどな、と苦笑いしたまま、

 

「無我夢中で狩り倒してたら、ちょうど三対一のところに出くわしてさ。巻き込んじゃったなと思って助太刀したんだ」

「『後ろは任せた!』って叫んだんだよ。ボクびっくりしちゃって。そんで、剣を光らせてずばばばーって。凄かったなー」

 

 ユウキは身振り手振りを交えてキリトの大立ち回りを演じてくれた。窮地に現れたヒーローを見たかのように。

 

「『後ろは任せた!』、ネ」

「やめろ」

「助太刀致す! ってか」

「やめろぉ!」

 

 なんでだよ。カッコいいじゃんか。俺も言ってみたいわぁ。

 それにしても、知ってて割るって言ったか。こんな序盤で、あれほど特殊なモンスターをわざわざ集める必要があるのだろうか。そう簡単にレベルは上がるようにはなってないし、上がったところで1レベルくらいならそれほど差は出ないとも聞く。ならば強さの差はないはずで、そうなると実を割った本人だって危うくなるんじゃないのか。

 そんな俺の疑問は、さすがと言うべきか、アルゴも同様に抱いたようだった。

 

「ナァ、キー坊」

「き、え、なに?」

「キリトだからキー坊ダ。それより、聞きたいことがあル。さっきキー坊が言った、知ってて実を割る奴のことダ」

「あー……」

 

 うん、と尻すぼみに小さく頷いて、キリトは頬をかく。「言いたくなければいいゾ」というアルゴの言葉に首を振り、聞いてくれるか、と返した。

 簡単に言うとな、と前置きして、ぽつりぽつりと話し始める。

 

「……MPKだ。モンスター・プレイヤー・キル。自分の手でプレイヤーにダメージを与えることなく、相手を殺す方法。それを、《実つき》を割ることで実行しようとした人がいたんだ」

 

 自らの手でプレイヤーにダメージを与えると、頭上のカーソルカラーが緑から橙へ変わるという。それをオレンジプレイヤーと言い、ゲームシステムが犯罪者とみなすのだとも。

 そうなってしまうと、行動にかなりの制限がかかるそうだ。そもそも圏内に入ることが許されなくなる。HP全損が死に直結する世界で、それは事実上の追放、システムの庇護を得ることがなくなる。

 それを避けるために生まれたのが、MPKという手法。

 

「実を割ると周囲のネペントが集まるって話はしたよな。実際にどれほどの範囲かは知らないけど、ベータのときはレベル2か3のプレイヤーが4人はやられてる。1匹1匹はどうとでもなるけど、それが大量に集まって同時に攻撃してくれば、助かる道はほとんどない」

 

 それでも生き残れたのは、ひとえにユウキのおかげだ。そう言って、キリトは頭を下げた。

 

「改めて、礼を言う。背中が安心だった」

「いやそんな、ボクもおこぼれはもらったし。それに、その人は助けられなかったしね」

 

 キリトとユウキが生き残り、しかしそのMPKを企てたというプレイヤーはこの場にはいない。ということは、そういうことなのだろう。キリトが、悲鳴とポリゴンの爆散する音を聞いたらしい。

 

「……抜け道なんてないんだ。《隠蔽》を使って、彼はその場を離脱しようとした。けど──」

「ネペントには効かない、だっけか」

 

 それは身に覚えがある。アルゴのスパルタ講座で学習した。口しかない、ゆえに目も耳もなく、()()()()()()だけでは意味がない。

 キリトは力なく頷いて、乾いた笑いを浮かべた。

 

「知らなかったんだろうな。知ってれば、絶対に実を割ろうなんて思わない。まだレベルも装備も敵と同じくらいの強さのところだ、やられることはわかりきってるのに。……ばかだよ、あいつは」

 

 しん、と部屋が静まりかえる。ユウキが小さく、そっか、と声に出した。

 

「……情報の提供に、感謝すル」

 

 なんて声をかけたらいいかわからずに黙った俺の隣で、アルゴが身を乗り出す。

 

「後続のプレイヤーに伝えるゾ。特に初心者ダ。『《リトルネペント》の実を割れば、自分もろとも滅ぼす』とナ。情報屋としての初仕事ダ」

「……ああ、頼む」

 

 同じ轍を誰にも踏ませないために。

 アルゴは、力強く頷いた。

 

 

 

 

 

 

「そういえばさ」

 

 とりあえず食べかけだったパンを食べきってから、ユウキが思い出したように切り出した。

 

「キリトが言ってたクエストって何がもらえるの?」

 

 ……ん? 

 

「同じクエストを受けてたんじゃないのか?」

「ボクなんにもしてないよ。この村に来るときに襲われて、助けてもらって、宿がよくわかんなかったからもっかいキリトを見つけたときにおんなじとこ泊めてーって言って、そのまんま」

 

 キリトを見ると、知らなかったと言わんばかりに首を横に振っていた。

 

「一緒に来たわけじゃないんだよ。俺だって、ネペントを無心で狩ってたときにいつのまにか巻き込んじゃってたからすごく驚いたんだ」

「てことは、ダ。自力でこの村にたどり着いたってことカ?」

「そういうこと、なのか?」

 

 俺たち3人はどよどよと額をつき合わせる。この村特有のクエストを知らないで、初心者プレイヤーがホルンカにたどり着くことがあるのか。

 俺が聞いた限りでは、ここは隠された場所というわけではない。攻略の順番があるわけでもなく、そういう意味で立ち寄る必要があるわけでもなく、けれど知っているなら立ち寄るべきという場所だ。

 つまり、前情報なしに訪れることだってじゅうぶんに可能だし、その可能性だって大いにあり得るのだ。

 

「何人かのプレイヤーがあのチュートリアルの前からこっちに行こうとしてるのを見て、ずっと何かあるのかなーって思ってたんだ。それで来てみたら、村があったから。ここのことだったのかな?」

「それって、キリト」

「ほぼ間違いなくベータテスターだな。そんなに早くからここが露見するはずないと思う」

 

 周りをよく見ている。その洞察力の結果なのだろう。加えて、ひとりでここまでたどり着くだけの実力も備えているということでもある。

 

「こりゃとんでもないルーキーだナ」

 

 初日の、ましてあんなチュートリアルの後でベータテスターとほぼ同等の進行をするプレイヤーがいるなんて思わなかった。見たところ、中学生になるかならないかというところだ。しかも女の子が、なんて誰が想像できるだろう。

 アルゴの呟きが、満場で一致した心情だった。

 

「でさでさ、なにがもらえるの?」

 

 だが当の本人はそれに頓着することなく目を輝かせる。再び視線を交わし合い、──少しだけ安心したようにベータテスターたちは笑うのだった。

 

「《アニールブレード》っていう、片手用直剣だよ。ほら、これ」

 

 言って、キリトはアイテムストレージから赤鞘の剣を取り出す。興味本位で持たせてもらったら、かなり重い。だが、それがいいんだと持ち主は笑った。

 

「おー、かっこいい! ボクもこれ欲しいなー。ねね、どうやったら手に入るの?」

「えー……と、だな」

「村の奥の民家で、女性のNPCに話しかけるんだヨ」

 

 言い淀むキリトに、アルゴの助け舟。ついでに、俺も少しだけ。

 

「やるのはいいけど、明日にしないか? もう夜も遅いし」

「ん? そっか、そうだね。そうしよ!」

 

 さすがに今すぐなんて、体力的にもそうだがキリトの精神面で不安がある。じっさい、キリトは俺の提案に快く頷いたユウキを見て、露骨にほっとしていた。

 

「ま、シュウ兄は寝かせないけどナ」

「え」

「お」

「あ?」

 

 急になに言い出すんだこの鼠は。ニヤニヤすんな。おう2人とも、俺とアルゴを見比べるんじゃないよ。なに想像してやがる。

 

「おいおいシュウ、まさかそのために始まりの街に残ったのか?」

「違う」

「いやー、運命的な出会いだったナ」

「こらアルゴ」

「え、え、ふたりはそういうゴカンケイ?」

「ほらユウキまで変なこと言い出した!」

 

 顔真っ赤にしてまでこの話題に踏み込んでこなくていいから。キリトもニヤニヤすんな。

 

「そんなんじゃないから。仕事だ、仕事」

「つれない相棒だナ」

 

 部屋を出ようとする俺に、やれやれとアルゴがついてくる。こっちのセリフだよ、まったく。

 

「また明日ね!」

 

 ユウキの、もうすでに俺たちの存在が同行予定に組み込まれた言葉に苦笑しつつ、部屋を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「後続に伝えるとは言ったものの、どうやって伝えるつもりでいるんだ?」

 

 小さな村の武器や防具の店を確認しつつ、アルゴにそう問いかける。

 うろうろしているうちに、何人かのプレイヤーとすれ違うことがあった。もう日付もそろそろ変わろうかという時間になってようやく見かけるようになったことを考えると、キリトはかなりのスピード攻略をしたのだろう。そして、それに追随するのが初心者の少女であるというのが驚きだ。改めて、とんでもない奴らと知り合いになったもんだとしみじみ思う。

 

「それはもう決めてあるヨ。攻略本ダ」

 

 道具屋を覗きながら、アルゴはあらかじめ考えていたという今後の方針を話し始めた。

 曰く、攻略本を作成する。

 曰く、情報共有の場は道具屋を主とする。

 曰く、攻略に必要な情報は包み隠さず、しかし情報元は隠匿する。

 

「道具屋に委託することで、アイテムの取引内容に攻略本を追加させることができル。もちろん、()()でダ。これで情報の共有が計れるダロ。現状なら回復ポーションなんかは買う以外に入手するのは難しいからナ、道具屋を覗くのは必須のはずダ」

「情報元の隠匿ってのはあれか? ベータテスターへの配慮か」

「と同時に、初心者への注意喚起だナ。ベータテスターだからってなんでもかんでも知ってるわけじゃなイ。だからあくまで、オレっちが集めた情報であることを強調スル」

 

 話に聞いた、コペルがそうだったようにか。そう聞くと、アルゴはこくりと頷く。

 

「誰がベータテスターで誰がそうでないか、はっきりとは知らなイ。だが、聞き覚えのある名前や口調はもうすれ違った何人かから聞こえてきていル。攻略で先行しているのはほとんどがベータテスターのはずダ。そして、フロントランナーは情報の所持量が多イ。つまり──」

 

 ──情報の独占は、ベータテスターでしか起こりえなイ。

 

 そうなったら、後はわかるだろウ? 

 ため息混じりにそう言って、道具屋でいくつかの買い物をしたアルゴは何も言わずに俺の手を引き、森へと入っていく。すぐにフードを被ってしまったから、その表情まではわからなかった。

 アルゴの言わんとすることはわかる。……わかるけど、だからってそれをアルゴひとりで引き受けるのはつらくないのか。俺の名前だって引き合いに出していいのに。

 

「……なあ、アルゴ」

「どしタ」

「いや……なんでもない」

「なんだヨ」

 

 だがそれを言っても、アルゴは納得しないだろう。《鼠》の名のみで出したほうが、少なくともベータテスターは信用する。彼らが信用すれば初心者も信用に値すると考えるはずだという芋づる式を期待した予想は、あながち間違いじゃないと思えるからだ。

 だが、失敗したとき。情報が間違っていたとき、そしてそれが広まってしまったときに、俺の手を引くこのプレイヤーはどうなるのか。

 それを思うと、足に重しがついたように歩みが遅くなる。

 

 

 

 

 

 

 メッセージの着信音で起こされると、まだ太陽が地平線から顔を出して間もない頃合いだった。昨夜は結局、村とはじまりの街を二往復していろいろ話をかき集め、眠れたのは四時ごろ。アルゴに引き摺り回され、情報屋のなんたるかとベータの情報をありったけ叩きこまれた。宣言どおり、寝かせてくれなかったわけだ。

 

「……なんだってんだ」

 

 送り主はユウキだった。この朝早くに起きてることも驚きだが、それよりもその内容に驚いた。

 

『ソードスキルってなに?』

『……知らんの?』

『キリトはまだ返事なくて、アルゴに聞いたら、シュウが教えてくれるって!』

『いやまぁ教えられるけども』

『ほんと? じゃあ行こう!』

『え、今からですか?』

『うん! 昨日のキリトがやってたクエスト、受けてきたよ!』

 

 マジかよはやいよ。寝かせて? 

 

 

 

 

 

 

 そうして、デスゲーム開始から2週間が経過した。

 黒鉄宮の《生命の碑》には閉じ込められた全プレイヤーの名前が刻まれている。このうち、横線が上書きされている名前があった。それはこのゲームからログアウトした──すなわち命を落としたことの証左だという。

 その横線の数、およそ九百。

 もう少しで1割にも届こうかという犠牲者がいるなかで、100層もあるこの鋼鉄の城はただの1層さえもクリアされていない。



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隠しログアウトスポット

 たとえどれだけ絶望の淵に立たされようと、その環境が続けば人間とは慣れる生き物らしい。もしくは、前向きでも後ろ向きでも、受け入れられる器を用意できるのか。

 二週間前、悲鳴と怒号であふれていた始まりの街は噴水広場。いちどは人っ子ひとり見えない寂しさがあったが、一週間も経てば人がちらほらと見え、今や和やかに観光地のような様相を呈していた。

 といっても人数は初日に集められた半分もいないし、プレイヤーのほとんどが男である。その賑やかさは観光というよりも、ちょっと外出て敵mob狩って、稼いだお金で酒を飲む、というある種サラリーマン的な活動が多いように見える。発売した時期が時期だけに大学生やそれ以上の年代が多いのか、活動内容も似てくるものらしい。ということは飲み屋街のそれに近いか。

 なかには大門の近くでパーティメンバーを募集して、今からでも冒険に行こうというプレイヤーも少なからずいる。俺が噴水広場のベンチで待機しはじめた一時間前から、四人組ないしは八人組が何度となく入れ替わるように出入りしていた。

 

「たっだいまー!」

「おう、おかえり」

 

 ゲーム内の天候はある程度、現実準拠らしい。が、それでもときどきはランダムに異常気象が発生するようだ。これから冬となるはずの日付ではあるが、今日の天候設定は冬を越して春になろうかという温かな気温だった。かといって春一番が吹くわけでもなく、雲ひとつない青空から穏やかに日差しが降り注ぐ。

 そんな眩しさを背に、さらに眩しい笑顔を携え、ユウキはベンチで人を待つ俺の前に現れた。

 

「へへー、どう? これ」

 

 そう言って、新たに買ってきたのだというヘアバンドを示す。明るめで薄い黄色のそれは、アイテムのランクが低いからなのだろうが、やけに安っぽく感じた。だが当人はそこそこ気に入っているらしく、「ねね、どう? どう?」と感想をせっついてくる。

 

「うん、いいんでないの」

 

 あんまり女性関係に強くないのでそういった月並みな感想しか出なかったが、ユウキはそれでも満足げに頷いてくれた。

 

「でしょー!」

 

 黄緑と迷ったけどこっちにしたんだとか、実は赤とか紫色とかも好きなんだけど残念ながらなかったとか、そんな話をしながらユウキも隣に座った。当たり前だけど、ユウキも女の子なんだなぁ。

 

「ところで、今日の待ち合わせの人ってそろそろくるんだっけ?」

「その予定だな」

 

 俺は待ち人とふたりで会う予定だった。ほんとうなら三人分の席を設けるつもりでいたのだが、俺以外の二人がやけに腰が引けていたので仕方なく一対一で会うこととなったのだ。

 ……という話をどこからかユウキが聞きつけて──十中八九アルゴからだろうが──ならボクが行く、と名乗りをあげたのだった。理由を聞くと、それはもうシンプルに、面白そうだからと返ってきた。

 

「キリトの弟子で、シュウの先輩なんだよね? つまりシュウがいちばん下っ端」

「下っ端言うな。誰だそんなこと言ってんの」

「アルゴだよ?」

「でしょうね!」

 

 そんなことを知ってるのも言うのもアルゴくらいのものだ。これでキリトの言だったならかなり驚く。

 あと下っ端じゃないから。対等だから。

 そんなことを話していると、やがて待ち人は現れた。

 

「おおシュウ、待たせて悪いな」

「来たか、クライン」

「はじめましてー!」

「ユウキちゃん、だっけ。話には聞いてるぜ、よろしくな」

 

 

 

 

 

 

 簡単に自己紹介を済ませたあとは、アルゴと手を組むことにしたときのカフェへ移動した。街の端にあるからあんまり人目もなく周りへの警戒を普段より緩められるというのと、その店のテラスから見下ろせる景色が気に入っているというのとで実はちょこちょこ訪れている場所でもある。これでコーヒーの味がよければ文句なしなのだが、美味しいと感じたことは一度もない。苦味が強いだけで美味しくないのだ。ひょっとすると人気のなさはこれが要因の一つかもしれない。

 だがそれ以外に飲み物といったら水か自前の回復ポーションくらいしかないし、ポーションのほうは実用するタイミングも多いのでもったいなくて飲めない。となると水しか飲むものはないわけだが。

 

「……ぅえ」

「なんだコリャ」

 

 ユウキとクライン、ふたりして水を口にしたとたん顔をしかめた。

 

「なにって、水だよ」

「ただの水がこんなに不味いわけねえだろ」

 

 ただの水ったってゲームだぞ。液体表現がちゃんとできてるだけでもすごいことだろうが。まして味覚に訴えてくるんだぞ。

 まあそうは言っても不味いものは不味い。それは確固たる事実だし、俺も認める。

 口直しが欲しかったのか、そっちのちょーだい、とユウキは俺のコーヒーに手を伸ばす。そっちのほうが不味いぞと止めたのだが、それでもユウキはひと口を含んだ。

 

「ん!」

 

 とたんにとんでもなく酸っぱいものを飲んだみたいに顔をしかめて、なにかを求めるように手を彷徨わせる。うっすらと目に涙を溜めてまで不味さに耐えていたので口直しにポーションを渡してやった。言わんこっちゃない。

 

「うー、ありがと」

「そんなに不味いんか。シュウおめえ、よく飲めるな」

「俺だって全部は飲まないよ。ただ眠気覚ましに即効性あるから」

 

 カフェインとかじゃなくて、味覚への暴力だけど。ただそのぶん、効果に関しては折り紙付きだ。口の中はともかく、不味さでしっかりと目が覚める。アルゴと駆け回って集めた情報の整理をするときなんかは案外役に立つのだ。

 

「そんで、今日はなにか聞きたいことがあるんだっけか?」

 

 アルゴで思い出した。そもそも今日は、クラインが確かめたいことがあるというのでこうして席を設けたのだ。

 どうやら水すらも飲む気にならない様子のクラインは、おうそうだった、と居住まいを正した。

 

「あのよ、ちっと小耳に挟んだんだが。迷宮区に挑み始めたってほんとか?」

「ああ、その話か。本当だ。おとといあたりだったかな」

 

 次層へと伸びる円柱の塔、通称は迷宮区。その最上階にいるボスを倒してその層をクリアとし、次のエリアへと進むことが可能となる。その第一歩を、二週間もかけてやっと俺たちは踏み出していた。

 

「まだ入り口からいくらも行ってないし、なんたってほら」

 

 言いながら、頭上に透ける天井を指差す。

 

「あれだけ高いところまで登るんだ、あとどれだけかかるかわからない」

「……遠いね」

 

 ポーションの瓶を両手で口につけながら、ユウキは首を九十度くらい曲げて真上を見た。それやるとポーション全部流れてきたりしないか。大丈夫か。

 俺の心配をよそに、ほけーと見上げていたユウキは、でもさ、と視線を下げる。

 

「遠いけど、やるしかないんだよね?」

 

 確認をするだけのような質問の口調に、あくまで俺の推測だけどなと頷いた。

 

「チュートリアル以来、音沙汰なしだからな。一万人を閉じ込めて、あまつさえその全員を殺しかねないなんてニュースを警察が許すことはないはずだ。まして、ナーヴギアを開発できたんだから解除もできるもんだとは思うんだけど、そういった動きも見当たらない。茅場の言うとおり、外部からの支援はあり得ないと思ったほうが吹っ切れる」

 

 たぶん、そうやって広場に顔を出すようになった人たちは心の整理をつけている。野良パーティを自分で募集してみたときに何人かと話をしたことがあるが、大多数はそういう考えだった。

 待つだけというのも疲れるものなのだそうだ。

 

「それにほら、その大量幽閉犯が自分で言ってるんだ。このゲームをクリアすれば終わるって。なら、少しでも動かないと」

「ポジティブだな、おめえは」

「そう思ってないとなにもできないだろ?」

「そりゃそうだ」

 

 違いない、と笑って、クラインは手近なコップを手に取ってまた置いた。たぶん飲み会とかの雰囲気で飲もうとしたんだろうが、その不味さを思い出したんだろう。少しハッとしたような表情をしていた。

 

「それでよ、シュウよ。その……元気か、アイツ」

「アイツ? ……ああ」

 

 ひと息入れると、クラインが小声で、意を決したように身を乗り出してきた。

 少し考えたが、俺に対してアイツで通じる知り合いなどひとりしかいない。迷宮区に一番乗りした二人組の片割れ。

 

「ピンピンしてるよ。今日も元気にマッピングしてるんじゃないの」

「そ、そうか。そらよかった」

 

 キリトの現状を教えてやると、クラインはあからさまにほっとしていた。そんなに意気込むような話じゃないと思うけど。フレンドリストとかで確認したり出来なかったか。ていうか、

 

「メッセージ送ればいいじゃん」

「バッカお前、それができたら聞いてねえよ」

「えぇ……」

 

 ポンと手軽に送信するだけだろう。『元気でやってるか』とかそんなのでいいと思うんだけどな。不器用か。

 今日だって会うって話をせっかくつけたのに、「やっぱやめないか」とか日和ったメッセージ飛ばしてくるんだもんよ。キリトもキリトで首を横に振るしな。

 

「まさかとは思うけど、今日の目的ってキリトの話だったりするんか」

 

 もしそうなら、なぜ腰の引けた反応をした。素直に顔合わせればよかっただろうに。

 俺の疑問に、クラインは首を縦に振ろうとしたのか横に振ろうとしたのか、ぎこちなく首をかしげた。

 

「いやまあ、全部じゃねえよ。噂の確認とかもしたいし。でもほら、心配じゃんか」

 

 ひとりで行かせちまったからよ、と。ずっと気にかかって仕方なかったのだと、クラインはそう言った。

 見た目が高校生かそれ以下のような、大学生からも社会人からも見ればまだ子供と思える風貌の少年を、このデスゲームが始まってすぐにひとりで送り出してしまったのだ。

 本当なら、首根っこを掴んででも行かせないでおくのが正解だったはずだ。道も敵も知っているとはいえ、ひとりじゃどうやっても限界があるはずなのだから。

 

「あんな寂しそうに背中見せられちゃあよ、気にしないなんてできねぇだろ」

 

 結局あのとき、キリトは振り返らなかった。クラインは寂しげだと言うが、それでもなにかしらの強い意志が彼にはあったのだ。だがそれは、クラインにも同じことが言えるはずだ。

 

「でも仲間との合流もしなきゃいけなかったんだろ。それはキリトもわかってると思うぞ」

 

 それに、それを言ったら、俺がいちばん半端なことをしている。

 確実に知り合いではないけど、それによく似た人がいたからというふわっとした理由で彼らふたりともまた違った道を選んだ。しかも結局、当人は見つからなかったのだ。あのときの俺の選択はなんだったのかと。強引にでも、俺に同行してもらったり、あるいは俺が同行することはできなかったのかと、そう思わずにはいられない。

 

「それならおめえもだよ。気にしすぎんな」

 

 クラインの言葉に、思わず顔をあげる。

 

「……わかった?」

「わかるさ。大人なめんな」

 

 クラインは、ぴっ、と俺に指を突きつける。

 

「ていうか、あんな別れ方しといてさっさと合流できてることの方が気になるぜ、オレは。もうしばらくは会えない覚悟でいたんだがな」

「なりふり構ってる場合じゃないだろ」

「そうかもしれねえけどよぉ」

 

 キリトたち前線の攻略を助けるためにも、クラインたち後進の生存を助けるためにも、俺のような中間は必要なはずなのだ。そのためにはとにかく俺の顔が広くなきゃいけない。知り合いなんて数えるほどしかないのだ、そんな覚悟は捨ててでも動かなきゃ。

 

「ケンカとかしてたの?」

 

 話の見えないだろうユウキが首をかしげる。まるでケンカ別れでもしたかのように聞こえたのだろうか。まあそう聞こえても仕方ないような言い方はしたかな。

 だがクラインが言いたいのはそういうことじゃないんだ。

 

「いや、違うよ。別れ際にいい格好しただけ」

「なら別にいいんじゃないの? 会っても」

「それがそうはいかないんだよ。男の憧れとか意地みたいなものが関わってくるんだ」

 

 カッコつけて別れておいて、そのすぐ後にひょっこり顔を見せるのはなんか格好悪いじゃんか。せっかくだから長めに期間を空けて、「お互い強くなったな」とかそういうのがやりたいんだよ。俺が半分くらいぶち壊したけど。

 そういうことだろ、とクラインに視線を交えると、こくこくと頷いていた。

 

「そういうもの?」

「そういうものなの、男ってのは」

「ふーん」

 

 世の中全ての男がそうとは限らないけど。少なくともクラインはそうだし、俺もそのカッコよさがわかる環境にいたので、そういうことにしておく。

 ユウキにはいまいちピンとこなかったらしいが、ひとまずはそういうものとして納得してくれたようだった。

 

「だってのに、こいつはすぐ連絡よこすわ顔は出すわ、オレの覚悟がズタボロだぜ」

「いつの間にか死んでました、なんて怖いだろ。それにほら、心配してそわそわするより知り合いが近くにいるほうが安心するだろうしな?」

 

 そういう意味では、今日のこの会合は意味があったと言える。ユウキとクラインの顔見せはできたわけだし。

 

「そうだけどよぉ、なんつーかこう、なあ」

 

 だがやっぱりこだわりたいところではあったようで、クラインは素直に頷いてはくれなかった。ちらちらと俺を見るんじゃないよ。わかるけども、言いたいことは。同じ男だもんな。だからそれは、偶然キリトと会ったときにでも活かしてくれ。俺は見届けてやるから。その場にいたらだけど。

 

「それで、キリトの消息を教えた対価なんだけど」

「急にきたな、おい」

「や、とりあえず今はお前の矜恃よりもさっきちらっとこぼした噂のほうが気になるなって。それを教えてくれれば情報屋としては支払いとしてとんとんにしてやろう」

「お前、がめつくなったのは鼠仕込みだな?」

 

 失礼な。アルゴほどがめつくないぞ、俺。もちろん、クラインのプライドに少し傷をつけたという意味でお安くもしておくしな。とりあえずここの支払いは割り勘でなく俺が持とう。

 だが、クラインの知る噂は、なんならお釣りを渡してもいいかもしれないと思わせるような代物だった。

 

「まあいいけどよ。──隠しログアウトスポットがあるってのは、本当か?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 始まりの街の外、西側の森の中に、洞窟がある。深い洞窟で、そもそも森自体が深いものであるがゆえに見つかりにくい場所だという。その森は、隠しログアウトスポットと噂されているそうだ。それも、ある意味で信ぴょう性のある理由でもって。

 ひとつには、その洞窟を訪れて()()()()()()()()()()ということ。洞窟の場所は知っていても、中がどうなっているのかを知る者はいないらしい。帰還者がいないという事実が、ログアウトへの期待を高めている。

 そしてもうひとつに──噂の発端が、《()》であるということ。

 

「つっても、オレも人づてで聞いた話だし、その教えてくれたヤツなんて街でそういう話が聞こえてきただけらしいぜ」

 

 だから、本当に噂話の発端が鼠なのかもわからない。クラインはそう言う。

 その噂は、間違いなくデマだ。共に活動している俺が誰よりも太鼓判を押すが、アルゴは本当にネタの裏を取るまで誰にも漏らさない。そして、誰よりも《鼠》の名前でコンビを組む俺がそれほどまでに重要そうな話を微塵も聞かされていないのだ。情報屋は互いの信頼で成り立つ商売ダゼ、なんて言っていたやつが俺を裏切る? いいや、信頼されているという自惚れがあることを多少は加味してもそんなことは起こり得ない。

 教えてくれた彼ですら全く信じていない様子だった。ただ、それでも。《鼠》の名を冠した噂話であるというだけで、確認する価値はある。そう判断してのことらしい。

 それほどまでに、《鼠》の名は大きなブランドになりつつあるのだ。

 

「攻略本効果だナ」

「ひとまずは成功、てか」

「ウム」

 

 別行動中だったアルゴに連絡を入れると、どうやら同じ噂を掴んだようでこちらに向かっていたらしい。クラインに別れを告げ、すぐに合流を果たした。

 

「しっかし、オレっちの名を騙ろうなんてナ。喜べばいいのか怒ればいいのかわからんゾ、まったク」

「喜んどけば? 騙ろうと思えるくらいの信用を得たんだと思ってさ」

「だがこの件で疑いを持つようになるダロ。それはオイラにとっちゃ地に落ちたと同じことなんだヨ。どこの誰だか知らんが、やってくれたナ」

 

 アルゴの愚痴を聞くとともにいくつか情報を共有する。そのほとんどは俺がクラインから得たものと同じだったが、ふたつほど。急を要する話をアルゴは掴んでいた。

 

「詳細は向かいながらナ。今はとにかく動くゾ」

「キリトは呼ぶ?」

「いちおうナ。ユーちゃん、頼んでいいか」

「ん!」

 

 急ぎ大門を出て、西の森へと向かう。その道すがら、アルゴは詳細を語った。

 ──プレイヤーがひとり、件の場所へ向かっタ。

 その話を提供してくれた男ふたりによると、見たところ初期装備。おそらくははじまりの街に篭っていたが、2週間もすぎて救助がないと腹を括ったプレイヤーだろうというのがアルゴの見立てだ。即ち、レベルなど上げていない、まっさらな状態。

 ──その場所を、オイラは知っていル。

 そこはモンスターの巣穴らしい。森を抜けた先、崖下に洞窟があり、そこを狼系のモンスターが根城にしている。はじまりの街付近にあることもあってレベルはさほど高くない。

 ないけれども、だ。

 

「初期状態のプレイヤーがひとりでなんとかなる場所じゃない?」

「そのとおリ。それどころか攻略不可能と言っていイ」

 

 アルゴ曰く、そこは森自体がダンジョンの扱いのようだ。ボスのいる洞穴はそのままボスのねぐらであり、雑魚に壁際まで追いやられたところでボスが叩きに出てくるのだという。簡単なダンジョンではあるが、それでもそこそこの難易度に設定されている。

 つまり可能性のひとつとして、その噂はMPKを目的としたものであるということだ。

 はじまりの街にいる満足にレベルを上げていないプレイヤーを狙い、信用度の高まってきた《鼠》の名を騙って他人を陥れようとしているのかもしれない。実際に帰還者がないという話を聞くと、その可能性は高いと思えてしまう。

 

「まずは人命救助、次に情報の精査、そんで噂の大元を叩く。そんな感じか」

「精査するまでもなくデマだろうがネ」

「まあそこはそれ、一抹の可能性に賭ける気持ちを捨てずにさ」

「フン」

 

 やけにトゲのある口調で、アルゴは鼻を鳴らした。そんなに名前を騙られたのが苛立ったのか? 

 そんなことを話していると、やがて森へたどり着く。そこには、すでに呼びつけた用心棒が待っていた。

 

「あ、いたいた! おーい」

「おー」

 

 ユウキが呼びかけると、木にもたれていたキリトが小さく反応する。ユウキとキリト、このふたり以上に頼りがいのある用心棒はいないと俺は思う。

 

「悪いな、急に呼び出して」

「いいさ、今日は迷宮区がちょっと混んでて息抜きがてら別のところに行こうと思ってたんだ。ちょうどいいタイミングだったよ」

 

 迷宮区の息抜きに別のダンジョン行くのか、お前。それ本当に息抜きか? 

 まあきっとクラインの件でやきもきしてたんだろう。会えばいいのにとは思うが、キリトはキリトでなにか負い目を感じてるようではあるし、そこは触れないでおく。それよりも情報の共有が優先だ。

 ここまでの話をかいつまんで伝えた。森の中の洞窟、訪れたであろうプレイヤー、そしてMPKの可能性。もとより滅多に呼び出すことがない俺たちだ、緊急事態というのは察してくれていたのだろうが、それでも顔はだんだんと険しくなっていく。

 

「そういうわけか……」

「場所は案内すル。実戦でも可能な限りのサポートはするが、矢面に立つことばかりはお願いすることになるだろウ」

 

 いちおう俺とアルゴもそれなりにレベルは上がっている。だが迷宮区に挑めるほどではない。前に俺個人で挑んでみたことはあるのだが、あまり芳しくない結果に終わっている。

 アルゴの話だとそのダンジョンの攻略に求められるレベルはあまり高くないらしいが、それでも帰還者ゼロという事実がある。慎重に慎重を期して挑むなら、彼らに前線を張ってもらうしかない。

 

「……頼めるか」

 

 たったそれだけの言葉を言うのにかなり躊躇った。俺よりも明らかに幼いであろうふたりに、命をかけてくれと言うのだ。クラインに影響されたのも少しはあるのだろう。

 なのに、ふたりの返事は早い。

 

「任せろ」

「うん!」

 

 ヨシ、行くゾ。そのアルゴの言葉を聞くや否や、俺たちは森の中、洞窟を目指して駆け出した。



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隠しログアウトスポットー2

 デスゲーム──キリトがいつだか言っていた──が始まって二週間。彼らとは初日からの付き合いになるが、やっぱり、なんというか……なんというか。語彙が死んだな。

 キリトとアルゴは言わずもがな、戦闘上手だ。咄嗟のときにソードスキルを発動できず剣を振るうだけになる俺と違い、ちゃんとソードスキルを発動させることができている。危なげないとでも言うのか。ベータテストでの経験が活きているのだろう。

 それに対してユウキは、センスがずば抜けていると言うのだろうか。初心者ならではの俺と似た危なっかしさはあるが、それでも経験者ふたりにしっかりとついていっている。キリトとふたりで競うように迷宮区へ潜ることでレベルとともにユウキ自身の戦闘センスが磨かれているのだろう。

 要するに、安定感がすごい。俺はとりあえず足が速くなるようステータスを振っているのだが、そのぶん非力さが目立って情けなささえ感じてしまう。いや待て、よく考えろ。むしろまわりの邪魔をしてないだけマシだな? よし、オーケー。

 いずれにせよ彼らのおかげで道中大きな問題もなく、今のところは目的地までの道のりに立ち塞がった敵モンスターに苦戦することはなかった。

 なかったのに、だ。

 

「……いないね」

 

 道端の茂みを覗き込みつつ、ユウキが呟く。

 先行しているはずのプレイヤーは見当たらなかった。おそらくは現在のこのゲームでも最高峰のレベルをもったパーティが動いているのに、たったひとりが見つからない。

 ときおりユウキのように茂みをかき分けて、道を逸れて隠れているプレイヤーがいないかと確認もしたが、今のところ成果はなかった。

 

「遠いのか、その洞窟は」

「いや、そんなに遠くなイ。アインクラッドの最下層という意味では広いが、それでも一時間あればオイラたちなら着ク。ひとりが向かったって話を聞いたのも一時間前だ、もう目的地も見えてくる頃合いだし追いついてもいいはずなんだがナ」

「方角は?」

「こっちのハズ……あ、おいキー坊?」

 

 短く質問したキリトは、アルゴの指差した方向へ足早に行ってしまった。急いでその後を追う。

 たぶんだけど……あの日のことを思い出すんだろう。キリトを陥れようとして自らの罠に陥ったプレイヤーのことを。結果的に未遂に終わったことが幸いと言っていいものかどうか迷うが、あれは間違いなく他人を狙ったMPKだ。

 そして今、あれと同じことが起こっているのかもしれない。そうなると、キリトが焦るのも無理はない。

 さらに森は深まる。だがモンスターは溢れるほどいても、プレイヤーはやはり影も形もない。やがて木々の間からごつごつとした岩肌が見え始めた。

 

「もうこのあたりがボスの縄張りダ。あの崖のどこかに亀裂があれば、そこが巣穴──」

 

 そう言いかけて、アルゴの言葉が止まった。

 そして、ドッ! と。木の揺れる音が、森の空気を揺らした。もちろんデータできたこの世界で空気が揺れるなんて比喩だ。けど、そのくらい重い音が聞こえてきたのだ。

 あたりを見回して、気付く。崖のすぐ近くの木が揺れの激しさからか、葉を落としている。

 その木の向こうに、ちらりと人の手が見えた。気がした。──誰かが倒れている。

 獣の咆哮が太く轟く。──ボスがいる。

 大きな人型のシルエットは腕を振り上げる。──武器が、振り下ろされようとしている。

 

「俺が行く!」

「あ、おいキリト!」

 

 止める間もなくキリトが駆け出した。それを遮るようにわらわらと茂みから狼型のモンスターが群れをなして現れるが、剣を光らせたキリトは構わず突き進んでいく。

 

「フォロー行ってくる。後ろ頼んだ!」

「アイヨ。ユーちゃん」

「ん!」

 

 ボスよりは比較的危険度の低いはずの群がる狼たちをアルゴとユウキに任せ、モンスターたちの間隙を縫うように駆け抜ける。速さだけならこの場の誰より自信がある俺だ。すぐにキリトに追いつき、そして追い越していく。

 

「俺が弾くから、あとよろしく」

 

 それだけ言って、武器を抜いた。たぶんここのレベルなら、キリトひとりでも攻略できるだろう。つまりボスもひとりで倒せるはず。だが迷い込んだプレイヤー、呼びかたとしてはビギナーか、その人にとっては高すぎるレベルだ。だから俺の仕事は、とりあえず近づいてパリィ、そのまま一瞬だけでも俺に気を向けさせることだ。

 踏み込み、剣に光。ソードスキルのアシストが俺の体を動かし、加速。今にも振り下ろさんとするボスモンスターの武器、その軌道、ここ! 

 

「おっ……らぁ!」

 

 ボスの武器は棍棒だった。しかもトゲ付きのやつだ。重さとか硬さとか、現実的に考えたら間違いなく負ける。体格差だって勝てるわけない。けどそこはそれ、ここは現実じゃない。どれだけ見た目で負けようと、数値が高いほうが勝つ。

 へたり込んだビギナーに棍棒が当たるすれすれの瞬間、俺のカトラスが間に滑り込む。そのまま俺の体ごとぶつける勢いでカトラスを握る手に力を入れると甲高い音がして、棍棒と一緒にボスの腕も大きく弾き飛ばした。

 

「え……?」

 

 目深にかぶったフードの奥から戸惑いの声が漏れる。自らに振り下ろされるはずだった凶器が横合いから飛び出した何者かによって目の前から消されたのだ、不思議に思ったことだろう。

 ボス狼はそうして飛び出した俺を認知し敵とみたのか、不機嫌そうに唸り体勢を整えようとする。だがパリィされた後はわずかに硬直時間が発生する。つまり体を動かしたくても動かせない。

 そして、その隙を見逃すキリトではない。俺の意図は伝わっていたらしく、ボスを挟むように反対側、背中の方へと回り込んでいる。

 下段から振り上げるように一閃。青い煌めきが縦に走る。

 そのたった一撃で、ボス狼のHPバーは二本あった全てを削りきられた。

 

「間に合った……」

 

 ずっと吸った息を止めていたみたいに、キリトは長く息を吐いた。そして小さなガッツポーズ。

 一撃て。ひとりで倒せるとは思っていたけど、一撃はさすがに予想してなかったよ。

 まあでも、

 

「ナイス、キリト」

 

 ぽんと肩を叩くと、小さく頷くのがわかった。

 

「さて、ビギナーさん。大丈夫……じゃないな?」

 

 件のプレイヤーは、小さく体を震わせていた。ずっと震えていたのか、今さらになって怖くなったのか。とりあえず飲みなと渡したポーションの瓶を一度取り損ねるくらいには動揺しているのが見て取れた。

 それでもポーションを口につけることで少し落ち着いたのか、こくこくとゆっくり飲み干していく。

 そこで気付く。このプレイヤー、女性だ。フードの特性なのか影が晴れず顔は見えないが、フードから溢れる髪が長く、なんならスカートを履いてる。これは対応するのは俺たちじゃなくてアルゴやユウキに任せたほうがよさそうだ。

 そう考えたところで、タイミングのいいことに向こうの掃討も終わったようだった。

 

「間に合ったー?」

「みたいだナ。やったのはキー坊カ?」

「そうだけど、その前にシュウが動き止めてくれた」

「それにしたって一撃だぞ。アルゴ、ほんとにあれボスなんだろうな?」

「情報屋のオキテのひとつは嘘をつかないことだゼ」

「頼むぞ、ほんと」

 

 実際、獣型の狼たちが退散していったか討伐されたか、姿を見せないし、あの亀裂の奥で何かが蠢く様子もない。あれが本当にボスのようで、そうなると戦力過多だったということになる。

 

「……あの、あなたは」

 

 女性陣と合流して賑やかになったことで安心したのか、まだ少し震える声ではあったがビギナーが声を出した。質問するかたちだったがそれに俺は答えず、アルゴを見やる。ため息まじりに相棒が頷くのを見て、俺はキリトを連れて亀裂へと向かうことにした。あれがボスならお宝があったりするかも、なんて言い訳をつくって。

 だがその足はすぐに止められた。やれやれと首を振るアルゴでもお宝というワードに反応したユウキでもなく、まだへたり込んだままの女性プレイヤーに服の袖を掴まれて、だ。

 

「舟さん、ですよね?」

 

 聞き覚えのあるその声──まさか。

 

「明日奈ちゃん……?」

 

 

 

 

 

 

 友人に、妹がいることは知っていた。

 

「僕、妹がいるんだけどさ」

「画面の向こうにか?」

「舟がもたれてる壁の向こうの部屋にだけど」

「マジかよ」

 

 会話をする機会も、少しはあった。

 

「僕は理系なら教えられるけど、文系なら舟の方が上だろ。教えてやってくれないか」

「まだ小学生だろ? 何にそんなに焦って勉強すんの」

「中学受験が控えてるんだよ」

「あーそういう」

 

 だから声なら覚えてる。というか、見た目だってじゅうぶんに覚えている。幼さのわりに可愛いというより美しいと言ったほうがいいような、整った顔立ちだったから。

 だがそんな彼女と、こんなデスゲームで関わることになるなんて思ってもみなかった。兄貴だってゲームにそこまで関心がある男ではないのに、そこで妹がでてくるなんて誰が思うだろう。

 だから初日だって、必死こいて探しておきながら心の中では別人だろうと思っていたのだ。他人の空似のはずだと。それにしてはそっくりだったから、それはもう焦ったけども。

 ところがどっこい、俺の見間違いではなかったようだし、なんなら俺が心配したとおりのことにもなっていたっぽいのが現実だった。

 

「やっぱり、舟さん、ですよね?」

 

 俺の袖を掴んだビギナーは、確認するようにもう一度俺の名を呼んだ。

 俺はどう答えるか迷ったが、……結局アルゴに視線を向けて、合図を出した。やはりそこはさすが相棒、俺の意を汲み取るのは素早い。俺との立ち位置を入れ替え、キリトとユウキを連れて亀裂へと向かっていった。ユウキがちらりとこちらを見たような気がするが、あれはなんだったのだろう。気のせいか。

 

「あー……えっと、だな。……とりあえず、フード取らないか。顔がわからんから知人かどうかの判別がつかない」

 

 なんて言っていいかわからず、そんなことを口走った。いやまあ、この期に及んで知り合いのあの子じゃありませんなんてことはないと思う。思うけど、一握りの可能性を俺は捨て切れてない。

 だが、迷わずフードを取っ払ったその顔を見て、全てが確信に変わってしまった。

 チュートリアルがあったあの日に見た顔と、記憶の中にある顔と、目の前の顔と。その全てが合致する。大きなハシバミ色の瞳、すっと通った鼻筋、桜色の唇。これがこんな世界の中じゃなければ、綺麗になったねとかそういう社交辞令が言えるのだろうが、今はただ残念の意を込めたため息しか出ない。アルゴの勘は幸か不幸か当たっていたのだ。

 

「明日奈ちゃん……なんでこんなとこに」

 

 なんでこのゲームに、とか、兄貴はどうした、とか。年齢的に高校受験が間近のはずだし、家が厳しいことも知ってるから、模試とか勉強とかあるだろうとか。もともとは君の兄貴とこのゲーム内で落ち合う約束だったんだが、とか。そんなことがぐるぐると頭の中をまわるが、結局のところ聞けたのはそれだけだった。

 

「隠しログアウトスポットがあるって聞いたんです」

 

 彼女がそう言って俯くと、栗色の髪が一束、さらりと垂れる。

 

「模試が近いから早く出なきゃって。でもログアウトのボタンは反応しないし、ほかに思いつくだけ呪文みたいなのを言ってみてもなにも変わんないしだからって宿で待っても待っても救出される雰囲気はないし。それで、部屋に篭って腐るくらいならって外に出たらそんな噂を聞いて、いてもたってもいられなくなってここに来たんです。そしたら──!」

 

 後半になるにつれ、早口にまくし立てていく。焦りと不安と、あとは不満か。だいぶ溜め込まれていたのだろう、そういう暗い感情が一気に吐き出されて、最後には言葉がふっつりと切れる。そうして、手近にあった雑草を強く握りしめた。

 そのまま、どれくらい経っただろう。たぶん、そんなに長くは経っていないはずだ。なのに、握りしめられた手がふるふると震えているのをじっと見ていた俺にとってはどうにも長く感じられた。

 

「……夢じゃあ、ないんですよね」

 

 ぽつりと、俺に聞くというよりかは確認するかのように彼女は俯いたまま呟いた。

 頭の良い子だというのは知っている。思考の回転が速いことも。たぶんなんらかの過程を経て自分なりの答えを出し、自己採点の段階まできたのだろう。握っていた雑草からは手が離れていた。

 答え合わせをするように、俺は返す。

 

「現実だね」

「隠しログアウトスポットって、嘘なんですよね」

「残念ながら」

「ここを出るためにはやっぱり、ゲームクリアしかないんですか?」

「少なくとも現状は」

「そうですか」

 

 少しだけ考えるように間を置いて、さらに続ける。

 

「舟さんは、なぜここに?」

「情報屋をやっててな。たまたま、隠しログアウトスポットのガセネタと一緒にここへ向かったプレイヤーがいるって話を聞いたんだ」

「情報屋?」

「スクープを探し求める新聞記者ってとこだよ。ゲーム内の情報を商品に売り買いしてる。ほんとうなら、これだけの情報開示でも少しお金は取るんだけどな。今は大サービスだ」

 

 そこまで聞いて、目の前の少女はぱっと顔を上げた。

 

「なら、教えてください。さっきの人みたいに強くなるにはどうしたらいいですか?」

 

 さっきの人というのはキリトのことだろうか。たぶんそうだよな。目の前で自分がとうてい倒せないだろう敵を一刀両断したんだ、深く印象に残っているのだろう。

 俺を見上げる彼女の顔は、受験前のあのときと同じだった。切羽詰まっているくせに、妙に落ち着きのある。そういう顔のとき、だいたい彼女はそれをちゃんとこなす。そんなことを思い出してしまった。

 でも──だからこそ、ここで聞いておかなきゃならない。

 彼女の気持ちの強さを。彼女の、覚悟の程を。

「どうしたら」を聞くということは、おそらくそれを目標とするということだから。

 

「……その方法を聞いて、どうする?」

 

 手早くクリアして模試を受ける、とか。こんな世界からとっととおさらばしたい、とか。もしくは、さっきみたいな怖い思いを二度としないため、とか。もしもそういう理由であるならば、俺は今までどおりの引きこもり生活を勧めるつもりでいる。

 彼女が外に出たのは痺れを切らしてのことだ。それは言い方を変えるならヤケクソだ。理性的な判断じゃない。ましてその結果がさっきの死にかけだ、さらに思考がぶっ飛んでいてもおかしくない。

 ならばただ安全を。圏内にモンスターが侵入することはない。圏内から出さえしなければ、確実に安全は保証される。俺はそれを第一に勧める。

 だが、返ってきた答えは予想のどれもを上回っていた。

 

「後悔しないよう、自分が出来ることを全てやります」

 

 立ち上がり、睨みつけるような鋭い眼光をその瞳に宿らせて、強く吐き捨てるように言い切った。

 

「死ぬつもりはありません。でも、死ぬ気でやります。もしも死ぬことになっても、やれるだけやったっていう実感が欲しい。ただ誰かにクリアしてもらうのを待つのはもう嫌なんです」

「……おいおい」

 

 だから知らないことをとにかく聞こうってか。それはなんつうか、振り切り過ぎじゃないのか。

 燃えて燃えて燃え尽きて、それで死ぬなら満足ですと、そういうことだろう。そんなことを言われて、はいそうですか頑張って、なんて言えるわけがない。

 返答に詰まっていると、横からヒョイと見慣れた冊子が差し出された。

 

「なら、これを読むといいヨ。現状で集められたほぼ全てのデータが載ってる、最新版攻略本ダ。特別にタダにしといてあげル」

「ありがとうございます。……あの、あなたは?」

「オイラはアルゴってんダ。このデカいのの相棒だヨ」

 

 ぽんとアルゴが俺の肩に手を置く。

 ぴくりと、アスナの整った眉が動いた気がした。

 

「……そう、ですか」

 

 それだけ言って、すぐに明日奈ちゃんは攻略本を開いた。その集中力は凄まじく、一度始まってしまえば終わるまでか限界を迎えるまでは途切れない。

 

「……アルゴ?」

「なんだネ、相棒」

 

 だから目の前で話していようと、たぶん耳には入っていない。さっきの眉ピクがどうも恐ろしいので、邪魔しないよう小声ではあるが。

 

「なにしてんの?」

「お宝がなかったから戻ってきタ」

「じゃなくて。なんで渡した?」

「欲しがっていたから、だナ」

「……聞いていたのか」

「後悔しないようにってところからナ」

 

 そこまで聞いて、思わずため息が漏れた。

 コイツ、ちゃんと聞いてやがる。それでなんだって渡しちゃうんだろうなあ。死ぬ気でやりますなんて危ない言葉が出てるんだぞ。

 

「大丈夫だっテ。シュウ兄の知り合いなら、きっと目は離せなくなル。しかも新人がこれから冒険に出ようとしてるんだゾ。止める理由がないだロ」

 

 それに、とアルゴは続ける。

 

「死ぬ気でやるけど、死ぬつもりはないとも言ってたロ。オイラはその覚悟を信じるサ」

 

 そう言って、ニシシと笑うのだった。

 

「ところで、お嬢サン。名前はなんていうんダ?」

「名前ですか? 結城明日奈です」

「すまん待ってくレ。プレイヤーネームで頼ム」

「プレイヤーネーム?」

「ゲーム内でのお嬢サンの名前! いちばん最初に設定したヤツ!」

「ああ、アスナです」

 

 大丈夫か、本当に。

 

 

 

 

 

 やはりというかなんというか。

 明日奈ちゃん──アスナは、このゲームのシステムどころかオンラインゲームそのものの仕組みすらよく分かっていないようだった。まずはそのあたりをこんこんとアルゴが教え込んだところで、キリトとユウキが戻ってくる。

 

「たっだいまー!」

「おかえり。なにしてたんだ?」

「周囲の警戒。もし本当にMPKが狙いなのだとしたら、犯人は案外近くにいるかもナってさ」

「なるほど」

 

 狙いを定めた獲物の死際を見ようとする輩がいるかもしれないってことか。だがこの感じ、いなかったと見える。それか、俺たちの乱入で姿を消したか、だな。

 

「あっちの人はもう大丈夫っぽい?」

 

 ユウキがちらりと見やる。そこには、いつのまにかフードをかぶり直し再び攻略本に目を落としたアスナと、その初心者っぷりに苦笑いのアルゴがいた。

 

「まあ、たぶん」

 

 彼女の集中力と吸収力を、俺は信じることにする。希望的観点ももちろん多分に含まれているが、こうなった以上は信じるしかない。

 それに、まあ。最悪、俺がフォローに回ればいいだろう。できる範囲での話だけど。

 助けた相手の様子をキリトも確認したのか、改めてほっとしたように頷く。そして踵を返した。

 

「じゃあ、俺はここで。後は任せるよ」

「うん、ありがとな。こんどコーヒーでも奢ってやる」

「それマズいやつじゃん。いいよ、今日のドロップ品が報酬ってことで」

 

 またな、とひらひら手を振る。そうか、ボスのラストアタックはキリトだったな。レベル的にあんまり美味しいものじゃないはずだけど、お言葉に甘えよう。

 心なしか足取りの軽い様子のキリトを見送り、さて、と動きを止めた。

 ユウキへのお礼はどうしよう。けっきょく今日は取り巻きの足止めと殲滅をお願いしたわけなんだが、あんまりドロップ品とか経験値とか、おいしくはなかったはずだ。今日はクラインのとこからずっとついてきてくれたし、できるだけ平等にしたいんだが、俺の手持ちでなにかいいものがあったりしないか。

 そう思って自分のアイテム欄をカラカラと眺めていたところで、その半透明なウィンドウに透けるユウキの表情が気になった。

 

「……」

「どした?」

「え? ううん、なんにも!」

 

 聞いてみても顔の前で両手をぱたぱたと振ってユウキは否定する。だが、その割にはさっきの顔はやけに、なんというか……懐かしむというのか、寂しがるというのか。哀愁漂うって言葉が合いそうな表情だった。

 その視線の先は、アスナやアルゴのほうを向いていた。と、思う。ほんとうに一瞬のことだったから自信はないけれど、少なくともユウキのそんな顔を見るのは初めてだから印象に残っている。わりと頻繁にアルゴとの接点はあるようだから、アスナを見てそうなったのか。もしくはアスナと接するアルゴの珍しい狼狽ぶりを見ていてそうなったのか。

 なんにせよ、あんまり詮索していいものじゃなさそうなのは確かだ。

 

「そっか。それでさ、今日こうして付き合ってくれたぶんの報酬というかお礼の話なんだけど」

 

 だから話題をかっきり変えたつもり、だったのだが。

 

「あの人……シュウの知り合い、なんだよね」

 

 ぽつりと、聞こえるか聞こえないかの声量でユウキは呟いた。それは誰に聞かせるでもないものだったのだろう。このゲームでは狙いを定めたというとなんだが、聞かせたい相手に向けて発言するとシステムのほうから少しだけアシストが入り、当人に聞こえやすくなるような設定がある。だが今のは、俺の目の前で、俺の名前が出ていて、それでも聞き取りにくかった。

 返事をしたものかどうか迷っているうちに、ユウキはなにかしらの結論を出したのか誰にともなく頷いて、報酬の話だよね、と話を切り替えてしまった。

 なんだったのだろう、いったい。

 

「なにかもらえるってことだよね?」

「俺があげられるものなら、だけどな」

「それなら、そうだなぁ。なにがいいかな」

 

 さすがに俺が持ってないアイテムの名前とか言われたりすると困るので、予防線は張らせてもらう。ユウキのことだし、あんまり無茶は言わないだろうけど、いちおうな。

 どうやら欲しいものはすぐにみつかったようで、少し悩む素振りは見せながらも期待のこもった目で俺を見る。どちらかというと、どれがいいか悩むというよりも言うかどうか悩んでいる様子だった。言ってみろ言ってみろ。こういうときは言うだけタダだぞ。

 まかせろ、と頷いてみせると、ユウキはじゃあ、と意を決したように口を開く。

 

「手伝って欲しいことがあるんだけどさ」

「おう」

「コレの強化素材集め、手伝ってほしいな」

 

 そう言って、ユウキはアニールブレードを掲げた。

 武器強化って確か、ユウキのやつはプラス四までは上がったのだったか。鋭さと速さの強化を二回ずつ。確かキリトのやつだと鋭さと丈夫さとかに強化値を振っていたような。

 だが確か、強化素材は専用のものを求められるうえに確率で失敗もあり得るのではなかったか。そして失敗するたびに素材も新たに求められる。かなりの根気と幸運が必要なんだと、キリトは苦笑混じりに言っていたはずだ。

 

「もうちょっと上げておきたいんだけど、なかなか欲しいのが手に入んなくてさー。とりあえずボクが欲しいの以外はシュウにあげちゃうから、手伝ってもらえると助かります!」

 

 まあ素材集めに付き合うのはやぶさかではない。レベリングの足しにもなるだろうし、俺の武器強化も少し捗るかもしれないし。でも素材の分配には物申すぞ。

 

「いや俺が渡す報酬なんだから、俺が貰っちゃいかんだろ。ドロップ品は拾ったもん勝ちでいこう」

 

 お互いの欲しいものは、そのときに相談で。

 そうして待ち合わせの場所と時間を決めたところで、そろそろ戻ろウ、と声がかかった。

 

「もういいのか?」

 

 最低限はナ、と自ら筆を執った攻略本をヒラヒラさせながらアルゴは頷く。

 

「飲み込みの速さ、理解への素直さ、意志の強さ、どれをとっても優秀ダ。どれだけの伸び代があるのか、オレっちには見えないゼ」

 

 ベータテスターにそう言わしめる当の彼女は、その参考書を片手に、もう一方に細剣を構えて、そこらで湧いたイノシシに次々と突撃していた。せっかくかぶり直したフードが動く勢いで取れていることを無視しているのか気付いていないのか、長い髪が風に煽られるまま流れている。

 

「……なんだ」

 

 目の前でポリゴンが爆散するのを見届けて、彼女はぽつりと呟く。

 

「やればできるじゃない」

 

 そうして微かに笑うのだった。



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第一層攻略準備

 仄暗い回廊に、ユウキの明るい掛け声が響き渡る。

 

「やっ! っとと、えりゃ!」

 

 どこか鋭くなりきれない声とともに繰り出される剣は、しかし確実に相手のHPを削っていく。軽いステップで攻撃をかわし、生じた隙を逃さずに一撃を加え、また避け、そして斬る。

 滑らかな動きだった。とてもこの世界に訪れて一ヶ月の素人が見せる剣戟とは思えないほどの、──それこそキリトやアルゴに匹敵するほどの。なんならもう超えているかもしれない。少なくとも戦闘が不得手だというアルゴは、自分より上だと評していた。

 彼女が言うに、フルダイブの感覚にいまいち不慣れなプレイヤーが見せるひとつひとつの動作のぎこちなさや戦闘への怯えが全く見えないのだという。

 この世界の戦闘は、現代日本においては非日常だ。最も近い感覚を得られるのが剣道だろうが、それだってスポーツの域からは出ない。一本を取ればそこで区切られる。だが戦闘となると、一本とは命を奪うことそのものであり、必然の区切りとなる。一歩間違えたとき、その終わりが自分に訪れるかもしれない。その恐怖が、えも言われぬ忌避感を与えるのだ。

 だがユウキは、終わりまで続けることを怖がらない。これはゲームだという割り切りが強いからなのかとも思ったのだがどうもそうではなさそうで、だからって映画でよくあるようなスラム街出身だとか実は特殊部隊の出身であるとかそういった戦闘慣れの経歴もないらしい。それでもユウキは不思議なほど恐れる様子を見せず、それが強さの一因だとアルゴは言うのだ。

 

「わ、わっ!?」

 

 それでもキリトに及ばないとするならば、ここぞの一撃、ソードスキルを発動させたその一歩め。そこでよく足を絡ませたりつまづいたりしてつんのめり、大きな隙を見せるところだろうか。

 相手──亜人型のモンスター《ルインコボルド・トルーパー》は、その両の目を爛と光らせ、隙をつくべく斧を振りかざした。そこから繰り出される三連撃をまともに喰らえば、大きなダメージになることは間違いない。

 

「ユウキ、そのまま踏ん張れ」

 

 そういうときだけ、俺の出番がある。肩に担いだ曲刀に光が集まるのを視界の隅に捉え、ひと息に踏み込んだ。

 姿勢を崩したユウキの肩を狙って振り下ろされた斧に俺の剣をぶつけると、今度は敵が隙を晒す。そうして犬の服従姿勢のように丸出しになった腹を、転ばないよう踏ん張っていたユウキの剣が袈裟懸けに切り裂いた。

 

 

 

 

 

 

 

「やー、助かったぁ。ありがと、シュウ」

 

 迷宮区に入って三時間、目的のドロップアイテムを手に入れたところで帰るにはいい頃合いだという話になり、俺たちは帰路につくことにした。わりと奥まで来ていたので、点在する安全地帯で休憩をとりつつのんびりと。

 そんな折、武器強化の素材を確認していたユウキはぺこりと頭を下げた。

 

「パーティ組んでるんだからそりゃ助けるよ。ていうかあそこで出なかったら俺の出番いっさいないから」

 

 基本的にユウキが突撃し、剣を交え、そのまま倒すのだ。勢いに乗って大技を出そうとしたときに限ってさっきのように失敗し、その場合のみ俺がパリィで割り込める。一度の戦闘で俺が剣を振るのは一回以下だった。……経験値泥棒をしてる気分だ。

 

「そんなことないと思うけどなぁ。いっぱい助けてもらってるよ?」

「さっきみたいなやつだけな。ほとんどユウキがやってるだろ、なんか居心地悪い」

「あんまりシュウに手伝ってもらうのも悪いかなって。あとほら、ボクの苦手なソードスキルの練習もしなきゃだし」

「あーまあ、それはな」

 

 結局、今日のこの狩りでユウキがちゃんとソードスキルを打つことができたのは、戦闘をソードスキルで始めようとした場合だけだった。

 なんの流れもなく、最初からきちんと構えることができればユウキの体はシステムアシストに乗って滑らかに動く。だがそうでない場合、戦闘中に決め手として構えた場合なんかだと、ことごとく体勢を崩すのだ。

 

「なーんかうまくいかないんだよね。なんでだろ?」

 

 首を傾げつつ、確かめるようにユウキはぐっぱと手を開閉した。

 

「慌ててたり焦ってたり、っていうのは?」

 

 後ろで見ていたから違うとわかってはいたが、それでも他の理由が思いつかなかったのでとりあえず聞いてみる。

 悩む素振りはあったが、やはり本人的にもそれは違っていたらしく首は横に振られた。

 

「そういうのじゃない、と思うんだけど……やっぱ慣れなのかな? キリトに聞いたときもそうやって言ってたし」

「あいつがそう言うならきっとそうなんだろうなぁ。もう少しやってくか?」

 

 慣れればいけるというのであれば、まだ残って調整していってもいい。目的に届いたから帰るってだけで、時間としてはまだ余裕があるのだ。

 だがその提案にも、ユウキは横に首を振った。

 

「ううん、いいよ。そのうち慣れると思う。それに今日はボクに付き合ってもらったわけだし、これ以上は悪いよ。来てくれただけでもじゅーぶんです」

「それはだって、そういう約束だったからな」

 

 もう二週間も前になる。隠しログアウトスポットの件があったときに、素材集めを手伝うという話をしたのだ。だが噂の鎮静化にドタバタしていて、延びに延びた結果、今日になってしまった。なんならまだいろいろとやらなきゃならないことがあるのだが、そのあたりは諸々の事情とアルゴの私情とで俺の出番はナシとなり、やっとこうして約束の履行ができるようになったというわけだ。

 

「むしろ待たせてゴメンな」

「ううん、忙しいのは知ってたしだいじょーぶ。もうそっちはいいの?」

「大丈夫……ではないかもしれないけど、大丈夫」

 

 あの騒動についてはひとまず落ち着いている。もともとは《鼠》発祥の噂とされていたが、噂そのものが疑わしいうえに発信源が《鼠》であることすら怪しまれていたそうだ。それでもと思ってくれたプレイヤーがいたことを嬉しく思うと同時に、それで何人もの命を落とさせたのかもしれないと思うと複雑だった。

 それでも、《鼠》が自身で確認した噂は虚偽であるという事実は徐々に広まっていき、今はもうレベリングや力試しの目的でダンジョンに訪れるプレイヤーばかりとなったようだった。

 

「でも、アルゴはまだいろいろやってるんでしょ?」

「『オレっちの沽券に関わるかラ』って言ってな。デマの根っこを絶つんだと」

 

 さっきまでの戦闘で得たドロップアイテムを整頓しつつ、アルゴの言葉を思い出す。

 噂の騒動でユウキとキリトを駆り出したときも警戒していたが、もしも本当にMPKならばどこかに元凶がいるはずなのだ。いないことを確かなものにすることは悪魔の証明と等しく、杞憂であればよいという感覚ではある。それでも仮に、実在するのだとしたら、それがもしも《鼠》を騙っていたのだとしたら。

 

『《鼠》の名に傷をつけたことを後悔させてやるのサ』

 

 いつもの悪戯を思いついたような笑みじゃなく、どこか陰のある笑みだったのを覚えている。あれはちょっと怖かった。

 

「でもじゃあ、シュウはこっちにいていいの?」

「それにはいろいろと事情があってだな」

 

 アルゴの私情ってのがプライドをかけた戦いだとしたら、諸々の事情ってのは攻略をかけた戦いだ。

 アルゴ曰く、戦闘面だけなら俺はアルゴにも並ぶらしい。といっても、立ち回り云々ではまだやや劣る。だが局所的な部分においてはずば抜けているのでとんとん、という評価だった。

 十中八九パリィのことだろう。俺と対人戦をすると絶対イライラするからやらんとまで言ってたし、それに関してはキリトもクラインも同じようなこと言ってたし。

 まあそういうわけで。俺は肉弾戦を、アルゴは頭脳戦をと分担することにしたのだ。そのほうが互いに集中できる。

 

「とりあえず、俺はこっちの担当になったんだよ。ほら、やっとボス部屋も見つけたことだし」

「あーそっか、今日だもんね。楽しみだなぁ」

 

 第一層最終関門であるフロアボスの所在地が昨日、ひとつのパーティによって発見されたのだ。そこから急きょ前線にいるプレイヤーに招集をかけ、そして今日、攻略のための会議が行われる、のだが。

 

「……ひとりでも動いてみるかなぁ」

「ひとり?」

「そう、独立って言えば聞こえはいいかな」

 

 せっかく分担したのに、ボス部屋発見の報告はアルゴに届いた。《鼠》としてはアルゴひとりが名乗っているので俺が一員だとは深い知り合い以外に知らず、ゆえに情報の流れは納得のいくカタチではある。けれども、そのタイムラグが無駄な気がしてならない。前線に留まっている俺に連絡をくれれば、多少は動きやすくなるんじゃないだろうかと思うのだ。

 あとはまあ、ちょっとした考えもあって。

 

「じゃあじゃあ、名前考えよ!」

「まだ早くないか? 独立ったって確定じゃないし」

「えっとね、《渡り鳥》なんてどう? カッコよくない?」

「聞いてないな?」

 

 そのあたりはアルゴと相談だな。基本《鼠》、時々《渡り鳥》(仮)くらいの感覚で動ければなにかしら得にはなるだろう。少なくとも、知識や情報があって損はしない。いざってときに知っていればなにかしらの対策ができるかもしれないし。うん、そんな感じでいこう。

 とりあえずの方針を決めたところで、やがて迷宮区の入り口が見えてきた。

 

「ま、なんにしても今日は帰ろう。はやく武器強化もしたいだろ?」

 

 迷宮の暗さに慣れた目が、外の眩しさに自然と細まる。楽しげにうんうんと悩むユウキに声をかけると、強化のワードに強く反応して顔を上げ、俺と同じように目を細めた。

 

「うん、やっぱボスに挑むんだからできることはやっとかないとね。頑張っちゃうよ!」

「運だろ、あれ」

「ちっちっち、運も実力の内って言うでしょ」

 

 まあ、それは確かに。

 なんて頷きつつそこから他愛のない話を広げつつ、迷宮区から出たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「なあ、強さってなんだと思う?」

「いきなりなんだキリト」

 

 迷宮区の最寄り町、《トールバーナ》にて。

 俺のかけた召集により迷宮区から戻ってきたらしいキリトは、俺の姿を認めて開口一番にそう言い放った。ある一方を向いたまま、難しい顔をして。

 強さとは何か。哲学だ。

 

「いやな、この前のビギナーさんいただろ。シュウの知り合いだっていう」

「ああ、うん。……うん?」

 

 アスナのこと……だよな。まだキリトたちには名前は伝えたことなかったからあやふやだけど、たぶん合ってるはずだ。だが、なぜ彼女のことがキリトの口から出てくるのか。気になったが、まだ続きがあるようだったので、とりあえず最後までそのまま黙って聞くことにした。

 

「あの人とさ、迷宮区で会ったんだよ」

「……は?」

「いつもだったら無視するとこだったんだけど、オーバーキルが過ぎるなーとか、シュウの知り合いっぽいよなーとか思ったらつい話しかけちゃって」

「……おう」

「けっこう無茶してた感じしたから、帰るのキツいだろみたいなこと言ったんだ。そしたら、帰らないから関係ないみたいなこと言われちゃって。三日四日は篭ってたらしい」

「いや……うん」

 

 聞く限りヤバいことしかないんだけど。

 いやしかし、最後まで聞くって決めたので突っ込まない。突っ込まないぞ。

 

「同じ剣五本とか、ダメージは受けなければいいとか、なんかすごいこと言ってたな。さすがに無理があったみたいで倒れちゃったからとりあえず外に運んだら、すぐに迷宮区に戻ろうとしてさ。さすがに見てられなかったから、攻略会議があること教えて引き留めたんだけど。なんか……鬼気迫るって感じだった」

 

 キリトの言葉が途切れたところで終わりと判断する。そうして俺の口からこぼれたのは、疑いの言葉だった。

 

「……それ冗談じゃないよな?」

「もちろん」

 

 苦笑いしつつ、キリトは即答した。

 となると、もしかしたらこの後の攻略会議にも来るかもしれないってことだよな。二週間前までゲームすら初心者だったのに、それがもう迷宮区にひとりで潜っていて、ボス戦にまで挑もうとしている。ちょっと……いやかなり速い。速すぎる。

 ──死ぬ気でやります。

 そんな言葉が、頭をよぎった。

 

「それで、そこまで駆り立てるのは何が原因なのかなっていうのがさっきの質問なんだ。生きるか死ぬかのギリギリを攻めてるようで、実際には死んでもいいみたいなことを考えてる気がして。でもちゃんと生きて帰ってこれている」

「なるほど、それで強さ」

「そう」

 

 なんとなくキリトが言いたいことはわかった。

 要するに、何が根っこにあるのかということだろう。あくまで生死を分ける要因のひとつだが、これと決めた自分の芯があるプレイヤーは比較的生き延びやすいような気がする。ヤバいこれ死ぬなってギリギリのとき、最後の最後にそれでも踏ん張れるようになる、自分の最大の武器。それはそのまま、その人の芯として太く根付く。

 芯がある人間は、強い。

 

「いやでも、なんか……んー?」

 

 なんとなく、引っかかるような。危うさのほうが目立つからだろうか、強さといわれるとイマイチしっくりこない。

 だがキリトも深く考えていたわけじゃないらしく、肩を竦めていた。

 

「ま、ぼんやりと考えてただけだから。あそこまで自分を追い込んで、それでも踏み外さないの凄いよなってさ。それより、何か用だったか?」

「あ、そうそう」

 

 キリトを呼んだのは他でもない。指名が入ったからだ。

 

「仕事でな──こら顔をしかめるな」

「え、だって……アレだろ?」

「アレだよ」

 

 俺の仕事といえば情報屋だ。アルゴと分担作業をすることにしてから、普段は任せっきりだったものも最前線に限り俺がこなすことになっている。そしてそうなってから、キリトによく指名が入るのだ。

 情報屋は、その名のとおり情報を売買する。それはもちろん、ボス部屋が見つかったということもそうだし、どこどこの誰それがあんな装備を持ってるとか、麗しのあの人の興味は誰に向いてるとか、このオレに喧嘩を売ってんのはどこのどいつだとか。今のところはまだないが、恋文から果し状といったものまで取り扱う。要するにメッセンジャーだ。

 そしてその取引は、ときに代理交渉人のようなことにまで至ることがある。

 ──アイツの持っている装備が欲しい。だが自分が誰なのかを相手に知らせたくはない。だから代わりに、アイツのところへ行って交渉してきてくれないか──そういった具合に。

 今回は、キリトの剣を買い取りたいと、とある人物から依頼があった。

 

「二万九千八百だと」

「ニーキュッパなー」

 

 悩む素振りを見せるキリトだが、その実あまり悩んでいないように思えた。

 実際、肩を竦めて苦笑しながらもあまり間を置かずに返答がある。

 

「まあ、今回も縁がなかったということで。というか、どれだけ積まれてもこの剣は手放せないぞ」

 

 ──なんたって、これが俺の《芯》だから。

 そう言われてしまうと、俺としても了承を示すほかない。いや、言われずとも売る気がないことはなんとなくわかっていた。金で動く人間じゃないというのは、この一ヶ月の付き合いでなんとなくわかる。倹約家ではあるけれど、意外に冒険心があるのだ。かつて、不味いぞっていうのにあのコーヒーを飲もうとしたことがあった。

 

「まあ、そうだよな。俺もそう言ったんだけど」

 

 キリトの剣が欲しいなら同じレベルの武器とかレアアイテムじゃないと、といったことを伝えたことがあるのだが、向こうも向こうで首を振るのだ。よくわからん。

 

「まあ、じゃあ今回も残念だったと伝えとく」

「うん、そうしてくれ」

 

 あとついでに、もう無理だろうことも伝えておこう。金額的にはもう、確率による当たり外れを抜きにして同じ強化値の剣を用意できるところまできたのだ。これ以上の上乗せは赤字になることを示せばこの無駄足もなくなるか。

 

「そうだ、シュウも会議には行くのか?」

 

 手早くメッセージを送ったところで、キリトが聞いてくる。

 

「ああ、行くよ。ちょっと時間あるし、さっきの交渉結果を直接伝えてこようかなとは思ってるけど。あと部屋で昼寝してるっていうユウキを起こさないとな」

 

 武器強化は無事に成功したそうで、休憩がてら寝るという旨のメッセージが届いていた。うむ、手伝ったかいがあったな。

 なんてちょっと満足感に浸っていると、キリトが変な顔をしていた。

 

「……シュウ」

「え、なに?」

「お前、ユウキが寝てる部屋にどうやって入ろうとしてんの?」

「どうって、普通に? なんだよ急に」

「お前知ってるか? 普通は他人の部屋にはシステム的に入れないんだぞ?」

「知ってるよ」

 

 パーティメンバーならばともかく、フレンド登録程度じゃあ扉は開けられない。たとえパーティを組んでいたって、鍵を閉められていれば開けてもらう以外に中へ入る方法はないのだ。

 

「いちおうパーティ組んでるし。ていうか同じ部屋借りてるんだから俺が入れない道理はないぞ」

「はあ!?」

「もーなに、今度は」

 

 どっちかっていうとユウキが俺の部屋に居候している形だ。アルゴとの分担を決めてここを拠点としたのが昨日で、そのタイミングでユウキと翌日の待ち合わせを決めてたらめんどくさくなって同じ部屋取ろうってなって。もともと複数人が使う前提の部屋があったから、じゃあそこでいいかと聞くと賛成票が入った。待ち合わせも楽だし、別にいいよと。

 そう言うと、キリトはなぜか一歩引いて距離を取った。

 

「お前……アルゴだけじゃなくユウキまで? そういうシュミだったのか……?」

「おい待てコラ。なに言い出すんだ」

 

 アルゴもユウキもそういうんじゃないから。アルゴは単に仕事仲間ってかそういう方面での相棒だし、ユウキはなんというか、本人には絶対に言えないけど弟みたいな感覚で接している。もちろんふたりとも女の子だって理解はしているし、そういうふうに見るなら魅力的であることは間違いないけれども。

 

「それ言ったら、キリトは初日ユウキと同じ部屋だったんだろ? それに今日だって、倒れたから運んだって言ってたけどどうやってだよ」

「初日は仕方ないだろ、部屋がなかったんだから。あと運びかたは、あの人の名誉とかもあるから言えない」

「……ふうん?」

「な、なんだよ」

「いや別に」

 

 ちょっと疑うような視線を向けると、キリトはわかりやすくたじろいだ。うーん、なんだろな。アルゴがちょこちょこキリトをおちょくっては楽しんでいるが、その気持ちがわからんでもない。やはり中学生か高校生かなんだろうな、いい反応をする。

 自分の口角が上がりそうなのをぐっと堪えて、わざわざ小声にして聞いてみた。

 

「……柔らかかったか?」

「うん──あ、いや、そのな? くそ、おちょくりかたがアルゴに似てきたなシュウ」

「にゃははは」

 

 たっぷりと間を空けてにやりと笑みを浮かべ、おまけにアルゴの笑いかたを真似てやった。情報屋が板についてきたって意味の褒め言葉だと受け取っておく。

 

「じゃあそろそろ行くな。依頼人に会う時間がなくなる」

「ん、頼んだ。もう持ってこなくていいからな?」

「それは向こう次第だな」

 

 再三再四、無理筋だと伝えたのに今日もこれだからな。あんまり期待はできないだろう。

 互いに踵を返して歩き出したところで、ふと考える。

 あくまでも、依頼主がキリトにこだわる理由はなんなのだろう。

 武器種でいえばユウキも同じものを使用しているし、そもそもあの剣は俺たち《鼠》が、知る人ぞ知る状態を公にしたクエストの報酬だ。片手直剣を装備するプレイヤーのほとんどがこれを使っている。キリトに絞る必要はないだろう。

 ならば強化値が狙いなのか。いいやそれだって、その人好みの強化をしていくのだから入手した剣が自分に合わない可能性は大いにある。まっさらな未強化の剣を用意してイチからカスタムしていったほうが堅実だ。五種類もある強化可能部分の合計強化値も内訳もわからない状態なら、提示されたあの大金を使って強化していけばいい。

 

「……ふむ」

 

 それをしない理由としてはなんだ? 

 キリトの剣の強化値とその内訳が漏れているか、もしくはキリトにこだわる理由が明確に存在するのか。

 仮に前者だとするなら、どこから漏れたかだ。もちろん《鼠》以外にも情報屋やそれに似たことをしているプレイヤーはいる。その中の誰かが入手したとして、どうやって? キリトは自分のステータスに関わる内容を他人にやすやすと漏らす人間じゃないことは今までの付き合いでなんとなく察せられる。ならばこの線は薄いだろう。

 とすれば、後者。

 

「キリトにこだわる理由がある、か……?」

 

 思い当たる要因はある。が、それこそキリトが漏らすはずのないものだ。デスゲームとなって、それがなによりも危ない情報だと認識しているのは他ならぬキリトだからだ。ということは漏れようもないわけで、この線も薄まる。

 ならばあとはなんだろう。漏れようがないなら、もとから知っていたとか? 

 

「それなら、まあ……アリか?」

 

 アリかナシかでいえば断然アリだ。少なくとも今まで挙げたどれよりもあり得る話だろう。だが、それこそ向こうだっていちばん警戒する内容のはずだ。ならば確かめようがない。聞いたところで答えるわけがないもんな。

 

「……ま、なるようになるだろ」

 

 結局、思考を放り投げることに決めた。どれだけ考えたってわからんものはわからん。それが問題になるのだとしたら今日の会議だろうが、その結果次第で動いても遅くはないはずだ。

 

「今はできることを、ってね」

 

 半ば自分に言い聞かせながら、いつのまにか止まっていた足を動かした。



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第一層攻略準備ー2

 午後四時を知らせる鐘がトールバーナの町に響き渡る。

 キリトと別れ、本当にお昼寝をしていたユウキを起こして広場に向かうと、そこにはすでにボス攻略に参加しようと意気込むプレイヤーが集まっていた。先ほど顔を合わせたキリトはもちろんのこと、さも当たり前のようにアスナまでもがその横に腰を下ろしている。……やっぱりこの場に出てくるんだなあ。心配と不安と、少しの心強さと。複雑な心境だった。

 人数を数えてみると、その数は四十四。俺とユウキを入れれば四十六人となる。

 これが多いのか少ないのかと問われると──

 

「おー、いっぱいいるね」

「……なんか少なくね」

 

 ユウキと俺とで、意見が割れるのだった。

 アルゴから教わった定石で考えるなら、四十八人で組むレイドをふたつ連ねて交代制を敷くのが死者を出さずに済む理想的な人数らしい。だがこの場にはその半分もいない。俺としてはそれくらい欲しいと思っていたし、それを目標に情報屋の伝手を辿って声をかけただけに残念な結果なのだ。

 だがユウキとしては、

 

「ボス戦っていつもより危険がいっぱいなんでしょ? そのわりには集まった方なんじゃないの?」

 

 とのことだ。なるほど確かに、命を落とす確率が高まるところにわざわざ出向く物好きと思えば多いのかもしれない。でもその理屈でいくと、ユウキ、お前も危険がいっぱいなところに行こうとしてるわけなんだけど。

 

「でもユウキは参加する」

「もっちろん!」

 

 確認を取るように言ってみたら、即答されてしまった。

 

「シュウも参加するんでしょ?」

「まあするけど」

 

 ユウキみたいに前向きな参加じゃない。なんなら個人的には参加だってしたくない。けど、アスナやキリトから目を離すわけにはいかないのだ。あんな危なっかしい奴ら、放っておいたら絶対どこかでのたれ死ぬ。分担した意味がなくなるし、クラインが近くに来れない以上、俺だけでも手の届くところにいてやりたい。

 

「あ、そういえばクラインさんは? 攻略来れそう?」

「いや、パーティメンバーの全員が挑めるようになるまでやめとくって」

「そっか」

 

 あんなでも立派にリーダーである。あいつひとりでもいてくれると心強いと思ってそう言ったら、「置いていけないっつったろ」と苦笑が返ってきた。

 

「あ、キリト発見。あとお隣さんはあの人だよね? 行ってくる!」

 

 言うだけ言って返事も待たず、ユウキはすたたーとふたりのもとへ走っていった。まあいざレイドを組むとなればあいつらは同じ組になるだろうし、近い方がいい。

 

「よォ、相棒。やってるカ?」

 

 まばらに集まるプレイヤーたちを最後列の石垣にもたれて眺めていると、上から声がした。見上げると、情報収集で忙しいはずのアルゴが石垣に腰掛けている。お前そこ俺の頭より高いけど、どうやって登ったの。あ、こら足を肩に乗せるな。

 

「ぼちぼちだなあ。あんまりいい話は持ってないな。かろうじて攻略がこうして少し進みましたよってくらいか」

「ンー……いい話ってわりには人数少ないナ。どっちかってーと悪い部類ダ」

「やっぱり?」

 

 ウム、と神妙な顔でアルゴはうなずく。

 

「ま、キー坊とユーちゃんとアーちゃんと、三人が揃っていればそれぞれが十人力だからナ。知ってるカ? アーちゃん、ついにソロで迷宮区までたどり着いたってヨ。あの三人だけだゼ、ソロでいけるのハ」

「やっぱり……」

 

 そんな気はしてたよ。キリトが会ったとか、そのままキリトの隣にいるってことは知り合いが他にいないってことだろうからな。

 

「目が離せないんだよナ。間違いなくこの先頭集団の中でもずば抜けて強いクセに、三人ともどこか突撃しがちなきらいがあル。シュウ兄が渋々ながらも彼らについていこうと思うのもわかるってもんダ」

「そうなんだよな……って、なんでわかる」

「オレっちをなめてもらっちゃ困るゼ。相棒のことくらいお見通しだってばヨ」

 

 ニシシと笑ってアルゴは答えた。

 三人とも、とアルゴは言った。まったくそのとおりで、キリトやアスナに並んでユウキもまた目を離せないプレイヤーなのだ。怖いもの知らず、冒険好き、そういう側面がある。あれでアスナと同じくビギナーなのだから恐ろしい。

 

「アルゴのほうはどうだ、進んでるか?」

「……まあ、こっちもぼちぼちダ」

 

 デマの根本を探し出す、という悪魔の証明じみたことに挑んでいる彼女の進捗は、返答があるまでにややあったことから芳しくないことは察することができた。

 

「壁にでもぶつかったか」

「シュウ兄」

「どした」

 

 ピコンピコン、とメッセージの着信音がした。そろそろ会議が始まるというタイミングからしてクラインからの実況中継依頼とかかなと思ったのだが、確認してみると送り主の名前は俺の頭上にいるプレイヤーのものだった。

 口頭では明かせない何かがあるということか──そう思って見上げようとしたとき、そこそこの重さがどさっと俺の肩にのしかかってきた。

 

「どわ!」

「ニャハハ、オー高い高イ。シュウ兄って実は結構タッパあるよナ」

「にゃははじゃないよ、降りなさい。危ないでしょーが」

 

 なにかと思えば、上にいたアルゴが視線を下げた俺の肩に腰を下ろしてきていた。急に来ると転びそうになるからやめてほしい。筋力値的に心許ないんだぞ、俺。キリトはともかくユウキにすら腕相撲で勝てないんだから。

 

「オ、キー坊はあんなとこにいたのカ。ほら、アッチ」

「知ってるよ」

 

 さっきまでの沈んだ空気はどこへやら、はしゃぐように俺の首の向きを曲げては楽しむアルゴだった。やめろ、どこに俺の顔を向けようが歩き出さんぞ。

 

「相変わらずつれないなーシュウ兄ハ。将来ハゲるゾ?」

「余計なお世話だ。あと俺の髪をいじりながら言うんじゃない」

 

 ハゲねえから。家系的にハゲはいないから大丈夫だ。大丈夫のはずだ。

 

「あーでも、ムッツリスケベは髪伸びるとか言うよナ。どうだ、オレっちの太ももの感触ハ? ウリウリ」

「やめんか」

 

 それこそ考えないようにしていたのになにしやがる。いい香りはするし柔らかいし最高──いや待て、考えるな。煩悩退散。これはデータ、本物じゃない、これはデータだ。

 

「ンー? あれ、アーちゃんカ?」

「ああ、キリトの横だろ? いるな」

「さすが、オレっちが見込んだだけはあるナー。速い速い──よっト」

 

 ぱっ、と跳び箱でも飛んだかのように軽い身のこなしでアルゴは俺の肩から降りた。悪戯がバレた子供みたいな顔で笑いながら手を振るその方向を見ると、ユウキがぶんぶんと手を振っていた。その横でキリトが変な顔してこっちを見、アスナに至ってはフードで顔が見えないくせにピリピリとした空気だけは伝わってきた。

 

「オー怖い怖イ。そろそろオイラはお暇しようかネ」

 

 ひらひらと手を振って、アルゴは会議場に背を向ける。

 

「もう行くのか」

「まだまだやることはあるからナ」

「……無理すんなよ」

 

 そう声をかけると、アイアイ、と返ってきた。ひらひらと手を振り、鼠の名のとおりの素早さで去っていく。

 

「──頼んだゾ」

 

 去り際にそんな声が聞こえた。だが何に対してなのかを考える暇もなく、噴水の縁を壇の代わりにしてひとりのプレイヤーが前に出ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、それじゃあちょっと遅れたけど攻略会議、そろそろ始めさせてもらいます!」

 

 ざわざわと、集まった群衆から声が漏れる。それというのも、彼がイケメンだったからだ。しかもただのイケメンじゃない。店売りしない類のレアアイテムを使用しなければありえないカラーリングの髪が、緩やかにウェーブをかけて流れているのだ。

 幸運か、あるいは努力の副産物か。なんにせよ、その気合の入りようは凄まじい。キリトやアスナなんかは『女性が少ないのに髪なんて染めて』とか思っていそうだが、そんな邪推を吹き飛ばさんばかりの眩しい笑顔で彼は話し始める。

 

「今日は集まってくれてありがとう! オレはディアベルっていいます!」

 

 そうして、ディアベルはこれ以上ないくらいにはきはきとした話しかたで簡単に演説を始めた。彼とパーティを組んだ仲間の数人がときどき茶々を入れては硬くなりがちな空気を軟化させる。それにいちいち笑いながら応える姿はより親近感を感じさせ、場の空気には彼の言葉によって程よく緊張の張り詰めた一体感が生まれつつあった。

 

「一ヶ月もかかった。けど、やっとボス部屋を見つけた。やっと、ここまでたどり着いた。オレたちがすべきは、はじまりの街で待ってるみんなにこのゲームはクリアできるんだって示すこと。それは、今、ここに集まっているみんなだからできることなんだ。なら、やってやろうぜ! オレたちが先陣を切るんだ!」

 

 喝采が湧いた。もちろん、全員ではない。全員ではなかったけれど、この場の半数は拍手なりガッツポーズなり、ディアベルの演説に好意的な反応を見せていた。まとめ役が板についているとでもいうのか。少し前にボス部屋到達の連絡を彼からもらったのだが、そのときに感じた印象がそのままだ。なんというのかな、カリスマ性ってのはこういうことなのかと、そんなことを思う。

 誰が定めたわけでもないが、指揮官という立ち位置に彼は自然と収まるのだ。

 意気軒高なプレイヤーたちに、ディアベルは笑って深く頷いていた。

 

「ちょお待ってんか」

 

 だがその高まった士気を、低い声が遮った。歓声が止まり人垣が二つに割れ、その声の主はディアベルを退かすようにして進み出る。

 小柄な体躯ながら、ディアベルが細いからかやけにがっしりとして見えるそのプレイヤーは、キバオウと名乗った。

 彼はいちおう、ほんとうにいちおうの断りと自己紹介を済ませ、じろりと集まったプレイヤーたちの顔を順繰り見ていき、そして吐き捨てるように言う。

 

「ワビ入れなあかん奴、おるやろ。こん中によ」

「……詫び? 誰にだい?」

「決まっとるやろそんなもん。今まで死んでったプレイヤーにや。奴らがなんもかんも独占したせいで一ヶ月のうちに千人も二千人も死んだんや。違うか!」

 

 ディアベルのあくまでも冷静な反応が、キバオウの怒りをさらに持ち上げる。拍手喝采の一切が消え、もはや全員が押し黙っていた。

 キバオウの気迫に押されたのもあるのだろう。だがそれ以上に、誰もが怖がっているようだった。視界の端に捉えたキリトは、うつむき怯えているように見える。

《奴ら》ってのが何を指すのかなんて考えなくてもわかる。だがそれでも確認しなければならないと思ったのだろう。ディアベルが厳しい顔をして問うた。

 

「キバオウさん。あなたの言う奴らってのは……ベータテスターのこと、でいいんだよな?」

「決まっとるやろそんなもん。そのとおりや」

 

 背後のディアベルを肩越しに見て、再び観衆を一瞥し、キバオウはさらなる糾弾を開始した。

 ベータテスターは何も知らないビギナーを見捨てた、その彼らは自分たちだけで報酬の美味しいクエストや経験値の溜まりやすい狩場を陣取った。少なくとも俺が知るベータテスターふたりは決してそういうスタンスで動いてはいないが、他のプレイヤーはそういう動きをしたのかもしれないし、キバオウからしたらそういうふうに見えたのかもしれない。どうあれ口調の強めな関西訛りでこうもはっきり指摘されると、今までの高揚した雰囲気はぶち壊しだ。

 

「こん中にもおるはずや。ベータ上がりっちゅうのを隠して、こっそり紛れ込んだろ思てるずるい奴らが。そいつらに土下座さして、ここまで溜め込んだアイテムやら金やら軒並み吐き出してもらわんと、ワイは同じ攻略メンバーとして命を預かれんし、任せられん!」

 

 キバオウの声が、やけに大きく聞こえた。もちろん本人の声が大きいこともある。が、それ以上に周囲が静かだ。反論しようとする者はひとりとして出なかった。

 当然だろう。ここで半端に反論をしてしまえば元テスターだと疑われることは想像に難くないからだ。どんなに否定しようが言い訳にしか受け取られない。そうなってしまえば最後、疑いは噂に変わり、そして根拠なくしての確信になる。

 そうなればあとは魔女狩りだ。ベータテスターかどうかの確認方法が曖昧なままに吊し上げが始まる。これからボス攻略をしようというときに、それは間違いなく悪手だ。

 アルゴが頼むと言っていたのはこのことだったのだろうか。もしそうだとしても、俺がこの場を収められるとは思えない。情報屋という立ち位置な以上、知識量はそれこそベータテスターに並ぶ自信はある。が、それじゃあお前はベータテスターかと言われると、否定の証明はできないのだ。そんな状態でキバオウを納得させることができるわけがない。

 そうして口を出せずにいると、視界の端で挙がる手があった。

 

「はいはーい! 質問です!」

 

 キバオウに続き聞き覚えのある声だった。というか聞き間違えるわけもない、ユウキの声だった。

 

「な、なんや」

 

 この場でただひとりの──アスナはフードを被っていてどっちつかずのはずだから──女の子が声を上げたことに驚いたのか、キバオウは目に見えてたじろいだ。キリトもアスナも止めようとしたのか手が伸びていたが、それをすり抜けるようにしてユウキはとんとんっと軽い足取りで前へ進んでいく。

 

「えっと、キバオウさん、だったよね。質問があるんだけど、いいかな?」

 

 へどもどとしていたキバオウだったが、女の子相手に弱味を見せられないと思ったのだろうか。すぐにさっきまでの威勢を取り戻し、正面からユウキを見据えた。

 

「なんや、言うてみい」

「うん。じゃあ──いっぱい死んじゃったって言ってたけど、ベータテスターはみんな無事なの?」

 

 みんな、というところにやけに力を込めて、ユウキが問う。キバオウはそれにうまく答えられず、結果としてユウキが畳み掛けるような形になった。

 

「それは──」

「ボク、最初の日にちょっとドタバタしてたんだけど。そのときやられちゃった人がいて、その人、自分で自分のことをベータテスターだって教えてくれたんだ」

 

 それは聞いたことがあって、けれどどこか違う話だった。ユウキは話しながら、ちらりと俺を見、そしてキリトがいる方向に目線を向けた。

 

「いっぱい、いろんなことを教えてくれたよ。だからボクは、最初はなんにも知らなかったけどここまで来れたんだ。でもじゃあ、その人は悪い人だったってことなのかな?」

「そ、それはやな──」

 

 おそらくは最年少であろうユウキの、鋭い質問に、キバオウは答えられなかった。しどろもどろになりながらも言葉を探して、しかし何ひとつ反論できなかった。

 ついにキバオウすらも口を閉ざし、沈黙が下りる。まさかこれで会議を終わらせるわけにもいくまいとカリスマ剣士のディアベルを見ると、彼もどう取り持とうかと悩むように難しい顔をして腕を組んでいた。

 

「発言、いいか」

 

 しんと静まりかえった広場に、バリトンボイスが響き渡る。そうして現れたのは、キバオウやユウキが縮んだのかと錯覚しそうなほどの大男だった。肌色は黒、スキンヘッド。背中に負った戦斧が小さく見える。ユウキと彼とに挟まれて立つキバオウが、一歩二歩と後ろに退いた。

 

「オレはエギルだ。お嬢さん、名前は?」

「ユウキです!」

 

 完全に見下ろされる形になったユウキだったが、それでも臆せずいつもどおりの声だった。怖いもの知らず……いやそう言うとエギルに失礼か。

 

「ふむ。ユウキ、その人は間違いなく、自分がベータテストの経験者だって言ったんだな?」

「うん!」

「だ、そうだ。キバオウさん」

「な、なんや」

「キバオウさん、あんたが言いたいのはつまり、ベータテスターがビギナーの面倒をみなかったがために多くのプレイヤーが死んだ、だから責任を取って金やアイテムの提供という形で謝罪や賠償をしろと、そういうことだったな?」

「そ、そうや」

 

 巨漢の迫力に気圧されたのか言葉の詰まったキバオウだったが、それでも譲れない気持ちとさっきの問答で何も返せなかった悔しさとが重なったのだろう、じりっと下がりそうになる足を踏みとどめ、睨み返した。

 

「あいつらが見捨てへんかったらみんな死なずにすんだんや! そん中にはな、他のMMOじゃトップ張ってたベテランがぎょうさんおったんやぞ! あほテスターの連中がちゃんと情報やら金やらアイテムやら分け合うとったら、今ごろここには三倍の人数がおった! それどころか二層、三層まで突破できてたかもしれへんのや!」

「でも──!」

「まあ落ち着きな、ふたりとも」

 

 まるで獣が牙を剥き出しにして唸っているかのように、キバオウはエギルを睨めつけた。それに触発されたのか、ユウキも負けじと返そうとする。だが剃髪の魁偉はびくともせず、冷静な対応を返した。

 

「そうは言うがな、キバオウさん。そのベータテスターに助けてもらった少女が、目の前にいるわけだ」

「ぐ……」

 

 エギルの言葉に、ユウキがふんふんと頷く。しかしエギルはそれを、嗜めるように片手で制して続けた。まああれだと煽っている感が出ちゃうしな。キバオウを刺激したっていいことはない。

 

「そ、そんなん、一部の奴だけやろ!」

「それを言うなら、あんたの言うずるい奴らも一部だろう。それに、それこそユウキの話と同じだ。金やアイテムはともかく、情報はあった」

 

 そう言って、この場の全員に見えるようにひらひらと冊子を取り出した。その表紙には、丸い耳と三角の顔と三対の髭でデザインされたネズミが描かれている。言わずもがな、アルゴの攻略本だ。ボクも貰った、とユウキも手に持って見せる。

 

「このガイドブックは、あんたも持ってるはずだ。なにせここに来るまでの街や村全てにおいて、無料配布しているんだからな」

「貰たで。それがなんや」

「なら、読んでみて思わなかったか? 情報が速すぎると。少なくともオレが受け取った時には、次の村への道筋やその道中の危険なところ安全なところが記されていた。おかげさまでこうしてここにたどり着いた」

「せやから、それがなんやっちゅうねん!」

「オレもアンタもそうだが」

 

 キバオウの噛みつくような口調にかぶせるようにして、エギルは言葉を続ける。

 

「ここにたどり着くまでの速さは、そこそこ速かったはずだ。ボス攻略ってのは最前線だろ? つまりオレたちは一番前にいるんだ。そしてそれができたのは、コレがあったからだ。なら、コレを作ってくれたのはどんなヤツなんだ?」

 

 最後の言葉は、キバオウだけではなく黙って聴いている俺たちに向けての問いかけだった。何人かが、はっとしたように顔を上げる。

 

「オレたちより前ということは、コレに載っているものは事前知識ってことにならないか。つまり、これだけの情報を持つのはベータテスター以外には有り得ない。そしてそんな彼らの知識を《鼠》が集め、後ろに拡散してくれている。ユウキしかり、オレたちしかり。ちゃんとベータテスターから知識をもらっているんだ」

 

 大丈夫、アルゴの攻略本だよ──そんなアオリが、裏表紙に書かれている。もちろんアルゴの発案だ。あくまでオレっちが集めた情報であることを強調する、そう言って頑なにこの一文を載せ続けた。

 それを少なくともエギルは、こうしてきちんと読み取ってくれていたのだ。

 

「情報があって、それでもなおベテランゲーマーが死んだ。ユウキが言っていたように、ベータテスターだってその中には含まれる。それについてオレは、このゲームを他のゲームと同じ物差しで見ていたからだと思っている。命がかかっているという意識が、これはゲームなんだという認識の強さで薄まり、引くべきポイントを見誤ったんだ」

 

 ゲーマーだからこそ、か。……そうか、死に戻り。ゲーム、イコール突貫、というと穿ち過ぎかもしれないが、それに近い認識があったのだとするならば、ベテランが真っ先に死んでしまうというのは無理もないことなのかもしれない。

 これはゲームであっても、ゲームじゃないんだ。

 

「そもそも、ここにいるプレイヤーから戦力を奪ったとして、この後の攻略はどうするつもりなんだ? オレはもっと有意義な話し合いができると思ってここに来たんだがな」

「ぬ、ぐ……」

 

 エギルの指摘に、やはりキバオウは噛みつくことができなかった。それでも睨みつけるのをやめないあたり、諦めてはいないらしい。

 様子を黙って見ていたディアベルが、議論に区切りがついたと思ったのだろう、割り込むようにして口を開いた。

 

「キバオウさん、あなたの気持ちはわかるつもりだよ。オレだって必死にここまで来たんだ。でも、エギルさんの言うとおりだと思う。ボスを倒そうって意志でここに集まってくれたみんなは、一人ひとりが必要な戦力なんだ。誰かを排除して、それで攻略失敗なんてしたら意味ないだろ?」

 

 みんなも、とディアベルはキバオウに向けていた視線を観衆に向ける。

 

「みんなも、思うところはあると思う。けど、みんなが生きて帰るための大事な一歩になるんだ、ここは立場なんて忘れて力を合わせよう。それに、ユウキが出会ったプレイヤーのような人がここに集まっているんだってオレは信じてるし、そんなオレを、みんなに信じてもらいたい。それでも無理だって人はしょうがないな。抜けてもらって構わない。やりたくないことを無理強いしても良くないから」

 

 どうだろうか、と言わんばかりにぐるりと見渡して、ディアベルは最後にキバオウを見る。まだ不服そうな様子ではあったが、それでもここは引き下がることにしたらしい。

 

「……ええわ、ここはあんさんに従うといたる。でも納得はしてへんで。コレが終わったら白黒はっきりつけさしてもらうさかい、覚悟しいや」

「そっか、……わかった。エギルさんは?」

「オレからはなにも」

「ユウキは?」

「ボクもいい」

 

 三人が、各々の元いたところへ戻っていく。……と思いきや、ユウキはまっすぐに俺のところへ歩いてきた。ユウキにしては珍しく、ムッとした顔をしていた。

 そのまま俺にぶつかるようにしてぐりぐりとおでこを押し当てる。……そこ、身長的にちょうど鳩尾なんですけど。息苦しいのは本能的なものなのか、システム的に圧迫感を出しているからなのか。

 

「……どした」

 

 ぽんぽんと頭を撫でてやると、くぐもった声が俺の腹を震わせる。

 

「キリトもアルゴも、ズルくないよね」

「そうだな」

 

 それだけ言って、ユウキは黙り込んでしまった。

 誰にも聞こえないほど小さな、けれど俺には聞こえるくらいの小さな声。個人名は危ないぞとは思ったけれど、それ以上なにかを言う様子もなかったし、そのままにしておいてやった。

 もしもこの子が、たったそれだけを言うために、あれだけ動いたのだとしたら。

 そんな想像をして、ふっと自分の頬が緩むのがわかった。

 

「頑張ったな」

 

 そう声をかけると、鳩尾に頭を押し付けたまま小さく頷いたのだった。



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第一層攻略準備ー3

「助かった……」

「助かった、じゃないよ。まっすぐ俺のとこ来やがって」

 

 その後、会議はディアベルが仕切り直し、レイドの編成と報酬配分を決めてお開きとなった。明日の昼が本番である。

 パーティを組むときに、エギルはユウキを気にかけたのか一緒にいる俺にもまとめて声をかけてくれた。が、六人組をいざつくるとなればソロで活動するふたりがあぶれるのは必定。そのキリトとアスナとが真っ直ぐに俺のところへ来たのを見て、エギルは苦笑しつつ、俺たちの断りに頷いてくれた。

 

「でもシュウさんくらいしか組める人いない……」

「シュウはボクたちとじゃイヤ?」

「そうは言わんけど」

 

 もともと目を離さないために参加しているので、むしろ好都合ではあるんだが。パーティを組んでみろってディアベルの掛け声に対して、迷わず俺のところに来るってのはなんかこう、見てて切なくなってくる。あとアスナ、聞いてる側も悲しくなるから言わないでおこうな。

 

「それにほら、気心知れた人と組めればスイッチもpotローテも簡単だろ? うん、やっぱシュウと組むのは正解だ」

「それらしい理由つけよって」

 

 まあ、そうでなくても俺は『盾なし』だ。攻撃を受け止める壁役のエギル班に俺は向いてない。たとえキリトたちがこなくても、断らせてもらっていただろう。

 だがそれで言うと、この四人組は全員が『盾なし』なので、そもそも扱いづらいところはあったと思う。班ごとの役割分担のとき、人数不足も考慮して遊撃隊を割り振ったディアベルが苦笑いしたのは仕方ない。

 

「……スイッチ? ぽっと?」

「あ、あーそっか」

「なに」

「いやなんでもないです、ハイ」

 

 どうやらアスナには聞き覚えのない単語らしい。それに納得して肯いたキリトが、冷たい口調に首を竦めていた。

 

「……シュウさん」

「はいはい、教えるよ。でも明日な。クエストやりながらのほうが覚えやすいだろ?」

 

 会議がかなり長引いたのもあって、今日はもう何かやるには遅い時間だ。明日は午前中なら空くわけだし、忙しくはなるがそこでやればいい。

 

「あ、ならボクあれやりたい! 牛のやつ!」

「……牛?」

「あー、なんだっけ。キリトが言ってたやつだよな」

「《逆襲の雌牛》か? それならいっこ前の村で受けられるけど」

「それにしよ!」

「……クリーム?」

 

 アスナが呟いたのは、そのクエストの報酬だ。ちらっとキリトのほうを見たあたり、何かしらの会話がふたりの間であったのだろうと思う。うん、知ってるなら話は早い。それで決定でいいだろ。

 

「まあほら、なんにしても今日は帰ろう。解散解散」

 

 もう会議の広場に残っているのは俺たちしかいない。他のメンバーはみな酒場なりレストランなりに姿を消している。俺たちも今後に備えて体を休めておくべきだ。

 とはいえ、俺はこの後も少し仕事があったりする。何通かメッセージが届いているので、それを読み、内容によっては動いてから休むことになるだろう。もはや残業みたいなものである。接客業ってのはだいたいそんなもん、と誰か言ってたな。というわけで、

 

「ユウキ、俺ちょっと遅くなるから、今日はキリトのとこで休んどけ」

「っ……!?」

 

 俺の発言に、アスナがやはりぴくりと反応する。なんだろうな、キリトといいアスナといい、どうも俺の発言に気になるところがあるらしい。キリトの反応を思い出すに俺が歳の離れた女の子に手を出すとでも思われているんだろうか。効率を考えたときにたまたま相部屋になるだけなんだがな。

 だがそれよりもさらに大きな反応を、アスナはユウキの発言に見せる。

 

「りょーかい。あ、じゃあキリト、お風呂貸して!」

「おー、いいぞ」

「なっ……お風呂!? あるの、ここに?」

「あ、あります……けど」

「貸して」

「ハイ」

 

 顔が見えなくてもわかるほどの凄みをあらわにしたアスナに、キリトはあっさりと折れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 残業とは言ったが、大した数はなかった。というか、今この街を離れるのは得策じゃないので、回せる仕事は全てアルゴに押し付けてやったのだ。結局、俺がこなす仕事はたったひとつだった。

 そのひとつが、かなり衝撃的ではあったけれども。

 

「サンキュッパだってよ」

「サン……!?」

 

 依頼を受けて、俺はキリトの部屋を訪れていた。俺が来たときにはもう女性陣ふたりは見えず、だからなのかキリトの挙動がおかしかった。が、俺の持ってきた交渉を聞くとすぐに表情が切り替わる。

 

「え、確か前がニーキュッパだったよな?」

「二万九千八百だな」

「で、今回が?」

「三万九千八百」

「今日の今日でそんなに上がるのか?」

「上がるんだってよ」

 

 ──キリトの剣が欲しい。

 そう言い続けて一週間、とうとうはっきりと赤字だろうという値段を、依頼人は提示した。これ以上は無駄だと言う隙を与えてはくれなかった。

 

「……シュウ、それ、なんかの詐欺とかじゃなくて?」

「向こうさんにどういう利益が出るのか俺にはさっぱりなんだけど」

「手間がかからない──けど、それでも赤字にはなるんだよな……。強化とかそういうのコミコミでもこれと同じやつ作れるぞ?」

「それも伝えたよ」

 

 なんならクエストを受けたぶんの経験値とかそういうのだって手に入るから買うよりよっぽど利益は出るんだぞとまで言ってやったのだ。それでも頑なに首を横に振られてしまった。

 どうしても、キリトのものでなければならないらしい。

 

「シュウ、千五百出す。……相手の名前が、聞きたい」

「ちょっと待ってな」

 

 口止め料の上乗せをするか否かのメッセージを送ると、そう待たないうちに返信があった。

 

「教えてもいいって」

「……誰なんだ?」

「ん」

 

 答えず、手を差し出す。キリトが投げて寄越した六枚の硬貨をきっちり数えてストレージに入れてから、キリトの思考を促すようなヒントを投げる。

 

「今日の台風」

「……キバオウか!」

「ご明察」

 

 あの印象的なトゲトゲ頭。彼が、この一週間ものあいだ同じ内容の交渉を持ちかけ、さらには金額を上げ続けた本人である。

 

「え、あの人が俺の剣を? なんで?」

「それは知らんよ」

 

 こればっかりはほんと、なんにもわからない。今日あらためて確認できたのは、キバオウが片手直剣を装備していたことだ。だがそれだって、アニールブレードにこだわる理由にはなってもキリトにこだわる理由にはならない。あくまでも要求は、《キリトの剣が欲しい》のだそうだから。

 もーわからん。キリトの頭上にも、おそらく疑問符ばかりが浮かんでいることだろう。右に左に、何かに思い当たっては首を傾げていた。

 

「もう考えても無駄じゃね。キリトにこだわる理由なんてわからんし、なんならここにきて名前を明かした理由もわかんないし。匿名にするなら最後まで貫き通したほうが有効なんじゃないの」

「……それもそうか」

 

 あれだけ反ベータテスターってスタンスをあからさまにしていたキバオウが、よりによってキリトに正体を明かしてしまったらもう希望なんてゼロに等しくならないか。

 それにさっき考えていたキリトにこだわる理由だが、キバオウも同じ立場──すなわちお互いにベータテスターだったからこそキリトを知っていて、それゆえにキリトを狙い撃ちしているのではというのも薄まってしまった。もしあの演説がフェイクであるとするなら相当な策士だが、少なくとも俺にはそんなふうに見えなかった。かなり直情的なタイプだと思っている。

 つまり彼はベータテスターではないはずなわけで、そうなるともう、わからん。

 

「なんにしても、金積まれたって売らないと言われたばかりだからな。今回もごめんなさいでいいんだろ?」

「うん、頼んだ」

 

 キリトの頷きをみて、席を立つ。

 

「そんじゃ、そういうことで」

「今から行くのか?」

「おう。さすがに装備の問題になるし、今日中じゃないとどっちも危ないだろ。明日はもう勝負なんだから」

 

 そう言って、コンコンとこの部屋の出入り口ではない扉を叩く。《バスルーム》と表示されたプレートがあった。

 

「お、おいシュウ?」

「ユウキ、俺そろそろ戻るけど。ユウキはどうする?」

「ああ、なんだそういう……」

 

 戸惑うキリトをよそに、扉の向こうにいるであろうユウキに声をかけると、あからさまにほっとした声が聞こえた。さすがに開けられないよこの扉は。これが俺じゃなくてアルゴだったら迷わず開けるだろうけど。

 返事は、すぐにあった。

 

「あ、ボクも戻るー!」

「じゃあ着替え──てぇ!?」

 

 ──いちおう言っておく。これは俺のせいじゃない。

 バァン! と盛大な音がして、顔に衝撃が走った。顔を押さえてうずくまる俺に、わぁごめん、とユウキの焦った声がし、その向こうでふたりぶんの息をのむ音が聞こえる。

 そして悲鳴とともに、大きな大きな、なにかが落下したような重い音が、キリトがいたはずの場所で轟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 ユウキと、同じく自分の部屋に戻るというアスナを連れ、夜の街を歩く。ちょっと寄り道をと言ってキバオウに伝えることを伝えて戻ってくると、ふたりはさっきの一件を話題にしていた。

 あの後、気絶したキリトを放っておくのもどうかと思ったのだが、アスナは不機嫌に出て行くしユウキはそれを追いかけるし、俺は仕事があったしで仕方なく、ほんとうに仕方なく部屋を出ることにしたのだ。まあ、部屋を開けられるのはパーティを組んだ俺たちだけだし大丈夫だろう。システムが守ってくれる。

 そしてキリトの部屋の風呂でどんな会話があったのかは知らないが、女の子同士だからなのだろうか、アスナとユウキはほんの短い間のうちに距離感を詰めていた。仲良くなるのってほんと速いよな、女の子。

 

「まったく……」

「ごめんって。てっきりもう着替えてると思って」

「だからって急に開けちゃダメでしょ」

「うん、次は気をつける。あ、シュウ」

 

 お叱りを受けていたユウキが俺に気づく。それに続いてアスナも俺のほうを向いた。人目の少ない夜だからか、フードは被っていない。

 

「ねー聞いてよ。アスナったら、四日も迷宮区に籠ってたんだって。危ないよね?」

「あ、ちょ、ちょっとユウキ」

「それキリトから聞いたな。帰る気ないとも言ってたらしいぞ」

「え、そうなの?」

「シュウさんまで」

 

 居た堪れなさそうにするアスナだが、あまり看過できることでもないので言わせてもらった。死ぬ気はないとは言うが、あまりにも綱渡りが過ぎる。緊張の糸を張り詰めたままでは消耗が激しいし、いざその糸が切れたときにもう諦める以外になくなってしまう。

 するとさっきまで叱られていた側のユウキが、今度は両腰に手を当てた。

 

「アスナ、ダメだよ。無理しすぎたら倒れちゃうんだから」

「今日倒れたらしいぞ」

「シュウさん!」

「ほらぁ言わんこっちゃない」

 

 俺の告げ口に、アスナが口を尖らせていく。

 

「……だって、仕方ないじゃない。どうせみんな死ぬのよ。だったらやれることをやって、満足したまま死んだほうが諦めがつくでしょう?」

「いや、うーん……?」

 

 それはどうなんだろう。死んだことないから知らんけど、少なくとも俺はそもそも死にたくないとは思うぞ。

 キリトと話していたときも感じたが、やはり何かが違うような気がする。《芯》だとか、そういうところではないなにか。だが、それがなんなのかが上手いこと言葉にできない。

 

「……アスナ」

「な、なに?」

 

 そうして口ごもった俺の代わりに、ユウキが口を開く。けれど、いつもの口調ではなかった。その急な変化に、俺もアスナも戸惑う。

 

「ダメだよ」

 

 短い言葉だった。けれどその端々に、どこか圧のようなものを感じさせる。真っ直ぐな視線に射抜かれて、アスナはじりと後退った。

 

「そんな簡単に、どうせとか死ぬとか言っちゃダメ。諦めたらそこでおしまいだよ。死んじゃったらもうなんにもできないんだよ」

 

 そして堰をきったように、ユウキの口から言葉が溢れだす。

 まるで願っているようだった。口早に言うせいで息継ぎが間に合わず、後半は苦しげに、けれどそうやって、声を震わせてでも届かせたいのだと、そんなことを思わせる。

 

「……諦めてなんか、ないわよ」

 

 ユウキの言葉に、アスナは首を横に振った。

 ユウキの、願っているようなのとはまた別の小さな声だった。絞りにしぼって、どうにか出てきたような微かな声。まるで何かに耐えているような苦しげな声。

 そうして、互いに言葉をぶつけ合い始めた。

 

「諦めてるよ。どうせって決めつけてる」

「決めつけてない。わたしは数字を見て判断してるだけ」

「決めつけてるよ。まだできるかどうか試してもないじゃん」

「試したわよ。試して試して、十分の一が減ったのよ。次でまた減る。その次も。そしたらみんないなくなるじゃない」

「それが決めつけだって言ってるの。やってみなくちゃわかんないよ」

「わかるわよ。一ヶ月で千人が死んだの。その千人はゲームに強い人たちだったのよ。強さの平均はもう下がってるの」

「だからって諦める理由にはならないよ。そのためにみんなで会議だってやったじゃん」

「諦めてないと言ってるでしょう。それに戦力が低くなったことに変わりはないわ。あんな会議で何かが変わるわけない。けっきょく有意義な話なんて何もしてないじゃない」

「じゃあなんで攻略に参加するのさ。勝てない可能性のほうが高いんでしょ?」

「わたしがわたしでいるためよ。勝てないなら勝てないなりに、わたしは最後まで戦って死ぬの」

「だからそれが諦めてるって言ってるの!」

「だから諦めてないと言ってるでしょう!」

「──っ、もういい!」

「こっちのセリフよ!」

 

 ふんと鼻を荒くしたふたりは、俺が口を挟む隙を見つけられないでいるうちにそっぽを向いて歩き出してしまった。

 ……どうしたものだろうか。

 正直、ふたりの言い分はわかる気がする。俺だって諦めたくなる気持ちはある。アスナが言うように、一ヶ月経っても進みやしないくせに千人も死んでるのだ。控えめに言っても絶望的だと思う。けれど反対に負けてやるものかとも思うのだ。ユウキが言うように、やってみなければわからない。ひょっとしたらを捨てきれない自分もいるのだ。

 

「……よし」

 

 少し考えて、アスナを追うことに決めた。どうせ──そう言うとユウキがまた怒るかもしれないが──ユウキと部屋は一緒なのだ。戻ってから話を聞いても間に合うはず。

 明日は本番。これまで以上に文字どおり命をかける場面が訪れる。そのときにパーティメンバーが割れていたら、勝てるものも勝てない。

 そう決めて、栗色の髪を乱すように振る少女を追いかけた。

 

「……アスナ」

「シュウさん……なんですか」

「なんですかって、大丈夫かなと」

 

 にべもない冷たい口調だった。いやまあ、さっきまで喧嘩してたのに急に切り替えられたらそれはそれで驚くけど。

 アスナは足を止め、半分だけ体をこちらに向けるようにして俺を見た。

 

「大丈夫です。わたしがやることは変わらないもの」

 

 やること……やること、ねえ。

 

「さっきのは、俺にも諦めてるように聞こえたぞ」

 

 ユウキとは違うところだったけれど。満足して死ねれば諦めがつくってのは、自分が死ぬことが前提のように感じる。それをそのまま明日に持っていくのは、命を預けるパーティメンバーとしては不安だった。

 

「シュウさんまで……もういいです。べつに、誰がどう思ってようと関係ありません」

「まあそう言うなって」

 

 ふいと再び歩き出そうとするアスナの行き先を遮るように先回りする。ここではいそうですかと見送るわけにはいかない。

 今のままでは、アスナはきっと無理を続けるだろう。そうして今日キリトが見たように、どこかで倒れてしまう。それはどうしても避けなければならない。

 知り合いがいなくなることが寂しかったり悲しかったりというのももちろんある。だがそれ以上に──情けない話だが──強い感情が、俺の中にはあるのだ。

 だがそれを言うのは少し躊躇う。悩んで、結局アルゴをダシにするような形になってしまった。

 

「死ぬつもりはないって言ったよな。死ぬ気でやりますとも言ってたけど」

「言いましたけど、それがなんですか。どいてください」

「アルゴは、アスナの──明日奈ちゃんの、その言葉を信じたから情報を渡したんだぞ。それを裏切るつもりはないよな?」

 

 ズルい言いかただと自分でも思う。けど、これがたぶん最も有効な足の止めかたなのだ。今ここにいない、多少は恩を感じているであろう第三者の名前を出せば、律儀なこの子のことだ、少なくとも足を止めてくれるだろうと踏んだ。

 その思惑はどうやら外れていなかったようで、俺を睨みつけながらも立ち止まってくれた。

 

「そんなつもりはありません。わたしはそもそも、諦めてもないです。死に際に未練を残さないようにしているだけですから」

 

 立ち止まってはくれたが、どうやら俺に出来るのはそれだけのようだった。アスナは折れそうにない。頑固なのは知っていたが、そこに怒りと意固地が重なるとこうなるんだな。これはダメかもしれん。

 

「ユウキにも、あの黒い人──キリトでしたっけ。あの人にも言いましたが、わたしがここにいるのはわたしであるためです。生き様で後悔したくない。こんなゲームなんかに負けたくないから、わたしは戦うって決めたんです」

 

 死ぬことを受け入れただけです──。

 そう言って、アスナはまた歩を進めようとする。どいてくださいと俺に投げた言葉は今日聞いたなかで最も静かだった。その威圧感に圧されて、俺は思わず道を開けてしまう。

 

「……死ぬつもりはないんだよな?」

「しつこいですよ」

 

 アスナの鮮やかな栗色の髪が闇に溶けようかというところで、俺は改めて問いかける。その言葉に、アスナは振り返ることもなく返して去っていった。

 これは……通じたのだろうか。いや、通じてないような気がするな。いちおうあのときの言葉を、死ぬつもりはないとかってのを言いはしたから、どこかで引っかかってくれているといいというくらいだろうか。

 ユウキが言いたかったのはきっと、自分が死ぬことを勘定に入れないでいてほしいということだったと思う。自分を命の勘定に入れていないから無茶ができるのだと。それは、俺も思う部分だ。

 せめて、その感覚だけでもなくしてくれたら。

 

「……言ったほうがよかったか」

 

 俺がアスナに抱えている強い感情。でもそれは、きっと今じゃない。今言ってしまったら、もっと酷いことにもなりそうな気がする。自己満足でしょうとバッサリ切り捨てられるか、あるいは。

 

「いや、言わないでおいて正解だろ」

 

 首を振って、自分に言い聞かせるようにあえて言葉にした。もしも切り捨てられなかったとして、そうなると明日奈ちゃんをよりねじ曲げてしまうことになりかねない。ならこれはずっと胸の内に秘めておくべきだ。そして代わりに、俺は行動で示していかなければならない。

 明日奈ちゃんにはああ言ったが。

 それでも俺は、死んでもあの子を現実に返す。

 それが、浩一郎をこのゲームに誘った俺の責務だと思うから。

 

 

 

 

 

 部屋に帰ると、ユウキはすでに眠っていた。月の明かりがカーテンの隙間から差し込んで、寝返りをうったユウキの顔が優しく照らし出される。

 今日は怒り疲れたのだろう。あれほどまでに怒るユウキってのは初めて見た。攻略会議のときから不機嫌ではあったし、今日はちょっと巡り合わせの悪い日だったのかもしれない。よりによって今日に重なったのは勘弁してくれよとは思うけど。

 

「んぅ……」

 

 寝苦しいのか、ユウキが顔をしかめる。寝てるときまで苦しいとは、今日はもうそういう日なんだろう。

 

「……ん?」

 

 乱れたシーツくらい直してやろうと整えていたら、俺の左手の動きに制限がかかった。具体的に言うと薬指と小指。見れば、ユウキが俺の指を掴んでいた。

 起きているわけではなさそうだった。なにか夢でも見ているんだろうか、もごもごと口を動かしては表情が変わる。

 そうして漏れた言葉は、懐かしむような、驚くような、それでいて泣きそうな。いろんな感情がない混ぜになったような声音だった。

 

「姉ちゃん……」

 

 聞いてはいけないものを聞いてしまった気がした。ユウキがどんな夢を見ているのかなんてわからないし、ましてや現実に関わることなんて知る由もない。それをこんな不意打ちで聞いてしまうのは仕方がなかったとはいえども非常によろしくない。

 だがその場を離れようと思っても、俺の指を握る力は存外に強くて離せそうになかった。筋力値はこういうところでも影響するらしく、俺の指を掴む華奢で小さな手を離すことができない。

 

「いかないで……姉ちゃん」

 

 ユウキの手にさらにきゅうと力がこもる。月明かりに照らされたユウキの目元に、きらめく粒が浮かんでいた。

 

「……仕方ない」

 

 俺やアスナがいろいろ抱えているように、ユウキもまた抱えているものがあったのだ。アスナに突っかかったところといい、この寝言といい、あんまり軽々しく聞いていい内容じゃないような重い想像が頭に浮かぶ。

 手を離すことを諦めて、ユウキが寝ているベッドの脇に腰を下ろした。頭上から月光が静かに降り注ぐ。

 明日は大丈夫だろうか。キリトはキリトでキバオウと一悶着ありそうだし、こっちはこっちで亀裂入ったし。なんか嫌な予感しかしないよなぁ。だからって急に参加しませんなんてできないし、そうは言ってもアスナはひとりでも行きそうだし。

 

「……あぁもう」

 

 なるようになる。うん、そういうことにしよう。これで俺まで寝不足ですなんてやったらそれこそ話にならん。寝よ寝よ。

 座ったまま、月光に照らされて。

 そして俺は、夢を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

「デスゲームなら、殺して当然だ」

 

 黒いポンチョを目深に被り、中華包丁の峰を肩に乗せて、男は言った。

 奥まった森の中に埋もれるように建つ古ぼけた教会。中では十字架と磔刑に処せられた男をかたどった像が祀られていた。

 すでに外は夜の帳に包まれて、割れたステンドグラスから差し込む月光だけが明るい。フードを目深にかぶった男が握る厚刃包丁が、鈍くきらめく。

 

「ここはゲームの世界だ。ソードのアート、つまり剣の芸術を魅せ合う世界。剣と剣が織りなす世界だ」

 

 コツ、コツ、と。月光のスポットライトが照らす祭壇に向けて男は歩く。

 

「剣を持っているのは誰だ? 俺たちプレイヤーだ。人対人。それこそがこの世界のあるべき姿だ」

 

 トントンと、包丁で肩をたたく。視線は真っ直ぐ、磔にされた男の像に向いている。

 

「邪魔な法などない。茅場晶彦が創り出したシステム上のルールだけが全てだ。武器の所有、使用は認められている。武器は傷つけるためにある」

 

 足音が、像の前で止まる。男は真上から月に照らされていた。

 

「命のやりとりをしよう」

 

 男は両手を広げ、

 

「ここは殺し合える理想の世界」

 

 ゆっくりと天を仰ぐ。

 

「俺たちは裁かれず、何者にも縛られない!」

 

 高らかに宣言し、男はくるりと半転する。

 神に背を向ける、その背徳に心を震わせて、両の拳をきつく握りしめた。

 

「ゲームを愉しめ」

 

 男の立つ祭壇に向かって並ぶ長椅子が、蠢く闇に覆われていた。

 否、それは闇ではなく。

 

「人を殺せ」

 

 およそ三十人のプレイヤー。頭上のカーソルは全てオレンジ。

 男は再び天を仰いだ。月に照らされた口元が、妖艶に歪んでいく。

 

「俺たちには、殺す権利がある‼︎」

 

 闇の中、手にした刃が月に煌めく。

 静かに、獰猛に、笑みが広がっていく。

 

「イッツ・ショウ・タイム」

 

 そして、棺桶が笑い始める。



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イルファング・ザ・コボルドロードー1

 十二月四日。

 暦の上では紛うことなき冬であるが、朝の寒さも夜の長さも感じない奇妙さがあった。だがその奇妙さをそういう日なのだと流せるくらいには、自分の感覚が狂って──あるいは適応してきたのだと気づいて失笑した。

 このゲームの世界では、あまり季節による気候変化が起きない。もちろん雨も降るし風も吹く。もしかしたら雪だって降るのだろう。けれど、どれだけ現実準拠であってもあくまで《ある程度》なのだ。肌をさするほど寒くなるのはおそらく、そういう気候に設定されたエリアだけ。逆もまた然り。それ以外は基本的にランダムだ。そのくせ吐く息は白いのだから変なところでリアルを追求している。

 見上げると、青空と俺との間に薄く膜があった。……ときどき雲なのか次の層なのかわからなくなる。

 

「さて、みんな集まったかな! 最終確認だ。みんなコレはもらったか?」

 

 迷宮区の入り口を背に、ちょうど近場にあった岩を壇にして、ディアベルが声を張り上げる。その場に集まっていた、彼を除く四十五人の視線が一斉に集中した。

 青髪の騎士が手にしているのは一冊の冊子だった。ひらひらと揺れるそれには見慣れたネズミのマーク。《鼠の攻略本》だ。だが、いつもなら黒い線で描かれているはずのシンボルが今回は赤い線で描かれていた。

 

「号外だ。いちおう各班のリーダーたちにはオレから共有してある。もし手元にコレがない人がいたらそれぞれのリーダーに聞いてくれ。──大丈夫そうかな?」

 

 ディアベルの問いかけに、そこかしこで頷きが見える。

 攻略本の号外。それには、第一層ボスの情報がこれでもかと記されている。偵察隊を向ける暇もなく、ディアベルのパーティ以外は姿も見ていない、その彼らだって姿しか確認していない相手の情報だ。それを知るのはベータテスター以外にはあり得ず、だからここでも騒ぎが起こるのかとヒヤヒヤしていたのだが、どうやらなんとかなったようだった。

 もちろん、筆者はアルゴだ。頼むぞと、あの時言われた言葉とともに送られてきていたメッセージの内容がこれだったのだ。それに気づいたのが今朝であり、急ぎ発行してすぐにディアベルに知らせたのはとっさの判断とはいえ自分を褒めてやりたい。結果論だが、ディアベルを起点とした情報共有がおそらくは最も速く、軋轢の生まれない手段だったのだ。

 

「ひととおり行き渡っているみたいだね。なら、内容のほうも大丈夫かな。要注意は四本あるHPゲージが最後の一本になったときだ。それ以外は昨日練った作戦と変わらないよ。分担も同じ」

 

 その言葉にまたも頷きが返される。

 

「よし、準備は万端だ! 行こう!」

 

 おおっ、と野郎どもの太い声が上がり、列をなして迷宮区に飛び込んでいく。キリトと俺とがその列に連なり、最後尾に一言も発さない二人がついてきていた。

 

 

 

 

 

 

「どうしたんだ、アレは」

「ケンカ……みたいだけど」

 

 険悪なムードを感じ取ったらしいエギルが、そう問いかけてきた。ディアベルもやはり気になったようでそれに続く。俺は苦笑いを返した。彼らの視線の先には、無言のままモンスターを容赦なく葬り去るふたりがいる。

 迷宮区に入ったとはいえ、目的地であるボスの部屋まではまだ遠い。道中に敵はもちろん湧くし、それぞれの戦闘がバカにできない緊張感を必要とする。そのための案として、一度目の休憩のとき、あるプレイヤーから提案があった。曰く、

 

『ダメージを分散させるよりも一箇所に集めたほうが良いのでは』

 

 と。全員が戦闘に参加して回復薬を半端に使うよりも、言い方は悪いがひとつのパーティが犠牲になることでその消費を抑えたほうが良いのではないか。そういう提案だった。もちろん、その犠牲は俺たちおミソパーティだ。

 ディアベルはいい顔をしなかったが、キバオウはそれに賛成した。続いてキバオウ班のメンバーの何人か、そしてその他の班にもまばらに賛成の手が挙がる。そしてそれに続いて挙手をしたのが俺だった。

 変にギスギスしてるより体を動かしたほうがいい。それがユウキにもアスナにもためになると思ったからだ。余計なお世話だとでも言いたげな視線を感じたが、だったら余計な心配をさせないでいただきたい。

 キリトからはさすがに危険だと反対されたが、残る二人は不服そうにしながらも賛成側にまわった。当人たちが賛成したことで場の空気の流れは定まり、しぶしぶではあるがディアベルを頷かせたのだ。

 そういうわけで隊列を変更、おミソが戦闘に立ち、その後ろに道を知るディアベル、アルファベット順に名付けたときのA班であるエギル率いるタンク隊、その後ろに順次ついていくというかたちで再度進行を開始したというわけだ。

 

「見てのとおりだよ。ケンカもケンカ、大ゲンカ。ド派手にやった」

 

 迷宮区に入ってからも、やはりふたりは口を開かない。一緒にいるのに、別行動をしているみたいな。奇妙な動きかたをしている。

 キリト先生のパーティプレイ講座は、結局アスナとのマンツーマンで行われた。昨日あんな言い合いをしてしまった以上は顔を合わせづらいだろうというのと、けれどもスイッチくらいは知っておいてもらわないと俺たちもアスナも危険だというのとで、キリトにメッセージで事情を伝えるとともに俺が教わったのもキリトだったこともあって先生役を頼んだのだ。

 ふたりでのクエストがどうだったのかは知らないが、少なくとも知識としてアスナの頭には叩き込まれたはずだ。彼女の学習能力の高さは信頼している。目の前で活かされている場面は一度たりとも見ていないけれども。

 

「それは……大丈夫なのかい? 今後の攻略とか」

 

 ディアベルの問いかけに、やはり返すのは苦笑い。エギルの後ろに続く面々も心配顔だった。あれかな、数少ない女の子だから目立つのかな。まあ顔の見えないアスナはともかく、ユウキは人懐っこく笑うからなぁ。

 そんなことを考えていると、キリトが俺の代わりに答えた。

 

「どうかなぁ。シュウがどう思ってるのかは知らないけど、俺としては難しそうな気がするな」

「それは……どうしてだい?」

「あのふたりが行き違ってる理由が価値観の違いだから、かな」

「なんだその恋人のケンカみたいな」

「いや、実際そんな感じだと思うぞ」

 

 エギルが呆れたように言うが、俺はそれに頷いてみせた。

 彼女いたことないからあくまで想像だけど、きっとそういう感じだと俺も思う。なんたって俺と同じで異性との交際経験がないキリトが言うんだから間違いない。

 

「エギルもディアベルもさ、外からの救出ってあり得ると思うか?」

 

 突然の問いかけに面食らうふたりだったが、間を置かずに首は横に振られる。少なくともこの点においては、意見は一致しているようだ。

 

「もう一ヶ月だぞ。外からってのは、オレは諦めた」

 

 エギルの言葉にユウキがぴくりと反応したのが見えた。まあ、外からじゃあ俺たちがどうこうできるわけじゃないから。そんな思いを込めてアイコンタクトを試みると、わかってるよとでも言うかのように少しだけ笑って戻っていった。一晩寝て、少しは熱が冷めたということなのだろうか。そうだといいんだけど。

 

「オレも同意見かな。ラグが一切ないこのゲームでも、微かにそれを感じた日があっただろ。あのタイミングで、オレたちの体は病院に運ばれたんじゃないかと予想してるんだ。つまり、ネットワーク環境を移動することはできてもナーヴギアは外せなかったんじゃないかな、と」

 

 たしかにそういう日はあった、らしい。俺とユウキは気づかなかったけど、キリトやアルゴがなんとなく違和感を感じたとボヤいたことがあった。ディアベルもそれを言うってことはほんとうにあったんだな、ラグ。

 というかここまで一ヶ月、ラグはともかくバグも見せないってどんな完成度してんだこのゲーム。

 

「だよな。俺も、それに関してはもう無理だろうと思っている」

 

 ディアベルのような予想はしなかったけれど、俺も俺なりに、ひと月も経って外からの沙汰がないことにある程度の諦めはつけている。それに関してはアスナの判断は正しかったし、速い決断だったのだろうと思っている。

 では逆はどうか。

 

「じゃあ、中からの脱出は? 要するにゲームクリアだけど、それは可能だと思うか?」

「言ったじゃないか。それを今からやってみせて、希望の一歩にするんだって」

 

 さすがディアベル、一分の迷いも見せない。だが今は、そういう話は横に置いておいてほしい。

 

「いや、そういう希望的観測や目標はいらない。冷静に、現在の死者数と進行度合いとその期間、俺たちのレベル、そういったものを加味した確率の問題で考えてくれ。百層までだ。どう思う? エギル」

「それは……難しいだろう。というか、ほとんど無理だと言えるだろ」

「だろ?」

 

 杜撰な計算なのは否めないが、一層で千人、次で千人、その次で千人と考えれば十層で終わりだ。そしてそうなる前にプレイヤー全員の心が折れ、どうにもならなくなる。数字だけ見れば、やはりアスナの判断は間違っていないと言えるだろう。

 けれども、だ。

 

「でもじゃあ、ゲームクリアは諦めるか?」

「それはないよ」

「諦めるわけないだろう」

 

 ふたりとも迷う素振りを見せなかった。即答である。まあボス攻略に挑もうとここにいるのだから当たり前といえば当たり前だな。

 さて、本題だ。

 このふたりの意気込みが行く先は、《死んでもクリアする》なのか、《意地でも生きて帰る》なのか。まるで言葉遊びのような違いでしかないが、その違いがユウキとアスナのすれ違いを生んでいる。

 

「ここまでを前提として、ふたりに聞きたいことがあるんだ」

 

 ディアベル、エギルが頷くのを見て、俺は足を止めた。

 ちょうど先頭で暴れていた女性陣ふたりも立ち止まっていた。どうやら終着点らしい。眼前にそびえるは巨大な両開きの大門。鉄に錆が走り、古めかしさを感じさせる。

 この向こうに、いる。

 先頭に倣うように足を止めていく隊列。場の空気が、張った糸のように静まっていく。

 

「死ねない理由って、あるか?」

「あるよ」

「もちろんだ」

 

 即答だった。一切の迷いなく、ふたりともが頷く。

 

「それって、何か聞いても?」

「そうだな……」

 

 ディアベルは言いながら、足を止めた攻略隊の前に進み出る。注目を集めるために抜いた剣から、しゃいいいいんと高い音がした。

 

「みんな、ついにたどり着いた。これがボス部屋に繋がる扉だ。もうオレから言うことなんてたったひとつしかない」

 

 扉に向き直り、ディアベルは取っ手に手をかける。

 

「──勝とうぜ!」

 

 ゴゴン、と重い音がして。

 鉄扉がゆっくりと動き出す。

 広大な部屋だった。ボボボボ、と近いものから順に火が灯っていく。そうしてその向こう、玉座に鎮座する巨大な獣の姿が、火に照らされて闇の中から浮かび上がった。

 正面を見据えたまま、すぐ横に立っていた俺たちにだけ聞こえる音量で青髪の騎士は呟く。

 

「──オレはゲーマーなんだ。ゲームクリアは、自分の手で成し遂げたいのさ」

「──!」

 

 その答えに、キリトが息を呑むのが伝わってきた。キリトだってゲーマーなのだ、なにか通ずるものがあったに違いない。

 ディアベルが思い切り息を吸う。

 

「行くぞ!」

 

 迷宮区に入るときよりも大きな掛け声が響く。それに呼応するようにボスの──《イルファング・ザ・コボルドロード》の低い咆哮が轟き、そして戦端が開かれた。先行して駆けるキバオウたちとそれを迎え撃つべく湧いた取り巻きモンスター《ルインコボルド・センチネル》の、剣と剣とがぶつかる音が小さく聞こえてくる。

 俺の後ろにいたエギルが、全員が突入したのを確認して口を開いた。エギルさん、とボスの目の前まできたA隊の面々が彼を呼ぶ。

 

「ちなみにオレは、嫁さんが向こうで待ってるから、だ」

「え?」

「なに?」

 

 白い歯を見せて笑った色黒スキンヘッドは、俺とキリトの動揺をしっかりと見届けてから駆け出した。いっさい速度を緩めることなく戦線に合流したエギルは、すぐさま隊員と動きを合わせてボスの振り下ろす大斧に自分の斧をぶつける。

 完璧なパリィ。ボスの体がわずかに浮いた。

 

「……マジか」

 

 あのひと嫁さんおったんか。そりゃあ死ねないわ。

 

「俺たちも行くか」

「……」

「キリト?」

「あ、おう! 行こう!」

 

 まだ動揺していたのか反応の悪いキリトに発破をかけて、いざ戦場へ踏み込む。すでに女性陣は予定していたキバオウ隊の近くまで駆けている。

 生存プレイヤー全員の命運を賭けた挑戦が、始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スイッチ」

「はい!」

 

 俺の声に、アスナが合わせた。コボルド衛兵の長斧に俺のカトラスをぶつけて弾くと、一時的な短いスタン。その隙を逃さず、俺の脇を抜けて流星の如き刺突が衛兵の喉笛に突き刺さった。HPが残りわずかだったセンチネルはその一撃がトドメとなって爆散する。

 アスナの戦闘を間近で見るのは初めて会ったとき以来だが、どれだけの研鑽を積んできたのかは一目瞭然だった。剣筋は正確にまっすぐ、システムアシストに一切逆らわない滑らかな動き出し。フェンシングでいうボンナバンのような。一歩前へ踏み出し、その勢いで刺突する、ただそれだけの動きをどれだけ繰り返してきたのだろうか。

 聞いた話じゃかなり危ない橋を渡っていたらしいからあまり褒められたものではないのは確かだが、今この場においては頼もしい限りだ。

 

「ナイス。急拵えとはいえ完璧だな」

 

 さらに教わったばかりのスイッチをきちんと本番でこなせるようになってくるあたりもさすがだった。今のが二体目の敵兵だったのだが、ここまで変にぎこちない動きは見せていない。

 なんだろうな、ちょっと懐かしいような気もする。家庭教師もどきをやっていた頃を思い出す。

 

「……わたしは突いてるだけですから」

 

 褒めるとそっぽを向くあたりも、変わっていない。

 

「それでもだよ。な、キリト」

「うん、グッジョブ」

 

 俺の動きに合わせて後ろに下がっていたキリトが、爆散を見届けて頷く。

 アスナが突いているだけと言うなら、俺は相手の武器を弾いているだけだ。一度たりともセンチネルに直接攻撃はしていない。トドメやちょこちょこと生まれた隙をアスナが削り、それ以外の大部分をキリトとその後ろでポーションをくぴくぴと飲むユウキが叩き出していた。

 

「……むー。キリト?」

「やってくうちにできるようになるって。それか不意にコツを掴むか」

「コツかぁ。むむ」

 

 相変わらずユウキは上手いことソードスキルを発動させることはできないでいる。が、それでもキリトに肩を並べて戦えている。途中で蹴つまずいてHPが黄色くなったところで安全を考慮し攻撃から抜けさせたものの、軽い身のこなしと手数の多さはキリトと遜色ない。

 その当のキリトには、強いの一言だった。滑らかにソードスキルを発動、硬直時間すらも計算したかのようにユウキへとスイッチ、そしてまた絶え間なく敵を斬りつけていく。俺もユウキもアスナも互いを補い合っている中で、ひとりだけ安定感が違う。まるで違う次元にいるような、そんな遠い存在に思えてくる。

 

「……だから、なんだよな」

 

 誰にも聞こえないように呟く。

 俺はアスナを死なせるわけにはいかないと決めている。だが、それだけで俺が情報屋をやると決めたわけじゃない。

 あの遠い背中を、そうと感じさせないためでもあるのだ。

 

「ん、何か言ったか、シュウ」

「いや。順調だなって」

「そうだな、順調だ」

 

 俺の言葉に肯いて、キリトはボスに視線を向けた。

 攻略は順調に進んでいた。ボスのHPはすでに一本が削れ、二本目に突入している。今のところHPが黄色くなるプレイヤーはいても、赤くなる、すなわち危険域にまで突入するプレイヤーはいない。きちんと後退、回復、復帰というポットローテーションを成り立たせることができている。

 取り巻き担当の俺たちも、こうして少し会話ができるくらいには余裕があるのだ。

 ただ、その余裕が気をはやらせる要因になっているのも確かで。

 

「……向こうに参加しても?」

「ダメだって言ったろ」

 

 一体目の取り巻き兵を倒したときもそうだったのだが、アスナがとにかく前線に出ようとするのだ。

 

「この時間、もったいないです」

「ダメだ」

「一撃でも与えれば、そのぶん少しは楽になるでしょう?」

「ダメ」

「じゃあ黙って見てろって言うんですか」

「違えよ、休憩を挟むのも必要だって言ってんの」

 

 アスナの言わんとすることは分からなくもない。確かに、微々たる一撃でもないよりはマシだ。塵も積もれば山となるのだ。

 だが奥行きのあるこの部屋で、ボスのところまで行って戻ってくるのはそれだけでタイムラグ。HPに余裕があるとは言っても、時間に余裕があるわけじゃない。アスナがボスのところに着いたタイミングで取り巻きが現れたなんてことになれば意味がないし、飛び入りが変に本隊の陣形を乱れさせても意味がない。それでダメージを負わせた、もしくは負って戻ってくるなんてのは尚更だ。

 それをアスナが理解していないとは思っていない。それでも気をはやらせてしまうのは、昨日の言い合いから続く意地張りが原因なのだろうと思う。

 ──最後まで戦って死ぬの。

 諦めているわけではないらしい。もしかするとアスナは自分がここにいたという実績を、軌跡を残したいだけなのかもしれない。一矢報いようとすら思っていない。ただ足掻きに足掻いた爪痕を残そうと、それだけを必死に思っているだけなのかもしれない。そう思うと、キリトが感じたという鬼気迫るほどの気迫もわからなくもない。

 だがやはり、ユウキはそれを許せないようだった。

 

「シュウの言うとおりだよ、アスナ」

「……ユウキには関係ないでしょ」

「今はパーティの仲間だもん、大アリだよ」

「ふん」

 

 やっと話したと思ったらこれだ。取りつく島もないといった感じか。キリトも苦笑いしかできていない。

 

「……やるなら、まずは取り巻きだ」

「シュウさん……」

 

 不服そうな、けれど止めないことにほっとしたようにアスナは肩の力を抜いた。俺もたいがい甘いと思う。

 DPSというのだったか。プレイヤースキルの高いキリトをはじめとして秒単位に出せるダメージ量がずば抜けて多い俺たちが速すぎるだけで、他のセンチネル担当は楽勝とまではいかずとも苦戦をしない程度のラインを保てている。あっちのヘルプに回ってさらに余裕を持たせることができるのであれば、ひょっとしたらディアベルから声がかかるかもしれない。実際、取り巻き担当だった三班のうちのG隊はその余裕さから本隊に呼ばれ合流している。可能性として無い話ではないのだ。

 もしそうなったら、その時は止めない。

 

「ただし、全部倒したら、な」

「シュウさん!」

 

 後出し条件に、アスナの下がった肩が上がった。でもこればっかりは譲れない。自分の仕事をほっぽりだしてやりたいことだけやるなんて認められるわけないだろうに。

 

「あとキリトを連れてけよ」

「え、俺か?」

「ひとりで行かせられるわけないだろ。こっちはユウキとふたりでなんとか保たせるから、あっち潰してこい。な?」

「うん、今度こそ成功させちゃうよ!」

 

 ソードスキルがうまくいかないことがよほど腹に据えかねていたらしい。やる気はじゅうぶんだった。

 俺としても、昨日の件でユウキの話を聞くのにちょうどいい機会だ。寝言のところまで踏み込むつもりはないが、アスナの意向だけを聞くのもなんだかフェアじゃない気がするから。

 

「でも、ほら。あっちには……な?」

「キバオウだろ」

 

 パーティを組んだキバオウ率いるE隊は、当たり前だがオミソの俺たちより人数が多い。そのぶん彼らがより多くヘイトを集めるのは当たり前だし、ボスの取り巻きである以上得られる経験値も多いわけで、それをベータテスターとの差で喚いたキバオウが見逃すはずがないのだ。実際、反対の壁際にいるから遠目でしか見えないが班をふたつに分けようとしているように見える。

 

「いっそお前から噛みついちゃえよ、なんだったんだって」

 

 キリトがキバオウを避けたがるのはなんとなくわかる。会議での一件があって、そこに取引が重なってくるとまるでキリトがベータテスターだと知ってるような気がしてくるからだろう。

 アルゴもそうだが、彼らベータテスターはその情報が漏れるのを極端に嫌う。だが、だからこそ情報統制はしっかりと行なっているのだ、そう簡単に漏れるはずがない。

 ならば向こうが避けこそすれ、こっちが身構える必要はないんじゃないか。

 

「いや、まあ……それは気になるところだけど。装備変わってないし」

「……そうなのか?」

「うん、昨日となにも変わってない。ちらちらと見ながら確かめたから間違いないよ」

 

 言われても俺はそこまで見てないからよくわからないが……もしそうだとして、四万コルもの大金はどこに消えたのか。いいじゃん、どうせ名前の公開も向こうが許可したんだし、聞く権利ぐらいあるだろ。噛みついとけ。あと目の前の敵には集中しような。

 そんなことを言い合っていると、ボスの咆哮が轟く。「三本目!」とディアベルの合図があり、壁の穴から追加の取り巻き衛兵が飛び降りてきた。

 

「……行きます」

「あっ、ちょ!」

 

 取り巻きの出現と同時にアスナが駆け出した。それにキリトが慌ててついていく。ユウキも走り出し、それについていこうとして──足を止めた。

 

「いこ、シュウ! ……シュウ?」

「あ、すまん。いくか」

 

 ユウキに呼ばれて振り返る。取り巻きの衛兵は敵を求めて本隊に近づきつつあった。それに飛びかかるようにして、ユウキがヘイトを稼ぐ。

 周りを見ても、おかしいと感じるものなんてない。本隊はボスに、そのほかは取り巻きに集中している。

 今のはなんだったんだ。なんというか……首の後ろが、ざわついた。



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イルファング・ザ・コボルドロードー2

 ずっと不思議に思っていたことがある。

 リアルの話になるから踏み込みはしなかったし、それと今とでそこまで深く結びつくものでもないと思っていたのだ。

 そういう子なのだと思えばそれまでだし、そういうことにしておくことで半ば無理やり自分を納得させていたところもあった。

 だが昨日の件。アスナに噛みついたこともそうだったし、寝言の件でもそうだ。押さえつけていた疑問がむくむくと起き上がってくる。そうなるともう止められなかった。

 

「スイッチ」

「ん!」

 

 アルゴはとんでもないルーキーだと評した。実際、周囲の動きを観察して当時ではベータテスターしか知ることのなかったエリアに到達していた、それもひとり、独力である。とんでもないルーキー。まったくそのとおりだ。

 さらにその実力は伸びていき、今ではキリトに比肩するほどだ。その一因としてアルゴ曰く、『不思議なほど怖がらない』。それはキバオウに反論したときもそうだし、ボス戦に参加すると決めたときもそうだった。

 いま思えば。そもそもの話として、ユウキはあの日ひとりでフィールドに出たのだ。あれだけ現実と死を強調したチュートリアルがあって、阿鼻叫喚の渦が巻き起こって。

 

「もいっちょ」

「やぁ!」

 

 キリトが戦いに踏み出したのは、夢のためだと聞いている。剣と自分とが一体化する感覚をもう一度味わいたい、それまでは死んでる場合ではないのだと。

 クラインが未だはじまりの街付近から足を伸ばさないのは、仲間を守るため。《仲間全員で》生きて帰るのだと、そのために確実かつ堅実な手段を取った。

 アスナは、自分が戦った爪痕を残すために。まるで燃え尽きていく流星の如くデスゲームを駆け抜けていく。

 そのほかだって、誰であれ何かしらの理由はある。

 ディアベルは、ゲーマーとしての矜恃を保つために。

 エギルは、現実で待つという奥さんのために。

 そして俺は、巻き込んでしまったアスナと、巻き込んでいたかもしれなかった浩一郎への贖罪のために。

 

「もっかい」

「とぉー!」

 

 ならユウキは、いったい何のために? 

 決して理由がなければいけないなんていうわけじゃない。けれど命のかかったこのゲームで、なんの理由もなくこうして最前線に身を置くことがあるのだろうか。

 昨日の夜の諍いから想像するに、決して死にたがりというわけではないとは思う。「どうせ死ぬのよ」という言葉にあれほど反応したのだ、これは間違いないだろう。

 では死ぬことを望んでないとして。ならばなぜ、こうまで敵モンスターに、自分の命を刈り取ろうとする相手に立ち向かっていけるのか。

 

「もう一回」

「てぇやぁ!」

 

 ガギギギギ、とユウキの剣がセンチネルの鎧に弾かれながらも振り抜かれる。ソードスキルでない、しかも鎧に阻まれた攻撃ではあるが、筋力値をはじめとした数値の高さがダメージとして判定される。

 だがソードスキルとそうでないものとで与えられるダメージ量は段違いだ。連続でパリィすることで無防備な状態を作りだしては何度も斬りつけているが、ほとんど敵のHPは減っていない。

 それにもどかしさを感じたのか、はたまたずっとこうして考えごとをしていたのがバレたのか。ユウキがついに声を上げた。といっても、不満そうな声じゃない。やけに楽しそうな声音だった。

 

「うーん、やっぱり硬いね。弱点って喉元なんだっけ?」

「……ああ、そうだよ」

「よーし、じゃあ次はそこかな。もう一回頼むね、シュウ!」

 

 言って、ユウキは“次”を見据える。

 そのどこまでも前向きな姿勢に、ついに疑問が声に出た。

 

「……なんでだ?」

 

 どうしてそこまで前向きになれる? 

 どうしてそこまで次を怖がらずにいられる? 

 どうしてそこまで、《普通》でいられる? 

 

「なんでだっていうのは、なにに?」

「あ、いや」

 

 聞かれているとは思っていなかったから返事に戸惑う。今さらパリィに疑問を持つのも変だと口ごもると、ユウキは苦笑いした。

 

「……ボクのこと、かな」

 

 そう言ったときの顔は、昨夜の寝言を言っていたときと同じだった。

 

「よく言われるよ、変だって」

「いや別に、変ってわけじゃ」

 

 センチネルの振り払われる斧を飛び退くように避ける。

 変じゃない。変ではないのだ。ただ不思議なだけ。やはり言葉遊びのような違いでしかなくて、だからなにも言い返せなかったけれど。

 まるでそれがわかったかのようにユウキは、今度は明るく笑った。

 

「へへ、わかってるよ。悪い意味じゃないんだよね、シュウのは。ぶきっちょなだけ」

「……すまん」

 

 体勢を立て直したセンチネルが、またも斧を振りかぶる。

 

「いくよ、シュウ」

 

 ユウキが迎撃する姿勢を見せる。それに頷いて、剣に光を纏わせて踏み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ──聞いてくれる? 

 

 そう言って、ユウキはセンチネルの攻撃を躱しながら、斬りつけ、また躱す。それに合わせるようにパリィの回数を増やして、できるだけユウキの攻撃回数が増えるように努めた。

 三体めともあって、攻撃パターンはある程度わかっている。話しながらでもセンチネル一体なら大きな危険はなかった。

 

「ボクね、体が弱いんだ。それも、生まれつきじゃなくて病気で。HIVっていうの、聞いたことあると思う」

 

 HIV。ヒト免疫不全ウイルス。その名のとおり、ヒトの免疫を弱めるウイルスだ。それにユウキは感染しているという。

 

「学校でね、ボク、成績良かったんだ。友達もいっぱいいて、楽しかった。でも……どこからなんだろうね、ボクがそのキャリア持ちってバレちゃって」

 

 学校、そう聞いて今さらながらも思う。そうだよな、どう見ても小学生くらい、高くても中学生だ。本当なら、今ごろ学校に通っていたはずだ。

 

「学校にいても、周りが怖がっちゃって。普通に生活してたら()()るものじゃないんだけど、みんなボクのこと変だって言って遠ざけてね」

 

 確かに珍しい病症ではある。だがそれが変かと言われれば、決してそんなことはない。それが、この子を遠ざける理由にはならない。なってはいけない。

 

「知らないと怖いよね。だからってわけじゃないんだけど、そのタイミングでもっと病気が悪くなっちゃって。そこからはずっと病院生活なんだ」

 

 それがきっかけということはないはずだ。だがそのタイミングの悪さは、周囲の悪意がそうさせたように見えてしまってならない。誰かが知っていれば。そう思わずにはいられない。

 

「でも仕方ないかな。ほっとけば死んじゃうらしいし、それは嫌だもん。でも悪いことばかりじゃないんだよ。それのおかげで、こうして一万人しかできないゲームができてるんだから」

 

 エイズというのは、免疫不全という名前からもわかるように色々なウイルスに弱くなるものだ。あまり詳しくはないが、極論を言えば誰であれ引き起こす熱や風邪に対しての抵抗力も下がるということだろうと思う。それの予防策は、思いつくものとしては隔離。無菌状態を保てる部屋にいる、それ以外には俺は思いつかない。

 だが、それとこのゲームとのつながりがわからない。

 

「……なんでそれで、このゲーム?」

「リンショウシケン、って言ってたかな。ま、要するにお試しだって。機械の。これが効果を発揮すれば、ボクと同じ病気の人にも、そうじゃない人にも使えるからってことらしいよ」

 

 リンショウシケン。臨床試験か。確かにナーヴギアは全身麻酔に似た効果を発揮できる。脳からの電気信号を遮断して変換するということは、自発的に現実の体を動かすことがないのだ。確かにそれを医療として使えるならば、画期的なものと言えるだろう。

 こんなデスゲームになってしまっては、それどころじゃないだろうが。

 

「まあ、ボクはなんにしても出歩けないから。ちょうどよかったよね」

 

 出歩けない。ということは、まさか本当に隔離されているのか。

 もしそうだとして、それならばユウキは。

 

「ここでこれだけ暴れられて、楽しいやら嬉しいやら、か?」

「そういう、こと!」

 

 ズバン、と。パリィされて無防備に腹を曝け出したセンチネルの、浮いた顎の下。唯一の弱点である喉元に、ユウキの鋭い刺突が突き刺さった。

 ギャオ、と悲鳴が上がる。ようやくにして、敵のHPは半分まで削れた。

 なんとなくわかったような気がする。ユウキが『不思議なほど怖がらない』理由が。現実の体に死が迫っている。このゲームでも死は間近にある。この子にとってはまさに、ゲームであってゲームじゃない。どちらであっても、どこまでも現実なのだ。

 

「どっちも変わんないし、それならめいっぱい頑張らないとね!」

「……なんか聞いちゃいけないこと聞いた気がするな」

「そんなことないよ。ボクが勝手に話したんだし。……それに、さ」

「それに?」

 

 センチネルが斧を振り回した。ソードスキルの三連撃にパリィが間に合わなかったので素直に間合いから飛び退く。

 

「……シュウには、知っておいて欲しかったから」

「? なんで?」

「へへ、ひみつ。ほらくるよ! パリィよろしく!」

「え? おわぁ!?」

 

 疑問に思ってユウキを見ようとして、センチネルから視線を切った。その一瞬を突かれて、すぐ近くに敵が迫ってきていた。真上から振り下ろされる斧を剣でただ受ける。筋力の数値的に、やはり俺はセンチネルにも劣る。ギャリギャリと刃と刃がせめぎ合い、火花を散らしながら俺を少しずつ下へと押しつぶしていく。

 それが鼻先にまで近づいた瞬間、ひときわ大きな音と共にふっと重さが消えた。

 

「もー、目を離したら危ないんだよ」

「すまん」

 

 腰に手を当てて、ユウキはいつもの人好きのする笑みを浮かべる。

 

「まあそういうわけで、アスナにはちょっと噛みついちゃったってわけ。どうせ、なんて許せないもん。諦めちゃいけないんだよってね」

 

 気にしてもらってありがとね、とユウキはまた笑った。

 

「ケンカに巻き込んじゃってごめんね」

「まあ目の前でやられたらな。それに翌日にはこれって思うと、さすがにやばいだろと」

「だよね」

 

 今度は困ったように苦笑い。この大一番の舞台でこれだけ笑顔でいられるのはユウキだけなんだろう。でも、だからこそ。きっと、アスナを踏みとどまらせることができるのもユウキだけなのだろう。死の重みを誰よりも感じているこの子だから。

 絶対に死なせたくない。

 そう、強く思った。

 

「まあ、そっちはボクが自分でなんとかする。シュウはいつもみたいに見ててくれればいいよ」

「……わかった」

 

 まあ、ふたりの話は聞いたし。なにかあったらまた間に入るくらいはするだろうけども、これ以上は言われたように見届けよう。

 

「さて、それじゃ」

「うん、やっちゃおう!」

 

 そうして改めてセンチネルに向き合う。敵のHPは残りわずか、この感じならふたりでも倒せなくはない。他の取り巻きもほぼ倒されつつあるし、これならば無事にクリアできるだろう。ユウキとアスナの問題はそのあとでも大丈夫だ。

 そうして、いざ続きをと踏み込んで。

 

「──まさにそれを狙うとったんやろが!」

 

 キバオウの声が、耳に届いた。

 

 

 

 

 

 

 センチネル二体に挟まれるようにして、キバオウたちE隊とキリトアスナが背中合わせに戦っているのが見える。今の声はまさにそこから聞こえてきた。

 

「なんだろ?」

「……さあ?」

 

 いちおう守秘義務があるので取引に関してはユウキには言えない。が、会議の件がある。キリトがベータテスターだと知っているユウキならば、キバオウと一悶着が起きてもある程度の想像はできそうだ。

 

「わいは知っとんのや。ちゃーんと聞かされとんのやで……あんたが昔、汚い立ち回りでボスのLAを取りまくっとったことをな!」

「な……」

 

 キバオウの言葉に、キリトの動きが一瞬止まる。だが敵は待ってくれない。その瞬間を見逃すはずもなく斧が大きく振りかぶられた。それをギリギリのところでキリトは躱す。

 

「ねえシュウ、LAってなに?」

「ラストアタックの頭文字だな。敵を倒したときに最後に攻撃したやつがもらえるボーナス」

「ふーん?」

 

 こちらもこちらで、敵は待ってくれない。パリィ、ユウキの斬撃、またパリィ。単調な動きなだけに考えなくてもできるようになってきた。それだけに思考のリソースは別のところへ割くことができる。

 キバオウがキリトのベータ時代のスタイルを知っている? そんなはずはない。もしそうならキバオウだってベータテスターでなければならず、その前提が成り立つのなら会議での一幕は全て瓦解する。まさに自縄自縛。

 だが『聞かされた』と言っていたことから、あくまで今のは伝聞情報だ。ということはキバオウにその情報を伝えた人物がいるということになる。

 

「あの人もそのLAっていうの、欲しいのかな?」

「そりゃそうなんじゃないか。ひとりしか取れないんだし、な──」

 

 そこまで言って、ふと気づく。

 LAが欲しいなら、本隊に入っておくべきなんじゃないのか。取り巻き担当でいたらほぼ間違いなくLAは取れない。指揮をしているディアベルに直談判をしてでもここではなく向こうにいるべきなのだ。

 

「そうか……そういうことか」

 

 不自然さはいくつかある。

 キリトが言ったように、四万コルはどこに行ったのか。

 どうしてキバオウは、あれだけしつこく取引を持ちかけておいてあっさりと名前を明かしたのか。

 なぜ、あくまでもキリトの剣に固執したのか。

 

「キバオウ……あんたにその話をしたやつは、どうやってベータ時代の情報を入手したんだ?」

「ああ? 決まっとるやろ。えろう大金積んで、《鼠》から買った言うとったで。攻略部隊に紛れ込んだハイエナを割り出すためにな」

 

 歯噛みするキリトに、憎々しげに話すキバオウ。

 これも不自然な点だ。というかもはやあり得ない。《鼠》は、アルゴはそんなことをしない。その情報だけは、金をどれだけ積まれても売らないものだからだ。

 もう決まりだ。キバオウは少なくとも黒幕じゃない。その向こうに、まだ誰かがいる。

 つまり、そもそも四万コルはキバオウのものではなかったのだ。使わなかったのではなく、使えなかった。それというのもキバオウもまた交渉の代理人だったからだ。俺たち《鼠》と、キバオウと。ふたつの間を介することで向こう側を見えなくしていた。キバオウもあくまで代理だったから、名前を明かすことができた。しつこく迫って断られたあとの気まずさなんて関係なかったのだ。

 そしてキリトにこだわった理由。それはキリトにLAを取らせないための作戦だろう。キリトのベータ時代のスタイルを知るのはベータテスター以外にあり得ない。キリトの剣を得ることで戦力アップを図り、かつキリトの戦力を削ぐことができる。一石二鳥だ。

 

「?? どういうこと?」

「ユウキが言ったとおりってことだよ」

「うん?」

「要するに、誰だってLAは欲しいよなってこと」

 

 言い終わると同時、大きくセンチネルの斧を弾く。その間隙をユウキが見逃すはずもなく。立て続けに斬りつけてHPを削りきった。

 

「唯一のボーナスなんだから、取れるもんなら取りたいよな」

 

 そしてそれを最も取りやすい位置にいて、それが不自然でないプレイヤー。

 それが誰なのか考えたところで思考が止まる。

 ……そんなん、絞れなくね? 壁役なら誰だって不自然じゃないんだけど。マジで誰であってもおかしくなくない? 

 もうちょっと情報があれば絞れるんだけどな、なんて考えていると、おおっしゃあ! と太く歓声が響いた。

 見ると、ボスの四本もあるHPバーの三段めがついに削りきられていた。そこまで追いやったB、F、G隊が下がり、最後の締めとばかりにポットローテで回復したC隊が、そしてそれを率いるディアベルが前線に出る。

 

「……シュウ」

「おう、キリト。どうだった?」

 

 ひとまず取り巻きたちを倒しきったキリトたちが合流した。

 

「聞こえてたろ。それ以上はないよ」

「……なんの話?」

「いや……とりあえず、敵を倒そう」

 

 アスナも交え、短いやりとり。キリトにはかなり衝撃だったのだろう。口数がかなり少なかった。ただ、それ以上は俺も答えを見出せていない以上何かを言えるわけでもない。

 頷いて、新たに湧いた取り巻きに剣を向けて。

 

 ── ゲームクリアは、自分の手で成し遂げたいのさ。

 

 ふと、ディアベルの声が頭に浮かんだ。

 

 ── オレはゲーマーなんだ。

 

「──まさか」

 

 再びボスに目を向ける。

 ぞるり、と。骨斧と革盾を投げ捨てたコボルドの王が、腰に帯いた凶悪なほどに長い湾刀を抜いたところだった。

 そこで、違和感。

 俺は武器に詳しくない。けれど、()()()はわかる。湾曲した刀剣というくらいだから似ているのは間違いないが、どう見ても洋風の拵えではない。アレはそれよりも、俺が憧れて、いずれは使いたいと思っている武器の形に近い。

 

「シュウ、くるよ! ……シュウ?」

「シュウさん! きます!」

「そっちは任せる」

 

 ふたりを手で制して、キリトを見る。俺が感じたものが間違っていればいい、そう思って。

 キリトも何かを感じたのか、同じようにボスを見ていた。ハッとした表情をして、それから嫌なことに気づいたように顔をしかめて、叫ぶ。

 

「……ダメだ、止まれぇ!」

「なに言っとんのや!」

 

 それをさらに、キバオウが止めた。

 

「おんどれがどんだけLA欲しいのか知らんが、ソレはディアベルはんのもんや。絶対に取らせへんで」

「そんなもんどうだっていい! とにかく下がらせろ、今すぐだ!」

「あぁ?」

 

 怪訝そうにするキバオウに、キリトは胸ぐらを掴む勢いで睨みつける。

 

「アレは違う! 湾刀(タルワール)じゃない、ベータテストと違うんだ!」

「ベータ……? おんどれ、やっぱり」

 

 キバオウがまたも突っかかろうと表情を厳しくして、それと同時にボスがソードスキルを発動した。

 湾刀は曲刀カテゴリ。ならば俺が知らない構えにはならないはず。ボスのレベルだけなら俺よりも下なのだから。

 なのに、()()()()()()()()()()()

 あれは、曲刀ではない──! 

 

「アレは、《カタナ》だ!」

 

 キリトが痛烈に叫ぶ。

 ギュルンッッ! と。水平に構えて跳び上がったコボルド王が空中で横薙ぎに旋回した。曲刀ならありえない、三百六十度の範囲攻撃。落下しながら繰り出される赤い斬撃は竜巻となり、ボスのぐるりを囲んでいた攻略本隊の全員を一様に吹き飛ばした。

 たった一撃で六人のHPが黄色くなったことも驚異だが、それ以上に状態異常を示すマークに目が行った。くるくると星が回る。行動不能、スタン。即時発動だが、効果時間が短いだけに回復手段が存在しない異常状態。こうなったときは代わりのプレイヤーが盾となり回復するまでの数秒を持ち堪えるのが一般だ。

 だが、動ける者はいなかった。号外に載っていた情報とは異なる現状とここまで順調だった流れがぶった切られたこと、そして絶対的指揮官たるディアベルがやられたことが攻略部隊の体を縛っていた。急な展開に戸惑うと、思考も体も止まってしまう。

 攻略本の情報に誤りがあることは覚悟していた。だからあくまで《鼠》が独自で集めたものであると大きく見出しも入れていたし、可能な限り綿密に情報の精査を行いもした。それでもどうしたって齟齬は生まれる。そうなったとき、今までアルゴならば一旦退き、その条件を再現することから始めていたものだ。

 だが今は敵がいて、動けない味方がいる。しかも待ってくれない。コボルド王はソードスキル発動後の硬直時間が解けると、まだスタンが解けず倒れているディアベルに狙いを定めて走り出していた。

 ──このままじゃ、やられる。

 

「うぉっ!? なんじゃワレぇ!」

 

 そう思ったときには、俺の体は動いていた。俺とボスとの間にいたキバオウを最小限の動きで躱してとにかく走る。再挑戦は不可能に近いとキリトやアルゴが言うのだ。そしてそれを率いてきたディアベルを失えば、それは確実なものになってしまう。彼だけでも救わなければならない。

 ──頼むゾ。

 アルゴの言葉が、耳に蘇る。

 

「ボクも行くよ!」

「おう」

 

 隣をユウキが駆ける。なんとなく想像はできていたが、こういうとき真っ先に動けるようになるのはこの子だった。軽く視線を交わして頷き合うと、俺は速度を上げる。ただいつもの戦法をするだけだ。俺が弾き、ユウキが斬る。今回はそのユウキの役割がディアベルたちを引きずってでも安全圏に逃すことに変わったというだけだ。大丈夫、いける。

 そうして剣に光を纏わせ、コボルド王の振るうカタナの軌道を見極めたときだった。

 

「オイオイ、止めてくれるなよ」

 

 男の声が聞こえた。トン、と背中に何かが当たる感覚。体が急に重い。足が思うように動かなくなり、走る勢いのまま地面に転がった。

 

「……な」

「シュウ!?」

 

 なにが起きたのか分からなかった。ただ体が痺れて重い。立ち上がる力すらない。ユウキの急速に遅くなった足音がすぐ後ろに聞こえていた。

 そしてかろうじて上げた顔のすぐ目の前。もう十メートルもない距離で、コボルド王が吼えた。

 カタナの(きっさき)が地面すれすれから振り上げられる。ディアベルの体がふわりと浮き、追いかけるように王も跳ぶ。刀身の光は消えない。追撃が無防備なディアベルの体に容赦なく繰り出され、そして吹き飛んだ。

 

「シュウ、大丈夫!?」

 

 駆け寄ってきたユウキが慌てたように上半身を抱き起こしてくれる。

 なにが起きたのか、理解が追いつかなかった。誰かに何かをされて、急に体が動かなくなって。それで目の前でディアベルが──そうだ、

 

「ディアベルは」

 

 聞こうとして、言葉に詰まる。吹き飛ばされたディアベルが、さっきまで俺がいた場所に重い音を立てて突き刺さるように落下したのが見えてしまった。

 近くにいたキリトが駆け寄る。アスナが呆然とそれを見ている。

 そして──やけに大きな音を立てて、青白いポリゴンの欠片が爆散した。



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イルファング・ザ・コボルドロードー3

 俺たちとキリトたちとの中間に、堂と地響きが鳴る。

 宙に跳び上がったコボルド王が、部屋全体を揺らすほどの音を立てて着地した。

 

「グォォォォォォォ!」

 

 勝鬨を上げるかのように長く吠える。攻略部隊の頭が誰かなんて知る由もないはずだが、まるで勝利を確信しているように見えた。それはひょっとしたら俺たちがもう瓦解寸前にまで追いやられていたがゆえの絶望感からそう見えたのかもしれない。

 そこかしこから悲鳴が上がっていた。あるものは武器を握りしめたまま動けず、またあるものは武器を放り出して逃げようとしている。これまで統率を取っていたリーダーがなす術もなくやられたのだ。それも事前情報とは異なる技でだ。ましてキリトとアスナのふたりともなればその衝撃は段違いだろう。

 彼に対するリーダーという感覚はきっと薄かった。オミソだというのもあって、ディアベルが直接指揮をしてきたわけではなかった。軽く、それこそこの場所に向かう道中で言葉を交わしただけだ。もともと彼と接点のあったプレイヤーのそれに比べれば大したことはないのかもしれない。それでも。

 

「ディア、ベル……」

「あ、ああ……」

 

 目の前で人が弾けた。

 目の前で、人が死んだのだ。

 決して少なくない衝撃が、ふたりを苛んでいるはずだ。

 

「……っ、くそ」

 

 だというのに、俺の体は鉛になったように動かない。

 

「おお、上出来じゃん」

 

 そんな中。阿鼻叫喚の巷と化したボス部屋の中でひとりだけ、軽薄に笑みを浮かべる男がいた。キリトたちを見下ろすように立つそのプレイヤーはフードを目深に被っているせいで口元しか見えない。小柄で、ともすれば女とも見えるが、その声の低さは紛うことなく男だ。そして俺が倒れる直前に聞こえた声と同じだった。

 

「何が上出来なのさ」

「んあ?」

 

 ユウキの声に、男は気だるげに振り向いた。

 

「人が死んだんだよ。出来もなにもないよ」

 

 声が震えていた。俺を支える手が、ぎゅうと握り締められていくのが伝わってくる。

 だが対照的に、男は飄々としていた。ユウキの言葉を受けてもだらけたような態度を変えない。

 

「なに言ってんだ、上出来だろ。なんなら完璧と言ってもいいんだぜ?」

「どこがさ!」

 

 男は両の手を広げて笑みを深める。ユウキの反応を嬉しそうに受け止めているのはきっと見間違いじゃないはずだ。

 よく見ろよ、と男は言う。

 

「なかなか忠実に再現できているだろ?」

「再現……?」

 

 そして戸惑うユウキを無視し、男は俺に語りかけてきた。

 大袈裟な身振り手振りを交えて話すその姿にはどこか見覚えがあった。だがそれがどこだったのかを考える間もなく、初耳なはずなのにどこか聞き覚えのある言葉が耳を打つ。

 

「初めまして、《鼠》のシュウ。オレはジョニー。ジョニー・ブラックだ。ボスからの言葉をお伝えするぜ」

 

 なぜ俺を《鼠》と知っているのかとか、どこかでコイツを見たことがある気がするとか、そんなことはどうでもよかった。ただひとつ、奴のボスからの伝言だというその言葉が、ゆうべの嫌な夢を思い出させる。

 ただの夢だと思っていた。先行き不安な状態があの夢になって現れたものだと。ただの虫の知らせだとばかり思っていた。

 

「『さぁ魅せてくれ。──イッツ・ショウタイム』」

 

 夢は、夢では終わらない。

 ジョニーが言い終わるのと同時に、コボルド王に小さな影が飛びかかった。

 

「うぉぉああああ!」

「キリト!?」

 

 ギィンッ! と甲高く金属音が鳴る。ディアベルがいた空間を呆然と見つめて固まっていたキリトが、ボスのソードスキルをキャンセルした音だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「──!」

 

 声にならない叫びをあげて、キリトは荒々しく剣を振る。それに応じるようにコボルド王もカタナを振り回した。お互いに防御など気にしない、ノーガードでの削り合い。激しい剣戟の音がボス部屋に反響する。

 

「キリトやめろ、止まれ!」

 

 だが俺の叫びはキリトに届かない。金属音のラッシュは止まらない。

 ボスといちプレイヤーとでは、HPの総量も一撃のダメージ量も違いすぎる。相手取るのにレイドを組んでとんとんだという相手に、一対一を挑むのは無茶を通り越して無謀だ。どうにか遠ざけなければならない。命の危険もあるが、今のキリトはそうでなくても危険だ。

 目の前で人の死を見たのだ。正気を保てるほうがおかしい。

 ──再現。

 ジョニーの言葉が唐突に脳裏をよぎる。思い出すのはすべてが始まったあの日の夜。ネペントの実を意図的に割り、キリトを殺そうとして、そして死んだプレイヤーがいたと聞かされている。あの件も、レアアイテムをめぐってのいざこざではなかったか。相手──コペルも、ベータテスターではなかったか──! 

 

「ユウキ!」

「ぅえ、な、なに?」

 

 思わず大きな声になってしまって、ユウキは驚いた顔をしていた。それにすまないとは思うが謝るのは後だ。それよりも優先することが今はある。

 

「俺はいい。キリトを止めてくれ」

 

 あのままじゃいずれ崩れる。キリトの命もそうだが、そうでなくても精神が危うい。

 だがユウキは、それに渋い顔を見せた。

 

「え、でも……」

 

 ちらりと視線をずらした先には、ボスとキリトとをへらへらと眺めているジョニー。たしかにあいつの手の内はわからない。だがなんとなく、ほんとうになんとなくだけれども、あいつはこれ以上に場を掻き乱しはしないんじゃないだろうかと思う。

 

「ん? ああ、そいつぁレア中のレアでな、麻痺毒ってんだ。自分に試す用のとあんた用のとで二本しかないもんで、オレはもうなんもできねぇよ。見てるだけだ」

「ほら」

 

 いや、ほらって言うのもおかしいが。俺に麻痺毒食らわした張本人なんだから疑うべきというか、素直に信じてはいけないものだとは思う。

 でも直感的なものでしかないが、信じられる気がするのだ。こういう奴は、変に素直だ。余計な嘘をつくようなタイプではない。

 

「ほらって」

「いやわかる、自分でもおかしいのはわかってる。でも今は、俺がどうこうなる確率よりキリトが崩れる確率のほうが高いだろ。止めないとマズい」

 

 こうして話している間にも、キリトのHPは削られている。いくら繰り出されるソードスキルを知っていてパリィがほぼ完璧に出来ていたって、このままじゃジリ貧だ。ボスは疲れを知らずとも、こっちは疲労が溜まっていく。そうなればいずれどこかで綻びが生まれるのだ。

 

「でもアスナは?」

「それは──」

 

 アスナもまだ動けないでいた。おそらく彼女にも再現の矛先が向けられている。ひょっとしたらアルゴの懸念は当たっていたのかもしれない。MPKの可能性は、ジョニーがいるというだけで格段に高まる。

 目の前に、圧倒的な力が立ち塞がる。

 たったそれだけだが、たったそれだけで心が折れるには充分だ。隠しログアウトスポットの件で騙されたのはまだ二週間前でしかない。中学生だか高校生だかがそんな短期間で乗り越えられるようなものではないはずだ。

 だがどうしたらいい。どうしても手が足りない。だからわかりやすく命の危険が迫るキリトを優先させたのだ。

 

「……くそ。もうひとり、いやふたり欲しい。誰かいないか」

 

 まだ俺は動けない。画面左上に稲妻のようなアイコンがはっきりと光っていて、腕を持ち上げようとしても鉛が入ったように重くて持ち上がらない。それは足も同じだった。

 ユウキにキリトを任せるとして、もうひとり。だが呼びかけても、俺の声が届いている様子のプレイヤーは見当たらない。ダメだ、どうすんだよ、逃げるしかないだろ──そんな声ばかりが聞こえてくる。

 さらに追い討ちをかけるように、もう湧かないとされていた取り巻きたちが新たに横穴から這い出てきて、逃げ惑うプレイヤーたちを追いかけ回す。

 まさに阿鼻叫喚の巷と化していた。

 

「オレがいこう」

「え」

 

 そんなとき。後ろから、バリトンの声がした。

 

「あの嬢ちゃんを避難させればいいか?」

 

 ガシャ、と鎧の鳴る音がして、ぬうと黒のスキンヘッドが俺を上から覗き込んでくる。

 

「エギル」

「あのふたり、いやキバオウさんもだから三人か。彼らをこっちに寄越しつつボスを引きつけておく。そんな感じでどうだ」

「いや……それはありがたいけど」

「なら決まりだ」

 

 そう言って、エギルはここにたどり着いたときと同じく白い歯を見せて笑う。

 

「決まりって」

「すまん、聞こえていたんだ。あんた、《鼠》なんだってな。そんであの剣士はベータテスター。……退くにしろ進むにしろ、キーパーソンはあんたらだ。そうだろ?」

 

 俺はともかく、クリアするためにはキリトがいなければならないのは確かだ。現段階ですでに一歩も二歩も先を行くあの剣士は、間違いなく核になる。

 頷くと、それに、とエギルは続ける。

 

「盾もない奴にいつまでもタンクやらせるわけにはいかないんだよ」

 

 なあ、とエギルが背後に声をかけると、数人の声が聞こえた。

 いつの間にやら集まっていたらしいA、B隊のメンバーを引き連れて、エギルは止める間もなくボスのターゲットを奪いにいった。剣戟の嵐がいくつもの盾によって一際大きな音を立てて止まる。その隙に、半ば引きずられるようにしてキリトたちが避難させられた。

 

「……シュウ」

 

 散々暴れ回って息の荒いキリトは、俺の顔を見るなり顔を歪ませる。

 

「ダメ、だった……!」

 

 わかったんだ、と吐き捨てるように言って、左手で顔を覆う。歯を食いしばった口から漏れる声は震えていた。

 

「キリト」

「俺、わか、わかったんだ、ディアベル、もおな、同じだ」

「うん」

 

 同じというのはきっと、ジョニーの企てた再現のこと。それにきっと、キリトも気づいた──というより、思い出させられた。

 

「こん、今度は、目の前、だった。また、たす、助け、られなかった……!」

 

 鼻を啜る音がして、顔を覆った手の隙間から光るものが落ちる。けれどそれには見ないふりをした。

 

「でも、ディア、ディアベル、は、言った、んだ。『あと、頼む』って。だか、だから、俺」

「そう……か」

 

 ディアベルもやはり知っていたのだ。キリトがベータテスターであることを。

 そして生粋のゲーマーでもあった。だから自分の手でクリアするためになりふり構わなかったし、ゲームクリアのためならばやはりなりふり構わず後に託したのだ。

 

「キリト」

「……う、ん」

 

 キリトの呼吸が落ち着くのを待って、俺は問いを投げかける。

 今から聞くのは残酷な二択だ。大きな精神的ダメージを負った、おそらくは年下であろう少年に聞くことじゃない。けれども、後に託されたのはキリトなのだ。ならば俺たちの進むべき道を決めるのはキリトであるべきだ。

 だから、聞く。

 

「進むか、退くか?」

「進む」

 

 即答だった。

 袖で拭われたキリトの目の周りは赤くはなかった。ゲームだから跡が残らないのか、それとも既に切り替えることができたからなのか。

 大きく深呼吸して、キリトはぽつりと呟く。

 

「コペルのときを、思い出したよ。剣と一体になる、なんて理由じゃなかったんだ」

「《芯》のことか」

 

 うん、とキリトは頷いて。

 

「もちろん、剣を振るう理由はそれだ。でも、やっぱりさ」

 

 ──帰りたい。会いたいんだ。

 

 そう言ってキリトは立ち上がった。

 

「行くのか」

「うん。ディアベルに、後を頼まれたから。それに俺はボスのソードスキルを知っている。たぶん、全部。変なミスさえしなければ倒せる。あの人たちも手伝ってくれるだろうしさ」

 

 エギルたち壁役は、ギリギリのローテーションを回しながらボスの攻撃を受け止めていた。どうするのかと、エギルがチラリとこちらを見てきていた。

 それにキリトは頷いて見せて。

 

「ボスのLA、取ってくる」

 

 そして、笑ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「アスナ」

 

 ユウキの声に、アスナはやはり反応を示さなかった。

 だからなのかそれでもなのか。ユウキは言葉を続けていく。

 

「ダメだよ。立って。死ぬ気でやるんでしょ?」

 

 ユウキだってディアベルの死に動揺していないわけではないはずだ。それでも、ユウキだからこそ、それを言葉の棘として投げかけることができる。

 

「戦って死ぬって言ってたじゃない。そんなの、誰だってできる覚悟じゃないんだよ。ほら、見てよ。半分は戦ってるけど、半分は逃げてる」

 

 キリトは壁部隊を率いて、僅かばかりのダメージではあるけれども着実に攻撃を重ねていた。だがその向こうには大門に向かって足を動かしているプレイヤーたちもいる。戦況の変化に気づいた彼らは少しばかり足を止めるが、後ろ髪を引かれるようにしながらもやはり変わらず離脱を試みていた。

 

「アスナがどっちを選んでもいい。でも、やるなら諦めるのだけはやめようよ。負けるつもりでなんてつまんないじゃない」

 

 ボスのHPはほんの僅かずつだが着実に削れている。コボルド王が苛立たしげに雄叫びをあげた。

 

「戦うって決めたなら、勝つつもりでやろう?」

 

 ユウキの、問いかけとも誘いともとれるその言葉に、アスナはぴくりと小さく反応を示す。何かしら届く言葉があったらしい。

 だがアスナが何かを答えようとしたそのとき、ふたりに割り込む声があった。

 

「なんや、まだやる気なんか」

 

 キリトたちと同じくキバオウもまたこちらに避難させられていた。ディアベルを失ったことで呆然としていたが、我に返ったらしい。

 

「ディアベルはんがやられたんやぞ。もう無理やろ。なんちゃら逃げるにしかずや」

 

 そう言って立ち上がったキバオウは、取り巻きに追われるプレイヤーたちのところへと駆けていく。

 

「数人がやる気になったってどうせ勝てんのや」

 

 そんな捨て台詞を残して。

 それに返事をするように──キバオウが去ったことが見えているのかわからないが──ぽつりぽつりとアスナは言葉をこぼしていく。ひょっとすればそれはユウキへの返事だったのかもしれない。

 

「……諦めてなんて、やらないわよ」

 

 俯いたままだった。だからか、声は少しくぐもっている。

 

「でも、目の前で人が死んだのよ。あんな、あんな大きな刀で斬られて、あんなふうに弾けるなんて人の死に方じゃないわ」

 

 ゲームであってゲームではない。茅場の言葉を思い出す。

 俺だって人が死ぬのを見たのは初めてだ。アスナが言っているのとは違うだろうが、俺にしたって思うことは同じだ。プレイヤーが退場するときも、モンスターを撃破したときも、演出は同じ。ポリゴン片となって散る。これはあくまでゲームの体をとっているだけの現実なのだと、まざまざと見せつけられた。

 

「死ぬの、怖い?」

「当たり前じゃない。怖くないわけないわよ」

 

 煽るようなユウキの物言いに、アスナは簡単に顔をあげる。

 そこで初めて気がついたように俺に顔が向く。一瞬だけ体がこわばって、そして少しだけ気が抜けたように肩が少し下がった。

 

「でも、……そうね。どうせっていうのはダメね。それは撤回するわ」

 

 呆れるように小さく笑って、ボスの重い一撃を受け止めて踏ん張る壁役のAB隊とそれを指揮するキリトのほうに、あるいはその向こうにいるキバオウに視線を向ける。

 

「確かに、諦めてるように聞こえるのかも。投げやりね」

「でしょー?」

 

 アスナの言葉に、ユウキが我が意を得たりと頷く。さっきのキバオウの発言に思うところがあったのだろうか。アスナはいやに冷静だった。だがそれは吹っ切れた静けさでは決してない。目に光が宿るというのはきっと今のアスナのことだ。どこか、今までと違う雰囲気が感じられた。

 

「でも確かに、数人のやる気でどうにかなる相手でもないわよ。それはユウキもわかってるんでしょ?」

「うん、もちろん」

 

 即答かよ。そこは気持ちの問題だよでいいだろ。とは思ったが、見届けると決めたので口は挟まない。ユウキには何かしら考えがあるのだろう、自身たっぷりに頷く。

 

「だからそのへんは、シュウに任せた。なにか思いつかない?」

「俺かよ」

 

 なんでだよ。なんもないよ。

 

「うん、シュウならいい作戦思いつかないかなって」

「えー……」

 

 どうしろというのか。作戦ったって、俺はボスのことなんて何も知らないんだぞ。対策なんて思いつくわけもないし、たとえ何か思いついても俺の指示に従ってくれるやつなんて──そうか。

 

「お、なにか思いついた?」

「指示をください、シュウさん」

 

 作戦と言えるようなものじゃない。なんならそれで上手くいく保証だってない。けれどひょっとしたら。上手くいけば、あるいは勝つことだって不可能じゃない。

 

「……じゃあ、今から言うことを頼む」

「うん!」

「はい」

 

 それぞれに確認をとる。これほどに信頼されているとどこかむず痒い。特別なにかをしたわけじゃないと思うんだけどな。

 そうして作戦を伝えると、ふたりはすぐに実行に移した。

 

 

 

 

 

 

「傾聴──!」

 

 アスナの声が、ボス部屋に凛と響く。

 一瞬、静寂。その隙を突くように、さらにアスナは畳み掛ける。

 

「レイドリーダーであるディアベルの、最後の言葉を伝えます!」

 

 フードを取っ払ったアスナが、ボスの正面、取り巻きたちを相手取るプレイヤーたちに背を向けるように立っていた。

 ツヤのある長い栗色の髪が背中にまっすぐ流れている。その美しい立ち振る舞いに見惚れて足を止めるプレイヤーが何人もいた。

 

「『後を頼む、ボスを倒せ』──このゲームをクリアしろと。彼は死の間際にも、逃げることは選ばなかった。あくまでもボスを倒せと、そう言っていました」

 

 半分は捏造だ。だがディアベルの指揮能力は確かなものだったし、その彼が中途撤退だって可能なこのボス戦で押し切れると判断したのだ。イレギュラーがあったとはいえ、そこまでは怖いくらいに順調に進んでいた。事前会議は決して無駄ではなかったのだ。

 つまり知ってさえいれば、怖いボスではない。

 そして今、前線で押さえ込んでいるキリトはボスのソードスキルを知っている。

 ならばキリトが指示を出せばいいのだ。

 だからさらに、捏造を重ねる。振り向いたアスナは、レイピアの剣先をキリトに向けた。

 

「そしてこうも言っていました。『次のリーダーは彼だ』と──今、ひとりでボスにダメージを与えているあの人だと」

 

 ざわ、と。撤退しようとして取り巻きたちに阻まれていたプレイヤーたちに波紋が生じる。それは当たり前だろう。ぽっと出てきた、しかも明らかに若い少年に急に従えと言われてハイそうですかと従えるプレイヤーなんてそうはいないはずだ。まして今まで見たことのない壮麗な少女がそう言うのだ、これは誰なのかと、そんな疑問だって浮かぶだろう。

 だがそれでいい。彼らの足が止まれば及第だ。注目の的になることに嫌な顔をされたが、ボスを倒すためだとアスナは自らこの役を買って出てくれた。

 そしてユウキによる伝令。キリトがエギルらに指示を出す。

 

「……了解。次、左から水平に薙ぎ!」

「おう!」

 

 わざわざ声を大きくする。全員に聞こえるように。もともとがそこそこ通る声をしているから、おそらくは部屋の隅から隅まで聞こえたことだろう。

 そしてその指示のとおり、ボスはカタナを右腰から水平に斬り払った。あらかじめ腰を落として構えられていたいくつもの盾に阻まれる。ダメージはゼロにならないとはいえ、防ぐことができたという事実が壁役プレイヤーたちのテンションを上げていく。

 それに比例するように、戸惑いが広がっていく。逃げる足を止め、とりあえず取り巻きに攻撃をしておこうというプレイヤーが増えてきていた。

 

「次、左から袈裟!」

「おう!」

 

 再び、盾がカタナを阻む。

 四体の取り巻きのうち二体が撃破された。一体に八人くらい、剣、斧の近距離と槍、ポールアームの中距離とで間断なくタコ殴りにするのだ、倒すのに全く苦労はない。

 

「なぁ……おい」

「ああ……」

 

 取り巻きを倒したプレイヤーたちは、言葉少なにボスとキリトらを見比べていた。

 

「グルァァッ!」

 

 苛立ったようにコボルド王が振りかぶる。頭上まで振り上げたカタナは、力任せに振り下ろされた。

 

「唐竹──真っ直ぐだ、弾けるぞ!」

「おおっしゃ!」

 

 キリトの声に、エギルたちが一層大きく吠えた。四人がかりで振り上げるように発動したソードスキルが振り下ろされたカタナにぶつかる。

 

「……おい、マジか」

 

 さらに二体の取り巻きが簡単に撃破され、また別の取り巻き側にいたプレイヤーが呟く。その視線の先で。

 ふわっとコボルド王の体が浮き──背中から床に叩きつけられた。じたばたと手足をばたつかせる王だったが、なかなか起き上がれない。あれは聞いたことがある。人型特有の異常状態、転倒。

 

「全員、来い! 畳みかけるぞ!」

 

 キリトが叫ぶ。

 それに真っ先に反応したのがユウキだった。

 

「アスナ、いこう!」

「ええ!」

 

 そしてアスナもそれについていく。ふたり同時に剣に光を纏わせて疾駆するさまは、さながら流星の如く。栗色と漆黒の長い髪が、彼女らの速さについていけず旗のようにたなびいていた。

 それに釣られるようにして何人かが駆け出した。だがまだ足りない。

 だから、さて。俺の出番だ。

 

「LAは俺が貰った!」

 

 動けるようになるのを待って、俺はずっと取り巻き側に待機していた。そしてあえて、キバオウの近くで煽るように言葉を選んで走る。

 すると釣れるんだこれが。案の定だ。

 

「なっ、待てや! それは渡さんぞ! おい、ぼーっとしてんなや!」

 

 こういうとき、キバオウの持っている勢いってのはかなり大事だ。彼が巻き込むようにE隊が動き、そうしてひとりが釣れると、またひとり、またひとりとそれに続く。

 取り巻きは全て倒している。全員が、ボスに向かって走っていた。

 

「そろそろ立ち上がる、囲むなよ!」

「おお!」

 

 もはやキリトの指示に従わない者などいなかった。

 ボスの残りHPはバーの半分ほどになっていた。先程の攻撃でかなりの量が削れたことになる。

 

「D、E、F、G隊、取り巻き! シュウアスナユウキ、それぞれ援護!」

「あいよ」

「はい!」

「りょーかい!」

 

 新たに取り巻きが出現した。その数、四体。従来の湧出より一体多かったが、慌てる者はいなかった。いけるかも知れないという希望が、そして前半戦に似たスムーズさが全員に僅かな余裕を生ませていたのだろう。危なげなく撃破し、またも全員がボスに向き直る。

 

「次、右の逆袈裟! 下からだ、振り下ろして弾け!」

「おおっ!」

 

 キリトの声、エギルたちの声。王が吠え、光と光がぶつかる。

 そして金属音がして──ボスのカタナが、床に叩きつけられて跳ねた。

 

「今だ!」

 

 合図とともに、まるで爆竹のように。待ってましたとばかりに、ボスの体にとりどりの光がぶつけられる。ゴリゴリゴリとHPバーが削れていって──残り、数ドット。

 あと一撃というところで減少が止まる。全員のソードスキルを受けきって、コボルドの王が獰猛に笑った気がした。

 

「──終わりだ」

「ボクたちの勝ち!」

 

 その笑みが、一瞬で歪む。黒と黒。青白い光芒とともに振り上げられた二本の剣が深く王の体に沈み込み、身体中に亀裂が走る。

 不意にボスの体から力が抜け、膝から崩折れた。遠吠えをするように上に向けて吠え、直後、その巨大な体が光に包まれる。

 鋼鉄浮遊城アインクラッド、その第一層フロアボス《イルファング・ザ・コボルドロード》。

 その巨躯は無数のポリゴン片に姿を変え、雨のように降り注いだ。



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嘘、黒、梟。

 周囲の壁にかけられた松明が、灯の色を濃い赤から黄みがかった赤へ和らげた。

 どこからか吹き抜ける風が頬を撫でる。そのどこか場違いな穏やかさが、荒かった息を少しずつ整えていく。

 降り注ぐポリゴン片が全て宙に溶けたとき、誰かが呟いた。

 

「……勝った、のか?」

 

 誰からも返事はなかった。ユウキやキリトは剣を振り上げたまま固まったように動かない。エギルたちタンク部隊は腰が抜けたように座り込み、キバオウら火力担当たちは呆然と立ち尽くしたりやはり座り込んだりしている。それでも武器を手から離すことなく、全員が未だ緊張の糸を解いてはいなかった。

 ひょっとしたら、と。《曲刀》が《カタナ》に変更されていたように、それ以外にも変更が、ともすればまだボス戦には続きがあるのではと、そんなことを思っているのかもしれない。それだけ武器変更が与えた衝撃は大きかった。

 俺も理由は違えど周囲を警戒していた。途中からジョニーの姿を見失っていたからだ。あの毒ナイフを所持していないという言は信頼しておくにせよ、他の手段を用いてちょっかいを出してこないとは限らない。そうでなくてもプレイヤーに武器を向け、あまつさえ危害を加えたやつをほったらかしていいわけがなかった。

 だが、待てども待てどもそれ以上の動きはなく。

 一瞬とも永遠ともわからない空白ののち、労るような声が耳朶を打った。

 

「お疲れさま」

 

 フードを取り払ったままのアスナが、ユウキとキリトの剣を握る手に自らの手を重ねる。その重みはゆっくりとふたりの手を下げさせ、やがてかつんと剣先が床に触れる。

 まるでその瞬間を待っていたように、ファンファーレが鳴り響いた。視界いっぱいに《Congratulations!》の文字。獲得経験値とドロップアイテムが次々に表示され、そして、わっ! とボス部屋が沸いた。

 

「やったやった、勝ったぁ!」

「わぁ!?」

 

 ユウキが思いきりアスナに抱きつく。勢い余ってそのまま倒れ込んでしまったが、そんなことはお構いなしにユウキは全身で喜びを表す。

 

「……もう」

 

 止めるに止められないらしく、アスナは大人しく抱きつかれている。その口元には微かな笑み。

 それに見惚れるように惚けていたキリトに声をかけると、心底驚いたように飛びあがった。

 

「おつかれ」

「おう!? ……ああ、シュウ。うん、おつかれ」

「……美人だろ」

「な、なんの話です?」

「いーや、なんでも」

 

 鬼気迫るほどに追いやられていたアスナには笑みがなかった。キリトのように自嘲するような笑みも、もちろんユウキのような心からの笑みも。それがようやく浮かんだ今を見て、少しだけほっとした。

 少なくともボス戦前までの余裕の無さはなくなった。それだけで、今はいい。

 

「あ! ねえシュウ、見てた? ボクできたよ! ソードスキル!」

「……あぁ、最後の?」

 

 言われて気づく。そういえば確かに、最後はキリトと同じタイミングでユウキも攻撃できていた。誰よりも早く攻撃したのもこのふたりで、誰よりも早くトドメを刺しに動けたのもこのふたりだったのだ。なるほど、ソードスキルが上手く発動できたからこその動きか。

 

「そう! なんかね、グッとやってズバーンって!」

「お前もかユウキ」

 

 キリトと同じ感覚をどうやらユウキも掴んだらしい。表現の仕方まで同じってどうなのとは思うが、まあそういうふうにしか俺も言えないしな。

 なんて内心苦笑いしていることなどつゆも知らず。嬉しくて仕方ないらしく、アスナから剥がれると俺の前でびょんこぴょんこと飛び跳ねる。

 

「アスナと一緒に走ったときにね、なんとなくこうだーってなって、そしたらずばーって!」

「そうか。やったな」

「うん!」

 

 舞い上がるほどに喜ぶユウキに、俺は右手を挙げた。すると意図のわかったユウキも右手で応じて。

 ぱぁん! と。小気味良く、音が鳴った。

 そんな騒ぎの中で、立ち上がったエギルがゆっくりと近づいてきていた。

 

「おつかれさん、エギル」

「シュウといったか。ナイスゲームだった。いいもん見せてもらったぜ。特にあんた」

 

 そう言ってキリトを示す。

 

「見事な指揮だ。そしてそれ以上に見事な剣技だった。コングラチュレーション」

 

 ネイティブな発音でキリトを褒めた大男は、白い歯を見せてニッと笑って拳を突き出した。ベータテスターだと知ってなおこうして接してくれていることを、おそらくキリトは知らない。だからだろう、戸惑うように俺を見てくる。それに頷いてやると、おずおずとしながらも拳を合わせようと右手を持ち上げようとした。

 その時だった。

 

「──なんでだよ!」

 

 悲鳴にも似た叫びが、嵐のような歓喜の騒ぎを一瞬にして消しとばした。甲高く悲痛なそれは、壁際に立つ一団のひとりから発せられていた。あれは……確か、C隊か。

 キリトもエギルも、ユウキもアスナも。その場の全員が彼に目を向ける。

 

「なんでディアベルさんを見殺しにしたんだ!」

 

 俯き、けれど睨みつけるように視線だけは下げない彼は、キリトに向けてそんなことを口走った。

 

「見殺し……?」

 

 キリトが小さく口にする。まるで理解ができないとでも言うように。だがそれは俺も同じだった。

 ディアベルを見殺しになんてしていない。そんなことをするわけがない。もしもキリトがそんな図太い神経をしていたとして、ならば戦場で見せたあの涙はなんだったのだ。

 

「そうだろ! だってアンタは知ってたじゃないか、ボスのソードスキルを! 初めからそれを教えてくれていれば、ディアベルさんは死ななかった!」

 

 途端に、レイドのあちこちでざわめきが起こった。確かに、なんでだ、おかしい、そんな言葉が聞こえてくる。

 ディアベルが死んだのは、言い方は悪いが自業自得ではないのか。己のゲーマーとしての矜持が彼を突き動かした結果なのだから。それに、彼を殺したのはある意味でジョニー・ブラックだ。もしもの話でしかないが、俺やユウキが間に合っていれば死ぬことはなかったかもしれない。そう考えれば、ジョニーやディアベルを責め、あるいは悼むことこそすれ、キリトが責められるのはお門違いも甚だしい。

 だが、ジョニーの存在を彼が見ていたかというと、確かに怪しくはあるのか。たぶんスタンで倒れていたときだっただろうし、それ以上にディアベルの死が衝撃的だったのは間違いない。

 それに、ひとたび感情的になってしまえば止めることは容易じゃない。目つきをさらに鋭くしたC隊の彼から、恨み言が流れ出す。

 

「アンタ、ベータテスターなんだろ? だから知ってたんだ。攻略本にすら載っていないものを知ってるのがいい証拠だ、実際ボスのソードスキルの名前を知っていたものな? なんなら元から知ってたんじゃないのか、攻略本は間違っていたこと。知ってて黙ってたんじゃないのか!」

 

 その糾弾に、キリトは答えない。答えられないのかもしれない。確かにベータテスターではあるが、それをこの場で公言しては格好の的だ。

 だがそうして黙ってしまうことが、周囲の疑念をさらに深くしてしまっていた。

 そんな折、律儀にも挙手をして、ひとりのプレイヤーが遮るように質問を投げる。エギルが率いていた壁役隊のメンバーだ。だからというわけではないだろうが、キリトをやや庇うような目線からの意見だった。それは的確なものだったが、痛いところを突かれた彼はしかしやはり止まることがない。

 

「でも、攻略本はベータ時代のものだって書いてあったよな。彼がベータテスターなんだとしても、ボスの攻撃パターンの知識は攻略本と同じなんじゃないか?」

「……なら、情報屋もグルだ。攻略本にウソを書いたんだ。《鼠》だって元ベータテスターだ、そうじゃなきゃあんなの書けないもんな。あんなの、タダで寄越すわけがなかったんだ」

 

 唖然とした。こいつはいったい何を言っているのかと。

 アルゴがどれだけ走り回って、どれだけしっかりと裏を取っているのか知らないだろう。睡眠を削り体力を削って得た確実なものだけを、あの守銭奴が無料で提供してきたんだぞ。だから今日ここまで来れたんじゃないのか。

 エギルが呆れるように声を漏らす。ここまで黙って聞いていたアスナも、戸惑うような、それでいて怒るような表情で今にも反論をかましそうな体勢だ。

 そしてそれよりも先に噛みつく声があった。

 

「そんなことない! アルゴはウソなんて書かないよ! 今日のだって、違うかもって書いてくれてたじゃない!」

「それだって怪しいもんだろ。今回みたいに犠牲があった上で書いてるのかもしれない。誰かに試してもらった結果なら間違えようがないからな」

「──っ!」

 

 ユウキの反論に、彼は声音だけは冷静に返してくる。

 否定はできない。実際、攻略本のスタートはキリトによる体験だ。その後も、アルゴや俺が間に合わなかったために事後の広報になってしまったものはいくつかある。事実は確かに混じっている。

 だが、だからってわざわざ誰かに試してもらうなんてことはしていない。それは誰よりも俺が知っている。

 

「そんなの──!」

「やめとけ、ユウキ」

「でも、でも!」

「いいから。ありがとうな」

 

 なお反論をしようとしてくれるユウキを宥める。会議のときもそうだった。この子は、誰かのために怒ってくれるのだ。でもだからって、それに甘えてはいけない。そうして噛みつくことで、この子にまで謂れのない疑いがかけられては意味がない。

 それに、筋が通らないよな。なんたって、当事者がここにいるんだから。

 

「なあ、なんとか言ってみろよ。元ベータテスター!」

「……っ!」

 

 詰る言葉に、キリトが身を固くする。

 おそらく、否定してももう無理だ。どうしたって攻略本になかった情報を知っていた事実は覆しようがなく、既に身分はバレてしまっている。だからって認めてしまえばもう後戻りはできない。きっとキリトもそれはわかっているのだろう、何かを言おうとしては口をつぐんでを繰り返した。

 

「エギル、悪いがあと頼むな」

「……おい、まさか」

 

 エギルの言葉に返事はしない。ろくでもないことをしようとしているのはわかっているのだ。後ろめたさはもちろんある。それでも、俺は決めたのだ。

 もう二度とキリトをひとりにはしない。アスナを生きて帰らせる。そしてユウキに、もっと広い世界を見せてやるのだと。

 そのためならば、俺は何にだってなってやる。

 ──頼んだゾ。

 今日だけで何回アルゴの言葉を反芻しただろうか。結局、いつ思い出しても上手くいった試しはなかった気がする。すまんな、アルゴ。

 打ち震えるキリトの肩に、できるだけ優しく手を置く。縋るようにキリトが見てくるのを視界の隅で捉えたが、これから俺がすることを考えると素直に目を合わせられなかった。

 

「ちょっと、いいかな」

「なんだよ」

 

 キリトへの視線を遮るように前へ出る。

 キリトにもアルゴにも、なんならもちろんディアベルにだって、悪気はないのだ。ただ上にいた──それだけで嫉妬の対象にはなり得たし、だからこそこうして崇拝に近い持ち上げられかたをしている。その浮き彫りになってしまった溝を埋めるには、さらに上を作り出すしかない。より気持ちの矛先を向けやすいもので隠してしまえばいいのだ。

 例えば──そう、ジョニーのような。

 

「まるで今日このときのために《鼠》が信頼を稼いできたみたいな言いかただけど」

「……そういうことだろ。ディアベルさんを殺すために、全てのプレイヤーを騙してきたんだ」

 

 まあ、そういう見方もできなくはないのか。ここまで全てがブラフだったと。なるほど。

 納得して内心頷いていると──ぷつん、と。何かが切れた音がした。

 ──そういう方向でいこうか。

《鼠》の名前に傷がつくかもしれないが、そこはそれ、各々の情報精査の精度を上げさせるための犠牲ってことにしてもらうということで。

 俯いて、右手で顔を押さえる。それから、可能な限り口角を上げて。

 

「ふっ──はははははは!」

 

 盛大に笑ってやった。

 

「な、なにが可笑しい!」

「いや、すまん。ふっ、ふは、いや笑うとこじゃないよな。ふっ」

 

 思ったより上手に笑えたせいか、後まで少し引きずってしまった。だがそれが功を成したようで、上手いこと注目が集まった。うん、結果オーライ。

 

「あながち間違いじゃないなと思ってさ。思ったより馬鹿じゃなかったんだな、うん」

「なにが言いたい!」

「いや、簡単な話なんだ」

 

 そう、いたってシンプルな話なんだ。ディアベルと同じ背負いかたが出来ないなら、違う背負いかたをするしかないって話。

 

「あの号外、書いたのは俺だ」

 

 さて、それじゃあ演じようか。《プレイヤーの敵》を。

 

 

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 

 

「あの号外、書いたのは俺だ」

「な……!」

 

 シュウの言葉に、ユウキやキリト、アスナも含めて全員が一斉にざわめいた。

 それは紛れもない自白だった。ウソの攻略本を配りましたと宣言したのだ。誰にとっても予想外だった。

 特にユウキたちにとって、彼の行動は突飛すぎた。アルゴとのやりとりを知っている、彼本人を知っている。それだけにその唐突な発言は大きな困惑を生んだ。

 

「ディアベルに号外を渡したのも俺だ。そうじゃないとあんな内容は誰も受け付けてくれないもんな」

 

 シュウはさらに自白を続ける。明らかに自分を追い込んでいるのは本人にしてもわかっているはずなのに、泰然自若な様を崩さない。その余裕が、C隊の、キリトを詰っていたプレイヤーをさらに煽っていた。

 

「お前が、《鼠》……! お前がウソを書いたのか! お前が、ディアベルさんを殺した!」

 

 より憎悪の深まった鋭い視線がシュウに向けられる。今にも腰に下げたシミターを抜きそうな剣幕だが、それすらも意に介さない。

 

「《鼠》じゃねえよ。今回は偽装したが、俺は名もない情報屋だ。あぁでも、今後やってくうえで名無しじゃ不便か。そうだな、《梟》とでも呼んでくれ。好きなんだよ、梟。かわいいよな」

 

 フクロウ、と誰かが呟いた。シュウに集まる視線が、次第に戸惑いから敵意に変わっていく。

 それをさも楽しんでいるかのように、シュウの言葉は止まらない。

 

「ほんと助かったよ、《鼠》があれだけ信頼を稼いでくれたおかげで簡単に騙されてくれるんだもんな。腹が捩れるくらい笑わせてもらった。ありがとうな」

「こいつ……! なにふざけたことを言ってるんだ!」

「──ふざけてるのはお前らだろ」

 

 静かな声音だった。それだけに強い圧がある。彼は思わず口を噤んだ。

 ややあって、シュウは嘲るような笑みとともに口を開く。場が静かだからだろうか、口調は変わらないのに声量が上がったような錯覚があった。

 

「ディアベルが死んだのがベータテスターのせい? なにナメたことほざいてんだ。アイツが死んだのはアイツが弱かったからだ。違うか?」

「っ……ディアベルさんを馬鹿にするなよ!」

「別にアイツを馬鹿になんてしてないさ。それどころかできないね。最後まで自分の意志を貫き通した、尊敬に足る傑物だ。俺が馬鹿にしてるのはお前らだよ。誰も彼もディアベルディアベル。金魚の糞かっての」

「お前……お前ぇ!」

 

 シュウの吐き捨てるような言葉に激昂した彼は、ついに腰に下げていたシミターに手を伸ばし──抜いた。

 誰も止めなかった。シュウも笑ったまま。シミター使いは大上段に構えて裂帛の気合とともに突撃する。

 だが振り下ろした剣が敵に届くことは──否、剣が振り下ろされることすら叶わなかった。

 

「遅えよ」

 

 シミター使いが構えた瞬間だった。その時にはもう、シュウはカトラスを()()()いた。回転する刃はシミターを握るその手を襲い、強引に武器を手放させる。

 呆気に取られ動きの止まった腹にシュウは前蹴りを繰り出し、尻餅をつかせた。まるで不良のケンカような蹴りかただった。悪意を存分に見せつけるかのような。

 

「ぐっ、は……! な、何をする!」

「だからこっちのセリフなんだって。何しようとした? 人に剣を向けるってことは、覚悟はできてんだよな」

「くっ……!」

「それにほら、見ろよ」

 

 言って、シュウは頭上を示す。そこにはオレンジのカーソルが回っていた。

 これは加害者の証だ。傷害、犯罪、そういった倫理違反がシステムに認められた悪人の証。本来の色であるグリーンならばなんの問題もない。しかしその色がひとたびオレンジに変色した瞬間から、圏内──すなわち村、街とシステムが指定した安全圏に入ることを許されなくなる。それはこのデスゲームにおいて自殺行為に等しい。

 だがこの時この場において、それはシュウのストッパーを外すための装置でしかなかった。

 

「もう遠慮なんてしねえよ。殴る蹴る斬る殺す、俺はなんでもやるぞ。それともなにか、今さら助けてくれとか言わないよな。お前から剣を向けたんだもんな?」

 

 彼の視線が、シュウの動きに合わせて上を向く。新たに出現させた予備のカトラスに灯るオレンジがその目に反射していた。怒りに燃えていたシミター使いの瞳が揺れる。

 

「死ねよ」

 

 短い言葉とともにカトラスが振り下ろされる。

 刃が眼前まで肉薄して──直後、大きく弾かれた。

 

「ちょっと待てシュウ! やりすぎだ!」

「……キリト」

 

 シュウの剣を止めたのはキリトだった。気怠げに、邪魔された苛つきを視線に込めてシュウはキリトを一瞥する。それにキリトは圧され視線を外し、シュウは興味を失ったようにまた視線を戻す。怯えきったシミター使いの視線が、シュウのそれと交わった。

 シュウは剣を収めると、あからさまに大きくため息をついた。

 

「助けてくれたこいつに感謝しろよ。そうでなきゃ殺してた」

 

 仲間に引きずられるようにして、彼は元いたC隊の輪に戻っていく。庇うように囲む彼の仲間は──それどころか周りで見ていたプレイヤーたちも、シュウを敵意ある目で見ていた。

 彼が完全に腰を抜かしているのを確認して興が醒めたと言わんばかりにおどけ肩をすくめると、シュウはユウキたちの脇を抜け玉座の裏にある扉へと歩き出す。

 

「シュウ……」

「シュウ、さん」

 

 すれ違いざま、ユウキとアスナは戸惑いがちに呼び止めた。なぜ、どうして。聞きたいことは山のようにある。だがシュウは止まってはくれない。ユウキが躊躇いがちにシュウの裾を掴もうとして、しかしその手は届かず宙を掻く。

 背中が遠ざかっていく。

 

「待てよ、シュウ!」

 

 キリトが叫ぶ。それにすらも振り向かず進んでいくシュウは玉座の裏にある扉に手をかける。

 重い音が響く。その先に人影があった。頭上にはシュウと同じオレンジのカーソル。そのプレイヤーをユウキは知っている。

 

「よぉ。悪い奴だなお前」

「お前に言われたかねぇなジョニー」

 

 ──ジョニー・ブラック。

 ディアベルを救うのを邪魔した男。シュウに、毒のナイフを立てた男。ユウキの手に力がこもる。今すぐにでも駆け出したい気持ちはしかし、ギリギリのところで踏みとどまった。軽く言葉を交わしたシュウが、そこで初めて振り向いたのだ。

 ボス部屋に残したレイド全員の視線を集めていることに満足げに頷いて、彼は薄く笑みを浮かべた。キリト、アスナに目を合わせ、最後にユウキと視線を交える。

 

「じゃあな」

 

 そして扉は閉まる。

 静寂が、ボス部屋を包んでいた。




アインクラッド編第一部、完。

長らくお付き合いいただきありがとうございました。
変わらずのんびり更新ですが、どうぞよしなに。

さて野郎ども、舞台は整ったぜ……!


※「はじまりの日」誤字修正済


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Eine

 季節限定のイベントクエストがあるという知らせをユウキが受け取ったのは十二月になってすぐのことだった。

 情報源は《鼠》のアルゴ。アインクラッド随一の情報屋であり、彼女の扱うネタはゲームの攻略情報からプレイヤー個人の人間関係など多岐に渡る。金さえ積めば自分のステータス──つまり個人情報ですら売ると噂されるほどだ。そしてそれらの情報が間違ったことなど、たった一度しかない。

 

「寒いね」

「ナー」

 

 だがそのたった一度が、《鼠》にとっては大きかった。名を騙られたのだ。ゲームの攻略情報を本という形にして周知させても、それが本当にアルゴのものなのかという疑念が生まれてしまう。顧客との信頼関係が肝となる業界において、それは決定的かつ致命的な疑念だった。

 ユウキを含む一部のプレイヤーにとっては全幅の信頼を寄せられる情報屋だ。もちろんそれ以外でも《鼠》の情報を頼るプレイヤーは多い。むしろそうでないプレイヤーのほうが少ないと言える。

 それでも、アルゴにとってはそのたった一度が首の皮を落としかねないほどの大きな傷となっていた。幸か不幸か、その傷を与えた相手はアルゴの元相棒。今は《梟》と名乗る彼を見つけ出してとっ捕まえて《鼠》の名のもとにタダ働きをさせる、それを行動理念の一角に据えて、アルゴは情報屋としてアインクラッド中を駆け回る。

 そんなアルゴと、ユウキは一年もの付き合いとなった。

 

「……もう、一年だね」

「……ナー」

 

 夜の曇天を見上げて、ベンチに座るユウキは長く息を吐く。それは瞬く間に宙に溶け消えた。

 あれから、一年。アインクラッド初の殺人被害者であるディアベルの死を巡ってさまざまな出来事が起きた。冬を越え、春を迎え、夏が過ぎ、秋が去り──殺人者《梟》は、姿を消した。

 オレンジプレイヤー。アルゴによれば、犯罪行為をした者を頭上に浮かぶカーソルカラーでそう呼ぶらしい。ユウキが知る限りではあの短剣使いもその枠組みの中に含まれるとのことだ。とてもシュウと同列になどできないとユウキは憤った。だがその怒りは、世論には異なる方向に捉えられる。

 

『オレンジなんてものじゃない。意図的に罪を犯したのであれば、それはレッドカラーだ』

 

 モンスターの頭上にも、カラーカーソルは浮かんでいる。自らのレベルと相手のレベルとの差によって色が変わり、自分よりも低いか同列ならグリーン、わずかに上ならオレンジ、とても倒せないというほどに差が開けばレッドというように見えるらしい。ある意味でその凶悪さを認められ、シュウは《レッドプレイヤー》の名をアインクラッドに轟かせたのだった。

 

「……とりあえず、オレっちは行くヨ。ユーちゃん、根は詰めすぎないようにナ。アーちゃんにも伝えておいてくレ」

「うん。アルゴも、たまには休みなよ」

 

 返事はなく、ユウキと背中合わせになるようにしてベンチの裏側に寄りかかっていたアルゴの熱がふと消える。急に冷たさが背中を襲い、思わずユウキは背筋を伸ばした。

 街はどこかそわそわとした雰囲気に包まれていた。現在ユウキがいるのは第四十六層。その主街区であるクリスタは中央にある木を中心に、煌びやかに装飾が施されている。それはここだけでなく、解放されている全ての層の主街区が同じように装飾されていた。そしてそれが始まったあたりから、NPCから一様に似たような話を聞くようになったのだ。

 

「プレゼント、あの人は喜んでくれるかしら。あら、そういえば──」

「ねぇねぇ、知ってる? 一年間いい子にしてたからね、プレゼントもらえるんだって。あのねあのね、──」

「今年こそ、あの子にプレゼントを贈るんだ。そして想いを伝えるのさ。そのためにも僕は探すよ。なにをかって? それはな──」

 

 ──どこかに巨大なモミの木があって、そこには大きなズダ袋にプレゼントをたくさん詰めた聖人がいるらしい。

《背教者ニコラス》──それが、聖人の名前だった。十二月二十四日の夜二十四時、とある場所にて聖人が現れる。アルゴが掴んだのはそんなクリスマスのイベントクエストで──そして《梟》が、シュウが現れる可能性が非常に高いとユウキが目をつけたクエストでもあった。

 というのも、季節イベントは報酬が多いのだ。春の《巨大な錦鯉》、夏の《幽霊騒ぎ》、秋の特殊マップ《月》。それぞれのシーズナルイベントで得られる報酬は大きく、それだけに普段は迷宮攻略にしか興味を示さないプレイヤーたちですらその手を止めてクエストに挑んでいる。そしてそこでは必ず、とあるギルドのシンボルが目撃されていた。

《笑う棺桶》──ラフィン・コフィン。

 オレンジカーソルのプレイヤーは、あの日以来少しずつ増えていた。ストレスが溜まりに溜まってしまったプレイヤーたちや、ゲームに閉じ込められてしまったことでどこか狂ってしまったプレイヤーたちのたがを外す機会を、図らずも《梟》に倣うという形で作ってしまったのだ。

 そしてその中で、さらに区別されるレッド──意図的に犯罪を犯し、人を殺す集団、それが《笑う棺桶》だった。《梟》はアインクラッド初の犯罪者として、ラフコフ所属のレッドプレイヤーとなっていた。また、ときおりそのレッドプレイヤーたちの口からその名を聞くことがある。滅多に姿を現さず、その存在感は薄れてきているというのに《梟》という脅威が消えないのは、そうして名前だけが口伝いに残ることが大きな理由だった。

 ユウキは、そうした噂が事実でないことを知っている。シュウが何を思い動いたのかはわからない。わからないけれど、彼は人殺しなどしていないし、間違っても悪人などでは決してない。キリトが言うようにやりすぎではあったし、もっと穏便な他の方法があったはずだとも思う。それでも、あの場において即座に動けたのはシュウしかいなかったし、結果的にシュウひとりを敵とすることであの場は収まったのだ。

 だが全員から敵の扱いを受けて、それでいいわけがない。敵となる寂しさをユウキは知っている。誰からも遠巻きにされる感覚はとても寂しいものだ。

 ユウキはどうにかして周囲の、シュウに対する誤解を解きたい。シュウにあの感覚をあまり長く味わっていて欲しくなかった。

 そのためにも、まずはシュウに会う。会って話をして、あのときの真意を問いただすのだ。あの日以来ユウキは直接見たことがないが、アルゴを通じて春夏秋のイベントにてそれらしきプレイヤーの目撃証言は届いている。ならば冬にも現れるはず、とユウキは読んでいた。

 言ってやりたいことは山ほどある。聞きたいことも、話したいこともこの一年でたくさん溜まった。

 そしてなにより、シュウに伝えたい言葉があるのだ。なにはなくともこれだけは、絶対に言うと決めている。

 

「……よし」

 

 ふうっと肺の中の息を全て吐き出し、冬の冷たい空気を思い切り吸った。思い出して熱を持った体の芯を、冷気がざあっと撫でていく。

 掲げた目標のために、ユウキはさまざまな伝手を辿り寒空の下を駆けシュウを追う。

 そのために、まずは──

 

「お待たせ。待った?」

「ううん、全然。そうだ、アルゴから伝言。あんまり根詰めないようにってさ」

「せめてあの人を一目でも見れたら考えようかな」

「憧れの人だもんね?」

「ぅえ? ちょ、ユウキ、しーっ!」

 

 もう、と頬を膨らませてアスナは腰に手を当てる。白い生地に紅のラインが入った団服はギルド《血盟騎士団》のものだ。少数精鋭ながら現在の最前線四十九層攻略の主力を担う一団。彼女はその副団長を務めている。だがユウキからすれば自分と同じただの女の子で、年上のお姉さんだ。ちょっとからかうと耳まで真っ赤にするあたり、可愛いなぁといつも思う。

 

「ユウキだって大好きなくせに」

「ぅえ、ちょ、アスナ、しー! もー!」

 

 違うからね、ボクはただ恩返しがしたいだけなんだから。ふーん? まぁ、そういうことにしとこうかな。もー! アスナのいじわる! 

 姦しく、ふたりは街を出る。探すは《巨大な樅の木》。そしてそこに現れるだろう探しびと《梟》のシュウ。

 日付が変わる。雪が静かに舞い始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ふたりが訪れたのは第四十六層の狩場だった。川の流れによって削れた深い峡谷、その崖に空いた穴から虫系のモンスターが湧く。

 最前線から三層しか降りてこないために敵のレベルは高いが、それだけ得られる経験値も多い。さらに攻撃力が高いぶんHPと防御力が低く設定されたステータスは被弾を最小限、もしくは避け続けることができれば大量に倒すことができる効率の良さもあって、ここはいま最も人気なスポットとなっている。

 この場所にシュウが現れるとはふたりとも思っていない。人気なだけに夜ですら一、二時間、昼間になれば六時間待ちがザラにあるほど人目のある場所だ。もちろん顔を隠すのにフードをしているだろうが、彼の顔に火傷痕があることや武器が曲刀であることは知れ渡っている。それをシュウが知らないはずはない。

 それでもふたりがこの場に来たのは、依頼人がいたからだ。アルゴを通してふたりにある依頼が届いていた。

 

「あ、いたいた。おーい」

 

 ユウキが見つけたのは、順番待ちの列から外れたところで崖の上にひとり立つ茶髪の少女だった。峡谷で狩りをするパーティを見下ろしている。軽装の彼女が武器すらも持たず佇んでいるのは、何も知らぬプレイヤーから見ればなぜここにいるのか疑問に思うことだろう。だが、彼女はこれでいい。無手が彼女の戦いかただからだ。

 少女はユウキたちに気づくと『ちょっと待ってて』と手で伝え、見下ろしていたパーティに声をかけた。

 

「あと五分で終了です! 最後、思いっきりいくよー!」

 

 その合図に、狩りをしているパーティが沸く。待ってましたとばかりに各々が剣を構える。

 そして彼女は()()だした。

 アップテンポの曲調だった。弾むような歌声につられて、狩場にいるパーティの動きも踊るように軽やかになっていく。その恩恵は近場にいたユウキたちにも与えられていた。視界の隅に現れる《被ダメージ減少》、《与ダメージ増加》、そして《敏捷》のバフ。

 楽しげに歌う彼女の気持ちが伝播してか、狩りはスムーズに行われ、そうして次のグループと入れ替わる。あっという間の五分間だった。

 

「じゃあ、今日はわたしはこれで! 聞いてくれてありがとうございました!」

 

 ぺこりとお辞儀をすると、狩りを終えた峡谷からも順番待ちの列からも拍手があがる。それに嬉しそうに手を振りかえして、少女はユウキたちに駆け寄った。

 

「お待たせしましたー。こんばんは、ふたりとも」

「こんばんは、ユナ! 今日も上手だったよ!」

「ほんと? ありがとう」

「また上手くなったんじゃない?」

「そうかな? へへ、そうだといいな」

 

 ユナと呼ばれた少女は、ユウキたちの賛辞に照れくさそうにはにかんだ。

 歌によるバフは、エクストラスキルに分類される特殊なスキル《吟唱(チャント)》によるものだ。スキル取得にあたって何が必要なのか、熟練度なのか特殊なアイテムによる解放なのかといった部分は解明されていない。が、ユナだけでなく何人かに《吟唱》スキルが発現されていると《鼠》の攻略本にはあった。

《吟唱》スキル持ちの中ではずば抜けてレベルの高いユナは、ときおりこうして攻略の補助という形で狩場に来ては歌を歌う。基本的に歌を聞かせた相手にバフを乗せることで熟練していくスキルで、だからこそユナはこういった狩場だけでなく各層の主街区でも歌を披露する。どちらかと言えばスキルの上達というよりできるだけたくさんのひとに自分の歌を聞いてほしい、その一心で。

 こういった事情とユナが来れるタイミングや彼女自身の体力気力の問題などがあり、全ての狩場、全てのプレイヤーにバフを乗せることはできない。だがそれで暴動が起きることはなかった。アイドルがいつどこで歌ってくれるのか、そこに文句や注文をつけるようなファンはアインクラッドには存在しなかった。

 

「ごめんね、こんな時間に」

「だいじょーぶ、ボク夜更かし強くなってきたから」

 

 時刻は深夜の一時を回っている。以前のユウキならばすでに夢の中だっただろうが、シュウの後を継ぐようにアルゴの影として《鼠》の手伝いをしていくうちに次第に夜にも強くなっていた。

 

「よくこっくりこっくりするけどね」

「アスナ! もー!」

「ふふ。相変わらず仲良しさんだね」

 

 アスナの茶々にユウキが口を尖らせる。それを見て、ユナは初めて会ったときのことを思い出す。あのときも、ふたりは似たようなやりとりをしていた。

 およそ二ヶ月前、攻略の最前線が四十層だったころ。ユナには連れの少年がひとりいた。とある事情で攻略組から退かざるを得なくなった彼を励まそうと近くのカフェで話をしていたときに、事は起きた。

 助けてくれ──そう言って、ひとりの男がカフェに転がり込んできた。ダンジョンでレベリングをしているパーティがトラップ部屋に閉じ込められてしまったと。《沈黙》という異常状態がかかり結晶アイテムを使うことができない、だが自分は装備の効果でそれが防がれたため、助けを求めるべくひとりで脱出したのだと彼は語る。

 ユナは、連れとその場にいた何人かで即席のパーティをつくりトラップ部屋に向かった。たとえ傷心していようと元攻略組。連れの少年の実力は折り紙付きであり、ゆえに彼を先頭に据えていた。

 だが──救出作戦が淀みなく行われることはなかった。

 そうして事が終わったあとで、ようやくふたりが駆けつけた。どこから聞きつけたのか《鼠》のアルゴからの連絡で、四十層のボスを倒したその足で駆けてきたのだという。

 

『《梟》、どこ!?』

 

 ユウキの第一声がそれだった。続くアスナが、それを嗜める。

 

『出たのは《梟》の名前だけって言ってたじゃない。ごめんなさい、この子《梟》さんのこと大好きで』

『あっ、ちょ、アスナ! 言わなくていいんだよ、もー!』

 

 あの《梟》を? と、当時のユナは目の前で繰り広げられる柔らかな空気に笑うどころか、素直に照れるユウキを心配すらしたものだ。だが事件のあらましを話していくうちにふたりの中の《梟》像をさんざん聞かされ、次第にその評価は変わっていった。

 

「大好きな《梟》さんには、まだ?」

「あー! ユナまで! もーもー!」

 

 顔を真っ赤にしてユウキは慌てる。けれど今は、素直にそれが可愛らしいと思えるのだ。

 

「シュウってば追いかけても追いかけても、名前しか出てこないんだもん。ユナと初めて会ったときだってそうだし」

「そうだね。確かにあのときも、《梟》とは聞いたけどその場に本人がいる感じじゃなかったもの」

「確か、『《梟》の言ったとおりだ』みたいなことを言われたのよね?」

 

 アスナが頭に指を当てながら言う。それにユナは首を縦に振った。

 

「うん。《梟》さんが指示したってわけでもなさそうだったけどね。でも、私は遠回りに助けられたんじゃないかなとは思うよ。いっぱいシュウさんのいいところを聞かされたから、ひいき目もあるんだろうけどね」

 

 シュウが《鼠》として攻略本作成に携わり色々なプレイヤーを補助してくれていたこと、右も左もわからないユウキに一から丁寧に教えてくれたこと、アスナとユウキが喧嘩したときに仲裁をしようとしてくれたこと。その他にも、偶然ではあったのだろうがアスナの窮地を救ってくれたことやディアベルというプレイヤーを救うべく誰よりも速く動いていたことなど。

 多分に主観が混ざってはいたものの、シュウというプレイヤーのひととなりを知るには十分すぎるほど聞かされたのだ。今までがそういうものだと思っていただけに評価が完全に覆りはしないが、世論の《梟》像はひょっとしたら違うのかもしれないと思うようになった。

 

「でも、オレンジ側にいるのは間違いないかな。あのひとの手の甲にも、《笑う棺桶》のシンボルがあったし」

 

 あのとき──二ヶ月前の救出作戦のとき。罠にかかったパーティを助け出すこと自体は上手くいったのだ。だが、それは決してユナたちの力ではない。

 乱入があったのだ。

 救出は難航した。ユナたちがたどり着いたときには、モンスターたちの数は十五を越えていた。六人のパーティがふたつ連なっても数で負けている。攻略組ほどの実力ならば一人一殺以上が可能だっただろうが、それができたのはユナの連れだけだ。たったひとりでは太刀打ちできるはずもなく、次第に増援パーティすらも押されていった。

 そんなときだった。ひとりの男が、トラップ部屋に踏み入ったのは。

 

『邪魔だ邪魔だ、出てけ雑魚ども!』

 

 そう言って、男はユナたちを部屋の外に追い出した。助けようとしてではなく、追い出すことに楽しみを見出しているような。

 実際、部屋に湧くモンスターはかつてのイルファング・ザ・コボルドロードのように《咆哮》を使用するという特徴のある人獣型であり、それによって動けないプレイヤーもいた。ユナもそのひとりだった。そしてそんなユナたちを、乱入者は短剣で脅して遊ぶような素振りを見せながら蹴飛ばして追い出したのだ。

 その男の手の甲に、隠そうともしない《笑う棺桶》のシンボルが見えていた。

 

「短剣……」

 

 ユウキが低く呟く。武器からしてシュウではない。だが条件に合うプレイヤーをユウキは知っている。

 

 ──上出来だろ。

 

 そう言って嗤うあの口を、ユウキは忘れたことなどなかった。この件を初めてユナの口から聞いたときも、そして今も。今にも走り出しそうになる足を必死に押さえつける。そして視線でユナに続きを促した。大丈夫、とでも言うようになんてことない顔をして。

 そんなユウキの様子を心配そうにしながらも、ユナはその心境を汲んで続きを話す。ユナとしても、この話が依頼に関わってくる以上は伝えておかなければならないことがあるのだ。

 

「それでも殺すまでいかなかったのは《梟》さんの考えみたいでね。『確かに殺すより美味いな』って」

 

 全てのプレイヤーを追い出し、全てのモンスターを倒した乱入者は、部屋に眠る宝箱を漁りながら言っていた。

 

『《梟》の言うとおり、確かに殺すより美味いな』

 

 そうして悠々と去っていく。まるで嵐が過ぎたあとのように、その場には静けさばかりが残っていた。

 

「殺すより美味いっていうのは、やっぱり……そういうことよね」

「うん。罠に引っ掛からせて、どんなのかを確認してから横取りするみたいな感じかな」

 

 アスナの確認に、ユナは頷く。おそらくその推察に間違いはない。そういった乱入事件は、過去に何度も起きているからだ。

 決して《笑う棺桶》ばかりではない。そうでなくてもオレンジになるプレイヤーは存在する。オレンジになってでも希少価値の高いアイテムを欲しがるプレイヤーだっているのだ。

 だがそういう意味では。

 

「ラフコフのわりには甘いっていうか。殺そうとする素振りだけで済んでるのは、たぶん《梟》さんのおかげなんだろうね」

 

《笑う棺桶》とは殺人の代名詞でもある。その彼らが乱入してきて、殺しが起きなかったのだ。《梟》の指示ではないが、《梟》の影響ではあるのだろう。

 

「だから、私としてはなんともないんだけど、ね」

 

 そう言って、ユナは表情に翳りを見せた。笑ってはいるが、ユウキたちのやりとりに見せたような笑いかたではない。もっと困ったように、眉を寄せる笑いかただった。

 

「見てもらったほうが早いと思って呼んだの」

 

 言いながらユナは狩場を見下ろす。そこではちょうど、パーティの入れ替わりが起きていた。およそ三十分、先ほど歌い終わったときに入れ替わったパーティが場所を開ける。そうして現れたのは──。

 

「……え」

「ひとり?」

 

 アスナが絶句する。ユウキが戸惑いの声をあげる。

 眼下の狩場。湧く虫々を黙々と狩り始めたのは、たったひとりの剣士だった。

 左手に盾、右手に片手直剣を携え、薄灰色の軽鎧を身に纏う青年。軽いフットワークと的確な剣筋は見事なもので、どれだけの研鑽を積んだのかは容易に伺える。その目つきは鋭く、敵の一挙一動をも見落とさない。攻略組を経験しているユウキたちですら目を見張るほどの実力だった。

 だが、ひとりだ。普通ならば六人パーティで連携を取り、安全を確保しながら経験値を稼ぐ。それをたったひとりで彼は行っていた。周囲からはまたか、とか死ぬ気か、などと軽蔑の視線を向けられているが、そんなものを気にかけている様子もない。ただ黙々と、目の前の敵だけを見ている。

 

「……彼、って」

 

 アスナは驚きの声をあげる。あの姿には見覚えがあった。

 かつて同じギルドに所属し、そしてアスナがギルドから追放した。

 交わした言葉こそ少ないものの、そのときの表情がひどく印象的だったためによく覚えている。

 元《血盟騎士団》所属。そしてユナの連れでもある青年。

 彼の名は──

 

「ノーチラスくん。彼を止めて欲しいんだ」

 

 ユナの依頼は、ノーチラスの暴走を止めることだった。

 



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Eine-2

 フルダイブ不適合という症状がある。

 頭文字を取ったFNCが通称だ。

 脳からの信号をナーヴギアを介して電子世界に投影するまでの過程のどこかで不具合が生じる症状をおおまかにそう言う。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感のどれか、あるいはそれらのどれもがアバターを通した電気信号を上手く脳が感知できずに、目が見えない、見づらい、耳が聞こえない、聞きづらいといった症状がよく例えとして挙げられる。

 それらはどうしても仕方のないことではあった。高度に発達した現代医学においても、脳の仕組みはいまだはっきりと解明されていない。まして均一化された機械に対してそれを扱う人間には個人差がある。どうやったって、全てに対応することは不可能である。そんな、ある意味で不可避の現象はノーチラスにも発現した。

 ただ、こと彼の場合において。

 フルダイブ不適合の症状というには、あまりにも外聞が情けないものだった。

 

「怖くて動けない?」

 

 ユウキの要約しきった質問に、アスナはためらいがちに頷く。

 

「そう。団長が言うには、だけど。戦おうという気持ちはあるんだけど、その理性よりも、ほんの一瞬の生存本能が呼び起こす逃げ腰だとか足のすくみが優先されちゃうんだって」

「んと、つまり?」

「……僕の気持ちが弱いってことですよ」

 

 自嘲気味に、ノーチラスは笑った。

 たったひとりでのレベリングを終え、逃げるように狩場を後にした彼は近くに生えていた木の根に腰を下ろす。力尽き座るそのさまは、まるで倒れ込むかのようだった。

 

「……そんなふうに言ったんじゃないんだけどな」

 

 ノーチラスの言葉に、アスナは小さく返した。だがたとえどんな小声だとしても、意識を向けた相手にはシステムが耳まで届かせる。青年は苦笑気味に目を細めた。

 

「わかってますよ。ただ、自分のことですから。自分がよくよくわかってるんです」

 

 どれだけ自分を奮い立たせようと、『戦え』と己に命じようと、足は動かない。それはいかに理性が恐怖に打ち勝っていようが、本能が負けているのだからどうしようもない。ノーチラスは今までの経験と事実上の戦力外通告からそのことを理解していた。

 

「ボス戦を前に、戦えないやつはいらない。それはそのとおりだと思います。アスナさんの言っていたことは正しかったんです」

「だから……!」

 

 自虐的なノーチラスの言葉に、アスナが怒り立つ。それをユウキが慌てて止めた。

 

「待って待って。えっと、それって不適合の症状なの? ボクが知ってるのは目が片方見えてないとか、そういうやつなんだけど」

「そういうわかりやすい不適合なら、僕も諦めてましたけどね」

 

 ノーチラスは苦笑気味に首を振る。ユウキの言うような、普段の生活に支障をきたす不適合だったならば。それならば、すんなり諦めもついたのだ。

 

「体験ですが。ボスまでの道中は、何の問題もなく動けるんですよ。それこそ、さっきご覧になったとおりです。相手が通常のモブならば動けないなんてことはないんです」

 

《血盟騎士団》の一軍参加が認められるほどだ。彼の実力は、その実績が確かなものであると証明している。

《血盟騎士団》はギルド内でも段階があり、一軍と呼ばれる集団だけで攻略組の中での実力は五指に数えられる。特に団長と副団長においてはその実力から二つ名を得るに至っている。

《聖騎士》──団長ヒースクリフ。

《閃光》──副団長アスナ。

 ふたりの名声はアインクラッドで知らぬ者がいないほどであり、それだけに入団希望者も多い。だがその全員を前線に連れて行くなどできない。そのためにテストを設け、そこで定められた水準をクリアした者を一軍とし、最前線の戦力として数える。その高いボーダーをノーチラスは合格してみせたのだ。

 だが──

 

「ボスを相手にすると、足がすくむんです。僕の気持ちとは裏腹に、ですよ。僕は戦う意思を持っている。逃げたいだなんて思ったことはないし、戦う前から諦めるようなこともしていない」

 

 それでもノーチラスの足は動かない。ボスを目の前にして、その巨躯や凶々しいデザインに一瞬でも恐れをなさない者はいない。それを振り切って、誰もがそれでも攻略のためにと戦闘に身を投げるのだ。

 その、一瞬の恐怖。

 その一瞬だけが切り取られたようにナーヴギアはアバターに信号を送り、どれだけ理性が動けと命じようとノーチラスの足は生物的本能により固まってしまうのだ。

 

「それって、障害なの?」

 

 ユウキの問いに、ノーチラスは頷く。少し悲しげな微笑みだったが、その目は獣のようにぎらついていた。

 

「どうやら一種の伝達障害らしいですよ。はたから見れば、ユウキさんが言ったようにビビって動けないだけなんですけどね。……さて」

 

 失笑して、ノーチラスは立ち上がる。ウインドウを操作して出した回復ポーションを傾けながら歩くその先には、先ほどの狩場へと続く列があった。

 

「……まだ、やるの?」

 

 アスナが問う。

 

「やりますよ」

 

 ノーチラスが返す。

 短いやりとりだった。だが、ノーチラスにとっては幾度となく繰り返したやりとりだった。何度も何度もユナに同じことを聞かれた。その度に彼は同じ答えを返している。

 

「やると決めたんです。止まっている暇はない。僕は強くならなければならない」

 

 二ヶ月前のあの日。あのときほど自分の無力を呪ったことはない。あのときほど、自分の弱さを痛感したことはない。

 強くありたいと、あれほど強く願ったことも、ない。

 

「そこまでして、何をするの」

 

 これもまた、繰り返された問答だった。

 ノーチラスはため息をついてアスナに向き直る。

 

「冬のイベントクエスト、知ってますよね。《背教者ニコラス》」

「ええ、知ってるわ」

「あれを倒すんですよ。僕ひとりで」

「……え」

 

 目の前の青年が放った言葉を理解するまでに、アスナは僅かに時間を要した。

 ひとりで、倒す。イベントクエストのボスを。彼が? 

 どう考えたって無謀だ。そも、このゲームのボスはその全てがレイドを組んでなお苦戦するレベルの難易度に設定されている。ソロでの戦闘などもってのほかである。まして彼には障害があるのだ。

 勝てるわけがない──それはアスナだけでなく、その場にいたユウキもユナも同じ思いだった。戦闘にすらひょっとしたらならないだろう。

 だがノーチラスは行くと言う。

 呆気に取られたアスナを一瞥して、ノーチラスは再び歩き出す。

 

「では、僕はこれで」

「あ、ま、待って!」

 

 その背中に既視感を覚えて、ユウキは呼び止める。まだなにか、と言いたげに振り向くノーチラスの顔にやはりどことなく見覚えがあって、だからユウキは問いかける。

 

「どうして?」

 

 それを彼がどう捉えたのかはわからない。わからないけれど、彼の視線が誰を捉えたのかはわかった。

 

「──約束したんです。それを簡単に破る人間にはなりたくない。それだけですよ。……ユナを、頼みます。送ってやってください」

 

 言うべきことを言ったのか、今度こそノーチラスは振り向かない。列の最後尾に並んだ彼は、すぐ次に並んだパーティの陰に隠れて見えなくなった。

 

 

 

 

「なんていうか……」

 

 アスナの瞳に、暖炉の火が揺れる。ぱち、と木が爆ぜ火の粉が舞った。

 三人は四十六層の主街区の宿まで転移結晶を使用して戻ってきていた。ユウキとアスナという戦力がいることと結晶アイテムは高価であるという経済的な面から歩いて帰ってもよかったのだが、なんとなくそんな気分にはなれなかった。

 部屋に着くやいなやユウキは暖炉に対して横向きに設置されたソファにダイブし、ユナとアスナのふたりは椅子を引っ張ってきて暖炉の前に並べ腰を下ろした。

 

「彼がああなったのって、やっぱり?」

 

 揺れる火を眺めながら、アスナはまるで自問するように言う。それにユナは首を横に振った。

 

「ううん、アスナのせいじゃないよ。……まあ、きっかけのひとつにはなってるかもだけど」

 

 苦笑したユナもまた、暖炉の火を見つめたままだった。

 決してアスナを責めているわけではない。彼女のとった選択は絶対に間違っていないし、そうされざるを得ないほどの理由がノーチラスにあったというのは彼本人が理解している。誰が悪いでもなく、当然の流れだったのだ。いずれどこかでつまづいていた。たまたまアスナがそれを教える役目だっただけだ。

 ボスと相対したときに足が動かなくなる──それはゲームを攻略していくうえで致命的な欠点だった。

 ボス戦は常に命がけであり、それゆえに他人を慮る余裕などない。そんな中に動けない者を連れていこうものなら、無駄にひとつ命を散らすことになる。余剰戦力などない現状でそんな遊びを入れている余裕はないのだ。

 

「ボク、そのへんあんまり詳しくないんだけど。あのひと、ノーチラスさんが不適合ってわかったから、アスナは攻略組から外れるように言ったってことだよね?」

「う……ん、そうだね」

 

 ユウキの言葉でノーチラスの悲痛な表情が思い出され、アスナは顔を顰める。そこにすかさずユナがフォローを入れた。

 

「どっちかっていうと外してもらったって感じだよ。私から見たらだけど」

「ふーん? ふんふん」

 

 攻略組とひとくちに言っても、ギルドという集団がある以上それぞれのコミュニティでの活動がメインとなる。アスナとノーチラスは同じギルドに属していたが、ユウキは《鼠》としての仕事があったので特定のコミュニティに属することはしていない。そのために、アスナとノーチラスには接点があってもユウキとノーチラスの間には接点が少なかった。かろうじて一度か二度、顔を見たことがあるという程度だ。

 だからまずは情報を集める。《鼠》の活動を手伝うことで、その癖がユウキにはついていた。

 

「外してもらったっていうのは、ユナにとってはノーチラスさんが攻略組にいるのは反対だったの?」

「え? んー……反対っていうか心配、かな。エーくんが──あ、エーくんってノーチラスくんのことね。幼馴染で昔からそう呼んでるんだけど、エーくんが攻略組になれたのは良いことだと思うんだ。彼はそれを目標にしてたしね」

 

 初めは《はじまりの街》周辺で、これでもかというほど猪を相手にしていたらしい。同じソードスキルを何度も何度も繰り返した。新しいソードスキルを覚えると一段階モンスターのレベルを上げ、またそこで何度も何度も。そうやって地道な努力を繰り返して、ノーチラスはついに攻略組の一角に滑り込んだ。

 それをずっと横で見ていたユナにとっては、彼の目標達成は喜ばしいことではあった。

 

「でもボスって強いじゃない。攻略組のいちばん強いって言われてるメンバーでレイドを組んだって、どうしてもひとりふたりは死んじゃうことがあるって聞いて。エーくんがそんなとこに行っちゃって不安だったんだ」

「……そっか」

 

 あのとき、ノーチラスの背中にシュウを重ねた。どこか遠くに行ってしまいそうで、だからユウキは呼び止めたのだ。空元気で笑ってみせるユナの気持ちは、ユウキもなんとなくわかるつもりだった。

 シュウは──シュウならば、どうしただろうか。それを考えて、ユウキはひとつ頷く。

 

「ユナ。依頼、受けるよ」

「本当?」

 

 もうすでに色々と聞いてしまっているということもある。ユナとノーチラスの関係や、ノーチラスの抱える問題など。本当なら、依頼を受けると決めたあとでしか聞いてはならないはずだ。

 だがそれ以上に、シュウとノーチラスが似ているというのが決め手だった。ノーチラスはなぜあんなにも無茶をするのか、それを知ることは依頼の解決とともにシュウに少し近づくための大きなヒントになりそうな気がユウキにはした。

 

「うん。アスナも、いいよね?」

「もちろん」

 

 アスナにしたって、ノーチラスの件はずっと気に病んでいたのだ。どんなかたちであれ、致し方ないこととはいえ。ノーチラスを深く傷つけてしまったことは事実だ。この件を手伝うことで何がどうなるわけでもなかろうが、自分がきっかけとなって更なる危険に追い込んでいるのならそれは止めなければならない。

 それに、アスナはノーチラスをどこか近しく感じてもいた。シュウを重ねたユウキのような感覚ではなく、もっと別の感覚。追い詰められて窮地に立たされたときの、肝が据わるあの感覚だ。一年前の自分とノーチラスはとても似ているような気がしてならない。

 視線を暖炉からユナへと移し、アスナは微笑んだ。

 

「やらなきゃっていう、強迫観念って言うのかな。その感覚はわかる気がするから」

「そのへんはそっくりだもんね」

「ユウキ?」

「きゃー!」

 

 両手をわきわきと動かしてみせるアスナに、ユウキは楽しげな悲鳴を上げて身を守る。

 あまり思い出したくはない過去なのだ。あのときは本当に必死だったから。とにかく脱出しなければならない、そのためならばなんだってやってみせる。本気でそう思っていた。たとえそれで、この身が燃え尽きようとも。

 

「もう。それは忘れてって言ってるでしょ」

 

 だがそれではダメなのだ。死んでしまってはもう何もできないということを、死を目の当たりにして初めて知った。ディアベルはあれ以来、その名前を聞くことはない。姿を見てもいない。生命の碑の名前欄に二重線が引かれ、それっきりだ。

 ずっとユウキが諭してくれていたのに自分を曲げなかった。結果的にではあったが、ディアベルはそれを身をもって教えてくれた。もう二度と、同じことを起こしてはならない。

 アスナはずっと、あの瞬間を忘れない。

 

「えー?」

「わたしが覚えてればそれでいいのよ。忘れなさい!」

「きゃー! あは、あははは!」

 

 いたずらっ子のように笑うユウキに、今度こそ両手を構えたアスナが襲いかかった。脇腹をくすぐられ、ユウキは笑い声を上げる。

 そんな和やかな様子を見て、ユナは。

 

「……ありがとう」

 

 深く、頭を下げた。

 

「いいよ、お礼なんて。ね、アスナ」

 

 ひとしきり笑ったユウキは目尻にたまる涙を拭いながら言う。どれだけ戯れていたのか、ふたりとも息を荒げていた。

 

「そうね。友達が困ってたら助けるのは当たり前よ。でも、わたしたちも動くけど、あくまで手伝いくらいだと思ってね」

「……うん。わかってる」

 

 ノーチラスがあれほどに自分を追い詰めている理由。それをユナはよく知っている。その《知っている》ということを、ふたりはおそらくわかっているのだ。

 ──話さなければならない。

 そう思うと、少し怖い。怖いけれど、このふたりになら話してもいいのかもしれない。そんな安心感を感じていた。

 だからだろうか。続くふたりの言葉に、思いがけない衝撃を感じた。

 

「それに友達の彼氏が無茶してるなら、それは止めないとよね」

「ねー。こんな可愛い彼女を泣かせちゃいけないんだよ」

「……え?」

 

 彼氏。……彼女? 

 想像だにしていなかった単語が聞こえて、ユナは一瞬、動きを止める。そうして、どうやら認識の違いがあったことに思い当たる。

 慌ててユナは両手を振った。

 

「違うよ、わたしたち付き合ってないよ」

「……え?」

「……うっそぉ」

 

 今度はふたりが、動きを止める番だった。

 

 

 

 

 

「確かにわたしとエーくんは幼馴染だよ? 小中と学校が一緒で仲良くなって、高校は別々だったんだけどときどき電話とかしてたんだ。うち厳しくてさ、あんまりゲームとかアニメとか触らなかったんだけど、だからなのかな、エーくんがいっぱい教えてくれて。このゲームもエーくんが誘ってくれてね、お父さんを説得してなんとか買ってもらったんだ。それでログインして待ち合わせて。それからは……まあ、ずっとふたりでいたけど。でもでも、そういうのエーくんにはないと思うよ? なんていうか、こんなことになっちゃったしそんな場合じゃないっていうか」

 

 ユナが話すあいだ、ふたりは終始無言だった。ときどきちらりとふたりで視線を交えては、すぐユナの話に耳を傾ける。

 てっきりそういう関係だとばかり思っていたのだ。リアルの話になってくるのであまり突っ込みはしないが、《エーくん》という呼び名はかなり親しさを感じさせる。高校生の男女が学校が違うのに電話で話すことがあるだろうか。

 それになにより、それだけ距離感の近いふたりがデスゲームとはいえ一年ものあいだずっと一緒にいて、そういう気持ちにはならないものなのか。

 

「ノーチラスさんのほうはいったん置いといてさ。ユナはどうなの? その、そういうふうに見たことってないの?」

「え、わたし?」

 

 ユナの話を聞いている間ずっとムズムズを我慢していたユウキがついに切り出した。

 身を乗り出し目を輝かせるユウキから少し逃げるようにしてユナは目を逸らすが、頭の中ではノーチラスの顔を思い浮かべていた。

 決して嫌いではない。嫌いではないし、むしろ──。

 そこまで考えて、はっと我に返った。

 

「……まあその、わたしは別に」

 

 そうして口ごもったユナに、ユウキが畳み掛ける。しまったと思ったときにはもう遅かった。

 

「別に、なに? なに?」

「いやそのあの、ね? アレだよ、アレ」

「どれどれ?」

「うぅ……アスナぁ」

 

 助けを求め、アスナを見る。だがそこにも目を輝かせる少女がいた。

 

「ごめん、わたしも気になる」

「わーん! 味方がいなぁい!」

 

 さっきまで心強い味方だと思っていたふたりが急に手のひらを返した。じりじりと壁際まで追いやられる。

 どうにか話題を変えなければと自分に向けられた矛先を変えようとしたが、それは自分の首を絞める結果になる。

 

「そ、そう言うならユウキはどうなの? 《梟》さんのことは」

「そりゃあ好きだよ」

「そうだそれでからかってたんだった!」

「あ! やっぱりからかってたんだボクのこと!」

 

 もうこうなったら逃さないもんね、そう言ってユウキは攻略組で培ってきたレベルの高さにものを言わせてユナをソファに無理やり座らせる。ユナは驚いたような不満げな声をあげたが、それは無視した。

 アルゴが言っていたのだ。使えるものは使えと。

 

「言うまで逃さないからね」

「……どうしても言わなきゃだめ?」

「だめ」

「うぅ〜……」

 

 考えたことなどない、と言えば嘘になる。ユナにとってはただひとりの幼馴染で、仲の良い異性だ。ユナの周りでは違う学校に異性の友人がいる友達の大半どころかそのほとんどが恋愛関係にあり、そんな話を聞いていれば自ずと頭に思い浮かぶ顔があった。

 趣味が合う、昔から気の置けない仲だった。高校生になって体も大きくなったんだろうなとか、人付き合いはそんなに得意じゃないけど友達できたのかなとか、ひょっとしたら彼女とかできちゃったりして、顔はカッコいいもんなぁとか。

 でもときどき話す電話の向こうの声は全然変わってなくて、いつもどおり自分の相手をしてくれることに少しほっとする自分もいたり。

 

「好きなの?」

 

 だがユウキみたいにど真ん中ストレートの表現はできない。それは恥ずかしい。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。

 

「……き、嫌いじゃない……よ?」

 

 だからユナにとってはこれでいっぱいいっぱいだった。顔が火照ってしかたない。思わずクッションで顔を隠してしまった。

 

「むー」

「まあまあ、ユウキ。これが聞けただけいいんじゃない?」

 

 暗闇の中でアスナがユウキを宥める声が聞こえた。もう詮索はこないと察して、ユナはクッションから顔を離す。

 

「……もー。恥ずかしすぎるんですけど」

「ユナが正直にならないから」

「どっちでも恥ずかしいもん」

 

 言ったら言ったで恥ずかしいし、言わなくたって想像するだけで恥ずかしい。それを抑えるべく彼のそばにいるときは意識しないようにしていたのだ。

 

「……それにこの気持ちは言っちゃいけないんだよ」

 

 攻略組に行くのだと、そのためにずっと頑張る彼を見てきた。自ら死地に赴くようなことはしてほしくなかったけれど、それが彼の望みでもあるのならば止めるわけにはいかない。だからユナは彼を止めようとする自分の気持ちに蓋をしたし、だから彼を止めてくれたアスナに感謝した。

 

「どうして言っちゃいけないの?」

「だって──」

 

 ──怖い。

 

 彼との関係が変わるのが怖い。自分のこの想いが受け入れてもらえなかったらと思うと胸の奥がきゅうと痛む。自分の好きと彼の好きは違うかもしれない。もしかしたら彼は好きとも思っていないかもしれない。

 たとえば、この想いを伝えたとして。

 電話越しに聞けていた彼の声が、もう聞けなくなってしまうかもしれないと思うと。

 一年間ずっと隣にいてくれた彼が、いなくなってしまうと思うと──。

 

 ──約束したんです。

 

 そう、ノーチラスは言った。それを破りたくないとも。その約束を交わしたのはユナだ。あれだけノーチラスが自分を追い詰めている理由の一端はユナにある。にもかかわらず、さらに自分の気持ちを伝える。それは自分勝手というものではないか。

 葛藤の無言をふたりはどう取ったのか、これ以上の追求はなく。

 かわりにアスナが、「コーヒー淹れるね」とウインドウを操作してマグカップを渡してくれた。料理スキルがまだそこまでじゃないから味に期待しちゃだめだよという言葉に曖昧に頷いて、ユナは口をつける。

 苦いような酸っぱいような甘いような。涙みたいな味だった。

 



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Eine-3

 弱さとは悪である。

 ノーチラスにとって、それは絶対の方程式だった。

 戦闘は決して嫌いではない。体を動かすことそのものが決して嫌いではないし、そもそもゲーム好きな性格が長じてこのゲームに手を出したのだ。今までプレイしてきたRPGの主人公たちはこんな感覚だったのだろうかと思うと、むしろ心が躍るような感覚すらあった。

 だがよりによってそのゲームに拒絶された。あくまでもたまたまなのはわかっている。わかっているのに、それを認められない自分がいた。

 

「……くそ」

 

 独り言ちて剣を振る。確かな手ごたえとともに、巨大な蟻の怪物はふたつに両断された。

 こういう雑魚相手ならば何の問題もない。たとえそれが何匹群がっていようと、体が止まることはない。どれだけ醜い、あるいはおぞましい姿の敵であっても、それがボスでなくそこまでの道中であるならば剣を振ることができる。

 なのにどうして。

 どうして自分の体は、ボスと相まみえたときだけ動かなくなってしまうのだろう。

 かつて所属した《血盟騎士団》団長ヒースクリフは言った。

 

「君の戦意は認める。だがそれでいてなお体が動かないというのであれば、おそらくフルダイブ不適合という障害だ。我々にも、もちろん君にもどうにもできない。機械との相性の問題だ」

 

 思い出しながら、ノーチラスはまた剣を振る。身体動作のひとつひとつを確かめるように。

 最初は衝撃的だった。あの少女──ユウキと言ったか──が言ったような問いを、ノーチラスもまず思ったのだ。

 ──そんな障害があるのか。

 だが《鼠》に情報を求めたところ、決して多くはないが似たような症例があることが確認されているという返事があった。だがそれが果たして障害なのかと言われれば確証はない、という《鼠》の見解も添えられていた。

 伝達障害の一種らしいこと、ノーチラスと同じように戦おうとしても動けなくなること、ひとによってはノーチラスよりも重症で雑魚モンスターとすら戦えない場合があることなど。

《鼠》以外の情報屋にも接触したが、得た情報はすべて似たような内容だった。そしてそれらのどれを吟味してもノーチラスにとっては全て弱さへの言い訳にしか聞こえなかった。気持ちで負けたから体が動かないのだ、そう言われてしまえばなにも言い返せないし、じっさい唯一ノーチラスのそれを不適合と断じたヒースクリフの言葉すら見方を変えれば気持ちの問題であると言っているように聞こえてくる。

 なにより、ようやく参加できた最前線で情けない姿を晒したノーチラスにそのようなことを言ったプレイヤーがいたのだ。貶すような蔑むような、あるいは路傍の石を見るような目で。

 自分は弱いのだと、痛烈に思い知らされた。

 

「……くそ、くそっ」

 

 再び独り言ち、苛立ちを隠さず刃を振るう。

 ノーチラスにはふたつの夢があった。ひとつは個人的な目標。もうひとつは、交わした約束。前者は正直なところ叶わなくたって構わないものだ。あくまで自分ひとりのものだから。だが後者に関しては、どうしても破るわけにはいかなかった。

 そしてそのためには、やはりひとつめの目標も目指さなくてはならない。だからノーチラスは敵を斬る。

 

「まだだ……足りない」

 

 ぶつぶつと、まるで幽鬼のように。

 迫る敵をひたすらに排除していく。

 とにかくレベルを上げる。レベルを上げて、レベルを上げて、レベルを上げて。そうしてひとりでフラグモブに挑み、勝って、初めて約束を果たすに足る人間になれるはずだ。

 そのために──斬る。

 斬って、斬って、斬って。斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬る斬ル斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬──

 

「……まだだ……まだ……」

 

 どれだけそうしていたのだろうか。ほんの一瞬のようにも感じたし、永遠のようにも感じた。

 不意に、腕を誰かに掴まれる。

 

「……なん、だ」

「なんだじゃねえよ、時間だぞ。ルール守れねえなら来るな」

 

 言われて初めて、設定していたアラームが鳴っていることに気づく。だがそれを止めようともしなかった。

 男はノーチラスを谷底から引きずり上げた。決して逆らえないほどの強い力ではなかったが、抵抗する気力すらすり減らしていたノーチラスは為されるがままに引き摺られていた。

 

「ほら」

 

 少し外れたところ、幹に細い枝だけを伸ばした木の根元に放り投げるように座らされたノーチラスは、やはり放り投げるように回復ポーションを手渡された。

 

「飲んどけ」

 

 見れば、視界の隅のHPバーは残り一割というところまで短くなっていて、血のように赤く染まっていた。酸味のある液体を喉の奥に流し込むとその赤が少しずつ薄くなっていく。それに合わせるようにバーは伸びていき、やがて全体の半分ほど、黄のような緑のような半端な色に変化して止まった。

 

「……助かりました」

 

 一息ついて、ノーチラスは礼を言う。男は呆れるようなため息をついてガシガシと頭を掻いた。

 

「おめえら、オレぁ今日は休むわ」

 

 男がそう言うと、その後ろから数人の了承を示す返事があった。ノーチラスから視線を逸らさず男はそれに頷いて、どっかと隣に腰を下ろす。ノーチラスの欧風なものとは違う、日本の武士を思わせる鎧ががしゃりと音を立てた。

 

「おめえ、ひとりか」

「……ええ」

「ひとりでここは、キツくねえか」

「……ええ」

 

 ひとりでなければならないのだ。そのためには、どれだけキツかろうと関係ない。掲げた目標も、交わした約束も。叶えるためならばなんだってやると決めたのだ。

 だが男はその決意を知ってか知らずか、鼻で笑って膝に肘をつく。

 

「ハン。ならいいけどよ」

 

 項垂れたノーチラスの視界の隅に、男の逆立つような赤い髪が見えた。その髭面に特徴的な髪色、そして和装。見覚えがある。あれは──そう、最前線。ノーチラスが初めて参加したボス戦にこの男も参加していた。

 

「無茶苦茶やるのはいいが、時間は守ってくれな。気持ちは同じだからわかるけどよ」

 

 ──気持ちは同じ。

 その言葉に、ノーチラスはぴくりと反応した。

 

「……同じって、なんですか」

「あん?」

 

 動きたいのに、動けない。戦わなければならないときに限って、自分は戦えない。

 同じボス戦で、男が十分な活躍をしていたことをノーチラスは覚えている。双頭人型の怪物だった。その足にカタナによる斬撃を繰り出し、数人と協力してボスの膝を折っていたのだ。その一撃が決め手となって、攻略レイドは総攻撃を放ちボスを倒した。目立つことはなかったのかもしれないが、間違いなく功労者だ。

 その男が、僕と同じ気持ちだと? 

 

「僕の気持ちなど、あなたにわかるわけがないでしょう。きちんとボスに向かい合って戦えているあなたに」

「……なにを言ってんだ、おめえ」

 

 男が戸惑いの声をあげた。それを無視して、ノーチラスは口調を荒げながら言い募っていく。

 

「僕は戦えない。動けないんです。戦わなければならないとわかっていて、僕だって戦闘に参加したくて、そのために地道にレベルを上げてきて」

 

 そして晴れの舞台で、全てが無駄だったと思い知らされた。フルダイブ不適合──FNCと呼ばれるそれは、工夫や努力など関係なくノーチラスの動きに制限をかける。

 

「戦えないっておめえ、さっきまであれだけ」

「雑魚は関係ない。雑魚をどれだけ倒せたってなんにも変わらないんですよ。ゲーム攻略にはボスの撃破が不可欠だ。その不可欠なものに、僕は関われないんですよ。その気持ちが、ボス攻略に直接参加できているあなたにわかるわけがないんだ」

「……ひょっとして、おめえあのときの?」

「覚えていてくれたとは光栄ですね」

 

 ハッとした様子の男に、皮肉げにノーチラスは笑う。あのときがどのときか知らないが、ボスの話題がきっかけで思い出すくらいだからどんな印象を与えているかは想像に難くない。どうせ剣を構えたまま微動だにできず数人の背中に隠れるように守られ、足手まといになっているあの情けない姿だろう。

 

「そうか……確か、ノーチラスって言ったか。すまん、ぱっと見じゃわからんかった。ずいぶんと、その、なんだ。やつれたというか怖い顔してたもんでよ」

「ひとの名前もまともに思い出していないのに気持ちが同じとはよく言ったものですね、クラインさん」

 

 言葉の棘を隠そうともしないノーチラスに、クラインは顔をしかめる。だがそれに構うことなくノーチラスはさらに毒を吐く。まさに堰を切った洪水の如き勢いだった。

 

「僕の気持ちがわかる? ふざけないでください。戦わなきゃいけないとわかっているのに後ろで守られたまま戦いを見ているだけしかできない僕の気持ちが、ボスに向かって走っていけるあなたにわかるわけがないでしょう。動きたいのに動けない、そのもどかしさがわかるんですか。自分の目標がただの相性だけで断念させられる悔しさがわかるんですか!」

 

 それは醜い感情の発露だった。自身もそれはわかっている。羨ましくて妬ましくて悔しくて、わかったふうな口調がただ癇に障っただけだ。悪気はなかったとノーチラスだってわかっているのに、クラインにこれでもかと文句を言う。

 だから、彼の顔を見ることはできなかった。俯いたまま、ただ口調を強くしていくしかできない。

 

「僕は弱い。でも強くならなきゃいけない。その気持ちが、強くあれるあなたにわかるわけがない!」

 

 そうして言い終えたあとのクラインの返事はしかし、大きく変わることはなかった。さっきと同じ、静かでわかったふうの口調。だが今度は癇に障るのでなく刃物が刺さるような感覚があった。

 

「……そう、か。そんなふうに考えるんだな、おめえ」

「っ!」

 

 息を呑んだ。まるでどこまでも凪いだ湖面のような。覗き込むと自分が映って、それが嫌で波立たせると映った自分だけが消える。自分がただ駄々をこねているだけだとわかっているだけにクラインの言葉はより深く切り込んでくる。

 

「確かにおめえの置かれた立場とか環境は知らねえよ。正直なことを言えば知ったこっちゃねえ。けどな、それでも気持ちはわかるもんよ。特にこんな世界になっちまったらな」

 

 ザク、と。クラインは横に置いていた見慣れない和風の拵えの曲刀を鞘のまま地面に突き立てた。

 

「死にたくない、死なせたくない。だいたいみんなそう思ってる。思ってない例外もいるんだろうが、少なくとも攻略組にいる、いた、って奴らはだいたい同じだよ。自分のために、もしくは誰かのためにこのゲームを終わらせたいんだ。……お節介を焼くようで心苦しいがよ、おめえもそうじゃねえのか?」

 

 言われ、ノーチラスは項垂れたまま強く拳を握る。

 ──約束したんです。

 ついさっき、そう言ったばかりだ。交わした約束は誰かのためでもあって自分のためでもあって。そして確かに、死なせたくないという思いから生まれたものだ。

 言葉を返せないノーチラスに、クラインは話し始めた。

 

「オレの周りにゃ似たようなヤツばっかりでな。《黒の剣士》、知ってるだろ」

「……《攻略の鬼》」

「そうとも呼ばれてるな」

 

 ボス攻略に毎回参加し、そのたびに目覚ましい成果を上げる、おそらくはアインクラッド最強の剣士。全身黒ずくめであることからクラインのような呼びかたをする者もいるし、ボス攻略へかける熱意が高すぎることからノーチラスのような呼びかたをする者もいる。攻略組に参加したことのあるノーチラスはもちろん、そうでなくてもアインクラッドで知らぬものはいない。《聖騎士》や《閃光》に並び称されるトッププレイヤーだ。

 

「あいつが攻略にお熱な理由がな、さっきも挙げた《死なせたくない》ってことなんだとよ。第一層ボス攻略のときに起きた事件は知ってるよな」

「《梟》、ですか」

「そうだ。そのときにな、目の前でプレイヤーがひとり死んじまったんだと。それが忘れられなくて、それ以来誰も死なせないっつって自分が誰よりも最前線に立つと決めたんだとさ」

 

 今のようにイベントクエストが開催される間は攻略の手は止まる。だが《鬼》はひとりでも迷宮区のマッピングをしているのだという。さすがにソロでボスに挑むような真似はしないけどな、とクラインは笑うような呆れるような口調で言った。

 

「それにその《梟》もな。こっちは推測でしかないからなんともだが、たぶんあいつも同じなんだろうとオレは思ってんだ。周りがなんと言おうと、オレはあいつを信じる」

「……《梟》を、ですか」

「おうよ」

 

 それはあのふたり組も似たようなことを言っていたというのをユナから聞いている。《梟》にそんな情状酌量の余地があるなんて考えたこともないし、とてもではないがノーチラスはそんなことは考えられなかった。《梟》を筆頭に《笑う棺桶》やそれに連なるレッドやオレンジはその全てが敵なのだ。全て排除するとまではいかないが、到底容認できるものではない。

 

「とても、そうは思えないですが」

「そりゃあそうだ。ほとんどの連中からすりゃあいつは凶悪な犯罪者だもんよ。信じろっていうほうが難しいだろうな」

 

 けどな、とクラインは言って、ノーチラスの頭をぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でた。

 

「な、何をするんですか!」

「似た者同士だと思ってよ」

「は?」

 

 クラインの手を振り払う。そのとき初めて、ノーチラスはクラインの顔を見た。髭面の男は真面目な顔をして、真っ直ぐにノーチラスの目を見ていた。

 

「おめえ、ひとりじゃねえだろ」

「……っ」

 

 どきりとした。ユナの顔が思い浮かび、ノーチラスの動きが止まる。

 

「二ヶ月前、おめえとウタちゃんと何人かで、トラップに引っかかったパーティを助けに行ったことがあったろ。そのときのメンバーに、ウチのギルドの連中がふたりいたんだ。だから知ってんだよ」

 

 ウタちゃん。ユナはそう呼ばれている。名前を公表していないがユナの存在は《吟唱》スキルによって知れ渡り、いつの間にかそんな愛称がつけられていた。

 

「それから、その場で何があったのかも知ってる。だから似てるんだ、おめえらは。死なせたくないんだろ。守りたいんだろう、おめえ。──ウタちゃんが、ラフコフに狙われるから」

「──!」

 

 思い出すのは短剣の男。あの男の去り際に残した言葉が、まるで焼きついたように耳から離れない。

 

「……『また頼むぜ、馬鹿ども』」

「ああ、そんな言葉だったらしいな。聞く話じゃウタちゃんに限らず中層プレイヤーの全員が狙われてるらしいがよ、そんなのは関係ねえよな」

「……ええ」

 

 関係ない。そう、関係ないのだ。決してユナだけを狙っているわけではない。だが、だからといってユナが狙われない理由にはならない。ならばノーチラスにはそれだけで十分だ。

 拳を強く握る。額に皺が寄るのがわかった。

 それを見たクラインは、ふっと顔を綻ばせた。

 

「ウタちゃんのため、か?」

 

 クラインはふたりが知り合いだと知っている。ならば隠す必要もない。ノーチラスは素直に頷いた。

 

「……ええ」

 

 ──絶対に、生きて帰すよ。

 

 約束したのだ。ユナとふたり、デスゲームが始まったあの日に。その約束を違えるわけにはいかない。

 ユナをこのゲームに誘ったのは自分だ。自分が誘わなければユナはこのゲームに参加することなどなかったかもしれない。つまり、ノーチラスがユナを閉じ込めたも同然だ。ならばノーチラスにはユナを無事に生還させる義務がある。

 これはノーチラスの責任なのだ。

 

「やると決めたんです。なら、僕はやります」

 

 たとえ敵が誰であろうと、絶対に負けられない。

 強く、なるのだ。

 

「やっぱり似た者同士だよ、おめえら」

「……似てませんよ」

 

《梟》だの《鬼》だのと、あんな化け物たちと一緒にされるほどノーチラスは良くも悪くも飛び抜けていない。

 呆れるように笑うクラインに短く反論して、ノーチラスは立ち上がった。これ以上ここで話していても何にもならない。狩場の列はパーティひとつぶん短くなった。おそらくクラインのギルドのメンバーだろう集団がこっちに歩いてきているのが見える。

 三十分も休めばじゅうぶんだ。ノーチラスは列に並ぶべく歩いていく。

 クラインの、ギルドメンバーを労う声が背中に小さく届いた。

 

 

 

 

 

 

 

「それで、止めるのはいいんだけど。どうやって止めるかっていうのは、ユナは考えてあるの?」

 

 ユナがマグカップをテーブルに戻すのを待って、アスナは話を進める。

 依頼されたのはノーチラスを止めること。止めるというのは、彼がこれからやろうとしているソロでのイベントボス撃破を阻止するということだ。ユナに確認を取れば、それで間違いないと頷きが返ってくる。

 だが、どうやって。それについては、明言がされていなかった。

 

「えっと、それがね。とにかくなんとかしなきゃって思ってただけだったので、その」

「……ノープランなのね?」

「はい。ごめんなさい」

 

 しどろもどろに手遊びをし始めたユナに、アスナは鋭く切り込む。図星を突かれ、ユナはすぐさま頭を下げた。

 

「ああいや、責めてるわけじゃないのよ。なにか思いついていれば御の字ってだけで」

 

 慌ててアスナはフォローする。ただ単純に現状の確認をしたかっただけだったのだが、確かに険のある言いかたにはなってしまったかもしれない。

 

「まあしょうがないよね、アスナってばこういうとき怖いもん」

「ユウキ?」

「ほら」

「ユウキ!」

「きゃー!」

「あ、あはは……」

 

 だがそれには理由があった。間違ってもユナにではなく、あくまでアスナの中に、だ。それが表に出てしまったのは反省しなければならない。

 

「ごめんね、わたしのほうでも行き詰まってたものだから。ちょっとトゲトゲしてたかも」

「? なにかあるの?」

「ええ。ギルドのほうでね」

「ああ、《血盟騎士団》」

 

 アスナの言葉に、ユウキが頷く。

 冬のイベントクエストまで、残り期間は八日──日付が変わって七日になった。アスナが所属する《血盟騎士団》、通称《KoB》もイベントのフラグポイント捜索は行っている。報酬が美味しいとわかっていて逃す手はない。ゲーム攻略にあたって間違いなく有利になるはずだからだ。

 

「モミの木を探すって話だったでしょう。ウチは人手があるからいろいろなところに出向いてるんだけどね」

「見つかんないの?」

「ええ。驚いたことに、一本も」

 

 アスナは頷きはしたが、同時にため息もつく。

 モミの木そのものは、誰もが見たことのあるシルエット──クリスマスツリーの形を探せばおのずと見つかると思っていた。似たような木としてスギの木があるが、その違いをアスナは知っている。あれだけ必死に頑張った受験勉強がゲームで役に立つなんて、と皮肉めいたことを思ったが、これも実践だと思い直した。

 だが、フィールドが広すぎる。暇を持て余した中層プレイヤーのとある一団が、それぞれの層の広さを計測してみたことがあるらしい。ざっくりとしたものでしかないが、最も広いとされる第一層で一周するのに丸四日かかったという噂がある。現在到達している四十九層がどうかはさすがにレベルの問題で計測不可能だが、二十層までの計測記録から概算するに、およそ一層の三分の二。このゲームのタイトル画面に出た蒼穹に浮かぶ城がそのままアインクラッドの全貌ならば、頂上の百層は恐らくボスの居城でありそれのみとして、その下、九十九層の広さですら一層の三分の一。

 最も狭いエリアでも大外回りを一周するだけで丸一日はかかるのだ。

 その中から、一本の巨木を探し出す。まして似たようなものの中からひとつだけ。それはまるで砂漠の砂金探しのような、途方もない作業だった。

 

「今もメッセージでそれっぽいのの発見報告は届くんだけど、もう五十本は超えるかな。そうなるとこれかもあれかもって思っちゃって、そしたらぜんぶ怪しく見えてきちゃって」

「でもよく見ると、全部違う?」

「そう。どうなってるのかしらね」

 

 スギの木ばかりがあって、モミの木が一本もないなんてことがあり得るのだろうか。

 同じ裸子植物、葉の形が似ていることから綱だか目だかというところまでは同じだったと記憶している。植生の分布などは覚えていないが、確かあまり入り混じっての林などはなかったはずだ。つまり育つ環境が異なるはず。

 だが、アインクラッドはその層ごとに環境をガラリと変える。ここまで四十九層、その全てがモミの木に合わないなんてことがあるのだろうか。アマゾンのような熱帯、あるいは北極に近いツンドラのような寒帯まであって、そのどれもがモミの木だけに合わない──? 

 

「例えばの話だけど、出現場所が実はこの層より上でしたっていうことはない?」

 

 ユナは淡い期待を込めて思い付きを口にする。もしもそれがあり得るのだとしたら、どうしたって出現場所はわからない。だがそれならばノーチラスが単身でボスに挑むことはなくなるし、アスナもこれ以上苦悩することはなくなる。

 だが、アスナの首は縦には振られなかった。

 

「それね、アルゴさんにも聞いてみたんだけど。『それはないヨ』って言われちゃった」

 

『NPCがイベント情報を言い始めたということは、フラグは立ったということダ。つまり、イベントクエストは絶対に解放された層のどこかで受けられるし、参加もできル。フラグを立てるだけ立てて何もイベントが起きませんでした、なんてことをゲームでやったら大炎上ものだゼ』

『炎上……は、もうしてるんじゃないですか』

『……確かニ』

 

 ゲームに疎いアスナでも、一年も経てばスラングなどには慣れる。炎上だのフラグだのモブだのと、初めは聞き慣れない言葉であっても聞き続ければ覚えるものだ。

 そうして気づいたのは、このゲームの完成度は非常に高いということだ。フルダイブ機能や液体表現からして出来が良いとは思っていたが、ゲームに慣れてきた今だからよりわかるものがある。中でも、ラグやバグといった通信障害やシステム不調といったものがないことが印象的だった。だからアルゴが言うようにフラグを立てるだけ立てて放置するはずがないとアスナも納得した。

 

「層をまたぐものはあれど受注した層である程度は完結するようにできてるから、未来の、未開放の層にターゲットしたクエストなんて作るわけがない。クエストを受けられる、つまり進められる段階にきて初めてNPCの情報が更新されるわけで、だからここより上の階層に出現場所を設定するなんてことはあり得ないそうよ」

「そっかぁ」

「……まあ、だから絶対にモミの木はあるわけで」

 

 実はイベントなどなかったということにはならない、ということをアスナは自分で言って少し後悔した。手元に表示していたウインドウを操作すると、ギルドチャットに送られてきたギルドメンバーからの報告状況が更新されてさらに巨木の画像が増えた。それぞれにそれらしい巨木が表示されていて、やはりそのどれもがそれっぽく見えてしまう。思わずうー、と唸り声をあげた。

 

「んー……でもじゃあ、ノーチラスさんを止めるにはボクたちでボスを先に倒しちゃうってのが方法のひとつかな?」

 

 イベントが起きないことはないということは、ボスは絶対にどこかに現れるということ。ならばノーチラスが挑む前に倒してしまえばいい。それがユウキの思い付いた案だった。

 

「え……私たちで?」

「あ、もちろん三人でじゃないよ? あんまりユナに無茶させらんないし。それに、別に何がなんでもボクたちじゃなきゃダメっていうわけでもないんだけど」

 

 戸惑うユナに、ユウキはすぐにフォローを入れる。さすがに攻略組の戦力とはいえ、そこにユナのサポートがあっても厳しいのはわかっている。

 ノーチラスより先にボスを倒せるのであれば、それが誰であっても特に問題はない。ユウキが思い付いたのは、ノーチラスの目標をなくしてしまえば彼の足は止まるのではないかということだった。

 だが、それは。

 

「……問題を先延ばしにしてる気がしない? 結局、強い敵が現れるようならフロアボスでもフィールドボスでも目標になりそうだし。なにより、出現場所がわからないじゃない」

「そうなんだよねぇ。どこに出るのかわかんないし、そもそもイベントボスじゃなくてもって感じはしなくはないよね」

 

 攻略組から除籍され、それでもボスに挑む。先ほどの一幕で去り際に彼が見たのはユナだった。そのことから、ノーチラスは強さを求めているのではないか。ふたりはそう考えていたし、あながちその推測は間違ってはいない。

 けれど、それでも。

 

「……ううん。たぶん、だけど。エーくんは、そういう攻略に関わるボスには挑まないよ。きっと、今回のイベントで決めようとしてると思う」

 

 ふたりの話に首を横に振るユナに、ふたりは視線を向ける。口にはせずとも、目が『どうして?』と語っていた。

 

「だって──」

 

 言ったのだ。ノーチラスは──エーくんは。『約束した』のだと。『やると決めた』のだと。彼は忘れていないし、見失ってもいない。きっと、ずっと。そのためだけに動いている。ならば間違いなく彼はイベントボスに挑むし、それ以外はあくまで次の段階として見ている。それは絶対と断言だってできる。

 その理由を、ユナはうまく説明できる気がしなくて。

 

「──そういう、ひとだから」

 

 結局、そう言うしかなかった。

 

「……説得力ないかもだけど」

 

 彼のひととなりを知っているのはユナだけだ。だというのにそれを理由に断言したって、やはり『どうして』と疑問がわくことだろう。それでもユナにはそれ以外の表現はうまく見つけられず、思考がそのままこぼれ出すように言葉がまとまらない。

 

「えっとね、なんていうか信じられないかもしれないんだけど。そういうひとなんだよ。あのね、真っ直ぐっていうか、変なところで冷静っていうか、熱くはなるし無茶もするんだけど、筋道はたってるっていうか」

 

 だが、ユウキたちは頷いた。

 

「うん。わかるよ。だいじょーぶ」

「え」

「ならやっぱり、ボスを先に倒す方向で考えなきゃならないわね」

「え、え?」

 

 説明が必要だと焦っていただけにユナは戸惑う。あれで伝わるなんて露ほども思っていなかった。それがまさかすんなりと頷かれてしまうなんて。

 

「……今ので、いいの?」

「え? うん、じゅーぶんだよ。ね? アスナ」

「そうね。そういうひとなんでしょ? ユナが言うんだから」

「──!」

 

 息を呑む。

 ユナが言うから。それだけで、このふたりは信じてくれる。そういうもの、そういうひとなのだと受け入れてくれる。

 よかった、と心から思った。このふたりに依頼をしてよかったと。

 そんなユナの心境を知ってか知らずか、ふたりは話を進めていく。

 

「てことは、どうあってもモミの木を探さなきゃならないわけだけどさ。どうしよっか?」

「なんでもいいからギルドのみんなとは違うアプローチが必要ってことよね。アルゴさんは?」

「え、さっき会ったばっかりだけど」

「でも、アルゴさんよ?」

「確かに」

 

 数時間前に会ったばかりだ。まだ窓の外は暗い。六時間も経っていないだろう。たったそれだけの時間で、有用な情報を掴めるものだろうか。

 だが、アスナの短い一言にはなぜか説得力があった。それにつられるようにして、ユウキはメッセージウインドウを開く。

 そして、目を見開いた。

 

「……え」

 

 ちょうどその瞬間だった。開いたそのとき、一件のメッセージを着信したという通知音が鳴った。

 差出人は──アルゴ。

 

「あれ、私にも来たよ」

「わたしにも」

 

 同時に、ふたりにも着信があった。やはりアルゴからだ。

 そしてふたりともが、ユウキと同じく目を見開いた。

 

「……こ、れは」

「嘘……だよね?」

 

 三人は顔を見合わせる。アルゴがこういったもので冗談を言うわけがない。

 だが、メッセージの文面はまるで冗談のような内容だった。もしもこれが本当なのだとしたら。起こるのは──

 

「……戦争ね」

 

 アスナの言葉は決して大袈裟ではないとユウキもユナも感じていた。それほどに重大で重要な、冗談じみた内容だった。

 

『イベントクエスト追加情報ダ。【ニコラスの大袋の中には、命尽きた者の魂を呼び戻す神器さえもが隠されている】とのこト。要するに、死者が生き返るかもしれないということダ。プレイヤーの人口集中が予想されル。周囲によく注意されたシ』

 

 

 

 

 

 

 

「あの! 《黒の剣士》さんですか?」

 

 男の声に、少年は振り向いた。黒髪に黒のロングコート、黒いズボンに黒いブーツ。薄暗い洞窟のような迷宮区の中で、手に持った剣の抜き身の刀身だけがぎらぎらと鈍色に光っていた。

 

「僕たちは月夜の黒猫団っていいます。あなたに助っ人を頼みたくてきました。報酬はイベントの特別ドロップアイテムです」

 

 男はケイタと名乗った。ケイタは息つく間もなく続ける。焦りと緊張でやや口早に。明らかにケイタよりも少年のほうが年下であろうに、眼光と呼吸、立ち居振る舞いはまるでそうと感じさせない。少年が振り向いた瞬間、ケイタが《怖い》と思ったほどだ。

 それでもケイタはギルドの長として、気丈に振る舞う。攻略組に入り、トッププレイヤーの仲間としてゲームを攻略したい。それは彼の意志でもあり、ギルドの意思でもある。背負った以上、なんとしてもやり遂げなければ。

 

「僕たちは実績が欲しい。イベントボスを僕たちで倒したという実績が。それがあれば、きっと攻略組入りも夢じゃない。そうやって教わりました」

 

 少年は無言だった。振り向いたときに一瞥したきり、一度もケイタを見てはいない。だが、ややあって。

 誰からだ、と。まるでしばらく言葉を発していなかったかのように小さく掠れた声で、少年は呟いた。

 

「教えてくれたのは、情報屋だっていう短剣使いです。名前は、確か……《ジョニー》さん──ひっ」

 

 ガィン!! と。少年は剣を壁に叩きつけた。ジョニー、と少年が呟く。

 断片しか知らない。知らないが、その名には聞き覚えがある。あのとき──あのとき、《彼》の行く先にいた男の名だ。

 少年は深く息を吐き、頷く。

 

 ──いいぜ。あんたたちの助っ人、頼まれよう。

 

 剣を鞘に収める。

 少年は、闇に溶けていた。



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Kleine

 始まりは《軍》だった。

 ギルド機能が解放された第三層クリアというタイミングで旗揚げされた、SNS界では有名だったプレイヤーを筆頭とする巨大なコミュニティ《アインクラッド解放戦線》。頭文字を取って《ALF》とも呼ばれるそれはおよそ三千人ものプレイヤーが所属し、第一層《はじまりの街》を拠点に活動している。そこにはゲーム攻略に参加せず待機することを選んだプレイヤーも多く、彼らに食料などを分け与え助けながら《全員が脱出》することを目標に掲げた。あるときから《ALF》のメンバーは統一した制服を着用するようになり、それを見た誰かが《軍》と呼んだ。

 それに続いて、軍ほど大規模ではないものの数人から数十人単位でギルドを結成する者たちが現れた。攻略には前向きだが軍には所属せず独自で活動する彼らは、少数ならではのフットワークを活かし確実な戦力増強を図る。アスナが所属する《血盟騎士団》、通称《KoB》や犯罪プレイヤーの集団《笑う棺桶》など、その数はおよそ五十にもなる。

 ギルドとは、いわゆる所属の在処である。学校や会社といったコミュニティに類するもので、フィールドで結成するパーティやレイドとは異なるグループだ。パーティが協力して敵を倒すことを念頭に編成するものであるならば、ギルドとはギルド内で協力し、また別のギルドと敵対とまではいかずとも互いを意識し競い合う関係を築くものだ。

 その、競合関係。ギルドごとに掲げた目標が異なるとはいえ、ほぼ全てに共通するのは《ゲーム攻略》である。そのために協力してボスを倒すこともあれば、レアなアイテムを勝ち取るために謀略を巡らせることもある。そうして今まで、四十九層までたどり着いたのだ。

 そこへ現れたのがクリスマスプレゼント。

 死者蘇生を可能とするアイテムがボス撃破の報酬としてドロップする。

 生死をかけたデスゲームで、それはすでに息絶えたかつての仲間や友人、恋人を復活させる希望として、あるいは九死に一生を得るお守りとして。ほぼ全てのプレイヤーが喉から手が出るほど欲しがるアイテムだ。

 だがボスを倒せるのは一度だけだ。つまり蘇生アイテムの獲得機会も一度だけ、早い者勝ちの一発勝負。

 全てのギルドが、睨み合う。

 

 

 

 

 

 

「せやから今はワイらの番やろ! はよ場所空けろや!」

「まだオレたちが始めてそんなに経ってないだろ、上で待ってろよ!」

 

 四十六層の人気狩場である峡谷に、ふたりの男の声が響く。一方はサボテンのような茶髪の刈り上げ。もう一方はウェーブがかった水色のロング。どうやら狩場の順番を言い争っているようだった。

 

「……またやってる」

 

 それを上から眺めていたユウキは呆れるようにため息をつく。

 その間にも湧く蟻型のモンスターをそれぞれのパーティメンバーが相手取りながら、ふたりは喧々轟々と額をぶつける。そろそろ代われ、いいやまだだ、そんな平行線の言い合いだった。

 

「また?」

「うん、また。いっつもやってるんだ」

 

 パーティが入れ替わるタイミングと見たのか、ユナが隣に腰を下ろす。イベント当日まであと三日と迫った現在、これまでに得た情報をユナと共有することとノーチラスの様子見にユウキはまたこの場所を訪れていた。

 

「ふたりともっていうかふたつともっていうか。あのひとたち、いつもボス戦にいるんだ。キバオウさんとリンドさん。いっつもあんな感じだよ」

「あ、名前は知ってるかも」

 

 ユウキが言うように、彼らはボス攻略には常に参加している。今日までの四十八層、その全てに。そして毎回のようにああして諍いを起こしている。

 茶髪のサボテン頭が、キバオウ。現在最大規模のギルドである《軍》のナンバーツーだ。だが軍の長はゲーム攻略よりギルド経営に専念しているらしく、ボス攻略に姿を現したことはない。システム上ナンバーツーの立場にあるだけで、実質的にはキバオウとリーダーのツートップと言える。

 水色のロングヘアが、リンド。規模としては軍に遠く至らないが、それでも軍に次ぐ大きさのギルド《聖竜連合》のリーダーをしている。実際、上から下まで幅広くプレイヤーの所属する軍に比べて高水準のプレイヤーが集まる聖竜連合は、戦力的には軍と同等だ。

 ギルド機能が解放されたのは第三層がクリアされたときからだが、彼らのああした諍いはそれ以前から行われていた。

 

「なんかね、ラストアタックボーナスがどうとかレア武器がどうとかって。すごいよ? ボス攻略の会議とかあるんだけど、毎回ボスに攻撃する順番で喧嘩するの」

「そっか、最後に倒したらレアなやつ貰えるんだっけ」

「そうそう。でもそれだけやってもキリトとかアスナとかに取られちゃうんだけどね」

「ユウキも取るんでしょ?」

「たまにね」

 

 言いながら、隣に置いていた剣の鞘を撫でる。バスタードソードに分類される大振りの片手剣で、銘は《アルバ》。四十四層のLAボーナスで手に入れた武器だ。

 まっさらな状態でも六十層までは余裕で使えるだろう性能で、もちろんユウキは最大まで強化している。ボスからドロップしたアイテムはそのほとんどがレアなものであり、性能面でも破格である。アルバもその例に漏れず破格というべき代物であり、通常、武器屋などで入手できるものに比べて二倍から三倍は高性能であった。

 それを考えれば、彼らが毎度のように競い合うのもわかる。勢力争いという意味では、武器の強さがプレイヤーの強さにもなり得るからだ。

 

「それじゃ喧嘩しちゃうよねえ」

「……まあ、ね」

 

 ユナが納得したようにうんうんと頷く。だがユウキは曖昧に首を傾げた。

 レアアイテムの奪い合い。もちろんそれもある。だが、彼らが争う理由は他にもあるだろうとユウキは想像している。高性能アイテムだけじゃなく、彼らが狙うのは唯一性能のアイテムだと。

 

「そういえば」

 

 ユウキの曖昧な反応を、何度も見ているがゆえの慣れと呆れだと取ったのか、ユナが話題を変える。

 

「アスナさんは、今日は?」

「今日はフラグポイント候補探しと、そのあとでギルド本部に行くって。団長に呼ばれちゃったって」

「忙しいんだね」

 

 聖竜連合と規模をほとんど同じくするギルド《血盟騎士団》。その副長を務めるアスナは、人海戦術により発見されたいくつものフラグポイント候補のうち画像だけでは判断しきれなかった場所へ直接赴いている。

 団長のヒースクリフは腰の重い人物らしく脚を使うのは専らアスナだが、不平不満を彼女が言っているのを見たことは一度もない。むしろ冷静な性格と広い視野を持ってて尊敬できるらしい。彼の為人をユウキは知らないが、それでも確かに戦闘の実績で言えば《凄い》と手放しに褒められる人物ではある。

 彼は今までHPを黄色くしたことがない──つまり半分以上削られたことがない。見たことがないだけかもしれないが、目撃証言がない以上はそういうことになる。そうして得た二つ名は《聖騎士》。白と紅をギルドカラーとし、なおかつ決して小柄ではない彼の体格と同じ大きさの巨大な盾を持つ彼はまさに守護騎士として鉄壁を誇っている。

 挑めるものなら、その鉄壁に挑みたい。ユウキは密かにそんなことを思っている。

 

「あ、ふたつとも上がってった。よーし、休憩終わりかな」

 

 このままでは埒があかないと判断したのか、睨み合いながらキバオウとリンドは峡谷を上がっていった。ぞろぞろと引き上げたふたつのパーティと入れ替わるように順番待ちの最前列にいたパーティが峡谷を降りていく。その次に控えているのは、やはりと言うべきか、見慣れたひとりの青年だった。

 

「ノーチラスさんも相変わらずだね」

「うん。わたしの歌、聞こえてなかったりしてね」

「それは大丈夫だよ」

「そう?」

「たぶん」

「たぶんかぁ」

 

 苦笑して、ユナは立ち上がる。これから狩りをしようというパーティがユナに手を振っていたから振り返す。彼らは意気高々に剣を抜いた。

 そうして歌いだそうとしたとき、にわかに背後が騒がしくなった。

 

「いた! ウタちゃん!」

「え?」

 

 振り向くと。そこには、十人ほどのプレイヤーがいた。

 

「お嬢もいるじゃん、ラッキー」

「おい待て、抜け駆けすんなよ!」

「危ね、誰だ足ひっかけようとしたの!」

「ウタちゃん、お嬢も、ちょっと!」

 

 騒がしく押し合いへし合いしながら、彼らは真っ直ぐにふたりに向かってくる。唐突な押しかけに気圧され、ユウキとユナは思わず一歩後ろに下がった。

 

「え、えっと?」

「なにか用、でしょうか」

 

 ふたりまであと二歩というところで全員が足を止める。そして計ったようにいっせいに口を開いた。

 

 ──頼みがある。一緒にクリスマスボスを倒してくれ、と。

 

 

 

 

 

 

「どうしても報酬が欲しいんだ」

「知ってるだろ? もうかなり噂になってる」

「君たちの力を貸してくれ。頼む」

「《蘇生アイテム》のためなんだ」

 

 アインクラッドの情報屋はアルゴだけではない。発足の早さから始まり、扱う情報の量やジャンルの幅広さから《鼠》がどこよりも名前を売ってはいるが、決してアルゴひとりで全ての情報を補えるわけではない。

 大手ギルドなら専属の情報収集班がいるところもある。アルゴと同じようにソロで動く者もいれば、情報収集を主な活動とするギルドもある。

 彼らは同時期に《クリスマスイベント》における重大な情報を掴み、そしてすでに多くのプレイヤーに流していた。

 だからこうして、彼らは動いている。

 彼らの狙いはたったひとつ──《蘇生アイテム》。

 それをおいて、ほかにない。

 

「君たちはどこかのギルドに属しているわけじゃないと聞いた」

「特にお嬢は、よく助っ人もやってるらしいじゃないか」

「だから君たちを雇いたい」

「クリスマスの日だけでいいんだ!」

「報酬ならドロップアイテムから欲しいものをなんでもあげるよ」

「……蘇生アイテムだけは厳しいが」

「なんなら一緒に歌うから!」

「え、あー……えっと」

 

 ぐいぐいと迫るようにして頼み込む男たちに、ふたりは思わず後ずさる。後ろが崖というのもあって背中が寒い。

 男たちの目的はユナの《吟唱》スキルとユウキの戦闘力だ。

 フラグモブのレベルはフロアボスに匹敵する。春夏秋のボスレベルから想定するに、だいたい攻略中の層からマイナス十くらいのレベルだろうとされている。それは攻略組であっても、決して慢心はできない程度の強さである。

 ユウキの戦闘力は、その攻略組においても上位とみなされている。レベルの高さはもちろんのこと、背後につく──というよりよく行動を共にするアルゴからの教えとユウキ自身の吸収力から戦闘の運びが上手いと評価されていた。戦闘のセンスともいうべきか、それに関しては誰からも一目置かれていた。

 ユナの《吟唱》は広範囲不特定多数にバフを付与するスキルだ。言うなればブースター。レイドを組めばレイド全員にバフを付与することができるそれは、全員の底上げに繋がる優秀な補助スキル。

 彼女らふたりに同行してもらうことでボス攻略をより確実なものとしたい、というのが彼らの狙いだった。

 

「頼む。どうか一緒に来てくれ!」

「お願いします!」

 

 男たちは次々に頭を下げる。

 ユウキたちは顔を見合わせると、「ちょ、ちょっと待って」と崖から離れるようにして男たちから少しだけ距離を取った。

 

「ど、どうする? ユウキ。どうしよう?」

「んー……ね。どうしよ。ユナはどうしたい?」

「え、私?」

「だって今はボクの雇い主だし。最後に決めるのはユナじゃない?」

「それは、そうかもだけど……うー」

 

 誘いはありがたいものではあった。ノーチラスよりも先にボスを倒すことを目標にした今、人数が増えることは喜ばしいことだ。

 ひとの手が増える。それはすなわち同時に扱える武器が増え、交代による回復の時間が増え、持ち込める回復薬の数が増えるということ。相対するボスが基本的に一体ということを考えれば味方は多ければ多いほどいい。しかもユナと彼らの最終的な目標は違えど、過程は同じ。《背教者ニコラス》を倒すことだ。少なくともそこに関しては利害が一致する。

 

「いちおう、ボクとアスナの考えだけど。血盟騎士団はあんまりアテにしないほうがいいかも。アスナも呼びかけてみるって言ってたけど、低く見積もって考えてって。だから人数が増えるならいいんじゃないかな」

「そう……そう、だよね」

 

 ユウキの言葉にうなずきつつも、ユナは迷っていた。その歯切れの悪さで察したユウキは首を傾げて訊ねる。

 

「なにか気になるとこ、あった?」

「んー……うん。あった」

「どこ?」

「みんなの欲しいのが蘇生アイテム、ってとこ」

「……あー」

 

 なんとなく、ユナが言わんとすることは察せられた。あくまでもおそらく、である。しかし確かに重大な部分ではある。

 こういった確認なら、アルゴの手伝いで多少は慣れている。ユウキはユナに頷くと、それまで待ってくれていた男たちに向き直った。

 

「えっと、確認なんだけど。目的はボスを倒すのじゃなくて、それで手に入るアイテム、で間違いないんだよね?」

『そうだ』

 

 男たちは一斉に頷く。ユウキもそれに内心で頷き返す。これは合っている。彼らの目的は蘇生アイテム。

 それを手に入れるための過程に、ボスの撃破がある。

 

「だけどボスを倒すのに自分たちだけじゃ厳しいから、ボクたちに手伝ってほしい」

『そう』

 

 これも合っている。まあこれは彼らも言っていたことだ、確認など今さらかもしれない。

 では、次は──? 

 

「蘇生アイテム……っていうか、ボスって確かフロアボスとおんなじで一回しか倒せないってことになってると思うんだけど。ここにいるみんなで倒すんだよね?」

『いいや』

「……だよね」

 

 ユウキの問いに、男たちは間髪入れず首を横に振る。ユウキも言いながら気づいていた。

 彼らが各々の装備に掲げるエンブレム。ギルドの象徴、旗印とも言えるそれは十人が十人とも異なるデザインをしていたのだ。それはつまり、彼らはそれぞれ異なるギルドに所属するプレイヤーであるということ。

 通常、ふたつ以上のギルドが手を組むことは滅多にない。例外としてフロアボス戦があるが、それ以外ではよほど意気投合した場合などでなければ競い合う関係にある。

 この場に十のギルドが集まって、全員がひとつのアイテムを求めているということは。

 

「もしかして、みんな違うギルド?」

 

 そのとおりだ、と全員が頷く。

 

「レイドを組むわけじゃなくて」

 

 そうだ、とまたも全員が頷く。

 

「ってことはもしかしてだけど。ボクたち、この中からひとつを選べって言われてる?」

 

 そういうことになる、とやはり全員が頷いた。

 ドロップアイテムの分配はランダム。モブ撃破に参加したメンバー全員を対象とする。それはそういうふうにシステムがつくられているため、プレイヤーがどうこうできる部分ではない。狙って得られるのはLAボーナスのみ。

 だが、そのランダムをランダムでなくする方法がある。目的が同じ者どうしで手を組めばいい。たとえアイテムがひとつしかドロップしないとしても、使用目的まで同じなら争うことはない。

 まさに今、ユウキたちの目の前にいる男たちのように。

 

「……みんなで挑むっていうのは?」

『できない』

 

 男たちは口を揃えて言う。それは無理だ、と。

 攻略組が挑むボス戦において、ドロップアイテムの所有権は手に入れたやつのものとされている。倒すことが目的の場所でそれ以上の追求はなし、という暗黙のルールが敷かれているからだ。ただひとつ、LAボーナスだけは狙うことができるためにその限りではない場合もあるが、基本的にはプレイヤー自身の運次第である。

 今回のクリスマスイベントは、その例外的なLAボーナスの仕組みが色濃く反映される。ドロップするアイテムがわかっていて、皆それが欲しいからだ。ましてアイテムの使用目的もその対象も異なるのでは、共同戦線など組めるわけがない。ボスを倒すことはあくまでも過程。その先で得られる報酬が欲しい。ひとつしかないものを手に入れるためには、ギルド単独による撃破が絶対の条件だった。

 

「……そう、だよね」

 

 ユウキの後ろでユナが小さく呟く。

 ノーチラスから攻略組の話は聞いていたし、ついさっきユウキともそういう話をしたばかりだったから予想はしていた。彼らはひとつのアイテムを巡って争っていて、そのために相手──他のギルドを出し抜こうとしている。

 その気持ちだけで言えば、ユナは理解できていた。ユナだって同じだからだ。ボスを倒したという実績をノーチラスに与えないために自分が先行しようとしている。それは言い方を変えてしまえば、ノーチラスを出し抜こうとしていると言える。

 だが、だからこそ彼らの誘いに首を縦に振ることはできなかった。

 

「最悪、歌ってくれているだけでいいんだ!」

「どうか一緒に来てくれないだろうか?」

 

 男たちは必死に頼み込む。並々ならぬ理由がありそうだというのはひしひしと伝わってくる。彼らの目的が蘇生アイテムであることから、それは想像に難くない。手伝えるのであれば手伝いたいとユナは思う。

 だが、それを引き止める自分もいるのだ。そのふたつの葛藤がユナを悩ませる。

 自分がボスを倒したいのはノーチラスに危険を冒してほしくないから。たったひとりで挑もうという彼を危地から遠ざけたくてユウキたちに依頼を出した。だが彼らをそのまま挑ませてしまうのは、ノーチラスがやっていることを手伝うのとどう違うのか。自分やユウキの助力があるとはいえ、結局やっていることは同じではないのかと、そんなことを思ってしまう。

 それでもノーチラスより先にボスを倒しておかなければユナの目的は達せられなくて、そのためには彼らの申し出は願ったり叶ったりで。

 

「え、えっと、えっと……!」

 

 どう答えればいいのかと思案していると、ふとユナに迫る人垣の向こうから声がした。

 

「そこまでや」

「困っているのが見てわからないか?」

 

 え、と顔を上げると、六人の肩や首の間から特徴的な髪がのぞいていた。

 片や茶色のサボテンのようなショート。

 片や水色のウェーブがかったロング。

 どこか見覚えのあるような、一度でも見れば絶対に忘れないだろうと思えるような二人組が、人垣をかき分けてユナたちと男たちの間に壁のように立ち塞がった。

 

「感心せんな。感心せん。押しゃあいいってもんやないやろ」

「というか、彼女に対しての勧誘はあまり良しとしないんじゃなかったかな。あくまで暗黙の了解だから強制じゃないけども」

「う……」

「それ、は」

 

 ふたりの言葉に、人だかりをつくっていたプレイヤーたちは口をつぐむ。

 水色髪のプレイヤーが言うように、確かにルール化はしていない。だが優秀な広範囲対象の補助スキルを持つユナがどこかのギルドに所属することは、それだけで戦力的なアドバンテージになる。

 その、云わば《力》の独占をさせないために、自分たちもしない。それが暗黙のルールとして広まっていた。

 

「わかってるさ、そんなこと」

 

 だが、簡単には退けない。彼らもルール違反だとわかっていて、それでもユナの力に頼りたいからこうして頭を下げたのだ。

 男たちのうちのひとりが表情を険しくする。

 

「だからって諦められないだろ。仲間が生き返るかもしれないんだ。オレの友達はあのチュートリアルの前にやられて、それから姿を見ない。ただのゲームだと思ってちょっと無茶したら、実は現実でも死んでましたなんて認められるわけないだろ。だがイベントのボスが強いってのは今までの話を聞いて知ってる。だけど、それでも、確実に蘇生アイテムを手に入れるためには自分たちだけでボスを倒さなきゃならないんだよ」

 

 チュートリアルの前。このゲームが、デスゲームになる前。だが彼にとってはすでに始まっていたのだ。

 ボスにはレイドを組み、大多数で挑むことも可能だ。だがそうなると、ドロップアイテムの分配も平等、レアドロップアイテムは基本的にドロップしたプレイヤーのものというのが基本ルールである。もちろん交渉次第ではそれを譲ってもらう、あるいは交換という形で入手することも可能だが、それに応じてもらったという例は滅多にない。ましてそれがレアアイテムとなればなおさら。となれば、蘇生アイテムを入手するためにはそれを譲り合えるような仲間、あるいは同じ目的を持ったプレイヤー同士で参加しなければならない。

 だがそうすると、彼らのように少数での挑戦になる。どこにも属さない、フリーのプレイヤーであるユウキやユナが引っ張りだこになるのは当然だった。

 彼の悲痛な想いはしかし、ふたりの剣士に遮られる。

 

「それでもや。暗黙とはいえ狡いことには変わらんで」

「気持ちはわからないでもないよ。報酬が報酬だからね。でも、それで彼女の意思を無視しちゃいけない。そうだろう?」

 

 言って、水色髪の剣士は半身の構えをとるようにして道を空ける。茶髪の剣士もそれに倣って合わせ鏡のように動いた。

 

「あ……」

 

 先ほどに比べて少しだけ、迫ってきていた六人との距離が空いている気がした。言うならば、今しかない。

 どうしよう、とユウキを見る。ひょっとしたら自分より幼い彼女は、それでも微笑んで頷いてくれた。ユナの出す答えについていく、と言うように。信じてもいいと思えるひとが、自分を信じてくれている。そう思うと、不思議と言葉にする勇気が湧いてきた。

 男たちに向き直る。

 受けるのか、断るのか。

 答えは決まっていた。

 

「えっと、気持ちは嬉しいんですけど、その……ごめんなさい。お手伝い、できません」

 

 ユナはぺこりと頭を下げる。

 この答えが最善かと言われれば自信を持って頷くことはできない。できないけれど、ギルド間の協力ができない以上はユナも協力はできないと思った。

 ボスは倒したい。けれどそのために少しでも犠牲が出るようなら意味がない。

 ある意味では彼らとノーチラスは同じなのだ。誰かのためにボスを倒したいと思っている。そしてそのために危険な場所へ身を投げようとしている。

 ならばユナは、自身のすべきことは彼らの動きを止めることだと考えたのだ。

 今までもこういった誘いはあった。そしてそのたび、ユナは断るのに難儀した。誰もが納得のいく断りかたでなければ、また同じことが起こる。ならばどうすればと考えたとき、思いつくのは彼の顔だった。

 クリスマスに、彼と。それだけを思えばロマンチックだが、状況がそれを許さない。言ってから彼を《使って》いる気がして胸がチクリとした。

 それでも、断りの文句としては最強とも言えた。今まで、それで断れなかったことはなかったから。

 

「先約が、あるので。ごめんなさい」

「せ、先約……」

 

 ユナたちを勧誘しようとしていた剣士たちは少しショックを受けたような面持ちでしばし呆然としていたが、後から現れたふたりの視線にハッと我に返りそそくさとその場を去っていく。その背中を少し申し訳ない気持ちでユナはしばらく見つめていた。

 

「……それで、《DDA》のリーダー様がこんなとこへ何の用や? もうフラグポイントは洗い終わったんか」

「それはこっちのセリフかな。《軍》はまだ絞りきれてないって話を聞いたけど、こんなところにいていいのかい?」

「ワイは巡回や。さっきみたいなのにウタちゃんの邪魔されてワイらの効率まで落ちたらかなわんさかい」

「オレも同じようなもんだよ。似たもの同士じゃないか」

「けっ。どの口が言いよるんや」

「お互いさまだろう。……大丈夫だったかい?」

 

 水色髪の剣士が顔を覗き込んでくる。ついさっき下で言い争いをしていたふたりだ。リンドに、キバオウ。そのふたりがどうして、とユナが戸惑いつつも、まずは礼を言わねばと思い直した。

 

「えっと、ありがとうございます。キバオウさんに、リンドさん、ですよね」

「礼なぞええよ。先約がおるんやったらワイの用もないさかいな」

「え?」

「なんだ、やっぱりそうだったんじゃないか」

「おどれもそうなんやろが」

「ふっ」

「え、え?」

 

 戸惑うユナに、リンドは笑いかける。そしてそれに、キバオウは仏頂面で頷いた。

 

「実のところ、オレたちもキミたちの力を貸してくれないかと思ってたんだ。けど、先約がいるんじゃ仕方ない。クリスマスだもんな」

「言わんでええがな、終わった話や」

 

 つまり、とユナは頭の中を整理する。同時にユウキがそれを言葉にしていた。

 

「巡回っていうのはウソで、本当はさっきのひとたちと同じ、ボクたちに助っ人を頼もうとしてたってこと?」

「そういうことになるな」

 

 リンドが頷く。

 

「さっきも言ったけど、報酬が報酬だからね。オレたちだって欲しいんだ。まあ、ウタちゃんには頼れなくなってしまったけど」

「えとえと、ごめんなさい?」

「せやからええっちゅうねん。どうせアレやろ、先約」

「心当たりがあるのかい?」

「わからんわけないやろ」

 

 言って、キバオウは指で示す。その先には、狩りを終えて峡谷から上がってきたノーチラスの姿があった。

 かなり憔悴している。ポーションも出さず膝から崩れるように座り込む様子に、ユナはぎゅっと胸の前で手を強く握った。

 

「知ってるの?」

 

 ユウキが問う。それにキバオウは、変わらずの仏頂面で頷く。

 

「知らんわけないやろ。ずっとふたりでおるのを見とった。ワイらの本拠地は《はじまりの街》やで。ウタちゃんが歌い始めたころから知っとるんや」

「ファンなんだね?」

「やかましいわ」

「あ、あはは」

 

 リンドの茶々にキバオウがそっぽを向く。ユナは嬉しいやら恥ずかしいやら、苦笑するしかなかった。

 

「行ってやれや。あんなんほっといたらあかんで」

 

 照れ隠しか、そっぽを向いたままキバオウはユナにそう言う。ユナは頷くと、ありがとうございました、と頭を下げて、振り向きざまにアイテムストレージからポーションを取り出した。

 

 

 

 

 

 

「お嬢」

 

 ユナについていこうとして、ユウキはキバオウの声に振り向く。

 

「なに?」

「さっきのでうやむやになっとったが。お嬢の助っ人は頼めるんか?」

 

 どうやら本気でボスに挑む予定はあるらしい。それはリンドも同じようで、何も言いはしなかったが真剣なまなざしが向けられていた。

 

「……ううん。ボクはもう、ユナの助っ人だから。ユナがいいって言わないと」

「さよけ。ならもう一個や。《鼠》にフラグポイント探してもろてるんやが、なんか言ってたか?」

「ううん、そっちもなんにも。特に伝言はもらってないよ」

「ほんまか。あと三日やぞ? あの《鼠》がか?」

「うん。蘇生アイテムが報酬にあるっていうのを掴んでからそれっきり。そっちも進んでないの?」

 

 鼠というワードにユウキは体の向きを変える。たぶん大事な話だ、と直感的に感じていた。

 

「ないな。《DDA》はどうなんや」

「こっちもないよ。ほぼお手上げだね」

 

 そんなことがあるのか、とユウキは内心で驚いた。

 アルゴはひとりだ。情報収集能力はずば抜けているが、行動範囲や時間は限られてくる。

 対して、軍やDDAは人数において一、二を争うほど。人海戦術という意味ではこれ以上ないほどにそろっている。加えて血盟騎士団も動員されているにもかかわらず、フラグポイントの情報に関しては一切のヒントが無い。

 ただ、ふたりとも追いかけてはいるらしい。ならばなにかしらヒントはあるはずだ。

 ちらりとユナのほうを見る。相変わらずノーチラスの顔は浮かないが、それでも話しかけるユナに返事はしているようだった。

 まだもう少しは動かないだろう。そう判断して、ユウキは情報収集のために頭を切り替えた。

 

「……ちょっと質問なんだけどさ。ふたりも、蘇生アイテムが欲しいんだよね?」

「当たり前だろう」

 

 ユウキの問いに間髪入れずに答えたのはリンドだった。

 水色のウェーブがかった髪を指でいじりながら、額にしわを寄せる。先ほどまでの余裕のある笑みは消え、声が低くなった。

 

「あの人が生き返るんだぞ。取りに行かないわけがない」

 

 あの人。その言葉に、ユウキはキバオウと目を見合わせる。

 誰のことかなんて聞かずともわかる。リンドと同じ──というよりもリンドが真似た──水色髪の剣士。

 第二層ボス攻略の会議のとき、誰もが彼を見て驚いた。茶の混じった黒だったはずの彼の髪色が急に変わっていたからだ。周囲の視線を全く気にする素振りを見せず、その場に集まったプレイヤーたちの中心まで堂々と歩いた彼はそのまま会議を始めた。話しかたも朗々としていて、やはり覚えのあるものだった。

 今でこそ見慣れてしまったが。最初のころは痛々しくて、ユウキは見ていられないと何度も思ったことを覚えている。それはキバオウも同じようだった。

 

「おんどれ……やっぱ、そうなんやな」

「当然だ。蘇生アイテムは絶対にオレが手に入れる。何がなんでもだ。これだけは譲れない」

「ほーん。まぁワイはそこまで必要としとらんさかい関係ないがな」

「……キバオウさんは、蘇生アイテムいらないの?」

「おう。いらん」

 

 ユウキの問いかけにキバオウは迷う素振りも見せず頷く。

 

「誰かひとり生き返らせるならあの人しか考えられんが、そもそもほんまに生き返るのかすら怪しいやろ。別に鼠の言うことを疑うわけやないが、どうにもな」

「なら、オレを手伝え。軍の戦力があれば──」

「せやかて、欲しいっちゅうモンは軍にもおる。他のドロップ品もレアもんばかりやろうし、それらはワイも欲しい。手は結べんな。……それにや」

 

 一拍あけ、キバオウはユウキを見る。

 

「ワイは真相を知りたい。あの時の、な。そういう意味では、今回のイベントは追っかけざるを得んのや」

「真相?」

「せや。今回は報酬が報酬だけに、人が集まっとる。上から下まで大量にや。狙わんわけ、ないやろ?」

 

 言って、キバオウは腰に下げていた片手剣を揺らす。それが意味することはユウキにも読み取れた。

 

「オレンジ……」

 

 あるいは、レッド。意図的にプレイヤーを傷つけることでカーソルの色が変わった者たち。一絡げに犯罪プレイヤーと呼ばれる者たち。

 そのなかで、キバオウの言う《あの時》に関わる者など限られている。

 

「せやからワイはここにいる。知らんままじゃあかんのや。……お嬢もそうなんやろ」

「そう、だね」

 

 ユウキはあの出来事のことをキバオウに話していない。アルゴ、エギル、クライン、キリト、アスナ、そしてユナ。話したのはこの七名のみだ。信頼のおけるおけないという分け方というわけではないけれど、どうにもユウキはキバオウにあのことを話すのは躊躇われた。

 シュウやキリトが当時警戒していたというのもある。けれどそれ以上に、あのときキバオウは「諦めろ」というスタンスを取っていたからだ。それだけで少しムッとする相手だった。……今でこそ人が変わったような感覚があって、それはそれで戸惑っているけれど。

 

「それに、そういう意味では尾けるヤツはわかっとるんや。鼠からなんもなければワイはそいつを追う」

「誰だ、そいつは」

 

 リンドが眼光を鋭くする。

 言ってしまうのか、とユウキは驚いた。ここでそれを明かすということは敵に塩を送ることに他ならない。手を結べないと言ったばかりだというのに。

 だがキバオウは少しも躊躇う素振りを見せなかった。

 

「最近やけに気風のええ情報屋や。ウチのもんがえらいネタもろたと騒いどった」

「名前は」

 

 リンドが詰め寄る。それでもキバオウは悠然として。

 

「ジョニーや。……なあお嬢。どっかでこの名前、聞いたことないか?」



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Kleine-2

「本当に生き返ると思うか?」

「わからん。わからんが、可能性としては薄いだろう」

 

 第十一層、タフト。その主街区はのどかな住宅街を思わせる現代的なつくりで、中央にある円形の広場を同心円状に並ぶ建物が囲んでいる。

 その噴水広場に面した最も小さい円の並びに構えられた店で、正午から男ふたりはカウンターを挟み真剣な顔で向かい合っていた。

 

「チュートリアルで言ってただろう、あの茅場晶彦と名乗るフードのアバターが。『このゲームにおけるいかなる蘇生手段も機能しない』と」

「そう……だよな」

 

 カウンターの外側、客として座るクラインは表情を曇らせる。それを内側に座る店主は半ば言い聞かせるような、宥めるような口調で重ねて言った。

 

「気持ちは察するがな、クライン。HPがゼロになった瞬間に脳が焼き切れる、だから蘇生手段はない。こればかりは覆しようのない事実なんだと思うぞ」

「わかってる……わかってるんだがよ、エギル」

 

 両肘をテーブルに乗せてうつむくクラインに、エギルはかけられる言葉を見つけられずにいた。

 

 ──これはゲームであって、ゲームではない。

 

 これも茅場晶彦の言葉だ。あのチュートリアルの日、シュウが呟いた。

 一万人を閉じ込めたこの世界は紛うことなくゲームだ。現実ではありえない身体へのシステムアシスト、指を振れば出てくるメニューウインドウ、ヒトより大きな怪物。

 だがその一方で、この世界は現実でもある。手鏡によるアバターの現実投影、今までの生活と何ら変わりない空腹と睡魔、そして──HPがゼロになって爆散してから二度と会えていないギルドメンバー。

《風林火山》はクライン率いるギルドの名称だ。クラインが第一層からともに歩んできた仲間たちで構成され、そのうちの数名は攻略組に名を連ねる猛者でもある。だが、四か月前の第三十四層フロアボス戦にてひとり、仲間を失っていた。

 黒鉄宮《生命の碑》に刻まれた名前に二重線が引かれ、以降は姿を消す。それは攻略組に限らずどのギルド、それどころかどんなグループにも聞く話だった。それこそ、第一層攻略時から。

 一年も経つのだ。さすがにいま生き残っている全員がもう察している。このゲームでの死はログアウトと同義だということを。それも、ゲームからどころか人生からの。そうでなければ、外部から強引にナーヴギアを取り外し、全員がログアウトできているはずなのだ。それがされないということは、そういうことだ。

 ──それでも。

 

「縋りたく、なっちまうな」

 

 弱く、絞り出すような声音だった。

 大切な仲間だ。失いたくなかった。だからこそもう一度会えるのかもしれないと思うと心が揺れる。

 その感覚は、エギルにだってわからないわけではなかった。

 

「まあ……そうだな」

 

 エギルは攻略組として最前線に身を置きながら、商人として店を営む。訪れる客は攻略組のメンバーであったり中間層のプレイヤーであったりとさまざまだ。中には顔馴染みとなった客もいて、ときにはパーティを組みフィールドに出ることだってある。そんな彼らがふと顔を出さなくなると、嫌な想像が働くのだ。

 だが、わざわざ確かめには行かなかった。そのうちふらりと顔を出す。そのときに笑顔で迎えてやればそれでいい。半ば言い聞かせるようにして、エギルは待つことを選んだ。自分がいつもどおり過ごしていれば、きっと相手もいつもどおり顔を見せてくれるはずだから。

 

「よォ。やってるカ? ……なんだ、男ふたりで密談カ」

 

 そんなことを思っていると、アルゴが暖簾をくぐってきた。フードを取り払い、金髪の癖っ毛に頬のヒゲを模したペイントを隠そうともせず、勝手にくるりと店の看板を《OPEN》から《CLOSE》に切り替えて。

 

「アルゴか。珍しいな、こんな時間に。買取か?」

「あァ、それも頼ム」

 

 ドサドサドサドサドサ、とストレージが空になるのではというくらいのアイテムを放出したアルゴは、すとんとクラインの横に腰を下ろす。大量のアイテム買取も看板の切り替えもいつものことなのだろう、エギルは何も言わず、ため息をひとつだけ吐いて目の前の山を処理し始めた。

 

「どーだ、クライン。調子ハ?」

「良くはねえな。どうにも焦っちまう。そっちはどうだ」

「同じく、良くないナ。どうにも広すぎル」

 

 ふたりは互いに顔を見合わせて、苦笑しつつ肩をすくめる。イベント当日まで三日を切ったが、いまひとつ決定打となるものが出ていなかった。

 

「マジかよ、けっこうアテにしてるんだがな」

「それはありがたいが、こればっかりはナー。候補が増える一方だゼ。あ、なんか飲み物くレ、エギル」

「水ならセルフだ」

「オレのも頼むわ」

「あいヨ。10コルずつナ」

「金とんのか」

「オレの店だぞー」

「冗談ダ」

 

 打てば響くようなリズムで三人はそんなやり取りをする。慣れた手つきでアルゴはコップに水を注いでいった。

 アルゴとクライン、そしてエギル。三人は一年前のあの一件から、こうしてときどき集まっていた。

 エギルがまず、商人として拠点を建てた。彼曰くもともとリアルでもカフェを営んでいたらしく、もはやあきんどこそが自分の生業なのだと笑っていた。そうして《鼠》にコンタクトを取り、やがてアルゴが立ち寄るようになった。

 

 ──悪いがあと頼むな。

 

《彼》でなくとも、誰であれ《鼠》を偽装することは不可能だとエギルは判断した。それでもその名を出すということは、よほどの阿呆かよほど近しい者か。前者はありえない。ならば《鼠》と《彼》とは必ず繋がりがある。そう判断しての行動だった。

 それは果たして正解であり、それを聞いたアルゴはならばとクラインを呼びつけた。事の次第をユウキからおおまかに聞いていたクラインは、それを補完する形でエギルの話も聞くことになる。

 

 ──……わかった? 

 

 あのときの声と表情を、クラインは忘れていない。飄々としながら抱え込む性質だというのは知っている。それでも、忖度だのなんだのと言っていたくせにオレたちの気持ちは汲み取れなかったのか。そんな怒りにも似た悲しみが──あるいは悲しみにも似た怒りが、ふつふつと湧き上がってくる。

 とっ捕まえて拳骨を。

 それを第一目標に据えて、クラインもまたエギルの店によく出入りするようになったのだった。

 

「なあ、お前を疑うわけじゃないんだけどよ、本当に生き返るんだろうな?」

 

 水の注がれたコップを受け取りながら、クラインは問う。エギルにも訊ねた質問であり、それでいて自分の中でもある程度の答えは出ているが、それでも確認はしたい。

 本当に、本当に彼らは戻ってくるのだろうか。

 

「無理だナ」

 

 しかしアルゴの答えは素っ気なかった。

 

「本当に生き返るんだとしたら、HPを全損したプレイヤーの待機場所があるということになるだロ。ってことは、このゲームで死んでも現実じゃ死んでないってことになル。それができるなら、外から無理やりナーヴギアをひっぺがせば全員が生還ダ。でも一年も経ってソレがされないってことは、つまりそういうことなんだヨ」

「そう、だよな……やっぱそうだよなぁ」

 

 アルゴが言ったことは、クラインもわかっていることだった。というか、このゲームの参加者の誰もがわかっていることだ。今さら何をどう掘り返そうが覆らない事実だった。

 そもそもの話。チュートリアルの時点で、茅場晶彦のアバターはニュースの画面をいくつも映し出していた。よく知る局の名前ばかりで、そのどれもが死者数を二百人以上と報じていたのだ。いくら計画的なデスゲームとはいえ、あれらをも用意していたとは思えない。ならばやはり、疑いようもなく現実なのだ。

 クラインは天を仰ぐ。エギルの店の白い天井、その向こうに広がる残り半分のエリアを見据えるように。

 そんなクラインに、アルゴは少し口調を和らげて言う。

 

「これはオイラの想像だけどナ。生き返るのは生き返るんダ。正しく言えば、死ななイ。一回限りで、死を肩代わりしてくれるお守りみたいなもんだと予想してル。……期待に添える答えじゃないだろうがナ」

「いや、いい。ありがとなアルゴ」

 

 気休めに嘘を言うふたりでは決してない。商人という気質からなのか、非常に現実的な感覚を持つふたりだ。だからこうして聞いたのだ。

 正直、まだ期待は捨てきれていない。どれだけ現実を突きつけてもらおうとも、わずかな可能性に縋りたいという気持ちを完全に捨て去ることはできない。どうしても、《もしかしたら》が頭から離れない。それでも、期待はしてはいけないのだ。

 クラインは水の入ったコップを一気にあおった。

 

「……狙うのカ」

「いいや」

 

 アルゴの問いに、クラインは即答する。

 

「挑みはする。経験値も報酬も欲しいからな。でもそれだけだ。蘇生がどうとかってのはまた別の話だな」

「……そうカ」

 

 それはアルゴへの返事でもあり、それでいて自分に言い聞かせる約束のようでもあった。

 だが事実でもある。単純にイベント報酬だけで考えても、どのクエストよりも豪華だ。取りにいかない理由がない。

 それに心配もあった。ノーチラスのことだ。あのボス戦以降はあまり表に出ていなかった彼が、ここ最近になってあれほどに無茶なレベリングを始めた。ということはおそらく、狙いはイベントボスだろう。

 きっと彼は止まらない。ならせめて、乱入でもなんでもして無理やり止めるなり援護をするなりしてやりたいと思う。

 ……どことなく、抱える性質が似ているような気がするから。

 自分はその場にいなかったから、なんてことは二度とないようにしたい。

 

「挑むのはいいが、出現場所はわかってんのか? ほれアルゴ、二万と五百コル」

 

 査定を終えたエギルが顔を上げる。大量のアイテムを店舗用のストレージに収め、アルゴに買取金を渡した。

 

「オ、けっこうな額になったナ。よしよシ」

「量が量だからな。もっとこまめに来てくれていいんだぞ」

「気が向いたらナ」

「……量が量だから小分けにしてくれないか」

「気が向いたらナー」

 

 エギルの苦情に、アルゴは飄々とした態度を崩さない。ストレージを覗いてウムと頷く。

 そうして上げた顔は、いつになく真剣だった。

 

「ボスの場所だが、それはさっきも言ったようにさっぱりダ。けど、いろいろ動いているうちに変なとこは見つけタ。やけに出入りの多い場所があル。張れば何かわかるかもしれなイ。……いろいろとナ」

「いろいろ?」

 

 エギルが最後の言葉に反応する。アルゴはそれに、やはり真剣な表情で頷いた。

 

「そう、いろいろダ。確証はないから今は言えなイ。けど匂うんだヨ。どーも引っかかル」

 

 長く情報屋をやってきたがゆえに培われた直感。ネタになりそうな、事が起きそうなものへは敏感になった。その直感が告げるのだ。怪しイ、と。

 

「……アルゴがそう言うなら間違いなく何かあるんだろうけどよ。危険はねえのか。ユウキちゃんにちょいちょい聞くけど、そうやって突撃して死にかけたこと何回かあんだろ?」

「何を聞いたのか知らないけど、そーやって乙女の秘密を暴くのはよくないゾ。……まあ、確かに不安はあル。そこで、オイラからふたりに依頼ダ」

「なに!?」

「依頼だ!?」

 

 アルゴが言うと、男ふたりが飛び上がるように驚いた。クラインに至っては、文字どおり飛び上がって椅子から転げ落ち尻もちまでついている。

 

「……そんなに驚くかネ」

「あたりめえだろ、依頼するってことはカネ払うってことだぞ!?」

「あの守銭奴と言われる《鼠》がそんなことを言うとはな。明日は猛暑にでもなるのか」

「……オレっちがどう思われてるのかよくわかっタ。じゃあ言わなイ」

 

 ふいっと拗ねたようにアルゴは顔をそらす。

 そんな光景もまた珍しくてふたりは言葉を失うが、ついさっきのアルゴの言葉を思い出して我に返った。

 

「いや、悪かった。それで依頼ってのは。どんな不安があるんだ?」

「ああ、聞くぜ。話してくれ。オレらの仲だろが」

 

 エギルとクラインが促すと、アルゴはゆっくりと顔の向きを戻す。それでもまだ半眼ではあったけれど。

 

「……オイラの護衛を頼みたイ。その出入りの多いところから現れたヤツと接触したプレイヤーがいてナ。ちょっと気になるから追いかけたいんダ。エギルも頼ム」

「護衛って、ユウキちゃんは?」

 

 クラインが首を傾げる。

 いつもなら必ずユウキがアルゴの護衛兼手伝いをしている。ここへ来ることは稀ではあるが、基本的に《鼠》としての行動をとるときはツーマンセルのイメージがあった。

 実力的にも攻略組の一角という折り紙付き。護衛というなら外せない人間のはずだ。

 

「あの子は別件で依頼があっタ。別行動ダ」

「そうか……」

 

 クラインは悩むように顎に手を当て、指の腹で無精髭を撫でるようにして考えこむ。

 

「オレはいいぜ。頼るアルゴっていう物珍しさもあるが、それほど怪しくて危険なんだろ。壁役なら任せな」

 

 エギルは剃髪の頭をぺしりと叩きながら快く頷いた。

 

「そんなに珍しいカ?」

「そりゃあな。基本的にひとりで潜るのが情報屋って言ってただろ。ネタの共有なんてしたら銭にならないと」

「……言ったような気がするナァ」

 

 それにだ、とエギルは色黒ゆえに余計に白く見える歯を見せて笑う。

 

「お前の頼みを断る理由がない。珍しいからこそ、そのぶん本気なんだろ。力になるさ」

「……助かるヨ」

 

 アルゴは、ふにゃっと力なく笑う。知らずのうちに緊張していたのだろう、細くため息をついた。

 茶化すように言っていたが、自分が誰かにものを頼むことが珍しいというのは自覚している。だが今回の件に関しては情報屋は関係ない。《鼠》としてでなく、ただのアルゴとして気になるから追いかけたいだけなのだ。ならば頼んだっておかしくないよナ、と内心で誰にともなく呟いた。

 

「クライン……は、まだ悩んでるか」

「ああ。オレはオレで気になるヤツはいるんだよ」

 

 エギルの確認にクラインは頷く。

 確かにエギルの言うように珍しいことだし、だからこそ本気の度合いというのか、そういったものが違うということはわかる。対価としてコルを払っているとはいえ、これまで何度も《鼠》に助けられてきた。こういうときは助けになりたい。

 けれどあの剣士を放っておくわけにもいかない。ひとりでなんて無茶をするとわかっていて野放しなんて出来るわけがなくて。

 

「いや、無理なら無理で構わないゾ。何がなんでもってわけじゃないシ。シュウ兄に似てる感じのヤツを追いかけたいってだけだからナ」

「……なに?」

 

 だから、アルゴの言葉は思わず聞き返してしまった。

 

「シュウに似てるヤツ、って?」

「エ?」

「そいつ片手剣か? ここ最近ひとりで危なっかしいヤツか」

「なんだ、もしかして知ってるのカ」

 

 クラインの矢継ぎ早の問いにアルゴは目を丸くする。そして、ならばと依頼の内容を語りだした。

 

「追うプレイヤーの名前はノーチラス。そいつがラフコフと接触した可能性があル。確証はないが、たどり着く場所は三十五層の《迷いの森》」

 

 そしてそこは、ともすれば──

 

「もしかしたら、イベントボスの出現場所ダ」



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Kleine-3

 ときおり、夢を見る。懐かしい光景だ。

 自宅にある道場で、妹と向かい合い竹刀を構える。相手の挙動を見逃すまいと一心に見つめ、また相手も同じように目を逸らさず観察している。

 なぜか、帰ってきたと感じた。日課である朝の稽古のはずなのに、なぜかどこか懐かしい。普段サボりがちだったからか。じり、と相手の出方を伺うように足を擦る。

 その瞬間、妹は裂帛の気合と共に竹刀を上段に構えて振り下ろした。それを受けようとして自らの手に竹刀がないことに気づく。刃が首に迫る。

 音はなかった。斬られた感覚も。だが斬られたとわかった。身体中が急に重くなり膝をつく。辺りが急に暗くなった。

 目の前に首が転がっていた。誰のものかは見なくてもわかる。地に広がった長い髪は水色をしていた。

 キリトを覗き込むように見上げている男の目はじっと動かない。何かを言おうとして男の口がかすかに開く。

 そこでいつも、目が覚めるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「私が前に?」

「そう」

 

 サチの問いに、ケイタは頷く。

 サチというのは《月夜の黒猫団》紅一点のプレイヤー。ケイタと同じく両手槍の使い手である彼女を、彼は片手剣にコンバートさせたいのだという。困惑したサチが理由を尋ねると、彼の口からは真剣な声色で返事があった。

 

「今このギルドで戦力的に薄いのは前衛だろ。そこを厚くすればもう少し戦闘で安定すると思うんだ。せっかく超強力な助っ人も呼べたし、この機会にいろいろ教えてもらおう」

 

 朗らかに、ギルドの長を務めるケイタは語る。

 

「無理だってば。私、今まで後ろで突っつくしかやったことないんだよ? 前に出て戦うなんてできっこないよ」

 

 サチは苦笑しながらそう言うが、ケイタは彼女の訴えを仕方なさそうに笑って流した。

 

「大丈夫だって。他のギルドの知り合いにも聞いたけど、盾持ちのタンクが一番致死率が低いんだ」

「でもさー」

 

 言い合うふたりをよそに、キリトは無表情を貫いていた。

 ──無理だろ。

 そんな言葉が喉元まで出かかって、キリトはむりやり飲み込む。

 彼らの戦闘技術はお世辞でも褒められたものじゃないことは実際に確認した。助っ人を頼まれたその足で、キリトは彼らの主要な狩場である三十四層丘陵地帯を訪れたのだ。彼らの実力はどのようなものか、それを判断するために。

 だが一目見てわかった。彼らの実力は良くて中の下。個々人の実力も、彼らの連携も。秀でていると思えるものは何一つなかった。

 キリト自身、自分が強いとは思っていない。けれど攻略組という括りの中にいて、何度もボス戦を経験してきて、戦闘における最低限必要な行動というものは学んできた。それだけに彼らの拙さは目につく。

 攻撃を受けて苦しくなってきた前衛と入れ替われるメンバーがいない、よしんば誰かが交代できたとしてスムーズな交代のためのスイッチ行動ができない、と思えば全く意味のないタイミングでの交代。前衛が前衛としての役割を果たせずズルズルと後ろに追いやられていき、それに焦ることで司令塔であるケイタの指示は支離滅裂に伝達、そのうちに後衛が別のモンスターの索敵範囲に引っかかる。

 正直、よく俺のところに来れたな、と。むしろ感心してしまうほどに彼らの戦闘は危なっかしいものだった。おそらくはコツコツと上げてきたレベル、それにものを言わせてここまで這いあがってきたのだろう。実際、レベルだけで言えば攻略組の下の方とは遜色ない数字だった。

 ──弱小。

 端的にそう言って差し支えないギルドだった。実力が低いことはいい。けれどこの危機感のなさはどうだ。早くもキリトは、助っ人を受け入れたことを後悔しかけていた。

 ──けど、だから、か。

 同時に納得もした。彼らだから、アイツは接触したのだ。御しやすさで言うなら間違いなく上の上。言葉を選ばずに言えば、いいカモだ。鴨がネギ背負って、とはまさにこのことのように思う。

 多少の後ろめたさは感じつつ、キリトは自らの目的でもって後悔を打ち消す。彼らの攻略組入りはそれはそれ、頑張ってもらう以外にキリトにはやりようがないと半ば諦めたように判断を下した。

 

「……トさん、どう思います?」

「……」

「キリトさん?」

「え、あ、すまん。なに?」

 

 押し黙るキリトに、ケイタが呼びかけていた。

 

「サチのコンバートですよ。キリトさんの意見を聞かせてほしい」

 

 ──だから無理だって。

 喉元まで出かかった言葉を、またもキリトは飲み込んだ。

 ケイタがサチをコンバートさせたいという理由はわかる。前衛がいない現状、コンバートさせるなら確かにサチが適役ではある。レベル的には最も低く、それだけスキルの熟練度も低いためにまっさらなところから始めても今とそう大きな差は出ない。

 数値の上なら、ケイタの言うことは至極真っ当で正しいものだ。だが。

 

「だから、急に前出ろって言われてもおっかないって」

 

 サチはそう言う。ケイタがどれだけその不安を取り除こうと言葉を尽くしても、サチの腰は引けている。それが、キリトが無理だと判断する所以だった。

 前衛に必要とされるのは胆力、要するに気持ちだ。敵の攻撃を一身に引き受け、味方に攻撃がいかないよう守ることが仕事。そのためには敵に接近せねばならず、サチにはそれができないだろうとキリトは考えていた。両手槍で中ごろからちくちくと突っつくだけでもおっかなびっくりな彼女にそれ以上を求めるのは無茶が過ぎるというものだ。

 だがそれをたかだか飛び入り助っ人が言ってどうなるというのか、という悩みがキリトの口を噤ませる一因だった。もちろんある程度は考慮に入るんだろう。

 

「だから盾の陰に隠れてるだけでいいんだし、一番安全なんだって。怖がりすぎ」

 

 それでもケイタの発言の隅々から感じ取れる楽観さには、サチ本人の主張すら通じない。ましてキリトの言葉ともなればなおさら通じるはずもない。

 わかっているのだろうか。ケイタの言う《怖がりすぎ》こそ前衛に最も向いていない、ともすれば戦闘にすら向かない性質であることを。最も前にいるということは、それだけ敵の攻撃を受けるということだ。ダメージがどれだけ少なく済むとはいってもそれはそれ、攻撃を受け止める頻度が減るわけじゃない。たとえばこの先のイベントボスがキリトの助力でなんとかなったとしてもその先、敵の攻撃が激しくなる上の層でサチに前衛が務まるのか。

 考えるまでもなく、答えはノーだった。

 

「キリトさん」

 

 口を開かないキリトに不安を覚えたのか、ケイタが顔を覗き込む。その無邪気な動作に、キリトは腹を括った。

 

「俺の意見、だったな。正直に言っていいんだな?」

「はい。忌憚なくというんですか。遠慮はいりません」

「わかった。なら」

 

 さあこい、とでも言うように姿勢を正すケイタ。その後ろで黒猫団のメンバーもキリトに視線を向ける。サチだけがおどおどと下を向いていた。

 キリトは軽く息を吸って。

 長く、言葉を吐き出した。

 

「コンバートの件だけど、俺は無理だと思うね。サチに前衛は向いてない。どれだけ硬くしても攻撃は受けるんだ。それをケイタの言う《怖がり》のサチに務まるとは思えない。前衛が足りないからだれかをコンバートさせようっていうのはわかる。正直、見てた限りサチが役割として浮いていた。それがケイタにもわかったから空いたところにって魂胆なんだろ。それもわかる。たぶんサチがこの中でいちばんレベルが低くて、だからコンバートしても戦力的にガタつかない。言っちゃなんだけど、もともと低かったサチの戦力を上げようとするっていうのは今と変わらないからな。その考えもわかるよ。わかるし、正しい。けど人間、そう上手くパズルみたいに嵌まるものじゃない。無理に押し込めばどこかでサチが壊れるぞ」

「え……」

 

 キリトの言葉が思ってもみなかったのか、ケイタは言葉を失い目を丸くする。その様子にすこしの呵責を覚えつつそれでもキリトは言い放った。

 

「確かに、この世界はゲームだ。ケイタの考えは確かに数値としては真っ当だと思う。けどゲームとして考えちゃダメなんだ。実際に人が死んだのを俺はこの目で何度も見た。見てしまった。一層で死んだふたりは、少なくとも一年のあいだ姿を見てないし生命の碑には横線が引かれたままだ。帰ってこないんだよ。サチにそうなって欲しくはないだろう」

 

 目の前だ。コペルもディアベルも。キリトの目の前で、ポリゴン片に姿を変えた。あの無念を、後悔を。キリトはずっと胸に抱え続けている。

 俺が、怖がったから。

 ベータテスターだなんだという立場を明かすのを俺が怖がったから、代わりに彼らが死んだのだ。

 

「死なないための提案ならいくらでも出せる。俺はベータテスターだ。知識なら他人以上にある。そのうえで言うんだ。サチに前衛はできない。不可能だ」

「キリト……」

 

 サチが安心したように呟く。それにキリトは小さくうなずいて見せた。

 もう二度と、自分のせいで誰かが死んでしまうなどあってはならない。そのためならばキリトは自分の立場などいくらでも明かす。

 だが、それは今のアインクラッドではもうあまり意味のない立場であった。

 

「ベータテスターって。ちょっとレベルが高いってだけじゃなかったっけ?」

「おい、テツオ」

「だってさぁ。《鼠》の攻略本は誰でも手に入れられるんだぜ? 知識って言うならオレだって最新号まで持ってるもん。ジョニーさんからもらったりしてさ。レベル的に厳しかったからアレだけど、おかげでこうして助っ人を呼びに行けたわけだし、大した違いはないんじゃないの?」

「テツオ!」

「いいよ、ケイタ。そのとおりだから」

 

 テツオと呼ばれたメイス使いが言う。ケイタは彼を諌めるが、キリトは彼の言葉に頷いていた。

 このゲームに閉じ込められて一年が経った今、ベータテスターという存在の価値は薄くなった。ベータテスト時のクリア状況に比べて大きく攻略が進み、キリトらベータテスターにもわからない、知らないことが出てきた。対応方法を探るために、全員が同じタイミングで同じように検証を重ねてきた。

 今やベータテスターであるという立場はレベルが他より少し高いことを示すだけにすぎない。そうでない者に比べてスタートダッシュが速かったというだけで、それ以外の差など無くなってしまった。

 ──もしも、最初から。

 キリトは思い浮かんだその言葉を、強く目をつぶることで打ち消す。この一年、何度も反芻した。そのたびに現状が変わるわけじゃないことを確認しただけだ。もしも、なんて考えるだけ無駄だった。

 余計な思考を吐く息とともに外へ追いやる。そう、考えるだけ無駄だ。できないこと、できなかったことは考えるな。自分に出来ることをやればいい。自分が知っていて彼らが知らないことを教えることが、いま出来ることだ。

 

「言ってることは正しいよ。テツオさんの言うとおり、レベルが高いってだけだ。それでも、ベータテスターとそうでないプレイヤーとの間に大きな差はあるんだ。一個だけ、だけど」

 

 このデスゲームに閉じ込められたのが一万人。その中に、ベータテスターは千人。攻略が進むにつれ母数が減り、割合も減った。今や生存者は八千人を下回る。その中でベータテスターともなれば、おそらく五百人より少ないのではないかというのがキリトの予想だった。そしてさらに、その大半が第一層で救助を待つことを選択しているとキリトは考えている。攻略の現場にいるベータテスターはきっと、百人に満たない。

 だからこそ。キリトの言う差は、あまり知れ渡ってはいない。キリトを含めそれを知る全員があまり話題に上らせたくないからというのもあるかもしれない。

 

「それは……経験、ですか。攻略組の最前線にいるからこその」

「まあ、間違いじゃない」

 

 ケイタの問いにキリトはやや曖昧に頷く。

 キリトは自分が周りからどう見られているのかは薄々ながら感じていた。ちらほらと自分につけられた呼称も耳に届いている。それと同じ言葉を、ケイタはキリトに投げかけている。それだけにキリトは、ケイタが受けた《攻略組》という印象がどういうものかを朧げに想像できていた。

 だから、ここではっきりとしておかなければならないとも思う。

《攻略組》と《ベータテスター》の違いを。

 嫌だ、で口をつぐむのはもうおしまいだ。キリトは心を決めた。

 

「確かに、経験だ。でも戦闘回数って話じゃないんだ。ベータテスターだけが経験したのは、ゲーム内での死だよ」

「あ……」

「死んだことがあるって言うとちょっとアレだけど。生命の碑、あるだろ。ベータテストのときは、モンスターにやられてもあそこで復活できたんだ。だから多少の無理はきいたし、だから不慣れな武器だの役割だのでも挑めた」

 

 ちょっと無茶をしてモンスターにやられ、光とともに生命の碑の前に復活する。戦闘でなく純粋にフルダイブを楽しんでいたプレイヤーもいて、彼らの目の前で《自分はやられました》と公言するようなものだった。あの恥ずかしさが、今はどこか懐かしい。それが嫌で、半ばやけっぱちで《はじまりの街》を駆け抜けたものだ。そのくせやっぱり勝てなくて、同じ人たちの前に再び姿を現すのだ。そんな光景は《当たり前》だった。

 今思えば。その感覚があったから、第一層での死者は特に多かったのかもしれない。あの会議の場でエギルが言っていたように、ゲーム感覚が抜けていなかったから。

 そしてきっと。かつてはベータテスターに多かったそれが、今はケイタたちのような中間層のプレイヤーに増えてきた。死ぬことはなくても、攻略情報の共有や前線の緊張感は下のプレイヤーの安定感につながる。どこが安全でどこが危険かがわかると、やがて安全に慣れ、少しずつ緊張感が抜けていくのだ。

 

「でも、それじゃダメなんだよ。痛い怖いは危険信号だ。必要だからあるんだ。痛いって感覚がシステムで抑えられてる以上、せめて《怖い》って感覚だけは無視しちゃいけない。いずれ怖くなくなるとか盾があるから大丈夫、なんて慣れや気休めで進んでいいもんじゃないんだ」

 

 サチの言う《怖い》という感覚。それは危険を知らせる本能だ。絶対に無視してはならない。

 キリトは一にも二にも、それだけを訴える。

 果たしてそれは、彼ら《月夜の黒猫団》に大きく響いたようだった。テツオは黙り込み、黙って後ろで聞いていたシーフとポールアーム使いの二人はサチに視線を向けていた。サチは変わらずおどおどとしてはいたが、顔は少しだけ上向いていた。

 だが──それでも。キリトの言葉はあくまでも、彼らを揺らしただけだった。

 

「……でも、それじゃあ」

 

 眉を険しく寄せたケイタが口を開く。

 

「それじゃあ、ジョニーさんの言うことと違いませんか」

「そうだ、そうだよ」

 

 ケイタの言葉に、テツオがハッとしたように続く。

 

「ジョニーさんが教えてくれたのとアンタが言ってるの、真逆だぜ。あの人がアンタを紹介したんだ、どっちも間違いじゃないんだろうけどさ」

「……何を、言われたんだ」

 

 ちらほらと彼らの口からその名前が出るたび、キリトはわずかに構えてしまう。

 あの日、あの後。ユウキからその名前は聞いていた。あの時、彼の動きを止めていたことも。そのせいで彼の救助が間に合わなかったのだという真相も。

 いつの間にか扉の向こうにいたアイツの、下卑た笑みは今も目をつぶれば思い出せる。

 あの男が、情報屋をやっていた。しかも話に聞く限り、黒猫団はかなりの信頼を置いているように聞こえる。

 キリトの低い問いかけに、テツオに始まり、サチを除く黒猫団のメンバーは口々に答えた。

 

「死なないために必要なのは硬さだって。あの血盟騎士団の団長がそうで、でっかい盾に守ってもらってるから一度もHPを黄色にしたことないらしいじゃん」

「怖いからこそ、さらに自分を守ろうとするのが人間だ、とも言ってました。そういう意味で、サチは適任だと」

「前衛が足りないってのはふたりとも同じみたいですけど。な、ササマル」

「そうそう。それで、サチのための盾を手に入れるならイベントボスの報酬が今は手っ取り早いってことも教えてくれたな。なんなら特別報酬のやつだって、一回までなら死ねるお守りだって」

「あー言ってた言ってた。でもそれはキリトさんに渡す報酬ってことでで落ち着いたろ、ダッカ―」

「そうだけど、でも確かにそう言ってたろ。オレはなるほどなって思ったけど」

「まあ、それはおれもそうなんだけど」

 

 わいわいと四人が話を進めていくたび、サチはまたも少しずつ俯いていく。《ジョニーさん》はサチの前衛コンバート案に肯定派だったようだった。黒猫団はその言い分にも一理あると受け入れているし、キリト自身も聞く限りでは決して間違っていないと思えてしまった。

 しかしそれでも、サチの様子は無視できるものではない。

 深入りはしないようにしていた。あくまでも助っ人として、同行するだけのつもりだった。

 

「……月夜の黒猫団は、攻略組に入りたいんだったな?」

「はい」

「おう」

 

 再びのキリトの低い問いかけに、ケイタとテツオが答える。軽装のシーフであるササマルも、長物のポールアームを扱うダッカ―も、はっきりと頷く。サチだけがうつむいたまま。

 ──見ていられない。

 どっちが正しいとか、どちらかの言い分に従えとか、そんなことは言わない。そうして抑えつけたって、おそらくは黒猫団の全員が納得する答えにはならない。

 今、はっきりとわかった。彼らに足りないのは危機感だ。

 攻略本の知識でキリトがいるような上層もなんとかなってしまった。攻略済みのエリアにいた彼らは安全に慣れてしまい、攻略組にあこがれることができるほど心に余裕が、いいや、心に隙ができてしまっている。蘇生アイテムをお守り感覚に捉え、《一度までなら死ねる》なんて噂でしかないものを鵜呑みにするなんて危険すぎる。

 だが今の彼らはおそらく止まらない。というより、止められないだろう。

 彼らの危機感が足りないのは、翻せば平和的、素直であるということだ。どうやらキリトの言ったことをきちんと受け止めてくれている。それだけに、《ジョニーさん》の言葉も無視できず戸惑っているのだ。

 言葉で戸惑うなら。

 残るは行動で、決めてもらうしかない。

 

「じゃあ、ひとつだけ約束してほしい。最悪、これさえ守ってくれるならそれを助っ人の報酬にする」

 

 だからせめて。

 心に決めた自分の《芯》は、貫かせてもらう。

 

「危ないと思ったら逃げること。攻略組に入るとか、そのためにサチが前に行くのかそのままなのか、それは任せる。でも、死んだらおしまいだから。だから、危ないと思ったら逃げてくれ。俺が全力で援護する」

「キリトさん……わかりました」

 

 ひょっとしたら。キリトがずっと警戒している《ジョニーさん》はキリトが思う人物とは別人の可能性もある。短剣という装備と名前はキリトの持つ情報と合致するが、情報屋とは初耳だ。もしも別人なのだとすれば、取り越し苦労ということもあるかもしれない。あるいは《ジョニーさん》には《ジョニーさん》なりの深い考えがあってサチの前衛案を出していることだってあり得る。

 だから、ひとまずはこれでいい。仮にイベントをクリアできれば、それはそれで彼らの戦力増加にもつながるのだから。

 彼らが頷くのを見て、キリトも頷く。

 ──そういえば。

 

「なぁ、ケイタ。ボスの出現場所はわかるのか?」

「あ、はい。といっても僕らは何も知りません。ジョニーさんが案内してくれることになってるので、待ち合わせます」

「場所は?」

「三十五層の、《迷いの森》です」

 

 

 

 

 

 

 

「よおよお、にいちゃん。聞いたぜ、ひとりでイベントのボスに挑もうって言うんだって? いいねえ、その心意気。気に入ったぜ。そんなにいちゃんに耳寄りの情報だ。絶対じゃない、あくまでも《かもしれない》だ。だからお金はいらんぜ。ただ、合ってたら教えたのはオレだってことは覚えてて欲しいね。──まあそんな急かすなって。あのな、イベントボスの出現場所がわかったかもしれねえんだ。さっきも言ったとおり絶対じゃない。けど、だからいろんな人に話しちまってる。早い者勝ちって話だが、信じるかどうかはにいちゃん次第だぜ。……ああ、それで場所だがな。三十五層の《迷いの森》だ。奥まで行く方法知ってるか? オレはたまたまだったんだけどよ、そこででっけえ木がぽつんと一本生えてるとこがあったんだよ。怪しいだろ? な。けど、だからこそだぜ。ああ、だから金はいいって。その代わり、もし合ってたら今後はご贔屓にしてくれると嬉しいね。まだ情報屋を始めたばかりでよ、とりあえず名前を売ってるところなんだ。え、オレの名前? そうか、自己紹介してなかったか」

 

 ──ジョニーだ。よろしくな。



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Nahat-1

「よろしくお願いします」

「おう、こちらこそや」

 

 アスナとキバオウがお互いに頭を下げる。その後ろでキバオウが引き抜いた軍のメンバーとアスナについてきた血盟騎士団のメンバーがそれぞれ同じように挨拶を交わした。

 三十五層、ミーシェ。レンガ作りの小屋が立ち並び、木の柵の向こうで動物が草を食む光景がそこかしこで見られる。夜になれば動物たちは寝静まり、代わりに鳥の鳴く声が細く聞こえる。まさに牧歌的という言葉がふさわしいエリアに、今夜はがしゃがしゃと金属の擦れる音があった。

 血盟騎士団から、アスナを含めて十人。軍から、キバオウ含めて十二人。ユウキとユナを合わせて四つのパーティを組めるだけの人数が集まっていた。

 

「お嬢からあんまし期待すなとは言われとったが……なんや、聖騎士はんは乗り気じゃないんか」

「そうみたいです。夢を見るのは構わないがそれは個人で見るものだ、と。ギルドとしては動かない方針ですね」

「現実主義というかなんというか。まあボス戦のためだけに組んだっちゅうことなんやろな」

 

 血盟騎士団のギルド規模はアインクラッド全体で見れば五指に入るかどうかというところである。それでもキバオウの言うとおりボス戦のために結成したギルドだからなのか、戦力という観点で言えば間違いなくナンバーワン。今回のイベントにも参加すればさらなる戦力強化は見込めるやろうに、とキバオウは言う。

 実際、ユウキたちに助っ人依頼が殺到したあの日にアスナはヒースクリフに進言していた。ユナからの依頼をこなすという意味でも人手は欲しいからと。

 だがヒースクリフはそれを見越していたかのように、呼び出したアスナを部屋に入れるや否や言ったのだ。

 

『イベント参加は好きにするといい。だが、個人での参加のみ認める。このゲームの目標はゲームクリアであり、私がこのギルドを立ち上げたのもそのためだからだ』

 

 祭りに上司と部下を連れていっても息苦しかろう、と苦笑しているのを見て、アスナは何も言えなかった。ただなんとなく言わんとすることはわかったし、個人での参加は咎めないということだったから呼べる範囲でアスナは声を掛けたのだった。……後でユウキたちの身に起きた騒動を聞いて、やっぱりそういうことも起きるのだとアスナは苦笑した。

 

「最悪、クラインさんのとこに混ぜてもらおうかなって思ってたんだけど。アルゴさんと一緒に別行動だって?」

「なんか気になることがあるんだって。エギルも一緒。ボクは依頼に集中していいってさ」

「ふうん? その内容はわかんないの?」

「うん。まあアルゴのほうもボクの依頼の内容は知らないみたいだから。なんて言うの、つりあい? が取れてるってことじゃないかな」

 

 分担作業ということだろう、とユウキは思う。確かシュウもそうやってアルゴと作業を分けていた。それと同じことだ。あのときも、アルゴのほうで気になることがあるからといった理由での別行動だったと聞いた覚えがある。

 

「そういうわけで、ユナ。とりあえずこのメンバーでボスのとこ知ってそうなひとを追いかけるって感じだけど、いいかな」

 

 キバオウが軍で聞いた情報をもとに割り出した確実性の高いワードはふたつ。《ジョニー》、そして《迷いの森》。

《迷いの森》とは数百の小さなエリアが連なる巨大な森である。アスナたちもキバオウたちも、この場所は広大かつ複雑すぎて手を出していない。確かに、フラグモブが出るという巨木があるとして、ここならば納得はできるとふたりも頷いた。

 しかしエリアの接続はある程度ランダマイズされている。一定の期間以上同じエリアに滞在した場合、次のエリアがどこに繋がるのかわからなくなってしまうことに加えて、モンスターが湧き足止めを食らったり、そもそも時間制限が設定されていない場所もあるのだ。最悪の場合、ここにモミの木がなかったとしたらとんだ骨折り損となる。

 そこで《ジョニー》というプレイヤーを追う。なにか法則に気づいたのか、あるいは抜け道を見つけたのか。彼はいくつかのギルドに声をかけ、その全員にこの場所を示したのだという。

 少なくともアルゴからは蘇生アイテム以上の情報はない。現状ボスにつながるかもしれない情報となるのはこれだけだ。もしかしたら無駄足かもしれない。だがユナは、そんなユウキの確認に迷うことなく頷いた。

 

「うん、大丈夫」

 

 ノーチラスのため──ではないかもしれない。ユウキとアスナには話したが、キバオウにはさすがに依頼は出していないし、三日前のときにちらりとユウキから聞いた限りではキバオウにも目的があると聞いている。

 けれど少なくとも打倒フラグモブを掲げているらしいし、利害は一致している。そういう意味ではこれ以上ない援軍だとユナは思う。

 血盟騎士団の副長、軍の双璧のひとり、そして攻略組の遊撃士。

 もちろん数としては不安があるだろうが、それを補ってあまりある安心感がある。ユナは、これでダメなら仕方ないと、諦めがつくと思えた。

 

「よろしくお願いします」

 

 ユナがぺこりと頭を下げる。

 途端に、集まったメンバー、特に軍から大きな返事があがった。

 

「やかましゃあ! お前ら、ウタちゃんにお嬢に閃光がおるからって舞いあがっとんちゃうぞ! 目的はイベント報酬やろ、忘れんなよ!」

「そう言っていちばん嬉しいくせに」

「なんっ──ええから行くで! 《迷いの森》や!」

 

 軍のひとりからの茶々に一瞬口籠もったキバオウは、さっと身を翻して町の外へ歩いて行ってしまう。それにやれやれと苦笑しながら軍が、そして血盟騎士団とユウキたちが続いていく。

 ──そして見つけたのは、

 

「あれ、キリトくん……?」

 

 背中に片手剣を背負った黒衣の剣士と数人の男女、そして。

 

「あいつやな。《ジョニー》……!」

 

 顔は確認できなかった。頭が頭陀袋のような黒い布で覆われていて、目の部分だけがくり抜かれている。だがキリトの体格よりやや小柄なことと、ここで誰かを──この場合はキリトたちを待ち構えていたことで符号は一致する。

 キリトを除く男女はまるで旧知の友人に会うかのように表情を和らげ、ジョニーも歓迎するように両手を広げた。そうして離れて見ていたユウキたちには気づく様子もなく、合流を果たした彼らは《迷いの森》へ足を踏み入れる。

 

「……行こう」

 

 姿が消えたのを確認して、ユウキたちも動いた。《追跡》スキルを持つ者たちが足跡を確認しながら先導する。

 雪が静かに降り始めていた。

 

 

 

 

 

 

「いやぁ、まさかマジで鬼を連れてくるとはなぁ。驚きだ」

 

 月夜の黒猫団を先導するジョニーが歩きながら振り向く。これまで何度も道を確認するために往復していたらしく、前など見なくてもある程度は覚えてしまったという。

 頭陀袋の穴から覗く一対の眼がまっすぐに、集団の最後尾を歩くキリトを見つめていた。

 

「ええ、僕も驚きました。まさか頷いてくれるとは。でもジョニーさんのおかげでもあるんですよ」

「あ? なんで?」

 

 黒猫団の先頭を歩くケイタがにこやかに笑う。

 

「もしかしたら知り合いかも、って言ってたじゃないですか。マッピングの疲れがあったのか、あのときは荒れているようで怖かったんですけど、ジョニーさんの名前を出したら頷いてくれて」

「ふーん」

 

 ケイタを一瞥し、すぐにジョニーの目は再びキリトに戻る。目の部分がくり抜かれた特殊な形をしているからか、その部分がやけに光って見えた。

 

「どういう知り合いなんですか? ……って、それはマナー違反ですかね」

 

 ケイタが笑いながら投げた質問を取りやめる。だがジョニーは気にすることなくさらりと答えた。

 

「追い追われる関係だな。鬼ごっこみてえな」

 

 言って、くつくつと笑う。キリトの眉間に皺が寄り、ジョニーはより楽しげに笑みを深めた。

 ──なにが鬼ごっこだ。キリトはそう言いたくなるのをぐっとこらえる。

 

「弱みってわけじゃねえけどな、あいつが欲しがってるネタを持ってんだ。けどまだあいつが支払えるだけの対価がない」

「そうなんですか。あれ、でもこの道案内は」

「また別だ。これはお前らに情報屋としてのオレを知ってもらうためのものだからな」

「なるほど」

 

 ケイタは納得したように引き下がり、この話題を途切らせた。そういうことだ、とジョニーも楽しげに笑って別の話題に花を咲かせる。列の最後尾で、キリトは変わらず顔を顰めていた。

 ──俺が欲しいネタ。

 それにキリトは見当がついていた。おそらくは一年もの間、姿を見せない《彼》のこと。キリトだって探していないわけではなかった。ただ──ただ、あのときなぜ彼がそうしたのかがわからなかったから、探すこと以上に思考に没頭するためにとにかく体を動かしていたのだ。

 あわよくば、一層のときのように。自分の居場所を示すことで会いにきてくれることも期待して。……今のところ、成果という成果はゲームが進んだという以外にないけれど。

 だがようやく見つけた。《彼》への道筋を。それがジョニーだった。最初こそ同名の別プレイヤーという可能性も考えていたが、今の話でそれは消えた。あいつが、あいつこそがあの時の《ジョニー》だと確信を持って言える。

 声、口調、体型。装備こそ異なれど短剣という武器種。記憶と一致する。そしてそのジョニーはキリトの欲しがる情報を持っている、らしい。

 初対面──あるいは二回目でそんな、情報の先回りをすることができるのはキリトの知る限りではアルゴだけ。だから彼女は《鼠》として名を馳せたわけで、それができるならジョニーももっと有名であっていい。だがそうでないということは。

 目の前の男が、あの時のジョニーであるということだ。

 

「キリト?」

「っ、あ、ああ、なんだ、サチ」

 

 隣を歩いていたサチが覗き込んできていた。心配そうに眉をひそめている。

 

「ここ、ぎゅーってなってるよ」

 

 言いながら、サチは自分の眉間に指をあてる。

 

「考えごと?」

「……ん、そんな感じ」

「ふふ、同じだね。私も」

 

 サチは困ったように、それでいて少しだけ嬉しそうに笑って、左手につけた盾の位置をなおした。

 黒猫団の戦術──すなわちサチの立ち位置。これはひとまず前衛に立つことで落ち着いた。まだ試して日が浅く、現状前衛をフォローするプレイヤーにキリトがいるということを鑑みて、ケイタは道中に限りもう少し試そうと結論を出した。加えて、ジョニーも合流している。サチを前衛にと勧めた本人がいるのなら、なにかしらアドバイスをもらえるだろうと期待してのことでもあった。

 

「とりあえず練習ってことでボス戦以外は前になったけど、やっぱり怖いのは怖いね。緊張する」

「まあ……できるだけフォローはするよ」

「うん、頼りにしてる。……ふふ」

 

 キリトの言葉に頷くと、サチはくすりと笑う。

 

「なんか、あれだね。キリトって、鬼って呼ばれてるけど実際はそんな感じしないよね」

「そう、か?」

「うん。鬼みたいに強いのかもしれないけど、優しいよ」

 

 サチはそれだけ言ってテツオやダッカーたちの会話に混じる。その背中に、聞こえるか聞こえないかの小さな声で。

 

「……青鬼がいたんだ。赤鬼はもう泣いてられないんだよ」

 

 それだけを呟いて、キリトは思考を切り替えた。

 もちろんジョニーのことは捨て置けないが、今はそれ以上に彼らのこと。レベル的に手放しで安心とまでいかない場所で、彼らは新たな戦術を試そうというのだ。一瞬でも気を抜く余裕などない。最悪、待っているのは死だ。そうならないために自分がいるのだし、そういう契約を交わしている。集中しなければ。

 そうして気持ちを切り替えたとき。すぐ横の茂みががさがさと荒立つ。

 

「ケイタ!」

「は、はい!」

 

 キリトが叫ぶ。飛び出したのは猿型モンスター《ドランクエイプ》だった。二匹の猿人は獲物を見つけた喜びにふるえて雄叫びをあげている。

 

「サチ、前! キリトさん頼みます! ジョニーさんは下がってください!」

「言われなくても下がってるぜぃ」

 

 ケイタがすぐさま指示を飛ばす。ジョニーと入れ替わるようにして、キリトは素早く前に出た。

 

「サチ」

「う、うん」

 

 怯えて足を止めていたサチの背にキリトは手をやる。

 

「動きをよく見て。怖いかもだけど、目は瞑っちゃダメだ」

 

 これまでに何度も教えていたことを改めて告げる。いくら盾があるとはいえ、目を逸らしてしまうと敵の攻撃を受けきれないことがある。体全体を隠せるような大きな盾ならともかく、サチの盾は小手につけられるような小さなものだ。相手の動きに合わせて盾の位置を変えなければならない。そのためには目を逸らしてはならないのだ。

 

「……キリト」

 

 サチの背中に添えた手が押される。ドランクエイプは猿というよりゴリラに近い。猿人とも呼ばれるだけあって、より人型に近く、それでいて野生を感じさせる巨躯。キリトは決して小柄ではないが、それでも頭ふたつから三つは大きい。サチにしてみれば、見上げるというだけでじゅうぶんに怖いのだろう。

 だが約束したのだ。絶対に死なせないと。

 

「大丈夫」

 

 笑ってみせて、キリトは少しだけ背中を押す。サチは腹を括ったように頷いて、踏み出し、盾を構える。茂みから身を乗り出してきた二匹のうちの一匹が、その目にサチを捉えていた。

 ドランクエイプは攻撃力は高いが使用するスキルは低級のもの。手に持った棍棒を振り上げ、振り下ろす、この動作がほとんどだ。キリトが言うように目を逸らしさえしなければ──。

 

「っ!」

 

 左腕に衝撃。瞬間、思わず目を閉じてしまう。それでも後ろに倒れそうになるのは辛うじて堪えた。

 弾きあって開いた間合いに、ササマルとテツオがすかさず割り込む。ふたりの燐光を無防備に受けたドランクエイプの悲鳴が上がる。そうして怯んだところへ、トドメにケイタとササマルが斬りつけた。四人の攻撃をまともに受けたドランクエイプはなす術なくポリゴン片に姿を変えた。

 一瞬のことだった。

 だからだろうか。何が起きたのかよくわからなくて、サチは呆然としていた。

 ……これで、いいのだろうか。

 

「完璧だよ、サチ! できてるできてる!」

「え、っと」

「なんだよやればできんじゃん。次も頼むぜ、サチ!」

「わっ」

 

 けれど周りで黒猫団のみんなが喜んでいるのを見て、前衛としての仕事をまずはこなせたのだということは伝わってくる。

 遅れて響くガラスの割れる音。見れば、さすがというべきかキリトはひとりでもう一匹のドランクエイプを倒していた。けれどそれを気にする様子もなく、キリトもサチを見ている。その口元には、安堵のような笑み。

 ──あれ。

 鼓動が高鳴った気がした。思わずサチは目を逸らす。

 上手くいったことを報告したかったのに、出来ない。どうしてかキリトの顔が見れなかった。

 

「……へぇ、様になってんじゃん」

 

 ジョニーが拍手をしながら歩いてくる。

 

「まだ初めてですけど、それにしても上手く出来たかなとは思いますね。キリトさんにいろいろ教えてもらってもいますから」

「あ、そうなん? てっきり反対するとばかり思ってたけど」

 

 ケイタの言葉にジョニーがキリトを見る。やや渋い顔をしながらも、キリトは頷いた。

 

「今でも反対だよ。でもお前はこの形を推すんだろ」

「そりゃな。身の安全ならこれが一番だもんよ。なんだ、オレのアイディア受け入れてくれんの?」

「違う。……やってみてダメなら納得できるだろ」

「あ、ひでえ。わざわざ危険なことさせてんの?」

「そういうわけじゃない」

 

 軽口をたたくジョニーをキリトは睨みつける。肩をすくめたジョニーは冗談だよと笑った。

 

「けど、なんだかんだ安全だったろ? ちゃんと一発受けられれば、あとは叩きまくるだけだからな。そういう意味でもガチガチに堅めておくのは有効だとオレは思うけど」

「相手が1体ならな。増えたら危ない。……サチのこと見てたか。目、つぶってた」

「そうだったか?」

 

 まるで気にする素振りを見せず、ジョニーは黒猫団に声をかけにいった。

 初戦が上手くいった高揚からか、そのあとも彼らの作戦に変更はなかった。サチが受け、四人が叩く。それを繰り返していく。道を進んでいき、何度か敵モンスターと刃を交える。そのたびにキリトは彼らが一体に集中できるように複数のモンスターを引き受けた。ボスは一体だ。時間はない。ならば可能な限りその状況に特化させておいたほうがいい、というのがジョニーの助言を受けたケイタからのお達しだった。

 キリトはそれでいいとは思ってはいなかった。サチの様子は芳しくない。けれど彼ら黒猫団は一戦を終えるたびに喝采をあげて喜ぶのだ。その様子にわざわざ水を差すのはためらわれて、口を閉ざすしかなくなる。

 それに言ってしまったのだ。任せる、と。それが余計にキリトの口をふさいでしまっていた。

 そんなキリトの葛藤を知ってか知らずか、ジョニーは先へ先へ進んでいく。黒猫団は彼についていく。

 ──結局、サチが目を瞑らずに戦えることはなかった。

 

 

 

 

 

 

「キリトもボス倒しに来たのかな」

 

 ユウキが隠れている木陰から顔だけを出してつぶやく。隣にはユナ。足元にアスナがしゃがみ、少し離れたところにキバオウたちが同じように散らばって身を隠していた。

 今のところ尾行は順調だった。付かず離れず、ジョニーたちにはバレない距離を保っている。残りの道のりがどの程度なのかはわからないが、このままの調子でいけば見つかることはないだろう。

 

「もしそうだとして、よ。じゃあ一緒にいるのは?」

「さあ」

 

 アスナの問いに対する答えをユウキは持っていない。素直に首を横に振った。

 もしも生き返らせたいプレイヤーがいて、蘇生アイテムを狙っているのだとして。キリトならそれこそひとりでボスを倒しそうな気はした。実際、レベルだけなら攻略組でも群を抜いて高い。現実としてソロ撃破は可能だろう。

 だがそうはしていない。そのことがまずユウキにもアスナにも引っかかっていた。

 

「キリト、っていうとたしか《攻略の鬼》って呼ばれてるひとだよね。ギルド入ってたんだ」

 

 ユナがユウキと同じように顔を覗かせる。顔は知らずとも名前がわかるのはそれだけ多く知れ渡っているということだろう。

 だが所属するギルドの情報に関しては、よく顔を合わせる機会のあるユウキやアスナでも知らないものだった。

 

「そんな話も聞いてないわね」

「うん。アスナのお誘いはいつも断られてるけど」

「ちょっとユウキ」

 

 それは戦力としては最高だもの、団長とふたり揃ったら負けなしでしょ、とアスナは言う。ユウキはそれを聞き流しながらじっと先を行く彼らを見つめる。

 

「やっぱ色なのかな。白は嫌だって言ってたし」

「色の問題なの?」

 

 彼らのギルドシンボルは三日月と猫。おそらくは黒猫だろう。夜を想起させる組み合わせは確かに、ユウキのイメージするキリトに当てはまる気はする。少なくとも、血盟騎士団の白よりは。

 だが、しかし。それでもキリトがあのギルドに入ったというにはちぐはぐなところが目立つようにユウキには見えた。

 

「助っ人、とか。ほら、私もユウキもあったじゃない。キリトさんも強いのは私だって知ってるし」

 

 ユナの言葉に、ならばとアスナは頷く。

 

「それなら納得できなくはない……けど、それにしても、よ。蘇生アイテムは誰だって欲しいけど、じゃあそれでキリトくんがあのギルドに決めた理由がわからないじゃない? 見た感じ、けっこう綱渡りだもの。無茶とは言わないけど、厳しいのはキリトくんにもわかるはずよ」

 

 アスナは攻略組の参謀でもある。作戦の立案は基本的に彼女だ。その目線からみれば、彼らとキリトとのレベル差はかなり開いているという。

 明らかなのは戦力差。キリトひとりで倒せるドランクエイプを彼らは五人がかりだ。いくらなんでも差がありすぎるというのはユウキにもわかった。

 そうなると、残る気がかりは──ジョニーの存在。装備は全て見覚えのないものに身を包み、ほとんど肌を見せていないあのプレイヤーの名前とその所作がユウキはひどく気になっていた。

 ──似ている。

 どこが、という細かい部分はわからない。だが纏う雰囲気は明らかに覚えのあるもの。まして名前はそのままズバリのものだ。まさか、という思いがずっと頭の片隅にちらついていた。

 

「やっぱり……あのひと、かな」

「たぶん」

 

 確証はない。あのギルドのシンボルを見たわけではなく、顔が見えたわけでもなく。あの時の男だと確信を持って言えない。けれど見て取れる所作やそのままの名前が警戒を促していた。

 

「ユナ。ボクたちが初めて会ったときの、割り込んできたっていうひと。あのひとかな」

「……かも、しれない、けど。違うかもわかんない。ごめんね、けっこう気にして見てたんだけど、装備が違ったり顔見えなかったりして自信ない」

 

 ユナもユウキもアスナも、確証は持てないでいた。それでも普段のユウキが手伝っているような人探しならば突撃していたが、今回ばかりは話が違うとアスナから事前に言われている。

 違っていれば、それでいい。だがもしも合っていた場合──奴がジョニー・ブラックであった場合が怖い。オレンジプレイヤーは何をしてくるかわからないのだ。

 なおかつ、道を知っているのはジョニーだけだ。もしも途中で案内を放棄された場合、目的地にたどり着けなくなる可能性だってある。それではユナの依頼を達成できない。

 だから彼らの前に姿を現すわけにはいかなかった。

 

「ってことは、アスナ」

「うん。引き続き尾行。もしそう(・・)だったときのために、いつでもいける準備を。とりあえず道中だけなら、キリトくんだけでもなんとかなるでしょうけど」

 

 アスナがキバオウたちにメッセージを飛ばすのを横目に見ながら、ユウキはジョニーと名乗る男に視線を向ける。

 頭陀袋から覗く口元が、軽薄に笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

「さて、この次かな。次のエリアが終点だ。広場になってて、ボスの直前の場所ってことになる。その先の道は固定されてるから、そしたらオレの道案内も終わりだ」

 

 いくつものエリアを過ぎてしばらく。月夜の黒猫団を先導していたジョニーが振り返って言った。

 

「どうだ、新しいカタチは慣れてきたか?」

 

 前衛にサチを置く新たな戦術は今のところ負けなしだった。サチの盾の扱いからは少しずつぎこちなさが消えてきている。他の面々もここまでほとんどダメージを受けることはなく、余裕の表情を浮かべていた。

 

「そうですね、かなりいい感じかと。レベルも上がりましたし。やってよかったです。ありがとうございます、ジョニーさん」

「いいって、オレは提案しただけだ。採用したのはお前らだろ」

「それでもですよ」

 

 列になった先頭で、ジョニーとケイタが会話に華を咲かせている。それにつられるようにして他のメンバーも笑顔になっていた。

 唯一、サチを除いては。

 

「……大丈夫か」

 

 キリトが小声で、サチにだけ聞こえるように呟く。これまでも俯きがちだったサチだったが、今は特に暗い顔をしている。キリトの声にサチはふるふると首を横に振った。

 だろうな、とキリトは言葉には出さず嘆息した。ここまで何度もモンスターと鉢合わせた。そのたびにサチが前に出たわけだが、結局なにも変化はなかったのだ。前に出るという動作そのものには多少慣れたのだろうが、それでも攻撃を盾で受けるときに目を瞑ってしまっていた。しかもその直後に四人がかりの攻撃でモンスターが倒されてしまうのではサチ自身が戦闘をしているという感覚を得ることもない。治るものも治らない、とキリとは再び嘆息した。

 

「……まあ、それもここまでだから。ここを乗り切って次のとこに行ったら、さすがに俺からも言うよ。ボスにまで新しい要素を試すわけにはいかないしな……っ!?」

 

 サチからの返事はない。代わりに、キリトの手に小さな手が絡められた。

 

「サ、サチ?」

 

 戸惑うキリト。サチからは相変わらず返事がない。慣れない感触にどぎまぎする。

 だがその手が微かに震えているのに気付いた。

 

「……怖い?」

 

 聞くと、こく、とサチが小さく頷く。そうしてサチの手を握る力が少しだけ強まる。

 ドランクエイプの振り下ろす腕が、木に模倣したモンスターのしなる枝が、巨大なコウモリの鋭い牙が。サチの脳裏に鮮明に焼き付いていた。思い出すたびに足がすくむ。この後、さらに強いモンスターに挑むのだと思うと足が動かなくなる。

 

「……すごく、怖い。けど、さっき背中を押してくれたキリトの手を思い出すと、なんでか頑張れるの。頑張りたい、って思える。だから少しだけ」

 

 サチはそう言いながら微かにその手に力を込める。

 

「勇気を、ちょうだい」

 

 消えそうな声だった。まるで今にも本当に消えてしまいそうな。その感覚が、キリトの背すじに冷たいものを這わせた。

 目の前で。それはあのときを彷彿とさせる。あの情景は今でも鮮明に思い出せるのだ。二度とあんな思いはしたくない。

 ──絶対に、守ってみせる。

 ひとまずはボス戦について。前衛は全て請け負うからとサチを後ろに退かせる。

 キリトは返事の代わりに、サチの手を強く握り返した。

 

「よし、それじゃあ行くか」

 

 ジョニーに続いて黒猫団は最後のエリアへと踏み出す。慌てて手を離し、促すようにサチの背中を押してキリトが最後にエリアの境界線を越える。

 そして次の瞬間──後ろから頭を殴られた。

 

「キリト!」

 

 サチの声が聞こえる。絶えず名前を呼んでいた。おかげで気を失うことはなかった。

 

「キリト、キリト!」

「う……サ、チ……?」

 

 頭が揺れている。焦点が定まらない。膝をついていた。

 強すぎる痛みはシステムが緩和することで衝撃だけが残る。その感覚はただただ気持ちの悪いものだ。えずきそうになるのをぐっとこらえた。

 

「おー、さすが鬼。打たれ強さは抜群だな。いや、アレが弱いのか。まあどっちでもいいや」

「っ!」

「ジョ、ジョニーさん?」

 

 髪をつかまれ、無理やり持ち上げられる。サチの驚く声には見向きもせず、ジョニーはキリトの顔を覗き込んだ。頭陀袋から覗く目が三日月のように歪んでいた。

 

「よお、鬼。久しぶりだな。オレだよ。ジョニーだ」

「え、うわ、なんですかあなたたちは!」

 

 ケイタが声を上げる。揺れる視界が徐々に焦点を合わせていく。目の前に五人のプレイヤーが立っていた。黒猫団の見る方向がキリト側──その向こうにまでいっていることからうしろにもいることがわかる。もちろん横にもいるのだろう。黒猫団は囲まれている。

 そしてそのほとんどが──頭上のカーソルをオレンジ色に染めていた。

 

「な……なんで、オレンジがこんなに……ジョニーさん」

「懐かしいぜえ、もう一年前か。お前が泣きべそかいてボス倒したんだったな?」

 

 テツオの声を無視してジョニーはさらに笑みを深める。

 

「傑作だったな、あの水色のやつ。あんな見事に自滅するやつなんてあれ以来見てないぜ。最高かよ」

「……っ」

「おっとっと」

 

 キリトの手刀が燐光とともに振るわれる。が、ジョニーはキリトを投げ捨てるようにしてそれを避けた。

 そしてオレンジプレイヤーたちを背に、気だるげに立つ。まるで彼らを従えているかのように。

 

「ジョ、ジョニーさん……? どういう、ことですか」

 

 ケイタが震える声で問う。対してジョニーは鼻で笑った。

 

「言ったろ、道案内は終わりだ。ここが終点だよ」

「え、でも、モミの木は……」

「ねえよそんなもん。目ぇついてるか?」

 

 広場ではある。だがフラグポイントの特徴であるはずの巨大なモミの木はどこにもない。踏み荒らされた一面の雪から土が微かに覗いている。

 

「え……っ、と。どういう、ことですか。まさか、ジョニーさんが嘘をついていた、とか」

 

 ケイタがハッとする。それにジョニーは満足げに頷いた。

 

「おう、素直でよろしいぜ。よくここまでホイホイついてきた。褒美に自己紹介をしてやろう」

 

 言いながら、ジョニーは左の手袋を外す。そこにはギルドのシンボルがあった。

 

「《笑う棺桶》、ジョニー・ブラック。武器は短剣。趣味はゲームだ。ようこそバカども。逃げきれたら生かしてやるよ」

 

 いつの間にか抜いた短剣を左手でもてあそぶ。宙で回る刀身が鈍く闇を反射する。

 

「鬼ごっこだ。これが落ちたら始めるぜ」

 

 まるでコイントスのようにジョニーは短剣を放る。オレンジたちが武器を抜く。

 

「──イッツ・ショウタイム!」

 

 そして剣が地に刺さった。

 



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Nahat-2

《迷いの森》は白く照らされていた。

 夜の闇に雪が浮かび上がり、頭上が枝に覆われていない部分が道のように続いている。

 その白を、ノーチラスは辿っていた。

 

『明るいんだよ、ずっと。たぶん空が見えるところをずっと歩くんだ。そうすると広いエリアに出る。その奥に、一本のでっけえ木があるんだ。オレはそこが怪しいと睨んでる』

 

 雪を踏みしめる音だけがしていた。風も木も獣も息を潜めている。稀に遠いどこかで重みに耐えられなかった枝が雪を落とす音がするだけで、まるで生き物の気配がしない。圏内ではないはずだが、モンスターの一匹にすら鉢合わせることはなかった。

 当たり、ということなのだろうか。雪の道はずっと枝分かれも途切れもなく曲がりくねりながら続いている。

 ジョニーという男からの情報をまるきり信じたわけではない。だがイベントボスに繋がる情報はこれしか入手できなかった。狩場と拠点の往復をする合間を縫ってできる限り情報収集はしたが、開催と報酬に関するもの以外にめぼしい情報は手に入れることができなかったのだ。

 急に現れ早々に消えたあの男。その声に、ノーチラスは聞き覚えがあった。忘れもしないあの乱入。部屋にあったアイテム類の全てを奪われたが、結果として命は繋がれた。まるで馬鹿にしたようなあの口調、囮にされたのだと気づいたときにはひどく憤ったが、それ以上に自分の無力さを呪った。

 

 ──罠でもいい。

 

 囮にされるということは、この道で間違いないということ。そんなところにまで嘘を混ぜても意味がないだろうから。奴が、《奴ら》が欲しがるのはあくまでもレアアイテムのはず。ならそこまでの道のりは整えていてくれる。

 それに囮にされようが何をされようが、成し遂げてしまえばいいのだ。罠でもレベルでも通じない、動じない《強さ》を手に入れればいい。

 ひとりで挑むことがどれだけ無謀なことかなんて言われなくてもわかっている。たとえ十や十五の層ぶんレベルが下がろうと、ボスはボス。むしろマイナス十に対して四十八分の一で挑むのだ、とんとんどころじゃないはず。

 だが、だからこそ成し遂げなければならない。これは通過儀礼だ。

 到達点は《約束》。

 

 ──絶対に、生きて帰す。

 

 そのために手に入れる。

 絶対の強さを。

 さく、さく、とノーチラスは静かな森を進む。いくつのエリアを通っただろうか。やがてジョニーの言っていた広いエリアに出た。雪の道が広場になる。この奥に、いる。自分でも気付かないうちに肩に力が入っていく。

 そうして広場の中心まで歩いたとき、ふとその先に人影があることに気づいた。

 背が高く、袴のような和風の装いだった。何か足りないと思うのは被り笠がないからだろうか。隠そうともしないその顔には小さく火傷の痕があった。

 表情から何を思っているのかは読み取れなかった。けれど決して敵意はない──いいや、それで言えばジョニーもそうだった。《敵》という感覚はなく、どちらかと言えば隣人のような。穏やか、人好きのする。表情だけならそうだった。

 この場にいるという時点で、ジョニーの関係者だという可能性は高い。となると、──こいつが。

 ノーチラスの思考がそこまでたどり着いたとき、男は口を開く。

 

「メリークリスマス。いい夜だな」

 

 そう言って、腰に佩いた《カタナ》を揺らした。

 

 

 

 

 

 

 男は気怠げな様子で近くの木に寄りかかる。

 

「ノーチラスだな。待ってたぜ」

 

 初対面のはずだ。少なくともノーチラスは彼の顔を見たことはない。しかし男はノーチラスの名を知っている。

 そしてノーチラスも、彼の名を知っていた。

 

「……《梟》、か」

 

 火傷痕があるらしいということは聞いたことがあった。加えて武器が曲刀だったということも。

 曲刀スキルの熟練度を上げた先にエクストラスキルとして派生するスキルが《カタナ》だ。目の前の男が腰に下げている、特徴的な反りのある和風の拵えの武器は見紛うはずもない。ということは以前の武器は曲刀で間違いない。

 そしてなにより、ジョニーの言っていた道の先にこうしてひとりで、ノーチラスを待っていた。そのことが何よりも確信に至る要因だった。

 

「正解。フラグモブならこの奥だ」

 

《梟》は親指で後ろを示す。道はなく、森の奥だからだろう、少し暗い。この先のエリアは接続が固定されているらしく、慌てる必要はないと《梟》は言う。

 

「ひとりでやりたいんだろう。行ってこい。俺は止めないよ」

 

 そうして本当に、木に寄りかかったまま《梟》は一歩も動く様子を見せない。

 なぜノーチラスの名を知っているのかとか、なぜソロ撃破を望んでいるのを知っているのかとか、そんなことはどうでもよかった。やはり罠──疑念は確信に変わったが、それもまたどうでもいい。

 理由がなんであれ、ここまでの道は正しく、この先には本当にボスがいるのだろう。彼らの思惑を思えばそれは信じるに値する。たとえ相手が大悪党であっても、だからこそ彼らの利益になるのであれば。

 止めていた足を再び動かす。ノーチラスの雪を踏む音だけが耳朶を打つ。

《梟》の横を過ぎようとして──ふとクラインの言葉が脳裏をよぎった。

 

『オレはあいつを信じる』

 

 ノーチラスは《梟》を信じてもいいと思った。それは損益を含めた打算的な考えでだ。ならばクラインはどうして、何をもって《梟》を信じるに至ったのか。

 画面端の時計に目を向ける。日付変更まではまだ少し時間の猶予があることを確認して、ノーチラスはまたも足を止めた。

 

「……あなたは」

「ん?」

「あなたは、ひとりなのか」

 

 ノーチラスにとって、やはりオレンジプレイヤーは悪だ。犯罪に手を染めた証であり、こちらに危害を加える可能性を高く秘めているものだからだ。自分にならともかく、それがユナに及ぶのであれば止めなければならない。守ると約束したから。

 そういう意味で《梟》は紛うことなく悪ということになる。すなわちノーチラスの敵だ。

 だがクラインが言うには。《攻略の鬼》も、目の前の《梟》も、そして自分も同じなのだという。

 死なせたくないから、こうして強さを求めている。

 死なせたくないから、鬼と呼ばれるほどに攻略を進めている。

 ならば《梟》は。

 彼もまた、死なせたくないからという理由で動いているというのだろうか。

 

「そりゃひとりだよ。安心しろ、どこにも誰も隠れてないよ。俺だけだ」

「違う。そうではなくて。あなたには、守りたいものはないのか」

「……ああ、そういう話」

 

《梟》は寄りかかっていた木から身体を起こす。そうしてざくざくと三歩ほど雪を踏みしめた。

 

「あるよ。お前がウタちゃんを守りたいのと同じように、俺にも守るべきものはある」

「人を、殺しておいてか」

 

 守るべきものがあるという。確かにそれだけならば、クラインの言うとおりだった。ユナのことも知っていて、ユナと同じようにとまで言った。それくらい大切なものが《梟》にもあるのだ。

 ならばなぜ。守ると決めたその手で、人を殺すに至ったのか。

 

「そうだな……例えばの話だ」

 

《梟》は降る雪を顔で浴びるように天を仰ぐ。

 

「俺はひとりも殺してないと言って、お前は信じるか?」

「……いいや」

「俺は誰も騙してないと言って、お前は信じるか」

「……信じられない」

「そうだな。それはなぜだ?」

「あなたが……《梟》だからだ」

「そうだな。俺は《梟》だ。だから殺しも騙しもする。していないはずがないんだ」

 

 そう言って、《梟》は両手で顔を覆う。

 

「……何が言いたい」

 

 顔の雪を払い、振り向いて、ノーチラスに正体する。

 

「俺のようになるなよってことだ……お前は大丈夫そうだがな」

 

 そうして《梟》は苦笑した。

 

「ところで、ノーチラス。俺はひとりなんだが……お前はひとりじゃねえな。尾けられてたぞ」

 

《梟》が言い終わった瞬間、ノーチラスが通ってきたエリア接続ポイントから人影が現れた。その数、十二。その先頭にいたのは和風の軽鎧に身を固めたバンダナの男だった。

 

「……クライン、さん」

「悪いな、尾けさせてもらったぜ。さすがにソロは止めねえとな。……まさかシュウがいるとは思ってなかったけどよ」

 

 言いながらクラインは苦笑する。《梟》は肩をすくめた。

 クラインに続く集団はギルド《風林火山》。クラインに倣うように全員が和風の拵えの装備を身につけている。だがその中にひとり、異彩を放つ巨漢がいた。

 

「エギルか」

「久しぶりだな、シュウ。元気そうで何よりだ」

「お前もな」

 

《梟》の声は軽く、エギルの返す声もまた軽かった。

 獣の毛皮を纏うような、狩人じみた装備。もともとの大きな体躯が野性味を帯びてより大きく見える。確か下層でなんでも屋というか武器道具の販売買取を行っているプレイヤーのはずだとノーチラスは記憶している。もちろんそれだけではないけれど。

 そしてその影に、小柄な人影があった。

 

「ヨォ、シュウ兄」

「アルゴまで……どうした現場に出張ってきて。珍しい」

「マァ、イロイロあるのサ。それより忘れてないだろうナ、オイラの名前に泥を塗ったこト! 熨斗つけて返してやっからナ!」

「……ああ、忘れてねえよ」

 

《鼠》はビッ、と《梟》を指差す。

 クラインはともかく、あのふたりまでもが《梟》と面識があることにノーチラスは驚いた。《鼠》は言わずもがな、エギルに関しては攻略組でも《聖騎士》に引けを取らない壁戦士として名高い。もちろん本人は商人ということもあって壁を感じさせない話し方をするが、それにしても《梟》の対応はさらに軽く感じる。《鼠》もまた、《梟》に隠れ蓑にされたという実績があり、おそらくさっきのやりとりのことなのだろうが、それにしては敵愾心が薄いとノーチラスには感じられる。

 間違いなくゲーム攻略の中枢とも言えるプレイヤーたちと《梟》との関係。それがノーチラスには不思議だった。

 

「それで、なんだよぞろぞろと」

「さっきも言ったろ、ノーチラスを止めに来たんだよ。ソロでボス討伐なんざできっこねえんだ。行かせるわけにはいかねえだろ。最悪、オレらが乱入してでもソロじゃなくする」

 

 クラインはそう言ってノーチラスに近づく。

 だがそれを遮るように《梟》が立ちはだかった。

 

「悪いが、それはさせらんねえな。ノーチラスにはひとりで行ってもらう」

 

 その言葉にクラインは眉を顰める。

 

「……お前ェ、何を言ってるのかわかってんのか?」

「ああ」

「ボスだぞ」

「ああ」

「そこらのモブとはわけが違え、火力も体力も段違いなんだぞ」

「知ってるさ」

「それを──それを、よりによってあいつひとりにやらせようって言うのか!」

「そうだ」

「お前ェわかってんのか、アイツは──」

 

 クラインが言葉を切る。迷うように泳ぐ視線が、事の成り行きを見ていたノーチラスとぶつかってハッとしたようにまた視線を泳がす。

 だからなんだ、と言いたくなってノーチラスは口をつぐむ。あの狩場でのことは繰り返したくなかった。言えば言うほど、それは自分に返ってきているような気がして。心の奥底に封じ込めたはずの、まだ冷静でいられる自分が無茶だと声を張り上げそうになる。

 だが──。

 

「FNCだろ。知ってるよ」

 

《梟》もまた、ノーチラスの身に起きている異変は知っている。それでいてなおソロでの挑戦を止めない。

 

「ならよぉ!」

「でも、やると決めた。そうだろ? ノーチラス」

「……ああ」

 

《梟》が肩越しに視線を寄越す。それにノーチラスは深く頷いた。

 そう、決めた。やると決めたのだ。それは曲げられない。誰になんと言われようと、これは自分で決めたこと。ユナを守るために。

 ひとりでボスを撃破する。それが強さの証明になるのだ。

 

「っ……んでだ、なんでだ! お前ェらふたりそろってひとりでひとりでってよ! わかってんのか、MMOだぞ! パーティプレイ前提のゲームなんだぞ!」

 

 クラインは激昂して《梟》の肩を掴む。

 

「お前ェならわかるだろ、パーティ組んでも死ぬときゃ死ぬんだ! それをひとりでやらせるなんて正気じゃねえ、アイツに死ねって言ってるようなもんだろうが! それで本当に死んでみろ、ウタちゃんはどうなる!」

 

 最後の言葉はノーチラスに向けたものだった。《梟》の肩を掴んだまま、クラインは肩を怒らせ息を荒げている。

 自分が死んだら──そんなこと、言われるまでもない。それを考えるだけで一晩はずっと眠れないのだ。

 きっと悲しませてしまうだろう。もしかしたら泣かせてしまうかもしれない。想像するだけで胸がきつく締め上げられる。あの笑顔を、自分が奪う。そんなことはしたくない。

 それでも──。

 

「それでも、やるんだよ。やると決めたんだ」

 

 俯いていたノーチラスは、《梟》の声にハッと顔を上げる。

 

「さっきも言ったが、ノーチラスのことは知ってる。FNCがあること、その症状、ウタちゃんの存在、そしてひとりでボスを倒すことのノーチラスにとっての意味。考えないわけがないだろう。考えて考えて、それでもやるんだ。だからアリ谷であれだけ無茶なレベリングをしたんだろうし、ジョニーの言葉どおりここに来た。俺と同じなんだよ」

 

 ──同じ。

 

「同じ、とは」

 

 思わずノーチラスは聞き返していた。クラインの言う「気持ちは同じ」とは違う気がして。それよりかは確かに、自分寄りな気がして。

《梟》はクラインに向き合ったまま振り返らずに答える。

 

「お前はウタちゃんを絶対に死なせなたくない。それは合ってるな?」

「ああ」

「俺にもそういうやつがいるってのはさっき言ったな。そしてそのために、お前はこうして強さを求めた。俺は俺で、そのためにこうして《敵》になった。手段は違えど目的は同じなんだよ。決めたんだ。──死なせない、絶対に生きて帰すと」

「それ、は」

 

 それは、ノーチラスの。ユナに向けた《約束》と同じだった。

《梟》のカーソルはオレンジ。それはこの世界のルールとも言うべきシステムが下した犯罪の証。アインクラッド初の殺人者として名を轟かせた者。

 だというのに。彼は確かにノーチラスと《同じ》だった。

 肩にかけられたクラインの手を《梟》は無造作に払う。

 

「だから止めない。後押しすらしてやる。……おら行け、そろそろ時間だ。ここは俺が止めておいてやる。もし俺を信じられないと言うなら、そうだな。蘇生アイテムを俺にくれ。それを契約としよう」

「シュウ……マジでやるのか。やらなきゃ、ダメか」

 

 クラインの言葉に《梟》は薄く笑い、腰に佩いていた刀を抜く。野太刀という部類の日本刀。通常のものよりやや長いそれは、抜くというより鞘を投げ捨てるような。

 雪が白いせいで、刀身の銀が黒く見えた。

 

「ダメだね。アイツを止めたいなら、まず俺を倒しな。封じるなり殺すなり任せるけど、そう簡単には行かせねえよ。俺たちの《芯》のためにな」

 

 狼狽えるクラインの喉元に《梟》は躊躇いなく切先を突きつける。後ずさるクラインは、それでもまだ躊躇うように手を彷徨わせた。エギルとアルゴはやれやれとため息をつく。

 ノーチラスは視界端の時計を見る。もう間もなく、日付が変わろうとしていた。

 

「……礼は言わない」

「おう、契約履行だけ頼むわ」

 

 ノーチラスは背を向けた。暗い森を進んでいく。後ろでクラインの声が聞こえたが、すぐにエリアの壁をくぐって聞こえなくなる。

 ──同じだった。確かに《梟》は、自分と同じだ。

 やがて再び視界が開ける。そこには一本の巨樹が聳え立っていた。それ以外には何もなく、一面の白が広がっている。降る雪の音もなく、風の音もない。静寂に支配されたそこは、まるで世界から切り取られたかのようだった。

 視界の端で時計のゼロが揃う。どこか遠くで鈴の音が聞こえた。それは段々と近づいてきて、モミの木の真上で止まる。

 どう、と重い音がして、赤い塊がノーチラスとモミの木との間に降り立った。

 サンタクロースだった。だがノーチラスがイメージできる好好爺然としたあのサンタクロースではない。右手に斧、左手に頭陀袋を持ち、ねじくれた白い髭は膝まで伸びる。窪んだ眼窩から覗く釣り上がった目尻は笑っているかのように細く、まるで格好の獲物を見つけたかのようにノーチラスを見下ろしている。

《背教者ニコラス》。

 おそらくはこのデザインで恐怖を煽ろうというのだろう。実際、デザインはかなり禍々しい。悪意というものを隠すつもりがないかのように口の端を釣り上げている。そうでなくとも彼我の体格差やニコラスの圧迫感で思わず足がすくむ。腕が長いからか、前のめりに見えるニコラスの姿はより大きく見える。

《怖い》と思った。あの斧や頭陀袋は容赦なく振るわれるのだろう。それらを喰らえばひとたまりもない。痛みはなくともその衝撃は計り知れないし、受けるダメージも相応に重いはずだ。回復アイテムは持てるだけ持ってきたが、それで足りるのか怪しく感じられる。

 それでも。

 ユナのために、自分のためにこいつを倒す。自分が死ぬのは《怖い》。けれどそれ以上に、ユナを傷つけてしまう、死なせてしまうのが《怖い》。

《怖い》と《怖い》を天秤にかけて、ノーチラスは顔を上げる。

 

「……やってやる」

 

 剣を抜く。思い切り雪を蹴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どういうつもりだ、シュウ!」

 

 クラインの声が森の静寂を割く。

 クラインに切先を突きつけていた《梟》──シュウはしばらく動かずにクラインを見ていたが、やがてため息とともに刀を下ろした。

 

「どうもこうも、さっき言ったろ。ここは通さない。クリスマスのボスを倒すのはノーチラスだ」

 

 刀は下ろしたが、シュウはそれ以上動こうとしない。クラインから視線を外すこともない。本気だということが、クラインにはひしひしと伝わってきていた。

 

「……正気か」

 

 とても正気の沙汰とは思えなかった。ここに立ちはだかること然り、シュウの頭上に浮かぶカーソルがオレンジになっていること然り。あの日のことは大まかに聞いてはいる。しかしだからといって信じたくなかった。現実での彼も知っているのだ、とてもそうは思えない。

 自ら他人に害をなすような人物とは、とても。

 だがシュウはそんなクラインの思考を読んだかのように、ため息混じりに苦笑した。

 

「正気だよ。いくらなんでもゲームのシステムまでは騙せない。カーソルカラーがこれってことはそういうことだ」

 

 言いながら、刀を持っていない左手で頭上を示す。そのとき、袖がずれて腕が肘のあたりまで露わになった。

 

「──っ、お前ェそれ……!」

「ん、ああこれ。そうか、自己紹介してなかったか」

 

 シュウは刀を地面に突き立て、袖が落ちないように左腕をまくる。その内側にはあるギルドのシンボルがあった。

 それは悪名轟く最悪の証だった。

 

「《笑う棺桶》所属、《梟》。プレイヤー名はシュウだ。久しぶり、あるいは初めまして。よろしくな」

 

 罪を犯すことに楽しみを見出したオレンジギルドはいくつかある。だがそれらのどこも、一線は超えない。

 人を殺す、という一線だけは。

 ゲームのアバターが消えるとはいえ、黒鉄宮の《生命の碑》に刻まれた名前に横線が引かれるとはいえ。実際に命を落としたかどうかなんてゲーム内にいるプレイヤーからはわからない。アルゴが挙げた推論のように実はセーフエリアのようなものがあり、このゲームに囚われてからHPを全損したプレイヤーの全員がそこでこのゲームの行く末を見守っているかもしれないし、あるいは本当にナーヴギアが脳への神経を焼き切り心臓が止まって命を落としているのかもしれない。けれどそれを確かめる術はない。

 肯定も否定もできないのであれば。

 あくまでもただの主張であって、それに根拠をつけることは誰にもできない。

 そして殺人ギルド──《笑う棺桶》は、それを逆手に取って《自由に》ゲームをプレイしているのだと看板を掲げていた。

 

「よろしくじゃねえ!」

 

 クラインは激昂する。

 

「なんでそんなモンつけてんだ! それがどういうモンかわかってんだろ!?」

「……ああ、わかってる。だが必要なんだよ」

 

 シュウの声音はどこまでも平坦だった。袖を戻し、突き立てていた刀に手をやる。表情だけが困ったように笑っていた。

 

「譲れないものってあるだろ。さっきも似たような話をしたけど。ノーチラスにウタちゃんがいるように、俺にもそういうやつがいる。クライン、お前で言うなら後ろのギルドメンバーだ。もちろんそれだけじゃないんだろうけど、大まかにはそうだろ。だから第一層で残ることを選んだ。守るための選択だ」

「っ、それは!」

「わかってるよ。わかってる。まだ閉じ込められてすぐだったからな。合流予定だったっていうのもあっただろうし、アイツは経験者だ。彼らに比べればそれだけでも死ぬ確率は低い」

 

 知っている──それだけで強い。罠がどこにあるのか、敵がどう動くのか、それを知っていれば危険を避けることができる。あるいは宝がどこにあってどこにないのか、それを知っていれば無駄が省ける。敵の弱点を知っていれば倒すのにかかる時間を減らすことができて、それだけ安全を保つことができる。

 クラインは肩越しに、後ろでエギルに並ぶアルゴを見た。身近にそうして知識を武器とする者がいるからシュウの言うことは理解できる。それで今まで、何度助けられたことか。

 

「だがそうして、経験者であることが問題だった。……な、アルゴ」

 

 クラインからアルゴへ、シュウは視線を移す。

 アルゴは静かに頷いた。

 

「ベータテスター、ナ」

 

 それはかつて、アルゴが第一に隠した情報だった。自らのスリーサイズすら売れるならばとネタにしたアルゴが、それでも隠し続けた最優先秘匿情報。

 

「そう。ただの妬み嫉み、あと僻みだな。知ってるかクライン、前情報ったってたかだか十層ぶんしかなかったらしいぜ」

 

 シュウが呆れるように肩をすくめる。アルゴは苦しそうに笑って目を伏せた。

 ベータテスト。《SAO》の正式リリース直前に行われたベータ版は、現在の十分の一ほどの規模で行われた。参加人数は千人。期間は一ヶ月ほどであったが、一時期は世間の話題を席巻した。

 そしてその間に攻略できたのは十層まで。正式リリース版をクリアするための層数は百層である。

 

「一年かけて半分、五十だ。一層がとりわけ遅かったとはいえ、十までのクリアなんてあっという間だったろ。死に戻れないって制限はあっても三ヶ月だ。たかだか三ヶ月、そのためのアドバンテージにどうしてそこまで嫉妬できるんだか知らんが、プレイヤーの間に大きく軋轢を生みかねないことは明らかだった」

 

 今でこそ、ベータテスターという名は形骸化した。十層を越えればベータテスターでも知らないことは出てくる。多少のノウハウはあれど、死に戻りができない以上はテスターもそうでない者と同じように命の危険がある場所を避けるために探さなければならない。

 知っている、が通用しなくなるのだ。

 だがそれでも、アルゴをはじめとして自らがベータテスターであることを明かす者はいなかった。それはもちろん優位性を保ちたいという気持ちの表れでもあっただろう。しかしそれ以上に嫉妬の対象になりたくなかったのだ。

 

「妬まれる側にも問題はあったさ。けど、妬む側にも問題はある。ベータテスターばっかりが責められるなんてお門違いも甚だしいだろ。正規の手順で抽選に当たった運の持ち主ってだけなんだから。だからそれ以上の溝をつくった。結果としてベータだなんだって問題は薄まったはずだ。攻略も多少はスムーズになったろ」

「けどよぉ……!」

「なんだよ、そんな顔して」

 

 クラインが顔をくしゃりと歪める。そんなクラインに、シュウはやはり困ったような笑いを向けた。

 言葉に詰まったクラインは口を開いては閉じてを繰り返す。何かを言いたいのにうまく言葉にできない。それを見かねてか、エギルが挙手をして口を開いた。

 

「なぁ、シュウ。確かにそのおかげでベータ問題は大した騒ぎにはならなかった。たぶんあのままならキリトは孤立していただろう。だがお前がその役を被るっていうのは違うぞ。お前は殺してなんかいないんだから」

「そう、そうだぜ。いろんなとこから話を集めたけどよ、そのディアベルってのを殺したのはジョニーってやつなんだろ」

 

 エギルの言葉にクラインが続ける。確かにそれは事実である。要因という意味では間違っていない。

 しかしシュウは首を横に振った。

 

「さっきノーチラスにもふわっと言ったんだけどな」

 

 言いながら、シュウは先ほど投げ捨てた鞘を拾う。

 

「事実がどうあれ、世論の大多数は《梟》というレッドプレイヤーを許さない。なぜならその現場にいたプレイヤーが少ないからだ。さらに言えば、その現場ですら過半数が俺が殺したと思ってる。だから真実は違うんだ。あくまでも、『最初の殺人は《梟》の手による』んだよ。『実は《梟》でない誰かだった』なんてのは陰謀論みたいなもんだ。そういう説もあるという程度で済まされる」

 

 実際、ノーチラスがそうだった。《梟》が《梟》である以上、殺しも騙しもしていないなんてあり得ない。《梟》というプレイヤーがもう《そういうもの》だからと、そんなふうに語っていた。

 全員が全員そうとは限らない。しかし《梟》と初対面のノーチラスが言ったということは世論のひとつとして浸透しているということでもある。

 

「そして真実がどうあれ、プレイヤーがひとり死んだことは揺るぎない事実だ。実際に手を下したのはフロアボスで、流れとしてはボス戦でボスにやられるっていうなんでもないものなんだけどな。どっかのバカが変に騒いだせいで、《ボスにやられた》ではなく《誰かに騙された》になった。その誰かが──」

「オイラだったってカ」

「そういうこった」

 

《鼠》に矛先が向く。それもまた防がなければならなかったものだ。

 ベータテスターの権威が落ちたとき、重宝されるのはさらにその先の情報である。死ぬリスクがある以上、よほどの冒険心があるか追い詰められていたかしない限りはその先へ進むのに躊躇する。そんな彼らが頼るのは、いつだって情報。そしてその第一人者であったのが、《鼠》だった。

 全員の手に渡っていたのだ。エギルが手にした。キバオウも持っていた。そして何より──彼が掲げていた。

 

「なぁ、エギル」

「なんだ」

「ディアベルは、英雄だったよな?」

 

 エギルに向けられたシュウの視線。それはどこか、さっきまでの無感情な表情とはどこか違っていた。

 

「そう……だな」

 

 そのどこか違う視線を受け、エギルは戸惑いながらも頷く。

 

「怪しさがあったってのも聞いたがな」

「まあ、な。清廉潔白とはいかなかった。だが彼のカリスマは確かだった。そしてその彼はさ、エギル。お前は覚えているかな。言ってたんだよ」

 

 ──ゲームクリアは、自分の手で。

 

 そう言って、彼は先陣を切った。その後ろ姿はエギルの脳裏にも焼き付いている。

 

「ああ……覚えている。その後でオレの死ねない理由も言ったな」

「驚いたぜ。詳しく聞きたいが、それはまた別の機会にしておくとして。だからさ、クライン。最初の質問に答えるよ。どうしちまったのか、って」

 

《祢々切丸》を鞘にしまって、シュウは改めてクラインに正体する。

 簡単な話だ、と。自らとクラインを交互に指差し、これまでの困ったような笑いではない、どこか湿った──強い笑みを見せた。

 

「《俺ら》と《お前ら》。《敵》と《味方》だ。お前らの手でゲームクリアを目指せ。俺らはその邪魔をする。味方で足の引っ張り合いなんてごめんだろ。そのためには敵が必要だ。対立構造はシンプルじゃなきゃな」

 

 シュウはそうして、改めて腰に佩いた刀に手をかける。

 

「だから俺は、ここにいる。かかってこいよクライン。俺を倒せるもんなら倒してみろ」

「シュウ……」

 

 クラインがまたも泣きそうな顔をする。

 まだ迷うような素振りを見せていた。エギルもアルゴも、クラインの出方を伺っているように見える。だが《風林火山》のメンバーからいくつかの諭すような言葉が投げられ、クラインはやっと意を決したように腰のカタナの柄に手をやった。それを見て、シュウもいつでも抜けるように構える。

 だが返事は、その後ろの茂みから聞こえてきた。

 

「見つけたぞ《梟》! 望みどおり殺してやるッ!」

 

 甲高く裂帛の気合とともに放たれた片手剣突撃系ソードスキルが青く光芒を描いて真っ直ぐにシュウに襲いかかる。対するシュウも抜刀とともに橙色のソードスキルを放った。

 青と橙がぶつかる。

 そして互いに弾き飛ばされた。

 

「よぉ、久しぶり。リンドっつったか。なんだその髪」

「うるさい黙れ! 口を開くんじゃない!」

 

 リンドーー《聖竜連合》のトップだ。髪を青く染め、騎士のような白い鎧を身につけた片手剣士は敢然と刃を突きつける。

 

「ディアベルさんの仇! 絶対に晴らしてみせるッ!」

「まーだ根に持ってんのか。……いいぜ、来いよ。出来るもんならやってみな」

 

 クライン、アルゴ、エギル、そしてリンド。さらに《風林火山》とリンドについてきた《聖竜連合》。およそ二十人を前に、シュウは──《梟》は、口角を釣り上げる。

 

「──イッツ・ショウタイム」

 

 そして再び、鞘を捨てた。

 



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Nahat-3

 ──危ないと思ったら逃げてくれ。俺が全力で援護する。

 

 それが、キリトと交わした助っ人の条件だった。

 まず憧れがあった。攻略組といえばこのゲームでの猛者を指し示す言葉。自分がその言葉を使うとき、その対象は間違いなく自分よりも強いプレイヤーのことだ。そんな畏怖憧憬を自分も浴びてみたい。そんな憧れがあった。

 そのために必要なのは強さ。RPGにおいて強さの指標とは単純にレベルの高さだ。レベルが上がればステータスが上がる。ステータスが上がれば敵が倒せる。敵が倒せればレベルが上がり、ステータスが上がり、より強い敵を倒せるようになる。そうして段階的に設定されたボスを順に倒していくことで自分たちが次に挑めるかどうかの判断材料とする。

 季節ごとに行われるイベントのボスは、その判断材料としては適切だとケイタは考えた。イベントをクリアしたという実績、ボスをギルド単独で倒したという実績は少なからず自分たちの名を売ることになる。それはより攻略組に近づいたという自信にもつながる。

 厳しいかもしれないことはわかっていた。ボスの強さは現在進行している攻略層のものよりは低いとはいえ、決して低すぎる値には設定されない。黒猫団単独での撃破は、装備やアイテムを全て使い切って初めて可能となる……かもしれないというのがケイタの見込みだった。

 だが幸運なことに、攻略組でもトップクラスの助っ人を得、道案内をしてくれる情報屋を得た。道中では新戦術を試す余裕も生まれ、全ては順風満帆のように思えた。

 ここから月夜の黒猫団は攻略組に名乗りを上げるのだと──そう、思っていた。

 

 

 

 

 

 

「逃げろ!」

「逃がすわけねぇだろ、バカか」

 

 目の前でキリトが叫ぶ。押し寄せるオレンジプレイヤーの向こう側でジョニーが笑った。

 次々に振るわれる斧や剣や槍を一身に受けながら、キリトは隙を見つけては相手を斬り飛ばし蹴り飛ばして距離を稼ぐ。その際に可能な限りギリギリのラインで相手にダメージを与えることで回復の時間をつくらせ、人の波を少しずつ散らしていく。

 ──強い。

 キリトを避けて横合いから斬りつけてきたオレンジプレイヤーの刃を槍の柄で受け止めながら、ケイタは改めてキリトの実力を思い知った。

 攻略組と自分たちの差のひとつにレベルがあることはわかっていた。だがそれを実際に目の当たりにすると、思っていた以上に大きな開きがあるのだとわかる。

 キリトのHPが減らないのだ。実際にはダメージは受けるがその場ですぐに回復している。上等な装備のおかげでどれだけダメージを受けても軽微なものでしかなく、そのドット程度の減少は瞬く間に元に戻るのだ。それはバトルヒーリングというスキルの効果だとケイタはアルゴの攻略本で得た知識と照らし合わせる。ダメージを受けたまま回復しないでい続けると発現する、毎秒に微量ではあるがゆっくりゆっくりと自動でHPが回復していくスキルだ。その便利さや有効さに目のくらんだプレイヤーがギリギリを狙いすぎて失敗したという事例も載っていて、身の竦む思いをしたことを覚えている。それを体得しているキリトは、いったいどれほどの死線を潜り抜けてきたというのだろうか。

 

「ケイタ、頭下げろ!」

「っ、はい!」

 

 言われるままに膝ごと折れるようにして頭の位置を下げる。直後、頭上を青い燐光が走り抜けて槍が軽くなった。見れば、ケイタを襲っていたオレンジが五、六歩と後ずさっていた。その事実にほっと息をつくと、キリトはもうすでに次の敵に斬りかかっている。

 体得に厳しい条件のあるスキルを所持していること以上に、一撃の威力、的確さ、速さ、どれをとっても段違いだということに気づいた。それは単にレベルの差というだけではなくて、動きの無駄を省いてすぐ次の動作に移っていることだったりそうして動作を速く行なっていても慌てるような素振りが一切ないことだったりと、そこには明白な差がある。

 ──経験の差。

 言葉のうえではそれが大きいとわかっていた。だがいざ目の当たりにしてみると想像と現実ではさらに大きな差があるように思える。特に今は、相手がモンスターかプレイヤーかという差もあるはずだ。

 

「やっぱ強えな。さすが鬼」

 

 少し前まで人垣の向こうにいたジョニーが、今やその姿を無防備に晒している。それだけ人員を割かなければならないほどキリトは強く、なおかつそれだけの人数をあてがわれても一歩も退かないキリトにケイタは目を奪われていた。

 だがそれほどに差を感じさせるキリトであっても、数という差を埋めることはできなかった。

 

「うわああああ!」

「テツオ!?」

 

 悲鳴のした方向へ、ケイタは慌てて目を向ける。

 キリトを避けるようにして背後に回り込んだオレンジプレイヤーが振り上げた斧が、テツオのメイスを弾き飛ばしていた。

 

「ダッカー、ササマル──っ!」

 

 同じように複数人が回り込み、ダッカーのポールアームもササマルの短剣もかち上げられる。やや遅れて振り下ろされた斧をケイタはかろうじて槍の柄で受け止めるが、それでも体勢が悪かったからか膝が地についた。

 五人に対して、二十人が攻めるのとひとりが守るのとでは明らかに後者が不利だった。対立するものが大きければ大きいほど、衝突も大きなものとなる。

 キリトひとりがどれだけ強かろうと結局はひとりなのだ。腕が増えるわけでも足が増えるわけでもなく、それでいて相手の標的はひとりの自分ではなくほかにある。五つの宝を眼前にした賊にたったひとりで全てを触れさせないなど、魔法でも使わなければ到底不可能である。

 そしてこの世界に、魔法というものは存在しない。ゼロと一で構成された、どこまでも数字に従順なシステムがあるだけだった。

 

「おおあっ!」

 

 キリトがひときわ強く、目の前にいた男を蹴り飛ばす。

 

「頭下げろ!」

 

 今度は全員が姿勢を低くしていた。振り向きざまに一閃。たったそれだけで、四人が相手をしていたプレイヤーたち全員を斬り飛ばす。

 

「大丈夫か?」

 

 キリトの声に、しかし黒猫団は立ち上がることはできなかった。

 ──怖い。

 向けられる刃が怖い。眼前に迫る刃のぎらつきが怖い。自分を見ている敵の視線が怖い。防がなければ死ぬ、その事実がはっきりと形になって眼前に現れる。

 盾が欲しい──身を守るための盾が。ジョニーも言っていたではないか、必要なのは硬さなのだ。ダメージが少なければそれだけ死からは遠ざかる。敵ながら言っていたことは正しかったのだとケイタは改めて実感する。

 そしてケイタは、サチを見た。黒猫団の前衛。攻撃を受けるのは、サチの役目──。

 

「キリト……っ」

 

 サチがキリトの名前を呟く。まるで怯えるように肩を縮こまらせ、所在なく手をキリトのほうに伸ばそうとしては邪魔になると思ったのか押しとどめてを繰り返す。

 

 ──怖がりすぎ。

 

 以前サチに言った言葉が脳裏に浮かんだ。陣形を変えるときに自分が投げた言葉だ。上を目指すには心許ない戦力を少しでも向上させるための策。ギルドのためだと、何度も口酸っぱく言い続けた言葉だ。

 その一言がそのまま自分に返ってきていることに気づいて、ケイタは愕然とした。

 

「ケイタ」

 

 キリトは依然として、否、今まで以上にオレンジプレイヤーを多くいなしていた。剣戟の音が激しくなる。その状態でも、彼はケイタたちの身を案じていた。

 

「結晶、渡してあるよな」

「あっ」

 

 言われて、慌ててウインドウを開く。何度か操作を間違えながら《転移結晶》の文字にたどり着いた。

 結晶アイテムは即時効果のあるアイテムだ。例えば回復ポーションは一定量のHPが漸次回復していくのに対し、回復結晶は同じ量を即時回復させる。転移結晶ならば指定した場所に一瞬で移動するというもの。

 それは非常に強力であるが、同時に高価なものでもあった。自分たちではそうそう手が出せる金額ではない。だが事前に、助っ人の契約をしたときにあらかじめひとつキリトから預かっているのだ。いざというときの脱出手段として。

 しかし──。

 

「転移、タフト!」

 

 コマンドを叫んでも、転移結晶はなんの反応も示さなかった。

 

「え……な、なんで? 転移!」

 

 再び試すもやはり反応はなく。代わりに、とても楽しそうなジョニーの声が聞こえた。

 

「あーそれ、使えねーぞ。ちゃんとそういう場所を選んだからな。大変だったぜ、ここ探すの」

「結晶無効エリアか……」

「正解だ。ご褒美にナイフやろうか」

「いらねえよ。どうせ毒だろ」

「大正解。なんだよつまんねーの」

 

 ジョニーとキリトの応酬は半分もケイタの耳に入ってこなかった。結晶が使えないことがとにかくショックで、オレンジプレイヤーにふさがれた前のエリアとの接続ポイントがひどく遠くに感じられて。脱出は絶望的だという事実が、さらに色濃く目の前に立ちはだかった。

 

「な……んで、そこまで……」

 

 結晶無効エリアをわざわざ探し、そこでオレンジプレイヤーを待ち伏せさせて他のプレイヤーを誘い込む。鬼ごっこと称して行われているのはただのリンチだ。自分で思いたくはないが、ここまで手の込んだ仕組みをつくったところで罠にかけるのが黒猫団では旨味などないはずだ。こんな──こんな、怖さで立てなくなってしまうような自分たちでは。

 なぜ、どうして。もはや立ち上がる気力は湧かず、へたりこんだまま弱い動きでケイタはジョニーを見る。

 ジョニーは頭陀袋から覗かせる瞳を、さも愉快げに三日月形に歪めた。

 

「なんでって。楽しいだろうが。ゲームだぜゲーム。今もお前らがやってる脱出ゲームだ。出れなきゃ死ぬ、生き残りたきゃ頑張りなってな。雑魚が頑張った姿が好きなんだよ。そういうときの顔が特にな。……くっくっく、ああ思い出したら笑っちまうな」

 

 体を折り、腹を抱えて笑い出す。その様子が、ケイタには壊れたおもちゃのような狂気じみたものに感じられた。

 

「なあ鬼。黒の剣士さんよ。さっきも言った気がするけどまぁ聞けよ。ディアベルだっけか、水色のやつ。あれが死んだときとか最高だったぜ。お前もそうだし、周りもよ。そのあとの騒ぎもおもしろかったしな。いつ思い出しても笑えるんだよな。そうだ、お前には教えなきゃいけないよな。ここまでこいつらを連れてきてくれたことだし」

 

 そういえば、とケイタはキリトを見上げる。変わらずオレンジの攻撃をいなし続ける彼の纏う雰囲気が少しだけ変わった気がした。

 ジョニーが黒猫団を狙っても旨みがないというなら、彼が黒猫団を守る旨みだってないはずだ。一時的とはいえ行動を共にしたことはもちろんケイタたちにとってプラスだったが、彼にとってはどうだったのか。

 思い返せば、彼が助っ人の依頼に頷いたのはジョニーの名前を出してからだ。そしてジョニーもまるで前から知り合いだったかのように言っていたし、彼が欲しがる情報を持っているとも言っていた。

 ダシに使われたことに関しては何も言えないし言うつもりもない。ジョニーの奸計から守ろうとしてくれていたのはよくよくわかっている。だがそこまでしてキリトが──《黒の剣士》が《笑う棺桶》に聞きたいことというのがどういったものなのか。今はそんなことを考えている暇などないことはわかっていたが、それでもひどく気になった。

 キリトは何も言わない。剣戟の音が激しくなる。ジョニーはさらに楽しげな声を出した。

 

「──《梟》もコレだ」

 

 言いながら、ジョニーはギルドのシンボルが描かれた自らの左手の甲をトントンと叩く。

 

「今頃は本物のモミの木の前だな。ちなみにそこまでは空が見える道を行くのが正解だ。よくわかんねえよな、あいつひとりで倒せるだろうに自分じゃやらねってんだぜ。そのくせひとりでやるっつって行っちまった。ま、おかげでそのぶんオレのほうに人数持ってこれたんだけどよ」

 

《梟》が《笑う棺桶》の一員。それは、そういうものなんじゃないかとケイタには思える。アインクラッドで最初の殺人プレイヤーだ。《笑う棺桶》といえば《梟》という代名詞でもある。

 それがジョニーに聞きたいことだったのか──そう思って見上げると、キリトの口元が、やっぱり、と動いていた。

 ギィンッ!! と、ひときわ大きな音がしてオレンジプレイヤーが弾き飛ばされる。黒猫団を間近で取り囲んでいた数人をひと振りで弾き飛ばして、キリトはジョニーに向き直る。

 

「……知ってるよ、そんなことは」

「あん?」

「そんなことは知ってるんだ。俺の代わりに悪役になってくれるような奴だ、そこまでやるだろうとも思っていた。そんなことはいいんだよ。シュウのことは信じてる。アイツが何をやろうと変に疑うつもりはない。俺は俺の《芯》を貫くだけだ」

 

 そう言って、キリトはジョニーに剣を突きつける。

 

「もう二度と、俺の前では誰ひとり死なせない。守ってみせる。そのために、ここにいるんだ」

 

 立てるか、とキリトはジョニーから目をそらさずにケイタに手を伸ばす。その手を掴むと、ぐいっと強い力で引き上げられた。キリトの毅然とした言葉に圧されてか、オレンジプレイヤーの動きが止まっていた。

 

「キリトさん……」

「言ったろ、全力で援護する。とにかく死なないことだけを考えろ。……それに、聞きたいことは聞けた。もうここにいる必要はない。逃げるぞ」

 

 未だ逃げ道はふさがれている。人数が減っている様子はない。それでも、抜けていた腰はいつの間にか治っている。キリトが逃げると言えば、ほんとうに逃げられるんじゃないか。そんな安心感があった。

 

「いけるか」

 

 キリトがジョニーから視線を逸らさずに問う。

 怖い。眼前に迫る斧を想像するだけで足が震える。それは黒猫団の顔を見れば、みんな同じように思っているようだった。

 それでも、キリトは見捨てようとはしないのだ。まだ彼は約束を口にしてくれる。これだけ追いつめられていても、これだけ情けないボロボロの姿を見せても、まだ。

 その背中は、ひどく大きく感じられた。そして同時に強く惹きつけられた。

 ──やっぱり。

 やっぱり、目指すなら攻略組だ。ケイタは改めて目標を定めた。だがそれは、黒猫団としての目標ではなかった。あくまでも個人として、ひとりのプレイヤーとして彼に憧れたのだ。誰かを守れる強い背中に。黒猫団を守れる強さが、欲しい。

 特にサチは、人一倍怖がりだとわかっていて連れてきてしまった。ちゃんと帰ったら謝って、そしてもう一度話をしなければならない。《怖い》なら、戦線から外すことも考慮する。

 

「いけます」

 

 けれど今は、とにかく逃げることだ。黒猫団を守るにしたって、キリトひとりにおんぶにだっこじゃ情けない。自分がリーダーなのだ。自分が引っ張っていかなければならない。

 ケイタは腹を括ってキリトに頷き返し、再び剣を構えた。

 

「信じる、ねえ……。真面目に言って──る、んだろうなぁ。ふぅん……あっそう……」

 

 ジョニーはぶつぶつと小声で呟く──そして。

 

「あーあーあーあーあーあー!」

 

 突然大きくため息をついた。大げさに俯き、そして天を仰ぐ。そして聞こえよがしに舌打ちをした。

 

「チッ。……あーあー、うざってぇ。嫌いなんだそういうの。虫唾が走るっつーのか反吐が出るっつーのか。信用だの信頼だのと。むかつくね。むかつく。ああイライラする」

 

 ガリガリガリガリガリガリガリガリ、とジョニーは頭陀袋の上から顔を両手で思い切りかきむしり始めた。絞り出すようなうめき声が絶えず聞こえる。思わずケイタは後ずさった。

 狂気を感じた。今までの命の危機に瀕した怖さではない。もっと深い、おぞましいものの恐怖。近寄りたくないと本能が叫んでいる。

 そしてそれは突然動きを止めた。

 だらんと腕を垂らし首をゆっくりと持ち上げている。

 猫背のまま、顔を少しだけ傾けてこちらを見ている。

 頭陀袋の奥で、ぎょろりと光る眼が見開かれている。

 

 

「──殺してやる」

 

 

 小さく、けれどはっきりとその声は聞こえた。

 

「引き裂いて刺し貫いて切り刻んで砕き潰す。痛みがないってのはいいよなぁ……どういう顔してくれんのかな。そうなんにも怖くない、痛くなんてないんだから安心しろよぉゆっくりとひとつずつ試してやるからいい顔見せてくれ逃げられると思うなよバカどもがよォッ!!!」

 

 バララララッ! と、ジョニーの手にいくつもの短剣が現れた。両手の指いっぱいに短剣を握り、それを一瞬の溜めすらなく投げ放つ。

 

「ヒャアッ!」

 

 そしてジョニー自身もまた、右手に残していた一振りの短剣に燐光を宿して肉薄した。

 

「っ!」

 

 飛来する短剣はいくつか弾けたものの、全てを防ぐことはできなかった。だが幸いなことに麻痺を示す稲妻のアイコンはキリトのHPバーには表示されない。その代わり、先ほどの二十人との戦闘以上に大きな継続ダメージがキリトのHPバーをじわじわと削り始めていた。

 ソードスキルがぶつかる。眼前で激しく火花が弾けた。ジョニーは続けざまに燐光を宿した短剣を閃かせる。

 短剣の特徴は手数にある。他の武器に比べてリーチが短いという欠点を補うためか連撃系のソードスキルが多い。軽い一撃を積み重ねて相手にダメージを与えていくのだ。

 それが、ことジョニーの場合となると危険の度合いは数倍に膨れ上がる。

 一撃のダメージはおそらく一般的な短剣使いよりも少ない。その変わり、麻痺か継続ダメージか、それともほかの毒か。敵モンスターが使ってくるような間接的なダメージを付与できる短剣を使用している。一撃でも当たれば容赦なく毒が襲い掛かってくるのだ。

 絶え間なく繰り出されるジョニーの短剣が宙に軌跡を残す。だがその全てをキリトは防いでいた。

 

「ヒャハハハハ、いいねいいねいいぞ黒の剣士、ここまで防がれるのは初めてだ!」

「そう、かよっ! ──ケイタ! ジョニーは抑えとく、今のうちに脱出しろ!」

「あ、は、はい!」

 

 キリトの声でケイタは我に帰る。黒猫団に一瞬だけ目配せして、まっすぐに出口を見据えた。

 ここが偽のルートなら、これ以上進むことはない。危険な区域である以上は一刻も早い脱出を目指す。

 

「逃がすな殺せ! 遊びは終わりだ!」

 

 ジョニーの声でオレンジプレイヤーたちもまたハッとしたように動き出した。

 どう気持ちが変わろうが、戦力差は変わらない。むしろキリトがジョニーに両手をふさがれている分さらに広がったとさえ言える。攻撃を受けるのがやっとだったさっきの今で、黒猫団がこの窮地を抜けられるかと言われれば十中八九あり得ない。

 けれどきっと、自分たちがここに残っているほうが足手まといになる。さっきのジョニーの短剣も、彼が防いだのは自分の体に当たらないものだけだ。守らせてしまったせいでキリトがダメージを負うのなら、ここにはいないほうがいい。

 だからケイタは迷わなかった。

 先頭に立ち、槍を構える。

 

「おいおい、やろうってのか?」

「さっきまでビビり散らしてたのによ」

 

 オレンジが言った。それを皮切りに、いくつもの嘲笑が黒猫団を囲む。ビビりだの腰抜けだのと言いたい放題、罵詈雑言の嵐。

 それでもケイタは、前をにらみつける。

 

「──僕はギルドのリーダーだ」

「ああ? なんだ急に」

 

 斧が無造作に振り下ろされる。ケイタは槍の柄でそれを受け止めた。

 

「ぐっ!」

「ケイタ……」

 

 後ろでテツオが呟く。余裕の表れか、オレンジプレイヤーたちがケイタ以外に手を出すことはなかった。けれどそれは、いま自分がこの斧に負けたら、次に襲われるのは自分ではない誰かということになる。

 その誰かは、他人じゃない。ケイタにとってはかけがえのない大事な仲間だ。

 

「ごちゃごちゃと御託並べんのはいいけどよ、足震えてんぞ兄ちゃん」

「無理すんなって。大人しく守られてな。ま、その守ってくれるひとはジョニーさんに捕まっちまったがな」

「諦めんのも人生だぜ。怖いんだろ? 大丈夫心配すんな、ひと思いにやってやるって」

 

 オレンジたちはずっと嘲るように笑っている。斧の鈍い光が眼前に押し付けられた。

 

「そりゃ怖いさ。でも、だからって」

 

 それでもなお、ケイタは退かなかった。

 ──死なせない。

 憧れたのだ。あの背中に。彼のようになりたいと思ってしまった。

 憧れたら、もう止まれない。

 腕に力を込める。眼前に迫っていた斧はびくともしない。それでもケイタは押し続ける。

 

「みんなが傷つくのを、黙って見てるわけにはいかないんだ!」

「じゃあ望みどおりお前からやってやるよ!」

 

 ケイタに斧を押し付けるオレンジの横で、もうひとりが剣を振りかぶる。

 二本目を受け止めるのは難しいかもしれない。けれど逃げたくなかった。

 死ぬのは怖い。なんなら目の前の斧だって怖い。でも、それでも。

 

「僕はみんなを守ってみせる!」

 

 自分に向けて啖呵を切る。誰よりも、自分の憧れにみっともない姿を見せたくない。

 オレンジの剣が振り下ろされる。

 ケイタは思わず目を瞑ってしまう。

 

「──よう言った」

 

 そして槍が軽くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「え?」

「おっと。無事か?」

 

 ケイタにつられるようにして目を瞑っていたサチが目を開けると、つんのめったケイタの体をがっしりとした右腕が受け止めていた。

 

「遅れてすまんかったな。ここ道がややこいんや。立てるか?」

 

 男性の左腕はケイタに押し付けられていた斧の持ち手を掴んでいる。剣を振り上げたオレンジプレイヤーは突き飛ばされたか足をかけられたか、男性の横で転んでいた。

 

「あ、ありが──」

「もーキバオウさん! ボクたちには行くなって言っといてなんで自分は行っちゃうのさ!」

「じゃかあしいわ! 出ちまったもんはしゃあないやろが!」

「血盟騎士団、近いところのオレンジカーソルプレイヤーから捕縛しなさい!」

「おうワイらも負けてられへんで! ぜーんぶ現行犯や、遠慮すな!」

 

 ケイタが礼を言おうとして遮られる。が、その後に聞こえてきた名前でサチは驚いた。

 キバオウといえば最大のギルド《軍》の幹部。血盟騎士団もまた攻略組の中ではトップクラスのギルドだ。ましてそれに指令を出した声は女性の声。血盟騎士団の女性といえばサチには《閃光》しか思いつかない。でも、どうしてここへ? 

 目の前ではいつもの倍速くらいで人が動く。白い制服と鎧のプレイヤーたちが瞬く間にオレンジプレイヤーの動きを封じていく。自分たちだけがなんだか取り残されたような錯覚をサチは感じていた。

 

「ユナ!」

「うん!」

 

 そして聞こえてくる歌声。聞いたことのない歌だった。しかしどこかで聞いたことのあるような不思議な感覚の歌。どこか風を感じさせる。いつ消えるのかと気にしていたキリトの毒のアイコンがなくなっていた。

 

「とぉー!」

「おわ!」

「チィッ!」

 

 黒髪を靡かせ、少女が舞う。キリトとジョニーの間へソードスキルの光を纏わせた剣を真っ直ぐに振り下ろした。

 刃が三つ交じり、弾ける。そうして強引に距離を空けさせたところへ、

 

「アスナ!」

「ええ!」

 

 栗色の髪が駆けた。まさに一瞬、残像すら見えそうな速さでジョニーへと肉薄して刺突を一撃。突進の勢いでさらにジョニーを後方へと弾き飛ばした。

 

「キリト、生きてる?」

 

 背中を向けたまま、黒髪の少女が問う。尻餅をついたキリトはそれに苦笑して返した。

 

「……死ぬかと思った。やるならやるって言ってくれ。びっくりするだろ」

「ごめーん」

「キリトくん、立てる?」

 

 黒髪の少女が屈託なく笑う。その傍らで、ジョニーを飛ばした少女が手を差し伸べた。

 

「アスナに、ユウキに……キバオウさん。あとウタちゃんか、彼女は。助かった、ありがとう」

「どういたしまして」

 

 アスナ。ユウキ。キリトは彼女らをそう呼ぶ。サチの知識と目の前の出来事とを照らし合わせれば、彼女らは間違いなく攻略組のあの人たち。フロアボスがクリアされるたびに名前の挙がる、あの人たちだ。

 アスナの手を取り、キリトは立ち上がる。

 

「よくここがわかったな」

「尾行した!」

「ユウキ……そんな堂々と言うもんじゃないわよ」

「そお?」

「いや実際助かった」

「ほら!」

「ほらじゃなくて。まったくもう」

 

 聞く限り、アスナは血盟騎士団の副団長という立場からそれほどではないにしろ、キリトとユウキは単独行動しがちだという話が多い。よくフロアボス戦の参謀を担うアスナがそれに頭を抱えているということもよくケイタから聞いてはいたが、目の前の三人を見る限りそれはあながち間違ってないように見える。けれど決してアスナはそれを迷惑と受け取ってはいない。きっと仲の良い──というよりも、長く行動を共にしたのだろうなという印象をサチは受ける。

 ちくりと胸に痛みが走った。

 

「なんや、ボスはおらんのけ。てことはやっぱハズレやったか」

「キバオウさん。……あんたも一緒なんて珍しいな」

 

 ジョニー・ブラックを除く全てのオレンジの捕縛と、血盟騎士団と軍による連行──この場の離脱を見届けて、キバオウも歩いてくる。二十人ものオレンジプレイヤーも、その倍もいるトップギルドのメンバーには手も足も出ないようだった。

 

「せやな。ワイかてこんなことになるとは思っとらんかった。……アレが、ジョニー・ブラックやな」

「ああ。左手の甲にシンボルがあるし、自分で名乗ってた」

「ならワイにとっては大当たりや。聞かなあかんことがある」

「わ、私もです!」

 

 続いてウタちゃん──プレイヤー名はユナ──も小さく挙手をしながら近づいてくる。

 キリトが攻略組でも群を抜いて強い部類であるとは聞いていた。だが、なんというか──人間関係においても強い部類だというのは初めて知った。《鬼》とまで呼ばれる割には。

 

「……キリト」

「ん、ちょっと待ってな。すぐ終わらせる」

 

 黒いコートの端を掴むと、キリトはそっと手を添えてくれる。急な展開で置いてけぼりをくらうのはいいけれど、キリトまでが遠い存在になってしまうのはなんだか嫌だった。

 

「チッ……クソが」

 

 吹き飛ばされたジョニーが体を起こす。

 

「なんだぁ、ずいぶんと豪華な顔ぶれじゃねえの。しかも全員オレが目当てときた。金取ったらいい商売できそうじゃん」

 

 雪を払いながらジョニーは身軽に立ち上がった。その手には既に新たな短剣を握っている。黒い刀身のものだ。

 オレンジプレイヤーは全て無力化したというのに、ジョニーはそれを気にする様子はなく、かといってさっきまでの狂ったような高い声でもなく、自分たちをここまで案内していた時のような静かで余裕のある態度に戻っている。

 それがサチには、ひどく不気味に感じた。

 

「で、オレに聞きたいってのはなんだ? せっかくだから教えてやる。情報屋のジョニーは開業中だぜ。もちろんお代はいただくけど」

「その前に神妙にして縄につけ。話はそれからや」

「嫌だって言ったら?」

「力尽くや」

「仕方ねえなあ」

 

 キバオウがこちらに目配せする。キリトは頷くと、コートを掴んでいるサチの手を優しくほどいた。

 

「キリト……?」

「大丈夫」

 

 笑って、キリトは優しくサチの頭に手を乗せる。その行動に驚いて、離れていくキリトを止めることはできなかった。

 そしてキリトは残っていた軍のメンバーふたりと共にキバオウに並び、じりじりと距離を詰めていく。

 ジョニーはひょうきんに肩をすくめて薄ら寒く短剣を弄んでいるだけ。キリトと対等の戦いをしたジョニーであっても、自分たちという足かせがなくなり、かつ軍とのパーティならば即席であろうと負けることなどあり得ない。

 それにここに来る前、初めて前衛として戦闘をしたときも大丈夫だったのだ。あのときとキリトの声音は同じだった。

 ──だからきっと、大丈夫。

 ホッとすると同時に、サチはそれでも《怖い》という感情が消えないことを不思議に思った。形勢は逆転したはずだ。数的不利はジョニーのはず。だというのに、今までどおりの態度にどうして戻れるのか。

 

「……だ、だめ」

 

 言い知れない不安があった。気持ちとは裏腹に、否定の言葉が口をついて出る。遠ざかるのは嫌だと思った矢先に手を離してしまったせいで、さらに不安は募る。手を離すべきじゃなかった。

 

 ──キリトの背中が、遠ざかる。

 

 キリトたちが地を蹴る。ジョニーが短剣を握っていない左手を盾にするように振るう。

 

「だめぇ──────!」

 

 そしてそれよりも早く、サチは駆けだしていた。

 盾を構える余裕はなかった。ただがむしゃらに、自分の背中を盾にするようにキリトとジョニーの間に入った。顔がキリトの胸にぶつかる。見上げるとキリトの驚いた顔が目の前にあった。その顔がどこか可愛らしく思えて、場違いにも思わず顔がほころんだ。

 

 ──ああ。私は、きっと。

 

 胸の高鳴りを感じて。

 そして体が軽くなる。

 

 どこか遠くで、ガラスの砕ける音がした。



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Nahat-4

 イルファング・ザ・コボルドロードというボスがいた。

 第一層フロアボスとして、迷宮区最奥に待ち構えていたコボルドの王。基本は斧と盾を駆使し、四本あるHPバーの最後の一本が削られ始めようというときに武器をカタナに切り替える。そのカタナは野太刀と呼ばれる種類のものだった。

 野太刀は刃の長さを三尺以上、だいたい九十センチ以上のものとしている。細かい分類はゲームの性質上されていないが、同じ商売仲間で詳しい者がいたために散々聞かされてエギルは覚えてしまった。刀の平均は二尺三寸、およそ七十センチくらいだとも。

 だが長いほうが有利というわけでは決してないらしいというのをクラインの使用経験から知っていた。鍛治スキルもあれば便利と身につけてみて、それでクラインのカタナを打ったことがあった。長いもの、短いもの、その中間。クラインが選んだのは中間のものだった。

 リーチがあるのは良い。だがリーチがありすぎても、今度は腰に下げたとき切先を地面に擦らせてしまったり狭い場所で振り回せなかったりと実は不便なのだと。

 なるほどそういうものかと納得した。確かにコボルドの王も鞘には納めず包帯のような白い布を刀身に巻いて腰に佩いていた。キリト曰く野太刀であるあれはもしかしたら、最終的に鞘を不要とするからだったのかもしれない。

 抜けば、終わり。自分が死ぬか相手が死ぬかしない限り納めることはない。そういう意味ではソロ向きの武器と言える。

 だからなのだろう。

 シュウの武器は、奴と同じ。刃渡りが少なくとも百センチはあるように見えた。

 

 

 

 

 

 竜巻が雪を巻き上げる。

 刀の纏う燐光は赤。まるで炎が渦巻くようでありながら、それはひどく冷たい風だった。

《梟》を中心とする風の渦に、彼を囲んでいたリンドをはじめ《聖竜連合》のメンバーが雪と共に宙に浮かびそして地に叩きつけられた。

 

「囲むなよ。忘れたか?」

 

 言いながら、《梟》は間髪入れず着地ざまに踏み込む。長い刀身の切っ先が地面すれすれを這うように、どちらかと言えば水平に近い角度で切り上げた。正面にいた三人のプレイヤーが引っかかり、再び宙に浮かされる。

 同時に《梟》も跳ぶ。短く、鋭く息を吐いて水平に一閃。六つのブーツが地面に転がった。

 ──まず三人。

 声が聞こえたわけではない。だがシュウの一挙一動をずっと見ていたクラインには、彼の目がそう言っているように見えた。

 躊躇いがなかった。殺してはいない。足止めという言葉どおり、脚部の部位欠損のみだ。それでも、二発のソードスキルと最後の斬撃は流れるように繰り出された。モンスターではない相手に──人間に、シュウは迷わず刃を向けたのだ。

 リンドが、筋違いとはいえシュウに恨みを持っているのは知っていた。あくまでも、それに対しての防衛だともわかっていた。先に刃を向けたのはリンドだ。それでも反撃とはいえ、シュウはプレイヤーにダメージを負わせた。オレンジのカーソルは間違っていないとでも言うかのように。

 はじまりのあの日を思い出す。アルゴに教えてもらった、シュウの行動の動機。《知り合いかもしれない誰か》のために奔走したのだと聞いている。隠しログアウトスポットの件でひょっこりと顔を見せたときに本人からも聞いたが、シュウの行動の動機にはその《誰か》──後でアスナのことだと判明した──やキリトやユウキがいた。誰かのために動けるやつなのだと、少し嬉しくも思っていた。

 その矢先に、一層攻略、同時に失踪、なにひとつの音沙汰もなく出会ったかと思えばノーチラスのソロ撃破を助けるように立ちふさがった。

 何が起きたのかは人づてに聞いて知っている。だが、それでもなおシュウがこうしていることに疑問を感じずにはいられない。ましてや先ほどの会話──ベータテスターについてなど、そもそも最近はその単語すら忘れかけていたほどだ。そんなことのために、シュウは行動していたというのだろうか。

 

「シュウ……」

 

 だが小さな呟きは、リンドの叫びと続く剣戟の音にかき消された。

 

「《梟》ッ!」

「叫ばなくても聞こえてる」

 

 裂ぱくの気合とともにリンドが剣を大上段から振り下ろす。鋭い一撃はしかし、《梟》の無造作にも見えるひと振りに簡単に受け止められた。

 リンドは《聖竜連合》でもリーダーを務めるだけあって、決してレベルの低いプレイヤーではない。攻略組としてはもちろん名を馳せているし、フロアボス戦においては欠かせない戦力である。間違いなく上位ランカーだという自負はリンド自身も持っていたし、それは攻略組のメンバーからも認められていた。

 加えて片手剣はソードスキルが豊富なことが特徴だ。短剣ほど連撃は多くなく、槍のようにリーチは長くなく、両手剣ほど破壊力は高くない。器用貧乏とさえ揶揄される武器種だが、それゆえに幅広い戦略を可能とする。連撃、刺突、剛撃。どれも突き詰めたものほどの強さはないが、ひとつの武器でどれでも選べる、選択肢の多さが強みの武器である。上手く使えば片手剣だけでなんとかなる。片手剣はそういう武器だった。

 

「このときをずっと! 待っていたぞ、《梟》ッ!」

 

 リンドの剣が一振りごとに纏う燐光の色を変える。とりどりの軌跡、その残光の上を異なる色が塗りつぶしていき、やがて眼を焼くほどの残光は白い光に変わっていく。

 

「ここで会ったが百年目! 絶対に殺してやる!」

「それは勘弁してくれ」

 

 火花が散る。金属のぶつかる音。二合三合と武器を合わせる。剣と刀が交わるたび、リンドの険しい形相が照らし出される。

 

「よくも、よくもディアベルさんを殺してくれたな! オレたちのリーダーだぞ、レイドのリーダーだったんだぞ!」

 

 その声にクラインはハッとして、これまでここにいるだけに徹していたアルゴに目を向けた。

 リンドは関係者の中でもより深く関わっているはず。だが今の言葉は、完全にシュウがディアベルを殺したものだと思い込んでいる。

 アルゴは肩をすくめ、やれやれとでも言いたげに首を横に振る。そうして手早く手元で何か操作をすると、メッセージを受信した音が聞こえた。

 

『聞く耳などないヨ』

 

 それだけ心酔している──それは見て聞いていればわかることだった。真実こそ知らないとしても、これほどの激情を露わにするというのは相当なものだ。

 だがそれは、裏を返せば。

 再びの着信音。

 

『けどだからこそ、チャンスではあル』

 

 顔を上げる。アルゴと目が合った。そして同じタイミングで頷く。

 シュウに執着するということは、逆にシュウを足止めさせるということでもある。人数差ならこちらに利があるのだ。

 ごく、と喉が鳴った。

 ──悩む必要なんてない。最初から考えていたように、とっ捕まえてゲンコツを食らわせてやればいい。

 腹を括ったクラインはすぐに《風林火山》のメンバーに指示を出す。

 

「やってやるよ、シュウ!」

 

 そして自分は、腰の刀を抜いてシュウとリンドの間に無理やり割り込んだ──が。

 

「来たか、クライン。──でも悪いな、ちょっと抜けるぞ」

 

 シュウはひときわ大きく刀を横に振り払う。長いリーチがクラインの踏み込みより速く襲いかかり、その勢いのままリンドまでもまとめて大きく弾き飛ばした。

 

「通さないっつったろ!」

 

《梟》は止まらない。その回転の勢いのまま、燐光を纏わせた足が閃く。カッ! と小気味よい音がして、《梟》を避けて横を抜けようとしていた《風林火山》のひとりの鼻先を何かがかすめて飛ぶ。それはすぐ向こうの木の幹に突き刺さった。

 足元に転がしていた、《梟》の刀の鞘だった。

 

「ふたり」

 

 それに驚いた《風林火山》のひとりが足を止める。その隙を《梟》が逃すはずもなく、長刀が横に薙ぎ払われる。宣言どおり、ふたりの足首から下が斬り落とされた。

 

「おおかた俺を引きつけてその隙に、だろ」

 

 返す刀で左腰に刀を構え、踏み込んだ勢いで体をねじる。長い刀身はそのまま薙ぎ払うような軌道を描き、続く三人をまとめて斬り飛ばした。その勢いで回転し、逆袈裟から斬り下ろす斬撃が残りふたりを襲う。太ももあたりを狙った一撃はしかし、突如現れた黒い壁──エギルによって止められた。

 

「当たりだ、シュウ」

「相変わらずいい壁だ。けど遅えよ、もう五人やっちまったぞ」

「遠慮ってもんを知らんのかお前は」

「忘れんな、俺は《敵》だぜ」

 

《梟》とエギルがお互いに口角を僅かに上げる。ギャリギャリ、とぶつかり合う刀と斧が音を立てた。

 シュウの言ったことは当たっていた。《風林火山》のメンバーがクラインから受けた指示は『シュウの脇を抜けてノーチラスがいるエリアに向かう』こと。戦う必要などない。ただノーチラスをソロにしないことが目的であり、そのためには一刻も早くこのエリアを抜ける必要がある。

 そしてアルゴの護衛は不要と判断したエギルは、新たにそうした《風林火山》の護衛として動いていた。

 

「その《敵》さんから彼らを守るのがオレの仕事でな。行かせてやってくれないか」

「却下だ」

「……だよな。じゃあ力ずくで通させてもらうぞ」

「はっ、こっちのセリフだよ。力ずくでも行かせねえ。カルマ回復未経験のオレンジプレイヤーなめんな」

「──な、にッ!?」

 

《梟》は再び足に燐光を纏わせる。そうして斧との鍔迫り合いの姿勢のまま、エギルの水月をめがけた前蹴り。パワーや重量で勝っているはずの巨体はしかし、まるでボールでも蹴るかのような気安さで、足が止まっていた《風林火山》のふたりを巻き込んで飛ばされた。

 

「知ってるよ、攻略組でも指折りの壁役だろ。けど悪いな、レベルは俺のほうが高い。殺しはしないよ。そこで寝てろ」

 

 攻略組の壁役。それはボスの攻撃を一身に受け止める役割である。そのために求められるのは筋力値を始めとする《重さ》のための数値。エギルの重量は、装備も含めて決して低い数値ではない。シュウの言うように、指折りの壁役であるということは数値として見ればかなり高いはずだ。おそらくは攻略組最高のレベルを誇るキリトですら、エギルを蹴り飛ばすなどできないだろう。その巨体が軽々と飛んだという事実に驚く。

 だが、エギルにとってはそれ以上に気になるワードが《梟》の口から漏れていた。

 

「待て、お前──!」

「《梟》ッ!」

「シュウッ!」

「だから呼ばなくても聞こえるっての」

 

 エギルの制止を遮るようにリンドが叫ぶ。それに続いてクラインも再び割り込むように飛び込んだ。それぞれの武器が交わり、甲高い金属音とこれまでで最も大きな火花がはじける。

 三人の鍔迫り合い。鋼と鋼と鋼のこすれる音が耳元でしていた。

 

「邪魔をしないでいただきたい、クラインさん! こいつは、こいつだけはオレの手で殺すんです!」

 

 クラインに呼びかけていながら、リンドは一度たりともクラインに目を向けてはいなかった。ただ《梟》だけをにらみつけている。

 

「一年前のことは知っているでしょう。その元凶がコイツです。ずっと探していたんだ。この日をどれだけ待ちわびたか。絶対に殺します。この剣に誓って。だから邪魔をしないでください」

 

 そこには強固な意志があった。清廉な騎士風の見た目に反してそれは決して褒められた目的ではない。それでも、リンドは《剣に誓って》言うのだ。その思いの強さは、言葉からも、そして故人に寄せているという見た目からもクラインには伝わっている。

 だが、だからといって。

 

「ハイそうですかと頷くわけねえだろうがよ。アイツが何をした誰であれ、目の前で殺すのをだまって見てるわけねえだろ。……だからシュウもよ、道を開けろ。ノーチラスを放っておくわけにはいかねえんだ」

 

 似ている。たったそれだけなのだ。だが、たったそれだけでもクラインにとっては見捨てられない理由になる。キリトがひとりで去るあの背中を忘れたことはなかった。シュウがひとりで動いているのを聞いているしかできなかった。そしてまた、ノーチラスも。

 今度こそという思いがある。ここで退くわけにはいかない。

 

「……だからさぁ、ふたりとも」

 

 そして《梟》は、そんなふたりを見ながら仕方ないとでも言うかのように笑っていた。

 

「何度も言ってるだろう。通りたいなら──自分の意志を通したいなら、力ずくでやってみせろよ。そうやって攻略組は全てのフロアボスを倒してきたんだろうし」

 

 そこで一度、言葉を切る。

 ちらとクラインを見、《梟》はさも楽しげに口角を上げる。

 

「俺もそうやって、力ずくで殺してもらったんだぜ?」

「貴……様ァァァァ!」

 

 リンドが叫んだ。片手剣に両の手を添え、全体重を乗せて押し込む。拮抗していた三人の武器が次第に《梟》を押すようにバランスを傾けていく。

 

「おいシュウ──!」

 

 火に油を注ぐようなシュウの言葉に声を上げたクラインを、《梟》は遮るように刀を強引に押し返す。リンドによって傾いていたパワーバランスが元に戻っていく。

 ──ドンッ! と。

 クラインとリンド、ふたりの腹に重い衝撃が走った。

《梟》が鍔迫り合いを押し返すために強く踏み込んだだけ。シュウの手は変わらず刀に添えられたままだった。

 

「遠当てっつってな。《体術》スキルのひとつだ」

 

 言いながら、体勢の崩れたふたりを武器を薙ぎ払うようにして押しのける。

 

「お前らをやれば他も芋づるってことでいいんだよな?」

 

《梟》が刀を右腰に構えた。刀身が赤く光りだす。

 そして再び、竜巻が雪を巻き上げた。

 

 

 

 

 

 

 

「……終わりか?」

 

《梟》だけが立っていた。

 風の渦に呑まれた《聖竜連合》はもちろん、戦闘を──《梟》を避けるようにして森の奥へと進もうとした《風林火山》も、そのメンバーのほとんどが足首より下を斬り落とされている。そのなかでリンドとクラインだけが斬り落とされなかったのは、リーダーとしての矜持だったのかもしれなかった。

 

「なんだ、攻略組ったって大したことないな? 無事なのはリーダーだけか。あとアルゴ」

 

 長刀を地面すれすれのところで緩やかに揺らした。大きく長いだけに重量もあるはずのそれを《梟》は片手で軽々と持ち上げ、それでいて鮮やかに、舞うように振るう。

 それはさながら演舞のように滑らかで──そして一切の容赦がなかった。

 

「お前は来ないのか?」

「オイラにゃもう荷が重いヨ。……そんな見事な足止めを見せられちゃ余計にナ」

「殺しちゃったら足止めじゃないからな」

 

 部位欠損の回復は、HPバーのそれと違いアイテムによる効果はない。それは即ちポーションによる漸次的回復も、結晶アイテムによる即時回復も効かず、ただ時間経過による回復以外に手段がないということ。

 そして回復に要する時間は一時間。安全圏外で行動不能になった仲間を放置するわけにもいかず、結果として《梟》による言葉どおりの《足止め》を受けていた。

 

「くそっ……! クソクソクソ、《梟》ッ!」

 

 足へのダメージがないリンドが裂帛の気合とともに斬りかかる。大きく踏み込んだ大上段からの剛撃はしかし、《梟》の刀に無造作に受け流された。

 

「懲りないね、お前も。……そりゃそうか、一年前のやつをずっと引きずってんだもんな」

「うるさい! お前があの人を語るな! お前が殺したんだろうが!」

 

 リンドは激昂し、再び肉薄する。

 

「あんな、よりにもよってあのタイミングで! 人をひとり殺しておいて! それでもお前は自分のせいじゃないと言い張るのか! あの人がどれだけ苦労して人を集めたのか知らないだろう! あの人がどれだけ人が集まったことを喜んだか知らないだろう! あの人がどれだけ──」

 

 リンドが叫ぶ。水滴がひとすじ、頬を伝う。

 

「どれだけ本気でゲーム攻略を考えていたかお前は知らないんだろうッ!」

 

 ひときわ大きな音がして、リンドの剣が沈んだ。おおっ、と動けないまでも《梟》を逃がさないために出入り口付近を固めていた《聖竜連合》から声が上がる。

《梟》は左手を刀に添え、防御の姿勢を取っていた。足元の雪が後方にやや盛り上がっている。リンドの剣に、初めて《梟》が押されたのだ。

 ざり、とリンドが一歩踏み込む。そのぶん《梟》が後方へ押される。

 一歩。一歩。鍔迫り合いのまま、リンドは少しずつ、しかし着実に踏みしめていく。

 歓声が上がる。《聖竜連合》からだ。リーダーの優勢に、ここぞとばかりに喉を震わせる。

 

「オレはお前を許さない」

 

 そんな歓声を背に、リンドはさらに強く踏み込んでいく。

 

「ディアベルさんの想いを踏み躙ったお前を、オレは絶対に許さないッ!」

 

 剣に体重が乗る。上から押しつぶすようにリンドの体が前に沈んでいく。刀の背が、《梟》の眼前まで迫っていく。

 

 だがそれでも、《梟》の表情が崩れることはなかった。

 

「……許さなかったら、どうするんだ」

「なに?」

 

《梟》の後退が止まる。雪に泥が混じっていた。《梟》の(ゆき)(ぐつ)が土を噛む。

 

「俺を許さない、それはいいよ。俺を殺したい、それも構わない。それで? 早くやってみせてくれよ。さっきから口だけじゃねえか」

「貴様……!」

 

 リンドが押し付ける刃に体重を乗せるべく身を乗り出す。だがそれとは裏腹に、じりじりと上体がのけぞっていく。

《梟》が押し返していた。一歩、押される。

 

「前もそうだったよな。お前はぎゃあぎゃあとわめくだけだ。見殺しにしただの嘘だのベータテスターだのと支離滅裂に。なに言ってやがる、号外にちゃんと書いただろうが。『この情報はあくまでもベータテスト時のものです』ってよ。『正式サービス版とは異なる場合がある』のは当たり前だろう」

 

 わざわざ赤字にまでしてやっただろう、とため息交じりに《梟》は言う。その瞳は目の前のリンドではなくその向こうにいる誰かを見ていた。

 ぎぃん、と甲高く。《梟》が競り合うリンドの剣をはじく音が響く。

 ふたりの間の、距離が開く。

 どちらかでも踏み込めば、そこは互いの間合いだった。互いに剣を向けながら睨み合う。

 

「それでも選んだのはディアベルだ。そして負けた。ならそれは他でもないディアベルの責任じゃねえか。《鼠》とはいえ疑うことをしなかったアイツが馬鹿だっただけだ。俺には関係ないね」

「貴様……ッ! 許さん、許さんぞぉぉぉ!」

「だから許さないならどうすんだっての」

「殺すッ!」

 

 リンドが踏み込んだ。瞬間、間合いが急激に縮まる。

 踏み込みの反動で両手を振り上げ、そして裂帛の気合いとともに剣を、《フラガラッハ》を振り下ろす──。

 

「遅えって」

 

《梟》の呆れるような声がして。

 リンドは腕を──手首から先の無い腕だけを振り下ろした。

 

「……な、あ?」

「学習しねえな、お前」

 

 遅れて、リンドの背中側からいくつかの落下音。振り向くと、そこにはふたつの手と片手剣──《フラガラッハ》が雪に埋もれていた。

 ドッ!!! と。水月に衝撃が走る。肉薄していた《梟》の膝がすぐ眼下にあった。体に浮遊感を覚えた次の瞬間、自らの手の上に激しく尻もちをついていた。

 

「っ……!」

「覚悟はできてるな?」

 

 顎が冷たく細い鋼に持ち上げられる。一対の瞳とオレンジ色のカーソルがリンドを見下ろしている。

 

「忘れたとは言わせねえよ。お前は俺に剣を向けた。てことは、俺に斬られる覚悟はあるんだよな」

「ま、待て」

「待てと言われて待つやつはいないだろ」

 

 リンドは尻もちをついた体勢のまま後退する。だがそんな鈍い動きで振り払えるはずもなく、《梟》はぴたりと追ってくる。

 左手で握られていた刀の柄に、右手が添えられていた。カタナの分類は両手剣だ。両手で握って、初めてソードスキルの発動が可能となる。

 刀が、橙色に光っていた。

 

「死ね」

 

 短く吐き捨てた言葉と共に刀が振り下ろされる──。

 

「待てっつってんだ、シュウ!」

 

 だが《梟》の斬撃は、また(・・)誰かによって防がれた。

 

「……クライン」

「やり過ぎだぞ、お前ェ!」

 

《梟》の刀が、クラインの同じく刀にはじかれる。ソードスキルの相殺による反動は大きく、互いに三歩ほど後ずさった。

 シュウの動きが止まったその隙に、リンドを隠すようにしてクラインはふたりの間に割り込む。リンドが戸惑いとも安堵ともつかない声をあげていたが、それに関しては一瞥するだけで何も反応を示さない。

 ただ目の前のシュウだけを、睨みつけるように見ていた。

 

「ノーチラスのほうはいいのか?」

「良かねえよ! 良かねえけど、こっちもこっちで放っておけるか!」

 

 叫びながら、クラインは雪に刀を突き立てる。

 自分ひとりでもノーチラスのところへ向かう心構えではあった。だがリンドとシュウのやりとりを目の当たりにして無視などできようもない。苦渋の決断だった。

 

「なぁシュウ、何も殺すこたぁねえだろ。本当に人殺しになっちまうぞ」

「今さらだよ。《梟》はすでにレッドプレイヤーだ。もうひとりもふたりも変わらない。言ったろうが。本気だよ」

 

 シュウの言葉に、背後でリンドが恨言を吐く気配があった。だがそもそもそれが筋違いであることをクラインは知っている。

 シュウは誰も殺していない。シュウが言うように少数派の意見ではあるが、それが真実であるということはわかっている。クライン自らが知るシュウの人となりとその彼の近くにいたプレイヤーたちが受けた印象を重ねれば、それは明白だ。

 ボタンを掛け違えてしまっただけ。そのほんの少しの差を直すことさえできればいいはずなのだ。

 だがその差を、シュウは逆に大きくしようと、確たるものにしようとしている。それがクラインにはどうしても見過ごせない。

 

「変わるだろうが、ゼロか一かだぞ! なんでお前ェはやってもねえことをやったと言い張るんだ!」

「だから言っただろ。必要なことなんだよ」

「だから何がだっつうんだ!」

 

 クラインは激昂する。

 わからないことだらけだった。ディアベルの死をさも自分がやったことのように言い続けるのも、よりによって殺人ギルド《笑う棺桶》のシンボルをその身に宿していることも、そして今回、ノーチラスの無謀な挑戦を後押ししていることも。

 人を殺す、あるいはその可能性があるという選択が必要になることそれ自体がわからない。

 最後に顔を合わせたとき──偽のログアウトスポットのときにわかったはずなのだ。彼が抱え込む性質であると。そして言っていた。なりふり構っている場合ではないのだと。あのときの苦しげな表情は今も鮮明に思い出せる。

 

「お前ェ、キリトをひとりにしたことを後悔してたろ。見間違いかもしれない人を追いかけるっつって、結局成果が出なくてよ。だったら無理やりにでもついていくなりついてこさせるなりすればよかったって思ってたろ」

「……っ」

 

《梟》が──シュウが息をのむ。

 

「けど気にすんなって言ったよな。あれは別におためごかしとかじゃねえんだ。オレはあのときのお前ェを見て、心配ないって、安心だって思ったから言ったんだ。だってそうだろ、お前ェはオレと同じかそれ以上に見捨てたって思ったのかもしれねえけどよ、ちゃんとキリトに追いついたじゃねえか。しかも隣にユウキちゃん連れて、《鼠》の仕事だってアポまで取ってよ。しかもその後で、別行動したときの目的もちゃんとこなしてアスナさんまで助けたらしいじゃねえか。知ってるか、三人とももう攻略組の最高戦力だぞ。攻略になくてはならない三人をつなげたのはお前ェなんだぞ!」

 

 訴えるように。黙り込んだシュウの目からひとときも視線を外すことなく、クラインは言葉を投げかける。

 ──わかるさ。大人なめんな。

 キリトのために、アスナのために。あれだけの行動力を示す男だ。その動機は、ちゃんと《救う》ことにあるはずだ。だからこそあの場にいなかった自分が心底憎い。何が変わったわけでもないかもしれないけれど、ひょっとしたら何か手助けができたかもしれないのだ。

 一年もの間ずっと悔やんでいた。今このときが、やっと巡ってきたチャンスなのだ。

 

「……戻ってこいよ。お前ェがいねえから、またキリトはひとりで行っちまう。アスナさんも難しい顔してるし、なによりユウキちゃんの顔が晴れねえ。お前ェ、まさか女の子泣かしてそのままなんてしねえよな?」

 

 クラインは手を差し伸べる。

 その手をシュウは黙って見ていたが──やがて口を開こうとして、

 

「ふざけないでください!」

 

 これまで黙って聞いていたリンドの声が大きく響き渡った。

 

「こいつが何をやったのか知らないんですか! 人を殺してるんだ! それをあなたは許そうと言うのか!」

「やったのはこいつじゃねえ。少なくとも、ディアベルだったか? そいつを殺す理由がねえ」

 

 へたりこんだままのリンドを後ろに庇うようにして、やはり視線はシュウから外すことなくクラインが答える。

 

「そんなの、LAボーナスが欲しかったからでしょう! オレも仲間も聞いたんだ、こいつはLAを欲しがってた!」

「けど取れなかったんだろ。しかもそれ以降は取りにも来てない。殺してまで欲しかったにしては諦めが良すぎる」

「そんなのいたって取らせるわけないじゃないですか! それがわかるからいなかったんでしょう!」

「……欲しいものを欲しがるって気持ちがそんなに弱いもんなら、お前ェはどうなんだ。蘇生アイテム、諦められるか?」

「なっ……諦められるわけないでしょう!」

「だろ? なら同じだ。諦めるわけねえんだ。それでもいなかったってことは、LAボーナスが目的じゃなかったってことじゃねえのか」

「──っ!」

 

 リンドが口をつぐむ。返す言葉が見つからない。確かに、欲しい気持ちがそうと言われれば否定はできない。

 だが、だからってハイそうですかと頷くこともできない。

 

「いったいなんなんだ貴方は! 人殺しを許容するとでもいうのか! コイツのカーソルを見ろよ、オレンジなんだぞ! 犯罪者じゃないか!」

 

 リンドは《梟》を指で指し示す。そこには確かに、オレンジのカーソルが浮かんでいる。

 

「そうだな」

 

 クラインは振り返ることなく頷く。そしてリンドがさらに何か言おうとするのを遮るように、再び口を開く。

 

「けど、()()だ。だからコイツを信じると決めた」

「なっ……」

 

 リンドが今度こそ絶句した。《梟》に向けていた腕が力なく垂れ、雪に沈む。

 シュウが少しだけ驚いたような顔をしていた。

 

「……クライン」

「なあ、シュウ。もういいだろ。もう一年だ。話せよ、あのときあったこと全部。そんで、戻って来いよ。な?」

 

 クラインの言葉に、シュウが初めて困ったような表情を見せた。

 だがそれも一瞬のことで、ややあって苦笑を浮かべながらゆるゆると首を横に振る。そして雪に刺していた刀を流れるように引き抜いた。

 

「……ダメなんだって。言ったろ、必要なことなんだ。まだ役目がある。それを終わらせないと、俺はそっちに戻れないんだよ」

「シュウ!」

「気持ちはありがたい。だが決裂だ。俺は戻れないし、やはりここは通せない。わかるだろう、クライン。()()()()()()なんだよ」

「……馬鹿野郎が」

 

 毒づき、クラインも刀を抜く。もはや交渉の余地はない。()()()()()()という言葉の意味がクラインにはわかってしまって、ひとつ大きく息を吐いた。

 音が止んだ。雪が静かに降っている。

 ふたりが、同時に踏み込んだ。



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Nahat-5

 腕に唐突な喪失感があった。腕の中でポリゴン片が舞う。まるで人ひとりぶんを抱きしめるような形で、キリトは動きを止めた。

 

「サ、チ?」

 

 ぎこちない動きで振り向く。ユウキも、アスナも、ユナも、黒猫団も。全員が驚いた顔をしていた。その中に、サチの姿だけがない。

 ──幻覚、じゃない。

 走り出そうとして、サチが急に目の前に現れて。慌ててブレーキをかけたら、サチが微笑んで。そして。

 

「ありゃ、ふたり残っちまったか。運がいい」

「……っ!」

 

 キバオウがキリトの襟を掴んで飛び退く。その急な衝撃にも反応できず、勢い余って雪の上に崩れ落ちる。ユウキやアスナが何かを言ってきているようにも思うが、そのどれもを言葉として聞き取ることができない。

 ただ理解していたのは、サチがポリゴン片に姿を変えたこと。その光景は何度も夢に出てきていて、そして二度と見たくないとずっと意識してきたものでもある。考えずとも、その現象は知っていた。

 だからこそキリトは、目の前で起きたことを信じることができなかった。

 

「これはまだ使うつもりなかったんだけど、まあしょーがねえか」

 

 ジョニーはやはり気怠げに立っていた。振り払うように左手を動かしただけだ。それ以外の動作は見ていない。ましてサチのHPは、数字こそ大きくはないにせよダメージもなかったはずだ。それがなぜ──。

 

「……これが、か?」

 

 キバオウが戸惑うようにしながら自分の首元に手をやった。その指の隙間に鈍く光るものがある。持ち手の部分のない、短く細い金属。まるで針や釘のような。それに似たものが、雪の上に三つ落ちていた。

 そこで初めてキリトは他に軍のプレイヤーがふたりいたことを思い出す。だが彼らの姿もまた、サチ同様になくなっていた。

 

「お代はもらったぜ。領収証明っていうのか、レシートの代わりは生命の碑だ。確認しとけよ」

 

 ──生命の碑。

 その単語に、キリトはびくりと震える。

 姿が消えたこと、確認は生命の碑。それが意味することは──。

 

「即死やと……!?」

 

 誰もが呆然とするなかで、キバオウがあり得ないと言わんばかりの口調で呟く。それにジョニーは答えず、ただ頭陀袋から覗かせる目を三日月型に歪めた。

 

「さて、三人分か。何が聞きたい?」

 

 

 

 

 

 

 

 毒は大きく二種類に分けられる。

 ひとつはダメージを継続して与えるもの。ダメージ毒と通称されるそれは、その程度の差によってさらに細分化する。いかに短時間でHPを削り切られるか、そのダメージ量によって差がつく。

 ふたつめに、行動を阻害するもの。麻痺、睡眠、暗闇といったアバターの身体機能に異常状態のステータスを与える。ひとつめの毒のようにダメージこそないものの、行動阻害の度合いの差によって同じように強弱が生まれる。

 そして存在の示唆こそあれど確認されていないものがあった。それが《即死》。

 分類するならばダメージ毒の極致だろうが、危険度は飛躍的に高い。もはや第三の毒とも言えるだろう。

 それを、ジョニーが。存在の証明どころか効果の程度まで見せたのだ。

 

「なんだよ、聞きたいことがあるんじゃないのか? あ、疑ってんのか即死毒。本物だぜ。さすがに自分じゃ試してないけど、これで何度かモンスター倒してたりするから間違いねーよ。うん」

 

 右の手に握る黒い短剣を弄びながら、ジョニーは自らの発言に頷く。

 

「今ので一個な。ちなみにサービスで教えてやるけど、当たりの確率はだいたい四回に一回だ。おめでとう、幸運の持ち主だな」

 

 そしてキバオウに向けて拍手。その様子はまさに惜しみない賞賛のようで、その様子がさらにジョニーの異質さを際立たせる。

 

「あとふたつだ。さて、どんな情報がお望みだ──っとぉ!?」

 

 黒い塊が、疾風の如き速さでジョニーに襲いかかった。

 

「おおおおああっ!」

「わ、ちょ、待っ、待て待て!」

 

 激しい金属音。雄叫びのような声はキリトが発していた。

 喉が潰れんばかりの荒々しい叫びだった。激情に任せて剣を振るう。長い前髪の下からひとすじ、またひとすじと光るものが落ちていく。

 

「ああああああああ!」

 

 言葉にならない──というより、言葉にしようとしていなかった。ただ感情の昂るまま、その矛先をジョニーに向けて。ソードスキルの発動すらせず、とにかく剣を振るその後ろ姿にユウキは既視感を覚えた。

 思い至るのは第一層の惨劇。《ジョニーによってプレイヤーが目の前で死んだ》のだ。あのときは直接の被害ではなかったものの、起きた現象で言えば全く同じ。しかもまるで狙い澄ましたように、キリトの目の前でそれは起こっている。

 ──キリトの心が壊れる。

 危機感を覚えたそのとき、ユウキの横を抜けようとする人影があった。慌ててその腕を掴む。

 

「……離してください」

「ダメ!」

「離せ!」

「ダメだってば!」

 

 黒猫団のリーダー、ケイタが槍を片手に唸るような声で言う。その間もユウキには一瞥もくれず、ただジョニーだけを見ていた。槍を握る手が震えている。

 それでも、振り払おうとするケイタの腕をユウキは離さなかった。

 見れば、その後ろで黒猫団の面々が武器を手に取っていた。そんな彼らをユナとふたり、自らを壁にするようにして立ちはだかって抑える。

 

「アスナ!」

「うん!」

 

 ユウキの呼びかけに答える前にアスナは動いていた。閃光の如き速さで一気に距離を詰め、再びジョニーに刺突を繰り出し弾き飛ばそうと試みる。

 その軌道上に、ジョニーはキリトの体を誘導していた。激情に任せた乱暴な攻撃はひどく単調になっていた。

 

「おら、返すぜ」

「──っ!」

 

 慌ててソードスキルをキャンセルする。物理法則を無視してブレーキをかけたアスナに抱き抱えられる形で、キリトはジョニーに強く蹴り飛ばされた。

 

「ったく、あぶねーな。びっくりするだろが」

「っ、く、そがぁぁ!」

「キリトくん!」

 

 なおも斬りかかろうとするキリトに、アスナは思いきり抱きつく。筋力値で劣る以上なりふり構っていられない。このまま続けても、ジョニーを捕縛する前にキリトが壊れてしまうだろうことはアスナにもわかっていた。

 

「よくも……よくもサチを!」

 

 キリトは止まろうとしない。アスナの静止の声が届いていないのか、もがきながらも立ち上がろうとしている。

 その顔は怒りに歪んでいた。ジョニーから一度たりとも視線を逸らさず、息を荒げ、まるで今にも噛みつこうとしている獣の如き形相。だが、強い感情をたたえた双眸からは止めどなく涙が流れている。

 

「離せ、離してくれ……! アイツだけは絶対に許さない!」

 

 まるでうわ言のようにキリトは呟く。離せ、許さない、絶対に。壊れた機械のように、それだけを呪詛のごとく呟き続ける。

 アスナはキリトが何を思って彼ら──月夜の黒猫団と行動を共にしているのかを知らない。黒猫団のこともだ。少なくとも攻略会議では見たことがなく、それはここまで尾行して確認した彼らの戦力からもおそらく想定したとおりの低ランクギルドだろう。

 全員と初対面であるし、それこそ《彼女》となんて目を合わせたかどうかもわからない。何を思ってキリトの前に飛び出したのかも。だが結果としてそれでキリトは命を救われている。ならば少なくとも、アスナにできることはこれ以上ジョニーに近寄らせないことだ。

 彼女が救った彼の命を、守らなければならない。

 だからアスナは──いったん、キリトを抱きしめる腕を離した。突然に自由の身を得たキリトはわずかによろめく。

 そしてその隙にアスナは素早く立ち上がり、キリトの正面に回り込んだ。

 

「……ごめんね」

 

 パァン、と乾いた音がして。

 キリトは雪の上に尻餅をついた。

 

「おおっ」

 

 その小気味良く大きく響いた音に、ジョニーまでもが驚く。

 キリトは平手を受けた左の頬に手をやりながら、呆然とアスナを見上げた。

 

「……アス、ナ?」

「落ち着いた?」

 

 目を白黒させるキリトの顔を覗き込むようにアスナはしゃがみ、優しく、それでいて少し怒ったように笑いかける。

 その──《笑顔》が。直前に見た、サチの《笑顔》と重なって。

 キリトの目から再び涙が溢れ出た。

 

「……約束、したんだ。大丈夫だって。絶対に守るって、誓ったんだよ……!」

 

 しゃくりあげるようにして泣くキリトを、アスナは今度は正面から、胸に頭を抱くようにして抱きしめる。相槌を打ちながらその背中をさすってやると、嗚咽とともにキリトは次々に言葉を漏らしていった。

 それは懺悔だった。彼女が怖がりであるとわかっていたのに強く言えなかった自分を、キリトは責めていた。戦闘に参加させるべきじゃなかった、盾を持たせさえしなければああして前に出ることはなかったかもしれない、とキリトは悔やんでいた。

 

「キリトさん……」

 

 ユウキに腕を掴まれたままのケイタが、小さく呟いた。自分以上に取り乱したキリトを見て落ち着きを取り戻したのか槍を握る手の震えは止まり、痛々しいものを──それでいてほっとするような、どこか温かみのある視線でキリトを見つめている。

 そうしてもう大丈夫と頷くと、ユウキもまたほっと息をつきながら腕を離した。

 

「そろそろいいか? 鬼の目にも涙ってか。前も泣いてなかった?」

「……っ!」

 

 ジョニーの言葉に、またもキリトがぴくりと反応する。だがアスナが庇うように強く抱きしめたおかげでそれ以上の反応を示すことはできなかった。

 

「まあいいや。それで、どうする? あとふたつ。ちゃんと教えるつもりはあるんだけど」

 

 ジョニーはそんなキリトの様子に興味を失ったのか、キバオウたちに目を向ける。

 

「オレに聞きたいことがあるみたいなこと言ってたもんな。どんな内容だ?」

 

 だいたいわかるけどな、とジョニーは短剣を弄びながら笑う。

 ユウキたちは互いに顔を見合わせた。この場がどう収まればベストか──いいや、そもそもいま最優先は何か。

 脅威の排除という意味では、軍や血盟騎士団に捕縛されたオレンジプレイヤーたちと同じように第一層はじまりの街の黒鉄宮地下に広がる牢へ投獄するのが理想だ。だが、そうすることでジョニーの機嫌を損ねてしまうと情報が得られなくなる可能性がある。

 そしてそもそも。即死毒を回避するための耐性などないわけで、さらにあの釘なのか針なのかというアイテムがどれだけジョニーの手元に残っているかもわからない以上は下手に行動に出ることはできない。

 ならば今は、真偽はどうあれジョニーがくれるという情報を聞くしかないのではないか。

 

「……今すぐにでもぶん殴りたいところやがな」

 

 キバオウが拳を握る。

 目の前で消えたふたりの名前を、オレンジを連行しているひとりにメッセージで確認させた。返事はすぐにあり、信じがたいことに確かに横線が刻まれているらしい。

 仲間を殺されて黙ってなんていられない。だが首に刺さっていたあの金属を避けられなかったのも確かだ。確率次第で死んでいたのだと思うとゾッとする。それを考えるとジョニーへの武力行使は慎重にせざるを得ない。

 全てがジョニー次第の現状が、ひどく歯痒い。

 

「……信じてもええと思うか?」

「だいじょーぶダイジョーブ。オレ、嘘、ツカナイ」

「お前には聞いとらん」

「あ、ひでぇ」

 

 キバオウはユウキを見ていた。《鼠》とのつながりを考えたのもそうだが──三日前の問いかけに、ユウキが頷いていたことがキバオウの印象に深く残っていた。

 ──お嬢はコイツを知っている。

 だから、聞くならばユウキだとキバオウは考えた。そしてユウキは、

 

「うん、いいと思う」

 

 あっさりと頷いてみせた。

 

「ほ、本気ですか!?」

 

 ケイタが大きな反応を示した。ジョニーに騙されてここまで来た黒猫団としては疑わずにはいられないのだろう。その声に一瞬驚いたような顔をユウキは見せたが、それでも意見を覆すことはしなかった。

 

「たぶん、だけどね。嘘は言わないと思うんだ。それでも気になるなら、一個だけ確認はできるよ」

「確認?」

 

 ユナが首を傾げる。他の面々も、ピンとはこなかったらしく怪訝な表情だ。アスナや、キリトでさえも。もしかしたらそれは、ずっと近くで見ていたユウキにしか思いつかなかったのかもしれない。

 彼らのそんな様子に苦笑しながら、ユウキはジョニーに目を向ける。

 

「ねえ、ジョニー。嘘は言わないって、シュウに誓える?」

 

 一瞬、頭陀袋から覗く眼が見開かれる。

 

「ああ、いいぜ。《梟》に、我が同胞シュウに誓おう。嘘は言わない」

 

 だがすぐに軽い調子に戻って、そう言った。

 

「ね」

 

 ユウキは改めて、キバオウたちに向き直る。彼らもキバオウと同じく、目を丸くしていた。

 確証こそ結局は得られていないけれど、おそらく以前ユナたちの前に姿を現したオレンジプレイヤーはジョニーだとユウキは考えていた。短剣、小柄、左手にシンボル。そして《梟》という単語。オレンジプレイヤーのコミュニケーションがどのようになされ、どれだけの人数がいるのかなどほとんど知らないけれど、決して多くはない人口の中で似た人物が何人もいるはずがない。

 そして少なくとも、目の前にいる男と《あのとき》の男は同一人物だ。それに関しては確信を持って言える。

 理屈は知らない。だがあのとき、シュウはジョニーを信じてもいいと言っていた。正直、自分ではまだ揺らぐ部分がある。けれどシュウなら。彼ならばこんなときも信じるほうを選ぶのではないかと思うのだ。

 

「聞くだけ聞いてみようよ。なんなら、嘘かどうかはいったん置いといてさ」

 

 それにこれこそ口にはできないけれど、三人もの命が失われたのは間違いないらしい。決して許してはならない。だがそれで意気込んでさらに犠牲を出すわけにはいかないし、かといって三人の命を無駄にするわけにもいかない。

 命と引き換えの情報だ。それで聞かないなんて、それこそ犬死にではないか。

 

「……わかった。それでええ」

 

 キバオウが一瞬の瞑目ののち、頷く。

 

「聞いたのはワイやからな。お嬢の判断を信じるわ。ウタちゃんはどうや?」

「私も、大丈夫。そのために来たんだもんね」

 

 ユナはちらと黒猫団を見、キバオウと同じように頷いた。

 彼らにはいろいろ思うところがあるだろうというのはわかる。だがユナはユナで焦っているのだ。ここは割り切ってもらうしかない。

 

「……?」

 

 不意にユウキの視界にメッセージの着信アイコンが閃いた。アルゴからだ。何か急ぎの内容だろうか。メニューウインドウを操作しながら、キバオウの声を聞く。

 

「じゃあウタちゃんからや。急ぎなんやろ」

 

 言って、ユナを前に促した──そのとき。

 

「……まだ、やって、いたのか」

「んお?」

 

 ジョニーの後ろで、掠れた低い声がした。

 

 

 

 

 

 

 

 一対の赤い瞳が、ジョニーの後ろの暗闇に浮かんでいた。

 

「ジョニー。そろそろ、時間だ。終わら、せろ」

 

 しゅうしゅうと掠れるような、途切れがちな声。赤い瞳はやがて顔全体の輪郭をぼんやりと浮かべていく。

 闇の中に、髑髏があった。

 

「……っ!」

 

 キバオウは慌ててユナを引き止め、自分の背に隠した。ユウキはそんなキバオウの動きに合わせて素早く黒猫団の前に移動し、アスナはキリトを強く抱き寄せる。

 その髑髏は、ゆっくりとジョニーの隣に歩み出た。

 襤褸布を上から被せただけのような格好。身長だけならジョニーとそう変わらない。異なるのはその足元にのぞかせる細い剣の鞘くらいだろうか。短剣ではない。細剣のようなフォルム。頭上のカーソルカラーもジョニーと同じオレンジで、そしてその襤褸布から覗く左足に──ジョニーと同じ、《笑う棺桶》のシンボルがあった。

 

「まだ早くね? もうちょっと遊ばせろよ」

「無理、だ。ボスも、動いた」

「ありゃ。じゃあマジで終わりかな。……あそうだ、おいザザ。お前、自己紹介とかしとけよ」

「いらん、だろ」

「えー」

 

 ザザと呼ばれたプレイヤーは、それより、とジョニーに何かを手渡す。

 

「早く、終わらせろ」

 

 瓢箪のような容器だった。ちゃぽん、と水の音がする。それを短剣の代わりに手でいじりながら、ジョニーはしょうがねえなと呟いた。

 

「ウタちゃん」

「っ!」

 

 そしてユナを指で示す。キバオウがより低く身構えるが、ジョニーはそこから動く様子は見せない。

 

「ノーチラスの行方、で間違いないな?」

 

 そうして言い放ったのは、まさに今ユナが欲しい情報だった。

 

「な……!」

「なぜそれを、ってのはナシで。だいたいわかるっつったろ。てかほとんどアレだ、《梟》からのネタだ。それで納得しろ」

 

《梟》という言葉にユウキがぴくりと反応する。

 そういえば、とユウキはユナの話を思い出した。確かユナが乱入を受けた際も、《梟》の言葉を受けていたかのようなことを言っていたのではなかったか。──ひょっとしたら、情報屋ジョニーとは。

 

「《明るい道を進め》。アイツに教えたのはそれだけだ。ずっと空の見える道を行けばそれが正解だよ。ちなみにサービスな、そこの黒の剣士にも言ったけど。お前らが大好きな《梟》もそこにいるぜ。今もいるかは知らんけど」

 

 ジョニーの言葉を聞きながら、ユウキはつい先ほどのメッセージをユナに転送していた。アルゴからの連絡──それは火急を知らせる内容で。

 そしてジョニーの言葉を真と裏付けているものでもあった。

 

『ノーチラス尾行、シュウ出現。ボス戦をノーチラスひとりにさせようと通せんぼしてル。急ぎユナ嬢連れてこられたシ』

 

 ユナの目が驚きに見開かれる。ノーチラスが──エーくんが、危ない。

 

「……っ」

 

 だが、ユナは動くことができなかった。

 戦力的な不安の残る黒猫団、未だ落ち着きを取り戻している最中のキリトと彼にかかりっきりのアスナ。まともに動ける戦士はキバオウのみだ。

 対するオレンジプレイヤーは、即死毒を所持する可能性のあるジョニーとザザと呼ばれる新たに現れた謎の髑髏マスク。

 ただでさえジョニーひとりを手に負えなかったというのに、むしろ増えた敵を前にこちらの人数を減らしていいはずがない。

 そうして迷うユナの背を──キバオウが、押した。

 

「ええで。行け。ここはなんとかする」

「え……」

 

 思わず、ユナはキバオウを見上げた。壁になってくれている彼は、《笑う棺桶》のふたりから目を逸らさないでいる。

 

「もともとそのつもりやったんやろ。ワイかてそれで納得しとる。言うたよな。あんなん、放っといたらあかん」

「キバオウさん……」

「お嬢!」

 

 キバオウの鋭い声が飛ぶ。思わず、ユウキは黒猫団を振り返った。

 

「……大丈夫、です」

 

 そう言うケイタの顔は不安げではあったけれど。それでも、ちらとキリトを見、そしてユウキに合わせた視線を揺らがせることはしなかった。

 

「わかった」

 

 ユウキは頷いて、素早くユナのそばに駆け寄り未だ迷うその手を取ると、すぐに走り出す。

 

「え、ユ、ユウキ?」

「行くよ、ユナ! アスナ、キリト任せた!」

「うん、任せて」

 

 その声を背中に聞きながら、ユウキたちはエリアの境界線を飛び越えた。

 

 

 

 

 

 

 

「あーあー、行っちまった」

「行かせた、の間違い、だろう」

「まーな」

 

 走り去るユウキたちをジョニーらは追わなかった。それにどんな思惑があったのかはわからない。だが少なくとも、キバオウにとっては好都合だった。

 

「それで、あと一個か。聞きたいのはキバオウさん、アンタで間違いないな?」

「せや」

 

 ジョニーの言葉にキバオウは頷いて、一歩前に出る。全員をまとめて守るためには、相手により強く自分を意識させればいい。さらに言えば、相手に近ければ近いほど自分をより大きく錯覚させることができる。

 

「わかっとんなら、はよ言ってくれんか」

 

 キバオウの聞きたいこと──それは、ディアベルに関して。あのとき起こったことの真実を確かめることが、今ここにいる理由だ。

 ディアベルを殺した真犯人は誰なのか。

 そして自分が、ディアベルに騙されていたのかどうか。

 ベータテスターへの嫌悪は間違いなくあった。自分が生きて帰るために、そして仲間を生きて帰すためにと決死の覚悟で進むその横でいとも簡単にキバオウを追い抜いていく彼らは、救いを求めて伸ばした手を払いのけたのだ。自分がよければそれでいいのか。誰が死のうとお構いなしか。いま思えば筋違いも甚だしい怒りであったが、それでもそのときは仲間たちの命を背負っているという責任が崇高な使命感と化していた。

 そんなとき、ディアベルだけはその伸ばした手を取ってくれた。助け合いだと彼は笑っていた。自称とはいえ《騎士》だからねと。その彼に、キバオウはついていくことを決めた。

 

 キリトがベータテスターだということを教えてくれたのはディアベルだ。どこからか買ったらしいその情報は、義憤に満ちた当時のキバオウにとって火に油だった。

 だがだとすると、《梟》の行動がどうしても合わない気がするのだ。

《梟》に関して知っていることは少ない。なにも知らないとまで言えるかもしれない。ただ、信じられる人間だとは思っていた。だがそれに関しても、《梟》のひととなりを知るからではない。お嬢が──ユウキが。《彼》に全幅の信頼を寄せていると知っているからだ。

 トールバーナでの攻略会議のとき。あの舌戦を経て、ユウキというプレイヤーがベータ上がりでないことは確信した。単純ではあるが、それだけでも当時の自分にとってユウキは信頼のおけるプレイヤーにカテゴライズされた。そしてその後に彼女が向かったのが、直前まで座っていた場所ではなく《彼》のもとだったのだ。

 

 キリトと自分との間で、《彼》は《鼠》としての仕事をこなしていた。それがブラフだったとは思わない。後で読み返せば、情報は異なる場合があるということはきちんと書いていた。あれがアルゴによるものか《彼》によるものかは知らないが、少なくとも警告はしっかりと《鼠》から出されていたのだ。それもあって、あのユウキが信頼を置く人物が悪人であったということがどうしても結びつかない。となると、《彼》のあの場での立ち回りの意味が変わってくるようにも思える。

 そしてなにより。これも後で思い出したことだが、ディアベルが亡くなったあの瞬間、《彼》は動けない体をユウキに抱きかかえられていたのだ。自分の身を挺してまでディアベルひとりを殺す理由に納得のいくものがどうしても思い浮かばない。

 推論をいくつも挙げたところで、そのどれもがそれらしい理屈を当てはめられるだけで確信にまでは至れなかった。ディアベルという渦中の人物が死んでしまった以上、真実は闇の中に葬られたはずなのだ。

 ──ただ、ふたりを除いて。

 

「まあそう焦りなさんなって。せかせかしたって良いことないぜ?」

 

 ちゃぽん、とジョニーは瓢箪を揺らす。

 ふたりのうちのひとりはもちろん《彼》だ。だが《彼》に関して言えば、知っていることは確かに多いだろうがそれらすべてが推論でしかない可能性がある。頭の切れる人物だった。まるで全て見通しているような。だがそれでも、当事者かと言えば否だ。どこまでも《彼》自身が言ったことであって、収集した情報としては具体的な例はない。あくまでも最も近い人物にすぎない。

 もうひとりが──ジョニー。この男に持った印象は疑惑しかない。聞く話によればディアベルを救おうとした《彼》に麻痺毒を与えたのがこの男であるとか、直後あの部屋を《彼》が出ようとしたタイミングで合流したのがジョニーであったとか、その程度のものだ。それでも挙がる話の中に具体的に当事者であったというものがあるのであれば、事実として当事者であった可能性は高い。

 そして当事者であるならば。あの当時の真実を知っている可能性もまた、高いのだ。

 

「そんなことはあらへん。むしろ急ぐのはお前のほうやぞジョニー。ワイは軍や。増援呼ぶなぞ朝飯前やで」

 

 キバオウはわざと不敵に笑う。余裕を示せば、それだけ相手は焦ってくれるものだからだ。実際、すでに呼びかけはしている。ただ、それがいつ到着するのかがわからないというだけだ。

 果たしてその効果は、あったのかどうか。

 

「……そういや、そうか」

「だから、はやく、終わら、せろと」

「わかったわかった、急かすなってのに」

 

 再びジョニーは瓢箪を揺らす。水の音が大きく鳴った。

 

「んー……そうだな。何から話そうか。って言っても、言えることなんてオレからはひとつしかないんだけどさ」

 

 ひょい、と瓢箪を宙に投げ、それをどこからか取り出した短剣の一振りで切り裂く。

 

「ディアベルを殺したのはフロアボスだ。オレはなんにもしてないよ。ただ邪魔になりそうな奴の足止めをしただけだな」

 

 ジョニーが言い終わると同時に──森の奥から、獣の太い雄叫びが轟いた。

 

「……足止め、やと?」

「そ。なんかみんなオレの短剣ばっかり気にするけどさ、オレとしてはそんなんどーだっていいわけ。お前らの情けない姿が見れればそれでいいわけよ。そういう意味で上出来だったぜ。たかがディアベルひとり死んだ程度で見事に逃げ腰だ。アンタもそうだったな、キバオウさん?」

 

 くつくつと頭陀袋の奥で喉を鳴らすジョニー。

 

「勝手に前出て、勝手に死んだんだぜ。まさか武器が違うってのはオレも知らなかったけど、そもそも壁役でもないパーティひとつで最後のHP一本ぶん相手にできるとかバカの極みだろ。それまでのHPの削りかた見てなかったのかっての。だから、死んだのはアイツがバカだっただけだよ」

「そう、か……」

 

 キバオウは視線を下げて呟く。

 結局、ディアベルにどんな背景や思惑があったのかはわからない。だが少なくとも、《足止め》が事実だったということはわかる。そして過去に得た情報と照らし合わせれば、その足止めを食らったのが《彼》だということも。

 つまり──。

 

「お前が、ディアベルはんを殺すように仕向けたっちゅうことやな?」

 

 ──《梟》は、関係ない。お嬢と同じように、信頼してもいい人物なのだ。

 

「だからそう言ったろ?」

 

 満足げに頷き、ジョニーはキバオウを──その先の、アスナを短剣で指し示す。

 そして、出血大サービスだぜ、と頭陀袋から覗く眼をさらに愉しげに歪めた。

 

「なあ閃光さんよ。偽ログアウトスポット、覚えてるか? ここはな、迷いの森ってダンジョンの最奥だ。つまりここにもボスがいる。そして発現の条件は、《酒を撒くこと》だ」

 

 アスナが驚きに眼を丸くする。

 偽ログアウトスポット──それはアスナが初めて踏み込んだダンジョンで。外に出られるという嘘の情報を信じ込み、危機に陥ったところをシュウやキリトに助けられた場所。それを知っている? 

 その様子をも、ジョニーは愉しげに眺めていた。

 瓢箪からこぼれ出た無色透明の液体が雪を溶かし塊になって再び凍る。そしてつんと強い匂いをあたりに漂わせ始めた。

 

「足がついちゃうからよ、直接はやりたくないの。カーソルカラーとかな。それにこれはみんなに言ってんだけどさ、ゲームなんだぜ。ゲームの中。せっかくだからさ、オレはみんなにゲームを楽しんでもらいたいわけ。──さぁて」

 

 言いながら、ジョニーは両手を広げて後ろにステップを刻む。いつの間にか髑髏マスクのザザは全身を森の闇に溶かしていた。

 

「宴もたけなわ、現れますは猿山の大将《ドラグドエイプ》。日本語で《酔いどれ猿》だ。楽しんでいってくれ」

 

 ズン、と地響きが鳴る。ザザのときとは明らかに違う高い位置に、笑っているかのような三日月形の赤い瞳が闇の中から浮かび上がる。

 それに合わせてジョニーが大きく後ろに飛びはねて、森の闇に消える。

 

「イィィッツ、ショウタァイム!」

 

 そして残響のような声とともに、瓢箪をガラガラと腰にいくつもぶら下げた大猿が数体の《ドランクエイプ》を率いて姿を現した。

 

 

 



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Musik-1

 明るい道を進むというのはおそらくスタート地点からだろう。ならばまずはそこへ戻らねばならない。

 メニューウインドウを急ぎ操作する横で、それでもユナはちらちらと背後を振り返っている。

 

「ユウキ……本当に、大丈夫かな」

 

 取り出した転移結晶を片手に、ユウキはユナを振り向いた。

 

「ユナ」

「……うん」

「戻るなら、今のうちだよ」

「え……」

 

 ユウキの言葉に、ユナは言葉を詰まらせる。

 戻ってもいい──そんなことを言われるとは思ってもみなかった。

 進まなくてはいけないということはわかっている。進みたいという気持ちもある。けれどそれと同じくらい、あの場に残したひとたちを心配する気持ちがあった。

 初めて見たのだ。プレイヤーがプレイヤーの手で死ぬ場面──殺人を。

 そしてその殺人者があの場に残っていることが、この上なく不安でたまらない。

 

「ユナが選んだんだから、ボクはそこに何も言わない。でも、これだけはちゃんと言っておくよ」

 

 ユウキはそう言って、ユナの手を離して正面に向き直る。

 

「アスナもキバオウさんもわかってて行かせてくれたんだ。だからボクは行く。それにさ」

 

 ユウキもユナと同じように心配していた。あのギルドのリーダーは大丈夫と言っていたが、それでも不安は拭えない。キリトに関してはアスナに任せたから問題ないだろうが、戦えるのかと言われればわからない。かと言ってあの場から離脱させると言うのであればあのギルドを優先させるべきだし、そうなれば本当にキバオウひとりになりかねない。ならばキリトをあのギルドに任せてアスナとキバオウのふたりに頼るというのが妥当な線だ。だがザザというオレンジプレイヤーが新たに現れた今、その実力がわからない以上は自分たちだってあの場に残るべきなのではないかと思いもする。

 それでもユウキは行くことを選んだ。もちろんそれには、シュウが現れたということがひとつの要因ではあったけれど。

 

「依頼、受けるって決めたから」

 

 仕事という表現に冷たさを感じるなら、約束と言い換えてもいい。ユナと交わした約束なのだ。ノーチラスを止める。絶対に死なせない。

 ユウキの答えに、ユナははっと目を見開いた。

 

「どうする?」

 

 あらためて訊ねる。

 ユナは、今度は迷わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 大猿率いる、猿の軍団。ジョニーたちと入れ替わるように現れたそれらを見たとき、キバオウは咄嗟にアスナを──彼女に庇われているキリトを振り向いた。

 

「黒いの!」

 

 いけるか、と聞こうとした。さすがにキバオウひとりであの量は無理だ。《ドラグドエイプ》は一体。その取り巻きである《ドランクエイプ》が六体。頭数で言えば同じであり、《閃光》はともかく、黒猫団の戦闘力が心許ない現状でさらに動けないプレイヤーがひとりでもいるというのはこの上なく難易度を跳ね上げる。

 だが、キバオウが言うよりも先にケイタが口を開いた。

 

「キリトさん」

 

 すでに他のメンバーは動いていた。三人が、それぞれで一体の相手をしている。その戦闘はとても危なっかしくて、今にも助けが必要に思えるほどで。けれど各々の表情に退く意思は全く表れていない。

 そしてそれは、キリトに歩み寄ったケイタの顔も一緒だった。

 

「僕らは、簡単にではありますがひとつ決めました。そしてすみません。僕たちはあなたとの約束を破ります」

 

 アスナの背中で、キリトが微かに身じろぎする。

 

「危ないと思ったら逃げろ──今、かなり危ないです。でも僕らは戦います。サチのおかげでというとなんだか情けなくも、お前が言うなとも思いますが。それでも、サチがあのとき何を思っていたかはきっと僕らがいちばんわかってる」

 

 キリトのせいなんかでは決してない。ケイタも──ケイタたちもまた、はやる気持ちを抑えきれずここへ来ることを選んだのだ。サチだけが首を横に振っていた。その少数意見を無碍にしたのはケイタたちだ。キリトはきちんと汲んでいた。彼が自責の念に囚われる必要などないのだ。

 それでも彼は、サチの死は自分のせいだと言ってくれた。

 だから、伝えるべき言葉はこれだ。

 正しく伝わるかはわからない。伝えるべきではないかもしれない。けれど、少なくともケイタたちには──長く友人をやってきたからこそ、あの瞬間だけはサチの想いがわかったのだ。

 今さらとも思う。少なくともこのゲーム中ではサチの気持ちを無視してきたのに、この期に及んでどの口が、と。

 それでも伝えなければならない。でなければ、誰よりもキリトが報われない。

 

「キリトさん!」

 

 ケイタは姿勢を正した。呼びかける声は、大きくはない、けれど強い声だった。

 彼からもらったのは、とても大きなもの。そして大切なものだ。

 勇気と無謀は別物だという。その意味を、身をもって知った。

 サチはあのとき、誰よりも勇者だった。

 

「ありがとうございました!」

 

 頭を下げる。キリトがどんな顔をしていたのかはわからない。

 だが小さく、うん、と頷く声が聞こえて。

 顔を上げたケイタは、短く息を吐いてすぐに一体のドランクエイプに向かって走り出した。

 

「……なんや、ずいぶんと変わったっちゅうか。見損なっとったな」

 

 キバオウが感心したように呟く。尾行していたときと今と、彼らは大きく違う。メンバーがひとり目の前で殺されて、もしかしたらひどく崩れると予想していただけにキバオウは戸惑ってもいた。

 そして少し、羨ましくも思えた。彼らは彼らできっと彼らなりの決着を見たのだ。仲間の死を、ちゃんと受け止めている。そのうえで、前を向けているのだ。

 

「……ワイにはそれができんかった」

 

 仲間の死を他人のせいにしていた。だから逆恨みのようなことを思ったのかもしれない。そしてたぶん、彼らにとってのキリトが、自分にとってのディアベルであり、《梟》だった。そのことに気づけなかった──あるいは今さらになって気づいたことが、すごく悔しい。彼らは自分がたどり着けなかった境地にいて、それが少しまぶしかった。

 だが止まってはいられない。それでも彼らの戦力が上がったわけではなく、今にも簡単に崩れてしまうだろう。援軍は呼んでいるが到着にはもう少しかかると報告があった。であるならば、ここは今のメンバーで切り抜けるしかない。

 そして間違いなく、現状の最高戦力はキリトのはずだった。

 

「ほんで、黒いの。行けるんか」

 

 剣を抜き、肩に担ぐ。

 

「ダメなら、帰れ。《閃光》がお前にかかりっきりっちゅうんは厳しいで。あのデカいのはともかく、ちっこいのがまだぎょうさん湧くんやとしたら数も力も足りん。ひとりで帰るか、戦うか。決めろ」

 

 言うだけ言って、キバオウは大猿──ドラグドエイプに斬りかかっていった。

 そして、それまでを黙って見ていたアスナがようやく口を開いた。

 

「キリトくん」

 

 静かな声。キリトのまだ少し震える手を、アスナの手が優しく包む。

 

「まだ、お礼言ってなかったね。偽ログアウトスポットで、助けてくれてありがとう。ジョニーの言葉でっていうのがなんか癪だけど、思い出したんだ。あのときシュウさんばっかり見てたけど、キリトくんが倒してくれたんだよね」

 

 焦っていた。なにも知らないまま、このゲームから出られないという絶望だけがわかっていて、だから目の前に吊るされた脱出という二文字に踊らされた。

 そこに助けに来てくれたのが、ユウキと、アルゴと、シュウと、そしてキリトだった。

 

「シュウさんやアルゴさんが行くって言ってくれて、キリトくんは呼ばれたからっていうのも知ってる。でも、助けてくれたのはキリトくんだから。だから、ありがとう。おかげで、わたしは生きてるよ」

「……っ」

 

 アスナの背中で、鼻を啜る音が聞こえた。だが聞こえていない振りをして、アスナは話し続ける。

 

「自分のせいでってキリトくんは言うけど。キリトくんのおかげで、生きてるひともいる。それを忘れないでね」

 

 言いながら、アスナはきゅっとキリトの手を握る力を強めた。

 

「それでも忘れちゃうなら、いつだって思い出させてあげる。あのとき守ってくれたお返しに、今度はわたしが、キリトくんを守るよ」

 

 そしてアスナはキリトの手を離して立ち上がり、

 

「行ってくる」

 

 それだけを告げて、閃光の如き速さで駆け出した。

 

 

 

 

 

 

「キバオウさん!」

 

 アスナは呼びかけながら、速度を緩めることなく細剣の切っ先を大猿に向ける。ソードスキル《リニアー》。直線的を意味するその技は、真っ直ぐに大猿の腹を刺し貫き吹き飛ばした。

 

「状況は」

「悪い。コイツの火力はそんな強くあらへんけど、耐久力が尋常じゃない。小さいほうは野良と同じようなもんやが数が多い。アイツらだけじゃしんどいな」

「じゃあどっちかが」

「選ぶならワイがあっちや。あんさん盾持っとらんぶん火力出るやろ。とっとと削らんともっとあかん。あのサル、泣き上戸でほかの子分呼ぶで。ほかの上戸はもっとわからん」

 

 キバオウの言葉に、アスナはさっと大猿のほうを見た。立ち上がろうともせず、木に背中を預けながらぐびぐびと瓢箪を傾けている。

 

「今でこそ落ち着いとるし、こういう休憩みたいなときに一回周りの掃除したんやがやっぱ手が回らん。しんどいかもしれんが、鈍いから避けれるはずや。削るなら《閃光》やと思う」

「わかりました。ひとまずそれで」

 

 言ってから、二人ともがちらとキリトを見る。変わらず沈黙しているキリトにキバオウが何かを言う前に、アスナは口を開いた。

 

「行きます」

 

 言って、立ち上がった大猿に切っ先を向ける。そしてやはり何かを言われる前にアスナは剣に光を纏わせた。

 ドラグドエイプ。ドランクエイプの特徴がそのまま大きくなっただけのはずであり、ならばあの振り回される瓢箪はメイスに類する打撃武器。攻撃パターンもおそらく基本は同じ。ただ、泣き上戸になると援軍を呼ぶ。ということはもしかしたらほかのパターンもあるということだろう。

 だが関係ない。血盟騎士団に援軍は要請した。団長は来ないだろうが、ほかのメンバーでも十分だ。おそらく軍のほうでも増援は呼んだはず。相手は仮にもボスだ、こんな少人数で倒せるとは思っていない。援護が来るまで耐えることができればじゅうぶんで、それはおそらくキバオウと自分だけでも可能である。

 ──だけど、もし。

 視線こそ大猿に向けたままだったが、アスナは記憶を掘り起こして期待する。

 ──もしキリトくんが復活すれば。

 あのときの背中はとても大きかった。一刀両断された巨狼のポリゴン片が舞う光景はきれいだとさえ感じた。彼の背中を見て、アスナは進むことを迷わなかったのだ。

 キリトは、指針であり。

 そしてアスナにとっての象徴だった。

 その彼が復活さえしてくれれば、この少人数による討伐だって不可能ではないとアスナは信じている。

 そして大猿が立ち上がった。巨躯というにはやや小さい。ドランクエイプと比べて頭ふたつ違うくらいだ。だがボス。キバオウの話では泣き上戸があるという。そういうギミックはドランクエイプにはなく、ゆえにひと癖あることが特徴といったところだろう。

 一対一。あのときと同じだ。それでもアスナはひるまなかった。

 大猿が泣く──泣き上戸。取り巻きのドランクエイプが増える。だがそれらは全てキバオウと、彼の指揮に従うあのギルドに任せる。

 大猿が笑う──笑い上戸。瓢箪を振る頻度が増える。間隔がまばらになるが、速さは変わらない。避ければいい。

 大猿が飲む──飲み上戸。瓢箪の酒を呷ることでHPが回復する。そのぶん攻撃に手は回らない。こちらから攻撃する好機ではあるが、どうか。

 アスナは刺突を繰り返す。避け、突き、避け、突く。持ち前の軽いフットワークと高い攻撃力でじわじわと大猿の体力を削っていく。

 

「……っ!」

 

 だが、どれだけ削っても回復パートーー飲み上戸になるとほぼ全快してしまう。キバオウが言ったように耐久力が高すぎるのだ。高HPというのもそうだが、防御力──ダメージの通らなさが尋常ではない。鎧などなく、腰巻ひとつの肉体がまるで鋼のように硬い。それでいて仲間は呼び、自分は回復する。まるでフロアボスと思い紛うほどに戦闘が長引いていた。

 レベルだけで言えば絶対と言い切れるほどマージンの取れた層ではあるけれど、長期戦になれば絶対に不利だ。それがわかっているから、アスナのほうが圧倒的に攻勢であるのにじりじりと焦りを露わにしていく。

 ──回復が足りない。

 自分はいい。キバオウも。だがそれ以外、彼らの回復が間に合わなくなる。増援の連絡もなく、それがさらにアスナを焦らせていく。

 そこへ大猿は新たな上戸を見せた。

 

「ゥグルルルル……」

 

 鋭利な歯を見せ、低く唸る。それは憤怒の表情──怒り上戸。

 瓢箪を振る間隔はやや開いた。だが代わりに振る速度が、一撃の威力が上がる。焦りに身を焦がすアスナはその速度を見誤った。

 ドッッ! と。

 横から襲いくる瓢箪がアスナの細い体を軽々と吹き飛ばした。受け身こそ取ったが、体が動かない。打撃武器に多い行動不能付与。視界端、HPバーのところに星の回るアイコンが点灯する。

 

「閃光!」

「アスナさん!」

 

 キバオウたちはそう呼びはするものの、ドランクエイプの数の多さとそれを相手取る黒猫団のフォローとで離れることはできない。

 ゆっくりと、大猿はアスナに向けて踏み出す。さらに激しく憤怒に満ちた顔で空になった瓢箪を投げ捨て、新たに腰に下げていたひとつを手に取った。唸り声をあげ、酒が入ったままの瓢箪をぶんぶんと振り回して、大きく振りかぶって。

 その光景にどこか見覚えがあって、圧倒的窮地のはずなのにアスナはなぜかひどく安堵した。

 

 ──間に合った……! 

 

 そんな声が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 ──サチの顔が、まぶたの裏に焼き付いて消えない。

 絶対に守ると誓った。その約束を、あっけなく破ってしまった。それどころか守られた。その情けなさと、目の前でアバターが消えたあの喪失感で体が押しつぶされそうだ。

 ディアベルのときもそうだ。守ると誓ったわけではないけれど、ひとが死ぬという感覚をやはり腕の中で味わった。

 ──後を頼む、と言われた。

 だからというわけではないけれど、《守る》という行為が自分のなかで大きなウエイトを占め始めていた。もっと早く気づけていれば。もっと早く伝えられていれば、もしかしたらディアベルは、サチは死ぬことがなかったかもしれない。そしてそれを言うならば、コペルのときだって同じなのだ。いつも同じ後悔をしている。

 ──ありがとうございました! 

 礼を言われるようなことはしていない。罵倒すらされたっていいのだ。そのくらいの大口は叩いたし、それでいて結果は残せていないのだから。

 だから、だろうか。キバオウの物言いになぜか安心した。

 ──ひとりで帰るか、戦うか。決めろ。

 まるでシュウのようなことを言う。たしかあのときも、シュウに選ばされた──というか、確かめられたような気がする。選ぶ権利どころか、考える余地すらない。戦うべきなのだ。

 だというのに。そこまで頭ではわかっているのに、からだが動かない。動こうとしない。まるで本能が動くことを拒んでいるような。

《怖い》、と思った。これ以上失うことが怖い。これ以上、自分のせいで何かが起こることが怖い。……立ち向かうことが、怖い。

 そんなとき、ふと自分の手にぬくもりがかぶさった。

 ──ありがとう。おかげで、生きてるよ。

 アスナの声。たったひとり、キリトがちゃんと救えたと思えるひと。だがそのぬくもりは一瞬で消える。それがひどく不安に思えて、キリトはまるで迷ってしまった子供のように視線をさまよわせる。

 そうしてやっと顔を上げたキリトの視界に飛び込んできた光景は、かつてと同じだった。

 ボスが、武器を振り上げて。

 アスナの背中が、見えていて。

 ──勇気を、ちょうだい。

 サチの声。怖がりな少女の一言が頭の中に響く。一瞬、手にぬくもりが戻る。

 キリトは、土を蹴っていた。

 

 

 

 

 

「──何度も何度も、目の前で死なせてたまるかよ……!」

 

 振りかぶられた瓢箪に、青い光の尾を残して黒い塊が衝突した。

 大猿が再び尻餅をつく。黒は宙で一回転してアスナの前に着地し、ゆっくりと立ち上がる。

 翻るコートがゆっくりと降りてきて。

 あのときと同じ背中が、アスナの前にあった。

 

「キリトさん!」

 

 ケイタが名を呼ぶ。それに頷きを返して、キリトは少し躊躇いを見せた後に口を開く。

 

「ごめん、待たせた」

 

 肩口から覗き込むその顔は、どこかバツの悪そうな、それでいて少し恥ずかしそうにはにかんでいた。

 

「寝坊やぞ。寝過ぎや」

 

 キバオウが憎まれ口を叩いた。だがその口元は笑みをたたえている。それにもやはりキリトは気まずげに笑って頷いて。

 そして、アスナに手を伸ばした。

 

「アスナ」

 

 手を取って、立つ。少しの間、キリトはその繋いだ手をじっと見てから離した。そして小さく、

 

「ありがとう」

 

 と呟いた。

 

「……? どうしたの?」

「いや、なんでもない。キバオウの言うとおり、寝坊したぶん働くよ。指示頼む、参謀殿」

 

 攻略組の指揮編成はアスナの仕事だ。それを揶揄する参謀殿というのは、キリトがよくユウキと一緒になって茶化すときの呼び名。

 ──いつものキリトくんだ。

 それが嬉しくて、アスナは思わず顔を綻ばせる。

 

「任せて!」

 

 大猿が再び立ち上がる。

 二条の残光が、白い雪のキャンバスを彩った。



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Musik-2

 ──恐怖とは知識だ。

 ノーチラスはどこかでそんな言葉を聞いた。

 知を識るということは、《わかる》ということだ。《わかる》とは、解る、判るという漢字が当てはめられる。理を解するから解るし、比較して判別がつくから判る。

 大きいということは勢いがつくということ。勢いとは速さであり、速さは重さであるということが《わかる》。

 相手の大きさと自分の小ささ。ふたつのものに違いがあることが《わかる》。

 それは物心つくころから自然とやってきたことで、今さら変えようとしたところで一朝一夕にできるものではないし、そもそも変えられるかどうかすら怪しい。

 犬を見て、人間だと思うことがないのと同じように。それは生後間も無く行われた刷り込みにも似た教育によるものではなく、人間として生まれ持った本能に基づく感覚だから。

 人外の形をした、それでいて敵意を隠さない自分より大きな存在に対して《恐怖》を覚えるのは、しかたないことではあるのだ。

 

 

 

 

 

 粉雪が舞っていた。

 斧が轟音とともに宙を裂く。頭陀袋が地を叩くたび空気が震える。背教者の動きに合わせて軽やかに舞う雪は踊るように降る向きを変える。

 それらの攻撃を、ノーチラスは全て盾で受け止めていた。

 

「っ……!」

 

 モブ狩りで得たコルを全て注ぎ込んで可能な限り最高の防具を買い揃えた。強化値を全て最大にし、現在の解放層で可能な自分が思いつく限りの最も硬い装備を用意した。

 また、モブ狩りの最中は可能な限り回復しないことを心がけた。それにより微量ながら毎秒自動回復スキルを得ている。

 さらにステータスの割り振りをできるだけ防御方面に振った。筋力値やHPが上昇するように。そうすることでHPの最大値が上がり、耐久力も必然的に上がっていく。

 壁戦士──タンクと呼ばれる役割。それをノーチラスは突き詰めていた。

 

「グォォォォ……!」

 

 ニコラスが唸り、斧を振り上げる。ノーチラスは構え、盾で受け止める。

 受けるダメージはおよそ最大HPの三分の一。単純な計算をするなら三度目で死ぬところを、自動回復によって四度目に決定打をずらしている。それはノーチラスが想定していたダメージよりも小さく、ゆえに消費する回復薬は少なく済んでいた。

 また、相手がさほど強くない設定であることも確認した。五本あるうちの一本目を、一番最初の飛びかかりによる渾身の一撃によっておおよそ十分の一ほど削っている。レベリングの甲斐あってか、武器防具の性能も相まってか。受けるダメージも与えるダメージも、自分に有利な風向きだった。

 いけるかもしれない。相手には回復がないという希望的前提があってのことではあるが、同じ攻撃をあと四十九回繰り返せば倒せる。それはけっして無茶な数値ではないはずだ。

 ──そこまでは、よかった。

 

「く、っそ……!」

 

 足はすでに土を噛んでいた。まるで轍のように泥混じりの線がボスから遠ざかるように刻まれている。ニコラスの踏み込む足の跡は常に同じ場所。長い腕によるリーチのぶんだけ、ノーチラスは後ろへ後ろへと追いやられていく。

 ──遠い。

 二者間には距離が生まれていた。体格差もあってノーチラスの攻撃は剣を振るだけでは届かない。だがノーチラスが感じたその感覚は、決してそれだけではなかった。

 二撃めが、遠い。まだダメージを与えたのはたった一度だけだ。最初の、飛びかかるようにして振り下ろした一撃だけ。それ以降、ノーチラスの剣は一度たりともニコラスに届いていない。

 足が、動かないのだ。

 

「ウォォォォ……」

 

 ニコラスは三回斧を振るうと、まるで休憩するようにその動きを止めてゆっくりと体勢を整える。おそらくは息をつくような演出なのだろうが、そのため息にも似たそれが、ノーチラスにはまるで嘲笑のように聞こえる。

 

「……な、にが……っ!」

 

 その瞬間だけ、ノーチラスの足は動く。相手に戦意がないとわかるからだろうか、まるで杭で打ち込まれたように地面にはりついていた足が突然軽くなる。だがそうして開いてしまった彼我の距離を埋めるべく疾走しても、たどり着く頃にはすでにニコラスが攻撃モーションに入っている。

 そしてそれを認めたとき、再びノーチラスの体はびくりと動けなくなるのだ。

 

「なにが、本能……!」

 

 試しに、攻撃モーションを無視して飛び込んだことがあった。だがソードスキルの途中ですら体は止まる。しかも強制キャンセルという扱いになり、ニコラスの攻撃をもろに喰らった。一撃でHPが赤くなったのを見て、二度とやるまいと誓った。

 身構えるだけなら可能なのだ。《身を守る》という体勢をつくり、そのために力を入れるということはどうやらできる。それはおそらく、《恐怖》に基づく《恐怖》ゆえの動作だから。戦うことばかりを意識するあまり気づかなかったことだが、守るだけならできるのだ。

 ただ、逃げられはしない。まるで蛇に睨まれた蛙だ。体がすくみ、逃げるための動作がままならない。とにかく攻撃を受けて耐えるしかなかった。

 

「怖いと思ったら、逃げ出すのだってアリだろう!」

 

 誰にともなくノーチラスは吐き捨てる。

 なぜ動かない。なぜ固まる。レベリングはできたのだ。等身大の蟻に囲まれたって問題なく動けたし、同じく等身大の猪なんて戦闘に不慣れな第一層から向き合い続けてきた敵だ。あれらだって怖いし、なんならニコラスは人のかたちを取っているだけまだマシなほうなのではないのか。

 

「なんで、どうして……!」

 

 斧を受ける。重い衝撃が腕を抜けて足元までビリビリと伝わる。だがそんなものはどうでもいいと言わんばかりにノーチラスはまたも吐き捨てる。

 

「ボス、だけがッ!」

 

 ボスにだけ。ボスと設定されたモブに対してだけ、ノーチラスのFNCは機能する。そこに獣型もヒト型も関係がない。ボスであること。条件はそれのみだ。

 

「どうしてそれだけで動かない……!」

 

 ボスか、そうでないか。その違いを、ノーチラスは《わかっ》ている。

 ボスが出現するには限定のエリアが設定されていて、そうでないものは広いエリアを与えられていたり。基本的にネームドと呼ばれる固有名詞を持つものがボスで、種族としての名前しか持っていないものがモブであったり。あるいは時間経過で同じものが湧くものがモブで、特定の条件下で一度きりの機会しかないものがボスであるとか。HPバーが一本ならモブで、複数ならボスだとか。

 その区別なら簡単にできる。だがその違いがFNCに関係があるのかと問われれば、ノーチラスは首を横に振る。断言こそできないけれど、そうである確率は高い。

 なぜならば、自分以外にも少数ながら似た症状のプレイヤーはいて。

 それらの全てを《フルダイブ不適合》と呼ぶからだ。

 名称から察するにFNCとはナーヴギアとの相性であり、ゲームハードの問題となる。ゲームソフトに関しては関係がない。ましてこのゲームはMMOであり、全員に同じ不具合が出るならともかくゲームソフトのシステムが個人に影響を及ぼすなどあり得ない。

 だがそうなると、ボスだけにという条件が《わからない》。

 ゲームソフトの問題でないのなら、それ以外にどこでボスかモブかの区別をつけるというのか。ゲームハードなわけがない。ナーヴギアは媒体であってゲームシステムの本体ではない。であれば、残るのはノーチラス本人。ノーチラス自身が《わかる》ボスかモブかに対する心の持ちようだ。

 気持ちの問題──たったそれだけのはずだった。足が動くかどうか、気の持ちようで変わるのだと。だからいくら攻撃を受けてもいいように回復薬はありったけ持ってきたし、防御力はありったけ高めてきたし、レベリングはありったけの時間を使ってきた。そうやってゲームのシステム的な安心を揃えてきた。

 そしてなにより、……少しだけ。ほんとうに僅かではあったけれど、背中を押してもらいもした。気持ちのうえで、萎縮するような要因は全て取り払ったのだ。

 

「畜生……っ!」

 

 それでも動かないというのなら、やはり気持ちの問題などではないのかもしれない。ヒースクリフが言うように、機械との相性──機械の問題であると。

 視覚や聴覚の不具合がアバターへの出力不備だとするならば、ノーチラスの場合は機械の過剰な読み込み。人間が正常に機能するための電気信号の出力に不備が出ているのでなく、脳から発せられる意思すらを読み取っているのだとノーチラスは仮定したことがあった。ああしたいこうしたい、あるいはその逆のあれは嫌だこれは嫌だといった脳に浮かんだビジョンすらをもナーヴギアは読み取っているのではないか。そうと考えなければ、《怖いから動けない》なんて起こり得ない。

 気持ちよりさらに深い、人間として──というより動物としての在り方を、ナーヴギアは拾ってしまっている可能性があるのだ。

 だとしたら、本当に手の施しようがない。生物として《わかって》しまっている以上、考えるな、意識するなというほうが難しい。《怖い》ということは忌避感であり、避けるためには意識しなければならないのだから。

 

「……ああ、そうか」

 

 考えて、考えて。ノーチラスはふと思い至った。

 ニコラスが三度目の攻撃を終え、息を入れる。もう何度その光景を目にしただろうか。初めて、ノーチラスはボスに向けて走り出すのをやめた。

《怖い》という感情は天秤で計れる。二つの状況を比べて、どちらの結果がより《怖い》かという比較が可能だ。差が《わかる》のであれば。

 そういえば、とノーチラスは思い出す。最初の一撃はユナが死ぬか自分が死ぬかという天秤を心の中で傾けていた。だから足を動かすことができたのかもしれない。

 それが今はできていない。ユナの存在は変わらず自分の中で絶対の存在だ。それでも現状できないというのは、おそらくニコラスとの戦闘が長引いたために奴の存在へ割いた意識が大きすぎたのだ。ひょっとしたらあのときは、《梟》との短い会話によってよりその思いが強まっていた、いわゆるブーストがかかっていたのかもしれない。

 なら、また天秤を作り直せばいい。ノーチラスは自身を器用な人間ではないと認識している。思い出と現状の天秤で上手くいかなかったのなら、現状と現状で天秤をつくればいいのだ。

 

「……死ぬ前に、殺せばいいのか」

 

 ニコラスという異形のモノへの《恐怖》と。

 ニコラスに殺されるという《恐怖》。

 目の前の存在にもたらされる《恐怖》を秤にかけて、ノーチラスは目を閉じる。行動への気持ちではない。起こる事象への意識を強める。

 窮鼠が猫を噛むように。背に川を臨む陣のように。

 あと一撃で終わるというギリギリの状態を保っていれば、足はまた動いてくれるはずだ。

 HPの調整はできる。攻撃は受けるのでなく避けない。防御は最大限捨てる。さながら諸刃の剣のように、ダメージを受けながらダメージを与えればいい。

 

「っ……!」

 

 ニコラスが斧を振りかぶる。もう何度見た光景かもわからない。だが初めてだった。初めて、ノーチラスは攻撃を避けることも防ぐこともしようとせずに攻撃を受けようとした。

 一撃でいい。今の防御力の高さならそれだけで死ぬことはない。それは一度だけやって実証済みだ。ただそれを意図的にやるだけだ。

 盾は構えない。

 視界が広くなって、ニコラスの動作がはっきりと見えた。そして斧を振り下ろそうとして──。

 

「エーくん!」

 

 聞き慣れた声が響いた。

 視界の下半分が見慣れた茶色の髪で埋まる。思わず視線を下げると、きれいに右回転で渦を巻くつむじが見えて。

 それが誰であるのか、考える前にわかった。

 

「グォォォォ!」

 

 斧が、眼前に迫っていた。頭が真っ白になる。そんな中でただ──ユナ、と。

 それは声に出していたのか、それとも心の中だけでなのかはわからないまま、とにかくノーチラスは叫ぶ。

 そして──体が動いていた。

 

「ああああああッ!」

 

 斧に、青白い光がぶつかる。片手剣ソードスキル《スラント》──基礎の基礎、これでもかと第一層で振るい続けてきた技は滑らかに繰り出された。システムのアシストもあったが、それ以上に体がその動きを覚えていた。

 ユナを押しのけるようにしながら、構え、剣を振り下ろして。

 そしてノーチラスとニコラスは、どちらともなく後ろへ吹き飛んだ。

 

「ぐっ……!」

 

 雪のその下、ややぬかるんだ土に両足と右手の剣と左手の盾でしがみつく。そして後退が止まった途端に、身体中から力が抜けて思わず膝をついた。

 

「エーくん! だいじょうぶ!?」

 

 駆け寄り、肩に手をやる人物。やはりその声は聴き覚えがある。というか、聞き紛う──そして見紛うはずがない。

 だが、なぜここにいるのかがわからなかった。

 

「ユナ……どうして──」

「心配した!」

 

 言葉を遮られ、さらに動きを封じられる。

 ノーチラスは、ユナに抱きしめられていた。

 

「……心配、したんだよ」

 

 ぎゅうっ、と。まるでしがみつくかのようにユナはノーチラスをかき抱く。

 

「──っ!」

「わっ」

 

 ノーチラスはそんなユナを抱き上げて飛び退った。轟音が耳朶を打ち、降り積もり重みを増した雪が土と共に飛び散る。直前までいた場所にニコラスの大斧が振り下ろされていた。

 

「おー……間に合ったね」

 

 ノーチラスにしがみついたまま、ユナはどこか呑気な口調だった。

 

「間に合ったじゃないよ。一歩間違ったら死ぬんだよ? どうして来たんだ、こんなとこに」

「だって、エーくんが行っちゃうから」

 

 ノーチラスの責めるような言い方に、ユナは拗ねてみせる。

 

「約束、覚えててくれてありがとう。でもそれでエーくんが危ない目にあうのは嫌だよ。死んじゃったら、約束守れなくなっちゃうよ」

「……そのくらいやらないと、守れないんだよ」

「じゃあそんな約束、いいよ。破っちゃえ」

「は? ──っ!」

 

 再び、飛び退る。地面をたたくニコラスの斧がまたも轟音を響かせる。

 

「破っちゃえって、ユナ」

 

 驚きに目を見張るノーチラスから離れ、ユナは笑いかけた。

 

「私が生きて帰れないのより、エーくんが死んじゃうほうがヤだもん。だったら、あんな約束は破っちゃっていいんだよ」

「……その言葉、そっくり返すよ。ユナを死なせたくないから、僕は約束したんだ」

 

 巻き込んだのは自分。ゲームに誘ったのが自分であるという負い目が、ノーチラスにはある。だからこそ、ユナの生還こそが自分の責務なのだとも。

 だから、ひとりでやっていたのだ。

 

「じゃあついてく」

「は?」

「私もエーくんについてく。守ってくれるんでしょ?」

「──っ!」

「わわっ」

 

 振りかざされた斧に気づいて、慌ててユナを抱き三たび飛び退る。ニコラスは不快そうな声をあげながらも、息を入れるべく下がっていく。

 

「なんでそうなる!」

 

 もちろん、言われるまでもなく守る。だがユナまでもが危ない場所にいる必要などない。安全な場所にいてくれれば、ノーチラスにとってはその方が安心するのだ。

 だがユナは、ノーチラスに抱きかかえられたままぽつりとつぶやいた。

 

「勇気、もらったんだ」

「え?」

 

 ユウキもアスナも、戦う女の子だ。特にユウキに至っては、自分と同じようにかそれ以上に強い気持ちで《梟》を──シュウを追いかけている。なのに自分は、そんなひとたちに頼んだのだ。自分の問題を。それがどこか情けなかった。

 それに──あのひと。名前すら知らないあのひとの気持ちを、ユナはなんとなくわかっていた。ちらちらとキリトを見るあの仕草がどこか自分に似ていて。だからああして踏み出した姿が、とても格好良く見えた。

 

「私、エーくんのこと好きだよ。そばにいたいんだ。でも弱っちいから。だから、エーくんが守って?」

「ユナ……」

 

 そう──たったそれだけでいいのだ。約束を守ってくれているからと、自分のために動いてくれているのだからと、ずっと思っていた。想いを伝えるのが《怖い》からと、ずっと蓋をして。そうして一歩引いていた。言ってしまえば、こんなにも心は晴れやかになるのに。

 いっしょにいられれば、それだけでユナは満たされるのに。

 

「グォォォォ……!」

「っ……!」

 

 ニコラスが唸る。どこか不機嫌そうな低い声。落ち窪んだ眼窩の奥に覗く赤い瞳が、睨みつけるように鋭く光っている。ノーチラスは庇うようにユナを背中に回す。

 そこではたと気づいた。──避けられた。いいや、その前に、ニコラスの斧を防いでいた。ソードスキルをぶつけられた。動かないはずの足が、体が動いている。

 きっかけはもしかしなくてもユナだ。ユナがいるから──いてくれるから、ノーチラスは動ける。ユナを守るのだと強く思えるのだ。

 

「……エーくん?」

 

 聞くだけ聞いて、何の言葉も返さないノーチラスにユナは不安げに声をかける。その頭をくしゃりと撫でて、ノーチラスは初めて、戦場で笑った。

 

「ユナ、歌を頼む。いつも歌ってるやつ」

「──! うん!」

 

 その言葉に、笑顔に。ユナは笑顔を返す。

 歌い出しは──曖昧なボリューム。それはユナが、自分で考えたんだと少し照れながら歌っていたオリジナルソング。だがそのアップテンポな曲調が、ノーチラスには心地よかった。

 ユナがいる。そのことが、これほどに心を軽くしてくれる。

 

「──やってやる」

 

 もう、怖いとは思わない。

 剣が光を帯びていた。

 



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Serenade

 クラインの袈裟斬りに《梟》が逆袈裟で合わせた。火花が散り、両者が共に二歩三歩と退く。

 

「……ずいぶん、強くなったんじゃねえの」

「今のお前ェに言われても嬉しくねぇ、よっ!」

 

 言いながら、クラインは斬撃の手を止めない。カタナとカタナがぶつかり合う。

 凄絶な斬り合いだった。息をつく間も無く、どちらからともなく斬撃が繰り出される。そしてその全てを、どちらともが完璧に受けきっている。真っ向からの斬り下ろし。左からの横一文字。懐から、突き。雪の降るなかで赤備の武士と流浪の剣士が争うそのさまは、やや歪な時代劇を思わせる。

 

「お前ェ、あのとき言ってたのはなんだったんだよ!」

「あ? なんか言ったっけ」

「『知り合いが近くにいたほうが安心』みたいなこと言ったろ!」

「あーあれ。ちゃんと言ったぜ、エギルに『後は任せた』って」

「人任せにすんな、てめえで責任持って近くにいろ!」

「そうは言うけど、俺じゃないと意味なかったんだあのときは」

「そばにいるのもお前ェじゃねぇと意味ねぇんだよ!」

 

 ひときわ大きい音がして、それぞれのカタナが弾かれる。互いに息を荒げながら、それでもすぐに次の構えを取った。

 

「確かにオレはギルドのために動いてる。悪いが、優先順位をつけるならアイツらが一番だ。けどな、そういうふうに優先順位をつけたとき、お前ェが一番にくる奴らがいるんだぞ!」

 

 クラインが叫び、踏み込む。大上段からの斬り下ろしはしかし、容易く《梟》に受け流される。

 

「ありがたい話だよ。けど、そういう優先順位で例えるなら悪いほうの一番になっちまう奴がいたんだ。そいつが原因だったなら俺は放っておいた。けどそうじゃないんだ。それはおかしいだろ!」

 

 受け流され、たたらを踏んだクラインの横腹に《梟》の前蹴りがめり込んだ。一瞬、体が宙に浮く。

 

「──っ! だからってじゃあなんでお前ェが悪者になんだよ! お前ェがやったんじゃねぇんだろ! やってもねえことやったって言い張って、それでなんになるん、だ!」

 

 だが吹き飛ばされながら、クラインはその足を掴んでいた。自らの体が雪に投げ出されたその勢いで《梟》をも投げ飛ばす。

 

「チッ……! そうじゃなきゃおさまんねえことはあるだろうが! 事が起きちまった以上、誰かが責任取んなきゃなんねえんだよ!」

 

 雪を乱暴に払って、《梟》は近くに落ちていた鞘を拾い上げた。そして言い切ると同時にクラインに向けて思いきり投げ、自身もやや遅れて走ろうと踏み出す。

 

「事を起こしたのはお前ェじゃねぇだろうが!」

 

 飛来する鞘をクラインはカタナで弾き飛ばした。宙を舞うそれは追撃の構えをとった《梟》の目の前に突き立つ。さらに踏み出そうとした勢いを遮られ、《梟》はその足を止めた。

 大きく息を吐いて、クラインはカタナを下ろす。

 

「ましてキリトでもアルゴでもねぇんだろ。じゃあ少なくとも、お前ェが取るべきだっていう責任なんかどこにもねぇじゃねえか。それはエギルだって言ってたろ」

 

 ベータテスターではなかった。事前知識などあるはずはなく、ゆえにボスの情報などひとつとして知るはずもなく。

《鼠》の片割れではあった。だが《鼠》としての活動は基本アルゴが行うものであったし、《鼠》としての名前もアルゴのものであった。

 あくまでも、彼らに最も近い場所にいたというだけなのだ。

 

「じゃあ……!」

 

《梟》は──シュウは、構えを解いたクラインを筋違いだとわかりながら、それでも強く睨みつけた。

 

「じゃあどうしたらよかったんだ!」

 

 右手でカタナを雪に強く突き刺す。その手はひどく震えていた。

 

「ボスの武器がベータテストと違ったことを《騙した》ことにされちまうんだぞ! 違うかもしれないって注意喚起を無視して突っ込んでおきながらそういうときだけ都合よく責任転嫁しやがって、なんで情報開示が当たり前だと思ってやがる! アルゴがどれだけの苦労と苦悩をもって攻略本書いてたか知ってんのか! しかもそもそもベータテスターが言わないから悪いだのだからベータテスターが悪いだのと眠てえこと言いやがって、てめえらがそういうこと言ってっからますますベータテスターがそうと言えなくなってんだろうがよ! キリトなんて多分まだ中坊とかそんなんだろ、そんな子供をいい歳こいた大人がビビらせてんじゃねえぞ! 挙句に犠牲があったから攻略本ができただ? だからこそだよ、そうじゃなきゃ書けるわけねえだろうが! みんなが試してくれたからこそいろんな情報があってそれを拡散したんだろうがよ、二の足を踏んでくれるなよってよ。それをよくもまああんな悪し様に言ってくれやがって、それで対立しないなんてどう考えたらそう思えるんだ、ああ!?」

 

 一息。息継ぎすら惜しむように、シュウはとにかく吐き出していく。言い争っていたクラインも、それを黙って見ていた周囲も全員が固唾を飲んでいた。

 

「あのときジョニーがいたことを知ってるのが何人いたよ。俺がジョニーの麻痺毒を食らったことを知ってるのは何人だ。ジョニー・ブラックってのを知ってる奴が何人いた! いねえよなぁ、だからキリトを責めるような口ぶりができるんだもんな。ユウキなんてさらに少し幼いだろうに、ましてもっと当事者からは遠いのにどこまでも裏を読んで。……だから俺が全部被ったんだ。ひととおり知っていて、辻褄の合うストーリーを作れるのは俺だけだったから。あのふたりにあれ以上を背負わせたくなかった。俺にできるのはそれが精一杯だったんだ!」

 

 吐き出して、吐き出して。そうして上げたシュウの顔は今にも泣き出しそうなほどくしゃくしゃに歪んでいるのに、それでも強がるような笑みを浮かべていて。

 

「なあ、教えてくれクライン。どうすればよかったんだ。いったい何が正解だった?」

「……っ!」

 

 シュウの問いかけに、クラインは答えることができなかった。その場にいなかった自分を恨んだことすらあるクラインが、その場にいたシュウに何かを言えるとは思っていなかった。大人を頼れ、オレを頼れという言葉が喉から出かかって、それを必死に押し殺す。

 きっと何を言っても今のシュウには通じない──響かない。まして当時不在のクラインから言えるものなどあるはずがなく。

 思わず目を逸らすと、エギルと目が合った。当時現場にいた大人としてはおそらく最も親身になっていたであろう人物だが、彼ですら首を横に振っていた。それはわからないという意思の表れか、あるいはどうにもならなかったという諦念か。隣のアルゴを見ても、肩をすくめるばかりで何かを言うつもりはないようだった。

 溜め込んでいた鬱憤の吐露は、悲痛な叫びでもあった。それに対する答えはなく、かける言葉は見つからず。沈黙が重くのしかかる。

 十秒か、十分か。あるいは十時間のようにも感じる静寂を打ち破ったのは、少女たちの合図の声だった。

 

「行くよ、ユナ!」

「うん!」

 

 未だ治らない部位欠損の回復を待つ聖竜連合のさらに後ろから、雪の上を駆ける音がふたつ。

 それらは迷わず、真っ直ぐ《梟》に向かってきていた。

 

「シュウ────ッ!!」

 

 聞き慣れた声。雪に刺していたカタナを抜くよりも早く、それを器用に避けて黒い髪を靡かせて少女がひとり、シュウの腹に飛び込んだ。

 

「どーん!」

「かっ……!」

 

 少女が頭を埋めたのは《梟》のみぞおち。肺の空気が全て抜けたかのように苦しげな《梟》を、その勢いのまま押し倒した。

 

「横、失礼します!」

 

 その脇を、もうひとりの少女が駆け抜けていく。止めようとする《梟》の腕はしかし届くことはなく。

 およそ二十人もの足止めを完璧に行なっていた《梟》は、二人の少女にあっさりと通行を許したのだった。

 

 

 

 

 

 

 誰もが突然のことに呆然とするなかで、《梟》に飛び込んだ少女はぐりぐりと額を鳩尾に押し付ける。

 

「久しぶり、シュウ! 元気だった?」

「ユウキ……」

「んー?」

 

 ぱたぱたと足を動かしながら、なおさらに鳩尾に顔を埋めたのはユウキだった。いつかのような不機嫌でなく、これ以上ないほどに上機嫌。話したいことはいっぱいあるんだ、どれから話そうかなと楽しそうに吟味するその様子に、《梟》は──シュウは、何かを言おうとしてはやめてを繰り返す。

 そうして絞り出したのは、たった一言だけだった。

 

「苦しい」

「あ、ごめん」

 

 ユウキの腕から力が抜ける。それでも離れる様子はなく、苦笑混じりにため息をついたシュウはそのまま雪を払いながら立ち上がった。突き立っていたカタナを引き抜き、そして同じく雪に突き立っていた鞘を抜くと、やや乱暴に収める。

 

「アルゴだな?」

「正解ダ。効果は抜群だロ?」

 

 いつの間にかクラインの横にいたアルゴが頷く。どこか安心したような、少し気の抜けた笑みにシュウは苦笑を返した。

 

「ああ、これ以上ないくらい効果的だよ。……約束、だったんだがな」

「約束?」

 

 顔を埋めたまま、ユウキが問う。

 

「そう、約束だ。誰も通さないっていう。まあいいっちゃいいんだけど……それよりユウキ、離れねえか?」

「やだ! ……むー!」

 

 シュウの手が額と鳩尾の間に滑り込んだ。だがユウキも負けじとシュウの背に回していた腕に力を込め、ぐりぐりぐりと力いっぱいに額を押し付け続ける。

 

「いちゃついてるとこ悪いケド。っていうかそもそも男と男の戦いに水を差して悪いんだけどサ、そろそろこっちとしてもヤバいんダ。先に進んだノーチラスが危なイ……ハズ」

 

 どこか呆れ混じりに言いながら、アルゴは隣に立つクラインを見上げる。それにクラインは、構わねえと頷きを返した。

 時刻は日付が変わって三十分が経とうとしている。つまりノーチラスがひとりでボスに挑んで三十分。通常、一度の戦闘でそれだけの長時間かかるというのは、極端に防御性能の高いフロアボスとの戦闘でもない限りはあり得ない。よほどの死闘か、あるいは。

 だがそうして想像した、最悪の事態に対しては。

 

「間に合ったってことでいいのかナ、ユーちゃン」

「たぶん!」

「たぶんカ」

 

 言いながら気づいたアルゴが尋ねると、ユウキは元気な声で曖昧に返事をした。

 道中に確認したユナのフレンドリストにあるノーチラスの名前はまだ薄くなっていなかった。もしも間に合っていなければ──命を落としていれば、当該の文字列ははっきりとした黒から灰色に薄まっている。そしてもしもそんな事態に陥っていたなら、彼女たちはこの場には現れないはずだ。

 ノーチラスを止めることは出来なかった。だが合流はできたはずだ。ならまだ可能性はある。ノーチラスが死なない可能性が。

 だから後は、ユナ次第。そしてノーチラス次第だ。

 

「なんにしてもよ」

 

 アルゴの後を引き継ぐようにして、クラインが言う。戦う意思などもう──いいや、最初からなかったのだと言わんばかりに、武器をしまいながら。

 

「ひとり抜けたならふたりも三人も変わんねえだろ。さっきの答えをオレは持ってない。けど、誰かを死なせてしまう可能性ってのは潰すべきだ。間違ってる。だから道、空けてくれ」

 

 何度言おうと首を縦に振ることはないはずだ。シュウはそういう男だ。先ごろの叫びも、その前のそういうものだという言葉からもクラインは悟っていた。だがそれでも言わざるを得ない。クラインもまた、そういう男だった。

 そしてクラインの想像したとおり、ユウキを引き剥がすことをひとまず諦めたシュウはそれでも道を譲るような仕草は見せなかった。

 

「……通ったの、ウタちゃんだろ」

「知ってたの? シュウ」

 

 満足げにひっついたままのユウキが顔を上げる。それにシュウは控えめに頷いた。

 

「知らないやつのほうが少ない。超希少な歌のバフとそれを守る騎士。ユナとノーチラス。通ったのがユナというプレイヤーなら、俺はもとから通すつもりでいた。だから計算には入れてくれるな」

「え、そうだったの? みんなを通せんぼしてるって聞いたけど」

「それは間違ってない。ノーチラスがその手でボスを倒さなきゃ意味がないからな」

「……んー?」

 

 よくわからない、とユウキは首を傾げる。

 

「ユナはじゃあ、行っても意味ないの?」

「いや? 最高の救援だろ」

「……んー!」

「苦しいって」

 

 ことさらにわからないというように唸り、ユウキはシュウの鳩尾を抉った。

 ノーチラスのソロにこそ意味がある、だが最高の援護能力を持ったユナならば通すつもりでいたという。その矛盾が、ユウキにはよくわからない。

 

「ひとりでやらなきゃなのに、ユナはいいんだ?」

「……ああ」

「? ──!」

 

 ユウキの問いにシュウが答えるのに、わずかな間があった。その間と、視線を上げて垣間見たシュウの顔がユウキの疑問を確信に変える。だがそれ以上ユウキが何かを言う前に、シュウは──《梟》は、クラインに向き直った。

 

「そういうわけでクライン、変わらずここは通行止めだ」

「強情っぱりめ」

「うるさいよ。……それで、ユウキ。本当にそろそろ離れてくれ。動きづらい」

 

 道を空けろとクラインは言う。ユナに関しては元から通すつもりであったが、それ以外は変わらず通行不可だ。そしてそれを実行するにあたって、ユウキがひっついたままでは動けない。

 だがユウキの返答は速かった。

 

「やだ」

 

 ぎゅう、と。シュウの腰に回した腕に力を込める。離すつもりなどないという意志がはっきりと表れている。

 そしてもちろんそれは、《梟》にとっては妨害以外のなにものでもなかった。

 

「……いや、やだじゃなくて。離れろって」

「やだもん!」

「離れろ!」

「や!」

 

 シュウが口調を厳しくして言っても、ユウキは頑なに拒む。

 

「離したらまたひとりで行っちゃうでしょ! ボク決めたんだから、絶対に離さないもん!」

 

 ユウキにもまた、忘れられない後悔があった。クラインがその場にいなかったことを悔いたように。キリトが知人を救えなかったことを悔いたように。

 ユウキは、あのときシュウに伸ばした手が届かなかったことを──それによって背中が遠ざかってしまったことを、ずっと悔やんでいた。

 だから、決めた。絶対に離さない。近くにいてもらう。それがどんな我が儘であろうと、やると決めたのだ。

 ──シュウは、《敵》なんかじゃない。

 それはもとからわかっていたことで。そしてついさっき得た確信が、より強固な想いとして固まった。

 

「……っ!」

 

 ユウキの叫びが、想いが。どれだけ伝わったのかはわからない。わからないが、《梟》はまるで電池が切れたロボットのようにぎしりと動きを止める。

 それを見逃すクラインではなかった。

 

「いいね、そのまま離すなよユウキちゃん。──おう野郎ども、そろそろ動けるだろ! 今のうちに行くぞ!」

「あ、おいクライン! 待て!」

 

 クラインの号令で、座り込んでいた《風林火山》の面々が立ち上がる。《梟》に斬られた足は全て治っていた。

 

「待てと言われて待つやつはいねえんだろ?」

 

 ここぞとばかりにクラインはにやりと笑い、ギルドの面々にゴーサインを出す。《梟》の強みは武器のリーチと速いフットワークだ。そのうちの片方をユウキによって制限されている今、脅威は半減している。そこへ改めて数の多さで挑めば、押し通ることは可能なはずだ。初めて聞くシュウの慌てるような声がその可能性を確信へと押し上げる。

 だが──もうひとり。そんな状況を逃すはずのない男がいた。彼もまた動き出していて、その部下たちによって風林火山の面々は動きを止められる。

 数の暴力というなら、この場にはもうひとつの集団がある。

 

「そうだ……そのまま離すなよ」

 

 両の手はまだない。鮮やかな水色の髪はひどく荒れている。波打つ水面に映った三日月のような笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がったのはリンドだった。背後には《聖竜連合》の面々が雑然と立っている。《風林火山》と同じく、彼らもまた斬られた足が回復していた。

 

「ようやく動きを止めたな《梟》。女性の懸命な静止に素直に従うなんてらしくないじゃないか。まるで人間みたいだ」

 

 その声を合図に、聖竜連合の輪はじりじりと半円状に広がり、そして《梟》を囲んでいた。それはさながら壁だった。あるいは鳥を閉じ込めておくための籠。通さないという意思を逆に利用してやろうとするかのように、逃がさないと言わんばかりの包囲。

 

「そうじゃないやつなんかいるかよ」

「いるさ。お前らレッドがそうだろう。人を殺すことをなんとも思わない。だからできるんだろ? そういう人でなしを鬼と呼ぶんだ。殺人鬼が」

「……なるほど?」

「なるほどじゃないよ、シュウ!」

 

 ユウキが慌てて口を挟む。

 

「リンドさん、シュウはディアベルさんを殺してなんかないんだよ! 信じて、ほかに黒幕がいる!」

 

 だがユウキの言葉を、リンドは鼻で笑い捨てた。

 

「ふん。そんなことはどうだっていいんだよ。コイツが自分でやったと言うんだからそうなんだ。本当は誰がなんて関係ない。それならそれで、そいつを後で殺せばいい」

「リンド! テメェいい加減に──!」

「うるさい!」

 

 クラインの言葉を遮り、リンドは欠けた手で器用に剣を拾い上げて柄を口にあてがう。

 リンドの目配せで《梟》を包囲する聖竜連合からふたりが動いた。クラインの両脇を固め、ずりずりと引きずっていく。

 

「なっ、おい!」

「お前たちだって敵なんだよ。オレは絶対に何がなんでもあの人を生き返らせる。そのためにはどんな手を使ってでもアイテムを手に入れる。アイツの後はお前らだ。邪魔をするなら消す。順番に殺してやる」

 

 そして──がり、と。

 リンドは剣を、口に咥えた。

 

 ──まずはお前だ。

 

 目をかっと見開く。獣のような前傾姿勢。地を蹴るためか、だらりと垂れた腕を前脚に見立て、咥えた剣はさながら牙のよう。

 そして──口を開けないからではあるだろうが──リンドの口から漏れたのは、まさに獣のような唸り声だった。

 

「……っ!」

 

 そんなリンドの様子に、ユウキが体をこわばらせる。

 シュウを人でなしと、鬼と呼んだ男が自身の振る舞いを獣のように変えた。その動作に怯えたのか、さらに強くユウキはシュウにしがみつく。

 リンドが姿勢を低くする。今にも飛びかからんとするその目には、ユウキのことはまるで見えていないようだった。

 

「……潮時、か」

「え、わ、シュウ?」

 

 シュウは誰にともなく呟き、ユウキの頭を抱きかかえた。そして今度はユウキにだけ聞こえるように小さくぽつりと呟く。

 

「ごめん」

「……え」

 

 聞き返そうとするユウキの口を塞ぐようにさらに強くかき抱き、次の瞬間──《梟》が、叫んだ。

 

「PoH!」

 

 その場の全員が、雷に打たれたかのように動きを止めた。

 それは名前だった。悪名高い殺人ギルド《笑う棺桶》において長とされる──リーダーと目されるプレイヤーの名前。ギルド内序列として最高位にいる男の名を《梟》は口にしたのだ。

 それは恐怖の、そして悪の象徴ともいえる代名詞。最初の殺人者こそ《梟》だが、最多の殺人数で言えば奴である。そんな男が近くにいるかもしれない──たったそれだけの可能性を示唆しただけで、この場にいた全員が警戒レベルを最大限に引き上げる。

 その隙に《梟》は素早く腰に回されていたユウキの腕をほどいた。いかなる状態であっても、ユウキは攻略組。筋力値でいえば高水準のはずだったが、彼は苦にする様子もなくするするとほどいていく。そして素早く、軽々とユウキの華奢な体を抱え上げた。

 

「エギル、受け取れ!」

 

 最後まで抵抗していたせいで足の回復が遅れ、そのせいで包囲網から最も離れた位置にいたエギルはようやく足が回復して立ち上がったところだった。その巨漢の胸の高さへ的確にユウキを投げ飛ばす。

 

「え、え!?」

「は? ──うおっ!」

 

 離さないと決めていたユウキはとっさに腕を伸ばそうとする。だが腕は上がりきらず空を切った。体全体が鉛のように重い。視界の隅に稲妻のアイコン。

 いつのまにか、シュウの足元に短剣が落ちていた。

 

「おい、シュウ!」

「悪いが、また言うぞ! 後を頼む!」

 

 無事にユウキを受け取ったエギルの抗議を無視して。

 そしてリンドに、わざとらしく()()を見せた。

 

「──時間切れだ」

「ヴォォォッ!」

 

《梟》に向かって、リンドが跳躍した。警戒を誘う叫びをリンドはその場しのぎの方便だと判断したのか、さらに険しく睨みつけ唸る。刃を突き刺すように頭の向きを変え、そして重力に任せて飛びかかった。

 ユウキがいて避けられない、だから引きはがした──というわけではなかった。《梟》の足なら避けられるはずのそれを、全く避けようとしていない。しかしだからといって武器を抜くでもなく、かといって鞘を武器や盾として扱おうというわけでもなく。そもそも対応しようとする素振りすら見せなかった。

 ちら、と《梟》はクラインを盗み見た。アルゴを下がらせながら自分は聖竜連合のプレイヤーによって築かれた壁を抜けようとしているクラインに、彼は仕方なさそうに()()を見せる。そしてどういうつもりか、空いた右手を掲げた。それはさながら挨拶のようで。

 まさか受ける気か。そんな不安がクラインの頭をよぎる。

 

「待て、シュウ──!」

 

 リンドの剣閃が《梟》を貫く。直前、飛来した何かを掲げた右手で掴み取った《梟》が横一文字に振り払う。

 両者がぶつかり、影が交わる。

 そして光がはじけた。

 

 

 

 

 

 

 首元、皮一枚だけを切り裂いて、持ち主を失った《フラガラッハ》が落ちた。《梟》の肩で跳ね、そして雪に突き立つ。遅れて鈍い音。強い恨みが焼きついたままの水色髪の男の首が転がり、そして爆ぜる。

《梟》がため息とともに右手を下ろした。だらんと脱力したように垂れるその手に、小さいながら重量感のある、中華包丁を想起させる短剣が握られている。

 武器の名は《メイトチョッパー》──《友切包丁》。その名に友と冠するように、モンスターでなくプレイヤーを手にかけることで武器そのものの能力値を上昇させることのできる武器。死んだら終わりのこの世界で、その性能はまさに魔剣として恐れられていた。

 そしてその所持者こそ──。

 

「それが正解だ」

 

 闇の中から声が聞こえる。《梟》の背後、森の中から闇よりも黒い影が現れた。

 

「死人に口なし、殺せばいい。ここは殺しが許される世界だ。何を言われる筋合いもない」

 

 全身を覆う黒いポンチョ。頭上にはオレンジカラーのカーソルが浮かび、そのフードの下に覗く口元は酷薄に歪んでいる。その笑みはどこか見慣れた──あのシンボルと同じ粘つくような笑みだった。

 

「ナイスタイミング、PoH。それともボスって呼んだほうがいい?」

「好きにしろ」

 

《梟》が振り返り《友切包丁》を投げて返す。それを右手でつかみ取った男は器用にくるくると片手で短剣を弄ぶ。その右手の甲で棺桶が笑っていた。

 

「あーあ、やっちった。足止めのつもりだったんだけどな」

「まだそんなこと言ってんのか。殺すのも俺らの権利だ、胸張ってろ」

「お前はやり過ぎなの。どんだけ殺すんだよ」

「潰した虫なんざ数えないだろう」

「ごもっとも」

 

 降り積もる雪の音だけがする静かなこの場所で、ふたりの会話がやけにうるさかった。

 

「そん、な……」

 

 聖竜連合のひとりが崩れ落ちるように膝をつく。ガシャ、という鎧の音を皮切りに、ひとり、またひとりと膝を折っていく。

 PoH──殺人ギルド《笑う棺桶》のリーダーと目されるレッドプレイヤー。《梟》がボスと呼んだことで、それはほぼ確定的なものとなった。

 PoHは、殺した数で言えば優に百を超えるという噂がある。あるいは二百とも三百とも。そして一度として《躊躇わない》男であるという。外見は黒いポンチョに隠れながらも長身痩躯、肉厚な包丁のような短剣を持ち右手にシンボルを掲げるという。伝え聞く情報とその男は完全に一致していた。

 ただでさえ足止めに徹する《梟》ひとりにこれだけ手こずっていた。そこへ敵方に増援。たった一人とはいえ、圧倒的な増強だった。そのうえリーダーまで失ったのだ。彼らの心は完全に折れていた。

 

「シュウ……」

 

 小さく呟いたクラインもまた、聖竜連合のように膝はつかないまでも動けないでいた。それは風林火山もアルゴもエギルも、ユウキも同様だった。

 殺した。シュウが、リンドを。殺してしまった──殺させてしまった。

 その事実だけが頭の中で渦のようにぐるぐると反芻される。大きすぎる衝撃が思考する力を奪っていた。

 

「ジョニーは?」

 

 落胆、あるいは懊悩する彼らを尻目に《梟》は何もなかったかのようにPoHとの会話を続けた。

 

「ザザが回収した。お前ら遊びすぎだ」

「俺は遊んでないだろ。真面目にアイテム回収に励んでるのに」

「足止めはお前の甘さだ。殺したほうが速い」

「だからいつも言ってんじゃん、殺すより生かしたほうが後で使えるんだって」

 

 まったくこれだから、とため息をつきながら《梟》は雪に突き立った《フラガラッハ》を拾い上げ、放る。

 

「ほれ、戦利品」

「……チッ。本命は」

「そろそろじゃねえの。ほら、噂をすれば」

 

 PoHの背後。ボスエリアへと繋がる小道から、ふたりのプレイヤーが姿を現した。

 ノーチラスとユナ。たったふたりでボスに対峙し、無事に帰ってきた──その事実にユウキとクラインはほっと胸を撫で下ろす。

 ノーチラスは場の静かすぎる雰囲気と、行くときにはいなかったプレイヤーたちに戸惑い足を止めた。

 なにがあったのかはわからない。けれどなにかがあったことだけはわかる。だがそれを訊ねようとして口を開くより早く、《梟》がノーチラスに声をかけた。

 

「よう、無事だったみたいだな?」

「あ、はい。……これ、約束のものです」

 

 ノーチラスは右手に持っていた虹色の結晶を差し出す。受け取ると、ポップアップウインドウには《還魂の聖晶石》の文字が浮かび上がった。その名称と効果を読み上げると聖竜連合からどよめきがあがる。

 

「ふうん……一度きり、全損から十秒の間に使えば蘇生、ね。手動とはまた勝手の悪い。ま、死んだら終わりを覆すんだから破格か。これが?」

「クリスマスボスのドロップです」

 

 そしてノーチラスの声にさらにどよめきが広がった。

 倒した──ノーチラスが。FNCの事実を知っている者がこの場にどれだけいるかはわからない。だがたとえ知らぬとしても、たったふたりで撃破したというのは事実だ。いずれの立場にせよ、驚嘆と、そしてアイテムへの羨望の声を各々があげていた。

 それらをもやはり気にする様子もなく《梟》はノーチラスに問いかける。

 

「確かに受け取った。けど、いいのか? 少なくともひとりでっていう契約は俺、破ったんだけど」

「はい。構いません」

 

《梟》の言葉に、ノーチラスは迷いなく頷く。その顔つきはボスに挑む前と今とで明らかに違っていた。ふと視線を下ろせば、彼の左手とユナの右手はしっかりとつながれている。何かしらの心情の変化──というよりは進展が認められた。

 

「ボスを倒せたのは……というか、僕がここまでやってこれた理由を思い出しました。それから、僕がこれからも戦っていくために必要なものも。ユナがいることがどうやら僕の《芯》らしいです。死を考えることが許されない。だから、それは僕には必要ないんです」

「……わかった。じゃあ遠慮なく」

 

《梟》がアイテムをストレージに格納する。アイテムが光に包まれて消えた瞬間、聖竜連合のメンバー数人の口から「あ……」とため息が漏れた。

 沈痛な彼らの雰囲気にノーチラスが眉を顰める。

 

「……なにがあったんですか」

 

 もうひとりのオレンジプレイヤー。風林火山だけでなく、おそらくはもうひとつのギルド。だがそのどこかわからないギルドの面々は著しく沈み込んでいる。

《梟》は一瞬だけ面倒くさげに顔をしかめて、短く答えた。

 

「俺がひとり殺したら静かになった」

 

 ノーチラスと同時にユナも息をのんだ気配があった。つなぐ手に少しだけ力を込める。

 

「……殺したんですか」

 

 ノーチラスはそう言ってから、どこか驚いたような自分の口調に驚いた。ついさっき彼と自分が同じだと感じてしまっただけに親近感のようなものがあったのかもしれない。心のどこかで少しだけ頼りにしていたところがあった。だがその行動だけは決定的に一線を画していて、それがにわかには信じられなかった。

 だが彼はなにを当たり前のことをと言いたげな表情で肩をすくめた。

 

「言ったろ、俺は《梟》だ。そりゃ殺すより生かしてはおきたいけど、必要なら殺すほうを選ぶよ。いや不要になれば殺すのほうが正しいのか」

 

 ──そういう意味じゃ、ここの聖竜連合は不要なんだけど。

 続く言葉に鎧のこすれる音が響く。身構えたくても脱力していて上手く体が動かない。俎板の鯉のような彼らに、《梟》は「冗談、今はやらないよ」と笑った。

 

「ま、なんにせよ目的は達成したから消えるさ。じゃあなお前ら、次までにちゃんとレベル上げしとけ。俺ひとりに勝てないとかヤバいぞ。……待たせた、PoH」

「遅い」

「悪かったって──お?」

 

 PoHに並び、《梟》はゆっくりと歩きだす。そうしてへたりこんだ聖竜連合の間を抜けようとして、その足を聖竜連合のひとりが掴んだ。

 

「……待てよ」

 

 ひとりが呟く。するとまるで数珠をつなぐかのように、次々に口々に。

 何のために──誰のためにここまで来たのか。ともすれば《梟》が嘘を言っているのかもしれない、十秒なんて短すぎる、生き返らないわけがない、そもそも死んだなんてあり得ない。

 リーダーが。リンドが死んだなんて。そんなことは。あり得ない。

 

「置いていけ」

「生き返るんだろ」

「さっきの石だ」

「寄越せ」

「出せよ」

「よくも殺したな」

「よくものうのうと」

「よくも、よくも──」

 

 ゆらり、と全員が立ち上がった。

 

『──殺してやるッッッ!!!』

 

 そして全員が剣を抜く。誰からともなく、全員が《梟》目掛けて襲いかかった。

 

「げ」

「そらみろ。俺はノータッチだぞ」

「げげ」

 

《梟》の足を掴んでいた手を蹴り払う。そしてやや早足になりながら、刀の柄に手をかける──。

 

「お前ェら、待て!」

 

 だが鯉口を切る寸前で、聖竜連合の前に立ちはだかる影があった。

 クラインが、そして風林火山が。暴れ出したプレイヤーたちを止めにかかる。

 

「落ち着け、無理だ! わかんだろ、今のお前ェらじゃ……今のオレらじゃ勝てねえ! 死にに行くようなモンだぞ!」

 

 張り上げた声もむなしく、我を忘れたようにいくつもの腕が《梟》に向けて伸びる。それらを懸命に止めるクラインは、どこか迷うようなそぶりを見せながらも《梟》に──シュウに向けても叫んだ。

 

「てめえ、シュウ! 今回だけだぞ! とっとと行っちまえ! だが忘れんな、絶対に追いついてやる。追いついて、ふん縛ってでもてめえを止めてやる! 首洗って待ってやがれ!」

「……おう。楽しみにしてる」

 

 振り返ることなく、足を止めることなく。構えを解いた《梟》はひらひらと肩越しに手を振って、エリアの出口に向けて踵を返した。

 途中、エギルやアルゴともすれ違ったが──何を言うでもなく、目を合わせただけで彼らは風林火山に混じり暴動を止めにかかる。

 そして──少女がひとり、道をふさぐように立っていた。

 

「……シュウ」

 

 ユウキは怒っているような悩んでいるような泣いているような、複雑な感情をその顔にたたえている。だが声はそんな表情とは裏腹にひどく優しい。

《梟》は歩みを止めなかった。PoHに並び横を抜けるそのとき、ユウキは再び口を開く。

 

「ボクはいつだって、シュウの味方だからね」

 

 ユウキもまた、振り返ることはなかった。《笑う棺桶》が姿を消すその瞬間まで、真っ直ぐに前を見ていた。駆け寄ったユナが抱きしめても、ユウキはやはり動く様子を見せなくて。

 声もなく、頬をひとすじ涙が伝う。

 いつの間にか、雪が止んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大猿がまるで眠るように地に臥した。

 弱々しい鳴き声をあげ、大きな音を立てて膝から崩れ落ちる。

 

「すげえ……」

 

 黒猫団の誰かが呟く。

 立っていたのは──勝ったのは、《黒の剣士》だった。

 ひとり。始めこそ一緒に戦っていたアスナは取り巻きの駆除に回した。攻略組、しかも《血盟騎士団》の副団長ですら状況によっては攻撃に手間取る相手に対して、キリトのHPバーは一度たりとも減ることはなく。アスナ、キバオウ、そして月夜の黒猫団。彼らを背に、まさに圧倒的ともいえる実力を見せてキリトは勝利した。

 

「アスナ……無事か」

 

 剣を納め、振り返る。その顔は疲れ切っていた。マージンがあるとはいえ、それでも一撃すら受けずに勝つというのは精神をすり減らす。一度のミスも許されない状況で、それでもキリトは集中力を切らすことなくやってのけた。

 

「うん。ありがとう、キリトくん──わ」

 

 答えるアスナの肩にもたれかかる形で、やっとキリトは体から力を抜く。お疲れさまの意を込めて背中をさすると、彼は長く息を吐いた。

 

「……フン。行くで黒猫団」

 

 キバオウがケイタたちに声をかける。

 

「アンタら弱すぎや。軍に入れとは言わん。けどもうちっと鍛えた方がええで。上に行きたいんやろ」

 

 キバオウが返事も待たず踵を返すと、黒猫団は顔を見合わせる。だがすぐに頷き合い、全員で追いかけた。

 残されたふたりはしばらく抱き合うように身を寄せていたが、ややあってアスナのもとに一通のメッセージが届く。

 ユウキからだった。

 

『言えた! けど、ちょっといろいろあった。エギルのとこに集まるから、そこで報告会しよ!』

 

 こちらですらいろいろあったのだ、向こうでだって何もないわけがない。ましてユウキは両方に顔を出している。ただ、だからこそ大小は問わず進展があったはずだ。

《言えた》ということは、《梟》には会えたということ。それは、それだけでも良かったことに含んでいいはずだ。少なくともこれだけは、と一年もの間ずっと頑張ってきたのだから。

 ──よかったね、ユウキ。

 口を動かすだけで音は乗せずにアスナはぽつりとつぶやいた。そしてそれならば、早く合流して話を聞いてあげたい。

 

「キリトくん、いったんエギルさんちに集合だって。一緒に行こ」

 

 ぽんぽんとあやすように背中を叩く。自分の気持ちが少し前のめりになっているとはいえ、それでキリトを急かすつもりはない。疲れているのはわかっている。返事があるまでいくらでも待つつもりだった。

 だがキリトの返事は、それにしたってどこかゆっくりとした口調で。

 

「一緒……ああ。ずっと、一緒だ──」

「……キリトくん?」

 

 聞き返すが、返事はなく。代わりに規則的な呼吸がアスナの肩に吹きかかる。

 

 ──もう、離れない。

 

 その言葉が、アスナに耳に残っていた。

 



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ゼラニウム

「あいつぜってえぶん殴る」

 

 春を迎え、もうすっかり雪が解けた四月の半ば。あれだけの騒動──《笑う棺桶》の主格四人が姿を現し、ふたりのプレイヤーがこの世を去り、あまつさえクリスマスイベントの限定報酬は《梟》の手に渡った──があった《迷いの森》は、すっかり深緑に覆われていた。

 出現するモンスターはもちろん変わらない。最奥、モミの木の聳えるエリアでは何かのイベントが起きる様子もない。場所によってところどころ照明のようにぼんやりと光る植物がより幻想的な雰囲気を醸し出す薄暗い森はどこまでも静かで、まるでここだけ時間が切り取られたかのような錯覚すらクラインは覚えていた。

 

「犯人は現場に戻るなんて言うけどほんとかよ、気配も痕跡もありゃしねえ」

 

 ぶつくさとぼやきながらクラインは茂みをかきわけて進む。踏み均された道を外れていくが、目当てのものが見つかる気は全くしなかった。むしろ森に潜んでいたモンスターのテリトリーに自ら突っ込む始末。三十五層の敵に今さら遅れをとるはずもなく、複数の敵をまとめて一刀で斬り伏せるその様子はさながら荒々しい道場破りの流浪人だった。

 ため息をひとつ、道に出ては反対側の茂みへ、そしてまたため息。そんなことをこの三日間ずっと続けている。だがめぼしい収穫はなにひとつとしてなかった。

 

「あるわけねえよなあ……もう三か月だぜ。それで見つからねえなら無いってことだよなぁ……やめやめ、次だ次」

 

 止まらないぼやきに自分で嫌気がさして、頬を両手ではたく。いくつかの目的があって、それが同時にこなせるからこの場にいるのだ。なにもひとつだけにとらわれる必要などない。

 

「とはいえ、そう簡単に──」

「いやああぁぁぁ!!」

「──いくのか!? どこだ!」

 

 悲鳴があがった。《迷いの森》は大小のエリアがランダムに接続するダンジョンだ。だがそれでも、大声に分類するアクションは近場のエリアには届くらしい。《雄叫び》、《歓声》、そして《悲鳴》。あくまで一例に過ぎないが、そうした声は木々の間を抜けて聞こえることがある。

 そして聞こえるということは、近いということだ。

 

「ああクソ、なんだよランダムってよ! 待ってろ、いま行くぞ!」

 

 クラインは駆けだす。ランダムとはいえ完全ではない。あくまでも時間制限を過ぎるとランダムになるだけで、全てのエリアに規則はある。そしてその規則はクリスマス以来《鼠》がほとんど丸裸にした。決してたどり着けないわけではないはずだ。要はランダマイズされる前に駆け抜ければいい。

 クラインは手早くマップを手元に起こして走り出す。

 そしていくつかのエリアを抜けた先で見たのは、四体のドランクエイプとそれらに囲まれへたり込むひとりの少女だった。

 

 

 

 

 

 

 いったいどれだけのエリアを回っただろう。

 進んでも進んでもいっこうに森がひらける気配はない。それどころか同じ景色を二度三度と見た覚えがある。三十を超えたあたりで少女は数えることをやめ、とにかく次のエリアで出口につながることだけを祈る。そうして進んだ次のエリアもまた鬱蒼と緑の茂る森で。やがて少女はへたりと森の中で座り込んだ。頭の横で結んだふたつのしっぽみたいな髪が勢いで跳ねる。

 

 ……失敗したなあ。

 

 少女──シリカは落ち込んだ表情のまま自らのアイテムストレージを探る。だがどれだけ目を凝らしたところで回復薬の残りは少ないし《鼠》の地図は持っていない。緊急用の腰のポーチはすでに空っぽだった。とにかく避けられるだけ戦闘は避けるけれど、地図がない以上どこまで保つかわからない。不安の影がじわじわと心を蝕んでいく。

 かろうじて薄暗い森の中に種類はわからないがぼんやりと光る植物があって、それがぽつぽつと足元を照らす。明かりがあることがこんなにも安心するのかとシリカは少し驚いていた。

 

「……きゅる」

「ふふ。ありがと、ピナ」

 

 シリカの肩にとまり不安げに顔を覗き込む水色の小竜の頭を撫でる。いつもならそうしてやると満足げに二本ある長い尾羽を揺らすが、今このときばかりはシリカの不安が伝わったのか垂れたままだった。それでも気遣ってくれるその様子が嬉しくて、シリカは表情を綻ばせる。

 肩に乗る、小さな相棒。明かりへの安心感はあるけれど、それ以上にピナの存在がシリカの心の支えになっていた。

 

「そうだよね、ひとりじゃない。帰ろっか。さっきのひとたちにも謝らなくちゃ」

 

 ……あのひとだけはちょっと嫌だけど。

 

 最後の想いは言葉にしなかった。頭の中に、憎らしい笑みを浮かべた赤い髪の女の顔が思い浮かぶ。

 あのひとと口喧嘩をしたことで、シリカは冒険途中でありながらパーティを抜けてしまった。いっときの感情でやってしまったことに遅まきながら後悔の念が押し寄せる。だがそうして冷静になった今でも、やはりあの女性の槍使いを許す気はさらさらない。……思い返すと、ムカムカも蘇ってきた。

 

「ピナをトカゲだなんて、失礼だよね。立派なフェザーリドラだもんね」

「きゅ? ごろごろごろ」

 

 顎を撫でてやるとピナは心地良さそうに喉を鳴らした。

 確かに細かい分類をしていけばドラゴンだってトカゲかもしれない。それは理解できる。けれどなんとなく、あのトカゲ呼ばわりにはもっと侮蔑の意味があるように感じられたのだ。あくまでもシリカの主観でしかないし、それでいったらピナという名前は現実で飼っている猫の名前だ。ドラゴンですらない。

 だがそれでも、ピナはピナだ。一年来の友達なのだ。友達をバカにされたら気分はすこぶる悪くなる。

 基本ソロで活動するシリカをあのパーティのひとたちは誘ってくれた。ここ二週間ほどの仲だけど、気のいい人たちだ。だから同じように彼らが受け入れた槍使いとも仲良くしたかった、けど。

 

 ……やっちゃったなぁ。

 

 そんなムシャクシャも、再び歩き出すと途端に霧散して後悔ばかりが湧きあがる。天狗になっていた、と言われればそうかもしれないとシリカは頷いてしまう。舞い上がっていたから、シリカ以上に視線を集めるあの女槍使いに対して感情的になってしまったのかもしれない。

 ビーストテイマー。シリカのように、本来は討伐対象であるはずのモンスターと友好関係を結んだプレイヤーをそう呼ぶ。ごく稀にそういったイベント──攻撃のためでなく友好的姿勢で近づいてくる──があり、エサをやるなどで飼い慣らしに成功すれば晴れてビーストテイマーだ。

 ただし条件は不明。もしかしたらそうかもしれないという程度で、小型のモンスターであることとその同種のモンスターを多く狩っていないことが挙げられるけれど、確定的なところはなにひとつわかっていない。ビーストテイマーの数の少なさに対してモンスターの多様性が合わないのだ。

 そしてだからこそ、シリカは注目を浴びていた。ピナ──フェザーリドラがそもそもレアなモンスターであることもそうだが、シリカもまた絶対数の少ない女性プレイヤーということ、しかもゲーム内最年少であろう齢十三ということも相まって拍車がかかる。それこそ今日の彼らのように声をかけてくれるひとたちは数多くいて、まるで自分がアイドルかのように思えてしまったのだ。

 

「……あたしが特別なわけじゃないのにね」

「きゅる?」

「ふふ、なんでもないよ」

 

 変わらずシリカの肩にとまり時おり顔を覗き込んでくる相棒に、シリカは力なく笑いかける。

 そう、自分が特別なわけではない。一緒にいるピナが特別なのだ。もう二度と、そんなふうに思い上がったりしない。

 

 ──だから、どうか。

 

 祈りながら、目の前のワープゾーンに足を乗せる。一瞬、めまいのように視界が歪み、そして目の前に広がるのは──陰鬱な森、だった。さっきと変わらぬ視界。出口であれば森の向こうに明るい草原が見えるはずだが、明かりといえばやはり足元を照らす謎の発光植物だけ。

 もう単独行動が二時間は経とうとしている。体力的な疲れこそないものの、精神的には相当に疲弊してきている。思わず再び座り込もうと膝に両手をついたところで──。

 

「きゅるるる!」

 

 ピナが、鳴いた。

 さっきまでの声とは違う、どこか張り詰めた声。それは警戒を促す鳴き声だった。ピナの声にシリカは考えるより速く腰に差した短剣を抜き逆手に構える。現れたのは、三体のドランクエイプだった。それぞれが左手に瓢箪、右手に棍棒を握っている。

 迷いの森にて最も厄介とされる猿人。奴らの特徴は群れで動くことと、拙いながら連携を取ることだ。しかし数では負けているものの、シリカだって伊達に長くソロで活動していない。迷いの森、すなわち三十五層ならマージンはじゅうぶんに取れている。決して遅れは取らないはずだ。

 

「ピナ、お願い!」

「きゅる!」

 

 短剣の素早さを活かすためにシリカは盾を持たない。ゆえにがら空きになりがちな左手側を、ピナが飛び回ることでカバーするのがいつものスタイルだ。

 ピナのシャボンのようなブレスで足を止めた一匹に、駆け抜けるようにしてソードスキルを放った。敵のHPを大きく削る。確かな手応え。ヒットアンドアウェイに徹して素早く離れる。

 大丈夫、いける──そんな確信は、背中に受けた衝撃に簡単に砕かれてしまった。

 

「──え」

「きゅるっ!」

 

 つんのめって転んだシリカの頭上を、ピナのブレスが吹き抜ける。苦しげなドランクエイプの悲鳴。シリカの目の前には三体分の足が見えている。だが悲鳴が聞こえるのは後ろからだ。

 

 ──四体目!? 

 

 見えていなかった、それとも隠れていたのか。なんにせよ数を見誤った。それでもまだ余裕はある、一体くらいなら大丈夫だ。そう思って素早く立ち上がって──シリカは目を見開いた。

 先ほどダメージを与えた猿人が腰に下げた瓢箪を呷っていた。遅々とした速度ではあるが、HPが回復している。ここのボス、《ドラグドエイプ》にそういったギミックがあることは知っている。だがまさかその下位モンスターにも同じような行動が設定されているとは。

 あるいは誰もが手早く討伐してしまっていたから、誰も気づかなかったのかもしれない──そんなポジティブな思考が浮かぶも、あっという間に打ち消される。

 

「キリがない……っ! ピナ──!」

 

 回復薬は少ない。前のエリアこそ戦闘は避けられたが、それでもここにくるまでに随分と使ってしまった。先ほどの一撃でHPは二割ほど減っている。三体を相手に一体ずつなら同じような攻撃で相手にすることもできるだろうが、もう一体に後ろを取られた。とにかく今は逃げるしか──! 

 

「ぎゅぐ!?」

「え……」

 

 突然、横合いから棍棒が振り下ろされて。

 ピナが勢いよく地面に叩きつけられた。

 

「ピナ……ピナ!」

「きゅる、るぅ……」

 

 弱々しくも再び飛び上がるピナを見て、シリカはほっとする。だが、今の一撃は。

 ピナの向こうに三体がいる。鳴き声で、シリカの背後に一体いることがわかる。全部で四体だ。これで全部のはずだ。なのにピナはそのどれもを見ていない。真横だ。

 おそるおそる、シリカは視界を横に向ける。

 ひとりと一匹を、猿人が見下ろしていた。

 

 ──五体目。

 

 目が合った気がした。うすぼんやりと明るい森の中では暗い色の体毛に覆われた顔ははっきりと見えない。その中で赤く光る目だけは煌々と光っていて。まるで睨まれた蛙のように、シリカはすくみ上がって動けない。

 はっきりと、《死》というものを感じた。

 それまで戦闘というものはあくまでもスリルを感じるための、日常に飽きをもたらさないためのスパイスでしかなかった。ピナとふたり、ときどき冒険に出て、その日を食べていくぶんを稼いで帰ってくる。安全な場所だけを選んでいた。危険なんて犯すつもりも犯しているつもりもなかった。

 こんなにも現実的に《死》が迫るなんて、考えてもいなかった──! 

 五体目の猿人が棍棒を振り上げる。最初の三体のうちの一匹、シリカがダメージを与えたやつはすでにHPが全快してにじり寄ってきている。他の三体も、がさがさと茂みを掻き分けながら近づいてくるのが音でわかる。

 

「ぎゅ……!」

 

 それでもなお、ピナは飛び上がった。動けないシリカをまるで庇うかのように、目の前、五体目の猿人との間に割って入る。

 

「ピナ!? ダメだよ、逃げて! ピナ!」

 

 走って逃げようにも足がすくむ。結晶アイテムなんて持っていない。けれどせめて、ピナだけは。自分なんてどうでもいい。けれどピナは。少なくともピナだけは、シリカにとっての特別だ。どうか無事に逃げてほしい。

 

「ピナ──!」

 

 切実な祈りはしかし、届くことはなく。

 棍棒は無慈悲に振り下ろされる。

 叩きつけられ、地面にぐったりと四肢を投げ出して。

 ピナは静かに、きらきらとポリゴンの欠片を振り撒きながら。長い一枚の尾羽に姿を変えた。

 ──その瞬間、糸が切れた気がした。

 

「いやああぁぁぁ!!」

 

 目の前の一体に向けて、とにかく短剣を振る。ソードスキルも、そうでないがむしゃらな斬撃も。すくんでいた体が軽い。今ならなんだってできる気がする。──だから、倒す。ピナの仇。

 小柄な体格を活かして懐に潜り込み、斬撃。身をくねらせて敵の攻撃を避け、また斬撃。繰り返す。繰り返す。時間の感覚なんてない。ときどき横合いから衝撃がくるが構わない。コイツは。コイツだけは、あたしが倒すんだ。

 やがて目の前が光に包まれる。振り抜いた右腕から力が抜けて、それと一緒に足から崩れ落ちた。

 四方に一体ずつ。あと四体が残っているけれど、もう逃げ切れるとは思えない。回復薬はなくなっていた。いつの間に飲んだのか自分でも覚えていない。けれどそれでも自分のHP残量は少なくて、バーの色は赤く染まっている。

 たぶん、もう助からない。けどそれでいい。

 左手に握っていたピナの尾羽を胸に抱きしめる。四体がそれぞれ棍棒を振り上げるのを呆然と見上げる。

 そして──。

 

「おらぁっ!」

 

 一閃。

 ひとすじ、橙色の光が四体の体をまとめて切り裂いた。振り上げられた棍棒たちが行き場を失って地面に落ちる。激しい光が目を焼いて、シリカは思わず顔を隠して目を瞑る。

 

「悪い、遅くなった! お嬢ちゃん無事か!?」

 

 目を開けると、目の前に手が差し出されていた。ごつごつとした分厚い手。それはなんとなく父親の手を思い出させる。フリールポライターの、キーボードを叩くあの手。

 見上げると、赤かった。赤い鎧、赤いバンダナ、赤い髪。赤ばっかりのなかで無精髭だけが黒い。お兄さんというよりおじさんだ。だからなのか、どこか父親が重なって見える。

 

「う……うわぁぁぁぁぁ……!」

 

 抑えられない。そう思ったときには、シリカは大声をあげて泣き出していて。

 

「え、ちょ、え!? 無事なのか無事じゃないのかわかんねえ! こういうときどうすりゃいいんだ!? こうか!?」

 

 目の前で狼狽える男性プレイヤーがなんだかすごく難しい顔をして、いろいろと迷ったあげくその手でシリカの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。

 乱雑で、力強い。勢いで首が動く。けどその雑さ加減もまた、父親を思わせる懐かしさがあって。

 シリカはひとまず、泣き疲れるまで泣き倒した。

 

 

 

 

 

 

「そうか……友達が」

 

 けっきょく十五分ほど泣き続けたシリカを、男性プレイヤー──クラインと名乗った──はじっと待ち続けてくれた。泣き止むまで何度も何度も頭を撫でてくれて、そのおかげで少しだけ心が軽かった。

 

「すまん。無事じゃなかったな」

「いえ、そんな。助けてくれてありがとうございます。もうダメかと思いました……」

 

 だから頭を下げられると居心地が悪くなる。悪いのは自分なのだ。軽率な行動をとって、結果ピナを失った。自分がバカだっただけだ。

 

「ピナ……」

 

 思い出すと辛くなる。握りしめた尾羽はアイテムになっていた。《ピナの心》──そんな名前がついていて、いっそう心がきゅうと締まる。

 テイミングされたモンスターには、それほど高度なAIは搭載されていないはずだった。少なくとも危険を察知して主人に報せる以外に自発的な行動はできないとされている。だがあのとき、確かにピナはシリカを庇うように動いていた。心──AIではあるけれど、少なくともこの一年を共に過ごしたことでそれに似た何かはちゃんとあったのだ。それが嬉しくもあり、だからこそやっぱり寂しくて、シリカの視界が再び滲む。

 そんなシリカに、クラインはまだぎこちないまでも優しい声音で問いかける。

 

「それ、《心》ってアイテムで合ってるか?」

「え……はい、そうです、けど」

「《心》、ココロか……ちょっと待ってな」

 

 首を傾げるシリカを横目に、クラインは手元に呼び出したキーボードを叩く。誰かにメッセージを送ったのか、手元が止まってしばらくするとクラインは顔を上げてシリカを見た。

 

「お嬢ちゃん。その《心》、大事に持ってな。もしかすると蘇生できるかもしれねえ」

「え……!?」

「今アルゴに聞いたらよ、プネウマの花っつー特殊なアイテムがあるらしいんだ。四十七層の《思い出の丘》ってとこのてっぺん。そこで咲いた花を使えばもしかしたら──」

「ほ、ほんとですか!?」

 

 クラインの言葉が終わらないうちに、シリカは声を荒げて立ち上がる。プネウマの花なんて聞いたこともない。けれどもしかしたら。思わず握りしめた尾羽に、シリカは視線を落とす。

 ピナが、帰ってくるかもしれない──? 

 希望の光が差し込んだ。だがそれも束の間、クラインの言葉を思い出す。

 

「……四十七……」

 

 遠い。先日、攻略は五十七層に達したばかりだ。解放はされている。決して行けない場所ではないが、今のこの場所で三十五層だ。プラス十二と考えると、とてもじゃないが今は無茶でしかない。

 肩を落としたシリカの様子を察したのか、クラインがどこか困ったように後頭部をかきながら言う。

 

「いちおう行くだけならオレがひとっ走り行ってもいいんだがな? どうも使い魔の主人本人が行かないとダメらしいんだ。だからお嬢ちゃんに頑張ってもらわにゃならんのだけどよ」

「いえ……情報だけでも、ありがたいです。こつこつレベルを上げていけば、行けない場所じゃないですから」

 

 これまでもけっこう勤勉にレベルは上げてきた。それを少しだけペースアップすればいいだけだ。ピナが帰ってくると思うなら、多少の無茶だって頑張れる。

 だが続くクラインの言葉に、シリカは唖然とする。

 

「三日で、か?」

「……え?」

「三日間のうちにプネウマの花を手に入れて使わないと、《心》は《形見》になるんだと。そしたらもう、何やったって戻ってこない」

「……三日……!」

 

 無理だ。時間制限がないのならちょっとした無茶で済む。だが三日。現在のレベルが四十四で、目標層は四十七。安全マージンと呼ばれるのがその層の数字プラス十とされているから、五十七まで上げなければならない。当日はそのダンジョン攻略にあてるとすれば残り二日。たった二日で、プラス十三レベル。それはちょっと……というか、絶対に無理だ。

 シリカはうなだれ、《ピナの心》を胸に抱く。自分の愚かさが憎い。自分の弱さが憎い。ごめんね、ピナ。どれだけ謝っても、いつもの鳴き声は聞こえてこない。

 代わりに立ち上がる音がした。たぶんシリカの様子から無理だということを悟ったのだろう、ため息混じりだったことが少しだけ怖かった。それでもせめて、助けてもらったお礼はしたい。言葉はたくさん伝えたけれど、何かきちんと形として──。

 

「……え?」

 

 シリカが顔を上げたところで、不意に目の前にウインドウが開かれた。《トレードウインドウ》とあるその画面には、見たこともない装備が全身一式、さらに短剣までもが並んでいる。しかもトレードと言いながら、こちらが出すものは入力できない。受け取るか否か、どちらかしか選べないようになっていた。

 

「そんだけありゃ少しは足しになるはずだぜ。あとはオレもついてくから、多分なんとかなるだろ。本当だったらギルドの奴らにも声をかけたいとこなんだけど、アイツらはアイツらで用事あるからなぁ……」

 

 指折り、アイツはダメ、コイツもダメと数えていくクライン。だが聞き捨てならない言葉が聞こえていて、シリカは思わずクラインの思考を遮る。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。この装備はなんですか?」

「ん? 言葉のとおりだ。その装備はお嬢ちゃんに譲る。どうせオリャあ使わねえし、持ってたって腐らせるか売っ払うだけだ。だったら使えるひとに使ってもらったほうが道具も喜ぶってモンだろ」

 

 当たり前のように首を傾げる。自分がおかしいのかとシリカは内心で首を傾げ返す。

 

「それに、ついてくって」

「そりゃそうだ。さっきの装備があったって完璧に安全とは言えねえし、女の子ひとりで行かせるなんてもっと言えねえ」

 

 当たり前だろ、とクラインは笑いかける。その様子は混じり気もなく本心のようで。

 

「どうして、そこまでしてくれるんですか……?」

 

 信じられなかった。なんなら警戒までしていた。

 クラインの行動は完全に無償の提供だ。それはかつてシリカが経験したことのある、男性に言い寄られたときのパターンと同じだった。一度だけではあるが、それがエスカレートして求婚までされたことだってある。それは十三歳のシリカにとって恐怖でしかなかった。

 その結果、少なくとも男性との一対一は避けるようになった。今回もまたそのパターンなら断らねばならない。そもそも甘い話には裏があるのだ。そしてそういうことを持ってくるひとは、いかに自分が信じられるかを長く話し続けるものだ。

 だがクラインは迷う様子もなく、簡潔に答える。ぽすぽすとシリカの頭を撫でながら。

 

友達(ダチ)のためだろ? 手伝うさ」

 

 そのあっさりとした返答は、不思議なほどストンと受け入れられた。

 友達の──ピナのため。そうだ、そのためなら頑張れる。一度は落としたかもしれない命だ、惜しむほどのことなんてない。

 それに、この手。父親を思わせる手を持つこのひとが悪いひとだとは思えなかった。ならば信じてみてもいいかもしれない。

 

「……よろしくお願いします」

 

 シリカはぺこりと頭を下げる。

 せめてもと、トレードとして所持金の全額を支払うなんてことも申し出てみたが、クラインはそんなの貰えねえし貰うつもりもねえよと突っぱねた。

 それでも何か、助けてもらったうえにこれから助けてもらうのだからと食い下がってみると、クラインは最初こそ首を横に振っていたけれどやがて根負けしたようにため息をついた。

 

「……じゃあ、お嬢ちゃんの名前、教えてくれ。これから手伝うのに不便だろ」

「あ、そうでした! あたし、シリカって言います」

 

 正直、ちょっとだけ。『君があの?』なんて反応を期待した。だがもちろんクラインはそんな反応を示さなかったし、そもそも自分のそういうところが今回の騒動につながったのだとシリカは反省する。

 

「いちおうさっき言ったけど、改めて。クラインだ、よろしくな」

 

 差し出された右手を、握手で返した。大きな手だった。頼っていいんだと心から思える。

 クラインはシリカがアイテムを受け取ったことを確認すると、手元にマップを取り出し歩き出した。その背中をシリカは小走りで追いかける。

 

 ──待ってて、ピナ。すぐ迎えに行くよ。

 

 決意新たに歩くシリカの耳に、クラインの呟きは聞こえない。

 

「……生き返るなら、そのほうがいいもんな」

 

 その小さな声は、茂みを進む音でかき消えた。

 



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エーデルワイス

 この世界──アインクラッドに、犬や猫といった現実世界で言うペットとして愛される動物たちは存在しない。厳密に言えば、犬や猫はいることはいるけれど例外かつ限定的にNPCが連れる犬や野良猫が町の中に存在するだけで、プレイヤーがその動物たちを連れて歩く、あるいは自らのホームでともに過ごすということはできない。それはNPCがゲームシステム的な一般人であり、プレイヤーは逆に冒険者であるからという理由からだった。

 あくまでも幻想的な蒼穹に浮かぶこの城を冒険するのがプレイヤーであり、ゆえに定住を前提とはしていない。できるようになってはいるが、それでも目標は生活でなく攻略でありそれが主軸となる。

 しかしそれならば、そもそもそういった動物たちはいないほうがいいといった声があがることがある。憧憬、羨望、そういった感情が行き過ぎる場合はある。それはこの世界としても、あるいはそうでなくとも不和を生む。

 その行き過ぎた感情を少しでも和らげようという計らいなのだろう。あるいは単に攻略を円滑化するためか。ビーストテイマーという存在は、さほどレアな存在というわけではなかった。不明瞭とはいえ《小型モンスター》かつ《同種討伐数の少なさ》がテイミングの条件として有力視されているなかで、レベルやスキルの熟練度といった《討伐数の多さ》はむしろ不要とされている。仲間にしたいモンスターに巡り合うために《遭遇した回数》を増やすことを重視させるその条件は、《攻略》でなく《冒険》に時間をさける中層プレイヤーにはさほど難しいものではなかった。

 それにより、確かに多くはないにしろ、どの街を歩こうが中層であればだいたいふたりか三人のビーストテイマーとすれ違うことができる。決して珍しいものではないのだ。

 そしてそういう意味で。ピナの種族、シリカの年齢という組み合わせは確かに珍しいものであったが、それ以上に《攻略組》──ギルド風林火山の、しかもリーダーであるクラインがそんな彼女と行動をともにしていることは非常に稀有な事象であり、それゆえに大きな話題となっていた。

 

「……えっと。クラインさんもいっしょでいいですか」

「おう、いいぜ。食いモンにいい思い出があんまりなくてな。楽しみだ」

「そうなんですか? ……じゃあ期待していいですよ。ここのチーズケーキ、とってもおいしいんですから」

 

 三十五層主街区、ミーシェ。クラインがクリスマスの夜に急ぎ駆け抜けたときと印象は違わず、レンガや粘土、ときに木組みで作られた建物が立ち並ぶのどかな街並み。その一角にシリカが当面の拠点にしている宿がある。そしてそれに隣接したカフェで、ふたりは向き合って座っていた。

 石畳に並べられた木の丸イスとテーブル。ランタンに照らされ、はめ殺しの窓の向こうには草原。街の雰囲気そのままののんびりとした店内はしかし、そこそこの客が入っているにもかかわらずどこかそわそわとした空気が流れている。それはシリカにもなんとなくわかった。

 クラインと、ふたりの前にチーズケーキを運んだNPCの店員だけがどうにもその空気を読めていないようだった。

 

「ん! こりゃうめえ。ギルドの連中にも教えてやっか」

「あはは、ぜひ。他にもおすすめのとこあるので、案内しますよ」

「頼むわ。オレらあんまり降りてこねえからな。いろいろ教えてくれると嬉しい」

 

《降りてこない》。その言葉に、ほかの客が少しだけ体を傾けたのがシリカにはわかった。視界の隅で、お前行けよ、いやお前がと押し合いへし合いしているのが見える。気づけば全て席は埋まっていた。

 街に帰ってきたときもそうだった。シリカがフリーになったのを耳ざとく聞きつけたいくつかのパーティがすぐに走り寄ってきて、けれど隣に立つクラインの姿に足を止め、そして半信半疑ながらひとりが確認を取ったらクラインは迷わずにうなずいて。それ以降はシリカ以上にクラインが注目の的になったし、あわよくば、ともすれば。ふだん見ない《攻略組》といっしょに冒険ができるかもしれないという可能性に浮足立っているのだ。

 初めてピナと友達になったときもこんな感じだったのを覚えている。だが今は、きっとピナだから、クラインさんだからこんなふうになるんだな、ともシリカは思う。そのことにどこか寂しさを感じて、シリカは紛らわすように言葉を紡ぐ。

 

「そういえば、どうしてクラインさんは迷いの森にいたんですか? こないだ五十七層がクリアされたばっかりって聞きますけど」

「探してんだ。ひととものと、いろいろ。アスナさんにちょっとお願いして次の攻略は休みにしてもらってな。けどあれだな、やっぱそう簡単にはいかねえや」

 

 うんうめえ、とクラインはチーズケーキを頬張る。どうやら一緒に頼んだコーヒーも気に入ったようで、もう一杯と追加注文をしていた。

 アスナさん。その名前は、あの《閃光》のことだろう。その単語にふたたび店内にざわめきのような緊張感のような、変な空気が漂う。そんな名前がまるで知り合いのように出てくる会話など全く聞かない。それこそニュースで知る有名人というような。やはり本人と店員は気にしている様子がなかったけれど。

 シリカにとっても、その名前のおかげでクラインの存在が本来は遠いところにいるひとなのだとはっきり突きつけられた気がした。

 

「……探しものって、なんですか?」

 

 それでもせめて、今日のお礼になにかひとつでも助けになりたいと思った。チーズケーキをごちそうするのも教えてくれるだけでいいと断られてしまったし、何もお返しできていない。彼が迷いの森にいたということは、目的のもの、あるいはひともその場所に関係するはずなのだ。今日こそなんだかんだで無様な姿を見せたが、探すくらいなら手伝えるかもしれない。

 だがクラインはシリカの言葉に驚いたように目を丸くするも、

 

「ありがとな。けど大丈夫だ」

「ひゃ」

 

 笑ってまたぐしゃぐしゃとシリカの頭を撫でまわす。アバターだから髪が崩れることはなくそこは心配しないが、だからこそ違うところに目を向けることができた──できてしまった。

 彼は大丈夫だと言うけれど。

 

 ──なんだか悲しそう……というか寂しそう? 

 

 その顔は、何かに耐えているように見えてしまった。

 だがそれも一瞬のことで。

 

「ま、それは今はいいんだ。急ぎの用事ができたからな。予定、詰めてくか」

 

 あんな顔をしたというのに、彼はシリカとの約束を優先してくれる。なんだかそれがすごく嬉しくて、にやけそうになる頬をあわててチーズケーキのせいにした。

 

 

 

 

 

 

「あらシリカ。こんなとこにいたの」

 

 あのあと、よほど気に入ったのかクラインはもうひとつチーズケーキをおかわりして、それを食べ終わるのを待ってから《思い出の丘》挑戦への日程を詰めることにしたのだが──始めた途端に、向かいに座るクラインの向こうから聞きたくない声が聞こえてきた。

 

「ロザリア、さん……」

 

 長く赤い髪を後ろでまとめた切れ長の目の女性プレイヤー。街中だからか武器はしまっているが、彼女の武器は槍だ。プレイヤー名をロザリアという。彼女こそ、今日のシリカが喧嘩してしまった相手だった。

 露骨に嫌そうな顔をしていたのだろう。クラインが何事かと振り向く。

 

「むご?」

「ぁん」

 

 ……クラインの振り向いた高さはちょうどロザリアの胸の高さだった。鎧を着ているとはいえ薄めのもの、しかも胸元は大胆に開いた装備である。少なくともクラインの鼻から上は、ロザリアの肌に直接触れていた。

 

「お兄さん大胆ね。嫌いじゃないわ」

「もがご!?」

 

 大胆と言いながら、ロザリアこそ大胆にまるで絹でも扱うかのような動きで両腕でクラインの頭を抱きすくめる。顔がほとんど埋まっていた。

 

「ロザリアさん!」

「あ痛って!」

「あら」

 

 ロザリアに牙をむきながら、シリカはつま先でクラインの向こう脛を蹴とばした。軽くではあったが、その衝撃に驚き飛び上がったクラインの勢いでロザリアは腕を離す。

 

「クラインさんも!」

「いやわざとじゃねえって! こんな近いとは思わねえだろ!?」

 

 確かに、ロザリアはクラインの本当に真後ろ至近距離から覗き込むようにして立っていた。位置関係として仕方ないことはシリカもよくわかっている。だがそれはそれとして、ムカつくのはムカつくのだ。

 

「なにもそんなに怒んなくたっていいじゃないシリカ。あなたにあのトカゲっていう武器があるみたいに、私は私の武器を使っただけでしょ?」

 

 言いながらテーブルの横に移動して、まるでクラインに見せつけるかのように胸を寄せ上げる。そしてそれに見事に吸い寄せられるクラインの視線にまたムカついて、再び脛につま先。

 

「……でへ」

「──っ!」

「はっ! いやすまん」

 

 仕方ないというのはわかる。わかるけれど、こんなにもあからさまな誘惑にくらいは勝ってほしい。ロザリアが言うように、シリカにはない武器だから。そこで勝負されたら勝てるわけがない。

 

「……何しに来たんですか」

「ご挨拶ねぇ。森にひとりで残ったのに無事帰ってきたっていうから顔を見にきたんじゃない。そしたら風林火山のクラインさんと一緒にいるって聞くし、せっかくだからご挨拶でもと思って。──ロザリアです、よろしくねお兄さん」

「よよ、よろしくお願いしゃっす」

 

 身を乗り出すようにしながら、ロザリアはシリカの前に割り込んでくる。クラインの視線が揺らいでいたりなんだかどもっていたり、とにかくシリカの気に障る。

 

「何しに、来たんですか!」

「あら、そういえばあのトカゲどうしたのよ、いないじゃない。逃げられたの?」

 

 ──わかってるくせに。

 

 言い返そうとする自分の口を無理やり閉じる。

 テイミングされたモンスターはアイテムのようにストレージに納めることも、どこかに預けることもできない。まして逃げられるなどあり得ない。主人のそばにいない時点で、理由などひとつに絞られる。

 それはロザリアだって知っているはずだ。にもかかわらずわざわざ尋ねてくる。しかも、シリカの質問は無視して。ロザリアのこういうところが嫌いだった。

 ただ、そこで初めてシリカはロザリアの後ろにいるプレイヤーたちに気づいた。三人の男性プレイヤーたちは全員が申し訳なさそうな顔をしていて、ふと我に帰る。

 

 ──そうだ、あのときもこうやって怒っちゃったから。

 

 ひとりで怒って、ひとりで抜けて。結果ピナを失った。同じ轍を踏むわけにはいかない。ピナのためにもクラインにはいてもらわなきゃならないし、自分がまた怒って暴走するのだけはしちゃいけない。

 

「ねえお兄さん、この子と遊ぶのもいいけど、アタシとも遊ばない? 楽しめると思うわよ」

「うぇへ? いやそんな、だめっすよそんな」

「──っ!」

 

 けどこのときばかりは、どうしたって我慢の限界だった。

 

「ピナは死にました! けど絶対に生き返らせます。そのためにクラインさんが必要なんです、邪魔しないでください!」

「え、シリカちゃん?」

 

 戸惑うクラインの手をがっしと固く握って、手早く会計を済ませたシリカは足早に店を出た。店中が注目していたからか、怒髪天を衝く形相のシリカに皆がさっと道を開ける。彼らは見ているだけで助けようともしてくれないことに、八つ当たりだとわかっていながらもやはり腹の虫がおさまらず、方々をにらみつけるようにしながらずんずんと歩みを進めていく。

 いつの間にか日は落ちていた。大小並ぶ二つの月がやけに静かで、すぐにシリカは落ち着きを取り戻したけれど。

 

「ど、どうしたんだよ急に」

「……なんでもないですっ」

 

 未だ事態を飲み込めていなさそうなクラインの顔を見た途端にすこしだけムカムカが戻ってきて。手をさらに強くぎゅっと握って、シリカはクラインを引っ張っていく。

 

「ありがとうございましたー」

 

 嵐の後の静けさが訪れた店内に、NPCの声がのんびりと響く。それをきっかけに、だんだんとそれまでの異様な緊張感でなく、日常的な活気が戻ってくる。

 

「……生き返らす、ねぇ」

 

 ロザリアの呟く声は、やがてカフェから酒場に姿を変えた店内の騒々しさにかき消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もーもーもー、もー!」

 

 あのままその足で宿に戻ったシリカは、手早く部屋着に着替えてベッドに飛び込んだ。基本的に音は隣の部屋にすら漏れることはないけれど、それでも心置きなく大声を出したかったから枕に顔を埋める。そのままごろごろとベッドの上を転がった。

 

 ──なんであんなことになっちゃうのかなぁ。

 

 結局、クラインも同じ宿を取った。シリカが手を離さなかったからだ。たまたま隣の部屋が空いているからと、クラインは迷わずにそこを選んだ。

 また後で、と言って別れたクラインは最後まで戸惑うような困るような、それでいてどこか申し訳なさそうな顔をしていた。それでも《思い出の丘》について何も話せていなかったことはちゃんと覚えていて、後でその打ち合わせはしようなと笑っていた。なのにシリカは、最後まで憮然とした表情を崩せなかった。

 

 ──困らせちゃったかな。そうだよね、あんなに怒っちゃったもん。態度悪い女の子って思われたかも。

 

 よっぽどロザリアのほうが好印象だったに違いない。あんなにデレデレして、鼻の下を伸ばして。男の人はみんなそういうのに弱い。思い出すとまたムカムカしてきそうだった。

 

「……お父さんはあんなじゃないのに。ねえ、ピナ──」

 

 言ってから、ハッと体をこわばらせた。

 もういないのだ。そのせいでクラインに手伝ってもらうような事態にすらなっているのに、まだ自分は心のどこかでピナがいると思ってしまっている。

 今は、ひとり。ピナを取り戻すために頑張らなきゃならない。ならないんだけど──。

 

「ピナ……」

 

 寂しい。いつもみたいに、あの声を聞かせてほしい。あのふわふわな毛が恋しくて、手をやんわりと開閉させる。目頭が熱くなる。じんわりと視界が滲んだ。

 

「あー、えっと。シリカちゃん?」

「は、はい!?」

 

 クラインの、扉をノックする音に文字どおり飛び上がった。そのまま開けようとして部屋着だったことに気づき、少し待ってくださいと声をかけていつもの装備をよびだそうとして──なんとなく、思い直した。

 

「ごめんなさい、お待たせしました」

 

 ややあって開かれた扉の向こうにはラフなシャツ姿のクラインがいた。彼はどこかほっとしたような表情を見せながらも驚きに目を丸くする。

 

「ど、どうですか? もらった装備、胸当ては今はいいかなって思ったのでつけてないですけど。……変じゃ、ないですか?」

 

 えんじ色のミニワンピース。長袖は腕にフィットするような細身のものでありながら袖の部分は少しだけ広がっている。腋の部分が大きく開いているのが恥ずかしかったけれど、それ以上に動きやすさがあった。その下に履いた黒のミニスカートから覗く足は同じく黒のロングソックスで覆われていて、絶妙に覗く絶対領域が眩しい。

 

 ──手伝ってもらうんだ。だったらせめて、手伝ってよかったって思ってもらいたい。

 

 それでどうして装備を着てみせることにしたかは自分でもよくわかっていなかったが、クラインの反応を見るに間違っていなかったことだけはわかった。

 

「いいね、可愛い。似合ってると思う」

 

 クラインの笑顔に、どきりと心臓が跳ねた。慌てて胸に手を当てるも、アバターじゃ鼓動はよくわからない。けどなんとなく、その心臓の部分がきゅっとなったのがわかった。

 

 ──あれ。なんだろ、これ。

 

「立ち話じゃなんだし、下のロビーにでも行って──」

「あ、いえ」

 

 自分の突然な不調に慌ててか、シリカはクラインの言葉に首を横に振っていた。そして開いた扉と一緒に体を横にずらす。

 

「どうぞ。この部屋、使ってください」

 

 そう言って、入室を促した。ついさっきシリカに引き摺られるようにして歩いていたとき以上にキョトンとしていたクラインだったが、部屋の主が言うならと思ったのだろう。特に迷う様子もなく部屋に入り、備え付けの椅子に腰掛ける。

 少なくとも一ヶ月くらい、この部屋を仮宿として活動している。ひとり分の椅子とテーブル、そしてベッドが置かれただけの簡素な部屋。正直、見慣れたはずだった。

 だというのに。クラインがそこに座っただけで、部屋の雰囲気が変わったような印象をシリカは受けて。

 

 ──なにしてるのあたし!? 

 

 一瞬のうちについさっきのことを振り返って我に帰る。自分はいま、今日知り合ったばかりの男の人を部屋にあげなかったか。しかもピナがいない。正真正銘、一対一だ。これはどういうことだ。いくらピナがいないからって、まして父親を思い出して寂しさが押し寄せてきたんだとしてもこれはなんだ。しかもそのクラインさんから貰った服まで着てみせて。

 

 ──ま、まるで誘ってるみたいな……! 

 

 頬が熱くなるのがわかった。少女マンガとかでよく見る感じの、ちょっと大胆なシーンを思い浮かべてまた赤面する。

 違う、ただの打ち合わせだ、ピナを生き返らせるのを手伝ってもらうんだ。そう、ピナのため。別に変な意味なんてなんにもないし、だから意識する必要なんてない。

 そんなことを内心で自分に言い聞かせながら扉を閉める。ドアノブを両手でしっかり閉めてゆっくりと息を吐いて。そうして振り返れば、いつものあたし。ピナがいないからちょっと調子が悪いだけ。だいじょうぶ。

 とにもかくにも、まずはさっきのを謝らなくちゃ。

 

「あの、さっきはごめんなさい。カッとなって蹴っちゃったり、なんか無理やりお店出ちゃったり……」

 

 だがクラインはまたもキョトンと目を見開くと、なんだか難しい顔のまま苦笑して。

 マグカップをふたつ、テーブルに並べた。

 

「シリカちゃん、コーヒー好きか?」

「え……っと」

「いや待て、そもそも飲めるかどうかか。飲める?」

 

 子供扱いだろうか。コーヒーくらい飲める。よく父親が淹れすぎて、余った分をカフェオレにしてくれていた。ときどきブラックを試してみて、それはちょっと苦かったけれど。

 

「飲めます、けど」

「そっか。じゃあ一緒にどうだ? チーズケーキを教えてもらったお礼……お礼にはならないかもしらんけど、まあそんな感じのヤツだ」

 

 マグカップのひとつを差し出されて、シリカは受け取る。そのままクラインの向かい、ベッドに腰掛けた。

 

「……う」

 

 それは砂糖もミルクもないブラックコーヒーだった。しかし飲めますと言った手前、無理ですなんて言えなくて。

 思い切ってひと口。

 

「……ニガイです」

 

 たまらず、渋い顔をする。

 せっかく用意してもらったのに、しかも飲めますって言ったのにダメだった。すごく悪いことをした気分になる。だからもう少しだけでもと思ってカップを口に近づける。

 だがクラインは笑いながら、自分のカップをテーブルに戻した。

 

「やっぱそうだよな。こんなの飲めたもんじゃねえ」

「え? いえそんな、そこまでは」

「無理して飲まなくていいぞ。たぶん普通のブラックの数倍マズイからな。オレもできれば飲みたくねえ」

「えー……」

 

 確かに香りからしてそうだったし、舌に少し触れた時点でもうダメだった。味がキツいというか苦味が濃すぎるというか。記憶にあるブラックコーヒーが苦かったという思い出しかないから、ひょっとしたらちょっと味覚が変わったのかななんて思ったりもした。

 だが味わった印象そのままらしい。シリカが知っているブラックコーヒーを何倍にも濃くしたような強い味。本当に飲み物なのかと疑いたくなるほどの。

 でも、それならば。

 

「どうして飲もうと思ったんですか?」

 

 ルームサービスのようなものはない。であればこれはドロップ品や何かの報酬か、あるいはテイクアウトか。少なくともクラインは、わざわざ持ち込んで飲んだということになる。

 自分でも飲みたくないほどにマズいコーヒーを。

 

「打ち合わせって言ったろ。今回は仕事ってほどのものじゃないけど、そういうとき飲むようにしてんだ。マズすぎるだろ、これ。けどそれのおかげで目は冴えてくれるんだ。あとは……そうだな、気晴らしかな。オレのもだけど、シリカちゃんのも」

 

 淀みない答えだった。たぶん今のクラインの言葉に嘘はない。気晴らしというのもたぶん間違ってなくて、さっきのロザリアさんとのいざこざを気にしてくれているのだというのもわかった。

 だと言うのに、シリカは今の説明では足りない何かがあると思える。どこがどうという具体的なものまではわからないけれど。明らかに、何かを隠している。

 

「……それだけ、ですか?」

「うん? おう、そんだけだ」

 

 クラインが自分から言わない以上はそれだけでいいのだと思う。でもシリカにとっては、少なくとも《それだけ》で済ませたくないことだった。それがクラインの、あまり踏み込んでほしくない部分だったとしても。

 本当に《それだけ》なら。

 

 ──どうしてそんなに、泣きそうな顔をするんですか? 

 

 今までシリカは、可能な限り男性との距離は一定を保ってきた。それこそ頑ななまでに避けてきたのに、クラインに対してだけはどこか違った。

 最初は父の面影を重ねた。もちろん顔なんて全然違うのに、あの手の大きさや不器用さが似ていた。けれどなぜだろう、さっき部屋に招き入れたときからなんだか違って見えるのだ。

 父ならば、言えないこともあるだろうと納得した。けれどクラインには。できるだけ、そんな顔をしてほしくなかった。

 自分で助けになるのならなんだってしたいと、なんだってやってみせたいと思ったのだ。

 

「もしかして、さっき話してた探しものに関係ありますか?」

「……っ!」

 

 クラインが目に見えて動揺する。それはほとんど正解だと言ってしまっているようなものだった。

 

「クラインさん。言える範囲でいいです。話してみませんか。言うだけでも少し楽になったりするんですよ」

 

 これでも話そうとしなければ、それでもいい。無理してほしくないだけで、口にすることすら難しいならそれでも構わなかった。なんでもないならなんでもないで、そうと言ってくれればシリカは引き下がるつもりでいた。

 だがクラインは、ガシガシと後頭部を掻きむしってため息をついて。

 

「……かなわんね、どうにも。ユウキちゃんもそうだけど、世の女性っつーのはどうしてこう強いというか鋭いというか」

 

 ユウキちゃん。その名前になんとなく身構える。だがクラインの口から出たのは、それ以上に衝撃的なものだった。

 

「《梟》、知ってるだろ。あれ友達(ダチ)なんだ。少なくともあいつが《梟》を名乗る前までよく飲んでたのが、このマズいコーヒーなんだよ」

 

 そうして語られたのは、クラインの知る《梟》の来歴。それはシリカが今まで聞いてきたどの話とも違っていて。なにより、クラインの後悔が。シリカが想像していた以上に深く大きなものだったことにショックを受けた。

 

「仕方なかったんだ。少なくとも誰も止められる状況じゃなかったし、止めたって止まるかどうかわからなかった。けどそれでも、やらせちゃいけなかった。あれだけはどうしても止めなきゃならなかったんだ」

 

 クラインは凪いだコーヒーの水面をじっと見つめる。

 

「《梟》として名乗ったときと、クリスマスのときと。オレは二回、アイツを止めるのに失敗してる。けどもう失敗できねえ。したくねえ。だから多少の無茶は承知の上で攻略も進めながら《鼠》の手伝いもしてんだ。そのついでにアイツの足跡も探してる。そんで、そういうのを始めるときは必ず飲むようにしてんだよ」

 

 カップを手に取って、ひと口。その顔は苦味に耐えているのではなくて、どちらかといえば苦味で何かを抑えているようにも見える。

 後悔と決意。その表れが、このコーヒーだったのだ。

 

「……うん、確かに。言ってみると楽になるもんだな。ありがとな、シリカちゃ──シリカちゃん!?」

「え?」

「いや、え? じゃなくてよ。ごめんな、そんな辛い話をしたつもりなかったんだ。まさか泣かせるとは思わなかった」

「……ほんとだ」

 

 わたわたと慌てるクラインの言葉でやっと気づく。どうも視界が滲むと思えば、確かに泣いているようだった。だが今はいい。そんなことよりもクラインのことだ。

 

「あの、クラインさん!」

「お、おう?」

「あたしもお手伝いします! レベル低いのであんまり力にはなれないかもしれませんけど、《梟》さんに会えるようにお手伝いしたいです!」

「いや待て、その前に涙、涙!」

 

 迷いの森で、クラインは自分のことを横に置いてシリカを手伝うと言ってくれた。だったらそのお返しは同じことであるべきだ。

 わたわたと慌てるクラインが自分の長袖のシャツで涙を拭いてくれた。その動きがとても優しくて、シリカはより強く決意する。

 

友達(ダチ)のため、です。クラインさんがそうしてくれたように、あたしも頑張りますから!」

「わかったから、ありがとうな。けどその前にピナだろ? ちゃんと助けてやらねえとな」

「はい! よろしくお願いします!」

 

 そのあと、コーヒーこそ片付けてしまったものの。時間制限があるからという理由から早ければ早いほどいいと結論が出て、《思い出の丘》挑戦は明日になった。ミラージュスフィアと呼ばれる立体地図のようなもので大まかな道のりを確認する。

 そうして大まかながら予定を立てると、既に時刻は十二時を過ぎていた。明日に影響が出ると良くないからとクラインは部屋を後にする。

 おやすみなさい、と声をかけると。

 おやすみ、と返ってきた。

 部屋に戻るや否や、シリカはベッドにダイブした。まるでピナと初めて会ったときのような高揚感。明日が待ち遠しくてたまらない。ピナを生き返らせて、そしたらふたりでクラインさんのお手伝いだ。

 

 ──早く明日にならないかな。

 

 そんなワクワクはまどろみに溶け。

 やがてシリカは寝息を立て始めた。

 



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スターゲイザー

「わぁ……!」

「おお、こりゃすげえ。フラワーガーデンって名前はダテじゃねえな」

 

 シリカが感嘆の声をあげた。後に続くクラインも感心したように辺りを見回す。

 視界一面に海のように、花が咲き誇っていた。

 四十七層主街区フローリア。転移門を中心に広がる円形の広場には色とりどりの花々が乱れ咲く。

 クラインが呟いた《フラワーガーデン》という通称のとおり、さながら箱庭のように主街区は透明なドームに覆われていた。主街区内外を区切る位置にはドームを支える真っ白な石柱が立ち並ぶ。街というより庭園の様相を見せるこの場所には宿場町といったものはなく、点在する噴水と屋台以外は全て花壇。石畳の通路の両脇に細く水路が設けられ、蛙でもいるのか、ときおり足元でちゃぽんと音が聞こえた。

 

「すごい……!」

 

 シリカはレンガで区切られた花壇の前にしゃがみ込んだ。遠目で見るぶんには絨毯のようだったそれは、近くで焦点をあてると花弁や雄しべ雌しべといった細かなところまではっきりと浮かび上がる。紫色の小さな花がいくつも連なるように咲いていた。

 花の香りを楽しんでいると、花と花とを行き来するてんとう虫が飛び立つ。それを目で追った先でふと視線が止まった。

 男女のふたり連れ。仲良さげに手を繋いでいる。なんだかじっと見るのも悪くて視線を逸らすと、そこにもひと組。女性が男性の腕を抱くようにして腕を組み談笑している。

 

 ──もしかして、ここって。

 

 見渡してみると、似たようなふたり組があちらこちらを歩いていた。ときどき男性同士だったり女性同士だったりもいるけれど、纏う空気は似たようなもの。そして共通するのはやはり、ふたりでいるということ。特別な相手がいるということだ。

 デートスポット。そんな言葉が頭をよぎる。確かに一面の花畑といいそれに合わせた穏やかな気候といい、うってつけの場所だ。

 

 ──あたしたちもそんなふうに見られてるのかな。

 

 隣にずっと立ってくれていたクラインを見上げる。それに気づいたクラインもまたこっちを見てきて。

 視線が、ぶつかった。

 

「どした?」

「──っ、いえ、なんでもないです。行きましょう!」

 

 とっさに立ち上がって、はたはたと服をはたくようにしながら歩きだす。昨日も昨日で変だったが、今日も今日で変だ。なんだかクラインのことばかり意識してしまう。どうしても顔を直視できない。

 そうして思わず早足になっていたシリカの右手が、クラインの左手に掴まれた。

 

「おっと、そっちじゃねえぞ。こっちだ」

「……ぁう。はい」

「焦るのはわかるけど、あんまりひとりで先に行かないでくれな」

 

 クラインはシリカの手を引いて、シリカが行こうとしたのとは正反対の方向に歩き出す。まるで父の手のように感じていたその手が今だけは全くの別人のように感じて、けれど決して嫌な感じはしないその手をシリカはきゅっと握り返す。

 昨日はなんとも感じなかったのに、今日はどうしてかすごく気恥ずかしくて俯きがちだ。何かをしゃべろうとしても言葉が上手に出てこなくて、顔を上げては俯いてを繰り返した。

 石畳を叩くブーツの音が大きく響く。さっきまで見ていたカップルたちは楽しげに笑っていたのに、なんで自分は俯いているんだろう。あんなにも今日のことを楽しみにしていたのにこれはもったいなさ過ぎやしないか。

 というか、クラインさんもクラインさんだ。()()()()場所だってことは知らないにしたって、周りを見たらわかりそうなものだ。なのにこんな、平然と手を握って、引っ張って。もうちょっとくらい特別扱いというか、どぎまぎしてくれたって──。

 

「あら、こんにちはお兄さん。昨日ぶりね?」

「……っ!」

 

 女性の声。それが誰の声なのか俯いたままでもわかってしまって、思わず顔を上げる。

 

「あれ、ロザリアさんじゃないっすか」

「覚えていてくれたの? 嬉しいわ」

 

 赤い髪の槍使いが、街のはずれ──クラインが向かっていた主街区の終わりを示す門の柱にもたれていた。

 昨日と同じ胸元を大胆に開いた黒い鎧。クラインが名を呼ぶと、()()をつくりながらすり寄る。シリカと繋ぐ手が緩んだり強まったり、クラインの心の揺れを表しているかのようだった。

 

「ね、せっかくこんなところで会えたんだし、ご一緒してもいいかしら? テイミングしたモンスターを生き返らせるっていうのに興味あるの」

「ロザリアさん……なんでここに……」

「あらシリカ、話を聞いてなかったの? 《プネウマの花》だったかしら、それに興味があるのよ──ねぇ、いいでしょう?」

 

 後半の言葉はシリカに向けた言葉ではなかった。いままでもたれていた柱の代わりにクラインにもたれるようにして、甘い声で囁く。

 それだけでもだらしない顔で緩んでいたのに、さらには空いていたクラインの右腕を取り抱くようにして腕を組む。耳元で再びねだるように同行を求めて囁いて。

 

「ねぇ、お願い」

「もちろんいいっすよ、一緒に行きましょう!」

「あら嬉しい。お役に立てるように頑張るわ」

 

 二つ返事だった。

 

「え……」

「な、なんだどした?」

「あ……いえ、なんでも」

 

 思わず声を荒げたシリカだったが、続く言葉に詰まる。いったいなんと言えばいいのかわからなかった。

 ロザリアがニガテだ、なんて少なくとも本人の前じゃ言えない。言葉で勝てる相手じゃないし、むしろ変に突っかかられる隙を作ることになる。

 ふたりで行くんじゃなかったのか──もっと言えない。それこそロザリアに聞かせたくないし、クラインにだって恥ずかしくて言えない。期待していた、なんて。それじゃあまるで──。

 

「? どした、シリカちゃん」

「……なんでもないです」

 

 シリカはそう言って、繋いでいた手の力を弱める。

 拒む理由が言えなかった。少なくともクラインを納得させられるような理由がシリカには思いつかなかったし、言えない理由がはっきりしすぎた。

 クラインは変わらずシリカの手を握ってくれてはいたけれど、それはそれとでも言うように体ごと腕に絡むロザリアを振り払おうとはしない。それどころかほとんどシリカのほうには視線すら向けず、ロザリアとばかり話していて。

 

 ──ばかみたい。

 

 自分だけが舞い上がっていたみたいで、それがひどく悲しい。いっそつなぐ手も振り払えたらよかったのに、それはどうしてもできなくて。情けなさばかりが大きくなっていく。

 特別、という扱いに期待してしまっていた自分が恨めしい。クラインにとってシリカはたまたま出会ったただの女の子で、その子の友達のために手伝っているというだけなのだ。

 そう、それだけ。自分が特別なわけじゃないなんて昨日のうちに思い知ったではないか。ロザリアが興味を持っているのだって、ピナのことだ。ピナがいなければシリカのことなんて歯牙にもかけないはずだ。

 

 ──クラインさんだって、ピナのためなんだから。

 

 シリカはまるでその言葉を刻み込むように空いた左手を強く握る。

 門をくぐった先のフィールドも、主街区と同じようにそこかしこに花が咲いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 結局、シリカは繋いでいた右手を離すことになっていた。

 

「なんだっけ、ピナ? のためなんだからシリカ、あんたがまず頑張るべきなんじゃないの?」

 

 とロザリア。

 言われなくてもそうするつもりだったし、あくまでも彼らは手伝いだというのもわかっている。わかっているけれど、実際にそれを言われるのはひどく癪に触った。しかも本人はクラインの右腕を離さないし、クラインはクラインで無理にでも引き剥がそうという姿勢ではなかった。

 

「シリカちゃん、花の下の白いとこな。ちゃんと叩けばたぶん一撃だ。……それでロザリアさん、そろそろ離れません? ちょっと歩きづらいっす」

「あらいいじゃない。お嫌い?」

「いいいいえ別にそーんなことはありませんけど!」

「……っ!」

 

 後ろのふたりから目を逸らし、シリカは短剣を逆手に構える。道脇の草むらをかき分けて現れたそれは、《歩く花》だった。

 足代わりの機能を果たすのは無数に分かれた根。胴体部にあたる茎は人間の太腿ほどに太く、その中ごろからは人間の腕ほどの太さをしたツタが伸びる。そして頭の位置では巨大な花が中央からぱっくりと巨大な口を開けていた。

 クラインが言う白い部分──そこは人間で例えるなら首にあたる部分だ。じっと見据える。腕の代わりに伸びる二本のツタが、鞭のようにしなり空を切り裂いて地を叩く。

 正直、苦手なビジュアルの敵だった。チュートリアルにちょうどいいからと、以前《アニールブレード》獲得のクエストをやったときと同じだ。あのときはリトルネペントという類似した小型のモンスターが湧きに湧いた。今回は数こそ一体なれど、でかい。そして大小に関わらず、思わず一歩引いてしまいたくなるようなデザインだった。

 だがここで退くわけにはいかない。退けば退くぶんだけピナに背を向けることになるし、なにより後ろのふたりに近づくことになる。それはどちらも嫌だ。その思いが一歩を踏みとどまらせた。

 

「やぁっ!」

 

 振るわれるツタを避け肉薄する。刀身が光を帯び、一瞬の残光。断末魔の叫びとともに花が落ち、そしてポリゴン片が砕け散った。

 

「……やった」

 

 動ける。クラインから受け取った装備はやはり今までのものより数段上なだけあって、防御力もさることながら敏捷値が桁違いだ。攻撃を受けても大丈夫、じゃなくて攻撃を受けなくても済む。ダメージを受けずにダメージを与えられるのだ。これならいける──倒せる。少なくとも同じ奴なら問題ない。

 あっけないとまでは言わないけれど、こんな装備を使わずにいるなんて。やはり攻略組というのはレベルが違うのだと実感できた。

 

「やっぱすごいのねお兄さん、さすが攻略組ね。左手だけで倒しちゃうんだもの」

「任してくださいよこの程度!」

 

 もう一匹、シリカの背後に迫っていたようだった。それは空いていた左手で抜いたクラインの刀が一撃で葬る。散るポリゴン片をバックに、寄り添うふたりが顔を近づけて話している。

 

「……ふんだ」

 

 学習した。ロザリアのやり方はわかったし、クラインさんの弱みもなんとなくわかった。この程度で癇癪を起こすシリカではない。

 そしてやっぱりシリカのためではないのだ。少なくとも、シリカを気にした様子は一切ない。

 

「ね、攻略組ってみんなこんなに強いのかしら? それともお兄さんが特別なの?」

「そりゃみんな同じようなモンすよ。なんなら弱いほうで」

「嘘よぉ、ゼッタイ嘘。お兄さんが一番に決まってるわ」

「いやそんな、お、おおおだてたってなんも出ませんよ!?」

「おだててなんてないわよ。本心だもの」

「そ、そうっすか?」

「そうよぉ。世界で一番カッコイイわ」

 

 振り向きたくなかった。ロザリアの甘ったるい声につられるように、クラインの声音もだんだんと溶けていっているように感じる。

 聞きたくない。聞いていたくなかった。一刻も早くこの場から離れたいその一心で、シリカは足を早める。道中に現れる敵モンスターどもに八つ当たりするように斬りつけて、とにかくシリカは進んでいく。

 やがて草原から森に切り替わる場所にたどり着いた。緩やかな傾斜の丘陵を森が覆っている。誰かが、あるいは何かが踏み均した道は曲がりくねりながら森の奥に続く。

 一歩踏み込むと、眼前にウインドウが表示された。

《思い出の丘》──このてっぺんが、目的地。

 振り向くと、クラインとロザリアは顔がギリギリ見えるか見えないかの位置にいた。こっちを見ているような見ていないような、ゲームシステム的にも曖昧になる距離。動きを見ていると、少なくともロザリアはくっついて離れようとせず、かといってクラインも嫌がる素振りはないように見える。

 その様子が、フラワーガーデンにいたプレイヤーたちの姿に重なった。

 

「……っ!」

 

 たまらずシリカは駆け出した。森の中は薄暗い。昨日のことを思い出す。

 ひとりで怒って、勝手な行動をして、ピナを失って。手伝うよと言ってくれた、父の面影を重ねたクラインのことすらも、昨日声をかけてくれたパーティの彼らと同じように勝手に置いていって。

 同じことをしてしまっている──そんな自虐的な感情も芽生えるが、それを打ち消すようにひたすらピナのことだけを思い浮かべる。

 ピナさえいてくれればいい。ピナがいてくれさえすれば、あたしはだいじょうぶ。ひとりになんてならない。ずっと一緒にいてくれるんだ。

 がむしゃらに走る。道中、おびただしい数のモンスターに出くわした。幸いクラインから貰った装備とこれまでで上がったレベルのおかげでどうにか事なきを得るが、さすがダンジョンというべきか、モンスターのレベルはともかく出現数が段違いだった。

 だがそれらに驚き慄くよりも、孤独のほうがシリカには強く感じられた。

 

「……ピナ……会いたいよ」

 

 いつもピナが隣にいた。たった一日だ。たった一日いないだけなのに、今はすごく心細い。

 

「寂しいよぉ……ピナぁ……!」

 

 半ば泣きじゃくるようにしながらしゃにむに道を辿る。時にモンスターを倒し、時に無視して、シリカはとにかく頂上を目指す。

 やがて森が急に開けて、まぶしさに目を細めた。それでも進むと足の裏に感じていた傾斜がだんだんと緩やかになり、やがてなくなっていく。光に目が慣れてくると、目の前にぽつんと岩がひとつあるのが見えた。

 

「着いた……?」

 

 すんすんと鼻をすすりながらシリカはゆっくりと進む。

そこは広場だった。中央に岩がひとつあるだけの簡素な場所。ただ、これまでのどんなところよりも絢爛に花々が咲き乱れている。

 そして真っ直ぐに、岩に向けて一本の道が伸びていた。

 一歩、進む。岩全体が光ったような気がした。

 二歩、進む。岩に切れ目があるのが見える。

 三歩。切れ目から、ひょこんと何かの芽が顔をのぞかせた。

 歩を進めるたびに、岩に根付いた植物が伸びていく。すくすくと生長するそれは、やがてあっという間に蕾になる。

 そしてシリカが手を伸ばせば届くところまで近づくと、蕾はゆっくりと笑みの眉を開いた。

 

「きれい……」

 

 桃色の花弁が六枚、互い違いになるようにしながら空を仰いでいる。近づいて見てみると、花の中に液体が見えた。花びらが器の役割を果たしているのだ。

 

「これが……?」

 

 手を伸ばす。茎にちょんと指先が触れると、まるでそれを待っていたかのように折れた。慌てて両手ですくうように持ち上げると、目の前に《プネウマの花》の文字が浮かび上がる。

 ついに手に入れた。これでピナが──。

 

「おめでとう、おチビちゃん」

「……え」

 

 背後から声がした。同時に足音が近づいてくる。振り向くと、見知らぬ男たちが森の中から次々に姿を現しては無遠慮に花々を踏み荒らしていた。

 

「その花がプネウマの花だな?」

「オレたち、それが必要なのよ。ちょーだい?」

「なんならお嬢ちゃんごともらってもいいんだけどよ」

「お前そんな趣味あったんか」

 

 ゲラゲラと下卑た笑い声をあげて、男たちはシリカを取り囲む。十人はいる。全員がシリカを見下ろしている。全員が武器を手に持っている。

 そして全員が、頭上にオレンジを浮かべていた。

 

「な、なんですか……?」

「あーいや、そんな怖がらんでもいいのよ。別に何かしようってんじゃなくてさ」

 

 にやにやと笑みを浮かべながら、シリカの正面にいたひとりが歩み出る。それにつられるように、シリカも一歩下がった。

 

「怖がられてやんの」

「そりゃあんなブサイクが近づいてきたらこえーだろ」

「代わるかー?」

「お前はもっとブサイクだろ」

「んだとコラ!」

 

 ぎゃいぎゃいとどこか楽しげに、周囲の男たちがヤジを飛ばす。それに正面の男は一喝した。

 

「うっせーぞお前ら! ……すまんな、後でキツく言っとく」

「あ、いえ……その」

「それでもう一度言うけど。その花、オレにくれねーか」

「ひ……!」

 

 直前の声とは打って変わって優しい声音。だが、だからだろうか。それで迫られている今のほうが、よほど怖い。

 

「これはお願いだからあんまり強くは言えねーし、別に無理にとも言わねーけどよ。もう一度言うぞ? その花、くれないか」

「だ……だめ、です」

「話聞いてたか? その花、くれよ」

「だめ、なんです……!」

「よこせ」

「いや……!」

 

 大きく目を開いた顔が近い。だんだん声が低くなる。男が迫るのに合わせてじりじりと下がると、やがて背中が岩にぶつかった。

 

「もう下がれないな。まあ下がったところで逃しゃしねえけども」

「あ、う……」

「最後だ。その花、よこしな」

 

 言って、男は右手を伸ばしてくる。シリカが胸に抱く《プネウマの花》に向かって。

 だがこれだけはダメだ。渡せない。誰よりも、何よりもシリカの特別なのだ。もしこれでプネウマの花まで失ってしまったら、今度こそシリカは立ち上がれない。

 ピナに二度と会えない、なんて。そんなこと想像もしたくない。

 

「……っ!」

「あ。おいおい」

 

 男と自分の間に岩がくるように回り込む。だがそれも大した抵抗にはならず、いつの間にか真後ろに近づいていた別の男に肩を掴まれた。

 

「ひゃ……!」

「可愛い声してんねえ、お嬢ちゃん。おじさんと一緒に遊ぼうよ」

「〜〜っ!」

 

 ぞわわわわ、と鳥肌が立った。男の声が耳元で聞こえる。その感覚がこれ以上なく気持ち悪い。

 

「あーあー。ほどほどにしとけよ」

「大丈夫だって。少なくともあの攻略組の兄ちゃんは来ねえだろ」

「まぁそりゃあな。ちょろすぎんだろあいつ。童貞だな」

「違いない」

 

 ──攻略組。

 その言葉に思わず顔を上げる。それに気づいた、肩を掴む男が上から覗き込むようにして笑いかけてきた。

 

「助けは来ないよ。どうやらお嬢ちゃんよりあの姉さんの方が好みだったみたいだねえ?」

「そ……んな」

「まあほら、代わりにオレがお兄ちゃんになってあげるから。ほら呼んでみ? おにいちゃんって」

「──!」

 

 ふるふると首を横に振る。

 ──嫌だ。

 さっきとは別の意味で、この場から離れたいと強く思った。怖い。ただでさえ男の人が怖いのに、こんなにも大勢でこられたらもっと怖い。

 なのに逃げられなかった。肩を掴む力が強くて、振り払うことができない。どんなに暴れてもびくともしないのはきっとレベルのせいだ。

 レベルが高い。そのぶん、筋力値やら敏捷値やらも高い。そうなればこの世界はゲームなのだ、弱い者が勝てる道理なんてない。

 

「……けて……」

 

 今さらと思うかもしれない。こんな時だけ都合よく、と思われるかもしれない。自分から逃げ出しておいてこんなの虫が良すぎることはわかっている。

 でも──でも。

 あのひとの手だったら、こんなに気持ち悪いなんて思わない──! 

 

「助けて、クラインさん!」

 

 力の限り、叫んだ。聞こえるわけないと自分でもわかっていた。シリカを囲む男たち以外にひとの影など見当たらない。何より、彼らの言葉が本当ならばそもそも彼はシリカには興味も持っていないことになる。それはもう他人だ。

 この場にいない他人に助けを求めたって、それが叶うわけがないのだ。

 それでも。思いつく中で最もレベルの高い、それでいて助けを求められるプレイヤーは、シリカの中では彼しかいなかった。

 

「だから話聞いてたか? 来ねえっつったろーが」

 

 岩を乗り越えた男が、シリカが胸元に抱く花に手を伸ばす。せめてもと、花だけでも奪われまいと両手でぎゅうと胸に抱く。シリカの腕を解かせようと、男の右手がシリカの腕を掴もうとして──。

 その手を、横合いから伸びた手が掴み捻りあげた。

 

「な、あだだだだ!?」

「ぶが!?」

 

 男の悲鳴を上げながら後ずさる。続いてもうひとり。それらと同時に肩を掴まれていた感覚が消える。

 ふっと体が軽くなる。思わずへたり込みそうになった体を、がっしりとした何かが受け止めた。

 そしてぽすぽすと、これまでになく柔らかな感触がシリカの頭にあった。

 

「悪い、遅くなった。無事か?」

 

 確かめるまでもなかった。目を開けると、彼の顔が太陽に重なって影しか見えない。だがそれだけでじゅうぶんだった。

 もう、父親と間違うこともない。

 

「──っ!」

 

 思いきり飛びつく。力いっぱい、ぎゅうと抱きしめる。

 彼がシリカをどう思っていたっていい。

 少なくともシリカにとって、彼はもう特別な存在になっていた。



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アガパンサス

 クラインの大きな手がシリカの頭を撫でる。

 

「ごめんな、怖かったろ」

「いえ、いいえ……!」

 

 クラインの言葉に必死に首を振る。

 確かに恐怖は感じた。だが来てくれた。助けを求めたら、やっぱり迷う様子なんて見せずに助けてくれた。それがすごく嬉しくて、怖かったことなんてすっかり忘れてしまえた。

 ぎゅうと抱き着くシリカの背中をぽんぽんとさすって、クラインは懐から転移結晶を取り出す。

 それを、プネウマの花を握る手とは反対の手に握らせて。

 

「お守りだ。よく頑張った、あとは任せな」

 

 そして堂々と包囲網の中心に向かって踏み出していった。

 

 

 

 

 

 

「なっ……なんでてめえがいるんだ!」

 

 ふたりを囲む男たちにどよめきが走った。シリカに迫っていた男が叫ぶ。だがそんな激昂にも、クラインは泰然とした態度を崩さない。

 

「さて……お前ェらにはいろいろ確認したいことがあんだけど。質問、いいか?」

「こっちの質問に答えろ! なんでてめえがここにいる!」

 

 それはシリカも聞きたいことだった。なぜここに──攻略組がという意味なら、それをシリカは知っている。探しもの、あるいは探しびとがいるからだと本人から聞いた。

 だがこの場でここにいる理由は。シリカが呼んだからというならこれ以上なく嬉しいが、ならば彼女は。

 ロザリアは、どうしたのだ。

 

「ハァ……なんでって言われてもな。そんなの、お前ェらがいちばんわかってんだろ?」

 

 わざとらしくため息をついて、心底からしかたなさそうにクラインは答えた。心当たり。シリカに思い当たるのは彼らが一律にオレンジプレイヤーということだが。

 内心で首を傾げるシリカを、クラインは肩越しに一瞥した。

 

「え……」

 

 視線がぶつかって、思わずびくりとする。だがまるで「安心していい」とでも言うようにクラインは笑って、視線を前に向けた。

 

「今回のお前ェらの標的はこの子だった。正確には、この子なら手に入れられるプネウマの花。間違いねえな?」

 

 標的が、あたし。その言葉に再び肩が跳ねる。

 

「どっかの物好きが欲しがってんのか、プネウマの花は高額で取引される。あるいはただ単にレアものだからなのか。そこは知らんけど、とにかく金になる。だからお前らは狙った」

 

 クラインは淡々と話し続ける。どこかゆっくりとした、わざとらしい説明口調なのは自分のためだとシリカは理解していた。

 

「そしてシリカちゃんはプネウマの花を取りに行くらしい。それは昨日、けっこうはっきりシリカちゃんが言ったな。だからお前らは待ち伏せた」

 

 はっと息をのむ。確かに、昨日はかっとなって大声になってしまっていた。あのとき既に狙われていたのだと思うと、みすみす情報を流してしまっていた自分に腹が立つ。

 

「だが同行者がいる。だからお前ェらは考えた。どう引き剥がすか。その答えが──これだったってわけだ」

 

 クラインが指で、オレンジプレイヤーの向こう側を指し示した。しかしそこには誰もいない。少し離れて森があるだけだ。だがクラインは念を押すように言葉を続ける。

 

「もうネタは割れてんすよ。諦めてください、ロザリアさん」

「え──」

 

 シリカが驚くと同時に、森とこの広場の境目にある茂みがガサガサと揺れる。

 そして出てきたのは。

 

「ンもう、置いてくなんてひどいじゃない。心細かったのよ?」

 

 軽薄な笑みを浮かべた、赤い髪の槍使いだった。

 

「急に走り出すから慌てて追いかけたのにあっという間に見えなくなるんだもの、アタシ驚いちゃったわ。攻略組って足も速いのね?」

 

 相変わらず、どこか甘ったるい声音でロザリアは言う。だがクラインはこれまでのようなだらしない声にも態度にも変わることはなかった。

 

「もうやめましょう、その演技。なんならあんた、コイツらの頭だろ? オレンジギルド、タイタンズハンドのよ」

「え……オレンジ?」

 

 クラインの言葉にシリカは再び驚く。確かに、男たちは軒並み全員がオレンジカーソルだ。だがロザリアのカーソルは緑。彼女の向こうに見える森の色に近くて、見失いそうになるくらいの緑だ。

 だがカーソルカラーは関係ないとクラインは言う。

 

「カルマ回復のクエストを受ければいつだってグリーンに戻れる。それにひとりくらいグリーンがいないと街の中に入れねえからな。今回みたいに誘き出すこともできねえ。そういう意味じゃ、今回はやりやすかったんじゃねえのか?」

 

 クラインが話すうちに、ロザリアの顔から甘みが消えていく。代わりにどこか毒々しい、まるで嘲るような粘つく笑みに変わっていった。

 

「……そうねぇ、そこまでバレてんなら隠す必要なんてないわね」

 

 言いながら、ロザリアは歩み出た。まるで男たちを率いるように彼らの前に──シリカたちに相対する位置で足を止める。

 

「だらしないわねアンタたち、あんな小娘一匹になにダラダラやってんのよ。……ま、アタシもあのお兄さん引き止めらんなかったから似たようなもんか」

「ほ、本当に……?」

 

 未だシリカは信じきれない様子だった。そんな彼女にロザリアは嫌らしい笑みを向ける。

 

「首尾よくプネウマの花は手に入れられたみたいじゃない? おめでと、シリカ。それでさっそくだけど、その花アタシも欲しかったのよ。こっちに渡してくれない?」

「──っ、イヤ、です!」

「あら冷たい。そんなに嫌わなくてもいいじゃない」

 

 慌ててシリカは自分の後ろに庇うように花を隠す。

 もしかして、この二週間くらいのあいだ一緒のパーティにいたのはこのためだったのか。思えば頻繁に彼女はシリカを孤立させようとしている雰囲気はあった。昨日の喧嘩だって発端は彼女だった。

 もしかして、パーティに誘ってくれたあの人たちのことも──? 

 はっと気づき、ロザリアを睨みつける。その意図が伝わったのかロザリアは嫌な笑みをさらに深く歪めた。

 

「もちろんアンタだけじゃないわよ? そもそもあのパーティ全員ひっくるめて美味しそうだったから目をつけたんだもの。本当なら今日にでもヤッちゃう予定だったんだけど、攻略組だのプネウマの花だの、ちょっと目を離した隙にどんどん美味しくなってくじゃない。そんなの逃すわけないわよねぇ?」

 

 ちろりと舌で唇を舐める。その様子はまるで獲物を前に笑う蛇のようだった。

 だが、一転ロザリアは急に冷めたような顔をする。

 

「でもお兄さん、そのへんわかっててついてきたんでしょ? 馬鹿なの? それともなぁに、アタシみたいな女よりそのちんちくりんの方が好み? ロリコン?」

「いや正直ロザリアさんすげぇ好みっすけど」

 

 間髪入れないクラインの返事に、挑発に乗りかけて思わず短剣を握りしめたシリカも挑発をしたロザリアも一瞬呆ける。その隙を──狙ってのことではないだろうが──突いて、クラインは話し続けた。

 

「けど生憎と、交わした約束を破るほど落ちちゃいない。まずシリカちゃんの相方を生き返らせなきゃならんし」

 

 左手を腰に刷いた刀の柄に置き、右手で腰に下げた巾着を探る。

 

「そもそも、オレはアンタを探してたんだ。なんならシリカちゃんのより前の依頼だ。シルバーフラグスって名前に聞き覚えは?」

「……あの貧乏な連中のことかしら」

「一ヶ月前だ。リーダー以外の四人を殺しておいて忘れたなんて言わせねえよ」

 

 クラインが取り出したのは濃紺の結晶アイテムだった。転移結晶より色の濃いそれは、同じく移動用のものではあるが用途が異なる。

 転移結晶が転移門の座標限定ながら即時的に転移できるものであるのに対し、濃紺の結晶──回廊結晶は、あらかじめ座標を一ヶ所指定しておかなければならないがその座標の場所に制限がない。

 そして、クラインが持つ回廊結晶の接続先は。

 

「この先は黒鉄宮の牢獄だ。依頼主の希望でな、殺すんじゃなく捕まえてくれだとよ。あいつは毎日のように最前線の主街区に来ては頭下げてたぜ。これを用意したのもあいつだ。やりすぎだぜ、あんたら」

 

 ──探してんだ。ひととものと、いろいろ。

 昨日のクラインの言葉をシリカは思い出していた。このことだったのだ。攻略組のいる街でそうやって依頼をして回っていたひとがいて、それをクラインが受けた。だから珍しくも攻略組が直接降りてきていたのだ。

 黒鉄宮の牢獄は第一層のその下、地下にあるとされている。脱獄するには推定八十層レベルの敵がうろつく広大な地下迷宮を通らねばならず、現状では実質的に脱獄は不可能だ。存在だけが牢獄エリアのマップをNPCが売っていることで知られている。

 いつ出れるともわからない牢獄に、いつ終わるともわからないゲーム中ずっと閉じ込められる──それは間違いなく極刑だった。

 

「お兄さんそういうタイプだったのね。アタシのいっちばん嫌いなタイプ。この世界に現実の法とか罪とか持ってきちゃってるイタいやつだわ」

 

 だがロザリアは眉ひとつ動かすことなく、むしろ面倒臭そうに答える。

 

「ここはゲームなのよ? ゲームでできる範囲でアタシたちは楽しんでるだけ。ましてここで殺したって実際に死んでるかなんてわかんないじゃない。しかもアタシらがやったなんて証拠はないのよ? 罪に問われるかどうかも怪しいでしょ。そんな死に損ないの言うこと真に受けてアタシらを探しに来るなんて、お兄さんてばお人好しすぎない? 馬鹿かロリコンかって言ったけど、訂正するわ。大馬鹿者ね」

 

 ロザリアの唇が嗜虐的な笑みを結ぶ。目に凶暴な光が宿った。

 

「しかもたったひとり。いくら攻略組だからってナメすぎでしょ。アタシのものになるならこんなことにならなかったのに、残念だわ。──アンタたち」

 

 掲げられたロザリアの右手の指先が宙を二度切る。クラインの存在に動揺していた男たちは一度躊躇うも、ロザリアの言うように数で押せば勝てると踏んだのだろう、顔を見合わせて頷くと武器を構える。

 一対十。多勢に無勢だ。どう考えたって、いくらクラインが攻略組とはいえ勝てるわけがない。

 だがシリカの耳に届いたのは、呆れ混じりに呟かれたクラインの忠告だった。

 

「……やめとけ。お前ェらじゃ、オレにゃ勝てねえよ」

「その余裕がいつまで持つかしらね。アンタたち、やっちまいな!」

 

 ロザリアの右手が振り下ろされる。男たちが武器を構えて走り出す。それなのにクラインは武器も構えず、ため息交じりに立っているだけだ。

 

「クラインさん!」

「ストップだ、シリカちゃん」

 

 せめて少しでも助けになればとシリカが走り出そうとしたのを、クラインは振り向きもせずに止める。

 

「任せろって言ったろ」

「で、でも!」

「大丈夫だから」

 

 声が、かすかに笑った気がした。たったそれだけで毒気が抜かれ、シリカは踏み出した足をつい引き戻す。

 男たちはクラインのすぐ目の前に迫っていた。よそ見をするな、舐めてんじゃねえぞと怒号が飛ぶ。それでもクラインは武器を構える素振りを見せなくて、シリカは思わず頭を抱えるようにして目を瞑った。足に力が入らなくて、ぺたりと膝を折ってしまう。

 斬撃の音がした。十人分の攻撃がクラインの体を斬りつける音だけが響く。雨霰のようにダメージの音が続き、ロザリアの鼻で笑う音が聞こえて。

 

「なんだ、コイツ……!」

「……嘘だろ?」

 

 そして男たちが困惑の声をあげた。

 

「まだやるか?」

 

 どこか呆れた様子のクラインの声にシリカは恐る恐る顔を上げる。そして目の前の光景を疑った。

 クラインは変わらず立っていた。

 それどころか多少は勢いが鈍くなっているとはいえ絶えず攻撃を受け続けているのに動じた様子はない。シリカの見間違いじゃなければ、その場から一歩たりとも動いてすらいなかった。

 

「な……アンタたち、なに手ぇ緩めてんの! 全力でやんなさい!」

 

 異変に気付いたロザリアが煽りたてた。だが男たちの手は次第に緩み、やがてぴたりと止まってしまう。

 

「なにしてんの! 誰が手を止めていいって言ったのよ!」

「……無理っス、ロザリアさん」

「勝てねえよ……理不尽だろこんなの」

 

 男たちは弱弱しくロザリアに振り向く。その様子がよほど無力感を示していたのか、ロザリアまでもが倣うように口をつぐむ。勝ちを確信した嘲笑は一瞬のうちに崩れている。

 それほどに、目の前の光景は圧倒的──というよりも、彼らのひとりが呟いたように理不尽なものだった。

 クラインの頭上にHPバーがある。満タンになっている緑色のそれは、十人の同時攻撃を真っ向から受けていながら雀の涙ほども減少しないのだ。そしてそんな微々たるダメージは瞬きをするうちに元に戻る。バトルヒーリングというスキルだろう。戦闘を主とするプレイヤーたち、すなわち攻略組くらいしか身につけることのないスキル。

 どれだけやってもダメージを与えたことにならず、それどころかどんな攻撃を繰り出したところで全て無駄に終わるのだ。それはいったいどれほどの徒労感か。

 まして彼らは実際に倒すつもりで攻撃したはずだ。そんな彼らの前に泰然と佇むクラインがどう見えていたのか、シリカは想像もしたくなかった。

 大袈裟なくらいに大きく、クラインはため息をつく。

 

「だから言ったろ、無理なんだって。RPG初めてか? レベルに差がついたらもうどうにもなんねえなんて常識だろ」

 

 言いながら、クラインは腰に佩いていた刀を抜いた。鞘を滑る音が高く響く。

 

「お前ェらを捕まえてぶち込めって依頼だ。だから殺しまではしねぇよ。けど──」

「ひっ」

「逃げられると思っちゃダメっすよ、ロザリアさん」

 

 一瞬にしてクラインは、ロザリアとの間にあった十歩ぶんほどの距離を詰めていた。鋭く研がれた鋼が鈍く光をはね返す。

 ──怒ってる。

 短い期間の付き合いしかないが、それでもシリカは響きだけでその感情を読み取ることができた。それほどにクラインの声は低く、怒気を孕んでいる。

 カランと何かが落ちる音がして、そこで初めてシリカはロザリアの手に転移結晶が握られていたことに気がついた。

 

「な、なんなのよ……マジになっちゃってさ。言っとくけど、アタシを攻撃したらアンタがオレンジになるのよ?」

「そうすね。けど一日二日あれば戻せるんですよ。そのくらいなら攻略に戻るのにも問題ない」

 

 ロザリアの必死な抗弁に、クラインは素直に頷きを返した。オレンジになることに躊躇いを持っていないという返答にロザリアは目ざとくつけ込もうとする。

 

「アンタがオレンジならアタシらと同じになるのよ。そうなったらアンタが裁くのはおかしいじゃないのよ!」

「そうすね。確かにそれはおかしな話です」

 

 クラインは再び素直に頷いた。ロザリアがここぞとばかりに目つきを鋭くする。

 だがクラインは続けて、これまでの返答と同じように滑らかに、しかしこれまで以上に冷たく言い放つ。

 

「だからそうなったら、全員を殺しますよ」

 

 息を呑む音が聞こえた。それがロザリアのものだったのか、それとも自分のものだったのかシリカには判別がつかない。あるいは力なく膝を折った男たちの誰かだったのかもしれない。

 クラインの言葉は、決してそれが不可能ではないとわかるからこそ恐ろしかった。耐久の高さも行動の素早さも、シリカからすれば明らかに常軌を逸していて数値の高さを窺い知れる。そもそもパーティを組んでいるからレベルだけは見えていた。シリカが今日一日でレベルをかなり上げたにも関わらず、クラインの半分にやっと届いたというくらいだ。

 であるならば。攻撃力の数値の高さなど、それこそ容易に想像できる。

 

「ロザリアさん、あんた自分で言ったんだぜ。ここで死んでも現実で死んでる保証なんてない。確かにそのとおりだ。だからたとえばここであんたを殺っても、死なない可能性だってある」

「な……ち、ちょっと本気? ねえ待って、待ってよ!」

「そうやって命乞いしたプレイヤーをあんたは殺したんだろ?」

「アタシじゃない! やったのはアイツら! アタシは命令しただけよ!」

「変わんねえよ。むしろその方がタチ悪いじゃねえか」

「ひぃっ……!」

 

 クラインの声がより低くなった。ロザリアが目を見開いて怯えるようにじりじりと後ずさる。

 

「そういうロールプレイがあるってのは理解してんだよ。けどこれはゲームであって遊びじゃねえんだ。どれもこれも冗談じゃねえし、冗談じゃ済まされねえんだ!」

「──っ!」

 

 ザン、と。

 ひときわ大きな音がして、クラインは大地に刀を突き立てた。その迫力に呑まれ後退を止めたロザリアを乱雑に肩に担ぎ上げ、オレンジカーソルの男たちの中心に放り投げる。その間も苦し紛れにロザリアは何かを言っていたが、クラインは一切の聞く耳を持たない。

 

「……コリドー、オープン」

 

 クラインがコマンドを詠唱した。左手に握っていた結晶が砕け、青い光の渦が宙に浮かび上がる。

 

「ねえ聞こえてるんでしょ!? 手を組みましょ! アンタとアタシで組めばどんなギルドだって──!」

「選んでくれ。自分で入るか、オレに投げ込まれるか。ただもしオレに任せるってんなら、加減はしない」

 

 ロザリアの叫びにも近い懇願すら無視したクラインの言葉に、沈み込んでいた男たちがのろのろと起き上がる。

 多少の毒吐きはあれど、落とした武器を拾いすらせず青い渦へと男たちは向かった。圧倒的ともいえる力量差を直に体感したからだろうか、誰も抵抗する様子を見せない。

 そうして次々と姿を消していって──ついにロザリアひとりとなった。

 

「なんだってのよ……ここまでなんて聞いてないわよ」

 

 ぶつぶつとまるで呪詛を唱えるようにロザリアは口を動かす。その様子はまさに先ほどの男たちと同じく消沈という言葉を体現しているようだったが、それでも動こうとはしない。負けを認めたくないというのがシリカにも伝わってくる。

 だがそれでは埒が明かない。クラインもそれはわかっているのか、ため息交じりにロザリアの腕を掴み立ち上がらせようとして。

 

「待て待て、ジャパニーズサムライ。その女だけはダメだぜ」

 

 シリカの耳元。すぐ後ろから、男の声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

「てめぇ……!」

「おっとストップだ。別にお前とやり合おうってんじゃない」

 

 シリカを追い越して、声の主はシリカに背を向けて立ちはだかる。

 その男はポンチョで全身を覆っていた。その風貌にシリカは見覚えがなかったが、頭上に浮かぶカーソルカラーがオレンジだったこととクラインがすぐに身構えたことで少なくとも味方でないということだけはわかる。

 

「PoHとか言ったか。何しにきやがった」

「知っているとは嬉しいね。自己紹介とかしたっけか──そうか、クリスマスの」

「何しに来たって聞いてんだ!」

 

 PoH。その名前は知っている。殺人ギルド《笑う棺桶》、その頭領の名前だ。シリカがへたりこんでしまっているとはいえ、見上げるほどの長身。身を包むポンチョはまるで闇のように黒かった。

 

「ご挨拶だな。まあ用事なんてとっとと済ませるに限るか。──その女、こっちに寄こしな。俺の用件はそれだけだ」

「ヘッド……!」

 

 ロザリアの顔色がぱあっと明るくなる。ヘッドという呼び方からして、ふたりには接点があったのだろう。……助けに来た、ということだろうか。シリカは自分でそう考えて、どうしてもそこに違和感があるように思えた。

 それはクラインも同じだったらしく、剣呑な視線を向ける。

 

「らしくねえじゃねえか。お前ェらに仲間意識なんてもんがあったのか?」

「そりゃあるさ。俺たちは同じ人間だぜ? 人類皆兄弟って言うだろう」

「ふざけんな、てめぇと兄弟なんて吐き気がする」

 

 言いながら、クラインは刀を抜こうとして──腰にあるのが鞘だけだということに気づく。

 

「お前の武器ならほら、そこに自分で刺したじゃねえか」

「クッソ……!」

 

 クラインは振り向く。背後に十歩ほど行ったところ、ロザリアに肉薄した場所にクラインのカタナは突き立っていた。

 

「いやなかなかに面白い見世物だったぜ。あれだけでも来たかいがあった。クラインと言ったか。こっちに来ねえか? 歓迎するぜ」

「断る。誰が好き好んで犯罪者になるかよ」

 

 即答だった。だがその様子にもPoHは楽しそうに笑って、

 

「いや冗談だ。本当に今はお前とやり合おうなんて思ってないんだよ。その女をこっちに寄こしてくれればそれでいい。交換といこうじゃねえか」

「……なにとなにの交換だよ。オレのメリットなんざなんにもねえだろうが」

「あるさ。俺が差し出すのはこの嬢ちゃんだ」

 

 シリカの首元に短剣の切っ先が突きつられた。振り向きもせず、剣を抜いた動作も見せない早業。しかし的確にシリカの首を捉えている。

 PoHのいる位置はシリカとクラインを分断するような場所だった。もしかしたら最初からその位置を狙っていたのかもしれない。

 

「人質の交換だ。平等だろ? お前はこの嬢ちゃんを守りたい。俺はその女に用がある。なんの損もないと思うがな」

「……っ!」

 

 人質。その単語に、シリカは息をのむ。

 わかってはいたのだ。少なくとも今日、なにかひとつでもクラインの助けになれただろうか。いいや、それどころか足を引っ張ってばかりだ。さらに今、人質にまでなっている。どこまでも自分はクラインの足かせでしかない。

 少なくとも今ロザリアを渡すわけにはいかない理由は、このまま彼女を野放しにすればまた新たな被害者が生まれる可能性があるから。であれば、人質の交換なんてさせなければいい。

 自分がこの場から消えれば、もしかしたら。そう思って、ポーチの奥深くに手を差し込む。

 

「てん──」

「ストップだ、嬢ちゃん」

「──ぃ」

 

 だが消えたのはPoHの姿だった。遅れて舌に冷たい鋼の感触。それが口に差し込まれた短剣の感触だと気づくのに時間はかからなかった。

 

「──ッッッ!」

 

 ひゅっと喉が鳴る。悲鳴すらあげられない。ポーチに突っ込んだシリカの右手はpohによって引き抜かれる。

 

「シリカちゃん!」

「サムライもだ、動くな。……しかしいい機転だ。まだちびっこの割によく頭の回る。将来が楽しみだな」

「てめぇ……っ!」

 

 今にも飛びかからんとする勢いのクラインに見せつけるように、PoHの短剣は再びシリカの喉に狙いを定めた。いつでも殺せる──そう言わんばかりの脅迫に、クラインはギリギリ踏みとどまる。

 

「これ以上の交渉は無しだぜ、サムライ。その女を寄こしな。そうすればお嬢ちゃんは返してやる。絶対に、安全にだ。これ以上ないほど良心的だと思うが?」

「……、──っ! 畜生、約束は守れよ!」

 

 クラインがロザリアの腕を離した。ここぞとばかりにロザリアは走り、PoHの背にすり寄るように隠れる。

 

「勿論だ」

 

 言って、PoHはロザリアを連れて祭壇の範囲から外へ出た。さらに二歩三歩と大きく離れたところで足を止める。

 クラインは急ぎ駆け寄ると、力なくへたりこんだシリカを強く抱きしめてくれた。

 

「ク、……クラインさぁん……!」

「大丈夫、大丈夫だ。ごめんな、怖い思いさせたな」

 

 あふれ出る涙を拭おうともせず、シリカはクラインの胸に顔を埋めた。鎧の胸当てがざらざらしていて触り心地は決して良いものではなかったが、そんなことは気にもせずとにかくぎゅうとしがみつく。

 クラインはそんなシリカの背を優しく撫で続けてくれて、安堵を覚えるとともに少しだけ平静を取り戻すことができた。

 

「やっぱロリコンじゃないの、アンタ。……それよりヘッドぉ、助けに来てくれたの? アタシに用ってなんのことかしら?」

 

 最初の口調こそ蔑むような冷たい声音だったのに、ロザリアのPoHに向けた言葉はクラインに色かをまき散らしていた時以上に甘ったるい声音に変わる。それはまるで猫が主人に甘えるような──そんなかわいらしいものではなかろうが──そんな印象を受ける。

 だがPoHは、そんなロザリアを一瞥して。

 

「ああ。お前、用済みだ」

 

 そして短剣を持つ左手が閃く音。

 

「──えっ?」

 

 ロザリアが短く驚きの声を上げ、そしてドッ、と音がした。クラインは抱き着いたままのシリカが振り向かないように強くかき抱いてくれたが、それでも音でなにがあったかわかってしまう。

 ガラスがはじける音がして、ロザリアの声はそれ以降いっさい聞こえなくなった。

 

「てめぇ……味方なんじゃねえのかよ!」

 

 クラインの激昂が胸当てを震わせる。これまで怒りを見せてはいたけれど、それよりも強く荒い声。

 

「味方? あれの? おいおい勘弁してくれよ」

 

 だがPoHは何を言っているのかわからないというような言い方だった。心の底からの疑問。ただなぜか、シリカにはPoHの口元が笑っているのだろうということだけは想像できた。

 

「あれは俺らのシンボルが欲しいと言うからテストしたんだ。単にそれをパスできなかっただけだぜ。よく日本人が言うだろう、クビだと。文字どおりになっただけじゃねえか。しかもお前に周りを嗅ぎまわられてるときた。足手まといってのはこういうことだろ?」

 

 ──だから殺したんだ。要らなくなったものを捨てるのと何が違う。

 

 平坦な声だった。どこかに抑揚があるわけではない。ただ平坦に、言うというよりも述べるという表現が近いような。さっきプネウマの花を手に入れたときに耳元で囁かれたあの感覚じゃなく、もっと鋭い、氷の刃のような痛みのある冷たさが背筋を駆け上っていく。

 まるで、ひとを物か何かと思っているかのような。そんな奇妙なズレがシリカにはひどく恐ろしい。

 

「てめぇ……ッ!」

「何を怒ることがある。他人だろ? ジャパニーズってのは優しいんだか甘いんだかわからねえな。ここだけは《梟》も突っかかる」

 

《梟》。その言葉に、クラインがぎしりと鎧を鳴らす。

 

「武器の所持は認められている。武器とは殺人のための道具だ。ならば殺人もまた認められている。そうだろう? 《梟》を──この世界初の殺人者を友に持つサムライよ」

「……ああ、そうかよ」

 

 ぞくりとした。

 さっきまでの怒りがわかる声じゃない。それよりももっと低い。

 そしてクラインは、シリカを支える腕をゆっくりとほどいていく。

 

「シリカちゃん、先に結晶で帰っててくれ。オレはこいつにたったいま用ができた」

 

 大地に差していた刀を抜き放ち、クラインはシリカから離れた位置でPoHと向かい合う。PoHもまた、楽しげに笑いながら短剣を握る手をだらんと垂らし半身になって構える。

 

「……いい殺気だ」

 

 それ以降、互いに無言だった。沈黙が重い。空気がひりつく感覚。それに気圧されて、シリカは言葉を発することができない。

 ──止めなきゃ。

 それだけがシリカの頭の中でぐるぐると巡る。

 自分も短剣を使うからわかる。PoHの短剣捌きは自分のそれに比べて極端にレベルが高い。それこそタイタンズハンドとクラインとの差ぐらいはあるだろう。クラインが負けるはずないとは思えど、彼らの間に差があまり大きくないだろうと思うと万が一はある。

 そしてPoHの躊躇いのなさと、クラインの怒り。きっとお互いに命を奪い合う。そうなったとき、勝敗に関わらずきっとクラインは傷つくだろう。負ければたぶん命はないだろうし、勝ったとてPoHの命を彼がその手で奪ったことになる。

 

 ──あれだけはどうしても止めなきゃならなかったんだ。

 

 彼は後悔している。それを自ら味わってしまえば、それこそ彼は自分を許せなくてもっと追い詰められてしまう。だから、止めなきゃ。

 

「あれ……?」

 

 だというのに足が動かない。腰が上がらない。動きたいのに、動かなければならないのに腰が抜けてしまって立ち上がることができない。こんなときに限って自分はへたり込んだままだ。

 情けない──それでも自分を責めている時間すら今は惜しい。とにかくなんとしてでもクラインを止めなくちゃならない。でも、どうやって。自分は動けない。じゃあ誰が動けるというのか。呼んで来てくれるのはクラインだけで、それ以外に助けを呼べるひとなんて──。

 

「……いる」

 

 ハッとしてシリカはすぐさまウィンドウを呼び起こす。

 いるではないか。もうひとり、シリカが絶対の信頼を置く仲間が。あの子ならきっとクラインを止めてくれる。

 左手に花。右手に、《心》があった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──先に帰っててくれ。

 

 言いながら、クラインは離れた場所に突き立てた刀を抜く。名を虎徹といった。

 およそ十歩の距離。それは一瞬で詰められる距離だ。PoHの短剣に比べて刀はリーチもある。どうあっても優位なのはこちらのはずだ。

 だがクラインの頭にチラつくものがあった。釘状の金属──それは話に聞いただけでしかないが、ジョニー・ブラックが使用したという短剣。即死という当たれば終わりの毒を付与された危険な武器は、もしかしたらラフコフ内で共有されている可能性がある。しかもそれは投擲武器だという。自分のリーチなど関係なしに、雨霰のように投げられてしまえば避けることは難しい。

 そのせいでクラインは踏み込むことができなかった。近づけば近づくほど被弾の確率も上がる。一度の失敗も許されない一発勝負の場面で闇雲に突っ込むほど熱くなっているわけではなかった。

 

「……いい殺気だ」

 

 PoHが笑う。半身になりながら見えるように左手に短剣を持ち、だらんと垂らすようにして構える。右手はポンチョの陰に隠れて見えない。

 その右手に何を隠しているかによってクラインの出方は変わる──が、それを確かめる術を考えるうちに時間は刻一刻と過ぎ去っていく。

《梟》がどう、とか。そういうことで頭に血が上っているわけでは決してない。アイツが何をしようと構わない。ただアイツが不本意に選ばされたような道筋にいるのが、そのせいで仲間たちが辛い思いをしているのが嫌なだけだ。それはどこまでも自己満足でしかなく、本人が納得しているのであれば深くは関わらないつもりでいた。

 だが。目の前で、誰かを殺すのを見てしまっては。その相手がどんな人間であれ、それはやりすぎだと思える。そしてそのことに対して何ひとつ悪びれることがない。さながらヒトをモノか何かと思っているような言動が、クラインには我慢ならない。

 

「……、……」

 

 深呼吸をひとつ。正眼に構える。切っ先がPoHの薄ら笑いに重なるように。

 殺しはしたくない。回廊結晶はまだ生きている。ぶち込めばそれで解決だ。だが、最悪の場合。

 ──殺してでも、コイツはここで止める。

 矛盾していると自分でもわかっていた。殺すのはやりすぎと憤りながらも殺すことを決意したのだ。だが少なくとも、PoHの中でその行動には正当性がある。ならば相手の土俵に乗っかったまでだ。

 ──たとえそれで、もう戻れなくなるとしても。

 それならそれで、アイツの位置に追いついたことになるだけだ。アイツの背負った業を理解してやることができる。共倒れ上等だ。少なくともそれで、アイツがひとりになることはなくなるのだ。

 そうして踏み出そうとした、次の瞬間だった。

 

「ピナ!」

「きゅるるぅ!」

 

 シリカの声がした。次いで何かの鳴き声。視界が水色で埋まる。

 

「……あ?」

 

 それが自分の声だったのか、あるいはPoHの声だったのか。クラインには判別がつかなかった。ただ張り詰めていた緊張の糸は切れ、構えていた刀が自然と下がっていく。

 

「きゅる! きゅ?」

 

 べしべしと鎖骨のあたりを何かが叩く。それがその水色の何かの仕業だと理解するのに時間はかからなかった。

 顔に張り付くそれを剥がすと、水色の小竜が大きな瞳でクラインの顔を覗き込んできていた。

 

「な、なんだぁ?」

「ピナです!」

「ピナぁ?」

「きゅる!」

 

 シリカの言葉を反復すると、目の前の竜が嬉しそうに鳴いた。ばさばさと翼をはためかせてクラインの顔を挟もうと企むその様子は、いたずら好きな猫を思わせる。

 

「ピナ……って言ったらおめぇ、もしかしてシリカちゃんの?」

「きゅう!」

 

 問いかけに、ピナは満足げに鳴く。言葉が通じているのかどうかはわからないけれど、少なくとも今の問いかけは合っていたらしい。

 ピナはさらに、どこか諌めるような雰囲気でびしびしと二本の長い尾羽でクラインの顔をはたく。

 

「きゅる、きゅるる! ぎゅ!」

「わぷ! な、なんだよ!?」

「止まれって言ってくれてるんです。今のまんまじゃ危ないからって」

「ちょ、その通訳、の前にこれ、止めてくれ!」

「はい。ピナ!」

「きゅ!」

 

 びびびび、と二本ある尾羽で交互にはたき続けるピナにシリカが呼びかけると、素直に攻撃が止む。だが暴れ足りぬと言わんばかりのピナは身を捩り、体を掴んでいたクラインの手を振り払い、どこか楽しげに鳴きながらクラインの頭に降り立ち座り込む。そこにはまるでここが定位置であると言わんばかりの太々しさがあって。

 

「……なんなんだ、いったい」

 

 すっかり毒気の抜けたクラインは、自分の肩から力が抜けるのがわかった。

 

「……ふっ、くっくっく、ハッハッハッハ!」

 

 笑い声はPoHからだった。

 

「いいねぇ、本当に将来が楽しみな嬢ちゃんだ。──帰るぜ。もう用は済んだ。攻略組相手に無傷で済むなんて思えねえしな」

 

 言って、PoHは背中を向ける。はためいた右の袖から覗くその手には、何も握られてはいなかった。

 

「待て、PoH──」

「そうだ、届け物があったな。そら」

 

 追いかけようとしたクラインに向けて、肩越しに見ながらPoHは何かを放り投げた。放物線をきれいに描いてクラインの手元に収まる。

 それは白い結晶アイテム。メッセージクリスタルと呼ばれる、音声の録音と再生のためのアイテムだった。

 

「《梟》より、サムライ宛てだ。中身は俺も知ってる。……楽しみにしてるぜ」

 

 そしてPoHは今度こそ踵を返して歩き始めた。クラインが追いかけようとしたとたんに再びピナが暴れ、その対応に追われているうちにPoHは森に姿を消す。

 これ以上の追跡は難しい。そう判断して、暴れるピナをなだめることも諦め、クラインは空を仰いで大の字に寝転がった。

 

 

 

 

 

 

「クラインさん!」

 

 クラインが仰向けに倒れるのを見て、シリカは慌てて近づく。足が上手く動かなくて四つん這いというなんとも情けない姿になったが、そんなことはどうでもいい。それよりもクラインだ。

 

「大丈夫ですか?」

「きゅ?」

 

 どうにか近寄ったシリカがそのままの体勢でクラインの顔を覗き込む。それを真似るようにして、クラインが倒れると同時に飛び上がっていたピナもシリカの肩に降りて首を伸ばす。

 その重みが、ひどく懐かしく感じた。

 

「大丈夫だ。いろいろあって疲れちまっただけだよ」

 

 長く細く、クラインは息を吐く。溜め込んでいたものをゆっくりと吐き出すように。

 

「……ごめんな、めちゃくちゃ巻き込んじまった」

 

 クラインは、タイタンズハンドの襲撃はプネウマの花を手に入れた帰り道だと考えていたらしい。思い出の丘を往復した後の、いくつもの戦闘を経て回復薬が枯渇したタイミングで数の暴力にまかせて奪いにくると。

 ところが実際は、プネウマの花の取得直後を狙っていた。しかもロザリア自身がパーティに混じってシリカの孤立を促すというかなり大胆な作戦だった。

 さらには、《笑う棺桶》の頭領であるPoHまでもが現れる。これはクラインも全くの予想外だったらしく、本当に驚いたらしい。

 

「やっぱ考えるのは向いてねえな。やること全部裏目に出てるもんなぁ」

「……そんなこと、ないです」

 

 シリカは言いながら、寝転がったままのクラインのそばに腰を下ろす。ピナが「もういい?」と言うように覗き込んできて、それに頷いてやると楽しそうに一面の花畑を飛び回り始めた。

 

「クラインさんは、あたしを助けてくれました。迷いの森でもそうですし、ここでも。クラインさんがいなかったら、ああやって飛んでるピナを見ることはできなかったんですよ」

 

 クラインに装備で助けてもらって、プネウマの花の情報でも助けてもらって。オレンジプレイヤーたちの挙動に関しては予想と違うところもあったのかもしれないが、少なくともピナは無事に復活できたのだ。

 シリカの依頼はピナの復活だ。少なくともそれに関しては、しっかりと達成されている。

 

「でもなぁ……」

 

 それでもクラインの返事は煮え切らない。その理由も、シリカはちゃんとわかっているつもりでいる。ただそれに関して深く突っ込むことはしなかった。どう触れるべきかもわからないし自分で扱いきれる自信がないというのもあったが、いま以上にクラインを追いつめたくない。

 だから、一度だけ深呼吸して。

 

「……クラインさん、頭、少しだけあげてください」

 

 顔にクエスチョンを浮かべながらも、クラインは言われたとおりに頭を上げた。そうしてできた彼の頭と地面との間に自分の足を差し込む。

 

「え? シリカちゃん?」

「じっとしててください」

「いやこれ、膝枕……」

「いいですから」

 

 昼寝をするピナを抱えているときのようにクラインを膝の上に乗せ、クラインがそうしてくれたように、今度はシリカがクラインの頭を優しく撫でる。

 

「なんでも抱えすぎなんです、クラインさんは。昨日のコーヒーも。全部が全部クラインさんのせいなわけないじゃないですか」

 

《梟》の話だって、全てが聞いた話でしかないから断定はしないが、原因がクラインだけにあるようには思えない。それに今回のもシリカがもっと上手に動ければ、あるいはもっと強ければまた違う結果があったかもしれないのだ。そう考えれば、やはり全部が全部クラインのせいなんてあり得ない。

 ただきっと、クラインはなにを言おうと自分のせいだと思ってしまうのだろう。優しすぎるひとだ。……まあ、だからシリカのことも助けてくれたわけで。

 結局どうやったって彼が何かしら背負ってしまうなら、それを少しでも軽くする手伝いくらいはしたいと思う。なにも出来なかった自分ができるのは、今はこれだけだ。

 

「あたしだって、います。話すだけで楽になるって言ってたじゃないですか。なんだって聞きますから。ピナを撫でるのもいいですよ。ふさふさで気持ちいいんです」

「シリカちゃん……」

 

 ──いつか。

 いつか、きっと。話すだけじゃなくて、ちゃんと隣に立って、支えてあげたい。

 シリカは胸中で目標を立てる。大事な秘めごとだ。そうなっていることを想像すると、やる気が満ちると同時に胸が少し温かい。

 クラインが見上げてきているのがわかるから、シリカは視線を下げなかった。一面の花畑で飛び回って遊ぶピナを見るふりをしてごまかす。

 

「ありがとな」

 

 クラインの言葉がこそばゆい。けれど、声の調子は戻ったと感じた。さっきまでの怒った声じゃなくて……そう、昨日のチーズケーキを食べているときのような。冷たい鋭さのある声じゃなくて、温かみのある声に戻っている。それだけでも、シリカはすごく安心できた。

 やがてピナが、遊び飽きたのか宙を泳ぐようにして戻ってきた。それを合図にどちらからともなく立ち上がる。

 

「……もう、戻るんですよね」

 

 シリカの言葉に、クラインは手元の結晶を見ながら頷く。

 

「おう。そろそろ攻略に戻らないといけねえし……アイツじゃねえけど、用は済んじまったから」

 

 タイタンズハンドの捕縛──それは完遂こそしないもののひとまずの決着をみた。今回の結果は依頼主に正直に話すらしい。そのうえで、クラインは少なくともひとつ決意を固めていた。

 

「相手が誰であれ、やっぱ嫌なんだよな。死ぬだの殺されるだのって良いモンじゃねえ。やっぱり、アイツらをほっぽっておくわけにはいかねえんだ」

 

 そしてそもそもクラインが中層に降りてきた理由。《笑う棺桶》の痕跡探しということにおいても、もともとは三十五層にアジトがあるのではないかという予想をたてていたらしいところに、頭領本人の登場と内容こそこれから聞くとはいえ《梟》からの伝言を得た。であれば、彼がここに留まる理由などありはしない。

 

「……あ、あの」

 

 行かないでほしい、と口をついて出そうになって慌てて両手で口をふさぐ。

 言えるわけがなかった。ゲームの攻略が最重要事項なのは火を見るよりも明らかだし、そうでなくても《笑う棺桶》を止めようとするならば動くべきはゲーム内で高レベルを誇る攻略組だ。彼らとの情報共有はなによりも優先されるべきなのだ。

 そんなシリカの葛藤を読み取ったのか、クラインはぽすぽすと優しく頭を撫でて。

 

「また降りてくるさ。そんときはちゃんと連絡する。そしたら、また美味い店教えてくれよ」

 

 その言葉に視界がにじむ。本当ならそのまま抱きつきたいところだったけれど、それは必死に抑えた。代わりに、隣で自分の尾を追いかけてくるくると回るピナを引き寄せてそのふかふかなお腹に顔を埋める。

 ──強くなろう、と思った。

 結局、ピナのいる心強さやクラインの優しさに甘えてばっかりで自分ではなにかできた覚えがない。クラインを手伝うにせよお礼をするにせよ、今の自分じゃ難しい。

 でも、また会う約束はできた。ならばそれまでに強くなってびっくりさせてやろうと思うのだ。とりあえず今は、今の自分にできることから始めよう。

 踏ん切りがつくと、なんだか気持ちがすっきりした。ピナのお腹から顔を離すと、クラインはどこかほっとしたような顔をする。

 そうして「帰るか」とクラインが言った矢先に、クラインの腹が鳴った。

 

「……夕飯、なにがいいですか」

 

 いつのまにか日が傾いていた。西の空が赤く染まり、東から夜の闇が迫っている。

 ピザ食いてえ、とクラインはどこか切実そうに笑った。

 



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