秘封二次創作「秘恋映すは少女の瞳」 (八雲春徒)
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プロローグ「異能少女と蓮台野夜行」

こんにちは
今までずっと書きたかった秘封倶楽部の二次創作小説
小説を投稿するのは今回が初めてでして、至らぬ所ばかりだと思いますけれど
温かい目で読んでいただきたく思います。

よろしくお願いいたします。


 プロローグ 異能少女と蓮台野夜行

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

「我々の神々も我々の希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、我々の愛もまた科学的であっていけない謂れがありましょうか」

 

 

 

 これは科学が跋扈する世界の晦冥の中で幻想の女神に取り憑かれ、また恋焦がれた一人の男と

 その瞳に隠秘を宿し、さながら運命や宿命の悪戯のままに、その叡智で秘密を暴こうとした少女達……

 

 その因果線の「偉大なる交差点」

《グランドクロス》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。 黒い男が一人

 

 枯れ始めた木々の間から木漏れる月明りの下、それだけを頼りに確かな足取りで苔むした石段を登っていく。

 

 

 京都は洛北、蓮台野。平安時代からの風葬地の一つである。時刻は深夜二時近く

 

 どうして男はこんな時間にこんな場所にいるのだろうか。彼の足取りに迷いは無い、何かに導かれるように、付き動かされる様に草木も眠る山道を進んでいく。

 

 

 

 

 何分ほど登っただろうか。

 長い石段は終わり古びた寺院の山門が見えた。男はその前に立ち、おもむろに携帯電話を取り出す。彼は一枚の画像を見て、液晶の明かりを消した。

 

「ここで間違いない」

 

 男は僅かに笑みを浮かべているようである

 山門に背を向け、来た道を振り返ると開けた木々の隙間から、両の手では覆い隠せぬ程の大摩天楼が聳え立っているのが見えた。

 

 それはまるで地上の銀河か小宇宙のようにその輝きを誇示しているようである。男は思う、個体が創りあげた物もまた、その個体同様に遺伝子の表現系だ。と……

 無数の光その数だけ人の思いがあるのだろう。

 

 

「その思念の総計はいかに多きかな。我これを数えんとすれどもその数は砂より多し、ってな。つまりどうでもいい」

 

 男の見る世界に色は無い、生物学的に言えば至って健康なはずの瞳、しかし彼の景色はモノクロームなのである。

 壮麗な摩天楼も彼にとっては”卒塔婆の群れ”でしかないが、墓地にはうってつけだなと男は自嘲的に笑う。

 

 さて、山門をくぐった先はもちろん広大な墓場である。どうしたものか……。

 男は立ち止まる。胸ポケットから煙草を取り出しては咥え、火をつけた。

 

 見あげた月は紫煙の中に揺れる。

 

 男はいつか 誰かと寄り添い見あげた夜空を思い出していた。白黒の世界でその記憶だけが鮮やかに彩られていた。

 彼はその記憶を追いかけて来たのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここが蓮台野の入り口よ」

 

 よく響く声で隣にいる相棒がそう言った。

 彼女は宇佐見蓮子、私をこんな時間に、しかもこんな場所に連れてきた張本人である。

 

 話は二日前に遡る。大学の図書館でぼおっと本を読んでいた私達だったのだが彼女、宇佐見蓮子は突然持ち掛けたのだ。

 

「メリー、蓮台野の入り口を見に行かない?」

 

 

 私たちは秘封倶楽部っていうサークル活動をしている。メンバーはたったの二人。

 よくあるただの霊能サークル、でも除霊や降霊なんかはしない、というか好きではないのだ。

 周りからはまともな霊能活動をしたことのない不良サークルと思われている。

 

「二時五分、急ぐわよ」

 相棒は空を見上げて言った。夜空を時計代わりに使う人間がどこにいるのだろう。

 どうやら蓮子は星の光から今の時間がわかり、月からは自分の今いる場所がわかるらしい。

 

 そう、私たち秘封倶楽部の裏の顔は世界に隠された結界を暴くサークルなのである。

 均衡を崩しかねないという理由で我が国では禁止されているのだけど……。

 開けるなと言われると開けてやりたくなるものである。

 

 そういう私は結界の裂け目を見ることができる。というよりは何もしなくても見えてしまうのである。蓮子は私の能力を買い半ば強引に秘封倶楽部に引き込んだのだ。

 

 

 

 結界を暴くのは楽しくてスリル満点で飽きない、今日だって勇ましく出発してきたのだけど……。山門まで来たところで少し冷静になってしまった。

 

「ここって、墓地なのよねえ」

 

「そんなの分かりきってたことでしょう。さあ目的の墓石が見えるわよ」

 

 目的の墓石とは二日前に見せられた写真の墓石だろう。山奥の寺院、墓場、そして門の向こうにはこの世のものとは思えない景色が映っていた。

 蓮子曰くそれは「冥界」なのだそう、しかし件の墓石をどうすればその冥界が見れるのかは分からない、墓荒らしの真似だけはしたくない。

 

 

 突然蓮子が立ち止まった。

 

「どうしたの蓮子?」

 

「墓石……あれなんだけど……」

 

 蓮子は右前方を指さした。様子がおかしいので蓮子の肩越しにそちらを覗いてみた……

 

 そこには”影”

 

 背格好から見て男性だろうか……。一つの墓石の前に佇んだその影の異様なのは、恐らくその墓から引き抜いたであろう卒塔婆を数本小脇に抱えている事だ。墓荒らしという言葉が浮かぶ。いやそもそも人間なのだろうか。

 

「そこでなにしてるのよ」

 

 勇ましくも相棒はその影に向かって声をかけた。嗚呼、私たちは殺されてしまうかもしれない……。

 一瞬の沈黙、影は答えた。

 

「墓荒らし、にしか見えないよなあ。そんな君たちこそこんな時間に何してる」

 

 意外にも優しそうな声だった。多分生きた人間だ。とはいえまだ怖い

 

「質問を質問で返さないで、私たちは立派なサークル活動よ」

 

「サークル? 肝試しか何かか。もっといい場所あるだろうに、俺はな冥界への入り口を探しに来たのさ」

 

 ……。その男は間違いなくそう言った。まさかその男も私たちと同じ目的でここに来たというのか……。

 

 結界を暴こうなんていう人間が私たち以外にもいたなんて……。

 それを聞いた蓮子は楽しそうに言う

 

「冥界、冥界って言ったわねあなた。どうして冥界だと思ったの。もしかしてあの”写真”見たの?」

 男は驚いたようだった。私がそうだったように

 

「なんだって? もしかして君らもなのか。そうだこの写真だよ。間違いなく冥界だ俺は観たことがある」

 

 彼は端末の液晶をこちらに向ける。蓮子の肩越しに見えたそれは、二日前に見せられた物と全く同じだった。しかし見たことがあるとはどういう事だろう。臨死体験でもしたのか、はたまた私のように不思議な目を持っているのか。

 

 蓮子はやはり楽しそうに笑っている。少し安心した。

 

 

「あはは、それで卒塔婆引き抜いてたのね

 そんなことしたって何も起きないわよ」

 

「だったらどうすればいい? 何か知ってる口じゃないか」

 

「時間よ」

 

「は? 時間だって、時間なら今は……」

 

「2時25分40秒」

 

 蓮子はまた星を見上げて言う。彼は驚いたように自分の腕時計を見つめている。何だかその様子が可笑しかった。

 

「合ってる。どういうことだ? 本当に訳がわからない、何か知ってるなら……」

 

 彼は卒塔婆を戻しこちらに歩み寄る、月明りに照らされてその姿が見えた。私たちとそれほど変わらない年の男性だ。髪が長いからわからないけど多分そうだと思う。その顔には困惑の表情が浮かんでいた。当然である

 

「教えてあげてもいいわよ。その変わりあなたも教えてね。見たんでしょう冥界を」

 

 

「ああ見た。というか実際に立ったのさ信じられないだろうけど……。馬鹿デカい妖怪桜があるんだぜ」

 

 

 

 冥界に妖怪、突拍子も無い話だったけど。

 もう一つの理に手が届く私にはとても説得力を持って響いた。

 

 彼が何を知り、何を成そうとしているかなんて想像もつかないけれど。

 

 もう少し詳しく聞いてみてもいいかもしれない……なんて思った。私の”夢”の話を解ってくれるかもしれない……。

 

「面白いわね。信じないけど、覗いてみたらわかるじゃない」

 

「だからどうやって……」

 

 そうだ彼はそれを知りたがっている。勿体ぶらずに教えればいいのに、それに私もまだ聞いていない。まあ教えろと言われてはい分かりましたなんて性格をしていない事は知り合って間もない私にもわかる。

 

 

 蓮子の言葉は驚くべき物だった。

 

 

「あなた、私たちと活動してみない?」

 

「蓮子!?」

 

 彼女は彼を勧誘したのである。余りにも突拍子もないし、彼だって困るだろう。彼女はどうしてこうも……。混乱した。

 

 ……けれど何だか意味不明が過ぎて呆れてしまう。確かにこれが宇佐見蓮子だ。

 

「え? いやただ教えてくれれば……」

 

 

「私は宇佐見蓮子、秘封倶楽部の会長よ。

 私の目は星の光から今の時間を、月から位置を見ることができるわ。で、こっちは」

 

 蓮子は私を前へ引っ張り出す。いきなりだったので転びそうになった。蓮子の方を睨んだが、気にも留めずに彼女は続ける。

 

「こっちは相棒のマエリベリー・ハーン。長いからメリーって呼んでるの。すごいのよ結界の裂け目が見えるんだから」

 

 初めて彼の正面に立った。月が明るい、風が吹いて私の髪をなびかせた。

 

 彼は蓮子の突然の言葉に驚いたのか目を見開いて固まっている彼の髪もまた風になびき顔がよく見えた。何か呟いたようだけど……。蓮子の言葉に遮られた。

 

 なんだろう、一瞬頭が痛くなった気がした

 

 

「さあどうする? もう時間ないけど」

 

 私はどちらでもよかった。けどもう少し話は聞きたい。

 

「…………」

 

 彼は沈黙の後、諦めたように承諾を示した

 余りにも簡単にメンバーが増えてしまったけど蓮子が選んだならそれでいい、かくいう私もああやって引き込まれたわけだし

 

「いいわ、2時27分41秒、二時半ジャストにその墓石を動かすのよ」

 

 蓮子は彼と私に墓石を持つよう促した。彼も文句を言わず従った。仕方ない、私も墓荒らしの覚悟を決める。

 これで何も起きなかったら蓮子の頬を思いっきりつねってやろう。

 新作のケーキも奢らせないと……。

 蓮子への仕返しを考えていたら、同じように墓石に手をかけている彼が言う。

 

 

「……よろしく」

 

「うん、よろしくね。メリーでいいわよ」

 

 蓮子の声が墓場に響く。

 

「ジャストよ!」

 

 せーので墓石を動かす。

 墓石が四分の一回転した瞬間……

 

 

 

 秋だというのに一面の桜が広がった。

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでいただきありがとうございます。
どんなご意見も真摯にお受けいたしますので。よろしければ感想などいただけると嬉しいです。

続きも不定期とはなりますが更新していくのでどうかよろしくお願いします。


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第一話 「夢色モノクロム」

夜中にアップしたプロローグの続きでこれが正当な一話となります。
二話までは書き終えていますのですぐに更新できるとは思いますが、それ以降は現在執筆中です。

前回とは違い主人公の視点から描かれる物語となります。
ここだけの話ではあるのですが、プロローグを書くより前の作品です。
去年の4月頃に完成させた物に手直しを加えての投稿なので矛盾点などあるかもですがどうか温かい目で読んでいただければと思います


それでは


 

 

 

 

 夜は十一時、仕事帰り走る夜道は不気味なほど静かに深まり始めた暗闇の中に横たわっている。

 現在の住居からは距離があり、片道一時間弱ほどかか引っ越し当初は目新しく新鮮に映った。路肩の景色も今となってはつまらない日常の一コマにすぎない。

 そしてなによりこんなに暗くては景色も何もありはしないだろう。

 

 しかし、まあこの生活にも慣れはした。通っていた高校からの斡旋で就職した会社だが、もう二年にな

 るし。特に高給と言う訳ではないが、一人暮らすには十分だ。

 そう独り、それでいい。家族もいないからだ。

 

 俺は一度交通事故で死線を彷徨ったことがある。その時に家族は皆亡くしてしまった。

 

 俺は一か月近く寝たきりだったのだが「運悪く一命を取り留めた」

 

 目が覚めた時のことは忘れない。医師や看護師がいて複雑そうな表情で俺に事の成り行きを伝えた。家族が死んで自分だけ生き残った……。

 

「どうして呼び戻したのか」そう思った。天涯孤独になったこともあるけど、そんな事より  俺はあの夢で彼女と共にいたかったからだ。肉体が死線を彷徨い続ける中、精神は”楽園の夢”を見た。

 

 誰もかれもが俺を憐れみ、優しくしてくれていたように思う。けれどどんなに優しい言葉も励ましも心には届かずすり抜けるだけだった。

 

 

 ただ夢に焦がれ、木偶人形のように日々を生きた。なにもする気が起きなかった。

 

 

 

 

 そう、煩わしいのだ。こんなつまらない現実、穴の空いた器のような、そんな反吐の出る日々を満たすために魂を注ぐのは。だから俺は捨てたのだ。充足を安寧を、そして幻想を抱いたまま死んでやろうと

 

 それが空虚な社会、現実へのアンチテーゼであると。あの夢で、彼女と出会ってしまったばかりに、俺の瞳に映る世界はモノクロに、色を失ってしまったのだ。

 

 

 

 

 しかし、そう、そんなモノクロの日々を塗り替える。そんな不思議な出会いは訪れた。

 それは偶然、しかし必然であったかのように俺の暗闇を溶かし、混じり合うかのように、本来、相容れなかったはずの人生を交差させたのだ。彼女達との出会いは俺を変えた。

 現実に抗い、幻想を追い求める。その決意それだけは消えない、しかし現実から目を逸らし逃げ続けるのはやめた。

 

 彼女達とならこの世界の残酷に、不条理に、真正面から立ち向かえると……世界の秘密を暴き出し、境界線の向こう側にいる君に、きっと会いに行けると……

 

 

 

 

 

 そこまで言ったところで、信号は赤から青へと色を変えた。信号待ちの退屈さについつい自分語りの独り言を白熱させてしまった。悪い癖だ。誰に聞かせるでもないこんな時に限って饒舌になるのは

 

 少し昂った気持ちを転換しようと助手席に無造作に置かれた上着のポケットの煙草に手を伸ばそうとした。その時、車内に響く振動音、バイブレーションがダッシュボードを揺らす。胸が高鳴る。

 

 俺に電話をかけてくる相手など限られている。地元の友人か、それか……。スマートフォンを手に取り、手帳型ケースを開く。画面に表示された名は、非日常の訪れを告げ、物語の扉、そのページをめくりめく。俺は含み笑いをし、勝ち誇るように、そして余裕ぶってその相手に言うのだ。

 

「どうした、蓮子。今仕事帰りなんだが」

 

 照れ隠し。ではないがすこし素っ気なく、次に続く言葉も知っているのに。そんな思いもよそに電話の相手、宇佐見蓮子は続ける。

 

「 そう、お疲れ様。それで明日なんだけど空いているわよね? 十一時にいつもの店に集合よ。遅れないでね」  

 

「空いてるわよね、って唐突すぎやしないか、いつもの事だし空いてるんだが……。それでメリーには?」

 

「まだよ、よければ伝えといてくれないかしら? 別に私が伝えてもいいけどねー」

 

 蓮子はからかうように言う。俺が彼女に抱く複雑な感情を知ってか知らずか……。俺も少し意地になり返す

「いいよ、伝えておく。久しぶりだな……。また面白いネタでも見つけたか?」

 

「ふふ、どうかしら、明日のお楽しみよ。じゃあまた明日ね、おやすみ」

 

「ああ、明日」

 通話は終わった。再びハンドルに手を伸ばす。信号は青、軽快な音を鳴らし踏み込まれるアクセルは、胸の高鳴りを掻き立てる。

 

 その声に、暗く沈んだ気持ちは一転、白昼夢、そんなふわりとした感覚、高揚感に満たされている。

 

 秘封倶楽部、宇佐美蓮子にマエリベリーハーン。蓮台野を行ったあの夜、丑三つ時の逢瀬……。あの日から始まったのだ。不思議を追いかけ未知の道を行く、そんな夢物語は……。

 

「さあ、秘封倶楽部を始めようか……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 壊れたベルがカタカタと窓辺を照らす朝を告げる。時刻は九時、昨日の電話に告げられた待ち合わせにはまだ猶予がある。ベッドから重たい体を起こす

 

 眠い目をこすり、コーヒーを淹れる。

 

 ちょうど湯が沸くころにチン、と鳴ったトースターを開ければきつね色に焼きあがったその香ばしい小麦の香りが朝のすきっ腹を程よく刺激してくれる。

 

 どうせ昼前にはいつもの店で軽食をとるつもりなので、朝は簡単に済ませておこう。

 

 トーストをコーヒーで流し込みつつ思いにふける

 あのあと蓮子に頼まれて、メリーに待ち合わせの時間を伝えたんだったか。夜も遅く気が引けたが、幸いメリーは出てくれたのだ、そして二つ返事で了承してくれたのだったか

 

 どうもレポートを仕上げていたらしくコーヒーのカフェインで妙に目がさえていて眠れないのだとぼやいていた気がする。

 

 しかしどうも彼女には変に気を遣ってしまう。サバサバした印象を受ける蓮子に対し彼女の纏う雰囲気は影を帯びているような、どこか掴みどころがない不意に消えてしまいそうな……

 そんな気持ちにさせるのだ。彼女、マエリベリーハーンは……。もちろん容姿もあるのだろう。肩までかかるブロンドのロングヘア、人間離れした顔立ち、人形の用とでも形容するのだろうか、日本に血縁者はいないと言っていたが……

 

「何を考えてるんだか……」

 

 自嘲気味にわらう。彼女はマエリベリーハーン。違うのだ。あの日夢の果てその彼方に出会った「彼女」とは違うのだと、言葉も交わせる。手が届く。触れられる。この世の人間なのだから。そう、例えその瞳に世界の秘密を宿していようと……。

 

 そんなことを考えているうちに、時刻はすでに十時過ぎ、冷めたそれを飲み干し、急いで支度を始める。外は肌寒い、厚手のジャケットに袖を通し、無造作にテーブルの上の煙草をポケットに突っ込む。

 

 そんな時、ジャケットの携帯電話が小刻みに震えた。

 

 マエリベリーハーン、彼女からのメッセージは今出発した旨を伝えるものだった。

 

 俺もすぐ出る。そう返信し、携帯をまたポケットへ、我ながら淡泊な会話だ。蓮子相手なら冗談の一つでもかましてやるのだが、どうも彼女には、メリーにはそれができない、けど今はそれでいいと思う。きっとあの日の俺もそうだったから、だからきっとメリーとも……。

 やはり似ているのかもしれない

 

 俺は車のキーを手に取り、玄関を出た。

 

 

 

 集合場所の喫茶店に着いたのは、集合時刻から20分前の十時二十分、近くの駐車場に愛車のセダンを止め、五分ほど京都の路地を歩く

 ここ数十年で古都、京都の様相も様変わりしたものだ。相変わらずの寺社仏閣の数、古都と呼ばれるだけのその歴史の遍歴だけは変わらないが、今までにはなかった高層ビル、いわゆる摩天楼が立ち並び、まさに未来都市とでもいうのだろうか、そのような姿を見せる。それもそのはず。現在の日本国の首都機能を司るのはここ

 

 京都なのだから

 

 俺の生まれるずっと前、半世紀ほど前から旧首都「東京」からの首都機能の移動、いわゆる「神亀の遷都」が始まり、そこからちょうど二十二年前、俺が生まれた年にこの科学世紀、その象徴たる都市は完成した。まさに時代の転換期、その最中は資本経済の暗黒期とそう称されるほどに経済そして精神的な面においても過酷を極めた時代だったのだそうだ。

 

 俺自身が経験したわけではない、ちょうどそう。祖父母やその世代からの話より伝え聞いた程度で、今一つ実感を伴わない話である

 

 そういえてしまう程に俺たちが生きるこの科学世紀は完成され、満ち足りているということなのか。数十年前までは空想科学でしかなかった。SFとそう呼ばれていたそんな不明瞭で朧気だったそれは理論を伴い、fictionを失い単なる科学へと昇華されたのだ。幻想は現実へオカルトが科学へと置換されきった果て、この科学世紀

 

 やはり俺は好きになれそうにない、それをその在り方を肯定してしまえば俺の夢も、短くも麗しくそして愛おしい彼女との日々も、俺の青春、そのすべてを否定することになってしまうからだ。

 確かに、科学がすべてを支配する。そんな世界は素晴らしいだろう。この世に起こりうる事象、現象のすべてを数式にプログラムに置き換えてしまえるなら、そんな世界において人間は夢をみられるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 また悪い癖が出た。

 誇大妄想まさに、そんな独白

 そんなに語りたければ、もっと速足に店に向かい、きっといつものようにそこに座ってカップを傾けているであろう彼女、メリーにその独白を聞かせてやればいいだろうに

 

 きっとメリーならそんな話も嫌がらないで聞いてくれるだろう。

 しかし、あの蓮子にこんな話をした暁には、怒涛の剣幕で反論され、言い返すでもなく黙らされてしまうだろうが。

 

 それに関しては俺は蓮子に勝てるような理論も何も持ってはいない、なにせ彼女は頭が切れすぎるからだ。

 俺は蓮子ほど賢い人間にあったことはない

 

 

 彼女にかかればそう一見不規則に見える俺の思想もこんな独白すらも規則正しく並ぶ数式の羅列に置換されてしまうように思えてならないのだ

 

 もちろんそれはあくまで比喩や印象に過ぎず、事実ではないわけだがそんな畏れすら抱かずには居られぬ凄みが彼女にはある

 

 蓮子そしてメリーともにいえることだが、華の女子大生という軽そうな身分、そのくせに超統一物理学、相対精神学なんて小難しい学問を専攻し、しかもそれに精通しているような彼女達に浅はかな俺のそれを聞かせたところで……。 

 学が無い故のそんな浅はかな思慮もあるだろう。だけどもう一つ、そうそれはあまりにも完璧な彼女達「秘封倶楽部」その中ではあまりに場違いな俺のその役目についてだ。

 

 そんな葛藤の末、ついぞや集合場所の喫茶店についてしまった。すこし古びてこじんまりした。とでもいうのか

 そんな前時代的な雰囲気を醸し出す所謂レトロでクラシックなその店の重い木製のドアを押す。

 

 ほんのりとコーヒーの香りが漂う店内はまさに、俺のような時代錯誤者のオアシスだ。

 

 

 店員に案内されいつもの席に向かう。

 日の当たる窓際の席、そこにはいつものようにうつろ気な目で窓の外を眺めコーヒーを飲む。

 

 金髪の少女マエリベリーハーンはいた

 

「おはよう、メリー」

 

 こちらに気付いた様子の彼女は小さく振り向き、カップから離した口に小さな笑みを浮かべた。

 

「あら、来たの、おはよう」

 

 俺は向かいの席、四人掛けのテーブル席その窓側に腰を下ろし、自分の分のコーヒーと好物のハニートーストを注文し、改めてメリ

 ーに向かう。

 

 

 

「蓮子はまた遅刻か?」

 

「みたいね、いつものことだけれど」

 

 呆れたような顔で彼女は笑う。前もその前もそうだったが、秘封倶楽部会長 宇佐見蓮子は遅刻癖があるようだ。

 

 彼女の瞳がもつ変わった能力、それを考えれば非常におかしな話だが……。

 

 まあそれも彼女の魅力と言えばそれまでなのかもしれない、納得しかけたところでメリーはまた静かに口を開く。

 

「急を要する話でもないんだと思うわ。ほんとに唐突な蓮子の思い付き、好奇心、そこからはじまるのが秘封倶楽部の活動でしょう」

 

 言い得て妙だ。端的ではあるが宇佐見蓮子を中心に取り巻く秘封倶楽部の何たるかをことごとく説かれてしまった。毒気を抜かれた俺はすこしからかうように返す

 

「はは、そうだな。蓮子が羨ましいかぎりだよ。一心同体そんな相棒のいる蓮子が」

 

 

「振り回されるこっちはたまったものじゃないわ、本を買うお金はこうして喫茶店に溶けちゃうし、夜の墓場に連れ出されて墓荒らしの真似事までさせられるし……。ほんと蓮子と会ってから私の平穏は……」

 

 そうして蓮子に振り回される日々、秘封倶楽部の活動を早口に語るメリー、その言い方こそ困った風ではあるものの、どこか嬉しそうなのも俺には分かる。

 本当に嫌だと思っているのならこんな急な呼び出しに二つ返事でOKはしないだろう。いい意味で元の生活には戻れないと、そう思っているのだろう。お互いに

 つくづく良い相棒を持ったものだと蓮子をうらやむ。不思議な目を持つ二人、その性格や考え方こそ違う二人、けれど彼女達が出会いそして世界の秘密を共にその目で覗き見ること。それは運命だったのではないか、二人を見ているとそう思う。

 

「ちょっと、聞いてる?」

 

「ああ、聞いてるよ。蓮子の話をしだすと止まらないな。本当に羨ましい限りだよ」

 

 そんな言葉にメリーは頬を赤くし、それを取り繕うように言う

 

「そ、そんなんじゃないわ。それだけ蓮子には困らされてるってだけで……。だから別にそんな特別な感情は……無いわ」

 

 恥ずかしそうな顔で言うメリー、こういう年相応? な面が垣間見えるのであればさすがの蓮子と言ったところか、どこか悟ったような、同年代の女子大生のそんな華々しさに目もくれず窓際で独り本を開いているような彼女でさえ、恋に煩う乙女のようなそんな可愛らしい動揺っぷりを……

 いや、この言い方だと語弊があるか……

 いや無いかもしれない、まだ彼女達と出会って間もない俺ですら見ていて思う。サークルの相棒、気の知れた親友、というよりもどこかしっくり来てしまうのは、やはり恋人のようというか……。

 やめよう、こっちが恥ずかしくなるような話だ。俺は少し微妙に気まずくなった空気を振り払うように、切り出す。

 

「にしても、当の蓮子はまだ来ないな、寝坊なら鳴らしてみるか」

 

「ええ、でもくるんじゃないかしらもうすぐ」

 

 そう話し出したとき、入り口のドアを押すカランという音が耳に入る。やっとのお出でかと何となく思う。客かもしれないがしかしなんとなく分かる。

 彼女はいつもこんなくらいの間でやってくる。少々と言えないほど身勝手でどこか恐れ知らずなオカルトサークル 秘封倶楽部会長宇佐見蓮子は……

 

「遅いわよ、蓮子」

 

 呆れたように言うメリー、その頬を軽くついて悪びれもせず笑うのは、黒い中折れ帽を被り白のブラウス、黒のツートンカラーに身を包んだボーイッシュな印象の少女、宇佐見蓮子だ

 

「待たせてしまったかしら、けど進歩はしたでしょう。私のプランク並みの脳細胞を休めるには十分な睡眠が不可欠なのよ」

 

 ようするに寝坊ということなのだろうか。プランク並みの頭脳を自称する彼女だが、あながち自称でも無いらしい

 メリー曰く「世界の仕組みが見えている

 」とかなんとか。そんな人並外れた頭脳に加え、夜空の月から自分の相対位置を星から時間を読み取れる不思議な能力を瞳に宿しているのだからまあ、彼女のブレインはより以上に疲弊するのかもしれないが、これはまあいつもの言い訳だろう。

 

 自称プランクは小さくあくびをし、メリーの横に腰掛ける。そんな様子からはとてもそんな知的さはうかがえないが、物理学を語らせれば人が変わったようになるのだから面白い、蓮子はコーヒーを注文した。

 

 そして再び向き直り猫のような笑みを浮かべ、おそらく今日の本題であろうというそれを切り出した。

 

「で、話っていうのはね。今度の週末に東京の実家に帰るつもりなの、それに着いてこないかしら二人とも」

 

 何を言い出すかと思えば、ようするに帰省に着いてこないかという話か、はたして俺たちを集めてまでする必要がある内容であるかは甚だ疑わしいが、なにか意図があってのことだろう。いや、どうか。無くては困るという自分本位な推測に過ぎないが、こういう場合に限ってそんなものは無かったりする。

 

 

 付き合って日が浅い俺の蓮子に対する認識は少々偏屈だが、付き合って長くなるメリーなら、もしくは……。

 

 

 

「私は構わないわよ、レポートはあるけれど一週間あれば片付くと思うし、でもあなたはどうかしら、仕事もあるんでしょう?」

 

 

「ん、ああ俺なら……」

 

 メリーは俺のほうを見やり、尋ねた。

 おあいにく様、うちの職場は週休二日制で土日は漏れなく休みが取れるので、それに関しては問題ない、

 

 いや、彼女が言いたいのはそんなことでなくて、仕事に追われる社会人が自由気ままな女子大生に付き合っていて、生活に支障をきたしやしないかという彼女なりの心配なのだろうが。

 

 自分にしてみれば、好きで付き合っているというか、この身勝手で奔放な会長に振り回されるのを楽しんでいる節もあるので、その心配も杞憂というものだろう。しかし、余りに乗り気な素振りを見せるのも気恥ずかしかった。

 

「まあ、行けるには行けるよ、小難しいレポートに比べたら俺の仕事のどんなに楽なことか……。しかしまあ拍子抜けだな。てっきりまた怪しいネタでもつかんで活動を始めるものかと思っていたからな」

 

 蓮子は何か物言うわけでもなく口の端を吊り上げている。気味が悪い、やはりただの帰省などではないのか、だとすれば自分はこの宇佐見蓮子を侮りすぎていたのではなかろうか。そんな目で見つめ返しても彼女の表情からは確かな真意なんてものを読み取ることはできなかった。

 

「それは行ってみてのお楽しみよ。行けるってことで、良いわよね?」

 

 こうとなっては道は一つしかあるまい、例え伏魔殿に飲まれるようなことになろうともここで後ずさることは許されやしない、そこに秘密がある限り……

 

「ああ、無論だ。しかし交通手段はどうするつもりだ? 別に車を出してやっても構わないけど」

 

 しかしまあこの科学世紀の日本においては自動車のような時代錯誤の交通手段よりかは街を回るモノレールだの、遠出をするんであればそれこそ地下トンネルで日本中をつなぐ新幹線だのといった。公共の交通網を利用するほうが便利でいてコストもかからずにすむ場合もあるが……。

 

 蓮子の愉快そうな笑みから察するなら大方その辺も計画済みなのだろう。

 

 

 

「ふふん、卯酉東海道よ」

 

「ヒロシゲにのるのかしら?」

 

「ええ、ヒロシゲ三十六号」

 

 

 ヒロシゲ、東京から京都への遷都が行われた際、従来の東海道新幹線でまかないきれない需要に対して、京都ー東京間を結ぶ新しい路線として建設されたのが卯酉新幹線、そこを走る列車名がヒロシゲというのだったか。

 

 新幹線とは異なり全線が地下にあるということから妙に印象に残ってはいたが、乗ったことはなかった

 

「そういうことよ、チケットは今週どこかで買いに行きましょう メリー」

 

 チケットか、しかし平日は仕事が、とそう言おうとした俺を制するように蓮子は言う

 

「わかってる。あなたの分も買っておくから、安心して勤務なさい」

 

「すまない、ありがとう」

 

「構わないわ、私が半分無理やりに引き入れたとはいえそこまでは束縛できないもの、

 感謝してるのよ、なんだかんだでいつもつきあってくれること」

 

 思いがけない蓮子の言葉、そんなふうに感謝を述べられても不器用な自分がそれに答えうる言葉も無いことを知っている。

 

 

 それでいて調子を崩された俺の言葉は「ああ」だの

「うん」だのといったそのようなものであったに違いない

 

 そんな様子を見ていたメリーはからかっているのか、拗ねているのかよくわからないようなそんな表情で言った。

 

「あらあら、随分らしくないことを言うじゃないの、いつもあなたに振り回されっぱなしのかわいそうな相棒にも、聞かせてあげてほしいものだけど」

 

 メリーは皮肉たっぷりにそう言って見せたが、次に続く蓮子のセリフの前にその強がり

 はあまりに無力であった。

 

 

「そう怒らないでってば メリー、私の相棒はあなたしかいないの、私がこうしていられるのも付き合ってくれるメリーのおかげ、

 大好きよ、メリー」

 

 こっちが赤面しかねないような蓮子の甘い言葉、当のメリーは顔を真っ赤にしてそっぽを向いている。ああだめか、こうなっては蓮子のペースだ。

 

 

 

「調子いいこといって……。ま、まあ分かっているならいいのよ……っ」

 

 メリーはそう言って、ついぞやうつむいてしまった。

 

 全く……

 

 

 この空気、どうしろというのだろう。ほんとうにこの宇佐見蓮子は、あんな言葉をあんなに屈託ない笑顔でかけられたら、きっと俺だってああなるだろう。彼女は天性の人たらしというか、そういうのにはもっぱら無耐性そうなメリーにはさぞかし、そう

 

 さぞかし応えたみたいだ。当の自分も半ば赤面してしまっているようで、どうにかしてこの百合百合しい雰囲気に収拾をつけたかった。

 

 

「そーいうことは家でやれ……」

 

「なーに? もしかして妬いてるのかしら? 顔、赤いわよ」

 

「っ……。なんで俺が……。俺はこの空気に収拾をつけようとだな……」

 

「何を収拾つける必要があるっていうのかしら? 私とメリーは相思相愛、あなたにどうにかできて? そうよねメリー……」

 

 蓮子はうつむいたメリーの首に腕を回しその耳元で囁くように言う。

 これにはメリーも黙ってはいられなかったようで、その腕を振りほどいて蓮子の右わき

 をつねり上げている。

 

「蓮子の馬鹿、あんまりふざけたこと言って私を困らせると、こうよ」

 

 

「いひゃい! めりぃー、ごめんってば~」

 

 情けない声をあげる蓮子。しかしどうやら事態に収まりはついたようだ。

 

 やはり俺なんかよりかよっぽどメリーのほうが蓮子の扱いに長けているのかもしれない

 

 メリーが困っているのならと助け船を出すつもりだったのだが……。どうにも空回りしたようだ。

 

 こんな時、すこし寂しさと疎外感を覚えてしまう自分の情けなさを振り払おうと切り出す

 

「出ようか。そろそろ周りの目が恥ずかしいんでな。代金は持とう」

 

 

「あら奢り? さすがは社会人ね。なら不承不承ながら了承するとしましょ」

 

「ごめんなさいね。ほんとうは蓮子に払わせたいとこだけど……」

 

「なによメリー、財布事情に関してはこの宇佐見蓮子の超越的頭脳を持ってしても演算不可能なーの」

 

「言い訳は聞き飽きたわ。次は蓮子持ちね」

 

「メリ~」

 

 そんな二人の会話をため息交じりに聞き流し、足早に会計をすませる。

 リーズナブルなのもこの店良いところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 カラン、木製ドアを押した先、京都の裏路地のその建物の隙間より覗く空は、黄昏の色に染まり、吹き抜ける冷たいビル風は、秋の終わりを、そして冬の訪れを告げているようだった

 

「もうこんな時間か」

 

 ふと腕時計に目をやると、時刻は四時三十分を指している。話し込んでいるうちに時間が随分と経過してしまったようだ。

 

「秋も終わりね……。あなたと会ったのも随分と前に感じるわ」

 

 蓮子がこちらを振り向き言った。そして想起されるのは、蓮台野の墓地で出会ったあの日。ともに結界の向こう側を覗き見たあの夜の事。

 

「なあ蓮子……」

 

「ん、どうしたの?」

 

「どうして俺を誘ったんだ? この秘封倶楽部に」

 

 なんとなく今まで聞くのがはばかられた疑問。

 吹き抜ける風にかき消されそうなほどに

 弱弱しくつぶやいたそれに、こちらに向き直ったまま俺の目を見つめて蓮子は言う。

 

「どうして、ねえ。正直言うなら理由なんてない……。けどそうね、それじゃあ満足しないって言うなら、教えてあげましょう」

 

 

 

「私はね。あなたを知ってみたかったの、あなたって自覚している以上に変わり者でひねくれものよ。そんな歪んだ秘密を暴けるのは私しかいない、そう思っただけよ」

 

「蓮子……」

 

 まっすぐなその目、自信に満ちた眼差し

 射竦められたように、何も言えないでいる俺

 

 やはり宇佐見蓮子にはかなわない、支離にして滅裂、そのようでいてたしかに筋が通った言葉、そんな理屈は抜きにして

 

 ただ俺は、嬉しかった。

 

 そして少し、それを聞いてしまった事を後悔もした。

 

 

「蓮子、それじゃあ私の時と変わらないじゃない」

 

 メリーは怒った風でもなく微笑んでそう言った。

 

「メリー、せっかく決まったっていうのに台無しじゃない~」

 

 そうか。俺はただ考えすぎていただけなのかもしれない、意味なんてなくてもいいのだろう。彼女達がこのひねくれものを受け入れてくれるなら……

 

「野暮なことを聞いてしまったな。悪かった」

 

「良いって事よ。それより週末のこと忘れないでね」

 

「もちろん。遅刻するなよ蓮子」

 

「わかってるってー」

 

「どうかしらね。まあ遅れてくるようなら二人で先に乗っちゃいましょう」

 

「あんまりよメリ~」

 

 

 

 

「ついでだし、送ってやろう」

 

 

 そ夕焼けの空に背を押されるように俺は、明日へと踏み出してく。彼女達とともに。 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
感想お待ちしております。
お寄せいただいた感想は必ず返信させていただくつもりです。

次回もご期待くださいませ。


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第二話 「セピア色、旅の始まり」

こんにちは。
今回の話は次の話への繋ぎの部分ですので少々短くなっております。
旅の始まる雰囲気を感じていただけたら幸いです。

それでは


 第二話 セピア色、旅の始まり。 

 

 

 

 あれからの五日間は多忙を極めた。いつもなら、いつも通りであったのなら、日々の仕事は仕様もない雑務に過ぎず

 疲労に頭を痛ませる事はあってもそれこそ精神的なストレスというのか所謂心労的なものは溜まりもしなければ感じない、感じるはずのない月から金の五日間であったはずだった……。

 

 だったのだが……。

 

「ああ、疲れた……」

 

 疲れた。疲れ果ててしまった。五日間とはこんなに長いものだっただろうか。そう疑いたくなる程の疲労感、それが押し寄せていた。

 

 いつも通りの帰り道、過ぎては近づく電灯の青白いLEDがチカチカと網膜を刺す

 

 あと十五分、安全運転でと再びハンドルを握り直し、摩天楼の輝きの中へアクセルを踏んだ。

 

 

 

 

 家に着いた頃にはすでに十一時を切っていた。部屋の明かりをつけ、そのまま散らかった部屋の片隅、ソファにへたり込んでしまう。

 こうなるとしばらくは立ち上がれないが、今日に限ってはそうも言っていられない、とっとと明日の身支度を済ませてしまわなければいけないからだ。

 

 十分ほど体を休めたところで、意を決し立ち上がる。

 

 数歩先、クローゼットを開け引き出したキャリーバッグに一泊分の衣類なんかを突っ込んでいく。

 こうして荷を作り出すと何かが不足しているような気になるもので、結局片付くまでに三十分弱を要してしまった。

 

 そういえば、とポケットから携帯を取り出し、メッセージアプリを開く。

 

 

「明日、九時半に京都駅の改札前に集合よ遅れないよーに」

 

 

 蓮子からのメッセージだ。

 

 確か、十時十二分発のヒロシゲ三十六号に乗る予定だったと記憶している。妥当な集合時刻だろう。八時起きなら間に合うかなどと考えつつ。タオル手に取る

 

 さっさとシャワーを済ませてしまうつもりだ。

 

 蛇口をひねると勢いよく温度を持った水流が心地よく頭を打ち、汗を流す。何もせずシャンプーの容器に手を伸ばすでもなく。身をゆだねていた。

 

 こうしていると普段考えない様なしょうもない雑念ばかり浮かんでくるものだ。途切れない水音がそうさせるのだろうか。浮かんで消えない議題、それはある瞬間一つに集約された。

 

 

 どうしてこんなにも疲れてしまったのか

 

 なんとなく思い当たりはあった。というよりかはあまりにも自明な議題であった。

 時間よ過ぎろと、そればかり考えすぎていたからに違いない、早く週末がきて欲しいとそんな思考が脳裏を占拠していたのだ。疲れるに決まっている。

 例えるならそう、遠足を待ち遠しむ小学生の心境だろうか。馬鹿らしい話だ。気取った自分はいったいどこに消えたやら……

 

 この辺にしておこう。恥ずかしいのも甚だしい話だ。

 

 水音が近づく。思案を打ち消すように強く、頭をこすった。

 

 

 

 烏の行水を済ませた後、乾ききらない髪のままで足早にベッドに腰掛け、冷えた缶ビールを飲み干す。風呂上がりの酒は特別に美味い。火照った体に程よくアルコールが回り、心地よく眠気を誘った。

 

 寝酒を飲み終え。灯りの消えた部屋。寝転がったベッドの上で静かに瞼を落とした。

 

 フワフワした意識、おやすみの代りにその誰でもない暗闇に囁く。 眠ろう

 

「明日に備えて……」

 

 何年振りかも覚えてはいない独り言を……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞼の裏を赤く射す日差し、けたたましいアラーム音に目覚める。八時三十分

 寝酒が祟ったか、はたまた抜けきらぬ疲労のせいかズキリと頭が痛んだ。しかし、それでも清々しい朝だ。

 よし、と気合を入れなおし立ち上がる。心なしか肌寒いが、とりあえず洗面所に向かう。 顔を洗い、髪を整える。

 昨夜に荷造りは済ませてある。あとはいつも通りの簡素な朝食を済まし、家を出るだけだ。

 現在借りている部屋は、京都市街のその郊外に位置し、駅までは車で三十分ほど、ちょうどいい時間だ。さあそろそろと腰を上げる。二日近くここを空けることになる。何か見落としがないかと部屋と玄関を行き来した

 

 馬鹿らしいし無意味なことだ。支度は済んだ。そろそろ出ることにした。

 

 コートを羽織り机の上の鍵束に手を伸ばす

 掴んだそれを片手に玄関を出る。

 

 空気が冷たい、高く空は晴れ渡っている。

 秋の朝だ。東から射す朝日が眩しい。

 

 空を仰いだ。その視線を落とし運転席のドアに触れたとき、ふと思い至る。

 

 別に車でなくてもいいな と、最寄り駅から京都駅までは四駅、現在八時五十五分、歩きの時間を加算しても充分に間に合う。なにより二日間も愛車を公営駐車場に放置するのは心もとない、まだローンの残る車だ。

 予定変更、と踵を返しキャリーバッグを引き歩き出す。寒いくらいのほうが快適だ。秋めいた空、すじ雲高く そんな道を歩いた。

 

 最寄り駅までは十分弱程だっただろうか。

 

 自動改札に端末をかざし、急ぎ足に電車に乗り込んだ。

 

 近鉄京都線、車両こそ目新しいものの路線自体は昔から、それこそ首都が移る以前から存在しているそうだ。

 

 今でこそ京都のその市街には懸垂式と呼ばれるような、所謂一昔前の近未来風モノレールがビルの間を走っている訳だが、それでも今も昔もこの街に住む人々の足としてこの路線は機能している。

 

 車窓に映るののは京都の街並み、山間の住宅街を横目に電車は進んでいく。車内に目をやってみると人はほとんどいなかった。急いで乗ったものだからそんな事にも気が付かなかったのである。

 

 そういえば今日は土曜日だったな。なんて考えながら再び車窓に目を移すと、曲がりくねった鉄道高架を行く当車両はまさに京都のその中心街へと入る所であった。

 

 何度見ても綺麗な街である。通り過ぎる高層ビルは照らす東日のオレンジ色を鏡面反射してセピア色に輝いている。この時間がいちばん好きかもしれない。

 

 一瞬車内が暗くなる。ひときわ大きな高架下を通ったのだ。あれは確か京都を一周する環状モノレールの線路だったか。懸垂式の車両が真上を通り過ぎて行った。

 

 これが京都の朝である。

 

 そんなこんなで電車に揺られること二十分弱、京都駅に着いた。

 

 近鉄線のホームはだだっ広いこの駅の端に位置しているため、集合場所の卯酉新幹線の改札前までは少々距離がある。休日とはいえ通勤客はいるし、これでもかという程の観光客で土曜の京都駅はごった返している。

 

 人ごみをかき分けながら改札を抜け、突き当りを右に階段を登る。横目に映るスタンド居酒屋や立ち食い蕎麦は魅力的ではあったが時間も無いので見ないふりをした。

 

 時間まで約十分、もう二人は着いているかもしれないな、などと考えつつ小走り気味の速足で通路を進んだ。

 

 最初は迷ったこのダンジョンめいた駅だが今や慣れたものだと思う。

 俺は重度ではないが方向音痴なのだ。外の景色も、方角もわからない駅の構内とか地下通路は大の苦手である。

 

 しかしまあこの駅は擦り切れるくらい通ったので問題はなかった。

 

 二人と出会って数か月、この駅からいつも物語は始まった。きっとこの角を曲がった先に瞳映すのはきっといつもの憧憬、何でもない日々の中に小さな神秘を、ノスタルジックを、そしてあの夢の悲恋を、拾い集める旅

 

 その終わりなき旅の始まりを告げる景色だ。

 

 朝日射す改札前、逆光気味なその中、小さく手を振る二人

 その影に、俺もまた手を振った。

 

 

 




ここまで読んでいただきありがとうございます。
感想お待ちしておりますのでよろしくお願いいたします。

続きもお楽しみに。


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第三話 「富士と海 36号東海道中」 

こんにちは
卯酉東海道からのお話です。
ヒロシゲの旅の風景をお楽しみください。


36号と富士と海

 

 

 

 

 

 

 

 

 休日ということもあってか卯酉新幹線、そのホームは人で溢れかえっていた。改札前で手を振る二人のほうへ速足で近づく。

 

「おはよう、よく眠れたかしら遅くも早くもないご到着ね」

 

「そっちこそ珍しいじゃないか蓮子、お前が遅刻しなかったのはじめてじゃないの?」

 

「そんなわけないでしょう。間に合ったことだってあるわよ」

 

 蓮子はそう言うが、俺が彼女達と行動を共にするようになってからの今まで五分前はおろか間に合った場面にも遭遇した記憶はない

 それより前の話なんだろうか……。

 

 またいつものようにあきれ顔でメリーは言う

 

「はいはい、偉い偉い……あなたが寝坊しなかったってことは馬鹿みたいな昨日を過ごしてたからかしら?」

 

 

「何を言うのメリー、昨日は大学であったでしょう。いつもと変わりない、いやいつにも増して知性に満ち溢れ美しい蓮子さんだったはずだけど?」

 

 

「どーだったか、さあくだらない話はやめてホームに降りましょ。乗り遅れないようにね……そうよね?」

 

 メリーはこちらに目配せをする。

 

 

「そうだな、もう少しその漫談をみていたくもあるが、遅刻癖の会長が俺より早く来てくれたんだ。その思いも東京観光の時間も無駄にはできない 行こうか」

 

「誰が始めた会話よ……わかったわそれじゃあ行くとしましょうか。霊都 東京へ」

 

 各々改札に端末をかざし通り抜ける。すぐ目の前には地下へと続くエスカレーターが伸びていた。降りる間に蓮子に何でもなしに尋ねてみた。

 

 

「酉の京都が魔の都なら、卯の東京は霊の都か。故郷でも結界暴きのご予定かい?」

 

 

「そう言えば話してなかったわね。今回の旅の目的を」

 

「それだよ、結局何なんだ?」

 

 

「私もまだ聞いていないわ」

 

 

 ほどなくしてホームに着く。蓮子は少し考える素振りを見せた

 

「乗ってからでいいじゃない。取っておきましょう」

 

 取っておきたいとっておき……か。それほど引っ張るほどの話なのだろうか。まあでも長い話になるのなら座ってからがいい、蓮子の小難しくて理屈っぽい”講義”は立って聞くには重たすぎる……。

 

 白いホームドアの前でじきにつくであろうヒロシゲを待つ、メリーはその目でくるくるとホームを見渡した。

 

「東京方面、空いてるわね。反対方向はあんなに勤め人で混んでいるのに、私たちにとっては好都合だけど」

 

 

「蓮子に言わせれば東京は田舎だそうだからな、自由席でよかったじゃないか。帰りは混むかもしれないけど」

 

「相席されたらのんびりできないじゃないの、憂鬱かも」

 

 メリーは伏目気味で言った。

 

「旅に出る前から憂鬱になってどうするのよメリー、そういう細かいことはお酒でも飲んで忘れましょ」

 

「車内販売か、いいじゃないか。もちろん付き合うよ」

 

 

「飲み比べじゃ勝てないわよ私には」

 

 

「ごもっともだけど、道中からそんなに飲まねえよ」

 

 

 蓮子と向き合いお互いに杯を傾ける仕草をする。

 

 

「うわばみは結構だけどほどほどにね。着く前から酔っぱらわれたら大変よ」

 

「そういうメリーも飲むんでしょ」

 

 

「まあ飲むけどね」

 

 

「はい決定、早めの宴会でもしながら今回の旅の目的、それを話してあげる」

 

 

 メリーは返事をするでもなく。目線で乗車を促し踵を返す。それに続く。

 物々しいホームドアをくぐった先、ヒロシゲ36号の車内は想像とは違い、俺の嗜好にそぐわぬものだった。

 

 件のカレイドスクリーンにはまだ景色は描写されておらず、乗車に際しての注意事項や簡単な当機の説明を促す文字列だけが漆黒の液晶に流れている。座席はこの近代都市京都らしからぬレトロチックなデザインが施された風変りなものだ。

 

 

「ネオクラシカルってところかしら。きらいじゃないけれど」

 

 

 中折れ帽の裾を抑え、トランクケースを片手に引いた会長はけだるげにさも興味の無さそうな語調で言う

 

「私は良いと思うけどな。あなたはこういうの好みなんじゃない」

 

 メリーはまたも俺に目配せする。その言葉に返すでもない俺は、さながら意趣返しのように軽く微笑んで応えた。

 

「うん、意外に座り心地は良さげだな、あの店のソファみたいで」

 

「なら微妙じゃない、まあ悪くはないわ」

 

 あの店とはいつもの集合場所、路地裏の純喫茶のことである。俺はあの時代錯誤な店内の雰囲気をこよなく愛しているのだ。

 

「そうだわ蓮子、喫茶店といえば大学のテラスに新しくカフェがオープンしたみたいよ。なんでもオーダーも配膳もメイドロボットが行っているとか」

 

「メイドロボットってR2D2みたいなのでしょう……。でもまあ興味はなくはないわよ。次の集合場所はそこね」

 

 車両の端、接合部その横の座席に座り終えた二人はそんな調子に勝手に集合場所を決め始めた。

 

「ちょっとまってくれ、新しい店は構わないがいつもの喫茶店はどうなる? 気に入ってるんだけど、しかも大学かよ……」

 

「何も永遠にその店にしようなんて言ってないじゃない、あなたそんなに馬鹿だったのかしら? たまには気分を変えてって話よ。大学は所謂”開けた場所”なんだからかまわないでしょう」

 

「馬鹿なのは否定しないけど別に新しい店にいくことを否定してないぜ。普通に賛同だ。

 

 早とちりはよせよ会長、ただ肌に合わなそうで抵抗があっただけさ」

 

「若い子でごった返してそうだから? それか劣等感に苛まれるからかしら」

 

 言い返したって仕方ない、憎たらしい猫のような笑みも鼻には突くが慣れてしまった。

 

「まあね。でもいいよ行ってみようじゃないか。メイドロボットにも興味あるし」

 

「だからR2D2だって……」

 

「もー。好き勝手言わないでよ蓮子、可憐な乙女ロボかもしれないでしょ」

 

「メリーみたいな?」

 

「好き勝手言わない……」

 

 腹に据えかねたメリーは蓮子の頬をつねる。

 最も彼女の頬は紅潮していたが。

 

「いひゃいってめりー!」

 

 

 割と容赦なく引っ張られているのか、本気で痛がっているのが可笑しい。いつもと変わらぬ微笑ましい光景、旅の第一幕を閉じるように発車を告げるアナウンスが鳴った。

 

 ”今日も卯酉新幹線をご利用頂きありがとうございます。この電車はヒロシゲ36号東京行きです”

 

 車両が動き出すと同時にカレイドスクリーンにも景色が映し出される。

 

「おお、これがヒロシゲの……」

 

「ふふ、現実ではありえない景色ね」

 

 メリーは窓、正しくはそのモニターを指して言う。その先には見渡す限りの青い海が、反対方向の窓には建物の一つも見えない平原と松林だけがただ広がっていた。

 

 息をのむような景色である。最も実際は地下の、それも巨大な試験管の中を通っているわけであり開放感などとは縁のない場所で今いるわけなのだが……。

 

 それでも目前に広がっているのは現実と相違ない非現実的な仮想現実である。

 

 人間とはそのほとんどを視覚からの情報に委ねて生きている……

 

 という話もあながち嘘では無いのだろうか。なんてくだらないことを考えていた。

 

「瞳に映るものだけが現実ではない……か」

 

「私の見る夢はどうなんでしょう。現実みたいな非現実……。でもこの景色とは違うわ。確かにそこにあって触れられるもの」

 

 

 彼女は、マエリベリー・ハーンは不思議な夢を見る。床にはいり気が付くと彼女は見知らぬ場所にいる。例えば鬱蒼とした竹林、例えば霧の中に浮かぶ赤い館……

 

 

 そんな異界に現実的な意識を伴ったまま放り出されるのだから大変である。異形の化け物から追い回されることもあったらしい。

 蓮子から聞いた話では、”夢”の中の竹林で擦り傷を負い、そのケガは現実に帰っても消えなかったそうだ。

 

 

 

 それでも自分の部屋で目を覚ませばその体験も景色も「夢」に他ならない。

 

 

 彼女の肉体は眠っている間も部屋から消えていたりはしないだろうし極めて生物的に機能し続ける。同じ経験を、「あの夢」に迷い込んだ俺にはわかる……。

 

 尤も彼女のように自らの「能力」によるものでは無かったわけだけれど。

 

 彼女はカレイドスクリーンに映る絶景から”現実”という物の不確定性、その言葉の脆弱性を感じ憂いているのだろう。

 

 その瞳は現実を歪ませる。そんな力を躊躇いなく使える彼女がどうしようもなく心配になるのは俺が彼女達と同じ位相にいないが故なのだろうか……。

 

 それなら……良いと思う。

 

 

 

 

 マエリベリー・ハーンは聡明な女性だ。それでいて好奇心と探求心を持ち合わせてもいる。

 それゆえに例えば悪夢の中だとしても、意識のある限り、その探求心に突き動かされるままに「活動」をする。

 ケガを負ってもきっとそれをやめはしないだろう。

 

 だからこそ彼女は秘封倶楽部で宇佐見蓮子の相棒……。なのだろうけど。

 視線に気づいたのか、メリーは窓から目を離す。

 

「どうかした?」

 

「別になんでもないよ、スクリーンの景色が新鮮でな」

 

「まーたしょうもない事考えていたんじゃない。モニターに映る絶景に放心するほど単純な人間じゃないでしょうに……というか私はそう評価しているわ」

 

 取り繕ったつもりだったのだが、我らが会長は気に食わなかったのか横槍を入れてきた。

 

 困った。メリーを横目に見ながら考え事、なんてバレる訳にはいくまい……

 

「……まあな、ただ……。二人の目にはこの景色がどう映っているのか気になっただけだ」

 

「││私の目は時間と場所が見えるだけ。世にも美しい作り物の海がよく見えるわね」

 

「はあ、まあそうだよな。夜の便ならまた違うんじゃないか?」

 

「さあどうかしら。それよりもメリーの目のほうが面白いわよ、きっと」

 

「私はおもしろくないわよ蓮子、至って普通にしか見えてないわ。今のとこはね、珍獣扱いは悲しいですわ」

 

 メリーはわざとらしく膨れて見せた。

 

「蓮子はどうかしらないけど、俺はその目羨ましいと思うよ、俺には見えない世界が、景色が見えるんだろ。それは俺が焦がれ続けているものなんだ」

 

「慰めてくれたの? 嬉しいわよ。渡せるなら渡したいのだけどね……この目、誰かさんには気持ち悪いとか言われるし」

 

 

 この誰かさんとは疑うべくもなく蓮子の事だろう。いつかそんな話を聞いた気がした。

 

 続く蓮子の言葉は言い訳、自己弁護だろうか俺の仕事は終わったと、窓、カレイドスクリーンに目を移した。

 

「あれは冗談じゃない~。私だって本当は羨ましいと思ってるのよ。あなたがいないと秘封倶楽部は成り立たないもの、本当に頼りにしてるわ」

 

 渾身のキメ顔で蓮子は言う。メリーがどんな表情をしているかは確認できなかった。車内販売のワゴン車が通ったからだ。

 

 さっきの話ではないが無人販売のワゴンはR2D2というよりATATに近かった。とりあえず缶ビールを三本買い、二人のほうに向きなおった。

 

 出発から約25分ほど、カレイドスクリーンには遠くには雲の傘被った富士の山が見えた。

 

「言ってる間に富士山だぞ、はいビール」

 

 二人に缶を手渡す。蓮子は受けとったと思うと、瞬く間に缶を開けぐいと飲みこんだ。

 

「朝から酒がおいしいわね」

 

「流石はうわばみね、乾杯は別にいらないけど富士山くらい見たらどう?」

 

「見たわよ、仙人でもすんでそうなくらいの荘厳さだわ」

 

 富士より酒か。再びカレイドスクリーンに目を移してみる。確かにそこに映る富士の山は荘厳で美しかった。実際の景色とは違い建物、高層ビルの類が極めて少ない事も理由の一つだろう。

 

 

「ねえメリー、リアルの富士山よりかは綺麗でしょう」

 

「うーん、綺麗なんだけどなあ。作り物の景色だと思うと少し退屈かも、旧東海道の本物の方が良いわ」

 

「同感だな、現実ではありえない美ではあるんだけど、結局リアルじゃないっていうか。絵画的な美しさがあるだけでそこに自然の神秘性が欠落している、なんてな」

 

 それっぽい事を言ってみたが。正直この富士はスクリーンよりも本物で見てみたい、メリーの言うような意味では無い。この”有り得ない”景色が”在る”それを目に焼きつけたいとただ思った。

 

「それっぽい事言わないの。二人とも贅沢ねえ、旧東海道なんて今日日セレブか東北人

 しか使ってないわよ」

 

「私はセレブですわ」

 

 メリーはそう言って笑った。彼女もまた何だかんだで美味そうに酒を飲む。

 俺もまた富士を肴に、よく冷えて割高なビールを流し込んだ。

 

 

 

 

 

 ヒロシゲで行く旅ももう半ば、卯酉新幹線は京都から東京間をわずか53分で走る。

 

 驚くべきことに全線が地下、しかも直線的に作られているそうである。

 神亀の遷都により大量の人間が東京と京都を行き来する必要が生まれ、交通インフラに限界が来る。そこで急ピッチに開発されたのが卯酉新幹線「ヒロシゲ」である。両都間は通勤圏内となりヒロシゲは瞬く間に日本の大動脈となった……。

 

「53分、早いのは便利だけど旅の情緒は少し薄れるよな」

 

「早いに越した事はないわ、より時間を取れるでしょう」

 

「そう、それだよ。結局何しに行くんだ。実家に帰省する。以外の情報聞いてないんだけど」

 

「まあ私はそれだけでも楽しみに来たけどね。東京初めてだし」

 

 メリーは意外にも活動の事は置いておいて単に東京観光を楽しみにしていたみたいだ。そのビスクドールにも例えうるような容貌とは裏腹によっぽど人間味があるように思えた。自称プランクはやっと思惑を明かすのだろうか。

 

「そうね……。じゃあとりあえず言っておこうかしら」

 

 最後の一口と缶を大きく傾け、向き直った彼女は言った。

 

「彼岸参り、よ」

 

「ただお墓参りするだけ? いいけど終わったら東京案内してね、蓮子」

 

「構わないけどその前に……。メリー東京のお彼岸には変わった風習があるんだけど知ってる?」

 

「ええ? どういうの?」

 

 にやりと蓮子はそう笑って言う。

 

「お墓参りと一緒にね。その周りの結界のほつれを見つけて、冥界参りもするのよ。お盆に帰ってくるご先祖様、そのお返しに彼岸にはこっちからってね」

 

「そうなの? それなら何で早く言ってくれなかったのよ」

 

「また墓荒らしか? 俺は全然良いけどさ、民俗学なんて守備範囲じゃあないけど……そんな風習あるのか本当に?」

 

 

「もちろん嘘。でも折角だからしましょうよ、いいわよねメリー」

 

「構わないけど、するならするって言ってくれたら良いのに。まさかそれだけ?」

 

 結局そんな風習はなかった訳だ。それに冥界参りなら蓮台野で済ませている。あれもメリーいわく夢のようなものという事だが、主観にこそ真実が在る、と定義するメリーの世界においては間違いなくリアルであるはずだ

 

 生きている間そう何回も冥界に赴くものでは無いだろう。尤も俺は件の冥界の地に立ったことがあるわけだけれども……。人から言わせれば所詮は夢らしい。

 

 

 それはさておき、わざわざ東京まで来てすることが経験済みの冥界覗きの訳はない、否それでは困るし蓮子だってそうだろう。あくまで本命のついでってところか。蓮子はそろそろ観念したようで真面目な顔で言った。

 

「そう本命、遺品荒らしよ」

 

「整理じゃなくて?」

 

「もう整理されているもの、それを引っ張り出すんだから”荒らし”じゃない」

 

 本当に訳が分からなかった。墓参りで先祖を偲んだかと思えば遺品を荒らすと言う。何やら事情があるのだろうが……。

 

 メリーを見る。意外にも平然とした表情で彼女は言った。

 

 

「わかったわよ、墓荒らしの次は、ね。でも東京案内は絶対よ」

 

「良い感じねメリー。案内はまかせて。東京巡りは楽しいわよ。歴史を感じられる建物もたくさん」

 

 まあ、相棒のメリーが良いのなら良いか。とまたスクリーンの海に視線を移した。時を同じくぼーっと景色を眺めていたメリーは急に怪訝な目をして呟く

 

「あ、今……」

 

「どうしたのメリー?」

 

「見えたのよ結界の裂け目が。それにこの辺何だか感じが違うわ。まさかスクリーンのバグじゃないでしょうし」

 

 そう言われると少し頭が重くなった気がしたが、多分プラセボ効果ってヤツだろう。悔しい事に俺には何も見えちゃいない。

 

 俺には何の力も宿らなかったのだから仕方がない。

 

「ああそれはここが霊峰の下だからでしょうね。空気も違って当然よ。メリーは過敏だから緊張が走るかもしれないわね」

 

 そういう事か。確かに富士は結界と言えるだろう。

 

 富士は名実共に日本一の霊峰だ。古からの山岳信仰では山そのものを神と崇め、畏れた。

 

 富士の山と木花咲耶姫は多く同一視されるが、それに限らず山の神というのはそのほとんどが女神であり。その神の嫉妬を買わぬようにと「女人禁制」の掟が徹底された。それもまた一つの結界であると言えるし。

 

 山梨県は牛石遺跡に見られるような環状列石群は富士を望める場所に位置し、はるか昔の縄文時代より富士は人々に畏怖され信仰の対象であった。なんて学説もあるそうだ……

 

 どんな物であれ、信仰の対象とされる物にはある種の”結界”が発生するのかも……

 

「聞こえてるわよ。でも後者に関しては眉唾な都市伝説だわ。掲示板に毒されすぎ」

 

 聞こえていたか。

 

 蓮子の言う掲示板とは俺が暇さえあれば張り付いているインターネットのオカルト掲示板の事だろう。こんな時代でも物好きはいるものである。

 

 ネットの海の片隅で今や霊的研究のパンドラボックスに封じられてしまったモノについての議論が交わされている。

 

 とはいえ確かに蓮子の言う通り信憑性の皆無な情報も多い、しかし稀にだが俺にとっての手がかりとなる”掘り出し物”も見つかる

 俺はいつかの墓荒らしの夜を思い出していた。

 

「ねえ蓮子、確かに富士山なら納得もいくのだけどね。地下に冥界の入り口がある。なんて話もあるし……。でも富士山って火山でしょう? そんなとこにトンネル掘って大丈夫なのかしら」

 

 メリーのいう事も尤もである。そもそも富士山が火山である事をを失念していたようだ

 ”不死の煙”が上がる山……。そんな話もあったか。

 

「メリーは心配性ねえ。富士が世界遺産に認定されたとき死火山になったと断定されたじゃない」

 

「まあ、そうね……あら。もう通り過ぎたみたい」

 

 メリーは納得がいかなそうではあったが、件の区間は通過したようである。相変わらずこの俺には結界の裂け目も何も見えないが。

 

 しかし幾ら距離を縮めるためとはいえ、霊峰富士の真下に穴なんか開けられるだろうか

 とはいえ富士を避けてなおかつ直線的に卯と酉を結ぶなら……。

 

「青木ヶ原、とか」

 

「樹海……ね。青木ヶ原の伝説はよからぬ話ばかりだけど。考えすぎね、そんなことはお酒飲んで忘れなさい ほら」

 

 蓮子はいつのまにやらビールを追加注文していた。ほら、と手渡されたら飲まない訳にはいくまい。樹海の下も霊峰の下も酒が美味いに変わりはない。冷たいビールと共に誇大妄想を流し込んだ。日常の度合いを超えた飲酒も旅の醍醐味だろう。

 

「大丈夫なの? というか蓮子に合わせて飲んでたら体持たないわよ」

 

 そういうメリーも飲んでいるじゃないかと言うのは野暮なのでやめておいた。

 

「まあもう少しで着きそうだし、しばらくの飲み納めだな」

 

「ん、多分今夜も飲み行くんでしょうけどね。そうだ、いまどの辺かしら?」

 

 メリーが尋ねる。

 

「ああ、多分鎌倉あたりかな」

 

「そういえばこの新幹線、鎌倉にも駅を造るつもりだったみたいよ」

 

 また聞いたことのない話である。

 

「相変わらずもの知りね」

 

「まあね、三つの都を繋いで”繋都新幹線”にしたかったんだそうよ」

 

「鎌倉が都か? あとどうせ作るなら真ん中がベターだろうに鎌倉じゃほぼ東京だ。話の脱線も甚だしいぜ蓮子」

 

「地下トンネルでどうやって脱線するってのよ。まあそんな感じの理由でお蔵入りになったんでしょー」

 

「確かに脱線は無理があるか。いやそうじゃなくて、ていうか自分で始めといて投げるな……」

 

「二人ともさっきから聞いてたら脱線とか不吉な事言わないでよー。そんな話している間にもう着いちゃうわよ」

 

 そう言われてカレイドスクリーンを見ると先ほどまで壮大な富士、青い海が映し出されていた窓の外の景色にはスタッフロールらしき物が流れていた。何だか馬鹿みたいだ。

 

「こんな風景にも権利を主張したいのね」

 

 景色に権利なんて無いと思うけれど。何よりこの景色は新幹線の名に冠されるように浮世絵画家「歌川広重」の見た東海道を基にして作られている訳なので権利を主張するのであれば彼以外にはいないだろう。

 

 ”今日も卯酉新幹線をご利用頂きありがとうございました。間もなく東京、東京です”

 

 機械音声の車内アナウンスが響く、俺も蓮子も残ったビールを一気に流し込んだ。

 

 53分の電車旅は終わりを告げようとしていた。ケースを手元に手繰り寄せる。

 

 ”DESIGNED BY UTAGAWA HIROSIGE”

 

 その文章が浮かび、美しい東海道の景色は闇に変わった……。

 

 

 

 

 

 

 

 車両が止まった。ドアの開く音が聞こえる

 

 さて、いよいよ霊都「東京」に踏み出すわけだ。53分の余韻を残しながらも出口に向かい足をすすめる。

 

 思い出したように、後ろからメリーは言う

 

「でも、どうしてヒロシゲなのかなあ、東海道なら北斎だって書いてるじゃない」

 

「んーそっちのほうが有名だからか?」

 

「それもあるかもしれないけど、違うわ。この国は北斎の狂気を良しとしなかった。それだけ」

 

「で、品行方正な歌川広重をか……。何だかなあ、まあ画狂老人卍じゃ仕方ないかー」

 

 

 くだらない話をしながら歩く……

 旅はまだ始まったばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
京都、東京間の53分の旅を私なりに咀嚼して描いてみました。
感想お待ちしております。


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第四話 「思いは幾多、旧都に眠る」

こんにちは
お待たせいたしました。前回は卯酉東海道より東京までの旅路を描きましたが
今回は東京でのお話です。オリジナルの展開になるので少々文章の稚拙さが目立つかと思いますが、よろしくお願い申し上げます。


それでは


 

 第四話 「思いは幾多、旧都に眠る」

 

 

 

 

 

 

 霊都東京は想像以上に霊都らしい様相を成していた。

 

 卯東京駅の駅舎は随分と古めかしく見えるが、赤レンガと白い大理石で作られたそれはまるで遺跡のような存在感を放っていた。実際に何百年と改修工事を重ねながら使われてきたらしい。

 

 駅前の広場で駅舎を見上げながら、俺もメリーも未知の都の風景に息を飲んでいた。俺たちの住む京都とはその方向性や雰囲気は違えど十分に都会に見える。旧都なのだから当たり前ではあるのだけれど。

 

 蓮子の家は中心街から外れた。どちらかといえば郊外に位置する場所にあるようだ。そこまでいけばもう少し廃れた旧都のノスタルジーを感じられるかもしれない。

 そういえば蓮子はどこに行ったのだろう。

 何か言っていた気がするが、聞き逃していたみたいだ。

 ベンチに腰掛けぐるぐると楽しそうに辺りを見回しているメリーに尋ねてみようか。

 

 

「なあメリー、蓮子どこいったんだ?」

 

 

「ん、蓮子? 確か路面電車の時刻表を確認しに行ったんじゃない」

 

 

 ああなるほど、確かにそうだ。中心街から離れるのなら路面電車が最適だろう。

 東京には地下鉄は無いらしい。神亀の遷都による需要の激減によって全ての路線が封鎖され、ホームへの入り口は金網かなんかで閉じられているそうだから。

 俺はオカルト好きが高じてか、廃墟っていう物にも関心がある。

 以前読んだ廃墟の写真集にもそんな一枚があったような気がした。

 

 都が移れば人も移る。ゆえに建物も道路も端から朽ちていき”廃墟”が生まれるのもいたしかたないだろう。

 

 そうこうしている間にいつのもまにやら蓮子はふらりと戻ってきた。

 

 

「乗るわよ。あと五分もないわ、急いで」

 

 

「いきなり戻ってきたと思ったらいきなりだな。そんなに急ぐ必要あるのか?」

 

 

 とは言いつつ、俺もキャリーバッグを持ち上げる。メリーはベンチから腰を上げて伸びをしているようだ。座りっぱなしも疲れるのだろう。

 

「ふぁ~。もう行くの蓮子、もう少しぼおっと見ていたくはあるんだけれど」

 

 

「もっと面白い物が路面電車の車窓からは見えるわよ。さあ」

 

 

 蓮子は早歩きに、恐らく路面電車のステーションがあるであろう方向を指し、こちらを振り向いて言った。

 

 そう言われれば行くしかあるまい。俺とメリーは一瞬向き合って、その表情を確かめたが、またすぐに彼女を追って駆け出した。旅の第二幕が始まろうとしている。白く天井に輝く昼間の太陽が温かかった。

 

 

 

 

 

 

 

 俺たちがついてすぐに路面電車は到着した

 カンカンとベルのような音を鳴らし到着したそれは、たった一両で乗客もまばらのようである。

 黄色と白の車体は所々塗装がぼやけ、長年利用されつづけてきた事が見た目にわかった。

 

 

「この電車よ、次の便は三十分後だから間に合って良かったわ」

 

 

「何だか楽しそうね蓮子」

 

 

 確かにいつもよりもテンションが高めに見える。何だかんだと言って故郷が懐かしいのか、いやただ単に酒が入っているからかもしれない。

 

「私、路面電車は初めてだわ」

 

 

「そうなんだな。俺はどっかで乗った気がするけど久しぶりではあるかな」

 

 

 メリーは東京旅行を随分と楽しみにしていたようで、レトロチックな車両をこれでもかと眺めていた。微笑ましいものだ。

 

 プシュー、と解放された圧縮空気がドアを開く音がした。ホームの地べたに置いたケースを持ち上げ、ぞろぞろと続いて乗車する。

 

 薄暗い車内、くすんだワイン色のベンチシートに腰掛け、荷物を床に下ろす。俺は最低限の荷物しか持ってこなかったがメリーの持つ革張りのトランクケースはかなり重そうだった。

 

 また空気の抜けるようなドアの閉まる。何と言ったのか運転手の単調な車内アナウンスが響き、車両は動き出した。

 

 

「結構揺れるわねえ」

 

 

「メリーは乗り物酔いとかするのか」

 

 

「うーん、基本はしないかなあ。そもそも揺れる乗り物にそんなに乗らないわ」

 

 

 それもそうか、ここまでくるのに乗ってきたヒロシゲもその運行は不気味なほどスムーズで静かだったし、京都の都を巡回するモノレールだってそうだ。

 

 蓮子に言わせれば”前時代的”な自動車を転がしている俺は好んで揺れを味わっていることになるだろう。

 

 窓の外に流れる景色は以前として「街」だが、京都に比べると車も走っていないに等しいし、アスファルトにもひび割れが目立つ。

 

 

「この道の悪さじゃあ車を走らせたくはならないな」

 

 

「当然ね。そもそも京都だって別に多くないじゃない。車」

 

 

「まあそうなんだけどな。それでもまだ走っているぜ」

 

 

「見ての通りひび割れてるしね。結界の裂け目だけじゃなくて、アスファルトのひびもほったらかしなのよ」

 

 

「田舎だって言ってたのはそういうことだったのか?」

 

 

 そう尋ねると、蓮子は少し考えて言った。

 

「それもだけど……。根底にあるのは精神的な未熟さ、かしらね。京都に比べたらだけど」

 

 

「何千年と霊的研究とやらを続けてきたのが京都だからな、それで嫌みったらしい性格になるわけさ、にしても故郷だってのに酷い言い草」

 

 

「ふふ、故郷だからよ」

 

 

「何だかんだで好きなのね。じゃないと帰ってなんて来ないじゃない。ツンデレね~」

 

 

 メリーにからかわれて蓮子は少し頬を赤らめていた。

 

 会話に気を取られていたので見逃していたが路面電車はすでに中心街からは離れつつあるようである。

 

 反対方向に見えては消える歩行者の群れの間隔も広くなってきたようだ。大規模な建造物は原則的に中心へと集中するものである。

 言ってしまえばそれも、中央集権国家の日本故に顕著として見られる特徴なのかもしれぬが。そんな日本も科学世紀の到来に伴って、数百数千年と積み重ねられた封建的な体制を打開すべく、地方への分権に尽力してきたはずである。

 

 故にここ東京はそんな時代の名残を残すある意味京都以上の”古都”と言えるのかもしれない。路面電車が進めば進むほど、その退廃的な表情を垣間見せる東京の街を見て、なんとなくそう思った。

 

 

「そうだわ蓮子、乗ればもっと面白いものが見られるって言ってたけど。何が見えるのかしら?」

 

 

「心配ご無用、もうすぐ”抜ける”わよ」

 

 

「抜ける? 何をだ」

 

 

「街を抜けるのよ、決まってるじゃない」

 

 

 いったいどういう事なのか。その先に何が見えるのだろうか。

 

 蓮子がそう言った直後、黒ずんだコンクリートの雑居ビル群を抜けたとき、車窓に映る風景は一瞬にして、開けた……。

 

 

 

「わあ……」

 

 

 メリーが言葉にもならない感嘆の声を上げる。

 

 車窓から見える風景、その一面に広がったのは見渡す限りの草原だった。

 

 遮るものがなくなったからか少し傾いた太陽の日差しが射しこんでいる。

 

 

「これが、その”面白いもの”か……。驚いたな。大ビル群を抜けたら大草原なんて」

 

 

 蓮子は、言ったでしょう。とでも言わんばかりに鼻を鳴らしている。そんな態度も気にならないほど、突如目の前に広がった風景は圧巻の一言であった。

 

 

「自然の力には結局敵わないもの、首都が移って。栄華を誇った東京の街も廃れていった。今から向かう郊外の住宅密集地域、そしてさっきまでいた中心街、その間に位置するこの辺は、ことごとく破壊されたのよ」

 

 

 そういう事か、後ろを見返すと先ほどまでいたであろう高層ビル群が見える。そして進行方向をみれば、少し遠くに対照的に低く、

 加えて多くの人の生活が営まれているであろうのどかな街並みが見えた。

 

 これが東京なんだな……。この緑はまるで対局を成す二つの街並みを分かつ境界のようである。

 

 黄白のツートンカラーの路面電車は青々とした平原をなおも進む。俺もメリーもそして蓮子もしばし、そんな景色を静かに眺めていた……

 

 青一色の景色、その中に一際の存在感を持って佇む巨大な影がが見えた。あれは……

 

「あれは、廃棄された環状線の一部よ」

 

 

 蓮子が呟く。そうか、あれがそうか。

 

 旧都東京の環状線の一部は廃棄され緑化している。なんて話を聞いたことはあったが実際に目にするとは想像もしていなかった。

 

 見あげるほど高い高速高架の残骸は塗り固められたコンクリートの端々から鉄筋の骨組みを覗かせているし、その表面は名も知らぬ植物のそのツタに覆われていた。

 

 まさに「遺跡」だ。遺跡とは古代の人間の営みの残響であり、その栄華と時の流れの無常さを今生きる人間に伝える、ある種の外部記憶装置だと思う。

 

 目の前に立ちはだかるそれはまさにそんな姿で、黙々と佇んでいる。

 

 古い歴史書の挿絵にあった古代ギリシアのパルテノン神殿でも見ているかのような錯覚を覚えてしまう。不思議な感覚だった。

 

 

「すごいわね……。東京って思ってた以上に刺激的だわ」

 

 

 メリーはそんな景色に釘付けのようである

 かくいう俺もそうなのだけど、不可思議な世界に夢で迷い込めるメリーにも人間と文明の作り出した所謂”産業遺跡”は俺と同じに目新しく映っているようで少し嬉しかった。

 

 

「まだまだ始まったばかりよメリー、東京観光は楽しいわ。新宿、渋谷。歴史を感じたいならうってつけの場所が盛りだくさんなんだから」

 

 

「わあ、それは楽しみね。今日行けたりするの?」

 

 

「んー、残念だけど明日にお預けね。今日はすることでいっぱいだし」

 

 

「結局、要領を得ないんだよなあ、墓参りもその遺品荒らしとやらも」

 

 

「まあ家に着いたらおのずと分かるわよ、とりあえず荷物を置かないと、でしょ」

 

 

 まあいいか。秘封倶楽部の活動なんて蓮子の思い付きで始まるんだし、このわがまま大人しく付いていく事にしよう。

 

 メリーのように相棒にはなれないけれど。

 

 環状遺跡を潜り抜け、なおも電車は進む。向かって後ろに聳え立っていたビルのシルエットも小さくなり、逆光の中に霞んでいる。

 

 草原ももう少しで終わりだろうか。

 

 

「見て、あの花……」

 

 

 メリーがそう言って窓の外を指さすので、俺も蓮子もそちらを向いた。

 

 その花は、緑の草原の中で一際鮮やかに、それでいて異様なほどに赤く咲き乱れていた。

 

 葉もなく、茎と赤い花弁だけの奇妙な花、群生する”彼岸花”が視界一面を赤く染めたのだ。

 

 

「そういえばメリーは彼岸花が気持ち悪いとか苦手とか言ってたわね」

 

 

「そうよ、苦手なの。だって形が不気味じゃない」

 

 

「まあ触りたくはないよな。あと毒があるらしいし」

 

 

「卒塔婆のほうがよっぽど触り難いけどね変な感覚持ってるわ、ほんと」

 

 

「お前は最後まで指示してただけだったじゃないか」

 

 

 蓮子は蓮台野の夜の話を蒸し返したいようである。ああ、そういえばあの墓地にも彼岸花が咲いていたような気がする。この世とあの世の境界、夢と現の境界、そして過去と未来の境界……。

 

 相対するものの接する場所こそが”彼岸”である。だとすればここは一体なんの境界なのだろうか……。

 

 

 

 

 そんな事を考えているうちに、草原も一面の彼岸花もすでに過去の景色と変わってしまったようだ。

 

 路面電車は市街地に入り速度を落としながら走っている。何十分ぶりかの車内アナウンスが響いた。

 

 

 駅についたようだ。駅とは言っても分離帯に毛が生えたような簡素なものではあるが。

 

 

「ね、面白かったでしょ」

 

 

 蓮子はシートから腰を上げ荷物を持ち上げる。振り向きざまにウインクをして言われると照れるからやめて欲しい、たまにそんな仕草を見せるのもやっぱり掴みどころがないような印象を持たせる一因かもしれない。

 

 ドアが開く。さて降りるとしよう。

 

 メリーのもつ革張りのトランクケースはやはり重たそうだった。

 

 

「持とうか? それ」

 

 

「あら、いいの? 重いわよ」

 

 

 メリーからケースを受け取る。確かにかなりの重量だ。まあ蓮子の実家までなら楽勝だろう。

 

 尤も場所も知らないわけだけど。

 

 

「その実家って近いのか?」

 

 

「歩きで二十分くらいかしらね。というか私のは持ってくれないのね」

 

「重くなさそうだからな。無理してでも持ってほしいなら良いぞ」

 

 

「別にいいわ。ほらこっちよ」

 

 

 路面電車の停車駅を離れ、横断歩道を渡る

 

 極端に車の往来が少ないからか信号はなかった。たまに運送のトラックが通り過ぎるくらいだろうか。

 

 先導する蓮子に続いて、東京郊外の町を歩く。歩道横に目をやると古びた個人商店や開いてるのか閉まっているのかわからない居酒屋などが立ち並んでいた。

 

 反対側を見ると低層の雑居ビルやマンションが立ち並んでいるようである。

 

 

「下町って感じねえ」

 

 

「まあね。もう一度言わせて貰うけど精神的に未熟な街だわ。人情も庶民性も言い訳にしか聞こえないし」

 

 

「で、京都に出てきたわけか。まあ田舎だってのは納得できるかな、息が詰まらなくていいんじゃないか」

 

 

「そうそう、たまには馬鹿になるのもいいじゃない」

 

 

「洗練されていない庶民的な娯楽ならたくさん残っているけどね」

 

 

「その点京都は厳しいからなあ、賭博場も無いし」

 

 

「あったって負けて泣き見るだけよ、あなたじゃあ」

 

 

「蓮子なら勝てるのか。得意の計算でさ」

 

 

「当然よ。とはいえ超統一物理学はすでに計算とか数式の世界じゃなくて哲学的な領域に突入しているのだけどね」

 

 

 小難しい話をされても困る。一度その超統一物理学とやらについて聞かされたのだが。一単語として頭に入らなかったのが思い出に新しい。そうこう言っているうちに路面電車を降りた大通りは離れ、住宅地の路地を歩いていた。

 

 

「ここを右よ」

 

 

 そう蓮子が言うので、立ち止まり右方に目をむけると、急勾配の坂道が上へと伸びている。

 

 

「この坂を上った先が私の実家よ。町が一望できるわ」

 

 

 中々良い立地だとは思うが。

 

 

「長くないか? この坂道」

 

 

「その重たい荷物持って登るのよ。途中で音を上げたりしないわよね?」

 

 

 蓮子は悪意を持った目でにこりと笑った。正直厳しそうではあるが、メリーの手前、無理とは言えない。

 

 

「馬鹿にするなよ、こんくらい軽いぜ」

 

 

「甘えちゃってごめんね。無理しなくていいのよ」

 

 

 強がりはバレバレのようだ。とはいえよくこんな重たい荷物を持ってきたものである。

 

 

「重いでしょ。乙女にはあれやこれやと持ち物があるのよ~」

 

 

「ふーん、の割には蓮子は身軽に登っていくぜ」

 

 

「蓮子は無頓着だからねー」

 

 

「あら、やっぱり私の荷物も持たせようかしら」

 

 

「悪かった、勘弁してくれ……」

 

 

 

 

 

 

 日の照り付ける坂道を上る。

 

 今は中腹ほどだろうか、秋であるとはいえ直射日光に晒されながら重量物を持って登っていると暑い。

 

 時折吹き付けるそよ風と、塀の向こうから生えた木々の作る木陰が涼しく感じた。

 

 二人の影はすでに小さくなっている。どうやら登り切ったようで、メリーがこちらに手を振っているのが見える。蓮子は腕を組んで頂上からの景色を眺めているようだ。

 

 さて、あまり待たせる訳にもいかないので足を速めることにする。肩と腕に重さを感じながらも小走りで斜面を踏みしめる。

 

 

 

 やっと頂上に辿り着いた……。

 

 

「お疲れ様、ありがとう。ねえ、後ろ見てみて」

 

 

 メリーがそう促すので来た道を振り返ってみた。

 

 細い下り坂が下へずうっと続いている。

 

 かなりの距離を登ってきたようだ。通ってきた道、通り過ぎたビル……。街の全容をそこからは一望することができた、が何よりその景色の向こうの山影に目を引かれた。

 

 あれは富士だ。

 

 

「まさか本物を見られるなんてな……」

 

 

「今登ってきた坂道は昔から”富士見坂”って呼ばれているの。そのまんまでしょ」

 

 

「やっぱり本物のほうが綺麗じゃないの。全体が見えないのは残念だけど」

 

 

 とはいえあの建物の数を考えると良く見える方ではある。長屋しか無かった江戸時代なら完全な富士を見ることが叶ったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

「さあ、そこが家よ。とりあえず到着ね」

 

 

 蓮子の実家は坂を登ってすぐにあった。

 

 

「わあ、立派な家ねえ。蓮子ってもしかしてお金持ち?」

 

 

「貧乏ではないわ。とは言っても古いだけの家よ」

 

 

 木製の門をくぐると石畳が続いていた。その先にある建物を表現するなら「日本屋敷」が妥当だろうか、黒い瓦で覆われた二階建ての家屋である。向かって右にはテニスコート一面分はあるだろうか、それくらい広い庭が広がっていた。向こうに見える建物は”蔵”だろうか。

 

 

「ただいまー。連れて来たわよ」

 

 

 宇佐見家の大きさに見とれているうちにも蓮子とメリーは玄関に入っているようだ。俺も急いで向かう。

 

 

 

「いらっしゃい、お構いはできませんけどゆっくりしてくださいね」

 

 

 蓮子の母親であろう女性が玄関口に出てきて言う。上品で優しそうな女性という第一印象だ。

 

 

「マエリベリーです。お世話になります」

 

 

 メリーがお辞儀をして言うので、俺も場違いとは思いながら挨拶をする事にする。

 

 

「すみません……お世話になります」

 

 

「いえいえこちらこそ……。蓮子がお世話になってるみたいで……。この子変わり者だから」

 

 

「ちょっと母さん……」

 

 

「ふふ、本当に振り回されっぱなしなんです」

 

 

「ちょっとメリーってば」

 

 

 そう言って三人は笑い合っている。早くも打ち解けられたようで微笑ましい。大の男が一人いるにはやっぱり気まずい空気である。

 

 とはいっても女子大生の中に怪しい男が付いてきたというのに怪訝な顔せず受け入れてくれた蓮子のお母さんには感謝しかない、器量よしな人だと思う。

 

 

「何ぽけっとしてるのよ。荷物置きに行くわよ」

 

 

「ああ、じゃあお邪魔します」

 

 

「お邪魔しまーす」

 

 

 玄関を左に曲がり廊下、というよりは縁側を歩く。本来こちらから見るようにように造られているのか、さっきよりも庭が綺麗に見えた。

 

 

「私とメリーがこの部屋で、あなたはその隣の部屋ね」

 

 

「りょーかい」

 

 

 言われた通りに部屋のふすまを開ける。部屋の中にはローテーブルと一人分の布団が置いてあった。蓮子の母が用意してくれたのだろう。何から何まで申し訳ない。

 

 にしても一人にしては広すぎる部屋である。

 

 

「広いな、この部屋」

 

 

「広いだけで空調とか無いわよ」

 

 

「それは寒そうだな。で墓参りいくんだろう」

 

 

「ええ、用意してもらってた仏花持ってくるわ。外で待ってて」

 

 

「わかった。一服してるぜ」

 

 

「いいけど吸い殻散らかさないでよ」

 

 

「当たり前だろ」

 

 

 蓮子とメリーが廊下の奥へと消えていったのを見送り、玄関へと向かう。

 

 靴を履いて外に出ようとしていると、後ろから蓮子の母親に声をかけられた。

 

「お出かけなのね。急にお墓参りなんて言い出すものだから驚いたわ。それにあなたお勤めなんでしょう。蓮子がご迷惑おかけするわね……」

 

 

「いえ、僕なんてただの不良社会人ですよ、誘ってくれてこちらこそ感謝したいくらいです。それに振り回されるのも慣れましたから。

 それより男一人で乗り込んで申し訳ない」

 

 

「あはは、いいのよ。あの子一度も男の子連れてきた無かったし……」

 

 

「ああ、そうなんですか」

 

 

 聞かなかった事にしておこう。

 

 玄関を出て、入り口の門のところで二人を待つ。胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。

 

 ここまで来るのだけで随分疲れてしまったからか、煙草の紫煙が体に沁みた。遠くには富士の影、街の全景を見渡せる。そんな景色は煙の中に霞んで揺れていた。

 

 

 

 

「ごめん、おまたせ~」

 

 

 玄関の戸がガラガラと音を立てて開き、メリーの声がする。蓮子も続いて出てきたようだ

 半分程吸った煙草を携帯灰皿に押し込んで消火する。

 

「なあ蓮子、坂の中腹にお墓あったけど、あそこでいいのか」

 

 

「ええ、そこでいいわ。着いたら話すわ」

 

 

「そうか、わかった」

 

 

 特になにか喋るでもなくさっき登ってきたばっかりの坂道を下る。墓参りにその”遺品荒らし”蓮子の事だから無関係ではないのだろう。

 

 ぼおっと歩きながら、数分も下るうちにその墓場に着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 入り口にある蛇口をひねり、持参したバケツに水を汲む。

 

 その墓は墓地の中でも奥まった場所にあった。狭い通路を他の墓石に気を付けながら歩いて辿り着いた。

 

 

「ここが、宇佐見家の墓よ」

 

 

 蓮子はバケツから柄杓で水を掬い墓石を清めながら言った。

 

 

「墓参りか、最近ちゃんと行ってないな」

 

 

「行きなさいよ……。そうだライター持ってるわよね」

 

 

「当然だろ、ん」

 

 

 蓮子が差し出した線香を手に取り火をつけ墓の墓に供える。

 

 線香の独特な香りの煙が漂う中、俺たち三人は静かに手を合わせた。

 

 

「ねえ、蓮子。その遺品って……」

 

 

 それは俺もずっと気になっていた事であった。メリーの問いに蓮子は一拍呑み込んで答えた。

 

 

「そう、ここはね……。私の大叔母”宇佐見菫子”の眠る墓、その遺品を暴くために来たのよ」

 

 

 

 

 

 彼女のよく通る声が、白昼の墓場に響いた……。

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
原作には描かれなかった所を自分の妄想で精一杯補完したつもりです。
感想お待ちしております。

この小説を楽しみにしていてくださる方がいると嬉しいです。


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第五話 「秘めし記憶は埃の下で」

お待たせいたしました。
東京旅行編の続きでございます。
このお話では秘封倶楽部初代会長の彼女についてを描きました。

それでは


 

 第五話「秘めし記憶は埃の下で」

 

 

 

 宇佐見菫子、その名前を初めて耳にした瞬間であった。

 

「大叔母、っていうと蓮子のおじい様かおばあ様の兄妹なのかしら?」

 

「ええ、私のお祖母ちゃんの妹よ」

 

 なるほど、今俺たちが手を合わせている墓の下にはその”宇佐見菫子”という人が眠っている訳か。

 

「それはわかったんだが、どうして今その人が出てくる?」

 

 聞いているのか聞いていないのかわからないが、蓮子は静かに続けた。

 

「私お祖母ちゃんっ子でね。本当に可愛がって貰ったのよ。たった一人の孫だったからってのもあるんだろうけど」

 

 蓮子は少し、昔を懐かしんでいるようである。よっぽどその祖母の事が好きだったのだろうか。

 

 しかしそれがどうしてその宇佐見菫子という人物にどう関係してくるのかはまだわからない。

 

「それで、そのお祖母ちゃんなんだけど、最近亡くなったの」

 

「そういえばそんな話していたわね。柄にも無く落ち込んでいたのは覚えているわよ」

 

 メリーが言う。つまり俺が彼女達に出会う前の話だろうか。

 

 確かに誰かが死んで落ち込んでいる彼女の姿など想像もつかない。が、彼女にだって親しい人の死、そんな傷心に涙する時があったって良いとも思う。

 

「そうか……。お悔み申し上げるよ」

 

「そんなの別にいいわ。長生きはしたほうだし。彼女自身、幸福だったと言っていたからね……。たった一つその”隠し事”を除いては……ね」

 

 晴天の下、立石群のその中で街に背を向け小さな墓石を見つめる三人、風が吹き線香の煙を揺らした。もう半ば程まで白い灰に変わってしまってはいるが。

 

 何となく、蓮子の話の終着点がみえてきた気がしなくもない。

 

「で、その”隠し事”聞いたんだろう。内容はその宇佐見菫子さんについて、とか」

 

「ええその通りよ。ここからが大事、しんみりしてないで真面目に聞きなさいよ」

 

「しんみりは真面目じゃないんだな」

 

「当然よ」

 

「やっぱり蓮子は蓮子ね~。じゃあ聞かせて貰おうかしら」

 

 こほん、と蓮子はそれらしく咳払いをして話しだした。

 

「そのお祖母ちゃんが亡くなる前にね。私を呼び出したの、その時に初めて大叔母”宇佐見菫子”の名前を聞いたわ。若くして亡くなったようだから私が知らないのも当然なんだけどね」

 

 やっぱりしんみりしそうな話ではあるが、当の蓮子はさっきとは打って変って平常運転で淡々と続けるので、俺もメリーもいつも通りに彼女の話を聞いている。

 

「続けるわよ。多分彼女は自分の死期を悟った、それでずっと秘め続けてきた隠し事を打ち明けたかったんでしょうね。で……その内容。祖母の妹、宇佐見菫子は……」

 

「”超能力者”だったみたいなの」

 

 

 …………。想像の斜め上を行く話である。

 要するに蓮子の大叔母は超能力者であり、その姉であった蓮子の祖母はそれを死の間際まで隠し続けていた。ということか……。

 

「あら、面白そうな話ね。詳しく聞かせて欲しいわ」

 

 メリーはやっと蓮子の真意を知れたからか楽しそうだ。

 

 よく考えれば蓮子の瞳もメリーの瞳も超能力と呼ぶに相違ないものである。むしろその話が本当であれば、少なくとも蓮子の能力はその”血”に由来しているのでは……。などと

 考えてしまう。

 

「嫌と言っても話すわよ。戻ってからね」

 

 次第に興味が湧いてきた。さてその真実はと考えを巡らせつつも、墓地を後にしてまた坂道を登る。ふと腕時計をみると長針と短針は午後一時を指していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、見あげた先にあるのは黒い三角屋根を戴く宇佐見家の「蔵」である。

 

 実際に前に立って見てみると、変色し所々剥離した漆喰壁に漆塗りが落ちた艶の無い蔵戸、と家本体よりも経年の劣化が見える。

 

 蓮子によると家は何度かリフォームはしているが、蔵の方は手付かずで入り口付近は物置になっているそう。なんとも無防備な事に鍵の類は一切掛かっていない。

 

 蓮子含めご存命の宇佐見家の人々でここに何が収められているのかを正確に把握するものはおらず

 

 ほぼ未知の領域ではあるが、蓮子が祖母から聞いた話を頼りに、今まさに”遺品荒らし”改め”遺品捜索”が始まろうとしている。

 

 蓮子が祖母から聞き、俺とメリーが蓮子から聞いた宇佐見菫子に纏わる逸話を要約するのであればこうだ。

 

 

 

 

 

 

 ”これは今から一世紀近く前の話である。宇佐見菫子という少女は孤独な娘であった。それも孤独になったのではなく、敢えて孤独であろうとしたのである。

 

 友人も作らず、家族とも最低限の会話しかしない。部屋に籠っては怪しげな研究に浸っていたそうだ。

 

 しかし彼女は拗らせていたわけでも血迷っていたわけでもない。絶対的な根拠と自信があっての行動だった。

 

 視点は移る。

 

 菫子の姉であった蓮子の祖母、確かに偏屈で理解され難い性格を妹はしている。しかし彼女にとってはたった一人の大切な妹だったのだ。

 

 例え心を開いてくれずとも、彼女を気にかけ続けていたのだそう。

 

 そんな彼女はある時、魔が差したのか妹の部屋を覗き見たことがあった。

 

 そしてそこで妹が所謂「超能力」を使える。という事実を知ったのだ。

 

 そして理解した。

 

 妹が孤独にこだわるのは異能を行使できるが故の全能感、それに伴う他者との差異を自分は特別であると驕ってしまったからなのだと。

 

 しかしその事実を知ってなお彼女は妹を思い、守ろうと思った。

 

 人とは違う力を持ったが故に歪んでしまった彼女がせめて自分の望むままに求めるままに日々を過ごせるように。笑っていられるように……。

 

 それだけを願い、秘密を抱いて生きてきたのである。その思いは例え妹が死んでも揺らがなかった……”

 

 

 

 

 

 こんなところなのだが、何とも切ない話ではないか……。

 

 とはいえまた湿気た表情をすると蓮子が怒るので切り替えていこうと思う。

 

「私は秘封倶楽部の宇佐見蓮子よ、秘密を託されたんだから暴かずにはいられない。お祖母ちゃんの為にも真実を解き明かしてみせるわ!」

 

 蓮子は蔵戸の前でそう見栄を切る。やる気は十分のようだ。結界暴きとは違い地味な活動ではあるが、ようやく秘封倶楽部らしくなってきたというものである。

 

「じゃあ、始めるか」

 

「ホコリ被るのは嫌だけど仕方ないわね」

 

 手付かずだった蔵がついに開け放たれる。

 

 

 光が差し込む、薄暗い蔵の中は想像以上に大量の物で溢れていた。人一人通れるほどの通路をいくつか残して、角材で作られたような木製の棚に段ボールや木箱がぎっしりと詰まっている。

 

「この中から見つけるのかよ」

 

「せめて大まかな場所でも分かってればねえ……」

 

「そこでメリーの目じゃない。超能力者が使った物なら何らかの結界を持っていてもおかしくないでしょう」

 

「どんな理屈よ……。今のところさっぱりだわ。手に取ってみればもしかしたら」

 

「メリーに見せてどうするんだ?」

 

「例えばその物に宿った記憶を”視る”とかね」

 

「おいおい……。出来るのかよそんな事……」

 

「多分ね……。そこに境界さえ見いだせるなら」

 

 蓮子が言うのだからそうなのかもしれないが……

 

 メリーの能力はあくまで結界の裂け目やほつれ、物質界と非物質界の境界を認識できるくらいだと思っていた。いやそれでも霊感どころではない異質な能力ではあるのだが、記憶の世界にまで干渉できるなんてまるで……

 

 まあ考えてもしかたあるまい、とりあえずしらみつぶしにこの箱を開けていくしかないだろう。

 

「どうする蓮子? 大切な物を保管しているのなら段ボールの優先度は低いよな」

 

「そうね……。私も同意見だわ。けど段ボールを除外してもかなりの数よ」

 

「とりあえず、適当に出してくか」

 

 一番下に見えた細長い木箱を取り出してみる。触った瞬間に分かる程に埃の層が箱の蓋部分に付着していた。マスクと雑巾を用意しなければ無さそうだ。

 

 軽く埃を払い落し、メリーに手渡す。

 

「蓮子、開けるわよ」

 

「いいからどんどん開けてきましょ」

 

 メリーは勢いよく木箱を開く、舞い上がった煙を吸い込んでむせてしまった。

 

「ご、ごめんなさい。ついテンション上がっちゃって」

 

「大丈夫、なんだろうそれ、巻物か?」

 

「どう見ても掛け軸じゃない」

 

「冗談だ。開けてみようぜ」

 

 冗談とは言ったがこの蔵なら巻物の一つや二つ出てきそうなものである。

 

 古そうな蔵から出てきた物なので期待しながら掛け軸を開いてみた。

 

 残念なことに、どこにでもありそうな夕焼けの富士が描かれただけのシンプルな品物である。多分価値はほとんどないだろう。

 

 

 

「これならヒロシゲの富士のが綺麗ね……」

 

「ちょっとメリー、目的が違うわよ。見つけるのは価値のある骨董品じゃないの」

 

「わかってるわよ~。とりあえず口を覆えるものと雑巾と脚立がいるわね」

 

「それが言いたかったんだ」

 

「わかったわ。持ってくるからテキパキ働きなさいよー」

 

 さてここからが大変である。

 

 

 俺が箱を下ろし、二人が中身を確認していく。という作業を繰り返すのだが、棚の最上段の箱を取るには脚立を使わなければならずしかもその脚立が不安定と来たもので相当な恐怖を強いられることになった。

 

 何十の木箱を開けただろうか。箱を開けて出てくるのは、掛け軸、壺、仏像、鉄器、古書など様々であったが、どれも宇佐見菫子の遺品ではなく、素人目でも価値は見込めないような物ばかりである。

 

 蓮子曰く”祖父が趣味で集めていたガラクタ”との事である。

 

「ダメだ……腰も腕も限界……」

 

 下ろし続けた木箱の中にはかなり重い物もあり、体の節々は軋みを上げている。

 

 床には数十個の大小の箱が散らばっているがどれもハズレだった物だ。

 

「曜変天目でも出てくればテンション上がるんだけどなあ」

 

「現存が確認されてるのがたった三点とかでしょう。うちの蔵にあるわけないわ」

 

「まとめて鑑定に出せばちょったした金にはなるんじゃないか」

 

「面倒くさいからいいわよ」

 

 遺品捜索を始めて二時間弱ほど経っただろうか。俺も蓮子もメリーもすでにヘトヘトであった。

 

 とはいえこんなところで諦める訳にはいかない。絶対に”超能力少女”の秘密を暴き出さねばならないという連帯感というか、義務感が芽生えつつあった。

 

 すでに午後三時を回っている。日が暮れる前には結果を出したいところである。

 

「よし、良いわ。日が沈むまでに見つかったら今夜の飲みは私の奢りよ」

 

「言ったわね蓮子。ねえ私も手伝うわ箱を下ろすの」

 

 メリーはその辺に立てかけた脚立に手をかけて言う。あまり彼女に肉体労働をさせるのは忍びないのだが。

 

「結構しんどいんだぞメリー、大丈夫なのか?」

 

「囁くのよ、私の瞳がね。それにこれだけ選択肢を削ったんだもの、もう見つかるわ」

 

 メリーは俺の目を見て自信ありげに言うのである。

 

 このまま端から開けて行ったところで埒があかないの疑うべくも無いし

 

 彼女の不思議な瞳と第六感に賭けてみようか。

 

「ならメリー、どれを開ける?」

 

「んー。じゃあこの棚の最上段、端っこにあるアレにしましょう」

 

 メリーが指さしたのは木棚の最上段、梁のギリギリに置かれている箱? であった。風呂敷のような物で覆われているため中身は確認できない。

 

 脚立を移動させて、登る。相変わらず不安定だが仕方ない

 

 天板に足をかけたところでやっと手が届いた。

 

「下で受け止めてくれるかメリー、かなり重いぜ」

 

「わかったわ、まかせて」

 

 白っぽい布で包まれたそれは想像以上に重量があった。腰を痛めかねないので慎重に持ち上げメリーに手渡す。

 

「あー本当に重いわねこれ」

 

 メリーはそれを床に下ろした。俺も脚立を降りる。

 

「取るわよ風呂敷」

 

 蓮子はかかっていた風呂敷の結び目をほどき中身を露わにした。

 

 

 それは黒い革製の巨大なボックスである。横幅は1.5メートル、高さは50センチメートル近くあるだろうか。長方形で人一人くらいは入れそうである。

 

「なかなかそれっぽいな」

 

「ふふ、私の目は間違ってなかったって事ね。ただ、鍵掛かってるのがね……」

 

 黒い箱には大きな南京錠がぶら下がっている。ダイヤルは無く鍵で開けるタイプのようである。

 

「蓮子、鍵は?」

 

「持ってないわよ」

 

「平気な顔で言うなよ、開かないじゃないか」

 

「とりあえず、これで試してみる?」

 

 蓮子は壁に掛けてあった鍵束を取って見せた。十数本の鍵があるが、はたして合う物があるのだろうか。

 

 蓮子から受け取った鍵束を南京錠の鍵穴に挿していく。

 

 小さ過ぎるもの、大きすぎるもの、刺さったはいいが抜けなくなるもの……。と全部の鍵を試したのだが結果は全部ハズレであった。

 

「こうなると、もう壊す以外に開ける手段は無いかな……」

 

 そうこうしているうちに四時前である。古びた蔵の格子窓からかろうじて射しこんでいる日差しも傾き始めたようだ。

 

 よく考えると今は秋なので日が早いのも仕方ない。

 

「いいわ……、壊しちゃいましょう。多分これだと思うし」

 

「本当にいいの? 私が適当に選んだのよ」

 

「メリーの直感を信じるわ。超能力者は引かれ合う。ってね」

 

「なによそれ……」

 

「結局壊すのは俺なんだけどな。そこの工具箱取ってくれるか」

 

 蓮子は足元に転がっていた工具箱をこちらに寄越して言う。

 

「はい、でもどうやって壊すの?」

 

「サンキュー。前に何かで読んだんだけどさ、こうやってスパナを二つ使うんだ」

 

 南京錠のU字状になったつるの間にスパナ二本の先端部を噛ませる。あとはテコの原理の要領で内側へ力を加えれば簡単に破壊できる……らしい。

 

「そんなのどこで読むのよ……。泥棒稼業でも始めるつもりかしら?」

 

「そんなんじゃないさ、ライフハックってやつ、壊すから離れてろよ」

 

 握るスパナに思いっきり力を込めた。

 

 ガキン、と甲高い金属音を響かせて真鍮製の南京錠のつるは砕けた。

 

「わあ、本当に壊れたわ」

 

「便利だろメリー、覚えとくと便利だぜ、さあ開けてみようか」

 

 南京錠の残骸を除き、黒い箱の蓋に手をかける。さて、パンドラの箱を御開帳だ。

 

 蓋を開け放つ

 

 

「本、本ね……」

 

 

 蓮子の言う通り箱を開けて目に飛び込んできたのは”本”である。いや本しか見えないそれもただの本でなく……。

 

 一番上の一冊を手に取ってみる。

 

「エリファスレヴィの”高等魔術の教理と祭儀”だな……」

 

「読んだことあるの?」

 

「ちょっとだけ、でも教理編の冒頭数ページで諦めたよ。そもそも基督教圏の人間向けに書かれた物だから、多神教国家の日本に生まれた俺にはなかなか……」

 

 メリーは俺の持つその本を横から覗きこむ

 

「でも面白そうじゃない、読んでみようかな」

 

「おすすめはしないよ、今から魔術を身に着けようってんなら別だけど、メリーは正真正銘本物の”魔術師”じゃないか」

 

「まーそうなんだけどね」

 

 くるりと件の箱のほうに向きなおる”魔術師メリー”

 

 蓮子は本を取り出してはじっと表紙を見つめたり、パラパラと頁をめくったりしている。

 

 俺もその確認作業を手伝うとしよう。

 

 さて、その箱から出てくるのはどれも”それっぽい”ものである。

 

 魔術、降霊術、錬金術、占星術など、かつてヨーロッパでオカルティズムと称された非理性的な学術書達に加え、都市伝説なんかの書籍も見受けられた。

 

 それに”超能力”に関しての本も……。

 

「超心理学概説、JBラインの著書だ」

 

「近代超心理学の父だっけ、名前だけ知っているわよ」

 

 メリーもまた書籍の山を物色しているようで、目線は変えないまま答えた。

 

「メリーは相対精神学だもんね。そんなオカルトに片足突っ込んだような内容までするなんて初耳だけど」

 

「それも京都の霊的研究の成すところ、だろう。悲しい事にラインの研究は晩年になっても”科学”とは認められなかったそうだ」

 

「でしょうね。結界暴きと同じで認めてしまえばそれこそ均衡が崩れるじゃない。というかどうでもいい事ばっかり詳しいのね」

 

「別に詳しかないって、名前くらいなら娯楽的な嗜好の月刊誌にだって載ってる。俺は対して知らないことを知ったように話すのが得意なんだ」

 

「自慢にならないわよそんなの。それよりも手がかりがこれだけじゃあね……」

 

「そうだな……」

 

 確かに、この本が宇佐見菫子の残したものであることは疑うべくもないだろう。しかし今のところ証明できたと言えるのは彼女が非科学的神秘の世界に深い関心を持ち、熱心に研究していた。それぐらいである。

 

 彼女が真の超能力者だったと断定するにはあまりにも早計な、心もとない根拠しか現時点では揃っていない訳だ。ネクロノミコンでも出てくれば話は別かも知れないが……

 

 もはやこれまでか、と諦めかけたところでメリーが何かを見つけたようだ。

 

「二人ともこれ見て……」

 

 そう言ってメリーがこちらに差し出したのは五枚組のカードだ。

 

「これって確か、E……なんとかよね……」

 

「ESPカードだな。さっき言ってたライン博士が作った、ESPつまり超感覚的知覚の実験に用いた物らしい」

 

 ESPカード、またはゼナーカードとは超心理学者、JBラインによって考案された超感覚の存在を確かめるための実験である。

 

 五種類のカードには丸、十字、波、四角、星の図柄が描かれていて、その図柄を当て統計をとるという簡単な実験である。とはいえやっと出てきたマジックアイテムだ。

 

「ふーん、おあつらえ向きではあるわね。メリー、もしかして何か見えた?」

 

 メリーは小さく頷いた。

 

「ええ、このカードだけ異質なのよ。なんだろう、力場というか歪んで見えるの」

 

「それじゃあ”当たり”ね。さて覗ける? その結界を」

 

 メリーが言うのであれば間違いないだろう最後の最後で当たりを引いた訳だ。尤もあまりにも時間がかかりすぎたためか感動や驚きというより安心に近い心持ちである。

 

 とはいえ本当にESPカードから所有者「宇佐見菫子」の記憶だとかそういった類の情報を引き出せるのであればやぶさかではない

 

「んー試してみるわね……」

 

 メリーはじいっとカードを見つめる。もちろん俺にも蓮子にもただのカードにしか見えない。蓮子はかなり期待しているそぶりだが俺はもう正直満足である。

 

 メリーの目が映したのだから蓮子の大叔母である宇佐見菫子が超能力、それに類する異能を行使できた事はもはや証明できたといえるだろうし……

 

 メリーはしばらくカードを睨んでいたのだが、突如ため息をついて視線をこちらに向ける。何だか申し訳なさそうな眼差しなので何となく結果を察することができた。

 

「ごめんなさい、ダメだったわ……。カードに込められた力が強いからかしら……」

 

「そんな事だと思ったぜ、でもその大叔母さんが何らかの超能力を使えたのは間違いないし、いいじゃないか」

 

 まあ会長がどう言うのかは分からない訳だけど、しかしもう五時も過ぎている。日は沈んでいないようだが外は暗くなり始めているし肌寒い。

 

 蓮子はしばし考え込んでいった。

 

「うん、そうね。私ももう満足よ、二人ともお疲れ様 ありがとう」

 

 なんだかおおよそ蓮子らしからぬ台詞である。彼女の事だからこのまま夜が明けるまで捜索を続けさせようとするものだと思っていたので少し反省した。

 

「蓮子らしくない台詞ねえ、本当にもういいの?」

 

「十分よ、祖母の話してくれた事の裏付けは取れたしね。さてとっとと片付けて慰労会も兼ねて飲みに行きましょう。勿論私の奢りよ!」

 

「っしゃあ飲むかー。ていうか蓮子が単に飲みたくなっただけじゃないのか……っ」

 

 蓮子に横腹を小突かれる、結構これが痛い

 

「あなたにツケてもいいのよ、社会人だし」

 

「悪かったって、さあ片付けよう」

 

 とりあえず積みあがった本を箱へと戻していく。

 

 目的も達成できたし、蔵掃除にもなったので思い残しはない。

 

 秘封倶楽部の活動としては少々地味かも知れないがたまにはこんな回があっても良いだろう。

 

 それに俺もメリーも蓮子の”祖母の言葉の虚実を知りたい”という願いを叶えてやるために埃に塗れた訳なので、当人が、満足ならそれで良い。

 

「蓮子、そのESPカードはどうするんだ?」

 

「持っていくわ、大叔母から祖母へ……そして私が受け継ぐのよこの秘密を」

 

「そうだな、それがいい」

 

 最後の一冊を収納し終え、箱の上から新しい南京錠を掛ける。今度は四桁のダイヤル式だ。

 

 蓮子がパスワードを設定したらしい。

 

 再び不安定な脚立を登り、元あった場所にその”遺品”を収める。

 

 本に挟まっていた物か、何やら紙切れがひらりと手の中に舞い落ちた。

 

 文字が書かれているようだが、暗くてよく見えない。

 

「どうしたのー?」

 

 蓮子が下から呼びかける。

 

「何でもないよ、さあ行こうぜ」

 

 紙切れをポケットに押し込んで脚立を降りた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蔵を出て空を仰ぐ、久しぶりの外気と肌寒さが心地よかった。時刻は午後六時、蔵に籠っている間に随分暗くなってしまったようだ。

 

 空は青のグラデーションに染まっているまさに黄昏時、トワイライトである。

 

 

 

 

 

「ふふ、蓮子はどんな酒場に連れてってくれるのかしら?」

 

 蓮子はフンと鼻を鳴らして答える。

 

「酒場なら京都は東京に敵わないのよ、黄昏の横丁で乾杯ね。倒れないでよ」

 

「今度こそ飲み比べだな」

 

「だから蓮子に合わせて飲んでたら体が持たないんだって……」

 

 

 ぽつぽつ灯り始めた街灯の明かりの下、疲労と乾きを潤すべく、また坂を下る……。東京の酒もきっと美味いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
オリジナル展開という事で苦戦しながら書いておりますゆえ、こんな秘封倶楽部もありかな。と温かい目で読んでくださると本当に助かります。

感想をいただけると嬉しいです。気軽によろしくお願いします。

それではまた。


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第六話 「終わりなき旅を夢見よう」

お待たせいたしました。
東京旅行編の最後の話になります。
UAとお気に入り登録など本当に励みになっています。

それでは


 第六話「終わりなき旅を夢見よう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、まじで吐きそう……」

 

「だらしないわねえ、私はまだまだ飲めるわよ~」

 

「もう勘弁……、負け……負けで良い……」

 

「もう……蓮子に合わせてたら体が持たないって何度も言ったのに……」

 

 ぼんやりとした橙色の街灯が揺れる路地を蓮子に肩を貸され歩いている。

 

 少々意識が混濁しているのは飲みすぎたせいで間違いないだろう。足にも力が入り辛くなっているようだ。

 

 メリーの忠告を真面目に聞いておくんだったな、なんて考えながらここまでの経緯を思い出していた……。

 

 

 

 

 

 宇佐見家の蔵で”遺品捜索”の大義名分を借りた活動を終えた俺たちは慰労会という事で

 

 蓮子に案内されながら坂を下り切り路地を抜けた先の飲み屋街、もとい横丁に繰り出した訳である。

 

 狭い路地裏を抜けた先に広がったのは、まさに異世界と形容しても良いような光景であった。

 

 長く続く細い路地にぶら下がる無数の赤提灯が黒いアスファルトを赤赤と照らしている

 

 暖簾の向こうからは酒気を帯びた話声やら笑い声が絶えまなく聞こえてくるので、飲まぬうちから酔ってしまいそうな程であった。

 

 そもそも横丁と呼ばれるような居酒屋街は戦後の所謂”闇市”に端を発したものだそうで、古くからその土地の文化や人々と結びついてきたものなのだそうだ。

 

 俺たちの住まう京都にも昔は多く点在していたらしいのだが、科学世紀に突入するに伴い消滅の一途を辿ったのだとか……。

 

 もちろん京都にも酒を出す店は多くあるのだけれど、赤提灯をぶら下げた”大衆酒場”と呼べるような店はもう滅多に見受けられなくなってしまった。

 

 だからこそなのか、目の前に広がる横丁の風景は何か懐かしさや憧れに似た感情と、食欲そして飲酒欲を掻き立てる。

 

 旧都のノスタルジーは路地裏にこそ存在しうるのだ。

 

 さて。

 

 やきとり、おでん、などと文字の浮かんだ提灯が並んでいるものだからどの店に入ろうかなんて早急には決められないものである。

 

 迷いに迷って入ったのは一軒の海鮮居酒屋だ。

 

 どうにも天然の魚介料理を味わえる店らしく。

 

「本物が食べられるわよ」

 

 と蓮子がはしゃいでいた。まあ合成食品が主流になった科学世紀の現代っ子だから仕方がない、俺とて数える程も本物の海鮮など口にしたことは無いのだから……。

 

 暖色の照明に彩られた店内は居心地の良さそうな感じである。

 

 数人の客が座っているカウンターの向こうには所狭しと一升瓶が並んでいる。地酒だろうか。

 

 テーブル席に通された俺たちはとりあえず生ビールで乾杯し、刺身盛りに江戸前寿司と本物の海鮮料理と地酒を堪能した訳である。

 

 

 さて、海鮮は美味かったがまだまだ飲み足りないと蓮子が言うので

 

 二軒目に選んだのは焼き鳥屋だ。

 

 まだこの時は酒も大して回っていなかったし、何より蓮子と飲み比べという事で、ビール、ハイボール、チューハイと安い酒をこれまたリーズナブルな合成の鶏肉を使った焼き鳥を肴に浴びるように飲んだ……。

 

 さてもう満足と、かなり酒も回ってきたところで、そろそろ帰るかと提案したのだ。メリーも概ね賛同……。

 

 

 というところであの会長は

 

「飲み足りないから三軒目行きましょう」

 

 などと言いだしたのである。メリーは止めたのだが、俺もくだらない意地を発揮して千鳥足で三軒目に向かった……。

 

 

 

 

 

 

 

 という所で一旦記憶は途切れてしまっている。”酒は飲んでも飲まれるな”を信条としてきた俺が初めて酒に飲まれた瞬間だ。

 

「女の子の肩借りるなんて情けないわね、この先にコンビニあるから水でも買いなさいあと酔い止め」

 

「で、蓮子はまたお酒買うんでしょ……」

 

「当たり前じゃないメリー、一緒に飲む?」

 

「飲むわけないでしょ……」

 

 メリーは終始マイペースに飲んでいたように思う。彼女の言い草から考えるに蓮子に付き合って俺と同じような末路を辿った事があったのかもしれない。

 

 にしても俺はハイペースが過ぎたので反省している。

 

 秋の夜風の冷たさに朦朧とした意識も引き戻されてきた。

 

 いつまでも肩を借りているのは確かに情けないので、そろそろ自分で歩く事にする。

 

「もう大丈夫だ、ありがとう」

 

「あらそう、別に無理しなくていいのよ」

 

「頭冷えて来たし平気だ、すまないな」

 

「別にいいわよ、楽しかったからね私も……こんなに羽目外して飲んだのは久しぶりだしたまには馬鹿になるのもいいわねえ、あははは」

 

「確かにこんな時くらいしか羽目外せねえのは間違いないけど、元から馬鹿なのが馬鹿になろうとすると……こうなるんだぜ」

 

「自分で言ってれば世話ないわよ、お酒でも頭脳でも私には敵わないから諦めなさい」

 

「それは認めるけど、いつだって自分が優秀な人間な前提で話すのは感じ悪いぞ」

 

「そうじゃないと秘封倶楽部の代表は務まらないもの、何を今更、ね」

 

「ごもっとも、あー頭いてえ……」

 

「ご機嫌はいいけど二人ともバカみたいに飲みすぎよ、若いうちから肝臓壊しても知らないんだから……」

 

 蓮子は気持ちよく酔いが回っているようでご機嫌である。まだ飲むというのだから驚きというか最早敬服さえ感じる酒豪っぷりだ。

 

 まあそんな彼女もいつかは限界を知るだろうしその時は笑ってやろう。そんなことよりもメリーの言葉が耳に痛い帰り道だ。

 

 

 そんな話をしているうちにコンビニにはすぐ到着した。

 

 蓮子は酒を物色しているようだったが放っておくことにしてさっさと水と薬を買って外に出る

 

 

 もう九時半か。秋の夜更けは冷えて仕方がない。酒が抜けてきたからか余計にそれを感じてしまう。

 

 冷たい水を喉に流し込むと身震いがした。これならコートでも着こんでくるべきだったかもしれない。

 

 自動ドアが開いた。出てきたのはメリーだけである。蓮子はツマミでも選んでいるのだろう。もうしばらく待ちそうだ。

 

「蓮子は?」

 

「まだ物色中よ~、ていうか本当に大丈夫なの?」

 

「ああ薬も飲んだし大丈夫だって、ちょっと頭は痛いけどな……」

 

「それ大丈夫って言わないわよ……」

 

「はは、まあな。帰ったら即行で寝ることにしよう。心配してくれてありがとうな」

 

「ふふ、余りにも辛そうだったからね。それに蓮子と飲む恐ろしさは私が一番知ってるもの」

 

「恥ずかしいとこ見せてしまったな……。次は自重するぜ。その言い草だと俺みたいな目にあったのかな?」

 

「まあね……。でも吐いたり道路脇で寝たりはしてないわよ」

 

「思ってないって、でも苦労するよなあ、俺よかよっぽど振り回されてるだろうし」

 

「んー、でも慣れちゃったから。それに結局面白いじゃない」

 

「そうだな……。あ、出てきたぞ」

 

 蓮子はやっと買い物を済ませたようである

 彼女が手に下げるビニール袋にはロングサイズの発泡酒三本ほど、とツマミ類がぎっしり詰まっている。

 

「蓮子も来たことだし、帰りましょうか」

 

「またあの坂登んのか……」

 

「荷物がない分楽じゃない、早くお風呂入って晩酌したいわー」

 

「そうかい、俺はとりあえず寝る」

 

「情けないわねえ、ほんと」

 

 また街灯の照らす道を歩く

 

 宇佐見家に続く坂は相変わらずの急勾配だが登らないことには帰れないので堪える事にしようか……。坂の向こうの夜空を見上げる。

 

 見えないこともない星が東京の夜空に輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 携帯のアラーム音に目が覚める。

 

 まだ暗いようなので勿論朝ではない、飲みから帰った俺は二時間後にアラームを設定したかと思えば、そのまま爆睡していたようだ。

 

 枕元に転がったペットボトルの水を手繰り寄せ、飲み干す、ぬるいが少しは目が覚めた。まだ頭痛は残るが……。

 

 ふすま越しに隣の部屋に明かりが付いていることがわかるので二人は起きているのだろう。何をしているかは知らないが、とりあえず縁側にでて煙草でも吸おうか。

 

 重い腰を上げふすまをがらりと開いて外に出る。

 

 月が出ているようで縁側から見える庭は青白くぼんやりと光っていた。

 

 縁側に腰を下ろす、すぐ目の前が庭なので一服しても問題ないだろう。さすがに部屋で煙撒くのは憚られる。

 

 取り出した一本を咥え、火を着ける。が、少々火の着きが悪いのはオイル切れのせいだろうか

 

 電子ライターなら滅多に無いことだが、オイルライターを愛用する以上仕方がない。

 

 やっと着いたタバコを一ふかし……。見あげると見事な満月が浮かんでいる。なるほど星も霞む訳だ……中秋の名月と呼ぶには少々時季外れではあるが、美しいと思った。

 

 一服しつつ、ぼんやりと今日の一日を振り返る。ヒロシゲの富士と海、大草原の環状遺跡、古蔵に眠る超能力少女の記憶そして赤提灯の酒場もすでに記憶の中の景色になってしまった。今更ながら時間の経過は早いものである。

 

「そういえば忘れていたな」

 

 ポケットに手をやると、あった。

 

 宇佐見菫子の遺品を片付けていた時にひらりと落ちてきた紙切れである。確か何か文字が書いてあったような……。

 

 開いて見る。この月明りの下なら読めるだろう。

 

「is Bisque Doll……」

 

 ビスクドール、陶磁器の人形がどうしたというのか。isの前が破れてしまっているのでわからないが誰とかどことかいつとかが書かれていたのだろう。

 

 恐らく本に挟まっていたものなので、本の内容に関した栞かメモのような物だったのかもしれない。

 

 尤も残された本の隅々までを読破した訳ではないので断定はできない訳だが……。

 

 そういえばこれも一応遺品になるので蓮子に返しておくべきか……。とぼおっと煙草を咥えていたのだが、長らく呆けすぎたようで火はフィルターを焦がしている。

 

「熱っ……」

 

 すぐに携帯灰皿に押し込み事なきを得たが唇を火傷する所である。

 

 

 

 

 ガラガラとふすまを開ける音がした。

 

「何してるのー?」

 

「蓮子か、見ての通り一服してたとこ」

 

「どうりでなんだか煙草臭いわけね、あら……月明りが眩しいわ」

 

 蓮子は俺と同じように縁に座る。片手には缶チューハイを携えて、だ。

 

「お前は酒臭いな。メリーは?」

 

「失礼ね。メリーは読書中よ」

 

「そうか。あ、ビスクドールって何だと思う?」

 

「陶磁器の人形、いきなり何?」

 

「まあそうなんだけど、これ蔵にあった本から落ちたんだ」

 

 蓮子に紙切れを渡す。缶を大きく傾けながら片手間に受け取った。

 

「うーん、確かに書いてあるわね。何かのメモ書きじゃないの」

 

「普通の感想だなあ、俺もそう思ったけどさ……。とりあえず返しとくわ……それ」

 

「悪かったわね……。いつもの宇佐見蓮子でも同じ事言うはずよ、別に持っててもいいのに」

 

「なんだ、いつも通りじゃないのか? ていうか紙切れとはいえ遺品だろう」

 

「お酒入って上機嫌の宇佐見蓮子よ。でも紙切れだからねえ」

 

「まあ蓮子の好きにすればいいよ」

 

 夜空の月は静かな庭と縁側とを天頂から照らしている。

 

 軒下の月影の下、宇佐見蓮子は夜空を見上げて呟く

 

「0時ジャスト! 明日になったわ」

 

「もう今日だけどな、んでさっきまでの今日が昨日になった訳だ」

 

「どうでもいいわ。それより……面白かったでしょ、東京」

 

「ああ、楽しかったよ。ビルの向こうの大草原も、超能力者の遺品探しも、記憶飛ぶまで飲んだのも初めてだったからなあ……。まだ頭痛いし……」

 

「走馬灯みたいな言い草ね。頭痛は自業自得……吸わないの?」

 

「総まとめと言ってくれ……。気を遣ってやってたんだがな。いいなら吸うけど」

 

「どうぞ、私は飲む」

 

 少し距離を空け、点火して、吐き出した。

 冷たい風が塀の向こうへ紫煙を運んでいく。

 

 穏やかな時間である。

 

 しばらくの間、何か言うわけでもないままに、そんな時間は流れていた。

 

 

 

 

 灰も落ち切った頃、そんな静寂を終わらせたのはガラガラとまたふすまを開く音である。

 

「さっきから二人とも何話してるの~?」

 

 メリーはひょいと顔を覗かせる。

 

「うーん、ビスクドールの話?」

 

「なんでいきなり人形なのよ……。そーいえば私の実家にもあった気がするわ、人形」

 

「どんなの? あとメリーの実家てどこだったかしら?」

 

「西欧よ。片目が外れた姿が最後の記憶かしら……。驚くことに幼い日の私はそれで遊んでいたそうよ」

 

「うわあ……メリーらしい話ね」

 

 メリーもまた蓮子を挟んで向こう側の縁に腰を下ろす。月明りの縁側に三人の影が並ぶ

 

「そういう蓮子の家だって髪の伸びる日本人形とかありそうじゃない」

 

「おいおい……何か怪談じみて来たなあ、嫌いじゃないけど季節外れじゃないか……」

 

「それもそうねー。怪談なんてしなくても十分涼しいもの……。それより大丈夫なの? 帰ってすぐ寝ちゃったから心配だったの」

 

「ありがとうメリー、二時間も寝たんでほぼ全快だ。ずっと読書かい?」

 

「あはは、あなたが爆睡してる間に私も蓮子もお風呂済ませちゃったわよ。それから私

 は読書、蓮子は見ての通りね」

 

「見ての通りだな、さて……俺も風呂行こうかな……」

 

 俺がそう言って立ち上がろうとすると蓮子は何か思い出したように、神妙な面持ちで声を上げた。

 

「そうだ、忘れてたわ」

 

「「なにが?」」

 

 図らずも俺とメリーの言葉は重なる。蓮子は続けた。

 

「あれからずっと考えてたのよねえ、持っていくとは言ったけど。”これ”をどうするか……」

 

 蓮子が無造作にポケットから取り出し、少し西向きに傾き始めた月光に翳したのは五枚組のカード。

 

 宇佐見菫子のESPカードである

 

「どうするって、お前が受け継いだものなんだから大事に持っていればいい」

 

「ふふん、それは辞めよ。はい」

 

 蓮子はそう言って一枚のカードを俺に、そしてまた一枚メリーに渡した。

 

「本物の超能力が込められたESPカード、この世に二つと無い魔法道具よ。それをね、私達秘封倶楽部の会員証にしようと思うの」

 

 また突拍子も無い事を言い出したので唖然としてしまう。我らが会長宇佐見蓮子は仲間の証だとか結束だとかに執着するような性格だっただろうか。

 

 酒が入っているせいかもしれないな。と思う。

 

 メリーもやはり俺と同じ感想を持ったのか笑っている。

 

「あはは、あなたらしくないわね蓮子、酔ってるの?」

 

「何よメリー、どうせ持ってたってマジックアイテムの無駄遣いじゃない。それに異能オカルトサークルの証には持ってこいでしょう」

 

 蓮子はまた缶を大きく傾け、一息ついてしたり顔である。

 

 もう少し異論を呈したい気持ちもあったが何だか意味不明が過ぎて、むしろ説得力があるので俺も納得してしまった。

 

「無能の俺にもくれるんだな、柄は十字か」

 

「あなたはついでよ」

 

 また酷い言い草である。

 

「私のは……波かな? やっぱり歪んで見えるわねえ。というかどういうセレクトなの?」

 

「二人のは適当、ちなみに私は”星”ね。無くさないよーに」

 

「はいはいわかったわ蓮子、持ち歩くのは気が引けるけど」

 

 まあ確かに遺品だし、メリーの目からすれば異質に見えるのだから仕方ないか。

 

 俺には何も見えないが、この一枚に神秘が封じられていると思うと感慨深い物がある。

 

「ご利益ありそうだし財布にでもいれとくかな。それなら無くさないだろう」

 

「勝手になさい、私はもう十分飲んだから寝るわ。起きたら東京案内だしね」

 

 自分から話を初めた癖に全くもって雑な終わらせ方である。まあそのくらいの方がこっちも気楽だし助かるか……。

 

「私もそうしようかしら。楽しみね~蓮子の東京ツアー」

 

「そうだな。しゃあ今度こそ風呂入るか」

 

「もうシャワーしかないけどね。おやすみ」

 

「おやすみなさい。また明日」

 

「別にシャワーで構わないぜ。おやすみ」

 

 そう言うと二人は部屋に戻っていった。

 

 俺も汗を流してさっさと寝る事にしよう。

 

 

 

 レトロスペクティブな東京旅行はまだ終わっていないのだから…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「楽しかったわね東京、お土産もたくさん買ってしまったわ」

 

 駅のホーム、その喧噪の中で金髪の少女メリーは言った。両手には大きな土産物の袋をぶら下げている。彼女の両手が塞がっているのは、もちろん俺が重たいトランクを持っているからだ。

 

 朝から頭痛を訴えながらも東京案内を成し終えた蓮子はさすがに疲れたのかベンチに座って休憩中である。

 

 昼過ぎの卯東京駅は少し混んでいるようだが、行きかう人々も俺たちと同じように東京を観光して帰る所か、出張の通勤客もいるのかもしれない。何にせよもう少しで俺の週末旅行も終わりである。

 

 ヒロシゲが着くまでのしばしの間、急ぎ足な東京ツアーでも思い返しながらのんびり待つとする。

 

 

 

 

 蓮子の母に見送られ宇佐見家を後にした俺たちは、再び路面電車に乗って東京の街へ繰り出した訳である。

 

 蓮子に導かれるままに向かったのは東京観光の大定番「浅草」である。

 

 浅草寺は表参道の入り口側、通称「雷門」で有名な風雷神門を抜けた仲見世通りの商店街は午前中から多くの観光客で溢れていた。

 

 商店街の土産屋や食べ物に目を魅かれつつも、とりあえず参拝と本堂に向かった。

 

 常香炉の煙を浴びて参拝、が終われば踵を返して商店街へ戻る。

 

 仲見世もそうだが浅草周辺には屋台というかテイクアウトの飲食店が多く集まっている

 

 昨夜飲みすぎて頭が痛いと言っていた癖に缶ビール片手に買い食いを楽しんでいる蓮子によると、東京ではその昔、食のテーマパークが流行った時代があったそうだ。全国各地の所謂”ご当地グルメ”を集めただけの何とも単純なテーマパークだが東京の人間には思いのほかウケたらしい。

 

 首都であったころの東京には日本中、いや世界中から美食が集まっていたのかもしれない……。そんな事を考えながらその名残を感じさせる屋台を回るのも乙だろう。

 

 そんなこんなで蓮子の蘊蓄披露もありながらの東京観光。

 

 そんな調子で新宿、渋谷と東京の名所を新幹線の時間に追われながら回った。バタバタして疲れたがやはり新鮮で刺激に尽きないそんな午前中であった……。

 

 

 

 

 アナウンスに意識を引き戻される。

 

 もうすぐ帰りの新幹線が到着するそうなのでベンチでぐったりの蓮子に声を掛ける。

 

「もう着くってさ、行こうぜ」

 

「言われなくても聞こえてるわよ。あー疲れた」

 

 そう言って蓮子は渋々立ち上がる。

 

 

 ホームドアの前で蓮子、メリー、そして俺が並んでいる。何だか懐かしい光景だ。尤も昨日見たばっかりな訳だけれど。

 

 違うと言えば反対方向が閑散としていることぐらいか、まだ昼過ぎとはいえ京都行にはそこそこの人数が並んでいる。

 

「やっぱり混みそうねえ、憂鬱」

 

「行きでも同じような事言ってたでしょメリー」

 

「帰りは混みそうって言ってたな。当たってるじゃないか」

 

 チャイムが鳴った

 

 ”卯酉新幹線をご利用頂き、ありがとうございます。間もなく十二番線に十三時三十分発、ヒロシゲ36号が到着いたします”

 

 トンネルの向こうから白い車両が姿を現す

 

 さて旅もついぞや終焉である。

 

 

 

 ホームドアをくぐれば、懐かしきカレイドスクリーンが一面に広がる車内。

 

 車両の端、接合部その横の座席、座り終えたところでアナウンスが響き、車両は動き始める。

 

「カレイドスクリーンの海が懐かしいわねえ」

 

「昨日なんだけどもっと昔の事のような気がするわ……」

 

「53分もすれば懐かしの京都よ、さあ私は寝ようかしらね」

 

 蓮子は座席を倒し、居眠りの準備は万端なようだ。かくいう俺も何だか疲れてしまったので少し眠るとしよう。

 

「俺もそうするか……。東京案内お疲れ、蓮子」

 

「はいはい、荷物持ちお疲れ様。寝るからもう話しかけないでね」

 

 そう言って秘封倶楽部の会長は目を閉じた

 

「ごめんなメリー、着いても寝てたら起こしてくれ」

 

「わかったわよ……。はあ、暇ねえ」

 

 カレイドスクリーンの暖かい日差しの中、心地よい微睡みを感じて 目を閉じる。

 

 瞼の裏にはその光の熱感を伴って一日と少しの旅の情景が浮かんでいた。これじゃあ本当に走馬灯みたいだ、なんて寝落ちかけの意識で嗤う。

 

 

 そして、こんな旅が永遠に続けば……

 

 そんな夢を見た。

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
次は大空魔術を題材に書いていくつもりです。
感想などいただけると助かります。

それではまた。


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第七話 「空の魔法とカフェテラス」

お久しぶりです。
今回は大空魔術を題材に書いてみました。
一般人でも月面旅行行ける世界なんて憧れますよね、そんな思いで書きました。
次の話も含めて大空魔術です。

それでは


 第七話「空の魔法とカフェテラス」

 

 

 

 

 

 

「憂鬱だなあ……」

 

 声が漏れてしまう

 

 秋も終わりかけようかという季節

 

 雲一つ無い晴れた青空も、左側を流れる清流も何だか目に入らないような心持ちで……

 

 京都は鴨川、その沿道で旧車を転がしているのは、また蓮子に呼び出されからである。それもいつもの喫茶店では無く、いつかメリーの話していた大学構内のカフェテラスへ、である。

 

 聞く話だとメイドロボットが給仕をしているとかで学生の間で流行っているのだとか。

 

 社会人の俺には関係ないし、大学生でごった返す所でなんてくつろげないとは思うが、呼ばれたのだから仕方あるまい。にしても憂鬱は憂鬱だ。つい言葉に出る程に……。

 

 

 

 

 ぼやきながら車を走らせていると、どうも右前方に人だかりが見える。

 

 あの辺は確か私営地下鉄の入り口だったのではないか……。急げとも何とも言われてはいないので、その人だかりの正体を確かめてやろうではないか。

 

 そう決めた訳なので、路肩に車を停めた。あまり長い間停めてもいられないので早い事済ませてしまうことにしよう。

 

 

 

 

 ドアを閉め、私鉄前の人だかりに足を向けた。

 

 駅前に立つ多くの人々は何やら新聞紙を片手に眺めているようである。

 

 何のことは無い、どうやら”号外”が出たようだ。

 

 まあそれ自体はよくある事なのだが余裕無さげで足取りの重い人々の行きかう私鉄前で号外など配っても、ちらりと見てすぐその辺に捨てられるのが関の山なのだ。

 

 なんせ号外といえばスポーツニュース、俺はスポーツなんぞには一切の興味がないし、貰ったって棄てるはずである。

 

 ゆえに異質なのは、女も男も多くの人間が立ち止まってその紙面を眺めていることである。

 

 俺もその号外の内容に俄然興味が湧いた。

 

 号外を配っているのは、あの青いジャンパーを着た女性だろう。どこの新聞社だか忘れたが。

 

 さて、一つくれなど言わずとも。さりげなく横を通れば差し出してくれる物である。もちろんタダだ。

 

 早速、そうやって入手した件の号外の紙面に目を通してみることにしようか……。

 

 

 

 

 見出しにはでかでかとこう書かれていた。

 

 ”人類の夢の一つ、月面旅行が一般人にも可能に! ”

 

 ”来月には日本の旅行会社からもツアー開始”

 

「なるほどなあ」

 

 どおりで足を止めたくなる訳である。一般向けに月旅行……

 

 とくれば心の荒んだサラリーマンも童心に帰り、足を止めたくもなるはずだ。少々自虐的な例えではあるけれど……。

 

 思うに宇宙に夢を抱かない人間などいないのではないかと思う……。それに……

 

 続きは蓮子達に話すとして早く車を動かそうか、俺に限ってはいつまでも”停まって”はいられない。

 

 一つ楽しみが出来たので、路肩でハザードを焚いた価値もあったのかもしれない。

 

 小走りに、停めてある愛車に乗り込みアクセルを踏む、後続車からの視線は見ぬふりをしておこう。

 

 どうやら俺も、号外のもたらした思いがけない宇宙のロマンに少し興奮気味みたいだ。

 

 憂鬱は駅前に置き去りにしてさらに強くアクセルを踏み込む。

 

 車通りもそれほど多くない京阪本線は俺にとってのハイウェイだ。

 

 大学のカフェテラスがなんぼのもんだと意気込んでスピードを上げた。

 

 

 

 

 

 とは……言ったものの、実際に彼女達の通う大学の構内に踏み込んでみるとやはり気後れするものである。

 

 狭苦しい駐車場に車を停め大学の敷地内へと向かっている訳だが、どうしようもなく足取りが重くなる。

 

 物々しい煉瓦造りの門を抜ける。その劣化具合から見て相当昔に造られた物なのだろう

 

 彼女達の通う大学、その敷地は随分広いようである。京都は左京区、御所を越えた辺りの鴨川デルタを東山方面に右折してずっと進めば山にぶち当たる。その山間を丸ごと占有してこの大学は存在しているのである。

 

 随分と古くから京都にある所謂”名門”なのだそうだが、俺は興味が無いので名前も知らなかった。

 

 どうやらキャンパスは最近になって建て直されたらしいのだが、それがまたよくわからない海外の有名建築士が手掛けたとかで、その外観が少々話題になったそうだ。

 

 さてどこのキャンパスにもありがちな正面の並木道を進む。赤色も抜けかけてもはや葉が落ちそうではあるが季節も季節なので仕方がない。

 

 休日とはいえ先ほどから学生の集団とすれ違っている。名門とはいっても猿か何かのように群がった非常に煩い輩も居れば、いかにも勉強しか能の無さそうな湿気た面の根暗眼鏡も……

 

 などなど挙げだしたらキリが無いほど多様な学生生活を送っているであろう人間の群れが横を通り過ぎていく。

 

 しかしながら俺は基本的に大学生という人種が嫌いである。まあコンプレックスだ。と言われればそれまでなのだけれど。

 

 グチグチと頭の中で呟きながら歩いていると、ケヤキ並木を抜けてしまったようである

 

 枝葉に隠されていた、建物の正面に立つ。

 

「気持ち悪い建物だな……」

 

 第一印象はこうである。気持ち悪いとは言っても別に前衛的なデザインな訳でもない。

 

 山に埋まった巨大な積木、とでも表現すればいいのだろうか。恐らく円形に造られた二つの建物が上と下、前と後ろというように”ずれた”状態で山の傾斜を利用して作られている。

 

 上と下、二つの建物は横真っ二つに切られた円柱としか形容できないが、山でなければ実現しないだろうとは思う。

 

 蓮子やメリーから聞いた話によると下側の円柱は「図書館」だったか。黄褐色の外壁には小さな窓が無数点在している。何となく薄暗い図書館をイメージしてしまうが、入ってみない事にはわからないだろう。

 

 建物の両サイドからは芝生の植えられたスロープ、もとい大階段のような物が建物の曲線に沿って図書館上部へと伸びている。

 

 それを登り切れば次は上の円柱である。

 

 上の方は下の辛気臭い図書館と違って全面ガラス張りで開放的だ。

 

 下の円柱の上面部分が、これまた芝生の庭になっているようなので余計にそう感じるのかもしれない。

 

 全面に張られたガラスが秋の日差しを鏡面反射して眩しい。

 

 俺が向かうべくは上の円柱の上面、屋上部分にオープンしたのだという”カフェテラス”である。

 

 二週間前に東京へ行った際にメリーが言い出して蓮子が採用してしまった訳だが。

 

 かくして俺はいつもの純喫茶を追われ、この気持ち悪い建物の最上部へと向かう訳である。いまだに憂鬱は消えないが、メリーの提案だし聞いてやりたい。それに今日の号外について語りたい思いも強いのである。

 

「どう行ったものかな……」

 

 カフェテラスを目指すなら、左右の大階段か図書館の奥から上へ伸びるエレベーターの二択である。

 

 さて、どうしようか。

 

 曲線的な大階段、芝生を横目に登るのも悪くはないかもしれない、人工の芝生は冷えて乾燥したこの季節でも日光を受けて青々とした様子だ。尤も人工な訳だけど……。

 

 けれどもう坂を登るのは御免だし、とっとと目的地にたどり着きたい、というわけで

 

 図書館を真正面から突っ切りエレベーターでカフェテラスを目指すとしよう。

 

 重たい脚を踏ん張って、黄褐色の

 

 図書館の入り口には三つほどの自動ドアがあり、風除室を挟んで図書館。というような感じである。

 

 

 

 

 ドアを通った先、目前に広がる当大学の

 

 ”大図書館” その光景は建物の外観よりもよっぽど気持ち悪く思えた。

 

 まず目に映るのは聳え立つ本棚の壁、である。この図書館内は天井や壁や地面に点在する暖色のLEDで照らされており読書をするには十分な光量が行き渡っているようだ。

 

 建物の円形に沿って、天井付近まで聳え立つ本棚は、まるで玉葱のように一定の間隔で内から外へと続いている。

 

 その何層にも及ぶ本棚には数十台のアームロボットが配置され、レールのその上を滑走しながらこの数万では済まないであろう書籍の山を管理しているのだろう。

 

 その本の壁の間を立体的に通路が縫っているのでまるで迷宮か何かのようである。

 

 ヘレニズム時代の伝説、アレクサンドリア大図書館を想起させるようなその光景と蔵書の数々に関心が湧かない訳ではないが、ここはエジプトではないし紀元前ならぬ科学世紀の真っ只中だ。残念だが立ち止まれないので早足に通り過ぎる事にする。

 

 入り口から真っ直ぐ突き進み、本の迷宮を越えた所にエレベーターホールはあった。

 

 三機並んだエレベーターはスケルトン方式になっており、登るにも降りるにも丸見えである。やはり気持ちが悪い。

 

 ドアが開いた。二人の女学生が降りてくる

 

 誰か乗ってくるのも嫌なので早急にドアを閉めた。

 

 屋上へ向かうべく”R”を押す。

 

 控え目なモーター音を立てながらガラス張りのカプセルが上昇を始めた。

 

 さきほど上に見あげた通路には椅子や机などが設置されていて、利用する学生はそこで読書に興じているようである。

 

 大本棚の描く同心円、間を縫う通路の直線、それらの交錯する様は人から言わせればオシャレだとかアーティスティックなのかもしれないが、エレベーターの上昇も相まって酔ってしまいそうだ。

 

 一瞬視界が暗闇に変わる。二つの円柱の間にいるのだろう。

 

 そして明転、広がったのはさっきまでとは打って変わって開放的なガラス張りの建物内である。透明な外壁の向こうには緑の庭園が見える。中心には噴水があるようで噴き上げる水流が日を反射してキラキラと光る。

 

 図書館の頭の上にあれがあるわけだ。ガラス柱の中は、公共スペースというか会議室、カフェなど学生のコミュニケーションの場なのだろうか。多くの人で賑わっている。

 

 エレベーターが停止する。

 

 屋上に到着したようだ。空が青い……。

 

 

 

 

 木製のチェア、木製の丸テーブル、その中心には緑のパラソルが刺さっている、それがエレベーターからの入り口を除いて円状にずらりと並んでいるようで景色は良さそうである。

 

 流行っているというのも本当のようで、パラソルの木陰の下にひしめき合う学生のガヤガヤとした話声は幼き日に湿った地面の石の裏を覗き見た体験を思い起こさせるある種の郷愁のようである。

 

 これだけ人がいると二人を見つけるのも困難なので蓮子に電話してみることにする。

 

「もしもし、屋上まで来たんだけどどこにいるんだ?」

 

「来たのね、おはよう。入り口のとこで待ってて……行くから」

 

「ああ、ありがとう。メリーは?」

 

「いるわよ、そんなに気になる?」

 

「そういう訳じゃないよ、本当に混んでるな」

 

「流行ってるからね、もう着くわ」

 

「ああ、うん」

 

 カフェの入り口辺りで突っ立っている俺の前に彼女、宇佐見菫子は現れた。いつものように黒い中折れ帽に白のリボンを巻いて、今日は寒いからか黒いマントを羽織っている。

 

「さあ、こっちよ」

 

「おい、引っ張るなって」

 

 蓮子は俺のコートの袖を引っ張って席まで連れていくつもりのようである。非常に強引だし他の客の視線も気になる所だがもう面倒くさいので好きにすればいい、ここまで来るだけで疲れてしまった。

 

「メリー、連れて来たわよ。辛気臭い顔して突っ立ってた」

 

「想像付くわね、ほら座って」

 

 緑のパラソルの作る影の下、金髪の少女マエリベリー・ハーンはいた。その向こうにはガラスの壁があり、京都の街並みが山越しに見える。たしかに絵にはなるか

 

「酷いなあ、それに何て混みようだ……大学生は好きじゃない」

 

「あら、悲しいわね」

 

 メリーは冗談めかして笑う。

 

「ま、嫌いならわざわざ来ないけどな。それはそうと今日の号外読んだか?」

 

 とりあえず椅子に腰を落ち着けた俺はコートのポケットで丸まった号外の紙面を二人に見せる。二人は何やら笑っているようだ。

 

「ん、どうした?」

 

「ふふ、それについて話してたとこなのよ、まさかあなたも持ってくるなんてね」

 

「車で来たくせにわざわざ駅前で降りて貰ったんでしょその号外、馬鹿ねえ……」

 

「お見通し、か。皆足止めて読んでるんで何かと思ってな」

 

 なるほど、彼女達も俺が来る前から今日の号外の内容”月旅行の一般化”について話していたという訳か。まあ彼女達も私鉄は利用するわけで何らおかしな話ではないのだが、特に蓮子に関しては月旅行何かに憧れるような性格とは認識していなかったのである。

 

「にしても意外だなあ蓮子、お前は虚無主義者だと思ってたから」

 

「誰が虚無主義よ失礼ね。宇宙に関心を抱かない人間なんていないでしょう。いや、いたなら人間じゃないわね」

 

「怒るなよ。俺もそれには同感、今日だってこれ読んで年甲斐もなく興奮したんだぜ。何か癒されるよな、宇宙って」

 

「まあいいわ。そうね、どんな困難に直面しても星を見上げれば自分のちっぽけさを……なんて言うくらいだし。私は科学の徒だからそういう安直な感想は言いたくないのだけど」

 

「そんな目を持っていたら余計よね、蓮子には世界の仕組みが見えちゃうんでしょ」

 

「大げさだってば、メリー」

 

「頭が上がらないなあ。俺は馬鹿で幻想主義者だから地球が宇宙の中心にあろうと何ら問題ないぜ」

 

「はあ、何千年前に生きてるんだか。幻想主義者が聞いて呆れるわね、いいとこただのロマンチストじゃない」

 

「否定はしないけどな、やっぱしそろそろ虚無主義が顔を出し始めてるぜ蓮子、ロマンを否定すれば文明の進歩は打ち止めだ。尤も俺は構わないけどな」

 

 と白熱しかけた所でメリーが言った。

 

「二人ともとりあえずその辺にしてそろそろ注文しましょ、ここのケーキ美味しいらしいわよ」

 

「まあ虚無に属する人間が暗闇に手を伸ばす事がロマンチシズムだよな」

 

「ん、まあそのロマンを忘れないための宇宙談義だもんね……」

 

 

 この前ヒロシゲで話していたように、備え付けのタブレットで注文すればロボットが運んで来てくれる方式になっているようだ。もちろん調理は人間の仕事かもしれないけど。

 

「そうね、私はコーヒーとケーキセットにしようかしら」

 

「私もそうしようかな、何種類かの味のケーキが楽しめるみたいね」

 

 なるほど、そのケーキセットは小さいケーキが数種類盛り付けてあるタイプのようだ。ハニートーストが無かったので俺はコーヒーとチーズケーキを注文することにしよう。

 

「はい、注文完了」

 

 メリーはそう言った。じきにあのR2D2みたいなのが運んで来てくれるのだろう。

 

「じゃあ月旅行の話に戻りましょうよ。どこまで話してたっけ」

 

 蓮子は少し考え込んだが、思い出したようである。

 

「ああ確か”なお、今回もまた有人火星探査は見送られた”のとこね」

 

「そうだったわね、月旅行関係ないけど。私は火星に行きたいとは思わないなあ」

 

「そんな事書いてあったっけか、有人探査もできないなら移住なんて夢のまた夢だよな」

 

 占星術においては悪の性格、凶兆を示す星とされた火星。皮肉なことに宇宙に進出を始めた人類はそんな凶星にフロンティアの夢を託したがったのである。しかし、科学世紀の現代でもそれは実現しそうにない……。

 

 月に行く方が早いし、一般に需要のありそうな分、パトロンやスポンサーも付きやすいのだろう。尤も火星旅行が実現したところで行ってみたいとは微塵も思わない訳だけど

 

「そうそう火星なんてどうでもいいのよ、大事なのは月旅行!」

 

「蓮子が月に立ったらどう見えるのかしらねえ……。月に行ったらまずそれを確かめたいわ」

 

 蓮子には月から自分の相対位置を、星から時間を読み取れる能力があるらしく、いつも夜空を見上げてはぼそぼそと時間を呟いている。

 

「そうね、ここは月面です。ってわかるんじゃないかしら」

 

「蓮子の目ってそんな大雑把なのか? ここは月面の神酒の海です。くらいまでわからないと使い物にならないじゃないか」

 

「例えよ例え、それに海って言ったって玄武岩の平原でしょ」

 

「まあ、望遠鏡や衛星から見える月ならそうだろう。月にはな荒涼とした無生物の星と煌びやかな”月の都”とを隔てる結界がある、らしい……」

 

 確か……。そうだった。そう聞いたはずだ。

 

「らしいって何よ、それも聞いた話?」

 

「まあ……な。月に思いを馳せたがるのは人間だけじゃないって事さ」

 

「はぐらかすわねえ、そこまで言ったなら話せばいいじゃない」

 

「話した所で、だろ。人の夢の話なんて真面目に聞きたがるものじゃないさ」

 

「でも夢じゃないんでしょう。だったら聞くに値すると思うけど、メリーの話と符合するとこもあるし」

 

「うん……まあ気になるとこではあるんだけどな、それも。月面旅行の話題が尽きたら話そうかな」

 

「残念だわ、私も聞きたかったのに月の都の話。あ、来たわよ」

 

 例の配膳ロボットが到着したようだ。見た目はやはりR2D2のような見た目のそれの口が開き、ソーサーと湯気を立てたカップ、ケーキの盛られた皿が出てくる。それを自分の手で持ってくる、という訳だ。

 

 そんなことはさておき、蓮子の言った話は確かに俺も引っかかってはいた……。メリーが夢で迷いこむ世界、俺が生死の境界で迷い込んだ世界、話を聞けば聞くほど同一の物に思えてならないのだが。そう、だけど結論を急ぎすぎるのは止そう、今は月旅行だ。

 

「ん、聞いてる? あなたの分よ」

 

 メリーが俺のコーヒーとケーキを差し出してくれる。

 

「ありがとうメリー、そうだ蓮子、月だと時間の方はどうなんだ?」

 

「うーん、私の目は日本標準時しか見られないのよねえ、世界時の方は能力の対象外なのよ。ていうか行かない事にはわからないんだって」

 

 日本限定の超能力などあり得るのだろうか

 そもそも超自然的な力が人間の定めた規範に制限されているというのはおかしな話ではないのか。尤もその真実は蓮子のみぞ知るってわけなのだろうけど。

 

「ちょっと蓮子、それじゃあただの引き算じゃないの?」

 

「どうかしらね、ひ・み・つ、よ」

 

 蓮子はウインクして、そう言った。

 

 俺からすれば超能力だと信じたい所ではあるが、彼女のプランク並みの頭脳であれば計算で時間を導き出すことも可能かもしれない。尤も常人を逸脱したそれはすでに超常の域に達していると言えなくもない。

 

「ふーん、まあいいわ。それでいついくの? 月面旅行」

 

「メリーは気が早いわねえ。混むだろうし予約は早めに済ませておいた方が良いとは思うけど」

 

「おいおい、構わないけどいくらかかるかは分かっているのか。一般化したとは言え安くは無いぞ」

 

 少なくともゼロが五桁、下手すれば六桁に届くくらいの費用はかかると俺は把握している。

 

 彼女達はバイトもしていないようだし、その生活費用は親からの仕送りに頼っているようだから貧乏社会人の俺からすれば非常に羨ましい限りなのだが

 

 いくら裕福だとしても月面旅行のために高い金を捻出できる親など、この日本でもそういないはずである。

 

「いくらかかるかなんて考えもしなかったわ。あら思ったより高いのね。見てよメリー」

 

 蓮子は再び号外の紙面に目を移し、目を見開いた。そんなことも知らずに話していたのだろうか。

 

「本当だわ。バイトしなくちゃならないじゃないの」

 

「はあ……。どんだけ金にルーズなんだよ。羨ましいなほんと、こちとらあの車のローンにいまだ苦しんでるってえのによ」

 

 生活費その他もろもろは仕送りで賄える彼女達なので一年そこら必死でバイトすれば稼げない金ではない、月の軌道を回るだけで何十億とかかった時代に比べれば随分日本の科学も進歩したのだ。とはいえ彼女らが汗水たらしてアルバイトに励む姿など想像できないし、したくないのはなぜだろう。

 

「セレブのメリーがいるから安心ね。お金の心配より月面旅行の予定でも考えない?」

 

「おお、セレブときたか。ほんと羨ましいねえ、どうしても行きたいならちょっとは援助出来ない事も無いんだぜ」

 

「あら、ローンがどうとか行ってたのに私達に援助できる余裕があるのね。ていうか、あなたは行きたくないの?」

 

「独り身で特に趣味も無いからな、酒と煙草が滞らなきゃ生きてけるんだ。うーん、まあいささか興味はあるけれど、二人が月面見られたなら満足だ。俺が行った所で”月面”としか感想も言えないし値打ちないだろ」

 

 そうだ。別に俺の目で見たところで地上から見る月も立ってみる月も結局大差はない、その小さな差を楽しめる程の余裕も時間も俺にはない、それなら彼女達の瞳にだけでもその景色を見せてやれるなら、別にそれで満足なのである。少々卑屈が過ぎる言い訳なのかもしれないけど。

 

「まーたそんな卑屈な事言って……。年寄りじゃあないんだから。行きたいなら来ればいいのよ三人で予約取った方がお得でしょ」

 

「年寄みたいで悪かったな。俺はせっかく気を遣ってやったんだぜ、月面のハネムーンを二人水入らずで楽しめるようにさ」

 

「ハネムーンね。それならありがたく二人きりで……ね。メリー」

 

 と、流し目気味で蓮子は言うのである。照れ隠しでつい振ってしまったネタなのだが、毎回否定するでもなくノリノリな蓮子は本当にそっちの気でもあるのかもしれない、だとしても俺は別に構わない、が。

 

「蓮子……なんで私があなたと新婚旅行に行かなきゃいけないのかしら、もう怒ったわ絶対三人でいきましょう」

 

 メリーは頬を膨らせて俺の方を軽く睨んで言う、片手で蓮子をつねりながらだ。

 

 あの視線は”お前も共犯だ”という意味だろう。かくいうメリーもいつも通り頬を紅潮させているので、全くもっていつも通りである。

 

 目の前も含めて喧噪の絶えないカフェテラスだが、この空気にも適応しはじめたようでここのコーヒーが意外にも美味しい事に気が付く。

 

 昼下がりのパラソルの下、向こうには遠く京都の街が見える。

 

「ちょっと、なにしたり顔してるのよ。おかげでつねられちゃったじゃない」

 

「乗ってこなきゃいいだろう」

 

「それは無理な相談ね」

 

「やっぱり自業自得だな」

 

 また蒸し返しそうな所をメリーに静止される。

 

「ストップよ、もういいから月の話に戻りましょ」

 

「ごめんってメリー、じゃあ月談義を再開といきましょう」

 

「いついくか、だっけ?」

 

 晴れ渡る空の下、三人の月旅行への夢談義はまだまだ続く……。

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございました。
感想お待ちしております。
次の話もご期待くださいませ。

それではまた


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第八話 「虚無の地上とソラの夢」

お久しぶりです。
大空魔術完結編となります。
お楽しみくださいませ。

それでは


 第八話「虚無の地上とソラの夢」

 

 

 

 

 

 

 昼下がり、秋も深まる高い青の空の下、カフェテラスにて秘封倶楽部の月旅行トークは止まらずにいる。

 

「ねえ蓮子、結局いつごろならいけるのかしら?」

 

「うーん、夏休みとかどう?」

 

「ちょっと待て、社会人に夏休みは無いんだぜ」

 

「私はメリーと二人でもいいのよ」

 

 蓮子はまた蒸し返したいようである。本当に懲りないというか……

 

「だーめーよ、あなたとハネムーンなんてしないわ。あと夏休みは絶対に滅茶苦茶混むに決まってるじゃない、ずらして秋にしましょうよ」

 

 メリーは意地でも三人で月面旅行に行くつもりである。ほぼムキになっているだけだとは思うが、しょうもない茶化しをするべきでは無かったな、なんて思ってしまう。

 

 蓮子もメリーも俺を秘封倶楽部の一員として何だかんだで認めてくれているのはわかるし、勿論嬉しいのだけど。せっかくの月旅行なら二人で行ってきてくれた方が良いとも思う。

 

 結局、引っ張り出されそうな気もするので金は貯めておくようにしよう……。

 

「うん、秋もいいわね。今年はもう終わっちゃうから来年の秋……中秋の名月に行くなんてどうかしら。日本的で風流でしょ」

 

「うんうん、お団子持ってね。そうしましょう」

 

 蓮子は得意げにそう言った。メリーもそれに賛同のようである。

 

 来年の秋ならまだまだ仕事の調整も効くし行ける可能性は高いかもしれない。それに蓮子の言い草ではないが、中秋の名月の上に立てるなんて日本人の俺たちにすればこの上無く風流で粋ではないだろうか。

 

 とはいえ、俺が数か月貯金したところで到底届くような額では無いし、バイトする気なんて最初から無さそうな彼女達を見るに実現は不可能だろう。

 

 ただ、今はそんな現実的な金銭問題は置いておいて”有り得るかもしれない未来”を想像し、夢を語る事に意味がロマンがあるのだと思う。

 

「でも本当に良い時代になったよな、一世紀前なら大富豪や成金が数十億と積んだって月の軌道回って帰るだけの旅行しかできなかったんだからさ……。このチーズケーキも美味いな、意外と」

 

 周りの煩さを除けば本当にこのカフェテラスのメニューはハイレベルだと思う。ブルーベリーソースのかかったレアチーズケーキも半分ほど平らげてしまった。食うのが早いタチなのである。

 

 蓮子もメリーもバラエティに富んだケーキセットをのんびりと味わっているようだ。

 

 俺にデートなんて洒落た真似はできないのだろう。と残ったコーヒーを飲み干す俺に蓮子は四角形のモンブランだかを口に運びながら言った。

 

「地上のほとんどを解き明かし尽くした人類の好奇心が向かう先が宇宙だったのよ、そうでなくても宇宙は永遠のロマンなんだからね、こっちのも美味しいわよ」

 

 蓮子はそう言ってまた大きな口を開けてケーキを口に運ぶ、この調子だとしばらく口は聞けなさそうだが、メリーもいるので構わず続けるとする。皿もカップも空にした俺にはそれくらいしかすることもない。

 

「宇宙は虚無でも深淵でもない夢に溢れた新世界さ、古来から人が天にその宿命を委ねて読み取ろうとしたように、空の向こうのその遥かなる領域に手を伸ばす好奇心が人間をここまで進化させたんだろう」

 

「衛星がもたらした恩恵は大きいもんねえ天気予報にGPS……。私達には当たり前だけど昔の人は肉眼の星々から宇宙を理解しようとしたんだから尊敬しちゃうわね」

 

「そうなんだよメリー、占星術なんかは魔術と混同されがちだけど、その本質は極めて科学に近い、ホロスコープから導かれる星の配列は誰がやったって同じになるんだから」

 

 古代バビロニア時代に端を発する占星術、今やたかが占いでもその時分にはれっきとした学問であったわけだ。共有される認識の枠組み、所謂パラダイムが変遷してしまったがためにアンダーグラウンドに追いやられたそれらの知識も人類の歴史においては重要なファクターなのである。というところまでが受け売りだ。

 

「今は絶対の科学もいつかはオカルト扱いされる日がくるのかもね。月面旅行がお手軽な値段になるまでは科学に頑張ってもらわないと困るけど……。一つ食べてみる?」

 

 メリーはそう言って自分のケーキを俺に勧める。何だか申し訳ないけどご厚意なのでありがたく頂くことにする。レアチーズだけも味気ない

 

「じゃあ、いただきます」

 

「どうぞ」

 

 ギリギリ一口サイズの苺ケーキだ。もっとも材料は合成苺と合成卵だが、問題なく美味しい。合成と聞くと敬遠しがちかもしれないが安くて美味しい人類の大発明である。

 

「うん、美味いよありがとう。にしてもバカみたいにロケット打ち上げてる割には有人火星探査は上手くいかないんだよな」

 

「そうねえ……。ホーキングが車椅子で描いた宇宙は永遠に彼の頭の中にしか存在し得ないのかしら」

 

「ホーキングねえ、凄い博士なのは間違いないけど俺はどうにも科学者と同じ価値観じゃあ生きられないからな。脳みそをコンピュータ扱いされるのはどうも……」

 

 と暗に偉大なるホーキングを詰った辺りで存分にケーキを咀嚼し終えた蓮子がまた口を挟む。

 

「それが科学者ってやつなの。彼に言わせればあなたは”闇を恐れる人間”ね。それに結局ホーキングを超える物理学者は今にいたるまで出てきてないのよ」

 

「確かに闇は怖いさ、でも”冥界”はあった、おとぎ話じゃなくてな」

 

「まあ彼の時代には今ほど霊的な研究はされていなかったからね。あくまで最高の物理学者って事。そして私は結界も暴ける不良科学者」

 

「不良サークルのボスだもんな、納得だ」

 

「そうだわ。稀有な能力を持ってるんだから蓮子が頑張ればいいんじゃない?」

 

「メリー、私は専門が違うわよ。もちろんプランク並みに頭が良いのは自負しているけど、それに私から言わせればもう人類が火星に行く事は無いと思うわ」

 

「なんだ藪から棒に、悲観的すぎやしないか? まあ蓮子が言うんだからそれなりの根拠があるんだろうけど」

 

「行きたくはないけど、行けないってのも悲しい話ね、蓮子が言うと説得力があるのが余計に悲しいわ」

 

「そうね……。観測する為に必要とされるエネルギーが膨大になり過ぎたから、かしら。机の上で描く理論上であればともかく、観測物理学は終焉を迎えつつあるのよ、残念だけどね」

 

 と、蓮子は本当に残念そうな顔で言うのだが

 

 彼女がそんな顔をすると本当に人類が永遠に火星の表面に立つことなど有り得ないのでは無いかと思ってしまう程に、俺は彼女のプランク並みの頭脳とやらを評価しているつもりである。

 

 俺は科学の跋扈するこの時代に生まれた訳だがその時代が大嫌いなある意味での反出生主義者なのだ。

 

 それ故に物理学を志す蓮子とは意見が食い違う事も多い訳だが、まあだからこそ俺が幻想の世界の美しさを説く様に、彼女、宇佐見蓮子には科学の偉大さを語っていて欲しくはある訳である。そんなものは至って個人的な価値観と言うか、憧れの押し付けに他ならないのだ。誰かが言うには憧れとは理解とは最も程遠い感情だと……

 

 もしくはその物理学に入り込んだが故の諦観があるやもしれないのだけれど、それが理由で結界暴きを始めた。なんて経緯も想像してしまえる……。

 

 そんな表情で彼女はカップに残ったブラックコーヒーを飲み干した。

 

「で、なんで物理学は終焉を迎えているのかしら?」

 

「一言で言うなら観測するのにのに必要なコストが大きすぎるからよ」」

 

「それで俺らも月にいけない訳だからな、物理学者そんな貧乏とは知らなかったけど」

 

「お金の話じゃないって、エネルギーの問題よ。物体を分離させる際に掛かるエネルギーは物体が小さければ小さいだけ大きくなるのよ。原子、分子、クオークとそのエネルギーを増大させ続けた先、宇宙最大のエネルギーを持ってしても分離不可能の物体……呼称するのであれば”世界の最小単位”に辿り着いてしまってるのよ、とっくにね」

 

「で、終焉か……。そっから先は哲学の世界とか何とか言ってたろ、それが火星に行けない理由とどう絡んでくるのかがわからないんだけど」

 

「幾ら科学が進化してもエネルギーは有限で戻らないって事よ、火星なんか行ったって費用対効果が無いじゃない」

 

「へえ、まあ資源も無尽蔵に湧いてくる訳じゃないからな。エントロピーとか言うんだったか、限界を制約するような面白くない話は止めようぜ」

 

「嫌ね。まだ話足りないもの、それからエネルギーの限界量は十の十九乗GeVと言われているのだけど、このエネルギー量を超えると……」

 

 変なスイッチを入れてしまったようで、蓮子は雄弁にもプランクエネルギーがどうのこうのと俺には到底理解不可能な内容を語るものだから、しばらく聞かない事にする。

 

 少々日も傾いて来たようだ、なんせこんな季節だから夜の帳が降りるのも時間の問題である。

 

 夜が来れば月も見えるだろうか。間の良い事に確か今日は満月だったはずである。

 

 月、と言えば東京旅行の夜に縁側から見あげた満月が懐かしい、中秋の名月は外してしまったが美しかったのはよく覚えている。

 

 誰かと月を見上げるなんて一昔前の俺であれば考えられなかった事だ。だからこそ本当は月旅行も行きたくはある、金はもちろん無いが

 

 月、満月……蓮子の理解不能な言語をバックグランドに聞いているとどうにも関連した記憶がフラッシュバックの様に瞬いては消えていく。

 

 記憶の海、星海

 

 その星屑の中で輝いて止まない記憶はやはり……。

 

 走馬灯の様に浮かぶ景色の美しいのは掌に隠れきらぬ満月か

 

 その光に照らされた幻想の野の山河か……。

 

 ああ、何より綺麗なのは並んで空を見上げる彼女の長く繊細な金色の髪と、その飾人形のような美しく冷たい面立ちに浮かぶ温かい微笑みだったのだ……。

 

 今や、この手の届かぬ領域へと消えた、夜空の月のような記憶……。

 

 

 

 

 

 

「蓮子に物理学の話なんか振るからこうなっちゃうのよ、一人でずっと話してるし。一人は物思いに耽りだすし」

 

 メリーの声に記憶の海から西日の照らすカフェテラスへと引き戻される。そうだ、俺はここにいたのだった、ついぼおっとしがちなのは悪い癖である。彼女の金髪もまた緩やかな秋風に揺れている。

 

「ん、ああごめんな。あまりにも理解不能過ぎて思考が停止してた」

 

「自業自得よ、蓮子はスイッチ入ると止まらないから。あー、本当に高いわねこのツア

 ー」

 

「ごめんメリー、専門だからついね。じゃあまた馬鹿で楽しい話でもしようかしら。宇宙カフェの話とか」

 

「俺への謝罪は無しか、で宇宙カフェって何だよ面白そうじゃないか」

 

「私も気になるわ、その話。宇宙遊泳しながらお茶する話かしら」

 

「半分正解でもう半分は不正解ね。どうにも宇宙旅行のツアー客向けに人工衛星の中のカフェが出来たらしいの。無重力で淹れた珈琲は格別だそうよ」

 

「面白そうだけど飲めないだろ、無重力じゃあ……。まあカップから浮かんでくる熱々のコーヒーを口で受け止めるのも楽しいかもなあ、バーは無いもんか。青い地球を肴に一杯とか洒落てるじゃないか」

 

「スペースカップだったか知らないけど宇宙でもコーヒーを飲める画期的な容器があるそうよ、バーは知らないけど宇宙で飲めたら楽しいわよね絶対」

 

「真空コーヒーは飲んでみたいけど、室内カフェじゃあね、私はカフェテラスの方が好きだわ」

 

「悪かったなメリー。俺は暗くて閉塞感のある路地裏の純喫茶が大好きさ、まあこの時間のカフェテラスも悪くはないけどさ」

 

「ごめん、そういう意味じゃないわ。ああいうお店も趣があって好きなのよ。ただ私は意外にアウトドア派って訳。あら、随分人も減ったわね」

 

「いいって、冗談だ。ただ衛星のドアを出るなら宇宙服は必須だしお茶なんて出来やしないぞ。もう夕方か……」

 

 オレンジ掛かり始めた西の日に照らされたカフェテラスは随分と静かになっている。最初は溢れる程に犇めいていた学生共も少なくなり、俺らと同じくじっくり話し込んでいるであろう集団が数組見受けられるくらいである。

 

「「本当ね、宇宙空間に限っては屋内も屋外も関係ないわ。けど、珈琲の抽出って重力下だから成り立つのにどうやって淹れるのかしら、衛星のカフェテラスでは」

 

「それはね、メリー。サイフォン式よ。今でこそほぼ死滅してしまったけど、蒸気圧でお湯が行き来するところが宇宙では再評価されたって訳」

 

「なるほどね、そういえばいつもの喫茶店にも置いてあったけ……サイフォン。インテリアとしか認識して無かったけど」

 

「あの喫茶店のならインテリアじゃなくて実用品だぜ。今では死滅しかけたサイフォン珈琲を出す店なのさ、あそこは。だからこそ俺みたいな時代錯誤者のオアシスなんだけどな……。というかサイフォンなら持ってる、俺も」

 

「えー、そうだったのね。私達いつもサイフォン抽出のコーヒー飲んでたんだ。どうりで美味しいけど出てくるのが遅いわけね。使ってるの? サイフォン」

 

 メリーはそう言って、またカップの冷めた珈琲を流し込んだ。ここのは多分作り置きだろう。

 

「残念ながら俺のはインテリアになってるよ、インスタントが楽で美味いからさ、一回二回使ったきりだ。欲しかったらあげるよ」

 

「うーんどうしようかな、欲しくはあるんだけど結局インテリアになっちゃいそうよねえ、でもドリップより味が落ちるなんて話も聞いたことあるわよ」

 

「まあ欲しかったらいつでも言ってくれよ

 まあどの抽出方法が美味いかなんて俺にもわからんな。サイフォンが雰囲気込みなのは間違いないけどさ」

 

「それが、宇宙空間用に改良されたサイフォンは対流が無いから濃厚な珈琲がつくれるそうよ」

 

「蓮子は何でも知ってるのねえ、珈琲なんて飲まなくったって目が覚めそうなものだけど、宇宙なら」

 

「興奮してか、間違いないな。はあ、重力に縛られてるってのは息苦しいな」

 

 宇宙に手を伸ばした人類は無重力化の世界でも新たな文明を築きつつある。そう遠くない未来、本格的に軌道上に暮らす人類も出てくるのだろう。

 

 月面旅行もそうだが、結局宇宙に行けるのはごく一握りの選ばれた人間でしかなく、俺のような下層の人間は地に這いつくばって生きるしかない訳だ。

 

「はあ、宇宙には魅力が尽きないわね本当に」

 

「本当になあ、ゼログラヴィティ……。その夢を抱いて地を這って生きる。これじゃあ緩やかな心中だぜ」

 

「あら、ため息なんてついちゃって、地上にだってまだ面白い事はたくさんでしょう。あなたの方こそ虚無主義が顔を出しはじめているわよ」

 

「うん、そうだな。別に虚無に浸ってる訳じゃあないさ、最近は結界の向こうの景色を想像して夜もぐっすりだし。ただ何かな、資本主義という亡霊に憑りつかれた社会の構造に辟易してただけだ」

 

 

 

 

 

 

 科学世紀に入り、世界は急速に発展した。

 

 どこの国もある程度は豊かになって、途上国なんて言葉もすでに過去の物となりつつあるわけだが、世界規模である程度の水準への移行が達成されたことによって、これまた世界規模での”資本主義的”パラダイムシフトが起こる。

 

 そして人類は次のステージへと進んだ。

 

 紀元前から右肩上がりに増えて続けてきた人口……。

 

 ”産めよ、増えよ、地に満ちよ”創世記においての神からの祝福、その言葉通りに人間は繁殖し文明を興し続けてきた。

 

 しかし現在、増え続けた人口は緩やかではあるが現象の一途を辿っている。

 

 この国でも一世紀近く前には少子高齢化なんてワードが流行った時期もあったそうなのだが、もはや総体としての人口が減っていきつつあるのである。

 

 資本主義社会、科学の発展……。それは格差社会を増長させる何よりの因子、ファクターであり。

 

 かつてこの世の地獄と形容されたアフリカ大陸も含め、どの国々も軒並みに出生率が低下していった。

 

 しかしこれはどうにも資本主義社会の最終ステップである「人口調整」の段階に入った”だけ”なのだそうだ。

 

 いち早い少子化の進行、そのデメリットを上手く回避した我らが”日本”は選ばれし人々による勤勉で、精神的に、豊かな国民性とやらを取り戻す事に”成功”したのだという。

 

 成功だと

 

 選民思想、ユダヤ教にナチスドイツ。自分が神だの何だのに選ばれた人間だと言うのは愚かしい驕りに他ならない、そんな事は分かり切っているはずなのに……。

 

 それを成功と言い張らねばならぬ程に、この資本主義の世界の均衡を保つ為には、その忌まわしき思想を蘇らせる他無かったのである。

 

 人は選ばれたいがために勤勉に生きようと努める。誰だって大洪水に流されるのは御免だからだ。

 

 多くの人々をこの地に縛り付け、駆り立てる物は、選民思想に伴う焦燥感であり

 

 科学も月面旅行もまた、資本主義というパラダイムに支配された世界の作る虚構の象徴

 

 それはまるで……

 

「ノアの箱舟、だな」

 

「そうね……。だとしても私は選ばれる側の人間よ。このプランク並みの頭脳は失われてはいけない。だからきっと月面にだって立って見せるわ」

 

 そう蓮子、は言った。赤い西日に照らされたカフェテラスの影の中で。

 

「ま、そう言うよな……、だけど俺は違う。選ばれざる側ってわけだ。それでもこの天命の許す限り探し求めると誓った。俺の目指すべくは広陵とした岩石の海じゃなく、兎が不死の薬を搗く月の世界なのさ」

 

「ふん、卑屈で回りくどいわねえ……。でも月にも忘れられた世界が隠されているのは間違いない。高度な文明を持ち高貴な人々の住む月の都……。その世界を見られるのは……」

 

「”メリーしかいない”か……」

 

 そうだ、メリーでなければ意味がない、蓮子の目よりも稀有な能力を持つ彼女でないとたとえ月に行けたって意味は無い。彼女と同等の能力を持つ人間はこの地球を隈なく探したところで見つからないだろう。

 

 人間に限定するなら、という話ではあるが

 

 メリーの境界視、その上を行く力を持つ誰かがいるのなら”彼女”以外に他ならない、彼女もまたその能力を持って月の世界へ干渉しようとしたのだったか。苦い記憶だと、そう言っていただろうか……。

 

「二人揃って言われると責任重大ね、でも確かにそうね。人間が集まって開拓される前に行ってみたいわあ」

 

 吐き出すように呑気な声でメリーは言った

 

 日はすでに沈みかけている。ガラス越しに遠く見える京都の街並みもサンセットの中に影として聳え立つ。

 

 昼過ぎ頃にここに来たので随分話し込んでいたようである。

 

 ケーキも珈琲も尽きた今、惰性のように黄昏の中、会話は続く。

 

「そうねメリー、とりあえず準備はしておかないと」

 

「準備って、バイトするくらいしかないだろうに……」

 

「うーん、月の都に行く準備かあ、月の都についてもっと勉強するなんてどうかしら、参考程度に話聞かせて欲しいんだけど」

 

「わかったよメリー、話してもいいけどとりあえず出ようぜ。もう誰もいないし」

 

 いくら話したいとは言っても大学のカフェテラスはそう遅くまで営業していない、そろそろ精算してこのカフェテラスを出ようか。

 

「そうね、ここにも随分いたしそろそろ行きましょうか」

 

 蓮子はそう行って立ち上がる。俺もメリーもゆっくりと腰を上げる。

 

 ふと、夕焼けのカフェテラスに目を移す。

 

 緩やかに曲線を描いてパラソルが並んでいるが、話声も随分と聞こえなくなったものである。話し込んでいたからか、途中から意識すらしていなかったが。

 

「で、精算はどうするんだ?」

 

「構内の店なら学生カードで精算できるのよ、毎月学費と一緒に払われるってわけ、今日は私の奢りでいいわ」

 

「お前の金じゃないじゃないか。ほんと羨ましい身分だぜ。ごちそうさま」

 

 思いのほかこの大学のカフェテラスも悪くなかった。ただやはり慣れない場所は疲れるものである。俺は屋上や衛星のカフェテラスより路地裏の寂れた喫茶店の方が肌に合ってしまう。

 

 ただたまには違う道を歩くのもいいかな、なんて支払いを済ませる蓮子を横目に考えている。

 

 メリーは山越しに昇り始めた月をみているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今や懐かしい並木道、日も暮れた大学構内のその道を三人で歩いている。円柱で形作られた気持ちの悪い建物は照明に照らされなおもその存在を誇示していた。再び足を運びたいとはあまり思えないが……

 

 蓮子は唐突に立ち止まって。空を見上げる

 

「十七時三十一分、もう随分暗くなったわね、この後どうする?」

 

「どうするって、何処か行くところでもあるのかよ」

 

「気晴らしに星でも見に行かない?」

 

「星? いいけどどこで見るっていうんだ。京都の街中じゃあ見えそうにもないが」

 

「うちの大学の天文台がここから南に下った山科の小高い山の上にあるの、そこなら街の光にも遮られない星空が見られるわ」

 

 彼女達の大学が天文台を持っているなんて初耳である。まあ歴史のある名門大学なのでおかしくはないが、そういえば山科の花山に天文台があるなんて話は聞いたことはあるかもしれない。

 

「いいじゃない蓮子、月面旅行は無理だけど気休めに天体観測でもして宇宙の神秘を感じられるわね。うん、そうしましょう」

 

 メリーはそう言って無邪気に笑った。どうやら蓮子の提案に乗り気のようである。

 

 そういう俺もやぶさかではない、昔から星を見るのは好きだ。

 

「いいぜ、見に行こう。それで車出せっていうんだろう」

 

「当然よ、あんな場所にバスは無いしタクシーは高いもの、それくらいしか役に立たないんだからいいでしょ」

 

 本当に酷い言い草である。そうこう言っている間に、またあの狭苦しい駐車場についてしまった。

 

「わかった。乗れよ、ケーキと珈琲のお礼もあるしな」

 

 車のロックを開ける。

 

 二人を後部座席に乗り込ませ、俺も運転席に乗り込む、車内を照らすのは僅かな街灯の明かりだけである。

 

 さて、その天文台に向けてアクセルを踏むとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗い車内を、過ぎては後方に消えゆく街灯のLEDが照らしている。まさか星を見る事になるなんて考えてもいなかったが、悪くない提案だと思う。

 

 クソッタレな現実も資本主義の見せる箱舟の虚栄も、大空の見せる星の魔術の前には小さく霞む、思うに人間にとっては科学も魔術も大差ない、どちらでも良かったのかもしれない。

 

 静かな車内、メリーは唐突に呟いた。

 

「月には不老不死の薬があるのよね」

 

「ああ、どうもあるみたいだな蓬莱薬ってのがさ」

 

「もし、その薬が手に入ったら。あなたは使うの……?」

 

 と、メリーは本気とも冗談ともつかない口調でそう尋ねるのである。

 

 突拍子も無いが、余りにも自明な問いだ。

 

「使うさ、勿論……。不老不死ってのはただ死ななくなる訳じゃない。生と死のその境界線上に立ち、生きても死んでもいない状態になることだ。生命という呪縛から解き放たれた世界……。顕界でも冥界でもある世界……。そこでなら彼女と並びたてる気がするんだ」

 

 しばしの沈黙、蓮子はぼおっと窓の外を眺めたままで答えた。

 

「物語では不老不死は辛いものだとされるけど、アレは欲深さや、権力への反抗を謳っているだけ。この世界の行く末を見届けられるなら、私だって飲みたいんだけどなあ」

 

「二人とも、そんなに飲みたいなら富士登山でもして秘薬の煙を浴びてきたら?」

 

「今や、気軽に登れなくなってしまったからね、それにメリーの目が無いとただの岩山じゃない」

 

「月面と一緒で、か。今は登山より天体観測だろ、ほらもう少しで九条山だ」

 

 今出川から白川通りを十分そこら南へ下れば、天文台のある九条山は見える。天文台以外にも山頂公園や将軍塚の大舞台、などと京都を見下ろす絶景スポットもあったはずである。

 

 それを尻目に天文台へ向かうのも中々面白そうだ。

 

「わかってるわよ、宇佐見蓮子の星空ガイド、期待していいわよ」

 

「私達にも理解できるように説明してよね」

 

 彼女達と出会ってから、自分は少し腑抜けてしまったのではないかと思うときもある。

 

 けど以前のようにただ亡失に囚われて半分死んだような日々を送るよりはずっと幸福なのだろう。

 

 まだ、君の元へは行けないけれど、彼女達といればいつか……なんて思うけど永遠は無い

 

 それでも今はこんな日々に享受したっていいだろう。そう暗闇に囁く

 

 大空を見上げれば、きっと。君に会える。

 

 違う空、されど同じ星の下で……。

 

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
次回以降はしばらくオリジナルを書いていきますので、試行錯誤しながらにはなりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

感想などいただけると嬉しいです。
それではまた


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幕間 「出会い、その彼岸で」

こんちにちは

この話は完全な番外編となりますので秘封倶楽部の二人は登場しません、ご了承くださいませ。


 幕間「出会い、その彼岸で」

 

 

 

 

 青、それだけが視界を埋め尽くしている。

 

「空、か……」

 

 男は手を伸ばす、虚空を掴むように。青の中に黒く。掌の影が見える

 

 ここは、どこだろうか。どこかの地面の上で仰向けになっているようだ。背中越しに伝わる感触からしてコンクリートやアスファルトではないようだ。

 

 男は横たわっていた、広大な草原の真ん中に。そよ風に揺れる草原には一面のシロツメクサが咲き乱れている。

 

 幻想的な風景、立ち上がった男はその壮観なる風景をしばしぼおっと眺めていた。

 

 温かい春の日差しに照らされた緑と白、透き通るような青い空のその美しさに目を奪われていた彼であったが、ふと一つの考えに辿り着く。

 

 ”何故ここにいるのか、俺は死んだはずでは無かったのか”と……。

 

 そう思い至った時、まるで走馬灯、いやフラッシュバックでもするかのように、彼の記憶は逆行を始める。

 

 その瞬きが突きつけるのは、余りにも残酷な記憶であった。

 

「俺は死んだはずだ……。家族と一緒に、雨の山道……谷底に落ちて」

 

 そのリアルな記憶故に彼は困惑する。

 

 ここは雨の谷底ではなく、暖かな草原である。ならばこの記憶は何だ、ならばここはどこだ……。

 

 ああそうか

 

「ここが、彼岸。あの世って訳なんだな……本当に存在するとは驚きだ」

 

 彼はそう自嘲的に笑う。ただ、悲しみや喪失感を誤魔化したいがための嘲笑ではなく、ただ単にこの”有り得ないが有り得ている光景”への半ば強制的な理解であったようである。

 

 その考えに至った彼は、再びその緑と白の海の最中に身を投じる。

 

 手のひらをくすぐる草の感触も、温かい日差しが皮膚を射す感触も、空の青色も。

 

 全てが、今まで生きてきたはずの現実に相違ないことを彼は認識する。

 

 また果てしない青を見上げて、彼はその心を空っぽにしつつある。

 

 彼は思った。死の裁定が下る瞬間のその時まで、こうして何も考えずにいようと……

 

 家族の安否も自分の安否もそしてこれからの行く末を考える事すら、もはやどうでもよい事のように感じられた。

 

 ただこの柔い温もりと心地よさに身を委ねていればいい、と本気で思ったのだ。

 

 あるいは彼はある種の全能的な快楽に享受していたのかもしれない、科学啓蒙主義も物理学もクソもない、絶対的な幻想の世界を己が目が捉え映しているという事実を勝ち誇ったつもりでいたのかもしれぬ、ホーキングが闇を恐れた人間の儚き妄想と吐き捨てた偽りの景色を、まごう事ない実体験を伴い認識したことで超越者になったつもりでいたのかもしれない……

 

 科学に規定された現実を憎み、なおかつ幻想の世界に恋焦がれた彼なりの自尊心を維持するべく発せられたニューロンの電気信号だったのかもしれない

 

 死を体験した人間はこの世にはいないが、死を体験した自己をここに感じながら、うつろな目は青を映し続けている。

 

 されど彼の自己認識を、現実感を歪ませ揺るがせる出会いがここに起きたことは真実と疑うべくもない。

 

 風が吹き、一面の草花を揺らす音が耳に届く。寄っては引きゆく波打ち際の波の砕ける音のような、心地よいゆらぎを自然は持っている。

 

 そんな旋律の中に彼は、明らかに自然のつくるものとは異なる音を聞く。

 

 草を分け、こちらに近づいてくる音、足音か。誰かがこちらに近づいてくる。

 

「迎えが来たかな」

 

 足音の主は死神だろうか、いよいよかと諦観しつつ、最後に死への水先案内人の顔でも拝んでやろうと構えた。

 

 足音が近くなる。鼓動が早まるのを感じながら、迫る死の足音に耳を澄ませた。

 

 足音は、横たわる男の頭の先で止まった。

 

 視界が暗くなる。傘、日傘を差した誰かが顔を覗き込んで、言う。

 

「人間、なぜここにいるのかしら」

 

 冷たい、女の声。その姿をこの目が捉える

 

 ドクンと鼓動が強まる。息が止まりそうな程に固まった。

 

 透き通るような白い肌、腰まで伸びる金色の髪。気味が悪い程に整った面立ちに湛えるのは怪しい光と奥行きを持つ瞳……。

 

 美しかった。短い人生の中で見てきたその全てよりも、その美しさ故に彼女が人間では無い事もわかる。

 

 人形か彫刻か、陶磁器の作り物のような冷たさを感じるのは、彼女が眉一つ動かさずにこちらを覗いているからだろうか、その瞳の深淵に呑み込まれてしまわないように、彼は気丈に言葉を返す。

 

「ええ、見ての通り。貴女は死神か何かですか」

 

 彼女の異様な存在感に気圧された彼の声は少し震えていた。

 

 彼女はその冷たい表情の眉だけを顰めた

 

「死神……どうしてそう思うのかしら」

 

「死んだんですよ多分、で気づいたらここにいた。ここは彼岸、そして貴女は死神だ。とても人間には見えない」

 

 彼女は覗き込んだ顔を上げた、遠くを見ているようだ。しばらくの沈黙の後、彼女は口を開く。

 

「なるほどね」

 

「ああ、さっさと地獄まで連れて行くと良い、貴女みたいな美人に看取られるなら地獄でも構わないさ」

 

 彼は諦めたようにそう言った。その言葉に彼女はその冷たい面立ちのまま、少し笑った

 

「お褒めいただき光栄ですわ。私が人間ではないのは否定しないけれど、ここは彼岸ではないし私も死神ではないの」

 

「だったら貴女は何者でここはどこだと言うんです?」

 

 彼女は答えないままにくるりと踵を返して歩き始める。

 

 そうしてしばらく進んで立ち止まり、背を向けたままで彼に言う。

 

「知りたいのなら、寝てないで私に着いてくるといいわ」

 

「どこへ」

 

 彼女はまたも答えないまま歩き出す。彼は腰を上げて、その背中を追った。

 

 彼女が歩くたび、日傘の下で長くしなやかな金髪が揺れる。さながら貴婦人のような優美な足運びに魅入られるように、その後をとぼとぼと付いていく。

 

 二つの影は一面のシロツメの中を静かに進んでいく……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この草原はどうやら緩やかな斜面になって

 いるようで、振り向けば彼が最初に寝ころんでいた場所も遠く下に見える。

 

 相も変わらず確かな足取りで進む彼女が言った。

 

「ここは丘になっているの、もう少し登り切れば”郷”の全貌が見渡せますわ」

 

「郷、つまり人が住んでいると?」

 

「人間は住んでいませんのよ、今のところは。さあ、見えますわ」

 

 緩やかなシロツメの丘陵を登り切った先、その目前に広がったのは、言葉では現し難い風景であった。

 

 目前には鮮やかな緑に彩られた山、目下には広大な田園風景、空を裂くように鋭く聳え立つ霊峰、遠くには大きな湖……。

 

 息を飲んだ。自分の体を風が吹き抜けたような衝撃があった。

 

 美しい風景だ。日本中を隈なく探せばこんな風景も存在するのかもしれない、だけどこの目に映る景色は何だか懐かしく、温かく。郷愁、ノスタルジーを感じさせた。

 

「すごいな……。ここは本当に日本なのか、いや……そもそもこれは夢なのか。何だか懐かしくも感じる景色ですね」

 

「ええ、ここは日本。けれど人間の手の及ばない場所にあるのよ」

 

「建物もあるようだけど本当に人は住んでいないんですか」

 

「ええ、人はね。あなたがこの地に初めて立った人間ですわ」

 

 ここが彼岸でないのであれば、人ならざる者のいる場所なのであれば、ここは魔界だとか魔境の類なのだろうか。

 

 そんな恐ろしさを感じさせるような景色ではなく、むしろ暖かさや優しさすら感じさせる景色。

 

 彼にはなおさら自分がここにいる理由がわからなくなった。死ぬわけでもないのなら自分はどうすればいいのだろうか……。

 

 静かで美しい風景、美しく冷たい彼女。

 

 突如として吹いた風は彼の孤独感、疎外感を浮き彫りにする。

 

「俺は、どうすればいい」

 

 そう言って、しゃがみ込む。そんな彼に彼女は言う。

 

「帰り方もわからないのでしょう、それならここにいればいい。入ってきた者は拒まない、それがこの郷の理ですわ」

 

「俺しか人間のいないこの場所で……か」

 

「ここは良い場所よ、暗闇に住まう者、理の外側に生きる人ならざる者達の楽園。何を見て感じるかはあなた次第だけど……」

 

 彼女は振り向いて、しゃがみ込んだ男にその手を差し伸べる。

 

「”幻想郷”へようこそ、歓迎致しますわ。

 この場所に初めて踏み込んだ人間のあなただからこそ、この世界がどう映るのか興味の尽きない所ね。案内してあげるから、さあ行きましょう」

 

 出会ってから彼女が初めて見せる。柔らかな笑顔だった。雲間から射す光のような温かい表情であった。

 

 男は手を伸ばす。白い手に触れる。

 

 冷たい感触、けれど何故だか安らぎを感じた。

 

「そんな顔で笑うんですね、貴女も」

 

「人外だからって笑うし泣くのよ、取って食ったりしないから、余り怖がらないで欲しいですわ」

 

「そういう意味じゃないですよ、すまし顔も綺麗だけど笑顔の方が人間味があっていいかな、とか思っただけです」

 

「妖怪の私に人間味ね、本当におかしな事を言う人間ですわ、まあいいわ行きましょう」

 

 そう言って彼女は彼の手を引いた。

 

 彼は何か懐かしい感情を覚える。永く忘れていた感情を。

 

 この出会いは彼の世界にとってのパラダイムシフトだったのだろうか……

 

 

 唯一確かなのは、出会いと別れが分かてぬ物だという事だけである。

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございました。
こうした幕間も所々入れて行くつもりです。

感想お待ちしております。

それではまた


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第九話 「結界の都 ウワサを追って」

こんばんは、お久しぶりです。
最近は少々スランプ気味というか筆が進まないという局面ではあるのですが、一人でも楽しみにしてくださっている方がいる。そう思って日々精進していきたいと思います。

今回含めての三話はオリジナルのお話になるので、自信はありませんけど…楽しんでいただければ幸いです。

それでは


 第九話「結界の都 ウワサを追って」

 

 

 

 

 

 

 いよいよ肌寒いじゃ済まされなくなろうかという初冬のある日、メルトンのチェスターコートを着こみ、ポケットに手を突っ込み寒さを凌ぎながら、歩く。

 

 四条通りを八坂神社に向かって進むと、鴨川にかかる四条大橋が見える。休日ということもあってか通行人が随分と多い。

 

 

 

 

 四条大橋の手前、木屋町通りを左に曲がりさらに左手の細い路地の中ほど、行きつけの喫茶店はある。

 

 カフェというより純喫茶、この科学世紀の街には似つかわしくないこの店、色とりどりな乱張りのタイル、ここだけ見ればヨーロッパの路地裏にでも迷い込んだような錯覚を覚えさせる。

 

 いつも通り、黒く重たい木製の観音扉を押した。カラン、と音が鳴る。

 

 

 

 

 薄暗い店内、カウンターの向こうの従業員が”いらっしゃいませ”とそう言った。

 

 カウンターには数人、客が座っているようだが、何とかいつもの席は確保できそうである。

 

 創業から百年以上の年月で紫煙に染められ黄がかった漆喰塗りの壁、壁面にはアンティークの調度品が並んでいる。店主曰く創業者が趣味で集めた物なのだそうだ。

 

 真っ先に足を向けるのは、窓際の席。

 

 ビル越しの日差しが十二分割の格子窓から射しこんで仄かに店内を照らしている。

 

 飾り彫りの細やかな黒いフレームに臙脂色の座面の椅子。それに漆塗りの黒いテーブルと落ち着く色合いである。バロック調とでも言うのだろうか。

 

 今では貴重となったSP盤のクラシックが穏やかに流れる窓辺、隣の椅子にコートを丸め置いて腰掛けた。

 

 

 

 

 程なくして、店員が水とおしぼりをもってくる。ご注文はお決まりですか、とも聞かれないのは常連になれた証拠のようで少し嬉しい。

 

「珈琲とハニートーストで」

 

 いつも通りの注文、これが俺のルーティーンである。ここの店で珈琲と頼むとクリームの乗ったウインナー珈琲が出てくるのだが、これは創業当時からのこだわりのようで、戦時中貴重だったクリームを少しでも客に味わって貰いたいという思いから生まれた、この店の看板メニューである。

 

 酒好きではあるが甘党の俺は、その珈琲とアイスの乗った分厚いハニートーストを養分としているわけだ。

 

 さて、この店に来たのはただ糖分が欲しくなったからではない、もちろんそれもあるにはあるのだが……。とりあえずは蓮子とメリーに話したいことがあって、性懲りもなくこの店に呼び出したのである。

 

 話というのは、俺がまた掲示板を巡回する中で見つけたネタ。それの報告と協力を仰ぐ為である。

 

 言い換えるなら、俺の持ち込みでの活動の提案という事になるだろうか。尤もその内容が蓮子の御眼鏡に適わなければ敢え無く却下という事になるかも知れないが……。

 

 現在十一時四十六分、十二時に来てくれ。とは言ってあるが、彼女達はいつ来るだろうか、蓮子はどうせ遅れてくるだろうな、何て考えながら待つとする。

 

 

 

 

 二人が来るまではいいかと、横に置いたコートのポケットから煙草を取り出す。ここは今では少なくなった煙草の吸える店なのだ。俺含め常連の多くは時代錯誤な喫煙者だ。カウンター席の叔父様方も美味そうに煙撒いていやがるので、我慢してもいられない。

 

 火を着け、軽く吸い込んで吐き出す。寒い中ずっと歩いて来たので、温かい店内で紫煙を吐けばため息が出る程に気が緩むというかリラックスできる。いつまでも手放せない訳である。

 

 格子窓の日差しがゆらゆらと流れる煙を映す。しばらく、何を考えるでもなくそうして煙草をくゆらせていた……。

 

 十分ほど経っただろうか。灰皿に二本分ほどの吸い殻が積もった辺りで、カランと入り口のドアが開いた。

 

 

 

 

 長い、金髪が揺れる……。

 

 ”いらっしゃいませ”また同じような店員の声が響く。

 

 彼女は迷う素振りも無く、左を向き俺の座る席に歩み寄る。微笑を湛えて……。

 

「おはよう、来たわよ。待った?」

 

「おはようメリー、別に大丈夫だぜ」

 

 三本目も半ばで灰皿に押し付けて消火する

 

「あら、邪魔しちゃったかしら、気にしなくていいのに」

 

 メリーは対面の座席に腰掛けてそう言った

 白い日差しに照らされる白い肌、金色の髪、やはり陶磁器の人形のようだが、温かい表情だ。

 

「いいんだ別に、わざわざ来てくれてありがとう。好きなの頼めよ、奢るよ」

 

「水臭い事言わないの、それに私も暇だからねえ、ありがたくご馳走になるわ。相変わらずの暗い店内ね」

 

「ああ、そうだな。この前は慣れない大学のカフェテラスに引っ張り出されたんだから今日はここでいいだろう」

 

「ふふ、そうね。別に私もこの店嫌いじゃないわよ、美味しいし。でもカフェテラスも悪くなかったでしょう」

 

「月旅行談義は楽しかったなあ、珈琲もなかなか美味しかった。まさか星を見に行く事になるとは思わなかったけど」

 

「いいじゃない、たまにはね。真面目に活動しすぎだもの」

 

「そうだけど、今日のは真面目な活動の提案だ」

 

「えーそうなのね、私の目の出番?」

 

「まあ、そゆこと。ただ蓮子に却下されればそれまでなんだけど」

 

「どうかしらねー、そろそろ来るかなあ蓮子」

 

 店員がメリーの分の水とおしぼりを持ってきた。

 

「コーヒーと、あと私にもハニートースト」

 

 メリーは店員にそう注文した。

 

「美味しいぞここのは」

 

「あなたがいつも食べてるの見てたらね、すごく甘そうだけど」

 

「めちゃくちゃ甘いよ」

 

 現在十二時四分、ちょうどに来いなんて言ってないし言えないのでまだ遅刻ではないだろうか。

 

 我らが会長宇佐見蓮子はどうにも遅刻癖があるのようで、星から現在の時間を知る事ができる能力を持っている彼女だからこそ日中は時間にルーズになるというのはある種の平衡感覚なのかもしれない、と最近は思っている。

 

 夜にこそ真価を発揮できるというのも何だかカッコよくて良いかもしれないが、度を過ぎた遅刻は辞めて欲しい。

 

 とまあ、呼び出した身である俺が偉そうにも言えない訳だが。

 

 まあ、急を要する話でも無いので気長に待つとしよう……。

 

 

 仄かなオレンジに彩られる店内ではレコードの奏でるバロック音楽と、カウンターに並んだサイフォンのフラスコが沸々と沸き立つ音だけが響いている。

 

 この音を聞きにこの店を訪れる客も少なくないのだそう。SP盤にサイフォンと古めかしさをこれでもかと詰め込んだここは、まさに都会のオアシスか。

 

 窓の外を眺めていたメリーが言う。

 

「本当にサイフォン珈琲なのね、ここ。美味しいけど時間がかかるのよねえ」

 

「なんせサイフォンの数にも限りがあるからなあ、ただ慣れさえすれば味の再現性は安定してるから、変わらない味を楽しめるって訳よ」

 

「マスターの腕にかかってるのね。サイフォン珈琲は後味すっきりで飲みやすいわよね、眠気覚ましには向かないけど」

 

「ただ自分で作るとあんまりなんだよな」

 

「で、インテリアになってるんでしょ、サイフォン。勿体ないからほんとに私が貰おうかしら」

 

「持ってきたら良かったな」

 

「ま、次で良いわよ。それはそうと……。今日の話、どんなの? 少しだけ教えてくれないかしら」

 

 メリーはテーブルに手をつきこちらに少し身を乗り出して言った。いきなり距離を詰められると顔を背けるほかない……。

 

 蓮子といい、勘弁してほしいものだ。

 

 しかしまあ少しくらい話してもいいか。

 

 

 

「ああ、良いけどさ。蓮子もまだ来ないから」

 

「ふふ、ありがとう。それでどんな話?」

 

「そうだな、例にもよってオカルト板に張り付いてた時に見つけた”ウワサ”についての話なのさ」

 

「ウワサ? 都市伝説みたいな感じよね、人面犬とか口裂け女とか……」

 

「チョイスが古いな……。まあ都市伝説は都市伝説か。それもここ”京都”のある神社に纏わるウワサなんだ」

 

「あら、なんだか面白そう。それで、どこなのかしら神社って……」

 

「”伏見稲荷大社”だ」

 

 と、言った所で後ろから肩を叩かれる。

 

「お稲荷さんがどうしたのかしら?」

 

 

 

 

 振り返ると、黒の中折れ帽とマントが特徴的な少女、宇佐見蓮子は立っていた。話に集中する余り、ドアの開閉音に気が付かなかったようである。

 

「おはよう、かな蓮子。微妙に遅かったじゃないか」

 

「おはよう、来たんだから別にいいでしょ勝手に話進めてるなんて酷くないかしら」

 

 蓮子はそう言いながらメリーの横、俺の右前方の椅子に腰掛けた。

 

「まだ掴みにも入ってないし、一から説明するさ。珈琲とトーストも来たことだし、蓮子も何か頼めよ」

 

 ちょうど店員が俺とメリーの注文の品を持ってきた所であった。トーストを口に運ぶ前に珈琲を一口啜った。相変わらず爽やかな飲み口である。本題に入る前に口を潤しておきたかった。

 

「じゃあとりあえず珈琲ね。で、伏見稲荷の結界の話なの?」

 

「まあそうなんだが、順を追って話させてくれって……。とりあえず俺が例のオカルト掲示板であるスレを覗いたのが始まりだ……」

 

 

 

 

 

 

 昨日の話だ。仕事から帰った俺はビール片手にパソコンに向かい、掲示板にて情報収集をしていた訳である。

 

 オカルト板とは言っても、真面目なオカルト議論が常に交わされている訳ではない。

 

 本気かネタか分からない陰謀論のスレッド

 

 書き込むと願いが叶うスレ、逆に書き込んだ名前が呪われるスレ……。

 

 というようないかにも頭の悪い連中も少なからず存在してはいるのだが、そこは玉石混交という事で有意義な所謂”本物”の情報もまた少なからず見つかる、それを見つける為にあんな場所に張り付いている。

 

 そうして、またその混交の情報の海を漁っていたのだが、気に留まるスレッドがあったのだ。

 

 確か各都道府県ごとのローカルな都市伝説やオカルトチックな噂を書いていくというような趣旨だったのだが、書き込まれたレスポンスを追っていくと、どうしようもなく俺の琴線に触れるレスポンスに出会った。

 

 ”稲荷山の結界の裂け目の向こうには本当の稲荷大社があり、そこに辿り着き、参拝した者の願いを叶える”

 

「って所だ。とりあえずこれが今回の動機かな」

 

「なるほどね、ただそれだけじゃあ真実と呼ぶには遠すぎるじゃないの」

 

 蓮子はそう苦言を呈するが、まだこの話は終わらない。

 

「そこまでは私も聞いたわ、でも。まだ続きはあるんでしょう」

 

 メリーはハニートーストにナイフを入れながらそう言った。助け舟だろうか、アイスの乗ったトーストを口に運ぶ姿は、何だか愛らしく見える。

 

 なんて、言ってる場合ではない、話を続けるとしよう。

 

「そう、メリーの言う通り。ここからが本題、その書き込みはあくまでも動機だ。それに、願いが云々は後付けの蛇足だと思う」

 

「ふーん、じゃあ続きを聞かせて貰おうかな。あとハニートースト美味しそうね」

 

「食べたいなら頼めばいい、奢るぞ。じゃあ続き、それで何だかその書き込みが気になった俺は、木を隠すなら森の中……。じゃあないが京都のローカル掲示でその書き込みの詳細を探る事にしたのさ……」

 

 俺の情報源は何もそのオカルト掲示板だけじゃあない、京都……。俺たちの町について知りたいならそのように範囲を絞り込めばいい、そうしてログを漁りスクロールを繰り返す中で恐らく例の一文の元ネタに当たるであろう詳細なそのウワサの概要に行き着いた。

 

 要約するならこうだ

 

 

 

 

 ”京都は深草、伏見稲荷。千本鳥居を抜けた先の奥社奉拝所の背面には不自然な鳥居がある。階段には無数の小さな鳥居が敷き詰められ登る事が出来ない、鳥居の向こうは鬱蒼とした森である。

 

 存在する理由も、その由来さえも不明なこの場所こそが社殿への本当の「入り口」なのだ。現在、本殿とされている山麓の社に神はいない、本来の伏見稲荷とは稲荷山の山中に存在して然るべきだ。

 

 午前2時43分、そこには裂け目が開かれる。その向こうは過去に取り残された稲荷山の結界のその中なのだ”

 

 

 

 

「って事で、どうだ? 夜の伏見稲荷に行ってみようぜ」

 

 蓮子は意外にも即答した。

 

「うん、いいわよ」

 

「あら蓮子、意外に即答なのね。驚いちゃった」

 

「そんな難儀な性格してないわよ私、京都でも有数のパワースポットなんだから、ウワサが嘘でも本当でもいいじゃない」

 

「そう言ってもらえると、助かる。できれば本当だと助かるんだけどな……」

 

「何かワケがありそうな濁し方ね、でも願いが叶うって話はウワサのオリジナルにはないんでしょ」

 

 そう言って蓮子は試すような眼差しで俺を見る。確かに、蓮子の言う通り……。真意は別にあるのだが、まだ言わない。言わなくていいだろう。

 

 二人には悪いが個人的な話だから

 

「いや、別に。一応結界暴きのサークルなんだから結果が出るに越した事はないだろ」

 

「ふーん、まあいいわ。とりあえず今夜決行ね」

 

「いいのか? 別に明日でもいいんだぞ」

 

 今日は土曜日、明日もあるので無理に急ぐ必要は無いと思っている。そうでなくとも急な話ではあるし、二人も都合があるとは思ったのだが

 

「善は急げ、よ。メリーは行った事あったっけ伏見のお稲荷さん」

 

 メリーはこちらの話を聞きながら黙々と食べていたが、手を止めた。

 

「良く考えたら行った事ないのよねえ、京都に住んでるのにさ、蓮子がアングラな場所ばかり連れて行くからかしら」

 

「アングラで悪かったわね……。じゃあしっくり来ないかもだけど、多分元ネタの元ネタは”遷座伝説”よね」

 

「別に良いわよ、むしろ取って置けたってことでね、それより遷座ってご神体を移動させる事よね。遷宮とも言うんだっけ……それが何なの?」

 

「伏見稲荷にはね、室町時代にその遷座が行われたっていう伝説があるの、昔は山の中に稲荷の祠があったのを山麓に移した、とかあくまで伝説だけどね」

 

「おいおい、本当に博識だな……。俺が徹夜で調べて頭に詰め込んだのを当たり前のように話すとは……ヘコむなあ」

 

「プランクを自称してるんだから当然よ、物理以外でも広い見識……。これが宇佐見蓮子なの、まだわかっていないのね」

 

 実力は確かだが、自分の優秀さを過信し過ぎなのはもう仕方ないか、とはいえ話が早いのは助かるワケだ。

 

「はいはい、蓮子は賢いわよ。でも確かに符合するわよね、その書き込みにも山中にあって然るべきとか書いてあったんでしょ」

 

 蓮子が茶化してメリーが修正という定形が出来上がっているのもなんだか面白い、蓮子の天才故の少し俗世から離れたノリに対してのメリーは程よいリミッターになっているように思う。仲が良いのは何よりだ。

 

 ただ能力から考えればメリーの方が現世から離れがちなのは皮肉だろうか。いやその能力故なのかもしれない……。

 

 

「蓮子はもちろん知っているだろうが、伏見稲荷の神体は稲荷山そのものなんだ。現在の伏見稲荷は宇迦之御魂神を祀っているけどそれが文献に登場するのは室町時代からだ」

 

「そうね、伏見稲荷と言えば渡来人の秦氏に由来があることで知られているけど、秦伊侶具の時代、伏見稲荷が創られた話には宇迦之御魂神の名前は出てこない、稲の神……五穀豊穣の神性だけしかわからないのよ」

 

「文献にその全てを委ねざるを得ないんだから結局真実は無い、後世の人間によっていくらでも書き換えられるからな……」

 

 つまるところ祀られている神様の名前も現代に生きる俺たちでは正確に知る事は出来ず在り合わせの情報から推測を立てる事しか出来ないのは悔しい所だ。

 

 尤もそんな事を知らなくたって人々は神社をお参りして満足する訳だから、おあつらえ向きのご利益と歴史さえあれば神社を運営する側としては問題ないのだろう。

 

 

 

 

 カップの珈琲を静かに啜る。上にトッピングされたバニラアイスが解け始めたハニートーストを大きく切って口に運んだ。小難しい話をするのであれば糖分は必須である。

 

 すでに半分程平らげたメリーは言う。

 

 

「うんうん、神様の名前はさておいて……山頂に本来のお社があったのは間違いないのねでも、あの山っていくつかの峰に分かれてなかったけ……。どこがその山頂なのかしら」

 

 ごもっとも、稲荷山は富士山のように綺麗に、壮麗に一つ聳え立っているわけではない三つの峰に分かれているそれを総称しての御神体”稲荷山”だったはずだ。

 

「メリー、そうなんだけど、それもわからないんだよな。神体山の稲荷山、標高は確か233mだったかな……。かつては古墳だったみたいで、三番から、下、中、上……。と中世の日本では呼ばれていたそうだぜ。まあ、それだけ古い、故に情報は不透明って訳だな」

 

「考えても仕方ない、か……。百聞は一見に如かず、その為の私の目なんでしょ、行ってみれば自ずとわかるわよ、きっと」

 

 そう言ってメリーは笑った。

 

「メリーの言う通りよ、三人で暴き出しましょう、稲荷山の結界を。で、本当のお社に詣でるのよ。ね、楽しそうでしょ」

 

「はは、ありがとう。悪いな、付き合わせて」

 

「いいのいいの、暇だからねえ」

 

 蓮子は相変わらずのすまし顔でカップを傾けている。

 

「蓮子は知らないけど、私は三人で出かけるだけでも楽しいのよ、いつも蓮子に振り回されっぱなしだし……たまにはあなたに引っ張られたいな、なんてね」

 

 メリーは少し意地悪な微笑を湛えて言う、そんな表情がやっぱり彼女に似ているような気がしてしまう。

 

 そうでないとは分かっている、境界を視る瞳を持っていようと。彼女はマエリベリー・ハーンでいてくれればいい。

 

「メリーにそう言って貰えるのは光栄だ、手を引いてエスコートしたい所だが、蓮子が怒りそうだからな」

 

「当たり前よ、あなたにメリーは渡さないわ、この子の手を引くのは私の仕事よ」

 

「ほらなメリー、騎士様が近づけちゃくれない」

 

「嬉しくないわねえ……」

 

「とか言って本当は嬉しいんでしょ、メリーは照れ屋よね。あ、そうだ……私も甘いの頼もうかな」

 

「どうぞ、前は蓮子に奢ってもらったしなあんましメリーをからかうなよ」

 

 

 

 和気藹々と会話をしながら、昼下がりのお茶会は続く。

 

 夜が深まるまでは、こうしてのんびりとしていよう。

 

 京の魔界に挑む為に……。

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございました。
若干の投稿ペースの遅れはあるかもしれませんが、相変わらず書いていくつもりですので、どうかよろしくお願い致します。

感想お待ちしておりますm(__)m


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第十話 「思惑 赤より朱い道」

こんばんは、お久しぶりです。
私事で忙しいのと、単にスランプ気味なのも相まって筆が遅くなりがちで本当に申し訳ない気持ちです。何とか完結を…

前回の続きのお話です。次のお話でとりあえずこの伏見稲荷編は完結のつもりですが遅筆気味ですので、なにとぞご了承くださいまし。

それでは


 十話「思惑 赤より朱い裏参道」

 

 

 

 

 

 

「何人か鏡を把りて魔ならざるものある。魔

 

 を照らすにあらず、造るなり。即ち鏡は瞥見す可ものなり、熟視す可ものにあらず」

 

 

 

 

 

 深夜の表参道は不気味なほど静かに静まり返っている。夜の帳も降りきったその中で歩く三人の、石畳を踏みしめる無機質な音だけが反響している。

 

 ふと、メリーが呟いた。

 

「ここが伏見稲荷大社なのね。何だかそれっぽい雰囲気があるじゃない」

 

「当然よメリー、ここは24時間参拝可能なところが売りだもの、こうして最低限の照明は付いているでしょ」

 

 メリーと並んで歩く蓮子の声もまた静かに反響をしている。

 

「スズメやウズラの丸焼きを出す店が開いているなら、神幸道から行きたい所なんだが、この時間ともなると、どこもシャッター下ろしてしまってるから。表を行くしかないよなあ……」

 

「ええ、そんな禍々しい屋台料理があるなんて知らなかったわ。私もまだまだ京都知識には未熟ね……。天然物?」

 

「当然、天然さ。その分割高なのは否めないけど、肴には最高だぜ」

 

 小さな照明で、せいぜい足元が確かなくらいの明かりの中、楼門への道を歩く。

 

 

 

 

 

 聞こえる音は俺たちの会話のその音くらいである。深夜は二時前頃、草木が眠る丑三つ時は少々早いが、冷えた空気の蔓延するその道をいつも通りにくだらない会話を交わしながら秘封倶楽部は進んでいく。

 

 この伏見稲荷の結界を暴く、その為に。俺は俺の願いを抱いたままで……。

 

「知らなくていいわメリーは、丸焼きなんて今どき野蛮だもの。合成食品が主流のこの世の中で、よ。そんな物食べたがるのはこの人みたいな時代錯誤者くらいよ」

 

 蓮子は後ろから俺を指さしてそう言う。本当に酷い言い草だ。慣れてはきたが、こいつは俺に厳しい。

 

「いや見た目はアレだけど美味いんだって、食わず嫌いは良くないぞ」

 

「あなた程悪食にはなれないわ、あら楼門も全然明るいわね」

 

「本殿周辺は深夜でも全然明るいけど、白狐社くらいからはほぼ暗闇だぜ、懐中電灯でもあれば助かるんだけど」

 

「無いわよ、まあスリルがあっていいじゃない」

 

「明るすぎても雰囲気でないものね」

 

 表参道を進み、二番鳥居を抜ければ楼門が見える。階段前と門の両サイドで灯篭が煌々と灯っているので、思いのほか明るい。尤も朱の漆で極彩色に塗られた楼門は、その白光だけでは色あせて見えるが、かえって神秘的かもしれない。

 

 神社というのは日中と夜中で全く違う表情を見せる物である。

 

 深夜の神社は特別魔性のような雰囲気を感じさせるが、これは日本人特有の感覚なのだろう。

 

 しかしまあ、外国人観光客も近年は減ってきたし、今のところ誰にも遭遇せず済んでいるのは幸いである。

 

 結局、前時代では京都に求められていた観光需要も時代も都も移ってからは東京に求められるようになったのだから皮肉な話である。

 

 

 

 

 短い石段を登れば楼門の目の前である。

 

 その門を守護するかのように参拝者を見下ろす番の狛狐、その一つにメリーは駆け寄った。

 

「可愛いわね、稲荷と言えば狐だけど何でなのかしら、別に狐を祀っているわけじゃないんでしょ」

 

 メリーは初めての稲荷大社に興奮しがちである。

 

「これ、可愛いの? たまにメリーがわからなくなるわ……。うん、狐は稲荷伸の眷属だったはずよ」

 

 蓮子は足を止めて、メリーの言葉に返す。確かに暗闇の中の狛狐が可愛いというのはよくわからないが、メリーが楽しそうなのでいいとしようか……

 

 稲荷神社は狐を祭神とする神社だと思われがちなのだが、それは事実ではない。稲荷とは稲が成る……。というのが語源だというのが通説でここの主祭神である宇迦之御魂神も穀物の神である、とされているそうだ……。

 

「そうだな、どうも神仏習合に関係しているそうだぜ、鎌倉時代だったかな……。空海の弟子残した伝承に、白い狐の老夫婦が稲荷の眷属になったエピソードがあるんだそうだ」

 

「オススキとアコマチだったかしら、私も何かの本で読んだことがあるわ。それも何だか胡散臭い話よ」

 

「仕方ないんだよ、それは。その事実を暴く為に来たんだろう」

 

「私の目でね」

 

 メリーは俺の目を覗き込みにこりと笑ってそう言った。何だか圧力を感じるので取り繕うとしようか……

 

「ごめんなメリー、偉そうに能弁垂れてる俺も蓮子も結局はメリーの能力無しじゃあ何も出来ないんだぜ」

 

「なんで私も一緒にされてるのかしら、頭脳明晰で星を読める瞳……。あなたと同等になる要素なんて無いと思うけど」

 

「おい……俺はフォローのつもりで言ったんだけどなあ、蓮子の下らん見栄のせいで台無しだ」

 

「私だったらフォローどころか口説き落としちゃえるわ。ね、メリー」

 

 そう言って蓮子はメリーに後ろから抱き着いた。

 

 神聖なる社の門の前で何をやっているんだ……。なんて事は置いておいて、メリーが怒って蓮子に突きの一つでもかましそうな流れである。いや、それなら俺も安全ではないか……。

 

「蓮子……。もうその手には乗らないからね」

 

「あら、怒らないのね。私を受け入れてくれったってことかしら」

 

「許してくれたんだからやめとけって……」

 

「あなたも大概よ……。でも能力だけで評価されてると思うと寂しいわねえ……」

 

 メリーは拗ねたように口を尖らせた。何だか悪い事をした気持ちである。確かに秘封倶楽部の活動にメリーの境界視の能力が不可欠なのは間違いないが、俺も蓮子もそれは抜きにしてメリーの事を一人の人間、友人、仲間として大切に思っている、はずである。

 

「確かにメリーの能力は頼りにしてる。けどそれ以前に俺は一人の友達として大切……っていうかリスペクトしてるぜ。蓮子はどうか知らんけど」

 

「冷血動物扱いしないで欲しいわね、私のメリーへの愛はあなたが一番知っているはずだけど? キャンパスの窓際で物憂げな顔したこの子に声を掛けた日から私はメリーの虜なのよ」

 

 と蓮子は相変わらず臆面もせずに言う、ふざけているようで蓮子はこれで真面目なのである。

 

 メリーもそんな言葉に呆れたのか、それとも機嫌を直したのか笑って言う。

 

「ふふ、恥ずかしいからもういいわよ。でもありがと……。さて、本殿は参拝していくのかしら」

 

「折角だからしていってもいいぜ、今何時かわかるか、蓮子」

 

 蓮子は嫌そうな顔で空を見上げる。

 

「2時6分45秒……。まだ例の時間まで余裕あるわよ。というか時計見たらいいんじゃないの」

 

「いいだろ別に、いつも聞きもしないのにぼそぼそ時間呟いてるじゃないか……。それじゃあお参りしていこうぜ」

 

 

 

 

 楼門を越えた先に見えるのは外拝殿である。この外拝殿は別に参拝する場所ではなく、何らかの祭事の際に神楽や舞踏を奉納するための舞台なのである。

 

 話題に挙がる本殿はその舞台の向こう、石段を登った先、内拝殿と接して建っているのが本殿である。

 

 楼門を抜けて、その舞台を左に砂利を踏みしめながら歩く。

 

 相変わらず静かで薄暗い境内には三人のその足音だけが響いていた。

 

 蓮子の言う例の時間とは、結界の裂け目が開くとされる”2時43分”の事である。

 

 暗いとはいえ目的の奥社奉拝所まで登るのもここから二十分とかからないので、メリーも乗り気な事だし、少し寄り道してこの伏見稲荷の”表”の本殿を拝んでいくことにしようか。

 

 外拝殿からしばらく歩き、件の内拝殿に辿り着いた。伏見稲荷を象徴するとも言える鮮やかな赤色の柱と梁、その上に黒い屋根が曲線を描いて乗っかっている。

 

 順路通りに行くのであればまず地元の人間だろうと観光客だろうとこの社に詣でる事だろう。そんな本殿に真実の稲荷伸がいないというのは空虚で悲しいが、参拝という文化そのものにも、また意味や意義はあると思うので

 

 俺も蓮子もメリーも木製のくすんだ賽銭箱に思い思いの小銭を投げ入れ、幾本か天井からぶら下がる紅白の布を引き、揺らした。

 

 

 

 そして二度、頭を垂れ。二度拍を打つ……

 

 ふいにメリーが俺に問う。

 

「何を、お願いしたらいいのかな、あなたはどうするの?」

 

「ああ、そうだな。結界暴きが上手くいきますように……。とか」

 

「じゃあ、私もそうする。本命のお願いは後に置いといてね」

 

「本命か、よっぽどの願い事なのかな」

 

「それは内緒、詮索したがる男子は嫌われるわよ」

 

「ご忠告痛み入るな、見ての通りの有様だぜ」

 

「そう開き直らないで、冗談よ。私も人の事言えないしねえ……」

 

 そう言って笑うメリーの声にはやはり何か物憂げな雰囲気があった。「向こう側」への妄執に囚われた俺も、「向こう側」に迷い込む彼女も……。その現実の希薄さにおいては同じなのかもしれない。

 

 結界の向こうを見てもなお現実と幻想をフィフティフィフティで見られる人間なんて我らが会長くらいしかいないのではないか。

 

 その会長は長い黙祷を終え、こちらに向きなおった。

 

「二人とも参拝中に何喋ってるのよ……済んだなら行きましょ、時間は迫ってるわ」

 

「蓮子ったら長々と目瞑ってたくせに時間なんて気にするのねえ」

 

「月旅行に行けますように、とか色々お願いしとくのよ」

 

「行きたきゃバイトでもすればいいじゃないか」

 

「するわよ、そのうちね。さあ件の奥社奉拝所に向かいましょ」

 

「まだ二時十分だ。道も暗いし焦らず行こうぜ……」

 

 

 

 

 内拝殿、もとい本殿の横を左に進めば、また赤い鳥居と短い石段が見える。ここまでくればかの有名な”千本鳥居”も目の前である。

 階段を登ってすぐ、目の前に見える社は確か玉山稲荷社とかいう名前だっただろうか、確か稲荷伸の分霊を祀る神社であったはずだ。最低限の照明しかない薄暗闇の中でもよく目立つ赤い漆の玉垣と主張の強い装飾はさすがは分社と言った所である。

 

 とはいえ、本殿を参拝した後。それにのんびりもしていられないので先を急ぐとしよう

 

 玉山稲荷を右に曲がればいよいよ千本鳥居の入り口が見えた。

 

 ちょうど、その入り口に突き当たる前あたりに小さな祠が見える。蓮子は立ち止まり、その社を俺の後ろを歩くメリーに指し示して見せた。

 

「メリー、ここに建ってるのがさっき言ってた白狐の祀られる社よ」

 

「伏見稲荷の眷属なのよね。結界の向こうなら可愛い白狐達に会えるのかしら……。でも狐を祀っているなんて珍しいわよねえ」

 

「会わせてあげたいけど、まだ不確定だなあ、例の書き込みからは結界の向こうの詳細なんて一切読み取れないし……。ただまあこの白狐社は世界で唯一、白狐の霊を祭神とする神社なのは間違いないぜ」

 

 そう大まかに説明して、千本鳥居のその中へと足を踏み入れるつもりだったのだが、蓮子がまた嬉しそうに口を挟んだ。

 

「ここに祀られているのは、真雅の稲荷流記に書かれる狐の老夫婦、その妻であるアコマチというのが神社の見解なのよ、暗くて見えないけど、そこの解説板にもそう書いてあるはずだわ」

 

「ふーん、蓮子は相変わらず物知りねえ、真雅って弘法大師の弟子だったんじゃなかった?」

 

「その通り、弘法大師……。空海の一番弟子それが真雅だ。結局は狐と稲荷を結びつけたのは神道とは袂を分かつはずの密教真言宗の思惑によるものだったって訳さ、神仏習合……悪く言うなら自分の仏教を浸透させるツールとして稲荷信仰を利用したんだな」

 

「えー、何だか夢のないお話ねえ。それじゃあ稲荷と狐は本来では全く関係ないって事なの?」

 

 メリーは露骨に嫌そうな顔をする。この薄暗い中でも顕著にわかる程に、確かに史実ではそうなってしまうがっその史実とやらも後世の人間がその文書を改めれば簡単に書き換えられる物である。

 

 メリーの稲荷社への幻想を壊してしまうには根拠もないし忍びない、結界の向こうという真実を観測するまでは、どんな希望的観測もあり得て然るべきだと思う。

 

 そんな俺の杞憂を察してか、千本鳥居の入り口のその前で立ち止まる俺たちの中で蓮子は言う。

 

「まあ、メリー。史実を遡った先のおあつらえ向きの真実はさておき。数百年と人々が崇め、信じた稲荷像は簡単には虚無に還らないわ、きっと事実としてこの世に残り続けるはずよ。人の総意って、思う以上に強力なのね、物理学の徒である私が言うのも心苦しいけど」

 

「結界暴きが禁じられるのも納得だよな、行こうぜ」

 

 白狐と奥宮を越え、ついぞや千本鳥居へと足を踏み入れる……。

 

 

 

 鳥居から屋根の着いた灯篭風の照明器具が等間隔に並んでいるが、その間隔もかなり広く千本鳥居の中はほとんど暗闇といえる。その頼りない白い灯りを頼りに無数の鳥居の織り成すトンネルの中を三人はなおも進む。

 

「わあ……。幻想的ねえ、本当に千本あるのかしら」

 

「千本どころか、一万基はあるってのが通説らしいなあ、稲荷講が奉納しやがるんで今でも増えてるみたいだぜ」

 

「今じゃあ一万数千基だっけ、数えてはいけない、みたいな下らない都市伝説もあったかしら」

 

「実際の数は分からないな、稲荷のご利益のあやかりたい連中が奉納した欲望のトンネルなんだからさ」

 

「つくづく、夢のない話ね……」

 

「それも結局後付けなのよ、稲荷は本来五穀豊穣の神様なんだから……」

 

 小さな白い光と、赤い漆塗りの鳥居が寄っては過ぎていく。

 

 沈黙、暗闇……。そんな中、もう少しで奥社奉拝所へ辿りつこうかと言う時、数万基の鳥居の作り出す光と影、その中で蓮子は俺に言った。

 

「さて、そろそろ目的地に着く事だし……あなたの本命、話してくれてもいいんじゃないの?」

 

 鋭い眼差しだ。

 

 案の定俺がもう一つの目的を隠してここまで来た事は蓮子には筒抜けらしい、元々感情を隠すのは苦手な方なのだ、ずっと隠し通すほどの事でもない……。

 

 そろそろ、二人には話してしまおうか。

 

「ずっと……、黙っていて悪かった。余りにも個人的な話だったからな……。蓮子、メリー、

 かつてこの稲荷山に存在した”谺ヶ池”を知っているか?」

 

 蓮子はその影の最中、しばし考えから思い出したように言う。

 

「谺ヶ池……。ああ確か、私達が生まれる前の震災で枯れて、埋まったとされている幻の池だったかしら」

 

「そうだ、先の震災で、今は跡形もなくなってしまった……この伏見稲荷の新池の事さ」

 

「今はその畔の熊鷹社だけが残っているのよね、でその池がどうしたのかしら」

 

「谺ヶ池って名前の由来、なんだと思う?」

 

「それなら……

 

 言いかけた蓮子を遮ってメリーが言う

 

 

「ストップよ、どうせ蓮子は知ってるんじゃない。仲間外れも癪だから私が当てさせて貰うわね。ずばり、その池は声が良く響く地形なのね。やっほーって、だから谺ヶ池……合ってる?」

 

 自信満々の笑みである。

 

「さすがはメリー、勘が良い。ほとんど正解だ。それともう一つ、ある言い伝え、というか伝説に由来するんだが……」

 

「ほら合ってたでしょ、それでその伝説ってどんなの? それが目的なんでしょう」

 

「ああ……。伏見稲荷の七不思議の一つに数えられる谺ヶ池の伝説、失せ人を探す者が池の畔に立ち、拍を打つ。するとその音は反響し、やがて宣託となり失せ人の手がかりを教える……。そんな話だ」

 

 蓮子は俺の言葉に、何か察したようなそんな顔で答えた。

 

「なるほど……。あなたはそのウワサを信じて、そして一縷の望みを託した訳ね、最初から言ってくれればいいのに……。でその池は」

 

「ああ、例の結界の向こうには、まだその池が取り残されているそうだ……。すまないな、恥ずかしくて言えなかったんだ」

 

「あなたが私達と結界暴きを共にする理由、それくらいは分かっているわ。だから変に気を遣わない事ね……。あなただって秘封倶楽部の一員、そうでしょう?」

 

 蓮子はポケットから、そう……懐かしい、いつかの月夜に蓮子……彼女が俺とメリーに渡したESPカードを取り出して見せた。星の記号が描かれたカード、彼女の大叔母「宇佐見蓮子」の遺品である。

 

「ふっ……。そうだよな、ありがとう蓮子、もちろん大事に持ってるぜ、ほら」

 

 奥社へ続く鳥居の前……。俺も財布に仕舞っておいた一枚のカードを取り出して、見せた。

 

 十字の記号が記されたカードである。

 

「私も持ってるわよ、この禍々しいカード」

 

 そう言ってまた俺と同じように、メリーも一枚のカードを取り出す。

 

 波の記号が記されたカードだ。

 

 蓮子は満足げに頷く。

 

「よし、それじゃあ秘封倶楽部を始めましょうか」

 

 

 

 

 千本鳥居を抜けきり、目の前に広がるのは暗闇と、その中に浮かぶ赤い建物だけである

 

 ここ”奥社奉拝所”のあるこの場所は古来から「命婦谷」と呼ばれている。稲荷山そのものを神体とする稲荷信仰において、稲荷山三ヶ峰と接するこの場所は聖域と人間界の境界としての意味を持つ。

 

「その怪しい鳥居とやらはこの向こうにあるのかしら?」

 

「見ればわかるよ、かなり異質だからな……結局何に由来する物なのかも分からないし」

 

 暗闇の奥社奉拝所、前方に見えるのは神体たる霊峰のつくる影のみ、であり。拝殿に灯された照明より漏れ出る光を頼りに、その拝殿の横を進む。

 

 メリーに答えたように、その不可思議な鳥居は本殿の真後ろ、背面にあるのだ。

 

 奥の院、その拝殿の横を歩く

 

 赤い本殿を通り抜けた先、稲荷山と接する境界……。その場所に”それ”はあった。

 

 

 

 崖に並び立つ玉垣のその中心、空間に作られた。石段、その一面に小さい鳥居が敷き詰められている。

 

 確かに登れそうにはない……

 

 その気味の悪い石段の奥には赤も剥がれた鳥居が暗闇に聳え立つ。

 

「ここが例の場所ね、雰囲気は申し分ないわ。メリーはどう?」

 

「うん……。揺らぎというか力場は感じるわね、あのカードみたいに……」

 

「メリーがそう言うんなら、間違いなさそうだ……。今は、二時四十分ちょうど……」

 

「ちょっと、時計持ってるのなら私の目に頼らないでよね」

 

「こう鬱蒼と木が茂ってるとその能力も使えないだろうから、こうやってしょうがなく腕時計を見てるのさ」

 

「分かるわよ。少しでも空が見えるならね、二時四十一分三十秒……。違って?」

 

「ああ、合ってるな。いや、便利な能力じゃないか」

 

 俺と蓮子の下らない言い争いに耐えかねたかのかメリーが割って入る。

 

「もう、そんな話は良いわ。もうすぐ結界が開く時間よ。さあ、私の手を握って」

 

 そう言って、メリーはその白い両の手を俺と蓮子に差し出す。

 

 俺に手を握れというのか……。どういう理由かしらないが、いきなりは憚られるというものだ。

 

 そんな俺の焦燥を察してか、嘲るように蓮子が言った。

 

「そーいえば、あなたは知らなかったわね。メリーの体に触れていれば、そのビジョンを共有できるのよ。顔赤くしてないで、ほら早くしなさい」

 

 全くの初耳である。何だか図星を突かれたようで気に食わないが、もう時間もない。

 

 ええい儘よ。とメリーの手を握る。柔らかくそして冷たい手だ。

 

 なんて言っている場合でもないか。

 

「こんなに暗くてどうして俺の顔が見える。デタラメ言うのは止せよ蓮子、じゃあカウント頼むぜ」

 

「準備は万端よ、蓮子……お願い」

 

 今は何分か……。そんな思慮を遮るように蓮子が空を見上げて、叫んだ。

 

「わかっているわ、1、2、3.2時四十三分ジャスト!」

 

 蓮子の、その声が耳に届いた瞬間……

 

 

 

 

 

 

 

 視界がブラックアウトした……。

 




ここまで読んでくださりありがとうございました。
忙しいながらも必死のパッチ(古い)で執筆中でございます。

感想などいただけると本当に励みになるのでよろしければお願い致します。

それではまた。


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第十一話 「迷いと岐路 晦冥に耳を立て」

お久しぶりです。
迷いの伏見稲荷編(迷走中)は次のお話で終わり、と文字が多くなりそうなので延長させていただきます。
頑張って書いていきますのでよろしくお願いいたします。

それでは


 第十一話「迷いと岐路 晦冥に耳を立て」

 

 

 

 

 一瞬の暗闇、それが晴れたとき。目の前に広がったのは変わり映えのしない赤い鳥居である。

 

 俺は、いや俺達は確かに奥社奉拝所の鳥居から稲荷山の結界に侵入を試みたはずであった。

 

 

 

 

 しかし目の前に広がる景色は先ほど通ってきた千本鳥居と相違なく見えるのどうしたものか……。

 

 右手には、柔く冷たい感触があるのがわかる。

 

 隣を見れば、蓮子もメリーも隣にいるし、三人で結界を越えてきた、という事でいいのだろうか……。いや三人揃って狐に化かされたとかそんな事なのだろうか

 

 目の前に広がった景色に蓮子は少し戸惑いを含んだ声で言う。

 

「結界を越えた、のよね。うん、確かにこの現実のようで現実味のない感覚は間違いない、つまり成功ね」

 

 蓮子は何やら納得したようで、興味深そうに周囲の空間を見渡しながら、鳥居の作る道を進んでいく。

 

 言われてみれば、何だか不思議な気持ちではあるか。

 

 白昼夢のようとでも表現すればいいのか、意識も鮮明で五感も働いているのに、妙に現実感がない……。

 

「明晰夢ってのはこんな感じなんだろうなまあこうして誰かと話せる時点でただの夢じゃない」

 

 そう、こうして話が出来るのだから夢なんかでは決して無い……。

 

 脳裏、その向こう。記憶の片隅にある景色がまた、フラッシュバックする。

 

 一面のシロツメ、青く高い空……。

 

 そうだ、俺はこの感覚を知っている。懐かしく、そして非現実的で……。

 

 だけど”この記憶”は夢なんかじゃない、そう信じてここまで来たのだから、この千本鳥居と変わらぬ景色も何か、きっと不思議を秘めている。

 

 少しぼおっとしすぎたのは、この懐かしい感覚のせいか……。

 

 メリーの声かけにふと我に返る。

 

「心ここにあらず、って感じだけど大丈夫? あと二人して夢みたいに言うけど、私にとっては紛れもない現実なのよねえ……」

 

「ああ……、ちょっと物思いに耽りすぎたかな。少し昔の事を思い出してたんだ……。ありがとうメリー、そうだな。ここは夢じゃなく確かに存在するもう一つの世界だろう」

 

「ふふ、どういたしまして。蓮子は随分と先に行ってしまったみたいよ」

 

 

 

 そう言われて、前方を見ると。蓮子は長い鳥居のトンネルの先で中折れ帽のツバを持ち上げながら、こちら振り向いて早く来いと促しているようである。

 

 未知の空間で怖気付きもせず、楽しそうに駆けていく蓮子の姿は、いつも通りの活動の始まりを感じさせるようで何だか安心してしまう。

 

 さて、その背中を追いかけようと足を踏み出したその時、左手の感触、メリーの手を握ったままでいる事に気づく。本当に耽り過ぎたのかはたまた結界の向こうの感覚が懐かしすぎたためか……。

 

「あら、本当に手を引いてエスコートしてくれるのかしら?」

 

「蓮子の役割だろ、そういうのは。それにそういうのは柄じゃないし慣れてない」

 

 俺はそう言って、その手を解くつもりであった。結界越えてから、どうにも記憶がフラッシュバックして仕方がない。

 

 そういえば……俺はいつも手を引かれてばっかりだったように思う、そうして彼女に手を引かれ……不思議の世界を駆け抜けたのだ。

 

 極彩色の鳥居群、その景色よりも鮮やかに廻り廻る記憶……。

 

 

 

「つれないのね……。何事も経験でしょ、どうせあなたにも蓮子にもこの景色は夢みたいな物なんだから」

 

 そう言われると、この手を放してしまうのも格好悪い気がした。まあメリーも俺と蓮子をからかっているのだろう。

 

 いつもは暴走気味な会長、蓮子を制御してくれる存在がメリーなのだが、かくいう彼女も調子が乗ってくると蓮子並みの頓痴気を発揮するのは困った事……。

 

 ではあるが、そうして年相応に笑っている彼女の表情は、今にも消え入りそうな窓辺に浮かべる顔とは違って、そこに間違いなく存在することを感じられるようで、好きだった……。

 

 そうして俺はメリーの手を引いたまま、この石畳の道を進む事にした……。

 

「蓮子は随分先まで行ったみたいだし、そこまではこのまま行こうか」

 

「うん……、私の我儘に付き合ってくれてありがと。蓮子が何ていうか楽しみねえ。それにしても何だか不自然に明るいと思わない?」

 

 また、寄っては過ぎゆく鳥居の中を左腕の重みを感じながらゆっくりと進む。

 

 その手の感触に気を取られていたというか殆どの神経を集中させていたせいで気が付かなかったが、確かにLEDも蛍光も灯らないはずのこの場所なのだが、こうして歩くには不自由無いほどに明るく見える。

 

 鳥居の隙間から見える外側の景色は森か山か判断出来ぬ程の暗闇だというのに、この無数の鳥居の織り成すトンネルの中は、目の前も蓮子の立つ遥か前方の景色も、例えるなら均一に……。

 

 視認が滞らない程度には照らされているように見える。付け足すようではあるが勿論、照明器具の類は見当たらぬ空間の話だ。

 

「本当だな、狐火でも飛んでるんじゃないか、理屈の通じない場所だしさ」

 

「狐火だったらいいな、でも本当のお稲荷さんと狐は関係ないのよね。どうして今の形になったのかしら……それに千本鳥居のあるこの結界はいつの時代の稲荷なのか……。興味は尽きないのよね」

 

「稲荷信仰に狐のイメージを持ち込んだのは例にもよって空海で間違いないだろうな、大陸から持ち込んだ密教の神を稲荷伸と習合させたんだと」

 

「狐の神様なの?」

 

「荼枳尼天とかいう名前だったかな、狐に跨った女神、元は人肉を食らう夜叉だって。いやまあだから何だって話だとは思うが」

 

「あなたはその池で宣託を聞ければいいんだもんね~。たぶん私も蓮子も探したい人なんていないし、”稲荷大社の真実”が知れるに越した事はないわ。そういえばダーキニーは聞いたことある気がする、インドの怖そうな神様よね」

 

「いや……まあ確かにそれが目的で来たは来たんだけど、二人と出かけるだけでも楽しいんだ、メリーが前言ってたみたいに。なにせこうして可憐な少女の手を引ける事なんてそう無いしなあ」

 

「可憐な少女じゃなくて世にも恐ろしい夜叉の話なんだけど……。でも褒められるのは満更じゃないかもね、ありがとう」

 

「ああ……、どういたしまして。俺の歩幅速すぎたりしないか?」

 

「ん、大丈夫よ予想外にね。それにデートじゃ無いんだからそんなこと気にしなくても……、いや気にした方がいいかも……」

 

 そう言ってメリーは目を伏せるようにして言った。何か恐ろしい物でも視たかのように

 

 一体何が、と前方を顧みた俺は。十数メートル先の鳥居の中で、今にもはち切れそうな怒りか呆れのような表情を浮かべる蓮子を見てメリーの心中を察した。少々待たせ過ぎたようだ……。確かにのんびり歩いている余裕は無さそうである。

 

「ああなるほど……、走ろうか」

 

「ええ……そのつもりよ」

 

 マエリベリー・ハーン、彼女の手を引いたまま、足を速め走り出す。

 

 ゆっくりと寄って、過ぎてを繰り返していた赤い鳥居の群れも、その加速度の中に霞んでいく。

 

 左腕の先、彼女を気にかけながらも、駆り立てられるようにそのたかが数十メートルの石畳を駆ける。

 

 何で全力疾走しなければならないのか、夢見心地なおかげかそれもわからない。

 

 けれど思いのほかメリーは楽しそうだ、上がりそうな息、金色の髪を靡かせる彼女は俺に言う。

 

「あはは、楽しいわ。千本鳥居の中を疾走するなんて」

 

「はぁ……それは……何より、だ」

 

 この世界も視界を共有される側の俺や蓮子からすれば鮮明な夢なのかもしれないが、非常にリアルな徒労感である。

 

 

 

 息も絶え絶えで、何とか蓮子のいる地点まで走り抜ける事ができた。メリーはそれほど疲れた様子も無さそうだ……

 

 手を引いて来たのだから同じ位のペースで走ったはずなのだが、よりこの世界に実感を伴うメリーよりも自分が疲れ果てているという事実は単に肉体よりも精神の衰えを感じさせ、少し凹んでしまう。

 

「あー疲れた、運動不足かな」

 

「んな訳ないでしょう。私達からすればここは何でもありの夢の中、疲れていてどうするの、というか手なんて引いちゃって……これは浮気現場かしら?」

 

 待ちくたびれた会長は訝し気な眼差しでそう言った。こればかりは全く想像通りの反応だ。

 

「そう来るよなあ、これはメリー嬢きってのご要望なんだが……。うん、まあそれはいいとして、どう思う?」」

 

「良くないわよ……。そうね、まだゴールは見え無さそうだけど。変化には気づいたわ」

 

 そう蓮子は言う。変化か、後方を振り返れど鳥居がただ続いているだけである。そもそもここまでの道のりは、変化に気づける程の

 余裕を持てる状況では無かったが。

 

「その変化って何だ?」

 

「鳥居よ」

 

 蓮子は向かって真横にある鳥居を指さした。

 

「この鳥居は八幡鳥居って言って八幡神社に多く見られる鳥居なのよ」

 

「へえ、よく気づくなあ。確かに八幡の物が稲荷にあるのは……おかしいか?」

 

「何で疑問形なのよ、でもその通り。別におかしくは無いわ、稲荷と八幡のそのルーツさえ知っていればね」

 

 一夜漬けの勉強の甲斐もあって、蓮子が今まさに言わんとせん事は何となく分かった。八幡と稲荷、その成立に関わる一つの氏族。

 

「秦氏か……。なるほどな、その伏見稲荷の真実とやらには絡んできそうな気はするけど」

 

 

「それも、進んでいけばわかるでしょう。恐らくだけれど、この結界は稲荷大社の記憶そのもの……。そんな気がするのよ」

 

「女の勘、か。何にせよ進まん事にはわからないって事じゃないか、悪いが俺は谺ヶ池の方を優先するぜ……」

 

「ええ、わかっているわ。そうしてあなたがどこかの誰かに思いを馳せて神頼みしている間に、メリーと稲荷の歴史旅行を満喫する事にさせて貰うわね」

 

「ああ……。そうしてくれればいい、前を見てみろ、どうやらY字状に分岐しているみたいだ。左の道を下れば恐らくその池に続いているはず、二人は右側で俺は左だな……」

 

 

 

 

 結局、俺は過去の妄執に囚われたままでいるのである。彼女達はいつだってまだ見ぬ未知の道への好奇心に溢れているというのに、俺の足を駆り立てるのはただ過去への執念だけ……。

 

 蓮子にメリー、彼女達と本当の意味で同じ歩幅、足並み揃えて歩ける事は無いのかもしれない。

 

 そんな事は考えたくも無いし思っていたくもないが。彼女らと俺ではまた履いている靴が違い過ぎるのも事実な訳だ。

 

 マエリベリー・ハーン、彼女の手を離した俺は、体感にして十メートル弱先の鳥居の分岐路を左に進むべく、少し足を速めた。

 

 前を歩いていた蓮子を追い越すその時に蓮子は静かに呟いた。

 

「あなたはあなたの譲れない何かの為に突き進めばいい、私は私の好奇心のままにこの未知を進み、暴くつもりだから」

 

 薄暗く、薄明るい鳥居のトンネル……石畳の続く道の最中、蓮子はウインクをしてそう言った。

 

 しばらくの沈黙、石畳を踏みしめ進む俺と、二人の足音だけが環境音としての響きを持って、無数に連なる鳥居の群れと、その間に映す漆黒の晦冥の中で反響を続けている。

 

 そんな沈黙と暗闇の作り出す、所謂気まずい雰囲気に耐えかねたのか、その仄暗く妖しい光の中でその美しい金の髪を靡かせた少女、メリーはぼやく。

 

 

「ちょっとお……。二人で勝手に進めないでよね。秦氏がどうとかはさっきに聞いたけど、博識の蓮子が丁寧に教えてくれないと、いまいち要領を得ないわよ……。わかるように説明してよね」

 

 そう言ってメリーはまた頬を軽く膨らせて見せる。

 

 確かにその通りで、伏見稲荷に足を運んだのはこれで初体験のメリーにとって、確かに蓮子は勿体ぶり過ぎではあるだろう。

 

 彼女、メリーの能力無しではここまでたどり着けなかったのだから、それ相応の納得のゆく説明はあって然るべきではあるのだが、まあ意地の悪い蓮子の事だから、やっぱり勿体ぶって、俺が道を逸れた後で不承不承ながらに彼女の頭脳の辿り着いた真実の形を伝えるのだろう……。

 

「ごめんって、メリーにはちゃんと説明するわ、さあ行きましょ」

 

 

 思惑をお互いに抱いたままに鳥居の道の分岐点、その字路に辿り着く

 

「それじゃあ行ってくるぜ」

 

「うん、気を付けてね。何が出てくるかわからないし」

 

「俺は大丈夫、メリーの方こそ転びでもしたら大変だろ。ちゃんと見とけよ、蓮子」

 

「言われなくてもメリーは私が守るわよ、さっさと行ってきなさい。速く戻って来ないと結界の中に置いていくわよ」

 

「おー怖いな。わかったよ、とっととその神託とやらを聞いてきてやるぜ」

 

 俺はそう言って、二人に背を向けて早足に左に下る鳥居と石畳を進む。

 

 一人は少々心細く思うのも事実ではあるがこればっかりは俺一人で行かねばならないだろう。

 

 俺の過去に置いて来たものは俺がこの手で拾い集めるしかない。

 

 やはり不自然な明るさの中、未知への道その道中……。頭に浮かんで消えるのは谺ヶ池のその噂、震災で失われる前のその時代から”失せ人探しの神託”の噂は一部でまことしやかに囁かれていたようだが、この場所だからこそただの噂などでは無いと信じたい。

 

 常識の向こう側、本来人の立ち入る事の出来ない世界、神の座す結界の中だからこそ、そのウワサもこの世界においては理に変わるのではないか。

 

 白昼夢のようにぼやけた現実感の中で、なぜだか強くそう思った。

 

 そしてもう一つ、浮かんでくるのは。蓮子とメリーの事だ、妄執に突き動かされて独りこの道を進む俺の後ろ姿は彼女達にどう見えただろうか……

 

 俺のような男は結界に置き去りにされたって文句は言えないか、そう嗤う。

 

 

 

 体感にして何分ほど歩いただろうか、夢見心地で浮足立つようなこの空間ではその体感というのもあてにはならないが、何にせよ長い鳥居の道が終わり、視界が開ける……。

 

 

 

 

 

 

「ここが谺ヶ池、か。なかなか雰囲気あるじゃないか」

 

 鳥居を抜けた先、その右手から緩やかな曲線を描いて腰の高さ程の赤い玉垣が続いている。それがどこまで続いているのかはわからない、玉垣の向こうには黒い水面が僅かな光を受けて鈍く反射し、そこに池がある事は認識する事ができる。

 

 玉垣の赤をより際立たせるこの灯りは、どうやら道すがらに灯される蝋燭の炎に由来しているようだ。

 

 向こうへと続いていく赤い玉垣のその中ほどに、小さな社のようなものがある。これも蝋燭だろうか、その社の入り口からは爛々とした光が漏れだしているようだ。

 

 周囲が森なのか山なのか、それとも一切の虚無なのか。それもわからない薄明かりの中で引き寄せられるように、その社の方へと足を進める。

 

 

 

 

 その社は社と言えないほどに簡素な物であった。しかし、この池の伝説を立証するに相違無い存在感を持ち合わせている。

 

 その社の中には百はあるかという程の無数の蝋燭が灯され、揺れている。

 

 そしてその向こう、無数の蝋燭の揺らぎの中を横切り進めば、その漏れだす光に照らされた水面が目に映る。

 

 それはまた幻想的で、妖しい景色である。

 

 この池に隣接して建てられたこの社からはいくつか連って所謂”飛び石”のようなものが橙色の光に照らされてぼんやりと見える。そしてその先には……。

 

「池の中の鳥居、なかなかにおあつらえ向きだな。儀式を行うにはうってつけ……。けどあの形はどうしたものか」

 

 その飛び石の先、池のちょうど中心あたりに一際大きな石の足場が見える。

 

 その上に鳥居がかかっているのだが、その鳥居が何とも奇妙な形状をしているのである

 

 普通、鳥居と言えば対になった柱の上に笠木などの垂直方向の木柱や石柱が重なった形のものを想像するだろう。

 

 しかし、目前にあるそれは違った。

 

 

 

 三本の柱、正三角形に並んだそれが三角格子、カゴメ格子の一角のように、余りにも場違いに見える石柱からなるその鳥居は歪な円形の大きな飛び石の周囲を、やはり鳥居にしては歪な形状で囲んでいる。

 

 さて、ここまで来て引き返す訳にはいかない、と。大股に一つ目の飛び石に右足を掛けた。

 

「あの鳥居の中まで行って、柏手を打てばいいわけか……。分かりやすすぎて怖いよなあ」

 

 独りなのを、孤独であるのを良い事に。俺の悪い癖である声に出る独白は留まるところを知らない、隣でツッコミをいれてくれる誰かがいない事がこれほどにも寂しいものだとは久しく忘れていたように思う。

 

 それに、これだけおあつらえ向きにその「ウワサ」への順路が示されていると、どうしてか誰か、何かの思惑の上に転がされているようで非常に気に食わない。

 

 とはいえ、俺は進まざるを得ない事は理解しているので、渋々と次の飛び石へとぎこちない足取りで飛び移った。

 

 そうして相変わらずに薄暗く怪しげな雰囲気漂う周囲を見渡し、顧みた時。一つ小さな不安というか、恐怖のような感情が芽吹いた。

 

「そういえばここ、結界の中なんだよな」

 

 ふと、足を滑らせて、この暗い水面の下にでも落ちようものなら、永遠にこの命朽ちるまで虚無の苦痛を味わったりするのかもしれない……。

 

 いやもしくは死ぬ事も出来ずに永遠の暗闇の中、遠ざかる水面に縋りながら沈みつづけるのかもしれない……。

 

「なんてな……」

 

 何て馬鹿らしく愚かな思慮だろうか。

 

 死ぬことなんて、怖くも何とも無かったはずなのに。今は、ここから消えて無くなる事を恐れる自分がいる。

 

 臆病な感傷をかき乱し、打ち消すように飛ばし気味に、飛び石を蹴った。

 

 全く滑稽で、情けない。

 

 

 

 そして 三本の柱の織り成す鳥居の、その中に俺は立っていた。

 

 さて、ここまでくれば俺がやるべき事はただ一つ、と。深く目を瞑る、その間際に仄かに照らされた黒く波一つない水面に映るものを、黒い自分の影を見た。

 

 俺は一体どんな表情でここに立っているのだろうか、逆光に映る黒い影からは窺い知る事はできない。

 

 たったの一瞬、しかしその影は俺の心に不安を与えた。暗闇、目を瞑りきればそれがある。

 

 周りの様子が分からない、見ることが出来ない、理解できないことへの不安、恐怖……

 

 それらが顔を見せぬよう、この石の足場に強く足を踏ん張り、さらに目を深く瞑る。

 

 脳裏をよぎる数多の景色を必死で振りほどいて、俺は強く願い、思い出す。

 

 ただ彼女の事だけを……、幻想の野で笑いあったその日々を……。

 

 そして、両の掌で強く拍を打つ。

 

「彼女は今、どこにいるのか。どうすれば会えるのか……。教えて見せろ、稲荷の神よ」

 

 パン、と拍を打つ音、その音は暗闇の中を進み、そして反響する。

 

 このままでは単純に谺である。そうでは無く俺はもう一度、彼女に出会う為の手がかかりを得るため、一縷の望みを託しここまで来た。だからこそ、これでは終わらせない。

 

 そう思った時、反響する拍の音に不可思議な変化があった。

 

 残響を残し消え入りそうな音、そうあるのが普通であろう。

 

 しかしここは結界のその中、物理法則も人の作り出した理の何もかもも通じない場所である。

 

 気味の悪い事に、その音は増大の一途を辿っている。光の届かぬ暗闇の中へと放たれた音、それは様相を変え果てしない晦冥の中から再び俺の鼓膜と還ってくる。

 

「っ……」

 

 耳鳴り、それ以外に例えるのなら鳴音、ハウリングに近いだろうか。耳を裂くように波打つ金切り音は耐え難く声が出る。

 

 神の試練か、それとも闇の底から這いだした亡者たちの呻き声か……。

 

 なんにせよ、谺ヶ池の作り出す狂気染みた喧噪はその強さを増すばかりで、どうしようもなく耳を塞ぎたくなる。

 

 それでも、その先にある神託を、彼女への道標を信じ、三半規管を突きさすような金切り音を歯を食いしばり堪えた。

 

 何十秒程そうしていただろうか……。

 

 

 

 

 

 

 ある瞬間、その喧噪は言葉に変わる。そして直接に脳裏にそのメッセージを刻んだ……。

 

 

 

 

 

 飛び石を戻り、社を後にする。頭が痛い、気分はあまりよくなかった。

 

 そして何より、早く二人に会いたい……。なぜだろうか、そう思った。とっくに先に進んでいるだろうけど。

 

「本当に芳しくない、な……」

 

 知りたかった事、その言葉が脳裏に焼き付いたせいだろうか。速足に自分の下ってきた鳥居の中を駆け抜ける。

 

 

 

 

 薄明かりに浮かぶ自らの影法師から逃れるように……。

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
感想お待ちしております。

もし、よろしければ応援なども頂けると励みになります…(´;ω;`)

それではまた


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第十二話 「原罪の解明 背負う十字架」

お久しぶりです。
少々時間は空きましたがなんとか投稿です。
迷走の伏見稲荷編もこれにて完結、という事で暖かい目で読んでいただけるとありがたく思います。

それでは


 第十二話「原罪の解明 背負う十字架」

 

 

 

 

 

 

 

 灰色の石畳、仄かに照らされた赤の鳥居の中を速足に駆ける。置いていかれるのは御免だからだ。

 

 伏見稲荷の七不思議「谺ヶ池」の伝説は確かであった。俺の打った柏手は、確かに俺の何より求めた”失せ人”の手がかりを彼女への道標を示してくれたのだろう。

 

 幻聴でも幻覚でもなく、俺の脳裏に ニューロンに焼き付いた”神託”は今も消えそうにない……。

 

 朱の円柱の過ぎては消えゆく道中に、思い返して浮かぶのは、あの神秘的で不気味な暗い池で聞いた声、それについてだった。

 

 

 三本柱の鳥居のその中で、俺はその暗闇に問いかけた。拍を強く打って……

 

 

「彼女は今、どこにいるのか。どうすれば会えるのか……。教えて見せろ、稲荷の神よ」

 

 

 怒りか、拒否か。それがその問いへの返答なのかはわからないが。不自然で不可解な反響を繰り返すその音は、まるで亡者の呻きのような金切り音で俺を苦しめたのだ。

 

 しかしその不協和音はいつしか声となり、言葉となり。俺の脳裏に焼き付いた。

 

 ”遠く、されど遠からざりし日に。決別、それを礎にして│”

 

 テレパシーじみて、焼き付いたその文言はある種、希望をもたらす物である。

 

 遠からざりし日、即ち近いうちに再び”彼女”と巡り合える。というのなら、それは何よりの僥倖で喜ぶべきことであるはずなのだ。

 

 その神託とやらを全面的に信頼するなら……ではあるが。

 

 もちろん、そう言うくらいなのだから。それを信じられない、否信じたくない理由も存在している。

 

 その理由は余りにも自明で、それでいて切実だ。もう、同じことを繰り返してなるものかと……

 

「決別、だと……。別れなんてもう散々だ、懲り懲りなんだよ」

 

 出会い、それがあるのなら。いつか、確実に別れは訪れるという。

 

 もし、その言葉の通り決別が絶対で。それを礎として進んだ先に、彼女との再会があるというのであれば

 

 俺はきっとそれを望まない、きっと彼女だって望みはしない……そのはずだ。

 

 だからこそ、俺は今急ぎ足にこの朱の道を駆け上っている。

 

 何より、早く彼女達を。蓮子、メリーの顔が見たい、そう強く思った。

 

 もう少しで、二人と別れたY字路に辿り着くきっと、間違いなく彼女達はそこにいないのだろうけど。

 

 諦観を抱きしめてその緩やかな道を駆け登る。

 

 

 

 

 

 

 そして……。その分岐路に辿り着いた。

 

 その先の、やはり仄暗く明るい道の交差点に見える、二つの影……。

 

 

 

 

 なんだか、すごく安心してしまった。

 

「何だ……、待っていてくれたのか。てっきり置いていかれたものかと思ったよ」

 

 その岐路には、別れる前と変わらなく蓮子がメリーが立っている。二人して俺を待っていてくれたのだろうか。

 

「別に待ってた訳じゃないわ、ここの鳥居が不思議だから、じっくり観察していただけよ」

 

 蓮子は”待ちくたびれた”とでも言うようなけだるげな声で、俺の方に向きなおって言った。

 

「そうか、なら……良かった。で、鳥居がどうしたって?」

 

「いや、待たせてごめん。くらい無いのかしら……。まあいいわ、この鳥居見てみてよ」

 

「蓮子ね、あなたを一人置いて行けないとか言って待っていたのよ。本当に素直じゃないでしょう」

 

 メリーはそう言って、蓮子の言葉に割って入った。

 

 なるほど、メリーの言う通りなら蓮子は俺を案じてこの場所で俺をずっと待っていてくれたという事なのだろう。

 

 それが事実なら、いつもの様に嫌みや皮肉を言ってやる気にもなれなかった。

 

 こんな俺を、妄執に囚われて突っ走る俺をここで待っていてくれたのだから

 

「そうか……ありがとう」

 

「いいって、それよりこの鳥居の形見てみなさいよ」

 

「いや折角素直に礼を言ってるのによ……。あれ、なんだ。ここも三本柱か」

 

「ん、”ここも”って?」

 

 蓮子は不思議そうな顔をして俺に尋ねた。俺の脳裏にはあの暗闇の水面に浮かぶ不自然な鳥居の姿がまだ、焼き付いている。

 

 そこで聞いた声も。

 

「ああ……。俺が今さっき行ってきた谺ヶ池、暗闇の中に社と水面だけが浮かんでるような気味の悪い池だったんだけど……」

 

「だけど?」

 

「その池の真ん中に立ってたのさ、これと同じような三本柱の鳥居が」

 

 俺がそう言うと、蓮子はいかにも考えています。とでも言うかのように顎に手を当て黙した。

 

 メリーはそんな蓮子の表情を横から覗き込んでからこちらを向いた。

 

「集中してると蓮子はこうなの、もう少ししたらご高説を拝聴できるわよ。それにしても三本柱の鳥居なんて、何だか日本的じゃないと思わない?」

 

「謎解きの時間か、それは楽しみだ。確かにメリーのその感覚、わかる気がするよ。三位一体だとかダビデの星、あとはプロビデンスの目何かもあるか……。あまりにも神社の風景に合わないからあんなに気味悪く見えたのかな」

 

「そうそう、どちらかというと一神教の概念って感じなのよね……。この感覚を信じるなら、そこにこの伏見稲荷の真実があったりして」

 

「すっかり忘れてたな、それ」

 

「ひどいわね、すっかり放心状態ってわけなの?」

 

「うん……、まあそんなところ。思い出したから良いだろ」

 

 

 

 

 その岐路に立ち尽くしたまま、メリーと雑談をしていた時、黙っていた蓮子が突然顔を上げ、言った。

 

「ええ、思い出したわ。そして多分わかったかもしれない……、この伏見稲荷の真実ってやつにね」

 

 自信に満ちた猫のような笑み、いつもの蓮子の顔だ。そうしてその”本殿”へ続くであろう道を先立って進んでいく彼女の背をメリーと共に追いかけながら、俺は蓮子に尋ねる。

 

「で、何を思い出したって?」

 

「二人の話を聞いていて、膨大な記憶の中の一領域に繋がったって感じなんだけど……そうね、三本柱の鳥居、三位一体……。そして」

 

「そして?」

 

「そして一神教、つまり基督教よ」

 

「神社でキリスト教とは随分飛躍したじゃないか、もしかして日ユ同祖論でも引き合いにだすつもりか?」

 

「図らずも、そうなってしまうわね。ねえメリー、さっき秦氏については話したわよね」

 

「ええ、大陸から渡来した一族で事実上、この京都。平安京を作ったのもその秦氏なのよね、そしてこの伏見稲荷を作ったのも……」

 

「ええ、それも秦氏ね。それだけ当時は絶大な力を持った豪族だったのだけど、この一族の正体こそがこの稲荷の真実に繋がると私は考えているわ」

 

 そう言いながらも蓮子はその足を止めずに進んでいく、過ぎゆく無数の鳥居も最初の方とは随分見た目も違って見える。やはり俺たちは伏見稲荷大社の歴史を逆行しながら追体験しているのかもしれない

 

「正体ねえ、そういえば秦氏は今の太秦に住んでたんだよな。ほら、映画村とかあるとこ」

 

「ええ、そうね。その太秦に秦氏に由来する神社があることは知っているかしら?」

 

「うーん、何だっけ……蚕の社だったかな。あった気がするけど」

 

「ええ、よく勉強したじゃない。正式名称は”木島坐天照御魂神社”だけどね。その神社は古神道ではあり得ない祭神を祀っているわ」

 

「あり得ない……名前から想像するなら天照大神とか祀ってそうだしおかしくはないとおもうけど?」

 

「残念ね、蚕の社の祭神とされるのは天之御中主神……。古事記によると最初に現れた神で目に見えない最高神、宇宙の根本の神だそうよ……。メリーはどう思う?」

 

「確かにおかしな話だわ、八百万の神々こそ神道の在り方なら、そんな絶対神みたいなのって相応しくないし……。その説明を聞く限りだと、その神様ってまるで”ヤハウェ”みたいじゃない?」

 

 蓮子はその言葉に深く頷いた。多神教から一神教へ、そして唯一神の名前までが飛び出している。余りにも出来過ぎていて気持ちが悪いので早く蓮子の辿り着いた答えを聞きたかった。この結界は不審で不親切すぎる。

 

「前置きはいいから、結論を教えてくれないか?」

 

「仕方ないわね……。いいわ、私の辿り着いた答えを簡潔に示すなら”秦氏はキリスト教を信仰する一族だった”かしらね」

 

「なるほどな……、所謂”景教徒”ってやつか」

 

「私もそれなら知っているわよ、古代の中国に渡っていたキリスト教の一派”ネストリウス派”の事だったっけ、秦氏もそうだったって事ね」

 

「その通りよメリー、何よりの根拠は蚕ノ社の池の真ん中に立つ……”三柱鳥居”かしらね」

 

「……出来過ぎた話だな」

 

「ええ、その反応も仕方がないわ。あなたが見たのと同じような景色を、太秦で見られるって訳だから」

 

「だとすれば、俺の見た谺ヶ池の姿は。秦氏の開いた神社、池、そして鳥居……。蓄積されたイメージの具現。均一なるマトリクスに生じた裂け目や歪み、なのかもな」

 

「願望が入ってるように聞こえるけど、そんなに芳しくなかったの?」

 

 心配なのかからかっているのかはわからないが、メリーが俺にそう聞いてくる。

 

 しかしそれでもあの場所で聞いた言葉での全てを彼女に話す事はしたくなかった。

 

「そーだな、”遠からざるうちに”とか何とかだ」

 

「じゃあ、良かったんじゃないの。近いうちに会えるって事じゃない? あなたの探し人に」

 

「そうだと、良いんだけどな……」

 

 そうであればいい、ただそれだけなら良いとそう思う。そんな感情を噛み締めながら結界の中、刻刻と姿を変えゆく鳥居の中を二人と共に進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「さあ、もう少しで見えるわよ。稲荷神社のそして秦氏の真実が……」

 

 蓮子がそう言った時……

 

 長い鳥居の道は終わりを告げ、見上げる目前には……。

 

 

 

 神代の社のその真の姿が現れた。それは確かに想像を絶する物ではあったが、結界を越え蓮子の話を聞きながらここまで登ってきた俺たちにとっては、それほど驚くべき真実では無かったのも事実である。

 

 

 

 

 

 

 稲荷神社、それについてこんな話がある。

 

 秦氏、景教徒は単なる”お客様”であった訳ではない。彼らが信じた景教……キリスト教は古代の日本においても広まり、浸透していたようである。

 

 江戸時代、群馬県で景教徒の遺跡が発見されたことがあった。

 

 肥前平戸の藩主の随筆に描かれたところによればこうだ。

 

「先年、多胡碑 羊大夫碑のかたわらから、石槨が発見された。そこにJNRIという文字が見られた。ある人が外国の文献を見たところ、キリスト処刑の図にもこの文字が見られたので、蛮学に通じた人に聞いてみたがわからなかった。なお、この多胡碑の下から、十字架が以前に発見されているから、それと関係のあることであろう」

 

 多胡羊大夫とは天武天皇の時代に現在の群馬県で力を持ったとされる豪族だ。

 

 そして彼らは秦氏の系譜であるとも……

 

 碑に記された文字「JNRI」は、ラテン語のJesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字をとった略語であって、"ユダヤ人の王ナザレのイエス"の意味で。十字架につけられた主イエスの頭上にかかげられた言葉である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして……。「INRI」と記される事もあるのだそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空はまだ暗い

 

 気づけば俺達は奥社奉拝所の鳥居の前にいる。結界の中にいた体感時間を考えれば朝になっていてもおかしくは無い時間なのだが。

 

 腕時計に目を凝らす。長針と短針が指し示すのは二時四十八分。結界を越えてから、帰ってくるまでに、たったの五分しか経って居なかったという事か。

 

「何だか、狐に化かされた気分だな……」

 

「狐なんて、忘れてたわ」

 

 蓮子はそう惚けて言う。何だか寝ぼけたような心持ちで来た道を引き返す。

 

「それにしてもあれじゃあ、願いが叶うどころか参拝すらできないわよねえ」

 

「賽銭箱も無いもんな、まああれが真の姿なんだから仕方ないんじゃないか」

 

「ま、世界に隠された秘密を暴き出すのが私達の活動目的だからね……。あなたも良かったじゃない」

 

「そうだな……。中々面白かったぜ」

 

 メリーは背を向けたままこちらに向かって言う。

 

「結局、その池で何を聞いたのかは秘密なの?」

 

「……。いつかは全部話すよ。遠い未来でもこうしていられるなら」

 

「ふふ、変な事言うわね。まあいっか、それにしても想像もしなかった結果だったわ。本命の願い事も使えず仕舞い」

 

「ああ、とんだ歴史ミステリーだ……」

 

 

 

 世界中の不思議、隠された秘密。それをこうして広い集めるのが何より秘封倶楽部の活動だ。その道がいつか彼女のいる場所と交差する日を俺は信じている。

 

 もはや生き急いでも死に急いでもいないのだから、しばらくはこんな日々が続けば良い

 

 

 

 薄明るい千本鳥居、木々の間から遠く京都の街の輝きが木漏れる。

 

 出会いが在るなら別れも在るのだろうが、それでももう別れなんて勘弁だ。

 

 前を歩く二人、彼女達がそこにいる。それだけで何処か安心する、下り道を進む。

 

 

 

 

 明日もまたきっとこんな日々を

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
見ての通りの出来ではございますが、感想などいただけると本当にうれしいです。

次回はまた原作準拠のお話に戻ろうと思うので、お楽しみに!
お気に入り登録してくださっている皆様にも本当に感謝しかありません、とても励みになっております。

それではまた会いましょう!


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第十三話「灰径 rainydays」

お久しぶりです。
やっと続きを投稿出来ました。忙しく筆が遅くなっていますが、マイペースに書かせて頂いております。

それでは


 第十三話「灰径 rainydays」

 

 

 

 

 

 

「思い出とその記憶とを分かつものは何もない。そしてそれがどちらであれ、それが理解されるのは常に後になってからのことでしかない」

 

 

 現実、多くの人間が当たり前のように用いる言葉。辞書を引用するのであれば、今目の前に事実として現れている事柄や状態……それを指して言うのだそうだ。

 

 なんと虚ろな言葉だろうか。多くの人は今生きるこの日々。

 

 学校、仕事。そうして繰り返す言わば日常のルーティンを現実と呼称しているのではなかろうか。

 

 それならば、過去は現実には当てはまらない。目の前にあるのは刹那、一秒前の出来事すら存在を証明しうる確固たる証拠はない。

 

 写真も映像も、記憶でさえも人間はその手で改変しうるからだ。

 

 絶対なる客観など存在しえないこの世界の理の中において、現実という言葉のなんと不安定な事か。

 

 今、このパラダイムの作る社会において現実と夢とは単に相反する物では無くなってしまったのだろうか。

 

 自らの価値観、アイデンティティを喪失しかねない危険なこの議題を前にした人は、きっと深く目を瞑り盲目の今を生きるのだろうか……。

 

 

 

 

 

 雨音に目を覚ます。

 

 日の差さぬ部屋、薄暗いその中で携帯の画面の現在時刻を確認する。

 

 午前十一時三十分、休みだからといって少し寝すぎたようである。別に予定もないしこのまま寝ていても良いわけだが。

 

 外はあいにくの雨、雨粒に濡れる窓の外には灰色に淀む空模様が見える。

 

 喉が渇いた。ベッドから重い腰を上げて数歩先の冷蔵庫へ足を向ける。

 

 冷たい水を飲み干すと、寝起きでぼやけた視界も思考も少しはクリアになった気がした。

 

 雨の日の寝起きとは不思議な気持ちがするものである。日光が遮られたこの灰色に湿気た空気がそうさせるのか、普段は考えもしない事をふと考えてしまう。

 

 ペットボトルを片手に持ったまま、再びベッドに座り込み俯いた。

 

 このまま二度寝をするのも良いだろう。しかしまあ折角起きたことだし、もう少し物思いに耽るとしようか……。途切れぬ雨音、こういう日には活動するよりかは、じっと何かを考えたり、本を読んだりというのに、より適している。

 

 ああ、活動といえば。彼女達……蓮子、メリー彼女達と最後に顔を合わせたのはいつだっただろうか。

 

 秘封倶楽部の活動としての、”結界暴き”らしい事を行った記憶は、去年の十一月末に伏見稲荷大社の結界を越えてそれっきりか。

 

 そうだ、俺はあの池で声を聞いて……。

 

 いや、そもそもあの場所は特殊でそして不安定な場所だった。きっとあの言葉もそんな不安定な世界の生み出した歪みとかバグとかそんな物だろう。

 

 言い訳じみて馬鹿らしい……。

 

 雨音が強まった。

 

 それより、いつ顔を合わせたか……だった。

 

 そういえば、初詣は一緒に行ったのだったか。何となく伏見稲荷には行こうとは思わなかったので、下賀茂神社から平安神宮、そして八坂神社と。名だたる社を三人で詣でて周ったのだ。

 

 何を願ったのだろう、やはり俺はもうしばらく二人と過ごせる日々が続く様にとそう思っていた気がする。

 

 その夜の木屋町でいつかの東京旅行さながらに浴びるように酒を飲んだせいか。あまり覚えていない……。

 

 電車で家まで帰ったのだろうが、その記憶が無いのは可笑しな話である。

 

 飲んでから後悔するのだが、蓮子のうわばみっぷりには敵わないのだと再認識させられる。

 

 

 

 

 雨粒が窓に叩きつける音だけが灰色に薄暗く照らされた部屋に響く。

 

 記憶にあるのはそれが最後か、何とも楽しい思い出である。ただしばらく真面目な活動はしていないが……。

 

 不穏な神託も何も、本格的に思い出さないまま楽しい思い出だけに浸っていようと、そうして再び微睡の中へ還るべく、横になろうとしたとき……

 

 

 

 

 携帯が鳴った。

 

 誰だろうか、尤も俺に電話を掛けてくる相手など数える程も存在しない訳だけど。

 

 それはさておきとりあえず、ベッド脇で充電器に繋がれたまま震えるそれを手に取り画面に表示された名前を覗く。

 

 以外ではないが意外だ。彼女から掛けてきた事なんてあっただろうか。まあ思い当たらない程には掛かってきていないのだろう。

 

 携帯を耳に当て、出る。

 

「おはよう、珍しいな。メリー」

 

「おはよう、起きてたのね」

 

「この通り、まあもう一回寝ようとしてた所だけどな。俺なんかにどんな用だ?」

 

「そう言わないでよ、どうしても聞いてほしい話があるの……」

 

 そう言う、メリーの声は機械越しに聞いていても何やら切羽詰まっているやら、悩んでいるやらと言った雰囲気を含んでいるような気がした。

 

 彼女、マエリベリー・ハーンは時折、どうしようもなく美しく、冷たく、物憂げな表情を見せる。

 

 けれど俺は、もう決別なんてのは勘弁だから。彼女にはこの世界にいて、ただ笑っていて欲しいと思っている。勿論そんな事は口が裂けたって本人には言えないが。

 

 それでも彼女の健やかなる日々の為ならば俺もやぶさかではない。

 

 何故、蓮子ではなく俺なのか。とか疑問が無いわけではないが。そんな野暮な事を尋ねる程、俺は彼女を知らない訳ではないと自負している。

 

「俺に話したいと……。光栄な事だ、このまま聞こうか……それとも?」

 

「うん……。いつものお店で待っているから。もしあなたが良ければ……、来て……聞いてくれると嬉しいわ」

 

「わかった。パパっと準備して向かうけど、それでも少しかかるぜ」

 

「良いわ、今日は暇だから。ごめんなさい、こんな日に」

 

「そういう気遣いは嬉しくない、俺も暇だから付き合うだけだ。雨の中ドライブするのも思いのほか楽しいかもしれないしな」

 

「ふふ……ありがとう。じゃあ待ってるね、別に急がなくていいから」

 

「りょーかい、程々に急ぐわ。じゃ切るよ」

 

「うん、ありがと」

 

 そんなやり取りに通話は終了した。いつまでも重い腰じゃあいられなさそうだ。

 

 まさかこんな日にわざわざ外出する事になるなんて、考えてもいなかったがメリーに言われたなら仕方がない。

 

 彼女の声は、言葉は、不安でしょうがなくて誰かに話したいだとかそんな風な感情が現われていたようだ。

 

 やっぱり、メリーはどうしようもなく”彼女”に似ていて。

 

 だからこそ、俺をこうして駆り立てるのかも知れない。

 

 とりあえず顔でも洗うとして、洗面所へと足を進める。

 

 尚も雨音は暗く静かな部屋に、響き充満していた……。

 

 

 

 

 

 コートに袖を通し、部屋を出る。

 

 廊下から見下ろす駐車場のコンクリートはこの雨の中灰色に艶めき、所々に水たまりを作っている。それを極力避けながら、速足に車へと向かった。

 

 

 僅かなその距離をビニール傘で雨を凌ぎながら、車までたどり着き。運転席のドアを開けた。

 

 ドアを閉め、濡れた傘を助手席の方へ放り込んだ。

 

 雨の中、駅まで歩くのも億劫なので近くまで車を走らせるとしようか。

 

 鍵を差しこみ、エンジンを掛ける。

 

 程々に急ぐとは言ったが、雨の道路を飛ばすつもりはない。雨道の怖さは誰よりも知っているから、事故ってしまっては元も子もないし。まだ死ぬわけにはいかない。

 

 安全運転でいこう、悪いがまだそちらに行く気は無い。

 

 

 ポケットから取り出した煙草に火をつけ、アクセルを踏んだ。

 

 

 

 春雨には少し早く、空気も降る雨も冷たい

 

 フロントガラスに絶え間なく打ち付ける雨粒を旧車の頼りないワイパーが拭き落としている。

 

 

 JR線の横を走る国道一号は、この天気も相まって他の車もいつもに比べて見かけない。

 

 もはや前時代的な乗り物呼ばわりの自動車も俺の一台含め、首都「京都」ではそれなりに走ってはいる。

 

 公共の交通インフラがこれでもかと張り巡らされたこの都でも、自分の車を持ちたい人間は一定数存在している。

 

 尤も、こんな古臭いオンボロを好んで乗り回す馬鹿はされに限定されはするが……。

 

 雨粒と吐き出した紫煙に霞むガラスの向こう側、この道路を緩やかに下り切った先の景色。

 

 薄墨色の摩天楼群、雨天の下の京都の街はいつにも増して無機質に聳え立ち、アクセルを踏み続ける俺の視界の中で少しづつ大きく高くと移り行く。

 

「はあ……」

 

 深く、肺に満たした煙を溜息と一緒に吐き出して、すっかり短くなったそれをドリンクホルダーの灰皿に押し付ける。

 

 雨の日というのはどうしようもなく気分が上がらない、固定観念と言えばそれまでだし。有意義に過ごす術なんてそれこそ幾らでもあるのだろうけど。

 

 そういえば、この国道一号は東京大阪間を海岸沿いに繋いでいて、旧東海道を踏襲したものだそうだ。

 

 東海道線で行った東京旅行も既に過去、いや過去というか俺にとっては思い出か。

 

 過去と思い出を明確に分かつものは無いけれど、それでも俺にはその数多の経験の中で輝くそれはかけがえのない思い出であるとそう言える。

 

 憂鬱な雨道のその道中にも、ポケットの中では変わらずあの日に蓮子から渡された思い出の欠片は輝いているから。

 

 過去はかなぐり捨て、今を作っていくのにはそんな思い出だけがあればいい。

 

 杞憂も不安も後になってからで構わない、安全運転はやめにして、メリーの待つその場所へ向かうべく、深くアクセルを踏み込んだ。

 

 

 

 

 心持ちを変えてみれば、雨に霞む車窓の景色もあながち悪い物ではない。

 

 JR線を離れれば、通過するのは山に囲まれた府道116号、右手にはいつかに二人と星を見上げた花山が右手に見える。

 

 思えば、出会ってまだ間もないけれどこの街で数々の景色を彼女達と見て来たのだ。

 

 

 

 

 さて後は中心街の、碁盤状に繋がる道を進むだけ、スピードを落とし。いつもの道を走る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「到着……」

 

 喫茶店近く、古びたビルの中の一角の狭苦しい駐車場。特別安いわけでもないが他に無いから仕方ない。

 

 助手席に放り出された水滴の微妙に付着したビニール傘を手に取り車を降りる。

 

 やはり、古びたエレベーターを一階まで降り。外に出ればそこは雨に濡れる狭い路地裏だ。

 

 百メートルほど歩けば、いつもの店に着く。

 

 濡れたアスファルトを小さな水音を立てながら歩く。

 

 いつもの路地裏を……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 重い、木製の扉を押した。

 

 

 

 

 いつにも増して薄暗く。間接照明に仄かに照らされた店内。この天気のせいもあってか、やはりいつにも増して客は少ない。

 

 入って左、窓際の席。

 

 彼女は物憂げな表情で、雨雲に反射して射しこむグレイの窓明りの中に、カップから立つ湯気の中に座っていた。

 

「来たぜ、待たせた?」

 

「うん……。待ってたわ」

 

 早足に、彼女の対面に腰を掛けた。小さな言葉も聞き逃さない距離に。

 

 彼女、マエリベリー・ハーンは窓からこちらに目を移し。静かに口を開いた。

 

「それじゃあ聞いてもらおうかな……。私の夢の話」

 

 冷たい色と空気の中で、彼女は小さく微笑んで見せた。

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
次回ですが、一週間以内には投稿できると思います。今までに比べるとペースは空きますがよろしくお願いします。

感想お待ちしております。
それではまた


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第十四話 「ゆめがたり 霧に天使と蝶は舞い」

お久しぶりです。
前話から大きなブランクを空けての投稿になってしまいました。
私生活の忙しさもあり、ペースは落ちますがまたのんびりと書いていくつもりです。
こうして書いていると、楽しくなってくるものですね。
夢をずっと見ていたいと最近は思います。


 第十四話「ゆめがたり 霧に天使と蝶は舞い」

 

 

 

 

 

 

 

 

「夢……か」

 

「ええ、またいつもの夢よ」

 

 薄暗い喫茶店の窓辺、店内を揺蕩うレコードの音色に交じって、アスファルトを叩く雨音がガラス戸に小さく響いている。

 

 白いカップをソーサーから持ち上げ、湯気を立てた琥珀色のそれに口を付け、目の前に座る彼女の瞳に向きなおる。

 

「そんなに怖い夢だったのか?」

 

「そうね……。今思えば怖かった、かも。だけど、夢の内容よりもっと怖いのは……」

 

「この現実が信じられなくなること、か」

 

「あら、意外ね……。当たらずも遠からず……、

 あなたを呼んで良かったかも」

 

 

 メリーは少し、驚いたように目を見開いて言う。要するに図星だったという事だろうか。

 

 夢の話だとそう聞いた時から、大方そんな所だろうとは思っていた。訳もない……彼女の見る夢は俺含め多くの人の見るそれとは違う。

 

 現実と相違なく五感に訴える夢、この世ならざる幽世へ迷い込む夢……。

 

 最早、夢という定義を超越した世界を彼女が時折体験することは、俺も蓮子も知っている。

 

 それが今になって……。自分で言うのも悲しいが俺なんかに話したくなる程の何かがあった。つまり彼女の見る夢に何か並々ならぬ変化が起きたという事か……。

 

「メリー、とりあえずその夢の内容……聞かせて貰ってもいいか」

 

「ふふ、頼まれなくたって聞かせるつもりよ。蓮子なら ”他人の夢の話ほど話されて迷惑な物はない”なんて言うだろうし」

 

「それが俺を呼んだ理由って訳か、まあでも確かに蓮子なら言いそうだ……。で?」

 

 再びそう尋ねる。メリーはまた神妙な面持ちで静かに、語り始めた。

 

「ええ、それじゃあまず……、”夢”の始まりから……」

 

 

 

 

 ”霧、朝霧……。立ち込め、視界を白く霞ませる。ふと目を見開いて、そんな景色が広がっていた物だから「ああ、またいつもの夢ね」って私は察したの。夢なんだから目を見開いてるっていうのもおかしな話よね、ただとにかく目を開いたのよ。

 

 ここの所、こんな夢を見る頻度が高くなってる気はするけど、まあいつもの少しリアルでスリルな夢が始まるのね、どうやって蓮子達に聞かせてやろうかしら。なんてどこか意気込んでもいたわ。ただ相変わらず深い霧の中、そして薄暗がりの中……。どこへ向かう事も出来ないから、ぼおっとそこに立っていたの……

 

 どれくらいそうしていたかしら……時計なんてどこにも無かったし自信は無いけれど、体感でだいたい十分弱くらいかしら、薄暗かった視界が明るみ始めたわ、夜が明け始めたのね。その時になってやっと自分の周りに立ち込めていたそれが朝霧だったこと、自分の立って居る場所が未舗装の所謂「あぜ道」であることをね。

 

 薄暗く不気味な濃霧の視界はその瞬間を皮切りに刻一刻とその表情を変えていった。モノクロはセピアへ、昇る東日の黄丹色の光が緩やかに連なる峰の影を現していた、稜線から木々の間と零れ落ちた光、それが照らし出した景色に私は息を飲んだ。

 

 地を這うように揺蕩う黄金色の霧の海、その中に浮かぶのは日本の原風景とでも言えばいいのかしら、私は日本で生まれた訳じゃないのだけど……。どうしてかしら、そう思ったのよ。

 

 本当に幻想的で美しい景色だった……。”

 

 

 

 

「うん、うん……。何か今のところいい感じじゃないか。深夜帯で放送してる環境映像みたいでさ」

 

「まだまだ導入なんだから微妙につまらない例え方しないでよね、真剣なのよ」

 

 メリーはそう言って頬を膨らませる。

 

「冗談だって、ただな……。俺も経験者だからこそ言えるが夢に当てられた精神状態は安全とは言えないぞ、半分茶化してるくらいでいいのさ」

 

「わかってるわ、そのための”カウンセリング”だもんね。さて……」

 

 窓の外、暗い路地裏のアスファルトに打ち付ける雨音に収まる気配はない、まだ湯気の立つカップを傾けて、小さくまた一息を着き彼女は再び夢の世界へ立ち返る。

 

 

 

 

 ”朝霧立ち込めるその中を、私はふらふらと進んでいったわ。それもさっき見えた村とは反対側、深い森の方にね……。「また危険な事を」なんて野暮なことは言わないでよね、女は度胸、あと好奇心……でしょ? ”

 

 

 

 

 と、そこまで聞いてすでにツッコミたくなる衝動が込み上げる。確かに話の腰を折るのも野暮ではあるが、「でしょ?」なんて軽々しく言ってはいるが彼女の夢の性質からして自殺行為のようなものだ。

 

 彼女の迷い込む世界、幻想の世界……。どうしようもなく美しく、その裏側に確かな残酷さを秘めた世界。

 

 幾度と彼女達に語って聞かせた事ではあるが、この俺もかつてそんな世界に迷い込んだ事がある。俺の場合、メリーのように夢だとか生易しい感じではなく、死線を彷徨う中でではあったけど

 

 それでも俺は、一人では無かった。理を異にする世界に突如放り出された俺でも、その横には彼女がいてくれた。

 

 けれどもメリーがあちらに迷い込む時はいつも独りだ。危険上等なのはさておき、それよりもいつか彼女が一人で夢の何処かへ消え行ってしまいそうなのがどうしようもなく不安に感じているのかもしれない。

 

「ねえ~、聞いてる?」

 

「え、ああ聞いてるよ。”女は度胸と好奇心”な、バッチリと」

 

「そんなとこ覚えてもらわなくて結構よ、もう……続けるわよ」

 

 どうぞ、と右手でジェスチャーをした。少々ぼけっとし過ぎたみたいだ。いつもの調子で茶化し過ぎてはいたのだが、彼女は俺や蓮子に見せる表情以上に内心、不安なはず……

 

 俺みたいな不出来な聞き手でもその霧を晴らせるのなら、いつもの誇大妄想的な独白は休止させておいて、真剣に”カウンセリング”に臨むとしよう。

 

 そう決めて、彼女の碧い瞳に向きなおった。

 

 

 ”深い深い緑、見渡す限りの霧……まだ薄く残る霧の中を分け入って進んだわ。慣れてきたっていうのもあるし、怖さとかは無かったような気がするかな、あと朝だし。

 

 どれくらい進んだかしら、私の夢って自分でいうのもあれなんだけど、やっぱり不思議なのよね。視覚も触覚も今こうしている現実と相違ないんだけど、どれだけ走って息が切れてても肉体的な疲労は感じない、まあ夢なんだから当たり前よね。服も着てるし靴も履いてるんだから本当に都合が良いわ。あとは空を飛んだりできたら最高なんだけど……。

 

 そんなこんなで森の中を進んでいると、突然視界が開けたの。そしたら何が見えたと思う? ”

 

 

 

「いきなり疑問形か」

 

「私ばかり話していても仕方ないでしょう、さあ何かしら?」

 

「カウンセリングってそういう物じゃないのか。まあいいや、そうだな……」

 

「真剣に答えてよね」

 

「ああ、うん。森を抜けた先にあるのは……」

 

 真剣に聞いてはいるけれど、こんなクイズまで本気で答えろとは、このメリーという少女は控え目に見えて時々ではあるが蓮子に勝る無茶を言う。

 

 ネットにも本にも答えの無い問いだ。ここは自分の小さな脳のより矮小な海馬の中の記憶から直感で答えてみようか、不思議な世界の森の中、青々と生い茂る木々の向こう……手を引かれるままに進んだ先の景色、それは……

 

「湖、かな。朝日が反射して輝く湖だ」

 

 俺がそう答えると、メリーは予想外に驚いた顔をして言う。

 

「わあ凄い、正解よ。本当に当てるなんて思ってなかった。当てずっぽうじゃ無いわよね?」

 

「直感、だな。当てずっぽうと言えなくもない。自分でも当たったのが怖いぜ。そういえば前にも聞いたよな、湖の話」

 

「ええ、話したわ。霧の立ち込める大きな湖の話。同じ場所だと思うんだけど前の時はもっと大きく見えたのよね……」

 

「そうか……。ただどれだけの広さがあるのかも分からない夢の世界だ。別に湖があってもおかしくはない、”同じ”とそう感じたのは何故なんだ」

 

 そろそろカウンセリングじみた事を言い始めやがったな。と自分でも思う。ただこの湖の話に関しては以前から引っかかっていた所もあったので、聞いてみる事にした。

 

「あら、カウンセラーっぽくなってきたじゃない。そうね、確かに別の場所……その可能性もあるわ。理由を挙げるなら前に見たのと同じ紅い洋館が湖の畔に建っていたから、かしらね」

 

「……なるほど、それなら間違いは無さそうだな。ただその紅い屋敷は知らないんだよなあ……」

 

「あれ、前に話したと思うんだけど……。濃い霧の立ち込める湖の向こうに紅いお屋敷が見えたって」

 

「いや、確かにそれは聞いたんだけど。というか霧の中でよく見えたよな、その建物」

 

「疑ってるのかしら? その時はね確かに深い霧で建物の全容までは見えなかったんだけど、大きな紅い時計塔が見えたのよ。だからそこに同じような色をしたお屋敷が建っているんだろうな、って」

 

「そーいうつもりじゃないんだ、すまないな。だいたい把握したぜ、続けてくれ」

 

 少しお茶を濁すような苦しい形で俺がそう促すと、余り納得が出来ていないという表情で彼女は答えた

 

「えー、何だか釈然としないんだけど。何か思う所があるなら話してよね。隠し事されるのは悲しいですわ」

 

「お見通しだな……。わかった、話すよ。ただメリーの方を最後まで聞いてから、な。そっちの本題はまだ先なんだろう?」

 

 メリーは何か思い出したように、また物憂げな瞳で、窓の外に目をやる。

 

「……そうね、それで来てもらったんだしね……。話してるとついつい楽しくなって本題から逸れてしまいがちなのよね、私……」

 

 話し込んでいて気が付かなかったが、雨音は少しばかり小さくなっていた。

 

 少し、いやそれ以上に……悪い事をした。かもしれない……。俺という男はどうしてこうも気が利かないんだろうか……。どっちつかずが一番カッコ悪いと、自分を戒めて少々重くなった口を開く

 

「いや、いいんだ。俺はユングでもフロイトでもないし、ましてや心理学者ですらない。本気で夢診断しようなんて考えちゃあいけないよな……。空回りして逆に不安を煽ってしまった。メリーが話したいように話してくれれば、それがベストだったな……悪い」

 

 彼女はこちらに視線を戻し、呆れたとでもいうように溜息をついた。

 

「ほんとよ、怖い夢を見て小鹿の様に震える女の子に掛ける言葉、他にあるんじゃないかしら?」

 

「手厳しいな、耳が痛い。まるで蓮子の言い草だ」

 

「ふふっ、そうね。蓮子なら間違いなくそうやって詰るわよ。つまりこれは蓮子の言葉ね」

 

「じゃあ、メリーなら?」

 

「そういうとこ、嫌いじゃないって言うでしょうね」

 

 そう言って彼女は静かにほほ笑んだ。今日ばかりは蓮子がいなくて助かった、って訳だろうか。

 

「そう言って貰えると助かるよ、さて……お詫びにさっき先延ばしにした話でもしようかな?」

 

 メリーは湯気の立たなくなったカップに残る珈琲を飲み干して、俺の目をまっすぐ見据える。微笑は湛えたそのままで

 

「興味は尽きないけれど、やっぱり後にとっておくわ。先に話したくなっちゃったし、最後まで一気に駆け抜けるから覚悟して聞いてよね」

 

「ああ、仰せのままに」

 

 いまにも消え入りそうな瞳、陶磁器のドールのような面立ち……

 

 そんな印象よりも、彼女は強かな少女だった。

 

 相も変わらずリピートし続けるレコードの音色と、弱まり始めた雨音、暖色照明が薄暗がりの窓に反射していて晴れているよりも落ち着いた趣があるだろうか、囁き語り掛ける様に彼女の織り成す夢の世界、その景色へ意識を投ずる。

 

 

 

 

 ”鏡面反射の湖とその畔に建つ真っ赤なお屋敷なんて本当に素敵な景観よね。

 

 今回ばかりは鬱陶しい霧も無いから余計にそう思ったわ。それでなんだけど、ちょっと寄っていくことにしたの。もちろんそのお屋敷にね

 

 前来た時は霧のおかげでわからなかったけど、意外と小さい湖なのよね。

 

 多分だけど歩いて一周しても一時間もかからないんじゃないかしら。そんなこんなで向こうに見えるお屋敷にのんびりと足を進め始めた……

 

 少しずつ真っ赤なそれが近づいてくる、よく見ると大きさの割に窓が少なくて堅牢な要塞のようにも見えなくはないかも、それにしては鮮やかすぎるけど。

 

 突然訪れたりして失礼じゃないかしら、目の前のお屋敷にはどんなご主人が住んでいらっしゃるのかしら、私を受け入れてくれるのかしら……。

 

 って何で夢の中で怖気づいてるのよ。女は度胸と好奇心、そう言ったばかりじゃない。

 

 私は門の前に立って声を掛けてみたの、いかにもお屋敷って感じのとげとげしい装飾が施された背の高い鉄柵の向こう、人の気配の感じられない紅い建物に向かって……。

 

 とはいえ、よ。門からお屋敷までは大きなお庭を挟んで数十メートルはあるようだから、私がどれだけ叫んだって気づいてもらえやしないわよね……。

 

 肩を落としてお屋敷を後にしようとしたその時だった。後ろから声を掛けられたの……

 

 振り返ってみたらお手伝いさん……いいえ、メイドさんというのが正しいかしら、そんな女性が立っていた

 

 真っ赤なお屋敷にも負けないくらい綺麗で瀟洒なメイドさん、彼女は私に向かってこう言ったわ。

 

「いらっしゃいませ、お嬢様にご用かしら」

 

 困ったわ、私はそのお嬢様には面識もないし存じ上げない。ただ通りすがっただけなのだけど……そう、伝えた。

 

「そうでしたか、申し訳ないけれどこの館の主人……お嬢様は今眠っておられるの。それでもよければお茶でもご用意するわ」

 

 どうしましょう。

 

 ありがたい申し出ではあったけど、ご主人が不在? のお屋敷に上がり込んでお茶できる程私は図々しく無かった。

 

 まあ蓮子なら知らないけどね、謙虚な私はお礼を言って立ち去ろうとしたの。

 

「……承知致しました。それでは少々お待ちくださいませ」

 

 そう引き留められたと思ったのだけど、振り向いた私の視界にはすでにメイドさんの姿は無かったの、足が速いメイドさん……いやそんな訳ないわよね。

 

 化かされたみたいで気味が悪いから踵を返して来た道を戻ろうとした。そしたらね……

 

 私の目の前にさっきのメイドさんが立っていたのよ。何を言っているかわからない? 私だってわからないわよ。でもありのまま……今起こった事、ね。

 

 戻ってきた彼女は小さな紙袋を持っていてそれを私に差し出した。

 

「お詫びにこちらをお持ちください、僭越ながらではありますけど味には自信があるんですよ」

 

 そういって彼女は笑ったわ。袋の中身は美味しそうなクッキー、本当に瀟洒で律儀なメイドさんだこと……

 

 今度こそ彼女にお礼を言ってお屋敷を後にした。思いがけないお土産を片手に……。

 

 メイドさんは別れ際に「今度はお嬢様の起きている時間にお越しください、おもてなし致しますから」と言っていたわね

 

 社交辞令とも取れるけど、次が在るならもう一度来てみたいな……。なんて思ってしまったわ。

 

 気づくとさっきまでの不安な気持ちも消えてしまっているじゃない、人と会って話せたからかな? 

 

 お寝坊のお嬢様にも会ってみたいものね。なんて言いながら今度は軽い足取りで、少し霧の立ち始めた湖の畔を……”

 

 

「歩き始めた所で目が覚めたわ、これでおしまいよ」

 

 メリーはそう締めくくり、ほっと息を着いた。彼女のその甘い声質のせいもあり聞き入ってしまった。

 

 確かに不思議な夢ではあるが、まだそれだけであれば明晰夢で片が付かないでもない、そうで無いなら……

 

「お疲れ様、しっかりと聞かせて貰った。それで?」

 

 メリーはこくんと頷いて、続ける。

 

「ええ、その貰ったクッキーなんだけどね」

 

 怪談とかミステリなら、ここでどんでん返しのオチが付いたりするのだろう。尤も事実は小説より奇なり……だ。

 

 メリーは満を持して、テーブルの下にあった左手を持ち上げて見せ、言った。

 

「ここに、あるのよ……」

 

「ああ……。これは確かに、ゆゆしき事態だな……」

 

 彼女の差し出した小さな紙袋、それを見た俺はしばし硬直した。そして数時間に渡る”夢語り”の先にある、その本質を理解した。

 

 メリーの能力の凄さならよく知っている。冗談だ、とは笑えない訳だ。これは……どうしたものだろう。やっぱり蓮子がいてくれた方が良かったかもしれない……

 

「で、食べたのか?」

 

「いいえ、まだ。良い匂いがして美味しそうなんだけどねえ」

 

 まあ、そうだろう。さすがのメリーでも夢の世界から持ち出した? 物に易々と口を付けたりはしないか……

 

 とはいえ、確かにメリーの言う通り袋の中のクッキーは甘く香ばしい匂いで食欲をそそる。つまり美味しそうだ……

 

「いやいや、そうじゃないよな。普通に考えればありえない事だし……」

 

「困惑が見え透いてるわよ、私だって驚いたんだから。起きたら本当に持ってるんだもの」

 

「まあ、当人が一番困惑したよな……。うーん、今までにこういう事は無かったのか?」

 

「ええ、初めてよ。前にも話したように夢で負った傷が起きても消えなかった……なんて事ならあったけど」

 

「それでも十分にヤバイ話だけど、それ以上に物理法則は完全に機能してないな今回のは」

 

 俺の持論などはさておき、一般的な考え方に当てはめるなら。こうしてメリーが紙袋を手にしている事は絶対に有り得ない。

 

 夢の中の世界は確かに存在して、誰しもが見るだろう。しかしそれは個人の脳の中で作られた映像で漫画だとかアニメだとかと広義では同じく分類されるであろう二次元の産物であるはずだ。

 

 どれだけ高画質のテレビを介したとして、番組の中の料理には手が付けられないのと一緒である。

 

 つまりは有り得ない、科学という神様の支配するこの世界では

 

「有り得ない、そう思う?」

 

「いいや、この目で見て触れたんだ。紛れもなく有り得てる、困ったことにな」

 

「ええ……そうよ。相対性精神学においてはもう夢と現は反意語なんかじゃない、同じものよ……。真偽は無いの、主観が認識する限りどちらも確かに存在していると言えるわ……。ねえ、胡蝶の夢は知っているわよね」

 

 メリーはその紙袋をテーブルの上に置いて伏し目がちに、溜息を吐き出すように俺に問いかける。

 

「ああ、夜に舞う胡蝶の姿が自分なのか昼の人間の姿が自分なのか……。区別がつかなく成った中国の思想家の話だよな」

 

「ええ、その通りよ。でもね今の相対性精神学に倣うなら、胡蝶の自分も人の自分も同じく”自分”つまり夢と現の二人の私が存在する事になるの。でもそれはおかしい事よ、だって私は一人だから”私”と言えるんじゃないかしら。

 

 けれど私が二人存在するって言うなら、私って一体何者なの? あなたにこうして話している今は現実、それとも夢? 

 

 わからなく……なりそうなの。何が現で何が夢なのか、その境界が永遠に曖昧であり続けるのなら……私はもう、どこにも……」

 

 メリーは小さく、消え入りそうな声でそう言って俯き黙ってしまった。

 

 

 

 俺は情けなくなる。

 

 ここまで言わせてやっと彼女の抱えた不安の全てを知った事を、俺にだってわかるはずだった。

 

 夢と現、二つの相違無き世界。それが等しく同じ物だと知っているからこそ、どちらも信じられなくなってしまう不安を……

 

 夢と現は相容れない境界に隔てられて、互いを打ち消しあいながら存在し続ける。その間に身動きの取れない恐怖を……

 

 彼女が、メリーが俺を呼んだのはそれを理解して分かち合えると思ったからじゃないのか……。

 

 それなら、俺は

 

「メリー」

 

「ん……」

 

 彼女は俯いていた顔を上げる、その瞳は水底の宝石のように潤んでいた。抱きしめるだとかそんな事よりも、俺の稚拙な持論ってヤツで彼女の憑き物を落として見せる。

 

「さっきも言ったが俺はユングでもフロイトでもない、それに蓮子みたいな物理学者でもないみたいだ。残念ながらな、そんな俺の話でも聞いてくれるか?」

 

「……ええ」

 

 彼女は小さく頷いた。

 

「ありがとう、それじゃあまずこのクッキーをだな」

 

「どうするの?」

 

「食べてみるのさ」

 

 紙袋から一枚取り出し、頬張る。

 

 何の変哲もない、美味しいクッキーだった。

 

「うん、美味いな。そのメイドさんの自信も納得の味だぜ、メリーも食べてみたらどうだ?」

 

「え……ええそうね」

 

 呆気にとられたような表情を浮かべながらもメリーはクッキーを一枚手に取り、一口齧った。

 

「あ……本当に美味しいのね……。早く食べてればよかったかも……」

 

「ああ、間違いない。それでだけど夢から持ってきたクッキーはさっきのメリーの話で出たように夢と現の二つが存在しているはずだ。胡蝶の夢状態とでも言えばいいか」

 

「確かにそう言えるわね、私とは逆だけれど」

 

「うん、けど夢か現かを言い出しても堂々巡りだ。このループを脱するにはその二律背反を一度捨て去るべきなんだ」

 

 メリーはまだ困惑した様子で言う

 

「どういうことかしら?」

 

「事実、このクッキーは美味い。それに不満はあるか?」

 

「……いいえ、実際美味しいんだし不味くなって貰ったら困るわ」

 

「俺もそう思う。まあどんなに念じた所でこのクッキーが不味くなることはないだろうな、無茶しなければ」

 

「うん……それで?」

 

「いまここにあるそれも、それが夢の中にあった時も味は変わっていない、多分」

 

「ううん、そうね。貰ってすぐ目が覚めたし今朝の事。あと無茶な扱いはしてないかなあ……」

 

 そう言う彼女の瞳の宝石は、強かな輝きを取り戻しつつあるように見えた。

 

「長くなって悪いな、あと二つ質問して終わろう。まず一つ夢と現は同じ物、代替の出来る物……そう言えるか?」

 

「ええ……」

 

「じゃあラストにこの美味しいクッキーだけど、夢であって欲しいか現であって欲しいか。メリーならどっちを選ぶ?」

 

「もちろん……現で、あって欲しいわ」

 

「ああ、俺も全く同感。だからそれいいじゃないかって事だ。これが俺の思う”夢を現に変える”さ」

 

 

 夢も現も相違ない、それなら自分がこうあって欲しいと思える方を自分の居場所にすればいい。そんな説得力のなさげな言葉を長々と回りくどく話してしまった訳だが、どうだろうか。少しは彼女の不安を解消できただろうか……

 

 いや余りの支離滅裂さに呆れられてしまったか。メリーは瞳を閉じ何か考えているようだ。

 

 今更に恥ずかしくなって、俺は窓の外へ視線を逃がそうとした……。そんな瞬間、向かいに座る金髪の少女が俺に言った。

 

 

「胡蝶になって空を舞うのも、美味しいクッキーが食べられるのも両方叶うならそれは……幸せかしら」

 

 真剣な目、物憂げでいて強かな輝きを持った瞳……。俺もできる限り朗々と答えよう。

 

「ああ、これ以上ない程にな」

 

 

 

 

 雨が止んだようだ。

 

 それを皮切りに、緊張の糸が解けたかのように……二人で笑いあった。

 

 

 

「ふふっ、本当に滅茶苦茶ね。蓮子なら絶対に言わないわよ」

 

「前に言ったじゃないか、わかりもしない事をわかってるように話すのが特技だって」

 

「自慢にならないわよ……。もう、真面目に悩んでいたのが馬鹿みたいじゃない」

 

「ま、人間なんだし悩みくらいあって当然だよな」

 

「急に普通な事言うのねえ……そうよ、気味の悪い能力を持っていたって人間ですわ」

 

「墓場で卒塔婆抜いてる男の方がよっぽど不気味だと思うがな」

 

「あら、懐かしい。あの日から始まったんだったわね……三人では」

 

「恥ずかしい思い出でもあるけど、あんな馬鹿やったからこそ こうして美人とお茶していられる訳だしな……うん」

 

「その通りね、光栄に思いなさい」

 

 からかう様に笑う彼女の面立ちに、翳りは無い……とりあえず今は。そう見えるのは、仄かに窓辺を照らし始めた斜陽のせいかもしれないが……。

 

 その暖かな微笑にいつかの夢の景色を重ねる俺が、確かにいる。

 

 言っててやっぱり恥ずかしくなり窓の外の景色にまた意識を移した。

 

 グレー一色と表現しても過言では無かった小さな窓に映る風景の変遷が、永い夢語りに一つのピリオドを打ったのだろうか。

 

 メリーは立ち上がる。

 

「あーすっきりした。お天気になってきた事だし出ましょうか、今日は私が奢るわね。話を聞いてくれたお礼に」

 

「切り替え早いなあ、もういいのか?」

 

「ええ、聞いてくれてありがとう」

 

「いや、こちらこそ。少しでも力になれたなら光栄だ、ありがたくご馳走になるぜ」

 

 

 

 

 

 カラン、重い木製のドアを引いた。いつもの路地裏……傘は必要なさそうだ。

 

 

 水たまりを踏んでしまった、水面に映る景色が揺れる。

 

 揺らめきの中に路地裏の空が映り、アスファルトの凹凸は日差しの中に輝いていた。

 

「気を付けろよ、踏まないように」

 

「水たまりかあ、小さいころはわざと踏んで遊んだりしてたかしら」

 

「忘れたな、昔過ぎて」

 

「そんな年じゃないでしょ、ねえあれ見て」

 

 メリーはビルの切れ間を指さした。導かれるままに空を見上げる。

 

 

「エンジェルラダー、か」

 

 雲間から日の差す現象を天使の梯子に例えてそう呼ぶそうである。

 

 

 梯子、か……。 かつて梯子は外されて、俺は居場所を失い世界は色を失った……。

 

 けれど今は、こうして雲間から覗く青空を誰かと眺めている。不思議なものだ……

 

 俺は今確かにここにいる。多分それは守護天使の導きで。

 

 

「送るけど?」

 

「ううん、お天気になった事だし歩いてのんびり帰るわ。ありがとう」

 

「そっか、じゃあ……また。蓮子にもよろしく」

 

「うん、またね」

 

 そう言ってお互い、帰路に着くべく歩き出した。

 

 逆方向か……。

 

 何かもう少し話しても良かっただろうか、いや後悔したって仕方がない。

 

 行儀は悪いが、歩みを進める路地裏で煙草を咥え火を着けた。無性に紫煙が染み渡る、疲れたか……

 

 吸っては吐いてを繰り返し、数歩進んで立ち止まる。

 

 振り向けばまだメリーの後ろ姿が見える。路地を抜けるその寸前か……ああ、もういい

 

 

「メリー」

 

 三十メートル弱、辛うじて届いた声は彼女を振り向かせた。

 

「あー、一つ言い忘れてた。どこにも居ないって事はさ、どこにだって居られるって事だと思う。なんとなく」

 

 自分でも何を言っているのか分からなかったが、勢いで口走ってしまったようだ。

 

 ポトリと灰が濡れたアスファルトに落ちる。

 

 雲間とビルの織り成すスポットライトの下で、逆光に霞む彼女はたぶん微笑んで……

 

 

 

 

 

 

 

 立ち止まったそのまま、余韻を噛み締める様に、また火を着ける。

 

 誰もいない路地裏で

 




ここまで読んでくださりありがとうございました!
こんな感じではありますが、変わらず続けていきますのでどうかよろしく
感想お待ちしております…( ;∀;)

それではまた!


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第十五話「現のユメとジレンマと 兆しは遠く雲の上」

お久しぶりです。
少し間が空きましたが、何とか投稿させていただきます。
ひたすらに会話が続くので、少々退屈かもしれませんが
こういう作風ですのでどうか大目に見てくださると…助かります。

それでは!


 第十五話「現のユメとジレンマと 兆しは遠く雲の上」

 

 

 

 

 

 

 

「人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である」

 

 

 

 とはよく言ったもので。

 

 冷たい隙間風に身震いし、ハンドルを握りなおす帰り道。気分転換とはいってもまだ春の兆しも薄ら寒いこの時分に車の窓を開け放つ物ではないな、と後悔する。

 

 オレンジの照明が眩しいトンネルを抜ければ、空はまさに黄昏ているではないか。

 

 こんな時間に帰路に着くのも久しぶりではなかっただろうか。

 

 夜の帳が降り切った頃、そんな帰り道に慣れた俺には少々新鮮な景色ではあった。

 

 思うに、通っているのが全く同じ道であってもその瞬間によって見える景色は違い、けして同じ物ではない。よく目を凝らして見てみようと試んだなら、世界は新しい一面を見せてくれるはず。

 

 そんな所で、日々の小さな発見だとか出会いだとか繊細な機微の中に生きがいだとか幸せだとかを見つけ、それで満足できる人間では無かったようだ。俺は……

 

 それではダメだ、それだからダメなのだと後ろ足で砂をかけてしまう。だからといって何も大それた冒険活劇や英雄譚を望んだ訳でもない。

 

 機械的にただタスクを処理する毎日、人間とは律儀な生き物だ。

 

 働くのは嫌いではないが、ふと自分という個人だった物が知らずのうちに社会というシステムの一部品に還元されるようなイメージが浮かんで、心底恐ろしくなる時がある。

 

 これ以上はやめておこうか、横でツッコミをいれる誰もいない今では助長していくだけである。

 

 とりあえず帰って酒でも飲もうか。考える事は山積みなれど、別に一人で悩む必然性は今は無い。

 

 自宅のある市街にハンドルを切る。

 

 西日の逆光に黒い山の稜線の向こう、変わらぬ摩天楼の聳え立つ姿も今日ばかりは卒塔婆の群れとは形容できず、サンゴ虫の創る珊瑚礁のように煌めいて見えた……。

 

 

 

 

 

 

 

 さて、帰宅した訳である。

 なんだかんだと呟いてはいたが、まだ明るいうちに玄関を跨ぐのは悪い気がしないもので割と重くない足取りでこれまた意気揚々と冷蔵庫の扉を開いたのだが……

 

 打って変って意気消沈、開け放ったままの冷蔵庫が音を立てるその前で頭を抱えた。

 

「いや……酒無いし……」

 

 うかつであった。箱買いして冷蔵庫に放り込んでいたはずの愛しの缶酒達は無残にも傍らのごみ袋の中に凹んでいるではないか。

 

 何本かは残っていただろうなんて希望的観測をした数分前の自分を恨む……。

 

 とはいえ、怨めど憎めど現状は変わらない訳で……。

 

 コンビニまで歩こうか、十分も歩けば着く距離だ。それぐらいの体力はもちろん残っている。

 

 往復ニ十分、軽く運動して飲む酒もまあ悪くは無いか……。どうせコンビニで買うなら尚更、帰り道に寄れば良かった物を……

 

 そんな思いもある。くだらない事を考えているから大切な事を見落とすのだから、反省の余地しかない性分である。

 

 とりあえず、上着をまた羽織りつつ靴を履き跨いだばかりの玄関を飛び出した。

 

 

 

 

 まだ、明るいとはいえ道路脇の街灯はちらほらと灯り始めたようだ。物理的にも金銭的にも寒い懐に上着の襟元を正しながら歩く。

 

 その横を、これまたちらほらと数台の車が通り過ぎて行った。彼らもまた先ほどまでの俺と同じように今、帰路に着くところなのかもしれない。

 

 

 

 

 向こうの空にはひつじ雲が浮かんでいる。夕日に照らされた雲は何だか切なくってすきだ。あと一時間弱もすれば完全に日は沈むだろう。

 

 昼と夜の境界にある黄昏、比較的ゆるやかに流れる時間の中、少しだけ足を早めた。

 

 尤も別に急ぐ必要も無いのだけれど、ちまちまと歩いている道理も無い。なので別に走ったって良いのだ、気が狂っているかよほど急いでいるのだと思われるだろうが……

 

 こんな俺も幼い時でこそ、こんな空の下で駆け回っては遊んでいただろうか。

 

 ただの推察で覚えてはいない。否、そう言い張っている。

 

 ただまあ年を取ると、それだけ全力疾走する事も無くなるな。

 

 頭上に光るポール看板が見えた、コンビニに到着だ。

 

 ドアを潜ればその横に積まれたカゴの一つを手に取って酒類コーナーへ移動、もはや流れ作業である。

 

 ガラス扉の冷蔵庫に陳列されたその中から見慣れたロング缶を三本、優しくカゴに放り込む。そのまま右に九十度、乾物のつまみコーナーを前に停止。

 

 少し悩んで物色したが、結局はいつもと大差ない物を二つ選んでレジへと足を向けた……

 

 

 

 他愛ない、これにて買い物は終了である。非常に面白みに欠けるが……

 

 それでも、完全なリピート。繰り返しではない。空はまだ明るいし、コンビニの店員の顔ぶれも少し違った。

 

 些細が過ぎるけど

 

 それでも大きな発見だ。何百と繰り返してきたこの買い物も、毎回少しは違っていたのだから。そう考えると悪くは無いだろう。

 

 また同じように、少し早足で右手に提げるレジ袋に少し気を遣いながら来た道を戻る。

 

 さほど車の通らない四車線、横断歩道を渡れば。住宅地を進む路地がずうっと、山にぶち当たるまで続くだろう。

 

 ふと、前方から近づく足音が耳に入った。早足に緩やかな坂を進む俺の革靴のその靴音よりも速いサイクル、要するに走っている。

 

 何となしに視線をそちらに向けて見た。

 

 何のことは無い、ランニングをしているのだ。俺とそう年も変わらないであろう男がそれなりの恰好で風の様に俺の横を通り過ぎて行った。

 

「その手があったか、うん」

 

 確かにあの恰好なら街中で全力疾走したって変には思われないだろう。それとも何か、ストイックでかっこいいなんて思われたりするのか。だとしても真似をしようとは思わない、疲れて帰ってきて何でまた額に汗して走る必要がある。俺はアスリートではないしそこまでして恰好つけたいとも思わない。

 

「はあ……馬鹿らしいな」

 

 これは自分に対しての言葉だった。自分が情けなくなった訳だ、缶酒をぶら下げて帰る男がどうして自分を変えるべく額に汗して走る彼を笑えようか。

 

 どうも近頃は自分のいかに情けないかを自覚させられる事ばかりで辟易する。俺という人間はもう少し器用だと自覚していたはずだったのだが……。

 

 立ち止まる。

 

 俺は何か変われただろうか……

 

 俺の心はあの夢に、彼女の瞳の中に、閉じ込められたまま変わらずにいるのだろうか。

 

 ただ俺も、二人と出会って少しでも変わったはず。いやその言い方では傲慢すぎる、正しくは

 

「”変えられた”だな、結局ひとりでは何もできてはいないし」

 

 そんな俺でも、何かを変えるべく決意を固めて

 

 いつもは直進する道を左へ曲がった……

 

 

 

 

 

 

 

「って感じな訳よ、今」

 

「いやどんな感じな訳? 自分を顧みるのは結構な事だけど、私にわざわざ電話してきてまで言う事なのかしら。理解に苦しむわね」

 

 携帯のスピーカーからは相変わらず辛辣な蓮子の声が響く。

 

「というか風の音がするんだけど、外なのかしら」

 

「まあな、少し風が出てきた」

 

「ふーん、じゃあランニング始めたのね。影響されて」

 

「息切らした声に聞こえるか?」

 

「ええ、聞こえないわ。それにあなたがそんなイデオロギーで動く人間だとも思わないわね」

 

「ご名答、さすが蓮子だな」

 

「何がご名答よ……。はあ、しょうがないから聞いてあげる。”それじゃあ何してるの? ”」

 

 酷い棒読みで蓮子は言った。何となく察された様子ではあるが、続けるか

 

「公園の、ベンチで……」

 

「で?」

 

「二本目開けたとこ」

 

 多分俺はドヤ顔気味に言ったのだろうと思う。とりあえず蓮子は一瞬小さく吹き出した後、やっぱり辛辣に続けた。

 

「ぷっ……。あーなるほどさっきのは壮大な前振りだった訳ね。ありがとう、ちょっと笑ったわ……はいじゃあ切るわね」

 

「待て待て、いや悪かった。ほんの冗談だよ、出来心でつい……」

 

 あやうく切られそうになり、慌てて謝った。悪ふざけが過ぎたか。まあ人気のない公園で一人飲んでいるのは事実な訳だけど

 

「切らないわ、冗談よ。笑ったのは本当だけどね、さすがのあなたでもそれ言う為だけにかけてきたりはしないでしょう」

 

「良かった……。まあ御察しの通りちょっと話があってな。あ、外で飲んでるのは本当だぜ」

 

 とりあえず話は聞いてくれそうなので安心した俺は、片手に持つ缶を口へ運んだ。

 

「私にお悩み相談? それならそれで聞いてあげるけれど、私も暇じゃないのよね」

 

「それは助かる。いや忙しいなら無理にとは言わないが、ちなみに今何してる?」

 

「レポートを仕上げてるのよ、一万二千字の。大学生も遊んでばかりじゃいられないのよ」

 

「それはまた……大変そうだな。まあ蓮子の専攻なら仕方も無いのかもしれないが。やっぱやめとこうか?」

 

「あ、一言付け忘れていたわ。”缶チューハイ片手に”って」

 

 蓮子はそう言って笑っている。やり返されたか……

 

 というか、それなら俺と大差ないではないか。ただ蓮子なら一升瓶開けながらでも完璧なレポートを書き上げるだろう。もはや悔しくも無い

 

「なら、片手間に俺の話を聞くくらい造作もないだろ。遠慮なく喋らせてもらう」

 

「そうして頂戴、で何の話なのかしら。良い話? それとも悪い話?」

 

 蓮子がそう問い掛ける。

 

 できる事なら俺も良い話をしたかったのだが……今回ばかりはどうしようもなくシリアスな方向になりそうで心苦しい、そういった類のは苦手だ。

 

 それでも酒の力を借りてでも、話さねばならないのだろう……。二本目の残りを一気に流し込み、答えることにする

 

「まあ、あれだ……メリーの話だ」

 

「……恋愛相談? だとしたら悪い話ね、許さないわよ」

 

 電話越しにもその気迫が伝わるほどの本気なトーンで言う蓮子、身震いがする思いで取り繕う。

 

「仮にそうだとしてお前にわざわざ言わないだろう、もちろん違う」

 

「ま、そうよね。それで真剣な話なら何となく想像は付くけど……」

 

「多分、メリーから聞いたんじゃないか? 夢の話」

 

 

 

 

 俺がそう尋ねると蓮子は一瞬だけ沈黙し、それからまた溜息交じりの声色で続ける。

 

「はあ、わかってはいたけどやっぱりその話よね……。もちろん聞いたわよ、件のクッキーも持ってきてね」

 

 やはりというか、蓮子もその話をメリー本人から聞いていたようである。それに彼女の口調からは、この件に関して胸に一物を抱えている事が容易に伺い知れた。

 

 無理もない、プランク並みの頭脳を持つ彼女でも……いや、そんな彼女だからこそ看過できない話ではあるのだろうし

 

「そうか……。どんな感じだった? メリーの様子」

 

「本人は至って元気そうだったわ、夢の世界の話をするだけして一人で満足して帰っていたんだから。いつもの事だけど、人の夢の話なんて……」

 

「されても迷惑なだけ、とか言うんだろ。そんなんだからあの子は俺なんかに相談しに来たんじゃないか」

 

「余計なお世話よ、私だって真面目に聞いたから久しぶりに頭を抱えてるの」

 

「それもそうか、悪い」

 

「いいけどさ、それにメリーがああして元気だったのも多分あなたのおかげでしょ。悔しいけど感謝するわ、ありがとね」

 

 確かに悔しそうに蓮子は俺に礼を言う。前なら滅多な事があっても素直に”ありがとう”なんて言われなかったのだが、最近は不本意そうにがほとんどでも、そう言ってくれるのは嬉しかった。

 

「ああ、どういたしまして。けど別に大した事はしてないし、できやしないさ。少しでも役に立てたなら光栄だけどな。ただ……」

 

「ええ……そうね。あなたの言葉であの子はきっと”こちら側”に踏みとどまれたんだと思う。とりあえず今のところはね、危険とまではまだ言わないけど……安全ではないわ」

 

「そうだろうな……。メリーが夢を夢と認識してその上でこっちに居場所を見いだせるのなら、とりあえずは大丈夫かもしれない。ただそれ以上にあの力はまだ未知数だ」

 

「そうねえ、今のままなら多分大丈夫なんでしょうけど……。いや大丈夫じゃないわ、夢の中の物体が現実に現れたら困るでしょう」

 

「困るか? 確かに質量保存の法則には反してる感じはするけどさ。俺はピンピンしているぜ」

 

「黄泉戸喫って知ってるかしら?」

 

「もちろん、古事記に見えるイザナミの逸話から幽世の物を食って現世に帰れなくなることだろう」

 

「ギリシャ神話にも似た話があるみたいよ

 というか知っていてよく食べる気になるわねえ……」

 

「あっちで食ってたらもしくは……。けれどまあ成り行きだし、それにただのクッキーで呪いも魔法もかかっちゃいないさ」

 

「はあ……そうねえ……」

 

 気の無い返事である。

 

 まあよく考えてみれば、夢の中の物体が目の前に現れたという状況は物理学者にしてみれば自分の世界を否定されてしまったと言ってもいいだろう。

 

 それでもあくまで「あのクッキーは夢から顕現した」を前提に話が進むのは単に”物理学者”と一枚岩ではない蓮子だからか、メリー

 の人格と能力に絶対的な信頼を置いているからか……

 

 何にせよ、その絶対的な信頼が少なからず蓮子や俺の頭を悩ませていることは疑うべくもない。この話をし始めてから蓮子のレポートを書く手も止まっているようでキーボードを弾く音はすでに消え、珍しくも元気の無さげな蓮子の声に中身の入ったアルミ缶と机の接触音がかすかに混じる。

 

 相変わらず人気のない公園

 

 片隅のベンチからふと見上げる空はそのほとんどが限りなく黒に近い青色に染められていた。いよいよ夜が降りてくる、どうりでさっきから寒い訳だ。

 

 酔ってしまいたくても頭が冷えて仕方がない、とはいえこの話に何らかの着地点が見えるまで立ち上がる気力も起きぬまま、暗がりの中手さぐりに三本目のプルトップを持ち上げる。

 

「ねえ、最近真面目に活動しすぎたかな」

 

「唐突だな……真面目な活動の定義がいまいち分からんけど、俺が関わり始めてからで数えても結界暴きは随分と……」

 

「そうでしょう、世界の秘密を暴き出す事こそ私達秘封倶楽部の目的ですもの。だからこそ」

 

「だからこそ?」

 

「ええ、だからこそ。幾度となく結界を越えて、その度に少しずつ……あの子の力は強まっている。そう思うの」

 

「なるほどな……」

 

 思い当たりが無い訳では無かった。

 

 

 

 

 俺が初めて彼女達とあった日、その時のメリーの能力は「結界の裂け目が見える」程度の能力であったはず。

 

 見える、受け身でったはずの能力はいつしか結界に何らかの影響や干渉を及ぼしうる力へと変化していたのだとしたら。

 

 そういうものか、と半ば強引に納得してはいたが……。もし、例えばの話。彼女の能力が増大の一方を辿ったとすれば、もしくはその先にあるのは

 

「”見える”能力が”操る”能力に……何てことは考えられると思うか、蓮子」

 

「それも……考えはしたわ。けど、そんな事は無いと思う」

 

「蓮子がそう言うなら、そうなんだろう。まあ、およそ人の身でどうこう出来る代物じゃないよ。後者は」

 

「豪く知った口じゃないの、それこそそんな人の身ならざるお知り合いがいて?」

 

「知ってて聞いてんだろ……。まあ、そうだな。過大に解釈するのなら境界を操る力は破壊と創造の力、世界の在り方を覆しかねない恐ろしい代物って事」

 

「抽象的ねえ、私としては頂けないわ」

 

「だから恐ろしいんだって、解釈のし様によっては何でも出来る。理をも作り変えるまさに神に等しい力さ」

 

「”僕が考えた最強の能力”って感じで本当に頂けないわね」

 

「いや自分で聞いた癖によ……。とりあえず俺が言いたいのはそんな滅茶苦茶な力がメリーに宿る訳が無いだろ、って言いたいの」

 

 そうだ。その力を使役できる誰かがいるのであれば、世界に一人……「彼女」だけ。メリーは他の誰でもなくメリーでいい

 

 そうでなくては困る。

 

 

 

 

「ごめんごめん、確かにその通りね。ただやっぱり、メリーが結界の向こうに実際に飛んでいて それを夢だと思い込んでいる。それは間違いないと確信しているわ」

 

「ああ、それだけなら良いんだが。それで危害を被る可能性がある、それでどうすればいいかってのを相談してるんだったな。話が逸れてたが」

 

「ええ、けどあの子があちら側に居る時に夢ではないと気付いてしまえば、こっちの世界には戻って来れないかもしれない」

 

「ああ、きっとその時はこっちが夢になるんだろう。夢と現、その理が作用している限りは相補性によって……」

 

 

 

 

 夢も現も本質的には同等なのだ、とメリーと話したのが記憶に新しい。しかし、こことは別にまた世界が存在するのであれば、人はその両方に直面する時……いずれかを己が世界と選択する事になるのではないか。

 

 そして俺もまた、いつかに取り逃したその選択のチャンスを再び手に入れる為に結界暴きに加担してきたのだ。

 

 だから例えメリーがもしも”あちら側”を選んだとして、結果的に俺はその選択を肯定する事になってしまう……。けど、それだけは蓮子に言えない。決別なんて間違ったって肯定してやるものか、浮上しつつある感傷を濁した

 

 

 

 

「……とまあ、そんな所だが」

 

「それじゃあ駄目でしょう、あの子には私の相棒でいて貰わないと困るわ……。夢の中で妖怪に喰われるだとか、神隠しに遭うなんて論外よ」

 

「俺だって、そうさ。そんな下らない結末にならない為の策、俺には正直思い浮かばないそれをお前の頭脳を借りて考えたいのさ」

 

 蓮子は深く、溜息をついた。電話越しにも明瞭に聞き取れる程、今日一番に深く。

 

 彼女とて俺と同じに悩んでいる、彼女は天才とか秀才に類してはいても全能の神ではない。座り尽くして冷え切った体にただ情けなさだけが沁みる。

 

 ああ、このままじゃ凍死しかねないな。それならいよいよ俺から切り出すしかないのだろうか。頭の片隅に追いやった言葉についぞ手を掛けようとした、

 

「なあ、やっぱり……」

 

 

 

 

 その言葉を遮ったのは、いつもの蓮子の声だった。

 

 

 

 

「私の考える手段は二つ、メリーの持ってきた品を全部処分して”あれはただの夢だった”そう決めつけてしまう事。そうすればあの子の夢は夢に終わり、現の夢に迷う事は無いはずよ」

 

「納得だ。けどその方法はダメだな、なんせ俺もメリーも食べてしまった訳で、その上で夢の世界も現実と等価でそれを選択する余地があるんだって言ってしまったんでな……悪手だったか」

 

「まあ悪手かどうかはさておいて、私もこの方法は諦めてるわ」

 

「それじゃあ……」

 

「”二つ”って言ったじゃない。後悔するくらいなら黙って聞いてなさい」

 

 辛辣な言い草は、いつもの調子いつもの蓮子の声で、それにどうしようもなく安心する自分がいた。

 

 

 

「それで、もう一つの方法は……」

 

「ああ」

 

「夢、なんかじゃなく実際に別の世界にいるんだって事を、逆に強く意識させる事で夢から目を覚まさせる方法よ。ただもちろんこっちの世界に帰れなくなる可能性も付きまとうけれど」

 

 

 なるほどその手段をとるのであれば、今まで通り活動を続ける事ができるだろう。これからも結界に干渉し異なる世界の実在を強く認識する事で精神だけが独り歩きせず、地に足をつけて夢を見る。そんな状態を作れるかもしれない、そうであるなら俺にとってはこの上ない話だった。

 

 しかし危険が付きまとう以上、俺の一存では決められぬ。やっぱり最後は我らが会長に委ねるほかは無い。辿り着いた結論が同じでも違っても、彼女に着いていく。

 

 いよいよと覚悟を決め、炭酸の抜けかかった三本目を一気にあおる。

 

 

 

 

「理想を言えば、俺もそうしたい。けどこれは俺の個人的な願望だ。そうではなくメリーの一番の親友で、相棒……お前はどうしたい? 従うぜ、会長」

 

「急に畏まらないでよ、気味悪いし。でもそうね、確かにそれで悩んでたの。どちらを取るのが最善手なのか、メリーとって一番いいのはどっちなのかってね。柄にも無く悩んでいたわ」

 

「みたいだな、ほんとに柄じゃないから実のところ結構心配してたんだぜ。けど、その感じだと結論は定まったみたいだな」

 

「ええ、もちろん。それはあなたもでしょう?」

 

「ああ勿論、けど一応お聞かせ願おうかお前の結論」

 

「ふふ、結論は一つよ。メリーにそしてあなたの話す夢の世界。美しい自然と原風景、それにちょっぴりのミステリアス……。そんな面白い景色、メリーばっかりずるいじゃないの!」

 

「あー、ああそれで?」

 

「ええ、だから活動は変わらず続行よ。今は夢の未開の地、それを三人揃って踏みしめるまで旅は……終わらない。夢と現が同じ? そんな価値観がまかり通るからこの科学世紀から夢が失われるの」

 

 早口気味にまくし立てる蓮子、蓮子はこれでいい。妄執を浮き彫りにされた俺はそれでも嬉しくなって応酬する。

 

 

「その通りだな蓮子よ、俺は失う事を遠ざける余りに本当の意味で夢を見る事を忘れていたかもしれない。夢と現が同じならそれこそ生きる意味が無い、遥か高くの一等星……まさにそんな夢に手を伸ばす事こそ俺みたいな幻想主義者の道だよな」

 

「あら途端に饒舌ね。私はあなたと違ってリアリストのつもりだけれど。だからこそ夢の世界は魅力的で、手を伸ばしたくなる。ほら、あなただって口癖みたいに言ってるでしょう」

 

「夢を……

 

 

 

 

「現に変えるのよ!」

 

 

 

 

 蓮子はそう言って笑った。確かにその通りだ、失念していたが俺はその言葉だけを胸にあの日からモノクロの世界を生き抜いてきたのである。何だ、答えは簡単だったんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はは、結局いつも通りって事だな。安心したぜ」

 

「かってに安心してなさい、というかいつまで外にいるのよ。風の音でこっちまで寒いんだけど」

 

「ああ、もう七時過ぎか。腹も減ったしぼちぼち帰るとするさ……安心したら寒さが戻ってきたし」

 

 凹んだ空き缶の入ったビニールを手に、ベンチから立ち上がる。今更ではあるが真っ暗な公園の片隅で酒を飲みつつ意味不明な事を呟いている様は通報案件に他ならない、携帯は耳に当てたまま公園を出る。道に出ると白い街灯が眩しい、また緩やかな坂を歩き出す

 

 足取りは軽い

 

「メリーにはちゃんと話さないとね、あなたの言った事は余り間に受けちゃだめよって」

 

「酷いなあ、でもあれだな三人揃ったのは随分前じゃないか?」

 

「確かにそうね、じゃあせっかくだし明日集まりましょ! いつもの店ね、OK?」

 

「OK? ってまたいきなりだな」

 

「駄目なの?」

 

「いや大丈夫だけどさ、ほんといつも通りで安心だわ」

 

「じゃメリーにも伝えとくわね。それじゃレポートに戻るとするわ、また明日ねバイバイ」

 

「あ、おい」

 

 通話を切られてしまったようである。本当に蓮子には呆れるが、もう慣れている。

 

 

 どうしようもなく不安だったのが、いつもの調子に戻った感覚である。思い切って電話をしてみて良かった。

 

 坂を登り切った先の小さなアパート、見慣れた俺の住居。

 

 

 

 

 小高くなっているため、二階の廊下からは京都の街がよく見える。相も変わらぬ摩天楼は夜の中に聳え立ち白銀に煌めいて見える。いつか見下ろしたその景色より、少しカラフルになった幾多人の思念の数、その輝きに

 

 明日への希望と、いつかの旅の帰り道そこで夢見た永遠を、重ねて翳して背を向けた。

 

 目的のある旅ならいつかは終着が訪れる。けれど今だけは寄り道しながらだって構わないだろう。

 

 君の元へ行くのには、まだ少しかかりそうだけれど。とりあえずこの調子で進んでみる事にして、今は空腹を満たそう。

 

 

 

 二人と居れる、明日に備えて……

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます!
忙しい中ですが、意外と楽しみにのんびりと書かせて頂いています。大好きな秘封倶楽部の二人をもう少し、生き生きと動かせるようになりたいものです。個人的な話にはなるのですが、twitterで秘封のイラストを投稿していらっしゃるマイナスさんという方がいるのですけど。その方の描く秘封の二人がとても可愛らしく、インスピレーションと元気をもらっています。皆様もよろしければ拝見してみてくださいまし


話が長くなりましたね…。
また会いましょう!


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第十六話 「春の兆し 白昼に再び」

お久しぶりです。
これまた本当に申し訳ないのですが、前話から随分と時間が空いてしまいました。書き始めた当初は今年度中に完結!と意気込んでいたのですが…

今はとりあえずマイペースで書かせていただく所存です…
こんな小説を読んでくださる方々の存在だけがモチベーションというと重っ苦しいですけど、とても励みになっています。

今日この頃は夏も終わり、いよいよ秋が来たような過ごしやすい気候が続いているように思いますが。物語は正反対、春の訪れを書いています…

そんな話はあとがきに書くとして、どうかお楽しみくださいませ

それでは


 第十六話 「春の兆し 白昼に再び」

 

 

「死を理解するものは稀だ。多くは覚悟ではなく愚鈍と慣れでこれに耐える。人は死なざるを得ないから死ぬわけである」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見慣れた道、見慣れた街。

 

 俺にしては珍しく余裕のある足取りで行くのはこれまたいつもの四条通、東西を一直線に八坂から松尾までを結ぶこの大路は今も昔もこの京都の大動脈である。

 

 いつにも増して、街行く人々の数の多いのはこの暖かな空模様のせいだろうか。冷たく鋭い冬の空気は一転、緩み始めた空気感が人を何か駆り立てるのかもしれない。

 

 春の兆しはまだ見えぬ、そう騙った昨日の自分を是正せねばならないな……と。歩道の屋根とビルの間の空に目を遣る。

 

 行きかう人々の表情もどこか明るげに活気づいているように見えた。人間とはつくづく単純な生き物である。

 

 かくいう俺も兆しを見せ始めた春の陽気に当てられていつもよりかは浮足立ってはいるかもしれない。

 

 ただどうにもその季節の訪れを前に、彼らのように笑えないのは果たして何故か。

 

 まあいい、暦の上での立春からはもう三週間も過ぎて。何か新しい事が始まるにも相応しい時期であろう。まさにそんな話をすべく少々混みあった街を分けるのだ。

 

 八坂の社につま先を向け、あの店で待つ彼女達の元へ向かうとしようか。

 

 

 

 

 

 カラン、路地裏の重たい扉を押した。薄暗い店内に足を踏み入れた瞬間、鼻腔を刺す珈琲と紫煙の混じった香りはやっぱりいつも通りで何処か安らかさすら感じている。

 

 黒枠の格子窓、下。差し込む日差しの中の二人の少女に手を振った。

 

 

 

「おはよう、待たせたか」

 

「五分遅刻よ。それにもうお昼時なんだから”こんにちは”じゃない?」

 

 中折れハットのツバを持ち上げ憎まれ口を叩きながら、隣の席を指さす蓮子。白のブラウスにネクタイ、黒のスカート。マントは羽織って来なかったようだが結局いつものツートンカラーだ。

 

 かくいう俺はつま先まで真っ黒の不審感のあるスタイルな訳だけど。

 

 蓮子を横目に思案しながら促されるままに腰掛けた。

 

 メリーが隣にいるためか気付かれ難いのかもしれないが、彼女もかなりの美人だった。と、ふと思ってしまった。

 

「悪いな、しかし珍しいじゃないか。蓮子が遅刻せず来ているなんてさ」

 

「違うわ、蓮子は三分遅刻よ」

 

「言わないって約束じゃないの」

 

「おはようメリー、今日は二人して遅刻って事か。珍しいな」

 

 顔馴染みの店員がオーダーを取りに来たのでアイスコーヒーを頼む。今日は暖かいのでどちらかと言えばアイス、という微妙な所ではあるがまあ今日は何でもいいか。

 

「蓮子はさておいて、あなたが遅れてくるなんて珍しいわね。何かあったの?」

 

「まあ、そうだなあ……。昨日とは打って変って今日は暖かいだろう? 春の兆しに少し呑気な気持ちになったって訳よ」

 

「何よそれ、でも確かに過ごしやすいお天気になってきたわよね。今のところ夜もぐっすりよ、おかげさまでね」

 

「それは何よりだ。季節の廻りは早いな、心だけが置いて行かれるんじゃないかって程に」

 

「否定はしないけど、あなたがどこかに心を置いて来たのなら多分というか……夢の中じゃないの?」

 

「ごもっとも、ってついこの間までなら俺は言ったんだろうけど今は違う。置き去った心的な物は少なくともここにある。おかげさまでな」

 

「ふふっ、それなら良かったわ」

 

 

 

 金色の艶やかな毛髪を陽だまりに輝かす彼女はただ柔らかな微笑を浮かべていた。今日ばかりはその瞳に物憂げな何かは見えない。

 

 一瞬忘れていたが、こうしてここに集まっているのも昨日、蓮子と話していた事を発端としているのだ。

 

 当の本人こそ元気そうにしてはいるけれど、俺も蓮子も昨晩は彼女の見る夢の抱えるジレンマに悩んでその上で何も捨てなくて済む道を、秘封倶楽部の新たな目標というか道というか……そんな物をとりあえず見いだせたはずだった。

 

 まあそんな話はわざわざメリーにしなくてもいい。とりあえず風邪はひかなかったからそれでもう構わない。

 

 多分というか十中八九、こうして召集を掛けたのたのも

 それとなくメリーにその話を伝える為だとは思うのだが。一体どのようにして切り出すつもりなのかは昨日これでもかと語らった俺にだってわからない。

 

「で、蓮子よ。今日は一体何の話をしようって言うんだ」

 

 まあ所謂助け舟のつもりである。気ままで奔放な我らが会長にそんなおあつらえ向きは不必要とは思うが……。

 

 そんな心中を知ってか知らずか、蓮子は不機嫌そうに返す。

 

「そうよ、本題よ。あなたが何時までも下らない世間話でお茶を濁すから話損ねるところだったじゃない」

 

「おーキツイね。そろそろ被虐嗜好に目覚めそうだ」

 

「それで偶に優しいのよね、蓮子は。女王様の素質があるんじゃないかしら?」

 

 俺のまあ品位の限りなく低い冗談にメリーが乗ってくるとは思わなかったが。前にも言ったように言われっぱなしも癪なのである。

 

 それを受けた蓮子の頬が赤らんだように見えたのは気のせいだろうか。陽だまりの中の幻の類だろうか

 

「誰が女王様よ、私も知らないような下らない事ばかり覚えてくるのはいつもの事だけど。いよいよ生理的不快感まで習得したのかしら、あなたは。ほら、そんな事言ってるからいよいよ本題に入れないじゃない」

 

「あー、確かにな。好き勝手言われたのは広い心で目を瞑るから、続けてくれよ会長」

 

「そうね、わざわざ呼び出されたんだからそれなりの対価は無いと。そうよね蓮子?」

 

 蓮子は呆れたように頭を掻く仕草をして、それでいて少し真面目な顔付きを取り戻して続ける。

 

 

 

「わかった……。そうね、私が今日わざわざ招集を掛けたのは私達 ”秘封倶楽部”の新計画をここに発案したいからよ」

 

 新計画? 全くもって初耳である。向かいのメリーの表情を見るからに、彼女も俺と同じようだ。

 

 あの後一夜漬けで考えて来たのだろうか。それともやはり……

 

 間の良いのか悪いのか、店員がちょうど運んできたアイスコーヒーが目の前に置かれたので、ストローから一口吸って続く言葉を待つ。

 

 全く関係はないが、サイフォンで淹れた珈琲の後味の切れの良さはアイスにした方がより際立つかもしれない。

 

「ええ、面倒くさそうだけど一応聞いておくわ。せっかくだし」

 

「俺も、向かいに同意」

 

 それじゃあ、というでもなく。わざとらしくコホンと一息ついてから蓮子はこれまたわざとらしくも真剣な口ぶりで言う。

 

「私がここに発案するのは”デイドリーム計画”よ」

 

 

 

 デイドリーム、幻想……。その熟語の意味はそれこそ理解できれど、その新計画とやらの真意は不明瞭である。

 

 それはメリーも同じであったようで、仄かな困惑を浮かべた表情で蓮子に聞き返す。

 

「デイドリームねえ、直訳するなら白昼夢って所かしら。皆で揃ってお昼寝でもしようっていうの?」

 

「直訳ならそれで間違いないだろうな、日中に見る夢……。そのままの単語だが……」

 

 だが……。そう濁したのは結局、どこか自分の中に思い当たりを見つけてしまったからである。

 

 

 

 昨日話した事を鮮明に覚えていれば当然ではあるが、実体験と相違ない夢と言うのは即ち”白昼夢”に類するのではないだろうか。

 

 俺の予想が正しいのであれば、その内容にあるのは十中八九、メリーや俺の見た「夢」の世界の話なのだろう。

 

 それを前提に考えるのであれば、その計画とやらの全容とて想像に難くはない。

 

 俺だって何度も口にしてきたあの言葉の延長線上である。もちろん、昨日のやりとりを知らない、というよりは意図的に口にしていないのだが……。

 

 その言葉の意味を僅か刹那に通り過ぎていく瞬間の中に、吟味し理解しようとしているように見えた。

 

 メリー、彼女もまた蓮子とはまた別なベクトルで聡明な少女なのである。

 

 さておき、再び結露したグラスのアイスコーヒーに口を付けながら、続く蓮子の言葉に耳を傾ける。

 

「まあそんな所、一般的には白昼夢を意味するけれどその一方で幻想や空想という意味合いもある言葉よ。さて、わざわざこんな名前を付けた理由、わかるかしら」

 

「うん?」

 

 メリーは全く理解できないと言った素振りで首を傾げる。確かに今の蓮子の話でその真意まで推し量れなんて無理な話である。

 

「勿体ぶりすぎじゃないかー、早く聞かせてくれって」

 

 とりあえず蓮子にはまだまだ言いたい事があるようなので、俺もメリーと似たような顔でまた珈琲を啜る。

 

「私がわざわざこんな計画を立てないといけなかったの理由……それはね、貴方たちのせいよ」

 

 

 

 

 外から見物しているつもりがいきなり巻き込みを食らったので、動揺したというか口に含んだアイス珈琲を吹き出しそうになる。

 

「え、俺も?」

 

「どういう事なのかちゃんと説明してくれないと理解できないわよ、蓮子」

 

 有無を言わせぬ口調で蓮子は尚も続ける。

 

「当然でしょう。あなたもメリーも、夢と現実は同等だとか何とか抜かして、現実逃避ばかりしているからじゃない、この科学世紀の世の中からユメが消えつつあるのはそんな考えの人が増えてしまったからだと思うの」

 

 嫌なスイッチが入った。傍から見れば完全なとばっちりだ。とはいえ確かに、どちらかといえば幻想主義的な思想の偏りのある俺やメリーとは反して、根本にリアリズムを掲げる蓮子には納得できない節があるのは理解できる。

 

 

 しかしまあ俺もどちらかと言えば蓮子側でメリーを説得するつもりでいたためか、豆鉄砲でも食らったようにぽかんとして大人しく彼女の言葉を聞いているしか無くなってしまったようで……。

 

 

「貴方たちみたいな学者の考えでの所為で夢と現を同じものとして考えるようになってしまったから、夢をあくまで脳の作り出す生理現象の一つとしてしまったから……。世界から幻想が失われつつあるんじゃなくて? 主観の外に信頼に値する客観がある……もしくは主観こそが絶対的な真実である……。

 そんな学説は矛盾でしかないわ、そんなジレンマのループに囚われているようじゃ永遠に貴方の目指す場所にはたどり着けない」

 

 俺の方を見て言うのでこれは間違いなく俺に向けられた言葉なのだろう。確かにこう客観的に言われると耳に痛いものである。窓の外に視線を逃がすついでにメリーの方をちらりと見やったが彼女もきょとんとしてしまっている。

 

 蓮子の”説法”は続く。

 

「結果的に主観を認めずただ夢とする、そんな諦めとかジレンマを乗り越える手段……それは何も難しくは無いわ。夢と現実は同じなんかじゃない、違っていいのよ。どちらかしか取れないなんてつまらないでしょう? その二つが違う物だからこそ、夢を現実に変えようと努力する事ができる……。遥か遠くに手を伸ばし続けられるんじゃない」

 

 ああ、そういう事か。夢と現が違い、遠ざかる物だからこそ。強く求め、その領域に手を伸ばそうとする所謂モチベーション的な何かが生まれると……。

 

「ただな蓮子、その距離とか果てしなさを受け入れてしまった時、俺たち人間の儚さとか弱さってヤツをだな……」

 

 蓮子が言葉を遮った

 

「だから、普通の人ならそうでしょう。けれど私達秘封倶楽部は違う。メリーの瞳に私の瞳、それにあなたの記憶……。はなっからもう一つの理屈に手が届いているの。だからこそ私達は秘密を暴く事ができるんでしょ? 夢を夢とと諦める理由なんて一つも存在しないわ。

 

 さて、目を覚ます時よ。夢は現実に変わるもの、二人の見た夢の世界を今度は秘封倶楽部で現実に変えるのよ!」

 

 

 

 蓮子は拳をテーブルに着き、半ば身を乗り出して大見得を切った。出会ってから数えてもそう見えなかった貫禄である。

 

 何時ものごとく、独りよがりで捲し立てるような言葉ではあれど。その声は強い説得力を持って俺の、メリーの心に吹き込んで

 

 その迷い、妄執を浮き彫りに暴いて見せたような印象を直感させたのである。

 

 まさか、蓮子がそこまで真面目に考えていたとは……。せいぜいチューハイ片手にレポート書きながら考えた程度なんじゃないかと思っていた。

 

「へえ、意外と真面目に考えてたんだな。それでその計画の内容は具体的にどうするつもりなんだ? 正直言って期待してるんだけど」

 

 本気で計画してきたのであれば、いよいよ本当に俺も長年のユメを現実に変える事ができるのでは、そんな期待をしてしまわなくもないが……

 

「どうかしら、蓮子の事だし……どうせ」

 

「うん、メリーの言う通り。具体的な話は一切考えてきていないわ」

 

 食い気味に、さも当たり前のように蓮子はそう言ってみせた。まあ何というか……やはり過度な期待はしない方が良いという事か。さっきの長ったらしい文句だけでもよく考えて来たものと認めよう。

 とはいえ、あまりにも抽象的が過ぎるのでこれは計画と呼べるのか……いよいよ雲行きの怪しい所ではないか。

 

「おいおい……じゃあそれでこの話終わりじゃん」

 

「ええ、でも異論はないでしょう?」

 

「いや、まあ無いけど」

 

 蓮子の言う”夢を現に”に関しては俺の元よりの考えとは相違があれど、理解はできるし。俺の本当の目標である”再会”に近づく事ができるのであれば、どうかそうしてくれと頭を下げたいくらいである。

 

 案の定というか、具体的な考えは無いにせよ俺の目的と、メリーの身の安全を両立できそうなこの案はまさに最善策なのだろう。

 

 考え方の問題であるとはいえ、物理現実を越えた超常の領域ではそんな個人の思いや考えが強い力に変わるという事実は俺がなによりよく理解している。

 

 それに人が道を歩み続ける為には、夢だとか目標だとかが結局は肝心なのだろう。

 

 

 

 しかし、メリーはどうか……。俺なんかより蓮子との付き合いも長く……それに結局、結界を暴くのであればメリーの能力は不可欠になってしまう……

 

「俺はいいとして、だ。メリーはどうなんだ?」

 

「私? そうねえ……」

 

 俺の問いにメリーも一瞬、その穏やかな表情を曇らせた。蓮子も表情にこそ出さないがその答えに少し身構えているようにも感じられた。

 メリーとて結界暴きを続ける事が能力の増幅に大きく影響している事ぐらいは想像がついている、そうだ。これは結局俺がどうこうよりはやっぱりメリーの話なのである。

 彼女の不安ならもう十分に聞いた。だからメリーがもしそれを拒否するのなら俺もそのようにしよう。そう思っていた

 

 しかしまあ、メリーは屈託のない笑顔で続けるのである。

 

 

 

「私は全面的に賛成! 皆で夢を共有できるなら、それって最高でしょ。それに……」

 

「それにってどうしたのよ、メリー」

 

 メリーはその笑顔を崩さぬままに、それでいてどこか寂し気な自嘲的な口調で続けた。

 

「ええ、それにどんなに楽しい夢の世界でも……幻想に事欠かない幻の隠れ里でも、一人で見るだけなんてつまらないじゃない。折角なら皆で見て息を飲んでみたい。それがもし叶うなら気味悪がられてきた私の目も少しは役に立つんだって胸を張れる気がするの」

 

「気味悪かないって、俺も蓮子もそう思ってるさ」

 

「ありがとう、でも便宜上よ。ここでならそうじゃないって思うのよね、一緒に活動を続けてきたから、それこの前あなたと話して私も色々と考えた。その結論って事」

 

「そうか、それなら俺ももう……偉そうに能弁垂れちゃいられないな……」

 

「良いのよ、それに何だか二人には心配かけてばかりみたいだしね」

 

 やはり、俺と違ってメリーも聡明で。だからこそ浅はかな心配なんてのは見透かされていたのかもしれない。

 

 俺がメリーにああ言ったのも結局は独りよがりな夢とも言えない夢の所為で、あちらに辿り着くのも彼女に再会を果たすことも結局一人でと考えてしまっていたからなのだろうか

 

 今まではそれでいいと本気で思ってはいたにせよ、蓮子やメリーの話を聞いてしまっては……何時までも独りにこだわる事のほうがおこがましいのだとそう思う。ならばこそ今度は三人で、夢の世界を暴き出せるなら……三人ならそれが現になるのなら俺は……

 

 いまだ考え込む俺と、迷いの消えたメリー

 

 

 

 蓮子は満足そうに言う。

 

「じゃあ、満場一致で賛成って事よね?」

 

「私はそう言ってるじゃない、あなたもそうでしょ?」

 

 そんな笑顔で言われたなら俺も、孤独に歩む象だなんて意気込めないだろう。

 

「ああそうだな、良いじゃないか”デイドリーム計画”俺も乗ってやろう。で、一体どうやってそれを実現するのか、それを考えないとな」

 

「そうね、皆の同意も得られた事だし。ただその前に何だかおなかが空いたわ」

 

 蓮子はどうしようもなく身勝手である。でも確かに今はちょうどお昼時ってやつで朝からまともな食事を摂っていない俺も正直な話腹は減っていた。

 

「はあ、それじゃあとりあえず今日の昼飯から考えるかよ」

 

「そうねー、いつもなら何となくこの店で済ませちゃうけど……たまには真面目にランチでもしてみても良いかもね。どう、蓮子?」

 

「腹が減っては戦出来ぬっていう物ね。メリーの言う通り、お昼でも食べながらこれからの計画を練るとしましょ」

 

 そう言って蓮子は立ち上がる。

 

 この店を出るつもりなのは理解したので俺も氷が解けて薄まったアイスコーヒーを勢いよく飲み干して立ち上がる。

 

「わざわざ呼び出したくらいだから、ここは蓮子の奢りよね」

 

 そう言ってメリーも向かいの席から腰を上げた。

 

「勿論そのつもりよ、お昼は割り勘だけどね。私もそんなに余裕ないの」

 

「じゃあいよいよバイトでもしたらどうだ」

 

「嫌よ、そんなに暇じゃないもの」

 

「その調子じゃ月旅行はまだまだ遠いな、蓮子」

 

「あなたが連れて行ってくれるんでしょう?」

 

「そんな事言ったっけか……」

 

 

 

 三人分、ドリンクの会計を済ませ、またいつものように重たい扉を押して路地裏に出る

 

 ビルの間から射しこむ日差しの温感はもうすでに春の物と相違なく、狭いアスファルトの路を照らした。

 

 

 

 日差しを遮って頭上にその白い手を翳しながらメリーは言う。

 

「ほんとうに春がきたのね」

 

 その仕草になぜか、俺はいつか……いつかの同じ季節の中の景色を思い起こしてふと……

 

「春の日やあの世この世と馬車を駆り……か」

 

 そう呟いてしまった。

 

 尤も、あの日は普段に増して湿っぽく陰鬱で……春雨の強く降りしきる昼下がりの事であっただろうか。

 

「受け売り、よね。何だか悲しい詩じゃない、春の訪れを喜んでたんじゃ無かったのかしら?」

 

 先を歩くメリーが振り向いた。俺の独り言はやっぱり独り言の体を成していないのだ。

 

「独り言だ、本当に嬉しいよ。生きてこうして三人で春を迎えられるのはさ」

 

 歩き出した、京都は四条木屋町の路地裏に温い風が吹き込んだ。

 

「そういえば、あの日が近いんだっけ?」

 

 付け足し取り繕った言葉はこの風に遮られてしまっただろうか、同じようにメリーに比べるなら短い黒髪を抑えながら振り向いて、蓮子は言った。

 

「へえ、よく覚えているじゃないか。そこまで詳しく話した記憶は無いんだけどなあ」

 

「舐めないでよ、些細な会話だってしっかり覚えてるわ。プランク並みを自称してるんだから当然」

 

 さすがは蓮子って所か、そうもう一週も経てばあの日がまたやってくる。

 

 

 

 大いなる別れと大いなる出会いに直面したいつか昔、俺がここにこうして彼女達といるのもあの日からの出来事、夢の続きに他ならないと言える。

 

 蓮子には以前、重くならないくらいに触りだけを話したのだが蓮子は律儀にも日付まで暗記してくれていたようである。

 

「おいおい、その調子なら俺の誕生日くらいはしっかり覚えてるんだろうな?」

 

 再び、歩みを進め始めた二人の背中。

 

 もはやこちらに振り返りもせず、掌を空に両手を挙げたジェスチャーで答えた。

 

「蓮子はこうだけど、私はちゃんと覚えているわよ。それにしたって何の話?」

 

「そーいえば、メリーにはちゃんと話してなかったっけか。聞いたって何も楽しくない話だぜ」

 

「そうでしょうね。けれど話してくれたっていいじゃない。共有した方が楽になると思うのよ」

 

 そこまで言われてしまっては黙っている方が忍びないのも確かだ。

 

「そうだな、じゃあ簡単に話そうか。今日の昼飯を考える片手間でだが」

 

「それで構わないわ、聞かせて欲しいな」

 

「わかったよ、こうして浮足立ってるからこそ……な。まあ別に俺の中ではある意味終わった話だし、気負わず聞いてくれればいい」

 

 そう言った俺の言葉に、蓮子は仕方ないといった様子で答える。

 

「だいたい聞いてるけど、まあいいわ。教えてあげなさいよ、その悲しき過去ってヤツをね」

 

「もう一回聞くのが面倒くさいなら耳を塞いでるんだな、会長。じゃ、歩きながら話すか……」

 

 

 

 春の日の兆しは近く、目前。

 

 狭間、まさに境界の季節の空の下

 

 春に抱いた複雑な感傷の理由をまた、語ってみるとしよう。まだ昼下がりで時間は十分に在るのだから……。

 

「来週の今日、まさに今くらいの昼下がりだった。尤も空は暗く春雨にしては激しく雨が降ってはいたが……」

 

 春の日はあの世この世と馬車を駆る、あの日の俺の乗る馬車は雨の谷底へ、そして俺は家族を親兄弟という一つの繋がりを失ったのである。

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。

本当に季節の移り目というのは体調も崩しやすくなれば、何だか色々と考えてしまう不安定な季節ですよね。最近まで猛暑!って感じだったのに今や朝夜は寒いくらいになったのには驚きます。

次のお話では僭越ながら、春という季節と生死の去来。そんな所を京都を舞台に描かせていただきます。秋のお彼岸があるように、こうして急激に気温のかわる時分は何だか切なさというかセンチな気分になる、よね。ぐらいに思って読んでいただければ幸いです。

それではまた次のお話で、皆様くれぐれもお体だけはご自愛くださいませ。


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第十七話 「生と死の辻で されど」

皆様、本当に本当にお久しぶりです。
前話の投稿からかなりのブランクを空けてしまった事をここに深くお詫び申し上げます。この長い期間の間に少しづつ書き足したため至らぬところもあるかもしれませんが、どうかよろしくお願いいたします。

それでは


 第十七話「生と死の辻で されど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い出と呼べるほど楽しくも無い、記憶と呼べるほど生々しくも無い。

 

 ただ在った、言葉にするのならただ過去としか形容はできない話だ。人様や世間の視点に立つのであればただ痛々しい悲劇なのかもしれないが、俺にとっては違う。

 

 こうして春の陽射しの中を彼女達と歩く

 

 別れのもたらした出会いが胸に焼きつけた妄執の火は今も消えないが、それでも色の着いた今を生きている。そんな今へ至る道のその道のりを語るのであれば避けては通れない確かな過去の話だ……

 

 

 

 

「そう……じゃあ命日なのね。普通はこういうのって詮索はしない物だけど、言った以上はしっかり聞くわよ」

 

「そうそう、別に肩の力抜いて聞いてくれればいいよ。俺は同情とか憐れみとかが一番嫌いでな、当時はこれでも難儀したんだぜ」

 

 

 昼下がり、いつもの喫茶店を出た俺と二人は四条から三条方面へ、木屋町通りを北へ歩いていた。

 

 木屋町通りはここ科学世紀の京都では数少ない歓楽街、いわば夜の街である。つまるところ酒好きの俺や蓮子にはなじみ深い町である。

 

 とはいえ昼の通りは行きかう人の層も、空気感もまた随分と違っていた。

 

 

「あなたの性格じゃあね、傷心とか喪失感よりもそういう周りの視線に対する苛立ちの方が勝ってそうだもの」

 

 一瞬、景色に気を移した俺の意識は蓮子の声で引き戻された。

 

 

 蓮子としては半分茶化しているつもりなのだろうが、正直図星ではあった。

 

 

「わかってるじゃないか、何か可哀想に見られるのが本気で気に食わなくてな、今まで何一つ関わりの無い奴らがだ。あの頃は本当に人間ってのに辟易したさ。ただ今はそうでもないけど……」

 

 

 俺もあの頃はやはり若かった。憐れみなんて侮蔑でしかなかったし、所謂 現実の人間の言葉の何もかもがまやかしで、どうしようもなく取るに足らない物に思えたからこそ、行き場のない憤りをそんな視線で俺を見る人にぶつけたりもしたのである。今になれば彼らの気持ちだってよくわかる。

 

 何となく懐かしく、恥ずかしい話だ。それでも話さないといけない訳だが、そんな俺の左後ろからメリーが言う。

 

 

「じゃあ、これでも丸くなったんだ。その何かしら……尖ってた頃のあなたも見てみたかったなあ。なんてね」

 

「別に尖っちゃいないって……この調子だと話しそびれそうだが」

 

「それは困るわね、しばらく黙ってあげるからさっさと話して頂戴」

 

「ちょっと蓮子、人に物を聞く態度じゃないじゃないの。まあでも、私もここは聞き手に徹してみようかな」

 

 

 高瀬川の畔、まだ花を付けない寸前の桜の木に木漏れる日差しと影の中、半歩程後ろについて歩く二人。

 

 はてさて何から話したものか。歩きながらの話だし、そう長話は出来ないしするつもりも無い。

 

 それでも順序立てて話すのならばまず、どうしても今日の空には似つかない灰色の記憶を呼び覚ます他なさそうだ。

 

 

「一回しか話さないからよく聞けよ、それと先にも言ったけど何も面白くは無い話だ」

 

 

 

 

 

 あれは、暗い灰色の空の下……春雨にしては余りに苛烈な雨粒が叩きつける。そんな長期休暇の昼下がりの事だった。

 

 

 

 

 

 雨、ガラス窓を霞ませる水滴の無数。それ程広くも無いミドルクラスのミニバン、黒色のそれの最後部座席。三列目に座る俺は、窓の外に流れる景色をただ眺めていた。

 

 滴る水滴にぼやけてはいるが、行く山道のうねりの遥か左方に見える山々に、打ち付ける雨が作り出したのであろう雲、もとい霧のようなものがその峰の稜線に纏わりつく様はいかにも雨の日、といった様子だった。

 

 どうして、俺はこんな山道で車に揺られているのか。何のことは無い、所謂”家族旅行”のその道中なのだ。

 

 科学世紀に突入した日本では、最早前時代的な都道府県の概念は過去の物とする動きさえあるが、俺の記憶を走るこの車はまさに愛知と長野、その県境を越えた所である。

 

 特別裕福な家庭では無かったが、どうにも旅行好きだった両親は、夏、冬、春と長期休暇のある事に遠出をしたがった訳だ。

 

 それはさておき、俺も当時は高校生だ。所謂まあ思春期の真っただ中な所もあって、どうも家族との関係とかは距離感とかは測りかねるそんな年頃だった。

 

 それでも、まあたまにはと同行した国内旅行、その道すがらの事と思ってくれればいい。

 

 わざとらしいシニカルな表情で、どこか達観した心づもりで一歩身を引いたそんな気持ちでイヤフォンで耳を閉ざした、青臭さの抜けないままの青年の姿を想像してくれればいいだろう。

 

 信州旅行、長野県は古都にも劣らない歴史と自然に満ち足りた場所で、当時の時世からすればうってつけの国内旅行先だった訳である。

 

 科学世紀の世の中では、いわば逆説的にそういったノスタルジアを求める風潮が強まっていた。情報弱者にして、ミーハー的な俺の両親もそんな風潮に影響された事だろう。

 

 遷都されてまあ間もない都心からそう遠くも無い、郷愁の残る地に足を運びたくなった気持ちも今でこそ理解できる。

 

 さて、細かな話は省くとして交通インフラが張り巡らされたこのご時世にどうしてこんな曲線的にも程がある、下道を走らせているのかというとこれにも少々訳があるのだ。

 

 世間的にも大型連休に差し掛かる時分、所謂”帰省ラッシュ”ってヤツで高速に乗るには渋滞が危惧されたのだ。せっかくの旅行、渋滞に足止めされるくらいならと下道を選んだのだろうが……これがいけなかった訳である。

 

 

「なあ、ハイドロプレーニング現象って知ってるか」

 

「何それ、メリーは知ってる?」

 

「いいえ、何なのそれ?」

 

「おいおい、自動車免許の学科で習わなかったのかよ」

 

「だって取ってないもの、私もメリーも。このご時世じゃ必要ないじゃない」

 

「これだから科学世紀っ子は……。アングラな方面しか勉強して来なかったってのか」

 

「余計なお世話ね、今日日そんな免許取りたがる方がアングラでしょ」

 

「蓮子はともかく私は一般常識くらいはわきまえてるわよ、でもその何だっけ……。何とか現象は知らないわ、良ければ教えてくれないかしら」

 

「ハイドロプレーニングだ、そうだな簡単に説明するなら例えば自動車が水の張った路面を走行している時に、タイヤと路面の間に水が入り込んで車が水の上を滑るような状態になる。そうなるとハンドルやブレーキが利かなくなる事があるんだな、その現象の名前って事」

 

「大方そんな所だと思った、文面的に。けど車のタイヤの溝って水を排出する為にあるんでしょう」

 

「ああ、本来はそう起こる事じゃない。タイヤがすり減ってまっ平にでもなって無ければな。ただそれ以外にも要因はある、あの日は運が悪かった……としか擁護のしようは無いが……」

 

 

 結果の見えた話、それは二人にもよくわかっている。続きを話した所で別に何らのカタルシスも無い……そんな話だ。

 

 

「ここまで大方予想通りだと思うけど、まだ聞くかい? マジで面白くないぞ」

 

「そうね……。でもまあ聞くって言ったんだから最後まで聞くつもりよ、多分だけどあなただってその方が良い、違う?」

 

「……そうだな、それじゃもう少し付き合ってもらうとしようか」

 

「ええ」

 

「私も聞くわ」

 

「ありがとな、じゃあ続きだ」

 

 

 そうだ、その日は本当に雨が降っていた。それでいて下道ではあったが車も少なく、旅行気分で浮かれた足はいつもより強くアクセルを踏ませたのかもしれない。

 

 下り坂のカーブに差し掛かった時だ。車はハンドル操作もブレーキ操作も受け付けなくなった。

 

 ハイドロプレーニング、最後に見たのはフロントガラス越しの谷底の景色だった。

 

 

 

 

 

「と、まあそんな所で今日もピンピン生きてるぜ俺は」

 

 

 視界は惨劇の雨の日から、小春日和な木漏れ日の下へと移る。自分で話しておいてだが何一つ面白くない話だ。

 

 

「いや、どんな所よ……。もう少し悲しそうな顔でもして締めたらどうなの」

 

「言ったろ蓮子、もう終わった話だって。それこそそんな調子なら今頃後追い自殺でもしてんだろうが」

 

「洒落になってないわよ」

 

 

 蓮子はそう呆れたように言った。別に取り繕っている訳じゃ無いので、構わない。

 

 

「でもそうね、その調子ならついでにそんな状況下からどうやって生存したかくらいは聞いても良いわよね?」

 

「蓮子の言い方はあれだけど、私も少し気になるなあ……」

 

「おいおい、二人してか。せっかく昼飯の事考えようと思ったんだけどな……。まあいいか、これは別に記憶にある訳じゃなく後から聞いた事なんだが……どうにも救助された時には崖に生えた木に引っかかっていたらしい」

 

 

 そう、永い夢の唐突な終わり。それに伴うこの世界においての覚醒……。それ以降幾度となく聞かされた話だ。

 

 車内にいて、なおかつ扉も無い三列目に座っていた俺がどうして生き残れたのか。当の車体は俺以外を乗せたままに谷底でぺしゃんこになっているというのに……

 

 

「ま、あまりにも有り得ない事だったからか。結局、事件性も否定されたし報道も大してされなかったのだけは僥倖だったかもな。今の世の中、被害者だからってただ同情されるだけじゃないだろう」

 

「まあ、そうよねえ……」

 

「はい、この話は止めだ。忘れてくれよ、やっぱり面白くなさそうな顔するじゃないか……。それより、そろそろ三条に出るけどどうする?」

 

 

 忘れてくれと言ったってどうせ忘れてはくれないだろう。まあ、話を切り替えようという所である。

 

 

「はあ、そうねえ。喫茶店で簡単に昼食、を蹴って此処まで歩いて来たんだから少しは良いもの食べたいわよね。メリーはなにか食べたいものある~?」

 

「うーん、優雅にイタリアンなんてどう? それも合成食品じゃないとびっきりのを食べたいわあ」

 

「食べたいはわかるけど、相当高くつくのは覚悟しといた方がいいわよ」

 

「ええ、もちろん。セレブですもの」

 

 

 メリーは本気か冗談か曖昧な笑顔でそう言った。当たり前だが、合成の食品が主流になったこの科学世紀では、天然の食材は希少であり一種の嗜好品とすら呼べるやもしれぬ。

 

 合成食品とはいえ有機的に培養された物であったり、精進料理のように肉や魚を他の食材で”模した”物であったりと、聞こえほどケミカルな物ではないし、味も天然と比べて大きく劣るという事も無い。

 

 例えばカニカマなんかは魚のすり身で蟹を模した合成食品と言えるだろう。その魚のすり身すらも魚以外から作り出す。科学世紀の食の事情はまあそんなイメージだろう。

 

 さておき、蓮子は俺の肩を軽く叩いて、視線の僅か数歩前で振り返る。そして意地悪気な表情で言った。

 

 

「メリーはそう言ってるけど、どうする? 私は全然賛成なんだけどね。おいしいイタリアンなんて随分と食べていないもの」

 

「いや、金がだな……」

 

 そこそこ格式の高い店で、なおかつ天然食材オンリーとするならランチ価格でも10kは下らないか。払えなくは無いがやはり高い

 

「情けないわよ社会人、ねえメリー」

 

「おい、同意をいちいち求めんでいい」

 

「私は無理にとは言わないわよ~」

 

 

 と、メリーは言うがセレブを自称する彼女の事だ。せっかくの休日の昼下がり、それこそミシュランガイドの星持ちくらいの店で優雅にランチしたいのが八割方の心中ではないだろうか。

 

 いや、別にその気持ちを汲みたくない訳ではないのだが……。

 

 

「月の煙草代がバカにならなくてなあ……。よし、うだうだ言ってたって仕方ないし公平な方法で決めようぜ」

 

「公平な方法?」

 

 メリーがそう言って首を傾げる、俺はそれに答えるでもなく二人に向かって握り拳を突き出した。

 

「二対一よ、勝てると思う?」

 

 意味合いを察したのか、自信ありげな声色で蓮子は答えた。別に負けられない訳でもないけれど、勝っておいた方が良い気もするので、握った拳に願を掛ける。

 

「よし、俺が勝ったら”その辺の街中華で飲み”だ。負けたらどこへとなり……。さあ行くぞ」

 

「OK、行くわよ」

 

「え、ああそういう事ね……OKよ」

 

 

 

 ”じゃんけんポン”

 

 三人同時に右手を突き出した……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり良いわね、天然物」

 

「ああ、間違いない。のかな」

 

 

 すでに平らげられた少し洒落た皿、意識の高そうなそれが腹が立つくらいに真っ白なテーブルクロスに点在していた。

 

 持ち慣れぬワイングラスを傾け、仄かな黄金色を無造作に流し込んだ。横を音も無く緩やかに流れる高瀬川を横目に。

 

 グラスをテーブルに置いて、メリーが言う。

 

 

「ワインって高いわよね」

 

「金になるらしいな、ヴィンテージ物は」

 

「そうね、自然物の味や香りは今の科学技術でも再現不可能……。置いておけば確実に価値が上がるんだから投資の対象にもなるって訳よ」

 

「そうそう、英国じゃあワインファンドって言って手堅いビジネスなんだと。どうだ蓮子、酒が好きなら手を出してみないか」

 

「遠慮しとくわ、だってお酒は飲む為の物でしょう」

 

「まあ、ごもっともだな。金持ちの趣味ばかりは理解しかねるよ」

 

 蓮子の言う通り、酒は飲むものである。果たしてどんな数奇か数億の価値のあるワインが転がり込んだ所でそれを飲むかと言われれば否だ。換金するに決まってる、どのみち馬鹿舌には価値の推し量れぬ物だろう。

 

「安いワインでも、酔えればそれでいい酒だ」

 

 

 勝負事には弱いのかもしれない、結局じゃんけんにも負けた俺はこうしてメリーの要望通りにそこそこ値の張る天然物のイタリアンのランチメニューを平らげ、こうして食後のワインと洒落込んでいる訳である。

 

 妥協はした方ではあるが、ランチ価格で五千円。ままよと調子づいてボトルで頼んだので割り勘でもプラス五千円……。身の丈に合わぬ昼食ではあったが、まあたまにはいいだろう。

 

 蓮子は蘊蓄じみた口調で言った。

 

 

「これでも天然物には及ばないのよ、合成の混ざりものがしてあるから、格式で言えばミドルより少し下くらいかしら」

 

「どうでもいいさ、もうこれだけ飲んでしまった訳だし。俺から言わせれば合成の方が悪酔いしなくて良いって所だ」

 

「あら、経験がお在りで?」

 

「そうだな、前に下らん催事の引き出物で天然物を一本貰った事がある。置いてても仕方ないんで即日飲んだんだが、あれは記憶が飛ぶな。仕事を休むはめになった」

 

「ふふ、ワインってそういう飲み方をする物じゃ無いんじゃないの」

 

 

 メリーはそう言ってくすりと笑う。

 

 ごもっともで、しかしまあ転がり込んだ高級品をいかに卑しく消費してやろうかという心理が働いていたのだろう。若気の至りってヤツだ。さほど昔でもないが、そうしておくことにする。

 

 蓮子はグラスを思いきり傾け、残ったワインを飲み干しながら言う。

 

 

「ふぅ、さてこの後どうする?」

 

「これ以上金を使うのは勘弁だぜ、それなりに酒も入ったし解散でもいいが。会長殿のご高説も拝聴した事だし」

 

「京都の境界をもう少しだけ、暴いてみようかしら?」

 

「この際だ、地獄でも天国でもお供しますよ、ってな」

 

 

 さて、そういう訳で。会計は結局割り勘になった。曲りなりにも天然物……、中々に値は張ったがこの際だ、考えない事にしておこう。

 

 会計を済ませ、店を出る。

 

 木屋町通り、その横を高瀬川がゆるやかに尚流れていた。”この後どうするか”その問いの応えは今だに不明瞭だ。なので、俺はもう一度わざわざほろ酔い気分の会長、蓮子に再び尋ねてみる。

 

「それで、どうすんだよ。この後はさ」

 

 かくいう自分はかなり酔っていて、正常な判断力はすでに失われてはいるが、今はまさに昼下がり……全てを忘れる刻にはまだ早かった。

 

 

 

 

 

 

「あーあ、やっぱ天然物は高くつくな。俺の財布も泣いてるぜ」

 

「文句言わないの、じゃんけん弱いあなたが悪いんだから。ノブレスオブリージュよ」

 

「”高貴さは義務を強制する”だっけか、どこが高貴なんだ俺の。よっぽど余裕あるだろうがよ、華の大学生」

 

「メリーに言ってよ、セレブらしいからこの子」

 

「ごめんなさいね、セレブで。ふふふ」

 

 

 高瀬川を右に、セレブを自称する彼女は意地悪そうに、それでいて楽しそうに笑う。

 

 うん、割り勘とはいえ高い昼飯代を払わされたって

 

 そんな無邪気な笑顔で微笑まれては、俺も毒気を抜かれてしまう事を彼女は織り込み済みでいるのなら、俺は大人しく自腹を喜んで切るしか無い……。わかってやっているなら俺は到底敵いませんと、降伏の意を示さねばならないだろうか。

 

 

「気持ち悪い笑みを浮かべないの、ニヒルに決めときなさいよいつもみたいに」

 

「図星で悪かったな蓮子、ワインは悪酔いするんだよ」

 

「あっそ、じゃあまあ歩きましょうか」

 

 

 何が”じゃあまあ”なのかは分からないがまるで示し合わせたように、何も知らない三人は気ままに木屋町を南へ下る。

 

 四条、三条と非常に解りやすくも区分された道を歩いて

 

 じゃんけんに勝てれば行くつもりであった街中華を左に流し、それなりに人波の行き交う四条河原町のその交差点をのんびりと進む

 

 行く当てなどは無い、されどさもそれが在るかのような足取りは何だかいつも通り過ぎて安心感さえ抱きそうになりながら、鴨川を左に望み、晴れた午後の路を歩む。

 

 

「ねえ、どこ行くの?」

 

 メリーが道すがらにふと、零した。

 

「うーん、地獄?」

 

 

 間髪入れずに蓮子は言うが、とんだ問題発言だ。まだ死ぬつもりはないし、地獄なんてもっての外である。

 

「縁起でもない、六道参りか……この季節に」

 

 六道珍皇寺、清水寺の近くに閻魔大王を祀る珍しい寺がある。鴨川を渡り、歩くこの道は古来、六道の辻と呼ばれ、現世と他界の境にあると考えられていたようだ。

 

「小野篁の話だよな」

 

「当然よ、それでわざわざこの道を歩いてるんだから」

 

「何それ、初耳なんだけど、教えてよ蓮子」

 

 

「うーん、そうね平安時代に昼間は天皇に遣えながら夜は地獄で閻魔大王に遣えた官僚がいた。って話ね」

 

「面白そうな話ね、あなたは知っているのかしら? その逸話を」

 

 緩やかに流れる鴨川を横目に、橋を渡る三人……。流れゆく景色は早春のそれらしく仄かに温かさを孕んで吹き抜ける。

 

 

 

「小野篁は平安時代の官僚で、どうにも井戸から冥府……まあ地獄に出入りしていたとか何とか……。それくらいしか知らん」

 

「一応の日本史でこの世と冥府を行き来したのは小野篁くらいじゃないかしら、だから彼と所縁のある珍皇寺で地獄参りって訳」

 

 四条大橋を渡ればそのまま右、鴨川の流れに並行して連れ立って歩くのは、摩天楼の麓の小さな地獄への道か。

 

「はい、ここを左ね。ここが松原通りよ」

 

「ここまで来ると一気に人も減るのね、あんまり観光地でも無いのかしら」

 

「まあ、有名ではあるけど観光しに来てわざわざ閻魔大王とか水子供養だとかを見て帰りたい人間はいないだろうな。そういえばちょうどこの辺は……」

 

 俺が言いかけたとき、ふと立ち止まったメリーは行った。

 

「あ、ここから何だか空気が重いわ……。結界の解れも見えるし……どおりで人通りも少ない訳ね」

 

「やっぱりメリーには見えるのね、羨ましい。何となく明るい雰囲気では無い、くらいしか私にはわからないけど……。そうねここは鳥辺野のちょうど入り口だから」

 

「あーあ、今それ言おうとしたんだがな。ここは六道の辻って言うんだそうだ、と付け足そう」

 

「言いたければとっと言えばいいのよ、あなたっていつもカッコつけて溜めるじゃない」

 

「いや別にカッコつけてないからな、溜めも大事だろ……うん」

 

 とは言え、実際ちょっとカッコつけてたので強くは出られないのである。

 

「六道って言うと、餓鬼道とか修羅道とかだっけ、地獄っぽいわね」

 

「そうそう、あと確か天道、人間道、畜生道、地獄道で六道だったかな。そう考えると六道も結構物騒な名前に思えるよな。ま、メリーには地獄なんて縁のない話か」

 

「そう願うけど、あなたは縁があるのかしら」

 

「天国に行けるような生き方はしてないからな、だから生きてるうちに桃源郷へ辿り着くのさ。それが叶わぬならその時は、いよいよ志望を決めるしかないな」

 

「オーソドックスに地獄道! みたいな?」

 

「そうそう、蓮子も考えとけよ」

 

「私は地獄行きになるような生き方してないわ、その調子だと本当に地獄に落ちそうね」

 

「厳しいな、冗談だよ」

 

 松原通り、緩やかな上り坂を歩く。そんな中、民家の外壁に張られた小さな紙切れが目についた

 

「お、書いてあるな轆轤町って」

 

「へえー、ろくろってあの轆轤?」

 

 メリーは両手を前に出して回すジェスチャーをして見せる。ご名答……むしろそれ以外の轆轤を俺はしらないが、陶磁器を作る粘土が回転しているアレである。

 

「でもなんで轆轤なの?」

 

「それはねメリー、さっきも言ったようにここは鳥辺野の入り口……。風葬地に死体を運ぶのにこの道が使われたって訳、つまり……」

 

「あ、待って蓮子。わかったわよ、轆轤町の由来」

 

 メリーはペラペラと語り出した蓮子を制止した。どうしても当てたいらしい、ちなみに俺は知っているので何も言わない事にする。

 

 まあ、諸説はあるが

 

「よし、当てるわね。轆轤町の由来……それは髑髏から来てるって事でしょ!」

 

「あー残念、当たりよメリー。結構そのまんまよね」

 

「残念って何だよ」

 

「やっぱりね、確かにドクロの町には住みたくないかなあ~改名したくなるのも納得できるわね」

 

 

 そう言ってメリーは笑った。さて、そんな感じで駄弁りながら歩いていると雑居ビルの切れ間、左前方に朱い門構えが見えてきた。

 

 

「結構ぽつんと建ってるんだな」

 

「面白いでしょ、こんな市街地の真ん中に地獄への道があるなんて。ここだけじゃないわ京都の一大観光地”清水寺”のすぐ隣にだって大谷本廟がある……人の営み、喧噪のすぐ隣で息づく死の世界、京都って楽しいわ」

 

 

 おおよそ共感できるが、そう言って楽しそうに笑う蓮子の笑いのツボだけは理解し難い

 

 確かに、異界は必ずしも未開の山奥や夜の暗闇の中にしか存在しない訳ではないのだろう。日常、何気ない日々……、そのすぐ隣にこの世ならざる世界は存在しているのかもしれない、だからこそ面白いのだ。

 

 だからこそ街の喧噪、人波の中に彼女の姿を探してしまったりもする。有り得ないは有り得ないと知ってしまったから……。

 

 

「何ぼーっと突っ立ってるのよ、行きましょ」

 

 蓮子の声に我に返る。そうだな、いつだって大それた冒険活劇である必要は無い。

 

「ああ」

 

 閑散とした境内、扉の閉まった本堂の前に歩み寄る。

 

「思い付きで来たからね、展示も見れないしそもそもお堂が開いてないけど……ま、いいわよね」

 

 この辺では六道まいりと言って、八月ごろの所謂お盆の時期に大きな祭りがある。その頃に来ればこの境内ももう少しは賑やかだったかもしれないが、静かなのも嫌いではない。

 

 賽銭箱に小銭を投げ込み、三人並んで手を合わせた。

 

 一応、目を閉じてみた。暗闇だ

 

 よく考えてみると、寺で何を祈願すればいいのだろうかという疑問が生まれた。せっかく来たんだから何か適当に願っとけ的な根性では仏様も微笑まないだろうか……

 

 隣の二人は何を考えて手を合わせているのだろうか……

 

 

 

 

「結局何も祈願出来ないまま参拝を終えた訳だけど、二人は何か願い事とかしたの」

 

「私のは秘密よ、メリーは?」

 

「うーん、私も実はあんまり思いつかなかったんだけどね。三人で楽しく過ごせますようにってお願いしておいたわよ」

 

 そう言ってメリーは恥ずかしそうに笑った

 俺も変に考えないでそう願っておけば良かったと後悔するが、メリーの言葉は嬉しかった

 

「なあ、三人って俺も入ってるよな」

 

「ええ、もちろんよ」

 

 よし、とガッツポーズはしてみるが眩しすぎるメリーの笑顔に正直目は合わせられないでいる。

 

「やっぱりはメリーはメリーね。私のメリーはやっぱり違うって事、でも薬師如来にお参りしただけじゃ地獄に来た感じしないわよね」

 

「ちょっと、私がいつ蓮子の物になったのよ……そういえば閻魔大王も祀ってるのよね」

 

「閻魔堂ならそっちだな」

 

 件の小野篁と閻魔大王を祀る閻魔堂は本堂向かって右側の後方にある。尤も正面の戸は閉ざされており、中の像を覗こうと思えばくすんだ小さなガラス窓から覗く他は無い。ともあれ折角だ、行ってみよう。

 

「あー見える見える、暗いしガラスくすんでるけど見えるぞ閻魔大王」

 

「本当だわ、やっぱり怖い顔してるのね。右の人が小野篁?」

 

「そうだな、多分」

 

「多分じゃないわよ、メリーに適当な事教えないで欲しいわね。あ、あと小野篁の和歌が百人一首に載ってるのは知ってるかしら」

 

 傍から見ればおかしな光景である、閻魔堂の小さく微妙に高い位置にあるガラス窓を三人で必死に覗き込みながら話しているのだから、冷静になってみるとこれがなかなか面白い。

 

「ははは、何だっけ百人一首?」

 

「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出ぬと 人には告げよ 海人の釣り船~って聞いた事くらいあるでしょう」

 

「それなら私も聞いた事あるかも、この人の歌だったのね」

 

 ちなみにこの歌は篁が隠岐に島流しされた時に詠んだ歌だという説もあるようだ。諸説あり、だが。しかしまあ二年後に都に舞い戻って参議まで上り詰めたというのだから閻魔の側近というのもあながち嘘でもないのかもしれない

 

「ねえ、さっきお願いし損ねたなら閻魔様に手を合わせといたら?」

 

「は? いや閻魔だぞ」

 

「いいじゃない、中々無いわよこんな機会は。神仏ならどこにでもいるけど」

 

 と、よくわからない理由で謎の提案をされた。まあ確かに民間信仰では閻魔大王を地蔵菩薩と同一視して信仰してるなんて話もあるが……。

 

 いや、そんな事どうでもいいか。どうせ地獄に落ちるなら今のうちに閻魔に喧嘩でも売ってやろうか。そんな意気込みというか憤りが何故だか湧き上がってきた。多分、ワインがまだ効いている

 

「いいぜ蓮子、特大の地獄参拝と行こう」

 

「え? 特大って何よ」

 

 思いっきり手を打ちあわせ、合掌。人気のない境内にその音が反響する。

 

 くすんだ暗闇の中に偉そうに座す閻魔大王を睨みつけて祈る

 

 

「俺はまだ死ぬつもりは無いし、地獄にだってまだ落ちてやらない。俺は生きて失くした夢にもう一度辿り着く、そういう事でよろしく」

 

 

 

「ちょっと聞こえてたんだけどそれって願い事って言えるのかしら。地獄行きが早まったんじゃない?」

 

 蓮子はそう言ってからかうように笑う。割と小声のつもりだったので聞こえていたのは恥ずかしいが、仕方ない

 

「私はあなたらしくて良いと思うわよ」

 

 メリーそれはフォローなのか、ありがとうと言いたいが辛い。ワインはやはり地獄を見るという事か。

 

 

 

 

「よし、参拝も終わったし日も傾いてきていい時間だ。一杯引っかけて迎え酒と行こう」

 

 纏わりつく微妙な空気を肩で切り、本堂に背を向けて歩き出す。いつのまにやら、早春とはいえまだ日は早いようで雑居ビルの谷間から射しこむ夕日が境内の石畳を照らしていた。

 

「そーいうことなら私も付き合うわよー」

 

 後ろから蓮子の声と走り寄る音

 

「ちょっと二人とも、いや蓮子はともかくあなたは止めといた方がいいんじゃないー?」

 

 その後ろから追いすがるメリーの声、寂しい境内には似つかわしく無いほどに馬鹿らしく楽し気な声が反響した。

 

 

 ああ、俺はこの世界に生き残った事を後悔なんてしない。今のこの日々、二人との日々があるから

 

 そして、遠くない未来でもう一度君に会えると確信出来るから。

 

 申し訳ないがまだまだ、この日々は明日も明後日も続くはず

 

 

 

 そう思った時、どうしようもなく生きている心地がした。死の匂いが漂うこの街で……。

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
就活も終わり、最近やっと余裕ができたので取材では無いですが京都の木屋町周辺や清水寺、六道珍皇寺など見て回って来ました。もちろん緊急事態宣言が発令される前ですが…
本当に、世の中の在り方が変わってしまったなという感じですが。もし秘封倶楽部の二人ならどうするでしょう?
活動自粛?リモート秘封倶楽部?
どちらにせよ彼女達ならなんだかんだで楽しくやっているような気がします。



さて、これからも本当にマイペースな投稿となりますが自分の作品を楽しみにしている方がいると信じ(いなくても)頑張っていこうと思います!

それではまた!


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幕間 「そよ風に吹かれて」

お久しぶりです。
以前の投稿から半年以上の期間が開いてしまったことをここにお詫びします。
新しい職場、新しい街での暮らしに余裕を欠いてしまいなかなか執筆に身が入らず本日の投稿になります。

本筋からは逸れた幕間という扱いにはなりますが、楽しんでいただければ幸いです。
それでは、


 幕間「そよ風に吹かれて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「五月雨が響く昼下がりにふと過るあのメロディ窓を打つ音が瞼に写すのは夜を駆けたmemories」

 

 

 

 

 風が吹いた。

 

 

 春の兆しを孕んだ、生温い夜の風が

 

 安っぽいトタン屋根のベランダに吹き抜けた。吐き出した紫煙はその風に揺られて溶けて彼方むこうの空気に消えていった。

 

 遠く見渡す南西方向の景色の奥、爛々と煌めくのは阪神高速のLEDの灯りだろうか、澄んだ空気とは言えぬ、少し饐えた空気の中

 

 微か霞んだ光を眺めるでもなく見つめたまま再び吸い込んだそれを吐き出す……

 

 

 

 こうしていられるのも、冷たいはずの夜風に混じり吹く春の訪れのおかげ、まだ少し肌寒いがどこか温い風に吹かれて俺は煙草をくゆらせている。

 

 別にいまさら、部屋の壁紙をヤニで汚してしまう事を懸念した訳でもなく

 

 ただなんとなく、郊外の高台の湿気た借家のベランダからそんな輝きを見つめていた。

 

 

 

 こういう時には浸れるだけ感傷に浸りたくもなってしまう。そんな思慮、浮かぶ無数の泡沫の中にあの日の夢のその欠片を見ていた

 

 そういえば、決別の瞬間のその言葉は残酷にも奔流の中に聞き取れやしなかったっけ……

 

 突如として訪れた悲劇……突如として訪れた彼女との時間……。

 

 それらの持つ意味すら解らないまま、俺はこんな日々を享受している。いつしか時は流れ季節は廻っても、心はあの日に置き去られたまま……。

 

 数奇な出会いがその止まった時間を動かし始めた時、その穴を埋めるように辻褄を合わせる様に動き加速し始めた時間に俺の精神は耐えうる事が出来ているのだろうか……

 

 

 

「はぁ……」

 

 溜息か否か、それもわからない程度で吐き出した煙が緩やかな横風に流されていく。

 

 ただこうしている事に何の労力も要する事は無い、ただあるだけの感情に浸れた気でいるだけだ。

 

 

 しかしわかった、彼女達との出会いで

 

 それではいけないのだと、それでは何も変わらないのだと……。

 

 

 過去を、思い出を抱きしめたまま前へ踏み出すのにはそれ相応の覚悟が必要で在る事を

 

 学のない馬鹿な俺が唯一、胸を張れる事を突き通す為……

 

 

 夢をただ見ているのは容易かった、しかしそれを現に変える事は俺のような凡人には難しい。それは身を持ってして経験した事だ。

 

 雨の谷底に置き去った過去も、 夢の果てで得た愛おしい日々も……白紙の天井と変わり果ててしまった。

 

 

 俺はいてもたっても居られずに意味も無く旅をした。見知らぬ街角が夢に見た景色と繋がるような、根拠の無い期待と焦燥に駆り立てられるままに……

 

 けれど穴の開いた器には結局何も残せないまま、色の無い季節と時間だけが過ぎた。そうして出来たのがついこの間までの自分である。

 

 変わったのか、それとも変えられたのか……

 

 

 間違いなく後者だろう。

 

 嗤う、これが一体どんな感情か分からないけど。

 

 火を着けた煙草のフィルターが焦げ付く程の時間が経った頃、右のポケットの携帯端末が振動して誰かからの着信を告げている。

 

 

 暗いベランダ、空調の室外機の上に置いた灰皿に短く焦げたそれを押し付け、いまだ鳴りやまぬポケットの中に手を伸ばした。

 

 

 意外に次ぐ意外である。

 

 

「こんばんは、珍しいな」

 

「ハロー、夜遅くにごめんね。何してるの?」

 

「ベランダで感傷に浸ってたとこ、俺は夜行性だから気遣いは無用だ」

 

「 今日は温かいものね。多分だけど煙草吸いながら遠い目をしてる……どうかしら?」

 

「正解、いつのまにか透視まで出来る様になってるんじゃないか」

 

「ふふ、馬鹿言わないでよ。マクモニーグルじゃないんだから」

 

「よく知ってるな、でもメリーなら本物の超能力捜査官になれるんじゃないか」

 

「ちょっとかっこいいかも、卒業した後の進路の候補に入れておこうかしら」

 

「今日日儲からない商売だけどな」

 

 

 電話越しにメリーがくすりと笑う、こうして彼女と端末越しに他愛のない会話をするのはもしかしたら初めてなのかもしれない。

 

 この会話の行く末はわからないが、とりあえずポケットの煙草に手を伸ばし、咥えた。

 

 そしてだれに見られている訳でもないのに、少し恰好付けて片手でオイルライターの蓋を弾き、火を着けた。

 

「 それにしてもメリーが俺に電話してくるとはな……嬉しいけど何か相談事でもあるのかい」

 

「全然そんなんじゃないの、ただ暇だから何となくあなたと話したくなっただけよ」

 

「光栄だけど俺に話せる事なんてそれほど無いぞ、基本的に寡黙なタイプなんだ」

 

 

「なんでもいいのよ、あなたの話嫌いじゃないから。そうね、どんな感傷に浸っていたのか……良ければ聞かせてくれない?」

 

「はは、そうだな感傷か。人に話すのは結構恥ずかしいんだけどな、でも俺の事だし何となく想像はつくだろう」

 

「うん、いつか見た夢……あなたにとっては紛れない現実。あなたにとって大切な誰かとの思い出かしら」

 

 

「ああ、こうして春の夜風に吹かれていると思い出すんだ。彼女の声も、横顔の儚い美しさも何もかもを」

 

「主時間はセーブが出来ない。だからきっと思い出は美しいのだと思うけれど、それ以上に辛いわよね」

 

「ああ、その時間に立ち返る事は出来ないんだ。だからこうして追想して振り返る、全ては後になってからだ。いまや夢か現かも定かではない……そんな話だよ」

 

「私はそれでも聞きたいわ、あなたの幻想を」

 

 

「わかったよ、まあ小説ほど面白い話でもないが眠れないって事なら一つ……つまらない話を聞かせよう。情けない男の見た夢の話を」

 

 

 深く、煙を吸い込む。

 

 目を閉じ、それを肺に満たした。

 

 胸に感じる心地の良い重さと一緒に、暗闇の中を泡沫のような記憶のハイライトが明滅する。そんな切ない輝きを拾い集めて、ゆっくりと息を吐いた……

 

 

 

 ああ、あれはそうだ。不思議な世界で目を覚まし、彼女と出会ってから体感にしてしばらくの時が経った頃の事だったか。

 

 

 

 出会い、それは彼岸であった。

 

 何もかもを一瞬で失い、目を覚ました草原の一面のシロツメも、突き抜ける様に高く青い見上げた空も、そんな景色を呆然と仰ぐ俺に伸ばされた白く冷たい手の暖かさも……

 

 その全てが夢や幻覚の類だとしても、その瞬間の俺にとってはこれ以上なく幸せであったのだと思う。

 

 こんな時間が永遠続くような気がして、もはやその時間が過去や思い出に変わってしまう事など夢にも思わず、この今が永遠に続くのではないかと錯覚させる程に時間という概念が摩耗した世界で紡いだ彼女との永くも短い思い出の泡の一つ、季節にすればきっと春だったのだろうか……

 

 

 

 

 温い、風が吹いた。

 

 

 

 揺れているのは、彼女の金色の髪だけではない。

 

 田園に張られた水面もあぜ道に咲く蒲公英もその空間に息づく全てがその春風を受けて心地良く揺れているように感じた。

 

 

「ここにはもう、慣れたかしら」

 

 

 風のそよぐ音と虫の鳴き声だけの道に妖艶に透き通った声が響いた。

 

 

「ええ、貴女があちこち連れまわしてくれたおかげで随分と。どうしてか懐かしい気持ちになれるんです、こうして歩いていると」

 

「気に入って貰えたようで嬉しいですわ、退屈してるんじゃないかって心配してたの」

 

 

 初めてあった時と同じ白い日傘の影の中

 

 振り向いた彼女の微笑はここに来てから幾度となく目にした表情で、それでも何度だって微笑みかけられる事をどこかで望む自分がいる。

 

 足を少し速めて前方を歩く彼女に近づくと、そよ風に揺れる毛先が俺の頬をくすぐったような気がした。

 

 

 

「これだけ天気が良いと歩いてるだけでも楽しいものなんですね、ここに来てから一度だって退屈なんてしてませんよ。ずっとここに居たいくらいだ」

 

「あなたが居たいと思うなら、いつまでだって居てくれていいのよ。言ったでしょう、幻想郷は……」

 

「全てを受け入れる。でしたよね、そしてそれは残酷な事だと貴女は言った。けれど俺にはこの時間にも景色にも残酷さなんて感じられない」

 

「ええ、そうね。かつてこの場所が境界によって隔絶される前、人ならざる者達の巣食う東の国の辺境の地がまだ人の社会と地続きであった頃にはきっと存在しなかった物なのですわ……その残酷さは」

 

 

 

 彼女は並んで歩く俺に目を合わせたまま、その微笑を物憂げな表情に変えた。

 

 

 彼女は確かに俺と同じ人間では無いのかもしれないが、その実情は陶磁器の人形のように冷たい訳では無かった。

 

 彼女はその表情や声に、俺のようなつまらない人間以上に感情を豊かに表現する。

 

「何の因果なのかは分からないけど貴女が創った”幻と実体の境界”が死の谷へ落ちていくばかりの俺の魂をこの箱庭に繋ぎ留めたのだとしたら、出会えて良かったと思うんです。例えそれが残酷なことだとしても」

 

 

 本音だった。なぜなら今こうして春の陽気に包まれたあぜ道を彼女と歩いていることがイレギュラーな事象であり、きっと本当ならば雨の谷底で無惨な圧死体として発見されるのがきっと俺の人生における正史であり、幕引きになるはずであったのだから。

 

 夢のようで現実のような微風と微笑、ぬるま湯のように吹き抜けては一面の緑を波打たせる。

 

 

 連れ立って歩く二人の距離は近く、彼女の淑やかな声もまたよく届いた。

 

 

「私もそう思いますわ、本当に分からない物ね……。それとも出会いを理屈で考える事がナンセンスなのかしら」

 

「ナンセンスですか。やっぱり何だか時系列が滅茶苦茶だ。いったいここはいつの日本なんです」

 

「貴方が生まれるずっと前、人間一人の人生では収まりきらないくらい昔……。とでも言えばいいのかしらね」

 

「なるほど、確かに僕が生きていたはずの時代とは何もかもが違う様だ。しかしそれにしては……」

 

「ええ、それにしては言葉も通じるし違和感無く意思疎通もできる。不思議でしょう?」

 

「そうそう、それがずっと疑問だったんです」

 

 

 きっとここが俺の生きていた二千XXX年と同じ時間、タイムラインの上に無いのだという事は薄々気付いていた。一昔前のSFではありきたりな設定のタイムリープを今まさに経験しているという事になる訳だ。

 尤もこれが長い走馬灯のような物で無い限りは、だが。

 

 俺の知りうる限りの科学であったり技術は見る影もなく。その変わりに所謂”魔法”のような理が当たり前のように存在していた。

 

 ここに来てからは時間の感覚すらも曖昧になっており、シロツメクサの大草原にて彼女と出会ったのも昨日の事のようでもありながら或いは百年前のようでもあった。

 

 

 こういった言い方をすると極めて異常で不思議な事態かのように錯覚してしまうが、人間にとっては元々これが普通なのである。

 

 人にとっての時間という物は元から不確定な幻想に類する物であって、例えば時計の長針が一周する事を仮に一時間と定義したとして、その針が一周する間に感じる時間は自分と他者、個と個の関係では全くもって相違を齎すのである。

 

 簡単な話で、我々人間の定義した時間は所詮一つの物差しに過ぎず、実際のところ過去も未来もありはしないのではないだろうか

 

 

 

 

 

 

「私は境界を司る妖怪ですもの」

 

 

 俺の問い掛けにしばらく考え込むような仕草を見せていた彼女だったが、ふと閃いたようにそう言った。

 

 

「境界、それが答えなんですか?」

 

「ある意味ではそうね、けれどこの言葉は無限の意味を持っているわ……。例えばこの幻想郷と外界を隔てる”幻と実体の境界”これはあなたも知っていますわね」

 

「外界を実体の世界、そしてここを幻の世界とする事で妖怪の存在を保護する結界……そんな感じであってますよね」

 

「正解、流石ね」

 

「いえいえ、貴女から聞いたそのままを言ったまでです」

 

「ふふふ、覚えていてくれて嬉しいわ。さて、実体と幻……相反するそれらには大きな隔たりが元々存在しているのはわかるかしら」

 

「まあ、幻と実体ですからね。そりゃあそうでしょう」

 

「ええ、それなのにどうして結界を線引いてまで私達妖怪はこの箱庭に移る必要あったのか、そう疑問に思わない?」

 

 

 

 他に疑問があった気はするが、確かにそれも気にはなる。

 

 相反する事の出来る存在であった人と魔性、対等であるはずの両者に共存の道は無かったのだろうか。

 

「いや、だからこそなのか。相反し混じり合う事の無い両者だからこそその間に諍いが生じた……とか」

 

「あら、正解ですわ。貴方って意外と勘が鋭いのかしら」

 

 

 驚いた、意外だと大きく瞳を見開いて彼女はそう言うが。そんなに鈍そうに見られていたことに些か傷つく。

 

 

「そんなに鈍いつもりは無いですが……。いや、そんな事より人と妖怪の間に何があったんですか」

 

「人を襲う妖怪と妖怪を殺す事を生業とする人間が現われ始めた……。貴方ももしかしたら聞いた事があるんじゃないの、妖怪退治の話」

 

「ああ、結構好きですよそういう話。頼光四天王の鬼退治の伝説とか……ほら酒呑童子の」

 

「あなたも知っているくらい有名な話なのね、私もよく知っていますわ」

 

「へえ、じゃあ会った事もあったりするんですか、酒呑童子に」

 

「ええ、旧い友人なの」

 

「友人、はは……凄いな。僕からすればお伽話の存在も貴女には友人ですか。確かに冗談では無さそうです」

 

「ええ、お伽話にも伝説にもきっと会えるわ。いまここにいる貴方なら」

 

 

 

 この不思議な箱庭の不思議な法則下では夢物語ももはや夢ではないのだ。

 

 酒呑童子、会ってはみたいが俺の知る逸話から想像するに中々友好的な関係を築くのは難しそうである。

 

 

 

 それはそうと何か忘れている気がした。

 

 ああ、そうだ俺が彼女に尋ねたのは妖怪退治とか人食い鬼の話では無かったのだった。

 

 あぜ道を吹く温かい微風は心地よく忘却を誘う。それでも小さな引っかかりは消えないまま……

 

 その答えが唐突にこの暖かな白昼夢の時間を終わらせてしまう可能性を孕んでいても……

 

 

 

 

「そうだ、そういえばさっきの話なんですけど……」

 

 そう言いかけ口走った、彼女は立ち止まりそして振り向いて

 

 白く細い右手の人差し指をそっと俺の唇に当てがって、囁く。

 

 

 

 

 

 

「答えを急いではいけないわ」

 

 

 

 吹きすさぶ生温い風が止んだ。

 

 

 

 その一瞬、時が止まったように風も全ての音も静寂に変わったのを感じた。

 

 彼女のいつにも増して冷たい声色、けれど口を噤むその刹那の緊迫感は恐怖よりも何故か切なさを感じさせた。

 

 そしてまた風が吹いた。

 

 

「こうして今隣り合う貴方と私の間にだって境界はあるの、境界が無いという事は全てが一つであるという事……。境界が隔てるからこそこうして誰かと出会えるのですわ」

 

 

 

「隔たりが無ければ自分以外の誰かを認識する事すらままならない、そういう事ですか。だけどそれじゃ……」

 

「ええ、それでも私は境界の妖怪。境界の支配者であり境界そのものでもあるのよ。境界が無ければ世界はたちまちに崩壊してしまう。それならわかるでしょう、貴方と私 夢と現 過去と未来の間にその線引きがある意味を……」

 

「その線引きが、人にも妖怪にも越えられない制約を課し続けるなんて……そんなのは残酷すぎやしませんか」

 

「ええ、だから残酷なの。私だって例外じゃないわ。境界である私はそのどちら側にもいられない、線上に一人……寂しいでしょう。それでも私は神になろうなんて思えないの」

 

 

 

 儚い響きを持つ言葉だった。境界に立つという事は彼方にも此方にも居られないという事なのだろうか。だとすればこの出会いは境界線上での出来事なのだろうか……。

 

 そして、それは均一なマトリクスに生じた小さな歪みにすぎず、いつかはこの世界の理によっていとも容易く是正されてしまうものなのだろうか。

 

 

 まるでその瞬間は春の日、優しい日の射すどこまでも続くあぜ道。

 

 されど、その瞬間は春の日……。雨の谷底と落ちゆく全ての景色、喪失の記憶。

 

 

 さながらフラッシュバックするかの様に彼女の指先が触れた瞬間に脳裏を過り明滅する走馬灯は、夢と相反する現を映した。そう、映してしまったのである。

 

 ここにきて目を覚まし、彼女と過ごした穏やかな時間。その中に封じ込めて見て見ぬふりをしてきたもう一つの景色。幾度考えたのだろう、ここが現であちらが夢ならと……

 

 

 夢とは非合理的な物だ。それ故に何もかもが当たり前に成りうる世界でもある。現と夢はまるで鏡映しのように、隣り合い反発しあう物でもあるのだ。

 

 夢の今と現の今、その両方を観測できるのであれば一体、俺はどこに居るのだろう。

 

 

 穏やかな風と景色、どうしようもなく哀しさを拭えないのは俺だけではないと信じたい

 

 近いようで遠い距離感も、彼女の時折見せる冷たくて切ない顔も

 

 その全てのもどかしさの理由が二人を創り二人を分かつ境界であるとするならば、そんな物は存在しなくても良いと思うのだ。

 

 冷たく、優しく触れるビスクドールの指先

 

 少し強引にその手を取った。

 

 

 

「それでも、ここが夢や幻の世界だろうと死の間際の走馬灯だろうと構わない……。俺は貴女とこうして歩いて話す時間が幸せだから、だから……」

 

 

 言葉に詰まる、彼女の手を握ったまま。この境界を越えてしまえば……この線引きを侵してしまえば。もう二度と”会えない”帰れない”かもしれない。

 

 それでもその一歩は、俺が……踏み出さなければならない物なのだ。

 

 

「続き、聞かせて?」

 

 彼女の体が近づいた。体温が伝わる……

 

 戻れなくたっていいとそう思った。

 

 

「ここに居たい。幻想郷じゃなく貴女の傍らに居たい……それも刹那じゃなく永遠に」

 

「……本気で言っているの? この場所がこの瞬間がもしも夢だとするのなら、貴方には帰るべき現があるのかもしれないのよ」

 

「貴女が言ったんでしょう”居たければいつまでも居て良い”って」

 

「それは……ここに、幻想郷に居ても良いという意味ですわ。そんなつもりで言った訳じゃ……」

 

 

 そう言って顔を背ける彼女の表情に愛おしさと少しの罪悪感を感じた。

 

 彼女は優しい……だから、この言葉が重荷となってしまうかもしれない……。だとしても今伝えなければもう二度と、その言の葉が届く時は無い……なぜかそんな気がして、抱き寄せる。

 

 

「わかっています。それでも言わせて欲しい、俺は貴女と永遠を生きたい……どうか俺の居場所になってください」

 

「……」

 

 

 沈黙、逸らした目線が見つめ合う瞬間に変わった。覗き込めば彼女の紫色の瞳は深く、呑み込まれてしまいそうで……

 

 視線の交わるその僅かな距離、一瞬のようで永遠のような静けさ。

 

 微風の春風とその仄かな喧噪だけが俺と彼女の間の小さな隙間を吹き抜けていく。

 

 きっと、風に揺られたせいだ。たどたどしくも彼女の腰に回した両腕の震えるのは……。

 

 

 

 

 

 

 硬直した時間、それを破るように冷たく交差していた彼女の表情がまるで雪解けのように綻んで、突然にそして優しく俺の肩を抱いた。

 

 袖口が首筋を撫で、彼女の吐息が右耳にこそばゆく吹きこむ……。二人の隙間は限りなく零距離近づき、息を飲む。

 

 

「……有難う。貴方の言葉、本当に嬉しいですわ。私も幸せなのよ、月並みな台詞だけれど貴方と過ごす時間が」

 

「感謝をするなら……俺の方ですよ……」

 

「謙遜しないで。初めて、そう……初めて私と同じ線上に立った人……初めて偽りのない気持ちを伝えてくれた人……。不思議ね、永い時間を生きて幾多の出会いと別れを知る私が、こんな感情を抱くのは」

 

 首筋と肩に伝わる彼女の感触が強くなった。それに呼応するように腰に回した両腕も強く引き寄せる。

 

 

「貴女の事を愛してしまったんです」

 

「私も、貴方を愛してしまったようですわ」

 

「それなら……だったら……!」

 

 

 境界を越えて、永遠に一緒で居られるはずだ。と、そんな根拠のない言葉はどうしてこの時に浅はかな俺の言の葉と変わらなかったのだろうか……

 

 きっと、彼女はわかっていた。俺の偽りなき気持ちも……二人を分かつ境界のその大きさも……。自分の気持ちと、いつか訪れる物語の顛末も。

 

 だからきっと彼女はこう言った。焦らすつもりもなくただ誤魔化すように、夢がまだ覚めてしまわないように。

 

「ええ、きっと気持ちは同じなのでしょう。だけど今はどうか答えを急がせないで欲しいの……。今が、幸せだから……」

 

 囁くような声、入れ違う表情は見えないが。その声は泣いているようにも震えているようにも聞こえた。

 

 それはどちらにせよ俺の知る彼女らしからぬ声で、それ以上の言葉を噤ませるだけの理由になった。

 

 

 だから、せめてと。強く、彼女の体を抱き寄せるのがきっとあの瞬間の精一杯だったのだと思う。

 

 

 

 

 それは記憶。夢の記憶だ、戻りつつある時間の中で何度もリフレインした彼女の台詞が脳裏に響いた。

 

 

「だから……幻想郷に桜が咲き乱れる頃に、もう一度貴方の気持ちを聞かせて欲しいの。生と死の境を舞い散る花弁の雨の下でならきっと私も貴方に本当の言の葉を伝えられるから……。そしてその時には私の事、名前で呼んでくれないかしら……?」

 

 

 約束をした。花弁舞い散る桜の下で、その契りを果たす。そんな夢を何度も見て、今も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「果たせなかった約束の話だ」

 

 煙のように浮かんでは風に吹かれて流れて行ってしまう。そんな遠い記憶……

 

 こうして人に話すことになるとは思ってもいなかった。しかしどうしてか彼女に話したいと思ってしまったのである。

 

 

 

 

 

 メリーの声が電話越しに言う。

 

「果たせなかった、か。切なくてやりきれない結末だったんでしょうね……。話してくれてありがとう」

 

「まあ、そう辛気臭くなる必要もない。少しでも眠くなればいいと思っただけだ」

 

「ふふ、なんだか眠れなくなりそうよ。聞いていてドキドキしちゃったわ、でもやっぱり恋愛小説ならハッピーエンドじゃないと」

 

「同感だな、だけどまだ終わっちゃいないって最近は思えるんだ。出会いから始まる新たな物語は今度こそハッピーエンドで終わるってさ」

 

「そうね、私もそう願ってるの。出会いはきっと私の結末を変えてくれるって……」

 

 

 そう語る彼女の声にはいつもの物憂げな雰囲気とは違う何かがあるような気がした、そしてその声に何故かデジャヴを聞いた。

 

 取り繕うように続く彼女の言葉に、俺も無意識に詮索を避けてしまう。

 

 

 

「そういえば、あなたの思い人に再会できたら何て言おうと思ってるの?」

 

「ん、気になるか?」

 

「ええ、これは私の好奇心。きっとまたキザな事言うんでしょ?」

 

「あれはだな、そういう感じだったから言っただけでだな……」

 

「うんうん」

 

 

「ああ、そうだな……。もう一度彼女に会うことが叶うなら今度こそ約束した通り桜の季節に、ちゃんと謝りたいかな」

 

「あら、謝罪なのね」

 

「一緒に居ると言ったんだ。それを果たせなかった俺に開口一番言える事なんてそれしかないさ」

 

「その人ならきっと……あなたを責めたりなんてしないと思うけどなあ」

 

「はは、だけどそうして許して貰わないときっと面と向かって愛してるなんて言えないんだ。情けないよな」

 

「ううん、あなたらしくていいと思う。そうして一途に愛されるって何だか羨ましいわ」

 

「へえ、メリーにもそんな願望があったとはな、けどそれなら蓮子がいるじゃないか」

 

「もう、何でいつもそうなるの。私と蓮子はそんなんじゃないってば……。蓮子は知らないけど、とりあえず私は違うからね」

 

 

 少しムキになって訂正するメリーはやっぱり年相応の愛らしさがあり、いつもの如くこの流れを気に入っている自分がいる。

 

 付き合ってくれるメリーには感謝だが、そういえば少し喉が痛い。何本目かも分からぬ煙草をまだ煙の立つ吸い殻の残る灰皿にまた押し付ける。

 

 

 吸い過ぎたようだ。

 

 

「はは、それはまあ冗談として。メリーの事だからそういう輩は少なくないと思うんだけどな」

 

「えー、そうなのかしら?」

 

 

 こんな話の流れだからつい口走ってしまったが、容姿端麗で性格も温和なメリーの事だから。思いを寄せる人間がいたって何らおかしくは無いのである。

 

 どうしてかそれを思考の外に追いやって見ないように、触れないように働きかけていた自分に気付き また情けなくなった。

 

 

 やっぱりメリーは、マエリベリー・ハーンは彼女に……

 

 

「今、何か言った?」

 

「……いいや、なんでもない」

 

「そう、あらもうこんな時間。話していると時間が立つのが早いわね……」

 

「だな、気付いたら吸い殻の山が出来てる」

 

「体によくないわよ」

 

「ああ、まあ善処しよう」

 

「うんうん。はあ……やっと少し眠くなって来たかも。ありがとう、遅くまで付き合ってくれて」

 

「いいって、それにこちらこそ……つまらない話を聞いてくれてありがとう。少しすっきりしたよ」

 

「ええ、どういたしまして」

 

「ああ、そうだメリー。今年も桜は咲くかな」

 

「もう、そんなの咲くに決まっているじゃない。多分、早かったら来週くらいには鴨川の沿道もピンク色よ」

 

「そうだよな、よし。そうときまれば花見酒だ。蓮子と三人で」

 

「うん、満開の桜の下でね。そうだ蓮子と言えば何か言伝を頼まれてたような……」

 

「え、蓮子が俺にか?」

 

「うん、大した内容では無かったはずだけど……。ダメだわ思い出せないかも、とりあえず寝ようかしら……なんだか眠くなってきたわ」

 

 あくび混じりの眠そうな声でメリーは諦めを口にした。言伝とやらは気になるが眠いと言うのだから仕方ない。

 もともと眠れない彼女の為に、哀しき妄執と気恥ずかしい思い出の混じる記憶を自分語りしていたのだから。

 

 

「急ぐことじゃないならいいさ、無理せず寝ていい。おやすみメリー」

 

「ありがとうー、おやすみ……」

 

 

 通話が切れた。

 

 携帯をポケットに仕舞う。

 

 

 

 遠く見えるハイウェイの明かりは変わらず煌めいて余韻に浸って直視していては目に焼き付いて今度は俺が眠れなくなりそうだ。

 

 

 ああ、そう言えば明日も仕事じゃないか。

 

 

 ベランダを後にして、薄暗く暖色の常夜灯だけが暗く灯る部屋のベッドに身を投げる。

 

 

 今になって、柄にも無い事を話してしまったと少し恥ずかしくなった。

 

 君が彼女に似ているからなんて、メリーにも誰にもきっと永遠に言えやしない。

 

 どうしようもなく情けない男だ。こんな俺を彼女が見たらどう思う、自分一人じゃ何も変えられなかった男の姿を……

 

 

 過剰な喫煙から来るくらつきと、心地の良くない微睡の中で今はあの日の夢でなく。

 

 近い未来を夢に見た。出会って初めて見る桜はきっと今度こそ鮮やかに彩られている事だろう。

 

 あと幾つ、季節を重ねれば。約束した春に辿り着けるのかはわからない。

 

 それはまだ未知の道、だけど今年は三人で

 

 

 

 花弁舞い散る桜の下、そよ風に吹かれて……

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださりありがとうございます。
次の話からは鳥船遺跡を題材にした物語を展開していこうと考えています。
少し、私生活の方も落ち着き始めたとはいえまだまだ投稿に時間がかかってしまうかとは思いますがどうかお許しください。

仕事中暇があればメモ帳で執筆する、くらいの努力はしていく所存です。
こんな私の稚拙な小説ではありますが楽しみに読んでくださる方がいると信じて頑張ります。

それではまた会いましょう!


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第十八話 「春を駆る 馬車と高く摩天楼」

本当にお久しぶりです。
長らく書き溜めてはいたのですが、どうしても気力が無く
一年以上のブランクを空けての投稿になってしまいました。
気長にはなってしまいますが必ず物語は完結させる覚悟ですので
もし読んでくれている方がいらっしゃるのであれば
お許し頂きたいです。

言い訳ばかりになってしまいましたが
どうかお楽しみいただければ幸いです。
それでは。


 第十八話「春を駆る 馬車と高く摩天楼」

 

 

 

「人は概ね自分で思う程には幸福でも不幸でもない。肝心なのは自分で望んだり生きたりするのに飽きない事だ」

 

 

 

 

 けたたましい電子音が耳元で鳴り響いた。

 

 

 意識は朧

 

 

 半ば無意識のまま枕元に置いた携帯を沈黙させれば、再び心地の良い微睡に身を投ずる事ができる事を無意識の彼女は知っている。

 

 締め切った遮光カーテンの裾から零れ落ちる一筋の陽射しには見て見ぬふりをしたまま少女は惰眠を貪る。

 

 彼女には似つかわしく無い程に、さも満足気な表情で……。

 

 

 

 秘封倶楽部会長 宇佐見蓮子の朝は遅い。

 

 

 

 

「あーもう、わかったわよ」

 

 

 

 誰に言うでもなく、スヌーズの喧しい携帯端末を寝ぼけ眼で睨みつけ気怠そうな独り言と共にベッドから身を起こす。

 

 

 昨晩の深酒が祟ったか、さすがの私も頭が痛い。

 

 

 

 酒を飲んで寝ている時はあんなにも心地よいのに、酒が抜けて目を覚ます頃には

 

 嗚呼、こんな風に額に手を当て無いといけないなんて納得がいかない。

 

 

 

「頭痛あ……今何時になるのかしら……?」

 

 

 

 独り言だ。言葉に変換する必要も無く、その余力を持って携帯を手繰り寄せ

 

 正確な時間を確かめる方がまだ有意義であるのは火を見るよりも明らかなのは分かる。

 

 白い天井を見上げてみるがこの目にはその白さ以外何も映らない。当然、私の瞳の星時計は星が見えなければ使えない。

 

 仕方なく、まだ冴えない意識のままベッド脇に置いた携帯端末を手繰り寄せた。

 

 液晶に浮かぶ白文字、デジタル表記の時刻は午前十一時十分を指す。

 

 決して指してはいないけれど。

 

 

 画面のロックを解除せずとも数件のメッセージと不在着信が積もっているのは分かる。

 

 いつもの事だが少し寝すぎたようだ。

 

 カーテンを開け放つと朝と呼ぶにはもうすでに高く昇った陽射しが眩しかった。

 

 

「よし」

 

 

 レースカーテン越しの陽だまりの中で背伸びをして纏わりつく眠気を払う。

 

 心地の良い春の陽気、そんなものに浮足立つつもりは無い。

 

 とりあえず、洗面台に向かう。それほど冷たくない水道水で顔を洗い、顔を上げて鏡を見れば

 

 映るのはいつも通り凛々しい顔の私、宇佐見蓮子。

 

 後ろ髪の撥ねているのが気になる。

 

 しばらく切っていないので伸びてきているようだ。

 

 少し濡らした髪にヘアアイロンをあてがう。

 

 メリーみたいに髪が長いときっと手入れも大変なのだろうなと、何となく思った。

 

 それでも彼女の髪はいつだって艶やかで綺麗だ。

 

 これは本当にたまにだけれど、彼女の金色の長い髪を羨ましいと思うこともないわけではない。

 

 でも手入れが面倒くさいのは困るのでやっぱりいい。朝は少しでも長く眠れる方が好ましいから。

 

 そう言っている間に私のショートボブの黒髪も真っ直ぐ艶やかだ。

 

 

 そういえば、さっきの不在着信。きっと間違いなく彼からだろう。

 

 そういえば昨日の私は彼に迎えを頼んだった。

 

 私がいつになっても電話に応じないからといって、きっとただ呆れているのだろう。

 

 あんまり待たせるのも可哀想だから、さっさと身だしなみを整えてしまおうか。

 

 化粧水、頬を軽く叩く。

 

 乳液、下地、ファンデーション……。簡単でいい、なぜなら私は厚化粧をしなければならないほど自分の顔を醜いと思っていないし、むしろ綺麗な方だと自負している。

 

 

「はい、完成」

 

 

 薄く唇に紅を差し、私の最低限は完成する。

 

 私、宇佐見蓮子の朝は早い。

 

 クローゼットに何着も掛かった白いシャツその一つを木製のハンガーから外して袖を通す。

 

 同じように黒色のハイウエストスカートを少しきつめに締めた。

 

 ここまではいつも同じ、毎回違う服を用意して出かけるのは疲れるし場所も取るからだ。

 

 所謂、制服のような物だと私は考えているが。これは私が私の思う私を護るために必要な鎧のようでもあった。

 

 そうは言っても、全てがその度に寸分違わず同じなんてそんなのは面白くない。

 

 同じ道を歩くのであっても、その時その瞬間によって映す景色が違うように、大切なのは遊び心……。今日は少し趣向を変えて深い紅の蝶ネクタイに手を伸ばし

 

 鏡に向かえば、白いシャツの襟元できゅっと締め付ける。

 

 ベッドから起き上がってからまだ三十分と少し、我ながら効率的で迅速な無駄のない朝だ。

 

 

 さて、出かける前に珈琲だけでも飲んでいこうか。

 

 

 以前、見た目が可愛くて気に入った。それだけの理由でそれほど安くも無い値段で購入した全自動コーヒーメーカーの電源を入れる

 

 カタカタと小さな音を立てながらその面取られた銀色の四角い機械が珈琲を淹れ終わるのを待ちながら

 

 同じく面取られた四角い携帯端末をスカートのポケットからとり出して、さきほどの不在着信の相手に折り返した。

 

 

 メッセージアプリ特有の呼び出し音が鳴る

 

 時間して十秒ほど、彼は通話に答えた。

 

 

「おはよう、蓮子。ずいぶんとよく眠れたみたいじゃないか」

 

 

 いかにも皮肉っぽく、そしてそれが伝わるようにわざとらしくわざとらしい台詞、張り合いがあって良い。

 

 知り合った、というか墓場で出会った。

 

 そう秋の夜更けの丑三つ時の月明りの下。

 

 直進か、死か。そんな危うげな雰囲気の青年と私達は出会ったのだ。

 

 あの時、彼を私の。私達の活動に誘った事を後悔はしていない。

 

 

「おはよう、ついさっき目が覚めたとこ。昨日飲み過ぎたのよ、仕方ないわ」

 

「飲みすぎなくても寝坊するだろ、遅めに出たから急がなくても良いけどメリーはきっとまた待ちぼうけだぞ」

 

「読書に耽るとついついお酒が入ってしまうものよ。珈琲飲んだらすぐ出るから待っててね」

 

「蓮子らしく呑気だな、わかった。待ってるよ」

 

 

 アイドリング音が携帯の小さなスピーカー越しに聞こえる。彼はどうやらもうランデブーポイント、もとい私の住んでいる下宿の前まで来ているようだ。

 

 湯気を立てた深い琥珀色のそれがガラスポットにたまった頃、それを白いコーヒーカップに注ぐ。

 

 

「ちょうど今珈琲が入ったの、あなたも飲む?」

 

 

 一人分には少し多い、味はまあ……可もなく不可も無くといった所だが目を覚ますという目的のそれだけなら悪くない味とも言える。

 

 

「蓮子のオリジナルブレンド?」

 

「ある意味ではそうね、適当に買った豆を適当に買ったコーヒーメーカーが淹れた私のオリジナルブレンドよ。意外と悪くないわ」

 

「それは美味そうだ。興味はあるけど、そのためにわざわざ家に上がる事も無いかな」

 

「誰が家に上げるなんて言ったのよ、持ってて、持って行ってあげるわ」

 

「それはどうも、冷めないうちに早くな」

 

 

 言われなくても、とカップに残った珈琲を勢いよく飲み干した。

 

 木製のポールハンガーに掛けた黒いマントを羽織り、首元でボタンを止め、同じようにポールハンガーの頂上にぶら下がった白いリボンの黒い中折れ帽を手に取り浅く被った。

 

 さて待ちくたびれた彼のために、温かい珈琲を入れていってあげましょう。

 

 キッチンの引き出しから紙コップを取り出して、ガラスポットに残った珈琲を注ぐ。

 

 蓋つきの紙コップなので零す心配は少ない。

 

 そろそろ出ようか。

 

 愛用の黒いローファーを履いて、玄関の壁に掛けた丸い鏡で最終チェック。

 

 

「さ、出発よ」

 

 

 玄関先に出て鍵を締める。

 

 よく晴れた春の空が軒下から見えた。今日も良い日になりそうだ。

 

 視線を落とすと、下宿前の道路の端に寄せて一台の見慣れた時代錯誤的な見た目をした黒い乗用車が止まっているのが見える。

 

 運転席のドアバンパーにもたれかかるようにしてどこを見ているのか遠い目で煙草をくゆらせる男の姿も。

 

 繋げたままだった通話を切る、彼は耳に当てていた携帯を下ろすとこちらを小さく振り向いて手を振り上げた。何だか面白い。

 

 一階への階段を降りて、エントランスを通り抜け外へ出る。

 

 そうして少し辺りを見渡すと春めいたそよ風の中にちらほらと桜の木が揺れている。

 

 

「おはよう、待たせたわね」

 

「いつもの事だから気にしてないよ、もうおはようではないけどな」

 

 憎まれ口を言いながら彼は吸いかけの煙草を灰皿に押し込んだ。

 

「はいはい、こんにちは。ほら珈琲よ」

 

「どうも。じゃあ頂こうかな……」

 

「どうぞ」

 

「うん、普通だな蓮子ブレンド」

 

「ね、普通でしょ」

 

 

 苦笑いを浮かべて彼はコーヒーを飲み干した。私自身あまり美味しいとは思わないけれど、つくづく気の利かない男だ。

 

 でもそういう所が気に入ってもいる。

 

 

「ごちそうさま。しかしまあいよいよ春って感じだな」

 

「そうね、まだかまだかと思ってたけれど。季節の変わり目って何だかあっけないわ」

 

「ああ、いつから春だったんだろうなあ」

 

「どうかしら。ねえ、春は嫌いじゃないの?」

 

「はは、おかしいよな。嫌いになって然るべきなんだけど、好きなんだ……春」

 

 

 そうは言いながらも彼の声は少し憂いを帯びていて、そんな表情でボンネットに落ちた桜の花弁を掴み上げては風に乗せる。

 

 

「いいじゃない、私も好きよ。何て言ったって花見が出来るからね」

 

「間違いない、俺も早く花見酒と洒落込みたいんだが……。何で車がいるんだろうな」

 

「”用事”を済ませない事にはのんびり花見なんて出来ないのよ。手伝ってくれるんでしょ?」

 

「いつもの事だけどな蓮子、俺は詳細を聞いてない」

 

「それは移動しながら話すとしましょう」

 

「わがままな会長だな、ほら乗れよ。メリーが待ってるんだろう」

 

「ええ、でも安全運転でよろしくね」

 

 

 車の反対側に周り、助手席のドアを開けて乗り込んだ。

 

 劣化の目立つ革張りのシートも、煙草の匂いを誤魔化すような強めの芳香剤の香りにも慣れてしまって

 

 今や慣れない事があるとするのなら、この車の微妙に良くない乗り心地くらいだろうか。

 

 

「任せろ、さあ出発だ」

 

 

 エンジンが掛かる。

 

 走り出した車は、曲がりくねった左京区の住宅密集地を西に西に、縫うように進んでいく。

 

 京阪本線まで出れば、鴨川沿いの満開の桜を目にする事が出来るだろう。

 

 なんて私らしくもない少し浮足立つ気持ちで、助手席の窓を開けた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 狭い道は嫌いだ。

 

 いまいちどういった要件なのか、何か活動を始めるのかもよく分からず、呼び出されるままに蓮子を乗せて京都は左京区、狭苦しいせいぜい乗用車一台分と少しくらいの生活道路を慎重に進む。

 

 

「で、何だっけ?」

 

「ん、何が?」

 

「さっき話したばっかじゃないか、今日の予定」

 

「花見でしょ」

 

「それはそうだけど、そうじゃなくわざわざ大学まで車出す用事って何だよ」

 

「あー、その話ね。まあ簡単に言うと部屋の掃除を手伝って貰おうかなって話よ」

 

 

 助手席の蓮子は、携帯を片手間に触りながら気の無さそうな声で言う。

 

 言われた所で腑に落ちないのは変わらないが……。

 

 疑問は尽きないが、やっと狭い住宅街は抜けられそうだ。

 

 右折すると、二車線の比較的広い通りに出た。確か吉田通とかいう名前だったか。

 

 

「部屋って何の?」

 

「部室よ?」

 

「だから何の部室なんだよ?」

 

「何って、秘封倶楽部の部室に決まってるでしょう」

 

「へ?」

 

 

 吉田通をしばらく走って左に曲がる。この近衛通を抜ければいよいよ

 

 首都京都の大動脈である鴨川の沿道に抜ける。

 

 

「間抜けな声出さないでよ、とはいえ私も最近知ったんだけどね。部室があったこと」

 

 

 蓮子が言うにはこうだ。

 

 俺も彼女達も知っての通り、秘封倶楽部の表の姿はまともに活動していない不良オカルトサークルである。

 

 実態こそ禁止された結界暴きを生業とする危険なサークルな訳だが、兎にも角にもそんなサークルに大学の一室を貸し与える事などありえない話のはず。

 

 しかしどうにもそれがあったらしい。

 

 詳しくは分からないが、十数年前に活動していたらしいオカルトサークルの部室が旧校舎の一室にあり、当時のそのまま。

 

 まるで臭い物に蓋をするかのように物置じみた混沌とした姿で放棄されていたらしいのだ。

 

 そしてこの部屋だが現在、秘封倶楽部の部室として割り当てられているらしい。

 

 それが不良サークルの当て付けなのか、は分からないが。先代のオカルトサークル……前任者の遺産が転がり込んだのだから面白い話である。

 

 

「そういう訳で、せっかく部屋があるんだから使いたいでしょ」

 

「まあ、いいんじゃないか」

 

「まあ、って他人事じゃないんだから。でもそうね、その狭い部屋を有効に活用するなら先達の遺産を処分してしまわないと」

 

「処分って棄てるのか?」

 

「大抵はそうなるでしょうけど、お金になる物もあると思うのよね……。それを選別するのも今日の用事よ」

 

「ああ、それで売れそうな物は俺の車に積み込んで店まで持っていこう。って事か」

 

「その通りよ、今日の花見酒の代金くらい儲かれば万々歳じゃない?」

 

「仕方ないな、まったく……」

 

 

 

 

 そうこう話している間に、近衛通りは京阪本線にぶつかりT字に交差する。

 

 開けた視界の先には、京都の街を縦断する清流……鴨川の河川敷を埋め尽くす、満開の桜。

 

 白昼は高く、直上の陽射しを受けて白く輝く壮観に息を飲む。

 

 まるでそれは……いつか覗いた冥き国の景色のようにも見えて。

 

 

 

 信号が青に変わる。

 

 気を取られていつ信号が変わったのかは正直定かではないが、右にハンドルを切り京阪本線へと入る。

 

 

「ほんと、満開ね」

 

「絶好の花見日和……だな。見てみろよ花見の客で賑やかじゃないか」

 

「嫌味な言い草ね、どうせ私達が始める頃には空いてるって」

 

「だといいんだけどな、それもいつになるやら」

 

「それは貴方の頑張り次第、かしら」

 

 

 鴨川を左手に京阪本線を走る、開け放った窓から吹き込む温い風と心地よい気温の中

 

 寄りかかるようにして、窓の外を眺めていた中折れ帽の彼女は、その黒髪を風に揺らせながら猫のようないたずらな笑みを浮かべてそうおどけた。

 

 

「今回も、遺品荒らしみたいなもんだな」

 

「そうとも言えるかもしれないわね、先代の遺品だから。あーあ、ほんとに季節の移り変わりってあっけない……」

 

 

 瞬く間に流れる季節を憂う溜息、あれは去年の秋の頃、彼岸花の赤。

 

 

「彼岸、か」

 

「そう、秋のお彼岸参りのついでに埃を被った秘密を暴く。そんな旅だったわね」

 

「ああ、あれから時間は巡ってまた生と死の境界の季節に居る」

 

 

 京阪本線は川端通り、時速70kmで進む道なりの道。ハンドルを握り直し、少し強くアクセルペダルを踏んだ。

 

 よそ見運転は褒められた事ではないが、少し視線を左に傾ける。

 

 陽射しを乱反射する鴨川の川面の波打ちと埋め尽くさんばかりに咲き乱れるソメイヨシノの白。

 

 その向こう側には不気味に反射し影を落とす高層摩天楼の立ち姿……なんだかアンバランスな景色だ。

 

 無機質なビル群は時にその姿に墓石を連想させ、どうしようもなく冷たい雨に打たれたような悪寒と震えを齎す。

 

 いつかの旧都の廃墟群のように人の創った栄華の象徴でさえ、いつしか虚しい墓石や卒塔婆と変わってしまう……。

 

 それは人だって同じだ。

 

 

「墓場にはよく、桜が咲いているんだ」

 

「……墓場だから、植えてるんでしょう?」

 

「……そうかもな」

 

 

 

 何だか言葉に詰まって、視線を真っ直ぐ前に戻す。前方には鴨川デルタにかかる大橋を行きかう人だかり、路線バスの往来

 

 

「はあ……」

 

 

 助手席で蓮子の小さな溜息が聞こえる。頭を動かさない程度にさりげなく左側を目を向ける。

 

 腕を組む白黒のツートンカラーの少女は見透かすような流し目で俺を見ている。

 

 

「で、どうしたの。何か話したそうな顔しているわよ」

 

「ああ……。先週の事だけど、彼岸参りに行ってきたんだ」

 

「……そう、そういえば言っていたわね。どうだったの? って、聞くのもおかしな話なんだろうけど」

 

「はは、まあどうって程の話じゃない。寂しい墓石に花を手向けてきただけだ。話しかけたってただの石が返事をすることはないんだしな」

 

「そういう物でしょ、誰もあの冷たい石柱に人間性なんて求めてない。ただ、死人を忘れてしまうのが怖いから、石なんかに名前を刻んで通いつめるのよ」

 

「ああ、紙よりも電子データよりも確実に未来へ残せるからな。俺が死んでもあの墓石はあそこで……」

 

「で、どうだったの?」

 

 

 感情をはぐらかした言葉に彼女は満足しなかったようで、催促でもするようにその目を辞めようとしない。

 

 なら仕方ない。

 

 

「情けない事に悲しくなってしまってな

 ただの定例行事でしかない墓参り、感傷なんてもう無いと思ってたんだが」

 

「そう……。でもきっと悲しくないほうががおかしいわよ、だから別に良いんじゃない?」

 

 からかう訳でもなく、彼女は優しく微笑んでそう言った。

 

「……それが普通だったな」

 

「ええ、私もまたお墓参りに行かないとね」

 

「その時はまた誘ってくれ」

 

「あなたでも役に立てそうな事があったらね」

 

「荷物持ちくらいなら……」

 

 

 小さく頷いて、宇佐見蓮子はまた窓の外に視線を移した。

 

 春の日を駆る黒い馬車、もといマイカーは川端通りを道なりに賀茂大橋を横切り、出町柳方面へ鴨川デルタを横目に見ながら緩やかな右カーブの車線を進む。

 

 

「人が多いな」

 

「下鴨神社の参拝客かしらねえ」

 

 

 鴨川デルタの創り出す三角形の中ほどに京都でも特に古くから在るというその神社は原生林に囲まれて、この科学世紀の街の中でも変わらず内外からの参拝者に絶えぬ様子だ。

 

 

「蓮子は行ったことあるのか、下鴨神社」

 

「言われてみれば来た事無かったわね、なにせ私はフィールドワークとは無縁の大学生だもの」

 

「確かに、物理学のフィールドワークなんて聞いた事が無いな。ずっと数式と睨めっこじゃあ退屈しそうだけど」

 

「それがそうでも無いのよねえ、それに秘封倶楽部の活動もあるし退屈とも無縁よ」

 

「はは、野暮な事を聞いてしまったな。そうだ、下鴨神社の境内にある”糺の森”知ってるか」

 

「知ってるも何も、あの鬱蒼とした森でしょ」

 

 

 蓮子は北大路通りを過ぎかかった車の助手席から左後方を指さした。

 

 

「ああそうだ。どうにも縄文時代から残る原生林なんだと」

 

「へえ、それは初耳ね。でも面白いじゃない科学世紀の都の真ん中に太古の生態系が残っているなんて」

 

「随分と昔に世界遺産に登録されているから取り除くわけにもいかないんだろうな。確かに良いものだ、摩天楼の隙間にもまだ不思議は残っているんだって言うんだからな」

 」

 

「不思議?」

 

「ああ、それも七不思議だそうだ」

 

「へえ、面白そうね。どんなの?」

 

「さあ、どうだったかな。糺の森はもともと祭場だったらしいから不思議の七つや八つはあるだろう」

 

「何よそれ、覚えてないだけじゃないの」

 

「そんなところだ」

 

 

 鴨川デルタのY字路を右に、川端通りを駆る。

 

 時刻は午後、十二時三十二分。もう昼飯時なのだが、あいにく蓮子に次いで朝の遅い俺は蓮子ブレンド以外の飲食物を口に運んでいない。

 

 過ぎて、消える。ラーメン屋だとか牛丼屋だとかの看板には見て見ぬふりをして前を向いた。

 

 どこもかしこも桜色、安全運転を約束したのだからいよいよよそ見もしていられない。

 

 

「車を走らせればすぐだな」

 

「もうあと五分かそこらってとこかしら」

 

「ああ、ほらぼち 仰々しいイチョウ並木が見えて来たぞ、大学って感じで嫌になるな」

 

「でたでた、大学生コンプレックス。でもそうね大学にはイチョウ並木を植えろって法律でもあるのかしらね」

 

「それは知らん、あーでもイチョウなら銀杏が取れるじゃないか。秋になったら拾いに行こう」

 

「いいわね、軽く炒って塩振って……日本酒かビールで!」

 

「最高だな」

 

「でも、かなり匂うのよねー。拾うのは任せていいかしら?」

 

「構わないけど、銀杏臭い俺と一杯と言わず一晩付き合えよ」

 

「銀杏臭い男と飲み明かしたくなんてないわ、ただでさえ煙草臭いのに」

 

 

 そうこう言っているうちに大学の門を過ぎ、並木の脇に入る。

 

 車一台通れるくらいの舗装の行き届いていない道を進んで見えるのは、大学構内の片隅にこじんまりと存在する狭苦しい駐車場だ。

 

 

「相変わらず不親切な駐車場だな」

 

 

 消えかかった白線に目を凝らしながら車を停めた。

 

 

「着いたぞ」

 

「相変わらず酷い乗心地だったわ」

 

「それはどうも、タダなんだから我慢してくれ」

 

「もっと安くて便利な車、あるんじゃない

 ?」

 

「そうだな、見た目が気に入ったから金も無いのに買ったんだが」

 

「ローン組んでまで?」

 

「馬鹿らしいとは思うんだけどな、後先考えず行動する性分でして……おかげ様で金があんまり無いんだな」

 

 

「お酒と煙草やめたらちょっとはお金持ちになれると思うんだけど」

 

「蓮子は酒を辞められるのか?」

 

「辞められるわよ、私がお酒を嫌いになったらね」

 

 

「俺も煙草が心底嫌いになったら禁煙するよ」

 

 

 そう言うと蓮子は呆れたように笑った。

 

 

 ヒビの入ったアスファルトと木漏れ日の射す影の中、振り返りもしないままに歩く、白いリボンの中折れ帽のつばから揺れる黒髪の後を追う。

 

 

「ほら行くわよ、メリーが待ちくたびれてるわ。きっと」

 

「蓮子が寝坊しなけりゃメリーを待たせる事も無かっただろう」

 

「誰も起こしてくれなかったんだから仕方がないでしょ」

 

「何回携帯鳴らしても起きないじゃないか」

 

「呑気に外で煙草吸ってる暇があるなら、チャイムを鳴らしてくれれば良かったのに」

 

「二回ほど鳴らして諦めたんだ」

 

 

 ああだこうだと寝坊の言い訳を続ける蓮子の饒舌の応酬をいなしながら

 

 いつか見た、並木道の春の風に当てられて青々と色づき揺れる中を連れ立って歩く。

 

 

「前にここに来たのはいつだったかな」

 

「うーん、去年の十月末くらいじゃなかったかしら。ほらここのカフェテラスでお茶したじゃない」

 

「そういえばそうだ。月旅行の話をしてたっけか」

 

「そうそうお金貯めて行きましょうってメリーと……」

 

「そうだ、その旧校舎棟ってどこなんだよ。俺はあのちょうど目の前に見える気色悪い円筒二段積みの建物しか知らない訳なんだが」

 

「あっちよ」

 

 

 少し先を歩く蓮子は振り向きもしないままに、枝葉のトンネルを抜けてその全貌を現し始めた前衛的な建物の奥、東の山間のほうを指さしているようだ。

 

 

「あっちは山だけど?」

 

「前に言ったでしょ、うちの大学は古くて敷地も広いのよ。旧校舎棟はその最奥……我が大学の顔とも言えるあの大きな積木を越えて数多の校舎、関係施設を横切ってずうっと登った先にあるのよ」

 

 そう言って蓮子は立ち止まり、ポケットから取り出した携帯の画面を指さして見せた。

 

 

 なるほど、ここのホームページか何かの学内マップだ。

 

 

「ええっと、あのデカ積木の奥から一号館

 に二号館……。この端っこにしれっと絵だけのってんのが旧校舎か」

 

「そうそう。実情は田舎の廃校舎みたいな木造のがぽつんと、ほとんど誰も使ってないからろくに管理もされてないそうだわ」

 

「なるほど、それは確かに嫌がらせだ」

 

「やっぱり、今日日オカルトじゃ食っていけないのね」

 

「世知辛いな、まああるだけいいじゃないか」

 

「そーなんだけどね」

 

 

 蓮子の言った通り、進めど進めどその旧校舎とやらに辿り着く兆しは見えない

 

 入り口から例の積木までは、休日とはいえちらほら他の学生の姿も見受けられたのだが。

 いくつか校舎を通り過ぎたあたりから最早見る影も無く。

 

 気持ち良すぎて気持ち悪い程の春も中頃、雲一つない青空の下……閑散とした学び舎の閑散としたメインストリートに二人の足音だけが谺しているようだ。

 

「谺、か」

 

 谺、いつか暴いた結界の中……揺れる蝋燭の火と呑み込まれそうなほど黒い水面。そしておぞましくも”谺した”声がその一瞬フラッシュバックした……。なぜだか無意識に忘れてしまっていたような現実感に乏しい記憶だが

 

 

「そろそろ疲れちゃったのかしら? 意外と体力ないのね」

 

 相も変わらず、それほど歩き易そうにもないローファーでその勝気なペースを乱す事なく前を行く蓮子がからかうように冷笑気味に

 明らか、少しペースの落ちた俺を詰る。その声にふとまた春の日の下に帰る。

 

「そんなに年取ったつもりはないよ、まあ何だ……少し昔の事を思い出していたんだ」

 

「 ぼおっとしてこれ以上遅くなったらどうするのよ、もう」

 

「すまないな、急ぐか」

 

「いっそ走りましょうか、あと少しよ」

 

「少しってあと何メートルなんだ?」

 

「うーん、確かあの雑木林を抜けてすぐだったかしら。さあ、行くわよ」

 

 

 そう言うや否や、黒いハイウエストスカートの裾を激しく揺らしながら彼女は走り出す。

 

 まさか本気だったとは思わなかったので、少し呆気に取られて出遅れたが。

 

 致し方無いと俺もまた舗装が悪くなり始め、建物や人間より木々草花の多くなり始めた道を蹴り込んだ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「着いたわ、一番乗りね」

 

「はあ、お前は二番乗りだろうが……。あとそんな元気があるなら頼むから早起きしてくれ」

 

「息が荒いわよ、そろそろ不摂生を改善しないとダメなんじゃない?」

 

 

 息が切れ、膝に手をついてしまう。近頃運動という運動もしていなかったし、悔しいがこれも不摂生の日々に享受してきたツケなのだろうか。

 

 息が落ち着いて、再びまじまじと目の前の建物を眺めてみる。

 

 なるほど、大学の敷地内の末端、舗装や整備も十分に行き届いていない雑木林の奥に佇むそれは。不良サークルへの当て付けと言っても納得なほど古びてはいたが、その佇まいにはある種の感動すら覚えた。

 

 

「よくもまあ、こんな古い建物を取り壊しもせず残し続けた物だな。こんなのは写真でしか見た事ない」

 

「科学世紀の世の中になって、この街にあった古い建物は取り壊されてしまったわ。もちろん著名な神社仏閣は除いて……だけどね。そんな無慈悲な科学世紀の申し訳ばかりの良心がこの旧校舎なのかもしれない……なんてね」

 

「古きを愛する地方都市……。そんな時代からこの街とこの学び舎の学生を見守って来た訳か。そう思うとこの薄汚れて薄汚い建物もかっこよく見えてくるじゃないか」

 

 

 そんな風に少し感慨に浸っていると、旧校舎のドアがギィと音を立て……。

 

 薄紫のワンピースに黒いウエストベルトの装い。セミロングのブロンドを揺らす白い肌の陶磁人形が姿を現した、笑みを浮かべて。

 

 森の奥の木造建築、木々の間から射す陽射し立ち込める少し不気味な雰囲気。軋むドアが開き現われたのは美しいアンティークドールのような少女……。とか、そんな事はどうでもいい。

 

 俺にはわかる。メリーは間違いなく”怒っている”

 

 それもそのはずだ。約束をすっぽかされるのが喫茶店の店内であったならまだしも、だ。人気も無く薄気味悪いこんな所を待ち合わせ場所に設定され、あまつさえ待ちぼうけを食らったのだとしたら温厚なメリーじゃなくったって怒って然るべしだ。

 

 彼女だって仏じゃない……。俺も同罪と腹を括った。

 

 

「二人とも、おはよう。今日はほんとに絶好のお花見日和ね」

 

 

 

 この微笑は麗らかな春の日の兆しか。それとも……

 半ば現実逃避でもするかのようにそう聞こえもしない声で呟き、木漏れる光を見上げた……。

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださってありがとうございます。
次話は近いうち投稿するつもりです。
秘封俱楽部は永遠に
それではまた


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第十九話 「黄昏の旧校舎 遠き春の彼方から」

お久しぶりです。
近頃はめっきり冷え込むようになりましたね。
私事ですが、最近四面楚歌様の「秘封祭」を入手しまして
時間の空いた時にでもプレイしていこうと思っています。
名作と名高い作品ですので楽しみです。

それでは


 第十九話「黄昏の旧校舎 遠き春の彼方から」

 

 

 

 

 

 

 

「二人とも、おはよう。今日はほんとに絶好のお花見日和ね」

 

「ああ……こんちはメリー。悪い、遅くなって」

 

 

 京都は東、季節は春。広大な某大学の敷地の最奥、その木々と廃れた木造校舎の影間に木漏れる光の中より、透き通るような白い肌の金髪の少女の瞳に向き直る。

 

 

「こんにちは、今日はいいお天気ね。十一時半に旧校舎に集合って聞いていたから待っていたんだけれど……」

 

 

 ちらり、と腕時計に目を向ける。短針と長針の導き出す現在時刻は十二時四十二分。時間とは残酷だ。

 

 

「ごめんねメリー、ほらこの前貸してもらった本が面白くてついつい読み込んじゃったのよ。そうするとどうしても深酒しちゃうじゃない?」

 

 

 しちゃうじゃない? ではない。プランク並みの頭脳を自称している割には寝坊の言い訳が毎回稚拙なのはわざとなのだろうか。

 

 

「その言い訳には無理があるんじゃないか?」

 

「本当なんだから仕方ないでしょ」

 

「……」

 

 

 

 そう言って開き直り始めた蓮子を訝し気な目で睨んだかと思うと、木漏れる春の陽射しにその金色の髪を揺らし、赤らんだ頬を少しばかり膨れ面にして……。

 

 今度は俺のもとに詰め寄った。

 

 

「あなたも、蓮子の家まで行ったのならこの寝坊助をどうにかして起こせなかったのかしら?」

 

「電話はかけたさ、それでも反応が無いんで諦めて外でこの眠り姫の目が覚めるのを待っていたんだ。ほら、ピンポン連打するのもあまり行儀が良くないだろう」

 

「誰が眠り姫よ、気色悪いわね」

 

 

「何でお前が突っかかってくるんだ、面倒臭い。前言撤回だ畜生、この酔っ払いの飲んだくれがどうしたって起きないんで自主的に目を覚ますのを待つしかなかったんだよ」

 

 

「誰が飲んだくれの酔っ払いよ、失礼ね。私は日々……この世の真理、それを解き明かすため無数の数式の羅列と真摯に会話しているの。それはそれはニューロンの火花を消耗してどうしようもなく疲れてしまうのよ。そんな疲れをアルコールで誤魔化しったって悪く謂われる覚えはないのだけれど?」

 

 

「確かに、俺みたいな凡な人間に比べたらお前の頭脳が抜きんでて秀でている事は認めよう……しかしな、蓮子。まだお前は”労働”を知らない……。アルコールってのは労働者の空虚を潤す為にあるんだ」

 

「はあ?」

 

「自らの人生の中できっと尊かったはずの時間、自尊心、その他もろもろをかなぐり捨ててはした金に媚びしがみ付き……。日々を辛うじて生きる事を言うのさ」

 

「あー。そんなにお仕事辛かったのね。よしよし~えらいえらい。いっぱいお酒飲んでいいですよーよしよし~。ぷっ……」

 

 

 茶番に耐えきれなくなったのか蓮子が吹き出した。正直、半分くらいはこの屁理屈のプロフェッショナルみたいな自称天才に苛立ってはいたがもう半分くらいはご機嫌斜めなメリーに笑ってもらう為のパフォーマンスだ。

 

 果たして、効果があると良いのだが。

 

 

「もう……。茶番が過ぎるわよ、二人とも。いいわ、とりあえず今回の遅刻に関しては許してあげる。その変わり! 今日の実作業は二人がメインで進めるって事にしましょう!」

 

 

 なんだかもう諦めたように、開き直ってしまったかのような様子で、こんな薄暗がりの木漏れ日の中には眩しすぎる微笑みを浮かべ俺たちを指さして、ビスクドールと謂うには余りにも活き活きと、軋む木造校舎の床の上を踊った。

 

 

「それじゃあ、メリーは何するのよー?」

 

 

 もう疲れました、みたいな顔で気だるげな蓮子が言う。

 

 はてさて、メリーはそんな相棒の姿など露知れず右の二の腕を左手でポンと叩きはりきった様子で胸を張る

 

 

「私は二人の作業の指揮を取るから任せて。しっかり言う事を聞いてよね、効率よく片付けを終わらせて早くお花見がしたいな~」

 

 

 薄暗く少しカビ臭い階段を土足のまま連れ立って歩く

 

 果たして、この校舎棟がいつ頃に建造された物なのかは分からないが、もう無理せず取り壊してしまってもいいのではないか……そう思わせるほどにその半ば腐食しかけた一段一段を恐る恐る踏みしめる。

 

「えーっとね。確か二階に上がって左手方向三つ目の部屋だったかしら?」

 

 きょろきょろと周囲を見渡しながら確かめるような足取りで軋む板張りの廊下を先立ってメリーは進む、左手には何かしらの紐に括られた真鍮製らしき小さな鍵をくるくると遊ばせながら。

 

「なあ、メリー。それがその”部室”? の鍵なのか」

 

「ええ、そうなのよ。聞いてくれる?」

 

「ん、ああ一体何があったんだ?」

 

「それがね、今日皆で部室の大掃除だって蓮子に言われてたから、土曜日だけどちょうど朝から講義もあったしついでにと思って管理棟まで行ってここの鍵を借りに言ったんだけど……」

 

「……。ほんとに何があったていうんだ?」

 

「それがね、みーんなそんな場所は知らないって言うのよ。おかしいじゃない? この大学のマップにだって絵くらいは載っているのに……」

 

「うんうん、なるほどメリー。つまり私達は大学職員ですら把握出来ていない臭いものに蓋、地雷に盛り土みたいな物件をあてがわれていた訳ね……」

 

「でもそうして鍵を持っているって事は」

 

「ええ、そうやってわちゃわちゃしていたら奥の方からかなりご年配のお爺さん職員さんが出てきたの」

 

「へえ」

 

「ほお、それで?」

 

「ええ、それでその職員さんが奥にまた引っ込んだと思ったら、事務所の薄暗がりの中の明らかに蜘蛛の巣が張っていて久しく使用されてていない事が分かるような壁掛けのペンキの剥げたキーボックスを開けて、そして私にこの鍵を渡してくれたのよ」

 

「事細かな説明をありがとうメリー、話を聞くにどれだけ放置されているんだ、この建物は?」

 

「多分だけれど、校舎が建設されたのは百年以上前になるんでしょうね。そのご年配の職員さんに聞いた話によると、合宿なんかにも使えるような総合的な施設として建設されたそうなのだけど」

 

 なるほど、当時はこれでも最新鋭の木造建築だったのだろう、見た目こそ古びてはいるが作りはかなり頑強になっているのが何となくわかる。然るべきメンテナンスさえされていればあと百年だって使えるだろう。

 

 もう傾き始めた陽射しの射す埃に曇った廊下の窓ガラスから漏れる光が一歩踏みしめる度に舞い上がる積年の粒子を照らし星屑のよう舞う中。先を行く二人の後をとぼとぼと歩く、物珍しいと足元から天井まで眺めてみる訳だが……見れば見る程趣のある建物である。

 

 しかしまあ、百年前の当時ですら木造の建物なんて時代錯誤も甚だしかっただろうに、

 そこには当時の学長の何かしらの思いがあったのかもしれない。そしてその想いには少し共感できるような気もした。

 

 

「この部屋みたいね」

 

「着いたのね。さあ、さっそく入ってみましょう!」

 

 メリーが指さした扉は、小さな擦り硝子の小窓のついた木製のドアだ。扉のサイズからして中の部屋もそれほど広くはないのが見て取れる。

 

「さあ、開けてくれ蓮子」

 

「ええ、いくわよ」

 

 蓮子は大げさな動作でメッキの剥げかけたブリキ色のドアノブの鍵穴にメリーから受けとった鍵を差しこみ左に回した。

 

 ガチャンと重たい音が鳴る、さて一体何が待ち受けているのだろう。期待はしていないが少し……煤けた宝箱を開けるような心持ちでドアノブを引いた……。

 

 

 

 

 

「……。狭い、そして……」

 

「想像以上に汚いわね……」

 

「放置されていたのも頷けるな」

 

 ドアを開けた瞬間に舞い上がる埃、奥側へ長く作られたその広さはせいぜい六畳くらいか……。しかし左右の壁には手前から奥まで、金属製の組み立て式物置棚……所謂メタルラックが固定されており実際に使用できる空間はそれよりもさらに小さい。

 

 そして恐ろしい事にその狭さの元凶たる金属製の棚にはびっしりと何が入っているのかも分からない段ボールが詰まっている。あとはその残された空間に申し訳ばかりの長机と錆びたパイプ椅子が四脚。

 

 それだけの寂しい部屋だった。

 

「ねえメリー、本当にここなのかしら?」

 

「蓮子が言ったんじゃない。期待はしていなかったけれど、これじゃまるで」

 

「間違いなく物置だな。それかあれだ小学校にあった理科準備室を思い出す」

 

「あはは、懐かしいわね。あの教室と教室の間にある狭くて細長い部屋でしょう。両サイドに薬品棚みたいなのがあって狭いのよ」

 

「それそれ、何か懐かしい感じもするよな。うん、ノスタルジックで悪くないかもしれない」

 

「授業の前に少し実験の準備を手伝ったりして……ってもう……。ここは理科準備室じゃなくて私達の部室でしょう。早く掃除して快適に使えるようにするのよ!」

 

「もうちょっと乗ってくれてもいいじゃないの~」

 

「さあ、やるならさっさと終わらせるぞ」

 

「何で貴方が仕切っているのかしら?」

 

「早く酒が飲みたいだけだ」

 

「ねえメリー、早く指揮してくれないとアルコール依存症の幻想主義者が出しゃばってくる事になるけど

 

「蓮子も大概だけどね……。さて、どうしましょう。結局この段ボールの山をどうにかしないとお話にならないのよねえ」

 

 さて掃除をするとは言った所で、全て何も考えないままに廃却してしまえるのであればそれほど面倒なこともない訳ではある。

 

 しかし、今回はもう一つ売れば値段のつきそうな物をこのゴミ山から見つけ出して、なおかつこの時代にネットオークション等でなく実店舗に持ち込んで今夜の花見酒とそのアテの費用を捻出しようという目的があるので、地道にもいつかの秋の暮れ、誰かの思い出を探しに湿気臭い蔵を荒らした日のように、根気よく片っ端から開けていくしかないのだろう。

 

「どうする? フォーメーションは前と同じで行こうか?」

 

「ええ、貴方はこの山を上から一つ一つ崩して地面に下ろす役……。私と蓮子は宝箱の中身を吟味する鑑定士ね」

 

「サー、メリー。合点承知だ」

 

「もう、からかわないでよ。あ、そうだわ……。物置に脚立があったから用意しているんだった、持ってくるわね」

 

「助かる、準備がいいな」

 

「二人が来るまで時間があったからこの例の部屋以外は色々探索していたの、それでたまたま見つけたのよ。取ってくるわね」

 

「痛み入るな……。罪滅ぼしじゃないけど、手伝うよ」

 

「じゃあ、お言葉に甘えて。こっちよ」

 

「ああ。じゃあ、メリーと脚立取りに行ってくるよ」

 

「はーい……。早くしてね」

 

 蓮子の空返事を尻目にメリーの後をついて再び軋む木の階段を踏み下ろす。

 

 一階の廊下の突き当りの如何にも建付けの悪そうな引き戸を力いっぱい左に押し、携帯のLEDライトを点灯させる。

 

 昼下がりの埃高き木造校舎の唯一、その暗闇には錆びた蛇口だとかモップだとかそんな物がひとまず確認できたが。

 

 お目当ての脚立は向かって右側の壁に立てかけられるようにして安置されていた。

 

「埃は被っているけど、とりあえず大丈夫そうだな」

 

「さっき私が乗ってみてもビクともしなかったし、大丈夫よきっと」

 

「本当に悪かった、こんな所で一人待たされるなんて良い気分はしなかっただろ」

 

「いいの、本当に怒ってないから。さあ、戻って部室を片付けましょ」

 

「そうだな、そうしようか」

 

 埃まみれの脚立を適当に払って脇に抱える

 さて、 宝探しのはじまりだ。

 

 軋む階段に再び足を掛けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほい、四箱目」

 

「はい。ありがとう。メリー、カッターかハサミを頂戴」

 

「はい、ハサミ。中身傷つけないでよ」

 

「わかってるわよ、メリー。あら、また下らないオカルト本ね。

 

「どんな内容だ?」

 

「月刊〇ー”生まれ変わり現象の謎”水からの伝言の超科学”火星の墜落UFO、月は改造天体だ!! ……あとは……」

 

「もういい、〇ーっていつの雑誌だよ。まあそのノリを廃刊まで辞めなかったのが月刊〇ーのクールな所だとは思うけど、それじゃあ今日日売れないよなあ」

 

「ま、そーよね。科学世紀の世の中は最早ロマンの介入すら許さないとか言うんでしょ。あ、あと付録で守護龍パワーカードも付いてるみたいだけどいるかしら?」

 

「いらないよ、言うまでも無いけど”百円にでもなったらラッキー”の箱に入れといてくれ」

 

「鑑定士は私とメリーよ。ほらもしかしたらマニアには高値で売れたり」

 

「どーだか、大衆向けの月刊誌なんて五十年前のでも無料で見れるのがネットには転がってるからな」

 

「お金出して買いたくは無いけれど、これ意外と面白いわね。ほら見て蓮子、衛星が捉えた月の遺跡だって」

 

 呆れた様に苦笑いの蓮子、箱を開けても開けても飛び出てくる下らない月刊誌を楽しそうにパラパラめくっては無慈悲にも”ワンチャン百円”の箱に投げ込んでいくメリー

 

 春も只中の昼下がり、薄気味悪い木造建屋の一室、秘封倶楽部の三人はしばし、当初の目的も忘れ間の抜けた宝探しごっこに興じていた。

 

 

 

「ほら、この棚はこれで最後だ」

 

「ありがとう。はい蓮子、開けてみて」

 

「はいはーい。って……うわあ、なによこれ」

 

 蓮子は何とも言えないしかめっ面で萎びた段ボール箱から何やら黒っぽい物体を取り出して掲げて見せる。

 

「何だそれ」

 

「いや、私に聞かないでよ。うん、強いていうなら日焼けしたサイケデリックなお地蔵さん?」

 

「私、これ知ってるわ。確かブードゥー教の儀式で使われる人形じゃ無かったかしら」

 

「アフリカの露店とかで売ってるやつか、海外旅行が好きなメンバーでもいたんだろうな」

 

「知らないけど、値段が付きそうな物には見えないわね。リサイクルショップなんかに持って行っても嫌な顔されるだけだろうし、捨てるって事でいいかしら」

 

「人形を捨てると呪われるんじゃない?」

 

「メリーは呪いを信じてるの?」

 

「そういう訳じゃないんだけどね。不思議と人形と呪いって関連付けられて伝聞されるでしょう?」

 

「人形ってのはもともと災厄や穢れ、降りかかる不幸の身代わりに昔から使い捨てされて来たんだ。そんな人形に対する罪悪感が呪いの人形を産むんじゃないかと思うけどな」

 

「まあ。毎日髪を梳いてもらって綺麗な衣装を着た人形がわざわざ持ち主を呪う事なんてしないでしょうからね。それなら、この黒いのも捨てずに飾っておけばこの部屋の守り神になってくれるかしら?」

 

「呪物とは言っても、呪いじゃなくて”まじない”の方だと思うし、いいんじゃないかしら? あんまり可愛くないけどね」

 

 

 蓮子はゴミ袋に投げ入れかけた黒くて藁っぽい腰巻のようなのを身に着けた人形を訝し気に見つめてから。しばらく考え込んだような顔をして元の箱にしまう。

 

「とりあえず保留ね。お守りに飾るのはいいけど……お洒落じゃないわ……」

 

「美人な球体関節人形とかならぜひうちに引き取りたいんだけどなあ」

 

「安アパートの一人部屋には分不相応だと思うけれど? それこそ呪われそうね」

 

「相変わらず酷い言い草だけど、確かにあんな部屋にお迎えされる人形には同情するよな、やめておこう」

 

「ドールのお迎えを考えるくらいには寂しいのかしら?」

 

「そういう訳じゃない、透き通るような白く冷たい肌。まるで生気を感じさせない美貌……、それでもその眼差しの奥には優しさがある気がするんだ。人形への関心は彼女への執着の一つの表現系なのかもな」

 

 

 彼女の面影は、記憶の中にしか存在しない。

 しかし、いつかどこかのアンティークショップのガラスケースの中、革張りのチェアに腰掛ける球体関節人形と見つめ合った瞬間、フラッシュバックしたのはシロツメの草原での出会いだったか。

 

 思えば、あれが色の無い世界で起きた”一度目の”再会と言えるのかもしれない、尤も一瞬の幻でしか無かった訳だが。

 

 

「なに遠い目してるのよ、早く片付けないと日が暮れるんでしょ?」

 

「ああ、すまない。また少し昔の事を思い出していたんだ」

 

「ま、お花見してお酒飲みながらなら聞いてあげてもいいけどね」

 

「そうね。少し脱線してしまったけどもう時間も時間だし、ここからスパートかけて終わらせた方がいいかもしれないわね」

 

 しばらく、黙々と選別作業に興じていたメリーがふと、顔をあげてそう言うので

 

 脚立に右足を掛けたまま左腕の腕時計を目前に掲げてみる。

 

「おいおい、もう十五時回ってるじゃないか。確かに、脱線しすぎたみたいだな。

 

「本当よ。さあ、さっさと片付けてしまいましょうか」

 

「蓮子、お前なあ……。いや、まあそうか。とっとと片付けん事には花見も酒もお預けだし本気ださないとな」

 

「ええ、ひたすら下ろしてひたすら分ける! さあやりましょう蓮子、お花見のためにね!」

 

 ここにきてメリーはなぜかやる気である。しかしまあ狭苦しい部屋の両サイドを埋め、より閉塞感を増幅していたような無骨な金属棚も半分片付いた今では少し部屋が広くなったように感じる。

 

 さて、あと半分。気合を入れなおして今だ壁を成す段ボールの山に向きあった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあ~。疲れたわねえ、開けても開けてもガラクタばっかり……」

 

「お疲れ様、蓮子。貴方もお疲れ様~。でも本当ね、オカルトサークルの遺物っていうくらいなんだから”水晶ドクロ”とか”アンティキティラデバイス”とか出て来てもおかしくないと思っていたのだけれど」

 

「はは、そんなもん秘封倶楽部にだって無いだろう。それにオカルトっていうかオーパーツじゃないか、それ?」

 

「そうなの? それじゃあ”生き人形”とかの方が良かったかしら」

 

「それは本気で呪われそうだ。まあ、とりあえず片付いたな……」

 

 時刻は十六時二十五分。窓から射す陽射しが少しづつ、黄道を西へと橙色を帯びては沈み行くそんな時間を、錆びたパイプ椅子に腰掛ける二人と、脚立の天板に跨るように座るもう一人。

 

 一仕事終えた余韻に浸りながら小休止と、何でもない会話を続けている。

 

「ねえ蓮子、あっちの店に持っていく方の箱だけど。あれで総額いくらになるのかしらね?」

 

「ううん、まあ私もテレビ番組に出てくるような本物の鑑定士じゃないから確かな事は言えないけれど……」

 

「オープンザプライス! だな」

 

「あーうるさい、えっとね。売却の方の箱に入れたほとんどが書籍なんだけど……その内六割が漫画本と雑誌……それも1世代前のね」

 

 少し盛り上げようとしたのだが、我らが会長はそれをうるさいの一言で一蹴するのだから惨い、乗ってくれる時とそうでない時の差はいったい何に起因するのだろう。

 

 それにしても置いてある書籍の半分以上が漫画に雑誌とは実際はオカルトサークルじゃなく漫研だったんじゃあないかと、思った。

 

「で、それは売れるのかよ」

 

「ええ、少し古いとはいえ今だに再編版なんかは出てるし絶版て訳じゃないけれど、単行本でそれなりに揃っているのが数組。それで多分三千円くらいにはなるんじゃないかしら。あの月刊○ーの方は……期待しないでね」

 

「ああ、三千円か。最近は酒の価格も高騰の一方だからな。はたしてそれで酔えるかどうか、せんべろなんてのは遠い夢だ」

 

「煙草ほど高騰しちゃいないわよ」

 

「それはそう、で万年金欠な訳。そうだ、メリーは何が飲みたい?」

 

「うーん、そうねえ。せっかくのお花見なんだから日本酒でも買って花見酒なんて良いと思うのだけど、どうかしら?」

 

「うん、俺もそれには賛成だ。近頃は発泡酒か火酒しか飲んでないからたまには良い、それに風流だしな」

 

「ふふ、そうよね。それで決まりでいいんじゃないかしら?」

 

 桜を見ながら飲む清酒、実に風流で涼し気で、疑うべくも無く最高のシチュエーションなのだが……。一つ、問題がある。

 

「ただ、蓮子なら知っての通り純米の日本酒、所謂天然物は高級品だ。ランクを落として合成醸造アルコール入りの吟醸クラスにしても俺と蓮子の飲む量を鑑みてだいたい一升瓶で五千円前後、三千ぽっちじゃあ酒代も賄えない」

 

「新型酒と旧型酒の話? 貴方はどこに飲みに行ったって割高な旧型ばかり飲むから、いつだって酔い潰れて財布も空にしてるじゃない」

 

「新型は安いけど酔えないだろ、酒へのピュアな愛情が俺を旧型に走らせるのさ」

 

「それで依存症なんだから幻想主義も聞いて呆れるわね。それはともかく、私の話は最後まで聞く事よ」

 

「つまり、残りの四割に勝算があると?」

 

「ええ。四割中三割は雑多な文庫本……けど調べたところ、その中の神秘学関連の2冊がプレミア付きの希少品みたいなの。その辺の古本屋で売っても一冊四千円は下らないと思うわよ」

 

「わあ、凄いわね。もうお釣りが来るくらいじゃない」

 

「少しはお宝も眠ってた訳だ。で、残りはどうなんだ?」

 

「それ以外の文庫本をまとめ売りで多分、二千円くらい。で、残りの一割だけどよくわからない雑貨とかボードゲームとかだから多分高く見積もっても千円くらいでしょうね」

 

「計一万四千円ほどって所か。ゴミ同然のところから掘り出したにしては上出来じゃないか」

 

「とはいえ、三人分五時間の給料と考えたらとんとんって感じね」

 

「元も子も無いこと言わないの、もともとこの部室を片付けるのが目的だったんでしょ?」

 

「まあ、そうね。低く見積もっても花見を楽しむには充分よ。二人ともお疲れ様」

 

「ああ、蓮子もな」

 

 

 とりあえず、我らが会長宇佐見蓮子の審美眼を信頼するとして。

 

 つい、話し込みすぎてしまったようだ。何時かぶりに腕時計を見ると時刻はすでに十七時を少しばかり回っていた。そろそろここを発ち、都内の古本屋かリサイクルショップを回らなければならないか。

 

 そう思い立ち、椅子替わりの脚立から腰を上げようとした時。片手間に”とりあえず据え置き”の箱を弄っていた蓮子が思い出したように声を上げた。

 

「あ、そうそう。何だかそろそろって雰囲気な所だけど、二人に見せようと思っていたのがあったの……これなんだけどね」

 

 そう言って蓮子は一冊のノートらしき物を取り出して見せた。

 

「ノート、だよな。それもみすぼらしいノートだ」

 

「ねえ見て、消えかけてるけどマジックペンで××大学オカルト研究サークル議事録って書いてあるみたいよ。蓮子、こんなのどこから見つけて来たの?」

 

「実はね、二つ目の棚にあった段ボールから見つけたんだけど。売るでもないし、そのまま捨ててしまうのももったいないからあとから皆で読んで先代を辱めてやろうなんて考えて、取っておいたのよ」

 

 出土品から推測するに、俺の生まれる前にこの部屋で活動していたオカルトサークルは秘封倶楽部も顔負けの不良サークルなのではないかと思っていたのだが、議事録を付けるくらいには真面目に活動していたのだろうか。

 

「わざわざ議事録を書くなんて、意外と律儀なサークルだったのかしらね。私達はそんなの書いた事ないけれど」

 

「そもそも会議という会議なんてした事ないもの。いつだって思い付き、そっちの方が楽しいでしょ?」

 

「全くだ。我々の間には、チームプレイなどという都合の良い言い訳は存在しない。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。ってな」

 

「一体今度は何の引用?」

 

「俺の尊敬する人の言葉さ」

 

「そう、嫌いじゃないわ。それより、なんだかんだと言って二人とも、この中身気になるでしょう?」

 

 そう言って蓮子は指先でそのみすぼらしいノートの端を摘まんでプラプラとさせている。

 

「まあ、少し」

 

「ねえ蓮子、読んでみてよ」

 

 メリーがそう言うと、蓮子は待ってましたと言わんばかりの表情で、ノートをペラペラとめくり始めた。どうやら蓮子も今の今まで中身に目を通さずにいたようである。

 

「よし、じゃあ適当に読むわよ」

 

「ああ、よろしく」

 

「それじゃあ……。2×××年×月×日 本日は以前から企画、予定した簡易的な降霊術……所謂こっくりさんをメンバー全員で実施していこうと思う。しかし以前の活動方針会議でただ単にこっくりさんをするのでは面白くないという意見が挙がったため、本来は十円玉を用いて儀式をおこなうところ。今回はなんと贅沢にも五百円玉で実施してみようと思う、きっと五十倍有意義な活動になるだろう。

 

 追記、霊が降りれば硬貨は勝手に動き出すので指は軽く置くだけでいいとメンバーに伝えたは良かったが、以降五百円玉が動く事は無かった。その後、卓上の五百円玉の所有権で喧嘩になった。それは私の物なのだけど……ともあれ、心も財布も貧しい学生にはこの儀式は不向きだったのだろう。これを今回の反省点とし今回の議事録とする」

 

「……」

 

「……」

 

 黙って蓮子の議事録朗読を聞く俺とメリーだが、多分同じような得も言われぬ表情を浮かべていた事だろう。

 

 蓮子は続ける。

 

「次ね、2×××年×月×日 今回我々はオカルト研究サークルらしく、占いを行っていこうと思う。事の発端は一昨日、メンバーの一人がどこからかタロットカードを買ってきたのだ。話を聞くとたまたま市内のリサイクルショップで見つけて買ったのだそう。曰く”これってオカルトっぽいですよね”との事だ。私は占いなら占星術に興味があるのだけど、これもメンバーの前向きな意見と捉えタロット占いの会をここに開催する。さて、とりあえずタロット占いのやり方というのを調べてみたのだが、いまいち理解出来なかったので私含めメンバー四人でカードをシャッフルした。気が済むまでシャッフルしたところでカードの山をテーブルの真ん中に集めて一枚引いてみる事とする。なんと大アルカナの”太陽”だ。これはつまり、明日はお天気であるという暗示……」

 

「蓮子、もういい」

 

「私も満足よ」

 

 蓮子は開いていたノートを閉じ、無造作にも部屋の隅っこの方へ放り投げた。

 

「実はいつ止めてくれるのか待っていたの、これもうゴミ袋行きでいいかしら?」

 

「なあ、この大学って国内でも有数の名門だったよな」

 

「……私が在籍しているんだから、そのはずだけど?」

 

「ああ、でもまあ本来オカルトサークルなんてこんなんだろう。秘封倶楽部が変なんだよ、多分」

 

「でも何だか楽しそうだったじゃない、別に結界を暴いたりするだけがオカルトサークルじゃないでしょう?」

 

「それはそうかもだけど、これって単なる日記帳だと思うのだけれど……」

 

「議事録っていうほど仰々しい物じゃなかったな」

 

「まあいいわ。そろそろ出ましょう、ほらもう十七時半」

 

「あら、本当だわ。話しているとすぐに時間が経ってしまうわね……」

 

「ああ、全くだ。なあ蓮子、ゴミ捨て場ってこの辺にあったりするのか?」

 

 部屋の隅に置いていたこれでもかというくらいのゴミ、もといこの部屋から掘り出した不要物を詰め込んだゴミ袋を持ち上げて、帰り支度を始めた蓮子に尋ねる。

 

「あー、ちょっと待ってね……。どうやら来た道を少し降りて右手の脇道をそれた所にあるみたいよ。捨てに行ってくれるの?」

 

 蓮子は携帯に映した件の構内マップをこちらに差し出して見せた。なるほど、確かに登ってきた道を降りて右手の道の先に「集積場」と書いてある。この木造校舎よりも存在感があるのは甚だ疑問だが……。

 

「ああ、ゴミ捨ては任されよう。そうだな、二人は売りに出す方の箱を車まで持って行ってくれないか」

 

「オーケーよ。ね、メリー」

 

「ええ。あれだっけあった箱も売れそうなものを選りすぐったらたったの二箱になっちゃったし、往復の必要は無さそうね」

 

「ああ、本当にすっきりしたな」

 

 埃を被って物置じみたつい数時間前の景色。

 今この狭い部屋を見渡してみると閑散としたメタルラックと四本のパイプ椅子だけ……。それはまるで引っ越し初日のアパートの一室のようにも見えた。

 

「ただこのままじゃ寂しいし、リフォームはして行きたいけど それはまた考えましょう」

 

「そうだな、じゃあ行こうか」

 

 メッキの剥げたドアノブ、の鈍い音を立てる鍵穴を回し

 

 赤い木漏れ日とくすんだガラス窓の作る夕闇の薄暗い廊下を踏みしめて旧校舎を後にした……。

 

 

 

 

 

「じゃ、俺は集積場まで行ってくるからそっちは頼むよ」

 

「はーい。そうだ、車の鍵貸してくれない? トランクも開けられないんじゃ意味ないし」

 

「忘れてたよ、ほら」

 

 分岐路の半ばで両手に提げたゴミ袋を片方地面に下ろし、ポケットから褪せた革張りのキーケースを取り出して、黒いケープを揺らしながらだるそうに台車の取っ手にもたれかかる彼女に差し出す。

 

「ありがと。それと、早く追いついてきてね」

 

「当たり前だ。蓮子はともかく、メリーにこれ以上待ちぼうけはさせられないだろ」

 

「もう、全然根に持って何か無いのに。本当よ」

 

「分かってる、メリーは優しいからな。それじゃあまた少し後で」

 

 二人に軽く後ろ手を振り、この先にあるらしい集積場に向かうべく背を向けて歩き出す。

 

「ともかくとは失礼ね……。鍵も預かったことだし置いて行ってやろうかしら」

 

 後ろの方から物騒な台詞が聞こえた気がしたが、聞かなかった事にしておこう。

 

 置いてきぼりよりかは廃車が怖い……。

 

「全く……」

 

 蓮子のつまらない冗談に呆れて笑っているようで……。いつからだろう、こうして憎まれ口を交わしあう事を楽しいと思うようになったのは。

 

 いつからだろう、空を染める夕焼けがこれほど赤く、高く見えるようになったのは。

 

 あの惨劇の日、最後の夢の覚めた日からずっと。色の無いモノクロームの世界をただ独り、夢だけを抱いて心中でもするかのように生きることで

 

 俺は強くなれたつもりでいたのだが、勘違いも甚だしかったようだ。

 

 季節は瞬く間に過ぎ、君のいない世界のスピードにも今は少し追いつけたような気がしている。

 

 思えば二人と出会い過ごしたこれまでの時間は確かに不思議に溢れていた。

 

 しかし、それと同時に他愛ない日常でもあったのだ。

 

 冥い、科学世紀のこの街には今だ彼女と幾夜語ったようなお伽話のそれに似たリアルは見つけられないままに

 

 小さな不思議と隣り合わせの日常を生きる俺を、彼女が知れば笑うだろうか、それとも愛想を尽かしてしまうだろうか。

 

 なんて

 

「また、考えてる場合じゃないか。すぐ追いつくと約束したばかりだ」

 

 思いに耽り、立ち止まりかけた足を早足に踏み出す。

 

 そうして微妙に舗装の悪い隙間から雑草が顔を覗かせる煉瓦敷きの道をしばらく行くと開けた場所に出る。

 

 煉瓦敷きは急に途絶え、だいたいテニスコート一面分くらいの面積はありそうなアスファルトの広場に、打ちっぱなしの建屋がぽつりと一つ、西日に照らされて立って居た。

 

「ここか……」

 

 建屋の影の中に歩み寄り、重しのチェーンのついた緑色のネットをゴミ袋を提げたままの右手で払う。

 

 スイッチボックスに指を掛ければ、建屋内を蜘蛛の巣の張ったLED照明が無機質な灰色の建屋内を照らした。

 

 錆び付いたコンテナが数個、それぞれ廃棄物の分別区分ごとに明示がされているが……。

 

「まあ、全部燃えるゴミでいいだろ」

 

 正直、いらない物を適当に詰め込んだだけのゴミ袋にはほぼ間違いなく不燃ごみというやつも混じってはいるのだろうが知ったことではない。

 

 エコだとか分別だとかを逐一念頭に置いているようなクリーンな人間でもない俺は、両手に提げたゴミ袋をそのコンテナへ放り込んだ。

 

 さて、すぐに追いつくと言った手前、こんなゴミ貯めで油を売っている時間などない

 

 踵を返し、足早にその影の中より黄昏の日の中へ再び歩み出そうとした……。

 

「……」

 

 これが何なのかは分からない、分からないが何故か伸ばし過ぎた襟足を引かれるような、もとい後ろ髪を引かれるような感覚。

 

 再度踵を返し、つい数秒前に自ら閉めた緑のネットを払う。

 

 かつかつとあのコンテナへ歩み寄り、ゴミ袋を一つ拾い上げる。

 

 取り出したのは一冊の汚らしいノートだ。

 

「やっぱり、これは捨てない方が良い気がするんだよな」

 

 中身こそ、議事録とは名ばかりの当時のオカルト研究サークル責任者の個人的な日記帳。

 

 オカルトサークルの名前にも負けるようなお粗末で間の抜けた活動。

 

 蓮子からすれば……。世界の秘密にも挑まんとするような科学世紀の申し子、我らが会長からすれば。間抜けな先代を小馬鹿にする以上の価値も無いこのノート……

 

 意味も価値も持たざる物はこの科学世紀においては不必要と見なされ追放もしくは排除の対象になる、それは人間だって例外ではないし人口統制などはその良い見本である。

 

 合理化と最適化の呪い、科学という宗教の狂信者たちが作り上げた楽園システムは傲慢にもその権威を誇示するかのようにこの街を呑み込んだ。

 

 俺の目で見たってやっぱり、このノートにはノアの箱舟の乗船券に変わるような意味も価値も無いけれど……

 

 褪せて、忘れ去られた誰かの他愛ない冒険譚を……屑箱から拾い上げられる人間は俺しかいないのではないか……確証は無いが、なぜだかそう思う。

 

「俺も、拾われたようなもんだしな」

 

 そう、誰に言うでもなく呟いた。

 

 

 

 

 

 

 時刻はすでに十八時前、二人はもう駐車場に着いているに違いない。

 

 集積場を後にして、西端の駐車場に向かう下り道を日没も近く半ば沈みかけた陽射しに向かい、急ぎ気味の早足で歩く。

 

 

 左手にはあのノートを、あまり行儀が良い事ではないが片手間にぱらぱらと流し読みしながら、帰路を行く。

 

 確かに、くだらないし他愛ない日記帳だ。

 

 そんな先代オカルトサークルの遺産に一人で失笑したり苦笑いをしながら勾配の続く構内を下る。

 

 右手にあの薄気味悪い積木建築が見えた所でノートの最終ページに差し掛かった。

 

 蓮子がこのノートを捨てた事、そして俺がそれを拾い上げた事。それらには本来何かしらの意味も無く、偶然の出来事に過ぎないはずだし、俺もそう信じたい。

 

 

 

 

 

 しかしながら、某大学のオカルトサークルの会長の議事録もとい日誌の最後の一節……

 

 

 

 

 その一文、一句が網膜を伝播し脳裏に届いた瞬間……

 

 

 

 

 その意味を理解はすれど、同時に理解を阻む理性。バイアスの強烈なバックファイアに

 

 その場で立ちすくんだまま、目を疑うその一文に深く吸い込まれた……。

 

 

 

 

 

 

 

「2×××年×月×日。”幻想郷縁起”なる古書を入手した……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまで読んでくださり本当にありがとうございました
変わらず、マイペースな投稿になってしまう事を申し訳なく思います。
これだ!と思いついてもそれを文章に起こして物語に仕立てるというのはとても難しいですね…

秘封愛を絶やさず頑張っていきますので、暖かく見守ってくださると嬉しいです。

それではまた


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第二十話 「錦織り成す長堤に 暮るれば昇る朧月」

お久しぶりです。
本当に投稿が遅くなってしまい申し訳ございません。
プライベートが多忙でなかなか手が付かず…
久方ぶりにやる気を取り戻したので投稿させていただきます。
構想だけで形にできないもどかしさはありますが
もう少し頑張ってみます。
それでは


 第二十話「錦織り成す長堤に 暮るれば昇る朧月」

 

 

 

 

「21××年4月10日 買取店を巡る旅は恙なく進んだ。予定通り都内の古本屋、リサイクルショップを数軒ハシゴした訳だが、私の巧みな交渉術のおかげもあって予想したより大幅に多い額の軍資金が手元に残った。それは良かったのだが……ゴミ捨てから戻って以降、彼の様子が少しおかしい。いつにも増して何か考え込んでいるようだし、古本屋に行っては本棚を端から端まで見ては残念そうな表情を浮かべる。彼としては平静を保っているつもりのようだが私にもメリーにもバレバレなので、お酒を飲みながらでも聞いてあげるとしよう。何より早く花見酒を呷りたい所だ。私が書くんならこんな感じかしら? なんてね……。  ~秘封倶楽部会長 宇佐美蓮子の独白~」

 

 

 

 

 

 

 

 

 京都の夜は早い。

 

 メトロームのように一定周期に揺れる向かいの車窓の暗闇には、過ぎては訪れる白いLED灯の軌跡と

 

 それをぼうっと足を組んで眺める自分の姿が映るばかりである。

 

 近鉄京都線の車内には休日のこの微妙な時間帯にもまばらだがそれなりに乗客はいたし

 

 都心へ近くなるにつれて各駅停車のたびに乗り込んでくる客数も加速度的に増えていくようだ。

 

 都内に行って飲んで帰りたい時にだけ便利遣いをしているこの近鉄線だが、神亀の遷都以前の京都から科学世紀の京都までを走り抜けてきた歴史ある路線で、俺の様な郊外住みの人間……エデン外人類にとっては必要不可欠な生活の足でもある。

 

 ちなみにこのエデン外人類、楽園外人類というのは俺が京都都内、洛中区画に居を構える連中を皮肉って作った造語で

 

 彼らの驕った選民意識を心底軽蔑するつもりで時折自虐的に使用している。

 

 という話をこの前蓮子にしたのだが

 

「知恵の実も生命の実もお金さえあれば手に入って、追放する神もいない楽園なら誰だって出ようとしないわよ」

 

 そう言われて、返す文句も思い浮かばずただ惨めな気持ちで空を仰いだのは良い思い出である。

 

 尤も、彼ら楽園内人類とて生まれながらに特別な存在であった訳ではない。

 

 然るべき努力、功績

 

 相応の収入、社会的地位

 

 それら個人としての資質を踏まえたうえでかの楽園の一部を形成するに相違ないと数多の国民から選ばれたいわば勝ち組……。

 

 それを僻むのは確かに浅はかな話だ。

 

 はて、そんな事を考えていると視覚情報へのアプローチが疎かになるようで、気付けば俺の乗る列車は京都環状モノレールの高架を潜り抜け

 

 夜の京都盆地の中ほどに座す、煌々とした銀河の星間を縫うように進んでいた。

 

 時刻はもう二十時前。

 

 あの後大学を出て蓮子に命令されるがままに古本屋、またリサイクルショップを周り

 

 何とか段ボール二箱の出土品を全て換金し終えて二人を荒神橋近くで一度降ろして急いで帰宅。

 

 車をアパートに置いて、こうしてまたとんぼ返りしているのだから本当に休まらない休日だ。

 

  それほど座り心地の良くない緑色のパイル織のモケットのベンチシート、傍らに置いた所謂支給品のビジネスバッグにはあのノートが静かに収まっている。

 

 こうして車窓を流れる摩天楼の輝きを黄昏た面持ちで眺めているようで、決して動揺が無かった訳ではない。

 

 まさに夢が現に転び出でたような感覚、人はいつだって自らの無責任な夢がひょんなことから現と変わらぬものかと日々願い、生きる訳だが。

 

 仮にその夢が突如として現の物として眼前に顕われたとしても、多くは為す術無くそれを持て余すだろう。

 

 そう考えれば、二人と出会い数多の不思議に触れた事で自分自身、そういった埒外の事象への許容量は大きくなったと確信している。

 

 考えたくは無いが、もしも人の人生が運命や因果律に定められた物であるとしたら、夢の果ての出逢いも、秘封倶楽部との出会いもそして捨てられるはずだったノートに目を通した事すら因果に紐づいたシナリオなのではないか……。

 

 そう思える程に、確かに目まぐるしかった日々。

 

 それでもきっとそれが定められた事ではなく、自らが選び手を伸ばした結果の偶然であると、そう信じて向きあう事が今の俺にとっては一つの矜持だった。

 

 

「意外とすぐ、だな」

 

 周りの乗客がそそっかしく各々傍らや膝の上に置いた荷物を弄り始めた様子に乗っかって、そろそろと降車の準備を始める事としようか。

 

 

 窓を過ぎる光線のような軌跡が、いよいよLED灯として視認できる程に当列車も減速したころ

 

 シートのハンドレストに手を掛けて立ち上がり、その心地よくも無い揺れにそのまましばし身を傾けていよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 列車の揺れは最後のそれを皮切りに圧縮空気の吹き出す音に連れ停止する。

 

 機械音声のアナウンスが近鉄京都駅に到着した事を告げた。

 

「さて、バスか……地下鉄か……」

 

 列車を降り、相も変わらず迷路のような京都駅の構内を歩く。

 

 JRの中央口方面への連絡通路の端、人の流れを縫って立ち止まり。コートのポケットから携帯を取り出す。

 

 連絡先、発信、コール音。

 

 

「……。もしもし、どちらさま?」

 

 しばらくの間を置いて、応えるいつもの声その向こう側には冥い街の喧噪がノイズのように混じっている。

 

「ああ、俺だけど」

 

「そうでしょうね。今どこ?」

 

「京都駅、そっちまで何で向かおうか考え中なんだ」

 

「バスで良いんじゃない? 荒神橋まで来るんなら、そっちの方が近かったと思うけど」

 

「なら、そうするか。そっちは?」

 

「買い出しは終わったから今から場所取りに向かう所よ、思いの他混んでるけど桜は見頃だし仕方ないわね。あ、お酒の方はバッチリだから期待しててね」

 

「おっ、何買ったんだ?」

 

「それは着いてのお楽しみ。早く来ないと勝手に始めちゃうわよ」

 

「おいおい、酷いな。ああそうだ、メリーは一緒か?」

 

「一緒に決まってるでしょ、声が聞きたい? 

 仕方ないから変わってあげる。メリー、呼んでるわよ」

 

「おいおい……」

 

「……私に? わかった、代わるわね……。こんばんは、メリーよ。一時間ぶりくらいかしら? こっちは予定通り 今夜のお花見会場に到着する所だけど、貴方の方はどれくらいで来れそう ?」

 

 メリーに代わってくれとか、ましてや声が聞きたいだなんて一言も口にしていないというのに、あの憎たらしい会長は俺をからかうようにして彼女に電話を渡したようだ。

 

「ううん、そうだな。今バスターミナルに向かってるとこなんだが、乗ってしまえば直ぐだ。あとニ十分ってとこかな。大丈夫、もう待ちぼうけはさせないさ」

 

「だーかーら、本当に気にしてないってば。八割蓮子が悪いんだし。それはそうとそんなに私の声が聞きたかったの?」

 

 

「訂正しておくけど、俺はそんなこと一言も言ってないんだからな。いつもの如く蓮子のジョークだよ、まったく」

 

「そうなの? それじゃあ、私の声なんて聞きたくなかった?」

 

「違う、違うからな。聞きたくないなんて一言も言ってない。本当だ

 ぞ」

 

「ふふ、知ってるわ。冗談よ。気長に待っていますわ」

 

 

「ありがとう、メリー」

 

「……。はい、蓮子さんに代わったわよ」

 

「まあ、そういう事だからちょっと待っててくれ。切るぞ」

 

 右耳に端末を当てながら早足で京都駅のエントランスを抜ければ目下、下る階段の向こうには絶え間なく無人巡回バスの往来するバスターミナル。

 

 荒神口までは確か、都営4系……。

 

 走って駆け込むか、と予定に無い坂道ダッシュ競争で筋肉痛の兆候を見せる足に無理を言わせようとした時

 

 惰性で耳に当てっぱなしだった端末から呆れたような声。

 

「ちょっと、切れてないわよ」

 

「あ、ああごめん。もうバスに乗る、切るよ」

 

「待って」

 

 今度こそ、と通話終了のアイコンを押そうとしたが

 

 いつにもなく真剣な声にその指を未遂に止めた。

 

「どうした?」

 

「こっちに来たら、話してよ。活動に関係がある話なら、だけど」

 

「……あれ、バレてた?」

 

「バレバレ」

 

「そうか……。別に隠してた訳じゃなくて、ただ酒飲んで落ち着いてからにしようとだな……」

 

「オーケー、ならいいの。じゃあ切るわね」

 

 容赦なく通話は終了した。

 

「まったく……」

 

 少し、軽くなったような気持ちで

 

 仄白い明かりの灯る無機質なバスに乗り込んだ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「荒神口、荒神口です。ご乗車ありがとうございました」

 

 いつか、京都に来てからはもう聞きなれた機械音声。運転手のいない運転席横のリーダーに端末を翳し、ステップを降りた。

 

 橙色の街灯が石畳のプロムナードに反射する川端通りの一角に立ち止まる。

 

 眠らない科学世紀の街は人通りに絶えず昼に見たのとは違う様相を見せる都の夜。

 

「壮観じゃないか」

 

 向かう鴨川の岸辺にはソメイヨシノの桜色がライトアップされ、まるでランプシェードのようにして黒く流れる水面にその光を煌めかせる。

 

 その向こう側に依然として聳え立つ摩天楼はいつも通り仰々しくもその瞬きを絶やす事なく聳え立っているのが相変わらず不気味だと笑い

 

 二人の待つ河川敷へ向かうべく、足を北に向ける。

 

 腕時計を視る。

 

「時刻はもうすでに二十時三十分って、夜桜を見始めるには遅すぎるんじゃないか?」

 

 独り言、行き交うのは金太郎飴みたいに同じ形の無人バスばかりの川端通を右目に、がやがやと喧しい人の波をのらりくらりと掻き分け荒神橋方面へ……。

 

 左目に街路樹越しに見やる河川敷には予想していた通りこんな時間でも夜桜に浮かれた花見客の影があちらこちらに揺れて見える。

 

 恥ずかしながらこの俺も今からその輪に加わろうとしている訳なのだが。

 

 気味の悪いくらいに治安の保たれた京都の街だからこそ、この鴨川河川敷の仮設花見会場は夜遅くまでライトアップが施され、治安維持の条例に束縛された美しい街並みの一角で飲酒する事が認められているそう。

 

 と、いう訳なら喫煙だってOKだろう。

 

 荒神橋を横切りきらないまま、その手前で左後方反対向きに踵を返す。

 

 河川敷に降りるためのスロープは先ほどまで歩いてきた遊歩道と同じように艶やかな石畳に舗装されていて、そのまま公園の芝生敷きの中を進んでいくらしい。

 

 視点を少し変えてみるだけでその憧憬は大きく姿を変え、見渡す視界には煌びやかに彩られた桜……黒に白と揺らめく鴨川を右手に挟み向こう岸にも桜、桜ばかり。

 

 向こう岸にいたら面倒くさいな。なんてぼんやりと考えながら来た道とは逆方向に、惚けた雰囲気漂う束の間の春の街道を見慣れた姿を探しながら。

 

 通り過ぎては背後へ消えゆく誰もかれもが、桜の下でレジャーシートなんか敷いて思い思いの美酒と肴を片手、気の置けぬ友人……恋人とこの儚い春の夢に興じているようだ。

 

「それと、大学生が多いな。俺みたいのは場違いってか、全く……気分がいいな」

 

 やっぱり俺も春の風がどこからか連れてきた陽気に中てられたか。そう遠くない過去に感じていたような焦燥や不安も忘れ、無意識に火を付けた煙草を咥えて居る。

 

 そうして、目前手前より二桜先のソメイヨシノの白の下。

 

 見慣れて飽きぬ、紫色とモノトーン。手を振る影にまたいつかのように手を振った。

 

「悪い、待たせたな」

 

「遅刻よ、遅刻。この宇佐美蓮子を美酒の水瓶を前にしてどれだけ待ちぼうけをさせるつもりかしら?」

 

 トレードマーク、白いリボンの中折れ帽の縁をくいっと持ち上げて肩越しの憎まれ口を叩く少女は、その語気とは裏腹に相方と向かい合って腰掛けるレジャーシートの不自然なくらい自然に空いた空間をぽんぽんと右手で叩き、誘う。

 

「じゃあ、お邪魔しよう」

 

 使い古した革靴を、二足並んだ黒いローファーと赤茶のブーツの少し間を開けた横に揃え、今宵宴の席に腰を降ろす。

 

「メリーも、一時間と少しぶりだな。思っていたより夜桜が綺麗でびっくりだ」

 

「ええ、待ってたわ。私……日本に来てからお花見するって始めてなの。蓮台野の桜も綺麗だったけど、生きてる桜も風情があるのね」

 

 本気か冗談か。いつかの秋の深い夜、そんな景色を引き合いに出して紫色のワンピースに艶やかな金髪の少女はくすりと笑う。

 

 

「生きてる桜、か。春は生の季節で死の季節でも在る。その境界の狭間で今年も桜は花を咲かせて散っていくんだな。死を生きる様に……」

 

 境界に咲く花、メリーはいつか彼岸花を気持ちが悪いと評してはいたが桜は気に入っているようで、時折吹く風に舞う花弁を手に取っては愉快そうな様子だ。

 

 俺も、黒い水面の向こうの桜を眺めて少し感慨に耽りかけたところで

 

 左から脇腹にぐいっと押し当てられる右肘

 

 心底からかうような声色の蓮子。

 

「どうして急にポエミーになっているのかしら? もしかして我慢できずに途中で飲んできたの?」

 

「ああー、蓮子は本当に茶々入れの天才だな。今のは全部受け売り……。俺はここに感慨に浸りに来たんじゃない、酒を飲みに来たんだ」

 

「はいはい、私だってそれは同じ。見なさい、今宵に相応しい最高のお酒を用意したわ」

 

 にやり、と彼女は笑い。茶色い紙袋から和紙製のラベルの目立つ一升瓶を取り出して見せた。

 

「おいおい、萬寿じゃないか。新潟県産完全天然の旧型……。あれで足りたのか?」

 

「ぎりぎり予算内よ、アテはコンビニ産の合成乾物で我慢して貰うけど」

 

「ああ、不満はない。さすが蓮子」

 

 当然、とばかりにしたり顔の蓮子の頬をつんつんともの言いたげな様子でメリーが突く

 

「見つけたのは良いけど、最後まで渋ってた癖に……。破天荒ぶってる割に意外とケチなんだから……」

 

「違うわよメリー、そこの旧型依存症が喜んで全部飲み干しちゃうのを危惧していただけで、決してケチっていた訳じゃ……」

 

「人を飲酒の悪魔みたいに言いやがって、でも結局買ったんだな」

 

「まあ、いいお酒があってのお花見でしょう」

 

「間違いない、さて。積もる話は後にしてとりあえず乾杯にしないか?」

 

「いいわね。お酒が入ると頭が冴えるって蓮子も言ってたし」

 

「全くだ、ただ自分で嗾けておいてなんだが盃もコップも持ってきてないんだけど」

 

 と、言うのと同時くらいのタイミングで差し出された白に青い蛇の目のお猪口……。

 

「準備がいいじゃないか、蓮子」

 

「さっき言ってた酒屋の店主がおまけで付けてくれたのよ。さ、それじゃあ乾杯といきましょう!」

 

 蓮子はもう待ちきれないとばかりに一升瓶のキャップをくるくると片手で勢いよく開け自分の猪口になみなみと注いだ後、瓶の首を持ちこちらに差し出す。

 

 

 京都は亀屋町、摩天楼を見上げる一面の夜桜の下。三人は揃いの白い猪口に揺れる美酒を掲げ、突き合わせる。

 

「「「乾杯!」」」

 

「お疲れ様ね。秘封倶楽部会長としてここに宴の始りを宣言するわ」

 

 そう言って猪口をぐいっと飲み干す蓮子に釣られて、俺も高く美酒を呷る。

 

「ふう、悔しいけど天然の旧型は美味しいわね」

 

「ああ、キレのある辛口……それでいてフルーティーな米の甘い香りが鼻に抜ける感じ、美味い!」

 

「今日は先代からの奢りって事で、さあさあ飲むわよ!」

 

 既になみなみ三杯は飲み干した蓮子

 

 俺も負けじと注いでは飲む、淡麗でスッキリとした飲口はアテを口にせずとも体に沁み込んでいくようだ……。これは良い。

 

 いや、良くないな。

 

 風情もへったくれも無く既に飲んだくれかけた俺たちを横目に

 

 呆れたわ、とそんな様子でそよ風に揺れる夜桜を見上げては小さく酒器を傾けるメリー

 

 そのどこか遠くを見ているような眼差し、

 陶器の白より透き通る肌と揺れる金色に

 

 一瞬、酒でなく息を飲んだ。

 

「……メリーが飲んでると途端に絵画っぽくなるな、ほら。メリーももう一杯」

 

「ありがとう、もしかしてもう酔ってる?」

 

「いや、まだまだ。話さないといけない事もあるしな」

 

 そうだ、春の夜を着飾る美しい桜の下で酔いしれるのも一興ではあるが、俺には一つ鞄に忍ばせた使命が……

 

「そう、それよ!」

 

 急に叫ぶような、本気で思い出したような素振りで蓮子がびしっと俺を右手で指差す、左手でお猪口を口に運びながらという珍妙な恰好で。

 

「ちょっと、いきなり大きな声だしてどうしたの?」

 

「どうやら彼には私達に隠し事があるみたいだから、それを白状するよう話していたのを思い出したのよ」

 

「もしかして、ゴミ捨てから戻ってきてから何だかずっと様子がおかしかった事と関係のある話かしら」

 

「ええ、面白いくらいわかりやすいんだもの」

 

 まるで知った事のようにそう掛け合って笑う二人。

 

 あれから、喉を突いて飛び出しそうな言葉を至って冷静に、TPOを考慮した然るべきタイミングで話すのだと……そう在れたつもりだった自分の滑稽さを呪う。

 

 が、まあ。二人はいつだってこんな感じだったか。

 

「はあ……敵わないな。なに、大した話だが大した話でもないんだ。これを見てくれ」

 

 右手側に置いた鞄を手繰り寄せる。いつのまにか幾つか桜の花弁の乗ったのが滑り落ちていく。

 

 そうして、取り出したそれをこれ見よがしに掲げた。

 

「うん? それって……」

 

「蓮子が捨てちゃったあの日記帳みたいだけど……」

 

 それがどうしたのか、そもそもゴミに捨てた物を何故わざわざ拾って来たのかという訝し気な視線は敢えて気に止めない。

 

「最後まで読まなかったろ、これ」

 

「読むに耐えなかったし、メリーと貴方に止められたもの」

 

「ふふ、何だか素っ頓狂な感じだったわよね」

 

「捨てた物が帰ってくるなんてまるで古典的なホラー展開だろうが、まあ。最後のページを読んでみてくれないか」

 

「仕方ないわね、化かされてあげましょう」

 

 不承不承ながら、といった顔で小汚いノートと再会した蓮子は、訝し気なその眼差しをそのままに頁を捲り始める。

 

 そんな蓮子に身を寄せて、それこそ頬がくっつきそうな距離で同じようにその顛末を眺めるメリー。仲が良いのは良い事だ。

 

「……」

 

「……」

 

 ぴくり、と瞼を驚かせたと思うと、蓮子は口角を少し吊り上げて笑う。

 

「へえ、面白いじゃない」

 

「……。幻想郷、貴方の口上以外でそんな言葉を目にする事があるなんて。確かに蓮子の言う通り、面白いわね」

 

「まあ……。そういう事なんだ。それで、二人はどう思う?」

 

 ノートを閉じ、それを俺の前に置き差し出した彼女はまた、大げさな素振りで酒を呷って言う。

 

「そうね、幻想郷縁起……。このノートの続編が見つからなかった以上、その内容を推し量る事は不可能な訳だから。貴方の話との整合性を確かめる事も現時点では難しい……。それこそ数十年前の微弱な痕跡を辿って、その原本を見つけでもしない限りわね」

 

「ああ、それでも奇妙な偶然だとは思わないか。これまで何度も幻想郷について、色んな方法で検索をかけてきたのに一件もヒットする事がなかったんだ」

 

 少し、考え込んでいたメリーが何か思いついたように口を開く。

 

「先代のオカルトサークルについて調べてみたら、何かわかったりしないかしら?」

 

「とは言っても、俺が生まれるずっと前に活動していたサークルの情報をどこまで追えるか、それは問題だ」

 

 一升瓶を傾け、注いだ透き通るそれをまた一気に飲み干す。

 

 幻想郷縁起、それはかつて俺が”彼女”から聞かされた数々の幻想の逸話の一つ。

 

 かつて、幻想郷にいた人々が脅威たる妖怪に対する対策や知識を編纂したものが、いつしか幻想郷の風土やその地に住まう妖怪たちを紹介する旨の本になっていったと聞くが……

 

 

 蓮子は携帯端末を弄って、しばらく眺めていたかと思うと。それをぽいとレジャーシートに投げた。

 

「今、軽く調べてみたのだけれど。公的に出版された文書含め、電子媒体で保存されている記録を辿ってみても、幻想郷縁起に関する該当はゼロね。国立図書館のアーカイブのお墨付き」

 

「ねえ蓮子、それなら個人出版とか所謂同人誌のような物だった可能性は無いかしら?」

 

 妙案、という風にメリーが手を叩く。

 

「なるほどな、確かにこのノートの記述を信じるとして。仮にそれがこっちで書かれた贋物だとすれば、あるかもしれない」

 

 

 あるかも、知れないが。

 

 水面に揺れて消える花弁、幻想的な都会の夜桜も酔いが回り始めて霞んだ視界に見ればいつか彼女と二人で見上げたその景色のようで。

 

 ぼけっとした俺の様子を察してか、蓮子は咳払いをした。

 

「確かに、幻想郷……なんて何時か何処かの誰かが思いついてもおかしくは無いような文字列がどこにも存在しない事。それが何故か私達の前に現れた事……。ロジカルじゃ無いけれど不気味で、ワクワクする話ね」

 

 いつの間にやらビニール袋から取り出したあたりめ

 

 その実、烏賊の干物風の合成乾物をその小さな口の右端に噛み締めながら、いつもの不敵な笑顔を。

 

 その化け猫のような笑みを浮かべた蓮子。

 

 乗ってきた、という風な彼女だが。そんな気取った調子を傍らの相棒は訝し気に見ているようだ。

 

「もう、行儀が悪いわよ蓮子。いくら蓮子だからってうら若き女子大生なんだから」

 

 本日何度目か、呆れた溜息のメリーは、相も変わらず咥え煙草でもするかのようにあたりめを咀嚼してはしたり顔の蓮子の前に身を乗り出して、彼女の咥えたそれをぷちっと引きちぎり自分の口へ運んだ。

 

「ひゅう」

 

 つい、ベタな冷やかしが声に出てしまった

 

 目には悪くないが……。いくら仲の良い同性でも俺は金輪際行う事がないであろうスキンシップを眺め、僅か感じた手寂しさに少し軽くなり始めた一升瓶を手繰り寄せる。

 

「ん、どうしたのかしら。今日はやけに積極的ね」

 

「んー……」

 

 嬉しそうに笑う蓮子の顔を睨むメリーだが、口に運んだそれを必死に咀嚼しているため言い返そうにも言い返せない悔しさに、か。

 

 薄暗い照明の照る桜の下にいても分かるくらい紅潮した頬を少し膨らませた。

 

「仲が良いようで何より。確かに、メリーの言う通り。会長殿には淑女って言葉は似合わなそうだ」

 

「ふん、余計なお世話よ。メリーになら兎も角……。紳士って言葉が一ミクロンも合致しないような男には言われたくないわね」

 

「まったくその通り……。俺は科学世紀の反面教師だからな」

 

「それで私は科学世紀の申し子、って? 

 馬鹿ね。私は何にも隷属するつもりはないのだけど」

 

 今更、分かり切った事を言わせるなと言わんばかりの表情で彼女はまた俺の前から瓶をひったくる。

 

 彼女の言葉に一つ思い出すことがあった。

 

 科学世紀の日本では結界を暴く行為は法律で禁じられている。

 

 確かにサークル活動と称し法を侵し続ける事を厭わない蓮子は申し子というには少しばかり、いやこれ以上ないくらい背教的なのだ。

 

 しかし、今まで真剣に考えようともしていなかったが。どうして結界暴きを禁じる法律なんかが存在しているのか……。

 

 天然のアルコールでかき回され反芻を繰り返す思考の深淵より、浮かび上がった泡沫をぱん、と割るように。

 

 やっと咀嚼を終えて、メリーが声を上げた。

 

「……ふぅ、いろいろはさておいて……」

 

「ん、どうしたの? メリー」

 

「ええ、さっきの話を聞いていて気になることがあったの」

 

「どうしたんだ?」

 

「ええ、幻想郷って単語が一切検索に引っかからないって話だったでしょう。もし、仮にだけれど。幻想郷を知る貴方が、それを例えば掲示板なんかに書き込んだとしたら……その前提はどうなるのかしら?」

 

 メリーは問う。

 

 そして思い出す。その問いにはもう答えがあった事を。

 

「二人に会う前の話だけど、実はやってみた事があるんだ。あの日は相当飲んでいて、やけくそでいつもの掲示板に幻想郷について書き込んだ事があった」

 

「あの日は、っていつもでしょ。それで、どうなったの?」

 

 俺はメリーに聞かれたから答えようとしていたんだが、と。口を挟んだ蓮子には言わないまま……。

 

「翌朝になって、馬鹿な事をしたと思って過去ログを漁ってみたんだが……。消えてたよ。跡形もなくな」

 

「……」

 

 何か言おうとした素振りのメリー、しかしそれを辞めて蛇の目を呷る。

 

 無理もない、それまでの話。

 

「とはいっても、だ。相当べろんべろんだったし記憶違いとか夢だったとか……いくらでも合理的な説明は付く話だ。記憶ってやつはどうもあてにならないらしいんでな」

 

「……。それが本当なら、きっと何か……そこには大いなる秘密が隠されているんでしょうね。秘封倶楽部の宇佐美蓮子としては暴かずにはいられない、って所かしら」

 

「はあ……。蓮子ならそう言うと思ったわよ。でもどうしましょう、その幻想郷縁起を探してみる?」

 

 それに、それに辿り着くことが出来れば。俺の追い求めた全ては思いの他簡単に見つかるのかもしれない。そうして暴き出した真実のその先で、もう一度彼女に逢う事が出来るのかもしれない。

 

 しかし……。

 

「叶う事なら。けれど、答えを急ぐ必要なんて無いのかもしれないと、今はそう思うんだ」

 

「らしくない事言うわね。でも、文明の利器を駆使したって見つからない探し物なら……私の頭脳を持ってしたって、アナログな手段を取る他ないんでしょ。不服ではあるけれど……。いつも通りって事ね」

 

 興奮していた様子の蓮子だったが、何かを悟った様な、それか憂いでもしたような苦笑いでそう言って、半端に開けた合成乾物のパッケージに手を伸ばす。

 

 黙って、そんな様子の黒髪の少女を横目に見ていたメリー。

 

 どうしてか、嬉しそうに。安堵から肩の力の抜けた笑顔をその白く綺麗な、キャストドールの横顔にも似た表情一杯に浮かべて、隣に居る彼女の頬を突く。

 

「そうそう、探し物ってね。躍起になって探している時ほどどこをどう探したって見つからないけれど、ふとした時に足元を見てみたら見つかったりする。そういう物だと思うの」

 

「エアコンのリモコンなんかはいつもそうだな」

 

「あと、目覚まし時計?」

 

 蓮子は左手で、肩程まで伸びた横髪をかき上げて、そうおどけた。

 

「目覚まし時計どころか、携帯のスヌーズが鳴ってたって起きないじゃない。蓮子は遅刻っていう観念をどこかで失くしてきたのかしらね?」

 

 辛辣なメリー

 

「私は常人よりも高密度な時間を生きているから遅刻したって問題ないの、私がからかったから拗ねてるの?」

 

「拗ねてない……」

 

 そう言ってメリーはまた頬を膨らせた。

 

 やれやれ、何だかやはりいつも通りな二人の惚気た空気につられてか、先ほどまで少し真面目な話をしていたような気もしながら、半ばどうでもよくなりつつある自分をやけに客観的な視点で見つめている。

 

 相対精神学において、主観にこそ世界の真実があると言うのであれば俺の真実はいったい何処にあるのだろう。

 

 ここでこうしているように、ただ他愛も無くありふれて……それでいて何に代え難い幸せに享受していたいだけなのか……

 

 それとも……

 

「どうしたの? お手洗いかしら」

 

 立ち上がり、並んで座る二人の前を離れて靴を履きなおす。

 

「何でもない、そろそろ一服したくなってな」

 

 数歩先、少し離れた桜の幹にもたれ掛かって咥えた煙草に火を付けた。

 

「なあ、メリー。蓮子の遅刻を無くそうと思うなら、一つ良い案が浮かんだんだけど」

 

「それは気になるわね、教えてくれる?」

 

「ああ、簡単な話。メリーと蓮子、同棲すれば良いんだ」

 

 目前に揺れる紫煙の中……満開の桜の下、虚を突かれたように、ブロンドの少女は口に含みかけた清酒を吹き出しそうな勢いでむせ、口元を抑えた。

 

「れ、蓮子と私が同棲って……どうしてそうなるのかしら?」

 

「どうしたんだメリー、メリーも一緒に住んでればこの寝坊助の遅刻魔を起こしてやれるだろう。他意は無い」

 

 とは言いながら他意は無くもないのだが、我ながら妙案だと思う。とはいえ三分の二くらいは冗談のつもりではあるが。

 

「毎朝メリーに起こして貰えるなら、幸せな朝を迎えられそうね。どうかしら? うちに来ない?」

 

 調子づいた蓮子は嬉しそうにはしゃぐ。

 

「どうして私が引っ越す前提なのかしら? 蓮子が来てくれるって言うのならまだしも……」

 

「良いの? それじゃあ帰ってから引っ越しの準備を始めるとしましょうか」

 

「いや……その。そういう意味じゃなくてね、蓮子……」

 

 夜桜の下、仄明かりの中でもわかってしまう程に頬を真っ赤にしたメリーはあたふたと取り繕う。

 

 そんな様子が可笑しいのか愛らしいのかそれは定かではないが、心底楽しそうにご機嫌の蓮子もまた顔を真っ赤にして……。

 

「女の子同士で一緒に住むくらいなんて事は無いと思うけど? ほら、科学世紀の世の中じゃあそういった多様性も今や当たり前に認められている訳だし……。家賃も安くて済むんだからメリットしか無いと思わない?」

 

「それは……そうかもしれないけど……」

 

 いや、単にアルコールの多量摂取による紅潮なのだろうが。酔っぱらった蓮子は手に負えない。

 

 酔っているとはいえどうもそれなりに本気らしい蓮子は上機嫌に随分と軽そうな水音を立てる一升瓶をひったくり豪快に……俺の狙っていた残り数杯分すら、それはそれは豪快に所謂ラッパで飲み干した。

 

「ふう……そういう事だから、私の荷物を置くスペースは空けていて頂戴ね。あ、ベッドは一つで良いわね。大丈夫……何もしないから! 安心安全の蓮子さ……ぐふっ」

 

 最高潮の蓮子がそれを言い切る前に、しびれを切らしたメリーの鋭い肘鉄が彼女の脇腹を抉った。

 

 聞いた事のない呻き声、あれは本気で痛いやつだ。

 

「……そういう発言が全く安心安全じゃないのだけれど……」

 

「い、いたい……今のは本気で痛かったわよメリー! まあそれはいいとしてそんなに怒るなんて私と一緒は嫌……?」

 

「別に、嫌なんて言っていないわよ。蓮子の事は……ほら、あれだし……。でもまだちょっと早いかななんて……」

 

 

 今度は少し切なそうな顔をしてメリーを見る蓮子。メリーもメリーで本気にし始めたようだが、これでは多分堂々巡りのような気もする。

 

 軽い冗談のつもりだったのだが。思いの他痴話喧嘩臭くなってきて周りの目も気になるのでそろそろ何とか収拾を付けるべきと短くなった煙草を灰皿に押し込む。

 

「まあ、まだ時間はあるんだし。お互い独り暮らしに心底飽きてから考えてみてもいいんじゃないか。それと蓮子、お前全部飲みやがったな俺の酒……」」

 

「貴方が焚きつけたんじゃない、それにこれは私のお酒よ。秘封倶楽部の予算から捻出したんだから会長である私の、ね」

 

 そう、ぶっきらぼうに言い放ったかと思うと。蓮子は空の一升瓶を片手に握ったままレジャーシートの上に寝転がる。その弾みで彼女の中折れ帽がずり落ちて

 

 さも気持ちの良さそうに寝転がる彼女の枕元に転がった。

 

「どっちが旧型依存症だか……。しかしそろそろ宴もたけなわか」

 

 時刻は既に23時を回っている、終電ももう時間の問題だ。ここについた頃には大勢いた花見客も大多数は捌けてしまい鴨川河川の花見会場は俺たちを含め遅くまで飲んでいる数組を残し静まりかけているようであった。

 

「そうね、そろそろ帰り支度をしないといけないわね。蓮子がこんな様子だしお水を買って来ますわ」

 

 そう、呆れたように開き直ったようにメリーは長いブロンドの髪を揺らしながらに渋々と立ち上がりローファーに足を通す。

 

「悪いな、それか俺が行ってこようか?」

 

「ううん、大丈夫。すぐ戻ってくるから蓮子を見ていてあげて欲しいな。何をしでかすか分からないもの……」

 

「そっか、任されたよ。その、何か悪かったな変な話焚きつけてさ」

 

「ふふ、全然良くはないけど。良いのよ、実はまんざらでもなかったりするし……」

 

「ん、何だって?」

 

「何でもないですわ、それじゃあ行ってくるわね」

 

「ああ」

 

 おそらく、アルコールに依る紅潮ではなく頬を少し赤らめてくるりと背を向けて歩き去るメリーの背中を見送りながら、だらしない姿の我らが会長の元に目線を下ろす。

 

「起きてるか、酔っ払いの会長さん」

 

「はあ、誰が泥酔して寝てるって? 私は今までお酒に飲まれた事は無いし、これからも飲まれる事は無いのだけれど」

 

 開いてるのか閉じてるのかよく分からなかった瞼を開いて軽くこちらを睨むような視線を向ける蓮子、思ったより元気そうだ。

 

「ああ、そうかい。にしても相当飲んだだろう俺の分まで」

 

「何? 希少な旧型酒を取られて怒っているのかしら?」

 

「そういう訳じゃない、いつかの東京の夜とは逆だなと思ってさ」

 

「だから、私は泥酔してないって言わなかったかしら」

 

 そう言って蓮子は片手に握っていた一升瓶を杖のようにして上体を起こし、また俺の方を軽く睨んでいる。

 

 懐から取り出した煙草に火を着け、そんな彼女の言葉に返す。

 

「まあ蟒蛇だもんな……。俺はただのアルコール依存症だけどさ。そうだ、あの時貰ったこれちゃんと持ってるんだけど」

 

 長財布のカードポケットに挿したそれ、ESPカードの片割れを右手に差し出して見せる。

 十字の記号の描かれた飾り気のないそれを。

 

「ふふ、持ってたの。ほら、私のは”星”」

 

 蓮子は惚けたような声でごそごそと黒のハイウエストスカートのポケットをまさぐり折り畳みの小さな革財布から、俺の持つそれと同じ意匠の模様違いの少し色あせたカードを掲げて見せた。

 

「そうそう、でメリーは”波”だったか」

 

「ええ、そうだったわね」

 

「あの時聞きそびれていたんだが、そのチョイス何か意味があったりするのか」

 

 はらり、と散り落ちる桜の花のような素振りで再び掲げたカードを財布に戻し、少し遠い目の彼女は口を開く。

 

「波のようで粒のようで、不確定性の今を生きるあの子にはぴったりだ、なんてあの時の私は考えたのかしら」

 

「波であって欲しいって? 干渉し合う事が出来るから、か」

 

「はあ……きっとそこまで考えていなかったのよ、私は」

 

「俺の十字は?」

 

「それは適当よ」

 

「適当かよ……」

 

 温く、春の夜風の吹き抜けるソメイヨシノの木々の間

 

 緩やかな水面を揺れる高層摩天楼の煌めき

 

 しばしの沈黙。その紫煙を掻き払う様に蓮子はその遠い目を辞めないまま、さながら意趣返しのように蓮子は俺に問う。

 

「貴方なら、その十字のカードにどんな文句を取って付けるのかしら?」

 

「何だよ、思いつかないから自分で考えろって言うのか。

 

「思いつかないなら別にいいわよ、ちなみに私の”星”にそれらしい文句を取ってつけるならこう……。私の瞳は知っての通り夜空、天球を回る星々から時間と自分の居場所を読み取ることが出来る。信じられないかもしれないけれど物心がついた時からずっとそうだったのよ」

 

「疑っちゃいない、で?」

 

「ええ、だからよく家の窓から夜空を見上げては何時何分何秒、北緯何度東経何度って具合に星を読んでいたわ。でも別に便利な能力じゃあ無いじゃない、今の時間も自分の居場所もそんな能力が無くたって簡単にわかるんだもの」

 

 珍しく、自嘲気味に笑った彼女は中折れ帽の鍔を撥ね上げてビルの間の夜空の、霞み消えてしまいそうな星と朧月に視線を移す。

 

 ただ、火を着ける。

 

「それでももし、この瞳が映す物に意味があるのなら、それは多分私が”今ここに居る”事。人類史の遥か彼方から悠久を廻り続ける星の海。その無限にも等しい大海原に溶けてしまわないように、呑み込まれてしまわないように……。だから私は……。うん、まあそれで私のカードは星、適当よ」

 

 視線をこちらに落として、蓮子は誤魔化すように話を締め括る。

 

「はあ、端折っただろ絶対。蓮子らしからぬ詩的な物言いだな。やっぱ酔ってるのか?」

 

「余計なお世話よ。それで……思いついた? 私だけこんな恥ずかしい話させて自分はだんまりなんて、良い恰好ばっかりしたがる貴方のプライドが許さないんじゃないかと思うんだけれど」

 

 そうは言われても、しかし。あの蓮子が真偽こそ定かではないが謎に満ちた彼女の生い立ちを語ってくれたのだから、蓮子の言う通りだんまりという訳にはいかない。

 

「そうだな、このカードの示す十字。それは俺にとって”交差点”なんだ。それも因果の交差する場所……。因果の糸が混じり合う、即ち”出逢い”だ。俺はいつだって出逢いに運命を変えられてきたからな」

 

 ”彼女”との出逢い、”彼女達”との出逢い。

 

 俺の人生は今この瞬間に至るまで、出逢いという特異点によって歪められた奇妙なマトリクスの中に在るのかもしれないと……そう常々

 思うからこそ、俺を象徴するのは”十字”だとそう文句を付けて見たのだが……。

 

「出逢いは運命を変える……。月並みな言葉ね、悔しいけどそれは本当だと思う。でもそれだけじゃない……”別れ”だって人の運命を変えてしまうでしょう?」

 

 蓮子はいつもの馬鹿にするような表情では無く、どこか遠く。対岸の煌々として少し鬱陶しいくらいに照らされた桜を瞳孔に映しては、諭すように問い掛けるように毒気の無い声色でそう言った。

 

「ああ……交差した線はいつしか遠のいてしまう。それでも別れが在るからこそ再び会う事が出来るんだと俺は信じてるんだ。夜空を駆る星の軌道共鳴みたいに」

 

「それってアンドロメダ座のウプシロン星だけでの話でしょ……」

 

「そうだったけ……」

 

 風が吹き、花を散らす。

 

 夜も更け、閑散とし始めた鴨川河川の花見会場には最早、煌びやかにも冥い街を行き交う数多の喧噪と、無機質な無人EVバスの不気味なくらい静かなモーター音が僅かに谺するばかり……。

 

 そうして何故か、不思議と心地の悪くない沈黙の中で

 

 揺れる桜と朧月、遠く向こうの微かな星を二人見上げていた。

 

 そうしたまま幾分と時が過ぎ、何本目かも分からない紙巻のフィルターの焦げた頃。

 

 パタパタと、芝生に半ば浸食された石畳の遊歩道をこちらへ向かって、レジ袋を左手に早歩きの少女。

 

「お待たせ~。あら、蓮子は思ったより具合が良さそうね。お話中だったかしら?」

 

 メリーは、少し気まずそうに笑いながら。

 

 俺と蓮子によく冷えて結露したペットボトルの飲料水を手渡した。

 

「ありがとう、メリー。大した話じゃないわよ、少し星の話をしていたの

 

「こんな場所じゃ目を凝らさないと見えないけどな。光害も甚だしい街だよ、全く」

 

 キャップを捻り、冷たい水を喉に流し込む。

 

 時間も時間、名残り惜しいがそろそろ解散の時間だ。

 

 だらしなく座っていた蓮子も、また一升瓶を杖のようにして立ち上がり、ハイウエストスカートは両手で払った。

 

「私が居ない間に秘密の話? 何だか疎外感を感じちゃうわね、これだけ街も明るくて月も出ているんだから、きっと星なんて見えないわよ」

 

「もしかして妬いてるの? 安心してメリー、私の目には映っているわ。どんなに暗く消えてしまいそうな輝きも」

 

「一体、何を安心すればいいのかしら? 六等星の向こう側が見える瞳なんて気持ちの悪いだけだと思うけれど」

 

「あら、辛辣ねえ。やっぱり拗ねてるんだ」

 

「拗ねてないってば……。さあ、そろそろ行きましょう。私達は歩いても帰れるけど貴方はそう言う訳にも行かないでしょう」

 

「ああ、郊外在住の辛い所だな。全く名門大学の特待生は羨ましいな、選ばれし者のみだけが住める洛中区画で下宿出来る訳だからさ」

 

「あらあら、拗ねてるのかしら? ふふ、まあそんな待遇も私達が大学生でいられるうちだけなんだと思う、今は将来の事なんてあまり考えたくはないけど……」

 

 手際よく持参したレジャーシートをビニール袋にしまいながらメリーは少し憂いを含んだような声色でそう返した。

 

 くだらない冗談のつもりではあったが、特別であるという事は決してくだらなくは無いのだと知らないはずは無かった。

 

「出た出た、大学生コンプレックス。あまり私のメリーを困らせないで欲しい物ね。それに都心にアクセスの良い郊外が一番住みやすかったりするでしょ」

 

「すまん、別に皮肉とかじゃないんだ。今更だが、大学生やってれば、なんてな」

 

「ほんと今更ね。それじゃあ今の自分を後悔しているのかしら?」

 

「いいや、それほど」

 

「あらそう、なら良かった」

 

 

 

 宴もたけなわ……。連れ立って歩く足取りは酒気に浮かれて。

 

 意味のない会話と三人分の靴音だけが閑散とし始めた春の夜の河川敷に沁み込んでは消えていく。

 

 泡沫の春の夢のような時間は瞬く間に過ぎて行き、遊歩道への小さな坂道を登り切った所で、二人の方へ向き直る。

 

「今日は楽しかった、美味い酒が飲めたし。話したかった事も話せたからな」

 

「貴方が言わなかっただけでしょ、今後はつまらない隠し事しないで迅速に共有する事ね」

 

「ああ、悪かったって。しかし謎は深まるばかりだ。なあ蓮子、次はいつ集まる?」

 

「思いついた時、かしら。これは私だけの話じゃないわ。メリーが、貴方が。秘密に触れて何かを”想った時”ならいつだって秘封倶楽部を始められるのよ」

 

 冥い街の輝きを背に、不敵で掴みどころの無い笑みを浮かべた蓮子。その隣でメリーもまたいつもの呆れたような笑みを零す。

 

「だから、それっていつも通りって事じゃないの。貴方も知っていると思うけど、蓮子はいつもこんなだから……」

 

「よく知ってるさ、それでもこんな会長の元に集まってしまったのが、俺たち秘封倶楽部なんだよな」

 

「ふふ、そうね」

 

 

 腕時計を見る、時刻は二十三時四十五分を周っている、いよいよのんびりもしてしられない。

 

「そろそろ終電か、慌ただしくて悪いが、俺はそろそろお暇させて貰うとしよう、そんじゃまたな。二人とも」

 

「ええ、気を付けて帰りなさいよ」

 

「バイバイ! またね!」

 

 偉そうに腕を組んで見送る蓮子と楽しそうに手を振るメリーに後ろ手に手を振って早足気味にいまだ減りそうな様子も見えない人ごみの中を早足で進む。

 

 京都駅まで急いでバスで戻って近鉄線の最終便にギリギリ間に合うか……。

 

 早足のスピードを上げる。

 

 全く。こんな日々は二年前の俺では考えられなかった。「彼女」と出逢い、別れるまでの全てを捨てて、独りで。再び巡り合う為に馬鹿ながらに考えて、生きてきた日々は何だったのかと笑いたくもなれど、それでもこれが今の俺だ。

 

 何だか悪くない気持ちで、足取りは軽く。行き交う人波に逆らってバス停を目指す。

 

「そこの貴方、少し……」

 

 そうだ、俺は秘封倶楽部。世界が秘めた秘密を暴き、いつかもう一度……

 

「貴方ですよ。そこの早足で不敵な笑みを浮かべて夢見心地の貴方です」

 

「……」

 

 人影が一つ、立ちふさがった。

 

 立ち止まった二つの影を避けるように、人だかりの中をぽつんと空いた隙間で向きあうその影を睨んだ。

 

「急いでるんだけど、何か?」

 

 顔を上げる。

 

 男だ。丸眼鏡に茶色い背広の男。やけに綺麗な身なりこそしているがそれが余計に胡散臭い。

 

「いえ、実は私はこの街の外れで古本屋を営んでいる者なんです。貴方が本を探しているのではないかと思いましてね」

 

「古本屋がこんな時間に呼び込みか、ぼったくりの居酒屋ならまだしも。マルチと宗教の勧誘ならお断りだ。悪いけど急いでるんだ、どいてくれ」

 

 相手していられない、男の左肩を持ち押し退けて進む。

 

 その間際、男が表情も変えずに囁いた。

 

「幻想郷縁起をお探しなら、必ず力になれますよ……」

 

「あんたは……」

 

 男の言葉に冷たい稲妻が走り、心臓が強く脈を打つ。]

 

 固まる俺に、その男は不気味なほどに不気味さを感じさせない笑みに目を細め、名刺を差し出した。

 

「私はこういう者です。先程のお話、興味がありましたらこちらまで。お待ちしておりますよ」

 

「……、あんたが何を知ってるって……」

 

 そう言わぬ間に、その男は消えた。

 

 手元には白地に黒字の簡素な名刺だけが残されている。

 

「……。これも、春の夜の夢なのか……?」

 

 再びバス停目指し、歩き出す。何かが始まる予感を封じ込めて。

 

 




ありがとうございました。
次話はなるべく早く、といいながら一年の時を得たわたしですが
まだまだ先は長いので何とか文章に…
もしも読んでくださっている方がいるのなら
もう少し、見守ってくださいませ…
それでは、また次回もよろしくお願いします。


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