咲-Saki- 龍の娘は、裏雀士の夢を見るか? (ひびのん)
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第1局

「あの……お爺ちゃん、そんなところにお一人で大丈夫ですか?」

 

 ずっと昔の話だ。

 わたしは桜の木の下に座り込んだお爺ちゃんに、そう聞いたことがあった。 

 サングラスをかけた白髪の老人は、ほとんど目の前で屈み込んだわたしに、ただ漫然と言葉を返す。

 

「ああ、大丈夫さ」

「そうは見えません! こんなところにいては風邪を引いてしまいますよ。わたしが家までお連れしましょう!」

「悪ぃな嬢ちゃん、助けは必要ねえ。心配してくれてありがとよ」

 

 断られてしまったが、このやつれた老人を放ってはおけないと思った。

 何とかして連れ出す理由を探そうと唸っていると、老人は面白そうに笑い始める。

 

「くくっ。それよりどうしてお前さん、こんなところにいるんだ。ここは若ぇのが来るところじゃあねえぜ」

「どうして、と言われましても……おや、そういえばここは、どこなのでしょう」

 

 ふと、あたりを見回した。

 この桜の下は爽やかな草原に包まれていたが、それ以外は黒で塗りつぶされている。

 わたしは阿知賀女子中等部の制服で、お爺ちゃんは白いシャツを着ている。真っ黒なサングラスのせいで、相手の表情は分からない。

 

 闇の世界に、輝く桜の花びらが舞っていた。

 

 目を離せば動かなくなってしまいそうなほど弱々しい白髪の帽子を被った老人。力なく桜の幹に背中を預けて、座り込んだまま動かないこの人を、このまま放ってはおけないと思った。

 

「さあ、ここから早く出て行きな。早く帰んねえと、友達が心配するぜ」

「ううむ。そうは言いますが……なんだか、このまま帰ってはいけない気がするのです。このまま置いては帰れません!」

「……お節介な嬢ちゃんだ」

 

 わたしが一歩前に踏み出ると、桜吹雪はぴたりとおさまった。

 お爺ちゃんもわたしが出て行かないと分かると、笑うのを止めて首を下ろす。まるで何年も孤独に過ごしてきたような、もの哀しい気配だ。

 寂しそうにぽつんとそこに居続けるその人には、不思議な風格があった。

 

 わたしは――松実玄は、サングラスの老人の領域に、ためらいなく手を差し伸べる。

 

「お爺ちゃん。わたしに、何かお手伝いできることはありませんか?」

「ああ……そう言われりゃあ、あるさ」

「わたしにできることなら、何でも言ってください! できる限りでお応えします!」

「クク、本当にお節介なやつだ。だが……まあ、いいか」

 

 老人が空虚なほどに白い空を仰いて、何かを思い返しているのか、可笑しいものを見たときのように嗤った。

 

「そうさな。おれは、もし叶うなら、もう一度」

 

 そうして紡がれた言葉を最後まで聴き終えることはない。

 最後の言葉はいつも闇に飲み込まれる。目が覚めれば全て忘れてしまうことも、分かっている。

 しかし、それでも。

 目を醒ますその時まで覚えていたいと思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 閉じられた部屋に、今年も春の風が吹き込む。

 その日の吉野は満開の桜で、階段を上がった阿知賀女子学院の窓から見える景色は、どこも桃色に染まっていた。新しい始まりを祝福するかのように、桜が奈良の山々に広く桜色を届けていた。

 そんな季節にわたしは、ぼうっとその光景を視界におさめていた。掃除用の帽子を頭に、そして掃除用具を片手に持って、感慨深くため息をついた。

 

「ふぅ……もうすぐ、高校生だよ」

 

 ぽつりと呟いた言葉は、ほんの少しだけ響いて、廊下の木床に吸い込まれる。

 グラウンドからは誰かの笑い声や掛け声が聞こえてくる。楽しそうな気配は、ここからとても遠く感じた。

 でも、人気のない廊下も、わたしにとっては実家みたいに安心できる場所だ。

 

 麻雀教室が解散してから、いったいどれくらい時間が経ったんだろう。

 近かったような気もするし、ずいぶん遠い出来事のような気もする。あのときは中学一年生になったばかりだったのに、もう今年は高校受験が控えている。

 

 もちろん受験するのは、この奈良県立阿知賀女学院高等部だ。

 しっかりと勉強もしているので、今のままいけば大丈夫。この学校の鐘楼の音を、今までと同じように聞くことができるだろう。

 

「また、みんなと遊べるのかな……なんてね」

 

 でも、ここにみんなはいない。

 かつての仲間は離れ離れに、一人、また一人とこの阿知賀女子学院を離れていった。 

 大変なことがあった、辛いこともあった。でもその十倍くらい、楽しいことや、嬉しいことがいっぱいだった。

 

『あっ、玄さん! おはよーございます!』

『おっす、玄。今日も早いわね』

『わー! クロチャーだぁあーー!!』

 

 箒を持ったわたしの手に力を込めてぎゅっと握る。

 出会いと別れを象徴するこの季節に来ると、胸がじくじくと痛むような……そんな感覚を、かすかに感じるのだ。

 みんなが離れ離れになるのは寂しい。名残惜しさのようなものが、わたしの中にあり続けている。

 

 きっといつか、みんなが戻ってきてくれるんじゃないかと、そう思いたかった。

 ずっとこの場所を守り続けていきたい。

 そう思うから、今日もこの場所にやってきた。

 

 改めて掃除用具を持って、その部屋の前までやってくる。

 一見、単なる空き教室のようにも見えるが、元麻雀教室・麻雀部の部室である。部室棟にはいくつか、同じように使う人のいない空部屋が残されていた。

 わたしはバケツを置いて、さっそく鍵を差し込もうとしたのだが――この日は、変だった。

 

「あれれ。んーっ? 鍵が……」

 

 先生に借りた鍵はすんなりと入った。けど、鍵が開いた音がしなかった。

 試しに反対側に回してみるとカチャリと音がして、扉を引いてみると鍵がかかっていた。ではもう一度……カチャリと音がして、鍵は開いた。

 

(おかしいな、先週はちゃんと閉めたと思うんだけど)

 

 不思議に思いながら、中に入ってみる。

 人の気配はない。分厚いカーテンの締め切った薄暗い部屋があるだけだった。

 

「……おや、あれは?」

 

 ちょっとキョロキョロ見回してみると、奇妙なものを見つけた。手入れしている雀卓の上に、古ぼけた木箱が置いてあったのだ。

 近づいてまじまじと見つめてみると、書かれている文字は、すっかり薄ぼけて、読める状態ではないが、麻雀牌をしまっておく箱のように見えた。

 

「うーん、なんだろうこれ。前はこんなのなかったんだけどな……?」

 

 麻雀部の備品のことならよく知っているが、初めて見るものだ。

 とりあえず触らないでおこう。

 勝手に開けたら怒られちゃうかもしれないもんね。

 

「とにかく、いまはお掃除だよっ! お掃除ならおまかせあれだよ……!」

 

 今日はなかなか大変な作業になりそうだ。

 しばらく来られなかったから手入れも行き届いていない。これは、気合を入れてやらなければいけないね。

 

「……おや? 雑巾はどこへ隠れて……あっ、部屋の外にバケツも雑巾も置いたままだったっけ。いけないいけない」

 

 部屋の様子に気をとられて、ぼけてしまっていたみたいだ。

 置きっぱなしにしたものを取りに入り口に戻ろうとしたとき、耳が何かの音を捉えた。

 人が滅多にこないはずの廊下に、コツコツと音が聞こえる。そして人影は、部室の扉の前で立ち止まった。

 曇りガラス越しに、誰かが立っているのが見えた。

 

「空いていますよ、どうぞー?」

 

 誰も使っていない部屋に来客なんて珍しい。もしかして、先生が様子を見に来たのだろうか。

 人影は恐る恐る、扉を開けた。

 ひょっこりと隙間から顔を覗かせた人は、わたしを見て心底驚いたように、目を丸くする。

 

「あれ……玄さん? 玄さんじゃないですか?!」

 

 部屋の中にいるのがわたしであったことに気づいて、うわーっと、駆け寄ってくる。

 わたしも驚いて、掃除用具を手から落としかけた。

 

「えっ? あ……しずちゃん!?」

「はい! 穏乃です。お久しぶりです、玄さんっ!!」

 

 中等部の冬服を着た同じ阿知賀の生徒。一つ下のわたしの大切な後輩で、仲間だった子。

 高鴨穏乃。

 しずちゃんって、わたしは呼んでいる。ジャージがよく似合う、誰よりも元気いっぱいな女の子が、そこにいた。

 

「っていうか、なんで……? もうとっくに麻雀部は廃部したはずなのに……部屋きれい。ももも、もしかしてっ、ここの掃除してたんですか!?」

 

 困惑したような表情でわたしに詰め寄った。

 

「うんっ。しばらくお掃除してなかったから」

「ふええ、いや廊下にバケツが置いてあったからどうしたのかと……あ、手伝います、手伝いますっ! 何かできることないですか!?」

「本当!? じゃあ、お願いしようかなっ」

「任せてください!! っていうか言ってくださいよ、麻雀教室の掃除って言われたら絶対手伝ったのに!」

 

 しずちゃんが置きっぱなしだったバケツを部屋の中に引き入れながら、焦ったように言う。

 それを見て、わたしは抑えられない気持ちに口元がむずむずしたのがわかった。

 

 ぜんぜん変わってない。

 元気はつらつで、とても熱心で、頑張り屋さんのままなしずちゃんがいたことが嬉しくって。

 

 ちょっとだけ……楽しかったあの頃に戻れたような気がした。

 

 

 

 

 

 しずちゃんと二人で始めた、春の大掃除も中盤を迎えた頃。

 一生懸命に濡れ雑巾で床を拭いていたしずちゃんが、思い出したようにひょいと顔を上げた。

 

「玄さんは……その。麻雀教室がなくなってから、麻雀打ったりしてますか?」

「うーん……たまーにうちのお客さんと打つときはあるけど、最近はさっぱりだよ。しずちゃんは?」

「最近はもう全然で。麻雀教室がなくなってからは、牌すら触ってないです」

「あはは……他のみんなはどうなんだろうね。憧ちゃんは、頑張っているのかなあ」

「あー、最近連絡取ってないんで分かんないですけど……多分きっと、頑張ってますよ!」

 

 すると、そこで何かを思い出したように、しずちゃんは表情を変えた。

 わたしが首をかしげると、少し悲しそうな表情で窓の外を見た。

 

「……和が転校しちゃうって話、もう聞きました?」

「うん。阿知賀を離れることになりました、って、わざわざ教室まで探して挨拶に来てくれたんだ」

「そっか。和のやつ、相変わらずそういうとこは律儀だなぁ」

 

 しずちゃんは窓に両手をかけ、顎を腕に当てた。

 阿知賀子供麻雀倶楽部。わたしたちの麻雀教室は、教師だった先生の栄転をきっかけに、もう何年も前に解散している。

 原村和ちゃんは、麻雀教室の仲間の一人だった。

 いまはしずちゃんの同級生だけど、もうすぐこの土地を離れることになっている。

 

「憧のやつも転校しちゃったし。これから寂しくなりますね……」

「久しぶりにみんなで、打ちたいね」

「……ですね。でも今日で和も転校しちゃいますし」

「そっか……今日が最後だったんだね、和ちゃん」

 

 あの頃にみたいに、みんな集まって打ちたいというのは、叶わない願いなのかもしれない。

 記憶の中の活発なしずちゃんとは真逆の、その寂しそうな声色に、胸がきゅっと締め付けられるような、やるせない気持ちが、わたしの心を包んだ。

 

 きっと、しずちゃんは和ちゃんと会える最後の日だから、この部屋を訪ねてきたんだ。

 

 懐かしくて、今あったことのように思い出せる。

 かつての麻雀教室の部屋に見えた、小さかった頃のわたしたちの幻が、風とともにふっと搔き消えていった。

 もう、今はここを使う人はいない。

 

(本当に、またみんなで集まれるのかな)

 

 二人とも同じことを考えているのは分かっていた。

 けれど、あえて口に出すことはない。

 仲のよかった四人のうち、一人は先ほど話題に出たように別な中学に進学。

 指導をしてくれた先生も今はこの奈良を遠く離れた。

 いまは遠く離れた土地で、実業団のチームで活躍していると聞いている。

 わたしとしずちゃんは同じ学校に通っているけれど、学年が違うので顔を合わせることはめったにない。

 

「…………」

「…………」

 

 ……何となく目の前の顔を見てみると、向こうもこっちの顔を見ていた。

 思わず、二人とも視線を逸らしてしまう。

 桜の花びらが部屋の中に入り込んできて、二人の間にはらりと落ちた。

 吹き込んだ春風が、背中に結った茶色のポニーテールと、腰まで伸ばした赤髪を大きく揺らした。

 心に残ったのは、寂しさと、もの悲しさだけだ。

 

「うおおおおおーーーーっ!!!」

「っ、し、しずちゃん……?」

 

 急に叫んだしずちゃんに驚いて、びっくりして思わず振り向いてしまった。

 より一層打ち込むように、残っていた掃除を一気に済ませようと、雑巾を置いて犬のような体制で床を駆け出した。しっちゃかめっちゃかに、そこらを駆け回って、床をぴかぴかに磨く。

 ぽかんとその様子を見ていた。

 でも、わたしも掃除道具を握りなおした。

 

(うん。いつまでも、湿っぽい気持ちでいちゃいけないよ)

 

 気を取り直して、わたしも、意気込んで掃除を再開した。

 一心不乱に、そして一通りの掃除が終わる頃には、さっきの切ない空気はどこかへ吹き飛んでいた。

 

 

 掃除を進めてしばらくした頃、しずちゃんが聞いてきた。

 

「ところで玄さん、ずっと気になってたんですけど。あれ何ですか?」

「おおっ、これねぇ」

 

 思い出したように机の上を指差した。

 そこには、例の古い箱がぽつんと置き沙汰にされている。

 しかし、わたしもその答えは持っていない。どう答えたものかと考える。

 

「わたしも今日久しぶりに来たから……備品、じゃないよねえ。誰かが置いていったものだと思うけど」

「麻雀教室のときには、なかったと思いますよ。なんか古い箱ですね。ここに置いてあるってことは、やっぱ麻雀牌? なんか昭和の臭いがしますねー」

「でも、誰が持ってきたのかなぁ……?」

「きっと麻雀部に寄付してくれた人がいるんですよ。あ、そういえば最近、学校の倉庫の整理とかがあったみたいですから、それかも!」

「へえ、しずちゃん、よく知ってるねえ」

「裏山から様子が見えてましたからねー」

 

 ……裏山?

 この学校は山の上に建っていたはずだけど、それより上って一体どこから見たんだろう。わたしは首を傾げた。

 すると突然、しずちゃんの頭に電球が浮かんだ。

 

「……あっ!」

「どうかしたの?」 

「そうですよ。せっかくこの部屋が空いているんですから、最後に三人で打ちましょうよ、麻雀っ!!」

「えっ!? 三人って、わたしと、しずちゃんと、それと……和ちゃん?」

 

 こくこく、しずちゃんは目を丸くして何度も頷いた。

 ぽかんとして、そして真剣に考える。

 

「え、ええっと。わたしは、いいけど……?」

「え。じゃあこの部屋、使ってもいいんですか!?」

「今日は部屋をとってあるから、先生がいるうちなら大丈夫だよ。でも、和ちゃんも忙しいんじゃ……あ、ちょっと、しずちゃん!?」

「こうしちゃいられない! 急がなきゃっ、うおおおおおおおおっっっっ!!!!」

 

 ……あっという間に行ってしまった。

 廊下に土煙を巻き上げていく。ひょいと廊下外に顔を出すと、野生的な叫び声とともに、全力で階段を下る音が響いていた。声はあっという間に遠くなって、聞こえなくなった。

 

「は、早い……さすがだよ……」

 

 しずちゃんは、そうと決めたら一直線だったっけ。

 そんな風に取り残されたわたしは、一人になって苦笑いしながら、改めて部室に視線を戻した。

 

 最初よりもずっと部屋が静かに感じた。

 思えば、みんなをいつも引っ張ってくれたのは、いつだってしずちゃんだった。

 麻雀教室のときも、イベントごとがあったときは、なんでも先んじてくれた。

 近所の川に遊びに行こうって言った時も、吉野の夏祭りのときも、真っ先に手をあげて、みんなを引っ張ってくれていた気がする。

 

 あの頃を思い出して懐かしい気持ちに浸っていると、ドアがばーんと開いた。

 

「連れてきましたっ!」

「早すぎだよ!?」

 

 十数秒しかかかっていなかったので、思わずビクッと身構えてしまった。

 息一つ切らさずに、その傍に何かを抱えている。

 

「……あの、これは一体何事ですか」

 

 まるで荷物のようにを抱きかかえられている……普段のピンクのヒラヒラ服を着た和ちゃんが、呆れ目でぽつりと抗議した。

 

「いやぁー! 急がないと帰っちゃうかと思って。靴に手がかかってたところだったし、危なかったよ!」

「そういうことではなくですね!?」

 

 ようやく降ろしてもらったジト目だった和ちゃんも、キョロキョロと部室を見回して、ようやくここがどこか気がついたみたいだ。

 

「……玄さん? あの、ここ。麻雀教室の部屋ですよね」

 

 もう閉じたはずの麻雀部の部屋が空いている。そのことに驚いてる様子だった。

 丸目でふんす、と期待するしずちゃんと、苦笑いのわたしを見比べた。

 そして、誘拐されてきた和ちゃんも何かを察したような顔に変わった。

 

「一応聞いておきます。穏乃、これは?」

「玄さんと一緒に部室の掃除してたんだよ。たまたま、ここでバッタリ会っちゃってさ」

「たまたまって……」

「いやー。ほら、今日で和も転校しちゃうわけでしょ」

 

 和ちゃんは、頭痛を感じたように、おでこを抑えた。

 

「やっぱり、そういうことですか。ですが、急に言われても困ります」

「今からやろうよ!! わたしと玄さんと和でっ!」

「……相変わらず人の話を聞きませんね」

 

 和ちゃんはどこか呆れ気味だったが、この様子だと、それほど嫌がってはいないようだ。

 

「最後の日に麻雀をしようと、そういうことですか」

「そうそう! 走ってるときに憧にも電話してみたんだけど、急すぎって言われて、ダメでさー」

「当然です。人には事情というものがあるんですよ。まったく……」

「ううっ、和、だめだった……?」

 

 しずちゃんが悲しそうな顔をすると、身を引いて、それからばつが悪そうに頬を掻いた。

 

「……ま、まあ……そうですね。前もってやっておくことはほぼ終わっていますから。問題ありませんけれど」

 

 よっし、とガッツポーズ。

 強い押しに負けた和ちゃんは、疲れたように息を吐いて、わたしを見た。

 

「ですが玄さんの都合は大丈夫なのですか?」

「うん、わたしは大丈夫だよ。部屋も大丈夫だと思う」

「そうですか……仕方ありませんね。穏乃とも玄さんとも、しばらくは会えなくなりますし……奈良で、最後にこの部屋で打つというのも、悪くありません」

「やった。よーっし! 麻雀教室、一日だけ復活っ!」

 

 しずちゃんが、高らかに宣言した。

 



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第2局

「よーっし! 麻雀教室、一日だけ復活っ!」

「今回はいいでしょう。ですが……あなたはいつも突然すぎるんです!」

「およよっ……怒ってる?」

「当たり前です!」

 

 和ちゃんから、さっそくお説教を受けていた。

 でも、しずちゃんは、目を細めて後ろ手で頭を掻きながら「いやー」というだけだった。

 

(あ……久しぶりだな、この感じ)

 

 むっとお説教する和ちゃんと、笑って誤魔化そうとするしずちゃんは、何も変わっていない。

 背の小さかった頃の二人の姿が、いまの二人に重なって見えた。

 

「ところで、自動卓の牌が見当たりませんが……部屋を閉める時に、どこかにしまったでしょうか」

「入ってない? ……あー、ほんとだ。あれ、どこやったっけなー」

「それなら、部室棟の倉庫のほうにまとめてしまってあったはずだよ。あ、でも出すのはちょっと大変かも……」

「倉庫ですか。それは、困りましたね……」

「なら、時間もあんまないだろうし、この箱のやつでいいじゃん。手積みで。それならすぐできるでしょ!」

「あっ……!」

「……ちょ、ちょっと穏乃……!」

 

 しずちゃんが雀卓に置きっぱなしになっていた古い箱に手を伸ばした。

 勝手に開けたら怒られるかも……と思ったが、時すでに遅しだ。

 和ちゃんも途中でまずいと思ったのか、片手だけを伸ばした。

 だが、止める間もなく、しずちゃんは箱の蓋に手をかけ、開けてしまった。

 

「よいしょ、っと!」

 

 ズズズ……ッ。

 箱を開くとき、重い木音とともに灰色の粒子が舞い散った……埃だ。

 まるで長年一度も開かれていなかったような、土煙のような煙が、掃除したばかりの部室に舞い上がる。

 カタン、と、持ち上げた箱の底が卓上に落ちた。

 

「な、なにこれッ、埃すご……」

「わわわっ……!?」

「けほっ……!」

 

 みんな、服の袖を口に当てながら何度か軽く咳き込んだ。

 涙目で咳き込んでいるうちに、埃の中から徐々に姿を現した。しずちゃんの横に立って、わたしも和ちゃんも、興味深く顔を覗かせる。

 中には、麻雀の刻印がずらりと並んでいた。

 ごく普通の麻雀牌。

 ただしそれが年季ものということが、一目見て分かるほどに古びていた。

 

「すごい古い牌だ……へえー。こんなのテレビでしか見たことないや」

 

 しずちゃんが何気なく、すみっこの牌を手に取った。僅かな変色と、細かい傷跡。随分と使い込まれた様子が残されている。

 

「こんな年季の入った牌、麻雀教室のときに使ったことはありませんでしたよね」

「うん。今日来たら、部屋にあったんだよ。誰かが置いていったみたいなの」

「まあいいじゃん。ここに置いてあるってことは、麻雀部の備品で誰かが置いてったってことでしょ!」

「うーん、そう言われると……いいのかな?」

「自動卓用の牌がないなら……少しだけ借りましょう」

 

 ちょっと借りるくらいなら大丈夫……だよね?

 少し悪いことをしているような罪悪感はあったけれど、麻雀部の部屋に置いてあったのだ。誰かの寄付だと、そう思うことにした。

 そのまま、じゃらりと、百枚以上の牌がいっぺんに卓上にばらまかれた。

 すると、またも牌を見続けていたしずちゃんが、目を点にした。

 

「普通の感触と違う、あ、これ背中のところ竹でできてますよ! おお、なんか高級感……」

「あの……これ、もしかして相当な値打ちものなのでは」

「いやいや。こんな傷だらけな牌が売れるはずないでしょ。ちょっと染みついちゃってるし」

 

 確かに、赤っぽいシミがついてしまっている。よく観察すれば、裏でも何の牌か分かってしまいそうだ。

 

「んー、でもこれ以外の牌は片付けちゃってるみたいだし。もうこれ出しちゃったしなー」

「……そうですね。価値のあるもの、というわけでもなさそうですし、使わせてもらいましょう」

「うんっ! ああっ……久しぶりに打つんだと思うと、ワクワクしてきたっ!」

「わたしもそうなんだ。牌を握るのもあの頃ぶりだもんねえ」

 

 いつの間にか、最初は呆れていた和ちゃんも口元が笑っていた。

 無秩序に散らばった竹の牌。三人で手積みで、卓上に萬子7種を除いた、三つの山を作り上げる。

 

「和は、麻雀教室がなくなってからも麻雀してるんだよね」

 

 用意している間に、しずちゃんが何気なく問いかけた。

 

「ええ。麻雀自体はネットでよく打っていますから」

「あー、なんかそれ言ってたね。テレビでもたまに見るよ。これが“じょーほーかしゃかい“の波ってやつなのかねえ」

「それほどハードルは高くありませんよ。パソコンがあれば誰でもできますから」

「ってことは、わたしでもできる? それなら長野に行っちゃっても和と打てるじゃん!!」

「…………」

「…………」

「なんで二人ともそこで黙るの!?」

「いえ、こう言っておいて何ですが、穏乃がパソコンを操作する姿が全く想像がつかなくて……」

「あはは……パソコンは難しいと思うな」

 

 和ちゃんは目を背けて、わたしもその姿が想像できなくて、つい笑ってしまった。

 しずちゃんは山を積み上げる途中で、困り果てた様子になる。

 

「う、うーん……言われてみれば確かに。前に触ろうとして、中から煙だして、お母さんから穏乃は触っちゃだめーって、止められちゃったしなぁ」

「どうやったらそんな事になるんですか」

 

 ジト目で、冷静なツッコミが入った。

 

「でも、機械って難しいよねえ。わたしもなかなか慣れないんだよー」

「パソコンってテレビに比べてほんと、何もかも難しいんだよねー。電源入れたら変な音出すし。玄さんはどうです?」

「うちは旅館で使う仕事用のはあるけど、勝手につかったら怒られちゃうかも」

「そっか、残念。いいアイデアだと思ったんだけどなぁ」

「覚えればそう難しくはないのですが……」

「ま。でも、やっぱ牌を摘むなら実物がいいよねっ」

 

 と。そこでカチリとようやく最後の山を揃った。

 準備完了だ。

 心なしか、直前になると少しだけみんな気合が入ったように見える。

 わたしも、久しぶりの対局にワクワクした。これから、みんなで遊ぶ楽しい時間が始まるのだ。

 

「じゃあ、やろっか」

「うん! じゃあ、賽振るね」

 

 コロコロと賽を転がして、親番になったのはわたしだ。

 最初に手牌を作るためにヤマに手を伸ばす。

 十三枚の古い牌をめくりあげようと、手に力を込めた。異常が起きたのは、そんなときだった。

 

「えっ」

 

 くらり、と。

 最初は、地面が傾いたのだと思った。

 中途半端に立てた牌が倒れて、音を立てて散らばった。急に手に力が入らなくなる。

 

(あれ……? わたし、どうなって……)

 

 気づけば、体を支えていた芯が抜けてしまったみたいに、前のめりになっていた。

 頭がくらくらして、考えがまとまらなくなる。

 部屋を満たしていた暖かい春風はなくなり、代わりに冷たい空気が入り込んできた。 

 窓の外だけでなく、どんどん視界が暗くなっていく。

 

 ぼやけた視界の中で顔を上げると……しずちゃんも、前のめりに倒れていた。 

 和ちゃんは、小さく震えながら、なんとか目を開けようとしていた。

 

「これ、はっ……玄さんっ……!」

「うぅ……」

 

 一体何が起きているのか、それを考える余裕はなかった。

 どこかふわふわとした心地で、意識が離れていくことだけが分かった。

 

 紅色の髪が顔にかかって、卓からこぼれ落ちた牌が一つ、床に落ちた。

 

 



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第3局

 

 夢を見た気がする。

 

 朧げな視界の中で、誰かがわたしのそばで手を伸ばした。

 コトリ、と聞き慣れた音が聞こえる。

 軽快なリズムを刻んで、何度も、何度も。

 忘れるはずもない、麻雀の音だ。

 

 それを聞いて記憶から蘇るのは、かつての仲間たちとの楽しかった思い出だ。

 わたしは、いつの間にか指先で牌を握って、みんなと麻雀を打っていた。

 

 わたしのほかに、三人の気配があった。

 次はわたしの番だ。

 竹の麻雀牌を山から掴み、切る。

 

 懐かしい動作だ。いつもよりも、ずっと調子よく打てている気がする。

 意識にはモヤがかかった感じなのに、牌の色や形だけは鮮明に見えている。

 わたしは、手の中に炎を宿し、わくわくと山から新たな牌を掴み取った。

 闇の中からツモってきた赤ドラの五筒が、見えた。

 

『さん……玄さ…っ……!!』

 

 次の牌を切らなきゃと思うのに、遠くから声が聞こえてくる。

 

『えっ、誰……あれっ、麻雀は……?』

 

 ふと周りを見た。

 みんな、いなくなっている。

 ツモ牌を握ったまま固まって、急に闇に包まれたことを不思議に思った。

 ……ここは、どこだろう。

 

(あっ……そう、だ。そうだよ、なんで忘れていたんだろう……!)

 

 そしてわたしが麻雀部の部室で、和ちゃんとしずちゃんと打っていたはずだ。

 記憶が蘇ってきた。

 一つを思い出すと、次々に思い出す。

 いままで見えていた世界は、全部思い出すと同時に、闇に消えていった。

 

 

 

「玄さんっ!!!」

「……んんっ?」

「玄さんっ、穏乃! 起きてくださいっ!」

「あ、う? んー……あ、あれ。ここは……」

 

 ふと、気付いたときには部屋が鮮やかな紅色に染まっていた。

 開けっ放しの窓からは、涼しすぎるくらいの風が入り込んでいる。少し肌寒いのは、あれのせいだろう。

 かなり困り果てた様子の和ちゃんが、わたしの前で声をはりあげていた……体を起こすと、なんだか、気だるい感じがする。まるで昼寝をしてしまったあとみたいだ。

 

 記憶通り、ここが部室であることを目を擦りながら確かめた。 どうやら、すっかり眠ってしまったみたいだった。しずちゃんも、半目でぼんやりしているところを和ちゃんに揺り起こされていた。

 

「むにゃぁ……はっ、和。どしたん……?」

「ど、どうしたと言われても……わたしも今まで気を失っていたようなんです……」

「……え。うぇぇっ!? ゆゆゆ夕方じゃん!? えっ、嘘。なにこれ!?」

「いつの間にか、みんな寝てしまったみたいですね」

 

 半荘を二、三局打ち続けた時くらいの時間が、いつの間にか過ぎてしまっていたようだった。

 部室で動き続けてた時計と、窓の外の景色が確かにそのことを示している。

 驚きすぎて言葉を失ったのか、しばらく唖然としていた。

 

「わたしたち、一体何を……意識を失っていたのでしょうか」

「う、ううん……そう、なのかな」

「しずちゃん?」

「……穏乃。どうしましたか?」

「あ……うん。あの、変なこと聞くみたいだけどさ。わたしたち、麻雀、打ってた?」

「えっ?」

 

 しずちゃんは、ばらばらに散らばった竹牌を眺めながら、そんなことを言った。

 みんな言い淀んだ。

 わたしは和ちゃんと顔を見合わせた。牌を握ろうとしたところで、記憶はぷつりと途切れてる。打った覚えはない。

 でも、和ちゃんも同じことを考えている顔だった。

 三人とも揃って、自分の手のひらを見つめた。

 

「え……はい。ええっと……そのはず、だと、思うのですが」

「本当にそう思う?」

「う、打っていないはずです! はず、なのですが……」

 

 打っていないと、すぐに否定できなかった。

 牌の感触が、この手の中に残っている気がしたからだ。

 まるで何局も打ったあとみたいな、一日中打ちっぱなしだったみたいな、そんなときの充実感だけがある。

 

「……よく、分かりませんが。この時間ではもう対局は無理ですね。これ以上は片付けをしないと迷惑になってしまいます」

「あ、うん……そうだよね。片付けないと、だよね」

「あわわわっ……そうだったよ。か、鍵を返しにいかないと。先生帰っちゃってないかな……?」

 

 和ちゃんが引っかかりながらもそう言った。

 最初にあれだけ麻雀をしたがっていたしずちゃんは、驚くほどあっさりと引き下がった。

 鍵を返しに行ったあと、わたしたちは麻雀部の部屋をあとにした。 

 

 

 

 夢の中の雲の道をふわふわと歩いている感じが体から消えない。そのまま、学校を出た。

 

「…………」

「…………」

「……ふぅっ」

「……せっかく誘っていただいたのに、ちゃんと打てなくて申し訳ありません」

「え、そんな!」

 

 静かな阿知賀の校舎の前で、沈黙を破ったのは和ちゃんだった。

 今日は最後の日、だった。

 とても申し訳なさそうに、そして残念そうに、その表情に影を落として、ぽつりと呟く。

 

「仕方ないよ! 同じタイミングでみんな倒れちゃうなんて、考えられるわけないし……あ。もしかしてあの牌、睡眠薬とか塗られてたんじゃない!?」

「あはは……それはないと思うけど」

「…………」

「ちょ、ちょっと。なんでそんな真面目な顔で考えだしてるのさ」

「いえ……それなら、まだありえるのかなと」

「いや怖い怖い怖い、ありえないからねっ!?」

 

 真面目に考える和ちゃんを、しずちゃんが慌てて説得した。

 わたしは、薬のことはよく分からないけど、それはないだろう。きっと何かの偶然が重なったに違いない。

 

「玄さん、先生に聞いてきたんですよね。結局あの牌はなんだったんですか?」

「うん。あの牌、ずっと昔に阿知賀に寄贈されたものだったらしいんだけど……忘れられてて、この間、倉庫を整理したときに出てきたみたいなの」

「ああ、あの古い建物かあ」

 

 阿知賀の校舎の裏には、ひどく古い建物が残っている。

 ほとんどの生徒は知らないが、滅多に使わない備品や、捨てられない品々、一年に一度しか使わない道具……文化祭の看板などが、所狭しとしまい込まれている。

 玄も、先生と一緒に手伝いをしたことがあるため、中はよく知っていた。

 

「とりあえず麻雀部に置いとこうっていうことで、置きっぱなしになっていたものみたい」

「寄贈ですか。それなら、事情は分かりますが……」

「まあ、今時はどこの学校にも自動卓があるもんねえ」

「そうですね。骨董品のようにも見受けられましたが、使ってしまってもよかったのですか?」

「うん。もともと学校のものだったわけだから、大丈夫だったみたい」

 

 二人ともそれを聞いて、少しだけほっとした。

 するとしずちゃんが、鞄を後ろ手に持って、名残惜しげに藍色の空を見上げた。

 

「はぁぁ~……けど、これで和ともしばらくお別れ、か。寂しくなるなあ」

「……わたしも寂しいです。せっかく仲良くなれたのに」

 

 しずちゃんが食いついて、にやっと笑う。

 

「おっ、嬉しいこと言ってくれるじゃん! 和っていつも素直じゃないから、意外だなー」

「っ……ちゃ、茶化さないでください!」

 

 和ちゃんは、頬を赤らめてちょっと怒ったみたいに抗議する。

 しずちゃんはカバンを後手に持って、空を見上げた。茜色の空は藍色に。無数の星が瞬いて、最後に一緒に過ごすわたしたちを照らしてくれていた。

 

「うん……ま、しばらくは離れ気味だったけどさ。和といれて、最っ高に楽しかったよ。転校しても絶対忘れない」

「穏乃……」

「わたしもだよっ。ここで一緒にいたこと、ぜったい忘れないからねっ!」

「玄さんも……はい」

 

 嬉しそうで、でも寂しそうなそのときの和ちゃんの表情は、わたしの瞳に強く焼きついた。

 最後の麻雀教室を終えたわたしたちの背後、新しい緑の芽吹いた吉野の坂に、三つの夕暮れの反対側に影が伸び続ける。

 きっと和ちゃん自身もここに残りたいと思っていてくれているのだろう。

 それでも、心配かけまいと笑顔でいてくれている。そう振舞ってくれている気持ちを考えると、やっぱり寂しく思ってしまうのだ。

 

「それより、明日からもう用意でしょ。暇だし片付けとか手伝ってあげるよ!」

「えっ、穏乃がですか?」

 

 和ちゃんが意外そうに、目を丸くする。

 

「ほら、机とかパソコンとか。あーゆーのって、重いから一人じゃ持てないでしょ?」

「そういう大きいものって、引っ越し業者の人がやってくれるんじゃないかな?」

「そうですね。それと、パソコンですが……その、穏乃にやってもらうと、見ているだけでヒヤヒヤしそうなので……今回は遠慮しておきます」

「それどういうこと!?」

 

 ぽかぽかと和ちゃんの背中を叩いたが、しれっと顔をそらして逃げた。

 そんな他愛もないことを話し合って、わたしはいつもどおり和ちゃんと、そしてしずちゃんと別れた。

 最後の日も何も変わらない。

 楽しいままの雰囲気で、いつもの三叉路でみんなと別れた。

 

 そして翌日。

 かつて麻雀教室の仲間だった和ちゃんは奈良を、そして阿知賀女子学院を離れた。

 

 



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第4局

 あれから、また一年ほどの月日が過ぎた。

 

 今年も桜は見頃を終えた。花びらを落としきって冬を迎えて、それから次の春も終わった。

 いまは青々しい葉をたくさん実らせている。

 松実館の私室からも、吉野に広がる素敵な自然の景色が遠くまで見える。

 やることもなくぼんやりと本を読んで過ごしていると、部屋の襖がゆっくりと開いた。

 

「おや、おねーちゃん」

 

 マフラーと厚手の手袋で完全防備した、真冬のような装いの女の子が立っている。

 小刻みに震えながら、わたしが振り返るのを待っていた。

 

「くろちゃん。ご本読んでたの……?」

「ううん、大丈夫だよおねーちゃん。どうしたの」

 

 わたしの姉で、松実家長女の松実宥。

 本を机の上に置いて、寒がりなおねーちゃんに近づいた。

 

「くろちゃんに、お客さん……玄関まで来てる。多分中等部の子だと思う……」

「おや、それはそれは。でも誰だろう……?」

 

 はて、今日は特に予定はなかったはずだけど……階段を降りて裏口まで行ってみると、すぐに誰かわかった。

 とてもよく見知った、ちょっとだけ懐かしい顔で、思わず駆け寄った。

 

「あっ。しずちゃん? わぁ、久しぶりだねっ!」

「玄さんっ! お久しぶりです! ……あの、積もる話の前に、ちょっと聞きたいんですけど」

「どうしたの?」

「今のすっごい長いマフラー巻いた人は……?」

「うちのおねーちゃんだよ」

「玄さんお姉さんがいたんですかっ!? んー? 確かにまだちょっと寒いですけど……むむぅ。ぜったい暑いよなぁ、あれは」

 

 腕を組んで考えるしずちゃんは、長袖のジャージを身に付けていた。

 しかし下半身を見ると、寒そうな格好のままだ。おねーちゃんだと耐えられないかもしれない。

 

「あっ、それで今日は、どうしても玄さんに頼みたいことがあって来たんです!」

「何かな? わたしにできることなら、まかせてよ!」

「こんなこと玄さんにしか頼めなくって……!」

「ほうほう」

「ずいぶん考えてみたんですけど、やっぱり玄さんしかいません!」

「そ、それは、わたしで大丈夫なことなのかな?」

 

 あんまり押しが強いので、いったい何を言われるのかと、少しずつ不安になってきた。

 

「はい! 玄さん、麻雀しましょうっ!!」

「へっ。ま、麻雀?」

 

 溜めて、やっと吐き出された言葉に、わたしは当惑した。

 久しぶりに聞いた遊戯の名前に、目を丸くして、そして断る理由は何一つ思いつかなかった。

 

「う、うん。それはいいけど……急だね?」

「はい。なんていうか、ずっと麻雀したいなーって思ってて、でも和も憧もいないし、家でもネットは使わせてもらえないし……」

「なるほどなるほど」

「あまりに麻雀がやりたすぎて、隙を見てパソコンつけたら、画面が真っ青になっちゃって……」

「う、うん」

「叩けばなおるかなって思ったのに、そしたら今度は真っ暗になっちゃって」

「それは……なかなかに、なかなかだね……」

 

 しずちゃんと、和ちゃんと会った最後の日の会話を、不意に思い出して苦く笑った。

 

「もう、どうしようもないんです! この熱を発散しないとどうにかなってしまいそうで……! パソコンも煙出しちゃったし……!」

「わたしは、今日は暇だから大丈夫だよ。でも、そうなると四人必要だねえ……面子はどうしよっか?」

「あっ……」

「今はまだわたしと、しずちゃんの二人かな?」

「たまらず家を飛び出してきたもんで、実はまだ誰も誘えてなくて」

 

 しょぼんと腕を垂れて、ついでにポニーテールもだらんと垂れ下げて落ち込む。

 うーん。あと二人かぁ。

 ……あ、おねーちゃんも一緒に打ってくれるかもしれないよ。

 

「メンバーが足りないなら、おねーちゃんを誘ってみようか?」

「玄さんのお姉さんというと、さっきのマフラーの人ですか? ぜひお願いします!!」

「場所はうちの部屋を貸してあげられるとして……うぅん、それでもメンツが一人足りないねえ」

「あ、それなら憧に連絡してみようかな。ちょっと待ってくださいねえっと……もしもし! お、憧じゃん!!」

 

 素早く、しゅばっと懐から電話を取り出し、二コールも聞こえないうちに通話が始まった。

 相変わらず、しずちゃんは行動力がすごい。

 

「憧、今から麻雀しよう!」

 

 何の説明もなく言い放って、すると向こうから凄い声が聞こえてきて、携帯から耳を離す。

 そして、影で静かに何言か喋って、ぽちっと電話を切った。

 

「三十分くらいで来てくれるそうです!」

 

 何事もなかったかのようにバッチリだと、親指を立てた。

 

「おー。憧ちゃんがうちに来るんだねぇ、久しぶりだなあ。元気にしてるかな」

「はは。てか、わたしも久しぶりなんだっけ」

 

 あははーと笑ってみせた。そんなしずちゃんを中に招き入れ、リビングに入る。

 そして、固まった。

 どんと部屋のど真ん中に置かれたこたつ。そこに下半身を入れて、ほんわかリラックスしきっていたおねーちゃんが、モゾモゾと動いている。

 

「こ、こたつ……?」

「ふ、ふぇっ!? お、お客さんっ……!?」

 

 慌てて顔をあげたおねーちゃんは、わたしとしずちゃんを見比べた。そして、可愛らしく首を傾げた。

 

「く、くろちゃん……もしかして、このお部屋使うの……?」

「うん、今から麻雀やろうと思うんだよ。でもメンツが足りないの。おねーちゃんも入ってくれないかな?」

「えっ?」

 

 ぽかんと目を丸くして、それから布団で口元を隠した。

 少し考えていたみたいだったが、可愛らしく頷いた。

 

「うん、いいよ……あっ。お客さん、いらっしゃい」

「こんにちはっ。玄さんの後輩で、穏乃っていいます! うーん……」

 

 麻雀牌をマットを戸棚の引き出しから出していると、しずちゃんは興味深そうにおねーちゃんを見つめる。

 

「あの……こたつにマフラーの重ねがけって、めっちゃ暑くないですか?」

「ううん……このくらいがあったかくて、ちょうどいいんです……」

「はえぇー。ではちょっと失礼して……うー……あ、あつっ。暑いっ!?」

「おねーちゃんは寒がりだからねえ」

「いやいやいや。死んじゃいますよこれ」

「あ、松実宥、です。よろしく……」

 

 何か言いたそうに腕を組んでむむむ、と考えていたみたいだった。

 けれど、すぐに「まいっか」と拳と平手を叩きわせた。

 自己紹介を終えたあとは、憧ちゃんを待っている間、ゆるく雑談をはじめた。

 

「宥さんは、麻雀はどのくらい強いんですか?」

「おねーちゃんは、うちでお客さんと打つときもあるから、わたしと同じくらいだと思うよ」

「しずちゃんは、今日はどうして麻雀を?」

「いやー、なんかずっとやりたくてモヤモヤしてたんですけど、ぜんぜん機会がなくって。だから、たまには打ってカンを取り戻さなきゃって思いまして」

「そっか。その、わたしでよければ……相手になります……」

「はい! よろしくお願いしますっ! ……あ。玄関が空いた音。もしかして憧が来たのかな?」

「見てくるね」

 

 立ち上がって迎えに行こうとすると、それより前に、部屋の襖が勢いよく空いた。

 その人は、しずちゃんの想像通りだった。

 ぴょこんと伸びていただけだった髪は、二本の絹糸のように背中まで伸びている。

 ちょっと怒っているのだろう。むっとしたように唇を結んで、座っていたしずちゃんに食いかかった。

 

「お、憧じゃん! ひさしぶりっ!」

「憧じゃん、じゃないわよ!」

 

 阿知賀とは違う制服を着た憧ちゃんが、しずちゃんのほっぺたを両側からぎゅうと引っ張った。

 

「シズはいつも急すぎるのよ! いきなり電話かけてきて、返事もしないうちに切らないの!」

「うぁ、い、いひゃい、あこやめぇ」

 

 かつての仲間の一人の、新子憧ちゃんだ。

 麻雀教室の一員で、わたしたちの大切な仲間でもある。

 頬っぺたを引っ張る憧ちゃんとしずちゃんを見て、わたしはまた、懐かしい出来事を思い出した。

 

『へへっ、みんなおっそーい!』

『ちょっと待ちなよシズーっ!』

『ま、待ってください……!』

『ほら、あんたらそんなに急ぐと危ないわよー!』

 

 わたしが中学一年生で、みんなが、小学生だった時だ。

 しずちゃんは小さかった。

 憧ちゃんはおてんばだった。

 和ちゃんはフリフリで、あの頃からよいものをおもちだった。

 そして、その後ろにわたしと赤土先生がいる。

 

 当時の小学生メンバーの中でまとめ役になってくれていたのが、憧ちゃんだった。

 

(憧ちゃん、本当に印象がすごく変わった気がするよ。すごく大人っぽくなったなあ)

 

 みんなあれから何年か経って、大人に近づいてきたと思う。

 

「あ、玄に、宥さんもお久しぶりです。お邪魔します」

「うん。久しぶりだね、憧ちゃん」

「憧ちゃん……久しぶり」

 

 憧ちゃんはひときわ大人っぽくなった。雰囲気がぜんぜん違っていて、髪も綺麗に伸びている。

 なんというか、すっごく可愛くなった。

 

「あこ、はなひへ」

「ほんとにもう……で。急に麻雀って、なんなのよ」

「ふぃー……いやぁ。ずっと打ちたかったんだけど、どうしてもメンツがあつまらなくってさ。頼れるのが憧くらいしか思いつかなくて」

「あー、確かにあんたとは麻雀教室以来打ててないけどさ……」

 

 しずちゃんは「いやー」と頭を掻くのみで、憧ちゃんは頭を抱えた。だが、もう怒っていないみたいだった。

 憧ちゃんは麻雀が大好きで、誰よりも真剣だった。

 麻雀教室がなくなってからも、よりよい環境で麻雀を打つためにと行って別の中学校に進学した。

 今もきっと、いっぱい麻雀を打ち込んでいるはずだ。

 

「憧は宥さんとは知り合いなの?」

「まあね。宥姉とは打ったこともあるわよ、かなり昔の話だけど。最後は何年前でしたっけ」

「うぅん……いつだったかな? 憧ちゃん、そのときよりも、大人っぽくなってて、びっくりしたよぅ」

「あ、そうそう。憧イメチェンした? 少し見ない間にめっちゃ可愛くなってる!」

「うんうん、すごくいいよ、憧ちゃん!」

 

 三人で褒めると、満更でもなさそうに胸を張った。

 

「ふふん、中学デビューのときに、ちょっとね。逆にシズは小学校のときからぜんぜん変わんないわよね」

「まあね!」

「なんでそんな誇らしげなのよ……」

「ふふっ。じゃあ、さっそく牌とマット出すね」

 

 牌をかき混ぜながら他愛もない会話を交わし、用意していた雀マットと牌をこたつの上に散らばらせた。

 

 



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第5局

 準備を終えると「といやっ!」と、しずちゃんが勢いよくサイコロを振る。

 そんな緩い調子で対局が始まった。

 憧ちゃんは牌を握りしめたとたんに、真剣な表情に変わった。

 

「あたしが親ね。久しぶりだからって、やるからには勝ちにいくわよ」

「もちろん! 全力で来てよ!」

 

 みんな配られた十三の牌を、強く握りしめて立ち上げた。

 わたしが親だ。

 配牌は、一目見てよいとわかる好形三向聴のドラ四。

 その牌の中から何を切るかを考えていると、触れた指先から不思議な感覚がして、手が止まる。

 

「玄ちゃん、どうかしたの……?」

「あ、ううん。何でもないよ」

 

 そう言いながらも、指先から伝わってくる奇妙な感覚に戸惑っていた。

 

(……いまの、なんだろ……?)

 

 不要牌を一枚切り出して、すぐに二順目が回ってくる……ヤマの牌に触れる。

 また、ちりっ、と指先に熱を感じた。

 

「……っ?」

 

 一瞬、ツモりかけた指先を離した。もう一度そっと撫でるように、牌に触れる。

 ……今度は変な感じはしない。

 奇妙に思いながら、手牌の上に横向に乗せると、それはドラだった。

 当然、手の中に組み入れる。

 

 

『玄さんは、ドラに好かれているんだよ』

『そんなオカルトありえません』

 

 昔、麻雀教室で和ちゃんによく言われた台詞が、また聞こえた気がした。

 

 わたしの手にはいつもドラが集まってきてくれる。

 ドラが好きで、いつからかそういう関係になった気がする。

 昔、麻雀教室の先生が言っていた。こういう能力は、それほど珍しいわけでもない。麻雀をしている人の中には、そういう個性を持った人も多いのだ、と。

 

(……でも、いつもと違うよね)

 

 でも、いま感じたのは、いつもの感覚と何かが違う。

 奇妙な感覚に戸惑いながらも、気を取り直して、しっかりと場を見ることに集中した。

 

 そして五巡目。

 ツモってきた牌を盲牌する。指先から、焼けるような感覚が伝わってきた。

 それを表返し、手元に引き寄せて置いた。 

 

「ツモだよ! 6000オール!」

「ふぁっ」

「ぐぬぅう、いきなり三巡目で親っ跳ね……きっついわあ」

 

 みんな、いきなりの高打点に息を零した。

 しかし気を取り直すのも早い。みんな、わたしと打つのは慣れている。

 なかなか和了できないものの、和了できれば強い。そんな打ち方をずっと続けてきた。

 この打ち方だけは、きっと一生変わらないだろう。

 

 しかし、奇妙な感覚は、その局だけでは終わらなかった。

 

(……また、この感じ)

 

 次局、また配牌に触れたときに不思議な感じがした。

 体が、熱っぽくなる。ドラは同じく四枚だ。

 

 おねーちゃんはいつも通り、ゆったりとしたペースで打牌した。

 憧ちゃんも、場の流れを考えながら、素早く切る牌を選びぬいている。

 そして意外なのは、しずちゃんだ。昔のように元気よく打牌することもなく、いつになく落ち着いた様子で、静かにマット上にコトリと牌を置いた。

 ほとんど無表情に近い、しずちゃんらしくない顔をしていて、ドキリとする。

 

(……み、みんな、すごく真剣だよ)

 

 慌てて自分の手牌に視線を落とす。

 ゆったりとした回だと思っていたけど、どうやら、そうでもないらしい。

 気を引き締めないとと、警戒しながら、親として場を進めた。

 そんな中で迎えた七巡目。

 

(普段なら、これを切るんだけど……)

 

 何気なく切り出そうとした一枚を掴んだ瞬間。嫌な予感が頭をよぎって、手が止まった。

 ……おねーちゃんは、まだ。しずちゃんもまだみたいだけど……憧ちゃんが狙ってる気がする。

 根拠のない直感だった。

 しかし、それが合っているかどうかを、より深く考え込む。

 目を瞑って思考の海に入り、相手の思考を読んで探り出そうとする。

 すると、普段は見えないものが見えた。

 

 全ての河に落ちた捨て牌。ツモによって引き入れた牌の位置。表情。

 脳の思考回路が、目を瞑った暗闇の中の世界で繋がって、確信に近い答えを導き出す。

 出しかけた牌を手に引き戻し、確実な安牌を切り出した。

 

(この局は和了できない流れだ)

 

 だが牌を切ってから、眠りから覚めたみたいに、はっと何度かまばたきをした。

 

「あれ……?」

 

 何か、おかしい。奇妙だということに、すぐに気がついた。

 いつも、麻雀を打つときに、こんなふうに考え事をしていたことがあっただろうか。

 普段以上に場がよく見える。自分の手だけでなく、相手の手がどんな形になっているのか、透けて見えるくらいまで考え込んでいた。場の流れが悪くないことも、それとなく感じる。

 戸惑っていると、間もなく憧ちゃんが牌を倒した。

 

「ロン……7700」

「はぅっ! ……はい」

 

 おねーちゃんが切り出した牌にロン和了。

 その三面張に、わたしの切ろうとした索子も含まれていた。

 

(憧ちゃんの和了牌が分かったの……?)

 

 自分で、自分の手を見つめた。

 やっぱり変だ。いつもと、前に打っていたときと何かが違う。

 すると、局が終わったのに牌を混ぜようとしないわたしを見て、おねーちゃんがわたしの手にそっと触れた。

 

「くろちゃん、どうしたの?」

「おねーちゃん……なんだか、不思議な感じがするんだよ」

 

 わたしがそう言うと、心配させてしまったらしい。

 

「体調が悪いの……? なら、休憩しないと……」

「ううん、そうじゃないの。いつもと違うってうか……うまく言えないんだけど、打ち方がいつもと違うの」

「って、玄。その手であたしの索子押さえてたんだ……」

 

 たまたま倒れた手牌を見て、憧ちゃんが声をあげた。

 かなりの良型で、普段なら押してしまっていた局面だ。でも切らなかった。それは、自分でも戸惑うような打ち方をしているからに他ならない。

 

「……ううん……よく分かんない。こんなの初めてだよ」 

「確かに、玄、いつもと違う……っていうか、それを言うならシズも、なんか変。やけに静かじゃない。二人とも雰囲気違うし、どうしたのよ?」

「へ?」

 

 憧ちゃんに声をかけられて、しずちゃんは、初めて目をぱちくりさせる。

 

「ああ、集中して打ってたからかな?」

「……いつもなら『とりゃあ!』とか言いながら牌を切ってくるくせに」

「あははー、そりゃ昔の話だよー。でも、うーん、確かになんかわたしも、確かにいつもと違う感じがするんだよなぁ……」

 

 照れ隠しに頭を掻いて、それから考え込んだ。

 

「うーん、何か思い出しそうなんだよなぁ……なんだったかなぁ……」

「ほ、本当に大丈夫なの、二人とも?」

「もちろん。っていうかむしろ、今は打たなきゃって感じだよ!

「わたしもだよっ!」

「そ、そう……じゃあ続けましょうか」

 

 わたしもしずちゃんも、意気揚々としてみせたので、続行が決まった。

 不思議な感覚にはとまどっていたが、なぜか今は、無性に麻雀の続きが打ちたくなっていたのだ。

 

 

 しかし、次局のことだ。

 休憩の間にあった明るい空気は、異様なほど閑静に様変わりする。

 例えるなら、雨の日に家で一人きりで過ごすときのような、以上な静けさだ。

 卓にことりと、牌を置く音だけが響いた。

 口を噤んで静かに牌に向かい合っている。場の空気が、とても重い。

 

 わたしはいつの間にか、話を振る余裕がなくなっていた。深く、もっと深く。相手の手を読んで、透かして見ようとした。

 憧ちゃんも負けじと、考えながら牌を切ってくる。

 おねーちゃんは、細かく震えながら、おそるおそる牌を切り出してきた。

 だが、この場の中でも一番集中しているのは、やはりしずちゃんだった。

 

 まるで別人のような打ち筋だ。

 甘い牌は一切切り出してこない。しかし、攻めっ気を見せないまま、終局した。

 しずちゃん以外が聴牌。三人で罰符を受け取りながら、おねーちゃんと憧ちゃんはほっと息を吐いた。

 

「はぁ……なんか、卓打ちなのに、めちゃ緊張したわぁ……」

「……なんか、思い出してきた」

「え。シズ、なんか言った?」

「うん。麻雀の打ち方っていうか、どうやって打てばいいか、わかってきたよ」

 

 手牌を取る前に、背筋にぞくっと冷たい感覚が走った。

 指先が止まり、その悪寒の発生源を見上げる。

 

 目を疑った。

 しずちゃんは澄んだ紅い目で配牌を見つめている。その周囲に霧がたち込め始めているのを幻視した、ような気がする。

 目を擦ると、見えていたはずの白霧は、嘘のようになくなった。

 

(いまの、なんだろう……ちょっと、怖いよ)

 

 決して心地よくない不穏な感覚で、悪寒というのが一番近かった。

 震える足をそっとコタツに入れる。

 憧ちゃんは特に反応していなかったけれど、おねーちゃんも何かを感じ取ったのだろう。目を潤ませて、布団を首に、きゅうと巻きつけていた。

 

 

 



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第6局

 そして次の局、手の中から、熱いとも冷たいともしれない、今までにない奇妙な感覚が伝わってきた。

 

(おやっ?)

 

 戸惑いながら、配牌を開いた。ドラは三枚ある。

 安定してドラはわたしのもとに舞い込んできてくれている。

 でも奇妙な感覚が体から消えてくれない。冷たい山の中をさまよっているような、感覚が鈍ったような不穏な感じが離れなかった。

 

 場が進むと、徐々に卓上を霧のようなものが覆い始めた。

 数巡後、落ち着いた静かな声が響く。

 

 

玄手牌

 

{一筒}{一筒}{一筒}{二筒}{三筒}{四筒}{赤五筒}{七索}{八索}{九索}{九索}{西}{西} ツモ{六筒}

 

{一筒}{一筒}{一筒}{二筒}{三筒}{四筒}{赤五筒}{六筒}{七索}{八索}{九索}{西}{西} 打{九索}

 

 

「ロンです。5200」

「えっ? ……はい」

 

 考えこみすぎてしまっていたみたいだ。しずちゃんに振り込んだことで、点棒が手元から少しだけなくなった。

 しかし、振り込んだこと以上に、わたしはショックを受けていた。

 

(ぜんぜん気配を感じなかった……)

 

 ドラが集まる分手狭になるのはいつものことで、今も、そこを狙われて振り込んでしまったのだろう。

 しかし、多少なりともテンパイ気配なんかは感じるはずだ。

 それが一切なかったうえに、自分の中の感覚が狂っている感じがする。

 

 戸惑いながら、そのまま次局に臨んだ。

 そしてすぐに、今の振り込みが偶然ではないことを確信する。

 

「……っ」

 

 わたしには見えた。

 今度ははっきりと、しずちゃんの手牌や河に霧がかかっている。

 手牌が、白霧に守られているみたいになっていた。

 

 しずちゃんは、明らかにわたしの”読み”に対抗するような打ちまわしをしていた。

 溢れる牌を狙われるような、普段とは違う打ち方。それに加えて、しずちゃんを見ていると"感覚"が曇って、今まで感じていたものが、ぼんやりと分からなくなってしまう。

 

(これ、しずちゃんの能力……なのかな。前はこんなことなかったんだけど……)

 

 わたしがドラを集めるみたいに、しずちゃんも“そういう”力を身につけたのだろうか。

 麻雀教室の先生は、そういう能力が後天的に身に付くこともあると言っていたっけ。

 しずちゃんの、いつもの元気さはなりを潜めて、目を細めて場を見つめている。

 わたしの手牌を、向こう側からじいっと見つめられる。

 背筋に嫌な感覚が伝わってきて、自然と、牌を握る手に力が入る。

 

 プレッシャーを感じたが、それに負けないように、わたしも同じように深く卓の中に入り込んでいく。

 汗の滲んだ指先で牌を読み取って、切り出す。

 

「うう……寒いよぅ……」

「くっ……」

 

 おねーちゃんは、コタツに入ってあったかいはずなのに、少し震えながら牌を取っている。

 手牌から一枚を切り出す憧ちゃんの表情も、どこか苦い。

 その最大の原因は、場を包み込むこの重圧な空気。

 しずちゃんの放っているプレッシャーを、薄々、二人も感じているみたいだった。

 

 わたしは手が進んで、牌を切り出した。

 そうすると、まるで不意打ちのように声が聞こえてくる。

 

「ロン。3900」

 

 また、気配を感じなかった。

 しずちゃんはそこからも、堅実に和了を繰り返した。

 

 南四局。

 ノーテンの声を出すとともに、しずちゃんの体に纏わりついていたものが、消えたような気配があった。

 漂っていた霧も、嘘のようにふわっと霧散する。

 終局までに、わたしは最初のリードを失って、トップではなくなっていた。

 そして、開口一番に尋ねたのは憧ちゃんだった。

 

「し、シズ……? その、何? あんた、どうしちゃったの?」

「ほえ? 何が?」

 

 今まで、異常な集中力を発揮していたとは思えないほど、気が抜けた声だった。

 あ、いつものしずちゃんだよ……と、わたしが思ったのも束の間。憧ちゃんがさらに食いつく。

 

「何がじゃないわよ! 何、実は、玄とずっと二人で練習してて、驚かせようって話してたりしてた?」

「えっ。いや、本当に久しぶりだよ。だから今日は憧を呼んで打ちたいって話してたじゃん」

「いやいや、打ってなかったわけないでしょう。なら、なんで急にそんな強くなってるわけ!?」

「うーん。そりゃあまあ、まあ鍛えられたからね!」

 

 にひひ、としずちゃんは悪戯っぽく笑った。

 打ち終わるとすっかりいつものしずちゃんに戻っていた。

 しかし、憧ちゃんは全く納得いっていないようで、がっしりと肩をつかんで、更に問い詰める。

 

「あたしのいない間、阿知賀に、どこかのプロ雀士の人が来てたの!?」

「そんな美味しいイベントはなかったけど……」

「鍛えられたって言ったでしょ!」

「……あ、あれ? そんなこと言ったっけ」

「言ったわよ!」

 

 しずちゃんは周囲を見回した。おねーちゃんも、わたしも、頷いた。

 確かに言っていた。

 

「うーん、いや、そんなはずないんだけどな。でも鍛えられた気もするしなー……」

「もったいぶらないで教えなさいよーっ!」

「い、いや、本当に……あっれ、なんで鍛えられたなんて思っちゃったんだろ……? マジでぜんぜん麻雀打ってなかったはずなのに……」

 

 その反応から、どうやら本気で分かっていないのだと、憧ちゃんも納得したのだろう。相方が、本気で唸って悩みはじめたの見て、片手で頭を抑えていた。

 すると、震えていたおねーちゃんも、わたしの袖をくいっと引いた。

 

「くろちゃんも……いつのまに麻雀の練習してたの?」

「えっ。う、うーん……してない、はずなんだけどな……」

 

 思わぬ場所からの疑問を受けて、わたしも答えに困った。

 練習なんてした覚えがない。でも、当時練習していた頃以上に、しっかりと打つことができた気がする。

 

「玄もシズも、本物のプロみたいだったわよ。和みたいなデジタルっぽかったけど」

「いやいや、あんな計算された打ち方、わたしにできるわけないじゃん」

 

 しずちゃんは、自ら笑って否定した。 

 麻雀教室と実家以外で麻雀を打ったことはほとんどない。だから阿知賀より外の、同じくらいの年頃の子がどのくらい強いかなんて、わたしには全然わからなかった。

 でも、今のしずちゃんは誰よりもすっごく強かったと思う。テレビで見るプロみたいだった。

 

(でも、それより……楽しかったな)

 

 裏向きに倒した自分の手牌を見つめて、なんとなく、指先で背中に触れてみた。

 懐かしい感触だと思っていたものが、この瞬間の記憶に書き換えられていく。

 何といっても、楽しかった。

 牌を引き、場を読んで打つこと。ドラを集めて和了すること。

 みんなで一緒に打っていること。ぜんぶが、すごく楽しい。

 

「うー、それより、今の負けは悔しいっ! シズ、もう一局! 本気でやって!!」

「そりゃもちろん! 玄さんと宥さんは、どうですか?」

 

 しっかりと視線を合わせてきた。目は期待に輝いていた。

 もっと打ちたい、と誰が見てもわかるほど顔にはっきりと書かれている。

 おねーちゃんを見た。おねーちゃんは、こくっと頷いた。

 どうやらしずちゃんも、今は本気で打ちあうことを望んでいる。この場を誰よりも楽しんでいた。そしてわたしの返事は決まっている。

 

「うんっ! 打とう、もっと、いっぱい!」

 

 

 

 それから日が暮れても、雀牌をばらしてヤマを作り、限界がくるまでわたしたちは打ち続けた。

 

 しずちゃんは、やっぱりみんなの手を読んでいた。

 わたしがそれを読んで手を変えると、それを把握して向こうも対応してくる。

 憧ちゃんやおねーちゃんも、途中から異常な牌の切り合いに気づいて、それを回避したり、逆に狙い撃とうとしてきたり。

 そんな風に、みんなで本気になって麻雀を打つことを、わたしは楽しんでいた。

 今まで感じたことがないほど、胸が躍っていたのだ。

 

(……楽しい。わたし、すっごい、わくわくしてるっ!)

 

 最初からしずちゃんや憧ちゃん、そしておねーちゃんと一緒に麻雀が打てることを嬉しく思っていた。

 でも、今感じている楽しさや嬉しさは、それ以上だ。

 

 みんな、どんな風に手を作ってるんだろう。

 何を切ってくるんだろう、どこまで相手の手を読もうとしているんだろう。

 押し切って勝って、裏をかかれて負けて。

 そんな勝負の押し合いが、楽しくて仕方がない。

 

 わたしの中に宿った新しい感覚と、深い読みに全神経を委ねて、十三枚の牌を両手で握りしめる。

 とん、とん。緑色のマットの上に、四方から牌を置く音が木霊した。

 

 

 

 しかし、どんな楽しい時間にも終わりはやってくる。

 

 「うげっ!? も、もうこんな時間っ!?」

 

 思い出したように憧ちゃんが叫んで、わたしは我に返った。

 外はすっかり暗くなっている。

 思わず自分の携帯を手に取ると、確かに、デジタル画面の示している時刻は午後七時過ぎ。壁掛け時計も同じ。

 それを確認した二人は青ざめた。

 

「やっば! めっちゃ外暗いしっ、ちょっと夢中になりすぎた……!」

「と、とりあえず出なきゃ……!!」

「あっ、それなら外まで送っていくよ!」

「あ……みんな待ってよぅ。この音、もしかして……」

 

 急いで帰るために立ち上がった二人だが、急いで部屋を出ると、不穏な音が聞こえてきた。

 ざあ、ざあー……と。

 廊下に出たしずちゃんが、真っ先にドアを開けると、外はすごい雨だった。

 

「雨だーー!!」

「ちょ、ちょっと! そのまま帰るのは無理だって、シズ、戻ってこーい!!」

 

 玄関まで来た憧ちゃんはショックを受けて空を見上げ、しずちゃんは……雨の中でテンションを上げ、突っ込んでいった。

 ……止める間もなく、ずぶ濡れで戻ってくる。

 

「……あーあー、すっかり濡れちゃって」

「いやあー、たまらず外に出ちゃった。一応、そのままでも帰れるよ?」

「いや無理でしょ……ていうかやめなさい。風邪引くし。うわ、けどどうしよ、傘忘れてきちゃったし」

「あの、よければ、今日はうちに泊まっていって……」

 

 おねーちゃんが提案すると、二人は表情を輝かせた。

 

「えっほんと?」

「いいんですか?」

「うん。じゃあちょっとおばーちゃんに伝えてくるね」

 

 そのまま話が進み、親と連絡をとった二人は、結局うちに泊まることになった。

 雨にずぶ濡れになったしずちゃんと、憧ちゃんが「お世話になります」とぺこりと頭を下げる。

 ……明日がお休みでよかったよ。

 

「いやーさすがに、疲れたね」

「もう肩上がらないわ……」

「憧、いつもの倍は疲れた顔してない?」

「そりゃそうよ。いつも打ってるとはいえ、こんな一日を過ごすことになるなんてねぇ……」

 

 パーカー姿で布団に寝転がっていた憧ちゃんは、何も言わずに倒れ続けていた。

 さすがに打ちすぎて、みんな疲れ切っていたのだ。

 敷かれた布団の上でぐでっと寝転んで、疲れを癒していた。

 

「確かに、なんかすっごい疲れたよ」

「そうでしょ」

「あはは……」

 

 起きていたしずちゃんも、布団の上にどさっと倒れて髪が散った。

 すると憧ちゃんが、顔を見せないまま、ぽつりと呟く。

 

「阿太中の麻雀部で結構打ってるけど、ここまで差がついてるなんて思わなかったわ」

「ねね、阿太峰って強い人いっぱいいるの? 今でも晩成目指してるんだよね」

 

 うつ伏せになって、両腕で首を支えながら、しずちゃんは興味本位で聞いた。

 

「そうね。いまは晩成のための受験勉強と、あとはインターミドルの準備がメインね」

「憧ちゃん、インターミドルの大会に出るの?」

「はい。普通に実力を試したかったっていうのもあるんですけど、そこでいい成績出せば、後々有利かなって思って」

「はぁー、なんかすごいなぁ、憧……」

「そっか。いろいろ考えてるんだね」

「ま、腕試しに出てみたかっただけってのもあるんですけどね」

 

 だが、そこで一度言葉を止めて、憧ちゃんは起き上がった。

 

「……でも、色々考え直さなきゃいけないみたい。多少は強い気でいたけど、まだまだっぽいわ」

「あ、憧ちゃんは十分強いと思う……よ」

 

 布団を5枚重ねしたおねーちゃんが、ひょっこりと顔を出して言った。

 でも、憧ちゃんは苦笑いするだけだ。

 

「ありがと、宥姉。でも、このまま麻雀を続けるんだったらもっと頑張らないとって思えたよ。今日は、すごくいい経験させてもらった」

「……今日は、なんて言わないでよ」

「シズ?」

 

 外の雨音に紛れるような小さな声。しかし、誰一人として聞き逃さない。

 すると、しずちゃんは勢いで、憧ちゃんに覆いかぶさった。

 憧ちゃんは、急に目の前に現れた顔に戸惑い、驚き、そして口をあわあわさせながら真っ赤になる。

 

「え、ちょ……シズ、っ?!」

「わたし、もっともっと憧と打ちたい。今は離れてるかもだけどさ、これからはもっと打とうよっ!」

「……あたしで、本当にいいの?」

「うん。そんなの当然だよ! っていうか、憧と打ちたい!」

「……そうよね。うん、今日はかなり負けちゃったんだけど、次はあたしが勝つんだから!」

 

 憧ちゃんは、にっと笑った。

 だが、嬉しそうな笑顔を浮かべたしずちゃんに「それはそうと近すぎ」と、鼻先まで迫っていたのを押し除けた。

 わたしとおねーちゃんは顔を見合わせて、そして、示し合わせたように微笑んだ。

 

 



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第7局

 

 閉じたカーテンの向こう側から差し込む、僅かな朝日。そして小鳥の鳴き声が、一日の始まりを伝えてくる。

 

「…………はっ」

 

 心地いい水底から、ゆっくりと浮かび上がるように、わたしは意識を取り戻した。

 ここは松実館の私室で、わたしたちの部屋だ。隣では七枚の毛布を重ねがけして、いまもすぅすぅと寝息を立てるおねーちゃんが目を瞑っている。

 目を擦って、そしてわたしは不思議なことに気づいた。拭った指先が濡れている。

 不思議に思ってもう一方も拭ってみると、瞼が濡れていた。

 

「……なんで?」

 

 どうして、欠伸もしていないのに。胸に手を当てると、いつもより鼓動は早く脈打っている。

 そうだ。夢を、見ていたんだ。

 しかし、どんな夢だったかを思い出すことができない。一度切れてしまった糸は、記憶を遡ることを許さない。ただ、なぜか悲しい気持ちだけがしっかりと残っている。

 ……なぜそんな風になっているかは、全然分からない。

 袖で瞼を拭っていると、その音でうっすらと目を開けたおねーちゃんと目があった。

 

「くろちゃん……?」

「……あっ、おはよう。おねーちゃん!」

 

 首を傾げたおねーちゃんに、夢のことを心にしまいこんだ。そして、にっこり微笑んで朝の挨拶を返した。

 

 

 

 

 

 それからしばらくして、夏のインターミドルの予選がはじまった。

 しずちゃんは「出たい! どうやったら参加できるの!?」と、憧ちゃんの鼻先まで迫って参加したがったけれど、残念ながら申し込みの締め切りは過ぎていたらしい。

 出場することができないとわかると、肩を落とした。

 そのかわりに、わたしたちは憧ちゃんの応援に出向くことにしたのだ。

 

 結果は、奈良県ベスト八の好成績。惜しくも全国の手前で敗退という結果で幕を閉じた。

 一つの県という場で、それだけの成績を残すことは凄いことだ。

 終わったあとはみんなで健闘をたたえたけれど、憧ちゃん自身は不満そうだった。

 

 

「もっと強くなりたい。玄っ、シズ、宥姉、もっともっとわたしと打って!!」

 

 憧ちゃんは県大会が終わったあと、そう言って迫ってきた。

 まだまだ強くなりたいと、そう言っていた。

 おねーちゃんも、しずちゃんも、わたしも断る理由なんてない。

 その日は、県大会の試合以上にたくさん打った。打って、打ちまくった。

 

「みんなといっぱい打っていれば、何かを掴めそうなの。そうすれば、もっと強くなれるって……そんな気がするんだ!」

 

 憧ちゃんはそう言った。

 そして、その言葉の通り。みんな、麻雀が上手になっていくのが実感でわかった。

 

 目的は違えども、わたしたちの麻雀は同じ方向に変わっていく。

 しずちゃんは、麻雀そのものが楽しくて仕方がないみたいだった。

 憧ちゃんは、それに加えて、もっと強くなりたいと願いながら牌を取った。

 おねーちゃんとわたしは、こうしてみんなで打っていること自体が嬉しくて牌を摘んでいた。

 

 いつの間にか、また、あの頃みたいにみんなで麻雀を打っていた。

 定期的にやっている麻雀部の部室掃除も、しずちゃんが手伝いに来てくれるようになった。

 みんなが高校生になったら、麻雀同好会として部屋を使えるように申請をするつもりだ。

 そうすれば三人で、外部の憧ちゃんを招けば四人で、あの部屋を使えるようにもなる。

 

 

 

 そんな風にして、毎日がより楽しくなっていった、ある日のことだ。

 

「えっ。阿知賀に編入?」

「高校はこっちを受験するのもありかもって、まだ悩んでる話ですけど……」

 

 いつものように、こたつ部屋で話していた時。

 憧ちゃんの衝撃的な告白に、みんな固まって、声を詰まらせた。

 

「え……そ、そりゃ嬉しいけど。憧、ずっと晩成に行きたがってたじゃん。どうして、急に?」

「いやぁ。ま、いろいろ考えてはいたんだけどね」

 

 阿知賀ではなく阿太中を選んだのは、すべて晩成を目指すためだと知っている。

 だからこそ、しずちゃんも、戸惑った。

 

「あたし、実はこの前晩成行ってきたんだ」

「飛び級入学!?」

「違うから。友達のコネとかも使って、ちょちょっと、先輩と打ってきただけ」

「晩成の麻雀部で!? それズルじゃん! いいなー!」

「麻雀部目当てで入ってくる子のための、身内向けの見学会的なのがあったの」

「憧ちゃん、世渡り上手……」

 

 しずちゃんが目を丸くしてずがーん、とショックを受けた。

 

「うぅ、誘ってくれれば絶対行ったのに……」

「シズ。残念だけど、あそこは偏差値70以上だから。そもそも見込みがないと、行っても意味ないわよ」

「うぐっ。世の中成績か……成績なのか」

 

 そういえば確か、しずちゃんは勉強が苦手だっけ。

 一緒に過ごすようになってから、たまに憧ちゃんに宿題を見てもらっている光景を見るようになった。

 突っ伏して、世の中の理不尽に、うるうると涙していた。

 

「憧ちゃん。晩成の人と打ってみて、どうだった?」

「過去の牌譜とかは、もともと勉強してたんですけど、実際見ないと分からないかなって思って行ったんですけど……あたしより強い人がいっぱいいました」

 

 でも、と言葉を止めて、苦しそうな表情で自分の手を眺めた。

 

「……シズのほうが強かった」

「え、わたし?」

「そうよ。そんな顔しなくても、あたしは真面目に言ってるの」

「……憧」

「玄も強い。宥姉も。あたしもこの数ヶ月で強くなって……部室でも、かなりいい感じで打てたと思います」

 

 自分の手を見つめて、続けた。

 

「……あたしは、もっと強くなりたい。でもここのほうが、もっと先に行ける……そんな風にも思うの」

「憧ちゃん……」

「でも、わからないんです……阿田峯に行ったのも、確かに一度は自分で選んだ道だから。どの道を選べばいいのか、わからなくなっちゃって」

 

 阿知賀に入学しているわたしやおねーちゃんは、晩成に行くことはない。

 しずちゃんも、阿知賀を心に決めている。

 

 もしも、戻ってくるのなら、わたしもみんなも、憧ちゃんを快く迎え入れるだろう。

 しずちゃんは、助けを求めるようにわたしを見た。「来てほしい」と顔に書いてあった。でも、憧ちゃんにはそう言わなかった。

 

 

 憧ちゃんの前には二つの道が続いている。

 確かに、阿知賀にはわたしたちがいる。

 でも正式な麻雀部はないし、同好会を作っても、打てるのはわたしたちだけだ。

 晩成は環境も段違いで、ノウハウや実績だってある。優秀な監督だってついているはずだ。

 どちらかに決めなければならない。だからこそ、その悩みに答えを出すことができずにいるのだろう。

 

「まだ、焦ることはないんじゃないかな」

「えっ?」

 

 わたしは、苦しそうな感情を浮かべている憧ちゃんに、言わなきゃいけないと思った。

 驚いたように顔を上げる。

 

「もちろん、憧ちゃんが戻ってきてくれたら嬉しいよ。でも……晩成だって、全国に行けるくらいのチームを送り出しているし、そっちのほうが活躍できるかもしれないもん」

「ま、まあそれは、そうなんですけど……」

「焦らなくても、まだ夏休みも来てないことだし、焦らずにいろんな可能性を考えてみてもいいんじゃないかなって思うの」

 

 わたしは、首を傾けて微笑んだ。

 

「一番いいと思う道を選んでほしいな。大丈夫。どっちを選んだとしても、また一緒に打てるよっ!」

 

 憧ちゃんは、口をぎゅっと閉じて、うつむいた。

 

 しずちゃんは少し不満そうだったけど、笑顔で天井を見上げた。

 

「仕方ないかぁ。ま、大事な選択だもんね」

「ん……」

「みんな……ありがとう」

 

 

 そうして、憧ちゃんの進路は、もう少し先の未来に先延ばしになった。 

 次の日には、しずちゃんも、憧ちゃんも「次はインターハイ個人1位を目指すわよ!」「何をぅ、負けないよ!」と意気込んで朝から集まるくらい、すっかりもと通りになっていた。

 

 



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第8局

 それから、夏休みを迎えたある日のことだ。

 おねーちゃんと二人で、部屋で本を読みながらくつろいでいたとき。わたしの携帯に一本の電話がかかってきた。

 

「もしもし。あ、しずちゃん……え、テレビ? うん、ちょっと待ってて」

「玄ちゃん……どうしたの?」

「うーん、テレビをつけてくれって、しずちゃんが……慌てているみたいだったけど、なんだろ?」

「はぁい」

 

 コタツと毛布に包まったおねーちゃんは、手を伸ばしてリモコンのボタンを押した。ブラウン管がぼんやりと灯って、とある光景を映し出す。

 そして、わたしは言葉を失った。

 

「あ……っ」

 

 

『原村選手っ、初出場にしてインターミドルを制した感想は!!?』

『一言お願いします! 原村選手!!』

『素晴らしい対局でした! 全国を制した今の心境を聞かせてください!!』

『––––!』 

 

 マスコミが、とある一人の人物にたくさんのマイクを向けていた。

 その中心に映し出された人物を、よく知っていた。おねーちゃんは首を傾けたが、ぽんと手を叩いて「あぁっ、玄ちゃんと一緒にいた子だ」と、気づいたみたいだ。

 いったん離した携帯を耳に近づける。

 慌てて電話をかけてきた相手に、ようやく言葉を返した。

 

「しずちゃん、今、テレビつけたよ……うん、びっくりしてる。これ和ちゃんだよね。うん……えっ?」

「……?」

「い、今からじゃ無理だよぉ」

「どうしたの……?」

「うーん……しずちゃんがインターミドルに行きたいって。で、でも今終わっちゃったよ……?」

「うぅん、それは、ええっと……難しい?」

 

 たった今終わったばかりのインターミドルに参加したいといっても、間に合わないだろう。来年になる頃には、しずちゃんも高校生だ。どうやっても不可能である。

 仕方なくそれを告げようとすると、しかし通話は切れていた。

 

 しばらく和ちゃんのインタビューを見ながら待っていると、十分後くらいに着メロが鳴り始める。

 

「しずちゃんから?」

「そうみたい。えっと、もしもし? しずちゃ……え、インターハイ?」

 

 電話の向こうから聞こえてくる、興奮した声を受けて、わたしは受話器を離した。

 

「うん。ちょっと待って……おねーちゃん、インハイっていつから始まるか知ってる?」

「うぅん、たしかインターミドルが終わってからもうすぐってアナウンサーの人が言ってたから……すぐ、じゃないかな」

「もしもし。すぐ始まるみたいだよ……ええっ!? うん、うん……そ、それはちょっと……あ、また切れちゃった」

 

 ぱちくりと目を瞬かせて携帯を見つめた。通話はまた切れていた。

 

「なんだって?」

「インターハイに出たいって」

「……しずちゃん、まだ高校生じゃないよぅ」

「うーん……しずちゃん、インターミドルもインターハイも東京でやっているって知ってるのかな」

 

 ただ見に行くだけなのか、それとも、参加したいと言っていたのか。

 来年ならば県大会から出場できるが、あまりに気が早すぎる。見に行くだけだったとしても、大阪や京都ならともかく、距離が離れすぎている。

 しばらく待っていたけれど、しばらく、電話はかかってこなかった。

 

 

 

 しかし、どうやらしずちゃんは本気だったようだ。

 その日のうちに憧ちゃんにも声をかけたみたいで、いつもの部屋で“臨時の作戦会議”が開かれることになった。こたつを、みんなが四方で囲んだ。

 みんなで、冷たい……おねーちゃんだけ、あったかいお茶を前にする。

 

「というわけで、インハイ行きましょう!!!」

「いや、わけわかんないわ!! 一応今日もちょっと予定あったんですケド……あんたってやつは……」

 

 机に肘をついてふて腐れるのを、しずちゃんは「まあまあ」となだめた。

 最初は怒っていた憧ちゃんだったけれど、あれから、憧ちゃんのほうから麻雀を申し込むことも多くなって、強く言えなくなってしまったみたいだ。

 

「しずちゃん、本気でインハイに行くつもりなの?」

「え。そりゃもう、本気も本気ですよ! インターミドルが無理ならインターハイに出るんです! さっそく申し込みましょう!」

「は? さっそくって、今更申し込みなんてやってるわけないでしょ」

 

 叶えたかったのはインハイ参加のほうだったらしい。

 憧ちゃんが呆れた声を出し、しずちゃんが目を丸くする。

 

「へ? 出れないの?」

「出られるわけがないでしょう! だいたいあたしたちまだ中学生!! 部活すら作ってないし。しかも奈良の予選なんてとっくに、とっくに、とーーーっくに、終わってるわよ!! 参加資格いっこも満たしてない!!」

「え、ええええええっ!!?」 

 

 がーん、と口を開けてショックを受けてた。

 おねーちゃんは大声にびくっと震えて、憧ちゃんはあまりのことに頭を抱えて呻いた。

 

「しゅ……出場してる高校って、いつから予約してるの?」

「正式な締め切りは五月だったか……でも、もっと前から予定を立てるでしょうね。それこそ来年の参加校は、インハイが終わり次第、つまり今頃から練習してるわよ」

「そんなぁ……ってかそうじゃん……インターハイのハイは、高校のハイだよ……なにいってんだろわたし……」

「まったく。シズのそういう勢いは嫌いじゃないけどさ……」

「よし、よし……」

 

 がっくりしずちゃん、そっと背中を撫でる慰めおねーちゃん。強く言いすぎたと思ったのか、一応フォローする憧ちゃん。

 でもわたしも、熱くなる気持ちはわかった。

 昔に見たテレビ特集で、インハイを目指す同じくらいの年頃の子の特集を見たことがあるけれど、すごいものだった。百人くらいの部員が毎日大部屋で卓を囲んでいて、感心にほえー、と目を見開いた覚えがある。

 

「ま。そんなに出たいなら、阿知賀で麻雀部を作るか、そういう麻雀部のある学校に行くしかないわよ。いずれにしろ来年になるわけだけど」

「来年かぁ……そっかあ……」

「いやそんなに落ち込まなくても。あんた、すっかり麻雀狂いになったわね……」

 

 いつからわたしの親友は、こんな風になってしまったのか。そう言いたげな顔で憧ちゃんは、その落ち込みぶりに軽く引いていた。

 

「あたしだって、シズの気持ちは分かるわよ。いきなり和が全国覇者になっちゃったわけだし。あんなに持てはやされちゃって……なんか遠い世界の人になっちゃった、って感じよね」

「こういうの時の人って言うんだよね。すごいなあ、和」

「うん。ほら、ネットにも和ちゃんの記事がいっぱいあるよ!」

 

 わたしが携帯電話を見せると、みんなぎゅうっと集まってきた。

 

「お、どれどれ? おお、プロのコメントもほとんど高評価だ……」

「どれ? ……わぁ。原村和さん、すごいんだねぇ」

「へへ。阿知賀自慢の打ち手ですよ! うへー、文面全部べた褒めじゃん」

「”来年のインターハイでも頭角を表すのは間違いないだろう”……これ見てたら、シズの気持ちも分かってきたわ。確かにこりゃ羨ましい気持ちにもなるわ」

「あったかぁい……玄ちゃん、他にはどんな記事があるの?」

「うん。ほら、このへんにあるの、ぜんぶインターミドルの話みたいだよ」

 

 最新の記事から、少し前の記事まで。和ちゃんについて書いてあるものを、読みふけった。

 みんなは真剣に。おねーちゃんはそれに加えて、おしくらまんじゅうで、幸せそうだった。

 

 麻雀に関わる最新ニュースのほとんどを和ちゃんが埋め尽くしていた。それほどにインターミドルという全国の舞台は、世間の関心を集めていたのだ。

 わたしたちは、長野予選で全国出場を決めたときの記事も発掘した。さらに今のインハイの強豪校なんかも調べたりして、興味のある記事に、全てに既読履歴を残してから、ごろんと寝ころんだ。

 

「いいなあ、インハイ……来年は必ず出てやる」

「モチベーション上がっちゃったわね。他の大会の話題もあるけど……全国だと、やっぱ取り上げ方もすごいね」

「そうだ、テレビつけてみる? 今もやってると思うよ、インタビュー」

「いや、いいです……なんか情報多すぎて疲れちゃいました」

「あたしも、疲れたから休憩……」

 

 はぁぁ、と二人は畳の上に寝ころんだまま息を吐いた。最近はすっかり通い詰めで、二人とも家の一員のようにくつろいでくれるようになった。

 すると、しずちゃんが天井を向いたまま言った。

 

「ねえ、憧」

「んー?」

「来年、出て。わたしと」

 

 じっと動かないしずちゃんを、起き上がって細目で見つめた。

 今度は、はっきりと。遠慮なんてなかった。

 

「やっぱりわたし、みんなで打ちたいんだ。お願い」

 

 憧ちゃんは顔は合わせない。

 でも、その誘いにしっかりと聞き入っていた。

 

「みんなでって、個人じゃなくて団体戦で出たいってこと?」 

「どっちも!」

「どっちもって……」

「だって、みんなで戦いたいし、打てる機会はいっぱいあったほうがいいじゃん!」

 

 そう言い放つしずちゃんの笑顔は、きらきらと輝いていた。

 

「もう一度和とか、いろんな人と、いっぱい打ちたいんだ!」

「あたしが入っても、部員も監督も足りないわよ」

「う……そ、それは……多分、そんなのなんとかなるって! あんなに大っきい校舎だもん、探せばいい!」

「……ぷっ」

 

 憧ちゃんは、今まで神妙だったのに、吹き出した。

 起き上がってしっかりと見つめ合う。

 

「ねえ、シズ。一応確認。それってあたしじゃなきゃダメなの?」

「もちろん!! 憧は、絶対に欠かせない大切な仲間だから!」

「うわ即答。ま、そのくらいでないと困るけど……」

 

 それは、呆れたようなため息だったけれど、すごく嬉しそうだった。

 

「え。ってことは……!!」

「言ったからには責任とりなさいよね。行くわよ、全国に」

 

 そっぽを向いて照れたように髪を弄っている憧ちゃん。

 すると、わなわなと震えるしずちゃんが、急にぴょんっ! と飛びかかった。

 

「いやったぁーー!! 憧ーーーっ!!」

「うわ、熱い熱い!! ただでさえ夏であっついのに、こら、くっつくな!!」

 

 ほっぺにチューしようとするのを防ぐため、必死に抵抗する。でも憧ちゃんはそれを、それほど嫌がってないようだった。

 

「憧ちゃん、本当にいいの?」

「はい……ただ、条件がありますけど」

「え、条件? ……も、もしかしてお金とか……?」

「いやなんでそうなるのよ」

 

 本気で恐れて、がま口の財布を震えながら取り出したしずちゃんに、びしっとツッコミを入れる。

 そして、憧ちゃんはしずちゃんに向けて指を刺した。

 

「やるなら出るだけじゃなくて、目指すわよ。頂点を」

 

 その瞳は、ずっと先の光景を見据えていた。

 ぽかんと目を丸くしたわたしたちは、聞き返す。

 

「頂点って……」

「インハイの……?」

 

 わたしとおねーちゃんが復唱する。

 

「決めたからには、あたしは絶対ここで強くなる。阿知賀で全国に行って、頂点に立つんだ」

 

 わたしとおねーちゃんは、顔を見合わせた。

 憧ちゃんに言われて、どこか遠い世界の出来事のように感じていたインターハイが、手の届く場所にあるように感じて、戸惑った。

 しかし、しずちゃんだけが、ばっと迷わずに立ち上がる。

 

「行こうよっ!!」

「えっ?」

 

 ……そうだった。こういうとき、みんなを先頭で引っ張ってくれるのは、しずちゃんだった。

 

「わたしたちで、頂点へ!! 全国の頂点へ、みんなでっ!!」

 

 わたしたちの部屋で手を頂に掲げた。蛍光灯の明かりに向けて、その向こうの星を掴み取るようにぐっと握りしめる。

 胸に熱い感情が宿るのを感じた。

 強気な笑顔で、うなずいてみせる。

 

「うんっ。わたしも、がんばるよっ!!」

「はわわ……」

「うおーっ、なんかほんとにいけそうな気がしてきた!! これでメンバーはここに四人。あと一人いれば団体戦に……!」

「でもシズ、ちょっと待った!」

 

 警笛のように口笛を吹いて、しずちゃんの言葉にストップをかける憧ちゃん。目を丸くして、ぱちくりと瞬いた。

 

「え、どしたの?」

「シズ、あんた四人って言ったけど、正確にはまだ三人よ」

「え?」

「おや?」

「……?」

 

 どういうことか分かっていない様子で、憧ちゃんは頭を抱える。

 

「え、でももう四人は揃ってるでしょ。わたし、憧、玄さん、宥さん」

「……あたしの知る限りだと、ちゃんと誘ってないでしょ」 

 

 わたしたちは首をかしげて……みんな、気付いて、おねーちゃんを見た。

 

「ふぇっ!?」

 

 あわ、あわと慌てて、自分を指差した。

 おねーちゃんは困ったようにはにかんで、真っ赤な顔で、マフラーに顔を埋めた。自分も数に入っていることに、戸惑っているみたいだった。

 そんなおねーちゃんに、しずちゃんが、思い切り顔を迫らせる。

 

「ゆゆゆっ、宥さんっ!」

「は、はいっ……!?」

「忘れちゃってました! すいません! 言うのが遅くなっちゃいましたけど、わたしたちと、一緒にインターハイ目指してくれませんかっ……!?」

 

 やがて自分を指差して、恐る恐る、そうっと言う。

 

「あ、あ、あの……わ、わたしも、いいの?」 

「も、もちろんですよ! っていうか、いて欲しいです! いてくれないと困るっていうか……!」

「こら。勧誘するならもっとはっきり言う!」

「いてっ……こほんっ……そうだよね」

 

 咳払いして、そしてしっかりと目と目を合わせた。

 

「わたし、ここで宥さんと打っていて、すっごく楽しかったんです!」

「え……?」

 

 おねーちゃんは、その言葉で、体の震えが止まった。

 

「もっと麻雀を全力で楽しみたい。強くなりたい。宥さんが必要なんです!」

「わたしが……必要?」

「はい。これからみんなで阿知賀女子麻雀部を立ち上げます。一緒に来てくれませんか、宥さんっ!!」

 

 まっすぐな言葉に、おねーちゃんは、おろろと視線を右往左往させた。

 

「は、はわわ……わっ」

「おねーちゃん。どうかな」

「くろちゃん……」

 

 わたしは微笑みながら、手をそっと握って目を合わせる。すると、ちょっと落ち着いたみたいだった。

 少しして、俯いたおねーちゃんはぽつりと呟いた。

 

「よ、よろしくお願い……します」

 

 肯定の言葉とともに、頷いた。

 この中では唯一、おねーちゃんだけが、麻雀教室に通っていなかったから、戸惑っていたんだろう。でもわたしも一緒に打つものだと思っていたし、おねーちゃんも、きっと同じ気持ちだ。

 だから、わたしたちはチームになれる。 

 

「本当ですか!! いやったー!!!」

「宥姉がいてくれたら、すごく心強いわ! けど……いいの?」

「みんなと打つのすごく楽しいから……それに、ずっとこうして、一緒に打ちたいって思ってたの」

 

 そう言ったおねーちゃんの顔は、いつもより、ちょっとだけ赤みがかっている。

 うん、と意志を確認しあうように同時に頷いた。

 

「よしっ! じゃあ、これで部員は四人! 未来の麻雀部始動っ! 目標はインハイ、全国制覇だっ!!」

「おおー!」

「ぱちぱちぱち」

「全国制覇、当然ね。でもどうする気なの? やることはいっぱいあるわよ」

 

 さっそく、憧ちゃんが指を立てて、具体的な話をはじめる。

 

「来年に向けて練習するっていっても、そもそもいろんな問題があるわけで。まずはそこをまとめない?」

「あと一人、団体戦のメンバーを探さないとね」

「顧問の先生、探さなきゃ……」

「それだけでも、結構なハードルよね。他には何があるかしら?」

「待った! 最初にやることなんて、そんなの、もう決まってるよ!!」

 

 ひょいと机を飛び越えて、茶色のポニーテールを翻してみんなの前に向き直る。

 目はきらきら輝いて、溢れんばかりの気力はわたしたちにも伝わってきた。今にも叫び出しそうなくらいしずちゃんの口元はうずうずと疼いてて、しかし一旦息をすぅっと吸った。

 

「頂点を目指すために、まずみんなで見に行くんだよ。インハイを!!」

 

 それは、みんなが心から望んでいたことだった。

 

 

 阿知賀女子麻雀部はこの日、まだ見ぬ夢に向かって動き出したのだ。

 

 





♪SquarePanicSerenade


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第9局

 全国高校生麻雀夏のインターハイの会場は、例年東京都の中心地で行われる。

 

 東京都といえば、奈良県阿知賀女子からはるか遠くの地。具体的には、新幹線その他諸々の移動手段を合わせて、半日程度の大移動が必要になるらしい。

 

 インハイを見に行こう、というしずちゃんの提案は、魅力的なものだった。

 最終目標がインターハイの頂点だというのなら、行かない理由なんてない。和ちゃんの優勝と、自分たちの目標が決まった今、全国の頂点を見てみたいという気持ちが燻ったことは確かだった。

 みんなすぐに乗り気になったわけだが……でも、問題があった。

 

「あんた、そんなお金あるの?」

「あ」

 

 しずちゃんは石像みたいに固まった。

 しずちゃんはジャージのポケットから自分の財布を取り出す。がま口の蓋をあけて、覗き込んで、そして手を震わせながら閉じた。

 

「な、なんとか……お母さんに頼んで、お小遣い前借りで……」

「はぁ。シズってば、仕方ないわね……」

 

 インハイ会場に行くために、まず莫大なお金が必要になる。

 そのことを、憧ちゃん以外はすっかり忘れていた。

 

「事情、説明したらなんとかなるかもしれないし。今日はシズん家、ついてってあげるから」

「わぁぁ、頼れるのは憧だけだよ~」

「こーら、くっつくなってば」

 

 二人はそう言って、その日は帰っていった。

 しかし、それは決して他人事ではない。わたしたちにもお金がないし、いまは部活ではないので、学校から予算が出たりもしない……その後、頼み込んだところ、我が家ではお金を借りられることになった。

 しかし問題はそれだけではない。すぐに、新たな壁が立ち塞がった。

 

『うぅ、お金は出してあげてもいいけど、学生だけで東京なんて危ないって、おかーさんが……』

「う、うーん……そっか……」

 

 涙目のしずちゃんが、だらんと腕を垂れ、うぅぅ、と悲しげな声で呻いたのが容易に想像できた。

 保護者なしの女子中学生と女子高生の四人旅が、そう簡単に認められるはずがなかった。

 

 高校生であるわたしたち松実家の方針としては、保護者さえいればOKだった。

 しかし中学生メンバーのしずちゃんと憧ちゃんは、二つ返事で大丈夫というわけにもいかない。

 やっぱり諦めなきゃいけないのかと、誰もが思った。

 

 

 しかしその日の晩。

 奇跡的に、この問題も解決することになる。

 

「もしもし……あっ、憧ちゃん。えっ? うん……ええっ!?」

「玄ちゃん、大声あげてどうしたの?」

「え、えっと……憧ちゃんが、何とかなるって……うん、うん。ちょっと待ってて!!」

 

 こたつのおねーちゃんを置いて部屋をあとにして、おばーちゃんを探しに出た。この時間ならきっと御飯時も終わったころだろう。

 そのまま電話を代わってもらい、そして……話はとんとん拍子に進んでいった。

 どうやら、憧ちゃんのおねーちゃんがたまたま東京にいて、インハイに都合を合わせてくれるらしい。それに加えて、インターハイの観戦チケットも、手に入れるあてがあるのだとか。

 

「わわっ、たしかにチケットが必要なこと、忘れてたよ……」

『玄も? でも、大丈夫。これで問題はオール解決ね』 

「うんっ! 本当にありがとうっ!」

 

 全ての問題が、無事に解決した。

 しかし、この電話がかかってきた日に既にインハイは始まっていた。

 間に合わないわけではない。何日もある日程のうちの一回戦が始まったばかりというだけだ。特に注目を集める準決勝や決勝戦はまだ先の話で、全日が見れない以上、見にいくつもりだったのはそっちの方だ。

 

 諸々の手続きにどれほどかかるか分からなかったので、急いで、残りの話を進める必要があった。

 すっかりこたつ部屋にも慣れたもので、緊急のインハイ会議に集まった四人で、机を囲んだ……スッポリと布団の中に入っているのは、やっぱりおねーちゃんだけだ。

 

「玄、昨日は遅くにごめん。急がなきゃって思ったの」

「ううん、ありがたいよっ。でもびっくりしたな。憧ちゃんのお姉さんがちょうど東京にいるなんてねえ」

「望さんだよね。なんで東京にいるの?」

「なんか出張なんだって。詳しくは聞いてないけど」

 

 松実家の場合、仕事が自分の旅館なので、それほど外に出ることは多くない。

 だから他のお仕事のことはよく分からなかったけれど、人が集まるだけあって、大人になれば行く機会も増えるのだろう。

 

「向こうで、あたしたちの面倒見られるのは仕事が終わった後の日だけっぽいから、一泊二日が限度ね。今は、決勝戦に合わせて、向こうも動いてくれてる」

「うん……じゃあ、ええっと、決めなきゃいけないのは、泊まる場所とか……?」

「それも含めて手配してくれるって。適当に安いところ選んどくって言ってた」

「憧のお姉ちゃんさまさまだぁ……拝んどこ。南無南無」

「……私の家は寺じゃなくて神社なんだけど? あとそっち、東京じゃなくて九州の方角よ」

 

 しかし、やりきったと言わんばかりの清々しい表情で振り返ったしずちゃんは両手を揚げた。

 

「とにかく……インハイだーーーーっ!!」

 

 体の中から湧いてくるはちきれんばかりのエネルギーに体を震わせ、うおーーっ! と、思い切り叫んだ。

 

「誤魔化したわね……ま、見に行くだけだけどね」

「インハイ観戦の旅、だね!」

「わくわく……」

 

 わたしたちはしずちゃんのエネルギーを大いに感じていた。

 しずちゃんは、やっぱりすごい。難しいと思っていたことを本当に現実にしてしまった。上京なんて生まれて初めての体験だ。

 

「それで、決勝戦っていつから始まるんだっけ? わたしたちが東京に行くのって、いつ?」

「……明後日」

「えっ」

「え」

「ふぇ……?」

 

 全員が、真顔で固まった。

 

 

 

 

 

「くろちゃん、用意は終わった……?」

「うん。もうちょっとだよ、終わったらそっちをお手伝いするね」

 

 荷物をスーツケースに詰め込んで、前日の夜になんとか、準備を済ませることができた。

 おねーちゃんに笑顔で返して、ついでに、苦笑いして言った。

 

「えっと……おねーちゃん、ちょっと荷物を減らしたほうがいいかも」

 

 顔が隠れるほどに抱き抱えている大量の防寒具。

 もしかして、それを全部持っていくつもりなのだろうか。

 

「いっぱい出してたら悩んじゃって……くろちゃんはこの中で、どれがいいと思う?」

「そうだねえ……一番下のそれなんてどうかな。その色が好きだよっ」

「くろちゃんがそう言うなら持っていくぅ……うーん、なんとか全部詰められないかな……?」

「全部は無理だよ、おねーちゃん」

 

 マフラーや冬用コート、そしてセーターやインナーの数々。

 明らかに入りきらない量の折りたたまれた服が部屋に積み上げられた。全部詰めたら、きっとキャリーバック三つは必要だろう。

 

 ……と、松実家はそんな感じでゆるゆると時間が過ぎていった。

 

 

 

 そして出発当日の阿知賀の天気は快晴。東京の天気予報もまた、雲ひとつない快晴だという。

 

「それじゃみんな、とーきょーに、いっくぞー!!!」

 

 まるで出かけてくれと言わんばかりに爛々と煌めく青空の下。静かな駅前に集合したジャージ姿のしずちゃんが元気に腕をいっぱい空に掲げた。

 

「おーっ!」

「おー」

「……お、おーっ!」

 

 可愛らしい服を着てやってきた憧ちゃんは、少し恥ずかしそうにしずちゃんにあわせて声を出す。

 わたしもおねーちゃんも、同じく頑張って声を張り上げた。

 

 キャリーバッグを引っ張りながら改札を通り抜けた。

 阿知賀から出発した列車に乗り込んだわたしたちは、まず新幹線のある京都駅に向かった。

 なかなか見ることのできない、学校よりも大きな駅の天井を、感嘆しながら見上げるおねーちゃんとしずちゃん。憧ちゃんだけが、はしゃぐことなく、お姉さんと連絡をとりあっていた。

 やっとの思いで新幹線に乗りこんだあとも、旅行のテンションは途切れない。

 

「うわみてよ! 列車なのにコンセントついてる! 窓ちっちゃ!」

「こらシズ! おとなしくしなさい!」

「おっと……いけない。ここでテンション上げてたら、肝心なときに体力なくなっちゃう」

「いや、気をつけるのはそこじゃないわよ」 

 

 いつもと違う座席。小さな窓。しずちゃんの目がさらに輝いた。

 

「そういえば憧ちゃん。チケットは手に入ったって言ってたけど。それも望さんが手配してくれたの……?」

「ううん、そっちは別口。ちょうどあたしの友達がインハイ行ってるみたいでね、入場チケット余ってるっていうから、その子から譲ってもらうことになってる」

「へえ。憧の友達もインハイを見にいっているんだ。東京の人?」

「ううん。うちの神社の繋がりで知り合った鹿児島の子でね。昔仲良くなって、ちょいちょい連絡とってるの」

「へぇぇ……チケットのことすっかり忘れてた!!? なきゃ入れないじゃん!」

「今更か!」

 

 体を硬らせたしずちゃんの頭に、軽いチョップを入れた。

 

「あの……毎年人気で、当日じゃ絶対手に入らないって書いてあったよぅ」

「ほえー、さすがインターハイだねえ」

「これはしばらく憧には頭あがらないわ……」

「ふふん、荷物運びは任せたわよ」

「持つ持つ。もちろん持たせていただきますとも!!」

 

 わたしも、ひたすら憧ちゃんに感謝し続けた。

 しかし、不思議にも思った。インハイの観戦席といえば、そこそこに、お高いものだったはずだ。

 

「でもそのお友達、五枚もチケットが余っていたの?」 

「ああ、向こうは参加校だから。身内でいっぱい持ってて、余ってるぶんを譲ってもらう感じ」

「ほうほう……?」

「え、どゆこと?! 憧って、いまインハイに出てる高校の人と、友達なのっ!?」

「……ちょ、ま、揺らすな酔うから! ちがうってば、こら! タメの中等部の子だから、出場選手じゃないわよ!」

 

 揺らされて怒った憧ちゃんが、身をのりだしてきたしずちゃんに、持っていた雑誌を顔にぎゅうと押しつけた。

 

「落ち着いて、到着するまでこれでも読んでなさい!」 

「ふぐぅっ。なんだ、びっくりさせないでよぉ……なにこれ……お、最新のインハイ記事じゃん! ……宮永照、誰この人?」

「その人がさっき話してた、去年のインハイのチャンピオンよ。東京の白糸台って高校のエース。宥姉と同い年ね」

「へーそういえばテレビで見たことあるかも」

「……あんた、さすがに最近インハイを目指し始めたばかりとはいえ、宮永照くらいは覚えておきなさいよ」

「ほうほう。この人が、日本の高校生で一番強いんだ。連続和了。ふーん……」

 

 雑誌に集中しはじめてしずちゃんを見て、憧ちゃんは一息ついた。

 新幹線はあっという間に東京に向けて進んでいく。途中で朝ごはんのお弁当を食べたりしながら、やがて、終点の東京に到着した。

 

 



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第10局

「ついた! とうきょ……あおわぅっ!? ひゃー!」

 

 ついに、わたしたちは生まれて初めての上京を果たした。

 ……しかし、喜んでいる余裕はまったくなかった。

 

「はわぁぁわわわ……くろちゃん、た、たすけてぇー……!」

「おねーちゃん!? そっちにいかないでーっ!?」

「ちょ、シズ! 宥姉の手握ってあげて! 流されちゃってる! ……って、シズどこ!?」

 

 しずちゃんが流されるのを楽しんでいる声と、おねーちゃんのいた方向から悲鳴も聞こえてくる。これでもか、というほど溢れる人の波に押し流されて、はぐれないようにするのが精一杯だ。

 

 改札を出る頃には、みんなふらふらで、約束していた待ち合わせのオブジェにようやくたどり着いた。

 すると、そこに憧ちゃんのお姉さんが待っていた。やっと見つけた知り合いの顔に、わたし達はようやく、ほっと息をついた。

 

「や。みんな久しぶり」

「あっ! 望さんっ! お久しぶりですっ!」

「うん、おひさ。さっそくだけど、のんびりしてる余裕もないし、急いで行くわよ!」

 

 憧ちゃんの友達との待ち合わせの時間も、かなり近くなっている。

 わたしたちは、急いでその場を後にして、会場へと向かった。キャリーバッグを引きながら、今度ははぐれてしまわないように、身を寄せあった。

 

「しかし急だったねえ。いきなり東京に来たいって電話来た時は、びっくりしたよ」

「ごめんごめん。今日はよろしくね」

「あ、あのっ、今日はお世話になります!」

「お世話になります」

「……ぺこり」

「いいっていいって、そんなかしこまらなくて。どうせ休みだし、もともとインハイも興味あったし……あっ。会場まで歩いて行くわよ」

 

 そう言って駅を出たわたしたちは、建物の外に出たとたんに全員で立ち止まった。

 

「……すごい」

 

 奈良じゃ見たことがないくらいたくさん立ち並ぶ、空まで届く高層ビル。そのビルにぎゅうぎゅうに詰め込んでもまだ余るくらいの大勢の人。どれも見たことがないくらいのスケールで、わたしたちが小人になってしまったみたいだ。

 試合会場はお洒落なガラス張りの建物で、他のどの建物よりも大きかった。

 

「奈良で一番大きなショッピングモールよりも大きいよ……」

「あれテレビで見た場所だ!」

 

 感動しすぎてポニーテールがぴんと逆立っていた。

 そしてインターハイの会場もまた、奈良に住んでいたわたしたちを、大いに驚かせた。

 

「おぉぉぉ……!! ここが、東京……インハイ会場!!」

「とうとう来ちゃったねえ……圧倒されるなあ。奈良とスケール違いすぎ」

「すごいねえ……おねーちゃん、大丈夫?」

「うぅぅ、なんだか見られてるような……?」

「まあその厚着ですからねえ。みんな半袖ですし」

 

 じろじろと見られて、おねーちゃんがマフラーに顔を埋めていた。 

 

「ほらみんな、待ち合わせあるんでしょ。早く行くよー」

 

 先に行ってしまった望さんの言葉で我を取り戻し、四人で顔を見合わせてから、慌ててあとを追う。

 体育館よりも広いホールには、外と違って人はまばらにしかいなかった。

 

「ちょっと待ってて、連絡とるから」

「うん。わたしたちは、少し待ってようか」

 

 さっそく憧ちゃんが電話をかけた。

 他のみんなは、ベンチのあるほうに向かった。すると袖をくいっと引かれた。さっきまで楽しそうだったしずちゃんが、立ち尽くして顔を顰めている。

 

「ねえ玄さん……なんか、すごい気配感じない?」

「え、そういえば……うん。確かに……」

 

 しずちゃんの言葉の意味は、目を瞑ってみると、わたしにもわかった。

 ぞくっとするような、ある種の不吉を感じた。

 天井はビルくらい高い開放的なガラス張りの建物のはずなのに息苦しい。何か得体の知れない存在が、どこかに集まっている。そんな風に感じてしまう。

 すると、ちょうど戻ってきた憧ちゃんの携帯が再びメロディを奏で出す。

 

「あ、もうかえってきた……はい新子です。え、もうきてるって? どこどこ……あーいた!」

 

 憧ちゃんがあたりを見回し、ある一点で固定され、携帯を手放して手を振った。

 わたしたちもその方向を見る。

 小さく手を振ってやってきた、ちょっと小柄な子を見て不思議に思った。遠くから歩いてきた子は、わたしの想像と、かなり違っていたのだ。

 

「春っち、おひさー!」

「……おひさ」

 

 同い年くらいのポニーテールの女の子。

 憧ちゃんのお友達はなかなかの“おもち”で……そして、なぜか巫女さんだった。しっかりとした着付けで巫女服を纏っており、袖にガラケーをしまう。

 

(なんで巫女服なんだろう?)

 

 みんな同じような表情だった。

 憧ちゃんだけがもともと知っていたのか、動揺もなく紹介してくれる。

 

「紹介するね。この子は滝見春、鹿児島の子。それでこっちが奈良のあたしの友達」

「…………」

「……春っち? どしたの?」

 

 じいっと、春さんはジト目でわたしを見た。

 な、なんだろう。

 わたしが、ぽかんと目を丸めていると、何事もなかったようにぺこりとお辞儀した。

 

「どうも……滝見春といいます」

「ど、どうぞよろしく……松実宥です」

「同じく松実玄です。よろしくお願いしますねっ!」

「ども、高鴨穏乃です。あの……」

「?」

「変なこと聞くかもしれないんですけど、なんで巫女服なの?」

 

 あ、聞いた。そして、年中ジャージのお前が聞くのか、と言わんばかりに憧ちゃんがしずちゃんを見た。

 みんな紅白の袴を下から上へじいっと見る。

 おねーちゃんよりちょっと大きいかも。やっぱりこの子、よいものをおもちだよ。

 

「ん、うちはそういう伝統というか……改めて聞かれると説明が難しい……」

「この子の学校はちょっと変わってるのよ。っと……わざわざ忙しいのに来てくれてありがと!」

「うん。といっても、わたしは応援で来てるだけだから……あ、これ、チケット……足りる?」

「ほんと助かるわ。急なお願い聞いてくれてありがとね、今度なんかで絶対埋めあわせするから!」

「なら待ってる……」 

 

 鹿児島と奈良では、なかなか会う機会がないと思うのだが、二人はとても仲がよさそうだ。性格は全く違うタイプのようだが、同じ巫女同士、シンパシー的なものがあるのかもしれない。

 

 

「……っ!」

 

 そんな時、不意に背中がぞくりと震えた。

 

(……えっ、いまの、何?)

 

 背筋を駆けた嫌な予感。わたしは、慌てて周囲を見回した。

 しかし、それを探る前に、袖がくいっと引かれた。今度もしずちゃんだ。

 

「ねえ。玄さん、今のって……」

「もしかしてしずちゃんも?」

 

 同じものを感じたらしい。深刻そうに表情を強張らせている。

 前で話している二人や、おねーちゃん、望さんも特に何も気づいた様子はない。

 

「……近づいてきているみたい」

「はい。あっ、向こう……何か来る」

 

 視線を向ける。

 会場の奥から、誰かが歩いてくるのが見えた。まばらにしかいないほとんどの人が、わたしたちの方に歩み寄ってくる”その人”に、視線を寄せた。

 

 インハイ会場に漂う、重く苦しい気配の一つだ。

 ひときわ存在感を放っているその人は、私たちの方に近づいてくる。 憧ちゃんの友達と同じデザインの巫女服の周囲に、薄白色の覇気を侍らせている。

 

「おもち……」

「えっ、今なんて言いました?」

 

 そして、その人を見つけたわたしは、さっきまでの警戒心を投げ捨てた。

 魔法でもかかったみたいにその人に吸い寄せられ、目を離すことができない。

 

 みんなも、重すぎるプレッシャーとは酷く不釣り合いな、落ち着いた微笑みを浮かべている巫女のお姉さんに気がついた。

 動揺の中で、わたしだけが、視線は一点に固定されている。

 かつて、あそこまで大きなおもちを見たことがあっただろうか。

 ない。すごいよ、あれは。

 殿堂入りしていた和ちゃんの記録を悠々と塗り替えたその人は、「春ちゃん」と、滝見さんに背後から声をかける。

 

「あれ……霞さん、どうしたんですか」

「控室に財布を置き忘れていったわ。買い物にも行くつもりだったのでしょう、気をつけなきゃだめよ」

「あ、すみません……忙しいのに、わざわざありがとうございます」

「散歩したい気分だったから気にしなくても大丈夫よ……この人たちが話してた、春ちゃんのお友達?」

 

 頬に手を当てて、超おもちのお姉さんは、若干目を細めてわたしたち四人を見る。

 

「うん。わざわざ奈良から、ここまでインハイを見にきてくれた……」

「あらあら、そうだったの。皆さん初めまして。わたしは春ちゃんの先輩で、石戸霞といいます」

「ど、ど、ど、どうも、新子憧です!」

 

 憧ちゃんに続いてみんな一通り名乗り出る。

 すると、よろしくね、とお姉さんは優しく微笑んでくれた。

 

「わざわざ遠くから大変だったでしょう。皆さんも麻雀を打つのかしら?」

「はい、そうですっ。今日は後学のために見学に来ましたっ!」

「わたしたち、インハイを目指してるんです。それで来年のために実際に見に来てみようって話になったんです」

「あら、そうだったの。ふふ。わたし、てっきり……」

「てっきり?」

「いえ、何でもないわ」

 

 おもちのお姉さんは口元に指を当てて、くすりと笑った。そして柔らかな視線が、わたしたちの間を次々に横に滑る――一瞬、わたしとしずちゃんをじっと見た。

 ぞくっと、背筋が震える。

 でも、本当に一瞬だけだった。微笑みも崩していない。

 

「わたしも今年は選手として参加してるのよ。覚えておいてくれると嬉しいわ」

「あっ……! 選手の方だったんですね! あの、がんばってください!!」

「嬉しいわ、ありがとう。決勝戦も、ぜひ楽しんでいってね……じゃあこれお財布、早めに戻ってくるのよ」

「はい。ありがとうございます……霞さん」

 

 優雅に頭を下げて、おもちのお姉さんは奥にあるであろう控室に、ゆったりと戻っていった。

 思わぬ形での出場選手との邂逅が終わる。

 そして、みんな緊張が抜けたみたいだった。

 

「あの、じゃこれ渡したから……試合、楽しんで」

「あ、うん。ありがとね……もっと時間取れたらよかったんだけど、次の機会に埋め合わせするから!」

「ほんとに気にしなくていい。どうせ眠っていたものだから、使ってくれたほうが有意義……あ。もうこんな時間。憧も、急いだ方がいいよ」

「あっ、ほんとだやば! じゃあチケット、本当にありがとね!」

 

 手を振って、巫女服の春さんも行ってしまった。

 十分離れたころ、おねーちゃんがマフラーの中でほっと息を吐いた。

 

「あの人、すごかった……」

「うん、わたしも感動したよ。二人ともすごいおもちだったねえ」

「くろちゃん、お姉ちゃんがすごいと思ったのは、そっちじゃないよ……?」

 

 おねーちゃんが困っていたが、わたしの頭には、鮮烈に焼きついてしまった。特に石戸さんは、世界観が揺らぎそうな、すごいおもちだった。一生忘れられそうにない。

 

「すっごいプレッシャーだったね……絶対麻雀強いよ、あの巫女さん」

「そりゃ強いわよ。永水女子の人なんだから……うわー、まさか、あの石戸霞と会えるとは思わなかったわ。ラッキーね、わたしたち」

「永水? なんかどっかで聞いたような、てか朝見たような……」

「そっか、説明してなかったわね。石戸さん、多分、シズにあげた雑誌にも乗ってるわよ」

「どれどれ……ああああああっっ!!!」

「……どうしたの?」

「これだよ、これあの人!!」

 

 ぺらぺら、とページをめくる手を止めたしずちゃんが大声で叫んだ。

 全員が覗き込み、そして会場に掲げられている巨大な電光掲示板を見上げる。無数の学校の名前と、頂点につながる道筋を示したトーナメント表と見比べて、目を丸くした。

 

「決勝戦に出てるチームだ……ほら、永水女子!」

「あわわ……」

 

 雑誌には、新星の学校として四校ほどが大々的に見開きで紹介がされていた。いくつかの学校の中に、永水女子の写真も含まれていた。

 

 特にピックアップされている二人。

 おさげが特徴的な高校一年生、眠り顔で映っている先鋒の神代小蒔。

 そして笑顔でインタビューに答える様子を写した写真のもう一人が、大将の石戸霞。

 

「ちょ、ちょ、ちょっと! 憧、聞いてない!!」

 

 しずちゃんが憧ちゃんの方を掴んで、がくがくと揺さぶった。

 

「ご、ごめん! 言うタイミング逃しちゃって……!!」

「個人戦の選手の人だと思ってたよ……い、今から見る決勝戦の選手だったんだ……」

「わ、しかも大将だ……! ほぇええ……」

 

 雑誌から視線を外し、天井の壁に掲げられている電光掲示板を見る。

 そこには全国に駒を進めた、各地の高校の名前が記されている。その中には奈良県の晩成高校の名前もある。しかし、頂点に結びつく線はたったの四本だ。

 そのか細い蜘蛛の糸のように繋がっている先に、すでに光が消えて薄暗く表示される高校に挟まれて煌々と輝く”永水女子”の名前が存在していた。

 しずちゃんが、雑誌を握りしめながら掲示板を見上げてぽつりと呟いた。

 

「……あれが、全国の頂点に立つかもしれないチームの、大将」

 

 わたしたちがインターハイにやってきた目的は、少しでも未来に近づきたかったから。モチベーションを高めて、さらに邁進するためだ。

 

 しかし今、形容しがたいプレッシャーの余韻が肌の奥に残って、ぴりぴりと体を震わせる。

 世界一番のおもちのお姉さん、石戸霞さん。 

 優しくて、得体の知れない何かを内に秘めている表情も、しっかりと焼きついた。

 

 

 



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第11局

 わたしたちは、どこかぼんやりとしたまま、受け取ったチケットで会場入りを果たした。

 

 劇場のような赤絨毯の敷かれた廊下を進んで、大部屋に入る。

 そこではすでに大勢の人が、これから始まる試合について話していたり、パンフレットを眺めていたり、みんな思い思いに過ごしていた。

 巨大なスクリーンは、静かな音と共に、麻雀関係のコマーシャルを映している。どうやら観戦のためにいくつか部屋があるらしく、わたしたちに割り当てられた部屋は、相当に広くて、スクリーンも見やすかった。

 

「あっ、あそこなら五人並んで座れるわね」

 

 憧ちゃんが先頭になって、みんなで座ると、なんとなく映画館みたいだと思った。

 そして、しばらくして映し出されたのは、有名なアナウンサーと解説のプロ雀士だ。

 

『さあ、それでは選手の紹介に移っていっちゃいましょう!』

 

 元気な掛け声とともに、決勝の舞台が映し出された。

 その瞬間、わたしたちの間に流れ始めた妙な空気は消え去った。

 

「わぁ……」

「……すご」

 

 目の前に映し出されているのは、阿知賀でテレビ越しに見た部屋と同じはずなのに、背筋がぞくりと震えた。

 その場所にいないはずなのに、雰囲気は肌で伝わってくる。それは緊張感のような圧力だった。

 映される学校は、千里山、臨海女子、白糸台――そして巫女服の学校、永水女子。

 

 参戦する生徒二十人全員の中には、さっきのおもちのお姉さんの姿もあった。

 知ってはいたものの、画面越しに見るのとでは、受ける印象が全く異なっているように思った。

 

 

 全国大会決勝戦が始まった。

 高くそびえ立った銀色のステージの頂上に備え付けられた自動卓に、先鋒の四人が座った。

 

 そこから先は、まるで異世界を見ているようだった。

 わたしたちも麻雀を打っている。しかし、それとは全く質が異なっている。

 光り輝くステージの上で、全国の頂に立つ実力者達が、十万点という膨大な点棒を奪い合う。

 牌が掴まれ、打ち出される。その向こう側には、大きく胸を動かすようなものが、確かに存在していた。

 

 わたしたちは共通して、一つの想いを抱いた。

 インハイ会場まで来たことは、無意味じゃなかった。

 

(こんな風にわたしも打ってみたい)

 

 自分たちが未熟な雀士であることを自覚されられながらも、そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

「くろちゃん、もう終わったよう」

「えっ? ……あっ」

 

 ぽかんと椅子に腰掛けたまま、はっと顔を上げた。

 気づいた時にはスクリーンの画面は消えていた。まわりにいた人も席を立って帰り始めている。

 待たせてしまっているみたいで、あせあせと、席を立って外に出た。

 

「ごめんねっ、ちょっとぼうっとしちゃってて」

 

 みんな待っていてくれた。それで緊張が解けたのか、肩を持ち上げて、はぁ~っと大きく息を吐いていた。

 未だざわつく会場の廊下では、ほとんどのお客さんが熱く盛り上がっているのに、わたしたちだけが神妙な表情を浮かべていた。その中で、望さんだけが余裕有り気に笑う。

 

「で。みんな、わざわざ東京まで来てインハイを見たわけだけど、どうだった?」

「すごすぎでしょ……」

「何あれ、本当にあの人達と、最高でも年三つしか離れてないの?」 

 

 インターハイに行きたいと言った時、言われた時には、想像もしなかった世界があった。

 頂点までの遠さを、確かにその肌で感じたのである。

 

「その様子じゃ、こんな遠い所まで見にきた価値はあったみたいね。わたしも、久しぶりに熱い気持ちになれたし、来てよかったよ」

「……はっ。望さんも、阿知賀の出場選手じゃん!?」

「いや今更か」

 

 しずちゃんが、がーん、と目を丸くして、みんなが苦く笑った。

 

 そう。阿知賀女子は過去、たった一度だけ、インターハイの出場校になったことがあるのだ。

 そのときの出場チームのエースが、わたしたちの麻雀教室の先生。そして憧ちゃんのお姉さんの望さんも、インターハイを戦い抜いたメンバーの一員であった。

 

「ま、準決勝で負けちゃったから、あの舞台に立ったことはないんだけどね」

「準決勝まででもすごいですよっ……! おととっ、やば。邪魔になってるかも」

「みんな、いったん外に出よっか」

 

 感想を言い合う間もなく人の波が押し寄せ、埋め尽くされる中、頑張ってはぐれないように出口に向かう。

 

 空は独特の生温い風が吹いており、すっかり闇色に染まっていた。

 夏の夜のじめっとした空気が、自分たちが東京にいるんだと体感させてくれる。

 阿知賀女子のある吉野と違って、道路は昼間と変わらないくらい、街灯や明かりで、はっきりと先の道まで照らしてくれていた。会場から出る人の他にも、居酒屋から出てくる人や会社帰りの人で、すごく盛り上がっている。

 さすが東京だなあと変なところで感心しつつ、みんなで感想を言い合いながら、ホテルへと向かった。

 

 はぐれないように、歩いて数分のホテルに到着したわたしたち。

 温かみのある洋風のフロントで手続きをする望さんを、ソファに座って待ったあと、部屋のキーカードが配られた。

 

「んじゃ、今日はこれで解散ね。明日の昼頃に新幹線に乗るから、それに間に合うように過ごすこと」

『了解ですっ!』

 

 まだまだ話していたかったけれど、すっかり疲れていたので、みんな素直に部屋に戻って行った。

 わたしが宿泊するのは、小さなホテルの二人部屋だ。

 松実館と違った洋風の部屋に目を輝かせてると、さっそく、おねーちゃんがベッドの中にしっかりと潜り込んだ。

 

「お布団あったかい……毛布、ホテルの人に言ったら、もっともらえるかな?」

「大丈夫だと思うよ。あっ、おねーちゃんあったかいお茶飲む?」

「もらうよぅ」

 

 お茶の袋をぱりっと開いて、ポットにお湯を用意する。

 ようやく落ち着ける空間にやってきたのに、何となく気分は落ち着かなかった。

 インターハイ決勝戦の光景が、頭から離れない。

 二つ分の湯呑みをテーブルに置くと、布団の中のおねーちゃんが、何気なくテレビをつけた。

 

「あ、さっきの……決勝」

「わわっ、どこもインターハイの話をやってる……」

 

 今日のテレビは麻雀の話題一色で、今日のインハイ決勝戦の話や、その後のインタビューがほとんどであった。

 特に多いのは、永水女子、東東京の臨海女子、南大阪の千里山高校のハイライト。それが熱い解説とともに次々に切り替わっていく。

 その中でも最も映し出される回数が多かったのは、赤髪の女の子が、画面の中で焚かれるフラッシュの中で、笑顔で質問に答えている光景だ。

 優勝した白糸台高校のエースであるインターハイ王者として君臨した宮永照のインタビュー。

 

「この人……凄かったよねえ」

「うん。決勝戦、すごく熱かったよ」

 

 この後には個人戦も控えているが、そちらを見れないことを残念に思った。

 あったかいお茶を飲んで、天にも昇る心地といった感じのおねーちゃんを隣に、わたしは考えていた。

 なんだか、すごくモヤモヤする。

 胸の中に、小さな火が燻っているみたいだった。

 

「もしかして麻雀打ちたいって思ってる?」

「えっ?」

「何となく、そんな顔してるように見えるよぅ」

 

 湯呑みを置いたおねーちゃんを、わたしはきょとんと見返した。

 そして考えてみる。

 その言葉は、しっくりと腹に落ちてきた……そっか、わたし麻雀が打ちたくなっているんだ。

 

「あはは……さっきの試合を見て、スイッチ入っちゃったのかも」

「くろちゃん、最近は特に麻雀にはまってるもんねえ。戻ったら、またみんなで、いっぱい打とうねぇ」

 

 それは、もちろんやるけれど、今求めているものは何となく違うような気がした。

 ……あの戦いのように、自分も凄い麻雀が打ってみたい。

 全力を注いで熱くなれるような、精一杯力を尽くせるような戦いをしてみたい。

 

 そんな風に考え込んでいるときに、軽快な音声で部屋の内線が鳴った。

 おねーちゃんが、両手で受話器を取る。

 

「はいもしもし……はいぃ……くろちゃん。憧ちゃんが、いまから出られないかって」

「いまから? うん、それはいいけど」

 

 時計を見ると、もうすぐ九時になろうかという頃だった。

 不思議に思いながら、さっそく、おねーちゃんと一緒にフロントのほうに向かった。

 ちなみに、わたしは軽装で、おねーちゃんはもふもふの重装備である。

 

 

 

 

 フロントに着くと、紺色ジャージを着たしずちゃん、昼と同じ格好の望さんと憧ちゃんが待っていた。

 

「お待たせ。憧ちゃん、どこか行くの?」

「うん、それなんだけど。ちょっと隣のホテルまで行く用事ができちゃって」

「わたしたちも……?」

「うん。ちょっと来て欲しいって、春っち……チケットをくれた子にお願いされたの」

 

 何の用事だろうかと、不思議に思った。

 しかし、まずは行ってみようという事になって、さっそく四人でホテルを出る。そして、わたしたちはすぐに、上を見上げることになった。

 

「憧……永水の人の泊まってるホテルって、まさかこれのこと?」

「……う、うん」

「ふぇぇ……」

 

 わたしたちの宿は決してグレードが低いわけではない。

 だが、正面のホテルは、大理石造りのエントランスを持つ超高級宿だ。

 恐らくは三倍、いや、五倍以上の宿泊費がかかりそうな異次元の世界に、みんな目を丸くした。

 

(そっか、ここが、全国代表の学校が泊まるホテルなんだ)

 

 ならば相応のグレードであることは当然だろう。しかし、これはあまりにすごい。

 本当に入ってもいいのか……という雰囲気が流れ始めたわたしたちが、自動ドアを超える。そして呼び出された憧が率先して、フロントの人に声をかけた。

 

「お待ちしておりました。新子様、案内させていただきます」

「はあ」

 

 まさかの、フロントの人に連れられての案内であった。

 ベージュ色の高級感漂う壁紙や、たまに現れる高そうな絵や花瓶を見て、さすがは東京の高級宿だと感心してしまった。そこら中に気遣いが行き届いている、うちも負けていないけれど。

 ちょっとした対抗心を燃やしながら進んでいると、しかし今度は、ぽかんと口を開いた。

 その部屋は、今までと、まったく雰囲気が違っていた。

 

「な、なんじゃこりゃあ」

「はわー……」

 

 部屋の床は木目で、朱色の柱。盆栽にありそうな木が備え付けられ、まるで神社のような佇まいだ。

 振り返ると洋風、目の前は和風。サッシを境に、ある種の境界線がそこに存在しているみたいだ。

 そして、その神聖な空間に、畳の椅子に目を閉じて腰掛け待つ巫女がいた。

 

「……いらっしゃったようです」

「そう」

 

 大人の一人が耳打ちする。ゆっくりと目を開いて私たちを見据えて、微笑んだ。

 

「夜分遅くにお呼びしてしまいましたね。来ていただけて嬉しいです」

 

 座って目を瞑ってじっと待っていた人は、インハイ決勝戦で団体戦大将を務めた、おもちのお姉さん。

 石戸霞さんだ。春さんもすぐ横に控えている。

 

「あ、あ、あああ、あの、こ、これは……?」 

「ふふ、そんなに緊張なさらないでください。呼びつけたのはこちらなのですから……望さんは、大人の方から、事情を説明をさせていただけないでしょうか」

「はい。そ、それは、もちろんです……!」

 

 代表として前に出た望さんは、ひどく緊張しているみたいだった。

 そういえば、さっきちらっと憧ちゃんが言っていたっけ。

 神社の中でも上下関係があって、霧島は最も格が高い家柄を持っているんだとか。

 格の高そうな雰囲気を持った大人の巫女さんに連れられて、後ろの別な部屋に入っていく。

 

「皆さんもどうぞ座って、楽にしてください」 

「あ、あのっ……!」

 

 しかし、そんな緊張感漂う新子家とは真逆に、しずちゃんだけがテンション爆上がりであった。

 ずいっと前に出て、目をぴかぴかと星のように輝かせながら、瞬間移動のごとく石戸さん迫った。

 

「今日の試合すごかったです! わたし、すっごく感動しました!」

「あら、嬉しいわ。ありがとう」

 

 前に出ている感情は、完全に憧れの眼差しである。石戸さんも満更ではなさそうだ。

 

「神代小蒔さんもすごかったですけど、石戸さんの打ち方も目から鱗で……!」

「ふふふっ」

「えっと、えっと、それで……あの。どうして憧だけじゃなくてわたしたちを呼んだんですか?」

 

 しずちゃんは途中で冷静になって、結果的に、わたしたちの言いたかったことを全部言ってくれた。

 石戸さんは表情一つ変えずに、穏やかに微笑んで、その問いに答えた。

 

 

 



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第12局

 なぜ全国大会ベスト4のチームの人が、わたしたちを呼んだのか。

 滝見さんは何も言わず、周りの大人の巫女さんも目を瞑っている。おねーちゃんが、小さく震えながら心配そうにわたしの傍に寄ってきた。

 

「本題に入る前に、まず名乗らなくてはいけませんね。わたしは、鹿児島の永水女子高校二年の石戸霞。霧島で巫女をしています」

「滝見春……永水女子の中等部で、同じく巫女、やってます」

 

 今日、その名前を全国に轟かせたばかりの人が、ファンサービスでもなく、プライベートで目の前にいる。

 やはり信じられない気持ちを抱いたまま、わたしたちはもう一度自己紹介をした。

 

「新子さんは、いつも春ちゃんと仲良くしてくれてありがとう。三人は松実玄さんに、宥さん、高鴨穏乃さんというのね」

「はい、よろしくお願いします」

「憧さんに頼んで、皆さんに来てもらったのはね、霧島の巫女のお仕事の関係なの」

「巫女の仕事、ですか?」

 

 わたしたちは一斉に憧ちゃんを見た。

 えっ、わたし? という顔をして、自分を指差した。

 

「巫女さんって、そういえばどんなお仕事をしているの?」

「え、えっ、仕事っていえば……あたしは境内の掃除とか、参拝客の方に挨拶したりとか……あとは祈祷とか……?」

 

 聞かれてから、ようやく自分が巫女さんだったことを思い出したみたいだ。

 憧ちゃんは、どこかたどたどしい様子で答えた。

 

「憧ってそんな巫女っぽいこともやってたの?」

「祈祷とかはあたしは、やったことないけど……てか巫女っぽいって言った? あたしだって一応、巫女のはしくれなんだから」

「あははー……」

 

 ジト目で怒ると、しずちゃんは申し訳なさそうに頭に手をやった。

 

「新子さんの言うような、神様をお祀りしている社を管理する役目も大切なお仕事ね。それに加えてわたしたち霧島の巫女は、神様を降ろすことで、その意志を人々と繋ぐ役割を賜っているの」

「神様ですか……あっ、先鋒の人のときにその解説聞いた!」

「それ、うちの姫様……」

「小蒔ちゃんのことね。ちょっとだけ居眠りしていた子なんだけれど、皆さんは覚えているかしら」

 

 忘れられるはずもない、こくこくと何度も頷いた。

 インターハイチャンピオンとして君臨した宮永照に次いで話題になった、今回初出場の超新星の打ち手。

 華々しい打ち筋で人々を魅了した、霧島の姫。

 解説の人に“牌に愛された子”とさえ称された打ち手。それが、永水女子の神代小蒔だ。

 

「小蒔ちゃんは、わたしたちの住む霧島の中でも特別な、依巫(よりまし)の一人なの」

「よりまし?」

「簡単に言うと、神様の器となれる巫女のこと……」

 

 神様の器? ……わかりやすい言葉の説明でも、いまいち分からなかった。

 でも、そんな疑問の表情をしていたわたしたちに気づいて、憧ちゃんが付け加えてくれる。

 

「永水女子の巫女さんは、みんな霧島の神様に仕えているのよ。そこは日本の中でも有数の特別な場所で、その土地に祀られてる神様に代々仕えている巫女は、身体に神様を宿すことができるって言われているの」

「特別って……うーん。つまり、珍しい巫女さんってこと?」

「それは、ちょっとざっくりすぎかなー……とにかく、神様にまつわるエキスパートね」

 

 ふぅむ、なるほど、なるほど。

 ふるふると震えながら、おねーちゃんが聞いた。

 

「じゃあ、お二人も神様を……?」

「わたしは……できない」

「うふふ。わたしも、小蒔ちゃんほどではないわ。春ちゃんは降ろすより、祓うほうの専門ね」

 

 しかし、そう考えると余計に分からなくなってきた。

 そんな凄いインハイ巫女さんが、わたしたちを呼んだ理由は何なんだろう。

 

「あっ、もしかして、わたしにすっごい巫女の才能があって見込まれちゃったとか!?」

「いやそれはないでしょ、普通に考えて」

「ふふっ。確かに、神様にお仕えする巫女は、生まれ持った"もの"が重要になることが多いわね」

「違うのかー……じゃあ麻雀の腕を見込まれて!」

「一回も打ってないのに、分かるわけないでしょう」

「んー、確かに……」

 

 それっぽい理由を言ったが、憧ちゃんが否定した。

 しかし、石戸さんは否定しなかった。

 

「実はいま穏乃さんが言ってくれたことが、理由としては近いんです」

「……へ?」

 

 まさか、巫女の才能? それとも麻雀の才能の方だろうか。

 石戸さんはわたしたちをざっと見て……わたしと、しずちゃんに真剣なまなざしを向けた。

 

「皆さんをなぜお呼びしたか、その理由を端的に言えば……」

 

 石戸さんは一呼吸おいて、それから微笑みを消して言う。

 

「……二人に強い力を持つ神様が宿っている可能性があったから」

 

 わたしたちは、何を言われたのか分からなかった。

 目が丸くなったまま戻らない。そんな中で、真っ先に我に返ったのはおねーちゃんだった。

 

「あ、あのぅ……何かの間違い、ということはないでしょうか……?」

 

 おそるおそる手をあげて聞くが、石戸さんの答えは明確だった。

 

「いいえ。いまも感じるわ。高鴨さんと、玄さんの方の、お二人からはっきりと。春ちゃんはどう?」

「うん……間違いない。昼に会った時も凄かったから、驚いたけど……特に二人から、とても強い霊力を感じる」

 

 春さんの真剣なまなざしに、顔を見合わせて……二人で、またまた憧ちゃんを見た。

 びくっと身構えて、焦る様子を見せた。

 

「な、なに。なんでまたわたしを見るのよ……!?」

「霊力って何のことか、教えて!」

「うんうん」

「え。え、えっと……目では見えない、解明されてない力のこと……かしら?」

「……憧、巫女さんじゃないの?」

「肩書きは同じでも、並べて語るには規模が違いすぎるのよ……!」

 

 悔しそうに目を閉じて拳を握りしめた。

 しかし、神様が宿っていると言われても、わたしは全くピンとこなかった。

 

「皆さんは麻雀をされると聞きました。打っている最中に何か、いつもと違う、不思議なことが起きたりしなかったかしら」

「え、麻雀で、ですか? ……なんかあったっけ」

「そういえば、あんたも玄も、久しぶりに会ったときにやたら強くなってたけど。何かあったんじゃないの?」

「あっ。言われてみれば……」

 

 言われてみればそんなこともあったっけ。

 しずちゃんが家にどーんとやってきて、みんなで打つことになったんだよね。確か、あのときに気付いたんだっけ。

 

 確かに、わたしとしずちゃんの打ち方は、昔とは全く違っていた。

 深い読みに加えて、ドラのことが、今まで以上によく分かるようになった。しずちゃんも、同じようなことを言っていた気がする。

 憧ちゃんやおねーちゃんは、いつ練習したのか不思議がっていた。

 でも、本当に練習をしたことなんてない。

 

「ね、玄さん。そういえばあれ、どうなったんでしたっけ……?」

「”あれ”?」

「ほらあったじゃないですか。一年くらい前、和が転校した日の……」

「んー……あっ! あの麻雀牌のこと?」

 

 ぽつんと部屋に置かれたその古い木箱を、言われてやっと思い出した。

 言われて初めて考えたのだが、そういえばあの時は、かなり変なことが起きていた。

 

「くろちゃん、心当たりあるの?」

「う、うん……あのね、えっと……」

 

 わたしは、麻雀牌を見つけた日のことを思い出しながら、そのことを伝えた。

 全てを話し終えると、憧ちゃんが思わず立ち上がって叫び、おねーちゃんは不安げに腕に抱きついてきた。

 

「あたしがいない間にそんな怖い話あったの!?」

「うん、変な話だよねー。ま、別にその続きの話があったりするわけじゃないんだけどね。ちょこっと気を失っただけ」

「はわわ……っ!? くろちゃん、大丈夫? さむかったりしない?」

「う、うん。ぜんぜん大丈夫だよおねーちゃん」

 

 しずちゃんは平然と、わたしは慌てるおねーちゃんの背中をさすってあげた。

 しかし、それを聞いた石戸さんは、ますます視線を細めた。

 

「その麻雀牌というのは、今どこにありますか?」

「しばらく部室に保管してたんですけど……たしか、まだあったと思います」

 

 そう言うと、滝見さんは、後ろの巫女さんに確認するように視線を向ける。すると一礼して、大人の巫女さんがさらに部屋を出ていった。

 そして石戸さんは、困ったように考え込んだ。

 

「あ、あのっ……でも、わたしたち、巫女さんじゃないですよ……?」

「巫女という特別な職業でなくても、神様を宿したり、意図的に力を借りることのできる人はいるんです」

「問題なのは、神様が宿った人は、特別な力を発揮できるようになること……」

「特別な力って……?」

「例えば、姫様の麻雀みたいな……ああいう感じ」

 

 姫様、つまりは神代小蒔さんのことだろう。 

 神下ろしと言われていたが、確かに神がかった闘牌だった。本当に神様が宿っていたのだと思うと、背筋が震えた。

 

「わたしたちは、麻雀を通して修行するために、山を降りてこの大会に参加しています。その中で神様を宿していると分かった子には、こうして声をかけさせてもらうことがあるのよ」

 

 後者は初耳であったが、修行のために山を降りてきたという話は雑誌にも書いてあった。

 霧島の巫女は本来、ほとんど山から降りてこない特別な存在なのだという。神職の界隈では、彼女達が急に高校生麻雀大会という注目を集める舞台に出ることが決まったと聞いて、しばらくその噂でもちきりだったらしい。

 

「ほうほう。わたしにもそんな神様が宿っているということですか」

「あんたはなんでそんな冷静なのよ……」

「山にいると何となく感じることあるから、かな?」

「そういえば小学生のときからずっと言ってたわねそれ……!」

 

 憧ちゃんは、とうとうツッコミを諦めた。

 しずちゃんは山が大好きで、たまに冗談で「山の神様に助けてもらったのかもー」と言う時があった。

 そのときは、みんな冗談半分だったけれど、本当に神様に助けてもらっていたのかな。

 

「あのぅ。くろちゃんと、穏乃ちゃんは、大丈夫なんですか……?」

「……問題ない、とは言えないわね。神様が宿った人は、周りに良くも悪くも大きな影響を与えてしまうことがある」

「歴史の教科書に出てくる偉人の半分くらいは神様が憑いていた人だから……ああいうのを想像してほしい……」

「マジですか」

 

 ジャンヌ・ダルク、マザー・テレサ、あとは……どれも本当に、凄い人ばかりが思い浮かんで、冷や汗をかいた。

 

「ですが世の中には八百万の神というように、数え切れないほどの神様がいます。善いものだけではなく、世に出れば害を為す、恐ろしいものもいます」

「だから、人に宿った強い神様を放っておけない……二人ほど神様の気配を出す人、見たことない」

 

 そこで永水の巫女さんは、言葉を区切る。

 わたしが息を吐き出して混乱していると、石戸さんがわたしに言った。

 

「……そうだわ。玄さん。目を瞑ってみてくれるかしら?」

「え? は、はいっ」

「その状態でわたしの方に意識を向けてみて。何か感じたら、教えてもらえるかしら」

「……?」

 

 よくわからないまま、目を瞑って、言われた通り意識を向けてみる。

 真っ暗な世界では、当然何も見えるはずもない。みんなの息遣いだけが聞こえる……はずだった。

 

 すると。

 この巫女さんからは何だか”普通じゃない気配”が出ていることに、気づいた。

 

(……なんだろう、これ)

 

 麻雀を打っているときのように、より深く、その気配に向けて意識を落とした。

 周りの音も、空気も聞こえなくなるほどに集中して正体を探る。

 

 すると、脳裏に浮かんでくるのは、ぼんやりとした白いイメージだ。

 闇の中に浮かぶ不定形の、とぐろを巻いた鮮明な、名状し難い白の身体。

 

 それは不自然に渦巻く白霧の中で蠢いた。

 そして、刃のような黄光の瞳に身が貫かれて、思いっきり目が覚めた。 

 

「っ!?」

 

 相変わらず、石戸さんは微笑んだままそこに座っている。

 わたしの額には汗が滲んでいた。恐ろしさに、ぶるりと太ももが震える。

 

「……玄さん? な、何があったんですか」

「わ、わかんない……でも、今のは……?」

「やはり見えるのですね……あれが私の神様なの、怖い思いをさせてごめんなさい。目には見えない存在がいることを、体感として知ってほしかったの」

 

 これ以上踏み込んではいけないような気がして、わたしはそれ以上、目を瞑って意識を澄ませようとはしなかった。

 膝の上で、汗ばんだ拳を握りしめる。

 いま見えたものは紛れもなく現実だった。一瞬だけ垣間見たものは、目には見えない存在だと分かった。

 さっきまで、どこか半信半疑だったのに、今はすっかり他人事ではなくなっていた。

 

「……わたしたち、どうなっちゃうんですか?」

「怖い神様なら祓わなきゃいけない。そうでなければ、大丈夫。でも……ここじゃ、確認できない」

「確かめなければいけないわ。放っておけば、一人だけでなく、周りも危ない目に遭ってしまうかもしれないから」

 

 わたしが、言葉も出せずにいると、隣の部屋で望さんと話していた巫女さんが、静かに戻ってきた。

 その人は石戸さんに耳うちして、再び背後に控えた。

 

「霞さん、どうでした……?」

「今、許可は頂きました……話の途中にごめんなさい。どうしても、確認しなければいけないことがあったの」

「あの……わたしたち、どうすればいいんですか?」

「今までの話を踏まえて、皆さんに、霧島の人間として提案したいことがあります」

 

 ついに本題に入るのだろう。石戸さんの雰囲気が変わって、わたしたちは身構えた。

 底知れない巫女さんが、わたしたちに提案した。

 

「一度、皆さんで、鹿児島まで来ていただけないでしょうか」

「……えっ?」

 

 



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第13局

 今年の夏、阿知賀女子麻雀部の前身となる四人のチームメンバーが集まった。 

 

 わたしたちは、かつての仲間であった和ちゃんがインターミドルで優勝したことを切っ掛けに、来年の高校生麻雀大会――インターハイに、みんなで出場することを決意した。

 そして始まった観戦のための東京の旅は、意外な形で幕を閉じることとなった。

 

 

 

 旅から帰ってきて、数日が経った頃、わたしは実家の床で湯飲みを手にしていた。

 こたつの前に座って、じっと茶柱を見つめていると、おねーちゃんがおせんべいのお椀を持ってきてくれた。

 

「お菓子持ってきたよぅ」

「あっ、ありがとう、おねーちゃんっ」

 

 受け取ったお盆の中から、一枚を口に含んで噛みしめた。

 おねーちゃんは、こたつに足を入れると、よしよしと心配そうに膝を撫でてくれる。

 

「くろちゃん、体調悪くなったら遠慮しないで、すぐに言ってね……?」

「ごめんね、心配かけちゃって……すっかりインハイどころじゃなくなっちゃったよね」

 

 おねーちゃんはわたしを撫でながら、不安げにマフラーの中に口元を埋めた。

 そんなおねーちゃんの頭を、今度はわたしが大丈夫だよと、撫で返した。

 

「……それにしても、急に暇になっちゃったねえ」 

「うん。ずっと、みんなで麻雀いっぱい打ってたから……」

 

 最近は東京への旅の用意で忙しかった、ということもあったが、それ以前に麻雀漬けの毎日だった。

 しかし、今はそうもいかない。

 

 家に帰った後、わたしたち四人は麻雀をすることを、永水の巫女さんから禁止されてしまったのだ。

 牌に触れるのはもちろん、できれば観戦なども避けた方がいいと言われた。

 

 もちろんこれは、短い間の話ではあるが、最近は麻雀漬けだったせいで物足りなく感じてしまう。

 すっかり暇を持て余してしまったわたしは、本を読んだり、散歩したりして休みを過ごしていた。

 

(しずちゃんや憧ちゃんは、どうしてるのかな)

 

 その中でも、いつも全力で麻雀をやりたがったしずちゃんが、特に気になった。

 さっき電話してみたら圏外のメッセージだった。もしかすると、いつもみたいに山に行っているのかもしれない。

 

「……おねーちゃん。わたし、やっぱり前と変わったのかな」

 

 考え込んでいると、不安になってしまって、そう聞いてみた。

 でも、おねーちゃんは首を傾けて微笑んだ。

 

「くろちゃんは、くろちゃんだよ。前と何も変わらないよぅ」

「そっか……ありがとう」

「はわっ!? くろちゃん……うん。よしよし」

 

 おねーちゃんの胸に飛び込んだ。

 ぽふん、とやわらかいおもちに顔を預けると、優しく背中を撫でてくれた。いつの間にか入っていた力が緩んだ。

 永水の巫女さんは、わたしたちに神様が宿っているかもしれないと言った。

 その心当たりはあった。わたしの中で、何かが変わったことを感じていたから。

 でも、その正体がわからない事が、とても不安だった。

 

「まだ、変な夢……見るの?」

「うん……」

 

 特に最近は、変な夢を見るようになった。

 その夢で、わたしはいつも、桜の木の下に座り込んでいる誰かと話している。

 顔も、何を話していたのかも思い出せない。でも目覚めた時に、すごく悲しい気持ちだけが残っている。

 目から理由のわからない涙が溢れて、胸が締め付けられるように辛くなるんだ。

 大切なことをこぼしてしまったような、虚しい感覚。あの夢は、きっと関係してるんじゃないかと思う。

 

「でもね。ちゃんと知っておかなきゃいけない気がするの。何か大切なことを忘れているような、そんな風に思うんだ」

「……そっか」

 

 おねーちゃんはそれ以上何も言ってこなかった。

 わたしは、抱きしめられながら、あったかくて柔らかいおもちの中に顔を埋め続けた。

 

 

 

 

 

 夏休みに、わたしたちが鹿児島に行くという噂は、どこからか広まったらしい。

 しかし神様の話は、ただの旅行として伝わっており、たまに道で会う同級生に声をかけられるたびに羨ましがられた。

 二度目の大旅行の日が近づいてきた日、旅行の用意のため、わたしたちは再び集まった。

 

「東京の次は鹿児島かあ……こんな大旅行を経験するのって、うちらだけよねえ」

「ちゃんと、お土産を買う用意もしていかないとっ!」

「鹿児島って何があったっけ。えっと、なんとか山……火山の……」

「それって桜島のこと? それの他にも、温泉や屋久島が有名なんだって」

 

 奈良に帰ってきた頃は緊張感があったのに、今は神様どころか、観光地をどう楽しむかという話に、すっかり変わっていた。

 もちろん忘れたわけではなかったが、今度は観光の時間も十分にあるのだと言われて、事情はすっかり変わった。

 しかも、今回の旅費は全額、向こうの人が出してくれるのだという。

 みんなの親は最初は苦い顔をしていたけれど、「タダなら……」とか「ま、学生のうちの思い出作りにもなるわよね」という感じで、予想以上に簡単に認めてくれた。保護者に関しても、新子家が向こうの家の身元を保証したため全く問題はなく、その上霧島の人も各家庭に電話をかけて、わざわざ事情を説明してくれたようだ。

 せっかく来るのだからと、自由に観光できる日を用意してくれた向こうの人には、頭が上がらない。 

 

「そういえば憧ちゃん。その雑誌は……?」

「そういう話のために、持ってきたのよ。旅行会社の観光案内。ちゃんと四部づつ!」

「おおおっ!!」

「憧、最高っ! 愛してる!」

 

 鼻高々な憧ちゃんも、しずちゃんも、やっぱり目的を忘れてしまっているみたいだった。ちなみにこのときは、わたしたちも忘れていた。

 白色電球に照らされるオーク色の木天井の下で、わたしたちはパンフレットを見て目を輝かせる。

 

「海!」

「九州の温泉!」

 

 写真だけで、ものすごく夢が広がっていく。

 なんせ旅の期間は、四泊五日。

 そして綺麗なビーチの写真に、いてもたってもいられなくなったわたしたちは、勢いのままショッピングモールに出かけた。訪れたのは、水着売り場だ。

 試着室のカーテンを開くと、いつも以上に小刻みにふるふると震えながら、恥ずかしそうに胸元を抑えつつ水着姿を見せてくれる。

 

「ど、どうかな……うぅ、この格好寒いよぅ……」

「おねーちゃん、グッジョブ」

 

 鼻血を拭って親指でグーを作る。やはり、おねーちゃんのおもちは最高ですのだ。

 もう一方の試着室のカーテンが開くと、憧ちゃんが一歩おののいた。

 

「うわっ、それ二人とも超似合ってますよ!! むぅ、わたしも二年後にはああなれるのかな……?」

「どしたの憧、難しい顔しちゃって」

「な、何でもないわよっ! ……はぁ、ほんとに二人ともスタイルいいわあ」

「宥さん、水着でもマフラーだけは外さないんですねぇ」

「海用の防水マフラー……売ってないかな……?」

「いやいやいや。そんな季節感のない商品存在しませんから」

 

 みんなが首を横にふると、おねーちゃんは残念そうにしゅんと俯いた。

 

「シズも選びなさいよ。気に入ったのとかないの?」

「うちにもう水着あるからいいの、いいの」

「あんたの言ってるのはスク水でしょうが!」

「いや~ぴったりだからねぇ。あれがお気に入りなんだよ」

「そんなこと言ってないで、選んであげるから来なさい! 一人スク水が混じってたら、あたしまで恥ずかしいでしょうが……」

 

 なんていう感じで、わいわいはしゃぎながら、わたし達はピンク色の水着を購入した。

 そして他の日焼け止めなんかの旅行グッズをひととおり買い揃えたり、他にも必要な道具を買ったり、有意義な休みの日を過ごした。 

 そして、そんなことをしているうちに、その日がやってきた。

 

 

 

 その日、わたしたちは、朝焼けを背景に駅に集合した。

 今回の目的地は東京都と真逆の九州、鹿児島だ。

 わたしは麦わら帽子をかぶり、おねーちゃんいつも通り。憧ちゃんはしっかりサンバイザーで日焼け対策をしている。しずちゃんもいつも通り、半袖ジャージという姿だ。

 

「ん、憧。どしたん?」

「いや……格好はもう年中それだから突っ込まないけど。その荷物の量で大丈夫なの?」

「うん。ぎゅーって詰めたら入ったから」

 

 みんなスーツケースに荷物を詰めて装備も整っている中、しずちゃんだけがいつもの格好といつもの鞄だ。

 ぱんぱんに詰まっているけれど、絶対に、荷物は入らないと思う。

 ……そう思ったいたけれど、あとで見せてもらったら、わたしの荷物とほとんど同じ量が詰まっていた。とても不思議だ。

 

「玄、宥。気をつけていきなさいね」

「うん、ありがとう、おばーちゃん」

「うん……いってきます」

 

 わたしたちは、おばーちゃんが。しずちゃんはお母さん、憧ちゃんは望さんとお母さんが見送りに来ていた。

 そのあとは、みんなで列車に乗り込み、始発の電車がゆっくり発車する。窓の外に顔を向けると、みんなの親が手を振ってくれていた。

 しずちゃんが窓を開けて顔を出し、ポニーテールを靡かせながら元気に叫ぶ。

 

「みんな、いってきまーーーすっ!!」

 

 開いた窓から入ってくる風で、わたしたちの髪もほどけた。

 まだ青く染まりきっていない日の出前の空に向かって、わたしたち以外誰も乗っていない列車が走り出す。

 これからのことを想うと、さらに胸の鼓動が激しく鳴りはじめる。

 それから、車内でみんな顔を見合わせて、示し合わせたように満面の笑みを浮かべる。

 

「いくぞっ、未来の阿知賀女子麻雀部。いざ鹿児島へっ!」

「おーっ!!」

「おー!」

「おー……!!」

 

 みんなで一斉に腕を上げて、新たな目的地を目指した。

 



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第14局

 前回は新幹線での移動であったが、今回受け取ったのは飛行機のチケットだ。

 案内に従って、列車を乗り継いで空港までたどり着くと、そこでまた驚いた。

 

「わーお……大きい。受付は……ほんとにひろすぎっ!?」

「いろんな航空会社が入ってるからねえ。受付とかも分かれてるし。あたしたちはあっちよ」

 

 憧ちゃんにならってスーツケースを引いて自動ドアをくぐる。

 巨大な電光掲示板や、テレビでしか見たことがなかった会社のロゴが、そこら中に点在していた。

 感じたことのない雰囲気に目を丸くする中で、憧ちゃんだけが慣れた様子で進んでいく。

 

「憧ちゃん、こういう旅にも慣れているの?」

「神社の集まりとかで使うことがあるんですよ。春っちと知り合ったのも、奈良じゃなくて、東京のほうなんです」

「憧ちゃん……頼りになるよぅ」

「これだけ広いと迷子になりそうだなぁ……頼りにしてるっ!」

 

 なんて風に、憧ちゃんに頼りながらも空港のお店を楽しみつつ、時間になると飛行機に乗り込んだ。

 飛行機の中は、想像よりもずっと広くて、わたしたちに割り当てられた左隻のシートはふかふかで、足を伸ばす余裕もある。列車よりも、ずっと快適だ。

 しずちゃんは軽くバウンドしながら、その心地を楽しんでいる。

 

「おおっ、これはすごいねえ。飛行機ってすごくいい乗り物だね!」

「ふかふか……ふぁぁ。ここすきぃ……」

「憧、どしたの。難しい顔して」

「……この席ってまさかファーストクラス……いや、考えるのはやめよう」

 

 人生で初めての飛行機は、それはもう素敵だった。

 奈良で、うちに泊まってくれるお客さんも、こんな風にわくわくした気持ちで来てくれていたのだろうか。

 わたしは、旅に出る側になった経験はあまりなかったので、とても新鮮だった。

 

 窓に釘付けになっていると、やがて無事に飛行機は飛び立った。

 窓の外をみんなで見て、でも、そのあとはだんだん言葉が出てこなくなってきた。

 

「……すぅ」

「ぐがー……」

 

 みんな早起きだったから、疲れちゃったみたいだ。

 おねーちゃんはわたしの肩に体を寄せて、しずちゃんは腕を組んで、鼻ちょうちんを膨らませながら寝入ってしまっている。

 

「まだ長いですし、あたしもちょっと寝ますわ」

「わたしも。起きたら鹿児島だと思うと、ドキドキするねっ」

 

 憧ちゃんも、よりかかられているしずちゃんを邪険にすることなく、そのまま目をつむった。

 わたしもおねーちゃんの肩をそっと撫でて、幸せそうな寝顔を眺めているうちに……いつの間にか、うとうとと、瞼が落ちていた。

 

 

 

 

 

 わたしは、いつもの夢を見ていた。

 見渡す限り続く広い草むらにある小さな丘、そのぽつんと立つ一本の桜の下に立っている。

 そこはは春のような心地いい風が吹いていた。幹のもとに、誰かが座っているのを見つける。

 

『――――!』

 

 黒い人影に、わたしは近づいて、何かを伝えようとした。

 でも、声は届かない。しだいに、景色は遠くに離れていってしまう。

 

 視界が暗闇に包まれて、薄目を開けると、そこは飛行機の中だった。

 

 

「あ、っ。あぅ、夢……?」

 

 飛行機のごぅ、という低い音が聞こえ続けている。そばにはおねーちゃん寝顔があった。

 ……また、あの夢だ。上の表示を見ると、まだ到着は先みたいだ。

 そっと静かに席を立って、キャビンアテンダントのおねーさんにお茶を貰って、自分の席に戻った。

 

「……ふぅ。最近、ずっとこの夢を見るよ」

 

 ひんやりと冷えたお茶が体の中に入って、目を覚まさせてくれる。

 今日は以前よりもはっきりと、夢の景色を思い出せた。

 この夢を見るのは初めてじゃない。

 みんなで一緒に、毎日麻雀を打つようになってから、この夢を見るようになった気がする。そして胸の中に残っているのは、やっぱり切ないような気持ち。

 

「あの人は、誰なんだろう」

 

 桜の木の下に座っている人を思い出すと、胸が切なくなる。

 どうしてそんな気持ちを抱くのか、その理由は全くわからない。でも不快な感情ではなかった。

 永水の人が言っていた「神様」がわたしの中にいるなら、この不思議な夢は、絶対に関係があると確信していた。

 

「……この旅で、なにか分かるのかな」

 

 誰にも聞こえないような呟きは、小刻みに揺れる車体の音に吸い込まれて、消えた。

 憧ちゃんによりかかるようにして眠るしずちゃんは、この夢を見ていないらしい。

 ……旅の前に聞いたときは「え、なんですかそれ」って言われてしまった。

 

 わたしは、このモヤモヤとした気持ちを晴らすことを願っていた。

 そんな密かな思いを抱きながら、窓の外を見る。そして、表情を変えた。

 

「……あ! みんな起きて、見えたよっ!」

 

 おねーちゃんも、しずちゃんと憧ちゃんも、わたしの声でうとうとと目を開けた。

 向こう側には、丸い離島に浮かぶ大きな山がしっかりと見えている。あれは、鹿児島の桜島だ。

 みんなお互いを見て、ぱあっと、明るくなった。

 

 

 

 

 

 キャリーバッグを引いて外に出ると、眩い日差しがわたしたちに降り注いだ。

 麦わら帽子を通り抜けて、太陽のあったかさが肌に伝わってくる。

 しずちゃんが真っ先に飛び出していき、腕をぐーんっと空に向かって伸ばし、背中も思い切り伸ばしていた。

 

「うおおおおおっ!! 鹿児島だーーーーっ!!」

「いや何も叫ばんでも……しかし、んーっ、いやあゆっくり寝れたわぁ……」

 

 二人を見て、わたしも同じように背筋を伸ばす……んーっ、ふう。気持ちいい。

 

「ふぁぁ……あったかぁい、こういう天気だいすきぃ」

「おねーちゃん! みんな行っちゃうよぅ、急いでっ!」

 

 ぽかぽかで、幸せそうに花のオーラを振りまくおねーちゃんの手を引いて、みんなの後ろを追った。

 九州のほうも、駅は人でいっぱいだった。

 みんなで手をつなぎながら、迷子にならないように次のローカル線を乗り継いで、目的の駅に到着した。

 霧島の駅。永水女子の高校の最寄駅であり、目的の神宮がある場所だ。

 

「へー。ここが霧島かぁ! めっちゃ緑いっぱい!」

「奈良も暑かったけど、九州まで来るとレベルが違うわね……っていうか、さっきから宥姉が外出るたびにトリップしてるんだけど」

「ふああぁぁ〜……」

「おねーちゃん、かえってきて? ……んー、あったかすぎて、幸せになっちゃってるよぅ」

「くろちゃあん、わたしね、今日からここに住むぅ」

「おねーちゃん!? だ、だめだよっ! みんな、い、今すぐ奈良に帰らないと、おねーちゃんとられちゃう!」

「いやいやーいま来たばっかですからねー」

 

 九州に取り込まれそうになったおねーちゃんを必死になだめながら、わたしたちは鹿児島入りを果たした。

 

 さっそく、周囲の森から騒がしいくらい蝉の鳴き声の歓迎を受けた。

 燦々と太陽の恵みが降り注ぎ、青々しい緑が空に向かって芽吹いてる。外気は自然の色に染まっており、美味しいその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 おねーちゃんは、相変わらずポカポカ陽気にマフラーの中で頬を緩ませて、憧ちゃんも心地良すぎたせいか、大きくあくびする。神社と同じ朱色の建物を歩きつつ、案内板に従って指定された出口に向かう。

 

「あれ、春さんじゃない? わたしたちを待ってるんだ!」

「ほんとだねえ……おーい!」

 

 さっそく、しずちゃんが見つけてくれた。

 駅の外に出てすぐ、車の乗降場に泊まってるワンボックスカーのそばに、巫女服の人がいる。滝見春さんだ。

 待ち合わせ時間は、ほとんどピッタリだった。

 

「ここで合ってたんだね。春っちひさしぶりー、って言うほどでもないか。わざわざありがと!」

「うん、よかった。迷わず来れた?」

 

 憧ちゃんが真っ先に手を振って駆け寄って、わたしたちも遅れて小走りで駆けていく。

 

「ちょっと寝過ごしそうで危なかったけどね。こっちは、あっついわねー」

「うん。でも憧もすぐ慣れる……皆さんも、久しぶりです。出発するので、どうぞ」

 

 一人の運転手の巫女さんに挨拶して、みんなで揃って乗り込んだ。

 車内は以外に広く、いつもと違う不思議な香りに包まれていた。

 わたしたちの一行を乗せたワンボックスカーは、駅を離れて、軽快なエンジン音をあげながら見慣れない道路を進み始めた。

 

「おおっ、見てみて。あそこに大きい山が見えるよっ!」

「えっと、地図でいうと……高千穂峰……かな?」

「ほんとだ! 登ってみたいっ!」

「山を見つけて、綺麗とかじゃなく、登りたいって感想が最初に出てくるのはあんたくらいよね」

 

 奈良とは随分違う景色で、ぜんぜん知らない街並みが続いている。みんな興味津々に、窓に視線を向けていた。

 すると滝見さんが、車のポケットからお菓子の袋を取り出した。

 

「あの。皆さんよかったら、これ……」

「黒糖、くれるの?」

「ん」

「ありがとうございます! 黒糖かぁ、なんか九州に来たって感じするっ!」

 

 しずちゃんが、真っ先に受け取って、ひょいと口に含んだ。

 んーっ、と目を瞑って口の中で転がす。

 

「んぐ……甘い。わたしこれすき! 春さんはこういうのが好きなんですか?」

「うん、好き……もう一個食べる?」

「いただきますっ!」

 

 好意的な反応に気をよくしたのか、しずちゃんにさらに一個差し出した。

 わたしも差し出された一個を受け取って、口に含んだ。

 独特の甘みがじわぁっと口の中で解けて、思わず頬が緩んだ……おいしい。ちょっとクセのある味だけど、それが舌の上で解けると、それがちょうどよく感じる。

 

「ところで、この車はどこに向かってるんですか?」

「まずは神社の神楽殿のほうに行って……それからは様子を見て決める予定……」

「あっ。あれがそうじゃないかな。ほら、あそこにおっきな鳥居があるよ」

 

 口の中に入れた甘味の余韻が無くなる前に、わたしたちを乗せた車は道路の巨大な鳥居を潜った。

 おお、入り口すっごい分かりやすい。

 敷地の山を登っているうちに砂利道に乗り上げて、建物の前で止まった。

 滝見さんに続いて降りると、みんな物珍しそうに辺りを見回す。ここはもう神社の敷地内らしい。

 

「おお、なんかすごい雰囲気ある建物だよ……! はえー、憧が言った通り、ほんとに大きいねぇ」

「……あ、荷物は車に置いておいて大丈夫。また、戻ってくるから。ついてきて」

 

 ここも有名な観光スポットと聞いていたが、参拝客が本殿に向かうのを横目に、わたしたちは関係者だけが入れる建物に踏み込んでいく。

 建物の独特の空気感。木の香りに、外とは一変して閑静とした、神聖な雰囲気だ。

 案内された奥の部屋の扉が開く。そこで、わたしたちは固まった。

 

「今から神聖な儀式を行いますので、皆様には体をお清めしていただきます」

「えっ」

 

 中で待っていた巫女さんに告げられて、始まったのは、予想もしなかった儀式だった。

 

「み、水……つめたっ!」

「ぁぅ…………」

「お、おねーちゃん!? おねーちゃーん!!」

 

 まず着替えさせられ、水で体を清めて、草で体を払われたりした。

 途中で、ひえひえな水を浴びたおねーちゃんが成仏しかけるというトラブルはあったものの、何とか全てを終えることができた。最後には、奥の部屋でじいっと待たされる。

 ちなみに、着替えたのは永水の人が着ていたのと同じ巫女服だ。

 

「んー、やっぱこの服慣れないや……」

「我慢するの。もともと遊びにきたわけじゃないんだから」

 

 しずちゃんがうへぇ、という表情で紅白のひらひらを、腕ではためかせた。

 

「憧はいつも着てるから慣れてるかもしんないけどさ。うー……なんかスースーして変な感じだなぁ」

「いつものジャージのほうがスースーしてそうなもんだけど」

 

 ぽつんと取り残されたわたしたちは、道場のような木造の部屋で息をついていた。

 少しの間だけそこで待たされていたが、やがて、わたしは鼻先を上げた。しずちゃんも、感じ取ったようだ。

 

「……っ、玄さん」

「うん……何か、来る」

 

 電気のように体を一瞬駆け巡った。

 建物自体が静かであるせいか、それは、より一層際立って感じた。

 圧力がかかったみたいに体が重くなってくる。近づいてくる強い気配が、そう感じさせるのだ。

 とん、とん。足音が聞こえてきて、止まる。

 

「失礼いたします」

「入りますよー」

 

 そして廊下から、同じくらいの年頃の三人の巫女が、扉を開けた。

 



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第15局

 三人のうち、巫女服に着替えた滝見さんと、あとの二人は知らない巫女さんだった。

 真ん中の人はそれほど歳が離れていない。

 わたしと同い年か、年上だろうか。赤髪の端正な雰囲気の、眼鏡でポニーテールな女の子だ。

 

(この人だ……!)

 

 そして右端の一人を見て確信する。

 今感じた濃い気配。わたしたちを迎えたおさげの小柄な身体の子は、ひどく危険な雰囲気を放っていた。

 幼い容姿と、前がはだけそうになる程度に着崩した巫女服に似合わない、禍々しく尖った空気。

 だが、その圧力とは裏腹に、ニコニコと純粋無垢な笑顔を浮かべていた。

 

「失礼します。奈良県の皆さん、遠くからお越しいただきありがとうございます。私は霧島神境、六女仙の一人。狩宿巴と申します」

「同じく六女仙、薄墨初美です。みんなよろしくですよー!」

 

 しっかりとした、そして無邪気な挨拶だ。

 視線が合った一瞬、赤い瞳の輪の中に不思議な力を見た。だが、その先を覗こうとすると圧力が消える。

 重苦しい気配から解き放たれて、息を抜いた一瞬。

 当の薄墨さんも、わたしを見つめていて、ずいっと顔を近づけてくる。

 

「……おおっ。これは、確かになかなかですねー……あたっ!」

「こらはっちゃん。初対面の人に失礼でしょ」

「うぅ、ごめんなさいですよー……」

 

 赤い髪の子に、ぽこんと叩かれて、涙目で頭を抑えた。

 まるで大人に叱られる子供のようで、さっきの重く尖ったオーラが嘘のようだ。

 すろと、しずちゃんが何かに気づいたように声をあげる。

 

「ああっ……永水女子のチームの人! ……あいてっ!」

「こっちも、指さすな」

 

 三人のうち、狩宿さんを指差し立ち上がったしずちゃんを、憧ちゃんがぽこんと叩いた。

 真ん中に座ってた狩宿さんが目を丸くする。その手を感動的に、ぎゅっと握りしめた。

 

「次鋒の狩宿巴さんですよね! インハイの試合見てました。感動しました! すっごく格好よかったです!」

「あら……本当? わたしは姫様ほど派手な活躍はできなかったけど、嬉しいわ」

 

 狩宿さんは、嬉しそうに、表情をほころばせた。

 あっ……そうだよ! 狩宿巴さんは永水女子の五人のメンバーのうちの一人だ。

 全国で戦った雀士の登場に、みんなの目が輝いた。しかし一方で、みんなの注目が集まったことで、薄墨さんがぷぅっと頬を膨らませる。

 

「むぅ。巴ちゃんだけずるいです。羨ましいのですよー」

「まあまあ。それで春ちゃん。こちらの二人が、例の高鴨穏乃さんと、松実玄さんよね?」

「は、はい!」

「はいっ!」

「ん……どう見える?」

 

 巴さんも真剣に。薄墨さんはしずちゃんをじいっと見て、指を口元に当ててむむむーと唸った。

 

「うーん、わたしも何となく感じるけど……はっちゃんは?」

「まず間違いないと思いますよ。うむむ、確かにこれは、よそじゃ難しいかもしれませんねー……」 

「なら、予定通り神境の方に行きましょう。用意は済ませてあるのよね?」

「はい……いつでも行けます」

 

 そこで、憧ちゃんが恐る恐る手をあげる。

 

「あのー……すみません。神境って、またどこかに移動するんですか?」

「ああ確かに、ごめんなさいね。説明していませんでした」

 

 巴さんは軽く頭を下げて、苦く笑った。

 

「この地には、霧島神境と呼ばれる場所があってね。そこは私たちにとって特別な、強い霊力の集まる、普通の人は入れない場所なんです」

「わたしたち霧島の人間にとっても、とてもとても、特別な土地なのですよー!」

 

 憧ちゃんとしずちゃんが顔を見合わせた。

 おねーちゃんが、おずおずと聞き出した。

 

「あ、あのぅ……普通は入れない場所に、入っても大丈夫なんですか?」

「神様の集まる特別な場所だけど……大丈夫。今回は特別、許可もバッチリ」

「確かに、外の人が来るのは超レアですねー?」

「ええ。でも、わたしたちが最大限、力を使う事ができるその場所でなら、より正確に”見る”ことができるわ」

 

 神社という場所で、一般の人が立ち入り禁止となっている場所は、それほど珍しくない。

 パワースポット、と言われているような場所だろうか。

 一体どんなところなのかと、想像を巡らせた。最近はずっと観光案内を見ていたけれど、霧島神境という場所に聞き覚えはなかった。

 

「じゃあ、どうやって向かうんですか?」

「まずは途中まで車ね。そこからは少し……そうね、三十分ほど山を登ることになるかしら。向こうで霞さんも待っているわ」

「山を登るんですか!?」

「こら、そこに反応しないの」

 

 巫女服のしずちゃんが、今までで一番、きらきらと目を輝かせた。

 

「あ、あのー……もしかしてこの格好で行くんですか?」

「はい。今日の間は、その格好で過ごしていただきたいと思います。そのほうが何かと都合がいいので」

「あの……ま、マフラーだけ、巻きたいです……」

「え? ああ、それは大丈夫よ。ごめんなさい、もしかして部屋の中寒かったかしら?」

 

 三人の巫女さんは目を丸くしたけれど、そそくさとどこからか取り出したマフラーを巻いて、やっと落ち着いたように息を吐いた。

 ……おねーちゃん、それどこから出したの?

 

「巫女服にマフラーって、ものすごくミスマッチですね」

「えへへ……あったかぁい」

「真夏ですよー?」

 

 薄墨さんは好奇心旺盛な子供みたいに、長いピンク色のマフラーをちょんちょんと触った。おねーちゃんは「?」を頭に浮かべて首を傾げる。

 あったかい九州に来ても、おねーちゃんはぶれないのだ。

 

 

 

 

 

 わたしたちは再び車に乗り込み、狩宿さんと薄墨さんを加えた八人を乗せて走り出した。

 ……巫女が八人ともなるとかなり目立ってしまうらしい。たまたま通りすがった参拝客の人に見られて、ちょっと恥ずかしかった。

 さっきと同じメンバーに狩宿さんを加えて、車は再び動き出した。

 

「うぅ、いっぱい人に見られたよぅ……」

「まあ宥姉はねぇ。巫女服にマフラーは流石にね?」

 

 人に一番見られていたおねーちゃんが、恥ずかしがって落ち込んでいた。

 よしよしと、憧ちゃんが頭を撫でた。

 

「あっ。最大限安全には気を払っているけれど、万一気分が悪くなったりしたらすぐに言ってください。強い霊力にあてられちゃう場合もあるから、遠慮はしないでね」

「今のところは全然大丈夫です。鹿児島まで来たのは、その土地に行くためだったんですね」

「ええ。全国にそういった場所はあって、それぞれ管理している人がいるの。どこでも問題はないのだけれど、わたしたちはここで生まれ育って慣れているので、今回はこの場所が最も安全と判断しました」

「そうですねー。それに、わたしたちが見なきゃいけない事情もありましたしー……むぐぅっ!?」

「えっ?」

「あっ、ううん。今のは気にしないで」

 

 薄墨さんが春さんに口を塞がれ、狩宿さんが笑ってごまかした。

 よくわからない世界ではあるけれど、なんとなく納得することができた。

 すると、しずちゃんが身を乗り出した。

 

「狩宿さん、薄墨さん。ちょっと聞きたいんですけど」

「巴でいいわよ。わたし敬語は苦手だし、そういうの気にしないから」

「わたしも、はっちゃんと気軽にお呼びくださいですよー。遠慮せずにどんどん聞いてくださいー!」

「じゃあ……巴さんと、はっちゃんさん。神境には、あの人もいるんですか?」

 

 しずちゃんは名前を言わなかったが、全員、一人の人物を共通して思い浮かべていた。

 

「それは察するに姫様のことですねー!」

「ええ。確かに霞さんも姫様も、今は神境におられます」

 

 永水の三人も理解しており、特に薄墨さんが自慢げに胸を張った。

 神代小蒔。

 今回のインハイで先鋒を務めた、わたしと同い年の子だ。

 三人ともそろって、神代さんを「姫様」と言った。

 姫様かぁ……たしかに、そんな感じの雰囲気の子だったなぁ。

 

「神代小蒔……そっか。永水女子のテリトリーに来たのよね、あたしたち」

「はわわわっ……」

 

 挨拶のときや、最初のうちはおっとりした人だなあ、なんて思っていた。

 対局が始まると、凄い気迫で卓を圧倒した。

 運の流れを支配し、そして神掛かった闘牌をわたしたちに魅せつけた。

 その強さは、永水女子を決勝戦に押し上げたのは神代小蒔、という題で記事が作られるほどだ。

 

「じゃあ、もしかして会えちゃったりとか……!?」 

「うーん……会えるかどうか、私では分からないわ」

「姫様は、いまは神境の奥で修行中……私たちでも入れない場所」

「そうですか……」

「でも、神境に滞在していれば、機会はあると思うわ。そうね。わたしたちも、しばらくお会いしていないから……そろそろ区切りの頃じゃなかったかしら」

 

 残念ながら巴さんは首を横に振って、しずちゃんが頭を落とした。

 宮永照に続いて、一躍“時の人”となった神代小蒔は、個人戦のあとはすぐに霧島に戻ってしまった。

 マスコミの前に出ることはほとんどなく、インタビュー等が非常に少ないせいで情報もない。彼女のミステリアスな雰囲気に惹かれて、今やさまざまな憶測や期待が高まって、麻雀の界隈では非常に盛り上がっている最中だ。

 

「チームメンバーですし、やっぱり仲もいいんですか?」

「うん……姫様とはいつも、一緒に遊んでる」

「それってもしかして、麻雀ですか?」

「ええ。いつも姫様とわたしたちで、一緒に打っているんです」

 

 テンションが復活して、最初よりもますます上がっていった。

 

「すごい、羨ましいっ……! はっちゃんさんも、すごい気配ですけど、麻雀強いんですかっ!?」

「ふぇ。私ですかー?」

 

 自分を指差してぽかんと口を開ける薄墨さんに、はい、と頷く。

 初美さんと、残りの二人の巫女さん同士が顔を合わせて、しずちゃんに問い返す。 

 

「どうしてはっちゃんを? 今まで、表で麻雀を打ったことはなかったと思うのだけれど」

「え。だって、薄墨さんって絶対麻雀強いじゃないですか」

 

 しずちゃんは当然のように頷いて、それから、わたしにも同意を求めてくる。

 少し考えてから、わたしも同じく肯定するように頷いた。巴さんの視線が細まる。

 

「……どうしてそう思ったのか、聞かせてもらえないかしら」

「え。うーん……うまく言えないんですけど……会場で神代さんの試合をやっていたときと似てる、ちょっと不思議な雰囲気を感じて」

「なるほど……興味深いわね。やっぱり麻雀をやっている子は、他より感受性も高いのかしら」

「ふっふっ。麻雀が強いかどうかは、後で分かるのですよー」

 

 しずちゃんの指摘に対して、不敵な笑みを浮かべて可愛らしく笑ってみせた。

 

「後で分かるって……?」

「それはお楽しみです。しかし神様を宿した人は、鋭くなるものなのですねー」

「そうだわ。はっちゃん。どうせだからいつもの“神様っぽいやつ”、見せてあげたら?」

「あっ、それなら任せてくださいー! ほうっ!」

 

 手を挙げると、ぼうっ、と手の先の虚空が勢いよく燃えだした。

 車内での突然の発火に、全員が慌てて身を引いた。その中から、木製の”何か”が、虚空から現出する。

 

「えっ……うおおっ!?」

「はわわわっ……!?」

「な、何もないところから炎が……っ!?」

「お、お、おば、おば……けっ……!?」

「安心してください、ただの仮面ですよー」

 

 出てきたその巨大な仮面をずらして、ひょこっと顔を見せてくれる。

 車内の天井まで届く奇妙な木製の仮面に、永水の人は特に反応がなかった。だが、わたしたちはそうではない。

 

「お、おねーちゃん! 気をしっかり保って!?」

「……うぅ、くろちゃんは……わたしが守るから……」

「おねえちゃぁぁーんっ!!?」

「憧、わたしさ。たまに山に登ってると、こんな感じの幻覚を見ることあるんだよね。今のは本物?」

「いやいや幻覚じゃないし……ないわよね?」

 

 おねーちゃんはひっくりかえって、憧ちゃんは目をなんども擦っていた。

 

「……驚かせすぎてしまったようですよー」

「ボゼじゃなくて、もっと普通のもの出しなさいよ……」

 

 バスの中が混沌としていると、車がガタンと、荒っぽく揺れ始めた。

 

「あ……そろそろ着く。揺れるから気をつけて。はっちゃん、それしまって」

「はいなのですよー。では、ん、しょっと」

 

 初美さんは、宙に浮かんだ炎の中にひょいと仮面を押し込んだ。

 蒼色に包まれたそれは、煙どころか煤一つ出さずに飲み込まれて跡形もなく消えた。

 いったいどこに行ってしまったのだろう。

 しずちゃんの鞄といい、おねーちゃんのマフラーといい、四次元にものをしまう能力は、それほど珍しくないものなのかもしれないと思った。

 

  



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第16局

 トランクに積んだ荷物がゴトンゴトンと揺れ動く。

 ちょっと椅子から腰が浮くほどの、荒っぽい道だ。見るとコンクリートの道は砂利道に変わっており、数十センチ先が草木の生い茂る深い森の中であった。

 かろうじて車が通れる程度の、厳しい山道を五分ほど走って、停車した。

 

 あたりに人の気配はない。降りてみると、虫の鳴き声が響き、空に鳥が飛び去っていった。

 登山者でさえ寄り付かなさそうな場所で、もちろん建物なんて見えない。本当にここで合っているのだろうかと、わたしたちは顔を見合わせた。

 

「車で行けるのはここまでね。移動するから、荷物を持ってついてきてもらえるかしら」

「えっ……もしかして、ここを歩くんですか?」

「他のルートもあるんだけれど、今回はここしか使えなかったの。ごめんなさいね」

  

 何かの間違いじゃないかと、憧ちゃんが春さんに視線で助けを求める。だけど、袋に入った最後の黒糖を口に運びながら頷いたのを見て、天を仰いだ。

 その一方、しずちゃんはむしろ目を輝かせて、大手を上げてぴょんっと飛び跳ねた。

 

「うひょー! 山だー!!」

「山登りかぁ……うーん、久しぶりだよっ。でも……荷物、どうしよう」

「あっ……」

 

 しずちゃんほど動けないとは思うけれど、そのくらいの登山なら何とかなりそうだ。

 でも、問題はこの大荷物だ。わたしたちは車のトランクに詰まった、大量のカバンやキャリーバッグを見てうなった。

 しかし、そこで初美さんが不敵に笑う。

 

「ふっふっふ……それならわたしに、おまかせあれ、なのですよー」

「どうするんですか?」

 

 リュックを背負った憧ちゃんが首を傾げた。最も小柄な体の初美さんでは、一つ持つのがやっとだろう。

 両手を上に持ち上げて、それから、思いっきり振り下ろした。

 

「こうしますー! えいっ!」

 

 ボウゥゥッ、と、わたしたちの荷物全部が蒼色の炎に包まれて、一瞬何が起きたのかわからなかった。

 後部座席がまるっと炎上して、みんな、いっせいに慌てた。

 

「え、ちょっ!? あたしたちの荷物がっ!?」

「うあ、わたしのお茶がっ!?」

「あっ……ごめんなさい。この山道だと大変だと思って、先に神境のほうに転送してもらったの」

「ご心配なく。いつでも戻せますよー!」

 

 後部座席は、すっかり空っぽになった。

 その横で手をもう一度振り落とすと、小さな炎が、しずちゃんの前に現れた。

 

「わわっ! ……っと、これ、わたしの鞄!」

「ふぅ。随分と重かったのですよー……」

 

「ありがとうございますっ! ……ふぅ。じゃあ水分補給も終わったので、さっそく行きましょうっ!」

「あ、ちょっとシズ! 道分かってるの!?」

 

 意気込んだしずちゃんは、そのままリュックを背負って、山道を自由自在にひょいひょいと動き回って見せた。

 その元気すぎる姿に、今度は巴さんのほうが目を疑った。

 

「凄いわね。穏乃さん、山に慣れているのかしら」

「あいつは小学生の頃から、暇さえあれば、いつも山を駆け回ってるんですよ。あ、戻ってきた」

「体力なら誰にも負けませんよ!」

「そういうレベル……?」

 

 そうして、永水の巫女さんに先導されて、わたしたちは山道を登り始めた。

 山道は歩きづらくて、少しづつ疲れはじめていた。そんな中で、有り余った元気を十全に発揮したしずちゃんだけが、先頭を譲らない。

 

「あの体力今だけ分けてくれないかしら……」

 

 と、憧ちゃんがぼやく。

 わたしも、おねーちゃんも、汗を流しながら山を登った。草むらや土で足場がしっかりしていないため、どうしても変な部分に力が入ってしまう。

 三人の巫女さんは、普段から修行を積んでいるためか、全く顔色を変えていない。

 しかし、しずちゃんほど元気が有り余っているわけでもない。

 

「ほんとに凄いのです。わたしも昔はバテバテになったのに、ですよー……」

「はっちゃん。最初は、いの一番に動けなくなってたわよねぇ」

「その荷物で、それだけ動けるのは凄い……」

「鍛えてますからっ!」

 

 いつの間にか、小高い岩の上に登ったしずちゃんは、ぐっと拳を握った。

 初美さんが、うむむ、とうなった。

 

「しずっちからは、今回わたしたちが視るものとは別の霊的な雰囲気も感じるのです。何か、修行のようなことでもしてたのですかー?」

「いやいや、わたしの親はただのお土産屋ですよぅ」

 

 しずちゃんは山が大好きだから、いつも走り回って鍛えられていることを、わたしたちは知っている。

 ひょいひょいと進んでいく後ろ姿は、まるで森に住み慣れている動物のようだ。

 

「巫女さんってどんな修行をするんですか?」

「一般的にイメージされるようなものは、一通りやった気がするわね……山を登る山伏っていう修行や、水業滝行とか。あとは姫様と麻雀を打つのも修行ね。あれは、むしろ楽しいのだけれど」

「分かります! 仲間と一緒に麻雀を打つの、すごく楽しいですよね!」

「ええ、だからインターハイで打てたときは楽しかったわ。来年は、みんなで出たいわね」

「はいー! 次はわたしの出番なのですよー! 全国大会の優勝はいただきますー!」

「いえ、そうはいきませんよ! 来年はわたしたちが優勝するので!」

 

 振り返ったしずちゃんが、不敵にぐっと拳を握った。

 それを聞いた三人の巫女さんは驚いたようだったが、むしろ、挑戦者の登場を喜んでいるようだった。

 

「なるほど。なら来年はお互い、ライバルになるかもしれないわね」

「はいっ! 負けませんよっ!」

「……とはいえ、見ての通り。まだチームメンバーは四人なんですけどね」

 

 まだまだ先は長い。本当にインターハイに出るとしても、課題は山積みである。

 しかし、絶対にインターハイに行きたいという想いだけは負けない。だから、全国に出場したチームに意識してもらえたことが、少しだけ嬉しかった。

 

「中学生から目標を決めて動いているだけでも、とても凄いと思うわ。わざわざ東京までインハイを見にきたのには、何かモチベーションがあったのかしら?」

「わたしは、麻雀でもっといろんな人と戦いたいんです。強い人が集まるのは、インハイじゃないですか!」

「なるほど、確かにその通りね」

 

 巴さんが、うんうんと頷いた。

 

「それと、わたしたちの仲間が、先に全国制覇を果たしちゃいまして」

「全国制覇ですかー?」

「はい。だから、わたしも、頂点を目指してみたいんです。和みたいにっ……!」

 

 首を傾げた薄墨さんに、春さんが補足するべく囁いた。

 

「多分、聞いていた原村和さんのこと……」

「……おお。インターミドル個人戦の人、ですねー!」

「はい。昔、和はわたしたちと一緒に阿知賀にいたんです」

「それも霞さんから聞いているわ。話に聞いた、例の日に、一緒に打っていたのよね」

 

 巫女さん二人の雰囲気が少しだけ変わって、初美さんだけが目を丸くした。

 

「それは大変なのですよー!? その方は今、どこにいるのですかー?」

「すみません。和とも連絡をとろうと思ったんですけど……その。よく考えたら、誰も連絡先を知らなくって……」

 

 わたしたちは、和ちゃんの連絡先が、分からなくなってしまっていたのだ。

 携帯の機種変更で引き継ぎを忘れていたり、データが見つからなかったりと、理由はさまざまである。

 

「ふむむ。なかなか難しい状況のようですよー……」

「大丈夫よはっちゃん。そっちはそっちで、色々考えているから」

 

 もしあの日のことが影響しているのなら、和ちゃんにも影響があったかもしれない。

 一応、以前に手紙を書いてくれていたので、向こうの住所は分かっている。

 いまは、今回の諸々の事情を書いた手紙を送っていて、その返事を待っている状態だ。そのうち連絡をくれるだろう。

 

「ニュースでは元気そうだったけど……和ちゃん、大丈夫かな?」

「和にもシズや玄みたいに、神様がついてたらどうする?」

「『そんなオカルトありえません』とか言って、ぜったい認めないと思うけどねー」

 

 しずちゃんの声真似が思ったより上手で、憧ちゃんが吹き出した。

 

「あはは、確かにそう言いそうだねぇ。でも、和ちゃんの牌譜。麻雀教室のときと、打ち方が変わってたよねえ」

「うー、こんなことなら、わたしもインターミドル出ておけばなー……」

「そんなことより、まずは、目の前のことをなんとかしないとでしょうが……ところで、なんか霧が出てきてない?」

「あっ、ほんとだね」

 

 足元を見ると、煙のようにな白い靄が絡み始めていた。

 少しづつ視界は白くなっており、空も、いつの間にか灰色に曇っている。言われて初めて、肌寒くなってきたのを感じて、おねーちゃんが震えはじめた。

 

「く、くろちゃん。なんだか寒くなってきてない……?」

「うん。天気も悪くなっているみたい……」

 

 さっきまで雲ひとつない、太陽を遮るものはなにもない清々しい快晴だった。天気の変わりが早すぎる。

 一歩を踏み出したとき、背筋が凍えた。

 わたしたちの歩く木々の隙間から、滲み出てくるみたいに霧が這い出している。まるで生き物のように、”それ”はわたしたちを包み込んできた。

  

「ちょ、ちょっと……何よこれ」

「これは……」

 

 徐々に濃くなってくのは、得体の知れない雰囲気だ。

 このまま歩くのは危ない。そう、確信を持って思えるほどに、視界が悪くなっていた。

 しかしそんな状況とは裏腹に、巫女の三人は平然と進んで行く。およそ数メートル先さえ見えなくなっているにも関わらず、顔色一つ変えていない。振り返って教えてくれる。

 

「心配しないで、大丈夫。もうすぐそこだから」

「ここは、この世と神境を繋ぐ境目だから、仕方ない……ちょっとだけがんばって」

「この世、って。えっ……?」

 

 前を歩く三人の巫女さんの背中を見失わないように、必死に追いかける。

 そして、少し前に進んだところで、霧が晴れて立ち止まった。

 ありえない光景が、広がっていた。

 

「あ……」

 

 地図では、ここは普通の山だったはずだ。

 てっきり山の中の小さな神社か、御堂のような場所を想像していた。だって、こんな場所があるなら、車の中で見ていた地図に書いてあるはずだ。

 まるで夢を見ているような気分、一人で頬っぺたを引っ張った……痛い。

 

「ここが、霧島神境……?」

 

 立ち止まったみんな、現実離れした光景に目を疑っていた。

 永水の巫女さんは、ここがとても特別な場所と言った。

 事前にそれを聞いていなくても、一目で、特別な場所だと分かった。

 

「ここが、わたしたちの守っている場所。神様の住まわれている世界と、この世界との境目です」

 

 物語の一ページに差し込まれる挿絵のようだ。

 

 窪地のように大きくへこんで、四方を苔むした灰色の岩壁に囲まれている。

 その大地に作られた、朱色の神殿で神を祀る聖域。

 まるで外界からの干渉を阻むように、切り立った崖は、剣のように天に手を伸ばすように続いている。

 ところどころに朱色の殿や注連縄で区切られた特別な土地が点在していた。

 目の前の、降りていく石畳の階段には、数百本の黒みがかった鳥居が地面の果てまで続いている。

 

 それを現実に目にしたわたしは、何の言葉も出てこなかった。

 



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第17局

 女仙の住まう隠された土地、霧島神境。

 いつの間に、その場所に踏み入ったのか、わたしには全くわからなかった。

 

「……これ夢じゃないよね」

「すごい……」

 

 こんな秘境がこの世に存在したのかと、声を出すことさえ忘れるほど、わたしたちはその景色に魅入られた。

 そうしていると、階段の下から登ってくる人影があることに気がついた。

 

 コツコツと、石段を音を立てて近づいてくる。

 霧のせいで最初は見えなかったシルエットが、徐々に鮮明になってくる。

 人類最高峰のおもちを認識した瞬間、それが誰であるかに気がついた。

 

「あら……もしかして、遅れてしまったかしら」

「あなたは、石戸さん……っ!?」

 

 丁寧な所作でやってきたのは、この場所にきて欲しいと提案した、石戸さんだった。

 わたしたちは、慌てて頭を下げた。

 

「どど、どうも。この度はお招きいただきまして、その」

「呼び出してしまったのはこちらの方なのだから、そんなに畏まらないで。巴ちゃん、はっちゃん、春ちゃん。三人ともお疲れさま。何事もなかった?」

「はい……」

「無事に来られました」

「問題は何もないのですよー!」

 

 三人の巫女さんも、石戸さんが訪れたことを喜んでいるみたいだった。特に初美さんは嬉しそうに両腕を持ち上げて、巫女服の袖を垂れさせた。

 石戸さんのおっとりとした雰囲気が、この土地の不思議な空気とあいまって、どこか神秘的なものに思えた。

 ……それにしても、やっぱりすごい。これは世界級、もう全国優勝だよ。

 

「おもち……おもちぃ……」 

「くろちゃん……? どうしたの?」

「……はっ!! ううん。何でもないよ、おねーちゃんっ」

 

 あ……危ない。こんな場所で、そんなことを考えていたら、罰があたっちゃうかもしれないよね。

 無心、無心だよ。考えちゃダメだ。

 わたしが目を瞑ってうなっているうちに、どんどん話は進んでいった。 

 

「このあとは予定通りでいいと思うのですよー。すぐにお仕事にかかりますかー?」

「いえ。皆さんも長旅でお疲れでしょうから、まずは宿に行きましょう」

「確かに。今日はノンストップでここまで来たから、疲れ……おや?」

 

 しずちゃんが目を瞬かせて、確かめるように腕を回した。

 

「んんっ。あ、あれ。なんか……」

「ほくほく……あったかい」

「……ん? んー、疲れが取れてるような。あれれ……?」

 

 長旅で疲れているはずだ。でも、さっきまで汗を流しながら、ここまでの道のりを歩いてきたはずなのに、体は全く疲れていない。それどころか、不思議な力が体の内側から満ち溢れてくる。手のひらを見て、握って、それを実感した。

 

「皆さん相性がいいみたいですね。この土地の霊力には、体力を回復させる効果もあるんですよ」

「おお……ここまで来るの大変だったはずなのに、普段より調子いいっ」

「和じゃないけど、こんなオカルトが本当にあり得るのね……」

 

 憧ちゃんがしみじみと呟いて、遠い目をした。

 

「さっそく行きましょうか。ここを降りていくので、もう少しだけ頑張ってください」

「了解ですっ!」

「そうそう、移動中はわたしたちから離れないでくださいね。この霧島神境には、立ち入ってはいけない場所も多いですから」

 

 巴さんが人差し指を立てて注意する。もちろん、言われなくても離れるつもりはない。ただでさえ広くて迷子になってしまいそうなのだから。

 

「急なので、足元に気をつけてください」

「おお、すごい鳥居の数だよ……」

「ここ、テレビ局入ったら凄い反響呼びそうね。京都のアレより多いんじゃないかしら」

「残念ですが、ここでは写真を撮っても何も映らないんですよ」

「神様のお家は撮影禁止なのですよー」

 

 不思議な世界の案内である余人の巫女さんと一緒に、階段を降りながらあたりを観察した。

 切り立った崖の建造物だけでなく、遠くの霧の向こうには恐ろしいほどに静かな海が見えている。空は紫色の雲が渦を巻いていて、見えるもの全てが現実離れした”異なる世界”という風であった。

 巫女さんと一緒だからこそ、この土地を覆い隠すような霧を抜けて、たどり着くことができたのだろう。

 この神様の世界に、わたしたち以外の生き物の気配はない。得体の知れない気配が、そこらを漂っているのを感じて、わたしは落ち着かず、両手を胸元に押し当てながら、あたりを見回した。

 

「ねえ、しずちゃんは何か感じる……しずちゃん?」

 

 横を向くと、しずちゃんは隣にいなかった。

 階段の途中で立ち止まっていて、遠くのほうを見つめていた。そこにあるのは石灯籠で飾られている、朱色に塗られた木造の階段だ。

 

「あそこに、何かあるの?」

「……前に、ここを見たことがあるような気がするんです」

「えっ?」

「あ、いえ。そんなはずないんですけどね。はは……あ、遅れちゃう。行きましょう!」

 

 しずちゃんは笑って誤魔化して、身軽に、階段を駆け下りていった。

 

「どうしたんだろう……?」

 

 何だか様子が変だったような気がした。でも、駆け下って普通に憧ちゃんと話している姿は、いつも通りだ。

 首を傾げながら、わたしも、遅れないように先に行ってしまったみんなを追っていく。

 石畳と砂利で整備された場所まで降りてきて、わたしとおねーちゃんは、石のベンチに座って一息ついた。

 

「はぁー、けっこう下ってきましたね」

「わわっ……くろちゃん、上の方、全然見えないよぅ」

「おお、本当だ……霧で真っ白だよ」

 

 たった今下ってきたばかりの階段が見えないくらい、上の方は非常に霧が濃い。

 足を休めていると、春さんが振り返って教えてくれる。

 

「あそこが、目的の場所」

 

 指し示したのは、舞殿のような朱色の建物だった。

 しめ縄で封じられた岩や、切り立った山々を覆う深い霧の中で、ひっそりと建っている。

 

「泊まるための場所は別だけど……少し覗いていく?」

「あたしは構わないわよ、っていうか全然元気だし。玄と宥姉は?」

「大丈夫……調子がいいから、いけるよぅ」

「わたしも大丈夫だよ」

 

 休憩を置いた後、みんな立ち上がって、舞殿のほうに移動した。

 案内されるがままに靴を脱いで舞台に登ると、広々とした木造の床が広がっている。

 しかし、そこにひっそりと置いてあるものを見て、目を丸くした。

 この神秘的な雰囲気に不似合いな、見慣れた緑のテーブルが備えられていたのである。

 

「麻雀卓……?」

 

 霧の中から現れたのは、座布団と麻雀の自動卓であった。

 真っ先に見つけたおねーちゃんとわたしの、あんぐりと口を開いた様子に、石戸さんがくすりと笑って答える。

 

「これってもしかして……」

「ええ。皆さんには、ここで打っていただこうと思っています」

「あの……打つって、え。それって!」

「はい。もちろんわたしたちが相手をいたします」

 

 みんな唖然とした。しずちゃんが石戸さんを見て、卓を見た。その往復を何度も繰り返す。

 

「それは、わたしたち、すごく嬉しいんですけれど……どうして麻雀なんですか?」

「説明の前に例のものを受け取っても構いませんか?」

「あ。えっと、わたしが持ってます!」

 

 しずちゃんが、自分のリュックを置いて中から取り出した。

 それだけでかなりの重さがある、厳重に風呂敷に包まれた木箱だ。封を解くと、焦げ茶色に変色した木箱が姿を表し、初めて見る憧ちゃんとおねーちゃんが、息を呑んだ。

 二人にも、永水の人にも、一年前のあの日の出来事は話してある。

 今回の原因となっているかもしれない麻雀牌が、霧島神境に持ち込まれていた。

 石戸さんが受け取り、手元に手繰り寄せる。初美さんも物珍しそうな顔を浮かべながら注視している。

 

「おぉー、これが例のものですかー」

「調べさせていただきますね。万一、危険なものであれば、神境でお預かりすることになるかもしれませんが……」

「はい。学校の備品ですけれど、事情を話して、許可は頂いてきました……よろしくお願いします」

 

 わたしたちは、みんなで頭を下げた。

 すると初美さんが箱の上で両手をかざした。難しい表情を浮かべながら、腕以上に伸びた純白の袖を伸ばす。

 紫色の炎が吹き出した。

 ボゥ、と箱が燃えて、それが消えたときには、チリどころか、何一つ残っていなかった。どこか別の場所に送ったのだろう。

 三度目なので心の準備もできていて、誰も驚かなかった。

 

「憧ちゃんも、修行したら同じことできたりするのかな?」

「いやいや」

「いつでもマフラー送ってもらえるねぇ」

「うぅ、玄と宥姉まで巫女のハードルを上げてくるよぉ……」

「まーまー。案外できるようになるかもしんないじゃん」

 

 憧ちゃんがさらに深く頭を抱えて、珍しくしずちゃんが慰めた。

 

「すでにお察しの通りだとは思いますが、今回は麻雀が大きく関係していると考えています。対局の際に、その能力が引き出されると推測したので、しばらく麻雀を禁止とさせていただいていました」

 

 それは、あの麻雀牌を持ってきてほしいと言われた段階で、何となくわかっていた。

 

「お二人に宿った”神”を観るためには、麻雀を行うのが最も適切だと判断しました」

「それで、麻雀……」

「ええ。幸いにも、わたしたちは麻雀に関して習熟しています」

「つまり、お互いに全力で打って、打ちまくるのですよー!」

 

 それを聞いた瞬間に、わたしたちの顔色が変わった。

 インターハイの学校の人に会いにいくと言っても、目的はお祓いだ。運が良ければ、と考えないことはなかったが、対局できない可能性も高いと考えていた。

 しかし、蓋を開けてみれば、本来の目的であった"それ"が麻雀を行うことだという。

 この時点で、全ての疲れが吹き飛び、しずちゃんがみんなの気持ちを代弁した。

 

「じゃあ、今からでも打っていただけるんですかっ!?」

「え、ええ。わたしたちは構いませんが……」

「長旅でお疲れではないのですかー?」

 

 しずちゃんが振り向いてくる。

 わたしも、おねーちゃんも、憧ちゃんも、みんな同じ表情を浮かべていた。

 麻雀がしたくてまらない。こんな素晴らしい状況になったのだ、乗り気にならないはずがない。

 

「霞さん、どうしますか?」

「……そうね。こちらとしては、滞在できる時間に限りがある以上、早めに目星をつけておきたいわ」

「まだ夜ご飯の時間までは遠い……」

「ふふ、わたしは、全然オッケーなのですよー!」

「なら、予定を前倒してしまいましょうか。巴ちゃん、春ちゃん、用意をお願いできるかしら」

 

 石戸さんに言われて、二人は頭を下げて、奥へと下がっていった。そして、思いついたようにぱんっと手を叩く。

 

「用意を整えている間に、説明をしてしまいましょう!」

「はるると巴ちゃんは、お祓い専門なので今回は打ちませんー。わたしと、霞ちゃんがお相手しますー!」

「ってことは、残りの席は二つ……」

 

 卓は一つ、そこに座れるのは四人だ。

 わたしはしずちゃんと顔を見合わせるが、石戸さんが笑顔で首を傾けた。

 

「玄さんと穏乃さんのどちらか一人と、もう一人を決めなければいけないの。二人いっぺんには見られないから……」

「おっと、それはそうですね。どうしましょう」

「……しずちゃん。わたしに、先にやらせてもらえないかな」

 

 そう言うと、みんな少し驚いたような顔をした。

 

「玄、珍しくすごいやる気ね。なら、あたしより先に宥姉のほうがいいわね」

「了解です。頑張ってください、玄さんっ!」

 

 しずちゃんと憧ちゃんが応援してくれて、少しだけ心強い気持ちになれた。

 わたしは、よく見るようになった”夢”のことを考えていた。この対局で、あの切ない気持ちの正体が掴めるかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなかった。少しでも早く知りたかったのだ。

 

「くろちゃん……」

「大丈夫だよ、おねーちゃん。お願いねっ!」

 

 そして決まれば、もう不安はない。

 おねーちゃんと一緒に、卓にわたしたちを招く大小の巫女二人と対峙する。

 

「ふむ。では、始めましょうかー……!」

「松実玄さん、宥さん。よろしくお願いしますね……ふふっ」

 

 目の前の卓につくための体力は十分だ。

 わたしの胸が、ひときわ大きく脈を打ったのを感じて、服の上からそっと手で押さえた。

 ずっと胸につまっているものの正体が、少しでも見えることを、わたしは強く願った。

 

 



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第18局

 阿知賀の麻雀部を復活させると決めてから、ずっと外の人と打ちたいと思っていた。

 全国の舞台で勝ち抜くためには、仲間内だけで打っていていいはずがない。強くなるためには、いっぱい色々な人と戦わなければいけない。昔の麻雀教室の先生も言っていたことだ。

 

『憧は知り合いで麻雀打てる人とかいないの?』

『阿田中にならいるけど……別なところに行く手前、頼みづらいかも』

『玄さんや宥さんは?』

『うーん、わたしは難しいかなぁ……おねーちゃんは?』

 

 おねーちゃんもあてはないのか、首を横に振った。

 しかし、麻雀が強い人はほとんど晩成高校に行ってしまうので、どうしても経験者は少なくなってしまう。かといって阿知賀は中高一貫校。外部の人に知り合いがいるのは、阿田峯中学の憧ちゃんくらいだ。 

 いまのわたしたちに欠けているのは、指導してくれる人と、最後の一人になるチームメンバー。そして経験だ。

 最後の一つのピースは、しばらく埋まることはないだろうと、そう思っていた。 

 

(いきなり、インターハイ全国の強豪校と打てるなんて思ってなかったよ……!)

 

 目の前に立ちはだかっているのは、遥か遠くにあるべき、目指すべき頂の一角。インターハイ団体戦決勝戦で大将を務めた石戸霞さんが同じ卓についている。

 それだけじゃない。もう一人の薄墨初美さんも、卓についてから、得体の知れない紅色の気配を放ち続けて、確実に只者でないことを伝えてくる。

 二人からは、麻雀が強い人の気配が漂っており、相当の実力者であることを疑う余地はない。

 

「これで説明は以上だけれど、ルールで何か質問はあるかしら」

「えっと、基本的にインハイとルールは同じ。加えて、途中で誰かが中断を申し出るか、わたしか石戸さんが飛ぶまでずっと卓を続ける……っていう理解で合っていますか?」

「はい。なのでわたしとゆゆゆーは飛びなしで続行ですよー」

「ゆゆゆ……?」

 

 おねーちゃんはぽかんとして、それから、自分を指差した。初美さんはうんうんと頷いた。

 松実宥だから、ゆゆゆー……っていうことかな?

 後で見ていた憧ちゃんが手をあげた。

 

「つまり玄は、石戸さんを倒さなきゃいけないってことですね」

「はい。それと、宥さんと、はっちゃんは条件から外れますが、お互いのパートナーと歩調を合わせて打ってください」

「ゆゆゆ……」

 

 おねーちゃんは、ぼんやりともう一度、自分についたあだ名をつぶやいていた。

 要するに、わたしは石戸さんを相手に真っ向から25000点を削りとらなければいけないらしい。

 

(これは、なかなか厳しい戦いになりそうだよ)

 

 石戸さんの打ち方は知っている。

 この打ち手を相手に、点数を削り取らなければいけないという条件は、かなり厳しいはずだ。

 

「この条件にする理由は、できる限り長く"見る"ため、そして、できる限り危険を回避するためです」

「用意は、これでもかというほど万全に整えました。はるる、巴ちゃん!」

「はい。これで、バッチリ準備は整いました」

 

 戻ってきた二人は、しずちゃんや憧ちゃんの側に戻ってきて、待機していた。

 舞殿の外から人の気配を感じた。きっと、今から始めることを報告しに行っていたのだろう。

 

「最後に一つだけ。この勝負は、どちらが勝っても、何かを得るわけではありません」

 

 石戸さんの穏やかな表情は、毅然とした巫女の顔に変わっていた。

 

「……ですが、私もはっちゃんも、全身全霊でお相手をいたします」

「霞ちゃんと一緒に、本気で潰しにかかりますので、全力で抵抗してくださいねー……!!」

 

 ドキドキして、楽しくて、腕が僅かに震えた。

 手のひらがじわり暑くなるのを感じる。開いた目には炎が宿り、胸に熱い想いが燃え盛った。

 背筋を悪寒が駆け抜けるのを感じながら、わたしは笑っていた。

 石戸さんと薄墨さんは、一切手心を加える気がない。

 

「はわわ……」

 

 おねーちゃんも今の圧力を感じたのか、さっきよりも顔色が悪くなった。

 でも、これは唯一無二の機会だ。今の自分がどこまでインターハイに通用するのか確かめる絶好のチャンス。

 

「がんばってください玄さんっ!」

「宥姉、ファイト……!」

 

 背後からの応援に応えなければいけない。わたしは、親決めの賽から視線を外して、最強の相手に向かい合った。

 

「お願いします……」

「お願いしますっ!」

「お願いするのですよー!」

「ふふ。お願いしますね」

 

 わたしも本気で、攻めていこう。今から頂点を超えるんだ。

 

 

 

 

 

東一局0本場 親玄 ドラ{二}

 

玄手牌

 

{二}{二}{二}{三}{七}{二筒}{三筒}{四筒}{二索}{四索}{九索}{西}{西} ツモ{三索}

 

 賽が周り、配牌が開く。最初のツモが手の中に舞い込んだ。

 牌はわたしの想いに答えてくれていた。

 手の中には種火が舞い込んでいる。ドラには炎が灯っているのが分かる。この手を完成させれば、場全体を燃やす炎になって、勝利に導く最初の一手になるだろう。

 ……しかし、真っ直ぐにこの手を進めればいいというものでもない。

 

(すぐに攻める、というのも間違いじゃないと思うけれど……)

 

 速攻で決めるほうがいいと思いながらも、相手の出方をゆっくりと見ていたい気持ちもある。 

 なぜなら、麻雀は相手を知ることが何よりも肝心だ。

 

(初美さんはわからないけど……石戸さんは、防御の打ち筋だよね)

 

 二人とも麻雀が強いということは分かっているものの、明確な情報があるのは石戸さんだけだ。

 石戸さんの打ち方の最大の特徴は、守りの硬さだ。

 絶対に振り込まず回避してくるうえに、和了できるところで堅実に手を進める。流すタイミングも上手い。常に危険を察知して動いており、『防御は最大の攻撃』を体現する打ち手である。

 そういう意味では、石戸さんから点を奪うのは、普通なら、なかなか厄介だろう。

 わたしは石戸さんの手牌……の向こうの、世界級のおもちをじいっと見つめ続けた。

 

「ふふっ。わたしの手牌を見つめて、どうしたのかしら、玄さん」

「ふぉっ、な、なんでもないのです!」

 

 びっくりして、慌てて{九索}を切り出し、場が進んだのを確認して息をついた。

 いけない。やっぱりあのおもちは、わたしを狂わせる魔力があるよ。

 

 そんな全国最大の防御力を誇る石戸さんだけれど、勝機はある。

 25000点の全てを、ツモで削り切ればいいのだ。

 ドラの火力を生かして、親の倍満3回を和了できれば、おおむね削り切れる。

 

(問題は、初美さんだよ……どんな打ち手なんだろう)

 

 薄墨さんに関しては、プレッシャー以上の情報がほとんどない。

 対局が始まった今、その圧力をほぼ感じなくなっている。今はまだ場の様子を見ているのだろうか。しかし間違いなく、どこかで強い打ち方をしてくるはずだ。

 でも、今攻めるべきは石戸さん一人だ。もしも勝つことができれば、わたしの力が、インターハイにも通用することになる。

 

(……考えていてもわからないよね。相手のことを考えながら、まずは真っ直ぐ打とう!)

 

 カツン、と新しい牌ツモってきた指先に、熱い感覚が宿った。

 肌が焼けるような、どこか優しい熱さだ。

 

 わたしは微笑む。

 感謝の気持ちを、そっと表面を撫でることで牌に送り、宙で表返した。

 

「ツモっ、6000オール!」

 

 指先に触れた熱いドラの感触を、自分の場に放して、牌を倒した。

 

 

玄手牌

 

{二}{二}{二}{三}{四}{二筒}{三筒}{四筒}{二索}{三索}{四索}{西}{西} ツモ{西}

 

 

 

「あらあら……」

「い、いきなり高すぎですよー……」

 

 初美さんは驚いたように開いた手牌を見つめて、石戸さんは困ったように微笑みながら手を頬に当てていた。

 しかし、石戸さんにはまだ余裕がありそうだ。

 わたしは再びせり上がった山と、進み始めた新しい場を見る。

 どうやら、向こうはまだ「見」に回っている様子だ。それなら、一気に攻めて削り取るのが得策だよ。

 

(あと19000点、ツモだけで削りきるっ!)

 

 もしも心の声が筒抜けになっていたとするなら、多くの人は夢物語だと笑うだろう。

 四人麻雀で、満貫以上を連続で和了する確率はそれほど高くない。跳満、倍満ならなおさらだ。

 でも、わたしたちの麻雀はそうではない。

 

 麻雀を打っていると、わたしたちの意思や想いが、牌に伝わっていることが分かる瞬間がある。

 わたしにとっては、集まってきてくれたドラに触れている瞬間が、それだ。

 そして、自らの手を和了に導くための道筋も、常に見つけるようにしている。

 

 例えば、自分の手、卓上の河、表になった山の一部。

 対戦相手の動きのリズム。牌を打ち出す瞬間の雰囲気。

 わたしは『教わった通り』、情報は見逃さない。いわゆる「流れ」は、そういった要素から形作られるものだ。

 自分に流れがある――確信してしまったせいで、自分の思考の中に生まれた、かすかな違和感を、見逃した。

 

 

 

東一局1本場 親玄 ドラ{一索}

 

 

 一本場になっても、流れが来ている以上、衰えることはない。

 全く無駄なく、順調に手を伸ばす。

 熱い感触がわたしの手牌に取り込まれる。一牌一牌が、まるで劫火のように熱く、手牌の熱量は上がっていく。

 

 

玄手牌

 

{四}{赤五}{六}{四筒}{赤五筒}{六筒}{一索}{一索}{四索}{赤五索}{六索}{七索}{八索} ツモ{一索}

 

{四}{赤五}{六}{四筒}{赤五筒}{六筒}{一索}{一索}{一索}{四索}{赤五索}{六索}{七索} 打{八索}

 

 

 おねーちゃんは、わたしの手のドラの熱を何となく感じ取ることができるみたいで、それを察しながら、できるだけ場を乱さないように降りていた。

 石戸さんは表情が読めないものの、初美さんは眉を顰めながらむむむっ、と唸りつつ牌を切る。

 どちらも最初のときに感じたプレッシャーの正体を表しておらず、動きがない。

 

 次の牌をツモる時に、その背中を、中指と人差し指で触れる。

 盲牌するまでもなくわかってしまう。ドラの感触に思わず微笑んだ。

 

「ツモっ! 三色ドラ6の一本場、8100オールです!」

「またハネですかー!?」

 

 薄墨さんは立ち上がって悲鳴をあげて、石戸さんは合点がいったように頷いた。

 

「なるほど。玄さんはドラ……即ち、龍に好かれているのですね」

「分かるんですか?」

「それを意識して打たれているようでしたから、何となくですけれど」

 

 確かに二局連続でドラを和了したとはいえ、少し驚いた。

 高打点ではあったものの、これほど早くドラを集める力を見抜かれたのは、初めての経験だ。

 

「ドラの語源は龍。玄さんは龍を信頼して、そして麻雀の龍神に愛されているのですね」

「どことなく、温かい感じがしましたよー。素敵な感じですねー!」

 

 そう言われると照れくさかった。でも、すごく嬉しい気持ちにもなった。 

 

 玄はドラに好かれるんだね、とかつて麻雀教室の先生は言った。

 おねーちゃん、みんなもそう言ってくれる。 

 

 

 おかーさんが生きていた、まだずっとちっちゃい頃の話だ。

 わたしは、おねーちゃんと一緒に麻雀を教わった。おかーさんと麻雀を一緒に打つのが大好きだった。

 あの、小さなこたつテーブルの上に雀マットを敷いて、ルールも知らずに牌をえいっと切ったり、最初の頃は形にもなっていないのに倒したりしたこともあった。あの頃はおかーさんに、よくドラを大切にしなさいって言われていた。

 

『えっ。なんでドラなのです? ……うーん、よくわかんない』

 

 その時、どんな対局をしていたのか、今となってはよく覚えていない。

 でもその言葉だけはわたしの中にずっとあって、ドラを大事にとっておくようになった。おかーさんが死んじゃって、それからも大切にし続けていた。それから、いつの間にか、ドラが来てくれるようになった。

 だからドラに触れていると、天国のおかーさんと、気持ちがつながっているようにも思えた。

 

「あ、あのぅ……神様っていうのは、もしかして……?」

「いえ。それは、わたしたちが感じているものとそれとは、また別のもののようです」

「うむむ。別の神様からも好かれているとは、複雑ですー。霞ちゃん、もっと強めにする必要がありますねー?」

「ええ、ここからが難しいところね。わたしたちも気を引き締めていきましょう」

 

 頷き合った二人の巫女さんだったが、それでは終わらない。

 上家の初美さんが、俯きながら笑みを浮かべる。

 

「……霞ちゃん、そろそろ本気を出しても構わないですかー?」

「ええ。存分にね、はっちゃん」

 

 緩みかけていたわたしの感情が、その刹那において現実に引き戻された。

 その言葉を聞いた瞬間、驚きで目を見開く。

 

(これって……!!)

 

 閉ざしていた門を少しづつ開いたような、幻影が見えた。

 わたしたちのすぐそばで、冷たい暴風が吹き荒れる。

 ただ冷たいだけじゃない、黄泉の国から吹いてきたようなおぞましい冷風が、わたしの髪を実際に背後に靡かせる。

 

「さあ、ここからが本番ですよー……!」

 

 



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第19局

 初美さんの背後に、異世界へと続く扉が開いているのが見えた。

 奥に続いている昏い闇の底で、無数の紅白色の発光体が、水槽で泳ぐ金魚のように所狭しと蠢いている。

 

(やっぱり、今まではぜんぜん本気じゃなかったんだ……!!)

 

 背中に冷や汗が眺める。ピリピリと肌を焦がすような焦燥感が、わたしの鼓動を早める。

 霧島神境の舞殿で行われている、永水女子の人との対局。わたしだけでなく、おねーちゃんや、後ろで見ている二人も恐ろしい気配を感じて、驚愕の表情を浮かべているのがわかった。

 紅色のオーラがはっきりと目視できた。初美さんの瞳は、今は不気味に紅く染まっている。

 次の局は、とんでもない何かが起こる。間違いなくわたしは狙われるだろう。

 

(でも……わたしも、負けられないっ!)

 

 しかしそれでも笑顔を隠さずにはいられない。

 頂点を目指すために強い人と対局する。そして、わたしの中のモヤモヤとした感情の正体を探る。

 そのためならば、喜んで、どんな場所にでも飛び込もう。

 

 

 

東一局2本場 親玄 ドラ{七索}

 

玄手牌

 

{三}{赤五}{六}{赤五筒}{赤五筒}{一索}{四索}{赤五索}{七索}{七索}{七索}{白}{白} ツモ{北}

 

 

 わたしが今為すべきことは、怯まずに打つことだけだ。 

 初美さんの様子を伺いつつ、石戸さんの点数を削る。初美さんが流れを支配しようとしているが、まだわたしの方に運は向いている。今も直撃をとれば終わる点数で、その手が入っている。

 ならば前に進むべきだと、不要牌の{北}をツモ切った。

 

「ポン」

 

 低く、鳴く初美さんの声が場に木霊する。

 それはただ河から牌を拾うだけの行為のはずなのに、声が耳に届いた瞬間に、全身が恐ろしいほどに凍えた。

 

(……っ……この、底冷えする感じっ……?!)

 

 初美さんが鳴いたのは、1役つくだけの自風牌のはずだ。

 しかし卓の右に寄せた三枚の牌は、紅色の気配を放っているように見えた。まるで、初美さんの気配が乗り移ったようだ。

 

 

玄手牌

 

{三}{四}{赤五}{六}{赤五筒}{赤五筒}{四索}{赤五索}{七索}{七索}{七索}{白}{白} ツモ{東}

 

 

(……っ!)

 

 その順目でツモってきた牌を、そのまま河に捨てようとした手が止まった。危険が迫っていることを、直感が察知したのだ。

 この牌を切ってはいけないと、わたしの中の直感が囁きかけてくる。

 まだ数巡。情報はほとんど得られておらず、唯一の大きな情報は鳴かれた{北}だ。

 初美さんはこの局で何かを狙っている。聴牌の気配は感じないが、目に見えない力が高まっているのを感じる。巫女服の白袖がめくれあがり、風に押し上げられていた。

 この牌を切れば、危険な扉を開けてしまうかもしれない。そんな予感があった。

 

 理性ではまだ悩んでいて、本能では絶対に切ってはいけないと、考えている。

 切らずに手の中に押さえ込むか、前に進むために押し通るか。

 

(……攻めるか、引くか)

 

 スッと目を細める。

 視界が暗く、細く狭まる。そうすることで心が卓に深く入りこんでいく。

 

 ……見てみたい。

 この圧力に真正面から当たってみたい。

 押し切って勝ってみたい。

 

「東……です」

 

 決断を下す。選んだのは、打{東}だった。

 危険であることは分かっていた。一向聴が維持したかったわけではなく、この"感覚"が正しいのか、知りたいと思った。

 そして、前に進んだ代償として、直感が告げた危機が現実となって現れる。

 

「ならば、それもポン、ですよー!!」

 

 その二回目のポンの瞬間に、場を支配する圧力が、背後から雪崩れ込むように高まった。

 鳴いた{東}と{北}が、一段と不気味なオーラを纏った。

 不思議なエネルギーが彼女を中心に集まり、鳥居の向こう側から顕現した人魂が卓の周囲を浮遊しはじめる。吸い込まれるように薄墨さんの周囲にあつまった霊魂は、支配者の手牌に宿っていく。

 

(これでいい。真っ向から、この手で押し切るよ……っ!!)

 

 相手の気配は高まったけれど、わたしにも有効牌が引けるはずだ。

 直感は、相手の手が高いことを教えてくれる。あの手にドラは絡まないため、数え役満の可能性は低い。

 考えられるのは、清一色や、形の決まった役満。

 {東}と{北}は確定しているため、字一色、あるいは四喜和だろうか。

 

「あら……それは、カン。しましょうか」

「えっ……!?」

 

 石戸さんが牌を三枚表にして、初美さんの切った牌を自分の中に引き入れた。

 そしてめくられた新ドラは{白}。

 わたしの手牌の中に二枚あって、今までには場に一枚も出ていない。

 一見すると意味のない、不用意な鳴きだ。

 

(……っ、まずいっ。今ので流れが、変わった……!?)

 

 今の一手で、押し合っていた二つの圧力が、完全にこじれあった。

 そんな中で、もう一度初美さんのツモ。

 新たない牌が手の中に入って、手出し牌が河に強く叩きつけられる。

 まわってくる自分の番に、祈るような気持ちで牌を掴みとる。

 

 

玄手牌

 

{三}{四}{赤五}{六}{赤五筒}{赤五筒}{四索}{赤五索}{七索}{七索}{七索}{白}{白} ツモ{白}

 

 

 この一手を待っていた。聴牌、{三索}- {六索}待ち。

 しかし、待ちわびていたはずの“戦える手”から、不気味な気配を感じ取った。首筋に、得体の知れない蛇のような感触が這い回っているのを感じる。

 

「っ……!」

 

 振り向けば、すぐそこで牙をむいて噛みつかんと構えている、白蛇の姿を見たような気がした。

 引かされた一枚を手に加えて、わたしは、一手遅れたことを悟った。

 

(……やられた……っ)

 

 神様に試されているような引きだ。

 もしも手を進めるなら、危険牌を切らなければいけない……いや、手を進めなかったとしても、切る必要がある。今、わたしが切れるのは{三}-{六}と、{四}、{四索}の四枚だ。

 

 わたしの周囲に蛇が蠢き、目の前で鋭い牙を剥かんとしている。その一方で、不気味な魂の集合体は、卓を支配するために周囲にとり憑いている。

 風もないのに、耳元の髪飾りが揺れ動いた。  

 

 不気味なほどに朱い鳥居が、虚空から迫ってくる光景を幻視した。

 わたしたちの世界と、向こう側の世界への境目を無くしてしまう門だ。既に、初美さんの支配する世界に飲み込まれてしまっているみたいだった。

 

(どうしよう。どれを切れば……っ)

 

 どの牌を切ればいいかを考え続けたけれど、答えが出ない。

 わたしの中の"感覚"は、切れる牌の全てが、相手の当たり牌だと告げている。

 

 底冷えする感覚を伝えてくる{三}と{六}。

 だが、より振り込んではいけないと感じるのは、{四}と{四索}のほうだ。

 素直に信じて推理するなら――前者が初美さん、後者が石戸さんの待ちなのだろう。

 

 能力を見極めて追い詰めるために。この最悪の状況を作り出されてしまったのだと、ようやく気がついた。

 だがそんなとき――不意にその手を思いついた。

 

「…………」

 

 ドラを、切れば助かる。

 

 ずっと考えもしなかった、選択肢にさえ入れていなかった一手だ。

 三枚見えている{白}はほぼ安全だ。ツモ切りで、どちらの直撃も避けることができる。

 

(これを切れば、とりあえず凌げるの……?)

 

 震える手が、ツモってきた{白}に伸びる。

 

 これを切れば、助かる。

 切りたくないと思っているのに、動き出した手は止まらない。背後で息を呑んだ音が聞こえた。

 指先で摘むと、ドラの暖かい感触が伝わってくる。手放したくない。でも、切らなきゃ、助からない。 

 

 ――そんなときに、ふと聞こえてきた。

 

 

 

『迷うときくらいあるさ。立ち止まって心の声を聞くことができりゃあ、一人前さ』 

 

 知らない人の声だった。 

 

「え……?」

 

 その声を思い出した瞬間、体に入っていた力が急に緩んだ。

 まだ手の中には、ドラがあった。河に投げ出さず、指の中で止まったそれを呆然と見つめた。

 牌を握っているうちに、何かを思い出しかけていた。

 

 

『心の声、なのですか?』

『ああ。息を吸って、それから判断すりゃあいい……その方が後悔しねえ。一本筋が通った打ち方ができる』

『ううむ……難しい話です』

 

 "わたし"は、言葉の意味がよく分からずに、戸惑っているみたいだった。 

 しかし、現実のわたしは目を瞑って、言葉の通り息を吸ってから吐き出した。

 心が落ち着いていく。

 さっきまでの焦る気持ちはなくなった。そして、一つの道が照らされる。

 

(そうだったよ)

 

 今なら分かる。

 どんな状況でも、わたしの信じる打ち方をすればいい。

 信じた道を進んでもいいのなら――わたしはずっと、楽しんで麻雀を打っていたい。それが、わたしの全部だ。

 

「……そうだよね、おじーちゃん」

 

 ぽつりと、口から零した。

 懐かしい気持ちと、安心する気持ちが混ざり合った。その向こう側に、真っ黒なサングラスをかける、特徴的な帽子の老人が見えたような気がした。

 目を開き、そして決断する。

 

(ドラは、切らない)

 

 この手牌に「当たり」があることは、感覚でわかっている。

 例え最善が{白}切りであっても、わたしはそれを選ばない。ドラを、みんなを信じて前に進んでいきたい。

 

 だから、かわりに{三}を手にした。

 これは勝つための手じゃない。"感覚"が正しいのか、そして、この先にある未来を確かめるための一手だ。

 例え役満を和了されたって、構わない。

 

(わたしは、わたしの信じる打ち方をするよ……っ!)

 

 いま、この瞬間の選択が、今後一生のわたしの麻雀を形作っていくような気がする。

 だから振り込むと知っていながら、河に強く打ち込んだ。

 

 

 

玄手牌

 

{四}{赤五}{六}{赤五筒}{赤五筒}{四索}{赤五索}{七索}{七索}{七索}{白}{白}{白} 打{三}

 

 

 わたしは堂々と切り去った。

 石戸さんはわずかに体を揺らして動揺したみたいだった。

 凶悪なオーラに包まれた薄墨さんも目を丸くしていたが、やがて肩を下ろした。

 

「その決断、見せていただきましたー……でもっ! 容赦はしませんよー!」

 

 威圧のエネルギーが、一気に、高まった。

 初美さんの力によって周囲に集まっていた、千を超える小さな霊気が、残された手牌に召集する。

 結果は見るまでもない。

 七枚の牌が、軽快な拍子を奏でて倒された。

 

 

「ロンです。32000の二本場は、32600……!!」

 

 

初美手牌

 

{南}{南}{南}{西}{西}{四}{五} {東}{東}{横東} {北}{北}{横北}

 

 

 

 役満、四喜和の直撃振り込みだ。

 しかし、わたしは自分の選んだ選択に満足していた。ゆっくりと、ドラの集まった手牌を裏向きに倒す。

 手牌に降りていた龍も、この場に漂う霧の中に紛れて還っていった。

 

「くろちゃん……?」

「おねーちゃん。わたし、ちょっとだけ思い出せたよ」

「何か、見えたのですね」

 

 石戸さんは手牌をぱたんと裏側に倒して問いかけてくる。

 今は夢で見た景色の一端を、はっきりと思い出せた。

 

 

 

 目を瞑ると、牌を卓に置く音が聞こえた。

 それはさっきまでと違う、牌を置く音のリズムだ。

 松実館とは違う小さな和風の部屋で、全く別の見知らぬ場所に置いてある卓を四人で囲んでいた。

 

『じゃ、わたしもおなじの捨てでっ』

『穏乃っ、ちゃんと声に出して言ってください!』

 

 下家にはしずちゃんが座っていた。今まで着ていた巫女服ではなく、いつものジャージだ。

 上家に座って窘めているのは、ピンクのフリフリのついた服を着た、転校したはずの和ちゃん。二人とも背が今より小さい。

 きっと、これはわたしが、中学校三年生だった時の記憶だ。

 

 そして、もう一人。

 対面に座っている人は、この知らない場所によく似合う雰囲気を纏った見知らぬ人だった。

 プロのようなどことなく漂う老練とした雰囲気。優しくて、底が全然見えない不思議なおじーちゃんだ。 

 

 

 

 とても懐かしい気持ちに、ようやく触れられた気がした。

 和ちゃんが阿知賀を去ることになった、あの日。

 わたしは、和ちゃんとしずちゃんと、そしてもう一人……そのサングラスをかけたお爺ちゃんと、四人で麻雀を打ったのだ。

 

 

「つまり玄さんは、この牌を使って麻雀を打っていた……ということかしら」

「はい、今思い出しました。でも、あはは。知らない場所で麻雀を打ったなんて、変ですよね」

 

 わたしはそう言って笑った。でも二人はむしろ、真面目に視線を交わし合っていた。

 

「穏乃さんは、玄さんが話してくれた対局に覚えは?」

「わたしですかっ? うーん……なんか、あったような。なかったような……」

 

 後ろで見ていたしずちゃんは、急に振られてびっくり背中を伸ばした。

 しかし、腕を組んで、すっかり悩み始めてしまった……どうやら、覚えていないみたいだった。

 

「ふむ……こんなに進むとは思っていなかったわね。対局はここで終わりにするべきかしら」

「あのっ! このまま、続けてもらうわけにはいかないでしょうかっ……!?」

 

 髪がほつれるくらい勢いよく身を乗り出したわたしに、みんな、驚いたみたいだった。

 急に見せた強い感情に、石戸さんは驚いた表情を見せる。

 

「え、ええ。それは構いませんけれど……」 

「あっ……ご、ごめんなさいっ。急に大声出したりしてっ」

 

 つい、必死に叫んでしまった自分自身に恥ずかしくなり、顔を赤くして座り込んだ。

 しかし想いは変わらない。気を取り直して、顔を上げる。

 

「でも。いま打てば、もっと何かがわかりそうなんです。お願いしますっ、もう少しだけ打たせてくださいっ!」

 

 わたしは役満を振り込んだ後だというのに、悔しいどころか、楽しい気持ちでいっぱいだった。

 胸がうずいて、ワクワクする。麻雀がすごく楽しい。全身全霊で打てているこの局を、中途半端な形で終わらせたくない。

 

「わたしたちは大丈夫なのですよー!」

「でも、くろちゃん、続けても大丈夫なの……?」

 

 おねーちゃんはどちらかといえば、わたしのことを心配してくれているようだった。

 

「ぜんぜん元気だよ。ううん、むしろ……ここじゃ終われない。やらせてほしいの」

「……そっか。なら、わたしもがんばるよぅ」

 

 みんな、続けることを認めてくれた。

 

(麻雀は、みんなで一緒に打てるからこそ、素敵な競技になるんだって思っていたけれど……)

 

 しずちゃんや憧ちゃん、和ちゃん、赤土先生。麻雀教室のみんな。

 一緒に過ごした時間は大切で、何よりも楽しい思い出だ。

 でも、いま感じてるのはそれだけじゃない。麻雀そのものが、前よりもずっと楽しくなっている。

 わたしは強気な笑顔を浮かべて、視線を上げた。

 

「続きを、お願いします……!」

「ええ、存分に」

「その挑戦、受けて立ちますよー……!」

 

 そして、波乱開けの東2局が始まる。

 

 



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第20局

 

 東一局、親で跳満を二回和了した。

 でも、今のわたしの点数は31700点まで落ちてしまった。おねーちゃんと、石戸さんが11900点。役満の直撃を決めた初美さんがトップの44500点。

 もうすぐ勝つことができる――そんな意気込みとは裏腹に、配牌はドラ二の五向聴だ。最初のように和了に近い手ではない。役満を振り込んだことで、すっかり流れが変わってしまった。

 でも今の局のおかげで、わたしも新しい情報を得た。

 

(初美さんは火力が高いけど……厄介なのは、石戸さんのほうだ……)

 

 初美さんは、まるで役満がわかっているように打ち回していた。恐らくは、二回の鳴きを入れることで発動する能力だと推測できる。

 そして石戸さんは、一見すると分かりづらいけれど、こちらの手牌を察知している節がある。わたしや、しずちゃんのように深く"読んで"くる。しかも、わたしたちには見えないものを見て牌を選んでいるのだ。

 

(きっと、わたしのドラの感覚みたいなものがあるんだ)

 

 最も厄介なのは、最高峰の攻撃と、最硬度の防御の二人が揃って、わたしを狙っていることだ。

 今の一局では石戸さんに誘導されて、追い詰められた。これほど厄介なプレーは他にはないだろう。

 

 

 流れが戻らないまま、大きな点数の変動もなく、東場が終わってしまう。

 

 迎えた南一局。

 わたしが牌を握って開けようとした瞬間に、冥界の跫音が聞こえて、肌が凍えた。ゾクッと肩が震える。

 

(まさか……!)

 

 牌を開ける前に、その感覚の方向を見る。わたしを見て嗤っている赤髪の巫女がいた。目を凝らせば、初美さんの背後に重圧が現れて、闇色の世界に続く鳥居が生まれていた。

 わたしは冷や汗を流しながら視線を落として、牌を開けた。

 今まで身を潜めていた初美さんだけれど、なぜこのタイミングなのだろう。疑問に思ったが、とにかく、そうと決まったからには、ここが勝負の時だ。

 そして賽が回って、配牌された一巡目。

 

「それ、ポンですよー!」

「っ……!?」

 

 即座、おねーちゃんの切った{東}をポン。びくっと震えながら、おずおずと牌を渡した。

 端に寄った三枚の字牌が今の初美さんの放つものと全く同じオーラを放つ。不気味な冥界の気配だ。

 

「それも鳴きますー!」

「……ふふっ」

 

 石戸さんが{北}を切り出すと、それも手に加えてくる。

 二枚の牌が怒りにも似た激情のオーラに包まれる。場に闇色の気配が漂いはじめて、空が闇に覆われた。

 不敵な笑みを作る小さな巫女によって、再び場は完成した。背後から現れる鳥居から、紅色の霊魂が場に溢れ始めている。

 

(……ここだよっ……!!)

 

 でも、わたしはもう、慌てたりしない。

 むしろこの瞬間を待っていた。初美さんが本気を出してくる、この時を。 

 

 さっきとは条件が違う。感覚は研ぎ澄まされているし、心の準備も万全だ。

 初美さんの能力は、恐らく条件付きで役満を引き寄せる。四喜和か字一色。どちらにしても、残りの手牌のうち、少なくとも五枚は限定されるはずだ。

 

 目を瞑ると、全ての音が、わたしの中から消えていった。

 すると見えないはずなのに、薄らと闇の中に卓が見えてくる。相手の呼吸音や、僅かな動きまで読み取ることができる。

 閉じた目を薄く開ける。

 

 ――松実玄の瞳の色が、灰色に染まった。

   

 

(初美さんは一度だけ理牌をした。端に並んでいる二枚の牌……きっと、あれが鍵だよ)

 

 手元に残った七枚のうち、端の二枚を大事そうにとっている。

 これまでの視線や仕草から察するに、字牌や対子ではなく数牌。なら、四喜和の可能性が高い。そして他の牌も、まだ揃っていないように見える。まだ時間は残されている。

 

(わたしだって、速さで勝てないわけじゃない……!)

 

 石戸さんを倒すためには、まず初美さんを真正面から攻略しなければいけない。

 そのために、わたしが先に和了する。

 

 

 

南一局0本場 親玄 ドラ{四}

 

玄手牌

 

{二}{三}{四}{二筒}{四筒}{五筒}{赤五筒}{赤五筒}{三索}{四索}{赤五索}{八索}{發} ツモ{八索}

 

 

 五巡目。

 字一色の可能性を考えて{發}を抑えていたけれど、その必要もなくなった。わたしの読みでは、初美さんはこれを持っていない。

 

「……{發}っ」

 

 このとき、わたしは気づかなかったが、無意識に切った牌の名前を口走っていた。

 石戸さんと、初美さんが妙な顔をした。おねーちゃんも一瞬不思議そうにわたしを見たけれど、そのまま続行だ。

 おねーちゃんも石戸さんも安牌切りで、初美さんまで番が回る……しかしツモ牌を見てむぅぅ、と表情を曇らせた……そして、そのまま{發}を切った。

 次順、回ってきたわたしのツモ。表面を撫でて、取り入れる。

 

 

玄手牌

 

{二}{三}{四}{二筒}{四筒}{五筒}{赤五筒}{赤五筒}{三索}{四索}{赤五索}{八索}{八索} ツモ{一}

 

 

 この順目で引くことは叶わなかった。

 しかし、ツモってきた牌を手牌の上に置く前に、指先がとまった。この{一}に嫌な気配がする。

 

(……{一}は、確かに危険牌だよね)

 

 さっき役満を振り込んだ時と同じ感覚。それに、普通に考えても十分に危険な牌だ。

 なぜならドラは{四}で、その周辺に牌が集まっていると推測されていてもおかしくない。同じ場所で待てば、今みたいに牌が溢れることだってある。

 

「{八索}っ……!」

 

 

 

玄手牌

 

{一}{二}{三}{四}{二筒}{四筒}{五筒}{赤五筒}{赤五筒}{三索}{四索}{赤五索}{八索} 打{八索}

 

 

 わたしは直感に従って自分の意思で待ちを崩し、声に出しながら河に放った。

 感覚はそれが”誰かの和了牌ではない”と告げていて、その感覚に従った。

 ツモ以外では役がつかず、和了できなくなってしまった。でも、まだこれで終わりじゃない。

 

(……感じるんだ。もっと、深くまで……!)

 

 初美さんと真っ向から打ちあうために、意識を深く潜らせるべく目をつむった。

 

 

 

 

『えっ……!?』

 

 ――そこに、麻雀を打つ人にしか見えない世界が見えた。

 目の前には初美さんが立っていて、背後には朱色の鳥居が構えていた。わたしを見て驚いたように目を見開く。

 

『これって、一体……!?』

『なんと……! たった一局で、"ここ"に到るまでの成長を見せますかー……!』

 

 声もはっきりと聞こえたし、わたしも、この世界を自由に動くことができた。

 初めて見た世界に驚いていると、何かの気配を感じて、振り返った。

 

『わわっ。あなたは……ドラゴン、さん?』

 

 わたしの髪色に似た、黒赤色に輝く鱗を持った龍が存在していた。

 呼びかけると、それは首を落とした。尖った鱗を持っていて、巨大な体でわたしを守っているみたいだ。

 そうっと手を伸ばして、首の鱗を撫でてみる。

 すると頭を下げ、それを待っていたと言わんばかりに、聞いたこともない泣き声で、喉を鳴らした。

 

『……あなたが、ずっと、一緒にいてくれたんだね』

 

 子供の頃からずっとそばにいて、わたしを守ってくれた存在だとすぐにわかった。

 無性に切ない感情と、嬉しい気持ちが溢れる。

 おかーさんの姿を思い出たんで、自然に一筋の涙が落ちた。 

 龍は唸りもせず、ただわたしの手を受け入れてくれる。

 

『ドラゴンさん。わたしと一緒に、これからも戦ってくれるかなっ』

 

 ドラゴンさんはもう一度鳴いて、わたしを守るように尻尾を巻いてから起き上がった。

 見据えるのは、紅色のオーラを放ち続けて、正面に立ちはだかっている悪石の巫女だ。わたしとドラゴンさんは、正面から超えるべき相手に向き合った。

 

『いきますっ。今度は、負けないですよっ!!』

『ここからが本気というわけですねー……! きてください、絶対に倒してやりますよー……!』

 

 ここからが正真正銘、真っ向からのぶつかり合いだ。

 

 

 

玄手牌

 

{一}{二}{三}{四}{二筒}{四筒}{五筒}{赤五筒}{赤五筒}{三索}{四索}{赤五索}{八索}

 

 

初美手牌

 

{二}{三}{南}{南}{南}{西}{西} ポン {東}{東}{東}{北}{北}{北}

 

 

 

 

 鳥居の前に立った初美さんは、腕を紫色の雲に覆われた空に掲げた。

 雷鳴が鳴り響き、冥府に続く門から溢れるのは、無数の霊魂の結晶だ。一つ一つが小さな力を持つそれらは、圧倒的な物量をもって龍を襲う。

 

『さあっ、これで決めてくださいー!!』

『お願い、ドラゴンさん……っ!!』

 

 

 

玄手牌

 

{一}{二}{三}{四}{二筒}{四筒}{五筒}{赤五筒}{赤五筒}{三索}{四索}{赤五索}{八索} ツモ{一}

 

{一}{一}{二}{三}{四}{二筒}{四筒}{五筒}{赤五筒}{赤五筒}{三索}{四索}{赤五索} 打{八索}

 

 

 

 玄の龍は高らかに鳴いてから、翼を大きく広げて自らの主人を包み込んだ。強靭な赤鱗が、嵐のように荒れ狂う赤色のエネルギーを弾いていく。しかし一つ一つ、小さな霊魂がぶつかり、小さな爆発を起こして弾ける。

 ドラゴンさんは小さく苦しげな鳴き声をこぼした。

 

『っ……! ごめんね、今は耐えて……!』

『なかなかやりますねー……ですが、ツモってしまえば関係ありませんっ!』

 

 初美さんは、一段とエネルギーを放出させて、ヤマに手を伸ばした。

 巫女が掴み取った牌は――

 

 

 

初美手牌

 

{二}{三}{南}{南}{南}{西}{西} ポン {東}{東}{東}{北}{北}{北} ツモ{五}

 

 

 ――そのまま、手牌の上に横に置かれる。

 初美さんはツモ切り。わたしを倒すには、至らなかった。

 

『……ううー……ですが、まだまだですよー!』

 

 牌が掠ったことに悔しそうな声を零した。

 同時に霊魂の放流も終わる。黒赤色のドラゴンさんは、再び羽を広げて、目の前の相手を睨みつけた。 

 現実は恐ろしいほどに静かだった。

 牌が卓に置かれる音のほかに聞こえるのは、息遣いくらいのものだ。

 建物の向こう側から漂ってきた霧が、わたしたちの卓を薄く覆っていた。山登りしたときに雲の中に入ったみたいにひんやりとした空気が、巫女服の隙間から滑り込んでくる。

 

 そして、わたしの番だ。

 ヤマに手を伸ばし、ツモってきた牌を盲牌して、体に電流が走ったような感じがした。

 

 

 

玄手牌

 

{一}{一}{二}{三}{四}{二筒}{四筒}{五筒}{赤五筒}{赤五筒}{三索}{四索}{赤五索} ツモ{一}

 

 

 

 気づけば、広い待ちでの聴牌だ。{二筒}か、{三筒}-{六筒}・{四筒}の三面張。

 しかし張ったことが、わたしの手を止めさせたわけではない。"普通"に前に進もうとしたときに、気がついたんだ。

 

『え。ドラゴン、さん……?』

 

 龍が、わたしを見つめている。

 勝つために命令してくれ。自分に力を与えて欲しいと、綺麗な瞳が訴えかけてくる。

 

(……この{一}は、そういうことだったんだ)

 

 今は初美さんの引き起こす現象、内包する力に、押し負けそうになっている。

 それに勝つにはドラゴンさんの力を引き出さなきゃいけない。龍と心を通わせる。わたしには、それができるはずだ。

 指先に宿ったドラの感覚(・・・・・)を、手に組み入れた。

 

『力を、わたしに貸して……っ!!』

 

 わたしは天高く、雲渦巻いた空に右手を掲げた。

 これが今出すことのできる最大の力だ。初美さんを真っ向から超えるために、わたしの龍を信じて最高の力を呼び出す。龍も、想いに応えるかの如く、天に咆哮した。

 箱から点棒という命を削って、{二筒}を場に放った。

 

「リーチっ!!」

『……っっ!?』

 

 

 

玄手牌

 

{一}{一}{一}{二}{三}{四}{四筒}{五筒}{赤五筒}{赤五筒}{三索}{四索}{赤五索} 打{二筒}

 

 

 

 龍はわたしの魂の一部を宿して、巨大な翼を羽ばたかせた。真っ直ぐに天に登って、雲の中に消えていく。

 

『これは、なにが……起きているのですかー……!? 』

 

 霊魂を従える初美さんは目を丸くして、刮目した。

 わたしには分かる。ずっと眠っていた力が、この世界を見つけたことで、呼び出せるようになったんだ。

 そして、龍はわたしの想いに応えてくれる。

 

 雲が二つに割れる。輝きとともに現れた龍は、先の倍以上に巨大な、四対の翼を持つ黒鱗の龍に進化していた。

 漆黒の龍の、宝石のような紅色の瞳が、眼下で待つ自らの主人を見下ろした。

 もちろん笑顔で応える。

 

『いくよっ……これがわたしたちの全力っ!』

 

 わたしが手をかざすと、龍は首を持ち上げた。

 初美さんに向けて顎を大きく開き、そしてーー口内からエネルギーの奔流を打ち放った。

 苛烈な光の柱が、空を焼きながら槍を突くように一直線に迫る。しかし霊魂が、盾のように初美さんの前に集まって、光の奔流を受け止めた。

 

『ぐぅぅ……ですが、まだですよー……!!!』

『っっ……! もう少しっ……!』

 

 真っ向からの正面衝突だった。

 世界に輝きが満ちる。

 ぶつかり合う瞬間、空気を切り裂く甲高い衝撃音が、世界を揺らした。 

 丸みを帯びた透明な盾にぶつかって散らばり、しかし、龍は咆哮を決して止めない。暴力的な咆哮によって霧は散り、暗闇に包まれていた空が割れて、光が舞い降りてくる。

 

 やがて進化した龍のブレスは、拡散して消えた。

 初美さんは袖で顔を覆っていたが、目を開けた時に、その表情は驚きに染まった。

 

『はぁっ、っ……そんな、まさか……!?』

 

 霊魂の壁は破られていた。

 背後の鳥居は龍の放った業火に包まれており、冥府に続く闇色の空間は力を失い、扉は消え去った。

 しばらく燃え盛る鳥居を呆然と見つめていた。

 やがて、わたしのほうに向き直り、身から湧き出すオーラを消して、寂しそうな笑顔で言った。

 

『凄いです。真っ向から押し負けるなんて、これが始めてなのですよー……』

 

 

 

玄手牌 ドラ{四} 裏ドラ{一}

 

{一}{一}{一}{二}{三}{四}{四筒}{五筒}{赤五筒}{赤五筒}{三索}{四索}{赤五索} ツモ{四筒}

 

 

 

「ツモっ……!」

 

 わたしに集まった龍の炎は、全て表に晒された。

 {一}に宿ったドラの気配は、全てと混ざり合って、溶けて消えてゆく。

 

『ありがとう……ドラゴンさん』

 

 黒龍はわたしを見た後、歓喜するように天高く咆哮をあげて、空に去っていく。

 暗雲に包まれていた空は、龍の羽ばたきで晴れ渡って、ただの夜空に戻った。そうやって去って行った龍を、いつまでも見送った。

 

 

 見えていた世界は嘘のように消える。

 もとの霧島神境の舞殿に、完全に意識が戻ってきた。

 

 目の前には、ぽかんと口を開いた石戸さんと、疲れ切った初美さんが後ろに手をついていた。

 

「これは、凄い力。驚いたわね」 

「やられてしまいましたー。クロは、すごく強いのですねー……!」

 

 それに、おねーちゃんや、他のみんなも驚いていた。

 

「すご、今の……すごいですよ、玄さんっ!」

「今のプレッシャーやば……てか玄、リーチしたわよね!? しかも裏ドラの連続ツモ!」

「わわっ……!?」

 

 ずっと見ていた二人が、勢いよくわたしに迫ってきて、目を丸くした。

 質問に答えようとしたけれど、でも、うまく説明ができない。

 

「え、ええっと……わたしにも分からないの。でも"できる"って思ったから、やってみたんだ」

「はぁ……」

「とうとう、裏ドラまで集めるようになっちゃったのね……確かに今までの玄との対局、裏ドラで点数ついたことはなかったけど」

 

 憧ちゃんが、心底呆れたような声で天を仰いだ。

 確かに今まで、裏ドラがあつまってきてくれたことはなかった。今の対局で新しい力が目覚めたことは、たぶん、間違いない。

 さっき見えた光景は夢や、幻なんかじゃない。わたしを守っていてくれたドラゴンさんは、確かにそこにいた。 

 すると、初美さんがぺたんと、後ろの床に手をついた。

 

「ちょっと、本気で打ちすぎて疲れてしまったのですよー……へとへとですー」

「くろちゃんも……ハンカチ持ってきてるから、使って……?」

「ありがと、おねーちゃん、っ」

「玄さんっ!?」

 

 ハンカチを受け取ったとき、体制を崩しかけて、みんなに心配されてしまった。

 対局している間はぜんぜん気づかなかった。ものすごい倦怠感だ。額にも、指先にも汗をかいていて、いつの間にか息もあがっている。

 

「あはは。わたしも、なんだかすごく疲れちゃったみたい」

「くろちゃん、もう休まなきゃ……」

「そうよ! また明日があるんだから、一旦中断ってことで!」

「お水、持ってきてる……二人とも飲んで」

 

 待っていた春さんが、竹の水筒をわたしと、初美さんに手渡した。

 

「……今日はここまでにしましょう。続きは明日ということで、どうかしら。玄さん」

 

 石戸さんにそう言われて、筒から口を離したわたしは、当然頷いた。

 

「では霞さん。これからどうしますか?」

「食事の予定だったけれど、汗をかいたままじゃ風邪を引いてしまうかもしれないわね。じゃあ、まずはみんなで温泉に入りましょうか!」

 

 ぱんと手を叩き合わせると、おねーちゃんが目を輝かせる。ポニーテールとツーサイドアップの風切り音がはっきり聞こえるくらい、しずちゃんと憧ちゃんが、勢いよく顔を上げて目を煌めかせた。

 

「温泉!?」

「温泉……あったかい温泉があるんですか……?」

「はい。神境の温泉は、とっても広くて心地いいんですよ」

「もちろん冷たい温泉もありますよー! ふえっ、なぜそんな悲しい顔をするのですかー!?」

 

 みんなが盛り上がりはじめた中で、ごろんと寝ころんだ。今日はこれで終わりだと思うと、力が一気に抜けた。

 

(ちょっとだけ、思い出せたよ)

 

 ずっと心にあった寂しい気持ちは、懐かしむような気持ちに変わっていた。

 木造の梁の通った天井を見つめて、天井に向けて伸ばした手のひらを握りしめる。欠けていた夢のピースのひとかけらが、手の中に戻ってきたような気がした。

 

 

 



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第21局

 小学校の頃、奈良の山中で迷子になったことがある。

 

 わたしは昔から、近所にある山を走り回るのが最高に大好きだった。

 嫌なことも全部忘れられるし、色んな発見があるし、それに朝日や夕日が綺麗なのも最高だ。だから今日もいつものように山を駆け回った。一番動きやすいジャージが、今でもお気に入りだ。

 山巡りはいつからか、毎日の日課になっていた。いつの間にか、浅い場所を走るだけではどうしても物足りなくなって、山の奥の景色もどんどん覚えていった。

 

 だから、慣れすぎて油断していたんだと思う。

 

 

 

 その日、晴れていた空は急に暗雲に包まれ、風は冷たくなっていく。

 異変に気がついたのは、迂闊にも山の頂上に立って、背伸びしながら空を見上げたときだった。

 

「ここ、どこ……?」

 

 でも、いつもと違う道で知らない木々に囲まれながら、呆然と立ち尽くしていた。

 普段なら臭いですぐに場所が分かるのに、急に降り出してきた弱い雨が、臭いを消してしまっていた。ぽつりと頬に雫が落ちてくるのを、青ざめながら指先で拭った。

 

「これ、ほんとにやばいやつじゃ……っ!?」

 

 すぐに慌てて引き返した。しかし、もう遅かった。

 普通の雨くらいなら、なんてことはない。むしろ大好きだ。しかしこの日は、普通の雨じゃなかった。

 よりにもよって、目を開けることさえ辛いほどの、年に一度もないようなスコールだ。そのせいで、慌てたわたしは、手がかりの全てを見失って、とうとう遭難した。

 

 

 肌をぴしゃぴしゃと、何度も、なんども打ち付けてきて、体力が奪われる。

 ジャージから覗く素足は、雨水にまみれていた。山の奥深くで、ほとんど何の荷物も持っていない。小学校に入ってしばらくしてから連絡用に買ってもらった携帯は、今は圏外だ。

 いつもより気温が低いせいか、雲がかかったみたいに、周囲を霧が覆い始めている。

 

(まずいまずい、このままじゃまずいっ……!)

 

 いつもの目印が見つからない。大穴の開いた倒木も、リスの住んでいる木も、山葡萄のあるところも、何も見当たらない。

 しかも随分と奥まで来てしまったので、もし今最短ルートを歩いていたとしても、麓まで一時間以上はかかるはずだ。

 ほとんど特徴のない木々と雑草に囲まれながら、泣きそうになっていた。

 そこらじゅうから聞こえてくる、いつもなら楽しい雨の音も、全然楽しく感じない。

 

「おかーさーん……!!」

 

 ポニーテールは水を吸い込んで重くなっている。瞼から滴り落ちるのが涙か、雨かもうわからない。

 返ってくる声はない。

 しょんぼりと腕を下げ、ぽたぽたと額から顔に垂れてくる雨雫を拭う。

 

「わたし……遭難しちゃったのかな。そーなんです……なんて」

 

 そんなダジャレを一人呟いてみた。でも湧き上がってきたのは笑いではなく、どうしようもない無力感だった。

 こんなのぜんぜん笑えないじゃん、なにいってんだろ。

 

「わたしもしかして、このままここで……なんて、そんなっ。ないない!」

 

 一寸先も見えないような状態に、もうダメかもしれない、という最悪の予想が頭をよぎる。

 

「……っ、ぐすっ。うぅ、っ」

 

 雨も霧も、短い時間でどんどん酷くなっていく。体も冷えていて、むしろ動かない方がいいのかもしれない。

 それでも判断ができない。一刻も早く帰りたいと言う気持ちで、山を彷徨っていた。

 

 勝算がないわけでもない。何か一つでも目印を見つけられれば、そこから居場所が分かる。 

 なにか、たった一つでもいい。

 

「大丈夫、絶対帰れる。諦めるなわたし……っ」

 

 歩くんだ。

 ぜったい帰る。どんな場所でもきっと大丈夫。何も根拠のない鼓舞だったけど、一度は折れかけた心がまっすぐに前を向いてくれた。

 ちゃんと探せば、ほら。目の前になにか目印が見つかるはず……っ!!

 

「えっ……?」

 

 ある。人工物が。

 石段。灯篭。

 上り階段と、その上に、見覚えはないけど、木造の建物が見えた。

 

「……あ、っ……あっあっ、ああああぁっ!!」

 

 幻覚、じゃない。

 走り疲れて、歩いているわたしは石灯籠を見つけた。その足元は石畳。近づいてみると、さらに点々と灯籠が続いていおり、そして向こうには神社のような、瓦屋根の建物があった。

 ぱあああっ、と顔が明るくなった。

 火も付いているみたいだ。知らない建物だけど、これで帰れる。

 

「やたっ、やったぁーっ!! ……でも、こんな大きな神社山にあったかな……?」

 

 この山に、こんなに大きな神社があっただろうか。見知らぬ建物の存在に首を捻ったが、現にここにあるんだから、きっと今まで見逃していたんだろうと結論づける。

 

「……ま、そんなことはいいや。すみませーん! ……誰もいないのかな」

 

 建物の正面をどんどん叩いて、呼びかけてみる。

 ここがどこなのか、帰り道を教えてもらいたいのに、扉には鍵がかかっていた。

 

(だ、だめかぁ……うぅ)

 

 灯篭には明かりがついているし、立派な建物だから、誰かいると思ったんだけど。

 人がいるのは、ここではないのだろうか。

 

「……うぅ。仕方ない、このあたりをもうちょい探してみよう」

 

 そんな風に、ほとんど諦めかけたときだった。

 扉の向こう側から誰かが近づいてくる気配がした。

 

「どなたですか……? 誰か、そこにいるのですか」

 

 声は自分と同じ、子供の女の子のものであった。

 

「うそ、人いるっ……!? もしもし、聞こえますかっ!?」

「はい、あなたの声は届いていますよ」

 

 目の前に光が見えた気がした。やっぱり遭難なんてしてなかったんだ!

 しかし奇妙なことに、神社の扉は開かなかった。

 

「ここは、神と人を隔てる境目の地です。あなたはなにゆえ、ここを訪れたのですか?」

 

 声は微かに聞こえてくるだけで、はっきりと分からない。

 よく聞こえなかったせいか、あるいは難しい言葉だったからなのか、判断がつかなかった。とにかく今は自分の現状を伝える。

 

「すいません、山に登ってたら急に雨が降ってきちゃって……ここがどこか教えてもらえませんか? その……わたし道に迷っちゃって」

「! ……驚きました。あなたは迷い人なのですか?」

「え。あー……まあ、その。ちょっと霧が濃くなっちゃって、迷子になっちゃった……かも。あははー……」

「……ふふっ」

 

 カタン、と扉の反対側から音が聞こえた。

 不思議に思ってもう一度扉に触れてみると、甲高い音を立てゆっくりと開いた。どうやら閂が外れた音だったらしい。

 ……恐る恐る、中を覗いてみる。

 扉のそばに人の気配はない。しかし、建物の奥には人影一つ。

 かろうじて巫女服が見えた。

 だが建物の中にも霧がたちこめていて、ぼんやりとした姿しか見えない。

 

「あの、あなたは……?」

 

 ジャージも靴も、全部びしょ濡れだ。このまま中に入ることはさすがに躊躇われたので、その場から声をかける。

 声の主は答える代わりに、望んでいた帰り道を手で示してくれた。

 

「道に沿って山を降れば霧は晴れます。おのずと、望む場所に帰り着くことができますよ」

「そうなんですか? ……あっ、雨もさっきより弱くなってるかも」

 

 振り返ってみると、確かに巫女さんの言う通りだ。

 森を歩いていたときは、数本先の木が見えないくらい酷い霧だった。今は随分と薄まって、ましになっている。酷かった大雨も、いまは小雨に変わっていた。

 

「ここを降りれば麓なんですね! ……その、わたし急いで帰らなきゃいけなくて。本当にありがとうございましたっ! 今度またお礼を言いに来ますからっ、ぜったいにっ!!」

「……お気をつけて、さようなら」

 

 わたしは、その神社をあとにして、言われた通りに階段を下った。

 石畳は途中で無くなって道が途切れ、山道に変わった。

 てっきり一般道に出ると思って、不思議に思った。しかし巫女さんの言葉を信じて前に進み続けていると、やがて霧が晴れてきた。

 周囲の様子が見えるようになって、足を止めた。

 わたしは呆然とその建物を見上げる。そこはよく見知った、帰るべき場所だった。

 

「あ、あれ……ここ……わたしんち?」

 

 目の前にあるのは間違えようもない、わが家であった。

 まじか、こんなに近くまで来てたんだ。

 家の裏に神社なんてあったっけな……と不思議に思いながら、そのまま戻った。お母さんは「びしょ濡れじゃない。早くお風呂に入ってらっしゃい」と言うだけで、騒ぎにはならなかった。

 ……遭難したかもしれないと思って、ちょっと泣いたことは、一生の秘密だ。

 

 

 あんな遠くから雨の中、歩いて戻ってきたのかと自分で感心したけど、どうもそうでないらしいことは、後日明らかになる。

 

 次の日、さっそくわたしは恩人を探すために、家の裏山を登った。

 しかし神社どころか、石畳一枚見つからなかった。一週間ずっと歩きまわってみたけれど、それっぽい痕跡は一つもなかった。信じられないことに、その日見た神社は、まるで夢幻の存在のようになくなっていたである。

 神社も、助けてくれた女の子も、一度も見つけられないまま時間が過ぎていった。

 

 

 

 

 あの出来事は、いったいどのほど前のことだっただろう。

 山の方に遊びにいくときは注意するようにしているし、土砂降りになる日は感覚で分かるようになったので、そういうときは絶対に出かけない。

 奈良あたりの山は制覇してしまったので、迷子になることなんてない。

 山を登って木造の建物や、祠や、お地蔵様を見つけると、その日のことを思い出すようになった。

 人生の中でトップクラスに苦い出来事だったけど、すごくいい経験だったとも思っている。 

 

 わたしはあの人に、あの日のお礼を言うために、ずっと例の神社を探している。

 でも、どんなに探しても、駆け回っても、見つかることはなかった。

 だから今、目を疑っている。

 

「これ夢……だよね?」

 

 まだ日が昇る前の薄暗い霧島神境の外に出たわたしは、一人立ち尽くしていた。

 たぶん午前四時を過ぎた頃だろう。みんなは、まだ眠っている。

 勝手に出ちゃいけないと思ったけれど、どうしても確かめたいと思って、出てきてしまった。

 来るときに見た光景が、記憶の中にある神社に、よく似ていたんだ。

 

 急な山に沿って続く、長い石畳の階段。灯籠が煌々と階段の先の道を照らしている。

 ある種の決意に駆られて、唇を結んで上を見上げた。

 

「……登るしかないっ!!」

  

 靴をくの字に歪ませ、一気に駆け出した。

 

 頂上の近くまで登りきって、初めて訪れるその場所で立ち止まった。

 そして、やっとまた巡り合う。

 

「やっぱり……ここ、だったんだ」

 

 わたし、ここを知ってる。

 登りきった先にある、拝殿。閉じられた扉。灯籠の形。

 薄れた記憶と、目の前にあるそれらがぴたりと一致する。目を擦っても同じ。そこには、変わらず建物がある。夢じゃない。

 

「……こんなこと、ありえるのかな」

 

 いくら雨が降っていて、遭難したかもしれないと焦りながら歩き回ったとしても、遠く離れた鹿児島まで行けるはずもない。あの日の場所と、よく似た場所があるはずない。

 でも場の雰囲気も、匂いも、見えているものも、ぜんぶあの時と同じだ。

 登ってきた階段の先にある建物も記憶と一致した。

 

 扉に、前と同じ様に手をかけようとして、触れようとする直前で止める。

 永水の巫女さんたちは、この場所にあるものに触れるなと言っていた。

 ……でも。

 

「確かめなくちゃ……!!」

 

 恐る恐る扉に近づいて、そっと手を伸ばした。

 

 

 



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第22局

 

 わたしは、神社の扉に手をかけて、触れる直前で手を止めた。

 

「…………」

 

 呪われたりとかしないよね?

 

 ……。

 ノックだけしよっかな。

 開いてたらチラ見して、そんでなんもなかったら帰ろう。 

 

「あのー……中に、誰かいますかー……?」

 

 ……返事はない。

 中はしんと静まり返っている。はあぁぁ、と、緊張の糸が切れて盛大にため息を吐いた。

 

「はは、そりゃ、そうだよね……後で、また来よう」

 

 来た道を引き返すために踵をかえした。するとカタンと、背中の方で音が聞こえた。

 びっくん、と背中が震える。

 

 恐る恐る……振り返った。

 扉は閉まっている。でも今の音は、閂を開ける音だ。

 

 意を決して、もう一度だけ扉に手をかけた。

 さっきまであった抵抗がない。小さな隙間から空気が吸い込まれた。わたしは緊張で、唾を飲んだ。

 向こう側に幽霊が出ないことを祈りながら、もう一度だけ呼びかける。

 

「あの、誰かいますか……?」

 

 そぅっと開いた扉の端っこから顔をのぞかせる。

 がらんどうの部屋の中は濃霧でいっぱいだった。しかし、建物の内装も記憶と違わなかった。周りにはすごい高そうなものが、たくさん置いてある。

 巻物や日本刀。仰々しい箱。

 まさか、これが永水の人が言っていた"触ってはいけないもの"だろうか。

 

 ……この部屋のものには、絶対に近づかないようにしよう。 

 閂を開けた主を探して、目を凝らしていると、部屋の奥にぼんやりと人影が見えた。

 か細い声が、わたしを招き入れる。

 

「あなたを、お待ちしていました」

 

 蝋燭の灯りが、正座した巫女服の人を照らしてる。それ以外は遠く、暗くて何もわからない。

 声の主は、同い年くらいの若い声だった。

 

「こちらへどうぞ、高鴨穏乃さん」

「待ってた? わたしを、もしかして一晩中……?」

「はい。そうお告げがありましたから」

 

 忘れもしない、あの優しい声色だ。

 あの時と違って靴も、いまはジャージも濡れていない。ためらうことなく靴を脱いで、建物に足を踏み入れる。

 近くに寄って、ようやくその顔を知ることができた。 

 

「ようこそ奈良の方。遠くからはるばるよくお越しくださいました」

 

 その人は、石戸さんに雰囲気がすごく似ていた。でも、お姉さんというよりは、もっと親しみやすい感じだ。

 髪は短くって、小さな可愛らしいおさげを赤い紐で結っている。おっとりした表情なのに、神聖な雰囲気を感じるのは、巫女服のせいだけではない。どことなく清楚な空気が漂っていた。

 その顔に、何となく見覚えがあるような気がした。

 でも、それを思い出すより前に、一目見て確信する。ぜったい、あの時の子だ……!!

 

「あのっ……お久しぶりですっ!」

「えっ?」

 

 わたしはその子の手をとって、固く握り締めた。そんな態度を予想していなかったのか、巫女さんは目を丸くした。

 突然の出会いに手が震えた。あの日、顔は見えなかった。でも声や喋り方が同じだ。

 

「ずっと言おうと思ってたんです。あのときは、どうもありがとうございました!!」

「え、ええっと……どこかでお会いしたことがあったでしょうか?」

「覚えてないかもですけど、前にここに迷い込んじゃったことがあって! たぶん、あなたに助けてもらったと思うんです!」

「……あっ」

 

 巫女さんも何かを思い出したみたいで、小さな声を溢した。

 

「数年ほど前……霧濃い日に、雨に打たれた迷い人がこの地を訪ねてこられたことがありました」

「それですっ、それ私です!!」

「そう、でしたか……それは凄いことです。神様が、あなたを導かれたということなのでしょうか」

 

 ああ、やっぱり間違いないんだ! この人が、探していた人だ……!!

 すると巫女さんは感慨深そうに俯いた。

 

「……あれ? ということは……わたし、あのとき鹿児島まで来ちゃってたってこと?」

「ここは現世と異なる特別な場所ですので、どこの山からでも、たどり着くことができるんですよ」

「はぁ。そうなんですか」

「はい、そうなんです。神境を訪れた外の方というのは、あなたのことだったんですね、高鴨穏乃さん」

 

 小さな蕾が花開いたような静かな微笑みを浮かべた。

 思い出してもらえて、覚えていてくれて、嬉しくて唇がうずうずと動いた。

 奈良との距離は……巫女さんだし、そういうこともあるのだろう。はっちゃんさんもワープとかしてたしね。

 説明は、憧に任せようかな。 

 

「この地で再会できるなんて、こんなこともあるのですね……これも全て、天命ということなのでしょうか」

「あのっ、ずっと聞きたかったんです。あなたの名前は……?」

「神代小蒔といいます。昨日はせっかく来ていただいたのにご挨拶に行けず、申し訳ありませんでした」

 

 わたしの思考が止まった。

 目の前の恩人の女の子は、何も変わらずにニコニコと笑っている。

 

「え、神代? ……神代って……あ……ああっ! インハイの……!!」

「はい。インターハイ団体戦では先鋒を務めさせていただきました」

 

 大変なことに気づいて、思わず指差してしまった。

 記憶の中の少女と、インハイのモニター越しに見た姿。そしていま、わたしの目の前で微笑んでいる三つの少女像が、ぴったり一つに重なったのだ。

 神代小蒔といえば、チャンピオン宮永照に匹敵する永水女子の先鋒。

 わたしたちの見ていたインハイ決勝戦参戦者の一人であり、全国屈指、指折りのエース・オブ・エースだ。

 

「うわわっ、会場で見たときはぜんぜん気づかなかった……小蒔さん、ずっと前に会ってたんですね……」

「ふふ。あのときは声だけのやりとりでしたし、対局中はほとんど喋ることはなかったので、無理もありません」

 

 そんな人と、もともと知り合い同士だったと言われても、ぜんぜん現実感がなかった。

 

 ……そもそもの話が、ぜんぜん現実感がないのだけれども。関西と九州を行き来していたって、そんなことが、いくら何でもあり得るのだろうか。

 しかし、小蒔さんはまったく普通の女の子で、純粋に懐かしんでくれているみたいだった。

 

「試合、見てくださっていたのですね」

「そりゃもう! わたし……いや、わたしたちは今、来年のインハイを目指してるんです!」

「霞ちゃんから話は聞いています。活力に溢れる方だと聞いて、お会いできる日を楽しみに待っていました」

「おっと……あははー……」

 

 わたしが、ころころ表情を変えるからか笑われてしまった。照れ隠しに後ろ髪を掻くふりをした。

 テンションが上がり過ぎちゃったみたいだ。いけない、いけない。

 

「ところで待っていたって言ってましたけど。もしかして、わたしがここに来るのを……?」

「はい。穏乃さんがここに来るということは、実は昨日から知っていました」

「昨日から……? え、でもたまたま目が覚めちゃっただけで、来ることは誰にも言ってないですよ?」

「わたしはこの地に起きている出来事を見通すことを、神様に許していただいています。だから、わかってしまうのです」

 

 小蒔さんは誇らしそうに言ったけれど、わたしには理解しきれなかった。

 

「そういえばさっき、お告げがあったって、んー……んー……?」

「神様も、穏乃さんが来ることを望まれていました。そうでなければ、ここにたどり着くことはできなかったでしょう。全て、決まっていたことなんですよ」

「…………巫女さんって凄いですね!」

 

 何だかよくわからなかったけれど、小蒔さんは知っていたって言うんだから、それでいいや。

 神様が降りてくるって噂だから、そういうこともあるかもしれない。

 わたしもそういうの、たまにあるし。

 

「でも今は深夜ですよ。小蒔さん、こんな時間までわたしを待ってくれていたんですか?」

「わたしが、穏乃さんのことを見極めるために、ここでお待ちしておりました」

「……それって、どういう意味ですか?」

「ここは特別な場所なんです。女仙のみが立ち入ることの許される霧島神境の中でも、神様に許された者しか入ることはできません」

 

 そう言うと、小蒔さんはこの木造の建物の上を見上げた。

 薄暗い天井だが、老熟した木の梁の一本一本が複雑に絡み合って、しっかりと組み込まれている。それら一つ一つの素材に、不思議な力が宿っているのを感じた。

 

「ですが、あなたはここに訪れることができた。わたしは霧島神境の者として、この場に訪れる力を持った穏乃さんを、見極めなくてはいけません」

 

 すると、建物の中だというのに薄く霧が出始めた。

 外の空気が徐々に冷え始める。匂いも、空気の流れも、さっきと全然違っている。今までと違う"山"の空気が流れていることを感じ取って、慌てて出口のほうに振り返った。

 

「……なんか、外の感じが……!」

「心配しないでください、危険はありません。穏乃さんが望むのなら、いつでも元の場所に帰ることができます」

 

 小蒔さんはそこで呼吸を置いて、そして提案してくる。

 

「ここで夜明けの時まで、わたしと打っていただけないでしょうか」

「え……打って、って?

「はい、打ってほしいのです。もちろん麻雀を、です!」

「それは、わたしと……ですよね!?」

 

 かずかに、手が震えたのを感じた。

  

「阿知賀の皆さんともお会いしたいと思っています。ですが穏乃さん。まずは、あなたと打たなければいけません」

「…………っ!」

「わたしの、お相手をしてはいただけないでしょうか」

「そんなのっ、もちろんですよっ!!」

 

 昨晩も譲ってしまったので、ずっと麻雀を打っていなかった。

 でも、待っていた甲斐があった。永水女子のエース神代さんとしょっぱなに打てるなんて、震えないはずがない。胸がどきどきと高鳴っていて、唇が緩んだ。

 

(嬉しい、すごい、すごいすごいっ……!)

 

 昔、助けてもらった恩人の巫女さんが、インターハイの神代小蒔だった。

 そして今、その人と麻雀が打てる。

 こんな幸運があってもいいのだろうか――と考えたあたりで、冷静になった。

 

「でも、待ってください。ここには二人しかいませんよ?」

 

 部屋を見回しても、他に誰かがいる気配はない。打ち手おなれるのは二人だけだ。

 しかし小蒔さんは全く心配していなかった。

 

「大丈夫ですよ。そうですね、少々話は変わってしまいますが……穏乃さんは、目には見えない存在を信じていますか?」

「えっ? えーと、それっていわゆる、神様のことですか……?」

「何でも構いません。思った通りのことを、率直に答えていただいて構いませんよ」

 

 急な質問に、むむっと首をひねる。

 相手は神様に使える巫女さんだから下手なこと言えないよなぁ、なんて一瞬は思ったけど。そんなことを考えるまでもなく、答えは出ていた。

 

「むー……神様って言うかどうか分からないですけど、そういう存在は、いるって思います」

「穏乃さんは、不思議な体験をしたことがあるのですか?」

「はい。わたし、こう、昔から休みの日に山をいっぱい走り回るのが趣味なんですけど」

「山……ですか?」

 

 小蒔さんは、きょとんと目を丸くした。

 

「はい。たまに、山のすごく奥まで行くと、なんかこう……見えないものっていうか、誰かの存在を感じたり、助けられるときがあって……」

「なるほど……そういうことでしたか。それなら、今から起こることを見ても、きっと大丈夫ですね」

「?」

「その不思議なことを起こします。驚かないでくださいね」

 

 小蒔さんは、にっこりと笑ってみせた。すると、くらりと視界が揺れる。

 それから、はたと気がついた。

 

「あ、あれっ……じゃ、雀卓があるっ!? いつの間に……」

 

 紛れもなくさっきと同じ部屋の、同じ場所に座っている。しかし、瞬きの間もない一瞬のうちに、わたしと小蒔さんの間に、忽然と麻雀の卓が現れていた。

 恐る恐る触れてみると……高級感のある、心地よい布の肌触り。紛れもなく牌をおくための緑色のテーブルだ。

 

「麻雀たくだ……今の、どういう仕掛けなんですか?」

「仕掛けはありません。神様に、穏乃さんと打つための場を整えていただいたのですよ」

「え、神様も麻雀するんですか?」

 

 目を丸くした。

 世間は麻雀が大ブームだけど、神様もやるとは知らなかった。 

 そして、うかうかしていると、また目の前で新しい『不思議』が起きた。

 

「のわっ!?」

 

 ぼんやりと霧の中に、影のようなものが見えてくる。手だけが座布団の上に鎮座した。

 目では見え辛い。でもそこにいる。確かに見えない存在が両端に座っている。

 

「こ、これは……!?」

「神様です」

「え……? あの、ここに座ってるの、神様……なんですか?」

「はい、神様なんです」

 

 小蒔さんの何の邪気もない笑みに押されて、何も言えなくなってしまった。

 手だけが浮いている光景は不気味だった。しかし、その気配から嫌な感じはしない。

 

「はっちゃんさんの時も思いましたけど、なんでもありですね、巫女さんって……」 

「何でもはできませんよ。わたしたちは役割を持った巫女ですから、神様が必要なときに、必要な力を貸してくれるんです」

 

 それにしても、神様かぁ。神様と打つのか……。

 …………。

 ま、細かいことは気にしなくてもいいか。

 だって今は、それよりももっと大事なことがある。目の前の相手と、正面から打つことができる――その事実のほうが、よほど重要だ。

 

「実は楽しみにしてたんです。ここに来ればもしかしたら小蒔さんと打てるんじゃないかって」

 

 小蒔さんは確実に別格の存在。

 インハイ王者に匹敵する強者と噂されるほどの、もっとも頂点に近い人だ。

 卓を前にすると胸の奥がざわついて、自然と笑ってしまう自分がいた。

  

「穏乃さんは、本当に麻雀がお好きなのですね」

「もちろん! もっともっと強くなって、強い人と打ちまくりたいって思っているから……!!」 

「わたしも大好きです。ですが、なぜそれほどまでに強く、そのように願うのですか?」

「えっ? それはもちろん楽しいから……うーん……んー?」

 

 予想外に、小蒔さんにそう突っ込まれて、ふと違和感を覚えて悩み始めた。

 胸の中にある気持ちが、それだけじゃない。

 

(そういえば……こんなに麻雀が楽しくなったの、いつからだっけ)

 

 もともと大好きだったし、みんなと打つ時間は最高だった。

 でも、今抱いている気持ちの中に、それとは別の感情があった。理由はわからないけれど、今まで以上にドキドキしているんだ。

 もっと熱い戦いがしたい。

 強くなって、いろんな人と戦い続けたい。

 特別なこだわりのような、今までは全く気づかなかった感情が芽生えていた。 

 

「わたしも、わたしと打ちたいと強く願ってくれた穏乃さんの願いを叶えたいです」

 

 小蒔さんは、その想いを深めるように、両手を膨らんだ胸元においた。

 

「あなたは自らの意思で未来を切り開き、そしてこの地まで再び訪れてくれました」

「……小蒔さん?」

 

 そして小蒔さんは、ゆっくりと目を瞑った。

 不意に、微かな風が体を撫でる。

 

「わたしにとって、麻雀は修行の一つです。心を澄み渡らせて、この身に神を宿すための……そしてあなたは今、意味があって、ここに訪れています。恐らく穏乃さんとわたしは、出会う運命だったのでしょう」

 

ポニーテールの揺れを感じ取って振り向くと、触ってもいないのに木扉がカタカタと震えていた。

 何かの気配が満ち始めている。

 この、閉ざされた霧島の建物に、濃い気配が充満していく。

 

「これから、穏乃さんの全てを見通します」

 

 小蒔さんから伝わってくるそれは、ピリピリと痺れるような感覚で、肌を撫でた。

 そして気づく。目を離した一瞬のうちに、目の前にずっと座っていたはずの小蒔さんの、何かが決定的に変わっていた。

 

「この対局は二人にとって大切な一局になる。そんな気がしてなりません」

 

 これは、インハイ会場で、霞さんに初めて会ったときの感覚と似ている。

 いつの間にか卓上のすべての牌は整っていた。巫女服の袖は風もないのに逆巻き、恐ろしいほどに澄み渡った金色のオーラが体内から湧き出している。その瞳が、ゆっくりと開いた。

 

「……!」

 

 小蒔さんの周囲には、光の粒子が集まっていた。舞い降りてきたそれらが取り込まれ、眠たげに細くなった瞳は、緋色に変わって脈動する。

 閑静とした池に広がる波紋のように神々しいオーラは広がった。

 そこにいたのは、紛れもなく画面越しに見た『神代小蒔』であり、さっきまでの小蒔さんではなかった。 

 画面越しでは、感じることが叶わなかった圧力が、わたしに向けて真っ向から放たれている。

 

「大峰の修験者の方。この対局を楽しみましょう。わたしに、あなたの全てを見せてください」

「……喜んでっ!!」

 

 今ここに”神降しの巫女”が、絶対者として君臨した。

 真剣に卓上を見ている小蒔さんに対して、わたしは不敵な笑顔で、配牌を取った。

 あらゆる意識、全神経が卓へと向いている。

 

 全国高校生の頂点に君臨する最強の一角、霧島の神降ろしの巫女・神代小蒔と、わたしの対局が幕を開けた。



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第23局

 小蒔さんの最初の牌を切り出す一動作は、絹の音すら立てなかった。

 非常に静かで綺麗な所作で、手を引く際には金色のオーラが残像を残した。対戦相手を待っている間は、身じろぎ一つしない。

 

(すごい、神々しい感じの気配だ……)

 

 さっきまで普通に話していた巫女と同一人物とは思えない。

 纏う雰囲気は気高く、本当に"神"が宿っている――そんな気配を感じさせた。

 

 

 一方で、穏乃も瞳が妖しく、地底に眠る澄んだ紅色の原石のように、輝いていた。

 隙間風もないのに髪が何かに靡いて揺れている。二人の間で、全く別の圧力が激しく押し合っている。互いに無意識下でのぶつかり合いであったが、その影響は計り知れないほどに大きい。

 上家、下家の神様は、決して場を荒らさない。ただそこに在り、二人をぶつけ合うだけの存在として居つづけた。

 

 霧島の地に、雷鳴が鳴り響く。

 押し合う力は絶妙なバランスで拮抗している。しかし、どちらかが気を緩めれば、すぐに保たれている均衡は、崩れてしまうだろう。

 小さな殿の中で、牌が何度もかつんと音を立て続けた。

 

 

 

 そんな綱渡りのような緊張感の中で、わたしの肌は痛いくらい痺れていた。

 配牌から小蒔さんの捨て牌までが、ギリギリ見えるくらいに瞼を開きつつ、思考を深めていく。

 

(……固い。すごい防御力だ)

 

 小蒔さんを相手にして、最初に出てきた感想は、決勝戦の評価とはまるで異なるものだった。

 華々しい和了を繰り返していたスタイルとは異なる、超防御。明らかに、石戸さんの打ち方に近いスタイルだ。

 当たり牌を決して出してこないのに、危険牌は軽々と通してくる。

 

(いま、間違いなく小蒔さんは、何かの方法でわたしの手を読んでる)

 

 いまのわたしと同じように、捨て牌や相手の挙動、牌の位置から相手の手を掴み取っている……のだろうか。まだ対局が始まったばかりで、読み切ることができない。

 

「テンパイ……」

「ノーテンです」

 

 また一局が終わり、わたしは一人でノーテン罰符を受け取った。

 しかし、この点棒は意味はない。

 小蒔さんが、手牌を裏側にぱたんと倒したのを見て悩む。今回はわたしのほうが手が早いと見て、テンパイした瞬間に回避されてしまった。

 やはり、違和感がある。

 こんなにスタイルを変えてくるなんて変だし、それで成立してしまっているのも妙だ。

 

(会場で感じたのと、違う理由……もしかして神様が違うとか……?)

 

 思いついた理由は、常識外れではあったけれど、自分でもいい線をいっていると思った。

 インターハイの解説を行う雑誌にも書いてあった。

 神代小蒔は霧島神境の姫。その身に九人の神様を宿すことができる稀有な存在であり、その身に神を宿すことで人の身を超えた力を得る……とされていた。

 それが本当のことなら、打ち方があまりに違うことにも説明がつきそうだ。

 

 目の前で打っているのは小蒔さんでも、神様が別なら打ち方が違ってもおかしくない。

 例えば玄さんと宥さんは火力が高く、憧は流れを読んで和了するのが得意だ。攻めるのが得意な人もいれば、それは苦手でも守るのが得意な人もいる。同じようなことが起きているのかもしれない。

 

「ロン。1000点」

「……はい」

 

 今度は、わたしが喰いタンに放銃した。

 大きな傷ではないが、手を察知できないまま振り込んだことに、眉をしかめた。

 負けてはいないが、勝ってもいない。高い手を狙っていたとしても安手で流されてしまうことが、無性にもどかしい。

 

 自分の手牌を裏向きに倒して、じっと小蒔さんを観察する。

 澄んだ瞳に紫色の波紋を宿す霧島の姫の中に、確かに人ならざる超常の存在を感じた。

 ……やっぱり、神様がついているみたいだ。

 

(やっぱり本物はすごいや。でも、そんな小蒔さんに勝ってみたい……!)

  

 もしも、ここでインターハイ最強の一角を超えることができたのなら、夢に手が届くことになる。

 最強という名前に怯む気持ちなんて全然ない。夢の先を想像するだけで、喜びで胸が張り裂けそうになっていた――しかし、表情には現れない。真剣な眼差しで観察し続けて、情報を得ようとした。 

 だが集中していた時に、違和感を感じて顔をあげた。小蒔さんは目をつむっていて、自分の番になっても、牌を取ろうとしなかったのだ。

 

「……小蒔さん?」

 

 声をかけてみたけれど、無反応。

 首を傾げたそのとき。

 

 不意に体がすっと軽くなったような、体につけていた重りをとったときのような開放感に包まれた。同時に、眠ったみたいだった小蒔さんは、目をぱちくりさせる。

 

「あ……」

「どうかしましたか?」

 

 真剣な表情はどこかに、たった今夢から覚めたような、きょとんとした顔になった。

 少し待っていると、小声で聞いてきた。

 

「穏乃さん。今は、南三局が終わったところ、でしょうか」

「はい。そうですけど……」

 

 わたしが答えると、小蒔さんは微かに目を見開いて、驚いたような雰囲気で自分の手を見つめていた。

 やがて自分の手を胸元に置いて、ゆっくりと息を整えた。

 

「……ちゃんと、覚えてる」

 

 よく見ると、頬っぺたを赤くした小蒔さんの瞳の横に小さな雫が見えた。

 だから、つい声を上げてしまった。

 

「えっ!? ちょ、こ、小蒔さん!?」

 

 涙は袖ですぐに拭う。その向こうにあったのは、幸せそうな喜びの表情だった。

 

「ごめんなさい。とても嬉しくって……」

「そんなに、麻雀が楽しかったんですか?」

「はい、すごく……これ以上ないくらい、嬉しいです。穏乃さん」

 

 ゆっくりと、無言で頷いた。

 小蒔さんが、泣くほどに嬉しいと言ってくれた理由は、わたしには分からなかった。

 でも……わたしとの麻雀を楽しんでくれたということなら、嬉しいことだ。

 

「わたしもすごく楽しいですっ! ……でも。そろそろ、夜が明けちゃいますね」

 

 気づけば、この楽しい時間も多くは残っていないようだった。

 わたしは振り返って扉の向こうを見る。隙間から微かに藍色の光が差し込んできており、部屋を包んでいた夜霧も徐々に消えている。

 もうすぐ夜明けがやってくる。

 きっと心配をかけてしまうから、みんなが目を覚ます前に、急いで戻らなくちゃいけない。

 

 

 残されたのは、あと一局。オーラスのみだ。

 この一局ですべてが決まる。だから最後に全てを出し切って、小蒔さんに勝つ。

 わたしは、体の中から溢れるように湧き出てくる力を、抑えようとは思わなかった。

 

「この対局、わたしが勝たせてもらいます……っ!」

 

 点差がほとんど存在しない今、和了さえ決めれば勝つことができる。

 勇気が湧いてくる。身体の奥に存在していたエネルギーと万能感で、わたし自身が満たされていく。

 すると部屋にある小物が、触れてもいないのに小さくカタカタと揺れ動いた。

 

(何だろうこれ。霧が、わたしに味方してくれているのが分かる……!)

 

 霧が周囲に集まってくる。集まってくる、見えない力を身に纏っていく。

 

 

 

 

 その一方で、小蒔も眠るようにゆっくりと目を瞑った。

 穏乃が本気を出してきた。修験道を超え、運命の悪戯で遥か彼方の地に訪れ、いままさに自身を越えようとしてくる挑戦者の威圧を受けながら、平然と正座している。

 

 運命に導かれた少女と、運命を導いた巫女は、いつしかその世界に立っていた。

 松実玄と薄墨初美が戦った場とは異なる、霧島のもう一つの決戦の地だ。

 

 

 決して人の手の及ばない、この世の遥か彼方の霧深い山中。

 頂上の石畳の上に、朱色の鳥居が存在していた。

 

 神々の住まう領域の中で、誰よりも麻雀に真摯で純粋な少女――穏乃の背後に現れたのは、幾星霜を経て生まれた、深山幽谷の化身だ。

 しかし、紅色の瞳を持つ恐ろしほどに巨大な黒影を目にしてなお、霧島の姫は動じない。

 少女の声とともに、周囲に九つの光が現れる。

 

『この最後の局が、あなたに真に与える試練』

 

 九人の神々が人の形をとった。

 霧島を守る九面の放つ光が、唯一の姫を守護するように包み込む。

 

 瞑っていた瞳が開かれた瞬間。

 小蒔の黄金色の波紋を宿す澄んだ瞳が、挑戦者の穏乃を見下ろした。

 

「存分に打ちあいましょう、穏乃さん」

「っつっ……!?」

 

 

 ――格が違う。

 

 穏乃は、直感してしまった。

 今にも膝を折るか、手を後ろについてしまいそうになる。小蒔に宿った九人の神々の圧力を、身に纏ったエネルギーで受けきれない。

 太陽のような輝きを正面から受け止め、息苦しさに耐えながら顔を覆った。霧の能力が剥がれて、本来の穏乃の姿が戻ってしまう。

 しかし、それでも不敵に笑ってみせた。

 

『負けられない……っ! 小蒔さん、わたしはあなたに勝つっ……!』 

 

 紛れもなく最強の、誰一人として敵わなかった全力の神代小蒔が、わたしだけのために本気で打ってくれる。

 その想いにわたしも応えなければいけない。そして、今までで出会った中でも最大の壁を、この手で超えてみたい。 

 

 だから、どんなに強力な威圧を受けても、ワクワクが止まらなかった。

 



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第24局

 手を伸ばして賽を降る。

 これが最後の局で、最後の親番だと、気合を入れ直した。

 

 穏乃が目を瞑ると、はっきりと麻雀を打つ者にしか浮かばない精神空間を幻視することができた。

 もしもその場所を訪れたことがあれば、その神々の世界が、高千穂峰の頂上によく似ていることに気づくことができただろう。 

 山の背後には、現実と同じように朝日が昇りはじめていた。そして小蒔は、穏乃よりも上に立っていた。 

 鳥居の下にいる神代小蒔は、黄金のオーラを纏って、波打つ瞳でわたしを見下ろしている。

 彼女に付き従う九の影が、恐ろしいほどに体を重くした。

 

 向かい風がわたしに向けて吹きつけてくる。

 それに、吹き飛ばされてしまわないように、腕をクロスして、耐える。

 気を抜けば、いっきに崩れてしまいそうだ。でも、勝ちたい。だから、こんなところで負けていられない。

 

(勝負はここっ。精一杯、本気で、わたしは打つ……っ!)

 

 穏乃もまた、左目に真紅の炎を宿した。

 体の内側に宿った熱を、ギラギラと燃え上がらせながら、純白の霧を再び纏った。

 二人とも、自らに与えられた配牌を取りあげる。

 穏乃の配牌はまるで、天上の神々に対抗する力を、麻雀が与えてくれたみたいだった。

 

 

 

南四局0本場 親穏乃 ドラ{二}

 

穏乃手牌

 

{一筒}{二筒}{三筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{七筒}{九筒}{九筒}{二索}{南}{南} ツモ{南} 

 

 

(テンパイ……{二筒}-{五筒}-{八筒}待ち……!)

 

 異常な配牌とツモのよさによって、2巡目にして混一色三面張を聴牌。

 しかし、これは当然のことだ。

 今は二人とも、底力の全てをぶつけ合っている。麻雀が二人の想いに応えたのだ。

 まるで決められた運命を往くように、穏乃は{二索}を切り出した。

 

(さあっ、この手にどう対応してくるんですか。小蒔さん……!) 

 

 この順目でテンパイを察知するのは、ほぼ不可能に近い。場にはほとんど情報も出ていないはずだ。

 普通ならば回避不可能な局面だ。

 しかし、九面の神の力を得た巫女の人ならざる力は、容易に超越する。

 穏乃が麻雀を味方につけたように、今の神代小蒔は”神”を味方につけている。まるで示し合わせたように、同色に染まった配牌を手にしていた。

 

 

 

小蒔手牌

 

{一筒}{一筒}{二筒}{二筒}{二筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{六筒}{八筒}{八筒}{八筒} ツモ{三筒}

 

 

 小蒔はここまで一度も手を変化させていない。

 地和もあり得た鬼配牌に、小蒔は顔色一つ変えていなかった。

 

「…………」

「……?」

 

 ここに来て小蒔の手が止まったことを、穏乃も目敏く観察する。

 波打つ瞳が、じっと穏乃を見返した。

 

 この配牌も自摸も神が穏乃に与える試練だ。

 故に、役満を和了することはあり得ないと知っていた。そして、相手も同系統の染めてであると理解している。

 ツモ切りで、前巡に作り上げた{一筒}・{六筒}待ち、{二筒}を通せば、高目の{三筒}-{六筒}・{七筒}に変化する。

 ……選択したのは、{三筒}のツモ切り。

 

 そして、そんな小蒔の微かな逡巡を鋭く察知していた。

 

(小蒔さんも筒子の染め手なのか……それとも)

 

 新たな牌をツモり、それを手牌の上に横向きに置く。

 

 

 

穏乃手牌

 

{一筒}{二筒}{三筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{七筒}{九筒}{九筒}{南}{南}{南} ツモ{七筒}

 

 

 

 ここに来ての筒子で、穏乃も遅れて、確信に至った。

 恐らくは一騎討ち。この最後の一局は筒子の捲りあいの勝負になる――と。

 

(この局は、どっちかが相手から和了しなきゃ終わらない……気がする……!)

 

 穏乃は直感で、そう感じていた。

 上家と下家で、見えない存在が牌を握ってはいるが、ここまで一切ゲームに関与してこなかった。

 

 

 

穏乃手牌

 

{一筒}{二筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{七筒}{七筒}{九筒}{九筒}{南}{南}{南} 打 {三筒}

 

 

 

(それに、この手を和了るなら、小蒔さんからしかありえないっ)

 

 ツモをしまいこんで、自分も安牌の{三筒}切り。

 待ちが{七筒}・{九筒}に変化する。これによって互いにシャボ待ちに移行した。しかし、次順。

 

 

 

小蒔手牌

 

{一筒}{一筒}{二筒}{二筒}{二筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{六筒}{八筒}{八筒}{八筒} ツモ{七筒}

 

 

 

「リーチ」

 

 抑揚のない声が、場を重く制圧する。

 

 

 

 

小蒔手牌

 

{一筒}{一筒}{二筒}{二筒}{二筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{七筒}{八筒}{八筒}{八筒} 打 {六筒}

 

 

 たった一言で、場の圧力は最高潮に達した。

 穏乃は、その手の禍々しさに目を見開き、冷や汗を流した。

 この一巡で小蒔は{七筒}を引き入れ、シャボ待ちから{一筒}・{二筒}-{五筒}-{八筒}の四面張に変化。

 確実に穏乃を倒しうる一手に変化したのだ。

 

『くぅっ、でも……まだ、まだっ……!』

 

 麻雀世界で、わたしは吹き飛ばされないように屈み、嵐の中で必死に岩にしがみ付いた。

 立っていた地面はひび割れ、身体が闇の中に飲まれようとしている。たった一本、岩場にひっかけた手が、背後に現れた闇への落下を必死に支えていた。

 しかし小蒔は、強風に煽られても、そんなものは感じないといわんばかりに立ち続ける。

 背後の九神が、神代の巫女を影響から守り続けているのだ。

 

(やばい。気を抜いたら押しつぶされる……!)

 

 僅か二巡で聴牌したはずなのに、今崖っぷちに立たされているのは穏乃のほうだった。

 しかし、まだ負けたわけではない。勝利を目指すために、前に進まなければならない。ここで止まるわけにはいかない――後ほんの少しで、"最強"の一角に手が届くのだから。

 

『あと、一手……っ!』

 

 ヤマに、手を伸ばした。

 鮮血のようなオーラに染まった牌を掴まされた瞬間、運命が揺れ動いた。

 

 

 

穏乃手牌

 

{一筒}{二筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{七筒}{七筒}{九筒}{九筒}{南}{南}{南} ツモ{八筒} 

 

 

 

(……くっ……!)

 

 穏乃と小蒔は、ここまで同色の配牌での打ち合いを続けてきた。

 点数の高さは問題ではない。お互いにただ、相手を倒すためだけに一色に染め上げて、たどり着いたのがこの手だ。

 狭めた包囲網に、先に捕まったのが穏乃のほうだった。

 

 そう、安牌がないのだ。

 正確に言えば安牌はある。でも、それを切った瞬間に、この勝負は終わる。

 しかし攻めに転じるためには、敗北のリスクを負う必要がある。

 

 {一筒}か{四筒}切りの{六筒}-{九筒}待ち、{七筒}切りで、{三筒}を加えた振聴三面張。

 {九筒}切りで、{一筒}-{四筒}-{七筒}待ちの新たな三面張聴牌。

 そして{南}切りは待ちは嵌張の{八筒}のみだけど、一盃口に一通の高目が確定する。

 あるいは、現物{三筒}か{六筒}で聴牌崩しという手もある。

 

 

 穏乃は考える。

 思考をどこまでも深めて、どれが最善の一手かを。

 しかし、目の前の"最強"を前にして、どれも不正解なような気がしていた。

 

(どうしよう。どれを、切ればいいんだろう……)

 

 考えても永久に解けない思考を深め続ける――そんなときだった。

 

 

 

『嬢ちゃんのその姿勢、嫌いじゃあねえぜ』

 

 誰かの声が聞こえた。

 そして、穏乃はふと、我にかえった。

 

(あれっ……?)

 

 刹那聞こえた声は、疑問を呼び起こす。

 それは声の主を探るようなものではなく、なぜ自分がこんな麻雀を打っているのか。

 まるで、夢から覚めたみたいに、心が落ち着いていくのを感じた。

 

(わたし、なんで……?)

 

 まるで、頭の中にかかっていた霧が晴れたみたいに、自分自身のおかしさに気づいたのだ。

 

 麻雀を始めた小学生の頃から今までで、一手に、これほど真剣に悩んだことはなかった。

 どんな時でも真っ直ぐに、それが打ちたい麻雀だった。

 憧からはもっと悩めって言われた。先生は、それがシズの個性よね、って言われた。

 

 そんな風に打ってきたはずだったのに、今は違っている。

 勝つために直感と感覚に頼って、絶対に勝てると思う手を打っていた。

 今までの自分とは全く違う打ち筋。なぜ、そんな知らない打ちまわし方をしているのか、説明がつかなかった。

 

  

 思考の海から浮かび上がった意識は、気づけば自分のツモを握る手を唖然と見つめていた。

 

 

 これは今までの自分が築きあげてきた麻雀とは、違う。

 しかし、その打ち方も手に馴染んだ。

 どちらの感覚も、高鴨穏乃として打つために必要なものであると――そんな風に思った。

 

 真っ直ぐに打つのは、すごく楽しい。

 でも真っ直ぐっていうのは、ただ自分の手だけを見て最速で進むとか、そういう意味じゃない。

 相手の手を考えて、魂を削って押し合って、そして牌を選択する。その過程全部を楽しむのが、わたしの麻雀だ。

 今、それができていない。

 

「……わたし、自分の麻雀が打ててなかったんだ」

 

 穏乃は、ぽつりとつぶやいた。それはストンと腹に落ちてきた。

 楽しむために打っているのに、一番楽しめる麻雀を打てていない。苦しむように牌を選択していた。 

 

 追い詰められていることも忘れて、相手の威圧も忘れて、ツモ牌を見つめた。

 心に引っかかっていたものが、無くなった気がした。 

 目の前がよく見える。辛く、苦しい気持ちはさっぱり消えてなくなった。今は、ワクワクとした感情が溢れている。

 

(考えるんだ……! 自分が納得できる一手を……!!)

 

 こうして悩んでいるのも、きっと意味があることだ。

 

 情報から相手の手は読めない。感覚も一切通用しない。

 だから昔、山で場所が分からず迷子になったときみたいに、心細い気持ちになっていたんだ。

 今のわたしは、自分が打ちたい『100パーセントの麻雀』にたどり着くことができていない。

 

 それなら、自分の直感を信じよう。

 

(感覚も合理性もいい。でも、それだけ頼りにしない。わたしは打ちたい麻雀を打つっ……!)

 

 

 

穏乃手牌

 

{一筒}{二筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{七筒}{七筒}{八筒}{九筒}{九筒}{南}{南}{南} 

 

 

 

 攻めるのなら、危険牌の中から一枚を選択しなければならない。

 しかし唯一――{南}だけは違う。比較的安全牌であり、そして、それが弱い一手だとも感じていた。

 こんな打ち方じゃ勝てない。長く保っていた均衡は崩れて、小蒔さんは容赦無くツモ和了ってくるはずだ。

 

 

 穏乃は牌を一枚引き抜いて、場に放った。

 

 

 

穏乃手牌

 

{一筒}{二筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{七筒}{七筒}{八筒}{九筒}{九筒}{南}{南} 打{南}

 

 

 ……これでいい。

 この一手は紛れもなく、今の自分が全力を尽くして小蒔さんと戦った結果であり。

 これが、自分の大好きな麻雀を打った結果なんだ。

 

 そして小蒔さんが腕を伸ばす。

 もしも、力の均衡が崩れていたなら、ここで小蒔さんがツモを引いて終局するはずだ。

 

 自分の選択の結末を見届けるために、しっかりと相手を見た。

 僅かに考えたように手を止め、そして、ツモ牌を打ち出した。

 

(チーピン……っ!?)

 

 出てきたのは{七筒}。

 さっきの一手で{九筒}さえ通していれば、それでわたしの和了だった。

 わかっていても、悔しさに思わず歯噛みする。

 でも、まだ終わっていない。

 

 

 

穏乃手牌

 

{一筒}{二筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{七筒}{七筒}{八筒}{九筒}{九筒}{南}{南} ツモ{六筒}

 

 

 ツモってきた指先が小刻みに震えた。

 それも、筒子さえ切れていれば和了牌だった一枚だ……急に、力が抜けたような気がした。

 

(……負けた、かな)

 

 目を瞑って、ツモった安牌を切り出した。

 穏乃にはいくつかの選択肢があった。そのうち、筒子を切っていれば和了していた。

 全国の頂きが、まだ遠いことを思い知らされた。対局は終わっていないが、これで運命は決した。

 

「ツモ。4000・8000」 

 

 わたしから離れた勝利の女神は、当然のように小蒔さんに微笑んだ。

 {赤五筒}ツモで、オーラス終了。その終わりを告げる声はあまりに静かで、耳に残った。

 

 

小蒔手牌

 

{一筒}{一筒}{二筒}{二筒}{二筒}{三筒}{四筒}{五筒}{六筒}{七筒}{八筒}{八筒}{八筒} ツモ{赤五筒}

 

 

 

 感じていた霊力の嵐は、いつの間にか凪のように止んでいた。

 麻雀を打っている間に見えていた心象風景も消えており、穏乃はだらしなく、ばたんと背中を地面に預けた。

 

「わたしの敗け……か」

 

 完敗だった。途中で稼いだ点数も放銃し、結果は逆転負け。

 相対して、その強さを、真に理解した。

 

(これが……本気の神代小蒔なんだ)

 

 悔しかった。

 でも、この局で大切なものに気がつくことができて、清々しい気持ちもあった。

 

「やっぱ小蒔さん、凄いですね。負けちゃいました」

「…………」

「……あー、今は神様がついてるんでしたっけ」

 

 瞳に金色の波紋を宿し、じっと言葉を告ぐわたしのことを見つめている。

 対局が終わった今でも圧力を放ち続けている。神様が、いまだその身に降り続けているのだろう。しかし、その向こう側には小蒔さんの意思があると、わたしは分かっている。

 

「小蒔さん!! あのっ!」

 

 わたしと一緒に打ちあい、戦ってくれたのは神様ではなく、神代小蒔なのだ。

 だからその人に、この思いを伝えたい。

 

「また、わたしと打ってもらえませんかっ!?」

 

 ポニーテールを振り乱して、身を乗り出した。

 

「わたし、今のままだとあなたに勝てません。でも、絶対次は勝ってみせますっ! だから……インハイまで待っててくださいっ! ぜったい、リベンジしに戻ってきますから!!」

 

 清々しいまでの敗北をしておきながら、でも、急に胸のドキドキがおさまらなくなっていた。

 人生で最高の麻雀だった。それが打てたことが、嬉しかった。

 今はまだたどり着けなくても、まだずっと強くなれることが分かった。だから、その気持ちを伝えたいと思った。

 

「あっ……」

 

 霧島の姫。神降ろしの巫女は、表情を崩して穏やかに微笑んだ。

 

 ――神様の向こう側に、想いはちゃんと届いていた。

 

 場を支配していたものが離れていった。

 霧や気配は残さず消えて、そこにあった雀卓さえもゆっくりと薄れて消えてしまった。しかし綺麗な姿勢でそこに座っていた小蒔さんだけは、変わらない。

 眠るようにゆっくりと目を再び開くと、瞳は茶色に戻っていた。

 そして小蒔さんは、何も変わらない微笑みを浮かべた。

 

「もちろんです。穏乃さん。また、一緒に打ちましょう」

「……! はいっ!!」

 

 神境にも朝日が昇り、わたしの入ってきた扉から陽が差し込んでくる。

 背中を太陽に照らされながら、わたしたちはこの日。未来へと続く再戦の約束を交わした。

 

 

 



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第25局

 霧島神境に訪れて、二日目の朝がやってきた。

 部屋に敷かれた布団を片付けているわたしたちだったけれど、しずちゃんだけが大きく欠伸した。

 

「んんーっ……ふぁぁ」

「しずちゃん、ちゃんと寝れなかったの?」

「あんた、大寝坊したのになんでそんな眠そうなのよ。また胸元開いてるし……ほら直してあげるからこっち向きなさい」

「ん、あんがと」

 

 ウトウトとしたまま船をこぐしずちゃんの服を、憧ちゃんが直してあげていた。

 布団を片付けて部屋で待っていると、やがて正装の巴さんが襖を開けて、迎えにやってきた。

 

「あっ、巴さん。おはようございます」

「おはようございます、皆さん。今日はまた別の説明があるから、まず向こうの部屋に移動するわね」

 

 わたしたちは、そのまま連れられて畳の大部屋から移動した。

 もしかすると今日はこのまま、また麻雀を打つことになるかもしれない――そう考えると、気が引き締まった。

 和風建築の長い木造廊下をしばらく歩き、吹き抜けから空を見上げた。

 相変わらず曇っており、谷上の景色は霧に覆われている。やっぱり不思議な場所だなあ、などと考えていると、到着したらしい。

 

「失礼します」

 

 巴さんに通されたのは、学校の教室ほどある広めの和室だった。

 中には石戸さんと、巫女服を着崩した薄墨さんの二人が正座して待っていた。

 

「おはようございます。昨日は、よく眠れたかしら」

「座って、座って、なのですよー!」

 

 一方は母親のように微笑み、もう一方はそして袖をぶらぶらさせながら、ぱぁっと素直な笑顔を浮かべてわたしたちを迎えてくれた。

 

「それじゃあ、朝ごはんの前に、これからのことを話しましょうか」

「今日も麻雀をするんですか?」

「その前に、今日は皆さんに紹介したい人がいるんですよ」

「ですよー」

 

 紹介したい人?

 わたしたちが首を傾げると、足音が近づいてくる。そして反対側の襖が開く。開けたのは滝見さんだ。

 そして入ってきた新しい巫女さんが誰か分かったとき、わたしたちは声をあげた。

 

「あっ、あっ、あ……あなたは……!」

「あわ、わわわわっ……」

「皆さん、初めまして。ようこそ霧島神境へ」

 

 自己紹介されなくても一目でわかった。

 

「挨拶が遅れて申しわけありません。わたしは、霧島神境の代表、神代小蒔と申します」

 

 可愛らしいおさげ。神聖で近付き難く、それなのに、おっとりとした落ち着いた雰囲気。

 何度も画面越しに見たその人そのものだった。

 憧ちゃんが動揺したみたいに、口をぱくぱくさせている。

 

「わわわわっ……ほ、本物……ですよね?」

「はい。本物です」

 

 初めて会った巫女さんは、両手を前に重ねてにこりと微笑んだ。

 おねーちゃんも目を丸くして、憧ちゃんも口元を押さえて、あっけにとられてる。

 しかし、次の一言で、わたしたちはさらに度肝を抜かれた。

 

「おはよう、小蒔っ!」

「穏乃ちゃん……おはようございます」

 

 全員「えっ」と言葉に出した。

 初対面の相手にするものではない、友人のような気安い呼び合いを、相手も嬉しそうに受け入れている。

 わたしたちの驚く気持ちを、憧ちゃんが代弁した。

 

「シズ、え、ちょっと。あんたなんでそんな親しげなの!?」

「さっき言いそびれたんだけどさ、昨日小蒔さんと打ってたんだよね。てへっ」

「打った?」

「うん」

「それって、麻雀……?」

「そうですねえ」

「ぅえええ!? ちょっと、言いなさいよ!?」

 

 憧ちゃんが思いきりしずちゃんの肩を揺さぶった。しずちゃんは「いやー」と、頭を掻いてごまかした。

 おねーちゃんも、びっくりして動けなくなっている。

 一方で、向こうの人は把握していたみたいだ。"姫様"の登場に、はっきりと喜びの感情を示していた。

 

「おはようございます姫様。昨晩はお疲れさまでした」

「お疲れさまなのですよー! 穏乃ちゃん、どうでしたかー?」

「……本当に素晴らしく、楽しい時間でした。それに私自身も、この一局で大きく成長することができました」

 

 わたしたちが寝ている間に一体なにがあったんだろう。

 気づけば”伝説”のように思っていた巫女さんと、気心の知れた友人のようになってしまって。しかも、麻雀という競技で、ここまで言わせるなんて。

 石戸さんが、微笑みながら小蒔さんをたしなめた。

 

「小蒔ちゃん、そろそろいいかしら」

「あっ、これは失礼しました……こほん。今日は、皆さんに報告することがあるんです」

「はい……これ、持ってきました……」

 

 奥から紫色の包みを抱えてやってきた春さん。綺麗な所作で座った神代さんの横について、その封を解いた。

 それは、わたしたちの持ってきた、古い麻雀牌だ。

 

「こちらを、霧島の巫女の力で調べさせていただきました。その結果、今は、普通の麻雀牌であることが分かりました」

「えっ。じゃあ、危ないものじゃなかったんですか?」

「牌そのものは、昭和の時代に作られたもののようです。宿っていたものは霧散しているので、"今は"大丈夫みたいです」

 

 巴さんの言い方で、全員が察した。やっぱり何か曰くがある品だったのだ――と。

 わたしは、前に身を乗り出して尋ねる。

 

「とりあえず危険はない、ということですか?」

「そう捉えてもらって構わないわ」

 

 ひとまず、抱えていた問題がなくなって、全員が一息ついた。

 しかし、話はそこで終わらない。石戸さんが視線で合図する。

 

「はっちゃん、例のものをお願いするわね」

「はいですよー! むむむっ……!」

 

 力を込めて、両手をかざすと、ボゥッと炎が燃え上がった。

 三度目になると、とうとう誰も、その現象に驚かなくなった――だけど。

 それは、僅かな火の粉を散らして、神代さんの前に現れた。

 

「これって……」

 

 畳の上で一通り燃え盛った後に、出てきた同じくらい古い木箱(・・・・・・・・・)を見て、全員が言葉を失った。

 コトンと小さな音を立てて落ちた。

 わたしたちの手元に戻ってきたものと同じくらい年季の入った、古い麻雀牌の詰まった箱。

 筆で書かれた達筆な文字の描かれた蓋は、札で厳重な封がされている。ちょっとやそっとじゃ開きそうにない。

 まるで、あの日にぽつんと部屋に置かれていた箱がそのまま、ここにあるみたいだった。

 

「もしかして、これ……同じもの、ですか?」

 

 しずちゃんが、恐る恐る手を上げた。

 

「確かにこれも麻雀牌です。訳あって霧島の地で管理しているんです」

「本来なら、こういったものは外の人に見せることはないの。ですが、みなさんには知っておいてほしいんです」

「これは、昔からこの霧島神境で守っている神器の一つなのですよー」

 

 神器と聞いて、思わず二つの箱を見比べた。

 しかし、やっぱり何の変哲もない、ただの木箱にしか見えない。

 

「元々は昭和の初めごろの時代に使われていたものらしいの。いわゆる戦後の時代なんだけど……」

「昭和……って、いつ頃なの?」

「あんたの母親が生まれるよりもっと前よ」

「そんなに!?」

「いや、さすがに、そのくらいの歴史は覚えておきなさいよ!」

 

 しずちゃんの言葉に、それまで神妙だった憧ちゃんがずっこけた。

 

「当時は大金を賭けた非合法なギャンブルが多かったようなの。この牌は、そういう目的の麻雀で使われていたらしいわ」

「ギャッ……ギャンブル、ですか……?」

 

 いまの麻雀界とは、ほとんど縁のない単語に、みんながギョッとした。

 21世紀に入って、世界の麻雀競技人口は爆発的に増加し、最近では一億人を突破した。

 わたしたちも社会の授業で日本の麻雀史を習ってきた。特に法整備が粛々と進んでおり、お金を賭けるギャンブルだけは、絶対にやってはいけないと教わった。

 麻雀で行われる非合法なギャンブルは、今はとても厳しく罰せられる。

 違法な賭け麻雀をやったプロが、翌日の新聞の一面で大々的に報じられることがあるほどだ。

 

「昔も非合法ではあったけれど、当時は法律が緩かったし、麻雀はマイナーなボードゲームだったから……今じゃ考えられないわね」

「はえ〜、いくら賭けてたんだろ……一万? ……百万とか?」

「もしかして一千万……?」

 

 憧ちゃんの言葉に、薄墨さんがぱっと笑顔になった。

 

「そのくらいですねー。ただし、当時のお金の価値はいまの十倍以上なのですよー!」

「ってことは……え。い、い、い、一億……っ!?」

「い、いち……あわわ……」

「お、おねーちゃん、憧ちゃん、しっかり?!」

 

 二人が倒れそうになるのを、慌てて背中をさすって目を覚まさせた。

 

「……とにかく、裏の世界で大金を賭けて、麻雀を打って生計を立てていた人たちがいたの」

「いやでも一億って、石油王じゃないんですから!」

「ええ。こんな話をするのは気が引けるけれど……恐らくは、命がけだったんでしょうね。そして麻雀は打ち手に呼応するもの。牌に籠る念も、相応に強くなってしまうわ」

 

 命がけで麻雀を打つなんて、わたしたちの誰も、考えたことがなかった。習ったこともない。

 でも、ありえないと否定することもできなかった。

 だって、世の中には想像もできない世界が広がっている。しかも何十年も前の話だ。何があっても不思議じゃない。

 

(そ、そんな麻雀、怖くて打てないよっ……)

 

 ……でも、想像して震え上がった。

 それはしずちゃんも同じだったようで、恐る恐る、牌を指差した。

 

「じゃ、じゃあもしかして……殺されちゃった人の怨念が籠ってたりとか……」

「ひぇっ!」

「うぅぅぅ……」

 

 おねーちゃんが抱きついてくるくらい怖がったけれど、春さんが否定する。

 

「大丈夫……そういう邪悪な気配はなかった……」

「皆さんから悪い気配は全くしませんですよー! というより……」

「とても不思議ことだけれど、姫様に神様が力を貸すみたいに、それは、あなたたちに力を貸してくれるみたいね」

 

 四人とも、目を丸くした。

 

「穏乃さん、玄さん。昨日の麻雀で、何か悪い気配を感じたりしたかしら」

「そうえば……」

 

 そう言われてみると、確かに"悪い"と思えることは何もなかったと思う。

 麻雀をするときに、感覚は鋭くなったし、考え方も変わっていた。でも、それを受け入れていた。

 

 何より、麻雀を楽しむ気持ちを忘れずに、打つことができた。

 

「小蒔ちゃんは、打ってみてどうだったの?」

「……穏乃ちゃんはもともと、千辛万苦の修行を超えてきています。わたしと同じように、神様を宿して戦っていました。それは決して悪いものではないと、この名にかけて保証します」

 

 小蒔さんの言葉に、みんなが目を瞬かせた。

 つまり大丈夫――ということは分かったのだが、今、とんでもないことを言われなかっただろうか。

 

「神様を、宿す……?」

「しずちゃん……神代さんみたいに、神様をおろせるの……?」

 

 しかし、本人も分かっていなかったようだ。

 驚いたように身を奮わせると、慌てて、憧ちゃんにすがりついた。

 

「ちょ、待って……えっ、ど、ど、どうしよう、わたし憧の家に奉納されたほうがいい!?」

「い、いやいや、こられても困るからね!? お茶くらいなら出してあげるけど……」

「じゃ冷えた麦茶が飲みたい!」

「それじゃ、遊びに来ただけじゃないのよ!」

 

 二人は、慌ててしっちゃかめっちゃかになった。

 しかし、石戸さんは晴れない表情のまま、わたしに向き合った。

 

「穏乃さんは大丈夫でしょう。ですが玄さんは、気をつける必要があります」

「えっ……?」

 

 わたしは、ドキッとしながら、言葉の続きを待った。

 

「普通にしていれば基本的には大丈夫です! ただですねー……」

「ええ。玄さんは、まだ自分の能力を百パーセント使いこなせていない状態なんです」

「……ドラゴンさんのことですか?」

 

 言い争っていた二人も、いつの間にかわたしたちの話に聞き入っていた。

 

「龍もまた、神様の一柱です。そして玄さんは龍と心を通わせることができる。つまり本気を出せば、神様を宿しているのと同等の状態に入ることになります」

「ですが、今のままでは、とても不安定なのですよー」

「そう、なんですか?」

「はい。今の力の使い方なら問題ないですがより強い龍を呼び出せば(・・・・・・・・・・・)、手に負えなくなるかもしれません」

 

 石戸さんの言葉に、わたしは緊張で唾を飲んだ。

 龍を呼び出す――少し前なら意味が分からなかったが、今ならば分かる。

 あのときは、わたしを助けてくれるドラゴンさんと協力して、薄墨さんを倒すことができた。夢中だったから気づかなかったけれど、すごい力だった。

 もしも、ドラゴンさんがいうことを聞いてくれなくなったら、どうなるのか。

 

「龍とは元来、天地を司る不羈な神の一族。強すぎる力を望めば、人の手には負えない尊大不遜な存在をも呼び出してしまうかもしれない」

 

 石戸さんの微笑みを、少し怖く思ってしまった。

 

「人ならざる者の手助けを借りて強い力を引き出そうとすると、暴走してしまう可能性があるということは、覚えておいてほしいわ」

「…………」

「ですが気負わなくても大丈夫ですよー! クロの場合は本人の意思で何とかなりそうです。気になるなら、巫女の修行をするというのも手ではありますねー」

「修行ですか……? でも、それってどうやって……?」

 

 わたしが首を傾げると、巴さんが手を合わせた。

 

「そうだ。穏乃さんについていく、というのはどうかしら?」

「えっ玄さんも一緒に山、行きますか!?」

「えっ」

 

 わたしを見つめる目は、今までにないくらいきらきら輝いていた。

 い、いったほうがいいのかな……? う、うーん……大変そうだけど、ついていけるかな。

 

「それも一つの手ではあるけれど……過ぎる力を使おうとしなければ、大丈夫よ。相手が神様とはいえ、願わなければ、その身を借りて出てくることはできないわ」

「そっかぁ……残念」

「不安にさせてごめんなさい。でも、僅かな可能性でも、注意するに越したことはないわ」

「いつでも構いませんので、何かあれば遠慮せず、すぐに連絡をくださいですよー!」

 

 それを聞いて、わたしはやっと息をついた。

 

(ドラを大切にしていたから、ドラが集まってくれるようになった。昨日はドラゴンさんとも会えた)

 

 自分はドラゴンさんと心を交わすことができる。

 それは、大切な人が最期に残してくれた能力だ。だから、修行もするべきなのかもしれない。

 みんなと一緒に麻雀を続けたい。ドラゴンさんとも仲良くありたい。欲張りかもしれないけれど、それが、新しい目標になった。

 

  

(わたし、がんばるよ。おかーさん)

 

 天国にいるおかーさんも、きっと見ていてくれているはずだ。

 心の中で、決意を固めた。

 

 



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第26局

 

「それじゃあ、もうこれで終わりってことですか?」

 

 しずちゃんが尋ねて、みんな思い出した。

 ここに来た目的は、自分たちの中に眠る"何か"を調べるためだ。そして、その目的はほとんど果たされたといっていい。

 

「そうね。もっと時間かかると思っていたけれど、小蒔ちゃんのおかげでそれも終わってしまったし……診るのはこれで終わりね」

「そっかぁ……」

「どうしたのよ、複雑な顔して。何もなかったんだから喜ぶところじゃないの?」

「いや、もっと打ちたかったなって思って」

「ああ、まあそうなるわよね……」

 

 終わってしまえば、麻雀を打つ理由はなくなってしまう。

 みんな安心しつつも、残念に思っているみたいだった。でも、わたしたちとは逆に、石戸さんや神代さんはくすくすと笑った。

 

「いえ。わたしたちは、歓迎ですよ。せっかくのお客様ですもの」

「え?」

「予定は空けておいたので、たっぷりと時間はあるのですよー。はるばる来てくださっているのですから、麻雀でも観光でも、どんとこいですよー!」

「本当ですかっ!?」

「はい。強い方と打つのは、とてもよい修行になりますから。もともとインハイに出たのも修行のためですし……」

「それに、久しぶりに憧とも遊びに行きたい……もちろん、皆さんとも仲良くなりたい……」

 

 永水のみんなの提案に、わたしたちは顔を見合わせる。

 そして、ぱああぁっと、笑顔に染まった。

 ――誰も、反対なんてするはずがなかった。

 

 最後にみんなの視線が、この霧島神境を統べる姫に集中する。 

 すると、にっこりと笑顔を返してくれた。

 

「嬉しいです。皆さんとも一緒に打ちたかったですし、それにわたしも、いっぱい遊びたいです!」

 

 その言葉に、みんな笑顔がほころんだ。

 薄墨さんは、嬉しさのあまり口をムズムズ動かし、そして袖を大きく持ち上げて子供のように喜んだ。

 

「姫様も参加できるのですか! それは楽しくなりそうですよー!」

「ふふっ。はっちゃんも春ちゃんも、インハイで一緒に行けなくて寂しかったって言っていたものね」

「みんなと一緒、楽しい……」

「それなら、これからの予定を決めましょうか。時間がたっぷりできたから、何でもできるわね」

 

 

 そして、この日の昼からは、夜遅くまで麻雀を打ち続けた。

 足が痺れるのにも気づかないくらい、いっぱい打った。

 

 昨日打ったのは、あくまで"視る"ための麻雀だった。

 でも今日は違う。今日からは永水の人みんなが、わたしたちと打ってくれる。それからは、みんな思い思いの相手と麻雀を楽しんだ。

 

 

「ロンッ! 3900……!!」

「ロン、4000……!」

「……ツモ。24300」

「うぅぅ、火力高い……でもっ、負けてられないっ……!」

 

 小蒔さんと本気で打ってみたいと憧ちゃん。そしてリベンジにしずちゃんが、全力で挑み。

 

「ふっふっふ、それをポンしますよー!」

「はわわ……っ。ううん、でも……それって……」

「それロン……1000点」

「ふぇ、はるるに流されてしまいましたー!?」

 

 おねーちゃんも、今までにないくらいいっぱい打ち続けた。

 何より大きな収穫だったのは、わたしたちが、永水女子のメンバーと十分戦えることが分かったことだ。

 小蒔さんには誰も敵わなかったけれど、一方的にやられることもなく、真っ向から打ち合えた。そんな経験が、わたしたちの大きな糧になっていくのを、みんな感じていたと思う。

 結局その日は晩までずっと麻雀を打ちっぱなしで、足が痺れるのにも気づかないくらい、いっぱい打った。

 

 

 そして、夜には温泉が待っていた。

 昨日は四人だったけど、今日は阿知賀と永水のあわせて九人。

 神境にある露天風呂に肩までゆっくり浸かって、みんなで表情を緩めた。二人はぐでっと岩に背中を預けて、おねーちゃんは幸せそうに口元まで浸かっている。

 

「ふええ、打ちすぎで疲れたぁ。癒される……」

「あったかぁい……ここ、すき……」

「ほんとに夜まで打っちゃいましたね。けど、皆さんがここまで強いとは思いませんでしたよ」

「本当に来年のインハイで戦えるかもしれませんねー!」

「いや、まだまだですよ! 結局小蒔さんには一回も勝てなかったし……あれ?」

「すぅ…………」

「ぐっすり寝てる……」

「小蒔ちゃんは居眠りさんだから。きっといっぱい打って疲れたのね」

 

 目を瞑って、霞さんのおもちに、頭を寄せていた。

 ずっとみんなからひっぱりだこにしちゃったから、寝ちゃうのも無理もない。

 

(そ、それよりも……これは、すごいよ。おもちでおもちの子を支えてる……ごくり)

 

 わたしは、そんな小蒔さんと、そしてそばでそれを支える霞さんに視線が釘付けだった。

 霞さんの特大おもちに寄りかかって、うとうとと目を瞑って船をこいでいる。

 生きていてよかったよ。

 

「そういえば、玄だけじゃなくてシズも、随分変な能力身につけたじゃない。あんた、昔はあんなことできなかったわよね?」

「んー、あれは、やってみたらできたって感じかな」

「うぅ……あのときのしずちゃん、まわりが寒くなるから苦手だよぅ……ブクブク」 

「おねーちゃん、沈まないで!?」

 

 頭まで沈んだおねーちゃんを、慌てて揺さぶった。

 霞さんも、くすくすと笑う。

 

「対局中に強い力を感じたときは驚いたわ。穏乃さんは本当に巫女になれるかもしれないわね」

「え、マジですか?」

「マジなのです。まるで眠っているときの姫様みたいだったのですよー」

「ふふっ、このまま霧島に残ってここで一緒に働いてみる? 小蒔ちゃんも喜ぶわ」

「うーん、そうすると来年は永水女子かぁわたし……巫女服でインハイ出るのかな……?」

「……ほんとに行かないわよね?」

「じょ、冗談だってば。あははー」

 

 じとっと睨まれて、しずちゃんは慌てて笑顔を取り繕った。

 あははははっ、と露天風呂に笑いが木霊した。

 

 

 

 

 そして、鹿児島から帰る日はあっという間にやってきた。

 

 来たときにも通った朱色に彩られた森中の駅。

 いまは旅の中で出会って、仲良くなった永水のみんなが見送ってくれてる。

 

「ほんと、長い間お世話になりました。春っちも、元気でね!」

「うん。憧も元気で……」

 

 憧ちゃんが歩み寄って腕を掲げた。すると、春さんもそれに返すように、腕を合わせてきた。

 わたしたちも、遅れながら頭を下げる。

 

「あのっ、長い間お世話になりました……」

「わたしたちもとても楽しかったので、気にしなくていいのです。むしろ、いつでも遊びにきてほしいのですよー!」

「何かあっても、何もなくても。いつでも連絡をちょうだい」

 

 にぱーと笑いながら握手を求めてきたので、みんなで順番に手を握りしめた。

 巴さんが、少し寂しげに微笑む。

 

「もう帰ってしまうなんて、なんだか名残惜しいですね」

「また来年きっと会えるわ。ね、小蒔ちゃん」

「はい。皆さん、ぜったい来年のインターハイに来てください。わたし、全力で応援してますから!」

 

 今日は特別だと言って、小蒔さんもお見送りに来てくれていた

 ――すると、その存在に気づいた人も出始めて、駅のそばが騒がしくなっていた。

 

「小蒔」

 

 そんな状況も気にせずに、しずちゃんが小蒔さんに、手を差し伸べる。

 

「わたしたち、小蒔と戦いに頂点まで行くから。待っててよねっ!」

「……はい! 待ってます、穏乃さん!」

 

 同じように、しっかりと二人は握手をし合って、未来の再戦を誓った。

 でも、憧ちゃんが目を逸らして言った。

 

「まずはもう一人部員を揃えるところからなんだけどね……」

「あっ」

「え」

「……ふぁ」

 

 あ。そういえばそうだったよ……。

 インハイに出ることを決めてから、インハイを見に行ったり、鹿児島まできててんやわんやで忘れてた。

 やるべきことは、まだまだ多い。

 団体戦に出るなら、五人目を探さなきゃいけない。もちろん顧問の先生も見つけないと。

 

「帰ったらやること一杯だね……みんな、頑張ろうねっ!」

「もちっ!」

「うん……!」

「頑張るぞーっ!」

 

 今、わたしたちのモチベーションは最大限に高まっている。

 表情はみんな明るくて、やる気十分。

 ここからが、阿知賀女子麻雀部の再始動なのだ。

 

 

 

 そして電車に乗り込むと、別れを惜しむ間もなくすぐに発進した。

 急いで窓を開けて、景色が流れていく前に手を振った。

 

「小蒔っ! 霞さんっ! 巴さん! はっちゃん! 春っち!」

「みなさん、絶対にまた会いましょう……!」

「バイバイなのですよーー!!」

 

 急いで窓を開けてしずちゃんが名前を呼ぶと、五人はすぐに気づいて顔を向けた。

 

「みんなー!! ぜったいっ、来年のインハイで会いにいきますからーーっ!!」

 

 しずちゃんは窓から体を大きく出した。

 こら危ないってば、と、憧ちゃんに引っ張られるまで、手を大ぶりに振り回し続けた。

 わたしも、どんどん小さくなっていく永水のみんなを、見えなくなるまでずっとずっと見守った。

 

 こうして、夏の日差しの中で、けたたましく蝉の鳴き声響く鹿児島の地を離れた。

 わたしたちは新しい目標を得て、阿知賀に帰っていくのであった。

 

 




♪この手が奇跡を選んでる 永水女子高校Ver.


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第27局

亀更新になりますが、少しづつ進めていきます...!



 夏休みもあと数日と終わりに近づいてきた頃、わたしは一人で麦わら帽子を被って、とある場所を訪れていた。

 日差しの下、帽子の影に包まれた顔に手をやって、今頃はみんな何をしているのかなあと考えを巡らせる。ああ、そうだたしずちゃんは残してしまった宿題を、憧ちゃんはその手伝いをしているんだっけ。おねーちゃんは、わたしのかわりに実家のお手伝い中だ。

 

 そして、歩いているうちに見えてきたのはボウリング場。

 鷺森レーンと書かれたその場所は、阿知賀の中では限られた娯楽施設の一つであり、学生や社会人の社交場でもある。

 自動ドアをくぐると、わたしは思わず息をついた。

 別世界のように涼しい。心地いいくらいに冷えた空気が頭に当たって、帽子を外した。するとカウンターに座ってボウルを磨いていた藍色の髪の女の子が、不思議そうにわたしを見た。

 

「……玄? 珍しいね、ここに来るなんて」

「うん、あけましておめでとうだね、灼ちゃん」

「いや、意味わかんな……」

 

 訝しそうにじっと見つめてくる。わたしが笑顔でカウンターに近づいていくと、若干警戒するように身を竦めた。

 

「今日はね、灼ちゃんにお願いがあって来たのです」

「その顔、何企んでるの……」

 

 じいっと目をほそめてわたしを見る。さすが灼ちゃんは鋭い感の持ち主だ。

 

「実はね、阿知賀で麻雀部を立ち上げたいと思っててね」

「麻雀?」

「うん。それに灼ちゃんも入ってくれないかなって」

「わたしたちもうすぐ二年でしょ……なんで今頃になって、部活?」

「実はね。わたしとおねーちゃん、あと、新入生の二人でインターハイ優勝を目指したいって話してるのです」 

 

 どうやら、自分が本気で勧誘されていることに気づいた灼ちゃんは、むっとしたように床に視線を落とした。

 視線を逸らしたあと、持っていたボウリング玉を磨く作業を再開して、ぶっきらぼうに言った。

 

「期待してるとこ悪いけど、もう小一の頃……あの人が辞めてから、ずっと麻雀はしてないから」

「それって、赤土さんのこと? 灼ちゃん、麻雀教室にも来てなかったよね」

「……行く気がなかったから」

 

 しかし、少ししてボウリングを磨く手を止めた。

 気を抜けば聞き逃してしまいそうな声量で、呟くように、わたしに聞いてくる。

 

「いまも、あの麻雀教室やってんの?」

「えっ? あっ……そっか」

「?」

 

 質問されて、わたしはやっと、灼ちゃんの事情を悟った。

 麻雀教室がなくなったことは、身内なら誰でも知っているけれど、それ以外は広まっていない。たまに顔は合わせるけれど、麻雀の話は一度もしたことがなかったから、知らなくて当たり前だ。

 でも灼ちゃん、昔はあんなに赤土先生のことが好きだったに……と、事情を知らないことを、少し不思議に思った。

 

「えっと麻雀教室はね、赤土先生が実業団に行ってから解散したんだよ」

 

 すると、灼ちゃんは表情を変えた。

 

「実業団って……どこ? 今は麻雀、どこで打ってるの!?」

「うん。赤土先生ね、福岡の実業団の監督の人に声をかけられたの。チームは調べればすぐに分かるよ。それで……灼ちゃん?」

「…………」

 

 立ち上がって、わたしの話に食いついた灼ちゃんは、すとんと腰を落とした。

 何かを考えるようなそぶりで、暫くぼんやりと机の上を見つめてた。

 

「……期待してるとこ悪いけど。わたし、小学校の頃から牌に触ってないよ」

「ふふふ……」

「え、何。その不気味な笑い方……?」

 

 引き気味の灼ちゃんに、わたしは自慢げに笑ってみせた。

 

「そのために、この時期に声をかけているんだよ。今から練習すれば、きっと勘も取り戻せるよ!」

「……インターハイって、本気で言ってたの?」

「うん!」

 

 わたしの熱意が伝わったのか、ちょっとびっくりしたような顔をした。

 そのまま少しして、ふうっ、と息を吐いて。

 

「まあ、うん。名前貸すだけなら……とりあえずは、いいよ」

 

 まだ迷っている風だったけれど、頷いてくれた。

 

 

 

 

 

 夏休みが明けた日に、わたしたちは正式に書類を提出した。

 同好会の設立書と、麻雀部部室の使用許可願だ。麻雀教室に通っていたことは先生も知っていたから、少し懐かしんだ様子で、一日も経たずに、どちらもすんなりと許可がでた。

 そしてその活動日の初日に、浮かれた気持ちで、さっそく部室に向かった。

 

「あの、玄、始業式から活動って、聞いてない……」

「ふふふ。善は急げ、だよ!」

 

 灼ちゃんの手を引っ張って連れ出して、扉を開ける。

 するとそこに、いつもは掃除をするだけだった部屋に、三人の仲間が待っていた。

 

「あ、玄さん。お疲れさま……あっ! その子が言ってた?」

 

 最初に元気よく迎えてくれたのは、まだ数日残った夏休みを使って来てくれた憧ちゃんだ。

 そして卓の上にはしずちゃんが、牌ではなく、ノートの上につっぷして死んだように倒れている。おねーちゃんが、そんなしずちゃんをよしよしと撫でていた……その有り様に灼ちゃんは若干引いていた。

 

「みんな、部員候補の灼ちゃんを連れてきました!」

「どうも……鷺森灼といいます」

 

 それでも、色々言いたそうなのを耐えて、ぺこりとお辞儀した。

 おねーちゃんと憧ちゃんは、新しい麻雀部員候補を、笑顔で迎え入れた。

 

「初めまして。よろしくねー!」

「こ、こんにちは……灼ちゃん」

「どうも。宥さんは、久しぶり……それで、そっちの人は……?」

「…………」

 

 わたしたちの待ち望んでいた五人目の部員候補との初顔合わせなのに、突っ伏したしずちゃんは全く気づいていないみたいだった。完全に、魂が抜けているようだった。

 

「げんかい……がくっ」

「え、しずちゃんっ、大丈夫!?」

「シズってば宿題がギリギリでさー……切羽詰まってたけど、終わったら気が抜けちゃったみたいで。この通り」

「しずちゃん……ふぁいとー……」

 

 灼ちゃんが、明らかに身を引いており、憧ちゃんがため息を吐くように額を抑えた。

 

「まったく……でもこれで四人揃ったっぽいけど。活動スタートする?」 

「うん。灼ちゃん、さっそく対局に入ってくれないかな?」

「別にいいけど……あの。放っておいていいの?」

「いいのいいの。シズは適当に、そのへんのソファに放り出しとくから」

 

 雑にソファに運ばれたしずちゃんをよそに、もう一つの卓を、四人で囲んだ。

 そして灼ちゃんは、憧ちゃんをじっと見つめる。

 

「そういえば、なんで阿田中の制服?」

「あー、わたし今は阿田峯の生徒なの。来年ここの麻雀部に入ろうと思ってるんだー」

「わざわざ部活のない阿知賀に……?」

「うん」

 

 さっきまでのおどけた態度は一変して、憧ちゃんの表情は、真剣そのものだった。

 灼ちゃんも、雰囲気に飲まれて唾を飲む。

 

「本気でインハイを目指すつもり?」

「腕はまだまだなんだけどね、ここでの勝率も低いし。でも、そのつもりよ」

「……」

 

 灼ちゃんは納得したみたいだったが、体験入部という手前か、少しだけ気まずそうだった。

 

「とりあえず、しずちゃんが復活するまで打ってみよっか」

「うん。麻雀はずっと前にやったきりだから……あまり期待しないで」

 

 もちろん、それは皆んな分かっているので、頷いた。

 そして、灼ちゃんという新メンバーを加えて、この阿知賀女子麻雀部の部室で、数年ぶりの対局が行われた。

 

 それからは、いつもと同じ、静かな時間が流れる。

 とん、とんと。まるで時計の音のように、規則的に打牌の音が鳴りはじめた。

 

「……!」

 

 最初は謙遜していた灼ちゃんの表情が、局が進むと次第に変わっていくのが分かった。

 わたしも、おねーちゃんも、憧ちゃんも、いつも通りに打っていた。

 灼ちゃんの麻雀は、昔一緒に打ったときと同じ。腕は全く衰えていないように思た。

 

 やがて、一回目の終局を迎えて、みんなどっと肩の力を抜いた。

 特に灼ちゃんは、疲れたように椅子に背中を預けた。

 

「久しぶりに打ってみて、どうだった?」

「ちょっと予想外……みんな強すぎ。特に玄はおかしい……」

「麻雀クラブの頃からずっと一位だったけど、玄は最近ぶっとばしてるからねぇ……夏休みから、色々と」

「みんな一生懸命練習してるから、その成果だよ!」

 

 そんな風に言うわたしたちを見て、灼ちゃんはようやく、わたしたちが本気であることを分かってくれたみたいだ。

 

「……インターハイ優勝を目指すって言ってたけど。本当に、本気でやるつもりなんだ」

「もちろんだよっ。そのために、毎日ずっと練習してるんだもん!」

「朝から、夜まで、麻雀……大変だけど、楽しい……」

「……そんな本気でやってるところに、わたしみたいのが入ったら迷惑なんじゃない」

 

 そんな風に俯いて、落ち込んだ灼ちゃんの言葉にボールを返したのが、憧ちゃんだった。

 

「確かに、インターハイで勝って強い人と戦いたいって思う気持ちは強い。でも、一緒に麻雀を楽しんでくれる人を、迷惑だなんて思うはずないっ!」

「わたしも……みんなと一緒に麻雀ができるのが楽しい……!」

「うんっ! 気持ちは、みんな一緒だよ!」

 

 憧ちゃんとおねーちゃんも、そしてわたしとしずちゃんも。

 それぞれ違った想いを抱いて麻雀部に集まっている。目指す場所は同じで、想いは少しだけ違うことは承知だ。

 しかしそれでも根っこの部分は変わらない。

 

 麻雀を打つのが何よりも楽しい。

 それが、わたしたちを何よりも強く繋ぐ絆なのだ。

 

「まずは一緒に打とうよ。わたしたち、相手が増えるのが嬉しいんだっ!」

 

 わたしたちは灼ちゃんに手を伸ばす。

 じっとわたしたちを見て、そして恥ずかしそうに俯いた。

 開けた窓から涼しい夏風が吹いて、ふわっとカーテンが舞い上がって――頷いた。

 

「……また、打ちにくる。しばらくは暇だから」

 

 みんなで目を合わせて、そして「やった」と、みんなで手をぱちんと合わせた。

 こんな時、真っ先に喜びそうなしずちゃんは、未だにぐったりとソファに横たわっていた。

 

 

 

 

 

 そして、次の活動日から灼ちゃんは顔を見せてくれるようになった。

 

「灼さん初めましてっ! 高鴨穏乃です、打ちましょう! さっそくわたしと打ってください!!」

「あ、あの。近……」

 

 初日を逃したことを悔やんでいたしずちゃんが、灼ちゃんが部屋に入ってきた途端に、卓に引っ張っていった。

 最初の挨拶を交わすよりも早く対局が始められた。この出来事を、ずっと灼ちゃんに弄られることになるのは、しばらくあとの話だ。

 

 最初はちょっと心配だったけれど、灼ちゃんは、すぐに麻雀同好会に馴染んでいった。

 わたしたちは麻雀が好きで、灼ちゃんも麻雀が好き。

 相性はバッチリだ。

 

 

 いまの書類上はわたしとおねーちゃん、灼ちゃん、そして中等部のしずちゃんの四人。

 春に憧ちゃんが来れば五人になって、部活にすることができる。

 

 阿知賀女子麻雀部が復活する日が、着々と近づいていた。

 

 

 

「あぁ……もう秋ですね」

「うん……」

 

 夢見ていた光景が、現実になったことが嬉しくてたまらなかった。

 すでに外の景色には、印象深い桜色はない。緑色の時期も終わって、茶色に移り変わろうとしている。

 

 春にここで桜を見たとき、わたしは一人だった。

 でもしずちゃんが来てくれて、和ちゃんと最後に麻雀を打った。

 それから憧ちゃんが戻ってきてくれて、おねーちゃんもみんなと一緒に打つようになった。そして灼ちゃんも来てくれた。 

 

 そして、茶色も終わって、最後に白色に染まろうかという頃。

 阿知賀の麻雀部に足りなかった最後のピースが、埋まろうとしていた。

 



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第28局

 この日、阿知賀女子高校に向かう一台の車の中で、肘をついた赤髪の女性が、かつての青春を彩った校舎を見上げて懐かしんでいた。

 車を運転している新子望は、眠そうに頬杖をついた同乗者に語りかける。

 

「どう。久しぶりすぎて、懐かしくなってきた?」

「……うん。ぜんぜん変わってないのが、分かるよ」

 

 赤髪の女性は、名前を赤土晴絵と言った。

 かつての母校を含めて窓の外の景色を見ているうちに、様々な感情が湧き上がってくる。

 この地を離れてから長い時間が経っているはずだ。しかし、あまりに鮮明に思い出せるから、そこまで長い時を経ていないような気もする。その感覚の理由が、実業団での活動が濃かったからか、それともこの地で過ごした時間が人一倍長かったためか、自分では判断がつかなかった。

 

「それにしても、急に戻ってくるって言うもんだから、驚いたよ。うちじゃ、ちょっとした話題だったんだよ?」

「いやほんと。ウチの会社けっこうヤバいらしくてさ……チームも廃部になっちゃったし」

「でも、会社にはいられるんでしょ」

「まあね、ありがたいことに。でも、やっぱり居辛い雰囲気はあったし、早めに抜けてきちゃったよ」

「でも、最初に話してた時期よりずっと早かったじゃない。さては故郷が恋しくなったか?」

「いいや。わざわざ可愛い後輩に呼ばれたもんで、早めに行ってあげなきゃって思ってさ」

「後輩? ……ああ、憧たちのことね」

 

 望の疑問に、晴絵は懐から一枚の便箋を取り出した。

 差出人は高鴨穏乃と書かれている。少し前に投函されていたもので、その内容を読んで、これはいい機会だと、早めに実家に戻る用意を整えてきたのだ。幸いなことに麻雀一筋であった晴絵は金のかかる趣味もなく、貯金をたんまりと溜め込んでいたために金銭面の不安はなかった。

 

「それ、なんて書いてあった?」

「阿知賀に行ったメンバーが、みんなで麻雀の同好会を作ったみたいでさ。久しぶりに見てくれって書いてある」

「穏乃ちゃんがあんたに手紙かぁ……なんか、ちょっと似合わないわね」

「ふふっ、確かに……なんて言ったら悪いか」

 

 高鴨穏乃という少女のことは、二人もよく知っていた。

 おてんばで活動的な彼女は、麻雀部の中でも特に目立つ存在であり、さらには新子憧の親友でもある。

 ペンを取るイメージが全くなくて、手紙が届いた時に、晴絵は思わず差出人を二度見してしまった。

 

「でも、ちゃんと覚えててくれてるんだなーって思って、ちょっと嬉しかったわ」

「大事な教え子だもんね。あのあとも、みんな寂しがってたよ。雀士もいいけどさ、教師も向いてたんじゃないの?」

「まあ、そういう道もありだよね……いや、マジでありかも」

「教員免許も持ってるんだっけ。マジでなれると思うわよ……っと、この道を曲がったら学校ね。憧のやつ、今日も活動してるって言ってたし、ちょっと覗きに行ってみる?」

「じゃあ、せっかくこんな手紙も貰ったことだし、とりあえず顔だけ見せてみようかな」

 

 とりあえず久しぶりに再会して、もし本格的に見て欲しいというようなら、日程を合わせてあげたりした方がいいかもしれない。そんな軽い気持ちで、路地を曲がった車は、阿知賀女子学院へと続く山道を登り始めた。

 雪はまだ降り始めたばかりなのか、道が薄らと白みがかっていた。すれ違う人は厚着で、もうこっちの地方も本格的に冬が来ているのかと、会社を辞めたことで繊細になった気持ちが擽られたような気がした。

 

 学校の駐車場に着いた晴絵は、車を降りてまず、尖塔を見上げた。

 当時はこんなにもまじまじと校舎を見たことはなかったけれど、こんなに立派な建物だったかと、感慨深い思い出が蘇ってくるような気がした。

 ここでは辛いこともあったけれど、楽しいことも山ほどあった。

 赤土晴絵という存在の、青春の全てを注いだといっても過言ではない――今、長い時を経て、この地に再び戻ってきたのだと強く実感した。

 

「うん。懐かしの学び舎だ……」

「あたしらは学生として通って、あんたは、麻雀教室もやってたんだもんね」

「うん……やっぱ、ここが好きだわ」

 

 胸の中に抱えていた様々な悩みや不安から、今この瞬間だけ、解放されたような気がした。

 すると望は躊躇なく校舎の中に入っていく。すると事務所のおじさんはほぼ顔パスで、目を丸くした。

 

「こんな簡単に外部の人間を通していいのか……?」

「ちゃんと連絡入れといたから大丈夫だよ」

 

 晴絵は首を傾げた。車内でどこかに電話する様子はなかったが……と、そこまで考えて、ため息を吐いた。自分が阿知賀の校舎に来たがることはお見通しだったらしい。

 そして麻雀部の部室の方まで向かうと、まず最初に気づいたのは、規則的なリズム音が聞こえてくることだった。聞き間違えようもない、卓に牌を置く音だ。

 そして扉の上には麻雀部の表札がかかっており、部屋に麻雀をする学生がいることを意味していた。

 

「あんた、先に入りなよ」

「……うん」

 

 数年ぶりの再会に、柄にもなく緊張しながら扉に手をかけようとした。その時だった。

 指先に冷たく痺れるような感覚が走った。思わず手を引っ込めて、驚いた。

 

(えっ……今の、なんだ?)

 

 晴絵は自分の掌を見つめる。その悪寒は、この場所に似つかわしくない、とある過去を晴絵に思い出させたのだ。

 しかし、首を降って、今のは気のせいだと自分に言い聞かせた。だってこんな場所でそれを感じるはずがないのだ。不思議そうにする望をよそに、ゆっくりと扉を開くと、今度は”悪寒”は感じなかった。

 

 部屋には五人の少女たちがおり、訪問者に気づいた一人が顔を上げた。

 

「赤土さんっ!?」

 

 見物していたジャージ姿の女の子が、晴絵を見て嬉しそうな笑顔に染まった。

 それを見た晴絵は、この子だけは全然雰囲気が変わっていないなと、苦笑して、出迎えられた。

 

「や。久しぶり、シズ。元気にしてた?」

「はいっ! ってか、来てくれたんですね! めっさびっくりしました……」

「あはは、ごめんごめん。ちょうど時間が空いたからさ。遊びにきてみたわけ」

「嬉しいです! ……ちょっと待っててもらえませんか? 多分、あともうちょっとで対局が終わるので」

「ん? うん……」

 

 晴絵はそう言われて、初めて他の四人が、全く自分のほうに顔を向けていないことに気づいた。

 自動卓に真剣に向かい合う四人は、晴絵と望を無視しているというより、全く訪問者に気がついていないようだった。ただひたすら真剣に卓に向かって集中しており、そうなると晴絵の関心も、対局のほうに向いていく。

 

(南四局……もうオーラス、か)

 

 音を立てないようにそっと、最も近かった……教え子の一人であった玄の後ろについて状況を見る。

 そして、相変わらずの超絶ドラ手牌に苦笑した。

 

(相変わらずドラ5、たっかいなー。それでいて聴牌……トップも玄みたいだけど、この状況だと厳しいか?)

 

 

南四局0本場 親憧 ドラ{一索}

 

玄手牌

 

{六}{七}{八}{四筒}{赤五筒}{六筒}{七筒}{八筒}{一索}{一索}{一索}{赤五索}{五索} 

 

 

 一撃で必ず高火力を出せる特性は、彼女にしかなし得ない持ち味だ。しかし当時から玄はその能力に振り回されがちであったことを思い出した。

 そして聴牌にもかかわらず厳しいと評したのは、周囲もまた聴牌気配であったこと。そして、ツモ以外で和了できない形であったことに起因する。{三筒}-{六筒}-{九筒}と待ちは広めだが、山にドラが残っている以上、玄がリーチをかけることもないだろう。

 

「ポンっ」

 

 リーチをかけている対面の子のツモ切りを、憧が喰い取った……そして驚いた。

 

(おお、憧のやつ、中学デビューって感じだねー! ……で、もう一人の子は、なんか見覚えが……あっ! ネクタイの子か!)

 

 久しぶりに再会した憧の変わりようにも驚いたが、それ以上に衝撃をもたらしたのはもう一人。

 晴絵は今でも鮮明に、その時の出来事を思い出すことができた。

 

 十年前のインハイ準決勝で敗北して阿知賀に戻ってきた日のことだ。

 

『はるちゃんお帰りなさい! インターハイカッコよかったです……!』

 

 負けて戻ってきたにも関わらず、唯一、あたしを応援してくれた子がいた。

 ネクタイの子と、勝手に呼んでたっけ。あの日から会うことはなかったけど、すごく印象に残ってる。

 

(そっか、いまはここで麻雀やってるんだ)

 

 懐かしい再会に感激しながらも、この戦いの行方に意識を向ける。

 どうやらこの場に集っている学生は全員、晴絵の知っている人間のようだ。どれほど成長したのかを見届けたいというのが、かつて先生であった者の行持であり、回って他の手も覗いてみる。

 そして、ネクタイの子と、玄の姉である宥の手牌を見て、苦笑した。

 

(みんな筒子多面張って……かなりきつい場になってるなー)

 

 ここまで筒子多面張のめくりあいが続く場は、あまりお目にはかかれないだろう。

 唯一、憧だけが{五}-{八}待ちの混一色手で、玄から{八}が出るかもしれない。まさかそれを狙っているのだろうかと思ったが、この一局を見ただけでは、偶然か必然かの判断はつかなかった。

 

(なかなか面白い場面ね。さて、これは玄の成長を見るチャンスかな……)

 

 この局面で注目すべき、玄の背後にもう一度回って、次の手を観察した。

 

 

玄手牌

 

{六}{七}{八}{四筒}{赤五筒}{六筒}{七筒}{八筒}{一索}{一索}{一索}{赤五索}{五索} ツモ{七筒}

 

 

 ここから、ほとんど悩まずに{五索}切り。

 

(ん? テンパイに拘ってのツモ切りか{四筒}、{八筒}切りでも、安牌切りでもないんだ……)

 

 場を重くしている筒子を警戒したのだろうか。しかしいずれにしても、全く迷わずに切った以上、玄は何らかの確信を持っているように思えた。以前なら、ツモ切りをして振り込んでいた局面だ。

 しかし、肝心なのはここからだ。

 ドラが集まってくれば筒子か萬子を切らざるを得なくなる。赤ドラが切れない以上、次に溢れるのは{八}あたりが濃厚なのだ。

 

 

玄手牌

 

{六}{七}{八}{四筒}{赤五筒}{六筒}{七筒}{七筒}{八筒}{一索}{一索}{一索}{赤五索} ツモ{八}

 

 あー、これは振っちゃうかなー……と思ったけど、玄が選んだのは{六}。

 そこからも{八}が出ないか注目しながら見ていたが、絶対に振らないように抑えているみたいだった。結局振るどころか、誰も和了しないまま終局。途中で憧も筒子を引いて、それを手の中で止めて降りたので、玄も最後まで切りきることができていた。厳しい状況に耐え抜いた玄の勝利であった。

 終局するとふうっ、とネクタイの子が背もたれに背中を預けて、そして視線が合った。

 

「や。こんにちは、みんな」

「え? あ……あ、あわわわ……っ!?」

「赤土さんっ!?」

「先生……!」

「ハルエ! 来てくれたんだ!」

 

 みんな、やっと晴絵に気づいて、いっせいに嬉しそうな表情を浮かべた。

 咳を立って喜んでくれた憧に久しぶりによしよし元気だったかと頭を撫でる。猫みたいにされるがままだ。

 

「ハルエってば、急すぎてびっくりしちゃったわよ!」

「うん、まあちょっと帰省みたいな感じで戻ってきたの。シズから手紙貰ったから来てみたんだけど」

「おお、みんな! ちゃんと届いてたよ!」

「いやそりゃ届くでしょ」

「赤土先生、お久しぶりです。この通り。いまはこの五人で、いつも麻雀を打っています!」

 

 玄が満面の微笑みを浮かべて、両腕を広げてみんなを紹介した。

 

「玄も久しぶりだね。で、そっちの二人は……」

「は、初めまして。玄ちゃんの姉の、松実宥です……」

「あ、あの、鷺森灼、です……」

「やっぱり宥か、おっきくなったね! 前に会ったのはあたしが小学生のときかぁ……厚着なのは変わってないね。で、灼も、そんな畏まらなくてもちゃんと覚えてるよ。久しぶりっ」

「……! は、はいっ!!」

 

 ネクタイの子、改め、灼は顔が真っ赤になっていた。

 相手は自分のことなんて覚えていない……なんて言っていたのが嘘のように、内心では喜んでいた。そんな初々しい様子に、晴絵はくすりと笑って、肩を叩いた。

 それから改めて、この場を作り上げたシズに尋ねる。

 

「で、この集まりは……もしかしなくても、手紙にあった麻雀部ってことだよね?」

「はい。みんなで阿知賀の麻雀部を復活させますっ!」

「といってもまだ部員足りなくて同好会ですけどね……憧はまだ阿田中なんで」

 

 憧の制服を見て、そういうことかと、すぐに納得した。

 

「来年はわたしも阿知賀に戻りますよ……で、シズ、お願いするなら今なんじゃないの?」

「あ……! そっか。あの、赤土さんっ! お願いしたいことがあるんですけど……」

「ん。どうしたのさ、言ってみなよ」

 

 憧に肘をつっつかれて震えたあと、びしっとした姿勢で晴絵に問いかける。

 あまりの真剣さに、晴絵も何を言われるかちょっと身構えた。しかし聞いてみると、晴絵が思ったほど重大なものではなかった。

 

「わたしたちと、麻雀を打ってもらえませんか!」

「……あたしと?」

 

 自分自身を指さすと、みんなが頷いた。

 ちらりと時計を見ると、微妙な時間帯だ。さすがに今日は遅いし、と言おうとしたところで、背中から肩を叩かれる。望みが晴絵に親指を立てて、問題なしというポーズをとっていた。

 

「……なるほどなるほど。つまり、もともと話はついていたってわけね」

「そゆこと。まあ、あんたの都合さえよければ、だけどね」

「うん、まあ、いいよ。あたしも、あんたたちの成長を見なきゃって思ってたしね」

「……! はいっ、もちろん!」

「オッケー。じゃ、久しぶりに打とうか! 一応言っとくけど、もうすぐ高校生なんだし、手は抜かないよ?」

「そりゃもう! わたしたち、全力の赤土さんと戦いたいんです!」

「赤土先生、お願いします!」

 



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第29局

 赤土先生との対局のために席を譲ったのは、宥と灼だった。

 かわりに穏乃が卓に入ったことで、玄と憧を含んだ阿知賀のトップ3が揃い、懐かしい場が完成する。

 

 卓についた晴絵はすぐに、三人の好戦的な雰囲気に気づいて、たじろいだ。

 

(っと……あの頃と違うみたいだ。本気で、あたしを倒しにきてるのな)

 

 三人が望んでいるのは明らかに、再会の懐古などではなく、強者との対局だ。

 そして確かに、彼女たちの知る中で晴絵は間違いなく、強者の領域に足を踏み入れた雀士であった。たったの一局しか見ていない晴絵であったが、それでも玄をはじめとする彼女たちの対局は、明らかにかつてのレベルを超えていた。

 生意気な感じに、思わず笑みが零れた。真っ向から挑戦してくるなんて上等だ。

 

「いいよ、かかってきな。久しぶりに相手してあげる」

 

 玄もシズも憧も、強気で頷いた――そして、見えない圧力が押し寄せてきたのは、その瞬間だった。

 晴絵は、まだまだ彼女たちは自分に及ばないと考えていた。だから、小手調べ程度の気持ちで牌を摘もうとしていた。だが、その考えをすぐに改めることになった。

 

(……マジ?)

 

 いま感じている感覚に、晴絵はひどく戸惑った。余裕の笑みは早くも消え失せる。

 長い間、強者と麻雀を打ってきた晴絵には、その感覚が理解できる。怪物と呼ばれる打ち手に対峙した時に感じる、あの悪寒――それを、かつての教え子から感じたことを、少しの間信じることができなかった。

 後ろで見ている宥も、灼も、表情を硬くしている。どうやら、これが初めてのことではないらしい。

 

「…………」

 

 晴絵は目の前に現れた相手が、かつての可愛い教え子ではなく、強大な怪物のように見えた。

 しかし、動揺こそすれど、それで萎縮したりはしない。

 油断はしない。心してかかろうと決心して、かつての麻雀教室の四人の対局が開始される。

 

 

 場が進んで、東場が終わる頃には、自分の考えが全く間違っていなかったことを確信した。

 

(……前はブレ気味だった打ち方が、ぜんぜんブレてない)

 

 長年面倒を見ていたおかげで、晴絵は既にそのことに気付いていた。

 玄はドラに振り回されていたし、シズも気分で打っている時があった。憧はもともと安定していたけれど、以前よりもずっと場が見えているようだ。一手一手の打ち回しが、成長を証明している。

 

(すごい集中力だけど……特にシズ。打ちまわしは完璧といっていいレベルで仕上がってる)

 

 玄はドラを抱えるという特性上、打ち方が荒くなってしまうため、正確な判断を下すことが難しい。

 そして憧も時折奇妙な打ち方を見せている。誰かを狙い撃つような打ち回しをしているように見えたが、ここまで手を晒していないので、定かではない。

 そうなると、ここまでで小さな上がりを繰り返している穏乃が、必然的に目立ってくる。

 特殊な打ち方をしているようには見えない。であれば、信じがたいことだが……勉強をしたのだろうか。いや、それにしても綺麗すぎる。これでは、下手なプロよりも格上だ。

 

(……わざわざ、あたしのとこに手紙をよこすわけだ)

 

 これほどの能力だ、今まではさぞ持て余していたことだろう。

 しかし、まだ付け入る隙はある。純粋に麻雀を打ってきた歴史は晴絵のほうが圧倒的に長いのだ。

 

「ロンッ。5800!」

「……っ、はい」

 

 振り込んだ玄は、驚いたように目を丸くしていた。

 相手の隙をついて、利をかっさらう――晴絵の得意とする戦法の一つだ。

 どうやら、三人とも場を読むだけでなく、表情や手の動きからの情報を得ようとしているようだ。しかしその技術は、すでに多くのプロが実践していることで、長くそうした相手に立ち向かってきた晴絵には通用しない。

 

(面白い。先生として、真っ向からその挑戦、受けて立ってやろうじゃないの!)

 

 こんなに面白い麻雀は、いつぶりだろうと考えた。

 今、心から麻雀を楽しめている。

 彼女たちの師として、そう簡単に負けてやるわけにはいかない。心にエンジンがかかって、胸が熱くなっていくのを感じながら、晴絵は新たな牌をツモ進んだ。

 

 

 

 

 

「……はぁっ。赤土先生強すぎ……」

 

 終局した瞬間、シズが背中どころか頭まで背もたれに乗せて、溶けたように体から力を抜いた。

 半荘の対局結果は晴絵がトップで終了。ドラの火力手をあがれなかった玄が最下位という結果で幕を閉じた。当の本人は、やりきったという表情で、晴絵にほころんだ表情を向けていた。

 

「お疲れ様でした、赤土先生」

「うん、みんな腕を上げたね……てか、上がりすぎててビビってるけど」

 

 言葉の通り、この一局だけで心底驚かされていたが、しかし他のメンバーから向けられるのは、晴絵に対する純粋な尊敬の眼差しであった。

 

「ずっと後ろで見てたけど、凄かった……!」

「赤土先生、ずっとトップ……」

「ま、一応この技術で食ってる身だからねえ……」

 

 強気な言葉を放ったが、しかし内心では想像以上の接戦となったことに、冷や汗をかいていた。

 負けでもしたら示しがつかないと本気で挑み、その結果勝利をもぎとった。だが、次に同じことができる自信を、全く持っていなかった。

 そして、同時に晴絵は強く疑問に思う――一体何が、それほどまでに彼女たちを押し上げたのかと。

 

「で……あんたら、誰に麻雀を教わったの?」

「あ、やっぱりそれ聞かれるんですね」

「そりゃそうでしょ」

 

 憧の突っ込みや、みんなの態度に晴絵はなぜ答えが返ってこないのかと、疑問を抱いた。

 穏乃が答えづらそうに、後ろの頭を掻いた。

 

「まあ、なんというか……いつの間にか、こういう打ち方になったといいますか」

「何じゃそれは」

「でもみんな、もうインハイの人と戦ったんだよね。その経験はあるんじゃないの……?」

 

 灼の言葉に、四人は確かに、といいながら頷き合った。

 

「ん? もしかして、晩成高校のチームと打ったりしたの?」

「ううん。鹿児島の学校で、永水女子ってとこ。灼を誘う前に打ってきたのよ」

 

 疑問に答えたのは憧だった。

 さらりと言ってのけたが、晴絵は、聞き間違いだろうと思い込んだ。

 

「いやいや、冗談きついよみんな。永水って言ったら、あの秘密主義な巫女のチームだよ?」

「うん。その永水だよ、赤土先生」

「……えっと。マジで言ってるの?」

 

 全員が頷いた。そして「あそこに、写真貼ってある……」と、宥が指差した先を見る。

 卓を立って、コルクボードのほうに顔を寄せた。間違いない。マスコミの取材をほぼ受け付けないことで有名な、インターハイの大新星として君臨した神代小蒔を筆頭とした、永水女子の何人かが、阿知賀のメンバーとともに、日差し照りつける夏の海を背景に映し出されていた。

 こうなれば、それが真実であることを疑う余地はない。

 

「いやいや! 一体どんなコネがあったら、あの学校の子と知り合えるのよ!?」

 

 晴絵も麻雀界に身を置く者として、その奇妙な学校についての噂は数多く耳にしている。

 取材に応じないことから何もかもが謎だらけであり、対局を望む声すらも全て断られている――そんな、大きな話題を読んだ相手と、自分たちの教え子には、何の接点もないはずだ。強いていうなら、憧の実家が同じ巫女というくらいだろうか。

 

「うーん、まあ、成り行き? ……憧に、説明任せたっ!」

「あっちょっと! あんた当事者でしょ、自分で説明しなさいってば!」

 

 意味が分からない。そんな顔をした晴絵に、玄が苦笑しながらことのなりゆきを説明した。 

 部室に置かれていた古い麻雀牌から始まって、インハイを観戦しに行って知り合って、神様の繋がりとやらで鹿児島に連れて行かれた――そんなことがあり得るのか。荒唐無稽な話すぎて、すぐに信じることができなかった。

 しかし、写真という証拠がある以上、信じる以外の選択肢は残っていない。

 

「ちなみに赤土先生は、麻雀牌についてはご存知ですか?」

「え。うーん……どうだろ。当時も麻雀教室のときも、そういうのは見かけなかったと思うけど」

「そうですか……」

 

 もともと倉庫に入っていたものだというので、期待してはいなかったが、少し残念だった。

 そして衝撃から一息ついた頃、晴絵はぽつりと呟いた。 

 

 

「……にしても、あんたたちがインハイを目指してるとはねぇ」

「はい、だから今は強い人といっぱい打ちたいんです! 現役の赤土先生、最高でした!」

「ふふ。あんた達の役に立てたならよかったよ。あー……でも、もう現役じゃないんだよなー」

「えっ?」

「実はやめちゃったんだよね、会社」

「えええええっ!?」

 

 全員が驚きすぎて、叫び声をあげた。

 やっぱりそういう反応になるよなー、と晴絵は頬を掻く。特に憧は、後ろで黙って様子を見つめていた望のほうに視線と飛ばして、望は頷いて返した。

 

「どうしてですかっ!? せっかく、復帰したのに……!」

 

 一番真っ先に、すごい剣幕で聞いてきたのは灼だった。

 その剣幕に少しだけ驚いたけれど、軽く咳払いしてから、事情を語った。

 

「うちの会社、経営があんまりよくないみたいでね。麻雀部が潰れちゃったんだよ」

「あっ……ごめんなさい」

 

 申し訳ないことを聞いた――灼の表情が、怯えに変わる。他のメンバーも沈痛な面持ちになったが、晴絵は明るく手を振った。

 

「いいのいいの。どうせ最近はあんまり調子出てなかったし、ほんと気にしないで」

「じゃあ今後はどうするんですか?」

「そうねえ。あんたらにこういう話をするのも何だけどさ、それを悩んでて、気分転換に地元に戻ってきたの」

「プロにはならないんですか? もしくは、別の何かとかで」

「……うん。まあ、そういう道も選べなくはないんだけど。恥ずかしい話、ちょっと自信無くしちゃってて」

 

 そう言うと、みんな不思議そうに首を傾げた。

 

「ど、どうして……!? 後ろから見てたけど、わたし、すっごく感動しました……!」

 

 しかし一人だけ、そんな様子のあたしに必死に食いさがってきた。

 納得できないという気持ちと、励ますような声色で迫ってきたのも、灼だった。しかしわたしは、困ったような笑顔で返すことしかできない。表情に勢いがなくなって、戸惑うように声も小さくなった。

 

「みんな相手にトップだったのに……あれだけ麻雀が打てるのに、なんで……?」

「……灼はさ、ずっとあたしのことを覚えていてくれたんだよね」

「っ……」

「いつもこんな感じで打てればいいんだけどさ……ここぞってときになると、自分の打ち方ができなくなっちゃうんだよ」

 

 晴絵は自分の手のひらを見つめた。今は、微かに震えているのがわかった。

 そして、その理由が十年前のインターハイにあることを、何も言わずとも全員が悟った。阿知賀で麻雀を打っているのなら、準決勝に進出したことも、その場で酷い負け方をしたことも、深く記憶に刻まれているはずだ。

 晴絵は天井を眺めて、ふうっと息を吐いた。

 

「……でもさ。今日はすごく、楽しかったよ」

 

 今日、普段通りに打つことができたのは、たまたまだ。

 そして、こんなにも清々しい気分で対局を終えられたのは、本当に久しぶりだった。自分に本気で迫ってこようとする教え子に驚いたけれど、”あの感覚”が蘇ることはついになかった。

 これが何かが懸かった、実際の試合じゃないからだろうか。そう考えたが、違うような気がした。

 

「それならっ、わたしたちともっといっぱい打ちませんかっ!?」

 

 そして、そんなときに穏乃が、がたんと席を立った。

 あまりに急に立ち上がるもんだから、みんなびっくりしているみたいだった。晴絵は目を丸くして肯く。

 

「ん? いいよ、もう一局くらい。あんまり遅くならないように……」

「あ、違いますっ! 赤土先生……わたしたちの、監督になってくれませんか!?」

「えっ……」

 

 穏乃の宣言に驚いたのは、晴絵だけではなく、他のメンバーも同じだった。

 

「シズ、それはいくら何でも……!」

「分かってるよ。でもさ、あたしたちの監督って言ったら、赤土先生しかいないって思うんだ!」

 

 穏乃はまったく、自分の発想に疑いを抱いていない様子だった。

 いつになく真剣であり、そしてその言葉に、疑問を投げかける余地もなかった。他の四人のメンバーも全員、穏乃が言葉にしたことで初めて、自分もそれを望んでいることに気がついた。

 そして、穏乃は晴絵の手をぎゅうっと握り締める。

 

「先生さえよければ、わたしたちの監督になってほしいですっ!」

「シズ……」

 

 晴絵は、その真っ直ぐな申し入れに、確かに心打たれていた。

 

「うん、そうね。あたしも自分たちだけで打つだけじゃ限界だって感じてたし……それんハルエ以上に監督に向いてる先生はいないってあたしも思う」

「ちゃんと指導してくれる先生は必要だよねっ」

「うん……プロの人がいてくれたら、すごく安心……」

 

 そして、心の底からわたしを必要としてくれているのが、ひしひしと伝わってくる。

 でも、すぐに答えを返すことができなかった。

 

「……あー……えっと、その」

 

 確かに、もう会社は辞めることになっていて、その後のことは何一つ決まってない。

 でも、あまりに急すぎて、自分がどうしたいのかさえも分かっていなかった。言葉も感情もまったく追いついておらず、言葉を選んでいるとき、ぽんと背中を叩かれた。

 

「……望?」

「あたしはいいと思うな。あんた、やりたいって顔してるよ」

 

 望の言葉が、すぅっと晴絵の胸の中に入ってきた。

 

(そっか。あたし、やりたいって思っているんだ……)

 

 胸元にやった拳をぎゅっと握りしめる。

 熱い気持ちが、そこにあった。

 

「……本気で、インハイを目指すつもり?」

「はい! もちろん全力で、本気でっ、インハイで全国優勝を……頂点を、目指しますっ!」

「うんっ!」

「わたしも……頑張る……」

「一度やるって決めたんだから、当然ね」

「……うん」

 

 意思はとっくに全員固まっているらしい。

 今、彼女たちに足りないものは、導いてくれる監督だけだ。一見して、みんな成長したように見えるけど、全国で戦うための牙を、まだまだ研ぐことができることが、晴絵には分かった。

 

「あたしは、さ……ずっと、あの時のことが引っかかってるんだ」

 

 それは教え子に話しかけているのではなく、自分の心への問いかけであった。

 

「だから、今、ちゃんと麻雀とは向き合えてない。多分、あの会場に何か大切なものを置いてきちゃったんだと思う」

「……ハルちゃん」

 

 灼が、不安げに晴絵を見上げる。しかし、その心は決まった。

 

「あたしは置いてきたものを、取り戻しに行きたい。きっと、そうすることで自分の麻雀と向き合えるようになるから」「……っ、それって……!」

「ああ。あたしをインハイに連れていって。全力であんたたちを優勝まで連れていく手助けをするってので、どう?」

「はいっ!!」

 

 シズのいつになく真剣な表情は、見たことないくらいの喜びの色に変わった。

 

「赤土先生、戻ってきてくれるんですか!?」

「あー……まあ、先生方に相談してからだけどね。許可もらえるかもわかんないし」

 

 勢いで言ってしまったけれど、手続き的に大丈夫か、という不安が今更頭をよぎった。

 それに、望が後ろからフォローを入れる。

 

「あんたここの先生に人気あるから、大丈夫よ。明日にでも電話してみたら?」

「絶対大丈夫ですよっ!! むしろダメって言われる未来が見えないです!」

「ま、ハルエが戻ってこないことのほうがありえないって感じ」

「うん……頼もしい……」

 

 五人全員が、自分を歓迎してくれるみたいだった。

 シズはよっしゃーと両腕を上げて憧と腕を組み合い、玄は姉と手を握って喜び合っている。

 ただしそんな中で一人だけ、灼だけは複雑そうに俯いていた。

 

「灼……?」

 

 晴絵は、灼を見つめる。複雑そうな思いを胸の中に抱えていて、手を握っている

 

「わたしは、ハルちゃんには自分の麻雀を打っててほしいと思ってる。あの強くて、誰にも負けないくらい格好いい麻雀を打っていてほしい」

 

 それを聞いた晴絵は、若干複雑そうな顔をした。

 しかし灼の言葉はそこで終わらない。顔を上げて、はっきりと目を合わせてきた。

 

「わたしたちがインハイに行ったら、また、プロとして打ってくれる?」

「……それは分からない。でも、あたしはそうしたいって思う。やっぱ麻雀、好きだからさ」

 

 説得力あるかな、と苦笑いで言ったが。

 でも灼は、晴絵の手をとって、ぎゅうっと両手で強く握った。

 

「わたし、頑張る。絶対、ハルちゃんと一緒に優勝するから」

「…………」

「ハルちゃん……?」

 

 何も言わない晴絵を不思議に思っている様子だったが、晴絵は灼の頭をぽんと為せた。

 

「……ほんと、大きくなったんだね。前に見たときは、あんなに小ちゃかったのに」

「……っ」

「嬉しいよ。ありがとね、灼」

 

 そっと、灼だけに聞こえるように耳打ちすると、ゆでダコみたいに顔が真っ赤に染まってしまった。

 みんな何事かと顔を向けてきたが、なんでもない、と灼は慌ててごまかしていた。

 

「さて。そこまで言われたからには、もう逃げるわけにはいかないねっ!」

 

 全員が、晴絵を見ている。

 大きく息を吸って、吐き出した。長年ずっと停滞していたものが、かみ合わなかった歯車が、ようやく動き出したようなイメージが浮かび上がってくる。そんな感覚にゾクゾクしながら、晴絵はにやりと笑った。

 

「とりあえず、みんな卓につきなっ!あんたたちを全員、徹底的に叩きあげてやる!」 

『はいっ!!』

 

 そうしてこの日、阿知賀女子麻雀部に、最高の顧問がやってきた。

 

 





 ……数十秒後。
 盛り上がっているチームメンバーをよそに、望が晴絵に囁いた。

「……ところで、車置きっぱなしなんだけど、どのくらいかかりそう?」
「あっ」


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第30局

「合同練習……ですか?」

 

 いつものように、阿知賀女子麻雀部の部屋で四人で卓を囲んだわたしたちに、赤土先生はそう告げた。

 まだ正式に赴任しているわけではないけれど、もう監督としての指導が始まっていた。監督として来るという話自体もかなり進んでいるみたいで、入口も顔パスなんだとか。

 

「そ、合同練習。みんなには一度、インハイの前に他校の子との試合を経験させときたいって思ってるの」

「はぁ」

「ずいぶん急ね」

「ふわぅ……外の人……?」

 

 みんな顔を見合わせて、ざわめくのを手をぽんぽんと叩いて戒めた。

 

「はいはい、静かに。まあ説明するまでもなく言いたいことはわかるでしょ」

「確かにみんなだけで打つより、外の人と打ったほうが勉強になるけど……」

「そーゆーこと。他の学校とかだと部員がいっぱいいたりするからまだいいけど、うちは五人だから、経験の幅も狭くなりがちだね」

「そういえば、わたしたち以外で打ったのって小学生のとき一緒に打ってたメンバーと……」

「あと、永水の人くらいだよね」

「……その唯一の経験が貴重すぎるなぁ」

「私もそれ行きたかった……」

 

 一人だけ経験していないせいか、少しへこんでいる灼ちゃんを、おねーちゃんが背中をそっと撫でて慰めた。

 あの時はあっという間だったから……灼ちゃんももっと早く誘えばよかったな、とちょっぴり後悔。

 

「でもちょっと待ってよハルエ。やるったって、うちと試合してくれる学校なんてないでしょ」

「え、なんで?」

「なんでって、いきなり知らない学校から申し入れられても受けないわよ。向こうにとっても貴重な時間なわけだし」

「確かに……無名の麻雀部と、試合してくれることなんて……」

「ああ、なるほど。たしかに」

 

 灼ちゃんの説明に、納得したようにしずちゃんはぽんと手をたたき合わせた。

 

「ここにいる全員がまだ試合経験が全然少ない。せめて、インハイ前に外部の学校と打つ機会をできる限り設けたいと思ってるから、言ってるの」

「そりゃもちろん、望むところですよ!」

「赤土先生から見てわたしたちって経験不足ですか……?」

「当然」

「おおう……」

「ま、そうよね。自分でもわかってるわ」

 

 目を丸くして身を引くしずちゃん、軽くあきれている憧ちゃん、灼ちゃんの背中をさするおねーちゃん、反応はみんなそれぞれだ。

 ……でも言われてみれば確かにそうかも。

 まだ、インターハイで見た光景にわたしたちが出るっていうイメージが、全然わいていない。実業団で打っていた赤土先生がそう言うならそうなのだろう。

 

「打ち方は悪くない、このままでも県予選くらいは全然なんとかなる。でも、全国優勝は無理。決勝戦に行けるかも怪しいわね」

「うわ、断言」

「永水のみんなを相手に、それなりに戦えたかなとは思ってたけど……」

「ものすごく運が良ければ準決勝に行けるかもってところね……ああ、それだけの腕前があるってのは誇っていいわよ。でもインハイ優勝したいと思ってるなら、まだまだ足りない。そうね……あんたらが打った永水のエース、神代小蒔。あれに全員が対処できるくらいにはならないとね」

「ふえっ……」

「いやいや、あれに完全に対処できるなら、うちのチーム余裕で優勝できちゃいますって」

 

 実際に永水と対戦したみんなが顔を青ざめさせるが、赤土先生はいやいや、と手を振って否定する。

 

「別に完封しろなんて言ってないわよ。全員が、自分なりに凌ぐ方法を見つけられるようにしろってこと」

「ああ、そういうこと。よかった……」

「玄……その神代っていう人、話には聞いてたけど、そんなに凄いの?」

「うん。そのときの対局は牌譜とって部屋に置いてあるから、見てみるといいよ」

「そのとき打ったメンバーは特に身にしみてると思うけど。特殊な打ち手なんて、全国にはわさわさいるんだからね。どんな状況でもすぐに対処できなきゃ、パニクって普段の力が出せなくなるよ。あたしもインハイで何度かそんな場面があった」

「赤土先生のインハイ……」

「……あの準決勝の」

 

 みんな、空気が重くなり黙り込む。

 赤土先生のインハイ準決勝は、まさしくその言葉の通りのことが起こったのだ。

 一度は直撃をとったものの、それ以外は翻弄されて和了られ続けた。その時の試合は噂になっていたから、みんな知っていた。だからその言葉には、特に重みがある。

 

「大舞台であればあるほど、予想だにしないことが起きる。それにみんながどこまで対応できるか。それが、団体戦の優勝の大きな鍵になる」

「なるほどなるほど……」

 

 わたしも、こくこくと頷いた。

 最初の頃に「小四喜ですよー!」と、初美さんに翻弄され続けたことを思い出す。

 あの能力への対策は、誰でもできて簡単な方法がある。 

 北家のときに{東}と{北}を鳴かせなければ発動しない能力だから、みんなで協力してその二枚を切らなければいいのだ。

 でも、そんな風に対策を見つけることができないと、役満を和了され続けることになる。

 もしも、あれが全国大会の真剣勝負の場だったら、わたしは敗退していた。そういう経験ができた。あれは、永水の人と打った中でも、すごくいい経験になった。

 

 それに、赤土先生はもともと相手の打ち方を分析して、対応して打つタイプだ。

 そういう人だからこそ、わたしたちの経験のなさが、危うく見えているのかもしれない。

 

「みんなそんなに先行き不安そうな顔しなくても大丈夫、何のためにあたしがここにいると思ってるの?」

「あっ……!!」

「さっき合同練習って言ってましたけど……っ」

「もしかして、もう……!!」

「ふふふ……そうね、そりゃもちろん……!!」

 

 しずちゃんが、子供のようにきらきらした期待のまなざしを師に向けた。そして、わたしたちも。

 そして赤土先生は言い放った!

 

「……練習試合なんて夢のまた夢だから、今は期待しないで基礎を徹底的に鍛え上げることね」

「よおおぉぉぉーー……(椅子から転げ落ちる音)」

 

 ……後手で頭を掻きながら、ぺろっと舌を出して。しずちゃんが元気にすっとんだ。

 

「シズ!!」

「し、しずちゃん大丈夫!?」

「ハルちゃん、それはちょっと……」

「あははー……阿知賀は十年前にはインハイに出たけど、シズの言った通り、いまはほとんど無名校だしね。まして、そういう特殊な打ち手がいる学校と合同練習となるとなかなかねー」

「……今の完全にやる流れだったじゃない。何かツテがあるのかと思って、期待したんだけど」

「できるとは言ってない」

「自慢げに言うな!」

 

 憧ちゃんが切れ、今度はおねーちゃんが背中を撫でてなだめた。今日のおねーちゃんはみんなの撫でがかりだ。

 

「そういうことだから、今日からはそういうのも意識して練習すること。練習試合は……まあ期待しないで、待っときなさい」

「な、なんか納得いかない……」

「し、仕方ないよ。わたしも玄ちゃんやしずちゃんみたいな、濃い気配の人はあんまり見たことないもん……」

「あいたたた……けど結局は、もっと強くならなきゃわたしたちは勝てないってことでしょ。外の人と対局ができなくても、せめて、ここにいるみんなでもっと打って、いっぱい強くなろうよ!」

「うん。わたしも、もっと強くなりたいよ」

「……ま、それもそうね」

「わたしも……」

「わたしもがんばる……くしゅん」

「あ。おねーちゃん、ストーブっ、マフラー焦げちゃうよ!?」

 

 時は一月。この日、阿知賀は雪景色に染まっていて、おねーちゃんがストーブにぴったりくっつく季節だ。さっきまで憧ちゃんのそばにいたのに、いつの間にか部屋で一番温度の高い方に移動していたけど、マフラーがこげくさくなっていて、またひと騒動。

 

 麻雀をやっていれば、あの頃みたいに楽しい時間が続く。そして新しい出会いにも充ち溢れる。

 この時間がずっと続けばいいのに。

 そんな風に考えながら、再び集まったみんなを見て、幸せな気持ちに満たされた。

 

 

 

 

 そんな話をしてから、三ヶ月が過ぎるのはあっという間だった。

 気づけば、わたしたちはまた新しい春を迎えていた。

 

「これで高校生だーっ!!! ずっとーここの制服着たかったんだっ!!」

 

 相変わらず部室にはいつもの五人が集まっている。それに赤土先生も加えて六人、阿知賀子ども麻雀倶楽部以来の大所帯だ。そしてその中でも一番変わったことがある。

 中学生だった二人の服が、高校の制服になったこと。

 そう。しずちゃんと憧ちゃんが、とうとう高校デビューを果たしたのだ。

 

「ほらはしゃがないの。今日はシズが入る番でしょ。それとも灼に譲る?」

「やらないなら、入るけど……」

「うへっ!? ままま、待ってやるからやるからっ!」

 

 よっぽど制服が気に入ったのか、両腕をあげて跳ね回り、自分の卓入りの順番を忘れそうになるくらい嬉しそうにしてた。

 憧ちゃんは編入試験をそつなくクリアした。もともと晩成高校に進学するつもりだったので、受かって当然とは本人の言。むしろ勉強に使う時間を麻雀に宛てていたらしい。

 その成果か、この3ヶ月の間に、より強く、手ごわくなったと思う。みんなの中でもダントツに。

 そして、何より。

 

「しっかし。とうとう麻雀部、始まったんだね……」

「うん。えへへぇ……部。麻雀部、赤土先生以来の麻雀部だよぅ」

「くろちゃん、麻雀部のプレートかけるときすごく楽しそうだったもんねぇ」

「うんっ、この日をずっと待ってたから!!」

 

 入学してさっそく同好会だった麻雀部を、申請を通して、とうとう部活に押し上げた。

 赤土先生も新学期が始まる少し前から先生として入ってきたので、顧問もバッチリ。

 

 過去に伝説を残した、阿知賀女子麻雀部の再誕。

 そのニュースは学校中を駆け巡り、先生も申請がきっかけでわたしたちがインハイを目指すことを知ったらしく、すれ違いざまに応援してくれるようになったのが嬉しかった。

 そこで、かつてのインハイ出場校として大きく期待されていることを知った。赤土先生が先導していることが大きいのだろう。

 とうとう始まったんだと、そのたびに実感する。

 とんっ、と卓に牌を置いたおねーちゃんが「そういえば」と顔を上げる。

 

「また来週、学校で部活の合宿やるんだっけ……?」

「うん。インハイの申し込み時期を考えると、割とギリギリね」

「あれ、赤土先生は?」

「ハルちゃん、今はそれの打ち合わせしてる……戻ってきたら、それも決まるって」

「さすがに気合い入るねぇ……! 来るべき日が近づいてるのを肌で感じるようになってきたかも……」

「あはは、試合自体はまだ何ヶ月も先なんだけどねぇ。申し込みもまだだよう」

「でも、なんか緊張しません? 全国を目指してるんだーって思うと、テンションが上がってきちゃって!」

「全国……どんな人がいるのかな?」

「永水のみんなはもちろん……めちゃくちゃ強いのは、何と言っても白糸台の宮永照よね、インハイ王者の」

「強豪っていうなら千里山と姫松、それに臨海女子あたりが有名だけど……」

「やっぱ気になるのは、和の転校した清澄高校だよね! それに他にもいっぱい強い学校もいるし!」

「せっかく目指すんだもん。わたしは、いろんな人と友達になれると嬉しいなぁ」

「うんうん。そんで一緒に山で駆け回って遊べる子だともっといいなぁー」

「そんな女子高生、日本中探してもあんたしかいないわよ……はいそれロンね」

「しまった、気を抜きすぎたっ!?」

 

 雑談しながら打っていたら、しずちゃんが珍しく高い手に振り込んで、うぇっ、と変な声を出した。そんなあからさまな待ちに振り込むなんて、珍しいこともあるもんだ、と。

 今日もみんな和気藹々と盛り上がってる。

 すると、開けっ放しの窓から吹き込んだ春風で、わたしの髪がはらりと靡いていった。

 

「……ちょうど、このくらいの時期だっけ」

「玄ちゃん、どうしたの?」

「ほら、外。桜が綺麗だなあって思って」

「ほんとだ……」

 

 ちょうどこのくらいの時期に、一人だったわたしのところに、しずちゃんが来たんだっけ。

 今でもこの部室に来ると、誰もいなかったときのことを思い出すことがある。でも、もうそうじゃない。新しい季節は、新しい風を運んでくるのだ。

 窓の外の景色はずっと変わらないけど、わたしたちは変わっている。みんなで盛り上がりながら、また新しい出会いに胸を膨らませた。

 舞い込んだ桜の花びらが一つ、卓上をそっと優しく撫でる。

 

 今年は、みんなで目指してきた夏のインターハイ。

 いっぱい練習して、県予選を勝って、全国の頂点を目指すんだ。

 

 

 

 

 

 

 そんな阿知賀女子学院の建つ吉野へと続く道路に、見慣れない銀色のマイクロバスが一台。

 窓を空けて、一人の女子高生が顔を出す。

 

「わぁ……綺麗な桜。すっごい……こんなにたくさん! みんな外見てみなよ!」

「ワァ! スゴイ、スゴイッ!!」

「わー……! すす、すごいよっ。わたしー、こんな広くて綺麗な場所っ、初めてだよー!」

「ほら起きて、もうすぐ着くよっ!」

「ん……」

 

 その中に揺られるも目を瞑ったまま覚まさない一人の少女。それを、隣の小柄な子がゆっさゆさと揺り起こす。

 薄眼を開けると、そこには窓の外に釘付けではしゃぐチームメイトがいた。

 揺さぶられながら外に目を向けると、確かにそこには満天の、爆発したみたいにそこらじゅういっぱいに桜色が広がっていた。だが、まだ寝足りなかったのか、目を閉じようとする。

 しかし揺り起こしていた少女が窓を開け、入ってきた春風でぶわっと髪が逆立った。

 さすがに寝ていられなくなって、気だるそうに目を開けた。

 

「寒い……」

「いや寒くないでしょ。ぽかぽかだよ!」

「今日は天気に恵まれたねえ。みんな初めての長旅で疲れてると思うけど、どうだい?」

「ダイジョブ!」

「わわっ、わたしも大丈夫だよー!」

「うん、わたしも大丈夫だけど……ガチで体調悪いなら、ちょっと休憩入れる?」

「……平気」

「だよね、割と大丈夫って顔してるし」

「……でもダルい」

「うん、それは知ってる」

 

 さらりと受け流されて、白髪の少女は返す言葉もなく、ぼーっと天井を見上げ続けた。

 他のみんなも最初はふうと息を吐いたけど、でも一人がまあ、と頷いた。

 

「ま、こんな遠くまできたんだし当然だよ。実はわたしもちょっと疲れてるし」

「じ、じつはわたしもー……えへへ」

「もう少しの辛抱だよ……なんて噂をすれば、ほら見えてきた。あの山の上に見える建物があんたたちの合同練習の相手、阿知賀女子学院さ」

 

 運転手のお婆ちゃんの言葉に、一斉に全員の視線が集まった。

 桜色に彩られた山の上に堂々と存在しているそれが、これから向かう場所なのだとみんな一目で理解した。

 

「ワァ……!」

「あそこが……うわわ、ちょっと緊張してきたなあ」

「…………」

「あー! せっかく起こしたのに、目を開けたまま寝てるよっ!」

「うー……ど、どうしよう。今からすっごく楽しみで仕方ないよー! ど、どんな人がいるのかな? わ、わたしなんかが仲良くなれるのかなー……」

「ダイジョブ!! ワタシモミンナト、トモダチナレタ!」

「……うん、そうだね」

「きっとみんないい人だよ。わたしたちもサポートするからさ!」

「みんなー……! わ、わたしがんばるよっ!!」

 

 運命を通じて出会った五人の少女達を乗せてやってきたのは、本来は来るはずのなかった遥か彼方の土地。

 

 もう一つの頂点を目指すチーム、彼女たちを乗せて。

 深い山から降りてきた彼女らにとっては新しく、そして最後の、輝かしい春の季節が始まった。



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