催眠おじさんVS美少女勇者:地球最大の決戦!RtA (ルシエド)
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第一部:鷲尾須美は救世主である
催眠感度1倍


最近RtA小説など流行のジャンルがあるらしいので便乗してみました!


 かつて、滅びる世界があった。

 母なる地球は人類を『星を蝕む病原体』と見限り、人類を裁くことを決定した。

 星そのものが敵。

 人類に逃げ場なし。

 人類は滅びるしかない……かに、思われた。が。

 

「オラッ催眠!」

 

 催眠おじさんによって地球は秒でメス堕ちし、人類は救われた。

 Android・iOSによって配布された催眠アプリを使いし『催眠おじさんクルセイダーズ』も解散、世界は平穏を取り戻し、されど始まりの催眠の呼吸の使い手は人知れず姿を消さんとしていた。

 世の全ての、性格が悪い・男嫌い・攻撃的・コミュ障などが理由の膣無事無惨(ちつぶじむざん)―――独身女に子孫繁栄の理を刻み込むが邪悪なる催眠種付けおじさんの使命。

 だがこの世界にもはや催眠は必要ない。

 

 勇者が必要な世界は勇者が要らない世界になるべきであり。

 英雄が必要な世界は英雄が要らない世界になるべきである。

 それは天地万物三千世界に通ずる理。

 催眠で世界を救った果てに、全ての催眠を消し去り、この世界に催眠をもたらした催眠種付けおじさんはこの世界を去らんとしていた。

 

 催眠種付けおじさんに世界救われて恥ずかしくないんですか? とかつて言った少年が、おじさんを送り出すべく、ただ一人見送りに来ていた。

 

「行くんですか、おじさん」

 

「ああ」

 

「ありがとうございました。でも、何故……?」

 

「この世界の女の子は全員催眠掛け終わってしまったからな―――」

 

「ババアも女の子なんです?」

 

「女の子は死ぬまで乙女だぞ」

 

「女はエッチじゃなくなったら乙女じゃないと思いますよ、おじさん」

 

「お前だいぶ失礼だな……

 まあ今回のことは気の迷いだ。

 催眠術師は正体がバレたら忌み嫌われる、人間の尊厳の敵でなくてはならないからな」

 

 ただ一人見送ってくれた人間に別れを告げ、催眠おじさんは世界に催眠をかける。

 まだ自分の催眠が誰にも掛けられていない、隣り合う別の世界へと渡るために。

 

 専門家が語る『オリ主を投入したけど原作沿い以外の作品書けないよ……せや! 世界の意思と修正力で原作通りになっていくってことにしたろ!』理論によって、世界に意思があることは論理的に証明されている。

 意思があるなら催眠はかかる。

 世界をメス豚にすることなど催眠術師にとっては造作もない。

 

 女の股を開かせるのと世界に股を開かせることに違いはあるのか?

 いや、ない。

 催眠で全身性感帯になった世界は撫でられるだけで絶頂し、おじさんが侵入できるだけの入り口の穴を大満開する。

 世界というメスガキも、催眠の力の前ではブザマにアクメを晒すザコにすぎない。

 

「催眠かけられてあっさり股開くとか恥ずかしくないのかよ?」

 

 そうしてぬるっと、彼は隣の世界に移動した。

 "催眠異世界転移"である。

 かつて起こったビッグバンが宇宙の催眠絶頂であったことは学会でも定説であるが、世界の催眠絶頂は人間の世界移動すら可能とする。

 彼はかくして別の世界の街中に降り立ち、周りを見渡しつつ催眠音波を周囲に投射する。

 

 なんてことのない町並みだった。

 普通の青空。普通の山川草木。普通の住宅街。

 そこかしこを歩いている人間にも、違和感はない。

 だが催眠術師だからこそ分かる、異様な世界のズレがあった。

 

「バカな……テンバイヤーの気配を感じない……どれだけ善良な世界なんだ……?」

 

 彼が足を踏み入れたその世界は、異様なまでに悪の気配が薄かった。

 

 催眠術師にはライトサイドとダークサイドが存在する。

 ジェダイはそのバランスを取る調律者である。

 そしてライトサイドとダークサイドには傾向と嗜好の差がある。

 特に善人を自分のものにする催眠術師と、悪人に罰を与える催眠術師の性的嗜好は正反対で、ゲスの暗黒卿がもたらす争乱の中戦う運命にある。

 

 そのため、催眠術師は善人と悪人の見極めが非常に上手い。

 彼のレベルの催眠おじさんともなれば、周辺一帯の善人悪人の総数くらいなら判定できる。

 催眠音声があるのに催眠音波が存在しないわけがない。

 そして、音波はレーダーとなる。催眠術師はそうして獲物を見つけるのだ。

 『いい子を催眠でイチャラブ恋人にする薄い本ください』『クズが催眠で人生終わる薄い本ください』―――そんな犯罪者じみた人類の叫びを、形にするために。

 

「転売屋? が居ないとどうなるんですか?」

 

「催眠術はエスパータイプ。

 催眠術師もエスパータイプ。

 悪タイプとは相性が悪い。

 悪が居ない世界の方が催眠術師は動きやすい……

 催眠術師が狙うのは大体巨悪ではない小悪……

 催眠術師は大体情けなくて本体クソザコの小物犯罪者だから本物の悪には弱いのだ」

 

「へー」

 

「……」

 

「……」

 

「君誰かね? 小生の知り合いだっけか?」

 

「いや突然目の前に現れたからビックリして……通報していいですか?」

 

「駄目に決まってんだろ」

 

「通報されて困るのは悪い人だけですね。通報します!」

 

「こらこらこら」

 

 おじさんを真面目くさった顔で通報しようとするのは、綺麗な黒い長髪を後ろでまとめて折り畳んだ少女であった。

 

 いや、少女であるかは分からない。

 おじさんは背が伸びなかった女子大生か、発育のいい女子高生と推測した。

 あと7、8cm身長が高ければ女子大生の平均身長くらいだろうか?

 だが体の発育は、そんじょそこらの高校生と比べても優れているように見える。

 女性は男性より身長が伸びにくく身長で年齢を断定しにくいため、おじさんはそちらで年齢を判断した。

 

 顔つきは幼いが整っていて、可愛らしさと美人度が同居している。

 人間の顔つきは加齢と共に変化するため、幼少期に可愛らしかった女性が大人になるにつれてブスになっていくことも珍しくなく、その逆も珍しくはない。

 だがその顔つきは幼少期から大人まで、ともすれば老人になっても美しいと言われるようなタイプの顔つきであった。

 幾多の美女を見てきたおじさんには、それが分かる。

 

 優れた催眠術師の洞察力があれば、軽く体を見るだけでもその女の性格すら見通せる。

 

 背筋はピンと張り、姿勢には一本筋が通って見える。

 礼儀作法の仕込みが完璧ないいところのお嬢様や、普段から真面目な振る舞いを意識的にしている者は、こうなりやすい。

 眉間に自然に皺が寄っているのは、普段こういう怒った顔や気難しい顔をする機会が多く、それに慣れているからだろう。

 気難しさや真面目さが見て取れる。

 表情筋も豊かなのは、彼女が表情豊かな人間であることを示している。

 真面目なだけ、仏頂面なだけの人間はこうはならない。よく怒り、よく笑い、よく喜ぶ人間であることは見れば分かった。

 

 首に付いている筋肉が左右で多寡・柔軟性に差があるのは、弓道か何かを習っているからだろうと推測できる。

 弓道は左手で弓、右手で矢を持ち、普段生活していると動かさない範囲まで首を左側に曲げていくもの。慣れるまでは首を左にしっかり向けることもある程度難しいという。

 そのため、首関節と肉に左右で僅かな差異が発生する。

 右腕と左腕の筋肉の付き方もかなり違いが出る上に、"肘を入れる"という特殊な関節の固定法・筋肉の力の入れ方をするため、左右で腕の間接可動域にも違いが出る。

 足回りの筋肉にも同じくらいの情報が詰まっている。

 彼女が弓道や、走り込み必須の運動を何かしていることなどは、おじさんの目から見れば一目瞭然だった。

 

 肌が白く、とても綺麗で、女性が誰もが憧れる容姿の良さを獲得できる"才能"が感じられる。

 黒髪とのコントラストは、一種芸術作品のようだ。

 異性であれば見ただけで目を惹かれ、惚れてしまいかねない。

 肌が白いのはあまり外出しないから、つまり毎日長時間外出する習慣や外に一緒に出かける友人が居ないからであると推測できるが、ある程度以上の運動をしている肉体は、引きこもりのような不健康さを感じさせなかった。

 

 この洞察力こそが催眠おじさんの真骨頂。

 催眠抜きでも対象の趣味・性格・嗜好を見抜き、的確な催眠をかけることができるのだ。

 相手に的確に会話を合わせ油断させ催眠をかけ、催眠に耐性がある者に初手から効果的な催眠を選び、催眠で自白させるまでもなく他人の心を読み取っていく。

 "剣豪は剣を使わなくとも強い"と言われるように、催眠おじさんは催眠がなくとも強い。

 

 とはいえこういう問答無用で通報してくる女には話術だけではどうにもならない。

 

「催眠ハッピーセット!」

 

「んっ」

 

 おじさんは割と躊躇いなく彼女の正気を吹っ飛ばした。

 『彼に対して明確に不都合になることはできない』。

 『彼の言動行動を好意的に解釈・受け入れやすくなる』。

 『彼を親しい者であると思い込む』。

 『以後正気に戻っても催眠耐性が橘ありすレベルまで落ちる』。

 の四セットを一息に叩き込む催眠プリセット。

 マクドナルドのハッピーセットを参考に考案した、対象を頭ハッピーセットにし、シャカシャカチキンをシコシコチキンにすることすら可能な催眠アタックである。

 

 意思は眠り、精神は掌握され、記憶は自在に改竄される。

 これを受けたものは、催眠の効力が消えるまでずっとおじさんを家族同然の大切な人と『勘違いさせられた』ままになる。

 それが事実であると信じ込んだままとなる。

 

 催眠を受けたその目から光が消え、通報しようとしていた手がだらりと下がる。一瞬にして催眠おじさんの言うことをなんでも聞く状態に落とされたようだ。

 

「名前を聞いてもいいかな?」

 

「……鷲尾(わしお)須美(すみ)、です」

 

「じゃあまず、年齢を教えてくれるかな?」

 

「っと、11歳です」

 

「へー11……11!?」

 

 背の低い大学生くらいかな、と予想していた催眠おじさんの息が一瞬止まった。

 

「11歳? じゃ小学生?」

 

「11歳、小学生です」

 

「小学生? あっ……ふ~ん……え、身長・体重はどれぐらいあんの?」

 

「え~、身長が151cmで……」

 

「うん」

 

「体重が■kgです」

 

「うわ軽っ……腰とか細そうだな……見た感じ筋肉無いわけでもないのに……」

 

 小学生。小学生だという。恐るべし、鷲尾須美。

 おじさんは催眠おじさんになってもう数年が経つが、それでもこのレベルに胸も尻も大きな小学生など見たことがなかった。

 大学生や高校生を名乗ってきたらおそらく普通に信じていただろう。

 

 催眠に嘘はない。

 催眠おじさんはこの世で最も真実に近く、最も虚飾にまみれた存在である。

 真と嘘を司る彼の前で嘘をつくことはできず、彼の前で開かれる高校卒業式は童貞処女を卒業した日のことを包み隠さず書く、童貞処女卒業文集の発表会となるだろう。

 

 つまり彼女は本当に小学生であるということだ。

 

「うーん……小学生はないっすねえ……」

 

「何がないんですか?」

 

「小生はどっちかというとダークサイドの催眠術師だが、矜持はある」

 

「?」

 

「網にかかった小魚はリリースして成長を待つのだ。漁師のマナーだ」

 

「漁師なんですか?」

 

「愛の漁師だ」

 

「うわっ」

 

「……悪意ある"うわっ"は催眠では言えないから今のは素の"うわっ"だな……」

 

「そんな……思わず声が出ただけですよ! いいと思います!」

 

「フォロー入ったのに逆に腹立つパターンとか小生初めてだわこれ」

 

「何に腹が立ったんですか!? 言ってください!」

 

「クソ鬱陶しいなこの小学生!」

 

「ごめんなさい! でも言わないと伝わりませんよ! しっかりしてください!」

 

「悪意なく好意だけで説教してくる小学生……!」

 

 催眠おじさんはかつて学生時代"一生話しかけてくんじゃねえ"と催眠をかけた眼鏡三編み爆乳お説教大好きウォーズマン委員長のことをついつい思い出していた。

 この生真面目さ。

 面倒臭さの極みである。

 

「これはあれだな……催眠に弱すぎて小生の催眠が効きすぎたやつだ……」

 

「あなたが望むなら……私の初めてを捧げても……きゃっ」

 

「処女の不法投棄はやめろ。くっ、時々居るんだこういう催眠にクソ弱い子」

 

「うっ……何か……私は、大事な何かを忘れてる……?」

 

「お、これは催眠への抵抗か。催眠に弱くても意志の力は強いか。この歳で立派な子だ」

 

「そうだ……宿題をしないと」

 

「真面目か?」

 

「思い出しました。私はあなたの言うことちゃんと聞いて、宿題もしないといけないんでした!」

 

「……」

 

「うちに来てください! おもてなしします!」

 

「……とりあえずゆっくり催眠弱めていくか。住むところも必要だったしな……」

 

 おじさんはニコニコと笑う須美に手を引かれ、鷲尾家に連れて行かれる。

 催眠という絶対の優位性があるのに、主導権は少女の方にあるように見えた。

 それは警察に声をかけられても変わらない。

 

「あーちょっとそこの二人?

 親子かな? でも似てないね? ちょっとお話聞いてもいいかな」

 

「あ、おまわりさんだ」

 

 おじさんに警察の職質、飛天御剣流書類送剣が迫る。

 

「オラッ催眠色の覇気!」

 

「うっ」

 

「フン……小生と小学生には天と地ほどの差が……字面にはほぼ差がないなこれ」

 

 そう、何者も、催眠おじさんを止められはしない。

 

 ここは滅び行く世界。

 神が怒り、世界の多くは滅ぼされ、ほんの数百万人の人間が、僅かな土地に逃げ込んだ世界。

 四国を囲む結界の外には炎が燃え盛り、結界の外の尽くが燃え尽きている。

 催眠をかけられたメスガキの人生くらいには、この世界は終わっている。

 いじめられっ子が催眠を手に入れた後の巨乳美少女いじめっ子の人生くらいには終わっている。

 催眠アプリを手に入れたクソ野郎に逆恨みされた美女の人生くらいには終わっている。

 

 ただ緩やかに終わり行く世界の中で、彼と彼女は出会った。

 

 

 




wasiosumi
wasiosnmi
..asi nmi
saimin

催眠にかけられるために生まれてきたような女の子

・RtA
 ロサンゼルス発のファッションブランドのこと。
 転じてそこが作品で表現しているテーマのミームストリームのことを指すスラング。
 RtAが表現している「正気と狂気」「処女と性欲」の対立表現のこと。


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催眠感度2倍

 鷲尾須美の帰る家……鷲尾家は、この世界でも指折りの名家である。

 この国で指折りだとか、この地方で指折りだとか、そういうレベルではない。

 この世界の特殊な事情ゆえに、鷲尾家は世界の運営そのものにある程度の関係を持つ、それほどの地位を持っていた。

 

 つまり、催眠おじさんの拠点にはちょうどいい家であると言えた。

 金! 権力! 社会的信用! 全てが揃っている。

 須美の母親が凄い美人なんだろうな、と期待していた催眠おじさんであったが、母親と須美はあんま似ておらず結構しょんぼりしていた。

 催眠おじさんはカイジを裏切るタイプのクズなので、勝手に期待して勝手に失望するのだ。

 

「ゴムゴムの~、催眠!」

 

「「「 うっ 」」」

 

「李氏八極催眠の催眠術師は妊娠させねえ! ゴムだから!」

 

「「「 ご命令を 」」」

 

「まあ小生は世話になる人間には手を出さん。運が良かったな」

 

 おじさんは須美の両親、使用人に残らず催眠を完了する。

 潜伏用の設定は年齢の関係もあって『須美の父の弟』にした。

 当主にとっては弟、須美に取っては叔父ということになる。

 「うわっなんだこのソファークソ高そう……」とおじさんが座りながらビクビクしていると、須美がにこにこと話しかけてきた。

 

「おじさま、おじさま、これ昨日の国語のテストです。百点を取ったんですよ」

 

「……お、おお? よく頑張ったな。君は鷲尾家の誇りだよ(適当)」

 

「えへへ……ん、こほん。不肖鷲尾須美、明日からも家名に恥じないよう頑張ります!」

 

 須美は一瞬ふにゃっとした顔をして喜び、咳払いして取り繕い、真面目くさった顔で敬礼をしてビシッと背を伸ばした。

 取り繕いきれない子供らしさに、おじさんは思わず苦笑する。

 おじさんは須美の部屋に連れて行かれたが、その過程で須美を含めた鷲尾家の人間達全員を改めてチェックし、用心深く確認を行う。

 

「よし。小生のことを言い触らして回りそうな人間はいないな……催眠はよく効いている」

 

「余計なことを話さないように、ですね!」

 

「うん、そゆこと」

 

「そんな事必要なんですか?

 おじさまの偉大さを周囲に知らしめていけばいいじゃないですか!」

 

「本当にこの子には催眠よく効いてるな……ま、普通に人類の敵になるからしゃあないね」

 

「そうなんですか?」

 

「そうそう」

 

 催眠術師の言葉は次元大介の「おいルパン! あの女が絡むなら俺は降りるぜ。後はお前らだけでやってろ」並に信用ができないが、催眠がかかってる女相手は違う。

 気難しい催眠術師でも催眠がかかっている女相手にはそうでないことが度々ある。

 催眠がかかっている人間は人形と変わらないからだ。

 

 催眠おじさんもまた、催眠をかけてお人形さんにした人間相手にくらいしか本心を話さないという性根の腐ったところがある。

 

「人間って根本的には己の自由意志を踏み躙る存在は受け入れないのだよ」

 

「確かに、そうですね」

 

「誰もが自分の意思を操られたくはない……何をしてるんだ?」

 

「お茶淹れます、座っててください。あ、お話はちゃんと聞いてますよ」

 

「ありがとう。育ちの良さを感じるな」

 

「大袈裟ですよ、普通です普通。鷲尾の家の者として当然のことです」

 

「『素直に言え』」

 

「気遣いを褒められると嬉しいです……」

 

「子供らしく素直でよろしい。気遣いはよく出来ているよ」

 

「……お、お茶淹れますから!」

 

 照れた様子の須美が淹れたお茶を飲み、おじさんは「これかなり高い茶葉だな……」と言いたげな顔をしていた。

 

「知的生命体が群れを作る際の基本はなんだと思う?」

 

「……? なんでしょう?」

 

「いくつかあるが、小生は『支配と自由』だと考える」

 

「支配と自由……」

 

「まず知的生命体には支配の欲求がある。

 これを"他人を支配しようとするのは悪徳、敵を作る"という倫理で抑えている。

 生物の支配欲求はどこからくるのか?

 『自分にとって快適な環境を作る』という本能からくるものだ。

 支配とは環境の調整手段の一つだからね。

 敵が居ない状況を作り、日常を安定させ、味方を増やし、自分を一番上に置くんだ」

 

「なるほど」

 

「支配欲求が無い人間でも、己の自由を奪われるのは嫌う。

 よって自分の自由を奪われない程度には周囲を支配しようとする。

 最低限の生活環境の支配という概念だが……まあそれはよかろう、ふむ」

 

「ふむふむ」

 

「他人の話を真面目に聞く時はメモを取るとか本当に真面目ね君……」

 

「おじさまの大事なお話ですから!」

 

 催眠術とは概念的に言えば、『支配者になる力』である。

 いじめられっ子に催眠アプリを与えれば学校のカーストを逆転させ、性欲おじさんに与えればいい女を狙い始め、ルルーシュに与えればエロ展開が消滅し世界を転覆させに行く。

 

「支配と自由は生物の基本だ。

 愚民を支配し国を安定させるのが政府の正義。

 政府の支配と圧政に逆らい革命するのが民衆の正義。

 生物には支配する本能と支配に逆らう本能がある。

 さて、さっき"群れ"を例に挙げたが、ここで答えが出せるかい?」

 

「ええと……ううん……

 生物は群れを作るから……

 群れのリーダーになって支配する本能がある?

 それに加えて、その支配に抗してリーダーになろうとする本能がある?」

 

「うむ。百点をあげよう」

 

「ありがとうございます!」

 

 これは催眠の基本理念の話である。

 催眠は大乱交スマッシュ竿兄弟誘発技術でもあるが、同時に目に映る全ての人間を"群れ"に組み込み、己がその頂点に立つという、生物的本能欲求の具現でもあるのだ。

 

「生物は支配されていることに不満を持つ限り幸福にはなれない。

 支配から脱却しない限り不幸なままだ。

 自分の人生を自分で選べないということは、人間にとって最大の不幸の一つに数えられる」

 

 支配される者は、支配する者の幸福と利得を第一として生きることになる。

 支配される中で小さな幸福を見つけることもあるだろう。

 だがそれは不幸を感じる感覚が麻痺した先にしかない。

 自由に生きる幸福がないということは、結局のところ最悪だ。

 

 鷲尾須美というメスガキの人生はもう終わっている、と言えた。

 

「お前に明日はない」

 

 おじさんが人差し指で須美の眉間をつつきそう言っても、須美は顔色一つ変えない。

 催眠が上手く噛み合っている状態ならば、こんなことを面と向かって言われても、敵意どころか違和感すら持つことはできない。

 "当たり前"を奪う。

 "指定したルール"を強制する。

 

 まるで、神話の中で絶大な力を振るい、問答無用に人を従わせた天に在る神のように。

 

「フッ……

 『ゴミクズのみを催眠で自分の女にする催眠術師』

 『街を守る正義のヤクザ』

 『牢獄から重犯罪者を脱獄させる海賊』

 『連載終盤の涅マユリ』

 それらはぶっちゃけ同レベルとはよく言ったものだ……」

 

「そうなんですか?」

 

「訂正しよう。ゴミクズ度合いが同じくらいだ」

 

 須美は可愛らしく首を傾げる。

 疑問を持った少女の綺麗な黒髪が、艷やかに揺れていた。

 

「私ちょっとわからないんですけど、悪いと思ってるならおじさまは何故するんですか?」

 

 ふむ、とおじさんはあごひげを撫で、腕を組んだ。

 

「子供の頃は誰もがリザードンに憧れるが、大体のおじさんはスリーパーにしかなれないんだ」

 

「は?」

 

「善人は小生の趣味に合わなかった。そのくらいのつまらん話だ」

 

「清く正しく生きませんか? その方がお天道様に胸を張って生きられる分いいですよ!」

 

「催眠かけられた状態でここまで善意十割の説教してくる奴初めて見たな……」

 

「きっとそうすれば―――」

 

「『この話はここまでだ』」

 

「すんっ」

 

「よし。テトリスの一番好きなブロックの形でも語ってろ、小娘」

 

「□□

  □

  □」

 

「今どうやって発音した?」

 

 ふぅ、とおじさんは深く息を吐き、須美の淹れた茶を口元に運ぶ。

 

「……本当に調子が狂うな」

 

 どうにもやりにくさが先行していた。

 

 さいみんじゅつはエスパータイプの技でありながらあくタイプにも効く。

 催眠術師は悪に相性不利だが、悪に催眠が効かないわけではない。

 事実、相性の不利を覚悟の上で悪を討つダークヒーローおじさんもいる。

 まあそういう話とは特に関係なく、おじさんはこの世界にやや戸惑っていた。

 

 善人の割合が多い。

 ほどほどの善人ととびきりの善人で振れ幅が多いが、本当に善人が多い。

 時間をかけておじさんが探知をかけても、悪人の判定に入る人間は相当に少ない。

 鷲尾家で会った人間にも一人も悪人がおらず、おじさんは目眩がするような気持ちであった。

 

 普通、社会というものは善悪両方を内包する。

 自制心の低い善人が気の迷いで犯罪をしてしまうこともある。

 悪人が損得勘定で犯罪を行わず生きていることもある。

 そうして年間に数十万、数百万の犯罪が起き、それを処理するのが"健全な国家"だ。

 

 だがこの世界は、世界全体が妙に善意的に感じられる。

 世界を渡ってきたおじさんだからこそ、善意を捻じ曲げることも生み出すこともできる催眠種付け一族のおじさんだからこそ、理解出来る異常性。

 特殊な思考の強制ではない。

 悪人が完全に存在しないわけではない。

 ただただ、極端なまでに全体的な善性が強い。

 

 人生経験豊富なおじさんも流石に、このレベルの善度合いは、善を良しとする新興宗教に染まった小さな村くらいでしか見たことがなかった。

 まるでほとんどの人が"神様が見ているから悪いことはできないね"と思っているような世界。

 

 こんな綺麗な世界の中では、邪悪なる催眠おじさんはさしずめ、美しい花畑の中に放り込まれたウンコのような存在だ。

 汚すぎて肩身が狭い。

 

(この世界を小生より先に支配した催眠おじさんでも存在しているのか?)

 

 底無しの善人相手だと調子が狂うのは、彼の性格の問題だろうか。

 ただ、善人だけの世界というだけなら、おじさんもここまで調子は狂わなかっただろう。

 彼の調子を決定的に狂わせたのは、間違いなくこの少女である。

 何かどこかがズレていて、その純朴さや真面目さが彼の調子を狂わせていた。

 

 目を合わせれば、加工された宝石のように透き通る須美の瞳が、まっすぐに尊敬の目でおじさんを見ていた。

 

「? どうかしましたか? おじさま」

 

「いや」

 

「アンパンマン号みたいな無表情になってましたよ」

 

「どんな無表情だ……いやちょっとわかるな」

 

 催眠おじさんから二ヤけた笑みを差し引いたらただの邪虫(じゃむ)おじさんだ。

 

「そうだ、宿題はどうした。終わったのか?」

 

「これからやります! ……いえ、今からやります!

 一刻も早く! おじさまの前で不甲斐ない自分は見せません!」

 

「生き辛そうなくらい真面目だな」

 

 宿題のことを言われて、やらない、後回しにする、という選択肢がない。

 少し慣れてくると、その真面目さに可愛げや好感を覚え始めるタイプの真面目さだった。

 本人に(ほだ)すつもりがないのに周囲を絆している、そんな気質が須美にはあった。

 

「……宿題を見てやろうか、このおじさまが」

 

「え? おじさまできるんですか?

 神樹館って小学生が通ってますけど結構学力高いところですけど……大丈夫ですか?」

 

「煽りに聞こえるが心配してるだけなんだろうなこれ……」

 

「?」

 

「鏡があったら貸してくれい。高いのはやめてくれ、肌に合わんのだよ」

 

「手鏡でいいですか? 私のですけど」

 

「おう感謝……もうちょっと女の子らしい可愛い手鏡買って貰ったらどうだ?」

 

「いいえ、家に恥じるような私物をねだるなど以ての外!

 私は鷲尾の名に恥じない大和撫子として、与えられた物で満足していますから!」

 

「……まあいいか」

 

 須美に借りた鏡を見て、おじさんは鏡の向こうの自分を見て、鏡の向こうの自分に能力の焦点を当てた。

 

「『東大合格確定レベルに頭良くなれ』。よし、催眠完了。宿題見せてみ」

 

「それでいいんだ……」

 

「宿題やるのは脳で、脳に催眠かけるのが催眠であるからな」

 

「さすがおじさまです!」

 

「うむ。宿題が終わっていないのに登校させるわけにもいかん。

 宿題が終わってから、この世界について等、色々小生に聞かせてくれ」

 

「はい! 何でも聞いてください!」

 

「ん? 今なんでもって言ったよね?」

 

「はい!」

 

「たとえばお前の知る限り一番美人な女とか教えてくれる?」

 

「お母様です!」

 

「クッソォ純粋な小学生特有の曇り一つ無い綺麗な返答しやがって」

 

 いい女探しはいつになったらやれるんだ、とおじさんは思った。

 

 

 

 



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催眠感度3倍

 カリカリ、と鉛筆が走る音がする。

 シャーペンを使ったらどうだ、とおじさんは言った。

 鉛筆以外は非国民です、と須美は答えた。

 命令形で言えばおじさんの言葉に須美は逆らえないが、おじさんは命令形では言わなかった。

 

 もう一々教えられて宿題をやるより一人でやったほうが早い段階に入った須美を横目に、おじさんは須美の部屋を少し見渡した。

 

 部屋灯のスイッチの周りの壁に触れた跡がほとんどない。

 何年か一つの部屋に人間が住んでいると、電気がついていない暗い状態で、スイッチのある辺りを手探りで探すことが増えてくる。

 よってスイッチ周辺に僅かに手垢等の痕跡が残るものだ。

 それがない。

 

 部屋の畳の日焼け度合いが僅かに自然でない。

 畳床の寿命は20年ほどで、5年に一度ほど裏返すのがよい程度には日焼けの影響が残る。

 よって家具があればそれに沿った日焼けがあるか、もしくは全く日焼けが無いかのどちらかであるのが自然だ。

 が、この部屋はそうではなかった。

 明らかに大人用の家具が配置されていた日焼けが残っている。

 子供向けの、須美の体格向けの家具が置かれてからせいぜい一年。

 もっと長くこの部屋が"須美の部屋"であったなら、日焼けもそれ相応であるはずだ。

 

 この部屋は綺麗だ。

 おそらく須美が掃除好きで、生真面目にこまめな掃除をしているからだろう。

 だがある一定の高さにある一部の部屋の装飾に、埃が乗ったままになっている。

 大まか150cm以上の高さ―――須美の目よりも高い位置だ。

 自分の目より高い位置にあるため、おそらくそこに埃があることにも気付いていないのだろう。

 

 須美が身長の問題で見えていない高さの所に、一年ほどの分であると推測できる量の埃が積み上がっている。

 須美がこの部屋を与えられる前はおそらく大人が掃除していて、須美が掃除をするようになってここが見えなくなったからこうなったのだろう。

 須美の真面目な性格が反映された掃除と、それが作り上げた清潔感の塊のような部屋が、その埃の存在をかえって際立たせているようだった。

 

 おじさんは精緻な観察力をもって、この部屋から須美の性格と習慣、須美の部屋が彼女に与えられた時期を推測する。

 

「この部屋を与えられたのは最近か?」

 

 宿題を終えた頃を見計らい、おじさんは須美に声をかけた。

 第一声がこの世界に関することではなく、須美に関することだったのは、本人も無自覚な彼の心の反映である。

 催眠術師らしく、おじさんは須美から僅かな"苦しみの気配"を感じ取っていた。

 

「私がこの家に来たのが、少し前なので。だからこの部屋を与えられたのも最近ですね」

 

「この家に来た……? 養女か?」

 

「はい。引き取られたんです。勇者に相応しい家格を与えるために」

 

「勇者?」

 

「勇者は―――この世界を守るんです」

 

 須美いわく、この世界はかつて死のウイルスに汚染され、人類は滅びかけたが、樹に姿を変えた神―――神樹によって四国を包む結界が張られ、四国は人類最後の方舟となったという。

 

「―――新型コロナウイルスか」

 

「違います」

 

「違うのか……」

 

 結界の外はウイルスの嵐で、生存者が居る可能性は低いとか。

 そんな世界を滅ぼしたウイルスから生まれた巨大な怪物が、『バーテックス』。

 バーテックスには通常の攻撃は通用しない、らしい。

 そしてバーテックスは放置すれば世界を滅ぼしてしまうという。

 だから神樹の力を与えられた人間……勇者が、それを迎撃しなければならない。

 

 "須美が又聞きした話ばかりで自分で確かめた話が少ない"ことがおじさんは気になったが、世界の状況は大まかに理解できた。

 

「お前が勇者というのは分かったが、それはお前でなければならないのか? 大人は?」

 

「年齢と性別と才能に枷があると聞いてます。

 私くらいの年頃で、女の子で、神樹様の力を受け取れる人物だけだとか」

 

「なるほどな……

 選ばれし無垢な少女のみが得られる力、勇者の力……

 穢れしかない中年男性のみが得られる力、催眠おじさんの力……

 小生の力と存在の対極に存在する者……それが神樹の勇者……?」

 

「そうですね」

 

「そうですねじゃないが?」

 

 ウイルスから生まれた怪物。

 それを迎撃する勇者。

 勇者が勝てば世界は存続、敗北すれば世界は滅亡。

 とても分かりやすい構図であり、おじさんは"下手に動くと世界がトぶな"と思い、多少大人しくしておくことを決めた。

 

「現代系かと思ったらまたファンタジー系の世界か……勇者の対の魔王も居るのか?」

 

「おじさまって子供っぽい考え方するんですね、ふふっ。

 ゲームの世界ならともかく現実の世界に魔王なんて居るわけないじゃないですか」

 

「お前自分の肩書き言ってみろ」

 

「勇者です!」

 

「だよなァー!!」

 

 須美の体つきから"弓術の筋肉の付き方をしている"ことを理解していたおじさんは、彼女がどういう武器で戦っているかも大まかに理解していた。

 左手の内側の弓を持つ左手特有のマメ。

 右手の指に見られる矢を持つ右手特有のマメ。

 それらは明確に、須美の体に刻まれた"戦うための努力の跡"だった。

 

 一般的で善良な大人であれば、11歳の女の子が戦闘の訓練を仕込まれているのを見れば眉を顰めるだろうが、おじさんは眉一つ動かしはしなかった。

 

「名字もその時に変わったのか。小学生には酷であろうに」

 

「いえ、名前も変わりました」

 

「なんで!?

 ……いや、呪術か。

 偽の名前を被せるのは呪術の呪除けの基本だったな。

 いい機会だからと名前も名字も変えた、といったところか」

 

「昔の名前は、東郷(とうごう)美森(みもり)です」

 

「なるほど。『美』を遺したのはどっちの家の指示だ?」

 

「? 知りません」

 

「むぅ……せめて名前を一文字残すところとか……

 それで残すのが『美』のあたりとか……

 親が子にする気遣いを微かに感じたが。どちらの家の親かは不明か」

 

「……」

 

「家が変わって、辛いことは?」

 

「……」

 

「寂しくはないのか?」

 

「……」

 

 数時間前にかけた軽い催眠と、須美の意志が拮抗していた。

 "言えない"と拒絶することはできない。

 でも無言のまま、催眠おじさんの問いかけを先送りにする抵抗はできる。

 催眠に弱い須美がここまで抵抗するということは、それだけ『言いたくない』ということなのは間違いない。

 

 『寂しい』と言いたくない。

 『辛い』と言いたくない。

 そういうことなのだろう。

 あまりにも不器用すぎる真面目さを下地にした、抵抗の意志。

 だがおじさんがそれを尊重するわけがない。

 

 ()()()()()()()()()()()()のは、催眠術師の本能のようなものだ。

 

「『今は本音で語れ』」

 

 重ねがけの強力な催眠が、須美の張りぼての振る舞いの奥の、心の弱い部分を抉り出す。

 

「最初は……まず、怖くて、不安でした……

 ここが新しい家で、新しい家族なんだって……

 住み慣れた家も家族ももう会えないって、もうお別れなんだって、思って……」

 

「そうか。怖かったか」

 

「戦うのもしたことなんてなくて……

 でも、だけど、戦わないと世界が滅びるって言われて。

 他の子は怖がってないって言われて。

 怖がってちゃいけないって思って。

 神樹様のお役目を怖がっちゃいけないって思って。

 弓を使うから練習しなさいって言われて。

 でも怖くて、恐ろしくて、思いっきり転んだ時みたいに、痛かったらどうしようって……」

 

「その恐れが普通だ。間違っていない」

 

「でも、もっと怖かったのは……居場所がなくなってしまうこと……」

 

「!」

 

「私、もう、東郷の家の子じゃないから。

 勇者になる子として、ここに居るから。

 勇者として価値を示さないと、この家に居場所がないから。

 "絶対に失敗しちゃいけない"……そう……思って……だから……だから私……」

 

 重ねがけされた催眠の影響で、虚ろな目と虚ろな表情を浮かべていた須美が、恐れと不安と緊張で、スカートを握り締める。

 見目麗しい少女の須美が、今は可憐な容姿より、憐れみの方が目につくようになっていた。

 少女は、可憐で、憐れで、不憫だった。彼から憐憫の情を引き出すほどに。

 

「そう、周りが言ったのか?」

 

「……いえ、言いませんでした。

 気負わなくていいって。

 無理しなくていいって。

 ただ健やかに、幸せであってくれればそれで十分だ……って、言ってくれました」

 

「そうか。それは……それそのものは、良かったな」

 

「いい人だったんです。

 本当の親みたいに接してくれる鷲尾家の両親も。

 お姉さんみたいに接してくれる使用人の人達も。

 学校の同級生も。

 ちょっと怖いけど生徒想いの先生も。

 だから、だから、だから、私しか守れないなら、私が頑張るしかないって思ったんです」

 

「なら、不安になることもないだろう。お前の居場所はそこにあるじゃないか」

 

「皆が本当は何考えてるかなんて私には分かりませんし……

 言ってることが本心だって、信じたい私も、信じられない私もいるんです」

 

「うっわメンドくせっ」

 

「面倒臭い女でごめんなさい……」

 

「幸せになる才能がない女だなお前……

 友達を選んだ方がいいぞ。

 お前は一人だとあんまり幸せになれん女だ。

 いい友達を作ってそいつに幸せにしてもらうのが一番だぞ、うん」

 

「はい……幸せってなんなんでしょうね?」

 

「急に哲学的な話」

 

「私、東郷の家に居た頃は幸せでした。

 鷲尾の家でも幸せだと思います。

 でもなんだか……昔と今の、何が違うんでしょう」

 

「小生に聞かれても困る。君のことなんて全然知らんからね?」

 

「おじさまなら分かるはずです!」

 

「唐突にデカい期待投げつけて来るんじゃないよ! 今日初対面だからね!?」

 

「おじさまなら私のことを分かってくれます……!

 分かってもらえないなら私の分かってもらう努力が足りなかったということ。

 これから頑張って分かってもらおうと思うのでよろしくお願いします!」

 

「だいぶ頑張り屋さんだなお前。

 こんな頑張る小学生普通居る……?

 本音語れって催眠かける前はこういう本音の片鱗も見せてなかったよな?

 頑張りすぎて小さな弱音を心の奥に溜め込んでどっかで爆発するタイプだな」

 

「私は大丈夫……大丈夫じゃない……大丈夫。

 大丈夫だって思うのも、大丈夫じゃないって思うのも、本音……」

 

「本音が複雑に絡み合っている人間に催眠をかけるとすぐこれだ。面倒だよなぁ」

 

「ごめんなさい、おじさま」

 

「謝るな。小生はお前の支配者だ。お前に謝れなどと命令した覚えはない」

 

 ふぅ、と一息吐いて、おじさんは座布団を一枚敷き、壁に背を預けて座り込んだ。

 

「みー子、お前の問題は」

 

「みー子?」

 

「今の名前が須『美』、前の名前が『美』森。よってみー子。どうだ」

 

「若々しいネーミングセンスでいいと思います!」

 

「小学生にとっての"若々しい"って小学生レベルってことじゃねーか?」

 

 須美もまた、座布団をおじさんの隣に敷き、彼の隣にちょこんと座った。

 

「おじさまはこの世で最も気遣いができる人ですね……」

 

「ここまで過大な褒め言葉使うほど深く催眠かけた覚えねえんだけどなんだろうねこれ」

 

「私の前の名前と今の名前を一緒に呼べる呼び方に、気遣いが感じられるなって」

 

「あああああ滑ったギャグを解説するみたいなことやめろ! 解説すんな!」

 

「はい、解説やめます!」

 

「みー子お前……真面目な癖に性格の本質がエンタの神様の化身か何かか」

 

「エンタ?」

 

「通じない! そっか西暦終わってめっちゃ経った世界だって言ってたなさっき!」

 

 おじさんの何が面白かったのか、須美が可愛らしい顔でくすくすと笑って、青空に雲がかかるように、須美の表情が儚げなものに移り変わる。

 

「前の自分と今の自分って、どっちが本当の自分なんでしょうね?」

 

「ん?」

 

「昔、私は"大赦"に連なる家の端っこの一般家庭の普通の女の子だったんです」

 

「『嘘をつくな』」

 

「本当ですよ」

 

「催眠で自白させたんだからマジか……嘘だろ……?」

 

「なんでそこに疑問持つんですか?」

 

「お前みたいな女人生で一回も見たことないからだよ」

 

「私はおじさまが人生で出会った女性の中で一番特別……? ちょ、ちょっと照れますね」

 

「そういうとこだぞ」

 

 こほん、と須美は咳払いした。

 

「時々思っちゃうんです。

 本当の自分って、本当の私って、どっちなんだろうって」

 

「濃厚な思春期を感じるワードだ……」

 

「前の私こんなに礼儀作法なんて知らなかったんです。

 弓に触れたこともなくて、運動もこんなにしてなかった。

 こんなに丁寧語使ってた覚えもないです。

 "考え方"が、普通の家のそれから、名家のそれになってて……

 家も変わって、学校も変わって、名前も変わって。

 習慣も変わって、考え方も変わって、するべきことも変わった。

 普通の女の子の美森と、勇者の須美は、どっちが本当の私なのかなって、ふと思って」

 

「思春期……と言うには、ちょっと悩みが深刻か」

 

「あ、いえ、そんな深刻ってわけでもないでも……いえ、自分でもわからないです。

 私はこのことを、深刻に思ってるのか、そうじゃないのかも分からなくて……」

 

「本当のお前なんて居ないぞ」

 

「え?」

 

「最初の自分が本当の自分か?

 変化し成長した後の自分が本当の自分か?

 虚言癖が嘘を事実だと思い込んだ状態は本当の自分か?

 過去の大切なことを忘れたらお前は本当の自分じゃなくなるのか?」

 

「それは……分かりません」

 

「本当のお前なんていない。

 昨日までの、今日からの、明日からのお前が全てだ。

 口で語る本当の自分など虚構だ。

 他人が語る本当のお前など嘘っぱちだ。

 自分に都合の良い本当の自分などない。

 メロドラマで語られるような本当の自分などない。

 昨日に努力し、今日を真面目に生き、明日からも頑張るお前が本当の自分だ」

 

「本当の自分なんていない……? 頑張る私……?」

 

「別の見方をすれば、どっちも本当の自分だとも言えるな。

 催眠で理性を消され本能で動く淫乱女が、

 『これが本当の私だ!』

 って言ったらそれは本当の自分かという話さ。

 理性があるのが本当の自分か。ないのが本当の自分か。天鎖斬月快楽天衝……」

 

「?」

 

「……性知識が薄すぎる……いや小学生だったか。時々忘れる容姿してんのが悪い」

 

「はぁ」

 

 小首を傾げる須美の真っ直ぐで純粋な視線に、おじさんは居心地悪そうにして、何かを誤魔化すように須美の額に軽くデコピンをした。

 

「意思は捻じ曲げられる。

 本音は捏造できる。

 思い込みが現実を変える。

 主義主張すら人は簡単に入れ替える。

 本当の自分などただの言葉遊びだと催眠術師(われわれ)は知っている」

 

「心はもうちょっと確かなものだと、私は思います」

 

「この世界はお前みたいな子供が命を懸けて戦っている。

 そして子供も親もそれを自然と受け入れている。

 平然と受け入れてはいないが、断るという選択肢を考えてもいないように感じる」

 

「? それは、神樹様がそう命じられたから……神樹様のお役目を断るだなんて、そんな」

 

「そうだな、『信仰』は催眠のようなものだ」

 

「……」

 

「意思と自由を他者が勝手に操るなら、信仰と催眠に違いなどないんじゃないかねえ」

 

 "ここは神様に救われて守られている世界なんだな"とおじさんは思う。

 であれば、民衆の善良さもある程度納得できる。

 神が実在する。

 神の実在を宗教に利用できる。

 であれば、倫理は宗教によって極めて強力に規格化できる。

 善人の割合がありえないほど高くもなるだろう。

 

 お天道様が見ている、という概念が日本にはある。

 「他の誰が見てなくても太陽は見ている」……転じて、太陽という神が見ているという、日本人の倫理をある程度担保する、自戒の倫理の言葉である。

 太陽は人なんて見ていない。

 これは太陽の擬人化で、神格化。太陽に意思を見る考え方である。

 "神様が見ているから悪いことはできないね"という考え方を、日本人はずっと昔から持っていたのである。

 

 この世界は、その少し先。

 「神様が言うことには逆らっちゃいけないね」まで行っている。

 

 『自分がこの世界に来る前からこの子は洗脳されていた』―――と、おじさんは思った。

 

「宗教に洗脳されている人間の意思。

 催眠に支配されている人間の意思。

 社会に適合されている人間の意思。

 どれが本物の意思で本当の自分なのかなど、考えるだけ時間の無駄だとは思わんかね?」

 

「……よくわかりません」

 

「くはは、すまんな。小学生に聞かせるには話を複雑化させすぎたか」

 

 おじさんは話がズレてきていることを感じる。

 おじさんは持論を語るのが好きなのだ。

 催眠おじさんは大体若者に長々とした話を聞いてもらえないので、話を聞いて貰いたくなったら催眠をかけるかキャバクラに行く。

 

「……話がズレたな。みー子と何の話してたんだっけ?」

 

「おじさま、もしかしてもうアルツハイマーが!? 病院に行かないと!」

 

「そんな歳じゃねえのは見りゃ分かるだろうがァ! まだギリ30になってねえ!」

 

「おじさんって感じの年齢ですね」

 

「クソが事実だから反論できねえ」

 

 須美に悪意が無く、返答は素直に思ったことを反射的に口にしているだけだということは、催眠をかけてるおじさんが一番よく分かっている。

 分かっているので怒るに怒れない。

 怒れないが、おじさんは須美の額にデコピンをかました。

 

「あいたっ」

 

「ああ、思い出した。一番の問題は、

 『皆が本当は何考えてるかなんて私には分かりませんし』

 ってとこだと見た。お前、周りに自分がどう見られてるか割と気にするタイプだな」

 

「そう……ですか?」

 

「だけど周囲の目を気にしなくなったらそれはそれでモンスターになりそうだな……」

 

「モンスター……」

 

「褒めてんだぞ」

 

「! ありがとうございます!」

 

「お前は周りをあんま信じてない……いや、信じたいけど信じられないとかそんなんか」

 

「そんなことは」

 

「周りがいい人で好意をくれてるなら、あとはお前がそれを信じるだけだ」

 

「……」

 

「寂しいのは分かる。

 本当の親に会いたい気持ちも間違っていない。

 そういう気持ちが無い子供の方が気色悪い。

 だが、それだけじゃないだろ。

 周りの本心が分からない、なんて言うのは、周りが言ってる言葉を信じられない証拠だ」

 

「……おっしゃる通りです」

 

 催眠に侵された須美の頭は、普段思考の表面にも絶対に上がってこないように気を付けている『心の隅にある言葉』を、口に出していく。

 

「みー子はなんだ、人間不信か?」

 

「違います」

 

「彼氏にでも振られて他人の言葉が信じられなくなったか?」

 

「か……彼氏とか出来たことなんてないです! もう!」

 

「お前……その歳とその容姿で彼氏の1人や2人も作ってないとか大問題だぞ」

 

「2人も作ったらそれこそ大問題だと思うんですけど」

 

「小生がお前くらいの年頃には彼女の10人や20人……

 いやすまん嘘だ。催眠術習得するまで友達も彼女も作れたことねえわ」

 

「おじさま……」

 

「……いや小生の話はいいんだよ! みー子の話だろ!」

 

 困った人だなあ、みたいな顔で、須美は曖昧な笑みを浮かべた。

 

「私と今の両親は、血が繋がってないじゃないですか」

 

「らしいな。そういえば顔もあんま似とらん」

 

「養女ですからね。だから、その、よく分からないんです」

 

「親の気持ちがか?」

 

「はい。

 いい人なんです。

 いい人なんですけど、いい人だから分からないんです。

 内心では私のこと、疎んでるかもしれない。

 でも優しい人だから、表に出さないで優しくしてくれてるだけかもしれない。

 血が繋がってないのに図々しく鷲尾家の人間らしく振る舞ってる私を、嫌ってるかも」

 

「小学生の悩みじゃねえよなぁ。どうなってんだこの世界。子供の扱いの倫理古戦場かよ」

 

「そう思う自分も居るんです。

 でも、分かってるんです。今の両親も愛してくれてるって。

 頭が分かってるけど、心が分かってくれないんです……私がダメな子だから」

 

「いや……そうか。

 幼い子供は、物心つく前から親と一緒にいて、その愛を疑わない。

 だが今の親とはそうではないんだろうな。

 付き合いもせいぜい一年なんだろう? それなら、その愛を信じられないのも仕方なし」

 

「仕方なくなんてないです。

 ちゃんと、愛してくれてるって、頭では分かってるのに……

 心が、そうなってくれない。

 東郷の家では素直に親に甘えられたのに。

 鷲尾の家では全然できないんです。

 『娘』になれないんです。鷲尾の両親は、ちゃんと『親』をしてくれてるのに」

 

「真面目だな。バカに見えるくらいに」

 

「血が繋がってない娘に、親はどういう気持ちを抱くのか、私には分からない」

 

「そんなもん小生も分からんわ。ただ、そうだな。

 小生が見たお前の今の両親は、お前にそんな面倒な気持ちは持ってないと思ったぞ」

 

「……」

 

 須美のこの悩みは、心の隅に降り積もった小さな気持ちの集積体。

 本来一年か二年、あるいはもっと長い時間をかけることで、自然と消化していく気持ち。

 

「小生の知り合いの托卵おじさんは夫婦に気付かれず種付けするのが好きでな……

 そのために催眠を使っていたダークサイドの使い手だった。

 必然、その男に目をつけられた夫婦の間に生まれる子は半分血が繋がっていない。

 妻と托卵おじさんの間に生まれた子だからな。

 だが小生が知る限り親子仲は最高の家庭だった。血の繋がりなんて関係なくな」

 

「最低では? 死んでほしいですね」

 

「催眠術師なんて大体クソカスに決まってるだろう。というか急激に辛辣になるなビビる」

 

 "こいつ小生相手以外には悪意ある罵倒言えるんだったな"と、おじさんは急に厳しいことを厳しい顔で言い始めた須美を見て、催眠が的確に機能していることを確認していた。

 

「血の繋がりなど些細なことだ。

 大事なのは、親子として過ごした時間なのだ。

 催眠托卵がそれを証明している。

 前の家の親も、今の家の親も、どちらもちゃんとお前と親子であると思うぞ」

 

「……おじさまにそう言われても納得できない想いがあります。ダメですね、私」

 

 須美はおじさんの横で膝を抱えてしょぼんとし、おじさんの視線が一気に冷たくなった。

 

「面倒臭えな」

 

「え?」

 

「『鷲尾家の両親の愛を信じろ。周囲の好意の言葉を信じろ』」

 

「きゅぅ」

 

「これだからガキは面倒なんだ。

 正解も真実も分かっているのに受け入れない……

 いや、これガキに限ったことじゃないか?

 まあいい。

 小生こういう面倒臭いの嫌いなの。時間の無駄だと思うの。わかる?」

 

「うぐ……」

 

「コミックス数巻かけて心の問題解決するとか。

 長々絆育んでカウンセリング続けて成長させるとか。

 トラウマ乗り越えようとして失敗するの何回かやるとか。

 そういうの要らねえんだよな……

 催眠で『その悩みを自分の意思で乗り越えろ』って命令すりゃいいし……」

 

「うう……! あんなにも愛されているのに不安になってた私が情けない……!!」

 

「あっまた催眠が過剰に効いてる」

 

 身も蓋もない催眠救済。

 他人に言葉を貰って成長し変化するのと、他人から催眠を受けて成長し変化するのは、何が違うのか? というのが、このおじさんの持論である。

 "心が成長するならなんでもいいだろ学派"の一員ゆえに、その催眠は強引であった。

 

 おじさんは催眠を緩和し、緩和しすぎたらまた掛け直し、ちょうどいいバランスに須美の催眠度合いを持っていく。

 矛盾する催眠を掛けすぎると精神的に不安定になりやすくなるが、おじさんは最小回数の催眠調整で適度な催眠レベルを実現させていた。

 

「『この世界の誰よりも小生の言葉を信じろ』」

 

「……はい」

 

「お前はよく頑張っている。

 お前は立派だ。

 お前は十分素晴らしい人間だ。

 お前は報われる。

 お前のことを周りはちゃんと見ている。

 不安になるな。怯えるな。

 お前に辛くても頑張れと言う人間がいれば小生が……いや何言ってるんだかな、らしくない」

 

 ふと、自分らしくないことを言いそうになり、おじさんは口を噤んで腕を組んだ。

 

 須美は微笑む。

 自然と微笑む。

 夜明けに自然と花開き、静謐で美麗な花を陽光に向ける朝顔のような、花咲くような微笑みだった。そこには、確かな"安心"があった。

 

「ありがとうございます、おじさま」

 

 須美の肩から、少しだけ力が抜けた。

 

「礼を言えという命令はしてないんだがな。

 だが礼を言うことはいいことだ。

 『ありがとうございます』

 『おはようございます』

 『いただきます』

 『ごちそうさま』

 『催眠なんて信じてるんですか?』

 『ほらやっぱり催眠なんて効いてない』

 『私が催眠にかかってるわけないでしょう』

 がちゃんと言えるのは礼儀作法がなっているということだ」

 

「なんか変なの混ざってませんか?」

 

「頑張り屋に褒美をやろう。なんでも言っていいぞ。聞くかどうかは小生が決める」

 

「あ、なら。来月の授業の分の予習を手伝ってもらえませんか? お願いします、おじさま」

 

「面倒臭いくらい頑張り屋だなお前」

 

「早め早めに授業でやる範囲を分かっておきたいんです」

 

「このメスガキが……! わからせてやる!」

 

「はい! 頑張って分かります!」

 

 催眠がきっちりかかっている時でも、催眠が薄れている時でも、等しくその人間が使える地力、すなわち『学力』。

 己の学力を催眠に依存するおじさんと違い、須美はちゃんとした努力家なのだった。

 

 

 

 



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催眠感度4倍

 くっくっくっ、とおじさんは笑う。

 

「尊い人間の自由意志を奪って傀儡とし、踏み躙るが催眠術師。そうだろう?」

 

 彼の目の前には、催眠で自意識が消失し、虚ろな目で椅子に座っている須美がいた。

 朝の習慣の水垢離――体を冷水で流し清浄にし、神仏に祈願する水行。この世界ではこれで神に繋がる力を高めることができる――の後の須美は、拭くために髪を下ろしていた。

 いつも折り上げている黒髪は、下ろせば肩甲骨も覆うほどに長く、それでいて高級な絹糸を黒く染めたもののように美しい。

 須美の宝石のような色合いの瞳、白磁器のような白く美しい肌、全体的に整った容姿に、黒い長髪がよく映えていた。

 普段折り上げているのに髪に癖がついてないのは、髪質の問題で、生来美人になる才能があるとしか言いようがない。

 この大人っぽい髪型であったなら、おじさんも須美を大学生だと思っていただろう。

 

 逆に言えば、普段は髪をまとめて折り上げているため、活発な子供の印象や、やんちゃな女の子の印象が強いのだ。

 体の発育が優れているため、流石に少年に見えるということはないだろう。

 勇者が戦う者であるなら、長い髪をまとめているのは、戦闘の邪魔にならないようにしたいという考えもあるのかもしれない。

 

 髪をまとめることもせず、虚ろな目でどんな命令も受容する状態にある今の須美は、いかなる命令も受け入れてしまう状態にある。

 この状態の須美には何をしても記憶すら残らない。

 むき出しの心はあまりにも弱い。

 ダークサイドの催眠術師であるおじさんに何を言われても、その通りにするだろう。

 

「弱音を気高い意思で踏み越え、"勇気ある者"として振る舞っていた鷲尾須美はもういない」

 

 須美の意思は取り上げられ、おじさんの手の中にある。

 

「お前の明日はとうに小生のものだ。

 さて、この世界で最初に勇者を手中に収められたのは幸運だったが、さてどうするか」

 

 くっくっく、とおじさんが笑い、おじさんの腹が鳴る。

 数秒の沈黙。

 おじさんが指をぱちんと鳴らすと、須美の自意識消失状態が消え、デフォルトの催眠状態にまで戻って来た。

 須美には催眠のスイッチである指の鳴る音は聞こえなかったが、おじさんの腹が鳴る音は何故か聞こえていたらしく、須美はちょっと笑いをこらえるような表情をしていた。

 

「……腹減ったな。朝飯を頼む」

 

「はい!」

 

 須美が髪を軽く束ねて、台所に向かった。

 とんとんとん、と小気味の良い料理の音が聞こえてきて、ほどなくして須美が料理を配膳してくる。白米、味噌汁、焼鮭、漬物といったベーシックなラインナップ。

 この歳にして須美は和食の料理技法を相当なレベルまで極めていた。

 

 おじさんが鷲尾家に寄生するクソ虫と化してから既に数日が経過していた。

 おじさんは毎日須美の作る食事を食べていたが、その美味さにしっかり胃袋を掴まれてしまっていた。

 須美の存在が不都合になれば精神を壊して証拠を消してトンズラ、という選択肢もあったはずのおじさんは、もうすっかり何かあっても須美を切り捨てるのを躊躇うおじさんになっていた。

 須美の和食の味に魅了されている。

 

「美味いな。その歳で大したもんだ」

 

「えへへ……こほん。

 いえ、まだまだ大したことはありません。

 この鷲尾須美、未だ精進中の身です。

 以後もおじさまの舌に合うような料理を作ってみせます」

 

「小生みたいなのに目をつけられなければ良妻賢母だったろうになあ、気の毒に」

 

「りょ、良妻賢母だなんて……まだ大和撫子が精一杯です!」

 

 須美は真面目くさった表情で、背筋をピンと伸ばし、敬礼をした。

 

 おじさんはもうアラサーに入って数年の人間なので、油物が多少キツい。

 朝から重い食事もちょっとキツい。

 "無理"じゃないのがおじさんらしい。

 それでも豚カツも豚骨ラーメンも大好きな将来的体型豚野郎一直線のおじさんである。

 だがしょうがない。

 おじさんは糖分と塩分と脂肪分が大好きなのだ。

 たとえ、体が受け付けなくなっても。

 

 そんなおじさんを健康に良い和食で魅了した須美の料理の腕は、文句なしの最高クラスだ。

 おじさんは焼鮭で米が進み、漬物の酸味と旨味で口内をさっぱりさせ、また鮭と米を食らい、ワカメと豆腐の味噌汁を流し込む。

 もはやアラサー相応に元気の無い体しか持っていないおじさんの体に、須美の健康的な和食はよく合致したようだ。

 

「しかしなんで和食だけなんだ。普通パンとかも定期的に出すものなんじゃないのか」

 

「……おじさまが望むなら……出し……出しますが……?」

 

「な、なんだその苦渋の顔は……いや別に和食で良いぞ、めっちゃ美味いからな」

 

「そうですか! では和食だけ出しますね!

 おじさまはお父様やお母様みたいな洋食派じゃなかったようで良かったです! 大好き!」

 

「うおっ、なんだこいつ、和食好きなのか? そんなに?」

 

「和食は私達の魂です。鬼畜米英の洋食になんて手を出すべきじゃありませんよ?」

 

「なんだこのロリ右翼!?」

 

「愛国はこの国に住まう者の義務です!

 この美しい国を守る、それが勇者の使命!

 この国の美しき文化を守る、それが人々の使命!

 朝は洋食ではなく和食! それだけはこの家でも通させていただきました!」

 

「……お前みたいにそんなこと言ってる子供他にいるのか? だとしたら凄い世界だが」

 

「いいえ! ですが必ずや、啓蒙で皆に愛国思想を植え付けてみせます!」

 

「ただの右翼じゃねーな……右翼の頂点、キャプテン右翼だ」

 

 おじさんの中の須美の印象がちょっとばかり修正される。

 数日前は須美に同情しかしていなかったおじさんだが、洋食派だった鷲尾家が今は完全に和食派になっているのを見ると、須美も須美で大分いい性格をしているようだ。

 芯に強さがある。

 彼女がかわいそうなのは確かな事実だ。

 だがかわいそう、というだけで終わらず、苦痛や不幸に耐えてそれを乗り越える心の強さが、須美の中にはあった。

 それは泥の中で咲く花のようで、闇の中で輝く光のような強さでもある。

 

 ただまあそれも、おじさんの催眠には敵わなかったようだが。

 

「今日は土曜日だ。飯食い終わったらお前の本当の親に会いに行くぞ」

 

「―――え?」

 

「お前、この家に来てから一度も会ってないんだろう。

 親子が会うのにそんな特別な理由は要らん。たまに顔見せに行くくらいでいい」

 

「で、でも。

 大赦の人が前の家の家族には会わないようにって。

 勇者に相応しい家格の家の子になったんだから、過去は忘れろって……」

 

「構わん。この世界はほどなくして小生が支配者になる世界だ。

 好き勝手にやる権利を先取りしたところで誰にも文句は言わせん」

 

「大分距離が……

 神樹館と私の昔の家でも、400km以上離れてますよ? 車でも一時間以上です」

 

「電車でまったり行けばいい。朝出発して夕方帰ってくればいいだろう」

 

「今日は弓道と空手の稽古があるんです」

 

「今日は休め」

 

「そんなの不良じゃないですか!」

 

「『小生の言うことを聞いたら良い子で聞かなかったら不良だ』」

 

「はい……須美おじさまの言うことを聞きます……」

 

「本当に面倒くっせえ女だな」

 

 二人は外出の準備をして、秋にしては比較的暑い、陽光が照らす中外出を観光した。

 須美は髪をまとめて折り上げるいつもの髪型に、青・水色・白の長袖ワンピース、軽い荷物を入れた紺色のハンドバッグといった格好。

 おじさんは須美の今の父親の服を適当に借りてきたので、厳密に自分がどういう格好をしているのかも分かっていない。普通の格好ではあるが、おじさんは自分の格好に興味がなかった。

 "ファッションセンス上がれ!"と自分にかける催眠術師は何故かいないのだ。

 

「駅までの道がわっかんねえな。コンビニで地図買って、駅の場所探して……」

 

「私がおじさまの道案内をします! 私を頼ってください!」

 

「お、おう」

 

「安心して任せてください! 私が地図アプリより有能だということを証明してみせます!」

 

「地元の人間でも地図アプリより有能な人間ってそうそう居ねえぞ」

 

 気合いの入った様子で須美がおじさんの手を引き、その微笑ましさにおじさんは思わずヘタクソな微笑みを浮かべていた。

 

「みー子は前の家の両親と会えることは、嬉しいか?」

 

「……嬉しいです」

 

 これが須美にとって余計なおせっかいか、そうでないかを判断するくらいは、心を理解し支配する催眠術師にとって造作もないことだった。

 

「そうか。存分に小生の暇潰しになってくれ。今のところあんまりやることがなくてな」

 

「暇潰しなんですか?」

 

「暇潰しだ」

 

「そうは見えないんですけど……」

 

「催眠術師は何が楽しくて人生生きてると思う?」

 

「?」

 

「『人間』だ。

 人間が娯楽なんだよ、多くの催眠術師は。

 金が欲しいならそういうことに使う。

 世間に不満があるなら革命するのに使う。

 人間が大好きか大嫌いなやつが多いんだ。

 だから人間の外側にある損益じゃなくて人間の心にばっか興味持ってるんだな」

 

「そういうものなんですか?」

 

「善人をオモチャにする奴。

 悪人をオモチャにする奴。

 催眠おじさんの一族は大体このどっちかだな。お前は善人な方だ。いい子だよ」

 

「ふふっ、おじさまは定期的に私を褒めますね」

 

「そうか? そうかもな。ケッケッケ」

 

 二人は駅に辿り着いたが、おじさんは券売機の前でいきなり首を傾げた。

 

「おい須美、この切符販売機どうなってるんだ? 見たことないんだが、どう操作すんだ」

 

「え? これ50年くらい前からある機械ですけど」

 

「知らねえ……異世界の日本だからか?

 それとも西暦終わってからそのレベルにめっちゃ時間経ってんのかこの世界」

 

「大丈夫です、おじさまのお世話をするのは私の仕事です。代わりに買ってみせますとも」

 

「いや買い方教えろや」

 

「私が代わりに買います! 頼ってください!」

 

「『買い方を教えろ!』」

 

 須美に買い方を教わり、二人分の切符を買って、おじさんは須美を抱えるようにして電車に乗り込んだ。

 車両の隅っこの、四人用のボックス席で、向き合うように二人で座る。

 人はあまり居なかった。

 悠々と席を使い、二人はぼーっと窓の外の景色を眺める。

 

「電車から見える風景って、眺めてるとちょっとワクワクしませんか?」

 

「つり革の下に美人が居る時は眺めててワクワクするな」

 

「そういうのじゃありません! もう。

 移り変わる景色とか、遠くに行ってる感じとか、そういうのですよ」

 

「……ああ、子供の頃、そんなこと思ったことがあったな。そういえば」

 

 懐かしそうに、何かを思い出すようにしながら、おじさんはヘタクソな微笑みを浮かべた。

 

「お前くらいの年の頃、小生はプールの後の授業の空気が好きだったな。

 開けた窓から吹き込んでくる風が、少し湿った髪を撫でる特別感が好きだった」

 

「あ、私もそういうの好きです。一緒ですね」

 

「そうか? そういうものか。一緒かもな」

 

 くすくす、と笑っていた須美の顔が、一瞬で顔面蒼白になり、You Tubeで金を取って配信できそうなレベルの形相へと変わった。

 

「ひっ」

 

「ん?」

 

「む、虫っ! 変な形の! おじさま、取って窓から逃してください!」

 

「いや……自分で叩いて潰せばいいんじゃないのか?」

 

「虫は苦手なんです!」

 

「そうなのか。勇者らしくな……いや、女の子らしいのか」

 

「催眠かけて私に虫を処理させるとかしないでくださいね!」

 

「注文が多いな。待ってろ、今潰すから」

 

「あ、潰すのはかわいそうだからつまんで外に出してあげてください!」

 

「本当に注文多いな! 分かったよ!」

 

「ありがとうございます!」

 

 どうやら虫が須美の近くに居て、不意打ちでたいそう驚かされてしまったらしい。

 おじさんは「よっこいせ」と腰を上げ、「おじさんくさいですね」という須美の指摘に「うるせえ」と返し、須美の横の虫に近づいた。

 須美はビビっておじさんが座っていたところに移動している。

 

「ん? これは……」

 

「何やってるんですかおじさま!

 ちゃんと目玉付いてるんですか!?

 その目と手は飾りなんですか!?

 あなたは世界で一番偉大な人じゃないですか!

 こんなものじゃないはずです本気を出してください! 早く虫を!」

 

「虫ってのはこの細い木の枝の切れっ端のことかな」

 

「……」

 

「あ、生まれて初めて木の枝見た人?

 お嬢様は流石だな、小生はお嬢様じゃないから分からなかったよ」

 

「うっ、ネチネチしてる……ごめんなさい」

 

「ちゃんと謝れるならいい。以後気をつけろよ」

 

「はい……かくなる上は」

 

 すっ、と須美はハンドバッグに手を入れ、そこから白木鞘の短刀を取り出した。

 

「この自決用の短刀で切腹してお詫びを……!」

 

「『今すぐやめろ』」

 

「はい」

 

「どういう教育されたんだ親の顔が見たいぞみー子! ……親の顔見に行くんだったな」

 

 須美から取り上げた短刀を懐にしまい、須美の罪悪感を催眠で抜き取り、おじさんはふぅと深く息を吐く。

 

「これが勇者か……」

 

 おじさんは眉間を揉みながら椅子に腰を下ろし、須美の切腹のせいですっかり頭の中から抜け落ちていた木の枝が、おじさんの尻に刺さった。

 

「ぐああああああッ!!」

 

「おじさまー!?」

 

 全人類に催眠をかけて"自分に危害を加えるな"と命令することができても、ケツに刺さる木の枝一本止められない―――催眠おじさんとは、悲しい生き物なのかもしれない。

 

 

 



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催眠感度5倍

 普通の家だな、と、おじさんは東郷家を見て思った。

 大して大きくもなく、金持ちの屋敷のような格の高さも感じられない、普通にどこでも見れるような家であった。

 インターホンを押した瞬間、須美の体がこわばるのを、おじさんは感知する。

 鷲尾の名字を名乗ると、家の中からドタバタした音が聞こえて、東郷の家の夫婦――『東郷美森』の両親――が飛び出してきた。

 

「! 美森……!」

 

「……お父さん、お母さん」

 

「どうしてここに……」

 

 おじさんの洞察力は非常に高い。

 いっぱいいっぱいの須美が気付かないようなことにも気付く。

 両親と娘が今、互いに駆け寄って抱きしめ合おうとして、一歩踏み出す前に止まったことも。

 互いに第一声に何かを言おうとして、言おうとした言葉を止めたことも。

 おじさんは気付き、親子揃って不器用なことに心底呆れていた。

 こんなにも呆れたのは、ポケモンアニメの新シリーズ第一話で記憶がリセットされたサトシ君を見た時以来である。

 

 "似たもの同士の親子だな"と思って、おじさんはふと気付く。

 須美と、実の母親は、とてもよく似ていた。

 

―――たとえばお前の知る限り一番美人な女とか教えてくれる?

 

―――お母様です!

 

―――クッソォ純粋な小学生特有の曇り一つ無い綺麗な返答しやがって

 

 催眠は心の声を率直に引き出す。

 おじさんはあの時、須美は家族の贔屓目で言っていたと思っていた。

 だがあの時、須美が言っていた"お母様"が鷲尾家の母ではなく、東郷家の母だったとしたら? 須美が贔屓目で言っていなかったとしたら?

 須美の本心において、『母』が誰なのか、揺るぎなく決まっていたとしたら?

 理性は鷲尾家の母を母と思っていても、感情が、違う母をまだ一番に愛していたとしたら?

 

 おじさんは更に呆れの溜息を重ねた。色んな事柄への、呆れの溜息だった。

 

 事実、須美の母親は美人だった。

 須美の年齢を考えれば三十台半ばを過ぎていると推測できるが、見たところ二十代前半くらいにしか見えず、須美をそのまま大人にしたような絶世の美女だった。

 須美の母親は美人だったが、顔を見るだけで須美を連想するくらいに、娘と似ていた。

 おじさんが手を出す気が失せてしまうほどに。

 

 須美の本当の父親が、須美に暖かな言葉をかけようとする。

 

「元気そうで良かっ……どうして来たんだ?」

 

 だがそれを、途中で思い留まり、別の言葉を選んだ。

 それが分かったのか、須美の表情に僅かな悲しみが差す。

 それを見た父親の表情も、少し曇った。

 血縁を感じる、不器用同士の、望まずして相手を傷付け合う円環ができてしまっていた。

 

 須美も、父親も、分かっている。

 子供は弱い。

 己の感情に弱い。

 東郷の家の家族の繋がりが残っていれば、親が子に優しさを見せてしまえば、その暖かさにすがって須美が元の家に戻りたいと言い出してしまうかもしれない。

 そうなればちょっと大変だ。

 

 勇者に家格を与えるために鷲尾の家に移したというのに、勇者自身がそれを拒む。

 それはこの世界の倫理感からすれば、あまりよろしくない。

 『神の理の下にある決まり事』には従うことが当然で、それに逆らうことは常識的ではなくて、その決まり事というのは大体神様ではなく人間が作っている。

 それを破られて都合が悪いのも、きっとどこかの人間だから。

 

 須美は言葉に窮して、おじさんの後ろに隠れるようにして、彼のシャツの背中を握った。

 

「お、おじさま……」

 

 須美の父はそれを見て、ある程度状況を察したようだった。

 

「叔父様? そうか、あなたが鷲尾の家の……

 美森の……いえ、今は須美の、家族の方ですか」

 

「っ」

 

「あーはいそうですね、そうそう。今の須美の叔父ですね」

 

 須美の父親は呼びかけた『愛する娘の名前』を言い直し、須美は名前を言い直されたことに軽くショックを受け、おじさんは脳天気な喋り方をしていた。

 

「いいんですかこんなところに連れて来て。

 勇者に相応しくない家格とは切り離すのが須美のためという話でもあったのでは?」

 

「あーはい許可出ましたよ出ました。いつでも会って良くなったんですよハイ」

 

「……本当に? 大赦がそう言ったんですか?

 そうでないならあなたにも処罰が行きます。今の内に帰った方が」

 

「『小生の言うことは無条件で信じろ』」

 

「「 ぐえー 」」

 

「お父さん!? お母さん!?」

 

「娘側だけが面倒臭えかと思ってたらそんなでもないんかなこれ……」

 

 面倒臭い事情の気配があった。

 こんがらがった家族の繋がりの気配があった。

 そうそう修復できなさそうな厄介な関係の気配があった。

 が。

 おじさんからすれば知ったこっちゃない。

 おじさんは暇潰しに来たのであって、苦労しに来たのではないのだ。

 可及的速やかに解決してろカス、というのが彼の本音であった。

 

「『大赦』ねえ。そんな偉いのか。そっちにはまだ調査の手入れてねえんだよな」

 

 大赦。

 須美から聞いた話によると、総理大臣より偉いというこの世界の行政機関だとか。

 祭事や神事でこの国の中核を司っているという。

 大赦は神樹様の代弁者で、大赦より偉い機関はなく、大赦の決めたことに逆らえる存在は基本的にない、と須美はおじさんに教えていた。

 

 須美を勇者にしたのも大赦。

 東郷美森を鷲尾須美にしたのも大赦。

 須美に戦いのお役目を伝えたのも大赦であるという。

 須美の親が"親らしく"振る舞い娘に接することができないのも、大赦の命だろう。

 おじさんの目には、良いことも悪いことも大体原因は大赦にあるように映る。

 

 まるでツイッターの一部の人の脳内にのみ存在する安倍総理みたいな存在だな、と催眠おじさんは思った。

 "勇者がタイシャノセイダーズ結成とかせんのか?"とか考えつつ、おじさんは指を振る。

 

「かくかくしかじか、侃々諤々、そういうことで。オラッ催眠!」

 

「「 あばばばば 」」

 

 おじさんは継続して催眠をかけ、良い感じに東郷家の両親の精神に催眠をぶっ刺していく。

 

 須美は不安げにおじさんに声をかけた。

 

「大丈夫ですかこれ? 脳に変な影響残りませんか? 私の実の両親ですよ?」

 

 愛する両親に怪しげなおっさんが怪しげな術をかけているのにこの程度の反応なのは、須美にしっかりと催眠が浸透し、おじさんを信頼している証拠である。

 

「安心せえ。小生の催眠は脳の細胞と血管を刺激するので脳梗塞とかの予防になるんだ」

 

「ボケ予防で脳を動かすアレみたいな話ですね……」

 

「何、めちゃくちゃにいじるってわけじゃない。

 そうだな。みー子がたまに会いに行っても暖かく迎える。

 みー子に週に一回電話をかけさせるようにする。そんなもんでいいだろ」

 

「……いいんでしょうか、こういうの。

 大赦の人は、そういう甘えは勇者の弱さに繋がるからいけないって言ってましたけど……」

 

 は? と言わんばかりに、おじさんは今日一番に呆れた顔をした。

 

「アホか? 家族と触れ合って弱くなる奴がどこに居るんだ?」

 

「でも」

 

「弱くなったらみー子のせいだろ。

 家族と触れ合う=弱くなるなんてこたーねえ。

 それで弱くなったらお前が家族と触れ合って弱くなる珍しい雑魚だったってだけでは?」

 

「うぐっ」

 

「逆に言えば、お前が勝ってる内は何も失わねえし、誰も文句言えねえはずだ」

 

「む」

 

「家族と一緒に過ごした程度じゃ腑抜けにもならない。

 弱くもならないし負けることもない。

 そういう自分をかっこよく見せてみろよ。勇者なんだろうが、やれや」

 

「……はい!」

 

 ヘタクソな激励だと、須美は感じた。

 

「勝て、みー子。メスガキは負けないんだぞ」

 

「メスガキ……? 私のことですか……? なんか妙に煽られてる感じしますね」

 

「ククッ、勝て勝て。

 勝ったやつが総取りだ。

 人生ってのはそういうもんだぞ?

 まあお前らが総取りしたものは小生が総取りするんだが」

 

「おじさまが総取りなら安心ですね」

 

「おう。頑張った奴の総取りじゃない。

 頑張ってる奴らから卑劣に搾取してる奴の総取り……これが催眠の醍醐味ってやつだな」

 

 おじさんが指を一度鳴らすと東郷家の両親の目から光が消え、もう一度鳴らすとその目に光が戻り、ちょうどいい塩梅の催眠の植え付けは完了した。

 

「よし、完了。もう大丈夫だな。

 後は何だ、大赦の方にも催眠かけたら心配はなくなるな。

 みー子の家庭事情解決ついでに世界征服完了しちまうか。神樹に催眠効くのか知らんけど」

 

「ありがとうございますおじさま!」

 

「いいぞいいぞ、もっと讃えろ、もっと褒めろ」

 

「ふん……この私を前にして逃げなかったことは褒めてあげます」

 

「いつ少年漫画のボスキャラみたいに褒めろっつった?」

 

「すみません、褒め方あんまり知らないんです」

 

「嬉しい以前にびっくりしたわ」

 

 おじさんは「どっこいしょ」と腰を上げ、「おじさんくさいですね」という須美の指摘に「うるせえ」と返し、手をひらひら振って須美に背を向ける。

 

「三人で話してろ。コンビニでファミチキ買ってくる」

 

「ファミチキ? なんですかそれ?」

 

「嘘だろこの世界ファミチキないの!?」

 

 やめてくれよ嘘だろ……と言いながら、おじさんは須美から離れていった。

 須美は名残惜しそうにおじさんを送り出す。

 

「小生は勇気を出せと催眠はかけんが、勇気を出せと勧めてはおく。命令ではないからな」

 

 家族三人水要らずの時間を作ってくれたことは、須美にも分かっていた。

 分かっていたが、ここに居てほしかった。

 須美はおじさんを邪魔だとは思わなかったし、今の家族を、新しい家族を、血の繋がった家族に直接紹介したいという気持ちがあったから。

 次はおじさまと鷲尾の両親と一緒に話そう、と須美はちょっと前向きに考え始める。

 

 須美の思考は催眠によっておじさんに都合の良い指向性を持たされているが、催眠に規定された範囲内であれば思考も推測もできる。

 『催眠で家族になっているだけの自分が、須美の家族として紹介されるのは相応しくない』とおじさんが考えているのだと、須美は推測していた。

 それが正解かは分からない。

 おじさんがそう思っているかなんて分からない。

 須美はおじさんに好意的になる催眠がかかっているため、間違っている可能性の方が高い。

 

 それでも、須美はそれが真実だと信じていた。

 

「お父さん、お母さん」

 

 須美は息を深く吸い、吐く。

 絞り出すように、勇気を出す。

 さっきまでおじさんの後ろに隠れて、言いたいことも言えなかったのが須美だった。

 だがもうおじさんは居ない。

 須美はちゃんと勇気を出して、血の繋がった両親に想いをぶつけなければならない。

 おじさまはそういうことも考えていたのかもしれない、と須美は思った。

 

 戦う勇気はあった。

 毎日のようにしている訓練を終えたら、どんな怪物が相手でも立ち向かう勇気はあった。

 どんなに怖くても、戦う勇気はあった。

 けれど、両親にちゃんと自分の気持ちを伝える勇気はそれとは別で、今ここで、彼女が一人で振り絞らなければならないものだった。

 他の誰でもなく、鷲尾須美自身のために。

 "勇者"という肩書きの人間で在るために。

 

「私、ちゃんとやってます。ちゃんとやれてます。だから、心配ないです」

 

 須美が毅然とそう言うと、両親の肩の力が抜けて、隠しきれない安心が表出したのが、須美の目にも一目瞭然だった。

 

 須美のような子供ですら「総理大臣より偉い」と言う大赦。

 そんな大赦に命令され、愛娘と引き剥がされた両親の気持ちはどれほどだっただろうか。

 愛娘が命がけの戦いに放り込まれると聞いて、両親は何を思っただろうか。

 喧嘩をしたこともないような娘が戦えるなどと、思ったはずがない。

 赤の他人の鷲尾家に入れられて娘が幸せになれるだなどと、思ったはずがない。

 辛く思ったはずだ。

 怒りを覚えたはずだ。

 悲しみだって感じたはずだ。

 薄情な両親の下に生まれたなら、鷲尾須美/東郷美森はここまでまっすぐに育たない。

 

 ―――それでも。『あなたの娘が勇者として戦わなければあなたの娘諸共世界が滅びるだけです』と言われたなら、東郷家に選択肢などなかった。

 

 きっと両親の気持ちの一割も、須美は理解してはいないだろう。

 子供でいる限り、この親の気持ちは決して分からない。

 メスガキに親の気持ちを"わからせる"ことができるのは催眠おじさんだけだ。

 子は親を理解してはいないが、愛はあった。

 親が子供を理解していて、子供が親を理解していなくても、親と子は愛で繋がっている。

 

 自分が出した『勇気』が両親の心に救いを与えたことを、理性による理解ではなく感覚による理解で察し、須美はちょっとだけ、自分が誇らしくなった。

 

「この家に生まれて。

 この家で育って。

 勇者になって。

 勇者として結果を残せば、この家のためになるって言われて。

 勇者に恥じる行いをすれば、この家の恥になるって言われて。

 だから頑張れたんだと思います。

 まだ勇者のお役目の日は来ないけど、これからも頑張れます。

 私は……物心ついた時から、ちゃんと私を大切にしてくれた両親が居たって、覚えてるから」

 

 鷲尾須美は――東郷美森は――血の繋がった両親にとって、誇りだった。

 

「私、そんなに強くないから。

 自分のためだと頑張れないし、勇気も出せない。

 でも、家族が居るから。

 周りにいい人がいっぱい居たから。

 皆のためなら……"勇気ある者"になれるんです。

 皆が居るなら訓練も実戦も頑張れます。だから、心配しないでください」

 

 神樹が、人を守る神が、東郷美森/鷲尾須美を勇者に選んだ特別な理由があるとすれば、それはきっとここにあった。

 

「……だけど、それとは別に、話したいことがいっぱいあるんです。

 楽しかったこと。

 寂しかったこと。

 辛かったこと。

 頑張ったこと。

 私を大事にしてくれる人のこと。

 私のことを面倒臭いとか言うけど、私よりずっと面倒臭い人のこと……」

 

 須美は"私は大丈夫"と、勇気を出して言った。

 そして、"大丈夫だけどお話したい"と遠回しに言う。

 子供はいつだって、親の前で強がるし、親に甘えたいものだ。

 両親は柔らかに微笑み、両腕を広げ、須美を迎え入れる。

 

「おいで、美森」

 

「! はい!」

 

 須美は両親のもとに飛び込んで、抱きしめられて、一年ぶりの親の暖かさを感じてちょっと泣きそうになったが、涙を頑張って引っ込める。

 『私は勇者だから』と、自分に言い聞かせながら。

 

「……私、離れてようやくちゃんと実感できたんです。二人のこと、大好きで、大好きで……」

 

「ああ、私達もだよ」

 

「私達もね、美森に伝えたいことがいっぱいあるのよ」

 

 親子三人が笑顔を見せ合い、心を繋げる。

 

 一方その頃催眠おじさんは、自転車に勢い良く跳ねられていた。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

「クソぅ……! 咄嗟の催眠術で自転車の慣性力なんて止められるか……!」

 

「すみません、ソシャゲの周回で両手両耳両目使いながら肘で運転してたばっかりに」

 

「青天井麻雀なら一発で卓終了確定の役満フルクロスやめろや」

 

「本当にごめんなさい。じゃあ私は走らないといけないのでこれで」

 

「走るってのは自転車のことか?

 ソシャゲのイベントのことか?

 後者のことだろうなァ! 『運転中にソシャゲは一生やるな!』」

 

「はぐっ」

 

「クソが……催眠おじさんを怒らせると一生モノの催眠をかけられると思い知れ……!」

 

 正義の勇者の眼の届かないところで、催眠おじさんは一人の人間に一生消えない傷を付け、その後の一生から一つ『自由に生きる権利』を奪った。

 催眠は人から自由を奪う。

 好きに生きる権利を奪う。

 おじさんを跳ねた自転車の運転者はこの先一生、自転車上ソシャゲもできないのだろう。

 

 全力で催眠をぶち込み、自転車に衝突されたケツをさすりながら、おじさんはコンビニに向かって行った。

 

 

 



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催眠感度6倍

 おじさんは適当にそのあたりを散歩し、程々に時間を潰してから東郷家に戻り始めた。

 並木道の中で、大きく息を吐き、肺を満たすように大きく息を吸う。

 それだけで、おじさんはどこか心地良い気分になっていた。

 

「空気が綺麗だよなこの世界……過剰なくらいに」

 

 車の排気ガスや工場の排煙のようなものが、ほんの僅かにもない。

 "管理された空気"特有の綺麗な空気の味がした。

 きっとこの世界では、光化学スモッグの類は発生すらしないのだろう。

 完全自然状態ではここまで空気が綺麗になることはないので、この世界の人間は生まれた時から無自覚の幸福に浸っているのだろうな、と、おじさんは思った。

 同時に、『神樹は人間を愛しているんだろな』とも思う。

 この空気の清浄さには、世界を維持する神の過保護な愛が感じられたから。

 

「おじさま!」

 

 玄関におじさんが近付くと、横合いの庭から須美が飛び出して来て、おじさんに飛びつくように抱きつこうとして思い留まり、「こほん」と咳払い一つ。

 ぴしっと背筋を伸ばし、礼儀作法に準じた動きで、恭しく頭を下げ、叔父を迎えた。

 

「おかえりなさいませ、おじさま」

 

 かわいいやつだな、とおじさんは思った。

 

「牡丹餅買ってきたぞ」

 

「! ありがとうございます! 大好物なんです!」

 

「知ってるから買ってきたんだよ、好きなもの嫌いなものは催眠で吐かせただろ」

 

「あれ、そうでしたっけ……? 私の好きなもの買ってきてくれたんですか?」

 

「親と食ってろ」

 

「ありがとうございま……あれ? 手のところすりむいてませんか?」

 

「ん? こんくらいなら平気だか」

 

「ちょっと待っててください! 救急箱を取ってきます!」

 

「人の話は最後まで聞け!」

 

 おじさんが眉間を揉んでいると、くすくすと小さな笑い声が聞こえた。

 そちらを見れば、そこには小さな庭と、そこに置かれたベンチ、ベンチに並んで座っている東郷家の両親の姿があった。

 二人ともおじさんの方を見て笑っている。

 二人の間に子供一人分の距離があり、そこに須美が先程まで座っていたことが窺える。

 

 小さな子供なら走り回れる程度の大きさの庭。

 家族が触れ合うだけの庭。

 立派な庭とは言い難いが、こういう庭を選ぶ人間には深い家族愛があることを、おじさんは経験則で知っていた。

 

「どうも。いつも美森がお世話になってるみたいですね」

 

「いえまあ小生は本当に何もしてませんので、はい」

 

「またまたご謙遜を」

 

「いやいやそんなことないですないです」

 

 おじさん視点事実である。催眠をかけて他人で遊ぶくらいしかしていないからだ。

 

「美森が色んな話をしてくれたんですよ。

 そうしたら何度かあなたの話が出てきましてね。

 この宇宙で一番偉大で優しい何でもできる地上最強の男だと。笑ってしまいましたよ」

 

「やっべーなまた催眠効きすぎてるわ」

 

 1か100しかない女。こう、と思ったら、そこからのアクセルの踏み方がおかしい。

 

「美森が良い叔父に出会えたこの幸運に、この奇跡に、神樹様に感謝します。

 あなたは善い人だ。

 美森の新しい家族に、我々は期待していませんでした。

 ですがきっと、期待していたとしても、あなたはその期待を超えていたでしょう」

 

「はっ」

 

「?」

 

「善い人か。催眠で洗脳してなければ、あいつ今頃小生を通報して侮蔑してたんじゃないかね」

 

「そうなのですか?」

 

「あんたも催眠しっかりかかってんだよ。

 小生がこういうこと言っても、娘の判断信じて小生を通報とかしてないんだからな」

 

 催眠で善い人とそうでない人の区別もつかなくなっている東郷家の両親が滑稽で、おじさんは思わず笑ってしまった。

 催眠は、善人であるという勘違いを強制する。

 

「あなたみたいな人が美森の近くに居れば安心です。

 美森の肩の力を抜いてくれる。

 美森を大切にしてくれる。

 きっと、本当に危ない時は美森を守ってくれる。

 そういう人が鷲尾の家に居るというだけで、私も妻も安心していられます」

 

「催眠の好感度補正はきっちり働いているか。

 ま、そうでなければ小生もこんなにゆったりしてられんし当たり前か」

 

「?」

 

「あーまーいいんだそこは、もういい。

 と、そうだ。みー子のお父様、あんたの知る限り一番美人な女って誰? 紹介してくんね」

 

「妻です!!!!」

 

「知ってた!!!!」

 

 みー子の母親って時点で手を出す気になれんわ、と、おじさんは深く溜息を吐いた。

 そこにどたばたと、須美が駆け込んでくる。

 

「おじさま! 救急箱です! 怪我を見せてください!」

 

「治った」

 

「ぜっったい嘘です! さ、見せて―――」

 

「『治ったぞ』」

 

「はい、綺麗に治ってますね!

 流石おじさまです!

 回復魔法でも使えるんですか? 勇者の仲間に相応しいですね!」

 

「RPG思考やめろ。ああ、そうだ、みー子」

 

「?」

 

「……気を使わせたな、悪かった。それと礼も言っておく。救急箱は戻してこい」

 

「……? 変なおじさまですね。戻してきます」

 

 とことこと、須美が救急箱を戻しに行く。

 

「そういえば、鷲尾さん」

 

「なんですかな」

 

「今日はちょうど大赦の方が来る予定だったんです。

 そろそろ来る時間ですね。

 美森が居なくなった後の家の様子を定期的に見ておくのが決まりになってるんだとか」

 

「へー、そんなのがあるんですか」

 

 目の前の大人に聞こえないよう、考え込むふりをして口元を隠し、おじさんは小さな声でぼそっと呟いた。

 

「……監視社会。いや、管理社会だな」

 

 娘を奪われた復讐を想定した反乱防止か、とおじさんは口には出さず思う。

 彼の口をついて出た言葉は、この世界への悪態だった。

 

「いつも来てるんですか? この東郷家に」

 

「たまに、ですね。近況を聞かれます。ああそれと、美森の近況も話してくれます」

 

「ほう。そういう人情もあるんですね、大赦」

 

「いえ……どうでしょう。あの人だけな気もします」

 

「へぇ」

 

「他の方はもっと無機質で事務的です。

 美森の近況を軽くでも話してくれるのは、あの人の温情なんじゃないかと思ってます」

 

「なるほど」

 

「顔を隠しているので個人は特定できませんが、女性だったと思います」

 

「女性。

 大赦。

 東郷家監視担当。

 温情的。……よし、取っ掛かりにしてみるか」

 

 その時、玄関のインターホンが鳴った。

 

 

 

 

 

 その女性は、安芸(あき)と呼ばれていた。

 昼は須美が通う小学校、神樹館の先生として。

 学校が終われば、大赦の一人として仮面で顔を隠し、神事に勤しんでいた。

 

 彼女は有能だった。

 『勇者』は、この世界の最終防衛機構である。

 勇者が負ければ世界は滅亡、結界内の人類は絶滅、ハイ終わり。

 当然ながらそんなものに関わる者は、大赦の人間から極めて有能な者が選抜される。

 無能が失敗すれば、世界が滅びるからだ。

 

 安芸がその"お役目"を任せられると決まったのは、まだ十代の頃だった。

 とても優秀だった彼女は、選ばれる前も努力を続け、選ばれた後も努力を続けた。

 どこまでも、どこまでも生真面目に。

 数年かけて、必要な技能と知識を身につけ、なおも勤勉だった。

 鷲尾須美とどこか似た生真面目さを持った彼女が、勇者の鍛錬指導・勇者の指揮・勇者のメンタルケアなどを総合的に行う役目を与えられたのは、須美にとっては運命だったかもしれない。

 

 安芸は頑張った。

 役目の大きさに興奮して無理をして頑張ったのではない。

 ただただいつも、当然のように頑張った。

 真面目に生きることは彼女にとって当然で、他人に対し誠実であることは当たり前で、努力は息をするように行う義務だった。

 愛想を振りまくのが苦手で、いつも仏頂面で、学生時代は委員長扱いしかされなかった。

 それはどこか、須美と似た生き方であった。

 

 須美に勇者としての戦い方を教えた。

 武器の使い方を教えた。

 小学校では普通の勉強も教えた。

 学校が終われば勇者に必要な知識を教えた。

 日が沈めば勉強で必要な知識を吸収し、学校で子供達をちゃんと育てるための授業の準備をし、大赦の人間としての仕事もそつなくこなし続けた。

 誰もが音を上げるような毎日を、彼女は息をするようにこなし続けた。

 

 どんなに疲れていても、須美に問われれば懇切丁寧に教えを与えた。

 寝不足で倒れそうでも顔には出さず、小学生や勇者に凛とした姿勢で授業をこなした。

 ヘトヘトになっても、世界を守ろう、戦う子供を生きて帰ることができるようにしよう、そう思うだけで頑張れた。

 

 同僚の若い男に飲みに誘われても、同性の友人になってくれそうな女性に遊びに誘われても、一切応えることはなく。

 ただただ、与えられた役目と、望んで背負った責任と、任せられた子供達の未来のため、自分の幸せそっちのけで頑張り続けた。

 安芸は仏頂面でニコリともせず、子供を手放しで褒めず、性格的には小学校の先生など全く向いていなかったが、彼女の周りの子供達は皆、安芸のことが大好きだった。

 

 彼女は間違いなく善良で、真面目で、一人で幸せになるのが下手で不器用な、仏頂面で敬遠される鷲尾須美の同類であった。

 

 いつからか、安芸は、与えられた役目の上に居ない自分を感じるようになった。

 言われてないのに、勇者の勉強を見てやるようになった。

 仕事でもないのに、子供の登下校に付き合ってやるようになった。

 指示されてもいないのに、須美の両親に今の須美のことを伝えてやるようになった。

 全てが彼女の意思。

 神が与えたお役目でもなんでもない。

 神の理ではなく、己の心に従い、彼女は生きていた。

 それがきっと人間として正しいことだと、信じていた。

 

 だから催眠種付けおじさんと出会うとかいう交通事故のような人生最大級の不運と出会ってしまったことは、彼女の人生でも最低最悪クラスの、とびっきりの不幸であった。

 

「催眠ハッピーセット!」

 

「に゛ゃっ」

 

 インターホンを押して、人が出てくるのを待っていたら、扉が開くや否や出会い頭の拡散荷電催眠粒子砲。催眠ハッピーセットが脳に染み渡る。

 

 『彼に対して明確に不都合になることはできない』。

 『彼の言動行動を好意的に解釈・受け入れやすくなる』。

 『彼を親しい者であると思い込む』。

 『以後正気に戻っても催眠耐性がアリス・マーガトロイドレベルまで落ちる』。

 

 おじさんの催眠かめはめ波は美人ブウこと安芸の脳内を貫いた。

 

「う……く……あなたは……?」

 

「鷲尾家の当主の弟でーす」

 

「嘘……鷲尾さんのお父様に、弟なんて……いないはず……!」

 

「10連釘催眠!」

 

「あばばば」

 

「こいつみー子ほど催眠耐性ガバガバじゃない上に意思が強いな……厄介な美人だ」

 

 文字通り催眠で釘を刺して(トリコ)にし、おじさんは東郷夫婦が家の中に居るのを確認し、ちょっとした話をしようと庭のベンチに座った。

 安芸もその隣に座らせる。

 

 ふわりとした髪質を丁寧に手入れしていることが伝わる、肩前に流したポニテ風味の髪。

 目鼻立ちの整った端正な容姿。

 健康的で豊満で、けれど細身であるスタイルの良さ。

 アンダーリムの眼鏡が、知的な雰囲気を醸し出している。

 凛とした美人で、おじさんは第一印象としてキツそうな性格の美人だと思ったが、催眠を掛けられて眉根を寄せた表情がなくなると、ただ単純に眼鏡の美人という印象が先行していた。

 

 おじさんは20代前半と年齢を推測したが、「いや、そうとは限らん」とその推測をおじさん自ら否定する。

 須美の一件があったからだ。

 小学生に見えない体つきに豊満な胸尻でおじさんのちんちんにメダパニをかけた須美の残した混乱が、まだ彼の中に残留している。

 おじさんはもう自分の年齢判定を信じていない。

 須美の影響で、おじさんは自分の年齢審査眼を完璧に信じられなくなっていた。

 

 催眠を重ねがけしつつ、おじさんは問いかける。

 

「大赦の人?」

 

「はい」

 

「何やってんの? おじさんにちょっと教えてくれへんかブヘヘ」

 

「教職、だと、言えます。

 勇者の教育。

 小学生達の教育。

 そして、教育の実践において、それを導く。

 私の役割は……教職です。子供を、死地に追いやるとしても」

 

「なるほど、なるほど。……鷲尾須美をどう思ってる?」

 

「努力家でひたむきで誠実な少女です。

 勇者に相応しい精神を持っています。

 それは大赦が言うようなものではありません。

 困難を乗り越える意志の強さ。

 不器用でちゃんと伝わっていますが、隣人を思いやる優しさ。

 やるべきことを丁寧にやっていく真面目で堅実な姿勢。

 彼女が勇者として相応しい部分は、資質ではなく、心にあります」

 

「うわっ良い返答だ好きになりそう。なんで東郷家に来てたんだ?」

 

「私は、独身です。

 そういう点では、まだ"ちゃんとした大人"ではないのかもしれません。

 私には親の気持ちが分からない。

 それでも、想像すれば、とても辛いだろうと思いました。

 ……伝えれば、かえって踏ん切りがつかなくなるかもしれない。

 娘は戻ってこないのに、娘の現状だけ知ることになりますから。

 でも、それでも。

 私がもし親だったら、娘のことを知りたいと、思いました。

 東郷夫婦が辛くなるかもしれないと、分かった、上で。

 娘がどうしているかを、伝えました……だからこれは、私の独断で、独善です」

 

「あっ……いいよいいよー。

 今のところ95点以下の解答無いよ。

 みー子の教師としてはもう百点あげたい。

 他人をよく見てるのは善人の証だ。最後に、勇者ってものをどう思ってる?」

 

「子供を戦わせるもの。

 世界の最終守護機構。

 世界の敵と戦うもの、

 仕方がない、しなければならないこと。

 でも、本当は、代われるものなら……代わってあげたい」

 

「……美人でスタイル良くて善人とかソシャゲのSSRみたいな人だな……大当たりでは?」

 

「私は、そんな大した人間ではありません」

 

「いやいや大した人間ですよ。大抵の催眠おじさんが目を付けるわこんなん」

 

 おじさんは割と気持ち悪い手付きで、安芸が肩前に流したポニーテールに触れた。

 

 とびっきりの美人を前にして舌なめずりするその姿は、まさしく人類の敵である。

 

 人の意思を奪い、自由を蹂躙し、思うがままとする。御伽噺で勇者が討つ邪悪そのものだ。

 

「君は催眠で雌奴隷に落ちるために今日まで気高く生きてきたんだね……」

 

「はい」

 

「うーんいいな。

 やはりいい。

 ワルっぽい組織の手先の女は後腐れがなくていい。

 これで悪人ならもっと気分は良かったがまあいいか。

 良心に目覚めた催眠おじさんは大体死ぬか逮捕されるからな……

 最近みー子の影響で小生も調子が悪かったからな……ここらで調子を戻そう」

 

 ダース・オジサンは自称ダークサイド寄りの人間だ。須美に調子を狂わされていただけで。だからここで、一旦かつての自分に回帰しようとしていた。

 

「何をかけるか。

 感度倍化?

 愛情発芽?

 幸福増量?

 ……なんかみー子に引っ張られて純愛おじさんになってるのではないか、小生」

 

 いかんな、種族が変わってしまう、とおじさんは独り言ちた。

 

「うーん」

 

「お悩みなら相談に乗りますよ?」

 

「みー子といい催眠かかってる状態で催眠術師に気を使うのやめてほしい。やりにくいわ」

 

「分かりました。やめます。でもいつでも私に相談してくださいね」

 

「あー! ゲスの暗黒卿ー! 小生をまた深い闇に落としてくれー!」

 

 おじさんは頭を抱えて、頭を掻き毟って、半目で顔を上げた。

 

「安芸さん美人っすね」

 

「ありがとうございます」

 

「彼氏とかいらっしゃらないので? 寝取り催眠になるなら展開考えますよ」

 

「彼氏は……できたことないですね。恥ずかしながら恋愛経験もないです」

 

「は? 嘘でしょ? この世界の男全員インポか?」

 

「いんっ……! こほん。私みたいなのを好きになる奇特な男の人がいないだけですよ」

 

「いやいや、周りに見る目がないだけですって!」

 

「それにほら、私はどうしても仕事を優先してしまいますから。

 仕事と、仕事で面倒を見ている子供を優先すると、その……

 男性の方は、自分を蔑ろにされてる感じがして、いい気にならないんじゃないでしょうか」

 

「あー、ありそうですね。

 みー子も大人になったらそういうとこありそう。

 仕事や友人を責任感から優先しそうですよねあいつ」

 

「みー子……鷲尾須美さん? そうですね、私もそう思います」

 

「小生はいつかいい人が現れるとか言いませんよ。

 ぶっちゃけ男は大体安芸さんみたいな人好きですからね。

 他の誰かに取られる前に先に手を付けたい。

 具体的に言うとジャンプやサンデーではできないけどマガジンではできることがしたい」

 

「優しくしてくださいね?」

 

「はい優しくします!」

 

「ふふふ」

 

「……ちっげぇんだよ! 方向性が! そうじゃねえんだよ!」

 

「はぁ」

 

「しかしこれだけの上物だとな……

 よく悪女がやられるボロ雑巾化で捨てられる催眠末路はもったいない……

 もっと宝石を扱うように扱いたい……やはり気持ち良さ数倍の純愛催眠か……?」

 

「恋愛も知らないので純愛にも助言はできません。ごめんなさい」

 

「なんだこいつ……

 そういや定年迎えた催眠おじさんに教わった技があったな。

 対象に自分への愛を植え付ける。

 対象のストレスを消す。

 対象の幸福感を倍増させる。

 対象に自分が超絶イケメンに見えるようにする。

 催眠ギア4……

 使ってみるか、ライトサイドの四連催眠発射……!

 練習したことないから練習すっかな……どうしよ……」

 

「練習ですか? 練習の時は最初は的に思い切りぶつけるといいですよ。武器戦闘のコツです」

 

「的はオメーだよ! このバカ! 催眠で呆けてても美人!」

 

「ありがとうございます」

 

 ペコリ、と安芸は頭を下げ、少し落ちた眼鏡を指で押し上げた。

 

「しかし私みたいな女に鷲尾様はよく手を出す気になりましたね」

 

「エッチな本の表紙が安芸さんだったら迷わずパケ買いすると思いますよ、皆」

 

「そ、そんなに?」

 

「そんなに」

 

「い、いやまあそうですね、鷲尾様の特殊な嗜好の話は置いておいて、それで」

 

「待った。

 小生をアブノーマル扱いするのはやめていただきたい。

 ただ小生は可愛い子も綺麗な人も好きなのだ。ラブコメのヒロインは大体全員好き」

 

「ああ……私も守備範囲に入るくらい好みが広いと」

 

「いえ、安芸さんは普通にめっちゃ美人かなって」

 

「……………………………そうですか」

 

「だから率直に言って催眠でほどほどに意思を操ってイチャコラしたいんですよね」

 

「なるほど……?」

 

「支配者は配下の美女全部に手を出すものですからね。安芸さんもそう思うでしょう?」

 

「極論では?」

 

「女騎士は全員王の妾だろ……」

 

「暴論では?」

 

「女騎士は王に一回手篭めにされちゃうと快楽と権力で以後も寝床に呼ばれますからな」

 

「暴君では?」

 

「催眠おじさんに暴君以外いるわけねぇだろぅが!!」

 

「ええ……」

 

 おじさんがその気になれば、安芸はいつでも爆乳変態アバズレンジャーにされるだろう。

 異騎升士娘竜(イキますシコりゅう)戦隊抽挿(ちゅうそう)ジャーにすることだって自由自在だが、おじさんの脳の片隅には須美の存在がチラついている。

 須美の存在が抑止になってしまっている。

 おじさんならば姪に嫌われ嫌姪(きらめい)ジャーになったとしても、催眠でいくらでもリカバリー可能なはずなのだが、それを忌避するのは気分の問題なのだろう。

 

 そしておじさんは尊厳保守派右翼に所属する催眠おじさんである。

 

 催眠おじさんは光闇の他にも、保守派と破壊派に分かれる。

 催眠をかけて清楚だった子を金髪ガングロビッチにするか?

 ピアスや入れ墨で元に戻せない傷を付けるか?

 催眠対象の社会的な居場所を徹底して破壊するか?

 これに興奮する催眠おじさんと、萎える催眠おじさんがいる。

 「尊厳を破壊すればするほど興奮する」破壊派おじさんと、「いやあかわいそうすぎるとちょっとね」な保守派おじさんは、宇宙が続く限り未来永劫戦う運命にある。

 安芸は尊厳破壊おじさんに大分目を付けられやすい属性を持っていた。

 

 須美のおじさんは比較的保守派で、催眠をかけた美人はできる限りそのままの美しさを保っていてほしいタイプの催眠おじさんだった。

 うーん、とおじさんが催眠計画を悩み始める。

 決断力が無いから悩んでいるのではない。

 惚れ惚れするような美人だから迷っているのだ。

 

 そんなおじさんの服の袖を、控え目にちょんちょんと引く少女がいた。

 

「おじさま、おじさま」

 

「ん? みー子か。お前いつの間にそこに?」

 

「さっきからいました。おじさまが安芸先生に夢中だっただけです。……もう」

 

「おはよう、鷲尾さん」

 

「おはようございます、安芸先生」

 

 須美と安芸が、慣れた様子で挨拶を交わす。

 安芸をおじさんがちやほやしていた時、須美はどことなく不機嫌そうであった。

 それは父親に甘えていた須美が、父親が途中から母親に構いっぱなしになって、寂しさから不機嫌になった時の挙動と、少し似ていた。

 

「おじさま、安芸先生とお付き合いするんですか?」

 

「ん? そうだな……

 実はちょっと考えてたことだ。

 大赦にちょっかい出すなら大赦職員に関係を持って『穴』を作るのが良い。

 『名家』じゃなくて『職員』なのがいいんだ。

 鷲尾家に居てできることは大体見えた。もう出てっても問題はない。

 安芸さんの家に転がり込んでそこを拠点にした方がやりやすくはあるんだな」

 

「……」

 

「少し疑問があってな。

 勇者は特別な資質のある年若い少女のみがなれる、ってあれだ。

 あれは事実なのか? そういう話だ。

 ぶっちゃけると何の根拠もないが、それが本当か嘘か確かめたくなった」

 

「……」

 

「古今東西、少年兵はかなりコストが低い。

 蛮族が使う最高効率の防衛兵器だ。

 そして少年兵を『神』を持ち出した嘘で操るのもよくある話だ。

 案外勇者云々って全部嘘では?

 ガキ特攻させて大人が安全圏に居るだけでは?

 コスト問題だけで子供使ってんじゃ?

 そんな風に思うんだよな。

 その辺に嘘があってそれを掴めれば、まあ、そうだな。

 大人がちゃんと戦って、みー子も東郷の家に戻れるんじゃないかね」

 

「……」

 

「あんま期待はするな。それで少し待ってろ。何か掴んだらすぐに連絡する」

 

 須美はおじさんの話を半分くらいしか聞いていなかった。

 

 彼女の頭は、もっと大事なことについて必死に考えていた。

 

「おじさま、安芸先生に手を出すのはちょっと待ってくれませんか」

 

「ほう……忠言を許可する。言ってみろ」

 

「はっ。おじさまの時間を割いていただき感謝いたします」

 

「二人は殿と侍か何かなの?」

 

 安芸の冷静なツッコミが冴え渡る。

 

「おじさまが安芸先生に手を出すと、私の叔父が私の先生に手を出したことになります」

 

「!」

 

「発覚するにしろ発覚しないにしろ、私は姪の先生に手を出す叔父の身内になります」

 

「それは確かに嫌だな……関係性が完璧に薄い本のそれだ」

 

「その、私のわがままなんですが……」

 

「いや、そうだな。

 薄い本の登場人物みたいな境遇は嫌に決まっているな。

 潔癖な小学生の女子ならなおさらだ。配慮が足らんかった。前言撤回する」

 

「おじさま……!」

 

「もうちょっと鷲尾家に居るかな……っと、そうだ、安芸さん」

 

「はい、なんでしょうか」

 

「グッバイ安芸さん。

 フォーエバー安芸さん。

 彼氏の十人や二十人できたら言ってください。脳内を調べるのは小生大得意」

 

「一人できる予定すらありませんよ……」

 

 安芸は呆れた表情で、眼鏡の位置を直していた。

 だが須美とおじさんを交互に見て、彼女は少し優しげに、口角を上げた。

 

「どうやらもうすっかり、鷲尾須美さんだけの叔父さんになっていたようですね。ふふ」

 

「そですかね」

 

「そうですよ。いい叔父さんじゃないですか」

 

「この辺の好感補正催眠は上手く噛み合ってんのに他がなあ……」

 

 "これ見て良い叔父だと思ってる時点で催眠はよく効いているな"と叔父さんは思う。

 安芸に手が出せなかったことに若干悔しさを感じ、大物を釣り上げられそうだったところで紙一重で逃してしまったような感覚に包まれ、おじさんは深く溜息を吐いた。

 美人女教師という獲物を逃し、おじさんの中で次の獲物のハードルが高くなる。

 それが催眠種付けおじさんの一族の習性だった。

 

 "安芸さん以上の美人探すか"とおじさんは思うも、"この世界総人口一千万人居なそうだけど安芸さん以上の美人の大人居る?"とどうしても思ってしまう。

 だがそれでも『もっと大物を』と考えてしまう。

 まるで、使った金以上の大当たりを求め続けてしまうパチンカスのように。

 

「おじさま」

 

「どうした、家族の独占欲が強い鷲尾須美ちゃん」

 

「―――」

 

 その時。

 

 おじさんがさらりと核心を突いたことを言って、言われた須美がどんな顔をしていたのか、角度の問題で安芸には見えていなかった。

 

 安芸の位置から見えるおじさんの顔は、須美の顔を見ながら、笑っていた。

 

「おじさまは私を置いて行かないでくださいね」

 

 須美がおじさんの手を握る。

 

 須美には大切な家族が居た。

 大切な家族と引き離された。

 心のどこかで、またいつか今の家族とも引き離されるだろうという諦めがある。

 

 全てを見通した上で『須美を選んでくれた』叔父の手は、暖かった。

 

「お前が見てて飽きない玩具で居る内は、どこにも行かないぞ」

 

 安芸ではなく須美を選んだおじさんを見て、安芸も穏やかに微笑んでいた。

 

 

 



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催眠感度7倍

「少し安心しました。

 ぶっきらぼうでも良い叔父様が、不器用な姪の面倒を見てくれてるみたいですから」

 

「安心した?

 え、安芸さんそこ不安だったんですか?

 みー子結構しっかりしてません?

 小生こんなしっかりしてる小学生過去に見たことないですけど」

 

「気を張りすぎているところはありましたから」

 

「あ、それは確かに。安芸さんみたいな教師が居てくれたことも幸運でしょうな」

 

「恐縮です。彼女は出会ってすぐの頃は、パンパンに膨らんだ風船のように感じました」

 

「ああ、よくサイズが合う小学生用の服がなくて胸元パンパンに膨らんでますね」

 

「いえそういうのではなく」

 

「そういうのじゃないのか……みー子あれ大丈夫なんですか? 男に襲われません?」

 

「小学生でそういう心配されるの相当ですね……

 ええ、はい、体格も小柄で、小学生相応に警戒心も無いですし。

 当然ながらそれは勇者の保護を考える大赦でも懸念されていた事案でした」

 

「懸念されてたんだ……みー子登下校徒歩ですしね……」

 

「ですが性犯罪率などを鑑みて考慮すべきリスクではない、と結論が出されたみたいですね」

 

「四国民度万歳。小生別に働いてないんで送り迎えに回れますよ」

 

「できる時にはそうしていただけると嬉しいです。

 ……最初の頃は、本当にパンパンの風船みたいだったんですよ。

 大赦のビルに呼び出されて。

 両親と引き離されることが伝えられて。

 戦いのお役目を告げられて。

 気丈に振る舞っていた彼女も、ビルを出る時、少しこぼれた涙を拭いていました」

 

「出ビル姪クライ」

 

「え、今なんて?」

 

「『忘れろ』」

 

「にゃんちゅうっ」

 

 催眠メモリーリセットは一対一での戦闘においても効力を発揮する。

 おじさんは庭ですっと安芸の記憶を飛ばしつつ、横目で東郷家の室内の、親と長話をしている須美を見た。

 まだ時間はありそうだ、と考える。

 

「こんな話してても漫才スキル上がるだけで時間の無駄だ、いけねえ」

 

「上がるんですか……?」

 

「みー子と出会ってからぐんぐん上がってる気がする……

 小生前はここまでトークスキル高くなかった……

 一日15分みー子と話してるだけでぐんぐん実力が上がっている気がする」

 

「進研ゼミか何かですか?」

 

「小生進研ゼミやってて、

 『あ、これ!』

 『見覚えのある問題!』

 『進研ゼミでやった問題だ!』

 『でもわからん!』

 ってなったことしかないんだよな……進研ゼミの15分はすぐ裏切る。みー子は裏切らん」

 

「悲しい話を聞かせないでください」

 

 おじさんは余計な話はせず、単刀直入に聞きたいことに切り込んだ。

 

「安芸さんが知ってる範囲でいいので、みー子達に隠してること全部教えていただきたい」

 

 それがおじさんのスタンスを根本的に変えてしまうと、気付きもせずに。

 

 

 

 

 

 須美はおじさんの隣に座った。

 安芸はもう居ない。

 用が済んだ安芸は帰り、おじさんの傀儡として大赦という組織に潜航しに行った。

 おじさんは空を見上げて、雲の流れを見ながら何かを考え込んでいる。

 "普通の空の雲と僅かに違う規則性で動いている雲"の事実に気付けるのは、この世界で生まれ育っていないおじさん唯一人だけだった。

 

 女心と秋の空、という移り変わりやすいものを指すたとえがある。

 だが催眠をかけられた女心も、神が作った天蓋の秋空も、どちらも移り変わりやすいものなどではなく、掌握され操作されるものでしかない。

 空を見上げながら、ずっと何かを考えているおじさんを、須美が見ていた。

 

「安芸先生と随分長話されていましたね。何の話をされてたんですか?」

 

「んー、真実とか、ま、その辺だな。ケッケッケ、つまらんことよ」

 

「真実……真実ですか……

 冬の朝に布団が吸い取ったはずの起きる気力はどこに行ったか、とかでしょうか」

 

「そんな真実知れるなら今すぐにでも知りてえよ!」

 

 時間帯はまだ昼前。

 夕方くらいまでなら、東郷家に滞在しても問題はないだろう。

 おじさんが催眠を駆使すれば、泊まっていっても乗り切れる。

 だが、須美はもうこれ以上ここに長居する気はないようだ。

 

「もうちょっと居るか? 親と話してていいぞ」

 

「いいです。話すことは全部話しました。

 電話で話す約束もしました。

 ……それに、これ以上ここにいたら、自分がぶれてしまいそうなんです。

 ここから離れたくなくなっちゃう。

 大赦の人が勇者の甘さと弱さを懸念していたのは、正しかったのかもしれませんね」

 

「そうかぁ? うーんどうだろうな。

 この世で唯一絶対に正しいのは小生で他の人間は皆間違えるぞ」

 

「流石ですおじさま!」

 

「そうだろうそうだろう、もっと褒めたまえ」

 

「まるで旧世紀の戦艦武蔵のよう!」

 

「そいつ最終的に魚雷と爆弾何十発も食らってボコボコにされて沈まなかったっけ……?」

 

 おじさんと須美は、帰路につく。

 「娘をどうかよろしくお願いします」と言われ、ヘタクソな微笑みを浮かべて頷いていたおじさんを見上げて、須美は少し嬉しそうにしていた。

 まったりとした速度で、駅に向かう。

 

「おじさま、おじさま、お昼は何が食べたいですか?」

 

「麺」

 

「うどんですね!」

 

「麺としか言ってないんだけど!?」

 

「麺と言えばうどん!

 うどんと言えば麺!

 香川と言えばうどん!

 四国と言えばうどん!

 おじさまには私の好きなものを好きになってほしいんです。

 控え目に言うと鷲尾家の両親みたいに私色に染まってほしいなって……」

 

「随分強欲な控え目っすね。

 一粒で浴槽染め上げる入浴剤並に染めようとしてくるぞこいつ」

 

「『ポケットモンスター 東郷美森/鷲尾須美』

 が発売されたらおじさまは両方買ってくださる人ですからね。

 家族だから、両方の私が好きなもののことをもっと知っていってほしいなって」

 

「言いたいことは分かるがたとえが愉快だな?」

 

「たとえば、ほら」

 

 須美は少し遠くにある史跡――古墳か? と叔父さんは推測した――を指差した。

 

 このあたりは、史跡が多い。

 

「"鷲尾須美"の私は、もうこの辺りのものは見に来ません。

 でも"東郷美森"だった頃は、見に来るのが習慣だったんです。

 両親がよく城や古墳に連れて行ってくれて……

 この国の過去に興味を持って、調べたらとても大好きになりました。

 この愛すべき美しき国を、もっと知って、もっと好きになりたいと思ったんです」

 

「それで右翼系勇者になったのか」

 

「右翼系勇者!? いやそういうのではなくて、愛国なんです、愛国」

 

「愛国とかリアルで言ってる人、小生の人生でお前しか見たことないからな」

 

「ゆくゆくは私の小学校の神樹館も、私の思想で染め上げたいなって……きゃっ言っちゃった」

 

「これ大分ファシズムに足突っ込んで来てる気がする!」

 

 ロリ右翼は催眠種付けおじさんと話していても大分当たり負けしない。

 

「おじさまはご存知かもしれませんが、だから私の将来の夢は、歴史学者なんです」

 

「……初めて聞いたな」

 

「そうなんですか? おじさまは森羅万象全てを知り尽くしてると思ってました」

 

「こいつ自分でおかしなこと言ってる自覚ないのか……?

 ないだろうな! 小生の催眠のせいだし!

 しかし歴史学者か。

 専門の勉強と、大学の進学と……小生は何か手伝えることはあるか?」

 

 須美は一瞬きょとんとして、すぐに夜明けの朝顔のような微笑みを浮かべる。

 

「私の夢を聞いて"何か手伝えないか"って言ってくれたの、おじさまが初めてですよ」

 

 おじさまは即座に何か言おうとして、その言葉を飲み込んで、挑発的な表情で言おうとしたこととは別のことを言う。

 

「ハッ、その辺りの人間に片っ端から催眠でもかけるか?

 すぐに全員『須美ちゃんの夢を手伝いたいです!』とか言うぞ。

 その程度の話だろうこんなもの。誰でも言える台詞だこんなもん」

 

「ふふふ」

 

「何笑ってんだ、『笑うな』」

 

「はい」

 

「……表情変わってないな」

 

「笑ってませんからね。おじさまに微笑んでるだけです」

 

「自動車免許試験の問題みたいな明後日の解釈してんじゃねえ」

 

 須美は微笑んで、隣を歩くおじさんの手を握った。

 

「いいことだ。

 将来の夢があることはいい。

 まあ、そうだな。

 今のところ催眠を解く気はないが、歴史学者になるのはみー子の自由なんじゃないか」

 

「ありがとうございます!」

 

「催眠おじさんの一族には大体目標や目的はあるが、夢は無いからな。応援しよう」

 

「それって違うものなんですか?」

 

「おお、違うとも。

 目標や目的は達成するもの。

 夢はできるかどうかも分からないことに全力を尽くす心だからな。

 遠くを目指して歩くことと太陽に向けて手を伸ばすことは全然違うんだ」

 

「いいですね。私はそういう表現は好きです」

 

「サンキュー。そんで」

 

「おじさま、サンキューではなく、ありがとうです。それは鬼畜米英の言葉ですよ」

 

「あっ面倒臭い女」

 

 おじさまは須美の額に軽くデコピンして、くすぐったそうにした須美に、取り上げていた白木の鞘の短刀を返す。

 

「綺麗な仕上げだな。白くて綺麗だ。悪人以外は刺すなよ、ほれ」

 

「悪人は刺していいんだ……」

 

「善人と自分は切ってもあんま得無いからな。切腹防止の永続催眠強力にかけておくか」

 

 おじさんは切腹を禁止する催眠をかけようとして。

 

「『切腹は―――』」

 

 ふと思いついた、別の催眠をかける。

 

「『いかなる状況においても自分が傷付く事態は絶対に回避しろ』」

 

「……はい」

 

「自殺も戦傷も、親に心配をかける。避けるべきものだ」

 

「はい。おじさまが、そう言うのであれば」

 

 須美は深く頷いて首肯し、おじさんの目を真っ直ぐに見た。

 

「おじさまは私の大切な人です」

 

「おう、そうか。あんがとな」

 

「……わ、私もおじさまの大切な人になれたら嬉しいです」

 

「思い上がるな!」

 

「!? と、突然怒った!? ご、ごめんなさい!」

 

「小生は催眠で従順なみー子はまあ、嫌いではないが。まあ好きな方だが。

 催眠かかってない自意識のある人間は大体苦手だ。その内九割くらいは嫌いだ」

 

「お、おじさまが私のことを好きって……きゃっ」

 

「……ハッピーセットかけたのミスだったかな……」

 

 『彼の言動行動を好意的に解釈・受け入れやすくなる』。である。

 

「でもおじさま。

 私達は血の繋がった叔父と姪です。

 その想いは禁断の愛……私には応えることができません。その想いは胸に秘めていてください」

 

「なんで小生がフラれたみたいになってんだ!?」

 

 おじさんはキレた。

 須美は微笑んだ。

 

 

 

 

 

 そして、数ヶ月の時間が経過した。

 

 現在、神世紀298年3月31日。金曜日

 数ヶ月という時間は、全能ではないが万能たる催眠おじさんには十分すぎる時間であった。

 おじさんはその期間の一割を大赦などへの工作と掌握に費やし、同じく一割を出会った人間のメンタル掌握とメンタルケアに費やし、残り八割を須美と遊ぶのに費やした。

 完璧なスケジューリングにより、おじさんは様々な準備を完璧に完了させたのである。

 

 そして今日、"壁の外"への調査に向かうことを決めた。

 

「キンタマキラキラ金曜日~」

 

 軽妙に口ずさみながら、おじさんは今瀬戸大橋の上で結界の境界線の前にいた。

 大橋は大赦の重要な防衛拠点であるが、大赦の大橋支部は既におじさんの手中にある。

 おじさんのキンタマキラキラ金曜日を止める者は誰もいない。

 

「ふむ……四国の周囲をぐるっと回る壁……この向こうに外の世界、か」

 

 四国を包む円形の、やや楕円の不可視の結界。

 四国を囲む『壁』に沿って展開されているそれに、おじさんは手を伸ばした。

 おじさんの指先が結界の境界線に触れた瞬間、おじさんの指先が"ジュッ"と焼ける。

 

「あっつ! アツゥイ! 死ぬ死ぬ! あ、死ぬほどじゃないけどめっちゃ痛ェ!」

 

 おじさんは真夏の道路の上のミミズのように、ブザマに路面をのたうち回った。

 指先がちょっと焦げている。

 

「これはあれか、『違う理』を弾く結界か。

 小生一応別世界からの侵略者だからな……

 気を抜いて触れるとしっかりダメージ受けそうだ……」

 

 この結界は物理的な侵入・脱出を阻害していない。

 おそらく徒歩でなら自分以外は簡単に外に出られる、というのがおじさんの推測だった。

 バーテックスが容易に攻めることができ、防衛に勇者が必要だという話も、この出入りの容易さにあるのだろうと、おじさんは考える。

 

 だが逆に、『違う理』を弾く力は凄まじいものがあった。

 おそらく、この結界の外には、『違う理』が渦巻いている。

 結界がなくなれば、即座にこの世界がどうにかなってしまうような、違う理が。

 

「来週からみー子も六年生、実戦間近見込み。

 ……時間が無いんだよな。

 ちょっと神樹様さー、最近になってから『5月に敵来るよ』とか神託しないでくんね?」

 

 おじさんは空を仰ぐが、遠き地の神樹は何も応えない。

 

 おじさんは焦げた指を舐め、肩をぐるりと回す。

 

「よし、行くか」

 

 おじさんは膝をつき、カバンを開き、この結界を抜けて外で活動するために準備してきたものを取り出し始める。

 おじさんもここ数ヶ月遊んでいただけではない。

 八割は遊んでいたが、遊んでいただけではない。

 準備は万全だ。

 

 そうして道具を並べている最中のおじさんに、声をかける者がいた。

 

 

 

「おじさま」

 

 

 

 声を聞き、膝をついたまま、おじさんは振り返る。

 

 その瞬間は―――どこか、絵物語の一幕を切り抜いたような光景だった。

 

 知らない少女であった。

 少なくともおじさんは、これだけの美少女――あるいは美女――を見たことはなかった。

 だけど何故か、知っている気がした。

 

 黒く綺麗な長い髪を、さらりと後ろに流している。

 外国人でもここまで胸尻大きくて腰細い人そうそういない、と言い切れる恵体。

 体にも心にも一本筋が入っているように、姿勢は凛として揺らがないが、その姿勢の中に柔らかさがあって、相手に威圧感や不快感を覚えさせない。

 顔のパーツは"これより美人な顔は作れない"と言えるレベルで、生真面目で勝ち気な目つきをすることが多い須美とは対象的に、垂れ目で優しげな印象を与える目つきが見た者の目に残る。

 総じて、優しげで包容力のある美人、という印象を誰にも与えるような容姿をしていた。

 こんな女が微笑めば、大抵の男はそれだけで惚れるだろう。

 

 知らない人間のはずだった。

 だが知っている気がした。

 『あの子が数年分成長したらこうなるかもしれない』と、おじさんは、ふと思った。

 

「……みー子?」

 

 おじさんがそう言った、その瞬間、その美しい女はくしゃっと表情を歪めて、目の端から透明な雫が流れ落ちる。

 

「みー子、だよな? ん……? まさか、催眠術の奥義を……」

 

「よかった……()()()()()()おじさまに―――また会えた」

 

 美女は膝をついたままのおじさんに飛びつき、抱き締めた。

 おじさんの頭を抱えるようにして、強く、強く、抱き締める。

 もう二度と離したくないと言わんばかりに。

 自分が出せるありったけの力で、おじさんを強く、強く、抱き締める。

 おじさんは何も言わない。

 

「おじさま……おじさまぁ……! なんで、私なんかを守って……!」

 

 美女の瞳から流れ落ちた雫が、おじさんの頭に落ちていく。

 

 おじさんは何も言わない。

 

 というか、言えなかった。

 

「ぐる゛じぃ」

 

「あ、ごめんなさい」

 

「げほっ、ゴホッ、巨乳の海に溺れて溺死しそうになったの人生初めてだぞ……!!」

 

「本当にごめんなさい、危うくこの手でおじさまを殺してしまうところでした」

 

「次から巨乳の波浪警報出しやがれ……!!」

 

 言うだけ言って、おじさんはまたむせこんだ。

 

 

 



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催眠感度8倍

 余裕でバスト90以上はあろうかという胸の高波に飲み込まれ溺れ死ぬという人生最大の危機を脱したおじさんが、その美女から聞いた話は、おじさんも戦慄せざるを得ない驚愕の事実であった。

 

「私は催眠の力を借りて過去に戻って来た三年と少し後の鷲尾須美なんです!」

 

「はーん、あれか。

 催眠で素粒子騙して時間の向き反転させるやつ。

 古の古文書の記述で見たことがある。

 小生も使えん使用者の適性次第の大祭礼催眠だ。

 小生の催眠を見て技術を盗んだのか? 三年ありゃ大天才ならできるかもな……」

 

「驚かないんですね」

 

「納得はした。良い感じに成長したなあ大みー子。母親より美人になったんじゃないか」

 

「もう、おじさまはそういうことばっかり」

 

 素直な感想だった。

 今の彼女は雑誌モデルに混じっても、アイドルに混じっても、大人に混じっても、きっと違和感はない。それどころかそこで一番目立つことだろう。

 おじさんが見た東郷家の母親の美貌を、既に超えている。

 須美の時にはあった幼さ、生真面目さ、硬さ、自信の無さが失せていて、精神的な安定感が増しており、それが振る舞いや第一印象にも影響を与えている。

 

 安芸さんより美人な女性いるだろうか、と思っていたおじさんだったが、早くも安芸よりも美人な女性に出会ってしまった。

 と、いうか。おじさんの人生の中で、おじさんの美的基準において、間違いなく『ぶっちぎり一位の美人』であった。

 外見だけで言えば、今の彼女はおじさんの好み直球ど真ん中でもある。

 綺麗で、可愛げがあって、優しさがにじみ出ている。

 

 おじさんは彼女を見てうーんと悩み、ジロジロと見られた彼女は照れ臭そうに目を逸らして頬を掻き、おじさんは悩みに悩んで答えを出した。

 

「……中三か、アウトにしとこう。みー子だから特別だ」

 

「何がですか?」

 

「いやこっちの話」

 

 少女は胸に手を当て、目を閉じ、かつての思い出を引き出しながら、暖かに語り始める。

 拭われた涙の跡がいたましく、語る言葉にはかつてあった幸福が含まれていて、彼女がどういう気持ちでおじさんと向き合っているか、痛烈に伝わってくるようだった。

 

「おじさまのおかげで……私、東郷の家に戻りました。

 今はちゃんと東郷美森です。

 どっちの家の両親とも、今は仲良くやれています。本当に、ありがとうございました」

 

「お、良かったな。小生的には割とどうでもいいことだが」

 

「またそういうことばっかり。

 おじさまはそういうところがいけないんですよ?

 そういうところで余計に悪ぶるからいけないんです。めっ、ですよ」

 

「みー子お前なんか小生の理解者面してない? 気のせい?」

 

「気のせいです。……ああ、よかった。やっと言えた」

 

「やっと言えた?」

 

「おじさまのせいですよ。

 初めて会った時に催眠をかけて、最後までずっと私には催眠がかかったままでした。

 だから素の私がお礼言えることなんて、一度も無かったんです。

 全部終わった後、まるで、ずっとずっと見てた夢が覚めてしまったような気持ちで……」

 

「催『眠』だからな。

 かかってる時は夢のよう。

 解ける時は夢から覚めるように。そんなもんだ」

 

「言いたかったこと、いっぱいあったんですよ?

 私のプリン勝手に食べて催眠で私の記憶消したこととか。

 私の部屋に勝手に入って私の布団で寝てたこととか。

 お酒はいけないって言ったのに隠れて飲んでたこととか。

 授業参観の時にクラスメイトのお母さんにデレデレしてたこととか。

 体重がちょっと増えると『お前太った?』とかすぐ言ってくることとか。

 美容院行ったら『前の方が可愛かったな』とか言ってきたこととか。

 全部全部催眠でごまかして……

 おじさまには本当にたくさん言いたいことあったんですよ。ほんっとうに!」

 

「今ここに居る小生はまだやってない、未遂、つまり無罪だ」

 

「もう。……そんな調子で、いつもの様子で、おじさまはそのまま、死んでしまったんですよ」

 

「ほっほー、小生死ぬのか。ちゃんと格好悪く死んでる?」

 

「いいえ、死にません。

 もう死にません。

 絶対に死なせません。

 そのために私がここに来たんです」

 

 美森の眉に皺が寄る。

 優しげな表情が責めるような表情に変わり、おじさんの目を真っ直ぐに見つめた。

 普通なら、これで居心地悪くなるだろう。

 だがおじさんはそうならなかった。

 美森の穏やかで優しげな表情が、眉を逆八の字にした真面目な表情に変わると、本当に須美の表情とそっくりで、"成長したんだな"と感じられて、おじさんは嬉しかったのだ。

 なんで嬉しく感じたのか、そこに自覚も持てないままに。

 

「ずるいですよ、おじさま。

 散々好き勝手して、他人のこと好きにして……

 何の償いもしないで、誰の言葉も聞かないで、死んじゃうなんて。許せません」

 

「許せなかったらどうする?」

 

「後で私がお灸をすえます。その後、お話しましょう」

 

「おーこわっ。大みー子お前、随分たくましくなったな」

 

「いい友人達と出会えました。

 おじさまの知ってる子供のみー子じゃないです。

 美森って呼んで大人扱いしてくれても全然構いませんよ?」

 

「そうだな、イキリみー子。いい友達が出来たようで大変よろしい」

 

「もう! これだからおじさまは……でもなんだか懐かしくて、嬉しいです」

 

「懐かしい? 小生が死んでからお前が過去に飛ぶまで、どんくらい時間あったんだ?」

 

「一ヶ月なかったと思います」

 

「三ヶ月か。まあセーフだな。え、ってか一ヶ月で懐かしくなんの? 早くない?」

 

「早くないです」

 

「早いわ! 爆速だよ!

 どんだけ寂しがり屋なんだお前……

 お前大切な人死んだ時の悲しみ大きいタイプなんだなやっぱ。

 ちっこいみー子の方の大切な人は一人も死なせちゃあかんやつだわこれ……」

 

「……絶対に、死なせませんから」

 

 最後の言葉は、おじさんの耳に届かないくらい、小さな声で。

 

 美森はごく自然に、おじさんの手を握り、引いていく。

 

 須美にそうされることに慣れていたおじさんは少し不思議な戸惑いと焦りを覚えたが、"いつもの癖"でやっている美森は何も気付かなかった。

 

「行きましょう。

 おじさまは八割がた真実に辿り着いてると思います。

 全部の真実を知ってる私が道案内人です。準備はいいですか?」

 

「ああ」

 

 おじさんも準備をし、二人は結界の外に向かおうとする。

 

 おじさんは自分の手を引いていく美森と、史跡を二人で巡っている時に自分の手を引いていた須美の姿が重なって、胸の奥が暖かくなるのを感じた。

 

「お前は小生の手を引いて道案内するのが好きだな。

 ククッ、壁の外は地元じゃないだろうに。地図アプリより有能なところを見せてくれよ」

 

「―――ああ。そういえば、そんなこともあった気がします。

 懐かしくて、思い出すだけで楽しくて、嬉しくて、ちょっとだけ……いえ、何でもないです」

 

 美森もまた、胸の奥が暖かくなるのを感じ、『絶対に守る』『二度と離さない』と言わんばかりに、おじさんの手を握った。

 

 

 

 

 

 おじさんが取り出して上に着た平安貴族の狩衣のような上着は、現在大赦が開発中の『羽衣』という巫女服状の防御装備の試作型、高コスト高性能試験作成版のようなものだった。

 太陽周辺の高熱環境にすら、ある程度は耐えられる力を持っている。

 それでも外に出た瞬間、おじさんが感じたのは、肌を焼くような熱だった。

 

 燃え盛る炎。

 飛び交う怪物。

 大地は焼け融け、炎の柱は天を突き、怪物以外の生物は一つもいなかった。

 そこは地獄だった。

 そこは終わった世界だった。

 

 死のウイルスなどどこにもなく、人類文明の痕跡すらどこにもない。

 四国の僅かな土地を神樹が覆うように守り、それ以外の地球全土が業火によって延々燃え尽き続けている、灼熱地獄の世界が広がっていた。

 まるで、「おじさんみたいなザコにアタシが負けるわけないでしょ♡」とほざいた直後に催眠をかけられたメスガキの人生のように―――この星は、終わっていた。

 

「おじさま。これが真実です。

 その昔、西暦の終わりに、天の神が人類の増長に怒りを覚えたそうです。

 天の神の怒りにより、世界は燃え尽き、怪物が放たれた。

 人を護るため、神樹様は結界で四国を覆ってくださいました。

 怪物は人類に裁きを与える存在で、炎は今も世界を焼き続けている……」

 

「この燃える世界。そして人類を滅ぼしに来るバーテックス、と」

 

「そうです。天の神は未だに人を見ていて、人を許していない……と聞きました」

 

 この瞬間、おじさんが一瞬だけした諦めと苦渋の表情の意味を理解できるのは、東郷美森/鷲尾須美ただ一人しかいなかった。

 

「おじさま。あの時はありがとうございました」

 

「あの時ってどれだ? ホラー見た後夜にトイレ行けなくなったから小生が付き添ったやつ?」

 

「違います!

 ……あ、いやそもそも、そんな事はなかったわよね!?

 さらっと話を捏造した!? ……こほん。茶化さないでください」

 

「すまんなぁ」

 

「お礼言われるのが照れくさいからってごまかすのはおじさまの悪癖ですよ」

 

「……」

 

「感謝したいのは、おじさまがここに来てくれた理由です。

 おじさまは言ってたでしょう?

 全部嘘かもしれないって。

 それを暴けば私は東郷の家に帰れるかもしれないって。

 期待するなと言われたから、私は期待してませんでした。

 ただ、嬉しかったんです。

 後になって、せっせと私のために走ってるおじさまを見て……

 『嬉しいな』って、『ありがとう』って、思っても本心から言えなかったんです」

 

「……ああ。

 だからお前、このタイミングで来たのか。

 小生が最初に外に出るタイミングで、万が一のための護衛に付くために」

 

「流石おじさまです。私のことを分かってくださってますね。催眠の力で」

 

「おう、催眠の力だ」

 

「ありがとうございます。私のために、こんなところまで来てくれて」

 

「随分と思い上がったなメス豚……」

 

「え、でも、おじさま私のこと大好きですよね?

 そこは認めていただかないと、話が先に進まないというか……」

 

「小生の望まない方向にガンガン進めようとしてんじゃないよ! っていうか」

 

 おじさんは美森の格好を見る。

 

 『勇者』である東郷美森は、スマホのアプリにタッチ一つで変身できる。

 変身を完了した美森は全身を勇者の装束に包み、右手に大きな銃を持っていた。

 勇者は神樹の力を引き出し、それを身に纏うことで命を守り、武器に乗せて放つことで敵を倒していく。

 ゆえに、戦うならば、壁の外に出るならば、専用の衣装に変身しなければならない。

 

 それはおじさんにも分かる。

 わかるのだが。

 大分スケベだった。

 

 服自体に露出は多くない。

 むしろ私服時より少ないかもしれない。

 全身を装束が覆っているため、概念的な防御力も高く見える。

 だが肌にピッチリとくっつくタイプの防御装束と、手足がすらっとして腰が細く胸と尻がデカい美森の体型のコンボが、ありえないほどに強力だった。

 "これ全身写真がそのまま薄い本の表紙に使えるやつ"というのが、おじさんの感想である。

 

 おじさんの視線を感じ、美森はかつておじさんに「小学生の頃のスクール水着を無理矢理着てるナイスバディOLみたいだな」と言われたことを思い出していた。

 

「服がはしたないなぁ……おいみー子、それで異性の前に出るのやめておけよ?」

 

「あら、独占欲ですか? 心配しなくても、見せた異性なんておじさまだけですよ」

 

「お前だとそれで外歩くだけで猥褻物陳列罪になるからな」

 

「……」

 

「嫁入り前の娘がそんな格好で出歩こうとしたら小生が催眠で止めるぞ、分かれ」

 

「おじさまはいっつもそう……変なところで褒めないで落としてくる……もう……」

 

「うるせー、痴女服褒める趣味はねえ。

 小生そういうタイプの催眠おじさんじゃないから。

 もっと露出少なくておしゃれな服持ってたろ、あっちの方が似合ってたぞ」

 

「! なるほど、おじさまの好みはそっちと。

 分かりました、私は自慢の姪で居続けます! おじさまの認めた大和撫子として!」

 

「あー言えばこう言う!」

 

「偽物の叔父様に姪が似ただけです!」

 

「あー言えばこう言う!」

 

 どっちのみー子でもこんな服着て外出回ったら健全な人間のちんちんにメダパニかけて回るようなもんだろ小中学生だぞ……と、おじさんは眉根を寄せた。

 

「しかしあっつぃ……気温40度くらいのアスファルトの上くらい暑い……ああ、そうだ」

 

「はいおじさま、手鏡です」

 

「お、感謝。

 『全然暑くない』……よし、自己暗示完了。

 なんとなく今流してたけどここですっと手鏡が出てくるの凄いなお前!」

 

「おじさまのパターンはすっかり読めましたよ」

 

「というか……可愛いなこの手鏡。女の子らしい。

 ようやく可愛い私物を親にねだれるようになったのか。おっちゃん嬉しいぞ」

 

「あ、これはおじさまが誕生日プレゼントにくれたものです。

 私に催眠かけてカタログ見せて、

 『どれが一番好きだ?』

 って聞いて、私に自分で選ばせて、記憶消して、

 『欲しかったのはこれだろ?』

 って何も覚えてない私にサプライズ誕生日プレゼントして驚かせてきた時のものですね」

 

「……」

 

「サプライズだから、おじさまがくれたから、嬉しくて、一生の宝物にしようって思って……」

 

「もっとセンスあるやつ友達と遊びに行って買ってきたらどうだ?」

 

「これがお気に入りなんですよ」

 

「……」

 

「今だから言えるんですけど、私催眠にかかってる時も、おじさまのこういう反応が楽しくて」

 

「『一分黙れ』」

 

「……!」

 

 そうして話しながらも、おじさんは周りを眺め、目に見える範囲の観察を終えていた。

 

「……こんな世界を見せたら、確かに大混乱だな」

 

「……!」

 

「隠蔽の主体は大赦。

 勇者もこれは知らない。

 んー、外に打って出る気はない?

 専守防衛?

 結界内で敵を迎撃するだけ?

 救援の見込みが無い籠城策は下策だ。

 防衛は勇者として、攻撃は別に何か用意してんのかな」

 

「……!」

 

「大赦君たち何用意してんだろうな……

 いや、何企んでるんだろうな、か。

 頑張った大赦君たちの成果だけいただいて小生の好きなようにしたいところだが」

 

「ぷはっ、やっと喋れる。もう、おじさま、相手の口を塞ぐのは悪い癖ですよ」

 

「催眠術師の前で言論の自由があるわけねえだろ」

 

 この世界の人々は、安心している。

 世界が平和だと思っている。

 いつまでもこんな幸せが続いていくと思っている。

 だがそれは、薄氷の上の幸福で、綱渡りの上の平穏だ。

 それがひっくり返れば、人々は絶望し、混乱する。

 自分が信じていた常識の崩壊に、人の心は耐えられない。

 見えていた世界が全部嘘だと知ることは、人を容易に追い詰める。

 

 催眠おじさんダークサイドの代表格、『催眠かけて身も心も捧げさせて人生終わらせた後のベッドイン中に催眠解除して絶望させたい』派閥のそれに近いものがある。

 『上げて落とす派閥』の催眠おじさんは、須美のおじさんとはライバルの関係にあった。

 

 幸福が多ければ多いほど。

 不安が無ければ無いほど。

 それがひっくり返された時、人は純度の高い絶望を吐き出すものだ。

 

 で、あれば。

 世界の真実を民衆が知る前に何もかも解決する以外にないだろうし、人生終わってる女の子は一生催眠かけたまま幸せでい続けさせてあげた方がよい。

 

「面白いな。神が支配者となった世界。神が人間を教化してる世界がここか……」

 

「そうですね。誰も自由でないから、この世界では誰も『生きてない』のかもしれません」

 

「それは小生の知らん小生が言ってた台詞の受け売りか?」

 

「……ふふっ、おじさまは鋭いですね」

 

「お前が一人で考えて抱く感想は、もっと優しいよ。小生ほど無機質じゃあない」

 

 "理解されていることが心地良い"のか、美森は自然と微笑む。

 美森は燃える空を見つめるおじさんの横顔を見つめる。

 人を支配する神を見上げる時の、おじさんのこの目が、美森は好きだった。

 

「小生という支配者が来る前から、この世界には支配者が居た。

 人間の自由を奪い、心の在り方を強制する神という支配者が。

 支配者が定めた心の在り方以外認めない支配者が。

 なるほどなるほど。―――面白い。久しぶりだな、こんなにも血が滾るのは」

 

「おじさまは……変わりませんね」

 

「共感するぞ天の神。

 素晴らしい独善。

 最悪の強制。

 己が望む環境と世界しか認めない在り方。

 『頂点』に己を置き、弱者の心の在り方に口出しする姿勢。

 催眠種付けおじさんと基本的に同じだな、お前は。程良く人の醜悪を持つ神で好ましい」

 

 『自分と違う考えの人間との共生に耐えられない』。

 『今の環境に不満があって憎いものを壊したい』。

 『気に入らない他人が自分が押し付けた考え方に染まらないと怒る』。

 これは支配者の思考であり、暴君の思考であり、催眠種付けおじさんや天の神にも共通する思考である。

 

 支配者は、自分の周囲の環境を自分に都合良く変える者。

 であれば、支配者は並び立てない。

 王は二人も要らない。

 

 神の倫理と神の理で、この世界を支配する天の神が最後に残るか。

 ドスケベパラダイスムービー大戦フルスロットルを望むおじさんが最後に残るか。

 その結末は、神すら知らない。

 神ですら当事者であるがゆえに、神にすら予想できない。

 

 ただ一人、未来から来た東郷美森だけが、その結末を知っていた。

 

「その内に雌雄を決しよう、天の神。

 ちょっと楽しみだなこれは。

 知っているかみー子。

 宇宙で最も重い罪は、人間の心の自由を認めないことらしいぞ?

 さてさて……この世界を最後に支配し、人間の自由を奪うのは、小生か、神か、どちらか」

 

「最後に勝つのは私ですよ」

 

「お前かよ! 横から入って来るなよ!」

 

「何言ってるんですか! そんなだから天の神と相打ちみたいなことになっちゃうんですよ」

 

「あっテメッ! 今楽しみにしたばっかりの戦いの結末ネタバレすんじゃねえ!」

 

「いーえします!

 おじさまこのままだと死んじゃうんです!

 世界は救われましたが私は全然嬉しくありませんでした! 全然! 嬉しくなかったの!」

 

「お、おう」

 

「おじさまはいつもそうよ!

 他人の気持ちがどうでもいいの!

 "幸せならいいじゃん"くらいしか考えてないんだわ!

 他人の気持ちがどうでもいいから他人の気持ちとか平気で操ってしまえるのよ!

 他人の気持ちが分かるのに! 気遣えるのに!

 自分が死んで悲しむ人のことなんて、全然考えてないから、だから……!!」

 

「いや、待て、どうでもよくはないぞ」

 

「だって―――」

 

「多分手違いだな。未来の小生の手違いだ」

 

 変な会話に美森が違和感を覚え、右手の銃を握り直そうとすると、もう体は動かなかった。

 

 催眠が、美森の脳深くに刺さっている。本人に気付かせることすらないままに。

 

 燃える炎を背景に、おじさんは感情が読めない目で、美森を見下ろしていた。

 

「催眠対策……今も動かしてるのに……」

 

「一体いつから―――小生が催眠を使っていないと勘違いしていた?」

 

「―――」

 

「かけたのはお前が泣いてる時だよ。

 ま、ちょっと気は引けたが、あそこが一番良さそうだったからな。

 大泣きしている人間は周りを見ていない。心揺れていれば催眠は刺さる」

 

「……うっ……」

 

「お前は知ってるだろうが、小生は自分が催眠で支配してない人間は一切信用してないんだ」

 

「おじさ……」

 

「『小生の末路とそこに繋がる情報を全て吐け』」

 

「―――」

 

 おじさんは美森に情報を全て吐かせ、それを記憶していく。

 

「『小生の末路とそこに繋がる記憶、過去に来た理由を全て忘れろ』」

 

 これで未来の情報は、彼が独占する。

 

「『小生が死んだ時点で、未来に帰れ』」

 

 今彼がかけている催眠は、特大の力を込めることで、自分の死後も残る催眠だ。

 

 祝福であり、呪いである、"彼の願い"を言葉にした、そんな催眠。

 

「『未来に帰ったら、小生に関する記憶は全て忘れろ』」

 

「……あ」

 

「覚えてて得のない思い出なんぞ、残しておく必要はない」

 

 他人の心を操り、想いを踏み躙り、願いを蔑ろにし、自分の考えを押し付ける。

 ゆえにこそ彼はダークサイドなのだ。

 その点で見れば、人間の増長に怒り世界を滅ぼしたという天の神と変わらない。

 

 社会正義の敵だから悪というわけではない。

 法に催眠が違法だと規定されているわけでもない。

 ただ単純に、人の心を進んで踏み躙るような人間は、悪にカテゴライズされるという話。

 おじさんは、東郷美森の心も、想いも、願いも、尊重しなかった。

 

「『元の時代に帰ったら、ちゃんと幸せになること』」

 

 この催眠必要だったかな、と思いながら、おじさんは催眠をかける。

 

「『大切な人を沢山作れ。お前にとっての大切な人じゃなく、お前を大切にしてくれる人を』」

 

 こんな催眠かけ続けてたらいつまでも終わんねえな、と思って、おじさんは苦笑しながら途中でやめる。

 須美/美森の幸せを願ってる自分があまりにも照れ臭すぎて、こういう催眠をかけ続けている自分に耐えられなくなってしまったようだ。

 

「『この時代の戦いが終わるまで、小生に力を貸せ』」

 

「……はい!」

 

「こんなものか。

 ……ふぅ。

 小生が死んだ後も続く永続催眠をこの数かけるのは、流石に疲れるな……」

 

 おじさんが遠くの炎を眺めながら、膝に手を付いて休み始める。

 美森は催眠による思考の誘導が始まっているというのに、強い意志と『おじさんから教わった』催眠対策で抵抗し、最後に一言、なんとか絞り出す。

 

「……おじさまは……誰も……信じていらっしゃらないんですか……」

 

 おじさんは催眠に抵抗していることに少し驚いた様子を見せ、けれど狼狽えず、静かな口調で言葉を紡ぐ。

 

「人の命がかかってる事案で小生が他人を信じて頼ったことはない。それで上手くやってきた」

 

「……おじさ……」

 

「お前の明日は小生のものだ。お前のものじゃあない。だから、小生が守ろう」

 

 おじさんは、須美と比べるとそこそこ身長が伸びた美森の頭に手を乗せ、撫でる。

 

 "初めてこの子の頭を撫でてあげたかもしれない"と、おじさんは思った。

 

「立派になったな、みー子。

 まあまだ中学生なら、大人だなんて言えないが……

 幸せになれてるみたいでよかった。だからな、その邪魔になってる記憶は小生が消す」

 

 カチリ、と、催眠が美森の中で噛み合い、おじさんが美森に仕込んだ催眠は完了した。

 

「なーに考えてんだ未来の小生は。

 こうなると予想くらいしてただろうに。

 時限式で記憶が消える仕込みを何故しなかった?

 忘れていた? そんなわけがない。あるいは……」

 

 おじさんは、自分を戒めるように、額に拳を当てた。

 

「……自分が死んでも覚えていてほしかったのか? みー子に。バカらしい……」

 

 覚えていなければ、悲しむことはない。

 覚えていなければ、死は悲劇ではない。

 全て終わっておじさんのことを忘れられれば、美森は幸せになっていける。

 おじさんの選択は合理性という点で見れば極めて正しいが、倫理や尊重を主として考えるのであれば、間違いなく人類の敵だった。

 彼のこの選択を、須美/美森は許さない。

 彼はそういう意味では、須美/美森の敵だった。

 

「これ以上外に居ても意味はない。戻るぞ、大みー子」

 

「はい、おじさま!」

 

 催眠おじさんVS美少女勇者の戦いは、催眠おじさんの勝利に終わる。

 

 何もなければ、これで終わりだ。

 催眠おじさんの意思が通り、彼にとってのハッピーエンドがやってくる。

 須美にとって、美森にとって、ハッピーエンドでない終わりがやってくる。

 

 ()()()()()()()()()()()、結果は変わらない。

 未来は固定されたまま。

 『勇者が勝たなければハッピーエンドはない』―――それは、当たり前の世界の摂理。

 既に東郷美森は敗北した。

 だが、"繋がっている"。

 催眠おじさんに勝利し、結末を変えられるかもしれない勇者が、もうひとり。

 

 

 

 

 

「……なんだろうこのメール。あれ?

 これ小学生の時に私が使ってたアドレスだ……なんで? テキストファイル……?」

 

「須美さん?」

 

「あ、すみません、今行きます!」

 

 

 

 



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催眠感度9倍

 おじさんは美森を連れ、鷲尾家に向かっていた。

 

「お前も住み慣れた家の方が安心するだろう」

 

「すみません、気を使っていただいて」

 

「鷲尾家でいいのか? 東郷家の娘扱いにする催眠も難しくないぞ」

 

「でもおじさまは、手元に置いて護衛や手駒として便利に動かせる勇者が欲しかったでしょう?」

 

「……やっぱり催眠を深く入れておいて正解だったな。

 お前は小生を理解しすぎている。

 小生の行く手をお前が阻んだならば、どんな神よりも恐ろしい敵になっていただろう」

 

「おじさまのことを理解しすぎるあまりに、

 『おじさまの好みの女性リスト』

 を作ったらおじさまに『好みだけどいやそういうのはちょっと』って言われましたからね」

 

「お前何やってくれてんの?」

 

「喜んでもらえると思って……」

 

「みー子がみー子よりブサイクな女をリスト化して渡してきたら小生でも戸惑うわ」

 

「え、そういうことだったんですか?」

 

「知らん。その時の小生に聞け。だが小生なら多分微妙な気分になる」

 

「よく分かりません……あ、おじさま、女性をブサイクって言っちゃダメですよ?」

 

「小生世渡りは催眠でやってきたから『美人』が世辞で言えん……

 本当に美人だと思った人にしか美人とかそういうことは言えんのだ」

 

「もう」

 

「お前も十分美人だぞ。でも中学生だから結婚も許されてないガキだな。ハッハッハ」

 

「……もう!」

 

 ぷいっと顔を逸らす美森を横目に、おじさんはヘタクソに微笑んでいた。

 

「おじさま、私のことを鷲尾の家にどう説明するつもりなんですか?」

 

「催眠」

 

「流石ですね、迷いがない」

 

「鷲尾家は無駄にデカいからお前一人くらい抱えても大丈夫だろう」

 

「おじさまはこの時期はまだ無駄にニートしてるんでしたっけ……」

 

「『無駄に』って付ける意味ある?

 いや待てちょっと待て。小生その感じだとお前の時代には働いてんの?」

 

「私が『おじさまはいつまでニートなんですか?』って言ったので……」

 

「余計なこと言いやがったなテメー!」

 

「それでおじさまが『四国全市民から一年に一円ずつ貰えば年収四百万で十分だ』って言って」

 

「お、流石小生。かしこい。催眠使いはそうでないとな」

 

「私が『ニートの叔父が居る姪になるんですね私』って言った、と思います。確かそうです」

 

「えっ……

 いやっ……

 んんっ……?

 それは確かにそうかもしれんが……

 小学生の娘っ子にそれは酷か……?

 でもなぁ……小生は催眠の優位性とフットワークの軽さが武器だし……」

 

「おじさまは働かなくても大丈夫ですよ? 私が働いて、いつまでも養いますから」

 

「あっこれだなどんな世界でも小生が働いた理由これだわ」

 

「私は受験勉強続けながらバイトかな……」

 

 美森の言葉に、おじさんは眉に皺を寄せた。

 

「しゃーねえ。鷲尾家の資産を投資で増やすか。経済活動あるなら小規模でもあるだろ」

 

「え? おじさまそういうのできるんですか?」

 

「催眠で人数上限なく投資者と投資対象の流れ操作できるからな、余裕の余裕だ」

 

「ええ……」

 

「淫乱サイダーだっけ? あれより効率が良くて合法だぞ」

 

「インサイダー取引では?」

 

「受験勉強に集中してろ。バイトしてまで金が欲しいなら欲しい分だけやるから」

 

「……おじさま本当にそういうところありますよね」

 

 苦笑する美森。

 須美と違って、美森はある程度"善人として社会に適応できない"というおじさんの根っこにある問題を把握し、理解し、受け入れている。

 おじさんが鷲尾家が見えるくらいの距離まで来ると、窓からぼーっと外を見ていた須美が彼に気付き、家を飛び出し喜色満面でトタトタ駆けて来た。

 

「おじさま! おかえりなさい!」

 

「ただいま~。台所の窓からいい匂いが流れてるな、みー子か?」

 

「はい! 今日のお夕飯は私です! おじさまの好物を……誰?」

 

 駆け寄って来た須美の足がピタリと止まり、その視線が美森で止まった。

 須美の瞳の、目の前の人物を怪しむ色がどんどん濃くなっていく。

 おじさんと美森の距離は近かった。

 並んで歩いていたが、肩と肩の距離は拳一つ分ほど。

 時たまおじさんと美森の肩が軽く触れ合うくらいの距離感であった。

 そんな距離感で話しながら歩くなんて、よっぽど親しくないとできないことである。

 

 須美は自分にそっくりだが、明らかに自分とは別人に見える美森を指差し、おじさんに有無を言わせない様子で問いかけ、空いている手でおじさんの手をぎゅっと握った。

 

「おじさま、誰ですかこの女。おじさまと距離が近すぎませんか?」

 

「お前の方が小生に近いぞ。離れろロリ、離れロリ」

 

「私はいいんです。おじさまが許してくれてるのでいいんです。離れロリしません」

 

「あら、じゃあ私もいいんじゃないかしら」

 

「え?」

 

 おじさんは美森についての説明を始めた。

 

 屋敷の人間に招集を掛けて、催眠! 説明! 納得! 終わり。

 催眠術師に面倒な説明の手間は存在しない。

 オラッ催眠! 説明終了。終わりである。

 美森が須美の未来の存在であり、過去のこの時代に飛んで来たこと、この時代で生活するために皆の助けが必要なこと、美森の境遇は秘密にしてほしいことなど、そつなく伝えていく。

 

 美森のことは広く知られてもいいことはない。

 鷲尾家の権力のバックアップがあれば大抵のことでは不自由しない。

 万が一どこかでミスっても、おじさんが催眠でリカバリーできる。

 隙はない。

 

「あの……私、もう東郷美森に戻ってしまって、未来から来たっていうのも怪しくて……」

 

「安心しなさい。君は美森だけど、私達にとっては須美でもある」

「不安にならなくていいのよ。あなたはいつだって、私達の娘なんだから」

「そーですよお嬢様!」

「使用人に何でも言ってくださいねお嬢様!」

「私達がお嬢様に何かしてあげたいのは、お嬢様がこの家の子だからってだけじゃないですよ!」

 

「……ありがとうございます!

 不肖東郷美森、恥ずかしながら今一度、この素晴らしい家にお世話になります!」

 

 美森は恭しく頭を下げ、敬礼し快く鷲尾家に迎え入れられた。

 

 おじさん、美森、須美は、おじさんの部屋に移動する。そして三人で話を始めた。

 

「大みー子の幸運は、かつてお前を引き取ったのがこの家だったことだな」

 

「……はい」

 

「催眠が無くても、顔や記憶の照合で受け入れてもらえたかもしれん。善い人達だ」

 

「私がこの家に来て最初に抱いた不安を、最初に晴らしてくれた、私の大事な人達です」

 

「そうだ、感謝の心を忘れるなよ」

 

「何他人事みたいな顔してるんですか、おじさま」

 

「は?」

 

「私だけじゃないですよね?

 おじさまも大分ここの人に優しくしてもらったはずです。

 ここの居心地の良さに浸っていたはずです。

 私と同じくらい、おじさまもこの家の人達が好きであるはずですよ。

 おじさまは自分を好きで居てくれる人を嫌いにはなれない人ですから」

 

「いや、別に」

 

「おじさま」

 

「……」

 

「私とおじさまの好きなものが一緒だったら嬉しいのに、そうごまかされたら寂しいです」

 

「ぬ……む……まあ、それもそうかもな。悪かった」

 

「ふふっ」

 

 おじさんと美森が親しげに話しているのを、須美は半目でじとっと見つめていた。

 何も言わない。

 何も主張しない。

 何かを考えながら、じとっとした目つきでおじさんと美森を見つめ、やがて我慢できなくなった様子でおじさんの服の袖をちょんちょんと引き話しかけた。

 

「おじさま、おじさま」

 

「どした小みー子」

 

「いいんですか。こんな未来の私なんかに理解者面させて」

 

「未来の自分に"なんか"とか言ってる奴初めて見たよ小生」

 

「なんだか……他の人がおじさまの一番の理解者ですみたいな顔してるのは腹が立ちます!」

 

「あらあら」

 

 須美がちょっと熱を上げ、おじさまが腕を組み、美森が微笑んで頬に手を当てた。

 

「こんなの小学校を定年で足抜けしただけの劣化私じゃないですか!」

 

「卒業を定年って言う奴初めて見たわ」

 

「遠回しに私を年増扱いしてる感じが芸術点高いですね……あ、これ自画自賛かな?」

 

「自画要素どこだ? ただの自賛だろ」

 

「そうかもしれませんね。ああ、でも懐かしい。昔の私はこんなだったな……ふふっ」

 

 美森はとても懐かしそうに、須美を見ていた。

 須美と美森が、一対一で向き合う。

 

「でもね、過去の私。ちょっと聞いてくれないかしら」

 

「……なんですか」

 

「小学生の時の私はおじさまに頭撫でられてないけど、私は撫でられたことがあるわ」

 

「!? 私のことをガラス細工みたいに扱ってるフシがあるおじさまが!?」

 

「ちょっと待てその小生への評価初耳なんだが」

 

「撫でてもらった私は過去の自分であるあなたに対して魂の位階で優位にあるの」

 

「お、おじさまが私の頭撫でないのは私を大事にしてるだけだもん……」

 

「でも……撫でられてないのよね?」

 

「おじさま! この際恥も外聞も捨てます! 撫でてください!

 なんでか、なんでか……私が私に自慢してるこの状況が死ぬほど悔しいです!」

 

 須美は荒れ、美森は微笑み、おじさんは頬杖をついていた。

 

「え、この流れで小生が? 人前で? 嫌だよ恥ずかしい。壁に頭擦り付けてろ」

 

「おじさまぁ!」

 

「でも自分で自分にマウント取ってんのクソウケる。みー子は面白いな」

 

「おじさま……」

「おじさま!」

 

「こういうとこは微妙に息合わないんだな……」

 

 おじさんの目は正確に、美森と須美の関係性を見抜く。

 

 この年頃の子供にとって、三年分の人生経験値の差は大きい。

 11歳の須美の人生の1/4以上……物心つく前を除外すれば、須美の現在の人生の記憶の1/3レベルの、『子供にとって長い時間』だ。

 その時間の差が、美森と須美の違いを作っている。

 一人の人間の、過去と未来の姿でしかないというのに。

 

 二人は同一人物だが、絶妙に互いを他人のようにも見ている。

 須美は美森を未来の自分と認めたくない。

 その理由は、美森の余裕が適当に生きているように見えるからだろうか。

 美森は須美を妹のように扱っている。

 それは自分が数年生きて失った純粋さや生真面目さといったものを、まだ須美が持っていて、それが懐かしく愛らしく感じられるからだろう。

 

 だから須美は美森を突っぱねるし、美森は須美を可愛がろうとしている。

 美森がくすくすと笑って、おじさんに耳打ちする。

 

「おじさま、過去の私って未来の私よりずっと可愛くないですか? これ」

 

「小生からすりゃどっちも可愛いガキだよ。

 あんまからかってやるな、小学生だって分かってんだろ?」

 

「それはそうですけど。あ、可愛いって言ってくださってありがとうございます。嬉しいです」

 

「子供扱いしないでください!

 未来の私はここ言い返すところですよ!

 第一、三年くらいの歳の違いしかないなら大差ないはずです!」

 

「そうかぁ? みー子は毎日頑張ってるだろ。

 毎日、毎月、毎年、成長してると思うぞ。

 努力してるからこそ毎日ちゃんと大人になっていってるってわかるぞ、みー子は」

 

「え、あ……ありがとうございます。

 おじさまの期待に応えるべく日々邁進し……そういうことじゃないんですよ!」

 

 バン、と須美の小さな手が可愛らしくテーブルを叩いたが、驚いた者は一人も居なかった。

 

 美森は聖母のような優しげで寛容さを感じさせる微笑みを浮かべ、両腕を広げ、優しい声色で須美と向き合う。

 

「いらっしゃい、過去の私。代わりに私が頭を撫でて甘やかしてあげるから、ね?」

 

「同じ私だから分かるんですけどこれで煽ってないんですよね! 多分!」

 

 ちょっと泣きそうになってきた須美の隣に寄り添い、おじさんは須美に助言する。

 

「小みー子は大みー子に

 『頭撫でてもらって喜んでるあなたが子供なだけです』

 って反撃すりゃ良かったんだよ。ほらほらやっちまえ、ゴーゴー」

 

「むっ……それは……そうかもしれませんけど……」

 

「無理です、おじさま。

 過去の私は甘えんぼですからね。

 友達にも家族にも頭撫でてもらったら喜びます。

 だから頭を撫でてもらって喜んだら子供だ、なんて、絶対に言えないんです」

 

「ち、ち、ちがっ」

 

「……違うってよ。だから、その辺にしとけ、大みー子」

 

「もう。おじさまは本当に『私』に甘いんですから。過去の私のためになりませんよ?」

 

「みー子は自分にも他人にも厳しいんだから、周りは甘いくらいでいいと思うがね」

 

「甘やかされると私達はダメになるんです。おじさまも過去の私に厳しく……」

 

「知らんわ。どうするかは小生が決める」

 

 おじさんはそんなことを言いながら、須美の頭を撫でていた。

 

「あ」

 

 "本当に甘い人なんだから"と美森は呆れたような言葉を選んでいたが、その声色はどこか嬉しそうで、どこか幸せそうだった。

 須美はくすぐったそうにして、目を閉じる。

 当のおじさんは、東郷家の親や鷲尾家の親のように"親の経験値"がないため、あまり上手く撫でられていないことを歯痒く感じていた。

 

 撫でられながら、羞恥と喜悦が混ざった感情を顔に浮かべて、須美はおじさんに問う。

 

「か、仮にですけど、この私と未来の私、強いて言うならどっちの方が好きですか?」

 

「え、どっちが好きか?

 小生はヘラクレスオオカブトが好きだな。お前ら二人よりずっと好きだ」

 

「あーもう! 真面目に!」

 

「ダメよ過去の私。おじさまはこういう時は絶対ハッキリしたこと言わないもの」

 

「未来の私の『私が一番おじさまのこと分かってるから』感も腹立つー!」

 

「腹立ちすぎて原辰徳(はらたつのり)になりそうだな」

 

「「 誰? 」」

 

「ウッソだろこの世界原辰徳忘れられてんの!?」

 

 "そうか球団もほぼ残ってないのかこの世界……"と、ビール片手に野球観戦していた過去の記憶を思い出し、おじさんは悲しみを押し殺すように眉間を揉んだ。

 

「それにしても、ややこしいわね、呼称が……」

「未来の私が来なければ全然ややこしくなかったんですよ?」

 

「おいみー子、聞いてるかみー子、呼んでないみー子は返事しなくていいぞ」

 

「おじさまが面白がってややこしくしてるフシは間違いなくあるわね」

「おじさま……」

 

 須美、美森と話しているおじさんは、とても楽しそうだった。

 好ましい人物と、楽しげに話しているというだけで、おじさんは幸せそうだった。

 

「一旦整理しましょう。私は過去の私を須美ちゃんと呼ぶわ」

 

「ええと……私は大体の人は名字で呼ぶので、東郷さんとお呼びします」

 

「ではおじさまは私を美森と、彼女を須美ちゃんと呼んであげてくださいね」

「おじさまは私を須美と、彼女を美森さんと呼んであげてください」

 

「え?」

「え?」

 

「ややこしいな……もう両方みー子でいいじゃないか」

 

「「 そっちの方がややこしいでしょう? 」」

 

「うわっハモった。しょうがない、二人揃ってる時は美森と須美で行くか」

 

 三人揃って、"それでいいや"と言わんばかりに、うんうんと頷いた。

 なんとなくいぇいいぇいと三人でハイタッチをして遊ぶ。

 妙に息が合って楽しいことに、須美が悔しそうな顔をしていた。

 

「そういえば、東郷さんはどこの部屋を取るんですか?

 どこかの部屋を東郷さんのものにしないといけませんよね」

 

「私の寝床はおじさまの部屋でもいいわよ?」

 

「は?」

 

「私なら毎日部屋を掃除し、清潔な部屋を約束するわ。

 おじさまより早く寝ないし、おじさまより遅く起きない。

 毎朝ちゃんと優しくおじさまを起こせる。

 きっと得しかないと思う。

 おじさまは私に変なことは絶対しないって信頼もあるもの」

 

「ちょ、ちょっと!」

 

 "どうせ何もされない"と言われて、おじさんはちょっとイラッとした。

 

「このメスガキどもが……! 小生を舐めるのもいい加減にしろよ……!」

 

「仮に私や須美ちゃんと同じ部屋で寝泊まりして何かするんですか?」

 

「するわけないだろアホタレ。小中学生だろうがお前達」

 

「なら泊めてもらってもいいですよね?」

 

「ダメ」

 

 おじさんは美森の提案を頑として受け入れず、美森は余裕ぶった話し方をしようとして、ちょっとだけ声色が上ずった。

 

「そ、それは、私を異性として意識してるとか……?」

 

「いや、単純に部屋で一人でまったり休みたい時にお前が居ると邪魔」

 

「……」

 

「グッバイ美森。グッバイメスガキ。小生の部屋には恋人以外の女は侵入禁止だ」

 

 美森がちょっとイラッとしたのが、同一人物である須美にはよく分かった。

 

「私の主観で一年くらい前に、おじさまが言っていたこと、今思い出しました」

 

「何だ突然。ほら出てけ、美森は自分の部屋探してこい」

 

「『部屋に居て心乱れるのなんてとびっきりの美人くらいだろ』って」

 

「……」

 

「おじさま、どうしました?」

 

「……」

 

「黙ってたら分かりませんよ?」

 

「……」

 

「私がとびっきりの美人だと、そう思ったんですよね……?」

 

「……」

 

「催眠かけて黙らせてもいいですよ?

 でもそうしたらおじさまの負けです。

 私の記憶が消えても、おじさまはメスガキに言い負かされたことをずっと覚えてる……」

 

「……」

 

「甘く見てたんでしょう?

 私は三年以上おじさまを捌いてきた鷲尾須美ですよ。

 もうおじさまが思ってるほど子供じゃないんです。

 おじさまの扱いもお茶の子さいさい、もうおじさまに守られる子供じゃ……」

 

「須美は美森より素直で可愛いな。小生は美森より須美の方が好きだぞ」

 

「え、ここで私!? あ、ありがとうございます」

 

「ちょっとおじさま!」

 

 やんややんやと絡んでくる美森を、ああ言えばこう言う柔軟さで受け流すおじさん。

 

 会話の切れ目に、須美はふと思ったことを、なんとなく、自分でも言語化出来ない気持ちに突き動かされるように、口にした。

 

「おじさま、東郷さんに何か言われたんですか?」

 

「なんでそう思う?」

 

「東郷さんが来てから何か違うな、って思って……」

 

「気のせいだろ」

 

「気のせい、ならいいんですけど……」

 

 須美はまだ、送られてきたメールのファイルを見ていない。

 

 

 



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催眠感度10倍

「おじさまはツンデレなのよ。

 素直になれないの。

 だからしょうがないの。

 私達が優しくしてあげないといけないのよ、須美ちゃん」

 

「え、分かりますけど、解釈違いです。

 おじさまは私達の優しさなんて必要ない人です。

 周りに優しくされなくてもおじさまはおじさまですよ。

 ずっと私に優しい人です。

 おじさまにしないといけないのは優しくされた後にちゃんとありがとうって言うことです」

 

「分かるわ。

 でもそうじゃないと思うの。

 おじさまは優しさが必要ない人じゃないわ。

 優しくされてないと生きていけない人なのよ。

 催眠で優しさを周りから受けるのが常態化してるだけ。

 おじさまに寄りかかりすぎないで、私達もおじさまを寄りかからせてあげないと」

 

「分かります。

 でもおじさまは求めてませんよね?

 おじさまは欲しい時に欲しいだけ催眠で優しさを摂取してると思います。

 欲しくない時にも優しさを求めてる人じゃないと思うんです。

 寄りかかりたい時にはそう言うはずです。

 求めてる人に求めてるものを与えないと、迷惑になることもあるはずです。

 おせっかいでおじさまに不快感を与えたくありません。

 ……私は特に、真面目すぎて融通が効かなくて、不快なおせっかいをしがちだから」

 

「分かるわ。

 でもね、おじさまは間違えない人じゃないと思うの。

 食生活なんて酷いものよ?

 健康なんて全然考えてないわ。

 食べたいもの食べてばっかり。

 部屋の掃除もサボリ気味。

 おじさまは周りが助けて初めて、まっとうに人間らしく生きていける人なのよ」

 

「分かります。だらしないところありますよね。

 でもそこを拡大解釈してもどうかと思います。

 おじさまは一人でも立派な方です。

 自分一人でも大丈夫な方です。

 だらしなさは本当にどうにかした方がいいとは思いますけど……

 だから私に手を差し伸べてくれるんです。

 私がそう思うその部分に関して、それは東郷さんも同じなんじゃないですか?」

 

「分かるわ。

 でもねそうじゃないの。

 手を差し伸べられてそこで終わりじゃないわ。

 私の方からも手を差し伸べていかないと。

 そのためには、おじさまが迷わず私の手を取れるようにしないといけない。

 自立しないといけないのよ。

 成長して、進学して、就職して……

 おじさまが迷わず私の手を取れるようにしないといけない。

 そうすることが最終的におじさまのためになるんじゃないかって、私は思うわ」

 

「分かります。

 でも、それはちょっと違うんじゃないでしょうか?

 視野が長期的すぎると思います。

 もっとすぐにおじさまの助けになることもできるはずです。

 ご飯作って、朝起こして、部屋を掃除して、労をねぎらって……

 毎日私にできることを、ちゃんと丁寧にしてあげるべきです。

 そうすることが最終的におじさまのためになるはずだと、私は思います」

 

「分かるわ、でもね―――」

 

「分かります、でも―――」

 

「同一人物で小生に微妙な解釈違い起こしてんじゃねえ!! 原辰徳!!」

 

 おじさんの目の前で、アニメのキャラ性格解釈を語るようにおじさんの性格解釈をし始めるみー子達に、おじさんはちょっとキレた。

 

「二人とも催眠かけて食券システムの店で絶対に食券の機械見落とすようにすんぞ」

 

「へ? それがどうかしたんですか?」

 

「ダメよ須美ちゃん!

 急いで謝って!

 あの催眠を受けたら食券を買わないでカウンターに座ることになるわ!

 それで『ボタンも無いから店員が聞きに来るのかしら』なんて思ったら終わり!

 何十分かカウンターで待った挙句『どうしたんですか?』って店員に言われるわ!

 そしてくすくすと周りから笑い声が上がるのよ!

 その時の羞恥心はもう二度と同じ店に行きたくなくなるほどよ! うぅ……」

 

「東郷さんその催眠受けたんですか!? 一体何したらそんな罰を受けることに……?」

 

「おじさまのえっちな本を燃やしただけなのに……」

 

「こ、この野郎……! 良いだろ別に小生がエロ本買ったってそのくらい!」

 

「ふ、不潔ですよおじさま!

 仮にも鷲尾家の人間を名乗るなら現実の人間に目を向けてください!

 それとおじさまはその性欲も抑えないと、いつか不埒なことを……」

「そうですそうです!」

 

「じゃかしいわ、お前ら二人共潜在的性欲強い方だからな、自覚ないだろうけど」

 

「「 !? 」」

 

「一見貞淑で清楚っぽく見えんのは自制心強くて真面目なだけだからなおうコラ」

 

 催眠おじさん(アンサートーカー)は心の答えを知る者。心の属性を見抜く者。催眠おじさんを前にして精神の性質を見抜かれない者はいない。性欲とか。

 愛が深く強いがゆえに性欲が強いタイプというものは存在する。

 同時に、そういう自分の性質をしれっと受け入れないタイプも存在する。

 

「東郷さん、私の性欲強いと思いますか?」

 

「いいえ、思わないわ。須美ちゃんはそういうのとは無縁な可愛い子よ」

 

「ありがとうございます」

 

「須美ちゃんは私の性欲強いと思いますか?」

 

「いいえ、思いません。

 おじさまの一番の理解者気取りは鼻につきますけど……

 ちゃらんぽらんっぽいところに目を瞑れば……理想の未来の私です」

 

「ありがとう。ふふっ」

 

「……みー子'sはさぁ」

 

「おじさま、多数決の原理に従って間違ってるのはおじさまということに決定しました」

「しました。おじさまが何を言っても二対一です」

 

「うっわズッル……2chで一人二役自演してる人かよ……

 ちょっと待ったお前ら最近催眠ちゃんと効いてる? 効いてるよな?」

 

「効いてますよね?」

「効いてるわね」

 

「こういうとこで

 『私に催眠なんて効くわけないじゃないですか』

 とか言ってくれると安心できるんだけどな……どっちだこれ。まあいいや重ねがけしとこ」

 

 催眠が半ば解けた人間が催眠が解けてないフリをしていたとしても、催眠の重ねがけを定期的にしておけば、催眠がいつの間にか解けていたとしても問題はない。

 リスクマネジメントである。

 催眠術師は催眠が解けた瞬間に被害者に通報されるというリスクが常にあるため、優秀な者は常にリスクマネジメントを心がけている。

 一流の催眠おじさんがリスクを考慮しないということはない。

 

 須美森のおじさんはかつて、『地雷踏みたくないからネタバレありでも作品の概要見てから作品見に行くわ。オチまで見てからじゃないと安心できないおじさん』に師事していた。

 リスクマネジメント技術は卓越したものがある。

 

「おじさまの催眠は強いですね……防げたことなんて一度もないです。流石ですね」

 

「まあほとんどの催眠はかけられた自覚与えないからねぇ。

 ハッハッハ、小生の強さを信じろ。

 仮に、前にダークサイド催眠おじさんの幹部クラスがやってた、

 『少子化対策に強姦が合法化されました。女性の方は拒否も逃げもダメです』

 とかいう全世界催眠が実行されたとしてもお前達が催眠にかかる前にぶっ殺してきてやる」

 

「状況が特定条件下すぎませんか……?」

 

「お茶が入りましたよ」

 

「褒めてつかわす、須美」

「ありがとう、須美ちゃん」

 

 美森はおじさんの正面で行儀良く飲み、須美はおじさんの隣で行儀良く飲み、おじさんはだらけた姿勢で行儀悪く美味しそうに飲んでいた。

 

「そうだ、おじさま。最近私、肩揉みのやり方を完璧に習得したんです」

 

「ほう……須美がなあ。

 鷲尾のお父さんとかにしてあげるのか?

 あの男も大分歳だからな。

 義娘のためか勇者関連の業務も進んでやって根を詰めている。やってやれば喜ぶだろう」

 

「はい、そのつもりです。なのでおじさま、練習に付き合っていただけませんか?」

 

「いいぞ」

 

「ありがとうございます! 実は、その……」

 

「須美ちゃんはおじさまの労もねぎらいたいんです、って言いたいんですよ」

 

「東郷さん! そういうことはちゃんと自分で言います!」

 

「あら」

 

「なんで先に言っちゃうんですか! 東郷さんはもう!」

 

「ごめんなさいね須美ちゃん。でも早く言って損はないと思うの。同じ私だから」

 

「小生ジャンプのネタバレ画像twitterに流して悪びれない人とキレる人の会話見てる気分」

 

 ぷんすかして、須美はおじさんの背後に周り、肩を揉み始めた。

 

「どうですかおじさま、痛くないですか」

 

「ああ、いいぞ、いい感じ。須美は肩揉みの達人だな」

 

「ふふん。インターネットでちゃんとやり方を調べてきたんですよ」

 

「あっ達人じゃねえなにわかだコレ。でもいい感じ、上手上手」

 

「おじさまに喜んでいただけたなら嬉しいです」

 

「たとえるなら就寝前にベッドに寝転がってスマホをいじってるような安らぎだ」

 

「それ安らぐんですか?」

 

「安らぎすぎて睡眠時間が減るくらい安らぐぞ」

 

「ちゃんと寝てください。健康に悪いですよ?」

 

 おじさんがヘタクソに微笑んで、須美が褒められたことに上機嫌に笑う。

 一方東郷は首を傾げ、何やら考え込み、須美の肩揉みの手付きをじっと見ていた。

 

「須美ちゃん、ちょっと代わってもらえる?」

 

「東郷さん? いいですけど……」

 

「おじさま、失礼します。違和感があったら言ってくださいね」

 

「おう……おうっ!? あ、おっ……あーっいいっすね……いい……」

 

「!? え、東郷さんがしただけで急に……?」

 

「私もこれでも、三年くらいおじさまに合わせて肩揉みを最適化した家族だから」

 

「たとえるなら真冬に帰宅してすぐ入った40度の風呂に肩まで浸かるような安らぎだ……」

 

「あっすごく安らいでる!」

 

 美森と須美の技術に差はあるが、そこまで極端な差はない。

 二人ともマニュアル的に独学で習得した技術でしかないからである。

 決定的な差は、"最適化"。

 おじさんに合わせた肩揉みの経験値が、おじさんに最適化した肩揉みを生む。

 修練によって極めていない卍解が龍紋鬼灯丸にしかならないように、三年分の年月の差が、そのまま美森と須美の差になっていた。

 

「いいぞ美森……将来の旦那にやってやれ……東郷の家の両親にもな……」

 

「もうしましたよ。おじさまはいつの時代も同じようなこと言いますね」

 

「……ああ、そっちの小生がもう言ってたのか」

 

「そうですよ。おじさまはいつもおじさまです」

 

 気持ちよさそうにしているおじさんと、自分より格上の美森を見て、須美は何か言いたそうにしながらも、何も言えないままじとっとした目つきで二人を見ていた。

 

「うう……」

 

 須美は意地っ張りだが、自分のダメなところをちゃんと見られる子でもある。

 自分の能力の低さを突きつけられれば、しっかりとそれを受け止められる。

 受け止められるが、悔しいものは悔しい。

 自分より上手い美森が肩を揉んでいれば、出しゃばろうと思うこともできず、ただただ悔しそうに臍を噬むのみ。

 

 そんな須美を、おじさんが横目に見ていた。

 

「美森、ちょっと代わってくれ」

 

「……もう、おじさまは『私』に甘いんですから」

 

「小生は須美に肩揉んでもらいたいんであって、上手い奴に揉んでもらいたいわけじゃない」

 

「!」

 

 須美が目を輝かせ、苦笑しておじさんの背後からどいた東郷とすれ違うようにして、小走りでおじさんの背後に回った。

 

「誠心誠意頑張ります!」

 

「おう頑張れ。あとで労働の給料として何かデザート作ってやるから」

 

「わぁ……楽しみに待ってます!」

 

「おっ、いい感じいい感じ、上手だぞ須美」

 

 須美がおじさんの肩を揉み始めたのを見て、美森が嬉しそうに呆れていた。

 

「知りませんよ。甘やかしすぎて須美ちゃんがダメになっても」

 

「お前がそんなことでダメになるわけがないだろ。少なくとも、中三までは立派に成長してる」

 

「……もう」

 

「第一甘やかしてないと言うに。

 お前たちは小生の催眠で奉仕させられてるだけだからなハッハッハ」

 

「奉仕させてるだけっていうなら上手い私だけに肩揉ませ続けてたんじゃないですか」

 

「……」

 

「そうですよね?」

 

「そこは、ほら、あれだな。

 あれだあれ。あれだ。

 お前には話さないが小生の深謀遠慮があるんだ」

 

「言い訳思いつかなかったんですね……」

 

「黙ってろ」

 

 美森が人差し指でおじさんの頬をつんつんつつき、おじさんがデコピンで美森の指を弾き、美森が笑った。

 

「もういいぞ須美、随分楽になった」

 

「喜んでいただけたなら幸いです。次回以降も頑張ります!」

 

「後ろ向け後ろ」

 

「え?」

 

「今度は小生が肩揉んでやる」

 

「え、そ、そんな悪いですよ!」

 

「『背中見せて黙って肩揉まれてろ』」

 

「うっ」

 

 子供の遠慮は、大人の催眠には勝てない。メスガキは催眠には勝てないのだ。

 

 須美の肩を揉みながら、おじさんは須美に語りかける。

 

「今日は金曜日だからな。みっちり訓練してきたんだろう、何をしたんだ?」

 

「走り込みして、戦闘訓練をしました。

 その後座学をしっかりして……

 体の疲労がある程度抜けたところでまた戦闘訓練です」

 

「お国のために、皆のために、だな。どのくらい頑張ってたんだ?」

 

「今日は短縮授業だったので昼から……六時間くらいだったと思います」

 

「ほう、随分頑張ったな。偉いぞ」

 

「えへへ。んっ、こほん。

 総合評価では今の世代の勇者で一番いいんですよ私。

 他二人の座学成績がそんなに良くないから、私が一番なんです」

 

「おお、それは凄いな。

 須美が頑張った証だ。

 だが調子に乗るなよメスガキ。

 催眠術師も戦士も、調子に乗ったやつから死ぬんだからな」

 

「はい。肝に銘じておきます。ちゃんと出撃しても、おじさんの下に帰ってきます」

 

「……」

 

「おじさま?」

 

 おじさんは少し無言になって、須美の肩を揉んでいた片方の手で、不器用に須美の頭を撫でてやった。

 

「小生は、歳を取ったら、情けなくなった。

 『頑張るのは格好悪い』

 だなどと普通に思うようになった。

 ……お前は立派だ。

 頑張ることを格好悪いことだなんて思ってもいない。

 それはな、それができない人間には、眩しく見えるんだ」

 

「おじさま、くすぐったいです」

 

「クックック、せいぜい努力して小生の良い手駒になるがいい」

 

「はい!」

 

「うわっ今日一で良い返事」

 

 須美の頑張りを褒めて肩を揉むおじさんの肩に、手の感触。

 

 振り向けばそこには、笑みを浮かべておじさんの肩を揉む美森がいた。

 

「おじさまが須美ちゃんの肩を揉むなら、私がおじさまの肩を揉みますね」

 

「おいおい」

 

「いいじゃないですか。労をねぎらわれる分にはただですよ?」

 

「お前な……」

 

 おじさんは呆れた様子であったが、拒みはしなかった。

 

「おじさま、褒めるのは須美ちゃんだけですか?

 私には同じこと言ってくださらないんですか?」

 

「お前も須美だった頃の熱意と前のめりなひたむきさが自分から無くなってる自覚はあるだろ」

 

「……そうですね。その通りです。

 私は来年高校生ですけど、確かに小学生の頃ほど前のめりではなくなったかな」

 

「それが悪いと言ってるんじゃない。

 むしろ安心したぞ? 随分安定感が増したな、美森。

 お前はちゃんと大人になっていってる。

 まあ、まだまだガキだけどな。

 須美より安心して見てられるようになった。

 "焦らなくていい"って、一人でもちゃんと思えるようになれたんだな」

 

「何年も経ってますから。

 おじさまの私を見る目が変わるように、私もおじさまを見る目がちょっと変わりましたよ」

 

「何がだ?」

 

「おじさまって、小学生の頃の私が思ってたより、子供っぽいところがあったんだなって」

 

「はっ倒すぞ」

 

「うふふ」

 

 美森が鈴を鳴らすような澄んだ声で笑う。

 

 その時、部屋の扉が開き、鷲尾夫婦が使用人を連れて入って来た。

 

「ちょっといいかい、大きな須美の泊まる部屋のことで……おや、三人で何をしてるのかね」

 

「催眠理解波!」

 

「うっ……」

「なるほど」

「三人で肩を揉み合ってると」

「揉み合ってると言うには一方向過ぎる気もしません?」

「理解しました!」

 

「おじさまの催眠ってできないことなさそうですよね……」

 

「できないことは全くできんぞ」

 

 催眠で"見て脳に入る情報に僅かな補正をかけられ状況を理解させられた"大人達が、三人を見て何かを思いついた様子を見せた。

 

 まず動いたのは鷲尾父。

 

「では私は、大きな須美の肩を揉んであげようかな」

 

「え、そ、そんな悪いですよ!」

 

「いいんだ。私はあまり須美に父親らしいことができてないからね」

 

「……お父様。そんなことはありませんよ」

 

「娘によく頑張ったと言ってやるくらいいいだろう? 父親なんだから」

 

「……はい。ありがとうございます、お父様」

 

 美森は何かをこらえてはにかみ、父は穏やかに微笑んだ。

 

 そんな父の肩を、母が揉み始める。

 

「いつもお仕事ご苦労さまです。あなたのおかげで、今日も鷲尾家は安泰ですよ」

 

「おお、ありがとう。お前が妻として支えてくれるおかげだ」

 

「大袈裟ですよ、もう」

 

 父の肩を揉む母の肩を、使用人のチーフリーダーが揉む。

 

「奥様もいつも頑張ってますよ!

 鷲尾家のお仕事も家庭の責任も両立してる立派な方です!

 お嬢様の好きなものを調べて初日から出してたの見て、あたし感動してました!」

 

「あらあら、ありがとう」

 

 チーフリーダーの肩を、新人の使用人が揉み始める。

 

「チーフ! いつもお仕事おつかれさまっす!

 チーフも中々ですよね!

 仕事もちゃんとしてるし須美お嬢様に可愛い私服こっそりあげてたり!」

 

「ありがとう! 明日もあたし達は仕事よ! しっかりね!」

 

「うす!」

 

 人の後ろに人が繋がり、その後ろにまた人が繋がっていく。

 やがて出来たのは、その場に居た全員が直列繋ぎにされた数珠繋ぎの集団だった。

 

 勇者?

 否。

 列車である。

 鷲尾須美は列車である。

 

 須美は戸惑いをそのまま声にして張り上げた。

 

「な……なんですかこれ!? なんで列車が出来てるんですか!?」

 

 須美の後ろで、おじさんが声を張り上げる。

 

「須美……この列車の先頭はお前だ! 行き先はお前が決めるんだ!」

 

「どこに行けって言うんですか!」

 

「未来へ」

 

「どうやって……!?」

 

「須美、お前が進む先が未来だ! お前の後ろで背中を押す小生を信じろ!」

 

「未来ってどっちですか!?」

 

「お前が選んだ道の先こそが未来だ! 好きに選べ! 肯定してやる!」

 

「曖昧で抽象的なこと言ってたらかっこよくなると思わないでください!

 じゃあなんですか! 私が壁と結界壊して世界滅ぼしても肯定するんですか!?」

 

「いいぞ! 肯定してやる!

 お前のおじさまはお前の味方だ! お前が世界を滅ぼしてもお前の味方だぞ!」

 

「もー! 絶対からかってる!」

 

「オラ進め! 笑って進め! カッカッカ!」

 

 列車フォームのまま全員で食堂に向かい、おじさんが冷蔵庫の中身で全員分のデザートを作り、各々好きなところに座り好きなように話しながら、おじさん作のデザートを絶賛していく。

 楽しい時間。

 和やかな時間。

 幸せな時間。

 

 須美は笑顔で舌鼓を打ち、美森は"懐かしいな"と微笑んでいた。

 

 

 



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催眠感度11倍

 須美が早朝の習慣である水垢離を終え、着替えて庭を歩いていると、奇妙な動きをしているおじさんと、その近くの木陰で本を読んでいる美森が見えた。

 "また一緒にいる"と思い少しムッとして、須美は小走りで駆け寄っていく。

 

「おはようございます!」

 

「おはよう須美。今日も元気だな」

「おはよう須美ちゃん。そういえばこの頃、私の起床時間このくらいだったっけ……」

 

「おじさま、何をしてるんですか?」

 

「見て分からんのか?」

 

「すみません、分かりません」

 

「須美ません?」

 

「発音のニュアンスだけでからかいにかからないでください……何をしてるんですか?」

 

「ふむ。お前もやるか」

 

「? はい」

 

「お前はスカートだからな、前は注意して隠しておけ。

 まず腰を深くまで落とす。

 左右に開いた両足で地面を踏みしめながら、尻が地面につきそうなほど腰を落とす」

 

「はい」

 

「右手を腰の後ろに回し、左腕を前に出す。

 左手の高さは、立っている人間の膝より少し下あたりだ」

 

「はい」

 

「そして、自分の体で絶妙に隠すようにして、すっ、と左手を少し上に動かす」

 

「はい」

 

「すると審判がこう言う。スットラァァァァァイクッ!!」

 

「ボールをストライクに見せかけるキャッチャーの練習とかして何の役に立つんですか!!!」

 

 須美はスカートを抑えながら勢い良く立ち上がり、美森がくすくすと笑っていた。

 

「というか、おじさま本当になんでこんな練習を……?」

 

「小生小学生の頃はチームのキャッチャーだったからな。

 友達が居なかったから一度もレギュラーに選ばれたことはなかったが」

 

「お、おじさま……」

 

「スマン見栄張った。友達とか関係なく純粋にヘタクソだったから試合出たことないんだわ」

 

「おじさま……!」

 

「最近子供の頃のこと思い出すことが何故か増えてなぁ」

 

 須美はおじさんがどこからか取り出したボールを小指の上で高速回転させてるのを見て、ふと思ったことをそのまま口に出した。

 

「おじさま、キャッチボールっていうのやりましょう!」

 

「須美やったことあんの?」

 

「いいえ、ドラマで仲が良い親子がやってるのを見たことがあるだけです」

 

「……ふーん。ま、いいぞ。教えてやる」

 

 おじさんが東郷が座って本を読んでいた木陰から、グローブを二個持ってきた。

 

「新品なんですね」

 

「昨日買った。柔らかくはしてある」

 

「二個買ってありますね」

 

「そうだな」

 

「も、もしかして、私とこういうので一緒に遊びたかったとか……」

 

「いやそっちは普通に小生とキャッチボールできる美森用」

 

「……」

 

「可愛らしい勘違いだな」

 

 須美に猛烈に睨まれ、美森は揺蕩う雲のような掴みどころのない笑顔で手を振って返す。

 美森の余裕に須美はちょっとイラッとした。

 

「興味あるなら今日須美用のも買ってくるぞ」

 

「! ……いえ、そんなおねだりはできません」

 

「何色がいい?」

 

「あ、買ってくることはもう決まってるんだ……すみません、ありがとうございます」

 

 須美は嬉しそうにして、今日のところは美森のグローブを借りる。

 相変わらず笑顔で手を軽く振っている美森に、感謝の意を込め、須美は軽く頭を下げた。

 

 おじさんが投げる。

 ゆるやかな放物線を描いて飛んだ遅いボールが、須美の胸の前でキャッチされる。

 須美が投げる。

 おじさんの頭上はるか高くを飛び越えようとした球に、おじさんがジャンプで飛びついた。

 また、おじさんが投げる。

 ゆるやかな軌道で、左手にグローブを付けた須美が取りやすいよう、少し左に寄せられた遅いボールを、須美が楽々キャッチする。

 また、須美が投げる。

 おじさんの足元で地面にぶつかり跳ねるボールを、おじさんが高度な技でキャッチする。

 

「いいぞ、才能あるぞ須美」

 

「そうですか? なんだかまだよくわかってないですけど、楽しいですね」

 

 "褒められながら新しくできることが増えていくと何だって楽しいんだよ"と思い、口には出すこと無く、おじさんはククッと笑った。

 須美が投げた左側にすっ飛んだボールを、飛びつくようにしてキャッチする。

 

「いや、須美本当に才能があるぞ。

 ヘタクソな人間は投げられたものの放物線を想像できないんだ。

 だからゆっくり投げられたボールでもキャッチできない。

 その点お前はかなり放物線への理解が高い。

 飛んでる物と重力への理解ができてる、って言うべきかな。

 だから難なくキャッチできる。こういうのを才能って言うんだと思うよ、小生は」

 

「最近はみっちり空飛ぶものを矢で撃ち落とす訓練をしてるので、そのおかげかもしれません」

 

「……そうか。そうだな。お前は戦う訓練をしてるんだった」

 

「思いっきりいきますよー! 受け止めてください、おじさま!」

 

「人生、努力したことは無駄にはならないといったところか」

 

「あっ」

 

「んぐっ」

 

 話の途中で何やら真剣なことを考え始めたおじさんの股間に、素人特有のミス『突然全力で投げて暴投する』が発動し、野球ボールが猛烈な勢いで突き刺さった。

 かつて催眠宇宙大帝『サイミンミンゼミ』との戦いですら膝をつかなかったおじさんの意識が明滅し、その膝が折れ、土が膝を汚す。

 

 この時代の勇者は、美森を除いて三人。

 三人が前衛中衛後衛に分担されており、須美は後衛に割り当てられている。

 訓練で伸ばしている彼女の技能は、"弓での狙撃"。

 遠くから飛び道具で正確に敵の弱点を突くことが求められる。

 急所の破壊こそが彼女の仕事である、と言い換えることもできるのだ。

 

 彼女が飛び道具で人生初めて貫いたものは、おじさまのおちんちんだった。

 金玉が鳴く。

 痛い痛いと鳴き叫ぶ。

 チー! ロン! 略してチン。チンチン! チンチンが鳴く。

 おじさまの脳裏にくだらないワードが次々浮かび、冷静な思考が吹っ飛び、おじさんは自分の体も思考も大変なことになっていることを自覚していた。

 痛みによる、脳の逃避行動である。

 

「ぐっ……おちんちんがコロナ大爆発(パンデミック)してしまう……!」

 

 痴漢肺炎。だがそれ以上に大変なことになっていたのは、須美だった。

 

「あ……私……おじさまに危害を……?」

 

 催眠ハッピーセット、プリセットその1『彼に対して明確に不都合になることはできない』。

 おじさんへ危害を加える可能性を摘み取るためのリスクコントロールの一つ。

 

 普通なら問題にならず、むしろ問題を除外してくれる良い催眠だ。

 だが須美が格別に生真面目すぎて善良すぎたことが災いした。

 おじさんを傷付けたことを『自分がやらかした大失敗』と思い込んでしまったのだ。

 『おじさんを傷付けてはならない』と、『おじさんを傷付けてしまった』が、須美の中で精神矛盾を発生させ、須美の心が内部で火薬が爆発するガラス瓶のような状態になる。

 

 10分も経てば精神に後遺症が残りそうな状態に陥った須美に、おじさんは痛みを堪えて即時対処の催眠を刺し込んだ。

 

「さ……催眠解除! 記憶消去! 催眠!」

 

 須美の催眠を解除し、今おじさんの股間のボールと野球ボールでビリヤードをした記憶を催眠で消し、即座に催眠をかけて元通りの催眠に戻しつつ記憶を整地する。

 

「あれ? 今私何してたんでしたっけ……?」

 

「小生が転んで体を打ったから、お前が、心配して駆け寄って来てくれた、ところだ」

 

「そういえばおじさまのこと心配してたような……た、大変!

 待っててくださいおじさま! 今救急箱を持ってきます! もうちょっと頑張って!」

 

 救急箱を取りに行った須美を尻目に、おじさんは真っ青な顔で股間を抑え、ふらふらと立ち上がり、そこで頭を抱えている美森の姿を見た。

 

「どうした……美森……?」

 

「いえ、その……須美ちゃんの過去は大体私の過去でもあるので……思い出して……」

 

「思い出し、落ち込みか……面倒臭いやっちゃなお前……大丈夫か?」

 

「一番大丈夫じゃなさそうなのはおじさまです」

 

 過去におじさんの股間にボールをぶつけて、おじさんに一時消されていた記憶が蘇り、美森は身悶えしていた。

 美森は身悶えしつつも、記憶の苦しみをなんとか乗り越え、息も絶え絶えにどうにかおじさんに手鏡を渡す。

 

「どうぞ、手鏡です」

 

「おうサンキュー。『お前はもう痛くない』。……ふう、なんとかなったな」

 

「飛んだのは痛みだけですよ? ダメージはそのままです。分かってますか?」

 

「あー分かってる分かってる。大丈夫だから」

 

「もう」

 

 美森は呆れた様子で、読んでいた本を閉じ、おじさんの隣に座る位置を移した。

 

「あ、そういえばおじさま、しずくちゃんとこの時期お友達でしたっけ?」

 

「え……誰それ知らん……みー子の友達?」

 

「同級生です。

 クラスは……一緒になったことは、なかったかな。

 おじさまとお友達みたいで時々キャッチボールなどで遊んでるの見てましたよ」

 

「野球少女?」

 

「時々凄い動きしてましたよ。おじさまがからかって、よく発勁で吹っ飛ばされてました」

 

「それ本当に小生のお友達???」

 

 おじさんが疑問を口にし、美森が首を傾げ、おじさんも首を傾げ、二人揃って同角度に首を傾げたまま無言が続き、その答えは誰も知っていないということが確定した。

 

「で、そのしずくちゃんがどうしたって?」

 

「えーっと……なんでだったかな……おじさま知ってますか?」

 

「知るわけないだろ! え、なんで小生? みー子か誰かが小生に紹介したんじゃないのか」

 

「どうでしたっけ……?」

 

「ええ……なんでお前が忘れて、って、ああ、そうか」

 

 美森は記憶を消されている。

 一部の記憶だけを消されているため、自分でも記憶の齟齬や言動の食い違いに説明をつけられないことがある、ということなのだろう。

 

 消された記憶は、おじさんの末路と、美森が過去に来た理由、そこに繋がる全ての記憶。

 おじさんは自分の末路に繋がる情報は全て取得していた。

 ならばこれは、須美が過去に来たことに関する何かの記憶であるということだ。

 『しずく』なる人物に、おじさんの知らない何かがある。

 

 催眠を解除すれば美森の記憶も戻り、美森に直接問い質すこともできるかもしれない。

 だが、おじさんはそこまで美森を甘く見ていなかった。

 一度解けば、その瞬間に畳み掛けられ、美森の意思を徹される―――そんな、鷲尾須美/東郷美森への信頼のようなものがあった。

 おじさんは、努力している者を甘く見ない。

 ゆえに、催眠は解除しない。そこはどこまでも徹底している。

 

「小生がチェックしてる須美の同級生なんて勇者の二人くらいだったな」

 

「銀とそのっちですね。可愛いでしょう?

 それにとっても優しいんですよ。

 私の心の支えだって、胸を張って言えます。

 須美ちゃんはまだ出会ってないみたいですけど、かけがえのない親友になるはずです」

 

「そうなのか。写真は見たが、可愛らしいガキンチョって感じだったが」

 

「写真で伝わる可愛さじゃないんです……! 銀とそのっちは凄いですよ!」

 

「お、おう、そうか。

 まあ須美も含めて顔が良い三人だったからな。

 神樹は顔で勇者選んだロリコンなんじゃないかとも思ったが……」

 

「神樹様はそういうのじゃないですよ。

 なんというか……"人間とは違う尺度"で考えてる、別の常識がある神様です」

 

「神様はそこそこ見てきたが……」

 

「見てきたんだ……」

 

「日本神話系統のタイプに感じるな。

 神の性格は、神話体系ごとに千差万別だ。

 日本人でないと理解し難い性格……に、感じる。ほぼ勘だが」

 

「だから、勇者を神様が顔の好みで選んだっていうことはないと思うんです」

 

「これでお前らがブスだったらブストレイ三人娘って言ってたわ。

 みー子はブストレイブルーフレームだったな。まあそうはならなかったが」

 

「おじさまは親しい相手にブスとか言えないでしょう。

 須美ちゃんが仮に顔が良くなかったとしてもブスだなんて絶対に言えないと思いますよ」

 

「……」

 

「おじさま、黙ってないで何か言ったらどうですか?」

 

「お前が勇者に変身した服まるでそこそこ痴女みたいだよな。恥ずかしくないの?」

 

「ちょっと!」

 

 すぐ自分が勝てそうな話題に切り替えようとするんだからもう、と美森は腰に手を当てて呆れた表情をした。

 

「須美がお前みたいな服着せられないこと願うばかりだよ」

 

「私と須美ちゃんの装束は別ですけど須美ちゃんも大体あんなものですよ」

 

「嘘だろ!?」

 

「気になりますか? ……まさか、服次第で須美ちゃんに欲情するとか言いませんよね?」

 

「須美に欲情するくらいなら両津勘吉に勃起するわ、ナメんな」

 

「おじさま。冗談でも言って良いことと悪いことがあるのでは?」

 

「すまん、今の十割嘘だった」

 

「よろしい。尊敬できるおじさまでいてください」

 

 おじさんがまだ写真で顔を見ただけで、出会ってもいない勇者は二人。

 

乃木園子(のぎそのこ)

 三ノ輪銀(みのわぎん)

 須美と共に戦う残り二人の、選ばれた勇者か……」

 

「いい子ですよ、二人共。『とっても』が頭に付くくらいに」

 

「そういえば美森は、もうこの二人とは一緒に戦った後なのか」

 

「そう……ですね。

 何か忘れてる気がするんですけど……なんだったかな……」

 

「……ここにもか」

 

 美森の記憶の欠落。しからばここにも、"何か"があるということだ。

 三ノ輪銀か、乃木園子か、あるいはその両方か。

 

「まあでも……美森がそこまで言うほどの友人が須美にできるのは、いいことだな」

 

「おじさまはいっつもそうですね」

 

 おじさまが考え込んでいると、全力疾走で息を切らせた須美が、額の汗を拭いつつ救急箱片手にようやく戻って来た。

 

「おじさま! 救急箱で……あれ? もう元気ですね」

 

「治った」

 

「本当に……?」

 

「本当本当」

 

「怪しい……怪我を隠してませんか?」

 

「へーきへーき。おい触って確かめるな袖めくるなやめろ」

 

「見えるところに傷は無い……ほっ、よかった。怪我、無かったんだ……」

 

 露骨にほっとした須美を見て、美森とおじさんは可愛いものを見るような目で、生暖かい視線を送っていた。

 須美がその視線に気付き、むすっとする。

 

「なんですか、言いたいことがあるなら言ったらどうですか」

 

「「 別に? 」」

 

「あっハモった……

 おじさま!

 なんで東郷さんと先にハモっちゃうんですか!

 一緒に居た時間私の方が長いのに!

 東郷さんなんてうちに来て全然時間経ってないのにハモ!」

 

「ハモ食いたくなって来たな。小生ハモの唐揚げ割と好きなんだよな……」

 

「私が作り……いえ、須美ちゃんに頼んでみたらどうですか?」

 

「そだな。須美、すぐじゃなくていいから頼めるか?」

 

「え、ええ!? 作ったことないのでレシピ調べないと……」

 

「楽しみにしてる」

 

「はい!」

 

 気合いを入れるように、須美が拳を握る。

 

「そういえば、お二人で何の話をしてたんですか?」

 

「あれはある夏の日のことだ。

 トイレのないキャンプ場。

 しかし男は催していた。

 男は野外での排便を決める。

 しかしズボンを下ろした、その瞬間!

 驚いたカブト虫が男の尻に突入!

 突然尻にカブト虫が入って来た男はゴジラのような声を上げた。

 『ゴジラ』

 『ゴジラだ!』

 『ゴジラ!?』

 深夜に人々は逃げ惑い、ゴジラに怯え恐怖した。

 キャンプ地でその伝説はシリ・ゴジラの名前で語り継がれ―――」

 

「そんな話を!?」

 

「してないわよ」

 

「してないんですか!? じゃあ何の話してたんですか!?」

 

「昔売女(バイタ)ーバトルというものに参加した時の話をしていたな。

 あの頃は若かった……

 龍騎、やつは今どこで何をしているのか……

 催眠種付けおじさんと契約した13人の女の戦い。

 勝ち残ればどんな願いも叶うという。

 だが敗者は生きているおじさんの激しさを体中で確かめられてしまう。

 戦わなければ契約おじさんに自分が襲われてしまう。

 戦わなければ生き残れない!

 小生はドラグレイパーという名で誰も傷付けず戦いを終わらせようとした女に協力していた」

 

「そんな話を!?」

 

「してないわよ」

 

「してないんですか!? じゃあ何の話してたんですか!?」

 

「デスノートの主人公は夜神月。

 夜神、YAGAMI、ひっくり返すとI'm a GAY(私はゲイです)。

 デスノートがゲイの隠喩であることは周知の事実だ。

 だがその"先"がある。

 催眠、SAIMIN、ひっくり返すとminia's。

 『流行より自分らしく』を象徴するブランドのことだ。

 催眠は自分らしさを引き出す……

 デスノートは本性を引き出す催眠のようなもの……

 デスノートと出会わなければ月くんは殺人鬼にもホモにもならなかったのかもしれないな」

 

「そんな話を!?」

 

「してないわよ」

 

「してないんですか!? じゃあ何の話……いやもうこれ答えに辿りつけないやつですね」

 

 美森は手に持ってた本で、こつんと、親愛を示すように、おじさんの頭を撫でるように叩いた。

 "こいつ催眠の抜け道に慣れてやがる"と、おじさんは目を細める。

 

「おじさまが話ごまかす時は照れくさい話題になりそうな時よ、須美ちゃん」

 

「……あ、もしかして、何か私の話してたんですか? 東郷さんとおじさまで」

 

「ええ。須美ちゃんのことを色々と、ね」

 

「おじさま……」

 

「なんだその目は、言いたいことがあるなら言ってみろ」

 

「須美ちゃんはおじさまの催眠で言えないことだってあるんですよ?」

 

「それ言われると『ぎゃふん』としか言えん」

 

「おじさまがもうちょっと素直になってくれれば須美ちゃんは苦しまなくてすむのに……」

 

「ええ……ううん……素直……? 素直になんか言えって……?」

 

 おじさんは美森が持っていた本――受験用の参考書――を見て、素直な言葉を紡ぐ。

 

「お前今は中三で受験勉強中だったな。

 勉強に集中するのはいい。

 それは褒められていいことだ。

 ただ運動不足になってないか?

 須美っていう比較対象と並んでると、その、な……

 よく分かるというか……

 腹に僅かに余分な厚みがあるというか……

 いや元が十分すらっとしてて痩せてるから目立ちはしてないが……

 運動不足なせいで無駄なところに無駄な肉が付いてないか? たとえば―――」

 

 美森の手がノータイムで放たれ、神速でおじさんの口を掴む。

 

 美森は催眠でおじさんを傷付けられない。

 一切の危害を加えられない。

 彼女の行動はおじさんの不都合に一切直結しない。

 少なくとも、彼女の解釈においてはそうだった。

 

 勇者訓練でおじさんを遥かに超える握力を得ている美森が、優しい微笑みのまま、左手の人差し指を立てて己の唇に当て、右手でおじさんの口を掴んで塞いで、肩ではなく頬を揉んでいた。

 

「おじさま。私、おじさまのことが大好きですよ」

 

「おうそうかそうか、そうか……小生大困惑」

 

「だから嫌いにさせないでくださいね」

 

「小生は健康に気を使って運動してちゃんと適性ラインまで痩せた美森が好きだな」

 

「……はい」

 

「不健康は小生だけの敵じゃないぞ?」

 

「……はい」

 

「一緒に朝走り込みするか?」

 

「そうですね……そうした方がいいですよね……」

 

「あ、二人だけはずるいですよ! 私もおじさまや東郷さんと一緒に走ります!」

 

 翌日から香川に都市伝説が誕生した。

 

 ―――『朝五時に外に出ると巨乳の天女が胸を揺らしながら走っている』。

 

 それが、人々を大冒険に駆り立てた。

 半信半疑の男。

 希望を信じた男。

 未知にときめく男

 天女をひと目見ようとする男。

 誰もが確証があったわけではなく、ただの噂を信じ、愚かにもほんの僅かな可能性に懸け、噂の時間帯と噂の場所を狙い、朝その辺りをうろつき始めた。

 あまりにも、あまりも愚かな男達。愚劣にもほどがある。

 

 だがその宝を求める挑戦心こそが―――人間というものの輝きなのではないだろうか?

 

 人は、可能性を、希望を、明日を、信じるならば。

 見たい光景があるならば。

 見たい明日があるならば。

 不確かな"それ"を信じ、僅かな可能性に挑むしかない。

 選択肢がないからではない。

 それが、人間らしいからだ。

 ただの噂に希望を見た男たちは、きっと、誰よりも―――輝いていた。

 

 

 

 変な男が増えてきたのでおじさんの提案で美森は走る時間と場所をごっそり変えた。

 

 

 



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催眠感度12倍

 朝の鷲尾家の食卓で、おじさんは突然突拍子もないことを言い出した。

 

「来週の入学式の須美の保護者枠は小生が行く」

 

 須美は米を噛みながら目を白黒させ、美森はおじさんのお茶碗に米を山盛りにしつつ、須美母は須美に山盛りにされたご飯と格闘しながら、それを聞いていた。

 須美父は納豆をかき混ぜる前に醤油を入れ、温和な表情で弟――と思わされているおじさん――の提案に首肯する。

 

「おお、今まで須美の学校のイベントに興味がなかったお前が珍しい。

 いいぞ、行ってくると良い。

 叔父なら関係性としては十分だろう。

 これを機に運動会や文化祭にも行ってやりなさい。須美は今年が最後の小学校生活だからね」

 

「うす、考えときます。

 運動会はあの自分の子供戦わせて優勝者決めてる感じ苦手なんですよね。

 昔やってたモンスター育ててランキングを競い戦わせるソシャゲ思い出すので……」

 

「言い方」

 

「小生はそもそも子供の性能差を競わせてるものあんま好きじゃないんですよハイ」

 

 須美父は納豆に卵を加えてかき混ぜつつ、おじさんの考えに少し興味を示した。

 

「面白い考えだな」

 

「優秀な子供しか愛さない親。

 使えるキャラしか使わないソシャゲプレイヤー。

 ダメな子供にも無償の愛を注ぐ親。

 愛着で使うキャラを選ぶソシャゲプレイヤー。

 催眠で心暴くこと繰り返してると、まあこの辺り同じだな……って思っちゃうんだよな」

 

「ほう……ゲームのことは、私は詳しくないのだがね」

 

「あんたは後者。

 ちゃんと須美の親だ。

 自分が思ってる以上にしっかりやってんじゃないかな。

 強いて言うなら須美をもっと遊園地とかそれっぽいとこに連れてってほしいがね」

 

「ふむ、遊園地か……私も行ったことがないな」

 

「嘘だろ!?」

 

「私も行ったことがないわね」

 

「奥方も!? あ、名家夫婦!?」

 

「兄を世間知らずと思うかい?

 だが言うほど俗なことを知らないわけではないよ。

 私もゲームセンターに行ったことくらいはある。スト2を楽しませてもらったよ」

 

「その解答が既にお貴族ゥー!

 こりゃ須美を俗っぽいところに連れてく家族おらんわ……常識が違う……」

 

 おじさんはこういう、"この世界の名家"の常識を見る度に、度々思う。

 「常識が違う」と。

 95%は同じなのだ。

 まともな人間だとは思う。善良な人間だとは思う。

 だがどこか、何か、小さなズレがある。

 

 少なくともおじさんは、過去にどの世界でも、ここまで善良な人間が命がけの戦いに娘を差し出すのを見たことがなかった。

 この世界の名家との意識のズレを、おじさんは日に日に強く感じている。

 

 今度須美を遊園地かそれっぽいところにでも連れてってやろう、とおじさんは考えて。

 ちょっと訂正して、"鷲尾家全員連れてってやろう"、と思った。

 『須美の影響を受けすぎてるな』と思って、おじさんは苦笑する。

 

「話を戻そうか。

 須美の入学式は君に任せよう。

 神樹館は大赦関連の家が子息を通わせる名門だからね。

 始業式の後の保護者会は、十分に政治の場だと思ってくれ」

 

「あっそういうのあるのか……まあ任せろ、小生の催眠で一発よ」

 

「頼もしい。頑張ってきてくれ」

 

 どんと胸を叩くおじさんの袖を、控え目にちょこちょこと須美が引いた。

 

「おじさま、大丈夫なんですか?

 保護者の食事会とかありますよ?

 おじさま途中で"めんどうくせ"って投げ出しませんか?」

 

「小生をなんだと思ってるんだお前……誰が投げ出すか。

 面倒になったらその辺歩いてるおっさんを催眠で代理に仕立てて任せるだけだ」

 

「それ投げ出すのと変わらないのでは?」

 

 おじさんの袖を引く須美の肩に、得意げな表情をした美森が手を置いた。

 

「大丈夫よ須美ちゃん」

 

「東郷さん……?」

 

「私が代わりにあなたのお姉ちゃんとして行くわ! 昔の銀やそのっちに会いたいもの!」

 

「来ないでください!」

 

「えー」

 

「えーじゃないんですよ」

 

「昔の私はケチね……」

 

「未来の私が自由すぎるんですよ……?」

 

 姉と言えば姉で通るかもしれないが、豪腕が過ぎる。

 却下である。

 

「小生の考えとしては、一応須美の学舎や教師や同級生を確認しておきたいのだ」

 

「そんな心配しなくても、この家に来てからですから、もう一年以上は通ってるんですよ?」

 

「だがな須美……

 小学生なんて基本的に全員猿だ。

 怒ったら手が出る前に尿が出るくらい普通にある生き物なんだ」

 

「少なくとも私が五年間そんなの見たことも聞いたこともありませんよ!?」

 

「マセたガキなら須美のスカートを

 『あ、ごめん寿司屋の暖簾かと思った』

 とか言ってめくって入って来るぞ。お、お店やってるね~って顔押し付けるまであるぞ」

 

「おじさまが通ってた小学校って全員おじさまより頭おかしかったんですか?」

 

「校長が1万2660人の売春婦買ってて警察にしょっぴかれてたわ」

 

「そんな人間居るわけ無いでしょう! 冗談もほどほどにしてください!」

 

 おじさんの口から語られる小学校観は尽く非現実的でおかしい。

 それがおじさんの冗談なのか、おじさんが本当にそういうまともでない幼少期を過ごしてきたのか、須美には判別がつかなかった。

 

「教師に百万くらい握らせて『うちの須美をお願いします』って言いてえなあ」

 

「おじさまはなんでそう悪い手段で好意を表現しようとするんですか……」

 

「そういう人だって分かってるでしょ、須美ちゃん」

 

 悪党そのものなことを言っているおじさんを、須美が胡乱げな目つきで見つめ、美森がその須美を背後から抱きしめていた。

 

「おじさま、寂しくなったら私に会いに来ていいですからね?」

 

 須美が言い、おじさんが眉を顰めた。

 

「お前は小生をなんだと思ってるんだ」

 

「普通の大人と話してても、多分おじさまは楽しく感じないと思いますよ」

 

「………………………それは、そうかもしれんが。余計な気遣いだしっしっ」

 

 "多分そうだろうな"と自分で思ってしまったので、おじさんはそれ以上何も言えなかった。

 

 

 

 

 神樹館体育館における須美の始業式は滞りなく終わった。

 学生服をしっかりと着こなし、小学六年生として一年生を誘導し、泣いている一年生を泣き止ませ、クラスメイト達と同じ列に並んでいく。

 おじさんは始業式前に須美に手を振ったが、須美と目が合ったのに恥ずかしがった須美が無視してきたので、大分しょんぼりしていた。

 

 生徒達が始業式を終え、体育館から皆去った後、残されたのは保護者達と教師数人のみ。

 そんな中、おじさんの隣に座っていた成人男性が、目頭を抑え始めたおじさんを不思議に思い声をかけた。

 

「どうかしたんですか、鷲尾さん」

 

「一年後に、ここで須美の卒業式があると思うと……ダメだ目が熱い」

 

「気が早すぎませんか? 気がフォーミュラマシンなんですか?」

 

「想像してたら辛くなってきたんで今日中に卒業式やって終わってくんねーかな……」

 

「気が光速を超えてる」

 

 隣の人は入学式にも慣れた様子だ。

 去年神樹館に転入した須美と、鷲尾一族に寄生してから数ヶ月レベルのおじさんは、どちらも神樹館ルーキーである。

 だが普通の生徒とその親なら、一~五年間この学校に繋がりがあるはずだ。

 おじさんは隣の人を使って、神樹館の情報収集を開始した。

 

「すみません、小生今日が初めてなので、先生方の名前を教えていただけますか?」

 

「いいですよ。どなたから紹介しましょうか?」

 

「あの巻き舌でイラつく歌声を披露してる動画サイトの歌い手みたいな声の方は?」

 

「あれは副島先生ですね。国語教諭です」

 

「あの絵の具を食ってそうな過剰に赤い口紅がミスマッチな女性は?」

 

「あれは神室先生ですね。社会を教えているはずです」

 

「あの筋肉ムキムキで貧乏ゆすりでパイプ椅子ぶっ壊しそうな人は?」

 

「体育教師のミスターゴリ松ですね。すみません、あだ名しか知りません」

 

「あの綺麗な容姿に可愛らしい所作が合わさってスーツが似合う静謐の眼鏡美人は?」

 

「あれは安芸先生……安芸先生だけなんでそんなに持ち上げてるんですか!?」

 

 神樹館はいいとこのお子様がたが集まる小学校である。

 そのため、不審者の侵入がほぼ不可能なセキュリティが構築されている。

 おじさんの首には身分証明になる名札が下げられ、『鷲尾』の字が刻まれており、どの大人が誰の親なのか、不審者が紛れ込んでいないか、常に厳重にチェックされている。

 おじさんは隣の人の名札を見て、名前を確認した。

 

「鷲尾家にあなたのような人が居たとは、知りませんでした」

 

「『そうでしたっけ?』」

 

「……ああ、そういえば、一度顔を合わせたことがありましたね。話はしませんでしたが」

 

「そうですね。確かあなたは、三ノ輪さん」

 

「はい、三ノ輪です。

 そちらのお嬢様とうちの娘は、今年同じクラスに入れられるらしいです。

 家と家の交流を持つ機会がありましたら、どうぞよろしくお願いします」

 

 何気なく催眠をかけ、さらりと嘘をつき、隣の人と以前にもあったことがある人間という体で、その記憶に滑り込む。

 

 彼は三ノ輪を名乗った。

 それすなわち、須美と共に戦う勇者―――三ノ輪銀の父であることを意味する。

 

「よろしくお願いします。

 しかしあれですね、生徒全員を見ましたが、うちの須美が一番可愛い」

 

「あはは、皆可愛らしいものですよ。この年頃の子供達というものは」

 

「いえ客観的に須美が一番だったと思います。

 須美がドなら他はレミファソラシドのどれかですよ。一番上には決して届きません」

 

「この人丁寧語だけど大分当たりが強いな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おじさんは多少手こずったが、大赦の催眠制圧をほぼ完了していた。

 大赦の中核部分はおじさんの手に落ち、結界内部は異世界からの侵略者催眠おじさんによる支配領域と化した。

 あとは結界外の天の神、及びその天使であるバーテックスを残すのみ。

 それらを打倒することでおじさんの世界征服は完了する。

 おじさんは数ヶ月かけ、じっくりとその準備を進めていた。

 

 警戒していた神樹の介入は、不自然なほどになかった。

 外界からの侵略者は神樹にとって排除すべき害虫である。

 大赦の掌握過程で一戦交える予定だったおじさんは拍子抜けしつつも、過剰な警戒で足を止めること無く、四国の制圧を完了した。

 

 神樹館は大赦関係者の子息の割合が他の小学校より多い。

 よって保護者会も、おじさんが催眠をかけた覚えがあるメンツが多い。

 催眠を改めてかけなくても十分信用は得られる環境である、と言えた。

 

 それはそれとしておじさんは催眠をかけていない人間を一切信用していないので、リスクマネジメントの一環で全員に大なり小なり催眠をかけていた。

 

「―――というわけで。

 小生が育ててきた人参は、生まれた時からAV女優の肛門に出入りすることが決まってたんですよ」

 

「壮絶ですね……!」

「なんか凄い話聞いた気がするな」

「これ小学生の保護者会でしていい話なのか……途中のどんでん返し面白かったけど」

 

 催眠でリスクを排除した大人達と適当に語るおじさんは、サクサク語って、適当に会話を流していた。

 『下ネタにマイナス感情を抱くな』の催眠は効果抜群のようだ。

 存在そのものが下ネタの催眠おじさんが保護者会なんていう表面を取り繕う場所で、須美の名誉を護るには、これしかなかったとも言える。

 

 保護者会は家格やらそういうものに気を付けてさえいれば、おじさん達の気軽なダベリ場と、おばさん達のわちゃわちゃしたダベリ場に分かれているだけで、乗りこなすのはさして難しい場所ではなかった。

 

「ええ、鷲尾さん古風な大和撫子とか好きなんですか?」

「確かに旧世紀よりは古風になったと言われるのが現代ですが……」

「そんなもの絶滅したものでしょう」

「独身が既に絶滅したものを追い求めているのは厳しいですよ」

 

「恐竜が嫌いな男がいるか?」

 

「なるほど……」

「なるほど……」

「なるほど……」

「なるほど……」

 

 男と混じれば、絶滅したものの良さを説き。

 

「安芸さんイケメンの吉田さんの誘いを断ったらしいわよ」

「何考えてるのかしら。よくわからない人なのよね」

「美人だから調子に乗ってる……って噂を信じたくはないけどね……」

「何度遊びに誘っても断られるし、性格が悪いって噂は本当なのかしら」

 

「『安芸先生ってめっちゃいい人ですよね』」

 

「いい先生よね……うちの子にも親身になってくれるし」

「きっと教職の責任に真摯で、余計なことをしてないだけなんだわ」

「安芸先生の苦労を少しでも減らしてあげたいわね」

「そうね。手助けは無理でも、せめて負担を軽くしてあげましょう」

 

「悪は去った。これが小生のエゴの執行だ」

 

 女と混じっては、男にしなかったような意志の捻じ曲げを繰り返し、催眠おじさんの名に恥じない横暴と洗脳を繰り返した。

 

「……ふぅ。やべえ。小生全然楽しくないわこれ」

 

 須美の予想は当たっていた。

 おじさんは何一つ楽しくなく、周りを楽しませることはあってもその逆はない。

 段々おじさんは飽きてきていて、段々ここを抜け出したくなっていた。

 

 須美の予想に反し、さっさとこの場を抜け出していないのは、須美に悪評が行かないようにしたいからであり、おじさんが思っている以上に、須美が思っている以上に、おじさんが須美のことを想っているということの証明だった。

 

「鷲尾さん、鷲尾さん」

 

「はい? あ、三ノ輪さん」

 

「ちょっといいですか」

 

 おじさんが三ノ輪父に連れられ、人が多い方に移動する。

 そこには、大勢の人間に囲まれて次から次へと話しかけられている、非常に高そうなスーツ(おじさん視点)を身に着けた男が居た。

 

「あそこにいるのが乃木さんです。ご存知ですよね」

 

「ああ……鷲尾、三ノ輪、そして乃木。勇者の子の親御さんですか」

 

「そうですね、乃木園子ちゃんのお父様です。

 初代勇者の子孫、乃木。

 大赦でも乃木と上里は最上位の家系……

 彼は今回の勇者のお役目に関しても大きな責任を……あ、ぶつかって転びましたね」

 

「撮影したれ」

 

「鷲尾さん!?」

 

「すみません、他人が弱みを見せたら思わず撮っとこハム太郎になっちゃうタチで」

 

「撮っとこハム太郎!?」

 

 乃木父の転倒をノータイムで撮影したおじさんに、三ノ輪父はたいそうびっくりした。

 

「なんで弱みを撮りに……?」

 

「ちょっと癖になってるんですよね。強者の弱みを握るの」

 

「強者……!?」

 

「分かるんですよ。

 血統で強い人間って。

 乃木さんは大分強い血統の上に居る人間だなって」

 

「ちょっとやめてくださいよ……これから三人で話そうと思ってたんですから」

 

「ああ、それで小生を誘ったと。納得です」

 

「そういうことです。だから基本穏便に……」

 

「乃木さんの周りに群がってる女の人達……

 アライさん口調にしてるだけのクソつまんないtwitterアカウント持ってそうな顔してんな」

 

「鷲尾さん!!!」

 

 三ノ輪父が乃木父を呼びに行っている間に、おじさんは乃木父の周りに群がっている者達が何を言っているかに聞き耳を立てた。

 乃木は大赦でも屈指の名家。

 必然的に、その周りに群がる者に悪意はなく、乃木家当主のご機嫌を取ろうとする。

 

「おめでとうございます、乃木様」

「初代勇者様の子孫の面目躍如ですね」

「乃木の家から勇者が出なければ、今頃どうなっていたでしょうなあ……」

「羨ましい限りです。うちの娘と代わってほしいくらいの栄誉ですわ」

「たとえ名誉の戦死をしたとしても、園子お嬢様の名前は碑に刻まれるでしょう」

 

 なるほど、これは地獄だな―――と、おじさんは、作り笑顔を浮かべて周囲に対応する乃木父を見ながら、思った。

 

「鷲尾さん、乃木さんを連れて来ましたよ」

 

「どうもこんにちわ、鷲尾さん。

 確か前に大赦で会いましたね。

 その時の記憶は少し曖昧ですが、改めて―――」

 

「心中お察ししますよ、乃木さん。

 『お役目だから誇りに思わなければならない』

 っていう同調圧力って鬱陶しいですよね。出さなくていいなら娘差し出したくないのに」

 

「―――」

 

「あ、ちょっ、鷲尾さん!?」

 

 おじさんの明け透けでズケズケと踏み込むようなものいいに、三ノ輪父は慌て、乃木父の表情は険しくなった。

 そして乃木父は釘を刺す。

 

「……いいんですか、鷲尾家の方がそんなこと言って。

 神聖なお役目を愚弄したと言われて、大赦から警告されますよ」

 

「いいんですよ」

 

 勇者は機密の中の機密だ。

 存在はよく知られていても、詳細を知る者は多くない。

 勇者について聞いてはならない。

 勇者について語ってはならない。

 それを破れば厳罰が来る。

 余計なことを文書に書き残せば、大赦が検閲し塗り潰す。

 この世界に本質的な意味での言論の自由はない。

 

 だから、誰よりも好き勝手に、自由に生きて自由に話す男は、異質である。

 

 この場に居る全員が、大なり小なり、彼の催眠で支配されていた。

 

「支配者が言論の自由を保証してる空間では、何を言っても良いんだ。分かるだろ?」

 

 おじさんは、この二人の親の本音が聞きたかった。

 ゆえに、催眠が本音を絞り出す度合いを強める。

 鷲尾須美の家族が須美の死を望まないように、三ノ輪銀にも、乃木園子にも、その死を望まない家族が居るのか―――それだけが、知りたかった。

 

「小生は須美が傷一つなく帰ってくればそれでいいんだ。

 名誉なんざ別に要らん。

 名誉はあの子を幸せにしねえだろうからな。

 そういう意味では、小生個人としては須美を戦いに出すというのも反対なんだ」

 

「鷲尾さん……本音を言うなら私もそうです。銀には死んでほしくない。だから」

 

「鷲尾さん、三ノ輪さん」

 

 おじさんと三ノ輪父の主張を、諌めるように、乃木父が留める。

 

「誰かがやらなければならないお役目は、全員が『やりたくない』だなんて言えないんです」

 

「……」

 

「だろうな」

 

 苦渋に満ちた乃木父の顔を見て、三ノ輪父の本音を聞き、おじさんは答えを出した。

 

 今、戦死して、家族が悲しまない勇者は居ない。

 

 彼の中で、『方針』は決まった。

 

「こんなことを話しながら、『しょうがない』と思っているのが我々の救えないところです」

 

「……そうですね。我々は、事実として娘をお役目に差し出している」

 

「私達は愛する娘を差し出す以外の代案を出せない。

 代案がないなら世界は滅ぶ。

 罪を背負う選択肢しかないならば、我々はどうすればよかったというのでしょうか」

 

 乃木父と三ノ輪父が漏らす言葉は、彼らが意識して感情を込めないようにしているものの、それでもなおへばりつく泥のような感情が見て取れた。

 

「代われるものなら自分が……と思いますけどね」

 

「三ノ輪さんも、ですか。鷲尾さんも私達と同じ想いなのでしょうか?」

 

「……ん、そうだな」

 

 三ノ輪父と乃木父に話を振られ、おじさんは自然に返答する。

 

「代わりになるとしても、あの子が悲しまない方法で、とは思う。それは絶対だな」

 

 そして苦渋を顔に出している二人の父を見るおじさんの目は、冷めていた。

 

 催眠術を捨て、人の心を操ることをやめ、無力な一般人として、善良に生きていくことなんて自分にはできない―――おじさんは改めて、そう思う。

 

 乃木と三ノ輪の親は、心のどこかが折れていた。

 どうしようもなく折れ潰れていた。

 現実に負けていた。

 世界に踏み躙られていた。

 娘への愛が、世界のための妥協に負けたことで、心のどこかが磨り潰されていた。

 

 ()()()()()()()()()()()()―――()()()()()()()()()。おじさんは、心底そう思う。

 

 親として幼い家族を救うことも出来ず、それを差し出し。

 諦めと苦しみの中でもがくも、何も変えられず。

 何もできない自分を見つめながら、ただ家族の生還か死亡の知らせを何もせず待つ。

 無力な自分から逃げられず、ただ娘に心の中で謝り続ける。

 きっと勇者が生きて帰っても、死んで戻っても、親は一生、自分の娘を差し出したことを忘れられない。

 一生の悔い。

 一生の呪い。

 一生の苦痛。

 娘を勇者として大赦に差し出したことで、この親達は、もう既に自分の人生の幸福の多くを差し出してしまっている。

 だから、こうなりたくはないと、心底思う。

 

 思ったから。須美をもっと大切にしてあげようと、彼は改めて己に誓った。

 

 彼はもう一生、『善良な無力』になろうとは思わないだろう。

 

「『娘が死んだ後、後悔を引きずるな。前を向け。自分の人生を大事にしろ』」

 

「えっ? ―――あっ」

 

「『お前達は悪くない。ただ、無力なだけだ』」

 

 催眠を二人にかけ、お開きになった保護者会の片付けにも参加せず、おじさんは熱のない表情でその場に背を向けた。

 

「小生はお前たちのような負け犬にはならん。

 須美の生存と未来の幸福をもって、小生の勝利を証明してみせる」

 

 色んな理由があった。

 

 おじさんが須美のために死ねた理由が、未来にはたくさんあった。

 

 その理由の一つが、ここにあった。

 

 『愛する娘に生きて帰って欲しいと願う親』もまた、彼に死への階段を登らせたものだった。

 

 この世界のルールに誰よりも縛られ、思考すら縛られ、誰よりも自由でない名家の人間達が、おじさんには催眠をかけられた奴隷と同じにしか見えなかった。

 

 

 

 

 

 おじさんは家に帰って来てすぐ、須美を探し、見つける。

 

「ただいまー。おい須美」

 

「あ、おじさま、おかえりなさい。保護者会は……」

 

「お前の六年生のクラスメイト呼んでパーティーやるぞ」

 

「!?」

 

 突拍子もない提案に、須美はびっくりして目を丸くした。

 

「今日は4/6。明後日は4/8。お前の誕生日だろ」

 

「!」

 

「まだ友達じゃないなら、これから友達になればいい。

 同級生を家に呼んで誕生日パーティーだ。きっと楽しいぞ、須美」

 

「え……

 で……でも……

 仲良い人なんていないし……

 呼んでも来ないかも……

 始業式から二日後にパーティーに誘うとか、何様だって思われたら……」

 

「『本心は?』」

 

「聞いただけでなんだか楽しそうでドキドキします……!」

 

「よし。やるか! 須美の誕生日パーティー!」

 

 おじさんは強引に話を進めて、須美の頭を撫でる。

 

 くすぐったそうにする須美を見て、おじさんは過去に一度も出したことのないような、優しい声で語りかけた。

 

「お前が生まれてきたっていう最高の出来事を、皆に祝ってもらおう。な?」

 

「―――っ」

 

 "君が生まれてきたことは何よりも素晴らしいことだから"。

 

 "君が死んでしまうようなことは絶対に間違っている"。

 

 おじさんは気持ちを言葉にして外に出さなかったけれど、須美に伝わるものはあった。

 

「……ありがとうございます、おじさま」

 

 須美は控え目に、おじさんを抱き締める。

 

 おじさんは脆い人形を抱き締めるように、丁寧に、優しく、須美に傷一つ付けないように、柔らかく抱き締め返した。

 

「笑って行こうぜ須美。明日も明後日もその先も。シケたツラした大人になるなよ」

 

「? はい」

 

「シケたツラした大人は、その先の人生不幸にしかなれないからな」

 

 今日会った"シケたツラの大人達"を思い出し。

 

 『須美がああならないように』、おじさんはもっと頑張ろうと、心に決めた。

 

 

 



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催眠感度13倍

 おじさんの懸念は、保護者会に出るついでにちょこっと神樹館で調べた時に判明した、須美の友達の少なさであった。

 友人と言えなくもない存在もいたが、カウント次第では友人0と見ることができるくらい、周囲との繋がりが無かったのである。

 

 原因は彼女の境遇だろう。

 一年半ほど前の引っ越し、名前の変化、そして転校。

 小学校というのは『六年かけて繋がりが出来ていく』巨大なコミュニティであるため、そこに横から入って来た存在は比較的馴染み辛い。

 だからしょうがない、とおじさんは考える。

 友人の欠乏は須美の不器用な性格も理由として大分強いのだが、おじさんは須美の責任を境遇に転嫁したがっていたのである。

 

 何かあればすぐに友人は多くできるはず、とおじさんは思っていた。

 そのきっかけとして用意したのがこのパーティーである。

 仲良くなるきっかけさえあれば、とおじさんは思考する。

 あの子は幸せになれる、とおじさんは考える。

 

 美森が伝えたおじさんの死と、勇者の親族が見せた閉塞感に似た絶望が、おじさんに『焦り』を与えていることに、おじさんは自覚がない。

 おじさんは安心したいのだ。

 確証が欲しいのだ。

 自分が居なくなっても、須美は絶対に幸せになれると、信じられる理由が欲しかった。

 

 パーティー当日、おじさんは色々と考えていた。

 須美と一緒に、鷲尾家の窓から、鷲尾家の広い庭に集まってがやがやと談笑している神樹館六年生組、そしてその親を見渡しながら、色々と考えていた。

 考えた結果を、須美の前で口に出す。

 

「いいか須美、撮っとこハム太郎っていう奥義を覚えておくんだ」

 

「え……撮っとこハム太郎?」

 

「これは小生が学生時代にやられて覚えた技でな……

 写真撮影を基点とした技術体系だ。

 小生が居なくても使える。

 昔小生の顔が撮影されてtwitterのアイコンにされて未成年飲酒喫煙ツイートされてた」

 

「うわぁ」

 

「須美……これを使えば催眠抜きでも冤罪で他人を陥れられるぞ……

 困った時はこれを使って相手を退学させろ……弱みを活用しろ……」

 

「おじさまの捻じくれちゃった部分の原因は大体過去にある気がしてきました」

 

 神の視点からならば『おじさんが自分が居なくなった後の須美が現実に負けないよう戦う手段を教えている』のだが、この世界の人間から見ると『邪悪がいたいけな少女を悪の道に誘っている』ようにしか見えない。

 催眠の好意的解釈フィルターがなければ完全にアウトだった。

 

 鷲尾家は大赦内でも相当に高い家格の家。

 庭は大勢が集まっても問題ない広さがあり、大きなパーティーを開いても違和感がない家の格があり、ごく自然に人が集まるだけの家の地位がある。

 一般家庭の誕生日パーティーのような『仲の良い友達の集まり』ではなく、『お誕生会を名目にした懇親会』の属性を帯びたのはおじさんの計算外だったが、まあ人が集まればいいか……と思うのがおじさんのケ・セラ・セラ思考であった。

 

 使用人の一人が、おじさんと同じポーズで頬杖ついて外を眺めている須美に声をかける。

 

「お嬢様、お着替えの準備ができましたよ」

 

「あ、はい。今行きます!」

 

 手を振って送り出すおじさんに頭を下げ、須美は別室に移動した。

 

 名家のお嬢様が、自分の誕生日会に私服で出ていいわけもない。

 一部の親御さん達は礼服で来ているため、それに対し失礼にならない服が必要となる。

 ドレスにしろ着物にしろ、"鷲尾家は礼を忘れた"と言われないだけの服を着なければ……そう思って別室に移動した須美を待ち受けていたのは、鼻息荒くした美森だった。

 

「待ってたわ須美ちゃん。さあお着替えしましょう?」

 

「と、東郷さん……!」

 

「安心して。私はあなたに色々着せ替えさせたいだけの、未来のあなただから」

 

「未来の私なのに不安しかないのはなんで……?」

 

 使用人達を差し置いて、ニコニコ笑顔の美森はどこにどんな服が置いてあるのか完璧に把握した振る舞いで、須美の服を入念に選んでいく。

 

「いいわよ須美ちゃん!

 もっとこの服とかこの服とか着ましょう!

 この服、あるのに気付いた時にはもう私には着れなくなっていたのよね……」

 

「腹に肉が付いたからですか?」

 

「いや肉が付いたのは腹じゃなくて胸と……こほん。そういう話はいいの」

 

「……おじさまは未来の私のそういうところ好きそうですよね」

 

「今はそういう話はいいの。着れなくなったのは身長が伸びたからでもあるわね」

 

「おじさまが言ってた女子大生の平均身長くらいありますからね、東郷さん」

 

「外見的には大人と変わらないって思うんだけど……おじさまからは子供扱いのままなのよね」

 

「東郷さんは真面目さが足りないんです。

 不真面目な不良とは思いません。

 でも、真面目さや真剣さが全然見えません。

 外見だけ大人になっても、振る舞いに真面目さがなければ大人には見えませんよ」

 

「……ふふ、そうね。須美ちゃんの振る舞いは大人ね」

 

 "これが理想の大人のはず"と真面目くさった振る舞いをして、背伸びをして、肩肘張って美森を「子供っぽい」と思う須美。

 ごく自然に、ありのままの自分で居て、無理をせず柔らかに生き、背伸びをする須美に「大人ね」と微笑むことができる美森。

 はてさて、どちらが本当に子供なのか。

 

 カーテンが締め切られた窓の、換気のために少し開けられた隙間から、外で会話しているおじさんの声が聞こえる。

 外でおじさんは須美のことを紹介したり、鷲尾家の人間として他の家の親御さん達と交流したりと、以前の彼ならするはずもないことをしていた。

 "催眠で行えない細かい調整をしている"ということなのだろう。

 催眠は万能だが全能ではない。

 会話と併用することで、より丁寧な干渉を可能とするものなのである。

 

「おじさま、ああいうの面倒臭がる人だと思ってました」

 

 須美がポツリと呟き――須美は認めないが――須美よりもおじさんのことを深く理解している美森が、解答を提示した。

 

「照れ屋なおじさまがあんなに前に出てるのは、

 『姪が好き過ぎる叔父の暴走』

 って皆に思わせたいから。

 須美ちゃんを叔父の溺愛に巻き込まれた子ってことにしたいのよ。

 須美ちゃんが誕生日パーティーに人を大勢呼ぶ目立ちたがりにしたくないのね。

 実際皆、おじさまを見て苦笑してるわ。

 ……ほら、これなら、須美ちゃんが学校でバカにされる度合いは低くなりそうじゃない?」

 

「……あ」

 

「それにしたっておじさまらしくないと思うけどね。

 須美ちゃんがおじさんのことでからかわれることもあるでしょうし。

 んー……私もこの時期のおじさまの動向全部は知らないから分からないわ」

 

 美森は須美よりもおじさんのことを理解しているというだけで、おじさんの全てを理解しているというわけではない。

 

「はい、着替え終わったわよ、須美ちゃん」

 

「あ、あれ!? いつの間にかドレス着せられてる!? 和服じゃなくて!?」

 

「いいわ須美ちゃん。似合ってるわ!」

 

「似合ってるわじゃなくて! 同じ私ならこんな非国民な格好嫌いでしょう!?」

 

「このドレス、いい服なのに存在に気付いた時にはもう着れなくなっていて悔しかったの」

 

「私で心残りを解消しないでください!」

 

「あなたもいずれ気付くわ。どんな服でも褒められたら嬉しい、ってね」

 

「大日本の心意気を忘れたあなたみたいな人には私絶対なりませんから!」

 

「ほら予定表を見るともう時間が無いわ。他の服に着替えてる時間はないわよ?」

 

「むむむ……!」

 

 須美は憤慨し、美森に連れられ外に出る。

 美森はふらっとどこかに行ってしまい、須美は一人でその場に残された。

 周囲からの視線が突き刺さる。

 

(私大丈夫かな、周りに変に思われてないかな、あ、なんかやだ、この空気、嫌だ)

 

 周囲からの視線が須美に焦燥感と自己卑下のループを生む。

 周りは須美を変だなどと思っておらず、むしろ可憐な少女に好感と好奇の視線だけを向けていたが、この歳の少女に視線の種類だけを見分けられるわけがない。

 

 竜胆色のグラデーションを、要所を白色で引き締めることで幼さと美しさのバランスを取っているドレスは、須美が着ると白い肌や黒い髪によく映える。

 まだ幼さがある整った顔つきと大人すぎないドレスはよく合い、ピンと筋が通った背筋はドレスの造形を引き立てる。

 行儀良く胸を張って歩く須美の歩行姿は、幼いだけでファッションモデルのそれだ。

 

 須美のクラスメイトの男子の何人かはこの日須美で初恋を迎え、親御さん達は須美が将来美人になることを確信し、おじさんはノータイムで須美をスマホで撮影した。

 物凄い勢いでおじさんの方を向いた須美を、おじさんはもう一度撮影した。

 

「なんでノータイムで撮っとこハム太郎するんですか!?」

 

「みー子をスマホの待受にしようかなって……あーいいねこれ」

 

「やめてください!」

 

「しょうがねえな。あ、似合ってるし美人さんだぞ、須美」

 

「……もう!」

 

 須美は顔を赤くして、ぷいっと顔を逸らす。

 そして『ああ、今の周囲へのアピールだ』、と須美は気付く。

 美森に言われないと気付けなかったことが、少しだけ悔しかった。

 

 周囲の空気が、『姪を過剰に溺愛する叔父と、姪』を見る空気になっている。

 周りがおじさんを見て『困った人なんだな』と苦笑している。

 誰も彼もが須美を見ていたのに、その視線の多くがおじさんに引きつけられている。

 空気が緩んで、先程まで須美が感じていた居心地の悪さが七割ほど消えている。

 

 須美は、今だけは、おじさんが何を考えているのか分かる気がした。

 

「おじさま、来賓の方々に何かスピーチした方がいいんじゃないでしょうか」

 

「Hey Siri! 面白い話をしてくれ」

 

「おじさま! 即座に十割スマホに頼らないでください!」

 

 周囲の苦笑に、微笑ましいものを見る暖かさが、少しずつ混ざっていく。

 

「挨拶回りに行きますか?」

 

「いや、乃木三ノ輪に呼ばれてる。先に勇者三人での顔合わせから始めた方がいいってよ」

 

「なるほど……でも私、乃木さんとも三ノ輪さんともほとんど話したことないですよ?」

 

「頑張れ」

 

「ざ、雑……!」

 

「ガハハ! 頑張って小生に信頼される、友達いっぱいの優等生になってくれ」

 

「くっ……が、頑張ります!」

 

「そうそう、その調子」

 

「『無人島に何か一つ持っていけるとしたら?』

 と聞かれたおじさまが迷いなく『鷲尾須美』と言えるくらいになります!」

 

「それはなんか違うな」

 

「おじさまが『ドラえもんより須美を持っていきたい』と思える私になります!」

 

「向上心たっかいな!」

 

 おじさんが探し始めると、乃木と三ノ輪はだいぶ早く見つかった。

 両家の両親が四人で会話を弾ませており、そこからだいぶ離れたところで、両家の娘……三ノ輪銀と乃木園子が楽しそうに話していた。

 おじさんが見る限り、銀と園子はもうだいぶ仲の良い友人になっているようだ。

 

「親同士・子同士で盛り上がってるのか。まず子供達の方に行くか?」

 

「は、はい」

 

「落ち着け。

 小生が母から教わった心を落ち着かせる方法を伝授しよう。

 まず職場の気に入らないおっさん上司に催眠をかけるのを想像しろ。

 おっさん上司は自分が女だと思い込み、翌日から女装して通勤を始める……」

 

「『まず』からおかしくないですか?」

 

 歩きながら話し、おじさんと話すことに気が向いて緊張するのを須美が忘れた頃、ちょうどよく話していた園子が須美に気付き、朗らかに楽しそうに声をかけてきた。

 

「あ、鷲尾さんだ~。お誕生日、おめでとうございます~!」

「え、マジ? ホントだ! お誕生日おめでとう、鷲尾さん!」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 園子と銀が満面の笑みで、ストレートな感情を乗せ、須美の誕生日を祝う。

 

 "小生はここまで真っ直ぐにはなれないな"と思い、おじさんはヘタクソに微笑んだ。

 

 微笑み、須美の肩をぽんぽんと叩いて、二人の少女に須美の今後を頼む。

 

「乃木のお嬢、三ノ輪のお嬢。うちの姪を今後ともよろしく」

 

「あ、さっきから面白いこと言いながら練り歩いてる鷲尾さんのおじさん!」

 

「わしおじさんだ~」

 

「わしおじさん! 三ノ輪銀です! 知ってるかもしれないけどよろしく!」

 

「私は乃木園子。ぬいぐるみのこの子はサンチョ。よろしくお願いします~」

 

「よろしく。小生のことは好きに呼んでく……ぬいぐるみの紹介までしたか今?」

 

 おじさんはどこからか取り出した箱を開け、そこからケーキを二つ取り出した。

 

「厨房からこっそりくすねてきたケーキ食べるか? 一番高そうなやつ」

 

「おおっ!」

「食べる~!」

 

「ケーキ一個分くらいは、須美が何かキツいこと言っても許してくれると嬉しい」

 

「おじさま!」

 

「須美、大丈夫だ、言いたいことは分かってる」

 

「分かってるならいいですけど……」

 

「ケーキは三個取ってきたから三人で食べなさい」

 

「分かってない!!」

 

 怒りつつ、ケーキは受け取った。

 高いケーキ二つは銀と園子の下に。須美の好きなケーキは須美の下に。

 おじさんはこのパーティーに参加している人間全員にも大なり小なり催眠をかけており、銀や園子もある程度催眠の影響下にある。

 おじさんに関する違和感などを非常に覚えにくい。

 

 だがその状態ですら、『何か』を感じ、催眠の強制をごく自然にレジストする、『天才』と呼ばれる人間が存在する。

 

「インチキおじさんは鷲尾さんに優しいんだね~」

 

「インチキおじさん……?」

 

「インチキおじさん!?」

 

「小生ちびまる子ちゃんに出た覚えはないぞ」

 

 乃木園子はふわふわと笑み、独特のセンスでおじさんに変なあだ名を付けていく。

 そのあだ名に『真実』があったから、おじさんが園子を見る目が細まった。

 

 髪を下ろした須美よりも長い、金糸のような滑らかな金髪。

 水色のリボン。

 まったりとした間延びする話し方。

 ふわふわとした表情に雰囲気、礼儀作法に真っ向から逆らいながらもどこか品を感じさせる、『自由なお嬢様』といった風の所作。

 須美とは別ベクトルで、お嬢様であることを感じさせる少女だった。

 

 その在り方は天衣無縫。

 どこまでも自由で、何にも縛られない。

 誰よりも自由であるがために、支配を主とする催眠術師が最も苦手とするタイプの人間だ。

 催眠をかけ損ねた時、乃木園子のようなタイプが最も怖いため、おじさんは少し園子への警戒度を上げた。

 

「インチキおじさんは鷲尾さんのおじさんなんだね~」

 

「そうだぞ~」

 

「おじさま感染ってます感染ってます」

 

 園子がふわふわと微笑む。

 

 園子は三人の勇者の中で一番笑顔が上手く、おじさんはこのパーティーで一番笑顔がヘタクソな人間だった。

 

 園子の笑みは、周囲を穏やかな気持ちにし、ごく自然に周囲を笑顔にしていく。

 

「こんなのんびりとした子供でも"生まれ持ちの資質"で勇者にされてしまうのか……」

 

「美味い餅と脂質? お肉とおもちが一緒のお汁物美味しいよね~」

 

「おお、分かる。鶏肉が入った雑煮が小生は好きだな。食いたくなってきたぞ~」

 

「おじさま流されてます流されてます」

 

「わしおじさんは愉快な人だなあ……

 こんなおじさんがいて鷲尾さんみたいな性格になったことがアタシ今日一のびっくりだよ」

 

「三ノ輪さんにも乃木さん命名のあだ名がしっかり感染ってるわね……」

 

 須美はおじさんが園子色に染められないようにと、園子とおじさんの間に割って入り、楽しげに笑っている銀とおじさんの目が合った。

 

「君は三人の中で一番元気そうだな。うちの姪をよろしく、三ノ輪のお嬢」

 

「任されました!」

 

「うむ、良い返事だ。

 三人で力を合わせて戦うといい。

 一人より三人。数が多いのはいいことだ。

 世の中は大体数字の大きさで決まる。

 身長と預金残高は多いほうがモテるし、小説は文字数が多い方が偉い」

 

「それなんか違くないっすか?」

 

 銀は首を傾げ、すぐにハッとし、力強く頷く。

 

「……でもバストサイズの数字は大きければ大きいほど偉くて強いですよね!」

 

「なるほど……一理ある」

 

「ないです! おじさましっかり!」

 

「何がないですだ鷲尾さんの胸はあるだろ! この銀様の目はごまかせない!」

 

「こっちに話を振らないで!」

 

 腕を組んだ銀と腕を組んだおじさんがうんうんと頷き合い、途中から巻き込まれた須美がドレスの胸元を腕で隠して二人に背を向けた。

 

 銀はくすんだやや短めの髪を後ろでまとめている。

 勇者の中で一番動きやすそうな髪型で、体に付いている筋肉を見ても、須美や園子とは比べ物にならない運動量を普段からこなしていることが分かる。

 健康的に少し日に焼けた肌を見るに、須美や園子とは違う、アクティブなアウトドアタイプの体育会系だとおじさんは推測する。

 

 こういう前向きで陽キャで運動をしっかりこなせる人間が一人いると、それだけで戦闘チームがワンランク上の強さになることを、おじさんはよく知っている。

 

「三ノ輪さん、おじさまはそういう視点で私を見てないの。

 おじさまの慧眼はいつだって私の内面を見ているのよ。

 人の価値は外見じゃなくて内面にこそ宿るものなのだから」

 

「へー、おじさん、鷲尾さんの内面ちゃんと見てる人なんだ」

 

「ああ、そうだな。

 須美の内面をちゃんと見てるぞ。

 鷲尾家で小生に輸血できる血液型は須美だけだからな。ありがたい」

 

「あっ、体内を流れる血液が内面ってそういう……」

 

「おじさま!」

 

 真面目な須美。元気な銀。そこにふわふわとした園子も入ってくる。

 

「インチキおじさんは鷲尾さんのことが心配だから構ってきてるんだね~」

 

「む。乃木のお嬢は勘がいいな……

 その通り。

 小生ちょっと心配。

 できれば今日ここで須美が友達作るところ見たいですね……

 『おかず一品作って?』って言うと速攻で上手くやる子なんだ。

 でも『友達一人作って?』って言っても同じようにやってくれないのだよ」

 

「おじさま!」

 

「その二つ並べるのがそもそも酷だと思うんすけど」

 

 園子がふわふわとして、おじさんがふざけて、須美が怒って、銀がたははと笑ってツッコミを入れる。

 須美はそこに不思議な居心地の良さを感じていたが、ふと気付き、おじさんの袖を控え目に引っ張って、二人で内緒話を始めた。

 

「おじさまちょっと」

 

「なんだね須美」

 

「これ、気のせいだったらいいんですけど……」

 

「なんだね、言ってみ」

 

「私とあの二人が友達になれるように気を使ってくれてます……?」

 

「うん」

 

「じゃあなんで私より先にあの二人とおじさまが仲良くなってる感じなんですか?」

 

「……」

 

「おじさま?」

 

「やっぱ催眠使わないと小生ダメだな。強制親友化催眠叩き込んでくるわ」

 

「い、いいです! おじさまにここまでお膳立てされたんですから一人で頑張ります!」

 

 居心地の良さはおじさんが先に銀と園子と会話を合わせ、須美が会話を合わせやすいように会話の間に入ったからだと気付いた須美は、小さく可愛い手を握ってみせる。

 

「頑張れ」

 

 おじさんはヘタクソに微笑み、須美の拳に己の拳をくっつけ、その場を去った。

 

 去ろうとした、のだが。

 

 近くの建物の陰から感涙しそうな様子で覗き、須美を見守っている美森を見つけ、半目になって彼女の下へ向かった。

 

「ううっ……

 頑張るのよ須美ちゃん……

 大丈夫、二人はとっても優しいから……

 私がどもっても次の言葉をちゃんと待っててくれるから……!」

 

「おい美森」

 

「あ、おじさま。

 後で一緒に居てくれませんか?

 私一人で居ると片親のお父様がたに声をかけられてろくに動けなくて……」

 

「親世代もメロメロにしてんの凄いなお前」

 

「最近話題のマッサージ店の無料券とかいただきましたよ。おじさま一緒に行きますか?」

 

「それ完璧にエロマッサージ本の導入じゃないか……絶対行くなよ」

 

「ええ……」

 

「快楽マッサージおじさんは拠点の中でなら最強クラスの存在だからな。

 拠点構築型相手だと流石に小生もお前を守りきれん可能性が高い……」

 

「快楽マッサージおじさんってなんですか」

 

 そんなものこの世界にいるんですか? と美森は思ったが、「いるぞ」と言われるのがちょっと怖くなったので、聞くのをやめた。

 

 

 



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催眠感度14倍

 和気藹々とした空気が広がっている。

 そこかしこで、大人や子供が話している。

 男の子達は走り回り、女の子達はデザートのテーブルの周りできゃっきゃと笑っている。

 皆今日の楽しいパーティーで、大なり小なり鷲尾家と須美に好感は持っただろう。

 文句なしに成功した須美の誕生日パーティーの片隅に、テーブルの上の最後のローストビーフを見るおじさんと、穏やかな笑顔で皿に取る美森の姿があった。

 

「お高いローストビーフが残り一枚だ」

 

「おじさま、どうぞ。あーん」

 

「この歳であーんなんてするか! いいよ、お前食べろ。まだ食べてないだろ」

 

「でも最後の一枚ですよ? おじさまが食べてください」

 

「要らん。手鏡貸してくれ」

 

「? はい」

 

 美森はウェストポーチから手鏡を取り出し、おじさんに手渡した。

 もうしっかりおじさんも"美森はいつも手鏡を常備しているから彼女に頼めばいい"という思考が根付いてしまっている。

 それはおじさんが精神的に、少しではあるが美森に寄りかかり、彼女を頼っているということなのだが、美森以外はそれに気付かない。

 

 須美も美森もこつこつ積み上げるのが得意で、ゆえに他人の好感度をこつこつ稼ぎ、愛される時は本当に深く愛されるタイプである。

 美森は少しずつ、自分を"その人が必要とする人間"にしていく少女であった。

 おじさんは渡された鏡を見つめる。

 

「『このキャベツはこの世で一番美味い肉だ』。……うわなんだこれ美味っ!」

 

 だから美森が放っておけないと思った人物は、彼女が放っておくと、本当にとんでもないところまで行ってしまう人間が多い。

 

「はぁ~この世で一番美味い肉は美味えなぁ~!

 あ、東郷美森さんはそのローストビーフで我慢しててくだせぇな!」

 

「……おじさま本当そういうところですよ?」

 

「これでも須美の飯の方が美味く感じるんだから人間の体は面白え」

 

「そういうところですよ」

 

 おじさんが何を考えているか手に取るように分かる気がして、美森は微笑む。

 彼に譲られた肉が他のどの料理より美味しい気がして、微笑みは確かな笑みに変わった。

 

「おじさまは、巫女と勇者の関係をご存知ですか?」

 

「概要くらいだな」

 

「では説明します。

 勇者は神樹様の力を受け取る少女。

 巫女は神樹様の声を受け取る少女です。

 一緒に投入することで最大の効率で運用することができます」

 

「ああ、電車痴漢おじさんと駅員脅迫おじさんのようなベストマッチのコンビか」

 

「違います」

 

「違うのか……」

 

「巫女は神樹様のお告げを聞き、迫る危機を知ることができます。

 大きな戦いの前に神樹様が何も告げないということはあまりないですね」

 

「ああ、寝取り完了前に女とシてる時、彼氏に電話繋げて最後のチャンスあげるおじさん」

 

「違います」

 

「違うのか……完全に手遅れになる前に警告してるのに……」

 

「未来のおじさまは『まあ完全に手遅れなんだけどな』って言ってましたよそれ」

 

「……」

 

 自分に自分が論破されて、おじさんはぐうの音も出ず黙ってしまった。

 

「私は何度か神託を経験してるので経験則で分かります。須美ちゃん達の初陣は今日です」

 

「!」

 

「巫女が受け取ることができる神樹様の神託。未来に確実に起こる預言とも言い換えられます」

 

「今日……なのか」

 

 隠しきれない狼狽がおじさんの顔に浮かび、美森がおじさんに優しく語りかけ、彼を安心させようとする。

 

「大丈夫ですよ。

 最初の方は確か危なげなく乗り越えれたはずです。

 後続と比べると大分弱いバーテックスだったと記憶しています」

 

「何回目で危なくなる?」

 

「ちょっと危なくなったのは……何回目だっけ……? あれ……?」

 

「……」

 

 おそらく、どこかの戦いで、美森が過去に来た理由やおじさんの末路に繋がる何かがあり、それに繋がる戦いがあったのだろう。

 そこが判然としない。

 おじさんはあの時の選択をまた悔いると共に、あの時美森を安易な考えで扱った自分が、心の底で美森の話に焦っていたことを再認識する。

 

 せめてもう少し考えていれば。

 催眠解除の隙も見せたくない美森の扱いを考慮していれば。

 そう思うが、全て後の祭りである。

 

 正義の味方になれないおじさんの人生は、いつも後悔ばかりだ。

 

「戦いが始まれば時間は止まる、だったな」

 

「はい。勇者とバーテックスの戦いは、止まった時間の中で行われます」

 

「時間停止AVおじさんに時間停止世界への突入を正式に習っておくべきだった……」

 

「前から思ってたんですがおじさまは知人を選んだ方が良いです」

 

「独学で止まった時間の中に入れるかどうか。門外漢だからな、小生は」

 

 神樹は世界を守るため、戦いの間、世界の時間を止める。

 勇者か、特例の巫女くらいしか、止められた時間の中には踏み込めない。

 『時間停止AVの九割はやらせ』と言うが、その一割を担う本物の時間停止AVおじさんでもなければ、きっと勇者を守りに行くことすらできない。

 

 おじさんは、自分が催眠種付けおじさんであることを、少しばかり後悔していた。

 

 せめて自分が時間停止AV専門男優なら―――そう思わずにはいられない。

 

「おじさまは時間停止系に詳しいですよね」

 

「小生の兄が時間停止おじさんなんだからそれはそうだろ」

 

「えっ……おじさまのお兄様は時間を止められたんですか!?」

 

「ん? そっちの小生は話してなかったのか?」

 

「全然聞いてないです。最近記憶があやふやなので断言はできませんけど……」

 

「……しまったな、迂闊だった」

 

「口を滑らせたなら仕方ないですよ。

 私おじさまの家族のこと、もっと知りたいです」

 

「……小生が話すまであの手この手で聞き出そうとしてきそうだな」

 

「おじさまがそう思うなら、そうなんじゃないでしょうか」

 

 くすくす、と美森が笑って、おじさんは溜め息を吐き、語り始めた。

 

「時間停止おじさんは時を止めるおじさんだ。

 時を止めてえっちなことをする。

 時を止めて服を脱がせたり拘束してからえっちなことをする。

 対象の意識を残し時間停止で動きを止め揉みに行く。

 そういう種族だ。

 戦闘力、淫行力、共に最上級。

 弱点は才能に依存するため数が少ないことくらいだな。

 時間停止能力が非常に強力なため、『最強のおじさん』とも呼ばれる」

 

「バトル漫画みたいな話になってきましたね」

 

「天下乳武道会などで戦ってるおじさんも少なくないからな……」

 

 時を支配するおじさん―――それすなわち、神の領域に足を踏み入れた者。

 

「結論から言おう。ほとんどの時間停止おじさんは時間を止めていない」

 

「え?」

 

「単純な時間停止したら空気も止まって窒息死してしまうからな」

 

「ええ……」

 

「止まった空気はまるで見えない鋼鉄だ。

 女体も時間を止めれば鋼鉄に等しい。

 過去には弱い力で時間を止め性的悪戯をしようとして、宇宙時間流に粉砕された者も居た」

 

「ええ……」

 

「ゆえに『本物』の時間停止おじさんは規格外の力を持ち、時に『神』として扱われる」

 

「ええ……」

 

「小生の見立てでは……

 神樹は時間停止AVおじさんと同種の存在。

 おそらくは時間停止AVのそれに近い時間停止能力を保有している」

 

「おじさま、神様の信仰が強いこの世界で絶対そういう話しちゃダメですよ」

 

 神樹時間停止AV男優説。

 

「よって時間停止おじさんは大まかに五種類に分けられる。

 『超加速』。

 『精神操作』。

 『肉体操作』。

 『完全催眠』。

 そして、『時間操作』だ。本物の時間操作タイプは、ほとんどいないのだよ」

 

「バトル漫画みたいな話になってきましたね」

 

「そっすね。

 超加速は加速した結果相対的に時間が止まって見えるもの。

 スピードタイプのおじさんだ。

 精神操作は周囲の生物の精神に干渉し認識の時間を止めるもの。

 形のない精神を操作する。

 肉体操作は周囲の生物の肉体に干渉し認識の時間を止めるもの。

 脳の動きなどを支配する。

 完全催眠は催眠で認識の時間を止めるもの。

 催眠の楔を対象に突き刺して操る。

 そして、時間操作は、都合良く様々な難点をクリアしたご都合の時間停止を行う」

 

「おじさまは催眠おじさんだから、おじさまのお兄様は四つ目なんですね」

 

「まあ、そうなる。

 催眠タイプの時間停止おじさんだ。

 "時間が止まっている"と全ての生物に思わせるものだった。

 時間停止中に術者以外の意識を残すことができる時間停止だったな」

 

 身内に時間停止おじさんの一人がいたがために、おじさんはこの分野に詳しい。

 

 時間停止AVを撮るように、時を止められた世界に侵入し自由に動く技術は、おじさんがかつて何度か思考実験していた内容だが、実践するのは初めてだった。

 

 おじさんにとってもしばらくぶりの『命が懸かったギャンブル』である。

 

「五つ目だけは『本物』だ。

 四つ目までのおじさんはかつて小生でも倒したことがある。

 だが五つ目は希少すぎて戦ったこともない。

 五つ目にあたる神樹の時間停止に自分の能力で抗えるかは、小生も大分賭けだな……」

 

「おじさまは時間が止められた世界に行きたいんですか?

 大人しく私や須美ちゃんに任せていた方がいいんじゃないですか?」

 

「お前の話があったからな」

 

「?」

 

「たった一回。

 最後の一回。

 その時だけでも、入る手段を講じなければ、全部おじゃんだ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 おじさんが倒さねばならない目標がいる。

 ならば迷うことはない。

 おじさんもまた、時間停止種付けおじさんのステージ、すなわち神の領域に足を踏み入れる必要がある。それだけの話だ。

 

「美森、須美の様子をちょっと見てきてくれ。

 友達と上手くやってるか判断するのは、未来の須美が一番相応しいだろうし」

 

「分かりました。でもきっと上手く行ってますよ。銀もそのっちもいい子ですから」

 

「そうかもな。そうだったなら、後で存分に須美から楽しそうな話でも聞くさ」

 

「ふふっ」

 

 美森を送り出し、おじさんは庭の隅のベンチに腰を下ろした。

 

 深刻な表情で、おじさんは己と向き合い始める。

 

「……時間停止。

 様々な種付けおじさんが挑んでは破れた神の領域。

 あるAVは撮影中に時間が止まってるはずなのに犬が動き……

 ある時間停止能力者はバトルばかりでエロが蔑ろに……

 ある催眠時間停止は一人の思考を止めることしかできず失格とされた……」

 

 向き合うべきは自分自身。

 己の力と、心と、強さと、弱さと、向き合わなかればならない。

 自分と向き合うことすらできないならば、小さな女の子一人守れはしない。

 

 催眠を経路とし時間停止の領域に届かせるのは、聖杯を経路として根源に至る聖杯戦争のプロセスに近い。

 ゆえにこそ強力。

 ゆえにこそ困難。

 ゆえにこそ禁忌。

 かつて時間停止の領域に届いた催眠おじさんの力によって、催眠おじさんの一族が一つ滅んだ事件があったことを、おじさんはよく知っている。

 

 催眠に触れてから約二十年。

 "催眠おじさん"の偉大なる称号を名乗れるようになってから数年。

 鍛錬を重ねてきた自覚はあるが、それでもおじさんにできるという自信はない。

 

「小生の力で届くのか? 兄さんと同じ『神』の領域に……」

 

 その時、おじさんが顔を上げると、『きれいなもの』が目に入った。

 

 子供が笑顔で駆け回っている。

 微笑む大人が子供達を見守っている。

 その中心に、須美が居た。

 全てが守るべきもので、その中心に須美がいた。

 

 子供達が須美の誕生日を祝って、須美が照れて顔を赤くしている。

 照れ隠しと、祝われたことに感謝で返すため、須美は周りの人達に料理を取り分け、せっせと配り始めた。

 主役なんだから今日ぐらいは、と周りが言ってもやめない。

 周りの人に料理を配っては「ありがとう」と言われ、須美は両親や使用人にもよそってあげていく。まるで、普段伝えられない感謝を、今めいっぱい伝えるかのように。

 須美は言う。

 

「これは私の誕生日を祝ってくれた人への、私の素直な感謝だから、いいんです!」

 

 そんな彼女を見て、おじさんの心の奥に、静かに宿る熱があった。

 

 鷲尾須美は愛されていた。

 愛されていて、綺麗だった。

 皆に愛される綺麗なものなら、守ることに意味はあると、おじさんは思った。

 彼女こそが、彼にとっての光だった。

 

「―――できるか、ではない。やるんだ」

 

 呟くように、彼は誓った。

 

 少し辺りを見回すと、皆の中心に居る須美には見えないところで、転ぶ子供が見えた。

 転んだ子供は勢い良くそのまま塀にぶつかって、泣きそうになっていた。

 大人でも泣きそうなくらい勢い良くぶつかっていて、おじさんはその子供に駆け寄っていく。

 

「大丈夫か?」

 

「うっ、うう……」

 

「痛いのか?」

 

「いたい……」

 

「お父さんは? お母さんは?」

 

「うう……!」

 

「頑張れ、痛みに負けるな。痛いところはどこだ?」

 

「っ……!」

 

 痛みのせいか何も言えない子供が、泣きそうになっている。

 一秒でも早く痛みを取ってやろうと、おじさんは"近道"をした。

 

「『痛い痛いの、飛んでけ』」

 

「……あれ?」

 

「次は転ばないようにな。走る時は足元に気を付けてな」

 

 痛みが消えた子供が不思議がって、おじさんに頭を下げ、去っていく。

 子供に出血はなく、打ち付けた部分の痛みさえ取り除けば問題はなさそうであった。

 問題なさそうではあった、が。

 普通の大人が催眠に頼らずとも今の子供を泣き止ませられただろう、と思うと、須美や美森なら催眠がなくても上手くやっただろうと思うと、おじさんは少し思うところがあった。

 

「ここが小生の限界か」

 

 "すぐ催眠に頼る"のは、間違いなく彼の弱さであり、消し去れない欠陥である。

 同時に、自分にだけできることで誰よりも早く泣き止ませて見せたという強さでもある。

 強さと弱さは表裏一体。

 長所と欠点は隣り合わせ。

 変えられない自分、捨てられない自分こそが、"その人らしさ"を構築する柱だ。

 

 不器用な鷲尾須美が、不器用ゆえに誰よりもまっすぐ生きているのと同じように。

 

「だが、小生は、小生にだけ、できることを」

 

 そして、その時。

 

 

 

 

 

 世界が途切れる、音がした。

 

 

 

 

 

 世界が噛み合い、元に戻る。

 

 立っていたおじさんが膝をつく。ぶわっ、と大粒の汗が額に浮かんでいた。

 

 他の者達は気付いていなかったが、今確実に、時間が止まっていた。

 『戦い』があった。

 今世界の時間は止まり、止まった時間の中で勇者とバーテックスの戦いが行われていたのだ。

 おじさんにはそれが分かる。

 

 時間が止められた瞬間、おじさんはそれに抗ったが、あえなく力負けしてしまった。

 時間停止に巻き込まれたおじさんからすれば、意識が一瞬途切れ、また時間が動き始めたようにしか感じられない。

 しかし、おじさんが時間を止められていた間、早ければ十数分、長ければ数時間、須美達はバーテックスなる怪物と戦っていたはずである。

 世界をまるごと塗り替えるような時間停止におじさんは逆らえず、止まった時間に侵入することもできず、須美達の援護に向かうこともできなかった。

 

 神樹の神の――地の神の王の――絶対的なまでの、世界の理を支配する力。

 人間を支配する力を極めたおじさんでは、まだ拮抗すらできない。

 

「これが……本物の時間停止……!」

 

 されど無為には終わらない。

 おじさんは時間が止まり世界の形が変わる瞬間、世界と時間を切り替える境界線を見た。

 その境界線に手が届けば、何かができる実感があった。

 そこに到達すれば、文字通りに"一線を越える"ことができる、感覚的な確信があった。

 辿り着ければ、掴める技があった。

 

「だが、見えた。次は、次こそは……」

 

 きっとあれこそが、時間停止AV男優が持つ固有技能。止まりし時間へ踏み込む入り口。

 

 おじさんは今触れかけた感覚に浸ろうとしたが、そこで声が聞こえる。

 

「須美?」

「あれ……銀? 銀、どこだ?」

「園子? これは……まさか……」

 

 そしておじさんは、己を恥じる。

 勇者達の親である者達の声が、おじさんに彼の醜さを突きつけていた。

 

 戦いが始まれば時間は止まり、世界は変わり、勇者達は前線に転送される。

 そのため、時間停止直前に居た場所から消えるのだ。

 親からすれば、突然愛娘が消滅したようにしか見えない。

 何より先に娘達のことを気にし、それを第一声とした彼らの声が、おじさんにとびっきりの羞恥を叩きつけてくる。

 

「……いや、そうじゃねえだろ。何自分のことだけ考えてるんだ」

 

 おじさんは車庫に向かい、車に乗り込み、法定速度上限ギリギリ超特急で車を飛ばした。

 向かう先は瀬戸大橋。

 戦いが終わった勇者は、そこに転送される決まりだ。

 業務的に勇者を迎えに行く予定になっている大赦の誰よりも早く、おじさんは戦いの興奮冷めやらぬ様子の須美達の下に辿り着いていた。

 

「おうおかえりぃメスガキども」

 

「おじさま!?」

 

「そう、小生です。お疲れ。初陣はちゃんとやれたか?」

 

「……はい! お役目を果たして参りました!」

 

 敬礼し、満面の笑みを浮かべる須美。

 その頬に大きな切り傷が残っていたのを、おじさんは見た。

 痕は残らないだろう、とおじさんは経験則で理解する。

 これならほどなくして治る、と知識をもって傷の深さを推察する。

 大丈夫だ、という理解があった。

 これくらいで済んでよかった、という安心があった。

 

 笑顔の少女の顔の傷を見るだけで、胸の奥に締め付けられるような苦しみが生まれた。

 

「私、勇者としてちゃんと皆を守れました。……嬉しいです」

 

 それでも彼は、誇らしげな須美を見て、その気持ちに茶々を入れる気にはなれなかった。

 

「お前は皆の誇りだよ須美。生きて帰ってきたことが一番偉い」

 

「……ありがとうございます!」

 

「三ノ輪のお嬢も乃木のお嬢もよく頑張った。繰り返すが、生きて帰って来たのが一番偉い!」

 

 おじさんは車の電子ドアをボタン操作で開き、三人を後部座席に誘導する。

 

「ほら乗れ三人とも。疲れてるなら椅子倒して寝てていいぞ」

 

「おじさま、迎えに来てくださったんですね」

 

「鷲尾邸に戻る前にイネス寄るか?

 ご褒美に好きなアイスをなんでも一個買ってやろう。

 よく頑張った勇気あるメスガキども。かっこいいぜ、お前達」

 

「「「 ! 」」」

 

 須美が、自分の頑張りが認められたことを喜ぶ。

 銀が、アイスを奢ってもらえることを喜ぶ。

 園子が、友達と一緒にアイスを食べに行けることを喜ぶ。

 わいわいがやがやと、子供達が乗り込んだ後部座席が騒がしくなって、楽しげな声が車の中に満ちていく。

 

 おじさんの表情が一瞬だけ冷め、すぐに陽気な表情に戻り、からかうような口調で勇者達を軽快に褒めながら、車を発進させた。

 

 タイムリミットは、美森が保証した『最初の方の襲撃』が終わるまで。

 危なげなく須美達が撃退できる時期が終わるまで。

 それまでに時間停止AVの領域に到達することを、おじさんは己に誓っていた。

 

 

 



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催眠感度15倍

 須美は三ノ輪銀と乃木園子に対し、偏見を持っていた。

 いや、正確に言えば、この三人は須美の誕生日パーティーまで、三者が相互に偏見を持っていたというのが正しいだろう。

 

 須美は銀をよく遅刻するだらしない子だと思っていて、園子のことがよく分からなかった。

 銀は須美を真面目すぎる堅物だと思っていて、園子をよく寝る寝坊助だと思っていた。

 園子は銀を気が強くて苦手だと思っていて、須美を真面目で厳しくて苦手だと思っていた。

 

 けれどもそんなものは、ご飯でも食べながら一度腹を割って話せばなくなってしまう程度の、とても小さな偏見だった。

 おじさんが企画した誕生日パーティーは、いい機会になったと言えるだろう。

 

 須美は不器用だけどまっすぐで。

 銀は元気で、底抜けに良い子で。

 園子は不思議な空気を纏う、善意の塊のような女の子だった。

 まだまだ三人は相互理解を進められていないけれども、仲間として、友人として、背中を預け合える程度には仲良くなって、初陣を迎えた。

 

 銀、そのっち、と須美が呼ぶ。

 なんだ須美、と銀が元気よく応える。

 なぁにわっしー、と園子がのんきに応える。

 名字で呼ばず、気安く呼び合うようになったのは、親しい友人関係の第一歩だった。

 

 心の臓が震えるような初陣だった。

 

「来たぞ須美……世界の敵、バーテックスだ!」

 

「ええ。見えてるわ。まだ遠いけど」

 

「頑張ろうね~」

 

 世界の時間は止まり、別の世界の理で上書きされた。

 神樹が時間を止め、木々で世界を塗り潰したこの世界の名は、『樹海』。

 七色に光り輝く木々が世界を覆う、樹海である。

 『樹海化』と呼ばれる、時間停止と世界の塗り替えが同時に行われるこの神樹の権能こそ、おじさんが完全に力負けしてしまった世界改変の正体だ。

 時間停止に抗えない者は、この世界に立ち入ることすら許されない。

 

 瀬戸大橋を樹海化によって変化させたこの戦場が、人類の最後の防衛線だ。

 

「敵が大きいよ~」

 

「安芸先生の言っていた通りね……」

 

「ビビんなよ、園子! 須美!」

 

 橋の上に限定された樹海を、バーテックスが進む。

 それを勇者が迎撃し、バーテックスを撃退する。

 勇者の迎撃が失敗し、バーテックスが橋を渡りきって神樹に到達すれば人類滅亡。

 ルールはとても分かりやすく、シンプルだ。

 

 ゲームで言えば、神樹を防衛するタワーディフェンスゲームに近い。

 須美、園子、銀……三つの駒が倒れれば、世界はなすすべなく燃え尽きる。

 自然と、少女らも武器を握る手に力が入る。

 

 須美の思考の深くで、おじさんがかなり強めに差し込んだ催眠と言葉が蘇る。

 

―――『いかなる状況においても自分が傷付く事態は絶対に回避しろ』

 

―――自殺も戦傷も、親に心配をかける。避けるべきものだ

 

 おじさんは十年二十年と解けない催眠をかけたつもりだったが、この催眠は時間をかけて既にかなり緩められていた。

 おじさんがリスクマネジメントを重視し、定期的に周囲の人間に催眠を重ねがけするタイプでなければ、あるいはそれ以外の催眠も中和されてしまっていたかもしれない。

 

 戦いの前に、弓に触れ、握り、弦を弾き、神樹が与えた勇者の力を全身に感じ、深呼吸してより己の深くまで感覚を伸ばす。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、須美はこの習慣をずっと続けていた。

 その意味を、須美は日に日に強く感じている。

 

「行きましょう、銀、そのっち。私達の世界を―――守るために!」

 

 初陣の彼女らは拙く、連携も不格好で、チームと言うにはあまりにも不揃いだった。

 

 けれど、想いは一つだった。

 

 守りたいものが同じなら、勇者は共に戦える。

 

「はぁ……はぁ……!」

 

 美森の読み通り、初戦は危なげなく終わりに向かう。

 前衛の銀が双斧を振るい、中衛の園子が槍を握って立ち回り、後衛の須美が矢を放てば、三人が今日までの訓練を活かして動くだけで、バーテックスは押し切れた。

 問題は、少女らが防衛側であるというところにあった。

 

「銀! そのっち! もうちょっと樹海を守らないと!」

 

「分かってるけどさー! これ思ったよりキツい!」

 

「もうこれ防衛考えないで攻撃に集中した方が被害減らせるよ~!」

 

 樹海化した世界は、バーテックスの攻撃や、時間経過でどんどんダメージを蓄積していき、蓄積されたダメージに応じて、世界が元に戻った時に悪影響が出る。

 事故。

 災害。

 不幸。

 そういった形で、樹海化前の世界に還元されてしまう。

 ガス爆発が起こり、山崩れが発生し、不幸に巻き込まれた人が傷付き死ぬ。

 

「急いであいつを倒さないと……!」

 

「分かるけど、銀! 迂闊に前に出ないで! 私の矢に合わせて!」

 

「大丈夫だよ! 焦らなくても、あいつもう大分弱ってるよ! わっしー、撃って!」

 

 神樹を守ること。

 樹海を守ること。

 怪物を倒すこと。

 この三つを並行することは、ルーキーの少女達にはかなり困難なことだった。

 

 三人の中で唯一焦りのなかった園子が仲間に声をかけ続けたことで、戦いは順調に勇者優勢のまま進み、美森の記憶にある初戦と似て非なる形で危なげなく終わる。

 

「お、終わった……?」

 

「割と楽勝だったな!」

 

「でもちょっと怖いところもあったね~」

 

 結果だけ見れば、極めて短時間で戦闘は終了した。

 樹海の損害も軽微。現実への影響もほとんどない。

 勇者に付いた傷は須美の頬の傷一つのみ。

 バーテックスを討滅することはできなかったが、撃退し追い返すことに成功した。

 

 ()調()()()()ほどに順調に、彼女らは戦いを終えたのである。

 

「あ、樹海が元の世界に戻ってく」

 

「ひょーぅ、パーティーの再開だぜ~」

 

「……あ、そうね。お父様にお母様、おじさまも心配してるかしら……?」

 

 戦いに夢中になっていた須美が、頬の傷に気が付いたのは、家に帰って顔を洗おうとして頬の傷に沁みてから。

 その時ようやく、須美は自分がおじさんにどう見られていたかを自覚する。

 「しまった」と思った時にはもう手遅れで、須美は己の不足を恥じた。

 

 叔父に心配なんてかけたくなくて、辛い思いもさせたくなくて、ただ自分が立派に戦ったことを褒められたかっただけで―――だから、次からはもっと上手くやろうと、須美は思う。

 

 大切な人達の笑顔を守り続けるためには、自分が無傷で帰って来なければならないことを、鷲尾須美はちゃんと分かっていた。

 

 

 

 

 

 須美が強くなるには、努力と目標が必要だ。

 "こういう勇者になろう"という明確な目標と、そこに向かうための努力が。

 幸いにも、須美には美森が居た。

 勇者としての完成度を高めた未来の自分という、理想の目標が。

 

 須美の武器は弓、美森の武器は銃であったが、立ち回りのフォーマットがほぼ同じで、武器が違うにもかかわらず、須美は理想の立ち回りを美森から学ぶことができた。

 

「須美ちゃん。この時代のあなた達は、本当は基本的に勝てないの」

 

「え?」

 

「この時代の勇者の武装では、本来バーテックスを倒せない。

 撃退はできるわ。でもそれだけ。

 バーテックスを討滅するには、私達の世代の勇者システムじゃないといけないの」

 

「そんな……じゃあどうすればいいんですか!?」

 

「大丈夫。

 おじさまが大赦を掌握したから。

 私の勇者システムを解析して、ほどなく須美ちゃん達のシステムも強化されるわ。

 勇者システムを開発しているところも、もうおじさまの催眠の支配下にあるから」

 

「そう……なんですか?」

 

「ええ」

 

 勇者システム。

 勇者が神樹の力を効率よく運用するためのシステム。

 神の力というオカルトと、アプリによる機械的制御というデジタルの融合。

 東郷美森の世代のシステムを導入することは、須美達を桁違いに強化することになるだろう。

 

「本来この時代の勇者は敵を倒せない。

 撃退しかできない。

 だからおじさまに負担が行って……その後、その後……?」

 

「東郷さん?」

 

「……ごめんなさい、なんでもないわ」

 

 東郷は消えた記憶を手繰るが、何も掴めず、頭を振って話を続ける。

 

「私はしばらくおじさまの傍に付くわ。

 樹海に入るか入らないかくらいは自分の意志で決められるから」

 

「おじさまの傍で何をするんですか?」

 

「その内分かるわ」

 

「一緒に戦ってはもらえないということでしょうか?」

 

「大丈夫よ。そんなに遠くない日に状況は変わると思うから」

 

「え?」

 

 美森の言うことはハッキリしない。

 いや、意図的にハッキリさせていないのだろう。

 わざと多少ボカした言い回しを選んでいる。

 

「あなた達が敵に勝てなくなるか。

 おじさまがあなたの強さを信じられなくなるか。

 それか、"あの日"が来るか―――私が参戦するとしたら、そのどれか」

 

「あの日?」

 

「須美ちゃん」

 

 それはきっと、美森にとって大切な何かが、そこにあるから。

 

 『鷲尾須美が自分で考えて出した答え』の価値を、美森が知っているから。

 

 だから美森は答えを提示し、「これを選んでほしい」とは言わない。

 

 わざとボカして、「自分で考えなさい」と暗に言う。

 

「自分の名前に恥じない選択をしなさい。

 鷲尾須美として恥じない選択を。

 東郷美森として恥じない選択を。

 それでも人生には後悔が付き纏うけど、きっと、それが正しいことだから」

 

 美森は『他人』にはこんな風に接しない。

 『他人』にはこんなことは言わない。

 美森にとって『自分』である須美に、美森は希望を創る言葉を投げかけた。

 

 それは須美にはまだ、希望であると感じられない言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神世紀298年5月8日。

 須美の誕生日、及び彼女らの初陣から、一ヶ月が経過していた。

 今日もキンタマキラキラ金曜日である。

 訓練休憩中の須美、銀、園子の輪の中に、訓練を見に来ていたおじさん――スポドリとタオルの差し入れ持参――が加わり、四人でまったりと談笑していた。

 

 大赦の治療の甲斐もあって、須美の頬にもう傷跡は残っていない。

 けれどおじさんは、まだそこに傷があるような気がしていた。

 目には見えないけどある"気がする"……悔いが見せる幻である。

 

「インチキおじさん~、私が今思いついた心理テストしない~?」

 

「やるやる~」

 

「おじさまのこのそのっちへの順応っぷりはなんなの」

 

「わしおじさんなんなら初対面の瞬間から園子に順応してたからな……」

 

「おじさま、そんなにそのっちと息が合うなら、乃木家に引っ越したらどうですか?

 別に私は止めませんよ。

 おじさまだって息が合うそのっちと一緒の方が楽しいでしょうし。

 私は仏頂面で面白い話もできませんし、そのっちみたいな愛嬌も全然ありませんから」

 

「見ろよ乃木のお嬢、須美がジェラシーしてるぜ~」

「ジェラってるぜ~」

 

「してません!」

 

「でも安心しろ、小生はずっと須美だけのおじさまだから~」

「私はわっしーだけの親友だから~」

 

「須美……頑張れ! アタシはもう知らん」

 

「あーもう!」

 

「小生クソウケる」

 

「おじさま!」

 

 大人の威厳というものを保つ気が一切ないおじさんと、気心知れれば大の大人にも物怖じしないそのっちが共鳴すると、もはや須美では対応不可能なコンビが成立してしまう。

 銀は匙を投げた。

 最大の問題はおじさんも園子も須美が大好きということで、そこに疑いの余地はなく、ゆえにこそ須美は怒るに怒り切れないという、ヘンテコなループが成立してしまっていた。

 

「インチキおじさん心理テストやらないの~?」

 

「やるやる~」

 

「おじさまはどんなノリにも合わせて行けるところありますよね……」

 

「園子と須美とアタシで対応全然違うから、わしおじさんのキャラ未だに掴めないぞ」

 

 おじさんは相手によってそれなりに対応を変える。

 銀相手なら銀がはっちゃけたノリを出しやすい話し方に。

 園子相手なら、天然で不思議ちゃんの園子のリズムに合わせる。

 大人相手には適当に敬語を使って合わせることもある。

 おじさんが素の性格を一番出しているのは、おそらく須美と話している時だ。

 

 自分と同じ会話ペースの人間と出会ったことのない園子からすれば、自分のペースに合わせてくれるおじさんはたいそう話しやすかった。

 

「あなたは大切なものをなくしてしまいました。悲しいね」

 

「ほう。小生の大切なものがなくなったのか」

 

「だから大切なものを探さないといけません。どこでなくしたか考えるんだよ~」

 

「なるほど……そういう心理テストか」

 

「場所の候補は五つだよ~。

 わっしーの服の内側の胸、背中、おなか、スカートの中、靴の中の五つです!」

 

「ん? 待ってそのっち」

 

「……。須美の背中で」

 

「わっしーの背中を探した人は……えっちです!」

 

「そのっち待って」

 

「なるほど心理テスト……ちなみに小生が胸って言ったら?」

 

「えっちです!」

 

「おなかは?」

 

「えっち~」

 

「スカートの中は?」

 

「すけべ~」

 

「靴は?」

 

「へんたいさん~」

 

「小生詰んでるわこれ」

 

「そのっち!」

 

「うーわー」

 

 須美が園子の頭を両手で挟んで、猛烈な勢いで前後に揺らす制裁をかました。

 制裁を受けている園子は須美に構ってもらえるのが嬉しいのか上機嫌で、制裁をかましている須美の方に余裕がないという奇妙なことになっていた。

 

「そのっち! あなたはいつもいつも!」

 

「まあ待て須美。

 正直小学生女子としてはどうかと思うが……

 多分これは園子の親愛の証だ。

 小生のノリに合わせてくれたんだろうと思う。

 須美に構ってほしいというのもあるだろう。

 そんな猛烈に揺らしてやらんでももうちょっと」

 

「そのっちがスキップしてるの見て真似して足を挫いたおじさまは静かにしててください!」

 

「!? 待て須美お前これちゃんと催眠かかってる?」

 

「ひええ、須美がお怒りだ、これはもうわしおじさんでも止められないぞ!」

 

「小生もしかして須美にスキップもできないおじさんと思われてるのか」

 

「ひゃ~、わっしーがお説教モードなんよ~」

 

「そのっちは嫌いじゃないけど言いたいことはあるのよ! まずは……」

 

 

■■■■■■

 

 

「……ということなのよ。って何今の!?」

 

「小生がスキップできないと思われていたから須美の長いお説教をスキップしたぞ。催眠で」

 

「催眠で!?」

「うおお! 須美のお説教が消えたぞ!」

「まるでゲームみたい~」

 

「まあ具体的に言えば時間感覚と会話の記憶と現状認識弄っただけだけどな」

 

「おじさま!?」

 

「やめなイキリ須美太郎。小学生の園子に長いお説教は酷なんだぞ」

 

「イキリ須美太郎!?」

 

「乃木のお嬢。

 そういう方向のネタはむさ苦しいおっさん専用だ。

 可愛い少女が使うと彼氏ができなくなるから以後封印しておきなさい」

 

「はーい」

 

「須美をからかうのは須美を苛立たせない範囲なら良いぞ。反応が可愛いからな」

 

「はーい!!」

 

「なんで二回目の返事の方が声大きいの! そのっち!」

 

 声を上げる須美が楽しそうにしていることは、この場の誰にも分かっていた。

 二人は友人で、一人は家族だったから。

 おじさんと園子がまた変な会話を始めて、それを優しげな目で見守る須美を見て、銀は曇りのない笑顔で須美に語りかける。

 

「よかったな須美」

 

「何が?」

 

「須美が守りたかったものって、これだろ? じゃあよかったじゃん」

 

「―――」

 

 銀の言葉が、須美の胸の内にすとんと落ちた。

 

 楽しい日々。

 愉快な会話。

 平和な時間。

 幸せの実感。

 何気なく流れる今の時間こそ、須美が戦って守ろうとしたもの。

 須美の目の前で笑い合う大切な人達こそ、須美が頑張って守ろうとしたもの。

 

 人はそれを、幸福と言う。

 

「銀は良いことを言うわね」

 

「お、そうか? へへっ、須美の考えてることはわかんないけどさ、友達じゃん?」

 

「銀……」

 

「悩んでたら気になるし、悩みが晴れてるの見たら嬉しいよ。そうだろ?」

 

「……ええ、そうね」

 

 須美の中の、須美がまだ言葉にできていなかった気持ちを、銀が言葉にしてくれた。

 

「私はそのために戦ったんだわ」

 

 戦うことを決めて良かったと、今の須美は、心の底からそう思える。

 

「あーあー待て待てそのっちさん小生肉体的には普通の人間の耐久度だからそれ死んじゃう」

 

「ご、ごめんなさーい!」

 

「何やってるの!?」

 

 耳に入って来たおじさんとそのっちの窮地の声に、須美は全力疾走で助けに入った。

 

 

 

 

 

 須美の日常は、学校、訓練、たまに休日の繰り返し。

 その合間におじさんや美森、親しい友達との笑い合える日々が挟まる。

 辛く苦しい時もあったが、その何倍も幸せで、その幸せが須美の力になっていく。

 毎日笑っていられることの幸せを、須美は噛み締めていた。

 

 その日、須美、園子、銀は体を休めつつも敵の襲撃を警戒し、鷲尾家にて自宅待機していた。

 いわゆる警戒態勢である。

 銀と園子は漫画を読んでいたが、須美がロケットペンダントをパチパチといじり、時々中の写真を見て優しげな表情を浮かべてるのを見て、漫画を放って須美に話しかけてきた。

 

「お、かっこいいじゃん須美。なにそれ? ロケットに写真入ってんの?」

 

「この前のお誕生会の写真~?」

 

「ええ。おじさまが手作りのロケットにしてくれたの」

 

「わしおじさん出来ることと出来ないことが極端だな……」

 

 須美の誕生日の、色んな人が集まって須美を祝っていた時の写真が中に入っている。

 須美の首から下げられたロケットペンダントは、須美の大切で暖かな思い出を中に綺麗に封じ込めていて、須美が望めばいつでもそれを見れるようになっていた。

 

「わっしーは叔父さんのことが大好きなんだね。

 私も優しくてツキノワグマみたいな叔父さんが欲しいな~」

 

「ツキノワグマ……?

 おじさまは私が守るわ。

 世界も、お父様も、お母様も、皆も。

 じゃないと、私は勇者なんて名乗れないもの」

 

 須美はロケットを握り、力強く宣誓する。

 

「おじさまは、私が傷一つ付かないで帰って来ることを願ってる。

 それは本当に難しいことだわ。

 でも、せめて、その想いには応えたい。

 私もおじさまに傷一つ付いてほしくないって思いながら、お役目に挑むの」

 

 須美の覚悟が、強い想いが、園子や銀にも伝わっていく。

 この真面目さが、真剣さが、真っ直ぐな想いが、園子と銀の心に力をくれる。

 その愚直さを不器用と小馬鹿にする者もいるかもしれないが、少なくとも園子と銀は、須美のこの不器用なまでに真っ直ぐな心を、尊敬していた。

 

「敵を倒すことじゃなくて、人を守ることが、私達が勇者である証明になるはず」

 

「だな。守ろう、アタシたち三人で!」

 

「三位一体! だね~」

 

 かくして。

 

 未だ終わりは遥か先の戦いの、二戦目が始まる。

 

「―――来る」

 

 世界の時間が止まる。

 

 世界が樹海に塗り潰される。

 

 前回戦ったバーテックスより更に大きな天秤型のバーテックスが、戦場に現れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 美森の記憶は正しい。

 彼女らは序盤には生死の危機にも陥らない。

 もう少し後になれば段々と追い詰められていくが、逆に言えばそこまで絶対の危機はない。

 美森の記憶の通りに事態が展開すれば、そうなるはずだ。

 美森が持ち込んだ未来の勇者システムも反映され、強化された須美達が相手では、この段階のバーテックスはまるで相手にもならない。

 

 二戦目が終わり、須美達はまたしても危なげなく、バーテックスを追い返した。

 

 今度は勇者達に傷一つない。

 須美は自分の体の傷をチェックして、自分が無傷であることを再確認してほっとする。

 

「……よかった。これならおじさまも心配しないわね」

 

 樹海の破壊度合いは前回より増えたが、それだけだ。

 戦いは短時間で終わり、バーテックスは神樹に近付けもしなかった。

 須美の脳内自己採点で百点満点の結果であったと言えるだろう。完勝だ。

 その認識は銀や園子も同様であるようで、誇らしげな銀、いつものように脳天気な表情の園子が須美に抱きついてくる。

 

「楽勝だったな! ずっとこうだといいんだけどなー!」

 

「そうだね。でも連携ちゃんとできてなかったら危なかったかも~」

 

「連携訓練をちゃんとしてたおかげね……銀、そのっち、お疲れ様」

 

 完勝の喜びに浸りつつ、須美は気を引き締める。

 まだまだ戦いは続くのだ。

 今日の戦いは長い戦いの二戦目にすぎない。

 油断すればまた怪我をして叔父を心配させてしまうだろう。

 須美は油断せず、明日からもまた精進していこうと、改めて自戒する。

 

「樹海が消えてく……アタシ、この風景結構好きだな。世界が丸ごと花散る、みたいな」

 

「私も~!」

 

「そうね。本当に綺麗……"散華の美しさ"っていうのかしら、こういうのは」

 

 樹海は、花散るように元の世界に戻っていく。

 

 散らない花は造花だけだ。

 

 どんな花もいつかは散る。永遠を約束されたものなどない。

 

 いかなるものにも、終わりはある。いかなる命もいつか散る。

 

「はー、戻って来た戻って来た。どうする? またわしおじさん迎えに来るかな?」

 

「きっと来るよー! インチキおじさんはわっしー大好きだもんね」

 

「ちょっと、おじさまにばかり頼ってるわけにはいかないわ。

 おじさまに頼らず自分の足で走って帰って……

 あら? 安芸先生の連絡? 随分急いだ感じの文章ね……何かしら」

 

 安芸からの呼び出し連絡を受け、少女達三人はそそくさと移動する。

 

 完勝の報告をしようと少し浮かれていた三人を、険しい顔をした安芸が出迎えた。

 

「あなた達、落ち着いて聞いて。特に鷲尾さん」

 

 樹海化した世界は、バーテックスの攻撃や、時間経過でどんどんダメージを蓄積していき、蓄積されたダメージに応じて、世界が元に戻った時に悪影響が出る。

 事故。

 災害。

 不幸。

 そういった形で、樹海化前の世界に還元されてしまう。

 ガス爆発が起こり、山崩れが発生し、不幸に巻き込まれた人が傷付き死ぬ。

 

 おじさんは生まれた時から今日に至るまで、()()()()()()()()()()()

 そういう人生を送ってきた。

 不幸体質と言うほどではないが、他人より不幸に遭いやすい人生を送ってきた。

 ただひとつを除いて、彼が幸運であったと断言できるものはない。

 

「鷲尾さんの叔父様が、子供を庇って山崩れに巻き込まれたわ。今、手術中よ」

 

「―――」

 

 誰かが悪かったわけではない。

 

 強いて言うなら、運が悪かった。

 

 

 



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催眠感度16倍

 夢を見ていた。

 ちょっとした話をした時の夢を。

 大事な約束をした時の夢を。

 鷲尾須美は、夢を見ていた。

 

「私、結構現金なんですよ?

 私を好きになってくれる人が好きです。

 私に優しくしてくれた人に優しくしたいです。

 私を救ってくれた人を救ってあげたいです。

 私を守ろうとしてくれる人を……守りたいんです」

 

 彼に向けて、そう言う。

 

「おじさまがよく使う手鏡と同じです。

 鏡なんです。

 鏡は、そのまま跳ね返すんです。

 私がおじさまを大切に想うのは、おじさまが私を大切に想ってくれてるからなんです」

 

「違う、催眠の力だろ。催眠も解けてない分際で何ほざいてんだ」

 

「……そうかもしれませんね」

 

「今のお前に、催眠の影響がないそのままのお前の意志なんて、無い」

 

 珍しい表情をしたおじさんに、須美は何かの感情を覚えた。

 けれどその感情は催眠の誘導によって消える。

 きっと、おじさんにとって不都合だったから。

 こうやっていくつもの感情や思考が、生まれそうになっては消えていく。

 

 おじさんが死んで催眠が消えるまで、須美がそれを思い出すことはない。

 

 そういう思考誘導がなされていることを、おじさんはよく知っている。

 けれども、須美が催眠への抵抗手段を獲得しつつあることを、おじさんは知らない。

 催眠おじさんの意地があった。

 勇者の意地があった。

 意地と意地がぶつかり合うなら、きっとそこには、最終的な勝敗がある。

 

「なら、催眠が全て解けた時、私がまだおじさんを大切に想っていたら、信じてくれますか?」

 

「―――」

 

 今の鷲尾須美の延長に、記憶を消される前のあの東郷美森が居る。

 おじさんの功罪全てをちゃんと見て、全部蔑ろにせず、死に逃げだけは絶対に許さなかったあの東郷美森が居る。

 歪み捻じ曲がった大人に、不器用で真っ直ぐな少女は、真正面からぶつかっていく。

 

「小生は催眠で操れていない人間を、誰も信じていない。お前もだ」

 

「じゃあ私が初めての、おじさまが催眠無しで信じられる人間になってみせます」

 

「……!」

 

「私がおじさまを守ってみせます。おじさまが私を信じてくれるまで、ずっと」

 

 守るという願いは小さな呪いになる。

 守ろうと思い、守れなかった時、呪いがかけられる。

 須美の頬の傷を見た時。

 おじさんが樹海の破壊の影響で大怪我をした時。

 おじさんと須美には、呪いがかけられた。

 簡単には解けない、小さな呪いが。

 

「おじさまが信じてくれたら、私はとっても嬉しいです」

 

 『私があなたを守るから信じて』と言った後、もし守れなかったとしたら、その発言者は有言実行できなかった自分を、どれだけ卑下するだろうか。

 どれだけ悔いるだろうか。

 どれだけ苦しむだろうか。

 

 おじさんも、須美も、同じように思っていた。

 

 守れなくてすまない、と。

 守れなくてごめんなさい、と。

 二人は、互いに対して同じ想いを抱いていた。

 

 そして、夢が終わる。

 

 

 

 

 

 守ると約束した日の夢から目覚めた須美が見たのは、守れなかったおじさんを手術している手術室の扉だった。

 

 須美は自分の体を揺らし、起こそうとしている人物の存在に気付く。

 安芸が心配そうな顔で、須美の顔を覗き込んでいた。

 カチ、カチ、と動く病院の時計の針が、今が夜であることを教えてくれる。

 

「鷲尾さん、こんなところで寝ていたら風邪を引くわ。仮眠室に行きなさい」

 

「……ここがいいです」

 

「……タオルケットを持ってきたから、せめて上に掛けなさい」

 

 安芸がいたわるような手付きで、須美の体にタオルケットをかけた。

 須美は周りを見る。

 須美、銀、園子は、手術室前の長椅子の上でずっと眠っていた。

 手術は何時間も続いており、まだ終わらない。

 手術が終わるまで須美達はここで待つと言って聞かず、やがて戦闘の疲労もあって、長椅子の上で眠ってしまったようだ。

 

 子供達を一人一人起こして病院の仮眠室のベッドに移動させようとする安芸だが、須美も、他二人も、頑としてここを離れようとしない。

 おじさんがどうなるかを知るまで、ここを離れたくはないということなのだろう。

 

 人の人生には、明確に引かれた『人生の境界線』がいくつか存在する。

 その一つが、『大切な人の死』だ。

 

 子供は皆、死というものを分かっていない。

 人間が死ぬことは知っている。

 だが、知っているだけで分かってはいない。

 なんとなく、皆ずっと生きていると思っている。

 なんとなく、皆傍に居てくれると思っている。

 死を分かっていないから、子供は死を恐れず、大人が絶対にやらないような危ないことをしてあっさりと事故で死んでしまうのである。

 

 けれど、周りの人達は子供達よりも先に死んでいく。

 知っている人を亡くし、家族を亡くし、子供達は理解していく。

 『終わり』は誰にでもあることを。

 もう二度と会えないということが、どういうことであるのかを。

 それが、死であるということを。

 

 手術室の『手術中』の赤いランプを見つめる子供達は、もう『終わり』を理解しかけており、それが今は来ないことを願っていた。

 

 銀が頭をガリガリと掻き、無言でずっと俯いて、腑抜けた口調で口を開く。

 

「……アタシ、どっか甘く見てたのかもしれない。ごめん、須美」

 

「なんで、銀が謝るの。おじさまのことは、銀は悪くないのよ……?」

 

「もっと真剣に戦ってりゃ、樹海のダメージ抑えてりゃ、こんなことには……」

 

「……そうね。私だって、もっともっと真面目にやってれば……」

 

 銀と須美のその言葉を、園子が遮った。

 

「違うよ」

 

「園子」

「そのっち」

 

「私達三人、ずっと真剣だったよ。

 訓練の時も実戦の時も、手を抜いたことなんて一度も無かったよ。

 適当に戦ったことなんて一度も無かったよ。

 だからこれは……『もっと本気で戦ってれば』で片付けていい話じゃないと思う」

 

 園子は人生の過程において、あまり間違えない。

 彼女はいつも本質を見ている。

 普段何も考えていないように見えて、実は誰よりも考えている。

 この三人で共に戦っていれば、園子はごく自然にリーダーになっていく。

 園子はふわふわふらふらしているように見えてその実、芯が揺らいでいない。

 

 彼女は乃木園子。初代勇者達のリーダー、乃木若葉の子孫。

 

「本当は誰も悪くないよ。

 悪いのはバーテックスだよ。

 わっしーもミノさんも、もちろんインチキおじさんも悪くない」

 

 "私がもっと頑張っていたら"という気持ちは園子の中にもある。

 おじさんがこうなったことへの罪悪感もある。

 自分を責めたい気持ちだってある。

 その上で"誰も悪くない"と言える園子は、間違いなくリーダーの資質があった。

 

「でも、この痛みは絶対に忘れちゃいけないと思う。

 この気持ちはこの先何があっても抱えていたほうが良いと思う。

 自分が悪くないとしても、絶対にどうでもいいことなんかじゃないと思うから」

 

「……そうだな」

 

「……」

 

 銀が落ち着きを取り戻し、頷く。

 だが須美はそうはならず、考えれば考えるほどにドツボにハマっていく。

 二人の反応の違いそれはそのまま、おじさんとの付き合いの長さと深さに直結していた。

 

「須美?」

 

「どうしよう」

 

 銀が気遣うと、須美は真っ青な顔色で、泣きそうな顔で、銀の胸に顔を埋める。

 銀を抱き締める須美の腕の力は、銀が茶化せないほどに弱々しかった。

 

「私、ずっと考えないようにしてたの。

 誰かが死んじゃったらどうしよう、って。

 戦いの中で銀やそのっちが死んでしまったら。

 樹海の損傷でお父様やお母様が死んでしまったら。

 見ず知らずの人が死んでしまったら。

 そういうことがあるかもって、頭では分かってたのに……

 ずっと、本気で考えないようにしてた……

 もしもこのままおじさまが、死んでしまったら……!」

 

「須美」

 

 銀は、姉が妹を抱き締める時のように、暖かく、優しく、須美を抱き締める。

 包み込まれた須美は、銀に心も体も寄りかかっていた。

 

「大丈夫、大丈夫だ。

 そんな滅多なこと起こるわけないよ。

 お前の叔父さんはお前が泣くならお前を置いて行かないって。な?」

 

「私、私、私っ……!」

 

「大丈夫、大丈夫だよ須美。

 ゆっくり、ゆっくり息をしな。

 不安なのはお前だけじゃないから。

 アタシ達も同じ気持ちで傍に居るから。

 ゆっくり落ち着きな。ゆっくり、ゆっくり……よしよし」

 

 銀の手が、優しく須美の頭を撫でる。

 須美の瞳から涙が溢れ、声が涙で濁り、銀の服に須美の涙が沁みていく。

 

「銀、私、怖くて、怖くて……!」

 

「お前のヒーローを信じろよ。

 お前の叔父さんはお前のヒーローだろ?

 叔父さんが目を覚ました時にどのくらい優しくしてあげるかとかさ、そういうの考えようぜ」

 

 その時。

 

 手術中のランプが消え、皆が同時に息を飲んだ。

 

 手術室の扉が開き、手術衣の中年男性が手術室から出て来る。

 

「手術が終わりました」

 

 一も二もなく、須美は銀から離れ、その医者に詰め寄る。

 

 一秒でも早く、医者におじさんのことを聞きたかったから。

 

「おじさまは……おじさまはどこですか!? 話せるなら、今すぐ―――」

 

「小生メリーさん。今須美の後ろに居るの」

 

「わああああああああああああああああああ!?!?!?」

「ひゃあああああああああああああああああ!?!?!?」

「あ、インチキおじさん!」

 

「催眠を使わずともお前達の心は小生の手の上よヌハハハハハハ」

 

「おじさまは他人の心を手玉に取ってないと死ぬ病気なんですか!?」

 

 なんかいた。

 

 医者が先程までおじさんが寝かされていた手術台と、須美の後ろで笑っているおじさんを交互に見て、目をゴシゴシとこすり、驚愕する。

 

「なんだこの患者……さっきまで全身麻酔して手術してたのに……!?」

 

「小生より霊圧の低い麻酔や催眠の眠りはいつでも打ち消して目覚めることができるのだよ」

 

「霊圧って何」

 

 暗い空気が一瞬で散華していた。

 

 

 

 

 

 翌日。

 「とりあえず命に別条はないんだからお前ら帰って風呂入って飯食ってゆっくり休め。汗臭くて女として終わってるぞ」とおじさんが須美達に言ってから、八時間ほどが経過していた。

 唐突な暴言に須美が大声を返して三人はとりあえず帰り、翌日の朝におじさんの見舞いに来ていたが、おじさんは手術翌日から既に元気だった。

 なんなら手術直後から元気だった。

 

「ああクッソ!

 せっかく須美が最高の振りしてくれたのに!

 催眠で小生の姿を医者に見せて手術室から出てくればよかった!

 そうしたら、

 『おじさまは……おじさまはどこですか!? 話せるなら、今すぐ―――』

 『あ、ご遺族の方ですか?』

 『は?』

 っていう超絶無神経医者ムーブできたってのによぉ……! ミスってしまった」

 

「絶好調ですねおじさま! 私達の心配をよそに!」

 

「心配かけてすまんな」

 

 おじさんは全身包帯まみれでカラカラと笑っていた。

 

 須美達はおじさんが部屋を移動すると聞いて――手術後の経過を見る部屋から、個室に移る――その手伝いを申し出ていた。

 おじさんを車椅子に乗せ、須美がその車椅子を押す。

 三人の中で一番力がある銀が申し出たが、須美が一切譲らなかったのである。

 

 須美はせっせと、おじさんを乗せた車椅子を押していた。

 

「あー、いいなこれ。完治しても須美に車椅子押されたい。楽だし安心するわ」

 

「ダメに決まってるでしょう。

 そんなにいいんですか?

 他人に自分の体任せるって、結構不安だと思うんですけど」

 

「いやー、お前は車椅子適性あると思うぞ。

 甘えん坊だし。人に自分を任せるのは案外合うと思う」

 

「そうかな……」

 

「お前は信頼してる相手に自分の車椅子を任せることに喜びを覚えるタイプだろうぜ」

 

 須美はハッとして、おじさんに話題を誘導されていることに気付き、聞かなければならないことを聞きにかかった。

 

「それより傷です、傷の具合は……」

 

「助けた小学生は無事だぞ。傷一つ無い」

 

「いや私達が聞きたいのはおじさまの傷の状態です! 大丈夫なんですか!?」

 

「美森が守ってくれた。

 流石勇者……いや、あれは経験値か。

 意識の切り替え、変身に入るまで、助けに動くまでが段違いに早かった。

 岩とか大木が雨みたいに降って来る中小生を守り切るとかアイツプロだプロ」

 

 小生の近くにあった一軒家粉々になってたからなあっはっは、とおじさんは笑った。

 

 勇者は樹海でのみ変身できるのではない。

 現実でも変身し、問題なくその力を行使することができる。

 東郷美森がそうして、おじさんの命を守りきったのだ。

 銀が理由を聞き納得し、ほっと胸を撫で下ろす。

 

「そりゃ山崩れに巻き込まれてここまで元気なのは助けがないとわしおじさんでも無理だよな」

 

「ハッハッハ!

 やっぱ咄嗟にあの規模の自然物に干渉すんのは無理だわ!

 人間に催眠は楽だけど暴走自転車ですら止めらんないもんな小生!」

 

「笑い事じゃありません! もうっ!」

 

 その会話の最中、須美の脳裏に、美森との会話が蘇る。

 

―――おじさまの傍で何をするんですか?

―――その内分かるわ

 

 これか、と須美は気付く。

 

 この世界における神性は、星や天体の化身である。

 星を雌豚にするおじさんでも、星を玩具にする神々には敵わない。

 神はいとも容易く星一つ分の理を塗り潰し、また逆に塗り替えして元の世界の形に戻し、その力の一部を分けられた勇者も小さな星程度なら拳一つで殴り壊すことができる。

 須美達が楽勝で倒したバーテックス達も、かつて人類が核兵器程度では傷一つ付けられなかった敵であり、須美達の強さもまたその領域にある。

 

 そんな勇者の一人である美森がおじさんの横についていて、今回起こった不幸を完璧に処理し、おじさんを生存させてみせたのである。

 災害の規模が十倍でも、おじさんは確実に死ななかっただろう。

 おじさんが普段からリスクマネジメントを考えていることを、須美は思い出していた。

 

「しかし咄嗟に子供庇ったのはあれだな。

 小生ちょっとライトサイドに寄り過ぎたな、ハッハッハ。

 前に須美に言ったが良心に目覚めた催眠おじさんは死ぬか逮捕って話の通りになってきたぞ」

 

「冗談でもやめてください!」

 

「ここらでちゃんとダークサイドに戻らねえとなあ。

 催眠の暗黒面の力が弱まり始めてからじゃ遅い。

 これじゃあ極めた催眠の力も修学旅行のお土産木刀みたいになっちまいそうだ」

 

「どうせもう戻れないんですからそんなこと考えなくていいです!」

 

「こいつ小生に失礼なことは言えない催眠が解け……

 違うな! 美森見て催眠の抜け道見つけるのが得意になってきたのか! クソ!」

 

 おじさんは頭を掻こうとして、包帯ぐるぐる巻きの頭に包帯ぐるぐる巻きの右手がぶつかり、心底痛そうに呻いた。

 自分を見ている須美銀園子の視線に気付き、おじさんはクールに笑う。

 

 おじさんは災害に巻き込まれてへし折れた指を得意げに少女達に見せつける。

 

「分かるか?

 この小生の振る舞いから伝わる真実が。

 お前達メスガキではこうならなかっただろう。

 お前らとは鍛え方が違うんだよ、鍛え方がな……」

 

「鍛えてない方がその言い回し使うのアタシ初めて見ましたよ……」

 

「良かったな三ノ輪のお嬢。今日初めて見たなら次回以降はこの経験が活かせるだろう」

 

「活かし方がまるでわからない!」

 

 催眠おじさんは勇者ほど体を鍛えていないからしょうがないところもあった。

 

 須美が申し訳無さと罪悪感がまぜこぜになった表情で、『守れなかった』おじさんの目を真っ直ぐに見ることもできず、おずおずと口を開く。

 

「……何か困ってることはありませんか?

 おじさま、何でも言ってください。

 これは私達の責任です。

 何でも良いです。困ってることなら、なんでも……」

 

「そうだな……一つ、助けてほしいことがある」

 

「! なんですか!?」

 

「小生の担当のジジイの医者が、

 『ワシの耳は遠くてすみませんのう』

 ってよく言ってるんだが舌の動きが行方不明で鷲尾須美にしか聞こえないんだ。助けてくれ」

 

「知りません!!!」

 

 いつもの会話のノリが始まって、ワシの耳……鷲尾須美の言葉に、ちょっと元気が戻った。

 

 銀が苦笑して、園子がいつもの脳天気な笑みを浮かべている。

 

「なんかもうホントいつものわしおじさんって感じですね……」

 

「バカにしてるのか? 小生をバカにしたら勇者の須美が黙ってないぞ? ん?」

 

「虎の威を借る狐……須美の威を借る叔父だ! 面白くなってきたぞ園子!」

「そうだね~」

 

「小生は基本的に借りたものはトイチで返す。

 10日、20日と経てば利子がつき―――須美の威は最強になるのだ」

 

「おおー!」

「おお~!」

 

「おじさまは私を利用したいのか強化したいのかどっちなんですか」

 

 全身包帯のくせに口の回りだけはいっちょ前で、須美に車椅子を押されないと移動もできないくせに、今にも走り出しそうなほどに元気がある。

 おじさんがなんてこともなかったように話せば話すほどに、少女らの中の『自分達のふがいなさのせいでおじさんが』という罪悪感は、少しずつ薄れていく。

 

 だが須美だけは、おじさんが催眠術を使えるだけの余力が残っておらず、トークだけで三人の心を操ろうとしていることに、気が付いていた。

 

「いや、でも、包帯まみれだけど元気そうでよかったっすよ」

 

「おう。そう見えるか?」

 

「はい。んじゃアタシら失礼しますね。行こ、須美、園子」

 

「あ、ちょっと待て」

 

「はい」

 

「今日もよくやった。奮闘ご苦労!

 勝利を褒めてつかわしてやる。

 よく世界を守ったな。

 今手元には飴ちゃんしかないから飴をやろう。一人一個だ。

 明日も小生のために小生が生きる世界を守っていいぞ、ハッハッハ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「病室はやることがないからたまには小生の見舞いに来いよ。オーホッホッホ」

 

「男の人がオーホッホッホって言ってんの初めて見た」

 

「私は女の人がしてるのも見たことないかな~……」

 

 須美達はおじさんを個室まで運んで寝かせて、今日のところは病室を去った。

 

 

 

 

 

 そして病院を離れて、三人は自分の感想が二人と同意見かどうかを、すり合わせる。

 

「無理してたな、わしおじさん」

 

「……そうだね。包帯が痛そうだった」

 

「……おじさま」

 

 少女らに下を向かせる罪悪感は、病院に行く前と比べ、随分小さくなっていた。

 

 少女らの胸に生まれたのは、罪悪感の重さではない、もっと熱くて強いもの。

 

 大人のおじさんが痛みに耐えて浮かべていた作り笑顔は、少女らの心を突き動かす。

 

 居ても立っても居られなくて、須美は早足で歩き始める。

 

「おい須美、どこ行くんだ?」

 

「じっとしてられないの。訓練よ。次は、樹海に傷一つ付けさせないで勝つために」

 

「! いいな、アタシもやるよ。悔しいし、申し訳ないし、もっと頑張りたい気分だ!」

 

「私もやるよ~! 強くならないと、もっともっと!」

 

 早足の須美に元気よく銀が続き、園子もトコトコとその後ろについていく。

 

「周りの人の笑顔を守るために頑張るのが勇者なら、おじさまだって勇者よ」

 

 勇者は戦う。

 勇者は頑張る。

 勇者は生きる。

 "仲間の勇者"と共に。

 そのために、守るために、もっともっと強くなりたいと心の底から願う。

 

「同じ勇者が今も頑張ってるのに、じっとしてなんていられない。行くわよ!」

 

 ショックは大きく、今回の件は須美達の心の中に未だ尾を引いている。

 

 それでも、蹲って動けなくなるのではなく、細かいことを考えるのをやめて前を向いて歩いて行こうとすることは、古来から続く『人間の美徳』であった。

 

 

 

 

 

 須美達が去った後、おじさんは気絶するように眠って、昼間に眠りすぎたせいで夜中に起きてしまった。

 また寝ようとするが、しっかり寝てしまったのと傷の痛みで眠れない。

 なので話し相手を欲しがっている……という話を、美森はナースからの又聞きで聞いた。

 

 美森が病室に入ると、おじさんがうとうとしていた。

 怪我人が痛みと眠気の合間でうとうとしている状態は、脳が疲労と休息の合間でフラフラしているような状態で、周囲に意識が向いていないことが多い。

 美森はおじさんを起こさないよう、胸の下までずり落ちていた掛け布団をおじさんの肩のあたりまで掛け直してやるが、その僅かな刺激でおじさんは美森が来たことに気が付き起きた。

 

「……ん?」

 

「あ、ごめんなさい。起こしちゃいましたか」

 

「いや、いい。報告頼む」

 

「その前に、私の謝罪を一つ聞いていただいてもいいですか?」

 

「どうぞどうぞ」

 

 美森は流れるように、床に額をこすりつけて土下座した。

 

「申し訳ありませんでした!」

 

「えっちょっお前」

 

「おじさまの護衛役としてこの体たらく! 千の謝罪でも足りません!」

 

「待て待て頭上げろ」

 

「かくなる上は腹を切ってお詫びしたいところですがおじさまに禁止されている故に!」

 

「あっそれは覚えてるんだ」

 

「なんでも申し付けてください! なんでも言うことを聞いてみせます!」

 

「ん? 今なんでも……じゃあ顔を上げて、自分を許せ」

 

「えっ、でも」

 

「お前がいなかったら小生は死んでた。ありがとよ」

 

「でも、おじさま」

 

「みー子。小生の感謝をお前が受け取って、そこで終わりにしようぜ」

 

「……………………………………………………………はい」

 

「今メチャクチャ葛藤したなお前」

 

「はい……」

 

「こういう不器用なところ本当に未来のみー子って感じだよなお前」

 

 須美は険しい表情で、胸の内を語る。

 

「本当は、おじさまに傷一つ付けたくなかったんです」

 

「だけどあの山崩れは無理だろう、流石に。

 催眠術の特訓で山に入ってたのが仇になったな……」

 

「違います。私の記憶だと、おじさまが山崩れに巻き込まれることはなかったんです」

 

「何?」

 

「もっと別の事故におじさまは巻き込まれるはずだったんです。

 でも、そうはならなかった。

 多分……私が過去に来た影響が出始めてるんだと思います」

 

「予想外の事故か」

 

「知ってた事故なら、傷一つ付けずに終わらせられるかもって思ったんです……」

 

「ああ、FANZAでNTRタグに気を付けてればNTR衝突事故防止できるみたいな」

 

「なんですかそれ?」

 

「うーんここは通じないのか残念。ま、気にすんなよ」

 

 おじさんは須美の謝罪を、下手くそな微笑みで許す。

 

「私も心のどこかでは分かってたのかも。

 私なんかじゃ、おじさまは守れないって……」

 

「いやいやいやいや。

 須美は世界を救った。

 お前は小生の命を救った。

 どっちか片方が欠けても小生今頃死んでんぞ。分かってるだろ?」

 

「でも」

 

「でもでもだって禁止」

 

「……」

 

「小生は偉大な男だと昔須美に言われたことがある。

 世界と同じくらい価値がある男だと。

 まあ催眠の力なんだがな!

 そう見ればお前と須美は同じくらい偉いと言える。

 世界を救った須美と、小生を救ったお前。どっちも最高に偉いだろ?」

 

 上機嫌そうにおじさんは笑う。

 

「むしろ反省すべきは完璧に仕事こなした須美やお前じゃなくて小生なんだよな」

 

「え?」

 

「……泣かせちまった。やっちまった。あーダメだダメだクソクソクソッ」

 

 美森は、思い出す。

 遠くから見た、泣いている須美の姿を思い出す。

 須美の目の前で陽気にふざけたようなことばかり言っていたおじさんは、須美の目の周りの涙の跡に気付き、それをずっと気にしていた。

 

 おじさんは須美を守ると決めている。

 守ると決めていたのに、自分のせいで泣かせてしまった。

 彼は男だ。男なら、それが苦しくないはずがない。

 男はいつの時代も、女の涙には弱いのだ。

 

 美森の胸の奥に、不思議な暖かい気持ちが宿る。

 

「ああ、須美ちゃん、泣いてましたからね。おじさまらしい」

 

 暖かい気持ちに流されるように、美森がとても嬉しそうな笑みを浮かべる。

 

「泣いたのはお前もだろ」

 

「―――」

 

 その笑みが、おじさんの不意の一言で、吹っ飛んだ。

 

「小生の前で泣いてなければバレないとでも思ったのか?

 気を使いすぎだ。

 どうせ一人でそこにいない小生に泣いて謝ってたりしてんだろ。

 このアホバカメスガキが、無理してんじゃねえ。

 感情の涙は涙器系で生成されて眼球運動等に影響与えるから見りゃ分かるんだよ」

 

 おじさんの目はごまかせない。

 

「もう泣かせないようにするから、もう泣くな。そういうのは小生の気分が悪い」

 

 美森が、さっきよりもずっとずっと素敵な笑顔になった。

 

「おじさまは勝手ですよ。だったら、もうちょっと優しくしてください」

 

「優しさ足りない?」

 

「足りません」

 

「まいったな……どうすっか……まあ色々整理ついてから考えるか」

 

「楽しみに待ってます。誰よりも優しくしてくださいね」

 

 これが東郷美森の"あなたの中の一番特別な席をください"という遠回しなお願いであることを、理解できないおじさんではなかった。

 

 だが今は、目下別の問題に挑んでいる真っ最中。

 

 おじさんが伸ばすべきは優しさスキルではなく、時の世界に入門するための特殊技能。

 

「美森、完成させるぞ。TMNシステムを」

 

「はい!」

 

 大怪我してなお、おじさんは止まらない。

 

 事故に巻き込まれる前、山での修行中に、次のステージに進む糸口も見つかった。

 

 おじさんは負けない。

 須美も負けない。

 美森も負けない。

 メスガキも負けない。

 バーテックスにも、それが引き起こすものにも、それが招いた不幸にも負けない。

 だから、一歩を踏み出せる。

 

「でもおじさま、戦場に入ってどう戦うんですか? アレを使うんですか?」

 

「痛いのは嫌なので他人に全振りしたいと思います」

 

「えっ……ま、まあいいですけど、私の後ろから出ないでくださいね……?」

 

 こう言ってるけど多分何かするんだろうな……と美森は思いつつ。

 

 すっかり目が覚めてしまったおじさんに、須美が見舞いで置いて行った果物を切り分けてあーんで食べさせようとし始めた。

 

 拒否された。

 

 

 



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催眠感度17倍

 おじさんは、かなり急いでいた。

 美森が不穏な推測を立てていたからである。

 

「予想の数倍、須美ちゃん達が善戦してます。

 あまりよくないですね……

 私が参戦しないようにして"進化"を抑えてても、不味いかも」

 

「そんなにか?」

 

「バーテックスは無限に進化を続ける、天の神が生み出した人の『天敵』ですから」

 

 この世界において、バーテックスに勝てなかった勇者というのは実際いない。

 だが、()()()()()勇者は、有史以来一人もいない。

 それこそがこの世界の難儀なところであった。

 

 バーテックスは進化する。

 最初は2mもない。

 だが敵の強さに合わせて爆発的に進化する。

 敵が強すぎれば融合して更に速く進化する。

 "十億年の進化を僅か数分で成し遂げる"―――初代勇者は、そう表現した。

 

「人間側が余裕を持って圧倒的に勝ちすぎるとバーテックスは相応の手を打っていきます」

 

「たとえば?」

 

「私の経験上、こうなった時のバーテックスの対策は二つです。

 数体同時投入か、急激な進化です。

 特に獅子座は100mくらいの大きさでどんどん強くなる厄介な敵でした。

 須美ちゃん達は二回圧倒的に勝っているので……

 早ければ三回目。遅くても四回目には、畳み掛けて来ると思います」

 

「なるほどな……

 歌の二番の歌詞が終わったところで畳み掛けてくるギターソロみたいなものか。

 本命の最後の締めの前の凄まじい勢いのギターソロ……正直言うと好きだな」

 

「二回目の後に畳み掛けてくるところしか共通点ないですよね?」

 

 ギターソロ大好きマンのおじさんとカラオケで軍歌を歌いまくる愛国厨の美森は、歌の好みが決して相容れぬところがあった。

 

「須美ちゃん達は敵を二回撃退しました。

 撃退しただけです。

 いずれ再生します。

 敵の数はまだ一体も減っていないんです。

 敵の総数は、大型が十二、小型は無限。小型が集まって進化して、大型になります」

 

「指より数が多いと数えるのが大変だなあ、はっはっは」

 

「おじさまが『神をどうにかしなければ堂々巡り』と言っていた覚えがあります。

 ええと……それで……方策を二つ立てて、どちらか選ぼうと言ってたような……」

 

「なるほど、二つ」

 

「一つは速攻。

 十二体を速攻で倒して決戦に持ち込むこと。

 一つは持久戦。

 敵の進化を抑制し、人類側の力を溜め込むこと。

 それをおじさまが選んで……何か……忘れてるような……」

 

 記憶の欠落に美森が思考を深めると、おじさんが流れるように別の話題を始める。

 

「小生にもっと優しくしてほしいという話か? しょうがないな……膝枕してやろう」

 

「今のおじさまの膝に頭乗せたら血が吹き出しませんか?」

 

「なんだお前……嫌なのか? 照れるなよ、素直になれ」

 

「素直に言いますけどおじさまが痛そうなのが嫌です」

 

「ふん……素直になれたじゃないか……」

 

「須美ちゃんは素直じゃないですからね……あれ私何考えてたのかしら」

 

 車椅子に乗ったままのおじさんが膝を軽く叩くと、美森は無言で傷付いた膝を叩くおじさんの手をはたいてどけた。

 

「それよりな、TMNシステムの稼働時間計測中に暇だったからデザインしてみたんだ」

 

「何をですか?」

 

「須美と美森の新勇者服だ」

 

「利き手の指折れてるのに……!?」

 

「ふっ、割と上手く書けたぜぇ。おののけ神樹の勇者」

 

「では、拝見いたしま……うわっ」

 

「うわってお前うわってお前この野郎」

 

「す、すみません。

 いやこれなんですか?

 真冬の五枚くらい防寒着着た姿?

 雪山の登山着?

 肌の露出の低さと体のラインの見えなさしか考えてないんじゃないですか?」

 

「機能美があるだろ」

 

「無いと思います。この謎マークは?」

 

「3って書こうとしたけどミスって2って書いてたから下にちょっと付け足して3にした」

 

「よくある横着! え、なんで私と須美ちゃんの衣装に3の字を……?」

 

「鷲尾須3と東郷3森らしい……だろ?」

 

「嫌ですよ私3ー子とか呼ばれるの。

 というかおじさまそんなにドヤ顔下手だったんですね……」

 

 美森がおじさんの車椅子を押していく。

 須美より背が高く、須美より力があり、須美よりおじさんのことを理解しているがために、美森が押しているというだけで心地良い。

 おじさんが安心して美森に体を預けていることが車椅子の手応えからも分かって、美森は穏やかに微笑んだ。

 

「ここ、中庭が綺麗ですよね、おじさま」

 

「みー子……君の方が綺麗だよ」

 

「超鉄板の台詞を雑なタイミングと状況で言うことで凄まじく台無しにしてきた……!」

 

「お前に恋人ができて鉄板の台詞を言われた時今日この瞬間を思い出すかもしれない」

 

「割と酷いことしてきますね」

 

 小生が死ななけりゃな、とおじさんは心中で呟いた。

 

「あっ、おじさ……東郷さんも居たんですか」

 

「おっはよーございます!」

 

「ます~」

 

 そこに、小学生組がやって来た。

 

「……」

 

「……」

 

 おじさんと美森が、ちょっとしたアイコンタクトをする。

 

 須美はおじさんを見て満面の笑みを浮かべ、東郷を見て真面目な顔に戻る。

 銀は元気よく走って行こうとして、「病院で走らないで」と須美に止められる。

 園子は真っ直ぐ歩いて行かないで、中庭の色んなものに興味を持ってあっちに行ったりこっちに行ったりしながら一番最後に合流した。

 

「あ、そうだ。おじさま、ちょっと銀とそのっちを借りていっていいですか?」

 

「いいが……何するんだ?

 あの二人には『東郷美森に違和感を持たない』くらいしかお前関連の催眠はかけてないぞ」

 

「須美ちゃんには色々と教えましたけど、あの二人には何も教えてませんでしたから」

 

「ああ、なるほど。三人まとめて指導して調整して連携のレベルを上げるのか」

 

「あとちっちゃいあの二人と話したいので」

 

「お前本当に三ノ輪のお嬢と乃木のお嬢のこと好きだな……うどんとどっちが好き?」

 

「あの二人です」

 

「よし、行け!」

 

「はい!」

 

 美森が銀と園子を連れて中庭の須美にある丸テーブルと椅子を使って話を始めると、後に残されるのはおじさんと須美のみ。

 須美はおじさんの背後に回り、おじさんの車椅子をゆっくり押し始めた。

 

「おじさま、おじさま」

 

「お、須美。今日は麦わらと長袖のワンピースか。ちょっとゴムゴムの銃やってくれ」

 

「か、かつてないほどの無茶振り!

 こほん。ちょ、ちょっと質問なんですが、私と東郷さんのどっちが安心できますか?」

 

「ん……お前の方が真面目で押され心地が良いぞ。安心する。」

 

「! では私が車椅子押しますね! どこに行きますか?」

 

「明日へ」

 

「すみません、出発と同時に迷子です」

 

 美森がここに居たら、"おじさまはいつもそう"と嬉しそうに苦笑していたかもしれない。

 おじさんはいつも嘘が多い。

 

「須美、適当に回ってくれ」

 

「はい!」

 

 須美がおじさんの車椅子を押す中庭には、心地良い風が流れていた。

 

「最近学校どんな感じ? 何十人くらい告白された?」

 

「気軽に桁を一つ増やさないでください。一人も居ませんよ」

 

「ええ……神樹館の男子全員性機能調査した方がいいぞ……」

 

「これが普通です!」

 

「小生の小学校の時の同級生は凄かったぞ。

 学校の女子のファーストキス全部自分のものにしてたからな……

 『君はソシャゲで実装されたキャラ全部集めたくならないの?』

 って言われてあーそういうことかーって納得したね。彼はコンプ厨だったんだ」

 

「それ同列に扱って良いんですか!?」

 

「『この時期に手に入れないともう一生手に入らないファーストキスもあるから』って」

 

「期間限定ガチャ扱い!?」

 

 こほん、と須美は咳払い一つ。

 

「おじさま、私決めたんです」

 

「何を?」

 

「おじさまに心配かけないように戦うことを、やめることです」

 

 隠しきれない不安を滲ませて、おじさんが眉を顰めた。

 

「もちろん私は、死ぬつもりなんてありません」

 

「そりゃそうだ。そうでなきゃ困る」

 

「おじさまが死ぬかもって思った時、とても不安になりました。

 友達や家族が死んでしまうところも連想してしまいました。

 そうしたら考えるほど気分が暗くなって……気分が、なんだか投げやりになって」

 

「投げやりに?」

 

「辛くて苦しいのに生きてる価値はあるのか、っていうことです」

 

 ふむ、とおじさんは腕を組もうとして、怪我のせいで組めなかった。

 

「あの、その、他言はしないでほしいんですが」

 

「分かった。死ぬまで誰にも話さないって約束する」

 

「私その……極端に追い詰められると色々やけっぱちになる癖があったみたいで」

 

「……ああ、言われてみるとそんな感じはするな」

 

「私の大切な人が死んじゃったら生きてる意味ない!

 なんかもう色々どうでもいい!

 世界を守るために戦う気がおきない!

 みたいな思考が出てきて、落ち着くまで時間がかかっちゃったんです」

 

「ま、普通だと思うぞ。不幸は自殺や心中の理由としては妥当だからな」

 

「勇者としてあるまじき考えです。許してはいけない考えです」

 

「別に好きにしていいんだぞ?

 お前が本当に苦悩して出した答えなら……

 それがどんなに愚かでも、きっと間違ってない。

 お前が真剣に考えて出した答えなら、それもきっと正しい」

 

「……」

 

「世界を壊したって良いぞ、別に」

 

「……」

 

「お前の心からの想いよりも重い世界なんてないんだからな」

 

「……おじさま」

 

 この人は絶対に正義の味方にはなれないと、須美は思った。

 

「落ち込んで落ち込んで、落ち込んだ底で思ったんです。

 ああ、笑えることって、幸せだったんだなって。

 今日まで私、幸せだったんだなって。

 周りの人が、おじさまが、私のことを幸せにしてくれてたんだなって」

 

 須美の声に、いつの間にか美森のような落ち着きが生まれていたことに、おじさんは気付いた。

 

「この幸せは、私が命を懸けて守る価値があると思うんです。

 おじさまは私が傷付くだけで、自分のことみたいに傷付きます。

 だから昨日は、傷を負わないように戦いました。

 おじさまに心配をかけないために。

 でもその結果、おじさまが巻き込まれてしまった。

 もしかしたら負けてたかもしれない。

 これじゃいけないんです。傷を負わないように戦っても、きっと世界は守れない」

 

 須美の言葉と、車椅子が砂利を踏み締める音だけが、その空間に響いている。

 

「私は傷だらけになってでも、世界を、おじさまを守ります」

 

 須美の頬に、緊張からか、他の感情からか、赤みが差す。

 車椅子に乗っているおじさんからは、須美の表情は見えやしない。

 少し上擦った声だけが、今の須美の感情をおじさんへと伝えている。

 

「だから、その」

 

 須美は勇気を出して、勇気ある者として、恐れを乗り越え、その言葉を口にした。

 

 

 

「傷だらけで女の子らしくなくなってしまった私でも、好きで居てくれますか……?」

 

「―――」

 

「たったひとり、誰かが私のことをずっと好きで居てくれたら。

 私きっと、何もかも失っても、頑張れます。皆のために、世界のために」

 

 

 

 拒まれることを恐れながらも勇気を出した須美の言葉に、おじさんの思考が止まる。

 傷だらけになってでも、二度とおじさんを傷付けさせないよう世界を守り戦う。

 それは勇者の決意。

 傷だらけになって、女の子としての価値がなくなって、嫌われてしまうことを恐れる。

 それは少女の想い。

 勇者であり、少女である。それが鷲尾須美だ。

 

 15歳以上離れた女の子の『心の強さと輝き』に、おじさんは完璧に打ちのめされていた。

 須美は純粋だった。

 真面目だった。

 真っ直ぐだった。

 勇気があった。

 強かった。

 弱さの無い強者ではなく、己の弱さと向き合いながら進むことができる。

 そういう意味での、心強き者だった。

 

「ああ、もちろん。人のために付いた傷は、きっと誰よりも綺麗だと思うぞ」

 

「! ……ありがとうございますっ」

 

「そうだな、そうだった。

 ……そうだよな。

 それが正しいな。

 お前に傷付いてほしくないと願うより。

 お前が傷付いても小生はちゃんと愛おしく思っていると、伝える方が先だった」

 

「いえ、あの、その、おじさまにそういうの強制したいわけじゃなくて」

 

「強制されてるわけじゃない。お前はきっとこの世界で一番いい女だよ、須美」

 

「あ、えと、その」

 

「約束する。

 小生が死ぬまで、小生の中の一番はお前だ。

 お前より愛する人間を生涯一人も作らないと誓う。永遠にだ」

 

「あ、あうぅ」

 

「頑張れ我が愛する姪。お前の後ろには、ずっとお前を尊敬する叔父がいるぞ」

 

「……うぅ」

 

「小生が余計なことになって落ち込んでただろうに。

 よく立ち上がって、ここまでの覚悟を決めたな。偉いぞ須美」

 

「本当はうずくまってずっと泣いていたいけど……

 おじさまが私達を笑わせようとしてたのに、そんなことできるわけないじゃないですか」

 

 包帯まみれになってもなお須美達の前でいつも通りに振る舞う叔父を見て、須美の心に、決意の熱が宿っていた。

 それはおじさんが無自覚に与えた、彼女の覚悟の種火だった。

 

「生きていたいんです。

 生きていてほしいんです。

 おじさまもまだ生きてる。

 私もまだ生きてる。

 銀も、そのっちも、私の家族も。

 傷付いたかもしれないけど、まだ皆生きている。

 だから今は下を向いていたくない。私は、前を向いていたい」

 

「須美」

 

「おじさまが生きてる限り……

 私が生きてる限り……

 私は傷で落ち込んでいたくない。

 人の命を守るために頑張りたい。

 何度失敗しても、何度躓いても、絶対守ります。

 怪我しても笑ってます。だから傷の一つや二つで心配しないでください」

 

 おじさんは、須美が自分の催眠で操られていることを知っている。

 

「おじさまが居れば、傷だらけのゴミみたいになっても、何だかんだ幸せな気がしますから」

 

 須美は、自分が催眠に抗って心からの言葉を言えていることを知っている。

 

「小生は……お前が幸せになってくれれば、他に何も要らないな」

 

「私は、おじさまが皆と幸せになれるって、信じてます」

 

 全てを支配できる男が、一人の幸せしか望んでいなかった。

 

 何も支配していない少女が、皆の幸せの先にある彼の幸福を知っていた。

 

「正直このタイミングでここまでガチな話されると思わなくて申し訳なく思っている」

 

「……?」

 

「子供は成長早いよなあ……本当に。ちょっと目を離したらどんどん大人になってる」

 

 おじさんは、深く深く、溜め息を吐いた。

 

「今の須美がかっこよくて綺麗だったからかなり気が引けるな……ごめん」

 

「何の話ですか……?」

 

「あークソこうなると知ってたらこんなことしなかったんだが」

 

「何の話ですか?」

 

「嘘まみれの小生は眩しいくらい輝いてる須美の叔父には相応しくねえなって話」

 

「……?」

 

「お前は本当に綺麗だよ。

 小生は本当に汚い。

 お前は真っ直ぐで正直だ。

 小生は嘘と虚飾だらけだ。

 だから小生にとって……お前が特別な存在になったんだろうな。本当にすまん」

 

 おじさんのスマホに『対象到着』の報せが入る。

 

 おじさんが横目に中庭の隅っこを見ると、同じ報せを受け取った美森が親指を立てていた。

 

 ()()()()()()()。おじさまが死ぬほど申し訳無さそうな顔で、須美に指示を出す。

 

「須美。美森のとこに行って、銀園子と駄弁ってろ」

 

「? なんでですか?」

 

「5分もせずに分かるから、はよ行け」

 

「……? 分かりました」

 

「すまん須美、後でまた謝るから」

 

 何故おじさんが死ぬほど申し訳無さそうな顔をしているのか、何故こんなにも須美は謝られているのか、何故移動を命じられたのか、彼女にはまるでわからない。

 わからないが、おじさんは意味の無い命令はしないという信頼があった。

 須美はおじさんの言う通り、銀達が居る方に行く。

 

 そして、乱入者が現れた。

 

「!?」

 

 5人から10人、銃で武装した男達が中庭に踏み込んでくる。

 男達は躊躇いなく引き金を引き、銃弾が車椅子の上のおじさんを貫いていく。

 ものの数秒でおじさんは蜂の巣になり、男達の銃撃はなおも止まらない。

 

「おっ―――おじさま―――!?」

 

 その瞬間、須美の心に浮かんだ気持ちに、名前を与えるならば。

 

 『絶望』という名前こそが、相応しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 男達は、この世界最後の抵抗勢力だった。

 

「やった! やったぞ!

 人の心を支配し大赦を支配してた邪悪な侵略者を倒したぞ! 皆、やったな!」

 

 ゆえに、詰みである。

 

 須美、銀、園子が意味不明な事態についていけないまま、状況は更にどんでん返し。

 

 蜂の巣にされたおじさんの体が、蜂の巣にされたマネキンに変わった。

 

「なんだ!? マネキン!?」

「本物は!?」

「催眠術師はどこだ!」

「奴を倒せなければ大赦を元に戻せないぞ!」

 

 焦る謎の男達の間に、どこからか響くおじさんの声が届き流れる。

 

「その人形には小生が名前を付けた。『雛森桃』とな」

 

「!?」

 

「お前達は催眠に騙されて雛森桃を蜂の巣にしただけだ」

 

 そして謎の男達は、()()()()()()()()変身して制圧にかかった美森の手で、一分と経たず全員が武器を破壊され、全員が叩きのめされる。

 美森が動き始めてから謎の男達が全員無力化されるまで、まさに瞬く間のことだった。

 

「ぐえっ」

「あぐっ」

「がはっ」

 

「おじさまの計画通りね。

 ……須美ちゃん以外は、って頭に付くけど。

 おじさまは自分の予想を越えるのはいつも天の神か『私』だけだって言ってたっけ……」

 

 美森の掌底を受けて気絶していく男達。

 そんな中、最後の一人が、地面に転がったまま、蜂の巣になったマネキンに――その向こうのおじさんに――忌々しげに問いかけた。

 

「貴様……いつから人形と入れ替わっていた……!?」

 

「逆に聞こう。一体いつから―――催眠にかかっていないと錯覚していた?」

 

「ぐえっ」

 

 そして最後の一人も美森の手で気絶させられ、戦いは終わる。

 

 須美、銀、園子が状況を理解しないまま、何もかもが終わってしまった。

 

 いつの間にかそこに居たおじさんが、美森の横で安堵の息を吐いている。

 

 現れたおじさんには、包帯など巻かれておらず、傷の一つも存在していなかった。

 

「美森、よくやった。大丈夫か? 怪我はしてないと思うが、まあ一応な」

 

「大丈夫です。心配してくださってありがとうございます。

 でも今必要なのは、須美ちゃん達への説明だと思いますよ。あと謝罪」

 

「そうだな、説明しないといけないな。あと謝罪」

 

 立ったままそこから一歩も動かないおじさんに、須美が詰め寄った。

 

「おじさま! 説明! 説明をお願いします」

 

「須美。先に謝っとく。すまんな……」

 

「説明ッ!」

 

「小生最初から傷一つ無かったんだ」

 

「!?」

 

「災害に巻き込まれて動けないっていう"弱み"を見せれば潜伏してる残党が出て来るからな」

 

「残党!? 何の!?」

 

「大赦。実は10人くらい催眠かけ損ねて逃しちゃっててな……」

 

「大赦!?」

 

「有能だから小生の催眠察知されて逃げられちゃったのよ。

 有能だから潜伏も上手で全然見つからなくてな。

 殺す気でやればすぐ処理できただろうけどそれも嫌だった。

 催眠で心操られたくないってのは普通の感情だしな……

 大赦の者が倒すべき悪かというとそうでもない。

 小生が外界からの侵略者というのも間違ってない。

 どうにかどっかに誘き寄せて殺さず捕らえられないかと思ってたのだ」

 

「大怪我をしたフリをして潜在的な敵が暗殺に来るのを待ってたってことですか……?」

 

「ああ。

 なんで中庭に小生と美森が居たと思う?

 なんで中庭に小生と美森しか居なかったと思う?

 お前達が来ることは想定外だった。

 急にアポなしで来たからちょっと焦ったぞ。

 ……小生としては須美が素晴らしいことを言い始めたことが一番想定外だったが」

 

「……あ」

 

「あいつらも大赦の人間だから勇者には傷一つ付けない、という確信はあった。

 だから須美達を焦って追い出さなかったんだが……いや本当にすまない、うん。ごめん」

 

「私ずっと車椅子のマネキンに向かって話してたんですか???」

 

「すまんて」

 

「マネキンを前にして一喜一憂してたんですか!?」

 

「ごめん」

 

「ああああああ!!!」

 

 連鎖的に、須美は気付く。

 おじさんは須美に過保護だ。

 美森を動かせるなら、須美の戦いの方に回している方が自然に思える。

 

 おじさんの傍に美森が付いているなら、それはおじさんの意向でもあるはずだ。

 美森はおじさんの指示で動いているのだから。

 山崩れは偶然の産物だった。

 おじさんは予想もしていないものだった。

 つまり美森はそのためにおじさんの護衛をしていたわけではない。

 

 山崩れ以外に、何かがあったはずなのだ。

 おじさんが護衛を必要とする何かが。

 護衛がいないとおじさんを殺す敵対勢力が。

 それが、これだとしたら。

 

―――おじさまの傍で何をするんですか?

―――その内分かるわ

 

 こっち!? と、須美は気付いた。

 

 美森が言葉を濁したのも分かる。

 樹海破損の災害でおじさんが傷付くなどのことなら、いくら話してもいい。

 だが敵を罠にハメるなら、秘密はできる限り話さない方が良い。

 どこから漏れるかもわからないからだ。

 

 完全無傷状態に見えるおじさんが、申し訳無さそうに、須美に頭を下げる。

 

「まあそういうことでな。

 実は樹海の損傷の被害者は0。

 お前達の失態って全然無いんだよ。

 小生がちょっと小生の都合で捏造しちゃっただけで。すまん」

 

「えええ……」

 

「あ、助けた小学生は本当だぞ。小生が無傷だっただけだ」

 

「本当に怪我一つないんですか……?」

 

「無傷でごめんな……怪我した姿を催眠で見せてただけでお前何も悪くないぞ」

 

「……」

 

 須美は無傷のおじさんに騙されて、死ぬほど苦悩し。

 苦悩の果てに答えを見出し。

 マネキンを乗せた車椅子相手に、人生の答えのようなものを語らされていたのだ。

 須美の尊厳が、交通事故のような最悪によって粉砕されていた。

 

 催眠おじさんは邪悪であるということが証明された、そんな流れだった。

 

「あんな大事な決意をマネキンに誓わせてごめんな……いや本当に……」

 

「重い感じに謝らないでください! 傷が広がる……!」

 

「擁護するとな、小生の言葉はちゃんと小生が言ってた言葉なんだ」

 

「うぅ」

 

「小生は須美の言葉に感銘を受けたし、その言葉と決意は小生の心によく沁みて……」

 

「おじさま!! 私に心の中身を整理する時間をください!!!」

 

「はい」

 

 須美の「守れなくてごめんなさい」という呪いが消える。

 催眠がかかってなければ「おじさまこの野郎絶対許しませんよ!」となっていたに違いない。

 美森が遠い目で空を眺めた。

 

「須美ちゃん、私も、似たようなことがあったわ……」

 

「……あっ」

 

 須美は、美森が言っていたことを思い出す。

 

 

 

■■■■■■■■■■

 

「自分の名前に恥じない選択をしなさい。

 鷲尾須美として恥じない選択を。

 東郷美森として恥じない選択を。

 それでも人生には後悔が付き纏うけど、きっと、それが正しいことだから」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 

 須美の決意と覚悟は正しい。

 彼女の人生には必要なものだった。

 須美は己の名に恥じない選択をした。

 それでも人生には後悔が付き纏う。

 人生最大級の後悔だった。

 

「東郷さん……!」

 

「須美ちゃん……!」

 

 なんだかんだ須美が東郷に苦手意識を持っていたせいで、微妙に仲良くなりきれていなかった二人が、真の絆を結んだ瞬間だった。

 二人の間にあったのは共感。

 この世界に二人だけ、この二人しか知らない大恥を知るがゆえの、共感だった。

 

 銀と園子が、心底同情した目で須美を見ている。

 

「園子」

 

「なぁに、ミノさん」

 

「大惨事だな」

 

「大惨事だね~」

 

「アタシこれから先の人生で、こんだけの大惨事見ることあんのかな」

 

「たぶん一生ないと思うよ~」

 

「三ノ輪のお嬢、乃木のお嬢」

 

「……わしおじさんも大変っすね」

「インチキおじさんにとっても交通事故みたいなものだよねこれ」

 

「小生が死んだって聞いても『城之内死す!』かな? って思う精神を身に着けてくれ」

 

「不死身が過ぎるっすよ……」

 

「小生のキャラを理解しろ。真実が嘘で、嘘が真実だ。小生の死体は大体幻覚」

 

「アタシもうこの人の葬式があっても絶っっっ対信じない! 死なないだろこの人!」

 

 銀もようやく、おじさんのキャラを理解し始めていた。

 

 おじさんはもはや、時間が許す限り須美に謝り続けるbotと化そうとしていた。

 

「お前はそれでいいんだ須美。

 お前はいつだって真実の気持ちで生きてる。

 嘘ばかりの小生よりはずっと生きてる価値がある。

 まあそれはそれとして小生みたいな嘘ばっかの男に騙されそうで不安な気持ちはあるぞ」

 

「おじさまぁ!!」

 

「小生の言葉に嘘はないからそれで許し……いや許さなくていいぞ。小生が悪い」

 

「もう! もう! もうっ!」

 

 須美は羞恥心でわけが分からなくなって、さきほどの会話でおじさんに言われたことを思い出して、色んな理由で顔を真っ赤にして、頭を抱える。

 

 そして。

 

 須美達のスマホが警報を鳴らす。

 

 ―――バーテックス襲来を知らせる、勇者システムの樹海化警報であった。

 

「須美! 三戦目だ!」

 

 銀が叫ぶ。だが須美の心は、戦う時の心の状態に、全然入っていっていない。

 

「き、気持ちが戦いに入り切らない!

 この感情をどこに持って行けばいいの!?」

 

「須美! 園子の言葉を思い出せ!」

 

「銀! どういうこと!?」

 

「バーテックスが全部悪い!」

 

「……そうね! バーテックスが全部悪いわ!」

 

「おのれバーテックス!」

「おのれバーテックス!!」

「おのれバーテックス~!」

 

 人類史上最もグダグダした戦闘突入。

 

 襲来したバーテックスに心があれば確実に困惑していたであろう、八つ当たり以外の何の名前も付けられない人類防衛戦、混沌を極めた戦闘が開始された。

 

 

 



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催眠感度R18倍

 大型バーテックスは、それぞれが十二星座の名を冠し、固有の能力を持つ。

 

 一回目の敵は水瓶座。

 水を操る能力を持っていた。

 二回目の敵は天秤座。

 竜巻を操る能力を持っていた。

 

 美森の勇者システムを導入し、この時代の勇者システムは相応に強化されている。

 須美銀園子で連携すれば、敵が一体なら楽勝。

 二体なら手こずる。

 三体までなら死者無しで倒せる可能性が高い。

 四体出てくれば、勇者が命を捨てて相打ち覚悟で挑まなければならない段階に入る。

 

「……いや……いやいやいや! 増えすぎだろ!」

 

 だから、銀が大声を上げたのは、当然のことだった。

 

()()()()()()

 

 先頭を往くは蠍座。

 即死毒のバーテックス。

 その上を飛行するのは射手座。

 破壊の針を矢として放つバーテックス。

 

 射手座の後ろに見えるのは乙女座。

 広範囲を爆撃し焦土とするバーテックス。

 やや迂回するようにして側面から攻めて来ようとしているのは山羊座。

 地震を操るバーテックス。

 後詰めに回っているのは蟹座。

 攻撃反射能力を持った反射板をいくつも飛ばしているバーテックス。

 

「いや……これ本気でヤバくないか……?」

 

「……」

 

「敵が多いね……どうしよっか」

 

 敵一体に対し、銀が前衛、園子が中衛、須美が後衛、この三人で数の優位を常に作り続けるのが彼女らの基本戦術である。

 敵が二体以上になると、この基本戦術は途端に優位性を失ってしまう。

 三体以上になるともう話にならなくなってくる。

 

 一人一体で受け持っても、援護のない銀は叩き潰され、園子は攻撃力が足らず磨り潰され、須美は火力不足で押し留め切れず接近されて消し飛ばされる。

 仮に一人一体を受け持つことに成功しても、敵が五体である以上、素通りした二体が世界をそのまま消滅させてしまう。

 

 気合や根性でひっくり返せない、絶対的な戦力差が、そこには存在していた。

 

「パワーだけはアップしてるらしいし、とにかく危険でも攻撃して敵の数を減らす?」

 

「ちょっと銀。それだと真っ先に死んでしまうのはあなたよ」

 

「死んじゃいそうなのはダメだよ。怪我もダメ。

 私達の方が数が少ないんだから、一人欠けたらその時点で負けになっちゃう。

 ジリ貧になっちゃうかもしれないけど、安全策で行った方がいいかなあって思うよ」

 

 過去最高にグダグダに戦闘に入ったというのに、過去最悪の敵の布陣だった。

 

 まるで前編がボーボボで後編が鬼滅の刃最終決戦のようなアンバランス感。

 ギャグの流れで微妙に心が入り切らなかった少女を確実に殺しに来ている状況。

 所詮は畜生のバーテックスに人の心を解することなどないということか。

 

「やはりバーテックスは悪……!」

 

 須美は改めてバーテックスの悪性を理解する。

 バーテックスが居なければ、勇者が戦う必要はなかった。

 世界が危機に陥ることはなかった。

 中庭の大惨事はなかった。

 須美の一世一代の名台詞はちゃんとおじさん本人に言えた。

 名台詞の感動は余すことなくおじさんに伝わっていたはずだった。

 須美の決意と覚悟はギャグにならなかったかもしれなかった。

 そうしていればおじさんも須美にもっとメロメロになっていたかもしれなかった。

 おじさんは叔父として姪をもっと溺愛していたかもしれなかった。

 須美がちょっとやってもらいたがっていたおじさんの肩車まで行けたかもしれなかった。

 あーんしておじさんが受け入れてくれるようになっていたかもしれなかった。

 だがマネキンだった。

 マネキンだったのだ。

 『四国で唯一頬を赤らめてマネキンに誓いを立てた女』に須美はなってしまった。

 須美の脳内で"バーテックスの罪"が八割くらい中庭に集約されているような気もするがきっと気のせいだろう。彼女は気高い勇者なのだから。

 

 全てバーテックスが悪い。

 バーテックスこそが諸悪の根源。

 そこに疑いの余地などなかった。

 

 だが勝ちの目が見えない。

 このままではバーテックスが全て悪いのに、勇者達は敗北してしまう。

 諸悪の根源が笑うことになってしまう。

 かに、見えた。

 

「臆するなメスガキ共!」

 

「「「 ! 」」」

 

「奴らは数が多いだけの雑魚! 催眠集団売春堕ちする前のギャル軍団に等しい!」

 

 止まりし時の中央。橋を覆う樹海の上に、悠然と立つ男が一人。

 

「あ、あれは……」

「おじさま!? どうして樹海に!? 樹海化で皆時間は止まってるはずなのに!」

「わ~、インチキおじさんすごい~!」

 

「私も居るわよ?」

 

「東郷さん!」

 

 狙撃銃を杖のようにして立つ東郷美森が、勇者の装束で微笑んでいる。

 そうして、おじさんと東郷が少女三人を守るように立つ。

 

 須美は青き勇者装束。

 銀は赤き勇者装束。

 園子は紫の勇者装束。

 東郷は須美の装束を更に青白に寄せた勇者装束。

 私服のおじさんが恥ずかしいぐらいに浮いていた。

 たとえるならば、プリキュアの薄い本にただ一人存在している竿役おじさんのように。

 

 天井知らずに恥ずかしい存在と成り果てたおじさんは、胸の前にスマホを構えている。

 そこにこそ、彼がこの世界に無理矢理参戦できた理由があった。

 

「お前達に勇者システムがあるように、小生はTMNシステムの開発を完了した」

 

「TMNシステム……?」

 

「『自己感度三千倍』。

 催眠術師の、究極最強の自慰システム。

 これを調整し、長時間安定稼働させ……()()()()()()()()()()()()

 

 時が止められた世界に入るために必要なものは三つ。

 一つ目は時間停止AVに繋がる能力の保有。これは催眠があった。

 二つ目は『時』という神の領域への到達。おじさんは既に一歩手前に居た。

 そして三つ目が……おじさんでは微妙に不足していた、時を感じ理解する感覚能力である。

 

 時間感度三千倍化総合システム―――(T)(M)(N)システムである。

 

 感度三千倍催眠は己にかけるならば時の世界への入門を成功させ、対魔忍にかければ性交を成功させる。

 大切なのは自己か、他人かということだ。

 

 本当は、まだまだTMNシステムは実戦投入できるレベルにはなかった。

 だがおじさんは媚薬で感度を引き上げ、無理にこれを実用レベルに仕上げていた。

 原理的にはドラクエのきのみ、ポケモンのヨクアタールに相当するドーピングと言えるだろう。

 薬剤の併用は高血圧や糖尿病のリスクを爆発的に引き上げるが、背に腹は変えられない。

 おじさんは命懸けで、勇者の危機に駆けつけんとしたのである。

 

 それを理解している美森は、心底心配そうにおじさんを見ていた。

 

「おじさま、TMNは試作版で無理して出てきたんですから無理はしないでくださいね?」

 

「分かってる。どんな不具合が起こるか分からないからな」

 

「油断せず行きましょう」

 

「いくぞ須美! 銀! 園子! 美森! 諸悪の根源であるバーテックスを倒すんだ!」

 

「いかなる時も須美ちゃんのせいにはしないけど、バーテックスのせいにはするの流石です」

 

 好ましい人間の前では『お前じゃなくて小生のせいだ』と言い、嫌いな人間や敵に対しては『お前のせいだしお前が悪いぞ』と言う、好感度基準のダブスタ。

 これこそがダークサイドの真骨頂だ。

 

 初手はバーテックスが取った。

 射手座が、矢にして針である飛び道具を放つ。

 それは針。

 光の針。

 一本一本が、鋼鉄の戦艦を前後一直線に、豆腐のように貫く威力があった。

 同時に放たれた針の数は数は千や二千ではなく、万に少し届かないくらいか。

 

 射手ゆえに必殺。射手ゆえに矢。されど羽無き矢は針である。

 

 樹海の空を覆うほどの数のそれを、おじさんがぼんやり見上げていた。

 ぎょっとして、須美が慌てて弓を引く。

 実は須美よりも早く反応していた美森が、須美の反応と動きを見て、少しだけ引き金を引くのを待った。

 

「危ない!」

 

 システムのバージョンアップにより、チャージ速度も破壊力も格段に増した『溜め撃ち』が、須美の弓から放たれた。

 

 針の雨を見た瞬間、須美は一本一本撃ち落とすことを諦めた。

 ゆえに、力を込めて爆裂させた。

 須美の矢は爆発し、針を粉砕するのではなく爆風でまとめて吹き飛ばす。

 

 僅かに残った数本の針を、一呼吸待った東郷の正確無比な狙撃が粉砕した。

 構えた狙撃銃を下ろした美森が横を見ると、須美がおじさんに顔真っ赤一歩手前といった表情で掴みかかっている。

 

「な……なんで微動だにしないんですか!? 避けなかったら死にますよ!?」

 

「須美のその顔が見たかった」

 

「もう!」

 

 カウンターで、美森が牽制の銃撃を放つ。

 美森の牽制が怪物達の移動と攻撃を抑え込み、バーテックスは突破の方法を模索し始める。

 "突破される前に次の手を打ちたい"と美森は考え、おじさんの意見を求めた。

 

「おじさま、敵は五体。

 これを乗り越えてしまうと敵が進化して次回が本格的に厳しくなりますが……」

 

「小生が参戦できるなら問題はない」

 

「ん……それは、そうかもしれませんね」

 

 美森が納得した様子で頷く。

 須美、銀、園子が「ん?」と首を傾げる。

 おじさんの手の中で、スマホがくるりと回った。

 『そういえばおじさまがこんなにスマホを長く持ってるのは珍しい』と、須美は思った。

 

「私が二体。おじさまが二体。須美ちゃん達に一体担当してもらいましょうか」

 

「そうだな。そうしよう」

 

「えっ……む、無茶ですよ! おじさまスキップして足を挫くくらいなのに!」

 

「うるせえ」

 

「大丈夫よ須美ちゃん。おじさまを信頼して任せてあげて」

 

「……っ、……東郷さんは何か知ってるんですか?」

 

「ええ。私はあの人のあの力に、何度も助けられたから」

 

 おじさんが、指をぱちんと鳴らす。

 

「切り札を切る」

 

 それが、パレードの始まりを告げる鐘の音となった。

 

 おじさんが持参したバッグから、スマホが飛び出す。

 飛び出す。

 飛び出す飛び出す飛び出す。

 一個や二個ではない。

 明らかに百を超えるスマホがバッグから自分の意思で飛び立ち、自分の力で飛翔し、おじさんの周りをくるくると飛び回っている。

 

 そしておじさんの背後に、整列した。

 その姿を、須美は昔絵本で見たことがあった。

 サバンナの広大な大地を、最も強く偉大なオスが先頭に立ち、背後に仲間達が並ぶ姿。

 大自然の中でこそ際立つ、獣が本能で構築する、野生の群れ。

 

「大量のスマホ……!?」

 

「見なさい、須美ちゃん。

 あれがおじさまの軍勢。

 スマホという名の、王者の群れよ」

 

「シャブでも打ってるんですか?」

 

「私が愛国ならおじさまは愛姪。

 其は無数にして一つ。

 其は無機にして有機。

 輝く心に輝く液晶!

 おじさまという一つの意思、一つの催眠に隷属する、無数の催眠神話群……!」

 

「あ、熱く語ってる姿が絶妙に気持ち悪い……!」

 

「いや須美も好きなもの語る時はあんな感じだぞ」

「だよね~」

 

「!?」

 

 スマホの画面が輝いていく。

 スマホが光になっていく。

 光が風となり、雨となり、弾丸となる。

 風がおじさんに吹き付けその体に纏われた。

 雨がおじさんに降り注ぎその体に染み込んだ。

 弾丸がおじさんに突き刺さり、その体に打ち付けられた。

 次々と、光になったスマホがおじさんという個に融合していく。

 

「こ、この姿は―――この光は―――!?」

 

 無数の光が一際強く輝き、そして。

 

 

 

「―――『催眠究極薄本形態(ウルティメイトソリッドブックス)』」

 

 

 

 百のスマホを繋げた鎧、剣、翼、頭部装甲を身に着けたおじさんが、その姿を表した。

 

「ダサいね~」

 

「……」

 

「違いますわしおじさん! 園子に悪気はないんです! アタシもないから!」

 

「東郷さん……? あの、あのおじさまは」

 

「どうかした? おじさまが何かおかしいのかしら」

 

「全部」

 

 驚愕する人間達の様子に興味はないと言わんばかりに、バーテックスが東郷の牽制を抜け、攻め始める。

 蟹座は浮遊する反射板を飛ばし、攻撃を反射することができる。

 射手座は針の如き矢を飛ばし、敵を撃つ。

 この二つの能力を合わせることで、敵に四方八方からの包囲攻撃を可能とするのだ。

 

 火薬を使った銃弾よりも遥かに速く、人間が扱える槍よりも遥かに大きな針が、四方八方・上左右前後から一斉に襲いかかる。

 おじさんが指を鳴らすと、その針の全てが、空中で静止した。

 

「な、なんだ? 四方八方から来てた針が全部止まって……」

 

「この針は奴らの意思に沿って飛ぶ。

 攻撃者の意思に従っている。

 誰かの意思に従うということは、寝取れるということだ。

 寝取れるということは、裏切らせることができるということだ。

 通常の種付けおじさんは性交を経なければ寝取れない。

 だが催眠おじさんの一族ならば―――スマホの画面を見せた瞬間に、寝取れる」

 

「おじさま、脳細胞が家出しておられませんか?」

 

 須美は己の口から、自分でもびっくりするくらい無感情な声が出ている気がした。

 

「耳を澄ませてみろ。耳を澄ませろ、耳須美」

 

「耳を須美の……澄ませたからって、何かが聞こえるわけでもないでしょう?」

 

『ごめんなさい、バーテックス様……!』

『私これ以上されたらもう……!』

『この気持ちは催眠なんかじゃない』

『先輩ごめんない……マシュはこの人と幸せになります』

『あはは……あたし、裏切っちゃった……』

『気持ちいいからしょうがないじゃない!』

『もうバーテックス様の粗末な御霊じゃ我慢できないの』

 

「聞こえるはずだ須美……針の雌豚どものこの声が!」

 

「気持ち悪い!」

 

 かつてある宇宙で、催眠おじさんの一族が最弱の時代があった。

 

 催眠アプリは正面直線上にしか効果を及ぼさないことが多く、正面にさえ立たなければ脅威はなく、目標が正面に居ても事前動作で避けられてしまうことが多かった。

 種付けおじさんのカースト最下位。

 支配者にあるまじき弱者。

 だが彼らは諦めなかった。

 彼らは己の能力ではなく、催眠アプリの可能性を信じた。

 

 いつか英雄の時代は終わり、個人の能力ではなく機械の時代が来る。

 個人の才能に依存しない、機械の大量生産の時代が来る。

 誰にでも使える催眠アプリの時代が来ると、彼らは未来を夢見たのだ。

 

 その時代に彼らが考案したものの一つが、『催眠究極薄本形態(ウルティメイトソリッドブックス)』。

 全身にスマホを貼り付け、全方向にスマホ画面を向ける。

 これによって全方位への常時催眠アプリ起動が可能となっていた。

 理論上敵が時間を止めて接近してすら、全方位への常時催眠を受けて無力化されてしまう上、全スマホを一方向に向ければ宇宙怪獣すら従える。

 百以上を基本とする催眠アプリは使い手の催眠力を桁違いに高め、周囲を浮遊する数個のスマホは能力を中継する催眠ドローンへと昇華される。

 

 催眠おじさんの一族は、かくして宇宙の頂点へと駆け上がった。

 対人においてはハイパー・無敵と言われるほどに。

 催眠おじさん達は歴史の陰に消え、やがて彼らは伝説となる。

 

 その伝説の一族の子孫、たった二人の生き残り、その片割れがここにいる。

 

「小生の切り札とは―――小生自身が、催眠アプリになることだ」

 

 全身催眠アプリ。

 ゆえに全方向に隙はなし。

 それは世界を陵辱し、世界を雌落ちさせる究極の力。

 後頭部からでも妊娠させることができるその姿は、まさしく人類の永遠の敵。

 

 美森は謳うように、誇らしく、楽しげに、おじさんを褒め称えた。

 

「恐れ慄きなさい。あれこそ、おじさまが天の神と互角に戦った究極の姿―――!!」

 

「東郷さんもしかしておじさまに関して私より遥かに麻痺してませんか?」

 

 いくつかの宇宙を、地球を、おじさんはこれで救ってきた。

 ドイツ言語圏では『スマホ太郎』とドイツ語の名で呼ばれ恐れられたことすらもあるという。

 おじさんが指を一本振れば、空中で止まっていた雌豚の針達が快楽欲しさに裏切り、巨大なバーテックス達に殺到した。

 バーテックス達は射手座の針にハリネズミのような状態にされ……なおも止まらない。

 

「オイオイ、全身ハリネズミになっても死ぬ気配ねえぞ。

 どういう生物だ? 普通の生物じゃあねえな……さて、どうすっか」

 

 射手座がまた針を放ち、おじさんがまた催眠で止める。

 だが今度は針同士がぶつかり合い、ガチガチカチカチと音を立て始めた。

 

「わしおじさん?

 なんか針がカチカチいってません?

 アタシホラーでこういうの見たことあるような……」

 

「ちゃんと雌豚にしねえとこういう風に針と針が修羅場起こしちまうんだよな……」

 

「針が修羅場」

 

「針が張り合っちまうのさ、小生を取り合ってな」

 

「針が張り合う!?」

 

()ーレムを作るとこういう争いが起きて大変だから気を付けな、三ノ輪のお嬢」

 

()ーレム!?」

 

 おじさんは腕を振り下ろし、自分と一体化した百のスマホとは別の、独立飛翔する数個の催眠ドローンを突撃させる。

 

乳癌(νガン)・ファックファンネル」

 

 飛んでいったスマホは催眠アプリでバーテックス達に催眠をかけるが、効きが悪い。

 あっという間に解除されてしまう。

 バーテックスの足止めにはなったが、バーテックスを掌握できない。

 手応えの悪さに、おじさんは軽く舌打ちした。

 

「催眠耐性が高い……いや、違う。

 ()()()()()()()()のか。

 それでいて強烈な使命感だけはある。

 黒人托卵おじさんが見れば、

 『こんな祝福されない命を生み出しやがって!』

 と怒っていたところだ。こんな、他の生命を滅ぼすためだけの生命を生んで……!」

 

 おじさんは苛立ちのまま、百を超えるスマホの催眠アプリを、一点に集中した。

 

「催眠領域展開・強姦阿閉顔庭(ごうかんアヘがおてい)

 

 射手座が『何かを思い出した』ように、バーテックス達から離れ、おじさんの前で大きな体をゆったりと前に傾ける。

 

 まるで、王に忠誠を誓う騎士のように。

 

「お前射手座? はーん。

 よし、お前は今日から射精座のバーテックスだ。

 ……小学生が居るからやめとこ。

 うーん……よし、催眠(ヒュプノ)・バーテックスだ。人類を守れよ、我が下僕」

 

 『催眠NTR』。

 隠されていたおじさんの奥の手。

 秘めていた究極の力。

 東郷美森が来た未来、最終決戦でこうしてバーテックス全てを寝取られた天の神は、おじさんと相打ちに持ち込まれてしまったのである。

 

 山羊座が流れのまずさを感じて、地震を起こそうとする。

 素の状態ではほぼ全員が飛べないのが勇者だ。

 人間は地に足をつけていないと戦えない。

 人間特攻の地震攻撃が発動され―――おじさんが地面を蹴ると、それだけで地震が止まる。

 

「全身催眠状態の小生にそんなものは通用しない」

 

 地面が絶頂していた。

 おじさんに蹴られてガチイキしていた。

 蹴るだけで催眠から絶頂までのプロセスが完了していた。

 地震が、地面が、旦那に言い訳できないほどにマゾ豚快楽落ちしている―――!

 

 概念にすら催眠を掛ける極大のスケール。

 この状態のおじさんは、力の規模が極大化しており、星すらも手中に収めることが可能だ。

 時が止まった世界にさえ入ることができれば、止まった時の中で戦うことができれば、神々が相手ですら"ワンチャン"がある。

 相手がメスであれば、戦いの中では負けることなどありえない。

 

 おじさんは味方に付いた射手座の上に乗り、先頭になって進む。

 少女らの盾になるように。

 敵からの攻撃を己が防ぐと言わんばかりに。

 誰よりも前に出て、戦いに挑む。

 

「皆の者、小生に続け!

 この戦いは自由のためでも平和のためでも愛のためでもない!

 正義のための戦いから一番遠い戦いだ!

 小生が全てを支配するために!

 小生が支配するお前達が!

 お前達を支配しようとする神とその使徒を打ち倒し、明日も生きるための戦いだ!」

 

 樹海に、おじさんの声が響く。

 

「人を殺す邪悪な支配者から世界を取り返し!

 本当に多少でしかないが!

 多少マシな、人を殺さない邪悪な支配者に世界を献上してみせろッ!!」

 

 それは善が悪を倒す時に述べられる口上ではない。

 

 悪が悪を討つ時に並べられる口上だった。

 

 

 



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催眠感度19倍

 敵側に見えるのは反射の蟹座、猛毒の蠍座、爆撃の乙女座、地震の山羊座。

 

 おじさんは敵を見て、一番"勇者を殺しそうな"蠍座を抑えにかかった。

 

「敵を一体洗脳し、一体を押さえ込めば、二体処理してるのと同じ。

 ……スマホが不調だな。前の戦いで強い相手に無理させすぎたか……」

 

 おじさんがこの世界で密かに叫んでいたことがあった。

 

―――この世界のスマホ全部催眠アプリ非対応!? iOSもAndroidもない!?

 

 ()()()()()()()、である。

 補給線の断絶は、どんな分野でも即死級の大問題だ。

 おじさんは他の世界でスマホを補給しこの世界に戻ってこれる自信がなかった。

 そしてこの世界ではスマホが補給できない。

 おじさんの究極形態は、スマホに不調が出ると使えなくなりかねない、回数上限が見えない回数上限ありの力なのである。

 ゆえに、おじさんもあまり頻繁に使いたくないという事情があった。

 

「フン……残り少ない命で精一杯病気をばら撒いて殺されたエイズおじさんを思い出すな」

 

 小生も時間制限付きというわけか、と呟く。

 

 されどその時間が切れるまで、彼は神にも並ぶ精神の支配者である。

 

「『セックスしないと出られない部屋』!」

 

 おじさんの催眠縛道一の術が蠍座に命中する。

 単体向けの催眠技だ。

 『ここはセックスしないと出られない部屋だ』と対象に催眠で思い込ませたら―――果たして、どうなるだろうか?

 

 知性があれば、「一人じゃこんな部屋出られないよぉ……!」と絶望で心が折れる。

 心強き者も、二人目が来るまで待ちの姿勢に入る。

 理性が薄ければセックスしないと出られない、という人間が生み出したドチャクソバカ極まりない概念を咀嚼するのに非常に時間がかかるため、結果的に足が止まる。

 これが効かないのは、機械の類のみ。

 そして機械の類が相手なら、別の催眠で手を探せばいい。

 ゆえにこれは、おじさんが愛用する戦闘催眠の一つであった。

 

「撃て!」

 

 止まった敵が相手なら、元射手座のヒュプノにとってはただの的だ。

 

 針を一息に千発撃ち込み、トドメとばかりにチャージショットで蠍座の体を破砕する。

 バラバラになった蠍座の物質的・霊的な存在そのものを、ヒュプノは食っていく。

 バーテックスは、特殊な手段でしか殺せない。

 須美達が痛めつけても、撃退にしかならなかった。

 小バーテックスを細胞に見立てた多細胞生物が大型バーテックスであるために、『集合体に飲み込んでしまう』ことは十分に攻撃手段となる。

 『捕食』は再生させない手段として、最適解の一つであった。

 

 催眠で援護し、バーテックスにバーテックスを倒させ、捕食させる。

 これなら催眠おじさんでも敵を減らしていける。

 おじさんは直接火力が貧しいため、常に仲間との共闘を要されるのだ。

 

「よし、よくやったヒュプノ。他は……」

 

 おじさんが仲間の方を見て、誰の援護をしようか考え始めると、美森が反射板を構えた蟹座を蜂の巣にして、跡形もなく消滅させるのが見えた。

 反射板持ちの蟹座は射手に滅法強い。

 逆に接近戦タイプの勇者に滅法弱い。

 だから普通後衛型の勇者は、他の勇者と連携して倒さなければならないのだが……美森はごく普通に装甲の合間を抜き、バーテックスの本体を儀礼で露出させ、それを粉砕した。

 

 相性最悪のバーテックスですら、一人であっという間に削り切る。

 "経験値をバカみたいに積み上げた鷲尾須美"は、おじさんが舌を巻くほどに強かった。

 

「心配要らねえなありゃ……」

 

 おじさんはヒュプノに乗ったまま、美森ではなく須美達の方に向かわせる。

 一体洗脳し、二体倒して、残りは二体。

 地震の山羊座を美森に任せ、爆撃の乙女座と戦う須美達の援護に回った。

 

 足を止めて走り回らず撃ち続ける美森は、地震で転ばされたりすることがない。

 比較的山羊座との相性が良く、地震の影響外まで出てから狙撃という手段も選べる。

 

 対し、爆撃の乙女座は死人が出かねない。

 須美達が爆撃に巻き込まれる前に、おじさんは援護に入りたかった。

 乙女座はある程度低空を飛び、触手で敵の攻撃を捌き、距離を詰めてからの爆撃で勇者を圧殺する戦術を好む。

 事実、須美達に対しても最初はそうしていた。

 だが今は違う。

 銀の武器が双斧、園子の武器が槍、須美の武器が弓と理解した乙女座は、三人の武器が届かない高度からの爆撃を選択していた。

 

 爆撃で運良く勇者が死ねばよし。

 勇者が爆撃を恐れて引っ込めば悠々と高高度を進んで通過。

 "飛べない"勇者は、"飛べる"敵には打つ手がない。

 

「くっ、高い……!」

 

「お困りかなお嬢さん」

 

「お……おじさま!」

「ば、バーテックスを味方に……わしおじさんはギャグ時空の不死身キャラかな」

「私達と同じ人間を不死身だと信じ込んじゃうのはよくないよ~」

 

「『須美、空を飛べ。飛べるだろ』」

 

「は……はい……須美……空を飛びます……」

 

 催眠をかけられて空を飛べると思い込んだ須美が、空を飛ぶ。

 

 勇者の力とかは一切関係なく飛んだ。

 

「須美! お前空飛んでるぞ! 飛び方分かるのか!?」

 

「……? 何言ってるの銀、私はいつも空を飛んでいたじゃない」

 

「ロォォォォォックッッッ!!!」

 

 ロックンロールだった。

 

「レッドブルすら翼を授けるのに、小生の催眠が授けられないわけないだろ」

 

「エナドリに対抗心持たないでほしいっす!」

 

「催眠が人一倍かかりやすい須美以外にかけても飛んでくれないんだよな……」

 

「わしおじさん以外がかけても飛んでくれないだろうなって思うっす!」

 

 須美が飛べるようになった時点で、乙女座の――飛べるバーテックス全ての――勇者に対する決定的な優位性は消え失せた。

 須美は飛行能力を得て、飛行砲台の勇者へと進化する。

 

「主役は須美だ。トドメは小生らに任せろ。ヒュプノ! 須美達に合わせろ!」

 

「分かったよー!

 わっしー、バーテックスより高い位置を取って!

 上からガンガン撃っちゃってー!

 ミノさん、バーテックスが降りてきたら私と一緒に接近して足止め!

 足が止まったらインチキおじさん達が砲撃! それでおーわりっ!」

 

「了解!」

「分かったぞ!」

「あいよ」

 

 園子が指示を出し、ごく自然に三人が従った。

 

 そこからの戦闘は、鷲尾須美の獅子奮迅の大活躍。

 素早く飛び回る須美が乙女座の上を取り、常に制空権をバーテックスから奪いつつ、上からの矢で乙女座を下に押し込んでいく。

 乙女座は爆撃の怪物だ。

 下方向への攻撃は非常に強い。

 だが逆に、上方向への攻撃手段がかなり少ない。

 須美に乙女座の上を取らせた園子の判断は、咄嗟のものにもかかわらず最適解。

 

 おじさんは園子の判断に心中で感嘆しつつ、空を縦横無尽に駆け獅子奮迅の猛攻を見せる須美にちょっとびっくりしていた。

 

「やるな。空中戦初めてのくせに思い込みとノリと勢いで押し切ってるの目を疑うわ」

 

 おじさんはこの戦いで味方にするバーテックスは、無理せず一体だけにすると決めていた。

 複数体を一気に催眠で支配するにしても、その一体を調べ上げ、リスクを極限まで減らしてからにするつもりだった。

 バーテックスでバーテックスを倒せるかの確認を、何体かの敵でしておきたかった。

 

 射手座に目をつけたのは、最初に射手座が強さを見せつけてきたからである。

 一番有望な敵を選ぶ、といった意識はなかった。

 どんな個体でも良い、という意識はあった。

 なんだってよかった。

 が。

 偶然彼が配下に引き入れた射手座は、射撃に関し非常に強力であり、仲間の援護に回すのに非常に優秀な能力を持っていた。

 

「撃てヒュプノ」

 

 ヒュプノ/射手座が、針の矢を放つ。

 

 それが銀を叩き潰そうとしていた乙女座の触手を貫き、銀の命をギリギリ救った。

 

「お、ああ、あっぶねっ、ありがとわしおじさん」

 

「礼ならこのバーテックスに言え。

 ちゃんと挨拶ができない小学生はろくな大人に育たんぞ」

 

「え゛っ……バーテックスにお礼か……

 いやでもこれで何も言わないのは流石にアタシが恩知らずだよな……

 ええっと、このでっかい射撃のバーテックス、名前は?」

 

「ヒュ"プ"ノ・バ"ー"テックス……そうだな、プーさんで行こう」

 

「プーさん!?」

「プーさん!?」

「苦魔のプーさんだ~」

 

 プーさんのが走り回る銀を守り援護する形で、乙女座の体に穴が空いていく。

 だがすぐに傷は塞がっていく。

 ヒュプノは援護に徹し、須美が低空まで乙女座を押し込み、銀と園子が乙女座の防御手段である板状の柔軟な触手を切り弾く。

 あと一手で詰みだ。

 あと一手。

 

「よし、詰ませた! おじさま、トドメを―――」

 

「須美! 上だ!」

 

「!?」

 

 あと一手で、須美が詰む。

 

 乙女座の上を取っていた須美の、更に上から、爆弾が降り注いだ。

 

「『鷲尾須美ちゃんすごいデブ! 世界一デブ!』」

 

 百を超えるスマホが同時に稼働し、神樹が作った世界が須美は重いと"思い込んだ"。

 重いから速く落ちると"思い込んだ"。

 須美の体が凄まじい勢いで落下し、おじさんがそれをキャッチする。

 

「ぐギぃッ」

 

 銀と園子がおじさんを守ろうと駆け寄り、そんな四人をまとめて守るため、元射手座が爆弾と四人の間にその巨体を滑り込ませた。

 

「くっ」

 

 轟音。

 振動。

 ヒュプノが体を盾にして守ってすら、爆弾の閃光は四人のもとへ届いていた。

 そして須美は膝を抱えていた。

 

「おじさまにデブって言われた……………………………………」

 

「待て待て、お前デブじゃないって」

 

「いえいいんです……

 知ってますから……

 クラスの男子にデブって言われてること……

 胸が余計に膨らんでるから服の前が押されますし……

 そのせいで腹の部分も余計に膨らんで見えますし……

 変に肉が付いちゃうから体重も重いし……

 だから……クラスでこの身長でこんな重いの他にいませんし……

 こんなだからおじさまがマネキンだったって気付かないけど……大丈夫です戦えます」

 

「お前のそれはちゃんと大人になってる証だから。それでいいんだ。あとマネキンはごめん」

 

「そんなこと話してる場合っすか!?」

 

「盾になってくれてありがとうね、プーさん~」

 

 おじさんは"爆撃が止まるまで待たなきゃ動けん"と判断する。

 須美は"私がデブだから何もかも駄目なんだわ"と、飛行催眠の反動で面倒臭い女になった。

 銀は遠くの美森を見て、美森の勝利が時間の問題なのを確認し、どっかのタイミングで援護してくれないかと期待し始めた。

 園子はヒュプノに礼を言いつつ、勝利までの道筋を考え始めた。

 

 須美の空中戦の優位を奪った爆弾に、銀は苛立つ。

 

「あの爆弾どっから来たんだ!?」

 

「たぶんね~、天井かなって」

 

「天井!?」

 

「私達、橋が変化した樹海の上で戦ってるでしょ?

 戦ってるのは、世界が書き換えられた結界の中でしょ?

 それなら、きっと上に行けば『天井』はあるよね~。確かめてないけど」

 

「え、えーっと、つまりどういうことだ?」

 

「わっしーが飛んで来た時点で、爆弾を『天井』に吊ってたんじゃないかな」

 

「!」

 

「それで任意のタイミングで落下させたんじゃないかなって、私は思うよ~」

 

 園子の推測に根拠はなかったが、正しかった。

 たった一手。

 仕込みの一手。

 それだけで、人間側の作り上げていた優位が無くなってしまった。

 乙女座の爆撃は止む気配はなく、逆に皆を守る傘のようになっているヒュプノの体は、どんどん削られていっている。

 死によって消えるのも時間の問題であるように思われた。

 

「わしおじさんなんとかできません?」

 

「状況が悪化したら別の手を打つ。

 今はプーさんを警戒していたい。

 ここで裏切られたら全滅だからな。

 せめてこの戦闘が終わるまで、小生の催眠はヒュプノに専念する」

 

「なるほどなー……あいつまた高くまで登っちゃったし、どうにかしたいところだよね」

 

 乙女座はまた高度を確保していた。

 また須美が上がっていこうとしても警戒され、今度は乙女座が須美を抑え込むだろう。

 そも、飛行催眠の反動がある今の須美が、上手い具合に飛べるものだろうか。

 

「須美、ちょっといいか」

 

「デブ美でいいですよ」

 

「それはいいくない……ちょっと、爆撃がやむまで話をしないか」

 

「やんだらどうするんですか?」

 

「どうすっかな……」

 

 ヒュプノがやられたら、乙女座を代わりの催眠手駒にしたいんだが距離がな……というところまで思考を開示して、おじさんは須美に向き合う。

 樹海化前に須美が言っていたこと、やっていたこと、それに返答をする時がきた。

 

「正直に言えば、小生は今でもお前に傷付いてほしくない」

 

「……はい」

 

「だが、うん。それはきっと、お前の覚悟よりも幼稚なんだろうな。大人として情けない」

 

「そんなことは……」

 

「だからせめてこうする」

 

 おじさんが真剣に、真面目に、真っ直ぐに須美に言いながら、"それ"をどこからか取り出したから、須美も銀も園子もぎょっとした。

 

「小生がお前を守るから、お前は小生を守ってくれ。

 お前を尊敬するお前の身内が、ずっとお前の後ろにいるから」

 

「……!」

 

「お前が無傷で守ってくれるなら、小生もお前を無傷で守ろう。

 傷付く時は共に傷付こう。

 笑う時は一緒に笑おう。

 お前が死ぬ時は一緒に死んでやる。

 だが泣いてる時だけはこれの例外だ。

 お前が泣いたら小生は泣かないで、その涙を拭ってやりたい。だからズルだがここは例外」

 

 須美が中庭で恥ずかしげもなく語った特大の熱量の台詞に、同じだけの熱量を込めて、恥も外聞もなくおじさんは熱く語って返す。

 いや、違う。

 おじさんは須美が中庭で語っていた時よりも、もっと熱く、もっとこっ恥ずかしく、もっと後悔しそうな感じに語りたがっていた。

 その方が、"須美の方がマシだったな"と銀や園子に言ってもらえそうな気がしていたから。

 けれどどうしても、須美のようにならない。

 

 真剣さが足りなかった。

 真面目さが足りなかった。

 真っ直ぐさが足りなかった。

 熱量が足りていなかった。

 何より若さが、青さが足りていなかった。

 

 青き勇者・鷲尾須美は、未熟であるから、心も青い。

 

 おじさんの中に、駆け出しの頃の青さはもうない。

 

「えーっと、すまん、ちょっと考えながら話させてくれ。

 こんなに真剣に考えながら話したの久しぶりなんだ。

 小生は催眠でずっと片付けてきたからな。

 いつもみたいにてっきとーに話すわけにもいかんべ。ええと要するに」

 

 熱く語るおじさんの手の中の物を見て、意図を察して、須美は"なんで"と戸惑う。

 戸惑っているのに、須美はどことなく嬉しそうだった。

 本当は"なんで"の答えも気付いているのに、須美は半信半疑で口元を抑えていた。

 

「つまりだ、小生を運命共同体にしてくれとまでは言わん。

 ただそうだな、お前が何か背負ったり傷付いた時、一緒に背負って傷付きたいのだ」

 

「あの、おじさま」

 

 須美は嬉しさと戸惑いが混ざった表情で。

 銀は困った人と信頼できる人を見る目線が混ざった目つきで。

 園子は心の底まで見通すような透き通った瞳で。

 彼を、見ていた。

 

「なんで雛森桃(マネキン)に言ってるんですか……?」

 

「お前が恥をかく時は、小生も同じ恥をかこう。

 お前の恥は小生の終生の恥とする。

 恥ずかしくなくなる、なんてことはないかもしれんが。

 まあ一人で恥かくよりかはマシだろ。マシだよな? マシであってくれ」

 

「わしおじさん……! ちょっと救急車呼ぼうと思ったけど、かっこいいぜ……!」

 

「あはは。なんか分かってきちゃったな~。そういうことなんだよね、多分」

 

 園子だけが、何かを察していた。

 

「小生は実際のところ、まっとうな人生を歩いてねえ。

 だからこれが、小生が大切な人を大切にする精一杯……というか他に知らへん……」

 

 須美の頬が、羞恥でもなく、興奮でもなく、激怒でもなく、別の理由で熱くなった。

 

 

 

「―――ああ、もう、本当に、もう」

 

 

 

 須美は思う。

 大人ぶりたいなら、"これで須美の恥ずかしさは少しは消えたかな"みたいな顔を、ちょっと子供っぽい顔を、自分の前で見せないでほしいと。

 

 おじさんは思う。

 "よかった、須美の顔が多少マシになったな。本当に悪い事しちまったな"と。

 

「おじさま」

 

「なんじゃ」

 

「私には催眠がかかってるので、悪意のない言葉として聞いてほしいのですが」

 

「ああ、そりゃ知ってるが」

 

「おじさま、催眠術師向いてませんよ。実力じゃなくて精神的に」

 

「張り倒すぞ!!!!」

 

 おじさんが怒鳴り声を叩きつけても、須美はしれっと受け流した。

 見事な受け流しに、「おー」と、銀と園子が拍手する。

 図星を刺されて一瞬沸騰したおじさんの心が、段々と落ち着き始めていた。

 

「銀やそのっち見てると、思うんです。

 私一番勇者に向いてないなって。

 だからおじさまと似た者同士ということで、おあいこです」

 

「ぬ……そうか? そんなに向いてないか? 小生そう思わんけど」

 

「この二人ほど揺らがない勇気がないですからね、私」

 

「そうだな」

 

「ふぉ、フォローがない……」

 

「いや、小生はお前の揺らぐ勇気が好きなだけだ。

 いいことだ、揺らぐ勇気は。

 勇気が揺らがない奴はすぐ交通事故起こすからな。

 車運転してんのに交差点で不安にならねえから。

 勇気を武器にする奴は、勇気が揺らぐくらいでちょうど良いんじゃないかねって思うっす」

 

「おじさまの好みですか?」

 

「勇者の好みはな」

 

 からからと笑って、おじさんは爆撃の音が控え目になってきたのを感じる。

 

「生きろ。お前が生きるなら見守ってやる。

 死ぬな。死んだら一緒に死んでやる。

 お前が美森みたいに成長していくのが見たい。

 お前が20を超えてちゃんと大人になるのが見たい」

 

「おじさま」

 

「愛してるぜ鷲尾須美。超絶大袈裟に言えば、お前の親と同じくらいに」

 

「あ、愛って、おじさま! こんな時にからかって!」

 

「からかうもんかよ! 死ぬほど大切なものができたら、そりゃ愛だろ!」

 

「あ、愛というのは、軽々しく言っちゃいけないんです!」

 

「じゃあお前以外にもう一生言わねーよ! お前の嫁入りとか見たいんだよ!」

 

「そういう台詞は、おじさまを絶対に幸せにできる女の人だけに言ってください!!」

 

 顔を赤くして怒る須美の横で、おじさんが心底楽しそうに笑っていた。

 

 おじさんは嘘などついていない。

 全部本気だ。

 死ぬ気など全く無い。

 須美の成長を何年も、何十年も見守っていきたいと、そう思っている。

 ならばその気持ちは『恋』などというものよりも遥かに多様性に富む、『愛』と呼ぶべきものなのかもしれない。

 

 その言葉を、離れた場所で耳にしていた美森の頭が、刺すように痛んだ。

 

「……頭、痛い。何かしら、この痛み……」

 

 美森は何かを思い出そうとする。

 けれど思い出せない。

 消された記憶が痛んでいる。

 忘れた脳が痛んでいる。

 八つ当たり気味に山羊座を銃で穴だらけにしても、何か、心のどこかが、苦しい。

 

 おじさんと須美の会話が、美森に透明な焦燥を与えている。

 こういう言葉を聞いて、心底嬉しくて、何もかもが幸せで、安心しきった後に―――()()()()()()()()()()()、ような。

 そんな感覚があるのに、記憶だけが蘇らない。

 

 おじさんの催眠術による記憶操作は、完璧だった。

 

「爆撃が止まるよ~!」

 

「さーってわしおじさん、どう反撃する?

 アタシは東郷さんがそろそろ敵倒しそうだからそれ待ってもいいかなって思う!」

 

 戦いの終わりが近付く中、おじさんは一つ、新技を思いついた。

 

「ん? 待てよ。……いけるか、ヒュプノ」

 

 おじさんは催眠制御に指を鳴らそうとし、一瞬歯を食いしばって、何事もなかったかのように指を鳴らす。

 その一瞬の淀みを、園子は見逃さなかった。

 

 ヒュプノは元射手座のバーテックス。

 その体は無数の小バーテックスの集合体。

 進化の過程で怪物になったが、その体は最適な形の情報を与えられれば、その形に合わせて変形するものである。

 

 須美は青き勇者。弓を構える、射手の勇者。

 本人の目の良さや動体視力もあって、当代一の弓使いである。

 

 おじさんは催眠術師。

 直接的な殴り合いでは小バーテックスにも勇者にも負ける可能性が高いが、その分器用で無茶苦茶な変則的手段が取れる。

 彼は、勇者と怪物の仲立ちをすることができる。

 

 催眠操作により全身の細胞を組み換え、ヒュプノが巨大な弓に変形した。

 宙に浮いたままのそれが、須美の弓とガッチャンと接続合体する。

 先程まで射手座のバーテックスだった存在が巨大な弓になったことで、須美は死ぬほどびっくりしたが、もうびっくりすることにも慣れすぎてしまって、心のどこかが冷静だった。

 

「なにこれ!?」

 

「撃て須美!」

 

「え、あ、はい! もうどうにでもなれっ!」

 

 バーテックスの力を、催眠おじさんが制御し、勇者が放つ。

 本来ならば誰一人として絶対に折り合うことのなかった三者の力が一つになる。

 三者一射(さんしゃいっしゃ)のその技は、記憶を失う前の東郷美森も知らない力。

 美森が山羊座を仕留めた瞬間、須美もまた、光の矢を放った。

 

「南無八幡―――大菩薩っ!!」

 

 それが防御も回避も抵抗も許さず、再生すらも許さぬ威力で、乙女座の全身を粉砕しながら通り過ぎ、乙女座の存在を消滅させていった。

 

「や……やった!」

 

「やっと終わった……」

 

「ヘイッ、セイッ、試合終了~!」

 

 ヒュプノが元の姿に戻り、バーテックスの残滓を捕食吸収しに動く。

 

 須美は自分から離れていくヒュプノに手を振ったが、ヒュプノが振り返って頭を下げてきたので逆にびっくりしてしまった。

 

 なんとか気持ちを落ち着けて、須美が叔父の方を向くと、彼が苦痛の表情を浮かべていた―――気がした、が。そんな気がしただけで、彼は眉一つ動かしていなかったため、気のせいだったと自分の中で処理してしまった。

 

「……」

 

「おじさま? 今何か、様子変だったような……」

 

「いやトイレ行きたかったんだずっと。でかい方」

 

「……おじさま、最低です! もう! なんでそうなんですかいつも!」

 

「あばよ須美。あとで屋敷でなハハハハハ」

 

「あっ、ちょっと!」

 

 おじさんがふっと視界から消えてしまう。

 須美は頬を膨らませ、腰に手を当て、"私怒ってます"を全身でアピールするが、容姿と振る舞いのせいで可愛らしさしか感じられなかった。

 園子がほんわか微笑み、須美に歩み寄る。

 

「インチキおじさんはいつも元気そうだね~」

 

「もう。今日の戦いの功労者だから、ねぎらってあげたかったのに」

 

「そうかもね~……あの人が居なかったら、戦いは全然違う物になってたかもしれないぜー!」

 

「おじさまは外の世界から来た、この世界の救世主なのかもしれないわ」

 

 樹海が元の世界に戻り始める。

 散華のように、世界が元に戻っていく。

 そんな中、誇らしげに叔父のことを語る須美に、穏やかな笑みで園子は語る。

 

「わっしーが救世主なんだよ」

 

「え?」

 

「勇者って概念の上にもね、救世主ってものがあるんだ。

 巫女の力と勇者の力、両方を持ってる人。

 神様の声が聞こえて、神様の力が使える人。

 神様と話せて神様と戦えるかもしれない人。

 もしかしたら神様と対等な立場に一番近いかもしれない人。

 ずっとずっと昔、そういう人が世界を救うんだって、思った人が居たんだって」

 

「それは……私に勇者と巫女の力があるだけよ。救世主になんてなれないわ」

 

「ううん」

 

 園子は、ゆっくりと首を左右に振る。

 

「救世主はね、字は世界を救うと書いてるの。

 でも違うんだよ~。

 救世主はいつだって、人を救って、ついでに世界を格好良く救うのさっ」

 

 園子が須美の手を握り、微笑み言い切る。

 

 乃木園子11歳。小学六年生。

 初代勇者の子孫にして、大赦最高権力者『乃木家』の愛娘。

 彼女はいつも、本質を見ている。

 見ているだけで、口には出さないことも多い。

 

 『そのっちはいつも自由に生きてるわね』と、須美が彼女を評した言葉は正しい。

 

 皆との団体行動中、飛んでいる蝶々を追って居なくなってしまうこともザラだ。

 

 彼女は誰よりも自由で、誰よりも天衣無縫であるがために、誰よりも"支配"を理解している。

 

 

 

 

 

 おじさんは()()()()()()()を、物陰に横たえた。

 立ち上がれない。

 だが寝転がったままでもいられない。

 這いずるように、壁に背中を預け、地面に尻をついたまま、死んだように動かない。

 

「っ」

 

 傷の痛みで時折痙攣気味に体を震わせ、それを繰り返すだけの存在になったおじさんを、迎えに来た少女が居た。

 おじさんは、唯一全てを話していた美森であると思っていた。

 だが顔を上げた彼が見たものは、なごやかに微笑む乃木園子だった。

 

「ヘイヘイヘイ、インチキおじさん大丈夫~?」

 

「!」

 

「建物の物陰からぼわぼわぼわーっと、謎のインチキおじさんの参戦だー!」

 

「ま、お、お前、乃木のお嬢……?」

 

「東郷先輩にもこの場所の連絡送っておいたよ~」

 

「……お前、どこまでお見通しなんだ」

 

「ん~、嘘を綺麗に混ぜ込んだんだろうな、って。探偵ドラマの解決パート来たー!」

 

 園子が最初に引っかかったのは、『おじさんが無傷であるという根拠』が何一つとして存在しない、というところだった。

 その時点で無傷な方が幻覚だったのか、傷だらけな方が幻覚だったのか、分からなくなってるじゃないかと園子は考えたのだ。

 

 実際、彼の嘘が通ったのは話運びと勢いの二つ以外、何も説得力の素が無かった。

 敵がいるから一計を案じたかった、そのために重傷のふりをしていた、自分は無事だ、誰も巻き込まれて怪我なんてしてない……一見、納得できる流れに見える。

 違和感もない。

 だがそれは、おじさんが事実の要素を組み換え、虚構を作り上げたからに過ぎない。

 

 おじさんからすれば山崩れ大怪我は想定外だった。

 だが、それを、大怪我は催眠幻覚で計画通りだと言った。

 人間は『偶然そうなった』より、『全て計画通りだった』の方を真実として受け止めたがるという、脳の反応の研究もある。

 実際その通りに、須美達は誘導されてしまっていた。

 

 園子が須美達と違うのは、視点の置き場所だ。

 たとえば、おじさんはずっと動いていなかった。

 体の傷に響くからだ。

 中庭では美森の横で動かず、戦場でも動かず、途中はヒュプノの上で動かなかった。

 そのせいで須美が助けなければ即死していた場面などもあり、おじさんがどれだけ重傷だったかこの一件だけでよく分かる。

 

「落ちてきたわっしー受け止めた時……

 腕、大変だったでしょ?

 声すっごく痛そうだったもん。

 わっしーはデブって話で聞いてなかったみたいだけどね~」

 

「……お前の方には聞こえてたか」

 

「ぐギぃッ、ってね。めっちゃめちゃ痛そうだったけど、大丈夫?」

 

「その内治る」

 

 おじさんの服の袖口から血が流れていて、それが地面に染み込んでいる。

 彼が腕をめくらない限り、どれだけ怪我をしているかもわからないと、園子は思った。

 

「そんなに辛かったの? 催眠でもうごまかしもできないくらい?」

 

「まあ、な。

 正直、全員の記憶操作や認識操作は無理だと思った。

 強力な催眠は無理だと思った。

 数回催眠使ったら終わりだと思った。

 だからその内一回を、小生の姿の継続誤認に使ったんだ。

 自分の姿の偽装だけなら低コストだから。

 つーか……今の小生がまさしく、僅かな催眠すら使えない、摩耗しきったカスだ」

 

「あのスマホ鎧の姿はあなたが弱ってることを隠してた。

 弱くなった分の催眠を補ってた。そんな風に見てたけど当たったみたいやねぇ」

 

 おじさんの目的は一つ。

 

 『勇者はよくやった。樹海災害の犠牲者は出てない。まだ犠牲者が0なんだから焦る必要もない』―――そういう認識を、勇者達に取り戻させることだ。

 

 須美がかっこいいことを言い始めて、そのせいで少し歯車は狂ってしまっていたらしい。

 

「そんなに『勇者のせい』にしたくなかったの?」

 

「お前らがもっとガキっぽけりゃこんな面倒は無かったんだよ」

 

「はえ?」

 

「『お前らのせいじゃない』って小生が言ったとする。

 普通の小学生なら『うん、そうだよね!』と返すのが基本だ。

 だけどお前ら『いいえ自分のせいです』で既に答え出してて聞かねえだろ」

 

「なるほど~! 思い出すとそう思われても仕方ないね~」

 

「お前らのせいじゃないって、そう自然に思わせるにはこれ以外無かった」

 

「インチキおじさんはインチキが使えないとなんだか弱そうに見えるんだね」

 

 彼女はずっと、インチキをしているおじさんをそう呼び、その上で笑顔を向けている。

 インチキはインチキだ。

 彼女が言うインチキが何であるか、おじさんが分かっていないわけがない。

 

「インチキおじさんは、どうして人が信じられないのかな」

 

「……」

 

「催眠をかけてお人形さん遊びにしないと、他人を大切にできないのはなんでなのかな」

 

 乃木園子が問いかけて、おじさんが完全に答えに詰まったのは、これが初めてだった。

 

 園子は申し訳無さそうな顔をして、言葉を続ける。

 

「ごめんね。

 答え難かったら答えなくていいよ。

 もちろん今すぐ答えなくてもいいの。

 私達は会う間隔が広くないから、いつでも会えるから問題ないんだぜ~!」

 

「……いや、悪い。ごめんな。今言葉に詰まったのは……保身だった」

 

「そっか」

 

「かなり、自分勝手な気持ちだった。

 話すのにちっと覚悟が居るし……須美と美森には聞かれたくない。ホントすまん」

 

「いいんだよ。

 私だって自分勝手だもん。

 私、インチキおじさんのこと全然知らないんだよ。

 でもね、インチキおじさんのこと信じたいとも思ってるんだよ。

 だって私にとってもお友達で、わっしーにとって大事な大事な人なんだもん」

 

「……小生みたいなやつは、自分のことは語れば語るほど幻滅しかされないもんさ」

 

「まず幻滅しなきゃ、その後の理解も仲直りもないよ。一緒に頑張りんご~!」

 

「頑張りんご~? ……小生の体の怪我が治ってからでいいか?」

 

「うん、待ってる。嘘の共犯者は東郷先輩?」

 

「そうだ。あいつだけが全部知ってる共犯者だ」

 

「わっしーは健気だねえ。今も昔も。いいお嫁さんになりますよ~?」

 

「知ってる」

 

 最近、己の変化に戸惑い、自分とも他人とも向き合う機会が増え、自分らしくないことを考えることが増えたおじさんは、須美・美森・銀・園子の催眠が、解けやすくなっていることにまったく気付いていない。

 それは大赦が与えた勇者の力と、半ばほど関係のない事象であった。

 

 

 

 

 

 園子は歩く。

 美森が走っているのが見えた。

 これからおじさんは美森に捕まり、甲斐甲斐しくお世話をされるのだろう。

 山崩れで怪我したことを隠すため、美森の協力を得て偽装を始めるに違いない。

 

 その後はどうなるだろうか。

 二人で仲良く話したり、お世話されたりするだろうか。

 あるいは真面目に戦いの話をしたりしているかもしれない。

 甘酸っぱい話はするかしないか、半々か。

 想像の翼を羽ばたかせ、園子はにっこり微笑む。

 

 運が悪い人だと、園子は思った。

 運が良ければきっと大体上手く行く人なんだろうとも、園子は思った。

 

「お、園子。探したぞー! 一人でどっか行って」

 

「あ、ミノさーん! ディノマイフレンド!」

 

「親愛なる我が友が恐竜のお友達になってる!」

 

 銀はいつも優しく、周りを気遣っている。

 園子はこうして自分を気遣い探してくれる銀が好きだ。大好きだ。

 優しいお姉さんと優しい親友を、いっぺんに得た気分になれるから。

 

「園子は何してたんだ? わしおじさんでも探してた?

 なんかちょっと様子が変だったような……気のせいかもしれないけど」

 

「ミノさんは気遣いの金メダリストだね~」

 

「いやそれ言い過ぎ……なんなんだろうな。

 うーん。なんでこんなよくわからないんだろ。

 わしおじさんと、須美と、東郷さんと、あの辺よくわからないよね」

 

 催眠の楔が刺さっている内は、銀の思考はそれに僅かに邪魔されて正常に動かない。

 だがきっと、彼女の理解が及ばないのは、言語化が難しい領域にもっと面倒臭くこんがらがったものがあるからだ。

 

「園子はなんでか分かる?」

 

「ミノさんって家で愛の支配のお勉強って教わった?」

 

「え、なにそれ」

 

「おっきなおうちでいっぱい教えるものの一つだよ~

 難しすぎて、私途中でなんども寝ちゃって怒られたんだよ~……」

 

「園子らしいな……ああいやでもそうか。

 乃木家って下手すりゃ今世界で一番偉い家だもんな。

 愛とかそういうのの教育しっかりしないと、変な人がお婿さんに来ちゃうのか」

 

「変な男を婿に選んだら世界そのまま滅びるって言われました~! しょんぼり……」

 

「めっちゃ偉い家は大変だよなぁ。それで、その愛情と支配って?」

 

「……」

 

「園子?」

 

「難しすぎて記憶の引き出しから引っ張り出すのに時間がかかるんよ~」

 

「こりゃ相当だな」

 

「あ、思い出した」

 

「おっ」

 

「愛の支配っていうのはね。

 『より愛された方』

 が支配してるってことなの。

 『より愛してる方』

 は支配されてるってことなんだよ~」

 

「初っ端から難しいやつだこれ」

 

 たとえば、両親をなくした姉妹が居るとする。

 姉は面倒見のいい家事万能。

 妹は可愛らしいができることはあんまりない。

 妹が姉を愛するのとは比べ物にならないほど、姉は妹を溺愛している、とする。

 

 この場合、表向きは姉が二人の生活を支配している。

 だがその実、姉が妹に支配されている。

 妹→姉より遥かに強く姉→妹の愛があるならば、姉は妹の意見を無視できず、妹の願いを常に汲み取ろうとし、生活の基点が大体妹絡みになってしまうだろう。

 

 愛しているのが姉で、愛されているのが妹である以上、この姉が激怒するのも自分のことより妹のことの方が多いはずだ。

 たとえば、姉が何を失っても耐えていた中、妹が同様の事例で夢を諦めるしかなくなった時、姉は自分のことでは怒らなかったのに妹のためにかつてないほど怒るだろう。

 この自分と愛の対象の『上下の差』が、この概念を象徴するものである。

 

 愛する側、愛される側、という二極が、この支配と形容される関係性を構築する。

 

「誰も愛してない人は誰にも支配されてないってこと。

 人を愛するようになったってことは、支配されるようになったってこと。

 愛してもらえてるってことは、周りに尊重してもらえるってこと。

 サンチョ、君は愛を知るか! 次回予告に並べられそうなフレーズばっかだよ~」

 

「次回予告ってことは言ってることは正しくても大分抽象的ってことなんだよな……」

 

 銀は頭を抱えてうんうん悩む。

 

「うーんよくわかんないなー」

 

「実は私もちょっと分かってないんだよね~」

 

「おいおい園子お前こんだけ語っといて……」

 

「だって私、恋をしたこともないもん。

 家庭教師の先生だって言ってたよ。

 この理屈がわかるのは、本気で誰かを愛した人だけだって」

 

 愛には幾多の種類がある。

 親愛。

 友愛。

 信愛。

 恋愛。

 家族愛。

 利他愛。

 利己愛。

 自己愛。

 

 全てが愛だ。人の数だけ、愛はある。

 他人の気持ちを深く読み取らず、単純に恋愛だなんだとカテゴライズを始める人は、そこに正確な理解を持てない。

 

「愛の支配ねえ。分かってる人ってどんくらいいるんだろ」

 

「わっしーは毛の先ほども分かってなさそう。

 インチキおじさんも……分かってないかも。

 ミノさんも全然分かってない? かな。

 私も教わっただけ。

 東郷先輩は……どうなんだろうね。あの人、どのくらい"覚えてる"のかな」

 

 園子は空を見上げて、よくわからないものがよくわからなくて、首を傾げた。

 

 支配の形にはそれぞれ、三つの概念がある。

 分類と、目的と、手段だ。

 

 天の神の支配は、『力による支配』。

 世界に最もありふれた支配。

 目的は、自分が認めなかったものを世界から消し去ること。

 手段は、世界の焼滅と怪物による侵略制圧。

 

 催眠おじさんの支配は、『催眠による支配』。

 本の中にはありふれた支配。

 目的は、己にとって最高最善の環境を作り上げること。

 手段は、全ての心と精神を掌握し、思うがままに動かすこと。

 

 そして須美や東郷が彼に対し行っているのは、『愛による支配』。

 この世で最も尊く美しい支配。

 そして、一番難しい支配でもある。

 目的は、幸せになること、幸せにすること。理解し合い、許し合うこと。

 手段は、支配したいその人に、愛されること。

 

 この世で最も支配から遠い支配であり、自由に何かを愛する気持ちからしか生まれない支配。

 

「本当に最後の最後に、自分の願いを叶えるには――」

 

 仮の話をするとしよう。

 

「――支配されてると難しいのかなぁって。私もわかんないんだけどね、えへへ」

 

 美森が自棄になって、世界を滅ぼそうとして、愛する親友に止められ改心したとする。

 それは美森がその親友を愛しているがゆえに、親友に支配されていると言い換えられる。

 その親友の願いが通って、美森の選択は打ち倒されたのだから、そうなる。

 

 美森を愛する親友が自己犠牲で世界を救おうとし、美森に止められたとする。

 それはその親友が美森を愛しているがゆえに、美森に支配されていると言い換えられる。

 美森の願いが通って、その親友の選択は打ち倒されたのだから、そうなる。

 

 未来のおじさんが美森を守って死んだのだのもそう。

 愛している者は、愛されている者に支配されている。

 須美が、美森が、おじさんを愛していたからこそ、彼女らの選択は支配されていた。

 そうでなければ、また別の結末もあったかもしれないのに。

 

 須美の遠回しな妨害で、おじさんが安芸に手を出さなかった一幕だってそうだ。

 須美を愛する家族愛が、彼に好みの女性である安芸へのお手つきを禁止させていた。

 須美が彼を無自覚に支配し、自分の傍に居続けさせた。

 

 全ては戦いだ。

 愛する者の幸福のため、愛という名の、この世で最も尊く美しい支配を繰り返す戦い。

 

 おじさんは須美を催眠で支配し、須美はおじさんを愛で支配し、物語は始まった。

 

 穢れた催眠による支配は、愛という美しい支配に染められていった。

 

「アタシゃもう全然分からんよ、小難しすぎる」

 

「難しい話は考えてると眠くなるよね~」

 

「分かる分かる!」

 

 おじさんが言っていたことは、何も間違っていない。

 

 この戦いは、最後に誰が支配者になるか、そういう戦いだ。

 

 最後に待つのはハッピーエンドしかない、のかもしれない。

 "誰にとってのハッピーエンドか"が違うだけで。

 "どの支配が終わり自由が始まるか"が違うだけで。

 

 人の醜悪が滅べば、神は笑う。

 神にとってのハッピーエンド。

 『彼女』が幸せになれば、彼は笑う。

 彼にとってのハッピーエンド。

 『彼』と一緒に幸せになれれば、彼女は笑う。

 彼女にとってのハッピーエンド。

 

 だが、あと一つ。

 

 誰もが忘れた支配があり、人が知らないハッピーエンドが存在している。

 

 ()()()()()は、『救済による支配』。

 救ってあげることで、救い続けることで、心を掌握する支配。

 広義ではヒーローが女の子を救って惚れさせることも、ここに入る。

 目的は、救済すること、良き結末を創ること。

 手段は、人を救い、人を守り、人に与え、人に献身し続けること。

 

 西暦が終わって三百年経った今も、神樹は見返り一つ求めず、その命をすり減らしながら、最後の人類を守り続けている。

 

 催眠おじさんが来たあの日から、神樹は何もしていない。

 

 ただただ、人間が選ぶ『結論』を待っている。

 見捨てたわけでもなく。

 投げ出したわけでもなく。

 適当に扱っているのでもなく。

 彼らが、彼女らが、最後に選ぶ瞬間を待っている。

 

 神樹は未だ、何もせず、何も言わず、ずっと彼らの選択を見守っている。

 

 

 



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催眠感度20倍

 中間発表で一位だったようです。イエーイ!

 いつもお気に入り・感想・評価など、ありがとうございます。全て拝見させていただいており、お褒めの言葉ばかりで恐縮です。一つ一つが励みになっておりますので、後少しばかりついてきていただけると嬉しいです。


 車椅子の上で、包帯ぐるぐる巻きにされた状態の男が、静かに佇んでいる。

 車椅子を押しているのは東郷美森。

 車椅子の上の男を睨みつけるのは、おじさんを襲撃して縛り上げられた大赦の最後の残党。

 

 戦闘で傷が開いて色々と体にガタが来ているおじさんは、車椅子の上で苦痛をおくびにも出さずに、悠々と振る舞い男達を見下ろしていた。

 

「……お前、何が目的なんだ」

 

 大赦の男が、おじさんに問いかける。

 彼らはかつてこの社会の支配者だった。

 神という世界の支配者の下に位置する支配者だった。

 だがもう、そうではない。

 

「ん? そうだな。催眠おじさんは大体世界平和が目的ですが?」

 

「人の心を支配して世界平和か! さぞかし気持ちが良いだろうな!」

 

「正論ありがとう。お前らは正しいよ。

 小さな女の子を鉄砲玉にして世界を守るのも実に正しい」

 

 叔父さんは「ギャハハハ」と笑い、後ろの東郷が「本当にギャハハハって笑う人おじさま以外見たことないですね……」と苦笑していた。

 

「運が悪かったな。催眠系の薄い本ってのは大体最後に正しい方が負けてるもんなんだ」

 

「薄い本って何だこの野郎」

 

「ブハハハハハハ」

 

 おじさんはよく笑う。

 

―――よく笑いなさい、息子よ

―――悪はよく笑うといいの

―――逆に善人が歯を食いしばって頑張ってる時の方が応援されるわね

―――笑って損はないわ。だから笑うのよ

―――あなたに支配されて膝を折る時、あなたの爆笑を見た人は、きっと心も折れるから

 

 それはきっと、親の教育が良かったから。

 

「小生が人の心操って平和平和ってしてんのは否定できんわ。

 けどな、第一、大赦も人の心を支配して平和にしてたんじゃないかね。

 教科書も。

 教育も。

 テレビも。

 娯楽も。

 全部大赦の検閲と修正が入ってたぞ、こえーよ。

 でもまあ、こんだけやれば常識も倫理も画一化できるよな……大したもんだ」

 

「っ」

 

「それが悪いとは言わねえよ。

 この世界の善性と合理性は凄い。

 助けの見込みのない籠城戦をするには最高最強の構造だ。

 世界を守るためにこんな社会にしたなら、純粋に尊敬はできる。

 ……でもな。

 この世界は多分、生きてる人間全員、神の催眠にかかってるようなもんだと思いますわ」

 

「……」

 

「クカカ、おいおい真面目に受け取るなよ。

 真面目すぎるわ。

 この世界の人間本当に善良で斜に構えてないやつ多いな……」

 

「バカにしてるのか?」

 

「……ハッハッハ! そうだな! バカにしてるかも!

 お前らは世界と人類のための支配だったな。

 小生は自分のためにしか支配してねーワ。

 寝覚めが悪くならなけりゃどうでもいい。

 基本的には全部小生の都合だ。小生が都合良くやりたいだけだから説得は無力だぞ」

 

 おじさんが腕を上げる。

 世界のための社会の支配者は、彼が指を鳴らした瞬間、自分のための社会の支配者―――種付けおじさんに屈することだろう。

 

「だから、新しい支配者の思考に染まってもらうしかないんだ。ごーめんな」

 

 指を鳴らされる、まさにその瞬間、縛り上げられた老人が咆哮した。

 

「儂は許さんぞ! 必ずやこの催眠を解き、お前を叩き出してやる!」

 

「おっ、うるせーのが来た」

 

「貴様は許されんことをしているのだ」

 

「まぁ否定できねえな」

 

「小学生の女の子に執心するクソロリコン野郎が!」

 

「まぁ否定できねえな!」

 

「最初にロリを催眠で手中に収めその少女の家に何ヶ月も住んでいる異常性癖がッ!!!」

 

「まぁ否定できねえな!! 客観的に見たら!! 小生そういう動きしてるわ!」

 

「どうせ童顔の大人に見ようと思えば見えなくもないあの子に性欲が止まらんのじゃろゲスが!」

 

「須美は尊いんだよ性欲向けてんじゃねえ殺すぞ」

 

「お、おう」

 

「分かってねえなクソが……

 あいつは容姿も世界一だが何より凄えのは性格なんだよ……

 大事な人のためなら何だってできる、あの心が光なんだよ……!!」

 

「き、気持ち悪いな……あんな子供の心に感動してんじゃないぞ」

 

「しろよどアホが!

 そういうとこなんだよ小生が大赦全員洗脳状態にしてる理由!

 あの心に価値があるんだよ!

 あれは世界より重く扱っていいものなんだ!

 めったに見られない希少で貴重で綺麗で、使い捨て以ての外の心なんだよ!

 うん百年前からどいつもこいつもそういう心を片っ端からすり潰し続けてて腹立つわ!」

 

「な、なんだ、こいつ」

 

「お前らは心操りもしないから心も見えてねーんだよあほばか」

 

「こいつ時々子供っぽいとこあるな……」

 

 縛り上げられていた男の内一人が、そこで話に割って入ってくる。

 

「頼む、催眠で俺の自由意志がなくなる前に、これだけは聞かせてくれ」

 

「なんだね。小生が答えるかは知らんが言ってみ」

 

「私の娘は、私が君にしたことで、君の制裁を受けるのか?」

 

「ほう、娘。娘が心配? あんた父親なのな」

 

「……頼む。

 私の、私の娘には何もしないでくれ。

 君に逆らわないようにする催眠くらいならいい。

 違和感を抱かない催眠でもいい。

 でも、それ以上しないでくれ。

 娘に指一本触れないでくれ。

 君を殺そうとしたくせに何を言うかと思われるかもしれない」

 

「実はちょっと思ってますね小生」

 

「でも私は嫌だったんだ。

 知らない人間に娘が支配されることが。

 娘が自由に生きられなくなることが。

 君の機嫌一つで娘が好きにされてしまうことが、

 死ねと言われれば私は今すぐここで死んで償う。だから、だから……!」

 

「……」

 

「娘には生きてほしいんだ! 叶うなら自由に、健やかに、幸福に……!」

 

 何かが違えば、鷲尾家の父親がここに居たかもしれない。

 何かが違えば、ここで縛られていたのは東郷家の父親だったかもしれない。

 そう思うと、おじさんの手は止まる。

 おじさんのことを深く理解している美森は、静かになったおじさんの思考を、手に取るように理解していた。

 

「そうだな……」

 

 おじさんが悩むフリをし始める。

 美森は"おじさまが言うことは決まってるわよね"、と話を聞き流し始めた。

 

「さて、どうするか……?」

 

 いつまで悩むふりしてるんですかおじさま、と美森は思った。

 

「お前達は小生に小賢しく抵抗活動を行ったわけだしな……?」

 

「くっ……」

 

 いつまで引っ張るんですかおじさま、今の親らしい言葉に感銘受けたのは見てれば分かりますから早く言ってくださいおじさま、と美森は思った。

 彼のそういうところが嫌いじゃない自分に呆れて、美森は溜め息を吐く。

 

 チラッとおじさんが美森の方を見て、美森が表情を取り繕った。

 おじさんは美森を見て思い出す。

 最後に自分が天の神と相打ちになって終わることを。

 で、あるならば。

 その日までおじさんが余計なことをしないのであれば、きっと誰もが生きていけるだろう。

 自由に、健やかに、幸福に。

 

「安心しろ、最悪最後に死ぬのは一人だ。お前達の家族は死なない、ってことらしいぜ」

 

 不幸中の幸い、絶望の中の砂粒一つくらいの希望に、その大赦の父親は心底ほっとしていた。

 

「……よかった。よかった、本当によかった……」

 

 絶望の中で見つけた僅かな希望を、人は信じもうとする。

 それは脳科学分野が解明を続けている頭の作用の一つだ。

 "だからといってこんな悪人にしか見えないやつの言葉を信じるなよ"とおじさんは思うが、そんなことを考えつつも、この父親の娘には近寄ることすらしないようにしようと、決めていた。

 

 そんなおじさんの頭をぽんぽんと、車椅子の後ろから美森が撫でていた。

 

「おい美森ちょっとやめろ、今はそういう流れじゃねえから」

 

「そういう流れですよ」

 

 おじさんは美森に頭を撫でられた感情を隠すために頬杖をつこうとして、折れた指に思いっきり顔を乗せてしまい、痛みで悶絶し周囲から「何やってんだこいつ」と見られていた。

 こほん、と咳払い一つ。

 気を取り直し、おじさんは男と向き合う。

 

「親は大変だな。他人の子供を生贄にしてでも、自分の子供を守りたいと思うもんか」

 

「ああ」

 

 罪悪感はあれど、返答に迷いがない。

 ゆえにこそ、彼は親だった。

 

「殺そうとしたから……私達はもう、お前に何も、言う資格はないのかもしれないが」

 

「あるぞ」

 

「え?」

 

「言う資格はあっても、言う自由はなくなるだけだ」

 

 指が鳴る。

 

 記憶が曲がる。

 

 意志の誘導が始まる。

 

 おじさんの催眠は軽くかけただけでも十年二十年と継続させることが可能で、その気になればおじさんが死んでも一生残る催眠にできる。

 だからこそ、おじさんが定期的にかけ直しているのに、それでもなお明らかに催眠の強制力を無視している勇者達の存在が、際立っていた。

 

 

 

 

 

 神世紀298年6月1日。

 おじさんの体も随分と治ってきた。

 とはいえ完治にはまだ遠い。

 おじさんは自由に歩き回れるようにはなったものの、未だ激しい戦闘が起これば治りかけの傷が悪化するような状態にあり、敵が来ないことを祈るばかりであった。

 

 だが東郷曰く"来るとしたら急いで残り七体を完成させてからだと思います"とのこと。

 十二星座は五体倒した。

 残りは七体。

 東郷曰く『次が作られる』可能性もあるという話だが、そうなるとしても何年後かの話だろうということで、当座の敵はこの七体に絞られた。

 十二星座は、空に輝く七つの星へ。

 

 だが須美、銀、園子の三人は大分安心していた。

 おじさんが凄まじい力を発揮していたからである。

 主人公最強チート小説を読んでいる時のような安心感、「まあ皆幸せになるでしょ」という緩い安堵、まるで空気が水戸黄門のそれである。

 水戸黄門が負けると思ってハラハラしながら見る人はいない。

 

 おじさんの強さは主人公が苦戦しないタイプのなろう系の域にある。

 だが実際は須美に袖を引かれ、美人を見つけても性交を成功させることができず、女漁りも完全に止まっている彼は完全におなろう系だ。

 ロリが一番になってしまった彼と、催眠音声オナニストおじさんに、大した差はない。

 成人女性とおセックスできてないのだから同じだ。

 クソ情けないオナニー野郎が満足にできることなど、戦闘くらいしかないだろう。

 

 なので戦闘で大活躍しないといけないのだが、おじさんはしばらくぶりに全スマホの状態チェックを行って、頭を抱えた。

 現在、23:00。

 自室で床に並べたスマホを眺めていたおじさんは、頭を抱えてうーんと唸った。

 

「稼働状態にあるのが108個。

 使いすぎでバッテリーの調子が悪いのが22個。

 原因不明だけど時々勝手に再起動するのが7個か……

 ああああああああああッ!!

 なんでドコモショップねーんだよ!

 バッテリーだけでも交換したい!

 電池が残り30%くらいから突然電源落ちて0%になってんだけど!」

 

 あと二、三回であれば問題なくフルパワーで戦えるだろう。

 だがフルパワーで戦えば戦うほどに不調は増す。

 前回の五体撃退戦闘だけでも、大分不調は増していた。

 あの究極形態を使用する回数は抑え、対魔忍システムと通常催眠とヒュプノ・バーテックスを上手い具合に使っていくのが最善の選択肢になるだろうか。

 

「かーんど三千倍」

 

 練習も兼ねて軽くTMNシステムを起動するが、ちょっとばかり操作を失敗し、時間感覚限定の感度三千倍が広がってしまう。

 

「あいだだだだだだぐぎゃぐげぎぎぎストップ! 痛いわ! 痛いっつってんだろが!」

 

 ぐえーっ、とおじさんが床を転がり、痛みで思考が止まり、スマホが廊下まですっ飛んで転がっていく。

 このままでは痛みで発狂して死んでしまう……と思われた、その時。

 呆れた顔をした美森がやって来て、スマホのアプリを停止してくれた。

 

「本当に何やってるんですか……」

 

 美森は風呂上がりらしく、髪留めで簡易に一本にまとめた長い髪を、肩の前に流していた。

 上気した頬は色っぽく、髪が肌に張り付いていて、まだ少し湯気が出ていた。

 男なら顔を隠していても"ぐっ"とくるしかない体型が、寝間着の薄着でいつもより分かりやすく出ていて、そんな彼女が呆れた様子で、でも楽しげに笑っているものだから破壊力が高い。

 水色の薄手の寝間着の胸元が開いていて、落ちていたスマホを拾ってアプリを止めたためか、美森の姿勢が前かがみにになっていて、寄せられた胸の部分が重厚に少し揺れていた。

 

 おじさんは全力で、床に頭を叩きつける。額の包帯に血が滲む。

 

「せいはっ!」

 

「何事?!」

 

「フン……小生の冷静さが失われることなどない……」

 

「大分しょっちゅう失われてると思いますけど」

 

 "この子を汚すな"という思考が頭の中を支配している時点で、おじさんはもうとっくに、東郷美森/鷲尾須美に負けてしまっていると言えた。

 

「サンキュー美森ぃいづづづ」

 

「ああもう、もうちょっと寝ててください。膝くらい貸しますから」

 

 傷の痛みに呻いているおじさんの傍に歩み寄り、腰を降ろした東郷が太腿を撫でる。

 膝枕だ。

 今立ち上がっても体に負担があるから無理せず少し寝て休め、ということだろう。

 おじさんは様々な理由から、心底嫌そうな表情を作った。

 

「要らん、膝の安売りするな」

 

「そうやって無理するから……」

 

「お前の足はすらっとして見えたが随分と太かったんだな。触っていいのか?」

 

「もう」

 

 おじさんが美森の内心を分かっているのか、美森がおじさんの内心を分かっているのか、曖昧な時間が流れる。

 おじさんはよろよろと立ち上がり、とりあえず机に腰掛けた。

 風呂上がりの美森は艶やかすぎて目に毒で、男なら誰でも間違いを起こしそうになってしまうため、机に腰掛けるフリをして距離を取る。

 

「第一、無理はどっちだ?」

 

「?」

 

「みー子お前よぉ、この前寝言で困ってることについて話してたぞ。

 寝言で弱音や悩みを口にしてるやつは無理してるやつだって話だ」

 

「えっ……な、なんて言ってました?」

 

「『うう……胸が大きすぎて周りが全員雑魚で困っちゃうわぁ』とか言ってたぞ」

 

「絶っっっっっっっっっっっっっっっ対言ってません!」

 

「でも『私大抵の女より顔もスタイルも良くてごめんなさい』とか思ってるだろ?」

 

「思ってません! 思ってるのはおじさまでしょう!?」

 

「小生にはそう思われてると確信してるんだな……

 さすがだみー子……お前が顔もスタイルも思い上がりっぷりでもNo.1だ」

 

「~~~っ……おじさまのおかげで、私、大分タフになりました……」

 

「だろうな。お前みたいに目立つ女は、そんくらいタフな方がいいぞ」

 

 おじさんは会話の途中に息を整え、痛みを抑え、なんとか立ち上がり、壁に掛けてあった上着を無造作に取って、僅かな湯気も出なくなっていた美森の肩に掛ける。

 美森を優しく立ち上がらせて、おじさんは彼女を部屋まで送っていった。

 

「ほらはよ部屋帰れ」

 

「もう」

 

 美森は困ったように笑い、風邪を引かないようにと無言で自分に掛けられた上着の端を、愛おしそうに掴んでいた。

 

「はよ寝ろ」

 

「おじさまが私が寝るまで見守ろうとするの、久しぶりですね……」

 

「久しぶり? 須美にはよくやるが……そうか、お前は三年分覚えてるのか」

 

「怖い夢を見た時はこうしてくれたこともありましたよ。何度も、何度も」

 

「そうか」

 

「おじさまが私に催眠かけて寝かせてきた時もありました。ふふっ」

 

「楽だからな」

 

「子守唄を歌ってくれたことも、ありましたね」

 

「小生が? んなバカな。小生は歌が下手だから人前で歌わないと決めてたが」

 

「……ふふっ。そういえばその時も、そんなこと言ってましたね……」

 

「……小生はそんなにお前に弱みを見せていたのか?」

 

「私もいっぱい、おじさまに、弱みを見せましたよ……」

 

 美森は話しながらまどろみの中に落ち、やがて眠った。

 

「みー子、ちょっといいか」

 

 返事はない。

 

「眠ったか」

 

 おじさんは背伸びをするが、傷に響いて痛みが走る。

 少し休んでから元の部屋に戻るか、と思うも、その視線は壁だけに向けられている。

 おじさんは美森の方を見ようとしなかった。

 そちらを見れば、眠りについた美森が目に入る。

 無防備な整った顔。

 はだけた胸元。

 普段の礼儀正しい姿勢や所作が隠していた、肉感的な体の各所。

 寝返りを打てば布越しの尻も見えるかもしれない。

 

 おじさんは美森の方を見ないことで、美森へ変な気持ちを抱かないようにしていた。

 セルフコントロールである。

 

「……っ」

 

「ん?」

 

 すると、美森が、何かを言い始める。

 

「……さい」

 

 上手く聞き取れず、おじさんが歩み寄り、耳を寄せる。

 

 それは寝言だった。

 

 催眠で消された記憶が、脳細胞から抽出され、口をついて出る、朝目覚めても覚えていない記憶を語る寝言だった。

 

「守れなくて、ごめんなさい……私のせいで死なせて、私が殺して、ごめんなさい……!」

 

「―――」

 

 美森は謝っていた。

 涙を流していた。

 地獄の記憶を思い出し、何度も何度も謝っていた。

 

 泣きそうになった自分を、おじさんは必死にごまかした。

 

 おじさんは、自分が死んだことはどうでもよかった。

 生きたいとは思っていたが、自分が凄惨に死ぬことは分かっていた。

 それが因果応報だと思っていた。

 だが、死んで悲しませてしまったことだけは、許せなかった。

 自分が殺されることは因果応報であると思えても、自分の死によって美森/須美が泣いてしまうことは―――絶対に、因果応報ではないと、そう思っていた。

 

 愛ゆえに死に悲しみがあるという、ごく当たり前の因果ですら受け入れられないなら、その歪みの果てに得られる結末は決まりきっているというのに。

 

「……ごめんな。

 今度はちゃんとやるから。

 失敗したら記憶も消すから。

 だから……あんま泣くなよ、笑え。笑ってるお前の方がいい顔してる」

 

 おじさんは優しく美森の頭を撫で、涙を拭い、崩れていた服の襟元を正し、掛け布団をかけ直してやり、美森の額に手を乗せる。

 

「さて、かかるかな。『どうか幸せな夢を』」

 

 美森の表情が安らぎ、涙が止まり、謝罪の言葉が止まる。

 

 やがて須美の表情が和らぎ、幸せそうな微笑みが浮かんだ。

 

 悪夢はまた見るかもしれない。だが少なくとも今は、彼女は幸せな夢の中にいる。

 

「穏やかで、安らかであれ。お前を悲しませるものから、夢の中でも、小生が守るから」

 

 夜が明けるまで、おじさんは美森に催眠をかけ続けた。

 怪我の影響でおじさんの催眠の力は回復しきっておらず、かけ続ける必要があったから。

 夜が明けた頃、美森が起きる前におじさんは部屋を去り、さあ寝ようとしたまさにその時。

 

「おじさま! いつまで寝ていらっしゃるんですか!

 早く起きてください! 家の名に恥じない起床時間を心がけてください!」

 

 須美がおじさんを起こしに、飛び込んできた。もちろんおじさんは30分と寝ていない。

 

「え~……小生悪い子なんで……早起きはしないことにしました……」

 

「ダメです! 早寝早起きが健康と長生きの秘訣です!」

 

「しょうがねぇなぁ……」

 

「はい、よくできました。おじさまが朝に居ないと、なんだか寂しいですからね」

 

「さびしんぼうかこの子は」

 

「さ、さびしんぼうじゃありません!」

 

「鷲尾須美サービしエリア……サービスエリア」

 

「大丈夫ですか? まだ寝ぼけてます?」

 

「美森が胸元開いた服着てたらもうその空間がサービスエリアだな……」

 

「おじさま! なんであの人ばっかりそういう目で見てるんですか!

 不潔です! もっと節度のあるふるまいと発言を心がけて―――」

 

 おじさんは寝ぼけまなこでふらふらしながら、朝の食事を須美と二人で、テーブルの上に並べていった。

 

「おはようございます、須美ちゃん、おじさま」

 

「おはようございます!」

 

「おっはー」

 

「「 おっはーって何……? 」」

 

「ぐおおおおおおおおおっ」

 

 東郷がよく眠れた様子で、スッキリした顔をしているのを見て、おじさんは誰にもその理由を教えぬまま、ヘタクソに微笑んでいた。

 

 

 



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催眠感度21倍

 母は優しく、父は厳しく、兄は正しい。

 そんなごく普通の一家に自分は生まれたと、彼は記憶している。

 催眠おじさんの一族。

 伝説の末裔。

 人の心を支配する人類の敵。

 社会の陰に隠れて生まれ、生き、育ち、死んでいく。

 社会の表側に生きられないということは、社会の裏側でしか生きられない人間としか繋がりを持てず、親も親戚も友人も、まともではないということだ。

 

 社会とは、それ自体が学習する巨大な生命体である。

 

 失敗や事件を糧にそれを繰り返さないように変化し、発明や生産によって成長し、際限なく大きくなっていく。

 そして社会を蝕む病によって衰え、時間経過で必ず死ぬ。

 知識と歴史を蓄積することで学習する社会は、失敗は繰り返さないように、成功は繰り返すように進化していく。

 社会とは、それ自体が学習する巨大な生命体である。

 

 銃が生まれたての頃、社会はそれの悪用に対し無力だった。

 社会が銃を学習した頃、人は銃の対抗策を生み出し、社会はある程度安定した。

 賭博が生まれたての頃、社会はそれの悪用に対し無力だった。

 社会が賭博を学習した頃、人は賭博の対抗策を生み出し、社会はある程度安定した。

 麻薬。毒薬。戦争。法の抜け道。詐欺。誘拐。搾取。

 社会が学習するたび、社会から悪は減り、一部は消えていった。

 社会とは、それ自体が悪を学習し、悪を倒す正義を構築する巨大な生命体である。

 

 だから、()()()()()()()()()()()()

 

 人間の精神操作は禁忌である。社会はそれを排斥する。

 催眠使いが犯罪を起こせば起こすほどそれは加速する。

 やがて人間は催眠対策の技術を発展させ、催眠で人の心を操れない社会が完成し、催眠は悪という概念が定着し、社会は催眠を乗り越える。

 オレオレ詐欺が滅びたようなものだ。

 

 だから、本当に悪い人間は、逃げる。

 自分が催眠の力で好き勝手できる世界に逃げる。

 おじさんが鷲尾須美の世界に来た力と同じ力を使って逃げていく。

 そして社会が催眠術師という忌むべき病原菌に対する抵抗力を身に着けた頃に、またその世界から逃げ出していくのだ。

 比喩でもなんでもない、社会を蝕み感染拡大する病原菌である。

 

 母は優しく、父は厳しく、兄は正しい。

 そんなごく普通の催眠おじさんの一家に自分は生まれたと、彼は記憶している。

 

 

 

 ―――母は優しく、失敗者のビデオを子供達によく見せていた。

 

「いい?

 これが失敗者よ。

 情に流された愚か者。

 催眠無しでも愛が生まれたと信じて解除して、復讐されたの。

 バカねえ、人間の心を操るのがそんな軽いわけないのに……

 催眠で操った心と、素のままの心が、同じなわけないのに……」

 

 何度も何度も見た。

 普通の世界で普通の子供が、ヒーロー番組や子供向け番組を見るように、何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も繰り返し見た。

 他に見るものはなかった。

 他に読むものはなかった。

 

 母親は息子に強制しなかった。

 ただ、他に選択肢を与えなかった。

 だから彼は、鷲尾須美と出会って変化した今でも、母親に強制されたとは思っていない。

 自分の意思で、それらを見続けた。

 心理学的には、"自分の意思で選んでそうした"という認識は、脳に強烈な記録を残すという。

 それこそ、人生一生ものの何かを残すというという。

 

 幼少期の憧れも、尊敬も、夢も、目標も、嫌悪も、怒りも、その他全て、ここに吸われた。

 普通の子供は、この時期悪とヒーローを見たり、真っ当な倫理観の作品を見たりして、『倫理』を学ぶ。

 この時期子供が見るものを管理するのは親の役割であり、親が子供にこの時期見せたものが、子供が一生使い続ける『倫理の礎』を形成する。

 彼の母もまた、彼の母の両親に、同じようなことをされてきた。

 

 これは先祖から子孫へ続く、一種の愛であり、とびきりの歪みと言えるもの。

 

「ほらこれは、催眠を解いたら自殺しちゃった女よ。催眠術師の方も自殺して……」

 

 母は息子に見せ続けた。

 

「これは催眠で親友になった後に解除した失敗者。ほら、腹に元親友に刺されたナイフが……」

 

 母は息子に見せ続けた。

 

「催眠を解いたら仕事の相棒に殺されちゃった女ね。絵に描いたような失敗者だわ」

 

 母は息子に見せ続けた。

 

 見せ続けた。

 

 息子が物心つく前からずっと、ずっと、ずっと。

 

「でも分かるでしょう?

 催眠を解除したらこうなるのよ、普通。

 だから永遠に催眠で操っておきなさい。

 解除しなければ皆親友で、恋人で、信頼できる仲間なんだから」

 

 母の愛は、子の心を形作る。

 

「私は催眠無しで人と繋がるなんて怖いわぁ。

 だって何も保証がないわけでしょう?

 愛は飽きたら終わるわ。

 友情は金の貸し借りで終わる。

 信頼は利害で裏切れば終わるわね。

 でも、催眠があれば永遠なのよ。

 永遠の絆なの。

 催眠がかかっている間は絶対に離れない。

 そうして初めて……人は本当の意味で、他人を信じることができるのよ」

 

 母は、催眠がかかっていない人間を、どんな人間であっても信じない人間だった。

 

「私はね、愛する息子達に、こんな絶望や悲しみを背負わせたくないの。分かるでしょう?」

 

 彼はずっと、ずっと、催眠を解除した愚かな人間が、全てを失い破滅するのを見続けた。

 

 だから、()()()

 

 "こんな愚かしい人間になってはいけないわ"という母の愛は、"悪は必ず滅びねばならない"という考えの種になった。

 

「特に■■■。

 あなたは人に期待しすぎるし信じすぎる。

 それじゃあダメよ。

 誰にも期待してはダメ。

 誰も信頼してはダメ。

 周りが自分に期待して、自分を信頼するようにしなさい。

 その上で自分は周りに何も思わないの。

 そうすれば、あなたは永遠に周囲を支配し、周囲から搾取し続けることができるからね」

 

 子を愛した母親だったのかもしれない。人類の敵にしかなれないだけで。

 

「健やかに生きなさい、■■■」

 

 母はよく笑う人だった。

 

 

 

 ―――父は厳しく、彼と相思相愛になれそうな少女をあてがった後、催眠で寝取った。

 

「いいかい、■■■。

 人を信じてはいけないよ。

 こんなにも簡単に改造できてしまうのが人の心なんだ。

 もう彼女は君のことなんて好きじゃない。

 私のことを一生愛したままだろう。

 簡単に書き換えられるものに価値はない。

 人の心もそうさ。

 価値は不変性に担保されるから、人の心は画用紙と同程度の価値と見るべきなんだよ」

 

 彼にとっては初恋だった。

 黒く長い髪の、生真面目で頑固者で、年齢不相応なくらいに体は大人っぽくて、笑うと朝顔の花のようで、真っ直ぐで不器用だからすぐ転びそうな、そんな女の子。

 互いに想いを通じあわせて、相思相愛になり、結ばれた。

 結ばれてすぐ、父親に催眠で寝取られた。

 

 それは、父の厳しい愛だった。

 どこにでもある、厳しさによって子の未来を作ろうとする愛だった。

 子供というものはいつだって、父の厳しさに何かを学び、それによって人生を生きていく力を得るものだ。

 

 彼の初恋の少女は、彼の父親に夢中になっていた。

 彼の目の前で、彼を罵倒する言葉を父親に言っていた。

 彼と父親を比べて、父親だけをあらゆる言葉で称えていた。

 彼が初恋の少女に告げた愛の言葉は、父親の前で"つまらない告白"とバカにされていた。

 

「信じるべきものは、確かなものであるべきだ。

 物理法則とかそういうものだね。

 下品かもしれないけど、金も良い。

 僕らは破れるけど契約書とかもいいね。

 僕は心配だよ、■■■。

 我が息子ながら君は不確かなものを信じすぎている。

 不確かなものを信じるというのは、裏切られるということなんだ」

 

 彼が気付いた時には既に、彼の初恋の少女は、『飽きた』と言われゴミのように捨てられてしまった後だった。

 

 この世で一番価値があると思えた初恋の女の子が、気付けばゴミになっていた経験は、間違いなく彼を歪め、強くした。

 

「勇気、友情、信頼、信念……

 全て無価値さ。

 心に価値はない。

 不確かだからね。

 人を好きになるのはやめなさい。

 そして、人に好かれるようになりなさい。

 それが支配するということなんだ。

 誰も愛さず、全人類に愛される催眠術師。それこそが究極の催眠術師なんだ」

 

 催眠無しで作った親友が、父親の催眠で心を狂わされ、自分をいじめ始めた時、これは父親の戒めなのだろうと、彼は考えた。

 命を助けた学友が、心を弄くられて豹変し、彼の顔写真をtwitterのアイコンにして未成年飲酒などのツイートをして陥れにかかってきた時、彼はそれを父の試練と考えた。

 事実そうだった。

 息子が、かつて親友だった者が心操られ敵になっても、それを倒し乗り越えたのを見て、父親は息子の頭を嬉しそうに撫でたという。

 

 自分がまた恋をすれば、父はまた同じことをするだろうと、彼は思っていた。

 

「君は出来が悪い子だったが、十分に僕の誇りの息子だ。素晴らしく成長したね」

 

 彼は人の心の強さを知る前に、千の心の弱さを知った。

 初恋を知るとほぼ同時に、その無価値さを知った。

 画用紙と同じくらい、人の心は簡単に塗り潰せてしまうことを知った。

 

 子を愛した父親だったのかもしれない。人類の敵にしかなれないだけで。

 

「君が笑って生きていくことだけを願っているよ、■■■」

 

 父は、微笑むのがヘタクソな人間だった。

 

 

 

 

 兄は正しかった。

 だから、彼と兄を除いた一族を全員殺していった。

 兄が踏み潰した両親の頭の残骸の形は、今でも彼の瞼の裏に焼き付いている。

 

「■■■」

 

 兄が彼の名を呼ぶ。

 時を止める領域に到達した彼の催眠は、もはやどんな催眠術師でも止められない。

 兄が何故自分を殺さなかったのか、彼には分からなかった。

 鷲尾須美と出会って成長と変化を遂げた今になっても、何もわからない。

 

「小生らが人に愛されることはない。心を操る以外では、絶対に」

 

 兄の言葉を、彼は今でも信じている。

 彼は子供の頃から兄のことが大好きだったから。

 一人称を勝手に真似てしまうくらいに。

 

「希望を持つな。

 期待するな。

 信じるな。

 諦めろ。

 そうすれば自分の想いに殺されない。

 諦めれば……この薄汚い遺伝子の中に生きる小生らでも、多少はマシに生きられる」

 

 兄は自分の幸せを願ってくれていたのだろうか、と彼は思う。

 

「諦めろ。誰もお前を愛さない」

 

 願ってくれていなかったんだろうな、と彼は確信を持っていた。

 

 

 

 

 

 彼は旅を始めた。

 子供の身一つ。

 千円しか入ってない財布。

 パン一個しか入っていないショルダーバッグ。

 着古した私服に、履き潰す一歩手前のスニーカー、父の形見の腕時計。

 それでも、催眠さえあれば、生きて旅を続けるには十分だった。

 

 世界を渡る旅をして、彼は徐々に気付いていく。

 自分が人の敵にしかなれないことを。

 時に優しくされ、時に拒絶され、彼は自分が悪であることをしっかりと認識していった。

 ゲスの暗黒卿に弟子入りしてからは、毎日真面目に催眠術の鍛錬もしていった。

 子供の頃の彼は、誰もが認める無垢なる邪悪であった。

 

 世界を渡る旅をして、彼は徐々に気付いていく。

 子供の頃に思っていたほど、世界は汚くなくて、人は穢れていなかった。

 父と母の言っていたことだけが全てではなかった。

 幼い頃に知った世界が全てではなかった。

 優しくしてくれた人がいた。

 親しくしてくれた人がいた。

 死んでいった人がいた。

 生きたがっている人がいた。

 彼が居たせいで不幸になった人がいて、彼のおかげで幸せになった人が居た。

 

 自分でも何故かわからないけれど、彼は人間が好きだった。なんでかはわからないけれど。

 

 彼は催眠なんて使わない人間が好きだった。なんでかはわからないけれど。

 

 他人を操らなくても心で繋がれている人間が好きだった。なんでかはわからないけれど。

 

 両親の下で生きていた時間の長さを、両親が殺されてからの時間の長さが超えた時、彼の中で何かが変わっていく予感がした。

 

 

 

 

 

 そんな人生を送ってきた彼だが、彼に人生で最も印象に残ったことを挙げさせるなら、きっとそれは鷲尾須美と出会ったことと、それからの日々を挙げるに違いない。

 他の何より、彼女が印象に残っている。

 どんな楽しい思い出よりも、彼女との記憶が輝いている。

 

 彼女はおじさんを決定的に変える言葉を言ったわけではない。

 劇的におじさんを戦って救ったわけではない。

 おじさんを一目惚れさせたわけでもない。

 そういった分かりやすいものではなかった。

 

 ただ、幸せだった。

 鷲尾須美と出会ってからずっと、おじさんは幸せだったのだ。

 幸せだから救われた。それだけ。

 全宇宙を探しても、鷲尾須美/東郷美森以上に、彼を幸せにする才能がある女は居なかった。

 

 おじさんの人生は不幸にまみれていたが、彼女と出会ったことは幸運であると、そこだけは、迷いなく言い切れる。

 

 彼女は勇者。

 勇者鷲尾須美。

 鷲尾須美は勇者である。

 『人の心に住まう魔王を倒す』。

 そして、光をもたらし、人を救う。

 それこそが勇者に選ばれる資質の正体なのではないかと―――おじさんは推測していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしておじさんは、朝の鷲尾家の会食で、戸惑っていた。

 

「は? 花粉症? 六月に?」

 

「そうなんです……くちゅん」

 

 鷲尾夫婦と須美の三人が、花粉症になっていたのである。

 

 くちゅん、ばふんっ、えふっえふっ、ふぁいふぁんっ、とくしゃみの音が三人のローテーションで絶え間なく響いていた。

 

「……そういや、管理された環境だと植物のサイクルって変わるんだっけか。

 ランダム要素がなくなったり、植物が環境に最適化するから。

 五月まで花粉出してるのがスギだから、一ヶ月くらいズレたと思えば……」

 

 おじさんの推測に、須美父が補足を入れる。

 

「いや、どうもね。大赦の実験があったらしい。

 杉が暴走して花粉を大量に出し続けてしまって、今日中に伐採するようだよ」

 

「実験~? 何やってんだ。

 というか神樹は大気管理してるんだから花粉もちゃんと除去してくれぃ」

 

「無菌室のように管理しすぎるのはいけないんだ。

 空気を綺麗にしすぎると人間の抵抗力が落ちる。

 外の世界を取り戻しても出ていけなくなってしまう。

 "空気が綺麗だ"程度に留めておかないと、よくないのさ」

 

「ほー、流石鷲尾の当主、小難しいのに分かりやすい……実験の内容はなんぞ」

 

「そこは技術部の機密なんでなんとも。ただ、『種を植える』実験らしい」

 

「種……?」

 

 後で調べてみるか、とおじさんは思案する。

 

「しっかしなー。

 親子だよな……

 花粉症って発現しやすさが遺伝すんだっけ?

 免疫関係は遺伝が強いからなあ、くしゃみしてる姿とかそっくりだ」

 

「……私達と須美は血が繋がっていないから、本物の親子ではないからね」

 

「親子だろ、偽物とかじゃねえ、正真正銘本物家族だ。ケッ、ネガティブ親子め」

 

「―――ああ、そうだね。そう扱ってくれるのは、嬉しい」

 

「この家であんたらと部外者なのは小生だけだ。そりゃ小生だけかからんわけだわさみしい」

 

「おやおや。君もちゃんと私達の家族だろうに」

 

「催眠かかってる間はな。そういうもんだ」

 

「いいや、ずっとさ」

 

 須美父が微笑んでおじさんの肩を叩くものだから、慣れない対応や感触に、おじさんはちょっと戸惑ってしまった。

 

「まあ、それはそれとして」

 

「それはそれとするんですかおじさま」

 

 花粉に苦しむ須美を見て、おじさんは拳を握る。

 

「許さねえぞ杉花粉……!

 いつもそうだ。お前らは

 『妊娠してくれれば誰でもいい』

 って気分で花粉ばら撒きやがって……!

 プールに射精おじさんより最悪だ……!

 しかもそのスギの精子が女の子に入って苦しみを生む!

 最悪だ!

 スギは人間も妊娠させようとしてんだよ!

 目や鼻に中出ししやがって……!

 コンドームも付けねえからなスギは。

 須美はテメエなんかが受粉させようと思っていい子じゃねえんだぞ……!」

 

「おじさま、スギを憎みすぎでは?」

 

「杉って要するに日本で一番人の幸福を奪ってる植物の種付けおじさんのことだからな」

 

「ええ……」

 

「杉を憎み杉なんてことはないんだ!」

 

 須美が二の句を継げようとして、特大のくしゃみが来て、目の前にいたおじさんにくしゃみの動きで頭を突っ込むようにして、思い切りくしゃみをする。

 おじさんの服の腹と自分の鼻の間に鼻水の橋が出来ているのを見て、須美は思いっきり顔を赤くして、おじさんから鼻水の橋が見えないように全力で隠した。

 

「あ、ご、ごめんなさっ」

 

「ンププププッ」

 

「わ……笑いすぎです!」

 

「笑い杉!?」

 

「違います! あ、ああ、すみません、べっちょりついちゃって」

 

「須美ません!?」

 

「動かないでください拭き取りにくいです!」

 

 結構昔に『花粉は有害な物質じゃないぞ』という催眠を体内の免疫機構に時間をかけてしっかり浸透させられた美森は、大分余裕のよっちゃんで、二人の掛け合いを見ていた。

 

「小学生の私ってこういうのによく罪悪感をごまかされてたのね……」

 

 懐かしい気持ちに浸りながら朝食を食べていた美森の箸が止まる。

 

「この卵焼き……おじさまの好みの味の……!?

 このバランスを見つけるには二年の研究が必要のはず!

 まさか須美ちゃん……私の料理の腕を見て味見して奪ったというの……!?」

 

「盗むのに一ヶ月以上かかってしまいました。ふふん」

 

「須美ちゃん……恐ろしい子!」

 

「もう三年分のアドバンテージが失われて来たんじゃないですか?」

 

「ふふ。こういうのは、私も燃えてくるわね。私も更なる進化が必要な時かしら」

 

 笑う須美。

 笑う美森。

 二人の間に嫌な感情がないため、ぶつかり合うような会話もどこか心地良い。

 おじさまは昔食うものが無かった時に作ったスギ花粉のクッキーの異様な不味さを思い出し、須美のご飯の美味さを噛み締め、自分がどれだけ幸福であるかを噛み締めていた。

 

「じゃあ小生ちょっと乃木家行ってくるから」

 

「え。そのっちに何の用なんですか?

 いえ、別にどうでもいいことですけど。

 私はそのっちもおじさまも信じてます。

 だからどうでもいいんですが、何の用なんですか?

 何の用でもどうでもいいですけど、一応聞いておきたいです」

 

「こいつかわいいな……」

 

「なっ……か、可愛いって言えばごまかせると思わないでください!」

 

 今日も鷲尾家は平和である。

 

 次の戦いが、訪れるまでは。

 

 

 



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催眠感度22倍

 おじさんはママチャリで乃木家に向かっていた。

 彼は子供の頃から「マウンテンバイクかっこいい……しゅっとしてるのと前にカゴ付いてないのがいい……」と思うタイプであった。

 が、須美を学校に送っていくにあたり、マウンテンバイクでは後ろに人を乗せられないと思い、あえてママチャリを選んで買ったという経緯があった。

 最近はママチャリの後ろに柔らかいクッションをセットし、その上に須美を乗せて爆走するというめざましい進化を見せている。

 

 乃木家に向かいながら、おじさんは考えていた。

 

■■■■■■■■■■

 

「インチキおじさんは、どうして人が信じられないのかな」

 

「催眠をかけてお人形さん遊びにしないと、他人を大切にできないのはなんでなのかな」

 

「ごめんね。

 答え難かったら答えなくていいよ。

 もちろん今すぐ答えなくてもいいの。

 私達は会う間隔が広くないから、いつでも会えるから問題ないんだぜ~!」

 

■■■■■■■■■■

 

 どう園子に教えたものかと。

 どう園子に語ったものかと。

 過去をオブラートに包み、誤魔化し、伝えるにはどうしたら良いかを考えるが、乃木園子だとさっくりと見抜かれてしまうような気もしてきてしまう。

 考えて、考えて、考えて。

 おじさんはどうごまかしてもこれ小学生に伝えるのはいかんわ、という答えに到達した。

 

「……いや子供の教育に悪いわ!」

 

 おじさんが自分の過去を語るメリットはない。意味もない。

 それで生まれるのは園子からおじさんへの理解だけだ。

 彼女からの理解を求めているわけでもない、と彼は考える。

 自分の過去を知ってほしいと思っていたわけでもない、と彼は考える。

 同情されたかったわけでもない、と彼は考える。

 

 むしろ彼は、園子に自分の過去を言ってもいいと思っていた自分の変化に戸惑っていた。

 "そんなはずはない"と思う自分が、既に自分の中に居るというのに、目を逸らしていた。

 

「そもそも小生が乃木園子に真剣に向き合う義理がねえだろ……

 そんな義理とか……

 別に……

 ……ない、無いぞ。

 あー鬱陶しい!

 何が『答え難かったら答えなくていいよ』だ!

 小学生の気遣いじゃねーんだよメスガキ!

 ガキのくせに大人気遣って逃げ道用意しやがって! 舐めてんのか!」

 

 おじさんの自転車のペダルを踏む力が強くなる。

 

 ほんわかしていて、何も考えていないように見えて、その実周りをちゃんと見ていて、周りのことばかり考えている園子を理解し、おじさんは腹が立った。

 園子は誰よりも自由だったが、自分勝手には見えない。

 それは彼女が誰よりも自由であるのに、その自由を他人のために使おうとする少女だから。

 次から次へと、子供に気を遣われている自分に腹が立っていた。

 

 けれど同時に、そんな少女が鷲尾須美や三ノ輪銀と出会い、親友の輪を作り共に戦う仲間となれたことに、"嬉しさ"を感じる想いもあった。

 

「……言えるわけねえだろ。

 小生がこの世で一番嫌いなのはな。

 悪役に実は同情できる過去がありましたー、って話なんだよ。

 それも悲しい過去に見せかけたどうでもいい話がな。

 白けるんだ、悪役を正当化させるだけの、つまんねえ話なんて……」

 

 口をついて出た言葉を振り払うように、振り切るように、おじさんは乃木家に到着した。

 

「いらっしゃ~い、お友達が家に来たの初めてだな~」

 

「小生お友達判定なの?」

 

「あれ~、お友達のインチキおじさんじゃないの~? 誰~?」

 

「先日あなたに傘をかぶせてもらった笠地蔵です。恩返しに参りました」

 

「お地蔵さんだ!」

 

「なので……笠地蔵って恩返しに来て何したんだっけ。鶴の恩返しは覚えてるんだけど」

 

「痴呆おじさん~」

 

「うるせえ! こんなググれば分かるようなこと覚えてられるか! キーッ!」

 

「きーっ!」

 

 園子に招かれ、おじさんは園子の後に続いて、広い庭に出た。

 

 立派な屋敷、広い庭、でかい石、大きな木、整った芝生、均一な砂利、池には錦鯉。

 

 現在の世界最高権力『乃木家』の家は、家も庭もちょっと引くくらいに立派だった。

 

「ちょっと引くくらいデカいな」

 

「えー、そうかな~?」

 

「普通に野球できそうなくらい広いな……時々遊びにきていい? うわっ木がデカい」

 

「いいよ~、遊びに来る人いないもんね~」

 

「いやもっとガンガン呼べよ……

 なんだこの池、プール? 上に橋がかかってない? なにこれ? お前凄いな」

 

「すごいのは私じゃなくて私の家だと思うな~」

 

「じゃあお前十分凄いんじゃねえか。

 財力は強いぞ、最強の力だ!

 財力があるという時点でお前は大分伴侶選ぶ自由度が高いんだぜ?

 昔、親に遊び形式の勉強って言われて教わったな……

 ええと……金で他人を自由にするやつで……

 気高くて男に体を許さない高学歴の金に困ってる女探して……

 1億くらいポンと積んで犬にすることで人間の誇りのゴミさの引き出し方を学ぶやつ」

 

「遊び方が酷くないかな」

 

「小生は一億なんて持ってないから一円玉を一億円に錯覚させる催眠でやってた」

 

「わぁ、違う常識に生きてる人の子供の頃の思い出話だ」

 

「……っていかんいかん、こんな話をしに来たんじゃない」

 

「んー……あ、私分かっちゃった!

 催眠で心の自由を奪うのは術師が強制してるだけ。

 だけど金に目が眩んで犬になるのは対象が自分から進んでやってる。

 超能力で操るのはつまらない。

 でも特別な力なしに他人を操るのは別の喜びがある。そういうことなんだよね?」

 

「そういうことですね~、って小生は話の軌道修正してるのに巻き戻すんじゃないよ!」

 

「やったー、大正解~!」

 

「いつの時代もこのタイプの天才が催眠おじさんを滅ぼすんだよな……こええ」

 

 おじさんは園子をやたら大きな庭石に乗せ、園子に再度催眠をかけ始めた。

 

 既存の催眠に新規催眠を追加して、園子の言動行動を長期的に誘導しようとする。

 おじさんは整合性を取る能力が高く、ヘタクソな催眠術師がやるような催眠スパゲッティコード状態になることはめったにない。

 彼がかつて催眠をかけたソシャゲ運営の女を手伝っていた時期には、新規実装システムのバグ率0%、ゲームバランス調整のための新規追加要素で不満苦情が0だったほどである。

 催眠アプリやTMNシステムなどのプログラム技術は、そこで身につけたものだった。

 

「『小生の過去はお前に教えた。割とつまらない話だった』」

 

「にゃーん」

 

「えーっとそうだな後……『園子の何気ない一言がおじさんを救いました』」

 

「くぅーん」

 

「『でもおじさんは変われないので、園子は諦めました』」

 

「さんちょ~」

 

「こいつこれで催眠本当にかかってんのか……?」

 

「私が催眠にかかるわけなんてないよ~」

 

「おっ……百点満点の解答。

 これは催眠にかかってるな……乃木のお嬢は礼儀作法しっかりしてて偉いな。いい子だ」

 

「えへへ~」

 

「どうすっかな。もっとかけるか、催眠……何かかけて欲しい催眠あるか?」

 

「私本人にそれ聞くの?」

 

「うんすまん言ってから小生もそう思ったわ」

 

 もう少し微調整した方がいいかな、とおじさんは考え始めた。

 

「んー、かけないならかけないでいいが……

 園子の場合もう少し思い通りにしないと事故みたいなことになりそうだしな……」

 

「きゃー、インチキおじさんの雌奴隷にされちゃう~」

 

「するわけな……どこで覚えた小学生!」

 

「私がネットで書いてる小説に時々来るんよ~

 そういうDMとか感想~

 文体で私が女の子だって分かっちゃうみたい~」

 

「くたばれ出会い厨。

 園子、お前のアカウント教えろや。

 代わりに全部消してお前の記憶も消しとくから。

 そうしたら最初からそんなメッセージ来てないのと同じだから。

 作者権限で感想消せなかったら運営を催眠で操って運対で感想消しておくから……」

 

「インチキおじさんはネット小説家の理想の味方だね~、甘やかしすぎじゃない?」

 

「コーヒーと同じだ、砂糖とミルクはいくら入れても良い」

 

「甘くしすぎじゃない?」

 

「小生は苦いぞ」

 

「うちのクラスの男の子の珈琲初体験と感想がおんなじだ~」

 

「……やっぱ催眠の種類増やした方がいいなこれ」

 

 行動言動の縛りを増やそうとするおじさんに、園子は頬を膨らませる。

 

「もー、インチキおじさんの過去聞かせてくれなかった分、甘く見てくれてもいいのに~」

 

「それもそうか。じゃあ……ん?」

 

 その言葉のおかしさに、おじさんはすぐに気付いた。

 

 園子の額に手を当て、頭の奥深く、詳細に至るまで精査する。

 催眠はかかっている。

 催眠への完全耐性もない。

 ただ何故か、脳の深くに、おじさんが()()()()()()()()催眠があった。

 明確化がなされていない、曖昧な干渉を意識にもたらしている催眠が、おじさんの催眠と催眠コリジョンを起こしてしまっていたらしい。

 

「……なんだこの催眠。『正直に言え』」

 

「自分でかけたんだよ~」

 

「―――」

 

 まったりと笑う園子の言葉に、全てが繋がり、おじさんは納得した。

 

「そうか、お前か」

 

「何が~?」

 

「"美森を過去に送る催眠術を使ったやつ"だ。

 ―――そうかお前、未来でもあいつの親友で居てくれてるんだな」

 

「?」

 

「小生の催眠を見て倣い、見て覚えたな?」

 

「うん!」

 

 疑問はあったのだ。

 あれだけ毎日一緒に居れば、須美や美森に催眠の才能が無いことは分かる。

 そも、美森に催眠の才能があったなら、過去に来てすぐおじさんに催眠をかけようとした可能性だってあったはずだ。

 東郷美森を過去に飛ばした催眠使いは―――別にいる。

 おじさんは薄々、その事実に気が付いていた。

 

 その答えが、今目の前にあった。

 未来で美森を希望と共に過去に送った人間が、目の前に居た。

 

「三ノ輪のお嬢が言っていた。

 園子は天才だと。

 何をやってもすぐできるようになると。

 熟睡しながら聞いた授業の内容を全部覚えていると。

 勇者で一番"できること"が多いチームのリーダーだと。

 ……三年あれば、小生でも届かなかった時の超越にまで到達できるわけか」

 

「あはは、自分が居ないところで褒められてるのって、聞いてるとなんだか照れちゃうね」

 

「お前は褒められていい。よく出来た子供は褒められて然るべきだ」

 

「えへへ」

 

 おじさんは園子が自分で自分にかけた催眠を解除し、真面目な顔で戒める。

 

「二度と独学で催眠はやるな。

 催眠は超常の力を使うものと、脳科学で認められてるものの二種類ある。

 だがな、そのどっちも人の心を壊した記録が残ってるんだ。

 独学で自分にかけるな。失敗すればお前の心は壊れ、小生でも助けられなくなる」

 

「はーい!」

 

「代わりに、お前を弟子に取ってやろう。催眠やる気があるならだが」

 

「! ホント? わーいっ!」

 

「うぇーいっ。半端な催眠が一番危ないからな。周囲にとっても当人にとっても」

 

 園子がきゃっきゃと喜び、ぴょんぴょん飛び、満面の笑みを浮かべていたが、首を傾げる。

 

「でもいいの? インチキおじさん、そういう自分と同じ存在を増やすの嫌だと思ってた」

 

「嫌だぞ。ただまあ、リスクは低い。小生より霊圧が低い者の催眠は無効化できるからな」

 

「へー」

 

「それにお前なら問題ない。お前だけしか問題ないとも言えるが」

 

「? 私の中に勇者とは違う秘めたる力が……!? やったぜー! ひゅー!」

 

「違う。

 いや違わないが。

 お前が催眠でも天才なのはそうだがそうじゃねえから。

 心だよ心。

 心にある才能だ。

 多分、須美も銀も正式な弟子に取ることはない。お前だけだ、教えてやろうと思うのは」

 

 園子は首を傾げて、どこからか取り出したぬいぐるみを抱き締める。

 

「??? インチキおじさんの言うことって、不思議系で分かりにくよね~」

 

「お前が言うのか! この天然娘!

 お前は不思議ちゃんで小生は哲学面の話してるだけだ!

 ……いや子供に伝わってないなら同じか。

 催眠の力は強大だから、人の心を狂わせる。だがお前なら心配はない」

 

「そうかな~」

 

「そうだぞ~」

 

 催眠の力は、人を奴隷にする。

 だがそれだけではない。

 力もまた、人を奴隷にするのだ。

 力を使っているつもりで、力に使われている人間は多い。

 

「酒と同じだ。

 力も酒も理性を弱める。

 理性が弱まれば横暴にも卑劣にもなる。

 だがそれをその人間の唯一の本質だとは思わん。

 情けない自分を理性で立派に取り繕うのも、人間の美徳だからだ」

 

「なるほど、なーるほど」

 

「神樹の勇者選定基準もまあ分からんでもない。

 勇者の力があったら銀行強盗する人間もいるだろうからな。

 幼い少女だけが勇者なのは……暴走の危険もあるが、一理ある。

 過去に多くの失敗者を見てきた。催眠に踊らされる失敗者だ。誰もが能力に踊らされていた」

 

「ダンサブル~?」

 

「凄くダンサブル~。

 催眠なんて使わない方が幸せだっただろうに。

 能力を使わない方がマシな人生だっただろうに。

 催眠アプリを得て調子に乗って、破滅したり死んだやつもかなり多いんだ」

 

「私はそうならないって思うの?」

 

「思う。お前は絶対にそうはならん。

 須美よりも美森よりも、お前はずっと力に溺れない。

 それが才能というものだ。それはな、望んでも得られない素晴らしい資質なんだぞ?」

 

「わぁ、褒められてる~!」

 

「そうだぞ~」

 

 おじさんの洞察力は非常に高い。

 彼は催眠の力を得て幸せになれる人間となれない人間を的確に見分けることができる。

 そういう観点で見ると、園子はびっくりするくらい安全圏の人間だった。

 精神面だけ見ればおじさんよりも優秀だった。

 

 園子は催眠に頼り切りになることもなく、催眠に依存することもなく、上手く催眠を隠し通すことができ、催眠を幸福の補助輪としてのみ使うことができる。

 心を覗いたおじさんには、それが分かった。

 

「たとえば……いや、なんでもない」

 

 おじさんは例を挙げようとして、挙げる前に思い留まり、口を閉じた。

 

「今、インチキおじさんが言いかけたことが何か聞きたいな」

 

 園子はふわふわと雲のように、華やかに花のように微笑み、言葉の続きを促す。

 

「わっしー相手には語れなくてもどうでもいい女の子相手なら言えそうじゃないかな~?」

 

「……お前、とんでもないな。

 須美のある意味逆だわ。

 こんな世界じゃなかったらお前一番才能あるわ絶対。

 幸せになる才能ってやつ。生存闘争がない世界だったらお前ちょっと強すぎる」

 

「だから『小生がなんとかしないと』って気にならないとか~?」

 

「分かってんじゃねえか」

 

「ひゃっふー! 褒められたー!」

 

「褒め……いや褒めたんだけどよォ!」

 

 おじさんは溜め息を吐き、口を開く。

 

 彼は催眠で操っている人間相手なら心を開けるがゆえに、何かあれば記憶を消せばいいという意識ゆえに、今言いかけたことを素直に口に出した。

 

「物心ついた時には、世界を巡ってた。

 親がひとところに居ようとしなかったから。

 だけど生まれてはじめて、数年同じ国に居たんだ。

 子供の頃の小生は……そこを、生まれて初めて、故郷だと思えた」

 

「故郷……私にとってのこの街みたいなものかな?」

 

「だな。

 そこで頼まれたんだ。

 『国の皆を善人にしてほしい』と。

 小生の催眠の力を頼りにされた。

 国家元首と国民の八割の賛成で、その国策は議決された」

 

「! みんないい人であってほしい……人の夢だねえ」

 

「……どう転がっても、いいことにしかならないと、信じてた」

 

「……そうならなかったの?」

 

「ん、いや、まあな。

 皆善人になったから、善人が当たり前になった。

 そしたらな、善人じゃないことが許されなくなってた。

 善人の集団の中で、相対的な善人と悪人を作るようになった。

 子供の喧嘩は非人道になった。

 家族をバカにされて怒って相手を殴ることは重犯罪になってた。

 過失で人を殺したら歴史に残る最悪の人間扱いされそうな勢いだったよ」

 

「それは……生きてるだけで息苦しそうだね」

 

「小生が走り回って何かしても無駄だった。

 崩壊も絶望も止まらなかった。

 安易な気持ちで最初に"皆幸せに"なんて願ったのが間違いだった。

 気付いてなかったんだ。子供の頃の小生は。

 幸せも善性も、自然と湧き上がるもの。

 あまりにも大きな規模でそれを強制すれば、必ずしっぺ返しが来ると」

 

 それはおじさんが弟子に伝えようとする教訓。

 催眠や洗脳で、世界を変えようとすると、必ずしっぺ返しが来るという摂理。

 

「その国ではもう、『普通の人間として生きること』が、許されないことだったんだ」

 

 ふぅー、とおじさんは深く息を吐く。

 

「『人間であること』が、罪だった。

 普通に生きることが禁忌だった。

 善人であることと他人への許しの許容値は別だった。

 漫画でも悪を倒す善人は悪を許さないだろ?

 いいよな小さな悪すら許さない世界。

 善人で在ろうとするってことは、自分の中の悪を倒すこと。

 他人を善人にしようとするってことは、他人に善を強制すること。

 そりゃいい、知らないとこでやってるならな。

 社会を善で満たすってことは、人間らしく生きることを許さないってことなんだ」

 

 須美は彼を救世主と呼んだが、彼は自分が救世主になれないことを知っている。

 

「つくづく思い知ったよ。小生は悪にしかなれん。善行が存在に合ってないんだろうな」

 

「そうかな~?」

 

「そうだぞ~」

 

 ずっと昔、彼がまだ子供だった頃に、終わった話だ。

 

「世界を良くするってのはな、許すってことだ。

 許せない社会や世界は終わる。

 そういうもんなんだよ。

 ビバ許し。

 ブリリアント許容。

 小生一人が催眠でやっても結局、急に強制された善性は世界を終わらせるのさ」

 

「インチキおじさんはわっしーが世界を滅ぼしても許しそうだもんね~」

 

「おう、許すぞ。

 あいつが何の理由もなくそうするとは思わんし……

 まあなんだ、本人がその後反省してるならいいんじゃないか? うん」

 

「あまあま~」

 

 話をしていて、園子はぴっかーんとひらめいた。

 

「あ、そっか。

 インチキおじさんがわっしー大好きな理由。

 わっしー優しいもんね。すっごく、許してくれる懐が広そう」

 

「―――」

 

「友達や家族への許してくれるパワーがすんごいんだよね、わっしー!」

 

 愛の支配の目的は、幸せになること、幸せにすること。理解し合い、許し合うこと。

 手段は、支配したいその人に、愛されること。

 東郷美森/鷲尾須美が絶対に許さなかったのは、おじさんが彼女を庇って死んだことだけだ。

 彼女は彼に対し、自分に関することだけは、もう全てを許している。

 きっと何をされても許すだろう。

 

「かもな」

 

 園子の言葉におじさんがヘタクソに微笑んで、その微笑みが少し歪んだ。

 

「全ての人を善人にして……

 その国の皆の幸福を願って……

 皆幸せになれるようにしても……人が不幸になっていくなら……

 小生が幸せにできる人間なんて……どこにもいないだろ……そりゃ……」

 

「……故郷だと、思ってたんだよね」

 

「まあしょうがねえのさ。

 これに関しちゃ全面的に小生が悪い。

 何も考えてなかった。

 何も想像できてなかった。

 世界中皆いい人なら皆幸せになれると思ってたんだ。

 小生にとっての始まりの故郷は力に酔っていた小生の自爆で滅びました、ちゃんちゃん」

 

「親は止めなかったの?」

 

「褒めてはくれたな。箔が付いたって」

 

 園子が少し、言葉に詰まった。

 

「親は悪くない。やったのは小生で、選んだのは小生だった」

 

「でもインチキおじさんが普段褒めてる親って、わっしーの四人の親だけだよね」

 

「……」

 

「複雑なんだねぇ」

 

「だからな、結構良い世界だと思うよ、この世界は」

 

 無理なくごく自然に善性を成立させるこの世界を、おじさんはそこそこ尊敬していた。

 

 たとえ、『そういう理想的な人間以外は生きていてはいけないと神々が思い力を振るった結果』だったとしても。

 

「善くあろうとすること。

 善いことをしようとすること。

 善いものを守ろうとすること。

 それが裏目に出ない人間は……きっと、善人が向いてるんだ。お前達はそのままでいい」

 

 裏目にしか出なかった男は、そう語る。

 

「みー子にはよく言ってお前達にはあんまり言ってないが。

 いいか、胸を張って生きていいんだからな。お前達は自分に恥じることをしてないんだから」

 

 おじさんが園子の頭をくしゃっと撫でる。

 園子がほわほわとした笑顔を浮かべ、彼の手を受け入れる。

 須美が何度も頭を撫でることを要求していたことで、誰の頭も撫でたことがなかったヘタクソなおじさんの手付きは、触れた者に少しの安心感を与えるくらいに慣れたものになっていた。

 

「ただ、弟子に取るのに一つ条件がある」

 

「なぁに~?」

 

「東郷美森を未来に送れ。小生が死んだ後でだ」

 

「……ん~?」

 

「お前に催眠を教える一番の理由がそれだ。

 小生が万が一死んだ時、あいつを元の時代に帰せる人間がいない。

 というか、小生が切り札使っても時間移動はできるか分からん。

 だがお前なら多分できる。

 お前に期待するのは、あいつが泣かないでいられるよう、後始末をすることだ」

 

「私、わかっちゃった」

 

「うん?」

 

「私弟子に取られるくらい気に入られてたかなー?

 って思ってたんだけど違うんだね。

 私の役目は、東郷先輩の帰り道。

 インチキおじさんの行動はやっぱりいつも、わっしーや東郷さんのためなんだね」

 

「……いくら欲しい?

 前金と成功報酬で今20万までなら払えるぞ。

 ギリギリで30万だ、これ以上は冷蔵庫に入れてやる須美の牡丹餅の予算が……」

 

「要らないよ~。なんでそこで即物的な交渉に入るの……?」

 

 財布を取り出したおじさんの手を、園子は抱きつくように抑えにかかり、苦笑した。

 

「小生の記憶は、小生が死んだと同時に皆の記憶から消えるよう時限式で仕込んだ。

 まあ、失敗することはないだろう。

 ただお前の方は少し遅れさせる。

 小生が死んで美森を未来に送ったら記憶が消えるということにしておこうか」

 

「わっしーが覚えてて悲しむのは許せなくても、私の方は消さなくていいんじゃないかな」

 

「……そ、そうか。

 まあお前が話さなければいいしな。

 うん、まあ、お前からすれば小生は友人の叔父でしかないし?

 死んでも悲しくないだろうし?

 小生の記憶残してても悲しくはないだろうし?

 園子にとって大事な人とかでもないし?

 悲しむのを防ぐために記憶を消す、なんてことしなくていいよな。ハハハ!」

 

「インチキおじさん、変なとこ打たれ弱いよ~。

 心配しなくても私もインチキおじさんが死んじゃったら悲しいから、全力で守るよー!」

 

「そ、園子……! ってそういう話じゃねえんだよ!

 小生はお前みたいな他人になんとも思われてなくてもショックねーから!」

 

「嘘つき~」

 

 無邪気を絵に描いたような笑みを浮かべていた園子の表情が、少しだけ、思慮深い淑女が思案するそれに変わった。

 

「誰にも覚えてもらえないっていうのは悲しいよ。

 おじさんはそれでいいの?

 仲良かった人のことを忘れてしまうのは悲しいよ。

 私は忘れたくないかな。

 忘れられるのも嫌。

 どんなに悲しいことでも、悲しい結末に繋がることでも……覚えておきたいかな」

 

「小生の意見は逆だ。

 辛いことなら忘れてもいいはずだ。

 それを覚えていて幸せになれないならなおさらに。

 小生が死んだら記憶を消し、小生のことは全員に忘れさせる。

 問題はない。

 過去にあった日々のことは、小生が冥土への土産にする。決して忘れない」

 

「仲良かった人に忘れられても、自分が覚えていればいいってこと?

 う~ん。

 ちょっと想像してみたけど、そうかなあ。

 たとえばわっしーが私のことを全部忘れちゃって~

 私の方がわっしーのことを全部覚えていて~

 『わっしーが幸せならそれでいい』って思えるのかな?

 私は……わかんない。

 思えるかもしれないし思えないかもしれない。おじさんは、どうなんだろうね」

 

「……」

 

「おじさんさびしんぼだから、一人で死んじゃったら悲しいんじゃない~?」

 

「ンなわけあるか」

 

「あるかも~」

 

「ないです~」

 

「ある~」

 

「ない~」

 

 気付けば両者一歩も譲らない論争は、超楽しそうな園子がきゃっきゃと笑い、園子の脇の下に腕を入れジャイアントスイングするおじさんの戦いへと発展していた。

 

 子供に対し一歩も譲らない催眠おじさんは、大人気なさ全開で、この上ないほどの邪悪と言い切っていい存在であった。

 

「ひょえ~」

 

「怖くなったらギブと言え! ンハハハハハ」

 

「た~の~し~い~ぜ~!」

 

「フン、舐めるなよ。小生はまだ三割の力しか出していない、出せば貴様はチビる!」

 

「言うなこいつ~!

 ……あ、ひらめいた!

 よーし、明日朝九時に駅前集合!

 おやつは三百円までで、わっしーも呼んできてね~」

 

「こいつこの状況から遊びの約束を……!?」

 

 唐突にねじ込まれた遊びの約束。

 

 だがそこには、乃木園子の深謀遠慮が組み上げた、綿密な計画があった……!

 

 無いかもしれない。

 

 

 



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催眠感度23倍

 おじさんは小学生組の若さを感じていた。

 

 小学生のノリに合わせきれない自分の老いを感じていた。

 

 子供のノリに合わせられるのがいい大人だと思ってはいたが、合わせきれる自信がだんだんとなくなってきた。

 

「小生、こういうこと言いたくないんだけどさ……」

 

「おじさま。

 "こういうこと言いたくない"とは言いますが、言いたいんですよね?

 言いたくなければ黙ってるはずです。

 言いたいから言うんですよね?

 でも"こういうこと言いたくないけど"と予防線を張っているのでは?

 "自分も君を責めたくないんだよ"って。

 おじさまらしくもない保身が見えます。

 もっと堂々と言い切って、堂々と言いたいことを言い切ってしまいましょう!」

 

「あ、はい。小生言いたいです」

 

「出鼻挫かれてる~」

 

「アタシは園子の出鼻をもっと挫いてほしいけどな」

 

 やたらテンションが高い須美と園子に引っ張られるようにして、放っておけないおじさんと銀がメンバーに加えられていた。

 

「じゃあ言おう。小生達本当にやるの?」

 

「やりましょう!」

「やろうぜ~!」

「まあ……アタシも須美と園子ほっとく気は無いんで……」

 

「……まあいいか」

 

「インチキおじさん、ノリが悪いぜ~」

 

「む、すまん。ノると決めた以上はノらないとな」

 

「静けさや~、岩に染み入る~?」

 

「「 乃木園子~! 」」

 

「「 イェーイ! 」」

 

「……仲良いわね、おじさまとそのっち」

 

「やめろ須美。園子とわしおじさんのこれにジェラるな。戻ってこれなくなるぞ」

 

「ジェラってないわ! 羨ましくなんて……!」

 

「はいはい」

 

 かくして、園子の思いつきに須美の発想が加わった恐るべき行軍が始まった。

 

 

 

 

 

 それは、どこにでもある光景だった。

 数人の不良が、町中でキレイな女性を囲んでいる。

 ナンパ、と言うべきか。

 不良の悪行、と言うべきか。

 彼らは全員童貞で、一人でナンパする度胸もなく、女性が心底迷惑そうな顔をしている時点で迷惑をかけるだけの大失敗になっていることにも気付いていなかった。

 

「へっへっへ、お姉さん、お茶しないぃ~」

「俺達といいことしようぜぇ~」

「へっへっへ、悪いことしないからさぁ~」

「へっへっへ……へっへっへで被りすぎだろ俺達」

 

「はぁ……最悪……誰か助けてくれないかな……」

 

 悪に囲まれた女性が心の中で助けを求めた、その時。

 

 そこに、世界を照らす催眠の光が輝いた。

 

「何奴!」

 

 不良達の声を受け止め、ロリを連れたおじさんが現れた。

 ロリの内二人は軍服を改造した異様な服を着ており、残り一人は錦の御旗を掲げ、おじさんは汚れてもいい黒いジャージを着ていた。

 

「淑女を囲み卑猥な関係を求めるその邪悪な所業、許し難し」

 

「何者だ、名を名乗れ!

 我らを伊予にその人ありと知られた不良達チーム『多魔血(タマっち)』と知っての狼藉か!」

 

「貴様らが罪を数えし後にそうしよう。まずは鎮まり、お縄につくがよい」

 

「おのれ何も知らぬオッサンと幼女風情が!

 であえであえ! かまわん、彼奴らをひとり残らず切り捨てい!」

 

「はっ!」

「承知!」

「木刀の錆にしてくれる!」

 

 ぞろぞろ現れる不良達。

 しかしおじさんとロリ達は微動だにしない。

 

「国防仮面一号、すみ助さん」

 

 黒髪の少女が頷く。

 

「国防仮面二号、カクカクそのっちさん」

 

 金髪の少女が頷く。

 

「―――こらしめてやりなさい」

 

「「 はっ 」」

 

 襲いかかる不良軍団。

 

 二人の少女は慌てず騒がず、おじさんの葵の家紋(手書き)のスマホを取り出した。

 

「ひかえいひかえい! このおじさまの催眠アプリが目に入らぬか!」

 

「「「 あへええええええええっ!! 」」」

 

「こちらにおわす御方をどなたと心得る!

 畏れ多くも先の副将軍!

 または私のおじさま、水戸光圀公にあらせられるぞ!

 おじさまの御前である、頭が高い、控えおろう!」

「ひかえおろー!」

 

 不良達が一斉に膝を折り、頭を下げた。

 

「みっ……水戸の御老公!」

「何故ここに!?」

「か、伊予二万石の我等ではお取り潰しじゃあ!」

「何故こんなことに……!」

 

「うむ。その方達の悪事の数々、小生が確かに見届けた。

 罪なき女性に迷惑をかけた罪、許し難し! 沙汰を待つがよい!」

 

「「「 は、ははーっ!! 」」」

 

 おじさんの手元から催眠波が飛び、不良達がナンパを禁止され、黒髪の少女がおじさんの前に出る。

 

「すみ助さん!」

 

「はっ! これにて、一件落着!」

 

 無言で、元気そうで可愛らしいショートの髪の子が、後ろで旗を振っていた。

 

 

 

 

 

 それは、どこにでもある光景だった。

 ガングロギャルが、コンビニで店員に詰め寄っていた。

 

「だからぁ~、うちが万引したっていう証拠どこにあんのさ~」

 

「カバンから商品出てきたでしょ、万引娘」

 

「ぐうの音も出な……うちやってないからぁ!」

 

「今認めかけてたなこいつ」

 

「あのさぁ、高いのよぉ化粧品。

 うちの家の貧乏っぷりじゃ買えないの。

 でも買えなきゃ学校でいじめられるしさぁ……」

 

「最近の学生は大変だね。でも万引きしただろお前」

 

「しーてーなーいーかーらー! キャハハハ!」

 

 万引き、と言うべきか。

 未成年者の犯罪、と言うべきか。

 万引きという名の、犯罪未満扱いされる犯罪の悪。

 

「あー傷付いた。イシャリョー払うか、見逃してくんない? 無理? だめぇ?」

 

「はぁ……最悪だ……誰か助けてくれないかな……」

 

 悪に迫られた店員が心の中で助けを求めた、その時。

 

 そこに、世界を照らす催眠の光が輝いた。

 

「何奴!」

 

 ガングロギャルの声を受け止め、ロリを連れたおじさんが現れた。

 

「店員に卑劣なる要求を行い傲慢を通さんとするその醜悪、許し難し」

 

「何者だ、名を名乗れ!

 この身は大権現様より名を携わりし者、坂田花子なるぞ!

 ちりめん問屋風情の分際で身の程を知るが良い! こうべを垂れよ!」

 

「貴様らが罪を数えし後にそうしよう。まずは鎮まり、お縄につくがよい」

 

「おのれ何も知らぬオッサンと幼女風情が!

 であえであえ! かまわん、彼奴らをひとり残らず切り捨てい!」

 

「はっ!」

「承知!」

「付け爪の錆にしてくれる!」

 

 ぞろぞろ現れるガングロギャル達。

 しかしおじさんとロリ達は微動だにしない。

 

「すみ助さん、カクカクそのっちさん―――こらしめてやりなさい」

 

「「 はっ 」」

 

 襲いかかるガングロギャル軍団。

 

 二人の少女は慌てず騒がず、おじさんの葵の家紋(手書き)のスマホを取り出した。

 

「ひかえいひかえい! このおじさまの催眠アプリが目に入らぬか!」

 

「「「 んほおおおおおおおおおっ!! 」」」

 

「こちらにおわす御方をどなたと心得る!

 畏れ多くも先の副将軍!

 または私のおじさま、水戸光圀公にあらせられるぞ!

 おじさまの御前である、頭が高い、控えおろう!」

「ひかえおろー!」

 

 ガングロギャル達が一斉に膝を折り、頭を下げた。

 

「みっ……水戸の権中納言様!」

「何故ここに!?」

「と、土佐二万石の我等ではお取り潰しじゃあ!」

「何故こんなことに……!」

 

「うむ。その方達の悪事の数々、小生が確かに見届けた。

 罪なき店員に迷惑をかけた罪、許し難し! 沙汰を待つがよい!」

 

「「「 は、ははーっ!! 」」」

 

 おじさんの手元から催眠波が飛び、ガングロギャル達が万引きを禁止され、金髪の少女がおじさんの前に出る。

 

「カクっち!」

 

「はっ! これにて、一件落着!」

 

 無言で、元気そうで可愛らしいショートの髪の子が、後ろで旗を振っていた。

 

 

 

 

 

 それは、どこにでもある光景だった。

 野良犬が、スーツを着たサラリーマン風の男に噛みつこうとしていた。

 

「ひぃぃぃ」

 

「ワン! ワン! ワン!」

 

 鋭い牙。逞しい体。野犬の牙はサラリーマンの喉を噛みちぎってあまりある。

 

「た……助けてたも~(おじゃる丸化)」

 

 サラリーマンが心の中で助けを求めた、その時。

 

 そこに、世界を照らす催眠の光が輝いた。

 

「何奴!」

 

 犬が叫び、ロリを連れたおじさんが現れた。

 

「出会ってすぐの者に牙を剥くその獣の如き性情、許し難し」

 

「何者だ、名を名乗れ!

 麻呂は恐れ多くも帝に官位を賜りし藤原少納言!

 浪人風情が参内を許された我になんたる悪口雑言! 首を出せい!」

 

「貴様らが罪を数えし後にそうしよう。まずは鎮まり、お縄につくがよい」

 

「おのれ何も知らぬオッサンと幼女風情が!

 であえであえ! かまわん、彼奴らをひとり残らず切り捨てい!」

 

「ワン!」

「ワン!」

「オォン! アォン!! アオォン!」

 

 ぞろぞろ現れる野良犬達。

 しかしおじさんとロリ達は微動だにしない。

 

「すみ助さん、カクカクそのっちさん―――こらしめてやりなさい」

 

「「 はっ 」」

 

 襲いかかる野良犬軍団。

 

 二人の少女は慌てず騒がず、おじさんの葵の家紋(手書き)のスマホを取り出した。

 

「ひかえいひかえい! このおじさまの催眠アプリが目に入らぬか!」

 

「「「 アオオオオオオオオオオオンッ!! 」」」

 

「こちらにおわす御方をどなたと心得る!

 畏れ多くも先の副将軍!

 または私のおじさま、水戸光圀公にあらせられるぞ!

 おじさまの御前である、頭が高い、控えおろう!」

「ひかえおろー!」

 

 野良犬達が一斉に膝を折り、頭を下げた。

 

「みっ……水戸の、黄門……!」

「何故ここに!?」

「あ、阿波二万石の我等ではお取り潰しじゃあ!」

「何故こんなことに……!」

 

「うむ。その方達の悪事の数々、小生が確かに見届けた。

 罪なき通行人に迷惑をかけた罪、許し難し! 沙汰を待つがよい!」

 

「「「 は、ははーっ!! 」」」

 

 おじさんの手元から催眠波が飛び、最近四国で問題になっていた野良犬の増加問題が解決され、黒髪の少女がおじさんの前に出る。

 

「すみ助さん!」

 

「はっ! これにて、一件落着!」

 

 無言で、元気そうで可愛らしいショートの髪の子が、後ろで旗を振っていた。

 

 

 

 

 

 流れるように敵の襲撃が始まる。

 其はバーテックス。

 生態系の頂点(バーテックス)

 おじさんの出現により、バーテックスは未知なる敵に対し、新たな戦術を選択した。

 

 神世紀時代のバーテックスの基本戦術である大型運用を一度止め、西暦時代のバーテックスの戦術である小型の投入により、人類側戦術の分析を試みたのである。

 いわば斥候。

 いわば生贄。

 いわば捨石。

 小型を使いおじさんや、洗脳された射手座、未来式の勇者システムを徐々に現代式に降ろしている東郷など、バーテックスは不確定要素への学習を始めた。

 

 迫るは"星屑"。千に届く白色の群れ。

 

 バーテックスと戦うべく、世界が樹海に飲み込まれた、その時。

 

 そこに、世界を照らす催眠の光が輝いた。

 

「何奴!」

 

 バーテックス・星屑の声を受け止め、ロリを連れたおじさんが現れた。

 

「人類に仇なし平和を奪う鬼畜の所業、許し難し」

 

「何者だ、名を名乗れ!

 この身は天孫降臨より179万2470余年、東征の時代よりの天使である!

 天津彦彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合尊より任を受けし者!

 徳川の生温い太平に浸かりしちりめん問屋風情が口応えしていい存在ではない!」

 

「貴様らが罪を数えし後にそうしよう。まずは鎮まり、お縄につくがよい」

 

「おのれ何も知らんオッサンと幼女風情が!

 であえであえ! かまわん、彼奴らをひとり残らず切り捨てい!」

 

「はっ!」

「承知!」

「天に坐す天照大神への捧げものとしてくれる!」

 

 ぞろぞろ現れる小型バーテックス達。

 しかしおじさんとロリ達は微動だにしない。

 

「すみ助さん、カクカクそのっちさん―――こらしめてやりなさい」

 

「「 はっ 」」

 

 襲いかかるバーテックス軍団。

 

 二人の少女は慌てず騒がず、おじさんの葵の家紋(手書き)のスマホを取り出した。

 

「ひかえいひかえい! このおじさまの催眠アプリが目に入らぬか!」

 

「「「 いぐうううううううううッ!! 」」」

 

「こちらにおわす御方をどなたと心得る!

 畏れ多くも先の副将軍!

 または私のおじさま、水戸光圀公にあらせられるぞ!

 おじさまの御前である、頭が高い、控えおろう!」

「ひかえおろー!」

 

 バーテックス達が一斉に膝を折り、頭を下げた。

 

「みっ……水戸の御大老!」

「何故ここに!?」

「お、讃岐二万石の我等ではお取り潰しじゃあ!」

「何故こんなことに……!」

 

「うむ。その方達の悪事の数々、小生が確かに見届けた。

 今の時代の罪なき人類に迷惑をかけた罪、許し難し! 沙汰を待つがよい!」

 

「「「 は、ははーっ!! 」」」

 

 おじさんの手元から催眠波が飛び、動きが止まったバーテックス達がヒュプノ・バーテックスに捕食され、ヒュプノ・バーテックスがおじさんの前に出る。

 

「ヒュプノ!」

 

「はっ! これにて、一件落着!」

 

「プーさん喋れるようになったの!?」

 

 めっちゃ驚いた様子の元気そうで可愛らしいショートの髪の子が、後ろで旗を振っていた。

 

 

 



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催眠感度24倍

 園子がありのままの自分で話し、おじさんが大人らしくもなく――あるいは誰より大人らしく――園子の会話に合わせ、須美がそこにツッコミを入れている。

 襲撃してきたバーテックスをむしゃむしゃ食べているヒュプノを横目で見ながら、銀は樹海に腰を降ろして須美達の漫才を眺めていた。

 

「園子とわしおじさんが絡むと須美のツッコミが過労死しそうだな……

 いやあれは園子とわしおじさんが須美に構ってほしいのか……漫画の主人公かよ須美」

 

 銀は、戦闘となれば先陣を切り二人を引っ張って行っている自覚がある。

 銀が見る限り、このチームのリーダーは園子以外になく、園子は実際にリーダーとして自由奔放ながらもよくやっている。

 だがそれでも、銀に皆の中心を聞けば、それは須美だと答えるだろう。

 一番勇気のある銀でもなく、一番リーダー適性のある園子でもなく、一番頑張っている須美が中心にいるからこそ、このチームは上手く回っている。

 

 銀は普段根を詰めて真面目に必死に訓練をしている須美が、自分の前や、園子の前や、おじさんの前で肩の力を抜いている姿が好きだった。

 ちょうど、今の彼女のように。

 そんな銀の横に、ヒュプノが30mほどの巨体を降ろした。

 

「ちょい、いいでっかー」

 

「わああああ!? ってプーさんか……いや冷静に考えると絵面おかしいなこれ」

 

「驚かせてえろうすんまへん」

 

「な、何故関西弁……? バーテックスは旧世紀の大阪が生み出していた……?」

 

「御主人様にスマホもろて昔の漫才とか見て覚えたんやで」

 

「どういう言語習得だよ……

 あ、でも、なんか前に園子が言ってたな。

 乃木家の文献にはそういう経緯で関西弁になってた巫女が居たって」

 

「ほー、ほんまでっか! そういう人間もおるんやなあ。なんか親近感湧きますわ」

 

「え? ってか結界の外まで電波届いてるんだ」

 

「せやなぁ。あ、ワテWi-Fiタダ乗りはしてへんで!

 分かる、みなまで言わんといて!

 ワテバーテックスやからな、悪いことしてるやろと思うのが自然や。

 しかしなぁ、ワテは御主人様の催眠で知性まで与えられて生まれ変わったんやで!」

 

「疑ってるわけないだろそんなみみっちぃ悪行!」

 

 勇者がほぼ何もせずバーテックスがバーテックスを倒すという異常事態であるからか、今回の樹海化の解除は微妙に遅かった。

 銀が女の子らしくないあぐらをかき、ヒュプノが樹海に設置して、人間とバーテックスがサシで向き合い語り合うという奇妙な状況が出来ていた。

 

「というかバーテックスの後ろから来たな、プーさん……」

 

「前から勇者と御主人様。

 後ろからワテ。

 そうして挟み撃ちにしたら殲滅楽やろ?

 バーテックスは攻撃方向正面だけってのが多いさかい。

 ワテの方を脅威に見て後ろ向いたら大体ただの的やで」

 

「橋の上に限定された戦場をめっちゃ活用してる……」

 

「あ、御主人様に"いけそうや"って伝えといてくれへん? 今話中みたいやし」

 

「他人のが他の人と話してるから話に入るの気が引けるバーテックス初めて見た」

 

「須美ちゃんはワテの推しやからな……邪魔しとうない」

 

「推しを語るバーテックス初めて見たよアタシ。何がいけそうなのさ」

 

「壁の外のバーテックスの継続的排除」

 

「!?」

 

 銀は思わず、ぎょっとした。

 

「いやな、御主人様前から考えとったらしいで。

 バーテックスって進化するやん。

 でも防衛側もバーテックスなら?

 敵も味方も進化してくやろ。

 そしたら永遠に防衛突破されないやんけ!

 うはは、御主人様が催眠洗脳で味方のバーテックス増やしていけばもっとイケるで?」

 

「ぎゃ、逆転の発想だ……」

 

「最近小型は定期的に掃除してたねん、ワテ。

 バーテックスは小型の集合体やろ?

 食えば食うほどパワーアップや!

 一番強い獅子座より強くなったんで明日から本番や。

 まず大型一掃! あるいは手駒増やし! 御主人様の傷の治りも見て臨機応変にやるで」

 

「わしおじさん、人が見えないとこで色々やってるんだなぁ。

 隠し事であんま信用されないタイプに見えるからちょっと心配になってきた」

 

「せやな。ま、御主人様はこれで安泰とは思ってないみたいやけど……」

 

「え、なんで?」

 

「知らへん。聞いとらんから。ワテは自分の役割を果たすだけやで」

 

 ヒュプノは30mの巨体をのっそりと樹海に横たえ、寝っ転がりながら話している。

 

 銀は言いようのない感情を形容し難い表情で表現し、されど少し考えた後に、はっとして元気よく口を開いた。

 

「あ、そうだ、ちゃんと言わないとな。アタシの家族の分まで」

 

「なんやなんや?」

 

「ありがとう! アタシ達の世界を守ってくれて!」

 

 ヒュプノはきょとんとして――バーテックスに表情は無いが銀にはそうだと分かった――、何やらおかしくて笑い始める。

 

「……うはははは! ワテ歴史上初めて人間に感謝されたバーテックスやないやろか!」

 

「かもなあ。アタシ達バーテックスは全て人類の敵だって教わってたしね」

 

「いやいや、どいたしまして! うちの御主人様よろしゅうな!」

 

「あの人は須美一人で十分じゃね? うんまあ、よろしくされとくよ。へへっ」

 

「普段会話相手が御主人様しかおらへんから、もうちょっと話……」

 

 樹海の解除が始まった。

 

 バーテックスは弾き出される。

 

 敵のバーテックスがいれば神樹は樹海を解除しないが、樹海を解除すれば素直に出ていく味方のバーテックスしかいない以上、神樹が樹海の解除を躊躇う理由はなかった。

 

「ああ、待って! 待ってー! もうちょい話す時間くだせーな!」

 

「あ、後で話すから!」

 

「ホンマ!?」

 

「ホンマホンマ!」

 

「夜八時くらいに電話かけても怒らん!?」

 

「面倒臭い時の須美かお前は! いーよ好きにかけて!」

 

「おーきに! ひゃー、初めてのガールズトークや!」

 

「一人称ワテなのに女の子なの!?」

 

 ヒュプノが樹海から急いで自ら退出していくのを見送って、銀が仲間の方を向く。

 

「どうだみー子。小生の肩車の上の景色は」

 

「視点がすっごく高いですね! 樹海が遠くまで見渡せて、ちょっと違う世界みたいです!」

 

「次私ね~!」

 

「一体どういう流れでそうなったんだ? ん?」

 

 最初の頃は"神聖なお役目を真面目にやりなさい!"と言っていた須美が、戦闘が終わったとはいえ樹海でここまで肩の力の抜けた姿を見せていることに、銀は思わず笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 水戸黄門世直しが始まり、ある程度日数が経った。

 おじさん、須美、銀、園子の世直しは止まらない。

 もはや誰にも止められない四国の暴走特急と化していた。

 

 コンビニで買ったおにぎり(おじさんの奢り)を公園のベンチで四人並び、しゃもしゃ食べていると、ふとおじさんは自分が老人扱いだったことに落ち込み始めた。

 

「小生おじいちゃんか……いやまあ小学生から見ればおじいちゃんだな」

 

「大丈夫ですおじさま! おじさまは私のお兄さんと言っても通ります!」

 

「絶対通らねえよ」

 

 須美が持ってきたお~いお茶(脱水症状対策)を四人並びごくごく飲んで、公園を眺め、ぼけーっとしながら四人で公園を眺める。

 おじさんは公園の美人を眺めて採点し、須美が頻繁に話しかけてそれを邪魔し、園子は蝶を楽しそうに目で追って、銀はベンチに背中を預けて"幸せ"を噛み締めていた。

 

「小生焼き明太子めっちゃ好きなんだよな……バリバリ美味くてバリ幸福感」

 

「あ、それなら今度私がおじさまのお昼用に作っておきますね」

 

「お、マジ? お前本当良妻力高いな」

 

「……ん、んんっ、当然です。この高菜おにぎりもいいですよ。おじさま」

 

「隙あらば健康に良さそうなものをねじ込んでくるロリ」

 

「アタシは冒険する気がないからシャケで良いなー。うまうま」

 

「私はこのアルファエッジベータスマッシュガンマフューチャー味にして正解だったよ~?」

 

「めっちゃ冒険してる」

「そのっち……」

「何味だよ!?」

 

 おじさんがちょっと水道に手を洗いに行くと、園子がとてとてとついてくる。

 

「水戸~?」

 

「水道だよ」

 

「水の戸ってことは水戸黄門様って蛇口の偉い人だったのかもね~?」

 

「かもな~」

 

「かもだよ~」

 

「……。水戸黄門して何が変わるんだ?」

 

「インチキおじさんの人生が変わるんだよ~!」

 

「変わる? 変わるか? 変わんなくないか?

 小生人助けは割としたことあるが、人生変わった気はしないんだが」

 

「そうかな?」

 

「悪党側ってのは生まれた時から悪党側ってもんだ。

 善行ちょっとしたくらいじゃ何も変わらん。するだけ無駄な気もする」

 

 おじさんは水道近くのゴミ箱を見て、ゴミ箱の中ではなくその周りにゴミを捨てていくタチの悪い人間が残していったゴミを見て、それを拾ってゴミ箱に入れていく。

 園子は、須美が"おじさまは悪ぶるの"と言っていたのを思い出して、曖昧な表情で頬を掻いた。

 

「第一な。話しただろ?

 世界中善人にしようとしたって、何もかも終わるだけだ」

 

「水戸黄門は世界を変えないんだよ。

 目についた人を助けて回るだけ。

 世界は何も変わらないけど、人は幸せになるの」

 

「……なるほど」

 

「『社会を思い通りにすること』。

 『困ってる人を助けて回ること』。

 これは全然違うと思うんだ。

 だって困ってる人を見捨てないことは、ただ優しいだけなんだから」

 

 おじさんはかつて催眠術で国一つ幸せにしようとし、間違った。

 だが園子はそういう間違いをしない。

 それはきっと、親が『正解』を教えてくれたか、教えてくれなかったかの差。

 

「水戸黄門は外野から来て救っていく人だと思ったから、おじさんにぴったりなんだぜー!」

 

「正義の味方の時点で全然ぴったりじゃねーんだよ!」

 

 『今のこいつの顔とポーズ"○><"の三文字で表せそうだな……』と、おじさんは思った。

 

「それにね、一番大事なことがあるんだよ~」

 

「ほー? なんだよそれ。小生に教えてみろ~」

 

「大丈夫だよ、インチキおじさんならすぐわかることだよ~」

 

「分かんないかもしれないだろ~口で言えメスガキ~」

 

「インチキおじさんは歳の分だけひねくれてるから言葉で伝えるとダメなの~」

 

「ぐうの音も出ねえこと言いやがって~」

 

 こそこそと二人について来ていた須美が、そこで会話に割って入った。

 須美は興奮していた。

 今の水戸黄門の流れに普通に興奮していた。

 彼女はまだ小学生で、小さい頃の夢はお国を守る美少女戦士である。

 

「おじさま! 正義の味方として世直しとかドキドキしますね!」

 

「え、あ、うん、そっすね」

 

「この愛すべき国も犯罪というものはなくなりません!

 それは本来勇者ではなく警察が倒すべき悪!

 ですがおじさまのおかげで、私達にもできることがある!

 小さなことからコツコツと!

 綺麗な庭を作るコツをご存知ですか?

 手で小さな雑草を丁寧に抜いていくことです!

 大雑把な処理をしてはダメなんです! おじさまはいつだって正解の人ですね!」

 

「え、ああ、まあ、うん」

 

「……もしかして、そのっちや私に巻き込まれただけだから、もうやめたいとか……?」

 

「ああいや、楽しいぞ。結構楽しい。助けてお礼言われると嬉しいしな?」

 

「そうですよね! 感謝されることはいいことです。正しいことをできてる気がしますから」

 

 ほっとした様子の須美。取り繕うおじさん。園子がそれを、温かい目で見ていた。

 

「なんだその目は」

 

「べっつに~?」

 

「言いたいことがあるならいえよ、あぁん?」

 

「催眠で言わせてみればいいんじゃないかな。どうぞ~?」

 

「お前初めて会った頃より大分図太くなってきてねえか?」

 

「おじさま! なんでそんなにそのっちと仲良さそうにしてるんですか!」

 

「してねえんだよッ!! 園子が言いたいこと言わねえなら小生が言うけどな!」

 

 おじさんはちょっとキレた。

 

「第一なーにが水戸黄門だ!

 悪とも言えねえ悪ばっかじゃねえか!

 やさぐれ学生レベルの悪しかいねえしよ!

 何だこの世界!

 善性の平均値が高いわ!

 悪が居ねえ!

 居ねえんだよ!

 要らないだろ水戸黄門!

 あのね!?

 悪が居ないなら水戸黄門なんて要らねえの!

 分かれ!

 正義の味方が社会に必要なのは荒れた社会だけなの!

 平和!

 平和で十分健全だろうがよォこの社会はよォ!

 そりゃ犯罪0じゃねえだろうけどさ!

 全員の良識と警察の働きで平和ならもう十分!

 十分良い社会なんだよ!

 そんな世界で水戸黄門しても遊び歩いてるだけだろうが!

 遊んでるだけ!

 そりゃまあ楽しいけどこれは正義じゃなくて遊びだろうがァ!

 反論したけりゃ悪見つけてこいや! 水戸黄門が必要になるレベルのガチ悪を!」

 

「おーい! 大変だ大変!

 あ、ここに全員居たか! 聞いてくれ!

 今アタシに連絡来たんだけど、うちの学校の生徒で親から虐待されてる子がいるんだって!」

 

「見つかったァー!!!」

 

「インチキおじさんおもしろい~!」

 

「小生が乃木園子より面白い人間なわけねーだろうが!」

 

「おじさま、お茶です。落ち着いてください」

 

「ゴキュゴキュゴキュゴキュゴキュゴホゴホッゲホッガハッ!!」

 

「あ、むせた」

 

 須美がお茶でむせたおじさんに歩み寄り、優しく背中をさすり始めた。

 なんとまさかの虐待事案。

 さてどうするかとおじさんは悩む。

 少し気が引ける理由があって、彼は考える。

 頭に結構血が登っていたが須美のお茶、むせこみ、そして須美に背中をさすってもらったことで大分気分が落ち着いてきていた。

 

「須美……お前だけが癒やしだ……」

 

「な、何急に言ってるんですか、もう」

 

 その時、おじさんのスマホが震える。

 表示されていた文字列は『ヒュプノ・バーテックス』。

 おじさんのスマホの一つをヒュプノの頭部に埋め込むことで、ヒュプノは人間のようにスマホを使い、四国内部の電子的なネットワークを人間と同等に使うことができていた。

 四国のスマホでできることは、大体ヒュプノにもできる。

 スマホ自体の充電などの問題も、ヒュプノが身体を組み替えればあっさり解決可能だ。

 

 おじさんのスマホにヒュプノのスマホから連絡が入って来たということは、ヒュプノがよほどの緊急事態だと判断したということだ。

 元大型バーテックス・サジタリウスにとっての緊急事態。

 それは間違いなく最終決戦に繋がる報告であると、おじさんは判断していた。

 

「なんだヒュプノ。状況が変わったか? 天の神は……」

 

『御主人様が登録しとる有料動画配信サイトあるやないですか。

 御主人様のアカウント借りて利用しとるやつ。

 この配信サイトやと見れない仮面ライダーあるんやけど、どないすれば見れます?』

 

「殺すぞ」

 

『ひぇぇ~御主人様に殺されてしまいますぅ~』

 

「てめっ……このっ……! 結界外の大型全部片付けたんだろうなァ!」

 

『はい』

 

「嘘だろ?」

 

『それで……ワテが結界外で大活躍してる間、御主人様は何をしておられたんです?』

 

「……」

 

『きっと水戸黄門的なことで大活躍してたんやろなぁ』

 

「腹立つゥー! クソが! 行くぞ須美、銀、園子! 世直しだ! 結果出すぞ!」

 

 先程よりも遥かにキレたおじさんが歩き出し、水戸黄門様のお供がその後に続いた。

 

 世直しである。

 

 

 



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催眠感度25倍

 その虐待が行われてるという家は、数年前に香川に引っ越してきている、という話だった。

 神樹館からもそう遠くはない位置にあり、車で行けばすぐの場所にあった。

 

 虐待が行われているという家の表札を見て、須美は「徳島に多く見る名字だ」と判断した。

 彼女には知識があったから。

 須美は気合いを入れ直す。

 

 銀は家を見て、普通の家だなあと思った。

 虐待が行われている家は普通の家じゃない、というイメージがあったから。

 銀は本当に虐待があるのか、少し疑問を持ち始めていた。

 

 園子は徳島出身の少女が何故か香川の神樹館に入れられていることに違和感を持った。

 そういう不自然な少女の移動は、大体"勇者適性がある少女のストック"だと、園子は的確に推察していた。

 彼女には知識も判断力もあったから。

 そして、鷲尾須美という、勇者にするために名前を変え引っ越しもさせられた少女が、神樹館に移籍させられたことを、この案件と繋げられる発想力があったから。

 園子はいつものようにほんわかと微笑んでいる。

 

 そしておじさんは、足が止まっていた。

 

「おじさま?」

 

 須美が振り返り、足を止めたおじさんを見る。

 

 おじさんは表情を取り繕い、須美がその取り繕った表情を見つめる。

 

 酷い顔だと、少女は思った。

 

「やめとくか。帰ろうぜ」

 

「え? どうしたんですか? 体調不良ですか?」

 

「いや」

 

 銀は何故か、おじさんと須美の会話に既視感を覚える。

 そして記憶を探り、何と今のおじさんが重なったかを探り、既視感の正体に気付いて驚いた。

 今のおじさんは、注射が怖くて学校に行きたくなくて駄々をこねている、銀の記憶の中の幼い弟とどこか似た雰囲気をまとっていた。

 

 "子供のような剥き出しの恐れ"を見せる、普段は頼りがいのある大人の姿に、銀は驚きと戸惑いで半々の心境となった。

 

「親の心を壊すか。

 親と引き離すか。

 どっちにしろ、親は居なくなるんだな、って思うとな」

 

「……そのままの親だと虐待は続きますし、そうしないといけないと思います」

 

「正しい。須美、お前が正しいぞ。間違ってるのは小生だねぇ。けど、な」

 

 園子は笑顔を浮かべるのをやめ、真剣な表情で、真剣な気持ちで、おじさんの心から絞り出された心からの言葉を、一人の人間として受け止めている。

 

「小生の親は一般的には真っ当じゃなかったが、死んだら悲しかった。

 兄は……どうだったのかね。悲しかったんだろうか。

 どんな親でも、いなくなったら、なんだろうな……虚しくなるんだ。

 悲しくなるかは人による。ただ何か、自分の中で何かが欠けるんだ、親を失うと」

 

 おじさんの言葉に合理性はない。

 正しさもない。

 妥当ですらない。

 ただの感情だ。

 無根拠の感情論だ。

 何一つ救えないし優しさも何もない。

 ただ自分の経験とトラウマから、足踏みしているだけ。

 

 だがそれだけに、彼の剥き出しの感情が込められた言葉は、少女らの心を揺らした。

 

「いいのか小生は。やっていいのか。

 捻じ曲げて良いのか、これを。

 引き裂いていいのか親を。

 否定していいのか親を。

 歪んでてもそのままにしておいたほうがいいんじゃないか。

 催眠なんかで生み出されてない普通の親子なのに。

 ……何悩んでるんだろうな小生は。パパっとやっちまえばいいって、分かるんだがよ」

 

 虐待されている子供と自分を重ね、虐待している親を見て己の親と重ね、自分が催眠を掛けて親子を引き離すことを、兄が催眠を駆使して親を殺した時と重ねる。

 半ば病気に近い、トラウマの想起であった。

 言動も支離滅裂になり始めていて、彼の精神状態が窺える。

 

 この世界に来る前の彼なら、動じなかっただろうか。

 親が死ぬ前の彼なら、この家に催眠で手を入れることに、迷いはなかっただろうか。

 鷲尾家という『暖かな家庭』に何ヶ月も浸かる前の彼なら、止まらなかっただろうか。

 何も思い出していなければ、あるいは。別の可能性があっただろうか。

 彼自身にも、もう分かってはいない。

 

 須美は何の事情も知らなかった。

 おじさんの過去については、ひょっとすれば園子より知らないかもしれない。

 だから、おじさんの過去を知った上で上手いことを言うことなんてできない。

 

 彼女はいつでも、何も知らないままに、彼にとっての光で在る。

 

「おじさま、私を信じて、一つだけ、してくださいませんか」

 

「何をだ」

 

「『助けてほしいか』って、虐待されてる子供から、催眠で本音を聞き出すことです」

 

「……」

 

「助けてほしいのか、今のままでいいのか。

 その子供の意思だけはせめて聞いてからじゃないと、何も決められないと思うんです」

 

 須美は服の胸元を掴んで、おじさんの目をしっかりと見て、自分の意見を述べる。

 

 おじさんと須美には身長差があって、二人が互いの目を見るといつも、おじさんは俯くような姿勢に、須美は見上げるような姿勢になる。

 須美から彼への憧れと、俯きがちな彼の本質を、示すように。

 

 こうして話していると、おじさんはいつも小ささを感じる。

 須美の体の小ささと、自分の心の小ささを。

 守らなければ、という気持ちと、救われている、という気持ちは、いつも彼の中にある。

 彼女は彼よりも小さくて、彼よりも大きいから。

 

「もしも助けを求めている子がいるなら、私はその子を放っておきたくないです」

 

 須美の瞳の奥に、強い意志が見える。

 

 人を助けることに理由が無いと動けない大人と、人を助けることに理由を求めない子供の、どちらが正しいのだろうか。

 

「意思が確認できたら、おじさまは何もしなくていいですよ。

 私達にどーんと任せておいてください。大丈夫です、私達、勇者ですから」

 

「何?」

 

「おじさまがしたくないこと、無理にさせられません。させたくないんです」

 

「……」

 

「おじさまはいつも、私が本気でやりたくないことは、無理にさせませんからね」

 

「小生、は……」

 

「たとえば私が勇者やりたくない、なんて言ったら……

 おじさまはきっと、命を懸けてでも、私がそうなれるようにしてくれそうですもんね」

 

「……馬鹿野郎」

 

「嘘ですね。おじさまが私のことを馬鹿だなんて全然思ってないので、ノーダメージです」

 

 ふふん、と須美が鼻を鳴らす。

 真っ直ぐな須美の視線に、おじさんは目を逸したくなるが、絶対に逸してはならないという強い意志で、須美の瞳を見つめ続ける。

 

「絶対に間違ってないとは言えないかもしれません。

 私はしょっちゅう間違えます。

 視野も狭くて思い込みも激しくて……

 大失敗をしてから、後悔することばっかりです。

 でも、それでも!

 辛い想いをしている人を助けることは正しいって、私は信じてます!」

 

 須美を見ていると、おじさんは思うのだ。

 彼女はいつも、転びながら何度でも立ち上がり、前に進む走り方を学んでいるのだと。

 自分はずっと、転ばない歩き方を学んできたのだと。

 転ばないよう歩いている自分より、転んでも立ち上がりながら走り続ける彼女の方が、ずっとずっと尊く見えて、胸の奥が苦しくなっていく。

 

「辛い今を抜け出す権利も。

 助けられた後、どうするかの権利も。

 親と一緒に居るか、別の道を行くかを選ぶ権利も。

 今その子が持ってないかもしれない『自由』を、おじさまならあげられるかもしれない」

 

「オイオイオイ。自由を奪って支配する小生に? 自由を与えろってか?」

 

「はい」

 

「……即座に言い切るんじゃねえよ」

 

「自由だけじゃなくて、未来もあげてください。おじさまなら、簡単ですよ」

 

「簡単とかまた気楽に言い切りやがって、クソ」

 

「信じてますから」

 

「……」

 

「そして、信じてもらいたいんです、私を。

 おじさまがしてくれるなら、私はもっとおじさまを信じられる。

 おじさまが私に任せてくれれば、私はもっとおじさまに信じてもらえる。

 そして助けを求めているかもしれない子は助かる。理論上完璧な考えだと思いませんか?」

 

「……お前は、本当に鷲尾須美だよなぁ」

 

「はい!」

 

 須美はごく自然に輝く笑顔を浮かべ、おじさんは精一杯笑顔で取り繕うのが精一杯だった。

 

「おじさまは、本当は、他人の人生を操るなんて向いてないんです。

 だってこうして、他人の人生に手を出すことに責任を感じてしまうから」

 

「……!」

 

「おじさまはいつも、無責任でいられないから」

 

「ンなわけがねえ。小生が狂わせてきた人生は、山のようにあるんだ」

 

「……私、自分がおじさまの子供の頃からの知り合いだったらな、って思います」

 

「?」

 

「そうしたらおじさまが絶対に話さない昔の話に、当事者として居られたのかな、って」

 

「……」

 

「おじさまが変にひねくれちゃいそうになった時、横で止められたのかな、って思います」

 

「……居なくて良かった」

 

「え?」

 

「お前が昔から小生の知り合いじゃなくてよかった、って言ったんだよ。聞こえなかったか?」

 

「……」

 

 おじさんの強い言葉に須美が少し傷付いた顔をして、おじさんはすぐさま二の句を継げる。

 

「だからな、過去形で言わなくていいぞ。ハッハッハ」

 

「え?」

 

「ひねくれ者の根性を叩き直すのは、今でもお前がやってくれてるじゃないか、な?」

 

「!」

 

「よーしやったるか、クックック。ま、小生の力があれば? 楽勝だがな?」

 

「そうですおじさま! やってやりましょう!」

 

「ケケケ、最高の催眠を見せてやるぜ……全員幸せになる催眠をよォ……!!」

 

 おじさんが余裕の笑みを浮かべて何故かシャドーボクシングを始め、おじさんの協力を得られた須美が、満面の笑みで両手をパチパチと叩き合わせる。

 

 そんな二人を見て、頭の後ろで手を組んでいた銀と、サンチョのぬいぐるみを抱きしめていた園子が、とても楽しそうに笑っていた。

 

「須美は厳しいな」

 

「そうかな~? 私は、随分甘いと思うけど」

 

「じゃあ、どっちでもあるのかもな」

 

「そうかもね~」

 

 おじさんは子らを引き連れ、家に一歩踏み込む。

 "山伏"という表札が見えたが、もうそこにも興味はない。

 内心いっぱいいっぱいになりつつ、けれど"これ以上情けないところを見せられるか"というなけなしの男の意地で、おじさんは家にまた一歩踏み込んだ。

 

 おじさんの頭の隅がチカチカする。

 思い出したくないことが蘇る。

 おじさんは自分の子供時代を幸せだったと思いたかった。

 そう思い込みたがっていた。

 ずっとそう思っていた。

 

 けれど、虐待している親を見ると、虐待されている子供を見ると、彼はそれだけで頭の隅がチカチカするような気がする。

 何かを考えてしまいそうな気がする。

 考えたくないことを考えてしまいそうな気がする。

 頭の中に何かが溜まっていく気がして、この場から逃げ出したくなる。

 そうして、おじさんの足が止まる。

 足が竦む。

 手が震える。

 呼吸が浅く、速くなる。

 

 そんなおじさんの手を、誰かが握った。

 

「……分かってる、大丈夫だ、心配するなよ」

 

 そこに黒髪の少女が居ることは、目を向けなくても、心で分かった。

 

 深呼吸一回。それで、おじさんは平静さを取り戻す。

 

「親を失ってその後どう歩いていくかは自分次第……小生がまさにそうか」

 

 四人は勝手に入った家の中を進んでいく。

 

 ―――殴られている女の子の声が、かすかに聞こえて、おじさんの手を握る須美の手に、強い力が込められるのが分かった。

 

「おい全員聞け。『小生より前に出るな』」

 

「うっ……おじさま?」

 

「自分の子供に手を上げることを躊躇わないやつが、他人の子供に躊躇なんてするものかよ」

 

 おじさんは、ドアノブに手をかけ、最後のドアを開ける。

 その向こうに、親子は居た。

 母親と、父親と、須美達と同い年の娘が居た。

 

 顔に傷は付いていなかった。

 骨も折れていなかった。

 大量出血するような傷も付いていなかった。

 ただ、服に隠れて見えない部分を、徹底して痛めつけられていた。

 ごく普通の小学生にしか見えないその子は、腹や背をこれでもかと痛めつけられていた。

 青あざが痛々しく、内出血で腫れ、擦り切れた肌はヤスリで削られたことを思わせる。

 

 父親は手にタバコを持っていた。

 娘の脇腹に、小学生の代謝があれば数年で消えるか消えないかくらいの度合いの、タバコを押し付けられた傷跡があった。

 母親は娘の背中を踏んでいた。

 娘の腹には、革靴で踏まれたような形の腫れがあった。

 

 うっ、と少女が声を漏らした、その時。

 

 おじさんは怯えを一瞬見せて、一歩後ずさる。

 須美は迷わず、誰よりも速く、一歩前に踏み込んだ。

 

 

 

 

 

 この両親が虐待に走った理由に、大した理由はなかった。

 ただ心が不安定だった。

 些細なことで激昂する男と女が夫婦になってしまい、子供を作ってしまった。

 ただそれだけ。

 簡単に怒る両親は、大した理由もなく娘を痛めつけ、鬱憤が晴れるとやめ、また些細なことで怒るたびに娘をサンドバッグにした。

 娘は小学生なのに、いや、小学生だからか、人生の半分以上は親の怒りによって殴られ蹴られてきたことを、痛みと共に記憶している。

 

 少女の髪が遠目には真っ白に見えるくらい色が薄いのは、幼少期から多大なストレスを絶え間なく与えられ続けてきたからだ。

 一見無感情に見えるのは、親の前で感情を出すと殴られるから。

 目に光が無いのは、生まれてから今日まで一度も、良いことなんてなかったから。

 

 『子供は親を選べない』という意味で、その少女とおじさんは、同類だった。

 

 その少女の目を見た時、おじさんは子供の頃の自分を思い出し、言いようのない心苦しさを覚えて、止まってしまった。

 

 だから。

 

 父親がその子に押し付けたタバコを手の平で受け止め、母親がその子を蹴ろうとした足を背中で受け止め、痛みに顔を歪めた須美を見るまで、おじさんは自分の横から須美が駆け出していたことにも気付いてはいなかった。

 

 変身なんてしていない。

 ただの生身の小学生。

 けれど、体一つで割って入って、体を張って少女を守る。

 『小生より前に出るな』という催眠すらも意志の強さで振り切って、弱者を守る。

 力があるから何かをする、のではなく。

 神に与えられた役目だから頑張る、のではなく。

 

 鷲尾須美は泣いている誰かがいたら、死ぬ気で、全力で、手を伸ばす。

 そして引っ張り上げる。

 それが正しいと信じているから。

 正しいことは間違っていないと信じているから。

 それだけの話なのだ。

 

 その一瞬の行動は、どんな勇者の力よりも、勇者らしさの証明になる。

 少なくともおじさんは、そう思った。

 心の底から、そう思った。

 同時に、催眠が破られたことに驚愕していた。

 

「な、須美、お前、催眠を、どうやって」

 

「泣いてる子が居たら、私が代わりになってでも、守ってあげないと―――痛っ」

 

「―――」

 

 おじさんの"何故催眠が解けたのか"なんていう余計な考えが吹っ飛んで、虐待していた両親が事態に気付いた時には、もう四人が駆け出していた。

 駆け出した順番は、須美、銀、園子。最後におじさん。

 一番最初が須美だっただけで、おじさんよりもずっと早くに、銀と園子は駆け出していた。

 

 銀と園子は友達のために走った。

 タバコの火で手が傷付いた須美を守るために走り、須美を抱き締めるように守った。

 おじさんは須美との約束のために走った。

 両親を体当たりで吹っ飛ばし――その時に山崩れの時の傷が痛んだが、止まらず――虐待されていた女の子を助け出す。

 何度か見た覚えのある顔だった。

 だが、その既視感を、どうでもいいと振り切って、問いかける。

 

 何故か。

 目の前の少女に問いかけているというのに。

 何故かおじさんは、自分の中に問いかけるような気持ちになっていた。

 

「『助けてほしいか』」

 

 自分に問いかけるように、彼は少女に問いかける。

 これは力による支配。

 家族にあって当たり前の、愛による支配ではない。

 天の神のそれと同じ、親が力で圧する支配。

 少女は支配されていて、自由はなく、幸福もない。

 

 少女は迷い、戸惑い、躊躇い、そして。

 

 

 

「―――助けて」

 

 

 

 助けを求めた。

 その時の彼の顔を、須美は、銀は、園子は、その少女は、きっとずっと忘れない。

 助けてと言ったのは少女の方だったのに。

 助けようとしたのは男の側だったのに。

 

 何故か男の方が、ずっとずっと、救われたような顔をしていた。

 

 虐待両親が立ち上がり、男に掴みかかる。

 

「な、なんだお前達、人の家に勝手に……!」

 

「おう。ほんじゃま小生らは、もっと勝手にやらせてもらう」

 

「は?」

 

「しっかり覚えろ。そして忘れろ。世界一勝手な正義の押しつけ集団、ご登場だッ!」

 

 家の中では、きっと彼らは支配者だった。

 おそらく最強の支配者だった。

 人間が神に勝てないように、娘は親には勝てなかった。

 父と母と娘しか居ない、この家という世界の中で、彼らは間違いなく神に等しい支配者だった。

 

 だが、もう。

 

 彼らが支配者となることは、永遠にない。

 

 

 

 

 

 

 それは、どこにでもある光景だった。

 よくある虐待。

 よくある家庭。

 よくある最悪。

 親になるのにも才能は要る。

 何故か人間社会は努力すれば親の役目を果たせると思っている人間が多いが、実際のところ親の才能が無い人間は、何をどうしても上手くはやれない。

 親の才能が無い人間が親になると、そこには悲劇だけが生まれる。

 

「早く出ていけ! 殴られたいのか!」

 

「不法侵入者め! 警察を呼ぶわよ!?」

 

 既に少女は、助けを求めている。

 

 そこに、世界を照らす催眠の光が輝いた。

 

「何奴!」

 

 おじさん達の正体を問う夫婦。されど、罪人に名乗る名前無し。

 

「無垢なる子を咎無く痛めつけ鬱憤を晴らす外道畜生の極悪非道、許し難し」

 

「何者だ、名を名乗れ! 家宅侵入罪で訴えるぞ!」

 

「貴様らが罪を数えし後にそうしよう。まずは鎮まり、お縄につくがよい」

 

「おのれ何も知らぬオッサンと幼女風情が!

 であえであえ! かまわん、彼奴らをひとり残らず切り捨てい!」

 

「はっ!」

「承知!」

「包丁の錆にしてくれる!」

 

 ぞろぞろ現れる四国全域の家庭内暴力クソファーザー&マザー達。

 しかしおじさんとロリ達は微動だにしない。

 

「すみ助さん、カクカクそのっちさん―――こらしめてやりなさい」

 

「「 はっ 」」

 

「アタシ暇なんだよなあ」

 

「銀は小生の後ろでその子の傷見ててあげて」

 

 襲いかかる歳だけ重ねた親未満の夫婦達。

 

 二人の少女は慌てず騒がず、おじさんの葵の家紋(手書き)のスマホを取り出した。

 

「ひかえいひかえい! このおじさまの催眠アプリが目に入らぬか!」

 

「「「 しゅごぃぃぃぃっ!! 」」」

 

「こちらにおわす御方をどなたと心得る!

 畏れ多くも先の副将軍!

 または私のおじさま、水戸光圀公にあらせられるぞ!

 おじさまの御前である、頭が高い、控えおろう!」

「ひかえおろー!」

 

 ダメな親達が一斉に膝を折り、頭を下げた。

 

「みっ……水戸黄門殿!」

「何故ここに!?」

「な、南海道二万石の我等ではお取り潰しじゃあ!」

「何故こんなことに……!」

 

「うむ。その方達の悪事の数々、小生が確かに見届けた。

 罪なき子に迷惑をかけた罪、許し難し!

 ヤバいやつは普通に警察に叩き出すからな! 普通に法で裁かれろマジで!」

 

「「「 は、ははーっ!! 」」」

 

 おじさんの手元から催眠波が飛び、親達が子供への暴力と危険な感情の一切を禁止され、黒髪の少女がおじさんの前に出る。

 

「すみ助さん!」

 

「はっ! これにて、一件落着!」

 

 鷲尾須美が胸を張る。

 

 そして助けられた少女は、困惑が1000%を突破したことで状況の理解を完全に放棄していた。

 

「学芸会か……何かですか……?」

 

「高度に洗練された正義は学芸会と区別がつかないのだ」

 

「……なるほど……?」

 

 理解を放棄した少女は、とにもかくにも、おじさんに訊くことから始める。

 

「……あなたは……?」

 

「催眠種付けおじさんの一族の末裔、伝承血統の終焉(オールエンド)……と人は呼ぶ」

 

「……中二病……?」

 

「ちゃうわ! ごほん。

 悪は最後に必ず滅びる。

 善は最後に必ず笑う。

 現実はそうじゃないと知ってても、そうであってほしいと願える女がここに居る。

 恥ずかしながら小生も今は、目に見える範囲だけでもそうあってほしいと、願っている」

 

「……?」

 

「日曜朝の子供向け番組は見ないタイプか?」

 

「……お父さんもお母さんも……見せてくれなかったから……」

 

「そうか。じゃあ今週から見ると良い」

 

 おじさんは誇らしげに、横に居た須美の頭を撫で、己の誇りを見せつけるように、須美をその少女に紹介した。

 

「この女が正義の味方で、小生は正義の味方の味方だ」

 

「大袈裟ですよ、おじさま」

 

「称賛の言葉は大袈裟であればあるほどいい。気持ちが伝わるからな」

 

「またそんな適当なことを……」

 

「どうやら世の中、祈っても助けてくれる神や仏はいないが、助けてくれる勇者はいるらしい」

 

 勇者、と。

 

 少女は呟いた。

 

 

 

 

 

 

 おじさんは念入りに少女の親の頭の中を改竄する。

 

「ひーん、小生こういうイカれた大人の頭をまともに直すの一番苦手……」

 

「代わろうか~?」

 

「ほざくな催眠初心者。フィレオフィッシュでも食ってろ」

 

「ひーん、インチキおじさんが厳しいよ~ミノさん~」

 

「おお、よしよし園子、かわいそうに」

 

「小生原辰徳」

 

 "催眠おじさんがめっちゃ尊敬してる人"というレッテルのみを貼られた状態で、神世紀の世界に原辰徳という謎の存在が名前だけ拡散され続けていた。

 

 ふぅ、と、おじさんは虐待両親の頭の中を整理して、額の汗を拭った。

 癇癪持ちの多くは精神の病気ではない。

 脳の病気である。

 人間の怒りやすさは易怒性という尺度で数値化され、生物の興奮のしやすさという指標で具体的に視覚化され、脳に対する刺激への生理反応の過敏さとして解釈される。

 そのあたりをいじるのはそこそこ骨であったが、おじさんはなんとかそれを完了した。

 かつて訪れたことのある、西暦3000年の世界の医学概念の応用である。

 

「よし、なんとか良い感じに整形できた。

 後は警察がどう判断するか……

 ……よく考えてみると小生この世界の児童福祉法とか全然知らねえなぁオイ!」

 

「おじさま、お疲れ様です」

 

「おう、須美もおつかれさん。傷見せろ」

 

「嫌です」

 

「傷見せろ」

 

「嫌です」

 

「『傷見せろ』」

 

「はい」

 

「……ああー! タバコの火傷!

 クソっこのクソっあの野郎……!

 ……っ、人を守った名誉の傷だ! よくやった鷲尾須美! かっこいいぞ!」

 

「……! ありがとうございます! 不肖鷲尾須美、以後も頑張ります!」

 

「おお……わしおじさんが成長を見せた……よくキレなかったな……」

「インチキおじさんも成長するんやねぇ」

 

 傷を見せたらおじさんが心配しすぎると思って隠した須美も、催眠を使ってでも傷を強引に見たおじさんも、銀や園子にしてみれば、可愛らしい困った友人でしかなかった。

 

 おじさんは須美の傷に絆創膏を貼り、虐待されていた少女に催眠をかける。

 

「『痛い痛いの、飛んでけ』」

 

 これをかけたのは二度目だな、とおじさんは思う。

 

 きっとあの時も同じように、おじさんがかけた痛み消しの催眠は、ついでに虐待の痛みも消していたのだろう。

 

 おじさんは心を捻じ曲げるという悪をもって、頭の中を改正した両親を娘に見せる。

 

「もう一生、お前に優しくしてくれる親だ。

 何の危害も加えない。

 今後微調整が必要かもしれないが、安心はできる。

 ……元の親らしい性格とは言えねーな。

 随分と温和な性格になっているだろう。そこはもう、言い訳はできん」

 

 おじさんには、何も分からなかった。

 何をもって親と見るのか。

 何があれば親の喪失となるのか。

 親の心をいじられたのを見て、娘が何を思うのか、彼には全く分からなかった。

 声が一瞬だけ、震えていた。

 

「文句や罵詈雑言があるなら言え。全部聞いてやる。小生は無敵だからな」

 

 虚勢を張るおじさんに、虐待されていた少女は、光の無い目で見つめ返して、答える。

 

「ありがとう」

 

「―――」

 

 感謝を聞き、何故か安心した様子のおじさんを見て、須美は"ああ、怖かったんだ"と思う。

 

 ここで責められるのを恐れてしまう彼だからこそ、きっと一人ではダメなのだ。

 

 須美が虐待されていた子に、優しく語りかける。

 

「よかったね」

 

「……うん」

 

 おじさんは天井を見上げ、何かを飲み込むような所作を見せ、俯く。

 

 そして周囲の者達に顔も見せぬまま、家の外に出て行こうとする。

 

「おじさま、どこへ?」

 

「タバコ吸ってくる」

 

「おじさまタバコなんて吸わな……あ、ちょっと!」

 

 逃げるように出ていったおじさんに、靴も履いていない須美は追いつけない。

 

 全力疾走したおじさんは、息を切らせて、誰も居ない街の一角で、電柱に拳を叩きつける。

 

「ああ」

 

 泣きそうな彼の瞳から涙は流れず、電柱に叩きつけた拳から、血の雫が流れ落ちた。

 

「なんだ、『俺』」

 

 尊敬する大好きだった兄の一人称が、ブレる。

 

「子供の頃……『助けてほしいか』って……言われたかったのか……?」

 

 助けてほしいかどうかをちゃんと聞いてほしい、と須美は言った。

 

「助けてくれる誰かに、来てほしかったのか?」

 

 助けたいんです、と須美は言った。

 

「庇ってくれる誰かに、助けられたかったのか?」

 

 親のせいで苦しんでいる子供を、須美は体を張って庇った。

 

「―――間違っていない人に、手を差し伸べられたかったのか?」

 

 助けてほしくても助けてと言うことすらできなくない"歪んだ弟"を、兄は助けようとはせず、けれど殺すほどには突き放せず、置いていったのかもしれない。

 

 ずっと泣いていた子供が居た。

 彼の中でその子供は泣いていた。

 催眠だなんだと言われ、親に様々なことをされた子供は、ずっと泣いていた。

 二十年以上、ずっと泣いていた。

 その子供が泣き止んでいた。

 彼の中で、泣き止んでいた。

 理由なんて考える必要もないだろう。

 

 今日、鷲尾須美が救った『泣いている子供』は、一人ではなく、二人だった。

 

 きっと鷲尾須美にそう言えば、「あの子を救ったのはおじさまですよ。おじさまの中の子供のおじさまを救ったのもおじさまです」なんて言って、微笑むだろうけども。

 

「あいつに出会えたことは、『俺』の人生で……一番の幸運だな。

 泣きたくなるくらい幸運で、幸福で……ああ、違う違う、小生泣いてないから」

 

 顔は泣いていない。

 けれど、心が涙を流していた

 空は晴れ。

 雲一つ無い快晴の青空。

 雲一つない空を見上げ、雲一つ無い心を噛み締め、男はうんと背伸びをした。

 

 "晴れ晴れとした気持ち"以上の言葉が見つからなくて、男は腹の底から笑った。

 

 鷲尾須美は救世主。巫女と勇者の力を持ち、人と世を救う者。

 

 もう終わった話なのに。

 もう変えられない過去なのに。

 もう救えないはずの思い出の中の人なのに。

 おじさんの心の中の、子供の頃の彼でさえ救うのは、誇張なしに、輝ける花の勇者と言えた。

 

 

 

 

 

 おじさんが大笑いして、スッキリして戻ろうとすると、道中で電柱に背中を預けてぼーっとする園子が居た。

 視線の先には蜘蛛の巣。

 どうやらおじさんを追って来たのに、途中で面白い形の蜘蛛の巣に魅了されてしまったようだ。

 何もかもが相変わらずすぎる。

 くっくっとおじさんが笑い、声を掛ける。

 

「よっ」

 

「あ、インチキおじさん」

 

「お前の言う通りやってたら、この世界に愛着湧きすぎて離れられなくなりそうだ」

 

 おじさんは何気なくそう言った。

 

 そしてハッとして、園子の迂遠で分かり難い水戸黄門計画の中身を、理解した。

 

「まさか、お前」

 

「この世界に愛着持って、ずっとここにいようぜ~!」

 

「……!」

 

「みんながあなたの故郷になるよ、あなたを待ってる人がいっぱいいる故郷に」

 

「―――!」

 

「ここが第二の故郷、あなたの居場所! そう考えるのはダメなのかな~? どうよ~?」

 

 水戸黄門が部外者の解決者なのは、解決した後にその土地を去るからだ。

 だが、おじさんは色々問題が解決していないので去ることはない。

 助ければ助けるだけ感謝され、助ければ助けるだけ愛着が湧き、助ければ助けるほどこの土地に繋がりが増えていく。

 やがておじさんはこの土地を離れ難くなり、『彼の居場所』が、ここにできる。

 

「最初の故郷は失敗したって話、ちゃんと覚えてるよ。

 悪いものを全部良いものにするのは間違ってるのかもしれない。

 良いものだけの世界を作ろうとするとダメなのかもしれない。

 でもね、良いものを悪いものから守るのは絶対に間違いじゃないよ」

 

「それは……そうなのかもしれないが……だけど……」

 

「んふふー、でも今日、やっててよかったって思ったよね? ね、水戸黄門さん~」

 

「……まあ、な」

 

「これまで深い繋がりができるのが怖くて、一人旅では定住なんてしなかったんでしょ?」

 

「―――見てきたように言うじゃねえか」

 

「分かるもん。見てれば、話してればね。

 まったく~、インチキおじさんはあれだね~

 女の子をとっかえひっかえする、根無し草の風来坊~」

 

「やめろよ! 小生ああいう主人公好きなんだよ!

 小生があれみたいとか言われると好きなもの汚された気分になるだろ!」

 

「めんどくさいおじさん~」

 

 ノソノソそのっちと化した園子を抱えるようにして、おじさんは戻る。

 そんな二人を、銀と須美が出迎えた。

 

「あ、わしおじさん! なんか大赦預かりになるって! 大人いっぱい来てたよ!」

 

「おかえりなさい、おじさま。大赦が後で報告書を上げると言ってましたよ」

 

「……あ、そういえば、それ伝えようとしてたこと忘れてた~」

 

「テメェ一番大事なことだけ忘れてやがったな」

 

 四人はまた歩いて行く。

 

 今日はいい日だった。きっと明日もいい日だろう。

 

「とりあえず犯罪とかめったに起こんないんだからアイス食いにいこーぜ。イネスに!」

 

「インチキおじさんが奢ってくれるって~、ありがとー!」

 

「おじさま……心優しい大人の鑑……! 尊敬します!」

 

「こいつら小生なら絶対買ってくれると思ってるな? そうだよクソメスガキどもがよ」

 

 おじさんは財布デッキから五枚の千円札をドローし、かつてクソザコデュエリストだった時代に催眠のズルで優勝したほどのカード捌きを見せる。

 千円札が陽光に照らされ、きらりと輝いていた。

 

「シャイニングドロー!」

 

「シャイニングマネーでは?」

 

 いざや向かえやイネス。ショッピングモール・イネス!

 と、なったところで、おじさんのスマホが振動する。

 

『ワテはチョコバニラでお願いしてええですか?』

 

「バーテックスの分際で調子乗ってんじゃねえぞッ!!」

 

 どうやって知った、とおじさんが聞くと、大赦の街頭カメラにパスワード入れてアクセスしたらスマホで街見えますんや、とバーテックスは返す。

 恐るべき速度で人類文明に適応していくヒュプノに、おじさんは軽く溜め息を吐く。

 

「チッ、一個なら後で届けてやる」

 

『あざす~。外は任せといてくんなはれ』

 

「おい」

 

『はい、なんでっしゃろ』

 

「お前はよくやってる。今後も励め」

 

『……あざといオッサンやなあ』

 

「マジでぶっ殺すぞお前」

 

「おじさま。口汚くなってますよ」

 

「あーうんごめんな須美でもちょっとこのロックンロールバーテックス君叱ってからね」

 

「もう」

 

 今日はいい日だった。

 きっと明日もいい日だろう。

 彼も彼女も、きっと明日も、笑っている。

 

 

 



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催眠感度26倍

【企画終了間際のお知らせ】
https://twitter.com/kan_san102/status/1255064969596436480
 5/1 00:00をもってゆゆゆ杯は終了します。
 読者サイドで企画に参加していただいている方は、忘れずに行動をお願いしたします。
 各作品の企画終了後の評価などは企画に反映されません。
 これを期に他の作品も読んでみるのはどうでしょうか?


 気温が大分上がってきたな、とおじさんは感じていた。

 神世紀298年、7月初頭。

 結界に囲まれた四国は季節が再現され、夏は夏らしい暑さが来る。

 「夏を暑くする必要はねえだろ……!」とおじさんは半ギレしていたが、須美父の「外の世界を取り戻した後に人類が外に出て行けなくなるから」で即論破されていた。

 暑さに慣らしておかないと日本人は日本で生きていけないのだ。

 冷静に考えるとイカれた環境の国である。

 

 おじさんは下は長ジーパン、上は大赦の二文字が刻印されたTシャツ(5枚980円)というラフな格好で、扇風機を探し歩いていた。

 扇風機がなければ話にならない。

 おじさんはクーラーより扇風機派であった。そして。

 

「わ゛れ゛わ゛れ゛わ゛ゔぢゅゔじん゛だ……あ゛っ」

 

 扇風機に声を吹き込んで遊んでいた須美を発見した。

 

 須美の顔がカッと赤くなる。

 

「須美かと思ってたら宇宙人さんでしたか。地球には観光で? ご案内しますよ」

 

「おじさまーっ!!」

 

 夏の魔力は恐ろしい。

 

 

 

 

 

 夏の日差しの中、準備を進めるおじさんと、その手伝いを申し出た美森によって、鷲尾家の一角は綺麗に整理整頓されていた。

 

「勉強会、ですか」

 

「というか半分作戦会議、半分駄弁って遊ぼうみたいな話だな」

 

「さては勉強会なのは名前だけですね……?」

 

「その通り。そのそのそのっちその通り。こんな暑い中勉強させてもな」

 

「駄目ですよおじさま。こんな暑い中でも勉強するから、国防の精神が育つんですから」

 

「育てるな。違法ブリーダーかお前は」

 

 おじさんはテーブルを並べ、椅子を並べ、椅子の上に柔らかいクッションを置いていく。

 今日の風向きを計算し、部屋の窓と廊下の窓を開けて風通しをよくする。

 数個の扇風機を計算して配置しているのは、全員に風を当てるためか。

 置かれたおやつの苺大福とおーいお茶は彼の趣味だろう。

 優しい人だな、と美森は思った。

 

 美森はテーブルや椅子を拭き、床を掃いて綺麗にしていく。

 椅子の高さを調整して、小学生達の体格に合わせた高さにしていく。

 打ち水もして、周囲の気温も下げ始めた。

 ここでクーラーでも扇風機でもなく打ち水なのが彼女らしい。

 どこからかホワイトボードも持ってきて、おじさんが話をしやすいような環境も作り始めた。

 いい女なのが隠しきれんやつだ、とおじさんは思った。

 

 どっちも自分のことは見えていなかった。

 

「……セミうるせえなあ」

 

 夏に入り、今日もセミが元気に鳴いている。

 

「何匹か庭に、というよりは家の壁に? くっついてるみたいですね」

 

「まあよい。奴らの残りの命は短い。寛大な心で許してやろう」

 

「おじさまの上から目線が留まるところを知りませんね」

 

「小生実はセミは結構好きなのだよな。生き物として、ではなく生き方として」

 

「私はあまり。ああなりたくはないですね。

 ずっと地面の中に居て、地上に出たらすぐ死んでしまうって、辛すぎますよ」

 

「セミって成虫が学生時代みたいなもんだろう?

 人生で一番楽しい時期。

 その時期が人生の最後に来るって考えると、結構ロマンがある気がしね?」

 

「ああ……それは、素敵な考えですね」

 

 おじさんの語る考えが自分の中にしっくりくると、美森はそれだけで、何故か嬉しくなる。

 

「人間は青春が最初の方にあって後は老いていくだけだからな。

 生涯の最後に青春があるセミの生き方がちょっと羨ましい。

 ほら……おじさんもう割と歳だから……なんか須美見守ってる内にアラフォー行きそう……」

 

「セミを見て須美ちゃん関連で勝手に自爆してませんか」

 

「そう、鷲尾セミ……」

 

「これ言いたかっただけだわ!」

 

 美森が目を見開いて、すぐまた花のような笑顔を浮かべる。

 美森は"私と須美ちゃんの笑顔どっちが好きですか?"とこういうところで聞いて来ないから助かる、とおじさんはその笑顔を見ながらぼんやり考えていた。

 美森の笑顔は穏やかで、見ているだけで心が落ち着くような、照れに似た不思議な感情が湧き上がってくるような、そんな気持ちになる。

 

 おじさんは美森の笑顔から少し目を逸らし、彼女の服を見る。

 上は白のキャンディスリーブブラウスで、下は青の巻きスカート系のサッシュスカート。

 半袖に短めのスカートが涼しげで、生地の薄さが夏を感じさせ、襟元や袖口にあしらわれた花の刺繍が可愛らしい少女らしさを引き立てている。

 

 普通の少女が着ればかなりハイセンスな私服である、というだけで終わる話だったが、人並み外れてスリーサイズが優秀な美森が着ると、大分凶器だった。

 かなりえっちだった。

 

「みー子、お前その服……」

 

「あ、どうですか? 先週買った服なんですけど、似合ってますか?」

 

「いや服買ったことはいいんだ、自由にすりゃいいと思いますよ、そんなことより」

 

「そんなことより? そんなこと?」

 

「……似合ってていいと思うぞ。普段美人度が高いお前が可愛らしいバランスになってる」

 

「ふふ、ありがとうございます」

 

 面倒臭え女だな、とおじさんは遠回しな褒めを要求する美森をジト目で見る。

 美森が本当に嬉しそうに微笑むものだから、"まあいっか"と彼は思ってしまう。

 

 ちょっとねだるとすぐ美森を喜ばせる言葉を吐き出すおじさんの方に根本的な理由があるということに、彼だけが気付いていなかった。

 

「それで、そんなことよりなんでしょうか?」

 

「いや……お前……薄着すぎ……いやなんでもない」

 

「なんでしょうか?」

 

「上着要る?」

 

「要りません。暑いですから」

 

 美森が服の胸元をパタパタと動かし、服の中に空気を送ると、おじさんが懸命に表情を変えないようにして歯を食いしばる。

 見えたのか、見えてないのか。

 "見えて"動揺したのか、"見えてない"けど動揺したのか。

 美森にもそれは分からない。

 けれど、おじさんが動揺を隠したことだけは分かった。

 

「ドキドキしますか?」

 

「ハラハラする」

 

「ハラハラ……?」

 

「体ばっかり成長して警戒心が育ってねえ、ガキのまんまだ」

 

「この案件に関しては子供っぽい考えで動いてるのはおじさまの方だと思いますけどね」

 

「なんか言ったか?」

 

「ちゃんと聞こえてるのに『なんか言ったか?』でごまかすのはかっこ悪いと思います」

 

「ぐっ」

 

「でも私はおじさまのことが大好きな女なのでごまかされてあげるのでした」

 

「こ、こいつ……!」

 

 おじさんは作戦会議用のメモ用紙を丸めて美森に投げつけた。

 美森は慣れた様子でキャッチし、投げ返す。

 "こいつ未来の小生と何度もこれやってるな"とおじさんは気付き、美森は楽しそうに笑む。

 年下にからかわれている気がして、おじさんはちょっとイラッとした。

 更におじさんが投げ返した用紙の球が、美森の服の胸元から、胸の谷間にスポッと入った。

 

「あっ」

 

 おじさんの判断は速かった。

 マズい。

 これはマズい。

 この流れで会話を続けてはならぬ。

 確実に死ぬ。

 そんな思考が、彼の頭の中に流れる。

 

 判断は一瞬で、おじさんは怒涛の会話でこの流れをとにかく勢いで押し流すことを決めた。

 何気なく、いつものような会話で。

 けれど会話が途切れないように。

 うやむやにしなければ、何かが死ぬ気がしたから。

 

「大和撫子になろうとしてる須美を見習えコラ」

 

「私はおじさまが面白みのない大和撫子は好きじゃないからこうしてるだけなんですけどね」

 

「え、なに、そういうやつなの?」

 

「冗談です。ふふっ」

 

「ふふっじゃないが? え、待て、どうなんだそこは」

 

「もう。女の子のこういう言葉に一々うろたえるからからわれるんですよ、おじさま」

 

「中学生のくせに歳上のおじさんより世の中分かってる感じに振る舞うのやめてくれ」

 

 おじさんは流れるように会話を繋げ、"おじさんと話しているだけで楽しい"とでも言いたげに笑う美森に会話を合わせ、会話を続けていく。

 うやむやにせねば、うやむやにせねば、と思いながら。

 

「八月が来るな……」

 

「夏休みですね」

 

「いや園子の誕生日があるから何か考えたいなぁと」

 

「おじさまそういうところ本当マメですよね……」

 

「お前には負けるわ。お前友達の誕生日絶対忘れないタイプやろがい」

 

「一説にはそうですね」

 

「全説でそうだろ」

 

 ふぅ、ごまかせたな、と思ったおじさん。

 

 ちらっとおじさんを見て、おじさんに背を向け、耳を赤くして胸の谷間を探り始めた美森。

 

 会話が止まった。

 

 駄目でした。

 

 

 

 

 

 日が昇っていくと、気温は上がっていく。

 汗ばんだ首を、須美はおじさんに貰ったタオルで拭いていた。

 右には暑さをものともせずきゃっきゃした様子で、テーブルの上にサンチョというキャラクターのぬいぐるみを乗せた園子が笑っている。

 左には勉強が苦手だからか、ちょっと緊張した様子の銀が座っていた。

 良い姿勢で真面目に話を聞こうとしている須美が逆に浮いている。

 

 おじさんは美森が運び入れてくれたホワイトボードを叩き、冷徹なる口調で語り始めた。

 美森はいない。

 

「お前達が立派な大人になれるよう、小生が直々に授業してやろう」

 

「お願いします! おじさま!」

 

「まずはそうだな……実話を教訓として話そう。

 最初の話のタイトルは、『ゴキブリ食ったけど再生数58回のYouTuber』だ」

 

「タイトルからアクセルベタ踏みすぎじゃないですか?」

 

 人生のためにはなりそうだった。

 

「こういう形の勉強をさせる会は初めてだからな……

 そうだ、何かリクエストはあるか?

 興味ある話から話を広げていったらそれはそれで覚えやすいだろう」

 

「私はー、うーん、あ、そうだ!

 前の話の続きが聞きたいな。インチキおじさんのアンチスレが出来た話!」

 

「おじさまのアンチスレが出来た話!?」

 

「3スレ目で落ちたから続きはないぞ」

 

「3スレ目で落ちた?!」

 

 空気がわちゃわちゃとしてきた。

 

「しゃーない、適当に陣形の話でもするか。

 まずこれは史実にあった兵士の三人一組の連携で……」

 

「今日のわしおじさんは気合い入ってんなあ」

 

「嬉しいんだよ~、だから気分は恩返しなんじゃないかな~」

 

「嬉しい?」

 

「ん」

 

 おじさんがペンをホワイトボードにぶつけていく。

 

「インチキおじさんは赤の他人が救われると自分も救われた気になる純粋なとこあるから~」

 

 そして頭がホワイトボードにぶつかった。

 

 虐待されていた子供と須美のあれこれを見て救われたおじさんを『純粋』と表現した園子に、変にからかわれるよりよほど大きな衝撃を受けて、おじさんは口をパクパク動かす。

 動かすだけで何も言えない。

 ようやく絞り出した言葉は、パワーのない悪態であった。

 

「てめっ……このっ……いじりネタにする気か……!?」

 

「え~どうしよっかな~」

 

「最近妙に催眠効いてんだか分かんねえ奴らが多い……!

 理由は分かってる……! テメエだ催眠使い乃木園子……!」

 

「私関係ないよ?」

 

「お前以外に誰が居るんだこのお気楽極楽楽々娘!」

 

「ひゃぁ~」

 

「催眠で周りに小細工してから自分の記憶消すくらいの小細工はしてそうで頭痛え」

 

 園子が周りを催眠で助けて、催眠で助けた記憶を恒久的に消してしまえば、おじさんが痕跡すら見つけられない可能性はまあまあある。

 園子がそのレベルの催眠術を身に着けているかは知らないが、ありえない可能性ではなかった。

 

 おじさんは全人類の記憶を調べ上げたわけではないし、催眠の度に記憶を全部見ているわけでもないが、この世界で催眠関連で何か妨害されたとしたら園子以外にない、と考えている。

 そうでなければ、須美が催眠を振り切ったことの説明がつかない。

 再度掛け直したところ普通に須美に催眠はかかったので、無効化されている空気もなかった。

 

「ま、ま、園子もやってないって言ってますし。

 きっとやってないんですよ。

 園子は嘘で自分を守る子じゃないし、アタシは園子を信じたいっすね」

 

「……チッ、三ノ輪のお嬢に感謝しろよ。同じ疑惑があったら、二度はない」

 

「二度はなかったらどうするの~?」

 

「お前が名前すら知らないブサイクな同級生と恋人にさせて一ヶ月後に解除する」

 

「やめて」

 

「園子がマジトーン!?」

 

「フン……メスガキが小生に勝てるわけがないんだよなぁ」

 

「おじさま」

 

「お、なんだ須美。今日も小生は勝ってしまっ―――」

 

「今のは冗談でも二度と言わないでください。いいですね?」

 

「はい」

 

「女の子なんですよ?」

 

「はい」

 

「勝てるわけがないとかいう話はなんだったんすか」

 

 銀がたははと笑って、おじさんの後ろに回って、笑顔でその背を押した。

 

「疲れてるんすよわしおじさん。ほらほら座って。肩叩きますよー」

 

「おっ……いいね、いい感じ、ちょうどいいよ」

 

「あざす!」

 

「君の父親に三十割増しくらいで褒めと称賛の言葉伝えておくね……アーギモヂイイ……」

 

「75%デマカセじゃないすか!」

 

七五賛(しちごさん)って言うだろ?」

 

「言葉の曲解があまりにも強い……」

 

 その時、おじさんのスマホの着信音が鳴った。

 おじさんはノータイムで通話を繋げず切った。

 

「えっ、なんで切ったんですか」

 

「この着信音はヒュプノからの着信だからっすかねえ~」

 

「あっ……なるほど。心中お察しするっす」

 

「ぎ、銀が私の知らない理由でおじさまと通じ合ってる……」

 

「もー須美はすぐジェラるー。アタシくらい許しなよ」

 

「ジェラってないわよ! え、というか、通話切ってしまっていいの……?」

 

「あいつ緊急事態はLINEで文字打つから。その方が速いらしいが小生には分からん」

 

「喋るよりSNSの一言打つ方が情報伝達が速い女子高生みたいですね」

 

 あまり間を空けず、今度は園子のスマホに着信があった。

 園子はあまり迷わず取り、銀が"来ちゃったなぁ"という風に苦笑し前髪をいじる。

 

「はいもしもし、そのっちです~」

 

『はいもしもし、ワテもそのっちです~』

 

「じゃあ小生もそのっちです~」

 

「そのっち~」

 

『そのっち~』

 

「そのっち~」

 

「やべえ! 園子排気ガス大気汚染だ! 空気が狂った!」

 

 ヒュプノ・バーテックス、会話に参戦。

 

 スマホがスピーカー会話状態に切り替わり、部屋の真ん中のテーブルの上に置かれたスマホを通して、バーテックスが堂々と人間の勉強会兼作戦会議に参加してきた。

 

『御主人様ワテの扱い酷くありませんか』

 

「クソ妥当だと思う」

 

『おお、おお、御主人様の忠実なる下僕になんちゅうことを!

 傷付きましたわ! 謝罪と賠償とコンビニのサラダチキンを要求します!』

 

「おっかしいな……こいつも催眠の強制微妙に外れかけてんのなんでだ……?」

 

 スマホの向こうで、バーテックスがうははと笑う声が聞こえた。

 

『ところで御主人様、週に何回須美ちゃんで抜いてるんか教えてくれまへんかグヘヘ』

 

「園子、スマホの通話切るぞ。小生はこれからヒュプノの脳をリセットしてくる」

 

「は~い」

 

『ま、待ってーな! ごめんなさい! すんまへん! 許して!

 なんかこういう下ネタで仲良くなっとる男子高校生見てそうしようとー!』

 

「お前男だったか?」

 

『そういや定義上ワテ女やったわ』

 

「……チッ、生まれたてで他人との距離感も知らん赤子ゆえ許すが、その内許さなくなるからな」

 

『お、おーきに! 感謝感激雨霰!』

 

 うははと笑う声がまた聞こえた。

 

『でも実際どうなんです? 須美ちゃんそういう目で見とるんやないですかブヘヘ』

 

 ささやくような声で、おじさんにだけ聞こえるよう、ヒュプノは声量を調節して言う。

 おじさんがスマホを――その向こうのヒュプノを――ゴミを見る目で見た。

 

「人生で一度もそういう目で見たことねえわ」

 

『はぁーよう居るんやでこういう人。愚かな人類の特徴や』

 

「こいつ人類クソにわかの新参の癖に訳知り顔で人類語りやがる」

 

『よう居るわなあ。

 尊いから抜けないとか。

 ガチ恋だから抜けないとか。

 美しいから抜けないとか。

 アクア様とか邦キチとかシロ×小峠では抜けないとか。

 ……おためごかしをぉー!

 "○○ではシコれない"言うとけばキャラ理解度高い奴気取りできるからやろ!』

 

「狭い常識で人類を分かった気になって戯言ほざくの最高に愚かな生物って感じだな」

 

『ワテが狭い見識で人類が愚かやと思て滅ぼそうとする暴走AIみたいやて!?』

 

「まあ半分くらいは」

 

『まあええ!

 話戻しますわ!

 可愛い!

 それでええやろ!

 エロい!

 それでええやろ!

 抜ける!

 そう言えばええ!

 好きやから性欲!

 好きやからセックス!

 それが人間やろがい!』

 

「こいつ人類クソにわかの新参の癖に訳知り顔で人類語りやがる」

 

「せ、せせせせせセッ」

 

「……ここでこの単語に反応するのが銀だけなのが本当に"らしい"な」

 

 須美は知ったかぶるためにそれっぽい表情で黙っている。

 会話の流れは大体分かっていない。

 園子は割と分かっている。

 露骨に反応しないだけで。

 銀は顔を赤くして慌てていた。単語の意味は分からなくても、何を言っているかは分かった。

 

 おじさんのスマホの情報と四国の情報を収集し、吸収し、ヒュプノは人生経験の総時間を除けば普通の人間と何も変わらない精神性を獲得していた。

 『須美ちゃんエッロ』

 『本当に小学生?』

 『ちょっとパンツ見せてよ』

 『御主人様ちょっとえっちなことして乱れさせて』

 『ワテ御主人様みたいなおちんちんあらへんので……』

 という感情が湧き上がるくらいには、人間に近くなっていた。

 レズ・バーテックス!

 これが"人間の常識では測れないほどに速いバーテックスの進化速度"の反映であることを、おじさんはちゃんと理解している。

 

 人間の敵として置けば絶望的な強敵、人間の隣人に置けば怖いくらいに異様な速度で進化する味方……バーテックスとは、そういうものだった。

 

『"須美じゃ抜けない"……はぁー、もう呆れるわ、凡庸凡庸』

 

「小生凡庸!?」

 

「おじさまは凡庸じゃありません! ところで抜けるってなんですか?」

 

「『炭酸か何かだろう』」

 

「なるほど……」

 

『うっわごまかしかたがズッル!』

 

 スマホの向こうで、うははとヒュプノが笑い、「ふっ」と気取った声が聞こえる。

 

『でもきっと……それが愛なんやね……』

 

「こんなに軽く感じる愛って単語初めて聞いたわ」

 

『せやから……人間はそうして生きるのが美しいんやろな……』

 

「その薄っぺらい言葉はどこで仕入れてきたんだ? 天の神? 製紙工場?」

 

 んふっ、と、園子が吹き出しそうになった口を抑えたのが見えた。

 

『はー、御主人様が冷たいわー。ほんならワテらの成長を見せなあかんな』

 

「成長?」

 

『銀ちゃん!』

 

「はいはい、あれね」

 

 通話が繋がっている園子のスマホを銀が持ち、二人……一人と一体の掛け合いが始まる。

 

『上司は上司でも優しい上司ってなーんや?』

 

「そんなものはない!」

 

『はい正解! 明日は明日でも希望のない明日ってなーんや?』

 

「そんなものはない!」

 

『はい正解! パンはパンでも食べられないパンってなーんや?』

 

「フライパン!」

 

『ぶっぶー! 正解は、そんなものはないでしたぁ!』

 

「『 HAHAHA! 』」

 

「お預かりしてる小学生のお子さんに何芸仕込んでんだテメエええええええええええ!!!」

 

 

 



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催眠感度27倍

 銀と、スマホ越しのヒュプノが、うんうんと頷いていた。

 

「ニチアサ、だよなぁ……」

 

『ニチアサ、やねえ……』

 

「プーさんもそう思う?」

 

『うはは、銀ちゃんとは気が合うやんなー!』

 

「悪の力を身に着けて、正義に目覚めた少女の守護者、わしおじさん!」

 

『悪の力の渦より生まれ、人を守りし大怪獣、ワテヒュプノ!』

 

「この……元は悪の力なのがいいよな……仮面のライダーみたいなアレ」

 

『ええよね……超かっこいい』

 

「後から正義に目覚めて人を守るってのがおじさんとプーさんのエモポイントだよな!」

 

『ややわー、照れるわー! 元悪のワテに正義を教えてくんなはれ、銀ちゃん!』

 

「おう、任せろ!」

 

 そして二人は、神樹館校門横のおじさんをバッと見る。

 

「わしおじさん! 悪より生まれ正義になったヒーローには決めポーズ欲しくない!?」

『欲しい言えや!』

 

「須美を迎えに来ただけの小生を使って言葉の壁打ちするな」

 

「えー」

『えー』

 

「えーじゃないが」

 

 おじさんはスマホ越しに、ヒュプノを睨みつけた。

 

「お前、女同士だからってこの前須美にしたみたいな下ネタ振りするなよ?

 いや須美にももうするなよ。

 今のお前の状態を教えてやろう。女子校で下ネタ振りまくってるモテないブスだ」

 

『な、なんやってー!?

 しかし納得できる表現……!

 銀ちゃん、不快に思ったら言ってーな? なおすさかいに。

 でも同じようには振らへんよ。銀ちゃん須美ちゃんみたいな色気あらへんもん』

 

「ヒュプノ君ツーアウト。あとワンアウトで殺処分な」

 

『なんやて!?』

 

「……あ、あはは、大丈夫っすよ、自覚あるんで!」

 

「三ノ輪のお嬢……!」

 

 おじさんは思わず口を抑え、漏れる声を抑え込んだ。

 

「アタシも薄々気付いてたんだよな……将来的にモテるのは須美みたいなタイプだって」

 

『薄々なのは君の胸と尻やぞ』

 

「うう……」

 

「お前少し黙ってろ! 催眠百倍にするぞ!?」

 

『ウッスウッス』

 

「やべえこいつ既に小生よりレスバ強い!

 大丈夫だからな銀、小生の経験上お前はめっちゃ美人になるタイプの子だから……」

 

「本当に……?」

 

「本当本当! お前面倒見もいいからいいお嫁さんになるよ!」

 

『御主人様って須美ちゃんへの褒め言葉使い回しとりまへん?

 女の子にそれはあきまへんよ。御主人様って女の子褒める言葉ボキャ貧ちゅうか』

 

「黙ってろよてめーはよォー!!」

 

 校門前でドタバタやっていたからか、通り過ぎる小学生達がくすくす笑いながらおじさん達の横を通りすぎていって、やがて銀より少し遅れて下校してきた須美と園子もやってくる。

 

「あ、おじさま! 銀!」

 

「ミノチキおじさん~」

 

「アタシと混ざってる混ざってる」

 

「帰るぞー、須美ー」

 

 おじさんが自転車に乗ると、須美が後ろの荷台に乗る。

 おじさんが荷台にセットしたクッションに横向きに座り、おじさんの腰に手を回して抱きつき、おじさんの顔からは見えない角度で、おじさんに一度も見せたことのない表情をしていた。

 異性ならば誰でも、問答無用で見惚れるような、愛を告げる花束のような表情。

 

『あ~、エモい~! エモエモ! エラスモサウルス!』

 

「うるせえなこいつ!」

 

 スマホカメラを通してそれを見ていたヒュプノがうるさいので、おじさんは思わずスマホを殴ってしまった。

 当然ヒュプノはノーダメージ。

 人生の悲哀を感じる一幕である。

 

「私とミノさんも乗せてって~」

 

「!?」

「!?」

「!?」

 

『ワテも乗せてって~』

 

「テメェは5万トンくらい痩せてから出直してこい」

 

『はぅぅ、デブ扱い!』

 

「元気出してプーさん~、バスケ部なら大活躍間違いなしだよ~」

 

『うう……園子ちゃん優しい……大好き!』

 

「私も大好きだよ~、お友達~。わっしーもミノさんもおじさんも~!」

 

「乗る、乗せるか……乗るか……?」

 

「いやいや須美の他にアタシ乗せただけでも無理でしょ! 無理無理!」

 

「この自転車は小生のスマホを連結してある。

 転倒しないよう補正がかかる。

 つまり……後は小生の漕ぐ力だけか……いける? いけますいけます、行くぞ!」

 

「マジで!?」

 

 かくして、四国の伝説となる―――最強の暴走特急が疾走を開始した。

 

「うおおおおおおおおっ!!」

 

 園子が小さい体を折りたたみ、おじさんのママチャリ特大カゴの中で体育座りしている。

 園子の尻を痛めないよう、カゴの底にはおじさんの大型タオルが敷かれていた。

 銀はおじさんの背中に抱きついている。

 銀が疲れないよう、銀の尻下あたりに上着で尻を乗せられる場所を作っていた。

 ヒュプノは絶句する。

 須美は荷台で『これ本当に大丈夫!?』という顔をしていた。

 

 四人は爆走する。

 もはや止められる者はいない。

 

「やるじゃんわしおじさん!」

 

「ぜぇ、ぜぇ、はぁ、はぁ、美森と一緒にダイエット走り込みしてたからな!」

 

「凄いね~、学校の体育の先生くらいのパワー~」

 

『大して運動しとらん中年のオヤジレベルやて言われてますで御主人様』

 

「うるせえ! もうちょっと高いだろッ!!」

 

「須美、お前のおじさんもこんな成長するんだなあ。アタシびっくりだ」

「ちょっとどういう意味よ」

「東郷先輩とわっしーがインチキおじさんに運動させたんやねえ……」

 

『御主人様これで須美ちゃん達に体型レベルで管理されてる自覚ないんやで、笑うわ』

 

「え?」

 

『冗談やぞ』

 

「いっけー! 神樹おじさんブレイバー号~!」

 

「そのっちがいつの間にか変な名前付けてる!?」

 

 交差点の赤信号に差し掛かって、神樹おじさんブレイバー号は停止した。

 汗だくのおじさんが、必死に息を整える。

 

「ふぅー、すぅー、ふぅー、すぅー」

 

「めっちゃ息整えてる」

 

『ヘッ、いいチャンスやな!

 ここで御主人様を大笑いさせれば呼吸困難で気絶間違いなしや!

 昨日の夜なー。

 いや結界の外に夜とか別にあらへんけど。

 皆が寝静まった頃に最っ高に面白いギャグ思いついたんや! 今が切り時!』

 

「へー」

 

『ダルビッシュー、無限! うははは!』

 

「は?」

「え?」

「あっ」

「ん~」

 

『……こ、これはダルビッシュ有が、有限と無限をかけてて……』

 

「待てそこで止めろ、小生の経験上それは傷を広げることにしかならない」

 

『えっ……あっ……いやっ……お、思いついた時はめちゃ面白く感じたんやで!?』

 

「深夜に思いついたギャグって大体そんなもんだぜ……な、みんな」

 

「へー、そうなんですか」

「へー、そうなんだ」

「へ~、知らなかった」

 

「駄目だ小学生組に小生の言葉が微妙に理解を得られてない!

 多分そんな頻繁に夜ふかししねえからだなこれ! クソァ!」

 

『御主人様……ワテが窮地の時だけワテに助け舟を……

 まるで女の窮地に手を差し伸べれば惚れると思っとる女たらしやなあ』

 

「あっ調子戻ってきやがったクソッ」

 

 おじさん一人がヘトヘトになる形で、放課後の少女ら三人は、鷲尾邸に到着した。

 おじさんの汗がぽたぽた落ち、息は荒れ、この世界に来るまでずっと運動不足だった体は倒れない自転車に寄りかかって必死に息を整え始めた。

 

「ど、どうぢゃぐ、鷲尾邸……」

 

「わしおじさまが疲弊していらっしゃる。須美、癒やして差し上げろ」

 

「差し上げろ~!」

 

「でもおじさまならシャワー浴びてすぐ前に決めかけた作戦の詳細決めるぞって言いそうよ?」

 

「よくわかってんじゃねえか……30分休憩、休憩終わったら作戦会議な」

 

「はーい! しゃあ、園子、須美、30分何する?」

 

 おじさんはヒュプノと繋がっているスマホを持って、浴室に向かった。

 

『今のワテ大型八体分クラスの強さありますんでそうそう負けへんと思いますよ』

 

「だよな」

 

『有能な部下に出来高で給料ください!』

 

「身の程を知れ」

 

『御主人様ワテに日に日に厳しくなってますなぁ。

 乙女としてはショックですわ。

 須美ちゃんくらい……

 ちゅうのは無理として。ペットのハムスターくらい愛してくれまへん?』

 

「お前がハムスターだったらあの永遠に回ってる円形のやつで永遠にお前走らせ続けるわ」

 

『ご無体!』

 

「とっとと 殺せよ ヒュプ太郎」

 

『ヒェ~、容赦なき抹殺指令。あ、今壁の外に見える最後の出来かけ個体仕留めましたで』

 

「ご苦労。よくやってくれた。何か欲しいものはあるか?」

 

『ストロングゼロとかいうの飲んでみたいんですけど、貰えますやろか』

 

「お前俗っぽさ金メダリストでも目指してんのか?」

 

『うはは! 人間が夢中になっとるもん知りたいんや!』

 

「ええー……まあいいか。つまみ何買っていってやるかな……」

 

 シャワーを浴びて、ぐだっと休憩して、回復した頃おじさんは須美達と合流する。

 いつの間にやら美森も加わっていた。

 美森がおじさんの方を見た時恥ずかしそうにしたのは、気のせいか、それとも否か。

 須美達はとても楽しそうに談笑している。

 この会話の光景だけを見ていれば、ごく普通の小学生の日常なのに。世界が、彼女らが普通の女の子で居続けることを許さない。

 

「何の話してたんだ?」

 

「季節のイベントの話です。

 夏休みどこに行こうかとか。秋と冬はどうしようかとか、来年はもう中学生だねとか……」

 

『ほへー、季節。楽しそうやなあ。ワテ結界入れんから縁あらへんけど』

 

「その内入って来れるだろ……今はまだ味方扱いされてないが時間の問題と小生は読んでいる」

 

『ホンマ!?』

 

「海なんていいかもしれませんね。

 プーさんの巨体でも問題なく泳げますから。おじさまが監督すれば……」

 

『鷲尾海?』

 

「おじさまのダジャレ癖が感染ってる!」

 

「待って須美ちゃん。まだおじさまの影響は取り除けるかもしれないわ。早合点は」

 

『東ご海森?』

 

「これは駄目ね。手遅れよ」

 

「そうですね、プーさんのそれは完璧にオッサンのそれです」

 

「あっさらっと小生オッサン扱いされた」

 

「「 おじさまはまだまだ若々しいですよ! 」」

 

「力技で押し流しにかかったなみー子's」

 

『うはははは!』

 

 おじさんとヒュプノの会話はいいテンポで、語調が良くて、虫が電灯に引かれるように、園子と銀も会話に混ざる。

 

『御主人様って……チビ男やねんな』

 

「お前がデカいんだが? 小生をチビ扱いしないでほしいんだが?」

 

「アタシが一番ちっちゃいんだよな……」

 

「ミノさんは可愛いからいいんだよ~。プーさんも30mくらいあって可愛いよ~」

 

『褒めてくれてありがとさん! そのっちもかわええよ! あと分かる!

 女の子はちっちゃいと可愛いくてええねん、男は大きくなきゃあかんけど……』

 

「小生も年齢平均身長は割ってないんだが? むしろそこそこ高いんだが?」

 

 須美と美森は全員分のお茶とお茶菓子がまだ出てないことに気付いて、会話を抜け、楽しげに話す彼らを見ながら、二人で話し始めた。

 

「こんな日々が続けばいいな、って思うんですけどね……」

 

「終わらせないといけないわ」

 

「え」

 

「戦いの中の日々が楽しいのは分かるわ、須美ちゃん。

 私もそうだったから。

 でもね。どんなに楽しくても、戦いの中の日々は終わらせないといけないの。

 戦いと一緒に終わらせないといけないの。戦いの終わった後の日々を、始めるために」

 

「……そうですね」

 

「今よりももっと良い日々が……戦いの終わった後に……」

 

 そう言いかけて、美森の頭の隅が痛む。

 彼女が生きた世界において、戦いの中の楽しい日々が終わった後、戦いが終わった後の楽しい日々は、来なかった。

 死と悲劇に終わったことで、幸せな続きは来なかった。

 その記憶は消されているが、今もなお彼女の脳のどこかに残されている。

 

 自分が記憶を奪われていることも分かっておらず、変な挙動を見せる美森を見て、須美は何か心配することもなく、何か疑問の思うこともなく、強い意志を瞳に浮かべる。

 誰よりも真っ直ぐに、前を見ている。

 

「大丈夫。私、未来を信じてます」

 

 曖昧な言葉だったけれど、その言葉は何故か、美森の胸の奥に響いた。

 何が大丈夫なのか。

 何故大丈夫なのか。

 分からなかったが、それを言い切れるのが過去の自分なのだと、美森は思った。

 

「……頑張らないとね」

 

「はい」

 

 お茶を淹れ、お茶菓子を揃え、須美と美森は友の下へと運んでいく。

 

「私と東郷さんって、何が違うんでしょうね」

 

 真面目くさった顔で須美が言い、美森が微笑んで応える。

 

「ふふ。なんだか、変な話ね」

 

「何がですか?」

 

「須美ちゃん最初、私を未来の自分だと認めたくなかったでしょう? どこが同じだ、って」

 

「うっ……そ、その節は、失礼なことをたくさんしてすみませんでした!」

 

「いいのよ。私もからかいすぎたもの。おあいこということにしましょう?」

 

「はい!」

 

 須美は美森で、美森は須美だ。

 

 須美は自分の中で言語化できない部分を、上手く言語化できないまま、口に出す。

 

「なんというか……

 根本的な考え方は同じだと思うんですけど

 東郷さんはおじさまを信じてない……いや、それも違いますね。

 おじさまに弱みを教えてほしい? それもちょっと違うような。

 東郷さんはおじさまを信じてる。なら、私と何が違うんだろう……」

 

 そこに、美森は小さな思考の補助輪を与えた。

 

「須美ちゃんはおじさまに甘えたいの。

 私はおじさまを甘えさせたいの。そこの違いよ」

 

 須美が目を見開き、少し顎に手を当て考え、目を閉じ熟考し、次に目を開いた時、須美は色んなことに納得したような顔になっていた。

 

「……納得です」

 

「でも多分、そんな明確な対極ではないと思うの。

 比率でどっちが大きいかが逆か、ってくらいで。

 私はあなたであなたは私。本質はきっとそのままだわ。何かが少し違うだけ」

 

「そうですね」

 

 二人はもう、確信している。

 須美が美森になることを。

 美森が須美であることを。

 そして、この東郷美森が迎えた結末と、この鷲尾須美が迎える結末が、別のものになることを。

 

 二人は同じだ。

 同じ人間の過去と未来。

 同じであることを受け入れることで初めて見える違いもある。

 

「嫌いなものも、好きなものも、愛してるものも、同じだと思います。私達」

 

「そうよ。守りたいものも、幸せに感じることも、幸せにしたい人も、同じなの」

 

 そう言い、須美と美森は笑い合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――ありえねえ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、戦いが始まる。

 美森が知る最終最後の戦いを七割ほどなぞる戦いが始まる。

 三年前倒しという異常なイレギュラーが起こり、美森の予想は全て破綻する。

 

 もはや、誰も未来を読めない。

 誰も彼もが、狂ったように『支配』に手を伸ばす。

 力による支配、催眠による支配、愛による支配、救済による支配。

 願いの形は十人十色。

 されど今は、戦場に並ぶ意志のカラーは二色しか無い。

 世界と人を滅ぼすか、それを守るか。その二つの意志だけが、戦場に満ちる。

 

 神世紀298年。この時代の勇者の戦場は、瀬戸大橋をベースとした樹海だ。

 かなり細長く、タワーディフェンス形式のこの世界の戦いが非常にやりやすい。

 だが、それにも限度がある。

 敵次第で限度がある。

 

 十二体の大型バーテックスが戦場に並んでいた。

 倒したはずの大型まで再製造され、再展開されている。

 その奥には鏡。

 大きな鏡があった。

 

 おじさんはそれを知っている。

 内行花文鏡と呼ばれる鏡で、大昔の日本からよく出土したものだ。

 大昔、鏡は太陽信仰の象徴だった。

 太陽の光を跳ね返し、太陽のように輝くからだ。

 日本では太陽信仰が厚い地域、または太陽神を祖先とすると主張する皇族の発祥の地から、多くの太古の鏡が出土している。

 

 そしてそれは、宇宙観そのものであり、神話の再現そのものだった。

 

 大きな鏡はその中心に太陽の輝きを持ち、縁に十二星座の文様が刻まれていた。

 これ、すなわち宇宙。

 太陽の周りを星座が囲む宇宙観そのもの。

 その姿は、宇宙そのものが意思を持った天体神としての在り方を示している。

 

 日本書紀において、天照大神は白銅鏡からも生まれたとも扱われる。

 また、古事記の天孫降臨において、天照大神は八尺鏡を自分だと思えと言い渡したという。

 天の神は鏡より生まれ、鏡をもって己とするのだ。

 

 で、あるならば。

 神話知識と、宇宙知識を併せ持つおじさんの目には、もはやその正体は見えている。

 ここではない太陽系も巡ってきたおじさんには、その特徴が酷く目につくからだ。

 

 この太陽系の太陽を中心とした宇宙観の体現と、日本神話の天の神を併せて象徴する姿。

 

 それすなわち。

 

 

 

()()()()()

 

 

 

 恐るべきことであった。

 大赦が数百年分の情報蓄積で行った全ての予測がひっくり返された。

 美森の情報を元にしていたおじさんの全ての予測がひっくり返された。

 少し前まで天の神配下だったヒュプノですら全く予想できていなかった事態である。

 

 神世紀298年7月。彼と彼女らは、天の神との最終決戦に突入していた。

 

「……随分焦ったもんやなぁ。神とはいえ、どれだけ無理をしたことか」

 

 ヒュプノが恐々として呟く。

 

 もはや、誰も彼もが"まともに戦おうとする気"がなかった。

 

 天の神は天体神。

 日本の宗教観によって成立する、『意志ある世界』『無慈悲な自然』『災害の擬人化』というラインの上に存在する者。

 であるからこそ、不滅を約束された存在だ。

 

 そんな神が、無理をしている。

 自分の不滅性を揺らがせてまで、不自然なことを行っている。

 自然神である己の身を削り、バーテックスを生み出している。

 これが異常事態でなくてなんなのか。

 天の神は神話の中では、暴神を恐れて岩戸の奥に引きこもるくらい前に出ない神なのに。

 

 神は気付いたのだ。

 敵の脅威に。

 おじさんが運悪く樹海破壊の自然災害に巻き込まれてしまったことで、それで弱って力を補う必要が生まれ、あまりにも早く切り札を切ってしまった影響が、ここに来ていた。

 

 天の神は自分が直々に行かなければ倒せないと、おじさんの力を的確に評価していた。

 バーテックスは肉の盾。

 催眠を防ぐ肉の盾だ。

 無理をしてバーテックスを十二体再製造し、無理をして全体投入し、無理をしてでもおじさんを仕留めに来たのである。

 

 天の神は、怒り狂っていた。

 

 『世界の外から来た生き残りの人類全てを洗脳せんとする侵略者』など―――天の神からすればもはや、己の命と引き換えにしてでも滅ぼしたい、そんな存在であったからだ。

 "それは私のものだ"と、神は怒る。

 "生かすも滅ぼすもお前が決めるな"と、神は怒る。

 

 おじさんが腕を組む。

 美森がその傍らに立つ。

 ヒュプノが敵を眺める。

 須美、銀、園子も、安心感を根こそぎ奪い取られていた。

 

「この空気は確かに、焦りのそれに似ている。

 ダークサイドの催眠使いに負けるやつが大体こうなるやつだ。

 "急いであいつの正体を公表しなきゃ!"ってやつ。

 焦りを理由に行動に走ってしまって、詰めが甘くなるやつだと考えられる」

 

「神は焦っとるんやろか?」

 

「いや……どうだろうな。

 神性は人間とは違う精神構造をしている。

 焦り、と表現すると大きく違うかもしれん。

 だが多分、人間の持つ感情で一番近いのは、焦りだ」

 

「ワテはどないしたらええんでっしゃろ?」

 

「お前はバーテックスだ、再生する。お前を軸に陣形を……いや待てよ」

 

 ヒュプノを前に出し遠距離攻撃の圧力を叩き込みつつ、その後ろに勇者を配置して動かし、適宜敵側のバーテックスを催眠で奪っていく。

 それが最適解と考えていたおじさんだが、思い直した。

 

「―――『催眠究極薄本形態(ウルティメイトソリッドブックス)』」

 

 全てのスマホと一つになり、催眠アプリを身に纏う。

 自分自身を催眠と化したおじさんの力が、爆発的に膨れ上がる。

 だがいくつかのスマホは相変わらず不調を訴え、少し不安要素が残っていた。

 

「補助しろ、元射手座。お前のバーテックス最強の狙撃力を見せてみろ」

 

「おー、えろう期待されとる。かっこええな御主人様。勝算は?」

 

「勝算? つか、もう勝ってる」

 

「へ?」

 

「相性問題だ」

 

 よく分かっていないヒュプノが、自分の上におじさんを乗せる。

 

 何事にも相性はある。神が人に対し、相討ちにしか持ち込めないことがあるくらいには。

 

「天の神、天照大神は女性神だ。

 世界でも、多次元宇宙でも比較的珍しい、女の主神だ。

 主神は男性神なのが多いからな。

 だから―――雌豚に堕とす催眠おじさんとの相性は、最悪なんだ」

 

「……なぁるほど!」

 

「一発で決めるぞ。セット!」

 

「あいあいさー!」

 

「須美! 銀! 園子! 襲撃警戒態勢!」

 

「はい!」

「おう!」

「はーい!」

 

「行けるなヒュプノ!」

 

「任せといてください! ワテこそが、御主人様の想いを形にする一の射手!」

 

 勇者三人が狙撃護衛に付き、ヒュプノが構え、おじさんが術式を組む。

 

 神すらもアヘ顔にさせるおじさんの快楽屈服催眠が弾丸状に形成され、ヒュプノの優れた動体視力が肉壁のバーテックス十二体の動きを見切り、その隙間、天の神に届く射線を見通した。

 光が一閃、放たれる。

 

「超超遠距離射撃流星弾―――『射星(しゃせい)』」

 

 神すらも蹂躙する催眠の光。全てを塗り替える一条の光が放たれる。

 

 もしも彼らに、ミスがあったと言うならば。

 

―――はいおじさま、手鏡です

 

 結界の外で、催眠は鏡で跳ね返せるという事実を観測していたバーテックスが居たことに、気付いていなかったことだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 催眠究極薄本形態(ウルティメイトソリッドブックス)のおじさんの催眠は、光学的な観点から見ればレーザーのような性質も持っている。

 極めて強力なレーザーを鏡は反射できない。

 そのまま破壊されてしまうのだ。

 

 おじさんの催眠が思った形で作用しなかった理由は三つ。

 一つ目は『鏡で催眠は返せる』と知られていたこと。

 これにより、天の神は己の化身状態が鏡であることを利用し、催眠を捻じ曲げて跳ね返すことを思いついてしまった。

 

 二つ目は、スマホの不調。

 攻撃のタイミングで108のスマホ全てをフルに動かした時、9のスマホの電源が落ち、催眠のバランスが崩れてしまったのだ。

 108の催眠アプリによる調和こそがこの催眠の真骨頂。

 その綻びが、天の神に付け入られる隙になった。

 

 三つ目は、天の神の本気度の読み違え。

 おじさんは甘く見ていたのだ。

 神がそこまで本気で来るはずがない、と。

 人をゴミのように思っている神は油断しているはずだ、と。

 だが違った。

 天の神は自分すら勝敗の場に賭けて来た。

 だから()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だなんて、そんな博打を神が打ってくるだなんて、おじさんは想像もしていなかったのだ。

 

 全ては誘いだった。

 確実に、初手で、おじさんに全力の催眠を撃たせ、それを反射する。

 天の神はそこに全てを賭けた。

 神が、自分を囮にし、そこに全てを賭けたのだ。

 

 おじさんは知らなかった。

 神が人間とは違う倫理で動いていると分かっていたのに、分かっていなかった。

 天の神が、人間をゴミだなんて思っていないことを。

 天の神が、人間が真に反省したなら多少は許しをやろうと考えていることも。

 天の神が、傲慢な超越者の側面を持ちながらも、かつて人間への愛を持っていたことも。

 知らなかった。

 

 だからおじさんは、この世界の人間の心を弄ぶ催眠おじさんへの天の神の怒りを、読み違えた。

 

 本当に僅かな差で、全てが噛み合わなかった。

 

 そこにあった僅かな差はきっと、『幸運な神』と、『不幸な人間』くらいしかない。

 

 

 

 

 

 天の神には、雌豚にされる確信があった。

 周到に準備をした。

 徹底して対策をした。

 それでもなお、迫り来る催眠の光を見た瞬間、天の神は自分が雌豚便所にされる未来を確信してしまっていた。

 

 天の神が持ちうる全ての力を使って、使い切って、力を使い果たし、もう駄目だと思った。

 神の全身がボロボロになり、鏡は無残に割れて砕けた。

 おじさんのスマホのいくつかの電源が落ちなければ、全ての対策を貫通され、雌奴隷にされていた―――他ならぬ天の神が、それを確信していた。

 反射を完了した瞬間、天の神は数百万年ぶりに、安堵の息を思わず漏らしていた。

 

 人間のオナホにならなくて済んだことに、心底安堵していた。

 

 そして、人間なんぞに心底脅かされ、心底安堵させられたことに、怒った。

 

 天の神の怒りに沿うように、反射された催眠は内容を捻じ曲げられ、須美達に直撃する。

 

「きゃっ―――」

 

「みー子!」

 

 そして、須美、銀、園子の目から光が消える。

 まずい、と美森は咄嗟におじさんのカバーに入る。

 

 反射催眠された催眠は分散し、三人の勇者に直撃した。

 そして武器を構える。

 武器を向ける先は、天の神の怒りと憎悪を一身に向けられるおじさん。

 昨日までの彼女らを、地の神の勇者と言うならば。

 今の彼女らは、天の神の勇者と言ってもなんら差し支えなかった。

 

 バチッ、と変な音を立てたおじさんのスマホがまた一つ止まった。

 三人の勇者がにじり寄ってくる。

 十二体のバーテックスが猛烈な勢いで攻めて来る。

 その後ろで悠然と進んでいるのは、それらのどれよりも強い天の神。

 

「おじさま!」

 

「うはは! なんやこら楽しくなってきたわ!」

 

 美森とヒュプノが全力で、狙いも大して付けずに大火力をぶっ放し、大型バーテックスの進軍だけでもなんとか食い止めていく。

 

「美森! ヒュプノ! 十二体を片付けろ! できなきゃ足止めで良い!」

 

「せ、せやけど!」

 

「大丈夫だ! 勇者三人をまず何とかする!」

 

 天の神はおじさんの催眠を反射しただけだ。

 しからば、おじさんがその催眠を解除するか、上書きすればいいだけの話。

 おじさんがその気になれば五分とかからないだろう。

 すぐに問題は解決する。

 はず、だったのに。

 

「―――催眠が、効かない!?」

 

 おじさんの催眠波を受けてなお、須美達は天の神の傀儡のままだった。

 

 いかなトリックか。

 おじさんの催眠上書きが通じない。

 催眠の手応えを分析し、おじさんは即座にそのトリックの正体を突き詰めた。

 分析所要時間一秒。

 されどその一秒で、おじさんは全てを理解する。

 

 これは、()()()()()()()()

 天の神に随伴する、天の神群の一柱が用いる権能。

 

「この世界にも居た、というわけか。

 日本武尊(やまとたける)を惑わしたもの。

 古事記に語られる惑わしの神。催眠の具現。

 人の正気を失わせる権能を保つ神性!

 ヤマトタケルですら、独力ではそれに抗えなかったという。

 和の国、日本における"始まりの催眠おじさん"が一人―――『伊吹山の荒神』!!」

 

 日本の神話の大昔より語られる、惑わしの神。

 

 日本の始まりの催眠おじさんである山の神。

 

 大英雄すら叶わない、有明の女王すら勝つことのできない『催眠の神』が―――催眠おじさん対策として、天の神に投入されていた。

 

 

 



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乙女の真心

 伊吹山の神。

 古事記では巨大な白猪、日本書紀では大蛇とされる。

 天変地異を自在に操り、人を惑わし、大英雄ヤマトタケルを死に至らしめたという。

 スサノオと同一視されることもあるが、そうでないこともあり、元・天の神であるスサノオと同一視される以上、天の神の神群に属する存在でもあった。

 言わば、神の催眠おじさんである。

 

 日本に数多存在する催眠おじさんの系譜、その始祖の一つ。

 "心を酔わせる"催眠使い。

 伝承に沿うならば、その力に対抗するには、霊山の清浄なる清水が要るという。

 されど星が燃え尽きた時、岐阜県と共に、その霊山も燃え尽きてしまった。

 ゆえに有効な対策は存在しない。

 そんな神が天の神という群れに入っているということ事態が、悪夢であった。

 

 とはいえ。

 神は、全能ではない。

 この神の催眠が全能なら人類はとっくに終わっている。

 

 地の神(神樹)の眷属と言うべき勇者には、この催眠は効き辛い。

 当然天の神相手にも効きが悪い。

 天の神はおじさんの催眠を反射して勇者を洗脳したが、この神に同じことはできない。

 催眠おじさんとしての"位階"に差がありすぎるのだ。

 おそらく催眠種付けの技能だけを競うなら、おじさんと神はそのまま、神と人レベルの力の差があるだろう。

 

 だがそれでも、おじさんの妨害をさせるのに、これほど強力な神は居なかった。

 

「……めんどくっせ!!」

 

 おじさんは必死に須美の矢を回避し、催眠をかけに行く。

 

 だが届かない。

 須美にかけようとした停止の催眠が地面に落ちた。

 銀にかけようとした催眠解除の催眠が横に逸れた。

 園子にヤケクソで撃った絶頂百連の催眠が空にすっ飛んで行ってしまう。

 大規模な催眠で状況を変えようとするが、その催眠も制御がガタガタになってしまう。

 

 おじさんの催眠に、空の光の玉――伊吹山の催眠神――が一々干渉し、おじさんの催眠を最小限の力でおかしくしてしまっているのだ。

 

「催眠ベクトル操作技巧……! 催眠ロリ絶頂一族(アクセラレータ)の類か!」

 

 催眠には、『ベクトル』の概念が存在する。

 初心者が催眠の力に驕り、催眠アプリが正面にしか作用しないことを忘れ、側面や背後を取られて殺されるよくあるパターンがこれだ。

 催眠は『矢印』をもって意識し、操る。

 これが初心者が中級者になる第一歩である。

 

 『矢印』を操れるようになると、催眠術師は一気にできることが増える。

 

 AちゃんからBくんに向いていた恋の矢印を、C君に向ける。

 D君に対する認識を自分に向け、自分をD君だと誤認させる。

 対魔忍アサギをイキ殺す。

 将来の夢に向かっていた心のやる気のベクトルを全て性欲に向ける。

 嫌悪のベクトルを好意に反転させる。

 などなど、様々だ。

 

 催眠ベクトル操作は、小さな出力で最大の効果を得ることができる。

 

「単純な技だが、神の出力があれば別か……!」

 

 催眠おじさんの催眠霊圧を100とすれば、始祖催眠神の催眠霊圧はせいぜい30といったところだが、おじさんの催眠の邪魔をするならこれで十分だ。

 

 勇者に催眠解除が行けば、その催眠の向きを変える。

 広域にかかる催眠は、ベクトルを変えてその力同士がぶつかるようにする。

 おじさんが手の中で繊細な催眠制御を始めれば、それをかき混ぜる。

 それだけで、おじさんの催眠は尽く効果を発揮しない。

 

 催眠の神はおじさんの催眠を同等の力で打ち消しているのではない。

 小さな力で邪魔し、逸らし、自爆させているのだ。

 走り出そうとしたおじさんに常に足を引っ掛けているのに近い。

 まるで強大な力を持った対魔忍がクソザコに負けて「くっ……こんなやつに……!」となる時のように、大きな力が小さな力に良いようにイキ地獄を味わわされている。

 

 経験豊富な催眠おじさんが、数万年催眠おじさんをしてきた神に、封殺されているのだ。

 

 おじさんが勇者の怪我もいとわず大規模な催眠を撃てば状況は壊せる。

 だが、そんなことはできない。

 勇者三人が同時に襲いかかって来ている状況で、おじさんが強い催眠を練る時間が常に奪われているのも痛い。

 状況を上手く動かせない。

 催眠おじさんの神を先に倒してしまえばなんとかなりそうではある。

 だが勇者がその邪魔をする。

 

 毎朝ランニングをしているおじさんレベルの彼の身体能力では、スポーツカーが全く追いつけないレベルの勇者の戦闘に、対応することすら難しい。

 おじさんは追い詰められ、伏せ札を切った。

 

「『ポケモンのサイトウ(マリオネット)』」

 

 催眠に弱い女の子が体を催眠で操られ強制オナニーさせられる技の応用で、おじさんの体が催眠によって強制的に動かされる。

 デッサンがヘタクソな催眠本でキャラの関節がおかしいことになっていることがあるが、あれはただの画力不足なのだろうか?

 否。

 あれは本当にそう動いているのだ。

 催眠は肉体に限界を超えさせる。

 不可能な肉体挙動を可能にさせる。

 

 この技は、おじさんが最近開発した新技だ。

 あらかじめ体に回避行動のパターンをいくつも催眠でセットしておき、戦闘中にノータイムで起動することで、思考と同速度での回避を可能とさせる。

 回避速度と思考速度をイコールにできる。

 調教されまくった少女が催眠で記憶を消されても体にイキ癖が残ってしまうのと同じで、体に残ったものは消えない。

 普通の人間レベルでしかないおじさんは、これでなんとかギリギリ、雑な傀儡化で動きのキレが落ちている勇者と渡り合う。

 

 須美の矢を跳んで回避し、銀の斧を異様な身のこなしで回避し、園子の槍を尻だけで地面を滑って回避した。

 限界を超えた跳躍に足の筋肉からブチッと音が鳴り、銀の斧を避ける際に各関節からゴキッとゴリッと音が鳴り、園子の槍をかわした際に尻がスボンの内側で盛大に擦り剥けていた。

 

「ぶ、武器がデカくてかわし辛い……『博麗霊夢(マリオネット)』!」

 

 だが、これ以外に打てる手が無い以上、続けるしかない。

 催眠にかけられた少女のように踊り続けるしかないのだ。

 コナンの手の上で踊らされ続ける小五郎のおっちゃんのように。

 

 厄介なのは、『武器の大きさ』だった。

 

「い、痛っ、クソッ、武器当たってねえのに回避で体壊れてまうわ! 小生死ぬ!」

 

 須美達の武器は全員大きい。

 須美達の身長と同じ長さから二倍近い長さまである。

 大人は3mの武器を楽々使えるか? 否。否だ。

 武器には体格にあった長さがあって、身長と同サイズは明らかに取り回しが悪くなる。

 それでも彼女らは武器を巨大化するしかなかった。

 敵が普通に50mや100mの敵であったから、武器を巨大化しなければ、蚊に刺された程度のダメージしか与えられない可能性があったのだ。

 

 それが今、おじさんに対する特攻として機能している。

 

 おじさんは身体能力が低く、大きくかわせない。

 大きくかわせないと、大きな武器をかわせない。

 攻撃範囲が広いからだ。

 50mのバーテックス相手に50cmの武器を1.5mにしても焼け石に水だが、とっさに1m程度しか飛べないおじさんに対し、勇者達の1.5m武器はべらぼうに強力な攻撃となる。

 

「『東方キャラ全部(マリオネット)』―――!!」

 

 回避しきれない。

 あと数手で詰まされて死ぬ。

 おじさんは咄嗟に周囲全体を昏倒させる催眠を打とうとするが、神に妨害されてしまうこの状況では制御をミスって勇者に後遺症を残しかねない。

 大事な人ができたという弱みが、彼を敗北に近付けていく。

 

「なら!」

 

 おじさんは大気に催眠をかけ、操作しようとして、わざとそちらを邪魔させる。

 そちらは囮だ。

 右手で発生させた囮の大規模催眠を神に邪魔させ、迫り来る銀達の足元に向けて、左手の最速発動催眠を発動させる。

 

「『アルト社長のお笑い芸(スリップ・エスケープ)』!」

 

 これは"あら奥さんお肌つるつるですわね!"の先にある極致。

 対象に肌がツルツルだと思わせ、極めれば本当にツルツルにすることさえできる。

 プラシーボ効果を応用した高等技術だ。

 

 ここは樹海。

 樹海の地面は全部神樹の根でできている。

 ゆえに神樹に"あらあら神樹様のお肌はツルツルですわね"と思わせれば―――あらゆるものを滑らせる、お肌すべすべの転倒領域ができる。

 おじさんは摩擦係数0の神樹の根の上で、永遠に勇者達を転ばせようとした、が。

 

「―――!」

 

 半ば意識もないはずなのに、勇者達が、見事な連携でそれを踏破する。

 

 園子が槍をバラバラにし、空中に固定し、道を作る。

 須美が弓を撃ち、それを回避させることでおじさんの足を止める。

 そして銀が、園子の作った足場を走り、須美が足を止めたおじさんに双斧で斬りかかった。

 

 彼女らの体に染み付いた戦闘連携は、無意識下でも成立するものであり、おじさんが思わず手を叩きたくなるくらいには見事であった。

 

「ぐっ! 『挿入即落ちニコマ(グラヴィティ・フォール)』!」

 

 須美の矢を回避して飛び上がっていたおじさんが、世界に"おじさんは重いから速く落ちる"という催眠を掛けるものの、催眠の神の妨害で上手く落ちることに失敗する。

 かするような当たりでも即死は免れない銀の一撃を、おじさんは全身のスマホを分離解放、目の前に結集させ、盾とすることで受け流した。

 

 鉄が砕けるような音がして、攻撃を受け流したおじさんの盾が砕け、盾だったスマホがバラバラと樹海に落ちていく。

 おじさんは銀の一撃を受けた衝撃を上手く使って吹っ飛び、なんとか距離を取った。

 

「『禁断の果実(アップル)』の加護だ。驚いたか? 罪の名を冠したスマホの強度に」

 

 おじさんは余裕の表情を取り繕うが、状況はかなりマズい。

 

 今の一撃で、50ちょっとスマホを持っていかれてしまった。

 戦闘力は半減……いや、衝撃で体にも入ったダメージを考えれば、戦闘力は半減どころか三割近くまで落ちているだろう。

 もう、天の神ともう一回やり合えるだけの余力はない。

 

 催眠おじさんVS美少女勇者。

 

 悪より生まれし者と善より生まれし者の戦いは、とうとう勇者の勝利に終わろうとしていた。

 よりにもよって、勇者が勝てば確定のバッドエンドというタイミングで、催眠おじさんは美少女勇者達に負けそうになってしまっていた。

 おじさんは衝撃でグラグラとする頭に活を入れ、覚悟を決める。

 

「……まだここじゃ、使いたくなかったが。―――全力稼働(フルドライブ)

 

 将来のための保険を、ここで使い捨ててしまうかもしれない、そんな覚悟を。

 

「あー駄目だな。

 小生駄目だわ。

 なんとか温存して乗り切ろうとしたんだが。

 ……お前らと命懸けで戦ってるっていうシチュが無理。

 耐えられん。はよ終わらせたくてたまらないんだわ、うん」

 

 自分に弓を向ける須美を見て、おじさんは心底嫌そうな顔をして、指を鳴らす。

 

「『スキップ』。悪いな、これ敵にタネが割れると小生あっさり死ぬやつなんで……」

 

 以前須美達に見せた時間感覚操作、記憶操作、認識操作の複合技であるスキップを起動し、おじさんは『誰も記憶できない』時間を作る。

 消耗が大きく、戦闘結果も変えられず、使い所があまりない催眠だが、今はいい。

 

 戦闘をスキップして"これから使うもの"が天の神に見られないのであれば、それだけでいい。

 見られただけで終わりで、見られなければ問題ない。

 おじさんは、そう考えていた。

 

 

 

 

 

 現在の戦線で一番大きな役割を果たしているのは、ヒュプノと美森であった。

 二人は弾幕を形成し、遠方から大型の侵攻をなんとか食い止めている。

 この戦いは誰かが殺されたら終わりなのか?

 いや、違う。

 普段の勇者の戦いと同じだ。

 この戦いは、バーテックスが神樹に到達した瞬間、世界が滅びる戦いなのだ。

 

 バーテックスを足止めできなければ、世界はあっという間に滅びてしまう。

 

「美森ちゃん! きっつい! これきっつい!」

 

「頑張ってください! まだ世界が滅びてないのはあなたのおかげなんですから!」

 

「ほんま!? ワテのおかげ!?」

 

「はい!」

 

 ヒュプノの火力は大型八体分。

 美森は大型一体以上、だが二体には届かない。

 ならば計算上、十体大型がいれば、もうどうにもならなくなる。

 十二星座が勢揃いしているこの状況で、この一人と一体が拮抗できていたのは、奇跡としか言えない大健闘であった。

 

「速いやつから押し込んでいきましょう!

 余裕ができたらおじさまの方に援護を入れていかないと!」

 

「せやなせやせや! ……せやけど天の神動いてきたら終わりやぞ」

 

「あれは、今はまだ大丈夫です」

 

「ほー、根拠は?」

 

「あれは傷が深すぎて動けなくなっているだけです。根拠は、前に見たことがあるからです」

 

 ん? とヒュプノは思ったが、何が引っかかったのか分からなかった。

 

 ヒュプノの矢が多量にバラ撒かれ、その合間を美森の狙撃が抜けていく。

 ヒュプノの大火力はバーテックス達の肉を吹っ飛ばし、その巨体を押し込んでいく。

 美森の正確な狙撃はバーテックスの急所を撃ち抜き、その命を削っていく。

 

 弾の幕で世界を守っている間、ヒュプノの耳には、須美の弓の音がずっと届いていた。

 弓矢が風に当たる音。

 矢が空を切る音。

 弓の弦が弾かれる音。

 それらがそれぞれ心地良くて、今の須美は敵に回っているというのに、ヒュプノはなんだか心強さを感じてしまう。

 

 仲間が敵に回っている不安より、仲間が近くに居てくれる安心の方が強い。

 仲間がそこに居てくれるというだけで、なんだかちょっと安心してしまう。

 自分の心があんまりにも幼稚だったから、ヒュプノは自分に気合いを入れた。

 

「……やるかぁ!」

 

 ヒュプノは戦場を冷静に見ている。

 敵も、味方も、よく見ている。

 だからもうヒュプノは分かっている。

 もう、この戦いに勝ちはない。

 この先に待っているのは敗北だけだ。

 

「こらもう、勝機はないな。……だが、未来が無いとは言わへんでー!」

 

 だからこそ、全力を尽くさなければならないと、ヒュプノは考えた。

 

 

 

 

 

 スキップが終わる。

 そして、催眠の神が消滅した。

 おじさんが膝をつき、残り30になったスマホをかき集める。

 倒れた状態の勇者達はまだ催眠が解けていない状態で、起き上がればすぐにでもおじさんを襲いに来る状態にあった。

 

 スキップは正常に機能していた。

 この状況に至るまで、どういう戦闘が行われたのか、おじさん以外の誰も把握していない。

 情報秘匿系催眠を習得していない者では、スキップされたことにも気付かないだろう。

 

「ぐっ……バレてねーよなこれ。

 美森の世界だとこれで天の神倒したらしいから、知覚されてないといいんだが」

 

 おじさんは『奥義』を使った。

 東郷美森の経験した戦いにおいて、天の神にのみ使った切り札を。

 だがそれは催眠を極めたおじさんですら"未完成"としか言えないレベルにあり、美森が来た未来において、三年の時間をかけて完成させたものだった。

 今の彼では使いこなせない。

 その消耗は、命すら削る。

 

 おじさんは立ち上がるが、また膝が折れ、その両手が根の地面につく。

 おじさんは立ち上がって須美達の催眠を解除しに行こうとするが、立ち上がるだけの力を中々絞り出せない。

 思考に体がついていかない。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、クソっ……!」

 

 今の彼は、たとえるならばプリンに近い状態にあった。

 比喩ではない。

 本当にプリンに近い。

 おそらくその辺の木の棒を拾ってきて彼を殴れば、腕や足はもげるだろう。

 ()()()()()()()()()()

 今使った力の副作用はそれで、タネがバレると、おじさんは天の神を敵に回した時に本格的に勝てなくなる可能性がある。

 天の神が催眠を反射する鏡の力を備えてきた以上、おじさんが天の神を倒すことができる手段というのは、そんなに多くはなかった。

 

「!」

 

 倒れたおじさんに影がかかる。

 おじさんが顔を上げると、立ち上がれない彼を囲むように、勇者三人が居た。

 その手にある武器を振り下ろせば、おじさんは死ぬ。

 

「……これも過去の因果応報か、ってちょっとは思うが」

 

 おじさんは自嘲気味に笑って、すぐその笑みを引っ込めて、懸命な表情で立ち上がろうとする。

 三人を今すぐにでも救うために。

 だが、立てない。

 力が入らない。

 

「お前らが人殺しをさせられる因果なんてねえ、そう思えるから、諦めたくねえな!!」

 

 叫ぶおじさんを見つつ、三人は武器を振り上げる。

 

 そして、武器は振り下ろされ。

 

 振り下ろされた斧と槍を、弓が懸命に受け止めていた。

 

「―――須美」

 

「催眠を解いてください! おじさま!」

 

「ああ!」

 

 おじさんの体に、力が湧いてくる。

 須美の言葉が、おじさんの体に力をくれる。

 天の神が反射したのは、おじさんの究極の姿による最強催眠だ。

 それが反射されたものが、生半可な催眠強度であるはずがない。

 須美はいかな技を用いたのか、それを緩和し、ありえないほど強い意志で催眠を振り切った。

 それは意志の強さと言うべきか、責任感と言うべきか、あるいは愛と言うべきか。

 

 その気持ちに、おじさんが応える。

 

「『アティ先生(マリオネット)』!」

 

 なけなしの力を振り絞り、園子の額に触れる。

 

「起きろ。一番自由な勇者」

 

 園子の催眠を解除し、流れるように銀の額に触れる。

 

「起きろ。一番優しい勇者」

 

 銀の催眠を解除し、最後に残った須美から、無理に催眠を壊してしまったために発生した催眠の残骸を綺麗に取り除く。

 

「起きろ。一番頑張り屋な勇者」

 

 かくして、あっという間に勇者三人は取り戻された。

 

「しゃあッ! こっから逆転だ! あ、先に言っとく! 謝罪は後だ!」

 

 もはや一分一秒が惜しいと言わんばかりに、おじさんが駆け出す。

 少女ら三人も慌ててその後についていった。

 そこに、バーテックスの爆弾が流れ弾で飛んで来る。

 

「園子! 銀!」

 

 近接武器持ちの二人が前に出て、その攻撃を切り落とした。

 

「ふう、ふう、大分しんどい~」

 

「しっかりしろよ、園子!」

 

「……チッ、随分消耗させられたな……」

 

 おじさんへの攻撃に使うエネルギーは勇者の自前の力から抽出されていたようで、勇者三人はおじさんへの攻撃で大分力を消耗させられているようだった。

 攻撃されていたおじさんも、それで力の大部分を使い果たしてしまった。

 神の悪辣は、どうやら神にとって最高最大の結果を出したらしい。

 おじさんはとにかく、美森とヒュプノと合流し、一丸になって敵に当たりたかった。

 

「美森!」

 

 前線の美森を見つけて、おじさんが声をかける。

 美森は応えない。

 声をかけられたことに気付いていない。

 いつもならどんなに小さな声でもおじさんの声にだけは絶対に気付くのに。

 美森の視線は、遠く離れた結界の彼方……()()()()()()()()()に向いていた。

 

「……美森?」

 

「あ、おじさま。いえ―――なんでもありませんよ」

 

 美森は、いつものように微笑んでいた。

 

「御主人様ー! ワテ頑張ったで! お高いチョコが欲しい!」

 

「勝ってからしろ!」

 

 ヒュプノが大量の矢を吐き出し、押し込んだ隙間に勇者が切り込んでいく。

 

「いっくよ~!」

「よっしゃ! アタシが先陣だ!」

「今日は三人だけのチームじゃないから気を付けて!」

 

 メイン火力はヒュプノ。

 切り込みに須美達、勇者のスリーマンセル。

 後方からの援護に、唯一消耗のペース配分が出来ていて、余力のある美森。

 総合支援をおじさんが行う。

 

「やるぞ! ほぼ全員ズタボロだが!

 お前達の心が全く萎えてねえことくらいは、小生にも見えている!」

 

 おじさんの鼓舞に皆が奮い立ち、それをあざ笑うようにバーテックス達の攻撃が飛ぶ。

 

 射手の矢。

 蠍の針。

 地震が襲いかかってくる。

 音波が耳を壊してくる。

 竜巻が須美を吹き飛ばし、水が園子を飲み込み、炎が銀を襲う。

 地面を潜航した敵に美森が跳ね飛ばされ、そのままヒュプノも跳ね飛ばす。

 出来たチャンスに畳み掛けるようにして、残りのバーテックスが接近し、攻め立ててきた。

 

 怒涛の猛攻に勇者達は劣勢になるが、催眠で『撃とうとした攻撃の向き』を捻じ曲げられたバーテックス達がフレンドリーファイアの同士打ちをしてしまい、その隙に立て直す。

 

「立て!」

 

 おじさんの声が響く。

 

「世界なんかのために戦って死ぬんじゃねえ!」

 

 誰も、諦めなかった。

 体が動く限り戦った。

 まだ戦える、まだ戦えると、前に進み続けた。

 

「世界を守って、人を愛して、恋人作って結婚して、ババアになってから死ぬために立て!」

 

 勇者みたいなこと言ってるな、と、おじさんはふと思う。

 

 ここでこいつらと死ぬならそれでもいいな、とおじさんは思う。

 

 でもできればこいつらと生きていたいな、と思って、口角が上がる。

 

「ド派手でかっこいい英雄的な死に方じゃなく!

 クソつまんねえありふれた穏やかな死に方を迎えるために、立てっ!」

 

 真の窮地にもふてぶてしく笑うおじさんを見て、ヒュプノは一つ、覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれは、結構前のことだっただろうか。

 

 ヒュプノが夜中に寂しくなって電話をかけて、おじさんが嫌そうにしながらもヒュプノとの会話に付き合い続けてやった、そんな何気ない日常の一幕のことだ。

 

『今二人っきりなんやから須美ちゃんをどう思っとるのか聞かせてもらえまへんかねブヘヘ』

 

「星だ」

 

『星?』

 

「夜に輝く星。

 暗闇の中で迷った時、アイツを目印に進めば間違えない、そう思える。

 小生なんかじゃ手の届かない星だ。

 星は自分の輝きが見えないからな。

 遠くに居る人間がなんで自分を綺麗って言ってるか自覚持ててないんだよ」

 

 ヒュプノは一瞬、言葉に困った。

 

『……心臓にドスンと来ましたわ。気合入ったラブレターかなんかですか』

 

「茶化すなら最初から聞くな」

 

『いいこっちゃ。

 この世界は星が見えないしなぁ。

 なのにバーテックスは皆星扱いや。

 ワテ射手座やし。

 人が星に見えるっちゅーのは最高のロマンや思いますで』

 

 うはは、と笑うヒュプノに、おじさんは冷たく突き放す。

 

「いいか。小生はお前が死ぬくらいはなんとも思わん」

 

『分かってたけど辛辣ぅー!』

 

「命懸けで守り切れ。須美は特に。

 あと、できれば生きて帰還しろ。

 今はお前の戦力をあてにして予定を立てている。死んだら困る」

 

『というか、ワテ命がある扱いなんすな。死ぬ言うてるし』

 

「? なんだ、それがどうかしたのか」

 

『へっへっへー、なんでもないんやでー』

 

 あれから、それなりの時間が経ったと、ヒュプノは思う。

 

 思えば、遠くまで来たと。よくここまで来れたと、ヒュプノは思う。

 

 

 

 

 

 

 殺到する無数の攻撃。

 十二星座の総攻撃。

 十二星座の体内のエネルギー全てを使い切る勢いの総攻撃が始まった。

 それが須美に向けられて、銀がカバーに入った。

 だが、到底手が足りない。

 

「須美!」

 

「銀! 無茶よ!」

 

 須美を庇うべく前に出て双斧を振るう銀。

 だが足りない。

 何もかもが足りない。

 速さも、力も、手数も。十二星座の総攻撃を受け止めるには、何もかも足りない。

 新型射手座が赤い針の矢を、雨霰と放った瞬間、銀は死を覚悟した。

 

(駄目だ、死―――)

 

 須美だけでも死なせないようにと、銀は恐れを噛み潰し、己の急所を防御することをやめ、背後の須美を守るためだけの防御の構えを取る。

 世界は須美が守る。

 須美は銀が守る。

 なら、その銀は誰が守るのか?

 

 その問いに応えるように、ヒュプノが間に割り込んだ。

 射手座の無数の針の矢が、ヒュプノの全身に突き刺さっていく。

 

「プーさん!?」

 

「全員、ワテの後ろに!」

 

「待って、プーさんの体が穴だらけに……」

 

「ええから! 銀ちゃんの体が穴だらけになるよかマシやろ!」

 

 十二星座の猛攻をヒュプノが体を張って受け止め、その背後に人間達が逃げ込み、ヒュプノが反撃で放つ矢の群れがなんとか攻撃を押し止める。

 攻撃がいくら当たっても、ヒュプノの傷はすぐ治る。バーテックスゆえに。

 しかし攻撃が当たれば当たるほど、その命は消耗していく。

 おじさんはヒュプノの消耗を見て、この状況の継続はマズいと判断した。

 

「ヒュプノ! このままだとお前が死ぬ! 後退しながら立て直すぞ!」

 

「そりゃ悪手やろ」

 

「は? 何言ってんだお前」

 

「奴ら、今メチャクチャなエネルギー使ってますわ。

 この攻撃から逃げず、受けきって、即反撃すれば……

 奴らは立て直しの間もなく全滅するはずや。

 ワテの中にあるのは大型八体分のエネルギー。全部爆裂させれば、いけるやろ」

 

「―――は?」

 

 『自爆する』という宣言を、別の言葉で言ったヒュプノに、おじさんは思わず問い返した。

 

 ヒュプノ・バーテックスは、もう決めている。

 

「須美ちゃん」

 

「え、あ、私ですか?」

 

「君は御主人様の希望の星らしいやさかい。せやから、な」

 

 ヒュプノから生まれた光が須美の弓に溶ける。

 射手から、射手へ。繋ぐように、結ぶように、何かを残す。

 

 

 

「君が次の"射手座"や。あの人を守り切れ」

 

「―――」

 

 

 

 園子が声を張り上げる。

 敵の攻撃はまだ続いている。

 人間を刃物の雨から守る鋼鉄の傘のごとく、ヒュプノは体を張り続ける。

 

「ま……待って! 急だよ! 他に方法があるよ、きっと!」

 

「御主人様は命をかけた献身でしか聞いてくださりまへんやろ?

 でも勇者の子らを死なせるのはあきまへんやろ。

 せや、そんならワテがピッタリやん! と思ったわけで、うはは」

 

「待って!」

 

「待ちまへん。ごめんなあ、そのっち。同性の女の子の友達が出来て、嬉しかった」

 

 園子の声は、震えていた。

 

「御主人様」

 

「おい、待て、バーテックスは同じ個体が作られるって言っても、お前は」

 

「ここで生まれ直したなら、ここがあんたの故郷でっしゃろ。

 唯一無二のあんたの故郷を守りなはれ。

 勇者が、生まれ育ったこの故郷を守るのと同じように。

 うはは……故郷のないバーテックスが故郷云々って言うのもなんかあれやと思いますけどな」

 

「……!」

 

「御主人様は心を操ったら問答無用で悪みたいに言うかもしれへんけど」

 

 うはは、とヒュプノは笑う。

 

「ワテ、どんな形でも、心のないワテに心を与えてくれたあんたが好きやで」

 

「―――ぁ」

 

「きっと須美ちゃんも大好きやで。もーラブラブやろ」

 

「ちょっと!? ……冗談飛ばしてる余裕があるなら、やめてください!」

 

 乙女座の爆弾で、ヒュプノの顔あたりが吹っ飛んだ。

 

「あー死ぬの怖っ。

 死ぬの怖いとか思ったバーテックスワテが初めてやろ。

 でもなぁ、死ぬのを恐れとらんのも本音。

 うはは、死ぬのが怖いのに死を恐れとらんバーテックスもワテが初めてやろなあ」

 

「……お前、怖いなら、やめろ、早くやめろ、小生がいつそんな指示を出した?」

 

「御主人様と須美ちゃんの二人の行末を見届けられんのが心残りや。

 ま、逆に言えば心残りはそんくらい?

 うはは、うはは、死ぬのにこんなに心残り無いんはええことやなぁ」

 

 蠍座の尾が深々とヒュプノに突き刺さり、地獄の激痛を伴う猛毒が流し込まれる。

 

「ん? 死ぬ? ……うはははっ! おもろいわ!」

 

「お、お前、何笑って」

 

「バーテックスに死とかあるわけないやん。

 ただ物質化した力の塊や。

 破壊されたら消滅するだけ。

 同じ名前で同じ形で同じ性能のバーテックスがすぐ生まれる。

 個体名も個体差も無いんやから死もクソもない。大量生産品が壊れただけの話や」

 

「だけど、お前」

 

「……大量生産品の使い捨ての道具が、死ねるところまで来れたんか。幸せやなあ」

 

「―――」

 

 水の刃が、ヒュプノを切り刻んでいく。

 

 ヒュプノは自分の背中側から触手を伸ばして、それを銀の前に出した。

 

「銀ちゃん、握手を。うはは、ワテ、友達と体で握手すんの生まれて初めて」

 

「え? あ、うん」

 

「うはは、あったかいでんな。

 ずーっとやりたかったんや、これ。

 バーテックスは体温無いさかい。

 ……触れるだけで伝わるその暖かさで、御主人様をお願いしますわ」

 

「……うん」

 

 思わず"うん"と言ってしまった銀は、口を抑えて、自分が言ってしまった言葉を否定するために声を上げる。

 

「突撃するならアタシも行くよプーさん! プーさんを死なせたくない!」

 

 ヒュプノは巨体を傾けて、別方向から来た針矢をその身で受け止め、銀にも気付かれずに銀を守り続ける。

 

「死にたくなくても、守りたいもののために勇気を出す、それが―――魂ってやつだから!」

 

「……ああ、なるほどなぁ」

 

「魂輝かせて、かっこつけて死ぬなよ! アタシが守るから!」

 

 ()()()()()()()()と、認められた―――その嬉しさを、心を与えられたバーテックスだけが抱くその気持ちを、きっと銀は理解していない。

 魂があると言われるだけで、ヒュプノはこんなにも幸せなのに、それは人間の誰にも伝わらず、誰もがヒュプノの死を望んでいなかった。

 

「ワテ、嬉しいのか。

 この気持ちは、嬉しいのか。

 いや……なんていうか……嬉しいなぁ……」

 

 おじさんが、叫ぶ。もうほぼ余力がない状態で叫ぶ。

 今の彼の余力では、大型八体分の力があるヒュプノは止められない。

 

「『止まれ』! 『止まれ』! 『止まれ』!」

 

「生きてくだされ、御主人様。

 過去のどんな罪にも囚われることなく。

 過去のどんな教えにも囚われることなく。

 どうかお幸せになってください。

 過去の人間の罪を許さない神を否定するために。

 過去の罪で人を裁き続ける神に抗うために。

 あなたの過去を許す周囲と、過去を償い、過去の自分を許すあなたが必要なのです」

 

「『止まれ』! 『やめろ』! 『行くな』! 『命令を聞け』!」

 

「皆。ここまで弱りきってもうた御主人様、ちゃんと連れ帰ってな」

 

「やめろ……やめてくれ……」

 

「美森ちゃん。御主人様これ以上、泣かせんといてな」

 

「……ええ。ありがとう、プーさん」

 

「あ、そうそう。御主人様。

 どうか、叶うなら……

 "次"もまた、射手座を見つけたら、この子らを守らせてやってください。

 "次"の射手座がこの子を殺すかどうか……そこだけが、ワテの心残りやから」

 

「……ぁ」

 

「うはは、返事ほしかったなぁ。

 ま、ええか。愛してるで御主人様! 乙女の最後のラブあげたる!」

 

 銀を執拗に狙う射手座の針矢をその身で受け止め、穴だらけになりながら、ヒュプノはそんなことを言う。

 

「銀ちゃん」

 

「プーさん」

 

「運が良ければ、次の射手座が、君を守るから。だからこれはお別れやない」

 

「っ」

 

 最後の最後に、ヒュプノ・バーテックスが、友達の三ノ輪銀と話した言葉は。

 

「またね」

 

 何故か、とても人間らしくて、幼い女の子のような、そんな響きがあった。

 

 

 

 

 

 天の神が弱り切っていることは分かっていた。

 攻撃を耐えきった今、十二星座が弱り切っていることも分かっていた。

 十二星座の総攻撃から仲間を守る過程で、もう御霊が崩れ切っていることも分かっていた。

 何もかもが分かっていたから、ヒュプノの飛翔に躊躇いはない。

 

「ワテがなんで笑っとるのか、すぐに分かる! 分からんお前らが負けるからや!」

 

 迎撃が始まる。ヒュプノの肉が消し飛んでいく。もう再生はしない。

 

 再生さえもしないまま、全ての力を溜め込んで、それを臨界まで持っていく。

 

「御主人様散々泣くやろな! 正直ゴメン! そこはゴメン! でもしゃーないやん!」

 

 自分自身を爆弾にして、怪物の群れとその奥の神に、突っ込んで行く。

 

「どんなに泣いたって、最後まで生きて、幸せになったもんが勝ちやろ! うはは!」

 

 大きな爆弾と化したヒュプノが輝き、そして、世界を揺らがすほどの規模で、爆裂する。

 

 

 

「―――ああ、まったく! 世界で一番幸福なバーテックスになってしもたわ! かーっ!」

 

 

 

 どうか、自分に優しくしてくれた人達が皆、幸せになりますように……と願って。

 

 共に戦った仲間の未来の祝福を願って。

 

 ヒュプノ・バーテックスは、その短い生涯を終えた。

 

 

 

 

 

 支配には、いくつもの種類がある。

 力による支配。

 催眠による支配。

 愛による支配。

 救済による支配。

 バーテックスは人を滅ぼすためだけに在る生命体で、人のような多様な心は持たない。

 生み出した神が、多様な心など与えていない。

 力による支配以外の存在意義を、神は何一つとして与えなかった。

 

 ヒュプノに心を与えたことは、正解だったのか。不正解だったのか。

 それを決めて良いのは、ヒュプノ・バーテックスただ一人である。

 

 力による支配ではなく、愛による支配を受け入れ、そのために死を選ぶ。

 愛する者のために戦い、命を失う結末を選ぶ。

 ヒュプノは化け物として生まれ、人のように死んでいった。

 人への呪いとして生まれ、人を祝いながら死んでいった。

 人の大切なものを踏み躙るために生まれ、大切な人を守るために死んでいった。

 

 戦いは終わった。

 

 死人は0と計上される。

 

 死んだ人間は誰も居らず、死人0で天の神の襲来を乗り越えるという快挙に、大赦は沸き立つ。

 

 

 

 この世界の外から来た男はずっと、ずっと、ずっと、泣き続けた。

 

 

 




次回、企画範囲最終回


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ろうたける想い

 ふと部屋で一人でいる時、おじさんは思い出す。

 

―――御主人様ー! ワテ頑張ったで! お高いチョコが欲しい!

 

「そういやヒュプ……」

 

 思い出して、"どんなチョコがいいんだ"と言いかけた言葉を止め、もういないことを思い出す。

 

「ああ。そうか。もういなかったな」

 

 おじさんは小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

 

「チョコ買わなくて済んで良くなったか。

 あいつが死んでせいせいするなァ。

 いっつもいっつも食い物要求しやがって、いい気味だ。ハッ」

 

 あまりにも痛ましく、虚勢しかなく、本音が何一つとしてない言葉が漏れる。

 誰も聞いていないのに、おじさんは心にもないことを言い始める。

 自分しか聞いていないのに。

 自分に言い聞かせるように、言っていく。

 

「最近夜は毎晩電話かけて来てたからな。

 ったく。どんだけ寂しがり屋なんだ。

 毎晩付き合わされる身にもなれ。

 夜が来る度に長電話かけてきやがって、このアホが」

 

―――ほんでなー、銀ちゃんがワテのこと褒めてくれたんや! ごっつ嬉しい!

 

―――良かったな。お前に友達が出来て、小生もまあ、良かったとは、思うぞ

 

―――ツンデレ

 

―――殺すぞ

 

「はっ、なんだこの関西人のお笑いDVDの数!

 ありえねー! 全部売ってこねえと。ヒュプノしか見ねーだろこんなよォ!」

 

―――うはははは! ん? 御主人様お笑い聞かないんか?

 

―――ん? 聞いてるぞ。楽しんでる

 

―――お笑いでわろてるワテの声を聞いて楽しんでるとかそんなん?

 

―――お前本当に原辰徳

 

「なんだこのメッセージカード!

 あ、園子の誕生日が八月末だったな!

 小生が代筆したんだったか!

 あと一ヶ月かそこらで生まれて初めて友達の誕生日祝えたのにな!

 友達の誕生日祝えること楽しみにしてたなヒュプノ!

 でもバーテックスじゃしょうがねえか! 人間みたいに生きられず死んでも!」

 

―――そのっちは推せる

 

―――いきなり何意味分かんねえこと言ってんだテメー

 

―――そのっちのスカートになりたいんや

 

―――い、意味分からん

 

―――あの子がサドっ気見せた時に愛のあるいじめをされたい! 尻に踏まれたい!

 

―――やめろ! あの子をそういう目で見るな! 穢すな!

 

「あー、これは海の観光本だ!

 買った意味無かったなー、ヒュプノ!

 銀と海行ってみたい、とか言ってたな!

 バーテックス海のある世界とか見たことないもんな!

 結界の外は燃え尽きてる!

 結界の中では樹海しか見られない!

 バーテックスは海を見ないまま皆死ぬ!

 あんなに海は綺麗なのに!

 かわいそうになあ!

 あ、ヒュプノも見ないまま死んだんだっけか!

 お前は銀と仲が良かったから海が見たかったんだろうけど見れなかったな! バーカ!」

 

―――知ってるかヒュプノ。天国では皆、海の話をするんだぜ

 

―――ほへー、ほんま? 誰が教えてくれたんや?

 

―――Knockin' on heaven's doorってドイツの映画で出て来た話さ

 

―――海の話かぁ。海見たことないんやワテ

 

―――見りゃいいだろその内。不安なら本買ってくるから待ってろ

 

―――おーきに! 須美ちゃんの水着が見たいですねぐへへ

 

―――こいつ……ったく

 

―――海泳いでみたいなぁ。銀ちゃんに泳ぎとか教わりたいねん!

 

―――海は綺麗だぞ

 

―――そんなに?

 

―――だから天国では皆海の話をするのさ。海の話ができないと仲間外れなんだ

 

―――あー、それは見るまで死ねん! 見るまで死ねんやつー!

 

 おじさんは笑って、笑って、笑って、糸を引いて張り詰めさせるように、笑って。

 

「ああ」

 

 ぶつっ、と。糸が切れるように、笑いが消えた。

 

「小生は、寂しいのか……」

 

 彼がこの世界に来るまでの人生と、この世界に来てからの人生は、まるで違う。

 

 まるで違うその二つの人生が、その人生を構成するあらゆる要素が、今ここに一つの点を結ぼうとしていた。

 

「寂しいよ……だから……戻ってこいよ……」

 

 彼は、催眠がかかっていない人間を絶対に信用できなかった。

 人形にしていないと信頼できない人間だった。

 幼少期に仕込まれた精神性から、30年近く生きてもなお抜け出せていなかった。

 だから彼は、自分と周りの人間との繋がりを、『お人形遊び』と思うことしかできなかった。

 

―――インチキおじさんは、どうして人が信じられないのかな

―――催眠をかけてお人形さん遊びにしないと、他人を大切にできないのはなんでなのかな

 

 園子の指摘は、実に正しかったと言える。

 

 彼は、根底の部分が変われなかった。

 成長しても変われない。

 他人が変えてくれても変われない。

 光の中に居るのに、へばりつく過去が彼に変化を許さなかった。

 一族が、両親が、死してなお彼に変化を許さなかった。

 

 そんな彼に、付き合いも短く、おじさんの精神的な急所に触れてもいなかったヒュプノが影響を与えられた理由は一つ。

 『人間じゃなかった』からだ。

 

 人間を信じるな、と両親は言った。

 じゃあ人間じゃない存在は?

 人間の心への不信を、両親は植え付け続けた。

 じゃあ人間の心じゃないなら?

 人間とはお人形遊びしかできない。

 なら怪物とは?

 

―――おっかしいな……こいつも催眠の強制微妙に外れかけてんのなんでだ……?

 

 おじさんは、ヒュプノの催眠が外れかけていたことを大して気にしていなかった。

 と、いうか。

 ヒュプノが完全に催眠の支配を脱していることに、本当は気付いていた。

 気付いていたが実は、おじさんはそれを大したことでもないと自然に思い、無意識下でスルーしていたのである。

 

 元々敵であるのなら、僅かに催眠が緩んだだけでも、死ぬほど警戒するのが当たり前だ。

 ヒュプノが裏切って後ろから撃ってきたら、その時点で全滅なのだから。

 須美達の催眠が緩む疑惑があっただけでも催眠をかけ直し、園子の記憶齟齬を見て即座に頭の中を調べるおじさんが、ここまで無警戒なのは、明らかにおかしなことだった。

 

 おじさんはヒュプノを信じていた。

 お人形遊びだなんて、微塵も思わないほどに。

 

 おじさんはヒュプノに対し、ある意味、須美達以上に心を開いていた。

 死ね死ねと気安く言うし、頼まれればコンビニで酒も買ってくるし、普段扱いが雑なくせに、いざ死ぬとなれば誰よりもうろたえていた。

 友達だった。

 友達だったのだ。

 両親の教育でおじさんが壊れる前、素直な気持ちで作っていた、何の壁も無い友達と同じ感覚で付き合える―――友達だったのだ。

 

 だからもう、両親が彼の中に作った歪みは、取り払われていた。

 ヒュプノは人間ではないが、その心はもう人間のそれだった。

 人らしく生き、人らしく死んだ。

 その最後が、彼を変えたのだ。

 『あなたはもう催眠の無い人とも絆を紡げる』―――命をかけて、ヒュプノはそれを彼に伝え、彼の心を最後に少しだけ救っていった。

 須美達にほとんど救われていた彼の心の、最後の部分を、救っていった。

 

 彼がどうしても越えられなかった最後の一線を、ヒュプノが越えさせていた。

 

 ぽつりと、おじさんが呟く。

 

「『戻ってこいよ』」

 

 対象がいない催眠が、不発に終わる。

 言葉はどこにも届かない。

 ヒュプノはもうどこにもいない。

 知っている。

 他の誰でもなく、おじさんが一番良く知っている。

 自分は神ではないから、催眠では死んだ人は蘇らないから、もう何も意味はないのだと。

 

 おじさんは部屋の隅の、山のように積み上げられたストロングゼロに手を伸ばす。

 ヒュプノが飲みたがっていたものだった。

 ヒュプノの巨体を酔わせるには大量の酒が必要だな、と思って、各地のコンビニを一人で回ってあくせく買い集めたものだった。

 酒を並べられた時のヒュプノの顔を想像して、買い集めていた時のおじさんは、心底楽しそうに笑っていた。

 

―――ヒュプノのやつ、こんだけ持っていったらびっくりするだろうな。ケケケ

 

 なんであの時の小生は笑ってこんな酒を買ってたんだろう、と思いながら、おじさんは酒を飲んでいく。

 

 一本、二本、やがて五本、十本と飲み干していく。

 

「はっはっは! 楽しい! 楽しい気持ちだなヒュプノ!」

 

 おじさんは笑う。

 

 とても楽しそうに笑う。

 

「小生もお前と同じだぞ! 人生楽しんでるぞ! 人生楽しいなオイ! ひゃはは!」

 

 笑う。

 笑う。

 笑う。

 笑う。

 笑う。

 

 笑えない。

 

「ひゃは、は……」

 

 兄の言葉が、彼の心に蘇る。

 

―――希望を持つな。

―――期待するな。

―――信じるな。

―――諦めろ。

―――そうすれば自分の想いに殺されない。

―――諦めれば……この薄汚い遺伝子の中に生きる小生らでも、多少はマシに生きられる

 

 弟をよく知る兄の言葉は、どうしようもないくらい、今の彼に刺さっていた。

 

「何も守れないなら……生まれて来なかった方が、よかったんだよな」

 

 ヒュプノは自分の命と引き換えに、主の命と心を救った。

 

 それは間違いなく、この上ないほどの大偉業だった。

 

 けれど、それでも―――友が死んでしまったことは、胸が張り裂けそうなほどに、悲しかった。

 

 

 

 

 

 鷲座、という星座がある。

 鷲の翼を成す星と、『鷲の尾』を成す星で構成される星座だ。

 ギリシャでは古来より、この鷲がゼウスの雷の矢を運んでくると考えていた。

 星座の鷲は、弓持つ者の相棒である。

 

 この鷲座と隣り合うのが、射手座。

 ヒュプノの源流である、空に輝く星座である。

 黄道十二星座と呼ばれるものの中で、射手座は最も古いものと考えられており、人類最古の文献ギルガメッシュ叙事詩に既に原型があるという。

 人間が残した文献の古さで言えば、天の神のそれより遥かに古い。

 かつて『パビルサグ』と呼ばれたその射手座の男は、神に従う人馬の射手ではなく、人と人が生きる街を守る弓の達人であった……と、記録されている。

 

 また、バーテックスは一部占星術に準じた能力を持つ。

 バーテックスの分析には占星術を使うのが最速だ。

 占星術において、射手座12度は『鷲は夜明けを告げる』の意を持つ。

 夜は終わる。いつか必ず夜明けは来る。

 

 『鷲』は、『射手』となることで、黄道の十二星座に並ぶ存在となる。

 

 そして、人を守る射手となり、夜明けをもたらすのだ。

 

 『天に弓引く青き勇者』となって。

 

 天の神―――太陽は、この世界において、人の敵だ。

 

 されど空に煌く星全てが人の敵ではない。

 

 暗闇の中、輝く星は、人を導く。

 

 

 

 

 

 鷲尾の家で、窓の外を眺めながら――本当は何も見ないで――たそがれる美森を、須美は真剣な表情で見つめていた。

 

「須美ちゃん」

 

「はい。なんでしょうか」

 

「私、あなたが羨ましいわ」

 

「? どういうことでしょうか?」

 

「おじさまは私を、大人になったって褒めてくれるけど……

 今の私にはもう、できないことがいっぱいある。

 あなたを見てるとそれが分かるの。

 変化するということは、何かを得て、何かを失う繰り返しだから」

 

 美森に「変身してみて」と言われて、須美は素直に勇者の姿へ変わり、美森も同様に変身し、須美は弓を肩に寄りかからせ、東郷は狙撃銃を壁に立て掛けた。

 

「須美ちゃん。あなたは『鏑矢』なのよ。おじさまの知識の外側にいるの」

 

「鏑矢……魔祓いの神事で使う矢のことでしょうか」

 

「ええ。そして、あなたの武器は、神樹様が鍛え上げた『梓弓』」

 

 『鏑矢』。

 かき鳴らす音で魔を祓うという、退魔の矢。

 されどこの世界では、別の意味も持ち、『勇者と対等の魔を討つ者』という意味と、『人の魔を討つ者』という意味があった。

 

 この世界の外野であるおじさんは、この世界における鏑矢の立ち位置を知らない。

 神世紀72年に"鏑矢"と呼ばれた少女達が世界を守ったことを知らない。

 おじさんのような『人類の敵である人間』と戦う少女達であったことを知らない。

 "鏑矢"の名にそういう運命があることを知らない。

 『弓と矢』を与えられた須美に、大赦がどれだけの期待を寄せていたかを、知らない。

 

 『梓弓』。

 ()()()()()()()()()()()()()

 須美の武器は、梓弓をベースにしたものであり、彼女の弓撃はそれそのものが神事である。

 弓を引き、放つだけで、彼女の弓は魔を祓う。

 

 だからここには、大赦の卑屈な思想が見て取れた。

 天の神は神だから祓われない。

 バーテックスは魔物扱いして、それを祓う。

 天の神には媚び、バーテックスは打ち倒す、そんな卑屈な二律背反。

 ゆえに、神道などの研究者から見れば上から下まで『魔祓いの弓』である須美は、決定的な特攻を発揮することなく、大した有利もなく、神の僕と戦い続けるしかなかったのである。

 神に、魔祓いは刺さらない。

 

 けれど、催眠おじさんという魔の系譜に対しては、この上ないほどに特攻だった。

 

 須美の弓に風が当たる音を聞くだけで、銀や園子は催眠が解けていった。

 須美が弓を放つ度に、共闘していたヒュプノは自由になっていった。

 須美の弓の弦が鳴る度に、美森は消された記憶を取り戻していった。

 

 鏑矢。

 梓弓。

 須美が扱う二つのそれは共に、弓が鳴らす音に魔祓いの力があると言われている。

 周囲に響くその音だけで、須美はおじさんの催眠を解除してしまうという、完成すれば全宇宙に並ぶ者がないレベルの"催眠術師の天敵"と成り得る者だった。

 

 あの日、『美森からのメール』を受け取った須美は、美森が持っていた情報を断片的に取得し、弓を『魔祓いの弓』として正しく使う訓練を始めた。

 

 毎日毎日それを続け、無意識下でも弓に力を集め、そう使う癖を付けた。

 催眠状態でも体に染み付かせた動きがそのまま出るのは、おじさんと戦った時の三人勇者や、マリオネットを使った時のおじさんを見ればよく分かる。

 須美は体に魔祓いを習慣付けた。

 よってもう、催眠にガチガチに拘束されても、それを無意識の動きで解除できる。

 たとえばおじさんが「小生が来週死ぬまで何もするな」と催眠をかけても、須美の弓は毎日少しずつ、少しずつ、催眠を解除し、必ずやおじさんの命を救うだろう。

 

 須美がそう在ったことで、周囲の催眠はずっと緩み続けていた。

 

 だからこそ今、おじさんと催眠抜きで向き合ってくれる人間が、何人も居た。

 

 鷲尾須美は巫女にして勇者。

 この世で唯一のハイブリッド。

 神樹の世界の『救世主』―――あらゆる魔から、世を救う者。

 

 けれど須美はトンチンカンな方に全力疾走し、世界から魔を救ってしまった。

 残酷な世界から魔のおじさんを救ってしまい、光の側に引き戻してしまった。

 見守っていた神樹の中の地の神々の内数体は、そんな須美を見て笑い転げていた。

 

 催眠にかけられるのとそれを自力で緩めるのを繰り返したことで、須美は催眠を跳ね除ける意思を鍛え上げ、催眠にクソザコな体質のまま、催眠を跳ね除ける心を手に入れた。

 恐るべきことである。

 病気の抗体と同じだ。

 病気にかかればかかるほど、人体はそれに対抗する力を身に付ける。

 誰よりも催眠にかかりやすく、誰よりも催眠を打ち消す力を持っていた須美は、その心に恐るべき力を身に着けていた。

 

 須美は失敗しない生き方ではなく、大失敗した後にやり直す生き方をしている。

 転ばない生き方ではなく、転んでも立ち上がりまた走る生き方をしている。

 催眠で操られないのではなく、操られてからそれを最善に導く生き方をしている。

 鷲尾須美の生き方は、ずっと一貫していた。

 

 東郷美森は自分の力を戦闘に最適化し、武装も銃に持ち替えてしまったため、須美と同じ力はもう持っていない。

 おじさんを守るため、より強い力を求めたことを、美森は後悔していない。

 後悔してないが―――もう自分は須美にはなれないと、実感もしていた。

 

 この世界で唯一人、鷲尾須美だけが、おじさんが本気で世界を滅ぼそうとした時、それを打ち倒すことができる。

 おじさんが催眠の力で己の死を選んだ時、それを止めることができる。

 親の教育で全ての他人を自分の下に置くことしかできなかったおじさんに対し、彼女だけが、唯一対等な目線で向き合う資格を持っていた。

 

 鷲尾で、継いだ射手座で、鏑矢で、梓弓を持つ、花の勇者。

 彼女という存在は、運命の結実点に居る。

 輝ける希望の中にいる。

 

「天の神。見たでしょう? 私は二度目だったけど」

 

「はい」

 

「私はあれが憎かったの。

 おじさまを殺したあれが。

 ―――この手で殺してやりたいほど、憎かった」

 

「……!」

 

 だが美森は、この時代に来る前からずっと、心に闇を抱えていた。

 拭い去れない絶望と憎悪を、ずっと捨てきれずにいた。

 

「おじさまと相討ちになったから、もうその時には消滅していて……

 仇討ちもできなくて……

 悔しくて、憎くて、許せなくて……!

 過去に行ったら、絶対にこの手で殺してやりたいと、心底思ってて―――」

 

「……東郷さん」

 

「でも」

 

 美森は泣きそうな顔で、おじさんを守れなかった負け犬として、本音を吐露する。

 

 今まで一度も見たことのない美森の表情なのに、須美は鏡を見ているような気分だった。

 

「私は間違っていたんだわ。私はおじさまに笑っていてほしかった。

 だから死んでほしくなかった。

 だから泣いてほしくなかった。

 私はずっとおじさまのヘタクソな微笑みを見ていたかったの。

 もう二度と、あんな風に泣くおじさまを見たくないって、そう思っていたのに……」

 

「……」

 

「戦いの最中、天の神を見た時からずっと、憎かった。

 ずっと天の神を視界のどこかで見ていた。

 冷静になりきれてなかったかもしれない。

 私の世界にプーさんなんていなかった、なんて言い訳にならないわ。

 その死を、予想しておくべきだった。

 そうすれば……おじさまが涙を流すことも……なかったかもしれないのに……」

 

 須美にしか理解できない、責任感が強すぎる美森の後悔。

 なればこそ、美森にまた前を向かせることができるのは、おじさんか、須美しかいない。

 

「私はあなた。

 あなたは私です。

 だから"そんなことないです"なんて言えません。

 安易な励ましはしません。

 同じ立場なら、私も絶対にそう思うって、分かりますから」

 

「須美ちゃん……」

 

「戦いを終わらせましょう。

 私とあなたで。

 鷲尾須美と、東郷美森と、三ノ輪銀と、乃木園子と、おじさまで。

 ……もうこれ以上、知っている人が死んでしまうのは、見たくないんです」

 

 須美が無言で弓を掲げる。

 無言でその意を汲んだ美森が、自分の頬を叩いて、掲げられた弓に己の銃を打ち付ける。

 戦うための『彼女』の武器と、魔を打ち払う『彼女』の武器が、鈴が鳴るような音を部屋の中に響かせた。

 

「ええ、戦いましょう。私にも、約束があるから」

 

「約束……私にもなんとなく想像がつきますね」

 

「ふふっ。秘密よ。だってあれは、私だけの、私の人生を決めた思い出だから」

 

 美森を美森足らしめているのは、記憶。共に過ごし、共に闘った記憶。

 

「忘れられない記憶があるの。

 何があっても絶対に忘れない記憶。

 私達は忘れることで変わったんじゃないわ。

 忘れられない記憶があるから、こうなって、そうしたいと願った……」

 

 須美/美森は、何も忘れない。

 

 全てを抱えたまま進んでいく。

 

 何も忘れず、過去の記憶の全てを力に変えることが、他のどんな勇者にもない、彼女だけが持つ強さだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酒の缶と瓶がそこら中に転がっている部屋の奥に、その男は居た。

 瞳は虚ろで、視線はどこを見ているか分からず、部屋に充満した甘ったるいアルコール臭の中、男は浅い呼吸だけを繰り返していた。

 

「おじさま」

 

 須美の声に男は敏感に反応し、けれどいつものように優しく微笑みかけることはなく、男は鋭い目つきで須美を睨みつけた。

 須美は何故か変身後の姿で、その手に弓を持っている。

 

「出ていけ、須美」

 

「出ていけません」

 

「小生の言うことが聞けないのか」

 

「聞けません」

 

「『出ていけ』! 『小生を一人にしろ』! 『もうずっと孤独が良い』!」

 

「っ」

 

 おじさんの破れかぶれの催眠が、須美を飲み込む。

 須美は強靭な意思と、美森のメールにあった催眠抵抗術を駆使して耐え、弓の弦を鳴らす。

 何度も、何度も、何度も、何度も。

 催眠が緩和されるが、催眠の効果は止まらない。

 須美の足が一歩、また一歩と、後ろに下がっていく。

 世界を支配するほどの催眠おじさんの催眠は、須美でなければここまで食い下がることすらできず、須美であっても力負けしてしまう。

 

「それなら!」

 

 だから須美は、自分の足に矢を刺した。

 

 『鏑矢』の概念と、走る痛みが、催眠に操られ動いていた足を停止させる。

 

「!?」

 

 催眠の支配で動きが悪くなってきた足を無理矢理に動かし、強い意思で前に進む。

 鏑矢と梓弓で、催眠という魔を祓う。

 一歩、一歩、少しずつでも、確実に前へ。

 そうして須美は、部屋の奥で酒浸りになっているおじさんに近付いていく。

 

「そんな命令は聞けません。私は、あなたを一人にしません」

 

「……」

 

「私は、あなただけのみー子ですから」

 

「―――」

 

 須美を冷たい目で見ていたおじさんが、苦虫を噛み潰したような表情になる。

 

 須美はおじさんの手を握ろうと、おじさんに歩み寄っていく。

 

 擦り切れた雰囲気のおじさんの前に須美が辿り着いた時、ことは起こった。

 

「―――!?」

 

 おじさんが須美を引き寄せ、抱き締め、二人の唇が触れた。

 

 おじさんの右手が須美の頭を、左が胴を抱え込んで、須美は抜け出そうにも抜け出せない。

 

「―――!」

 

 おじさんの胸を押して、腕をどけようとして、おじさんを怪我させないようにドンドンと叩いてなお逃げられず、時間が流れる。

 須美にとっては一時間にも、二時間にも感じられる時間だった。

 一分経ち、二分経ち、三分経ってようやく、須美はおじさんを突き飛ばすことができた。

 

「な、な、何を」

 

 須美は顔を赤くして、視線はまともにおじさんの顔を見られず、人差し指が『今の感触』を確かめるように、唇をなぞっていた。

 

「傷付いたか。嫌いになったか」

 

「……え?」

 

「小生はもう周りを傷付けて、不幸にすることしかできない」

 

 おじさんが須美を自分から傷付けるという異常事態が今の彼の状態を須美に教え、俯いた姿が今の彼が罪悪感の塊であること、声の弱々しさが彼の追い詰められ度合いを教えてくれる。

 

「どっか行け。小生に関わるな。明日、この家も出ていく。一人で戦う」

 

 乙女のファーストキスを奪っておいて、この態度。

 男としてかなり最低で、事実、彼は最低と思われたくてこんなことをしていた。

 自分の意思で催眠を突破することもできるようになった須美が、嫌悪と怒りで催眠を打ち破り、自分を心底嫌ってみせてくれることを願っていた。

 彼女が自分を見捨ててくれるよう、祈っていた。

 

 そんな愚かな催眠おじさんが、美少女勇者に勝てるわけがないというのに。

 

「プーさんが、言ってたんです。

 最後に話した時、言ってたんです。

 『須美ちゃんと御主人様は同じくらい不器用やねん』

 って。……そんなことないですよね。おじさまの方が、笑っちゃうくらい不器用です」

 

 須美にかかった催眠は消えていない。

 全てある程度緩和され、須美の意思に力負けしているが、須美が少しでも気を抜けば催眠の奴隷になってしまいそうなくらいには、たくさんの催眠が未だかかっていた。

 

 たとえるなら鎖だ。

 須美の体に無数の鎖が巻き付いている。

 須美は重たい鎖に引っ張られ、なんの負けるかと引き返し、力強く前に進み、手を伸ばす。

 伸ばした手で、その人を救うために。

 

 今、彼女が伸ばす手の先には、彼が居る。

 

「あなたが付けてくれた傷ならいいです。喜んで受けます」

 

 傷付けて遠のけようとしたおじさんと、かつて中庭で傷付くことを恐れないと語った少女が、真っ向向き合う。

 彼が付けた傷すら受け入れられてしまった時点で、彼はもう完璧に負けていた。

 

「あなたがくれた傷も、あなた自身も、大切にします。ずっとずっと。だから」

 

 須美はおじさんの催眠全てと戦いながら、おじさんの手を取り、握る。

 

「一人で泣かないでください」

 

「―――」

 

 握った手の中、愛が伝わる。

 手と手の間、温度が伝わる。

 おじさんの手を握る須美の手は、暖かった。

 彼が感じたその暖かさは、かつて須美が不安だった時、須美の手を握ってくれた彼の手から伝わった、須美を笑顔にした暖かさと同じもの。

 

 かつておじさんの手から須美に伝わったものが、須美の手からおじさんの手に伝わっていく。

 

 愛し合えるなら、救い合える。それが、世界の不動の真理。

 

「……ああ」

 

 この先、彼がどんな人生を送ったとしても。

 この先、彼がどれだけ幸福になっても、どれだけ不幸になっても。

 この瞬間を超える人生の転換点はない。そう言い切れる、"決定的な瞬間"が訪れる。

 

 誰も信じるな、と悪に育てられてきた子供が。

 

 

 

「『催眠全解除』」

 

 

 

 "人を信じる"という、人の最も尊い美徳を選んだ瞬間が、訪れる。

 

 鷲尾須美に絡みついていた催眠の全てが消滅し、おじさんは催眠をかけ直すことはせず、ただじっと、須美の言葉を待った。

 

 真剣な面持ちの須美が、口を開く。

 

「おじさまに、嫌いなところがいくつかあります」

 

「ああ」

 

「おじさまの大好きなところが、たくさんあります」

 

「……ああ」

 

「だから、一緒に居てください。これからもずっと」

 

「―――ああ。ずっと一緒に居るよ。君が望む限り、君の傍に居て、君を守る」

 

 須美の真面目な表情が崩れて、心底嬉しそうな年相応の表情が浮かんで、須美がおじさんに飛びつくようにして抱きついた。

 

「……嬉しいですっ!」

 

 おじさんはヘタクソな微笑みを浮かべて、須美を優しく抱き止める。

 

 そんな二人を、部屋の外からこっそり、美森が見守っていた。

 見覚えがあるような光景だった。

 見覚えのない光景だった。

 美森が来たことで歴史は変わり、彼女が知る出来事は起こらず、天の神の襲来は三年早まり、須美とおじさんの会話とその内容も随分と違っていた。

 

 繋いだ絆の形は、変わらなかった。

 美森はそう信じたかった。

 信じたいけど、そんな自分を否定したかった。

 否定できなければ、あまりにも心がみじめだったから。

 

「すごいわ、須美ちゃん。……私は、おじさまが死ぬまで、解除してもらえなかったんだから」

 

 悲哀があった。

 後悔があった。

 嫉妬があった。

 納得があった。

 喜びがあった。

 『鷲尾須美/東郷美森では彼を救えない』なんてことはないのだと、須美が証明してくれた気がして、美森は一人、静かに微笑む。

 

 おじさんが幸せそうにしているだけで、美森はなんだか満足だった。

 胸の奥に湧いた負の感情が、一つ残らず出ていってしまう。

 

「でもキスは私もしてもらったことなかったから……これもジェラってるって言うのかしら?」

 

 彼と自分の物語を、本当の意味で今始めた少女と。

 

 その物語が、もう終わってしまった少女が居た。

 

 

 

 

 

 神世紀298年7月24日。

 雨天だったのと、勇者の体調を考慮し、二週間ほど延期されていた神樹館の遠足が行われた。

 「寂しかったら電話かけていいですからね」は須美。

 「お土産いっぱい買ってきます!」は銀。

 「一番楽しんでくるね~」は園子。

 三人を送り出した美森とおじさんは、二人で帰路についていた。

 

「たまには、朝ごはんどこかで食べていきましょうか」

 

「美森」

 

「はい、なんでしょうか」

 

「『催眠全解除』」

 

 驚く美森の、頭の中の靄が晴れる。

 須美のおかげで六割がた解除されていた脳の催眠が、全て消え失せる。

 驚いた美森が何か言う前に、おじさんは深々と頭を下げた。

 

「まずは謝る。

 心を、想いを、踏み躙ってごめん。

 その上で頼む。

 死にたくない。

 生きていたい。

 子供達の生きていく先を見ていたい。

 だから……助けてくれ。お願いします」

 

 催眠のかかってない東郷美森を信じ、頼り、頭を下げて、助けを求める。

 それは、美森が見たこともないような、おじさんが一人の弱い人間として自分に向き合ってくる姿で、美森の胸の奥に、沸き立つような気持ちがあった。

 美森は思わず、彼が下げた頭を、思いっきり抱きしめていた。

 

「喜んで」

 

 そしておじさんが美森の腕を叩いてタップする。

 

 余裕でバスト90以上はあろうかという胸の高波に飲み込まれ溺れ死ぬという人生最大の危機(二回目)を脱したおじさんは、青い顔で呼吸を整えていた。

 

「あっ、ご、ごめんなさい」

 

「巨乳の波浪警報出せっつったろうが……学習してないのか……!?」

 

「あ、ああは……あ、あのレストラン開いてるみたいですよ! 席取ってきます!」

 

 ごまかすようにして、美森がレストランの中に逃げ込んでいく。

 

「ったく」

 

 おじさんが呆れていると、レストランの向かいの文房具屋の店頭に、売れ残った古いキーホルダーがあるのが目に入る。

 

「これください」

 

「はいよー。税込み300円ね」

 

「ありがとうございます」

 

「こちらこそお買い上げありがとねー」

 

 そのキーホルダーは、そこそこヒュプノと似ていた。

 そこそこである。

 「まあお前ならそこそこでいいだろ?」とおじさんはつぶやき、思い出の中のヒュプノが、「ワテっぽくてもっと高いの買えやー!」と声を上げていた。

 

 キーホルダーを指に引っ掛けて、くるくる回して、おじさんは街を見渡す。

 今日も平和な世界があった。

 おじさんの第二の故郷があった。

 守るべき日々の幸せがあった。

 

―――うはは……故郷のないバーテックスが故郷云々って言うのもなんかあれやと思いますけどな

 

 ヒュプノの言葉を思い出し、おじさんは今更になって、それを否定する。

 

「お前は小生だ。"これを守るためなら死んでもいい"って思えてしまった、小生の鏡だ」

 

 東郷美森を庇って死んだ自分の気持ちが、彼には分かる。

 仲間を庇って死んだヒュプノの気持ちが、彼には分かる。

 かつての彼には本当の意味では分かっていなかった。

 彼に教えてくれた人達が、彼を変えてくれた人達が居た。

 

「お前に故郷が無いなんて嘘だ、ヒュプノ・バーテックス」

 

 バーテックスに心を与えた男が、その心の死を悼み、今は亡きその心を想う。

 

「お前の故郷は小生が―――『俺』が守る」

 

 ぎゅっとキーホルダーを握り締めると、近場の小学校の開け放たれた窓から、この世界の小学生が毎朝皆やっている朝礼が始まる。

 

「起立、礼!」

「「「 神樹様のおかげで、今日も私達があります 」」」

「神棚に礼!」

 

 ああいうの須美達もやってんだよ、と思ったおじさんが、ふと思いつきでヒュプノ風キーホルダーを掲げ、悪戯っぽい笑い方をして、キーホルダーを拝んだ。

 

「ヒュプノ君のおかげで、今日も私達があります。サンキュー、ダチ公」

 

 クックックッ、とおじさんは笑う。

 

 胸の痛みは消えていない。死の悲しみは残っている。

 

 けれども、気丈に振る舞う小さな子供達を放っておいて、自分だけ笑っていないのは、何か違うと、彼は思っている。

 

「笑うことを許してくれ。

 大人は笑わなくちゃいけねえんだ。

 大人は子供の未来の姿だから。

 大人が皆辛い顔してると、子供が未来に希望を持てねえんだ。

 だから笑う。笑わなきゃなんねえ。大人は楽しいぞ、って子供に教えるために」

 

 ヒュプノっぽいキーホルダーを、おじさんは雑にポケットに押し込む。

 

「待ってろ。あの世で海の話に困ってたら、天国でも地獄でも、必ず教えに行ってやるから」

 

 おじさんは美森が待つレストランへと、歩いていった。

 

 

 

 

 

 この世界で生まれ、この地を故郷とする少女達が居た。

 少女の名は、鷲尾須美。乃木園子。三ノ輪銀。

 彼女らには最初から、『守りたい世界』があった。

 意識せずとも、得ようとせずとも、守りたい世界を()()()()()()()()()という幸福があった。

 後から得るまでもなく、守りたい世界を持つ者達が居た。

 

 少女らは、勇者であり、その仲間は勇者ではなかった。

 立ち向かう勇気を持ち、受け入れる優しさを持ち、許す強さを持ち続ける者。

 生まれた瞬間から、人類の敵として攻撃され、無残に死に行く運命だった男。

 生まれた瞬間から、人類の敵として攻撃され、無残に死に行く運命だった怪物。

 

 外の世界で生まれ、この地を故郷とする者達が居た。

 男の名は■■■。

 怪物の名はヒュプノ・バーテックス。

 彼らには守りたい世界など、最初からなかった。

 守りたい世界を得ることができたという幸福があった。

 後から得たからこそ、守りたいもの、守りたい世界、守りたい人の価値を、誰よりも強く深く理解していた。

 

「おじさま! ただいま戻りました! 聞いてください、遠足で銀が―――」

 

「たっだいまー! わしおじさんわしおじさん、お土産どれが欲しい!?」

 

「うへへへ、見て見て、カブトムシ百匹捕まえてきたよ~。それでね―――」

 

「小生は聖徳太子か?」

 

 大切な人を得て。

 大切なものを得て。

 大切な居場所を得て。

 ゆえに、命を懸けて、この世界を守ろうと思える。

 

 ―――これは、『守りたい世界』を"得た"者の物語。

 

 

 




・ろうたける想い
 臈長ける。
 女性限定の美しさや気品の表現。
 時間と経験を積み、成長して立派になった女性の表現にも使われる。
 鷲尾須美の勇者衣装の花言葉。
 美しく成長した少女の想い。


 これにて最終回です。
 お付き合いいただきありがとうございます。
 主人公の視点から見た『鷲尾須美という主役の物語』は終わりです。
 この後からは、『全員が主人公』の物語が始まります。多分。
 ここまでが第一部で、第二部はまあ企画終わってから考えると思います。
 でも多分やります。伏線の一部はあっちでやる予定だったので。
 読者の側からゆゆゆ杯に参加していただいた皆様、本当にありがとうございました!


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第二部:催眠剣豪七番勝負
思い出1倍


 ゆゆゆ杯後夜祭の反応を待ちつつ爆速で第二部を進めて行きたいと思います。早めに完結させていきますぞ


 

 

 

 

 出会えたことが幸福だった。

 何気ない毎日が奇跡だった。

 繋いでくれた手の暖かさを、私はずっと忘れない。

 

 

 

 

 

 ―――山伏(やまぶし)しずくは、寡黙な少女であると周囲に見られていた。

 

 須美、銀、園子。

 勇者三人は同じクラスに集められ、いざという事態に即応できるようにされていた。

 しずくはその隣のクラスであった。

 まるで、『予備』のように。

 

 会話が時に成立しないほどに無口で、口を開いても話す言葉はゆっくりで、何故かよくわからないところで言葉が途切れる。

 しずくは、考えながら話すということができなかった。

 話している最中に次の言葉を思い付かなかったり、話そうとした言葉を途中で止めてしまうこともあり、単純に言葉が上手く繋がらないこともあった。

 生来の障害があったわけではない。

 ただ、家庭環境が悪かった。

 

 しずくの中で、両親という存在は、事あるごとに激昂し、自分を殴る存在だった。

 

 しずくはまず、物心つく前に、"自分を叩く二つのもの"が居ることを認識した。

 両親に隠れてこっそり見ていたテレビで、『両親』を学習した。

 そして、"自分を叩く二つのもの"が、『両親』であることを理解した。

 

「うるさい、ドアを開ける時に音を立てるな」

「目障りだから部屋の中をうろつかないで」

「あら……自分のご飯自分で作れたの。ヘタクソだけど。じゃあ明日から自分の分は自分でね」

「何勝手に冷蔵庫のもの使ってるんだ! ふざけるな!」

「お前が家に居ると家の空気が淀むから普段は外行ってろ」

「どこ行ってたのよ! 学校から先生が来てたのよ! 私に恥をかかせて」

「なんだその顔は……親に愛想笑いもできないのか!」

「何その笑い、バカにしてるの!? 生意気なのよ!」

 

 しずくは笑わなくなった。

 自分の感情を表には出さなかった。

 上手く喋れなくなった。

 いや、そう言うのも正確ではないだろう。

 しずくはそもそも笑顔を親から教わらなかった。

 感情を出す度に親に殴られたから、感情を外に出せなくなった。

 上手く喋れた日など、生まれてから一日も無かった。

 

 親はまともな親として与えるべきものの多くをしずくに与えなかったし、しずくに自然に芽生えたものや、しずくが自ら得たものも虐待で叩き潰していった。

 だから笑わない。

 自分の感情を周りに分かってもらえない。

 普通の会話すらできない。

 

 小学六年生の時点で、山伏しずくは最悪の形で『完成』してしまっていた。

 

「……」

 

 生まれてから一度もいいことなんてなかった。

 幸せなんて願ったこともなかった。

 ささやかな欲しかったものすら、一つ残らず諦めてきた。

 鷲尾須美が運命に選ばれ翻弄されながらも、周囲の人間に恵まれ真っ直ぐに恵まれた少女であるとするならば、山伏しずくは運命に選ばれず、周囲にも恵まれなかった少女であった。

 

 二度も親に恵まれ、"いい偽物の叔父"とも出逢った須美は、『自分は幸せだ』と喜びと共に自認している。

 一度もまともな親に恵まれたことの無いしずくは『自分は不幸なんだろうなあ』と、虚無と共にどこか他人事のように認識している。

 須美の親は子を殴ったことなどなく、しずくの親は子を殴らない日の方が少なかった。

 

 須美は味方が居た。

 味方が居たから頑張れた。

 しずくには味方が居なかった。

 味方が居ないから、だから、『作った』。

 

『しずく、頑張らなくていいぞ』

 

「……シズク」

 

『俺に代われ。俺が代わりに殴られる』

 

 かくして彼女は、二重人格者となった。

 

 表の人格が『しずく』。新たに生まれた裏の人格が『シズク』。

 シズクは、誰も守ってくれないしずくを守るために生み出された。

 しずくとは対象的に、粗暴で、暴力的で、怒りを抑えず、感情をありのままに発し、そして何より強かった。

 何度も痛めつけられ、心が弱いまま成長できなかったしずくとは違い、生まれたその瞬間から心が強かった。

 親に何度殴られようと平気なシズクは、しずくの痛みと苦しみの全てを引き受けていった。

 

『命の危険を感じるくらい痛かったろ。痛くなくなるまで俺が引き受ける』

 

「……うん」

 

『それが俺の生まれた意味なんだからな』

 

 いや、"心が強い"と言うと正確には違うのかもしれない。

 心が弱い少女から正しい意味で強い心は生み出せない。

 シズクは鈍かった。

 周りが見えておらず、他人の気持ちが分からず、殴られた痛みにも平然とする。

 『痛みに鈍い』という形でしか、しずくはシズクという"心強き者"を生み出せなかった。

 心の強さなんて、彼女は知らなかったからだ。

 

『俺がお前の一番の味方で友達だ。な?』

 

「うん」

 

 シズクは常にしずくに寄り添い、彼女を守る。

 時に親の言うことに反抗し、しずくの代わりに殴られ、親の虐待で心が壊れそうになっていたしずくを守り、自ら進んでしずくを苦しめるものを引き受けていった。

 しずくが苦しまないことがシズクの幸せだった。

 しずくの幸せがシズクの幸せだった。

 けれど、しずくは幸せにならない。

 シズクは"不幸を肩代わりするだけ"だったからだ。

 

 誰もしずくに優しくしなかった。

 誰もしずくを幸福にしなかった。

 誰もしずくを助けなかった。

 誰もしずくを幸せにしないなら、しずくが幸せになれるわけがない。

 幸せの絶対量が0のままなのにどうしてしずくが幸せになれるというのか?

 

 『命の危機か多大なストレスにより自動で人格が代わる』という二重人格体質により、シズクだけが、しずくを幸せにするために奮闘してくれていた。

 何年も、何年も。

 

『おいしずく、おい、大丈夫か? クソっ、あいつら、三日も飯抜きやがって』

 

「……だい。じょぶ」

 

『お前が命の危険を感じたらすぐ出るからな。大丈夫だ、俺が食料持ってくる。そしたら食え』

 

「シズクが、食べて」

 

『この馬鹿! 三日も食べてねえくせに俺に譲ってんじゃねえ! 久し振りの食を楽しめ、な?』

 

 一つ、しずくの二重人格には珍しい特性があった。

 二つの人格が、ひらがなとカタカナという違いはあっても、同じ名前であるということだ。

 

「シズク」

 

『おう、なんだしずく』

 

「守ってくれてありがとう」

 

『いいってことよ。俺がしずくを守るんだからな』

 

 普通、二重人格が生まれれば、それを自分とは別のものと識別するため、自分自身と別の名前を付けようとする心の動きが、人間にはある。

 必要だから『自分とは別のもの』を生み出したのに、呼び方が同じだと、自分と同一のものだという意識がどうしても生まれてしまう。

 "これも自分だ"とふとした時に思ってしまう。

 二重人格の統合が起きてしまうこともある。

 ふたつの人格の両方を同じ名前にするのは、必要に迫られて二重人格の統合をする時、時たま行われる治療であるという。

 

 しずくが名前を分けなかった理由は単純明快だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それだけ。

 単純明快な悲惨が、そこにはあった。

 

 家族は敵。友達は居ない。子供も大人も人生の背景でしかない。

 "親に虐待されたら助けを求める"という知識や機能すら持っていなかったしずくは、自分の話し方も母親の真似で、シズクの話し方も父親の真似と、異様なまでに世界が狭かった。

 母親の真似をしても上手く喋れない。

 実感として理解できる話し方概念が二つしかないから、シズクに父親の方しかあげられない。

 

 親は服に隠れて周りに見えない部分を、殴って、蹴って、痛めつけて。

 夏にプールの授業が増えてくると、気を使った痛めつけ方をするようになって。

 冬になって長袖で手足や首が隠れやすくなってくると、遠慮がなくなって。

 

「……やっと変わった!

 クソがあのバカ親、殴られて気絶したしずくが起きるまで殴りやがって!

 おいしずく、大丈夫か? ……俺が出てくるまで相当に痛かったろ?」

 

『うん、私は、今変わったから、大丈夫』

 

「いづづ、傷の手当てしないと俺達このまま死にそうだな……俺がやるしかねえか」

 

 しずくの親は、催眠おじさんから見ても、邪悪ではなかった。

 宇宙にはもっと真性の邪悪がいる。

 ただ、醜悪だった。

 山伏の両親は子供が憎くてこんなことをしているわけではない。

 ただ、他人よりずっと心が不安定で、他人よりずっと怒りやすく、他人よりずっと家族への暴力に躊躇いがなかった。

 ただそれだけの、普通の醜悪だった。

 

 神世紀という倫理と善良さが神に担保された世界で、倫理と善良さを子供の頃に叩き込まれて、それでも精神と脳の問題で、子供を虐待せずにはいられない。

 それが、山伏の家の両親だった。

 

「……誰か、助けてくれたり、しないかな」

 

『期待すんな、しずく』

 

「……」

 

『期待すれば裏切られる。お前の周りにお前を助けてくれる人間は見当たんねえ』

 

「……」

 

『お前が期待されて裏切られたら……俺は、辛い』

 

「……そうだね」

 

 宇宙の邪悪は正義のヒーローが倒す。

 普通の醜悪は警察が倒す。

 だから、普通の醜悪に対し、正義のヒーローは来てくれない。それが普通だ。

 そして警察が来てくれるまで、普通の醜悪に苦しめられている者は救われない。

 優しさを誰からも与えられない人間が、救われるわけがない。

 

 だから、奇跡だったのだ。

 

 しずくが、彼女と出逢ったのは。

 

 

 

 

 

 始まりは興味だった。

 しずくの隣のクラスに三人、勇者という特別なお役目を与えられた人間が居るという。

 それに、しずくは興味を持った。

 六年生に上がってすぐ、始業式の翌日、少女は"会ってみたい"と、ふと思った。

 

 しずくは勇者に救済など求めていない。

 助けてほしいとすら思っていなかった。

 救ってほしいとすら思っていなかった。

 そういう発想が出て来るレベルの"当たり前の思考"すら、彼女にはなかった。

 しずくはただ、見たかったのかもしれない。「自分みたいな無価値な人間の対極にある」と思える人間を。勇者という存在を、見たかっただけなのかもしれない。

 

『見に行きたいのか?』

 

「うん」

 

『……気持ちは分かるけどな。まあ行きゃいいさ』

 

「……ん」

 

『神様に選ばれた奴ら、か……俺らとはまるで違うんだろうな。反吐が出そうだ』

 

 しずくは少し期待していた。

 幼い子供のように――事実幼い子供だが――『勇者』というものに憧れていた。

 シズクは少し辟易していた。

 『特別』が、しずくという『特別でないもの』をみじめな気持ちにすることを恐れていた。

 けれどシズクは、しずくが何かに興味を持つということがあまりに久しぶりだったために、止めるに止められなかった。

 こんなことまで止めてしまったら、しずくが人間ですらなくなってしまう気がしたから。

 

 教室の後ろのドアを開けて、しずくは中を覗き込む。

 

 隣のクラスの三人の勇者は、勇者だという話が広まる前から、話したことのないしずくでも名前を知っているような変なメンバーだった。

 真面目で不器用で友達思いで、学校で愛国の話か叔父の話しかしない鷲尾須美。

 マイペースで寝てばかりで、本気になればできないことが無い天才の乃木園子。

 落ち着きがなくトラブルメーカーで、他人思いで人助けばかりしてる三ノ輪銀。

 その内二人、園子と銀が教室に居るのが見えた。

 勇者に選ばれた二人が教室で楽しそうに話しているのを、しずくはじっと見ていた。

 

「ん?」

 

「!」

 

 そんなしずくに、銀が気付いた。

 

 ―――銀にとってはいつものことで、しずくにとっては初めてのこと。

 

「お、そこの子。どした? 誰かに用? アタシが呼んで来るけど」

 

「あ、う」

 

「……アタシ? もしかして、アタシに何か用なのかな」

 

 しずくの視線は逸れ、意思は言葉にならず、指先は意味不明に銀を指差す。

 そんな僅かな情報から、銀はしずくの意図を汲み取ってくれた。

 誤解がなく、邪推がなく、素直にしずくと向き合っているがために、ズレがない理解。

 

 ―――銀にとってはいつものことで、しずくにとっては初めてのこと。

 

「あ、えと、その」

 

「落ち着いて。アタシは逃げないからさ」

 

「……う、うん」

 

「ゆっくりでいいよ。君が言いたいことを言えるまで、アタシは待つから」

 

 両手を頭の後ろで組んで、銀は陽気に笑っている。

 銀はせっかちだが、他人を待つことは苦にしない気性だった。

 幼い頃から、自分の時間を他人のために使うことに迷いがない性格だった。

 しずくは陽気に笑う銀が、自分に合わせてくれている空気を実感していた。

 

 ―――銀にとってはいつものことで、しずくにとっては初めてのこと。

 

「あ……あ、の」

 

「うん」

 

「……ゆ……」

 

「うん」

 

「……ゆ、勇者! 頑張ってください!」

 

「ああ! 応援、ありがとっ!」

 

 銀は心底嬉しそうにして、しずくの手を取る。

 

「君のおかげで、明日からのアタシは二倍頑張れる! ありがとうな!」

 

「―――っ」

 

 しずくは嬉しくて、嬉しくて、興奮して、何もかもが初めての感情で、どう対応していいのか分からなくなって、何も言えずに逃げ出した。

 呼び止める銀の声が聞こえた気がしたが、足は止まらない。

 後者の裏に逃げ込んで、壁に寄りかかって、神樹館の制服の胸元をぎゅっと握って、しずくは青い空を見上げた。

 

 何もかもが混ざって混沌とした少女の心とは対象的に。

 けれど、何故か不思議な爽快感と解放感に包まれていたしずくの心の反映のように。

 澄み切った青空が広がっていた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 全力疾走した後の息を整え、しずくは己の内に語りかける。

 

「生まれて、初めて。……他人の役に立てた気がする」

 

『……しずく』

 

「生まれて初めて……誰かを、喜ばせられた、気がする」

 

『……』

 

「嬉しい」

 

『よかったな』

 

「うん」

 

 個性的で、普通だった。

 特別で、普通だった。

 選ばれていて、普通だった。

 目立つくらい普通じゃなくて、勇者だとは思えないくらい普通だったのが、しずくにはあまりにも印象的だった。

 

 神樹が選ぶことに納得できるくらい、普通じゃなかった。

 戦いのお役目が似合うと思えないくらいには、普通だった。

 

 他の子供にはできないことができて、普通の女の子の普通の日常を生きていて、何気ない当たり前のことで他の人が救えない人を救ってしまうような……そんな人を、尊敬した。

 そんな人を、尊いと思った。

 

 "普通で特別"。それがあまりにも眩しくて、しずくの胸の奥に、深く刻まれる。

 

 勇者に選ばれた少女の見え方は、見る人によって違う。

 銀の親は、「こんな普通の子にそんな運命を背負わせるなんて」と思った。

 しずくは、「こんな素敵な人だから勇者に選ばれたんだ」と思った。

 親にとって銀は娘だから特別で、普通に愛して、だからこそ勇者に相応だと思えなかった。

 しずくにとって銀は普通の女の子に見えて、でも特別にかっこよくて、だからこそ勇者に相応しいと思えた。

 

『ああいうのを、かっこいいやつって言うんだろうな』

 

「ん」

 

『初対面で特に理由もなくしずくに合わせた会話をしてくれた奴は初めてだ』

 

「優しい」

 

『ちょっと違うかもな。あいつは、息をするように優しくするのが当たり前なんだ』

 

 何もできないから"無"でしかないしずくから見ても、"暴"以外の方法で他人と接したことのないシズクから見ても、三ノ輪銀は自分からあまりにも遠い存在だった。

 他人に優しくできるから、銀の周りにはいつも人がいる。

 他人に優しくできないから、しずくの周りにはいつも人がいない。

 

 しずくもシズクも、胸に抱いた気持ちは、純然たる好意と尊敬だった。

 嫉妬は無かった。"自分はああなれない"という、ごく自然な納得があった。

 しずくもシズクも、家庭環境のせいで、ごく自然に自己評価が低かった。

 

『他の勇者も見ていくか。鷲尾だけいなかったろ』

 

「ん」

 

『乃木は……また寝てたな……あいつ一体一日何時間寝てるんだ……?』

 

 小学生達の会話を盗み聞きして、鷲尾須美が体育館の方に向かったことを知る。

 こそこそ体育館に先回りしたしずくは体育館で、妙な雰囲気――雰囲気の違和感を覚えたのはシズクだけ――のオッサンと、オッサンを囲む小学生男子数人を発見した。

 オッサンと男子達は体育館の天井を見上げていて、子供達は深刻な表情をしている。

 

「ほー、なるほど。体育館の天井の梁にボールが引っかかってしまったと。なるなる」

 

「大人なら取れるかなって思って」

「ほら、身長も高いじゃん」

「すみません、すみません、僕らのせいで」

 

「いやいいけど。流石に小生が小学生より身長が高いとはいえ体育館の天井はキツイな」

 

「やっぱり僕らのせいで……」

 

「だから気にしすぎだ。

 『体育館の天井 ボール』でまずはググれ。

 世の中の小学生の平均値がどんだけバカか分かってどうでもよくなるぞ。ガハハ」

 

 しずくがオッサンの後ろ姿だけを見ていると、オッサンはノソノソ動き始める。

 

「……よし。美森、手鏡……っていないんだった。

 手洗い場の鏡使うか……おおあったあった、ってなんか一個欠けてるな鏡」

 

「あ、それ乃木さんが溶解させたやつですね」

 

「溶解!? なんで!? どんななんだ乃木……『君はボールだ』。よし、小生はボール」

 

「?????」

 

「小生を蹴れ! 思い切りだ!」

 

「あ、おお? は、はい」

「天井のボールのことは一旦置いておくんですか……?」

「いきなりマゾ豚の本性を表して来たなこのおじさん」

「四国の未来を憂うわ」

 

 小学生男子がオッサンを蹴ると、おじさんの体はパチンカスが打ち出した銀球のごとく品性溢れる飛翔で天井へ向かい、天井の梁の間にボールのように挟まった。

 

「おお!?」

「おおっ!」

「ええ……」

 

「体育館の天井の梁の間にボールは自然と挟まるものだからな……」

 

「……?」

「……?」

「……?」

「……?」

 

 極めて精緻で複雑で特殊で説明が冗長になりそうな限定的催眠作用によって、おじさんは体育館の天井に引っかかって落ちて来ないボールになることで天井に到達し、天井の梁の鉄骨の上をプルプル震えながら歩き始めた。

 

「た、高い! 意外と高いなここ! 小生落ちたら死ぬんじゃね!? ちょっと怖い!」

 

「おじさん無理すんな! 怪我したら元も子もないぞ!」

「オッサン気をつけろ! かっこつけて立たなくていいぞ! 両手足場につけて!」

「あ、ああ、見てるだけで怖い……無茶しないでください!」

 

「黙ってろ! ここで小生が回収すればお前ら先生に怒られないんだからまあ見てろ!」

 

「オッサン……あんたかっこいいぜ! 頑張れ! 応援してる!」

「よっ、男の中の男! でも調子乗んな! 恐怖を忘れたら死ぬよ!」

「あと10m! 10mちょっとだよ! 良い感じ良い感じ! 進んでるよ!」

 

「その調子その調子!

 小生に声援を送ってくれ子供達!

 声援の分だけ頑張れる気がする!

 ……なんだこの部分なんでこんなに滑るんだ!?

 これ絶対潤滑用のオイルを業者がこぼして放置してたやつだ! 小生駄目だここで死ぬ!」

 

「何やってるんですかおじさま!? そこを動かないでください、今助けに行きます!」

 

「来るな須美! お前も死ぬぞ!」

 

「映画のセリフ真似してる余裕があるならそこ動かないでください! いいですね!?」

 

「やめろーみー子ー! 真面目なお前が事情を把握したら先生にチクるだろうが!!」

 

 朝の予鈴が鳴り、しずくはその場に背を向けて教室に戻り始めた。

 

 理解の範疇を超えた光景を見たことでしずくが選んだのは、思考の停止であった。

 

『頭イカれてるんじゃねえの』

 

「シズク……」

 

『いやなんか……イカれてるんじゃねえか』

 

「シズク……」

 

『鷲尾須美の身内は駄目だな』

 

「シズク……」

 

 しずくが自分の教室に戻る途中、ちょっと銀のクラスを覗いて見ると、乃木園子はまだぐっすりと寝ていて、"こいつが一番やべーのかもしれん"と、シズクはちょっと思った。

 

 

 



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思い出2倍

 しずくの人生の転機は、いつだっただろうか。

 それは本人にも言い切れない。

 ただ、ひと繋がりのいくつかの出来事であったということは、本人もよく自覚している。

 

 『彼』の一度目は優しさだった。二度目は身代わりだった。三度目は救済だった。

 

 銀との出会いで、しずくは初めて、"こうしたい"という感情を得た。

 それはささやかな『あの人と友達になりたい』という願いであり、『あの人みたいな人と話したい』という欲だった。

 幼稚園児のような、小さく、可愛らしく、ささやかな欲しがり。

 この歳になってそのくらいの願いを初めて得たというのが、既に悲劇だった。

 

 かくしてしずくは、鷲尾須美の誕生日パーティーに参加する。

 参加基準は鷲尾須美の友人に限定しているというわけでもなくガバガバで、神樹館の生徒であることさえ証明できれば、誰でも入ることができた。

 須美の友人は0に近いと思い、須美の友人を増やそうとした者の意向ゆえだろう。

 だがしずくは、迷ってしまう。

 

「ここ、どこ」

 

『あーもう』

 

 鷲尾家の庭は相当に広く、しかも人が大勢居たので、しずくは今自分がどこに居るのか、話がしたい銀達がどこに居るのかも分からなくなってしまった。

 

 小学六年生現在、しずくの身長は147cm。

 大人がただ立っているだけで、彼女の視界の多くを塞ぐ大きな壁になってしまう。

 身長が低い子供であるということは、それだけ人の密集地帯で周りが見えなくなってしまうということなのだ。

 しっかりしている子供でもデパートなどですぐ迷子になってしまうことがあるが、その理由がまさにこれである。

 

 周りを見回しても目印はなく、かといって足を止めて周囲をキョロキョロ見ていたら、周りの大人に不審に思われてしまう。

 それは、しずくにとっては不味いことだった。

 とにもかくにも動き回って、大人の目に留まらないようにして、そのせいで余計に迷っていってしまう。

 

『分かってるよな、しずく。あのクソ親にバレたら終わりだ』

 

「うん」

 

『堂々としてろ。どうも来てるガキ全員、親子連れみたいだからな』

 

 歩いているだけで、しずくは苦しさを感じていた。

 右を見ても仲の良い親子。

 左を見ても仲の良い親子。

 どっちを見ても仲の良い親子連ればかりで、仲の悪い親子が居ない。

 見れば見るほど、しずくの気分は悪くなっていく。

 

 仲の良い親子も。子に無償の愛を注ぐ親も。親に無邪気に甘える子供も。

 それら全てが、山伏しずくにとっての猛毒だった。

 

「っ」

 

『おいしずく、大丈夫か? ストレスがこっちにまで伝わって来てる。そろそろ代わるぞ』

 

「だい、じょぶ」

 

 しずくに、現実の牙が突き立てられる。

 自分が普通じゃないこと。

 まともな家庭じゃないこと。

 出来損ないの子供なこと。

 親に愛されていないこと。

 親を愛せないこと。

 家族の団欒なんて知らないこと。

 明日に希望なんてないこと。

 自分がこんな風に愛されることなんてないこと。

 皆に愛されて誕生日を祝われている鷲尾須美と、誰にも愛されていない自分が、あまりにも遠いこと。

 

「誰も」

 

 

 

 誰も―――誰も、山伏しずくの誕生日を祝ってくれることなんて、ないこと。

 

 

 

「……誰も」

 

『おいしずく、しっかりしろ。おい!』

 

「誰も」

 

『足元見えてるか、しずく、おい!』

 

 しずくはシズクの警告も耳に入らず、躓き、転んだ。

 そして塀にぶつかってしまう。

 痛かった。体も、心も。しずくに対するトドメのような衝突だった。

 生きていたくないくらい、痛かった。

 普段痛いことや苦しいことをシズクに引き受けてもらっているしずくの瞳から、じわりと涙がこぼれそうになって、しずくは反射的にそれをこらえてしまう。

 泣きそうになるたびに、"泣くな"と殴られてきた。

 だから泣いて助けを求めていいのに、反射的に涙をこらえてしまう。

 しずくの両親は、涙を流す権利すら、娘から奪い取っていた。

 

 パーティーの中心の須美を皆が見ていて、誰も見ていない庭の隅っこで、しずくは心と体の痛みに耐えながら、土を握る。

 

「誰も、私を見てない」

 

『しずく! おい、代われ! なんで我慢してんだ! いつもは衝動的に代わるだろ!』

 

「誰も……」

 

『しずっ……クソッ、おい、誰か居ないのかよ、誰か……!』

 

「っ……」

 

『しずくは路傍の石ころでも雑草でもねえんだ!

 親がクソだっただけだ! 何も悪いことなんてしてない!

 それ以外何も悪いとこなんてねえ! だから、だから……!』

 

 勇者という少女を、花に例えるならば、山伏しずくは雑草だった。

 花は持て囃され、手折られ、神に捧げられ、散る。そういう運命にある。

 だが雑草は摘み取られることすらない。

 ただ踏まれ、踏み折られ、死ぬ。

 価値すら認められず。

 そこにあったことすら覚えてもらえないままに折れる。

 車輪の下敷きになった雑草や小石を気にかける者は、誰もいない。

 

 だからきっと、そんな彼女に声をかけるのは、路傍の石も気にかけるような性情を生まれ持っていた、そんな人間しかいなかった。

 

「大丈夫か?」

 

 人の輪から外れて、30歳ほどのその男は、転んだしずくの方に一直線に駆けて来た。

 

 誰もしずくのことを見ていないなんてことはない、と証明するように。

 誰もしずくのことを助けないなんてことはない、と証明するように。

 駆け寄り、心配そうな顔で、男はしずくに手を差し伸べる。

 

 だがしずくは、何も言えない。喋るのが下手で、ここまで押し潰されそうな負の感情を押し込まれて、今"手を差し伸べられた喜び"まで押し込まれて、胸の内がパンク寸前だった。

 

「うっ、うう……」

 

「痛いのか?」

 

『シズク、落ち着け、こいつは普通に心配してるだけだ。助けてもらえ』

 

「いたい……」

 

「お父さんは? お母さんは?」

 

『あっやべっごまかせごまかせ!』

 

「うう……!」

 

「頑張れ、痛みに負けるな。痛いところはどこだ?」

 

「っ……!」

 

『……今時、このくらいの歳でこんなに懸命に他人の心配するおっさんも珍しいな』

 

 大人に本気で心配されたことなんて初めてで、しずくはどんどんわけが分からなくなって、親に話が行かないようにしないといけなくて、傷も痛くて、もうてんやわんやだった。

 

 そんなしずくに、彼は"魔法をかける"。

 

「『痛い痛いの、飛んでけ』」

 

「……あれ?」

 

「次は転ばないようにな。走る時は足元に気を付けてな」

 

 魔法をかけて、なんてこともないように、男は去っていく。

 言った彼本人は、きっとその声色に自覚はない。

 山伏しずくの人生で、過去に一度も無かったくらいに、優しい声だった。

 

「……痛くない」

 

『は? マジか?』

 

「うん」

 

『どうなってんだ……?』

 

「魔法」

 

『ンなもんあるわけねえだろ!』

 

「でも」

 

『絵本を現実に重ねんな。あんまよくねえぞ』

 

「……」

 

 一度だけ。

 一度だけ、親が知り合いに貰ってきたという絵本を、しずくは読んだことがある。

 次の日には癇癪を起こした親に絵本は破り捨てられてしまったが、その晩に何度も何度も読み返して、その物語を頭に刻みつけた。

 

 かわいそうな女の子。

 家族に毎日いじめられ、幸せになんてなれそうにもない。

 家族は皆お城の舞踏会に行ってしまって、女の子は一人泣く。

 そんな女の子の前に魔法使いが現れて、女の子に魔法をかけて、女の子を救ってくれる。

 そして、12時までの奇跡の果てに、女の子は幸せになる。

 そんな絵本だった。

 

 しずくは魔法使いが好きだった。

 女の子とくっつく王子様より、女の子が一番苦しい時に助けに来てくれて、女の子を幸せにしてくれた魔法使いが好きだった。

 女の子を幸せにしたのは、王子との出会いではなく魔法使いの出会いだと思っていた。

 だから、その男に痛みを消された時、たいそう驚いたのだ。

 痛みがなくなる魔法をかけてくれた彼を、しずくは魔法使いだと思った。

 

『期待すんな。裏切られる。

 だけど、しずくが幸せになれないとは思ってねえぞ?

 俺が代わりに期待してっからよ、お前はぼんやり希望を持っとけ、しずく。

 俺が代わりに期待する。

 俺が代わりに期待を裏切られる。

 お前が幸せになるチャンスは俺が見逃さねえ。だから、将来の痛みも俺に任せろ』

 

「……うん」

 

 本当に分かってんのかね、とシズクはしずくの内で心の溜め息を吐いた。

 

 しずくはとても嬉しそうにしていたから。

 

 痛みが消えたしずくが顔を上げると、鷲尾邸に入るための門が見えた。

 

「帰ろう」

 

『いいのか? ……なんて聞くまでもないか。来てよかったな』

 

「うん」

 

 しずくはとてとてと駆け出して、それをシズクが見守る。

 

『悪くねえ。しずくをいじめる奴がいたらぶっ殺してやろうと思ってたが……悪くねえ』

 

 今日はいい日になるかもな、とシズクは思った。

 

 そうはならなかった。家に帰ったしずくを、親はまた殴ったから。

 

 "魔法が切れた"しずくの痛みを肩代わりするため、しずくはシズクに代わり―――シズクはその夜も無言で、血の流れるしずくの体を手入れしていた。

 車輪の下敷きになる雑草のような毎日だった。

 

 

 

 

 

 しずくは銀達と話したいという気持ちを持ちながら、この日助けてもらった男にも興味を持ち、その男のことを調べようとした。

 だが、調査は難航した。

 しずくがそもそも、死ぬほど会話が苦手だったからである。

 他人の千倍くらいの時間をかけて、すぐ分かるようなことをとてつもなく時間をかけて、彼女はなんとか調べ上げていた。

 

「ああ、アレ。鷲尾さんの叔父さんだよ」

 

 そうしてしずくが聞き出せた――聞き出したとは言うが実際は友達グループに思い切って聞いてその後はその友達グループの会話を黙って聞いていた――あの男の正体は、勇者・鷲尾須美の叔父というものだった。

 

「変な人だよねえ」

「ねー」

「大人っぽくないよね」

「違うよ。先生とは大人っぽく話してたから子供の前だと合わせてるんだよ」

「えー、そうなのかな」

 

 子供達の間に、ある程度の知名度はあるようだった。

 

「ドブの中にね、キーホルダー落としたらね、ズボンまくって中に入って探してくれたー」

「学校のスズメバチの巣一人でどっかやってたけどどうやったんだろう」

「下ギリギリのボール球をストライクに見せるキャッチャーの技を教えてくれたぞ」

「クソガキが! ってよく言うんだよね。悪い大人ー」

「笑い方が変」

「メスガキってなんだろ」

「笑うのが下手」

「鷲尾さんと似てないよね。全然真面目じゃなくて」

「あの人が近くに居ると近寄り辛いイメージだった鷲尾さんが普通に可愛い女の子に見えるね」

「ねー」

 

 なるほど、鷲尾家に行けば会えるんだ、と、無言で会話の輪から消えるしずく。

 無言のまましずくが消えたことに誰も気付かない。

 下手すれば、しずくが訊いてきたことすら忘れて、子供達は会話を続けていた。

 しずくは他人との会話に使う体力ゲージがもう尽きてしまったので、職員室に忍び込んでこっそり住所録を確認し、後日鷲尾家に向かった。

 

『お前こういう行動力はあるんだよな……』

 

「ダメ?」

 

『いや、いいことだ。やりたいことができたってのはいいことだぜ?

 あの親のせいでしずくが本格的に何もできなくなる前に早くしないとな……』

 

 こそこそ動いて、鷲尾の家の叔父さんが山に向かったという話を聞いて、山を登る。

 

 しずくはスポーツの能力はそんなでもない。

 身体能力も特筆して高くはない。

 生来体格に恵まれていない、といった話ではない。

 虐待家庭の子供の多くがそうであるように、しずくもまた、栄養状態がやや悪く、栄養が偏った生活を繰り返してしまっているからだ。

 小学校に通っていて、給食をしずくが摂取できていることが、不幸中の幸いと言えた。

 

 総合的に見れば間違いなく、同年代の中でも下層だろう。

 栄養問題が解決してなお平均以下といったところだろうか。

 山を登るだけで、しずくの息は切れる。

 

「ふぅ、ふぅ、はぁ、はぁ……」

 

『無理すんじゃねえ。休み休み行きな』

 

「だいじょ、ぶ。……追いつけ。ないと。困るから……」

 

『ったく』

 

 だが、しずくは家庭環境を鑑みれば、かなり驚嘆に値する山登りを見せていた。

 体に筋肉なんてついてないのに、身体能力も同年代の中ではドベクラスなのに、何故かするすると山を登っていった。

 "体を動かす才能"がある。

 それは筋肉や関節、心肺や体の各所に指示を出す脳と神経などが持つ、総合的な才能。

 先天的な適性によるものだった。

 もしもしずくの体を動かす者が、スポーツの苦手なしずくでなければ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ともすれば勇者三人よりも"上手く動ける"のではないかという、天性の才覚の芽がそこにはあった。

 

 山を登っていたしずくが振り返り、街を眺める。

 広い世界が広がっている。

 けれど、しずくにはそう見えない。

 "自分の世界の周りに広がっている街"くらいにしか見えない。

 しずくの世界は広がらない。

 虚無の思考を浮かべていたしずくはその時。妙な何かを感じた。

 

「……?」

 

『どうした?』

 

 空気が揺れた。

 

 世界の時間が止まり、また動き出した。

 

 そして、山が崩れた。

 

「―――」

 

 命の危機が、しずくをシズクに変えるが、間に合わない。

 シズクは超人的な動きで回避に動くが、間に合わない。

 "樹海の破壊"による大自然の大破壊は、しずくもシズクも諸共に飲み込む。

 

「駄目だ、クソ、間に合わ―――」

 

 そこに、飛び込んできた男が居た。

 

「馬鹿野郎!」

 

 男はしずくが魔法使いと呼んだ男だった。

 男は迷わずしずくの小さな身体を後方に投げ飛ばし、反動で山崩れがかわせないようなところにまで転んで入ってしまう。

 しずくとシズクは安全圏に。

 男はもう助からない危険域に。

 

「……あークソ何やってんだ小生は」

 

 青い何かが流星のように飛び込んだのが見えた気がしたが、もうそんなものは目に入らなくて、山崩れに飲まれる男が鮮烈に、シズクの視界に刻み込まれる。

 

 シズクは守るために生まれてきた。

 しずくを守るために生まれてきた。

 しずくの痛みと傷を引き受けるために生まれてきた。

 自分の身を犠牲にして、しずくを守るために生まれてきた。

 誰も助けてくれなかった。しずくのことも、シズクのことも。

 しずくはシズクが守ってきた。けれどシズクのことは誰も守ってくれなかった。

 だから、シズクにとって初めてのことだった。

 

「え」

 

 しずくを命懸けで守ろうとしてくれた大人も。

 自分のことを誰かが守ってくれたのも。

 そんな人に対し、"死んだ"と思ったのも。

 何もかもが初めてで、心がパンクしそうになる。

 

「あああああああああああああ!!」

 

 しずくが一度も聞いたこともない絶叫を上げ、シズクは獣のように目を見開き、吠えた。

 

 

 

 

 

 そして少し経った後、無傷のオッサンを神樹館前で見かけて、心底びっくりさせられた。

 

 しずくもシズクも心底ぎょっとして、しずくは日曜朝のヒーローを見る目でおじさんを見初め、シズクは日曜朝の怪人を見る目でおじさんを見始めた。

 

「なんで!?」

 

『化物かよこいつ……』

 

「おお、あの時の子。無事で良かった。傷も無いみたいだな」

 

 おじさんが心底ほっとした様子でそんなことを言うものだから、シズクはしずくが心配されていたことを嬉しく感じ、自分が心配されていたことも嬉しく感じ、二倍嬉しく感じてしまった。

 

『無事で良かったはこっちのセリフだ』

 

 粗暴で攻撃的なシズクがこんなにも柔らかく嬉しそうな言葉を心の中で発するのは、しずくが知る限り、この時が初めてだった。

 

「あの……怪我」

 

「怪我か? 催眠おじさんがあんなことで死ぬわけないだろ……死ぬような雑魚は死んでろ」

 

「ええ……」

 

『無茶苦茶すぎんだろコイツ』

 

 おじさんはヘタクソに微笑んで、しずくの無事を喜ぶ。

 

 その顔を見て、"この人も子供の頃に普通に笑えなかったんだろうな"と―――しずくとシズクだからこそ分かる理解が、少女の胸の奥に生まれていた。

 

「自分の目で傷一つ無いと改めて確かめられて良かった。

 ま、運が悪かったな! 山崩れにあったのは!

 お前が無事で良かった。お前に傷があったら気に病むやつが居たからな……ありがとう」

 

 なんで感謝するんだよ、と、シズクがしずくの内側で戸惑っている。

 

「無事でよかった。無事で居てくれてありがとう。こんだけだな言いたかったのは。うはは!」

 

 笑うのが下手な人だな、としずくは思った。

 だけど印象に残る笑い声だよな、とシズクは思った。

 この笑い声を聞いた誰かが真似しそうな笑い声だと、二人は思った。

 

 おじさんが去った後も、二人の心には、不思議な暖かさが残っていた。

 

『……変なオッサン』

 

「そうだね」

 

『本当に無事で良かったな……ああ、本当に、あのオッサン、死んでなくて、よかったぁ……』

 

 この暖かさがあれば明日も生きていけるような、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 たとえ、昨日も、今日も、明日も、虐待があるとしても。

 その暖かさがあれば生きていける気がした。

 目を閉じれば、自分が無事だったことに安心する男の笑顔が浮かぶ。

 それだけで、しずくは今日も、明日も、明後日も、ずっと耐えていける気がした。

 

『やめろ、やめろ、このバカ親!

 あああああああああああああっ!!

 しずく、早く俺に代われ、早く、早くっ……!』

 

 今日も、しずくは親に殴られていた。

 シズクはそれを見ていることしかできなかった。

 しずくのストレスがパンクするか、命の危機を感じるかしてようやく、シズクはしずくの代わりに痛めつけられることができる。

 それでも代わりになるのが精一杯で、救うこともできやしない。

 彼がかけた魔法も、もうとっくに解けている。

 

「っ……」

 

 お腹が痛い、としずくは他人事のように思っていた。

 親にお腹を蹴られたからだ。

 吐き気はなかった。

 何も食べていなかったからだ。

 腹に痕が残るかという心配もなかった。

 もっと強く蹴られて痕が残らなかったことがあったから。

 ただ、強く蹴られすぎて、ちょっと息ができなくて、そこだけは困ったことだった。

 

「う……」

 

 声も出ない苦しみの中、しずくは(アリ)を見つけた。

 山伏家の中に迷い込んでしまったらしい。

 しずくはアリを見て、何かを思って、アリを己の手の指に乗せて、掃き出し窓の僅かに開いた隙間から、アリを外に逃した。

 息も上手くできない苦しみの中、しずくが少しだけ微笑む。

 苦しい時ですら微笑むことができる自分が、少しだけあのヘタクソな微笑みの男に近付けたみたいで、しずくはほんの少しだけ、幸せな気持ちになれた。

 

 だが、両親は激昂した。

 些細なことで怒り、しずくを痛めつけるのがこの両親だと分かっていたはずなのに。

 それでもしずくは、アリがこの家の中で踏み潰される前に、逃してやりたかったのだ。

 

「あんた……何やってるの! 虫なんかと遊び始めて!」

 

「出来の悪い娘にしつけをしてやってるのにこれか……今までが生温すぎたんだろうな」

 

 そのせいで、もっと痛めつけられると分かっていても。

 

 まるで入れ子構造だった。

 無限に広がる多次元宇宙があった。

 その中の一つでしかない広大な宇宙があった。

 広大な宇宙の一角に、太陽の神が掌握できる太陽系があった。

 太陽系の中の小さな星、地球を、天の神が支配していた。

 天の神が支配している地球のほんの僅かな一部を、地の神が支配していた。

 地の神が支配する四国を、神の下で支配する大赦。

 大赦が支配する社会の中に、家庭を支配する親。

 そして、親に支配される子供がいる。

 

 支配の下に支配、その下に支配、その下にも支配。

 支配の連鎖を、しずくはささやかに断ち切ろうとしていた。

 アリを憂さ晴らしに叩き潰す選択肢と、アリが巻き込まれないように逃がす選択肢が彼女の前にはあって、しずくは迷わず後者を選んだ。

 痛みを知るから、誰にも痛みを与えない選択ができる。

 そんなしずくを救えない無力感に、シズクは生まれた時からずっと苛まれている。

 

『……バカだよお前、アリ一匹だぞ、虫けらなんだぞ……』

 

「かわいそうだよ」

 

『……お前は優しいよな。本当に』

 

「そうでも。ないよ」

 

『お前が幸せになれないことが……俺には許せねえんだよ……!』

 

 親がしずくに押し付けるタバコを見て、シズクの心は怒りと絶望に震える。

 

『頼む、頼む、頼む、俺じゃ駄目なんだ、俺だけじゃ駄目なんだ、誰か!』

 

「……シズクは、いい子、だよ。シズクのおかげで……今日まで私は……ありが……」

 

『全部壊してくれ! 全部0にしてくれ! 俺ならなんだってするから! だから!』

 

 救ってほしかった。

 救ってほしいという願いは、しずくよりシズクの方が大きかった。

 シズクは、しずくの救済だけをひたすらに願っていた。

 無力だから、願うしかなかった。

 

『しずくを助けて……!』

 

 自分も救われたいという気持ちがあるくせに、しずくがあまりにも惨めだから、しずくがあまりにも救われていないから、シズクはしずくの救いしか望んでいない。

 だから、自分が救われたいという気持ちに気付いてもいない。

 シズクは自分の気持ちなんてどうでもよくて、自分の痛みなんてどうでもよくて、自分の幸せなんてどうでもよくて、しずくが救われていればそれでよかった。

 しずくは、痛くない日が続けばそれだけでよかった。

 けれど。

 しずくのささやかな願いも、シズクのささやかな願いも、叶ったことなどない。

 願いはいつも、虚無に消える。

 

 だから。

 

「泣いてる子が居たら、私が代わりになってでも、守ってあげないと―――痛っ」

 

 その日、その時、その場所で起きたことは、奇跡だった。

 

 しずくとシズクが、一生忘れようもない奇跡だった。

 

 少女がしずくを庇い、駆け込んできた男が親を体当たりで跳ね飛ばし、しずくと向き合う。

 

 魔法使いは、来てくれた。王子様よりずっと先に、"かわいそうな女の子"を救うために。

 

 

 

「助けてほしいか」

 

 

 

 とても印象的な問いかけだった。

 しずくにではなく、自分自身に問いかけるような。

 その目に"お前を救いに来た"という力強さはなく、"どうか救われてくれ"という懇願するような弱さがあった。

 その目を見ていると、しずくは胸の奥がきゅぅっと締め付けられる気がした。

 

 魔法使いは言葉の裏で少女に問う。

 ここを抜け出したいのかと。

 "ここではないどこか"に行きたいのかと。

 今の苦しみしかない生活から、救ってほしいのかと。

 かつて読んだ本のように、少女の答えを待っている。

 

 ごく自然と、これまで一度も口にしたことがないような言葉が、しずくの口をついて出た。

 二人分の心が、言葉になって外に出た。

 

 

 

「『 ―――助けて 』」

 

 

 

 しずくが、この世に生まれて初めて。

 シズクが、しずくを守るために生まれて初めて。

 "自分を助けてほしい"という願いを口にした―――そんな、瞬間だった。

 

 その瞬間の男の顔が、とても印象的で、しずくはその顔を忘れられない気がした。

 助けてと言ったのは少女の方だったのに。

 助けようとしたのは男の側だったのに。

 何故か男の方が、ずっとずっと、救われたような顔をしていた。

 "救いを求めることは間違いなんかじゃないんだ"と、何かを知った男が、心底しずくに救われたような顔をしたことが、本当に印象的だった。

 

 山崩れの時も。そして今も。

 男は、"救われてくれてありがとう"と、心底しずくに思っていた。

 前も今も、しずくが救われることで、彼もまた救われていた。

 

「な、なんだお前達、人の家に勝手に……!」

 

「おう。ほんじゃま小生らは、もっと勝手にやらせてもらう」

 

「は?」

 

「しっかり覚えろ。そして忘れろ。世界一勝手な正義の押しつけ集団、ご登場だッ!」

 

 かくして。

 

 しずくとシズクの、地獄のような日々は、終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しずくは大人に保護される前に、男に名前を聞いた。

 

「え? 小生の名前? 夢見りあむです」

 

「おじさま……そこは真面目に……」

 

「アベノ・セイダーズです」

 

「おじさま!」

 

 結局男は名前も教えてくれないまま、しずくとシズクの礼も受け取らず、飄々としてどこかへ去っていってしまった。

 シズクは、男の羞恥心だと思った。

 礼を言われるのが、気恥ずかしいのだと。

 しずくは、男の罪悪感を感じ取っていた。

 山伏の両親の心を捻じ曲げたことへの男の罪悪感と、自分への罪悪感を感知していた。

 

 とはいえここで引くようなしずくとシズクではない。二人には意外と頑固なところがあった。

 

 しばしの時が流れる。遠足が終わり、夏休みに入り、しずくは考えた。

 まず、恩返しをしようと。

 できなくても、自分を助けてくれたあの人達と、話をしてみたいと。

 親のせいで一度も外に出していけなかった、この心を、せめて救ってくれた彼には伝えなければならないと、初めての想いに突き動かされていた。

 しずくも、シズクも、己の感情に振り回されていた。

 己の感情に振り回されている今を、心地良く感じていた。

 

 もう、しずくとシズクを支配する悪はいない。

 

 自由に、思うがままに、どこにだって行っていい。そんな空気が広がっている。

 

 しずくは笑った。シズクも笑った。

 

 ―――世界は広くて、どこに行ってもいい、何になってもいい、そんな気がして。

 

「いい天気」

 

『ハハッ、いい天気か、そりゃいい!』

 

「?」

 

『お前が上を見上げて"いい天気"なんて言ったの、人生で初めてじゃねえか?』

 

「……そうかも」

 

『いいことだ。本っ当にいいことだ。最高だろ、これ。よく晴れてやがるぜ、空も』

 

「ん」

 

 彼がくれた世界の広さは、狭い世界に生きてきたしずくとシズクには持て余すくらい大きくて、心臓がどきどきと跳ねている。

 

「気持ちがいいね」

 

『おうっ!』

 

 しずくは鷲尾邸に向かって、少しだけ普通の人に近くなった喋り方で話して、恩人の男がいる場所に案内されて、そして。

 

 

 

「うんこ!」

 

 

 

 言語が完全に崩壊したおじさんと、おじさんの横にハンカチ片手で控える東郷美森を見た。

 

「……????」

 

「うんこうんこうんこ!」

 

「しずくちゃん……おじさまは今『うんこ』しか喋れなくなってるの。察してあげて」

 

「なんで?」

『なんで?』

 

 戦いの鐘が鳴る。

 

「これは邪悪なる七人の催眠種付けおじさんの誰かの仕業よ」

 

「邪悪なる七人の催眠種付けおじさん」

 

「邪悪なる七人の催眠種付けおじさんを倒さなければ、おじさまはずっとこのままよ」

 

「ずっとこのまま」

 

「彼らの内誰かがおじさまを無力化した。

 そして始めるつもりなのよ――催眠剣豪七番勝負を」

 

「催眠剣豪七番勝負」

『いつから俺達寝てたんだっけ? これ夢だろ? 夢じゃない? 嘘だろオイ』

 

「六人の催眠種付けおじさんを倒し。

 七番目に神を討ち。

 天と地の神の理で満ちたこの世界を、己の理で塗り潰すために―――!!」

 

「うんこ!」

 

 山伏しずく/山伏シズクは当事者となる。

 

 自ら望んで、その戦いの参戦者と鳴る。

 

 ―――外宇宙からの侵略者。神々と人を支配する上位種。催眠剣豪との戦いが、始まる。

 

 

 



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思い出3倍

 おじさんの言語は速攻で元に戻った。

 

「……ふぅ。小生の言語戻った」

 

「そうなんだ……」

 

『トンチキな奴ら倒さないと言葉が戻らねえって話が秒で消滅してんじゃねぇかァ!!』

 

 シズクはキレた。

 

 おじさんの前で五円玉をぶらぶら揺らしていた金髪の少女――乃木園子――が、ほわほわと笑いながら催眠を解除されたおじさんの脇腹を肘で突っついた。

 しずく/シズクと直接の関わりがなかった、三人の勇者最後の一人。

 おじさんが内部から解けなかった催眠の枷を、外側から解いたらしい。

 催眠を使いこなす園子を見て、"そういやこいつはその気になればなんでもできる奴って噂だったな"と、シズクは学校で聞いた彼女の噂を思い出していた。

 

 美森が園子の頭を撫で、園子が嬉しそうにしている。

 

「わっしーはすぐには戻って来れないから、私が超特急で来たんだぜ~!」

 

「ありがとう、そのっち。この時期にここまで実力を上げてるとは思わなかったわ」

 

「恐ろしいな……

 いやまあ小生は総合力では圧倒してるが。

 催眠術師としては小生が100として園子が40くらいだろうが。

 催眠術の純出力だけはもう完璧に園子の方が高いな……

 催眠合戦になれば絶対に負けることはないが……

 同じ術式で競ったら絶対負けるな……小生の出力で解けない霊格の催眠術解いてるし」

 

「強化フォーム使わないインチキおじさんの霊圧じゃもう私に催眠かからないね~」

 

「ハァ……ハァ……

 くっ……信用はしてる……してるが……!

 小生が催眠かけられない人間が居るという事実が……!

 不安でしょうがねえ……! 不整脈が起きる……ハァ、ハァ……!」

 

「どうどう~」

 

「ち、近寄るな、乃木……! 小生はお前を拒絶したくない……!」

 

「君の体はもう私を拒んでないんだぜ~認めちまえよへっへっへ~」

 

「ウキウキで距離を詰めるそのっちがちょっと面白いわね。でもおじさまと近すぎるのは駄目」

 

「あ~ん~」

 

 園子が美森に押されておじさんから引き離される。

 しずくはこのテンポの話に入るすべがなく、黙ってそれを眺めていた。

 笑っているおじさんのポケットの中から、スマホに付けられたヘンテコな怪物のキーホルダーがはみ出しているのが、ちょっとしずくの印象に残った。

 

「あ、あの、えっと、山伏しずく……です」

 

「ええ、知ってるわ。私は東郷美森。そのっち達の紹介は要らないわよね。よろしく」

 

「はい」

 

『流石に二度三度と催おじと関わりありゃ知ってるか』

 

 しずくは美森を須美の親戚か何かだとあたりをつける。

 美森の物腰柔らかな話し方や人当たりのいい雰囲気に、どこか話しやすさを感じていたが、シズクはイマイチしずくと同じ感想を抱けなかった。

 

『なんか怖いなこいつ』

 

(そう?)

 

『分からん……独占欲か何かか……? 上手く隠してる感じか……気のせいかもしれねえ』

 

(ふーん)

 

「あんまり喋らないお客さんなんよ~」

「小生はあんまり喋らないお客さんもそれはそれで静かでいいと思う~」

 

 話したことのない人間三人――おじさん、園子、美森――と相対したしずくが選んだのは、沈黙と脳内会話であった。

 

「っと、忘れてた。オラッここで鎮座してろ」

 

 おじさんがパチっとスマホからキーホルダーを外し、部屋にあった神棚に投げ込み、神棚にチロルチョコを捧げてるのを見て、しずくは"新興宗教……?"と思いつつ、美森に聞いた。

 

「……あの。あれは。何をしてるんですか」

 

『素直に神樹の神棚でも作りゃいいだろうに。なんでわざわざ神棚の中身替えてんだ』

 

「おじさまにとって大事なことよ。説明してもあんまり意味はないかもね」

 

「……そう」

 

「おじさま本人が意味がないって思ってるから。

 私はそうは思わないけど……おじさまがそう思ってるなら、それでいいんだと思うわ」

 

 ヘンテコな怪物のキーホルダーが収められると、何故か改造された神棚が仏壇のように見えて、しずくはよく分からないので首を傾げた。

 

「いつまで立ってんだ。ほれほれ座れ。小生のお気に入りの椅子(5980円)だぞ」

 

「……失礼します」

 

『オッサンの加齢臭がしたら蹴っ飛ばしてやれ』

 

(シズクっ)

 

「どうだその後。元気にやってるか? 元気じゃなかったら元気にしてやるぞへっへっへ」

 

「……あれから、親は。心中しましたが。私は元気です」

 

「……??????!?!?!」

 

『オッサンの反応が妥当すぎる……』

 

「善人に目覚めたら、過去の自分が、耐えられなくなった、そうです」

 

「あっ……善人にした結果……」

 

 しずくの両親は、醜悪であっても、邪悪と言うと少し違う。

 かの親は精神的な不安定さこそが問題であり、すぐ怒って娘を殴ってストレス発散することが問題なのであって、善悪の量のバランスはそこまでおかしくはなかった。

 極悪人でない者ですらしてしまうから、虐待というものは恐ろしいのだ。

 

 おじさんの催眠で精神を善良にされた両親は、罪悪感から心中してしまった。

 それだけ、過去に『カッとなって』してしまったことが多すぎた。罪深すぎた。

 生来心が不安定である、ということは、心の振れ幅が大きいということ。

 ふとした時に、大きく揺れる。

 しずくを傷付ける方向に揺れることがあるなら、自分を殺す方向にだって揺れるのだ。

 おじさんの催眠で随分改造されたにも関わらず、催眠の精神的なストッパーもぶっちぎって、しずくの親は爆速で自殺していった。

 

 大赦に頭を抱えさせ、しずくという一人娘をこの世に残して。

 

「え、あ、えと、そ、その、ごめ、いや謝るのは……。……小生を好きにしろ!」

 

 おじさんは床に仰向けに倒れ、両手足を投げ出し、服従のポーズを取った。

 

 話の流れを読めないしずくが首を傾げ、園子がおじさんの横に寝転び、美森がとても暖かな目でおじさんを見ていた。

 

「……?」

 

「流石にぶっ殺されるのは受け入れられないが!

 あの子ら残して死ぬのは無責任過ぎてできねえが!

 これをもって謝罪とする!

 死なない程度には刺してくれていい! うおおおおおお! や、やれっ!」

 

『何考えてるのか分かるがバカだなオッサン。バーカバーカ。聞こえてねえだろこのアホ』

 

(シズク……)

 

 聞こえないのをいいことに好き放題言うシズクに、しずくはちょっと呆れた顔をした。

 なお、表情の変化が乏しすぎて誰にも気付かれていなかった。

 しずくはおじさんの横で何の意味もなく寝っ転んでいる園子を跨ぎ越え、おじさんの服をつまんで控えめに引っ張る。

 

「起きて」

 

「し、しかし、小生は」

 

「寝てると私のスカートの中見えちゃう」

 

「あっはい重ね重ねすみません」

 

『しずく……』

 

 そそくさとおじさんが立ち上がり、寝っ転がっていた園子をベッドに投げ込む。

 「わ~」と楽しそうにベッドに転がった園子を、美森が掛け布団で封印するのを横目に見て、しずくはおじさんをじっと見た。

 おじさんは直立不動で動かない。

 しずくは更にじっと見る。

 更に直立不動で動かなくなった。

 

(この人が何を言いたいのか全然わかんない)

 

『いやこれは明らかにお前に謝罪と贖罪しようとしてんだろ。あとお前の心配もしてる』

 

(そうなの?)

 

『そうに決まってんだろ! 他にねえよこんなの!』

 

(謝られるようなことも、つぐなわれるようなことも、ないと思うけど)

 

『催おじにはあるんだろうよ。……あーメンドクセ、ぶん殴って分からせてやりたい』

 

(駄目)

 

『はいはい。……このオッサン、俺達の幸せ、本気で願ってたんだろうな』

 

(そうなのかな)

 

『だから謝ってんだよ、このクソバカオッサンは。バカすぎる。謝らなくていいってのに』

 

(言い過ぎ)

 

『へいへい』

 

 しずくも、シズクも、想いは同じであった。その思考には好意があった。その表現の仕方が正反対であるというだけで。

 

「気にしないで」

 

「そうは言っても……大丈夫? お小遣いいる?

 ちょ、ちょっと待て、今あんまり持ち合わせないから小生ATMで下ろして」

 

「要らない」

 

『オッサン……お前本当……もうちょっと堂々と"俺が救いました"みたいな顔していいんだぞ』

 

「お、おう、そうか。他に何か言いたいことはあるか? 小生に」

 

「……強いて、言うなら。両親は。あの世に私を一緒に連れて行く気も、無かったんだなって」

 

「うぉっほぅ」

 

『しずくもさぁ……』

 

「そんな両親と、離れられたのは……いいことだったのかな、って」

 

『あ、そうそう、それ言うのが大事だぜ』

 

「そ、そうか……」

 

 しずくがちょっと視線を横にずらすと、おじさんのちょっと後方で「おじさま頑張って」と小声のエールを送る美森が見えた。

 "どっちが大人か分かんないや"と思いつつ、しずくは一つ疑問に思う。

 

 かわいそうな女の子を救う魔法―――催眠を使えば、しずくの心も記憶もあっさり操れて、この男が心配してるあれこれは最初からなかったことになるはずなのに、そうなっていない。

 ちょっと奇妙な話であった。

 

「……催眠。使わないの。心を操る御業」

 

「え、ああ。最近は催眠に安易に頼らないよう銀に……いやそうじゃねえな。

 それは小生の事情か。

 お前の辛い記憶の調整くらいなら容易いことだ。

 フン、いい意見だ。お前が望むなら、この催眠の王が精神に救済をやってもよいが?」

 

「いいです」

『いらん』

 

「え、いいの?」

 

「特に……困ってること。ないから」

 

「え、そうなの?」

 

『そうだよ。お前のせいでしずくの精神状態は健康健全絶好調だ。お前のせいでな』

 

 シズクの声が彼に聞こえていないことが残念だと、しずくはちょっと思った。

 

「あーえっと、本日はお日柄もよく。小生元気よ? 君最近元気?」

 

「元気」

 

「そ、そっかー、元気かー……どのくらい元気?」

 

「超元気」

 

「ちょ、超元気かー……あ、お茶飲むか!?」

 

「ありがとう」

 

『すげえ、超絶会話下手のしずくがこんなに話しやすそうにしてるの初めて見た』

 

 おじさんは部屋の隅っこの箱を開け、中から虫かごを取り出し、おずおずと差し出す。

 

「こ、これは神樹館の男子に頼まれて確保した四国最後のヘラクレスオオカブトだ……要る?」

 

「要らない」

『要らねえ』

 

「一つの体に二つの女子の心……女子女子……今日からお前をジョジョって呼んでやるよ!」

 

「ジョジョ?」

 

「駄目だ小生の会話のテンポが刺さってねえ!」

 

『刺さるかアホ』

 

「なんだか……思ってた人と、違う。ちょっとダメな感じ」

 

「小生は大分ダメですまん」

 

 素敵な人、というしずくの中の印象に、"面白い人"という印象が追加された。

 

 そこにもっと面白い人が割って入ってくる。

 

 東郷美森が"わかってないわね"と言わんばかりの表情で、しずくとおじさんの間に入って来た。

 

「あなたはね……おじさまニワカ野郎なのよ」

 

「おじさまニワカ野郎」

『おじさまニワカ野郎!?』

 

「よくあるでしょう?

 朝の美少女戦士のアニメで"あ、これ駄目だ"ってなる回とか。

 "あ、今年一年駄目だ"ってなる作品とか。

 週刊漫画読んでて"この漫画もう終わらせた方がいいな"ってなる時期とか。

 "最近この漫画雑誌駄目なのばっかり載せてるな"って思う時とか。

 大日本帝国が非有用な兵器ばかり作ってる頃とか。

 そうなるような瞬間が、駄目なところがぷんぷん臭うような、そんな時が……」

 

「……?」

『……?』

 

「大きいみー子は割と俗っぽいよな……」

「ね~」

 

「でもね。

 推すのであれば、ダメな時期、ダメな部分こそ応援しないと。

 ダメなところこそ愛してあげないと。

 おじさまのいいところだけをかいつまんじゃダメよ。

 それじゃおじさまの万引きクソ野郎よ。

 いいところもダメなところも摂取して、どちらでも喜べるようにならないと」

 

「え、あ、はい……摂取?」

『圧が強い!』

 

「小生はどういう顔でみー子のこの話聞いてりゃいいんだろうな」

「男らしい顔で~」

 

「でも大丈夫。次第にあなたもニワカじゃなくなるわ……

 摂取は慣れよ……

 次第に自分がおじさま無しではいられなくなる……

 おじさまも私達無しではいられなくなる……それを、太古より『絆』と呼ぶのよ!!」

 

「はい」

『はい』

 

「みー子のこういうクソオタクがニワカにクソ熱く語りたがる悪癖割と好きなんだよな……」

 

「インチキおじさんは大分手遅れだよね~」

 

 しずくは熱く語る美森とおじさんを交互に見て、ポツリと呟いた。

 

「……お二人は、恋人同士か何かで?」

 

『あっバカしずくっ』

 

「ふふ、そう見える?」

 

 微笑む美森。

 東郷美森の上機嫌ゲージが一瞬で満タンになるのが、しずくの目にもよく見えた。

 

「えー、流石に小中学生と付き合うのはねーわ。小生ロリコンに見える?」

 

「見えない」

『見える』

 

「だよな。見えるわけないよな。未だに小生の性嗜好は普通のまんまだよな……」

 

『聞こえなくても! 俺の話も聞けや! ロリコンに見えますぅー!

 あんなに見ず知らずのしずくに優しくしてたのはしずくの体狙ってたんだろクソロリコン!』

 

(し、シズク……)

 

 自分の声だけ外部に発信されないので、シズクはキレた。

 

 しずくが心の中でシズクをなだめていると、部屋の窓が開き、そこから花を思わせる衣装の鷲尾須美が入ってくる。

 

(鷲尾だ……勇者の衣装だ)

 

『こいつ本当に胸と尻でけえな、デブでもねえのに』

 

 あの日。

 虐待されていたしずくに寄り添い、身体を張って守ってくれた少女。

 特別な力になんて頼らずとも、しずくとほとんど変わらない小さな体でしずくを守ってくれた須美のあの姿は、しずくに大なり小なり影響を与えていた。

 守るために一歩を踏み出せる、輝ける勇者の光を、しずくはあの日見たのだ。

 

 あの時の鷲尾須美の周りに、きらめく勇気が見えたのは、絶対に気のせいではないと、しずくは思っている。

 

「お、小さい方のみー子も帰って来た。おかえり」

 

「只今戻りました。今ここで私のおじさまを誰かが自分の物だと言ってた気配がしたんですが」

 

「してたわね。お帰りなさい、須美ちゃん」

 

「東郷美森っ……! またあなたが……!」

 

「かかってきなさい、鷲尾須美……!」

 

 絶対に気のせいだな、とシズクは思った。

 

「おじさまの中で私を超えられるのは私だけ……そう、あなただけです、東郷さん」

 

「あらあら。私は私に警戒されてるのね」

 

「おじさまが女性としてドキッとしてるのはぶっちゃけあなたの方です……!」

 

「ううん……そうかもしれないけど、須美ちゃんの真っ直ぐさも私にはもうないもの」

 

「私も東郷さんみたいな大人っぽい女性に今すぐなれたら……!」

 

「私も須美ちゃんみたいになれたらいいんだけどね。成長も変化も不可逆なものだから」

 

「私、『美森より須美だった頃の方が好きだったな』って言われたくないんですよ!」

 

「いい心配ね……私は『須美より美森が好きだ』って言わせたくて日々精進よ」

 

「どう思いますかおじさま!」

「そこんとこどうなんですかおじさま!」

 

「知らん」

 

「おじさまはこれだから駄目ね……」

「でも節度を弁えて私達が子供だから手を出さないという倫理観は高得点なんですよね……」

 

「東郷美森は勇者で(あーる)・18には絶対にならないという信頼があるものね」

 

「そうなんですよ! 私は小学生で」

 

「私は中学生だものね」

 

「私達は小中学生という意味では、常に条件が互角なんです! 手を握るのが上限!」

 

「あ、でも私この世界に来てから数ヶ月経ってるからもうちょっとで高校生年齢になるわ」

 

「あっ……お、おじさま! 急いでください!」

 

「何をっすか?」

 

 気のせいかもしれない、としずくは思い始めた。

 

 しずくは東郷鷲尾タイフーンに巻き込まれないよう離れ、暇になったのでさっき封印されていた園子を解放した。

 解放された園子がすっと立つ。

 すっと構える。

 壁にかかっていたおじさんの上着を取り、体にかけ、仰々しい動きでベッドの上からしずくを見下ろし笑うそのっちは妖精のようだった。

 

「おお……私の封印を解いてくれた勇者はそなたか~!

 なんでも願いを叶えてしんぜよう!

 なんでもは嘘だからそこそこ叶えてしんぜよう!

 しんぜようってなんだろう!

 私は女神そのっちだよー!

 伝説の剣?

 使わない回復アイテム?

 ゲームバランスを壊す仲間?

 勇者山伏しずくよ、この女神そのっちにそこそこなんでも願いを言っていいんだぜ~!」

 

「黙ってて」

 

「はい」

 

『これが……勇者……神に選ばれた者達……!』

 

 勇者である。

 

 

 



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思い出4倍

 六人は、揃って外出の準備を始めた。

 

「三ノ輪のお嬢が誘われてた町内会のサッカー大会に迎えに行くんだが、来るか?」

 

「行く」

 

「食い気味に来たな……あっ車使われてるおのれ鷲尾父……まあいいか歩きとバスで行くぞ」

 

『しずくは三ノ輪に割と限界感情あるよな……チョロいっつか、ガツンと好きになるというか』

 

(シズクもそういうとこある)

 

『ねえよ』

 

「しずシズ、次のバス間に合わなくなるぞ。はよはよ。園子とみー子'sがもうあんな遠い」

 

「はーい」

 

『ん? こいつ今……』

 

 六人は駄弁りながら歩いて、バス停へ。

 園子が楽しげに、一番に、ガラガラのバスへと乗り込んでいく。

 

「わっしー、わっしー、一番後ろの席皆で取っちゃおう!」

 

「そのっち。バスには他の人も居るんだからうるさくしちゃダメよ」

 

「須美ちゃんお姉さんみたいね。あ、おじさま、バス代くらい私は払えますよ」

 

「かまへんかまへん。大人が払うのが筋やで」

 

「またヒュプノの真似してる……」

 

 一番後ろの数人並んで座れる席に、彼らは並んで座った。

 園子に手を引かれて須美が座り、美森が一番右に多少スペースを空けて園子の隣に座る。

 

 おじさんは席の左端に座り、スマホの音楽アプリを起動し、イヤホンで聞き始めた。

 そんな彼を、隣に座ったしずくがじっと見つめている。

 

「……」

 

「……聞くか?」

 

「何を?」

 

『音楽に決まってんだろ』

 

「音楽だよ。小生はな、この二番が終わって最後のパートに入る前のギターソロが好きなんだ」

 

「……聞く」

 

『オッサン、やるじゃねえか。イヤホン初体験だからか、しずくちょっとウキウキしてるぞ』

 

 六人並んで楽しく話している集団の端っこで、おじさんはイヤホンを渡し、イヤホンの付け方が分かっていないしずくの両耳にイヤホンを付けてやった。

 

「どうだ……いい曲だろ?」

 

「ん……はい」

 

『なんかうるせーなこれ』

 

「時代背景的に言えばこの世界の300年前頃に流行ってた曲だが、この時代でも通じるだろ?」

 

「うん」

 

『いや絶対通じねえと思うが? 何この聞き取りにくい英語……』

 

「時代を超えて通じる名曲っていうのは、やっぱ"違う"んだよなァ……」

 

「うん」

 

『いやこれはこの時代じゃ通じねえと思うけど?』

 

「これが一昔前の時代の曲だなんて信じられねえよな……?」

 

「うん」

 

『普通に信じられる。その辺のオッサンがこういう古臭え曲聞いてそうなイメージ』

 

「やっぱこう……音楽初心者にはさ……古き良き名曲を聞かせてやりてえもんだよな……」

 

『普通に新しくていい曲聴かせろオッサン。時代に取り残されてんのか?』

 

(シズク)

 

『原始人に小学生レベルの知識を披露して感動されて得意げになってる未来人みてえなやつだ』

 

(シズク)

 

『はいはい。……このオッサン、しずくが喜んでると思ってんのかねえ。かなり嬉しそうだ』

 

(シズクは魔法使いさんの感情の機微に敏感)

 

『あ? こんな怪しげなオッサン、警戒しない方がおかしいだろ。何か変か?』

 

(別に)

 

 六人はバスを降り、道を歩き始めた。

 この辺りはかなり広い土地をふんだんに使っており、サッカー場や野球用のグラウンド、短距離走用の直走路など様々なものがある。

 この地区の中学生や高校生のスポーツ大会の予選はここで行われるため、香川一の小中学校がここで決められることも多かった。

 

「なんだか涼しいね~。わっしーにうちわであおがせてる時みたいだ~」

 

「熱中症対策にスプリンクラーで水を撒いてるからね……

 ……ん? ちょっと待って、私そのっちをそんな風にあおいだことないわよ?」

 

「でも暑い暑い言ってたおじさんをうちわで精一杯あおいでた覚えあるんじゃないかな?」

 

「……ま、まさか、あの時のおじさまは……素直に甘えてくると思ったら……」

 

「だってわっしー、インチキおじさんにするくらい私に甘くしてくれないんだもん」

 

「そのっちぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 

「きゃー!」

 

 駆け出す二人を見て、シズクが"バカみてえ"と笑っていた。

 

「美森、暑くないか」

 

「七月ですからね。暑いこと暑いこと。おじさま用の水分補給茶がこんなにぬるく……」

 

「いやお前が飲めよ……今日は割と厚着だな」

 

「薄着で外を出歩くとおじさまが怒りますからね」

 

「……」

 

「あなたの美森は男性の注目を集めてませんよ? 何かコメントはありませんか?」

 

「……お前が熱中症で倒れないかが心配だよ」

 

「あら……珍しい心配をされた気がしますね。ふふっ」

 

「あと、んなことで怒らねえから」

 

「どうだか」

 

 悪戯っぽく笑う東郷美森が、おじさんの少し前を、機嫌良さそうに歩いていた。

 

『あのバカでっかい胸とか夏は蒸れまくって大変だろうな……しずくは貧乳でよかった』

 

(こら、シズク)

 

 しずくがシズクを叱って、シズクが笑い、その笑いがほどなくして止まった。

 

『さて、この辺でいいか』

 

(? どうしたの、シズク)

 

『様子見てたんだよ。

 知り合いだけど無視してんのか? って最初は思った。

 人が多いとこでしずくが気付いた素振りを見せても不味いと思った。

 だが様子見もここで終わりだ。こいつをこれ以上放っておいたらやべえ』

 

(こいつって……魔法使いさん?)

 

『違えよ』

 

 シズクの声のトーンが落ちる。

 しずくは経験上知っている。

 シズクがこういう声のトーンになった時は、戦意を抑えに入った時。

 戦闘態勢に入る前の、押し込んだ戦意を爆発させる前の、戦闘態勢に入った時のシズクの声の特徴だ。シズクは今、戦おうとしている。

 しずくを"うっかり殺す"ところまで行きそうになった親に対し、本気の戦意を見せた時と同じように。

 

『六人居るだろうが、六人』

 

(六人? 私と、シズクと、東郷と、鷲尾と、乃木と、魔法使いさんで六人?)

 

『違う。俺を抜いて、現実に六人いる。()()()()()()()んだよ……催おじの後ろに』

 

(!)

 

 しずくはおじさんの後ろを見る。

 だがそこには何も見えない。

 何もない。

 ない、はずなのに。

 シズクはそこに誰かが居るという。

 しずくは自分よりシズクの方を信じている。ジクジクと、染み入るような違和感が、シズクの言葉をきっかけとして、しずくの心に浸潤してきた。

 

『こいつは何か"力"を使っていつの間にか混ざってやがった。

 そこに居るのが当然のように。

 そこに居るのが当たり前のように。

 周りにそう信じ込ませて、そこに居た。

 バスで座る時もお前らは一人分のスペース空けてた。

 近くにいるそいつが見えてねえのにそいつにぶつからねえよう距離を取ってた』

 

 何故、五人しか居ないのに、バスの一番後ろの六人席を選んだのか。

 右端に座っていた美森は、何故右側にスペースを空けたのか。

 見えているはずなのに見えていない。

 見ているはずなのに何もない。

 何もないはずなのに違和感が募る。

 シズク以外、誰もそれが見えていない。

 

『何がなんだかさっぱり分からねえが、俺の勘が言ってる。コイツはヤベえ!』

 

 ぞわり、としずくの背筋に悪寒が走って、シズクの目に見えた"やばいもの"が一瞬しずくの視界にも映り、しずくの生存本能が警鐘を鳴らす。

 "これは自分を殺せる"。

 そう思った瞬間に、しずくの中でカチリとスイッチが入った。

 

 しずくが、シズクへと――

 

『こいつはやべーぞ! お前の命の危機だ! "代われ"ッ!!』

 

 ――変わる。

 

 意識が切り替わったその瞬間、シズクの鋭い掌底が、おじさんの背後で鼻息荒くしていたおじさんの背中に突き刺さった。

 

 

 

 

 

 しずくとシズクは、同じ体を使っている。

 肉体の性能は変わらない。

 ただ、しずくとシズクという『二つのOS』には、戦闘における適性や、各得意分野の差異が存在しており、肉体の操作能力においても天地ほどの差があった。

 パイロットを変えればロボットの動きが目に見えて変わるように、彼女の体もまた、シズクが操作を代わることで初めて才能が発揮できるようになっていた。

 

「背骨ぶち折れろッ!!」

 

「げぶぅっ!?」

 

 その一撃は、俗に『発勁』と呼ばれるものだった。

 

 発勁とは、様々な定義を持つが、力の発し方であり、力の作用のさせ方であるという。

 究極の形で語るならば、『最も理想的な動きで、最も理想的に力を伝える技』ということになるだろう。

 シズクは生まれた時から、これができた。

 誰にも教わらないままにこれができた。

 しずくは比較的自分の体を操作する才能が無かったが、しずくという精神の海から誕生したシズクという存在は、自分の体を操作する才能に特化していた。

 

 どんなに力があっても、力が伝わらなければ意味はない。

 筋肉があっても、力の流れを支配できていなければ野球ボールをまっすぐは投げられない。

 150km/hのボールが飛び交う野球のマウンドに、他スポーツトッププロが始球式で招かれても、投げ慣れていない者の球速は100km/hを切る。

 たとえ投げることができても、狙った的に当てることは難しい。

 普通の人間は"発勁"という力の制御と作用を、経験と鍛錬によって身につけ、ボールをより速くより正確に投げるように、力の支配を習得していく。

 

 しずくとシズクが同じ肉体を使っているのに、天と地ほどの戦闘力の格差がある理由は、ここにあった。

 

 シズクはしずくを守るために生まれてきた。

 この世の全てから守るため、強い存在として生まれてきた。

 だから強かった。

 肉体の弱さに依存しないほどに。

 どんな弱い肉体を使っても、強いほどに。

 "精神のみに依存する強さの才能"を―――山伏シズクは、持っていた。

 

 確かな手応えと、発勁掌底で転がった謎のおじさんを見て、シズクはこれが幻覚でもなんでもないことを確信し、味方の催眠おじさんに叫ぶ。

 

「催おじィ! テメェ俺の存在のこと分かってんだろ! ()()()()()!」

 

「……! よし、理解した。分からんが理解した!」

 

 おじさんは、説明なしにシズクを信用し、動く。そこには無条件の信用があった。

 

「―――須美ッ!! アレだ!」

 

「! アレですね! よく分かりませんが分かりました!」

 

 須美は、説明なしにおじさんを信頼し、動く。そこには不動の信頼があった。

 

 須美が変身し、弓の音が鳴り、矢が『その場の領域』に刺さる。

 

 須美が格別力を込めた魔祓いの力が広がり、高度なバランスで構築されていた催眠領域に綻びが発生し、そして砕けた。

 

 シズクの発勁を背中背骨、腰を中心とした部分に叩き込まれた謎のおじさんが、不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。

 

「……魂分裂型の二重人格。

 神の目にも"一人で二人の人間である"と認められる存在。

 通常の多重人格者より遥かに高い安定性を持つ者……

 その多重人格は姉妹のように育ち、片方の人格は全ての催眠が届かないという」

 

「あ? 何言ってんだテメー」

 

「大したものですね、流石催眠の王……

 催眠を完全に無効化する女と、催眠を問答無用で解除する女を確保していたとは……」

 

 謎の男は語り口を止めぬまま、震える足で立ち上がる。

 

「『うんこ』しか喋れなくなるわたくしのプレゼント、楽しんでいただけましたか?」

 

「! お前が……あの催眠を」

 

「ええ」

 

 恐るべき男だ。

 ここまでの流れで、催眠術師であることは分かる。

 だが本当にそうであるならば……おじさんを超える総合力、園子を超える基礎出力値を持っている可能性が高い。

 格上の催眠使い。

 須美のおじさまを超える脅威。

 

 この男がその気になれば―――寝取られものの薄いブックスが始まってしまう。

 

 だが須美のおじさまの反応は、少し妙だった。どこか懐かしげですらあった。

 

「お前の顔に……小生は見覚えがある」

 

「ええ! そうでしょうそうでしょう! あなたなら覚えていると思いました!」

 

「おじさま、知り合いの方ですか?」

 

「ああ。

 前に居た世界で共闘した。

 地球が敵に回った世界。

 その世界を救うために集まった『催眠おじさんクルセイダーズ』……

 小生が参戦する前に集結した、宇宙の壁を越える催眠おじさん相互扶助戦闘団の一人だ」

 

「おじさま、友達は選んでください……」

「須美ちゃん。これがおじさまよ」

「催眠おじさんクルセイダーズってかっこいいね~」

「おいしずく、俺の中で耳を塞ぐな、俺を一人にしないでくれ」

 

「やはり覚えてくださっていたんですね……王よ」

 

「でも小生の記憶だとこいつこんな強かったかな……

 おい、お前。

 あの世界は救われたはずだ。

 小生も恨まれる覚えは……小生が覚えてないだけであるかもしれんが。

 とにかくお前がこの世界に来る理由がよく分からん。この世界を支配したいのか」

 

「あの地球を救ったあなたが消えた後、私は思ったのです。あなたのアナルの処女が欲しいと」

 

「ん?」

「ん?」

「ん?」

「ん?」

「ん?」

 

 おじさんからシズクまで、全員の声が揃った。

 

「そのための拠点が欲しかったのです。

 だからこの世界に目を付けました。

 理が上書きされた世界……

 ここは星全体の理を一気に書き換えるのに向く!

 抵抗する人類の力も弱く、あとは神に勝てるかどうか!

 あと地の神の王がいい男だと聞いたので前菜としてホモセックスを少々ねフフフ」

 

「あっ、ふーん……小生そういう目で見られてたの……」

 

「神樹をファックしに来たというのに、あなたまで見つかるとは! 本当に僥倖でした!」

 

「やべーな、色々と」

 

「まずはあなたのアナルを舐めしゃぶり、次に神樹の地の神の王のアナルを舐めしゃぶります」

 

「本当にやべーぞ!」

 

 シズクが思わず、おじさんを守るように立っていた。

 いつもの悪態をおじさんに言うことすらなく、シズクは本気でおじさんを守るべく立った。

 ちょっと状況が洒落にならなくなってきたからだ。

 

 美森が目を細め、須美も声を上げる。

 

「ちょ、ちょっと待ってください! おじさまは私のですよ私の! 私のおじさまです!」

 

「須美ちゃんと私のおじさまに手は出させませんよ。そのっち、私達も変身を……」

 

「だまらっしゃい雌豚ども!」

 

「「 !? 」」

 

 ホモおじさんが声を張り上げる。

 

「そのおじさまを好きになったのはわたくしが先! あなた達は後から出てきたぽっと出!」

 

「ぽ、ぽっと出!?」

 

「わたくしの方が先に好きになったのに! 横からこんな小娘に寝取られるなんて!」

 

「寝てませんけど……あ、でも、添い寝はしてもらったかな」

 

「キーッ! そのおじさまはわたくしのもの! いいえ、これからしてみせる!」

 

「小生普通に怖い」

 

「男は男と、女は女と、おじさんはおじさんと恋をするべきなのですことよ!」

 

「催おじ……俺が思うにあんたお祓い行った方がいいぞ……絶対なんか憑いてるってコレ」

 

「雌豚どもの記憶を消しわたくしとのめくるめくおっさんずラブの記憶で埋めて差し上げる!」

 

「乃木家の歴史の中で一位を争える地獄だよ~」

 

 おじさんの背筋に、ドバドバと嫌な汗が流れ落ちていた。

 

 

 

 

 

 其は歴史の陰に隠れし存在。

 

 催眠系のエロ創作は男向けが最大勢力である。

 だが、女性向けも存在している。

 情報集積サイトで探せば、どこで探しても、男×男の催眠ものは見つかる。

 そしてその中には、おっさんが男を催眠でいいようにするジャンルが多くある。

 男が女を催眠でどうにかするエロ本・エロ小説・エロSSとは別の系統樹から生まれ、別の道を通って育ち、歴史の陰ですくすく育ったホモなる邪悪。

 彼らは催眠で男を捕らえ、中出しで男を妊娠させる。

 

 ()()()()

 ()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()

 

 ―――BL催眠種付けおじさん。

 

 其は天の神の王・天照大神を脅かさず、神樹の中心たる地の神の王・大国主を孕ませる者。

 花の勇者を脅かさず、催眠おじさんを孕ませる者。

 今の四国秩序において、絶対に来てはならない最悪の存在であった。

 

 

 

 

 

催眠剣豪七番勝負

勝負、一番目

 

四国守護おじさん

神樹の勇者

VS

BL催眠種付けおじさん

 

いざ、尋常に

 

勝負!!

 

 

 



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思い出5倍

 ホモおじさんは笑い、懐に手を突っ込んだ。

 

 おじさんと少女達が、咄嗟に構える。

 

 夏の日差し、蝉の声、さざめく木々の新緑に、遠くより響く少年少女のスポーツの歓声……夏の風に乗る夏の風物詩達を切り裂くように、『赤い光』が空中を切った。

 

「まさか、いきなりこの切り札を切らされるとは思ってもみませんでしたよ」

 

 赤い光の剣。遠目にはめっちゃ長い交通整理の棒のように見えるが、刀身が光の刃で構築されており、おじさんはホモおじさんが持つそれに、とても見覚えがあった。

 

「……その、光の剣は」

 

「正式名称は忘れましたがジェダイが振ってる光線銃の弾とか跳ね返すやつです」

 

「そこまで覚えてるなら正式名称覚えとけよ」

 

「あ、最近漁った乃木家の秘匿資料にあった神世紀72年の鏑矢様の武器と似てる~」

 

「やめろ園子! 変な風評被害を拡散させるな!!」

 

「私達の先輩はBLおじさんだったのかな~」

 

「やめろ!」

 

 おじさんの危機感が、最大限に高まる。

 

 だがもう遅い。須美の力で揺らいだ催眠を、ホモおじさんはおじさん達が予測した速度より遥かに速くに補強し、彼と彼女らの追撃を既に防いでいる。

 領域が、踏まれている。

 この空間全体が、催眠の足で踏み抑えられているような……そんな感覚。

 おじさんと勇者達の体の動きが阻害されている。

 否。"何もしないことを受け入れさせられている"。

 

「気を付けろ! 小生はこの剣を知っている!

 勇者と同じ!

 バーテックスと同じだ!

 ()()()()()()()()

 代理戦闘の駒!

 力を与える者と力を受け取る者、両者の目的が一致した―――」

 

「その通り」

 

 ホモおじさんが、世界に赤い光の刃を突き立てる。

 

 その瞬間、催眠のレベルが、更に桁違いに上昇した。

 

 素の状態のホモおじさんは実のところ、素の状態のおじさんと催眠合戦をすれば成すすべなく負けるレベルの力しか無かった。

 催眠おじさんのレベルを強さに例えるなら、チャドを孕ませることはできるが黒崎一護を孕ませることができない、そのくらいのレベル。

 だが、今は違う。

 王クラスの催眠術師であるおじさんに抵抗すら許さず、そのおじさんを超える出力値を持つ園子にも邪魔させず、ホモおじさんの催眠が周囲を飲み込んだ。

 剣豪が振るうその赤き刃は、使えば使うほどに、使用者の力を高めていく。

 

「ですがもう遅い。

 この赤き光の剣はダークサイドの男根そのもの……

 所有者の力を何倍にも高め、世界に"挿入"することで、世界を絶頂させる!」

 

 ククク、とホモおじさんは笑う。

 

「ゲスの暗黒卿があなたを参考にして完成させたものですよ……分かりますか?」

 

 世界への催眠干渉。

 外付けツールによる弱い催眠術師のブースト。

 全て、おじさんがこれまで見せてきたものだ。

 それを統合した剣を持つ者―――催眠剣豪。

 それが強化形態を使用していないおじさんを凌駕するのは、必然のことであった。

 

 同時に。

 これは()()()()()()()()()()()()()でもあった。

 世界への干渉と、力無き者への外付けアイテムによる強化。

 催眠おじさんと、おじさんの力を参考にしたアイテムで下駄を履いているホモおじさんと、神樹の勇者―――三者は、基本の部分に共通プロトコルを持っていた。

 

 なればこそ、暫定で最も強い力を持つホモおじさんが場を支配する。

 おそらく今神樹が世界を樹海化させても、ホモおじさんの固有結界『催眠アナル中出しホモ妊娠双子出産領域』には押し負けてしまうだろう。

 

「ハァ……ハァ……ハァ……!」

 

 おじさんが頬を赤らめ、熱っぽい目でホモおじさんを見つめる。

 ホモおじさんがシャツの裾を上げ、毛だらけのデブった腹を出すと、おじさんは顔を赤らめて咄嗟に目を逸らした。

 おじさんの息は切れ、心臓は早鐘を打ち、ホモおじさんから目が離せない。

 どこか楽しくて、どこか嬉しくて、どこか幸せで、何故か苦しかった。

 その気持ちを、叔父さんは知っている。

 

 おじさんの初恋は、可愛らしい女の子だった。

 黒く長い髪の、生真面目で頑固者で、年齢不相応なくらいに体は大人っぽくて、笑うと朝顔の花のようで、真っ直ぐで不器用だからすぐ転びそうな、そんな女の子。

 

 二度目の恋は、むさくるしいホモおじさんだった。

 

「おじさま! おじさましっかり! おじさまは小さい女の子が好きですよね!?」

 

 須美がおじさんに抱きついて止めようとするが、抑止力になりもしない。

 

「いや別に……

 須美のことはまあ……嫌いじゃないけど……?

 それはそれとして小さい女の子が好きっていうかと別に……

 どっちかっていうと安芸さんくらいのバランスが……めっちゃ好き……」

 

「おじさまー! うっ、私も……」

 

 催眠に、飲み込まれていく。

 

「東郷さん……これが最後なら……謝っておきたいんよ……」

 

「なに……そのっち……」

 

「催眠術で私をおじさんだと思わせて抱きついてごめんね~」

 

「あっ……こ、このっ、やけにおじさまが甘えてくると思ったら……ちょっと説教……」

 

「ふかふかだったんよ……」

 

 強力な催眠に、正気が飲まれていく。シズクの動きまで止まってしまった。

 

「流石あの御方の力……

 あの御方の傘下に加わって正解だった。

 催眠無効特異点の二重人格ですら、この力の前では無力……!」

 

 赤き光の刃を振り、ホモおじさんは高らかに笑う。

 

 更に油断せず、須美の弓を弾き飛ばした。

 

 体に染み付いた癖でもなんでも、この弓がまた鳴ってしまえば、催眠が緩み、それだけで全てが逆転されてしまうかもしれないからだ。

 

「この弓はわたくしの天敵なのでどけておかないと……」

 

 ホモおじさんは須美の弓を拾おうとしたが、触れた手の先がジュッと焼けた。

 完全なダークサイドであるホモおじさんを、弓の方が拒絶する。

 

「あっづぁ! え、何これ……

 神の力で作った魔祓いの弓はとんでもないな……

 神の代理戦争に使うには絶対環境に合ってませんよこれぇ……」

 

 それは鏑矢にして梓弓。

 邪悪なる魔を祓う神の弓。

 バーテックスという『神聖な天使』にこそ通じないが、邪悪なる催眠おじさんという『魔』では触れることも叶わない。

 

 ホモおじさんはおじさんを睨みつける。

 こんな少女を抹殺せず、むしろ庇護に回ったおじさんに、ホモおじさんは不満と不可解を表情に浮かべていた。

 催眠おじさんは何事もなければ世界すら支配してしまえる。

 

 だが時たま催眠おじさんすら倒す存在が現れる。

 薄い本の催眠おじさんに負けて終わる者がそこそこいるのはそのせいだ。

 鷲尾須美はおじさんキラーになり得るものであり、成長すればいずれおじさんキラーキラーでも手に負えなくなり、おじさんキラーキラーキラーにも成長してしまう。

 ゆえにこういった人物は育つ前に潰さなければならない。

 それが闇の催眠おじさんの理だ。

 

 変わり果てた――ように見えた――おじさんを見て、ホモおじさんはおじさんを矯正せねばと決意する。ついでに自分の道に引きずり込もうと決意する。

 欲望から「フヒッ」という声がちょっと漏れた。

 ホモおじさんは咳払いし、欲望を隠し、自分の天敵を自分の手で育てているようなおじさんの正気を疑い始める。

 

「本当に何を考えていらっしゃるんですか。

 こんな存在を育てれば、いつか我々は滅ぼされますよ」

 

 ホモおじさんがおじさんの顎に手を当て、顔を逸らそうとするおじさんの顔をクイッと動かし、自分と見つめ合う姿勢を作る。

 ホモおじさんの目を見て、おじさんの顔がかっと赤く染まった。

 普段軽快だったり飄々としているおじさんがうぶな処女のような所作を見せたことで、ホモおじさんと須美と美森はちょっとクラっときた。

 

「や……やめろ……小生はそっちの趣味はない……!」

 

「照れちゃって。かわいいね。おじさん興奮するよ」

 

 膨大な経験値と鍛え上げた技量で、おじさんはなんとかホモおじさんの催眠に抵抗するが、もはや焼け石に水だ。

 オッサン相手に発情させられ、恋をさせられてしまっている時点で、なすすべがない。

 ホモおじさんがおじさんの頬に、剃ってから30時間くらいのあごひげを擦り付けると、それだけでおじさんは胸が高鳴り、恋愛感情が倍加してしまう。

 

「や……やめろ……小生は男だ……おっさんだぞ……」

 

「かまいませんよ……ささいなことです……」

 

「小生は須美のものだ……ずっと彼女の叔父として、傍にいると……」

 

「フフ……すぐに快楽で忘れさせてあげます……ホモセで……!」

 

「やめろ……! ホモセなど……

 関係ないTwitterの公式アカウントに特撮の台詞画像でクソリプする奴くらい嫌いだ……!」

 

「そんなに嫌いだと流石に傷付く」

 

「ごめんな」

 

「いいんですよ、今からわたくしのこと好きになってもらいますから……!」

 

 

 

 

 

 受け入れること、受け入れないこと。

 人類の歴史はその繰り返しである。

 

 愛をもって他人を受け入れる。

 嫌悪ゆえに他人を受け入れられない。

 国益のため多国籍企業を受け入れる。

 国益のために移民を受け入れない。

 おおらかに違う趣味の人間をコミュニティに受け入れる。

 心地いいコミュニティを維持するために面倒な人間を受け入れない。

 受け入れる、受け入れないを繰り返し、人はコミュニティや社会を構築し、文明や在り方を進化させ続けてきた。

 受け入れるだけの集団は必ず破綻し、受け入れないだけの集団は停滞し腐敗するからだ。

 

 受け入れさせることは難しい。

 大赦が勇者という生贄の詳細を包み隠さず説明してしまえば、勇者のお役目を受け入れさせることはとても難しくなってしまうだろう。

 受け入れることも難しい。

 たとえば友達が『私が勇者として犠牲になればいいんだよ』と言ったところで、その友達の自己犠牲の悲痛な願いを受け入れることは、とても難しいだろう。

 けれど、"受け入れない"を選んだところで、何かが変わる保証もない。

 世界は、とても難しくできている。

 

 催眠は、そんな人類の基本と密接な関係がある。

 "自分を受け入れさせる"こと―――そのために催眠を使う者は、とても多いからだ。

 

 そして、そこにこそBL催眠種付けの本質がある。

 

 どう言い繕っても、催眠種付けは和姦の皮を被せた強姦である。

 男性向けの催眠種付け本は多くの場合、和姦など成立しようもない関係性の女性に対し、自主的な和姦を催眠で強制するという最悪の中の最悪だ。

 が。

 女性向けのBL催眠種付けは、少し違う。

 『男と男がセックスなんておかしい』という前提を持たせたまま、自分を受け入れさせる……そんなジャンル属性を、強く持っているからだ。

 

 "受け入れさせる"のは同じだ。

 だが男性向け作品の催眠おじさんは、レイプへの忌避感を残すということはあまりない。

 体の自由だけを奪う催眠で強姦に移ることはあっても、これはまた別ジャンルだ。

 精神を操作する場合、男性向け作品の催眠おじさんは女性に全てを受け入れさせるため、ストレートな和姦になる。

 

 対し、女性向け作品の催眠おじさんは、男性向けと比べると遥かに多く"背徳感"を残す。

 「男と男がセックスするのは当然だろ?」ではなく、「お前は男が好きなんだよ……」「そ、そうなのか……でも男同士なんて……!」を好む。

 大まかな傾向の話ではあるが、男女の嗜好の違い……シコの違いであるというのが、専門家達の見解であるらしい。

 

 BL系催眠おじさんの特徴は、受け入れさせること。

 性格を別物にするほどの改変を加えず、受け入れさせること。

 仮に催眠で男を受け入れさせようと、催眠解除からの第二ラウンドを入れ、「男同士なんて嫌だ!」を入れる。

 男消費者は「オッサンなんて嫌!」シーンを入れるか入れないかで需要が半々になるが、女性向けのホモ作品は『男同士は禁忌だ』というシーンが無ければ、意味が無いからである。

 

 男性消費者はオッサンに感情移入することもでき、変態は女性の方に感情移入するが、女性向けのホモホモパラダイスは読者と登場人物の性別が一致しない。

 なればこそ、至高のシコを試行し続けたシコシコの果てに、この違いは生まれたのだ。

 

 つまるところ。

 

 BL催眠種付けおじさんの催眠とは、()()()()()()()ことに特化した催眠である。

 

 だから、ホモおじさんを皆自然と受け入れていた。

 今も敵である彼を自然と受け入れてしまっている。

 男と男の恋愛を受け入れてしまい、ホモの世界に引きずりこまれてしまう。

 受け入れさせる催眠は強烈で、ホモおじさんに対する恋愛感情を、おじさんはごく自然に受け入れてしまっている。

 

 もはや絶体絶命。おじさんに活路なし。行き先に希望なし。

 このままオッサン愛用のオッサンオナホとして生きていくしかない。

 おじさんが覚悟を決めるべき時が、迫っていた。

 

 それはそれとして。

 シズクがフルパワーでホモおじさんを殴り飛ばした。

 

 

 

 

 

 ホモおじさんが地面を転がり、関節と筋肉の具合を確かめるようにシズクが拳で空を打つ。

 

「???」

 

 状況が理解できなくて、殴られた頬を抑えて困惑するホモおじさんの鼻っ面に、シズクの追撃のパンチが刺さった。

 

『あーんぱーんちっ』

 

「一々言わなくていいんだよオラッ!」

 

「ぎゃふっ!」

 

「俺も催眠使えんだぜ、採点してくれよホモ野郎」

 

「……???」

 

「俺が頭殴ると相手の記憶が消えるんだ。オラ行くぞ、記憶消去催眠!」

 

「ぐっ、北斗神拳伝承者に絶対選ばれなさそう……って、なんで催眠が効いてない!?」

 

 ホモおじさんは必死に転がって回避する。

 破れかぶれに赤い光の刃を振るうが、シズクはさらりとかわして踏み込み、ホモおじさんに蹴り込んだ。

 蹴りが太腿に当たって止まり、ホモおじさんは『今こいつ金玉蹴り潰そうとした』と気付き、ゾッとする。

 

 先程まで、山伏シズクは催眠に囚われて動きが止まっていたはずなのに、何故急に動き出したというのだろうか。

 

「いや、まさか、お前」

 

 考えられることは一つ。

 

 山伏シズクが、催眠にかかっていたフリをしていた、ということだ。

 

「な、なんでだ、なんでかかったフリなんかを」

 

「分かってねえなぁ」

 

「は……?」

 

 シズクはホモおじさんにだけ聞こえるように、耳元でささやくように言う。

 

「俺がお前瞬殺したらしずくのありがたみがイマイチ伝わんねえだろ」

 

「は?」

 

「ちょっとピンチになってから俺が逆転すりゃ皆しずくを重用するって寸法だ」

 

『シズク……』

 

「え、ま、ちょ」

 

「しずくの敵の親が消えた今、俺の仕事は活躍してしずくの価値を高めることだぜっと」

 

 シズクは流れるようにホモおじさんの足を掴み、転ばし、関節を極める。

 技もクソもない本能的な『こうすれば相手は転ぶ』『この関節はこう極めれば力が入らない』という思考による攻撃だったが、催眠に特化したホモおじさんでは防げず、あっという間に足首の関節を極められてしまう。

 

 関節技は、正しい極め方をすれば筋力差が十倍あっても余裕で抑え込める、弱者の技である。

 

「あだだだだだだだだだっ!!」

 

「くははっ! いいとこに来てくれたぜお前!

 しずくは催おじに救われてばっかだったからな!

 ここでいっぺん借りを返して、しずくの総合評価を上げて大事にさせるって寸法よぉ!」

 

『シズクはもう、本当に……』

 

 ホモおじさんは赤い刃を振るうがシズクは首を傾けるだけで余裕にかわし、ホモおじさんが世界に催眠の刃を突き立て"領域"を構築しても、シズクに催眠は全く届かない。

 

「催眠! 催眠! ここまで力込めてんのに催眠かかってねえのおかしいだろうがァ!」

 

『……あれ。何やってたんだっけ』

 

「俺の相方にはしっかりかかってんぞー」

 

「ええ……? い、いやそれなら、主人格に人格交代させれば……!」

 

 ホモおじさんはここまでの道中も鑑みて、しずくが主人格・シズクが副人格だと見抜き、しずくを操ってシズクに交代させようとする。

 が、無駄。

 

『シズク、代わって、代わって』

 

「な、何故変わらん……!?」

 

「あーそれな。

 俺らはなぁ、主人格が望んでも人格交代できねえんだ。

 主人格の命の危機にだけ変わんだよな。

 あとはまあ時間経過で適当に……次にいつ代わるかは俺にも分からん」

 

『シズク……足の上にアリさんがいるよ』

 

「が、ガバガバチェンジの二重人格……!

 完全に別存在として独立しているからか……!」

 

「そういうこったな。オラ肘打ち!」

 

「ひでぶっ」

 

 シズクの追撃で、ホモおじさんに更にダメージが叩き込まれる。

 成人男性と元虐待児童の小学生女児という時点で、シズクには圧倒的なまでにスペックの不利が存在していたが、それが問題にならないくらいにシズクは強かった。

 ありとあらゆる意味で、山伏シズクは催眠おじさんの天敵である。

 

 シズクはホモおじさんを抑え込みつつ、どこか自嘲するように、どこか誇らしげに、どこか諦めたように、どこか納得したように、複雑な感情が混ざった言葉を漏らす。

 

「こういう風に暴力を振るってるとな。

 ……俺は、あの親の娘だってのを実感する。

 キレやすく、短気で、すぐ暴力が出る。最悪だ。

 だけどな、それでいい。

 しずくにとって嫌なものは、全部俺が受け持つ。

 しずくが親から受け継いだ、親の嫌いな部分は、全部俺が引き受ける」

 

『……シズク』

 

 関節の固定を外すために動き始めたホモおじさんの動きに合わせ、関節を極めるのをやめ、シズクはサッカーボールを蹴るようにホモおじさんを蹴る。

 

「テメエみたいなのから、しずくを守るのが俺の役目だからなァ!!」

 

「ぐっ」

 

 蹴りを防いだホモおじさんに距離を詰め、シズクはマウントを取って軽くパンチを顔面に打つ。

 ホモおじさんの両腕に防がれたが、またシズク優位の状況が出来た。

 シズクは拳を振り下ろす連撃を止めず、常に優位の状況を作る。

 

「一つ、気に入らねえことがあんだよ」

 

「き、気に入らないこと……?」

 

 そして、攻撃的な表情のまま、言い放った。

 

「あのオッサンはお前のもんじゃねえ。

 もちろん他の誰のものでもねえ。

 ―――しずくと俺の魔法使いだ。汚えオッサンは失せな」

 

「―――」

 

『シズク』

 

 それは、シズクにとって譲れない一線であり。

 

 ホモおじさんにとっても、譲れない一線だった。

 

「ふざけんなくらああああああああああああ!!」

 

「うおっ」

 

「オッサンとオッサンの恋に口出ししてくんじゃねえええええええええ!!」

 

「片思いを催眠で叶えようとするクズじゃねーか身の程を知れ!」

 

「うるせええええええ!! こうなったら相討ち覚悟だ!」

 

「は?」

 

「わたくしは『受け入れさせる催眠』使い!

 お前に催眠が効かなくても、主人格に消えない傷を刻み込んでやる!」

 

『私?』

 

「おい待てコラ!」

 

「傷を"受け入れろ"主人格! 永遠に消えない傷をよォー!」

 

「オラッ! 催眠記憶消去拳!」

 

「ぶへっ! か、顔殴られても止まるもんかよ……! あの人はわたくしとホモになるんだ!」

 

「こ、こいつ……!」

 

 ホモおじさんが、自らの命すらも燃やし、自分の専門から少し外れた攻撃系催眠を発動しようとし、シズクがなんとかしずくを庇おうとしたその瞬間――

 

 

 

「―――催眠術師最終形態(オチンポー・レットシュティール)

 

 

 

 ――シズクがホモおじさんを追い込み、叩きのめし、気を引いてくれたおかげで、僅かな隙を突くことができたおじさんが、動くことができた。

 

 おじさんのスマホは万全の稼働状態にあるのが残り27。

 そのスマホが飛翔し、おじさんに催眠アプリで多重的な干渉を起こし、なんとかBL催眠を崩壊させる。その後、腕に集まることで、おじさんの催眠を極限まで強化していた。

 自由になったおじさんは強力な催眠干渉でシズクを守護し、ホモおじさんの力を抑え込んだ。

 シズクはホモおじさんを蹴り飛ばし、抜け目なくホモおじさんの赤い刃の剣をスリのように掠め取っていく。

 

 これは催眠術師最終形態(オチンポー・レットシュティール)

 万全の催眠術師が発動する究極形態にあらず。

 追い込まれ、ボロボロにされ、多くのものを失い、なおも戦うおじさんの姿。

 死の危険にさらされた男のチンポが盛大に勃起する現象と同じように、追い詰められた催眠おじさんが戦うための、究極ではない最終のスタイル。

 

 腕・足・頭部etc……なけなしのスマホを体の各所に集めた限定的強化形態。

 腕にスマホを集めれば、干渉力が飛躍的に増加する。

 

「大丈夫か、しずシズ」

 

「ああ、まあな」

 

『うん』

 

「そうか。よかった。あと、よくやってくれた。こいつは命の恩人扱いしねえとなあ」

 

「へっ、そいつは最高だな。後でしずくももてなしてやってくれ」

 

『シズクしか何もしてない……』

 

(いいんだよ、俺の功績はお前の功績だ)

 

 ホモおじさんはおじさんに抵抗するが、もうどうにもならない。

 催眠剣豪の証たる剣はもう奪われてしまった。

 仮にあったとしても、スマホ軍団の召喚を許してしまった時点で、おじさんとホモおじさんの力は五分五分といったところだろう。

 それでは、シズクの攻撃でダメージが溜まった今のホモおじさんではどうにもならない。

 

「貴様の力は小生の催眠で封じ、しばらく大赦の牢獄に繋いでおくとする」

 

 催眠による高等技術・催眠封印。

 まるで貞操帯で股間を封じられるように、まるでこの世に生まれて来る前の純粋無垢な赤ん坊が精子だったころ精液に封印されていたように、ラブコメの初期ヒロイン達が全てラストバッターの真冬先生を封印する存在になってしまったように……覆うことで、封印する。

 

 おじさんは後悔を抱えたまま通信交換をすると進化してしまうタイプのポケモンなので、この男を野放しにした結果後悔することなど許せるはずもない。

 リスクマネジメント。

 念には念の為、不都合なことが一切できないよう、精神に楔も思いっきりぶっ刺していた。

 

 だがホモおじさんは、108の催眠スマホを揃えていないおじさんを見て笑う。

 あまりにも脆弱。

 あまりにも備えが弱すぎる。

 催眠アプリを導入したスマホが108なければ、彼は催眠の王たりえず、また5chとニコニコ大百科のレスバで自演勝利できないことを、ホモおじさんは知っていた。

 

「は……はははっ……!

 それしか在庫がないのですか、催眠アプリスマホは……!

 それではわたくしに勝てても、次に来る催眠剣豪に勝つことなど……」

 

「ウゼェ」

 

「はうっ」

 

 鬱陶しいのでホモおじさんの股間をシズクが思い切り蹴り上げる。

 おじさんは「うおっ」と声を漏らし、気絶して無防備になったホモおじさんに催眠の続きをかけ始める。ちょっと内股だった。女には分からない痛みであった。

 シズクは舌打ちし、地面の小石を蹴り飛ばす。

 横目にちらりと、シズクはおじさんを見た。

 

「あーあ、くそ、しまらねえな……結局助けられちまった」

 

『シズクは頑張ったよ』

 

「おう」

 

『私は見てた』

 

「お前はいつも俺を見てくれてる。お前さえいれば、俺は……」

 

 しずくが居れば満足だ、といつもの自分でいようとしたシズク。

 これまで通りでいい、とシズクは噛みしめるように思う。

 その頭に、不思議な感触があった。

 優しくて、暖かな感触があった。

 シズクをいつも通り、これまで通りではいられなくさせる手が、シズクの頭を撫でた。

 

「よくやったなしずシズ。お前のおかげで、小生たちは助かった」

 

 それは、子供が親に当たり前のようにされることで。

 しずくもシズクも、ずっとしてもらえなかったことで。

 彼にとっては、子供達と触れ合う中で学んでいったものだった。

 自分よりもずっと大きな男の手に頭を撫でられて、シズクの顔がみるみる内に赤くなっていき、シズクの掌底がおじさんの腹に突き刺さった。

 

「げふっ」

 

『!?』

 

 おじさんも、しずくも、びっくりした。でも一番びっくりしていたのはシズクだった。

 

「バーカ! お前ホントバカ! 死ね! しずくの頭に気安く触ってんじゃねえ!」

 

「……確かに今のは小生が悪いな。最近子供の頭撫でる癖がつきすぎていた」

 

「は? 悪いなんて言ってねえが? 俺がいつ悪いとか言った?」

 

「こいつめんどくせえ」

 

『シズク……』

 

 おじさんとシズクがわちゃわちゃしていると、シズクの金的蹴りにより気絶したはずのホモおじさんが身じろぎし、僅かに意識を取り戻す。

 

「ぐ……うっ……」

 

「! この野郎、俺の蹴り食らってまだ意識が……」

 

「意識が朦朧としているな。今なら小生の催眠で情報を引き出せるか」

 

 ホモおじさんの催眠の効果が切れ、須美、美森、園子と次々に勇者が正気を取り戻す中、おじさんの催眠誘導で、ホモおじさんは抱えていた情報を語り出す。

 

「くく。ゲスの暗黒卿による四国雌豚養殖場計画―――止められるものなら止めてみなされ」

 

「一度聞いたら十年くらい忘れられなさそうなワード出てきたな」

 

「ゲスの暗黒卿は神樹に中出しをし神樹を孕ませる……

 受粉し妊娠した神樹は宇宙に種を撒く……

 誰にも止めることはできない……!

 ですが……ゲスの暗黒卿の愛弟子であり、催眠の王であるあなたなら、あるいは……」

 

「おおっと初見の話が出てきたぞ?」

 

「ガクッ」

 

「こいつ口でガクッって言いながら気絶した……」

 

 引き出せた情報はそれが限界。

 少女らは困惑し、だがおじさんは、かつて無いほどに深刻な表情をしていた。

 

「あの時のような戦いが始まるのか……射精と愛液で天の川が出来た、あの時と……」

 

「おじさまなんて?」

 

「また……誰かの喘ぎ声が『あいうえおを順番に言ってるだけじゃねえか』って言われるのか」

 

「おじさま?」

 

「ウルトラマンコスモスの名前が卑猥なものとして扱われる時代が来てしまうのか……?」

 

 おじさんは何かを知っているようであった。

 だが、何を知っているかを語らない。

 それはおそらく、彼の過去に起因する凄惨かつ悲惨な何かであり……おじさんが未だ語らないそれを語らせることが、今の時代の彼の仲間の義務であり、責任だった。

 それを語らせなければ、きっとこの世界に迫る危機を知ることはできない。

 この世界を守ることすら、きっとできないだろうから。

 

「お、みんなー! 来てくれたのか! どした? 何かあったのか?」

 

 そこに、三ノ輪銀が通りかかって、声をかけてくる。

 

 ちょっと忘れかけていたが、おじさん達はここに、彼女を迎えに来ていたのだ。

 

「……何もなかったぞ! 試合どうだった!」

 

「おじさまがなかったことにし始めましたね」

 

「忘れたいのよ須美ちゃん……」

 

「乃木園子劇場~!」

 

「なんか始まったぞ俺は何すりゃいいんだオイ」

 

「インチキおじさんは何故今日の流れを忘れようとしたのか? 園子が調べてみました~!」

 

『あっ……』

 

「いかがでしたでしょうか?

 何も分かりませんでしたね!

 今後も調査を続けていきたいと思います!

 情報まとメディアの乃木園子でした。わはは~」

 

「クソまとめサイトと化した乃木園子」

 

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思い出6倍

 彼らはファミレスに向かった。

 町内会のサッカー大会で大活躍した銀をねぎらうために。

 そして……歴史の真実をおじさんの口から語らせるために。

 おじさんは珍しく真剣な顔でファミレスに入り、店員の対応を受けた。

 

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

 

「六人でお願いします。窓際の席がいいですね。あ、先に人数分ドリンクバーお願いします」

 

「かしこまりました」

 

「おじさまはコーラとメロンソーダ1:1のブレンドが好きでしたね。取ってきます」

 

「は? そんな子供みたいなもの……好きだが?」

 

 東郷がドリンクバーに行き、おじさんは財布を取り出す。

 

「支払いは小生にバリバリ任せろ!」

 

「ふふ。おじさま、マジックテープなんて子供みたいなお財布使ってるんですね」

 

「あ゛ッ……三百年の経過でマジックテープネタが失伝しとるぅ……」

 

 須美は柔らかに微笑んでいた。

 六人が向かったのは六人座れるボックス席。

 須美が右側の奥の席に入って、その隣におじさんが座って、おじさんの隣にシズクが座る。

 どこに行くか分からない園子を銀が左側の奥の席に押し込み、その隣に銀が座り、美森が慣れた雰囲気で園子と銀と並んで座った。

 

「小生、ファミレスのこのおしぼりとお冷が配られて注文選んでるこの空気が好きなんだ」

 

「催おじのエモポイントが俺にはさっぱり分かんねえ」

 

『こういうところ。全然来たことないからね私達。ファミリーレストラン、か……』

 

 何故おじさんが楽しそうに、自分の注文を決める前にシズクの前にメニューを広げているのか、シズクにはまるで分からなかった。

 

「須美と美森は和風セットでいいか?」

 

「お願いします」「洋風はありえません!」

 

「そのっち~」

 

「鶏肉オムライスセット~」

 

「銀! 今日はよく頑張ったな! よく動いて腹減ったろ! なんでも食え!」

 

「あざす! 今日は勝ったのでカツカレー大盛りで!」

 

 子供それぞれにノリを細かく変えるおじさんを見て、シズクは頬杖ついて"よくやるわ"と言いたげな表情を浮かべていた。

 

「コイツ周りに合わせすぎて多重人格みてえだな……おっと」

 

『あ』

 

『戻ったな。ちょうどいいや、しずく食べたいもの言っちまえよ』

 

「あ、うん。えと」

 

 しずくはメニューを見るが、何を選んでいいか分からず、少し焦る。

 無表情なため、しずくが焦っていることは少し分かり辛く、伝わり難い。

 メニューの値段まで目に入ってくるとしずくはもう、はわわ状態である。

 おじさんは急かさず、しずくの状態を理解し、ゆっくりした話し方を心がけてしずくの内心を落ち着かせていく。

 

「遠慮しなくていいぞ。さっきのホモ野郎の身ぐるみ剥いで売っぱらう予定だからな」

 

「そうなんだ」

 

『こいつ蛮族の星から来たのか?』

 

「ゆっくり選べ。小生の金の飯だからなうはは。違えなホモ野郎の金の飯だ気持ち悪い」

 

 しずくがメニューをじっと見ていると、ふと、しずくは気付いた。

 おじさんが、しずくがいつでも話に入れるような空気を作りつつ、しずくを抜いても回るような話を選んで会話を回している。

 

「大昔、一ハナゲって単位があってな……

 お前達の言うところの旧世紀の1990年代に流行ったもんだ。

 鼻毛を抜いた時の痛みが、公的期間の痛みの単位・一ハナゲに採用されたってやつ」

 

「えー、流石に銀様の成績が悪いからって、そんな嘘には騙されないっすよ」

 

「一ハナゲ~」

 

「ああ……おじさまがすごく懐かしい話を……あ、須美ちゃんは初耳かしら」

 

「これ、いつもの冗談じゃないんですか……?」

 

「小生嘘つかない。当時結構な人が信じた。人類は愚かやね……」

 

「ええ……銀、信じる?」

「ええ……須美は信じる?」

「楽しい時代だったんだねぇ」

 

「そういやわしおじさんが鼻毛出てるとこ見たことないっすね。

 うちの父親は時々出てるから恥ずかしいのなんのって感じですよ」

 

「叔父がそんな恥ずかしい醜態晒したら須美がいじめられるかもしれないだろ!」

 

「おじさま……!」

 

「これ絶対感動するところじゃないよね~」

 

 しずくを待っている空気がない。

 しずくに"まだか"と周りが思っている空気がない。

 おじさんがしずく以外を意識的に話に巻き込んでいるので、視線も意識もしずくに向かず、しずくがゆっくりと選べる空気ができる。

 同時に、"しずくのせいで退屈してしまう"という流れを回避し、しずく以外がしずくのために退屈するというよくない状況を避け、しずく以外を楽しませ続けようとしている。

 自然としずくから焦りが抜けていく。

 

 しずくが決めた注文を口にした時、"やっと決めたんだ"ではなく、"あ、もう決めたんだ"という空気になっていたのは、おじさんが裏で地味にあれこれやっていたおかげであった。

 しずくもシズクも正確に理解していない、ゆえにおじさんに感謝していないそれを見て、美森はとても満足げに頷いていた。

 後方古参ファン面である。

 

 しずくはそこそこ迷ったが、慣れた食べ物を食べることにした。

 

「ラーメン」

 

「お。小生もラーメン好きなんだよなラーメン!

 でも周りがうどん好きばっかでよォ……オォン……

 四国出身じゃねえんだ俺は……ラーメンが好きなんだよ……!」

 

「私も」

 

『気が合うじゃねーかオッサン! 徳島ラーメン……はねえか。また今度だな』

 

「小生としずくはラーメンだな。

 あーとはみんなつまめるやつ……軟骨と枝豆とポテトと……」

 

「インチキおじさん居酒屋のチョイスになってるよ~」

 

「カラオケの若者チョイスですけど!? ナウでヤングなおつまみですけど!?」

 

 須美と美森の視線が絡む。

 二人はうどん党にして牡丹餅族にして和食一派。

 鷲尾家を自分の好みで染め上げたように、自分の大切な人を自分と同じ趣味に染め上げ、同じものが好きであるという幸福を噛みしめるタイプの少女らである。

 おじさんがラーメン派閥であるのはそこそこ由々しき事態であった。

 

「東郷さん、おじさまのうどんの民化は三年後に終わってたんですか?」

 

「……終わってなかったわね。須美ちゃんのおじさまと同じく」

 

「むむむ」

 

 三年何やってたんですか、と須美が目で訴える。

 むしろ私がおじさまの好きなもの好きになってしまったのよ、と美森が視線で返した。

 二人の視線が空中で衝突する。

 

「……」

 

「……」

 

 須美は奥の席を取り、おじさんを自分の隣に誘導した。

 おじさんの隣の席を取り、かつ自分がドリンクバーを取りに行く時、おじさんの膝の上を通るという、綿密な計算の上で選択したポジショニングだ。

 須美がドリンクバーを取りに行こうとすれば、おじさんが気を使って代わりに取りに行くことを想定していないことに目を瞑れば、須美の計算に隙はない。

 須美が思っている以上に、おじさんは須美のことを大切にしている。

 

 一番動き難い奥をあえて取り、あえて一番動き難い位置取りを勝利に繋げるのは、難攻不落の堅城・大阪城を思わせる名采配である。

 

 美森はおじさんの隣を取らなかったが、そこであえて通路側の席を取った。

 おじさんがドリンクバーを取りに行こうとした時、「私が行きますよ」と代わりに行くことで好感を稼ぐという、綿密な計算の上で選択したポジショニングだ。

 美森が代わりに行こうとすれば、おじさんが断って、逆に美森の分まで何か取って来ようとすることを想定していないことに目を瞑れば、美森の計算に隙はない。

 美森が思っている以上に、おじさんは美森のことを大切にしている。

 

 動きやすさを最大の強さと解釈し、機動力と動きやすさで目標を達成しようとするのは、常勝を誇った武田騎馬隊を思わせる名采配である。

 

(やはり侮れない、成熟した理解と経験……東郷美森……未来の私―――!)

 

(この迷いの無さと決断が強い……鷲尾須美……過去の私―――!)

 

 須美は子供なのでおじさまとベタベタできればよかった。

 美森は単純なので「ありがとう」とおじさまに言われればよかった。

 暑い真夏の昼、過熱した欲望は、遂に危険な領域へと突入する。

 

 『軟骨が来たら先におじさまの小皿に取り分けた方が勝つ』。

 無言の意思の衝突が、やがて一つの結論を導き出した。

 戦いの場は、速度と反射を競う領域へ。

 

 高度に発達した読み合いは、未来予知と変わらない―――そう、言えるのかもしれない。

 

『無言でマウント取り合ってる』

 

(戦いの匂いがするぜ……ジャンケンで永遠に互いに同じグーを出してるような戦いが!)

 

『永遠に決着つかないやつ』

 

 しずシズは"同じ顔の須美と美森"の観戦をちょっと楽しんでいた。

 須美森としずシズ、同じであって同じでない二組の少女ら。

 須美と美森は正反対というほど離れていないけれど、最初は"こんなの自分じゃない"という拒絶に近いものがあった。

 しずくとシズクは正反対だが、拒絶の感情が生まれたことは一度もなかった。

 同じであって同じでない。

 この四人の間には、共感とも反発とも違う、不思議な空気があった。

 

「見て見てインチキおじさん、チベットスナギツネ~」

 

「おしぼりで?! 作ったの!? 凄いな!?!?」

 

 おしぼりで折り紙を始めたあまりにも自由な園子の隣で、銀はテーブルの上のちょっと汚れが残っていた部分を見つけ、そこを拭いていた。

 絵に描いたような良妻賢母の卵である。

 とても女の子らしいふわりとしたいい匂いをさせている園子の匂いが、銀の方に流れ、銀はちょっと自分の服の匂いを嗅ぐ。

 

「……アタシ汗臭くないっすかね」

 

 おじさんがハッとし、体臭を気にしている銀に感動気味に口を覆った。

 

「! 三ノ輪のお嬢が乙女みたいなことを……

 お前に淑女要素足したら美少女として強すぎるからレギュレーション違反でBANだぞ」

 

「大袈裟だよ!? いやあほら、最近クラスの女の子とかにもよく言われてて、たはは」

 

 "小6はそういう歳だよな"といった風に、おじさんはうんうんと頷く。

 少年のようなところがある少女でも、言われたのが同性でも、「汗臭い」は不意打ちで喰らえばよく効くことだろう。

 

「懐かしいな……お前達くらいの歳に子供は色気付くんだ……

 小生の中学のクラスメイトの女子も性感スプレーで女を磨いてたものよ」

 

「あ、それならアタシも勧められましたよ、制汗スプレー」

 

「ほー。流石最近の子供は進んでるな……性感スプレーを小学生からか」

 

「アタシもそう思いました。

 小学生からもうそんなに……って。

 でもなんか最近の小学生は化粧もする子も多いんすよ」

 

「化粧も? はー、そりゃ性感スプレーくらい使うか」

 

「制汗スプレーの使いすぎは逆によくないとかなんとか、色々教わってます」

 

「ああ、それはよく言うな。人によっては性感スプレーの後遺症も残るから大変だぜ」

 

「あと粘膜に直接当てないようにーとか」

 

「粘膜直はやべえよやべえよ……銀はしないようにしろよ? 刺激も強いしな」

 

「はい! 制汗スプレーの刺激が癖になってて事あるごとに使ってる子も居るらしいですよ?」

 

「依存症レベルかよ……凄まじいな神樹館……正直ちょっと舐めてたぜ……怖い」

 

「一度に一本丸々使っちゃう子も居るみたいですねー。アタシには遠い話だ」

 

「一度に一本も!? やべーな、行き着く先はドスケベマジンカイザーか……将来は化物だな」

 

「銀、おじさま。話をすり合わせておいた方がいいです、絶対に」

 

「「 ? 」」

 

 須美が会話に入って来て、おじさんと銀が首を傾げた。

 

「水族館のお魚さんって美味しいのかな……ムニエル……てりやき……」

 

「おい誰か会話の途中で唐突にこんなこと言い出す自由な園子に首輪付けとけ」

 

 園子の前髪を固結びしようとするおじさん、「ぬわー」と逃げる園子をぼーっと見つめるしずくの頭の中で、沈黙を選んでいたシズクが口を開いた。

 

『しずく』

 

(何?)

 

『そろそろ聞いた方がいいんじゃね? 催おじにあれやこれやをよ』

 

(……面倒臭くなってきた)

 

『おい』

 

(嫌われないように話すの。難しい)

 

『うんまーそうだよな……』

 

(私はただでさえ話すのが下手)

 

『つってもこのオッサンはそうそうしずく嫌いにはなんねえと思うけど』

 

(そういう人に嫌われるのが一番嫌)

 

『……しゃあねえ、奥の手だ。あのクソ親の手を使う』

 

(……?)

 

『"私は何も言わないけどあなたはちゃんと私の気持ちを察してよね"作戦だ』

 

(凄く性格悪そう……)

 

『あの母親が性格ブスなのは間違いねーだろ。

 だがこいつは使える。

 催おじは察しがいいからな……

 しずくが察してオーラを出せば、勝手に察して勝手に話してくれるはずだ』

 

(面倒臭い女感がすごい)

 

『違うなしずく……お前は言葉無く男を操る、魔性の女になるんだ!』

 

(ちょっと間違えるとクズになりそう)

 

『クズの汚名は提案者の俺がひっかぶるさ。シズクズ氏、ひっくり返してもシズクズ氏ってな』

 

(シズク、会話のノリが魔法使いさんにちょっと似てきたね)

 

『!?』

 

 シズクが愕然としたのは置いておいて、しずくは喋るのがちょっとどころでなく苦手なため、シズクの言う通り無言の訴えを始めた。

 無言で何かを訴える。

 無表情なのでことさら虚無に何かを訴える。

 

 しずくはまずマナーモードのスマホとなった。

 奴ほど無言のまま雄弁に何かを語る者を知らなかったから。

 "なんか違うな"と思ってやめた。

 次に信号機になろうとした。

 奴ほど無言のまま周りに意図を察してもらえる者を知らなかったから。

 "なんか違うな"と思ってやめた。

 最後に猫の真似をして、隣のおじさんに頭をグリグリ押し付けた。

 山伏家の庭に来ていた猫は、人間の言葉なんて使わなくても、人間と意思疎通できていたから。

 "これはいける"としずくは思った。

 

「どうしたしずく。まるで便秘の時のトロワ・バートンみたいな顔になってたぞ」

 

「通じてない」

 

『失敗かー……』

 

「聞きたいことは分かっている……隠すことでもない。今こそ話そう、彼らの話を」

 

「通じてる……」

 

『成功じゃねえか! なんでワンクッション入れた!?』

 

 おじさんは真剣な顔で、深刻な話をし始めた。

 それは、宇宙の光と闇に迫る話。

 

「メスガキどもに問おう。何故"勝てない敵"が居るんだと思う?」

 

「? それは……強いからでしょうか」

 

「須美のそれも正解だ。だがそうだな。一番多い理由は、スケールの差があるからだ」

 

「スケール……」

 

「そうだ。つまるところそれは、小生らにとっても――」

 

「夏の和風セットのお客様ー! こちらで合ってますか?」

 

「――あ、はいこちらで合ってます! そこの黒髪の子とここの黒髪の子で!」

 

 醤油のいい香りが、その場に漂う。

 

「ええと、そうだな。

 スケール、というのは規模だ。

 存在の規格と言っていい。

 アリはネズミに勝てない。

 ネズミは人間に勝てない。

 人間は神に勝てない。

 それは規模・規格で圧倒的に負けているから。

 スケールが大きい方は、小さい方に対し虐殺者になれる。

 反撃されても効かねーからな。ケッケッケ。だからここには真理があって……」

 

「鶏肉オムライスセットお持ちしましたー!」

 

「ありがとうございます。あ、でもすみません。

 メニューの画像にあった旗が無いみたいなのですが……

 小生の勘違いだったらすみません。でもそうでないなら立ててあげてください」

 

「あっ……す、すみません! すぐ取ってきますね!」

 

「すみませんね、お願いします。園子もちょっと待ってるんだぞ」

 

「私は別にいいんだけどな~旗さん~」

 

「いいから旗貰って取っとけ。思い出になるから」

 

「……あ、それはいいね。部屋に飾っておこうかな! ふふふ~」

 

「それでいい。ええと、それで、宇宙の真理があって……

 人間は神に勝てない。

 アリが人間に勝てないのと同じように。

 だが宇宙という広大なスケールだと、神でも勝てない相手がいる。

 神が勝てない相手が勝てない相手もいる。

 森で最強なら森の王だ。

 国で最強なら国の帝だ。

 星で最強なら星の神だ。

 存在の規格という概念は、必ず上にそれ以上大きな規格が存在するということを考慮し……」

 

「……ん」

 

「しずく、ドリンクバーは飲みきったら次に飲みたいやつを勝手に取って来ていいんだぞ」

 

「そうなんだ」

『そうなのか』

 

 しずくがドリンクバーに駆けていくのを横目に見つつ、おじさんは世界の終わりを語るような表情を崩さない。

 

「話を戻すぞ。

 神を超える神は居る。

 全能を超える全能は居る。

 人間の観測範疇で全能な神は、人知を超えた領域で全能な神には勝てない。

 女神を好んで雌豚にする催眠種付けおじさんに、神は勝てない。

 スケールが小さい方は、大きい方に勝てない。

 あのホモ野郎に力を貸していたのはおそらく、そんな上位種の一人である―――」

 

「……ちょっと」

 

『悪いな、催おじ。ちょっとツラ貸してくれや』

 

「ん? ああ、コップに入れる時にこぼしちゃったのか。

 慣れないとドリンクバーもそうなるか。

 これは拙者が悪いな。ついて行かなくて悪かった。

 手洗い場には一人で行けるな? 手を洗ってこい。

 ドリンクバー周りと床は小生が拭いておくから、ほら、行きな」

 

「ごめん、なさい」

 

『悪い』

 

「いいってことよ。あ、須美! 小生のラーメン来たら小生の席の前に置いといて!」

 

「はい!」

 

 しずくとおじさんが戻ってくるまで、5分ほど神樹館勇者組の四人の和やかな時間が過ぎた。

 

「そのっち、オムライス美味しい?」

 

「うん!」

 

「アタシのカレーまだかなー。最後に来ると悲しくなるんだよねこういうの」

 

「これの和食セット……私や須美ちゃんでも再現しておじさまに出せるかも……?」

 

 戻って来たおじさんは、周囲を圧する雰囲気を醸し出し、おごそかに宇宙の真実を語る。

 

「そう、それが……ゲスの暗黒卿。

 我が師。

 催眠帝国の支配者。

 生きとし生けるもの全ての天敵。

 邪悪の化身。

 "希望の芽を狩る者"。

 "光の樹を刈る者"。

 奴は他人に力を分け与えることができた。

 一説によると、日本神話のスサノオとも密接な関係があるらしい」

 

「日本神話と……?」

 

「天の神がビビリ恐れ引きこもった時のスサノオは、ゲスの暗黒卿が背後にいたという話だ」

 

「? スサノオが天の神より強いから天の神が怯えた~とか、そういうのじゃないの?」

 

「スサノオがデフォでそんなに強いならもう神樹から出て行って天の神倒してるだろ」

 

「あ、なるほど……神樹様の中の一柱なんだっけ、須佐之男~」

 

「神樹の中にスサノオはいる。

 天の神はかつてスサノオから逃げた。

 今は神樹じゃ手も足も出ないくらい天の神の方が強い。

 であるなら、"当時のスサノオのバック"に何かが居たというのが自然だ」

 

「おー」

 

「ゲスの暗黒卿は神樹とも、天の神とも、因縁がある。

 別宇宙の日本神群の可能性もあるけどな。

 知っているか?

 日本の神話において、人間の発生過程は書かれていないんだ。

 普通の人間は最初からそこに居た、と考えられている。

 だが……もし、ゲスの暗黒卿が、世界を孕ませていたら?

 孕んだ世界が人間を生み出していたとしたら?

 学会の学者の最新の研究によれば、それが日本人の始まりである可能性もあるらしい」

 

「その学者全員クビにした方がいいですよ」

 

「ここから本題に入るぞ。小生が旅をしていた時期は二つに分かれる。

 ゲスの暗黒卿の弟子だった時代と、出奔した後の時代だ。小生が弟子だった時……」

 

「カツカレー大盛りお持ちしました!」

 

「お、来たきた!」

 

「あーくっそ! 小生としずくが最後か! ラーメンは早いと思ったんだが!」

 

「わしおじさん、スプーン取ってくれます?」

 

「へいへい。っていうか前菜のつもりだった軟骨来ねえな……」

 

 おじさんが語るのは、おじさん自身も生きたことのないような神話の時代の話。

 空気は自然と緊張し、雰囲気は緊迫し、おふざけ一つ許さないような真面目な空気が出来る。

 

「そんなに長生きをしているのですか、ゲスの暗黒卿……」

 

「ああいや。寿命は普通だったと思う。

 ただボケる前に志望者を募ってそいつに自分を上書きするんだ。催眠で。

 記憶と人格と力を完璧に転写して"私はゲスの暗黒卿だ"って催眠で思い込むんだよ」

 

「ええぇ……」

 

「そうすると次のゲスの暗黒卿が誕生し、ゲスの暗黒卿は永遠になるってわけで――」

 

「申し訳ありませんお客様。

 醤油のスープが今切れてしまいまして……

 お客様のどちらかのラーメンが別の味になってしまいますが、よろしいでしょうか?」

 

「――あ、じゃあ小生塩ラーメンに変更で。しずくはそのまんまでお願いします」

 

「ありがとうございます。お客様のご厚意に感謝します」

 

「そう、それでな。

 小生が弟子だった時代、ここの世界とは大分違うが……

 神と人が戦争をしている世界があった。

 神と人が戦争している世界は割と多くてな。

 そこに、催眠の暗黒面が介入した。

 ゲスの暗黒卿は神の末端の女神を催眠精液便所化して、主神にビデオレターを送った」

 

 

 

『ウェーイwwwwあ、すみません、ゲスなことしちゃってww神様曰く人類が悪いので罰を与えてるんでしたっけ?www控え目に言ってぼくたち宇宙一邪悪だと思うんですけどwwwwwwwなんでぼくら滅ぼしてないのにぼくらより善良な人類の方滅ぼしてるんですか?wwwwwwwあ、すみませんwwwぼくらに勝てないからですよねwwwwぼくらに勝てないからぼくらより弱い人類滅ぼしてるんですよねwwwwwwwでもそれってただの弱いものいじめのカスじゃないですか?wwwwwwwww』

 

 

 

「そして宇宙は大分大きい戦争に突入した……!」

 

「煽りで戦争を起こしてる……!」

 

「うんまあそういう人だ。

 そんな人がここに来る……!

 四国を催眠おじさんの楽園にするために。

 催眠おじさんの餌にとっての地獄にするために。

 そしておそらく、天之岩戸に隠れたせいで奪えなかった、天の神の処女を奪うために!」

 

「頭痛え」

 

「ミノさん、しっかり!」

 

「ま、小生の推測も大分入ってるがなァ……ヘッヘッヘ、膝が震えるぜ……」

 

「あ、そういえば、インチキおじさん。

 前の話の続きなんだけど、園子座を黄道十二星座に入れるにはどうしたらいいかな~?」

 

「おおっと爆速のハンドル切り。入れないから諦めろ」

 

「ええ~……園子バーテックス見れないのかな」

 

「見れねえよ! 小生もちょっと見たいとこはあるが! 見れねえよ!」

 

「園子が爆速で話の腰を蹴り折って行ったからアタシゃ目眩がしたよ」

 

『話を真っ直ぐ進められねえのかてめえら! 片輪壊れたチョロQか!?』

 

「大体……乃木が……悪いと。思う」

 

「違うわよ、そのっちが話しかけてきたら無視しないおじさまが悪いのよ……」

 

「ちょっと東郷さん。そのっちを甘やかさないでください。

 これは明確に話の腰を折ったそのっちが悪いんですから、そう言わないと」

 

「いいのよ須美ちゃん、そのっちはのびのびと自由に育ってほしいもの」

 

「それだとそのっちが見かけ以外ただのエチゼンクラゲになってしまいます!」

 

「いいのよ、エチゼンクラゲでも、のびのびと育ってくれれば、私は……」

 

「エチゼンクラゲと結婚したいという人が何人居るんですか! そのっちの育て方は……」

 

『乃木の母親は何人居るんだ? ん? トリプルマザーか? ん?』

 

(シングルマザー三倍にしてもトリプルマザーにはならないと思う)

 

 おじさんの語る言葉は、この世界に迫るあまりにも大きな脅威を皆に知らしめるものであり、最強最悪の敵の出現に、その場の空気はこの上なく重くなる。

 

 どうしようもない戦力差と、打ち砕けない絶望が、その場を包み込んでいた。

 

 

 



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思い出7倍

「軟骨お持ちしました」

 

「おいしかったー! ごちそうさま~」

 

「いるいる、こういう他の人のメニュー来る前に自分の分食い終わっちゃう人。速えな園子」

 

「いけなかったかな……?」

 

「その健啖を褒めて軟骨をやろう」

 

「わーい!」

 

 ほんの一瞬、園子が躊躇った様子を見せたが、それもすぐ消える。

 乃木園子が"他人の気持ちを分かろうとしないから自由な子"なのではなく、"自分が変な子で自由すぎるから周りに引かれることもあると自覚できてる子"なことは、親しい者なら知っている。

 自由な彼女を受け入れる姿勢を周りが時折見せれば、園子はいつでも自分を抑えないでいることができる。須美が言う"園子に甘すぎる"というのは、こういうところにもあった。

 

「アタシとしちゃ、わしおじさんがそんなビビってる理由が分からないんすよね」

 

「そうか?」

 

「アタシの中だとおじさんってラスボス一人で倒しちゃう隠しキャラの仲間なので……」

 

「小生をやりこみ要素にするな。ビビってる理由か……強い、というのもあるが」

 

 銀はカツカレーをかっこみながら疑問を口にし、おじさんは小学生にも分かるようにどう語るものかを少し考える。

 

「そうだな……ピンと来ないかもしれんが、お前達が人間で居るために必要なんだ」

 

「?」

 

「もうちょっと踏み込んだ話をしようか」

 

 おじさんは個々の学力を考える。

 須美は努力でいつもテストで90点以上を取るタイプ。

 美森はその上位互換。

 園子は100点を余裕で取れるがマークシートに文字で解答を書いて0点タイプ。

 銀は50点台と一番低く、しずくは銀ほど低くはないが須美ほど高くもない。

 個々の理解度に差を付けないよう、説明の内容には気を付けようと、彼は考えた。

 

「日本神話の神様っていうのはさ、自然の具現なわけよ。

 小生達のような生物とはまた違うんだ。

 彼らは自然を表す神だ。

 自然災害ってのはその時代、倒せないものだった。

 だから人は自然を神様にした。

 頭を下げ、謝り、許してもらうのを待つ……

 『勝てないもの』を神にした。

 同時に、『謝れば許してくれるもの』にした。去らない自然災害はないからな」

 

「ふむふむ」

 

「神は許す側。

 人間は許してもらう側。

 それがルールだ。

 『赦し』こそあるが、神という名の自然は、人間の最大の強敵として在り……」

 

「特製ラーメンお持ちしましたー」

 

「あ、はい! そこの白髪の子です! しずく、熱いから気を付けな」

 

「ありがとう」

 

『一々話を中断すんのは死ね-100点と思うがしずくを気遣ってるので+200点』

 

「わしおじさん結局最後でしたね。うちの弟だったら不機嫌になってましたよ」

 

「うるせえ。

 ん? ここのファミレス、レンゲデフォで付いて来ないのか……

 ドリンクバーの横に積まれてたのそういうことか。ちょっと取ってくるわ」

 

「あ、おじさま、私が取ってきます。

 お話を続けてください。私は確かこのお話は前に聞いたことがあるので……」

 

「む……じゃあ頼む、美森。ありがとう」

 

「大袈裟ですよ」

 

(やはり未来の私……隙がない……彼女こそが最大の強敵……)

 

 上品に微笑む美森を見やり、須美は神をも超える最大最強の強敵に戦慄を覚えていた。

 

「神し、謝ることで、許してもらうことができる。

 悲惨な末路を迎えた人間は、大昔よく神様にされてただろ?

 崇徳とかああいうの。

 謝れば許してくれる。だから、人は死人を神様にするんだ。

 だがゲスの暗黒卿は、この神様の概念の反対側にいる。面倒くっせえことにな……」

 

「反対側……?」

 

「そのそのそのっちその通り。

 人間を物扱いする。

 心を壊す。

 都合の良い人形に変える。

 嫌がる人間を虐げる……

 そういうことするのが暗黒卿だが、自分が悪いことしてる自覚はあるんだよな。

 許しを求めてねえ。

 許されるとも思ってねえ。

 『悪は許されない』と言ってる。

 めっちゃ開き直って、自分を倒しに来る正義が居ることも分かっててやってる。

 そのうちそのっち、自分を倒す何かが来るとすら思ってるフシがあるんだよな……」

 

「そのっち~」

 

 美森が戻って来て、おじさんの話の邪魔をしないように無言で席に戻り、しずくの前にレンゲを置いた。

 話を続けているおじさんが、お気に入りの飴を美森の前に置き、美森が微笑む。

 

「暗黒卿はだから、どちらかというと……

 『自分を許さない』最強最善の奴が来ることを期待してる。

 小生が見る限り正義に倒されれば笑って死ぬな。

 まあ大抵の正義の味方は返り討ちにして正義のヒロインピンチものしてるんだが」

 

「ヒロインピンチ……?」

 

「まあそれは脇に置いておけい小娘。

 ゲスの暗黒卿は『許さない』『許されない』が基本だ。

 悪は許されない。

 生まれつき悪でも。

 悪の一族に生まれても。

 悪行しか出来ないクズに生まれても。

 悪いことをしたやつは許されない。

 許されないけど、生きていてもいい……ってのがゲスの暗黒卿の基本主張だ」

 

「はえ~」

 

「逆に言えば、『悪は許されない』は絶対の基本主張なんだ。

 絶対に人類は、催眠おじさんを滅ぼしに来ると。

 そう分かった上で、好きに生きよう……そう考えた。

 だからゲスの暗黒卿と呼ばれたんだ。

 世の中には悪としてしか生きられない人間も居るからな。

 いつか滅ぼされる日まで、悪として、善人を踏み躙って生きていこう、と彼は声を上げた」

 

「……ああ、おじさまの師匠って感じがしますね」

 

「どの辺が?」

 

「気にしないでください、話の続きをどうぞ」

 

「おお……? うん。小生を拾って弟子にしてくれたゲスの暗黒卿はそういう人で……」

 

「塩ラーメンお持ちいたしました」

 

「しゃあ! やっと来た!」

 

「お待たせして申し訳ありません、お客様」

 

「いえいえ、待った分だけ美味しくいただかせてもらいますよ。

 うーん食べる前から香りの時点で美味えんだよなラーメン……いただきます」

 

 おじさんはラーメンが好きだった。

 麺も好き。ネギも好き。チャーシューも好き。メンマも好き。ナルトも結構好きだった。

 

「……そういや小生感動したんだよな。この世界のラーメンどこもナルトがあってさ」

 

「へ? わしおじさんの世界とか時代には無かったんですか?」

 

「どこの世界の日本でも西暦2010年くらいにはナルトは絶滅を始める。

 あってもなくても変わらないなら入れなくていいや、ってなってな。

 この世界が神世紀になったの2018年くらいだったか?

 世界が大変なことになった後、誰かが気合いで復活させたんじゃねえかな……うめうめ」

 

「インチキおじさんにとっての懐かしの味なんやね~」

 

『しずく、教えてやれ』

 

「徳島の、ラーメン」

 

「ん?」

 

「徳島の……前にあるのが、鳴門海峡」

 

「ああ、ラーメンの具のナルトは鳴門海峡にちなんで名付けられたんだったな。

 だからナルトの発祥が徳島であるという説もあるんだったか。

 しずくは徳島出身だからかそのへんに詳しいのか? 一応地元だもんな」

 

「ん。だから、徳島ラーメンには……鳴門のナルト、をずっと載せてる、ラーメン屋がある」

 

「! そういうことか……! ありがとう徳島……! サンキューしずく……!」

 

「私が、お礼を、言われるようなことしてない」

 

『いーよいーよ受け取っとけ』

 

 宇宙に歴史があるように―――地の上にも、歴史はあるのだ。

 

「天の神と、人の悪。

 そこには対照性がある。

 日本の神の物語は、『許しで終わる』んだ。

 神が"許してあげる"ことで終わる。

 対し、人の悪は『許さない』で終わる。

 "お前を絶対に許さない"で、許されない悪を倒して、ハッピーエンドなんだな」

 

「なるほど……」

 

「だから絶対に相容れん。

 同時に、支配の仕方も違う。

 大赦の資料も読んだが……

 この世界の神様は、

 『思い上がった人の傲慢という悪を許さない』

 なんだろう。

 人間が完璧な善じゃないと許さんやつ。

 自然神は不滅だから、倒しても人間がまた悪になると攻めて来るやつだ」

 

 非の打ち所がない善人だけで構成されている社会にとって、天の神は脅威でもなんでもない。

 そういう社会を、天の神は攻撃しないからだ。

 

「逆にゲスの暗黒卿は、

 『人間はもっと悪になって犯罪ガンガンしていいんだぞ』

 だな。

 神は人に善く在れと言う。

 悪は人に悪でいいぞと言う。

 こういうところも相容れないからクケーッ死ねッーってなるんだよなあいつら……」

 

 善人を踏み躙ることに罪悪感がない悪人にとって、ゲスの暗黒卿は脅威でもなんでもない。

 そういう人間にとって、ゲスの暗黒卿は頼れる仲間だからだ。

 

「どこにでも絶対に仲良くなれない人らっているもんなんすねえ」

 

「おう。最悪の光の神と最悪の闇の催眠おじさん、アライメントの両極よ。

 そして最悪なのはな……

 小生の知る限り、この二者のどっちの下でも、弱者はボロボロ死ぬことなんだ」

 

「おおう」

 

 善だけを許す神と、許されない悪を肯定する悪。どちらも、人間社会にとっては猛毒だ。

 

「善性を求めて虐殺する者と、悪だと開き直って虐殺する者、小生はどっちも知っている」

 

 ズズズ、とおじさんがラーメンをすする。

 

「『支配』というのはな。

 『理を塗り換える』ということなんだ。

 神が理を書き換えて、星の表面を灼熱の世界に変えたのと近い。

 それまでの"当たり前"がなくなる。

 新しい"当たり前"が世界に満ちる。

 それはとても恐ろしいことなんだ。

 書き換えられてから三百年経ってしまってるこの世界だと、ピンと来ないかもしれないが」

 

 おじさんがテーブルの端の胡椒を取り、塩ラーメンにドバっとかける。

 

 半分ほど食べられたラーメンの味が変わり、アクセントがつき、メリハリがついて飽きが来なくなった。人によってはこちらの方が美味しいと思うだろう。

 

 だが、味を塗り替えられたラーメンは、もう以前のラーメンではない。

 

「生きにくいんだよな……

 光の神の下でも、悪の皇帝の下でも……

 善が強制されるのは生きにくい。

 悪が蔓延ってるのも生きにくい。

 ほどほどがいいんだほどほどが。

 "中庸"が大事なんだ。

 そういう意味では神樹は勝つと理想的だよな。

 人間が善良だと喜ぶ。

 人間の醜悪もある程度容認してる。

 比較的真ん中を進んでるから勝つならここに勝ってほしくはある。無論最善は人間の勝利だが」

 

 極端に光と善に寄っている虐殺者、天の神。

 極端に闇と悪に寄っている陵辱者、ゲスの暗黒卿。

 敵はどちらも強大で、どちらも倒さなければならない。

 ……もし、もしも。神話のように、神樹が未来に繋がる流れを見ているのだとしたら。おじさんが勇者・鷲尾須美に催眠の魔の手を伸ばしても神樹が様子見を選んだ理由は、もしかしたらここにあったのかもしれない。

 

「よいかメスガキ共。

 人間にとって最も理想的なのは、

 『お前の干渉なんて迷惑なだけだからもう関わってくんな』

 なんだ……スケールが違う上位種の排除なんだ……

 最初に余計な干渉してきた天の神をぶち殺し最近来たゲスの暗黒卿もぶち殺すんだ」

 

「できるんですか?」

 

「……催眠スマホが追加であと80個くらいあれば」

 

「つまり無理なんですね」

 

「ああ~クソがよぉ~君が代ぉ~力の差がよォ~!

 なんだよ太陽神の化身が鏡って……小生の催眠の天敵じゃねえか……!」

 

「……」

『なーんか大変な時期みてえだな。俺ら何も知らなかったわけだ』

 

 もりもり盛られた長ネギをチャーシューで包んでムシャムシャ食って、おじさんは深く深くため息を吐く。

 

「小生が交渉しに行って天の神と同盟できねえかなー。100パーできねえけど」

 

「は!? 天の神と……同盟!?」

 

「呉越同舟ってやつさ。一時的に手を組もうぜ、みたいに持ちかけるのよ」

 

「結界の外をあんなにした神様と、っすか……」

 

 銀が難しい顔をした。

 勇者達は大赦が隠していた真実をもう既に知っている。

 結界の外も全員が見た。

 彼女らの中で、天の神は酷いことをした倒すべきラスボスとして認識されており、それと手を組むということに抵抗感を覚えるのも自然なことだ。

 根本的に外野なおじさんと違い、彼女らはこの世界で生まれ育った当事者なのだから。

 

 加えて言えば、おじさんの言葉に銀が何色を示したのは、そこに認識の差があるからだ。

 この世界で生まれ育った銀の観点がおじさんと少し違う、というのは間違いなくある。

 だがそれ以上に、"ゲスの暗黒卿を人伝てに聞いた話でしか知らない"というのが、決定的な認識の差になっていた。

 

「だってさぁ……

 ゲスの暗黒卿クズとカスの味方なんだよ……

 普通の社会に生きられないゴミの理解者なんだよ……

 だから小生も拾ってもらえたんだけどさ……

 あの人の支配地域に入った平和な世界の若い女性は洗脳か死かどっちかだからね」

 

「うわぁ」

 

「天の神と組んでゲスの暗黒卿どうにかした後に天の神を後ろから刺してえよぉ~」

 

「あ、裏切る前提なんすか……」

 

「カスを上手いこと利用してカスと同士討ちさせて美味しいとこだけ持っていきたい!!!」

 

「いいのわっしー? わっしーそういう卑怯なのあんま好きじゃないと思ったけど」

 

「流石ですおじさま……

 裏切りは戦争の常。

 戦史は裏切りで出来ている……

 大日本帝国を裏切りし者誅すべし!

 とは、思いますが。

 別に日本人も裏切りしてないわけではないですしね。

 田中隆吉を裏切り者と言う者も、戦後日本をマシにしたと言う者もいます。

 裏切りは恥ずべき悪癖ですがおじさまの裏切りはきっとこの世界を守ります!」

 

「わっしーの変なスイッチ入っちゃった~おじさんは特別扱いらしいぜ~」

 

「鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ブスマンコは言った。

 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学び、催眠おじさんはメスガキに学ぶ……

 何か……小生の知識か経験に……ゲスの暗黒卿を倒す手立ては無いものか……?」

 

『そんな変なものに学んでるから変なオッサンに育ったんじゃねーの?』

 

(シズク)

 

 シズクをたしなめつつ、しずくは疑問を口にする。

 

「その。なんというか。よくそんな人の下に居られたね……って、思った」

 

「……ゲスでクズでカスでゴミだったけど……優しかったんだよな、小生には」

 

「……おじさまには優しかったんですか。悪い人なのに」

 

「悪い人にも優しい人は居るさ。

 いい人ってのは誰にでも優しい人だ。

 悪い人ってのは優しさがあってもどうにもならないくらい悪い人のことを言う」

 

「なんでその人はおじさまに優しかったんですか?」

 

「知らんわ。小生は須美が小生に優しい理由すら分かってねえんだぞ」

 

「―――ああ、なるほど。なんとなく分かってきました」

 

「何がだ」

 

「おじさまが分からないことって、そこそこ限られますからね」

 

「もうちょっと具体的に……」

 

「それは脇に置いておきましょう。その人と再会したとして、どうなると思いますか?」

 

「小生が秒で死ぬか奴隷になる」

 

「えっ」

 

「あの人は親でも子でも殺す。

 殺さなくても心を壊す。

 容赦はない。

 あの人は死にたいわけじゃあねえからだ。ゲスの暗黒卿曰く……」

 

 おじさんの人格を最初に形成したのが親で、最後に全てを変えたのが須美なら、その間で最も大きな影響は与えたのは、間違いなくゲスの暗黒卿だった。

 

「社会とは。

 支配者と被支配者によって構築される。

 経済的な支配者。

 独裁者。

 貴族。

 大企業の所有者。

 そして、催眠術師。

 そういった人間が社会を動かす。

 下の人間を支配する。

 時には教育や情報獲得すら制限して支配する。

 そして……いつの日か、支配した対象に全てを覆される。

 いつだって人を支配するのは傲慢な者であり、多くの場合、その結末は―――」

 

 須美と美森には分かる。しずくとシズクにも分かる。

 二組の四人は、それぞれ違う意味でおじさんの言葉の裏にある感情を理解する。

 

 須美と美森は親に対し、複雑な感情を持っていた時期があったから。

 それでいて、親を愛する気持ちはちゃんとあったから。

 ゲスの暗黒卿にどこか親に対する気持ちのようなものを抱いている彼の一面を理解する。

 

 しずくとシズクは親に対し、敵意や拒絶の感情を持っていたから。

 それでいて、親に育てられた自分を捨てられない自覚があるから。

 おじさんがゲスの暗黒卿を殺す覚悟を決めて、しっかりとした敵意を持とうとしても、その気持ちが自然と折れそうになってしまう苦しみ。そんな彼の一面を、二人は理解していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕刻。

 帰り道を送ってくれたおじさんに手を振って、しずくは施設に入っていった。

 親が心中したしずくは、当座の生活のため神樹館に歩いて通える距離の施設に入れられていた。

 おじさんに仕事を振られた大赦のメンツもあり、里親探しも進められていて、やがて"次の家"も見つかるだろうという話になっていた。

 大赦の気遣いなのか、施設に少ない個室も与えられている。

 元々の家庭などに問題があって他の子供と共同の寝室で寝られない子供にこういう部屋が与えられる、という話を、しずくは前に盗み聞きして知っていた。

 

 こういう個室で一人で寝ていると、子供は寂しくて泣いてしまうことも多い、という話も、しずくは盗み聞きしていた。

 だがしずくはここで泣いたことなど一度もない。

 寂しさよりも安心感が勝った。

 自分を殴る者が居ない家など初めてだった。

 夜中に寝ている時に叩き起こされて殴られる心配がない家は初めてだった。

 

 目を閉じて、寝て、でも寝ている時に叩き起こされてまた殴られるかもしれない、夢と現実の区別がつかないまま殴られる気持ち悪い時間が来るかもしれない……そう思いながら、怯えと共にベッドに入ることはもうないのだ。

 しずくにとって夜寝ることは、夜の虐待を恐れながら寝床に入ることであり、朝起きることは、その一日の虐待を恐れながら寝床から出ることだった。

 

 だから今の彼女は、たとえようもなく、救われていた。

 

『大変な話聞いた気がすんな、オイ』

 

「うん」

 

『お役目ってのは面倒なことやってんだなあ。そりゃ勇者とか言うわけだ』

 

 まだ眠くはならないから、しずくは椅子に座ってぼんやりとする。

 話し相手はいつも自分の内にいるから、飽きることはない。

 

『俺もしずくも、あいつらみたいな"特別"じゃねえんだよなあ』

 

「うん」

 

 特別な催眠使いの世界外来。

 特別な勇者。

 選ばれし者ばかりだ。

 その中にしずく/シズクが混ざっているのは、特殊な二重人格ゆえの特殊体質、それ以外に何も理由はない。

 須美達は普通に同級生として接しており、須美達から見れば壁は無かったが、しずく/シズクから見れば、自分と特別な者達の間には壁があった。

 

 尊敬できる特別な人間と自分の間に立っている、うっすらとした透明な壁が。

 

『昼飯、満足できたか?』

 

「お腹いっぱいになった」

 

『お前がお腹いっぱいなら、俺は満足だよ』

 

「……」

 

『ん? どうした?』

 

「なんでもない」

 

 記憶は共有できる。

 心を繋げることもできる。

 ただ、伝えようとしない表層の思考は伝わらない。

 しずくは言おうとしたことを言わず、沈黙を選び、その思考は記憶にもならず霧散した。

 

『オセロってのがあるな、やるか?』

 

「記憶共有してるからやる意味がないかも」

 

『あーそうだよな。先読みしたら意味ねーな! うはは!』

 

「魔法使いさんの笑いがうつってる」

 

『えーマジかよ最悪だ。あいつの笑い方とかばっちぃだろ、ぺっぺっ』

 

「もう」

 

 いつものように会話をする。

 これまでのような日々の会話を続ける。

 けれど、何か足りないような、物足りないような感触があって、しずくは首を傾げる。

 それが、『皆』で話す楽しさを知ってしまったからだということに、しずくは気付かない。

 

 いつも、話し相手はシズクしかいなかった。それが当たり前だった。

 自分の心から生み出したもう一つの人格と話すことで、自分を満足させてきた。

 そんな彼女が『皆』と、『自分ではない人』と会話する楽しみを知ってしまえば、もうそこから離れようとは思わないだろう。

 『自分ではない人』と話すのは、新鮮で、楽しくて、予想もしない言葉が出てきて……「ああ、これが生きてるってことなんだ」と、しずくもシズクも、心のどこかで感じていた。

 

「また話したいね」

 

『そんな機会そうそうあるとは思わねーけどな。俺達とあいつらは友達じゃねえんだ』

 

「……」

 

『……ま、期待する分にはいいんじゃねえか。期待するだけならタダだしよ』

 

「!」

 

『あいつら、なんかかっこよかった。

 なんか尊かった。

 なんとなくだけど……

 あいつらなら、しずくの期待を裏切らない。そんな気がする。あのオッサンは特に』

 

「シズク……」

 

『あーなんか俺らしくないこと言ってる! 忘れろ! 忘れてくれ!』

 

「シズクが覚えてるから私も覚えてる」

 

『あー!』

 

 この施設の門限は早い。

 子供のための施設だからだ。

 冬は16時半頃、夏は17時半頃には点呼を行い、全員居るのを確認して門を閉める。

 居ない子がいたら大人が探しに行き、見つからなければ大騒ぎだ。

 門限の後、子供達の自由時間があって、晩御飯の時間があり、また自由時間があって、その後消灯である。

 夜ふかしは厳禁だ。

 といっても、しずくにもシズクにも、まだ夜ふかしになるような趣味なんてないけれども。

 

 晩御飯を無言で食べ終わって風呂にも入ったしずくは、時計を見やる。

 もう20時を回っていた。何気なく、今日のことを思い出す。

 21時を回る。消灯時間がやってくる。電気が消えて、それでもしずくは、ぼうっと思い出す。

 22時を回る。それでも何故か、今日皆で話していた時間の記憶が、頭から離れない。

 思い出すだけで、胸の奥がぼうっと暖かくなって、口角が上がってしまう。

 

『楽しかったか?』

 

「うん」

 

 幸せな気持ちで眠れるかも、としずくが思った、その時。

 

 部屋の窓から、コツンと音がした。

 

「?」

 

 しずくが首を傾げて、窓を開ける。

 すると、ぬっと顔が出てきて、しずくの

 よく知ったおじさんの顔が至近距離に現れて、しずくはちょっとパニックになった。

 

「よっ」

 

「!?」

 

『な、なんだお前! 夜這いか!

 しずくにはまだそういうのはえーんだよ! 失せろ! 死ね! いや殺す!

 オラかかってこい! しずく、危機感だ! これはヤベえぞ! 俺に代われ!』

 

「やっぱり起きてたな。

 小生の読みは大当たりだったわけだ。

 ちょっと着替えな。あ、靴は買ってきたからこれを履け」

 

「?」

『……?』

 

 しずくはのそのそ着替えて、おじさんの渡した靴を履き、外に出た。

 ママチャリにまたがったおじさんは、荷台の座布団をポンポンと叩き、何故か得意げだった。

 

「……何か用?」

 

「小生が本来ダークサイドの催眠おじさんであることを思い知らせてやろうと思ってな」

 

「?」

『台詞がバカ丸出しで困るんだが……オッサン悪役の才能ねえぞ』

 

「お前も今日からかなり悪い子だぞ、ケッケッケ。チャリ取ってきたからな、後ろ乗れ」

 

 しずくはおじさんの自転車の荷台にちょこんと座り、おじさんが自転車をこぎ始める。

 

 季節は夏。

 夜中も暑い。

 だが昼間ほどは暑くなくて、昼間にあった『上から暑さが降ってくる』ような感覚がなくて、地面から湧き上がるような不思議な暑さがあった。

 自転車に乗っているしずくに風があたり、それが涼しくて心地いい。

 

 服の下のちょっと汗ばんだところと、汗で服が体に貼り付いているのがちょっと恥ずかしくて、服をパタパタして乾かしていると、そこにも夏の風が入ってくる。

 夏の風に乗って、彼の匂いが少し流れてくる。

 それもちょっと気恥ずかしくて、しずくは自分が普段無表情であることに感謝した。

 今は、どんな顔をすればいいのか分からなかったから。

 

(なんだろ。わくわくする)

 

 いけないことをしている。そんな気がして、しずくはいつしか微笑んでいた。

 そして気付く。

 自分がまた、変わっていることに。

 

 しずくにとって、"してはいけないこと"は恐怖だった。

 彼女の親は殴るために殴る理由を探した。虐待の典型例のように。

 そして殴る度に、"お前はしてはいけないことをした"と言い続けた。

 しずくが無感情に見えるのも、『感情を出すのはしてはいけないこと』になってしまったからだと言える。

 してはいけないことを、絶対にしないようにする。

 大人の言うことには、絶対に逆らわないようにする。

 彼女の短い人生は、ずっとそんな繰り返しだった。

 

 なのに今、彼女は笑って、してはいけないことをしている。

 消灯時間以後部屋からは出るなと言われているのに。

 門限の後に外に出てはいけないと言われているのに。

 "大人の言うこと"を無視して、おじさんと一緒に外を駆けている。

 してはいけないことをしながら、しずくは笑っていた。

 

 『してはいけないことをしても殴られない権利』を、おじさんが彼女に与えている。

 

 してはいけないことをしても怒られない今を、しずくは楽しんでいる。

 

 それはきっと、『いい子でなければ殴られる』山伏家には無かったもので、彼女が今日始めて味わう、悪い子の幸せだった。

 

「どこに行くの?」

 

「それは着いてのお楽しみよォ。あ、そうそう、オラッ! 催眠!」

 

「!?」

 

「普段からああだと不便だろ。

 二人の合意があればいつでも人格交代できるようにしといたぞ。

 片方が嫌がれば交代はできねえからな。

 今日みてえなクソ催眠野郎が来ても問題はナッシングだ。

 あ、命の危機を前にすると勝手に代わるのはそのままだから注意しとけ」

 

「マジか!? ……マジだ! 俺が危険な状況でもねえのに表に出てる!」

 

『わー、これはすごい』

 

 おじさんがちょこっとだけ精神の構造にメスを入れ、びっくりしたシズクがちょっと落ちそうになり、慌てておじさんにしがみつく。

 

「シズク! そのまんまでいろ! 用があるのはお前だ!」

 

「はああああああああああ!? 俺!? 俺と何もすることねーだろ、こんな時間に!」

 

「あるね! ヒャッハー! ケイデンスを倍にするぞ!」

 

 おじさんがラーメンの屋台の前で、自転車を止めた時。

 

『……ああ』

 

 当事者のシズクではなく、それを隣で見ているしずくが、彼の意図を理解した。

 

「入るぞ」

 

「あ、おいちょっと待てよ! なんで俺をラーメンの屋台に連れて来てんだよ!」

 

「いらっしゃ……おお、常連さんじゃないか。

 また来たのかい。今日は女の子? この前のおじさん達また連れて来ておくれよ」

 

「東郷&鷲尾のオッサン達は最近健康診断に引っかかってな……小生しか来れん」

 

「ああ……大変だねえ」

 

「ま、今日はこのレディをもてなしてくれ。最高のラーメンを頼む」

 

「はいよっ」

 

 ラーメン屋の親父がくっくっくと笑い、シズクが座らせられて、おじさんがその隣に座る。

 

「なんなんだ一体……」

 

『魔法使いさんは、シズクを連れて来たかったんだよ』

 

「そりゃ分かるけど」

 

『今日のお昼、シズクだけ美味しいもの食べてなかったから』

 

「―――は?」

 

『だから、連れて来たんだよ。私が食べたのが、ラーメンだったから』

 

「え……いや、んな、俺別にそんな……しずくが満足だったら、それで」

 

『私は、しずくも満足できてたら、嬉しかったな。心残り。……だったのかも』

 

「っ」

 

『これ、私を気遣ったのか……

 それとも、シズクを気遣ったのか……

 ううん。きっと、どっちも、なんだろうね』

 

 シズクの視線が右に行き、左に行き、上に行き、下に行き、戸惑いの果てにシズクはおじさんの背中をバシッと叩いた。

 

「あ痛っ」

 

「余っ計なことしやがって! しずくだけ気遣ってりゃいいんだよ! このバカ!」

 

「ふん……

 これは罪の痛み……

 そして深夜のラーメンは罪の味だ……この意味が分かるな?」

 

「全然分からん」

 

「はぁーシズクちゃんは風情がわからないんすねー反省して小生に感謝しろよ? ん?」

 

「腹立つ!」

 

「んんっ」

 

 もう一発、シズクは平手で叩いた。

 

「……ありがとよ」

 

 シズクがお礼を言い、おじさんはスマホの録音を止めた。

 

「貴重なもん録れたわ」

 

「殺す!!!!!」

 

 喧々諤々二人は衝突していたが、ラーメンが来るとピタリと止まる。

 徳島系の流れを組む魚介系(香川系)スープは美味で、シズクの舌にバッチリ合った。

 おじさんもうめうめ言いながらラーメンをかっこんでいる。

 

「おいシズク、この夜のことは秘密だぞ?

 最近安芸さんも催眠効いてんのか微妙なんだよなあ……

 バレるとメチャクチャに怒られる。

 多分須美にも怒られる。小学生女子に怒られるのは……尊厳が削れる」

 

「情けないこと言ってんじゃねえよ……わぁったわぁった、俺達の秘密な」

 

「ありがとよ。助かる。親父! このレディに替え玉を頼む! あと半ライス!」

 

「はいよ」

 

 ラーメンをすすっていると、夏の風が吹く。

 屋台の風鈴がチリンと鳴った。

 おじさんが注文してくれた替え玉を丼に入れるだけで、なんだか楽しい気持ちになって。

 白い前髪が風に揺れると、外で食事をしている感が増して、なんだか食事が新鮮で。

 ラーメン屋の親父とおじさんが笑って、笑い声に包まれてラーメンを食べていると、なんだか幸せを感じられる気がして。

 

 しずくはとても心が穏やかで、心が暖かになっていった。

 心だけがお風呂に浸かっているような、そんな気持ち。

 心だけが、暖かな春の草原にいるような、そんな気分だった。

 

「なんか……普通だな。普通なんだけどさ。俺には特別っていうか……よく分かんねえ」

 

 シズクの口から、ぽろっと心の言葉が漏れる。

 おじさんも笑って、屋台の安い割り箸で丼を叩いて、かんかんと音を慣らしていた。

 

「普通の幸せって、あるといいもんだよな。クカカッ」

 

 笑うのが下手だな、とシズクは思う。

 

『そうだね。うん。普通の幸せ。……私も、そう思う』

 

 しずくもまた、シズクの中で微笑んでいた。

 

 そんな空気が、おじさんに酒が入ってくると変わってくる。

 

「なんだよあのホモ野郎……!

 トラウマだよ……!

 思い出したくねえ……!

 でも思い出す……!

 辛かった……! きつかった……!

 小生の人生こんなんばっかし……!

 恋ってなんなの……? 恋って綺麗なもんじゃないの……!?」

 

「大変だな、催おじ……酒ってそんなに美味いのか? ちょっとくれ……うわ不味っ」

 

「酒なんてアルコール入ってるだけの臭え不味い水だぞ。味だけならコーラの方がいい」

 

「なんでそんなもんを浴びるように飲んでんだよ。バカなのか?」

 

「は? バカって言ったやつがバカなんだが? はいシズクバカ」

 

「じゃあテメーもバカだろうがあぁん!?」

 

 別の意味で、シズクも笑い始めていた。

 

『シズク、代わって』

 

「ん? おお」

 

『ほら代わったぞ』

 

「ありがとう」

 

 代わって出て来たしずくが、ホモ・トラウマ・ダメージングに蝕まれるおじさんの頭を、ぽんぽんと撫でる。

 

「よしよし。泣いていいよ」

 

「泣くかあ……俺はこの夏30になるんだぞ……立派なおっさんですぅ……」

 

「よしよし。おっさんでも、泣いていいよ」

 

「駄目ですぅ……小生は……泣いてる子供を抱きしめる方ですわよ……」

 

『ダメなオッサンだなこいつ。しゃーねえ、困った時はこのシズク様を頼っていいぞ』

 

「シズクが頼れって言ってる」

 

「小生は小中学生には頼りません……焼酎学生……マスター、もう一杯くれ」

 

『うわぁダメな大人だ! なんだこいつ!』

 

 ラーメン屋台の店主が、とっておきのプリンをサービスでしずくに出しながら、腹が捩れそうなくらいに大いに笑っていた。

 

 

 



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思い出8倍

 バーテックスは、幾度となく敗戦を迎えていた。

 天の神のダメージは深い。

 自然に数を増やすバーテックス達は戦力を整えては四国に攻め込み、あの手この手で四国攻略の糸口を探り、手を変え品を変え人類絶滅に向け邁進していた。

 だが、何もかもが無駄に終わる。

 

 何度攻めても無駄だった。

 どんなに数を集めても無駄だった。

 最強の獅子座ですら、戦う度に進化を重ねても、まるで届かない。

 

 黒髪の少女が弓を引き、放つ。

 それだけでバーテックスの軍団が消滅していく。

 放たれる矢には、無限に進化する天の神の力、人が扱える地の神の力が宿っていた。

 

 催眠で裏切らせられた蠍のバーテックスが、尾を振る。

 それだけでバーテックスの集団が壊滅し、その力は蠍に捕食され、更に力の差が開く。

 勇者に援護され死なないことで進化を続ける蠍座は、もう獅子座すらも置き去りにしている。

 

 人の射手座。

 裏切りの蠍座。

 

 それは、人の希望であり、怪物の絶望だった。

 黒髪の少女が弓を引き絞り、力を溜める。

 溜めて、溜めて、弓の前に光の花紋が広がっていく。

 心なき怪物達ですら見惚れる光の花が咲き、須美が右手を話した瞬間、天の神の攻撃にも匹敵する光の矢が放たれた。

 矢は天を打ち、光の雨となって降り注ぐ。

 

「南無八幡―――大菩薩っ!!」

 

 怪物達は、砕け散る今際の瞬間に、それを見る。

 

 汚れなき少女を。

 無垢なるその姿を。

 純真たるその輝きを。

 目に焼き付き、世界を照らす、優しき心から生まれし淡き閃光を。

 

 少女の名は鷲尾須美。鷲尾須美は、勇者である。

 

 救世主と呼ばれた少女の一撃が、全ての敵を消滅させ、宇宙(そら)の彼方へ突き抜けて行った。

 

 

 

 

 

 翌日。

 夏休み中の鷲尾須美は、頬をほんのり赤く染め、目も合わせられないまま、おじさんに一つ頼み事をしていた。

 

「は? マックに行きたい?」

 

「おじさま! 声を、声を抑えて!」

 

「お前は戦国時代の忍者の盗み聞きを恐れる賄賂受け取り中の武将か? 誰も居ねえよ」

 

「あっ……そういうシチュエーション、とても好きです。大好き」

 

「そう……」

 

「あと、その名前を呼んではなりません。鬼畜米英の手先の店ですからね」

 

「マクドナルドをヴォルデモート卿と同列にするのやめよう?」

 

「呼んではなりません!」

 

 朝に「起立、礼、着席」を生真面目にクラスメイトにさせる須美に対し、おじさんが朝にできることなど「起立、精、着床」の催眠種付けおじさん朝勃ち三拍子くらいのもの。

 だが朝マックに須美を連れて行くくらいなら朝飯前だ。今日は金玉キラキラ金曜日、ちんちんふらふらFRIDAY。イートインならそれほど人も居ないと予測できる。

 

「他に誰か誘っとる?」

 

「おじさまだけです」

 

「なんで小生だけ? デートのお誘い? これはおめかししないといけないな」

 

「デっ……逢い引きではありません! ふしだらですよおじさま!」

 

「小生が悪いのか……?」

 

「まったくもう、しょうがない人ですね」

 

「呆れてんじゃねえ」

 

 釈然としないおじさんであった。

 

「その……私は、こういう性格じゃないですか」

 

「そういう性格っすね」

 

「だからその……ああいう店に入るのは、恥ずかしいですし、見られれば一生の不覚です」

 

「ヴォルデモート卿に和食以外不可の呪いでもかけられてんのか?」

 

「でも、でもちょっと、興味があって……うう、笑わないでください」

 

「いや、笑わねえよ。

 そういうのに興味があるのは悪くない。

 人間の人生の幸福の何割かは美味い飯だからな。

 こだわりで食わない美味いものがあるってのは人生損ってもんだ。

 大体分かってきた。小生はみー子の初マックに付いていけばいいんだな」

 

「はい、お願いします! それでですね、もし私が知り合いに見つかった場合なんですが」

 

「うん?」

 

「その場合、私は生き恥のあまりに腹を切るでしょう」

 

「そんなに!?」

 

「でもおじさまなら、強化形態込みでそのっち含めた全員の記憶消せるじゃないですか」

 

「おおっととんでもないことを言い出したぞ?」

 

「私が知り合いに見つかったら、即その人の記憶を消してほしいんです!」

 

「こいつ願いは可愛らしいがやろうとしてることがロックハートだな……」

 

「いざという時は……私の記憶を全部消してなかったことにしてください!」

 

「ちげーなハートがロックだ! ロックすぎる!」

 

 まあおじさんが須美の頼みを断るわけがないので、神樹おじさんブレイバー号(ただの自転車)におじさんエンジンを積み、かくして二人は鷲尾家を飛び出した。

 向かうはマクドナルド。

 意識高い系のグルメ評論家が舌バカの聖地と呼ぶ、子供達に大人気の武道館。

 

「ふーんふふふーん、ふんふんふーん、ヘイッ! ふーんふーんふふー」

「ふーんふふふーん、ふんふんふーん、へいっ! ふーんふーんふふー」

 

 最近二人で見始めたドラマのOP曲を、息を合わせて鼻歌で歌いながら、自転車は進む。

 二人とも歌詞を覚えていないからだ。

 

「ふんふー……」

 

「ふんふー……」

 

「小生二番から知らねえ」

 

「私も二番から知りませんね……」

 

 急カーブに差し掛かって、須美は振り落とされないようおじさんをぎゅっと抱きしめる。

 

「みー子せんせー、なんで日本の夏はこんなにバチクソ暑いんですかー」

 

「太陽が強いからですねー」

 

「そんな……小生のデータにはそんなのありませんよ!?」

 

「大赦気象庁のHPにありますから見に行きましょうねー」

 

「大赦気象庁……そんなデータはどこにも! 小生のデータを超えてくるというのか!?」

 

「まずGoogle先生を使いましょうねー」

 

「Google……未知の世界だ! データに頼っていたら理解できないとでも言うのか!?」

 

「むしろ逆に何のデータがあるんですかおじさまのデータベース」

 

「無力を思い知ったのでデータキャラやめます」

 

「いつ始めたんですか?」

 

「データキャラするなら眼鏡が必要だったな……」

 

「知識では?」

 

 深緑に染まった街路樹の合間を、二人くっついてすり抜けていった。

 

「着いたぞ! ここが……魔王城苦悶穢土悲鳴怒声! 略してマクドナルド!」

 

「マクドナルドさんに出会うや否や特大の風評被害レッテルを貼りに行きましたね」

 

「このレッテルを貼られたマクドナルドは、顔面蒼白じゃい……略して面白い」

 

「折りたたみ湯葉みたいな折りたたみ略式をかましてきた……」

 

 おじさんは須美と一緒にマクドナルドに入るが、言いようのない違和感を覚える。

 300年前本社が蒸発し、四国に残ったマクドナルドテンポが四国に最適化し勝手に商売を始め、それから300年経ったマクドナルドの内装は、たとえようもなく和風だった。

 悲しきかな。

 このマクドは既に香川に汚染されている。

 メインメニューにうどんバーガーがあったので、おじさんはちょっと目眩がした。

 

「おじさまはマクドナルドで好きなメニューがあるんですか?」

 

「んー……無いわけじゃないが、須美と同じのにしよう。須美のマックデビューだからな」

 

「あ……えへへ。こほん。さ、参考までに、おじさまが好きなメニューも知りたいです」

 

 おじさんの好きなものは何でも知りたい背伸びするレディ。

 

「フィレオフィッシュ」

 

「フィレオフィッシュ……なるほど、魚のバーガーですね」

 

「フィレオフィッシュにさぁ、めっちゃ笑える話があるんだよな」

 

「笑える話……?」

 

「フィレオフィッシュを生み出したのはルーという男だった。大柴ではない」

 

「大柴……?」

 

「ルーはマックのある地域を担当してたが、さて困った。

 宗教上の問題で肉を食べちゃいけないってことがあったのさ。

 さてどうするか。それで考えたのが、白身魚のサンド……フィレオフィッシュだ」

 

「なるほど、宗教問題……

 私達でいうところの、神樹様の教えを破らないで食べるものを……みたいな話ですか」

 

「うむうむ。

 そしてルーはマクドナルド社長との交渉に臨んだ。

 んで『魚臭くなるから却下』と言われた。でも諦めず交渉を続けたんだ」

 

「いいガッツですね。フィレオフィッシュが今あるということは勝ったんでしょうけど……」

 

「そしてここで社長がケツの穴にボールペン入れて取れなくなった奴以上のバカを晒す」

 

「そんなに!?」

 

「社長は言った。『フィレオフィッシュではなくフラバーガーを売ったらどうかね?』」

 

「フラバーガー……?」

 

「事態はどちらが美味いかを競う戦いへ。

 フィレオフィッシュとフラバーガー、どちらが売れるかの勝負が始まった……!」

 

「あの、フラバーガーというのは?」

 

「肉がダメなら代わりにパイナップル入れればいいだろ?」

 

「えっ」

 

「マジでそう考えた、パンズでチーズとパイナップル挟んだだけのサンドだ」

 

「……売れたんですか?」

 

「売上差は60倍くらいでフィレオフィッシュの完勝でしたね、ハイ」

 

「うわぁ」

 

「そしてフィレオフィッシュは正式メニューに加わりました。ちゃんちゃん」

 

「やはり米国はダメね……この国が最高だわ」

 

「おおっとその結論は全く予想してなかったぞ?」

 

 これが大当たりし、フィレオフィッシュはマクドナルドの隆盛と共に、世界中に人気商品として羽ばたいていくこととなったのである。

 

「まあそういうエピソードがあるからして、小生はフィレオフィッシュが大好きなのだ」

 

「待ってください味が好きってわけじゃないんですか!?」

 

「味も好きだぞ」

 

「もうっ」

 

 おじさんと須美はレジの前に並び、談笑しながら列を進み、ほどなくしてにこやかに微笑む店員が待つレジの前に辿り着いた。

 

「みー子は注文の仕方分かるのか?」

 

「大丈夫です。ネットでメニュー一覧と注文の仕方は検索して覚えてきましたから」

 

「真面目だなァ」

 

「ハッピーセットというものを二つお願いします!

 ハンバーガーのポテトセットのコーラ! あ、片方は大盛りで!」

 

 0.1秒。店員が笑いをこらえたのを、おじさんは見逃さなかった。

 

「……申し訳ありません。ハッピーセットをLサイズにサイズアップはできません」

 

「……あっ。そ、そのままで。二つお願いします……ここで食べます……」

 

「かしこまりました」

 

 支払いが終わり、店員が背を向け、音もなく吹き出したのを、おじさんは見逃さなかった。

 須美も見逃さなかった。

 須美が顔を赤くして、プルプルと震えている。

 

「マックには大盛りがあったのか。ネットで検索したことないから知らなかったぞ」

 

「おじさま!!」

 

「くく、いやすまん。小生の方は量を多くするよう気遣ってくれてありがとうな」

 

「……もうっ」

 

 二人分のハッピーセットを受け取り、二人は店内の空いた席に視線を走らせる。

 「エッグマフィンじゃなくてしっかりバーガーがある神世紀朝マックいいな……」とおじさんがしみじみ呟くが、須美にはあまり伝わらない。

 このマクドナルドに背もたれ付きの椅子があるのは四人用のボックス席だけで、ボックス席は残り一つ。最高のタイミングで二人は店に来たと言えた。

 

「おじさま、おじさま、今日は私達ツイてるかもしれませんよ?」

 

「そうだな。宝くじ帰りに引いていくか……」

 

「幸運への期待がマイナンバーによる社会の変革への期待くらい過大に膨れ上がってますね」

 

 さて食べ始めるか、と思ったその時。

 

 店に見知った顔が入って来たので、おじさんの手が止まり、おじさんが手を止めたので須美もまた手を止めた。

 見知った顔は一つ。入って来た顔は四つ。

 おじさんが知っている男が一人と、その男の妻らしき女性が一人、娘が二人だ。

 男もまたおじさんの顔を覚えていたようで、注文に行く前に、おじさんの方に挨拶をしにやって来る。

 

「どうも、犬吠埼さん」

 

「おや。あなたもここにいらっしゃっていたんですか」

 

 娘の小さい方、妹らしき方が父親の服を引き、問いかける。

 

「お父さん、誰?」

 

「大赦で今一番偉い人だよ」

 

「へー」

 

「風も樹も失礼のないようにね」

 

 犬吠埼家が注文に行ったのを見て、須美はおじさんに顔を寄せ、こそこそ内緒話を始めた。

 

「おじさまって今どういう扱いなんですか?」

 

「大赦の一番上に『超統領』ってポスト作ってそこに座ってる」

 

「わぁ凄い大統領より偉そう……真面目に役職作る気あるんですか?」

 

「いいだろ別にこのくらい……」

 

「あの人達は大赦の方とその家族ですか?」

 

「まあ、大赦の端っこの方の男だな。

 あんま話す機会もねーや。名もなき善良な市民Aって印象」

 

「そんなまたゲームみたいな……でも、私とはあんまり縁の無い人達みたいですね」

 

「娘さんらも勇者でも神樹館でもないからな。そりゃそうだ」

 

 神樹館、鷲尾家、犬吠埼家、それらは全て香川にあるが、普通に生きていれば、須美が彼らに会う機会はない。

 今日同じ店で食事を取ることにはなったが、今日を最後にもう二度と会うこともない……なんてこともあるかもしれない。

 世界は思っているより狭く、思っているより広いものだから。

 

 そして、須美は気付いた。

 

「さて、席も空いてないな……テイクアウトにしちゃおうか」

 

「えー」

 

「しょうがないさ」

 

 犬吠埼家の座る席がない。

 須美達は幸運だった。

 最後に残っていたボックス席を取れたから。

 犬吠埼家は不幸だった。

 ギリギリ、最後の席を取れなかったのだから。

 

 須美は席を譲ろうとして、一瞬、思い留まる。

 

(待って)

 

 ここで席を譲れば、おじさんも席を移動することになる。

 おじさんを至上とするならば、黙っているべきだ。

 黙っていても何も言われない。

 席は先に座っていた人間のもの。

 何か言われる筋合いなどない。

 おじさんを、座り心地の良いこの席に座らせたままにしておけばいい。

 それが一番、おじさんに好かれやすく、嫌われにくい生き方だ。

 もう二度と会わないかもしれない人間に気を使う必要はない。

 

(でも)

 

 けれど、それでも。

 須美は特定の人への好意や愛で、安易に自分を曲げる気にならなかった。

 "それが正しい"と一度思ったものを曲げたくなかった。

 そうすべきだと思った自分が、『好かれたい』『嫌われなくない』という自分に当たり負けしなかった。

 彼女は好きな人に何でもしてあげたいと思う少女だけれども、その上で、頑固なまでに曲がらない自分の芯があった。

 

(うん)

 

 嫌われてもいい、だなんて思わないけれど。

 好かれたくない、だなんて思わないけれど。

 好きな人のために無難な自分になる、ということを彼女は選べない。

 いつだって、自分が決めたレールの上を爆速で突き進む。

 それがこの黒髪の救世主。神世紀随一の問題児だ。

 

 鷲尾須美/東郷美森はいつだって、他人よりずっと多く余計なことを考えてしまい、時にそのせいで状況を最悪に悪化させる。

 けれど、それはいつでも、懸命に生きて、その時自分が最善だと思う何かを探しているから。

 後で後悔するとしても、進む時は全力で。

 

 そこに"おじさまなら私を嫌いにならないから"という、ちょっとした甘えがあったのは、幼い少女のご愛嬌といったところか。

 

「ここ、今空きますよ」

 

「え、でも」

 

「いいんです。私達は二人なので、壁際の席に行けばいいだけです。ね、おじさま」

 

「ん、おお。そうだな。どうぞ、犬吠埼さん」

 

「……すみません、ありがとうございます」

 

 須美が突然席を譲ったことに、おじさんは嫌な顔一つせず、当然のように追随する。

 嫌われてない、と思って、ほっとした須美の口から吐息が漏れる。

 そして四人席に座った犬吠埼家の微笑ましい家族の姿を見て、須美の視線が暖かで優しいものへと変わった。

 そんな少女の一部始終を、おじさんが優しげな眼差しで見守っていた。

 

 須美のその不器用な真っ直ぐさを、彼は愛していた。

 

「大して知りもしない相手によくもまあ……みー子らしいっちゃらしいが」

 

「一期一会、って言うでしょう?」

 

「実践してる奴を見たのは小生の人生でお前が初めてだよ」

 

「一生に一度だけの出会いでも。

 もう二度と出会うことがなくても。

 目の前の人に誠意を尽くす意味はあると思います。

 それが人間として正しいことだと思います。至誠に悖るなかりしか、です」

 

 簡素な椅子しかない壁際の席に行って、そこで得意げに自分の在り方を語る須美を見て、その言葉に虚飾が一切ないことを理解して、おじさんは須美の頭を思わずわしわし撫でていた。

 溢れた"好き"が、彼の手を勝手に動かしていた。

 おじさんは自然と、ヘッタクソな微笑みを浮かべる。

 突然頭を撫でられた須美の頬が、かあっと赤く染まった。

 

「わ、わ、おじさま、人が見てます、見てます……! なんですか突然!」

 

「いや、ちょっと褒めてやりたくなった。照れんな照れんな。んな顔赤くしなくても……」

 

「///」

 

「今どうやって発音した?」

 

 呵々大笑するおじさん。

 そこに、こそこそと忍び寄る陰。

 犬吠埼家の娘の大きい方、姉と思われる方が、興味津々におじさんに問いかける。

 

「率直に聞きますが」

 

「なんだね」

 

「援助交際ですか!? ロリコンですか!?」

 

「帰れ」

 

「風ッ!」

「お姉ちゃんっ!」

 

 平謝りする父親と、父親そっくりに平謝りする妹が、姉を引きずっていく。

 ボックス席で、母親が爆笑している。

 

 ああ、あの妹は父親似で、あの姉は母親似なんだな……と、須美とおじさんは思った。

 

 

 



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思い出9倍

「おじさまって悪く言うと舐められやすい、良く言えば親しみやすい人ですよね……」

 

「なんだ突然。催眠で操った人間は尽くが小生を崇め奉るんだが?」

 

「いえ、なんというか……

 神樹館には色んな先生が居るんです。

 慕われてるけど仏頂面の安芸先生。

 小学生にも敬語を全く使われずナナちゃんと呼ばれてる先生。

 顔が怖くて怒鳴り声が大きくて誰からも怖がられてる通称ゴリ松先生……」

 

「いい加減ゴリ松の本名が知りたくなってきたな神樹館」

 

「その……おじさまは、親しまれて、怖がられない人でしょう?」

 

「威厳が無いってハッキリ言え! 無駄に気遣うなハゲ!」

 

「ハゲてません! もう。おじさまには何が足りないんでしょうね?」

 

「おバカ!

 威圧感のある催眠種付けおじさんが居るか!

 催眠で逆転する時のカタルシスが消えるだろ!

 そういうのは別の種付けおじさんの役目なんだ!

 催眠おじさんの外見は情けなさ・醜さ・穏やかさ・陰キャっぽさが大事なんだ!

 できる限り見下される顔と雰囲気が大事なんだ! それが趣! 雅なんだよ!」

 

「はぁ……おじさまを醜いって思ったことはないですけどね、私」

 

「お、おう。急にそんなこと言うなよ。嬉しいだろ」

 

「可愛いなぁこの人……」

 

「あ゛? 舐めてんのかメスガキ」

 

「見下される方がいいんじゃないんですか?」

 

「まあそうなんだけどさ……」

 

 威圧感のあるゴリマッチョの強面男の催眠おじさんは、遺伝子的に存在する可能性が低いと、科学的に証明されている。

 壁際の席で並んで座る二人は、ハンバーガーを食べ始めた。

 須美が一口食べてハッとする。

 

「……美味しい」

 

「うむ。食わず嫌いはよろしくない。日本の外で生まれても美味いものは美味いのだ」

 

「でも私は……ハンバーガーよりは白米、うどん、ぼたもちの方が好きですね」

 

「好きなもん言え。好きなもん食え。小生が奢ってやる。いやまあ高くないのならだが」

 

「あ、ならおじさまも好きなもの言ってください。私が家で作りますから」

 

「しまったな……

 精神的優位を取ろうとしたら取り返されちまった。

 みー子の料理は店の飯より強い……みー子に優位とマウントを取られてしまう」

 

「そんな大仰な。褒めても朝ご飯にハンバーガーくらいしか出ませんよ?」

 

「……随分譲歩したな」

 

「昔、私が鷲尾の家に来た時のことを思い出したんです。

 前に話しましたっけ?

 私、視野が狭くて。

 自分の居場所を作ろうとしてて必死で。

 鷲尾の家に自分が染まるのが怖くて。

 我慢できないことを通そうとしてて。

 洋食派だった鷲尾の家の朝御飯を、和食に染めちゃったんです。

 ……今思うと、鷲尾の両親が合わせてくれたのもあったのかな、って」

 

「さて。それは聞いてみねえと分からんな」

 

「私、ずっと周りに合わせてもらってます。

 家族にも。

 銀にもそのっちにも。

 おじさまにもです。

 今度は私がおじさまの好きな食べ物に合わせる番なのかな……って。なんだかそう思えて」

 

「……お前は鷲尾家の誇りだよ。ったく。多分、家に来た日からずっとそうなんだろうな」

 

 おじさんはポテトをガツガツ食いながら笑った。

 好きな人のためなら変われる。

 大切な人のために自分を曲げられる。

 けれどその奥に曲がらない一本筋がある。

 真面目すぎる堅物でクラスメイトに距離を取られがちなのが今の須美だが、それもきっとすぐに柔らかくなって、多くの人が彼女を愛するようになるだろう。

 

 変わっていないけど、変わっていっている、そんな須美を見守ることに、おじさんは親が子の成長を見るような幸福を感じていた。

 

「でもお前の和食が好きだからな、小生は。朝は毎朝お前の好きな和食で頼む」

 

「はい!」

 

「フィレオフィッシュよりお前の白身魚の煮魚の方が美味い」

 

「……はい!」

 

 赤くなった頬に手を当てて冷まそうとしている須美が可愛らしくて、自分が催眠無しでも他人を幸せな気持ちにできることが誇らしくて、おじさんの胸の内が暖かくなる。

 

 そこで須美がおじさんの顔を見つめて、気付き、手を伸ばした。

 

「ほっぺたについてましたよ。ふふっ」

 

 須美の手が、おじさんの頬に付いたポテトの欠片を取り、そのまま食べようとして止まり、一秒の停止の後、バーガーの包み紙の中に戻した。

 こほん、と須美は咳払い。

 それでごまかせたつもりらしい。

 おじさんはごまかされてあげることにした。

 

「今の私、ちょっと東郷さんみたいでしたか?」

 

「大分美森だったな」

 

「くっ……段々とあの人になっていってる気がする……!」

 

「ま、悪いことじゃないだろ。

 須美より美森の方が人生楽しんでる感じはするからな。あっちの方が幸せそうだ」

 

「私の幸せは私が決めます。あの人はあの人、私は私です」

 

「っと、そうだな。悪い」

 

「悪くないです。私の幸せを考えてくれることは、悪いわけがないですから」

 

 須美は澄ました顔で微笑み、バーガーを食べようとして、バーガーに挟まっていたピクルスをボロッボロ落とした。

 

「……ち、違うんです、わざとでは……」

 

「あーまあ、慣れてないとそうなるよな」

 

 おじさんは苦笑し、その辺に転がったピクルスを拾って店の隅のゴミ箱に捨てた。

 

「ビッグマックとか大変だぞ。グラブル廃人の大学生の単位よりポロポロ落ちるからな」

 

「落ちるもの、ということなんですか?」

 

「おお。だからこう、バーガーの包み紙から出して持つんじゃねえんだ。

 包み紙でバーガー持ったまま、こぼれ落ちるとしても包み紙の中に落ちるように……」

 

「こ、こうですか?」

 

「こう。この辺持って……和食と違って難しいのは分かる。でも簡単だからな、ほれ」

 

 おじさんが須美の手を取って、須美にバーガーの食べ方を教える。

 須美はおじさんとの距離がいつもより近くなって、一瞬体を強張らせたが、"人にものを教わる時に余計なことを考えてはならない"という生真面目さで、すぐに学ぶことに集中する。

 真面目におじさんの手に触れている手元に集中し、不器用ながらそれを真似る。

 飾り気の無いシャンプーの香りしかしない須美の髪の香りが、おじさんの鼻孔をくすぐった。

 ほどなくして、須美はバーガーの中身がこぼれ落ちない食べ方を覚える。

 

「よし、100点。お前も今日よりバーガー初心者からバーガーマスターじゃ……」

 

「初心者からマスターまでの道のりが短すぎませんか……?」

 

 須美が笑って、おじさんが笑う。

 

「でも全体的にこう、油と塩という感じですね。ジャンクフードと言うのも分かります」

 

「これがたまらねえんだ。深夜に時々猛烈に食いたくなる感じが小生大好き」

 

「でも健康には悪いですね。おじさま、今後マックに行く時は私に声をかけてくださいね」

 

「え゛っ」

 

「私もついて行きます。こんなもの頻繁に食べていたら栄養が偏りますよ?」

 

「デートかな?」

 

「デっ……違います。行くなとは言いません。でも、行き過ぎだと思ったら止めますからね」

 

「ええー……小生は自由を守るため断固抗議させていただきますよ」

 

「代わりに深夜にラーメン屋に行ってるのは見逃してあげますから、ね?」

 

「え゛っ」

 

「あのあたりはちゃんとおじさまの食事の栄養計算に入れてますから」

 

「え゛っ」

 

「せっかく最近のおじさまは精悍になってきたのに、もったいないですよ。

 痩せたのが戻っちゃいますし、私と朝走るのについてこれなくなってしまいますよ?」

 

「須美のせいでイケメンになってしまう~」

 

「はい、そのイケメンと健康を守ってくださると私は嬉しいです」

 

「……イケメンじゃねえよお前って突っ込んでくれる人相手じゃねえとこのボケは通らんな」

 

「他人の顔を褒めておいて自分の顔を卑下するのは卑怯ですよ。

 おじさまは気分が楽かもしれませんが、私は気分が悪くなります。

 おじさまをバカにする人がいたら、たとえそれがおじさまでも私は嫌です」

 

「ん……む……すまん。以後気を付ける」

 

「ありがとうございます。おじさま」

 

「しかしうーん……なんたることだ……小生の不健康バンザイ生活が終わってしまう……」

 

 ポテトを齧りながら、おじさんがちょっと迷い始める。

 須美は別におじさんに禁止などしていない。

 ただ、不健康になりそうなマック食い過ぎは止める、というだけの話だ。

 だが須美に甘々なおじさんは、ここに須美を踏み込ませるとなし崩しにあんまりマックに来なくなってしまう……と、半ば確信していた。

 健康に良い須美の食事ばかり食べて間食も食べなくなってしまう気もしていた。

 それは元ダークサイドおじさんとしてはあるまじき姿である。

 

 おじさんが須美から目を逸らすと、そこに、先程話した大赦夫妻の娘二人の片方が居た。

 歳は須美と同じくらいか、それより下か。

 内気そうな少女は、おじさんと目が合うとビクッとしたが、気丈におじさんに話しかける。

 

「あ、あの」

 

「お。姉妹の妹の方か。何か用か?」

 

「あの、お姉ちゃんとお母さんがごめんなさい。

 その……お姉ちゃんはテレビで見たことをそのまま言ってて……」

 

「おう、まあそんなとこだろう。

 子供の言うことは気にしな……いや気にした方がいいな。

 年頃の女の子に"そう見えた"っていうのは割と深刻な問題じゃねえの……?」

 

「おじさま! 私は気にしなくていいと思います!」

 

「うるせえ! あ、君は気にしなくていいからね。楽しそうなお姉ちゃんでいいじゃないか」

 

「あ……はい! そ、それでですね、お母さんも、変にツボに入ると笑っちゃう人で……」

 

「あの人はまあ…………………………大赦で小生と仕事してる時も似た感じだから」

 

「えっ」

 

「気にするな。小生は気にしない。小生知ってる。犬吠埼の女は愉快だ」

 

「えっ」

 

「今日はどうしたんだ? お前達は夏休みだとして、親は仕事だろう。何かあったのか」

 

「あ、えと、土日が仕事らしくて。今日は代休なんだそうです」

 

「土日……あー、なるほどなるほど、そういうことね、小生完璧に理解した」

 

「おじさま何かご存知なんですか?」

 

「おう。……マックシェイクも飲みたくなってきたな」

 

「うちの冷蔵庫にアイスが冷やしてありますよ」

 

「お、マジ? ってそうじゃねーな、土日の話ね土日の話」

 

 おじさんは飲み切る寸前のコーラの蓋を取り、コーラと氷をまとめて噛み砕き、口を開いた。

 この人飴を噛み砕く銀と同じタイプね、と須美は口には出さず思う。

 

「土日、大赦主催の文化保全目的のコンクールがある。

 曲はピアノとヴァイオリン一組ならなんでもあり。

 会場にはミュージックステーションのカラフルな階段を用意させた」

 

「それ絶対要らないやつでしたよね?」

 

「あの階段を降りる時のトゥルルルートゥルルルルーの曲名知らないから流せなかった……」

 

「おじさまはコンクールというかバラエティの人材ですよね、本当に。やめましょうね」

 

「はい……階段も撤去します……」

 

「というか、おじさまよく知ってましたね。

 興味が無いことには一切手を伸ばさないのがおじさまのイメージでした」

 

「小生も出るからな」

 

「え」

「えっ?」

 

 本気の困惑の声だった。おじさんは一人だけ得意げな顔である。

 

「秘密だぞ。当日サプライズで会場を沸かせる予定だからな」

 

「お、おじさま、頭に何か湧いてしまったんですか?」

 

「湧いとらんわ! 失礼だな!」

 

「ご、ごめんなさい。でもおじさまに音痴のイメージが多大にあったので……」

 

「……フッ、そのイメージは正しい。

 小生のリズム感はまあまあクソだ。

 だが小生を誘った園子が、名案を出して来た。ま、当日小生の勝利の報告を待ってろ」

 

「おじさま? 大丈夫ですよね? そのっちとおじさまの組み合わせは爆弾ですよ?」

 

「『芸術』を―――見せてやるよ」

 

「だ、駄目よこれは……当日私と銀も行かないと……!」

 

 おじさんがキメ顔をすると、須美が危機感を持ち、少女がくすっと笑った。

 家族のことを擁護し謝りに来たのに笑ってしまって、少女は慌てる。

 

「す、すみません」

 

「小生の威厳が足りてねえ証拠だなコレ……グググ。君、笑ったことはええんやで」

 

「やっぱり威厳を維持するために太らない食生活が大切なんですよ、おじさま」

 

「うーん……しゃあねえ、須美の頼みは断れんしな」

 

「私のためでなく、自分のためにしてください。健康ってそういうものですよ?」

 

「自分の健康のために最善を尽くす? ハッ。

 それができるなら小学生の頃の小生は虫歯になってねーわ」

 

「歯磨きサボる子だったんですね……あと自慢げに言わないでください。怒りますからね」

 

「ウッス。健康にも気を付けるっす」

 

「よろしい」

 

 須美はコーラをシャカシャカ振って炭酸を抜き、マイルドにしてからゆっくり飲み、おじさんに再度あれこれを確認する。

 

「大体ですね、おじさまのマック通いを見張る私にもリスクがあるんですよ?

 おじさまは忘れてるかもしれませんが、今日は私の付き添いです。

 もし私がマクドナルドに来た姿が知り合いに見られたら……分かってますよね? おじさま」

 

「アタシに見られたらどうなるって?」

 

「銀に見られたら腹を切るわ」

 

「ええっ、マジ?」

 

「銀には特に普段から厳しく言ってますから……

 銀にしっかりするよう言ってる私が、普段の言葉と違うことをするんです。

 そんなの、銀に申し訳が立ちません。銀に何を言われても私は文句を言えないと思います」

 

「えー、アタシは気にしてないのになー」

 

「だから知り合いに見られたら記憶を銀んんんんんん!?!?」

 

「ナイスリアクション! 須美!」

「ナイスリアクション! みー子!」

 

「なんでおじさまそっちに回ってるんですか!?」

 

 おじさんと銀が特に意味もなくハイタッチをしていた。

 

 須美がおじさんの襟首を掴んでぐわんぐわん揺らす。

 

「おじさま! おじさま! 銀の全ての記憶を消してください!」

 

「廃人化命令怖い」

 

「違います! いい感じに! 記憶を! デリート! Shift+Delete!」

 

「わしおじさんアタシの記憶消すんすか? うっへぇ」

 

「えーどうしよかっなー催眠術の使い方忘れちゃったなー困ったなー」

 

「おじさまあああああ! 裏切ったんですか!?」

 

「先に和食を裏切ったのはお前だ!!!!」

 

「うっ」

 

「この裏切者が……他人を裏切者呼ばわりするなんざ十年早い!」

 

「う、ううっ……ごめんなさい……! 和食の皆……! 私は、大和撫子として恥ずかしい!」

 

「アタシゃマックで和食に土下座する女初めて見たよ」

 

 須美はここではないどこか、和食の神に土下座した。

 和食そのものに土下座した。

 陳謝である。

 迷いの無い土下座に、マクドナルドがどよめいた。

 

「頭を上げな、みー子……」

 

「ですが……」

 

「ほーら高い高い」

 

「なっ……!? も、持ち上げないでください!」

 

「ハッハッハ、みー子は軽いな。毎晩体重計乗って気にしてるのに」

 

「おじさま!!」

 

 土下座をさっさとやめさせるためか、おじさんはふざけた様子で須美の両脇に手を入れて抱き上げて、その場でくるくると回った。

 そして壁際席にダンクシュートする。

 須美を椅子にちょこんと座らせ、おじさんは銀の肩をぽんぽん叩く。

 

「銀、からかってやるな。受け入れてやれ」

 

「ちぇー。アタシはちょっとからかっただけじゃないですかー」

 

「今日の須美はいい子だからな。あんまりいじってやるな」

 

「むう……しょうがいなあ、須美は」

 

「ほらみー子、銀が許してくれたんだからお礼言わないと」

 

「え? あ、ありがとう、銀」

 

「小生にも感謝しなさい」

 

「え? あ、ありがとうございます、おじさま」

 

「いいってことよ。またマック食いに来ような」

 

「はい! ……? あれなんだか混乱してる隙を突かれて丸め込まれたような……?」

 

「須美は可愛いなぁ。あ、アタシも昼御飯買わないと」

 

 犬吠埼家の末っ子は『おかしい、一番この女の子をいじってたのはこのおじさんだったはず』と戦慄していた。

 

「場は……暖まったみたいだね~」

 

「! その声は……SONO'CHIさん!」

 

 グラサンを身に着けた乃木園子まで現れた。

 この時点で、須美のマクドナルド来訪が明日神樹館中の話題になることが確定した。

 

「待たせたみたいだね、インチキおじさん。主役の登場だよ~」

 

「園子はアタシと来たけど出待ちしてただけだぞ」

 

「待ってないけど待ってたぜ! 土曜が本番だ、分かってるか? お前の音楽を見せてくれ」

 

「foo……やってみせるよ、オリコン一位に乃木園子とおじさんの名前を刻んで見せるぜ~!」

 

「ヒュー! 流石です園子さん! オリコンは関係ねえよ思い上がりホリエモン級か?」

 

 園子がグラサンを放り投げ、キャッチしたおじさんがグラサンをかける。

 

「行こうインチキおじさん。ピリオドの向こう側へ」

 

「ピリオドの向こう側に何があるか実は知らないんだ小生……」

 

「知らないの? じゃあ私が教えてあげるよ。私も知らないけど」

 

「ありがとうよ、そのそのそのっち……!」

 

「行こう、無限大の彼方へ……!」

 

「なんか目的地変わったな……!」

 

「そうだね……!」

 

「行くか……!」

 

「園だね……!」

 

 そんな全てを置き去りにする二人を、犬吠埼家の末っ子が見ていた。

 

 そして翌日。

 

 そんな全てを置き去りにする二人が参加するというコンクールに、犬吠埼の末っ子は来てしまっていた。

 

「ど、どうなってしまうんだろう……」

 

 少女は音楽が好きだった。

 だから来た。

 そこまではいい。

 だが、そこに大怪獣が来るとなればどうだろう。

 少女は大怪獣が来るかも、といった心持ちで、音楽を聴きに来たのである。

 音楽を楽しみにしつつ、昨日見たモンスター達が何をするか、ちょっと楽しみにしていた。

 

 そんな少女の後ろでは、歳の近そうな少女らがこそこそと内緒話をしていた。

 

「ちょっと銀、もっと前の席はないの?」

 

「無理言うな。こんだけの人が来てんだぞ。前の方に須美のデカい尻が入る隙間は無いよ」

 

「デカ……そんなにデカくないわよ! 東郷さんと比べれば小さいわ!」

 

「そりゃ比較対象がデカいだけだろ……? とにかく、これ以上前の席は無理だって」

 

「ぐぬぬ……この距離でもしもの時に動けるかしら……?」

 

「ま、大丈夫だろ。

 あの二人はめっちゃ自由だが道理は弁えてる。

 コンクールを台無しにするようなことまではしないだろ。

 むしろルールで許される範囲で観客の頭おかしくしてきそうなのが怖い」

 

「そうね……そうかもしれないわ。ルールはどうだったかしら」

 

「審査員投票と観客投票。

 観客側の票が全部で100票。

 審査員が5人でそれぞれ100票持ってる。

 合計600票が最高得点で、その中で点数競うぜって感じ」

 

「よかった。変なことしたら審査員が即刻落としてくれそうだもの」

 

「あ、安芸先生が審査員にいるぞ。黒スーツだ、はー、大人の女って感じでかっけー」

 

「え? あ、本当ね。学校が夏休みだからこういう仕事もしてるのかしら……?」

 

「お、始まった……ってトップバッター園子とわしおじさん!?」

 

「このコンクールの運営者を更迭しなさい。無能よ」

 

「やべえぞやべ……二人グラサンかけてる!」

 

「芸能人気取りのそのっちとおじさまに妙に腹が立つわね」

 

「って、ミュージックステーションだ!」

 

「ミュージックステーションの手を振りながら入場してくるやつ!」

 

「ヤバい! 会場がもうミュージックステーションになってる!」

 

 おじさんと園子がサングラスを豪快に投げ捨てたその時にはもう、彼と彼女はその空間を完璧に『支配』していた。

 

「始めてください」

 

 安芸の声が響く。

 

 園子がヴァイオリンを構え、おじさんがピアノの鍵盤の蓋を開ける。

 そして園子がヴァイオリンを投げ捨て、おじさんが蓋を閉じた。

 おじさんがステージに布団を敷き、園子がサンチョのぬいぐるみを枕にして布団に入り、寝息を立て始める。

 

「は?」

 

 満ちる困惑。33秒が経過し、おじさんが手を叩き、声を上げた。

 

「はいっ!」

 

「むにゃむにゃ」

 

 園子が起きて、また寝始める。

 

 審査員の安芸が、戦慄の表情で立ち上がった。

 

「これはまさか……『4'33"』……『4分33秒』!?」

 

「知っているのか安芸!?」

 

「第一楽章、33秒、『休み』!

 第二楽章、2分40秒、『休み』!

 第三楽章、1分20秒、『休み』!

 全てが休みの無音の音楽!

 旧世紀の1952年にジョン・ケージが生み出した前衛楽曲です!

 旧世紀にはオーケストラを集めてただ休むだけの合唱も行われました!

 休むだけの無音合唱は音楽媒体化され、そこそこ売れて流通したと聞きます!」

 

「!?」

 

 すやすやそのっちは芸術。

 

「『音を音そのものとして聞く』。

 それがこの音楽芸術の本質です。

 演奏された音は人工の音でしかない。

 ゆえに、演奏しないことで、偶然の音を聞く。

 無音の演奏を選んだ、ということです!

 それは加工されていない海のさざなみにもたとえられる……!

 おそらく、表現技法は『休み』!

 すなわち、『寝る』!

 乃木園子さんの寝息を聞け! ということです!

 かつて、伝説のピアニスト・チューダーがこれを演奏しました。

 鍵盤の蓋を閉じることで演奏開始とし、開けることで終了としたとのことです。

 普通の逆です。ならばこの演奏は、彼が蓋を開け、彼女がヴァイオリンを拾い終わります!」

 

「なんだと……!? これも芸術だというのか!?」

「なるほど……園子さんの寝息を聴かせる演奏……素材の良さを活かしていますね」

「寝息の無音を聴く、というわけですね」

「怒らないでくださいね。ただ寝てるだけじゃないですか」

 

 2分40秒が経過する。

 

「はいっ!」

 

 おじさんが手を叩き声を上げると、園子が起きて、布団から出て、おじさんが代わりに布団に入っていく。

 園子がおじさんの頭を撫でてやると、すぐにおじさんは眠りに入り、寝息を立て始める。

 園子は優しい微笑みで、おじさんの頭を撫でてやっていた。

 

「むにゃむにゃ」

 

 安芸の眼鏡が冷たい光を放ち、安芸の指が知性を感じさせる動きで眼鏡を押し上げる。

 

「寝る人間が変わった……!? まさか、そのために楽章の区切りを……!?」

 

「安芸! これは一体!?」

 

「『4分33秒』は、正規な曲名すら無い曲です。

 『4分33秒』は通称に過ぎない。

 何故ならこれは『無音』だからです。

 ただの無音。

 されど無音。

 この芸術概念では、無音を有音と等価と考えます。

 彼と彼女は別の寝息、別の無音を作ったんです。

 僅かな違い。僅かに違う無音の世界。

 寝息だけが響くこの無音の空間。

 彼と彼女の僅かに違う寝息の音が……『無音』というものを浮き彫りにする―――!!」

 

 寝る時に隣にそのっちが傍に居て頭を撫でてくれるのは芸術。

 

「ケージが見出した真理がここにはあります。

 この世に真の無音はない。

 聞き手の心の臓が動く限り、真の無音を聞くことはない。

 無音と呼ばれる空間の中には、ささやかな音が混じっている。

 無音と有音は同じ世界にある。

 音は永遠にある。

 その人間の人生が終わるまでずっと響いている。

 その人間の人生が終わってもずっと響いている。

 無音は永遠。

 音楽も永遠。

 音楽というものは、永遠に続くものであるという希望。

 その空間を音で満たさなくてもいいのだと。

 静かなる場所で無音を聞こうとしてなお音が在る、それこそが音楽の未来の希望なのだと……」

 

「深読みしすぎでは?」

 

 そして4分33秒の芸術の時間が終わろうとした、その時。

 

 おじさんを包み込んでいた布団が吹っ飛んだ。

 

「ふ―――布団が―――吹っ飛んだ―――?」

 

「安芸! なんなんだこれは!」

 

「"布団が吹っ飛んだ"んです……

 無音で布団が吹っ飛びました。

 あれはラウシェンバーグなどが取り入れたもの……

 『無い』を『有る』とするもの。

 虚無の視覚化。

 無音を聞くという概念を視覚に訴えたコンバーティング。

 だから白い布団を選んだ!

 画家が無音の演奏を、白色のCanvasをそのまま出すことで表現したように」

 

「深読みしすぎでは?」

 

「見てご覧なさい。あの二人がもう布団の中にいません」

 

「あっ……本当だ!」

 

「音は"在り"。

 音は"無く"。

 そして、最後には……」

 

 そして、園子をお姫様抱っこし黄金に輝くおじさんが、壁から生えてきた。

 

 音楽は、壁で反射し耳に届くもの。

 

 音楽そのものと化した彼らが壁から生まれることで、この芸術は完成する。

 

 おじさんは鍵盤の蓋を開け、おじさんと園子が二人でヴァイオリンを高く掲げた。

 

 

 

「「 ―――跡部王国(キングダム) 」」

 

 

 

 新しい国が生まれた……!

 

 爆笑、歓声、困惑、野次、その他諸々の声が一斉に上がる。

 

「おおおおおおおおっ!! なんかよくわからんが芸術だったぞ!!」

「お……おお? おおおおおおおお!!」

「……なんか……そうだ……酷い風邪引いた時にこういう夢見るんだよな……」

「超統領……やはり俺達のトップはあんたしかいねえぜ……!」

 

 須美は天を仰いだ。

 

「おじさまが親しみ持たれやすい理由とかって絶対容姿じゃないわ……」

 

 銀は床を見つめた。

 

「地獄だ……地獄が生まれた……この後に普通にコンクールやれって言うのか……!」

 

「地獄ね……」

 

 トップバッターがこれで、どう次が演奏すれば良いのか。

 次に誰が演奏しても白けるのではないか。

 審査員のほとんどが絶望の空気に包まれていた。

 会場全体に"あーコンクール終わった終わった、すごかったね"という空気が広がっていた。

 もう終わった感じになってしまっていた。

 

 まるでシーズン途中で優勝が消えた阪神のように、消化試合感が満ち満ちていた。

 

「次の方、どうぞ」

 

 そんな空気の中、二番手がステージに上がる。

 

「催眠剣豪・フレンドに出したサーヴァントを催眠で落とすおじさんです。それでは一曲」

 

「地獄に宇宙開闢が訪れたぞ」

 

「僕おじさんなんでこういうのど自慢大会出るの初めてなんですよね。では、すぅー」

 

「おいカメラ止めろ!」

 

 ロックンロールが始まる。

 

 

 



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思い出10倍

 いつもお気に入り・評価・感想などなどありがとうございます。暖かい言葉、いつも拝見させていただいてます(定期的に思い出したように言う)


催眠剣豪七番勝負

勝負、二番目

四国守護おじさん

神樹の勇者

VS

フレンドに出したサーヴァントを催眠で落とすおじさん

 

いざ、尋常に

 

勝負!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはあまりにも激しい戦いだった。

 あまりにも会話相手が居なすぎてSiriに恋してしまった人間を見張るだけの仕事くらい、目を逸らしたくなるような、凄惨な戦いであった。

 過去最大、過去最悪の一つに数えられる、死力を尽くした激戦。

 地には催眠が満ち、月には新たなクレーターが増えた。

 旧世紀の時代、日本人は月の影を見てうさぎが居ると言っていたが、もはや月の影は絶頂を我慢している対魔忍にしか見えないだろう。

 

 おじさんと園子のコンビが観客100票安芸100票、他0票という善戦の果てに惜しくも予選落ちという悲しい結末を迎え、けれど哀しみを乗り越え戦った。

 催眠剣豪の一人目を遥かに超える力を持った二人目の登場は、否応なしに彼らの危機感を煽り、"このままではいけない"と思わせる。

 銀のあの見事な奇策でああして追い詰めたところまではよかったが、仕留めきれず逃してしまった以上、奴はまた襲撃して来るだろう。

 

 これだけの激戦を繰り広げた相手だ。

 奴は、催眠剣豪七番勝負を通して戦い続ける、最悪の敵になるかもしれない。

 

「ふぅ……『寝返りと寝取りの催眠』……

 恐ろしい敵だった……

 須美達の最強のヒロイン力を守るために小生がスキップしなければ危なかったな」

 

 毎日のように同人誌で寝取られる姿を見られているマシュ・キリエライトはそのせいで、一部のユーザーの脳内でヒロイン力を日々削り落とされているという。恐ろしい話だ。

 催眠おじさんは、見ているだけの人間からすら、何かを削り落としてしまう。

 概念と印象を汚染する、恐るべき病原体だ。

 

「インチキおじさんとわっしーに相互に寝取られ性癖が芽生えるところだったね~」

 

「やめろ!

 ホモ野郎の話を蒸し返すな

 あと小生は奴に勇者に指一本触れさせないよう頑張ったんだぞ!

 そして触れさせなかった! 超絶セーフだセーフ! くらァ!」

 

「ありがとう~」

 

「どういたしまして。銀はよくやったァ!」

 

「うす! 覚えてないすけど!」

 

「お疲れ様です。今戻りました」

 

「おう美森! おつかれ! 大活躍だったな! お前のおかげだ! 愛してる!」

 

「っ……こほん。ありがとうございます。おじさまや皆を守れてよかったです」

 

 今回のMVPは二人。あの活躍をした銀と、狙撃に回った美森だろう。

 催眠おじさんに催眠をかけられたら終わり。なら、催眠おじさんに気付かれないように遠方から狙撃し、催眠おじさんに知覚されないままぶっ倒す。実に見事な一手であった。

 文字にすれば20万字に渡るであろう今回の激戦で、常に四国側がある程度の優位を維持できたのは、催眠おじさんに姿を見せずにひたすら狙撃を繰り返したマンチ女東郷美森の大活躍があったからだと言えた。

 

「大きいみー子の対人の動きは無駄がなくてびっくりするな……」

 

「おじさまは催眠術師ですからね。

 社会から排斥される可能性が高い人です。

 世界の全てを的に回してでもおじさまを守るには、対人を想定しておかないと」

 

「こいつが一番怖いと思う。頼りになりすぎて最高に愛せるわ」

 

「ふふ、ありがとうございます」

 

「そういやみー子、催眠剣豪と戦ったことあんのか?」

 

「無いですね。仮に来ていたとしても、おじさまが裏でこっそり倒してたんだと思います」

 

「……ふむ」

 

「私が見てた方の歴史では……おじさまは最後の戦いまで、究極形態を失ってませんでしたから」

 

「今の小生に力は足らん。助力を頼むぞ、美森」

 

「はい。この命に替えても」

 

「替えんな替えんな。交換拒否だ」

 

「えー」

 

「えーじゃないが?」

 

 一人倒し、一人撃退した。

 まだ見ぬ催眠剣豪は五人。倒すべき数は六。

 須美、美森、銀、園子に背を向け、おじさんはフレンドに出したサーヴァントを催眠で落とすおじさんが去って行った方に目を向ける。

 

「だが、小生達は、勝負に買って試合に負けた」

 

 悔しげに拳を握るおじさんの横に、園子が寄り添う。

 

「コンクール予選落ち、しちゃったね……」

 

「そのっち先生……」

 

「来年は頑張って入賞しようね! P.D.Q.バッハをバッハと言い張って!」

 

「……はい!」

 

「来年の運営はおじさまとそのっちのコンビだけは受理しないことを願ってます」

 

 それを冷めた目で須美が見ていた。

 

「来年は私とインチキおじさんで飛びながら演奏するんよ~」

 

「へっ、おもしれー女」

 

「へっ、おもしれーおじさん」

 

「おっ、おもしれー雲」

 

「おっ、おもしれー着眼点」

 

「あっ、おもしれー鷲尾の美少女」

 

「あっ、おもしれーわっしー」

 

「「 おもしれー女~ 」」

 

「帰りますよ! おじさま! そのっち!」

 

「おもしれーのはお前ら二人だとアタシは思うよ」

 

 かくして、一つの危機が去り。

 

 

 

 

 

 新たなる危機が、彼らを襲った。

 

 それは、作戦会議――という名のぐだぐだ駄弁り場――の最中に発覚した。

 第一議題、催眠剣豪対策会議。

 第二議題、夏休みの自由研究。

 第三議題、催眠術に抵抗力を持つ精神姿勢。

 第四議題、最近の月9ドラマのハズレ率の高さ。

 第五議題、twitterで相手をバカにして揚げ足を取ることを知性の証明だと思う人種について。

 第六議題に入り、銀は畳の上に正座させられていた。

 

「様々な案件を議論したが、今一番ヤバいのは、おそらくこの件だ」

 

 おじさんがこめかみを人差し指でとんとん叩き、かつてないほどに険しい顔をしていた。

 須美、美森、園子は苦笑している。

 銀は正座した状態で身を縮こまらせていた。

 

「あの……足……痺れ……」

 

「銀」

 

「はい」

 

「もう一度言え」

 

「やー、あのですね。

 夏休み前の遠足の時に弁当要らないって話しされてたの忘れてて。

 母ちゃんに弁当作ってもらっちゃって。

 遠足の昼御飯は普通に皆と焼きそば作って食べてて……

 遠足用のリュックに弁当箱が入ってること忘れてた? みたいな?

 そういえばなんか弁当箱が一個足りないって話を聞いてたことがあった? ような?」

 

「入れっぱなしで腐ってたんだな」

 

「はい……」

 

「それでうちに持ってきたんだな」

 

「はい……」

 

「お前……夏休みに入ってから何日経ってると思ってんだよ……」

 

「だ、だって、気付かなかったんすよ!」

 

「見ろよこの弁当。夏の弁当の腐りやすさを表現した前衛芸術みたいになってんぞ」

 

「芸術なら……アタシのこれにも価値があるのでは!?」

 

「価値のある芸術と価値のねえ芸術があるんだよバカ!」

 

「あんな産業廃棄物をコンクールに垂れ流したおじさまがよく言いますね……」

 

「園子と小生のあれは芸術だから」

 

「芸術レイシストですか……?」

 

「わっしーは国防レイシストでお似合いだね~」

 

「「 !? 」」

 

 おじさんは発酵(奇跡の控えめ表現)した弁当の臭いを嗅ぐ。

 

 ガツン、と鼻越しに脳まで届く刺激臭がした。

 

「あーくっせえ! 野原ひろしの靴下が多分こんな臭い! くっさ!」

 

「そんなに!? あっ、くっさ! 凄い臭い! この距離でもアタシの鼻に届く!」

 

「蓋を開けた時点ですご……窓開けましょう窓」

 

 美森が真剣にヤバさを感じて窓を開けるが、今日は風がないので換気効率は悪い。

 

「うっ……小生の心臓が臭さで止まりそうだ……!」

 

「大変! そのっち、おじさまにAEDを!」

 

「DEAD? ミノさん、インチキおじさんにDEADだって~」

 

「わしおじさんがDEAD? このおじさんは……最終決戦に駆けつけてくれた霊魂?」

 

「インチキおじさん……今でも私達に力を貸してくれるんだね……絶対に勝つから!」

 

「かなり突然に最終決戦が始まったわ」

 

「殺してんじゃねえぞ」

 

 おじさんは嫌そうな顔でビニール袋に腐敗弁当を封印していく。

 

「まあ親に明かす時の言い訳は考えとけ。小生は兜真剣王の棲家の構築に忙しい」

 

 そして一度中断していたカブトムシの飼育ケース調整を再開した。

 

「ただのカブトムシじゃないですか……」

 

「兜真剣王だ。もう正座はいい、足崩していいぞ。反省してるのはよく分かったから」

 

「ひーん、やっと終わったー!」

 

「よしよし、ミノさんよく頑張ったね~」

 

「ありがとう園うァァァァァァ!?」

 

「つんつん」

 

「やめろぉ園子! 足! 足触んな! やめ、やめー!」

 

「ミノさんの今の顔、なんだからすごく"いい"んよ~」

 

「やめろぉぉぉぉぉ!!!」

 

「みー子's」

 

「はい、止めてきます」

「そのっちは本当に銀のこと好きよね……」

 

 須美と美森が園子を引き剥がし、銀はほっと息を吐いた。

 

「ありがとう須美、東郷さん……うぐっ、まだ痺れてる……!」

 

「弁当のことはちゃんと隠さず言うんだぞ。どうせ弁当箱戻さねえといけねえんだから」

 

「ですね……というか最近カブトムシがっつり育ててるんすね」

 

「神樹館の男子の最近のブームらしいぞ」

 

「いい歳したおじさんが同じことしてる説明に全くなってないんですが?」

 

「今、神樹館は手持ちのカブトクワガタを戦わせた勝者にこそ人権があるからな」

 

「人権無い男子居るの!?」

 

「神樹館の男子を支配できればよし。

 最近は日常で催眠使うなとお前らがうるさいからな……

 神樹館の男子を見極めれば、いずれ須美に告白しようとする男子を事前に知ることもできる」

 

「知ってどうすんすか」

 

「えーっ……

 どうすっかな……

 見つけた後のこと考えてねーや……」

 

「瞬間瞬間を適当に生きてますね……うあっ、痺れの波来たっ、ひんっ」

 

「とまあそういうわけで丁寧に育てたのがこの兜真剣王なんだが」

 

 立派なカブトムシが、ケースの中で大きな角を上に突き上げている。

 それを見たおじさんが、愛おしさ全開で飼育ケースごと兜真剣王を抱きしめた。

 

「駄目だ……小生には兜真剣王を戦場に出すことなんてできない……!」

 

「戦う気満々で付けた名前が今となってはおじさまの情けなさの象徴みたいになってますね」

 

「原点回帰してえ。兜真剣王と名付けたあの頃に……」

 

「漫画とかアニメの原点回帰ってどのくらい失敗してるんでしょうか。

 多分成功率は高くないですよね? そういう話聞きませんし。

 原点回帰作品だから見よう、というファンが居ないなら、原点回帰ってそもそも意味が……」

 

「やめろォみー子!」

 

 須美の口をおじさんが塞ぐ。兜真剣王がケースの中で、鼻で笑った。

 口を塞ぐ手を振り払い、須美は腕を組んでちょっと不機嫌そうに口を開く。

 

「おじさまは最近このカブトムシにかかりっきりすぎです。もっと他のこともしたらいいのに」

 

「! すまんな須美、カブトムシなんかに嫉妬させて。もっと構うからな」

 

「し、嫉妬なんてしてません!

 一般論です! 勘違いしないでください!」

 

「でもこの前とか犬に小生が待てして、

 『この犬賢いな~凄いな~』

 って言ってたら須美が

 『私だって待てくらいできます。命じてください!』

 とか謎の対抗心見せてきたし……すまないな須美、嫉妬させて不安にさせて」

 

「し! て! ま! せ! ん!」

 

「小生の中で一番はみー子だぜ。愛する我が姪よ」

 

「……別に、疑ったことはありませんけど」

 

「だからおあぅっつぁ!? 兜真剣王!?

 なんで飛んで体当りしてきたんだ!? 須美をもっと大事にしろってことか!?」

 

「このカブトムシくんだいぶ賢いね~」

 

「お、園子分かる? うちの子は皆賢くてなー、須美も兜真剣王も自慢の子でなー」

 

「インチキおじさんの愛って大分広いよね~」

 

 兜真剣王をケースに戻すおじさんを見て、須美は「はぁ」と軽く溜め息を吐く。

 "愛着が湧いた存在を戦いに出したくない"。

 "できる限り怪我はしてほしくない"。

 おじさんのスタンスは一貫している。

 勇者に対しても、カブトムシに対しても、同じ。

 壁に寄り掛かる須美の隣で、美森も壁に寄り掛かり立っていて、同じように彼を見ていた。

 同じ人間だから、同じものを見ている時、二人の思考は同じになる。

 

「……同じなんですよね」

 

「ええ。同じなのよ」

 

「カブトムシが寿命迎えたらおじさまボロボロ泣きそうですね」

 

「泣いてたわよ」

 

「未来から来た人が断定しちゃうんだ……」

 

「兜真剣王が寿命を迎えた後、そこが本番よ。

 おじさまの悲しみを埋めてあげて、弱ったおじさまを私の方に寄りかからせて……」

 

「……なるほど」

 

「優しさと計算でおじさまを苦しめる悲しみを倒し―――」

 

「おじさまが泣いているところは見ていたくないですからね。それに加えて―――」

 

 好かれたいという打算と、好きな人にできる限り笑顔で幸福で居てほしいという願いが、小中学生らしい――経験の少ない可愛げのある少女らしい――比率で混ざった二人の作戦会議は続く。

 園子はカブトムシの飼育ケースの蓋のところを見て、そこに挟まっている紙らしきものを指先で弾いていた。

 

「これなぁに?」

 

「コバエの侵入とか乾燥とかを防ぐために挟むやつ。新聞紙とか挟むことが多いな」

 

「へー。蠅さん来るんだ~」

 

「……ん? あれ、なんか適当なの挟んだ記憶あるが何挟んだんだっけ」

 

「『新勇者選定計画』だって。私達の次の勇者選び始めてるの? へ~」

 

「うおわァ!」

 

 おじさんは園子が見ていた紙を引きちぎる勢いで奪取した。

 秘密を隠し通すことに長けた大赦人員と比べると、重要書類を新聞紙の代わりにカブトムシの飼育に使ってしまうおじさんは、アホらしいほどに組織人の素質が無かった。

 

「インチキおじさんのガバガバさ私は好きだよ~」

 

「うるせえな! 褒めてねえだろそれ! クソァ! アカンこれ小生クソバカだ」

 

「私達、勇者の任期が終わっちゃう感じ?

 元勇者のお嬢様、小説のヒロインみたいな設定になっちゃうのかな~」

 

 おじさんが深く溜め息を吐く。

 園子がキラキラとした目でおじさんを見つめる。

 その横で足の痺れで苦しみ悶えている銀が転がっている。

 おじさんは隠し通せる気がしなくなってきたので、話してやることにした。

 

「……バレちまったもんはしゃあねえ。

 遅かれ早かれだ。

 これはお前達の次代の勇者じゃねえよ。()()()()()()の選定だ」

 

「! 新しい仲間の人!?」

 

「うむ。昨今の情勢を鑑みてな。スーパー戦隊の追加戦士みたいなもんだ」

 

「わー、私達よりシステムが強力なやつ~。でも、あれ?

 勇者は大赦でも家格の高い家の女の子しかなれなかったような……

 だから私とわっしーとミノさん三人だけだったんだよね? 変わったのかな?」

 

「小生が格式と伝統にこだわるおじいちゃん達更迭して有能な人上げたらなくなってた」

 

「あらら~」

 

「ちゃう、ちゃうんや。

 おじいちゃん達説教長いねん……

 有能なの上に上げたら楽できるそうだって思ったんや。

 今やこの世界は小生のものやしあのそのね、上手く管理したくておほほほ」

 

「あはは、プーさんが言い訳してる時みたい」

 

「おっかしいな……?

 なんか大赦の改革とか望んでなかったんだけど結果的にそうなったというか」

 

「インチキおじさんは一番偉い人には向かない人だよねぇ」

 

「んだとコラ」

 

「目標と計画性が無いのは駄目だよ。

 インチキおじさん、今この世界で一番偉い人なんだから。もっと欲張ろうぜ~」

 

「あ、はい」

 

「んふふ。優しい人が一番上に居るのは、とってもとってもいいことだと思うけどね」

 

 園子は時折、おじさんもハッとするようなことを言う。

 おじさんも、園子も、人の上に立つための教育と経験を蓄積していないのは同じ。

 だから、園子がチームリーダーを余裕綽々でこなすことができて、おじさんが組織のトップに向いていないのは、ただ単純に才能の差であった。

 リスクマネジメントを徹底しているのにどこか抜けているおじさんと、適当にやっているように見えて隙の無い園子。

 

「でもインチキおじさんらしくないね?」

 

「あぁん? なにがだ」

 

「『戦場に出す子供を増やすなんてとんでもない』くらい言うと思った」

 

「……」

 

「こういう話してると、なんだか面白いよね。

 『インチキおじさんらしくない』って思わないと、こんなこと思わないもん。

 インチキおじさんのこと知らないとこんなこと考えないもんね。

 ふっふっふ、相互理解相互理解。私とおじさんもいい友達になってきたってことなんよ~」

 

「……」

 

「なーに隠してるのかな~」

 

「うはははは、何も隠してない隠してない。小生の気まぐれよ」

 

 だから大体の場合、おじさんの隠し事は隠し事にならない。

 須美は美森は深い理解ゆえに。しずくとシズクは共感ゆえに。園子は慧眼ゆえに。おじさんの隠し事を見抜いてくる。

 

「第一なんだねガキンチョがいっちょ前に小生に」

 

「『正直に話して』」

 

「うっ」

 

 おじさんは、たとえ美森のためだったとしても、園子に催眠術を教えたことをこんなにも悔いたのは、この時が初めてだった。

 目をそちらに向けずとも、須美と美森がそれに気付いて驚いたのが感じられる。

 

「油断してる時なら私の催眠術でもインチキおじさんには効くんだよね」

 

「……勇者の数は、まだ増やせる。

 勇者の数が増えれば、戦力が上がり、リスクが下がる。

 人類の敵は、今、あまりにも多すぎる。

 勇者を増やさなければ死人が出るかもしれない。

 勇者を増やせば既存勇者の三人の死亡確率が下がる。

 そう、園子の父親が提言して、小生が説き伏せられて……」

 

「ああ、うん」

 

 乃木園子の言葉のリズムには、二つ有る。

 間延びするような、調子を外すような、独特のリズムで紡がれる言葉。

 漏れ出たような、絞り出したような、静かに積み上げたような、中身が詰まった言葉。

 どちらかの言葉のリズムが偽物というわけでもなく、演じているわけでもなく、どちらも園子の本質であり、どちらも彼女の心から生まれているものである。

 

 前者は園子が気楽に話す言葉であり、後者は彼女の本音のこもった言葉だ。

 

「やっぱり」

 

 その一言には、園子の万感の想いが込められていた。

 愛。怒り。やるせなさ。絶望。嬉しさ。納得。不満。申し訳無さ。幸福。家族愛。新しい勇者の家族への謝意。不安。安心。許したくない気持ち。許したい気持ち。

 園子は感想を一言で済ませて、それら全てを飲み込んだ。

 園子は親の愛を受け止められるくらいには大人で、"園子のために"した親の選択を全肯定できないくらいには子供だった。

 

「園子。……親を責めないでやってくれ」

 

「うん。分かってる。

 お父さんは私のことを想ってくれてるんだって分かる。

 心配される私が勇者として駄目なんだよ。

 ……でも、うん。お父さんは責めないけど、私自身は責めるかな」

 

「何?」

 

「ごめんない。言いたくなかったこと、言わせちゃったよね」

 

「ん? ……ああ、催眠か。

 催眠で他人の心操るの当然のことになりすぎてて一瞬分からなかったわ」

 

「やっぱり私もそんなに好きじゃないかも、これ。

 相手の隠したいことを無理矢理話させるのって気分良くないね。

 友達と催眠で遊ぶのとは全然違うや。

 インチキおじさんは……昔嫌だったとしても、慣れちゃったのかな?」

 

「……さあ、どうだか。覚えてねえよ。

 でもま、お前と違って他人を操ることに罪悪感なんてねえよ」

 

「ふーん」

 

 随分と含みのありそうな"ふーん"であった。

 

 ほっぺたがぐんにゃり変形するくらい体重をかけて両手で頬杖をつく園子。

 園子の視線を受け流すおじさん。

 その間に、須美が割って入ってきた。

 

「四人目が来るんですか……」

 

「須美」

 

「おじさまはどんな人に来てほしいんですか?」

 

 須美にとっての大切な人が、須美そっちのけで話に盛り上がっていると、須美は時々こういうことをする。その時の感情は嫉妬か、羨望か、はたまた寂しさか。

 自然に割って入れたと思っている少女に可愛らしさを感じたのは、おじさんも園子も同様であるようだった。

 

「できればその……

 小生の愛着が湧きようがなくて、最高に強くて頼れる勇者がいいなって……」

 

「贅沢では?」

 

「ちゃうねん」

 

「違いませんよ。

 いや、その、気持ちは分かるんです。

 おじさまはプーさんにもバーテックスなのに愛着を持ってました。

 カブトムシにも愛着を持ってます。

 もちろん、私達にも愛着持ってますよね。

 新しく味方に加えた蠍座にも心は持たせてません。私達、全員その辺は分かってます」

 

「ちゃうねん」

 

「遠慮なく戦わせられる勇者がいいんですよね。

 できればおじさまが好きになれないタイプの子がいいんですよね。

 死んでもお父様が悲しまないような、そんな性格の悪い勇者がいいんですよね?」

 

「……はい」

 

「そんな人居るものでしょうか……

 仮に居たとしても、おじさまが将棋の駒みたいに新勇者を扱える気はしませんけど」

 

「やってみなきゃ分かんねえ。大事なのは他人を粗末に扱うことを諦めないことだ」

 

「何故漫画のヒーローみたいな言い回し……

 諦めなければできることなんでしょうか。うーん。どんな家の子が選ばれてるんですか?」

 

「大赦に繋がりのある家からひろーく探してるらしいぞ。

 細かく説明して娘っ子本人が志望したら候補者にセレクトだ。

 まあ選定は下のやつに任せてるんだが……

 ああ、でもリストは貰ったな。候補者の。弥勒、楠、三好……あとなんだっけ」

 

「もう。ちゃんと覚えておかないといけませんよ、おじさま」

 

「リスト多いんだよ、かなり多い。つまり志望者が多い。

 命かかってる戦闘って通達してるんだが子供は危機感がなくて困るんだよなァ」

 

「インチキおじさん、ちょっといい~? これがそのリストならしずシズ居るよね~?」

 

「あっはっはンなバカなそんなことあるわけいるううううううううううう!?!?」

 

 おじさんがひったくるようにリストの紙を奪い取り、凝視し、顔を真っ青にした。

 

「い、いる……マジで居る……こんな下の方まで見てなかった……何やっとんじゃあいつァ!」

 

「本人が望んだんだろうね~」

 

「兜真剣王ですら戦わせたくねえんだぞ!

 しずシズがセーフなわけあるか!

 カブトムシはクワガタに首を落とされる!

 勇者もバーテックスに首を落とされる!

 首を落とされたら死ぬ! おお、もう……

 やめろォ……傷だらけでも須美と兜真剣王は愛せるが傷はできる限り付けないでくれ……」

 

「私とカブトムシが同列に扱われてるのはどうなんですか……?」

 

 おじさんからすれば、しずく/シズクは、過去の自分を思わず重ねてしまう『普通に育てられなかった子供』であり、救われた自分であり、笑顔が可愛い女の子だ。

 

「クソッ、今から施設に行ってしずシズを問い詰めてきてやる!」

 

「や、やっと痺れが取れてきた……あ、わしおじさん!

 どこ行くんすか! さっきの弁当の続きなんですけど、それで一緒に来てほしいんです!」

 

「えっ」

 

「お願いします! 母ちゃん絶対めっちゃ怒るんですよー!」

 

「え、お、おう」

 

「大赦で一番偉いとかいう肩書き普段全く役に立ってないんですから役立てましょうよー!」

 

「言いやがったな! 誰も言わねえことを! そうだよ!」

 

「お願いしますー!」

 

「分かった分かった! 一緒に行ってやっから!」

 

「やーりぃ! よし、すぐ行きましょう! アタシの親に気付かれる前に!」

 

「ちょっと待て、兜真剣王のゼリーだけは、ゼリーだけは置かせてくれ……!」

 

「あ、なんか兜真剣王くんがケースの壁叩いてる~」

 

「おじさま、兜真剣王の餌は私も何回かあげたことがあります。

 ここは私に任せて先に行ってください! しんがりは任されました!」

 

「美森……! 死ぬんじゃねえぞ! あと、ありがとう! 必ず戻る!」

 

「はい!」

 

「また最終決戦が始まってる」

 

 銀はおじさんという肉盾を連れて行ったことで余計怒られた。

 

 

 



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思い出11倍

 ゆゆゆ杯後夜祭140字全員分揃いました。並行して書き始めております。投稿をお待ちくださいませ~


 銀と園子は、ジリジリと焼けるような熱さの中、歩道をまったり歩いていた。

 八月の猛暑が照りつける。

 暑いのではなく、熱い。鉄板の上のように熱い。

 焼き肉になりそうな気分であったが、友達と歩いているとそれだけで暑さが和らぐような気がして、園子はこういう時間も割と好きだった。

 

「須美は用事あるみたいだし、二人でどっか寄ってく?」

 

「そうだね~どうする~?」

 

「イネス! アイス食おうぜ!」

 

「イネス好きやんね~」

 

 その横を、白髪の少女と成人男性が物凄い勢いで走り抜けていった。

 

「元気だねえ」

 

「元気だなあ」

 

 シズクが走り、おじさんが追う。

 歩幅でおじさんが勝り、脚力でおじさんが勝り、懸命さでもおじさんが勝っている。

 それでも互角なのは、シズクの走り方が上手いからだ。

 体重移動、関節の使い方、頭の上からつま先までの力の使い方と力の流れの制御、全てがおじさんと天地ほどに差があった。

 

 しなやかで、無駄がなく、技術ではなく感覚で構築されるシズクの疾走は、プロのアスリートというよりは、サバンナの肉食獣を思わせた。

 

「シズクてめっ逃げんな! そんなことのために人格交代能力付与したわけじゃねえんだぞ!」

 

「知らねー! 貰ったもんをどう使うかは俺らの勝手だろうが!」

 

『そうだね』

 

 おじさんがしずくとシズクに任意の人格交代能力を与えてしまったため、しずくを問い詰めようとしてもすぐシズクに代わって逃げてしまう。

 シズクは街路樹を蹴って塀の上に飛び上がるといった、軽業師が何百何千と練習してようやくできるような動きを、息をするようにこなしていく。

 まるで猫だ。

 身軽で軽快で、肉体の使い方を知る猫。

 

 イタズラ防止のために普通の人間は登れないようにしている信号機ですら、シズクは僅かな出っ張りや周囲の建造物を利用し、するすると登っていく。

 信号機の上で小馬鹿にした表情をして、シズクはおじさんを見下ろした。

 そこまで上がれば、おじさんの手は届かない。

 猫のような可愛らしさがあるのがしずくなら、猫の獰猛さがあるのがシズクであり、シズクの動きはまだに猫そのものだった。

 他にたとえようもなく、獣そのものである。

 

 獣が人に従う時は二つある。

 主に恩義を感じた時と、強者に力で従わされた時だ。

 おじさんに、この獣を従えさせる物理的な戦闘力は無かった。

 

「俺に言うこと聞かせたけりゃ催眠で操ってそうすりゃいいじゃねえか、ほらやれよ」

 

「ぐっ」

 

「あっ、悪い悪い。催おじの催眠俺には効かないんだっけ?

 じゃあ言うこと聞かせらんねーよな、うははっ! 諦めろよ!」

 

「テメー! ヤンチャ小娘も大概にしろ! 遊びじゃねえんだぞ!」

 

「遊びのつもりなんてねえよ!」

 

「あとスカートの中身見えそう」

 

「ぶっ殺すぞ!!」

 

『し、シズク、今日履いてるのは人に見せられるやつじゃない……!』

 

「くゥらァ! しずくのパンツ見んじゃねえ!」

 

「たわけたことほざいてんじゃねえぞ。

 今表に出てんのはお前だろ。

 じゃあ小生が見るとしてもお前のパンツだわ。

 姉のパンツを妹が履いてるとこ見られて恥ずかしいのは姉か?

 違えだろ?

 恥ずかしいのは妹だろ?

 誰が履いてるのか、だ。しずくのパンツは見られねえし、しずくの尊厳は守られる」

 

『あ、私のパンツじゃないんだ。それならよか……よかった?』

 

「お、俺のパンツも見んじゃねえ! 一万回殺すぞ!」

 

「もうちょっと右に行ったら小生にも見えそう」

 

「見んじゃねー!」

 

 おじさんの高度な情報戦によってシズクは顔を真っ赤にし、信号機の上から降りて来た。

 獣には知をもって勝利する。

 まさしく人間の知性と理性の証明であった。

 獣の身体能力を人間の知をもって仕留めるのは、獣を狩る人類の歴史そのものを体現するような美しさがあり、おじさんの人間としてのレベルの高さを見る者に知らしめる。

 

 シズクは機動力を奪われた。罠にかけられて足を傷付けられた俊敏な獣の如く、先程のように飛び跳ねることはもうできまい。

 

「小生はガキンチョのパンツに興奮はせんぞ。

 その辺は安心してよろしい。だが、普段は気を付けろ。

 おそらく同年代の男子にはあらゆる意味で刺激が強い。

 神樹館は厳格で清楚な名門ですぅみたいなツラして女子の制服も普通にスカートだしな……」

 

「テメーは時々ガキみたいになるオッサンだろうが! あぁん!?」

 

「む……否定できんな。困った。すまん。まあそういう目では見てないから安心せい」

 

「しずくをそういう目で見たらぶっ殺す!」

 

「へい承知。つかな、しずくをそんなに想ってんなら選択肢ねーだろ」

 

「あ?」

 

「お前が戦場で死んだらしずくも死ぬんだぞ」

 

「―――」

 

「辞退しようぜ? 平和な場所でしずくを守ろうぜ? な?」

 

 おじさんは優しい口調で、けれど真剣な目で、少女に辞退を求める。

 

 勇者。

 それは、神樹と大赦に選ばれし者。

 神世紀298年のこの時代、勇者の選定の主導権は大赦にあった。

 

 大赦が名家の娘の勇者適性値をチェックし、能力と年齢から勇者を選定し、神樹が後追いで選ばれた者に勇者の力を与える。

 神樹が選んだ勇者とは言うものの、事実上、大赦の選定の追認方式であった。

 そうでなければ、大赦が選んだ名家の人間だけが勇者になるなんてことにはならない。

 

 大赦の側には、色々な理由があった。

 伝統だとか、昔作った決まり事だとか、勇者の格を保つためだとか、勇者という神聖なお役目を一般人にやらせてはいけないとか、尊い血統を重視せよだとか、勇者を排出した家が力を持つから名家の特権にすべきだとか。

 けれども、それが完璧に裏目に出た。

 名家で、無垢な幼い少女で、勇者の資質持ち。

 そんな便利な人間が、そうそう居るわけがない。

 初代勇者の子孫である乃木園子と、ほとんど一般家庭と変わらない名家の末端・三ノ輪銀、合わせて二人しか見つからなかったのだ。

 

 神樹の力を扱う勇者の最適人数は五人、無理をして六人。

 そのくらいを目安にしていた大赦は大いに焦った。

 それで、東郷美森を鷲尾須美にするという無理なことを実行し、『名家の娘』の総数を水増ししたのである。

 それでも三人。

 あまりに少ないが、大赦はこれ以上"伝統で決まっていること"を動かせなかった。

 

 300年続く大赦が健全性を失っている証拠のような、そんな経緯であったと言える。

 

 だがそれも、もう終わった。

 

 そして決まったのが『四人目』の選定だ。

 いずれ『五人目』の選定も始まるだろう。

 四人目は急いで、五人目はゆっくり選ぶと、おじさんは大赦側から聞いている。

 緊急事態への対応と、長期的な勇者の育成や選抜を、同時に考慮した形だと考えられる。

 

 四人目は緊急追加の即戦力が求められているため、夏休み前に選定の準備を終え、夏休みの時期を選定の初段階を終える、という段取りのようだ。

 何せ夏休みは学校がない。

 暇な子供はとことん暇だ。

 選定過程の自由度で言えば、夏休みを超えるものはないだろう。

 

 まず勇者選定の内容を説明し、志望者を募る。

 志望者を募って、夏休みの期間を利用して共通のカリキュラムで戦闘技能を叩き込む。

 夏休みの終わりが迫って来た頃、トーナメント形式で一番強い候補者を決定し、その者に合わせた端末を作成し、神樹にその者を勇者に選んでもらう。

 途中までは強者の選定で、途中からは旧来の勇者選定と同じように"人間が選んだ勇者"を神樹が選んで勇者の力を持たせる、変則的な形になるということだ。

 

 真夏の猛暑の訓練に耐えられないなら、壁の外の炎の熱にも耐えられないだろうということで、候補から外していく。

 最後の候補者同士のトーナメント戦は、訓練では見ることができない部分、すなわち実戦における勝負強さを見極める。

 短期間の訓練で伸びる人間は、才能があるということなので、現行勇者チームに加えて実戦で更に伸びると見込まれ候補に残される。

 

 とことん即戦力が求められている、というわけだ。

 長期的に様子を見る気はない。

 つまり、四人目に選ばれてしまえば即戦線に加えられる可能性が高い。

 しずく/シズクともう赤の他人でなくなってしまった彼からすれば、四人目に彼女が入るなんて絶対に認められないことであった。

 

 おじさんは好戦的なシズクに辞退を求めるが、その言葉は根本的に的外れだった。

 

「勇者選定の話を聞いて立候補したのはしずくだ。俺じゃねえ」

 

「!」

 

「俺はしずくの願いを叶える。

 しずくのことも守る。

 どっちもやらなきゃならねえ。

 どっちもやり遂げんのが俺の役割だ。

 しずくにできねえことをすんのが俺の存在意義。俺の生まれた意味だ」

 

 シズクは獰猛な獣の笑みを浮かべ、自信満々に胸を叩く。

 

「まあ見てろ。サクッと勇者になって、サクッとあんたの役に立ってみせるからよ」

 

「そういうのいいから。はよ辞退しろ」

 

「じゃあ、サクッと世界守ってやるよ。大義名分とか大事って話だろ」

 

「大義名分よりお前が大事じゃい!」

 

「―――」

 

「やめよぉぜぇシズクさんよ~しずくもやめよぉぜぇ~ガリガリ君買ってやるからさ」

 

『シズク、こらえて』

 

「こんなのに釣られるわけねえだろ! 却下だ却下! 俺達は、勇者になる!」

 

「分かった、分かった……ハーゲンダッツを買ってやる。これでどうだ?」

 

「アイスの値段の問題じゃねえんだよ!!」

 

 会話が止まる。

 無言が続く。

 真夏の猛暑の中、走り回っていたシズクとおじさんの汗が落ちて、道路にあたり、一秒と経たずに蒸発していく。

 シズクは顎の汗を手の甲で拭って、舌打ちした。

 

 自分の頭に血が昇って、こんなにも熱くなっているのは、夏の暑さのせいだと、シズクは思おうとした。そう思いたかった。

 この怒りの熱は夏の熱だと、そう信じ込もうとしていた。

 それが夏の暑さのせいでないことを、一心同体のしずくはよく分かっていた。

 

「チッ、なんだよ、頼りにしろよ、喜べよ……」

 

「は?」

 

「俺としずくは駄目なんだな? じゃあ鷲尾はどうなんだ?

 乃木は? 三ノ輪は? それダブスタじゃねえのか? 俺と同い年の女子だろ」

 

『……』

 

「それは、あの三人はもう覚悟を……」

 

「ハイハイハイ!

 俺はどうせ頼りねーんだろ!

 知ってるってんだよ!

 お前に助けられた側だしな!

 お前の中じゃいつまでも"かわいそうな子供"だってのは分かってんだよ!」

 

『そうだね』

 

「お、おい、シズク?」

 

「でも、お……しずくはな!

 頼られてえんだよ! 鷲尾くらいには!

 鷲尾は戦場に出しても平気なくらいには信じてんだろ!

 俺達は信じられねえのかよ!

 俺は頼れねえのかよ!

 宝石みたいに扱ってくれって誰が言った!?

 割れやすい人形みたいに守ってくれなんて言ったか!?

 他の奴にはいいよって言って、俺には駄目だ戦うなって言って……ムカつくんだよ!」

 

 一瞬、おじさんは、言葉に詰まる。

 

 

■■■■■■■■■■

 

「この幸せは、私が命を懸けて守る価値があると思うんです。

 おじさまは私が傷付くだけで、自分のことみたいに傷付きます。

 だから昨日は、傷を負わないように戦いました。

 おじさまに心配をかけないために。

 でもその結果、おじさまが巻き込まれてしまった。

 もしかしたら負けてたかもしれない。

 これじゃいけないんです。傷を負わないように戦っても、きっと世界は守れない」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 それは、須美があの日に言った言葉の別側面。

 同じようで、中身は違う。

 須美は自分が特別大切にされていることを理解したから、怪我しないように戦おうとして、それでも彼や世界を守るために一度決めたことを捨てた。

 シズクは自分が大事にされ、戦う権利まで取り上げられて危ない場所から遠ざけられ、安全な場所に置いて行かれるのが嫌だった。

 

 須美は特別扱いが嬉しくて、シズクは特別扱いが嫌だった。

 

「覚悟が理由なら、俺にだってある!

 ……不満があるなら、足りないところがあるなら言え!

 信じる理由が足りねえなら言え!

 ちょっとくらいなら合わせてやるよ!

 だけど、そうじゃねえだろ!

 不満とか別にねえじゃねえかお前!

 俺はそれでどう何を直せばいいってんだよ! クソッタレ!」

 

 シズクはいつだって、自分の感情のままに、しずくの代わりに怒る。

 しずくは、怒れない女の子だから。

 怒ることすらもう一人の人格に任せないとできないかわいそうな女の子まで、危険なことに巻き込みたいくないと思うおじさんの気持ちを、しずくもシズクも、本質的には分かっていない。

 

 同時に、おじさんも、しずく/シズクの全てを完璧に理解してはいない。

 催眠の手が届かない特異点である彼女を理解しきれていない。

 須美は"傷だらけになった自分でも愛してくれる人がいるなら戦える"であり。

 シズクは"傷だらけになってでも愛する相手を守りたい"なのだ。

 そこには、些細だが絶対的な違いがある。

 

「……いいのか。お前は本当に納得してんのか。しずくが死ぬかもしれねえぞ」

 

『……』

 

 おじさんが心配すればするほど、少女は大切に思われていることに喜びを覚え、頼りにされていないことに苛立ちを覚える。

 幸せになるべき人格のしずくが喜びを覚え、けれど慣れない苛立ちを感じ。

 怒りを担当する人格のシズクが苛立ちを覚え、同時に慣れない喜びを感じる。

 複雑怪奇なその心の動きに、大昔の人は"乙女心"と名付けた。

 少女は嬉しい。だけど、嬉しいだけで終わらない。ゆえに、それは乙女心と言う。

 

 乙女心はいつの世も、いつの時代も、催眠に負ける。

 絶対に負ける。それは宇宙の真理であり、森羅万象絶対のルールだ。

 催眠おじさんと意見が衝突して押し切れるような、そんな少女の祈りは無い。

 そんなものがあるならば、それはきっと、そこにあるだけで奇跡のような何かだろう。

 

 シズクが鬼の形相で、おじさんの襟を掴みねじり上げる。

 

「うるせーな!」

 

 怒りのままに、言葉をぶつける。

 

「俺がしずくに持ってる感情は、テメーが鷲尾に持ってる感情と似たようなもんだ!

 守りてえ!

 傷付いてほしくねえ!

 戦ってほしくねえ!

 俺が守る!

 そう思ってるが、覚悟見せられたらしょうがねえだろ!

 "絶対に戦うな"なんて押し付けられねえだろ!

 命だけ守りてえんじゃねえ! 体だけ守りてえんじゃねえ! 心も守りてえって思ったろ!」

 

「―――!」

 

「だから……せめて一番近くに、隣に居ようって思ったんだよ、俺は!」

 

 他人の中に自分を見た時、人はその他人を否定することが難しくなるという。

 

「もし死ぬ時はせめて一緒に死んでやるって、そう思ったんだ! 俺は!」

 

 シズクがしずくに信頼される理由が、絶対に守ってくれるという信頼であり、絶対の味方であるという確信であり、最後には一緒に死んでくれるだろうという絶対的な繋がりに起因する、揺らがない心の絆であるのなら。

 

 

■■■■■■■■■■

 

「お前が無傷で守ってくれるなら、小生もお前を無傷で守ろう。

 傷付く時は共に傷付こう。

 笑う時は一緒に笑おう。

 お前が死ぬ時は一緒に死んでやる。

 だが泣いてる時だけはこれの例外だ。

 お前が泣いたら小生は泣かないで、その涙を拭ってやりたい。だからズルだがここは例外」

 

■■■■■■■■■■

 

 

 それはあの日に、彼と須美の間で結ばれたものと、同じものだ。

 しずくとシズクの関係と、おじさんと須美の関係は、明確に違うものだろう。

 だが、その二つの関係性の中には、全く同じ心の絆が存在していた。

 

「やめさせたいなら権力でもなんでも使ってやめさせてみろ。

 俺もしずくも絶対諦めねえ。

 必ずてめえに認めさせて……俺としずくのことを認めさせて、頼らせてやる」

 

『そうだね』

 

「かわいそうな子供なんかじゃねえ。

 守られてるだけのガキじゃねえ。

 救われてるだけのガキじゃねえ。

 生きてるんだ、俺達は。

 お前にカゴの中で大事にされてるペットなんかじゃねえ。

 ……お前が転んだ時、お前に手を差し伸べて、お前を立ち上がらせる、人間で居たい」

 

 それは、この世界に本来無い決意であった。

 この世界の人間は皆、神樹に"生かされている"。

 結界というカゴの中で、生かされている。

 人間が飼っているカブトムシと、神に飼われている人間に、本質的な違いはない。

 この世界の人間は、本質的にはカゴの中で飼われているペットと変わらない。

 

 『それは嫌だ』と言える彼女らは―――このカゴの世界の中では、あまりにも異端な存在になりつつあった。

 

 家というカゴの中で苦しめられ続け、そこから異世界の者に救い出された少女は、カゴの中のペットで居ることを強烈に拒絶する。

 

 シズクはおじさんを突き飛ばし、一目散に逃げていった。

 突き飛ばされたおじさんはすぐ立ち上がるが、もう追いつけない。

 おじさんは悔いるように、髪をガシガシと掻く。

 

「……催眠が効かない子供相手だと、何やっても上手く行ってる気がしねえな」

 

 普通の父親に育てられなかった人間が、父親の真似事をしようとしても、大抵の場合上手くはいかない……とは言うが、問題はそこにはない。

 おじさんはシズクへの接し方を変える必要があるが、そこにも問題はない。

 一つ、おじさんはシズクに対して良い意味でも悪い意味でも間違っている。

 

 大人がくれる幸せを、子供は無条件に際限なく、疑問も持たず受け取り続ける。

 子供は親に愛されるのが当然だと思いながら成長していく。

 それが当たり前の親と子の関係だ。

 おじさんも、知識としてそれは知っていた。

 

 だが、シズクもしずくも、そういう育ち方はしていない。

 そんな当たり前を、二人は知らない。

 だから、当然のように愛を受け取ることなんてできない。

 息をするように愛されることを受け入れるなんてできない。

 愛される度に、愛を自分の中で空気のように消化していくことができない。

 普通の子供は何気ない親の愛の多くを忘れてしまうが、しずく/シズクは愛されたことを全部覚えていて、消化しきれなかった愛を全部覚えている。

 

 おじさんがこっそりゲームを買ってくれたことも。

 おじさんが頭を撫でて褒めてくれたことも。

 口下手なしずくの言葉をいつまでも待ってくれることも。

 シズクがおじさんを照れ隠しでぶん殴っても笑って許してくれることも。

 二人を交互に、何度も、夜のラーメン屋に連れて行ってくれたことも。

 おじさんはそれらを"大人として当然のこと"として繰り返していて、二人はそれらを"一生忘れない大切な思い出"として蓄積していく。

 

 普通の子供が"いつものこと"として忘れてしまうような何気ないことの全てを、しずくとシズクは"恩返ししないといけない特別なこと"として忘れない。

 

 なんてことはない。

 

 『原因』は、自覚がないだけで、おじさんの方にあったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東郷美森と向き合ってると、シズクはいつも不思議な気分になる。

 

 シズクとしずくは、互いに対し、鏡の向こうの自分という意識を多少持っている。

 それは東郷美森と鷲尾須美も同様だ。

 彼女らは自分であって自分でないその人物に対し、鏡の向こうの、自分と似て非なる何かを見ているような気持ちを持っている。

 

 シズクとしずくが須美や美森を見ている時の気持ちは、それとは明確に違う。

 空が地を見ているような、そんな気持ちだ。

 しずくとシズクの間にも、須美と美森の間にも、親近感がある。

 "この人は自分に近いところにいる"という、近さの感覚がある。

 それとは対照的に、シズクは美森に対し『遠い』という感覚しか覚えたことがない。

 

 遠いのだ。あまりにも。正反対という言葉すら似合わない気がするほどに、遠い。

 

 シズクの短い白髪に対し、対になるような長い黒髪。

 親にまともな飯も与えられず小柄で貧相で平たい体型のシズクに対し、どちらの親にも愛され食に困ったこともなさそうな豊満な恵体。

 他人と話すことが苦手なしずく、落ち着きのないシズクとは対照的に、他人に何かを言っていくことを恐れない、落ち着きのある振る舞い。

 常に自分が愛されることに不安を覚えているシズクとしずくとは正反対の、彼に愛されていることを揺るぎなく信じることができている微笑み。

 東郷美森と向き合っていると、シズクはいつも不思議な気分になる。

 嫉妬のような、尊敬のような、そのどちらでもないような、不思議な気持ちになる。

 

 神に愛されたがゆえの不幸を与えられる黒と、人に愛されないがゆえの不幸を得た白。

 

 出会って救われた者と、出会って救われた者。

 

「お前、未来から来たんだってな。少し話が聞きてえ」

 

「あら……おじさまの話を盗み聞きしてたのかしら。

 そういえばしずくちゃんは盗み聞きが得意だったような……」

 

「しずくは影薄いからな、くくっ」

 

『黙ってると、存在感がない。便利』

 

 シズクは飄々とした口調で問いかける。

 

「俺は勝つか? 四人目になれるか? 俺は、あいつの勇者になれるか?」

 

 言葉の最後が、ほんの僅かに震えていた。

 

「シズクちゃんが四人目の選定に参加する意味は、あまりないの」

 

「……!」

 

『……やっぱり』

 

「あなたは二回戦で楠芽吹という子に負ける」

 

「そいつが優勝すんのか?」

 

「その子も、三好夏凜という子に負けるわ。最後に選ばれるのはその三好夏凜という子」

 

「……」

 

「シズクちゃんだと、あの子達には勝てない。絶対に。手も足も出てなかったから」

 

 怒り出しそうになったシズクが、深呼吸し、怒りを飲み込む。

 些細なことで激怒する親から遺伝した悪癖を、シズクは心一つで抑え込み、話を続けた。

 

「シズクちゃんの本番は、確か五人目の選定だったと思うわ」

 

「そうか。そんだけ聞けりゃ十分だ。あんがとよ」

 

「諦める?」

 

「ハッ」

 

 心の繋がりを通して、想いは伝わる。

 しずくの不安が自分に伝わってきたから、シズクはあえて強がった。

 しずくの不安を取り除くために。

 そして、しずくにもシズクの不安は伝わっていて、不安なのに強がってしずくを勇気付けようとするシズクに、しずくは思わず笑んでしまう。

 

「俺は言い切れる。

 しずくも言い切れる。

 "希望"ってやつが必ずあることを。

 そいつは、生きてりゃ掴めることもあるってことを」

 

『うん、言い切れる』

 

「笑えよ。"生きててよかった"なんて―――ありきたりなこと、俺は思ってんだ」

 

 生きていれば希望はあり、起こらないことなんてない。……そんな幼稚で前向きなことを教わったから、シズクは今も不敵に笑える。

 "お前は絶対に負ける"と言われても、折れない。

 美森はシズクに微笑みかける。

 

「笑わないわ」

 

「……そうかい」

 

 照れたらしく、シズクが男のような所作で頭を掻く。

 この前までしずくの父親の所作を真似したような所作だったそれが、美森のおじさんのような所作になっているのを見て、美森はくすりと笑みをこぼす。

 これが"しずくの知る"男性性の反映、であるならば。

 しずくとシズクの中で、『何』が大きくなっているのか、誰が見たってひと目で分かる。

 

「未来を、希望を、幸福をくれた。

 そんなやつの未来を、希望を、幸福を守ってやりたい。

 そう思うのは変なことか? 俺の考えてることは間違ってるか?」

 

「間違ってないわ」

 

 美森は覚えている。

 彼女のこういう部分に、自分が好感を抱いていたことを。

 おじさんが死んだ後に、彼女がどうなってしまったかも。

 よく覚えている。

 

 シズクは強く、強く、決意を口にする。

 

「だから戦う」

 

 目を閉じ、あの日救われた時の光景を思い出す。

 

 

 

「俺が勝てねえ敵に勝つ以上の『ありえねえ奇跡』を、俺はもう見てる」

 

 

 

 目を開き、救われた日の光景から現実に帰る。

 

「しずくは幸せになるために生まれてきた。

 俺はそう信じてる。

 だから救ってもらえた。

 俺は守るために生まれてきた。だから……」

 

 そして、何かを言おうとして、言いかけた言葉を噛み潰して、顔を赤くして腕をブンブン振ってごまかした。

 

「……俺に恥ずかしいこと言わせようとしてんじゃねえ!」

 

「あなたが勝手に言ったのよ? ところで、恥ずかしいことって……」

 

「聞くな!」

 

「ふふっ」

 

 美森は空を見上げる。

 

 もうこの世界線の行き先は、彼女にすら分からない。

 

 しずくとシズクがどうなるかも分からない。

 

 分からないけれど―――彼が死なずに済む結末を見る、ただそれだけのために、美森は死力を尽くし続ける。

 

「未来なんて、未来から来た人にすら分からないものなのかもね」

 

 未来を変えてくれるなら、誰でも良い。そう彼女は思っている。

 

 自分でも。自分とは違う道に進みそうな須美でも。……シズクでも。

 

 

 

 

 

 そして、暗躍する者が居た。

 

「ふふふ……完璧で御座いまする」

 

 脂ぎったデブハゲのおじさんが、闇の中を蠢いている。

 そのおじさんが指をパチンと鳴らすと、その姿が一瞬で切り替わる。

 鷲尾須美と細胞レベルで同じ姿・肉体に変化したおじさんは、軽やかな動きで眼前の施設に侵入し、四人目の勇者選定の情報を調べ始めた。

 

「催眠おじさんが女子小学生になれないと誰が決めたのか」

 

 催眠おじさんの多くは、細胞操作能力を持つ。

 アングルによって体型が変わり、身長が変わる。

 流行りの原作の同人誌ほどそれは多く、人気のない同人作家ほどそれは多いという。

 その中で最も知名度が高い実力派の存在は、間違いなく彼らだろう。

 

 ―――『ちんちん亭一族』。

 

 ちんちん亭一族の特徴は『おじさんとショタに境界線が無い』こと。

 彼らはその多くが催眠おじさんの一族であり、ショタとおじさんが同じ言語圏に属しており、催眠おじさん達の中でも一目置かれる王者の群れだ。

 セックスの前はショタ→最中はおじさん→終わったらショタという風に体型を切り替え、それに特に説明がなく、それが当たり前のようですらあるという。

 

 "体型の一貫性"は万物に通ずる理ではない。

 催眠おじさん達はその理の半歩外側におり、ちんちん亭一族の技術を極めることで、ある程度細胞を操作することが可能となる。

 同人誌で、中出しした精子がありえない動きをする現象がこれだ。

 この技術を極めた系統樹のおじさん達は、全身の細胞と放出した精子を操作することが可能なのである。

 

 そして、女子小学生になることすらできる。

 

「勇者の力の端末は自分がいただきますよ……これは有用に使えそうで御座います」

 

「見つかりましたか」

 

「ええ。いい情報があるで御座います」

 

 三人の勇者に加える、四人目の勇者を選定する祭典が始まりを告げる中。

 

 三人目の催眠剣豪と、四人目の催眠剣豪が、その魔の手を忍ばせていた。

 

 

 



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