TSおねショタ隻狼伝説 (豚ゴリラ)
しおりを挟む

逆行

二次創作初挑戦にあたっての試金石です
作者が調子に乗ったら続きますよたぶん



2021/02/23:修正


「……………」

 

 

カッ、カッ、カッ。

深々と雪が降り積もる荒れた寺に、無粋極まる硬質な音が高らかに響いた。

空には月が昇り始めているというのに、その男は蝋燭の火を頼りに何事かの作業に没頭している。

 

カッ、カッ、カッ。

響く音とは削る音。

抉るモノとは木の塊。

 

男は薄暗い視界にあっても危なげなく、淡々とノミを振るっていた。

幾時間もかけ、面白くもないだろうに飽きずに突き立て続けられるノミ。

只管無遠慮に、薄汚れた寺の床に木屑を振り撒く。

男は常と同じようにクスノキを睨みつけ、己の心が表すままに姿を整えていく。

 

少しずつ、少しずつ。

丁寧に、しかし強引に。

粗野ではあるが、どこか真摯に。

どこか敬虔ささえも感じるほどに思いの丈を込めて、粛々と専心する。

 

ただその行為にしか気が回っていないのか、男の身なりは随分と薄汚れていた。

ボサボサの頭髪を後ろに纏め、顎髭を無精に生やす姿を見て、誰が彼のことを類稀なる強者と見抜くことができようか。

常に退廃的な空気を纏うことも相まり、さながら"世捨て人"のようにしか見えぬ。

或いは"世に捨てられた"のか。

 

この男に名はない。

ただ、"狼"と呼ばれていた。

 

 

「…………」

 

 

ムスッとした無愛想な男は、たった今出来上がった木像を睨みつけた。

いや、眉間に皺が寄っているせいでそう見えているだけかもしれないが――ともかく、木像を見た。

 

 

「……また、"鬼仏"か」

 

 

その声に覇気はない。

ただいつもと同じ事実を確認するだけの自然さで、この"仏"――いいや、"鬼"の姿を言い表す。

あまりにも感情が乗せられたその姿を見れば、誰しもが感嘆のため息を漏らすことだろう。

 

しかし忘れてはならない。

本来ならば"仏"とは優しい顔をしている筈――正しくは、優しい顔をしていなければならない。

だというのに、狼が彫る仏は常に怒り顔だ。

 

チラリと寺の隅に置かれた"仏"の姿を見やる。

それは優美で、慈愛に満ちた優しい表情をしていた。男の手の内にあるモノとは違って。

 

 

「まだ、遠い」

 

 

……己は何時になればあのような姿を彫れるようになるのか。そう考えない日はない。

己の恩人もあの姿を目指していたが、終ぞ至ることはなかった。

そして、今の己もまた同じ道を歩んでいる。

 

いずれは、と夢想する。けれど最近の狼にはそれを為せるという自信が無くなりつつあった。

もう数え切れない程に太陽と月が交代しているにも関わらず、手の内にある仏は微塵も表情を変えない――どころか、益々怒りを強めているようにすら見える。

 

 

「…………」

 

 

それは何故か。問われればすぐに思い出せる理由が幾つもあった。

 

単純に自身の心を鎮める限界に突き当たったこと。

日の本を包む戦火は未だ燃え盛り、降り積もり続ける怨嗟が狼を焦がすこと。

 

 

そして、身に潜む"毒"。

 

それは何も、文字通りの意味ではない。

狼は忍びである。忍びであるが故にこそ、多様な任務に挑む中で、あるいは日常にあっても毒を盛られることは避けられない。

それは単純に殺めることを目的としていたり、弱らせることであったり、情報を吐かせるための拷問かもしれない。

だからこそ如何な毒物にも耐えられるよう修練を(こな)した。

それこそ"噛み締め"のような秘薬でも無ければ、熟達の忍びである狼を殺めることなどできない。

 

故に、正しくは物質ではなく無形のモノ。

決して物質などという陳腐なものではない。けれどだからこそ、百戦錬磨の忍びを蝕むのだ。

それは"後悔"という、緩やかに精神を腐らせる猛毒であった。

 

忍びだった己が何を、と一人自嘲する。

表には微塵も現れぬが、なんとも愚かと腹を抱えて転げ回りたくなる。

 

数多の命を斬り捨てた果てに過去を悔いるなど――彼等だけではなく、嘗ての主にも申し訳が立たない。

 

 

「…………」

 

 

カッ、カッ、カッ。

しっかりと両足で固定された新たな"(材木)"にノミを振るう。

薄暗い中迷いなく、寸分の狙い違わず抉り抜いた。

 

あいも変わらず"優しい顔"には彫れない。が、少なくとも……専心している内には過去の因果に悩むことはない。

目的を取り違えているようではあるが、しかし狼にとってそれは救いなのだ。

毒の巡りを遅らせるという意味で、この作業はこの上なく役に立っている。

 

だからこそ今日も、明日も、その次の日も。常に変わらず仏を彫る。

優しい顔が彫れるまで、幾年月を掛けてでも。

 

時折知古の薬師の女性(エマ)が訪れるという非日常はあれども、狼はその大半の時間を全く同じ行動で過ごす。

 

 

「………怒り顔か」

 

 

蝋燭が照らす仏の顔は、やはり怒っていた。

 

甘く腐っていく日々は不変のモノ。

両界曼荼羅(世の理)がそう示したが如く。決して乱されぬし、乱してはならぬ。

 

 

 

――筈だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……む」

 

 

がちゃりがちゃりと、手の内で金属の奏でる悲鳴が嘶いた。

狼は唐突に現れた感触に目を瞠る。

ノミを握っていたはずの右手が重い。

どういう訳か数え切れぬほどの刀を抱えているらしく――

 

 

「……どういう事だ、これは」

 

 

――否。()()()抱えあげていた。

失われたはずの左手で、しっかりと力を込め握り込んでいる。有り得ぬ光景を目にし、驚きのあまりに喉がひきつった。

 

唐突に場面が切り替わった視界。香る血煙。

薄暗い堂と蝋燭の明かりはどこぞへ消え失せ、代わりに砂埃と堕ちていく太陽の光が網膜を蹂躙する。

 

鞘を掴む握りこぶしにギュッと力を込めると、硬い木の感触が掌を押し返してきた。

右手と――あの日、あの平原で。敗れ、勇ましき若武者(葦名弦一郎)に斬り落とされたはずの左手に。

 

失せたモノがしっかりと有るべき場所に収まっていることの、なんと恐ろしきことか。

腐るか、燃やし尽くされるだけの二択しかなかった。そんな自分に全く別の道が提示されていることの、なんと不可思議なことか。

……狼の胸の内をどう言い表せば良いのか、てんで見当がつかない。

 

――が、しかし。今はそれを考えるべきではない。

思考を費やすべきは別にある。

 

 

「ここは」

 

 

腰を落とし、両足を広げ、周囲を見渡す。

 

 

――狼は"忍び"である。

あるいは、"忍び"で()()()

 

常に危機に晒され、不測の事態に飛び込む羽目になることは珍しくもなかった。

だからこそ、これ以上狼狽えてはならないと理解している。

迷えば迷うほど死が近づく。それを()()()()知っているからこそ、困惑の一切を押し潰した。

 

まず、前を見た。

数多の兵士が倒れ伏し、夥しい流出により血の河を築いている。

彼等は一様に武装し、ちょうど手の内にある刀達と同種のものを握り締めていた。

 

左を見る。

彼方にある人里まで兵士の屍は続いており、さながら道標のように存在を誇張している。

 

匂いを嗅ぐ。

悍ましい濃度の血臭が香る。

匂い立つそれはどこか腐っているようで、戦が終わってからそれなりの時が過ぎている事が分かる。

肌に接する温度からして今は夏。このように打ち捨てられていては――ああ。それは腐る。

 

実に哀れだ。

しかし、己は――()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「………」

 

 

――つまるところ狼は、戦場の跡地にいた。

彼が立つ場所は数多の男達の血が染み込んだ土の上。

抱えた刀は彼らの墓標。

 

背負子の籠に手持ちの刀を放り込む。

先程よりもずっと小さくなった体ではあるが、しかし危うげのない身体操作によってなめらかに駆動する。

それも当然だ。

確かに、遥かな過去の出来事だが、自分は何年もそうやって生計を立てていた。

飢えた獣のように、道徳という概念をかなぐり捨てて畜生のように。

あの日、あの時――義父に出会うまではずっと。

 

 

「……黄昏時」

 

 

淡い黄色が瞳を焦がし、堪らず視線を地面に落とした。

あの時、あの大きな体を音もなく揺らし、己を見下したのもこのような空だったな、と思い出す。

 

黄色の空、夕暮れの空、朝と夜の境界の空。

人と魔が交わる逢魔ヶ時。

 

"確かに、そうでありました"と、口の中で小さく呟く。

ただの人間と、人の形をした魔性を繋げてくれたのだから疑いようもない。

 

けれどそれもまた御仏の導きか。

"狼"という男の歴史は、その時から始まったのだ。

 

 

「……ふむ」

 

 

――ぬっ、と。

俯いていた狼の瞳に大きな足が映る。

やけに見覚えのある衣服に、舞い散る"梟"の羽根。

 

無造作に見えてその実効率的な足運び。

その靭やかさを、狼は覚えていた。

 

彼こそは大忍び、梟。

誰にも知られぬ(おきな)は、いつかのように狼を見下ろしていた。

 

 

「……野良犬が、心すら亡くしたか」

 

 

狼にとって懐かしい言葉だった。

胸中を淡い懐古の念が満たし、腐りかけの精神に風を吹き込む。

 

記憶にある通りだ。全く同じ佇まいの男は、きっと任務帰りなのだろう。記憶と違わず返り血で裾にシミを作り、大振りの刀を握り締めている。

そして過去の記憶と同じように、刀の切っ先を俯く狼に突きつけ――

 

――つつつ、と眉の横を刃が滑る。

 

刀の先三寸。もっとも()()()()()部位を誇示するように翳し、圧倒的強者の目線で以て見下した。

あとほんの少し力を込めるだけで、狼は容易く命を奪われてしまうだろう。

たとえ、それが幼き子供だとしても躊躇うことはない。

そこに何某かの理由さえあるのであれば彼は間違いなくそうする。

そういう男であると、狼は誰よりも知っているつもりだ。

 

 

「ほう」

 

 

だからこそ、再び刃を掴んだ。

 

手の皮がぷつりと裂けて血が溢れる。

蟀谷からたらりと伝う血が瞳に入り込むが、迷わず梟を見上げた。

 

目の前の男は事実傑物である。その心胆も、眼力も、正しくそれに見合うほどに優れたそれだ。

あの日、あの時。

今と同じような状況。

 

この自分を拾ったこの男ならば、きっと――何度目だろうと、己を拾う。

間違いない。

狼は事実、誰よりも男を――"義父"を信じている。

今この瞬間が夢現の幻だろうが、御仏が為す奇跡だろうが関係ない。

ただ、そういう存在だと確信していた。

 

 

「……狼。飢えた――しかし、志を持つ狼か。面白い……共に来るか」

 

 

ゆっくり、大きく頷く。

自分が彼をそういう男だと信じているように、目の前の大忍びも狼が共に来ることを確信していた。

己の中の何かが囁く。

こいつはきっと自分の願いを叶える一助になるだろう。

 

つまり――目の前のちっぽけな子供は、間違いなく掘り出し物だ。

大きく化ける。

何よりもその"瞳"。実に良い。

 

仄暗く、しかし強く輝いている。

燃えているようであり、その実何よりも冷たい。

……とても、良い。

 

 

「く」

 

 

匂い立つ。

大忍びとして培った"勝利"への道を嗅ぎ分ける"鼻"。それが嗅ぎ分けた可能性。

 

――だからこそ梟は、己の感覚の訴えに従った。

 

 

「………っ」

 

「ゆくぞ」

 

「………」

 

 

俵のように肩に抱え上げる。

既に無用の長物となった身の丈に合わぬ刀と背負子を放り捨てさせ、片手で狼の体を固定した。

この軽さであれば、拠点まで止まらず走り抜いたところで大した負担にはならないだろうと地面を蹴り抜く。

 

とっとっとっ。

 

屍と血を踏み付けぬよう僅かに浮かぶ足場を頼りに跳ね回る。

熟達の忍びとしての機動力は、目にするものがあれば魅了されるほどに軽やかだ。

これも長年の修練によって練り上げた体幹あってこそ。

凡百の忍びであればこうもいくまい。

それこそ、子供がこのように振り回されてしまえば忽ち気を失うに違いないだろう。

 

 

――筈だったが。この子供は気を揺らがさず、梟に合わせて滑らかに体重移動を熟している。

恐ろしく練り上げられた体幹だ。

数えで十にも満たぬだろうに、その練度は既に侍大将にすら迫るやもしれぬ。

梟は内心で舌を巻いた。

 

……とはいえ子供は子供。

上背はなく、膂力もない。

如何な才を備えているとはいえ、師によって十全な修練を施さねばなるまい。

そうでなくば芽吹くものも芽吹かない。

 

大忍び梟はひとり頷くと、拠点への迅速なる移動を続けた。

 

 

「……しかし……」

 

「……?」

 

「……いいや。詮無きことよ」

 

 

このような()()が放つにしては、やけに練り上げられた剣気だ。

これならば、或いは―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「梟……あんた、子犬でも拾う趣味があったのかい?」

 

「……さてな」

 

「………」

 

 

梟達忍び衆が拠点とするが故に、些か辺鄙な地理(山岳の只中)に建っている武家屋敷。

戦火の中にあって尚、雄壮。

絢爛ではないが、しかし雅な気品を放っている。

 

そんな屋敷の内部、大広間には休息を取る忍び達の姿と、頭目に近い立ち位置の大忍び達があった。

大忍び梟はその巨体をどこか所在なさげに揺らし、お蝶はそんな彼を冷ややかな眼差しで見つめている。

 

 

「いやさ、まさか幼女を拾ってくるなんてねえ……人は見かけによらないものさね」

 

「………」

 

 

遠巻きに眺める忍び達は内心で同意した。

無論口には出さない。出さないが、梟という大忍びがそういった行動を取ることを一切想像できない。

彼は忍びの模範とも言える人物であり、だからこそ「ありえない」と思ってしまう。

 

惨めな子供に同情したか?

こんな戦時の中で拾い物をするほど余裕があるのか?

いいや、あり得るはずがないだろう。

己達は国盗り戦の真っ只中。

そんな余裕なぞどこにもない。

 

にもかかわらずこのような小さな娘っ子を拾ってくるなど……一体どういった風の吹き回しか。

 

 

「………」

 

 

周りを取り巻く忍び達の好奇の視線に晒される中、狼は無愛想な顔で黙り込んでいた。

幼いが故に眉間のシワがあったところで怖さといったものとは無縁だが、やはりその来歴からか妙な"凄み"というものが滲み出ている。

そんな彼――否、()()は表面上はともかく、内心ではそれなりに困惑していた。

安全地帯に到達したことで思考を回す余裕が生まれ、困惑するだけの(いとま)もあるからだ。

 

考えるべきは現状。あまりにもおかしすぎる。

過去に逆行したというのは、まあ百歩譲って良しとしよう。

この世にあって、不可思議な出来事というのは飽きるほどに転がっている。

不死(死なず)を殺したことも、幻影の世界に潜ったことも、鬼を斬ったことさえあるのだから今更の事だ。

だから……まあ、いいだろう。

単純に過去の世界に移動しただけならば、狼にも経験したことがある。

あの時は守り鈴を楔とし、御仏の導きで過去の世界線に移動したのだったか。

 

今回、鈴を仏に供えた記憶はない。ないが……しかし。

何かしらの意味はある筈だ。きっとそれを探せば、何故このような世界に至ったかも分かる。

 

 

――が、それはそれとして。

 

何よりも深い困惑の原因は別にある。

それはそう、自身の肉体の変化。

同時にこれこそが守り鈴による逆行とは考えられない最たる理由でもある。

 

……と、いうのも。守り鈴によって過去の平田屋敷に移動した際にも、"狼"は変わらず"狼"だった。

未来にて斬り落とされた左腕はそのまま失せ、代わりに鎮座する忍義手こそが敵を穿つ牙であり、過去には持ち得ていなかった"瓢箪"も腰に下げられたまま。

まるで未来の狼が過去の位相の狼にそのまま挿げ替わったような――実に奇っ怪な体験だった。

"御仏の導き"と云うモノがかくも人智を超えたものだったとは……正に驚天動地という他無い。

 

それと比べて今回はどうか。

狼は未来にて為すべきを為した忍の"狼"ではなく――過去の自分自身で、尚且性別さえ変生し小さな娘になった。奇っ怪な体験と言うにも程があるだろうに。

これでは益々眉間のシワが深くなるというもの。

しかし、だ。決して己は悪くない。悪いのは神仏なのだ、間違いない。絶対にだ。

狼は深く確信している。

 

 

「さぁて……それじゃあ今後の話を詰めようか……ねぇ?倅殿」

 

「……は」

 

 

なにはともあれ、過ぎた事に繰り言を言った所でどうしようもない。

無論先の指針を定める必要もある。

あるが、まずは……視線の高さを合わせてくれた嘗ての師(まぼろしお蝶)を見つめた。

 

過去に戻ったというのなら、戻れたのなら――それを利用しない手はない。

前回よりも、もっとより上手く立ち回る。

どんな異端であっても、どんな異形であっても、主の為に尽くを活用させてもらおう。

 

 

 

 

 





せがれ 0 【▼倅/▼悴】

(1)自分の息子のことをへりくだっていう語。
「うちの―がご厄介になっています」

(2)子供や年の若い者をぞんざいにいう語。
「酒屋の―」「小―」

〔古くは(1)(2) とも女子にもいった〕


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

備えよ、膳えよ

一心の国盗り戦から、二十余年。

 

日の本に燻る戦火は未だ衰えず、内府――徳川家康公の指先はこの葦名にも届いていた。

だからこそ薄汚い"鼠"がそこかしこに湧いているのだ。ああ、穢らわしい!

 

梟の許で忍びとして成長した"狼"も、やはり職業柄その手の話をよく聞く。

これまで、義父に随行する形で――はたまた、仮の拠り所である寄鷹衆としての任務の中で。やはり彼奴らと相見えることは多々あった。

 

その何れもが熟達の忍びだったが、大忍びや御子の忍び――未来の、ではあるが――を殺めるには不足にすぎる。

いとも容易く心の臓を刺し貫き、それで終い。

ただでさえ前回の技術を覚えたままなのだから、今更多少の難敵に遭遇したところで――負ける道理などない。それは許されない。

 

だから狼は優れている。忍びとしても人斬りとしても、実に優れた従者だ。

故に来る日も来る日も尽きぬ職務を不足なく遂行する。彼女を遊ばせておく余裕などこの葦名の何処にも無かった。

 

密偵が居た。殺せ。

情報操作の痕跡があった。探せ。

防諜に勤めろ。十全に。

 

一日の大半はこれに尽きる。

自身に割り振られる仕事の多さに目が回るようだった。

 

ただでさえひっきりなしに内府の鼠が入り込んでくる現状、"寄鷹衆"の仕事量は半端なものではない。

忍び達の精神的な負担もまた甚大。

 

遥かな未来であれば、国が制定した"労働基準法"に唾を吐きかけているようなものだ。

実に哀れ、と侍達に同情されるのはいつもの事。

日陰者であるが故に軽んじられることが多い忍び達ではあるが、今回ばかりは誰にも軽視出来なかった。

あの葦名一心も評価してくれているのか、特別賞与なるものもたんまりと与える程に。

 

 

そもそも、金を使える機会なぞないのだが。

 

例えば狼の場合。

彼女は元々娯楽の類に興味はなく、"今生は女だから"といって装飾の類に熱を上げるわけでもない。

"前"も"今"も忍びの鑑と呼べるような、只管に職務な忠実な女であった。

 

 

しかし、それはそれとして。

他の忍び達はそうではない。

確かに職務に忠実だ。葦名に捧げた忠誠はまことの輝きを放っている。

 

だが。だからこそ、楽しみというものは大事である。

万全の休養なく熟練の技術が冴える通理は無い。

 

 

 

 

――太陽が空高くに登り、燦々と陽の光が降り注ぐ。

にもかかわらず少しばかり薄暗い、荘厳なる葦名城の片隅。その詰め所。

比較的重厚なヒノキによって作られたこの平屋は、忠実なる寄鷹衆の為に拵えられたものだ。

 

任務を終えたばかりの狼は、僅かな休息の合間に荷物の整理をしていた。

パンパンに膨れ上がった雑嚢から取り出した品は多種多様。

 

それらを狼用の箪笥に放り込み、丸薬や飴など必要な品を仕分けていく。

これは毎度毎度の恒例事項であり、同僚たちにとっても見慣れたものだった。

 

 

「……保存用丸薬……保存用月隠の飴……保存用にぎり灰……」

 

 

というのも、移動している最中に――或いは対象を殺めた後にも、常に欠かさず道具を拾い集めているからだ。

戦場で死体漁りをしていた頃に拾い癖が染み付いたのか、最早狼にとって呼吸と同義である。

 

狼はそうして得た物品の内、戦闘や将来に役立ちそうにないモノは全て適当な人物に押し付けている。

云うなれば変若の御子にひたすら柿を食わせるような感覚だ。

もちろんだが意味など無い。

 

変若の御子の胃袋? 狼には関係のないことだ。

 

 

暫し詰め所の中を見回す。

淡い陽光が差す室内を巡り、はたと隅に視線を留めた。

 

狼の視線の先には一人の男。

彼はぼんやりと座布団に座り込み、束の間の休息を堪能しているらしかった。

飯を喰らうでもなく、煙を吐くのでもなく、ただただ虚空を見つめるその姿。

いっそ虚しさや哀しさを感じさせる風体からは、その老いた身に詰め込んだ疲労を察して余りある。

 

"こやつにしよう"

 

狼は一人頷き、此度の標的に音も無く歩み寄る。

二十年と少しの時を経て大きく育った体はすらりと伸び、実にしなやか。梟のような巨体ゆえの圧迫感とは無縁である。

いつかの(拾われた)日の梟とは格が違う。

 

左の白指に持ち上げられたのは葦名の酒。

右手には盃。

つまるところ不要な品の在庫処分も兼ねている。

 

 

「ああ、梟の倅か……」

 

 

振る舞う(在庫処分先の)相手は狼の姿を認めると、気安く右手を上げた。

それに構わずぽい、と放られた盃。

僅かな空中散歩の後危うげなく忍びの手に渡り、掌の内に収まった赤い漆を慣れた様に弄ぶ。

 

 

「……茶だ」

 

「忝ない」

 

 

これだこれだ。これこそが数少ない楽しみの一つ。

 

忍びは嬉しそうに口許を緩めた。

日々の激務はこの上なく辛いが、このように合間にある憩いの時が実に沁みる。

きっと苦労があるからこそ、幸福が色濃く浮かび上がるのだろう。

今となっては博打も物見遊山も遠い夢の中であるが、これ()だけは変わらず娯楽として残ってくれている。なんとありがたい。

 

葦名の酒を呑む忍びは、気分良さげに盃を揺らした。

 

 

重ねて言うが、この行いに意味があるわけではない。

強いて挙げるなら未来で攫われる御子――そもそも攫われないように動くが――を救いに葦名城に赴く際、いくらか楽になれば良い……という程度の、淡い淡い思惑だ。

如何ほどの効果があるのか?と問われれば、気休め以外の何物でもないが。

 

 

しかしながら、その細やかな気配りは狼の想定以上に効を為している。

なにせ男ばかりのむさ苦しい職場だ。日々の労働で疲れ果てる中、数少ない女性――それも若く、美しい人物からの差し入れであれば実に甘露。

単純な心理(下心)によって狼の地位は確立されつつあった(オタサーの姫)

 

狼が形の良い眉を常に不機嫌そうに歪める様を見て、怒り顔と誤解されることも多いがそれはそれ。

美人であれば華があるというもの。

加えてどういった理由(竜胤の残り香)か歳を取る速度が些か遅く、本来であれば二十八という年嵩である筈――にも関わらず、未だ二十そこらの年若い娘にしか見えぬ。

 

 

「……あぁ……良いなぁ、実に良い。任務の合間のこの時間こそが至福の時よ」

 

「………そうか」

 

「お前は変わらず言葉少ない女よ……はは、それでこそ忍びとも言えるがね」

 

「…………」

 

 

むっつりと黙り込んだままの狼。

表情は微塵も変わらず無愛想なままだが、忍び達にとっては見慣れたもの。

むしろこの表情にこそ愛嬌があるのではないかとさえ感じている。

 

……まあ、この無愛想な女の満面の笑みというのも、一度は見てみたくあるが。

 

 

「ああ、そうだ……お前、平田氏の方で主を頂くんだったか」

 

「……そうだ」

 

「そうかぁ……寂しくなるなあ。お前、向こうに着いたらいくらかは愛想よくしておけよ。忍びが眉間にシワ寄せていたところでそうそう悪く思われることはないだろうが、いい第一印象を抱かれておいたほうが上手くいくだろうさ」

 

「……善処する」

 

「はっは!まあ頑張ってくれや」

 

 

酒の香りを口の中で楽しむように、舐めるように盃を傾ける。

酒精で喉を湿らせて、腹から這い上がる悦楽に気分を良くした。

 

やはり酒は良い。どんな時でも、どんな状況でも"楽しさ"を忘れさせない万能の薬だ。

男は知っている。

人間、そういったものを忘れてしまえば、あとは転がり落ちるように人から外れていくものなのだ。

その行き着く先がどのようなものであれ、決して良いものとは思えない。

 

だから、"楽しむ事"は大事だ。

 

 

故にこそ、それを提供してくれていた狼には恩を感じていた。

"()()()()()()()餞別として口を滑らせても良いだろう"と考える程度には。

 

 

「一応、耳寄りな事だ」

 

 

役に立つかもわからない。しかし貴重な情報。

これまで凄まじい貢献を為していた後輩に対して適切かは分からない。分からないが、男に出せる感謝の気持ちとしては最上のものだった。

 

 

「大手門にある井戸……その壁面に隠し扉がある。中は極一部の寄鷹衆と侍が管理してる書庫でな……葦名に於いて、特に珍しい情報が収められている。もしなんかありゃあ探してみると良い。読むぐらいなら……まあ、バチは当たらんだろうさ」

 

「……それは」

 

「言ったろう?バチは当たらんさ。あんな所に用が出来るとは思わんがね」

 

「そうか」

 

 

忍びはそう言って、再び酒を呑む。

目の前の娘であれば――この葦名の産まれでさえなければ争いとは無縁な生活を送れたろうに。

本来こう思ってはならないのだろうが、それでも想わずには居られなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「忍びの掟は忘れまいな」

 

 

仄暗い一室に、深く淀むような声が響く。

声の主たる梟は闇の中、己が娘に言い聞かせる。

即ち忍びの掟。忍びの心得。忍びとして、何よりも芯に置くべき絶対のモノ。

 

 

「親の次に大事なもの、お前の心に刻むがよい」

 

「…………」

 

 

とっ、とっ、とっ。

梟が踏み締める畳の嘶きは一室に染みて消え、その場に残るは義父から齎される最後の指南。

心の裡に大事にしまい込み、すぅと肺の空気を入れ替えた。

 

城を離れ、この平田の屋敷に到着したのは先程の事だ。

道中も家屋も、植生に至るまでが何から何まで変わらない。

 

そしてこの一室の一場面もまた、一周目と同じだ。

生涯の主を仰ぐ直前の光景。ああ、なんとも懐かしい。

これまでに積んだ修練の果てに待つ、終着点にして始発点。

 

 

「あれが、今日からお前の主だ」

 

 

じっと顔を持ち上げた。

襖の隙間より差す光が左目を照らす。寸分の時を掛け瞳を慣らすと――やはり、居た。

あの時と同じように、じっとこちらを見つめ返す童が。

 

 

――再び顔を落とす。

これより始まるは主従の儀。

一瞬とはいえ再び見ることが出来た主の姿に、どこか胸が弾むような感覚を覚えた。

 

……もう一度。今度こそ。守らねばならない。

だから、ここからなのだ。

 

 

「命を賭して守り、たとえ奪われるとも……必ず取り戻すのだ」

 

「………は」

 

 

――襖が開かれた。

途端に仄暗い一室は光に満たされ、内にある忍びの姿が顕になる。

主――九郎の傍に侍る平田家当主は、思わず感嘆のため息を漏らす。

 

九郎は、跪いた忍びが女性であることにまず驚いた。

どうしても肉体的強度で劣る女性では荒事に向かないからだ。

 

己の立ち位置(竜胤の御子)からして、仕えることになる存在には武力を求められる。

なんせその血に宿る力を求める存在など、文字通りの意味で腐る程に溢れているのだ。

葦名の武家もそうだろう。葦名の主を継ぐ者もそうだろう。寺に住まう探求者もそうだろう。それこそ内府とて、その存在を知れば何が何でも手に入れようとするに違いない。

 

だから、それを跳ね除ける力が必要だ。

何があろうとも守り通し――仮に失ったのならば、如何な手段を用いてでも必ず取り戻す。

 

その上で身体能力の不利を考えてしまうと……やはり、男の忍びが訪れるのだろうと、そう考えていた。

 

しかし目の前の女性はどうか。そんな性差の不利を埋めてまで九郎の前に跪いている。

 

……武に疎い九郎でさえ分かる。

年若い姿には見合わぬ程に高濃度で身に秘められた――否、溢れ出す剣気。

寄れば切り裂かれそうなほど、鋭く重い。

御当主が見惚れるのも無理はない。

 

 

「面を上げよ」

 

「………」

 

 

九郎の言葉を受けて、目の前の忍びはゆっくりと顔を上げた。

ようやく見えた(かんばせ)に、御当主が異なる意味で感嘆の息を漏らす。

九郎はそれに思わず呆れの表情を浮かべそうになるが――まあ無理はないだろうと理由をつけ、なんとか堪えた。

 

黒く長い頭髪を後頭部で無造作に纏め、垂れる前髪の隙間から覗くは一筋の刀傷。

あくまで殺しを生業とする忍びだからだろうか。意図して美しく整えているようには見えない。

にも関わらず、何処か危うげで不思議な美を体現しているようだ。

 

……とはいえ。そのように表現したものの、九郎には未だに女体に対する欲の類は芽生えていない。審美眼と呼べるものも発展途上だ。 が……しかし、目の前の女性を見れば「なるほど、美女とはこのような者を言うのだろう」と納得できる。

 

 

――されども、斯様な感嘆は一度傍らに置こう。

まず遠路遥々訪れた勤勉なる者に報いねばなるまいて。

 

 

「……そなたが、狼か」

 

「は」

 

「私は九郎と云う。これよりそなたの主となる男だ」

 

「………は」

 

 

九郎は傍に置かれた桐箱を引き寄せる。

丁寧に蓋を開け、内にある宝物を取り出した。

 

 

「これは"楔丸"。平田の家に伝わる宝物(ほうもつ)だ」

 

 

黒い鞘に黒い柄。堅牢な造りの打刀。

闇の中でも目立たぬように拵えられ、狼のような忍びにとって何よりも頼れる相棒となろう。

ゆっくりと栗形を掴み持ち上げた。

 

 

「………っ」

 

 

九郎は狼に歩み寄りながらも、益々肌を突き刺す威容に舌を巻いた。

これ程の忍びが自身に仕えるという。

この葦名中を探しても、これに優る猛者はそう多くないだろう。

 

正直に吐露してしまえば……僅かな気後れと、どこか誇らしい気持ちが同居しているようだ。

だからこそ。自分は誠意を持って、言葉を投げかけねばならない。

 

 

「狼よ……主従の約定に従い――命を賭し、我に仕えよ」

 

 

楔丸が差し出された。

幾度の戦場を共に走り抜けた相棒は、今も過去も未来も変わらずに美しく輝いている。

決して折れず、曲がらず、欠けない。

そんな在り方は、いつもいつも狼を助けてくれた。

 

 

――その相棒を縁に、今再び主従の契約の時へ至る。

 

 

眼前に在る楔丸をしばし見つめ、狼は自問する。

それはある種の躊躇だった。

僅かな刹那を奔る逡巡。

 

どうするのか?

どうしたいのか。

どうやって、主を守り通すのか。

どうしたら願いを叶える事ができるのか。

 

己は為すべきことを為せるのか。

 

……狼は、ありもしない奥の歯をじっと噛み締める。

 

 

狼の腹の中は二十年前から――いいや、もっと前から決まっている。

何を為すのか、何を為したいのか。

……どの様に為すのか。

 

どちらにしろ、どうあってももう後戻りなど出来ないのだ。

苦悶の叫びを上げようと、身を焦がす怒りに晒されようとも関係ない。

あるがままに万象は回る。

 

――ならばこそ、これよりは戸惑いも躊躇も妥協も許されない。

時の逆行など二度も望めるべくもなく、望むべきでもないのだから。

狼に出来るのは――一人の従者として、これからの苦難に全霊を賭す事のみ。

 

 

「御意」

 

 

 

 

 

 

 




<TIPS>
「赤い漆の盃」
特別豪華でも優美でもなく、なんら変哲のない、実に普通の盃。
狼が酒を振る舞う際、相手方に手渡すもの。

葦名に尽くす忍び達は思う。
苦難の果てにこそ幸福はあり、故にそれは一等輝くものなのだ。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

断固たる祈り


PS.感想と誤字報告、ありがたく拝見しております。
これらを励みに今後も精進致しますので、どうぞお気軽に様々な言葉をお掛けください。




拝刀を終え、次の日の早朝。

太陽は未だ中天に程遠く、朝霜がきらきらと輝いている。

この日の本を優しく照らしつける加護の中、九郎は気分良さげに瞳を細めた。

 

縁側に座り、美しく整えられた庭園を眺める。これのなんと贅沢な事か。

この日課を経て、ようやく一日の始まりだと実感できる。

 

視線を宙に遊ばせれば、我先にと飛び込んでくる四季折々の植生。優雅に流れる砂利の川。

葦名でも指折りの庭師が施した装飾は雅で、屋敷の構造さえも計算し採り入れられた景観は凄まじい完成度を誇っている。

そこに小鳥たちが軽やかな囀りで彩りを加え、さながら一つの芸術品のように魂を揺さぶるのだ。

九郎はいつもいつも飽きずに眺めていられるほど、この景色を深く愛していた。

 

しかしそれをじっと眺めるような余裕を持つものは、正直そう多くない。

 

平田氏は庶家であり、本流程でないにせよ力ある家だ。

だからこそ使用人を多く抱えており、必然活動開始時間が早いものが多い。

けれど……その使用人達の中でこの早朝に時間が余っているものなど、いる筈が無かった。

 

……九郎にとって、この景色を楽しむのはいつも自分ひとりだけ。

この心を優しく照らす光景を誰とも共有できない、寂しい時間。

 

決して不満があるわけではない。

けれど、胸の内が満たされないのもまた事実だ。

 

――いいや、そう()()()

 

 

「ふふっ」

 

 

しかし今日はどうしたことか。

九郎は溢れる笑みを堪えることが出来なかった。

久しく現れることがなかった"これ"がなんとも懐かしい。

けれど――ああ、悪い気分ではない。むしろ良い気分だ!

 

思わず鼻歌でも歌いたくなるほど良い機嫌のまま、背後の立役者に視線を送る。

 

 

「…………」

 

 

"それ"は後方で跪いたままの忍びであった。

 

無愛想な表情のまま周囲に聞き耳を立て、主に害為すものが居ないか探りを入れる姿は真剣そのもの。

ほんの僅かな綻びすらない。寸分の狂いなく、徹頭徹尾九郎の為に行動していた。

 

彼女はずっと九郎を護衛してくれている――ずっと傍に居続けてくれる。

 

きっと彼女自身にその意図はない。気を張り詰め、ただこの身に迫るやもしれぬ危険を警戒しているだけだ。

 

――しかし、だからこそ。それ故に九郎の孤独は癒やされた。

心を凍てつかせるような焦燥が途端に静まっていく。

きっとこの身に迫る危険の尽くを斬り伏せてくれるのだろうと思えてしまう。

 

 

「………?」

 

 

……けれども。

それは……それは何故、なのだろうか。

何故己はこれほどまでに彼女を信頼しているのか?

一度自分自身に問いかけてみるが、答えは何も返ってこない。

 

彼女をちらりと眺めてみれば、常に眉間に皺を寄せている(怒り顔にも見える)

いくら見目が優れているとはいえ。普通なら孤独を癒やされるどころか、むしろ怖じ気で体が固まりそうなものなのに――けれど、不思議と恐怖の類を感じることは一度もなかった。

 

九郎としても不可解な感覚だったが、どうにも憎めない。何故か"それでこそ"とも思えてしまう。

 

何処かから滲み出している忠誠の現れ故か、はたまた()()()()()()()()()()()()ような"既視感"故か。

 

ともかく、彼女が傍にいると……自身でも訳が分からないが、心地よい安心感が胸中を満たすのだ。

どこかもどかしく、ほんのりと暖かく魂を焦がす。

 

これを形容する術は九郎の知識の中には存在しない。

探せど探せど、指の間をすり抜けることさえも無い。

しかして確かに存在する()()()

何と表すべきか。何を表すべきか。これは、そう――

 

 

「……御子様」

 

「んん……!?な、何だ?」

 

 

――狼の声を受けて思考を中断する。

あまりにもゆっくりと流れる時間のせいか、すっかりと気が抜けていたようだ。

いけない、しっかりせねばと頭を振った。

 

今の己は平田の庇護を受けている身。竜胤の御子を守るための布陣を整えられていても、だからといって一切の危険が無いとは言えないのだ。

常に気を張るべきとは思うべきではないにしても、だからといって腑抜けていい理由にはならない。

 

 

「……朝餉の、時間のようです」

 

「そ、そうか……分かった。向かうことにする」

 

「御意」

 

 

声音そのものは高く澄み、とても美しい。

けれど本人の"凄み"故にか、このやり取りだけでも謎の重みが主張していた。

声も見目も優れていても、その在り方一つでこうも色を変える。人間とはまるで、空のように自由なのだなあ。

何度でも思うが、やはり不思議な気分だ。

 

 

――それはそれとして。

 

目の前の景色を楽しんでいても、思考を巡らせていても。やはり腹の中で騒ぐ腹の虫を無視することは出来ない。

重い声の余韻が耳の中に残っていることを実感しつつ、配膳が始まる前に広間へ向かうことにした。

 

この時間であれば丁度奥方が席に着く頃合いだろうか。

それに合わせて子息と息女が広間へ移動し――ああ、これはいけない。少しばかり遅れたかもしれぬ。

きっとあの人達は気にしないだろうが、焦りから少しだけ歩調を速める。

 

なんせ平田の家では家人と九郎が一面に会して食事する事になっていた。

別にそういう決まりがあるわけではないが、この家に上手く溶け込めるようにと当主が取り計らってくれたのだ。それを無下にする訳にも行かない。

 

 

「……っ?」

 

 

――と、そこで背後から一切の音が届かない事に気付く。

 

まさか迷子になったのか?

脳裏を一瞬で駆け抜ける不安が九郎を襲う。

 

いやまさか。流石にあり得ないだろう――。

そう否定しながらも、思わず背後へ振り向いた。

 

 

「ああ、流石にそれは無かったか……」

 

「………?」

 

「いや、なんでも無い」

 

 

三歩後ろを歩く狼は、自然体のまま――しかしひと欠片も警戒を解いていない。絶えず周囲に意識を割き、些細な異常も見逃さぬ気迫が溢れている。

失礼にも不安を勝手に感じてしまった自分がとても恥ずかしい。

 

彼女は正しく勤勉なる者だ。そこに疑いようがないことは、出会ったばかりの九郎にもよく分かった。

腰に佩いた楔丸も、どこか誇らしげに輝いている。

 

……けれども。

そのように物々しく身構えているにも関わらず、その気配は希薄極まりない。

 

"まるで人の姿をした陽炎だ"、と。九郎は内心でそう言い表す。

幼さ故の足りぬ知識から捻り出した例えだが……うむ!これ以上無くしっくりくる。

九郎は自分の語彙を自賛した。実に賢い。

 

なんせ彼女から届く音はなく、気配すらない。

予め"居る"と知らなければ、きっとその場にいることさえ忘れてしまうに違いない。

それ程までに凄まじい存在が目の前の女性なのだ。

 

 

――これこそが隠れ忍び、耐えるものなのか。

 

口腔の中で音もなく転がし、彼女らという存在に惜しみない敬意を送る。

九郎とてその存在を知ってはいたが、こうしてその業の片鱗を見てしまうと感嘆の意を禁じえない。

 

 

と。そこまで考えてピタリと足を止めた。

 

 

「む……遅かったか……」

 

 

辿り着いたのは、普段食事の際に訪れる居間だ。

開かれた襖の向こうには既に用意された座布団と、五つのお膳が綺麗に整列していた。

御当主と奥方、ご子息とご息女。上座と下座に分かれて席に着いており、最後に九郎を待っていた状況らしい。

しょんぼりと肩を落としながら、九郎もまた用意された席に向かう。

 

 

「……影より、お守りしております」

 

「うむ」

 

 

――狼はそんな九郎の背に言葉一つを残し、するりと姿を晦ませる。

 

影を踏み空を駆け、誰の視界にも留まらずに向かうは天井裏。

過去にして未来であれば"忍び義手"があり、いとも容易く鉤縄で移動する事が出来たのだが――今、そんな便利なものなどない。

これまで培った身体機能と身体操作の術を用いて、音もなく闇に紛れた。

 

"あれ"は忍びの牙として考えれば一級品……否、それすらも飛び越えた逸品だ。

あの義手があればこのような隠密のみでなく、あらゆる場面で活躍するに違いない。

きっとこの先々に待ち受ける苦難も、いくらかは楽に乗り越えられるのだろう。

 

例え相手が"鬼"だろうとも関係なく、問答無用と言わんばかりに突き立てられた牙。

あの無骨な重みがなんとも懐かしいものだ。

 

だから、そう。

 

ほんの少しだけ。

ほんの少しだけ、残念だ。

 

 

「…………」

 

 

……すぅ、と。雑念と共に呼気を吐き出した。

しかして流れる音は実に微細。

 

ほんの少しの衣擦れの振動をも限りなく押し殺し、集中を新たにし任務を継続する。

用いるのは音と僅かな視界。

それのみを(よすが)に九郎を見守り、有事の際にはこの天井裏から害意を排するのだ。

 

これを他の者が聞けば正気を疑うのかもしれない。

本当に大丈夫なのか?と。

 

……ああいや。"かも"ではなく、実際に疑われた。

寄鷹衆として活動していた頃にはよく投げかけられた疑問だ。

大いに掠れた記憶の中で、確かに多くの人間が口々に呟いている。

 

しかしそれは素人や市井の者の考えに過ぎず、侍や忍び衆であれば迷いなく"是"という。

"熟達の忍び"がその程度を熟せずしてなんとするのだ――という、一つの信頼の形だ。

 

初動が遅れる?

危機を見逃す?

狼自身が先に処理されるかもしれない?

 

いいや。そのような事、あり得るはずもなし。

最早あらゆる危機は想定済みで対策済みだ。

 

万敵を寄せ付けぬ策を練り、あらゆる害虫を処分する仕掛けを施し、主が生存する為の最善の道を整えた。

それは道具であり、罠であり、立ち回りである。

 

 

「"あらゆる状況や物体、因果を利用し尽くす"……」

 

 

いつかの日。寄鷹衆の一人が漏らした言文であり、狼もまたそれに深く同調した。

なるほど、それは正しく有効だ。ならば取り入れよう、と。

 

故にこそだ。

この行動はすべて"完璧"なものであると、狼は自信を持って断言できる。

"食事の際、僅かにでもすぐ傍を離れる時間"……その危険性は余さず摘出した後なのだから。

今更、どうあっても障害になどなりはしない。

 

 

「………必ず、お守り致します」

 

 

全ては、あの忌まわしき結末から逃れる為に。

狼の決心は堅く。そして、重い。

 

……そのためにも、動き続ける必要がある。

今ではなく未来のため。

狼は意識を張り巡らせたまま、次に為すべきを見つめ直した。

やがて訪れる苦難を乗り越える――或いは迂回する道。

未だ舗装などされていない不完全なものだが……多少の無理は、押し通す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……何?野盗共がこの平田を狙っていると?」

 

「は」

 

 

昼。書斎にて。

平田家当主とその付き人の視線の先、狼は跪いたままの姿勢で首肯を返す。

語る言の葉は単純明快。

 

"近隣の野盗が襲撃の機を伺っている"。

 

狼の重い声音からも重要性を感じ取った当主は、真剣味を帯びた表情で続きを促した。

 

 

規模は?

五十人。

位置は?

西へ一里ほど。*1

武装は?

重装の兵士多数。太郎兵や、類稀な程の猛者も確認。

 

 

当主が欲するままに脳髄から記録を引き出し、限りなく明快に整えた仔細を余さず伝えた。

 

 

「うむ……なるほど、相わかった。狼よ、感謝するぞ」

 

「……は」

 

「……そうだな……そうすると……」

 

「………」

 

 

伏せた顔の下、ゆるやかに、しかし絶え間なく思考を回す。

これで当主も兵を動かし、野盗共も忽ち屍の山に変化するに違いない。

狼としては、この成果を得ただけでも十分とも感じる。

平田の兵は老いて尚皆精強だ。数では劣ろうとも、不意を打たれぬ限り負けなど無い。

 

……しかし、そこで思考を止めてはならない。

これは布石なのだ。

より良い結末を得るために先手を取り、主の幸福を祈った真摯なる行動。

そのために考察を続けろ、と。狼は自分自身を強く戒めた。

 

これが果たして十全なのか?

新たな危機は芽生えぬと?

もしこれでこちらの兵が減ったとして、この先支障はないのか?

 

否である。

()()()()()()()()平田屋敷への襲撃が――義父が為す謀反の道が閉ざされる?

あの男が野盗を――"隠れ蓑"を失った程度で野望を諦めるとでも?

ほんの僅かにでも綻びが生まれたとして、そこを見逃すのか?

 

阿呆を抜かすな!

間違いなく、彼は止まらない。

次から次へと計算を重ね、如何な手段を用いてでも盲目的に前を見据える。

狼はそういった確信を――或いは、ある種の信頼と呼べるものを抱いていた。

 

傷つき、老いさばらえようと、地を這い蹲ってでも決して諦めない。

そこに宿る意思は漆黒であれど、だからこそ強靭極まりないのだ。

日の本を飲み込もうとした大忍びとはそういう男だった。

 

狼は義父の半生を知らない。何を感じ、何を思ったのか分からない。

身を切り裂く深い苦悶があったに違いないのだろう。

 

 

――しかし、()()()()()

その程度この事、狼の道には関係ない。

立ちはだかるのならば、迷いなく斬る。

その覚悟はとうの昔に終えているのだから。

 

 

「……御当主。私に、いい考えがあります……」

 

「ほお、そうか!どれ、聞かせてみせよ」

 

「は。それは――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――といった、次第でございまする」

 

「む、むむ……!」

 

 

夕暮れ時。或いは逢魔ヶ刻。

人の世と黄泉(よもつ)の地が交わる空にあっても、やはり狼の在り方は揺らがさない。

自室に籠もり書物を嗜んでいた九郎は、相談もなく姿を隠していた目の前の忍びになんと言えば良いのか……筆舌に尽くしがたい心を浮かばせる。

 

昼から夕暮れにかけて姿が見えず、聞けば任務のために出立したという。

狼が不在の間に九郎の護衛を任された老剣士(野上玄斎)は、カラカラと笑いながら九郎に告げた。

それを聞いた彼の内心は……ああ、一言で表すことは不可能だろう。

 

まず、主を頂いた直後に何故そうも動くのか、とか。

せめて伺いを立てろ、とか。

いくら剣客として優れていようと単独行動は如何なものか、とか。

 

言いたいことは腐るほどにある。

 

 

だが何よりも――!

 

 

「せめて……気配を殺して背後に跪くのはやめて欲しい……。妖の類が現れたのかと肝が冷えたぞ」

 

「御意」

 

 

果たして本当に分かっているのだろうか?

狼をじっとりと睨みつけるが、その表情は微塵も動かない。

 

 

「……野上殿には、御身を守る為に絡繰りを預けておりましたが……何事も、ありませんでしたか」

 

「あ、ああ……実に平和そのものだったぞ」

 

「……承知」

 

 

その成果を受け満足げに頷き――いや、表情は欠片も動いていない。果たして本当に満足しているのだろうか?整った(かんばせ)が浮かべる表情は相も変わらず無愛想。

一体そなたは何を感じている?何を考えている?

せめて、少しだけでも表情の種類を増やして欲しい。

九郎は切にそう願った。

 

………ともかく、成果を確認した狼はひとり頷く。

 

無論、これは想定通り。

必要だからといって無防備に九郎の傍を離れる訳がない。

前もって情報を集め、兆しが無いことを確認したのは当然の事。その上に狼は平田屋敷の至る所に一晩かけて改造を施し――無論許可はとってある――、いざという時には平田の者達にも活用できるよう手引を残していた。

 

――というのも……先立っての戦の影響は未だ色濃く、若い侍の多くが命を落とした事実が大きい。

 

平田に残ったのは第一線を退いた剣士達。

そんな彼等しか居ない状況にあっても十全に警備を全うできるように、と。狼は入念に策を練り、隙の無い布陣を作り上げた。

 

 

「故に、御子様の守護は、万全の物で御座います……」

 

「いや、そういう問題ではないと思うぞ……」

 

 

万が一、億が一に襲撃を受けたとしても――少なくとも狼が帰還するための僅かな時間、それを余裕を持って持ち堪えられるように策を練った。

だから問題ないというのが狼の主張である。

 

――しかし九郎が言いたいのはそういった事ではない。

きっとこれは何度でも繰り返すことになるのだろうなあ、と。奇妙な確信を抱きつつ、ゆっくりと言葉を投げかけた。

 

 

「私は、来て早々にそなたが働き詰めで……そう、心配なのだ」

 

「………は……?」

 

「うぅーむ……いや、職務に熱心なのは良いことだ。良いことだが……しかし、夜は屋敷の改造と私の護衛で、朝も護衛、昼と夕に一里を駆け野盗を打倒。そしてこれからは屋敷へ更に細工を加えるという。いくらなんでも……重労働過ぎではないか?」

 

「……いえ、私は"忍び"でありまする。これが、私の為すべきこと」

 

 

うむむと唸る。

九郎はどうしたものか、と天を仰いだ。

ああいや、別にその在り方を嫌っているわけではない。一切の妥協なく防備を整えてくれたことは、むしろこれ以上無く感謝している。

 

けれど、それはそれとして――寝る時間さえ用意していないのはやりすぎだ。

 

今は戦時ではなく、治安がすこぶる悪い訳でもない。

ならばこそだ。手を抜かず、気も抜かず。けれどこの平和な日々の一欠片だけでも感じて欲しい――と、そう思うことは罪なのだろうか?

 

九郎は何も、緩く気を抜けなどと言っているのではない。

 

ただ、噛み締めてほしいのだ。

人というのは、やはり走り続けるだけでは疲れてしまう。

次第に呼気は衰え、活力とて失われる。

 

だからこそ――僅かでも良い。

呼吸を整えるだけでも良いから、少しでも(いとま)を大事にして欲しい、と。そう想う事は間違いではない筈だ。きっと、御仏も優しく許してくださるに違いない。

 

 

「狼よ。何もそう、性急に事を運ばずともよいのではないか?」

 

「…………」

 

「この平田屋敷の周辺は治安が良い。時折野盗は現れど、その尽くが烏合の衆だ」

 

「……は」

 

「もし仮に他の脅威が現れたとしても、十全のそなたならば問題ない筈……。 ……そう、だから―――」

 

「………。 ……善処、致します」

 

 

――しかし、そのような妥協など許せる筈がなかった。

 

表では前向きに捉えたように嘯いても、狼の内心は寸分たりとも揺らいでいない。

 

……無論、これに何も感じない訳ではない。

九郎が嬉しそうに顔を綻ばせる様を見て、胸の何処かが痛んだように思う。

 

けれど、そこ止まりだ。

 

それ以上を思ってはならない。

跪いた姿勢のまま、狼は懐にある"帰り仏"を握り締める。

 

もしも。もしその忠告を受け入れて、いくらか呼吸を整えるとしよう。

 

だが……それこそが僅かな綻びだ。

それが例え些細極まりないものであっても、それが致命的な"穴"にならないなど……どうして言える?

そのせいで主を失ってしまえばどうする?

 

 

「…………」

 

 

そんな未来、許せる筈がない。

断じて、断じて認められない。

こうして想像するだけで、ただそれのみで胸の奥がガリガリと削られる。

 

 

……だからこそ、この忠告を跳ね除けるのだ。

音に出さず、謝罪の言葉を口の中で転がした。

 

 

 

全ては主を竜胤の呪縛から解き放つ為に。

そして、九郎が語ったあの"夢"の為に。

 

そのためならば、如何様にでもこの刃を振るって見せよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1
3926.88m



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

絶対に働きたい狼vs絶対に休ませたい九郎

「ああ、これ!動くでない!まだ結わえてる途中じゃ!」

 

「………承、知」

 

 

遍く世を照らす偉大なる太陽。

その光輝を余さず受け止める平田屋敷は、古めかしくも厳かな情緒を見せつけている。

 

ああ、素晴らしきは母なる大御神!

そのご利益()は、きっと葦名を包み込んでいるに違いない。

故にこそ平田の屋敷は常と変わらず――いいや、この日ばかりは何故か普段以上に平和だった。

 

強く響いた老婆の叱咤と、若い女性達のころころ高鳴る笑い声。

こんなもの、平和なくして溢れることなどありえないだろう?

 

老婆――"野上のおばば"はしぶしぶ得られた了承の意を満足気に受け止め、再び指先を動かす。

そしてその指の先が弄ぶのは、狼の長く伸びた頭髪だ。

狼は仲の間(使用人の部屋)に敷かれた座布団の上に座り込み、所在なさげに視線を彷徨わせた。

 

 

「……これは、必要か」

 

「当然よのう。おぬしは若様の付き人だろう? それがみすぼらしい身なりをしていては、若様自身の品格を疑われてしまう………それは、おぬしも望んでおらぬだろう?」

 

「む……」

 

 

そう言われてしまうと、狼は強く出ることができない。

……けれどだからといって、このような意味のない行為をする必要など何処にもないだろう。

 

徹底的に無駄を排す。それは狼が何よりも重んじなければならないものだ。

故にこそ狼は何が何でもこの場を辞す為に、それに足る理由を押し付けなければならない。

 

――つまり熟達の忍びが誇る、鋭き舌鋒の見せ所である。

(はかりごと)、弁舌、情報戦。それら全て忍びの専売特許。

狼は自慢の脳髄から有効な言葉を引き出すために思考を回す。

 

 

野盗を討伐せねばならない。

――近隣の野盗は全て根切りにした。

 

平田屋敷の改造を施さねばならない。

――この屋敷はもはや要塞だ。最高効率で無駄も不足も無いよう整えた。これ以上の仕掛けを増やしたところで、ただ持て余すだけの無駄を生み出すだけだ。

 

主を護衛しなければならない――。

――否。

……他ならぬ九郎自身の言葉で、前もって()()()()()()()

そう、()()()()()()()()()

 

 

仕方なくそれ以外の言い訳を吐き出そうとするが……そもそも、吐き出すための中身が存在しない事に愕然とする。

 

開かれた口からは声が出ず、代わりに空気が掠れる音が寒々と響くのみ。

開いては閉じ、開いては閉じ。どうにか頭蓋から実りある言葉をひねり出そうと四苦八苦するが――結局、終ぞそれが形を得ることはなかった。

 

 

「………なんと」

 

 

結局口を衝いたのは、まったくもって意味のない戸惑いの言葉。

静かに胸中を満たし始めた諦めの念が多分に籠められ、だからこそ一層虚しく響く(嗚呼、無情)

 

 

「…………」

 

 

……狼は珍しく、弱音を吐き出したくなってしまった。

だがそんなもの、忍びである自分は許してはならない。

故にそれを堪らえようと、ゆっくりと天を仰ぎ――仰ごうとしたその直前、おばばに頭を掴まれ止められた。

 

 

「動くんじゃあないよ」

 

「は」

 

 

――もはや万事が無駄である。

 

逃げることも、逃避することもできない。

狼はあらゆる退路を立たれてしまっているらしい。

 

何故、こうも上手く行かないのだろう。

仏陀は眠ってしまっているのか? はたまた、これも掌の上の出来事なのか……。

 

 

…………。

 

………………。

 

 

………非常に。非常に気は進まないが――()()()()()が無いのもまた事実。

故に仕方なく、力んでいた両足から力を抜いた。

 

 

ああ……本来ならば職務を理由に逃れることが出来たのだろうに……。

残念ながら、今日の狼は()()()()()()()によって平田の屋敷に縛り付けられている。

護衛という口実が使えないのもその所為であった。

 

 

 

 

 

 

――半刻と少し(一時間半)前。

朝餉を終えたばかりの九郎は、狼を傍に呼んだ。

 

狼は無論、即座に有形の構えを解く。

 

 

……二人が出会ってはや、一月になる。

光陰矢の如しとはよくいったもの。天体の律動は微かな残光のみを残して移ろいゆき、未来に"結果"を生み出すのだ。

 

故に、この月日は多くを実らせる。

狼と九郎の間にあったいくらかの気まずさを解消し、主従としての信頼を築かせるのにも十分な時間であった。

 

 

だからこそ、その呼びかけにも慣れたもので――どちらにせよ拒まないが――逡巡することもなく九郎の眼前に跪く。

 

 

――それこそが、この忌まわしき現状の呼び水であるとも知らずに。

 

 

「おぬし、今日は休養の一日とせよ。職務は他のものに回す」

 

 

一瞬、狼は何を言われたのか分からなかった。

というよりも理解したくなかったのだ。

脳が駆動を拒否し、呆然と聞き返すほどに――到底受け入れられない指示である。

 

 

「いいから、休むのだ……狼よ。そのままでは体を壊してしまう」

 

「なりませぬ……!」

 

 

――瞬時に湧き出たのは、一切取り付く島のない否定。

拒絶、拒否、否認、峻拒。

あらゆる言の葉を積み重ねても尚及ばないほど、響く声音は鉛のように重かった。

 

九郎が普段聞く言葉も確かに重苦しいが、これはそれらの比でない。

"断じて認められない"、"妥協など、緩みなど不要"と、言霊から熱が溢れ鼓膜を焦がした。

 

 

「あまりにも、無意味でございます」

 

 

そうとも、当然だ。故に必然である。

これまでに経験した全てを判断材料に、口端を歪め憮然と反論した。

 

もし、もし、その綻びが大事に発展してしまえばどうするのか?

九郎(竜胤)を求める存在はいくらでも存在するのだぞ?

 

ああ、確かに常日頃からあらゆる脅威を潰している。

それは事実だ。

襲撃などという愚を拒絶し、義父の付け入る隙すら埋めるよう(決して伝えないが)にと刃を振るった。

 

 

――しかし、だ。

あり得ないことなど、あり得ないのだ。

狼は常に那由多の果てにある可能性すら恐れている。警戒している。

 

故に――この要求は通らない。

 

そのような妥協こそが隙となるのだ。

その隙を埋める為の働きに、一体どんな不満があるというのか。

万が一、億が一に備え、常に守護の任を果たすために動き続けるべきだ、と。

 

珍しく饒舌に回し、重苦しくも長々と語った。

絶対にここで仕損じてはならないと考えてしまえば、多くを語ることに否はなかった。

 

そうとも。現在の施策の()()にこそ"完璧"なる結末がある――決して、己は間違えていないのだ。

 

 

「いや、もう億が一も無いのでは……? というか多少の危機が訪れた所で、今更痛痒を受ける筈がない。それこそ軍でも無くては不可能であろう。

おぬしの働きで、一体どれだけの防備を整えられたと思っているのだ? 御当主も脱帽していたぞ。

加えてもっと言えば――おぬしが疲労して十全に動けない方こそが、もっともっと大きな危険では無いのか?」

 

 

――正論だった。

 

想定を越え提示された(視界から外していた)理由に思わず鼻白んだ。

矢継ぎ早に跳び出した理論武装は、なるほど。その殆どが的を射ている。

つまり九郎は、"これ以上"こそが無駄であると――狼に言外を経て告げている。

 

 

「なり、ませぬ」

 

 

――しかし、だから何だというのだ。

 

関係ない。()()()()、だ。それでも異を唱える。

拒絶の意を高らかに主張し続けなければならない。

 

だって……そうでなくては、恐ろしいだろう。

那由多の果てにある可能性が九郎()を奪い去ることが、クモ糸さえ手繰り寄せる義父の謀略が。

 

用心を重ね、恐怖で身を包み、刃を常に握り締めるぐらいが丁度いい。

故に――

 

 

「梟にもそうするよう、狼への指示を頂いている」

 

「む……!?」

 

 

――あまりにも予想の外から飛来する言葉に、しばし思考が断たれた。

 

あの義父が……ここぞと言わんばかりに掟を持ち出してきた、と。

九郎は良かれと思って行動しているのかもしれないが――しかし、今回この場面においては悪手であると上申したい。

 

だって――それはつまり()()()()()()()()()()()()()()()()()という事。

 

あくまで、狼は"忍び"である。

(企み)も見ておらず、未来の苦難も未だ知らぬ。

 

故にこそ"狼"という女がそれに背くことは、あまりにも()()()過ぎるのだ。

あまりにも強力な一手であり、それを跳ね除けるならこちらも相応に――いや、釣り合いが一切取れぬ程の対価が必要。

 

……なんだそれは、馬鹿げているだろう?

殆ど知りもしない罵倒の言葉をひたすら投げかけたくなるほど、お手本のような有効打突。なんと……なんと忌々しい。

 

 

「忍びの掟、そのいち――親は絶対。逆らうことは許されぬ、であろう?」

 

 

――断れ、ぬか。

 

 

狼は臍を噛むような思いだった。

 

まだ……その時ではない。

まだ"何も知らない"、ただの忍びである必要があるのだ。

 

 

「…………御、意」

 

 

事実上の敗北である。

 

 

 

 

 

 

そうして、当たり前のように何もすることが無くなってしまう。

途方に暮れ、天井裏に潜ることもせず使用人の控室でしばし立ち尽くした。

 

――そこを野上のおばばに見つかったのは、狼にとってこれ以上無くマズかった。

 

 

「いいかい? 鏡を見ながらしっかり覚えるんだよ」

 

「………は」

 

 

なんと恐ろしい……。

狼の精神をやすりにかける鬼の所業だ。

どんどん、どんどんと気力や正気が失せ、怖じ気が心を満たしていく。

 

……しかし当然ながら、おばば自身には悪気は欠片も無い。しかし……だからこそ、手に負えない。

故に、彼女に出来ることは耐えることだけ。

冬来たりなば春遠からじ(今は辛くとも、いずれ幸せが訪れる)と、ただ信じることしか出来ぬのだ。

 

鏡に映る自分の瞳を見つめ、ぼうっと思考を閉ざす。

 

 

「…………」

 

 

仄暗い。

光は変わらず差しているというのに、何処か暗く濁っているようだ。

なんとも不思議だなあと、ゆるゆると他人事に思った。

 

そういえば、目は口ほどに物を言うと伝え聞く。

この活力の欠片のない瞳は……狼の精神を如実に写しているのか。濁った純黒はきっと、その表れだろう。

 

 

「……………!」

 

 

――まさか、義父の狙いとはこれだったのだろうか。

 

狼の脳裏に電流が奔る。

この狼の精神を打ちのめし、弱らせるには……なるほど、確かに効果的だ。

内心で義父の智略に対し惜しみのない賛辞を投げ付ける。

 

なんと、なんと恐ろしい事を思いつくのだ。

これが大忍び梟……なんと卑怯で、鮮やかな手前よ。

 

 

「これが、丸髷。時々でおたま返しや片外しを使っても良いねえ」

 

「…………」

 

 

――しかし、そんなものおばばには関係なかった。

自分の足並みで結わえ、解き、また結わえる。

 

なに、苦しい? しかし儂は大丈夫じゃ。つまり問題はない。

 

 

「どう、この艶紅!この前行商の方から買ったのよ!」

 

「綺麗ですね……!」

 

「かなり安くまけてもらえたし、狼さんにもおすそ分けしちゃうわ!」

 

 

すっ、と、紅点し指(薬指)が狼の唇を優しく撫でる。

それを見た三人の使用人は、きゃいきゃいとそれぞれの方式で騒ぎ立てた。

狼はもう何も考えられず、ただただ仄暗い瞳で眺めるのみ。

 

思わず天照の大御神に祈りを捧げたくなるが……悲しいかな。そのような思い、通じる筈がない。

しかしそれでも、何卒と願わずにはいられない。

天に届かせるため、歌や舞でも奉じたい所だが――当然、狼はその様な芸なぞ持ち合わせていなかった。

 

 

「わあ、島田結い!おばば様の指先はすごいわねえ」

 

「ね!放置されてた忍びさんの髪の毛がどんどん綺麗になっていくわ!」

 

「……本当に、すごいです」

 

 

それを眺め、取り囲む三人の使用人は口々に騒ぎ立てる。

 

…………ああ、いや。騒ぎ立てると言うのは失礼かもしれない。訂正しよう。

彼女らは下品ではない程度に、ころころと可憐に声を上げた。

 

 

中心に座る狼を題材に、"この髪にはあれがいい"、"いやこれはどうだ"、"この耳飾りが似合いそうだ"と。それぞれの信じる芸術を発表しあう。

当人の意向は完全に無視した上で、あーでもないこーでもないと語り合う。

そしてひとしきり語って満足すると、集大成として狼自身に装飾品を押し付けるのだ。

 

 

「…………」

 

 

しかし、狼はなんら楽しくない。

見苦しくなければそれでいいだろう、と。そう考えていたし、それが悪いとは露ほども思わない。

だから全てを適当に、一切気を使うこと無く無造作に纏め上げていたのだ。

任務に支障がなければそれでいい。ただそれのみで良いのだ。だって、忍びとはそういうものだろう?

 

そんな狼が自分から飾り立てるなど――あり得ない。ましてや化粧なぞ、施す筈がないに決まっている。

 

……けれど、彼女らはそれが気に入らないらしかった。

興味がない?ならばむしろ、だからこそ美しく!と益々やる気を高め、加速度的に熱を上げていく始末だ。

男時代の気性のまま変わらない狼にとって、彼女らの心情はあまりにも理解できない。

いっその事、目も口も耳も塞いでしまいたい気分である。

 

 

狼は微動だにせぬまま、眉間の皺のみを更に深く刻み込む。

 

ここからどうするべきなのか、なにを考えるべきなのかさえも分からない。

寸前の出来事を省みるのも億劫だ。

事の始まりとは、一体全体何処だったのだろう。何故ここに至ったのだ?

 

……"帰り仏"を拝めば、どうにか不思議な導きで解決してくれないだろうか。

 

無論のこと、「無理です」と拒否されるのは確定事項。しかしそれでも祈らずにはいられない。

 

そうでなければ益々目が濁る。

元々仏頂面しか浮かべることが出来ない女だが、今回ばかりはそれさえ失せた先――無の極地に至りそうだ。

 

 

「せっかく綺麗な髪を授かって生まれたんだし、忍びさんだっておめかししなきゃもったいないよ!」

 

「そうそう!ほら、頭動かさないの!」

 

「忍び殿……すみません。この子達も悪気があるわけではないのです……」

 

「ええい!耳元で騒ぐでないわ!手先が狂うじゃろう!!」

 

「…………」

 

 

ゆるゆると眺める先、三人はなにが楽しいのか、楽しそうに笑っている。

その様を見て、ああ、そういえば……と思い出すことがあった。

 

以前聞いたことがある諺だが――"女三人集まれば姦しい"、という言葉があるらしい。

姦しい――曰く、やかましい、騒々しい様を斯様に言い表すのだと。

 

なるほど、確かにその通りだ。

彼女らから溢れる言葉や社交性の応酬は実に多様。

そしてだからこそ、互いに互いの言葉を引き出し合い、更に更にと会話の密度を増やす。

時間の経過に伴い共鳴に増幅を重ね――一切の悪気無く、狼の瞳を濁らせ完璧に封殺するという偉業を成し遂げていた。

 

だが何もこの様な、身を以て諺の意味を理解する必要など……何処にも無いだろう?

余程の変人でもなければ、きっと殆どの人間が不要と断じるに違いない。実に不毛極まる。無意味の極みだ。なんと馬鹿らしいのだ!

 

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという。

賢者たる狼は実際に経験する必要などない。

 

――だから逃して欲しい。働かせて欲しい。

この様な無駄など、必要ないだろう?

 

僅かに残った気力を振り絞り、鏡越しに見つめたおばばに嘆願した。

対し、おばばは指先を休めず狼を一瞥し――

 

 

「駄目じゃ」

 

「……………そう、か」

 

 

――九郎から下された命令(お願い)の効力は強力無比。狼が淡く抱いた願望さえも微塵に粉砕した。

平田の者達を味方につけられ、ほんの僅かな手心さえ存在しない。正しく蹂躙だ。

 

それ故無情に流れていく、未来への布石を打てない時間――為すべきを為せない空虚な一時。

過去に例を見ない恐ろしい所業は、狼の鍛えに鍛えられた不動の精神に大きな衝撃を打ち付けていく。

 

……もはや、ここに至っては狼に抵抗する術も、気力もない。

無情、無常。

 

ただただ、整えられていく身なりを眺める他無し。

殺し合いであれば金剛石が如き強靭な精神を宿していようと……この場では無意味だと悟ってしまった。

逆らえぬときには、逆らえぬのだ。狼は新たな啓蒙(いらない)を得た。

 

どうして――狼はただ、御子様を守りたいだけだったのに。

ただ完璧に、完全に、一切の綻びも想定外の危機もない未来。それのみを求めていた、だけなのに……!

 

そのあるべき未来は、あまりにも理解を外れた現実の前に脆く崩れる。ああ……無情。

一周回って眉間の皺さえ無くなりそうだ。

 

 

「きゃあ!似合う似合う!これならどんな殿方も一撃必殺よ!」

 

「これが名高き忍殺というやつなのね……」

 

 

――"奥の歯"を無性に噛み締めたくなった。

そんなもの、無いのだけれど。

 

きゃいきゃい騒ぐ女性達から必死に視線をそらし、茫洋と虚空を眺める。

 

 

「よーし!若様に見せに行きましょう!いいでしょう、おばば様!」

 

「……まぁ、大体は教えた。あとは自由にするがええぞえ」

 

「いや、あの……忍び殿、すごい目してるのですが……」

 

「いいじゃないの。むしろ今の内に()()して、休むことの重要性を覚えさせましょう?」

 

 

やいのやいの。4つの口から放られる言葉が狼の鼓膜を震わせ、しかし意味をなさずにすり抜けた。

あまりにも未知。あまりにも苦痛。あまりにも恥ずかしい。

いくつもの衝撃に打ち据えられた狼は()()()()、呆然としたまま手をひかれる。

 

 

「さあさ、こっちよ」

 

「……………」

 

 

このように、これ以上無く消耗しているからであろう。

普段は気を張り詰めさせて多くを――あらゆる全てを必死に覗き込んでいたが、今この瞬間にはほんの最小限しか見えていない。

 

だから最小の世界――自分自身のみに焦点が合わせられた。

着飾り、未知の体験に慄き、流されるままにある自分。

 

 

――そこで気付けた。

 

 

「忍びさんでも、こんな風に気を抜けるのねぇ。なんだか安心しちゃったわ」

 

 

己がすっかりと大人しく気を抜いている現状に。

この、()()だ。

 

 

「……!」

 

 

――思い至り、ずっ、と静かに目を見開いた。

 

珍しく大いに表情を揺らがせ動揺する。こんなもの、あり得ないだろうと困惑した。

今日経験した中で一番意味がわからない。通理が通らないだろう?

 

この、己が――"竜の忍び"が! まことに平和に遠くあるのなら、茫洋と気を抜くなどありえないのだぞ。

例え何時いかなる時あろうと、絶対に。

 

……ここで、一番最初の疑問に立ち返る。

()()、九郎は己に(いとま)を取らせたのだろうか。

 

 

()()()()()()にはしっかり抜かなきゃ駄目よ? 張り詰めさせた紙風船は、簡単に破けちゃうものなのだから」

 

 

……狼は無意識のまま、左手で懐の"帰り仏"を握り締めた。

手の皮を柔らかく押し返す仏様は、やさしく、暖かい。

そして思うのだ。

 

 

――()()()()()()とは、なんぞや?

 

 

その答えは既に――右手の先で主張している。

 

なにが楽しいのか、幸せそうに笑っている女性達。

"妙"は戦を知らぬ柔らかな手付きで、狼を引っ張っていた。

"お市"は嫋やかに、優美な足取りですぐ傍を共に歩んでいる。

"花"はそれをニヨニヨとニヤけながら眺め、ゆっくりゆっくり足を動かすのだ。

 

 

その情景は一切の不純物無く狼の網膜に映り込み、ただ素直な感想を抱かせるには十二分で。

だから――その、なんだ。意外と……平和ではないか。

 

 

「………………」

 

 

すとんと腑に落ちた。

 

単純明快な一文は、意外なほど軽く狼の腹の中で消化される。

きっと、自分自身でも()()()()()()()()()

 

未来はさておき、()()平和の中にあると。

けれど何もせずに居るなど、何も出来ずに居るなど――恐ろしくて、恐ろしくてたまらなかった。

 

あの日、生涯の主を貫いた感触が叫んでいるのだ。

怖じ気を、後悔を、怨嗟を。

だからこそ、それを振り払うために走り続けた。

 

 

――しかし、それこそが狼の嫌う無駄だった。無意味ではなくとも、過ぎたるは及ばざるが如し。

或いは却って悪い結果を呼び寄せてしまうかもしれない。

もしそうなってしまえば、それこそ……狼は狼自身を許せなくなってしまう。

 

 

狼は勤勉だ。

怠惰を嫌い、努力を続ける。

 

故に決して愚者ではない。

己に非があれば改める。

それが出来なければ死ぬしか無いのだから、自然とそう身に染み付いていた。

 

……だから、そう。

己は、立ち止まるべきなのだ。

人生を一周したにもかかわらず、遥か年下の女性たちにこうして教えられるとは。

………過去救えなかった人々に救われてしまう、とは。

 

なんとも……ああ、なんとも皮肉なものだ。

 

僅かに歪んだ口許は如何な感情の現れか、狼自身にも分からない。

傍に立つお市が不思議そうに狼を見つめるが……何かに()()したように、ひとり頷いただけだった。

 

そうとも。最早為せるべき人事は尽くしたのだから――あとは、時を待つだけ。

それしか出来ぬし、それ以上は無い。

 

 

だから――そう、平和を謳歌するために。

狼はこれから始まる恥辱の時を、決死の覚悟を持って乗り越えねばならない――!!

 

 

 

「……よし!若様、失礼してもよろしいでしょうか!」

 

「む、ああ……妙殿か……。 どうぞ、入ってください」

 

「失礼します!」

 

「御機嫌よう、若様。 大人数で押しかけてしまい、誠に申し訳ありません」

 

「今日は、お見せしたいモノがありまして――」

 

 

 

 

 

 

 




<TIPS>

「妙の艶紅」
平田屋敷の使用人、"妙"が狼に分けてくれた化粧品。
乾燥した状態では玉虫色に輝く、特に良質なものだ。
これは「小町紅」とも呼ばれ、平田の女性達はこの紅をこよなく愛した。

狼は時折これを握り締め、一人自問するのだ。
決して、忘れぬように。


――"平和とは、なんぞや?"



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

難産

時は移ろい、太陽と月は幾度も交代を重ねた。

少しばかり冷えていた空気は熱を帯び、そして"春"になる。

 

狼が九郎の許に仕えて二月。

その間にも紆余曲折はあった。しかし、平和と呼ぶに適うほど争いの芽が無かった。

賊は平田の防備を貫くこと敵わず、内輪の争いもなく、財にも物にも困っていない。

加えて屋敷周辺に住まう人々は穏やかで親切なものが多く、だからこそ――九郎(竜胤)を匿う事を決断できたのだろう。

 

狼が知りうる限り、この屋敷ほど主を匿うのに適した勢力はそう多くない。

古い記憶の中には残されていなかった情報だが、これを知った今ならば――なるほど、内側からの手引無くば攻め落とすのは不可能だと理解できる。

 

果たして襲撃が――はたまた、梟自身の手によって御子を攫おうとするのは何時のことか。

明日か、明後日か、来週か、一月後か。

一切の見通しは立たぬが、それでも不自由なりにも備えは尽くした。

 

だから後は、時を待つしか無いと……そう理解はできる。できるようにはなったが……しかし、逸る気持ちを抑えきれぬ。

 

柄を握る掌が僅かに汗ばみ、じっと馴染んでいた筈の正絹から浮いている。

 

しかしそれは一時のものでしか無いと考えていた。

平田の離れに建つこの道場の中で汗を流せば、そういった気の迷いも振り払えるのではないかと。

丁寧に整備を為された故の清浄な空気であれば、きっと洗い流してくれるのではないかと。

……しかし、無駄だった。

 

眼前に立つ(義父)との稽古の最中でありながら――いや、だからこそ、か。

確かに迫って来ている脅威は、もはや狼の感覚を刺激するほど近付いている。

 

今この瞬間にも、殺せ、切り裂け、踏み躙れと、脳裏で誰かが叫ぶのだ。

荒ぶる情動は重く、激しい。

 

確かに梟は竜胤を巡る戦いの切っ掛けとなった人物ではあるが……だからといって、彼を排せば万事解決という訳でもないのに。

 

 

「………娘よ、集中が乱れておる」

 

「は」

 

 

――瞬時に思考を遮断する。

 

狼のそれと同じく――否、それ以上に重苦しい声音が鼓膜を揺さぶったからだ。

それを動力として呼気を一つ、空気に融かした。

強制的に心を鎮め、淀んだ思考回路(無駄)を一掃する。

体内の余分(無駄)は赫灼の熱として排出され、狼が()()として専心するためのゆとりを生み出してくれた。

 

それこそが正面切っての戦において特に重要で、肝に銘じるべき心構え。

 

狼は知っていた。

己に宿る強者達と繰り返した殺し合いの記憶が、かくあれかしと証明している。

 

なんせ、それが出来ねば永遠に勝てなかったのだから。

 

 

「すぅ」

 

 

音もなく、足を抜いた。

半歩、右足を前に出し、膝を軽く緩める。

次いで両足の土踏まずを用いて()()()()()、重心は遥か地の底へ。

 

此度為すは"地に足つけぬ忍びの戦い"ではなく、"一切の守りを諸共切り砕く侍の作法"。

故に揃った両腕は教えを遵守し、ゆるやかに、しかして張り詰めさせて柄を握る。

 

腕は赤子を抱くように優しく、掌は力を抜き、豆腐を握る心積りで。

柄本は腹の前拳一個の間隔、刃は真っ直ぐ、目元の位置を貫くように伸ばすのだ。

 

一直線に伸びた刀は刃渡りを隠し、戦運びを助けてくれる。

 

 

「葦名流――」

 

 

鋭き眼で義父を睨めつける。

これが指導の場であろうと、相手が義父であろうとも関係ない。

この場で全力を出すことは決して叶わぬが――しかし、策に影響がない範囲であれば魅せよう。

あの天狗(葦名一心)が見出した才を、飲み込んだ有象の業を――!

 

 

「一文字」

 

 

――梟の目には、まるで場面を一瞬で切り替えたようにも映った。

上段に大きく構えられたと思えば、すぐ目の前に刃が迫る。

故に咄嗟ながらも刃を翳し、弾けたというのは――我が事ながら喝采の念を抱く他無し。

そしてその精巧なる業前こそが梟の命を救うのだ(一度殺される程度では死ねぬが)

 

だが――初太刀を凌いだのなら、その次がある。

梟はそう知っていたが故に、襲い来るだろう切っ先に備えて分厚い野太刀を翳した。

 

 

「二連」

 

「ぉ――」

 

 

――ギャリリィ!と、喧しく刃が擦れ、鼓膜を幾重にも突き刺す悲鳴が響いた。

 

衝突した楔丸と野太刀は火花を撒き散らし、舞い上がった土埃の中でも尚輝く。

双方、共に強靭で粘り強く、だからこそ手繰る者の技量がよく見える。

 

狼のそれは空気を強引に撒き散らし、空気の揺らぎさえも見えてしまう剛剣。

それは、ただ敵に打ち勝つ事を至上とした侍の業。

 

無論葦名衆と共に戦った梟も、"これ"を数え切れない程に見て――そして経験した。

 

経験したが――その中でもこれは極めつけだ!

 

必ず斬る、何があっても斬ると、恐ろしいまでの執着が匂い立つ。

故に、これは紛れもなく葦名の剣技だ。

 

我が娘ながら――ああ、なんとも恐ろしき殺意の影よ!

 

 

「むぅ……!」

 

 

鍔迫り合いは一瞬の事。

防御の上から叩き斬ろうという気迫は物理的な質量さえも伴い、梟の体幹を強引に削り取っていく。

これでこそ葦名の剣よ。 梟は自由に動かない体で、けれど惜しみなく称賛した。

 

まさかそれを己の娘が振るうとは思っていなかったが――しかし、その才覚は恐ろしくも美しい。

 

 

「ここまで育ったか……嬉しいぞ!」

 

「く……!!」

 

 

瞬時に膝の力を緩め、その重量の方向を操り地面に逃した。

太刀の主たる狼は己の制御を失った力に振り回され、一瞬ながらも体幹が揺らいでしまう。

無論、その一瞬を以て梟は距離を取り、極めて迅速に仕切り直した。

 

その流れるような一連の動作を、狼はただ眺めることしか出来ない。

撓んだ膝を反発させ、地を蹴る動作は実に自然。

まるで空舞う梟のように軽やかで、失敗への後悔よりも先に感嘆の意を抱かざるを得ない。

 

 

「おお……!!」

 

 

しかし余分はその場に捨て置き、距離を詰めるために強く跳ねる。

 

己の左手に大手裏剣か、はたまた忍び義手でもあれば"寄鷹斬り"で強襲を仕掛ける所だが――"重し"がない現状でそれは不可能。

 

まあそもそも今回は剣士として立ち会っているのだから、そう考えるべきではないのだが。

無意識の内で模索した殺害の術を振り払った。

 

きっと、梟を潜在的な敵とみなしているが故にだろうか?

思った以上に(殺意)が籠もる。

 

ああ、まるで()()()()()が外れたようだ。

理性から逸れた感情は更に更にと沸き立って、心が浮足立っている。

 

……何故だろうか。

狼も知らぬ内に思考が白熱する。

炎に巻かれたように熱く熱く燃え上がる。

そうする理由なぞ、何も無いのに――ただただ一層苛烈に剣を振るった。

 

別に梟自身が憎いわけではない。むしろ深く敬愛しているし、感謝もしている。

ただ狼の道を阻むのならば、何が何でも斬り捨てねばならないと言うだけで――

 

 

――ならば……この炎が導くままに振る舞っても、別に良いのではないか?

 

 

「むぅん!!」

 

 

――雑念ごと叩き付ける。

何度も自分を戒めているにも関わらず、次から次へと雑念が湧き出てしまう。

何たる未熟か。狼は自分自身を罵り、固く固く精神を締め上げた。

 

 

「横一文字……!」

 

 

本来ならば刀身を鞘に収めた状態から、力を溜め込み抜き付けるべき技。

しかし敢えて。 全てを晒した状態から右の手と背中の筋肉を総動員し、力ではなく精緻な冴えによる斬撃を放った。

 

故に、これは剛剣ではなく柔剣である。

大気を揺らがすのではなく、斬り裂くのだ。

 

 

「ほぉ……! やるではないか!」

 

 

しかし、大忍びはそれさえも容易く踏み越える。

並み居る凡俗であれば腸をぶち撒けるであろう斬撃も、当たらなければ意味など無い。

言うは易し、行うは難しというこれを――膝よりも低い位置を這うように、大きく体を傾けることで実行した。

 

 

「………ッ!」

 

 

――その姿を認めた狼は、振り切った刃を一瞬で引き戻した。

徹底的に効率化を図った運剣(刃の操作)に隙は無く、刹那の内を経て――楔丸の切っ先は天を仰ぐ。

狼は上段に大きく振り被り、溢れる剣気で空気を震わせた。

 

専心、専心、専心。

ただ集中し、心の奥底深くに思考を埋めろ。

 

放つべきは葦名流の基礎にして真髄。

一刀に技術の粋を集め、あらゆる防御を踏み砕く一撃である。

 

これが稽古であると知りながら――いいや、きっとだからこそか。

だからこそ、義父に己の成長を見せつけてやりたいと、そう思ってしまった。

それが本当に狼の内から湧き出たものか、それすらも分からないまま。

 

 

「……ふ」

 

 

――それを、梟が拒絶することなどありえない。

深層心理の何処かでは常に思っていたことだ。

己の技術の粋を叩き込んだ娘との、純然なる殺し合いを。

 

地を這う姿勢のまま、右手に携える野太刀を寝かせ、一直線に狼へ向ける。

肩ごと大きく後ろへ引き、脇と背中の筋肉が激しく隆起した。

 

是即ち、突き技の前動作。

梟が積み重ねた忍びの技、その代名詞の一つである。

 

 

「おおぉ!!!!」

 

 

――大忍び刺し。

大気を巻き取り、さながら螺旋のように輝く秘技。

本来ならば離れた間合いを詰めながら放たれる大技を至近距離で曝け出す。

梟としてもそう経験のない試みだが――しかし、移動のためにも割かれる筋骨の力のすべてを突きに集約できると考えると――意表を突く事もできる本来の利点は失われるが――そう悪い行動ではないと思えた。

 

いわばこれは、正面からの果し合いに於いてのみ有用な発展型だ。

ただ目の前の敵を刺し貫く為だけの――!

 

 

「あんた達、一体何やってるんだい……」

 

 

――すっと、狼の目の前を"何か"が横切った。

それを目にした瞬間、取り返しのつかない一線を越える寸前――狼と梟は全くの同時に停止した。

途端に熱に狂った脳漿が寒さに震え、白んだ視界が落ち着きを取り戻す。

 

胡乱げに彷徨った視線の先には輝く蝶々。

きらきら、きらきらと輝くそれは幻想的で……だからこそ、現実世界には存在しないまがい物だと分かってしまう。

 

ゆらゆらと揺れるそれは何かを訴えかけているようで、狼も梟も思わず自然と筋を緩めた。

 

……響いた叱咤の声には聞き覚えがある。

しわがれていて、深々と鼓膜を震わせる老婆の声だ。

 

 

「お蝶殿」

 

「稽古で本気の殺し合いするバカなんて、あんた達以外にはそう居ないだろうねえ」

 

「……む」

 

 

――思考が急速に冷えていく。

沸騰していた脳髄が凪のように静まるにつれ、寸前までの行動が異様に過ぎると理解できてしまった。

狼は気まずげに視線を宙に踊らせ、意味もなく周囲を見渡す。

 

……狼と同じ様に気まずげな梟と視線があった。

お互い咄嗟に視線を逸らして、訳もなく左の指先を擦り合わせる。

気を紛らわせる指遊びだが、だからこそ益々普段の狼へ回帰させる一助となった。

 

そうして思うのは、やはり疑問。

澄んだ思考回路を満たすのはあまりにも不可解な自分達の振る舞いへの懐疑だ。

 

果たして何故なのか?

何故、()()()()()を忌避せず――むしろ嬉々として挑もうとしたのだ?

……狼自身にも理解できない、あまりにも不明な行いであった。

 

 

――それはともかく。

楔丸を鞘に収め、最後に残った熱を吐き出すように肺を潰した。

まずは佇まいを直し、ほとぼりを冷まさねばなるまい。

 

 

「ふぅ……」

 

 

白い霞が空気に溶ける。

それはさながら戦意が跡形もなく消え去る様を表しているようだ。

 

当然ながらここから急に刃を晒し、さあ開戦!なぞ、あり得るはずはない。

揃って関節をほぐし、気まずげにお蝶に視線を送った。

 

 

「……さて、申し開きはあるかい?」

 

「……」

 

「……ありませぬ」

 

「ふぅぅ……」

 

 

お蝶は、さて困ったと眉間を揉みほぐす。

事の経緯におかしな点はない。

一体何を考えたのかまでは知らないが、(バカ)は到着して早々に(バカ)へ稽古をつけようと道場に呼び込んだ。

……ここまでは良い。

 

平田の屋敷の離れに建てられたこの場所は大きく、頑丈な作りであり、だからこそ多少の剣戟の音は外に漏れない。

だからこそお蝶が異常に気付き、止めに入るのが遅れたのだが――きっと、それがなければどちらかが死ぬまで止まらなかったに違いない。

文字通りの意味で片方がその喉を己の血で潤すことを、心の底から望んでいた。

 

これは、明らかにおかしな事だ。

何故よりにもよって()なのか。

 

それは二人をよく知るお蝶だからこそ、一層おかしなことだと理解できる。

双方とも気が違ったわけではなく、あまりにも平時と変わりない。

……いいや、()()()()()()()()()

 

 

「……流石にこれは妄言かねえ」

 

「は……?」

 

「いや、なんでも無いよ」

 

 

まあいくら考えた所で、今起こった事実に変わりなど無いのだが。

平田屋敷に到着したばかりの梟は稽古を行い、共に熱が入りすぎて殺し合いになりかけた――と。

確かに戦国の世にあっては……そう珍しいことでもないのだが。

 

 

「ともかく、狼。 御子様がお待ちだよ」

 

「は」

 

 

一度思考を断ち切り、狼を御子の許へ向かわせる。

目の前で釈然としない様子で黙りこくっている大男。彼を問い詰めるのは……まあ、その後でも良いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕方になり、葦名城から派遣された寄鷹衆が辿り着いた。

彼等は皆御子を守るために集まり、それはつまり葦名一心も九郎の事を気にかけている事の現れであろう。

それが竜胤の力を求めてのことか、はたまた単に幼い少年の境遇に同情したのか。

真意はともかく、防備がより強固になった事に違いはなかった。

 

例え内側からの手引があろうとも、今の平田屋敷が賊に落とされることはない。

それこそ、()()()()()()()()不可能だ。

 

そうと確信しているからこそ、狼は当然来訪した梟とお蝶に最上の警戒を向けていた。

 

決して悟れぬよう巧妙に隠してはいたが……。

積もりに積もった警戒心と敬愛と、僅かな殺意は混ざり合い、形を変え、色を淀ませた。

それは狼自身にも扱いきれぬほど複雑で――だからか。

昼の稽古で殺し合いに発展したのはそれ故なのか?

 

……そうとしても。もし仮にあの場で斬り殺してしまえば、想像する限りでは最悪に近い未来を辿ることになるだろうに……。

それを知っているにも関わらず刃を向けたのかと自分に問えば――正直、分からない。

何も、分からないのだ。

 

その深い困惑の念は狼の足を絡め取り、何処に行っても纏わりつく。

だからかもしれない。

今、梟に話し合いのために声をかけられた時、綻んでしまっている精神は困惑に満たされた。

 

 

「……父上」

 

「来たか」

 

 

離れにある小屋。

見苦しくない程度に整えられた家屋は、ずんぐりと重厚な威圧感を放っているように見えた。

それはきっと中に住まう住人の所為なのか、ともかく重苦しい。

声をかけ、引き戸を開ける最中にも、何故か狼の双肩が固くなったように感じてしまう。

 

梟は戸を開いてすぐに見えた。

その横姿は背を丸めており、大きな体を窮屈そうに縮めて机に向かっている。

 

なにやら書物をしたためているらしい。 スラスラと滑る筆先を眺める瞳は、深く真剣味を帯びていた。

狼が建物の内部に足を踏み入れても視線を寄越さない様を見ると、なんとなく偏屈な職人(いつかの猿)を想起させられる。

 

 

「…………」

 

 

普段以上に背筋がピンと伸びた。

意味もなく緊張感を感じてしまい、なんだか落ち着かない。

かといってする事は何もなく、梟の作業が終わるのを待つことしか出来ないのだ。

 

 

「ふむ」

 

 

梟は一度筆を置き、机に広げられた文字の並びを眺めた。

狼の位置からは、小さな明かりの関係もあって内容は伺えない。

 

それに……何故だろう。

丁寧に書物を眺める梟の横顔は、どこか空恐ろしい。

 

……それが何故か、と問われると……理由は思い浮かばないけれど。

 

強いて言えば――昔から恐ろしい形相をしていたと、そう常日頃から思っていたからだろう。

先入観は梟の表情を覆い隠し、だからこそ()()()()()()を見抜けない。

 

 

「……座れ」

 

「は」

 

 

ごつごつと節くれ立つ指で示された座布団に、ゆっくりと腰を下ろす。

狼は前回よりもさらに小さくなった尻と膝を柔らかな布に乗せ、じっと梟を見つめた。

 

 

「………」

 

 

一体如何な心境なのか。

……普段以上に、どこか気配が重苦しい。

 

何かを躊躇うように口を開き、しかし閉じ、また開き――と、繰り返しているのだ。

 

狼はその光景に、小さく目を見開いた。

これまで一度も見たことがない義父の姿からは、普段の即決即断の心構えが一切見えない。

忍びたるもの、一瞬の判断の迷いが命運を分ける。

迷えば敗れるとはよく言ったものだ。

 

確かにその通り。

だからこそ狼はその金言をしかと肝に銘じ、これまでを生き抜いた。

それは――きっと、目の前の男こそがよく知っているに違いないというのに。

 

 

「……ふぅむ」

 

 

漏れる懊悩の声音。

ああでもない、こうでもないと言葉をこねくり回しているのだろうか。

梟はうんうんと悩み――しかし区切りがついたのか、狼を正面から見据えた。

 

 

「娘よ」

 

「は」

 

()()()()()()()?」

 

「――……っ」

 

 

――頭が真っ白になったようだ。

体の節々がギシリと強張り、無意識的にか瞬時に警戒の姿勢を形作る。

 

余りにも平然と、当然のように告げられた言葉。 不思議なほどに平坦な声でありながら、それほどまでに大きな衝撃を齎した。

 

……薄々、そうではないかと思っていた。

もう既に知られているのではないかと。

なんせそう推理するだけの材料は至る所に転がっている。

 

だが、予感はしていても狼の心胆を容易く凍らせた。

だってそれは、最悪の可能性を芽吹かせるかもしれない悪性の種子なのだから。

 

きっと、"何に"と問い返し、誤魔化しを図るのは無意味だろう。

……ああいや。きっと、ではない。 確実に、意味のない行為だ。

 

確信めいた、断言とも取れる言葉は尚も続く。

問い詰めるのではなく、確認するように。

 

 

「いつ、気付いた?」

 

「…………」

 

「確かに、裏では動いていた。 しかしそれは、一心にさえ知られていない秘め事よ」

 

 

多大な自信と共に、梟は両腕を広げて問うた。

目の前の"忍び"に対する敬意を表し、しかしだからこそ問いたい。

 

 

――いつ、気付けた?

 

 

……もはや、逃げ道など何処にもなかった。

確かに物理的に逃走することはできよう。

 

しかしその後をどうする?

梟は間違いなく攻めの手に回り、強引にでも竜胤を手中に収めようと画策するに違いない。

 

ならば御子を連れて逃げるか?

そうすれば間違いなく葦名のすべてが敵に回ろう。

幼い竜胤の御子を攫った国賊として、数多の豪傑共が率いる追手をけしかけられる。

それは殆ど確定した未来だった。

 

もはや、ただ問われたままに答えるしか――"勝ち"を拾える道はない。

 

 

「……前回の」

 

「む?」

 

「前回の生において、父上は竜胤を手にするため……葦名を混乱の渦に落とそうと、画策致しました」

 

「――――」

 

 

まるで気違いが放つような妄言だな、と頭の片隅で考えつつ、狼は静かに吐露した。

慣れぬ言葉を必死に手繰り、可能な限り明快に。

事ここに至っては――誤魔化すことなぞ、不可能だろう。

例え偽ろうと気概を抱いた所で、一瞬で看破するに違いない。

 

ならば――如何に荒唐無稽な事情であっても、語るだけならば――信じられぬとも、無為ではない筈だ。

それに目の前の大忍びであれば、それがまことの意思を以て放たれたのか否か程度容易く見破る。

 

 

「今回の命は……二度目に、御座います」

 

「……よもや」

 

 

つまり、その未来を知っているからこそ、不自然なほどに平田の防備を強固に整えたのだと。

お前とは袂を分かった後なのだと――言外に語った。

 

親を斬る覚悟は、とうの昔に終えている。

それが己が定めた忍びの掟。

 

妄言と捉えられようが良い。

気が違ったと蔑まれても良い。

すぐさまこの首を奪おうと刃を向けられても良い。

 

――どうあっても、主のために敵を斬る。

もはやそれしか出来ぬし、慣れぬ策を弄するのは主を守るためだけに奮起すればいい。

いざとなれば、この場で首を落とす。

狼にはその決意があった。

 

 

「……道理で、異様なほどに多様な技を、高い練度で体得している筈よ」

 

「………」

 

「最初の、最初から……先を見据えていたか」

 

「……は」

 

 

何が面白いのか、梟はくつくつと喉を鳴らす。

狼の視線の先であぐらをかき、その巨体を揺らす老いた男は悲しげだ。

威風堂々とした義父の姿がどこか小さく見えてしまう。

 

 

「……父上」

 

 

だから。

 

狼は、何かを言わなければならないと思えてしまった。

……何故だろうか。

何故、だろうか。

 

思い浮かんだのは、不器用ながらも確かにあった、義父の思いやりであった。

 

 

「父上」

 

「……なんだ」

 

「あなたが、作ってくれたおはぎは……とても、とても……旨う、ございました」

 

「………?」

 

「……その……」

 

 

唇を軽く噛んだ。

硬く震えた舌先が思うように回らなくて、どうにももどかしい。

 

しかし――ああ、しかし。

今日一日で何度も感じていることだが、どうにも自分以外の意思が思考の隅で何かを叫んでいるようだ。

そしてそれが主張するのだ。

 

今、言うべきは言っておけと。

 

 

「…………あなたに、深く感謝しております」

 

「……………」

 

「父上。あなたに拾われて、幸い……でした」

 

「……そうか」

 

 

皺くちゃな(かんばせ)に浮かぶのは、一体如何な感情の表れか。

狼の知識の何れにも該当しない不可思議な形相が深く刻まれ、胸の奥底がざわめいた。

ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りは梟の顔に影を生み、狼の理解をますます遠ざける。

 

けれど、それでも。

 

 

「そうか……」

 

 

その声は、何処か満足げであったと思う。

梟はゆっくりと、いつも同じように重苦しく喉を震わせた。

 

 

「だが……それでも」

 

 

狼の瞳を真正面から睨み、突き立った視線は刃のように鋭い。

それを受けた狼は咄嗟に脚に力が籠もるのを抑え込み、続く言葉を無音で促した。

 

けれど……この先の言葉を想像するのは簡単だ。

己と梟は親子で、やはり似るものなのだから。

 

 

「時が来れば、お前を斬るぞ」

 

「は」

 

「故に、お前も儂を斬れ」

 

「………御意」

 

 

暗い一室に溶けて消える言霊。

腐ること無く吐き出され、互いの心に然と届いた。

 

不要な鎖があってしまえば、互いに向けた切っ先が揺らいでしまうだろう?

だからこそ、今日にあった全てに――後悔など、微塵も無い。

狼は胸を張って断言できる。

 

 

 

 

 

―――忍軍(内府)が葦名を襲ったのは、それからすぐの事である。

 

 

 

 

 






……かわいそうにねぇ
積もった怨嗟が消え去ったなんて、だあれも言ってないのにさ
巡った因果は、もう取り消せないものなんだよ






目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

偉大なる徳川、日ノ本の導き手に殺意を込めて

「……来たか」

 

「これは――!?」

 

 

かんかんかん、と甲高く響く銅鑼の悲鳴。

同時に男たちの野太い警告の叫びが耳朶を乱打した。

離れにあるこの狭苦しい一室の中にさえ僅かに反響し、しかしすぐに染み、溶けて消え――けれども絶えず鳴り響く絶叫が、次々にこの一室に注ぎ込まれる。

 

余りにも突然の出来事で、火急を要することは月の明かりよりも確かなものだ。

だからこそ、狼の意識に寸分の揺らぎが生じてしまった。

それは動揺には至らず、しかし明確な隙である。

如何な猛者であろうとも、時にはこの様な"失敗"を犯すことはあろう。

それは、決して責められるような事ではない。

 

 

「父上、一体何を――」

 

「――(はかりごと)よ」

 

 

――しかし、その刹那だけでも梟という大忍びには十二分だ。

そういった意味であれば、紛れもない過失であった。

 

ゆらゆらと揺らめいていた蝋燭の明かりが一際強く輝き、梟の顔を照らす。

刹那の時、ようやっと狼の視界に映った義父の顔は――楽しそうに、仄かに嗤っていた。

まるで時の流れが遅くなってしまったかのような感覚の中で狼は見た。

腰に回された梟の大きな指先が宙を踊り――その先に、白い玉(煙玉)が幾つも握られているのを。

 

 

――ドン!ドン!ドン!と破裂音が大きく重なり響く。

途端に狼の視界を白い煙が覆い隠し、同時に漂う火薬の匂いが嗅覚さえも潰した。

 

 

「くっ……!」

 

 

梟が何故唐突にこれを用いたのかといえば――それは当然、逃げるためである。

正面切ってでの戦いは分が悪い。 兎にも角にも準備が足らぬ。

 

故に逃げる。

決してこれは恥ではなく、謗られるべき愚行でもなく、英断であろう。

冷徹に判断し、明瞭なる梟の思考回路がはじき出した最善の道(遁走)である。

 

梟は、知っていたのだ。

"忍び"として、であれば兎も角……"人斬り"として考えれば娘に軍配が上がる。

あれ程の"一文字"、香り立つ"剣気"、洗練され過ぎた戦の"見切り"……あれに優るものなど、梟が知る限りでは葦名一心(剣聖)のみよ。

だからこそ――

 

 

「卑怯とは、いうまい」

 

 

徹底的に、追跡者としての五感を潰す。

梟は練り上げられた足腰を以って跳ね上がり、それと同時に災を残した。

 

薬毒を撒き散らす爆弾を投げつけ、火薬玉を破裂させ、畳を打ち据え。

場にあるあらゆる物体が狼に牙を剥き、梟への知覚を失わせる。

 

 

「父上――!」

 

 

こうなってしまえば如何な忍びとて追走を熟すことなど不可能だ。

重ねて梟ほどの手練が遁走に注力したのであれば――もはや、狼が追い縋るのは無駄である。

けれど、それでも、無駄と知りながら追いかけようと藻掻いた。藻掻いてしまった。

 

何故かはわからない。

きっと、ついぞ知ることができなかった義父の心の内を、ほんの一欠片でも知ることが出来たからか。

闇に潜むべき忍びが何を言うのか、と。 自分自身に叱咤の声を浴びせたくなる。

同情心なぞ無意味で無駄極まる。

それこそがこれ以上無い侮辱であり、義父の望むべきとは真反対に位置する物だろう。

 

……それでも、掛けるべき言葉も知らないくせに――自分が何を思っているのかも知らないくせに、呼び止めたかったのだ。

 

 

「…………」

 

 

煙が晴れる。毒気は風に溶け、あらゆる障害は無に還った。

 

燃料(酸素)を失ったが故に消えた灯火。

炎の代わりに僅かに差し込んだ月明かりは、夜目に優れた狼にとって十二分の光源だ。

微かに細めた瞳は今在る所の姿を明瞭に捉え、義父の逃走の痕跡を探し出そうと視線を揺らした。

 

……しかし、無駄だ。

梟が今更、このような逃走の際に足掛かりを残すはずがない。

 

争いはなかった故に痕跡はなく、目に焼き付いた義父の顔を知らなければ、きっと白昼夢であったと片付けたに違いない程。

それ程までに一瞬の出来事で、あまりにも鮮やか過ぎる遁走だった。

 

 

「―――」

 

 

一切の利にはならない現状を認識して、小さく小さく吐息を漏らす。

僅かに歪んだ口許は如何な感情の表れか、もはや狼自身にも分からなかった。

 

 

――かんかんかん、と変わらず響く警鐘の音が何処か遠い。

 

 

一体何を思っているのか。

一体何を思いたいのか。

何を求めたいのか。

何を求められているのか。

もう、袂を分かって、道は交わらないとわかっているのに。

 

弱った狼は、それでも小さく吠えた。

 

 

「……あなたを、斬りましょう(知りたかった)。 もう一度……(もう機会はないけれど)

 

 

斬って裂いて腸を覗けば……何を抱えていたのかぐらい、掴めるやもしれぬ。

どろどろでボロボロで黒ずんでいても、きっとそれこそが狼の知りたい答えなのだ。

そしてそれこそが――最期にできる親孝行。

 

狼は最後に、もう一度梟が座っていた机に視線をくれた。

広げられ、梟の手によって文字が記されていた筈の書物は何処にもない。

きっとあの僅かな時間に纏めて回収し、懐に収められていたのだろう。

 

もし残っていれば現状を理解するための手掛かりになったのかもしれないが――まあ、あの梟のことだ。

その様な愚を犯す筈がない。

 

 

――故に落胆も失意もなく、狼は前を向いて走り出す。

 

音もなく小屋を後にし、微かな月明かりを(よすが)に地を駆ける。

柔らかな土を優しく踏み付け、広がる竹林に姿を隠す姿は正しく影そのもの。

広い間隔を取って設置された松明の明かりはか細く、だからこそ狼の姿を一層隠す助けとなった。

 

――しかし、尚速く駆けられぬことがもどかしい。逸る気持ちを抑えきれない。

音を吸う土の特性に甘えて、踏み込む足に一層力を込めて打ち付けた。

離れに建てられたという立地が恨めしいと、内心で高らかに不満を叫んだ。

 

……或いはそれさえも、梟の想定の内か。

 

老練なる忍びはあらゆる要因を巧みに組み合わせ、幾百の火花を重ね合わせて炎とする。

塵は塵であろう。しかしそれ故に、積もるのだ。

 

だから、対抗できる術はそう多くない。

ならばそれに負けぬように出来る事とは?

 

それは――結局、死に物狂いで今に全力を注ぐだけだ。

 

狼は知っている。

この様な切迫した場面であるならば、限界まで全霊を込めることは当たり前だと。

それが出来ねば幾度でも死に絶え、指の隙間から求めるべきを取り零す。

いわんや、生涯の主に危機が迫っているというのなら――更にその向こうへと足を踏み入れねばならない。

 

 

「……すぅ」

 

 

呼気は浅く。

気配を薄く。

鼓動を弱め、影を無くす。

 

一刻も早く主の元へ馳せねばならない。

ならば無用な争いなぞ無駄の極み。

敵にかかずらう暇があるのなら、その時間こそを移動の為に充てるべきだ。

だからこそ、極限まで隠形に徹し、そもそも見つからないように駆け抜ける。

狼は自分にそれが出来るという、何よりも深い確信があった。

 

 

「―――」

 

 

一歩、音はなく。

二歩、光もない。

三歩四歩と空気を縫い、早馬よりも尚早く屋敷を目指す。

 

そうしていれば一分も掛からず柔らかな土の地面は離別を迎え、代わりに舗装され踏み均された道に出た。

道を挟んで掲げられた篝火の輝きは闇を斬り裂き、その先が平田の土地であると高らかに主張していた。

 

 

「……壁が、燃えている」

 

 

……だが、誠に残念ながら――それは壮健であることを示すわけではない。

道が伸びる先に構えられた大門は無残に焼け落ち、軍勢が内に攻め込んでいるらしいことは明白だった。

 

平田の土地の外と、敷地の内を区切る守護者はもう居ない。

逃げたか、殺されたか。

そのどちらかは分からぬが、しかしここが突破されていることは間違いない。

 

 

「忍軍か」

 

 

一切速度を緩めぬまま道を駆け抜け、門をくぐり抜ける寸前。

切り裂かれ、打ち捨てられた骸を一瞬で検分する。

漆黒の瞳がゆらりと流し目で認めた存在は、紫と黒で構成された装束の忍び達。

 

葦名の者がいないのは幸いだ――と、手放しに喜べる状況でもない。

何せ、狼にはこの忍びの姿に見覚えがあった。

 

彼等は、"孤影衆"。

内府が最も信頼する忍び衆だ。

 

……ああ、ああ。狼の脳漿にも深く刻まれているとも。

一周目の旅路の最中で……何度も、何度も遭遇した。

 

紫と黒の縞模様の外套を身に纏い、内には鎖帷子を着込んでいる。

そして皆足技の達人であり、多様な殺しの術を持っていた。

 

それは毒であり、忍犬であり、何よりも洗練された連携である。

狼にとっては苦い思い出しか無い強敵だ……何度も殺したし、何度も殺されたのだから。

 

加えて言えば、何よりも頭数が在る。

そのせいか? 何処に行ってもその影はあった。

井戸底でも、五重塔でも、竹林でも、葦名の底でも、そしてこの国の中枢でも。

 

確かに梟の手引きがあったというのは確かなのだろう。

きっと、そのせいだ(父上のせいか)

だからこそ葦名は陥落した(認めたくないけれど)。 

 

……しかし、少なくともこの段階では――まだ隠れ潜んでいた筈なのだ。

そうとも。あくまで賊を嗾けるに留めただけの存在、()()()

 

――狼は、一層不愛想に表情を歪めた。

回る俊足に翳りはなくとも、しかしその危機感に由来する感情の発露は明らかなものである。

 

 

「……軍として、攻めに来たか」

 

 

何処を見ても、孤影衆や住人と侍達の屍しか無い。

本来の"道"で手足となった賊は居らず、ただ純然たる殺意を持つだけの"敵"があった。

 

狼は小さく口端を歪め、ままならぬ現状に嘆息する。

 

 

「……という事は。まさか、父上は――」

 

 

――喉元に迫り上がった憶測を噛み潰す。

考えたくもない。何処までも悍ましい予測だ。

もしその通りであれば――最悪の結末まで秒読みの段階にあるという事。

 

 

「……っ」

 

 

道を塞ぐように横たわった燃え盛る巨大な壁。それを迂回するために壁を蹴り、塀の上へと足を掛けた。

次いでそのままの勢いを保ち、連なった家屋の瓦屋根へと飛び移る。

 

生きた敵の姿は見当たらないが、ただ地を駆けるよりはこちらの方が見つかり辛いだろう。

山の頂上に近い位置に建つ平田屋敷は、非常に大きな武家屋敷だ。

故に抱える使用人の数は多く、彼等のための住居基盤も多く拵えられている。

 

それらを利用する事で、狼は自身の姿を隠しながらも極めて迅速に移動を続けられた。

 

 

梟との会合から、既に五分が経過していた。

高熱による体温の上昇から、狼の顔面には凄まじい量の汗が滲んでいた。

体内の水分は減少し、体調の面でも決して良い状況とは言えないだろう。

 

……しかし、状況は刻一刻と変化している。

警鐘は既に絶えた。狼の周囲では、ただパチパチと、炎が燃え盛る鼓動のみが響いていた。

剣戟の音はなく、断末魔に悲鳴もなく、九郎の呼び声も聞こえない。

 

――狼は、焦燥で頭がどうにかなりそうだった。

 

 

「御子様……!!」

 

 

故に走る。

とにかく走る。

屋根を飛び移り、柵を踏み台にし、橋を越え、そしてついにはもう一つの門――敷地と屋敷を区切る門が見えた。

ここまで来ると平田の屋敷……その御殿はもうすぐそこだ。

ばくばくと煩い鼓動の音が狼の胸を打ち、巡る血流の音が鼓膜を揺らす。

この程度、訓練で幾度となく走破しているにも関わらず、狼の呼吸は大きく荒れていた。

 

 

「御子様!」

 

 

門を潜る。

狼は白魚のような指先で楔丸を握り締め、飛び込んだ。

敵が居た場合即座に斬りかかれるよう地を踏みしめ――

 

 

「ぐぁ――!!?」

 

「!!??」

 

 

――狼の体を掠りながら、すぐ真横を大きな影が飛び去る。

思わず目を見開き、とっさに背後を振り返った。

 

 

「ぐぅ……!! な、何なんだ――この要塞、は……!!?」

 

「黙れぃ!!」

 

 

飛んできた――いや、飛ばされたのは紫と黒の縞模様。

己の身分を高らかに主張する男は無様に這いつくばり、次いで放たれた一矢を躱すことも出来ず、頭部に角を生やして死に絶える。

 

 

「おぉ、忍び殿か! よくぞ戻ってきた!」

 

 

目をぱちくりと瞬かせる狼に声をかけたのは、皺くちゃな顔を喜色に染めた老人――大介と呼ばれる弓兵だった。

煙や煤で薄汚れた軽鎧を十全に着こなし、左手には古びた和弓が握り締められている。

さながら……というより、文字通りの意味で門番の役割を果たしている老兵は大層嬉しそうに狼に呼ぶ。

 

歩調を緩めて歩み寄れば、炎に巻かれず、ただ血に塗れただけの玄関が迎えてくれた。

開かれたそこから顔を見せる彼には傷一つ無く、みれば後ろにも多くの老人や使用人達が手に武器の類を持って列を成している。

 

 

「あぁ!忍びさん、無事だったのね!」

 

「良かった……」

 

 

妙、花という、特に親交の深い人々も傷一つ無い。

 

無意識のままで、ほんの少し眉間の皺を薄めて、安堵の息を零す。

狼は自分自身がどの様な心情で居るのか、自分でもいまいち分からぬ。

……が、しかし胸の内がじんわりと温まって、肩の荷がすっと軽くなった事は間違いない。

 

直ぐ近くで相対した限りでは……彼等に戦による高揚の気配はあれども、()()()()だ。

深く淀んだ絶望といったものは、ほんの少しも香ってこなかった。

 

 

「若様も、御当主様も無事よ!玄斎のおじさま率いる葦名衆と、寄鷹の人たちが守っているわ!」

 

「ああ、とにかく中へ!後ろからまだ来てるわ!」

 

「……!」

 

 

狼が玄関を潜り使用人達の列に加わった瞬間、大介は玄関横に備えられた綱を引き――そして、絡繰りを作動させる。

歯車が回りきるのと、六人の忍びが門を潜るのは同時だった。

 

ギリリリィ!と鋼の弦を引き絞るような高音が響く。

それは玄関の両隣にある壁から鳴っていた。

 

喧しく脳内に爪を立てる雑音は不愉快極まりない。

しかし――狼が三晩もの間コツコツと組み立てた()()()()は、その有り余る猛威を果敢に振るう。

 

 

「なんとォ!?」

 

「防備を整えるにも程があろう!」

 

「アホか貴様ら――!!」

 

 

軋む音が止まり、一拍。

木と鋼糸の衝突音とともに発射された一対の()()は一直線に、六人の中心点へ一瞬で到達した。

空気を斬り裂く音を鳴らす暇もなく、さながら忍びのように敵の喉元へ食らいつく。

おお、素晴らしき技巧の冴えである。

絡繰り万歳、機械を讃えよ、叡智こそ人の誉れ。

 

限界まで鋼糸を引き絞られ、その力を以って射出される固定大型弩(バリスタ)の一撃は強力だ。

人の背丈と同じほどに大きな矢をただの人間風情が止められる筈もなし。

 

そして矢が通り過ぎたと思えば――ぽっかりと肉が抉れた三体の死体が立ち竦んでいた。

 

 

「絡繰屋敷か……!」

 

「梟め、これを表すなら真田丸(要塞)とでも言っておけ!」

 

 

しかしさすがは歴戦の忍びである。

彼等は死した仲間の骸を見て一瞬怯んだが、しかしそれのみであった。

すぐに冷静さを取り戻し、二門の絡繰りが連射可能ではないことを見抜く。

というかそんなものが存在されては困るのだが。

 

 

「二度射撃される前に討つぞォ!」

 

「おおおォ!!」

 

 

正しく忍びらしい俊足だ。

適切かつ滑らかな体重移動によって予備動作無しで駆け、数秒後には大介に斬りかかるだろう。

 

しかしこの翁の表情には微塵も恐怖の色など浮かんでおらず、むしろ皺くちゃの顔をあらん限りの笑みで満たしていた。

 

気が違えたか?

孤影衆の一人、先頭を走る正貫は訝しげに瞳を細めた。

鉄火場特有の高揚感、命のやり取りに際する思考の高速化。

まるで自己が二分にされたような不思議な心地の中で、寸分の思案を巡らせる。

 

……が、今更考えた所でどうしようというのか。

もはや翁との距離は三間(四メートル半)。足音からして、すぐ背後には仲間たちが追走している。

そんな状況から起死回生の一手を打つなど――

 

 

そこで、ふと視界の端に見えてしまう。

眼前にある翁の手先。

先ほどとは違い、また別の壁から伸びた棒を掴んでいた。

 

――ゾクリ、と悪寒が背筋を震わせる。

明確な根源は理解できずとも直感が叫んでいる。

 

 

「マズ――!!?」

 

 

い、と発音しようとして、それは叶わなかった。

家屋のすぐ前。軒下にある石畳が微かに動いた。

暗闇の中であるが故に発見が遅れ、そしてそれこそが致命的である。

近付いたからこそ、か。 この異常に(不運にも)気付いた男は、刹那の内に大きく目を見開く。

 

ぱかりと()()、地中にあるまた別の絡繰りが――()()()()()によって十三にも及ぶ竹杭が虚空を切り裂き飛び出したのだ。

 

先頭に立つ男のみ、辛うじて視認できた殺戮兵器。

ご丁寧にも先端を尖らせ、軽く炙ることで凶器として調整されている。

この製作者は性格が悪いに違いない。

 

――故に、男は後続の同胞に警告を出そうとする。

迫りくる切っ先がやけにゆっくりと見える。

最期の最後に命を燃やし、引き伸ばされた時間間隔の中で、それでも抗おうと決めたのだ。

ここまで近づいた自分はもう助からないだろうが……しかし後方の彼等はそうではない。

 

この孤影衆、槍足の正長の直弟子"狐像(こかた)"を舐めるなよ。

何も遺さず死するなど、あり得るはずがないのだ。

だからこそ!我が()()は、まだ生き長らえる――!

 

 

「カハっ」

 

 

――哀れなり。当然、それは言葉にならない。

ひゅうひゅうと空気が喉を通り過ぎることさえ無く、肺の中で砕けてしまった。

鎖帷子さえ容易く貫き、肺を、腸を、喉を切り裂かれた。

 

訳も分からず体を前に倒し、慣性のままに空を飛ぶ。

後方から見れば、いよいよもって愚かな老兵に飛びかかったように見えてしまうだろう。

 

――違うのだ。そうではない。逃げよ、逃げよ、逃げよ! 此奴らは――

 

 

「……南無」

 

 

色を失い始めた視界の中で、敵の女忍びが静かに手裏剣を構えている。

態々警告の怒声を封じたのは……きっとこいつか。

 

ざくり、ざくりと、黒く塗られ闇に紛れる鉄の刃が足の健を斬り裂く。

貫通せず、大きな音もなく、警戒させず、万が一の起死回生を潰す。

 

そうしてあらゆる抵抗を潰されてしまえば――もう、すぐ三寸先に迫った竹杭を逃れることなど不可能だ。

後続の二人は、事ここに至ってようやくその絡繰りに気付いた。

目が認識し、脳が処理し、司令を出そうとして電気を流すが……しかし、その信号を流す先は、もはや壊れて使い物にならない。

 

 

「くそ」

 

 

絶妙な頃合いを計らって投じられた4つの手裏剣。

それらはまた絶妙な狙いを穿ち、腱を断つ。

 

数秒後には三人揃って空中浮遊。

更に数秒で串刺しの三兄弟。

 

 

「竜胤さえあれば――」

 

「恨めしい……ッ!!」

 

「―――」

 

 

ぐじゅりと、無残に響く開花の音。

玄関前に添えられたのは、剣山に刺し活けられた肉の花だ。

……実に、哀れである。

 

狼は()()()()()を隠すように、穏やかに合掌した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「狼!無事であったか!」

 

「御子様」

 

 

屋敷の奥深く。

当主や奥方達と共に、多数の兵に守られた九郎の姿があった。

広い座敷の大半を血臭さを纏う男達が埋め尽くし、その中央に立つ彼等も、やはり色濃い疲労を表情に浮かばせていた。

気を使ってか、人海を割り開けてくれた道を通り九郎の面前に辿り着く。

 

怪我一つなく、疲労困憊というわけでもない。

狼はしなやかに伸びる膝を地に着け、いつもと同じように跪く。まるで、今この瞬間だけでも日常に回帰できたようだ。

ああ、なんと素晴らしい事だろう。

 

ここにきてようやっと人心地ついたような、淡く柔らかい安堵感に満たされた。

 

 

「……ああ、良かった……」

 

 

九郎はもう一度、大きく深く息を吐く。

 

狼が梟の元に呼び出されたとは聞いていたが……まさか、その親子の団欒を斬り裂くように内府の襲撃があるとは予想していなかった。

それに梟に用立てられた居住地は平田の端も端。

 

それでもきっと狼ならば――直様この場に参じようと疾走すると知っている。

 

深い信頼関係を築くには、まだまだ短い年月しか供にしていない。

しかし狼とは()()()()女だと、九郎はその慧眼を以て見通していた。

 

……それを知っていたからこそ、不安だった。

 

道中で敵兵に害されるのではないかと恐れていたのだ。

自分にとっては、初めての専属の部下。

自分に付く――自分()()に跪く忍び。

 

だから、彼女がこの場に無傷で現れて……心底、本当に心底安心しているのだ。

 

何事も変わりがないようで――

 

 

「……ご安心を」

 

「あ」

 

 

――ぴりりと頭が痺れた。

九郎は自分の体が硬直する様を、どこか他人事のように実感する。

 

狼が俯いていた顔を上げ、九郎の瞳と瞳を合わせた瞬間。

そこに宿る何かを見て、まるで理解できぬものを見たように脳髄の回転が停止した。

 

常と同じように、怜悧に整った(かんばせ)が九郎を見つめる。

ただそれだけの事なのに、四肢に奔る電気信号が痛く苦しい。

 

視線が一点に吸い寄せられ、ふわふわと浮かぶように重さを無くす。

 

 

「如何な、難敵が在ろうとも」

 

 

――この、眼は。その影は。

 

深く、熱く、静かに、鋭く。

親愛か。憎悪か。敬意か。謝意か。はたまた、罪悪感か。

九郎が見つめる狼の瞳は、いつものような不愛想な優しさを押しのけ別のナニカが居座っていた。

 

訳の分からぬ馬鹿げた熱量だ。眼前に立つだけの己さえ今にも焼け焦げそうで、生理的本能からか嫌な汗が額に浮かぶ。

……そんなもの、知らないぞ。知る機会なんてなかった。

薄い唇を開こうとするが、僅かに振動するのみでちっとも言うことを聞いてくれない。

 

……九郎が経験した短い人生の中では、それを量るに足る素地を培えなかったのだろう。

いいや、老成した賢者であろうとも量りきれないかもしれない。

複雑怪奇、奇怪至極。難解過ぎる感情だ。

 

 

「……狼、そなたは――」

 

 

やっと思いで振り絞った言葉は掻き消え、もどかしさにぎゅっと唇を噛み締めた。

この先を、一体なんと言えば良いのだろう?

 

……言葉を投げかけた所で、届くはずなど無いのに。

 

狼は九郎と対面していながらも、九郎を見ていない。

その先にある何かを見据えて、濁って淀んだ――それと形容できる言葉さえ存在しない情念を猛らせた。

ただそれだけのために女は剣気を溢れさせ、往年の剣聖のように勝利を無心する。

 

全ては己の撒いた種。

だから、それを解決するために取れる手は唯一つ。

 

 

「私が、全てを斬りまする」

 

 

故に一切を根切りにする。

 

孤影衆だけではない。

襲撃者(内府軍)を、だ。

 

 

「忍びを、軍勢を、将を」

 

 

この屋敷を襲撃しているのは、尖兵のみではなかった。

 

()()を見つけたのは半ば偶然の事。

屋敷へ到達する寸前――死体()達の中に、目立たぬように掲げられた印を見つけた。

後続の者達に情報(進軍経路)を伝えるそれは()()()――赤備えを率いる、井伊氏の家紋だ。

 

 

深く、深く納得した。

これまでの行いの果てを、因果の精算を悟る。

義父は()()で竜胤を狙っている。

そして、その過程で(結果に)己を殺そうとしているのだろう。

 

――それこそ、多少事(戦火)が大きくなっても構わないと思う程に。

 

 

「例え……この、日ノ本であろうとも――必ずや」

 

 

平田に攻め入る井伊の赤備え、その数七千。

背後に在る内府公は全力を尽くしている。

それは何故か?

 

何故(なにゆえ)、平田にそれほどまでの価値を見出した?

答えは決まりきっている。

 

不老不死(竜胤)なんぞ、どんな人間であろうとも一度は求めるものだ。

きっと――これもそういう事なのだろう。

 

 

 

 




おお!偉大なる徳川公よ!内府様よ!
修羅の卵が目を開いたぞ!
怨嗟の拠り所が喉を震わせたぞ!
不死の忍びが矛先を定めたぞ!

備えよ、膳えよ!
これより始まるは大戦よ!
人の欲のぶつかり合いだ!

ああ――なんと、なんと美しいのか!








目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

圧潰

ぎりぎりぎり。

日光照らす森の中。

隠れ里のように広がる平田屋敷の中央を、一切無遠慮に斬り裂いたのは鉄の悲鳴だ。

起伏に富み、竹林が茂り、豊かな緑に満たされている――それは最早、過去の姿に過ぎない。

今となっては焼け焦げた土と、炎が燻る材木が散らばるばかりである。

 

加え、本来なら屋敷をぐるりと囲っていた塀は砕かれた後。

侵略者によって齎された破壊の痕跡は無惨に散らばり、焦げた瓦礫や漆の姿が哀愁を誘う。

 

 

「……ぅ、はぁ……っ」

 

 

――その瓦礫の影から、カチカチと歯と歯がぶつかる音が響く。

頬当ての中で反響するそれがなんとも苛立たしく、赤備えの男は大きく舌を打ち鳴らした。

 

あの弦を引き絞る音が響く度に一層肝が冷える。

ああ、肝が冷えすぎて砕けてしまいそうな程だ。

これ迄に何度と無くこれを聞き、そしてその度に仲間達の命を刈り取られたのだ。故に、心腑を凍てつかせる恐怖というのは……至極真っ当な感情の発露だろう。

 

……しかし、ああ。だからと言って怯えていては話しにならぬだろう。

だからこれは違う。そんなものは赤備えに相応しくない!

 

男は唇を噛みちぎる程の勢いで食いしばり、強引に震えを殺した。

 

何から何まで許せぬ。

平田も、忍びも、絡繰りも。そして何よりも攻めきれぬ己達が。

 

戦の余波の中にあっても辛うじて残った燻る材木の影。

陽光を以って輝く"赤"を纏いながらも、今となっては隠れ潜むしか能が無い兵士だ。

 

 

「口惜しい……口惜しいなあ」

 

 

同じ材木の影に潜む仲間達も……戦意に溢れているとは、とても言えなかった。

さすが、籠城戦というだけあって中々攻めきれない。

屋敷の構造や地形を極限まで活かした素晴らしい戦運びだ。

敵ながらあっぱれという他無し。

 

……とはいえ、己等という総体は未だそう減っておらず、どう転んでも平田の者共に勝機など無いのだが。

そうと知っているからこそ、男達は未だ平静を保つことが出来ていた。

 

――いや、訂正だ。憎悪に狂いつつ、無秩序に走らない程度には自身を律している。

 

 

「来るぞ……!!」

 

絡繰り(バリスタ)の大矢だッ!!」

 

 

大気が震え、轟いた。

屋敷の周囲に在る瓦礫目掛け、幾十条もの殺意が飛翔する。

 

外壁の至るところから顔を覗かせる砲門が次々と鏃を吐き出し、全方位目掛けてやたらめったらと連射する。

狼が手ずから組み立てた機構は如何な人間にも扱えるようにと考案され、その上装填さえも自動化されているのだからたまらない。

赤備えの兵から見るともはや――悪夢そのものだ。

風切り音が響く度に、今度は誰が死ぬのかと震えを走らせた。

 

 

「……忌々しい平田め……」

 

 

赤備えの指揮官は泥を吐き出すように呟く。

頬当ての位置を調整し、血走った(まなこ)で只管に憎悪の猛りを投げ飛ばした。

 

この侵略戦を始めてどれ程の時が経ったのだろう。

日が昇り、沈み、また昇る。それを繰り返して……もう、四日目になるのか。

 

内府様の号令によってこの葦名を襲撃したまでは良かった。

一匹の梟の手引きと、精強なる内府の軍。

これらによって易易と平田を制圧できる――筈だったのに。

 

 

「……ちィ」

 

 

しかし……よもや、これほどまでに手こずるとは!

 

兵は薄弱?ただの庶家?

何だそれは、ふざけているのか。

剣聖以外は粒はあれども玉は無く、内府の力を以てすればどうとでもなると?本当にそう確信していたのか?

 

男は自分自身を深く憎んだ。

平田を、綻んだ情報網を、梟の手引きを、何よりも己自身を!

 

濁った眼を取り替えて見れば、どうだ。一介の庶家が真田丸にも劣らぬ要塞を築いているではないか!

 

 

「しかし……突破口は、ある筈だ」

 

 

充血し赤く染まった瞳で、至るところから砲門が生えた屋敷を検分する。

 

所々に瓦礫などの障害物はあるものの――それだけだ。

間違っても伝令なんぞは通り抜けられないだろう、強固に構築された包囲網。

これだけでも、まず孤立していると見て間違いない。

加えて言えば。奴らには補給線は存在せず、正面切って戦えるような戦力もそう多くない。

 

対してこちらはどうか。

何処を見ても多くの赤備えや孤影衆が陣取っており、人員不足という言葉とは無縁である。

血の気の余った輩がちくちくとちょっかいを出し続け、敵方に継続して少量の出血を強いているのだ。

その上十分な量の兵糧が有り、消耗戦という状況であっても内府の側が圧倒的に優勢。

 

状況を見るに……持久戦を挑むべきか。

どうせ、こちら側には腐るほどの兵士が居る。

絶え間なく攻め続け、向こうの人員と物資に消耗を強いるのだ。

 

当たって砕けよ、火の玉と成れ。

攻めきれないならば、攻め続けろ。

この起伏に富みすぎた地形の妨害など無視して、只管に体当たりを続けるのだ。

 

……とはいえ、あの絡繰りは脅威だ。

下手を打てば大した消耗を押し付けることも出来ずに死に絶えてしまう。

 

精密すぎる大矢は攻め手を封じ、辛うじてそれを抜けた兵達を鉄砲や地中から飛び出す無数の槍が迎え撃つ。

このままでは攻め落とすまでに日数が掛かり、何らかの対策を取られてしまうかもしれない。

 

――ならば、どうする?

男は乱雑に積み上げられた策を捏ねくり回し――一つ、大きく頷いた。

もし周囲にその考えを聞くものがあり、正常な思考回路を持つのであれば即座に止めに掛かるだろう。

いっそ悍ましいと言わざるを得ない暴論を以て、男の指針は決定してしまった。

 

――"攻めて攻めて攻めて、幾百の屍を積み上げてしまえば道になる筈だ"。

"一人の命で押し通れないならば、百の死で押し通る"。

 

戦略とも作戦とも呼べない無能の極みだが――男はそれを良しとした。

 

絡繰りと地形を活かした砦? 実に結構。 内府に対抗するに足る牙城だろう。

策を弄し、頭蓋を捻った叡智の結晶は、その道に疎い……というよりも、そういった知性とは程遠い男にさえ輝かしく見える。

 

ああ、まさに鉄壁!金剛石のように堅牢だ!

 

 

「それも当然だろう」

 

 

"不老不死の霊薬(竜胤)"を守護する城が藁と泥で造られる筈もなし。

言ってしまえば、このあまりにも堅牢過ぎる陣は――そう、当然の事である。

 

――それを"力"でねじ伏せてしまえば、どれだけ()()()()のだろうか。

想像するだけでも……股座が、いきり立つッ!!

 

 

「――行け、往け、逝けェ!! 竜胤を手にしたモノには!魂からをも溢れる褒美が授けられようぞッ!!」

 

「おお!内府様への忠義を示せェ!!」

 

「おおおおォォ!!!」

 

 

影から、せめてもの存在を主張するように怒声で喉を震わせた。

喉が張り裂けるほどに唾を飛ばし、冷めかけた兵の心胆に活を入れる。

 

頬当ての中でじっとりと滲んだ汗をも振り払うように、強く大きく熱を上げた。

"怒り"を多分に孕んだそれに呼応し、男がいる影とは別の影から熱気が広がる。

 

 

「よい、よいぞ」

 

 

男はかすかに破顔し、満足げに頷いた。これでこそ誉れ高き"赤備え"である。

背を預ける材木の影から顔を覗かせ、次なる一手を打つためにも平田屋敷を睨めつけた。

 

そうとも。

男には部下たちを十全に使いこなし、眼前の砦に攻め込み、求められた戦果を主人のもとへ持ち帰る必要がある。

多少の無理は押してでも、活路を切り開かねば。

 

……その道中での被害?失われる人命?掛かった費用?

 

ああ、()()()()()()

()()()()()()()、どうだって良いだろう。

高々いくらかの人命が失われただけだ。

 

恐ろしいものは他にあるだろう?

それよりも、何よりも――恐ろしいのは"人の欲"。それのみよ。

ある()()()()()によって齎された竜胤(不老不死)の情報。

内府様――徳川家康公が沸き立ち、それを手にする為に全霊を尽くすのは実に自然なことである。

 

熱に狂い、眼を輝かせ、辣腕を振るう。

あらゆる障害を乗り越え、万人が求める夢を掴むために何でもする。

夢とは、そういうものだ。

 

だから、そのために幾つもの屍を積み上げる。

だからこそ、己達は派兵されたのだ。

この様な小国まで遥々と、幾千万の兵を引き連れて。

 

――その過程で、力ずくでねじ伏せられるなら尚良し。

徳川の"力"を学のない民にも分かりやすく伝えられるし、訳が分からないという恐怖を植え付けられる。

そして何よりも、()()()()()()()

 

狂おしい程に身を焦がす憎悪を、心を砕く苦難を、兵の命を背負う筈の思案を!

それら一切を薪に焚べた快楽の炎は、より一層強く燃え上がる。

 

つまり、壁は大きければ大きいほど良い――この災いこそ福音の兆しよ。

難行の果てに乗り越えた時、己はどれ程心地良くなれるのだろうか。

 

……ああ、無論仕事(簒奪)は果たす。

 

御上様は竜胤を求める。己は力でねじ伏せる快感を求める。

この二つは両立できるとも。

つまり、相互利益(Win-Win)というヤツだ。

 

上様にとって、一匹の梟によって目の前に吊り下げられた餌は極上の極み。

寸前に考えていた餌はどこぞへと放り投げ捨て、竜の尾を追い続ける。

……それ故に、"熱意"が過去例に無いほど高まっているわけで――だからこそ、己のような狂人が起用されてしまった。

 

 

「明日には更に七千の兵が到着する!彼奴らに手柄を渡したくなかろう!!」

 

「応とも!」

 

「ここまで攻め込んだのは我らの功ぞ!」

 

「ならば往け!()()()()()()()()()()()者共の為にも!我らの武威を示すのだ!!」

 

 

おおおおおぉぉぉ!!!と大気と大地を揺らす鬨の声が木霊する。

それに合わせて四方八方の瓦礫の中から真紅の兵士たちが姿を表し、重量級の甲冑を物ともせずに地を駆けた。

全方位から中央の屋敷を目指す様はまさに圧巻!

 

槍に刀に鉄砲に大砲に。

幾百人の男達は獲物を掲げ、我先にと屋敷目掛けて疾走する。

 

 

「まだじゃ……まだ……もう少し引きつけよ」

 

「……はい」

 

 

――それを、感情を押し殺した瞳で睨みつける。

荒れ狂う土煙を覗き穴から認めた翁は、周囲の使用人達と共に取っ手を握り締めた。

本来()()()()()()筈だった総体を曝け出し、廊下にずらりと並ぶ様はいっそ荘厳だ。

絡繰り仕掛けは雄々しく牙を剥き、溜め込んだ力の解放を待ち望んでいる。

 

固定大型弩(バリスタ)、バネ仕掛けの竹杭、自動装填の大砲、原始的な散弾銃(トリカブト入り)

これら()()()()()()()()()()()に活躍する絡繰りは全て過不足無く猛威を振るい、内府の軍を寄せ付けぬ働きを見せつけていた。

 

 

「今じゃァ!!」

 

「承知!!」

 

「撃て!撃てェ!!」

 

 

バシュ、という木材が鳴らす擦過音。ドン!と火薬が破裂する発射音。

居間、廊下、土間。

屋敷中、外壁に面する部屋の全てから絡繰りの稼働音が響く。

地から地へ降り注ぐ流星群は過剰なほどに破壊を齎し、また幾つもの命と引き換えに束の間の膠着状態を生み出した。

 

 

「……一先ず、しばらくはこのままか……」

 

「……そう、ですね」

 

「少し、休むか?」

 

 

翁はちらりと視線を振った。

自身の担当する固定大型弩(バリスタ)の隣。

同じ種別の絡繰りを制御している女性(お市)は、仄かな暗闇の中で瞳を揺らした。

 

 

「いえ……まだ、大丈夫です」

 

「……そうか」

 

 

嘘だ。

 

この状況下では満足な休息が取れるはずもなく、汗と土埃で汚れ、目の下には隈がこびりついている。

その様相を見て、誰も大丈夫等とは思えないだろう。

 

しかし……翁には、それを指摘できるだけの言葉はない。

それに、多少の無理を押してでも動かざるを得ない状況でもある。

できることは、ただ多少声をかけて気を紛らわせることだけだ。

 

 

「不安か?」

 

 

ぴくりと眉が震えた。

半ば反射的に瞳を細め、深く呼気を吐き出す。

お市は乱雑に纏められた頭髪をするりと撫で付け――さて、なんと返すべきかと眉をひそめた。

 

 

「………不安、ではあります」

 

 

前代未聞の大侵攻。

それも単なる葦名への侵略ではなく、明確な目的を持って――この平田を襲撃しているのだ。

明らかに不釣り合いなほどに戦力が供給されていることは誰でも分かる。

なら、何故これほどまでに戦力を集約している?

何に対してそれほどの価値を見出した?

 

……想像したくはない。考えたくもない。

しかし、それでもだ。

この場にいる面々は事の起こりを理解している。

 

 

「徳川が、竜胤を狙っている」

 

「……そうじゃな」

 

「日ノ本が……敵に回る」

 

 

――この戦国の世に突然表れた、不老不死の霊薬。

何処から情報が漏れたのか?

それは、お市達には一切わからない。

 

しかし……少なくとも()()()()()にその(情報)が巡り、それを受けて指先(軍勢)が葦名まで伸ばされている。

その事実だけでも……絶望的と、言わざるを得ないだろう。

 

 

「……それに」

 

 

乾いた唇をちろりと舐め、二の句を告げることが出来ずに黙り込んだ。

ぎゅっと力を込められた眉間は、いつぞやの()()のように深い皺を刻んでいる。

脳裏に思い浮かべるのは、不愛想で、不器用な女性の姿だ。

 

 

「……………」

 

「いえ、何でもありません」

 

 

ため息一つ。

垂れた前髪をさっと耳にかけ、再び絡繰りに向き合った。

歯車がギリギリと歯を噛み鳴らし、木と鋼とバネによって構成された自動装填の機構が作動している。

狼が手ずから造り上げた時代にそぐわぬ絡繰り(オーパーツ)のおかげで一先ずの防衛は出来ているが……果たしてそれもいつ迄持つのか。

 

食料などの備蓄はそれなり以上に蓄えられているが、砲弾や大矢などの特殊な物品はそう多くない。

それに、備蓄では人員の消耗は埋められない。

不眠不休で動き続けるにも無理があり、この様な状況では寝入ろうとも疲れが取れるはずがない。

 

人員と物資の限界の足音が、ゆっくりと近付いて来ていた。

 

 

「……忍び殿」

 

 

――故に、起死回生の一手が必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………あ?」

 

 

ずるり、と刃が心腑を貫き、赤い赤い生命の水が泉を作った。

喉笛に一閃、胸を一突き。

平田屋敷の周辺を囲う様に散らばる瓦礫。 その影にて楔丸を振るい、気取られぬように少しずつ兵士達の命を奪っていく。

日の出とともに平田屋敷を脱出し、ちまちまと屍を積み上げて四時間程。

 

予想はしていたものの、内府の戦力は……気持ちが悪いほどに強大だ。

こうして一人ひとり削っていった所できりがない。

少しでもお市や妙の労力を減らそうと努力したものの、やはりこれ以上は無駄だろう。

 

 

「御免」

 

 

左手で緩く合掌の型を作り、一瞬の祈りを捧げる。

倒れ伏す赤を身に纏う兵の瞼を下ろしてやり、しばしの黙祷を捧げた。

忍びは殺しを生業とするが、しかし決して一握りの慈悲を忘れてはならぬ。

なんとも滑稽極まる願いだが、それ故に心胆に刻み込んだ。

 

 

「………」

 

 

最後に一瞥をくれ、踵を返した。

最初は小走りで、次いで駆け足に。

とっ、とっ、とっ。限りなく小さな音のみで地を踏みしめ、障害物の影から影へ跳び移る。

可能な限り見つからぬよう仏に祈り(月陰の加護)、兵達の死角を縫うよう意識を尖らせた。

 

――そうしていれば、あっという間。

強靭な足腰と優れた隠形が合わさり、忍びらしい最優の移動が実現される。

敵に見つかりたくない?争いが嫌い? ならば誰にも見つからずに走れば良い。

 

ただそれだけで包囲された屋敷の姿は次第に遠のき、竹林が茂る下り坂へと辿り着く。

 

……目指す方向は、屋敷通りの先の先。

歴史ある竜泉川の端の端に、丁度野営地を拵えるのに丁度いい開けた場所がある。

何もそこに野営地があるとは断言できないが――目ぼしい場所から片っ端から探さねば、()()を達成できる筈がない。

 

軽く呼気を整えながら、下り坂を睨みつけ――

 

 

「………ッ!」

 

 

――視界に赤が映る。

狼は半ば条件反射的に地を蹴り飛ばし、道のすぐ横に茂る竹林に体を滑り込ませた。

 

 

「ん?何だ……?」

 

 

三人の歩兵が刀を握り締め、悠々と坂を登ってきている。

連絡兵なのだろうか?素早く移動できるようにか軽装に身を包み、平田の包囲陣へと向かっているらしい。

一瞬だけ目にした狼の影を追い、あちらこちらへ視線を彷徨わせている。

 

 

「……………」

 

 

足を止めた今が好機(忍殺)か。

静かに思案を回す。

 

連絡兵、という事であれば、指揮役と指揮役を繋ぐ役割を果たしているということだ。

()()()()()()平田の包囲陣の中に指揮官らしき姿は見えなかったが……少なくとも、これで脳がなくても動き続ける軍勢で(化け物じみた統率)はないと分かる。

こやつらを尾行することで指揮官の居場所も判明する筈だ。

 

狼は素早く考えをまとめ上げ、小さな体を更に小さく縮こませ、極小の衣擦れの音と共に後をつけた。

ああ、赤備えという存在はこの上なく目立つからありがたい。

それこそ、戦場では的になりそうな程だ。

 

 

「……まあ良い。行くぞ」

 

「応」

 

 

がちゃりがちゃりと甲冑が鳴らす呼吸を響かせ、坂を登り、包囲陣へ目掛けて走る。

焼け焦げた土と炭の匂いが狼の鼻孔を擽り、するりと抜けていった。

来た道を引き返す形ではあるが――まあ、首級への道案内を見つけられたと考えれば、そう悪いことではないだろう。

 

狼はズタボロの遮蔽物から遮蔽物へと渡り歩き、決して少なくない赤備えの兵達の死角を縫い続けた。

 

包囲陣を組んでいるだけあり、至る所で兵士が戦意を滾らせている。なんとも肝が冷えそうな話だ。

……とは言え手製の絡繰り達の攻撃を恐れてか、皆一様に瓦礫や拵えた防壁の裏でじっと息を潜めているのだが。

 

それに……正面は兎も角、裏に対する警戒は薄いらしい。

その御蔭ですんなりと尾行を続けることが出来た。

 

これが本当の城攻め(包囲陣)であれば――こんな隠形、間違いなくすぐに見破られていた。

……が、しかし。今回に限って言えばそうではない。

狼が調べた限りでは、一度に侵攻している兵そのものはそう多くないのだ。

起伏に富みすぎた(兵が収まりきらない)地形のせいか、指揮官(無能)の策のせいか、くだらない政争(手柄の奪い合い)のせいか。

 

ただ一つ言えるのは、そこに光明があるという事実だ。

あらゆる行動で()()()()()()()()()()()()()()、きっと、おそらくこの場は凌げるだろう。

 

 

「む」

 

 

――ふと、そこまで考えた所で伝令達が足を止めた。

彼等の正面に立つのは土埃に薄汚れ、色褪せた"赤"を纏う武士だった。

 

 

「伝令に参りました」

 

「うむ、ご苦労!」

 

 

瓦礫の隙間から煤けた内部へ潜り込む。

少しでも有益な情報を手に入れるため、彼等の会話にじっと聞き耳を立てた。

 

 

「これを」

 

「ああ、然と受け取った」

 

 

ぱさりと紙が擦れた。

受け取った書状を読み進めているのか、しばし言の葉が途切れる。

 

怒声と悲鳴と絡繰りの音の合唱の中、彼等の周囲だけは嫌に静かだ。

――知らずの内に、じとりと背筋が汗ばんだ。

 

 

「……はは、そうか」

 

 

一通り読み終えたらしい指揮官は、ぶるりと肩を震わせる。

如何な文章が綴られていたのかは分からぬが――視線を顔面に差し向けると、はちきれんばかりの笑みが貼り付けられていた。

頬当ての上から見ても、明らかに嗤っていると分かる狂笑。

 

一体それは如何な感情の発露なのか――狼にはとんと理解が及ばぬ。

果たして、何を思えばその様な笑みを浮かべられるのだろうか?

一体どんな人生を送ったのだ?

あまりにも理解の範疇を超えていた。

 

……とはいえ、彼等はそんな事知らぬし関係ない。

 

指揮官はもう一度ご苦労!と声をかけ、伝令達を送り返した。

 

 

「む……」

 

 

――さて、どうしたものか。

小さく唸り、思考回路に熱を入れる。

 

狼の前には二つの道がある。

 

ひとつ、このまま包囲陣の指揮官を殺め、平田の一先ずの安全を確保する。

ふたつ、伝令を尾行し、後方の兵達を殺めた後に包囲陣を崩す。

 

一つ目の選択肢を選んだ場合。

例え危機を脱そうともすぐにまた別の軍勢が襲来し、同じように包囲陣を組まれるに違いない。

それに頭を殺して混乱させた所で、狼だけで手足(雑兵)までを根切りにすることは不可能だ。

一掃するならば平田の戦力全てを結集する必要があり――きっと、その大勢が死ぬ。

狼自身としては……正直、あまり取りたくない手段である。

 

ならば二つ目はどうか?

後詰めの指揮官を殺し――いや、それだけでは不足だ。

 

効果的に痛打を与えるならば……そうだ。兵糧や装備に細工を施そう。

この場にいる兵士とて、何もこの場で食料や装備を調達しているわけではない。

後方の拠点から物資を輸送され、それを燃料に苛烈な攻めを実現する。

ならば燃料に()を混ぜてしまえばいいだろう。

 

 

「…………」

 

 

そうと決まれば直様この場を離脱し、さっきと同じように伝令を尾行をすればよい。

自信が埋まっている瓦礫にそっと手を添え、一切の音を立てぬよう抜け出そうと――

 

 

「――匂い立つなあ」

 

 

――背筋に氷が突き立てられる。

頭頂から心臓までを電流が駆け抜け、狼の本能にやかましいまでの警鐘を打ち鳴らした。

 

 

「ああ、いい匂いだ。戦の、血の匂いだぁ」

 

 

悍ましい、粘ついた思念が空間を埋め尽くす。

錆びついた鉄球のように重くなった眼球を回し、その発信源に――錆びついた赤に視線を向ける。

 

――目が、合った。

 

 

「勿体ない、勿体ない。そのような香りを纏う女がこそこそしおって……けしからん。私が、戦の何たるかを教えてやる」

 

 

次の瞬間。

意識の隙間を突いたように、三十尺はあったろう距離を埋めて瓦礫の前に立っていた。

腰に佩いていた太刀は抜き放たれ、日光を受けて銀に輝く。

 

 

血に汚れた切っ先が空を裂き、見開かれたままの左眼に迫った。

 

 

 

 

 

 








目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

vs戦大好き赤錆男





三寸先に迫った切っ先。

金切り声を上げる本能が促すまま咄嗟に半身を捻り、同時に楔丸を眼前に翳した。

瓦礫に身体操作を阻害されながら、針に糸を通すが如き繊細さで危機に抗う。

 

 

「―――!!」

 

 

ギャリリィ!

鋼が擦れる耳障りな悲鳴が鼓膜を突き刺す。

やかましく騒々しい。 しかし、これこそが生に実感をもたらす妙薬だ!

峰を横から押し当て、血塗れの太刀の軌道を強引にずらした。

 

――顔の横を貫いた切っ先によって害されたのは、たった一房の頭髪のみ。

はらりと舞うそれを尻目に、腹と足腰の粘り強さで跳ね起きる。

 

 

「はっは、やるなぁ!!」

 

 

瓦礫を突き破り姿を見せた狼に傷一つ無いことを認め、赤錆の男は黒い頬当ての中で大きく嗤った。

大きく広がる土埃を抜き放った分厚い太刀で振り払い、とてもとても嬉しそうに瞼を細める。

カラカラと嗤うその様だけを見れば、気の良い大男という印象を受けるに違いない。

 

――ここが戦場でなければ。

 

何故、敵に笑いかける事ができる。

何故負の感情を纏っていない?

 

つい先程までは泥よりも尚淀んだ殺気を放っていただろう。

気が狂っているのか、ただ自己を律しているのか。

……どちらにせよ、狼には理解の及ばぬ精神構造だ。

 

光を通さない純黒の瞳で睨みながら、四肢の末端に至るまでに細心の注意を払う。

視線を逸らさぬまま筋骨に電気を流し込み、とんとんとん、と機敏に地を踏み宙を跳ね、間合いを測った。

 

そうやって常に切っ先で威嚇する彼女に何をするかと思えば、殺意を向けるでもなく悠々と眺めるだけだ。

 

……益々意味がわからない。

ほんの僅かな重心の揺らぎさえ見落とさぬよう目を凝らし、男の思考を暴こうとする。

 

――が、それを知ってか知らずか。

男はいっそ無防備な程に自然体で、狼の警戒さえも物ともせず太刀の腹を弄んだ。

刃をするりと撫で埃を払う姿は隙だらけに見えて、しかし斬り掛かるにはどうしても躊躇を覚えてしまう。

刃を吹きかぶった一寸先に、自身の四肢を切り裂かれる幻影がチラついて仕方がない。

 

……不可解な男だ。

狼は一層警戒心を強め、どうとも言い難い底知れぬ不気味さを漂わせる男を睨みつけた。

 

 

「くくく、随分とまあ……たまらぬ殺気で焦がしてくるものよ……」

 

 

刀身に滴る血糊を掬い上げ、指先を擦り合わせながら柄を握りしめる。

男は――いっそ、愛おしげにも見える眼差しで狼を見つめ、柔らかく剣先を傾け正眼に構えた。

 

そして()()

からから、くつくつと。

何が面白いのか、頻りに嗤う。

そうして身構える狼を、心底嬉しそうに眺めるのだ。

 

狂気的だ、と思う。

浮世離れした気配は何処か朧げで、水面に映る月のようにあやふやだ。

まるで――心をこの場ではない何処かに、ぽつんと置き去りにしているよう。

現実味が伴っていないから、夢心地だからこそ支離滅裂な振る舞いを繰り返す。

 

……いいや、流石にこれは邪推というものか。

 

ともかく、狼に言えることはただ一つ。

 

()()()()

 

この上なく、やり辛い。

……いっその事、開口一番で殺意露わに斬りかかってくれた方が楽な物を。

 

 

「…………」

 

 

眉間に力が籠もる。

陽光(破邪)を背に受け輝く男は、清浄さとは一切無縁の血臭(魔性)を纏ってゆるりと構えた。

刃渡り、凡そ三尺足らず。

刀身は太く厚く、非常に鋭利。

その振る舞いとは打って変わって、巨木が如き深みを見せる剣気。

狼の喉が知らずの内にごくりと鳴った。

 

紛うこと無き難敵である。

何度も()()()()()挑むべき、常識を逸脱した傑物。

今回は何度目で攻略できるのか――

 

――ああ、いや……もう死ねないのだったか。

 

骨肉に染み込んだ精神(不屈)の前提条件たる呪い。

それがもはや存在しない過去のものであると、狼は今になってようやく実感する。

 

今生では始めて為す、難敵との命を懸けた殺し合い。

敗北なぞ許されないという自己を糾す重みが双肩にのしかかった。

 

……これが竜胤の呪いを受けた後であれば気負わず、ただ斬り合えば良かったのだろう。

しかし今回の狼は死なず(不死)ではなく、ただの(忍び)であると弁えなければならない。

人斬りとしての才気を磨こうと、空を飛ぶほどの斬撃を放てようと――結局の所、ただの人に過ぎぬのだ。

 

死ねば、そこで終わりだ。

そんな当然の事さえも何処か新鮮で――とても■らしい。

願ってはならぬのに、欲してはならぬのに。

主を守る為という一点のみで、身を焦がす我欲がその矜持(くだらない)の尽くを食い荒らす。

 

 

「ふぅ………」

 

 

――白霧の呼気に合わせて、脳髄を満たす狂おしい熱気を吐き出した。

 

いくら思考を回したところで今この場には関係ない。

狼にできる事は、ただ殺めるのみ。

 

死ぬかも知れぬが、死なぬかも知れぬ。

どうせ引けぬのだ。

ならば押し通るしかないだろう?

 

 

「ああ……いいなぁ、おぬし」

 

 

大男が恍惚と呟く。

まばゆい宝石を眺めるような狂気を浮かべた瞬間――。

 

眼前、目と鼻の先の位置に影が瞬く。

コマを飛ばしたかのような脈絡の無さで、赤錆の男が天を突き刺すように()()()()()()()()()()

 

 

「―――ッ!?」

 

 

――寄鷹斬り、逆さ回し。

 

脳髄が命令を下すよりも尚速く、脊髄反射の域で行われる斬撃と離脱。

右の斬り手が太刀とかち合うとほぼ同時――上体を翻し、天と地がぐるりと反転する。

素早く左の手で体を支え、跳ね返し、空を舞う軽業を以って幾ばくかの距離を奪った。

 

 

「はっはァ!!」

 

 

それと同時に唸る轟音。

赤錆の足は巨岩の様に大地を踏み締め、空いた距離を再び疾走する。

大気を巻き込み震わせ、殺意の権化たる剛剣が牙を剥いた。

狼の頭目掛けて残光と共に振るわれ――余裕を持って翳された楔丸は、正確にその刃金を弾く。

 

 

「たまらぬなぁ、たまらぬなぁ!素晴らしいじゃあないか、貴公!!」

 

 

次いで大上段、逆袈裟斬り、水平抜き打ち。

瞬く間の内に乱舞する赤い閃光を見切り、往なし、弾く。

斬り結び生まれた火花は幾百を超え、見開かれた狼の昏い瞳を明るく照らして消えていく。

瞬きさえも許されぬ殺意の交流は恐ろしく早い調子で繰り広げられ、当然の帰結として狼の体幹をすり減らした。

 

幾度目かの交錯。

 

狼は少しばかり充血した瞳で、ほんの僅かな機を見計らう。

男が大きく上に振り被り、両腕の筋骨の重みを乗せた一撃を放ち――それが狼の額を裂く寸前にひらりと横へ跳ねた。

 

 

「はぁ……!!」

 

 

好機。

大きく体を捻り、遠心力を十全に活かした右から左へ流れる水平斬りを――

 

 

――というのは、囮である。

 

 

「なに!?」

 

 

狼の斬撃を防ぐために、左側面にて天を刺すよう立てられた太刀を無視し――そして、この瞬間のみは楔丸さえも意識より外す。

刀を握る右腕を瞬く間に折りたたみ、防御をすり抜け強かに肘を叩き付けた!

 

 

「が、ぁ――ッ!」

 

 

拝み連拳、破魔の型。

尊き仙峯寺に伝わる武僧の業だ。

 

赤い甲冑を徹し腹を叩く肘打ちに次いで、今度は左の掌底を腹に打ち付ける。

その動作は狼の研ぎ澄まされた技巧故にいっそ美しく、赤の甲冑を透過し男の柔らかい臓物をかき乱す。

さしもの男も小さく咽た様を視界に写し、しかし何の情動もなく更に続けて背撃を見舞った。

 

 

「――は、はは……何とも奇天烈な女よ!!」

 

 

……しかし、流石の大男である。

いやあ驚いた、と馬鹿のような理由でからからと嗤い、直様僅かな隙(体幹の揺らぎ)を持ち直して太刀を構えた。

つまりはほぼ無傷。

 

……解せぬ。

解せぬし、納得もできぬが……推察は出来る。

その巨大な体躯を支える筋骨は並外れた強度を誇る。故、会心の連撃は――どう見ても、有効打(勝利に繋がる)とは思えぬ結果しか生み出せない。

 

……そんな、あまり想像したくもない理由だろうか。

ああ、本当に想像したくない。理解したくもない。

そんな理由だとすれば、先の決起は一体何だったのか。

 

実に、実に忌まわし過ぎる生命力だ。

親にでも感謝すべきだろう。

 

狼はそれはもう眉間に大きく皺を寄せたし、瞳を濁らせた。

自信のあった連撃が()()の効果しか及ぼすことの出来なかった?

ただ体が強いから?

不条理だろう?

頭がおかしいのではないか?

 

実に、実に……。

なんと、云うべきか。

 

………。

 

……ああ、そうとも。()()()()()()()

並大抵のことでは動じぬ狼ではあるが、今回ばかりは苛立ちが勝る。

そんな心中をぶつけるように、更に激しく気勢を強めて楔丸を振るいに振るった。

 

 

「おお、おお!素晴らしいぞ!!」

 

 

されど、男はそれさえも上回る程苛烈な連撃で大気を震わせる。

狼が一度剣を振るう間に、男は三度も振るうのだ。

頭がおかしいのではないだろうか?

 

しかし、狼とてそんな些事で諦めるような女ではない。

正に不屈、正に鋼鉄。

 

固い決意が衝き動かすまま、斬撃と斬撃の間を縫い刃を徹そうと剣を振るい――振るい……。

……振るう、が……。

 

……その殆どを的確に防がれ、往なされ、或いは甲冑に阻まれた。

まるで鎧武者(西洋甲冑の弁慶)のように堅牢極まる。

以前も同じように考えたが……なんと云うか、対処方法が限られるというのは非常に困る。

頭がおかしいのではないだろうか?

 

狼は頭の片隅でそんな思考を回しつつ――ほんの僅かに剣先が鈍っていることに気付く。

 

 

「…………」

 

 

全力で稼働を続ける四肢の筋肉は、嘗て無い全力の働きに白熱し痛みに喘いでいる。

いつの間にか、狼の額には大粒の汗が浮かび始めていた。

 

――けれどそんなものは些末な事だ。

弾けるそれを振り払いながら更に果敢に攻め立てる。

 

……が、しかし――赤錆の男は、傷を負わずにただ嗤うばかり。

 

 

「………っ!」

 

 

ギィン!一際大きく鉄が嘶き、それを合図とするように大きく後方へ跳ね飛ぶ。

どれだけ切り結ぼうとも変わらぬ状況はようやく様変わりを見せ、ようやく生まれたほんの僅かな間隙に四肢を苛む熱を排出した。

 

吐く吐息は白く熱い。

次第に冷めゆく両腕は変わらず楔丸を柔らかく握り締め……冷却されたが故に、一層鋭く粘り強い剣気を纏った。

赤熱した鋼が冷えれば硬度を増すように、精錬する度不純物を吐き出すように。

いっそ慈悲深い殺意が大気を焦がし、地を掴む両の足が今にも飛びかからんと張り詰める。

 

赤錆の男は常に血走った瞳でその律動を見つめ――そこでふと、視線を横にずらす。

 

 

「おう!貴様等は手を出すでないぞォ!!コヤツは儂の獲物よ!!」

 

「………!」

 

 

――ハッと、我に返る。

 

自己の置かれた状況と位置から逆算し、ようやっと周囲の様相に意識を向けて……そして気付いた。

どこもかしこも赤備えの兵達が居座っている。

散らばる瓦礫の裏側で、焦げた平原の窪みの中で、後方の藪の内側で。

みな、各々の武具を握り締めていた。

 

……迂闊。

あまりにも軽挙であった。

 

このような敵陣の真っ只中で剣戟を交わせば当然音が響き、有象無象をいくらでも惹き寄せるなど当然の事なのに。

赤錆の男の脅威ばかりに目線を奪われ、そもそも警戒すべき存在(多数の兵)を忘れてしまっていた。

 

 

「……援護は、できぬか」

 

 

瓦礫の隙間を通してちらりと屋敷の方に視線を送れば、射線は開けているものの……同士討ちを恐れてか、実際に弓を引くことは出来ないらしい。

 

この窮地を脱する為の援護は望めず、かと言って力尽くで逃れるにも……それは厳しいと言わざるを得ない。

これ程多数の敵兵相手に、上手くやれるのか?

一対一であれば勝機が那由多の果てにでもあろうが、ここまで数が多いとそうも言っていられない。

 

しかし、まあ……できるかできないかではなく、やるしか無いのだが。

 

 

「ふぅ……」

 

 

己の裡に、深く深く埋没する。

勝利への道程を歩むために。死を逃れるために。

 

脳内を雑多に泳ぐ雑念を残らず追い出し、極限の集中を為すべく、ただ専心した。

 

……彼奴は、有り難い事に(愚かにも)狼との一騎打ちをお望みらしい。

律儀にも周囲の赤備えや孤影衆も、「また始まったか」と言わんばかりに呆れた(まなこ)で赤錆の男を見据え、平田屋敷の援護射撃を警戒しながらもこれより始まる戦を観戦しようと腰を据えている。

挙句の果てには、懐から取り出した瓢箪(どぶろく入り)を呷る者まで出る始末。

 

それを流し見た狼の視線に、鋭く冷たいものが混じるのも……まあ、無理はない。

 

今この瞬間にも平田の人々は殺める時を見計らっているというのに、なんとも……こう、考えなしと言うべきか。

狼には一切理解できない人種であることに、まあ違いはないだろう。

 

目の前で静かに腰を落とす赤錆の男も、そんな兵達の様を当然とでも言うように受け止める。

故に端から欠片も気にも止めず、ただ只管に精神統一をしているらしい。

彼のその姿勢だけは、それだけは見習っても良いかも知れない。

 

呼気を吸い、吐き出す工程を只管繰り返す最中というのに。思考の隅で、そんな無駄な敬意がふと浮かんだが――しかし、それが定着する前に吐息に乗って空に解けた。

 

 

「ふぅ―――」

 

 

吸う。

吐く。

吸う。

吐く。

 

一度繰り返す度に裡に沈み、二意の無駄が大気に溶け込み、三相はみな戦意を滾らせ統一される。

自己暗示を幾重にも唱え、一世一代の大勝負へ挑むための素地を拵えた。

 

 

「――――」

 

 

排除する。

排除する。

排除する。

 

 

「貴公……」

 

 

あらゆる無駄(余分)を削ぎ落とし、薪に焚べ――人斬り(■■)の本性を呼び覚ます。

そうすることが最善であり最適であると、無心のままに確信していた。

 

故に、強く、強く、強く、ともすれば強引な程に自我を削り整形し、血みどろの殺意(夜叉戮の加護)を表層に浮かばせた。

 

十秒経つ頃には視界も次第に色を失い、赤備えは無色の兵士へ変生し、孤影衆はただの石ころへ成り果て、赤錆(腐血)の香りも彼方へ吹き飛ぶ。

 

 

「おォ……何という……」

 

 

そうしてしまえば――その場に残るは一柱の人斬り(■羅)のみ。

 

無駄なく構えられた刃は万物を斬り裂く気迫を纏い、(まなこ)の内には余りにも冷たい……冷たすぎて火傷しそうな鋭い光が宿っている。

狼の内に秘められた、本来ある筈のない過剰な程に騒ぐ()()()()()が一切の枷を取り払う。

それはそれ自身を起爆剤とし、本来は未だ到達する筈のなかった領域へと一時的に押し上げていた。

 

 

「――美しい(いい香りだ)

 

 

研ぎ澄まされた剣気が氾濫する。

一切を斬り裂く程攻撃性が極まった防衛反応が駆動し――()()()()()()を認めた赤錆の男は、じっと目を見開いた。

 

胸中に溢れる熱い想念が瞳を熱し、唐突に現れた極上の餌のみに視線が吸い寄せられる。

 

 

「は、はハ」

 

 

微かに震える瞼の内側で、一体何を思い浮かべているのだろうか。

一秒にも満たぬ刹那、その蕩けて血走った瞳が僅かに細められる。

 

――率直に言ってしまえば。

男は大いに感動している。

 

焦げ付いた殺意に、狂気を孕んだ殺意に、慈悲深き殺意に。

……その殺意の中に、きらりと輝く"たからもの"。

 

殺意、殺意、殺意だ。

これこそ戦の醍醐味。

 

殺意のままに刃を振るい、斬り裂き、斬り裂かれる。

血と血の応酬こそが愛おしい。

 

実に芳ばしく、鼻孔を満たすそれ(血臭)のなんと心地よい事か。

叶うのならば目の前の女を直ぐ様捕えて、その小さな体躯の尽くを縛りつけて、組伏せて――彼女が発する()()()を堪能したい。

 

脳髄がそんな叫びを喧しく騒ぎ立てる程に、男の内側をめちゃくちゃにぐちゃぐちゃにかき乱す。

ただただ、愛おしい。

 

肉欲にも似通った男のそれは獣へと駆り立て、天にも昇るような快感が全身を走り回る。

 

ああ――この刃がこいつを貫いた時、どれほど気持ち良くなれるのだろう。

 

 

「おおぉ」

 

 

頬当てがギチリと軋んだ。

固定する紐が震え、ぶつぶつと繊維が千切れて果てた。

 

 

「おおおおォ――」

 

 

両足が撓み、何時でも大地を駆けられるよう姿勢を制御する。

左手を添え手に、右手を斬り手に。

武士の作法に則った大上段は美しく、しかして泥臭い。

 

これこそが、男の生涯(戦歴)を表すに足る()()の証明だ。

 

寄って斬る。

寄らねば、寄って斬る。

とにかく斬る。

何が何でも斬る。

 

その一念こそが男を生かし、活かし続けてきた。

 

 

「――おおおおおおォォオォッッ!!!!!」

 

 

――轟音。

 

同時、焦げた土をさらに熱する眩い火花。

一足で六間(10メートルと少し)の間合いを跳ね詰め《縮地》、血の軌跡と共に振るわれる右手の太刀はあえなく防がれ、楔丸へと強かに打ち据えられた。

 

 

「………!!」

 

 

防がれたと見るやいなや、男は一瞬の間に手首を返し、極めて機敏に刃を引く。

示し合わせたかのように互いの刃金は離れ――須臾の後には再び互いへ食らいついた。

 

 

「一文字」

 

「かァ!!」

 

 

震える大地、裂ける大気。

ただの剣圧のみで土埃が跳ね上がり、それを薄汚れた太刀が斬り裂き振り払う。

如何な備えをも無視して必ず斬る必殺は、まるで時を早めたかのように煌めく剣閃に堰き止められる。

 

……つまり、足りぬ。

ならば、足せばいいだけの事である!

 

 

「二連――!」

 

 

再度轟く鉄の悲鳴。

 

馬鹿の一つ覚えのようにもう一度輝く斬り下ろし。

それは正しく刹那の間に繰り返された。

 

狼が睨めつけた業の矛先たる赤錆の男は、先の一撃を受け止めた姿勢のまま。

ついさっきまではそこに在った斬撃を防いでいるように、虚空へ向けて刀身を翳している。

 

――男が、再び襲いかかる牙へ向け対処するよりも尚早く。

一度の防御に二撃を与えるのだ。

 

それ故に削り取られた体幹を取り繕う隙もなく、痛痒を重ねるように全く同じ箇所に食らいついた。

 

 

「ぬゥ!?」

 

 

振れる体幹。

揺らいだ姿勢。

 

――"おお、剛剣の頂点たる一文字を讃えよ!"

いつかの日、葦名衆の一人は酒の席で高らかにそう叫んだ。

 

その時はみな、呆れながらも同意し、事実そう疑わずに一文字の利点の数々をつらつらと語ったものだ。

狼はその席から逃れることが出来ず、耳にタコが出来るほどにその賛美歌を聞かされていた。

 

故にこそ思う。

その想いは間違っていなかったぞ、と。

 

例え剛力無双の益荒男だろうと、一文字の前では笹の葉のように揺らぐのみ!

 

赤錆の甲冑を無様に傾け、初めて明確な隙を晒している。

 

――それを、狼が見逃す理由はない。

 

 

「………!」

 

 

銀閃が眩く奔る。

速く疾く捷く、袈裟に横に下から! 縦横無尽に剣腕が唸り、連続する体重移動の重みを乗せた刃が踊る。

 

葦名流に於ける異端の一つ。

"源の宮"と呼ばれる秘境に産まれ、やがて主と共に葦名へ参った女武者が編み出した業――"浮き舟渡り"。

それはさながら舞いのように。

流麗な剣戟が男の四肢に、腹に喰らいつき、甲冑の綻びを的確に縫い――ついに、その巨体から血を流させた。

 

失われた血と共に活力まで流れ出たのか、巨体が更に大きく揺らぐ。

 

――後必要なのは、致命の一撃。それのみだ。

最後に断つべき、最も有効な部位を探し視線を這わせ……"そこ"はすぐに見つかった。

 

いざ終焉を。

とどめを刺さんと更に強く柄を握り、新たな"首無し"を生み出すべく横一文字に楔丸を叩き込む――

 

 

「舐めるなよ……!!」

 

 

――が。 ()()()()()()

 

強引に、不条理に。

握り締めた獲物に己の体を押し付けるように、肉体に満ちる類稀な筋肉を大きく隆起させる。

膨張し、重くなり、異様な圧を放つままの全身を太刀に乗せ――。

 

そして、刃を首元に翳す。

 

ただ、()()()()

それのみで会心の一撃を無効とし……例え防がれようとも、それでも生まれる筈だった隙さえも押し殺された。

 

さながら、巨岩の如し。

 

狼の連撃は、技ではなく――自然の摂理を以って封ぜられたのだ。

 

――赤錆の男、背丈は凡そ六尺五寸(約195cm)

対する狼の背丈は五尺も無い(145cm)

 

"上背に差がある"という事は、腕の長さや足の長さの違いはいっそ残酷な程明確に別れ、あらゆる間合いに格差があるという事。

加えて言えば、体の大きさが違えば体重も違う。

それ即ち、あらゆる攻撃の()()が、体を支える頑丈さが違うと同義。

遥か過去の世より連綿と続く、大いなる物理法則が定めた不文律である。

 

ギリギリと重なる刃の鍔迫り合いの最中、赤錆の男は当然の権利のように全体重で狼を押さえつける。

剥がれかけの頬当ての下で鋭く尖った歯を剥き出し、口端を裂くように大きく笑った。

 

 

「はァ!!」

 

 

男の膂力に任せた強引な体重移動。

瞬間的に爆発するかのように刃と柄を押し込み、狼の体幹を強引に打ち崩す!

 

狼の体はその小ささゆえに浮き上がってしまい――それに逆らわず、むしろ自分から空へ舞い靭やかな四肢のばねを活かす事で姿勢を正した。

慣性に従い後方に流れる力が腰を伝い、足へ下る。

そしてそれが地へ逃れる寸前に、狼は靭やかな両膝を柔らかく折り曲げ、逃れる筈だった力を全て残らずその場に留めた。

 

 

「―――ッ!!」

 

 

そして飛ぶ。

反発する足は常よりも更に強く地を踏み抜き、赤錆のそれにも劣らぬ縮地を為し得た。

同時に翳す楔丸が日光を受けて銀に輝き、追撃を放とうと大上段に振り被られた右腕を斬り落とさんと袈裟の型にて滑走する――

 

――が、男は何を思ったのか、握り締められた左手を突き出した。

 

 

「づァ!!!」

 

「……は」

 

 

ガァン!と、鋼と肉が打ち付けられたにしては異常な音が響く。

 

……それを見て、思わず目を見開いた。

男はあろうことか、楔丸の側面を()()()()()のだ!

 

想定の外を爆走する奇策は見事狼に動揺を齎し――どちらにせよ変わらぬだろうが、横合いから軸をずらされたが故に体幹が大きく揺らいでしまった。

 

両手で握っていたはずの楔丸から左手が剥がれ落ち、右の指先は吸い付いて離れなかったものの……切っ先はあらぬ方向を泳ぎ、右腕ごと宙を遊んでしまう。

 

 

つまり、がら空きというやつだ。

 

正に絶体絶命。

赤錆の男がそれを見逃す筈もない。

 

そして何をするのかと思えば、握り締めた左手を狼の腹に押し付けた。

 

 

「―――!?」

 

 

――香る()()

ジリジリと焦げ付く炎の悲鳴。

握り締められた掌の中には、大きな爆弾。

 

 

「さあさ!しっかり堪能してくれ給えよォ!!」

 

 

左手さえも犠牲に捧げ、もろとも狼の腹を吹き飛ばす。

 

文明の叡智の集積体たる黒色火薬は、その性質から火薬ではなく()()として高名である。

瞬間的な反応を表すのなら、燃焼よりも爆発。

 

それこそ、人体を爆破するのなら丁度いい塩梅だ。

 

 

――つまるところ、絶体絶命の危機。

例え身に余る程の加護で器を満たしていようとも、無防備な腹を破裂させるなんぞの鬼畜な所業を受ければ……当然、あえなく臓物を撒き散らすだろう。

 

一切の無駄(殺し合い以外)が削ぎ落とされた思考の中で、見え透いた未来予測が脳裏に投影された。

 

そこにはこうある。

結果として、狼の旅路はここで終わってしまうのだ、と。

 

御子を守れず。

義父の願いを叶えられず。

友人の思いを裏切って。

 

無様にも二度目の一生を棒に振ってしまうのだ。

 

 

 

――――。

 

 

……本当に?

 

本当に打つ手はないのか?

ただ己の死を待つ他ないと?

 

生存の道を模索すべく、超高速で回転する脳漿の電気がのたうち回る。

極限まで引き伸ばされた感覚の中、停滞する時間の中で男の指先が引き金に掛けられた。

大きく見開かれた狼の瞳はこんな状況でも――いいや、こんな状況だからこそ、ギラギラと輝き飢えた眼光で宙を焦がした。

 

どう動けば回避できる?

死の宿命を逃れるには――。

 

――避ける。

 

不可能。

体幹が大きく崩れている。

 

防ぐ。

 

不可能。

楔丸を握る右手は制御を失っている。

 

反撃。

 

不可能。

同上の理由故に無謀。

 

道具。

 

不可能。

目くらまし(にぎり灰)に使える物は所持しているが、それを懐から取り出すよりも先に殺されてしまう。

 

 

本当に……打つ手はないのか?

 

……確かに、ない。

()()()、ないだろう。

取れる手は何もなく、死を待つ他にない。

 

――しかし、だ。

自力で足りぬのならば、外部から持ち出せばいい。

例えば――仏に祈るなぞ、この状況にぴったりではないか。

 

 

―――――、――――(ナマサマンダバ、サラナン、ケイアビモキャ)。」

 

 

隔離された時の流れの内側で、吽形の真言を音もなく――口腔を閉ざしたままに口ずさむ。

狼は、過去に幾度となく吽護の加護を賜り、その度に命を救われていた。

 

今回もその焼き増しだろうか?

いいや、違う。

 

――そもそもの前提として、今の狼は既に恩恵に肖っている。

仏ならぬ怨霊の力を借り受け(奪い取り)、人体の限界に挑み続けるような無茶を続けた。

 

本来であれば……人にその様な超常存在の力を宿すことは無理な話だ。

身に降ろした所で、絶えず苦痛が精神を炙り続ける。

 

 

―――――――――、――(マカハラセンダキャナヤキンジラヤ、サマセ)。」

 

 

だからこそ、そう安々と願ってもいいものではなく、どうしても必要であれば――飴でも噛み締めて、必死にそれを耐え忍ぶのだ。

 

当然狼もまた常に身を軋ませ、苦しみをやり過ごしていた。

幾重にも降り積もる怨霊の呪詛を何とか耐えていた、というのに――

 

 

――そこに、更に()()()

人ならぬ神仏の片鱗を、満杯の器に注ぐのだ。

 

無茶という他ない。

愚かという他ない。

 

 

――、――――――(サマセ マナサンマラ ソワカ)。」

 

 

しかし、それでもだ。

忍びとは、時にそういった死線を掻い潜ることを強要される。

 

掟が故か、信念が故か。

 

狼は引かぬし、引けぬ。全ては(九郎)のために。

今この瞬間こそが賭け所よ。

 

――そして、修羅神仏は勤勉なる者にこそ微笑みかけるのだ。

 

 

薬叉写し(鬼神の加護)――」

 

 

纏う()()が混じった。

異常と異常が溶け合い、重なり、鬩ぎ合う。

そして互いに互いを邪魔して――互いの威を喰らい合う為に、波濤のように格を高める。

強く大きく気高く美しく……そして、何よりも穢れた麗しの神威。

 

 

「――――!!」

 

 

号砲を上げる寸前、唐突に变化(へんげ)した狼の性状が男の網膜を幽かに焦がした。

それを視て、感じて、味わって。恐ろしい圧に背筋に震えが走り――咄嗟に、何かに急かされるように焦げた火薬を握り締め爆破を早めた。

 

 

――ドォン!!と。

表現するだけでは伝えらぬような轟音が、無遠慮に左手と大気を震わせる。

聞く者の内臓をめちゃくちゃに乱打するような音だけではなく、文字通り、物質的に内臓を破壊する爆炎が使命を背負って特攻したのだ。男の左手という犠牲を背負って、爆炎が狼の腹を焦がす。

 

……が。

 

 

「暴悪、捷疾鬼、威徳……是、護法善神の一尊也」

 

 

確かに役目は果たしただろう。

狼の土手っ腹を無惨に打ち砕き、破裂させ、血と肉と骨を周囲に撒き散らさせた。

故に、致命傷を負わせたという事実()()を見るならば、素晴らしい戦働きを成し遂げたことに間違いはない。

 

 

――狼が、その傷を一瞬で癒やしたことに目を瞑るのならば。

 

 

「く、ははは……何だそれは――」

 

 

赤錆の男は肩を震わせた。

目の前で起きた意味不明な超常現象に恐れをなしたからか?

 

いいや、違うとも。

 

()()()()の事ならば。

広い日ノ本を探せば、数は少なくとも()()()()()()

 

そういった化け物染みただけの存在など……別に居ても居なくたってどうでもいいさ。

 

しかし、しかし……!

 

 

「またまた、()()()()()じゃあないか……!!」

 

 

重ねて何度でも叫ぶ。

 

()()()()()と。

 

戦にこそ興奮を感じる男は、自己の内から溢れる快感の波に溺れてしまいそうに震える。

頬当ての亀裂から覗かせる笑顔を赤らめ、戦万歳!と大きく叫び――残った右手で太刀を握り締めた。

 

しかし、その笑顔は笑顔とは思えぬ血腥い色を携えている。

もはやなんと表すべきかも分からない。

蕩けた瞳で狼だけを見つめ、壊れかけの頬当てを剥がしてそこらへ投げ捨てた。

 

 

――そこでようやっと。

周囲の兵達もいよいよ"何かが可笑しい"と感じ始めたのか、広がる戸惑いの海の中でのろのろと腰を上げ始める。

 

逃げるのか、目を逸らして本来の任に戻るのか、はたまた赤錆の男に加勢するか――ただ見届けるのか。

 

正直それはどうでも良い。

もう男の視界には、そんな有象無象は欠片も写り込んでいない。

 

ただ、殺意を。

あらん限りの殺意を向ける。

己を興じさせ、生きた心地がしないほどの快楽を味わわせてくれた返礼を。

狼から見れば迷惑極まりないだろうそれを、これこそが感謝の気持ちだと、なんら疑いもせず瀑布に乗せた。

 

 

……だから、前言撤回だ。

先程の口上を、心情の一切合切を投げ捨てる。

この女を捕えて飼い殺そうと、そう思っていた。

 

思っていた、が……しかし―――辞めだ。

 

 

必ず殺す。

最上級の敬意を、お前に刻み込んでやろう。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九郎様覚醒率 :7%





銀閃が奔る度、血が空を飛ぶ。

爆砕音が轟く度、肉が地を覆う。

 

焦げた土を冷ますように四方へ降り掛かり、それでは足らぬと次へから次へ、次へ次へ次へ繰り返し血が溢れた。

 

相対する狼と赤錆の男は互いの瞳を食い入るように見つめ、僅かな揺らぎに付け入らんと細心に過ぎる注意を重ねる。

昏い瞳が体幹の揺らぎを目にすれば即座に寄って斬り(寄鷹斬り)、血走った瞳が気勢の衰えを感じ取れば天下一品の剛剣が肉体を貫いた。

 

最早身に纏った装束は最低限として服の機能を有するのみで、防具としては死に絶えたも同然。

男は戦の中で練り上げられた強靭な肉体を晒し、狼は所々を申し訳程度に包み隠しながらも程よい筋肉に包まれた四肢を見せ付けている。

この様な状況でなければ、彼らを目撃した他者がいるならば。きっとどちらかの肉体に視線を吸い寄せられて、たちまち顔を赤く染めるに違いない。

 

――しかし、ここは戦場だ。

血煙が漂い、剣閃が轟く殺し合いの為にある空間。

そんな事はどうだって良い。

 

ただ殺戮を。

一心不乱の殺戮を!

目の前に立つ大敵を斬り裂き打ち砕き、地に這わせ、そして還す為に!

 

男の体を楔丸が慈悲無く袈裟へと斬り裂いた。

――異常極まる活力を持って肉体は駆動を続け、気合の一念のみで剣を振るう。

 

残った右手で放たれる下段からの切り上げが狼の腹を割く。

――刃が通り過ぎた直後、あらゆる活力を犠牲に肉を繋いで瞬時に癒やす。

 

 

斬って伐られて、砕けて削られて、それでも戦う。

どちらも人とは思えぬ気迫を纏い、人から外れた継戦能力を(よすが)に衝突を繰り返した。

 

 

「……………!!!」

 

「おおおおおおォォォ!!!!」

 

 

――葦名流、一文字。

 

――示現流、外道改(げどうのあらため)。一の太刀。

 

 

方や葦名の戦において無双の流派、その代名詞。

方や戦場を渡り歩いた戦狂いが貪り食い、勝手に己が血肉とした外法(我流)の一太刀。

 

その共通点は"ただ斬ることに専心する必殺の剣"であり、あらゆる防御をねじ伏せる剛剣である事。

 

鼓膜に太い針を突き刺すような喧しい鉄の悲鳴が、互いが握る刃金から鳴り響く。

もう何度目かも分からぬほど繰り返された交錯は大気を揺らがし、大地を震わせ、その振動は刃を伝った先にも鋭い痺れを齎した。

 

 

「ぬゥん!!!」

 

 

衝突、力み、測り合い。

そんな鍔迫り合いは刹那の間に始まり、そして終わる。

斬撃が防がれたと見るや双方ともに瞬時に腕を跳ね返し再度振り上げ――更に強まった剣気を纏う一閃を放った。

 

ギリィ!と、もはや正しく形容することさえ叶わぬ鉄の悲鳴。

何度も何度も刃を結ぶ楔丸が散らした火花はいくつになるのか。

きっと、空に見える星々にさえ届くきらめきを見せたに違いない。

 

……だというのに、いくらぶつかり合っても刃は毀れず、刀身は歪まず、切れ味を損なう事さえ無い。

ただ忠実に主の要求に答え続ける楔丸の、なんと健気なことか。

 

 

「横一文字」

 

 

赤錆の男の太刀も、また同じ。

 

幾度の戦場を共に乗り越えた主のため、埒外のひと振りを打ち払う。

刃は毀れ、血糊に焦がされ、柄巻きさえもズタボロだ。

 

が、しかし。

それでも決して折れず、芯鉄は歪まない。

 

男は己が握る無銘の太刀に命を預け、それに答えて眼前の鬼神が放つ豪剣を的確に弾き続けた。

初太刀を防がれたなら二の太刀をぶつけ合い、それをも防がれたならば斬れるまで衝突を重ねる。

殺意と活力に溢れた剣戟は見るモノの思考を混乱させる程に疾く、何よりも美しい。

 

 

……けれど。男の様相は悲惨そのものだ。

 

その左手はボロボロで、肉が砕けて骨が露出している。

しかしまあ、だからといって視線を逸らした所で目に映るのは悲惨な光景。

晒された肌の至る所に刀傷が刻まれていて、そこから吹き出した血潮が土を穢している。

 

無惨な肉の断面は見るものの喉奥を震わせ、最悪の結末を想起されずには居られない。

 

 

「ぐ、くゥ……!!」

 

 

――が、それでも立つ。

立って戦う。

 

太刀を握る手は右手のみだというのに――まるで鬼の様な異常極まる力を帯び、臨界点さえ超越した握力で柄を握り締める。

そしてそれは、葦名の一文字さえも凌ぐのだ。

なんたる剛力。なんたる生命力。

 

一体、何処にそんな活力があるというのか?

焼けただれた神経は痛みに魘され続け、流れ続ける血は体内の生気を奪っていく。

それは当然生命を嬲り、鼓動を奪うに足る劇毒だ。

柄を握るだけでも、呼吸を繰り返すだけでも辛く苦しいだろうに。

 

 

「まだ、まだ終わらんよォ!!」

 

 

血管の浮き出た大腿筋が震え、踏み込んだ右足を起点に土が軋み、石の欠片が舞い上がる。

 

それは"気合"。

それは"根性"。

旧き日ノ本に蔓延していた精神論の代名詞。

この世の物理法則に真っ向から喧嘩を売り唾を吐きかけるような、文字通りの意味で気狂いの所業。

 

しかし、それでもその考えが罷り通っていたからこそ遥かな未来まで繋がれた思想でもある。

その理論に根拠はなくとも、存在が許されるには(それで何とかなったからという)理由があるのだ。

 

 

――ぎちり、と嘶く目打ち釘(刀身の固定具)に一瞥をくれ、右手と刀身に全体重を掛ける。

 

 

「……すゥ―――破ァ!!!」

 

「ぐッ……!」

 

 

押し付けた太刀に、一瞬のみ。ほんの僅かな刹那に衝撃を与え狼の体躯を弾き飛ばす。

この時代では平均的な背丈ではあるが、それでは赤錆の男を抑え込むことなど出来はしない。

 

体重は正義。

斬れば斬るほど、その差は如実に現れる。

 

 

「死、ねィ!!」

 

 

続けて振るわれる、まるで狼の横一文字を真似たような剛剣――横一文字(まがい物)

左から右へ流れる剣に清廉なる誇りは欠片も宿らず、ただ悍ましいまでの必殺の念が込められている。

 

 

「は」

 

 

呼気を一つ。剣戟を一つ。

交錯する刃はまるでさっきまでの焼き増しのよう。

 

――けれど、狼の体幹は大いに揺らいでしまった。

ここに至り、男の剣先は更に速度を増していた。

 

……こんな、こんな化け物が前線指揮官とは――一体内府は何を考えているのか。

いくらなんでも尖兵として扱っていい人間とは思えない。

それこそ葦名一心にぶつける一手にでも置いておくべきだろう。

 

 

「おお――らァ!!」

 

 

切っ先が迫る。

衝突と反転を繰り返す斬撃が雨あられと降り注ぎ、息をつく間もない連撃が狼を襲う。

弾こうにもこれらは余りにも疾く、数が多い。

 

 

そして……何よりも、()()()()()()

 

それでも堪え、受け流し、後ろへ引きながら剣閃の隙間を縫って刃を斜めに振るった。

男はそれを首を傾けることで当然のように躱し、その稼働の隙に狼にとって最も()()()()()間合いを取る。

 

ずっと、この繰り返しだ。

狼と男は互いを斬り裂かんと何度も何度も近づき、互いを弾いて離れる。

けれどやっぱり目の前の敵が生存することなんて認められなくて――再び、刃を振るうのだ。

 

 

「はァ!!」

 

「おぉ……!!」

 

 

男の瞳がギラギラと飢えた眼光に輝く。

すぐ鼻先を切り落とした刀の切っ先を視線で追いかけ――しかしそれは無駄(無意味)であると悟り、幾度目かも分からぬ渾身の一太刀を浴びせる。

 

熱に浮かされ狂う中、しかしこのままでは勝てぬと理解(直感)していた。

意外も意外。

男は何時どんな状況であろうとも、脳裏の片隅にある冷静な部分を決して無くさない。

それを熟さねば戦に負け、敗者として骸を晒し腐りゆくのみと理解していたからだ。

 

そんな頼れる思考回路が盛んに叫ぶ。

負けるぞ、と。

血を流しすぎた、と。

 

ならばどうすれば良いのかと問えば、いつものように答えが帰ってくる。

"もっと強く斬れ"。

己が飲み込んだ示現流(模倣物)はソレに適しているはずだ。

 

壱の太刀が、弐の太刀が、参の太刀が、肆の太刀が防がれた?

ならば伍の太刀で殺す。

 

 

……まあ、本来の想定とは大分違う振るい方だが。

示現流とは本来()()()で打ち勝つことを至上とする流派。

あらゆる防御も、あらゆる策も、あらゆる不利も踏破した上で勝利する。

当然実際には一撃では斃せぬ事もあるだろうが――少なくとも、そういった気概で刀を握ることに違いはない。

だからこそ、初太刀に全てを込めるのだ。

 

しかし現実はどうだ。

初太刀は防がれ、続く太刀の尽くは塵屑の如くに役立たず。

 

男は考えた。

これは()()()()()()

非常に()()()()()()

 

 

そして辿り着いた答えが――

 

 

「これは初太刀(全力の一撃)ィ!!これも初太刀(示現の一振り)ィ!!!!」

 

 

――初太刀が最も強いのならば、全ての太刀を初太刀に足る一撃に仕上げればいい。

 

きっと男が振るう業の元(模倣先)となった示現流の剣士は困惑するに違いない。

確かに初太刀では殺しきれなかった()()()に備え、続く太刀も十全に鍛えるとも。

 

しかし、それは()()()()()()ではない。

常に全力など振るえる筈がないだろう。

もし振るえるのであれば――それは()()なんかじゃあない。

 

 

「血が、滾るなァ!!」

 

 

が、それでも男が振るう一撃は全てが全力の初太刀。

あらゆる条理を無視して剣を振るう。

物理法則を"気合"と"根性"で超越し、異常者の剣を握り締める。

これぞ、まことに理解し難い"うつけ"そのものだ。

 

……果たしてこれを示現流と呼んでもいいのだろうか?

それはきっと、数多の人々の中で幾重にも分岐する命題に近しいものだ。

 

――だから、それを振るう男はこう答える。

 

 

「これが、これこそが――"示現流"よッ!!!」

 

 

戦場でソレを見つけ、その身に刻まれたことで男が勝手に模倣した。

故にその剣技は我流に育ち、荒々しい。

まともに学んだ者達から見れば表情を歪めるような、外道の代物。

 

――しかし、それでも根っこは同じ。

勝利の美酒を欲する為の考え方は何も変わらない。

 

 

だから――ここらが勝負所、命の賭け所だろう。

持久戦になってしまえば死ぬのは己。

多分、きっと、死んでしまう。

 

明瞭なる頭蓋が組み上げる論理はこうだ。

まず足をもぎ取り、首を落とす。

さすれば死ぬ。

 

おお、なんと賢いのだろう!

 

 

 

………。

 

……。

 

だが……まあ。

しかしなあ……どう転んだって、どうしたって、結果的には―――。

 

 

 

――ギチリ!男の握力を受け止めるボロボロの柄巻きが、その内側の鉄が大きく軋んだ。

 

 

「故に死ねェい(初太刀)ッ!!!」

 

「………ッ!!」

 

 

唸る豪腕。

大気を引き裂き下段を流れる横一文字。

 

片手一本の力とは思えぬ威迫を放ち、幾振りもの初太刀を防いだままの狼に迫った。

一瞬に煌めき下半身を奪おうと迫る。

 

それが届く寸前――ぐっと膝を折り曲げバネを作り、大きく上に跳ぶ。

 

 

「仙峯寺拳法――」

 

 

男の上背よりも尚高く。

空中に投げ出された四肢の末端に至るまでに意識を通し、風の流れに逆らい精密に操作した。

その直後、太刀の切っ先は燕よりも疾く奔り――横に傾いた狼の体の真下を削り取る。

 

やはり、殺意()の権化たる下段払いは確かに脅威だ。

思わず冷や汗が額に浮かぶ(一瞬で蒸発した)

これまでにもそれ(下段攻撃)を原因として命を落としたことも、それこそ十や百では数え切れない。

 

だからこそ、何時だって回避できるように気を張っていた。

だからこそ、間合いの管理は常に的確に測った。

 

――だからこそ、この様な場面でも非常に役立つ技巧を用意している。

そしてそれは、常に狼の脳裏に居座っていた。

いつでも、十全に振るえるようにと。

 

それは思考が為すのではなく、反射で為す。

脳髄の生む電気信号なんぞという遅々に極まるモノは不要。

真の強者の振るう業は理論ではなく、過去の経験に基づいた上で脊髄が指令を出すのだ。

 

――刧、と太刀が過ぎ去った軌跡にて大気が荒れ狂う。

男の一刀は当然のように全てが渾身のものであり、だからこそ――その一撃に振り回され、僅かであろうとも体幹が揺らぐ。

 

即ち、()

 

 

「仙峯脚」

 

「が……!?」

 

 

大きく伸びた右足が男の頭部を強かに撃ち抜いた。

渾身の一撃を放った直後である。それは当然(力及ばず)体勢を僅かに崩すに足る負荷で、そこを突いた蹴りにより男の足腰が大きく揺らいだ。

 

――そして、そこを続く右足が、跳ねる左足が果敢に攻め立てる。

 

 

「ぐ、ぁ!!?」

 

 

ドン、ゴリ!!

凡そ人体から鳴って良いとは思えぬ打撃音が連続する。

初撃は側頭を撃ち抜いた。

ならば次いで左足を。

続く蹴撃は首筋を斬るように。

 

肉を磨り潰すような、骨を抉るような湿った音が鼓膜を濡らし、両の足に嫌な感触と確かな手応えを同時に齎す。

 

(いくさ)が始まって小一時間。

別々の方向性で人の限界に挑戦した二人の切り合いにようやっと――天秤を傾ける程の変化が訪れた。

 

右足を引き戻し、両足を地に押し付ける。この機を逃してはならない!

多少のぐらつきは卓越した技巧で抑え、追撃を放つべく楔丸を――

 

 

「―――ァ」

 

 

――ビキ!ギチり、ぶち。と、湿った断裂の音が肩から響いた。

 

 

それは比喩ではなく、純然たる物理的な現象として。

 

肉の器の内部を這い回り、魂の器を焼き焦がす薬叉の加護。

それはやはり、人の位階には過ぎたるモノ。

必然、人の肉体とは相容れない。

 

……狼も、それはそういうモノとして承知していた。

そうと識って行使した。

だから応報として、一秒が経過する度に筋繊維がちぎれ、骨が歪み、神経が溶けていく。

 

グズグズと解ける人体の結合は狼の肉体を死の淵に追い込み――

 

 

――けれど次の瞬間には多大な痛みと共に修復され、また再び毀れだす。

 

繰り返される崩壊と再生。

痛みと痛みと、痛みと、痛みが。

悍ましい純度のそれが狼の思考回路を埋め尽くし、ただ苦痛のみを残した。

 

故に危険信号とは人体に起因するものではなく、精神からなる物。

或いは、存在の根底――魂と呼ばれるものから響く悲鳴。

 

だから……これは、確かに人には過ぎた物。

識っていた所で変わらない。

溢れる怖じ気は当然のもの。

本来、原典に近付くほどの神威を矮小な器に降ろす事なぞ愚者の所業なのだから。

 

無駄、無謀、無茶。

待ち受けるは破滅のみ。

 

限界は、すぐ其処に。

 

 

―――本当に?

 

 

「――、――」

 

 

声帯がただ震え、空気を吐き出す。

声にならぬ苦悶ごと柄を握り潰した。

 

 

「それ、でも……!!」

 

 

体が壊れる? 魂が割れる? 精神が限界にある?

 

――()()()()()()

限界がどうしたという。

 

もう刀を振るえぬのか?

立つ気力が枯れ果てると?

己が、負ける?

 

……否。

否である。

 

――断じて否!

 

 

「負けると思うから、負ける……!!」

 

 

――揺らぐ視界の中、仄暗い瞳に熱を込めて見開いた。

未だ男は膝をついたまま、致命的な隙を晒し続けている。

 

だから、斬らねばならない。

今にも意識が暗闇に呑まれそうになっても、両足が溶けそうでも、右手が弾けそうでも。

 

そのために必要な全ては、既にある。

決意、決心、熱意、渇望。

それを秘めている内は、()()()()()()

心の内側にほんの一欠片でも揺蕩っているのなら、それは不屈の証明である。

 

限界が近いのなら、"気合"で耐えろ。

心が折れそうならば、"根性"で乗り越えろ。

 

これまでもずっとそうしていた。

"回生"の呪いがあろうとも積み上がる死は重く苦く。

だから最期に頼れるのは己の心だけ。

 

今回も()()()()だ。

何も変わらない。

これは物理法則に依存した戦いではなく、精神の純度が左右する意地の張り合いだ。

 

狼は、御子に届き得る牙を持つ強敵を排除したいと、そう思った。

だから立てる。まだ戦える。もっと戦える。

 

そら、赤錆の男はまだ生きているぞ。

己は為すべきは何か?

それは主を守ることだ。

 

ならば斬れ。

気迫で、楔丸を振り切るのだ。

 

目の前の男も、そうやって(心の持ちようだけで)戦い続けた。

こいつでも、そんな所業が為せたのなら。

 

己にもそれが出来ぬ道理など――何処にもない。

 

 

「―――ォ!!」

 

 

明滅する視界の中、楔丸の切っ先に意識を乗せる。

頭部を打つことで思考を奪い、足を叩くことで体幹を削り、首を叩くことで制御を失わせた。

相対する赤錆の男は傷だらけで血塗れだ。

そこに追い打ちをかけた三連撃は――確かに、大きな大きな、致命(忍殺)の機会を生み出している。

膝を突き、血塗れの上半身をよろめかせた偉丈夫の芯金。その中枢に()()煌めく生命の源泉を幻視した。

 

……ならば。後は、このきかん坊の肉体を駆使して一刀を叩き込む。

それを以って此度の防衛戦の、その先鋒の首に黒星をつけてやろう。

 

 

「葦名、流」

 

 

右手を切り手に、左手を添え手に。

両手で剣身を固定し、重心を前に傾ける。

 

足を抜き、距離を詰める歩法。

これはかの剣聖が得意とした技巧であり――それは、時として秘奥を放つ部品としても駆動する。

 

 

足元に散らばる砕けた材木を無視し、視界の全てを斬るべき敵のみで埋める。

 

そして、震える自我を斬滅の誓いで染め上げた。

 

 

「よもや――!」

 

「奥義」

 

 

本来であれば納刀から抜き放つそれを、敢えて初動の時点から抜き放つ。

刀を放つ寸前まで練り上げるべき剣気は既に満ち、削り落とされるべき無駄はとうに消え失せている。

 

故に、此度に限り、この業を派生させることが出来る。

かの剣聖でさえも是とせざるを得なかった無為を潰し――その果てに。先に在るべき"結果(葦名流の到達点)"の一を今瞬間のみ、ここに顕す。

 

 

――残光が、瞬いた。

 

 

「葦名、十文字」

 

 

それは、音を彼方に置き去りにした。

散らばる瓦礫と焦げた土があるばかりだった平原。

そこからはいつの間にか攻城戦の喧騒さえも消え去っていた。

 

静謐なる舞台のど真ん中で、まるく流線的な半円が虚空に佇む。

重なり合い、交わった軌跡が描くのは均衡の取れた十文字。

 

 

――ぽおん、と。

 

実に軽快な音が聞こえてきそうな程、あっさりと首が飛ぶ。

 

横の太刀で首を刎ね、縦の一振りで巨大な肉を裂く。

肩口から太ももの内側までを一直線に断たれた巨体が、土埃と入れ替わり倒れ伏した。

 

 

「……は、ぁ、は……はぁ……っ!」

 

 

狼は堪らず膝をつく。

楔丸を支えにする余裕さえもない。なんせ、文字通り気力の全てを吐き出したのだ。

その小さな体で限界を二度も三度も乗り越えたのだから、それは当然だろう。

 

役目を終えた鬼神の加護が抜け落ちていき、それにつられて狼の意識も暗闇の沼に沈んでいく。

 

 

「なら、ぬ……」

 

 

――それを拒んだ所で、所詮人の身に過ぎぬ狼は眠るしか無いのだが。

 

 

それをたった一人……いや、一つで眺める生首は変わらず血走った眼のまま。

 

ただ、見事、と。口の形を歪ませた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――そうして倒れ伏した狼を、どこか夢現のようにふわふわとした心地で眺めていた。

周囲の大人達が多様な情感に顔を歪ませる中、九郎はただ……ぼうっと、見つめることしか出来なかった。

 

それはある種の自己防衛反応であり――端的に言えば現実逃避だった。

 

あの忍びであれば、どんな大敵であろうと、どんな化生であれども無事に生きて帰ると思っていた。

きっと、何があってもまた同じように声を掛けられると信じていた。

 

だから。

数人の有志が兵の布陣を掻い潜って狼を連れて帰った時、その小さな体が今にも壊れそうなほど脆いものと知って。

幼心故に盲目だった瞳が開かれて、そんなどうしようもない当然の負担が辛かった。

 

……当然だとしても、それがこんなにも信じたくないモノだったとは。

けれど誰しも己の庇護者にはそんな幻想を抱く時期があるものだ。

父に、母に、無限大で根拠のない信頼を向ける。

そしてその夢想はやがて破れ、顔を覗かせだす現実を味わって大人になる。

 

 

そんな何処にでも居るような、ただの少年でしかなかったのだ。

 

 

「あぁ……」

 

 

くらりと無秩序に体が揺らぎ、自然と床と抱擁を交わす。

玄関で狼を迎い入れた直後、限界を迎えた九郎は――数日ぶりに意識を暗黒に浸した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ぅ」

 

 

九郎はじんじんと痛む頭に促され、ゆっくりと無為の底から意識を引き上げた。

 

竜胤の御子は傷や病とは無縁。

老いもせず、死にもしない。

 

しかし、精神から生ずる形の無い痛みと言う物にはとんと免疫がない。

ふるふると瞼を震わせて、後頭部を支えるやけに()()()()()感触を味わう。

 

それに……このぬくもりは実に心地よい。

平田の屋敷が包囲されてからと言うものの、こうやって心を落ち着かせる機会なんて殆どなかった。

ずぅっと小さな体に疲れを累積させていたのだから、もう少しぐらい休んだっていいのではなかろうか。

二日か、三日か、それ以上か?

 

……もはや、それさえも分からない。

けれどもそんな時の流れの中で蓄積された疲労も、この枕のおかげでやんわりと解れていくようだ。

やわらかく、しなやかで、あたたかい。

 

けれど――はて、そんな枕……この屋敷に存在したか……?

 

 

「……お目覚めで、ございますか」

 

「……おぉ?」

 

 

頭上から鉛が如き声音が響く。

やけに重苦しい女の声は、九郎がもっとも信を置く忍びの物。

何故かやたらと近くから発せられる狼の声に驚きつつ、ゆるゆると重い瞼をこじ開け――

 

――狼のしかめっ面が視界いっぱいに映った。

 

 

「おー……………―――なんとォ!?」

 

 

驚愕の余りにはね起きた。

きっとこの反応速度を見れば、あの葦名衆"野上玄斎"も手を叩いて絶賛するに違いない。

若様も剣を学んでみませぬか?などと。

 

……とはいえ、目の前に女人の顔があったからこそ脊椎反射の域で驚愕しただけ。

今後も今のような機敏さで動けるとは言っていない。

 

 

「……お加減は、よろしいようで……」

 

 

別に怖いからではない。

気不味いわけでもない。

それこそ、ただ()()()()ならば何も問題なかった。

 

最近は狼の無愛想な顔にも見慣れ、それはそれでいいものだと感じられるようになったのだから。

そう、だから……それはいい。

 

それはいいが――!

 

 

「膝枕……だと……!?」

 

「…………は」

 

 

あの、堅物の化身である狼が膝枕をしていた。

あの、狼が!?

 

 

「一体、何が……?」

 

「花殿が、こうすると良い、と……」

 

 

ああ、なるほど。

九郎はするりと口をついた納得の言葉と共に、得心の意で大きく頷いた。

 

花、という女性は()()()()()奇天烈な振る舞いを取ることが多々あるのだ。

周囲の人々を巻き込んで何かしらの騒ぎを起こすのはいつもの事。

 

九郎も、彼女が引き起こす騒動を遠目に眺めることが何度も有った。

大半が可愛らしい、平和的な悪戯であったが……。

……そういった視点で見ると、今回は中々ありがたい――

 

 

「んん!! いやいや、そうではない……」

 

 

頭をふるふると横へ往復させた。

少しばかり謎の情動は溢れたが、なに。これは一時の迷いというもの。

 

直様迷いを振り払い、九郎の自室(本塗れ)にある定位置に腰を落ち着かせた。

何時も通り木箱に腰掛ければ、ほら。普段の九郎になった。

 

 

「狼よ、体は大事無いか?」

 

「は。 直ぐにでも、動けまする」

 

 

寸前の思考を誤魔化すように放った疑問は違和感なく受け入れられ、狼は溢れる戦意を滾らせ跪く。

その姿勢のまま、九郎が眠っていた五時間に在った出来事を報告する。

 

前線指揮官が斃れたことで、赤備えの統率が失われていること。

しかし、軍勢としての瓦解はせず、未だ平田を襲い続けていること。

 

その対価として少なくない兵が命を落としているだろうに、それでも尚止まらない。

とても、とても執念深い。

余程()()からの躾が行き届いているということで――

 

……実に、内府公の本気具合が見て取れるというもの。

正直勘弁してほしい。

 

 

「……………」

 

 

九郎は畳の上に視線を載せ、少しばかり現状に苦悩を重ねる。

狼は直ぐにでも起てると言うが、果たしてそれで良いものか。

ああ、確かに現状を多少なりとも変えたければ敵の指揮官――後方に構えていると思われる将を討ち取るべきだろう。

それは分かる。

葦名から指揮官格の兵を討てば、襲撃の頻度も効率も、鍍金を剥がすように貶める事が出来る筈。

 

……しかし。

しかし、それはあまりにも――

 

 

「……御子様。命を」

 

「………ああ」

 

 

しかし、けれど、それでも。

……現状取れるのは、これしかない。

他に、無いのだ。

 

()()という群れが生き残るには赤備えの軍団を可能な限り押し留め、殻に籠もり、葦名一心の武威に縋る他ない。

 

……それが、群体として生き残るための最善だ。

これ以上はなく、けれどこれ以下は腐る程に存在している。

 

ああ、でも。もし個々として逃げ延びたなら――

 

 

「……いいや。それを為してしまえば過半数は死に絶える、か」

 

 

それ(切り捨てる)を選びたくなければ、眼の前の忍びに重責を背負わせるしか無い。

選んだ所で、どちらにせよだ。

どう足掻いたって、彼女に負担を掛けることにはなるのだろうけれど。

 

 

「お願い、できますか」

 

「御意」

 

 

狼は何度でも戦地に赴く。

呪いが有ろうと無かろうと、為すべきことは為さねば。

 

感情の読めぬ昏い瞳をじっとみつめ、九郎は小さな唇をぎゅっと噛み締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「迷えば、敗れる」




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



九郎による主命――戦の指揮者の首を落とし、平田の者達が撤退するまでの時間稼ぎの為に屋敷を出て、次の月夜。

竹藪の青臭い匂いの中へと緩やかに、薄い吐息が混じっていく。

ギリリと収縮した瞳孔が微かな光をかき集め、浅い呼吸がどこまでも長く、細く引き伸ばされる。

そして呼気を置き去りに、早馬も無しに駆けたにしては大した汚れもない後ろ髪が風に揺れた。

 

 

「…………」

 

 

竹林の中を無言で駆ける。

視界の端では淡い月明かりに照らされる()()()がゆらゆら蠢めいていた。

どうにも方向感覚を見失いそうになるが、しかし竹の隙間の奥にて揺らめく大きな篝火――葦名の外より運ばれ灯された"それ"のおかげもあって道に迷うことはない。

 

徐々に人造物が増え、等間隔に設置された松明の道にたどり着いた頃には、狼の足取りも緩やかになっていた。

赤い燐光を(よすが)に茂みの中を潜行し、すぐ横の――道標を用立てた兵たちに気取られぬよう、足音さえ踏み潰す。

遮蔽物さえあるのなら存外見つからぬものである。狼はそれを寺の僧達(仙峯寺)から学んでいた。

嘗ての彼らと同じように、傍の道ゆく兵達も狼が潜む茂みに一瞥もくれない。……実に都合のいい事だった。

 

 

「……腹、空いたな」

 

「そうだな」

 

「水ばかりでは、腹が、下る……あぁ、米を食いたい」

 

「お前が大食らいなだけだろう」

 

「……いつになったら帰れるのやら……おっかぁの飯が恋しいよ」

 

「……そうだな」

 

「いい加減に食糧の配給増やしてもらいたいもんだ……うっ」

 

「どうした」

 

「すまん、漏らす」

 

 

もの悲しい悲鳴を背に受け――ちょっとばかり鼻を摘み、ゆっくり、着実に緩やかな勾配の坂を登る。

そして途中で道から逸れ、茂みの中へと突入した。

 

 

――そのまま歩くこと数十歩。その頃には竹の隙間から木造の外壁が顔を覗かせ始めた。

丸太を積み上げ打ち付けただけの急拵えのものにしては……まぁ、"比較的"重厚な門構えであり、続く塀も荒々しく、そして頑強。

未だ不完全とは言えども、葦名侵攻の要となっている――正しくはその予定なのであろうか。流石に壮観であった。

 

 

(……霞か)

 

 

そして、砦と同時に視界を埋めたのは白い霞。

心なしか先程よりも濃ゆく、光を吸い込むような純度を持つ。

いつぞやの葦名の底を思い起こさせる濃度だ。

 

一寸先は闇――と言う訳ではないが、恐ろしく不明瞭な視界。全く把握できない地形。狼も霧には随分と苦労させられたものだった。

だがその障害が敵方にも同じようにあると考えてしまえば、そう悪いものではない。

 

 

とはいえまず中に入らなければ利用もクソもない。まず先にこの砦への侵入方法を考えねばならないか。

一度茂みの中にしゃがみ込み、顎に指先を添え思考を巡らせる。

 

まずはぐるりと視線を回し周囲を検める――が、しかし埋め尽くすばかりの白に邪魔をされて仕方がない。当然だ。

か細くため息を吐き、仕方なしと外壁へ歩み寄る。

 

 

「乗り越えるには、脚が足らぬ……」

 

 

当然といえば当然だが、塀の背は高く、厚みは狼の声を余さず吸い込むほど。

だがやはり造りが粗い。使われた縄の締めは緩いし、打ち付けた釘が一部曲がったままの物まである。

時間も金もそう多くは掛けられていないのか?あるいは腕のいい職人を連れて来ることができなかったのか。

ともかく、もしも彼女の見立て通りならば突破口がある。

無ければその辺の縄を切って火薬なり何なりで打ち崩す必要がある、が――出来れば、この手は使いたくない。それは最後の手段だ。

 

スッと目を細め、壁沿いに歩き、隅から隅まで視線で(なぞ)っていき――

 

 

「……解けた縄。亀裂……ここならば、あるいは」

 

 

急拵えゆえの適当な配置と工事。杜撰な管理によって拵えられてしまった丸太の隙間。

狼が鎧武者の類であれば通ることは出来い程度の大きさだ。しかし幸いなことに、狼の体躯は比較的小さい。

 

隙間から覗き見たところ、この先は物陰に位置する――かもしれない。たぶん。

もしかすると丁度兵が見回りに来るような場所かもしれないし、直ぐ側に警鐘兵がいるかも知れない。だが霧の濃さもあってよく分からなかった。

 

 

「……………」

 

 

しかし虎穴に入らずんば虎子を得ず、とも言う。

多少の危険には目を瞑るべきだろう。

 

…………。

……………。

 

 

「…………」

 

 

――まあ、いざとなれば正面突破(脳筋)する他ないだろう。

悩んでも仕方ない。

以前にも見張りの警鐘兵の存在に気付かずに"痛い目"を見たことがあったが、なんだかんだで何とかなった。

 

頷きを一つ。頭を軽く差し込み、しばし耳を澄ませた。

 

 

「…………」

 

 

音はない。見える範囲には誰もいない。

 

 

――意を決して体を押し込んだ。

どこかに突っ掛かることもなく、するりと抜け出た先は――見立てた通りでちょうど都合よい、掘っ建て小屋の裏だった。死角に警鐘兵が隠れているわけでもない。

誰かに見られることもない好位置だった。

 

総じて、いっそ珍しいほどに順調――と言っても良いだろう。

()()()()()()()()()()()()がどうしようもなく邪魔だが、しかしこのおかげで敵兵から姿を隠せている事も間違いないだろう。味方につけてしまえば非常に心強い武器である。

 

ぼんやりと霧を貫く篝火を頼りに地理を推察し、白霧で姿を包み隠し荷車や建材の影を音もなく駆ける。

目指すは中央――まずは最も守備が堅い場所を探す。

 

 

「おい、異常は――」

 

「――ぃや、何も――」

 

「儂の油を知らんか――」

 

 

そこかしこから聞こえる生活音の反響と、溢れる物資(武具や油、塩、日用品)の山。

銭に換算すると……幾らになるのだろうか?少なくとも袋に入り切らない程だろう。

算術はさほど得意ではないし、経済にも明るくない、日用品の相場も知らない彼女にはよく分からなかった。だが、少なくとも葦名を圧倒する程の資金力はありそうだ。

 

 

「―――ぉい。交代の時間だ」

 

「あぁ、もうそんな時間であったか」

 

「異常は?」

 

「無い。昨晩から霧が鬱陶しいが、まあそれだけのことよ」

 

 

しかし、それだけ土台を整えているからこその油断なのか。

ただ平常時と変わらぬ体制のまま、狼を奥へと受け入れてしまった。

それは一握りの精鋭――赤備えでさえも同じ。

彼らが身に纏うのは磨き抜かれた赤い具足。そこから溢れる武威の煌きは逆に位所を知らせる目印となり、そこら中に積み上げられた丸太を経由するだけでも容易く回避できてしまうのだ。

 

それに、襲撃を成してから一日二日。それからすぐに反撃が来るなどとは誰も考えてはいない。

せめてこの土地に対する理解が深まれば――それこそ二、三年でも馴らす期間があれば事情は違っただろう。

 

 

 

――結局、狼の姿は誰にも見られる事はなかった。

 

砦自体がそう大きくないこともある。呼吸を二百回繰り返す程度の時間があれば端から端までを移動できる程度だ。

 

最終的にたどり着いたのは、つなぎの城が出来上がるまでの仮の城。

質素な屋敷の玄関を通り、音もなく廊下を進んだ。

堅牢な砦に八方を守られた本丸であれど、所詮は急造。

まっすぐ二十も歩けば大きな襖――主の位所に行き届く。

 

慎重な手付きで襖を開き侵入するも、ここの主はよほど勘が悪いらしい。

大きく揺らめいた蝋燭の火にも気付かず、熱心に手元を見るばかりだ。

 

慎重に、慎重に足を進める。

畳を掠める切っ先がゆらりと踊り、背を向ける"大将首"目掛けて構えられた。

 

 

「ふぅむ、想定通りよなぁ。葦名の化生(バケモノ)共は未だ見えず……と」

 

 

椿油で丹念に整えた白髪交じりの(まげ)を揺らし、仕立ての良い白羽織とぴかぴかに磨かれた黒鉄の具足を自慢気に震わせた。

相変わらず前方へ傾いた首は机に広げられた書物を眺めることに全霊を注いでいて、その背後から近づく鉄の香りにちっとも気付かない。

 

そんな男が(したた)めた墨汁が描くのは、どれも内府公の勝利を確信させるような強い言葉ばかり。

根拠はない。しかし"そうなる"だろうと結末ありきで口を開いた。

 

 

「所詮片田舎で威張るだけの猿どもよ。

飛んで火に入らぬのならば、直接火を入れるとよい」

 

 

蝋燭が男の周囲一間(1.8M)を照らす。

楔丸の鈍色に朱色が混じり、生々しく滴る血を幻視させた。

けれど(まげ)の男は背後に潜り込んだ女の影にも吐息にも気付かず、恍惚と笑うばかり。

 

 

「ああ、なんと美しい指し手か……初陣ながらこの冴え渡り。

くくっ、我が事ながら恐ろしくなる……」

 

 

細い指が伸ばされた。

男の耳を掠めるように通り、深い皺の刻まれた口元へ。

 

 

「これであれば兄上も儂を認めるしかあるまい。

儂は優れている。儂は強い。儂は素晴らしいのだ。儂は――」

 

 

――儂は"有能"である、とでも口にしたかったのだろうか。

老人は幸せな夢を抱いたまま、最期の最後まで首元に迫る刃先にも気付けず、無常にも生を終えた。

 

 

「御免」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パチパチ、パチパチ。

 

暗い暗い空の下。どんより淀んだ霧の中で朱色が弾ける。

真新しい木が割ける悲鳴。鉄や骨が溶ける音。

それは男達が今際に頸から鳴らす水音にどこか似ているけれど、主張する力には天と地ほどの差があった。

 

切り立った崖の上から見下ろす景色は真夜中であるにも関わらずとても眩い。

空気自体は強い湿り気を帯びていたはずだったが、どういう訳か火の勢いが計算を超えて猛っていた。

……とはいえ、燃えているのは砦の中央部と、そのすぐ傍らの倉庫群――食料や装備の類を溜め込んでいた辺りのみ。

狼の想像以上に"可燃物"は多かったが、葦名の霞を破るほどの勢いを持たせることは出来なかったらしい。

 

当初はどうなる事かと肝を冷やしたものだ。

浮かんでも居ない頬の汗を指で弾き飛ばし、ほっと息を吐いた。

 

 

「………これで、撤退となればよい。だが……」

 

 

眼下の大半の兵士はわたわたと右往左往しているばかりだ。

 

……が、狼が睨んだ通り、一部の場馴れしているらしき男達は音頭を取って動き始めた。

これならば鎮火が遅れて大惨事になることもないだろう。

 

空を見上げ、徐々に月明かりの勢力が強まってきたことを感じ取り、おもむろに立ち上がる。

 

為すべきは為した。

ならばあとは一度帰還し、主に報告するが吉だろう。今頃は安全地帯までの避難準備が終わっている筈だし、もしくはそのまま移動しているかもしれない。それならそれで早めに追いかける必要がある。

 

 

それに何よりも、基本的に主から離れるべきではない。

狼とて自分達を取り巻く状況をそれなりには弁えている。

今は()()()()かもしれないが、それも万全ではないのだから。

 

か細くなり始めた朱色に一瞥をくれ、屋敷の方角へと足を向けた――その時。

 

 

「なんだ……もう帰るのかい、倅殿?」

 

「っ――」

 

 

――鈴の音が鳴る。

 

抜刀、構え。瞬間弾けたのは夥しい数の火花。

楔丸の刀身に満遍なく打ち付けられるのは針の嵐!

半ば反射的に振るわれた刀身によってざんばらに切り裂かれ、狼の周囲へ残骸の輪を作り上げる。

 

 

「ふぅむ……どうやら、ぬるま湯に溺れちまった訳じゃないみたいだね」

 

 

気配も音もなく、いつの間にか現れた――そうとしか言いようがない。

針を放った下手人は黒装束に身を包んだ老婆だ。

ピンと伸びた背筋からは未だ衰えぬ覇気さえも漂っている。

 

 

「重畳」

 

 

嗄れた声で囁く。

その声音には、文面以上の圧が込められている。

一時は狼を育てた事もある女傑は、一歩を重々しく踏みしめた。

 

 

「……お蝶、殿」

 

「実に良い事だ。それじゃあ――」

 

 

 

 

 

 

「やろうか」

 

 

視界の右端、更にその外。

地を滑るように迫る豪脚が血臭を振り撒く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「む……」

 

 

ピキリッ、とか細く悲鳴を上げて砕け散った白磁の茶器。

未だに戦火の残香が漂う座敷に居座る九郎。その手元で砕けたのは、いつだったか……確か、平田の当主から九郎へと贈られた品だった。

どうにもいい気分ではない。じんわりと滲む不快感に眉を顰める。

 

 

「あら……申し訳ありません、九郎様。すぐにお取り替えします」

 

 

布で包んだ破片を手に、そそくさと側仕えの女中が厨房へ向かう。

――なんと縁起が悪い、と小さな呟きが鼓膜を擦った。

 

 

「……縁起、か」

 

 

竜胤が故に傷付くはずもない指先を揺らし、当然のように狼の姿を思い浮かべる。

未だにこの場を離れたままの彼女に縁起を紐付けてしまうのも致し方のないことであった。

今の状況を想像するだけで、顰めたままの眉がハの字へと形を崩してしまう。

 

 

「九郎様。おかわりの茶でございますよ」

 

「っ、あぁ。すみません」

 

 

また別の茶を"野上のおばば"から受け取り、心ここにあらずといった様子で視線を宙に彷徨わせた。

普段と変わらぬ様子の老婆は、そんな九郎を優しげに見つめている。

 

 

「九郎様、そう気になさることじゃございませんよ」

 

「…………」

 

「ねえ、確かに縁起が悪うと言いますが……別にそんな言い伝えだけじゃあ無いんですよ」

 

「そう、なのですか?」

 

 

"野上のおばば"はお茶目に笑った。

 

 

「ええ。陶器とは、難逃れの縁起物。割れると何かが起こる前兆かもしれないし……ただ、役目を果たしただけかもしれない」

 

「……身代わりですか?」

 

「ええ、厄を代わりに引き受けただけ――そう考えると、ほら。なんだか安心できませんかのう?」

 

「そうですね……」

 

 

そっと視線を落とす。

茶器の中には鼓動と共に揺らめく波紋。

それと、まっすぐに立つ茶柱。

 

小さな手で精一杯握りしめ、ぐっと茶を煽った。不安を洗い流すように。飲み込むように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右より地を這う鎌足の蹴り。

殆ど間を置かずに突き出される右手の針。

それらを左足と左手の刃で防ぐも、いくらか体幹を揺らげてしまった狼へと間髪入れずに両の手掌が迫り――首元を捉えた。

 

 

「そぅ、ら!」

 

 

荒ぶる力点が蛇のように四肢の自由を絡め取り、抗うことも出来ぬまま空舞う痩躯。

ぐるりと視線が空転し、次の瞬間には地面へと強かに撃ち落とされた。

 

 

「――かッ」

 

 

肺が痙攣する。強引に抜き出された空気が未だに戻ってこない!

必死に藻掻くも、しかしどうにもならない。数秒、あるいはそれ以下の時間が完全に失われる。

無論、無防備に土埃の中に沈むばかりの狼を――当然ながら、あのお蝶が見逃すはずもない。

 

――チリン、チリン。

軽やかに鳴る鈴の音とは裏腹に、針の先から響く旋律は殺意の権化が如く。

空気を裂く鈍い音が狼を狙っている。

 

 

「すッ、ふゥ!」

 

 

迫る切っ先。

首を横へひねることでほんの僅かな遠心力を産み出し、肩を通して増幅させ、肘に至らせ極限まで高める。

そして肘を地面へ突きたて、体を浮かばせた。

勢いに任せて横へ逸れること僅か三寸。しかしそれが狼の命運を繋いだ。

 

ドォン!と、数瞬の後に爆音が轟く。

その勢いで砕けた土と石が狼の横顔を強かに打ち付け、鋭い痛みに苦悶が漏れる。

が、その痛みは気付けの薬にもなった。

 

そこまでして、ようやく本格的な復帰を果たした両足。すぐさま一気に活を入れ、一息で後ろへと飛び跳ねる。

 

 

「おや、これは失敬……おなごの顔に傷を付けてしまったかい」

 

「は、はっ……」

 

 

呼吸が荒い。喉が空気を求めて必死に開閉を繰り返す。

遭遇よりほんの数分。たったそれだけ。

 

だというのに、疲労感が肉体の隅から滲み始めていた。

数間離れただけの地面に刺さるお蝶の脚から未だ衰えぬ凶器の色が見て取れるというのに、あんまりな体たらくだ。

 

息も絶え絶え。いっそ無様な風体のまま、のそりと口を開く。

 

 

「お蝶、殿」

 

「そら、構えな。忍びなんだろう? あんたも、私も」

 

「―――ッ!!」

 

 

――パチン!

振るわれた楔丸への返礼は指の音だった。

脳髄を揺さぶるのは、これまでに(前も今も含めた上で)何度も、()()()()()()聞いたことがある残響である。

 

 

「さあ、さあ……あのお屋敷でどれほどの実りがあったのか……。

私にも見せておくれよ、倅殿?」

 

 

周囲に立ち込める白い霧。形作られた子鬼達。それを従えるのは老いた忍び。

 

彼女が笑っているように見えたのは(うつつ)(まぼろし)か。それも最早、お蝶にしかわからない。

けれど狼は、"そうであればいい"と願う事しか出来なかった。

 

 

「斬らせて、いただきます」

 

 

手の内は柔らかく、指先は柄を引っ掛けるように。

刃は相手の目を抉るが如くに構え、足元は常に力ませ、けれど弛む。

 

全て目の前の老女が教えたことだ。

その全てを以って返礼するとは、なんとも奇妙なことである。

が、少なくともお蝶の満足げな顔を見る限り、"間違い"ではないのだろうか。

 

 

「……そうだとも、それでいい」

 

 

――寄鷹切り。繋げて旋風切り。

 

軸足は深く地面へ沈み込み、狼と共に空気を擦る刃は限りなく流麗であった。

月夜に映えるまばゆい銀光――それを横から飛び出す白い子鬼が絡め取る。

 

 

「ッ」

 

 

一の太刀が防がれるのは、当然ながら想定内。

普段から予め懐に仕込んでいる小道具類――そのうちの一つをぽとりと地面に落とす。

そしてそれを()()()()()

 

 

「種鳴らし。よく準備してるもんだねぇ」

 

「あなたが、教えたことです」

 

「おや、そうだったかい」

 

 

お蝶のどこか嬉しげな声とともに子鬼が溶け――

 

――それと同時に、火花が産まれる。

 

狼の大上段の一振り、お蝶の脚甲。

衝突、そして鍔迫り合いによってぎゃりぎゃりと喧しい悲鳴が上げる。

 

またたきの間か、あるいは数秒か。続いた均衡を崩したのはお蝶からだ。

 

 

「はァ!」

 

 

 

 

 

鳩尾を刳り抜こうと槍のように奔る右足。

()()()()それを見切り、ほんのちょっと半身下げ――ちょうど関節が伸び切ったところを上から潰す。

 

 

「ぬ……!」

 

「これも、また、あなたの教え――!」

 

 

膝関節の可動域を強引に歪ませる程の多大な負荷。

故に体幹を維持できず――無防備な胴体を曝け出してしまう。若かりし頃であればいざ知らず、老いた忍びにとっては大きすぎる衝撃だった。

当然ながら機を見逃す道理もない。慣れた所作で右肩を叩きつけ――楔丸を逆手で突き出した。

 

 

「ぐぅ……!」

 

 

ずぶり!

湿った音と共に肉を突き破った刃が、月明かりと血糊でてらてらと輝いた。

 

臓腑をかき分け、骨を削る。

生命を解体する振動が狼の手を汚した。

 

 

「これで、一つ」

 

 

――が、まだまだ足りないことを狼は知っている。この程度で死に切れる筈もない。

葦名の水に親しんだ故の強靭性。練り上げた肉体から生じる生命力。

途端に出血が収まり傷口が凝固するのだから、それを見て化生と言われてしまえばそう否定できない。

 

 

「……は、はは……やるじゃないか。本当に……よく、育った」

 

 

己の血で濡れた指先を震わせる。そしてまた、針を構えた。

口紅のように彩りを加える血は妖艶に光を反射し、純化した殺意を分かりやすく表現している。

描く表情は喜悦に満ちて、どこか萎びた不思議な笑顔。

 

まるで蝶のようだと思った。まぼろしを見せるばかりの美しい蝶。

狼は全盛の彼女を知らないが――けれど、今の彼女がそうなのだろう。往年の彼女がひょっこりと顔を覗かせているのだ。

あまり褒められたことではないかもしれないが、少しだけ嬉しいと感じてしまう。

 

 

「……けれどね、ここまでさ」

 

 

――唐突に、肌を刺すような圧が消える。

 

鋭い呼気と共に作られる正眼の構えを横目に、お蝶は皺まみれの指先を空に翳した。

 

 

「また次に会うまで――精々、惑わされないことだね」

 

 

次いで、滲むように白霧が溢れる。

 

 

"まずい" 

 

当然ながら、頭ではそう理解していた。警戒も怠らず、次にすぐ動けるような心構えも忘れていない――つもりだったのだ。

 

……しかし、体は動かない。

種を落とそうにも指先は動かないし、全身から抜けていく力を押し留める事も出来ない。

クラクラとふらつく頭を必死に押さえつけるが、徐々に大きくなる揺れを抑える事さえ出来やしない。

焦り、荒く呼吸を繰り返す毎に思考の輪郭がどんどん霞んでいった。

 

それでも、と。

 

せめてもの抵抗として――唐突に殺意を霧散させたお蝶の真意を見定めたくて、必死にまぶたを押し上げ続けた。

 

 

「おやすみ、狼」

 

 

揺らぐ視野に映るのは、大きい、大きい、真白い"ちょうちょ"。

霧の羽でふわりと舞う――義父の梟のような、未知の"何か"。

 

そしてそれは、不思議なほどに視線を惹いた。

意識を吸い込まれそうなほどに――。

 

 

 

 

 

 

 

 






Q.お蝶のちょうちょって何?
A.梟が使ってたんだしお蝶殿が使っててもおかしく無いの理論。
それにお蝶は幻術使いな分、(モノが同じかはさておき)お蝶のほうが適正あるでしょ!という解釈。


Q.お蝶の拡大解釈入ってない?
A.狼が逆行したことによるバタフライエフェクト
英語版のお蝶の名称はレディ・バタフライなので丁度具合がいい……いいですよね!





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

IF分岐:フロム合戦
世界を超えた残滓*改訂思案中


三寸先に迫った切っ先。

金切り声を上げる本能が促すまま咄嗟に半身を捻り、同時に楔丸を眼前に翳した。

瓦礫に身体操作を阻害されながら、針に糸を通すが如き繊細さで危機に抗う。

 

 

「―――!!」

 

 

ギャリリィ!

鋼が擦れる耳障りな悲鳴が鼓膜を突き刺す。

やかましく騒々しい。 しかし、これこそが生に実感をもたらす妙薬だ!

峰を横から押し当て、血塗れの太刀の軌道を強引にずらした。

 

――顔の横を貫いた切っ先によって害されたのは、たった一房の頭髪のみ。

はらりと舞うそれを尻目に、腹と足腰の粘り強さで跳ね起きる。

 

 

「はっは、やるなぁ!!」

 

 

瓦礫を突き破り姿を見せた狼に傷一つ無いことを認め、赤錆の男は黒い頬当ての中で大きく嗤った。

大きく広がる土埃を抜き放った分厚い太刀で振り払い、とてもとても嬉しそうに瞼を細める。

カラカラと嗤うその様だけを見れば、気の良い大男という印象を受けるに違いない。

 

――ここが戦場でなければ。

 

何故、敵に笑いかける事ができる。

何故負の感情を纏っていない?

 

つい先程までは泥よりも尚淀んだ殺気を放っていただろう。

気が狂っているのか、ただ自己を律しているのか。

……どちらにせよ、狼には理解の及ばぬ精神構造だ。

 

光を通さない純黒の瞳で睨みながら、四肢の末端に至るまでに細心の注意を払う。

視線を逸らさぬまま筋骨に電気を流し込み、とんとんとん、と機敏に地を踏み宙を跳ね、間合いを測った。

 

そうやって常に切っ先で威嚇する彼女に何をするかと思えば、殺意を向けるでもなく悠々と眺めるだけだ。

 

……益々意味がわからない。

ほんの僅かな重心の揺らぎさえ見落とさぬよう目を凝らし、男の思考を暴こうとする。

 

――が、それを知ってか知らずか。

男はいっそ無防備な程に自然体で、狼の警戒さえも物ともせず太刀の腹を弄んだ。

刃をするりと撫で埃を払う姿は隙だらけに見えて、しかし斬り掛かるにはどうしても躊躇を覚えてしまう。

刃を吹きかぶった一寸先に、自身の四肢を切り裂かれる幻影がチラついて仕方がない。

 

……不可解な男だ。

狼は一層警戒心を強め、どうとも言い難い底知れぬ不気味さを漂わせる男を睨みつけた。

 

 

「くくく、随分とまあ……たまらぬ殺気で焦がしてくるものよ……」

 

 

刀身に滴る血糊を掬い上げ、指先を擦り合わせながら柄を握りしめる。

男は――いっそ、愛おしげにも見える眼差しで狼を見つめ、柔らかく剣先を傾け正眼に構えた。

 

そして()()

からから、くつくつと。

何が面白いのか、頻りに嗤う。

そうして身構える狼を、心底嬉しそうに眺めるのだ。

 

狂気的だ、と思う。

浮世離れした気配は何処か朧げで、水面に映る月のようにあやふやだ。

まるで――心をこの場ではない何処かに、ぽつんと置き去りにしているよう。

現実味が伴っていないから、夢心地だからこそ支離滅裂な振る舞いを繰り返す。

 

……いいや、流石にこれは邪推というものか。

 

ともかく、狼に言えることはただ一つ。

 

()()()()

 

この上なく、やり辛い。

……いっその事、開口一番で殺意露わに斬りかかってくれた方が楽な物を。

 

 

「…………」

 

 

眉間に力が籠もる。

陽光(破邪)を背に受け輝く男は、清浄さとは一切無縁の血臭(魔性)を纏ってゆるりと構えた。

刃渡り、凡そ三尺足らず。

刀身は太く厚く、非常に鋭利。

その振る舞いとは打って変わって、巨木が如き深みを見せる剣気。

狼の喉が知らずの内にごくりと鳴った。

 

紛うこと無き難敵である。

何度も()()()()()挑むべき、常識を逸脱した傑物。

今回は何度目で攻略できるのか――

 

――ああ、いや……もう死ねないのだったか。

 

骨肉に染み込んだ精神(不屈)の前提条件たる呪い。

それがもはや存在しない過去のものであると、狼は今になってようやく実感する。

 

今生では始めて為す、難敵との命を懸けた殺し合い。

敗北なぞ許されないという自己を糾す重みが双肩にのしかかった。

 

……これが竜胤の呪いを受けた後であれば気負わず、ただ斬り合えば良かったのだろう。

しかし今回の狼は死なず(不死)ではなく、ただの(忍び)であると弁えなければならない。

人斬りとしての才気を磨こうと、空を飛ぶほどの斬撃を放てようと――結局の所、ただの人に過ぎぬのだ。

 

死ねば、そこで終わりだ。

そんな当然の事さえも何処か新鮮で――とても■らしい。

願ってはならぬのに、欲してはならぬのに。

主を守る為という一点のみで、身を焦がす我欲がその矜持(くだらない)の尽くを食い荒らす。

 

 

「ふぅ………」

 

 

――白霧の呼気に合わせて、脳髄を満たす狂おしい熱気を吐き出した。

 

いくら思考を回したところで今この場には関係ない。

狼にできる事は、ただ殺めるのみ。

 

死ぬかも知れぬが、死なぬかも知れぬ。

どうせ引けぬのだ。

ならば押し通るしかないだろう?

 

 

「ああ……いいなぁ、おぬし」

 

 

大男が恍惚と呟く。

まばゆい宝石を眺めるような狂気を浮かべた瞬間――。

 

眼前、目と鼻の先の位置に影が瞬く。

コマを飛ばしたかのような脈絡の無さで、赤錆の男が天を突き刺すように()()()()()()()()()()

 

 

「―――ッ!?」

 

 

――寄鷹斬り、逆さ回し。

 

脳髄が命令を下すよりも尚速く、脊髄反射の域で行われる斬撃と離脱。

右の斬り手が太刀とかち合うとほぼ同時――上体を翻し、天と地がぐるりと反転する。

素早く左の手で体を支え、跳ね返し、空を舞う軽業を以って幾ばくかの距離を奪った。

 

 

「はっはァ!!」

 

 

それと同時に唸る轟音。

赤錆の足は巨岩の様に大地を踏み締め、空いた距離を再び疾走する。

大気を巻き込み震わせ、殺意の権化たる剛剣が牙を剥いた。

狼の頭目掛けて残光と共に振るわれ――余裕を持って翳された楔丸は、正確にその刃金を弾く。

 

 

「たまらぬなぁ、たまらぬなぁ!素晴らしいじゃあないか、()()!!」

 

 

次いで大上段、逆袈裟斬り、水平抜き打ち。

瞬く間の内に乱舞する赤い閃光を見切り、往なし、弾く。

斬り結び生まれた火花は幾百を超え、見開かれた狼の昏い瞳を明るく照らして消えていく。

瞬きさえも許されぬ殺意の交流は恐ろしく早い調子で繰り広げられ、当然の帰結として狼の体幹をすり減らした。

 

幾度目かの交錯。

 

狼は少しばかり充血した瞳で、ほんの僅かな機を見計らう。

男が大きく上に振り被り、両腕の筋骨の重みを乗せた一撃を放ち――それが狼の額を裂く寸前にひらりと横へ跳ねた。

 

 

「はぁ……!!」

 

 

好機。

大きく体を捻り、遠心力を十全に活かした右から左へ流れる水平斬りを――

 

 

――というのは、囮である。

 

 

「なに!?」

 

 

狼の斬撃を防ぐために、左側面にて天を刺すよう立てられた太刀を無視し――そして、この瞬間のみは楔丸さえも意識より外す。

刀を握る右腕を瞬く間に折りたたみ、防御をすり抜け強かに肘を叩き付けた!

 

 

「が、ぁ――ッ!」

 

 

拝み連拳、破魔の型。

尊き仙峯寺に伝わる武僧の業だ。

 

赤い甲冑を徹し腹を叩く肘打ちに次いで、今度は左の掌底を腹に打ち付ける。

その動作は狼の研ぎ澄まされた技巧故にいっそ美しく、赤の甲冑を透過し男の柔らかい臓物をかき乱す。

さしもの男も小さく咽た様を視界に写し、しかし何の情動もなく更に続けて背撃を見舞った。

 

 

「――は、はは……何とも奇天烈な女よ!!」

 

 

……しかし、流石の大男である。

いやあ驚いた、と馬鹿のような理由でからからと嗤い、直様僅かな隙(体幹の揺らぎ)を持ち直して太刀を構えた。

つまりはほぼ無傷。

 

……解せぬ。

解せぬし、納得もできぬが……推察は出来る。

その巨大な体躯を支える筋骨は並外れた強度を誇る。故、会心の連撃は――どう見ても、有効打(勝利に繋がる)とは思えぬ結果しか生み出せない。

 

……そんな、あまり想像したくもない理由だろうか。

ああ、本当に想像したくない。理解したくもない。

そんな理由だとすれば、先の決起は一体何だったのか。

 

実に、実に忌まわし過ぎる生命力だ。

親にでも感謝すべきだろう。

 

狼はそれはもう眉間に大きく皺を寄せたし、瞳を濁らせた。

自信のあった連撃が()()の効果しか及ぼすことの出来なかった?

ただ体が強いから?

不条理だろう?

頭がおかしいのではないか?

 

実に、実に……。

なんと、云うべきか。

 

………。

 

……ああ、そうとも。()()()()()()()

並大抵のことでは動じぬ狼ではあるが、今回ばかりは苛立ちが勝る。

そんな心中をぶつけるように、更に激しく気勢を強めて楔丸を振るいに振るった。

 

 

「おお、おお!素晴らしいぞ!!」

 

 

されど、男はそれさえも上回る程苛烈な連撃で大気を震わせる。

狼が一度剣を振るう間に、男は三度も振るうのだ。

頭がおかしいのではないだろうか?

 

しかし、狼とてそんな些事で諦めるような女ではない。

正に不屈、正に鋼鉄。

 

固い決意が衝き動かすまま、斬撃と斬撃の間を縫い刃を徹そうと剣を振るい――振るい……。

……振るう、が……。

 

……その殆どを的確に防がれ、往なされ、或いは甲冑に阻まれた。

まるで鎧武者(西洋甲冑の弁慶)のように堅牢極まる。

以前も同じように考えたが……なんと云うか、対処方法が限られるというのは非常に困る。

頭がおかしいのではないだろうか?

 

狼は頭の片隅でそんな思考を回しつつ――ほんの僅かに剣先が鈍っていることに気付く。

 

 

「…………」

 

 

全力で稼働を続ける四肢の筋肉は、嘗て無い全力の働きに白熱し痛みに喘いでいる。

いつの間にか、狼の額には大粒の汗が浮かび始めていた。

 

――けれどそんなものは些末な事だ。

弾けるそれを振り払いながら更に果敢に攻め立てる。

 

……が、しかし――赤錆の男は、傷を負わずにただ嗤うばかり。

 

 

「………っ!」

 

 

ギィン!一際大きく鉄が嘶き、それを合図とするように大きく後方へ跳ね飛ぶ。

どれだけ切り結ぼうとも変わらぬ状況はようやく様変わりを見せ、ようやく生まれたほんの僅かな間隙に四肢を苛む熱を排出した。

 

吐く吐息は白く熱い。

次第に冷めゆく両腕は変わらず楔丸を柔らかく握り締め……冷却されたが故に、一層鋭く粘り強い剣気を纏った。

赤熱した鋼が冷えれば硬度を増すように、精錬する度不純物を吐き出すように。

いっそ慈悲深い殺意が大気を焦がし、地を掴む両の足が今にも飛びかからんと張り詰める。

 

赤錆の男は常に血走った瞳でその律動を見つめ――そこでふと、視線を横にずらす。

 

 

「おう!貴様等は手を出すでないぞォ!!コヤツは儂の獲物よ!!」

 

「………!」

 

 

――ハッと、我に返る。

 

自己の置かれた状況と位置から逆算し、ようやっと周囲の様相に意識を向けて……そして気付いた。

どこもかしこも赤備えの兵達が居座っている。

散らばる瓦礫の裏側で、焦げた平原の窪みの中で、後方の藪の内側で。

みな、各々の武具を握り締めていた。

 

……迂闊。

あまりにも軽挙であった。

 

このような敵陣の真っ只中で剣戟を交わせば当然音が響き、有象無象をいくらでも惹き寄せるなど当然の事なのに。

赤錆の男の脅威ばかりに目線を奪われ、そもそも警戒すべき存在(多数の兵)を忘れてしまっていた。

 

 

「……援護は、できぬか」

 

 

瓦礫の隙間を通してちらりと屋敷の方に視線を送れば、射線は開けているものの……同士討ちを恐れてか、実際に弓を引くことは出来ないらしい。

 

この窮地を脱する為の援護は望めず、かと言って力尽くで逃れるにも……それは厳しいと言わざるを得ない。

これ程多数の敵兵相手に、上手くやれるのか?

一対一であれば勝機が那由多の果てにでもあろうが、ここまで数が多いとそうも言っていられない。

 

しかし、まあ……できるかできないかではなく、やるしか無いのだが。

 

 

「ふぅ……」

 

 

己の裡に、深く深く埋没する。

勝利への道程を歩むために。死を逃れるために。

 

脳内を雑多に泳ぐ雑念を残らず追い出し、極限の集中を為すべく、ただ専心した。

 

……彼奴は、有り難い事に(愚かにも)狼との一騎打ちをお望みらしい。

律儀にも周囲の赤備えや孤影衆も、「また始まったか」と言わんばかりに呆れた(まなこ)で赤錆の男を見据え、平田屋敷の援護射撃を警戒しながらもこれより始まる戦を観戦しようと腰を据えている。

挙句の果てには、懐から取り出した瓢箪(どぶろく入り)を呷る者まで出る始末。

 

それを流し見た狼の視線に、鋭く冷たいものが混じるのも……まあ、無理はない。

 

今この瞬間にも平田の人々は殺める時を見計らっているというのに、なんとも……こう、考えなしと言うべきか。

狼には一切理解できない人種であることに、まあ違いはないだろう。

 

目の前で静かに腰を落とす赤錆の男も、そんな兵達の様を当然とでも言うように受け止める。

故に端から欠片も気にも止めず、ただ只管に精神統一をしているらしい。

彼のその姿勢だけは、それだけは見習っても良いかも知れない。

 

呼気を吸い、吐き出す工程を只管繰り返す最中というのに。思考の隅で、そんな無駄な敬意がふと浮かんだが――しかし、それが定着する前に吐息に乗って空に解けた。

 

 

「ふぅ―――」

 

 

吸う。

吐く。

吸う。

吐く。

 

一度繰り返す度に裡に沈み、二意の無駄が大気に溶け込み、三相はみな戦意を滾らせ統一される。

自己暗示を幾重にも唱え、一世一代の大勝負へ挑むための素地を拵えた。

 

 

「――――」

 

 

排除する。

排除する。

排除する。

 

 

「貴公……」

 

 

あらゆる無駄(余分)を削ぎ落とし、薪に焚べ――人斬り(■■)の本性を呼び覚ます。

そうすることが最善であり最適であると、無心のままに確信していた。

 

故に、強く、強く、強く、ともすれば強引な程に自我を削り整形し、血みどろの殺意(夜叉戮の加護)を表層に浮かばせた。

 

十秒経つ頃には視界も次第に色を失い、赤備えは無色の兵士へ変生し、孤影衆はただの石ころへ成り果て、赤錆(腐血)の香りも彼方へ吹き飛ぶ。

 

 

「おォ……何という……」

 

 

そうしてしまえば――その場に残るは一柱の人斬り(■羅)のみ。

 

無駄なく構えられた刃は万物を斬り裂く気迫を纏い、(まなこ)の内には余りにも冷たい……冷たすぎて火傷しそうな鋭い光が宿っている。

狼の内に秘められた、本来ある筈のない過剰な程に騒ぐ()()()()()が一切の枷を取り払う。

それはそれ自身を起爆剤とし、本来は未だ到達する筈のなかった領域へと一時的に押し上げていた。

 

 

「――美しい(いい香りだ)

 

 

研ぎ澄まされた剣気が氾濫する。

一切を斬り裂く程攻撃性が極まった防衛反応が駆動し――()()()()()()を認めた赤錆の男は、じっと目を見開いた。

 

胸中に溢れる熱い想念が瞳を熱し、唐突に現れた極上の餌のみに視線が吸い寄せられる。

 

 

「は、はハ」

 

 

微かに震える瞼の内側で、一体何を思い浮かべているのだろうか。

一秒にも満たぬ刹那、その()()()が僅かに細められる。

 

――率直に言ってしまえば。

男は大いに感動している。

 

焦げ付いた殺意に、狂気を孕んだ殺意に、慈悲深き殺意に。

……その殺意の中に、きらりと輝く"たからもの"。

 

それは今は遠き自己の源流(古都)、その残滓。

実に芳ばしく、鼻孔を満たすそれのなんと心地よい事か。

叶うのならば目の前の女を直ぐ様捕えて、その小さな体躯の尽くを縛りつけて、組伏せて――彼女が発する()()()を堪能したい。

 

脳髄がそんな叫びを喧しく騒ぎ立てる程に、男の内側をめちゃくちゃにぐちゃぐちゃにかき乱す。

 

ただただ、愛おしい。

 

縁もゆかりも無い異邦の果てに、一切無関係な筈の女の中に()()を見つけた胸中を……ああ、なんと言い表せば良いのだろう。

 

それは真性(真作)の物ではなく、無意味な錯覚の産物だろう。

赤錆の男が無意識のうちでも求めて止まなかった、どう足掻いても届かぬ故郷の残り香。

 

けれど――男は、ただ無邪気に笑った。

 

 

「おおぉ」

 

 

頬当てがギチリと軋んだ。

固定する紐が震え、ぶつぶつと繊維が千切れて果てた。

 

 

「おおおおォ――」

 

 

両足が撓み、何時でも大地を駆けられるよう姿勢を制御する。

左手は非ざる何か(散弾銃)を握るように虚空を泳ぎ、右手が握る長大な太刀が掌に繋がった。

 

赤錆の男は――自分の先祖(源流)が為し得た(いくさ)の作法を知っている。

遥か西の西の西に在る偉大な都にて、過去(未来)で紡がれた闘争の歴史を、その技巧の限りを識っている。

世界の壁さえ隔てた向こう側に蠢く上位者達の狂気を、それに抗う人の意思を覚えている。

 

男の血脈の過去であり、しかしこの時代からは遥か未来にある狩人達の麗しき叡智。

 

見たのではなく、聴いたのでもなく、赤錆の男は識っている。

己の体内を巡る血の遺志(Blood borne)が、この世に産まれたその瞬間より教え続けてくれたのだから。

 

 

「――おおおおおおォォオォッッ!!!!!」

 

 

――轟音。

 

同時、焦げた土をさらに熱する眩い火花。

一足で六間(10メートルと少し)の間合いを跳ね詰め(ヤーナムステップ)、血の軌跡と共に振るわれる右手の太刀はあえなく防がれ、楔丸へと強かに打ち据えられた。

 

 

「………!!」

 

 

防がれたと見るやいなや、男は一瞬の間に手首を返し、極めて機敏に刃を引く。

示し合わせたかのように互いの刃金は離れ――須臾の後には再び互いへ食らいついた。

 

 

「一文字」

 

「かァ!!」

 

 

震える大地、裂ける大気。

ただの剣圧のみで土埃が跳ね上がり、それを薄汚れた太刀が斬り裂き振り払う。

如何な備えをも無視して必ず斬る必殺は、まるで時を早めたか(古い狩人の業)のように煌めく剣閃に堰き止められる。

 

……つまり、足りぬ。

ならば、足せばいいだけの事である!

 

 

「二連――!」

 

 

再度轟く鉄の悲鳴。

 

馬鹿の一つ覚えのようにもう一度輝く斬り下ろし。

それは正しく刹那の間に繰り返された。

 

狼が睨めつけた業の矛先たる赤錆の男は、先の一撃を受け止めた姿勢のまま。

ついさっきまではそこに在った斬撃を防いでいるように、虚空へ向けて刀身を翳している。

 

――男が、再び襲いかかる牙へ向け対処するよりも尚早く。

一度の防御に二撃を与えるのだ。

 

それ故に削り取られた体幹を取り繕う隙もなく、痛痒を重ねるように全く同じ箇所に食らいついた。

 

 

「ぬゥ!?」

 

 

振れる体幹。

揺らいだ姿勢。

 

――"おお、剛剣の頂点たる一文字を讃えよ!"

いつかの日、葦名衆の一人は酒の席で高らかにそう叫んだ。

 

その時はみな、呆れながらも同意し、事実そう疑わずに一文字の利点の数々をつらつらと語ったものだ。

狼はその席から逃れることが出来ず、耳にタコが出来るほどにその賛美歌を聞かされていた。

 

故にこそ思う。

その想いは間違っていなかったぞ、と。

 

例え剛力無双の益荒男だろうと、一文字の前では笹の葉のように揺らぐのみ!

 

赤錆の甲冑を無様に傾け、初めて明確な隙を晒している。

 

――それを、狼が見逃す理由はない。

 

 

「………!」

 

 

銀閃が眩く奔る。

速く疾く捷く、袈裟に横に下から! 縦横無尽に剣腕が唸り、連続する体重移動の重みを乗せた刃が踊る。

 

葦名流に於ける異端の一つ。

"源の宮"と呼ばれる秘境に産まれ、やがて主と共に葦名へ参った女武者が編み出した業――"浮き舟渡り"。

それはさながら舞いのように。

流麗な剣戟が男の四肢に、腹に喰らいつき、甲冑の綻びを的確に縫い――ついに、その巨体から血を流させた。

 

失われた血と共に活力まで流れ出たのか、巨体が更に大きく揺らぐ。

 

――後必要なのは、致命の一撃。それのみだ。

最後に断つべき、最も有効な部位を探し視線を這わせ……"そこ"はすぐに見つかった。

 

いざ終焉を。

とどめを刺さんと更に強く柄を握り、新たな"首無し"を生み出すべく横一文字に楔丸を叩き込む――

 

 

「舐めるなよ……!!」

 

 

――が。 ()()()()()()

 

強引に、不条理に。

握り締めた獲物に己の体を押し付けるように、肉体に満ちる類稀な筋肉を大きく隆起させる。

膨張し、重くなり、異様な圧を放つままの全身を太刀に乗せ――。

 

そして、刃を首元に翳す。

 

ただ、()()()()

それのみで会心の一撃を無効とし……例え防がれようとも、それでも生まれる筈だった隙さえも押し殺された。

 

さながら、巨岩の如し。

 

狼の連撃は、技ではなく――自然の摂理を以って封ぜられたのだ。

 

――赤錆の男、背丈は凡そ六尺五寸(約195cm)

対する狼の背丈は五尺も無い(145cm)

 

"上背に差がある"という事は、腕の長さや足の長さの違いはいっそ残酷な程明確に別れ、あらゆる間合いに格差があるという事。

加えて言えば、体の大きさが違えば体重も違う。

それ即ち、あらゆる攻撃の()()が、体を支える頑丈さが違うと同義。

遥か過去の世より連綿と続く、大いなる物理法則が定めた不文律である。

 

ギリギリと重なる刃の鍔迫り合いの最中、赤錆の男は当然の権利のように全体重で狼を押さえつける。

剥がれかけの頬当ての下で鋭く尖った歯を剥き出し、口端を裂くように大きく笑った。

 

 

「はァ!!」

 

 

男の膂力に任せた強引な体重移動。

瞬間的に爆発するかのように刃と柄を押し込み、狼の体幹を強引に打ち崩す!

 

狼の体はその小ささゆえに浮き上がってしまい――それに逆らわず、むしろ自分から空へ舞い靭やかな四肢のばねを活かす事で姿勢を正した。

慣性に従い後方に流れる力が腰を伝い、足へ下る。

そしてそれが地へ逃れる寸前に、狼は靭やかな両膝を柔らかく折り曲げ、逃れる筈だった力を全て残らずその場に留めた。

 

 

「―――ッ!!」

 

 

そして飛ぶ。

反発する足は常よりも更に強く地を踏み抜き、赤錆のそれにも劣らぬ縮地を為し得た。

同時に翳す楔丸が日光を受けて銀に輝き、追撃を放とうと大上段に振り被られた右腕を斬り落とさんと袈裟の型にて滑走する――

 

――が、男は何を思ったのか、握り締められた左手を突き出した。

 

 

「づァ!!!」

 

「……は」

 

 

ガァン!と、鋼と肉が打ち付けられたにしては異常な音が響く。

 

……それを見て、思わず目を見開いた。

男はあろうことか、楔丸の側面を()()()()()のだ!

 

想定の外を爆走する奇策は見事狼に動揺を齎し――どちらにせよ変わらぬだろうが、横合いから軸をずらされたが故に体幹が大きく揺らいでしまった。

 

両手で握っていたはずの楔丸から左手が剥がれ落ち、右の指先は吸い付いて離れなかったものの……切っ先はあらぬ方向を泳ぎ、右腕ごと宙を遊んでしまう。

 

 

つまり、がら空きというやつだ。

 

正に絶体絶命。

赤錆の男がそれを見逃す筈もない。

故に太刀を強く強く握り締め、()()()()()()()()()()()()()

 

 

「―――!?」

 

 

()()

ガキン!と鉄と鉄の擦れる駆動音。

分厚い刀身が芯鉄を残し上下に割れ、秘匿されていた内部より()()が現れる。

 

 

「さあさ!しっかり堪能してくれ給えよォ!!」

 

 

――黒い()()が、狼の腹へ押し付けられた。

 

口径が異様に大きく、どう考えても人に向けるべきではない異形の絡繰り。

異邦の地にて生誕した、人々の知恵の粋を撚り集めた仕掛け武器だ。

 

曰く、それは"獣"と呼ばれる異形を屠るために造られたという。

"獣"は常識の埒外にある膂力を持ち、強靭に過ぎる体表を纏っていた。

故に人々には、それを殺し切るだけの"力"が求められる。それが出来ねば滅びるのみよ。

 

その記録を血脈に宿す男が、せめてもの慰みに造り上げたのがこの仕掛け大太刀――銘を"回顧の太刀"といった。

古都(ヤーナム)でも十二分に通用する程、血の香りを纏う程洗練された仕掛けはいっそ美しいが――それが狼に向けられているとは、何とも言い難い。

 

とは言え絶体絶命の危機だ。

例え身に余る程の加護で器を満たしていようとも、無防備な腹を鉛玉で撃ち抜かれてしまえば……当然、あえなく臓物を撒き散らすだろう。

 

一切の無駄(殺し合い以外)が削ぎ落とされた思考の中で、見え透いた未来予測が脳裏に投影された。

 

そこにはこうある。

結果として、狼の旅路はここで終わってしまうのだ、と。

 

御子を守れず。

義父の願いを叶えられず。

友人の思いを裏切って。

 

無様にも二度目の一生を棒に振ってしまうのだ。

 

 

 

――――。

 

 

……本当に?

 

本当に打つ手はないのか?

ただ己の死を待つ他ないと?

 

生存の道を模索すべく、超高速で回転する脳漿の電気がのたうち回る。

極限まで引き伸ばされた感覚の中、停滞する時間の中で男の指先が引き金に掛けられた。

大きく見開かれた狼の瞳はこんな状況でも――いいや、こんな状況だからこそ、ギラギラと輝き飢えた眼光で宙を焦がした。

 

どう動けば回避できる?

死の宿命を逃れるには――。

 

――避ける。

 

不可能。

体幹が大きく崩れている。

 

防ぐ。

 

不可能。

楔丸を握る右手は制御を失っている。

 

反撃。

 

不可能。

同上の理由故に無謀。

 

道具。

 

不可能。

目くらまし(にぎり灰)に使える物は所持しているが、それを懐から取り出すよりも先に殺されてしまう。

 

 

本当に……打つ手はないのか?

 

……確かに、ない。

()()()、ないだろう。

取れる手は何もなく、死を待つ他にない。

 

――しかし、だ。

自力で足りぬのならば、外部から持ち出せばいい。

例えば――仏に祈るなぞ、この状況にぴったりではないか。

 

 

―――――、――――(ナマサマンダバ、サラナン、ケイアビモキャ)。」

 

 

隔離された時の流れの内側で、吽形の真言を音もなく――口腔を閉ざしたままに口ずさむ。

狼は、過去に幾度となく吽護の加護を賜り、その度に命を救われていた。

 

今回もその焼き増しだろうか?

いいや、違う。

 

――そもそもの前提として、今の狼は既に恩恵に肖っている。

仏ならぬ怨霊の力を借り受け(奪い取り)、人体の限界に挑み続けるような無茶を続けた。

 

本来であれば……人にその様な超常存在の力を宿すことは無理な話だ。

身に降ろした所で、絶えず苦痛が精神を炙り続ける。

 

 

―――――――――、――(マカハラセンダキャナヤキンジラヤ、サマセ)。」

 

 

だからこそ、そう安々と願ってもいいものではなく、どうしても必要であれば――飴でも噛み締めて、必死にそれを耐え忍ぶのだ。

 

当然狼もまた常に身を軋ませ、苦しみをやり過ごしていた。

幾重にも降り積もる怨霊の呪詛を何とか耐えていた、というのに――

 

 

――そこに、更に()()()

人ならぬ神仏の片鱗を、満杯の器に注ぐのだ。

 

無茶という他ない。

愚かという他ない。

 

 

――、――――――(サマセ マナサンマラ ソワカ)。」

 

 

しかし、それでもだ。

忍びとは、時にそういった死線を掻い潜ることを強要される。

 

掟が故か、信念が故か。

 

狼は引かぬし、引けぬ。全ては(九郎)のために。

今この瞬間こそが賭け所よ。

 

――そして、修羅神仏は勤勉なる者にこそ微笑みかけるのだ。

 

 

薬叉写し(鬼神の加護)――」

 

 

纏う()()が混じった。

異常と異常が溶け合い、重なり、鬩ぎ合う。

そして互いに互いを邪魔して――互いの威を喰らい合う為に、波濤のように格を高める。

強く大きく気高く美しく……そして、何よりも穢れた麗しの神威。

 

 

「――――!!」

 

 

号砲を上げる寸前、唐突に变化(へんげ)した狼の性状が男の網膜を幽かに焦がした。

それを視て、感じて、味わって。恐ろしい圧に背筋に震えが走り――咄嗟に、何かに急かされるように火薬に炎を入れる。

 

 

――ドォン!!と。

表現するだけでは伝えらぬような轟音が、無遠慮に太刀と大気を震わせる。

聞く者の内臓をめちゃくちゃに乱打するような音だけではなく、文字通り、物質的に内臓を破壊する鉛玉が使命を背負って特攻したのだ。

 

 

……が。

 

 

「暴悪、捷疾鬼、威徳……是、護法善神の一尊也」

 

 

確かに役目は果たしただろう。

狼の土手っ腹を無惨に打ち砕き、破裂させ、血と肉と骨を周囲に撒き散らさせた。

故に、致命傷を負わせたという事実()()を見るならば、素晴らしい戦働きを成し遂げたことに間違いはない。

 

 

――狼が、その傷を一瞬で癒やしたことに目を瞑るのならば。

 

 

「く、ははは……何だそれは――まるで、まるで……」

 

 

赤錆の男は肩を震わせた。

目の前で起きた意味不明な超常現象に恐れをなしたからか?

 

いいや、違うとも。

 

()()()()の事ならば。

広い日ノ本を探せば、数は少なくとも()()()()()()

 

そういった化け物染みただけの存在など……別に居ても居なくたってどうでもいいさ。

 

しかし、しかし……!

 

 

「その匂いは……まるで、()()()みたいじゃあないか」

 

 

男の瞳孔がすっと細まる。

肩の震えとは、即ち溢れた感情を――狂笑の丈を表しているだけだった。

 

しかし笑顔とは思えぬ血腥い色を携えて、壊れかけの頬当てを剥がしてそこらへ投げ捨てた。

周囲の兵達もようやく"何かが可笑しい"と感じ始めたのか、広がる戸惑いの海の中でのろのろと腰を上げ始める。

 

逃げるのか、目を逸らして本来の任に戻るのか、はたまた赤錆の男に加勢するか――ただ見届けるのか。

 

正直それはどうでも良い。

もう男の視界には、そんな有象無象は欠片も写り込んでいない。

 

ただ、殺意を。

あらん限りの殺意を向ける。

糞共(上位者)達を思い出させてくれた目の前の女へと、やけに蕩けて血走った瞳の中に乗せてぶつけた。

 

 

……だから、前言撤回だ。

先程の口上を、心情の一切合切を投げ捨てる。

この女を捕えて飼い殺そうと、そう思っていた。

 

思っていた、が……しかし―――辞めだ。

 

 

殺す(狩る)

 

 

 

 




いまや、日ノ本は魔境である。
西に東に表に裏に、あらゆる因子が混ざり絡まり溶けて、更に大きく燃え上がる。

狂気の古都の落とし子が(神父の流血を注がれただけの赤子)
神々の時代に翻弄された心折れた戦士が(再起し、しかし結果に裏切られた愚か者)
輝ける騎士を騙る薄汚れた愚者が(騎士を偽った酷薄な殺人鬼)

先史時代の最期に、家族の愛を求めた騎士が(ただ家族のぬくもりを求めただけの少女)


祈れよ。さすればその最果てに―――。




目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。