銘無しの贄の英雄譚 (河蛸)
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第一章「無窮の焔」
1.「湖畔の陰よりはじめまして」


 

「ああ、お父様! お母様! 我が妹リリン、エマ! そして誉れ高き純黒の王よ! 私はついに、アーヴェントの未来を手に入れました……!」

 

 噛み締めるような歓喜に打ち震える少女の言葉が、少年には露程も理解できなかった。

 だって彼女は恩人だ。どこの誰とも知れぬ少年の命を、仁徳をもって救ってくれた善人なのだ。

 

 それがどうして、彼岸に咲く花びらのような微笑みを浮かべながら、命を奪うと宣言している? 

 

「ええ、ええ。酷を承知で宣言しましょう。あなたの命を奪う者として、その責務から逃げたりはしない」

 

 

 全身の筋肉がこれ以上なく強張っていくのを実感する。

 嫌な汗で湿りゆく背中の感触がじっとりと肌を(ねぶ)りまわす。

 警鐘のように鳴り響く心臓は、内から胸を食い破って飛び出そうだ。

 

 

 対して、少女は言う。

 古傷だらけの無骨で小さな手を、まるで魂魄を迎える天使のように差し出しながら。

 

「あなた、我が一族の贄となりなさい」

「………………はぁッ!?!?」

 

 

 

 ────奇想天外の発端は、時を数日ほど遡る。

 

 

 

 

 ◆

 

(冷てぇ)

 

 暗闇の中を揺蕩う自我が、幽かな刺激を受けとった。

 脳の奥から光が広がっていくような錯覚をおぼえる。神経回路がパチパチと起動を始め、少しずつ、少しずつ、虚ろだった肉体という感覚が取り戻されていく。

 

(暗い……浮いてる? 奇妙な感覚だ。上か下かも分からねぇ)

 

 接地の手ごたえはまるでなく。柔和で流動的な、それこそ羊水の中でも漂っているかのような浮遊感。

 本能的に、一呼吸。

 

「──!? ご、ぼっ……!?」

 

 肺臓へ流入したのは空気ではない。水だ。命を奪う、無制限の真水だった。

 ツンと貫かれるような凍てついた激痛があっと言う間に鼻腔を串刺す。

 予想だにしない出来事に意識が一気に覚醒する。しかし既に混乱という濁流に呑み込まれてしまった体は、もはやコントロールなど出来るはずもない。

 

 情け容赦なく雪崩れこむ流水と暗闇の閉塞がさらなるパニックを呼び、肺の中の最後の空気までも、纏めて絞り出してしまうほどに。

 

(がばっ、ばっ!? なんっ、な、なにがどうなっ、溺れ……る……!? まずい、息が、息が……!!)

 

 ばたばたと(もが)く。誰にも届かない悲鳴を上げる。

 何が起こっているのか理解出来ない。見当もつかない。どうして水中で目を覚ましたか、理解する術なんてどこにもない。

 

 ただ一つ、確信を持って言えるのは。

 明確な死の足踏みが、一歩一歩近づいているという現実だ。

 

(死ぬ、死、死──嫌だ、死にたくない、ちくしょう誰か! 誰か……!)

 

 粘つくドス黒い恐怖の闇が、精神の支柱を残酷なまでに蝕んだ。

 バキバキと心が悲鳴を上げる。まるで白蟻に巣食われた柱のようだ。

 誰に看取られることもなく、理不尽への抵抗すら許されず、湖に落ちた赤子のように無力のまま死にゆくことが、こんなにも恐ろしいなんて。

 

(どうする、どうすれば──光? 光が見える。こっちだ、こっちが水面だ!)

 

 ならばせめて最後まで足掻かんと、残された力を振り絞る。

 手足を縦横無尽にバタつかせ、焦点の定まらない視界の中を必死に足掻く。

 しかし体を動かせば動かすほど、水の中へ溶け出していくように、僅かな体力までもが奪われる始末。

 

(だめだ、もう息が、いき、が……)

 

 

 

 意識が純黒に染まりゆく、まさに刹那の瀬戸際だった。

 

 

 

「ぶはっ!!?」

 

 

 

 不意に腕を掴まれたかと思えば、針にかかった魚のように水上へと引き上げられた。

 暗黒から一転、刺すような日の光が網膜を焼く。

 体内を蹂躙していた水がとめどなく吐き出され、入れ替わるようにして、求め続けた空気がドッと肺に押し寄せた。

 

「げほっ!? ごほっぶほっ、げほっ!?」

 

 呼吸器官が裏返ってしまいそうなほど荒々しくむせ返る。体が生きようと必死になっているかのようだ。

 やがて、どうにかこうにか発咳は鎮まっていく。

 

「はぁーっ、はぁーっ」

 

 視界が明滅している。

 瞼の裏で星のような点滅がパチパチと瞬いているのだ。きっと酸欠のせいだろう。

 

 突き刺さるような眩しさを手で庇いながら、重い瞼をゆっくりと引き上げた。

 霞んでいた視界が定まっていく。初めに映ったのは憎たらしいほど青々とした晴天と、メレンゲのように柔らかい雲だった。

 

 ふと、動いていないにも関わらず景色が流動していることに気付く。

 どうやら誰かに両脇を抱えられ、泳ぐのを諦めたラッコのように運ばれているらしい。

 

 成されるがまま漂い続け、やがて陸地へと引き上げられる。

 脇に差し込まれていた支えが無くなり、ドサリと体が地に落ちた。

 湿った泥のムッとくる匂い。柔らかな草葉のクッションが背をくすぐる感触が、陸地の頼もしさを届けてくれた。

 

「ねぇ、ねぇ」

 

 ぺちぺち。頬を叩かれる感触がする。

 

「ねぇ大丈夫? 私の声、聞こえてる?」

 

 鈴を転がすような凛とした声が、水の詰まった耳道を通り抜けた。

 僅かな力を振り絞り、うなずく。すると顔を覗き込んでいた声の主も、安心したように頬を上げて、

 

「ん……意識も呼吸もあるわね。良かった、思ったより水は飲んでなかったみたい」

 

 眼球に張り付いた水滴と影のせいでよく見えないが、声からして女性のようだ。

 氷柱のような鋭さを帯びながらも、春に吹き抜ける風のように透明で爽やかな声色は、どこか安心感を与えてくれる。

 

「あなた運が良いわね。日課で泳ぎに来てたから見つけられたけど、少しでも遅かったら死んでたわよ?」

「……っ?」

「しっかし一体どこから来たの? 突然水の中へ現れるなんて。……なーに? 湧水と一緒に湧いてきたって感じ?」

 

 髪から滴る雫をわしゃわしゃと手で払いつつ、ケラケラ笑いを零す少女。

 上体を起こした少年は、頭を振って水を払いながら、恩人へと視線を向けた。

 

 十人の男がすれ違えばその十人が振り返りかねない、容姿端麗な少女だった。

 

 生まれたばかりの恒星を閉じ込めたような蒼い瞳。滑らかな線美を描く高くて小さな鼻。気高い漆黒に深い蒼穹を孕む、夜の海を彷彿とさせるセミロングの髪。

 生半可な麗句では賛美など到底叶わぬ端麗さ。命を助けられた身としては、もはや女神にすら思えてしまう。

 

 しかし真に目を惹いたのは、浮世離れた美貌ではなく少女の手だ。

 名も知らぬ彼女の手には、大小さまざまな古傷が刻まれ、皮は厚く、指の節々が太く逞しくなっていた。

 まるで長年の研鑽を積んだ武術家のようだと、直感で感じるほどに。

 

 水を絞るため捲られた上着の隙間からは、スマートに割れた腹筋が覗く。

 大腿は豹のようにしなやかで瑞々しく、相当に練り上げられていると一目瞭然だ。

 一朝一夕のものではない。出会って幾許も無いが、この少女が日頃から何かしらの鍛錬を積んでいるのは明白だった。

 

 そんな少女は一通りを水気を払い終えると、どこか気まずそうにそっぽを向きながら、枝に引っ掛けてあった大きなタオルを少年へ放って。

 

「あー……えっと……その。と、取り合えずそれあげるからさ、前だけでも隠してもらえたら助かる、かも」

「前? ──うぉっ! すまん!」

「気にしないで、不可抗力だから。こっちこそ裸んぼのまま放置しちゃってごめんなさい。まさかこの泉で人が溺れてるなんて思わなくて、ちょっと気が動転しちゃって。……それ、気休め程度だけど体拭くのにも使っちゃっていいからね。寒いでしょ?」

「ああ。何から何まで……恩に着るよ」

 

 急いで水を拭い取り、布を腰に巻く。

 どうして服を着ていないのか混乱したが、しかしそれ以上に、胸を打つほどの少女の仁愛が、グッと魂を震わせるようだった。

 

「本当にありがとう。君は命の恩人だ。なんて礼を言えばいいか」

「お礼なんていいわよ。私はアーヴェントの末裔だもん。溺れてる人を見殺しになんて出来っこなかっただけ」

「……アーヴェント?」

 

 聞き慣れない言葉をオウム返しすれば、少女がきょとんと小首を傾げて。

 

「アーヴェントを知らないの? こんなところに居ておいて?」

「ああ。聞き覚えがなくてすまないが、有名なのか?」

「有名も何もここは私たちアーヴェントの地よ。普通は入ってくることすら出来ないんだけど……すっぽんぽんで泉に湧くといい、何かよっぽどの事情がありそうね」

 

 少女はしばし考え込んで、「まぁひとまず、自己紹介といきましょうか」と胸に手を当てながら、ふわりと花のように微笑んだ。

 

「私はシャーロット。シャーロット・グレンローゼン・アーヴェント。純黒の王が眷属、アーヴェントの由緒正しき末裔よ」

 

 フフン、とどこか誇らしげである。

 どうやら口振りからして、高貴な家柄の娘らしい。

 

 確かにこの少女──シャーロットの仕草にはひとつひとつ気品が滲み出ていたように思える。なんというか、オーラが違うのだ。

 少年の語彙では具体的に言い表せないが、足運びや手の動きに流麗な線が見えていた。 

 王族と錯覚するほどの堂々たる雰囲気は、身に纏う簡素な無地の運動着をまるで格式高いドレスにすら幻視させるほど。

 

 ただそんな少女がどうして付き人も無く、こんな山奥の泉で泳いでいたのかという疑問は残るが。

 

「それで、あなたは?」

「え?」

「え? じゃなーい! 私が名乗ったんだから次はあなたが口にする番よ。というか、今更だけどあなたどこの誰? どうしてこの泉で溺れてたの? 説明してちょうだいな」

 

 本当に今更としか言い様がなくて、少年は思わず自嘲の苦笑いを浮かべてしまった。

 

 

「そうだな、君の──」

「シャロでいいわ。堅苦しいの好きじゃ無いの」

「──シャロの言う通りだ。えーっと、俺は」

 

 改めて、名を口にしようと記憶の箱に探りを入れる。

 だが。しかし。

 

「俺の名前は、だな」

 

 記憶へ触れようとしたら、虚空を掴んだように空ぶった。

 浮かばない。自分の名前が浮かんでこない。

 

 いや、それどころか。

 記憶という中身が詰まっているはずの箱が、空っぽなことに気が付いて。

 全身が時間でも止まったかのように硬直した。

 

「名前……なんだ?」

「ん?」

「名前が分からねぇ」

「なんですって?」

 

 空白なのだ。

 頭の中にあるはずの思い出が。自分を象っているはずの経験が。そして自分の名前さえもが。跡形もなく抜け落ちてしまっていた。

 

 自分自身と言う『枠』は認識出来るのに、中身がごっそり削られている。

 意識を持ったハリボテのようだ。長年厚塗りを続けてきた油絵が、真っ白に塗り潰されてしまったかのような感覚だった。

 

 途端に脂汗が溢れ出す。ゾッとするような自分の中の空白をはっきり自覚した瞬間、少年は濁流のような動揺に一瞬にして呑み込まれてしまった。

 存在しているのに存在していない、パーソナルへの致命的な矛盾。 

 生じた歪みは自己そのものへ亀裂を生み、言いようのない不安の津波となって情け容赦なく押し寄せていく。

 

「思い、出せねぇっ……俺は、誰だ? 誰なんだよ……!?」

 

 寒気が酷い。腕が電極でも刺されたように震え出して止まらない。

 今度こ水底へ沈んでしまいそうな錯覚が、度し難い恐怖の蔓となって襲い掛かった。

 

「思い出せない、全然思い出せないんだ! お、俺は、誰で、どうしてこんな所に、なんで、水の中でッ!?」

「……その狼狽ぶり、嘘じゃないみたいね。よしよし落ち着きなさい。ほら、息を吸って。ゆっくりよ」

 

 頭を抱えてうずくまる少年の背を、シャーロットは宥めるように優しく摩る。

 言われるがままに深呼吸を繰り返す。そうしているうちに、襲い来るパニックの嵐は少しずつ晴れて、頭もだんだん冷えてきた。

 

「しかし参ったわね、記憶が無ければ帰すアテも……。うーん、仕方ない。私についてきなさい」

 

 言いながら、シャーロットは少年の腕を引っ張って立ち上がらせる。

 そのまま手を引いて、足早に森の中を進み始めた。

 

「お、おい。どこへ行くんだ?」

「私の家。ショックで記憶を失ってる可能性もあるし、少し休めば治るかもしれないでしょ?」



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2.「無銘に名を」

「ただいま。帰ったわ、エマ」

 

 泉からそう離れていない地。年季の入った風情ある建物があった。

 

 石造りの巨大な館だ。素人目でも豪華絢爛と分かるインテリアや骨董品が散見していて、偉大な王族の末裔というシャーロットの言葉に真実味を帯びさせる。

 人気のない原生林の奥にある隠れ家でありながら、威光を感じずにはいられない豪邸だった。

 

「はーい、お帰りなさいお姉様。すぐそちらへ参りま──はぇ、え、え?」

 

 エントランスの奥からトテトテと歩いてやってきたのは、シャーロットと同じ深海色の髪と純朴そうな丸眼鏡が印象的な、エマという名の少女だった。

 

 どうやらシャーロットの妹らしい彼女は、福相でも貧相でもない、ベージュを基調とした丈の長い衣装と真っ白なエプロンを身に着けている。

 頭には長髪を仕舞ってあるだろう、ふっくらとしたクラゲ型の帽子が乗っていた。もしかしたら料理でもしていたのかもしれない。

 

 姉妹というには髪色以外あまり似ていないものの、凛としたシャーロットとは対照的な小動物らしい雰囲気を持つ少女は、少年を見るなりくりくりとした大きな目をびっくり仰天と見開いた。

 

 無理もない。出かけていた姉がニア全裸の男を連れ帰ったのだ。幻覚を疑うレベルである。

 眼鏡のレンズをゴシゴシと拭い、これは現実なのかと確かめ直す。

 

 一拍、二拍。

 この光景は幻ではないと脳の処理が追いついたらしく、それはそれで驚愕のあまりあんぐりと口を落としてしまった。

 

「ど、どど、どちら様ですかぁっ!? なな、なぜお姉様が裸の殿方をお連れに……ハッ! もももしやお姉様、泳ぎに行くなんて言っておきながらポータルで町まで男の子を攫いに行ってたんですかっ!? 駄目です駄目です不健全です! いくらお姉様がお年頃だからって、そんなの絶対いけません! 今すぐ元の場所に返してきなさいですぅっ!!」

「アンタ私を何だと思ってんの!? 彼は泉で溺れてたから助けただけ! 混乱するのは分かるけど他意は無いの!」

「い、泉で……? いやしかしこの島は──」

「ああ、不可解なのは分かってるわよ。私もまだ理解が追いつかないけど、れっきとした事実なの」

 

 溜息。シャーロットは頭に手を当て、やれやれと言った具合に首を振る。

 

「しかも厄介なことに記憶喪失らしくてね、見ての通り身ぐるみ一つない有様で。どうやってここに来たのかすら見当もつかないから、とりあえず保護したって感じ」

「ええ……保護って……」

 

 エマは口元を手で覆って、ちらりと少年に視線を寄越した。

 奇特を孕んだ眼差しだ。まるで珍妙な動物を目撃したかのような──いや。()()を見定めようとしているような、怪訝に満ちた瞳だった。 

 9割全裸の男相手では無理もないと言えるが。

 

「事情は分かりましたが……いくら何でも裸の殿方を保護って、その、あまりに不用心では」

「言いたいことは分かるけど大丈夫、悪人かどうかくらい見分けられる。彼は礼節もある良い人よ」

「お姉様がそう言うなら、そうなのでしょうが……」

「とにかく、彼を客人としてもてなしてあげて。代えの服と暖かい食事をお願い。私はお風呂の準備してくるから」

「は、はい。……えっとそちらのお兄さん。失礼な態度をとってしまって申し訳ありませんでした」

 

 ぺこりと頭を下げるエマに、少年はいやいやと慌てて手を振った。

 

「そんな、謝罪なんてしないでくれ。こんな怪しいやつ相手じゃ当然なんだ。俺の方こそ、もう恩に着っぱなしで申し訳ないくらいでさ」

「……ふふ、確かに悪い方ではなさそうですね。わかりました。すぐに準備しますから、少々お待ちくださいねっ」

「じゃあその辺で悪いけど、適当な椅子で(くつろ)いでてちょうだい。あなたも疲れて──いや、アナタアナタって呼び続けるのも変ね。便宜上でも名前が必要かぁ。何がいい?」

「何がいいって、名前か?」

 

 唐突に問われ、少年はきょとんとしながらも、諦観に近い笑みを浮かべた。

 

「何でもいいさ。俺には記憶も何も無いんだ、お前呼ばわりでも別に気にしない。これだけ親切にされてるのに、そこまで贅沢言わないよ」

「ダーメ。名前は大事よ、在るだけで自分の柱になるもの。まぁ、頓着しないって言うなら私が勝手に考えてあげるわ」

 

 顎に手を当て、シャーロットはうむむと頭をこねる。

 幾許過ぎて、ポンッと手を叩く。

 

「ヴィクターはどう? 私のパ……お父様のヴィクトールから拝借したんだけど。気に入らなかったら別のを考えるから言ってちょうだい」

「そんなことない、良いと思う! なんというか、響きがしっくりくるぜ」

「そう? 良かった。じゃあヴィクター、悪いけどここで少し待っててくれるかしら」

「いや、俺も出来ることがあったら手伝うよ。任せっきりじゃ流石に悪い」

「ダメ、大人しくしてなさい。さっきまで溺れて死にかけてたの忘れたの? それにほとんど裸なんだし、そのまま安静にしてて」

 

 わかった? と念を押され、エマが持ってきた小さな椅子に腰を下ろすよう促された。

 申し訳なさそうにしつつも、ヴィクターは納得してちょこんと座る。

 

「ヴィクターさん、すぐにお洋服とご飯用意しますからね! あっ、わたしの名前はエマって言います。エマ・ロロナン・アーヴェント、シャロお姉様の妹です。気軽にエマと呼んでくださいな」

「こちらこそよろしく。こんな見ず知らずの男に温かくしてくれて、感謝してもしきれない。この恩は必ず」

「いえいえ。わたしたちは誇り高きアーヴェントの末裔ですから、困ってる人は見過ごせないのですっ」

 

 

 にぱっと花のように微笑んで、エマはシャーロットと共にその場を後にした。

 静寂を闊歩し、離れていく靴音。

 

 独りになったヴィクターは、命の危機という大きな波瀾が過ぎ去ったことをひしひしと実感する。

 透明な時間が訪れる。自然と吐息が零れ落ちた。

 

(本当に良い姉妹だな。彼女たちに出会えたのが最大の幸運だった)

 

 腕を組みながら椅子の背もたれに身を預け、深く息を吐く。

 

(にしても静かだなぁ。こんな広い屋敷なのに。まだ誰か居ても良さそうなもんだが)

 

 上を見上げる。辺りを見回す。

 エントランスホールだけでも首が痛くなるほど高い天井と、見渡すほどの敷地面積。

 とんでもない豪邸だ。本当に王族の末裔なのだろう。

 

 だというのに閑古鳥が鳴いている。従者の一人だって見当たらない。

 そもそも高貴な身分にあるはずの二人が、自ら家事に出向いているというのがおかしな話だ。

 記憶の無いヴィクターでも、その違和感はありありと見て取れていた。

 

(まさか、あの二人以外に居ないのか? この広い家で?)

 

 信じ難いものの、そうとしか思えないほどの静けさだった。

 森から流れる木々の葉音と、鳥のさえずりのコンサートが五月蠅く感じるくらいだ。人の気配がまるでない。

 

(古い焼け跡や修繕箇所があるのも気になる。何か事情がありそうだが、まぁ考えるだけ野暮か)

 

 ──ふと、気紛れに送った視線の先に絵画があった。

 肖像画だ。大勢の人間が描かれている。

 

 髭をたくわえた優しそうな面持ちの男が中心に座っている。隣の椅子には麗しい淑女が腰かけていた。

 二人の膝にはそれぞれ子供が乗っている。淑女の顔によく似た幼い女の子で、きょとんとした表情を浮かべていた。

 周りを囲んでいるのは従者だろう。みな一様に、朗らかな微笑みを浮かべている。

 

(家族の肖像画か。この女の子はたぶんシャロだな。隣の妹っぽい子は……あんまり似てないがエマか? どっちかって言うとエマは髪が赤いこの従者に似てる気がする)

 

 屋敷は見た目こそ絢爛だが、ところどころ手入れが行き届いていないところが見受けられる。

 仮にあの二人しか住んでいないとすれば致し方の無いことだろう。広大な家をたった二人で維持するのは、並大抵の努力では不可能だ。

 

 それでもこの絵だけは、まるで描いて間もないかのように手入れが行き届いていた。

 額縁は新しく、傷もない。飾ってある壁周りも他より丁寧に掃除されているのか、際立って綺麗に見える。

 

(よほど家族愛が深いんだな。従者たちの表情も自然でやわらかい。きっとみんな仲が良かったんだ)

 

 これは絵だ。第三者によって描かれた作品だ。直接光景を切り取った写真ではない。

 けれどヴィクターには十二分に理解できた。まるでその場に自分も居合わせていたかのように、幸せに満ちた「家族」の情景が目に浮かぶのだ。

 

 けれど、だからこそ気になるというものである。

 

 

(寂れた豪邸にたった二人だけ。他の家族は影も形も見当たらない。そして所々の焼け跡……この家で何があったんだ?)

 

 

 

 ◆

 

「うッッッッッッま!? なんだこれメチャクチャ美味い!! いくらでも食えるぞ!」

「でしょでしょそうでしょ! エマの料理は世界一美味しいのよ! 毎日堪能できるのが至極の贅沢と思えるくらいね! ほんと自慢の妹だわっ!」

「もう、お姉様ったら。でもお口に合ってなによりです。好きなだけおかわりしてくださいね」

 

 たった三人で囲むにはあまりに長大過ぎる、雅な赤を帯びた木製のテーブル。

 入浴を済ませ、身支度を整えたヴィクターたちは、その一角に集まって香り豊かな料理を三者三様につついていた。

 

 深い緑を湛える葉野菜、命煌めく緑黄色野菜、自然の栄養をそのまま捥ぎ取ったかのような果実──それらを一個の芸術として完成させた輝かしいまでのサラダ。

 

 太陽をじっくり溶かし煮込んだような黄金色のスープは、いったいどれほどの食材の旨味を凝縮して造り出されたのだろうかと、厨房の神秘さえ感じる逸品だ。

 

 ふっくらとした焼きたてのパンは、大地の結晶と呼んでも憚られない芳醇な穀類の(こう)を秘めている。

 ほんの少し押すと指が埋もれてしまうほど柔らかい。なのに表面はサクッと嬉しい歯ごたえで、中はもちもちと優しい舌触りときた。もはや魔法の領域だろう。

 

 香草と塩で味付けされた肉は、風味からして家畜ではなく野獣だろうか? 

 しかし獣特有の臭さは無く、余分な脂を落とされてサッパリと仕上がっている。かと思えば、噛めば噛むほどガツンと訪れる濃厚な肉汁が、申し分ない満足感を与えるのだ。

 

 

 ヴィクターは品の全てに瞠目し、舌を巻き、無我夢中になって楽しんだ。

 断言できる。これほど食欲という本能を湧き上がらせる食事は、記憶を失う前でも味わったことが無いだろうと。

 

「ああ本当に美味い! まさかこんな夢みたいな食事を味わえるなんて感動だぜ! ……しかし凄いなシャロ。まだ昼前なのにその肉の量、食べきれるのか?」

「いつもコレなのよ、問題ないわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 どこか得意気なシャロの前には、ヴィクターのモノとは違う種類の、極厚で大量の肉が山盛り積まれていた。

 比喩ではなく、肉の山なのだ。見栄えもクソもない盛り盛りなステーキ山脈なのだ。

 

 ヴィクターは体格のいい少年だ。引き絞られた肉体はさながら兵士のようで、衣服が盛り上がるほど発達した筋肉を持ちながら、ボディラインは細く無駄がない。

 しかし剛健な肉体は燃費の悪さと同義である。それを見越してか、提供された食事はエマの倍だった。

 

 そんな彼を遥かに上回る量を平らげながら、一切の苦を見せないシャーロットは驚くほど健啖家だろう。

 その体の何処にこんな肉が消えていくのかと、イリュージョンでも鑑賞している気分だった。

 

 けれど、ヴィクターは古傷に覆われた少女の手を見て納得を浮かべる。

 

(剣タコに細かな傷痕……姿勢も良い。泉で見た時も思ったが、相当鍛えてるみたいだ)

 

 どうやらシャーロットは何かしらの鍛錬を積んでいる。

 それも並の修練ではない。不可抗力で肌を目にしてしまった時もそうだったが、少女特有の柔らかさより、贅を削がれた逞しさが見受けられるのだ。

 ならばこの量も当然の帰結か。そんなわけない。多分元から大食いなのだ。

 

 そうこうしている内に、テーブルに広げられていた皿の数々が綺麗さっぱりになっていって。

 

「はぁ~腹いっぱいだ、ごちそうさま! 本当にありがとう、命を救ってもらったばかりか風呂に服に食事まで。……なぁ、何か俺に出来ることはないか? 何でも言ってくれ。少しでも恩に報いさせて欲しいんだ」

「気にしないでいいってば。あたりまえのことをしただけだから」

「お姉様の言う通り。世の中助け合ってなんぼですよ!」

「それだと俺の気が収まらねえよ! 頼む!」

「うーん……そうねぇ……」

 

 シャーロットは腕を組んで目をつむり、考え込むように天井を仰ぐ。

 一拍。少女は「そうだ」と手を叩いて、

 

「じゃあヴィクター、あなたここに住みなさい」

「……ん? 住む?」

「そそ。記憶が無くて行く当てもないんじゃ、この先どうしようもないでしょ? 数日したら記憶が戻るかもしれないし。それに泉から突然現れた以上、あなたとこの地には何か関係があるはず。だから留まってた方が良いと思うのよね。あ、もちろん住んでる間は働いてもらうわよ? この広い館に二人暮らしだから、ちょうど人手が欲しかったところなのよね」

「なるほど、確かにそうだな。おし、任せてくれ! 何でもやるぞ!」

「決まりね。じゃ、まずは食器洗いからやってもらおうかしら。エマ、炊事場まで案内してあげて。私が洗濯もの片付けてくるから」

「はーい。ではヴィクターさん、わたしについてきてくださいねー」

 

 

 ──かくして記憶を喪った無銘の少年と、森の奥深くに住まう不思議な少女たちの生活が始まった。

 

 



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3.「館での生活」

 ──さんざめく日を照り返す雪原のような、(まばゆ)い白の中に立っている。

 

(……どこだここは?)

 

 霞む目を擦りながら、ヴィクターは漂白された世界に眉をひそめた。

 辺りを見渡す。しかしこんな、上下の感覚すらドロドロに溶かされそうな純白の空間に覚えはない。

 無論ながら、自分がどうしてここに居るのかなんて見当もつかない。

 

 ヴィクターの記憶は寝床に就いたところで途切れている。

 然るに、きっとこれは夢なのだろう。

 埃一つどころか、境界線すら曖昧な白紙の世界だなんて、酷く不気味な夢だと口を曲げる。

 

「ッ」

 

 ふと。

 静電気のような痺れが、頬を掠めるように走り抜けて。

 次の瞬間。皮膚という皮膚を粟立たせる正体不明のざわめきが、波打つように訪れた。

 

 総毛立つとはまさにこの事か。小さな毛穴ひとつひとつの存在が、感覚としてハッキリと知覚できるほどの悪寒だった。

 度し難い悍ましさは皮下組織、筋肉、骨髄、果てには神経にさえ浸透し、全身へ連鎖爆撃の如く殺到する。

 

 原因は分からない。何がこの得体の知れない寒気を招いているのか、ヴィクターには見当もつかない。

 ただひとつだけ、確かなことがあった。

 遺伝子の深淵に眠る、『野生』の恐怖を呼び起こされるほどのナニカが近くに在る──それだけは、絶対の確信をもって断言出来た。

 

 脊髄反射で振り返る。

 右、左と、周囲一帯へ隈なく視線を滑らせていく。

 

 何も見つからない。どこをどう見ても、真っ新な世界が広がるだけだ。

 純白の平野は相も変わらず境界線すら存在しない。あるのは上下感覚までも掻き混ぜられる虚無のみで。

 

 ならばこの、魂を薄皮から少しずつ引き剥がされていくかのような怖気の根源は、一体どこから────? 

 

「…………」

 

 無意識だった。

 まるで、糸に操られる人形にでもなったかのように。

 上を。

 見た。

 

「────!?」

 

 瞳の中央に映り込んだソレは。

()()()()()()()()()()()()()()ソレは。

 まるで悪夢という存在そのものが、形を持って顕れたかのような。

 

「なんっだよ、ありゃあ……!?」

 

 頭上。遥か彼方の天蓋に()()は居た。

 正体不明。胡乱の影。曖昧模糊の具現。

 どんな言葉を使えば()()を表すことが出来るのか、ヴィクターの語彙では答えすら出すことも叶わない、名状し難き未曽有の物体が、白紙の空を堂々と占領していたのだ。

 

 平たく言えば、磔の死体。

 ヒトの形をした巨大な何者かが包帯と鎖で雁字搦めに拘束され、純白のミイラにされていた。

 

 重力を無視して浮かぶソレの背後には、人の髪で編まれたようなロープ状の物体が無数に伸びて絡みつき、異形を吊るし上げている。

 胸の中央には、不吉な赤い霧を放出する杭のような凶器が打ち込まれていた。

 

 それはまさしく封印だった。

 素人目でも直感的に理解するほど厳重で、異常なほど重厚な封印だ。

 

 

『──時は満ちた』

 

 地獄の果てから響く怨嗟の呻きのような重低音が、磔にされた純白のミイラから吐き落とされるように到来した。

 

 声が鼓膜にすり寄っただけで、極寒の地に立たされたような冷感が容赦なく襲い掛かってくる。

 呼吸が嵐の如く搔き乱される。ヴィクターという少年を構成する全細胞が、あのミイラに対して警鐘をこれでもかと打ち鳴らし始めてしまう。

 

(えにし)は紡がれた。幾千幾万の夜の果て、運命は遂に眠りを終えた』

 

 ミイラの頭部が動く。

 癒着しかけのカサブタを無理やり剥いでいくかのような、生理的嫌悪感を招く異音をブチブチと引き連れながら。

 

『人の子よ。汝は呪いを解かねばならぬ。忌々しき呪いの責め苦より、無辜の魂を解放せねばならぬ』

 

 口以外の躰を隙間なく埋め尽くしていた包帯の一部──眼球に相当する部分が、朽ちゆく枯れ木のようにメキメキと音を立てて裂け始める。

 一際強くバクッと裂けたかと思えば、闇が姿を現した。

 

 闇には瞳が在った。鬼火のような青い灯火が揺らめいて、ヴィクターへぴたりと照準を合わせたのだ。

 それはまるで、星踊る銀河を抱き留めたような(まなこ)だった。

 

『残された時は少ない。邪悪の裏に隠された真実を暴き出し、疾く日の下へ曝さねばならぬ。それが汝の果たすべき第一の使命、宿業と知るがよい』

 

 ──言葉を皮切りに、それは不意の中で訪れた。

 

 足場の感覚が跡形も無く消失したのだ。

 いきなり空へ放り出されたかのような浮遊感が、ヴィクターの背筋をゾワリと駆け抜けて。

 

「うぉ────」

 

 視線を下へ。そして驚愕に目を剥いた。

 白妙の世界が、殴り割られたガラスのように崩壊を始めていたからだ。

 

 足場が消えていく。底の無い闇が顔を覗かせる。

 体の支えが突如消え失せ、瓦解する白紙の空間と共に、暗黒空間へと放り出されてしまう。

 

「────うぉああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!?」

 

 力の限り叫ぶ。ばたばたと手を動かす。けれど落下は止まらない。

 平衡感覚は滅茶苦茶に破壊され、どこを向いているのかすら曖昧と化し。

 奈落の底へ、呑み込まれるように墜ちていった。

 

『悪とは常に闇に非ず。善性の皮を纏い、日の元に潜む化生もいよう。心せよ人の子よ、善性を妄信するべからず』 

 

 それでも異形の声だけは、まるで耳元で囁かれているかのように、鮮明に鼓膜を貫いて。

 

()()()()()。偽りの皮膜を見破り、囚われた娘を救い出せ』

 

 

 

 

 ◆

 

「……酷い夢見だった」

 

 レバー1つで温水が無尽蔵に注がれる文明の利器に心身を癒され、ヴィクターはさっぱりとした表情で浴場を後にした。

 

 箱型の魔法道具に衣服を投げ込み、時計型のダイヤルを回してボタンを押し込む。じゃばじゃばと水の流れる音がして、ガタゴト揺れ動き始めた。

 

 なんでも洗濯箱という道具らしい。ボタンを押すだけで衣服が自動で洗浄されるという優れモノだ。

 温水シャワーといい本当に便利だなと、懸命に働く箱をぼんやりと眺めながら思う。

 

 ──湖で目を覚ましてから早くも7日。姉妹との三人生活にも馴れ、館のことや()()()()()なんかも分かってきた。 

 端的に言えば、この世界は魔法で溢れている。

 

 心臓の拍動が生み出すものや、樹木に水に鉱石といった豊かな自然の結晶に宿る生命力、即ち魔力に術式や言霊を用いて指向性を与え、物理現象として昇華させる(のり)……それが魔法である。

 

 魔法は人々の生活の根幹に根差し、日々の営みをより豊かなものにしている。

 この洗濯機やシャワーもそれだ。詳しい原理は分からないが、魔法理論を基に造られた道具なのだという。

 

(使えば使うほど便利さを実感するぜ。俺も魔法使えたら良かったんだがなぁ。シャーロットたちが羨ましい)

 

 ヴィクターから言わせれば魔法は万能の技術だ。火を簡単に起こせるに留まらず、電気なんかも指先一つで生み出せてしまう。

 それだけに、魔法が使えないヴィクターは一抹の憧れを抱いていた。

 

 技量云々の問題ではない。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(魔力は心臓から自動的に作られるから、生き物は例外なく魔力を持つんだってシャロは言ってたけど、俺にゃこれっぽちも無いなんてなぁ。実は死んでるとかないよな? 俺)

 

 ヴィクターのような事例は非常に稀らしい。というより聞いたことが無いという。

 姉妹揃って信じられないものを──それこそ動く死体にでも出くわしたような驚きっぷりだった。

 

 しかしながら、例え魔力があったとしても、誰も彼もが全ての魔法を使えるわけではない。

 人には先天的な魔力の『属性』があり、それによって得意な魔法も違ってくるのだ。炎の魔力が濃いものは火炎魔法を上手く扱える……といった具合にである。

 

 加えて、魔法とは学問だ。正しい術式、正しい詠唱、正しい魔力操作の習得が必須な技能である。

 一朝一夕でマスターなんて出来ないし、一般的な魔法は道具で補完が効く。

 

 そういう風に自分を納得させて、ヴィクターは「まぁそのうちなんとかなるだろ」と魔力問題を脇に置いた。

 

(しっかし、早く起き過ぎちまったなぁ。まだ全然暗い)

 

 空は白みを覚えつつあるものの、まだ日の出も拝めぬ早朝だ。

 今日はシャーロットの狩りを手伝う予定である。しかしいくらなんでも流石に早い。

 

 かといって眠気も皆無となれば、じっとしてる性分でもないヴィクターの足が、自然と動き出すのは自明の理だった。

 

(散歩でもするか。あまり館から離れたこと無かったからな、ついでにどんなもんか見ておこう)

 

 館を出る。草場を踏む。

 ざぁざぁと笑う木々の声。髪を吹き抜ける朝の風。さっぱりとした青臭さ。

 

 森のど真ん中に立地するだけあって、自然の抱擁とでも言うべき爽やかさが身を包んでくれる。

 それになにより、面白いものが目に映った。

 

「おー、精霊か。色とりどりの蛍みたいで綺麗だなぁ。今が活動時間なのか? 早起きの得ってやつだなこりゃ」

 

 ヴィクターが子供のように目を輝かせる理由は、薄明を漂う光の球体たちにあった。

 赤、青、黄、緑──風光明媚な火の玉がふよふよと宙を舞い、森の中を踊っているのである。

 

 精霊。自然界の濃厚な生命力(マナ)が凝集して独立し、疑似生命を成した存在。

 森や川、海と言った命溢れる地に多く、逆に荒廃した死地や開発地帯では数が減る。

 その性質ゆえ、精霊とは自然が豊かな象徴なのだという。

 

「にしても凄い数だ。日の出前だってのにこんなに沢山……」

 

 石ころ程度の命の光が、掴み取れそうなくらい泳いでいる。それだけ自然が濃い証だろう。

 それもそうだ。なにせこの地は、シャーロットとエマ以外に人間の存在しない、大洋に浮かぶ()()なのだから。

 

 

 

 島とは言うものの、半日歩いて一周できるような小島ではない。

 少なくとも昔から住んでいる姉妹が、「私たちも島の一部で暮らしているだけで全貌は全く知らないの。両親から入ったらダメって口酸っぱく言われて、一度も踏み入ったこともない深奥もある」というだけの規模はある。

 

 しかしそうなってくると、当然のように疑問は浮かぶ。

 絶海の孤島という完全に隔絶された環境で、なぜここまでの文明レベルを発達・維持させることが出来たのか? どうやって血を繋ぐことが出来たのか? 

 

 いくらなんでも彼女たちの衣装や装飾、そのほか日用品の類は自給自足で賄うなど不可能だ。

 便利な魔法道具の数々もまた然り。供給の伝手が必要なのは自明の理だろう。

 遺伝子の問題もそうだ。近親交配を続けたとしても、千年も血脈を紡ぐなど、どう考えたって有り得ない。

 

 その答えもまた、魔法道具にこそあった。

 

 彼女たちがポータルと呼ぶ、長距離転移装置がこの島に存在する。

 それは海を越えた何処かの街に繋がっているらしく、時たま利用して文明や人を取り込んできたのだとか。

 

(理屈も原理もよく分からんが便利なもんだ。まるで隠れ里だな、この島は)

 

 館から30分ほど森を歩いて、流れる小川を下った先。

 河口近くの砂浜から、海を割るように突き出た石橋があった。 

 

 先端部には巨大な魔方陣が刻まれている。これがポータルだ。

 アーヴェント特有の魔力を独自に検知して発動する仕組みらしいので、残念ながらヴィクターには使えないのだが。

 

(……ん? あの人影は)

 

 ふと。空が白んできたせいか、浜辺で動きまわる影が遠目に映った。

 シャーロットだ。髪を1つ結びにした少女が、何やら一心不乱に大きな物体を振り回している。

 

 滅茶苦茶な動きではない。型に嵌められたような一定の所作を、ぶれることなく何度も何度も繰り返している。 

 

(ありゃなんだ? 何を振り回して……壺か? 壺だ、間違いねぇ。しかも口から砂が零れてる。砂をギッチリ詰めた壺を振り回してトレーニングしてんのか)

 

 彼女の小さな手には不釣り合いなほど巨大な壺の口をしっかりと掴み、弧を描くように振り回していた。

 

 ひとつを両手で持っているのではない。片手でひとつずつ、ただでさえ重たい壺を決して離さず掌握している。

 

 一見腕を鍛えているようで、真に注目すべきは背から足腰にかけて──即ち体幹だ。

 全くブレていない。恐らく毎日のようにこの鍛錬をこなし続け、その細いシルエットからは想像もつかないほどの膂力を手に入れているのだろう。

 

 目撃するのは初めてではない。

 この7日間、彼女が暇を見つけては修練に励む様子は垣間見ていた。曰く、アーヴェントとしての嗜みらしい。

 しかしまさか、日の出よりも早く活動しているのは完全に予想外ではあったが。

 

 しばらく見惚れていると、シャーロットが壺を置いたかと思えば、何もない空間から漆黒の剣を出現させた。

 魔法だ。以前も見たことがある。ダランディーバという、純粋な魔力で構築された由緒正しい魔剣らしい。

 

 シャーロットは剣の柄をとり、振るう。

 何度も、何度も、何度も、何度も。

 ただひたすら、撃ちこみ続けるように同じ所作を繰り返す。

 

 遠目からでも解るほどに、武としての気品がそこにあった。

 目を奪われるほど流麗で、暁霧(ぎょうむ)がうっすらとかかる海辺に溶け込みそうなほど明媚な体捌き。

 

 幾千幾万も繰り返してきたであろう洗練された剣の軌跡──昇る日を背に披露されるその演舞は、まるでひとつの物語のようで。

 見惚れるな、というほうが無理だった。

 

「────」

 

 どういうわけか体の芯から疼きを覚える。

 辛抱堪らず、ヴィクターは砂浜を駆け出した。

 

「おーい、シャロ!」

「! あら、おはよう。ずいぶん早起きね」

 

 

 声をかけると、シャーロットは墨染の魔剣を消滅させながら振り返った。

 

「ちょいと夢見が悪くてな、起きちまった。シャロこそ早起きだな」

「ん。まぁ、日課でね。これをやらないと、一日が始まった気がしなくて」

「毎朝か? スゲーな、だからあんな綺麗な剣捌きが出来るのか」

「……へっへー、そうでしょそうでしょ。アーヴェントの末裔たるもの、日々の研鑽こそ欠かせないものなのよ」

 

 得意げに、けれどちょっぴり照れ臭そうに少女ははにかむ。

 

「何千何万回も繰り返したからこそ出来るんだろうなって感じの流麗さだった。絵になるほどってのはああいうもんなんだなぁと思ったよ」

「フフーン! もっと褒めなさいもっと」

「ああ、シャロは凄いぞ! 努力家! 達人級! 超絶美人! お前こそ最強だ!」

「あーはっはっは! 当然のことだけど、悪い気はしないわね!」

 

 顎に手を当て、おてんばなお嬢様のように高笑い。

 カラッとした表情だが、本当に随分な時間を費やしていたらしい。

 

 砂浜には無数の足跡がついていて、それは遥か奥まで続いている。きっと最初に走り込みをした名残だろう。

 なによりひんやりと涼しい気候なのに、幽かな湯気を帯びるほどの汗水が、少女の努力を証明していた。

 

 しかし流石に疲れが出たか、ふぅっと吐息を漏らしつつ汗を拭う。肌にピタッと張り付く衣はどこか煽情的で艶やかで。いやいや邪な目はダメだと視線を逸らす。

 それに気づいたシャーロットは、意地悪そうにニヤリと笑った。

 

「なーにえっちな目で見てんの、このスケベ猿」

「は? は!? 見てないが! 男だからって常にそう言う目を向けてると思ったら大間違いウキよ」

「ふーん……? 正直に言えばご褒美をあげる、って言ったらどうする?」

「誠に申し訳ございませんでした!!」

「あっははは! 素直でよろしい! まっ、こんな空前絶後の美少女相手じゃ仕方ないわよねーっ。正直者にご褒美よ、ハイそこに落ちてた海藻」

「騙したなテメエ……ッッ!!!!」

「血涙流して海藻かじるんじゃないわよバカ。フフン、身の程を知りなさいっての」

「ちくしょう健全な青少年の純情を弄びやがってッ……。ぐすん、いいよいいよ、もっとダイナマイトなエマに慰めてもらうから」

「は? あんたエマに欲情したわね死になさいエロゴリラ」

「すまん今のは全面的に俺が悪かったって砂ギチギチの壺どうやって片手で振り上げてんの!?」

 

 ◆

 

 生活を共にして、シャーロットという人間のことがだんだん分かってきた。

 

 少々高慢ちきかつ自信家ではあるが、間違いなく善人で、高貴を自称しながらも竹を割ったようにサッパリしてて、同時に相当な努力家である。

 

 己を追い込むように肉体を、魔獣の肉を欠かさず喰らって魔力を、書を漁り未開の叡智を探究することで、日々教養を鍛えている。

 

 シャーロットの一日の大半は、鍛錬に費やされていると言っても過言ではない。

 自分なら倒れてもおかしくないハードワークだと、ヴィクターは感心を通り越して畏怖すら覚えるほどだった。

 

 そんな少女の一幕には、食糧調達の魔獣狩りも含まれている。

 

「やったー! 今夜の晩御飯はイナズマオオヅノウサギーっ! このウサギね、お肉に柑橘っぽい爽やかさがあってメッッッチャ美味しいのよ。稲妻みたく速くて捕まえるの難しいから、滅多にありつけないんだけど」

「嘘つけ! あんな速いの一撃で仕留めやがった癖に! 弓上手すぎるだろ!」

「何言ってるの、あなたがちゃんと開けた場所に誘導してくれたからでしょ。つまりこれは二人の成果! ハイターッチ!」

 

 魔力で造り出した黒弓を撃ち、雷を操る角を生やした兎を仕留めたシャーロットは、豪気に笑ってヴィクターの手を叩いた。

 

 少女は鍛錬だけでなく、自分が消費する魔獣の狩猟や、畑の管理まで悠々とこなす。

 休息という概念すら存在しないのかと疑うほどの日々だ。にもかかわらず、弱音を吐いたり怠けたりした場面は一度も見たことが無い。

 

 その根底に根差しているのは、彼女が幾度も口にする「アーヴェントの末裔としての矜持」にあるらしい。

 

 ただし、()()()()では説明のつかない、執念にも似た異常な向上心の答えは謎のままだが。

 

「しっかし、あなた走るの早いし体力もあるのね。その筋肉が見掛け倒しじゃなかったお陰で、美味しいご飯が食べられるわ」

「ああ、初めてこの肉体に感謝したぜ。自分でも驚くほどスイスイ動くし疲れないんだこれが」

「いやホント良い体してるわよ。引き締まってて、起伏があって、服ピッチリしてるから余計に。特に胸板………………へへ、ねぇ触っていい?」

「気高きアーヴェントの末裔は死んだって顔してるぞ。良いけどお代は等価交換だからな」

「わかった。けど、寂しくなるわね」

「二の矢つがえて始末しようとしてんじゃねーよ!!」

 

 両腕をピンと張り上げて降参を示すヴィクターに、シャーロットはくくくと嚙み殺すように笑いながら弓を解いた。

 

 シャーロットは自称王族の末裔で、それに相応しい振舞いをすることが殆どではあるが、根っこは悪戯好きの普通な少女で間違いない。

 少なくとも、この7日間で垣間見たお転婆っぷりや冗談好きな一面から、ヴィクターはそう評している。

 

「ん? おいシャロ、群青色に明滅してるキノコが生えてるぞ。なんだこれ面白いな。意外と食えたりするか?」

「群青色……? うげっ、それマナヨドミっていう珍しいけど猛毒のキノコよ。絶対触っちゃダメだからね、胞子吸っただけで魔力の循環不全引き起こすから」

「起こすとどうなる?」

「死にはしないけど、血反吐はいて全身の血管破裂しそうな激痛に一晩のたうち回るわね。昔興味本位で試したことがあるんだけど、死ぬかと思ったし治ったあとお母様に怒られて死んだわ」

「何してんだお前……」

「よし、血抜きオッケー。あとは帰ってエマに渡すだけね、お疲れさま。はいこれお水」

「お、ありがとさん」

 

 冷えた水で喉を潤す。ッかぁーっと声が飛び出て来た。

 体を動かした後の冷や水は格別だ。命を充填しているような気持ちよさがある。

 

「いやー、にしても一緒に来てくれる人がいるってだけで助かるわ。獲物の誘導もそうだし、この森たまーにヤバい魔獣が出るのよ。複数人だと遭遇したとき対処しやすいから、安心安心」

 

 魔獣とは、マナの濃い環境で長年生きた動植物が、何らかの形で魔力を操れるようになった存在だ。

 その性質から知能も高く、種によっては非常に危険な存在となる。

 

 反面、魔獣の素材は捨てるところが無いとされるほど重宝され、特に肉には魔力を強化する作用があるとはシャーロットの弁だ。

 だから毎食欠かさず食べているらしい。朝から胃もたれしそうな大量の肉を食べていたのはそのためだったようだ。

 

「さ、帰ろ。まだまだやることは沢山あるからねー」

「次は何を手伝えばいいんだ?」

霊廟(れいびょう)の掃除よ」

 

 霊廟? と、聞き慣れない単語に思わずオウム返し。

 

「私たちアーヴェントが、純黒の王の力を引き継ぐ一族の末裔という話はしたわね?」

「ああ、何度も聞いた」

 

 純黒の王。曰く、アーヴェントの遠い祖先にあたる人物である。

 かつて滅びかけたという世界を救った英雄らしく、その高潔な精神と大いなる力を、アーヴェントはみな信仰しているのだとか。

 

 シャーロットが日々鍛錬を重ねているのも、常に善性であろうとするのも、純黒の王に対する敬意の表れなのだ。

 

「そんな私たちにとって始祖とも言える純黒の王、陛下本人が眠っている場所こそが霊廟よ」

 

 言葉の意味を理解出来ず、一拍。

 遅れて、瞬き。

 

「……ほ、本人!? ってことはつまり王墓ってわけか!?」

「端的に言えばそうなるかな」

 

 ヴィクターはぎょっと瞠目し、口の端をわずかに引き攣らせた。

 これから向かうというのは、いわば彼女のルーツだ。

 血筋に誉れを抱くシャーロットにとって、霊廟がどれほど神聖な場所かは想像に難くない。

 

 そんな格式高い場の掃除を、部外者のヴィクターが任されるのだ。

 重責と緊張感に息を呑むのも無理はない。

 

「い、良いのか? そんな大層なところに俺なんかが踏み入って」

「そんなに肩ひじ張らなくてもいいわよ。私はね、あなたが泉に現れたのも何かの縁だと思ってるの。きっと何か理由がある。()()()()()()()()()()()()()()()()()。だからこそ、ヴィクターには直接見て知って欲しいのよね。アーヴェントとは──『純黒の王』とは何たるかを、あなたの眼と耳で知って欲しい」

 

 そう吐露する少女の瞳は、どことなく喜しそうに輝いていた。

 

 シャーロットは家族愛で満ちている。妹のエマはもちろん、両親も、その身に流れる血統も、脈々と受け継がれてきた歴史の数々も、それら全てを愛している。

 そんな少女が抱く赫々(かくかく)たる誉れの燐光が、正しく人の目に触れて理解されることへの喜びなのだ。

 

(……きっとシャロの両親はとても温かで、愛に溢れた人たちだったんだろうな。そういう家族のもとで育たなきゃ、こんな風に血を大切には思えない)

 

 自分の血の歴史を知って欲しいと願う少女の、嘘偽りない微笑みだけで、ヴィクターは彼女がどういった善人なのか、一層理解を深めた気がした。

 それと同時に、なんだか光栄にまで思えてくる。

 

「そういうことなら是非やらせてくれ。シャロのご先祖様への挨拶と、助けてもらったお礼も兼ねてな」

「そう言ってくれて嬉しいわ。じゃ、帰って一息ついたらさっそく行きましょ」

「おう、案内頼むぜ!」



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4.「血の歴史。真実の記憶」

 遥か遠くの昔話。世界は滅びの最中にあった。

 外なる(そら)より突如として現れた災厄が、平和だった世を不浄と禍で覆い尽くしてしまったのだ。

 

 万物万象を焼き尽くしたのは十の災い。

 沃野を枯らし、豊海を腐らせ、澄み空を瘴気で掻き混ぜしもの。

 厄災の()はマグニディ。

 其は魔たる根源の王の御名。魔王を意味する呪われた言ノ葉。

 

 瞬く間に水は穢れ、草木は果て、死が生を呑み込んだ。

 悲鳴は嵐となり、無念がそこら中に這い蹲って地に消えた。

 青天の霹靂のように訪れた災禍に、人々は立ち向かう術を持たなかった。

 誰かが息を吸うたびに、あまりに多くの命が散っていった。

 

 抗する策は一縷も無く。生き延びる手立てなど芥も無く。

 星を喰らう超常の怪物マグニディに、降伏も和解も、交渉とてまるで意味を成さない。

 

 蹂躙という絶望は留まるところを知らなかった。

 (あまね)く命が失せるまで、悲劇の行軍は歩みを止めないのだと知ってしまった。

 人類はおろか、星に住まう生命そのものが、ただただ震えながら、滅びの時を待つのみであった。

 

 

 滅亡を打ち破ったのは、たった5人の英雄だ。

 

 

 曰く、星に選ばれし救世の剣。

 曰く、人々の願いと祈りの具現。

 曰く、魔に抗わんと命が喚んだ最後の牙。

 

 黒き王。白き聖女。彼の者らが従える三人の豪傑たち。

 彼らは圧倒的な力と叡智を振るい、絶大な魔王を次々と屠っていった。

 

 王の剣は魔を払い、聖女の涙が星を癒した。

 大地を取り返した。海を清めた。空へ再び日輪を灯した。

 暗黒と絶望の被膜は、英雄の手により切り開かれたのだった。

 

 星は湧き上がった。救世主の降臨に。

 命あるものは叫んだ。勇ましき希望の到来に。

 人々は讃えた。純黒の王を。白薔薇の聖女を。

 

 絶滅の未来に濁り澱んだ人々の魂に、再び火が燈った瞬間だった。

 

 猛者は英雄のもとへと集い、彼らは大いなる力の一端を授かった。

 王の権能を継ぎしはアーヴェント。聖女の祝福を賜りしはマルガン。

 

 彼らは砕けた希望を掻き集め、折れた闘志を繋ぎ合わせ、今一度世界を取り戻さんと立ち上がる。

 剣を掲げる。牙を剥く。雄叫びを轟かせ天を衝く。

 世界を食い潰した星の仇に、全てを賭けて立ち向かう。

 

 ──最後にして最大の叛逆が始まった。

 

 人も人外も関係ない。竜や鬼すら共に咆え、未来を掴むべく戦った。

 世界は、滅びを前にひとつとなった。

 

 永い永い戦火は続く。数多の屍が路傍を埋め、悲劇も悪夢も那由他に生まれた。

 けれど着実に、確実に。人々は魔の侵攻を退けていったのだった。

 

 そして決着の時は訪れる。

 星の団結が、暁と勝利をその手に掴み取った瞬間だった。

 

 

 戦争は終わった。

 混沌と死の時代は、先人たちの決死の覚悟で幕を下ろした。

 安息が戻り、亡き人々への弔いを乗り越え、やがて人々は平穏を取り戻した。

 世界は息を吹き返し、文明の営みは元通りに。否、更なる発展を遂げていった。

 

 

 

 救世を成した英雄、王と聖女の役目は終わった。

 

 星の再生は成し遂げられた。

 滅びに抗った命の行く末をその眼で見届け、盤石なる繁栄を築き上げた。

 ならばと、彼らは次なる役目に目を向ける。

 

 即ち、世界を意のままに操る自分自身の排斥。

 果たすべき務めを果たした者の最後の定めは、その身を退くことだった。

 

 王はあらゆる理に縛られず、聖女は万物万象を支配下に置く力があった。

 安寧を得た世にそれは過ぎた力。有り余る力が新しい戦争の火種となるのは自明の理だった。

 

 人は魔に勝利した。ならば人々が争う結末は絶対に避けねばならない。

 人が睨み合う未来のために、先人たちは命を賭して戦ったのではない。 

 だからこそ、新たな戦争を招く前に、彼らは去ることを選んだのだ。

 

 しかし民草の希望が忽然と姿を消せば、無用な混乱を産んでしまうのはあまりに明白。

 そこで、彼らに代わる新たな象徴を選出することとなった。

 

 二大王族たるアーヴェントとマルガンに認められるほどの、強靭で高潔な、心技体を併せ持つその時代の英雄──民を守護する勇気ある者を。

 

 始まりの名はアレン。勇者(アーサー)の称号を与えられた最初の男。

 善道を往き、悪を挫き、弱きを救う。まさしく英雄に相応しい男だった。

 

 彼には王と聖女、それぞれの祝福が与えられた。

 アレン=アーサーは民を守る剣であると共に、アーヴェントとマルガンの片側が増長し、均衡が崩れぬよう抑止する盾としての役目を担った。 

 

 

 そうして王と聖女は永い永い眠りに就き、美しき康寧の世は続いていった。

 アーヴェントの裏切りという、たったひとつの血だまりを除いて。

 

 

 

 

 

 

 

「……ん? おいちょっと待て、アーヴェントが裏切りってどういうことだ?」

()()()()()()()()()()()。けど真実は違う」

 

 館の北の時計台。そこには地下深くへ続く、薄暗い螺旋階段が隠されていた。

 地の底まで続くのかと錯覚させられるほど、果てしない道筋だ。

 ヴィクターは普段の簡素な衣服ではない、華々しくも淑々とした、ドレスと喪服を合わせたような礼装を纏うシャーロットと共に、延々とその地を下っていた。

 

 石壁から染み出す地下水でしめった少し急な勾配の階段は、一度転落すれば最下層まで転がり落ちてしまいそうな恐怖がある。

 おまけに互いが持つ薄紅色の炎が宿った松明だけが光源で、暗闇に目が慣れるまでは階段を降りることさえ一苦労だった。

 

 カツ、コツ、カツ、コツ──靴音をBGMに、ヴィクターは少女の口から語り紡がれる歴史へ耳を傾けていく。

 

「アーヴェントは戦闘に特化した集団だった。その力はマルガンをも大きく上回る、世界最強の騎士団でもあった。……戦争から時が経って、魔王マグニディに怯える必要もなくなった世の中には──特にマルガンにとっては、アーヴェントは目の上のタンコブになってしまったのよ」

「……裏切りは捏造されたもんだってのか?」

「少なくとも、私たちにはそう伝えられてる。ご先祖様はマルガンと、彼らに与するアレン=アーサーに人類の敵として罪を被せられ、もろとも討ち滅ぼされたんだって。これがその証のひとつよ」

 

 少女の指がおもむろに虚空を撫でると、シャーロットの松明が揺れ動いた。

 松明は煮えたぎる湯水のような呻き声をあげ、まるで子を産み落とすようにポンッと火の玉を放り出す。

 放り出された鬼火はゆらゆらと浮遊しながら壁に近づくと、どういうわけかそのまま吸い込まれてしまった。

 

 暗澹のみが支配していた空間に眩い変化が巻き起こった。

 壁の目を細かな光が走り抜けた。光の線がひとつひとつ繋ぎ合わさり、ボウッと輪郭を象り始める。

 抽象的だった軌跡はやがて形という命を宿し、壁面に『絵』として刻み込まれていった。

 

 それは何らかの変遷を表す壁画だった。

 

 剣や弓を携えた人々が争いあう絵。逃げ惑う人々の絵。武器を掲げる、外套を纏った男の絵。

 勇ましく戦う白い集団はきっとマルガンだ。弓に撃たれ、剣に斬り伏せられながらも逃げゆく黒染めの人々はアーヴェントか。

 

(てことは……最前線に立つ外套の男がアレン=アーサー)

 

 絵画は螺旋階段を下るごとに続いていた。

 命からがら逃げのびたアーヴェントの残党が海を渡る様子。手には書を持ち、空から王冠を被った真っ黒な大男が話しかけている。

 察するに、『純黒の王』が残した言葉か何かを辿って、安息の地を目指しているところだろう。

 

「辛うじて生き延びたご先祖様は()()()に流れつき、隠れ潜んで過ごすようになった。王の力で守られた秘密の島でね。お陰でマルガンに見つかることも無く、千年ものながーい時を隠れ忍びながら、慎ましく暮らし続けてこれたってわけ」

 

 ──そこまで耳にして、ふとした疑問が浮かび上がる。

 改めて、と言ったほうが正しいかもしれないが。

 

(アーヴェントの秘密の島……誰にも知られない絶海の孤島……だったら俺はどうやってそんなとこに現れた? 何故記憶が無い? もし何かの理由でポータルを使って来たのだとしても、彼女たちが気付かないはずがない。それに罪人として隠遁してきた一族の末裔なのに、赤の他人の俺へ易々とアーヴェントだって明かしたのは何故だ?)

 

 シャーロットの言葉が正しければ、アーヴェントは語り継がれてはならない負の歴史の生き証人である。

 例え千年以上の時が経とうとも、その存在が快く思われているとは考え難い。

 

 仮に島の外がマルガン主軸の歴史を歩んでいたとするなら、その栄光を根底からひっくり返しかねない邪魔者だからだ。

 事実、逆転の要に成り得る純黒の王が、この下に眠っているという。

 

 だからこそおかしい。ヴィクターは身分の証明も出来ない赤の他人で、どうやって島に入り込んだかもわからない怪しさ満点の男だ。

 そんな男に疑いもせずアーヴェントだと公言するのは、長年続いてきた隠遁そのものを崩壊させる愚行に他ならない。

 それはシャーロットも承知のはず。なのに彼女は堂々と明かしてみせた。

 

 矛盾。

 アーヴェントの誇りや歴史に強く拘るシャーロットだからこそ、その違和感は非常に色濃く映えて見える。

 彼女がそこまで拘りを持っていなければ、『そんなの流石に時効だから』と切って捨てられるものなのだが。

 

「着いたわ。ここが霊廟よ」

 

 ハッとしたように面を上げる。

 階段を降りきった先には、重々しく巨大な石の扉が待ちかまえていた。

 

 千年の時をこの地下で過ごしてきたのだと、雄弁に語る風貌だった。

 寂れ、苔むし、しかし神々しさを損なわない。もはや古代遺跡の入り口と謳われようとも、何ら遜色のない大扉。

 

 眺めているだけで背筋がヒヤリとする、得体の知れない空気があった。

 幽玄でありながら不気味で、扉というよりは巨大な棺か、あの世への入り口にさえ思える禁足地らしき感覚。

 

(すげぇな……なんというか、神聖な雰囲気ってこういうモンを言うのか。一斉に鳥肌が立ってやがる。ビリビリした緊張感が背骨の中を抜けていくみたいで気味が悪い。なのに不思議と恐怖はねぇ)

 

 呆けるように眺めていると、シャーロットが無言のまま扉へ触れた。

 指先が接した瞬間、青い光の葉脈が扉全体を走り抜けて。

 ゴゴンッ! と大仰な作動音が鳴り響き、扉がゆっくりと開かれていった。

 

「ここが王の間。そしてあそこに御座すのが──────」

 

 そこから先は不要だった。

 

 シャーロットがスカートの端を摘まみ、礼の仕草を示した瞬間。

 ヴィクターは部屋の最奥に座する物体に、両の瞳を──いいや。肉体の支配権を奪い取られてしまったのだ。

 

 古錆びた王座へ腰かけている()()があった。

 どこから降り注いでいるのかも分からない謎の光に照らされた、圧倒的な存在感を纏う()()だ。

 

 けれどそれは、はたして人間の亡骸と呼べるのか?

 

 人の形はしている。

 体格から言えば男性だ。

 かなり大きい。きっと二メートル以上のガッチリとした大男だったのだろう。

 

 だがしかし、それはヒトガタの闇だった。

 一片の光も反射しない、途方もない闇の塊が、辛うじて人の形を留めた異形だった。

 

「ぁ」

 

 玉座に座っているのは分かる。深い眠りに落ちているかのように、鎌首をもたげているのもわかる。

 そしてそれが()()だということも、不自然なほどハッキリとヴィクターの脳が認めていた。

 

 なのに知覚出来ない。そこにあるのは存在だけだ。白骨でも腐肉でもミイラでも無い。ただ空間を占拠する純黒のヒトガタだ。

 余すところなく闇に塗り潰され、目鼻立ちといった凹凸すら伺えない漆黒の躰。

 異様にして異形。この世のモノとは思えぬ常軌を逸した存在。

 

 それは堂々たる沈黙の底で玉座に君し、まるでヴィクターたちを待ちわびていたかのように出迎えたのである。

 

「息を吸って」

「────」

「落ち着いて、ゆっくりと」

 

 言われて、ヴィクターは呼吸が止まっていることに気づく。

 カラカラに乾いて喉の奥に貼り付いた舌の感触。

 背骨を氷柱に差し替えられたのではないかと錯覚するほどの尋常ではない震え。ガチガチと泣き止まない歯の叫び。

 

 魂が悲鳴を上げている。見ているだけで頭がおかしくなりそうだった。

 これ以上直視してはならないと、本能が激しく警鐘を打ち鳴らしている。

 さっさと踵を返して逃げろと、60兆の細胞から訴えが聞こえてくるのだ。

 

(なんだ、この感覚。いや、俺はこの感覚を知っている。これは、あの夢で見た怪物の──)

 

 紛うことなき野生の直感。原初の恐怖がそこにあった。

 ヴィクターに絶対的な天敵というものが存在するなら、間違いなくこの()()がそれだ。

 蛇に睨まれた蛙などと言う次元ではない。国を呑み込むほどの大蛇を前にした稚児のような、スケールが違い過ぎるために漠然と細胞を震撼させることしかできない絶望なのだ。

 

「大丈夫。何も起きないわ」

 

 染み入る声に、どこか暖みすら感じられて。

 強張っていた筋肉が緩んだせいか、少年は尻から崩れ落ちてしまった。

 

 かなりの衝撃が臀部を貫く。

 しかし痛みは欠片も無かった。そんな痛み(もの)を感じている余裕などないと、脳が処理を拒絶したかのように。

 

「あれは……いや、あの方が王様で間違いないんだよな?」

「そうね。と言っても亡骸と言うより魂を切り離された肉体だから、抜け殻と呼ぶ方が正しいかもしれないけど」

「ぬけがら?」

「伝承によれば、王と聖女に祝福されたアレン=アーサーでも、王を完全に殺すことは出来なかったの。アレンは最後の手段に、王の精神を切り離して異次元の彼方へ拘束した。魂が戻れぬよう肉体に封印まで施して。だから正確に言うと、今も体は生きているわ」

 

 言われて、よく見ると純黒の遺体がほのかに鳴動しているのが分かった。

 心臓のリズムと同じだ。ドクン、ドクンと、注意しなければ分からないほど細やかな波濤が、遺体を中心に堂を駆け巡っている。

 

「ぶっ飛んだ話だな……。じゃあもし体に魂が戻ったら、王様は復活できるかもしれないってことか?」

「ええ。陛下の復活はアーヴェントの悲願なの。王さえ蘇ればアーヴェントは再建できる。島の中で隠れ潜む必要もない。だから陛下の魂が戻れるよう、アーヴェントは代々肉体に施された何百もの封印を解き続けてきたわ。努力の甲斐あって、今じゃ封印もほとんど残ってない。けど復活は叶わなかった」

 

 一拍。きゅっと唇を結ぶ。

 解いて、少女は続ける。

 

「あまりにも時間が経ち過ぎて、魂が戻れる器じゃなくなってしまったのよ。経年劣化ってやつかな。仮に陛下を蘇らせるとしたら、別の器を用意しなくちゃいけなくなった」

「つまり、依代みたいなもんか?」

「そんなところ。もっとも適合条件が厳しすぎて、歴代一族の誰も依代になれなかったんだけれど。……長話しちゃったわね。さ、お掃除に行きましょ」

 

 シャーロットに手を引かれて立ち上がり、霊廟を進む。

 純黒の王に近づいていく。一歩進むたびに圧が増す。 

 いや、これは圧が増すというより。

 

(…………視線?) 

 

 ()()()()()()()()ような感覚が、だんだん色濃くなっていくような。

 

「じゃあね、まず玉座の手摺部分からそっと濡らした布で」

 

 ──言われるがまま、ヴィクターが手摺へ手を伸ばした瞬間だった。

 何の前触れも無かった。焼けた鉄でも押し付けられたような灼熱感が、ヴィクターの右手に襲い掛かったのは。

 

「つッッ!?」

「なに? どうしたの?」

 

 思わず手が跳ね、熱を払うように振り回す。

 何か熱源にでも当たったか。いいや、周辺にらしきものは見当たらない。

 まさか毒虫にでも刺されたのかと、手の甲へ視線を落とす。

 

「いや……なんか急に痛みが走って」

「──!? ちょっとその手見せて!」

 

 すると突然、シャーロットが血相を変えてヴィクターの右手を掴みとった。

 穏やかな表情から一変、酷く切迫した形相のシャーロットに、何事かとヴィクターは目をパチクリさせる。

 彼の右手の甲には、黒い剣のような痣が浮き上がっていた。

 

「なんだこりゃ。打ち身か? ぶつけた覚えなんて無いんだが……まぁ大丈夫だ。痛みも無いし、軽い打撲だと思うからそんな心配しなくても」

「────フ」

 

 少女がそっと零したソレは、間違いなく笑みだった。

 けれど、本来の喜びとは違う異色の笑みで。

 

「フ、フフ。そっか。これが……これが言い伝えの……」

 

 ひとつまみの歓喜と、渦を巻く困惑。

 苦悩のような苦みが入り混じった、濁りのある吐息。

 複雑な、捉えどころのない微笑みだった。

 

「ああやっぱり……あなたは在るべくしてこの島に現れたんだ! 全ては運命だった……! そうじゃなきゃこんな、こんな事はありえないもの!!」

「な、なんだ、どうした急に笑い出して。冗談にしては気味悪いぞ」

()()()()()()()()()()()!! ああでもまさか、よりによってアーヴェントでもないあなただなんて……!」

「おいシャーロット、さっきからいったい何のことを言ってんだ? 分かるように説明してくれ」

「これはね、証なの。純黒の王に認められた証。()()()()()()()()()()

「………………は?」

 

 突飛すぎて。唐突過ぎて。

 シャーロットの言葉の意味が、まったくもって理解出来なかった。

 吐き出された言の葉を食み、砕き、嚥下するまでに、数秒もの時を要したほどに。

 

 間違いなく彼女はこう言った。王の依代に選ばれたと。

 他の誰でもない、ヴィクターという仮の名だけしか存在しない少年が。

 

「ごめんなさい、ヴィクター。本当に本当にごめんなさい」

 

 心の底から絞り出すように、少女は言った。

 

 今にも泣き出しそうな哀しみと、訪れる歓喜の潮騒をぐちゃぐちゃに混ぜた微笑みを浮かべながら。

 古傷だらけの、少女らしい柔らかさとは無縁なその手で、ヴィクターの右手を強く強く握り締めて。

 

「ああ、お父様! お母様! 我が妹リリン、エマ! そして誉れ高き純黒の王よ! 私はついに、アーヴェントの未来を手に入れました……!」

 

 少年には震える少女の言葉が、一ミリたりとも理解できなかった。

 否。理解したくなかった。頭が理解を拒んでいた。

 

 全身の筋肉がこれ以上なく強張っていくのを実感する。

 嫌な汗で湿りゆく背中の感触がじっとりと肌を(ねぶ)りまわす。

 警鐘のように鳴り響く心臓は、内から胸を食い破って飛び出そうだ。

 

 干上がる喉。反して流れゆく氷の汗。

 その全ての感覚が、ひとつひとつ鮮明に脳髄を貫いて。

 

「おい……なんだよそれ……どういうことだよ、おい!?」

「ごめんなさい。あなたにはどれだけ謝っても許されないことなのは分かってる。でも、()()()()()()()()()()()()。こんなチャンスを手放すだなんて出来っこない」

「ちょっと待てシャーロット! どういう事か説明しろ!! 一体全体なんなんだ!?」

 

 いいや、言われなくても既に分かってる。分からないフリをして誤魔化そうとしているだけだ。

 残酷なまでに、ヴィクターは状況を理解しているのだ。理解出来ないはずが無かったのだ。

 だからこそ、言わないでくれと懇願するように、顔をくしゃっと歪ませる。

 

 対する少女は、彼岸の華のような微笑みを浮かべていた。

 口角は喜びではなく、憂いに満ちて持ち上がる。

 まるで「私を存分に恨め」とでも、ヴィクターに諭すかのようだった。

 

「ええ、ええ。酷を承知で宣言しましょう。あなたの命を奪う者として、その責務から逃げたりはしない」

 

 そして少女は静かに告げる。

 古傷だらけの無骨で小さな手を、まるで魂魄を迎える天使のように差し出しながら。

 

「あなた、我が一族の贄となりなさい」

「……………はぁッ!?」

 

 

 

 それは運命の始まり。

 永い永い時を越えた、贄の物語の幕開けである。 

 



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5.「仁愛と覚悟の女」

 ふと気づく。

 薄暗い霊廟にいたはずが、いつの間にか燃え盛る炎の中を佇んでいることに。

 

 ふと気付く。

 これは夢なのだと。あの白い世界と同じ、うんとタチの悪い悪夢なのだと。

 

 眼前に広がる現実離れした光景は、夢以外にあり得ないと、強く確信を芽生えさせた。

 

 

 ──威風ある声が響く。

 

 

『勇ましき人の子よ。汝の道はここで途絶える。どう足掻こうとも運命の終極を覆すことは叶わぬ』

 

 業火が唸りを上げている。

 見渡す限りの炎の山が、万物を焼き尽くさんと荒れ狂っている。

 

 崩れ落ちる石柱。炭化しゆく絵画。

 血肉と臓腑の爛れる匂いが建物中へ充満し、容赦なく鼻腔を突き刺してくる。

 

 炎が呑みこんでいるのは、どこか()()()()()()大きな大きな館だった。

 かつて絢爛だっただろう広大な建造物に見る影はなく、例え水の神であっても救い難いほどの灼熱地獄へ(さま)()わりしている阿鼻叫喚は、まさしく地獄の具現と言える。

 

 館の屋上。紅蓮に燃ゆる死の大蛇に四方を塞がれた領域に、一人の少年が跪いていた。

 

 そばには少女()()()()()が転がっている。

 胸には背後(うしろ)の炎が見えてしまうほどの大穴があった。剣の刺突で穿たれた傷だ。

 とめどなく溢れる鮮血は、無垢な体躯をおぞましい真紅に染め上げていた。

 

 糸を失ったマリオネットのようだった。

 心臓を破壊された人間は、もう二度と息を吹き返すことは無い。

 それは残酷なまでに明白で、覆しようのない現実だ。

 

 きっとこの少年にとって、なくてはならない存在だったのだろう。

 肌は炎熱でも蘇らぬほど冷え切っているのに、地に落ちたその白手は、二度と握り返してくれることも叶わないのに。

 少女を力強く抱き上げながら、少年は一帯の炎が冷えきるほど静かに、ただただ項垂れ続けていた。

 

 視ているだけで、胸の中を凍った手に握り締められるような気分になる。

 

『全ては無間の闇へ呑まれるだろう。骸が道を埋め尽くし、明日への渡り船は奈落へ堕ちた。洛陽は昇らぬ。夜は覆らぬ。ここが終わり、汝の果てと知るがよい』

 

 重く荘厳なる声が響く。

 (かたわ)らには、まるで少年を貪る絶望がそのまま受肉を果たしたかのような、異形の騎士が君臨していた。

 

 身の丈2mはあろう巨躯を包む、光すら呑み込まんばかりの純黒の鎧。

 爬虫類と人間の頭骨を融合させたかのような禍々しい兜。

 眼窩に燃え盛る、青色巨星の(まなこ)

 

 肩口から背をおおうマントはボロボロで、しかし決して風格は損なわず、むしろ太古から生き永らえる竜の翼膜のように厳めしい。

 鎧の節々からはドス黒い瘴気が炎の如く立ち昇っていて、尋常の者ではないと窺い知れる。

 

 純黒の篭手が握る、赤錆びた血染めの大剣が炎の中で鈍く照っていた。

 いったい幾つの命を吸えばこんな、視界に入れただけで喉を引き攣らせるほどの魔を纏えるのだろう。

 あまりにもおどろおどろしく禍々しい黒曜の刃は、例え熟練の老兵であっても心臓を凍らせずにはいられない。

 

『答えよ。選択は如何に』

 

 眼窩の青い炎がゆらりと瞬く。

 仙人のように穏やかでありながら、武錬の極地へ至った達人の如き厳格さを滲みませる騎士の声。

 それは鼓膜から脳髄へ浸透し、有無を言わせず畏怖を植え付けていく魔性だった。

 

 恐怖を拒むように、少年は唇を固く結び、少女を床へと静かに横たわらせる。

 開いたままの瞼へ指を這わせ、永劫の安息を、悲痛な覚悟と共に供えた。

 

 怒りか、悲哀か。湧き上がる激情のなすがまま震える腕を必死に御しながら、少年は転がっていた白妙の剣を手に取った。

 

『────』

 

 次の瞬間。まるで誰かに操られているかと錯覚させられるほどの俊敏さで、少年は黒騎士に反旗を翻した。

 

 奇襲に関わらず、黒騎士の刃は一切の淀みなく少年の刃を迎え撃つ。

 何度も、何度も、剣戟の絶叫が轟き奔る。

 互いの刃が(しの)ぎ合う壮絶の最中で、少年は号哭とも怒号ともつかない渾身の雄叫びを張り上げた。

 

 地を蹴り、剣を薙ぎ、幾重もの雫を頬に伝わせながら刃を振るうその姿は、まさに修羅道へ堕ちた悪鬼が如く。

 

 だがしかし、決死の奮闘は虚しく潰える。

 少年の剣は黒騎士の一閃を受け、彼方へ呆気なく弾き飛ばされてしまった。

 剣は棒切れのように回転しながら屋上から脱出すると、館の傍で微睡む泉の中へ着水し、波濤を生みながら姿を消していく。

 

 ──弾けた水滴が再び泉へ還るより(はや)く。

 ──黒騎士の腕が、少年の肩を掴み取って。

 

()()()()()()()()()。忌まわしきその宿業、この一刀にて免責とする』

 

 ぞぶり──生理的嫌悪を引きずりだす生々しい音が無情に弾け、少年の体を情け容赦なく蹂躙した。

 下を見る。深々と突き刺さる純黒の剣が、骨肉を食い破っている光景を。

 

 感じたのは、腹に氷でも叩きこまれたかと錯覚するほどの冷感だ。

 不思議と痛覚は無かった。神経が焼き切れてしまったかと憂慮するほどに無感だった。

 五感を伴わない現実は、まるで夢の泡沫のよう。

 鉄臭い液が喉の奥から競り上がって、堪らず口から溢れ出ても、未だ実感が湧いてこない。

 

 心臓がひとつ脈を打つ。

 それが引き金となるように、激痛を超越した凄まじい灼熱感が全身に襲い掛かった。

 体内から焼け爛れていきそうな痛みの嵐はあっという間に骨の髄まで埋め尽くす。七転八倒の苦痛をもって、止まらぬ蹂躙を頂戴する。

 

 けれどもう、叫ぶ余力すら残されていない。

 体の中で、肉ではないナニカが千切れた音がした。

 それはきっと生命線とも呼べる糸。

 最後の命綱がぷっつりと、呆気なく両断されてしまった音だった。

 

『──―る。──―の────■■──────』

 

 霞みゆく意識の中、脳裏を過ったのは走馬灯ではない。

 黒騎士の声が聞こえていた。鼓膜へ染み入るように、頭蓋へ直接声を注ぎ込まれるように、何かを呟かれた気がしたのだ。

 

 けれど彼の脳髄は、言語の解読を放棄した。

 言葉を投げられているのは分かっているのに、言語を言語として認識できない。頭に濃霧がかかったように、言葉という概念が不明瞭になっていた。

 

 終わる。

 命が、終わる。

 

 体の端から感覚が欠落していくのが分かる。果てには痛みすら抜け落ちて、意識が黒一色に塗り潰されていく。

 彼はただ、黙ってそれを受け入れて。

 

 曇り切った瞳が最後に焼き付けた光景は、不自然なほどに眩い光と、蒼天のような焔だった。

 

 

 

 ◆

 

 

「ぶはぁッ!? はぁっ、は、げほっげほっ、うわっとと!? ぶがっ!?」

 

 ヴィクターは燃え盛る悪夢から、文字通り飛び起きた。

 土砂崩れのように毛布を巻き込みながらベッドから転がり落ちて、顔面着陸を敢行する。

 

「~~っ、い、痛って……! 何だってんだクソ……!」

 

 ずーんと鼻の奥に響くような痛み。

 それがかえって夢からヴィクターを引き戻し、濁っていた記憶を鮮明にさせていく。

 

(ここは……そうだ。あのあと急に眠くなって)

 

 一番新しい記憶は霊廟の一件だ。

 突然右手に焼けるような痛みが走ったかと思えば、奇妙な痣が出来ていて、目にしたシャーロットが「王の依代に選ばれた証だ」と。

 

 それからフッと意識を失って、気がついたらこの部屋にいた。恐らくシャーロットが運んだのだろう。

 

「生贄……」

 

 恐る恐る、ゆっくりと、祈りながら右手を見る。

 痛々しい焼印を彷彿させる、剣の形をしたどす黒い痣がくっきりと存在していた。

 あの宣告が夢ではなかったのだと、無情なまでの証明だった。

 

(クソッたれ、一体全体何が起こってんだ!? 俺が生贄? 唐突すぎて頭が回らねぇっての!)

 

 困惑。焦燥。頭に乱気流が渦巻いているような感覚だった。

 しかし不思議なことに、この現状に対する納得はあるのだ。

 

 ヴィクターは記憶を失ったままこの地に現れた。絶海の孤島にだ。 

 何の関係も無くヴィクターが流れ着くわけがない。間違いなく、記憶を失くす前のヴィクターとこの島には因縁がある。

 王の依代に選ばれたというのはその一端とも言えるだろう。直感的にそう感じるのだ。

 

(だからって素直に生贄になるつもりなんざ無い。冗談じゃねぇ! 自分が誰かもわからず死んでたまるか!)

 

 シャーロットは命の恩人だ。見ず知らずの怪しい男へ、心から親切にしてくれるような優しい少女だ。

 出来ることなら彼女の願いは叶えたい。恩返しになるならヴィクターは喜んで手足となろう。

 

 だが命を差し出せというのは話が別だ。

 大恩があり、今こうして生きているのはシャーロットのお陰としても、軽々しく命を捧げることなど出来ない。

 

()()()()()()()()()()()()()と、まるで魂が訴えるかのような渇望がヴィクターの胸に燻っているからだ。

 

(かと言って今の俺に出来ることは何にもない。逃げようにもここは海のど真ん中、ポータルはシャロの許可がなけりゃ使えない。……クソ、どうすりゃいい)

 

 願わくば冗談であって欲しいと歯噛みする。

 けれど、あれは決して冗談を言っている風では無かった。

 

 アーヴェントにとって王を蘇らせることは長年の悲願であるという。

 その依代は限られた者だけにしか務まらず、歴代の一族の中にも現れなかったのだとか。

 

 依代として適合したヴィクターの出現は、アーヴェントにとってさながら垂らされた蜘蛛の糸のような希望に他ならない。飛びつくのは道理と言える。

 

(だが分かんねーな。何故そこまで執着する? アーヴェントの悲願を重視してるシャロが王の復活を願うのは当然として、見ず知らずの人間を犠牲にしてまで決行しようとするってのは……なんかシャロらしくない気がするんだよな)

 

 それはほんの些細な違和感だった。

 自信家で、高慢ちきで、けれどさっぱりとした優しい少女には、あまりにそぐわない行動への違和感。

 

(あいつ、俺を生贄にすると言っておきながら、苦虫噛んだみてぇに葛藤してた。後ろめたさを感じないほど狂信的じゃないってことだ。そんなシャロが心を殺してでも強硬手段に出るってことは、間違いなく覚悟の源泉──理由があるはず。それさえ分かれば、もしかしたら交渉の余地なんかが見つかるかも……)

「し、失礼しまーす」

 

 思考の海にどっぷり浸かっていたヴィクターの意識は、ドアノックで現実へと引き戻された。

 ドアの隙間から恐る恐る顔を覗かせてきたのはエマだ。少女はヴィクターが起きていたことに驚いた様子で、慌てて頭を下げてきた。

 

「あわっ、もも、申し訳ございません! お目覚めになっていると思わなくてっ」

「いや、俺もちょうど起きたところだったんだ。気にしないでくれ」

「あ、ありがとうございます。……あの、お体の調子はどうですか? 突然気を失われたとお姉様から聞いて」

 

 どうやら気遣って様子を見に来てくれたらしい。 

 やっぱり優しい子だと、その温かさに自然と笑顔になる。

 

「この通り全っ然平気だぜ! 心配かけちまって面目ねぇ。本当、世話になりっぱなしだな」

「それは違います! ヴィクターさんは悪くありません! 元はと言えばお姉様がっ……。謝るのはむしろこちらのほうです。姉の我儘に巻き込んでしまって、なんと言えばいいか」

 

 心の底から申し訳なさそうに、深く深く頭を下げるエマ。

 どうやら彼女はアーヴェントでありながら、シャーロットほど生贄に固執しているわけではないらしい。むしろ引け目すら感じている。

 

 積もる話もありそうだと、ヴィクターは部屋の隅にあった椅子を持ってきて、エマに座って欲しいと促した。

 静かに腰を下ろしたエマは、戸惑いがちにヴィクターの目を見る。

 

「その、お姉様から事情を耳にしました。ヴィクターさんには、大変ご迷惑を」

「エマは王様の復活にあまり積極的じゃないんだな? てっきりアーヴェント全員が使命感を抱いてるもんなのかと」

「確かに……陛下の復活はアーヴェントにとって第一の目標です。ですが、千年も昔のお話なんですよ? 私の祖父母のそのまた祖父母、さらに祖父母から伝わっているような伝説です。わたしにはどうしても、ただの御伽噺にしか思えなくて。父も母もきっとそうでした。霊廟を目にしても、実感なんてほとんど無かった」

 

 道理である。例え文献が残っていて、それが史実だと言い伝えられようと、エマにとっては生まれる前のはるか昔に過ぎ去った過去なのだ。

 実感を持てという方が無理だろう。長らく伝えられてきた使命も、実感が湧かなければ時と共に風化する。

 

 例え霊廟で王の遺体を眼にしたとしても、今を生きる者にとってあくまで神聖な遺骸でしかない。

 過去を想い、ありがたがる者はいても、蘇らせようなんて目論むのはごく一部の狂信的な人間のみだ。

 生贄という非現実的で非人道的な要素も絡めば、よほどのことが無い限り眼を背けるのは自明の理と言える。

 

「お姉様も最初はそうだったんです。お父様も、お母様も。アーヴェントの歴史を鵜呑みにして、陛下の復活に一直線なわけじゃなかった。……お姉様は変わってしまったんです。伝説に縋って、()()()()()()()()()()()()()()

「……何かあったんだな? 自分の信念を曲げてでも成そうとするほどのナニカが」

「……はい」

 

 重々しく頷いて、エマは肯定を示す。

 腕を組み、瞼を閉じながらヴィクターは頭を捏ねた。

 

 思い返せば、出会った時からシャーロットはどうにも『アーヴェント』というくくりに固執しているように見えた。

 由緒ある末裔としての美学、在り方、歴史。そういった型に自分をはめて、『シャーロット』ではなく『アーヴェント』として振舞うかのような言動の数々。

 

 そこに垣間見えたのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()かのような危うさだ。

 

「こちらの事情に巻き込んでしまった以上、ヴィクターさんにはお話しなくてはなりませんね」

 

 膝の上できゅっと震える手を握り締め、真剣な眼差しを浮かべながらエマは言った。

 罪の告解──否。思い出すのも忌まわしい記憶の書を必死にめくり、それを音読しようと勇気を振り絞るかのような、苦悶と覚悟の混じった表情だった。

 

「この家で起こったこと。お姉様の身に起きたこと。……お姉様が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を、包み隠さずお話しします」

 

 

 ◆

 

 シャーロット・グレンローゼン・アーヴェントは、いたって平凡な少女である。

 血筋は特殊だが、それだけだ。

 王の魔力を継承した一族の末裔というだけで、これといって異端なところは無い。

 

 真面目すぎもせず、軟派すぎる性格でもない。

 野原に咲く儚い花が好きで、海のしょっぱくて爽やかな潮香がお気に入りだ。

 小さな生き物は可愛いと思うけれど、虫や蛇は苦手で怖い。

 

 美味しい食べ物で幸せそうに笑顔を作るし、別段得意というわけではないが、運動で汗を流す快感を知っている。

 化粧やお洒落な服で綺麗になった自分を見ると、なんとなく自信が湧いて前向きになれる。

 

 

 シャーロットはどこまでも普通の少女で、きっといつまでも素敵な『普通』だった。

 だからこそ、少女は真っ当に家族を愛していた。家族同然の従者たちが大好きだった。

 普通で、平凡で、とっても素敵な、どこにでも居そうな女の子。

 

 そんな彼女の心に、生涯消えることのないひび割れが駆け巡ったのは、12歳になったばかりのころだ。

 

 

 ある日、シャーロットは妹たちと()へ遊びに出かけていた。

 まだまだ小さな末妹、リリンフィーの手をしっかり握り、まだまだ不安に思う所もある次女(エマ)をリードしながら街のお菓子を堪能しつつ、可憐な衣服を吟味していた。

 

 空が暮れかけた帰り道。

 夕陽とは違う()せ返るような紅に、シャーロットは買い物袋をドサリと落としてしまった。

 

 家が燃えていた。

 ごうごうと、まるで巨大な生き物のように躍動する紅蓮の焔に呑み込まれて。

 嗤う黒煙。悲鳴を上げる建物。

 けれど、肝心の声が聞こえない。

 父の。母の。従者たちの声が。

 

「────」

 

 自分でもなんと口にしたか分からなかった。

 我武者羅に炎へ向かって駆けだそうとして、エマに必死に止められて、事態を把握できない末妹が涙を貯めながら固まって────。

 

 何も。

 何も、出来なかった。

 

 

 大火災の原因は不明だ。

 火の不始末かもしれないし、魔法道具のナニカが誤作動を引き起こしたのかもしれない。

 ひょっとすると、青天の霹靂にでも晒されて、雷が炎を呼び寄せたのかも。

 

 もはや原因なんてどうでも良かった。

 考える余裕なんて、芥ほども許されていなかった。

 家族を失ってしまったという、とうてい受け止めきれない悪夢の焼け跡が、無惨にも残されてしまったのだから。

 

 楽園のようだった日々は、息を吹けば飛ぶような須臾の間に、地獄の業火の餌食となった。

 

 

 

 それからは必死に今日を生きた。

 ただただ、無我夢中で生き抜いてきた。

 

 家も家族も失った。けれどシャーロットは折れなかった。

 自分よりも幼い妹たちのためだ。

 長女としての矜持が、右も左も分からない妹たちを守ろうと彼女を強くした。

 

 幸か不幸か、生きる術は両親から学んでいた。

()の大人たちも善人ばかりで、親身になって手を差し伸べてくれた。

 

 だがしかし、奈落への失墜は留まるところを知らない。

 元々体の弱かった末妹は、火災のショックにより急激に体を悪くしてしまった。

 館も、家族も、思い出も、全てが灰に還った惨たらしい事件は、幼い少女を圧殺するには十分すぎる殺傷力を秘めていたことだろう。

 

 末妹は奇病に冒された。

 髪を振り乱し、血を吐き、もがき苦しみ、日夜問わず悲鳴を絶やせなくるほどの激痛を伴う原因不明の病。

 その病状は、()の医師に面会を止められるほど壮絶極まるものだったという。

 

 病を理由に遺体を見ることも叶わなかった。最後の別れさえ許されなかった。

 木乃伊のように痩せこけ、肌は鱗の剥げ落ちた魚よりもボロボロで、爪は黄色く濁り果て、血反吐まみれの亡者となってしまった姿を姉に見られたくないと願う、妹からの最期の我儘だった。

 

 嘘のように呆気ない別れだったと、シャーロットは記憶している。

 宿を、食事を、稼ぎの手段を手に入れて、妹と共に一歩一歩と人生を立て直していた最中だったのに。

 あまりにも幼くて、儚くて、失い難い小さな命が、手のひらから零れ落ちてしまった。

 

 声にならない、筆舌に尽くしがたい喪失の痛みはこれで二度目になる。

 痛みは折れた骨を太く強く再生させるように、シャーロットの精神を執念と共に蘇らせた。

 いいや、灰に火を着けたと言うべきか。

 

 瞳から流れ落ちた溶鉄のような涙が、灰となった少女の心に再び灯火を燃え上がらせた。

 かつて家族を焼いた、焔のような爆熱を。

 

 無銘の墓標に縋りつきながら、少女は声の無い慟哭を張り上げた。

 

 なぜ両親は死なねばならなかったのか? 

 なぜ従者たちは灰にならねばならなかったのか? 

 よりによって一番幼い妹が、最も迎えてはならない結末を迎えてしまったのは何故か? 

 

 彼らに罪はあったのか? 

 焼き尽くされるに値する、無価値の衆であったのか? 

 

 アーヴェントは、負の歴史の生き証人は。この世に居てはならないとでも言うつもりか。

 このまま時と共に、誰にも知られることなく、消えゆくべき運命だったとでも? 

 

 

 断じて、否。

 

 

 シャーロット・グレンローゼン・アーヴェントは唾を吐いて否定する。

 劫火に呑まれた家族たちは、決して消え去るべき存在ではない。

 海に浮かんだ小さな島で、忘却の彼方へ葬られる終わりなんて許されない。

 

 ──こんな終わり、認めるものか。

 

 シャーロットは故郷の島へと舞い戻った。

 このまま()でエマと暮らすことも出来たが、もはや自分自身がそれを許さなかった。

 

 理不尽な災禍に見舞われ、命を落とした家族や従者の無念を抱えたまま、のうのうと生きられるものか。

 誰にも知られることなく、彼らが炎の渦に消えたなんて、絶対に認めるわけにいくものか。

 謂れ無き罪を被せられ、大洋の端へと追いやられ、そして迎えた結末がこれだなんて、千年の時を経て血を繋いだ先祖に、どう申し開きが出来ようか。

 

 ──アーヴェントを再興せねばならない。

 

 純黒の王を蘇らせ、失墜した王族を日の元へと舞い戻す。

 天運に奪われた無辜の魂の名を、この世界に消えぬよう刻み込む。

 

 ──()()()()()()()()()()

 

 平凡だった少女は、報いるべき仁愛に忠を尽くすために。

 烈火の如き執念を抱き、アーヴェントの(くびき)に囚われる覚悟を選んだのだ。

 

 

 

 ◆

 

「……そんなことが」

 

 言葉に出来なかった。

 こんなの、出来るはずもなかった。

 エマに語られた追憶の全てが、身を貫くほど衝撃だったからだ。

 

 今まで感じていた少女への違和感、その答えがそこにあった。

 

 異様とも言える血統への執着と誇り。果ての無い向上心。

 己の善性を捻じ曲げて、唇を噛むほど葛藤して、見ず知らずの少年を生贄にすることを選んだ理由は。

 

「家族のためだったのか。あいつの中身は、家族への愛情と覚悟で満ちていたってのか」

 

 目を覆う。ベッドに力なく座り込む。

 話を聞いただけで分かった。鮮明すぎるほどに理解した。

 

 ヴィクターの瞼の裏には、シャーロットの過去が映っていた。

 まるで最初からその場に居合わせていたかのようにくっきりと、シャーロットという少女が歩んできた人生が、文字通り目に浮かぶのだ。

 

 きっとごく普通の善き少女だったのだろう。家族の寵愛を受け、笑顔に生きてきた曇りの無い少女だったのだろう。

 そうじゃなきゃ、こんなに愛に報えない。こんなにも苦しい覚悟なんて抱けない。

 自分の人生を食い潰してまで、無念を晴らさんと足掻き続けることなんて。

 

 気高かった。決して無下にすることの出来ない愛の覚悟を、ヴィクターは痺れるように実感した。

 

 ──ああだからこそ。そんな少女だからこそ。

 

「このままで……良いはずがありません」

 

 エマは震える声を、必死に御しながら振り絞るように言った。

 ヴィクターよりも遥かに長く、シャーロットと共に歩み続けた肉親だからこその、重みをともなう言葉だった。

 

「お姉様は囚われています。アーヴェントという呪いに縛られて、自分の生きる道を閉ざしてしまっているんです。そんなこと、お父様もお母様も、妹のリリンだって望まない。それはお姉様自身も分かっているはずなんです」

「でも止まれない。それがシャロの覚悟だからか」

「はい。けれどこんなの、あまりに気の毒で……見ていて気が気じゃないんです。あのままじゃいつか、お姉様は壊れてしまいます。取り返しのつかないことになってしまいます」

 

 事実、シャーロットはとっくに限界を越えて生きている。

 常人なら何度倒れてもおかしくないハードワークを課し、それでも笑顔を決して失わずに、前向きにひたすら突き進み続けている。

 

 けれど無茶の代償は、いつの日か払わなくてはならない貸しなのだ。

 いずれシャーロットは壊れてしまう。止まることを忘れた暴走機関車が、自分の熱でその身を融かしてしまうように。

 

「……こんなこと、お願いするなんて筋違いなのは分かっています。大変な我儘を押し付けてしまうことは理解しています。でも、わたしには出来ないことなんです。お姉様は、わたしの声じゃ止まらない」

 

 エマには絶対に見過ごせなかった。

 このまま猪突猛進に走り続け、最愛の姉が崩れてしまう未来なんて、とうてい看過できるはずもなかった。

 

 それはヴィクターも同じだ。

 命の恩人が惨劇という名の呪いに蝕まれ、道を踏み外そうとしている。

 黙って見過ごせるはずが無い。()()()()()()()()()()()

 

「どうか、どうか、恥を忍んでお願いさせてください」

 

 潤んだ瞳を向けて、振り絞るように少女は言った。

 

「お願いします、お姉様をっ……アーヴェントの呪いから助けてください……!」



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6.「決戦前夜」

『お姉様はアーヴェントの理想像に囚われてしまっています。もはや呪いと言っていいくらい、強固な理想の鎖に』

 

『このままだと、お姉様は自分自身を食いつぶしてしまう。でもわたしの声じゃ、お姉様に届かない。お姉様はわたしを守るために……ずっと無茶をされてきたから……』

 

『だからヴィクターさんの力が必要なんです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、きっと呪いから解放される』

 

『作戦はあります。安全も保障します。しかし……危険を伴います。その代わり、必ずこの島から脱出させると約束します。生贄になんか、わたしがさせません。ですからどうか、どうか』

 

『無理なことは承知しています。理不尽なのも分かります。でももう……ヴィクターさんしか頼れる人がっ……』

 

『……えっ? ほ、本当ですか? ありがとうございます、ありがとうございますっ……! なんとお礼を言えばよいか……!』

 

『こ、こほん。ええと、それでは作戦内容をお話しますね』

 

『お姉様は、アーヴェントとしての品格を損なうような行いは出来ません。ヴィクターさんを生贄にするのだって、とてもとても葛藤なされてるはず……。つまりお姉様は、これ以上信念に泥を塗るような選択が取れない状態なんです。下卑た真似ですが、そこに漬け込みます』

 

『正々堂々、アーヴェントの礼式にのっとった決闘で打ち勝つこと。これが一番だと思うんです。お姉様はヴィクターさんの生殺与奪を、ヴィクターさんは復活の儀の取りやめを賭けて戦う。そして勝利すれば、お姉様は約束を無下に出来なくなる。ヴィクターさんを生贄にしようすることは無くなるでしょう』

 

『真っ向勝負で敗北し、貴方という千載一遇のチャンスを失えば、少々残酷ですが、理想は砕けて元のお姉様に戻ってくれるかもしれません』

 

『ええ、分かってます。これは賭けです。お姉様は諦めてくれないかもしれません。強硬手段に出る可能性も決して低くない。だからこその、わたしでもあります。必ずヴィクターさんを島から脱出させてみせますから』

 

『……ありがとうございます、ヴィクターさん。貴方の慈悲に心から感謝と敬意を』

 

『どうか……古き血に呪われてしまった我が姉を、姉の魂を、アーヴェントの軛から解放して下さい』 

 

 

 ◆

 

 一見城と見紛うこの館には、その規模にふさわしいほど幾つもの部屋が存在する。

 数多の私室に始まり、居間、応接室、書斎、娯楽室、浴室などなど。

 

 大昔の火災で大部分は焼けてしまったらしいが、幸か不幸か直後の大雨で建物自体は壊滅的な被害を免れ、細々と姉妹二人で復旧していったのだという。

 

 しかしながら、住人がたった3人では持て余してしまうのは言わずもがな。管理の行き届いてないデッドスペースは数えきれない。

 ヴィクターも初めは迷子になってしまったものだし、未だに迷うほどである。

 

 そんな館の東、図書室でのことだった。

 

「うーん……炎属性は発熱と力の増強……水属性は吸熱、融解、流動……雷は電気に接続と発光……木の魔力は……あー成育、再生、調和だな。地は凝固と補強……ん? マルガンとアーヴェントの固有魔力は白魔力と黒魔力なのか? ええいややこしい!」

 

 紙の森とでも言うべき本の群れの中、ヴィクターはウンウン唸りながらも、魔力や魔法に関する書籍を片っ端から読み漁っていた。

 言わずもがな、シャーロットとの決戦に備えるためだ。

 

「にしても、シャロの家って本当に金持ちだったんだなぁ……本が読み切れねーくらいあるなんて信じられねぇ。金銀財宝に囲まれてるみたいで、なんかテンション上がるぜ」

 

 記憶の無いヴィクターにも、紙の読み物が非常に高価だという認識はある。

 魔法のことが知りたいと尋ねてエマに案内された図書室だが、初めて見た時は思わず卒倒しかけたものだ。

 

「なになに……ごく稀に先天的な体質によって、神経や血管の分布が魔法展開式と酷似した『図』を持つ者が存在し、該当者の体表には特徴的な痣が現れ、星の刻印と呼ばれている……いやこれ全然関係ねーな。クソ、読み切れねぇ。多すぎて眩暈がする。楽しいけど」

 

 ついつい目的と関係の無い本まで手に取りそうになる気持ちを抑え、魔法関連の書を貪る。

 魔法を扱えないヴィクターが、指先一つで無から武器を生成するようなシャーロットに打ち勝つためには、徹底的に敵を識る必要がある。

 

「うーん、何か使えそうな知恵(モン)はないか……魔法道具の作り方みたいなページはどこだ?」

 

 エマの言う決闘は文字通り──いいや、正確にはイメージ通りの決闘だ。

 一対一で拳を、剣を交え、相手が降参するまで打ちのめす。その認識で間違いない。

 

 アーヴェントの礼式に則っているらしいそれは、安全面への配慮はあると言うものの、荒々しく危険な行為であることは確かだ。

 いくら安全と言われても、人はそんな気軽に他人と殴り合えない。普通は尻込みしてしまう。

 

 けれど、それをヴィクターは承諾した。

 自分の命がかかっているというのもあるが、むしろそれでよかったと思うのだ。

 もし決闘がボードゲームのような知略を競うものであれば、ヴィクターに勝てる見込みなど皆無だったから。

 

 しかし、体ひとつで戦えるなら話は別だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 本を高価なものだと潜在的に知っていたように、恐らく記憶ではない、魂に染み付いているとでも言うべき自信か。

 

 この7日間、一度だけシャーロットと剣劇(チャンバラ)をやったことがある。

 互いの手加減があったとはいえ、ヴィクターには日々の鍛錬で研ぎ澄まされたシャーロットの動きが見えていた。

 

 見えるというのは視覚ではなく、彼女がどう動き、どう手を打つのか読めたという先見の理解である。

 それは『戦いの眼』に他ならず、無意識にヴィクターの身体能力を裏付けていた。

 

(絶対に勝つんだ。俺の命のためじゃない。シャロに人殺しなんてさせるわけにはいかねぇからだ。俺が勝って、あいつの暴走を止めないと)

 

 シャーロットは善き人だ。命を助けてくれた恩人だ。

 そんな彼女に殺人なんて重荷を背負わせるのは、どう考えても間違っている。

 例えその結果『純黒の王』が復活したとしても、優しい彼女の心には、消えない傷痕が残されるだろう。

 

 ヴィクターにはそれが許せない。()()()()()()()()()

 だから、戦うと決意した。

 

 家族を失ってなお歯を食いしばり、日々を突き進む優しい少女に、これ以上の十字架なんて必要無い。ただそれだけだ。

 もしエマの命綱が無くても戦うことを選んだだろう。ヴィクターとは、そういう男なのだ。

 

「……ん? なんだこれ」

 

 ふと。本を捲っていると、奇妙なページが顔を表した。

 白紙なのだ。1ページという話ではなく、魔力の増強に関するひとつの項目が、まるまる白く塗り潰されている。

 

 印刷ミスか──ページを飛ばそうと触れた瞬間、不意に変化が訪れた。

 少年の右手。霊廟で現れた不気味な痣が突如うずき、朧な黒い光を放ち始めたかと思えば、白紙に文字が浮かびあがってきたのである。

 

「な、なんだ? なんだなんだ、どうなってやがる? 魔法か?」

 

 予想だにしない出来事に目をパチクリさせて驚いたが、文字が浮かんだと言うだけで、他にこれと言った変化は無かった。

 なんだか、まるで隠されていたものが暴かれたかのような。

 

「…………」

 

 恐る恐る、しかし好奇心のままに、活字へ瞳を滑らせる。

 魔力の増幅法について書かれたページだった。

 

「なになに……? 魔力は心臓の拍動で生み出される。その原理から、心肺機能を鍛えることである程度の魔力増強は可能だが、人間の心臓が馬の心臓になれないように、限界量は生物種ごとに定められている。閾値を越えて魔力の総量を増幅させる方法は、全く同質の魔力を体外から取り入れることのみである。……ん?」

 

 疑問符。眉を顰める。

 何か、ひっかかる違和感があった。

 

「えーっと……高濃度の魔力を持つ魔獣の血肉や植物、鉱石の摂取は、一時的な増強効果は見込めるが永続ではない。恒久的に魔力の総量を引き上げるには同族──ここでいう同族とは遺伝的つながりを持つ肉親である──の血肉を摂取する方法しか確認されておらず、その性質上、古くから魔力の増幅法は禁忌として扱われてきた…………あ?」

 

 

 ヴィクターは決して頭のキレる男ではない。

 いくら楽しくても、難解な書物の読解にはヒーヒー音を上げながら苦戦を強いられる。

 けれど、この文章はことさらに難くて。

 

 だって、こんなの矛盾している。

 

 この本に書かれたことが事実なら、魔獣の肉を食べて魔力を増幅させているシャーロットは、一体どう説明すればいいのだ? 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

「よっす」

「ひゃっ、ヴィクターさん!?」

 

 深夜、厨房にて。

 朝食の仕込みに勤しむエマは、不意に飛んできた声に肩を跳ねさせた。

 

「もう、脅かさないでくださいよーっ。包丁滑ったら危ないんですからねっ」

「すまんすまん、ちょっと欲しい物があってな。なんかこう、捨てる予定の入れ物とかってないか? 瓶みたいな割れやすいヤツがいい」

「あっ、決闘で使うんですね。はい、こちらの棚にあるものを適当にどうぞ」

「その棚って、大丈夫か? 綺麗な入れ物ばかりだぞ」

「お気になさらず。わたしが無理を言ってる立場なんですから、このくらいは……。必要なんでしょう?」

「ああ、助かる。ちょいと作戦を思いついてな、どうしても必要だったんだ」

「ええ、ええ、ぜひ使ってください。他にもお力になれることがありましたらぜひぜひ。精一杯協力しますからねっ」

 

 にこっ、とエマは微笑んで、再び包丁を手に取った。 

 大きな包丁だ。野菜を切るようなものとは、刃渡りも刃の厚みも違う。

 少女の手が大仰な銀刃を勢いよく叩きつける光景は、なかなかどうして気圧されるほどの迫力があるものだ。

 

 ダンッ、ダンッ、ダンッ、とリズミカルな豪快音。背に隠れて食材の姿は見えないが、まるで獣の解体でもしているかのようだった。

 一体全体何を切っているのか。興味をそそられたヴィクターは、そーっとエマの肩越しに覗こうと試みて。

 

「こらっ、ダメですよー。危ないから離れててくださいねっ」

「う、すまねぇ。何を切ってるのか気になって、つい」

「ウサギです。ヴィクターさんとお姉様が狩ってくださったウサギさん。血脂が飛んで汚れますし、ちょっとグロテスクだから見ないほうがいいですよ。それに危険です」

 

 こちらを一切振り返らず、背を向けたままエマは言う。

 包丁の豪快な音は途切れない。

 

 エマは厨房に他人が入ることを好まない。特に調理中に横槍が入ることを嫌う。

 館の食事事情は全てエマが握っており、彼女にとってこの場所は、ある意味聖域のような不可侵領域らしい。

 シャーロットですら、勝手に入っては駄目だと口酸っぱく止められているのだとか。

 

 不機嫌にさせてしまっても悪いと、ヴィクターは大人しく踵を返した。

 出入り口のドアノブに手を掛けて、ちらりと振り返る。

 角度的に、ほんの少しエマの脇から食材が見えた。

 

(────……? いや、気のせいか)

 

 すぐに隠れたせいでほんの一瞬しか見えなかったが、ヴィクターはどうにも引っ掛かると眉をひそめた。

 まな板の上に乗っていた肉塊。正確には(もも)肉だが、兎のような形には見えなかった。

 

 あれは、そう。

 例えるなら、人間の足みたいな。



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7.「潜み穿て、雷の華」

「それでは、ルールを確認させていただきますねっ」

 

 日輪の下。館のはずれにある、芝生の庭に彼らはいた。

 エマを狭むように対峙する二人の男女は互いを見据え、沈黙と共に仁王立つ。

 

「お二人に展開された防御魔法のうち、頭部もしくは胸部のバリアを破壊された時点で決着となります。気絶や降参など、わたしが戦闘不能と判断した場合も同様です。攻撃の手段は問いませんが、バリアの強度を向上させる手段は禁止とします! ……よろしいですか?」

「ええ。あなたは?」

「問題ない……んだが、シャロは鎧着ないのか? 流石に生身ってのはどうなんだ」

 

 ヴィクターは簡素なプレートで急所を覆っていた。試合用とでも言うべき、最低限を守ることに特化した防具だ。

 一方、シャーロットはそれらしきモノを何も纏っていない。

 泉で出会った時と同じ、運動着らしきシンプルな軽装のみである。

 

「大丈夫よ。エマも言ってたけど、私たちの周りには魔法でバリアが展開されてるもの。限度はあるけど、物理的にも魔法的にも身を守ってくれる障壁ね。普通に痛みは通過するけど」

「なんで痛みだけ……」

「大昔の決闘魔法だからよ。痛覚までなくしたら、勝敗に納得できない敗者が試合後に暴れることがあったらしくてね。それを防ぐために、受けた衝撃から対象者に痛みを植える計算術式が組み込まれたらしいわ」

 

 シャーロットが指を弾くと、互いの皮膚の上をぴったりと覆う、薄光の被膜がぼうっと姿を現した。

 どうやらこれが鎧代わりのバリアらしい。頭と胸にはさらに、円盤状の障壁が重ねがけされていた

 

「このシールドのどっちかを壊されたら負け。分かった?」

 

 再び指が弾かれ、障壁たちは空気へ溶け込むように姿をくらます。

 

「なるほどな。だがそんな頑強だってのに、なんで俺だけさらに防具を?」

「保険よ。魔力を使えないあなたと私じゃパワーが違い過ぎるもの」

「大事な生贄が壊れちまったら元も子もないからか」

「そういうこと」

 

 シャーロットにとって避けたいのは贄である少年の死、あるいは()()()()だ。

 願い求めた王の復活の機会をここで失うわけにはいかない。ヴィクターの防具は必然だった。

 

「にしても、まさか決闘なんて挑まれるとは思わなかったわ。蛮勇だけどその勇気は買ってあげる」

「慢心してると足元すくわれるかもしれねーぜ」

「過小評価なんてしないわよ。一緒に過ごして、あなたのフィジカルの高さは十分理解してるもの」

「そいつは嬉しいね」

 

 ヴィクターは拝借した片手槌(ハンマー)と、盾と呼ぶにはあまりに小さな、腕へ装着するタイプの小盾を構える。

 同じくして、シャーロットは組んでいた腕を自由に。眼光へ刃の鋭利を宿す。

 空気が殺気を孕み、張り詰まっていく。

 

「最後の警告よ。降参なさい。無暗に傷つけたくないの」

「生贄を取り消すってンなら喜んで両手を上げるけどな」

「……悪いけど無理な相談ね。じゃ、さっさと終わらせてあげる」

 

 流れが変わる。

 異変は、シャーロットを中心に(あらわ)れた。

 

 艶やかな深海色の髪が水中のようにふわりと浮かぶ。

 群青の(まなこ)は灯火を帯びて輝石と化し、青い鬼火のようにゆらりと輝く。

 足元から波濤が生まれ、地を伝い、風を伝い、ざわざわと木々を騒がせていく。

 

 ドクン、ドクンと。

 魔力の波が、少女の中心に拍を刻む。

 

 徐々に狭まる波の感覚。

 連動するように、つむじ風のような空気の渦が、シャーロットの一歩前に姿を現した。

 

 桃の唇は紡ぐ。

 魔力を縛る(こと)(うた)を。

 

「『洛陽、(つるぎ)を捧ぐ。無窮分断(わかた)つは不壊の刃。王威とはこの一刀に在りて』」

 

 風と共に一点へ掻き集められる、可視化されるほどの黒の魔力。

 大気を食い破る荒々しい極小の竜巻は、徐々に棘を剪定され、象られ、姿形を整えられていく。 

 それは存在を地に根付かせ、ついに産声を張り上げた。

 

「『剣よ、()の嘆きを救いたまえ』」

 

 終止符と共に、余剰な魔力が風にさらわれる花吹雪のように溶け消えた。

 少女はかざす。常闇より迎え入れし純黒の剣を、古傷にまみれた細い五指で握りしめて。

 

「刮目なさい。『純黒の王』が権能の一端──これが魔剣ダランディーバよ」

 

 柄の端から剣先まで、およそ1メートル。

 身の丈160㎝ほどの少女が振り回すにはかなり大仰な、漆黒のロングソードだ。

 

(シャロが型稽古で使っていたものと同じ……いや、違う! 上手く言葉に出来ねぇが、気迫が段違いだ!)

 

 かつて目撃したものは、ただの棒きれだったのではないかと錯覚させられるほどの魔力圧。

 夜より深い黒で造られた剣身には、鳴動する血管のような青い筋が幾条も走り抜けている。それはシャーロットの瞳と同じ瑠璃の光をうっすらと帯び、不気味なまでに輝いていた。

 

 決定的なまでに、あるいは絶望的なまでに、以前とは次元の異なる迫力。

 粗製乱造(レプリカ)と真作の差を見せつけられたかのような感覚に、冷や汗が皮膚を伝って遁走した。

 

(魔力ってのは、単体じゃ物質化なんてしないと本に書いてあった。あくまで魔法という現象を発動させるための燃料なんだ。どれだけ魔力を絞り出したって、すぐに霧散して消えちまう。だがどう見てもあの剣は純粋な魔力だけで、独立した物質として現れてやがる! これがアーヴェントの……黒魔力の特性ってヤツなのか……!?)

 

 ハンマーを握る手に汗が滲む。

 神経が熱を帯び、(みなぎ)る血潮は溶岩のよう。

 気道は酸素を効率よく取り込むため拡張され、鋭敏になった知覚のパルスが、ざわざわと脊髄を突き抜けていく。

 

(初めて見た時はよく分からなかったが、今なら分かる! ()()()()()()!! 絶対まともに喰らっちゃあならねぇ!)

 

 腰を落とし、槌と盾を構え、付け入る隙を封殺する。

 生まれた間合いを維持しながら、ヴィクターは少女を牽制しつつ時を待った。

 

 シャーロットは剣を試すように、大気を斜めに一閃した。

 青い軌跡が痕となって虚空へ刻まれ、やがて紙に吸われるインクのように消えていく。

 

 満足したように瞼を閉じて。

 再び開いた瞳は、星のように蒼かった。

 

「それでは──試合始め!!」

 

 号令の刹那。末裔の少女は迅雷と化した。

 黒の魔力がジェットの如く噴出し、シャーロットの体を砲弾と化す。

 人間の動体視力を遥かに超越した加速を伴い、地表をドリルのように削りながら、一息でヴィクターに肉薄した。

 

「うおァッ!?」

 

 反射神経が喝を入れ、ヴィクターは地に身を投げる。

 転がりながらもすぐさま体勢を立て直す。

 

 ──はらりと舞い落ちる、前髪だったものの断片。

 

(速い! 速すぎる! 間一髪だった! あと一瞬でも遅れていたら、頭の障壁は木っ端微塵に破壊されていた!)

 

 疾風は止まらない。少女は一切の容赦をしない。

 ヴィクターが思考を回すことすら許さない。絶え間なく迅速に、追撃を叩き込んでいく。 

 

 大きく剣が振るわれた。

 それはヴィクターを斬り捨てるためではなく、ただ空気を撫でるだけの空振り。

 いいや違う。空振りなどではない。

 剣の軌跡が意思を持ち、飛ぶ斬撃となって襲い掛かってくるではないか。

 

「うおおおおおおおおおおおおおッッ!!?」

 

 寸前でかわす。暴力的な風圧が、ヴィクターの横を一息に通り抜けていく。

 莫大な衝撃波が発生した。指向性を持ったソニックブームが、風切り音と共に背後の樹木へ叩き込まれ、あまりにも深い一条の傷を刻み込んだ。

 バギバギバギッ!! と素手で木を引き千切るような、耳を(つんざ)く破壊が一つの樹木の絶命を告げる。

 

「やるじゃない。流石ね、まさか避けるとは思わなかったわ」

 

 二転、三転。

 大地を転がりながら距離を取りつつも体勢は崩さないヴィクターは、冷たい汗を夜風へ散らしながら薄く笑った。

 

「す、すげぇ……! これがアーヴェントの魔法か! はははっ、全くもってとんでもねぇな!!」

「あら、ずいぶん余裕そうね。心なしか楽しそうだし……自分の状況、ちゃんと理解出来てる?」

「ああ、バッチリな! けどよぅ、笑ってる場合じゃねえってのに、余裕なんざこれっぽっちもありゃしねーのに! なんか無性に楽しいんだよなぁ、不思議だ! はははっ!」

「……頭の留め具でも外れちゃったのかしら。自分の命がかかってるのにそんな風に笑えるなんて」

 

 呆れたようにシャーロットは眉間を抑える。

 毒気を抜かれる、というべきか。取り巻く状況は生殺権の奪い合いだというのに、まるでチャンバラの延長戦だ。

 

 ペースに呑まれぬよう、少女は切り替える。

 これは決闘。()()()()()()なのだと。

 

「ところで私ばかり注目するのはいいけど、足元にも気を配った方がいいんじゃない?」

 

 ハッとするように、ヴィクターは瞳を下げて。

 しかし既に、異変の起爆は始まっていた。

 

 ヴィクターの陰。足元の地面が異様な盛り上がりを見せ、今にも噴火せんばかりのマグマのように膨張しているではないか。

 

 爪先から頭頂まで電流が駆け昇るように、ヴィクターの全神経が警報を散らし。

 

「私の手札がダランディーバだけだと思った?」

 

 パチン、と。

 しなやかな指が、乾いた音響が紡ぎ出して。

 

「『礫の雨よ(ラピス・プルヴィアム)』」

 

 それは魔たる(のり)の信管を打ち抜き、アーヴェントの暴威を発現させる。

 少年が距離を稼ぐより速く、大地が内から爆発した。

 (おびただ)しい土砂と石礫(いしつぶて)の散弾が襲いかかり、雨霰が如く全身に乱打を見舞う。

 

「がッッッッァああああああああああッッ!?」

 

 咄嗟に小盾と槌で急所を守る。だが網目を潜るように、打ち出された小石の(やじり)はヴィクターを的確に狙い撃つ。

 障壁に守られ、物理的なダメージは無い。だが払うべき対価は変わらない。

 鋭く、重く、筆舌に尽くしがたい激痛が全身を貫いた。

 

「これでもまだ笑ってられる!?」

 

 シャーロットは待たない。ヴィクターの回復を優しく見守るなどしない。

 ふたたび魔力のジェットを纏い、須臾の間に距離を圧殺する。

 瑠璃の軌跡を空気のキャンバスへ描きながら、熾烈な斬撃を縦横無尽に叩きこんだ。

 

 少年の反射神経がフルスロットルで回転した。

 精密に小盾を振るい、迫る刃の側面を殴りつけて軌道を逸らしながら威力を殺す。

 絶対に急所だけは──バリアだけは穿たれぬよう、紙一重の回避を幾度となく繰り返す。

 

(こ、こいつ……やっぱり強ぇ! 魔力だけじゃねぇ、ひとつひとつの動きが洗練され過ぎている! 一朝一夕で身に着くもんじゃない! やっぱりシャロの努力は本物だ……! 一撃いなすたびに腕ごと持ってかれそうになるこの重みが、俺に教えてくれる!!)

「へぇ、まだ笑顔でいられるんだ。でも下手に耐えると辛いわよ。早く降参してくれた方が、私としても嬉しいんだけど──ねッ!!」

 

 斬撃三閃。

 いなす。(かわ)す。受け流す。

 久遠のような攻防が、無窮の如く広がった。

 

(なんてパワーとスピードだ、つけ入る隙なんて全然無い! 距離を取るための一息すら潰される! おまけに一撃一撃が必殺級! 一瞬でも気ィ抜いたら即終了ってか!)

「この私に喰らい付くなんて、さすが陛下が認めただけはある! けれど防戦一方で私を倒そうなんて、邯鄲(かんたん)の夢でしかないと知りなさいッ!!」

(直接ガードしたら駄目だ、まともに受け止めちまえば盾やハンマーごとぶっ壊される! すべて逸らせ! 機を伺え! その一瞬が訪れるまで、極限まで全神経を集中させるんだ!!)

 

 シャーロットは強い。想像の何倍も、何十倍も強い。

 そんなの当たり前だ。だって彼女は、ヴィクターと出会う前からずっと努力を重ねてきたのだから。 

 うら若い少女がこれほどの強さを手に入れなければならなかったその背景に、背負う気高さと覚悟が、ありありと映し出されるほどに。

 

 もはや頼れるものは、記憶なき肉体に根付く戦いの心得と、魂に刻まれた野生の勘だけだ。

 もちうる武器を最大限に駆使して、ヴィクターは少女の猛攻を凌ぎ続けた。

 

 ヴィクターがもし()()()()()であったなら、ものの数秒で決着はついていただろう、熾烈極まる白兵戦。

 巨人が金属の塊を殴りつけたかのような轟音が絶えず耳を(つんざ)き、烈風という名の波濤を生む。

 薄皮一枚の防御を根性論で繋ぎ合わせ、いつ訪れるかも分からない隙が生まれるのを、ひたすらひたすら耐え忍んで待ち続けた。

 

「やっぱりただの人間じゃないわね! ズブの素人が身体強化した(アーヴェント)に敵うわけがないもの! 本当に何者!?」

「一番知りたいのは俺だっつーの! というか(かな)ってるように見えるか!? 着いていくのに精一杯だ!!」

「そのくせお喋りに割く余裕はあるじゃない! 陛下が贄と認めたその資質、悔しいけど敬意を表してあげる。──ええ、だからこそ! これで終わりにしましょう!」

 

 純黒の少女は大きく右手を振りかぶり、魔法をもって腕力をさらに強化(ブースト)する。

 青黒い稲妻が炸裂した。バチバチと空気が弾け、シャーロットは羅刹と化す。

 ヴィクターの脳天めがけて、動体視力で捉えられぬほどの一撃を見舞い────―

 

 

 その一瞬を。

 必殺の念が籠められた、壮絶で絶大な大振りを。

 無銘の贄は、今か今かと待ち望み続けたのだ。

 

 

「ふんッッ!!」

「!?」

 

()()()()()()()()使()()()()()()

 必殺の剣に呼吸を合わせ、()()()を振るい(ダランディーバ)の側面を殴りつけたのだ。

 

 ほんの数ミリ違えれば、痛恨の一撃をもって勝敗を決した刹那の僅差を、正確無比に穿ち抜いた。

 結果、刃は軌道を逸らされ肩に着弾する。

 

「あなた、何を────!?」

 

 本来ならば肩ごと腕を斬り落とされるほどの一撃。

 バリアのお陰で肉体的な損傷は最小限に抑えられたが、殺しきれなかったインパクトは痛烈な破壊を生んだ。

 めり込む刃。バギバギバギッ!! と肉体の破壊を告げる生々しいまでの感触。

 喉が裂けんばかりの絶叫を吐き出しそうな激痛が、一片の躊躇もなく襲いかかってくる。

 

 

 しかし、()()()()()腕は落ちていない。

 むしろその手は勝機を掴んだ。

 ヴィクターの闘争心に、一迅たりとも揺らぎは無い。

 

 髪の毛一本の差を見極め、尋常ならば耐えることなど叶わない苦痛を忍んだ先で。

 ヴィクターは()()()()()()()()()左腕を振るって、盾をこめかみに打ち付けた。

 

「だらァッッ!!」

「あぐッ!?」

 

 シャーロットの脳が揺れる。魔力障壁に稲妻状の亀裂が走り、淡い魔力の光が明滅した。

 視界に星が瞬き、意識がぐわんと揺れ動く。

 鈍い痛みが真菌のように根を張るが、しかしそれで彼女の思考は止まらない。

 

 反旗を翻されてなお、シャーロットの双眼は戦況を捉えていた。

 破壊されたはずのヴィクターの腕が、どうして武器と成りえたのか。

 そのトリックを、その答えを、燦然と映し出していたのだ。

 

 新緑に瞬く発光があった。

 ダランディーバで砕かれた左肩から舞い踊る粒子があった。

 

 見れば肩の服下から、小汚い布袋の破片が覗いている。

 そこから謎の光がベールとなって患部を包み、出血を、創傷を、目を見張るほどの速度で再生させているではないか。

 

 治癒の魔力。成育と再生、調和の力を持った生命波動の煌めき。そして仕込まれた癒しの術符。

 それが左腕を再生させた、手品の正体だった。

 

「魔法って、便利なもんだよなぁッ……! 魔力と術符さえあればよォーッ!! 俺でもこうして、傷を治すことだって出来るんだからなァーッ!!」

「そんなのありえない! 魔力のないあなたがどうして魔法を────」

 

 刹那。シャーロットは雷に打たれるように理解した。

 

 魔力を持たないヴィクターが魔法を使うには、外部から調達することが必要不可欠。ならばその供給源は? 

 エマか? いや違う。アーヴェントの魔力はそう単純ではない。アーヴェントじゃないヴィクターには扱えない。

 

 ならば、答えは一つ。 

 眼前に広がる森の住人。すなわち精霊である。

 

「魔力だけなら(ここ)にいくらでもあったさ! 扱う術だって自由に学べた! 俺を野放しにしていたのが仇になったな、シャロ!!」

「────」

 

 否。シャーロットはヴィクターの行動を予見していた。

 

 魔法を扱えないヴィクターがアーヴェントに勝つ。それはあまりに無謀な勝負と言える。

 武器を持った兵士に素手で挑むようなものだ。たとえ身体能力が高かろうが、越えられない壁は悠然と存在する。

 その壁を打ち壊す手立てがあったからこそ、ヴィクターは決闘を申し込んだ。そう考えるのが道理だ。

 

 だから予想はしていたのだ。何かしらの(から)め手を駆使し、シャーロットの首を獲りに来るだろうと。

 大方、森の精霊から魔力を抽出し、館の図書室から得た知恵で、魔法道具でも作成してくるだろうと。

 

 そう。ここまでは予想通り。

 だがその搦め手が、こうも無謀な玉砕特攻と誰が予測出来ようか? 

 

 武器への付与(エンチャント)や魔法爆弾、罠の作成ならまだ分かる。

 それがどうだ。あえて痛打を喰らい、その傷を癒し、反旗を翻すなど正気の沙汰ではない。

 覚悟を決めていたとしても、腕をもがれるほどの痛みを容易く受け入れる人間なんて存在しない。

 

 けれど、ああ確かに。

 そんな苦肉の策をあえて展開してきた意味を、シャーロットは文字通り身をもって理解した。理解せざるを得なかった。

 

 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 

 

 人を驚かせる鉄則は、予測を完膚なきまでに破壊すること。

 この男は己が身を犠牲にすることで、圧倒的格上であるシャーロットの虚を突かんと打って出たのだ。

 それもたった一度限りの、ほんの一瞬ばかりの、小さなスキマを穿つために! 

 

「あなた、なんて馬鹿な真似を──がッ!?」

「だァァああああああああああらッしャァああああァァァァ────ッ!!」

 

 無謀にも等しい賭けは、確実な転機を生み出した。

 動揺は精神に余白を生み、現実世界へ隙となって反映される。

 

 ヴィクターはこの機を逃さんと、シャーロットの脇腹へ渾身の打撃を振り抜いた。

 

 障壁は身を守るが完全ではない。屈強な肉の鎧に覆われた腕から放たれる槌のインパクトは、少女の体を()()()へ捻じ曲げ、無視し難い激痛(ダメージ)を浸透させた。

 

 唾が弾けて地を濡らし、シャーロットは苦悶を滲ませる。

 一撃では終わらない。二度、三度、同じ箇所を狙って正確に打撃を命中させてくる。

 

 猛攻の中でも、確実に頭と胸だけは守り抜く。

 最初にもらった一撃で頭のバリアは半壊だ。これを死守せねば、シャーロットの敗北は必然と化す。

 普通ならあまりの痛みにのたうち回るほどの乱打を、精神力で絶え凌いでいく。

 

「しぃッッ!!」

 

 シャーロットも易々と倒れはしない。

 独楽のように身を翻したかと思えば、剣を持たない左腕を振るって、ヴィクターの頭蓋へ裏肘を叩き込んだのだ。

 間髪入れず足が飛ぶ。およそ華奢な少女のものとは思えない熾烈な蹴りが男の(もも)を叩き、鞭に匹敵する炸裂音が威力を語った。

 

 一転攻勢、斬撃三閃。

 ヴィクターもすかさず急所を守る。だが手足と腹に、無視し難い切り裂かれるような痛みを植えつけられた。

 歯を食いしばり、体勢を崩すまいと踏ん張りきる。

 

 さらに飛んできた魔剣を槌で弾き、飛来する礫の雨を身を捩じってかわすと、小盾でシャーロットを突き飛ばし一次戦線を離脱した。

 

 

 互いの乱れた呼吸が、静謐に流れる唯一無二の音楽となる。

 ヴィクターは噛み締めすぎて血の混じった唾を吐き捨てる。シャーロットは切れた唇から伝う赤を指で拭った。

 

「存外っ……やるじゃない……! 想像以上よ、褒めてあげる。やはりあなたは王の贄に相応しい」

「そいつはどーもよ……けど……それはもう叶えられねぇ期待ってモンだ」

 

 にぃっと歯を剥き、悪戯小僧のようにヴィクターは笑う。

 指先は、己が腰元を指していて。

 誘われるように、シャーロットは自分の腰に視線を落とした。

 

 身に覚えのない瓶がベルトに括りつけられていた。

 調味料を保存するための、何の変哲もないただの小瓶。

 

 違う。()()()()()ではない。

 内部に赤熱したエネルギーが充填され、抜きたての心臓のように鼓動を繰り返しながら、密閉された容器の中で熱量を膨張させている。

 

 炎属性の魔力。

 他の魔力と異なり、ほんの僅かな量で莫大なエネルギーをもたらす魔力の焔。

 

 悟る。

 なぜヴィクターが、シャーロットの頭や胸ではなく、脇腹を執拗に狙い続けていたのかを。

 

 意識を誘導し、反対の腰元へ軽業師のように爆弾を仕込むため。

 攻撃を予測され、反撃を貰いかねない急所を突くよりも確実に、シャーロットを倒せる『罠』を選んだのだ。

 

 瓶に走るは、蜘蛛の巣状に張り巡らされた亀裂の影。

 圧縮された爆熱が、器の限界と共に解き放たれて、

 

「足元注意──いや、()()注意はお互いさまってな」

「──ッ!!」

 

 瞬間。

 夜を食い散らかすほどの爆発が、容赦なくシャーロットを呑み込んだ。

 

 

 

 ◆

 

 ヴィクターは咄嗟に身を放り投げ、大地へ平伏し頭を庇う。

 熱波と砂塵、全身の細胞を振るわせるほどの大爆発が、周囲一帯へ放散した。

 

「お姉様っ!?」

 

 エマの悲鳴が響き渡った。

 しかし立ち昇る黒煙は、無情なまでに揺蕩い踊る。

 ゼロ距離からの魔力爆発。バリアを加味したとしても、無傷では済まないだろう必殺の一撃。

 

 それを。

 

「…………認めましょう。私はあなたを侮っていた」

 

 それをまともに喰らいながら。

 なお、少女は立ちはだかった。

 

「魔力を持たない、魔法を使えない身で、アーヴェントをここまで追い詰めたあなたに無上の称賛を。この痛みと傷は、私の傲慢に対する戒めと受け取るわ」

 

 無傷ではない。

 爆発は間違いなく、シャーロットの華奢な体躯を蹂躙した。

 

 しかし、頭と胸のバリアは未だ健在。

 

 あの一瞬、あの刹那で。

 シャーロットは爆発の威力を、魔法をもって受け流していた。

 

「なんてヤツだお前ッ!?」

「ぜぇあッ!!」

 

 煙幕を切り裂く稲妻があった。

 音も無く、前触れもなく。ただ静謐に硝煙を穿ち、シャーロットが迅雷となって肉薄した。

 

「う、おッ!?」

 

 速い。

 先の攻防よりも、ずっとずっと速く鋭い。

 この一撃で決着をつけるつもりだと、冷や汗を散らしながら悟る。

 ならばと防御に徹する。左手に装着された小盾を振るい、魔剣を殴ることで斬撃を弾き飛ばす。

 

 ──それは成功したはずだった。

 

「!? 消えっ」

 

 シャーロットの姿が視界から消えた。

 濃霧に紛れた羽虫の如く、ふわりと煙に巻かれたのだ。

 

 振るわれた小盾が虚空をむなしく空ぶって、それは残像だったのだと認識する。

 刹那。ヴィクターの手にあったはずの槌が宙を舞った。

 恐るべき速度で振り抜かれた魔剣が、ヴィクターの武器を吹っ飛ばしたのだ。

 

「────」

 

 ヴィクターの胸のバリアを貫かんと、切っ先は既に放たれていた。

 

 武器を失った。

 防御は不可能だ。間に合わない。

 この盤を覆す手は、どこを見たって見当たらない。

 

 搦め手は通じず、正攻法などもってのほか。

 ならばこれは、当然の結果と言える。

 

 

 そう。当然の結果だ。

 仕掛けた策を踏破され、敗北の袋小路に追い込まれるのは規定事項だ。

()()()()()()()()()()()()()()()()、ヴィクターが戦いに挑んだのもまた当然。

 

「──そうだ。俺はお前に勝てない。真っ向からの勝負じゃあ、勝ち目なんてこれっぽっちもないと言っていい」

 

 にぃっ、と白歯を覗かせる、獣のように獰猛な笑み。

 

「悪ィが勝たせてもらうぜ! 泥臭く、みっともなく足掻いてでも!!」

 

 ヴィクターは守りを取らなかった。

 むしろ逆。あろうことかヴィクターは、迫りくる剣に向かって大きく一歩を踏み出したのだ。

 まるで自らその身を捧げ、串刺しになろうとするかのように。

 

「捨て身のハッタリが二度も通じると思った!? 舐めるなッ!!」

 

 虚を突かれたシャーロットは、しかし一切の動揺なくそのまま刃を穿ち抜ける。

 今度は油断しない。たとえ捨て身だったとしても、それ以外の小手先だったとしても、そのまま切り捨てる勢いで。

 

 しかし、たった紙一重がとどかなかった。

 放たれた必殺を、ヴィクターは身を捩じりきるように回避したのだ。

 

 ──だからどうした。

 

 かわされたから終わりではない。シャーロット・グレンローゼン・アーヴェントはそこまで軟弱な修練を積んでいない。

 恐るべき速度で刃を返す。およそ肉眼ではとらえきれないほどの勢いで、影を縫うヴィクターを両断にかかる。

 

 同時に魔法を発動。無詠唱ゆえに不完全ではあるが、土と風の弾丸を招来する。

 逃げなければ切り裂かれる。逃げても魔法に削ぎ落される。

 

 もはや退路も進路もない。

 敗北以外に、ヴィクターが生きる道は無い。

 

「ハッタリ? そいつは見当違いってもんだぜ」

 

 

 否。

 ひとつだけ、活路を拓く術がある。

 

 ヴィクターは姿勢を極限まで落とし、タックルのように真正面から激突した。

 刃の懐を潜り抜け、シャーロットをがっしりと抱き留めたのだ。

 

「やっとこさ、()()()()()()()()()()、シャーロット!!」

 

 腕に抱かれ、男の豪気な笑みがシャーロットの瞳に大きく映る。

 反射的に引き剥がそうともがくが、石像に組み付かれたようにビクともしない。

 力を入れられないよう、関節を抑え込まれていた。

 

「この期に及んで何をっ……!? こんなことしても私は降参なんかっ!」

「ああそうさ、これで勝とうなんて思っちゃいねぇ。こんなちっこい体してる癖に俺より怪力で、素早くて、おまけに魔法なんてトンデモ技まで使いやがるヤツだ。たった一つの作戦で勝てるなんざ、端から思っちゃいなかったさ!」

 

 バキッ──と、硝子が踏み砕かれるような音。

 発生源は下。ヴィクターの足元より届けられたそれは。

 

 靴と大地に挟まれ、ひび割れている()()()()()()が見えた。

 眩い雷魔力の輝きが、今にも溢れ出さんと燻る小さな瓶が。

 

「ま、さか」

 

 緊急事態を前に、少女の脳は、処理能力を爆発的に向上させる。

 シャーロットの中を流れる1秒が、極限にまで緩められた。

 

 ──魔力爆弾の本当の目的は、シャーロットの撃破などではなかったのだ。

 むしろ真のフェイクとは、あの爆弾そのもの。

 爆発で注意を逸らし、巻き上がる砂煙で視界を奪い、その隙に彼は雷の魔力を凝縮させた瓶を地雷のように仕掛けていた。

 

 シャーロットが確実に首を獲らんと突っ込んでくることも予測して、追い詰められたフリをしながら定めた位置まで誘導し、弾かれたと見せかけて武器を手放した。

 奥の手も破られ、万策尽きたと、シャーロットに刷り込むために。

 

「お前の一番厄介なところは、その出鱈目なスピードと隙の無さだ! 三文芝居を打ってようやく一撃くれてやれるかどうかってくらいの堅牢さだ! 普通のやり方じゃお前のバリアはぶち壊せねぇ。──だがよ、こいつならどうだ!? 俺の体ごと魔力の電撃を浴びせるって方法なら!! 流石のお前も避けようが無いんじゃあねぇかッ!?」

「気でも狂ったの!? そんなことしたら自分のバリアも木端微塵に────」

 

 言いかけて、気付く。

 頭と胸。勝敗を決するふたつのバリア。

 ヴィクターとシャーロット、果たしてどちらの方が損壊している? 

 

 ──追憶。

 

 初めて反撃を貰った時。

 予想だにしない逆襲にあった時。

 あの時、渾身の一撃をこめかみに喰らっていたのはシャーロットの方だ。

 

「まさかあなたっ、あの時から既に!?」

 

 全てはシャーロットという超人を欺くための盛大な小芝居。

 かくして芝居の閉幕は、この瞬間をもって成し遂げられる。

 

「離しなさい、このっ!!」

「悪いが出来ねぇ相談だな! ちィとばかしブッ飛んで貰うぜ。なぁーに、二人一緒なら怖かねぇだろう!?」

 

 

 一際強く、ヴィクターは瓶を踏み抜いて。

 刹那。赫奕(かくやく)たる光の疾走が、二人を槍の如く貫いた。

 またたき昇る輝きの柱は、まるで天を目指す龍のようだった。



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8.「逆転。暴走の覚悟」

「ぶぁはッ!? げほっ、えほっ! ぐぅお、おお……!!」

 

 もんどりうって地を転がる。

 無理もない。雷撃で身を裂かれたのだ。

 肉体的損傷は魔障壁のおかげで抑えられていようと、透過された身を裂くような重苦は筆舌に尽くしがたいもの。

 あまりの激痛に呼吸すら忘れ、体を動かすことすらままならなかった。

 

「くそ……ば、バリアは……よし、よし、破れてない。ヒビは、入ってるみてぇだが……計算通りだな……!!」

 

 顔や胸に触れ、障壁が健在なのを確認する。

 雷魔力の爆弾には、一撃でバリアを破るほどのパワーを内包しなかった。そんなことをすれば双方のバリアが壊れて引き分けになってしまう。

 だからこれでいい。頭の障壁が半壊だったシャーロットは、間違いなく壊れているはずだ。

 

 どう見積もっても、勝敗は決した。

 

 

「………………おい、冗談だろ」

 

 決したはずだった。

 君臨する少女の姿を、その眼に映すまでは。

 

「頭のバリアが壊れてねぇ!?」

 

 シャーロットは立っていた。

 頑強なヴィクターすら痛みに悶え、昏倒しかけたほどの雷電をまともに喰らいながら、剣を杖のように突き刺し、崩れ落ちるの辛うじて防いでいた。

 それどころではない。破壊されたはずのバリアまで、生き延びてしまっているではないか。

 

「はぁーっ、はぁーっ、かひゅ、ぅ、ぐ、く、ううぅっ……!」

 

 決して無事ではない。ダメージはある。

 むしろヴィクターより甚大だ。

 

 体が小刻みに震えている。(そで)(すそ)は裂け、露わになった白い肌を侵す火傷が見えた。

 右頬には樹状に張りめぐるミミズ腫れ。電撃が皮下の血管を破裂させた時にできる独特の創傷だ。

 濡れ烏のようだった髪は乱れ、目尻や鼻から赤黒い血潮が這っている。鬼気迫る形相のシャーロットに、もはや目を奪われるほどの端麗さは見当たらない。

 

(──いやまて、火傷だと? ありえねぇ、バリアがある以上、生傷なんて負うはずがない!)

 

 決闘前から入念にエマと打ち合わせたのだ。あの爆弾のパワーでは、たとえ半壊状態だろうとバリア越しに体を傷つけることは無いはずだ。

 事実、ヴィクターは無傷に等しい。痛みだけを透過させる魔法のお陰である。 

 なのにシャーロットは、まるで雷をそのまま浴びたかのような重傷を負っていた。

 

 仮説が芽吹く。

 シャーロットは傷を負い、バリアは無事というこの状況は。

 本来なら魔障壁が受け止めるはずの衝撃を、シャーロット自身が肩代わりしたかのようだと。

 

「お前ッ……!! バリアを壊されて負けないために、わざとその身で喰らったってのか!?」

「……純粋な魔力が引き起こす作用なら、魔法でどうにでも指向性を操れるのよ。一瞬の出来事過ぎて外に散らしたり出来なかったし、私が受け止める以外に方法は無かったんだけどっ……ぜひゅ、は、ぅく……捨て身の覚悟は、お互いさまってわけね……!」 

 

 シャーロットは魔剣の柄を握る両手に力を籠め、全力を振り絞って上体を持ちあげた。

 満身創痍を思わせる困憊(こんぱい)。にも関わらず、凛と仁王立つ不屈の姿は、もはや王威すら感じられるほどの威風に満ちていた。

 

「私は負けない……! 負けられない……!! 絶対にッ……負けるわけにはいかないのよッ!!」

 

 止まない喘鳴を奏でながらも、断固として崩れぬ意志。

 己を鼓舞する言葉を零し、一歩ずつ迫る姿は修羅の如く。

 

 覚悟。それはまさしく、覚悟という執念を焚き上げる鬼であった。

 けれど決して、醜いと切り捨てることの叶わない、眩しいまでの覚悟の体現だった。

 美しいとさえ思えるほどの、金剛の如く気高き覚悟。

 

「……なんて清々しいやつだお前は。俺を生贄にするなんて言い分には納得できねぇが、その覚悟には敬意を表さずにいられねえ」

 

 譲ることの叶わない芯を貫くために、精神力だけで雷撃を耐えきったその覚悟を、どうしても卑下することができなかった。

 ならば、ヴィクターの応えはただひとつだけ。

 全身全霊をもって、この戦いに決着をつけるのみ。

 

「だァァらッしゃああああああああああああああッッ!!」

「ぜぇええあああああああああああああああああッッ!!」

 

 雌雄、咆哮。

 女は限界を越え、魔剣を稲妻の如く一閃する。

 男は槌を手に、あらん限りの全力をもって迎え撃つ。

 

 

 ──終結は須臾の間に到来した。

 

 

 双星がぶつかり、ひとつは堕ちた。

 硝子が砕けるような音。散って空に溶ける薄紫の破片たち。

 放たれた決着の一撃が、頭顱(とうろ)の障壁に絶命をもたらした。

 

「……私を恨みたければ恨みなさい。怨嗟を吐きたければ吐けばいい。あなたにはその権利がある」

 

 気高く、強く、燦然たる勝利を掴み取ったのは。

 その血に王威を継ぐ末裔──シャーロット・グレンローゼン・アーヴェントだ。

 

 

 

 

 

 ◆

 

「づ、ひゅふ、うう……」

 

 完全に沈黙したヴィクターを見届けて、シャーロットは魔剣を地面に刺して寄りかかり、片膝を崩しながら座り込んだ。

 激しく肩で息を切らす。

 ポタポタと大地を篆刻(てんこく)する血の雫を指で拭って、ぎゅっと拳を握り締めた。

 

 掴んだのは勝利の実感──ではない。

 

(情けない……! 何よ、この体たらくっ……! 魔法を使えない彼を相手に……げほっ、ここまで追い詰められるなんて……!)

 

 シャーロットは日々研鑽を積み重ねてきた少女だ。

 アーヴェントとして相応しくなれるよう、何年も何年も己を磨き続けてきた。

 休んだ日なんて一度もない。家族を焼かれ、幼い妹を失った日から、足を止めたことなど一度もない。

 

 そんなシャーロットが、記憶を失くした男に一歩手前まで消耗させられた。

 己の非才を噛み締める。アーヴェントのため、矜持を破ってまで無辜の彼を生贄にすると決めたのに、情けなくてしょうがない。

 まだまだ理想にほど遠いと、さらなる覚悟が、心へ根を張るように植え付けられていく。

 

(強かった。彼は、ヴィクターは間違いなく強かった。純粋な身体能力だけじゃない。咄嗟の判断力も、決して折れることのない闘争心も、戦いの流れを読む眼力も、全部、ぜんぶ、強かった)

 

 魔法を使えないヴィクターから見たシャーロットは、一回りも二回りも強大な怪物だったはずだ。

 それに臆さず勝機を導き、あと一歩のところまで追いやった恐るべき手腕。

 認めざるを得ない。間違いなく、ヴィクターは『純黒の王』へ捧ぐに相応しい強者であった。

 

(それに……疑問も確信に変わった。どうして彼が決闘なんて申し込んだのか。切り札の出所はどこだったのか)

 

 最初から半信半疑ではあったのだ。

 大きすぎるハンデを持つ少女を相手に、なぜこうも正々堂々と対決する選択を選べたのか? 

 そのハンデを埋めるアイデアは、本当にヴィクターがひとりで編み出したのか? 

 

 ヴィクターには疑いようの無い才覚(センス)がある。記憶を喪ってなお、アーヴェントに喰らいつくほどの恐るべき潜在能力が。

 ()()()()()()()()()()()()()()、きっとシャーロットもここまで苦戦することは無かったはずだ。

 

 彼はまるで、シャーロットの動きや魔法の癖を最初から知っているかのようだった。

 だからこそ、身体強化を発動させたアーヴェントにあそこまで対応できたと言える。

 

 魔法爆弾もそうだ。魔力を扱う心得も無い素人が簡単に作れるような生易しい道具ではない。一歩間違えれば自分を危険に晒してしまう。

 それを実用可能なレベルまで持ち上げたのは、本当にヴィクターの独断か? 

 

 ありえない。

 どう考えても、たった独りでは不可能だ。

 

「お姉様、こちらを! 薬です!」

「……ありがとう」

 

 かたわらに駆けつけ、気を失ったヴィクターに手当てを施していたエマは、懐から薄緑色の液体が入った小瓶を姉に手渡した。

 受け取ったシャーロットは中身を一息に飲み干し、深く瞳を閉じる。

 魔力の輝きが体を包み、肉体の修復が始まった。

 

 これは治癒力促進剤だ。

 腕や足をもがれるような重傷でなければ、アーヴェントの類稀な再生能力を更に向上させ、目まぐるしい早さで傷を塞いでくれる。

 

 乱れていた呼吸は徐々に整えられ、痣や火傷が薄まっていく。

 ぼやけていた視界が定まって、エマの顔もよく見えるようになった。

 

「……エマ、あなたね? 彼に入れ知恵をしたのは」

「…………はい、その通りです。ヴィクターさんに決闘なんて無茶なお願いをしたのも、魔力爆弾の作り方を教えたのも、全てわたしです」

 

 エマは誤魔化すこともしなかった。

 見透かされていると、自分を見つめる瞳で十分知った。

 しかしシャーロットから返されたのは叱責ではなく、むしろ理解を示す言葉で

 

「裏切りなんて言わないわよ。理由はわかってる。私を止めるためなんでしょう? アーヴェントじゃない彼が礼式に則った決闘で私を倒せば、それで止まると思ったから。ちがう?」

「っ! ……だったら何故!? そこまで分かっているのに、自分でも間違っていると気付いているのに、どうして!? もう、もう見てられないんです! たとえ陛下を復活させたとしても、罪の無い彼を生贄にした事実はお姉様の心を蝕んでしまう! もう体は限界なのに、心まで冷たくなっていくお姉様なんて見たくない!」

 

 張り裂けるような訴えだった。

 お願いだからもう止めてくれと、これ以上はあなたが無理だと、なにより無関係の少年を巻き込むなんて間違っていると、慟哭のような嘆願(たんがん)だった。

 

「お姉様、エマはもう大丈夫です。昔みたいに、お姉様に守ってもらわなくてもいいんです。もう頑張らなくたっていいんです。これから先も二人で、静かに暮らせていければそれでいいじゃないですか……! だからお願い……もうやめて! これ以上自分を傷つけないで! お姉様のためにも……ヴィクターさんを……解放してあげて……!」

 

 縋りつき、零れる涙をそのままに、エマは心の底から訴える。

 けれど。

 

「ごめんね、エマ。私には無理なの。ただただ静かに暮らして、時を流れるように生きていくなんて、もう私には出来ないのよ」

「どうして!?」

「あなたはまだ小さかったからね。記憶が曖昧で、実感が薄くても仕方ない。でも私は……家族が焼かれた日を、リリンを失った夜を忘れた日なんて一度もない。頭に焼きついて離れないの。何も悪いことなんてしてないのに、理不尽に命を奪われた家族の無念を、そのままにしておくなんて出来っこない」

「だからってお父様やお母様が、ましてやリリンが、お姉様に人殺しの咎を背負わせてまで無念を雪いでもらおうなんて、望むわけないじゃないですか!!」

「ええそうよ。家族も従者も望まないでしょう。そんなの最初から分かってる」

「だったらっ」

「私が許せないからよ」

 

 鋭く、強く。

 シャーロットは、エマの説得を切り伏せるようにそう言った。

 

「こんな辺境の島に追いやられた先祖の無念を、理不尽な運命に弄ばれた家族たちの嘆きを、ぜんぶ無かったことにして、土の下に葬っておくだけなんて許せない。それを忘れて自分だけのうのうと生きていくなんて私には出来ない。私がアーヴェントである限り」

「お姉……様……!」

「……あなたにも辛い思いをさせるわね。ごめんなさい。でも私は止まれない」

 

 シャーロットも自分で理解している。これは妄執に等しい過ちだ。

 無関係の少年を巻き込んでいいわけがない。ましてや人の命を、己の都合で奪うなんて正しいはずがない。

 けれど、綺麗ごとで終わるならとっくの昔に選んでいた。

 

 汚れる覚悟は出来ている。例え家族の意志に反しても、シャーロットは決して意志の灯火を曇らせない。

 それが家族への弔いという根底に矛盾していると、自分自身でも自覚しながら。

 

「彼を運んであげてちょうだい。私は少し休んでから行くわ」

「……わかりました」

 

 渋々承諾して、エマは少年を抱えると館の方角へ姿を消した。

 

 残されたシャーロットは、草原に寝転がって空を見る。

 雲一つない快晴だ。キラキラと輝く太陽が、睫毛に引っ掛かるように眩しい。

 

「あいたた……まったく、とんでもない真似をする男ね。本当に何者なのかしら」

 

 独白が、そよ風と共に空へ吸い込まれていく。

 

「湖から現れた記憶喪失の男。アーヴェントじゃなきゃ使えないポータルを通らずに島へ現れたなんて、本当はすごくすごく怪しいはずなのに……不思議と、信用できる」

 

 胸の内を吐露するように、シャーロットは誰に聞かせるわけでも──否。誰にも聞かれたくないからこそ、孤独に心中を吐き出した。

 

「アーヴェントは負の歴史の生き証人。千年たった今でも、無暗に名を明かすものではない……って昔おじいちゃんが言ってたっけ。ずっと心に留めてたはずなのに、彼にあった時、どうして喋っちゃったんだろう。まるで大切な人と再会したみたいに、ポロッと口から零れて……」

 

 出会って間もない彼に、それも水の中から湧いて出たあからさまな不審人物に、自ら名を明かしてしまった違和感。

 その行動に何の疑念も抱くことは無かった。それが至極当然とでも言うかのようだった。

 

 不思議だ。

 あの記憶も名前も無い謎の男は、不思議で満ち溢れている。

 出自も、底知れない潜在能力も、どうしてあんなに心を許せるのかも。

 

「っ……頭が、痛い」

 

 そして、ヴィクターと出会ってからたびたび訪れるようになったこの頭痛も。

 

 普通の痛みではない。まるで脳の奥にかけられた錠前を無理やりこじ開けられるかのような、他に経験の無い感覚があるのだ。

 それと同時に、霞がかった映像のようなものが脳裏をよぎる。

 

 日光で焼けた絵画のように不鮮明なナニカ。

 思い出せそうで思い出せない……そんな記憶が海の底から浮かび上がってきているような、曖昧模糊な感覚。

 

 頭を振って靄を払う。

 時間が経てば落ち着くと知っているから、シャーロットは瞼を閉じて息を吐いた。

 

「しっかりなさい、シャーロット。彼はアーヴェントの最後の希望、王に捧げる贄。手を汚す覚悟なんて、とうの昔に決めたはずでしょう」

 

 握り拳の甲を額に当てる。

 コツン、と浸透する幽かな音は、まるで日輪へ誓いを捧げるかのようだった。



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9.「灯台の下」

『人の子よ、告げたはずだ。令妹を探せ』

 

 

『残された時はもはや風前の灯火である。務めを果たせ。運命の岐路は目前と心得るがよい』

 

 

()()()()()()()()()()()()()(これ)夢幻(ゆめまぼろし)ではないのだと』

 

『泉で目覚め、館へ(いざな)われ、こうして余と相見えたことも、全ては汝の宿業にほかならぬ』

 

 

『令妹を探せ。時計の砂が落ち切る前に』

 

 

『右手の(しるし)は羅針、隠されし道を示す(しるべ)である。痣の声を聴け。令妹を探し出し、真の邪悪を見定めよ』

 

 

『そして勝て。()も無き贄の英雄よ』

 

 

 

 

 ◆

 

 

 目覚める。

 青臭い芝生の上ではなく、慣れ親しんだベッドの上で。

 

「いっ、つつ」

 

 ズキズキと痛む体に喝を入れ、上体をゆっくりと起こす。

 指先を動かすだけで筋肉が悲鳴を上げ、呼吸をすれば胸の奥に疼痛が走りぬけた。

 

 そう言えば手酷く負けたんだったなと、苦悶を浮かべながら縁に腰かけ、包帯まみれの体を見る。

 ぐるぐる巻きにされていた。特に頭と左肩は重点的で、微かに薬品の匂いもする。

 

 が、見た目ほど酷くない。酷い筋肉痛と、軽い打撲で留まっているように思えた。

 

(あれだけ殴り合ってこの程度。バリアと薬の効果だろうな。魔法の力ってすげーんだなぁ)

 

 本来なら骨の二、三本どころでは済まなかったろう猛攻に晒されたのだ。

 原形をとどめただけでも奇跡なのに、自力で立てるほどとは。アーヴェントの医療技術に感服するばかりだった。

 

 しかし。

 

(負けちまったな、ちくしょう)

 

 噛み締めた口に、果たせなかった約束への、悔しさの味が広がった。

 

(お膳立てしてもらったってのに、エマとの約束をフイにしちまった)

 

 シャーロットに真っ向から打ち勝ち、もはや呪いとも言える『アーヴェント』の戒めから解放させること。

 それがエマと交わした約束だ。

 

(シャロは恩人だ。恩人に人殺しなんて十字架を背負わせるのだけは我慢ならねぇ。どうにかして、シャロを止める手立てを考えねーと)

 

 命の恩人が、このまま道を踏み外していくのを傍観なんて出来ない。彼女を見捨てるのは()()()()()()()()()()()()

 

 ヴィクターとはそういう男だ。生贄の儀式という寿命が刻一刻と迫るなかでも、受けた義理のために動く男なのだ。

 もし仮に、エマによる脱出の保険が無くとも、ヴィクターは同じく戦う道を選んでいただろう。

 

(とにかく、エマと会って話そう。それが先決だ)

 

 立ち上がり、壁伝いに部屋を出る。

 暗闇の廊下を魔石灯のほんのりとした輝きが照らしていた。

 どうやら、眠っている間に夜になっていたらしい。

 

(草木まで寝静まっているように静かだ。参ったな、朝になってから出直すか?)

 

 頭を掻きながら踵を返し、自室のドアノブを握る。

 

 その時だった。かつて霊堂で感じたものと同じ、焼けた鉄でも押し付けられたかのような熱感が、途端に右手を殴りつけたのだ。

 

 思わず手が跳ねる。なにごとかと瞠目する。 

 右手に視線を落として、息を飲んだ。

 

「なんだこれ……? 痣が、動いてる?」

 

 霊廟で手の甲に現れた剣のような痣。『純黒の王』に認められた贄の証が、ひとりでに動き出していた。

 

 焼印のように赤黒い剣の紋様、その切っ先が、まるで方位磁石のように一定の方角を指し示しているのだ。

 

(右手の(しるし)は羅針盤……夢の怪物が言ってたのと同じだ)

 

 あの夢は本当に夢なのだろうかと、伝う冷や汗が現実味を添加していく。

 疑念はあった。夢と呼ぶにはあまりにリアルで、毎夜の如く苛まされるそれは、失くした自分に関わる残滓なのではないかと。

 

(夢が現実になってる以上、こいつは消えた記憶と何か関係あるのかもしれねえ)

 

 今まで目をそらしていた。シャーロットやエマの優しさに甘え、生活に没頭することで忘れようとしていた。

 喪失した記憶という、自分の中の空洞を直視することが怖くて、先延ばしにしてしまっていた。

 

 しかしその手掛かりが、こうして降って現れたならば。

 

(確かめる必要があるな)

 

 時刻は深夜。

 誰も起きていない。誰の眼にも止まらない。

 ならば、今しかない。

 

(痣の指すほうへ向かえばいいのか?)

 

 夢の怪物に従う。剣の痣の切っ先が示す方角へ歩いていく。

 

 カツ、コツ、カツ、コツ────靴音だけが響く暗澹の廊。

 角を曲がる。進む。また角を曲がる。進む。

 

 不気味なほど静かな夜に、吐息が何度も溶けていった。

 

(…………なんだ。何もないぞ)

 

 痣の言う通りに歩いた先にあったのは、なんの変哲もない壁だった。

 近くにドアもなければ、ほかの壁と異なる特色もない。

 

(離れても痣が指すのはこの壁だ。てことは、ここに何かあるのか?)

 

 触れる。

 瞬間、右手の痣が朧な光を帯びたかと思えば、静電気が弾けるような光とともに石壁が波打った。

 

 驚き、手を引っ込める。

 小石を放られた水面のように波紋を伝えていた壁は、やがて元通りに寝静まって。

 

「……」

 

 喉を鳴らす。

 もう一度触れる。

 ヂチッ、と波打つ壁。

 

「入れる、のか?」

 

 波濤する壁に手を伸ばす。

 腕が壁の中に呑み込まれた光景をみて、ヴィクターはこれが()()()()だと理解した。

 

「魔法か。手の込んだ隠し通路だな」

 

 眉をひそめ、そろりと壁の中へ。

 現れたのは真っ暗な通路だった。外よりは狭いが、ちゃんとした廊下だ。絨毯は敷いてあるし、埃のような汚れもない。

 

 ただ、あちこちに見当たる焼け跡のような焦げが気がかりだが。

 

(そういえば昔、火事があったって言ってたっけ。この焦げつき具合、素人目に見ても相当ひどいぞ)

 

 進めば進むほど、カビのような黒ずみは増していく。まるでこの奥から、館を呑むほどの火が噴き出したかのようだった。

 

(わざわざ魔法で入り口を隠すなんて、この奥に一体何が)

 

 酷い焼け跡が火災のトラウマを呼び起こすからか? それにしては巧妙すぎる。

 あの隠蔽魔法は眼を背けさせるというより、絶対に見つかりたくないナニカを隠すための工作に思えた。

 

「……ドアだ」

 

 歩き、歩き、辿り着いた先に待っていたのは、古めかしく安っぽい木製のドア。

 急ごしらえの突貫工事で取り付けたようなオンボロだ。いかにも建付けが悪そうで、下手な触り方をすると壊れてしまいそうに見える。

 

「何だ? この、筆舌に尽くしがたい気味の悪さは」

 

 ただならない空気を感じる。

 重い。直感的だが、鉛のように重苦しい気配がドア越しからでも漂ってくるのだ。

 

 ドアノブに伸ばす手が、躊躇って虚空を掴んだ。

 

「……っ」

 

 意を決し、ノブを掴む。捻る。

 ドアを開けて、そして。

 

「────」

 

 人がいた。

 家具の類などひとつもない、不気味なほど簡素な部屋の中心。

 ただ唯一存在するベッドの上に、幼い少女が横たわっていた。

 

「女の子? なんでこんなところに」

 

 若い。シャロやエマよりも小さな少女だ。

 だが髪は老婆のように白く枯れ、肌色は陽の光を知らないと言わんばかりに冷血だった。

 

 まるで死体そのものだ。何年も置き去りにされていたかのような有様に、おもわずギョッとして後ずさる。

 

「死んでる……? いや、弱いが呼吸してるぞ。脈もある」

 

 首に触れ、ほのかな温かみに安堵を覚えた。

 それも束の間。なぜこんなところに少女が寝かされているのかと、湧き上がる疑問に脳の容積を圧迫される。

 

(顔立ちがシャロそっくりだ。あいつを幼くしたみたいな面影がある)

 

 本当にシャーロットとそっくりだった。姉妹と言われても納得せざるを得ないほどに。

 しかし似ている以上に既視感があった。初めて見た気がしないのだ。

 

 確か、そう。

 エントランスの肖像画で、よく似た幼い少女が描かれていた気ような。

 

(……あ? なんだ、この糸くずみたいなヤツ)

 

 眠る少女の額に浮かぶ、淡く発光する塊があった。

 一見糸の塊にも見えるそれは、極小の錠前らしき形をしていた。まるで少女の頭に鍵でもかけているかのようだ。

 

 触れる。 

 意図してやったわけではない。さながら右手の痣に導かれたかのように、気付くと勝手に手が伸びていた。

 

 瞬間。痣が朧に輝いたかと思えば、光の塊が金属音と共に弾け飛んだ。

 火花を散らし、霧散する魔法と思しき輝きの名残に、「触ったらマズいやつか?」と汗が伝う。

 

 変化は如実に訪れた。

 少女の瞼がゆっくりと開き、霞んでいた瞳が、覗きこむヴィクターの顔をしっかりと捉えたのである。

 

「……おにいさん、誰?」

 

 初めて見る男に驚いたのか、少女は静かにまばたきを繰り返しながら、掠れた声を振り絞るように言った。

 

「あー、えっと。俺はヴィクター。わけあってこの館に居候させてもらってる身だ。信じてもらえないかもだが、怪しいもんじゃない」

 

 混乱させないよう、ヴィクターは落ち着いた口調を心がけて言葉を紡ぐ。

 

「眠ってるところを起こしちまって悪かった。安心してくれ、何もしないしすぐ出て行くから」

「おねえちゃん」

「……なんだって?」

「おねえちゃん、どこ?」

「お姉ちゃんって、もしかしてシャロとエマのことか? 待ってろ、すぐ呼んでくる」

 

 言葉を理解するより早く、脊髄反射で踵を返して。

 立ち去ろうとするヴィクターのすそを、少女がきゅっと握り締めて引き留めた。

 

「違う、違う。お姉ちゃんじゃない。違う。違うの。違う。違う」

 

 意識が朦朧としているのか、うわごとのように繰り返す少女。

 けれどその訴えはどこか必死な、切実さと焦燥を孕んでいた。

 

「おにいさん、助けて。お願い、助けて。助けて」

「助けてって、どういうことだ? 説明できるか?」

「助けて。お願い。お願い」

「わかった、わかったから落ち着いてくれ。そもそも君は誰だ? どうしてこんな部屋で一人ぼっちに」

「わたしは、リリン。リリンフィー」

 

 か細くささやかれた声に、ヴィクターの全身が凍結した。

 

「今、リリンフィーって言ったのか?」

 

 確かにそう言った。間違いなく、両耳がしっかりと捉えていた。

 けれどおかしい。そんなの絶対ありえない。

 だってその名は、命を落としたシャーロットの末妹そのものだったのだから。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。君が、リリンフィー? ンな馬鹿な、ありえねぇだろ! リリンフィーは亡くなったってエマがっ」

「ぅう……痛い……痛いよ……お願い……おにいさん、助けて、お願い、お願い」

 

 唇を震わせ、リリンフィーは目尻に涙を貯めながら訴え続ける。

 表情がだんだん苦痛を帯び始めていた。麻酔の切れた患者が、術痕から込み上がる痛みに耐えられなくなってきているかのように。

 

 苦痛に喘ぐ少女に呼応し、毛布の下で蠢く足。

 動くではなく、蠢めく。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「ッ────」

 

 心臓が痛いほど拍動している。

 血潮の駆け巡る音が鮮明にわかる。

 神経に熱した油でも注がれているかのように、全身がヒリつき始めた。

 喉の奥が砂漠と化せば、舌がぴったりと張り付いてしまう。

 

 息を呑む。

 失礼を承知で、毛布をめくって。

 おぞましい悪夢を見た

 

「なんっだよ、こりゃあ!?」

 

 足から足が生えていた。

 少女の華奢な両足。それも大腿を中心に、無数の小さな足が生え伸びているではないか。

 

 足として完成しているもの。赤子のような発達途中のもの。()()()と思しき隆起した肉こぶ。

 

 まるで木の幹から分かれ出ていく枝葉のようなそれは、それぞれ独立して痙攣するように蠢き、度し難くも血が通っていることを凄惨に物語っていた。

 

 それだけではない。明らかに()()()()()()()がある。

 断面だ。足が生えていただろう場所に円盤状の傷口があった。ひとつやふたつで収まらないほど大量に。

 

「断面、これは、火傷痕? 焼き潰して傷口を塞いだ痕か……!? なんだってこんな!?」

 

 想像すら身の毛もよだつ、足を斬り落として焼灼止血を施したとしか思えない名残。

 うぞうぞと動く足の群れをそっと毛布で覆い隠し、たまらずヴィクターは口元を覆った。

 

 あまりに理解し難い光景は脳髄を焼き、思考そのものを痺れさせる。

 アーヴェントとの決闘ですら怖気づかなかったヴィクターが、明確な恐怖を自覚していた。

 

(わ、わけがわからねぇ。シャロの妹が生きてたどころか、この、言葉にならねぇほど惨たらしい有様はなんだ!? 何が起こってやがる!?)

 

 しかし、掻き混ぜられた胸懐とは裏腹に、酷く冷めきった思考の総和が、仮説という水泡となって浮かぶ感覚があった。

 

 

 令妹を探せと告げる夢の中の怪物。

 家族の集合絵に描かれていた()()()()()

 白紙に塗り潰された本の一節──総魔力の強化は肉親を喰らうことでしか成せない禁忌の外法。

 人間の足と酷似した台所の食材。刈り取られた足の傷痕。

 館の中央から出火したかのような不審な焼け跡。

 亡くなったはずの妹。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「ふざけんなっ……!」

 

 これまでの暮らしの中で、幽かに積もり続けた違和感の数々。

 それらがパズルのピースのように嵌め込まれて、ひとつの像を描き出した。

 

 嘘だと叫びたくなる。信じられないと頭を振るう。

 唾棄すべき答えが脳裏を占めた。そんなわけがあるかと拒絶した。

 

 この館に住まう善き少女たちの中に、吐き気を催すほどのドス黒い悪意が、虎視眈々と潜んでいただなんて想像もしたくない。

 

 けれどそれを否定するには、目の前の惨たらしい現実があまりに猛毒で。

 

(わからねぇ。どう考えたってわからねぇことがある。わからねぇことだらけだ)

 

 ぐしゃっと髪を握り潰す。震える唇を固く結ぶ。

 

(何故こんな真似をする必要が? 妹の死を偽って、こんな部屋に閉じ込めて、足を切って……く……()()()()()()だなんて、何の意味が!?)

「来る」

 

 掠れ消えゆくような、少女の声。

 動揺するヴィクターに、小さく訴えかける声。

 

「おにいさん、隠れて」

「隠れ……? 何を言って」

「お願い、隠れて。ベッドの下。はやく」

 

 鬼気迫る少女の様子に、ヴィクターは直感的に従った。

 素早くベッドの下に潜り込み、気配を殺す。

 うつ伏せのまま床に耳を当てると、規則正しく近づいてくる足音を鼓膜が捕らえた。

 

 

「おや。起きてしまったんですね。昏睡魔法が切れちゃったのかしら」

 

 ふわふわと、柔らかい声が響き渡った。

 館での生活で、毎日のように聞いていた優しい少女の声。

 それは、聞き間違うはずもなく。

 

(エマ……!!)

 

 自然と耳が癒されるはずの少女の声が、今は心臓を引き絞られるほど恐ろしい。

 隠された通路を、監禁されたリリンフィーの存在を知っている時点で、もはや語るまでもない。

 

 夢の怪物は言っていた。真の邪悪を見定めよと。

 今、その悪夢は現実となって姿を現した。

 

 この館に根を張る嘘の正体。善性の被膜をかぶった怪物とは。

 よりによって、誰よりも優しいはずの少女だったのだ。

 

「あれれ? 自我混濁の(まじな)いも解けちゃってる。ふふ、流石はアーヴェントですね。()()()()()()()()()()()()()

「い、いや。やだ。もうやめて。お願い、助けて」

「はいはい、大丈夫ですよー。怖がらなくていいんです。眠ってれば痛くも怖くもないですからね。──『微睡みよ(ソムヌス)』」

 

 魔力の明滅。それは再び、少女の意識が刈り取られる合図にほかならない。

 リリンフィーの頭に絡みついていた光る糸は、やはり魔法だったのだ。

 ヴィクターが破壊したことで少女は目覚めた。それを再び掛け直されたのだ。

 

「…………助……けて……お姉ちゃんを……たすけ……」

(──!)

 

 最後の力を振り絞るように、リリンフィーの声が虚空に溶けた。

 エマに訴えたものではない。ベッドの下のヴィクターに、一縷の望みを賭けた願いだった。

 

「……ッ!!」

 

 ギリギリと奥歯が鳴る。噛み締めすぎて鉄錆びた匂いが鼻を突いた。

 

 リリンフィーが一体どれほどの月日を、この暗い牢獄の中で過ごしてきたのかは分からない。

 姉妹愛を謳う怪物に囚われ、逃げ出すことも叶わず、死を偽装され、助けも求められず、どれほど孤独の泥底で眠っていたかなんて想像もつかない。

 

 なのにあの少女は、自分ではなく姉を助けてくれと懇願した。

 嘘を植えられ、真実を隠匿され、何らかの目的で利用されているシャーロットを、悪魔の手から救ってくれと。

 

(ちくしょうが)

 

 このまま黙って見過ごすわけにはいかない。今すぐにでも飛び出して、リリンフィーを助けたい。

 

 だが今のヴィクターに何が出来る? エマもまた魔法の達人。その才能と実力は、シャーロットが自分をも上回ると豪語するほどなのだ。

 

 真っ向から挑んで勝てるとは思えない。返り討ちに遭うのがオチだろう。

 それは絶対に避けなければならない。ここで目にした真実が消えれば、シャーロットは何も知らない傀儡のまま踊らされることになる。

 

 血が滲むほど唇を噛み、爪が喰い込むほど拳を握り、込み上がる怒りの衝動を抑え込んだ。

 バレてはならない。リリンフィーの幼き覚悟を、決して無駄にしてはならない。

 

 

 肉を斬るような、生理的嫌悪を催す生々しい音が聞こえる。

 収穫だ。足を切り落とし、それを魔獣の肉だと偽って、シャーロットの食卓に並べるために。

 

 エマの真意はわからない。

 わざわざ本にまで細工を施し、シャーロットに気付かれぬよう、彼女の魔力を増幅させ続けている真意が全く読めない。

 

(だが理解したぞ。俺が何を成すべきなのか。夢の怪物が言っていた務めとやらを、はっきりと理解した) 

 

 けれど、その時は今ではない。

 

 瞼を閉じ、時が過ぎるのをひたすら待つ。

 今はただ、耐えねばならない。



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10.「親愛なる」

 魔力には属性が存在する。

 

 炎・水・雷・木・地の五大属性を主とし、アーヴェントのみが持つ黒魔力と、同じくマルガン固有の白魔力をあわせた七系統のカテゴリである。

 

 各々が特有の性質を持ち、それらを適切にあつかうことによって、様々な魔法を発動させることが可能となる。

 

 心臓で生み出された魔力は、血液を介し循環する性質上、魔力濃度とは血中含有量──即ち属性の濃さで決まる。

 

 濃さには個人差や種族差が大きい。一般的に一人一属性ではなく、複数の魔力が千差万別の割合で混合しているうえ、本人の心臓の強さに依存するからだ。

 つまるところ、魔力濃度とは生まれ持った才能にほかならない。

 

 そんな世界ではごく稀に、ひとつの属性に特化した非常に濃い魔力を持つ、『純血』という存在が現れる。

 

 希少な『純血』の中でも黒の『純血』は群を抜いて稀有な存在だ。

 千年の歴史ですら、純黒の王以外に存在したかどうかも怪しい御伽噺の領域である。

 

 確率の問題ではない。人智を越えた純黒の王と比肩する魔力濃度など、そもそも人間の体が耐えることが出来ない。

 生誕することすら至難を極め、理論上『純血』だったとしても、ほとんどが死産を迎えてしまうという。

 

 シャーロットは『純血』ではなく、むしろ黒魔力の薄い平均的なアーヴェントだった。

 一方、妹のリリンフィーは悠久の時を経て遂に生まれた『純血』のアーヴェントである。

 

 彼女の誕生は、アーヴェントの歴史を大きく揺るがす一大事となった。

 奇跡の産物にして一族の希望。その血を遺骸に捧げることで、贄無くして王を蘇らせる可能性を秘めた唯一の存在。まさに運命の子供だった。

 

 リリンフィーは恵まれた才女だった。能力も、人柄も、魔力も、何もかも完璧な少女だった。

 

 この世界の医療技術をもってしても改善不可能な、『純血』に呪われた虚弱体質でさえなければ、アーヴェントの世界に喝采を呼んだに違いないと、まことしやかに囁かれたほどに。

 

 そんなよく出来た妹ではあるが、シャーロットは一度として妬み嫉みなど抱いたことは無い。むしろ誇りにすら思っていた。

 尊き『純血』の末裔である前に、彼女にとってリリンフィーとは、愛しいたった一人の 妹だったのだから。

 

 

 火災による一家の焼失。全てはそこから狂い始めた。

 

 

 稼ぎを得て生活を取り戻した。書を漁り叡智を喰らった。鍛錬を課し武を修めた。

 シャーロット・グレンローゼン・アーヴェントは、自分が女であることも子供であることもかなぐり捨てて、我武者羅に走り続けてきた。

 

 全ては亡き家族のため。血に背負う一族復興の悲願のため。

 生き残ってしまった者としての責務と仁愛が、彼女を今日まで衝き動かした。

 

 けれど、王を復活させるには材料が足りない。

 智慧を付ければ付けるほど、理を解すれば解するほど、残酷な真実にぶち当たってしまう。

 

 自分は『純血』ではない。

 自分では王を復活させられない。

 シャーロットは、リリンフィーではない。

 

 現実という大きな大きな絶壁が、少女を八方塞がりに堰き止める。

 手詰まりだった。どうにかして他の手段を見つけなければ、どうやったって何も成せないと落胆した。

 

 そんな時に現れたのが、あの少年だったのだ。

 王手を掛けられたに等しい絶望の最中、不意に現れたヴィクターとの出会いは、シャーロットにとって如何に救いだったことだろうか。

 

 ……唯一の不幸は、シャーロットが良心の欠片も無いような悪鬼に生まれなかったことだ。

 

 

 何の罪も無いヴィクターを食い物にするという行為に対し、無情に徹せるほど、彼女は悪人になれる精神性を持ち合わせていなかった。

 記憶も何もかも失った少年に、全てを失くしたあの日の自分と、重ね合わせてしまったがゆえに。

 

 苦悩。葛藤。逡巡。自己嫌悪。

 それら全ては刃と成り、まるで古傷を抉りなおすように、少女の心を深く深く切り裂いていった。

 

 

 

「実のところ想定外だったんです。けっこう頑張って隠してたんですよ、このお部屋。お姉様でも見つけられないくらい隠匿の魔法を重ね掛けしたのに、どうやって見破ったんですか?」

 

 薄暗い部屋に(まみ)える男と女。 

 片や無銘の贄。片やアーヴェントが次女。

 

 互いに眼を逸らすことなく、まるで決闘を控えた剣士のように、張り詰めた空気を身に纏う。

 

「ふふ。言いたいことは山ほどあるけど、言葉が出てこないって顔ですね」

「……なんで笑っていられる?」

 

 理解出来ない。ヴィクターの表情筋は、名状し難いものを目にしたように歪んでいた。

 

「自分がどういう状況か分かってンだろ」

「ええ、ふふ。何故だと思います?」

「……この部屋が見つかったところで些細な問題だからか」

「正解」

 

 笑顔。

 

「ついでに質問しますけど、()()()()()()()()()()()()()()()()? お姉様と共謀だって可能性は考えなかったんでしょうか?」

 

 笑顔。

 

「もう気付いてるんですよね。わたしがリリンフィーの足を()()して、魔獣の肉と偽って、毎日毎日ずっとずっとずっと彼女に食べさせ続けてたの」

 

 いつもと何も変わらない、暖かくて、優しげで。

 

「理由はもちろん、黒魔力の増幅です。でもそれって、お姉様が望んだからかもしれないじゃないですか。悲劇を背負い覚悟を抱いた彼女が、禁忌のドーピングに手を出してまで王の復活を企んだかもしれない」

 

 ぽかぽかな、笑顔。

 

「現にリリンフィーは心臓が弱くて、王の復活を果たせるほどの魔力量を持てなかった。だから自分が成り替わろうと妹を利用した。そう考えず、わたし単独の手引きだと思い至ったのは何故です?」

「図書室にあった白紙のページだ。わざわざ隠してたのは知られたくなかったからだろ? 魔力の増幅に肉親を喰う以外の道は無いってことを。共謀だったなら隠す必要はねぇはずだ」

「……驚きました。本の魔法まで破ったんですか? ページの存在そのものを避けるよう、認識誘導まで重ね掛けしてたのに。ちょっと自信なくしちゃいます」

 

 それだけじゃないと、ヴィクターは零す。

 

「この館はところどころ手の行き届いていない部分があったが、家族の肖像画だけは綺麗にされていた。家族愛の強いシャーロットが、毎日手入れを怠らなかったんだろう。……おかしいよな? 肖像画に姉妹は二人だけ。なのに三人目を名乗るやつがいる。どうしてシャーロットが気付けない? シャーロットとリリンフィーしか描かれていない絵を、毎日毎日見てるのに」

 

 止まらない。

 言葉が、堰を切った鉄砲水のように止まらない。

 

「こうも言ったな。火事が起きた日、姉妹三人で町に出かけていたと。まだ幼い子供たちだけでか? それも身分を隠してるアーヴェントが、子供だけで外出なんて親が許すか? 許すとしたら保護者がいる時だけだろう。例えば、信頼のおける従者とかだ」

 

 突き刺すような眼差し。少女は肩をすくめる。

 焦りを見せる様子はない。驚きはしたが、別にどうでもないとでも言うように。

 

「ヴィクターさん、結構頭がキレるんですね。先の決闘もそうでしたけど。わたし好きですよ、貴方みたいに勇敢で聡い人。……だから少しだけ、こうなってしまったことを残念にも思ってるんです」

 

 エマという人物は、心地良い春の陽だまりのような少女だったと記憶している。

 今の彼女に、そんな面影は見当たらない。

 瞳を覗いただけで、腹に石でも詰められたかと錯覚するほど重苦しい。

 

「どうして──」

「どうしてこんなことを? お姉様をうらぎったの? 貴方はどこのだれで何者? ……なーんて、まだるっこしい質疑応答は嫌いなので結論から言っちゃいますね」

 

 普段と変わらないはずの笑顔に滲むどす黒い匂い。

 全身を強張らせる、『威嚇』を体現した笑みだった。

 

「お察しの通り、わたしはあの子の妹ではありません。この子(リリンフィー)の姉でもありません。というかもっとずっと年上です。童顔だし背が小っちゃいんで、妹って形で()()()()ましたがね」

 

 問う前に自白され、ヴィクターは困惑と共に閉口する。

 想像はしていたけれど、聞きたくなった言葉の数々を噛み砕きながら。

 

「そんな顔しないでください。汚泥でも頬張ってるみたいな表情ですよ」

「するに決まってんだろ! 正直、今でも信じたくねえんだよ!」

 

 その怒号は純粋な怒りだけではない、感情という感情が極彩色に掻き混ぜられた叫びで。

 

「姉を信頼して、互いを尊重し合ってたはずのお前が、シャーロットを騙し続けてたなんて信じたくないに決まってる!!」

「でも真実なんです。わたしは彼女を騙し、妹を騙り、本当の家族をひたすら隠し続けてきました。大変だったんですよ、バレないようこの子を介護しながら生活するの」

「何故そんな真似を!? こんな非道なことをして、シャーロットの魔力を増幅させる行為になんの意味がある!?」

「世界を守るためです」

 

 あっけらかんと飛び出した少女の言葉は、決してふざけたものでは無かった。

 飄々とした浮雲のような態度は消えていた。木漏れ日のような微笑みも消えていた。

 それだけは確かなのだと、真に訴える凄みがあった。

 

 だからこそ、ヴィクターはさらなる混乱の渦に叩き落とされてしまう。

 

「世界を、守るだ? 妹の肉を食わせ続けることが!? ふざけるのも大概にしろボケ!!」

「ふざけてなんかいません。わたしは大義のために動いている。世界を救うには、限界まで魔力を濃縮させた『純血』のアーヴェントの心臓が必要なんです。でもリリンフィーは心臓が弱くて器に適さない。だからシャーロットを器にしようと、何年も費やしたんですから」

「なんだそりゃ……!? つーことは、なんだ? お前はどこかのスパイか何かか。そんな大義を掲げる奴が単独行動なわけがねぇ。この島に潜り込んで、邪魔な家族を皆殺しにして、『純血』のリリンフィーと()()()()()()シャーロットにすり寄ったってクチかよ!?」

「……凄いですね。どうなってるんです貴方? 頭が怒りと混乱でいっぱいって顔なのに、とても冷静に分析してる。ちょっとおかしいですよ」

 

 理解出来なかった。

 エマの言葉の数々も。瞳に宿る強い光も。義に忠を尽くさんとするような真っ直ぐな姿勢も。何もかも理解出来なかった。

 

 あまりに威風堂々と振舞う彼女には、いっそ正当性すら感じてしまう。

 エマの凶行は吐き気を催すような悪逆無道のはずなのに、正しいと思いそうになる気迫がある。

 

 けれど。

 

「俺は……お前のことを信じてた。記憶も何も無い、泉から突然沸いてでた怪しい男を、なんの打算も無く救ってくれた善人だって」

 

 けれど、そうはならなかった。

 

「だからこうして、会って話したんだ。最後まで信じたかったんだよ。全部俺の妄想だって、侮辱にも等しいバカげた勘違いだって、エマの口から否定して欲しかったんだ」

 

 なるはずも、なかったのだ。

 

「シャロだってそうだ。暴走しがちだったが、アイツはお前のことを本当の姉妹だと想って愛してた。シャロがよ、エマという妹が如何に素晴らしいか、何度俺に自慢してきたか知ってるか? どれだけお前のことを誇りに思ってたか知ってるのか? 知ったうえで……こんな真似をしやがったのか!? アイツはっ、アイツはお前を、心の底から信じてたんだぞ……!」

「信じるように刷り込みましたから。得意分野なんです、ヒトを改造するの」

「ッ!!」

 

 拳を握る。

 固く、固く、湧き上がる爆熱を握りかためるように。

 

「お前はッ……!! シャロから家族を奪い、欺くだけに飽き足らず、あろうことか小さな子供の躰まで弄り回して、実の肉親に食わせやがったのか!? 世界を守る大義のために!? ふざけんじゃねぇ!! そんなもんが正しいはずがねぇだろうがッ!!」

「だから止めるとでも? 魔法も使えない貴方一人で?」

「止めるさ、止めてやる! 何が何でもテメエを止める!!」

 

 咆哮と共に床を蹴る。

 握り締めた拳を携え、仇敵に向けて駆けだして。

 

 ふと、エマの後ろに眼を奪われた。

 

 閉まっていたはずのドアがほんの少し開いている。

 隙間から誰かが覗いていた。

 深い海のような色の瞳が、薄暗い空間の中で、ランプに照らされ輝いている。

 

 

 一体、いつから?

 

 

「貴方に誘われてこの部屋に来るとき、解除しておいたんですよね。隠匿の魔法」

 

 それは。

 エマが初めて見せる、獣のような(かお)だった。

 

「実は気付いてたんですよ、昨晩貴方がこのベッドの下に潜り込んでたの。もうどうせなら()()()()()()()()()()()()と思って」

 

 ギチギチと、三日月のように裂けゆく口角。

 綺麗に並んだ白い歯が、灯火の光を反射して。

 

「さ、覗いてないで入ってきたらどうです? お ね え さ ま」

 

 

 

 

 

 

「………………………なによ、これ」

 

 

 きっと清々しい朝だった。

 さんさんと降り注ぐ太陽の光。頬を撫でる風。ホッとする陽だまりの香り。

 

 そんな爽やかの欠片を味わいながら、いつものように過ごすはずの朝だった。

 

「どういうことなの……!? ねえ!?」

 

 それがどうだ。

 朝一番。部屋の前にエマからの置手紙があって、従えば知らない隠し部屋に辿り着き、中で妹とヴィクターが信じられない言い争いを繰り広げていた。

 

 しかも、死んだはずの妹が眠っている始末。

 

 感動の再会などでは決してなく、何かの呪いによるものか、体を異形に改造されている姿など目撃してしまった暁には。

 

「お、おねがい、分かるように説明して」

「シャロ駄目だ、ドアを閉めろ!! こっちに来るんじゃねぇ!!」

「うるさいッッ!!」

 

 震えていた。瞳も、唇も、ヴィクターを遮る叫びも、濡れた赤子のように震えていた。

 

「そんなの出来るわけないでしょ!? しんっ、死んだはずの妹が生きてて、わた、しっ、私が、その肉を食べてたですって……!? 冗談も休み休み言いなさいよ!! もう、もうわけわかんなくて、頭が変になりそうなのに……!!」 

 

 妹が生きていた。それだけならどれほど良かっただろう。

 涙を流して喜んだはずだ。過程はどうあれ、生きていてくれていたことを真っ先に歓喜したはずだ。

 

 だがこの状況で、無邪気に喜べる輩がどこにいる?

 末妹はその死を偽装され、体を滅茶苦茶にされ、薄暗い隠し部屋で何年も閉じ込められていた。

 

 信じていたはずの次女は肉親でも何でもない謎の女で、魔獣と偽ってその肉を食べさせ続けていたときている。

 

 胃の中身をひっくり返しそうになる。

 ミキサーにかけられたように、脳が現実の解像度を破壊していく感覚があった。

 

「ねぇっ、ねぇ、全部嘘なのよね……? 今なら、まだ許してあげるから、怒らないから、嘘って言ってよ。面白くないよ。こっ、こんな冗談、私が喜ぶとでも本気で思ってるの? リリンが生きてたなら、ただそれだけを伝えてよ……! ねぇ、エマ……!?」

「シャロ逃げろ、はやくここから逃げろ!! エマはお前の妹じゃないんだ! こいつはお前の心臓を狙って────」

「やめて……!!」

 

 唾と共に怒声が飛んだ。

 頭を抱え込んで、少女は塞ぎ込むように絶叫した。

 

 シャーロットは決して愚鈍ではない。物事を理解し、感情ではなく理性をもって見定める眼力がある。 

 

 この部屋を訪れた時、隙間から覗く先でヴィクターはエマにこう言っていた。『この館はおかしい』と。

 述べられた違和感の数々は、否定したくともシャーロットですら疑問に思うようなものばかりだった。

 

 そもそもの話。何故都合よく一部を刳り貫かれた本に疑問を持てなかった?

 

 自分とリリンしか描かれていない、()()()()()()()()()()()を不思議に思わなかったのか?

 

 どうして強力な魔法使いである両親が、いずれも力のある従者たちが、容易く炎に呑み込まれてしまったのか?

 

 思い返すほど、この館は歪でおかしいことだらけだった。なのに1ミリも疑問を抱けなかったのだ。

 

 考えようとすれば脳に差しかかるこの靄の正体は何だ。

 答えを具体化させようとすれば、風向きを変えられるように思考が鈍るのは何故だ。

 まるで誰かに頭へ手を加えられたかのような、この違和感の正体は。

 

「やめてよ……お願い……それ以上言わないで……」

 

 だからこそ、ヴィクターの言葉を拒絶する。拒絶してしまう。

 それを受け止めてしまえば、本当に心が壊れてしまいそうだったから。

 

「嘘、うそ、ウソよ。絶対ありえない。そんなわけない。だって、ずっと一緒だったもん。今日までずっと、二人で一緒に、一生懸命頑張ってきたんだもん。そんなこと、あるわけないもん」

 

 声が震える。

 笑いたくないのに、勝手に頬が吊り上がっていく。

 嫌な汗が止まらない。暖かいはずなのに、冬のように底冷えして凍えそうだ。

 

「ね、ねぇっ、どうしたらいいのっ? 何を信じればっ、私、どうしたら、どうしたらいいっていうのよぉ……!」

「そんなの簡単ですよ」

 

 

 微笑。

 

 

「ぜんぶ、ぜーんぶ、()()()()()()()()()()。それで万事解決なのです」

 

 小鳥のさえずりのように響いたソレに。

 空気は、瞬く間に零度へと転落した。

 

 

「何も考える必要なんてないんですよ」

 

 少女は笑う。

 にこやかに、それこそ日々の一節と何ら変わらぬ朗らかさで。

 

「今まで通りアーヴェントの使命に燃えて、朝早く起きてトレーニングして、ご飯をいっぱい食べて、お勉強して、畑仕事や狩りをして、たまに街でお金を稼いだり買い物して、また鍛錬して、ご飯食べてぐっすり眠る。それでいいんですよ。そんな素敵な貴女でいいんです」

「エ……マ……?」

「はい、あなたの妹エマちゃんです。まぁもう誤魔化しようも無いみたいですけど」

 

 うふふ、と少女は場にそぐわぬ華やかな微笑みを浮かべて言った。

 ヴィクターの怒号も、シャーロットの縋るように震えた瞳も、まるで意に介していなかった。

 

「ええ、貴女を洗脳してました。貴女がわたしを妹だと思い込んでたのも、隠匿した本のページを見過ごしちゃったのも、館に散らばる細やかな違和感に気づけなかったのも、リリンフィーを改造してその肉を食わせてたのも、死を偽装したのも、お父様もお母様も従者もみんなみんな燃えちゃったのも、ぜーんぶわたしの仕業です」

「ぁ、ぁ」

「貴女たち姉妹を街に連れ出して館に火を放ったのもわたしです。アーヴェント複数人を相手取るのは流石にホネですからね。皆の頭を少しづつ弄って、子供(あなたたち)を人質に使ったら、旦那様も奥様も嘘みたいに呆気なく死んでくれて助かりました」

「ゥ、ぇ」

 

 

 心が腐った果実のように、グズグズと溶け落ちていく音がする。

 臨界点を飛び越えて。

 ぐるりと、胃が翻る。

 

「ぐ、ぶっ、ぅぐ、うぇぇ、おええぇ……!!」

 

 腹の筋肉が痙攣し、饐えた匂いが大挙して押し寄せた。

 抑える口元から生温かい津波が溢れ出す。口腔を強烈で不快な酸味が犯し、目頭からも灼熱が零れ落ちていく。

 

「ああ、一応フォローしておきますけど、別にご両親は愚鈍じゃなかったですよ。わたしが年単位で信頼を得て、油断させて、時間をかけてじっくり頭に手を加えたからこその結果です。……まぁ強いて言うなら、街で行き倒れを演じたわたしを憐れんで使用人として雇った、旦那様の判断が失敗だったってところでしょうかね」

「エマァアアアアアアア──────ッッ!!」

 

 瞬間、ヴィクターは迅雷の如く疾駆した。

 その面を憤怒に染め上げて、全力全霊で拳を振るう。

 

 耳を疑う言葉の数々を平然と吐きくだし、少女の心へ幾重もの亀裂を走らせたこの邪悪の口を、一秒でも早く閉じさせねばならぬと鉄槌を下す。

 

「ただ、貴方の存在だけは全くもって予想外でした」

「!?」

 

 それはまるで、優しく綿毛を受け止めるかのように。

 少女のちいさな手のひらが、ヴィクターの拳をいとも容易く包み込んだ。

 

「最初は()()かと疑ったんですけどね。記憶喪失も演技かなーって。だってありえないでしょう? いきなり泉から湧いてくるなんて。ポータルはアーヴェントしか使えないし、この島には信じられないような結界が張られてるのでまず侵入不可能。それを無理やり破って転移してきたのかなと」

 

 動かない。

 まるで石の中にでも閉じ込められたかのようにビクともしない。

 

「だから彼女と戦うよう仕向けたんです。化けの皮剥がしてやろうと思いまして。でも違った。無理やりな転移の反動で記憶を喪ったかと思いましたけど、それも違った。未だに正体が掴めなくて困ってます。誰なんです? 貴方」

 

 エマの言葉に耳を貸す道理はない。

 そも、シャーロットを上回るという魔法使いを相手に、無策で肉弾戦を挑んではいない。

 拳はブラフだ。ヴィクターは『仕掛け』を発動せんと、傍の机を蹴り飛ばすように足を伸ばして──

 

「知ってますよ。本命が突きじゃないことくらい」

 

 ゴギッ、と。

 唐突に響く、硬いものに無茶苦茶な亀裂が走ったような音。

 右手を溶けた鉄の中に突っ込まれたかと錯覚するほどの激痛が襲い掛かった。

 

「がッッッ!? あ"あッ!?」

 

 拳を握り潰されていた。

 赤子の手をひねるように、紙をくしゃくしゃに握り潰すみたいに、人間の手が徹底的に破壊されていた。

 

 骨は砕け、皮膚を突き破って飛び出し、晒された断面が脂汗が噴き出すほどの灼熱感を訴える。

 ボタボタと滴る赤い液体が、絨毯の染料となって染み込んでいく。

 

「ふーん、机を倒したら巻いてた糸が引っ張られて、わたし目掛けて魔力瓶を括りつけた矢が飛んでくるって寸法ですか。あら、こっちにもありますね。ふふ……上手いこと隠して……ずいぶん凝ってるじゃないですか」

「──ォォ、おおおおおおおおおおおおおッ!!」

「へぇ、拳を潰されても向かってくるんですね。決闘の時もそうでしたけど、凄まじい闘争心で」

 

 苦痛を意に介している暇などない。砕けんばかりに奥歯を噛み締め、即座に反撃へ打って出る。

 原形を失った拳を鞭のように振り抜いた。遠心力は傷口から鮮血を解き放ち、真っ赤な雫の流弾となってエマの眼球に飛び込んでいく。

 

 血の目潰し。視界を一瞬でも奪い去るには十分な一手。

 その隙を逃さない。ヴィクターは次なる策略をもって撃滅を謀る。

 

「保険は靴に仕込んだ刃物。ああ、痺れの魔法を封入した狩猟用魔石ナイフですか。切ったらビリビリきて立てなくなっちゃうヤツですね。こんなものまで盗んできていたとは」

 

 刃を仕込んだ靴を上から踏み抜かれ、力技で阻止される。

 流れるような膝蹴りが、お返しと言わんばかりに鳩尾へ突き刺さった。

 

 それでもヴィクターは喰らいつく。

 右腕で膝を抑え込み、左手の袖から取り出した、新たな魔石ナイフを一気に穿つ。

 

 

 次の瞬間。左腕がブツンと消滅した。

 比喩でも何でもなく、肘から先が消えていた。

 

 遅れて、ぼとりと重々しい物体が落下する残響。 

 腕が千切れ飛んだと脳が知覚するより速く、エマの蹴りがヴィクターの腹に突き刺さった。

 

「ごっ、おッ」

 

 ボロ雑巾のように吹っ飛んだヴィクターは壁に砲弾の如く激突し、たまらず床に倒れ伏してしまう。

 

「がばァッ、はッ!? ぐあっ、ァがはっ!?」

「無駄ですよ。貴方の戦い方は彼女との決闘で見てましたから。わたしには通じません」

 

 その余裕は慢心ではない。

 明らかにエマとヴィクターの実力には絶対的な壁が存在した。存在するからこその余裕だった。

 

「では、お姉様。そろそろ仕上げと参りましょうか」

 

 くるりと踵を返し、へたりと座り込んだまま動けなくなってしまったシャーロットの元へ、軽快な靴音と共に歩み寄る。

 

「ねぇ、お姉様。なぜわたしがこんなにも落ち着いてると思います? 長年煮詰め続けた計画を暴かれて、台無しにされて、裏の顔まで炙り出されたのに、どーしてヘラヘラしてると思います?」

「ぇぅ、ぅ?」

「というかそもそも、こんないつ綻びが生まれるか分からない、ガッバガバな作戦で押し通そうと本気で思っているのが不思議に思いませんでした? ちなみに思ってるんですねこれが。さぁ、この自信の根拠はなーんだっ」

「ぅ、っ」

「答えはぁ、ふふふ。これ実は()()()()()()()んですよねぇ。うふふふふ」

 

 うなだれるシャーロットの顎を掴み、無理やり上を向かせて目を合わせる。

 エマは大きく口を開くと、ベロンと舌を覗かせた。

 唾液で照る舌の上には、奇妙な幾何学模様の痣。

 

「賢いお姉様なら、これが何かわかりますよね?」

「……ほしの……こく……?」

「正解! 魔法と異なる先天の異能をもって生まれた選ばれし者が持つ御印。それがコレ、星の刻印です。初めて見たでしょ? まぁ初めてじゃあ無いのですけれど」

「ぅ……ぅ……!」

「わたしの刻印は『人錬の刻印』。触れた人間を意のままに改造できる能力です。かなり限定的な力ですけど、足をいっぱい生やしたり、頭を弄って認識を汚染したり、結構色んなことが出来るんですよ」

 

 ザリ、と砂を踏みしめるような音。

 両腕を失いながらも、砕けた壁に背をもたれながら、男が立ちあがっていた。

 

「やめろエマ……!! シャロに……触るな……!!」

「例えばこんな風に」

 

 トスッと、刃物でクッションを刺したような軽い音。

 ヴィクターの胸を、鋭利なナニカが貫いた音だった。

 

 爪だ。

 エマのしなやかな五指から伸びた、槍のような爪だった。

 

 『人錬の刻印』。人体を思うままに改造すると言う異能力を見せびらかすように放たれた凶槍が、ヴィクターの心臓を抉り抜いたのだ。

 

 ごぼりと血の塊を吐き出して、糸が切れたように崩れ落ちた。

 涙で滲むシャーロットの視界が、残酷なまでの一部始終を捉えていた。

 

「ぁ、ああ、ヴぃくた、うぁ、あ」

「あなたは聡明な子でした。むしろ厄介なほど聡明過ぎた」

 

 爪が縮んでいく。舌に踊る刻印が爛々と光を放つ。

 

「一度目の洗脳はたった数日で破られました。二度目は数ヶ月で記憶と認識の齟齬を見破った。かなり強めに術をかけたというのに、それでもバレたんです。流石としか言いようがない。そして三度目が今、この瞬間!」

 

 獣は嗤う。

 羽虫を潰すように命を奪いながらなお満たされず、眼前の獲物を、どう料理するかと愉しむように。

 

「これがどういうことかお分かりですか? 何度も何度も繰り返してるってことは、失敗しちゃってもやり直しが効くってことなのです。激しく動揺して、絶望して、頭の中が腐ったミンチよりぐっちゃぐちゃになってるお姉様を洗脳するなんてワケないんです。目覚めたら振出しに戻って、いつもの日常へお帰りなさーいなのです」

「ぃっ、ぐ、ぅ」

「だからほら、寝る時に耳元で騒ぐ蚊みたいに鬱陶しく泣かないで。瞼を閉じて、少し眠りましょう? 次に目覚めた時は、いつも通りの『エマ』と『日常』が戻ってますからねー」

 

 抱き寄せて、エマは優しくなだめるように少女を撫でる。

 舌の刻印が一際強く光を帯びた。

 シャーロットの脳を、記憶を、認識を、再びゼロへ巻き戻すために。

 

「それではごきげんようお姉様。貴女さまの親愛なる裏切り者より、愛を込めて」



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11.「焔よ」

『──時は満ちた』

 

 

『邪悪は日の元に暴かれた。心するがよい、無銘の贄よ。試練の時は訪れた』

 

 

『痛みを越えよ。信念を捧げよ。意思の灯火に血を()べよ』

 

 

『さすれば我が冠亡き骸、祖なる(のり)、汝の力と成るであろう』

 

 

『剣よ。灰生まぬ無窮の焔よ。()の嘆きを救いたまえ』

 

 

 

 

 

 灼熱の激痛。失血の極寒。

 ()がれた(かいな)。穿たれた心の臓腑。

 絶命まで数秒足らずの刹那、ヴィクターの脳は限界を超えて活動していた。

 

 泉から目覚めてほんの数日足らずの出来事が、濁流のように過っていく。

 魂に刻み込まれるほどの一大事から、気にも留めていなかったはずの細事まで。それはもう分け隔てなく隅々まで。

 

 人は、それを走馬灯と呼ぶのだろう。

 

「────」

 

 死を目前に控えたヴィクターの意識は、驚くほど穏やかに鎮座していた。

 こと切れる寸前の彼が抱くは死への絶望、痛みへの慟哭──ではない。

 

 それは地の底をうねる溶岩より熱く、極北の氷塊より冷え切った一握の情動。

 ただただ、繰り広げられた唾棄すべき悪道への、どうしようもない怒りだった。

 

 ──なぜ怒る?

 

 頭に響く誰かの声。

 自問の言霊が、今にも散らばりそうな命を煽った。

 

(命の恩人が、あそこまで虐げられてんだ。身も心も、肉親との記憶も、たった一人の妹さえ凌辱されたんだ。頭に来ねぇわけがねぇ)

 

 ──恩人? 素性を知るやいなやお前(じぶん)を生贄にしようとした、あの冷徹な女が? 助けられたなんてひとつの結果論に過ぎないだろう。

 

 ──なのになぜ、体を張ってまで守ろうとした?

 

(あ? だからどうだってンだ)

 

 ああそうだ。その通りだ。だからなんだというのだ。

 過程がそうだったから、どうだというのだ。

 

 歯を食いしばる。 

 奥歯を砕かんばかりの力が顎を伝わる。

 血が滲む。鉄の味が染み出ていく。

 

 ふざけたことを。よく考えてみろ。

 そもそも、彼女のどこが冷徹か? 

 

 泉の中へ気泡のように現れた怪しい男を、躊躇なく助けてくれたあの少女が。

 自分を憎めるよう、非情な姿勢を不器用にも演じていたあの少女が。

 どうして無情なやつだなんて、そんな一言で吐き捨てられるのか。

 

『恨みたければ恨みなさい。怨嗟を吐きたかったら吐けばいい。あなたにはその権利がある』

 

 悲痛な面持ちでそう告げた彼女は、果たして冷酷残忍な悪党か?

 否定する。例え声が枯れようとも断固として否定する。

 それは大きな間違いだ。盛大かつ甚だしい思い上がりだ。

 

(アイツは根っからの善人だ。底抜けに良いヤツに決まってる。だってそうだろ。重すぎる人生を一身に背負って、それでも人の心を捨てなくて、悲劇を呑み込んでまで高潔であろうとして! 舌を噛み切りそうな思いで信念を曲げてでも、愛した人々に報いようとした仁愛の女が、冷酷非道なわけがない!!)

 

 彼女の行動原理はいつだって自分のためではなかった。

 

 火災に呑まれ、命を落とした家族と従者の弔いのため。

 汚名を被せられた一族の屈辱を晴らすため。

 非業の死を遂げた最愛の妹の意志を受け継ぎ、アーヴェントの未来を掴むため。

 

 暴走しがちではあったが、親愛なる者たちへ報いるために、少女は独り戦い続けてきたのだ。

 

 そこに『シャーロット』はいなかった。 

 自分の将来だとか、幸福だとか、そんなものは一抹だって紛れ込んではいなかった。

 

 あるのは生き残ってしまった者としての責務だった。ただそれだけの十字架だった。

 

 女としての自分を殺し、『シャーロット』をひたすら削って、血のさだめと愛に忠を尽くさんと、裸足で雪原を歩み続けるような辛酸の人生。

 

 普通なら発狂も免れない苦痛の道だ。

 声を上げて泣いたって、もう無理だと蹲ったって、流れる血の宿命から逃げたって、誰も責める権利など無いはずだ。

 

 なのに彼女がたった一度でも、弱音なんて吐いたことがあったのか?

 世を恨み、非業を呪い、全部お前のせいだって、自暴自棄に八つ当たりしたことがあったとでも?

 

 否。否。断じて否。

 

 涙が枯れ、心が擦り切れようとも、未来へ進もうとする金剛の意志が儚くも勇敢に宿っていた。

 ヴィクターはこの眼で確かに、彼女の中の揺るぎない黄金の輝きを目撃したのだ。

 

 それこそが、シャーロットの仁愛と覚悟の証。

 

(もし……あいつが平和な人生を生きていたら)

 

 これは仮定の話だ。

 捕らぬ狸の皮算用と切り捨てられても反論できない、妄想染みた机上の空論だ。

 

(きっと、いや間違いなく、すっげぇ女の子になってただろうって確信がある。立派な娘だって、両親が胸を張って誇れるような、そんな素敵な女の子に)

 

 そう。これはもしもの話。

 もしも彼女が普通の生活を送れていたら? その先にはどんな光景が広がっていた?

 

 断言する。シャーロットはきっと、誰よりも素敵な女の子に育っていた。

 穏やかな家族と従者に囲まれ、眩しいまでの恋をして、美しい人生を歩んでいた。

 皆が微笑み、福を分かつ幸せな日々を。

 

 

 

 それを奪ったのは誰だ。

 

 

 

 平穏な未来を。暖かな団欒を。当り前であったはずの幸福を。

 踏みにじり。辱め。嬲り。嘲り。利用して。利用して。利用して。

 泥の底を這いずり回る蛆よりも卑しい生へ貶めたのは、どこのどいつだ。

 

 背負う必要のない業を担わせ、艱難辛苦の谷底に突き落とし、血反吐を吐いても吐き足らないような地獄へ引きずり込んだのは────

 

「──……る、かよ」

 

 傷が呻き、鮮血の滲む音がした。

 そこに痛みの居場所はなかった。

 

 ヴィクターは清廉恪勤(せいれんかっきん)な人間ではない。聖人なんてほど遠く、きっと心の広い人間でもない。

 ましてや賢者のように明晰でもなければ、全て合理で俯瞰できるほど強靭な理性も持ち合わせていない。

 

 だからもういい。もうたくさんだ。

 爆熱のような怒りがこの胸を焼き焦がすには、あまりに充足し過ぎていた。

 

「許せるかよッ……!」

 

 立て。

 誰かの叫ぶ声がした。

 

 拳を握れ。

 穿たれたはずの心臓が唸りを上げた。

 

 立ち上がるのに御託はいらない。死の淵だなんて関係ない。

 涙の落ちる音がした。絶望に咽ぶ少女がいた。

 

「許せるわけ──ねえだろうがッ!!」

 

 

 十分だ。とっとと歯を食いしばって命を燃やせ。

 てめえの敵は、まだ目の前で嗤っているぞ。

 



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12.「義気と信念の男」

 どくん、と空気が哭いた。

 

「?」

 

 涙と吐瀉物でぐちゃぐちゃな少女の頭を鷲掴み、舌に輝く先天の異能を発動させんとする、まさに刹那の狭間だった。

 エマは油の切れた機械のように首を傾げる。

 

 鳴動。

 嵐の前触れのような、冷たくてざわざわとする震え。

 背筋を伝い、肌を泡立て、神経を滑走する波濤のようなナニカ。

 

 どくん、どくんと。

 心臓の鼓動のように、脈打つうねり。

 

「これは……」

 

 到来する気配の根源は背にあった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「一体、どういう?」

 

 シャーロットから手を離す。

 ゆっくりと、膝に手をついて立ち上がる。

 

「腕を斬り落としました。心臓を抉りました。確実にです。生きていられる生物など存在しません」

 

 振り返る。

 目に映ったのは、幽鬼のようにゆらりと立つ男の姿。

 

 

 死者が蘇った? いや、これはそう単純な話ではない。

 床に散った赤黒い血肉が、千切れ飛んだ左腕が、まるで独立した意思を持つかのように、ヴィクターの傷口に舞い戻っていくのだ。 

 

 時間を巻き戻しているかのような異様極まる光景。

 流石のエマも、瞠目せずにはいられなかった。

 

「それも手品のひとつでしょうか」

 

 間違いなく息の根は止めたはずだ。

 右手を挽肉に変えた。左腕も千切り飛ばした。心臓に大穴を穿った。生きていられるはずがない。

 

 ならば、この五体満足で蘇った男をどう説明する? 

 無理だ。説明なんて出来るわけが無い。

 

(なんでしょう、あの真っ黒な腕)

 

 訝しむとすれば、明らかな変異を遂げた両腕か。

 

 ヴィクターの腕は、光を呑むほどの純黒に染まり切っていた。

 腕の形をした闇とでも言うべきか。肘から指先に至るまでが、直視するのも憚られるほど禍々しい変容を遂げている。

 

 既視感。

 あれは、そう。

 霊廟に眠る遺骸と同じ。

 

(全くもって理解出来ませんが、まさしく純黒の王のもの。彼の身に何が起きて……?)

 

 思考を回す。しかし結論は出ず。

 ならば余計なことは考えまいと切り捨てる。

 

 ただただ現状を把握する。ヴィクターはどんな絡繰りを使ったか、死の谷底から這い戻った。

 産毛が逆立つほどの、根源的恐怖を呼び起こす怖気を携えながら。

 

「流石に驚きました。何をするかわからない方だとは思っていましたが、まさか死すら覆すとは。こればかりは感服です」

「……」

「そんな貴方に一抹の敬意を表して、ここは見逃して差し上げてもかまいません。さっきも言いましたけど、貴方みたいなひと嫌いじゃないんです。邪魔さえしなければ、わたしも深追いしませんから」

「…………」

 

 沈黙。

 されど語外に、男の意志は眼で語られる。

 死ぬまで殴るのを止めないと言わんばかりの、怒気と闘争心に満ち溢れた瞳。

 

「交渉決裂のようで」

 

 刀剣に匹敵する眼差しと共に手向けられたそれは、業炎の如き猛々しい怒りを内包していた。

 もはや煮え滾った殺意に比肩するほどの、腹の底から燃え盛る闘志。

 ヴィクター自身をも灰にしかねないほどの、爆熱を伴う焔だった。

 

「理由を伺っても?」

 

 女は問う。

 不屈の男へ、なぜそうしてまで立ち向かうのかと。

 

「確かに、彼女は貴方にとって恩人でしょう。しかし同時に、命を奪おうとした敵でもあります。何故そこまで固執するのです? そんなボロボロになってまで体を張る理由は? 命を賭ける意義がどこあるというのでしょうか?」

「俺は正しいと信じるもののために戦う」

 

 二つ返事。

 それは、揺るぎない信念の証左。

 

「お前は許せない。だから、戦う」

 

 放たれた答えを、エマは瞳を閉じながらゆっくりと嚥下した。

 

「なるほど。義気ですか」

 

 理解はできない。エマの価値観では、ヴィクターがシャーロットのために身を粉にする必要性を感じないからだ。

 けれど納得は出来た。これまで共に生活し、観察してきたがゆえか、男の本質を垣間見た気がするのだ。

 

 思えばこの男は、利己のために戦ったことは一度も無かった。

 

 決闘を選んだのも自分の命を守るためではなく、シャーロットの暴走に歯止めをかけ、殺人という咎を背負わせんとする決意からだ。

 

 今もそうだ。魔力の無い身でありながら策を練ってまでエマに挑んだのは、決して自分のためではない。

 エマという水面下の悪を見定め、それを許すことが出来なかったからこそ、こうして立ち向かってきたのだ。

 

 ヴィクターが持つ、烈火の如き闘志の源泉は義気にある。

 

 自分がどうなるかなんてこれっぽっちも考えていない。

 ただ許せないから。エマの犯した悪行を、見過ごすことなんて出来ないから。

 拳を握り、再び立ち上がったのだ。

 

「嫌いじゃないけれど、ちょっと気味悪くすらありますね」

 

 ほんの少し、ほんのちょっぴりだけ、エマは背筋に冷や水が伝うような悪寒を認めた。

 今にもエマに飛びかかり、喉笛を食い千切らんと怒気を差し向ける、この男の尋常ならざる闘争心に対して。

 

「記憶を失くしているというのに、貴方にはあまりにも強く太い芯がある。魂そのものとも言うべき信念が。普通の人は手を捥がれたらもう戦えないんですよ。戦おうという気すら起きないんです。貴方の義気は狂気に匹敵する。常軌を逸している」

「ごちゃごちゃ五月蠅えんだよ」

 

 ゆらり。男は動く。

 強く、強く。決して止められぬと悟らせるほどの、重々しい一歩を踏み出して。

 

「狂気だ? 常軌を逸してる? てめえが言えたクチかボケ」

「……良いでしょう。気は進みませんが、出来る限り苦痛を与えることなく終わらせてあげま」

 

 

 暗転。

 

 

「────―は?」

 

 暗い。

 突如として光が消えた。

 何も見えない。真っ暗だ。 

 

 光の消えた世界に、流石のエマも戸惑った。

 何が起こったのかと、頭が渦潮に吞まれたように掻き混ぜられた。

 

 魔力灯が消えたわけではない。視界の端に微かな灯の残滓が伺える。

 けれどおかしい。光はエマの背後から降り注いでいた。

 これではまるで、床に突っ伏しているかのような。

 

(柔らかい。硬い)

 

 この額に触れる絨毯越しの床のような感触は何だ。

 

(痛い。痛み? どうして痛みなんか)

 

 この顔が破裂したような痛みは何だ。

 

(苦しい。鼻で息が出来ない。それにこの、ムッとくる臭い、まさか)

 

 顔を持ち上げる。

 赤い雫が垂れ落ちた。

 もはや語るまでもないソレは。

 

「血……? 血ですってッ……!?」

 

 ボタボタと滴る血潮を受け止めた手が真っ赤に染まる。

 鼻骨が叩き折られていた。

 それは紛れもなく、痛烈な一手を見舞われた証左に他ならない。

 

(殴り飛ばされた!? このわたしが!? そんな馬鹿な!?)

 

 ──エマに宿る人錬の刻印は、対人戦闘において無類の力を発揮する。

 

 触れた人間を思いのままに改造する限定的な異能。

 それは自身も例外ではなく、肉体をノーリスクで改良するところから始まる。

 

 竜の猛攻にすら耐えるほどの頑強さ。放たれた矢を目視で捕捉し、掴み取る動体視力と反射神経。大岩を素手で叩き割るほどの圧倒的怪力。

 

 さらに異能を応用すれば、第三者がほんの少しエマに触れただけで挽肉に加工するような、絶対的防護を纏うことまで可能である。

 

 臨戦態勢の整ったエマに人は触れることすら叶わない。

 ましてや殴打などもっての他。エマとの肉弾戦は、即ち死を意味するのだから。

 

 だというのにヴィクターは五体満足で、エマが地に伏している。

 自己改造を重ねた肉体。掠めただけで命を刈り取る異能。

 二つの障壁を歯牙にもかけず、いとも容易く手傷を負わせたのはどういう理屈か。

 

(わけがわからないッ……!! でも、考えられるとすれば、やはりあの黒い腕! しかし何がどうなって……!?)

 

 仮説は立てられる。ヴィクターは王の遺骸に認められ、右手に印を刻まれていた。

 命の危機に呼応した遺骸がその肉体を依代として置換し、破壊された部位を修繕したのだ。それしか考えられない。

 

(だとしたら、刻印の力を度外視したのにも説明がつく。あれが純黒の王の腕ならば……!)

 

 人智を越えた純黒の王の力、すなわち黒魔力の真髄。

 それはあらゆる法則より逸脱し、思うがままに『個』を振るう絶対王政にある。

 

 物は燃やせば炭と化す。水に浸せば濡れる。風に晒せば朽ち果てる。

 そういった世界を成り立たせる当たり前の法則や影響を無視し、使用者の意のままに掌握することこそが本領。

 

 炎を掴み、水を千切り、雷を投げ、地を引き抜く──黒の魔力とは(ことわり)の支配を退け、一方的な干渉をもたらす暴君の権能なのだ。

 

 つまりあの腕は、ヴィクターの『敵を倒す』という意志に反応し、エマの異能による影響を完全にシャットアウト、肉体の強度をも度外視して鼻っ柱を殴り折ったのである。

 

(それでも……わからないことがひとつ。このわたしの眼ですら殴られたことに気付けなかったほどの、不可解なスピードの正体。わたしの知り得ない王の権能が他にも……)

 

 王の力は遥か昔の伝説だ。エマとて全てを知り得ているわけではない。

 どれだけ未知の能力が隠されているのか、その引き出しのさらに奥には何が眠っているのか、まるで見当もつかない。

 

 ならば、取るべき選択は一つ。

 

(この男は危険だ! 放っておけば()()()()の障害になりかねない! 転化直後ならまだ力が馴染みきっていないはず……今が好機! ここで確実に殺さなくてはッ!!)

 

 決断は早く、刻印が鳴動を上げる。

 異能が奔る。目まぐるしい速度で、少女の肉体を人外のものに組み替えていく。

 

 四肢は獣の如く太く。

 肉を鎧に、骨を鋼に。

 歯牙を、爪を、刃を越えた凶器へと。

 

 もはやあどけない少女の面影は微塵もなく、さながら獅子と大熊を融合させたかのような、身の丈3mはあろう怪物へと姿を変えた。

 

(小娘の心臓を熟れさせるためだけにどれだけ時間と労力をかけたと思ってる! こんなポッと出のガキ如き、邪魔だてなどさせるものかッ!!)

 

 エマの本能はヴィクターを明確な脅威と断じた。

 純黒の王の力をもってエマに傷を負わせた以上、楽観視など出来るはずもない。

 

 ここまで来るのに数年もの時間を要した。微かな手がかりからアーヴェントの所在を探し出し、特定し、優しさに漬け込むと言う賭けに出て、前人未到の隠れ里に忍び込んで。

 

 信頼を勝ち取るためにメイドの真似事までして。念入りに念入りに下準備して。邪魔者をようやく排除して。

 

 忍耐に忍耐を重ね、やっとの思いで辿り着いた。遂に心臓を熟れさせることが出来たのだ。

 

 今さら失敗など許されるものか。

 確実に、迅速に、目の前の障害を排除し、エマは大義を完遂する。

 

(油断はしない! 慢心も捨てる! 全力で叩き潰すッ!!)

 

 人を捨てた獣は吼える。

 獲物を狩らんとする獰猛な捕食者は、咆哮と共に数多の魔方陣を展開した。

 

 エマの魔法技量はシャーロットを上回る。隠匿の魔法などという小細工に限らず、多様な魔法を習得している。

 むしろ繊細な小細工を労せるほどに卓越したその腕は、ヴィクターの全方位を隙間なく埋め尽くすほど、魔法陣の同時発動を可能とした。

 

「『銀刃の雨よ(ラミナ・プルヴィアム)』!!」

 

 己の魔力を詠唱と共に出力。陣を介し指向性を持たせることで、エネルギーは実体と化す。

 

 顕れたるは金属魔法。無数の刃が瞬く間に形成され、鈍く輝く殺意の豪雨が、男に逃走の余地すら与えんと一斉に襲い掛かり────

 

「ッ!?」

 

 転瞬。刀身がドロリと溶融し、跡形もなく空気に溶け消えて。

 男を包囲したはずの凶器たちが、一斉に命を終えたように霧散した。

 

 残された虚無を前にエマの思考は白紙に帰す。

 

「ようやく効いてきたようだな」

 

 憤怒の形相から一転、狡猾な鴉のように意地悪く笑む男。

 その時だった。全身の血流を堰き止められたかのような猛烈な違和感がエマを襲い、ガクンと膝から崩れ落ちた。

 

「ぁ、え」

 

 心臓を裏返されたような激痛の槍に貫かれ。

 瞬間。鉄砲水のような血の濁流を吐き下した。

 

「がッッッ!? あがッ、ばッ!? ぁああああああッ!? な、なん、なにがっ、なんですか、これ、はぁっ!?」

 

 一斉に悲鳴を上げたのは血管だ。

 強心剤を一気に打ち込まれたかのように血潮が暴れ狂い、眼球、鼻腔、口腔と、粘膜から夥しい鮮紅が噴き出し始めたではないか。

 

「が、ぼっ……!? はっ、ばっ、馬鹿なッ、魔力が、刻印がコントロール出来ないッ……!! ()()()()()()……!? わた、わたしに何をッ!?」

「話に聞いてた通りだな。こりゃあ初手で使わなくてよかったぜ、()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 エマは視た。

 赤く染まった視界に、この異変の正体を確かに視た。

 

「簡単なことだぜ! 魔力のない俺がお前に勝つ一番手っ取り早い方法は、魔法を使えなくさせることだ!! 不思議に思わなかったのか!? それとも万策尽きたと思い込んだかッ! 罠や暗器だけで満足するほど、俺ァお前のことを舐めちゃいなかったのさ!!」

 

 

 拳を固め、地を蹴って、這いつくばるエマに肉薄する男と、その傍らに落ちたズタ袋。

 袋に収められていただろう、群青色に明滅する奇妙な塊。

 そこから噴き出る、禍々しい粉末。

 

 マナヨドミ。ごく稀に森の奥地で発生する猛毒の菌糸類。

 その身は喰らえば血を濁し、胞子を吸うだけで魔力の循環不全を引き起こす劇毒である。

 

「お前がぶっ飛んでくれて助かったぜ! お陰でシャロに警告する猶予が出来た! 思う存分バラ撒いてやったんだ!!」

 

 言われて、いつの間にか移動していたシャーロットが、己とリリンフィーの鼻を布で覆っていることに気付く。

 

(こいつ……! シャーロットが部屋に現れた時、かたくなに退けようとしていたのはこのためだったのか! マナヨドミの毒に、シャーロットたちを巻き込むのを恐れてたんだ!!) 

 

 直視し難い真相から目を背けさせんとする優しさもあっただろう。しかしそれだけではなかったのだ。

 今なら解る。エマから魔法というアドバンテージを奪う、最大の切り札を切るための言葉だったのだと。

 

 エマの鼻を真っ先に砕いた理由もソレだ。

 嗅覚を封じ、マナヨドミの存在を悟らせないためだった。

 

 殴り倒された時から敗北は決定していた。

 不発に終ったはずの一策を、たった一度の逆転で解き放って。

 須臾の勝機を、確実に掴み取ったのだ。

 

(この、男)

 

 背筋が凍るようだった。

 

 刻印を剥奪され、魔法を奪われ、毒の分解も回復もままならず。

 迫り来る脅威を迎撃することも叶わぬまま、血染めの視界は、拳を引き絞る男を眺めることしか出来ない。

 

 けれど、身を引き裂くような怖気の源泉は、この絶望的な状況ではなく。

 圧倒的優位を覆された屈辱でも、ましてやマナヨドミの猛毒でもない。

 

 度し難い悪行を目撃し、煮え滾る血潮に頭を焼かれているにも関わらず、着実にエマを仕留めんと盤を動かし続けたこの男の存在そのものだ。

 

(何故そこまで冷静に動ける……!? 怒りに呑まれてるはずなのに! 脳ミソ全部が、わたしに対する憤怒で埋め尽くされてるはずなのに! 一手一手と戦局を詰めていく、そのゾッとするほどの冷ややかさはどこからッ!?)

 

 もはや指先ひとつ動かすことすら叶わなかった。

 

 敵が至近距離に居ると言うのに。その純黒の拳が、エマの顔面を正確無比に捉えんとしているのに。

 影を縫われていた。毒ではない。エマの体は、行動そのものを放棄してしまっていた。

 

 決して燃え尽きることの無い、灰生まぬ無窮の焔のような闘争心。

 なのにその眼は爆熱に冒されず、あまりに冷ややかに、獲物を食い破らんと着実に王手をかけていくほどの狂気的な理性。

 

 こんなものを見せられてしまったら、最早どうしようもない。

 胸の奥に湧いて出た粘着く悍ましい存在を、認めざるを得ないじゃないか。

 

 それは本能からくる原始的な反応。

 どれほど骨肉を弄り回そうと、生物である限り決して逃れること叶わぬ宿痾。

 即ち──恐怖である。

 

 

「イカれてる……!!」

「だァァああああああああらッッッッしゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああ──────────―ッッッッ!!!!」

 

 刹那。エマの瞳を埋め尽くしたのは破壊だった。

 

 男の握拳が残像を連れて解き放たれる。十を超え、百を超え、千を超える鉄拳の到来はまさに嵐の如く。

 肉を打つなどという次元ではない。狂瀾怒濤と襲い掛かる突きの豪雨は、砲撃の一斉掃射に匹敵するほどの衝撃となって女の骨肉を撃滅した。

 

 もはや悲鳴を上げることすら叶わず。

 善性の被膜を被った怪物は、壁に激突する轟音と共に倒れ伏した。

 

 

 

 

「お前には、やってもらわなくちゃならねえことが2つある」

 

 ──自分の身に何が起こったのかは分からない。

 このどす黒い腕も。猛り狂う心臓も。まるで理解が及ばない。

 

 心臓には確実に穴が開いていた。両腕は再起不能なほど壊された。ヴィクター自身、それをはっきりと認めている。

 

 一生に一度も味わうはずの無い感覚を幾度も味わったのだ。幻であるはずが無い。

 

 なのにヴィクターは生きている。

 どころか、自分自身でも理解出来ないほどの力を発揮して、圧倒的格上であるはずのエマを叩き伏せた。

 

 一体何が起こったのか。けれど、そんなことはどうでも良かった。

 

「言ってたよな、シャロの心臓を狙ったのは世界を救う大義のためだと。大義は一人だけで抱けるもんじゃねぇ。お前のバックに着いてる連中はなんだ? 誰の差し金でこんな真似が出来た? 吐け」

「ぐッ、う……!!」

「もうひとつはシャロの妹だ。さっさと治しやがれ。出来ねえとは言わせねぇぞ」

 

 勝敗は決した。

 エマはもう、満足に立つことすら叶わない。

 魔力のコントロールを奪われ、刻印を剥奪され、徹底的に叩きのめされた。

 

 なのに。

 その顔に浮かぶのは、まるで歪みのない綺麗な微笑み。

 

「ククッ、ク、フフフフ……治す……そうですね……千年果花の霊薬でも飲ませれば治るんじゃないですか……? あればの話ですけど……フフ……」

 

 敗北など微塵も意に介していないかのような、実に晴れ晴れとした笑顔だった。

 

「何笑ってやがンだ?」

 

 笑顔。それはまさしく余裕の暗示に他ならず。

 エマが血の唾を吐き捨てて笑った瞬間、ヴィクターは即座に肉薄するとエマの喉を鷲掴み、渾身の力で壁に向かって叩きつけた。

 不自然な動きをしていた腕を間髪入れず捻り折る。若木が(ひしゃ)げたような悪辣な異音が炸裂し、万力で締め上げられるエマの喉から掠れた苦悶が零れ出した。

 

「ぎッッ……ィぁ……!!」

「勘違いしてんじゃあねーぞ。お前に許されてる次の行動は、俺の質問に答える、ただそれだけだ」

 

 折られた腕から力が抜ける。袖の中からペンダントが音を立てて落下した。

 魔石が組み込まれた明らかな魔道具。恐らくエマに逆転をもたらすはずだったそれを、ヴィクターは念入りに踵で磨り潰していく。

 

「正直に言うぜ。いたぶるのは趣味じゃねえ。殺すなんてもっての他だ。けど、ここでお前を逃がすのはそれを差し引いても得策じゃねえ。お前の後ろで誰かが絵を描いてンなら、情報を持ち帰る敵には心を鬼にしなくっちゃあダメだ。だから、次何か企んだら一本ずつ骨を折る」

「っ……!!」

「さっさと答えろ。そうすれば、無用な苦痛は与えないと約束する」

 

 僅かに喉への圧力を緩め、発言の許可を合図する。

 激しい喘鳴が腕を伝った。彼女を苛む苦痛が音の形をしているかのようだった。

 しかし満身創痍のエマに抵抗する力など残されていない。折れた両腕では、もはやヴィクターを振り解くことなど叶わない。

 

 にもかかわらず。

 頬を釣り上げる笑みだけは、凪のように揺るがなかった。

 

「誰が……貴方の言うことなど……聞くもんですか。ここまで来るのに……どれほどの時間と労力をかけたと……? あと少し、ほんの少しだったのに……それを貴方が台無しにした。死んでも……言うことなんて聞くもんか……!」

 

 次の瞬間、エマの身に霹靂の如く異変が起こった。

 舌に刻まれた異形の紋様が輝きを放ったかと思えば、まるで一気に空気を吹き込まれた風船のようにエマの体が膨らんで。

 刹那。水の入った巨大な袋が弾けたかのような爆発が巻き起こった。

 

「なっ!?」

 

 しかしそれは、苦し紛れの反撃ではない。

 エマの肉体が破裂したのだ。木っ端微塵に吹き飛んで、血潮と臓物の散水をヴィクターに浴びせかけたのだ。

 

(こいつ……刻印の力を使って自分自身を!?)

 

 触れた人間の肉体を思うが儘に操るという『人錬の刻印』。敗北を悟った彼女は最後の力を振り絞ったか、己の異能をもって自ら死を選んだのである。

 

 顔にこびり付いた真っ赤な血脂と生々しい肉片を拭い、瞬きを繰り返して汚れた視力の解像度を上げる。

 だがそこで。取り戻した視界の中で。ヴィクターは正気を疑うほどの、信じ難いものを目撃した。

 

 ()()()()()()()()()()姿()()

 死体ではない。眼窩に意志を宿した目玉が居座り、顎骨の隙間から刻印の舌がナメクジのようにうねり、剥き出しの肋骨の中で拍動する心臓を宿しているそれは。

 肉も、(はらわた)も、爪も皮膚も体毛も、人間性を象る何もかもを失いながら、それでもなお生にしがみ付く、人を捨てた執念を燃やす女の姿だった。

 

『刻印の力を理解したつもりでしたか? こんな常識外れなんて、予想だにもしてませんでしたか?』

 

 カタカタとしゃれこうべが嗤い、不協和音で象られた歪な声が耳を貫く。

 悟る。あの自爆は決して自殺などではない。自らの肉体さえかなぐり捨てた、文字通り捨て身の目晦ましだったのだと。

 

『わたしは死を恐れない! わたしの忠誠心は挫けない! わたしには命を賭してでもやり遂げるという執念があるッ! ああ初めてですよ、他人じゃなく自分を爆ぜさせるために力を使ったのは!! 例え毒で制御が効かなくても、()()()()()()()()()()()今のわたしにだって出来る!!』

「────ッ!!」

『最後の最後で賭けに勝ったのはわたしだ! わたしの執念が掴み取った勝利だ! 「人錬の刻印」は脳と心臓(わたし)が生きてさえいれば、幾らだって体を作り直せる!! たかが数日魔法をかじった程度で攻略されるほど、わたしの執念は甘くない!!』

 

 ──考えるより体が動く。

 思考は完全に撃滅へと切り替わっていた。拳を弩の如く引き絞って、ヴィクターは肋骨に守られた心臓をぶち抜かんと全身全霊の一撃を叩き込んだ。

 だがしかし、放たれた純黒の砲弾はエマの体をすり抜けてしまう。

 

『不思議に思わなかったのですか? 心臓を熟れさせるためだけに、どうしてわざわざこの島で居残り続けたのか。必要な姉妹(ざいりょう)さえ手に入ったのなら、持ち帰って調理した方が楽なのに。ねぇ?』

 

 表情筋を失いながら、しかし三日月のように笑みを歪める女。

 ぬらりと血脂で光る舌の上には、先ほど砕いたペンダントと同じモニュメントが。「わたしはとっくにそこには居ませんよ」と、エマは道化を嘲笑うように言い放った。

 それはエマが肉体を破裂させたその時点で、体内に仕込んでいた予備の転移魔法道具(テレポーター)を作動し、脱出を果たしていたことを示唆していて。

 

『この島は少々特殊なんです。謎が山ほど残ってる。出るのは簡単でも、入るのが難しい。アーヴェントの許可が無ければ二度と戻れないのに、座標も特定できないときてます。だから島を出たくなかったんですよ。確実に出入りできるようになるまではね』

「エマァッ!!」

『今日のところは引き下がります。ですが()()は決して諦めない』

 

 最後に見せたその眼差しは、極悪人に相応しくない、高潔さすら感じさせるほどの意志の灯火を抱いていた。

 

『またいずれお会いしましょう。わたしか、それとも他の者になるかもしれませんが。せいぜい頑張ってくださいね、無銘の生贄さん』

 

 晴れた霞のように、エマの幻影が消えていく。

 残されたヴィクターは拳を握り、やり場の無い憤りを壁に向けて叩きつけた。

 

「……またいずれだと? 上等だ。お前らがどこの誰だか知ったことじゃねえが、望み通りとことん付き合ってやる!」 

 



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13.「失って、得て、また一歩を」

 動乱の朝は終わり、日没を迎えた夜の帳。

 片づけを終えて一息ついた頃合い。シャーロットが眠り続けるリリンフィーと共に閉じこもってしまった部屋の前で、ヴィクターは壁に寄りかかりながら呆然と時を過ごしていた。

 

「……」

 

 かける言葉も無かった。

 かけていい言葉など、持ち合わせていなかった。

 

 妹だと信じていた女は、シャーロットから家族と人生を奪った仇敵で。

 それだけに飽き足らず、末妹の肉を食わせ続けていたと来た。心中は想像を絶する。

 

リリンフィーを空き部屋のベッドに移した後も、シャーロットはそこに縫い留められたように、片時も離れようとしないほどだ。

 

(クソ、無力だな。何も出来ない自分が情けない)

 

 声をかけたところで、励ましたところで、きっと今のシャーロットには届かない。

 むしろ逆効果だろう。だって、今までシャーロットは亡き家族のために孤軍奮闘を重ねてきたのだ。

 

 その裏で妹を苦しめていたのだと知ってしまった。努力の裏で、ずっと弄ばれていたのだと気付けなかった。

 赤の他人の励ましなんて、何の意味があるというのか。

 

(マズいな。このままだとシャロの心は完全に死んじまう。最悪、妹と心中なんてことも有り得るかもしれない。それだけは絶対に避けなきゃならねぇ。どうすればいい? 考えろ、考えろ)

 

 座り込み、息を吐く。

 自分の手を見る。墨染のような、純黒と化した自分の腕を。

 

 何がどうなったのかは分からない。心臓を貫かれた自分が、どうやって生き返ったかなんて露程も知らない。

 先の戦いでエマを屠った、まるで時間の流れが遅くなったかのように素早く動けた謎の力も正体不明だ。

 

 けれど今はどうでも良かった。そんなことよりシャーロットの方が大事だった。

 せめてこの腕に秘められた力でリリンフィーを治せたなら良かったが、ヴィクターには力の使い方どころか、能力の全貌も分からない。役立たずも同然だ。

 

『……ヴィクター、いる?』

「! おう、いるぞ」

 

 呼び声に返せば、キィ、とゆっくりドアが開かれた。

 「入って」と蚊の鳴くようなか細い声。言われるがままに足を踏み入れる。

 

 当然だが、シャーロットがいた。リリンフィーの眠るベッドの傍に椅子を置き、萎れた花のように力なく腰かけている。

 

「座って」

「あ、ああ。……その、なんだ。大丈夫か?」

「……ん、平気。ありがとう」

 

 にこ、と薄く笑う少女。

 平気なわけがない。瘦せ我慢なのは明白だ。

 

 目元は腫れ、胃酸で喉を焼かれたか声は掠れ、肌も唇も死人のように青くなっている。

 常に整っていた深海色の髪は荒れ放題で、いつもの快活な覇気は無く、息を吹けば消えてしまいそうだ。

 

 とても大丈夫だなんて言える状態ではない。

 けれど、慰めを手向けたって無意味だ。「シャロは悪くない」「元気出せ」などと安直な言葉を口にしようものなら、シャーロットはもっと自分を責めるだろうから。

 

「……」

「……」

 

 沈黙を挟み、動いたのはシャーロットだった。

 ミニテーブルに鎮座していた布袋と指輪を掴み、そっとヴィクターの膝元へ置いたのだ。

 訳も分からぬまま受け取れば、ズッシリとした重みが手を伝った。

 

「……これは?」

「お給料と迷惑料。今まで館で働いてくれた分に、巻き込んでしまったことへのせめてもの謝罪に」

「っ、おいシャロ、お前」

 

 言葉の全貌を聞く前に、ヴィクターは腰を浮かせていた。

 

「緋金貨が100枚入ってるわ。換金したら1000万リルにはなる。数年くらいなら、少し贅沢しても余裕で暮らせると思う。指輪でポータルを使って町に出られるから、そこで生活を見つけて欲しい」

「シャロ……!」

「腕のことなら心配いらない。それは王の肉体に置換されてる影響で、一時的にそうなってるだけ。力を使わなきゃ進行しないし、時が経てば治るから。治るまでは服で隠してた方がいいかもしれないけど。普通に暮らすぶんには全然大丈夫。安心して」

 

 言っていることが噛み砕けなかった。

 頭を殴られたみたいな衝撃に、ヴィクターは立ち上がりかけた腰を、再び椅子に降ろしてしまう。

 

 腕のことではない。腕のことなんかどうだっていい。

 ヴィクターには、ただシャーロットのことが────

 

「私たちの勝手な(いさか)いに巻き込んでしまってごめんなさい。そして、ありがとう。あなたの命を狙った私が言うのは筋違いだけど、あなたのお陰で助かった。本当に感謝してる」

 

 深く、深く、頭を下げるシャーロットに、ヴィクターはかける言葉が見当たらなかった。

 唇が震えて何を紡げば良いのか分からなくなる。握り締めた布袋に、一層力が籠っていく。

 

(……八つ当たりくらいしろよ、馬鹿野郎。お前が現れたからこうなったんだって、家がめちゃくちゃになったんだって、少しくらい理不尽になってもいいんだ。もう心が限界のはずだろ。ちょっと癇癪起こしたって、吐き出したって、何もバチは当たらない。なのにッ……)

 

 まだ十八にも満たない、あどけなさも残る少女なのに。心も体も限界で、他人を慮る余裕なんてこれっぽっちも無いはずなのに。

 

(どうしてお前は、そんなにも強い)

 

 自分の過ちを悔いるどころか、ヴィクターが島から出ても不自由のないよう理由をつけて路銀まで渡してきて。

 しかも、精一杯の感謝なんて。

 

(全部一人で抱え込むつもりか。これ以上俺に迷惑をかけまいと、独りでやっていくつもりなのかよ)

 

 異を唱えたい。そんな事は望んでないと、彼女の言葉を突っぱねたい。

 見捨てられるわけがないだろと、今にも怒鳴りつけてしまいそうだ。

 けれどそうしたところで、シャーロットは首を縦に振らないだろう。

 

 確かに、このまま立ち去った方が彼女の願い通りにはなるかもしれない。

 シャーロットは、ヴィクターの力を借りることを望んでいない。

 

 順当に考えて、シャーロットと共にいればまた危険に見舞われる可能性が高いからだ。

 エマを筆頭とする謎の集団が、今も心臓を狙っている。巻き込まれるのは確実と言っていい。

 

 搦め手が効いたからこそエマには勝てたが、かろうじて掴み取った辛勝だった。

 次はどうなるかわからない。もしかしたら、今度こそ本当に死んでしまうかもしれない。

 仮に退けたとしても、何かの拍子に腕の力を使えば、ヴィクターはどんどん純黒の王へと変わってしまう。

 

 シャーロットが恐れているのはそれだ。

 せめてヴィクターだけでも犠牲にしまいと、選択を振り絞ったがゆえの決断なのだ。

 

(ふざけんなよ。そんなの)

 

 そんなの、どうやって見過ごせと言うのか。

 こんなの、正しいはずがないだろうが。

 

 ──ああ。だったらやるべきことは決まっている。

 ヴィクターは、正しいと信じるもののために戦う。

 

「そういうことなら、この金は貰ってくぜ」

「……」

「まぁ確かに、生贄にされかけるわ死にかけるわ、散々な目に遭ったのは間違いない。命を救ってもらった大恩はあるが、アーヴェントの事情に巻き込まれたのも事実だ。筋としちゃ妥当かもな」

「……返す言葉もないわ」

「が、それはそれ。俺の意見がまるで入っちゃいねえ。ガン無視だガン無視。ふざけんなお前」

 

 驚きによるものか。シャーロットの頭がゆっくりと持ち上がって、男をきょとんとしたように見た。

 ヴィクターは頭を掻きながら、少し意地悪そうに笑っていた。

 

「俺の考えはこうだ。ここに残る。大丈夫とはいえ腕のことも気になるし、なにより俺はこの島で目覚めたんだぜ? 俺が一体何者なのか、まだなーんにも分かっちゃいない。この島にゃ俺のルーツが、記憶の手掛かりがあるはずなんだ。だからここに残る」

「……何を言ってるの。仮に記憶を取り戻せたとしても、そんなことしたらまた巻き込まれて……! 今度こそ死んじゃうかもしれないのよ? そんなの本末転倒じゃない……!!」

「知らねーよ、そんなこと」

 

 

 このまま巻き込まれるのを恐れて去っていくのが正しいのか?

 違う。それはただ賢いだけだ。命を最優先にするという意味合いでだ。

 ヴィクターは、決して賢い人間ではない。

 

 このまま島を飛び出して、シャーロットのことを綺麗さっぱり忘れ呆けて、のんびり暮らしていくなんて出来るはずが無いのだ。

 

 それは死んだことと同義なのだ。平穏に生きていたところで、ヴィクターの心はゆっくりと死んでいく。

 断じて御免だ。だからとことん、エゴを貫く。

 

「俺は俺の意思でここに残る。せっかく生贄から解放されたんだ、あとはどうしようが俺の勝手だ。だからお前は関係ないし、責任を負う必要はない。俺の我儘なんだからな」

「そんなの……!」

「ああ、もちろんタダとは言わねえ」

 

 ヴィクターは大金の入った袋を、シャーロットに突き返しながら豪気に笑う。

 

「ほい、宿代。数年は余裕で暮らせる額なんだよな?」

「っ」

 

 今のシャーロットに、ありきたりな慰めなんて意味はない。

 むしろ情けは刃となって、少女の心の傷を更に抉ることだろう。

 だから勝手を押し通す。これは我欲でしかないのだと、反論の余地すら与えることなく、傍若無人と自己満足を盾に居座ってやる。

 

「あなた、自分が何を言ってるか分かってるの……?」

「もちろん」

 

 そうして支えになろうと決めた。今のシャーロットには寄り添う人間が必要だ。だから無理やりにでも傍にいると決めた。

 例え時間がかかっても、彼女がまた一歩を踏み出せるように。

 きっとそれが、今のヴィクターに出来る、正しい選択なのだから。

 

「つーわけだ。これからもよろしく頼むぜ、シャロ」

 

 抱く信念に揺らぎはない。

 義気のために。正しいと信じるもののために。

 無窮の焔は、一握の灰も生まず。

 

 

 

 

 

「申し訳ございません、ターゲットの回収に失敗しました」

 

 

 聖堂と呼ばれる空間があった。

 

 名だたる職人が長い時を糧に手掛けたであろう、草花に囲まれた純白の女性が慈愛に微笑む憧憬を映したステンドグラス。

 日輪を透かせ光を呼び込むガラスの芸術は、閑散とした堂に命のような暖かみを(もたら)している。

 

 一面に広がる磨き上げられた大理石の床は、壮麗な星々を模した精巧なモザイク画の絨毯だ。

 それらは受け止めた陽を光輝に変えて、灯りの無い世界に煌々たる神秘を散りばめていた。

 

「まずは、このような姿で誉れ高き貴方様の目に触れてしまう不敬をお許しください」

 

 どことも知れぬ場所に座す、絶対不可侵の神聖領域。

 選ばれし者だけが足を踏み入れることの許される間に(ひざまず)くは、全身の皮膚を剥がされた人間のような異様を成したエマという名の女である。

 

 重症というにはあまりに惨たらしい有様。毒が抜けたか、全盛を取り戻した刻印の力で再生する肉体は、この世のものとは思えない骨肉の蠢きと異音を奏でていた。

 

「心臓の熟成は達成しました。しかし収穫の直前で、純黒の王の力を手にした闖入者の反撃に遭い、やむなく撤退せざるを得ず……。お送りしたデータが男のファイルになります」

 

 深く深く頭を垂れ、右膝と拳を地に。

 最上の畏敬をもって紡ぐ言葉の先には、純白の女性が描かれたガラスを背にする玉座が。

 

「星の位置から島の座標を逆算しようと試みましたが、構造理論不明の高次元断層結界が島と周辺海域を包むように展開されており、著しく星座が乱されていたため特定叶わず。同様の理由から、ポータルの魔力紋識別プロトコルも解除不可能でした。恐らく、純黒の王が施したロストテクノロジーかと思われます」

 

 無二の座には、その身を白亜の鎧に覆われた、威風を帯びる男の姿があった。

 金属の光沢と白磁に似た滑らかさを併せ持つ不思議な鎧だ。流れ星を綴じたような黄金の彫刻には、胸を中心に一定の間隔で青い光が奔り抜けている。

 

 王冠と融合したような偉容の兜には光輪が浮かぶ。(かお)の央、両目にあたる部分に走る横一文字の亀裂からは、朧な光が絶えず溢れ出していた。

 その手には、文字や画像をホログラムのように宙へ映し出す、水晶で出来たキューブのような物体が握られている。

 

「……ふむ。データを見るに、その島は我々と同じ次元には存在しないのだろう。この『天蓋領域』に仕掛けられた境界隔絶とも似ている。次元の断層をベールのように幾重にも重ね合わせ、その狭間を漂っているのだ。にもかかわらず、基本世界と連続的に接続されているのは驚嘆に値するな。……この技術、賢者オーウィズも一枚噛んでいる。貴様に解けぬのも無理はない」

 

 頭から抑えつけられるような、重圧を伴う男の声。

 鎧の男とは距離があるにも関わらず、耳元で囁かれたにも等しく響く言葉に、エマはさらに深く頭を下げる。

 

「如何様な理由であれ、わたしは貴方様の命に結果を残せなかった愚鈍にございます。なんなりと罰を。どんな処遇も甘んじて受け入れる覚悟です」

「……左様か」

 

 鎧の男がキューブを握ると、淡雪に溶けるように消滅した。

 板金に覆われた顎に触れる。その一挙一動ですら、空気が悲鳴を上げるよう。

 常人ならば圧に耐え切れず、精を焼き切られ滂沱(ぼうだ)の涙と共に命を請うほどの緊迫感。

 

 しかし、エマの声色に恐怖は無かった。

 それは鎧の男に対する忠誠がゆえか。己の犯した失態を受け止め、これから降りかかるであろう男の裁断を、粛々と受け止めようとしていた。

 

 やがて、永劫のような須臾は動く。

 

「ならば退がるがいい。長年の任務、ご苦労だった」

「────」

 

 予想外の言葉に、エマは思わず顔を上げて瞠目した。

 しばし唇を震わせて、抑えるように一度、固く結びこむ。

 震えが止まると、エマはゆっくりと声を綴った。

 

「わたしを、罰しないというのですか? 何も成し得なかったこのわたしを、何故?」

「罰する? 何のために。貴様は十分な働きを見せただろう」

「ッ」

 

 困惑のあまり、胸に手を当てながら立ち上がった。

 

「し、しかし!」

「これまで存在が不確かだったアーヴェントの隠れ里を探し出し、『純血』の個体から適切に()を熟成させた。定期的な報告が無かったのは戒めに値するが、理由あってのことだろう。貴様がそこまで無能ではないことは知っている」

 

 頬杖をつき、淡々と男は告げる。

 

「その程度の失態、この報文で十分帳消しとなろうて」

「ですが、わたしは肝心の心臓をっ」

「くどい」

 

 鎧の男はゆっくりと玉座から立ち上がると、星海の空を衣としたかのような外套を翻し、背を向けた。

 

「確かに『純血』のアーヴェントの心臓は聖女の復活に必要不可欠だ。だが猶予はある。焦る必要もない。重要なのは心臓が成ったことだ。それさえ達成すれば、あとはタイミングの問題だ」

「っ」

「回収など他の者に任せればいい。島の特定は不可能だとしても、彼奴等は必ず動き出す。動かねばならぬ。ならば(おおよ)その行動も予測出来よう。故に、貴様を咎める理由は無い」

「…………もったいなき御言葉、感謝いたします」

「フフ、精進するがよい。今はその傷を癒すことに専念せよ。この先も期待しているぞ、エマ」

 

 言葉を皮切りに、男の足元へ金色の魔方陣が浮かび上がる。

 現れた光の柱がぼうっとその身を包み込むと、鎧の男は姿を消した。

 

 静寂。

 時が止まったような無音の中で、エマは崩れ落ちるように膝をついた。

 

(わたしは……出来損ないの失敗作。三聖にもなれず、飛び抜けた才能も何もない。主命を達することすら叶わなかった。なのにあの方は、こんなわたしをまだ必要だと)

 

 跪いたまま、頭を垂れたまま。昂りに震える体を必死に抑え込むように、ぎゅっと拳に力を入れて、胸に当てる。

 エマの肉体は既に、元通りの姿形を取り戻していた。

 

(貴方様は……っ……またもわたしの命に、価値があると仰ってくださるのですか……? 地獄の淵にいたわたしの手を……拾ってくださった時のようにっ……!)

 

 目頭が燃えるように熱い。

 (せき)たる嗚咽と共にこぼれゆく雫を止める術など、エマは持ち合わせていなかった。

 

「必ずや。次こそは必ずや、貴方様のご期待に添えてみせます。どんな非道も悪行も、この手に染める覚悟はあります。貴方様に永久(とわ)の忠誠を──ドラゴレッド卿」



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幕間Ⅰ「焔、黒剣を鋳す」
14.「町へ行こう」


 重機が岩盤を叩き割ろうとしているような、重々しく凄烈な音が響いている。

 ガガガガガガッ!! と連続する大衝撃は空気を揺らし、幾度も木々を騒めかせた。

 

 騒音の原因は、ヴィクターが大岩を猛烈な勢いでひたすら殴り続けているせいだ。

 人間の拳ではあり得ない現象が起こっていた。みるみる大岩に放射状の亀裂が刻まれ、さながら無骨な掘削作業の如く破壊されていくではないか。

 

 やがて一際強烈な一撃を叩き込まれた大岩は、砂の城のように脆く崩れ落ちてしまう。

 

「マジかよ……殴って壊せちまった」

 

 そばにかけていたタオルを取り、流れ落ちる汗を拭う。

 ついでに水分補給して、そばの切り株に腰かけた。

 

 逆立ち腕立て伏せ千回。砂浜ランニングを少々。そしてサンドバッグ──否、大岩打ちを数十分。

 運動を兼ねた()()()()を終え、ヴィクターは純黒に染まった腕を見る。

 

(あんなに硬い岩を全力で殴り続けたってのに痛くも痒くもない。疲れもすぐ消えるし、常に力が漲ってやがる。俺の体どうなっちまったんだ? やっぱこの腕のせいだよな……)

 

 腕だけじゃない。心臓も妙な感覚だ。

 エマに風穴をあけられた傷痕を中心に、蜘蛛の巣状の黒い血管のような筋が胸に浮き上がっていた

 

 心拍と連動して脈打っている。疲労がすぐ回復するのも、信じられないような怪力が発揮できるのも、この黒条のせいのような気がしてならない。

 もしかしたら、心臓まで純黒に染まっているのかも。

 

(そういや、体が純黒の王と置き換わってるって言ってたな)

 

 シャーロットいわく、王の肉体へ中途半端に置換された結果がこれなのだという。

 身体能力の向上や、あの戦いで味わった()()()()()()()()()()()もその影響だろう。

 

 エマと死闘を繰り広げた時、まるでヴィクターの周りだけ時間の流れが遅くなったかのような感覚があった。

 明らかな格上であり、攻撃を見切ることすら叶わなかったあのエマを、まるで生まれたての赤子でも相手にしているかの如くあしらえた一瞬の不可思議。

 きっとあれが、純黒の王の力の一端だ。

 

(どうやったら使えるのかさっぱり分からねぇ。シャロはあまり使わない方がいいと言ってたけど、万一の場合もある。発動のトリガーくらい知っておきたかったんだが……)

 

 使えば使うだけ王の肉体に置き換わっていくという致命的欠陥は無視できるものではない。自ら進んで破滅するなど言語道断だ。

 力の使い方の模索は、あくまで保険である。

 もしも必要な場面に出くわした時、それこそ自分の寿命を縮めてでも使わねばならないと悟った緊急事態で、使い方が分からりませんでしたでは話にならない。

 

 しかしこう何度も試して出来ないのでは、恐らく発動条件があるのだろう。

 力の歯車のような、ナニカが噛み合わなくては使えない。そんな気がしてならなかった。

 

「うーん……まぁいいか、出来ねーもんは仕方ねぇ。おいおい考えるとしよう。それより朝飯だ、朝飯!」

 

 両腕に手早く包帯を巻いたヴィクターは、足早に森を後にした。

 

 

 黒曜石のように透き通った、魔法コンロのパネルに指を伸ばす。

 起動音。浮かび上がる赤い魔方陣をスライドさせれば、接続された金属盤がジリジリ熱を放ち始めた。

 

 フライパンを乗せ、煙が出るまで空焚き。

 サッと油を敷く。あらかじめかき混ぜておいた溶き卵に火を通せば、あっという間にスクランブルエッグの完成だ。

 

 葉野菜を適当に千切る。果実も食べやすいよう、これまた適当に切っていく。

 根菜と肉を煮込んだスープを器に注ぐ。肉を取り除くのを忘れない。

 仕上げに、パンを焦がさぬよう焼いて終了である。

 

「うし、完成。エマのようにはいかないが、まぁ十分だろ」

 

 出来上がった食事をトレイに乗せ、いそいそと館を歩く。

 シャーロットの部屋まで辿り着くと、ドアを軽快にノックした。

 

「おーい。メシできたぞー」

「…………ありがと」

 

 消え入りそうな声。ドアがほんの少しだけ開く。

 姿は見えない。真っ暗な部屋の片鱗がうかがえるだけだ。

 

「そこに置いてて。あとで食べるから」

「おう。食欲はあるのか?」

「……あんまり」

「そうか。まぁ無理して食う必要はねえからな。残しても気負いすんなよ」

「……ごめんね。せっかく作ってくれたのに」

「気にすんなって。食い終わったら廊下に置いててくれ、後で取りに来る」

「うん」

 

 無機質に戸が閉まる。

 静寂を一拍抱いて、ヴィクターは踵を返した。

 

 忌まわしい事件から早くも3日。シャーロットはずっとあの調子だ。

 目覚めないリリンフィーのそばを離れず、食事もまともに喉を通らない。部屋から出て来たのも数える程度。

 

 身嗜みに気を遣う余裕すら無いらしく、艶やかだった髪は無造作に荒れ、肌色は青白く、大きな隈が目元を縁取っていた。

 

「アレじゃ、まともに寝てるかどうかも怪しいな」

 

 境遇を考えれば無理もない。妹の肉を食わされ続けていたのだ。発狂していないだけマシだと言える。

 一朝一夕でどうにかなる問題では無い。心が持ち直すには、相当な年月を必要とするだろう。

 

 しかしこのまま放っておいても、シャーロットは衰弱の一途を辿るのみなのは明白だった。

 

「どうしたもんか……」

 

 せめてリリンフィーの呪いが治りさえすれば活力を取り戻すだろうが、魔法も使えないヴィクターに、治す術など万にひとつもありはしない。

 エマが言い残した『千年果花の霊薬』とやらも調べはしたが、伝説級に希少な霊薬らしく、入手方法さえ判然としない始末。

 

「……、」

 

 時間が解決する問題なのはわかっている。心の傷に特効薬なんて存在しない。

 だからといって、このまま傍観に徹するのは性分ではない。

 ならば話は早いか。ヴィクターという男は、頭より体を動かすことを先決した。

 

「っしゃ。こうなったらシャーロットの元気取り戻す作戦、やってやろうじゃねぇの!」

 

 

 しかしながら、傷心した少女を元気づける方法なんて、記憶を失った男に分かるはずもなく。

 なにせ人付き合いはシャーロットのみなのだ。他に交流があったかどうかは、記憶を失くす前の自分が知るのみである。

 

 であれば、参考となるのは図書室の蔵書たちだった。

 あの場所には山のような本が眠っている。専門的な学術書から、それこそ俗物的なものまで様々と。

 

 そんな中の一冊に、落ち込んだ異性を喜ばせるには贈り物が良いと書いてあったので、一先ず信じてみることにした。

 

 だが言うまでもなく、島の中でシャーロットに元気を取り戻させるような品を探すなど、無茶ぶりにもほどがある。

 であれば、ヴィクターがポータルを使って島を出る選択を取るのは必然と言えるだろう。

 

「おおー、すげぇ。浜から一瞬で知らないとこに出たぞ」

 

 シャーロットから貰った、ポータルの通行許可証らしい指輪をなぞりながら感嘆を零す。

 

 みたところ、どこかの町の路地裏らしい

 建物に挟まれた薄暗い景色を見上げる。草場はおろか、土くれすら無い人工的な地面を見下ろす。

 人の生活圏に、足を踏み入れたのだと実感した。

 

「声がする。結構にぎわってるな、あっちが人通りか」

 

 鬱屈した路地裏を抜け、まばゆい日の元へ飛び出して。

 現れた外の世界は、一目見て素敵な町だと思えるような情景だった。

 

「うおおおー! 町だ! 人だ! すげーすげー!」

 

 整備された石造りの道路。そこら中にごった返す無数の人々。

 人混み特有の息苦しさは感じない。透き通った水の流れる水路や、整列した街路樹が、町並みに清潔感と潤いを与えているからだ。

 

 なによりカラフルな看板やユニークな建物たちの群れは、それぞれ個性を主張し合い競争に励む、商売という人の営みの盛況を悟らせる活気があった。

  

「あれは八百屋か。こっちは服屋に雑貨屋! どれもこれも洒落た見た目してやがる。反対にあっち側は大衆酒場っぽい雰囲気だな」

 

 今まで森の中で暮らしてきた反動か。目に映るすべてが真新しく、キラキラと輝いて見えた。まるでちょっとしたテーマパークである。

 

 見惚れつつしばらく歩いていると、大きな通り道を、宙に浮かぶ金属で出来た箱のような物体が高速で行きかっているのが見えた。

 中には人が乗っている。形もさまざまで、人しか乗れなさそうなものもあれば、明らかに物資を運搬するための大型のものまであった。

 

 どうにも気になって、通りすがりの青年に声をかける。

 

「すみません! あの箱ってなんですか?」

「箱? ああ、もしかしてキャルゴのこと?」

「多分それッス! 人とか物とか乗せて動き回ってるアレ。初めて見たもんで」

「あれは『運搬用魔導駆動機(キャリーゴーレム)』だね。もっぱら(キャルゴ)って呼ばれてる。人が中に入って移動するための道具さ。物資の運搬だけだと、自動運転の無人(キャルゴ)なんかもあるね」

「へー! あれゴーレムなんスね!」

 

 ゴーレムは本で読んだから知っていた。金属、樹木、岩石などを原料に魔法で生み出される、半自律型の作業用道具である。

 基本的に誰にでも出来るような軽作業を肩代わりさせる、人型のゴーレムが大半を占める。

 書き込まれた術式の複雑さによっては、料理などの複雑な工程も可能だという。

 

 話を聞くに、どうやらキャルゴは完全自律型ではなく操縦型のゴーレムのようだ。

 人の足より速く移動することを目的にされたものだろう。

 

「ウチみたいな田舎町に普及したのはほんの最近だけどね。まだ空飛ぶ絨毯や箒なんかも現役だよ。けど、車の姿形も知らないってことは相当な田舎から来たのかい?」

「えーっと、まぁ、そんな感じで」

「そうかそうか。ここは良い町だよ。空気も良いし食べ物もうまい。何より交易の町だから、人種にも流浪の身にも寛容だ。ゆっくりしていくといい」

 

 言われて周りを見渡せば、なるほど確かに、さまざまな人々が往来していた。

 

 ヴィクターと同じ、最もスタンダードな種族だろう基人(ヒューム)はやはり一番数が多く、活動内容も十人十色だ。

 

 オープンテラスのカフェでは、背が低くずんぐりむっくりとしいていて、豊かなひげを蓄えている鉱人(ドワーフ)たちが、何やら図面を手に集団で話し込んでいる。

 花屋を営んでいるらしい、スラッとした体形と薄緑の髪、とんがり耳が特徴的なのは森人(エルフ)だろう。

 花の香りがしそうなふわりとした笑顔で接客する姿は、なかなかどうして様になっていた。

 今しがた漁船が到着した船着き場では、魚人(マーマン)たちが力を合わせて巨大な怪魚を船から降ろす作業をしている。

 

 その他にも、種族名も知らない珍しい亜人が闊歩しているのが目に映った。

 彼らに白い眼を向けるものは誰も居ない。これが当たり前の光景で、この町の日常の一欠片なのだ。

  

「──ん?」

 

 ふと。

 視界の端。突然うずくまった男の姿に焦点が合った。

 

 身の丈より大きなバックパックにこれでもかと荷物を詰め込んでいる、鉱人(ドワーフ)の老人だ。

 突発的に腰をやられたのか、蒼褪めた形相で動けなくなっている。

 

 最悪なことに、積荷を背負う大型の(キャルゴ)が、今にも通り抜けようとする車道のド真ん中で。

 

「じいさんッ!!」

 

 考えるより先に体が動く。

 足をバネに地を蹴り飛ばす。腕を全力で振り抜き、全霊をかけて疾駆した。

 

 だが無理だ。間に合わない。人間の体は(キャルゴ)に追いつけるように出来ていない。

 (キャルゴ)を見る。最悪なことに自動操縦型の無人だった。運転手にアピールして止めさせる手段が潰えてしまう。

 

 自動操縦という性質状、安全面を考慮して障害物を感知すれば止まる術式が搭載されているかもしれない。 

 だがそれはあくまで可能性だ。もしこのまま止まらなかったら、あの老人は挽肉に加工されてしまう。

 

「クソッたれがッッ!! 間に合えッ!!

 

 その時。

 カチッと、ナニカが噛み合う音がした。

 

「──ッッ!!」

 

 時の流れがぐわんと緩む。

 ヴィクターを除く世界の全てが鈍重と化し、刹那、その身は疾風迅雷へ昇華した。

 空を裂き、恐るべき速度を伴って道を貫く。通行人を潜り抜けて路上へ飛び込み、老人を抱きかかえながら対岸へ。

 

 安全圏まで辿り着いた時には、時間の流れは元通りに戻っていた。

 

(あッッぶねぇ! 間一髪だった! 運よく力が発動してくれたお陰で……いや、もしかしなくてもこの能力、俺が必死になったりすると発動するのか?)

「お、おぉ、すまないね兄ちゃん。ありがとう、助かったよ」

 

 抱えていた老人を降ろし、老人の衣服についた土埃を払う。

 

「怪我とか大丈夫スか? なんかずいぶん苦しそうに見えましたけど」

「あぁ、持病の発作が運悪く出ちまってね……。心臓が悪いんだ。最近は薬も飲んで平気だったんだが」

「心臓が!? ちょっ、それなのにこんな大荷物抱えて、無茶し過ぎッスよ爺さん!」

「面目ないねぇ。やれやれ年は取りたくないもんだ。昔はこれでも大工の匠だったんだが、引退してから随分ナマっちまった」

 

 老人はヴィクターの手を両手でしっかりと握り締め、「本当にありがとう」と礼を告げる。

 

「お前さんは命の恩人だ。ぜひ礼をさせてほしい。ウチまで来てくれないかい?」

 

 腰をトントン叩き、背伸びをして再び大荷物を背負おうとしたものだから、ヴィクターは慌てて止めに入る。

 

「ちょっ、爺さん! また心臓悪くしちまうって! 俺が代わりに背負うから!」

「いやいや、これ以上迷惑はかけられんよ」

「それでぶっ倒れちまったら元も子もねーんスよ! 俺のためにも手伝わせてくれ! な?」

「そうかい? ありがとなぁ」

「お安い御用ッス!」

 

 荷物を受け取りながら、ズンッとのしかかるその重量に愕然とした。

 いくら鉱山環境に適応した頑強な鉱人(ドワーフ)といえど、こんなもの背負ってたらそりゃ体も悪くするわと、引き攣る笑顔を陰で漏らす。

 

「お前さん、気骨のある良い若者だねぇ。近頃にしちゃ珍しいよ。それにあの足の速さ、高名な魔法使いさんかえ?」

「いやーそれが俺、全然魔法使えないんスよ。むしろ一度でいいから使ってみたいくらいで、ちょっと憧れてます」

「そりゃ本当かね? ならずいぶん鍛えてるんだねぇ。良い体してるしの、カッカッカ」

 

 魔力が無いこと、特殊な境遇で奇妙な力を手にしたことはもちろん伏せる。腕に包帯を巻いておいてよかったと安堵した。

 

「ところで、礼は何がいいかい? こう見えてワシは顔が利くし金もある。何でも言ってみなさい」

「んな、いいっスよお礼なんて」

「こういう時は謙遜するもんじゃあないよ。ワシにも筋を通させておくれ。老いぼれにはそれくらいしか出来んのだ」

「そういうことなら、そうッスねえ。うーん……」

 

 少し迷って、ヴィクターはぽつりと零すように言った。

 

「実は……ちょっと悩んでることがあって」

「ほう? 言ってごらん」

「なんというか、その。どう話したらいいか分かんないんスけど……デカい恩のある人が凄く傷ついちまってて、食事も喉を通らないくらい落ち込んじゃってるんです」

「ふむ……」

「何か元気の出るプレゼントでも探そうってこの町に来たんスよ。でも女の子が元気出るようなものとか、俺、全然分かんなくって」

 

 言いながら、ヴィクターはハッとしたように重要な見落としに気付く。

 

「そ、そういえば俺、そもそも買える金持ってねえじゃん……!! いや、あるにはあるけどシャロに貰ったもんだし、アイツの金でアイツのプレゼント買うってのか……? クソッ! なんでこんな大事なとこ見落としてたんだ! まず仕事探して金稼がねぇと!」

「……お前さん、良い男だな。傷ついてる人のために、心から動けるヤツってのは中々いないもんだ」

 

 そういうことなら任せなさい、と老人は微笑みと共に言った。

 

「仕事を探してるってなら、ウチで働いてみてはどうかね」

「え?」

「お前さん、この町の住人じゃあないんだろう? そういう寄り人は大抵、ギルドに行って仕事を受けたり探したりするもんだが、登録はしてるのかい?」

「いや……ギルドなんて初耳レベルっス……」

「じゃあ今から登録してもライセンスは『銅冠級(ブロンズ)』スタートだな。誰でも受けられるような仕事ばかり回される。そういうのは報酬が低い。普通はそこから信用やら実績やらコツコツ積んで等級上げていくもんだが、お前さんには短期間でまとまった金が必要なはずだ。違うかね?」

「……そうっスね。あまり時間はかけられない」

 

 長期戦は可能な限り避けたいところだった。

 今のシャーロットには余裕がない。リリンフィーの治療の目途が立っていない以上、放っておけば精神状態は悪化する一方だ。

 

 シャーロットの精神力の強さはヴィクターもよく知っている。あれほどの悪夢に見舞われても、いつかは立ち直るだろうと言う確信がある。

 だがそんなのは何年も先の話だ。シャーロットが忌まわしい事件を呑み込んだ頃には、心に大きな古傷が残されてしまった後なのだ。

 

 ヴィクターはその古傷を、出来る限り小さくさせたい一心で動いていた。

 酷い火傷も処置の早さで痕の大きさが変わってくるのと同じように、早期解決こそが鍵である。

 ゆえにヴィクターは、考える暇すら勿体ないと島を飛び出したのだから。

 

「だったらウチがちょうどいい。3日だけ働いてみらんかね。報酬には色を付けると約束するよ」

「マジッスか!?」

「恩人に嘘など言わんさ。本当なら直ぐにでもお金を渡したいところなんだが、押し付けたとて受け取らんだろう? お前さんはそういう男だ」

 

 ぐうの音も出なかった。

 出会って間もないにも関わらず、すでにこの老人はヴィクターの性格を見抜いているらしい。

 

「どうだね? 少々キツい仕事だが、やってみるか?」

「もちろんッス! やらせてください!!」

 

 

 当然、断る道理などあるはずもなかった。



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15.「お勉強の時間」

「おう坊主! 今日も一日お疲れさん! オラ、お給料3日分だ」

「あざ────―ッス!!」

 

 全身全霊感謝御礼。ヴィクターはバネの如き瞬発力で腰を90度に曲げながら、手渡された封筒を受け取った。

 開けてみろと言われたので、さっそく中を拝見する。

 両手を合わせて祈りを捧げる女性が描かれたお札が10枚入っていた。

 

「ひぃ、ふぅ……じゅ、10万リル!? こんなにいいんスか!?」

「当たり前だろ! お前はオヤジを助けてくれた恩人なんだからな。ちゃんとガッツリ働いてくれたしよ!」

 

 ガッハッハ! と豪快に笑いながらヴィクターの背をバシバシ叩く大男は、仕事現場の親方だ。ヴィクターが知り合った老人の婿養子なのだという。

 建築や魔獣の解体業を生業にしているだけあってか、ヴィクターより一回りも大柄な巨躯と筋肉の鎧は、暑苦しくも猛々しい益荒男そのものだった。

 

「いやぁ、にしても本当に助かったぜ! スタッフが急に2人も辞めちまってよぅ、人手が足りなくてホトホト困ってたんだ。初めて会った時はこんなヒョロガキで大丈夫かと心配だったが、オヤジの眼に狂いは無かったな!」

「いや親方と比べたら全人類ヒョロガキじゃないッスか!」

「ん? それもそうか? まぁ何にせよ、お陰さんで仕事が一段落ついたんだ。遠慮せず受け取りやがれ! ガッハッハッハ!」

 

 ヴィクターが任された仕事は、老人が営む仕事現場のアシスタントである。

 望まれた場所へ資材や道具を運び、必要であれば手を加える。それを一日中ひたすら繰り返し続ける。

 内容自体は単純だが、相当な重労働ではあった。

 

 鉱人(ドワーフ)が経営する環境なだけあり、使う材料には魔獣の素材などが含まれている。

 これがハチャメチャに厄介なのだ。例えば鋼の如き頑強な大鬼熊(オオオニグマ)の骨を適切に加工する場合、普通は3人がかりで数時間をも要してしまう。

 

 それをヴィクターは単身でやり遂げていた。この時ほど『純黒の王』由来の怪力とスタミナに感謝したことはなかったほどである。

 もし普通の人間だったら、今こうして立って会話することすらままならなかっただろう。

 

「それで、もう行くのか? 何ならずっと雇っても良いんだぜ。ガッツあるヤツは大歓迎だ。金も弾むぞ~?」

「ありがとうございます。でも俺、やらなくちゃいけないことがあるんです」

「ほう。ということは、贈り物は決まったのかね?」

 

 鉢巻を巻いた鉱人(ドワーフ)の老人が、煙草をフカせながらやってきた。

 

「オヤジ! 来てたの──あっ! また煙草なんか吸いやがって!」

 

 プカプカくゆる紫煙が親方の琴戦に触れたのか、老人へ捲し立てるように「オヤジ煙草は駄目だぜ何度も言ってるだろう煙草は毒の塊で体に害しかないんだ肉を食え肉を肉は健康を育ててくれる」と詰め寄っていく。

 

「あーはいはい分かった分かった。これで最後の一本にするよ」

「オヤジ俺はオヤジのために言ってるんだぜ心臓も悪いのに体に悪いモンばっか吸ってちゃ悪くなる一方だ肉食え魚食え野菜食えそんで体動かしゃ無敵になれるするとあら不思議煙草はもう要らねぇんだ最強だろ」

「すまんねお前さん。こいつドがつくほどの嫌煙家でな、いつもうるさいんだ」

 

 筋肉至上主義ゴリラをひらりとかわし、老人はうんざりしたようにしょげながら言った。

 ゴリラは渡された煙草にウホウホゴホゴホ威嚇していた。

 

「なんつーか、よく婿養子に迎え入れましたね……。や、嫌味じゃなくてなんかこう、正反対な性格なのが不思議で」

「そらぁ曲がりなりにも娘が惚れた男だからね。悪い奴じゃないし、なにより働き者だ」

 

 ニカッ、としわくちゃな笑顔を刻む老人。

 幸せな余生を過ごされているんだろうと伺い知れて、何だかヴィクターまでも嬉しくなった。

 

「で、贈り物は決まったのかね」

「あー……それが全然……! なんか考えれば考えるほどドツボに嵌っちまって……!」

「オヤジ、贈り物って何の話だ?」

「なんだ聞いてなかったのかい? こやつはね、傷心の女子(おなご)を勇気づけるプレゼントを買うために働いてたのさ。甲斐甲斐しいだろう?」

「マジか坊主! 青春だなぁオイ、このっ!」

「違っ、そんなんじゃないッスよー!! ただ恩返ししたいだけなんですってちょっ、髪ワシャワシャしないでガキじゃないんスからっ!?」

 

 親方の熱烈な抱擁から逃げ惑っていると、老人が豊かな白髭を撫でながら目を細めつつ口を紡いだ。

 

「お前さんが迷っている原因は、率直なところ女心が分からんからではないか?」

「ハイ! もうサッパリで!!」

「清々しいくらい降伏宣言したな」

「カッカッカ。ならば殊更(ことさら)、そこんところを勉強せねばなるまいな」

「べ、勉強? つっても俺、女の子の知り合いなんてアイツしか居ないんですけど……」

「だから講師を呼ぶのさね」

「……あーなるほど。確かに、あの人はこれ以上に無いセンセーだわ」

 

 老人の意図を理解したのか、腕を組んでうなずく親方。

 しかしどうにも渋い表情である。懸念というか、心配というか。どことなくヴィクターの身を案じているかのような面持ちだった。

 

「まぁ頑張れよ坊主。悪い人じゃないんだがちょっと……いや、かなーり癖の強いお方でな」

「え?」

「大丈夫、大丈夫。こやつはそう簡単に挫ける男じゃないよ。な? お前さん」

「え? え?? あの、どういう方向に話が進んでらっしゃるんで?」

「まぁ頑張れよ坊主」

「肩ポンしながらリピートしないでくださいよ!? なんスかその絶妙に生温かくてキラキラした不気味な眼差し!?」

 

 一体どんな人に会わされるんスかーッ!? と悲鳴をあげるヴィクターをよそに、老人は懐からこっそり煙草を出して親方に取り上げられながら言う。

 

「人呼んで愛の千年女帝。ま、つまるところワシのカミさんだな」

 

 

 

 

「まぁまぁまぁまぁアンタが噂のヴィクターちゃんかい!? 聞いてたより随分とイイ男じゃないか! ええ!?」

「ど、どもッス。あの、旦那さんにはいつもお世話になってま────」

「ナヨナヨペコペコしてんじゃないよ! 男なら常にケツ穴から頭の先までビシッとしてな!!」

「あだーっ!?」

 

 ばちーんっ!! と星が散りそうな勢いで尻を叩かれ、ヴィクターは仰天と共にこれ以上ないほど背を引き伸ばした。

 

 老人に連れられ、邸宅を訪れた彼を待っていたのは、想像の100万倍エネルギッシュな鉱人(ドワーフ)の老女である。

 真っ赤な口紅。綺麗にまとめられたお団子髪。三角形のピンクカラー眼鏡。気品あふれる豪奢な衣装。

 

 荒々しく鼻息を散らすこの淑女こそ、あの老人の妻こと、愛の千年女帝・ビビアン女史らしい。

 

「すまないが任せてもいいかね? 女子(おなご)にあげる贈り物で困ってるそうなんだ。力になってあげて欲しい」

「フン、アタシを誰だと思ってるんだい!? この女帝様の手にかかれば、どんなブ男も一流のハンサムに変えてやるサ! 任せなッ!!」

「頼もしいね。じゃあそういうことだ、頑張んなお前さん」

「ちょっ、爺さん!? 置いてかないでくれ爺さーんッ!!」

 

 送り届けるやいなや、老人は快活な笑い声と共に玄関をピシャッと閉めて消えてしまった。

 残されたヴィクターはビビアンに半ば引きずらつつ、広々とした居間へと通されていく。

 

「話は旦那から聞いてるよ。傷ついた女の子を元気にさせてやりたいんだって? 甲斐甲斐しいヤツだねぇアンタ! お茶だよ!」

「あ、ども」

 

 豪快に提供された白磁器のカップを手に取り、一口。

 瞠目。思わず「美味い」と口漏らすほどの香り高さと、奥ゆかしい嫋やかな味わいが吹き抜けていった。

 一流のお茶とはこういうものなのかと、まさかの感動体験を手に入れる。

 

 よくよく見ればこの老女、言動こそ豪傑な破天荒のソレだが、仕草のひとつひとつが綿雲蚕(ワタグモカイコ)の絹糸のように繊細である。

 剛と柔を兼ね備えているとでも言うべきか。なるほど確かに、女帝の名に恥じない風格の持ち主だった。

 

 これは本当に学び甲斐がありそうだと、ヴィクターは兜の緒を締め直すような気持で向かい合う。

 

「で、アンタはその子にどんなモノを送れば良いと思ってるんだい? とりあえずでいいから言ってみな!」

「そうッスね。やっぱ女の子は花束とか」

「かァァァ──ペッッッッッッッ!!!!」

「大砲みたいな唾吐くほど駄目!?」

 

 取り出したハンカチなど貫かんばかりの唾棄をぶちかましたビビアンは、クワッ!! と大きく目を見開いて、

 

「ダメダメだね全然ダメ!! とりあえず女にゃ花あげとけば喜ぶなんて発想が許されるのは寝小便垂れてるガキンチョまでだよ! 土食って死にな!!」

「ええーっ!? でも女の子って、綺麗なのとか可愛いモンが好きじゃないんスか!?」

「一理あるよ。けどね、そういうのは『誰が』『どんなシチュエーションで』あげるかが一番のカギなのさ! 物も大事だが、より状況がモノを言うモンなんだよ! 簡潔に言えば好かれ具合で決まるのさ!」

「す、好かれ具合……!」

 

 喋る乱気流にでも巻き込まれたかのようだった。

 ビビアンの覇気と言葉が纏う語気の強さに、思わずそうなのかと息を呑んでしまう。

 

「例えば、愛しい恋人から記念日に花と愛の言葉を送られたらそら嬉しいさね。でもとても落ち込んでる時、誰とも知らない相手から急にドデカい花束差し出されたらどんな気持ちだい!?」

「何だコイツってなります!!」

「そういうことさ! だからプレゼントってのはまず、女の子からの好感度で選ぶ必要があるんだよ! 逆に好感度ゼロならプレゼントなんて無意味さね! わかったかい!?」

「押忍!!」

「じゃあ肝心のアンタはその子にどう思われてるんだい!? 話はそれからだよ!」

 

 どう思われているのか。

 その言葉が、ヴィクターの息をグッと詰まらせた。

 

 嫌われてはいない、とは思う。

 だが好かれているかと聞かれれば、それもまた微妙な塩梅だ。

 なにせ今のシャーロットを取り巻く環境は、あまりにもぐちゃぐちゃで混沌を極めてしまっている。

 

「……わかりません。俺は友達だと思ってるんスけど、色々あって。その子は俺に対して負い目を感じてるみたいで。どう思われてるのやら」

 

 生贄にしようと命を狙ったこと、事件に巻き込んでしまったこと。シャーロットはそれを心の底から悔やんでいる。

 並みの罪悪感ではない。それがヴィクターに対して、どんな心をもたらしているのか知るなんて不可能だ。

 

 そう思っていた。

 

「なんだ。それなら全然問題ないよ」

「え?」

「何があったのかは知らないがね。落ち込んでてアンタに負い目があるってことは、その子が何かやらかしちゃったってことだろう? それこそ取り返しのつかないくらいデカいヤツをね」

 

 鋭い。あまりにも鋭い。

 たった一言二言で察しをつけたビビアンの洞察力に、思わずヴィクターは畏敬を抱く。

 

「その通りッス。アイツは何も悪くないんですけど、完全に自分を責めちゃってて」

「なら別に嫌われてるんじゃないさ。大方、アンタに対して素っ気なくなっちまったから好かれてるかどうかわからないって感じだろうが、その子は心に余裕が無くなってるだけだよ」

「……そう、なんすかね」

「そうさね。だったらほら、自ずと答えが見えてきたじゃないか」

 

 ビビアンはにやりと、伊達な笑顔を浮かべて言う。 

 ゴッドマザーの異名に相応しい、豪快で妖美な破顔だった。

 

「ハッキリ言うとね、どん底まで落ち込んでる子に贈り物をポンッと送った程度で元気にさせるなんて、そんなの夢物語だよ。無理さ」

「そんな……! だったら俺はどうしたら!?」

「馬鹿だね、言ったろう? 大事なのは相手が誰で、どんなシチュエーションか。物に縛られる必要なんかないんだよ」

 

 だから、とビビアンは付け加えて。

 

「アンタがプレゼントになりなさい」

「……え、俺スか!?」

 

 予想だにしない答えに、ヴィクターはキョトンとして自分を指さした。

 

「アンタ、その子が本当に心配なくらい仲良かったんだろう?」

「はい。俺にとって恩人で、大切な友達です」

「だったらそれは相手も同じさね。想像してごらん? 立場が逆なら、その子はアンタに何をする?」

「……俺と同じことをすると思います」

「だろ? だからアンタがカギなのさ。信じられる相手からの真心が、どんな薬よりも心の傷を癒すんだ。暗闇のどん底で塞ぎ込んじまってるなら、辛いことを忘れるような時間をあげなさい」

 

 真っ赤なマニキュアを塗った爪で、ヴィクターの胸をトンと小突きながらビビアンは優しく答えを告げる。 

 

「ま、早い話がデートに誘えってことよ」

「デ、デート!?」

「多少無理やりでも良い。手を引っ張って外に連れ出してやりな。男は時に、強引に行かなきゃいけない時があるんだよ」

 

 ──それは。

 

「外の新鮮な空気を吸って、美味いもんでも食べさせて、綺麗な景色を見せておやり。一秒でもいいから、嫌なことを綺麗さっぱり忘れさせること。傷ついた子にはそういう白い時間が必要なんだ。でも心の傷は、そんな時間を自分で作れなくさせちまう。だからアンタが作ってやるんだよ。それが、何よりも素敵な贈り物になるのさ」

 

 ──それは目から、鱗が落ちるような感慨で。

 

(……慰めの言葉とか、そういう生半可な親切は、かえってシャロを傷つけちまうと思ってた)

 

 魂の底から、武者震うかのようだった。

 

(怖かったんだ。これ以上アイツが暗闇の中に沈んじまうかもって、怖くなった。だから物に頼ろうとした。現状維持が、少しでも上向きになれば良いと思ったから。……自己満足だ。俺は自分の気持ちばっかりで、シャロに何が必要かなんて、これっぽちも考えちゃいなかった)

 

 膝の上に握る拳に、ぎゅうっと力が籠っていく。

 

(重要なのは俺の心配なんかじゃない。シャロに何が必要かってことだ。悪夢を呑み込むための長い時間じゃなくて、悪夢を跳ね除けられるような、暖かい時間が必要だったんだ。俺は馬鹿だ、大馬鹿だ!)

「その顔、どうやら理解したみたいだね」

「はい。お陰で目が覚めた気分です」

 

 椅子に手を掛け、ゆっくりと立ち上がる。

 するとヴィクターは縁に手を突きながら、テーブルへ頭突きせんばかりの勢いでビビアンに頭を振り下げた。

 

「お願いします!! 俺にデートを教えてください!!」

「────」

「俺、アイツが嫌なこと全部忘れちまうくらい、最高の時間を過ごさせてやりたいんです! アイツを元気にしてやりたいんです!! でも俺馬鹿だから、どうしたら良いか全然分かんなくて……! 恥を忍んでお願いします、力を貸していただけませんか!?」

「──よく言ったァ!!」

 

 これ以上に無い豪快な笑顔と共に、ビビアンの声が邸宅中に響き渡った。

 あまりの声圧にカップが震える。けれどヴィクターは、ビビアンの力強い瞳からまっすぐ目を逸らさなかった。

 

 ビビアンは瞬時にヴィクターの隣へ移動して、背伸びをしながら老女とは思えないほどの力でヴィクターの肩をがっしりと掴む。

 

「アンタ本ッ当にイイ男だね! 旦那が惚れ込んだだけはある! アタシはね、イイ男は放っておけないタチなのさ!」

「ビビアンさん……!!」

「これからは師匠とお呼び! 安心しな、アタシも久しぶりに女帝魂に火が着いたからね。全身全霊をかけて、アンタを一流の男に変えてやるよ!」

「し、師匠!!」

「キツい修行になるからね! 覚悟はいいかいッ!?」

「押忍ッ!!」

 

 

 

 闘魂十分。気炎万丈。

 少女の心を癒すため、パワー型女帝によるデートプラン修行が幕を開けた。



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16.「仁愛と覚悟、冥暗の瀬に」

 強くならなきゃと、私は涙を伝わせた。

 

 私に妹が生まれた日。かわいくて、小さくて、暖かい命が産声を上げてくれた最高の日。

 けれどリリンは人の身に過ぎた『純血』を宿し、みんなの期待と希望を一身に受けながらも、虚弱に体を呪われてしまっていた。

 

 毎日のように病でうなされ、苦しむ妹がぎゅっと私の指を握ってきた夜の帳。

 何もしてやれない自分のことが、本当に本当に嫌いだった。

 泣いて、吐いて、助けてと訴える妹へ、何も出来ない自分の無力さに腹が立った。

 悔しくて惨めで、溶けた鉄のような涙が何度こぼれたか分からない。

 

 リリンの手を固く握り返しながら、私は強くなるんだと決意した。

 だって私はお姉ちゃんだから。リリンフィーは、私が守ってあげるんだ。

 

 私は、甘えた子供であることを捨てた。

 

 

 

 強く在るんだと、私は涙を呑み込んだ。

 

 憎々しい紅蓮の業火が瞳を埋めた日。私の人生が焼き尽くされた最悪の日。

 父も。母も。従者も。家も。思い出も。何もかもが灼熱と黒炭の奈落へ沈んでいった夜の檻。

 

 灰に埋もれた墓標なき家族の焼け野原で、私はどうすることも出来なかった。

 叫ぶことも。泣くことも。取り乱すことさえも。

 幼い妹がいたからだ。あの子が流す涙と痛みを、私が拭ってあげなくちゃいけなかったからだ。

 

 リリンを守るとあの夜に誓った。その決意と覚悟に一片の揺るぎもない。

 だから私は強く在れた。強く在らなきゃ、この子を守れないと知っていたから。

 小さな小さな可愛い妹。私のたった一人の愛しい家族。

 

 あなたを守るためならば、私は全てを捨てたってかまわない。

 吐き気がするような現実も、胸を抉られそうな思い出の甘みも、あなたの分まで呑み込んで、私があなたの盾になる。

 

 私は、か弱い女の子であることを捨てた。

 

 

 

 強いだけでは足りないのだと、私は涙を火に()べた。

 

 妹を守るために我武者羅で生きた。子供であることも女であることも捨てて、私はリリンを守る姉として生きてきた。

 

 焼け残った財宝を売り払って、生活を立て直す資金を作った。宿を借りてリリンが安心できる居場所を作った。稼ぎを得るために東奔西走を繰り返した。

 無暗に身分を明かせない血筋に、年端もいかない子供という弱者の立場が絡みつく現実は、想像以上に過酷で辛酸に満ちた生活だった。

 

 千年も隠遁してきたアーヴェントに社会福祉なんてセーフティネットは使えない。リリンをまともに病院へ行かせることすらままならない。

 

 不幸中の幸いだったのは、身元が不透明でもギルドが仕事をくれたことだろうか。

 それでも得られる報酬なんて雀の涙。エマと二人三脚で、どうにかリリンの薬と日々の糧を得る毎日。

 

 けど私は、きっと幸せだったのだと思う。

 あの子のためなら仕事が大変でも耐えられた。あの子が笑ってくれるなら、貧しくなったって平気だった。

 苦しかったけれど、少しずつ少しずつ前に進んでいく日常が、日々増えていくリリンの笑顔が、私に力をくれたから。

 

 目標だって出来た。私もリリンも成長して一人前になったら、また島に戻ってやり直そうって約束した。

 災厄の日から止まってしまった私たちの時計を、私たち姉妹の手で、もう一度動かすんだって笑いあった。

 

 失くした過去は戻らない。焼け落ちた時間は戻せない。

 肌身を刺すような現実という茨の抱擁を受け止めて、目指すべき未来という憧憬を、私は夢見ることが出来るようになっていった。

 リリンが亡くなったと知らされるその時までは。

 

 

 3日間。私は大きな仕事を遂げるために家を空けて。

 そして。そして。ああ。

 帰って来たら、真っ赤に眼を腫らしたエマから振り絞るように告げられて。

 

 ──ギルドから舞い込む仕事をこなしていくうちに、私は『銅冠級(ブロンズ)』から『金冠級(ゴールド)』まで昇格していた。

 報酬も目に見えて増えた。始まりの頃と比べれば、生活も随分楽になった。

 この大仕事だって、そうして掴み取った明日への一端だったんだ。

 

 やっと、やっと。

 もう一度やり直せるんだって思ったのに。

 思えるように、なったのに。

 

 

 私の何が間違っていたんだろう。

 私たちの何が、間違っていたんだろう。

 

 私たちが負の歴史の生き証人(アーヴェント)だから? 

 この世界に存在してはならないから、ただ静かに生きることさえ許されないとでも?

 こんなものが、こんな結果が、度し難い残酷な仕打ちが、辿るべき運命の微笑みだったとでも?

 

 違う。

 違う。違う!

 違う違う違う違う違う!!

 

 認めるものか。認められるものか。

 私たちは間違ってない。何も間違ってなんかいない。

 

 ただひっそりとその日その日を暮らしてただけだ。

 悪事を働いたことなんて一度もない。誰も不幸になんかしていない。

 幸せに生きられたら、他には何も要らなかったのに。

 それさえ許されないのなら、人間は全員大罪人じゃないか!

 

 

 私は証明すると決めた。

 子供であることも、女であることも、『シャーロット』であることを捨ててでも。

 私たちは、この世から失せるべき禁忌なんかじゃないのだと。

 

 海の果てに追いやられ、千年も罪を被せられ、陰の中を生きることを強いられたアーヴェントの結末が。

 何の罪も犯していない、私の家族の結末が。

 こんな終わり方で許せるわけがあるか。こんな運命が認められるものか。

 

 ならば、生き残ってしまった者としての責務を果たす。

 アーヴェントを復活させる。そして世界に証明する。

 私は、私たちは、消えなくちゃいけない存在なんかじゃない。

 

 

 私たちは、何も間違ってなんかいないんだ。

 

 

 

 

 胸を刺すような夢を見ていた気がする。

 

「……ん」

 

 薄暗い部屋で目が覚めた。 

 体を起こそうとすると、節々に鈍い痛みが駆け抜けた。

 関節からパキパキという異音。テーブルへ突っ伏すように寝ていたからか、油の切れたブリキのように錆びついている。

 

「いけない、寝ちゃってた。調べ物の途中だったのに」

 

 乱雑に開きっぱなしになっていた書物たちを整頓する。

 内容は魔法医学、薬学、禁忌魔法、呪いの解呪にまつわるものなど様々だ。

 言うまでもなく、リリンフィーを蝕む奇病を治す手段を模索している最中だった。

 

(星の刻印は唯一無二、この世に二つと同じ能力は存在しない。けれど、能力の理論構造は魔法とよく似てる。肉体を自在に改造する呪いや禁術があれば、そこから逆算してリリンの足を治せる方法が見つかるはず……)

 

 あの事件から数日。リリンフィーは延々と眠り続けている。

 エマが施した睡眠魔法のせいではない。シャーロット自ら、リリンフィーの周辺時間を凍結した影響だ。

 

 リリンフィーの首元に存在する、光を呑むほど真っ黒な、時針の存在しないダイアルだけの懐中時計。

 物理法則へ意のままに干渉するという黒魔力を注ぐことにより、指定した空間の時の流れを堰き止めるアーヴェントの秘宝である。

 

 リリンフィーの体はエマの持つ『人錬の刻印』によって改造され、もともと在った足から新たな足が無数に発生してしまうという極めて歪な状態にある。

 そんな体のまま放っておけば、次々と増殖する自身の器官によってどんな影響がリリンフィーに降りかかるか想像もつかない。

 

 元々リリンフィーは、自身が抱える『純血』のもたらす高負荷によって体が極端に弱いのだ。

 ある意味、今までエマが()()()()()()を行っていたから無事だったと言える。

 エマがリリンフィーの心臓ではなくシャーロットの心臓を熟れさせようと目論んだところからも、その虚弱体質は星の刻印をもってしても克服できなかったと窺い知れるだろう。

 

 だからシャーロットは呪いが解けるその日まで、妹の時を止めることを選択した。

 

「……リリン」

 

 背後で眠る妹を見る。

 治癒魔法の仮説理論を証明するために書き殴った紙を、いたたまれないように握り潰して床に放り投げた。

 同じようにくしゃくしゃに丸められた失敗作が、一面中に散らばっている。

 

「……ごめんなさい」

 

 妹の顔を直視出来なくなっていた。

 シャーロットとそっくりだった深海色の髪は漂白され、肌は日の光を拒んだように白く褪せ、足は異形に、華奢だった体はさらに瘦せ細ってしまった妹の姿。

 変わり果てたリリンフィーを瞳に映すと、罪悪感という万力に押し潰されて耐えられなくなる。

 

(私のせいだ。私がエマの企みを見抜けなかったから。アーヴェントの再興なんて妄信に取りつかれて、馬鹿みたいな努力に縋って誤魔化して、その裏で、ずっとこの子を苦しめてた。洗脳されてたなんて言い訳にならない。エマの手のひらで踊らされてた私のせいだ。この子を守るって、誓ったはずなのに)

 

 自責。後悔。無力感。

 苦悩の灰汁が、少女の中身を重く満たして抜け落ちない。

 膿んだ傷口から染み出す漿液のように、心を冒す疼痛がジクジクと胸いっぱいに広がっていく。

  

「私……どうしていつも……こうなのかなぁっ……」

 

 リリンフィーが病に伏した時も。家族を失った時も。妹を失ったと脳を書き換えられた時も。

 傍らにあるのは無力感だった。現実が何も出来ない自分の姿を見せつけてくる鏡のようで、それを振り切るために、シャーロットは強く在ろうと歯を食いしばり続けてきた。

 

 その結果がこれだ。

 頑張って、頑張って、必死に頑張って、いつも無為に還っていく。

 

「ぅ……っ」

 

 消えてしまいたい──たまらず吐き出しそうになった言葉の汚泥を、唇を噛んで堰き止めた。

 言っては駄目だ。一度でも口から出してしまえば止められなくなる。

 そうしたら、きっと元には戻れない。曲げられた鉄板の折り目は二度と直らないように、辛うじて繋ぎとめている『シャーロット』が消えてしまう。

 

 でも。

 もう、どうしたら良いのか分からない。

 

(リリンを治す方法は見つからない。エマが言い残した千年果花なんて伝説の霊薬も見つかりっこない)

 

 調べられるものは全部調べた。考える限りの方法を模索した。

 それでも答えは出なかった。出なかったのだ。

 縋っていた希望が湿気た花火のように消えていく。シャーロットの魂魄さえも、芥へ還してしまうように。

 

(疲れた)

 

 頭の奥底がどろりと濁った。

 眼の前が全部灰色になったみたいだった。

 

(もう終わらせてしまおうかしら)

 

 キィ、と椅子を引いて立ち上がる残響。

 ゆっくり、ゆっくり、少女は魂を失くした亡者のように揺れ歩く。

 

(アーヴェントも。私も。リリンも。ぜんぶ)

 

 シャーロットは、眠る妹の頬を赤子に触れるように優しく撫でて。

 虚空より喚び寄せた魔剣の柄を、ぎゅっと力強く握り締めた。

 

 

「よぅシャロ!! 邪魔するぞ!! んでもって、ちょっくら遊びに行こうぜ!!」

 

 

 一切合切を吹き飛ばさんばかりにドアを開け放って現れたそれは。

 少女の足に絡みついた冥暗の瀬を、灼き払わんばかりの太陽だった。



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17.「星降るあなたへ、灯火よあれ」

「シャロ!! 遊びに行こうぜ!!」

 

 轟き奔る男の声。シャーロットはハッとして、亜空から呼び出しかけていたダランディーバを霧散させた。

 

(あ、れ……? 私、何しようとしてた……?)

 

 後ずさる。後ずさる。

 リリンフィーから一歩でも大きく離れようとするように。頭に巣食う黒い蛆に、これ以上操られまいとするかのように。

 

(い、今私っ、リリンを自分ごと斬ろうと……!?)

「おーいシャロ、聞いてるかー? おーい」

「っ。ご、めん。ちょっと、今はやめて」

「聞いてくれよシャロー。最近ちょっと町に出てたんだがな、すげー洒落てて美味ッそうなレストラン見つけたのよ。他にも服屋とか、動物園みたいなのとか、もういっぱい面白そうなとこあってな!」

「お願い……黙って……」

「たしか妹ちゃんの時間は止まってるんだっけか? あまり根詰めすぎても体に毒だしよ、少しくらい息抜きしたほうが────」

「黙ってって言ってるでしょ!! そんな余裕あると思う!? 余計なお世話なの、放っておいて!!」

「うるせ────────―ッッッッ!!!!」

 

 いきなりブッ放された渾身の咆哮に、シャーロットはビクッと肩を跳ねさせて硬直した。

 まるで雷が目の前に落ちたかのような衝撃に思考がプッツリと白紙と帰す。

 「え? え? なに?」と戸惑いの渦潮に呑まれていると、ヴィクターは鼻息を荒々しく吹き散らしながらフンガーッと少女を捲し立てた。

 

「あーもうまどろっこしい!! せっかく師匠から誘い文句教わったのに不甲斐なさ極まりねーが、やっぱ俺にゃこんなスマートなやり方向いてねぇ! だから単刀直入に言うぞ! リフレッシュしろシャロ!! リフレッーシュッ!!」

「え? ぁ、は?」

「もう見てられねーんだよ! お前がどんどんどんどんドン底に沈んでいくサマを!! 妹が大事なのはわかる! 境遇を考えれば落ち込むのも無理はない!! だがなぁ、辛気臭くずっと部屋に閉じこもったって事態は好転しねぇ! 少しでも早く治療法を見つけたいって気持ちは死ぬほど理解出来るが、肝心のシャロが悪くなる一方だ! それじゃ本末転倒だろ! このままじゃお前、本当にドン詰まりになっちまうぞ!?」

 

 ぐっ、とシャーロットは息を詰まらせた。

 反論の余地など見当たらない。ヴィクターの言葉は完全に図星を打ち抜いている。

 

 限界に限界を重ね、シャーロットの精神はもはや正常な機能を働かせられなくなっていた。

 人生をかけて守ろうと誓った唯一の肉親と無意識に無理心中を図ったほどだ。血迷わざるを得ないほどに、少女の奥底に溜まった汚泥は、心の閾値をとっくの昔に踏み越えていた。

 

 けれど、だからこそ。

 太陽のように差し伸べられた手が、余計に惨めに感じてしまう。

 光が強まれば、自ずと陰も濃くなっていくように。

 

「……何? 同情のつもり? 生憎だけど気遣いなんて要らないわよ。そもそも同情される資格なんてない。あなたの命を奪おうとして、リリンをこんな目に遭わせておいて同情なんかっ!!」

「心配して何が悪いってんだ────―ッッッッッ!!!!」

「うっさ、声でっか」

 

 たまらず耳を抑えて顔を顰める。

 生きた活火山と化した男の豹変ぶりに困惑しながらも、まるでシャーロットに溜まった澱みをまとめてブッ飛ばすかのような轟声のせいか、心中を選んでいたほどの魂の悪露は消えていた。

 混乱し過ぎて、そんなこと考える余裕すら無いとも言える。

 

「じゃあ言わせてもらうがなーっ! もし逆の立場だったらシャロはどうする!?」

「そ、れは」

 

 言の葉を紡げず唇を結ぶ。

 果てしなくズルい男だと、目を伏せながら胸をきゅっと抑え込む。

 答えるまでもない。もし同じ状況だったら、シャーロットはきっとヴィクターと同じことをしただろうから。

 

「つーわけだ、ツベコベ言わずリフレッシュすんぞ。そんな湿っぽいツラしてたら、妹ちゃんが起きた時に悲しませちまうだろうが」

「あっ、ちょっと!」

 

 有無を言わせぬ勢いで手を掴まれ、部屋から連れ出されてしまう。

 もはやヴィクターの中では決定事項になっているらしい。どう足掻いても止められないと悟らせるほどの勢いは、猪ですら生易しく思えるほど。

 

「あなた、そんな強引なキャラだったっけ……?」

「男は時に強引に行かなきゃならない場面があるんだって師匠に教わったんだ」

「師匠って誰!?」

「んな事よりまず身嗜みだな。風呂沸かしてるからさっさと入ってこい。というかシャロ、お前いつから風呂入ってねーんだ? ちょっと臭うぞ」

「う、うるっさいなぁ、もう!」

「おっ、ようやく顔色が戻ってきたな?」

 

 ケラケラと悪戯小僧のように笑うヴィクターに、どうにも毒気を抜かれて吐息が落ちる。

 彼自身も、きっとそのつもりでからかったのだろう。

 

(……わざと強引な風を装ってる。私が悲観で溺れてしまわないように。そんなこと、考える暇すら与えないために)

 

 事実、効果覿面(こうかてきめん)だ。事件の日から鉄塊を植えられたようだった胸の内が、少しだけ軽くなっていた。

 無茶苦茶な言動に引っ搔き回されてネガティブに思考を挟む余裕すら無い。

 余裕がないからこそ、古傷の痛みに震え続けていた心奥の悲鳴が聴こえなくて済んでいる。

 

 さっきまで腐海に呑みこまれるように苦悩していたことが、なんだか馬鹿みたいに思えてきた。

 シャーロットをしっかりと引っ張る男の手が、肩の荷を少しだけ降ろしてくれたように感じられて、ほんの少し頬が綻ぶ。

 悟られてしまうと気恥ずかしいから、顔を見られないように下を向いてしまったのだけれど。

 

 

 

「ふぅ……」

 

 随分と久しぶりに、暖かな湯へ身を潜らせた気がする。

 

 精神的に余裕が無かったのもある。しかしそれ以上に、入浴そのものへ忌避感を覚えてしまっていたことが大きい。

 厳密に言えば、自分の体を鏡で見せつけられてしまうのが嫌だった。

 

「……」

 

 長年の鍛錬の影響で節々が太くなってしまった手を見やる。

 古傷まみれの皮膚。削れた拳頭。岩のようにゴツゴツとした質感。

 

 手だけじゃない。体もそうだ。すらりと割れた腹筋に、豹のような大腿。

 腕の筋肉だって、同年代と比べれば確実に発達している。

 

 女性特有の柔らかさは薄く、どこもかしこも筋張っていて、華奢というより精錬されているという言葉が似合うシルエット。

 端的に言えば女の子らしくない体。それを鏡に見せつけられるのが嫌だった。

 

「…………、」

 

 少し前まで、むしろ誇らしいとすら思っていた。

 これはシャーロットの努力の証だ。日々積み上げてきた血と汗の結晶に他ならない。

 自らに課した覚悟の体現であり、誉れ高きアーヴェントの現代当主として相応しい位であるための勲章。

 

 けれどそれは無意味だったと、あの事件で思い知らされて。途端に全てが醜いように感じられて。

 だからだろう。自分(愚者)を瞳に映すことさえ苦痛になったのは。

 

「……ええい、やめやめ! ネガティブは無し! せっかくお膳立てしてくれたんだから」

 

 ぱしゃっと顔に湯をかける。靄を吹き飛ばすように頭を振るう。

 

 魂に纏わりつく茨のような傷痕は、きっと生涯消えることは無い。

 だからといって、ヴィクターの好意を無下にしてしまうのは違う。

 

 ここ最近のヴィクターは、何やら慌ただしそうにあちこちを往来していた。

 きっと今日のために、色々な準備を進めていたのだろうと推察できる。

 そしてシャーロットは、そんな真心を無粋に払い除けるような女ではない。

 

 今日ばかりは全てを忘れよう。

 身を包むお湯の心地よさに毒を溶かし出すように、深く息を吸って、吐息を湯煙に混ぜ込んだ。

 

「……誰かと遊びに行くなんて、すっごい久しぶりだなぁ」

 

 

 

「つかぬことをお聞きするがシャロ嬢。今から町に行くわけだが、ほんとにソレで良いのか?」

「え?」

 

 身も心もお風呂でさっぱり綺麗にして、いざ町へとポータルに繰り出した折。ヴィクターがおもむろにそんなことを言い放った。

 というのも、シャーロットの恰好があまりにもラフ過ぎたからである。

 

 ヴィクターはどこでこしらえたか、いつものピッチリしたインナー姿ではなくなっていた。

 純白のシャツにダークブラウンのジャケットを羽織り、胸元へ控え目なネックレスを添え、ベージュのパンツと真っ新なスニーカーを着こなしている。

 純黒の腕を隠すための包帯が多少浮いているが、全体的にカジュアルな出で立ちへと化けていた。 

 おまけに整髪料まで使って、獅子のような短髪をサッパリ爽やかに整えているほど。

 

 一方、シャーロットは無地のシャツと短パンのみ。

 いつも館で過ごしている時と同じもので、半ば部屋着と言っていい。とても年頃の少女が外向けに着ていくものではない。

 

 よくよく考えてみれば、ヴィクターはシャーロットがこの服装以外で出歩いているところを見たことが無かった。

 あるとしても、霊廟へ立ち入る時に着ていたドレス風の礼服だけだ。

 

 ヴィクターの言葉が衣装に向けられたものだと気付き、シャーロットは「あー」とバツが悪そうに頬を掻いた。

 

「私、これと同じ服しか持ってないのよ」

「それまたどうして」

「火事で燃えちゃったのと、昔は少しでもお金作るために値が張りそうなの片っ端から売っ払っちゃって……。それにほら、服って高いからさ。節約のために安いお徳用しか買えなかったのよね」

「よし、服買いに行こう」

 

 決断は早かった。

 むしろ買わねばならぬと、ヴィクターは烈火の如き使命感を焚き上げていた。

 しかし、シャーロットは手をヒラヒラさせながらカラカラと笑う。

 

「あはは、いいわよ気なんて遣わなくて。ウチで作った野菜とか魔獣の肉売りに行く時もこの格好だし、全然平気よ」

「嘘吐け。どうせならちゃんとお洒落したいんだろ? 証拠に髪はバッチリ整えてるし、軽く化粧もしてるし、爪にはグロスも塗ってある」

「う……意外とよく見てるわね」

「決まりだな。まずは服屋に直行だ!」

 

 言うが早いか、二人はポータルを通じて町に飛び出し、さっそく目的の店へやってきた。

 名を『スワンクローク』。ここ数年で新装開店した店のようで、交易の町に腰を据えるだけあってか、メンズ・レディースに問わず、流行りものから珍しい掘り出し物まで品ぞろえの豊富さが売りのアパレルショップだ。

 

 基人(ヒューム)に限らず鉱人(ドワーフ)森人(エルフ)といった様々な種族のマネキンが立ち並び、心躍る衣装の数々を身に着けた晴れやかなギャラリーは、眺めるだけでも退屈しない空間だ。

 

「わ、わ、この上着かわいい……! こっちの帽子も素敵じゃない! えへへ、すっごく久しぶりに服屋さんなんて来たけど、やっぱテンション上がっちゃうなぁ」

「気に入ったのあったら買うぞ」

「えっ。いやいや流石に悪いわよ、自分で買うわ」

「だーから遠慮すんなって。この日のために資金調達したんだぜ? 使わなきゃもったいねえ」

 

 言われて、ここ数日の間ヴィクターがやけに忙しそうにしていた理由はそれだったのかと直感がささやく。

 

(私のお金を使っちゃ筋が通らないから、わざわざ稼ぎに行ってたのかしら? ……ほんと、義理堅いやつ)

 

 シャーロットは無駄な出費を避けていただけで、別段困窮はしていない。

 どころか、ストイック極まる私生活と長年の努力で獲得した収入源も相まって、財布はかなり潤っているほうだ。

 事実、ヴィクターには謝礼として大金を手渡している。にもかかわらず彼が稼ぎに奔走したのは、ヴィクターなりの篤実を証明するために他ならない。

 

 無意識に、少し頬が柔らかくなった。

 

「そういうことなら、ヴィクターが選んでよ」

「俺が?」

「うん。自分で選ぶと永遠に迷っちゃいそうだから、あなたに決めて欲しい。代わりに私もあなたのを選んであげる。どう?」

「そういうことなら任せてくれ! 最高に洒落たの選んでやるから覚悟しとけよ!」

 

 意気揚々。袖を勢いよく捲りながら、ヴィクターは布地の森へ突入するように消えていった。

 しばらくメンズ服を吟味していると、ブオンと風切り音を引き連れながら戻ってきて、

 

「持ってきたぞシャロ! さぁ刮目しやがれ! 俺のソウルセレクションご覧あれだ!!」

「あら早いわね。どれどれ、どんなの持ってきた………の…………」

「どうだどうだ!? 最高にイカすと思わねーかこれ! 遠方の特産品らしいんだが、こんな魂揺さぶるデザイン見たことねーよ!」

 

 ギンギラ銀の下地にド派手な虎柄を背負う、夜露死苦な集団が羽織っていそうなオーバーコート。

 犬だか猫だか狐だか狸だかよくわからない、デフォルメされたブサイクなキャラクターが死ぬほどプリントされたスカート。

 似たようなものエトセトラ。

 

 ダサさで海が割れそうだった。

 

「あっはははは! なにそれどっから持ってきたの? いくらなんでもネタに走り過ぎでしょ!」

「? 至って真剣だが」

「…………………………」

「何故そんな追い詰められたような顔する?」

「あー、うん! ありがとう! 折角だけど、やっぱり自分で選ぶことにするわね!」

 

 そうか? と小首を傾げるヴィクターへ100万カンデラの笑顔を送りつつ、足早に撤退するシャーロット。

 

 何故あのセンスで今身に着けているカジュアルスタイルな衣装を選べたのかと訝しみながらも、コーナーに入ってもう一度吟味を重ねていく。

 幾らか気に入ったもの寄せ集めたので、観客役にヴィクターを連れて試着室に向かった。

 

「へーい、どうかしら? 似合う?」

「姫様……」

「これは?」

「皇女……」

「こっちはどう?」

「プリンセス……」

「あなた何着ても同じことしか言わないじゃない!」

「いや違うんだよ! 何でも絵になってるんだってほんとに! ちくしょう、師匠の下で修業したはずなのにどうして言葉が出てこねぇ……!」

 

 自らのボキャブラリーを呪い頭を抱えるヴィクターをよそに、シャーロットはようやく納得のコーデを完成させた。

 

 フロントに黒曜のボタンが並んだフリルネックの純白ブラウス。繊細で透明感のある、膝丈ほどの濡れ羽色のチュールスカート。頭にちょこんと乗っているのは濃紺のベレー帽だ。

 

「じゃじゃーん、どうどう? 良い感じじゃない?」

 

 ふわりとスカートを翻しながら、100万ワットのまばゆい笑顔。

 

 シャーロットは元々、化粧を必要としないレベルで整った顔立ちの少女である。

 そこに垢ぬけた上品さと、少女らしいガーリーな雰囲気をほどよく混ぜたコーディネートが加われば、感嘆の吐息が溢れるほどの華やかさの化学反応が起こってしまうのは自然の摂理と言っていい。

 

 つまるところ、擦れ違うほとんどの人間が思わず振り返る絶世の乙女が爆誕した。

 

「最ッッッ高だなオイ!! マジで世界一だぜシャロ!」

「フフーン! 超絶美少女たる私だもの、当然の反応ねっ! でも髪ちょっと伸ばし過ぎたかしら? 今度切ろうかな」 

 

 言いつつ、夜の海を梳いたような髪をくるくると弄る。

 しかしながら、シャーロットの髪は肩にかかる程度のもので、極端に長いわけではない。 

 元々ショートヘアだったらしく、今の長さの方が珍しいのだという。

 

「まだ昼まで時間あるし、切りに行くか? 俺は適当に時間潰しておくぞ」

「いいの? 結構時間かかるわよ?」

「いいんだよ。今日はシャロが主役なんだからな」

「……ふふ、ありがと。じゃあお言葉に甘えちゃおうかなっ」

 

 一緒に選んでおいたリリンフィー用とヴィクターの追加分も購入した二人は、空間拡張魔法を施されたバックパックに放り込むと、共に店を後にした。

 

 

「お待たせー。ごめんね、時間かかっちゃって……って何してるの?」

 

 しばらく手入れを怠っていたせいか、痛み気味だった髪を美容院で綺麗にカットし、艶やかなキューティクルのショートボブを手に入れたシャーロットが鼻歌混じりに戻ってくると、何故かヴィクターが窟人(ゴブリン)の男に餌付けをしていた。

 

「おうシャロ。いやな、ヒマだったから辺りをブラブラしてたんだが、路地裏で行き倒れてるこいつを見つけてな。何でもしばらくロクに食ってないとかで、ご馳走してやってたんだ」

「はぐはぐはぐ!! はぐはぐはぐはぐ!!」

 

 薄緑の肌。小柄だが小太りな体躯。真ん丸な鼻に、頭へちょこんと生えた黄土色の松明のような髪。

 しかし、どうにも頬がこけている。よほど空腹だったらしく、野菜とチーズとベーコンがギュウギュウに挟まれた大きなパンを一心不乱に齧りついていた。

 

「あっ! あなた様が旦那の待ち人さんだどね! もぐもぐ! オラ、ブーゴといいます! もぐもぐもぐ! 倒れてたところをヴィクターの旦那に助けてもらってはぐはぐはぐ! んぐ、これ食ったらすぐ退散しますんで! ぐぁつぐぁつ!」

「ちょっとちょっと、そんな勢いよく食べたら喉詰めちゃうわよ。私のことは気にしなくていいから、ゆっくり噛みなさいな」

「ああ……旦那だけでなく姉御も優しい……女神みてーなお方だ。んでも、邪魔しちゃ悪いからオラ消えるど。おふたがた、この恩は一生忘れねーど!」

 

 言うが早いか、ブーゴは紙袋に入ったたくさんのパンを抱えて、何度も頭を下げながら足早に去っていった。

 

「彼、空腹で倒れるなんて何があったの?」

「どうも仲間たちとゴブリンの集落から出稼ぎに来てたらしいんだが、色々あって食い扶持を失ったらしくてな。それで倒れてたんだと」

「そう……不憫ね。もう少し話を聞いてあげればよかったかしら」

 

 この世界には大多数を占める基人(ヒューム)を主として、様々な亜人が存在する。

 定義としては、直立二足歩行が可能な言語を介する文明的存在だ。

 それらは全て人間としてカテゴライズされており、現代においては広く社会に浸透している。

 

 しかしながら、全種族がこの町のように高度な生活を築いているわけではない。

 中には人里離れた『禁足地』に集落をつくり、隔絶された社会を営む者もいる。窟人(ゴブリン)もその一種である。

 ゆえに、このような町で見かけるのは中々珍しいものだった。

 

「ところで、良い感じにサッパリしたな。似合ってるぞ」

「でしょー。ふふ、ありがと。やっぱり短めの方が落ち着くわね」

「じゃあ良い時間だし、俺たちも飯にすっか。肉はまだキツいだろ? 魚介ならいけそうか?」

「ん……そうね、お魚は大丈夫かな」

「おっしゃ。ちょうど良い店ピックしてたんだ、行こうぜ」

 

 向かったのは港沿いに居を構えたレストラン、『海の呼び声』だ。

 岸壁から伸びた桟橋の先に浮かぶ、巨大な木造船そのものが店であり、船乗りの感覚を手軽に味わいながら新鮮な海の幸に舌鼓を打てるという、ちょっぴり浪漫に溢れた料理店である。

 

 革製なのにふかふかとした不思議な椅子。大きな樽やドクロの置物。鍔広の羽つき帽子を被った、弦楽器を奏でる海賊姿の魚人(マーマン)たち。

 魔力灯のクリスタルシャンデリアが暖く照らすヴィンテージで古風な内装は、さながら陽気な海賊船でいざ出航といった雰囲気だ。

 

「すごーい! 船がまるごとお店なんて初めて!」

「うおおおおおお船!! 潮の香り!! ドクロ!! タル────!! 話には聞いてたが思った以上に風情あるな! 俺こういうの大好きだ、滅茶苦茶テンション上がる!! 」

「っくくく、目キラキラさせちゃって。男の子だなぁ」

 

 執事姿の魚人(マーマン)からメニューを手渡される。

 古びた羊皮紙風の凝った表には、ひとつひとつ筆書きで丁寧に料理の絵が描かれていた。

 

「俺はマーマン流海賊盛りにしようかな。オウサマエビやらバターサーモンやら、高級海鮮山盛りでこの値段はすんげー安さだぜ。流石市場が隣なだけある」

「むぅ、どれにしよう。私こういうの結構迷っちゃタイプなのよね」

「思いっきり食え食え。せっかくの機会だからな、好きなだけ頼めー」

「じゃあ……船乗りパスタと潮風グラタン、渚のサラダ、海底都市定食にー」

「はは、よく食うな。腹減ってたのか?」

「この深海スープも美味しそうね! あっ船長の日替わりランチも追加で」

「ん?」

「あとこれとこれとこれとこれも」

「ちょっ、シャロさん? 大丈夫かシャーロットさーん?」

 

 何やら瞳に危ない光を宿したシャーロットが無尽蔵に注文し続ける様子に、そう言えばこいつ死ぬほど健啖家だったなと館での食事事情を思い出す。

 

 テーブルにフルコース同然の料理軍団がズラリと揃い踏みし、目を輝かせるシャーロットと若干引き気味のウェイター魚人(マーマン)の眼差しを浴びながら、いざ実食。

 

 ヴィクターが注文したのは、卸したばかりの高級魚介たちの刺身を惜しみなく盛り付けた贅の船盛りだ。

 

 まずはキラキラと橙に光る宝石の如きバターサーモンの切り身。一口運べば、豊かな海で蓄えられた旨味と脂の潮流がガツンと舌に渦を巻いた。

 オウサマエビの甘みと来たら、まさしく王威に震えるような極上だ。頭を掴んでガブリと食いつける豪快な一興と、ツルンとした喉越しがまた一層幸福感を上乗せしてくれる。

 少しばかりグロテスクな海竜貝も、口にしてしまえば至福の一言だ。

 貝とは思えないほど濃厚なクリーミーさ、軽く噛めば歯を跳ね返してくるほどの弾力には文字通り舌を巻いてしまう。

 

「美味いな! 店の見た目に負けず劣らない本格っぷりだ、こんな海鮮食ったことねぇ!」

「! !! ~~~っ!!」

「落ち着け」

 

 ひとつひとつ平らげながら、歓喜に身を震わせるシャーロット。

 口いっぱいに頬張ってとろんと微笑む様子はなんとも幸せそうで、眺めているだけで自然と笑みが零れてしまう。

 

「ん~~~~っ、おーいしーい!! 島の清流で捕った魚も格別と思ってたけど、やっぱ外洋産は一味違うわね!」

「島と言えば、あそこデカい魚が暮らせるような川も泉もあるよな。島の奥がいつも霧がかっててよく見えねえけど、川の流れも速いし、標高の高い山とかあるのか?」

「うーん、どうかしらね? 島の奥については本当に何も分かってないのよ。あなたの言う通り霧が酷いし、危険だから行くなって両親に言われ続けてたもの」

 

 シャーロットたちが生活の拠点としている場所は島のごく一部に過ぎない。

 深奥と呼ばれる未知の領域には常に濃霧が立ち込めており、侵入者を拒むが如く鬱蒼とした樹海が広がっている。

 

「ふーん。いつか行ってみてえな。何があるのかちょっと興味湧くぜ」

「気持ちはわかるけど、止めた方がいいわよ。凄く危ない魔獣も出るみたいだから」

「でも不思議に思わねえ? 大型魔獣の個体数がいくら少ないって言っても、そんな奴が生息してるってのに一度も館まで降りてきたこと無いんだろ? 別に獣除けの結界とかも張って無いのにさ」

「まぁ……確かに。言われてみれば、そもそも明確に遭遇したって記録が無いわね。昔からナニカがいると伝えられてるだけで」

 

 危険な魔獣と遭遇するには、館から少し離れた『狩場』と呼ぶ森まで踏み入る必要があるとされている。

 逆を言えば、そこまで行かなければ大鬼熊のような危険生物と遭遇することは無い。

 

 しかしそんな言い伝えとは裏腹に、代々受け継がれてきた『狩場』で危険生物と出会った記録はひとつも無いのだ。

 あるとすれば、シャーロットの祖父が森の奥で、奇妙な呻き声のようなものを耳にしたといった程度か。

 

「実は大型魔獣なんていないって説はどうだ?」

「流石にそれは……でも、そうねえ」

 

 普段は気にも留めなかった疑問が立体的になってくる。根本的に、島には危険な獣が生息しているのだろうかと。

 

 考えてみれば、あの島は遥か昔に『純黒の王』がアーヴェントの避難所として用意した隠れ里だ。

 だというのに、アーヴェントを危険に晒しかねない大型魔獣を対策も無く放置しているというのはいささか矛盾した話である。

 館に結界が張られているならまだ分かるが、無いとくれば尚更だ。

 

 もしもの話。本当は危険な魔獣が居ないにも関わらず、()()()()()()()()()()()()()()()()()があるとしたら?

 あの島の奥に誰も立ち入らせないための、何か隠されたワケがあるのではないか?

 

「うーん、何だか話してると気になってきたわ……。今度行ってみる?」

「おっ良いな、行こう行こう。一度探検ってのやってみたかったんだよ」

「ちゃんと準備してからね。危なくなったらすぐ引き返すこと。良い?」

「もちろん」

 

 そうこうしている内に、山のようだったシャーロットの料理軍団は全て片付けられていた。

 

 

 

 

 腹を満たしたあと、二人は町から東に向かった先の動物園へと足を運んだ。

 動物園とは言うものの、そこは広大な森林地帯を自由かつ安全に散策出来るようにした施設だった。自然観察公園と呼んだ方が正しいかもしれない。

 

 園路を歩くと、魔障壁越しに様々な動物たちが人間を見にやってくる。

 それをガイドゴーレムの説明に耳を傾けながら、じっくり眺めるというものである。

 

「まさか子連れのグリフォンが現れるなんてな。スタッフの人達が血相変えてすっ飛んできて……あんな大騒ぎになるとは思わなかったぜ」

「グリフォンって幻獣指定されてるくらい超珍しい生き物だからね。子連れなんて一生に一度お目にかかれるかどうかってくらいの大事件よ。いや~でも可愛かったなぁ~ちびグリフォン! まだ飛べないからお母さんの背中にしがみついててさ、毛並みも白くてフワッフワで、おめめクリクリしてて……! ああ、一度でいいから抱っこしてみたい……!」 

「滅茶苦茶抱き心地良さそうだったもんなぁ」

 

 非常に警戒心が強く、人前にはまず姿を現さないとされるグリフォンが、魔障壁さえ無ければ触れそうなくらい近くまで寄ってくるという、世にも珍しい現象が起こったのだ。

 

 しかも親グリフォンが背中の仔グリフォンを嘴でつまみ、まるで我が子に挨拶でもさせるかの如く、シャーロットの前へ差し出してくるというおまけつき。

 高度な知性と魔力を持つとされる幻獣には、『純黒の王』の魔力を宿すシャーロットに何か感じるものがあったのかもしれない。

 

 

 

「すっかり暗くなっちゃったわね」

 

 夕食に舌鼓を打ち、気がついたら宵の刻。

 洛陽を終えた天蓋は、月と星々が歌い踊る絢爛な世界へと変わっていた。

 

「あっと言う間だったなぁ」

「ええ、本当に。一日がこんなに短く感じたの久しぶり」

 

 空を見上げれば、きらり、きらり。一条の光たちが夜を駆けては消えていく。

 楽しい時間というものは、この流れ星のようだと少女は思う。

 吸い込まれそうな闇に瞬く星屑の輝きは、ほんの刹那にも関わらず瞳に焼きつくところが似ているから。

 

「本当に……久しぶりよ」

 

 ──こうしていると、不意に火災が起こった日の出来事が脳裏を過る。

 あの日も同じように、妹たちと()へ出かけていた最中だったから。

 

 トラウマというものは、常に着いて回る影と同じだ。

 どれだけ目を背けても、必ず足元に縫い付いている。

 それはピッタリと寄り添って離れることはなく、何かの拍子に下を向けば、歯を剥き嗤いながら暗澹へ引きずり込んでくるのだ。

 

 今日は幸せな一日だった。心から笑えたのも、楽しめたのも、本当に本当に久しぶりだった。

 瞑目したくなるような惨劇の膿瘍を忘れることが出来た。胸に巣食うジクジクとした痛みも随分とやわらいで、春風が吹いたような心地よさだった。

 

 だからこそ、シャーロットは今のこの状況が少し──いいや、とても怖ろしかったのだ。

 

 もしヴィクターがいつの間にか記憶を取り戻していて、エマと同じ裏切り者だったとしたら? 

 この束の間の平和が頭を弄られたことによる幻覚だとしたら? 

 また島に戻った時、館が劫火に食まれていたら? 今度こそリリンフィーを失ってしまったら?

 

 影は消えない。どす黒い疑心暗鬼が拭えない。

 どれだけ目を逸らそうとも、心のどこかで恐怖という悪魔が卑しく嗤いながら、シャーロットを闇の淵へ招こうと手招きを繰り返してくる。

 あの男は敵ではないのか。目に映るもの全て噓偽りではないのか。

 

 そんな想像をしてしまう自分が、何より一番大嫌いだ。

 

「シャーロー。怖い顔してどうしたー?」

「うわっ」

 

 ぬぅっとヴィクターが上から顔を覗かせてきて、思わず後ずさりながら仰天した。

 

「びっくりした。驚かさないでよ、もう」

「顔色が悪くなってたからな。平気か?」

「……うん、大丈夫」

「嘘が下手だな。当ててやろうか? 火事が起こった日に妹ちゃんと遊びに出た時のことが重なったんだろ。俺が裏切り者に思えて疑心暗鬼になってると見た」

「うぐっ、ほんと鋭いわね」

 

 図星を突かれ、居心地悪そうに目を逸らす。

 

「誤解しないで、あなたを疑ってるわけじゃないの。今日は本当に楽しかった。けど……どうしても……頭に食い込んでくるみたいに嫌な考えが離れなくて。……ごめんなさい、最後の最後で台無しにしちゃったわね」

「んー……シャロ、まだ体力は残ってるか?」

「え? うん、全然平気」

「流石だな。よし、ちょっと遠いが歩くぞ」

 

 言うが早いか。ヴィクターは踵を返すと、そのまま町とは反対側の山道に向かって歩き出した。

 

「待ってよ。どこ行くの? もう真っ暗なのに」

「俺の秘密スポット」

 

 ヴィクターは懐から小さな魔力灯をふたつ取り出して、シャーロットに片方を手渡した。

 足元を照らしながらひたすら山道を歩いていく。

 道中、整備された表通りから脇の小道に突っ込むと、平坦な道に砂利が混ざり始めてきた。

 

「わわっ、と」

 

 慣れない靴のせいか、思ったより上手く歩けない。

 悪戦苦闘していると、ヴィクターはふらつくシャーロットの前でしゃがみ込んだ。

 

「乗れよ。足痛めちまったら大変だ」

「いいの?」

「買ったばかりの靴や服を汚すのも嫌だろ?」

「……ありがとう。ほんと、優しいわね」

 

 恐る恐る身を預ける。思ったより背中が大きくて、どことなく安心に包まれるよう。

 やがて宙に浮くような感覚が訪れ、ヴィクターが静かに立ちあがった。

 

「大丈夫? 重くない?」

「ちっとも。あれだけ食ってたのがどこ消えたんだって不思議なくらいだ」

「へへ、乙女の秘密ってやつよ」

「実は魔法でちょっと浮いて見栄張ったりしてないよな?」

「なにー? なんか言ったー??」

「ナニモイッテナイデス」

 

 耳を摘ままれて命の危機を悟ったヴィクターは、従順な馬と化しヒヒンと鳴いた。

 ザクザク山道を進んでいく。虫の鳴き声。鳥の歌。葉擦れの談笑。暗闇を楽しむ千差万別の賑わいが、夜風と共に乗ってくる。

 

 一陣、吹き抜けて。

 珠玉を散りばめたような満天の星海が。燦然と地を燈す街灯りの花園が。百花繚乱と舞い踊る精霊たちの舞踏会が。瞳いっぱいに飛び込んできた。

 

「うわぁ……綺麗……」

 

 恒星と満月、星雲を絵具に、絢爛という(いろどり)をもって描かれた夜空のキャンバス。

 人々の営みが千古不易の灯火となり、連綿と続く命の如く暖かな光で溢れた煌々の大地。

 十色に輝く精霊たちの、圧倒されるようなダンスパーティー。

 

 三重の光彩陸離が融けて混ざり合うこの境界の、なんと素晴らしき絶景か。

 

「スゲーだろ。今まで行ったとこは教えてもらった場所なんだが、ここは偶然見つけたとこでな」

 

 一望できる岩場にシャーロットを降ろし、ヴィクターも隣に腰かける。

 

「さっきの話の続きだけどよ」

「……うん」

「俺のことを疑っても、裏切り者だと思ってくれても全然かまわない。そもそも俺は正体不明の記憶喪失男だからな、訝しんで当然だ。全然不思議なことじゃない。……けどよ、もうこれ以上自分を責めるのはやめろ」

「っ」

「シャロは優しい。俺のことを疑っちまう自分のことが嫌いになるってタイプの人間だ。だからむしろ、俺を疑え。敵だと思っていい。その代わり、自分を傷つけることをやめて欲しいんだ」 

 

 見抜いていた。ヴィクターは、シャーロットが抱える一番の膿を見抜いていた。

 長きにわたり少女を毒し続けてきた自責の念。シャーロットの深奥に根付く、慙愧という名の悪性新生物に、メスを入れるような言の葉だった。

 

「どうして分かったの?」

「そりゃ分かるさ。だってシャロ、一度も他人を責めたことなかっただろ? ……あんなに辛い目にあったってのに、エマにすら一言も悪態を吐かなかった。どころか、口から出るのは自責ばかり。だから思ったんだ。もしかしたら、全部自分のせいにしてるんじゃねーかなって」

「あはは、敵わないわね」

 

 ヴィクターは不思議な男だ。考えるより先に体が動く焔のような直線型の人間なのに、どこか冷静でいて妙に鋭い。

 それはきっと、ひたすら実直に向き合っているからなのだろうとシャーロットは思う。

 

 彼はよく見ている。その両の目でしっかりと、少女と向き合い理解しようとしている。

 だから気付ける。シャーロットの細かな機微も、胸の内に秘めた病巣の正体までも。

 

(ああもう。こんなに真摯に心配されちゃったら、私も向き合わなくちゃダメになるじゃない)

 

 ヴィクターは誠意を見せた。シャーロットという少女のために、真心をもって傷を癒そうと奔走してくれた。

 今日という時間が、この瞬間に結実する。

 男の抱く義気の熱が、少女を閉じ込める氷塊を溶かし始めていた。

 

「……もう、無理なのよ」

 

 だからこそ嘘はつかない。

 その場しのぎの愛想笑いで、お茶を濁すような真似などしない。

 

「私ね、たくさん失敗しちゃったんだ。取り返しがつかない間違いを、いっぱいいっぱいしちゃった」

 

 シャーロットは真っ直ぐに、ヴィクターへ心中を吐き出すことを選択した。

 忸怩(じくじ)たるこの呪いからは、決して逃げ出すことなど叶わないのだと。

 

「ずっと傍にいたのにエマの企みを見抜けなかった。リリンを守ると誓ったのに、守るどころか苦しめてた。そんな事にも気付かずに私、何してたと思う? 立派なアーヴェントになるんだーって、馬鹿みたいな努力に縋り続けてただけよ」

 

 満天を見上げながら少女は吐露する。

 この胸の内を、星空に全て打ち上げようとするかのように。

 

「家族も思い出も突然消えてさ、理不尽だって思ったの。こんな目に遭うのは負の歴史の生き証人だからなのかって。まるで世界そのものから要らないって言われてるみたいで、本当に悔しかった。だから見返してやろうと思ったんだ。世界とか、運命とか、そういう見えない敵を作ってね」

「……、」

「目的が必要だった。目指す旗がなくちゃ、心が壊れてしまいそうだったから。だから『立派なアーヴェントになって理不尽を見返す』ことを目標にしてきた。強くなって、アーヴェントの誇りに相応しい私になって、陛下を復活させられたなら、家族の死にも意味が生まれるって信じてたから」

 

 けれど、と少女は繋ぐ。

 

「どれだけ頑張ったつもりでも、結局は無駄に終わっちゃった。明後日の方向に走ってただけで何の結果も残せない。どころか、事態はいつも最悪なほうに進んでた」

「…………、」

「間違いだらけなのよ、私の人生。間違って、間違って、全部ぜんぶ空回り。何もかも失くしちゃった後に間違ってたって気がつくの。本当に……無力でバカみたい」

「それは違う」

 

 一刀両断する、力強い否定の言葉。

 

「違う違う、全然違う。そもそもが根本的に間違ってる」

「……え?」

「だってよ、シャロは何も悪くないだろ」

 

 ヴィクターの瞳が、真っ直ぐと少女を射貫いていた。

 

「どう考えてもエマが悪い、全部悪い。大義のためだか何だか知らんが、他人の人生を滅茶苦茶にしやがって。アイツがいなけりゃこんなことにならなかったんだぞ? 思い出すだけでムカつくぜ! もっとぶん殴っておけばよかったくらいだ!」

 

 ギリギリと拳を握り固めながら、ヴィクターは荒々しく鼻息を吹き散らした。

 

 ──そう。これは至極当然な話。

 事の発端はシャーロットではなく、全てエマの悪行にこそ起因する。

 なのに少女は自分を責める。こんなおかしい話が他にあろうか。

 

 原因は、シャーロットという少女が高潔であるがゆえのアポトーシスだ。

 

 皮肉にも、アーヴェントとして相応しく全能であろうと努力し続けてきたがゆえに、己の欠点を許せなくなってしまっていた。

 水面下の悪意を自力で暴けなかったという汚点を、非の無いはずの責を、極限まで恥じてしまっているからなのだ。

 

 これは呪いだ。

 シャーロットが抱える血の軛、生き残ってしまった者としての責任感、姉としての矜持。

 それら全てが、雁字搦めに絡み合って生まれてしまった十字架なのだ。

 

 だからヴィクターは、シャーロットの肩を掴んで向き合った。

 こんな理不尽で悲しい呪いは、ここで断ち切らねばならないのだと。

 

「いいかよく聞け。確かにシャロの努力は実を結ばなかったかもしれない。その裏で抱いてた覚悟や決意の大きさを考えたら、優しいお前が自分を責めちまうのも無理はない。けど履き違えるな、全ての元凶はあのクソッタレだ! シャロがアーヴェントだったからじゃない! 努力が空回りしたせいでもない! 無力だからでもなんでもない! アイツが手前勝手な都合で、お前たち家族を利用したせいなんだよ! シャロは何も間違ってない!!」

「────」

 

 何も間違っていない。

 その言葉が、ただ一言が。

 ドクンと、痛いくらい胸に響いた。

 

「お前はなぁ、自分が思ってるより本当に凄い奴なんだぞ!? こんなに辛くて苦しい目に遭ったのに、優しさを決して忘れないで、常に気高くあろうとして! 亡くなった家族のために力いっぱい報いようとした、本当にスゲーやつなんだよ!」

 

 ヴィクターの目尻には、うっすらと浮かぶ光輝があった。 

 

「普通なら気が狂ってる! 理不尽を嘆いて、道を踏み外して、外道になったって何もおかしくない! でもシャロはそうならなかった! どんな時でも人を思いやれる心を忘れない、最高に素敵なヤツじゃねえか!! お前ほど凄い人間、ほかに誰もいやしねえよ! そんなシャロだからっ……俺は救われたんだぞ……!!」

 

 シャーロットから贄の宣告を受けた時も、決闘で数々の痛みに見舞われた時も、エマに死の淵まで追いやられた時も、決して見せなかった雫の篝火(かがりび)

 一筋の涙が、頬を伝って地を濡らす。

 

「泉で初めて目が覚めた時、心の底から怖かったんだ。自分が誰なのか分からなくて、中身が全部からっぽで。右も左も分からない真っ暗な場所にいきなり放り出されたみたいで、心細くて、泣き出しそうなくらい怖かった」

 

 全てを振り絞るように、ヴィクターは言った。

 

「それをシャロが救ってくれた。正体不明の怪しい男の命を助けてくれて、何も無かった俺に『ヴィクター』という形をくれたんだ。あの時シャロに出会わなかったら、俺はずっと透明人間のままだった。お前が色をくれたことがどんなに嬉しかったか。どれだけ心が安らいだか」

 

 

 それはまるで。

 少女を想う(こと)の花束を、胸いっぱいに敷き詰められるみたいで。

 

 

「頼むよ、これ以上自分を責めないでくれ。世界で一番かっこいい俺の恩人を、そんな風に言わないでくれ」

「っ……!!」

 

 瞳が震えるようだった。 

 かけられた言葉のひとつひとつが、とても眩しいものに感じられて、チカチカと眼が痛みだすよう。

 

 ──ずっと独りぼっちだった。

 

 妹のために。弔いのために。ずっと独りで足掻き続けてきた。

 強く在らなきゃダメだと律していた。アーヴェントの矜持に相応しくなければと、完璧であらねばと、己に言い聞かせ続けてきた。

 

 甘えたくても甘えられなかった。そんなことは許されなかった。

 だって『シャーロット』は『アーヴェント』だから。『妹たち』の『姉』だったから。

 生き残ってしまった者として、務めを果たすべき存在だったから。

 

 なのに強くなろうとしても無力なままで。どれだけ頑張っても無為に帰って。

 そんな愚図で駄目な『シャーロット』を叱ってくれる人なんていないから、自分で自分を罰するしかなかったのだ。

 

 罰して。罰して。罰して。罰し続けてきたのに。

 そんな風に赦されてしまったら、もう止められるわけないじゃないか。

 

「っ……! っ、ぅ……!!」

 

 嗚咽が喉を震わせる。

 鼻の奥がツンとした痛みを訴える。

 目頭が熱い。肩が震えて、自分の意思じゃどうしようもない。

 

「ずるい……! ずるいよぉっ……! こんなのっ……ひっ……無理に決まってるじゃん……! 許されたいって……思っちゃうじゃんかぁっ……!!」

 

 人肌の温かさを持つ雫が、幾重も頬を伝って流れ落ちた。

 両手で拭う。でも止まらない。どれだけ拭おうとも留まるところを知らない。

 煩わしい雨のように、ポロポロと流れ続けていく。

 

「それでいいんだよ、シャロ。もう自分を許していいんだ。お前は何も悪くないんだから」

 

 今にも崩れてしまいそうなシャーロットを、ヴィクターはそっと抱き寄せた。

 これ以上傷つかなくていいんだと、誰よりも強くて優しい少女を支えるために。

 

「…………ずっと苦しかった」

 

 ぎゅっと、少女は震える手のひらでヴィクターの服を握り締めた。

 

「甘えたかった。誰かに慰めて欲しかった」

「ああ」

「独りぼっちで寂しかった。わたっ、私が、強くなくちゃダメなんだって、甘えてちゃ誰も守れないからって、もう何も失いたくないから、それで……!!」

「ああ」

「頑張ったの……! 頑張ったんだよぉっ……!! ひっ、う、これでもっ、一生懸命頑張ったの……!! でも全然駄目でっ、どうしたらいいかわかんなくてっ……!」

 

強く、強く、少女の心を受け止めるように抱きしめる。

 優しく、優しく、安心してもらえるために体温を伝える。

 

「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」

「う、ああっ、あ、うァあああああああああ…………!!」

 

 長い、長い、あまりにも苦しい道の果て。

 呪いは淡雪と潰え、シャーロットはようやく、一人の少女に戻ることが出来たのだった。

 

 

 

 

 

「落ち着いたか?」

「……うん」

「離れるぞ」

「まって。だめ」

 

 シャーロットから手を放そうとすると、服を掴まれて引き寄せられた。

 ガッチリ固定されている。まるでヴィクターというドームの中に埋まるかのように、シャーロットは縮こまっていた。

 

「顔、たぶん凄いことになってるから。見られたくない」

「ああわかった、上向いてるよ。ハンカチ使いたかったら左のポケット探りな」

「ん……ありがと」

 

 もぞもぞと動く。ハンカチを使って整えているのが分かる。

 その間、ヴィクターは星を数えながら時を過ごした。

 

 百を越えたあたりで、シャーロットが微動だにしていないことに気付く。

 

「そろそろいいか?」

「だめ」

 

 そうか、とヴィクターはもう一度百の星を数える。

 

「まだダメ?」

「だめ」

 

 仕方ない、と今度は二百を数える。

 数えすぎてワケが分からなくなってきた。

 

「おーい、もうそろそろ」

「やだ」

「ヤダってお前……」

「やだもん」

「つっても、こんな調子じゃウンと遅くなっちまうぞ? 暗いしよく見えないから大丈夫だって」

 

 不動である。ヴィクターのジャケットを両端から掴んで、完全に閉じこもってしまっている。

 どうしたもんかと頬を掻いていると、不意にガサガサと草むらが騒ぎ始めた。

 音の方角に視線をやれば、魔力灯の光が暗闇に慣れた網膜を突き刺して、

 

「おや? 奇遇だねお前さん」

「……爺さん!? と、師匠まで!」

「あらヴィクターちゃん。こんばんは」

 

 現れたのは、老人とその妻ビビアンだった。

 どうも偶然に立ち寄ったらしく、二人とも照らした先にヴィクターが居て驚きの表情を浮かべていた。

 

「おいシャロ、人が来たぞ」

「わわっ」

 

 残像が見えるようなスピードで離れ、シャーロットは下を向きながら髪や帽子を整えていく。

 そんな二人の様子を見て、ビビアンは「んまっ!」と口元に手を当てた。

 

「もしかしてお邪魔だったかしら?」

「あいや、すまないねお前さん。ここはワシらもお気に入りの場所でな、たまに散歩に来るんだ。わざとじゃないんだよ、許しておくれ」

「いえ、お気になさらず。大丈夫です」

 

 答えたのはシャーロットだ。にこ、と微笑んで夫婦を迎えている。

 

「シャロ、紹介するよ。こちらがダモラスさんで、ビビアンさん。最近世話になってた恩人だ」

「恩人はお前さんの方さ。ワシの命を助けてくれた」

「お互いさまッスよ」

 

 ははは、カカカと笑いあう男二人はさておいて、ビビアンはシャーロットを目にした途端、まるで獲物を見定めた肉食獣の如くずんずん近づいていった。

 

「まぁまぁまぁまぁ、アンタが話に聞いてたシャーロットちゃんかい!?」

「あ、はい。はじめまして、シャーロットと申します。……すみません、こんな顔で」

「何を言ってるんだい! アタシの若い頃と同じくらい可愛い顔してるじゃないのさ! でもお化粧が崩れちゃってるね、ツラ貸しな! すぐに直してあげるよ!」

「え? でも」

「動かないッ!!」

「はい!」

 

 有無を言わさず動きを止められ、なされるがままのシャーロット。

 しばらく目を瞑っていると、ビビアンから自由の許可が下りた。

 

「よし綺麗になった。うんうん、やっぱり別嬪さんだねえ! ヴィクターちゃんもスミに置けないじゃないのさ」

「あ、ありがとうございます」 

「いいのいいの。邪魔しちゃったお詫びにね」

 

 手鏡を渡される。涙で腫れているはずの目元も、流されたはずの化粧も元通りになっていた。

 むしろシャーロットが施すより上手だと、女としての年の功に尊敬の念を抱く。

 

「……ビビアンさんは、ヴィクターとどういったご関係で?」

「夫があの子に命を救われて大層気に入ってねぇ。その時ちょうどヴィクターちゃんが悩みを抱えてたもんだから、相談に乗ってやったんだよ」

「悩み?」

「アンタのことさ」

 

 ニヒルに微笑むビビアンに、シャーロットは瞳をパチパチと瞬かせた。

 

「あの子ったら、傷ついて落ち込んでるアンタを元気にしてやりたい一心でアタシに頭下げてきたのよ。女の子を勇気づける方法を教えてくれって」

「え? えっ??」

「アンタ、良い男を捕まえたねぇ。あんな甲斐甲斐しくて真っ直ぐな奴はなかなか居ないよ。ウチの旦那とそっくりさ! アッハッハッハ!!」

 

 バシバシと背中を叩かれる。けれど、痛みも衝撃も感じなかった。

 そんなことよりもっと凄いインパクトが、シャーロットを貫いていたから。

 

 師匠とたびたび口にしていたのはこの人のことだった。

 今日出かけた様々な場所を教えてもらったのも、服をチョイスしてもらったのも、きっとビビアンなのだろう。

 

 想像はしていた。なにやら最近忙しそうだったヴィクターが、急に遊びに誘って来たのだ。きっと下準備のための時間だったのだろうと思っていた。

 けれど不思議でもあったのだ。別に貶すつもりはないのだが、()()()()()と感じる節はあった。

 記憶の無い男にしては、えらくエスコートに慣れていたから。

 

 それが全部、少女を元気づけるための努力が与えた結晶だと知った。

 彼はシャーロットのために最高の時間を作ろうと、必死になって頑張ってくれていたのだと知ってしまった。

 

(あ、れ?)

 

 きゅうっ、と胸が締め付けられるような感覚。

 急に心臓が暴れ始めた。血潮が勢いよく巡って、体が熱を帯び始めているのが分かる。

 特に顔だ。顔が熱い。なんだか火を吹きそうな勢いだ。

 

(なに。この感じ)

 

 心臓が痛い。早鐘のように鳴って止まない。

 けれど決して不快ではなく、むしろ心地良いとすら思えてくる。

 

 そんな気持ちの正体を、少女はまだ知る由も無い。

 



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第二章「千を越えた果ての花」
18.「禁足地」


「千年果花? ああ、あれだろう、万病を癒すとかいう伝説の霊薬。子供のころ曾祖父から聞いたことがあるよ」

 

「当時は魔王マグニディと戦争の真っただ中だったらしくてね。千年のうちたった一年だけ咲く花の蜜が、大勢の傷病人を救ったそうだ」

 

「花が見つかった場所? たしか、星屑ヶ原だったかな。……まさかお前さん、採りに行くつもりじゃあるまいな」

 

「曾祖父の話が本当なら、確かに今年がちょうど開花の年になる。だが悪いことは言わない、止めておきなさい。あそこは『禁足地』で、しかも竜の巣だ。『金剛冠級(ダイヤモンド)』でも命を落とす可能性が高い。そもそも咲いてる確証すら無いんだよ」

 

「なにせ千年果花ってのは──世界樹の花蜜のことなんだからね」

 

 

「んがっ」

 

 突き刺さるような朝の日差しから、瞼越しにぶん殴られる目覚めの時。

 あくびをしながら大きく背伸び。ヴィクターは快眠の爽快感とほどよい気怠さを味わいながら、モソモソとベッドから這い出した。

 

 自室の洗面台で歯を磨く。次いで洗顔。

 冷水が顔の皮膚を叩くと、微睡みに取り残されかけていた意識が急速浮上を果たしてきた。

 

 服を着替えて部屋を後にし、手洗い場へ向かう道中。通りがかったキッチンから何やら良い香りが漂ってきたものだから、覗いてみるとエプロン姿のシャーロットが目に映った。

 

「あら、()()()()。おはよう」

「おはようシャロ。……ん?」

 

 どことなく違和感。 

 はて? と首を捻りながら、何かいつもと違わなかったかと肩眉を上げた。

 

 朝食を作っているらしいシャーロット。それはいい。今後二人で生活していくにあたり、炊事や洗濯といった家事を交代制にすると話し合って決めたのだ。

 今朝はシャーロットの当番である。どうやらパンケーキらしく、微かな甘みを孕んだ香ばしさが鼻腔をくすぐった。

 

 つまるところ、違和の正体はそこではない。

 

「今ヴィックって呼んだか?」

「ええ。私がシャロでしょ? だからあなたはヴィック。……ダメだった?」

「いんや全然。好きな呼び方でいいさ」

 

 昨晩の件で何か心境の変化があったのだろう。ある種、心機一転にヴィクターとの関わり方を変えたのかもしれない。

 良い変化だと歓迎すべきだ。他者を拒絶しかけていたシャーロットが、自ら歩み寄ってくれるようになったのだから。

 

「おーパンケーキか。うまそうだな」

「凄く久しぶりでちょっと不安だったけどね。意外と体が覚えてるもんだわ」

 

 さっそく、フワフワの生地にクリームと自家製ベリーソースを乗せて頂く。

 穀類と乳製品特有の優しい甘みにベリーの酸味がほどよくマッチした朝食を堪能し、食器類を片付けて一息。

 

「さぁて、今日は何するんだ?」

「実は……えっと……ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」

 

 少々歯切れ悪く、唇をまごつかせて言葉を詰まらせるシャーロット。

 内容は決まっているが、言い出す決心がつかない。そんな表情だった。

 

 シャーロットは今まで人に頼らず生きてきた少女だ。それゆえ、『頼る』という行為そのものに慣れていない。

 慣れない行動には勇気がいる。少女は今、それを絞り出そうとしているのだろうとヴィクターは推察する。

 

(以前のシャロなら、きっと相談しようする姿勢すら見せてくれなかっただろうな。嬉しいね、ジンとくるぜ。シャロなりに心を開いてくれようとしてるんだ)

 

 シャーロットを取り囲んでいた境遇は根深い。信じていた存在が家族を奪った仇敵で、しかも長らく記憶や認識を弄られていたのだから。

 人間不信に陥っても不思議ではないのだ。なのに彼女はヴィクターを信じようと歩み寄ってくれている。こんなに嬉しいことは無い。

 

「ほら、ダモラスさんが言ってたじゃない? 千年果花の話」

「ああ。まさか爺さんが知ってたとはな」

 

 昨晩、少しばかり老夫婦と話を交わしていた時のことだ。

 ダモラスとビビアンは基人(ヒューム)より長命な鉱人(ドワーフ)の老人で、知見に富み顔も広い。ダメもとで千年果花という万病の霊薬について伺ってみたところ、予想外なことに詳細な情報を持っていたのである。

 

 千年果花。いわく万病を癒すとされる霊薬であり、かつて魔王マグニディとの大戦中、多くの命を救ったとされる伝説だ。

 しかし名前の通り千年に一度しか手に入らぬ幻の逸品とされ、まずお目にかかれる代物ではない。

 

 そこまではシャーロットも古書を読み込んで知っていた。

 問題なのは、千年果花が開花する時期が一切不明だったことだ。

 

 どういうわけか、千年果花が最後に花を咲かせた記録が古今東西あらゆる書籍にも記されていなかった。

 まるで開花の時期を計算されぬよう、情報規制でも掛けられているかのような徹底ぶりで。

  

 ゆえに千年果花の霊薬はそもそも流通する機会すら皆無で、半ば伝説と化した存在だったのである。

 だから手に入らないと諦めていた。千年に一度しか咲かない花をリリンフィーの治療にあてがおうなど、あまりに現実的ではない。

 

 けれど、ダモラスからもたらされた情報が事情を流転させた。

 

「あの話を聞いて、賭けてみようと思ったの。今までは正確な年月が分からなかったから実行に移せなかったけど、ダモラスさんの言葉が本当なら千年果花を手に入れられるかもしれない。もし手に入ったら、リリンにかけられた刻印の呪いを解くことが出来る」

 

 花が咲いているという100%の保証は無い。

 しかし鉱人(ドワーフ)の寿命を計上しつつ、千年果花が使われた大戦時の年表と照らし合わせると、ちょうど次の開花の時期が今現在だと合致したのだ。

 

 ダモラスの証言に信憑性が増した以上、文字通り千載一遇のチャンスが降りかかってきたも同然だった。

 ならばシャーロットが取る行動など、たったひとつしかありえない。

 意を決したように、シャーロットはヴィクターと瞳を交差させながら言葉を紡いだ。

 

「お願いヴィック、千年果花を探すのを手伝って……! 私一人じゃ不可能なのっ……」

「おうともよ。言われなくてもついてくっつーの」

「……ほ、ほんと? お願いしててなんだけれど、凄く危険な旅になるわよ? それに苦労して星屑ヶ原に着いても、花が咲いてないかもしれないし……」

「んなもん構わねえよ。妹ちゃんを治せるかもしれないんだ、可能性がちょっとでも有るならとことんやってやろうじゃねえか」

「……! ありがとう、本当にっ……!」

 

 テーブル越しにヴィクターの手を掴み、ぶんぶんと振り回すシャーロット。

 危険を孕み、成功するかどうかも不明瞭な頼み事だ。断られる可能性を拭えなかったに違いない。

 その不安の裏返しが、歓喜として滲み出ていた。

 

「よーし、そうと決まればさっそく支度を……と言いたいとこだが、星屑ヶ原とやらはどうやって行けばいいんだ?」

「基本的に徒歩での旅になるかな。それも数日、下手すると数十日かかるかも。出立前にギルドで手続きが必要になってくるし、諸々の準備が必要ね」

「手続き? 旅に出るのにそんなのが要るのか?」

「ええ。『禁足地』に向かうためには、少しばかり手順を踏む必要があるのよ」

 

 ちょうどいいか、とシャーロットは椅子を引いて立ち上がりながら言った。

 

「折角だから教えてあげる。『禁足地』とギルドの関係、そしてこの世界の仕組みのひとつをね」

 

 

 

 世界には『禁足地』と呼ばれる、未開にして摩訶不思議な土地が存在する。

 

 その名の通り許可なくして立ち入ることを禁じられた領域であり、原始の環境を色濃く残す、魔獣を始めとした濃厚で特異的な生態系が築かれている謎多き場所だ。

 人間の生活圏とは完全に隔絶された環境であり、先住民として暮らしている一部の亜人を除けば、とてもではないが生活を営むことなど叶わない厳しい世界である。

 

 だが人類とは開拓の生き物だ。脳という知恵の実を発達させ、他の生物には扱えない創意工夫や試行錯誤という名の武器を用いることで、数多の不可能を踏破してきた。

 事実、高水準な魔法文明が成り立ち、様々な技術が格段に発達した現代においては、例え竜の巣であろうと理論上開拓は不可能ではない。

 

 なのに世界はそうしない。むしろ『禁足地』と定めることで大規模な侵入を許さず、あえて手付かずの自然を残している。

 理由は、()()と呼ばれる存在が大きく関わってくるからだ。

 

「魔物……? 魔獣とは違うのか」

「全然。魔獣は動植物が長い年月をかけて魔力を制御した存在で、ざっくり言えば魔法を使えるようになった生き物のこと。魔物は違う。あれは生き物なんかじゃないの」

 

 ポータルを通じて町に移り、ギルドと呼ばれるドーム状の不思議な形をした建物に足を運んだ午前の刻。

 ヴィクターの会員登録や『禁足地』への侵入許可といった諸々の手続きを済ませた二人は、待合いの休憩所のソファーに腰かけていた。

 

 魔物。外なる(そら)より現れたとされる災厄、魔王マグニディによって生み出された疑似生命である。

 正式名称を『次元侵襲体(ディメンダー)』。星を喰らい、命を蝕み、世に死と穢れをもたらす命ある者たちの天敵だ。

 

「ただ自然を生きてる魔獣と違って、魔物は生命そのものに明確な敵意と悪意をもってる。残虐でしぶとくて、しかも賢い。最下級の魔物ですら何人も死に至らしめるような力があるわ。かつて魔王とその軍勢に滅亡手前まで追い込まれた世界は、魔物が発生しづらくなるよう対策を施すことにしたのよ」

「それが『禁足地』だってのか?」

「ええ。魔物は魔力──つまり生命力が濃い環境では発生出来ないの。あれは命とは真逆の存在だから」

 

 魔力とは、心臓の拍動が生み出す純粋な生命エネルギーである。

 そしてこの星には冥脈と呼ばれる地殻を循環する巨大な魔力路が存在し、死した命は冥脈に吸収され、地下水を通じて大地に還元されていく循環の(ことわり)を持つ。

 

 植物は土壌を苗床にふんだんな魔力を吸収して育ち、地に余った魔力は魔石という形で結晶化され、動物たちの糧になっていく。

 地下水や川を通じて栄養と魔力が流れ込む海は、それそのものが豊潤な生命エネルギーの母胎となる。

 そうして自然は強大かつ巨大な生命エネルギーを内包し、魔物に対する天然の免疫として機能するようになるのだ。

 

「だからあえて『禁足地』を設けてるのか。過度に自然を侵食して、魔物が発生しやすくならないように」

「そういうこと。十のマグニディたちはかつて陛下と聖女に打ち滅ぼされたけど、残滓はまだ世界に根付いてる。いつでもどこでも魔物が発生する可能性があるから、予防策を施してるってこと」

 

 なるほど、とヴィクターはソファーに深く座り直しながら頷いた。

 

 泉で目覚めてからというもの、少しばかり不思議ではあったのだ。

 千年も隠遁生活をしていたというアーヴェントだが、それにしては島の開拓が一向に進んでいなかった。 

 町も同様。技術的な面では(キャルゴ)のように驚くことばかりでも、町並みは必ず緑が多くて、透き通った水が流れ、少し外れれば豊かな自然が顔を覗かせるような環境だ。

 

 その理由がこれだったのだ。魔物という人類の天敵を無暗に呼び込まぬよう、自然と共存する形で発展してきた結果なのである。

 

「自然を残しておくのはメリットしかないからね。今の文明は魔力が根幹の社会だもの。魔石や魔獣の素材といった魔力資源は生活するうえで必要不可欠だし、天然資源は自然環境がなくちゃ発生しない。文明を維持するためにも、開拓は制限する必要があったってわけ」

「はー、そういうことか。ギルドがある理由にも合点がいったぜ」

 

 ダモラスが経営する『ダモラス工房』をはじめ、飲食店やアパレル、漁港、娯楽施設など、さまざまな働き口が存在するにも関わらず、寄せ集まった依頼をフリーランスに仲介するギルドという組織が、支部を持つほどの規模で存在するのか気掛かりだった。

 

 ギルドの主な役目は、『禁足地』への干渉をコントロールすることなのだ。

 野放しに『禁足地』へ立ち入れせれば、欲深い人間が組織的に大規模な侵略を行う可能性がある。

 なにせ『禁足地』は、リスクは在れども魔力資源という名の宝の山なのだから。

 

 それを禁じ、個人単位のみで『禁足地』関連の依頼を受けさせるようなシステムにすることで、過度な開拓行為を防ぎつつ『禁足地』の恵みを享受できるよう、バランスを保っているというわけである。

 

「といっても、誰も彼もが『禁足地』にスパッと入れるわけじゃない。信用と実績を積まないと許可が下りないの。その指標として、ギルドでは等級制度が設けられてるわ」

「あー、ぶろんず? しるばー? とかいうあれか」

「そそ。下から『銅冠級(ブロンズ)』、『銀冠級(シルバー)』、『金冠級(ゴールド)』、『白金冠級(プラチナ)』、『金剛冠級(ダイヤモンド)』、『皇鋼冠級(アダマント)』、『星冠級(アステル)』の七段階ね」

「そんなにあるのか……ちなみにシャロは?」

「『白金冠級(プラチナ)』」

「すげえ」

 

 等級認証らしい、ネックレス型のタグをチラつかせながらフフーンと得意気に胸を張るシャーロット。

 白金に輝くプレートにはシャーロットの文字のみ。やはりアーヴェントであることは隠しているらしく、刻まれているのは名だけだ。

 

「等級が上がれば、受けられる依頼や行ける『禁足地』の幅も広がるわ。『金剛冠級(ダイヤモンド)』以上だと指名で依頼が来るレベルのプロって感じね。『星冠級(アステル)』はちょっと特別だから、普通にしてる分には気にしなくていいかな」

「で、俺は『銅冠級(ブロンズ)』スタートってわけか」

「そういうこと。本当は『銅冠級(ブロンズ)』が星屑ヶ原に向かうのは無理なんだけど、『白金冠級(プラチナ)』以上が同伴するなら許可も下りる。きっと申請も通るはずよ」

 

 そうしていると、丁度よく呼び出しのアナウンスが流れてきた。

 鏡のように磨かれた石造りの床を駆け、受付カウンターに急ぐ。

 申請は無事通ったらしく、ヴィクター用のタグとバッヂ型の許可証が手渡された。

 

「よかった、ちゃんと通った。食料も飲み水も野営用の物資も万端だし、これでようやく出発できる!」

「おっしゃ! 星屑ヶ原に直行だぜ!」

「────おい。おいおいおいおいおい。いま星屑ヶ原に行くって聞こえたんだが、気のせいだよなぁ?」

 

 ヴィクターでもシャーロットでもない、野太い男の声が背後から響く。

 振り返ると、見知らぬ大男がニタニタと獰猛な笑みを浮かべながら二人を見下ろしていた。

 

 筋骨隆々の巨漢だ。ヴィクターより遥かに背が高く、重厚な装備の上からでも一目瞭然な筋肉の鎧に覆われている。

 頭髪は無く、魔力灯を照り返すのは輝かんばかりのスキンヘッド。大型の獣によるものなのか、顔には三条の痛ましい傷痕が斜めに走っており、猛禽のように鋭い三白眼と相まって人相の凶悪さを増している。

 

「おまえ、たった今登録済ませたばかりのルーキーだよな?」

「ああ」

「ッハハハハハ!! おい聞いたかオメーら!? このボンボン、出来立てホヤホヤの『銅冠級(ブロンズ)』クンの癖に星屑ヶ原へ行くらしいぞ!?」

 

 (つんざ)くような笑声がドーム中に轟き奔る。

 腹を抱えて笑う男の視線の先には、仲間であろう数人の男たちがたむろしている休憩所が見えた。

 

 けれど彼らは、「また始まったよ」「ザルバの悪癖が出たぞ」と呆れたように知らん顔。

 

「シャロ。一応聞いておくが、知り合いか?」

「いいえ。初対面」

 

 何やらタチの悪いチンピラの琴線にでも触れてしまったかと、シャーロットは溜息をひっそりと零した。 

 さてどうしたものか、と居心地悪そうに頬を掻く。

 

「居るんだよなぁ、おまえみたいな命知らずのボンボンが。アホみてーに甘い考えで一攫千金狙ってやろうと欲掻いて、『白金冠級(プラチナ)』にコネ作って『禁足地』に行こうとする馬鹿なお坊ちゃまがよ」

(……ん?)

「いいかぁ、『禁足地』の探索は遊びじゃねーんだ! 危険な魔獣! 厳しい自然! 予期せぬアクシデントォッ!! 爆弾が足元一面に転がってんのかってくらい危ねーところだ! そこそこ鍛えてるみたいだがな、適切な知識と確かな技術が無くちゃあ、命が幾つあっても足りやしねぇ!! たかが喧嘩自慢風情がヘラヘラ承認欲求満たしに行けるようなトコだと思ったら大間違いだぜ! 考え直して草むしりでもしてるほうが身のためってもんだ。ギルド(ここ)には図書館もあるから勉強もし放題だしな! ケケケ!!」

(なぁシャロ。この人普通に良い人では?)

(そうね。口は悪いし顔も怖いけど、新人が無茶しないよう警告してくれてるみたい。むしろあえて脅してるのかも)

「おい聞いてんのか!? 人の話も聞けねーようなアンポンタンかァ!? 女とイチャつきてぇだけなら大人しく宿場にでも行きやがれってんだクソガキ!!」

 

 憤慨するこの男、一見すると野蛮な悪漢のソレであるが、どうにも根の善さが滲み出ている。

 それゆえ対処に困った。ただ意地の悪い新人いびりに絡まれただけならスルーすればいい話だが、お節介とはいえ無下に扱うのも気が引ける。

 

「いいかボケナス。まず最初はな、何事も小さなことからコツコツこなしていくもんなんだ。『禁足地』の外れに生えてる薬草集めの依頼でも数こなして、フィールドの空気に慣れてからちょっとずつ前進していくんだよ。そうして努力を重ねていった人間だけが、このザルバ様のように『金剛冠級(ダイヤモンド)』まで登り詰められんだ。分かったか? 分かったら身分相応に大人しくしてな!」

 

 首元からラメ入りの透明感のあるプレートを取り出し、見せつけてくるザルバという男。

 等級で言えばシャーロットより格上らしい。高圧的に説教するだけの技量の持ち主ではあるようだ。

 

 口は悪いが、しかしそれは彼なりの善意の裏返し。

 不器用な人柄なりに新人へ手ほどきをしているならば、敬意を欠かすことはしない。

 

「忠告痛み入ります。でも、俺たちだって遊びに行くつもりは毛頭ないんですよ」

「ああ?」

「手に入れなきゃいけないものがあるんです。命を賭けてでも、絶対に必要なものが。危険は覚悟の上です」

 

 ヴィクターはザルバの眼を見て、言の葉を静かに手渡した。

 貫くように、射貫くように、力強く瞳を交えながら。

 

 一拍のち、一礼。

 

「ご指導、感謝します。先輩の忠言、胸に留めさせていただくッス!」

「私からも、ありがとうございました。お陰で気も引き締まります。ザルバさんのお気遣いに報いるためにも、必ず生きて帰ってきますね」

「──待ちな」

 

 ザルバの横を通り過ぎようとした時だった。

 ヴィクターの肩を、大きな手が猛禽のように鷲掴んだのだ。

 

「訂正するよ、おまえら芯のある奴らだな。礼儀もなってるし、確かな覚悟をもった目をしてやがる。大きな目的を持ってる奴の目だ。そんじょそこらのヘラヘラしてるだけの馬鹿とは違うらしい」

 

 にぃっ、と三日月状に引き裂かれていく口。

 歯を剥く笑顔は凶悪で、子供が見れば泣いてしまいそうな悪人面だが、どこか熱血を孕む表情だった。

 

「だからこそ、むやみやたらに死なせるわけにはいかねーんだよ。なぁ、わかるかオイ。オレ様はおまえらを通すわけにはいかねーんだ」

「……なるほど、そういうことっスか」

 

 どうやら、ザルバの根っこが善人であることに違いは無かったようだ。

 そもそも人格と実績が両立しなければ『金剛冠級(ダイヤモンド)』までのし上がれないことからも、彼の人柄は自ずと知れるというものだ。

 

 ゆえにこそ、だからこそ、ザルバはヴィクターたちを見過ごせない。

 ただ怪我をするだけならいい。しかし星屑ヶ原への道のりは、生半可な力では生きて辿り着くことすら難しい。

 全ては命あっての物種だ。大きな目的があろうとも、死んでしまえば何の意味も無い。

 

 若い命を黙って散らせるわけにはいかない。だから立ち塞がる必要がある。お節介で嫌な役柄になる必要がある。

 これはある種の、年長者としてのプライドなのだろう。

 

「危険なのは『禁足地』だけじゃねえ。例え目的地について、念願の資源を手に入れても、旅で疲れてヘロヘロになった奴の復路を襲う禁足地狩りなんてゴミカス野盗どももいる」

 

 つまり──()()()()()()()()()()()()

 

「オレ様と決闘しろ、小僧。このザルバ様に土をつけられたなら、星屑ヶ原に行くのを認めてやるよ」



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19.「龍颯爆裂拳」

「すまんなネーちゃん。ザルバの阿呆に付き合わせちまって」

 

 泡立つ炭酸飲料を片手にシャーロットへそう漏らすのは、ザルバの仲間らしい豊かな髭を蓄えた男だった。

 

「悪い奴じゃないんだが、ああ見えてかなーりお節介でな。初心者が無茶しようとしてたら首を突っ込まずにいられないんだ、馬鹿だから」

「あはは、お気になさらず。彼も乗り気みたいですから」

「本当に止めなくて良いのか? 大事な用があるんだろう? ザルバはオレたちで止めておくから、その隙に行ってもいいんだぞ」

「大丈夫です。予定の時間まで余裕はありますし、ヴィックが()()()()()()()()()があるみたいで、丁度良かったんだとか」

「そうか? なら良いんだが……」

 

 

 

 ギルドの会員は原則として私闘を禁じられている。 

 しかし、模擬戦という訓練形式に則れば話は別だ。

 

 施設の裏手。石ころひとつなく整頓された大きなグラウンドがあった。

 

 直線状に的が配置された、弓や魔法の射撃練習用エリア。明滅する点線でコースの描かれたランニングエリア。マネキンの立ち並ぶ剣術訓練エリア。

 戦いを日々の常とする者たちが、己を磨き上げるべく修練に励むための場所だ。

 

 ヴィクターとザルバは、そんな只中の平坦な芝生に立っていた。

 足元には6m四方の正方形ライン。ここが二人のリングとなる。

 

「ルールは簡単。この線から外に出るか、降参した奴が負けだ。金的、凶器の使用は無し。いいな?」

「大丈夫ッスよ」

 

 互いに上着を脱ぎ捨て、日の元に半身を曝け出す。

 純黒を隠す腕の包帯だけは取らない。ザルバはグローブ代わりだと解釈したようで、自身にも手際よく布を巻いた。

 

「なかなか良い体してんな」

「そっちこそ」

 

 曝け出された互いの躰は、さながら彫像の如く。

 

 贅という贅を徹底的に削ぎ落したかのような洗練さを備えるヴィクターは、180㎝と決して極端に大柄ではない背丈も相まって、一見するとスマートなシルエットに映る。

 しかし、極限まで圧縮された肉の繊維は今にも張り裂けんばかりの怒張を示し、黄金比だけではない猛々しさを露わにしていた。

 

 対するザルバは対極だ。徹底的に絞られたヴィクターとは違い、脂の層が乗っている。

 だが決して無駄の産物ではない。むしろ実戦使用を要てして練り上げられた、戦士として合理的な到達点と言えよう。

 

 それだけにとどまらず、全身の皮膚には幾何学模様の刺青が無数に施されていた。

 凶悪な人相に、2m近い巨躯をさらに重厚とする肉の甲冑、見るものを圧倒する刺青の紋様は、凄まじい圧を外套のようにザルバへ纏わせている。

 

 そんな二人が相対すれば、場の空気が星の核の如き熱量を爆発させるは自明の理。

 あまりの圧迫感と熱苦しさに筋肉の過剰摂取を引き起こしたシャーロットは、熱中症にでも罹ったかのように死んだ目を虚空に向けて堪らず氷魔法で涼をとった。

 

「さぁて! がっぷり四つといこうかァッ!!」

 

 ゴングは要らない。互いが臨戦の気迫を帯びた瞬間から始まった。

 

 先手をとったのはザルバだ。丸太の剛腕を鞭の如く振り抜き、ズバヂィッ!! と凄絶な破裂音を爆散させた。

  

 鈍重そうな見た目に反し恐るべき速度と破壊力。ヴィクターは反射神経を発火させ、上半身を大きく反らすことで間一髪回避する。

 瞬間、槍のような前蹴りが吹っ飛んできた。

 回避でバランスを崩した狭間を穿つ一閃は、的確にヴィクターの下腹へ熾烈なインパクトを叩き込む。

 

 が、咄嗟に腕を挟み込み、クリティカルヒットだけは防ぎ切った。

 しかし威力を完全に殺すことは叶わず、重々しく浸透する激痛に表情筋が苦悶の形へと歪んでいく。

 

(お、重いッ……!! なんて怪力だ、まともに喰らったら一撃で倒れかねねえ威力だぞ!!)

「オラオラどうしたァッ!! 亀みてーに守ってるだけじゃあどうにもならねェぞォォッ!!」

 

 一撃では終わらない。次から次へと、矢継ぎ早に拳や足が飛んでくる。

 連携にまったく隙が無い。最小の動作で最大の威力を伴った肉弾を雨霰のごとく降りそそがせるザルバの近接格闘術は、凄まじい次元にまで練り上げられた()の凶器だった。

 

 しかし真に恐るべきはそのスタミナか。

 これほどのラッシュ、普通なら数秒と持たず息が切れる。なのにザルバは呼吸ひとつ乱れていない。

 

 攻めが一向に止む気配が無いのだ。体内の魔力を高速循環させ、身体強化を施しているだけでは説明のつかないこの持久力は、ザルバが『金剛冠級(ダイヤモンド)』まで登り詰めるに至った日々の研鑽を窺い知れる。

 

(すげえな、とんでもない技術と暴力の融合だ! 一見ガムシャラで荒々しい打掛(うちか)かりに見えるが、一撃一撃がキレも精密さも熟練されてやがる……! 才能だけじゃこうはならない! 一体どんだけの時間を研鑽に費やしたんだ!?)

「おいおいおい、この状況で笑えるなんて随分と余裕あるじゃあねえかァッ!? ならもっとギア上げても構わねえってことだよなァーッ!!」

 

 滅多打ちがさらに加速を帯び、怒号と共に砂埃が爆発した。

 人の形をした重機と見紛うほどの圧倒的暴威の前には、もはやガードなど意味を成さない。

 

 上から振り下ろされる鉄塊の如きハンマーパンチが確実にダメージを蓄積させる。

 それを捌くのに精一杯で、ヴィクターは土俵際まで瞬く間に追い詰めてしまった。

 

(後手に回っても勝機は無い! だがこの嵐みたいな連打から攻勢に転がすのは不可能だ! 攻めに出た瞬間、ザルバは隙を突いてドデカい必殺をぶちかましてくる!! ────なら、勝ち筋はひとつッ!!)

「口ほどにもねえ!! そんなんで『禁足地』を生き抜けると思ったら大間違いだぞ小僧ォォ────ッ!!」

「ここだぁぁ────ッ!!」

 

 あと一歩で枠外に弾き出される寸前。ヴィクターはザルバの拳に合わせるように、顎へ渾身の掌底を叩き込んだ。

 熾烈なカウンターが骨肉を叩く。空気が破裂したような轟音とともに、ザルバが大きくよろめいた。

 

 ヴィクターはただ滅多矢鱈に防戦へ徹していたわけではない。ザルバの凄まじいインファイトに晒されながらも、技の呼吸を読んでいた。

 人間の手足の数は決まっている。間髪入れず放たれる絨毯爆撃でも、攻撃と攻撃の間には必ず隙間が生じる。

 息をする間も無い連撃に存在する極小のリズム。それを掴み取り、反撃を捻じり込んだのだ。

 

(ザルバは強い! とんでもなく! パワーも技量も格上だ! だがスピードだけなら、シャロの方が圧倒的に速かった!!)

 

 かつてシャーロットと刃を交えた際、振り下ろされる一刀に頭突きを合わせ、剣の着弾地点をずらすという荒業を成したことがある。

 身体強化されたアーヴェントの敏捷性はまさに電光石火の体現。あの一太刀と比べれば、見極められるタイミングなんて不可能の範疇にない。

 

 そして、顎とは一流の武闘家であろうとも決して鍛えることの叶わない急所の一つ。

 正確無比に打ち抜かれれば脳を揺らし、巨漢であろうとも砂の城の如く崩れ落ちる──!!

 

「だァァらああああああ──────ッッ!!」

 

 無数の乱打を叩き込んだ。この勝機を確実に掴み取らんと、一気呵成に畳みかけた。

 トドメと全身全霊のフィニッシュブロー。ザルバの体が壊れた竹とんぼのように宙を舞い、錐揉み回転しながら吹っ飛んでいく。

 リング中央へと、大男は激しく打ち付けられた。

 

「ッッ!? がっ、あ!?」

 

 

 

 だが。

 激痛の辛苦に顔を歪めたのは、ザルバではない。

 

 

 

「……おー痛え。今のは効いたぜ。嘘じゃねえ」

 

 顎に手を当て、ゴキンと音を鳴らしながら、男はのっそりと立ち上がった。

 

 顔貌を染めるは苦悶に非ず。にぃぃっと、裂けゆく口が示すは喜色満面のそれだ。

 口角から伝う赤筋など気にも留めず、もはや勝利は必然であると、豪快に歯を剥きながら嗤っていた。

 

「やるなおまえ。オレ様のラッシュにカウンター挟んできやがったのはおまえが初めてだよ。つか机上の空論だしな、そんなの。だがそれでくたばるほど、オレ様は甘くねえ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 陽光を跳ね返す眩くも不気味な銀盤が、指先から肩に至るまで一寸の隙間なく覆いつくしているではないか。

 刃物で神経を直接突き刺されるような冷感。暖かい気候と相反する極寒の襲撃に、ヴィクターは混乱の渦へと叩き落されてしまう。

 

(腕が一瞬で凍らされた!? 馬鹿な、魔法を発動した形跡なんて欠片も────いやまて、まさかあの全身の刺青ッ……!?)

「オレ様の顔を見ろ。この傷が見えるか?」

 

 ヴィクターの動揺などまるで意に介さず、おもむろにザルバが口走る。

 

「こいつはな、まだオレ様がヒヨッ子だった時に大鬼熊にやられた傷痕だ。小さな若熊だったから余裕だと思ったら返り討ちに遭った。慢心が招いた負傷だ」

 

 肉食獣の如き凶悪な笑みは崩さず、顔を斜めにかけて走る三本の傷痕をなぞりながら言葉を紡ぐ。

 

「本当に痛くてなぁ。痛くて、痛くて、治るまで何日も死ぬかと思って呻き続けたよ。あの痛みを忘れたことは一度もねえ。二度と同じ思いをしないように、オレ様はあらゆる手を模索したんだ。その答えがコレさ」

 

 顔をなぞる指先は首を伝って胸に落ち、刺青の上をゆっくりと這った。

 もはや語るまでも無い。ザルバの体表に描かれたそれは、皮膚そのものが氷魔法の防護壁と化すよう刻まれた魔方陣だったのだ。

 

「あらゆる衝撃に対し、オレ様の水魔力をもって『氷結魔法(グラキアス)』に変換、跳ね返す攻防一体の魔法! 名付けて『極冰金剛覇鎧(ごくひこんごうはがい)』ッッ!! オレ様を殴れば殴るほど、おまえは自分の首を絞めることになるんだぜェ!!」

「なんッ……だよ……そのドカッコいい必殺技ッ……!? 羨ましいじゃねーかよ……!!」

 

 

 男の子のセンスが分からない。観覧席のシャーロットはガクッと首を落とした。

 

 

「ギャハハハハッ、卑怯とは言うまいなァーッ!! 凶器の使用は禁じたが、魔法はダメだなんて一言も言っちゃあいねえ! この程度で窮地に陥るようじゃあ、この先やっていけねーぞォ!?」

 

 笑う。笑う。

 もはや負ける道理無しと、ザルバは死を目前とした獲物を捕らえんとする獅子の如く雄叫びを上げる。

 

 しかし。

 

「卑怯? ンなこと言わないッスよ。()()()()()()()()()()()()

 

 想定外の答えに、ザルバの顔が怪訝に固まる。

 

 攻撃の手段を封じ、フィジカル面でも格上だと思い知らせ、敗北以外の道筋を徹底的に叩き潰したはずなのに。

 そんな崖っぷちこそが好都合と言わんばかりの、今にも喉笛を食い千切らんとする闘志の爆熱が、男から焔のように迸っていたからだ。

 

「あらゆる衝撃を跳ね返す魔法と言ったが、完全じゃないだろう。力を全部返すなら吹っ飛ぶこともなかったはずだ。六割か? 七割か? 軽減できる衝撃にも限界があるな」

 

 引き絞る。

 完全に凍り付いたはずの拳を限界まで。剛弓をギリギリとしならせるように。

 

「アンタがくれたんだ。俺に勝ち筋をくれたのは、他でもないアンタ自身なんだ」

「あン?」

「魔法は凶器扱いか否か? そこがずっと気掛かりだった。試合前に尋ねれば警戒されちまう。だから、アンタ自身の口から否定してもらえることが大事だった!!」

 

 ──瞬間。ザルバの直感がけたたましい警鐘を鳴り響かせた。

 

 ヴィクターはただ拳を絞っているだけだ。術式も詠唱も無く、魔力の迸りも無い。

 魔法を使う予兆は皆無で、ザルバの知識と魔法学の常識では、あそこから何かが起こるとは考え難い。

 

 しかし確信していた。ヴィクターの虚栄ではない笑みと、長年の経験則からくる電極を刺されたような緊迫感が、全力で訴えかけていた。

 

 間違いない。ヴィクターは何か切り札を隠し持っている。

 状況から考えて、恐らく飛び道具の類。

 それを使って狙う勝ち筋があるとすれば、ザルバを土俵から追い出す場外判定か。

 

「何かは知らんが、させるかァッ!!」

 

 蹴った。地を蹴った。

 魔獣の如き脚力が芝生を抉り、土を散弾のように撒き散らす。

 即席で放たれた土と草の煙幕が、ヴィクターの視界を遮った。

 

 ザルバが動く。飛び道具そのものを封殺すべく、目潰しが効いている刹那で一気に距離を殺していく。

 

 ──次の瞬間。舞い散らせた煙幕ごと、ザルバは巨大な球体のようなものに激突された。

 

「うおおおおおおおおおおッ!? なんだ、コイツはァッ!?」

 

 驚愕に瞠目し、ザルバは絶叫を張り上げた。

 腹にめり込む確かな感触。しかし、見下ろす瞳には何も映らなかったからだ。

 

 ザルバごと前へ前へ押し進もうとする、不可視の砲弾のようなナニカが在った。

 ザルバの魔法が発動し、衝撃が『氷結魔法(グラキアス)』に変換されて跳ねかえっている。何らかの物体が存在している確かな証左だ。

 しかし霜が煌めきながら散りゆくのみで、何も凍結されることがない。

 

「ぐぅお、おおおおおお……ッ!!」

 

 目に見えない球体状の正体不明は、凄まじい力でザルバを押し出そうと邁進を続ける。

 反射的に地へ足を根付かせ、芝を削りながら威力を減衰させんと踏ん張った。

 

「不可視の、エネルギー弾!? 違う、こいつはそんな大層なモンじゃない! 刻印の異能でもない! これはッ……空気そのものか!? ありえねぇ、術式も詠唱も、魔力の発動痕も無く『風の砲弾(ヴェント・トルメントム)』をブッ放せるわけッ……!?」

 

 ──そう。本来なら発動できるわけがない。

 そもそもヴィクターには魔力が無い。

 火種がなければ炎は生まれないように、燃料を持たないヴィクターが自力で魔法を発動させるのは不可能だ。

 

 トリックの正体は、包帯の下に眠る『純黒の王』の腕がもたらす権能が一端。

 

 王をルーツとする黒の魔力。あらゆる事象を己が裁量で塗り潰し、独裁を敢行する超常の異能。 

 炎を掴み、水を千切り、雷を投げ、地を引き抜く万物干渉の極意。

 

 ヴィクター自身に魔力は無くとも、限定的に力を発揮する両の黒腕は、主の意のままに触れたいと願うもの全てに触れることが可能となるのだ。

 

 かつて『エマを倒す』という強烈な決心に呼応し、星の刻印の防護壁を貫通してエマの骨肉を直接叩きのめした時のように。

 ヴィクターの『空気を飛ばす』という意志に応じた黒の腕は、気体そのものをまるで固形物とするように法則を歪め、さながら烈風の大砲を放つが如く、大気そのものを殴り飛ばしたのだ。

 

「がぁああああッ!! なァァんのこれしきィィィィィ──────ッッ!!」

 

 だがしかし、分厚いゴム塊が破裂したかのような耳を刺す爆発音が轟いて、ザルバを追い込んだ風の砲弾が力づくで掻き消された。

 

「ハッハァ!! 少しばかり驚いたが、この程度でオレ様を倒そうなんざ甘い甘い! 甘すぎる!!」

「なッ……!?」

「おっ、動揺したなヴィクター? つーことはよぅ、可哀想によう、もう切り札は残されてねェみてえだなァーッ!!」

 

 白煙の息吹を吐き散らし、今度こそ勝敗を決さんと、血走る獣の眼差しがギラギラとヴィクターを捕まえる。

 必殺の意気込みは暗示ではない。確信だ。ザルバは勝利へと繋がる確信を得たのだ。

 あの技には、絶対的で致命的な欠点が存在するのだと。

 

 ヴィクターは空気弾を放つ時、限界まで拳を引くようにして構えていた。大きな隙を晒すことも厭わずにだ。

 しかも、わざわざ察してくれと言わんばかりに飛び道具の存在まで示唆する始末。

 

 何も言わず放っておけばザルバの不意を掴めたかもしれないのに、そのチャンスを捨ててまで切り札を匂わせるような口上を繰り広げたのは、そうしなければならなかった理由があるからに他ならない。

 

 順当に考えて、時間稼ぎが妥当な答え。

 

 ならば間違いなく、ヴィクターの空気弾には『溜め』がいる。

 大きく拳を引いて、砲弾を放つ力を貯めるための時間が必要不可欠なのだ。そうしなければ発動できない。

 インターバルを与える隙も無く距離さえ殺してしまえば、もはや飛び道具は無為に等しい。

 

 肉薄。地を蹴り飛ばし、ザルバは大猪の如く突進した。

 最短距離を最速で駆ける。両腕を氷で封じ、唯一の対抗手段である風の弾を放つ猶予を潰し、丸腰と化したヴィクターへ渾身のぶちかましを喰らわせんと──

 

「────ッ!? なッッ!?」

 

 想定の外より、肉を打つ不可視の衝撃。

 ()()()()()()()

 風の砲弾が一発、二発と、ザルバにめり込むように突き刺さったのだ。

 

「なッ、にィィッ!? 馬鹿な、連発だとォッ!?」

「……卑怯とは言わんでしょう? 溜めが要るだなんて一言も言ってないんスからねェ~ッ!! アンタが勝手にそう思い込んで、騙されちまっただけなんだからよォーッ!!」

 

 騙されただけ。

 その一言が、ヴィクターの言動がブラフだったのだという証を示す。

 

 隙を多く見せる予備動作を取ったのも、わざと口を滑らせて時間稼ぎに見せかけたのも、直ぐに追撃をしなかったのも。

 ザルバに油断を生じさせるための、徹底的なミスディレクションだったのだ。

 

「オレ様の考えを読んだうえで演じたってのか……!? 腕を凍らさられた段階で、そこまで描いてやがったのか!?」

 

 ザルバはヴィクター以上に戦闘経験が豊富だ。

 だからこそ、その洞察力をもって()を突いてくるだろうとヴィクターは踏んでいた。

 ただ一発限りの切り札なのだとチラつかせ、それが失敗に終わったと動揺を演じて刷り込んで、次の手札を切るには時間が必要なのだと思い込ませた。

 

 目論見通り勝利を確信したザルバは、抱く油断に従うままに、無防備にもヴィクターへ一直線に吸い寄せられてしまったのだ。

 

「イカれてんのか、この野郎ッ!!」

「……俺たちを心配してくれたザルバさんの不器用な優しさ、嫌いじゃないッスよ。でもそれはそれ。ちょっぴり余計なお世話なんで! 前に進むためにも、押し通らせて頂きますッ!!」

 

 結果。嵐の如き裂空の一斉掃射を、その全身をもって余すところなく味わい尽くす──!!

 

「だァァらららッッッッしゃあああああァァ──────ッッ!!!!」

 

 ザルバの魔法が威力を氷魔法に変えて跳ね返しても、全てを相殺することは叶わない。

 やがて洪水に呑まれた大木のように、男は場外へと押し流されていった。

 

 

 

 

「お疲れさま、ヴィック。白星おめでとう。はいタオル」

「サンキュ」

 

 シャーロットから布を受け取り、流れ落ちる汗を拭いていく。

 

「いつの間にあんな技覚えたの? ちょっとびっくりしたわ」

「ちょくちょく腕の使い方練習してたんだよ。ほら、昔シャロが飛ぶ斬撃みたいなの使ってきたことあったろ? あんな風にカッチョいいの出ないかなーって試したら出たんだ」

「出たってそんな……前から思ってたけど割と無茶苦茶よねあなた。まぁいいわ、とりあえず腕見せて。『氷魔法(グラキアス)』受けちゃったところが凍傷になってるかもしれないし」

「おう、頼む」

 

 幸い氷は既に溶け、純黒の部位に負傷は無く、生身の上腕が軽く霜焼けになる程度で収まっていた。磨り潰した薬草を水に溶いたものをスプレーするだけで事足りる。

 

 本来ならば、まともに『氷魔法(グラキアス)』など喰らってしまえば凍傷どころか、組織の壊死すら免れられない。

 恐らく、ザルバが出力を抑えていたのだろうと推察できる。

 

「……まさか『銅冠級(ブロンズ)』がこのザルバ様に土を着けるとはな。あーあ、こりゃイチから鍛え直しだぜ」

「たまたまッスよ。正直、初弾を防がれた時は負けると思いましたもん俺。本当はノックアウトさせるつもりで撃ったのに、場外が精いっぱいだった。流石です」

 

 事実、ザルバのタフネスは凄まじいの一言に尽きる。

 あれほどの乱打を浴びておきながら、怪我らしい怪我のひとつも無い。おまけに体力も存分に有り余っている。

 もし場外判定が存在しなければ、例え空気弾で一時のアドバンテージを取ったとしても、いずれ地に伏していたのはヴィクターだっただろう。

 

 これが『金剛冠級(ダイヤモンド)』。数多の死線を潜り抜けてきた、歴戦のプロフェッショナルか。

 

「……ハッ。先輩へのヨイショもお手の物か。完敗だな」

 

 普段の凶悪なものとは違う、晴れ空のようにサッパリとした笑み。

 寝転がっていたザルバが手を伸ばす。ヴィクターはそれを受け取って、ザルバの体を引っ張り起こした。

 

「しかしよ。さっきの技なんだが、ありゃ一体何だ?」

「え?」

「術式も詠唱も触媒も、ましてや魔力痕すら生まずに『風の砲弾(ヴェント・トルメントム)』を放つなんざ見たことも聞いたこともねえ。気になってしょうがねーんだよ。教えてくれ」

「あ、あー」

 

 背後のシャーロットにチラリと目配せ。

 少女は人差し指で小さく×印を作っていた。

 

 アーヴェントが背負う隠遁の宿命もあるが、先のエマの件もある。身分がバレないよう、黒魔力の情報は門外不出として扱うべきなのは自明の理だ。

 ヴィクターは魔力が無く、『純黒の王』やアーヴェントに繋がる痕跡を残さないからこそ、人目のある場でも些細であれば使用を認められているに過ぎない。

 

 そういうわけで、ヴィクターは挙動不審に目を泳がせながら誤魔化しに徹した。

 

「えーっと、ほらほらあれッス。秘伝の術だから喋れない、みたいな?」

「ほォ! 一子相伝の固有魔法とかいう奴か。かーッ、イカすじゃねーかオイ! そういうことなら内容は聞かないが、名前とかあんのか? 名前くらいならいいだろ」

「な、名前も無いッスね」

「そうなのか? じゃあオレ様が着けてやるよ。龍颯爆裂拳(りゅうそうばくれつけん)……なんてどうだ!?」

「良いッスねそれ!! めっちゃイイ!! 採用!!」

 

 

 男の子のセンスは不思議で満ち溢れている、とシャーロットは生温かい笑顔。

 

 

「さておき、突っかかっちまって悪かったな。オレ様を負かしたおまえなら、並大抵の事は大丈夫だろ。だが気をつけろよ、近頃星屑ヶ原あたりじゃ悪い噂を聞くからな」

「悪い噂?」

「正確には、星屑ヶ原の手前にある黄昏の森でな。なんでも先住民の集落との交信がプッツリ途絶えてるらしい。嫌な感じがする。オレ様の勘がそう言ってるぜ」

 

 経験則からくる直感だろうか。ザルバは訝しむように顔を顰めながらそう言った。

 しかし直ぐに表情を和らげ、「生きて帰ってこい」と右の拳を前に出しながら破顔する。

 

「次は負けねえ」

「次も勝ちます」

 

 互いに拳を突き合わせ、小さな決闘は閉幕を迎えた。



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20.「灼熱のジャングル」

 ちょっとした疑問を解消しよう。

 何処にあるとも知れない大洋の島から何処にあるとも知れない町に瞬間移動できるポータルなんて便利な代物があるのなら、最初からそれで星屑ヶ原へ行けばよいのではないか? というものだ。

 

 しかし至極残念なことに、ポータルは代え難い移動手段ではあるが万能ではない。

 テレポートできる場所が限られているのだ。ポータル・オベリスクと呼ぶ、マリンブルーのクリスタルで出来た小さな柱を埋めた場所にだけ跳ぶことが出来る。

 

 かつて先代アーヴェント当主がエマを拾った中央街のオベリスクを含む、エマと縁のある様々な地域のポイントが侵入者への安全対策として失効された今、ポータルはヴィクターたちが懇意にしている港町のみ通じる門となっているのだ。

 

 そんなわけで、二人は星屑ヶ原に着々と向かうべく、まず空の旅を楽しむことにした。

 長距離飛行移動型寝台列車、通称ペガサス便である。

 

「ところでヴィック。あの空気弾のことだけど」

「龍颯爆裂拳」

「……空気だ」

「龍颯爆裂拳」

「りゅ、りゅーそーばくれつけんだけどさ」

 

 列車の一室。二段ベッドの上段に寝転がるシャーロットは、ヴィクターの謎の拘りという名の圧を下段から背に受けて呻き声を上げた。

 

「あまり多用しちゃ駄目よ。というか腕の力全般ね」

「アレか? 体の転化が進むとかなんとか」

「それもあるけど、単純に危険なのよ。その腕は本来人の身で扱える代物じゃない。魔力を消費して発動させる能力を魔力の無いあなたが使い続ければ、どんな代償を支払うことになるか見当もつかないの。もしかしたら寿命を削っちゃうかもしれない。だから、ここぞという時以外使っちゃダメ」

「わかった、肝に銘じとく。けどもし使わなきゃならない場面が来たとしたら、どの程度なら使っていいんだ?」

「1日1分。それが限界かな」

「短いなオイ……」

 

 

 そんなこんなで、大空を列車で旅すること早二日。

 伽藍と人気のない終点駅を降りた二人は、間髪入れず無人車(キャルゴ)に乗り継ぐと、今度は野山を駆け抜けていく。

 

 人気のない悪路を突き進むことまた二日。 

 長旅の末、一面中が紅葉に覆いつくされた樹海の1kmほど手前にやっとこさ到着する。

 

 その時だった。突如地面に魔法陣が浮かび上がったかと思えば、腰ほどの高さのポール型ゴーレムがにょっきり土筆(つくし)のように生えてきた。

 

『これより先は侵入指定等級「金冠級(ゴールド)」領域、黄昏の森になりマス。「禁足地」内での生命、健康、および安全は一切保証されまセン。立ち入る場合はメンバーズタグを照合してくだサイ』

 

 言われるがまま、首元へぶら下げていたタグをかざすと、ゴーレムの目に相当する部分が大きく開かれ、二人のタグを光で投影された魔方陣がスキャンした。

 ピロピロピロ。読み込み音のようなノイズが響く。

 

『照合完了。シャーロット、立ち入り推奨階位クリア。定められた権限により、同伴者ヴィクターと共に立ち入りを認可しマス』

 

 再び魔法陣が現れ、ずもももも、と地面に埋まるように消えていく。

 

「凄いな、ゴーレムの門番か。ハイテクだなぁ」

「何かの間違いで迷い人や指定等級未満の人が入ってしまわないようにするためね。『禁足地』前には必ず配備されてるの」

「これ無視して入ろうとしたらどうなるんだ?」

「ボコボコにされる」

「えっ」

「非殺傷拘束用のスタンウィップで捕縛しに来るのよ。それも大群で。捕まったら騎士団のお縄になるし、等級も下げられちゃうかな」

「命かかってるだけあって厳しいんだな……」

 

 見た目は丸みを帯びた可愛らしいデザインなだけに、怒らせると群れで襲い来るというのは絶妙に恐怖感を煽るギャップである。

 そんな小さなガーディアンが消えた大地を尻目に、二人は紅葉に支配された森の中へと足を踏み入れた。

 

 黄昏の森。辰星火山を取り囲むように存在する、夕焼けの如き紅葉に覆われた森林地帯の通称だ。

 辰星火山の火口部に存在する星屑ヶ原へ向かうには、この黄昏の森を突破しなくてはならない。

 

「おー、綺麗な森だなぁ。見渡す限りの紅葉、白い大木。雪みたいに真っ白な芝生に真っ赤な落ち葉のコントラスト。落ち葉が厚切りベーコンかってくらい分厚いが……まるで絵本の中の世界だなこりゃ。でもすげー暑ちい!」

「このボイラーツリーのせいね。長年純度の高い火魔力を土地から吸い続けて熱を放つ習性があるの」

「ほんとだ、触るとかなり熱い。生きてる焚火みたいだな」

「気をつけてね、樹液は物凄く引火性が高いの。ちょっとした火花でも燃えるから炎は禁忌よ」

「マジか……雷とか落ちたら森が燃え尽きそうだな」

「それは大丈夫。この森全体の植物が強力な不燃性を持ってるから燃え広がることはないんだって。森の先住民はこの木の皮から燃えない服を作ったりしてたらしいわ」

 

 ほぼ全ての『禁足地』は、高純度の魔力の影響か、他に類を見ない特殊な環境を構築するパターンが多い。

 黄昏の森も例に漏れず、土地に含有される膨大な火属性魔力の影響か、特殊な性質を孕んでいた。

 第一に、日差しが木漏れ日程度しかない緑陰の最中であると言うのに、まるで砂漠にでも放り込まれたかのようなカラカラとした熱気が立ち込めている。

 

「不思議だ。どこ見ても大木か下草しかないってのに乾燥しきってやがる。これだけデカい植物が森を作るってなると、豊潤な水が必要なんじゃないのか?」

「夜になれば分かるかもね」

 

 方位磁石で目指すべき方角を確認しつつ、ひたすら森の奥へと進んでいく。

 しかし時を経ていくごとに、段々と気温が高まっていく気がしてならなかった。

 

 ジリジリと肌を炒められるような熱波の感覚。

 珠の汗が幾重にも肌を滑走していく。

 

「暑い……クラクラする」

「うあーうー……思いっっっきり水浴びしたい……話には聞いてたけど暑すぎるわ……」

 

 幸い、空間拡張ポーチのお陰で水にはまだ余裕はある。

 だが想像以上に強烈な熱気のせいで、あっという間に体中の水分を持っていかれそうだ。

 往復分はもたない。どこかで水源を探さなければ、千年果花を手に入れても枯れ果てたミイラと化してしまうだろう。

 

「氷魔法とか使えないのか? こりゃ流石にヤバいぞ……」

「体力を消耗してる状況で魔法なんか使ったら私が干乾びちゃう……ごめん、我慢して……」

「それは仕方ない……踏ん張るか……」

 

 魔法は無限ではない。魔力を消耗する以上、むやみやたらに使用すれば締まるのは自分の首だ。

 無心に徹し、ひたすら歩く。もはや喋る気力も余裕も無く、死者の行軍のよう沈黙を連れて歩き続ける。

 

 日が傾きかけた頃合い。息をするのも苦痛に感じるほどの熱気が森林を包み込んでいた。

 しかも気のせいか──否、気のせいではない。さながら森そのものが蒸し器と化したかのように、()()()()()()が二人を取り囲んでいる。

 

「シャロ……これは……はぁっ……真面目にヤバいぞ……何だこれ、空気が熱くて肺が焼けそうだ……!」

「今日はここまでね……()()()()()()()()()()……あの斜面が良さそう、手伝ってちょうだい」

「穴……? この状況で穴掘りって、暑さで気が狂ったのか……?」

「いいから早く……死ぬわよ……!」

 

 言われるがまま、シャーロットが魔剣の要領で黒魔力を凝固させて創り出した円匙を手に、我武者羅で崖を掘り進んでいく。

 数メートルの横穴を確保。さらに下に向かって縦穴を掘り、逆さL字型の洞穴を完成させた。

 

 二人が両手を広げて寝てもぶつからない程度の安全地帯を確保すると、生き埋めにならないよう、天井や壁へ『防護魔法(プロテゴ)』を施し、ようやく休息に入る。

 

「はぁーっ、助かったぁ」

「シャロの言う通りだったな。あのまま外にいたら人間の蒸し焼きが出来上がってた」

 

 縦穴から少しだけ顔を出して外を見る。

 日没を迎えた夜の森には、恐るべき殺人蒸気の大軍勢が我が物顔で群雄割拠。

 洞穴の中も蒸し暑いが、外と比べれば雲泥の差だ。もし今外に飛び出せば最後、一呼吸するだけで肺臓は焼けただれ、蒸し殺されてしまうだろう。

 

「なんだこの水蒸気。一体どこから?」

「ボイラーツリーよ。樹冠が見える? 葉が真っ赤になってるでしょ?」

「ああ、確かに。松明みたいに燃えて……いや、発熱で光ってるのか……?」

「そそ。この土地は異常に水はけが良くて、遥か地下の水脈に全部流れて行っちゃうらしいの。あの植物は三日に一度、夜になると肉厚な葉っぱに貯めておいた僅かな水分を特殊な樹液と混ぜて増幅させて、火魔力で一斉に加熱して物凄い量の水蒸気を飛ばすんだって」

「するってえと、もしや雲を作って無理やり雨を降らそうとしてるって感じか?」

「そんな感じ。明日は雨が降るから涼しいでしょうね。今夜は我慢しなきゃだけど」

 

 洞穴の中は外と比べれば遥かに涼しい。ひんやりとした土が火照った体を冷ましてくれる。

 が、あくまでそれは相対的な話だ。蒸し暑いことに変わりは無く、じっとしているだけでも体の中に熱が籠るような感覚に苛まされる。

 

 皮膚に張り付く水滴も、もはや汗なのか結露なのか判別できないほどだ。

 じっとりとした不快感は筆舌に尽くし難く、とてもではないが、おいそれと眠れる状態ではない。

 

 ただひたすら、蒸し蒸しとした空気に抱かれる。

 初めは喋って気を紛らわせていた二人だが、いつの間にか喋る気力すら失って、ひたすら夜明けを待つだけの屍と化してしまった。

 

 少しでも体を冷やそうと、冷たい地面に仰向けで倒れ込むシャーロット。

 ヴィクターはポーチから水筒を取り出し、喉を鳴らしながら水分補給。

 

「水、いるか?」

「ん……」

 

 シャーロットは上体を起こし、渡された水筒を受け取って。

 口をつけようとした瞬間、時が止まった。

 

「………………」

「どうした?」

「い、いや。なんでもない」

 

 なんでもなくなかった。

 シャーロット自身にも理由は分からない。分からないのだが、どういうわけかヴィクターが口を着けた水筒にむず痒いような気恥ずかしさを覚えて、水を飲めなくなってしまっていた。

 

 沈黙、数拍。

 

(いや。いやいや。いやいやいや。飲み回しなんて別に、前までフツーにやってたし。朝トレの時とかフツーに。というか飲まないと命に関わるんだから、躊躇なんてしてる場合じゃないのに。なのに何で、こんな、この程度のことで)

 

 ()()()()()がトリガーとなったのか、それともこのうだるような暑さのせいか。以前は気にも留めなかった状況が、どうにも気になって仕方がない。

 おまけに一度意識してしまうと、芋づる式にどんどん心拍が上がり始めていく。

 

 そういえば狭くて暗い場所に真夜中で二人きりとか初めてだな、なんて気付いてしまったが暁には、茹ったカニのように染まる肌色を止められなくなってしまった。

 

「おいどうした、顔が赤いぞ。大丈夫か? 熱にやられちまったんじゃ」

「あ、あー、うん! そうね、ちょっと火照っちゃったみたいね! はー暑い暑い! ほんと堪んない熱気だわイヤになっちゃう!」

「…………まさかシャロ、飲み回し意識して照れてんのか?」

「ばっっ!! なんっ、何であなたいつも妙に鋭いのってそんなわけないでしょ!? このシャーロット・グレンローゼン・アーヴェントが間接キス程度で狼狽えるわけがっ」

「あらら~? やだマジ~? 天下のシャロ嬢もそういうの気にしちゃうお年頃だったの~? まぁまぁ随分と初心で可愛らしいとこあるじゃないのよぉホホホホ」

「ムッかつく!! なにその口調死ぬほどムッッッかつくわ!!」

 

 右手を頬に当てつつ高飛車なオバハン貴族のように笑うヴィクターへ、シャーロットは照れとは違う朱に顔を染め上げながらギリギリと拳を握り固めた。

 

「というか何であなたは照れすらしないのよ! こーんな美少女と二人きりなんだからちっとは狼狽えたらどうなの!?」

「馴れたんだよ。これでも島に住み始めた頃はドギマギして大変だったんだぜ? シャロお世辞抜きで可愛いからな」

「っ……今可愛いとか言うなばかぁっ……」

「お、おい。それは反則だろうが」

 

 薪を焚べられた羞恥に、ヴィクターだけ平静なのが気に食わないという悔しさが合わさってか、シャーロットは瞳を潤ませ下唇を噛み締めながら、キッと上目でヴィクターを睨みつけた。

 

「気に入らない気に入らない! 何で私がこの程度のことで動揺しなくちゃならないの!? 前まで平気だったのに、意味わかんないもう! あー悔しい、暑くてイライラするし腹立つ! ヴィック、あなたも顔真っ赤にしてパニクりなさい!!」

「無茶言うな。というかさっさと水飲めって、お前絶対暑さで参りかけてるぞ」

「うるっさい! ここで引き下がったらアーヴェントの名折れだもん! 絶対負かしてやる!」

「何の勝負だ!」

 

 元来、シャーロットは相当負けず嫌いな性分だ。

 普段は少々お転婆なものの、大らかで落ち着いた優しさを持つ少女である。一見すると勝負事には無縁のようにすら感じるほどだろう。

 

 しかし一度勝つと決意を灯せば、勝利まで徹底的に突き進む貪欲な精神力を潜めている。

 かつての決闘にて、その身をわざと雷撃で貫かせてなお膝を折らなかったほどだ。

 狂気的なストイックさで己を磨き続けてきた過去も、彼女が持つ生まれ持った負けず嫌いの裏返しとも取れるだろう。

 

 シャーロットは憤慨していた。

 理由は分からないが、どうにも心臓が五月蠅くて仕方がなかった。

 なのに目の前の男は波風ひとつ立てていないときている。奇妙な敗北感を植え付けられ、心底気に食わなくて腹立たしい。

 

 少女にはこの気持ちの源泉が何処にあるのか分からない。その正体を知る由もない。

 ()()()()()とは無縁の人生を送ってきたのだ。分からなくても無理はない。

 そのせいか。馴れない感情の暴走と熱気によるストレスが、シャーロットに致命的なバグを引き起こした。

 

 何が何でもこの男を動揺させる。そのために最も効率の良い手段とは何か?

 単純明快。()()()()()

 

「ふんぬっ!!」

「ぶっ!? おまっ、急に何やってんだお前!?」

 

 決断は早かった。シャーロットは勇ましいほど無造作にガバッとシャツを脱ぎ捨てたかと思えば、一切の躊躇なく素肌を暗がりの元に曝け出したのだ。

 

 練り上げられた肢体の最中、濃紺の下着にふよんと収まる柔らかくたわわな双丘。

 それは日の光とは無縁なほど白く滑らかで、さながら雲で象られた白桃のよう────

 

 転瞬、ヴィクターは骨がイッたのではないかと自分で自分を心配するほど全力で首を捻じ曲げた。

 今のシャーロットは明らかに正気ではない。錯乱した少女の肌をこれ役得と凝視するのは、ヴィクターの道理と礼儀に反する行いだ。

 それはそれとして、網膜に焼きついた脳内画像は永久保存した。

 

「ふっはっはー! どうだおっぱいだぞー! 勝ち逃げなんてさせないわよ、顔真っ赤にして慌てふためきなさいこのっ!」

「わ、わかったわかった俺の負けだ! 頼むから服を着てくれ!」

「いえーい勝った勝った、照れさせてやったわよこんちきしょーめ! フフーン、私に勝とうなんざ千年早いってのよエロ猿!」

「だから早く服を着ろっての! 後で絶対後悔するぞ!!」

「別に後悔なんてしないもーん。あなたを慌てさせるためなら肌のひとつやふたつ余裕で晒してやるわよ! それに今は私とヴィックしか居ないんだし、気にする必要なんて何処にも無いしね! んくっ、んくっ、くぁーっ、勝利の美酒代わりのお水が沁みる! アーハッハッハッハ!!」

 

 

 

 

 

 

「……私……どうしてあんな真似を…………」

 

 動乱の夜は更け、ボイラーツリーの雲が恵みの雨をもたらした黎明。

 熱を払う雨粒に頭を冷やされ、森に生じた期間限定の川で水を浴び、ようやく正気を取り戻したシャーロットは頭を抱えてうずくまった。

 

「なんか凄い悔しいし暑いしで頭沸騰しちゃって気付いたらおっぱい出してた……あ、あれじゃただの痴女じゃない……!! 何やってんのよ昨晩の私ぃぃ……!!」

「──良いもん見させてもらいました」

「悟った顔で拝むなバカァッ!! ゼロ秒で忘れろぉっ!!」

「ずぇええ~~~~ってえ忘れねぇ!! 例え記憶失くしてもこれだけは絶対に忘れてやらねー!」

「っ~~~~!! う、ううぅぅぅ~~忘れろぉ~~っっ!!」

 

 

 完全に不貞腐れてしまったシャーロットの機嫌が直ったのは、正午を過ぎた辺りだった。



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21.「黄昏の森のコロポックル」

 男は変化が好きだった。

 

 消息盈虚(しょうそくえいきょ)。万物万象とは、時と共に移ろう定めの元に存在する。 

 命、物体、何であれ、万民へ平等に訪れる潮流こそが変化であり、慰めであり、痛みでもある。

 

 男は変化が好きだった。

 変わりゆく様々な姿形を眺めることが。変わる前の姿形を留めることが。

 

 画家だった男は、瞳が映す煌びやかな光景の時間をカンバスへ切り取るように絵を描いた。

 例えば春の山。新緑に茂る命の輝きを油絵具で白紙に綴じ、季節が過ぎ去り冬になれば、また同じ場所で静まり返った命眠る銀山を筆で留めた。

 

 男は変化が好きだった。特に、溢れる躍動が退廃しゆく栄枯盛衰に美を見出した。

 春に対する冬。新に対する古。喜に対する苦。

 そして、生に対する死を。

 

 移ろう前の過去を描き、移ろった後の未来を描く。

 そうして出来上がった二つを眺めて、流れた変化を観察する。

 

 頽廃(たいはい)を対比する無二の時間こそが、男にとって何物にも代えがたい美の極点であり、どんな蜜よりも甘い至福であった。

 

 

 

 

「……」

「? どうしたのヴィック。何か見つけた?」

「いや……誰かにずっと見られてるような気がしてな」

「きっと鳥か獣よ。森にとって私たちは異物だもの。注目の的にもなるわ」

「そんなもんか」

 

 

 黄昏の森に足を踏み入れてから早くも四日目。

 星屑ヶ原を目指し、快調に進んではいるものの、どうにも辰星火山の麓が見えてこない。

 

 樹海とは想像以上に距離を稼ぎ辛いものだ。悪路や道を阻む藪、障害物などなど、たった数km程度の移動でも丸々一日費やしてしまうこともある。

 

 しかしそんな事情を差し引いたとしても、四日歩き続けてゴールの兆しすら見えてこないと言うのは何とも奇妙な話だった。

 目指すべき場所には世界樹がある。天を衝き雲を越えるほどの巨大な樹だ。

 その一端すらまるで目に映らないのはどうにもおかしい。

 かといって迷っているわけでもなく、方位は逐次確認しながら進んでいる。なのに辿り着けない。

 

 そうこうしている内に、またしても地獄の蒸気シーズンがやってくる始末。

 

「どうする? また穴掘るか?」

「うーん……情報通りなら、もうそろそろコロポックルのお家が見えてくるはずなのよね。見つけたら匿って貰えると思うんだけど」

「じゃあもう少し粘って、無理そうだったらまた掘るか」

 

 小人(コロポックル)。黄昏の森のような、魔力の濃い特殊な環境に住まう『禁足地』先住の亜人である。

 鉱人(ドワーフ)と並び手先が器用なことで有名で、子供程度の小柄な体躯を活かしながら、土中や樹上、果ては雪の中など、様々な場所に住処を作って暮らしている逞しい人々だ。

 

 この森には外部と友好的な小人(コロポックル)が住んでいるという情報は掴んでいた。金貨や食料を渡せば、喜んで宿を提供してくれるに違いない。

 

 都心部にはリルという通貨が存在しながらも、金貨や銀貨、緋金貨といった旧時代の硬貨が未だ現存しているのも、こうした『禁足地』に住まう亜人との交渉材料として機能する、全種族共通貨幣だからなのである。

 

「……しかし、気味が悪いわね」

「? 何がだ?」

「思わない? この森、()()()()()()()()()()()()

 

 言われてみれば、なるほど確かに。黄昏の森に立ち入ってからというもの、妙な視線こそ感じれど生物や精霊をまるで見かけないのだ。

 

 蒸気地獄という過酷な環境を生み出す森だが、そんな土地であっても、生き物たちは逞しく生態系を築き上げている。

 例えばサラマンダー。常に燃え盛る火の幻獣は一見この森と適さないように思えるものの、むしろ高温のスチームで水分補給を行ったり、ボイラーツリーの実や火鼠を捕食すべく活発に行動している。

 ヒグルマバッタは森で最も見られる昆虫であり、雨が降った翌日には地中から無尽蔵に現れて下草を貪るのだという。

 

 他にも様々な動物が存在するはずなのに、姿どころか痕跡すら見当たらない。

 蒸気の脅威から生き抜くことに精いっぱいで気にも留めていなかったが、考えれば考えるほど異常に思える静寂ぶりだ。

 

「四日間も精霊一匹すら見つからないなんて普通じゃない。流石に変よ」

「……そういえばザルバさん言ってたな、森の先住民と連絡が取れなくなってるとかなんとか。関係あるんだろうか?」

「分からないけど、違うことを願うわ」

 

 ひとまず懸念は脇に置き、旅を進める。何はともあれ歩き続けなくては先に進めない。

 そろそろ辰星火山の麓が見えてくるはずだと、長い旅路で棒のようになりつつある足に檄を飛ばした。

 

 昼を過ぎ去り、あと数時間ほどで日没を控えた午後の刻。

 再び猛烈な熱気に襲われ始め、そろそろ穴を掘るかと目配せをしたその時だった。

 

「待って。あれ見える?」

 

 シャーロットが指差す方角の果て。森の奥に、明らかに自然のモノではない異物がぽつんと存在していた。

 恐らくボイラーツリー製だろう、白い木の板が崖にくっついている。雰囲気で言えば地中へ続く玄関のようだ。

 樹皮や落ち葉で風景に溶け込むよう迷彩を施されているが、人の眼から見ると明らかな人工物として映えていた。

 

「もしかして、コロポックルの家か?」

「きっとそうだわ。よかった、泊めてもらえるか交渉しましょ」

 

 急ぎ足で戸に近づく。

 簡素な作りに見えるが、よく見ると壁面に埋め込まれ、しっかりと固定されていた。

 何本か木で出来たパイプのようなものまで飛び出している。危険な蒸気の侵入を防ぎつつ、空気の出入り口を確保するための工夫だろうか。

 

「ごめんください、どなたかいらっしゃいませんか?」

 

 呼び鈴もノッカーも存在しないドアを叩く。

 沈黙を挟み、返って来たのは無音だった。

 

 もう一度叩く。今度は少し強めに、住人の耳が聞き逃さないように。

 しかしそれでも、返答は不気味なほどの静けさで。

 

「不在か。参ったな」

「……かもしれないけど、奇妙ね」

「奇妙?」

「ええ。コロポックルは魔獣なんかに住処がバレないよう、隠匿の魔法で入り口を隠しておくらしいの。でもここは剥き出しのまま」

 

 戸を撫でながらシャーロットは言う。その瞳は、眼前の不明瞭に対する怪訝の色を帯びていた。

 

「それにこのカムフラージュやドアの通気口……手先が器用な種族にしては相当雑に作られてる。大急ぎで最低限だけこしらえたって感じ」

「突貫工事ってやつか。だとしてもどんな理由が?」

「……もしかしたら、交信が途絶えた理由と関係があるのかも」

 

 薄気味悪い状況に、不気味な冷ややかさが背を走った。

 立っているだけで汗が流れる高温多湿を一時ばかり忘れるような悪寒。この腰丈ほどの小さな戸が、途端に重苦しい空気を吐いたかのようにすら感じられた。

 

「……考えすぎか。ただ不在なだけかもしれないし、捨てられた古家かもしれないものね」

「それで、どうする? 穴掘るなら早いとこ始めないとマズいぞ」

「いえ、無礼を承知でこのお家に避難させてもらいましょう。もし住民が戻ってきたら、星屑ヶ原についての情報を貰えるか交渉できるし」

 

 しかしながら、住民が戻ってくる可能性は低いと踏んでいた。

 基本的に『禁足地』の亜人たちは、危険と隣り合わせな環境に住まうがゆえに、家を完全に空けるような真似などしない。必ず一人は留守番がいるはずなのだ。

 

 人気が無い以上、恐らくここは空き家で違いない。前の住民は引っ越したか、あるいは広大な森に点々と構えている別荘のひとつという線が濃厚だ。

 一晩使ったとしても問題は無いだろう。シャーロットは小さなドアの取っかかりを引っ張った。

 

 土埃を落としながら、入り口が重々しく開かれていく。

 ひやりとした空気。暗澹へ続く地下道が二人を出迎えた。

 

 玄関は屈まなければ入れないほど低かったが、中は存外広いらしい。ヴィクターが少し頭を下げる程度で済む天井のおかげで腰を痛めずに済みそうだ。

 暗い通路を進んでいく。外とは打って変わった涼しさに安堵を抱く。

 

 ──次の瞬間。安らぎは刹那の狭間に雲散霧消した。

 

 何の前触れもなく魔法発動時特有の磁励音に酷似したノイズが反響したかと思えば、一瞬にして全方位に夥しい数の魔方陣が姿を現したのだ。

 

「ッ!!」

 

 反射的に二人が動く。シャーロットは己が黒魔力をドーム状に凝固させた防護壁を展開し、ヴィクターは万物干渉の黒腕を振り抜いて床の魔方陣を殴り壊した。

 

 シャーロットの黒壁に全方位から突き刺さる、土で出来た無数の槍状物体。

 洞窟の壁を触媒に仕掛けられた罠魔法だ。侵入者を迎撃──いや、()()するためのものか。

 

「あっぶねえ! 一歩間違えれば串刺しかよ! おっかねえな!」

「トラップ……? やっぱりおかしい。普通じゃない」

「あ? 何でだ? ただの防衛用の罠じゃないのか」

「だからこそよ。この手の罠って普通、自分が引っ掛かっちゃわないよう目印があるはずなの。少しだけ土の色が違うとか」

 

 シャーロットは壁や床に手を触れて、魔力の波濤のようなものを伝播させた。ソナーのようなものだろうか。

 何かを探知したらしく、シャーロットは徐に壁面を掘り返すと、小さな紙きれ状の物体を手に取った。

 途端、少女の眉が猜疑に曲がる。

 

「でもこの罠には何も無かった。むしろ見抜かせないために、術符をとても細かく分散させて徹底的に痕跡を薄めてるわ。侵入者を絶対に仕留めようとする意志すら感じるくらい」

 

 小人(コロポックル)が警戒するとすれば、それは森の魔獣だ。

 都市のような開拓地に住まう種族と違い、原始的な環境に身を置く彼らは人間より獣への対策を入念に行う。

 

 しかしこの家は、そもそも魔獣の眼から逃れるためのカムフラージュが最低限のみに仕立てられ、内部にのみ凝った罠が施されていた。

 それも撃退用ではなく、明らかな殺意を伴った凶悪な仕掛けが。

 

「この家そのものが罠ってことかよ。わざと家の存在をバレやすくして、誘い込んで仕留めるって寸法の狩り方か?」

「……()()()()()()()()()。あまりにも敵意で満ち過ぎてる。わざわざ住処に誘い込んで拠点を危険に晒す必要もない。一体何を想定して作ったのかしら……?」

 

 考えられるとすれば、黄昏の森に迷い込んだ旅人を殺めるためか。

 だが小人(コロポックル)とは温厚かつ友好的で有名な種族だ。そうでなければ、そもそも外界と接触や交易を行うような真似などしない。

 友好的であるからこそ、シャーロットは頼ろうと考えたのだ。人を襲う理由も無い以上、対人を想定した物とは思い難い。

 

「とにかく、注意して進みましょう。同じような罠が無いとも限らない」

「ああ」

 

 シャーロットが先導する。魔法の対策は彼女こそが適任だ。

 しかし拍子抜けなことに、奥へ奥へと続く一本道には何も仕掛けられていなかった。

 

 そう、一本道。一本道だ。

 蟻の巣のように複雑な迷路を構築する小人(コロポックル)の家に、何故ただひとつの通り道しか用意されていない?

 

「……行き止まりか」

 

 暗い地下道の終点。突き当りの壁には、あまりにも粗末なドアがあった。

 ドアというより、壁に板を埋め込んだだけのような風体だ。

 それも板に針山の如く木の矛をくっつけて、外部からの侵入を完全に拒んでいる。

 

「待って、中に居る。きっとコロポックルだわ」

 

 密閉された静寂の地下という環境ゆえか。耳を澄ませると、必死に押し殺しているかのような息遣いの振動が板越しに伝わってきた。

 だが心なしか、何かに怯えているような気色を孕んでいて。

 

「何で立てこもってるんだ? この針の板、中からしか開けられないようになってるぞ」

「……これ以上刺激しない方が良さそうね。理由は分からないけど、凄く怖がってる」

 

 シャーロットは近づくのを止めて、一度地面に座り込むと、戸の奥へ優しく語り掛けるように言葉を紡いだ。

 

「貴き森の民よ、住まいへ勝手に足を踏み入れた無礼をお詫びします。そして、怖がらせてしまってごめんなさい。私はシャーロット、星屑ヶ原で資源を調達するためにギルドから来た旅人です。あなたたちへ害を成すものではありません」

 

 返答、無音。

 か細い吐息の音だけが、地の底で反響する。

 

「どうか外の蒸気が収まるまで、一晩だけ泊めて頂けませんでしょうか。お礼と言っては何ですが、金貨と食料をお譲りします。お納めください」

『…………食べ物?』

『食べ物。食べ物』

『欲しい。食べ物』

 

 食料という言葉に反応してか、舌足らずな幼い声が木霊した。

 

『お腹空いた』

『待って。開けちゃだめ。危険』

『そうだそうだ。旅人に化けてるかも。嘘かも』

『でもこのままじゃ死んじゃう』

『考えよう。考えよう』

 

 中に数人いるらしい。薄暗い地下へ閉じこもっている理由があるのか、唯一無二の出入り口を開けるべきかそうでないか議論を交わしている。

 

「食べ物は戸の前に置いておきます。ご自由にお召し上がりくださいな」

 

 シャーロットはポーチから保存食を数人分取り出し戸の前に安置すると、ヴィクターに合図を投げながら静かに後ずさっていく。

 二人の気配が遠退いたことを察したのか、ほんの少しだけ戸が開いた。

 子供のようにぷにぷにとした小さな手が顔を覗かせ、大層な慌てぶりで食料を攫うと、再び閉じこもってしまう。

 

()()()()()?』

『無い。無い。大丈夫』

『オールクリーン。オールクリーン』

『食べていい? 食べる』

『……おいしい!』

『おいしいおいしい』

 

 よほど空腹だったのだろうか。本場と比べれば多少味の劣る携帯食料ではあるが、堪能してくれているらしいことが声色で伺い知れた。

 二人もならって、ポーチから食料を取り出していく。

 

 密閉された真空パックのような入れ物に圧縮された食料が入った保存食だ。付属の魔石を指で握り砕くと、パックが一気に膨らんで加熱される仕組みになっている。

 温まったところで袋を破れば、アツアツの料理が出てくるという優れモノだ。

 

「余分に食べ物持ってきててよかったわ。何事も備えが大切ね」

「確かにな。でもあんな譲って大丈夫だったのか? 腹減ってコロポックル襲ったりとか勘弁だぞ」

「何か言った?」

「はひ……すみません……」

 

 シャーロットの超怖い笑顔。ヴィクターは目の前がまっくらになった。

 このまま舐めた口を叩き続けると本当に頭から食われそうだったので、ヴィクターはブルブル縮こまりながら卵とクルミ入りのパンを齧る。

 

 ふと、不意に木材が軋む音。

 音源に目を遣る。難攻不落の戸が開かれており、中から幼い子供と見まがうほど小さな住民が3人、段々重ねになって半身を覗かせていた。

 

「にんげん」

「にんげんだ」

「穢れじゃない? 穢れじゃない」

「黒い魔力。夜の魔力」

「王の血?」

「王の血。王の血」

「王の腕。黒い腕。腕だけ王様? ふしぎ」

「ふしぎ」

 

 どうやら無事に警戒を解かれたらしい。剣山のドアが脇に退けられ、住人たちの姿が露わとなった。

 

 くりくりと大きな紅玉の(まなこ)。金糸の髪。ふっくらとした顔立ち。

 とんがった小さな耳に、小人の異名に違わない膝程の背丈。

 動物の毛皮や樹皮、草で編んだものだろうモコモコとしたおくるみのような蓑に、円柱状の頭巾を身に着けている。

 

 なんとも愛らしい、小さな子供のような風貌だ。可愛いもの好きのシャーロットは、心の中で思わず身悶えてしまう。

 しかし、そんな庇護欲は直ぐに煙と消えた。

 皆一様に瞳が曇っていて、どこかやつれているようにすら思えたからだ。

 

「王の血。黒い腕。ごはんありがとう」

「助かった。死んじゃうところだった」

「入って入って」

「はやくはやく」

 

 わらわらとやってきた十人ほどの小人(コロポックル)たちに裾を引かれ、奥の部屋へと案内される。

 中はかなり大きな空洞になっていた。彼ら全員どころか、その倍近い人数が居たとしても問題無さそうな空間だ。

 

 だがそんなことより、小人(コロポックル)たちの言葉が耳に引っ掛かった。

 

「王の血……もしかして、私がアーヴェントだって分かるの?」

「わかる」

「コロポックル、魔眼の民」

「魔力見分けるのとくい」

 

 通常、第三者が魔力の属性を五感で感じ取ることはできない。

 せいぜい魔力の有無が分かる程度で、属性の判別は専用の機器が必要だ。

 

 しかし、小人(コロポックル)は魔力の濃い環境を好む種族ゆえか、どうやら例外的に属性を見分ける特殊な目を持っているらしい。

 アーヴェントと知っても特に敵対的でないことから、千年前の確執にも無関心なようだ。

 どころか、シャーロットの足にしがみ付くように群がり始めて、

 

「王の血。助けて」

「助けて。助けて」

「お願い。王の血。お願い」

「ちょちょちょ、待ってちょうだい。落ち着いて話して、ね?」

 

 足元に縋りつかれ転びそうになったシャーロットは、大きな目に涙を貯めながら必死に懇願を繰り返す小人(コロポックル)たちを宥めつつ、膝をついて目線を合わせた。

 何があったの? ──静々問う。

 

「みんな襲われた」

「化け物。穢れたもの」

「人でも獣でもないモノ」

「突然現れて仲間を食べた」

「逃げてここに隠れてた」

 

 舌足らずな声と身振り手振りで、小さな森の住人たちは精いっぱい伝えようと奮闘する。

 人でも獣でもない穢れたもの──言葉から頭蓋を射貫かれたような錯覚に、シャーロットは思わず背後のヴィクターと目を合わせた。

 驚天動地に揺れる深海色の瞳は、最悪の事態に直面したことを如実に物語っていた。

 

 小人(コロポックル)たちの言葉が本当ならば、それは十中八九魔物の存在証明に他ならない。

 次元侵襲体(ディメンダー)。命ある者の天敵。魔王の忌まわしき堕とし子たち。

 世にあってはならない災厄が今、この森に巣食っているのだと彼らは言うのだ。

 

「魔物だなんてそんな……こんな深い森の中で、有り得ない」

 

 耳を疑った。疑わざるを得なかった。 

 けれど、小人(コロポックル)たちの顔は嘘を吐いているように見えない。嘘をつく必要も無い。

 なにより黄昏の森へ訪れる前に耳にしていた『先住民との交信が途絶えた』という情報が、信憑性を格段に加速させた。

 

 合点もいくのだ。あの罠は追って来た魔物を確実に仕留めるために施されたものであり、不出来なカムフラージュの入り口も、一本道の通路も、命からがら逃げのびたせいでまともに手を掛けられなかったからなのだろうと。

 

「だがよ、確か魔物ってのは、魔力の濃い環境じゃ出てこれないはずだよな?」

「ええ。魔物は命とは真逆の存在、生命溢れる場所じゃ発生することは無いはず。……それこそ、人為的に発生させる以外は」

 

 世とは一枚岩ではない。人の中にも邪な考えを抱く者や、欲に溺れ道を外れた畜生も存在する。

 そのひとつが魔王信仰者。魔王(マグニディ)の力に心酔し、魔を崇め、死を拝する邪教の(ともがら)である。

 魔王の手によって星を人類という病毒から救済し、世界を人が生まれる前の浄化された原始に回帰させんとする過激派集団だ。

 

 過去にも様々な凶悪事件の発端となった経緯があり、その悪道極まる性質から、天蓋領率いる騎士団によって掃討されたという。

 

「でもおかしい。仮に魔物を発生させるとしても理由が無い。あんなの百害あって一利どころか、自分の命も落としかねない禁術なのよ。それに魔王信仰者の残党がわざわざ狙うとすれば、辺境よりも人口集中地帯のはず。辻褄が合わなさ過ぎる」

 

 自然発生にしろ、人間の手にしろ、どちらをとっても納得のいかない不可解さが壁となって結論を隠す。

 だが不合理としか言えない状況に反し、シャーロットは暗躍の息差しを完全に否定することが出来なかった。

 

 もし魔物が自然発生していたのだとしたら、『禁足地』周辺に配備されたゴーレムが感知しないわけがないからだ。

 アレは監視の役割も担っている。万が一魔物が出現した場合、すぐに対処できるようギルドへ通達が届くのだ。

 

 魔物はひとたび発生すれば、本能のまま周囲を侵食、破壊の限りを尽くす災いの化身である。転じて、出現の兆候やその存在も容易に観測することが可能だ。 

 にも関わらず一切の情報が無かったということは、魔物を本能のまま手当たり次第に暴れさせず制御下に置く、飼い主の存在がどうしても脳裏を過ってしまう

 

 だとしたら、何のために?

 

 気持ちの悪い謎が、粘着く痰のように思考へ絡む。

 魔物は何故発生したのか。仮に人の手で持ち込まれたとしても狙いは何なのか。何故ゴーレムに観測されず小人(コロポックル)たちを襲うことが出来たのか。

 

 謎。謎。謎だ。

 どうにも引っ掛かる事項が多すぎる。そもそも魔物単体に限った話だけではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()だって、何か関連性さえ疑えるような。

 

 

 

 ぶじゅる、と。

 壺いっぱいの痰を啜るような、耳にするのも悍ましい異音。

 

 

 

「ん?」

 

 それは果たして、誰が発した声だったのか。

 不意にその場の全員が、何も無い洞穴の中をキョロキョロと見渡し始めていた。

 

「気のせいじゃないよな。今何か気持ち悪い音が……」

「うん。それに何だろう、変な臭いがする」

 

 うっすらとだが、確かに鼻を突いてくる刺激臭の存在を感じた。

 傷んで間もない肉を嗅いだような饐えた匂いだ。それも秒単位で強くなっている。

 段々と強烈かつ濃厚な、鼻腔を刃物で刺されたかと錯覚するほどの異臭へと────

 

「うっ……!?」

 

 急転直下。異臭の怒張が深刻なレベルまで爆発し、狂瀾怒濤と洞窟内を占拠した。

 鼻で空気を吸うだけでえづきそうになる。眼の表面にピリピリとした痛みが走り抜け、視界が霞みがかったようにボヤけ始めた。

 口をへの字に曲げずにはいられず、思わず鼻と口元を抑え込んでしまう。

 

「げえええ、くっせえ!! 何だこの匂い!? うぉっぷ、マジで吐きそうだ」

「ちょっと絶対やめてよ!! 吐かれたら私まで貰っちゃう!」

 

 肥溜めの中にでも放り込まれたかのような凄まじい悪臭。

 いや、それよりも酷い。蛆の住宅地と化した腐乱死体に覆いかぶされたとすら錯覚するほどの、最低最悪の臭いが充満している。

 

「見つかった。見つかった」

「人でも獣でもないもの」

「災いが来た。穢れが来た」

「あぅぅ、こわい。こわい」

「食べられたくない」

「こわいよぉ」

 

 途端に怯えだす小人(コロポックル)たち。皆一様に鼻を蓑で隠し、目尻に涙を浮かべて震えながら穴の奥へと縮こまってしまう。

 嵐の如く惨状と一変した現実を前に、二人の神経は火に焼べられた油の如く発火し張り詰めた。

 

 振り返る。

 射貫く視線は、ドアの先。

 

「──いるぞ」

 

 唯一無二の出入り口。壁に埋め込まれた戸の隙間から、ごぼりと悪辣でどす黒い液体が溢れ出す。

 腐肉を絞ったかのような、生理的嫌悪を催す粘質な膿状のナニカ。

 それはドアを起点に、音も立てずカーペット状へ広がっていく。

 

「最悪っ……! よりによって外も蒸気に囲まれてる袋小路で……!」

 

 次の瞬間。出入り口ごと土壁を粉砕するように、大蛇の如く躍動する巨悪が姿を現した。

 

 捩じれた人間の指が巨大なミミズになったかのような怪物だ。

 腐敗した水死体のように生気を失った白濁の躰。粘着いた黄土色の体液を絶えず染み出す皮膚の下には、蒼褪めた血管がどくどくと這いずり回っている。

 

 悪臭の度合いが加速度的に跳ね上がった。

 その源泉だろう、先端からボタボタと滴り落ちる糞尿と汚泥を溶いたような膿汁が地面に触れると、途端に黄ばんだ水蒸気を発生させて、洞窟内を汚染した。

 喉が焼ける。たまらず布で口元を覆う。

 

「このままじゃやられる! 押し返すしかない!」

「おおおおおああああッッ!! 先手必勝だコラァ──ッ!!」

 

 転瞬。純黒が鳴動を張り上げた。

 アーヴェントの黒魔力を弓と編み、シャーロットは豪速の矢を一挙に三度と解き放つ。

 ヴィクターは拳を全力で振り抜き、大気の砲弾を縦横無尽に叩き込んだ。

 それらは流星の如く怪物の皮膚を突き破り、骨肉を痛絶に抉り壊していく。

 

「■■■■■■────―!!」

 

 赤子と老婆の悲鳴をぐちゃぐちゃに混ぜたような悍ましい絶叫が轟き奔った。

 ぐねぐねと暴れ狂う怪物。しかしその雄叫びは苦痛の色より、憤怒と殺意に塗れていた。

 

 捻子くれたドリル状の先端が花のようにぐばっと開く。

 鉤爪状の牙が無数に並ぶ大口が露わとなり、次の瞬間、目の前の餌を呑み込まんと凄まじい速度で解き放たれた。

 

「『剣よ、彼の嘆きを救いたまえ』ッ!!」

「だァァらッッしゃああああああ────ッッッ!!」

 

 魔剣ダランディーバを招来。少女の一閃が怪物の首を真っ二つに両断すると、間髪入れず飛んだ『火炎魔法(フランマ)』が傷の断面を焼き焦がした。

 龍颯爆裂拳が舞い散る火球を巻き込みながら爆発する。猛り狂う焔と共に張りさけた(くう)の砲弾は、怪物の体をあっという間に劫火の紅蓮に包み込んでもてなした。

 

 凄まじい逆襲を受け、怪物は声の無い悲鳴と共にのたうち回る。

 激しく痙攣を繰り返し、力尽きたように倒れ込んだ。

 だが怪物は勢いよく巻き戻るコードのように、一瞬にして洞窟外へ姿を消してしまう。

 

「……退いたか?」

「みたいね。気は抜けないけど」

 

 あれだけ立ち込めていた悪臭が嘘のように引いていき、魔物は退散したのだと知る。

 

「助かった? 助かった!」

「王の血、黒い腕、穢れを退けた」

「感謝。感謝」

 

 小人(コロポックル)たちはぴょんぴょん飛び跳ねて、生き残った喜びを力いっぱい表現していた。

 

「散った体液には触れないでね。魔物の血は猛毒よ、触れただけで体が腐り落ちる」

 

 幸いなことに、どうやら援護してくれていたらしい小人(コロポックル)の魔法障壁が、飛散した粘着く血潮から身を守っていたようだ。

 洞窟中に残された血肉を念入りに焼灼していく。肉片はそれ単体が生きているかのように蠢いており、業火を賜すと耳を劈くほどの金切り声を炸裂させた。

 

「燃やせ。燃やせ」

「えっほ。えっほ」

 

 消毒が終わり、壊れた戸を小人(コロポックル)たちがせっせと修復して一息。

 緊張が解れたのだろうか。小さな森の住人たちは、二人に礼を告げると部屋の隅に固まってすやすやと寝息を立ててしまった。

 

 きっとあの魔物が現れてから、ロクに眠れていなかったに違いない。怪物がいつ襲ってくるか分からない状況が続いて、心身ともに擦り減っていたのだろう。

 お団子状に寄り添ってあどけなく眠るその姿は、まるで無邪気な子供のようだ。

 

「あのミミズ野郎、首を刎ねてもくたばらなかったぞ。不死身か?」

「魔物は核を壊さないと永遠に再生し続けてしまうの。あれは体の一部を壊しただけ。完全には仕留めきれてない」

「クソ厄介極まりねえな、魔物ってのは。……これからどうする?」

「奴は傷を負ってるからすぐには攻撃してこないと思う。丁度外は蒸気のせいで出られないし、今夜は休戦ね」

「休戦ってことは、蒸気が明けたら戦うんだな?」

「もちろん。無視なんて出来っこない」

 

 魔物は存在するだけで世界に害を与える化け物だ。放置しておけば、この森どころか周辺一帯にどんな厄をもたらすか想像もつかない。

 本来なら救援を要請するのがベストだろう。しかし騎士団が到着するには時間がかかり過ぎる。 

 悠長に到着を待っていれば、先ほど与えたダメージも修復されてしまう。仕留めるなら今が好機という他ない。

 

「千年果花を手に入れるのは魔物を倒した後でも十分よ。コロポックルたちを放ってはおけない」

 

 何よりシャーロットに流れるアーヴェントの血が、魔物の脅威に怯える民草を護れと駆り立てる。

 かつて世界を魔王の手より守護した星の守り人。その末裔が本懐を果たすべき時が、今この瞬間なのだ。

 

 覚悟を瞳に宿したシャーロットを見て、ヴィクターは豪快に歯を剥いた。

 救いを求める者に仁愛の手を。ああ、それでこそシャーロットだ。これこそが、ヴィクターが焦がれた少女の美しき輝きなのだ。

 

「同感だな。コロポックルたちを見捨てて薬を手に入れたって、そんなの全然正しくない」

 

 ならばこそ、ヴィクターもこの純黒の(かいな)を振るうことに一片の躊躇は無い。

 右手のひらに拳を打ち、正しいと信じるもののために戦うのだと、決意の焔を義に灯す。

 

「魔物を倒して、コロポックルを助けて、薬も手に入れて、妹ちゃんも治す。燃えてきたぜ、全部成し遂げてやろうじゃあねーの!」

「ええ。何が何でも勝ち取るわよ!」



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22.「波旬毀つ純黒が星」

「ちゃんと隠れてるんだぞ。俺たちが呼びに戻るまで出ちゃ駄目だからな」

「うん、わかった」

「気をつけて。王の血、クロウデ」

「大丈夫大丈夫。ここは私たちに任せて、安心して待ってなさいな」

 

 こくこくと頷きながらも、心配そうな面持ちのまま戸を閉める小人(コロポックル)

 シャーロットは閉ざされた地下への入り口に隠匿の魔法を施し、魔物に存在を悟られぬよう念入りに術式を重ねていく。

 これでシャーロットたちが留守の間でも、小人(コロポックル)たちが怪物に食べられるような事態は免れるはずだ。

 

 

 夜が覆り、明けの日差しが樹海に降り注ぐ。

 小人(コロポックル)の隠れ家から地上に戻った二人は、ぐっしょりと雨に濡れた森を一望した。

 

「居ないな。気配が無い」

「ええ。でもきっと近くにいる。痛手を負わされたことを恨んで、私たちに復讐する機会をうかがってるはずよ」

 

 だがしかし、体液や肉片と言った痕跡は昨晩の大雨に流されてしまっていた。

 あの怪物は常に粘ついた膿や強烈な悪臭を振りまきながら移動している。にもかかわらず存在すら悟れなかったのは、皮肉なことに黄昏の森の特性のせいだったのだろう。

 

 手掛かりが無い以上、広大な森の中で探し出すのは至難の業。

 おそらくそこまで離れてはいないだろうが、無作為に歩けば悪戯に体力を摩耗するのみである。

 

 魔物とは狡猾で悪辣な捕食者だ。知性の欠片も無いような容貌に油断していると、思わぬしっぺ返しを食わされかねない。

 闇雲な捜索で疲労に満たされれば最後、怪物はほくそ笑みながら、弱った二人の喉笛を喜々と食い千切りに来るだろう。

 

 であれば、無駄に体力を消費せず効率的に化け物を見つけ出す手段はひとつ。囮である。

 

「二手に分かれましょう。単独にバラけてアレを誘き寄せるの。アレは魔物の天敵である(アーヴェント)を真っ先に狙うはず。一人になれば、きっとすぐ出てくるわ」

 

 しかしヴィクターはそんな作戦など露も頭になかったようで、人智を越えた化け物がどこに潜むともわからない森の中を、たった一人で行動するという命知らずな提案に目を剥いた。

 

「正気か? 相手は何体いるかも分かってないんだぞ? もし群れで襲われでもしたらひとたまりもない。絶対ダメだ」

「いえ、アレは一体だけよ。もし群れてるなら、昨日私たちを数に物言わせて殺せたはず。魔物は獲物を仕留めるチャンスを絶対に逃したりしない。袋小路に追い込まれてた私たちを前に退散したのは、分が悪いと判断したから。単体なら私ひとりだって大丈夫」

「だとしても危険すぎる! 昨日は狭い空間だったから逆に迎撃しやすかったが、だだっ広い森の中じゃ同じようにはいかねえ。それに……なんかこう……上手く言い表せないんだが、()()()()()()()()()()()()()()()って俺の直感が騒いでる。二人で挟み撃つように遠距離から倒した方が安全だ」

「そうしたいのは私も同じよ。でも、あなたには別件で頼みたいことがあるの」

 

 言って、シャーロットはヴィクターを一瞥。

 別行動を選択する理由は、単に囮作戦のためだけではないらしい。

 

「ずっと考えてたんだけど、アレはやっぱり自然発生した魔物だとは考えられない。裏で手を引いてる黒幕がいるのは間違いないと思う。もしそうだとしたら、きっと近くで魔物を監視してるはずなのよ」

 

 魔物は元来、制御を可能とする存在ではない。

 主従契約を結んだ幻獣や家畜などとはワケが違う。存在意義そのものが、ただひたすら命を貪り奪うことを魔王によって宿命づけられた化生なのだ。

 

 人間との相互理解など根本的に不可能である。ましてや従僕として扱うなど正気の沙汰ではない。

 魔物使いとは破滅的に矛盾した禁忌を土足で冒し、強制的にふんじばって手綱を握っているのみに過ぎないのだ。

 

 故にこそ、魔物を制御する条件は非常に限られている。術者本人もまた、恐ろしく危険な魔物から距離を置くことが許されない。

 離れれば離れるほど拘束術式の効果は弱まり、ひとたび振り切られたならば、魔物は真っ先に主だったものを憎悪のまま世界の果てまで追い詰めるからだ。

 

 ならば必然。かの怪物の主もまた、この森に潜んでいるという道理に他ならず。

 

「ヴィックはそいつを探して欲しい。自分で直接手を汚さず、魔物なんて最悪中の最悪を野に放った卑劣な奴だもの、アレが倒されたら一目散に逃げるに決まってるわ。捕まえるなら今しかチャンスが無い」

「……なるほどな、納得は出来た。だが本当に大丈夫なのか?」

「私を誰だと思ってるの? アーヴェントは魔物から民を守るために生まれた騎士の血族よ。するなら自分の心配をしなさいな」

 

 フフンと気丈夫にえくぼを作るシャーロットに、不安や恐怖の陰りは無い。

 心配するのは野暮だと感じた。むしろ信じるべきだとヴィクターも笑った。

 

 考えてみれば、ヴィクターはそもそも魔物と戦う知恵も術も持たない。

 せいぜい空気弾でお茶を濁すだけで、魔剣や魔法を自在に操るシャーロットとは対魔物戦において雲泥の戦力差である。

 足手まといになりかねない以上、人間を相手にする方が得策なのは間違いないか。

 

「ヴィック」

 

 言いながら、シャーロットが何かを投げ渡した。

 小さな巾着袋だ。中には術式らしき紋様が描かれた札が数枚入っている。

 簡単な魔法を封入した、いわばお守りだ。破けば綴じられていた術が発動し、前方に向けて射出される仕組みである。

 

「ピンチの時はそれを使って。中身の魔法はペガサス便で教えた通りだから」

「助かる」

 

 懐に仕舞い、ヴィクターは踵を返しながら拳の甲を背に差し出した。

 コツン、とシャーロットも甲を突き合わせて無事を祈る。

 

「死ぬんじゃねえぞ」

「お互いにね」

 

 二人の背が、風と共に緑陰へ消えていく。

 

 

 

 

(さてと。この辺りでいいか)

 

 一人で森を練り歩き、しばらく。

 小人(コロポックル)の隠れ家を巻き込む心配が無いところまで距離を稼いだシャーロットは、ぐるりと周囲を見渡した。

 

(……気配はない。でも、どこかで見てるんでしょうね。もしかしてヴィックが視線を感じるって言ってたの、あの魔物の事だったのかな)

 

 ヴィクターは異常なほど鋭い。もはや野生の勘とでも言うべきソレには、シャーロットもたびたび驚かされた経験がある。

 少女には無いものだ。幽かな兆しを掬い取れるほど鋭敏なセンサーなど備わっていない。

 

 だから、シャーロットは培った技で才能を補う。

 屈む。地に手を這わせ、指先の感覚に集中するため瞼を閉じる。

 

 魔力の波を全方位に薄く解き放った。小人(コロポックル)の巣で罠を感知するために行ったものと同じ技術だ。

 

 原理で言えばイルカやコウモリの反響定位(エコロケーション)に近い。魔力の波濤を張り巡らせ、特定の魔力痕や動体に触れた時のノイズで位置を探りだすものである。

 

(半径10……25……50m……いない。地中にも空中にも。まだそんなに近くないのかしら)

 

 

 異臭。

 

 

「ッ!?」

 

 鼻を殴られたかと錯覚するほどの、唐突で強烈な腐臭の津波。

 忘れるはずが無い。昨晩と同じ匂いだ。魔物の放つ、この世のモノとは思えない臭気が漂ってきた。

 間違いなく近くにいる。だが魔力のソナーには掛かっていない。

 

(どこにいる? 動きも何も無い。物理的な気配さえも──) 

「シャロ」

 

 不意に鼓膜を掠めたのは、何度も耳にしてきた男の声。

 先ほど別れたはずのヴィクターだ。何かを確認するために戻ってきたのか。

 

 一瞬だけ思考が揺らいで、しかし無視し難い違和感が脳髄を貫き、全身にけたたましい警鐘が爆発した。

 明らかにおかしい。至近距離から声がするのに足音のひとつも聞こえなかったどころか、ソナーにすら引っ掛かっていない。

 

 ならば、この声の主は一体誰だ?

 

 瞼を開き、反射的に振り返って。

 視界一杯に広がる、シャーロットの頭の倍は大きな、二重の乱杭歯に覆われた口の中。

 

「ヤバッ────」

 

 魔力の高速循環による身体強化。大地を蹴り抜けるほど脚力を爆発させ、発火した反射神経に従うままシャーロットは草叢を転がった。

 ガチンッ!! と金属同士がぶつかりあったかのような大音響が、豪速を連れて過ぎ去っていく。

 

「な、なんッ!?」

 

 あと一歩。いや、あとほんの一秒判断が遅ければ、悍ましい怪物の胃袋に収まる未来を迎えていた。

 濃厚な死の気配が一気に距離を縮めてくる。体中の汗腺から滝のように溢れ出す冷や汗の感覚が、克明に脊髄を伝わった。

 

(何でソナーに引っ掛からなかった……!? 動くものなら絶対に見逃すはずが──まさかこいつ、ソナーの性質を見抜いて魔力を透過させたっていうの!?)

 

 瞬時に体勢を立て直し、魔剣を手のひらに顕現させながら顔を上げて。

 瞳に映った異形の姿に、シャーロットの呼吸が停止した。

 

 地底で出会った時と姿が違う。

 

 初めて目にした時、アレは悍ましいミミズのような化け物だったはずだ。

 違う。()()()()()()()()()()()()()()()。かつてシャーロットたちが迎撃したモノは、この度し難い存在の尾に相当する器官だったのだ。

 

「そんな……こいつは……!?」

 

 人間の皮や髪の毛を何十何百と縫い付けて作られた10m級の大トカゲのような、悪趣味なぬいぐるみを彷彿させる異形だった。

 

 顔中に蓮の実の如く無数の眼球が埋め込まれ、ぎょろぎょろと不揃いに蠢きながら痙攣している。

 頭部の下半分を占める喉元まで裂けた口には、肉食獣のそれではない、ヒトを連想させる黄ばんだ臼歯が壊れた鍵盤のように歪に並ぶ。

 白濁する唾液が絶えず歯間から滴り落ちて、触れた落ち葉が真っ黒に変色したかと思えば、たちまち醜悪なガスを放ちながら腐り消えた。

 

 ふじゅーっ、ふしゅーっ、ぶじゅるるる──鼻どころか肺がもげそうになる臭気と共に、死戦期呼吸のような異音を漏れ出す怪物の背後には、昨晩相対したミミズの化け物のような尾がひとつ。

 異様に長く細い四肢は不安定ながらも屈強で、11本の指先には森の大木すら切り落とせそうな、身の毛もよだつノコギリ状の爪が備わっていた。

 

 知っている。

 シャーロットは、この怪物の名を知っている。

 

(カプディタス……!? 対処指定『金剛冠級(ダイヤモンド)』のネームドが何でこんなところに!?)

 

 それは執着を意味する、この世に在ってはならない者の御名。

 無垢なる贄を触媒に発生し、生者を喰らえば喰らうほど無尽蔵に力を増していく、名状し難き災いの化身。

 

 名前を持たない有象無象の魔物とは次元が違う。

 一度獲物と定めたものを地の果てまで追い詰める常軌を逸した執拗さを孕む、不浄なる星間の汚穢である。

 

 しかし、ここまで肥え太ったカプディタスは見たことも聞いたことも無い。

 一体どれほどの命を取り込めばこんな、直視することすら耐えがたい醜悪へと変貌を遂げるというのか。

 

「シャロ」

 

 魔物の口が見知った男の声を鳴らした。

 歪な外観からは想像もつかないほど、本当によく似せられた音色だった。

 

「シャロ。シャロ。シャあァロぉォ」

「気持ち悪い……! その声で私を呼ぶな!!」

 

 魔剣に黒魔力を圧縮させる。心臓の鼓動のように脈打つ剣に、一瞬だけ周囲の物体が吸い寄せられるような力の凝集が巻き起こった。

 転瞬。剛力をもって薙がれた剣の軌跡が、飛来する斬撃となって森を食い破らんばかりに炸裂する。

 

 しかし次の瞬間、盛大な爆発音とともに怪物の姿が視界から消えた。

 おおよそ10m以上はあろう巨躯からは想像もつかないほど俊敏に、カプディタスは地を蹴って黒の斬撃を躱したのだ。

 

 間髪入れず剛脚が吹っ飛んでくる。

 人間の体など容易くバラバラに分解するだろう、恐るべき威力と強靭な爪を伴った一蹴。

 シャーロットは辛うじて必殺を躱す。だがその余波が大地を抉り、土と落ち葉の噴煙を巻き起こした。

 

「ッ! まだ来るッ!?」

 

 尾が水を詰めた風船のように膨張し、先端の口からコールタールのように粘質な液体が破裂寸前と言わんばかりに溢れ出している。

 怪物の意図を、否が応でも理解してしまう。

 

 死の鉄砲水が暴れ狂うホースのように解き放たれた。

 触れただけで木々が悲鳴を上げて倒壊するほどの、腐食液などと呼ぶにはあまりに生温い死の大豪雨。

 シャーロットは黒魔力をドーム状に展開し、盾として酸のシャワーを受け止めていく。

 

「あぐッ!?」

 

 防御のために動きを止めた一瞬の隙を穿たれた。

 カプディタスは地面ごとシャーロットを抉り飛ばすように、人智を越えた怪力をもって横殴ったのだ。

 

 人体が全力で蹴り飛ばされたボールのように吹っ飛んでいく。

 幾度も木に衝突する。筆舌に尽くしがたい衝撃と激痛がシャーロットの中身を蹂躙した。

 

「うあっ、がはッ!?」

 

 ようやく威力が減衰し、落ち葉を巻き上げながら地面を転がったかと思えば。

 自分の体よりも大きな影が、まだ日差し降り注ぐ森の中でシャーロットを埋め尽くして。

 怪物が跳躍し、少女を押し潰さんと墜落しゆく前触れを知った。

 

「ぐッッ──づぁああああああああッッ!!」

 

 魔力の循環レベルを最大に引き上げる。

 黒い稲妻状の魔力痕が迸り、シャーロットの瞳が瑠璃の恒星を炯々(けいけい)と宿した。

 

 迅雷と化す。残像をも伴う爆発的な身のこなしで翻り、恐るべき威力で落下してきた怪物の足へカウンター叩き込み斬り刻んだ。

 どす黒い血液と悲鳴、肉片が殷々と樹海に放散する。

 しかし、植えられた傷痕は既に再生の兆しを見せ始めていて。

 

(こんなんじゃ致命には届かない! けど、ダメージを重ねて再生限界まで持っていけば活動不能になるはず! そうすれば核を砕ける!)

 

 触れれば骨の髄まで溶かし尽くされる毒血を浴びぬよう、距離を保ちながら斬撃を飛ばし、縦横無尽に攻めかかる。

 油断はしない。慢心もない。全力全霊、魔剣をひたすら薙ぎ払う。

 

(魔法は透過されるからこいつには効かない可能性が高い! でも万物干渉の性質を持つ黒魔力なら透過はできない! 着実に削れば絶対に倒せる!!)

 

  

 ぐじゅっ、と。

 何の前触れも無く、脇腹を食い破られたような、三斗の冷汗を吐くほどの激痛。

 シャーロットの時が、ほんの一秒停止した。

 

豁サ繧偵縺」縺ヲ蟆翫縺ィ謌舌

 

 魔物はその瞬間を見逃さなかった。

 嗤うように唇の無い口角を引き裂き、呪われた言の葉を吐き下した。 

 

「ぁ」

 

 邪悪な音色がズルリと鼓膜へ侵入する。

 それは体を蝕み冒す病魔のように、少女の骨肉へ牙を立てて。

 

「あ"ッッ!? うぁああああああああッ!? あ、頭がッ、頭が割れッ、ああああああああッッ!!」

 

 血管が弾ける音がした。

 眼球から。歯茎から。鼻腔から。破れた粘膜から溢れ出す静脈血に、服の内側が赤黒く染め上げられた。

 

「あ、ィいい、ぅぁ、あッッ……!! ぁああああああッッ、し、『静寂よ(シレンティム)』ッ!! 」

 

 防音の魔法。これ以上毒の唄に侵されぬよう守りを固め、血潮で赤く染まった視界を定める。

 ダランディーバを弓状に変化。弦を引き絞り、起き上がろうとしているカプディタスへ一閃を解き放つ。

 

 しかし直前、ぐじゅっと脇腹を裂かれたような痛みに再び襲われ、矢はあらぬ軌道を描きながら大木の幹を削り飛ばした。

 

(ッ……!! なん、なのよこの痛み!? 傷はほぼ塞ってるのに、脇腹だけどんどん酷くなってる……!?)

 

 長年研鑽のために自らを追い詰め続けたシャーロットは、ある程度の苦痛には耐性がある。

 生命力と同義である魔力を循環させ、服の内側に仕込んだ治癒の術式も併用し、かつ治癒能力の高いアーヴェントならば、常人なら再起不能に陥るような負傷もカバー出来るはずなのだ。

 

 そんなシャーロットをもってしても、腹部を襲う謎の患苦は無視できるものではなかった。

 まるで内臓を直接かき毟られているかのようだ。一挙手一投足が生死を分かつこの状況でなければ、腹を抑えてのた打ち回っていたかもしれない。

 

 このまま異常を放置していたら負ける。

 判断は早く、シャーロットは一時撤退を選択した。 

 

「『眩光の盾よ(ルメン・スクートゥム)』!」

 

 光の膜が炸裂した。

 網膜を焼き潰されるほどの閃光が蓮の実のように連なる魔物の眼を貫き、絶叫と共に視界を奪い去る。

 その隙を突き、シャーロットは刻一刻と酷くなる脇腹の痛みを抑えながら、脱兎の如く戦場を引いた。

 

 駆けて、駆けて、森の斜面に岩の窪みを見つけて駆け込んだ。

 洞窟状のシェルターの中、荒い岩肌の壁にもたれかかる。

 

「は、ぐ、ううぅッ……痛ッ……痛い……!!」

 

 ぐちぐちと音を立てながら暴れ狂う脇腹の痛みに耐え切れず、シャーロットは顔を歪めながら、声を押し殺して患部を抑え込んだ。

 

 違和感。

 服の上から触れた自分の体に、身に覚えのない凹凸がある。

 意を決して上着を捲れば、シャーロットを苛ませ続けた苦痛の根源が目に映って。

 

「……なに、これ?」

 

 それは右脇腹を苗床として根付く、潰れた赤子の顔が拳ほどのダニになったような異形。

 赤黒い肉片で出来た巨大な人面蟲だ。悪趣味な刺々しい八本の足と鋭利な口吻を柔肌へ喰い込ませ、少女の中身を啜るようにドクドクと脈打っているではないか。

 

(カプディタスの肉芽……!? いつの間に──いや、まさか最初の一撃で!?)

 

 痛烈な殴打が脳裏を過る。

 咄嗟に障壁を挟み込んでガードしていたが、カプディタスの爪の一部、ほんの微々たる先端が脇腹を引っ掻いた感覚があった。

 

 そこで仕込まれていたのだ。

 カプディタスは傷つけた獲物へ自らの細胞片を送り込み、シャーロットの体を貪り弱らせながら成長させていた。

 

(まずいまずいまずい! 完全に肉と癒着してる! ほんの爪先に掻かれただけでこうなら、迂闊に触ったら他の場所にも伝染してしまう!)

 

 焦燥。混乱。絶望の暗澹。

 されど、突破口は見えていた。

 

「肉ごと切り落とすしかない!!」

 

 大きく息を吸い、覚悟の硬度を跳ね上げる。

 ダランディーバを短剣状に収縮させ、同時に小さな棒状の黒魔力を錬成。舌を噛み切らないよう口に咥え、肉蟲に短剣をあてがった。

 

 自分を斬るという脳の命令を手が拒絶して震えだす。

 それを無理やり従わせ、もう一度深く息を吸い込んで、即座に刃を滑らせた。

 

「ぎッッ~~~~ッ!! あ"ぁッ……痛ッッづぅぅぅ……!!」

 

 痛覚が備わっていることを憎むほど壮絶な辛苦。

 一斉に脂汗が吹き出し、ただでさえ湿っていた服がより一層背中に張り付いて、溶鉄のように熱い流涙がじわりと滲んだ。

 しかし苦しんでいる暇など無い。太い血管は傷つけていないが、大きく肉を削いだのだ。止血しなければ本末転倒になってしまう。

 

「『炎よ(フランマ)』」

 

 魔剣に炎を纏わせ、傷を焼く。

 もはや痛覚そのものが麻痺しかけていた。神経が機能しなくなったのか、はたまた脳内麻薬による鎮痛作用が響いてるのか。傷を焼いても、先ほどのような痛みは来なかった。

 なんにせよ、この状況ではありがたい。これ以上激痛が続けば、ショック死の危険もあったからだ。

 

 ポーチから取り出した水薬(ポーション)を飲み、傷にもかけて、治癒と消毒を図る。

 アーヴェントは高い自己再生能力を持つ。この薬は促進剤だ。

 傷痕は残るかもしれないが、かつて雷撃に貫かれてもたちまち回復したように、少し待てば塞がるだろう。

 

 ビチビチと地面をのた打ち回る肉蟲を斬り潰し、炎魔法で入念に焼き殺す。

 どうやら本体とは違って、魔力を透過させるような真似は出来ないらしい。恐らく透過率を精密にコントロールしなければならないのだ。

 きっと不意を突いた魔法には対処できない。証拠に、閃光による目潰しは効いていた。

 

(カプディタスは血の匂いを追ってすぐにやって来る。迎撃の準備をしないと)

 

 傷の応急処置は出来た。

 呪詛で破裂した毛細血管も塞がっている。まだ戦える。

 けれど。

 

(……怖い)

 

 足が。体が。まるで言う事を聞いてくれない。

 

(だめ。だめ。考えるな、考えるな。ああでも、どうしよう。怖い。怖くて、たまらない)

 

 極限状態を脱した反動か。津波のように押し寄せる恐怖に蝕まれ、体の自由を奪われてしまっていた。

 至極当然の反応だ。シャーロットはアーヴェントである以前に、本来は普通の女の子なのだ。

 

 これは防具や魔法で保険をかけられた人間同士の決闘ではない。命を守るために抵抗してくる魔獣を相手取るのとも全く違う。

 正真正銘の殺し合いだ。いっそ無垢とすら言えるほどの殺意を一身に浴びながら、死線を掻い潜って敵を葬り去らねばならない死闘なのだ。

 

(痛かった。凄く。死ぬかと、思った)

 

 怖くないわけがない。一歩間違えれば死ぬかもしれないのに、もっと痛い目に遭うかもしれないのに、恐怖に束縛されない道理がどこにある。

 腕をもがれ心臓に穴を開けられようとも、一切怯まなかったヴィクターの方が異常なのだ。

 

 あの乱杭歯で嚙み潰されたらどれだけ苦しいだろうか。肉蟲に全身を冒されたらどれほど悍ましいだろうか。

 想像したくなくとも、悪い夢のように脳細胞へこびり付いてしまう。

 

「…………」

 

 だからシャーロットは、思考の風向きを切り替えることにした。

 こういう時は、逆にもっと怖いものを考えればいい。

 恐怖に屈して魔物に食べられてしまうことより、もっともっと怖いものを思い浮かべれば、これくらいどうにでもなると自分を誤魔化せるから。

 

(私が一番……怖いのは)

 

 言うまでもない。このままリリンフィーを治せないことだ。

 最愛の妹を助けられず、永遠に止まった時の檻に閉じ込めてしまうことだ。

 

 それだけは駄目だ。どんな艱難辛苦よりも辛い恐怖だ。

 かつて妹を失った時、カプディタスに与えられたどの苦痛よりも耐えがたい痛みに塗り潰されたことを忘れてはいない。

 もう二度とあんな思いはしたくない。あんな思いをするつもりなど毛頭無い。

 

「……大丈夫、大丈夫。いけるわ、シャーロット。一人でも楽勝だって彼に啖呵切ったばかりじゃない」

 

 消えかけた火種が再び燃え盛るように、少女は光呑む剣を取る。

 

 魔物の相手なんて大したことじゃない。

 腹の肉が抉れたからなんだ。呪詛を身に浴びたからどうだ。

 そんなもの、リリンフィーを失うことに比べたら、笑って捻じ伏せてやれるというものだ。

 

 ──重々しく地に響く、巨大物体の落下に伴う衝撃波。

 

 カプディタスがシャーロットの居場所を突き止めたのだ。

 岩陰で休む弱ったシャーロットを無数の眼球に映し込んで、好機と言わんばかりに舌なめずりしている。

 

 対する少女は、ゆっくりと岩陰から身を出して、不浄の化身へ豪気に歯を剥き魔剣を向けた。

 

「来なさい化け物。アーヴェントを舐めんじゃないわよ」

 

 咆哮爆発。魔物は唾を吐き散らし、腕を大きく振りかぶって矮小な獲物へ叩き着けた。

 当たらない。シャーロットは地を蹴り、舞い踊る蝶のように宙を駆けて躱していた。

 

「『烈風の巨弾よ(ヴェント・トルメントム)』ッ!!」

 

 (くう)を舞踏し、アーヴェントは咆える。

 魔たる(のり)をその手に従え、嵐を凝縮したが如き鎌鼬の砲弾を撃ち放った。

 

 カプディタスは無数の眼球を蠢かせながら即座に反応。魔力を透過され、空気弾は巨大な魔物の肉をすり抜けてしまう。

 盛大な爆発。大地に大穴が穿たれる。莫大な砂塵が噴火の如く舞い上がった。

 

「『風よ(ヴェント)』! 『風よ(ヴェント)』! 『風よ(ヴェント)』!」

 

 間髪入れず風を起こす。

 幾度も魔力を練り、詠唱を紡ぎ、舞った土埃で魔物を覆い尽くして視野を奪い去っていく。

 

「■■■■■■■■────────―ッッ!!」

 

 カプディタスは絶叫を爆発させ、凄まじい衝撃波と共に邪魔な煙幕を吹き飛ばした。

 同時に尾が膨張、再び猛毒の体液を撒き散らす。

 

 しかし液状ではない。霧だ。一呼吸でも吸い込めば、肺臓からたちまち全身を溶かし尽くす酸の濃霧が、魔物を中心に驚くべき速さで空間を制圧し始めていた。

 

 関係ない。

 既に、シャーロットの目論見は達成されている。

 

「『炎よ(フランマ)』!!」 

 

 放たれたのは火球。それも小さな、魔物の巨躯を焼き焦がすにはあまりにちっぽけな火の弾だ。

 魔物はそれを見て嗤っていた。「こんなものが通用すると思ったか」とでも嘲笑するかのように、唾液を滴らせながら火球をすり抜けさせ、口を引き裂き愉悦を刻み込んでいた。

 

 だが次の瞬間。

 カプディタスは炉に放り込まれたかの如く一瞬にして業火に包まれ、森を揺るがすほどの大絶叫を張り上げる。

 

「馬鹿だと思った? 当然でしょ。そんな火の玉が効くだなんて、これっぽちも思っちゃいないもの」

 

 小さな花火が炎の海と化けた手品のタネは至極単純。ボイラーツリーの樹液にある。

 黄昏の森の大部分を占めるこの殺人蒸気を放つ大木には、非常に強い可燃性を孕んだ樹液が流れている。

 ヴィクターに注意喚起したように、ほんの少しの火花で莫大な炎を生む天然のガソリンだ。

 

 シャーロットが風魔法を連発していたのは視野を奪うためだけではない。

 魔物の眼を攪乱しつつ、風の刃で周囲の幹に傷を着け、樹液を染み出させるためだったのだ。

 結果、魔物は燃料に囲まれていることなど露程も知らぬまま、不意の内に炎へ呑み込まれた。

 

 だがしかし、この程度で魔物が死ぬわけがない。

 肉が溶け崩れようとも、核を砕かなければ永遠に再生し続けてしまう。

 決定打がいる。頑丈で巨大な化け物をもろとも粉砕するような、絶対的な火力が要る。

 

 そのためにシャーロットは魔物を劫火へ突き堕とした。

 炎が鎮まるまでの間、怪物を拘束することが出来るから。

 

「──光栄に思いなさい。魔物風情が、アーヴェントの秘術を味わえるのだから」

 

 空気が変わる。

 シャーロットを中心に、純黒の鳴動が巻き起こる。

 

 ドクン、ドクンと、心臓の拍に応じて地が響く。

 墨染の魔力が波濤となって少女より現れ、草葉をざわざわと騒がせた。

 

 深海色の髪が漆黒と染まり、水に揺らめくが如く浮かび上がる。

 瑠璃の瞳は煌々と燃え、黄金の円環が顕れていた。

 

「『洛陽、(つるぎ)を捧ぐ。無窮分断(わかた)つは不壊の刃。久遠の王が御名の下、天罰覿面の鎖を解かん』」

 

 桃の唇が紡ぐは祝り詩。

 腕を広げ、足を揃え、己が内に宿る漆黒の魔を研ぎ澄ます。

 

 肉親を喰らい得た望まぬ純黒。

 其は禁断の秘奥。なれど、今こそ血の真髄を開帳する刻。

 

「『捧ぐ。捧ぐ。茨の骨肉。灰燼の魂。(くろつち)の慈悲に我が血華(ちばな)を捧ぐ』」

 

 少女の体がふわりと浮いた。

 大地の慟哭。鳴動と共に地が捲り上がる。

 現れた礫や土塊が、シャーロットの周囲を三重のプラネタリーリングのように旋回し始めていた。

 

「『星海の淵。祖なる則。絶滅の鐘声。十五の月輪よ、王亡き玉座に戴冠を成せ』」

 

 その時、一際凄絶な波動と共に旋回していたリングが弾け、少女の背に光を呑む純黒の王冠が顕現した。

 青黒い粒子が舞い散った。十五の突起を持つ冠は緩やかに回転を始め、シャーロットが腕を交差すると、それぞれの突起が意志を持つかのように剥がれ落ち、少女の周囲へと立ち並んでいく。

 

 アーヴェントの末裔を取り囲む十五の魔剣。

 それは主の意のままに宙を舞い、筒状に収束し、膨大なエネルギーを輪転させていく。

 瞳の金環が、爛と虚空に輝き駆ける。

 

「『汝、終天の裁を瞻よ(ダランディーバ エスカトンノヴァ)』」

 

 刹那。純黒の極大彗星が、樹海を一直線に呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 油断していたわけではない。カプディタスを侮っていたわけでもない。

 最初から使えない理由があった。極力避けなければならない欠陥があった。

 

 そう。この技には幾つか重大な欠点が存在する。

 ひとつは精密な魔力操作と詠唱を必要とし、莫大な隙が生じること。

 もうひとつは、無視し難い代償を支払わねばならないことだ。

 

「ごふっ、えほっ、えほっ」

 

 噎せ返る呼吸器の反乱に口元を抑える。

 シャーロットの手が赤黒に侵食された。吐いた血は数秒前まで血管を流れていたとは思えぬほど粘質で、どす黒く炭化したように黒ずんでいる。

 

「はぁっ、はぁっ、ぐ、うぁ、ぁ、心臓が」

 

 胸を抑え、膝から崩れ落ちた。

 信じられない速さで脈打つ心臓が胸を破って飛び出しそうだ。

 ドクドクと内側で暴れ狂う臓腑が一向に静まらない。シャーロットは再び水薬を飲み干し、発作が収まるのをうずくまって静かに待った。

 

「っ……ぅ……!」

 

 かつてシャーロットはエマの姦計により禁忌を冒し、望まずして『純血』に限りなく近い魔力濃度を手に入れた。

 黒魔力の『純血』は本来、人間に耐えられるものではない。千年間唯一の『純血』であるリリンフィーも、極端に虚弱な体で生まれてしまったほどだ。

  

 シャーロットの場合、皮肉にもエマの『人錬の刻印』によるメンテナンスの影響か、日常生活を送るぶんには支障を来さず過ごせている。

 それは魔力の産出量を無意識化に制御しているからだ。他属性の魔力も交えることで、絶妙にバランスを取り持っている。

 

 今、シャーロットは無意識のタガを外してしまった。

 その反動で心臓が狂い、閾値を超えた魔力圧に体が自壊しかかっている状態にある。

 

「大丈夫……大丈夫……落ち着いて……大丈夫だから」 

 

 言い聞かせ、冷静を心がける。

 パニックに陥ったら終わりだ。脈拍が更に跳ね上がり、心臓が耐久力を飛び越えて破裂してしまう。

 静かに待つ。一寸たりとも動かずに、のた打ち回る拍動が収まるのを待ち続ける。

 

 静寂。時が清水のように流れ去って。

 泣きじゃくっていた心音が鳴りを潜め、シャーロットは大きく安堵を吐いた。

 

(よかった、ギリギリ収まってくれた。少しだけ魔力をセーブして正解だった)

 

 膝に手を突き、力を込めて立ち上がった。

 満身創痍だがまだやるべきことは残っている。

 

 千年果花の調達もさることながら、魔物の核を破壊したか確認しなければならない。

 魔物は半不死の存在だ。核を砕かなければ、例え細切れにしても再生してしまう。

 

(最初の攻防で失血し過ぎた。力も少しセーブしてたから、ダランディーバの威力は十全のものよりほど遠かったはず。もしかしたら核までは壊せてないかもしれない)

 

 よろよろと歩き、森の破壊痕を辿っていく。

 導の先には根元から折れた大木があった。捲れた地面に、腐臭を放つ巨大な肉塊が脈打ちながら埋まっている。

 

「あった。やっぱり生き延びてたのね」

 

 薄く紅色の光を放つ、球形の心臓らしき物体。これこそが魔物の核だ。

 ダランディーバを手に写し、シャーロットは無言のまま、魔剣を大きく振りかぶって。

 

「────え?」

 

 振り下ろす直前。瞳が捉えた光景を脳が解読した瞬間、少女は言葉を失った。

 



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23.「千発だ」

『にんげん』

 

『にんげんだ』

 

『珍しい。珍しい』

 

『森にようこそ』

 

『なにそれ。筆? ご本?』

 

『お絵かき? お絵かき! 素敵』

 

『描いてくれるの? 嬉しい』

 

『にこにこ。ぽーず』

 

『描けた? 描けた?』

 

『おおー。上手。上手』

 

『わたしも。描いて。描いて』

 

『? なにそれ。お土産? 嬉しい』

 

『美味しそう。外のご飯』

 

『不思議な色。不思議なにおい』

 

『ありがとう。優しいにんげん』

 

『コロポックル、あなた歓迎する』

 

 

 

 

(やっぱシャロの言う通り、この森異常なくらい静かすぎる)

 

 二手に別れてからしばらく。

 どうにもこうにも命の気配を感じない閑散とした樹海の央で、ヴィクターは木漏れ日をさえぎる遥か上の樹冠を見た。

 

(なんだろう……どうも空気が味気ない。見た目だけそっくりな異世界に飛ばされたみたいな気持ち悪さがある)

 

 森に来てからというもの、節々から積もり続けてきた違和の数々。

 抽象的だったそれが、少しずつ形を浮かばせてくるような感覚があった。

 

(シャロは魔物が出たのに警備ゴーレムが反応しないのはおかしいと言ってた。もしかして反応しないんじゃなくて、出来ないんじゃねーのか? 外から中を観測できない魔法の檻かなんかで、森ごと閉じ込められてるみたいな感じに)

 

 ヴィクターは腕の包帯を少しだけ千切り、適当な枝に結び付けた。

 もし仮説が正しければ、この包帯はある種の目印になるはずだ。

 

「……やっぱそうなのか」

 

 しばらく真っ直ぐ歩き続けて、ヴィクターは眉を八の字に曲げた。

 遥か後方にあるはずの巻き付けた包帯が、前方でその存在をゆらゆらと知らしめていたからだ。

 

(いつまで経っても火山の麓すら見えてこない時点で気付くべきだった。この森はおかしい。仕組みとか全然分かんねーが、森の空間そのものがイカレてるっぽいのは確実だ。しかし魔法に聡いシャロが全く気付けなかったとなると、一体いつの間に迷い込んでたんだ俺たちは?)

 

 どうやらこの空間は、ある地点まで進むと自動的に引き戻されるようになっているらしい。

 おかげで同じ道をぐるぐる回り続けているような錯覚に陥る。原因不明ながら、森の一区画が丸ごと隔絶されているようだ。

 そのせいで辰星火山まで辿り着けなかったのだろう。ずっと同じ景色が続く樹海という環境もあって、気付くのがずいぶん遅くなってしまった。

 

 魔物の操り主の仕業とみて間違いない。自然現象としてはありえない。

 警備ゴーレムが魔物を感知できなかったのも、小人(コロポックル)たちとの交信が途絶えたというのも、全てこの異常空間のせいだったのだ。

 

「なるほど、俺たちは知らず知らずのうちに敵さんの領地へノコノコ足を踏み込んでたってわけか。つーことはよ、どっかで見てんだろ? 森をテメエの虫籠にして、中に獲物と化け物を放り込んでハイ終わりなワケがねえ。ギャラリーが居るはずだろ。なぁ?」

 

 シャーロットの推測が正しければ、魔物使いは魔物から離れられない。

 である以上、常に安全圏から獲物へ目を光らせているとみて間違いない。

 

「オラ出て来いよ! 俺は一人だぞ! 魔法すら使えない俺が怖いのか!? 」

 

 一先ず挑発。極力自身の手を下さずリスクを避けたがる敵の立ち回りを考えれば乗ってくる可能性は限りなく低いが、少なくともその存在だけでも確かめられるか試しておきたかった。

 

 しかしヴィクターの予想と反し、反応は迅速にかえって来て。

 傍の落ち葉だまりに変化があった。

 

 ざわざわと肉厚なボイラーツリーの枯れ葉たちが騒ぎ出し、一人でに浮かび始めたのだ。

 それは空中でぐるぐると旋回すると、折り紙のように一枚一枚が形を変え、まるで意思を持つかの如く人の姿へと凝集し、ヴィクターの前に降り立った。

 

 赤茶けた葉が象った容貌は、どことなく初老の紳士に見える。

 鍔の広いテンガロンハット。品を感じる曲線を描いた口髭。

 オーバーコートに、手には大きなスケッチブックのようなものと筆らしき棒を握っているのが伺えた。

 

『初めまして少年。私は──』

「だらァッ!!」

『おおっ?』

 

 姿を目にするや否や、ヴィクターは即座に拳を放った。

 しかし顔面に直撃したものの、拳圧に吹かれた落ち葉が散るのみで、すぐに元通りになってしまう。

 

「チッ。やっぱり生身じゃあねーか。遠くから落ち葉に自分を投影してるって寸法か?」

『やれやれ。初対面のおじさん相手に即オヤジ狩りとは、実に血気盛んな若者だな。せめて狩るなら紅葉にしたまえよ。ちなみに今のはオヤジ狩りと掛けてるんだが』

「しょーもねー洒落で誤魔化そうったってそうはいかねえぞ。この状況、お前があの化け物の操り主じゃなけりゃ何だってんだよ」

『しょ、しょうもない……まったく、私の芸術性はいつ如何なる時でも理解されなくて困るよ。ほとほとうんざりだ』

 

 帽子の位置を正しながら溜息を吐く男。  

 言葉を濁してはいるが、魔物の主であることを否定する素振りはまるで無い。

 

『改めて、私の名はカースカン。君の言う通り、この森に魔物を放った張本人で間違いない』

「やっぱりかテメエッ!」

『おっと、殴ったって無意味だぞ。さっきもそうだったろう? これはただの落ち葉なんだよ』

 

 振り上げた拳を降ろし、舌打ち。

 歯がゆいがこの男──カースカンの言う通りだ。無暗に攻撃しても体力を消耗するだけに過ぎない。

 

 思考の矛先を変える。わざわざ男が姿を現してきた理由について。

 

 恐らくカースカンはずっとヴィクターたちを監視していた。だから挑発に応じ、こうして出張ってくることが出来たのだ。

 逆を言えば、カースカンの手には地の利がある。一方的に獲物を俯瞰でき、かつ自分は安全圏に居座れるポジショニングを済ませてある。

 

 そんな状況ならば奇襲などいとも容易かったはずだ。

 なのにそうせず、こうして律儀に挨拶まがいの真似まで披露してきた目論見は何だ?

 ただの慢心なのか。それとも他にワケがあるのか。

 

「やろうと思えば闇討ちも出来たはずだ。何故わざわざ挑発に乗った?」

『なに、ちょっとした趣味の関係でね。何と言うか……サガなんだ。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 掴みどころのない飄々と浮く言の葉。

 にこやかで柔らかな立ち振る舞いは、いたって温厚な紳士に見える。

 しかしどこか、影が差すような不気味さを感じずにはいられなかった。

 

『君が真に気掛かりなのは、私が奇襲を捨てた理由じゃない。魔物を持ち込んだ動機ではないかね? 実にシンプルだよ。趣味と実益のためさ』

「趣味……? 実益……?」

『そうとも。ところで少年、芸術は好きかい?』

 

 要領を得ない問いかけに、ヴィクターは沈黙をもって返答する。

 

『私は生まれながらの芸術家でね。絵描きなんだ。物心ついた時から紙と絵筆が手放せない子供だった』

 

 手に持つ道具をヒラヒラと動かし、適当なページを開いて絵を描くジェスチャーを見せつけるカースカン。

 

『美しいものを紙に留めるのが好きなんだ。無我夢中でありとあらゆるものを描き続けたよ。特に過去と未来を比較できる絵が好きでね。例えば春の森を描いて、冬になったら同じ場所で風景を描き、出来た二枚を並べると季節の移ろいがよく分かるだろう? その移ろいこそが、何とも愛おしく美しいものに感じたんだ』

「……」

『しかしながら、私の中には確固たる芸術性が存在しなかった。こだわりとか、絵の方向性とかね。あの頃の私はいわばサナギだった。羽化を遂げたのは、祖父が亡くなった時のことだ』

「自分語りが長えよおっさん。寝ちまいそうだぞ」

『えっ? そ、そうかい? 参ったな、若い子に話の長さを指摘されると老いを実感してへこむよ……。まぁまぁもう少しだけ拝聴してくれたまえ。君にも関係のある話なんだ』

 

 カースカンは人差し指を立てて宥めながら言葉を紡ぐ。

 ヴィクターはうんざりしたように口を曲げた。

 

『祖父は病気知らずでね。当時91歳だったんだが、驚くほど元気な御仁だった。私は老いてなお活気にあふれる彼を何枚も絵に留めたよ。だがある日、祖父は足を滑らせて頭を打ってしまった。その日から祖父は見る影もないくらい衰弱して…………胸を射貫かれるような感動を覚えたんだ』

 

 ぞわり──と。

 背筋を舌でゆっくり舐めとられたかのような、生理的嫌悪に近い悪寒がヴィクターを襲う。

 

『不死身と思えるくらい元気だった祖父が、ベッドの上で干乾びたミイラのように痩せ細っていく姿がなんとも美しく感じた。革命だったよ。エネルギーに満ちた命が朽ちて終わりゆく盛衰こそが、私にとって核となる芸術性だったんだ。健康な祖父と瀬戸際の祖父の絵を並べた時は、得も言われぬ絶頂感を味わったものさ』

 

 武者震いに身を揺らし、ひしと己を抱き締めて恍惚に天を仰ぐ破顔の男。 

 滲み出す狂気の片鱗は仄暗く、ナメクジの這い痕のような滑りを彷彿させる。

 

 身の毛がよだつとは正にこのことか。

 どこかお茶らけていた雰囲気が一転し、どす黒く粘着く瘴気のような、禍々しい空気をカースカンから感じ取った。

 

『分かるかい少年。今の君は()なのさ。力が溢れて仕方ない最盛の状態なんだ。そんな君を描かずして私の芸術は完成しない。だから直接スケッチに来たんだよ。私の生き甲斐という名の趣味のためにね』

 

 初老の男は朗らかに頬をほぐす。

 落ち葉越しにも伝わるほどに、まるで悪意を感じさせない、きらきらと子供のように無邪気な笑顔だった。

 

『ああ、実益とはあの少女の心臓を頂くことだ。……もう察してるだろうが言っておこう。私は君たちを始末するために、この森で待ち続けていたんだよ』

 

 

 

 

(まずいな。思ったより最悪な状況かもしれねぇ)

 

 身の上話を並べ立てる男を余所に、ヴィクターは置かれた現状の把握と打開策の思案に頭をフル回転させていた。

 しかし考えれば考えるほど、情報を整理すればするほど、切り開ける道筋が藪の中に隠されていくような錯覚に陥る。

 ボードゲームの詰みにハマっているようなものだ。返せる手立てが暗中に沈み、どこを探っても見つからない。

 

(俺たちの心臓を狙って黄昏の森に先回りしてたってことは、こいつは間違いなくエマの仲間だ。てことは腕の力や戦い方も筒抜けになってると思った方がいい。近くに他の仲間が隠れてるかもしれねえ。ベラベラ喋って注目を集めてンのも、何か別の策を巡らすための時間稼ぎの可能性だってある)

 

 それだけではない。カースカンはこの異常な隔絶空間に間違いなく関わっている。

 もはや黄昏の森そのものが男の領域と化したに等しい。地の利は劣勢極まりない。

 

 つまりカースカンは一方的にヴィクターを観測、干渉できる絶対的優位なポジションを確保していて、立てられる手立ては山のようにあるときた。

 奇襲を捨てた理由も頷けるというものだ。そんな事せずとも勝てる要素しかカースカンには備わっていない。負ける道理がどこにもない。

 

(俺はカースカンを攻撃出来ないのに、こいつは安全な場所から一方的に殴ってこれる。なのにカースカンを倒さなきゃ俺たちはこの森から出られない。最悪だ、どうすりゃいい? シャロが来るまで時間を稼ぐか?)

 

 駄目だ。シャーロットが魔物を倒し援軍に来ると察知すれば、この男は即座に撤退するだろう。

 広大な空間を制御下に置くほどの手練れだ。一度逃げに徹されてしまえば追うことは至難を極める。

 

 圧倒的に不利な状況。だが戦うしかない。それ以外に道は無い。

 しかし、どうやって攻略すればいい?

 

(……不安要素をひとつずつ消していこう。こいつに仲間がいるかどうかだけでも知っておきたい)

 

 出会って間もないが、カースカンは相当狡猾な男と見て間違いない。

 確実な保証が無ければ動かないタイプの人間だ。己の優勢を決して損なうことなく、一手一手と安全に駒を詰めていくような性格だ。

 そうでなければ、ヴィクターたちを先回りして過酷な森に身を潜め、入念な下準備を施して自身のフィールドを構築するような真似などしない。

 

 であれば恐らく仲間もいる。自身がミスを犯した時、カバーさせるべく人材を潜ませている。

 魔物が暴走した時の保険も兼ねているはずだ。まずは敵戦力の把握しなければ今の状況を打開することは不可能に近い。

 

『と、君は思っているんだろう?』

「っ!」

『図星だね。まぁ勘ぐるのも無理はない。仲間を配し、盤石の布陣を完成させておくのは至極当然のことだ。だが安心したまえ、この森には私一人だとも。誓っていい』

 

 あっけらかんと返ってきたのは、予想とまるで反する言葉。

 

『芸術活動に素人同伴など私のほうが御免被るよ。古今東西、著名な芸術家は常に孤独と共に在った。私もそれに倣っているのさ』

「……それが嘘でないと言う保証は?」

『保証? 無いに決まっているだろう。立場を弁えたらどうだね。そんなものを保証する義理などないし、君はそれを信じる他にないんだ。そうだろう?』

(なるほど、嘘じゃなさそうだ。仲間がいるならこのタイミングで出してこない理由がねえ。勝ち筋をガチガチに固められるんだからな。それに不測の事態をカバーし合えるチームがいるなら、たった一人を相手に安全圏へ引き籠ってる必要も無い)

 

 加えて、明確な根拠ではないが確信めいた勘が芽生えていた。

 カースカンにはどこか執着染みた精神を感じる。強固なこだわりだ。芸術家と(うそぶ)く仕草に偽りの色は感じられない。

 彼のこだわりに仲間とは無用の長物なのだ。そう思わせる気迫があった。

 

『仲間など必要ないんだよ。私は優秀でね、()()()()()()()()()()()()()()

 

 ──言葉を皮切りに、異変が重々しく到来した。

 

 ヴィクターの周辺。枝葉や木々が日を遮って生まれる影が、突如として泳ぎ出したのである。

 波打つ影の塊は、彼を中心に獲物を見定めた鮫の如く、ぐるぐると旋回し始めていく。

 同時に男の手が動いていた。カースカンが手に持つスケッチブックへ、恐るべき速さで何かを描き殴り始めたのだ。

 

『さぁ少年、見せてくれたまえ。若く溢れる命の彩りを』

 

 一際強く筆が走り、カースカンを象っていた落ち葉が風に吹かれて崩れ去る。

 入れ替わるようにしてヴィクターを囲う影が鳴いた。ごぼごぼと水泡のような音を引き連れながら、平面だった暗黒が不気味に痙攣しつつ立ち上がっていく。

 

 やがて姿を成したそれは、異常に手足の長く能面な、影で出来たヒトガタのなにか。 

 名付けるならば影人間。それがヴィクターを中心に四体も、彼を見下ろすように顕現した。

 

「ッ──!!」

 

 影人間が一斉に腕を引き絞り、五指を鋭利に引き伸ばしゆく姿を目にした瞬間。ヴィクターは包囲網から身を投げ出した。

 一拍遅れ、影人間が互いを槍の腕で刺し貫く。

 腕が通過した場所はヴィクターが立っていたところだ。ほんの少しでも判断が遅れていたら、あの腕が風穴を穿っていたのは人間の骨肉だっただろう。

 

 影人間には痛覚という概念がないのか、何事もないかのように腕を引き抜いてヴィクターを見る。

 凹凸の無い、闇だけがある虚ろな顔貌。昆虫のような無機質さが強烈な不安感を駆り立てた。

 

(こいつらは何だ? 魔物か? いや、あの化け物を見た時のような本能に来る悍ましさは感じない。魔法で生み出したゴーレムってとこか)

 

 ヴィクターは拳を握り、2m近い長身痩躯の怪人たちと距離を保ちながら相対する。

 ゆらり、ゆらり。影人間が動く。

 体をぶらぶらと揺らしながら、緩慢にヴィクターへと向かってくる。

 

(動きは遅い。拳が効くかどうかは分からないが、周りの木を遮蔽物にして一体ずつ相手取ればいけそうだ)

 

 刹那。影人間が肉薄した。

 唐突だった。いきなり動きが加速したかと思えば、さながら人の形をしたゴキブリの如く恐るべき敏捷性をもって突撃してきたのだ。

 

 槍の腕が放たれる。咄嗟に身を捩じって躱す。

 横に薙ぎ払われる。腰を落とし、背から地面に倒れ込むようにまたも躱す。

 転がって、転がって、すぐさま体勢を立て直した。

 

 ────刺突。

 

「うォおおおおおおおッ!?」

 

 別の個体が迫っていた。眼球目掛けて放たれた死を拳ではたき落とし、間一髪で軌道を逸らす。

 瞬間、激痛が脇腹を抜けた。またも別個体が音もなく距離を殺し、ヴィクターの肉を死角から抉り取ったのだ。

 

「がッッ!? ぐ、おお、おおおッ!! だァァらっしゃあああああ──────―ッッ!!」

 

 守りに徹すれば負ける。判断は早く、豪速の突きが解き放たれる。

 包帯に包まれた純黒の拳が唸りを上げ、傍にいた二人の影人間の顔面を正確無比に殴り抜けた。

 ゴムの塊を思い切り叩きつけたかのような轟音。影人間の頭部がひしゃげ、錐揉み回転しながら吹っ飛んでいく。

 

(こいつら思ったより素早い! しかも足音すら無く迫ってきやがる! 気配がねえ! 一瞬でも気ィ抜いたら袋叩きにされちまうぞ!!)

 

 傷を確認。幸い浅く、失血も無視できる。

 呼吸を整え、フットワークを意識。打撃即離脱に重点を置く。

 絶対に多対一の状況を生まぬよう、ボイラーツリーを利用して立ち回る。

 

「おっしゃあ、来いッ!!」

 

 手槍を刺突する影人間。翻って裏拳を叩き込む。

 すかさず半身。反撃と振り下ろされた一閃を避け、鳩尾目掛けて渾身のブローを見舞う。

 顎へのアッパーカット。左掌底。喉笛を穿つ肘打ち。

 よろめいた影人間の首を掴み、顔面へ杭を打つように拳を沈めて地に落とす。

 

 頭蓋を割り砕いたかと錯覚する凄絶な感触。

 影人間の肢体がブクブクと泡を弾けさせ、やがて空気に溶け込むように消えていった。

 

(おし! まずは一体! 倒せるってンならどうってことはねえッ!!)

 

 攻めに転ずる。ヴィクターに迫って来ていた影人間の虚を突くようにしゃがみ込み、足を取って思い切りひっくり返す。

 すかさず足首を掴み、力任せに反対側の影人間へ向けて投げ飛ばした。

 

 二体が行動不能になった隙に残党を狩る。

 猪突猛進。地を蹴りミサイルの如く突っ込んだヴィクターは影人間を押し倒し、馬乗りになって無数の鉄槌を振り下ろした。

 

 消滅する影人間。残すは二体。

 行動パターンは既に見切った。

 蛇行するように森を駆け、二体の注目を攪乱させる。

 

 大樹に向かって全力の跳躍。木を蹴り、三角跳びの要領で空中から奇襲をかける。

 一体目を殴り飛ばす。すかさず反撃してきた二体目の薙ぎ払いを受け止め、腕を引っ張って体勢を崩し頭突きを見舞う。

 起き上がろうとする殴り倒した影人間の背を踏み抜き、頭を掴んで捩じり切るように回転させた。

 

(あと一体!!)

 

 両腕の爪を引き伸ばす最後の影人間。我武者羅に突っ込んできた怪物の縦横無尽を掻い潜る。

 カウンターのボディブローが炸裂した。大きくよろめく影人間を蹴り飛ばし、全体重をかけた正拳突きを人中へ解き放つ。

 錐揉み回転しながら吹っ飛んだ影人間は、地に落ちる前に跡形もなく消滅を迎えた。

 

『……驚いたな。どうやって()()()()を攻撃してるんだい? 話には聞いていたけど、その腕は実に不思議な力を秘めているようだ。が、それを差し引いても四人同時に相手取ってほぼ無傷で済ませる君の戦闘センスは凄まじい。敬意を手向けずにいられないよ』

「敬意だ? 嘘吐けおっさん。自分の欲望しか眼中にない癖に。俺がズタボロになるのが楽しみでたまらないんだろう」

 

 どこからともなく聞こえてきたカースカンの声へ、唾棄と共に怒りを放つ。

 

「反吐が出るぜ。お前も大義のためにシャロの心臓を狙ってるクチか? そのためには何の関係もないコロポックルを魔物の餌にしてもいいってのか!? ふざけんな!! テメエら揃いも揃って人の命を何だと思ってやがる!?」

『うん? 大義? ちょっと待ってくれ。私はそんな大層なもののために君たちを相手にしてるんじゃないよ。言っただろう? 趣味と実益なんだよ、これは』

 

 きょとんとしたように返された、無垢にすら思えるほど不気味に白い答えは。

 何か、ヴィクターの認識とは致命的に歯車が嚙み合っていない異音を如実なまでに奏でていて。

 

彼女(エマ)()()()()に心酔している直属の部下だからね、それはそれは大義に燃えていただろうさ。私は違う。私はただの雇われだ。裏家業を掛け持ちしてるだけの芸術家に過ぎないんだよ。田舎娘の心臓が必要だとかどうとか、雇用主の事情なんて知ったことではない。大事なのは、あの娘の心臓に着いた値札なのさ』

「値札……だと!?」

『そうとも。彼女の心臓には莫大な報酬金が掛けられていてね。あまりにも法外すぎて、我々の業界でも誰一人依頼に手を付けようとする者がいなかったほどだ。提示された情報が極端に胡乱だったし、罠だと思われてたんだろう。幸い私はエマと旧知の仲だったから、情報の裏付けを取れて依頼を受理したのだが』

 

 さておき、とカースカンは言葉を切り分ける。

 

『世知辛いことに芸術活動には資金が入り用なんだ。彼女の心臓を持ち帰るだけで、私は裏家業から足を洗って一生を美に捧げるほどの金を手にすることができる。だから君たちの命を狙ってるんだよ。わかるかい? これはただのビジネスだ』

「……!!」

 

 

 カースカンは酷く軽々しく、それがさも当然の答えであるかのように言った。 

 ただ金が欲しいだけで。ただ理想の絵が描きたいだけで。 

 この男は魔物を放ち、ゴミを蹴り飛ばすように森の民の生を壊したというのか。

 

 ギリギリと歯の軋むノイズが顎から伝わって頭蓋を揺らす。

 奥歯が砕けるようだった。噛み砕かずにはいられないほどの怒りの味が、鉄臭さと共に染み出していた。

 

「わかんねえよ……!! 何もかもわかんねえ!! わかりたくもねえ!! うんざりだ! だったら何でコロポックルまで巻き込んだ!? 俺たちを森ごと異空間に放り込んで一方的に嬲れるだけの力があれば、彼らの命を奪う必要なんて無かったはずだろ!?」

『だから、何度言えばわかるのかね。趣味と実益なんだよ。コロポックルたちは新作の材料に丁度良かったから使ったに過ぎない。()()()()()()()()()()()()()()()()()。だからやった。それだけだ』

 

 ──時が凍るようだった。

 

『ちょっとしたツテから面白いものを購入してね。魔物の芽だよ。禁忌扱いされている代物だから、ブラックマーケットですらまずお目にかかれることはない逸品なんだが、運よく手に入れる機会に恵まれたんだ』

 

 相互理解など決定的に不可能なのだと、瞠目せざるを得ないほどに。

 

『チャンスだと思った。この芽を誰かに食わせれば、健康な人間が悍ましい魔物に堕落する奇跡の盛衰を描ける絶好の好機だと。で、仕事に向かう黄昏の森には丁度コロポックルが住んでるときた。……知ってるだろう? ここのコロポックルはとても友好的で有名なんだ。私がふらりと集落にやってきても嫌な顔一つせずに出迎えてくれて、差し出した芽の粉末入り弁当を何の疑いも無く食べてくれたほどにね』

 

 恍惚にうっとりと身悶えるカースカンの姿が鮮明に浮かぶほど、熱を帯びた男の嬌声が聴神経を搔き毟る。

 

『今でも目に浮かぶよ。ニコニコ人懐っこく近づいてきた小さな森の住民が、もがき苦しみながら化け物へ変異していく光景が。冒された獣性をもって仲間を喰らい、望まずして肥え太っていく醜悪が』

 

 吐き零される言葉の数々は、魔物など比にならぬほどに、名伏し難い穢れで満ち溢れていた。

 

『嗚呼、美しかったなぁ。平和に包まれていたコロポックルの集落が瞬きをする度に地獄へ変わっていくんだよ。筆が止まらなかった。何枚も何枚も描いたんだ。無邪気に微笑んで絵のモデルになってくれたコロポックルのみんなと、弁当を食べて変わり果てたコロポックル、泣きじゃくりながら逃げ惑う仲間たちの姿を、紙の中にしっかりと綴じて並べたんだ。傑作中の傑作が完成した瞬間だ』

「て……めえ……!!」

 

 罪の意識などまるで無いとでも謳うように、あまりにも不相応な熱を帯びた声色。

 到底信じられなかった。脳が、魂が、理解そのものを拒絶した。

 

 この男は、カースカンという男は、他人を踏み躙る行為に対し一片たりとも悪意を抱いていない。

 悪道を悪とすら思っていない。文字通りの悪趣味を叶えることが何者にも勝る最優先事項であり、それ以外は路傍の石ころのようにどうでもいい芥なのだ。

 魂魄の底からイカれている。同じ人間とは思えないほど悪辣で、エマより遥かに質の悪い外道が嗤っていた。

 

 擁護する気など毛頭ないが、世界を救うという大義の下で非道を働いたエマには曲がりなりにも信念があった。

 カースカンにはそれがない。吐き気がするほどの我欲だけだ。

 

 認めてはならない。断じてこの男だけは認めてはならない。

 静かに暮らしていただけのコロポックルから安寧を奪い去ったのが、たった一人のエゴだったなど、天地が返ろうとも許されていいはずがない。

 

 理想の絵を描きたいという我儘のためにここまで凌辱されねばならない道理が、この世界のどこにある。 

 看過など出来るものか。頭に来ないワケがあるものか。

 

「……コロポックルたちは怯えてた。何日も寝れていないみたいに酷い顔色をしてたんだ。当然だ。あんな化け物に成す術もなく襲われて、平気で眠れるわけがない」

 

 沸騰する血潮に頭を焼き尽くされそうになる。

 握り締めた拳が熱い。爪が皮膚に喰い込んで、赤い篆刻がじわりと包帯に滲み出した。

 

「それなのに……恐怖で限界だったはずなのに……コロポックルは俺たちを拒絶なんてしなかった。この意味がわかるか? カースカン。()()()()()()()()()()()()()()()()。化け物は急に湧いて出たものだと信じてたんだよ。コロポックルの中じゃきっと、今もお前は親切な絵描きのおじさんなんだ」

 

 シャーロットいわく、小人(コロポックル)という種族は人間よりも自我を得た精霊──妖精に近く、精神的にも肉体的にも子供のまま成長が止まるのだと言う。

 無邪気で、人懐こくて、感情豊かな森の民。余所者を排斥することもなく、むしろ迷い人が訪れれば、親身になって手を差し伸べてくれるような優しい種族なのだと。

 

 それを。

 そんな無辜の民たちを。

 

「ただ都合が良かったからなんて馬鹿げた理由で……! コロポックルたちを食い潰したってのかッ……!? なんだってテメエらはッ! そんな惨いことが平気な顔して出来るんだッ!?」

『怒りの矛先を履き違えているね。そもそもこうなったのは君たちのせいなのに、何故義憤に燃えているのか甚だ理解に苦しむ』

 

 一瞬、ヴィクターの思考が停止した。

 呆れかえるような吐息と共に落ちてきたカースカンの言い分が、まるで理解の及ばないものだったから。

 

『元はエマを取り逃した君たちの失態が原因だろうに。彼女を逃がしさえしなければ、黄昏の森へ向かうだろうという予測も立てられることもなく、コロポックルたちが巻き込まれることもなかったんだから』

 

 ──言葉が出ないとは。

 

『もっと言えば、君たちが生きていることそのものが起因するね。無駄に抵抗して生き永らえたからこういう結末を招いたんだよ。彼女(エマ)の言葉を借りるならば、世界のために初めから心臓を回収されていればよかったものを……ってところかな』

 

 ──まさに、このような状況を言うのだろうか。

 

『何にせよ死体を増やしたのは君たちだ。もし君たちに次があるとすれば、同じようなことが起こると断言出来るよ。我々の業界には他人の命に躊躇がない者たちが多いからね。わかるかい? 君たちのように甘ったれた正義感で場を引っ掻き回し続ける人間が、巡り巡って一番死をバラまくのさ。それはどの時代でも変わらない』

 

 

 ああ。ああ

 もう無理だ。限界だ。

 どんなに頑張っても。どんなに噛み砕いても。どんなに理解しようとしても。

 カースカンの主張を呑み込む術を、ヴィクターには終ぞ見つけだすことが叶わない。

 

「……? 何言ってんだ、お前」

 

 怒りではない。

 それは決して、義気に燃ゆる爆熱の焔ではない。

 

「金儲けと趣味のために何の罪も無い人々を踏み潰した屑が、なんで一丁前に詭弁並べ立てて正当ヅラしてんだ?」

 

 それは氷点の凜冽(りんれつ)を帯びた、殺意に比肩するほどの無色透明の憎悪。

 雪解けの水を頸椎に注がれたかと錯覚するほどの悪寒が、カースカンへ襲い掛かった。

 

「殺したのはお前だろうがッ……!! お前がやったんだろうがッ!! ベラベラベラベラ言うに事欠いて、俺たちが死体を増やしただ? シャロが生きてたからこんな事態を招いただ!? ふざッッッけんな!! 殺人嗜好のゲボ野郎が、テメエの責任都合よく解釈して擦り付けてんじゃねえぞアホンダラァッ!!」

 

 唾を飛ばし、ヴィクターは血を吐くほどの咆哮を爆発させた。

 森が騒ぎ出すような絶対の憤怒を迸らせて、どこに居るともつかないカースカンに睥睨を放つ。

 

「俺はお前みたいなやつが一番嫌いだ。弱者を平気で踏み躙って、その癖ヘラヘラと悪びれもしねえ。テメエの罪すら投げ出しちまうような、どうしようもなく救いようがないクソッタレが大嫌いだ」

 

 拳を掲げ、天を仰ぐ。

 包帯に覆われたそれが示すは、完全なる宣戦布告。

 

「覚悟しろよ、カースカン。千発だ。千発そのツラに叩き込んでやる」

『ははは。猛々しいことこの上ないね。実に元気で結構なことだ。そんな君が萎れた青菜のようになる瞬間が待ち遠しくてたまらないよ』

 

 声を皮切りに、再びヴィクターを囲う影。

 顕れしは影人間。肉を裂く爪を携えた人型の異形。

 それも四体如きではない。ざっと見渡すだけでも十はいる。

 

『さて、休憩は終わりだ。次のステップといこう。ちなみにこの子たちの数に制限は無いから、気が済むまで相手するといいさ。──君はもう終わりなんだよ。()()()()()()()()()()()()

 



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24.「芸術は燃えているか」

「ぐぁッ!?」

 

 焼けた鉄槍で引き裂かれたような激痛がヴィクターの背を駆け抜けた。

 歯を食いしばり、即座に振り返って渾身のブローを叩き込む。

 砂袋が破裂したが如き轟音。めり込む拳。貫かれんばかりの衝撃に飛ぶ影人間。

 

 だが次の瞬間、吹っ飛ばした影人間の背後から別の爪が入れ違いに飛んできて、ヴィクターの腹へ生々しい異音を奏でながら突き刺さった。

 

「があ"ッッ!? づッ、ぐッォォおおおおあああッ!!」

 

 肉を掻き分け内臓を破かんと、凄まじい力で押し込まれる爪を全力で食い止める。

 顎に掌底を穿ち、怯んだ隙に脱出。豪速のラッシュを見舞い影人間を霧散させた。

 

 直後、眼前を爪が掠め去った。

 間一髪で事なきを得たものの、体勢を崩し仰向けに倒れてしまう。

 

 影人間たちが追い打ちをかける。矢継ぎ早に次々と放たれる無機質な殺意の槍を、転がり続けて避けていく。 

 背が木に当たる。行き止まりを悟ったヴィクターは両足の力でバネのように跳ね上がると、ボイラーツリーを盾に追撃を避け、攻勢に転じず脱兎の如く走り去った。

 

(ド畜生が! 一体一体はそんなに脅威じゃないが幾らなんでも多すぎる! ひとまず距離を取らねえと……!!)

 

 カースカンが招来した影人間を撃退したのも束の間。再び十の敵数を増やされ、どうにかそれを退ければ間髪入れずまたも続投されるという地獄のイタチごっこの果てに、ヴィクターはじわじわと追い詰められつつあった。

 

 負傷。出血。疲労。

 人間である以上、蓄積し続けるダメージから逃れることは出来ない。

 

 酸素不足に喘ぐ肺臓からは常にエマージェンシーが鳴り響き、乳酸に溢れかえった全身の筋肉が悲鳴を上げる。

 足が棒のように凝り固まって精密性を欠き、バランスを崩す場面が増えた。

 上着は泉にでも飛び込んだかのように汗を吸い、絞ればとめどなく溢れてくる始末。

 

 失血と発汗のせいで脱水が加速し、脳機能の低下による判断力の欠如まで現れ始めている。

 初めは一対一の状況を作れていた影人間の包囲網を崩せなくなってきた。

 敵の攻撃を捌き避けるのに手一杯で、反撃する余裕がまるでない。

 

(このままじゃジリ貧にされて負ける! 少しでもいいから休まねぇと……!!)

 

 足に鞭を叩く。限界だと訴える心肺に喝を入れ、力の限り腕を振るう。

 森の中をジグザグに走り抜けていく。目的地は問わない。とにかく身を隠せる場所であればどこでもいい。

 

 しかしこの森は異常空間に支配されている。

 あまり距離を稼ぎすぎると座標を引き戻され、折角突き放した影人間と鉢合わせする危険があった。

 

(だが周りにゃどこにも隠れられる場所が──いや待て、あるぞ。上だ!)

 

 立ち止まり、天蓋を見る。

 森の頭上は、茂る枝葉で空を塞ぐ紅の樹冠だ。登って身を隠すにはうってつけの隠れ家だろう。

 

 最後の力を振り絞って木を登る。

 幸い冷却期間にあるボイラーツリーに火傷を負わされるような熱は無く、ヤドリギの仲間か、幹に絡まった頑強なツルがロープ代わりになってくれた。

 出来る限り高く、早く、易々と発見されない位置にまで登っていく。

 

「はぁっ、はぁっ、ふー……ちょい、休憩」

  

 太い枝と幹の椅子に凭れかかり、脱力。

 下を見るも影人間の姿は無い。完全にヴィクターを見失ったらしい。

 

「痛ッ……結構深くやられちまったな……」

 

 ぬるりとした背の感触に顔をしかめ、指を這わせれば手のひらが真っ赤に染まってしまった。

 背だけではない。腹にも穴が開いている。グリグリと爪を押し込まれたのが響いたか、シャツを捲ると凄惨な傷口が露わになった。

 

 幸運なことに内臓や骨には達していない。致命傷ではない。

 だがズキズキと身を苛ませる強烈な痛みが悩みのタネだ。

 アドレナリンが品切れしたらしい。脇腹や腕、足に頬など、植えられた裂傷たちの自己主張が段々と強まっている。

 

 シャーロットと違い、ヴィクターは高い治癒力など持ち合わせていない普通の人間だ。

 念のためポーチから水薬を取って飲み干してみたものの、効果は止血程度の応急処置に留まっている。傷は開いたままだ。

 無論、飲まないより遥かにマシだが。

 

(不味いな。あまりにも分が悪い)

 

 水分を補給し、呼吸を整え、疲労が抜け始めると、すぐさま現実という獣が牙を剥いて威嚇してくる。

 これまで不利極まる戦況でもどうにか打開策を模索し続けてきた。しかし今回ばかりは話が違う。

 そもそも戦いの土台にすら立てていない。一方的に嬲られているだけだ。

 

 相手は損耗を知らない無限の兵団。対するヴィクターの勝利条件は大将首。

 なのにこちらは攻め手のひとつも無いときている。このまま防戦一方では、敗北を招くは(ことわり)に等しい。

 

(カースカンの言葉通り、あの影人間は倒しても倒してもキリがねえ。まともに相手すれば物量で押し切られちまう。どうにかしてカースカンをぶっ飛ばさねえと埒が明かねぇが、奴の居場所は霧の中。龍颯爆裂拳の射程距離にすら近づける手立てがねえときた)

 

 最悪過ぎる状況に笑いが出てくる。

 せめてシャーロットのように魔法が使えさえすれば何か作戦を練られたかもしれないが、そんなのは捕らぬ狸の皮算用だ。

 

(近づけさえすりゃこっちのモンだが、カースカンの野郎は絶対に俺の前に姿を晒すような真似はしねえ。きっと挑発も通じない。いっそ森を走り回って探し出すか? いや駄目だな、アイツは俺を常に監視してんだ。探し出そうとアクションを起こせばすぐ場所を変える。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 理屈は不明だが、黄昏の森は何らかの方法により空間を隔絶されている。

 今の森を鳥籠に例えるとすれば、カースカンはその持ち主だ。籠の外に居る可能性だって十分に考えられるだろう。

 

(もしそうならいよいよ打つ手が無いってのに、認めたくないがその可能性は高いときた。アイツは外から籠の中を俯瞰するように全体を把握出来てるんだろう。じゃなきゃ、常に俺の位置を把握して影人間を正確に出現させられるわけがねえ)

 

 初めは木の上にでも隠れているかと思ったが、この鬱蒼とした茂り具合だ。身を隠せても地上の様子を伺うことは難しい。 

 

 それに落ち葉の投影体で見たカースカンは、野山へ足を踏み入れるというにはあまりに相応しくない洒落た礼服で身を包んでいた。カムフラージュの意図などまるで感じられないのだ。

 

 認識阻害を使っている線も薄い。

 ヴィクター自身にも理由は分からないが、そういった隠蔽の魔法は看破出来るのである。かつてエマが施した本のページや、隠し通路を見抜いた時のように。

 

(つーことはやっぱ空間の外にいる可能性が高いか。どっかの高台に腰かけてのんびり絵でも描きながら、俺たちの様子をほくそ笑んで見てるんだろう。…………いや、ちょっと待て。()()()?)

 

 気付く。

 ひとつの取っ掛かりを。分厚い障壁を吹き飛ばす可能性を秘めた、小さな爆弾の香りを。

 

(そうだ。カースカンは俺をずっと見てるんだ。探知魔法とかで位置を把握してるんじゃない。肉眼で見てるんだ。じゃなきゃ俺が休めてるわけがない)

 

 追い詰めたヴィクターをカースカンが見逃す理由は無い。仮にわざと放置しているにしては時間が長すぎる。

 とっくの昔に影人間は送り込まれてきているはずなのだ。なのに一切のアクションが無い。

 カースカンはヴィクターを本当に見失っている。そうでなければありえない。

 

(つまり死角があるってことだ。カースカンの監視には穴がある)

 

 条件は不明だ。木の上に隠れたのが功を奏したのか、それとも運よく視野角から逃れたのか。

 何でもいい。死角が存在するのだという事実さえ分かれば問題ない。 

 

(よーし、ピンと来たぞ。早速実践してみるか。へへ、暗雲に光が差し込んできた気分だぜ)

 

 監視網に潜む穴の条件は探し出せる。

 探し出せさえすれば、この絶望的な状況をひっくり返す切っ掛けを掴み取ることが出来るかもしれない。

 

(問題はマジのマジで賭けになるってとこだな。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ポケットに手を突っ込み、小さな紙切れを五つ取り出す。シャーロットから譲り受けた護身用の魔法符である。

 うち三つは炎魔法を封入したもので、ひとつは隠蔽魔法、もうひとつは防護魔法が刻印されたものだった。

 

(……この勝負、相手の思考を読み負けた奴が土を舐めるぞ)

 

 手札を握り締め、ヴィクターは木から身を投げた。

 

 

 

「ふむ。動きが変わったね」

 

 黄昏の森を抜けた先。辰星火山の麓に、豊かな森林地帯を一望できる切り立った崖があった。

 雄大な紅葉の絨毯と澄み渡る青空が織り成す二色の絶景。

 椅子に腰かけながら景色を眺めるテンガロンハットの男は、キャンバスに走らせていた絵筆を止めながら声を零した。

 

「影の撃退から移動を中心に舵を切っている……何か考えがあるらしい。作戦でも思いついたかな?」

 

 カースカンの前には画架が二つ並んでいた。 

 ひとつは現在進行形で絵具を塗りつけている絵画の蛹。もうひとつはキャンバスと言うにはあまりに巨大な、奥行きのある樹海と森を輪切りにした断面図を隅々まで描き切った大作である。

 

 大岩に立てかけなければまともに立てることすら叶わない大絵画には、深海色の髪をした少女と醜い化け物が戦う姿、そして森の中で影人間に追われる一人の男が描かれていた。

 

 見事な芸術だった。森ひとつの断面図をキャンバスに収めると言う、前代未聞の圧倒的なスケールもさながら、これほどの規模であってもまるで手を抜かれていない、思わず感嘆が漏れ出すほど繊細で優雅な筆致。

 

 まるで命を吹き込まれたかのような躍動感と、書き手の魂が宿った呑み込まれるほどの表現技法。

 美に聡くない者であっても心奪われずにはいられない、色彩と造形の晴れ舞台がそこにあった。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()ことを除けば、作者の精巧な腕前と類稀な色感を如実に物語る、一級のアートだったに違いない。

 

 

「しかし残念だ少年。君がどんな策を講じようとも、我が『絵儡(かいらい)の刻印』に繋ぎとめられた者は決して逃れることなど叶わないんだ。無為なんだよ。全てね」

 

 カースカンの左手に煌々と輝く紋様があった。選ばれし者のみが宿す先天たる魔の則があった。

 深緑色の波濤を放つは血管や神経組織で形成された天然の異能。星の刻印である。

 

「私の能力はこの手で描いた対象を絵の中に閉じ込めることさ。一度描けさえすれば、森をまるごと封じるなんて真似も出来るんだよ。まぁちゃんと描かないといけないから、これだけの規模を絵に綴じるとなると時間がかかっちゃうのが欠点だがね」

 

 だから先回りして黄昏の森で待ってたのさ──誰に語るでもなく、いいや、聞こえていないことを前提でヴィクターに語りかけるカースカンの声は、実に穏やかな波模様だった。

 

 カースカンが宿す『絵儡の刻印』には、大きく分けて二つの能力が存在する。

 

 ひとつは描いた対象を絵の中に閉じ込めること。

 もうひとつは、新しく描きこむことによって絵の世界に干渉すること。

 例えば、自らの意思を乗せた登場人物を送り込んだり。

 

 影人間がそれだ。あれはカースカンが『鋭利な爪で人を襲う影の異形』と設定して投入した怪物である。

 

 絵の中の登場人物を直接攻撃したり、紙を破くなどして存在を抹消するといった真似は出来ないが、絵画に閉じ込められた世界は完全にカースカンの支配下へと置かれるのだ。

 

「使い勝手は悪いけど気に入ってるんだ。封印さえすれば私の許可なく脱出することは絶対に不可能。綴じた空間は外から見ても異常に映らないし、絵の中で起こった出来事は生き物の生死以外反映されない。暗殺にはもってこいだろう?」

 

 面倒な発動条件と制約が多い点を除けば、カースカンはこの能力に無類の信頼を置いていた。

 発動さえすれば無敵とさえ思っている。絵の中の人物はカースカンに手も足も出ず、仮にカースカンの刺客を退け続けたとしても、結局は飢えと渇きでいずれ死ぬ。

 

 脱出の手は無い。例え世界最高戦力と名高い三聖だろうと、捕らえさえすれば攻略不可能だという自負があった。

 

「ただの影を殴り飛ばしたその腕には面食らったがね。話に聞く『純黒の王』の腕とやら、私の持つ知識の遥か先まで届くようだ……が、たった画布一枚隔てた私に届かないとは、何とも皮肉でならないよ」

 

 仕上げ前の作品から筆を離し、油絵具が少し乾くまでのしばし。森の中を逃げ惑うヴィクターの絵を見やる。

 時折木の影に隠れられたり、どこかの木に登ったのか、姿を見失ってしまうタイミングがあった。

 

 刻印の力は強力だが万能ではない。巨大な森を絵の中に閉じ込めるため、遠近法の関係で人間の尺度は非常に小さくなっている。

 そのせいもあって、ちょこまかと凄まじいスピードで動き回りながら背景に隠れてしまうヴィクターは、常に注視しなければどこに行ったか分からなくなってしまう。

 

 巨大なカプディタスが常に張り付いているシャーロットと違い、目印が無い分、影人間を送りたくとも筆が止まる空白が生まれる。

 

「ネズミのように粘るね。だが隠れても無駄さ。君がどこで何をしようと絵の世界からは逃げられない。折れるまで根競べといこうじゃないか。時間はたっぷりある」

 

 描きかけの絵に再び意識を向けながら、ヴィクターが見えるようになるまで静かに待つ。

 姿を現したらすかさず影人間を描いてぶつける。ただそれの繰り返し。

 

 獲物を刻印に絡めとった今、カースカンの心境は穏やかだった。

 彼が抵抗する力も尽きて、這い蹲って命を請いながら切り刻まれるその時まで、いつまでもいつまでも待ち続ければいいのだから。

 

 そうしてカースカンは数多の屍を描いてきた。

 暗殺は天職だった。趣味を満たせて資金まで得られる。これほど道楽的な商売は無い。

 

「何だかんだ言って、一番楽しいのはこの待ってる時間かもしれないね。例えるなら、そう、料理に似ている。大きなお肉をじっくりオーブンで焼いている時、漂う香りに食欲を擽られながら、出来上がりの味を想像して唾が出るだろう? まさにあれだよ」

 

 うっとりと、恍惚に、忘我に。まるで自分へ「だから我慢の時なんだよ」と言い聞かせるように唇を動かし続ける。

 口の端から銀の糸が滴って、顎先から零れそうになった粘液をハンカチで拭った。

 

「さあ描けたぞ、私に怒りを滲ませて今にも食ってかからんばかりの君の姿を。義気の炎に燃える若き青年の勇気と気高さ……うん、我ながらよく表現できたと思うね」

 

 画架からキャンバスを持ち上げ、満足そうに頷いて脇に置く。

 真っ新な画布と交換したカースカンは、手持ちの道具でパレットと筆を一度洗った。

 

「あとは君の最期をこの純白に綴じれば、私の美がまたひとつ完成となる。帰りに少女の心臓を回収して仕事は終わりだ。出来ることなら彼女の絵もちゃんと描きたかったが……生憎私の手は二つしかないし、()()()()()()()()()()。気高く魔に立ち向かう彼女を直接拝められないのが至極残念でならないなぁ」

 

 空間拡張バッグからコンロを取り出し、火属性の魔石に魔力を流して着火する。

 ヤカンに水筒の水を注いで湯沸かし。最中、煎った豆の粉末を円錐形の紙パックに詰めながら沸騰を待った。

 

 湧いた湯をパックへ潜らせてカップに注ぐ。

 香り立ち昇る珈琲にゆっくりと口付けて、湯気と共に吐息を溶く。

 

「……ん? おやおや?」

 

 前かがみの姿勢。カースカンは食い入るようにヴィクターの絵を凝視した。

 疲労が限界に達したか、気力が尽きたか、それとも些細な判断ミスが招いたのか。

 理由は分からないが、善戦を繰り広げていたヴィクターが影人間に袋叩きにあっていた。

 

 血飛沫が舞っている。銀色模様の芝生を鮮血が彩り、親指程度の縮尺具合でもはっきりと分かるほど苦悶の表情に染まっていた。

 対集団戦において、一度悪化した戦況を単独で覆すことは至難を極める。

 森一帯を纏めて消し飛ばすような人智を越えた力でも持っていれば話は別だが、ヴィクターにはそれがない。

 

 這いずり回りながら弱々しく抵抗しているが、無駄だ。

 切り裂かれ、踏み躙られ、叩きつけられ、屈強な男がボロ雑巾のように蹂躙されている。

 

 思わずカースカンの手に力が入った。

 まるで佳境に入ったスポーツ観戦に熱の籠った檄を飛ばすように、「いけ、いけ、そこだ」と拳を振って影人間を応援している。

 

 しかし手負いの獣はなんとやら。常人ならばもはや立つことすら叶わない負傷の中で、ヴィクターは影人間を消滅させてしまう。

 

「おお、おおおおお、素晴らしい。これほど追い詰められながら何という生への執念。燃え盛る意志の光が強く輝けばこそ、尽きた時の暗澹もまた深みを増し幻想的な闇の美を演ずるというもの。天晴だ少年、君は逸材だよ。──んん? ほう! 少女も頑張っているじゃあないか」

 

 シャーロットの様子を伺えば、こちらも随分と白熱した展開になっていた。

 呪詛を喰らって悶え苦しみながらも岩陰へ逃れ、癒着したカプディタスの肉芽を削ぎ落し、辛苦の津波にのたうっている。

 痛みと恐怖に体が強張り、岩陰から動けなくなってしまった少女の姿に、カースカンは脊髄から電流が流れるような悦楽に身を抱かれた。

 

「嗚呼、至福よ。これぞ我が人生よ。実に実に実に素晴らしい。あああ、今すぐにでも君のもとに跳んでスケッチがしたい。それを許されないことが歯痒くて気が狂いそうだ。君がアーヴェントでさえなければ、魔剣(ダランディーバ)なんてものを使えなければ……」

 

 カースカンはエマと旧知の関係にある。ただし別に仲間でもなければ同僚でもなく、ましてや友人だとか肉親の縁があるわけでもない。

 ただシンプルに、命を失うことが多い裏稼業に浸かった身でありながら、長年生き残ってきたカースカンは、同じ世界に身を置くエマと情報や依頼を交える機会が多かっただけだ。

 

 今回の依頼を受けるにあたり、カースカンはシャーロットやヴィクターに関する概ねの情報を受け取っていた。

 ヴィクターのプロフィールはほとんど謎だらけだったものの、シャーロットについては詳細なデータがあった。

 最も目を惹いたのが、魔剣ダランディーバに関する情報だ。

 

「少年の腕と違って、()()()()()()()()()()()()()()。刻印の力を打破する可能性を秘めている以上、直接会うことが出来ないのは残念だ。……ん?」

 

 流動する絵の戦況に眉をひそめる。

 心折れたように項垂れていた少女が再び立ちあがり、カプディタスへ勇猛果敢に魔剣を突き付けていたからだ。

 

 少女の逆襲が始まった。

 数多の魔法を駆使し、縦横無尽に森を舞って強大な魔物を相手取る血濡れの少女。

 

 一際強烈なオレンジの光明が瞬いたかと思えば、カプディタスがあっと言う間に業火へ呑み込まれて。

 次の瞬間、純黒の極大魔法が魔物を森ごと葬り去ってしまった。

 

 沈黙、数泊。

 

「……参ったな、カプディタスに勝つか。森中のコロポックルを食わせて太らせていたんだが……流石はアーヴェント。魔滅の騎士の末裔といったところかな」

 

 目を細めて頬を掻く。

 焦りは無い。が、少しばかり急を要する事態になったなと吐息。

 

「幸い二人とも満身創痍。少年はもう一歩も動けない。優先すべきは厄介なアーヴェントのほうだ。影を送ってとどめを……いや、ダメだな。この少女はまだ空間の異変に気付いていない。魔法や刻印の知識に明るい彼女なら、影を送れば私の存在と刻印のタネを察するだろう。それは駄目だ。今の優位性を自ら手放すことになってしまう」

 

 エマの情報が正しければ、カースカンはシャーロットと非常に相性が悪い。

 理論上、絶対の自信を持つ『絵儡の刻印』を破られる可能性を秘めた唯一の人間である。

 

 出来るだけ存在を露見させず、能力の片鱗も悟らせたくないのだ。

 だからこそ、直接顔を見せたのはヴィクター独りの時だけだった 

 

 しかしどちらにせよ、勘付かれるのは時間の問題ではある。

 重要なのはタイミングだ。カプディタスの核にとどめを刺したら、シャーロットはまずヴィクターの援護に向かうだろう。

 

 救護されればせっかく瀕死に追い込んだヴィクターが復活してしまう。

 おまけに異空間の絡繰りに気付かれてしまえば、カースカンは二人同時に相手取らなくてはならなくなる。

 

「手負いとはいえ、二対一は避けたいな。特にアーヴェントはまずい。カプディタスを葬った実力者に油断は禁物だ。であれば、まずは少年を始末して確実なる安全を得るとしようか」

 

 筆とパレットを手に取って、最後の影人間を仕向けんとヴィクターの絵に目を滑らせた。

 だが、彼の姿はどこにもなく。

  

「……隠れた? ああ、なるほど。()()()()()()()

 

 取った筆とパレットを傍らへ戻しながら、カースカンは口髭を摘まんで形を整えた。

 絵に近づいて手を伸ばす。

 指が触れないよう少しだけ浮かせて、ヴィクターの痕跡らしき、森の奥へと続く血塗られた銀の草原をなぞっていく。

 

「影が現れるタイミングの違いで私の死角に気付いたか。フフ、鋭いな。若いと頭が柔らかくて羨ましいよ。私は独り言を喋り続けないと脳ミソが回らないというのに」

 

 命からがら逃げ延びている──だけとは考えない。楽観的思考はしない。

 影を撃退し続けていたヴィクターの立ち回りが、途中から明らかに変わったのを見ていたからだ。

 

 間違いない。あれは死角を探っていた。

 影人間を倒しながら、どの木の陰に隠れれば追加で現れないのか。それを確かめつつ監視網の穴を計っていたのだろう。

 

 聞けば、ヴィクターという男は義気に猛る熱血漢染みた性格とは裏腹に極めて冷静な男であり、異常なまでの闘争心と精神力を秘めた人物だという。

 瀕死の重傷を負ってなおエマの喉笛へ喰らいつき、エマから勝ち星を捥ぎ取った経緯は本人から耳にしていた。

 

 息の根を止めたと確認するその時まで、ヴィクターは反撃の機会を伺っていると考えておいて損は無い。

 であればわざわざ死角を探り、身を潜めた理由はひとつしかない。

 

「狙っているね。感じるよ、君の思考の息遣いを。私が直接絵の中に入ってくる瞬間を待っているんだろう? フフフ」

 

 ──思考を巡らす。

 

「君は……そう、信じているんだ。()()()()()。少女が魔物に勝てばすかさず援護に来てくれる。アーヴェントの力があれば、このピンチを切り抜けられる算段がある。ゆえに私は少女か君のどちらか一方を迅速に倒さねばならない。そして狩人は、まず深手を負った獣から仕留めに来る。つまり、身動きの取れない自分を狙いに来るだろうと」

 

 慌てず、ゆっくりと。ボードゲームの駒をひとつひとつ、頭の中で詰めていくように。

 

「そうか……君ときたら、わざと袋叩きにあったね? 変だと思ったんだ。あれほどの影を退けてきた君が、いきなり滅多打ちにされ始めたんだから。初めは体力の限界が来たんだろうと思ったが、なるほど。私の注目を少女へ向けないようにするためか。ッフフフ、まったく随分と体を張る。いじらしいじゃあないか」

 

 皺の刻まれた頬が吊り上がる。

 夜に腰かける三日月のように、満面と引き裂かれていく。

 

「どれほど重傷を負ったように見せかけても、隠れれば君の生死は不明瞭なままだ。だから慎重な私は直接確認せねばならなくなる。……ひとつ分からないな。隠れ潜んだ君を探し出せる刺客を放たれるとは思わなかったのか? あの魔物のように──」

 

 言いかけて、閃く。

 

「……ああ、何度隠れても死角に追撃が来なかったところから、私の干渉に限界があることを見抜いたんだね。落ち葉に姿を投影して遠隔操作できるのに、わざわざ影に襲わせていたところも理解に拍車をかけてしまったな。私の失態だ、これは」

 

 星の刻印は強力無比な異能力だ。しかし完全無欠ではない。

 如何なる力であろうとも、長所と短所は表裏一体として存在する。

 『絵儡の刻印』の場合、封じ込める規模と反比例して干渉能力が弱まるのだ。

 

 少しばかりの範囲を封じるだけだったなら、ヴィクターを地の果てまで追跡する猟犬や森ごと粉砕するような巨人型の怪物も放てていただろう。

 しかし今回はカプディタスがいる。封印にリソースを割かなければならない理由がある。

 

 魔物という禁忌を扱う上で最も重要なのは逃がさないことだ。

 もし魔物の使用など露見しようものなら、騎士団に首を狙われるのはカースカンである。

 

 そうなれば本末転倒だ。制御術式で多少のコントロールが利くとはいえ、万が一でも逸走を避けるために、広範囲の森を絵に閉じ込めねばならなかった。

 

「その通りだ少年。今の私にこれ以上絵の外から干渉する力はない。隠れた君を迅速に始末するには、直接絵の中に入らなくてはならない」

 

 つぷ、と。 

 絵画を水面とするように、カースカンの指先が絵の中に入り込んで。

 

「だが勘違いするな少年よ。これは君の思惑通りに動いているわけではない。アーヴェントの姫君に急を要され、干渉能力へ枷を嵌められたがゆえに同じ土俵へ立つのではない。どのみち私はこうしていたさ。これはプライドの問題なんだ。私は必ず、獲物の死を自分の目で見届けると決めているのでね。……最も新鮮で、星屑のように刹那を瞬く、美の輝きを焼きつけるためには、多少の危険も已む無しだよ」

 

 カースカンは、そのまま身を落とすように絵の世界へと侵入した。

 

 

 現世とまるで変わらぬ原風景。

 しかし命の息吹を肌に感じない静寂の渦中は、ボイラーツリーのジリジリとした熱波を忘れそうなほどの寒冷を孕んでいる。

 

 銀毛の草原に男は立った。

 空を仰ぎ、鬱蒼とした天蓋を眺め、深く息を吸って、森の清涼を肺に取り込みながら視線を落とす。

 

 樹海の深奥へ点々と続く赤の篆刻。

 カースカンは葉に付着した血痕へ指を這わせ、乾燥した血糊を(こそ)ぎ取って磨り潰した。

 

「かなりの出血だね。君の身長とおおよその体重から考えて……満足に体を動かせる負傷具合でないのは確実だな」

 

 指の腹に残った血の残り粕を舐めとると、カースカンは杖を突きながらゆっくり痕跡を辿っていく。 

 奥へ、奥へと進む。血痕は途絶えることなく連続しており、深手を負っているという事実が色濃くなっていくのを実感した。

 

 やがて、大木に凭れかかった人影が、薄暗い森の中で映えてくる。

 

「やぁ、少年」

 

 不気味なほど気さくにカースカンは声を投げた。ついでに軽く手も振ってみる。

 返答もリアクションもない。全身を血と泥に染め上げられたヴィクターは、力尽きたように項垂れて浅い呼吸を繰り返している。

 

 しかしその両目だけは、常にカースカンを中心へと据えていた。

 

「随分と派手にやられたね。息も絶え絶えとはまさにこのこと」

「カー……ス……カン……」

「だが感動したよ。君の闘志は未だ衰えていないらしい」

 

 ピクッ、と。力なく落ちていたヴィクターの手がほんの少し動いたのをカースカンは見逃さなかった。 

 

 流れるような所作で懐から物体を投擲する。それは寸分の狂いもなく一直線にヴィクターの右胸目掛けて突き刺さり、苦痛の喘ぎと共に血潮を吹き出させた。

 ナイフだ。研ぎ澄まされた銀刃が、ヴィクターの胸に食い込んでいた。

 

「む? 心臓を外したか。はぁ……私も年だね。パワー不足で内臓まで届かないとは、寄る年波には敵わないなぁ」

「げふっ、ご、ぼっ……!」

「さておき、何を企んでいるかは知らないが近づかないし生かさないよ。()()()()()()()()()()()()から期待しなくていい」

「──!」

「君はここで死ぬんだ。絶対にね」

 

 カースカンがスケッチブックと筆を取り出し、パラパラと適当な白紙を選んでいく。

 絵画の世界に飛び込んだ今、干渉能力の枷から解放されたカースカンに生み出せないものは何もない。

 刻印の力で産み落とされる『生きたキャラクター』は、カースカンの設定に従うままヴィクターの命を食い殺すだろう。

 

 手始めに首を食い千切るほど屈強な猛犬を──と、筆を走らせたカースカンは、全体像のラフを描き上げたところで手を止めた。

 

「…………」

 

 見回す。

 その場からは動かず、首だけを回して辺りを見る。

 

 一点。傍の木の樹皮が、ほんの少しだけ浮いていることに気がついた。

 杖で捲れば、明らかに自然のモノではない術符が巧妙に仕込まれていて。

 

「ふむ。対魔獣用トラップを改造したものか。近くで魔法を使うと発動するタイプだね。術式からして炎魔法かな?」

「ッ……!!」

「フフ。よく見たらあちこちの木に傷がついているじゃあないか。ボイラーツリーの樹液は強力な燃料だから、もし私が魔法を使おうものなら一瞬で火だるまになっていたワケだ。やはり君自身が釣り餌だったな」

 

 瞬間。ヴィクターが飛び掛かるよりも早く、ほくそ笑む芸術家は奪い取った術符に魔力を込めた。

 火炎が芽吹く。強制発動された術符から劫火の大蛇が唸りを上げて解き放たれ、あっと言う間にヴィクターを丸呑みにした。

 

「がッッあああああああああああああああああああッ!? うォォああああああああああああッ!?」

「礼を言うよ少年。おかげで余計な絵を描く手間が省けた。代わりに君の最期を、じっくりと描くことが出来そうだ」

 

 紅蓮に包まれ、ヴィクターは森を転がり回る。

 だが火の勢いは凄まじく、まるで衰えることはない。

 絶叫が樹々の間を走り去った。灼熱に身を食い潰されゆく想像を絶するほどの激痛に、抵抗も許されず悲鳴を上げる。

 

 火は消えない。手立てはない。

 足掻けど藻掻けど、万事休すは覆らず。

 灼熱に身を食い潰されたヴィクターは、炎に抱かれながら倒れ伏した。

 

「……嗚呼、なんと美しい。眩い正義を胸に抱く善良な少年が、念願果たせず無念の灰と散ってしまった」

 

 バチバチと。バチバチと。火花散る。

 男の体を薪にして、炎熱が勇ましく燃え上がる。

 

「おおおお、リビドーが込み上がってくるぞ。これぞ至福の極みよ。止まらぬ筆が白亜の紙面へ美を刻みゆくこの瞬間が、私に生の潤いを与えてくれる」

 

 忙しなく走り続ける男の手。

 筆先が紙を疾駆する響音だけが、森の中で許されるただひとつの奏楽となった。

 

「聞くに焼死とは、そのほとんどが大量の煙を吸い込んだことによる窒息が直接的な原因らしい。しかし君は全身を丸焼きにされて息絶えた。体が燃えていく苦痛は想像を絶するというが、少年はどんな表情で死出の旅に出たのかな? きちんと顔を見せておくれ」

 

 ヴィクターの死に顔を拝もうと、腰をかがめながら闊歩して。

 

「────?」

 

 須臾。カースカンは困惑に目を細める。

 乾いた小枝が圧し折れたような感触がブーツから伝わって来たかと思えば、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「な、何ッ!?」

 

 理解不能が絶叫となって雷鳴のように轟いた。

 手に持っていたはずの杖が()()()横たわっている姿に目を剥き、カースカンは首を上げる。

 

 右足首。重力に反逆し、カースカンを縛り上げた逆賊の正体がそこにあった。

 ツルだ。木のツルだった。親指ほどの太さながら頑丈で、大の男一人を宙吊りにしても何ら苦を見せない天然のロープが、カースカンの自由を奪い去っていたのである。

 

(なんだこれは、いつの間に絡みついた!? ……まさかあの小枝を踏んだ感触、獣用のくくり罠か!?)

 

 構造は至極単純。よくしなる柔軟な枝へロープを巻き付け、それを地面に突き立てた杭と結び、起爆用の枝を組み合わせることで完成する狩猟目的のトラップである。

 枝を踏み抜くと仕掛けられたロープに足を絡め取られ、バネの如く跳ね上がる支柱の力で吊るされてしまうというものだった。

 

(馬鹿な、こんな初歩的な小細工を見抜けないはずがない! 何故気付かなかったんだ!?)

 

 未曽有が理解を飛び越えた。思考回路が混乱というバグに冒される錯覚があった。

 樹皮の裏に隠された術符を看破するほどの洞察力を持つカースカンが、獣しか引っ掛かる余地のないアナログな仕掛けに翻弄された事実を、まともに直視できなかったのだ。

 

 けれど。

 その答えは、己の足首に燦然と輝いていて。

 

「認識阻害の術符、だと!?」

 

 貼り付けた物体の存在解像度を低下させ、路傍に転がる石ころのように意識の外へ追い出させる初歩的な隠蔽魔法。

 罠が発動したために効力を失った紙切れが、森を彩るどんな紅葉よりも色濃く瞳に映り込んだ。

 

 途端にカースカンの混乱が加速した。

 この魔法は、あくまで()()()()()()()()()程度の下位術式でしかなかったからだ。

 

 観察眼に優れた者であれば肉眼でも見抜くことは容易い。

 ましてや弓状にしなる枝に括り付けられたロープが地面を這っていれば、赤子だろうと嫌でも目に付く。見逃す道理はどこにもない。

 

 それこそ、罠より遥かに存在感を放つものが注意を惹かなければなんの意味も、

 

「……………………………罠より存在感を放つ?」

 

 気付く。

 気付かされる。

 

「君は、まさか、冗談だろう?」

 

 銀の草原に点々と残された、居場所を伝える血痕の道しるべ。

 行きつく先に力なく項垂れる、血と泥まみれの満身創痍の男。

 樹皮の裏に隠された、逆転を匂わせる炎魔法の術符。

 それを逆手に炎を浴びせられた少年は、もがき苦しみながらこと切れた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ミスディレクションだったとでも言うつもりか……!? 自分が燃やされることさえも含めてッ!?」

 

 

 ──ザリ、と。

 強く、強く、草地を踏みしめる軍靴の音色。

 幽鬼のようにゆらりと立つ、燃え尽きたはずの男の影。

 

 

 その瞳は。漆黒の瞳は。

 ただ一心に、吊られた男をじっと見つめていた。

 

「馬鹿な、あれだけの炎を浴びて生きていられるはずがッ!?」

「……ああそうさ。丸ごと暖炉にぶっこまれた気分だったよ。お陰でお気に入りの一張羅が真っ黒焦げだぜ。ったく、全身ヒリヒリしてたまったもんじゃねえ。こいつが無けりゃとっくにあの世行きだった」

 

 襤褸と化した上着をヴィクターはおもむろに脱ぎ捨てた。

 服の下からハラハラと舞い落ちる、きめ細やかな銀灰色のナニカ。

 

「俺が一番怖かったのはな、カースカン。燃やされることじゃねえ。影人間から滅多刺しにされることでもねえ。シャロが魔物に負けてしまうか、お前が俺を無視してシャロを狙いに行くか。ただそれだけが怖かった」

 

 葉だ。植物の葉を纏めた束だった。

 それは黄昏の森に自生する固有の植物群。

 辺り一面に繁茂する、耐燃焼能力に優れた天然の防火剤である。

 

 ヴィクターは無数の下草を服へ詰め込み、守れない頭部を濡れた泥の被膜でカバーすることで、業炎を絶え凌いだのだ。

 

「ダランディーバなら──いいや、シャロならこの意味不明な空間を抜け出せる可能性は十分にあるからな。お前が俺に近づこうとしなくても、シャロと合流しさえすれば勝ち目は十二分だった。最悪なのはお前がシャロを殺して、俺をボイラーツリーの蒸気で蒸し焼きにする戦法をとることだ。それをされちゃあ、マジで打つ手が無かったんだよ」

「くッ!!」

「シャロが生きてるか! お前が俺と同じ空間に入ってくるか! ひとつでいい! ひとつ達成すればそれでいい! ああ信じてたぜ、シャロが魔物に勝ってくれることを!! テメエが必ず俺の死を見届けにくることを!! 賭けに勝ったのは俺だッ! 俺を選んだ時点でテメエの負けだッ!!」

 

 咆哮一迅、紫電一閃。

 羅刹と化した男が雄叫びを連れて肉迫する。

 

 カースカンは吊られた衝撃で手放してしまった杖に向かって腕を伸ばした。

 間一髪の瀬戸際でグリップに指先が引っ掛かる。

 抜刀。それは杖状の仕込み刀。スラリと音を裂いて露わになった銀刃を、カースカンは己が足に絡みつくツルへ向けて全力で振る舞った。

 

「!?」

 

 しかし。

 まるで金属同士が激突したかのような高周波が耳奥へ突き刺さったかと思えば、ただの木のツル如きに曇りなく研がれた一刀を弾かれてしまう。

 

 否。ただのツルではない。

 この拘束具に薄く覆い被さるベールのような魔力の膜は、対象物の強度を飛躍的に底上げする強化魔法に他ならず。

 

「『防護魔法(プロテゴ)』かッ……!!」

 

 ギチッ、と。そよ風のように頬を掻く軋み音。

 それは五指を圧する鉄拳の遠雷。捻られた腰に全体重を積載し、極限まで引き絞られゆく純黒の剛腕。

 握り固められた憤怒の巌が、カースカンの視界を占領した。

 

「────刻印よ、私を外へ解放しろ」

 

 だがしかし、悪辣なる芸術家は耐えようにも耐え切れんと唇を歪ませ、満面に喜色を蔓延らせた。

 その拍子だった。ヴィクターの拳がカースカンの顔面を捉える寸前で、カースカンの背後から液体とも気体ともつかない不鮮明な膜が現れ、彼を連れ去ってしまったのだ。

 

「危なかったよ。まさかあそこまで体を張ってこの私を騙そうとするとは、中々にクレイジーな奴だ君は。正直に言うと、吊り上げられた時は流石に肝を冷やしたな」

 

 ヴィクターは直感で理解した。

 

 男の左手に輝くエマのものと酷似した紋章は間違いなく星の刻印で。それがこの異空間の元凶で。

 光に呼応して現れた半透明の被膜のようなソレは、現実世界へカースカンを連れ戻すためにこじ開けられた、次元の裂け目のようなものなのだと。

 

「だがね少年、私はプロだ。ピンチに陥った時のために逃げ道を用意しておくのは定石なんだよ。君が私を追い詰める可能性を考えなかったとでも? 不測の事態に対応する術も何も無く、能天気にノコノコと君の土俵へ立ったとでも思ったのかい?」

 

 裂け目は強化されたツルをまるで剃刀のように断ち切ると、カースカンへ自由を与えたばかりか、現実世界へ続くたった一つの通り道を、ヴィクターを置き去りにして収縮し始めてしまう。

 

「君の精神力は認めよう。しかし勝ったのは私だ。賭けなんかじゃあない。私の力が君の小細工を上回っていただけ────」

「おおおおおおおおおおああああああああああああああああァ──────―ッッ!!」

「────―!? なッ!?」

 

 刹那。信じられない事態が巻き起こった。

 

 裂け目が完全に閉じる、ほんの一秒足らずの直前だった。ヴィクターの腕が裂け目の間へ割り込むように次元の被膜を突き破って現れ、腹の底から震えるほどの筆舌に尽くしがたい破壊音を奏でながら、無理やり異空間をこじ開け始めたのだ。

 

「何をやっているんだ君はッ!? 素手で次元の断層をこじ開けるなど、馬鹿なッ!?」

「ぎ、づ、づ……!! 影人間をぶっ飛ばした時、お前言ってたよなぁ……!! ()()()()()()()()()()()って、俺に教えてくれたよなぁぁ────ッ!!」

 

 裂け目が開いていく。

 無理やり引き裂かれゆく次元断層の凄絶な悲鳴と共に、穴が確実に広がっていく。

 

「俺ァ頭悪いからよーッ! 万物干渉だの独裁の権能だのいまいちピンと来なかったんだが、お前のお陰でようやく腕の力に合点がいったぜ! この腕は俺が触れたいモンに触れることが出来る腕なんだ! 空気でも、炎でも、影でも! 異空間の裂け目とやらでもぉぉッ!!」

「ッ!!」

 

 カースカンは裂け目を閉じんと刻印の出力を爆発させた。

 だが常軌を逸した膂力を前に相殺され、着実に脱出経路が育まれてしまう。

 男の額に、初めて冷たい汗が流れ落ちた。

 

「言っただろ!? 俺と同じ空間に入った時点でッ!! テメエの敗けは決まってんだ!!」

「いいや違うね、未だ風が吹いているのは私の方さ」

 

 もはや抑えきれないと判断した芸術家は、刻印の力を一息に解除した。

 抵抗を失った裂け目は完全にこじ開けられ、ヴィクターを現実世界へ招待する。

 カースカンは構わず後方へ跳びながら、大きく指を打ち鳴らした。

 

「我が勝利は揺るがない。何故なら君は善性なる心優しき人間だからだ」

 

 魔法の信管を打ち抜く合図に呼応して、草叢が激しく揺れ動いた。

 後ろへ後ろへと退避するカースカンへの行く手を塞ぐように現れたのは、額に奇怪な虫型のブローチのようなものを埋め込まれた小人(コロポックル)たちで。

 ヴィクターは龍颯爆裂拳を構えた腕を反射的に降ろし、思わず硬直してしまう。

 

「あぅ、ぅ」

「たすけて。誰か」

「ッ……!! カ―スカァァァンッッ!!」

 

 意識はある。生きている。

 しかし何らかの魔法で隷属されられているのか、体の自由を奪われていた。

 

 万が一のために傍の茂みへ潜ませていたのだろう。だが小人(コロポックル)の戦闘能力は皆無に等しい。戦力としてはまるで宛てにならない。

 けれど。

 

「殴れないだろう? 君に宿る義の心はこのか弱い盾に危害を加えることを許さない。だから私を取り逃がすのさ」

 

 ただカースカンを逃がすためだけに用意された、足止めとしての捨て駒だ。

 操り人形のように走り出す小人(コロポックル)。額に食い込むブローチが赤々と発光を始めていた。

 心臓が引き絞られるような胸騒ぎが、ヴィクターへと襲い掛かる。

 

「さぁ仕切り直しといこうか。君をまた絵に閉じ込めて、今度は徹底的に君が死ぬまで甚振り続けよう」

 

 首元からネックレスを取り出し、握り締めて魔力を込める。

 それは小型の緊急座標移動装置(テレポーター)。エマが使ったものより性能は劣るが、森の中を跳躍(ジャンプ)する程度なら造作も無い代物だ。

 

「ほらどうした。追いつきたいなら今しかないぞ。君のパワーで殴れば死んでしまうかもしれないが、コロポックルたちを倒せばまだ間に合うかもな。もっとも、君がやらずともその子たちは全員破裂して死ぬがね」

 

 空間跳躍まで残り10秒。

 魔力の瞬きが、時を追うごとに間隔を狭めていく。

 

「さらばだ少年。君は我が美の中で永遠に生き続けると約束しよう」

 

 目から口にかけて影のように暗い冷笑が広がって、カースカンは飛んだ。

 

 ──テレポーターによる座標移動ではない。

 

 顔が引き千切れんばかりの猛烈なインパクトが突き刺さり、恐るべき威力に蹂躙されるまま玩具のように吹っ飛んだのだ。

 

「ばッッ!!? あがはッッッ!?」

 

 柔らかな地面を二度も跳ね返され、大木に衝突して勢いが止まる。

 頭から爪先まで一瞬にして侵略した狂瀾怒濤の激痛が、声にならない悲鳴を絞った。

 海老反りになってもんどり打つ。肺から漏れた喀血を噴き出すと、折られた前歯が草葉の上を転がった。

 

「ぐぁああああああッッ……!!? なん、なんだ、何がッ……!?」

 

 立ち上がろうとして、力を入れた腕が滑り抜けて顔から大地に衝突した。

 重機のような力で顎を砕かれていた。伝播した衝撃が脳を揺らし、平衡感覚を滅茶苦茶に破壊されている。

 

 まともに立つことすら叶わない。生まれたての小鹿にも劣る脆弱さで、カースカンは何度も何度も大地と接吻を交えてしまう。

 

「ばはっ、ばかな、がぼっ、そんなはずはない、()()()()()()()()()()……!! きき、きみは、正義の人間だろう……!? こぉっ、コロポックルたちを見捨てて、私を追うことなんて出来るはずがッ……!!」

 

 ヴィクターは間違いなく善道を往く人間だ。 

 悪を許さず、非道を認めない、眩いばかりの義気を携えた人間だ。

 ゆえに人質を無下には出来ない。助けを請う弱者を足蹴にすることなど不可能である。

 

 そのはずだ。そのはずなのに。 

 ヴィクターは何の躊躇もなく纏わりついた小人(コロポックル)たちを殴り倒し、カースカンへ一瞬にして肉薄、その拳をもってテレポーターごと顎骨を叩き割っただなんて。

 

「お前のお陰だよ、カースカン。お前がこの腕の力を教えてくれなきゃ、危うく逃がしちまうところだった」

 

 這いつくばるカースカンを見下ろすように仁王立ったヴィクターが、ナニカをカースカンの目の前に放り投げた。

 粉々に粉砕された虫型のブローチの亡骸だった。

 

 それは囚われた小人(コロポックル)たち全員の隷属具のみを破壊したという、暗黙の答えに他ならず。

 

「あぁ、あり、えん、ありえん!! そぉっ、ごぶっ、それは脳に直接干渉して自由を奪う魔道具だぞ……!? ごぉっ、ゴーレムのように精密に引き抜かなければっ、絶対に死は免れられない! あの一瞬で、出来るわけがないッ!!」

「そうだと思ったぜ。()()()()()()()()()()()()()()

「な、に?」

 

 言っていることがまるで理解出来なかった。

 カースカンの持つ常識のどれにも当てはまらない返答は、掻き混ぜられた脳漿へさらに混乱という渦潮をもたらして。

 

「俺の腕は触れたいものなら何だって触れることが出来る。それをお前が教えてくれた。だからちょいと考えたんだ。俺の意思で触れるものを決められるなら、触れたくないものは逆にすり抜けるんじゃねーかって……()()()()()ってのはそういうことなんじゃねーかってよ」

「ッ……!!?」

「一か八かの賭けだったが大成功だ。コロポックルは誰一人傷ついちゃいねぇさ」

 

 純黒の腕に宿す万物干渉の異能。

 それは触れ得ざるものへ関わることを可能とするだけの能力ではない。

 そも、黒魔力の本質は一方的な独裁の権能。思うが儘に自然法則に手を触れることを可能とするそれは、逆に拒絶をも自在である。

 

 対象を正しく認識すれば、小人(コロポックル)を直接傷つけることなく魔道具のみを抽出し、破壊することすら可能となるのだ。

 

「き、みは、この土壇場でっ、賭けに出たというのか……!? 一歩間違えればコロポックルの命を奪っていたかもしれないのに!! き、君が私に向けた義の炎は、あの熱は、輝きはッ! 間違いなく本物だったはずだ!! 何故躊躇もなく手を下せたんだッ!?」

「放っておいてもどの道コロポックルたちは死んでたんだろ。迷う理由がねえ」

 

 

 その言葉には。

 カースカンが描いてきた『ヴィクター』という人物像と、なにか、決定的なまでに食い違う異物感が。

 

 

「それによォーッ! お前をここで逃がしちまえば、シャロだけじゃない、この先もっと大勢の人間が苦しむことになる。尚更迷えねえに決まってんじゃねえか!」

 

 

 清廉恪勤な人間だと思っていた。

 弱気を助け、強きを挫く。不当を拒み、悪を憎む正義の男なのだと。

 だからこそ優しさという名の甘えのために、逃れられぬ弱さも抱えた愚かで気高い男なのだと。

 

(私は……最初から見誤っていたのか……?)

 

 ヴィクターは間違いなく義理人情に厚い人間だ。

 人のために怒り、涙を流し、愛に報い、救われぬ者に手を差し伸べる、正しいと信じるもののために戦うことの出来る人間だ。

 

 けれど、それだけではない。断じて。

 それはヴィクターという人間の本質ではない。

 

「君は、君はっ」

 

 カースカンは生まれながらの邪悪だ。他者への慈しみを母の胎に忘れてきた生粋の外道だ。

 だからこそ、轟々と魂に燃え盛る勇猛な赤焔(せきえん)の影に、日輪すら凍り堕とさんばかりのナニカを視た。

 炎の如き男に潜む、如何な酷熱の炎天であろうと溶けることすら叶わない、絶対零度の怪物を。

 

「君はっ、正義の味方などではない!!」

 

 訣別の攻防が爆発した。

 カースカンは仕込み刀へ雷撃を付与。迅雷と化した一閃を見舞うと同時に、鎌鼬の如き風魔法を無尽蔵に展開、全方位を必殺で覆い尽くし、ヴィクターを細切れにせんと最後の力を振り絞った。

 

 激突。破壊。金属音。

 振り抜かれたヴィクターの拳が、雷撃の太刀に合わさるように(かね)の腹を穿ち砕いた雄叫びだった。

 

 叩き割られた刀が虚しく宙を舞う。

 しかし遅れて到来する疾風の刃が、次々とヴィクターの骨肉を抉り取った。

 出血の演舞を披露するヴィクターにカースカンは頬を緩めたが、転瞬、笑みが急転直下と凍り付いた。

 

「仕置きの時間だ、カースカン」

 

 止まらない。

 例え数多の凶刃がその命を食もうとも、男の拳は止まることを覚えない。

 

「言ったはずだぜッ!! 千発そのツラにぶちかますってなぁぁ────ッッ!!」

 

 刹那、砲弾に匹敵する拳が暴風雨と化し解き放たれた。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!! だァァァらッッッッッしゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ────────────────―ッッッッッ!!!!」

 

 百を超える鉄拳がカースカンの視神経を埋め尽くし、絶大な破壊が完膚なきまでに男の骨肉を蹂躙した。

 吹き飛ぶ暇すら与えない神速のラッシュは悉くを爆砕する破滅的な打撃音を連続させ、並外れた衝撃波を黄昏の森中に轟かせる。

 

 一際強く振りかぶる。(おおゆみ)の如くしなる、正真正銘最後の一撃。

 全身全霊を乗せて叩き込まれたそれは、カースカンに血潮の弧を描かせながら吹き飛ばし、大樹の幹へと激突させた。

 

 ──その時。血だまりの中に倒れ伏したカースカンを、熱を散らす光の華が一瞬にして包み込んだ。

 

 炎だった。紅蓮と咲き誇る炎だった。

 ボイラーツリーから樹液が偶然漏れ出していたのか。それとも衝突した拍子に何らかの形で引火したのか。

 

 ごうごうと揺らめく悪魔の舌のような炎体は、まるでカースカンに穢された森自身の怒りが、報復を成しているようにすら感じられた。

 

「おおおお、おおおおおおお……!!」

 

 木に手を伝い、樹液に火力を上塗られながらカースカンは立ち上がった。

 

「これが……終わり……我が(すい)の果て……私の……私という美の完成(まつろ)か……」

 

 苦痛に悶える様子は無い。

 まるで灼熱の炎に抱かれることを受け止めたかのように、ゆっくりと両手を広げながら、男は空を仰いでいた。

 

「ああ、描ける……傑作が描けるぞ……! 今まで描いたどんな作品にも勝る傑作が……降って来た……!」

 

 よろよろと男は歩く。

 ヴィクターには目もくれず、森を一望できる崖に向かって。

 その先に待つ無色のキャンバスまで。

 

 カースカンは燃える手にパレットと筆を持ち、顔料を一心不乱に塗りたくる。

 だが満足に絵筆を操れるわけもなく、辛うじて形を成しゆくそれは、落書きにも等しい乱雑な絵画で。

 しかしカースカンの瞳は、夢を追う子供のように輝いていた。

 

「見たまえ少年……! これが、これこそが美だ……! 私は──芸術は燃えている!」

 

 言葉を皮切りに、焼け焦げた男の黒炭が膝から崩れ落ちて動きを止めた。

 呪われた芸術家が遺した最期のアートは、己自身の末路を描いたものだった。



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25.「頂点到達者」

 星の刻印による支配が消滅し、絵儡の世界は人知れず崩壊を迎えた。

 隔絶された境界が泡沫と溶けゆく渦中に佇むヴィクターは、断崖から森を一望しながら息を吐く。

 

(さて。こっちは片付いたし、早くシャロと合流しねーと……と行きたいところだが、コロポックルたちをどうするかな)

 

 振り返る。

 カースカンの盾として利用されていた、4人の小人(コロポックル)たちが目に映る。

 寄せ集まって身を固め、濡れた子犬のように震えながら、涙で潤んだ瞳でヴィクターを見ていた。

 

(完全に怯えさせちまったな。無理もねえ。今の今までカースカンの野郎に奴隷扱いされてたうえ、不可抗力とはいえ俺から殴られたんだからな。怯えて当然だ)

 

 断っておくが、彼らに一切の負傷は無い。

 両の黒腕が秘める万物干渉の異能が、ヴィクターの望むままに接触対象の選別を可能とし、植え付けられた隷属の魔道具のみを木端微塵に粉砕したからである。

 

 だがしかし、彼らの視点からすれば、理由はどうあれヴィクターは急に攻撃してきた見ず知らずの人間だ。

 命の危険に晒され、人質に取られ、数日近く満足に食事もとれない極限状態に置かれていたことを鑑みれば、冷静な判断を求めるというほうが無理だろう。

 

 例えカースカンを倒した姿を目撃していたとしても、今の彼らはヴィクターの存在を易々と受け入れられるほど寛容な精神状態ではない。

 

(となりゃ、落ち着くまで付き合わないとな。焦りは禁物だ)

 

 背丈の高いヴィクターが立ったままでは威圧感を与えると考え、腰を落としてその場に座り込む。

 ヴィクターの一挙一動に、小人(コロッポックル)たちがビクッと震えた。

 中には恐怖に瞼を固く結び、仲間の胸に顔を埋めるように縮こまってしまった者もいる。

 

「すまん、さっきは怖がらせちまって悪かった。あの野郎から助けるためには、ああするしかなかったんだ」

 

 出来る限り優しくゆっくりとした声を心掛けながら、ヴィクターは深く頭を下げた。

 

「どうか怖がらないで欲しい。俺は敵じゃない。お前らに危害を加えるつもりは一切ない。難しいかもしれないが、信じてくれないか」

「…………」

「いや、信じなくてもいい。俺を疑っても良いから、とにかく話だけでも聞いてくれ。悪い奴は俺がぶっ倒した。生き残った仲間もいる」

「! 仲間?」

 

 クリクリと大きな目が、幽かに色を帯びて反応した。

 小人(コロポックル)は仲間意識の強い種族だ。同胞の生死は、強く関心を惹きつけられる情報だろう。

 

「待って。嘘かも」

「また騙されちゃう。酷いことされちゃう」

「あぅぅ、もう痛いのやだよぉ」

「でもこの人、悪い人間やっつけた」

「あの腕、王様の腕。英雄の腕。悪い人に見えない」

「んう……たしかに」

 

 ひそひそと話し合う声が聞こえる。信頼に値するかどうか審議中のようだ。

 ヴィクターは刺激しないよう動かず、彼らが納得いく答えを出すまで岩のように待ち続けた。

 

 沈黙の中で瞳を閉じ、そよ風が肌を撫でる感覚に身を委ねていると、「クロウデ」と呼ぶ声がして。

 

「クロウデ。痛いことしない?」

「ああ、もちろん。絶対しない」

「ほんとに? 嘘つかない?」

「誓って嘘はつかない。なんなら俺が仲間を連れて戻ってくるから、信じられるまで待っててもいいぞ」

 

 真っ直ぐと瞳を見て真摯に徹する。

 信じてくれることを願って、ヴィクターは小人(コロポックル)たちに判断を委ねる。

 

「……あなた、私たちのこと助けてくれた」

「怖かったけど、お陰で生きてる」

「もう痛くない。苦しくない」

「だからコロポックル、あなた信じる」

 

 ぷにぷにした子供のような手を差し伸べられて、ヴィクターは微笑みを返しながら受け取った。

 

「ありがとう、信じてくれて」

 

 嘘偽りの無い気持ちが伝わってくれたことに安堵を浮かべた。

 小人(コロポックル)たちの境遇を考えると、拒絶されたとして何ら不思議ではなかった。冷静に状況を分析してくれた優しき森の民に感謝を述べる。

 

「よっし! じゃあ仲間のところまで帰るか!」

「うん!」

「ところで、怪我とか大丈夫か? 少し距離があるからな。歩けない奴が居たら負ぶってやるぞ」

「私たちは大丈夫」

「でもこの子、足挫いちゃった」

「任せな。安心して乗っかってくれ」

「ありがとう、クロウデ」

 

 足を痛めた小人(コロポックル)の前にしゃがみこむ。

 よじよじと登ってきた小人(コロポックル)が落ちないようしっかりと支え、草地を踏みしめて歩き出す。

 

「クロウデ。どうして森に来たの?」

「友達の妹が病気でな。治すために世界樹の花蜜が必要で、そいつを探しに来たんだ」

「せかいじゅ?」

「あー、火山に生えてるドデカい木らしい。俺も見たことないからよく分かんねーんだけど」

「! 木の王様!」

「おやまに行くの?」

「おやま、ヌシのおうち。とても危ない」

 

 辰星火山がヴィクターの目的地であることを知った途端、小人(コロポックル)たちは目に見えて慌てふためき始めた。

 ヌシという言葉に首をひねるが、ダモラスが「世界樹は竜の巣だ」と忠告してきたことを思い出す。

 

(竜……竜か。とんでもない生き物らしいが、たしかにこんなボロボロで巣に殴り込むってのはキツイよなぁ)

 

 竜種。一概にドラゴンと称されるそれはこの世界における絶対強者の御名であり、遍く生命の王として君臨する星の頂点捕食者である。

 二対の肢に一対の翼を持つ現存する唯一の六足種族にして古代種であり、遥か太古の時代より生き永らえる伝説だ。

 

 一枚一枚が分厚い皇鋼(アダマント)に匹敵する鱗が重なって形成された甲殻は如何なる衝撃にも耐え、吐き堕とされる息吹は万物万象に滅亡を賜すという。

 竜種の絶大な力は、魔物の天敵として唯一定められるほど規格外に位置しているのだ。

 

 そんな怪物の巣へ、満身創痍に等しい体を引きずって向かおうなど。傍から見れば正気の沙汰ではない。

 

(まぁ、竜はわざわざちっぽけな下位存在を意に介することはないらしいし、テリトリーを荒らさなきゃ大丈夫だろ。多分)

 

 竜は強大な生物だ。しかも非常に高度な知性まで持ち合わせている。

 それゆえか絶対強者としての余裕のようなものが備わっており、武装した騎士団が縄張りに押し掛けたならいざ知らず、たった二人の人間がテリトリーへ足を踏み入れた程度では気にも留めないのだという。

 

 つまるところ、縄張りを荒らすことなく、礼儀正しく在れば大丈夫なはずだ。

 シャーロットの知識を信じて、ヴィクターは「大丈夫大丈夫。チョロッと行ってくるだけだからよ」と心配そうにする小人(コロポックル)に笑って安心させた。

 

 そうこうしていると、前方へシャーロットの姿が見えてきた。

 隠れ家に居た小人(コロポックル)たちと一緒に、パチパチと弾けて燃える大きな球状物体を眺めながら倒木へ腰かけている。

 

 距離が縮んで解像度が増してくると、何だか妙に赤い服を着ているなと思ったソレが夥しい血痕だと気が付いて、ヴィクターは顔を蒼褪めさせながら一目散に走り出した。

 

「シャロ!」

「あ、ヴィック。良かった、無事だったのね。丁度今から探しに行こうと思ってたのってどうしたのその怪我!?」

「お前すげー血塗れじゃねえか! 大丈夫かよ!? 血をバケツいっぱい被ったみたいになってんぞ!?」

「お腹も腕も裂けちゃってるし全身火傷したみたいに真っ赤っ赤だし上着ないし! 何があったのよ!」

 

 互いに互いを案ずる威勢の良い声が重なって、一拍の静寂が訪れた。

 見た目ほど酷くはなさそうだなと、妙に可笑しくなって二人揃えて笑みを零す。

 

 ひとまずヴィクターの背にしがみ付いていた小人(コロポックル)の足に応急処置を施して、ようやく一息。

 

「派手にやられたな。相当ヤバかったのか?」

「は? 余裕だし。ちょっと転んだだけだし」

「自分が死んだことをわかってない亡者みたいな見た目で何を」

「それを言うならあなたもよ! 何この切り傷と火傷? 髪もチリチリになってるじゃない」

「大丈夫だ唾つけとけば治る」

「口なら千年果花でも垂れてんの?」

 

 言いながら、シャーロットはポーチから水入れや無色透明の液体が入った瓶と、清潔感あるパッケージされた針や糸、脱脂綿を手早く取り出した。

 ヴィクターは活け造りを目前にした魚の如く真顔になった。

 

「あの。シャーロットさんそれは? まさかだよな? いやまさかですよね?」

「はいちょっと痛いからお目目閉じててくださいねー」

「やっぱ縫う気かよ! ここで!? お前が!?」

「安心して。道具もちゃんと殺菌処理してる医療用のやつだし、技術もエマに教わって、痕ほとんど残らないくらい出来るのよ。魔剣の練習に失敗しちゃって自分の体縫ったこともあるんだから」

 

 ほら、とシャーロットはズボンを少しだけ捲ってふくらはぎの一部を見せた。

 言われてみれば確かに、縫い痕のようなものがうっすらとだが伺える。

 が、それも言われなければ分からない程度のモノで、これを自分で施したのであれば相応の技量を持っているという発言に嘘はないのだろう。

 

 が、それはそれ。ヴィクターは滝のように汗を流し引き攣った笑みを浮かべ目を泳がせながらズザザザッと後ずさった。

 

「いやっでもっ治癒の魔法とかっ」

「あんまり治癒魔法得意じゃないの。私クスリ飲んだらすぐ治っちゃうし、アレって人体に深い知識と理解がなきゃ出来ないから。さぁさぁ、傷開きっぱなしだとばい菌入っちゃうから早く処置しましょ。というかこんなバックリいってても平気なのに何で縫うのは嫌なのよ」

「いや~~なんつ~~かな~~怪我とか痛みは気にならないんだけど縫ったり注射したりとかはすげ~~嫌なんだよな~~~っ!!」

「つべこべ言わない! 我慢なさい!」

「んぎゃ──っ!!」

 

 消毒剤と治癒の水薬を含んだ綿を傷口に押し当てられ、ヴィクターは沁み込んでくる激痛に絶叫した。

 チクチク丁寧に縫われていく。かつて骨ごと腕を潰されようが雷に貫かれようがまるで怯まなかった男が、瞼をぎゅっと閉じて震えている姿がなんとも奇妙で、シャーロットは思わず声を殺すようにくっくっと笑った。

 

 縫い終わった傷に治癒力促進剤を再びかける。

 ここまでぴったり閉じておけば、再生能力の低い基人(ヒューム)でも短時間で完全に癒着するはずだ。

 

「はい終わり。よく頑張りました」

「うっうっ……今までで一番怖かった……」

「なに子供みたいにメソメソしてんのよ。ほら、次は火傷の治療!」

「まだやるんですか!?」

「やるに決まってるでしょ。背中とかまるで火を被ったみたいじゃない。あなたヒュームなんだから無茶し過ぎるとほんと死ぬわよ」

 

 本当に火を被ったせいなのだが、それを言うと怒られそうな気がしてきたので大人しく縮こまることにした。

 そういえばシャーロットの怪我は大丈夫なのかと思ったが、どうやらすでに治療済みらしい。血の跡はスプラッタレベルだが、見たところ傷のようなものは見受けられなかった。

 

 背中から覆い被さるような冷感。氷結魔法(グラキアス)だ。患部を冷ましているらしい。

 最後に薬を塗られて、ようやく応急処置が一段落した。

 

「ああ、お嬢ちゃんありがとうねぇ」

「恐怖のあまりシワシワに老けてる……」

 

 公園のベンチで日光浴しながらヨボヨボ震えてそうな老人と化したヴィクターは捨て置き、シャーロットは仲間と再会の喜びを分かつ小人(コロポックル)たちへと目を遣った。

 

「生きてた。生きてた」

「よかった。本当によかった」

「あぅぅ、怖かった」

「もう安心。穢れは祓われた」

「二人が助けてくれた」

「感謝。感謝」

 

 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、あるいは互いに抱き合いながら、精いっぱいの歓喜を露わにする小さな住人たち。

 

 カプディタスにとどめを刺してからしばらくの後、森全体の空間に異変が生じたのをシャーロットは察知していた。

 異変というより、澱みが消えたとでも言うべきか。まるで密閉されていた容器に穴があけられ、新鮮な空気が流れ込んできたような感覚だった。

 

 直感で理解した。ヴィクターが魔物使いの撃破に成功したのだろうと。

 すぐに魔力痕を解析すれば、大規模な空間魔法らしき術式が失活した名残を感知し、勘が確信へ変わったことで、一先ず小人(コロポックル)を避難所から呼んでいたのである。

 

「足の具合は大丈夫?」

「うん。ありがとう王の血」

「どういたしまして。……その、あなたたちはこれからどうするの?」

 

 問いかけに、言葉を詰まらせる小人(コロポックル)たち。

 互いに顔を見合わせている。表情は行き場の無い混迷に染まっていた。

 暗い面持ちでうつむきながら、ぽつりぽつりと言葉を漏らす。

 

「もうこの森には住めない」

「森が怒ってる。私たちを穢れだと思ってる」

「別の場所にいく。住める場所探す」

 

 ──この世界における人類の定義とは、言語を介し文明的で社会的な生活を営む二足歩行動物である。

 定義的に小人(コロポックル)は人類種とされているが、生物学的には人間より妖精に近い存在だ。

 

 様々な違いはあれど、大きな相違点は食生活にある。

 

 彼らにとって重要なエネルギーの大部分は魔力なのだ。

 地殻を這う冥脈より大地へと還元されたマナの余剰分を吸収し、代謝、希釈して放散することで、生命活動に必要なエネルギーを得つつ、周囲環境の魔力飽和を防ぐ役割を持っている。

 

 ゆえに、物質的な食事は最低限しか要しない。

 シャーロットたちが訪れるまで数日近く不眠不休の絶食状態でも耐えられたのはこれが理由だ。

 

 彼らはその生態ゆえ、魔力の濃い『禁足地』を主な生活の場とし、魔力を識別する特別な目を持つ。

 森が怒っているという感覚はシャーロットには理解できないが、きっとその第六感によって知覚しているものなのだろう。彼らにしか分からない独特の感覚があるのだ。

 

(推測だけど、たぶんカプディタスのせいね。アレはコロポックルを食べて成長していたから、構成要素のほとんどがコロポックルで占められてたはず。そんな魔物が呪詛を振りまいた影響で、彼らの魔力そのものに森の冥脈が拒絶反応を起こしてるのかもしれない)

 

 いずれにせよ、小人(コロポックル)たちはこの森を去らなければならないらしい。

 魔力資源の豊かな環境を目指して、遠く遠くへと旅に出るのだ。

 

 辛い旅になるだろう。

 仲間を失い、心も体も癒えないまま、それでも生きるために、身を引きずって行かねばならない。

 理不尽に見舞われた不幸への清算も、仲間の弔いも果たせぬままに。

 

 シャーロットは、それがどうにも見過ごせなかった。

 

「……ヴィック、魔物使いってどんな人だったの?」

「とんだお絵描きクソ野郎だった」

「お絵描きクソ野郎」

「エマの仲間だ。俺たちを狙うために、いや、理想の絵を描くためだなんだ言って、コロポックルを魔物に変えた挙句食わせやがったんだ。マジのサイコ頭だよ」

 

 顔を顰めながら忌々しそうに物語るヴィクターを尻目に、シャーロットは小人(コロポックル)へ視線を戻す。

 

 この森で起こった惨劇は、エマの仲間がシャーロットの心臓を狙うために引き起こしたものだった。

 それだけ分かれば、シャーロットの答えを固めるには十分だ。

 何より迷える無辜の民草を見捨てようなど、アーヴェントの血に宿る誇りが許さない。

 

「ねぇねぇ。行くところが無いんだったら私の家に来ない?」

 

 屈んで、小人(コロポックル)たちと目線を合わせて、シャーロットは微笑みながら提案した。

 

「ウチ人手不足でさ、丁度働き手が欲しかったの。食べるための魔力もいっぱいあるし、自然豊かな良いところよ。もちろん働いてくれた分だけお給料もお休みもあげる。安心して暮らせることを約束するわ。……ヴィックも良いでしょ?」

「シャロが許すなら異論ないぞ。むしろ賑やかになるのは大歓迎だな」

「決まり。どうする? あなたたちが良ければだけど」

 

 述べられた言葉を思うように咀嚼できなかったのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返す森の民。

 仲間同士で目配せ。けれど迷惑という色ではなく、むしろ本当に良いのかと戸惑っている様子で。

 

「いいの?」

「もちろん。……こうなっちゃった責任の一端は私にもあるから」

「違うぞシャロ。お前のせいじゃない」

「うん。けど、せめてお家くらいはね」

 

 どう? とシャーロットは再び問う。

 一人の小人(コロポックル)が、瞳に篝火を灯すように光らせて言った。

 

「行く! 私たち、いっぱい働く!」

「精いっぱい頑張る! 約束する!」

「交渉成立ね。これからよろしく」

「うん! 王の血、ありがとう」

 

 小さな手と握手を交わして、新天地の希望に湧きたつ小人(コロポックル)たちに微笑みを向けながら、シャーロットは立ち上がった。

 

 大勢の同朋を失い、住処までも追われ、先行きも重苦しい暗雲に覆われていた彼らの表情に日が差し込んだ様子を見て、ヴィクターもまた笑みを作る。

 

 これだ。この優しさこそが、彼女へついていくと決めた理由なのだ。

 悲観に窮する者へ迷わず手を差し伸べる揺るぎなき善性に、ヴィクターも救われた一人だから。

 

「しかし、どうやって連れ帰るんだ? 十人くらいいるぞ」

「それは大丈夫」

 

 シャーロットがポーチから取り出したのは、黒曜石のように透明感のある漆黒を湛えた、手のひらサイズの四角柱だった。

 それはシャーロットの魔力に呼応すると独りでに浮遊し、瑠璃色に輝く三重の円環を纏わせる。

 

「これを埋め込めばポータルとのアクセスポイントを作ることが出来るの。帰りは島まで一瞬よ」

「ああ、前言ってたポータル・オベリスクってやつか。便利だな」

「問題はどこに設置するかってとこだけど」

「あそこがいいんじゃないか? コロポックルたちの隠れ家」

「確かに。ちょっと使ってもいいか聞いて来る」

 

 シャーロットがオベリスクの設置許可を尋ねている間、ヴィクターは樹冠の狭間から覗く遠方を視た。

 カースカンの異能から解放され、ようやく目視出来るようになった三角形の霊峰、辰星火山と頂きに君臨する世界樹の姿。

 あの山に登って千年果花を手に入れれば、苦難の続いたこの旅にも終止符を打つことが出来る。

 

 世界樹に住まう竜種という、最大の障壁を除けばだが。

 

 ◆

 

 小人(コロポックル)たちを集合場所と定めた隠れ家に待機させ、川でリフレッシュした二人はすぐさま登山を決行した。

 休む間もなく進軍することを選んだのは、ボイラーツリーの影響を鑑みてである。

 

 翌日にはまた高温の蒸気が森林一帯を包み込んでしまう。

 そうなる前に森を抜け、山の中腹だけにでも到達しておきたかった。

 

 蒸し暑かった森とうってかわって、冷えた溶岩と火砕流堆積物によって形成された裸の斜面はむしろ肌寒いくらいだ。

 ゴツゴツと荒々しい坂道は足の酷使を免れられないが、蒸気地獄の心配はない。それだけでも精神的余裕は大きかった。

 

「──ってな感じで、そいつは黄昏の森を丸ごと檻の中に閉じ込めるみたいに空間を隔絶してたって訳なんだ」

「なるほど、だから森があんなに静かだったのね。もっと早く気付けばよかったわ」

 

 山を登り初めて早くも一日。中腹まで一気に登り詰めた二人は、薄まりゆく空気に体を馴染ませるため、しばしの休憩を取っていた。

 もっとも、アーヴェントの心肺機能はこの程度の酸素濃度で支障を来たすほどヤワではない。ヴィクターも卓越したスタミナが功を奏したか、高山病のような症状は皆無だった。

 

「……ところでそのカースカンって人、こういうもの身に着けてなかった?」

 

 言いながら差し出されたのは、鮮烈な銀に輝く金属で造られた小さなメダリオンだ。

 不思議な光沢だった。若い女の肌のように滑らかで、透明な氷のようでもある。

 明らかに銀とは異なる材質で象られているソレには、ベールを被った祈りを捧げる女性と薔薇の彫刻が施されていた。

 

「いや、初めて見たな。何だこれ?」

「これは天蓋領のシンボルよ」

「天蓋領?」

「世界を支配してる組織の名前ね。実質的な王家の家紋といったところかしら」

 

 世界を支配しているなどという、唐突に飛び出てきた巨大過ぎるスケールに、ヴィクターの思考が一瞬硬直した。 

 機構を知らないヴィクターのために、シャーロットはぽつぽつと概要を述べていく。

 

 遥か昔。世界はかつて、数多に存在する種族ごとの独立国によって形成されていた。

 大国。小国。民族。宗教。様々な要因が複雑に絡み合いながら辛うじて共存する世界。

 多少の諍いはあれど、それなりに平和な世の中だったという。

 

 それが混沌に突き落とされ、根底から破壊された切っ掛けが、十の魔王(マグニディ)による侵略だ。

 突如現れた強大な魔王に成す術もなく蹂躙され、世界は一度崩壊の危機を迎えたのだ。

 

 もはや国同士、民族同士、宗教観の小競り合いなどで争っている場合では無かった。

 力を合わせねば滅亡を迎えてしまう。危機に直面した人々は、『純黒の王』と『白薔薇の聖女』を筆頭に団結し、魔王を退けるべく命を賭して戦った。

 皮肉なことだが、その果てにバラバラだった世界はひとつとなった。

 

 ここまでは、ヴィクターもかつて耳にした歴史の一端だ。

 

「それからしばらくは陛下と聖女による統治が続いてた。けど、アーヴェントの崩壊から治世の権利は完全に聖女とマルガンが握ることになったの。そうして生まれたのが天蓋領よ」

 

 上空を指さすシャーロット。

 その名の通り、天蓋領は遥か彼方の天空から千年以上も世界を見守っている侵入不可の聖域だ。

 政治。経済。インフラ。民族間の干渉。──世界情勢の全てがそこで統制され、今の平和が築かれている。

 

「聞いてる限りじゃ、そんなにあくどい組織ではなさそうだけどな」

「ええ。アーヴェントとしては悔しいけど、彼らの支配は完璧に近い。貧困も差別も争いも物凄く減ったもの」

「町じゃ色んな種族の人達が平和に暮らしてるもんな。だがそんなお偉いさんの紋章が何でこんなところに?」

「……これは対魔物侵蝕性爆弾。魔物に張り付ければ、そのまま浸透して核に直接付くって仕組みの最新兵器なの。親機と子機にわかれてて、親機を使えば任意のタイミングで核を破壊できる。これは子機。戦った魔物の核に埋め込まれてたわ」

 

 つまり? と、ヴィクターが相槌を打って。

 シャーロットは目を伏せながら言った。

 

「使い回しも出来る画期的な道具だけど、製造に必要なミスリルはとても貴重な金属で、大量生産出来ないのが欠点なの。だから天蓋領のみが管理することになってる。言いかえれば、メダリオンの存在はカースカンの──いえ、エマの背後につく黒幕の正体が、天蓋領だって証拠になるのよ」

 

 混迷に汗が吹き出した。

 だって。シャーロットの話が本当なら、事は想像以上に大きな話になってくる。

 世界そのものが彼女の心臓を狙っているなどという、あまりにもバカげた与太話に。

 

「おいちょっと待て! つーことは、あのエマの話は……!?」

 

 背後に天蓋領が関わっているという真実は、シャーロットの心臓が世界救済に必要だと言うエマの妄言に、信憑性を否が応にも与えてしまって。

 二人は互いに、無音へ身を潜らせずにはいられなかった。

 

「……」

「……」

「……あー。ま、あれだ。エマの言ってたことが本当だとしても、だからって別にシャロが気にする義理はねえよな」

 

 沈鬱と気を落とすシャーロットの背を、喝を入れるようにヴィクターは叩く。

 

 天蓋領は千年もの長きにわたり、世の平穏のため尽力し続けてきた組織だ。

 そんな大それた集団が心臓を欲している。少女の肩に重圧がのしかかるのも当然だろう。

 

 命を狙われているというプレッシャーに限った話ではない。

 世界救済に必要な心臓が手に入らなかったがために、取り返しのつかない事態に陥ってしまえば、彼女はきっと自分に責任があると気負ってしまう。

 

 故に迷いが生じている。自分は本当に、こうして生きていていいのだろうかと。

 小人(コロポックル)たちを間接的に巻き込んでしまったという経緯も、罪悪感に拍車をかけてしまっている。

 

 シャーロットとはそういう少女なのだ。

 意地っ張りで、負けず嫌いで、けれどどうしようもなく優しくて、自分の身より誰とも知らない他人を優先してしまう人間なのだ。

 

 だからヴィクターは、仁愛がために心を痛める少女へ言う。

 そんなものはクソ食らえに過ぎないのだと。

 

「落ち込むなよ。世界だのなんだの、ンな馬鹿デカいもん背負ってるなんて自惚れちゃ駄目だぜ。お前はシャーロットで、リリンフィーのお姉ちゃん。それで十分だろ」

 

 ハッとするように目を開いて、シャーロットは頷きながら、ぎゅっと胸に手を当てた。

 昔とは違う。シャーロットはあの夜に、不相応な強さという重し(のろい)を外したのだ。

 もう不必要に自分を責めるのはやめた。背負えないものまで背負い込んで、大事なものを見落としてしまうことが、一番愚かなことだと気付かされたから。

 

 ヴィクターは大きく伸びをして、白い吐息を零しながら言った。

 

「それに理由が何であれ、奴らのやり方は心底気に食わねえ。大義のためなら弱者を踏み躙ってもいいって考える連中が掲げる世界救済なんざ、ロクでもねえのに決まってる。無視だ無視。ムシムーシ」

「……ふ。ありがと、元気出た」

「そりゃなにより」

 

 にっと歯を見せて笑うシャーロットに、その意気だとヴィクターは二度肩を叩く。

 

「んじゃ、とっとと済ませて家に帰ろうぜ」

 

 

 

 ◆

 

 拭い去れない疑問がひとつだけ、頑固な油汚れのようにこびりついて離れなかった。

 メダリオンの持ち主についてである。

 

 ミスリル製対魔物用侵蝕性爆弾。

 

 異邦の化生に対して比類なき効力を発揮する兵器であるが、しかし貴重な原材料と複雑な製造法という二つの難点により大量生産を可能とせず、その全てが天蓋領によって管理されている。

 

 一般に出回ることはまず皆無で、魔物が大発生した特例事項を除き、基本的に使用は限定されるほどの代物だ。

 

 率直に考えてみよう。

 そんな大それた貴重品を、雇われの暗殺者でしかないカースカンが所持していたと考えられるだろうか? 

 魔物を逃がさないために、星の刻印のリソースを大幅に割いていたあの男が? 

 

 違う。万に一つも有り得ない。カースカンが所持者である道理は欠片もない。

 ならば、あのメダリオンの持ち主は誰だった? 

 

 

 ──答えは、山の頂で相見えることとなる。

 

 

 

「待ちわびたぞ。純黒の末裔と無銘の贄よ」

 

 辰星火山の火口部。休火山へと沈静化して久しい霊峰の大口に聳え立つ、天を衝くほど巨大な世界樹。

 その根元に、一人の女と傍らに座す竜の姿があった。

 

 女は凛とした風雅を纏う麗人だった。

 腰丈まで伸びた白糸の滝のような銀の髪。すっと高く流れる鼻筋。幽かな影を落とすほど長い睫毛。

 紅紫に透く恒星の右眼(みぎまなこ)。左目は刀傷のような荒々しい痕が刻まれ、白く濁って光を閉ざしている。

 

 白亜と金刺繍のマントを靡かせ、数多の勲章らしき装飾を飾り付けた濃緑色の礼装に身を包むその姿には、まるで歴戦を駆け抜けた将軍のような威厳があった。 

 

「カプディタスの討伐、ならびに原住民の救出、誠に大義であった。不届き者が持ち込んだ魔の存在は不測の事態であったが、貴殿らの尽力によりあれだけの被害で済んだと言えよう。天蓋領に代わり礼を言う」

 

 背の高い、女性らしい柔らかな曲線を描きながらも、地に根付く巨木のように威風堂々とした貫禄を持つ女は、山頂へ辿り着いた二人に向けて白桃色の唇を淡々と紡いでいく。

 

「紹介が遅れたな。我が名はグイシェン。天蓋領第二騎士団団長にして三聖が一柱、武聖グイシェン・マルガンである」

 

 三聖。

 それは天蓋領が無双を誇る、世界最高戦力を冠する者の称号である。



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26.「お断りだ」

 通称「騎士団」。それは天蓋領を最高機関に据え活動する、治安維持・魔物討伐を主な役割とした唯一無二の公正実力組織である。

 

 田舎に駐在する保安官のような末端を含めた場合、構成人数はゆうに数百万まで上るとされ、秩序を正し魔の脅威から民草を守護する存在として日夜活躍している。

 

 そんな騎士団の頂点に君臨する極致の猛者こそが、時代を支える無双の豪傑──三聖なのだ。

 かつて『純黒の王』や『白薔薇の聖女』と共に魔王の脅威から世界を守ったとされる、三人の英雄になぞらえて生まれたこの特権階級は、それぞれ武術、剣術、魔法に最も秀でた人材が代々継承していく最強たる者の称号である。

 

 しかしただ強いからというだけで名を拝せるほど、三聖とは野蛮な称号ではない。

 強者というだけなら世に幾らでも存在する。三聖が三聖たる所以とは、英雄の業を成し遂げた破格にこそ重きを置かれるのだ。

 

 未曾有の天変地異の解決。準魔王級以上の『次元侵襲体(ディメンダー)』の討伐。時代を数世代躍進させるほど顕著な技術革命的功績。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()。即ち、ギルドが定めた七階位の最上級『星冠級(アステル)』を受勲した者だけが、三聖を名乗ることを許されるのだ。

 

 

(三聖……武聖ですって……!? なんでそんな大物がこんなところに!?)

 

 山頂までようやく辿り着いたシャーロットは、火口の深部、世界樹の根元にて竜と立つ謎の女を目撃し、咄嗟に身を隠しながら彼女の様子を伺っていた。

 

 読唇により辛うじて解読できた言葉によれば、彼女はずっとシャーロットたちを待ち構えていて、しかも世界最高戦力の一角と名高い規格外の怪物であるらしい。

 

 なにかの冗談かと思ったが、そんな疑念は一瞬にして吹き飛んだ。

 何故なら彼女はアーヴェントと対を成す存在──『白薔薇の聖女』より力を授けられし、マルガンという血族だったからだ。

 天蓋領はマルガンが全権限を手中に収めている統括機関である。メダリオンの出所といい、状況からして正真正銘本物の三聖である可能性は濃厚だ。

 

 シャーロットの心臓を奪いに追い打ちとして放たれたのか。それとも何か別の目的があるのか。

 魔物を討伐したことについて礼を述べていた奇妙な発言からも、少しばかり気色が異なる。

 

 

 ただ、もっと奇妙な点がひとつ。

 グイシェンがこちらに気付いている様子がまるで無いのである。

 

 唇の動きをよく観察すれば、同じ言葉をずっと繰り返していることに気がついた。

 たまに謎のポーズを取ったり、立ち位置の調整っぽい動きをしている。

 

 一人で。

 誰に言うでも見せるでもなく、一人で。

 まるで口上の練習で暇潰しをしているみたいに。

 

「…………ヤバい奴かもしれない」

「ああ確かにヤバいな。ボディラインの出にくい服なのにこの距離でも抜群ダイナマイトっぷりがわかる。ありゃ世界最高戦力級で間違いねえ」

「どこ見てんの突き落とすわよ猿」

 

 脇腹に肘鉄がぶっ刺さり、不埒な猿はゴロゴロと岩肌を転がった。

 

「彼女が本当に三聖なら私たちに気付かないはずがないし……ブラフ? にしてはヘンテコリンね」

「本当に気付いてないんじゃないか?」

「そんなまさか」

 

 言ってる傍から、今度は竜の頬をよーしよしと撫で始めた。

 そもそもあの竜は何だ。もしかして世界樹の主なのか。

 プライドの高い竜がおいそれと触れ合いを許すとは思えない。しかしまるで動じないどころか受け入れてさえ見えるのは、星の頂点捕食者をも従わせる実力の持ち主だという証左なのだろうか。

 

 幾許かの時が過ぎると、巨大な相棒も退屈になったのか、大きな欠伸と共にとぐろを巻くように眠ってしまう。

 

「揺さぶって起こそうとしてるぞ」

「全然起きないわね」

「猫に構って貰えない飼い主みたいになってんな」

「あれ、たぶん世界樹に住んでるドラゴンだと思うんだけど……」

 

 このままでは埒が明かないので、とりあえず火口を下っていく。

 

 お椀状に抉れた山の口内は、不思議なことに緑豊かな花園だった。

 赤一色の黄昏の森とは対を成すように、一面中が白い花弁で埋まっている。

 中央部にはコバルトブルーの湖が存在し、その畔から世界樹が天を衝くように伸びていた。

 

 凛とした銀糸髪の麗人と、まるで夜空が命を得たかのような、漆黒の躯体に星と煌めく鱗を持った美しい竜が眠る光景は、幻想を現世へ落とし込んだように神秘的だ。

 

「待ちわびたぞ。純黒の末裔と無銘の贄よ」

 

 二人を視認すると、濃緑色の厳めしい礼服に身を包んだ猛禽のような眼差しの女は、腕を組み白亜の外套を靡かせながら儼乎(げんこ)たる声で空気を震わせた。

 

「アンタが三聖か?」

「カプディタスの討ば──ほう? この私を知っているか。フフ、私も有名になったものだな」

「いえ、さっき物陰であなたの独り言を読唇させてもらったの」

「…………」

 

 グイシェンは小さく三度瞬きをした。

 

「……どこで?」

「あっちだな」

「ん? 彼方(あちら)の上か?」

「そうそう」

「ふむ。なるほどな。そうであろうな。気付いておったとも。貴殿らの把握能力を試させてもらったのだ」

「ちなみに嘘だぜ」

「………………………………………………」

 

 無論、騎士団の頂点到達者にして『星冠級(アステル)』を冠する当代の英雄、グイシェン・マルガンはこの程度で動じることは無い。

 曇りなき鉄面皮に一片の波もなく、凛とした冰の表情を貼り付けている。鋼鉄の精神たる証明だろう。

 耳が朱に染まっているのは誤差である。

 

「すぅーっ…………紹介が遅れたな。我が名はグイシェン。天蓋領第二騎士団団長にして三聖が一柱、武聖グイシェン・マルガンである」

「ゴリ押したわね」

「本当に三聖か?」

「本当だ。昨年襲名したばかりだが本当に武聖なのだ。巨大隕石を落としたり、頑張ったんだぞ」

「……お菓子持ってるけど、いる?」

「頂こう」

「本当に三聖か??」

 

 姉心がくすぐられたらしいシャーロット。クッキーを手渡すと、グイシェンはそそくさと口に放り込んだ。

 

「んむ。しっとり甘く美味である」

「でしょ。自信作よ」

「ほほう、中々の腕前ではないか。かくいう私も菓子作りが趣味でな。この前はペンギンさんケーキを焼いたのだ」

「えっなにそれ気になる」

「収拾つかねえから後でいいな!?」

 

 妙な雰囲気に飲まれ、ガールズトークに興じつつあった二人はハッと居ずまいを正す。

 ヴィクターは咳払いして、紅紫色の隻眼に瞳を合わせた。

 

「率直に言うぞ。()()()()()() 名前や肩書を聞いてるんじゃねえ。どういう立ち位置の人間かってことだ」

 

 グイシェンの言動と今までの状況。このふたつを照らし合わせれば、どう足掻いても顕在化してくる違和がある。

 それを真正面から叩きつけるように、ヴィクターは言った。

 

「俺たちを襲った男は天蓋領が差し向けた刺客だった。んでもってお前は天蓋領の一員、しかもお偉いさんときてる。矛盾してるぞ。魔物の討伐に礼を言う筋が噛み合ってねえ。どういう腹積もりだ?」

「貴殿の言い分はもっともだ。それには少しばかり込み入った事情があってな」

 

 グイシェンは述べるための言葉を組み立てるように瞳を閉じて、薄く開きながら言った。

 

「貴殿らの命を狙ったこと、それについては弁明の余地も無い。知っての通り、天蓋領は彼女の心臓を欲している。……だが彼奴が魔物を投入するなどという蛮行は、我々も想定外だったのだ」

「なに?」

「あれはカースカンの独断だ。誓って我々の差し金ではない。彼奴に魔物の芽などという、禁忌を横流しした第三者の仕業なのだ」

 

 嘘を言っている眼ではない。

 そも、ここで嘘を並べ立てるメリットなど彼女にはない。

 けれど。

 

「だとしたら何で止めなかった!? お前はコロポックルたちが惨殺されていくのを、指くわえながら黙って見てたってことに変わりねえじゃねえか!?」

「救出したくとも、不可能だったのだ」

 

 微塵も揺るがなかった鉄面皮が、初めて愁いを帯びたように蔭を落とした。

 

「私に与えられた任務のひとつはカースカンの監視だ。だがあの男に直接干渉することも、ましてや気配を悟られることさえも堅く禁じられていた。この手で処罰することが出来なかったのだ」

 

 拳が固く握られていく。

 血管が浮き上がり、筋張るほど力を込められた拳。手袋に覆われた震える五指の隙間からは、薄い赤の軌跡が滲んでいた。

 

「彼奴がカプディタスを発芽させた時、辛うじてメダリオンを仕込むまでが限界だった。星の刻印が空間隔絶と共に親機とのアクセスを遮断した影響で、爆弾を起動することさえ叶わなかった。助けを請う民の声に応えられなかった私に代わり、貴殿らがそれを果たしてくれたのだ。故にこそ礼が言いたかった」

 

 波風の少ない表情からでも十二分に伝わるほどの、悔恨と無力感、無上の感謝を乗せた声色だった。

 血が昇りかけていたヴィクターのほとぼりが、水に晒されたように冷えていく。

 

「改めて謝意を示そう。カプディタスの討伐、誠に大義であった。尊ぶべき大勢の命を失ってしまったが、生存者が救われたのは貴殿らのお陰だ」

 

 グイシェンは敵だ。それは間違いない。

 シャーロットの心臓を狙う組織の一員で、きっと拳を交えなければならない仇敵となるだろう。

 けれど、非道な悪ではないこともまた、彼女の確かな真実なのだ。

 

 権威としても最高位に君臨する三聖ですら拘束されるほどの強力な不干渉命令。察するに、天蓋領トップからの勅令によるものか。

 邪悪から世を守護することを信念に掲げる騎士が、魔物に蹂躙されゆく民草の様を黙って見届けることしか許されなかった屈辱は、想像を絶する痛みに違いない。

 下された命令と騎士道精神の板挟みにあったグイシェンの心情は如何とも測りがたい。少なくとも、彼女を無為に糾弾するのは間違っているか。

 

(調子狂うぜ。いっそ極悪人だったなら割り切り易いってのに)

 

 今まで相対してきた天蓋領の刺客は、どれも目的のためなら手段を選ばない外道だった。

 グイシェンは違う。相容れない立場ではあるが、彼女には慈愛の心がある。英雄の称号を冠するだけの高潔さがある。

 その匂いを感じ取ったからだろう。敵対関係を理解しながらも、シャーロットが初対面でも警戒を和らげたのは。

 

 どうにも居心地の悪い、むず痒くなるような沈黙が場を支配する。

 打ち破ったのは、恐る恐る声を絞ったシャーロットだ。

 

「えっと、結局あなたは敵なの?」

「……左様。その事実に異論はない」

 

 打って変わって、剣吞な空気が一帯を漂う。

 

「だが、貴殿らの選択によっては未来は変わろう」

 

 瞼を閉じ、白い息を落としながらグイシェンは言った。

 

「課せられたふたつ目の任務は裁定だ。ここまで辿り着いた貴殿らの力を見極めよとのことだった。力及ばぬならば心臓を奪い、()()()()()()()()()()()()()と言われていた」

 

 告げられた言葉の意味を、二人はまるで理解することが出来なかった。

 だって、こんなの。言うまでもなく決定的に矛盾じている。支離滅裂といっても過言ではない。

 

「……どういうこと? 私の心臓を狙ってて、あなたみたいな大物を差し向けてるのに、わざわざ見逃す機会を与えるっていうの? 意味がわからないわ。天蓋領の狙いは何?」

「複雑だが同感だよ。私も命令の意図をはかりかねている。あのお方の掲げる大義を一心に思うなら、残酷だがここで貴殿の命を奪うのが必然だ。しかし彼はそれを良しとしていない。昔からどうにも、あのお方の考えは読めぬ」

「あのお方?」

「ふぅむ。当事者である貴殿らには知る権利があるか。私に命令を与えたのは天蓋領が首領、ドラゴレッド卿である」

 

 ドラゴレッド卿。その名を胸に刻み込むように唾を呑む。

 名前だけならシャーロットも耳にしたことがあった。表には決して姿を現さず、騎士団を含む様々な機関を介し、世を統率する実質的な支配者である。

 

 謎が脳細胞に渦を巻く。

 まるで糸口の見えない情報の数々に、二人は眉をしかめて困惑を示した。

 

 シャーロットの心臓を狙い、世界救済を掲げるのは天蓋領──それも最高権力者による直々の勅命だった。

 彼は暗殺者を仕向けたばかりか、三聖という切り札を早々に切った。

 にも関わらず心臓を奪うことに消極的で、場合によっては見逃せとさえ命じる始末。

 

 謎。謎。謎だ。

 直接命令を下されたグイシェンですら紐解けぬ指令の真意に、二人の理解が及ぶはずもない。

 

「……だがしかし、あのお方は思考を放棄するような愚者ではない。影ながら幾度も世界を救って来た功績がある。我々には、彼に尽き従うべき大恩がある」

 

 言葉を皮切りに、地鳴りが薙いだかと錯覚するほどの波濤が突如として巻き起こった。

 山が轟々と嘶いていた。震え、慟哭し、凪の湖に狂い悶えるような時化が生まれ、大気が凛冽を抱いたように零落した。

 

 地殻変動などではない。竜の暴走によるものでもない。

 むしろ竜は到来した異変に目を覚まし、グイシェンを一瞥すると翼を広げて飛び去ってしまう。

 

 地異の原因はグイシェンだ。

 たった一人の女から放たれた、何倍もの重力を架せられたかのような重苦しさが、霊峰の全域を一瞬にして制圧したのである。

 

「ぐぉっ……!?」

「っ……!?」

 

 血管を引き絞られ、口の水分が一瞬にして干ばつするほどの常軌を逸したプレッシャー。

 滝を吐く汗腺。次いで心臓が発狂した。

 絶対的捕食者を前にした小動物のように、全身に酸素を循環させ、逃走に対し万全を期そうと暴れ始めたのだ。

 

 しかし、巡る血潮は驚くほど冷め切っている。

 細胞ひとつひとつが凍結したかのような震えに抱かれる悪寒の前に、煮える血の熱が悉く奪われていくのを如実なまでに実感した。

 

「私は貴殿らを一個人の人間として気に入っている。その力、勇気、砕けぬ信念を目撃している。手荒な真似はしたくない」

 

 先ほどまでの柔和な雰囲気とはまるで異なる圧迫感。

 本当に同一人物かと疑うほどの冷厳さに、幾重もの脂汗が滑走していく。

 

「どうだ。今までの禍根は水に流し、我々と手を取らないか?」

「……!? なん、ですって?」

「あのお方はそれも良しとしている。心臓を抉り出す以外の道を、悲願を達成する新たな術を、ともに模索しようではないかと。無論、我が名のもとに貴殿らの庇護も約束しよう」

 

 紅紫の玉眼に陽が宿る。

 白銀に輝く魔力の威が、隻眼に燦然と煌めき奔る。

 

「理解出来ぬのは承知の上だ。我が要求、正気と思えぬ道理を欠いたものであろう。しかし、これは貴殿らの安全を確保するための、無理を押し通した譲歩なのだ」

 

 燃え盛る太陽のようだった。

 見ているだけで網膜から脳髄を焦がされそうな、相対するだけで身を焼き潰されそうな、日輪の如き威容を体現する絶望的なまでの重圧が、二人の膝をへし折ってしまう。

 

「余計なしがらみを捨て、慎重に答えを選択せよ。枝分かれた未来への岐路は此処に在ると心得るがいい」

 

 ゆっくりと差し伸べられる、純白の手袋に覆われた手のひら。

 二人を見下ろす、白銀の陽を綴じた隻眼が、静かに答えを待っていた。

 

 無意識に受け取ってしまいたくなる。全細胞が従えと喚くのを感じている。

 ここで屈しろと叫ぶ声がする。この女には絶対に勝てないと、逆らうだけ無駄なんだと、切実な訴えが幻聴となって耳を打つ。

 

「──」

 

 シャーロットはヴィクターの方を見た。

 彼もまた、少女の瞳を探していた。

 

「シャロ」

 

 互いの視線が交わって。ヴィクターが小さく頷いて。

 シャーロットは膝に力を入れながら、振り絞るように立ち上がって前を見た。

 

「お断りよ」

 

 乾いた音が木霊した。

 グイシェンの手が、強く跳ね除けられた音だった。

 

「水に流せ? しがらみを捨てろ? 何様のつもりなの。人の大切なものを壊して、奪って、さんざん辱めておいて。都合よく私たちと手を取り合おうだなんて、よくもそんなクチが利けたわね」 

 

 須臾の空白に無音が成る。

 静寂というベールに包まれた霊峰には、少女の声しか響かない。

 

「言ってたわよね。命令のせいでコロポックルたちを見捨てざるを得なかったって。私たちを庇護するだなんて大口叩いてるけど、あのお方とやらの意見が変わったら躊躇なく殺すってことでしょ。バカにすんな! そんなことも分からないくらいマヌケじゃない! あなたの殺気に心折られて思考停止に陥るほど、私たちは弱くない!!」

 

 歯を剥き、豪気と睨み、招来した魔剣を突き付けて、少女は魂の底から咆哮を張り上げた。

 気を抜けば花園の肥料へと潰されそうな覇気を食い破る、凛と鳴り渡った怒声に呼応し、ヴィクターもまた立ち上がる。

 

「そういうこった。俺たちはテメエらの軍門にはくだらねえ。どんな理由があろうとも、虐殺を良しとする集団の手は取らねえ。交渉は決裂したとお偉いさんに伝えてくれ」

 

 戦意高揚と男は笑う。

 魔剣へ純黒の拳を添えて、三聖に向け叛逆を示す。

 

「……我々とて非道な手段は本懐ではない。だが綺麗ごとで済まない局面は存在する。必要な犠牲もある」

「私の家族を、コロポックルたちを必要な犠牲だったなんて言わせない。そんな言葉で片付けるなんて、絶対に認めるもんですか」

「今一度選択の意味を考えよ。世界を敵に回すに等しいその言動、後悔しないと断言できるか?」

「後悔? ──するに決まってるでしょ、そんなの」

 

 突き付けた魔剣を降ろし、純黒の刃を地に立てる。 

 柄から離した五指を、そっとグイシェンに見せつけた。

 震えていた。古傷まみれの手のひらは、三聖という頂点に抗う恐怖に震えていた。

 

「あなたは強い。私たちが力を合わせても、きっと足元にも及ばない。そんな怪物が天蓋領にはうじゃうじゃいる。敵に回して、怖くないわけない」

「────」

「でも、でもね。後悔なんて、どの道を選んだってするものでしょう。私はそれをよく知っている」

 

 シャーロットは普通の人間だ。

 血筋が特別でも、高潔な精神を抱いていても、数多の魔法を操れても、彼女はただの人間なのだ。

 あの時ああしていればと枕を濡らした夜なんて数えきれない。失敗なんて山のように積んできた。躓くことなんて幾らでもあった。

 

 だからきっと、この選択も、いつか後悔する日がやってくる。

 グイシェンの手を取っていればこんなにも苦しむ必要はなかったかもしれないと、悔恨の涙を流す時が訪れる。

 

 けれど。それは彼女の手を握ったとて同じことだ。

 いいや。きっとその手を握ってしまえば、振り払った未来よりも遥かに深く、取り返しのつかない悵恨(ちょうこん)の海で溺れ死ぬことだろう。

 

 ならば、シャーロットの意思は巌の如く揺るがない。

 乳白の歯牙を堂々と見せつける少女の笑みは、心の芯に絡みつく恐れの触手を振り払うほど強く、強く、眩く咲き誇っていた。

 

「私は自分が納得できる道を選ぶ。後悔なんて覚悟の上よ」

「……それが貴殿の選択か」

 

 決意の矢文を受け止めて、グイシェンは静かに瞼を閉じた。

 水に落とされた一滴のミルクのように、薄く薄く広がる微笑。

 

「不思議なものだ。そう答えてくれてホッとしている自分がいる。私の虚仮威(こけおど)しに屈さずいてくれたことへの喜びとでも言うべきか。流石はアーヴェント、我らマルガンと対を成す魔滅の騎士よ。反逆者の血筋とは思えぬほどの気高さ、私は心から敬意を表そう。……残念だ。貴殿とは違った形で出会いたかった」

「ええ、私も。立場や境遇が違ってたら、きっと良いお友達になれたでしょうね」

「そうだな。茶のひとつでも嗜みたかったものだ」

 

 それは今、叶わぬ夢の散華と成った。

 一個人としての私怨はない。ただ、相容れない存在であるがゆえの壁がある。

 

 アーヴェントとマルガン。標的と仇敵。

 互いの意は決定的に擦れ違う。ならば必然、剣を取り合わねばならない。

 手を組んで和を解するには、あまりにも時が遅すぎた。

 

「単刀直入に言う。貴殿らに一切の勝ち目はない」

 

 それは傲慢ゆえの宣告ではない。

 残酷なまでにれっきとした現実を、歪めることなく告げただけに過ぎない。

 

「だが私に課せられたミッションは裁定だ。死合いはせん。ただ貴殿らの覚悟を見定めさせてもらう。不足ならば心臓を頂く。力を示せば、此度の死は帳消しとする」

 

 星の核に放り込まれたかのように、場の大気圧が急転直下と増大する。

 身が竦み上がる。産毛が逆立ち、(かんな)が神経をガリガリと削り取ってくるかのような度し難い幻痛が襲いかかる。

 魂が逃げろとけたたましい警鐘を打ち鳴らした。刹那の狭間でも気を緩めれば、足が勝手に後ろへ向かって駆け出してしまいそうだ。

 

「私に傷を植えてみるがいい。この体に一滴でも血を流せたなら、貴殿らの勝利を認めてやろう」

 

 それでも、二人に後退の二文字は無い。

 あるのはただ、絶対強者へ抗わんとする決意のみ。

 

「力を示せ。証明せよ。此処で敗北の土を舐めるようなら、世界に抗う資格は無いと知れ」



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27.「不可能という名の墻壁」

『よく覚えておきなさい、シャーロット。ダランディーバはただ魔力を固めただけの剣じゃないんだよ』 

 

『私たちアーヴェントは魔力を色んな道具に変えられる。弓矢も、槍も、思い通りに造ることが出来る』

 

『なのに魔剣だけ、ダランディーバという名前がついている。これにはちゃんとした理由があるからなんだ』

 

『シャーロットがもう少し大きくなったら教えてあげよう。魔剣の秘密はとっても危険なものだからね』

 

『いいかい、ダランディーバは人を傷つけるための道具だ。だけど決して弱い者いじめに使ったり、欲望のために振るったりしてはいけないよ』

 

『守るために使いなさい。自分の命を、自分の大切なものを、苦しむ人々を守るためだけに使いなさい』

 

『どんな時もアーヴェントの誇りを忘れないように。人を思い遣れる優しさを忘れないように。……お父さんとの約束だよ、シャーロット』

 

 

 

 

 仮定の話。体の一部と思えるほど馴染み親しんだ武器を手に持つ、戦闘訓練を積み重ねた兵士がいるとして。

 刃物を振った経験も無い丸腰の素人が、真正面からたった独りでジャイアントキリングを成し遂げるにはどうすればよいか。

 

 答えは三文字。不可能だ。

 フィジカルも、技術も、得物も、ありとあらゆる手札において圧倒的に勝る存在に土を着けるという所業は、もはや英雄の武勲に等しい。

 

 古来より人類はそういった強敵に対し、数をぶつけることで辛くも乗り越えてきた。

 怒り狂う千を生きた古竜。世を蝕む邪悪なる魔物。人の意など微塵も介さない、天災という名の土着の殺意。

 

 グイシェン・マルガンと戦うということは、即ち同等の絶対的な壁を意味している。

 

「ぜぇえええあッッ!!」

 

 先鋒を担うはシャーロット。心臓機能を活性化させ、魔剣にありったけの魔力を注ぎ込む。

 純黒が深淵を増す。魔の激浪が衝撃を伴って放散し、土埃をもうもうと舞い上げた。

 少女は跳ぶ。高く、高く、天を目指す(ハヤブサ)のように。

 

 宙で旋転、足元に魔法陣を展開したシャーロットは、空を蹴り抜き一直線に墜落した。

 隕石の如き絶大な速度を纏い、腕を組み仁王立つグイシェンの頭上へ猛進する。

 帯びた勢いを殺すことなく、肩から腹にかけて撫で切るように、会心の黒剣を叩き込んだ。

 

 ────ガラスが砕けるような高周波。

 

「躊躇が見えるな」

 

 平坦な声。

 魔剣の一閃をまともに喰らったとは思えないほどの、平然を示す鈴の声。

 グイシェンは巌の如く不動のままに、背後に着地したシャーロットを紅紫の眼で一瞥していた。

 

「振り抜く直前に力を御しただろう。戸惑いが刃を著しく鈍らせていた。貴殿、人を斬るのは初めてか?」

「ッ……!? 冗談でしょ、無傷!?」

 

 万物干渉という人智超越の異能を孕む純黒の魔剣に、切り裂けないものなど存在しない。

 むしろ両断してしまわないよう、皮膚一枚で済むべく出力を抑えたほどだ。

 勝利条件は血の一滴で、命ではない。命まで奪う必要はない。 

 

 それが甘えだったと思い知らされた。

 ダランディーバは間違いなくグイシェンをばっさりと切り捨てたはずだ。

 なのに掠り傷ひとつ植えることはおろか、衣服に綻びすら生まれてもいない。

 どころか刃は三分の二ほど砕け折れ、魔力の粒子となって虚空へ溶け消えてしまっている。

 

「だらァァ──ッ!!」

 

 咆哮爆発。ヴィクターは光を失っている左目の死角から飛び掛かり、龍颯爆裂拳の絨毯爆撃を叩き込んだ。

 間髪入れず肉薄する。がら空きの脇腹へ向けて腕を引き絞り、渾身の正拳を杭の如く解き放つ。

 

 ガギンッ、と。およそ人体を殴打したものとは考えられない、鋼鉄の塊でも殴りつけたかのような反動がヴィクターを迎え撃った。

 

 衝撃は腕へと跳ね返り、肩に伝播し、痛みとなって萌芽。表情筋に苦悶の皺を刻み込む。

 だが中枢神経に痛覚を処理する余裕は無い。大岩に亀裂を植えるほどの一撃を受けながらビクともしないグイシェンの異常な頑強さに、驚愕で塗り潰されてしまっていた。

 

「何を惚けている。来い」

 

 停止していたヴィクターの時が、凛と響く女の声で再起動した。

 

 反射的に足を放った。裏腿を蹴り抜き即座に旋転、遠心力を存分に乗せた回し蹴りを延髄へ叩き込んだ。

 シャーロットも応じて動く。

 剣を振り抜き斬撃三閃。一切の加減なく振るわれた純黒の凶刃が、急所めがけて変幻自在に襲い掛かる。 

 

 止まらない。終わらない。慢心は無い。

 

 男は咆え、肉弾という嵐を撃ち放つだけの破壊と化す。

 女は猛り、千紫万紅の魔法を紐解きながら、血に眠る万雷の王威を饗応した。

 

 熾烈なインパクト。爆発する砂塵。山を撫で切る衝撃の薙刀。

 

 並みの人間なら絶命は免れられない疾風怒濤の坩堝。

 その渦中に佇みながら、なお武聖の肌に傷の文字は一画も無く。

 

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ」

「どうなってやがんだ……!? 頑丈なんてもんじゃねえ! まるで海を殴ってるみたいに、ケシ粒程度の手ごたえすら感じられねえ……!?」

 

 全力を出したはずだった。我武者羅なまでに滅多打ちにしたはずだった。

 

 汗を吸った衣服の微かな重しがズシリと骨へ響くくらいに、限界まで稼働させられた肺臓があまりの過酷さに悲鳴を上げて、心臓が今にも爆発しそうだと慟哭するほどに。 

 抑えつけてきた疲労や蓄積し続けてきたダメージが息を吹き返してしまうことも考慮せず、持ちうる全てをぶつけきったはずだ。

 

 だというのにグイシェンは沈黙の最中で腕を組み、微動だにせぬままに、到来する絶え間なき集中砲火を凌ぎきった。

 

 血の一滴どころの話ではない。

 たかが薄皮一枚が、まるで惑星そのものを相手にしているかのような堅牢ぶりで。

 

「終いか?」

 

 空気が揺らぐ。

 日輪に焦がされた陽炎のように。

 

「では、こちらから行くぞ」

 

 ──破裂。

 その現象を説明するのに、他の表現は皆無だった。

 

 パァンッ!! 突として未知が爆ぜ。 

 限界まで空気の詰まった袋を思い切り叩き割ったかのような轟音が産声を上げたかと思えば、ヴィクターの姿が無と消えていた。

 

「え」

 

 一拍遅れて、巨大な水切り石が水面を飛び跳ねるような絶叫が複数回。

 ゆっくりと、油の切れた機械のように振り返れば。

 湖面で遊ぶ、波紋と思しき円環の名残たち。

 

「ヴィッ────!!」

「余所見をしている場合か」

 

 全身の産毛から叱責されたかと錯覚した。

 脊髄を稲妻の如く駆け抜ける悪寒。一際強く跳ね起きる心の臓腑。

 無意識に体が動いていた。シャーロットは前方へ向けて、黒魔力で編んだ三重の盾を展開していた。

 

 須臾。その全てが霧散し消える。

 不発ではない。下から突き上げるように放たれた一発の寸勁が、アーヴェントの守りを諸共粉砕し塵芥へと変えたのだ。

 

 拳の勢いは毫末(ごうまつ)も衰えず、吸い込まれるように鳩尾へと突き刺さる。

 

「がッッッふッッ!?」

 

 筆舌に尽くしがたいインパクトの激流が、体内を貫通して背から弾けた。

 内臓の悉くを掻き混ぜられたかのようだった。あまりの痛撃に意識がホワイトアウトし、一瞬遅れて焼けつくような神経系の阿鼻叫喚が体の隅々まで蹂躙した。

 

 胃内容物を丸ごとひっくり返しそうになる。

 根性論でそれを堰き止め、崩れ落ちそうな身を鉄杭の如く打った足で繋ぎ止め、奥歯を砕かんばかりに食いしばりながらダランディーバを展開した。

 

「ぜァァァああああああああああああああッッッッ!!」

 

 刺突。寸分違わず喉元めがけて解き放つ。

 金属音。女の柔肌も貫けず、純黒の剣先は砕かれる。

 

 即座にダランディーバの魔力密度を極限まで圧縮、現在可能とする最高硬度の刃を再生。

 拳という名の槌で釘を打つように、柄の先端を殴り抜けた。

 

「貫け!! 貫けえええええええッ!!」

 

 打つ。打つ。打つ。 

 何度も。何度も。何度も。何度も。

 

「……筋はいい。剣捌き、身のこなし、歩法、呼吸法、魔力操作。どれも洗練されている。何年もの修練に身を費やしたがゆえの賜物なのだろう」

 

 シャーロットの拳が止まったのは、耐久の限界を越えた魔剣が断末魔と共に崩壊を迎えた時だった。

 

「だが足りぬ。決定的に才覚が無い。力の使い方は知っているようだが本質を知らん。指南書を修めた程度では、この私に傷をつけることは叶わぬ」

「はッ、はぁっ、は、ぅ……!!」

 

 魔力が底を尽きかけていた。

 ただでさえ魔物(カプディタス)との戦いで著しく消耗していたのだ。万全とはほど遠かった残弾は、先の攻防でほぼ完全に空となった。 

 枯渇した魔力を補おうと心臓が破れそうなくらい働いているのに、それでも供給が間に合わない。

 

「ちくしょう……! 動けっ……! 言う事聞きなさい、このっ……!」

 

 魔力欠乏による猛烈な虚脱感が、血肉に代わって体の中へ詰め込まれたかのような感覚。

 手先は震え、視界に星が瞬き、燃えるような呼気で喉が焼け付いて声が出ない。

 泣き言をいう膝に拳で喝を入れるも、腕に力が入らず片膝をつく。

 

「終いか?」

 

 絶望が問う。

 残酷なほど克明な、絶対的とすら思えるほど、隔絶された格の違いを見せつけて。

 それでもまだ、矮小十把が抗うのかと。

 

「う……ぐっ……!」

 

 魔剣を出す余力は無い。魔法も無論。

 ならばとただ足掻く。拳を打つ。蹴撃を見舞う。

 届かない。綿を叩くような、力の抜けた柔らかな音が響くのみ。

 

「……別れの時だ、アーヴェント。貴殿の名は泰平への礎として永遠に祀られることだろう」

 

 グイシェンの右手がシャーロットの喉を鷲掴んだ。

 少女の体が赤子のように軽々しく持ち上げられていく。

 

 シャーロットは腕を叩いて抵抗する。だが絡みつく五指は鉄の首輪のように頑強で、解ける隙など消しクズ程度も存在しない。

 的確な頸動脈への圧迫が血流を断ち、視界が暗転を始めていく。

 

「安心しろ、苦痛は生まん。ただ安らかに眠るがいい」

 

 グイシェンの左手が槍の如く、貫手の形へと整えられて。

 

 次の瞬間、水を纏った巨大な空気弾がグイシェンの頭部を直撃した。

 

 凄絶な破裂音が響き渡る。バケツをひっくり返したような水の弾幕が肌を打つ。

 一度ではない。二度、三度、豪速を伴って襲い来る妨害工作に、グイシェンの視界が塗り潰された。

 

「だァァらァァ──ッ!!」

 

 雄叫びが刹那を切り裂き、湖面を穿って飛び出すように、ヴィクターは三聖と激突した。

 かつてエマとの戦いで垣間見せた、文字通り目にも止まらぬ疾風迅雷。

 弧を描き跳躍するヴィクターの拳が、グイシェンの側頭部へと命中する。

 

「むっ」

 

 それはほんの僅かな変化の到来。

 どれだけの猛襲に晒されようとまるで意に介さなかったグイシェンが、一発の拳でよろめいた。

 

 無傷なのは変わらぬまま。しかし攻撃が通った初めての瞬間で。

 何が切っ掛けだったのか──思考を割く暇はなく、翻るように着地したヴィクターは、グイシェンからシャーロットを奪い取って離脱する。

 

「すまん、遅くなった。無事か、シャロ?」

「けほっ、けほっ、こんなの、どうってこと、ないわよ。あなたは? 派手に……ぶっ飛ばされてたけど……っ」

「全身バラバラになりそうなくらい痛え以外は問題ねえ」

 

 20mほど離れた先の岩陰にシャーロットを降ろし、グイシェンへと視線を遣る。

 女はその場を動かず、ヴィクターが逃げた先を見つめたまま、腕を組んで仁王立っていた。

 待っているのだ。王手を覆した先の出方を。

 

「さっきの見たか?」

「うん、ぼやけてたけどバッチリ見てた。ようやく一発通ったわね」

「あんだけぶち込んでほんの少し怯ませた程度だがな。だが大きな一歩だ。あいつは無敵の怪物なんかじゃない。何か絡繰りがあるぞ」

「ええ、血の一滴くらい吐かせてやれるわ。絶対できる」

 

 ポーチから最後の水薬を取り、互いに封を切って飲み干す。

 

「彼女の異常な頑強さ、十中八九マルガンの白魔力だと思う。じゃなきゃダランディーバを弾くなんて出来っこない。何度か斬った感じ、魔力の薄いベールに覆われてて、触れた衝撃を完全に無力化してるみたいだった」

 

 アーヴェントの黒魔力があらゆる自然法則に縛られず一方的な干渉を成すエネルギーなら、『白薔薇の聖女』から継承されたマルガンの白魔力は、天地万象と融合し己の支配下におく万物調和の異能である。

 

 炎も、水も、雷も、地も、全て統べり意のままに。

 ひとたび宰領となれば対象の増減強弱も自在とする超常を守りに使えば、身に降りかかるあらゆる影響をゼロに還すような荒業すら可能となるのだ。

 

 ただし、それはあくまで机上の空論に過ぎない。

 例えるなら飛来する銃弾を白魔力という剣で的確に相殺し、叩き落とすようなものである。

 あれほどの乱打を見舞われながら「空論」を成し遂げたグイシェンは、別格という言葉では生温い真正の怪物と言えるだろう。

 

「突破する方法はあるのか?」

「わからない。魔力操作も総量も別格過ぎて、正攻法じゃどう足掻いても敵わないと思う。私の全力をぶつけても破れる気配がまるでなかった。グイシェンの魔力流動を解析して、あなたの一撃が届いた条件さえ割り出せれば……」

「要するに、時間を稼ぎながらしこたまブチ込んでみりゃいいんだな」

 

 膝に手を突き、ヴィクターは立ち上がる。

 

「長くは持たねえと思うが、どれくらい必要だ?」

「5分──いや、3分。3分だけちょうだい」

「了解。何とかする」

 

 威風と共に待ち構えるグイシェンへ向けて、一歩。

 

「作戦会議は済んだか?」

「あってないようなもんだがな。さぁ第二ラウンドだ、行くぜ三聖ッ!」

 

 

 いつだって分の悪い戦いだった。

 拳を交えてきた敵は、どれも格上の相手だったから。

 

 シャーロット、エマ、ザルバ、カースカン──ヴィクターより劣っていた弱者は一人もいない。侮れた相手など記憶の何処にも存在しない。

 小手先の機転が功を奏し、更には悪運も相まって、どうにかこうにか戦い抜いてこれただけに過ぎなかった。

 

 シャーロットには敗北している。エマには一度殺されている。ザルバには決闘のルールで救われた。カースカンは命運を賭けた小細工が実を結んだからこその勝利だった。

 

 自分でも幸運な男だとヴィクターは思う。

 もし何かが食い違っていたら、運が味方しなければ、そもそも生き延びられてすらいなかっただろうと。

 

(今回ばかりは悪運なんざ通用しねえ。駆け引きだとか小細工だとか、そんなもんで埋められる溝じゃねえ)

 

 これまで戦ってきたどの猛者よりも、グイシェンという女は別格だ。

 次元が違うなどという話ではない。もはや同じ人間かと疑うほどに、あらゆる能力が狂った領域に存在している。

 湖を跳ぶ水切り石にされた時、ヴィクターは如実なまでに実感した。

 

 蹴られたのだ。ただ一発、薙ぎ払うようにして蹴り飛ばされた。

 本来なら180㎝近い男が何十メートルも吹っ飛ぶほどの蹴りをまともに受ければ、人間など真っ二つどころか五体全てが爆散する。 

 

 グイシェンは伝える運動エネルギーを、湖に着弾した際の衝撃もふくめて計算し、人智を越えた身体能力と即座の魔法でコントロールすることで、ヴィクターを五体満足のまま遥か遠方へ吹き飛ばすだけに留めていた。

 これがどれほどの神業か。身をもって味わった人間にしかわからない。

 

「貴殿の名は確か、ヴィクターと言ったか?」

「ああ、そうだ。三聖サマに覚えてもらえるとは光栄だぜ」

「ヴィクターよ。王の腕を宿す贄の男よ。貴殿に関するデータは諜報員の報告より拝見している。記憶を失っているというのは本当か?」

「本当だ。俺は『ヴィクター』になる以前の自分を知らない。だがそれがどうした? もしや俺を知ってるってのか?」

「いや、随分と不思議に思えてな。不気味とすら言えるか」

 

 女の眼が細まっていく。

 なにか、得体のしれないモノを目にするような怪訝さを孕んだ眼差しで。

 

「貴殿、私の蹴りを咄嗟に庇っただろう。アレが見えていたのか?」

「まさか。無意識だったさ」

「だろうな。しかしだからこそ奇妙なのだ。貴殿は仮にも武聖の一撃に反応してみせた。記憶の無い──裏を返せばまともな鍛錬を積んだ経験もない貴殿がだ。体を古傷まみれにするほど修練を刻んだあの少女は、何が起こったのかすら理解していなかったというのに」

「……何が言いたい」

「とぼけるな。己の異質さに自覚はあるだろう。少なくとも、私の眼には極めて歪な存在に映る」

 

 紅紫の隻眼に、魂魄の底を射貫かれるような錯覚。

 

「本来戦士とは、たゆまぬ修練の上に経験を積み重ね、年月をかけてゆっくりと形作られゆく地層のようなもの。長い時を経て重厚さを増し、実戦という研磨剤をもって磨き上げられた珠の精神こそが恐怖を克服させ、脳髄に冷涼を与え、死地に活路を切り開く。だが貴殿にはその過程が無い。ぽっかりと空洞なのだ」

 

 グイシェンの言葉の、ひとつひとつが。

 ヴィクターも知らない自分自身の深奥を覗かれ、(まさぐ)られているかのような心地だった。

 

「にもかかわらず、歴戦の雄に匹敵するほどの戦士としての素養が備わっている。……貴殿、命の奪い合いで恐怖を感じた経験が無いだろう。違うか?」

「……」

「それは異常だ。恐怖を感じぬ生物など存在せぬ。この私とて例外ではない。我らはただ、恐怖を我がものとする術を知っているだけに過ぎない。恐れを知らぬということは、生きておらぬのと同義なのだ」

「もう一度言うぞ。何が言いたい」

「……その眼だ、ヴィクター。カースカンとの戦いでも見せたその眼……燃える星々の炎のようで、溶けることを知らぬ氷塊のようでもある。我が問答に微塵も己が揺らいでおらん。不動を成すその柱の如き信念、いいや、記憶を失ってなお根付く狂気の正体が知りたいのだ」

 

 組んでいた両手を降ろす。

 片腕を背に。片腕を前へ。

 ヴィクターへ向けて、手を招く。

 

「言葉は不要。来い」

「言われなくてもッ!!」

 

 応じ、男は一直線に駆けだした。

 出し惜しみは無い。腕の力を解放、稲妻の足を体得する。

 視界がスローに、時間の流動が緩慢に。仁王立つグイシェンの腹部へ、雷の如く正拳を打つ。

 

 一度では終わらない。まるで怯みもしないグイシェンが、嫌というほど拳の無力を証明している。

 ひたすらに打つ。ただ殴り抜けることのみに没頭する。

 無敵の城塞へ、小さな針で穴を穿とうとするように。

 

「おおおおおおおおおああああああああああああああッッ!!」

 

 間断なく放たれる神速の連打。

 幾重もの残像を曳く無限の拳を、持ちうる全てを、一切合切叩き込んでいく。

 

 それでも。それほどまでに奮戦しても。

 まるで砂漠を延々と殴り続けているかのような、底の知れない手応えの無さ。

 

(これでも届かねえってのか……!? ならもっと早く! もっと強くッ!!)

 

 早く。速く。迅く。

 強く。剛く。勁く。 

 打つ。撃つ。撲つ。

 

「っ」

 

 その時だった。

 

 腕が焼き切れそうなほど限界を越えて、ありったけを食らわせ続けた果ての僅か一発。 

 手応えに変化があった。ただ一発だけであったが、深くめり込むような感触が鮮明に拳を伝わって来たのだ。

 

 相も変わらず、グイシェンには出血どころか苦悶の色すら見当たらない。まるでダメージを感じられない。

 だがヴィクターは見逃さなかった。

 驚天動地と広がった、冷酷な鉄面被に揺蕩う波紋を。

 

「ヴィック! 彼女の守りのタネが分かった!!」

 

 劈くように鼓膜へ届く少女の声。

 ヴィクターは一時戦線を脱し、グイシェンとの間合いを測りながら耳に意識を集中させる。

 

「グイシェンを覆う白魔力のベールは衝撃を受けた時、ほんのごく僅かな一瞬だけ(ひずみ)が出来てるの! それを貫いた瞬間だけ攻撃が通ってる! 最初に当たった一発は、浴びせた水と同時にパンチが重なったからなのよ!」

「つまりどうすりゃいい!?」

「まったく同じ場所をまったく同じタイミングで攻撃して! それが唯一の抵抗手段になる!!」 

 

 皮切りに、背後から一条の弾丸が空を裂いて飛来した。

 それはグイシェンの肩に着弾すると、一抹の火花を散らして消える。

 

 圧縮した極細の黒魔力を、シャーロットが指鉄砲より射出した即席の魔弾だ。

 威力はない。速度に偏重を置かれている。

 少女に残された僅かばかりの魔力で、グイシェンの防護壁に歪みを生じさせることを目的としたものだった。

 

「私に合わせて! 思いっきりブチかましなさい!!」

「合点承知ィッ!!」

 

 時の流れが再び澱む。

 ヴィクターの視界が遅延を来たし、スローモーションの世界へと飛び込んだ。

 

(カースカンで消費した時間は20秒! この力を使えるのは40秒だけだ! 血の一滴でいい! 残り40秒で、一滴の勝利を搾り出すッ!!)

 

 疾駆する。飛び進む弾丸に合わせ、中段正拳突きの要領で抜き手を放つ。

 命中。漆黒の手槍が女を射貫く。

 グイシェンの体が、衝撃と共に後退した。

 

「効いてる! 通ってるわ!」

「駄目だ、全然浅い! 当たった瞬間力を逃がされた!」

「……我が守りの秘を破るか、アーヴェント。見事なり。土俵に立つ資格はあるようだ」

 

 

 ゆらり、と。

 女を中心に、陽炎の如く歪曲する大気の渦。

 

 結ばれていた腕が解かれ、自由の身だと遊泳する。

 それは円を描きながら、在るべき場所へと舞い戻るように形を成した。

 

 迎撃姿勢すら垣間見せることも無かったグイシェンが、初めて武の構えを露にしたのだ。

 

「相手にして不足なし。この武聖に牙を届かせてみせよ」

「だァあああああらッッしゃあああああああ──────ッッ!!」

 

 男の咆哮が大気を震わせ、呼応するが如く無数の魔弾が放たれた。

 それはまるで意志を持つ豪速の生物であるかのように、変則的に軌道を捻じ曲げながらグイシェンへ一斉掃射を浴びせかける。

 

 それら全てが着弾し、蛇行とフェイントを交えながら叩き込んだヴィクターのソバットも突き刺さった。

 されど有効打はなく。人の形をした雲を相手にしているかのような、空虚な感触だけが伝わってくる。

 

(これでもノーガードを解かねえってのか!? どこまで化け物なんだよこいつはッ!?)

 

 グイシェンはまるで防御の素振りを見せなかった。

 ほんの少し揺れ動くだけ。ただそれだけで、白魔力の守りを突破して到来する痛打を、最小の動作でいなしていた。

 

「千変万化の攪乱。半盲を突いた死角からの奇襲。呼吸の合致。良い水準でまとまった連携だ。即席にしては目を見張る完成度だな。互いをよく知っているからこその芸当か」

「ッ!!」

 

 刹那、轟烈を添えた一閃がヴィクター目掛けて襲いかかった。

 

 反射的に体が動く。寸前で地を蹴り離脱する。

 肉薄。まばたき程度の極微の狭間で稼いだ距離を抹殺された。

 来襲する死神の鎌が如き踵落とし。ヴィクターは身を翻し、紙一重をすり抜ける。

 

 次の瞬間。ヴィクターの意識がコンマ数秒、完全な闇に塗り潰された。

 

「ご、ぶッ!?」

 

 明けた視界に映ったのは、足元に咲きほこる純白の花。

 そこまで経ってようやく、腹に壮絶な拳を受けたのだと知る。

 体が崩れ落ちかけて──ヴィクターは根性論でそれを繋ぎ止め、身を跳ね上げるようにして立て直した。

 

「ごほっ、ぶふっ!! ァが、か、かそく、加速ッ!!」

 

 口から零れる真っ赤な命を唾と絡めて吐き出しながら、ヴィクターは力のスイッチを踏みしめ、緩やかな世界へと身を投げていく。

 だが。

 

「ッッッ~~!?」

 

 心臓を捩じられたような、筆舌に尽くしがたい激痛がヴィクターを襲撃した。

 胸を中心に血管がビキビキと張り詰めていく。今にも破れそうなほど膨張した赤黒い筋が、皮膚へ放射状に広がった。

 

 力を酷使し過ぎた影響だ。代償を支払わねばならない時が来たのだと、克明なまでに理解した。

 これまで一分以上の使用を決行したことはない。この身がどうなるかなんて見当もつかない。

 気を抜けば今にも千切れそうな細胞たちの慟哭が、もうやめろと本能に訴えかけてくる。

 

(これ以上は限界か……!! だがッ!!)

 

 ここで限界を越えなければグイシェンには届かない。

 世界の頂点に立つ怪物へ一矢報いるために必要なのは、犠牲なき勝利などという甘えではない。

 

「根ッッッ性ぉぉぉぉッッッッ!!!!」

 

 全身の皮膚に裂け目が走る。激痛が紙へ沁みる水滴のように広がっていく。

 血は霧状に背より吹き出し、男を瞬く間に朱へ染め上げた。

 それでもなお眼光衰えぬ獰猛は、さながら戦に己を視た鬼が如く。

 

「────」

 

 グイシェンが動く。緩やかな世界の中であろうと恐るべき速度を誇る、無双の乱打が飛び交った。

 躱す。躱す。躱す。

 躱すたびに命が削れていく感覚がする。吹き上がる血霧が炭のようなどす黒さを増し、ヴィクターの周囲を漂っていく。

 

 ────知ったことか。

 

 変幻自在に迫撃するシャーロットの魔弾に合わせ、幾重もの抜き手を打ち放つ。

 何度も。何度でも。頂点到達者の肌を引き裂くその時まで。

 

「視野が狭いな」

 

 突如として聴覚を蹂躙する、隕石が墜落したかのような轟音波。

 同時にヴィクターの真横を、正体不明が恐るべき速度で通り抜けた。

 

 グイシェン自身ではない。 

 彼女は拳を振っただけだ。

 無空を翔けたのは、星の大気を纏めて引き千切り投げたと言わんばかりの拳圧だった。

 

(!? 何を狙って──)

 

 意図を読もうと脳を練る前に、重々しい物体が派手に地を転がった異音が響いて。

 矛先に何があったかを思い出し、末梢に至る血潮が凍結した。

 

「ッ」

 

 振り返らない。

 振り返れば最後、グイシェンは間違いなくヴィクターに終幕を齎すだろう。

 だから。だから。

 

「グイシェンッ!!」

 

 拳を握る。

 霊峰を踏みしめる。

 溢れゆく紅血の滂沱を黙殺する。

 

 

 決意を咆えよ。

 意思の灯火に血を焼べよ。

 

 まだ終わっていないと、己の魂に檄を飛ばして。

 戦うまで。命ある限り。

 

「うううおおおおおおおおおあああああああああああああああああああああッッッ!!!!」

 

 火蓋は切られ、最後の戦いが始まった。 

 限界を超越した能力行使。ヴィクターは雄叫びと共に両腕(りょうわん)を振り抜き武聖に挑む。

 だが短絡的な軌道では、グイシェンの身に掠めることすら許されない。

 幾度放てど矛は虚を穿ち、空振るたびに血塊を吐き落としていく。

 

「……もうよい。終いだ。決着はついた」

 

 鈍る体。霞ゆく意識。秒刻みで失われていく力。

 勝敗は明白だった。

 武聖でなくとも、誰の目に見ても明らかなほど、ヴィクターは限界を迎えていた。

 

「矮小十把がよくぞここまで抗った。幕引きの(とき)である。戦士よ、眠るがいい」

「勝手に終わらせてんじゃねえよ」

 

 手刀を振りかざしたグイシェンに向けて、ヴィクターは歯を剥きながら豪快に笑った。

 笑みに隠された意図を見抜けず、武聖の動きが瞬刻の狭間に縫い留められる。

 

 それをヴィクターは見逃さなかった。

 勢いよく血を噴いた。唇から零れるほど溜まっていた己の血液を、グイシェンの顔面へ霧状にして噴きつけたのだ。

 

 真っ赤な煙幕が隻眼から視覚を奪い去る。

 想定外の一撃にグイシェンの手刀は虚空を薙ぎ、ヴィクターの拳が返し刀を解き放った。

 

「眼を塞いだ程度でこの武聖を出し抜いたつもりか。甘い」

 

 乾坤一擲はいとも容易く食い止められた。

 視界を潰されているにも関わらず、グイシェンはまるで見えているかのようにヴィクターの拳を払い除けたのだ。

 

「!?」

 

 違う。

 払ったのは拳ではない。

 

 龍颯爆裂拳。万物干渉の黒腕が成した空気の砲弾。

 グイシェンにわざと攻撃を払い除けさせ、守りを手薄にさせるためのデコイだった。

 

 だが無意味だ。例えグイシェンの虚を突いたとしても、ヴィクター独りでは白魔力の守りを破れない。

 それを覆す最後のピースは、光陰の如く到来した。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それはグイシェンに手向けられた言葉ではない。

 必殺をまともに受けながらも、再び立ち上がったシャーロットへの喝采だった。

 本命は空気弾でもヴィクターの拳でもない。限界を越えた少女の放つ魔弾だったのだ。

 

「──っ!!」

 

 魔弾と鉄拳。二つの決死が狙うは一点。

 痛ましい傷痕を刻まれている左目めがけて、吸い込まれるように二人の紫電が炸裂する────!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一手及ばず、と言ったところか」

 

 

 

 それでも、三聖には届かなかった。



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28.「血に闢き咲けや 千祖の華よ」

 尽力はした。 

 持ちうる限りの一切を振るって、美しい花園に血反吐を浴びせることも厭わずに、極限を越えて立ち向かった。

 

「ごぶっ、ふ、ぅぅ」

 

 結果は凄惨たる有様だ。

 風に吹かれるタンブルウィードのように草花の絨毯を転がって力尽きたヴィクターは、指先ひとつ動かすことすら叶わない。

 

 シャーロットも同様だった。疲労とダメージが蓄積しきった体に、ダメ押しと言わんばかりの大砲の如き拳圧をまともに喰らってしまった。

 もはや「無事」を探す方が難しい。3分の休息で回復した魔力も、とうに絞り粕と化している。

 

(強すぎるっ……次元が違う……たった血の一滴が……こんなにも遠いなんて……)

 

 血が詰まって満足に空気も吸い込めない鼻腔に代わり、肩で息を繰り返す。

 ぺたり、と崩れるようにへたり込んだ。

 力が入らない。気力はあっても肉体が精神に追いついていない。

 

(頭……くらくらする……重い……心臓が……痛い……)

 

 視界が白濁し、平衡感覚を支える柱がぐらぐらと揺れている。一度でも瞼を閉じれば、そのまま花園に倒れ伏してしまいそうだ。

 耳もほとんど聞こえない。キーンと遠退くような耳鳴りと、微かな心音がトクトクと鼓膜を撫でていた。

 

(届かない……何を……どうしても……)

 

 認める他に無い。

 パワーも、スピードも、テクニックも、グイシェンはあらゆる面において二人を凌駕している。

 

 これが三聖。これが英雄の境地。

 別格などという言葉が生温く感じるほどの、圧倒的実力差。

 たった薄皮一枚を裂くことすら、まるで巨山そのものを相手にしているかのようだった。

 

「誇りに思え。この武聖の守りを打ち破った、ただそれだけの些事とて大業である」

 

 倒れ伏したヴィクターのもとへグイシェンが向かっていく。

 ゆっくり、ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめながら、軍靴を奏で死が迫る。

 

「…………」

 

 シャーロットはグイシェンではなく、茜色の空を仰ぎ見た。

 日没を控え、月の支配が空を満たすまでの逢魔が時。

 沁みるような黄昏でぼやけた瞳を焼き直すように、夕闇の瀬を眺めていた。

 

 

 ──よく覚えておきなさい、シャーロット。ダランディーバはただ魔力を固めただけの剣じゃないんだよ。

 

 ──私たちアーヴェントは魔力を色んな道具に変えられる。弓矢も、槍も、思い通りに造ることが出来る。なのに魔剣だけ、ダランディーバという名前がついている。これにはちゃんとした理由があるからなんだ。

 

 

 濁る池のように澱んだ脳裏を過ったのは、意外にも父からの言葉だった。

 ダランディーバ。脈々と受け継がれ続けた黒魔力が成す魔剣の銘。

 彼は言っていた。誇り高き漆黒の刃には、シャーロットの知らない真髄が眠っているのだと。

 

 それを教わることは、終ぞ叶わなかったのだけれど。

 

「……お父様」

 

 告知だ、と思った。

 記憶の蓋から呼び覚まされたこの思い出には、きっと何か意味がある。

 亡き父が守ろうとしてくれているのではないかと、朧に揺蕩うシャーロットの意識は、追憶から届けられた愛の欠片を受け止めていた。

 

(お父様、教えてください。魔剣の秘密を教えてください。私には分からない。土壇場で真骨頂を目覚めさせるなんて、私には出来ない)

 

 グイシェンの評価はもっともだ。シャーロットには才能が無い。

 戦闘なんてからっきしだ。ただアーヴェントの家系に生まれたというだけの少女でしかない。

 積み重ねてきた知恵と経験が、心を支える血の覚悟が、足りない部分を無理やり補ってきたに過ぎないのだ。

 

 シャーロットは才能という言葉が、吐き気を催すくらい大嫌いだ。

 しかし忌み嫌っているからこそ、どうしようもない凡才だからこそ、そんな自分を変えようと努力し続けた人間だからこそ。

 頂点に手を届かせる最後のカギが才能だということを、腸が煮えくり返るほど知っている。

 

 閃きなんて無い。咄嗟の機転なんて生まれない。付け焼刃の新技を都合よく窮地で思いつくはずが無い。

 ずっとそうだった。気が狂いそうなほど脳に刻み付けた数多の書物や、何十何百何千回と繰り返してきた型稽古の中から、場合に応じて取捨選択を続けてきただけだ。

 

 それがまるで通用しないなら、グイシェンに傷をつけるなんて、どうやったって不可能じゃないか。

 

(…………よし。泣き言終わり)

 

 少し前までの自分なら、そういう風に諦めを見つけて、きっとここで折れていた。

 信じていたモノに裏切られて、信じていた努力が泡と消えて、何もかも駄目だったと塞ぎ込んでいた時のシャーロットなら、沈黙の終末を受け入れていた。

 

 今は違う。

 シャーロットの努力は無駄なんかじゃなかったと、示してくれた人がいた。

 お前は間違っていなかったんだと、絶望の淵から引っぱり上げてくれた人がいた。

 

(あなたは私を救ってくれた)

 

 ヴィクターはもう戦えない。

 カースカンとの死闘で消耗し、臨界を超えた王の力に身を焼かれ、グイシェンの猛打をまともに受け止めたその体は、不屈の精神を持つ男であっても身動ぎひとつ叶わない。

 

(だから今度は、私があなたを守るから)

 

 立ち上がる。 

 正真正銘、最後の力を振り絞って。

 

 

 ──守るために使いなさい。自分の命を、自分の大切なものを、苦しむ人々を守るためだけに使いなさい。

 ──どんな時もアーヴェントの誇りを忘れないように。人を思い遣れる優しさを忘れないように。

 

 

 かつて交わした約束が、少女の骨子を優しく支えた。

 大丈夫、君なら出来ると、父の手が背中を押してくれているようだった。

 

 深く。

 息を、吸って。

 

「洛陽……剣を捧ぐ……」

 

 意思を(うた)に。

 魔の則を紐解く。

 

「無窮分断つは、不壊の刃」

 

 エスカトンノヴァは使えない。絶対的に魔力が足りない。

 シャーロットは血潮に残された幽かな魔力を、薄く、長く、淑やかな柳のように反り返らせて引き伸ばした。

 

 それは両刃の大剣ではなく、片刃に一心を注いだ細身の刀。

 光を吸う黒曜の刃を常闇より迎え入れ、シャーロットは柄を握りしめる。

 

 構える。

 何千、何万と繰り返し続けてきた型のままに。

 

「王威とは、この一刀に在りて」

 

 瞳を閉じて研ぎ澄ます。

 血を。感覚を。魂を。

 刀身一体となるように、魔剣へ心血を注ぎ込む。

 

 血脈に流れる魔力の底へ意識を沈める。

 純黒が秘めたる最奥の領域へ、辿り着いたことの無い未知の果てへ。

 積み重ねてきた力を信じて、少女は静謐に踏み込んだ。

 

(リリン)

 

 想う。

 凍った時の深海に眠る最愛との未来を。

 

(ヴィック)

 

 捧ぐ。

 命を賭して救ってくれた恩人への報恩を。

 

 

 

 実る。

 

 

 

 千年もの長きに渡り脈々と受け継がれた、誇り高き王の血統へ。

 振りかかる不条理な運命を跳ね除けんと、一心不乱に貫き続けた泥臭い過去が、絢爛たる果実を結ぶ。

 

 

 遠い、遠い、波瀾に満ちた回り道の果てに。

 塵は積もり、幾度も踏み締められながら、力強く芽吹きし双葉。

 眠り続けた蕾のほころびは此処に告げられた。

 少女は今、この瞬間をもって開花を成す。

 

 

「剣よ、彼の嘆きを救いたまえ」

 

 

 其は──千を越えた果ての花。



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29.「双璧」

(不思議な男だ。このようなタイプは見たことがない)

 

 風吹きすさぶ霊峰の花園で、グイシェンは地に突っ伏したヴィクターを見下ろしながら吐息を溶いた。

 

(基礎はいい。呼吸法、歩法、重心移動はまずまず。咄嗟の判断能力に関しては頭一つ抜きんでている。しかし技術面はまるで素人だ。武芸をひとつも修めた形跡がない。だというのに、この武聖にここまで食い下がって見せるとは)

 

 グイシェンは自身の能力に絶対の自信を持っている。

 それは決して傲りではなく、客観的視点からもたらされた的確な自己判断だ。

 

 グイシェン・マルガンは、戦闘面において竜人(ドラゴニュート)に比肩するとされる鬼人(オーガ)の血を引きながら、『白薔薇の聖女』より白魔力を受け継ぐマルガンとの間に生まれたハイブリッドである。

 

 最強の肉体をもって生まれた少女は、しかしその血統に胡坐をかくことなく、天蓋領のもたらす最高の英才教育によって極限まで鍛え上げられた。

 

 鍛錬に膨大な時を純真なまでに費やし、心を鍛え、民草を守護する盾と成るべく励み続けること幾星霜。 

 黒魔力と比べ守りを得意とする白魔力を完璧な形で掌握し、あらゆる衝撃を機械染みた精密さで相殺するという、万物調和の絶対防護を幼少の身で体得。

 さらには鬼人(オーガ)としての血を存分に発揮し、古今東西の武術を一身の内に凝縮した。

 

 齢十三になるころには、もはや並みの武人では手も足も出ない怪物へと変貌を遂げていた。

 

 魔物の大発生をたった一人で鎮圧したのは一度ではない。 

 衝突すれば3000㎢は更地と化すだろう巨大隕石を拳ひとつで割り砕き、被害を最小限に食い止めたという寓話同然の勲もある。

 百数十年ぶりに発生した準魔王級の魔物との戦いでは、左目を犠牲に見事討伐を成し遂げた。

 

 これがグイシェン。三聖が一柱にして『星冠級(アステル)』に座する頂点到達者。

 掲げる勲章に偽りはない。世界の頂きへ君臨するに相応しい絶対的な力と数々の武勲、血の滲むような研鑽の日々がそれを証明している。

 

 そんなグイシェンが、素人の男を一蹴出来なかったという異常さ。

 あまりにも、あまりにも、ヴィクターという人間は異質で満ち溢れていた。

 

(アーヴェントの少女ならば多少は抗ってくるだろうとは思っていた。彼女に才は無いが、不足を補う知識も力も十二分に備わっている。私に傷をつけるとすれば、アーヴェントしか有り得ないだろうと)

 

 あの時、最初にヴィクターを湖へ蹴り飛ばした時、もう戦いの場へ戻ってくることはないと思っていた。

 戦闘不能にするつもりだった。それらしい鍛錬を積んだことも無い男が武聖の前に立つなど身の程知らずの侮りに等しいと、武人としての矜持がそうさせた。

 

 なのにヴィクターは咄嗟にガードを挟んだばかりか、すぐさま戦線へ舞い戻り、グイシェンの防護壁へ揺らぎを与えるほどの一撃を見舞ってみせた。

 

 あれは偶然ではない。

 偶然を許すほど、グイシェン・マルガンは甘くない。

 

(間違いない。この男は戦いの中で急速に成長している。いや、()()()()()()()とでも言うべきか? 鈍っていた勘が段々と取り戻されていくように、負傷と反比例して私の動きに適応しつつあった。終いには我が一撃を避け始めたほどだ)

 

 記憶を失いながらも、魂に根付く戦闘センスで武聖に追走して見せた男。

 ならば記憶を失くす以前は、一体どんな人物だったのか。

 己を構成する何もかもが消滅しても、己の敵全てを撃滅せんとする暴力の才腕が根付くほどの人生とは、一体なんなのだ。

 

(それにあの不可解な敏捷性……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の仕掛けが読めん。諜報員が一蹴されたというのは真実だったようだが……あれは本当に『純黒の王』の権能なのか? それにしてはあまりに……)

 

 ふと。

 頬を撫でる、黒い風。

 

「……ほう」

 

 振り返る。

 紅紫の隻眼が捉えた光景の先に、満身創痍の少女が一人。

 

 何か様子がおかしい。

 纏う雰囲気が明らかな鋭利を帯びている。ビリビリと心奥を掻き鳴らされるような、アラートにも似た胸騒ぎを覚えるのだ。

 

 直感で理解した。

 アーヴェントと対を成すマルガンだからこそ、彼女に到来した変容を理解出来た。

 

「花開いたな。まだ抗ってみせるか、アーヴェント」

 

 シャーロットは今まで届かずにいた黒魔力の真髄へと手を伸ばした。

 不思議とは思わない。手負いの獣はなんとやら、窮地に陥った人間が土壇場で力に覚めるというのは、別段珍しい話ではないからだ。

 

(フフ。これだから凡才は面白い)

 

 どこか懐かしむようにグイシェンは目を細めながら、シャーロットには分からぬほど微細に微笑む。

 

(才無き者は努力を重ねようとも回り道を余儀なくされる。思い通りに進むことなど決してない。ゆえに大半は諦めと共に脱落していく。だが望まぬ悪路を乗り越え続けた時、人は思いもよらぬ爆発力を開花させることがある。……今、貴殿はそこに到達したのだな)

 

 かつての自分を眺めているようだと、グイシェンは想起した。

 歴代の三聖とは違い、血筋や環境に恵まれながらもまるで才能を持たなかったグイシェンの眼には、シャーロットが鏡のように映り込む。

 

(だからこそ、決して侮れる存在ではない)

 

 ────颶風(ぐふう)

 

 恐るべき速度で、莫大な衝撃波をもって、それは霊峰を搔き乱しながらグイシェンの傍を鎌鼬の如く通過した。

 耳にしたことのない異音が背後から弾け飛ぶ。

 一瞥すれば、側火口の断崖に一条の亀裂。

 火口の端とはいえ、山が縦に斬り裂かれているではないか。

 

(……身を躱したのは何時ぶりか)

 

 グイシェンは少女から放たれた未知の一閃を避けていた。

 

 降りかかる衝撃の全てを相殺し無に帰すという、独自の白魔力障壁をもってあらゆる猛攻を完封し、その絶対的防護を破られようとも超人染みた身体技能によって力を受け流すことで、ノーガードを貫き続けていたグイシェンが。

 初めて、回避という選択を手に取ったのだ。

 

(ざわざわと産毛逆立つこの感覚……貴殿の刃は我が命まで食い込むらしい。フフフ、フフフフ)

 

 エマによって報告されたシャーロットに関するデータの数々。その中には黒魔力の分析結果も詳細に書き記されていた。

 中でもグイシェンが目を惹いたのは、魔剣に関する潜在的特異性だ。

 

 ダランディーバと呼称される、アーヴェント独自の純粋魔力兵装。

 万物干渉の異能を応用した、対象の硬度や概念を問わず自在の切断を可能とする理論上最鋭利の刀剣である。

 

 では根本的な話をしよう。そもそも万物干渉とは何か?

 

 使用者の意のままに対象の性質を歪ませ、物理的、あるいは魔法力学的に本来不可能な挙動を引き起こさせること。

 つまりは、この世の理そのものへの介入である。

 黒魔力とは物質ではなく、物質を存在させている概念や法則へ直接メスを切り込んでいる力なのだ。

 

 だからこそヴィクターの腕は空気を砲弾に変え、次元の裂け目をこじ開けて、脳に食いついたコロポックルの拘束具だけを打ち抜くことを可能としていた。

 

(その性質を転じたものが今の一太刀。斬り伏せた対象の因果律へ干渉し、『斬る』のではなく『斬ったという結果』を刻み付ける因果逆転の刃。それこそが魔剣ダランディーバの正体だ)

 

 即ち、ひとたび触れれば如何なる守りも意味を成さない絶対切断の必殺剣。

 どれほど強固な盾や防御術式を用いようとも、既に斬ったことにされてしまえば紙切れ同然だ。 

 グイシェンを覆う白魔力の防護障壁とて例外ではない。あの斬撃を浴びたが最後、一息に八つ裂かれることだろう。

 

「末恐ろしいものよ。追い込まれてなおこの私に予断を許さぬとは。……しかしその魔剣、いつまで保つ?」

 

 そう。例えシャーロットが火事場の馬鹿力を発動させたとしても、状況そのものに変化はない。  

 いくら強力無比な絶対切断の魔剣を開眼しようとも、シャーロットのコンディションは変わっていない。

 

 誰がどう見ても、少女は既に立っているのもやっとの状態だ。 

 剣を振るうだけで激痛に竦み、気を緩めれば意識の弦がぷっつりと切れかねない瀬戸際で揺らいでいる。

 魔力もほとんど残っていないだろう。事実、先に放たれた斬撃の威力そのものは、非常にか弱いものだった。

 

「三振り……いや、二振りだ。二振りで貴殿の魔剣は朽ち果てる」

「十分。絶対届かせてみせる」

「ああ、嗚呼、いいぞ。その意気だ。足掻くがいい。猛るがいい。可能性を掴むがいい。さもなくば、永劫の訣別となるのみぞ」

 

 構える。

 腰を落とし、重心を巨木と据える。

 左腕を前へ。右腕を引き絞って。

 いざ、尋常に。

 

「勝負だ、宿敵(アーヴェント)!」

「はあああああああッッ!!」

 

 一振り。絶空に落命の権化が成った。

 大気を、三次元空間そのものを、諸共引き裂きながら駆け抜けるは流星の如き死の斬撃。

 

 音速の二倍で放たれた純黒の一刀へ、グイシェンはあろうことか真正面から踏み込んだ。

 転瞬、霞の如く女が消える。

 信じられない現象が巻き起こった。ひとたび掠めれば森羅万象を等しく分断つ絶対切断の魔剣が、あたかもグイシェンの体をすり抜けたかのように遥か彼方へ飛び去ったのだ。

 

 最小限の動作で斬撃を躱した。ただそれだけのことだった。

 それだけの小技が、達人の業前としてあまりに洗練され過ぎているがゆえに、まるで斬撃が透過したかのような錯覚を引き起こしていた。

 

(悲しいなアーヴェント。その魔剣はまさしく最強の名を欲しいままにする絶対的な力だが、無敵ではないのだ)

 

 踏み込む。

 少女の懐へ潜り込むように、電光石火の如く距離を殺す。

 

(意のままに操れる魔弾とは違う。それは直線状にしか放つことは出来ん。如何に稲妻染みた一閃だろうが、軌道が読めさえすれば見切るのは容易い)

 

 拳を固める。

 シャーロットの鳩尾へ吸い寄せるように、ワンインチの必殺を狙い定める。

 

(さぁどうする。どう打って出る。振るうならば今しかないぞ)

 

 少女の出方を伺うため、あえて挟み込んだ余白の隙。

 シャーロットは肉薄したグイシェンから距離を取りながら、魔剣を握る両手へ力を込めた。

 

(下段からの斬り払い。左腕狙いか)

 

 太刀筋に合わせて半身を引かせ、シャーロットが空振ったと同時に踏み込み寸勁を叩き込む。

 それがグイシェンの描いた幕引きの図で、避けようの無い決着だった。

 どう転ぼうとも、そうなるはずだったのだ。

 

「ッ」

 

 ぞわり──グイシェンの第六感が雷管を殴り飛ばされたように炸裂した。

 完全に反射行動だった。駆けずり回る本能の警告を疑わず、咄嗟に身を大きく反らした回避をとれば、右半身があった空間を食むように避けたはずの斬撃が舞い戻って来たのである。

 

 馬鹿な、とグイシェンの額を珠の汗が滑走して。 

 視野角の限界まで捻じ曲がった隻眼が、直線運動しか出来ないはずの斬撃がブーメランのように帰還した不可解の正体を捉えた。

 

 遥か背後の遠方にて、浮かび漂う魔力障壁。

 ほんの微々たる黒魔力を凝集し象った純黒の平板が、まるで光を反射する鏡のように斬撃を弾き返したのだ。

 

(同一の魔力で反射を……!? 有り得ん、そんな余剰魔力はどこにも──まさか、魔弾の欠片か!? 散った魔弾の断片を搔き集めて指向性を持たせ、私の索敵圏外で極小の反射板を作成していた!?)

「グイシェン、あなたは強い。今の私たちじゃ到底足元にも及ばない。でも、あなただって完全無欠なわけじゃない!!」

 

 豪傑と破顔する少女に、頂点到達者はひとつの確信を得る。

 反射板に気付かなかったのは偶然ではない。初めて会合したあの時、岩陰に潜んでいたシャーロットたちを見抜けなかった、グイシェンの索敵能力の限界距離を演算した上での作戦なのだ。

 最後の最後で、シャーロットは遥か格上の三聖を出し抜いた。

 

「視野が狭いのはお互いさまってね!!」

「────見事!」

 

 刹那。薙ぎ払われた純黒の光芒は、武聖の左腕を天高く斬り飛ばした。

 

 

 

 鮮血が舞い踊る。

 勢いよく噴き出す鉄砲水のように、肩口から両断された左腕が夥しい血潮を吐き出した。

 

「……フフフ。血の一滴どころか腕を持っていかれるとは。侮っていたと言わざるを得んな」

 

 傷口に力がこもる。

 ぎゅうううっと腕の筋肉が収縮し、血雨の嗚咽がぴたりと止んだ。

 恐るべき速さで傷の断面が塞がっていく。

 

 癒しの力も孕む白魔力の影響か、はたまた鬼人(オーガ)の血によるものなのか。

 左腕の切断という重傷ですら、まるで意に介していないかのようだった。

 

「貴殿の勝ちだ。約束通り命は取らん。今日のところは退散させてもらうとしよう」

「っ……」

「そう睨むでない。嘘は吐かんさ。油断した隙に心臓を奪おうなどという下卑た真似はせん」

 

 シャーロットは肩で息を繰り返しながら、既にグイシェンから敵意が消えていることを悟って臨戦態勢を紐解いた。

 緊張の糸がぷつりと切れる。膝から崩れ落ちそうになって、慌ててその場に座り込んだ。

 

「この私に土を着けた褒美だ。受け取るがいい」

 

 放り投げられた小さな物体を、シャーロットは両手で受け止める。

 手のひらサイズの小瓶が三本。どれもキラキラと煌めく黄金色の粘質な液体が収められていた。

 

「世界樹の花蜜だ。それを探し求めて来たのだろう?」

「……! これが……千年果花の霊薬……!」

「大事に使え。名の示す通り、千年に一度しか手に入らぬ貴重品よ」

 

 ──魔力とは、主に生物の心臓が生み出す生命エネルギーの総称である。

 そしてこの星には、死した魂が還りゆくことから冥脈と呼ばれる、地下を張りめぐる巨大な魔力経路が存在している。

 

 火口といういわば冥脈の出口に根付いた世界樹が、千年もの時をかけて少しずつ吸い集めた超高濃度の魔力凝集物。

 それが千年果花の霊薬と呼ばれる、さながら命のスープの正体だ。

 

 一口飲めば立ちどころに傷を癒し、あらゆる病を駆逐して、老いた肉体を若返らせるという万病の薬。

 それが今、やっとの思いで手に入った。

 

 これがあればリリンフィーを蝕む不治の病を治すことが出来る。

 シャーロットは小さな希望を、震える手で握り締めながら瞳を閉じた。

 

「まずはこの男に飲ませてやれ。己の異能に身を食い破られている」

 

 ハッとするように顔を上げれば、グイシェンが気を失ったヴィクターを運んできて、シャーロットの傍に静かに横たわらせた。

 

 虫の息だ。どこもかしこも血まみれで、打撲、裂傷、擦過傷と見渡す限りキリがない。

 まるで内側から破裂したかのようにいたる箇所の皮膚が裂けている。筋肉組織どころか一部の骨までもが外気に晒されているような、生々しい薄紅色の傷痕が幾つも咲いていた。

 脈は弱く、手首をとっても辛うじて拾える程度。今すぐにでも息絶えたっておかしくないほどの惨状だ。

 

 どれだけボロボロにされてもケロリとしていたタフネスの化身が、瞬きをすれば消えてしまいそうなほど衰弱している有様は、事の重大さを如実に物語っている。

 

「起きてヴィック。ほら、飲んで」

 

 呼びかけても、揺すっても、軽く頬を叩いても反応が無い。

 仕方なく上体をかかえ、口元に小瓶をあてがう。

 だが花蜜はヴィクターの喉奥へ届くことなく、唇を伝って糸を引きながら零れてしまう。

 

(ダメだ、蜜の粘性が高すぎて上手く飲ませられない。無理やり入れてもこの粘っこさじゃ、喉に張りついて窒息させてしまうかもしれない。……やむをえないわね)

 

 決断は早く、迷いも無かった。

 シャーロットは花蜜をひとくち含むと、ヴィクターの口に直接流し込んだ。

 

 唾液で粘性を薄め、喉に詰めないよう少しずつ、少しずつ、口移しで与えていく。

 奥へ押し込むように流してやれば、狙い通り嚥下反射で咽頭が鳴って、花蜜の摂取が無事に済んだ合図が告げられた。

 コツを掴んでしまえば簡単だ。シャーロットは手際よく、小瓶ひとつが空になるまで蜜を飲ませることに成功した。

 

「ほーうほう、躊躇せんか。よほど信を置いていると見える」

「うっさいやかましい黙りなさい。迷ってる間に手遅れになったら悔やんでも悔やみきれないでしょ。この程度の恥、呑み込んでやるわよ」

 

 口元を拭いながら茶化すなとグイシェンを睨む。

 医療行為と割り切ったからこその行動だ。意識すると頭が茹って倒れそうになる。

 

 聞きしに勝る千年果花の効果はすぐに現れた。

 最初に感じたのは仄かな温かさ。辛い食べ物を口にした時のように体の芯から熱を感じて、全身を刺すように蝕んでいた痛みがすうっと溶けるように消えていった。 

 足が軽い。重石のようだった骨肉が羽のようで、数えるのも億劫な生傷たちが綺麗さっぱり消失している。

 

 ほんの少し飲んだだけでこれだ。ほぼ一瓶分摂取したヴィクターは、まるで戦闘など最初から無かったかのように治癒が進んでいた。

 呼吸は規則的で深くなり、血の気の失せていた皮膚が健康的な肌色を取り戻して、風前の灯火が勢いを吹き返したのだと知らせてくれた。

 

「これが千年果花の霊薬……すごい……!」

「死期は脱したようだな。一晩も眠れば完全に回復するだろう」

 

 グイシェンはおもむろに日没を迎えた空を見上げ、すぅっ、と大きく息を吸い込むと、

 

「友よ、住処を荒らしてすまなかった。せめてもの手土産だ、くれてやる」

 

 威風と澄み渡る声を天高く響かせながら、斬り落とされた左腕を上空へ放り投げた。 

 宙を踊る腕は一陣の風に攫われる。

 生きた星空のような煌然の黒竜が、グイシェンの腕を呑み込んだのだ。

 

「存外に楽しめたぞ、末裔の娘よ。久しく血沸く感覚を味わえた。願わくば、さらに力を蓄えた貴殿と相見える日を楽しみにしている」

「二度とごめんよ……ただのお茶だったら歓迎するわ」

「フフフフ、それはそれで楽しみだな。しかしアーヴェントよ、私が言うのもなんだが、千年前に袂を分かった我ら先祖の因縁に思うところは無いのか?」

「……ぶっちゃけマルガンは気に食わないわ。でもあなたはあなた。主義信条は相容れないけど、個人としては仲良くなれそうな気がするのよね」

 

 完全な善人とは言い難いが、グイシェンは決して外道に堕ちた悪党ではない。

 彼女には彼女なりの信念と覚悟が備わっている。三聖という世界を救うことを義務付けられた立場にあるために、一存だけで動くことの許されない不自由さが、時折その善性を歪めてしまうに過ぎない。

 

 シャーロットには、マルガンが与する天蓋領に家族を奪われた忘れられない過去がある。幾度となく酷い目にも合わされた。

 今だってそうだ。天蓋領の勝手な都合で裁定などというわけのわからない死闘をさせられ、これまでにないほどの命の危機に直面した。

 

 もしこの戦いにグイシェンの我欲が混ざっていたなら、シャーロットは嫌悪を抱いていたかもしれない。

 けれど、どちらかと言えば彼女は戦いに消極的だった。和解の交渉を挟み、威圧してまで戦う選択を捨てさせようとしたのは、裁定の決闘そのものが本意ではなかったからだ。

 

(あのお方とやらの意図を測りかねてるってグイシェンは言ってた。上からの圧力で従わざるを得なかったってところなんでしょうね)

 

 なればこそ、個人として憎悪を向けるべき相手では無いのだ。

 敵対こそすれ、シャーロットはそこまで感情に支配される女ではない。

 

「…………ああ、私も似たような気持ちだよ」

 

 薄く、薄く、霞のようにグイシェンは微笑んだ。

 二大王族のしがらみとは無関係に、シャーロットという少女のことが心の底から気に入ったと、嬉しそうに見せた笑みだった。

 

「ではな。また会おう、シャーロット」

 

 言葉を皮切りに、グイシェンは淡い光に包み込まれて姿を消した。

 

 風に吹かれ、夜が目覚める。

 気付けば空はすっかり暗幕に包まれていた。山頂から見上げる星空は眩しいくらいの満開で、黄金に輝く月明かりが絢爛に花園をライトアップしている。

 

「ヴィック、起きられる? 全部終わったわ、家に帰るわよ」

「ぅぐ……」

「辛そうね。少し休んでからにしましょうか」

 

 意識は戻らない。だが千年果花の力で傷は治っている。目覚めるのも時間の問題だろう。

 それまでの間、ヴィクターを寝かせて待つことにした。

 

「んしょ。体が大きいとサイズが少なくて大変ね」

 

 山頂はただでさえ冷える。夜になれば尚更だ。

 低体温症にならないようポーチから取り出した毛布をそっと被せつつ、ヴィクターの頭を膝に置いた。

 

 その時だった。

 花弁を大きく舞い上がらせるほどの突風が、火口の湖に波を生んだかと思えば。

 世界樹に住まう黒竜が、翼をはためかせながら二人の前に降り立ったのである。

 

「っ」

 

 グイシェンによって御されていたこの竜は、戦いの時も横槍を入れることなく世界樹の樹上で様子を見守っていた。

 今、この頂点捕食者の手綱を握る存在はいない。

 

 まさかここに来て竜と戦うのか──胸を騒めかせた杞憂はすぐに失せた。

 

 竜は何もしなかった。

 生きた夜空のように美しく巨大な竜は住処を荒らされた怒りや敵意のようなものは微塵も感じさせず、ただただじぃっと、満月の瞳でシャーロットを見つめていた。

 

「……ど、どうしたの?」

 

 縦に割れた瞳孔に目を合わせると、不意にノイズが脳裏を駆けた。

 思念とでも言うべきか。目の前で鎮座する竜の感情が、手紙になって届けられたかのように頭の中へと響いてきたのだ。

 

 ──永い、永い、ただ生きているだけの退屈な日々。

 ──干乾びるようだった永劫に余興という潤いを与えてくれたこと、我が縄張りから不浄の者を退けてくれたことを感謝する。

 ──これはその礼だ。懸命なる小さきもの、末裔の子よ。どうか受け取っておくれ。

 

 人の言葉に直すならば、竜はそう言っていたことだろう。

 黒竜はそっと鎌首をもたげ、シャーロットに顔を近づけると、一粒の涙を地に落とした。

 不思議な現象が起こった。外気に触れた涙は雫状の結晶と化し、オパールのような虹色の輝きを孕むクリスタルに姿を変えたのである。

 

「……くれるの?」

 

 そっと拾い上げれば、鉱物質な見た目とは裏腹に仄かな温かさが手を伝った。

 まるで水晶で出来た心臓だ。とくんとくんと凝縮された生命エネルギーを波打たせる竜の涙は、それそのものが生きているのかと錯覚させられるほどの魔力塊だった。

 

 大事に抱え、竜に向けて笑みを返す。

 

「こちらこそ、花蜜を許してくれてありがとう。お陰で妹の命が助かるわ。そのうえ竜の涙石まで……本当に良いの? お家を荒らしちゃったのに」

「■■■■」

「……ん、わかった。有難く頂いていくわね」

 

 竜は満足気に喉を鳴らし、空を覆うほど大きな翼を広げると、世界樹に向かって飛び去っていった。

 意外とフレンドリーな子なのね、とシャーロットは生まれて初めて竜と言葉を交わした感動を胸に仕舞い込みながら、呻き声を上げてのっそりと起き上がったヴィクターを見た。

 

「うぅ……んむ……む……はっ!? グ、グイシェンは!? どうなった!?」

「落ち着いて。もう全部片付いたわ」

「片付いたって……おいおいまさか、ここは天国じゃあるまいな!?」

「違うわバカ。勝ったのよ。ふふ、一泡吹かせてやったわ」

「勝った……? アレに勝ったのか!? ははっ、やっぱシャロはすげーな! 俺ァ手も足も出なくて……!」

「何言ってんの、これは二人の勝利でしょ。ほら、ハイタッチ!」

 

 差し出された手にまばたきをして、破顔。ヴィクターは景気よく手を叩いた。

 乾いた凱歌が木霊する。二人は長い旅の決着を、ようやく噛み締めながら笑いあった。

 

「さ、千年果花の霊薬も手に入れたことだし、コロポックルたちを迎えに行きましょ」

「ああ。家に帰ろう。妹ちゃんが待ってる」



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30.「夜明けに、ただいま」

 日数にして10日と少々。

 離れていた時間は決して長くないとはいえ、孤島で二人の帰りを静かに待っていた古めかしい巨大な我が家を目にすると、なんだかとても久しぶりに帰って来たかのような錯覚が込み上がって来るから不思議なものだ。

 

 それほど過酷を極めた旅だった。我ながらよく生きていたものだとヴィクターは思う。

 実際死にかけていたらしい。千年果花の霊薬が手に入らなければ、今ごろ辰星火山が自分の墓碑になっていたとか。

 

 治療してくれた経緯を説明する時のシャーロットがどうも歯切れ悪く、モゴモゴはぐらかしていたのが引っ掛かるが。

 

「わーおっきなお家! だいはくりょく!」

「魔力たくさん! 精霊さまいっぱい! すごいすごい!」

 

 ポータル・オベリスクを介し、二人と共に島を訪れた小人(コロポックル)たちは大層なはしゃぎようだった。

 まるで初めて遊園地に来た子供のように目を輝かせながら、ぴょんぴょん飛び跳ねて興奮と喜びを体いっぱいに表現している。

 

「本当にここで暮らしていいの?」

「もちろん。今日からあなたたちのお家よ」

「おおー!」

「感謝。感謝」

 

 分類学的には人間より自我を得た精霊──妖精に近い小人(コロポックル)は、食性のほとんどを冥脈から還元される自然の魔力が占めている。

 それゆえ都市部ではなく『禁足地』を生活の拠点とする生態を持つが、カースカンの姦計により黄昏の森に住むことが出来なくなってしまった。

 

 そこでシャーロットの提案によりこの島へやってきた。住処と食事を提供する代わりに、労働力として雇ったのである。 

 小人(コロポックル)は手先が器用な種族ということもあって、館の清掃や畑の維持管理など、今までシャーロットがほぼ単独でこなしていた作業を任せるにはうってつけの人材だった。

 

「さっそく館を案内したいとこなんだけど、皆ドロドロだから一先ずお風呂入りましょ。今までは個室のお風呂使ってたけどこの人数だし、大浴場お掃除して再稼働させましょうか」

「新しい服も必要だな、みんな蓑がボロボロだ。俺が風呂場掃除してくるから、シャロは服を頼めるか?」

「りょーかい。じゃあそっち任せたわね」

「クロウデ、わたしたちもお手伝いする」

「働く。働く」

「おーよろしく頼むぜ」

 

 十人の小人(コロポックル)を引率しながら、館の東棟、書庫にほど近い住居スペースのそばにある大浴場へと向かっていく。

 

「ひろーい!」

「ここがお風呂なの?」

「湖みたい!」

「改めて見るとほんと広いなぁ。昔は人がたくさん住んでたってのも納得だ」

 

 かつては大勢の従者がここで日頃の疲れを癒していたという、広々とした大浴場。

 すっかり寂れきって水垢や埃が積もっているが、浮足立つ小人(コロポックル)につられて、ヴィクターも袖を捲りながら湧き上がるテンションに鼻息を荒くした。

 

 なにせただのドデカい浴槽ではない。

 歴代のアーヴェント当主が従者たちに少しでも快適に過ごしてもらえるようにと、ジャグジーやサウナに始まり、お湯のベッドへ包まれるような水流風呂、滝風呂、電気風呂、水風呂と、孤島の施設とは思えないほどの快適スバラシイ空間として設備が充実されているのだ。

 

「よーし全力で綺麗にするぜ! 道具を持てッ!」

「おー!」

 

 ブラシをかかげ、汚れという大敵に立ち向かうべく駆け出していく。

 最初は指示を飛ばしながら作業をしていたが、小人(コロポックル)たちの連携能力は想像以上で、司令塔はすぐに不要となった。

 

 黄昏の森という苛烈な自然環境で協力しながら暮らしていただけはある。

 抜群のコンビネーションに舌を巻いていたのも束の間、おやつ時までかかるかもしれないと思っていた清掃は、あっと言う間に終わってしまった。

 

「ピカピカ。つるつる」

「わぁい、綺麗になった」

「すげえな……想像以上に早く済んじまった。どうすっかな、最初の汚いお湯だけ捨てたら一旦シャロのとこまで戻るか? 洗髪剤も必要だし」

「クロウデ。このおっきいボタン押せばいい?」

「ああ。それがお湯の出るボタンだ」

「おおー。押す押す」

「のんのん。わたし、わたしが押す」

「だめーっ! 私が押すの!」

「んぅー!」

「ははは。喧嘩するなって」

 

 ボタンの取り合いでわちゃわちゃ争い始めた小人(コロポックル)たちを諫めながら、和やかな光景に頬を緩める。

 血と泥を転げまわるようだった旅の後なだけに、こうした小さな団らんが一層愛おしく感じるものだ。

 

 小人(コロポックル)たちは寄せ集まって一緒にボタンを押し、最初に流れ出た水を捨てて、栓をしてから再びボタンを押し込んだ。

 あとはお湯が張られるのを待つだけだ。

 

 ならば一人で服の用意をしてくれているシャーロットの手伝いに行こうと振り返れば、ちょうどよく本人がやって来ていた。

 

「あら? 早いわね、もうお湯張り始めてる」

「コロポックルたちの手際がめちゃくちゃ良くてな。こいつらすげー働き者だぞ」

「ふんす。頑張った」

「褒めて褒めて」

「ふふ。ありがとうね、みんな。代えの服も用意出来たから、お湯張り終わったら好きに入っていいわよ」

「やったー!」

 

 ぴょんぴょん飛び跳ねる小人(コロポックル)たち。

 みるみる溜まっていくお湯の具合から服を脱いでいる間に準備が出来るだろうと、シャーロットに案内されて脱衣所へ向かっていく。

 

「王の血、クロウデ、一緒に入ろー」

「御意」

「なに上着脱ぎ捨ててんだバカ。ごめんね、私と彼は別々で入らなくちゃいけないの。みんなとは大丈夫なんだけど」

「? どうして?」

「えーっと、私たちの種族ルールって感じかな。コロポックルとはちょっぴり違った事情があってね」

「俺は全く構わないんだが?」

「次喋ったら千切り捨てるわよ猿」

「何を……!?」

 

 戦慄する筋肉モンキーをよそに、終始クエスチョンマークを浮かべている小人(コロポックル)を宥める。

 結局、シャーロットとヴィクターの2グループに分かれてお風呂タイムと相成った。

 

 

「コロポックルって全員女の子なのか?」

「生物学的な意味で厳密に言えばそうなるらしいけど、人間の範疇で考えれば無性別ね」

 

 綺麗さっぱり汚れを落とした昼下がり。

 小人(コロポックル)たちを寝室に案内して寝かしつけた二人は、長い廊下を横並んで歩いていた。

 

「あの子たちは人間より妖精に近いから、冥脈の魔力を素体に自分の一部を混ぜて、限りなく同一人物に近い別人を作って繫殖するの。だから性別なんてあって無いようなものなのよ」

「限りなく同一人物に近い別人……あー、それでみんな見た目そっくりなんだな」

「おかげで思念をリンクさせやすいから、微弱なテレパスで近くの仲間と意思疎通してるらしいわよ。個性はあるけど、みんなでひとつって感じなのかしらね」

 

 髪質や体長のようなちょっとした差異はあるが、小人(コロポックル)はみな一様にそっくりな見た目をしている。

 くりくりと大きな瞳に、ぷにっとした手足。あどけなさを色濃く残す丸い顔。

 それは疑似的な単為生殖からなる、クローニングに近い形質によるものだ。ゆえに性別という概念が無いに等しい。

 大浴場でのすれ違いは、いわば種族間の文化的差異のせいと言えるだろう。

 

 他にも違いはある。思念をリンクし、独自のネットワークで互いを認識し合っているために、個人を名前で識別する必要が無い関係上小人(コロポックル)の文化に人名は存在しないのだ。

 ヴィクターやシャーロットを『クロウデ』、『王の血』と呼ぶのはそのためである。あくまで分別程度に特徴を抑えているだけで、固有名詞をつける風習がないからこそのアダ名だった。

 

「各々が個性をもった群体生物みたいなもんか。言われてみれば、寝る時は必ずまんじゅうみたいに固まって寝てるよな。あれもテレパスとかが関係してたりするのか?」

「そうみたいよ、みんなで一緒に夢の中でお話してるんだって。しっかし可愛いわよねーあの寝姿! ちっちゃい子が寄せ集まってスヤスヤ寝ててさ。永遠に眺めてられるわ」

「よだれ出てるぞ」

 

 普段の気丈さから意外なことだが、シャーロットは可愛いものに目が無い。

 以前親グリフォンの背にしがみついて登場した仔グリフォンを目にした時は、甲高く黄色い悲鳴を上げていたほどだ。

 小さくて愛らしい小人(コロポックル)たちの一挙一動には、たいそう癒されている様子である。

 

「さて……と」

 

 一室の前に立ち止まり、シャーロットは気を引き締めるように唇を結んでドアノブに手を掛けた。

 彼女の自室だ。つまり、止まった時の檻でリリンフィーが眠っている場所でもある。

 

「俺も居ていいのか?」

「うん。万が一のために人手があったほうが助かるから」

 

 千年果花の霊薬が詰まった小瓶を握り締め、意を決してシャーロットはドアを開いた。

 

 灯りの無い暗澹とした部屋に、透明感を帯びる青色の結界がぼんやりと光を放っていた。

 六角形の隔絶空間だ。リリンフィーが眠るベッドを中心に展開されていて、傍のテーブルで仄かに明滅する懐中時計を核に、時間の流れが止められている。

 

「段取りはあるか?」

「時間の流れを正常に戻して、リリンが目を覚ましたら花蜜を飲ませる。それだけよ。……スムーズに行けばだけど」

 

 リリンフィーはエマの手により、肉体を異形の姿へと改造されている。

 しかも星の刻印による侵食は、体だけにとどまらず精神にまで及んでいる可能性が高い。

 事実、シャーロットはエマに幾度も洗脳を施され、認識能力や記憶に齟齬が生まれるほど深刻な精神汚染を受けていた。

 

 ただでさえ『純血』の影響で虚弱体質なリリンフィーだ。意識を取り戻せば、洗脳や肉体改造のショックでパニックを起こす危険がある。

 

「もしリリンが暴れたら、多少乱暴でもいいから全力で拘束して。千年果花を飲ませることが最優先だから」

「わかった、任せろ」

 

 うなずいて、シャーロットは懐中時計の機能を停止した。

 結界が泡と消えていく。凍てついていた空間に色が戻り、落下途中だった微細なホコリがゆるやかに床へと舞い降りた。

 

 毛布の下。リリンフィーの足が不気味にうごめき始める。

 刻印の呪いが目覚めたのだ。無秩序に増殖を繰り返す癌細胞のように、リリンフィーの足から別の足がみるみる生え伸びようとしていた。

 

「ん……ぅ……っ……?」

 

 眉を八の字に曲げながら、白髪の眠り姫の意識がゆっくりと浮上した。

 まぶたが開く。朧を揺蕩う深海色の瞳が露わになり、辺りをぼんやりと見渡していく。

 

「リリン、私よ。わかる?」

「……おねえ……ちゃん?」

「! そう、そうよ、お姉ちゃん。わかるのね?」

 

 混乱させないよう声を柔らかく保ちながら、人体改造の後遺症で雪のように白くなってしまった妹の髪を優しく撫でる。

 けれど、リリンフィーは込み上がる不安を抑えきれないように唇を震わせて、激しく瞳を揺れ動かしながら振り絞るように声を漏らした。

 

「ひっ……うぁっ、ぁ、あ、あの人は? あの人はどこ……!? やだ、おねえちゃん逃げて、はやく、あの人が来ちゃう……!!」

「大丈夫、落ち着いて。エマはもういなくなったの。あなたを傷つける人は誰もいないわ。ゆっくり息を吸って、深呼吸して。大丈夫だから、ね?」

「ふぇっ、う、ぁああっ、やだ、やだぁっ……! 痛い、痛いよ、おねえちゃん、足が、足がすごく痛いのっ、助けて、助け、うぁあっ! いっ、うぅ、ううううぅぅ……!!」

 

 変異の激痛、記憶の混濁。

 それら合切による錯乱に見舞われ、リリンフィーは滝の汗を流しながらシャーロットへすがりついた。

 

 バチバチと弾ける音の玉。

 空気抵抗を食い破る小さな稲妻のようなそれは、リリンフィーの内から立ち昇るように現れた漆黒の雷電が放つ絶叫だった。

 

 幼い少女の血に眠る『純血』。即ち、純度100%の黒魔力。

 かつての王に並ぶとされるその力が暴威を纏えば、何が起きるかは想像に難くない。

 

「まずい、魔力が暴走を……!」

「俺がやる! 妹に専念しろ!」

 

 ヴィクターが暴れ狂う黒雷の大蛇をわし掴み、締め上げるようにして捻じ伏せた。

 その隙にシャーロットは妹を抱き起こし、喘鳴と過呼吸に喉を焼かれゆくリリンフィーに小瓶を見せる。

 

「リリン、見える? このお薬を飲めば治るから。まずは一緒に深く息を吸って、ゆっくり落ち着きましょ。ほら、すぅーっ、はーっ」

「すぅーっ、はーっ」

「上手上手。ゆっくり、ゆっくりね」

「こふっ、えほっ、えほっ……おくす、り?」

「そうそう。病気を治せるお薬を見つけてきたの。ネバネバしてるから喉に詰めないように飲むのよ。大丈夫、甘くて美味しいわ」

「ん……」

「よしよし、良い子」

 

 小瓶を受け取り、中身をこくこくと流し込んでいくリリンの髪を優しく撫でる。

 飲み干す頃には、ヴィクターの腕から抑えつけていた黒雷が無に消えた。

 

 精神状態が落ち着いたか、早くも千年果花の効果が表れたのか。

 蝕む悪夢から解放されたように、霊薬を飲み干したリリンフィーの呼吸は穏やかなものへと変わっていた。

 

「効いてるのか?」

「きっと。ううん、絶対効いてる」

 

 不透明だった効能はすぐに姿を露わにした。

 歪に膨らんでいた毛布の凹凸がしぼんでいる。シャーロットが少しだけ布をめくれば、大腿から枝別れするように生え伸びていた異形の足が、萎れたキノコのように干乾びて落屑していた。

 

 足の切断痕や焼き潰された創傷部も綺麗さっぱり無くなって、すべすべと滑らかな柔肌に戻っている。

 死人のようだった青白さは失せ、顔色は健康的な紅潮をほのかに帯びた。薬効が血流を促進させ、体温を上昇させているせいだろう。

 

 苦悶の色は見当たらない。霞んでいた(まなこ)は既に輝きを取り戻し、しっかり焦点を合わせている。

 心配そうに自分の手を握るシャーロットに気がついて、瞳いっぱいに姉の姿を映し込んでいた。

 リリンフィーはふにゃりとした微笑みを姉に向けながら、シャーロットの手を握り返す。

 

「おねえちゃん」

「……!」

 

 その笑顔に、求め焦がれていた妹の安寧を見て。

 シャーロットは安心とも歓喜ともつかない、じわりと熱いナニカが込み上がってくるような感覚を胸に抱いた。

 

 そっと押しとどめて、甘えてくるリリンフィーの指をさすりながら微笑みを返す。

 

「大丈夫? もう痛くない?」

「うん、うん。平気だよ。すっごく具合がいいの。ふわふわして、とっても良い気持ち」

「そっか。良かった」

 

 心の底から零れるような安堵。

 峠は越えたと確信した。リリンフィーの顔色を見れば一目瞭然だった。

 

 風前の灯火だった儚さは失せ、力強い生命力で満ち溢れている。

 千年果花の霊薬が狂っていた肉体を修繕したばかりか、『純血』の後遺症による虚弱体質をいくらか改善したのだろう。

 

 心臓が魔力を作るという性質上、生きている限り『純血』の過負荷から逃れることは出来ない。

 しかし少なくとも、服薬する以前よりかは格段に良くなっているはずだ。

 

 毎日のように高熱でうなされていた過去を知るシャーロットだからこそ、リリンフィーの容態がどれだけ良好なものへと変化したのかが、克明なまでに理解出来ていた。

 

「……えっと、その」

 

 ささやかな沈黙。

 何と声をかければいいのか分からなくて、紡ぐ言葉を見失った唇が、居心地悪そうに路頭を迷う。

 

 

 久しぶり──は違う。

 ごめんなさい──もまた違う。

 

 

 死んだと思い込んでいた妹が生きていてくれたばかりか、また一緒に生活できることへの喜び。

 失われた時のぶんまで溢れ出てくる無上の愛。

 エマの洗脳で偽装された死を信じ、長い時の中を孤独の闇に放ってしまったことへの責任感。

 なにより彼女の肉を喰らい続けていたという、引き裂かれそうな罪悪の茨。

 

 湧き上がる感情の群れは、さながら濁流のように勢い濁り。

 何を口にすればいいのか、何から喋ればいいのか、シャーロットには分からない。

 

「おねえちゃん。おねえちゃん」

 

 そんな姉の心をすくい上げるように、リリンフィーはぎゅっと抱きついた。

 

「本物のおねえちゃんだ。えへへ、おねえちゃん。温かいなぁ」

「……リリン」

「おねえちゃん。あのね、わたしね、ずっと信じてたよ」

 

 それはふわりと差し込む、やわらかな陽だまりのような。

 

「体が動かなくて、起きてるのか寝てるのかも分からなくて、真っ暗で、とっても怖かったけど、ぜったいぜったい助けてくれるって信じてたの。だからわたし、諦めなかったんだ」

「っ」

「そしたらね、本当に助けてくれたでしょ? やっぱりおねえちゃんは凄いんだ。いつも守ってくれるもん。わたしのヒーローだもん」

 

 見る人を幸せな気持ちにさせるような屈託ない微笑みに、漏れた吐息は震えて消える。

 目頭の奥が、茹ったみたいに熱を帯びるようで。

 

 ──違う。あなたを助けたのは私じゃない。むしろ苦しめてしまっていた。

 

 唇からこぼれかけたソレを、そっと肩に置かれた手が押し止めた。

 振り返れば、首を横に振るヴィクターの姿。

 妹にとって理想の姉でいてやれ──語外の訴えに応えるように、シャーロットは瞳を潤ませながら気丈に振舞う。

 

「あっ、あったりまえでしょ? このシャーロット・グレンローゼン・アーヴェントに、不可能なんてものは存在しないのよっ。どんな時でも、誰が相手でも、あなたを守るのがお姉ちゃんなんだからね」

「うん、うん」

 

 胸に抱き寄せて、リリンフィーを撫でながら上を向いた。

 頬を伝う熱い雫が見えないように。この子の前では、誰よりも強い姉でいられるように。

 

「助けてくれてありがとう、おねえちゃん。大好き」

「っ……私もよ、リリン。もう二度と、何があっても、あなたの手を離したりなんかしない」

 

 無二の肉親が帰って来たという再会を、指先のひとつひとつで感じながら。

 くしゃくしゃに笑って、シャーロットは振り絞るように言った。

  

「おかえり。リリン」

「ただいま。おねえちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クロウデ、泣いてるの?」

「いや? 泣いてなんかねえよ」

 

 廊下。鼻を啜りながらひっそり部屋を抜け出したヴィクターは、枕を抱えて歩く5人の小人(コロポックル)たちと鉢合わせた。

 シャーロットが仕立てた寝間着を身につけている。一人一人色が異なっており、頭には三角形のナイトキャップがちょこんと乗っていた。

 

「うそ。泣いてる」

「おめめまっかっか」

「どうしたの? 王の血と喧嘩?」

「違う違う、目にゴミが入っただけだ。それよりどうしたんだお前ら揃いもそろって。まだ寝てて良いんだぞ」

「んぅ。王の血と一緒にお昼寝しようと思ったの」

「王の血、お風呂のとき不安そうにしてた」

「みんなで寝れば安心。ぐっすりすっきり」

「……はは、お前ら優しいなぁ。気にかけてくれてありがとよ」

 

 わしわしと小人(コロポックル)の頭を撫でながら、「でも大丈夫だ」と目線の高さを合わせて、

 

「今はそっとしておいてやってくれ。……亡くなったと思ってた家族と再会できたんだ。姉妹水入らずの時間が必要だからな」

「! 妹さま、治ったんだ」

「よかった。よかった」

 

 ぴょんぴょん跳ねながら、喜びと祝福のバンザイポーズ。

 ヴィクターは微笑みながら小さな背中に手を添えて、部屋と反対の方角へ進むよう促していく。

 

「さ、邪魔者は退散だ。せっかくだから妹ちゃんの復活祝いと、お前らの歓迎会の前祭を兼ねておやつタイムといこう。メインは夕飯まで我慢してくれな?」

「おやつ!? おやつ!」

「甘いもの、甘いもの。うれしい」

「リクエストはあるか? 簡単なものしか作れねーけど」

「ん! どんぐり!」

「どんぐりは無いなぁ」

「あぅぅ……」



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31.「凶兆の夜嵐」

 遥か空の彼方。さらにその先の隔絶境界。

 断絶された次元の狭間、白亜が一面を覆い尽くす異様な空間に、唯一無二の色として存在する城塞があった。

  

 天蓋領。世の均衡と安寧を保つために存在する統括機関。

 

 その第三セクター。またの名を魔法技術特進開発区と称される、最新鋭の研究が昼夜を問わず行われているエリアを、隻眼の武聖グイシェン・マルガンは靴音を響かせながら歩いていた。

 

(相変わらずテーマパークのような場所だな。訪れるたびに様相がガラリと変わる)

 

 魔法研究の先陣を突き進むこの地区は、技術水準が地上文明と比較しておよそ50年以上、下手をすれば100年近く先に到達しているとすら囁かれる、魔法の果ての魔法を拝める特区である。

 

 様々な最先端技術の試験運用が行われている関係で、何らかの試作品(プロトタイプ)と思わしき奇怪な品々や、グイシェンにはよくわからない珍妙な発明品がそこらじゅうに散見されるエリアなのだ。

 

 現在進行形でグイシェンの周囲をふよふよと飛び回る、液体金属で出来た目玉のようなゴーレムや、顔が浮かび上がる異形の壁はきっと何かの産物なのだろう。

 

『スタッフの負傷を確認。スタッフの負傷を確認。登録者名、グイシェン・マルガンの左腕欠損ならびに軽度の失血をスキャンニングしました。医療用ナノゴーレムおよび生体置換ヘルススライムの使用許可を申請します』

「いや、いい。治療はこの先で行ってもらう予定なのだ」

『すでに叡聖様より指令を受諾しております。義体移植の前準備として、処置を行わせていただきます』

「ふむ、叡聖殿が……? ならばよろしく頼もう」

『かしこまりました。これよりオペレーションを実行します』

 

 ただよう液体金属の目玉は、おそらく災害救助用に設計された自律型医療ゴーレムなのだろう。

 金属の一部が変形し細かな粒となって分離しつつ、中から黄色の液体が詰まったシリンジが現れた。

 創傷部分に癒着して生体組織を補完しつつ、治癒術式の付与を行うヘルススライムと呼ばれるものだ。

 

 グイシェンの左肩周りの布を、ピンセット状に姿を変えた液体金属の粒たちが丁寧に剥がしていく。

 露わになる切断面。鬼人(オーガ)の血によるものか、既に血管は閉じられ皮膚が再生し始めていた。

 

 ひやっと冷たい感覚。ヘルススライムが塗布されたらしい。

 痛みは無い。表面を黄色いアメーバが粘々と這い回って、患部全体を保護するように覆っていく感覚だけが伝わってくる

 

『処置が完了いたしました。先へお進みください』

 

 離れていく目玉を尻目に、グイシェンは鍔の広いとんがり帽子のマークが刻印されたパネルへ手を触れた。

 

「叡聖の間へ」

 

 足元の魔方陣が起動音と共に輝き、光の柱がグイシェンを包み込んだ。

 座標移動による転送魔法。行先を指定して立っているだけで目的地まで運んでくれるとは便利なものだと、グイシェンは光の膜が消えるのを待つ。

 視界が晴れ、そして。

 

 

「叡智ッ! 叡智ッ! 叡智ッ! 叡智ッ!」

「………………」

 

 

 待っていたのは、珍妙な雄叫びを張り上げながらものすごい勢いでバーベルを操るブーメランパンツ一丁のチョビヒゲ筋肉ダルマだった。

 右目まで失明するかと思った。

 

「叡智ッ! 叡智ッ! 叡智ッ! 叡──やや? これはグイシェン嬢。お早い到着で」

「…………つかぬことを聞くが叡聖殿。貴殿は一体何をやっているのだ?」

「無論、叡智を鍛えておりましたとも」

 

 総重量500kgはかたいバーベルを軽快に扱うブロンドチョビ髭の男は、むんっ、とブッとい上腕二頭筋を盛りあげながら自信満々に言い放った。

 

 筋トレと叡智に何の相関があるのか。頭が宇宙(コスモ)に包まれたグイシェンだが、世界最高の頭脳にして類稀な魔法技能を持つ頂点到達者、叡聖の言葉に偽りはないはず。

 なんだかよく分からないが「なるほど」とうなずいた。

 

「叡智とは鍛え上げられた頭脳にこそ宿るもの。そして脳とは、ニューロンの皺に書を刻み、見聞を叩き込み、幾度も思考を繰り広げることで磨かれゆく珠であります。筋肉もまた然り。過酷な鍛錬の果てにしか生まれ得ない鋼であることは、武聖であるグイシェン嬢こそよく理解されておりましょう」

「まぁそうだな」

「つまり脳とは筋肉であり、筋肉とは叡智なのであります!!」

 

 ぴしゃーん。グイシェンに衝撃という名の雷が落ちた。

 

「そう、なのか? そうなのか」

「そうですともッ! つまり即ち要するにッ!! 天蓋領第三セクターにて世を豊かにすべく数々の新魔法理論を日々導出し、テクノロジーレベルを百年先まで躍進させたと名高き稀代の大天才にして至天の賢人! そう! 我が輩ことヴァイスダム・エイブラハムが筋肉を搭載すればイコール全身が頭脳!! かの賢者オーウィズをもしのぐ叡智にまで届くというのは必然でありましょうやッ!!」

 

 渾身のモストマスキュラー。瞬間的に体感室温が千度またいで万度に爆発する。

 怒涛の勢いに翻弄されたグイシェンは、「つまり私は武聖であり叡聖でもあるのか……?」と脳を焼かれていた。

 

「さておき、貴女がここに来たのは失くした左腕の件ですな? 叡智を鍛えながら千里眼搭載片眼鏡で戦いの様子を拝見しておりましたので、予見してすでに義手を作っておきましたぞ」

「話が早すぎて助かる」

「五百年に一人の大天才にして遍く宙の知恵を頭蓋に収めた男とは、そう! 我が輩ことヴァイスダム・エイブラハムですゆえ!」

 

 太陽フレア級スマイルとアブドミナルアンドサイの大盛定食。グイシェンは生まれて初めて、光景というものにカロリーが存在するのだと知った。

 

「しかし、いざ肉眼で拝むと……いささか目を疑いますな。まさかあのグイシェン嬢が腕を奪われるなど。他でもない貴女ならば最後の一閃も躱せたでしょうに」

「いいや。不可能だった」

 

 断定。

 まるで言い淀む気配もなく。グイシェン自身が、あれを避けることなど万に一つもありえないと切って捨てた。

 

「あの瞬間、私の肉体は完全に動作を停止していた。認めたのだよ、アーヴェントの少女に気圧されたという現実を。私の裏を完全に掻いた時点で、彼女の勝ちは決まっていた」

「……準魔王級(デミ・マグニディ)との戦いで左目ごと脳を貫かれてさえいなければ、少なくとも腕を失うなど……」

「結果は結果だ。敗北に御託を並べるつもりはない」

「……左様ですかな。ならば我が輩も口を閉ざすとしましょう」

 

 ヴァイスダムはさっそくグイシェンの義手装着に取りかかる。

 パチンと軽快に指を打ち鳴らすと、部屋の奥からゴリマッチョな巨漢というかヴァイスダム自身を模した照り輝く銅像たちがポージングと共に現れた。

 

「それでは御覧に入れましょう! カモァンミュージック!!」

 

 唐突に流れ出すハードロックな音楽にノりながらグイシェンを取り囲むマッスル像軍団。

 一人の像が手に持つそれは、素人目に見ても非常に精緻な設計のもとで開発されただろうと一目でわかる、近未来的に洗練された金属製の義手であった。

 

「最硬と最軟の性質を併せ持つ夢の金属アダマントに、魔力伝導率120%を誇るミスリル鉱を独自のブレンドで混ぜ合わせることにより完成した超合金ッ! オリハルコンの義手にございますれば!!」

「おお……これは……!」

 

 絢爛と輝く王冠のような存在感を放ちながら、さながら深窓の令嬢を彷彿とさせる淑やかさをまとう義手の登場に、グイシェンもその輝きを目を開いて広く受け止めた。

 

「失礼ながらデザイン性の無い無骨なものが来るかと想像していたが……思わずため息が漏れるほど美しいな。滑らかで、それでいてシャープで、気品がある。洒落た彫刻も華美過ぎない飾りも良い」

「最大限に機能性を搭載しつつ女性のニーズもしかと射貫く神の所業……流石我が輩ことヴァイスダム・エイブラハムやはり天才であったか。では失礼して」

「銅像じゃなくて貴殿が作業するのか……」

「神経接続は非常に高度な技術ですゆえな。あのゴーレムらはエキストラです」

 

 演出担当ムキムキゴーレムたちは、鳴り響く音楽にリズムを合わせながら一列に並んで退場していった。

 いいかげん出で立ちが不適切と判断したか、ヴァイスダムが指を弾くと、ブーメランパンツ一丁の装いが端正な軍服姿へと早変わりする。

 

「……ところで、叡聖殿は私の戦いを眺めていたと言ったな?」

「左様ですな」

「あれは私とドラゴレッド卿しか知り得ぬはずの極秘任務だった。なぜ貴殿が把握していたのだ?」

「最果ての地に住まう不死鳥のさえずりをも聞き逃さぬ地獄耳と謳われた我が輩こと、そう、ヴァイスダム・エイブラハムに隠し事は不可能とだけ」

 

 数多の魔方陣を展開し、己の指先と義手をリンクしながら、遠隔操作で微調整を行いつつヴァイスダムは得意気に言った。

 

「しかし奇妙な任務でしたな。暗殺者を雇った上に三聖まで出動させたかと思えば、心臓の強奪を命じるどころか見逃そうなどと……流石の我が輩も困惑いたしましたぞ」

「思惑があるのだろう。これまでも理解し難い命令を下されたことはあったが、無意味だったことは一度として無い。此度もそのはずだ」

「おっしゃる通り。ですが、ふむ……やはりホッとされていたようですな」

「? 何がだ?」

「悪戯に命を奪わずに済んだことです」

 

 関節部の調整を終え、神経接続に取り掛かる。

 ヘルススライムで覆われた傷口にぴったりと張り付く金属板をあてがい、義手を近づければ磁石に吸い寄せられるように引っ付いた。

 

「我が輩の情報が正しければ、心臓の代替案の模索を卿に申し出たのは貴女自身だと」

「……」

「正鵠ですかな?」

「……たとえ逆賊の子孫だとしても、弄ぶように人命を損なう行為は天蓋領の在り方に反すると思っただけだ。我々は万民の盾である。アーヴェントとて例外ではない」

 

 ()()()()エマの報告文書に目を通したグイシェンは、水面下でドラゴレッド卿が事実上のアーヴェント抹殺を企てていることを知り、直談判を行っていた。

 

 封印の中で眠る『白薔薇の聖女』を復活させることは、恒久的な世の平和のため、天蓋領の悲願であることは知っている。

 それにはどうしてもアーヴェントの心臓が必要だということも。綺麗ごとでは済まない、手を汚さねばならない歴史の暗部なのだとも承知している。

 

 だが報告に記されていた目も当てられないような虐殺は、必要な犠牲と謳うにはあまりに多くの血を伴い過ぎていた。

 ここまで手を汚す必要性が本当にあったのか。千年前とは違い、劇的に魔法技術を進化させた現代において、本当に『純血』のアーヴェントでなければ成し得ないものなのか。

 

 なにより民草の盾として存在する天蓋領が、大義のためとはいえ殺戮を良しとするのは存在意義に矛盾しているのではないかと、一抹の疑念を抱いたがゆえの提言だった。

 

「だがな叡聖殿、あのお方が私の言葉で心変わりしたような素振りは無かったぞ。あれはなんというか……私の反対をあらかじめ予見していたかのようだった」

「ほう? では、ドラゴレッド卿は最初から心臓強奪を保留する腹積もりであったと?」

「そのように感じた。むしろ私が口添えするのを待っていたとでもいうような……」

 

 ドラゴレッド卿は天蓋領においても謎多き存在だ。

 三聖ですら謁見することは稀であり、直接的な命令を下す場面をのぞいて、表に姿を現す機会は非常に少ない。

 

 そんなドラゴレッド卿への数少ない共通認識として、聖女復活のため長い時を費やし続けてきた人物であることは周知されている。

 あくまで風説だが、天蓋領が発足された千年前から目的を果たすために暗躍を続けていた最古参という噂もあるほどだ。

 

 いずれにせよ、聖女の復活に対し並ならぬ情熱を持つ人物なのは間違いない。

 そんな彼が如何なる理由をもって、悲願達成を目前に手を緩めたのか。傍から見れば強烈な違和感を覚える行動だ。

 

「……ふむ。ふむふむ。ふむふむふむ」

「叡聖殿、どうされた?」

「実に奇妙だと思いましてな。いえ、ドラゴレッド卿もそうなのですが、アーヴェントらを取り巻く状況が」

 

 神経を義手とリンクさせる。

 ビリッと雷に這われたような痛みが駆け巡ったが、グイシェンの顔色に変化はない。

 

「我ら天蓋領が血眼になって探し求めながら、足取りすら掴めなかったアーヴェントの存在。それが千年の節目にして唐突に発見されたばかりか、理論上存在すら危ぶまれた『純血』まで生誕しているという現状。奇跡と呼ぶにはあまりに重なり過ぎているとは思いませぬか?」

「……」

「文字通り千載一遇のチャンスと称するほかありませぬ。手段を選ばずして事に当たるのが自明の理。しかし肝心のドラゴレッド卿は魚を泳がせるような真似ばかり。別段、心臓を回収する方法に手をこまねく必要も無いというのに」

 

 ヴァイスダムの発言はもっともだ。

 

 アーヴェントを反逆者と捏造し、重要指名手配として騎士団に討伐を命じるなり、より確実性を持たせるならば剣聖を出動させるなり、やりようはいくらでもあった。一切の抵抗も与えず捻り潰すなど造作もないことだ。

 

 エマを単独潜入させた件もそうだ。アーヴェントの隠れ里を見つけたのならば、『人錬の刻印』による洗脳を用いて一気に雪崩込めばそれでよかった。

 

 あとは『サンプル』を回収して、天蓋領で熟成させれば済む話だ。

 獲物をむざむざ自由にさせる理由など微塵も無い。放置すればするほど、不確実性は増したはずである。

 もし仮に希少な『純血』のアーヴェントが病で亡くなりでもしたら、目も当てられない失態だったことだろう。 

 

 なのに、ドラゴレッド卿はまるで決断を早まらなかった。

 

「どころか敵に塩を送るように駒を動かしている。単独で刺客を送り込むという点を一貫してね。迎撃される可能性を高めるばかりか、経験を蓄積させればそれだけ彼らの力は肥大します。事実、貴女との戦いでアーヴェントの少女は覚醒した。これではまるで、わざわざ乗り越えさせるための試練を与えているかのようだ」

「……ドラゴレッド卿はわざと彼らに力を蓄えさせているとでも?」

「根拠も無い推測ですが。少なくとも、我が輩の眼にはそう映ります」

 

 思い当たらない節が無いわけでない。

 

 ドラゴレッド卿はグイシェンに裁定を命じた。力及ばぬなら心臓を抜き、値するなら見逃せと。

 もし、ドラゴレッド卿がアーヴェントの虐殺に反対されることを予期していたとして。()()()()()()()()()()()()()()()()としたら?

 

 あの裁定は天蓋領が彼らを試すのではなく、手加減の枷をはめた三聖との──世界最高戦力との戦闘経験を積ませるための模擬戦だったのではないか?

 

「だとすれば……何のために……?」

「そこまでは測りかねますな。謎を暴くには材料が足りなさ過ぎる。現段階で述べられることがあるとすれば、理由はさておき、ドラゴレッド卿にとって真に必要なのは心臓単体ではなく、彼らそのものということです。それもある程度の困難を乗り越えられるほどの力を着けた……という修飾がつきますが」

 

 ただ、とヴァイスダムは付け加えて。

 

「最も気になるのはあの少年です。報告によれば、少年が現れてからアーヴェントの状況は激変した。千年の節目に都合よく現れ、『純黒の王』の腕を持つに至った彼の存在は、一見すると不可解なドラゴレッド卿の行動と何か関係がある特異点なのかもしれませぬ」

 

 済みましたぞ、とヴァイスダムは豪快なサイドチェストと共に接続作業を終えた。

 

 動作を確認すれば、驚愕なことに腕を失う前となんら変わらない感覚で左腕が稼働するではないか。 

 それだけではない。生身では不可能な関節の動きも可能としている。

 手首や肘関節が回転するのは造作もなく、魔力を籠めれば紋様が輝き、磁励音と共に嵌めこまれた魔石が共鳴を始めるのだ。

 

「素晴らしいな。紋様と魔石に基礎魔法の術式を付与しているのか。オリハルコンの魔力伝導率もあいまって、無詠唱でも強力な魔法を扱えそうだ」

「他にも少量のエネルギーで山ひとつ吹き飛ばせる小型分子崩壊弾ディザスターミサイルも搭載されておりますぞ」

「それは外してくれ」

「なんと……!? この浪漫をお分かりでない……!?」

 

 哀しみのダブルバイセップス。謎の筋肉発光にも心なしか陰りが見える。

 誤射でもしたら大変だろうと呆れたが、セーフティは掛けてあるとのことで、強力な魔物との戦いで是非使って欲しいと丸め込まれた。

 

「それはそれとしても、流石はヴァイスダム殿。叡聖の名に恥じない一級品だ。幾ら払えばいい?」

「お代は結構ですぞ。代わりと言ってはなんですが、試作品ゆえモニタリングをお願いしたく。あと血液を少々」

「血か? 何に使うつもりだ?」

「我が輩の叡智を更なる高みへ至らせるために必要なのであります! 鬼人(オーガ)とマルガンの混血であるグイシェン嬢の血液には秘められた叡智の階段が隠されていることは間違いないと真理の果てに手を届かせた男と名高き我が輩ことそうヴァイスダム・エイブラハムには」

「……叡智の探求もほどほどにな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「嗚呼、嗚呼、見つけた。遂に見つけたんだ」

 

 陰鬱な空気が充満する暗室。

 爛れた肉欲の残香が這う淫靡の中で、一人の男が滂沱の涙を流しながら嗤っていた。

 

「カースカン。君は最期にとても素晴らしい仕事をしてくれた。ありがとう。本当にありがとう。お陰で僕の、この生まれながら背負い続けてきた罪の汚穢を、浄化してくれる真の英雄が見つかった」

 

 三日月のように裂けゆく口。糸を引いて枕に沁み込む銀の液。

 ケタケタと不気味に破顔する男の狂相は、まるで祈りを捧げ続けた敬虔な信徒が、神の降臨を目の当たりにしたかのような心酔ぶりで。

 

「揺るぎない信念。曇りなき正義の心。不屈の精神。そして悪を憎む暴力。どれをとっても……解釈一致だ……! 君に逢う日が待ち遠しくて狂いそうだよ。こんなにも、こんなにも、人へ恋焦がれる日が来るなんて夢みたいだ!」

 

 ベッドへ縛り付けた物言わぬ華奢な少年を抱き寄せる。

 ソレに偶像を投影するかのように、男はねっとりと首元へ舌を這わせると、猛獣の如く噛みついた。 

 

「ヴィクター。ヴィクター。嗚呼、なんて力強くて、甘美で、神々しい響きだろう……! はやく僕を見つけておくれ。囚われの城の深奥まで、僕を探しに来ておくれ」

 

 食い千切る。肉が、血管が裂ける。中身が暴れ狂うように散って踊る。

 猿轡の下からくぐもった悲鳴が波濤して、痙攣と共に静かになった。

 

 ぐちゃぐちゃと音を立てながら肉片を咀嚼する男は、筋張った繊維の塊をなんの躊躇いもなく呑み込んで。

 

「そして、嗚呼、僕をその手で裁いておくれ。我が愛しき救世主様」



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幕間Ⅱ「眠れる森の賢者」
32.「前途洋々、大きな一歩」


 シャーロット・グレンローゼン・アーヴェントという少女を形容するならば、それは仁愛と覚悟の女である。

 

 先天の病魔に蝕まれる妹を救うことの出来ない無力感から頼れる姉になることを誓い、ひたすら努力に身を投じた純真の心。

 忌々しい炎に家族を奪われながらも、残された幼い肉親を守るための剣にならんと内なる少女を捨てた覚悟。

 しかしなお報われず、物言わぬ一族の墓標にアーヴェントの復活を誓った仁愛の血盟。

 

 どれもこれも、根幹にそびえ立っていたのは家族への深い愛情だ。

 父が。母が。従者が。妹が。かけがえのない宝物のように大好きだったから、かつてシャーロットは誇りを捻じ曲げてまで、生贄の禁術に手を伸ばそうと道を踏み外しかけた。

 

 そんな少女が、亡くなったと思い込んでいた唯一無二の肉親が帰ってきたらどうなるのか。

 答えは至極単純かつ明快にして端的。反動で無敵の姉バカが生まれる。

 

「はぁぁ~~~~んリリン可愛いよリリンほんっと髪の毛サラサラで特上の絹みたいだしお肌モチモチで真珠かなって感じだしお人形さんも目じゃないくらい綺麗だしミルクみたいに甘い香りするし生まれてきてくれて感謝しかないああ本当私の妹世界一かわいいこれもう星の平和が永遠に約束されたと言っても過言じゃないんじゃな」

「お、おねえちゃん苦しい」

「あっごめんねお姉ちゃん強く抱き締めすぎちゃったね大丈夫? 痛いところあったらすぐに言いなさいよほんと遠慮なんてしなくていいからお姉ちゃんにとってリリンが一番なんだから」

(おにいさん助けて……)

(すまんリリンフィー。俺にはその化け物をどうすることもできない)

 

 リリンフィーが目覚めたその翌日。朝からずっと姉に愛でられ続ける妹の姿があった。

 完璧に膝の上に固定されている。それでいて病弱なリリンフィーの負担にならないよう、繊細な緩衝魔法の数々を同時多発的に駆使することで、快適安楽シャーロット椅子と化していた。

 

 長年溜まりに溜まり続け、もう二度と会えないと胸の奥に封じていた姉妹愛が核融合並みのエネルギーで爆発した結果である。

 

「リリン~リリンリリンリリン~」

(自我を失ってやがる……遅すぎたんだ……)

 

 妹愛で専門ゴーレムと化しているが、一日リリンフィー分を摂取すれば多分恐らくきっと元に戻るだろう。

 

 一方のリリンフィーも、苦笑気味ではあるものの、久方ぶりの姉との再会を喜んでいた。彼女なりに心の底から嬉しいことに変わりはないのだろう。 

 

 が、圧が強すぎて飼い主に構い倒されるペットの如く目が死んでいる。

 光を失った空色の瞳で忘我を揺蕩う妹の勇姿に、ヴィクターは拳をグッと握って健闘を祈るのみだった。

 

「みんなー。お茶出来たよー」

「おじゃま。おじゃま」

 

 助け舟を出したのは、ガラガラと銀の台車を押しながら入って来た小さな従者たちだ。

 フリル着きの白いエプロンと濃紺のワンピースを組み合わせたような、クラシックとガーリーを融合させたドレス姿である。

 頭にはクラゲのようにふっくらとした純白の帽子が。さながらメイドコロポックルと言ったところか。

 

 館で心機一転と働くために、シャーロットの手で新調された衣装である。

 小人(コロポックル)たちはそれぞれの得意分野から、大きく分けて畑係、厨房係、給仕係と配置を決められ、それぞれを担当してもらうことになっていた。

 

「あら、良い匂いねー。スコーンも焼いてくれたの?」

「うん。コック長の自信作」

 

 どうやらさっそく、料理上手な小人(コロポックル)が館のレシピをもとに焼き菓子を作ってくれたらしい。

 香り立つ麦の優しいフレグランスと食欲をそそる黄金色の焼け具合に、さすが手先が器用な種族だと舌を巻く。

 

「ねえねえ王の血。あとで皆と食べていい?」

「もちろん。喧嘩しないよう仲良くね」

「やったー! おやつー!」

「んぅ、今はお仕事! お茶注ぐの!」

「はーい……」

 

 凛としたツリ目の小人(コロポックル)が、前髪がくるんと巻き毛になっている小人(コロポックル)の手綱を引っ張るように指示を飛ばした。

 

 互いが限りなく同一人物に近くとも、やはり個性はしっかりと存在するようだ。

 今度名前を考えなければと、シャーロットは膝上のリリンフィーを隣の椅子に座らせながら思案する。

 

「お砂糖とミルクは?」

「私はストレートで」

「わたし、ミルクたっぷりがいい!」

「俺は昨日のやつで」

「かしこまりー。どうぞみなさま」

「お、おにいさん……? 山みたいなお砂糖でカップ埋まってるけど本当にそれで良いの……?」

「紅茶絶命してるでしょそれ」

「バカ言え。これがイイんだこれが」

 

 何の躊躇いもなく糖の山を呷る。飲み物と呼ぶには冒涜的過ぎるカスタマイズだが、本人は満足気だった。小人(コロポックル)は引いていた。

 あまりにも教育に悪いので、絶対に真似しないようにとシャーロットは妹に言い聞かせる。

 

「リリン、スコーン自分で食べられる? まだ腕の力が戻ってないんじゃない?」

「ん……ちょっと辛いかも。リハビリしなきゃだね、あはは」

「もどかしいかもだけど、少なくとも今日までは無理しちゃ駄目よ。本格的に頑張るのは明日から。ほら、フォーク貸して」

 

 妹のスコーンを小さく切り分け、あーんと口に運んであげる。

 リリンフィーは少し気恥ずかしそうに受け取って、豊潤に広がる焼き菓子の甘みに思わず笑顔。 

 

 少しずつ食べさせてもらいながら頬を綻ばせる姿はまるで雛鳥のような愛らしさだ。シャーロットは喜ぶ妹の笑顔に終始デレデレだった。

 

(こりゃ将来リリンフィーが結婚相手でも連れてきたらヤベーことになりそうだな)

「今リリンがお嫁に行くって考えたのはアンタかァ……?」

「何で頭ン中読めてんだよ!!」

「当たり前でしょ! 私の可愛いリリンをどこの馬の骨とも知れない野郎にくれてやるだなんて、想像するだけで胸が張り裂けそうになるもの!! せめて私を倒せるくらい気骨の在るヤツじゃないと────私を……倒せそうな……男…………ヴィクター、部屋から出て行きなさい。リリンの半径20km以内に近づくな」

「お前妹のことになると虫みてーに頭弱くなるな!?」

「うるさいうるさいうるさーい!! 誰が何と言おうとこの子は絶対渡さないもん!! お嫁に行かせるだなんて、天地がひっくり返ったって許すもんですか!!」

「おねえちゃん、重い」

「王の血が死んだ!?」

救護班(めでぃっく)! 救護班(めでぃっく)──っ!!」

 

 妹からの愛が重い発言に心臓をぶち抜かれ、顔面から床にぶっ倒れたシャーロットの背に乗った小人(コロポックル)が、ぼすんぼすんと飛び跳ねて蘇生を図る。

 

「うぅ……リリンから重い女って言われた夢を見た気がする」

「現実だぞ」

「っと、そろそろお買い物に町へ行かなきゃ。えーっとコロポックルたちの服にリリンのための用品にーめもめもー」

「現実を見ろ」

「それじゃパパッと行ってくるわ! すぐ戻るからね!」

 

 旋風のように部屋を飛び出し、新生活に向けての準備をすべく町へ向かったシャーロット。

 台風一過に取り残されたヴィクターはリリンフィーと顔を合わせ、苦笑。

 

 慌ただしい雰囲気ではあるものの、かつてどん底に沈んでいたシャーロットに本物の笑顔が戻ってくれたことに、ヴィクターは心から安堵を覚えるのだった。

 

 

「あっ、言い忘れてたけど買い物行ってる間に変なことしたらぶった斬るわよ!」

「さっさと行ってこい!!」

 

 

 千年果花の霊薬により、リリンフィーを侵食していたエマの呪いは完全に消え去った。

 しかし長らく強制的に休眠状態にさせられていたリリンフィーの肉体は、持ち前の病弱さと相まって自立歩行が困難なほど筋肉量が低下してしまっていた。

 

 霊薬の効果はあくまで身体的異常を正常に治すだけだ。

 例えるなら水路の整備。氾濫した河川を舗装し、あらぬ方向へ溢れ出ていた水の通り道を一本筋に正したようなものである。

 流れる水そのものを増やしたわけではない。元々痩せていたリリンフィーが、急に立って歩けるようになるなど不可能なのだ。

 

 こればっかりは時間をかけて体を作り、元の状態へ少しずつ戻していく他に道はない。

 というわけで、リリンフィーはリハビリが完了するまでの間、反重力術式によりホバークラフトして移動できる安楽椅子を使って広い館を移動している。

 

「ふわぁ、お陽さま気持ちいいなぁ」

 

 リリンフィーの要望で館の屋上を訪れた二人は、差し込む柔らかな日差しを浴びながらまったりと時を過ごすことにした。

 

 背に巨大な時計塔が立つ広々としたスペースだ。昔体調が良かった日には、家族がここでパーティを開いてくれたのだという。

 思い入れ深い場所だからか、リリンフィーはどこか懐かしむように目を細めながら、んーっとノビをして陽だまりの中に吐息を溶いた。

 

「良い天気だな。風も無いし過ごしやすい」

「ええ、とっても良い気持ち。前はこうしてお外に出ることも難しかったから、なんだか新鮮……」

「んじゃ、出来なかったぶんまで存分にリラックスしようぜ」

 

 リリンフィーの膝にブランケットをかけ、そばに折り畳み椅子を置いて座る。

 

「辛くなったら遠慮なく言えよ。千年果花のおかげでコンディションは最高だろうが、油断禁物だからな」

「うん。ありがとう、おにいさん」

 

 見るものをほっこりとさせる野花のような笑顔。

 

 腰ほどまで伸びる白絹の髪。晴天を綴じた空色の瞳。人形のような白磁の肌と細身の体。

 おっとりとした性格も相まって姉とは正反対な雰囲気だが、微笑む姿にシャーロットが重なって映るものだから、やはり姉妹なのだなと実感させられる。

 

「……ん?」

 

 ふと何気なく、そばの時計塔に視線がいった。

 正確には塔の壁面だ。古ぼけた赤褐色の壁面に、小さく荒々しい数字で「14999」と彫られている。

 

 刃物の切っ先でガリガリと乱雑に抉られたようなそれは、輪郭が丸みを帯びて小さな亀裂を走らせ、溝を蛍光色の地衣類がうっすらと覆っていた。

 

 どうにも年季の入った風化具合を感じさせる。

 数年前そこらに刻まれたものではない。数十年、いや、もっともっと古い時代に、それこそ館が建てられた時から存在しているかのような、言い知れぬナニカを感じる彫刻だった。

 

(なんだ? あの壁の数字、見覚えがある……気がする。すげー懐かしいような、つい昨日見たばっかりのような……)

「おにいさん、どうかしたの?」

「! いや、あの壁の数字が妙に気になってな」

「壁……ああ、あれ? なんだろうね。わたしが生まれるずっと前からあるみたいだけど」

 

 直感は的中したようで、やはり長い年月を時計塔と共に過ごしてきたものらしい。

 そんな代物にヴィクターが既視感を覚えるというのは如何なる因果か。ひょっとして失われた記憶と深く関わりのあるものなのか。

 

 少しばかり頭をこねたが、思い出せそうにないのでスッパリと切り捨てた。

 

「こうして二人でお話しするのは初めてだね」

 

 言って、リリンフィーは風に攫われた髪を抑えながらヴィクターを見た。

 

「おねえちゃんから聞いたんだ。わたしたちのこと、あの人から命を賭けて助けてくれたって。あらためて、本当にありがとう」

「フッ、気にすんな。俺は正しいと信じるもののために戦っただけだ。……てのはどう? ヒーローみたいでカッチョいいか?」

「ふふ。うん、とっても格好良いよ」

「お、おォ」

 

 冗談のつもりだったのが無垢に返されてしまったものだから、どうにも気恥ずかしくなって空を仰ぎながら頬を掻いた。

 そんなヴィクターを下から覗き込むように、リリンフィーは言う。

 

「おねえちゃんね、おにいさんのことよく話してくれたんだ。強くて、真っ直ぐで、とても頼りになる人だって。だから安心して頼っていいって」

「アイツそんなこと言ってたのか!? クソ、なんかムズ痒くなっちまうじゃねーかよ……!」

 

 照れ臭さが限界に達したヴィクターは背中を掻きむしり、ハチに刺された猿のように悶え苦しんだ。

 リリンフィーは口元に手を当てて淑やかに笑いながら、さらに唇を紡ぐ。

 

「ねね。おにいさんはおねえちゃんのこと、どう思ってるの?」

「あん? どうって」

「好きなの?」

「ぶふっ」

 

 想定の遥か斜め上より飛来した爆弾に、思わず咳がノドを突き破って家出した。

 ゲホゲホ噎せ返る。ドンドン胸を叩いて肺をなだめながら、ニコニコ喜色満面なリリンフィーと今一度目を合わせて。

 

「すまん、なんだって? 今シャロのこと好きかって聞いたか?」

「そうだよ。おねえちゃんのこと、どう思ってるのかなーって。もちろんお友達としても、女の子としても。ねぇねぇどうなの?」

「……ンなの、好きに決まってるさ」

 

 予想外なほどあっさり投げ返されたその言葉に、リリンフィーは両手で頬を抑えながら「わっ」と驚いたような声を上げた。

 

「す、すごくキッパリ言うんだね……? おねえちゃんテコでも無難なことしか言わなかったのに……!」

「そりゃなあ。まず優しいだろ、家族想いだろ、努力家だろ? んでもって強くて、しっかり芯が通ってる。美味い飯や可愛いもんを前にしたら目を輝かせるギャップも可愛い。あとシンプルに超がつくほど美人。そんな子に命を助けられて惚れない男なんざこの世にゃいねーよ」

 

 指をひとつづつ折り曲げながら、ヴィクターはつらつらと心中を並べ立てていく。

 

 リリンフィーにとっては、ちょっとした好奇心のつもりだった。

 目が覚めたら姉が年の近い男の人を連れていて、しかも憎からず思っている様子だったものだから、じゃあヴィクターの方はどうなのかとぶつけた疑問だった。

 

 それがまさかここまでストレートに返球されるとは思ってもみなくて、爆弾を投げつけた張本人ではあるが、リリンフィーは何かの閾値を超えたのか「きゃあ~っ!」と口を手で隠しながら黄色い悲鳴を響かせた。

 

「だ、大好きじゃん! おねえちゃんのこと大好きじゃん!」

「おお。改めて考えてみりゃ俺、シャロのことめっちゃ好きかもしれねえ」

「きゃーっ! きゃーっ!」

 

 くねくねと悶える。まだ弱っているはずの体に新しい燃料が追加されたかのように機敏な動きだった。

 

「そんなデケえ声出してるとノド枯れちまうぞ」

「むっ、むしろなんでそんな冷静なのおにいさん!? こういうのって普通、湧き上がるドキドキに身悶えたりするものなんじゃ……!?」

「うーん……上手く言えねえんだけどなんつーか……馴れてるっていうのか? ずっと昔から焦がれてたような気がするんだよな、アイツのこと」

 

 シャーロットは贔屓目を抜いても、世間一般的に美少女として認識されるほど整った美貌の持ち主だ。

 涼しく薙ぐような切れ長の眼。長い睫毛。すらりと伸びた鼻筋に、薄桃色の唇。夜風のような艶を孕む深海色のボブカット。練り上げられた黄金比率のプロポーション。

 

 すれ違えば誰もが振り返るほどの麗らかな少女と、ひとつ屋根の下で暮らして何も意識せずにいられる男など存在しない。

 にも関わらず、ヴィクターは非常に順応が早かった。

 

 命の恩人に邪な感情を向けるべきではないという自律心もあったが、それ以上に、胸の中でパズルの欠片がピッタリと嵌るような安心感があったからだ。

 

 まるで何年も共に過ごしてきたパートナーに向けるようなソレのおかげか、好意を問われたところで別段、取り乱すほどの動揺も生まれなかったのである。

 

「じゃあじゃあ、その、おねえちゃんに気持ちを伝えたりとかって……?」

「しない」

「えっ、どうして?」

「シャロの足を引っ張っちまうからな」

 

 言葉の意味を上手く噛み砕けなかったのか、小首をかしげるリリンフィー。

 ヴィクターはくすぐったそうに笑いながら、落ち着いた声色で淡々と言った。

 

「アイツはたくさん挫けてきた。色んなものを失って、泣いて、それでも諦めなくて。頑張って、頑張って、ようやくやり直せるところまで這い戻ってこれたんだ。けど、まだまだやらなきゃいけねーコトは山のように残ってる」

「……」

「コロポックルたちへの仕事や私生活の引継ぎもまだ不十分。館の修繕も取りかからなくちゃいけないし、何よりリリンフィー、お前と新しい生活を歩んでいくための準備が必要だ。シャロは大好きな妹を取り戻したい一心で、ボロボロになってまであの三聖に喰らいついたんだからな」

 

 シャーロットは今、失ったぶんの人生を取り戻すためのスタートラインにようやく立てた時分にある。

 苦しんで、苦しんで、やっとの思いで掴み取った幸せへの再出発。

 そんな彼女に今いちばん必要なのは、様々な物事を整理するための時間と、たっぷりの休息に他ならない。

 

「だってのに、俺の都合で一方的に気持ちを押し付けて場を引っ掻き回すなんざ、ただのエゴでしかねえってことさ。後先考えねえ独り善がりだな。シャロは優しいから真剣に受け止めてくれるかもしれねえが、だからこそ不要な鎖でアイツを束縛しちまうことになる。今だけは駄目だ。シャロを一番に想うなら、絶対にやっちゃいけねえことなんだ」

「……おにいさん、本当におねえちゃんのことを考えてくれてるんだね」

 

 リリンフィーは心から嬉しそうに微笑んで、ヴィクターと向き合いながらペコリと頭を下げた。

 

「ごめんなさい。おにいさんは真剣に想ってくれてたのに、無遠慮にズケズケと踏み込んじゃった」

「気にすんな。考えなしに聞いてきたわけじゃねーのは分かってるからよ」

「あはは……敵わないなぁ」

 

 ヴィクターはかつて、エマに囚われていたリリンフィーから助けを求められたことがある。

 

 自分自身を──ではない。洗脳され、悪逆非道に誑かされている姉を救って欲しいのだと、変異の激痛やエマの恐怖に襲われながらも、自らを捨ててまでシャーロットを優先することを選んだのだ。

 

 彼女もまた高潔なアーヴェントの血に連なる、愛情深い少女だという無二の証明だった。

 だからこそのカマ掛けだったのだろう。多少強引ながら、ヴィクターという未知の人物像をはかるため、心情を聞き出そうとしていたのだ。

 

 それもまた、姉を思うがゆえに。

 

「……怖かったの。知らない人がおねえちゃんと仲良くしてて。もしかしてまた騙されてるんじゃないかって。私もあの人のこと……本当のおねえちゃんだって思い込んでたから」

「あんなことがあったんだからな、そりゃ当然の反応だ。なーんにも気負わなくていいさ。むしろ敵意剥き出しでもおかしくないところを、そうやって俺を理解しようとしてくれたってだけで嬉しいよ」

「……ありがとう。えへへ、やっぱりおにいさん優しい人だ」

 

 ほんのり頬を桃に染めて、照れたようにリリンフィーは笑った。

 ちょうどその時だ。屋上のドアが勢いよく開いたかと思えば、買い物から帰ってきたシャーロットが怒涛と登場したのである。

 

「リリーン! たっだいまー!」

「お帰りおねえちゃん。ずいぶん早かったね」

「そりゃもう! 一秒でも早く帰りたくって音速で済ませてきたから! あっ、ヴィック、畑でコロロちゃんが呼んでたわよ。手伝って欲しいことがあるって」

「ん? コロロちゃんってコロポックルのことか?」

「そそ。全員コロポックルって呼ぶのは紛らわしいじゃない? だから皆に名前着けて回ったの。畑担当の子はコロロちゃん。あとで名簿作って渡すから確認してね」

「了解。んじゃ、行ってくるぜ」

 

 バトンタッチする形で、ヴィクターは屋上を後にしていく。

 

 シャーロットはヴィクターが座っていた椅子にツカツカやってきて腰を下ろすと、背もたれに思い切り体重を傾けた。

 途端、糸が切れた人形のようにカクンと俯いてしまう。

 

「? どうしたのおねえちゃん」

「……」

「おねえちゃん? おーい」

「…………」

 

 声をかけても反応が無い。指先一つ微動だにしない。

 というか、もはや呼吸すらしていないのではないか?

 

 まるで琥珀の中に閉じ込められてしまったかのようなシャーロットを不思議に思い、リリンフィーは伏せられた表情をそっと下から覗き込む。

 

 耳まで熟れたトマトが褪せるくらい真っ赤っかな、瞳を困惑と含羞に潤ませている姉の顔がそこにあった。

 

「ははーん、なるほどなるほど。さっきの全部聞いちゃったんだ?」

「っ!? い、いや……これはそのっ! は、走ったから暑くなっただけっていうか……!!」

「んふふー。本当はコロロちゃんのことも、恥ずかしくておにいさんを追い払うための嘘だったんでしょ? わざわざ畑におにいさんだけ呼ぶ理由がないもんね」

「ひぅ、っ、ぅ」

 

 まだ赤くなるのかというくらい朱に染まるシャーロット。

 きゅっと唇を結び、いつもの気丈な振る舞いがウソのように萎れている。

 離れていても心臓の音が聴こえてきそうな狼狽ぶりに、リリンフィーはニヤニヤと意地悪な笑顔を浮かべた。

 

「ふふ。おねえちゃん可愛い」

「っ~~~~! み、見ないでよぉっ……! もうやだ、恥ずかしい……!」

 

 ──シャーロットは年頃の少女ではあるが、色恋はおろか家族以外から好意を向けられるような状況とは無縁な生活を送って来た人間だ。

 

 常に愛情を注ぎ、世話に回る側の立場だった。言うなれば根っからの姉気質だ。

 おまけに波乱万丈な人生もあって、一時は人間不信に陥り、第三者からの親愛という存在そのものがまるで受け付けられなくなったほどである。

 

 つまるところ一切の免疫が無い。手向けられたソレを受け止める土台が備わっていない。

 

 だというのにあんな、混じりっ気もないストレートな好意を、間接的とは言え真正面からぶつけられて。

 しかもそれが、どん底に沈んでいた自分を力強く引っ張り上げて、前を向かせてくれた男の言葉ともなれば。

 

「ぅ……ぁああああ~~!! うがぁあああ~~~~っ!!」

 

 キャパシティを超え、オーバーヒートを起こしてしまうのは自明の理であった。

 

(……決めた。二人のこと、精いっぱい応援しよう。おねえちゃんはわたしのためにいっぱい頑張ってくれたんだもん。もう自分の幸せを考えても良いんだよって、今度は私がサポートする番だ)

 

 生まれてからずっと、病弱という先天の呪いに蝕まれ、姉に世話をかけてばかりだった。

 恩を返したくても返せない自分の体が恨めしかった。何も出来ないくせに何が『純血』だと涙を流す夜もあった。

 

 今は違う。両手で抱えきれないくらい貰ったいっぱいの恩を、ようやく返せるチャンスがやってきたのだ。

 身悶える姉の姿を微笑ましそうに眺めながら、胸にひっそりと決意を燈す。

 誰よりも大好きな姉に幸せになってもらうため、出来る限りの手助けをするんだと。

 

「ね、ねぇ、どうしようリリン!? 私っ、ヴィックにどんな顔して会ったらいいのかなぁ!?」

(……それはそれとして、わたしも楽しませてもらおうかなっ。こんなに面白いおねえちゃん、見逃すわけにいかないもん)

 

 リリンフィー・ウェンハイダル・アーヴェント。

 純真無垢で淑やかな幼き令嬢だが、意外と鋭くて計算高い、ちょっぴり腹黒な少女である。



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33.「11番目の男」

『軛は解かれた。人の子よ、新たなる試練へ備えるがよい』

 

 

『運命を伏せるには未だ力が足りぬ。志を一堂にせよ。集いし魂の御旗となれ』

 

 

『竜の涙を携え、未踏の山岳を目指せ。そこに次なる鍵は在る』

 

 

『眠れる千古不易に黎明を賜す時が来た。茫漠の夢より醒めし宙の大智、汝らの盾と成るであろう』

 

 

 

 

 

 

 まだ朝日も顔を出さない未明の帳。

 飛び起きるような目覚めの不快感に、ヴィクターはしわしわと顔をしかめながら吐息を散らした。

 

「久しぶりに見たな、あの夢の化け物……ったく、寝起きが悪いったらありゃしねえ」

 

 最後に見たのは確か、リリンフィーを見つけた日だったかと頭を掻く。

 

 島で生活を始めてからというもの、たびたび夢の中に現れていた異形の存在。

 お告げを授ける霊夢のようなソレの正体は依然不明だ。しかし、あの怪物が囚われのリリンフィーを発見する一助になったという無視し難い経緯がある。

 

 どうにもまどろっこしい言い回しのせいで要領を得ないが、今回もきっと何か意味があるのだろう。

 ただの夢と片付けるには、あまりに多くのことが起こり過ぎた。

 

「紙とペンどこにやったかな。忘れねえ内にメモしとかねえと」

 

 ヴィクターは振り回されたカゴの鳥のように揺れる頭を冷水で落ち着かせて、霞みがかった夢の記憶を、化石を扱うように少しずつ掘り起こしては記録した。

 

「えーっとなんだっけ……未踏の山岳? 今度はそこに行けってか? なんだよ未踏の山岳って。むしろ踏み入ったことのある山のほうが少ねーっての! もっとハッキリ名指しで言いやがれこの野郎!」

 

 タオルで搔き毟るようにガシガシと髪を乾かしながら悪態を吐く。

 謎解きは苦手だ。自分自身、頭がそれほど良くないという自覚がある。みょうちきりんな言い回しをされては分かるものも分からない。

 

 走り書きした夢の粗筋を眺めていると、不意に軽快なノックがドアを叩いた。

 

「入っていいぞー」

「クロウデ。おはよー」

「ふぁ……ほあよーございましゅ……」

「エルルとノノか。どうしたこんな早くに?」

 

 やって来たのは、主に給仕を担当している小人(コロポックル)の二人組だ。

 先日シャーロットの案で名前を付けることとなり、しっかり者でハキハキとしたツリ目のコロポックルはエルル、垂れ目を眠そうに擦りながら舟をこいでいる巻き毛のコロポックルはノノとなっている。

 

 ついでと言ってはなんだが、小人(コロポックル)たちのシャーロットに対する二人称も「お嬢さま」へと変更されることになった。

 というのも、世間的にアーヴェントという素性を隠して生活している都合上、「王の血」呼びでは町へ一緒に買い物へ行った時などに不都合が生じるからである。

 

 一方、ヴィクターはクロウデ呼びから変えてもらえなかった。というよりキンニクとクロウデの二択で選ぶ余地が無かった。運命を呪った。

 

 

 立ち話もなんだと部屋の中に招き入れれば、よほど眠かったのか、ノノは真っ先にベッドへよじ登って速攻寝息を立ててしまう。

 

「こらーっ、ノノ! ここクロウデのお部屋! 起きるの!」

「ふみぅ……すぴぃ……」

「もー!」

「寝かせてやりな。今日は休みなんだろ? まだ日も昇ってないし」

「……クロウデがそう言うなら」

 

 相方に馬乗りになってベシベシ頬を引っ叩いていたエルルが、しかたないと不服そうに手を止めた。

 ノノはあれだけビンタを貰ってもまるで起きる気配が無い。幸せそうに頬を緩めて夢の世界に旅立っている。

 

「お茶いるか?」

「あ、わたし淹れるよ!」

「いいって。座って待ってろ」

「ん。ありがと、クロウデ」

 

 来客をベッドに座らせ、テーブルを寄せながらモーニングティーを淹れていく。

 砂糖とミルクを添えて差し出し、自分のカップには山のようにミルクと糖の絨毯爆撃を降り注がせた。  

 エルルは角砂糖ひとつとミルクを溶かしながら、うわぁとヴィクターのお茶が命を終えていく凄惨な光景に顔を顰める。

 

「クロウデ。それ絶対体に悪い」

「でも美味いんだ」

「そういうことじゃない……」

「まぁまぁ。で、どうしたんだ?」

「クロウデ。話逸らすのよくない」

「で、どうしたんだ?」

「んぅーっ!」

 

 頑として聞き入れない糖中毒ゴリラにぷんぷん憤慨するもどこ吹く風である。ちいさな両腕を上げて抗議する姿がどうにも微笑ましいせいか。

 諦めたエルルはカップに口をつけ、思いのほか紅茶が熱くてアチアチ格闘しながら言葉を紡ぐ。

 

「あのね。お山がね。クロウデとお嬢さまを呼んでるの」

「お山が呼んでる?」

 

 こくりと頷き、エルルは続ける。

 

「声が聞こえたの。二人を呼べって。お山に来いって。わたしたちみんなに聞こえたの」

 

 ──偶然とは思えなかった。

 

 未踏の山岳を目指せ。そう夢の怪物から告げられた日に、エルルの口から飛び出したこの言葉。

 もはや関連性は疑いようがない。こうなっては件の山岳とやらを調査し、謎を解明するほかにないだろう。

 

 そして、魔力を精密に感知する特殊な能力を持った小人(コロポックル)が、この島そのものに──即ち、島を流れる冥脈に反応したということは。

 

「あっち」

 

 ヴィクターの疑問を掬いとるように、エルルが背後を指し示した。

 向かうべき場所は窓を抜けた先。館の背に鬱蒼と茂る、『狩場』と呼ばれる魔獣を狩猟していた森のさらに奥。

 常に濃霧で覆われた、神秘的で近寄りがたい島の深奥である。

 

 

 

 エルルいわく、山にはヴィクター独りではなくシャーロットと共に行かなくては駄目なのだと言う。

 理由は不明だ。小人(コロポックル)特有の魔力感知能力に引っ掛かった、山からの思念のようなものがそう訴えていたらしい。

 

 しかしながら間の悪いことに、ここ3日ほどシャーロットに避けられっぱなしでいる状況にある。

 

 話しかければ電気を流されたように飛び跳ねて逃げ出し、捕まえたと思っても頑なに顔を見せない。

 声も狂った心電図のようにグラグラで、終いには魔法を使って姿を消してしまう始末。

 なぜ避けられているのかとリリンフィーに相談してみたものの、ニコニコ掴みどころのない笑顔と一緒に「今はそっとしておいてあげて」とだけ。

 

 別段、嫌悪から避けられている様子でもなかったので、まぁ女の子は何かと入り用なのだろうと放置していたのだが……こうなった以上、是が非でも探し出さなくてはならなくなった。

 

(今の時間帯なら、きっと何処かでトレーニングでもしてるはずだ。中庭と砂浜辺り回ってみるか)

 

 かつてのような呪いに等しいアーヴェントの使命感からは解放され、幾分の余裕を取り戻したシャーロットではあるが、そのストイックさはまるで(かげ)りを見せていない。

 

 むしろ三聖グイシェンとの戦いで思うところがあったらしく、ただでさえ過酷な自己鍛錬へ更なるメニューを上乗せしているというから驚きである。

 避けられてさえいなければ同伴したかったのに残念だ、とヴィクターは溜息。

 

「この辺りか」

 

 心当たりのある場所を巡っていくと、砂浜にまだ刻まれて間もない足跡が。

 痕跡に続く。途中、浜を抜けて森を目指したらしく、踏みしめられて萎れた草葉の名残があった。

 道しるべに従って歩いていく。すると、微かに異音が聴こえてきた。

 

 ダンッ、ダダンッ、ダダダンッ、と猛烈な勢いで物体同士が衝突し合う轟音だ。

 規則的に響き渡るそれは歩を進めるごとに音圧を増し、少女の位置を的確に知らせてくれる。

 音の波が肌を打つほどの距離ともなれば、開けた窪地の中央に荒縄を巻いた柱を突き立て、一心不乱に打撃を叩き込むシャーロットの姿が見えてきた。

 

 切れる水のように流麗で、荒ぶる鉄槌の如く豪快な業前。

 以前目にした型稽古の時よりも遥かに洗練された武の鼓動に、「ほぉ」と感嘆の声が無意識のうちに漏れ出てきた。

 

「よぉシャロ。仕上がってんな」

「ひょわああああああああああっ!!?」

 

 雷に打たれたかのような驚愕ぶり。シャーロットは釣り上げられた魚の如く飛び跳ねながら後退り、影をも踏ませぬ勢いで支柱の後ろに隠れてしまった。

 

「なななっ、何で()()()がここにいるのよ!?」

「用があってな。ここ数日俺のことを避けてたのは知ってるけど、どうしてもシャロに相談しなきゃならねえことが出来ちまったんだよ」

「違っ、別に避けてたわけじゃ……いや避けてたけど! でもそういうのじゃなくて!」

 

 顔色をうかがわせないよう柱の影を利用しながら、シャーロットは弁明とも訴えともつかない言葉をまくし立てる。

 

 一体全体なにをそんなに慌てているのか。ヴィクターは頭を掻きながら、シャーロットがこうなってしまった原因は如何なるものかと記憶の箱を紐解いた。

 

 確か、3日前の昼までは平常運転だったはずだ。

 夕方になってから──正確には買い出しから帰って来たぐらいから、明確に様子がおかしくなった。

 昼頃と夕頃。その間にここまで狼狽するような出来事が何かあったかと考えて。

 ひとつ思い当たる節が見つかり、ヴィクターは「まさか」と仄かに顔を赤くしながら天を仰いだ。

 

「あー、その。なんだ。もしかしてシャロがそんなになったのって──」

「わ──っ!! うわ──っ!! ストップストップ!! アンタ鋭いからゼッタイ図星突いて来るでしょ今すぐ黙りなさい刹那で黙りなさい!! せっかく落ち着いてきたところだったのに!!」

「わ、悪ぃ」

 

 今にも噛みつかんばかりに荒ぶっている。離れていてもフーッ、フーッと荒い息遣いが聞こえてくるほどだ。決して鍛錬の疲労で酸欠になっているからではない。

 一言でも喋れば爆発しそうな気配だったので、大人しく唇を噤んで待機に徹した。

 

「アンタはもう、本当にもう! この私が何でこんなことで心乱されなきゃいけないのよっ……! もう! もう!」

 

 シャーロットにはその気持ちの正体が分からない。何故こんなに焦るのかも、熱くなるのかも、心臓が掻き鳴らされるのかも分かっていない。

 ソレの概念は知っている。名前も知っている。けれど、自分がソレなのだと当てはめられないのだ。

 そんなものとは無縁の人生を送り続けてきたがゆえに、萌芽した感情の色を見定められずにいた。

 

 だから混乱する。知らないがゆえに乱される。

 今のシャーロットは、たかが好意をぶつけられただけで何日も取り乱す自分の変化に戸惑っている状態だった。

 その昂りをぶつけて発散するように、鍛錬に一層力が入っていたとも言える。

 

「落ち着け……落ち着きなさい……私はシャーロット・グレンローゼン・アーヴェントでしょ……こんな程度で狼狽するわけがない……昔の私なら平気だったはず。そう、平気。私は平気。無我の境地。心はいつだって水平線……」

 

 ぶつぶつと自己暗示に等しい言い聞かせを繰り返し、肺の中の空気を丸ごと絞り出すような長い溜息を落とした。

 強く頬を叩いて、「よし!」と気持ちを切り替える。こうして最初からメンタルリセットしておけば良かったとでも言うような、清々しい表情になっていた。

 

「ごめん、取り乱したわ。もう大丈夫」

「おお。ンで用件なんだが」

「っ」

 

 許可を得たので近づこうとしたら、何故か同じ歩幅だけ後退られた。

 二人一緒に首をかしげる。

 大丈夫じゃなかったのか。怪訝な眼差しを向ければ、ニコニコと貼りついたような笑顔。

 

「どうぞ。続けて?」

 

 一歩進む。

 二歩下がられる。

 

「なんで離れる」

「いいじゃない別に。細かいことは気にしないの」

「絶妙に話しにくいだろこの距離」

「私はかまわないわ。耳を澄ませばほら大丈夫。で、話ってなに?」

「…………汗気にしてんのか? 湯気立ってるしな」

「ッッッばか!! もうアンタ本ッッ当ばか!! ちょっとは鈍くなりなさいよこのあほんだらけ!! というか気付いても言うな!! ばか!! ば──か!!」

「いやお前、この前まで全然気にしてなかったじゃねえか!」

「うるさいうるさーい!! 昔と今は違うの!! デリカシー学んで来なさいよこの猿! スケベ!! 変態!!」

「ぶっちーん、言わせておけば馬鹿だのアホだの猿だのスケベだの変態だの! いくら海より広い心の持ち主たる俺の堪忍袋も大爆発ってもんだぜ! よろしい、ならば俺にも考えがあるッ!!」

「ぎゃああああああああああ来るな来るな走ってくるな近づくなバカぁ────ーっっ!!」

「ファハハハハ!! ショック療法だボケエッ!! ウジウジしてねえでさっさと慣れろオラァ──ッ!!」

 

 

 

 

 

 森を全身全霊で走り回り、互いにヘロヘロになって草むらに倒れ伏す頃には、どんな顔して会えば良いのか分からない……なんて小さなわだかまりは、風に吹かれたように消えていて。

 些細な切っ掛けで見失いそうになっていたヴィクターとの関係を、少女は思い出すことが出来たのだった。

 

 

 そうだ。今はこのままでいい。

 友人で、理解者で、奇妙な相棒で。たまに馬鹿をやって笑いあう。そんな関係で良い。

 今はまだ、その時ではないのだから。

 

 

 

 

 言うまでもなく、全力疾走でスタミナが底を尽きた後に未知の山を登るなど無謀である。

 

 そもそも準備すらまるで整っていないわけで。フィールドワークは入念な地固めこそが安心安全への第一歩であるのだから、その工程を決して怠るわけにはいかない

 

 なので、お留守番の小人(コロポックル)やリリンフィーによい子のお約束条項をしっかりと引き継ぎ、体力を回復して万全の調子を整えた3日後、二人は島の深奥へと足を踏み入れた。

 

 

「覚えてる? 『海の呼び声』でした約束」

「ああ。まさかこんな形で果たすことになるとはなぁ」

 

 町へ遊びに出かけた日のことを思い出す。

 船そのものが食事処へと改装された海鮮レストランで、海の幸に舌鼓を打ちながら語らった一節だ。

 この地に住まう歴代のアーヴェントたちが立ち入ることを禁じていた島の奥地。そこには一体何が眠っているのかという、ささやかな好奇心である。

 

 いつか探検してみようとは言ったものの、千年果花を探す旅やら何やらでお流れになっていた約束が、夢のお告げや小人(コロポックル)からの言伝で叶うことになるとは数奇なものだ。

 

「探検もそうだけど、危険だったら引き返すってことも忘れないでよ? 何が居るのか分かったもんじゃないんだから」

 

 元々島の奥への立ち入りが禁じられていた理由は、狂暴な魔獣が出ると代々伝えられてきたからである。

 

 魔獣は言うなれば魔法を扱える野生動物だ。応じて知能も高く、生命力や身体能力も通常のソレとは一線を画す。

 ウサギやネズミのような小動物ならばいざ知らず、クマやトラから派生した大型の魔獣ともなれば恐るべき脅威となる存在だ。

 

 最も有名なのは、『金剛冠級(ダイヤモンド)』のザルバも辛酸を舐めさせられたという大鬼熊(オオオニグマ)だろう。

 

 厚くゴワゴワとした強靭な毛皮は匠の武器すら通さぬどころか刃を(こぼ)し、並の魔法すら消散させて無力化させ、大木を一撃で圧し折る熊手をもって外敵を殲滅する巨獣である。

 おまけに一帯を火の海に落とすほどの火炎魔法まで行使してくる始末だ。幾つもの小さな村が滅ぼされたという昔話も数知れない、特級の危険生物である。

 

 今から足を踏み入れようとしているのは、そんな生き物が棲まうと伝えられてきた領域なのだ。

 黄昏の森のような『禁足地』と同等の緊張感を抱くのは、当然の心構えというものだった。

 

「分かってるさ。島の謎も気になるが、折角リリンフィーを治したってのにこんなところで怪我しちまったら元も子もないからな」

「そうそう。一番大事なのは無事で帰ること。みんなを心配させるわけにいかないんだから」

 

 帰りを待つリリンフィーや小人(コロポックル)たちのためにも、絶対に不覚を取るわけにはいかない。

 気持ちを十分に張り詰めつつ、二人は霧の深い森の中へと足を踏み入れた。

 

「しかし厄介な霧だ。何も見えねえ。足元に注意する程度で精いっぱいだ。魔法で霧を晴らしたりって出来ないか?」

「もちろん対策してきたわよ。じゃじゃーん、こちら秘密道具の登場です」

 

 得意げにシャーロットが取り出したのは古めかしいランタンだった。

 透明な囲いに保護された芯にあたる台座には、オパールのような虹色の光沢を帯びた、手のひらサイズの水晶らしき物体がはめ込まれている。

 

「なんだそれ? 普通のランタンにしか見えないぞ」

「ところがどっこい、これはアーヴェントに伝わる宝具のひとつでね。周りを照らすんじゃなくて、()()()()()()()()()()()特別なランタンなの」

「ほー。よく分かんねえけど、あの時間を止める懐中時計みたいな秘宝シリーズか」

「そうそう。これを使えば暗闇だろうが濃霧だろうが砂嵐だろうが、晴れの昼空みたいにクリアになるのよ。隠匿の魔法だって看破できる優れモノなんだから。すこぶる燃費悪いのが欠点だけど」

 

 それを解決してくれたのがこれ、と中心の結晶を指さした。

 素人目に見てもただならぬオーラを放つクリスタルの正体は、辰星火山のドラゴンから授けられたという涙石だ。

 

 竜種という、生態系の頂点に君臨する王者の持つ超高濃度の魔力が一点に凝縮、結晶化したそれは、例えるなら燃え尽きることのない燃料のようなもの。

 効果と引き換えに莫大な魔力を消費する道具にはうってつけのアタッチメントだ。おかげで長旅であっても、ガス欠の心配なく使うことが出来る。

 

 さっそくダイヤルを回すと、ジジジッと磁励音のような起動の知らせと共にランタンが輝き、一帯を覆い尽くしていた霧の帳が押し退けられるように排除された。

 おおよその効果範囲は半径15mほどだろうか。森の中を歩くには十分事足りるパワーである。

 

「うおー、すげえすげえ! これなら安心安全に突き進めるな! やっぱ魔法ってヤツは便利なもんだぜ」

「あのドラゴンに感謝しなくっちゃね。ほんと燃費悪いのよコレ。魔力量に自信のある私でも、自前で発動させたら10分も保たないもの」

 

 使用者に対する視認阻害を物理的にも概念的にも排除するというランタンの力は、対象効果の広さもあって相当なエネルギーを費やすのだろう。

 それでいて燃料を消費し続けるともなれば尚のことだ。逆を言えば、そんなランタンに()べてもまったく問題の無い竜の涙石がどれだけの魔力を内包しているかがよく分かる。

 

「藪漕ぎは任せたわね」

「よしきた」

 

 だんだん下草や低木が多くなってきたので、ヴィクターは鉈を使って先陣を切るように藪を突き進んでいく。

 歩く。歩く。落ち葉を踏み、ガレ場を乗り越え、途中で見つけた小川を遡上しながら、道なき道を行進していく。

 

 どれほど登山を続けただろうか。正確な時間は分からないが、スタミナに自信のある二人の足がパンパンに張って悲鳴を上げる程度には山登りに勤しんだはずだ。

 勾配がだんだん急になってきているところから、いつも館から眺めている山の中腹には辿り着いたらしい。

 

「はーっ。流石にちょっと疲れてきたわね」

「エルルは行けば分かるって言ってたから、辿り着いたら何か目印が見えてくると思うんだがな……ちょいと休憩するか」

 

 適当な岩場に腰を下ろし、一息。

 ポーチから飲み水とパンを取り出して、森を眺めながら軽食を摂る。

 

「静かだな。生き物の気配はあるが、どこかシーンとしてる」

「空気も美味しいし、涼しくていいところね。霧と虫さえ無かったらだけど……。あむ、あむ。んーっ! やっぱ外で食べるご飯は格別だわ」

「マジで同感だ。普段の倍ぐらい美味く感じるよなぁ。疲れた体にもグッと沁みるってもんだぜ」

「おひとつ頂いてモ?」

「おいおい、自分の分もちゃんと作ってもらってるだろ? どんだけ食いしん坊だ────」

 

 

 

 

 いや、ちょっと待て。何かがおかしい。

 シャーロットは現在進行形で、自分のパンを頬張っている真っ最中だ。

 そもそも声が女のソレではない。鼓膜へ這い寄ってくるような、ねっとりとした甘さを孕む色っぽい男の声で。

 

 

「ッ!?」

 

 脊髄に火を着けられたかと錯覚するほど、二人は一瞬にして臨戦態勢に突入した。

 飛び跳ねるように距離を取る。ヴィクターは拳を、シャーロットは魔剣を反射的に構え、何の前触れもなく現れた()()()へ針のような警戒心を手向ける。

 

(なんだこいつ、いつの間に現れやがった!? 気配なんざ一片たりとも感じなかったぞ!?)

 

 線の細い、浮世離れした美形の男だった。

 

 背丈はヴィクターと同じか、やや高い程度。しかしパリッとした細身なシルエットのせいか、筋肉質なヴィクターと比べると小さく見える。

 限りなく透明に近い薄紫色の地毛と黒いメッシュが混じった髪をオールバックでまとめており、触角のように束ねられた一房の前髪を遊ばせていた。

 

 陶器かと錯覚するほど滑らかで白い肌はどこか人工的な生気の無さを帯び、裂けた口のように厚く塗りたくられた真っ赤な口紅や、色濃く縁どるアイシャドウはまるで道化のよう。

 それでいて黄金比の如く整ったパーツが掴みどころのない笑顔を形作れば、一層超然的な印象を与えてくるというものだ。

 

 特に異彩を放つのは眼だった。白目が黒く、虹彩は黄金に輝き、瞳孔が蛇の如く縦に裂けている。

 先の尖がった耳と言い、まず基人(ヒューム)には見えない。しかし亜人に詳しいシャーロットですら、この男の種族を見極められずにいるらしい。

 

「エルフ……? いや、エルフはあんな目や髪色をしてないはず……そもそも何故この島にアーヴェント以外の人間が……?」

 

 服装も奇抜極まりない。上から下まで静脈血で染色したかのような赤黒いタキシードと真っ黒なシャツ、金色のネクタイと嫌でも目を惹く姿なのだ。

 山林を出歩く装いとは口が裂けても言い難い。例え街中で見かけたとしても、思わず二度見するような出で立ちと言えるだろう。

 男の妖艶な眉目秀麗さと相まって、ひときわ強烈な存在感を放っていた。

 

「人間の食い物はいつ見ても美味そうでス。固形物なんて随分久しぶりですねェ! 今日からダイエット解禁ってことでよいでしょうカ! まぁワタクシ太らないんですけド! ホホホホ」

 

 人を食ったような笑顔を貼り付けて男は動く。

 地面に落ちて型崩れしてしまったサンドイッチを拾い上げ、鮫のようなギザ歯が鍵盤の如く並んだ口を大きく開けると、付着した泥土や落ち葉などまるで意に介さず平らげてしまった。

 

 異様すぎる行動と現状に、ヴィクターもシャーロットも絶句して硬直せざるを得ない。

 

「うん、うん、うーン! 卵の濃厚な風味と滑らかな舌触り、フワフワのパン生地、隠し味に腐葉土臭とジャリジャリした土とくっせえ虫……肉の躰ってのは本当に素晴らしいでース! 味覚ひとつでさえ新鮮な体験をさせてくれまス! でも嘔吐中枢が爆アラート鳴らしてるのは何故でしょうカ?」

「何者だお前。なんでこんなところにいる?」

「ホホホホ、そう警戒なさらズ! ワタクシ敵ではございませン! 名前は……あー、イレヴン! イレヴンでどうゾ! 以後お見知りおきヲ!」

 

 胸に手を当て、一礼するイレヴンと名乗る男。

 殺気や敵意の類は感じられない。しかしあまりに奇々怪々な雰囲気と言動が、二人の臨戦態勢を解かせまいと働きかけていた。

 

「おやおやおやおや、信用できないって顔ですネ? でもでも、本当に敵じゃないんですっテ。実はワタクシ、貴方がたをお待ちしてたのですヨ!」

「……!」

「というわけでワタクシ帰りまス。着いて来るなら勝手にどうゾ。目指してるモノはきっとソコにあると思いますのデ! それを探しに来たんでしょウ? ()()()()()()()()()()()()()()!」

「っ!」

「ホホホホ、またすぐ会いましょウ! シーユー!」

 

 イレヴンは白い手袋に覆われた手を振りながら踵を返し、陽気な笑い声と共にさっさと森の奥へ行ってしまった。 

 残された二人は一度緊張の糸を緩め、どうするかと思案を広げる。

 

「何だアイツは? 俺たちのことを知ってたぞ」

「わからない。けど、少なくとも天蓋領の仲間じゃないと思う。この島にはアーヴェントの許可なしに入って来ることは絶対に出来ないし、入られてたらポータル越しに感知できる。エマの時に駆けつけなかったのも辻褄が合わない。それに、やろうと思えばさっきのタイミングで私たちを殺せたはずよ」

「てことは、昔から島に居た人間か……? 確かにここは自分の領土だと言わんばかりの口ぶりだったが」

「……ご先祖様が代々島の奥に近寄らないようにしていた理由がコレなのかも。いわゆる不可侵条約みたいな」

 

 なんにせよ、謎の正体を確かめるには己の眼で見なくては始まらない。

 怪しさ全開で素直についていくのはあまりに憚られるが、覚悟を決めて追跡を開始する。

 

 しかし、急ぎ足で辿り着いたその先に待っていたのは、悠然と君臨する切り立った断崖絶壁だった。

 

「行き止まりだな。イレヴンはどこに行った?」

「待って。この崖、何か怪しい」

 

 自然の造形とは思えぬほど垂直に切って落とされた壁面に近づき、ランタンの輝きを当てる。

 すると瞬く間に変化が起きた。かざしたランタンを起点に光の軌跡が崖を這い、さながら壁画の如く巨大な幾何学模様が露わになったのである。

 

 ヴィクターは見上げるように後退りながら、その全体像を視界に収めた。

 丸い頭と大きな目を持つ鳥のような絵──きっとフクロウだろう。大きなフクロウが、いくつか楕円形の実が着いた枝葉と共に描かれている。

 

 何を示しているのかさっぱり分からないが、どことなく既視感を覚えるシンボルだった。

 どこかで。そう、どこかで目にした覚えがある。

 一度や二度ではなく、幾度かチラリと見かけていたかのような。

 

「フクロウとオリーブ……この紋章は……!!」

 

 なんだこりゃ、とヴィクターが首をかしげる一方で、シャーロットは唇を震わせながら、心臓を揺さぶられるような驚愕に大きく目を見開いていた。

 

「これは賢者オーウィズの紋章よ! かつて陛下と共に魔王(マグニディ)たちと戦った英雄の一人! どうしてこの山に……!?」

 

 言われて、ハッとするように思い出す。

 シャーロットと決闘する前のことだ。魔法について学ぶために書物を漁った時、数々の本で目にした紋章と記憶が合致した。

 

 いわく、魔法体系学の祖にして現代魔術の基礎を作り上げた始まりの賢者。

 三聖の元となった、『純黒の王』と『白薔薇の聖女』に付き従う三人の英雄の一人であり、幼い子供であっても魔法関連の教科書で必ず目にするほどの偉人である。

 

 そんな大物のシンボルマークが、何故この島の山に大々的に刻まれているのか。

 答えはきっと、鈍く木霊する地鳴りのような音と共に崖の一角へ現れた、怪しげな入り口の先にあるのだろう。

 

 互いに目を合わせる。

 ごくりと唾を呑み込むと、誘われるように足を踏み入れていった。

 



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34.「賢者オーウィズ」

「なんだこりゃ……俺は幻でも見てるのか?」

 

 暗闇の先に待っていたのはまさかのまさか、近未来的な秘密基地であった。

 

 埃ひとつ無い真っ白な床が広がっている。円形のフロアが階層となって遥か頂上まで展開されており、各階は螺旋階段で繋がれていた。

 それぞれのフロアには書庫や倉庫のような、目を回すほどの備品の数々が仕分けされている。

 基地の中心では巨大なクリスタルの柱が天辺に向かってそそり立ち、何かしらの電気信号のような明滅を、一定のリズムで上に向かって送信していた。

 

 柱の周辺には数多の薄型モニターや、複数のボタンが付属したパネルにジョイスティック、バルブのような形のハンドルたちが備え付けられている。まるで操作盤のようだ。

 

 隣のロングテーブルでは、謎のケミカルな液体がボコボコと気泡を立てるガラス管の複合物体が鎮座しており、その背後で無数の歯車が接合し合ったアンティークな装置が一生懸命に稼働していた。

 

 宙には魔法陣や星座の立体図らしきホログラムがゆっくりと旋回していて、さながらプラネタリウムのように空間を彩っている。

 

「なんで山の中にこんな施設が?」

 

 果たして誰が、原始時代の洞窟のような入り口から、斯様な中身を想像できるというのだろうか。

 あまりにも規格外なスケールとぶっ飛んだ光景に、思わず見入ってしまうほどだった。

 

「すごい……! 間違いなく賢者オーウィズの研究施設よ! まさかこんなところにあっただなんて……!」

 

 シャーロットは目を輝かせて、両手をぶんぶんと振りながら興奮を露わにした。

 

 元々この島は『純黒の王』による超常の異能と、賢者オーウィズがもたらした魔法技術を結集して作り上げられた隠れ里である。オーウィズの支部が隠されていたとしても不思議ではない。

 もしかするとこの只ならぬクリスタルの柱が、島を現世と隔絶する特殊な断層結界や、浜辺のポータルを安定させている制御装置なのかもしれない。

 

「見てよこれ! 不思議な魔法道具がこんなにたくさん! どれもこれも何に使うのかしら? ううう~、感激! 私、賢者様の大ファンなのよね!」

 

 シャーロットはまるで子供のように、超高度な魔法技術の展覧会場を堪能し始めていく。

 館の書庫で様々な文献を読み漁っていた彼女にとって、知恵を授かった憧れの偉人の研究施設というものは、ある意味夢の場所とも言えるテーマパークなのだろう。

 

 棚の上でプルプルと震えるゲル状の何かをつつくと、人型に変身し淡く発光して踊り始めた。どうやらオモチャの類似品らしい。

 音に反応して様々な形に姿を変える不思議なロープや、人が近づくとピロピロ音を出してアロマのような香りの霧を吹く円柱状のゴーレム、何故か「無毒化済み」のプラカードを下げた人面根菜(マンドラゴラ)が棚の上から手を振っていたりと、無人ではあるものの随分にぎやかな空間だった。

 

「おいおい、そんな不用心に探り回って大丈夫か? 罠とかあるかもしれないだろ」

「罠を仕掛けるならもっと手前に配置してるわよ。侵入者お断りの極秘施設なら、ここまで入り込まれちゃ意味ないもの。それに賢者様って、陛下と共にご先祖様を島へ匿ってくれた恩人なのよ。つまりアーヴェントの味方。イレヴンが敵じゃないって言ってたのは、きっとこういうことだったんだと思う」

 

 そういう事情があるならば、確かにイレヴンの言動とは合致する。

 これほどのマジックアイテムが揃いながら、基地の中枢に足を踏み入れてもアラートの類や結界が作動していないところを鑑みるに、シャーロットの推測通り危険性は低そうだった。

 

 少なくともいきなり武装したゴーレム集団に襲われて排除される……なんてことは起こっていない。

 それでも最低限の注意は払いつつ、そういえば肝心のイレヴンはどこだと、二人は不思議アーティファクトの数々を眺めながら探索を続けた。

 

「驚くほど綺麗だな。千年近く放置され続けた廃墟って感じじゃねえ。だってのに、人が沢山いるって雰囲気でもなさそうだが」

「物品が真新しいのが奇妙ね。最近まで誰かが手入れしてた名残まである。それにこの動くバケツみたいなお掃除ゴーレム……現代と比べても遜色のない技術レベルじゃない。千年前の施設にしては矛盾してるわ。どうなってるのかしら?」

「それはワタクシとマスターがちゃーんと維持管理してたからですネ!」

「ひゃあっ!?」

 

 突然背後に現れたイレヴンに、シャーロットは悲鳴を上げて飛び退いた。

 

「イレヴン! 急に出てきて脅かすんじゃねえ!」

「ホホホホ、失敬失敬。悪戯甲斐のある方を見るとつい癖デ。ほら、なんか人の背後とって現れそうな見た目してるでしょワタクシ。一歩引いて夫を立てるのも上手いのでス!」

 

 驚きっぷりが大層お気に召したのか、支離滅裂な言動と共にケタケタ愉快そうに笑う男。

 しかし一度ならず二度までも気配のケの字すら悟れなかった異常な隠密能力に、ヴィクターは違った意味で肝を冷やされるようだった。

 

「この研究所は我がマスター、賢者オーウィズの発明品たちが施設そのものを自己管理しているのですヨ。しかも自動的にアップグレードされるオプション付キ! まぁなんてお得! 凄いでしょウ? かくいうワタクシも……厳密にはちと違いますが、あのオベリスクこそが本当のワタクシなんですヨー。キャッ! スッピン見られちゃいましたワ!」

 

 陽気にジェスチャーを交えながら、イレヴンは電気的信号を脈動させている柱を得意気に指し示した。

 言っている意味がまるで理解出来ず、ぽかんと口を開けてクエスチョンマークを脳内に繁茂させるヴィクター。

 

 ヴィクターにとって魔法とは、魔力の無い身空のために縁遠く理解し難い摩訶不思議である。が、今回はことさらに脳の処理が追いつかなかった。

 目の前で情緒豊かに秘密基地について述べている男の正体が柱? 意味不明である。

 

 理解を示したのは、顎に手を当てながら黙考していたシャーロットだ。

 

「つまりあなたは一見人間のように見えるけど、体はゴーレムみたいな人工物で、本体の柱から遠隔操作して操ってるアバターって感じなのかしら? 自律思考型の人工知能ってところ?」

「ピンポンピンポン! 80%くらい正解です素晴らしイ! 景品にマンドラゴラをどうゾ。要らなイ? あそウ」

 

 どこから取り出したのか、顔の着いた茶褐色の動く根菜を放り捨てるイレヴン。

 熟れたトマトを叩きつけたような水音ともに、ピギャーッと奇声が聞こえた気がするがきっと幻聴だろう。

 シャーロットもあえて無視しているのか、マンドラゴラの方をかたくなに見ようとしない。

 

「なるほど、どうりであなたの種族が分からないワケね。濃霧の中を補助なしに移動できてたのも納得だわ……。それにしても流石は賢者様! 自動学習して機能を最適化していくアップグレード術式を搭載した道具の数々に、完全自律思考が可能なゴーレムだなんて! 現代魔法工学の重鎮たちがひっくり返るほどの大発明じゃない!」

 

 知る人が見れば大層な偉業らしく、大盛り上がりのシャーロット。

 ヴィクターは完全に脳を溶かされていた。焦点を失った目でクエスチョンマークの海に溺死している。足元にやってきたマンドラゴラがポンポンと脛を叩いて慰めていた。

 

「あー、ところでイレヴン。質問いいか?」

「おや質疑応答ターイムですカ? 少々お待ちを。答弁書、朝ご飯だったもので。ウッ!」

「ちょっとやめてなに急に吐こうとしてるの!?」

「いやほら、ゲロッた方が楽になるって怖い人がよく言うじゃないですカ」

「一から十まで意味わかんない!」

「一理ある。魔力で鞭出してくれシャロ。手っ取り早く吐かせよう」

「どこに理があったってのよ!? アンタまでペースに呑まれるな馬鹿!」

「ヘイカモン! レディ! カモン!! ワタクシ準備万端! ハーリー!」

「ひぃっ、お尻突き出してくるな気持ち悪い! 本当にシバくわよ変態!!」  

 

 ぞぞぞっと背筋を這いずる悪寒に後退り、シャーロットは虫を見るような侮蔑の目を向けて罵倒した。

 

 今までに無いタイプの奇人に頭がおかしくなりそうだった。言動全てが滅茶苦茶で脳が融解している。脊髄でしか喋れない生き物なのかと疑うほどに。  

 ピエロと執事を合体させたキメラのような容姿も相まって、その混沌さに拍車がかかるというものだ。

 

「ほらほら聞きたいことがあるんでしょウ? あーあーご褒美くれなきゃ思い出せないですネ」

「だそうだ。鞭ンディーバやってやれ」

「絶対イヤよ魔剣を何だと思ってるの」

「レディが踏んでくれたら財宝の在処まで全部喋れそうでス」

「だそうだ。景気よく踏んで一財産稼ごうぜ」

「お願いします麗しの姫君! それで救われる命があるんでス!」

「全員ぶっ殺すわ」

 

 馬鹿罪により二人は処刑された。墓標はタンコブだった。

 

「なんか俺、お前と仲良くなれそうな気がするよ」

「まぁ奇遇! 友情ソウルがビンビンですワ!」

「俺ヴィクター。よろしくなブラザー」

「気安くブラザーとか呼ばないでくれますカ? 失礼ですよ貴方」

「テメエこの野郎ッ!!」

「上等です尻相撲で決着つけましょウ! はっけよイ!!」

「もうやだ帰りたい……リリンに会いたいよぉ……」

 

 すんすん泣くシャーロット。足元には屍が二つ転がっている。決め手はアーヴェント流おだまりビンタだった。

 大きな紅葉と一筋の鼻血を携えながら、イレヴンは真剣に表情筋を固めて二人と向き直る。

 

「時は金でス。そろそろ真面目に話ましょウ」

「誰のせいだと思ってんの?」

「質問の見当はおおよそついてますヨ。この基地はいつから存在するのカ? 何故貴方たちのことをワタクシが知っていたのカ? お二人を呼んだのはワタクシなのカ? ……そんなところですネ?」

「ああ。そんなところだ」

「順を追って答えましょウ。このラボは島が出来た当時……つまり、アーヴェントが移住した千年前から存在していまス。しかしながら貴方がたを知ったのはつい最近のことでス。実はワタクシ()()、千年近く休眠しておりましテ。先日『純黒の王』の骸に起こった異変の余波で目覚めたのですヨ。心当たりハ?」

 

 問われて、ヴィクターは包帯にくるまれた己の腕を見る。

 イレヴンの言う異変とは、間違いなくこの腕を手に入れた日のことだろう。

 死の淵に瀕した生贄(ヴィクター)に霊廟で眠る王の亡骸が同調し、純黒の腕と心臓を授けた時だ。それしか考えられない。

 

「どうやらあるみたいですネ。そんなわけで、目が覚めたワタクシは異変の正体を探るべく、まず生体素材で義体を作成しましタ。それがこの体。で、貴方がたのことを陰ながら調査していたのでス」

 

 直接姿を現さなかったのは、無用な混乱を避けるためだったのだろう。

 ただでさえ裏切り者の存在で酷く荒れていた頃合いだ。そんなタイミングでイレヴンが顔を出そうものなら、混沌とした状況に陥ってしまうなど火を見るより明らかである。

 

「でも休眠してたからって、私たちアーヴェントに存在を隠してたのはどうして? ご先祖様と敵対してたわけじゃないんでしょう? わざわざ秘匿に徹して遠ざけていた理由は何?」

「色々と事情がございましてネ。なんというか、保険だったのでス」

「保険……? 何の保険だ?」

「それについては、ワタクシよりマスターからお聞きした方がいいでしょウ」

「────ちょっと待って。あなたのマスターってことはつまり」

「お察しの通り、賢者オーウィズ本人でございまス!」

 

 言いながら、イレヴンは柱のレバーをひとつ傾けた。

 応じるように足場が揺れる。大きな動作音を連れながら、三人の立つ床が浮かび上がったのである。

 それは柱を軸とするエレベーターのように、ぐんぐん頂上へ向かって上昇を始めていった。

 

「嘘でしょ……? 有り得ないわよそんなの! この施設や発明品が残ってるだけでも奇跡なのに、本人が存在してるですって!?」

「オーウィズって千年以上前の人物なんだよな? んなバカな話があるか。とっくの昔に死んでるはずだろ」

「ホホホホ。マスターはこの世で最も死から縁遠い人間なのですヨ。嫌われてるさえ言えまス。まぁ論より証拠、ご自分の目でご確認くださイ」

 

 ふと、いつまで経っても頂上にすら辿り着いていないことに気付く。

 

 過ぎ行く景色からして相当なスピードで上昇しているはずなのに、不思議と重力を感じない。

 この施設が山の中にあるとしても、標高的に到着していなければおかしい頃合いである。

 

 そんな折、不意に一帯が夜のような闇に包まれた。

 足場と柱に備わった操作盤だけが淡く発光し、三人を白く照らしている。

 トンネルの中を凄まじい速度で突き進むような光の尾が壁に現れ、それが一際強く輝いて消えたかと思えば、ゴゴンッと床が音を立てて静止した。

 

「到着でス」

 

 イレヴンの示す先には、暗闇の中でポツンと存在する棺のような物体があった。

 青白い光を薄ぼんやりと帯びたソレに、促されるまま恐る恐ると歩み寄る。

 先陣を切って中を覗き込んだヴィクターは、「いっ!?」と声を引き攣らせて後退った。

 

 ミイラだ。人間のミイラが眠っていた。

 

 それも干乾びた死体ではない。惨たらしい姿に変わりはないが、信じ難いことに生きているのだ。

 皺まみれの肌にはまだ水分があった。骨と皮だけの、枯れ木に皮膚を貼り付けたような見るに堪えない有様でありながら、それは確かに呼吸し、血が通い、はっきりと生命活動を保っていたのである。

 

 頭部におびただしく繋がれている薄桃色の血管じみた触手は何なのか、ヴィクターにはまるで想像もつかない。

 ドクンドクンと脈打つ管はこの人物に寄生しているようで、しかし命を繋いでいるようにすら見える。

 

「い、生きてるのか? これで? こんな姿になっても!?」

「勿論。マスターにとって重要なのは、脳が健全に機能しているかどうかですのデ。ある目的を達成するため、肉体の維持を最低限に留めながら千年間ここで演算を続けているのでス」

「信じられない……こんな姿になってまで達成したい目的って一体なに? 演算ってなんなのよ?」

「それは言えませン。マスターに禁じられておりまス。ので、そろそろ起きてもらいましょウ」

 

 棺のそばへ移動したイレヴンは、何の躊躇もなくミイラに絡みついていた触手の束を引き千切った。

 透明な液体が飛散する。手放された触手はミミズのようにのたうちながら、闇の中へと引っ込んでしまう。

 

 異変はすぐに起こった。急激に青ざめたミイラが痙攣を始め、死戦期呼吸のようなゾッとする息吹を繰り返したかと思えば、ぷっつりと糸が切れたみたいに静まり返ったのだ。

 瞬間。閃い光が炸裂した。それは轟々と燃え盛る蒼天のような炎となって、ミイラを包み込んでしまう。

 

「ちょっ、ちょっと燃えてるんだけど!? 早く消さなきゃ──」

「ご安心くださイ。これで良いのでス」

 

 消火しようと飛び出しかけたシャーロットを腕で堰き止め、イレヴンは薄く笑いながら首を振った。

 

「我がマスターはこの世で唯一、不死鳥の因子を自らに適合させた不死者(ノスフェラトゥ)でありまス。この青い炎は再生の焔! 死した肉体を再構築し、新しい体となって生まれ変わる過程なのでス! それでは皆様ご照覧あれ、灰の中より蘇りますは宙の大智、賢者オーウィズ! 千の時を経て幕開けを迎える、まさに世紀の復活劇にございますれバ! ホーッホホホホホ」

「うあ~、寝起きからうるっさいんだよ君は~っ!」

「おォン鳩尾にブッ刺さる大激痛(ハレルーヤ)ッッ!!」

 

 仰々しい高笑いを轟かせていたイレヴンが、棺の中から罵声と共に飛び出してきた魔弾に襲われ、エビの如く「く」の字に曲がって吹っ飛んだ。

 

 呆気に取られたのも束の間。イレヴンを倒した白く輝く光玉が床の中へと吸い込まれると、それが暗黒空間全域に染み渡っていくように、一帯へ光源をもたらしていく。

 

 どこを見ても真っ暗で、薄ぼんやり発光する棺以外なにも存在しなかった暗闇の帳が、瞬きをする間に白く清潔な実験室らしきラボの中へと早変わりしてしまう。

 

 のそり、と。

 棺から起き上がる、人の体。

 

「うぅ~ん……よく寝た。いや、生理学的に言えば睡眠じゃあ無いな、虚数三次元構造体の組成式を演算していたのだから……。まぁ長らく稼働しなかった肉体をまるっと再生(リザレクション)したんだ、これはもう過分なほどの熟睡を経た後と言っても過言ではないだろう。君もそう思わないかい? 筋組織が目まぐるしく発達した少年」

「へ? あ、ああ」

「だろう? つまりボクは寝起きなのだから、例え新品になったばかりの垢一つない体であっても身支度を整えなくちゃならないわけだ。ええと、鏡はどこだったかな?」

 

 大きく伸びをしながら早口に捲し立てたのは、ダボダボの古びた白衣に身を包むうら若い少年──いや、中性的な少女だった。

 

 灰を被ったようなグレーのウルフカット。病的なまでに白い肌。

 翡翠の瞳はヤギのように水平で、海の底に揺蕩う集光模様のように爛々と光り輝いている。

 目元を縁取る濃い隈は少女の微笑みにうっすらと仄暗さを与え、身に纏う丈の長い白衣と合わさって、どこか退廃的な科学者のような雰囲気を醸し出していた。

 

 少女は棺から身軽に飛び出ると、おもむろに傍の壁へ歩み寄ったかと思えば、指を押し当てて何かを描き始めた。

 刹那。硝子が弾けるような高周波が甲高く響き渡り、突如として壁が姿鏡のように少女を反射し始めたではないか。

 

「ふゥン、顔は良いねえ。耳と鼻の形は気に入ったよ。でも唇はもう少し厚めが良かったかなぁ? ……こほん。あー、あー、らららー……うん、声もボク好みだ。()()()()は概ね満足かな」 

 

 ペタペタと自分の顔に手を触れ、喉の調子を確かめるように声を出す少女。まるで自分の姿を初めて目にしたかのような口ぶりだ。

 

 死体同然のミイラがいきなり若返った挙句、何事も無かったかのように一人で歩き始めたばかりか、自分の体についてレビューしだす始末。

 異常事態の大洪水に呑み込まれ、二人はただ呆然と瞬きを繰り返すことしかできなかった。

 

「しかし隈が酷いな、顔色なんて屍そのものじゃないか。いくら再生したばかりでも、千年間ロクに栄養を取らなきゃこうもなるか。……おや? まずいぞ、錐体細胞に異常があるらしい。ボクの目だと髪が灰色に映ってるんだけど、そこの美しいお嬢さんにはちゃんと綺麗なブロンドヘアに見えてるだろう?」

「いえ……灰色です」

「嘘だぁーっ! 今回も金髪じゃないのか!? しかもよりによって灰色とは! これじゃあ折角若い体なのに年寄り臭く見えてしまうじゃないか! うう、あと何回再生(リザレクション)したら憧れのブロンドを手に入れられるんだろう……気が滅入るよ……」

 

 自分の髪色が心底気に食わないのか、わしわしと髪を掻き混ぜてがっくり項垂れる中性的な少女。

 

 いや、ただの少女で片付けて良い人物ではない。

 イレヴンの言葉が正しければ、棺の中から目を覚ましたこの奇天烈な女は、千年の時を経て蘇った伝説の魔法使い、賢者オーウィズに他ならないのだから。

 

(おいシャロ、こいつ本当に伝説の魔法使い様なのか? 変な女にしか見えないぞ)

(そんなの私だって分かんないわよ! でも見たでしょ? 実際にミイラから蘇ったところ。賢者様が不死の研究をしてたって話も実際あるし、あんなの目にしちゃったら多少信じざるを得ないじゃない)

 

 噂止まりなのは、ソレに関する資料が丸ごと消失してしまっているからだ。

 オーウィズが手掛けた数多の研究資料や成果物は、そのほとんどが学問の礎として現代までしっかり継承されている。

 

 だが不死の研究に関するものだけは、『オーウィズは不老不死の実現を目指していた』という口伝を除き、全て失われてしまっていた。

 

 それが本人の意図によるものなのか、第三者の手によるものかは一切不明だ。

 しかし失われた賢者の研究という歴史の浪漫は、様々な憶測を掻き立て続けた。十人十色の解釈で生まれゆく俗説の中には、オーウィズは不死の技術を完成させたものの、生命に背く禁忌が広まることを恐れて焚書を施したのではないかという一説もある。

 

 もし、それが真実だったとしたら。

 目の前で起きた理解不能な復活劇が、イレヴンの言う通り不死の研究による産物なのだとしたら。

 この女性の正体は、やはりオーウィズだという無二の証明になるのではないか。

 

「へぷちっ。うぅ、寒い。流石に襤褸切れ一枚しか羽織るものがないのは堪えるな。ちょっと着替えさせてくれたまえ。……ん? というかそこの君、ひょっとしなくてもアーヴェントじゃないか? おお! こうしちゃいられない、すぐ済ませなくては! ──『■■■■■』」

 

 人間の聴覚が捉えきれないほどの一瞬で唱えられた呪文と共に、パチンと弾かれる指の空砲。

 その合図を聞きつけてか、どこからともなく無数の布地や針、糸の群れが飛んできた。

 

 それらはオーウィズを指揮者とする楽団のように、悠々と泳ぐ賢者の指に従いながら、色とりどりの衣服を目まぐるしい速さで仕立て上げていく。

 洗練。素人目に見てもあまりに卓越した魔法技巧は、一気に場の空気を鷲掴んだ。

 光の下で無邪気に指を振るい、裁縫道具を役者に、生まれては舞う服飾たちが織り成す演劇は、御伽噺の世界に放り込まれたような光景を二人の前に展開した。

 

「な、なんだこりゃ? どうなってんだ、魔法でイチから服を作ってンのか?」

「そうだよぉ。昔は服が高価でねえ、下積み時代はよくこうして自作したものさ。今も伝わってるかは知らないけど、仕立ての魔法の原版(オリジナル)だよ。どうだいどうだい? 凄いだろう?」

「わぁ……! 魔力操作も術式の展開レベルも桁違い過ぎる! こんなの真似出来っこない……!」

「フフーン。そうさ、ボクは凄い魔法使いなのさ。もっと賛美を聞かせてくれたまえ」

 

 そうして出来上がった多種多様な衣装が、灰髪の少女を中心に円を描いて旋回し始めた。

 

 顎に手を当てながら、ほうほうと吟味を重ねていくオーウィズ。

 すると突然、何の躊躇もなく纏っていた白衣を脱ぎ捨てたものだから、ヴィクターは独楽のように全力で回転して座禅を組んだ。

 

 背を向ける最中、シャーロットがこちらへ電光石火の如く飛び掛かりかけていたところを垣間見て、もし判断が遅ければ何が起こっていたのかと冷や汗を流す。

 

「うん、偉い偉い。大丈夫になったら教えてあげるから、そのまま後ろ向いて待ってなさい」

「くくっ、気を遣わなくたっていいのに。見られたところでどうも思わないさ」

「本当ッスか!?」

「振り向くなって言ってんでしょうがエロ猿~~っ!!」

「グワーッ!! 何だこのヘッドロック腕に鉄骨でも入ってんのか!?」

 

 しばらく。あーでもないこーでもないと服をポイポイ放り捨てた末、ようやく納得のいくコーディネートが完成したらしい。

 

 眼鏡をかけている。上着は濃紺のブレザーにブラウンのチェスターコートを重ね、シャツに深緑のネクタイを締めていた。

 下半身は丈の短い黒チェックのスカートとストッキングに覆われており、お供にアンティークな革靴も履きこなした、脚線美を活かすコーディネートに仕上がっている。

 全体的にシックなシルエットで纏まっていた。どことなく、ベテランの探偵らしき雰囲気が感じられるようだ。

 

「お待たせー。君たちの服を標本に現代のデザインを予測して仕立てたのだけど、どうかな? 違和感はないだろうか」

「ええ、とても似合ってますよ!」

「くっくっ、それは重畳」

「お洒落ですよぉマスター! 絶妙な若作り感が良い具合に加齢臭を隠してまス!」

「そうかそうか。もう死んでいいよクソ執事」

 

 イレヴンは景気の良いローを腿に貰って死んでしまった。魔法じゃなくて物理で行くのかと、ヴィクターはキレキレな足技に戦慄を覚える。

 

「一服良いかい?」

 

 再びオーウィズがくるくると指を回した。またしても何処からか小さな箱が飛んできて、彼女の手の内にすっぽりと収まる。

 中から取り出したのは小さな棒だ。ただの手巻き煙草のように見える。

 人差し指に小さな火を灯して着火すると、口に食んで紫煙をゆっくりと吐き出した。

 

「大丈夫、見た目は煙草っぽいけど煙草じゃないよ。そも、厳密には煙というより蒸気に近い。害はないし香りも服に着かないから安心してくれたまえ。なんというか、匂い消しみたいなものでね。体質上必要なんだ」

「すんすん。確かに煙たさがないな。なんだろう、甘いハーブみたいな? どことなく清涼感のある匂いがする」

「マビキ草という薬草に竜鱗の粉末を金凝油(きんぎょうゆ)で調合したものでね。昔は魔物除けなんかに使われてたんだよ」

「ゲェホゲホッ!! ゲヘッホッホッ!! うーん臭イ! めっちゃ臭イ! 肉体を持って初めて感じるこのトンデモ刺激臭! 消せ老害!!」

「すまない二人とも、このクソ執事ちょっと頭がアレでさ。無礼な時は遠慮なく躾けてくれて構わないからね」

「マ"────ッ!! 未知!! 未知の方向に肘関節が曲がっておりまス!! 大激痛(マーベラス)!!」

 

 流れるようなアームロック。イレヴンは四度死ぬ。

 放り捨てられる遺体。もはや誰一人イレヴンに見向きもしなくなっていた。段々この男の扱い方というものが分かってきたような気がする。

 

 苛立ちを煙に混ぜて吐くオーウィズに、シャーロットはどこか緊張した様子で体を強張らせながら、恐る恐る訊ねの言葉を投げかけた。

 

「あ、あのっ。あなた様は本当に、あの賢者オーウィズ様であらせられるのですか?」

「そうだよぉ。この世でオーウィズの名を名乗っていいのは正真正銘ボクだけさ。しかし意外そうな顔だね? もしかしてイメージと違ってたかい? くっくっ」

「そう、ですね。想像上のお姿と違ってビックリしちゃいました。賢者様のお姿に関する資料は肖像画も彫刻も全然バラバラで、今でも大きな謎になってるんです。実は豊かな髭を蓄えた男性像が世間一般の共通認識になってるんですよ」

「本当かい? ッハハハハ、面白い! まぁこの通り、ボクは少々特殊でさ。肉体が生命活動を停止すると新しく再編成されるせいで、死ぬたびにちょっぴり見た目が変わるんだよ。多分それの影響なんだろうね。いやしかし、千年後のボクはヒゲモジャのおじさんかぁ。くっくっく、ある意味蝶の羽ばたき効果だね、コレは」

「まさか賢者様にそんな秘密があったからだなんて……! お会いできて本当に光栄です!」

「よしてくれ、畏まられると痒くなるんだ。気軽にオーウィズと──いや、名前は後々不都合か。そうだな、博士とでも呼んでくれたまえよ。敬語もいらないから」

「そんな、出来ません! 恐れ多過ぎます! 私、子供のころから賢者様の大ファンなんですから……!」

 

 ほほう? と上機嫌そうに目尻を下げながら、オーウィズは景気よく煙を吸う。

 

「ということは、著書の愛読者くんかい? いやあ、その若さで魔導力学の理論体系に興味があるとはねえ! 勉強熱心で感心感心」

「もちろん学問の方もなんですけど、賢者様が執筆された恋愛小説が本当に本当に大好きで!」

「…………恋愛小説?」

 

 鳩が豆鉄砲、いや、迫撃砲でも喰らったような顔。

 まるで身に覚えがないらしい。文字が顔に出るとは、こういうことを言うのだろうか。

 オーウィズは顎に手を当てて首をかしげながら、記憶の底を探るように頭を捻った。

 

「うーん? そんなもの書いた覚えなんてないけどなぁ。ボクが世に出したのは全て学術書の類で──」

「『証明不可の病』シリーズの中でも、特に『失恋試薬a,b,c』がすっごく好きなんですっ」

「……………………………………………………今、なんて?」

 

 一瞬、オーウィズの時間が冰の中に閉じ込められたみたいに凍結した。

 

 余裕綽々としていたオーウィズから笑顔が消える。

 心臓を絞られたみたいに血の気が引き、額からじわりと冷や汗の滝が流れ出して。

 マビキ草を握る手が、唇が、どういうわけかカタカタと震え始めていた。

 

 地雷を踏み抜かれた感じではない。

 なにか、自分にとって最悪の事態が目の前まで迫っていることを察しかけているかのような、そんな絶望に塗れた表情だった。

 

 完全に蚊帳の外で放置され、マンドラゴラやイレヴンと遊んでいたヴィクターも、異変を醸す雰囲気に思わず目を向けてしまう。

 

「すぅーっ…………はぁ……えっと、はは。困ったなぁ、どうも聴覚器官にバグがあるらしいぞこの体。蝸牛が絶対に聞こえてはいけないワードを神経信号に誤変換してしまったみたいだ。もう一度言ってもらえるかい?」

「? えっと、『証明不可の病』シリーズですよね。『瞳色のフラスコ』、『透過率100パーセントの悪魔』、『失恋試薬a,b,c』、『花束/ストラクチャー』の全四巻」

かひっ

「今でもベストセラーのひとつとして幅広く愛読されてるんですよ。孤独な天才学者と剣の道しか知らない不器用な戦士の、何もかも逆さまでチグハグな二人を描いたラブストーリーで」

「ウワ──────────────ッッッ!!!!!」

 

 突然、奇声と泡を吹きながらぶっ倒れるオーウィズ。

 何が起こったのか分からないシャーロットとヴィクターは、戸惑いながら視線を合わせて眉をひそめた。イレヴンは何故か腹を抱えて爆笑していた。

 

 顔面から墜落したままピクリともしなかったオーウィズは、全身をブルブル震わせながら、悲痛をこれでもかと押し込んだ渾身の絶叫を張り上げる。

 

「だっ、だだだっ、誰だぁーっ!? ボクが眠ってる間に、かっ、かかかかっ、勝手に人の黒歴史ノートを暴いたばかりかっ、本にして売り出しやがった最低最悪の外道はぁーっ!? こんなのっ、魔王(マグニディ)より残酷で惨たらしい拷問処刑じゃないか!! 断じて許されるべき行為ではないよ!! ふざけるなホントふざけるなよバカ野郎────っ!!」

「ぶひゃ──っはっはっはっはっはイ────ヒヒヒヒヒヒヒヒホホホホホホハハハハハ!!」

「お前か!? お前がやったのかクソ執事!?」

「いひひひひっ、いえいえ誓ってワタクシではございませン! あの二人のことを調べるついでに、現代についても調査しようと彼らの住まいの蔵書を洗ってたら偶然マスターの夢小説拝見しましてネ! こりゃ目覚めたら超面白いことになりそうだなと楽しみだったもので、おかしくておかしくてつい、ヒヒヒヒ!」

「本ッッ当にイイ性格してるな君はっ!! ちくしょうちくしょう誰だよぉーっ!! 誰がやったんだよもぉーっ!!」

 

 行き場の無い羞恥と怒りを模範的な地団駄で爆発させるオーウィズ。

 

 千年ぶりに目が覚めたと思ったら、若気の至りで情熱のまま書き殴ったヒミツのノートが書籍化された挙句大勢に読まれていた。

 夢を通り越してこの世の終わりみたいな状況だろう。オーウィズの精神が嵐のように搔き乱されたとて何ら不思議なものではない。

 

「こっ……殺してくれえ……死なせてくれよぉ……何でボク死ねないんだよぉ……ぐすっ……くそお……こんな仕打ちあんまりだ……何で島に来る前に燃やしてかなかったんだ千年前のボクのアホバカマヌケぇぇ……」

「あの、元気出してください。本当に面白くて、ミュージカルの金字塔にもなってるくらいなんですよ。とっても大好評なんです」

「シャロ、多分それフォローじゃなくてトドメだ」

「呼吸止まっちまいましたねェ!」

 

 屍である。また青い炎を噴いて再生(リザレクション)しそうな勢いだった。

 

「うーん、死亡確認! こりゃ一週間は使いものになりませんナ。残念ですがお二人とも、ちょいと日を改めまてもらえますカ? 積もる話もあることですし、腰を据えてからの方がいいでしょウ! ああ、今度はこちらからお宅へ伺いますので山登りの方はご心配無ク」

「それは構わないんだが……その、大丈夫か?」

「さァ? お湯でも掛ければ元に戻るのでハ? そんな事より、こんなクッソ情けないマスターの姿拝める機会なんて滅多にありませんからネ! 各種記録媒体に保存しておかなきゃ大損も大損で」

 

 

 研究施設中に野太い絶叫が轟き奔り、イレヴンは五度目の死を迎えた。



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35.「贖いと不屈の女」

 不老不死とは、長らく死を恐れる人類にとって、恋焦がれる高嶺の花であった。

 しかし断言する。一人の少女は断言する。

 長く生きることは決して甘露などではなく、死ねないという束縛は、永遠に苦しみ続けることと同義であると。

 

 

 賢者オーウィズ。外なる宙より現れた十の災い──魔王(マグニディ)を打ち滅ぼした英雄の一人。

 現存する唯一無二の不死鳥因子移植実験成功者。生命の危機に瀕すると再生の炎によって肉体を再構築し、新たな体となり生まれ変わる不死者(ノスフェラトゥ)である。

 

 類稀な頭脳をもって自ら不死を体得したオーウィズだが、しかし望んで死を克服したわけではなかった。

 生きなければならなかった。死を捨てなければ星を()()()()いた。そうする他に人類文明を継続させ、世界を守る道筋など皆無だった。

 

 それを成し遂げられるのはオーウィズを置いて誰一人として存在せず。力持つ者は相応の責任を伴わねばならないのだと、苦渋の決断を迫られた果てに。

 少女は、永遠という名の呪いに囚われた。

 

 

 肉が裂け、骨が砕け、臓物を暴かれようとも、その体は何事も無かったかのように蘇る。

 少しだけ。ほんの少しだけ形を変えて。

 

 心が痛み、屈辱に塗れ、絶望に食い潰されようとも、その体は決して逃げることを許さない。 

 少しずつ、ほんの少しずつ歪みが増えて。

 

 気付けば、不死身になる前の自分はどんな姿だったかも忘れていて。

 気付けば、オーウィズという記号(コードネーム)を授かる前の自分の名前は、果たして何だったのかさえ胡乱になり。

 

 狂いたくとも狂えず、終わりたくとも終われずに。

 生きて。生きて。生きて。生きて。

 

 弱き人々を守るために。壊れそうな世界を救うために。星を奪おうとする底なしの悪意を退けるために。

 懸命に、懸命に、生き続けては戦ってきた。

 

 しかし不死者とは、賢者とは、完璧という存在とは程遠く。

 数多の失敗を、無限の傷を背負い、呑み込み、吐き下し、無理だと叫んで、それでも逃げられないから這いずって。

 

 いつの日かただ聡かっただけの少女は、壊れることを奪われた英雄となった。

 

 

 けれど。それでも。

 曲げられた鉄板の折れ目は二度と平らにはならないように、『オーウィズ』の中に蓄積され続けた不死ゆえの宿痾は、未来永劫彼女を解放(はな)すことはない。

 

 

 男も。女も。子供も。老人も。

 幾つもの、分け隔ても無い、望まぬ終わりを見届けてきた。

 

 救えなかった人がいる。手放さなければならなかった人がいる。

 天才は全能ではない。オーウィズは完璧ではない。

 

 あの日。あの夜。あの場所で。助けてと叫ぶ声を、伸ばされた手を。

 掴み損ねた数だけは、幾度肉体が真っ新に生まれ変わろうと、焼印のように残っている。

 

 

 

 

 

「というわけで、本日よりアーヴェント宗家の執事長を務めさせていただくことになりました、イレヴンと申しまス! つまり貴方がたコロポックルズはワタクシの奴隷もとい部下! 汗水たらしまくる下っ端でございまス! さぁお分かりになったらワタクシを楽させるために馬車馬の如く粉骨砕身で働きなさーイ!」

「…………」

「アレー? すっごく剣呑な雰囲気。初対面の挨拶は元気よくすれば花丸100点だって本に書いてあったのニ! 詐欺著者野郎の家にはナメクジ一億放ってやりまス! プンプン!」

 

 小人(コロポックル)の性格は、生息地による地域差こそあれ総じて人懐こく、朗らかで優しい人型種族である。

 特に黄昏の森に住まう彼らは、迷い人を親身になって導き救うような穏やかさで有名だ。『禁足地』に住まう亜人種の代表、良き隣人と言っても過言ではない。

 

 そんな十人の小人(コロポックル)たちが、見たこともないほど険しい表情でイレヴンを睨みつけていた。

 

 ヒエヒエである。いつも見ているだけで温かくなるような笑顔をニコニコと携える幼気な住人が、まんまるな瞳を吊り上げ、口をへの字に曲げて、中には髪を逆立てながら牙を剥き「ヴゥゥッ!」と威嚇音を放つ者までいる始末だ。

 

 気の弱いノノは涙を浮かべ、傍のエルルにしがみついて震えていた。

 最も血の気の多いエルルはノノを守るように片腕で抱き寄せながら、モップをイレヴンに突きつけて立ち向かおうとしている。

 

「もの凄く穢れた匂いがする。おまえなに?」

「禍々しい気配。腐りきったどす黒い魔力」

「おぞましい。おぞましい」

「おまえ嫌い!」

「あぅぅ、怖いよぉ」

「泣いちゃだめ! 勇気を出して、わたしたちでお家を守るんだから!」

「そうだそうだ。今こそ報恩の時だ」

「二人に救われた命。ここで報いるべき」

「クロウデとお嬢様を守れー!」

「かかれーっ!!」

「ホホホホ。脆弱な森の原住民風情が、ワタクシに立てつこうなど笑止千万! よろしイ! 縦社会の厳しさというものを身をもって味わわせてやりまヌワ──────ッッ!?」

 

 

 

 

「良~い茶葉だねえこれ。コクのある濃厚な香りなのに口当たりは爽やか。柑橘のフレーバーがお茶特有のクドさをまろやかに仕立てていて後味にツヤがある。風味に潤いすら感じるよ」

「でしょでしょーっ! いきつけのお店で買ってるやつなんですけど、特に好きな銘柄で。凄く美味しいですよね」

「ああ、ボクも気に入ったよ。いやしかし、千年も経てば嗜好品の質なんて比べ物にならないほど向上するものだなぁ。技術の進歩に好奇心を掻き立てられてやまないよ。後で成分を分析させてもらおう」

 

 あの一件から実に七日。ようやく立ち直れたらしく、はれて館に訪れてきたオーウィズとのお茶会を兼ねた情報交換が行われていた。

 

 シャーロットとオーウィズ、二人きりの小さな懇親だ。厳密にはイレヴンや小人(コロポックル)たちも顔合わせのため部屋には居るが、あちらはあちらで何故か乱闘になっているので頭数には数えていない。

 

 ヴィクターはリリンフィーと共に揃って席を外していた。というのも、リリンフィーの虚弱体質がためである。

 

 オーウィズは現代魔法理論の祖として名を轟かせる偉人の中の偉人であり、かつて魔王(マグニディ)の手から世界を救った大英雄の一人だ。いわば生きた歴史そのものと言っていい。

 名を知らぬ者など生まれたばかりの赤子程度と謳われるほどのビッグネームであり、本来こうして和やかにお茶を楽しめるような相手では断じてない。

 

 シャーロットですら、初対面時はガチガチに緊張して凝り固まってしまったほどだ。

 気を抜けば強張り過ぎた神経がプツッと切れて失神してしまいそうだったあの感覚は、いまだ記憶に新しい。

 こうして平静でいられるのも、例の一件を経て「あの賢者様にも残念なところがゲフンゲフン人間味に溢れた一面があるんだ」と、親近感を湧かせられたからこそである。

 

 だがしかし、例え黒歴史を全世界に公開されたショックで泡を吹いて倒れようが大物は大物。

 体の弱いリリンフィーをいきなり会合などさせてしまえば、冗談抜きに緊張で心停止させてしまいかねない。

 心の準備を済ませてからということで、リリンフィーは後回しになったのである。ヴィクターは預かり係だ。

 

 閑話休題。

 

 千年の時を経て目覚めたオーウィズに、現代の情報を把握して貰うため、シャーロットが伝えられるものは全て伝えた。

 今の社会模様に始まり、島で起こった出来事や、天蓋領との確執、記憶を失ったヴィクターについてなどなど。覚えている限り隅々まで。

 

 反面、オーウィズから開示された情報は少なかった。せいぜい特殊な波動エネルギーを冥脈に乗せて小人(コロポックル)に干渉し、二人を山に呼び寄せたトリックが明かされた程度だ。

 

 千年近くアーヴェントとの関りを断ち、霧の奥に潜み隠れながらミイラのようになってまで一体何を行っていたのか。虚数三次元構造体の演算とは何なのか。終ぞ教えてもらえず仕舞いである。

 

 いわく、「内容を知られては意味がなくなる」とのことだった。

 ひた隠しにされると気になってしまうのが人間というものだが、申し訳なさそうに口籠るオーウィズを見て、グッと好奇心を抑え込んだ。

 

「……ご家族のことは気の毒だったね。何の力にもなってあげられなかったことが歯痒くて仕方がない。せめてイレヴンの覚醒が間に合っていたら……」

「お気になさらず。もう終わったことですから」

「……そうか。強い子だね、君は」

 

 カップの中身を飲み干して、オーウィズは言葉を慎重に探るように言う。

 

「その、ちょっとした提案なんだが」

「何でしょう?」 

「ボクに出来るせめてもの弔いを、というには少し語弊があるんだけれど。ええと、もし君が良ければなんだが……もう一度会えるとしたら、ご両親に会ってみたいかい?」

「──え?」

 

 問われた質問を咀嚼出来ず、しかし受けた衝撃の大きさに、思わずカップを落としてしまいそうになった。

 

 言うまでもなく、両親はとっくの昔に死んでいる。

 エマに隠されていたリリンフィーとは違う。間違いなく、この手で遺骨を埋葬したのだから。

 

 ならばオーウィズが言っていることは、つまり蘇らせるということか? 

 死人を? 有り得ない。いくら賢者の名を冠する魔法使いでも不可能だ。

 

 オーウィズほどではないとはいえ、魔法というものがそこまで万能ではないことは、シャーロット自身もよく知っている。

 

「先に言っておくけど、蘇らせると言ってるわけじゃあないよ。死亡直後ならまだしも、時が経った死者を蘇生させるなんてボクでも不可能だ。……でも魂だけなら、冥脈から一時的に呼び出して対話することが出来る」

 

 述べられた言葉たちを脳裏で反芻し、はやる胸を抑えながら、冷静に努めて問いを返す。

 

「……交霊術、ですか?」

「有り体に言えばそうだね」

「ですが、その」

「机上の空論だと言いたいんだろう?」

 

 オーウィズはお菓子を盛られた皿の中から、カラフルなクッキーをひとつ口に放り込んだ。

 

「君は亜人進化論、ひいては魔力因子の法則について知見はあるかい?」

「……はい。魔力には宿主の性質や記憶を宿す、因子という記録媒体が備わっているって話ですよね? それが基人(ヒューム)から様々な亜人が誕生した理由であるとか」

「その通り。心臓が生み出す魔力という名の生命エネルギーには、宿主の経験や性質を記憶する力があるんだ。言ってしまえば遺伝子に近いかな」

 

 通常の進化論で考えた場合、例えば魚人(マーマン)のような人と魚の混血が発生するなど有り得ない。

 両種とも遺伝的に異なり過ぎている。意図的に交雑させたとしても、生物として成立しようがないのは語るまでもないだろう。

 

 それを可能にしたのが魔力因子という存在だ。

 雌雄の生殖を経て子に伝えられる性細胞が内からの遺伝子とするならば、因子とは完全な外部からもたらされる外からの遺伝子である。

 

 大怪魚の海に住まい、彼らを狩り喰らって生きて来た文明の人々は怪魚の因子に順応して魚人(マーマン)となった。

 竜の墓場を住処とし、竜種の魔力に曝露され続けた人々の子孫は竜人(ドラゴニュート)となった。

 

 このように、世界中の亜人種は因子に適応するという形で、新たな人類として確立されていった存在なのである。

 

「ここで重要なのは、魔力は宿主の性質を覚えるという点だ」

 

 ポットからお茶を注ぎ、カップに口を着ける。

 暖められた吐息を空気に解きほぐしながら、賢者の名を冠する女は続けていく。

 

「対象人物の遺物と、それに所縁のある人間の魔力因子を触媒に冥脈へ検索をかける。冥脈には死して還った生物たち全ての記録(ログ)が膨大な魔力の奔流に保存されているから、そこから君のご両親の記憶を呼び寄せて対話するというわけだ。因子の性質を利用すればそれが可能なのさ」

 

 淡々と、さも容易であるかのように、眼鏡の奥の瞳でシャーロットを見据えながらオーウィズは言った。

 

 理屈は分かる。シャーロットも数々の魔法を学び習得してきた人間だ。彼女が口にした論が如何様な筋書きなのか、最低限理解出来ているつもりはある。

 けれどそれは、素人感で捉えたとしても即座に不可能だと断じられるような、儚い夢物語でしかないのだ。

 

 例えばの話。星を一周するほど巨大な川に一匹だけ魚が住んでいるとして、それを狙って釣り上げることは可能なのだろうか? 

 これはそういう話だ。あまりに非現実的過ぎるがゆえに、机上の空論として片付けられてきた魔法なのだ。

 

 にも関わらず、オーウィズの言葉に虚勢は無い。

 確固たる自信と共に示される力強さは、まるで雨音に混じるジャズのように鼓膜の奥へと沁み込んだ。

 

 微塵も言い淀みのないその姿勢に、本当に可能としてしまうのではないかという、幽かな希望さえ生まれてしまうほどだった。

 

「魂をこの世に呼び戻すという行為は、時に死者の眠りを妨げる冒涜だと揶揄されることもある。ボク自身、そういった倫理観に抵触する外法であることは重々承知しているつもりだ」

 

 再びクッキーの山をつつく。

 一枚。二枚。重苦しい話題の苦さを、菓子の甘みで帳消ししようとしているように食んでいく。

 

「その上で問おう。君はご両親に会いたいかい? 伝えられなかったこと、伝えたいこと、そう言ったものを打ち明けることで、癒える傷もあると思うんだ」

「……私は」

 

 喉に物が詰まったみたいに、答えを絞り出すことが出来なかった。

 

 両親に会いたいか? そんなの会いたいに決まっている。

 言いたいことなんて、胸の奥底に積もり過ぎていて吐きそうなくらいだ。

 

 家族を失って辛かったこと。色んな出会いがあったこと。

 苦しいことも多かったけれど、嬉しいことも少しずつ増えたこと。

 新しい一歩を踏み出せるようになったこと。妹が生きていたこと。信頼できる友人が出来たこと。館に家族が増えたこと。

 何より、今まで育ててくれた二人に、精一杯の感謝を伝えたい。

 

 言いたいだけじゃない。言って欲しいことだって沢山ある。

 頑張ったねって、偉かったねって、一言で良いから褒めてもらいたい。

 そうしたらきっと、シャーロットは受け取った宝物を抱き締めて、これからも頑張っていけるだろうから。

 

 

 けれど。

 

「私は、会いません」

 

 水で濡れた若葉のようなオーウィズの緑の瞳を、真っ直ぐと見つめながら首を振った。

 

「会いたい気持ちはあります。本音を言えば、とても会いたい。会っていっぱい話がしたい。けれど今の私は、まだ両親に顔向けできるほど一人前ではありません」

「……」

「会えるとしたら、もっと立派になった私の姿を見せたい。リリンもです。健やかに育ったあの子の姿を見せてあげて、私たちを守るために失われたお父様とお母様の命は、決して無駄ではなかったのだと伝えたいのです。心から安心して、眠ってもらえるようにしてあげたいのです」

 

 少女が紡いだ、どこまでも真摯な言の葉たち。 

 それを噛み締めるようにオーウィズは瞳を閉じながら、カップに口を着け、雅な紅茶の香りを胸に満たした。

 

「立派だね。若いのに、本当に立派な子だ。君のご両親もさぞ誇りに思うことだろう。野暮なことを聞いてすまなかった」

「いえ、そんな。頭を上げてください。両親に会えるかもしれないだなんて、私も本当に嬉しかったんです。やっぱり博士は凄いお方なんだって、改めて実感しちゃいました」

「くっくっ。ああ、本当に良い子だねえ君は。ますます気に入ったよ」

 

 そこで話は変わるんだが、とオーウィズは座り直すように言葉を投げながらクッキーを摘まんだ。

 

「シャーロット君。ボクを雇ってみる気はないかい?」

 

 唐突に突き付けられた本日二度目の衝撃に、思わず呆然と固まった。

 

 雇う? 

 自分が? 彼女を? 

 賢者と謳われた英雄の一人を? 普通逆では?

 

 シャーロットの中でバグが発生した瞬間だった。予想だにもしないぶっ飛んだ申し出に、脳がこんがらがって機能不全を起こしてしまう。

 

「実は今日の本題はそれでねぇ。契約と言うと仰々しいが、同じ島に住まうもの同士、ぜひ協力し合おうと思って相談に来たんだよ」

 

 驚天動地のあまり宇宙の真理を垣間見た猫の如く蕩け散らかしたシャーロットを「くっくっ」と愉快そうに眺めながら、オーウィズは続ける。

 

「あそこでイレヴンをふんじばってるコロポックルたちのように、ここで働かせて欲しいのさ。と言ってもボクはデスクワーカーでね、肉体労働はからっきしだ。代わりに数字や書類に関わる仕事と、教育関連を任されよう。どうだい? 悪い話じゃないと思うんだけど」

「ちょちょちょ、ちょっと待って下さい! 話が急すぎます! 私が賢者様を雇うだなんてそんな、無茶です!」

「堅苦しく考えないでくれよ。雇用とは言うが、立場はあくまで対等さ。その方が気が楽だろう?」

「十分重責なんですけれど!?」

「まぁまぁ。ボクを使えたら色々便利だぜ? 例えばホラ、聞いた話じゃ禁足地遠征帰還届も、カプディタス発生に伴うコロポックルたちの被害状況報告も済んでいないんだろう? 違うかい?」

「うっ」 

 

 図星を突かれ、目を泳がせてながらたじろぐシャーロット。

 

 述べられたレポートの提出は、ギルドに所属する『禁足地』遠征資格保持者に伴う義務である。

 帰還から一月ばかり猶予はあるものの、超過すれば罰則を貰いかねない。

 

 命を落としやすい治外法権の危険地帯に人が赴くことを許可する都合上、生死の確認を主としてどうしても必要な工程なのだ。

 加えて帰還した者が蓄積する報告という名の情報源は、今後『禁足地』へ向かう人々にとって命綱となる場合もある、疎かにしてはならないとても重要な仕事である。

 

 シャーロットも軽んじていたわけではない。単純に時間も人手も無かったせいだ。

 そこに来てこの鶴の一声。畏れ多さといった一身上の都合を除けば、これ以上になく魅力的な提案なのは認めざるを得ないだろう。

 

「そういった雑事諸々を引き受けようじゃないか。初対面時は見苦しいところを見せてしまったけど、これでも優秀なんだ。遠慮なく使ってくれたまえよ」

 

 くっくっと、声を殺して笑うオーウィズ。

 しかしそうは言っても、安易に首を縦に振れないわけがシャーロットにはある。

 

 オーウィズほどの傑物が力になってくれるというなら、これほど心強いものはない。ぜひとも手を取りたい。むしろ懇願する勢いだ。

 

 しかし、しかしだ。最上級の魔法使いに対し、シャーロット側が対価として払える報酬なんて何処にある?

 無い。何も無いのだ。伸ばされた手を受け取りたくとも、苦虫を嚙み潰してでも断らざるを得ないのだ。

 

 そんなシャーロットの苦渋を綺麗さっぱり両断するように、オーウィズは屈託なく微笑んで言った。

 

「安心したまえ、お金は要らない。そんなもの、幾らだって稼げるからね」

「え?」

「ボクが要求したいのは、君がラボに持ってきてた竜の涙石と、この館の空き部屋一室、書斎、食堂の使用権利。あとは妹さんの──厳密には『純血』のアーヴェントの研究許可だね。……ああ、誤解しないでくれたまえ、何も非道な人体実験をさせろと言っているわけじゃない。データの少ない妹さんをきちんとボクの手で分析して、不安定で人の身に余る『純血』の力を安定化させる手助けをしたいのさ」

 

 妹を研究したいという申し出に条件反射で突っぱねそうになったが、オーウィズの補足説明を耳にして頭を冷やした。 

 今一度、示された条件を脳裏で噛み砕いていく。

 

 竜の涙石。それはいい。貴重品ではあるが、必需品ではない。

 むしろそれで賢者の頭脳を借りることが出来るなら安いほどだ。

 

 館の使用許可。それもいい。空き部屋は幾らでもあるし、書斎も半ば死蔵に近いほどの蔵書が眠っている。活用してもらえるなら、本も喜ぶことだろう

 

 妹の研究許可。今しがた聞いた話の限りでは問題ない。

 オーウィズの言う通り、黒魔力の『純血』は非常にデータが乏しい。

 この先どんな不測の事態がリリンフィーに降りかかるか未知数であることを鑑みた場合、きちんとデータを蓄積して解明を進めれば、もしかすると『純血』による虚弱体質を治療するか、良化させる手段が見つかるかもしれない。

 

 ざっと考えただけではメリットばかりの提案だ。損失なんてゼロに等しい。

 それでも決断に踏み込めないのは、ひとえに()()()()()()()()せいか。

 

「……とても魅力的な提案ですが、率直に言います。本当の狙いは何でしょうか? いくらなんでも、私にとってあまりに利益しかない交渉です。まだ出会って間もない私たちに、どうしてそこまで?」

「端的に言えば、償いに近いかな」

「償いとは?」

「君のご先祖様にさ」

 

 苦笑と共に答えたオーウィズには、どこか仄暗い陰があった。

 

「イレヴンから聞いたよ。今の時代じゃ、アーヴェントは世界を支配しようと目論んだ逆賊として伝えられているそうだね?」

「……はい」

「それは誤りだ。彼らは世界征服なんてこれっぽちも考えていなかった」

 

 きゅうっと、胸が締め付けられるような錯覚。

 けれどそれ以上に、隙間から春風が迷い込んでくるような、微かな温かみが萌芽していく実感があった。

 

 ああ。だって。

 例え歴史上の大罪人と揶揄され続けて、辺境の島に追いやられたような没落を辿っても。

 アーヴェントは、自分のルーツは、気高き魔を払う戦士であったのだと。そう信じ続けてきたシャーロットにとって、オーウィズという生き証人の言葉は、どれだけ慰めになることか。

 

「全滅してしまったことは確かだ。だがマルガンのせいじゃない。アレン=アーサーの手引きでもない。ましてや聖女の思惑でも」

「では、どうして?」

「……すまない。それは言えないんだ。この世には、()()()()()()()()()()()()()()

 

 排水に口を着けたように険しい表情。

 オーウィズの内に湧き上がるグズグズとした感情の悪露が、水面へ浮かぶ水泡のように表情へ現れていた。

 

 それを紛らわすためか、オーウィズは内ポケットからマビキ草の巻き煙草を取り出して火を着けていく。

 

「詳細は話せないが、当時アーヴェントは未曽有の危機に見舞われていた。冗談でも何でもなく、ある日突然、一夜にして全滅寸前まで追い込まれかけたんだ」

 

 ツンと清涼感のある、ハーブのような紫煙がくゆる。

 

「ボクは僅かな生き残りをこの島に避難させたが、全員は救えなかった。見殺しにせざるを得なかったんだ。……中には、君より幼い子供なんかもいてね」

 

 ふと、シャーロットは気付く。

 煙草を挟む指が、幽かに震え始めていたことに。

 

「助けてくれと懇願する声を、この子だけでもと縋る親の手を、ボクは払い除けて────」

「博士、無理をなさらず。顔色が真っ青ですよ」

 

 話が進みゆくにつれて、さぁっと血の気が引き下がり、死人のように蒼褪めていた。

 

 煙に紛れる瞳の裏で一体どんな光景が再生されているのかは分からない。

 けれど、魔王(マグニディ)との大戦の時代から生き続けているオーウィズが、想起するだけで血色を奪われるほどの出来事とは、どれほど凄惨を極めるというのか。

 

「ああ……はは。気を遣わせちゃったか。我ながら情けない限りだな、ごめんよ」

「大丈夫です。博士の気持ちは、十分伝わりましたから」

 

 シャーロットには今の一幕で十分だった。

 詳細は語られずとも、オーウィズが敵意や悪意を潜めていないことへの証明にはなったから。

 

 むしろ現在(いま)を生きる末裔として、シャーロットは先祖に代わり、オーウィズへ感謝を捧げなくてはならないのだと理解した。

 例え辛い決断の果てに犠牲を生んでしまっていたとしても、これは、これだけは、この場で伝えておかねばならないのだと。

 

「私にはとても想像もつかない、大きな苦悩があったかと存じます。けれど、博士。あなたのお陰で、アーヴェントは今もこうして生きているのです。それを忘れないでください。あなたの尽力は無駄などではなかった。あなたが背負った決断と苦しみは、決して過ちなどではなかったと思います」

 

 オーウィズの手に、そっと自分の手を重ね合わせる。

 寄り添うように、シャーロットは紡ぐ。

 

「現代当主として我が先祖に代わり、偉大なる英雄に心から感謝と敬礼を。私たちを守ってくださって、本当にありがとうございました」

「──っ」

 

 オーウィズは驚きに目を見張って、時が止まったかのように静止した。

 

「博士。私の方からもお願いをさせてください。どうか、私たちの力となっていただけませんか?」

 

 一拍、二拍。

 送られた言の葉の束を抱き締めながら、ほんの少しだけ瞳を潤ませて、オーウィズはくしゃっと微笑んだ。

 

「……ああ、ああ。もちろん。喜んで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やぁやぁ。千年ぶりだねぇ、陛下」

 

 館の地下。薄暗い石の階段を降りた先、『純黒の王』の亡骸が眠る霊廟にオーウィズはいた。

 かつての魔王との戦いで仕えた主に会いたいと、シャーロットに願っての会合だった。

 

「出会い頭になんだけど、一服良いかい?」

 

 ヒトガタに刳り貫かれた暗黒のような異形の骸を前に、オーウィズはまるで久しく再会した旧友と対するような気さくさで、マビキ草の煙草に火を着ける。

 

「……アーヴェントが生き残ってくれていて本当に安堵したよ。お陰でフェーズ3は達成だ。あなたの献身が実を結んだんだ。一番の懸念材料を排除できたことを祝おうじゃないか」

 

 指を弾き、小さな金属製のボトルと器を手元に召喚する。

 封を切れば、濃い酒精が顔を出した。

 トクトクと器に注ぐ。透き通った酒で満たされたその杯を、捧げるように遺骸へ供えた。

 

「聞いたかい? この時代じゃアーヴェントは逆賊として扱われているらしい。政はマルガンが握っているそうだけど……何の意図があってそんな風に改竄したのか興味があるよねぇ。近々調査してみようと思う」

 

 オーウィズはボトルを掲げ、独り乾杯の音頭をとる。

 ぐぃっと一口。焼けつくような酒の疾駆が喉を滑って腹に落ちた。

 

「しかし安全確実と思われてたこの島も、どうやら間一髪だった様子じゃないか。まさかポータルを突破する異能者が現れるだなんて、思いもよらなかったよ」

 

 熱い、熱い、空気を焦がさんばかりの白煙の吐息が、ふぅと口から旅立った。

 

「アーヴェントに悪意を持つ存在は自動で弾くようプログラムしてたんだけどなぁ……どうやら能力で自分の頭を弄って、自発的に悪意を抱かないよう改造を施していたらしい。狂気の沙汰だ、まったく」

 

 スキットルを仕舞い、マビキ草に口を着ける。

 

「ヴィクター君のお陰だ。彼のお陰で、アーヴェント絶滅という最悪の想定は覆された。……だがそれはそれとして、あの少年は何者なんだい? 初めて見た時は驚いたよ。髪色や背格好は違うけど、()()()()。とても偶然とは思えない」

 

 煙を吸う。

 涼やかな香が満ちていく。

 ふくんで、吐息。

 

「島にいきなり現れたと言うが、彼の出現はボクの手筈じゃない。そもそもプランに存在しなかった。……であれば、あなたの独断かな? 陛下」

 

 うっすらとした白の名残が、暗闇を悠々と泳いでいく。

 オーウィズは目を細めながら、どこか遠くを眺めるように虚空を見た。

 

「千年待った。千年も仕込んだ。もう十分だ。ならば駒を進めようじゃないか」

 

 王に捧げた杯を取り、飲み干すことの叶わぬ主に代わって空にする。

 アルコールが血流を巡る感覚。ふわふわと微睡むような浮遊感。

 それもすぐに冷めてしまう。特異体質がゆえの弊害か。

 

「世界を救うにはあなたの力が必要だ。あなた無くして、ボクたちの完全勝利は約束されない」

 

 踵を返し、背を向ける。

 靴音を響かせながら、霊廟の出口に向かって歩く。

 

「必ず蘇らせてみせる。そして今度こそ、魔王との戦争を終わらせよう。この時代を、これからの輝かしい未来を生きるあの子たちのためにも、絶対に。そのためならボクは千の死を迎えようとも諦めないさ。……だからもう少しだけ、ここで待っていておくれ」

 

 重々しい石造りの扉を開き、最後に一度だけ、玉座に眠る主の亡骸を一瞥して。

 来たるべき魔王(マグニディ)復活の阻止と、己が王の帰還を胸に、オーウィズは霊廟を後にした。

 



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36.「影の匂い」

「君がリリンフィー君だね? 話は聞いてるよ。ボクはオーウィズ、仲良くしてもらえると嬉しいな」

「はわわ。はわわわ。はわわわわ」

 

 時は移り、晴れてリリンフィーと顔合わせの時がやってきた。

 

 オーウィズとイレヴンが正式に館の一員となったことへの歓迎会も兼ねられ、盛大に飾り付けられた巨大ホールに一同が介している。かつて館の住人たちが、パーティの際に使っていた大広間だ。

 そこかしこに点在する純白のクロスで覆われた円盤状のテーブルには、豪勢で色彩豊かなご馳走の博覧会が開催され、ホール中の食欲を掻き集めていた。

 

「さぁ刮目なさい、狂乱なさイ! ご覧に入れますは日の出前から仕込み手がけた最強の料理軍団! ひとたび味わえば即昇天間違いナシの傑作選にございまス! 卑しい豚のように食って健康的に肥え太りやがりなさーイ!」

「なさーい!」

 

 意気揚々と宣言したのは、イレヴンとコック長小人(コロポックル)である。

 ファーストコンタクトは取っ組み合いになっていた彼らも、どうやら和解の道に辿り着いたらしい。

 ふんす、と二人揃って得意気に胸を張る自信に偽りはなく、口にすれば目を輝かせずにはいられない文句なしの出来栄えだった。

 

「う~~んめえ~~っ! 滅茶苦茶ウマいぞこれ! イレヴンお前まともな料理出来たんだなぁ、見直したぜ」

「当然でス! なにせワタクシ、炊事洗濯掃除なに一つまともに出来ない生活力クソ雑魚ナメクジのミレニアム干物女を介護し続けてきたベテランですからねェ!」

 

 どこからともなく飛んできたペンがイレヴンの側頭に突き刺さった。

 

 クソ痛ってえデース! と悲鳴を上げる執事を余所に、コック長たちも楽しんでほしいと仲間の小人(コロポックル)が料理をもって詰めかけ、和気藹々と盛り上がっていく。

 

 その一方、オーウィズの前でガチゴチに緊張し「はわわ」しか喋れないゴーレムと化しているのはリリンフィーだ。

 

「あ、あ、わたしっ、リリンフィー・ウェンハイダル・アーヴェントと申します! よよ、よろしくお願いしましゅ! はぅ、嚙んじゃった……」

「くっくっくっ。こちらこそよろしく。ああしかし、雪の妖精みたいに可愛らしい子だね。これは将来が楽しみだ」

「でっしょー流石博士リリンの魅力を理解してらっしゃるそうですもう世界一可愛いんです毎日見てて飽きないくらい何なら毎朝お顔を見るだけで一日頑張れる力が漲ってくるしなんだろう天使かなってでも間違いじゃないと思うんですよねほんとそれくらい可愛いくて良い子だし綺麗だしどこに出しても恥ずかしくな」

「姉の方はヤバいねえ」

「駄目ッスよ博士。こいつドがつくほどのシスコンなんで、妹のこと褒めると丸一日トリップに巻き込まれちまって手に負えねえんだ」

「誰が厄介シスコンモンスターお姉ちゃんですって!?」

「ちょっと自覚してる節あンじゃねえか!」

「わたし、凛としてるおねえちゃんがカッコよくて好きだなー?」

「うんわかったぁ」

 

 駄目だコイツもう手遅れだ。ふにゃふにゃ笑顔で妹全肯定なシャーロットは、もはや救えないものだと天を仰ぐヴィクター。

 

 しかしながら、姉の熱烈な愛情を上手く流しつつ手綱を握るこの妹。無邪気なようで実は結構な策士なのではないかと、幼気に隠された強かさの片鱗に感心を覚える。

 

「あのあの、オーウィズ様! わたしオーウィズ様のお話が大好きで……ご迷惑でなければ、この本にサインを頂けませんかっ?」

「ゴフッ──失敬、持病の吐血でね。たまに出るんだ、気にしないでくれたまえハハハハハ。ああ、サインだったね? もちろん書いてあげるとも。ボクが子供の頼みを無下にするわけないだろう?」

 

 リリンフィーから恐る恐る差し出された己の黒歴史に、手早くサインを描いていくオーウィズ。

 ペンを走らせる手が震えていたのをヴィクターは見逃さなかった。強く生きてくれと、心の中で合掌を送る。

 

 賢者本人の直筆サインという、この世に二つとない宝物を手にしたリリンフィーは、年相応に目をキラキラと輝かせながら大事そうに本を抱き締めた。

 幼い少女の屈託ない笑顔を守れたならば血を吐いた甲斐もあったと、オーウィズはキリキリ痛む胃を黙らせつつ気合で微笑む。

 

「さ、さておき、君もよろしくねヴィクター君。何か困った事があったら遠慮なく頼ってくれたまえよ」

「マジすか? なら魔法の勉強を教えて欲しいッス! 俺、魔法は使えないんですけど、やっぱ基礎くらいちゃんと学んでおきたいんで……」

「そんなことで良いのかい? お安い御用だとも」

「あーっ、おにいさんズルい! わたしも! わたしもお勉強教えて欲しいですっ!」

「ご迷惑でなければ私もぜひ。賢者様直々の授業だなんて、受けないわけにはいかないわ」

「くっくっ。では近々講義を設定しよう。いやぁ、また教鞭を振るえるだなんて腕が鳴るね。楽しみにしていてくれたまえ」

 

 三人揃ってやったー、と喜びをハイタッチで共有する。

 魔法理論体系の祖であるオーウィズ直々の授業など、どれほどの大金を積んだとて叶うことのない屈指の贅沢である。喜び度合いは青天井だった。

 

 ヴィクターは魔法を使えないが、だからと言って知らなくて良いというわけではない。

 魔法と関わる機会など、これからも自ずとやってくるからだ。

 

 今までシャーロットに頼りっぱなしだった知識部分を自分でも補えれば、いざという時に彼女の負担を減らせるはずである。学んでおいて損は無い。

 

 ひとまず文字を読み続けても眠くならないように特訓しなければ、と密かに決心を固めていると、オーウィズがふと何かを思い出したようにポンッと手を打って。

 

「ああそうだ。ヴィクター君、明日の予定は空いてるかい?」

「? 特に何も無いッスけど」 

「それは良かった。じゃあラブラブデートと洒落込もうじゃないか!」

 

 ヴィクターは飲みかけのフルーツジュースを全部噴き出した。

 

 

 後日。オーウィズの有言実行のもと、ヴィクターはいつもの港町へと繰り出していた。

 

「おおー、ここが港町ダモレーク……! なんとも美しい町並みじゃあないか」

 

 ポータルの出入り口に使っている路地裏を浮足立ちながら飛び出して、飛び込んできた景色を味わいながら感嘆の声を漏らすオーウィズ。

 

 現代初めてのお出かけというのもあって気合が入っているのか、それとも意外とお洒落好きなのか。アンニュイな探偵少女風の衣装から一転、パリッとした出で立ちへと変貌していた。

 

 いつもの眼鏡は変わらず。チェスターコートをブラウンから紺に変え、インナーを真っ白なブラウスに、スカートとストッキングをダークグレーのパンツへと交換している。

 シャーロットより小柄な背丈と中性的な容貌が相まって、ダウナー系の美少年へと化けていた。

 

「デートって、ただギルドまで案内するだけじゃないッスか。誤解招くようなこと言わないでくださいよー」

「くくっ、ちょっとした冗談のつもりだったんだがね。まさかシャーロット君からあんな可愛らしいリアクションを貰えるとは思わなかったよ」

「勘弁してくださいって。あの後大変だったんスからね」

 

 ヴィクターは隣でクスクスと笑う、波乱を生んだ元凶をジトッと睨みながら口先を尖らせた。

 

 というのもシャーロットである。あの発言でちょっぴり拗ねてしまったのだ。

 

 無論、オーウィズの冗談を鵜呑みにしたわけではない。彼女がそこまで思い込みの強い人間でないことは、ヴィクター自身よく理解している。

 あれは何と言うか、頭では分かっていてもモヤモヤを抑えられないというような具合だった。

 

 オーウィズの誘いに横槍を入れる筋合いなんてシャーロットにはない。別に気にする理由も無い。けれど何となく、二人きりで出かけさせるのは面白くない。そんな感じでプンスコしていた。

 つまるところヤキモチである。恐らく本人に自覚は無いだろうけれど。

 

 一応「また今度出かけようぜ」とフォローしたものの、「私そんなチョロくないから」と突っぱねられてしまった。

 ビビアンのもとで修行を積んだつもりだったが、女心とはかくも悩ましく難しい。

 

 その後「今の私かなりめんどくさかったかも」と内省を零したシャーロットが、「そうかも」とリリンフィーにクリティカルヒットを貰って轟沈してしまい、蘇生させる方に手間取ったのは内緒である。

 

「というか何で俺? ギルド関連はシャロの方が適任だと思うんスけど」

「ああ、妹君のためさ。姉と二人きりで相談する時間が必要だったんだよ。女の子は何かと入り用だからねぇ、年頃ともなれば尚更だ。道案内だけなら君でも可能だろう?」

「よく分かんないけど、とりあえず今は男子禁制だから俺をチョイスしたってことっスね。でもイレヴンは? そんな状況ならアイツ放っておくの不味いでしょ」

「ノープロブレム。ボクが戻るまで姉妹と接触しないよう命令しておいたから。普段はアレだが、契約は反故にしないタチだ。その点だけは信用できる」

 

 へえ、と納得を漏らしつつ、車道側の道を歩く。

 

 他ならぬイレヴンの主──正確には所有者なのかもしれないが、とにかく長い付き合いのあるオーウィズが言うのなら間違いないのだろう。

 得心の行ったヴィクターだったが、「その点だけは信用できる」ということは他は一切信用できないのでは? と思い至って顔を引き攣らせた。

 

「まぁそれとは別に、わざわざ君を連れ出した理由はある」

「?」

「率直に言えば、君がボクを疑っているからだね」

 

 朧に光る山羊のように水平な翠の瞳が、眼鏡越しに心中を覗き込むようにヴィクターを見た。

 

「誤解しないでくれたまえ、責めているわけじゃないよ? ただ、君が警戒心を解いてくれていないという事実を述べただけだ。その訳も理解しているとも。突然現れた賢者を名乗る怪しい女なんて、裏切り者(エマ)の経験を踏まえれば疑って当然の帰結だからねぇ」

「……裏を返せば、博士もまだ俺を信用しきれてないわけだ。理由もなく島に現れた正体不明の記憶喪失男ってのは、博士の立場から見たら相当怪しいモンでしょう?」

「くっくっ、察しが良い。そう! つまり今日の本題は、お互いのことをよく知るためのお出かけってわけなのさ。ギルドに寄るのは効率の一環だよ」

「うわ面倒くせえ人だ」

「えーっ!? なんでなんで!? どうしてそんな罵倒が飛び出してくるのさ!?」

「要するに博士、同じ島で過ごす者同士仲良くしたいってだけなんでしょ? 滅茶苦茶回りくどいじゃないッスか」

 

 もし本当にオーウィズが潔白を証明したいのであれば、最も怪しいイレヴンをこの場に同席させ、敵意が無いことを示したはずである。

 危害を加えさせないよう口約束で拘束したから大丈夫、なんて言い分は、例え賢者を冠する者の口から出た言葉であっても──否、大仰な肩書を持つ者の言葉であるからこそ、信用を勝ち取るにはあまりに不十分な説得力だ。

 

 それでも丸め込めるとオーウィズが踏んだのは、そもそもヴィクターから向けられている怪訝の強さがさして脅威でもなければ、今後の生活で支障になるレベルでもないと理解しているからに他ならない。

 

 姉妹だけの時間が必要だったというのは本当だろう。

 それと同じく、疑いを晴らしたいというのも、ヴィクターという未知の存在を品定めするためという目的も、きっと本心に違いない。

 

 けれど、そんなことは別に堂々とヴィクターに宣言する必要もないはずで。

 それこそ仲良くなったフリをして諜報に徹すれば、オーウィズほどの人間なら『欲する答え』などすぐに捻り出せるに決まっている。かつてエマがそうしたように。

 

 つまりオーウィズは、「お互い友達の友達みたいな関係でちょっと距離あるけど、同じ館で過ごす仲間なんだから早く仲良くなりたいな」と言いたいだけなのである。

 

「わざわざ面と向かって『お互い腹の内を探り合おうね』なんて言う奴いないっスよ。何か裏があると思わせぶっておいて、実は何も無いと見た!」

「ぐっ……反論の余地が無い……! でもしょうがないだろー!? 遊びの誘い方なんて教わったことも無いんだから!」

「いやいや、友達(ダチ)の一人くらい博士にも居たはずでしょ? ンなの適当にあそび行こうぜくらいのノリで良いんスよ────あっ」

「……………………」

「すんません、いやほんとすんません、悪気は無かったんスよぉ! だから、えっと、涙目のまま無言で睨まないで欲しいなー、なんて!?」

「…………いーもんいーもん。どうせボクは陰の者だもん。くくっ、ああそうさ、そうだとも! ボクは友達なんて一人もいない、お出かけの誘い方も知らない千年物のビンテージ喪女なんだよ! アッハッハッハッハ、どうした? 笑えよ」

「あっ、あーっ! 実はあっちに良~い感じのお洒落なカフェがあるんスよねぇーっ! 前から気になってたんすけどこの機会にどうっスか!?」

 

 グスグス嗚咽を漏らし始めたオーウィズの手をひっぱり、街路樹立ち並ぶ石造りの町を歩いていく。

 道路を行きかう(キャルゴ)たち。町中をせせらぐ水路の歌。かかった橋の上を通り過ぎれば、グリーンカーテンに囲われた喫茶店が見えてきた。

 

「へぇ。これはまた趣のある」

「お洒落っしょ? まぁ俺も初めて来たんスけど」

 

 白い屋根。アンティークで渋い木造の壁。しかし近寄りがたい雰囲気はなく、植物の鮮やかな緑と温かいオレンジ色のランプが店頭を飾り、老若男女を問わず出迎えてくれる素敵なお店だ。

 硝子越しに覗くと、中には人の姿がチラホラ。幸い混んでいる様子は無さそうなので、ヴィクターはオーウィズを連れて飛び込んだ。

 

「目をつけてたのかい? 中々センスあるじゃないか」

「昔、町中の店を片っ端から調べたことがあったんスよ。ここもそのひとつで」

 

 店員に人数を告げ、店の奥にエスコートしていく。

 ガラス窓から外を一望できる角席だ。周辺のテーブルに人はおらず、会話を聞かれる心配も無い。

 ふかふかのクッションが敷かれた椅子に腰降ろしたヴィクターは、メニュー表を取りオーウィズへと手渡した。 

 

 料理やドリンクの名前がずらりと並ぶお品書きには、どれもエルフ風と銘打たれていた。

 エルフ風とは、文字通り森人(エルフ)の食習慣を主軸に、大衆向けとしてアレンジされた絶賛流行中の料理である。

 新鮮な果物や野菜、卵をふんだんに使ったヘルシーで栄養満点な献立が売りであり、美容健康に気を遣う人でも遠慮なく楽しめるコンセプトが人気を博しているという。

 

「好きなの頼んでください。ここは持ちますんで」

「え? いいよぉ、お金ならいっぱいあるし。両替商で金貨を換金出来たからね」

「いやいや、よく考えたら俺さっき考えなしに酷いこと言っちゃったんで……お詫びさせてください」

 

 ヴィクターが示す反省とは、オーウィズの身の上に対する失言だ。

 

 彼女は不老不死の人間である。寿命は無く、老いもない。病や怪我で絶命したとしても、青い炎で肉体を再編成し蘇ってしまう。

 言い変えれば、親しい存在は必ずオーウィズより先に死を迎えるということだ。

 今までも、これからも、彼女は常に看取る側にしか立つことが出来ない。

 

 そんな彼女へ友人云々の存在を当たり前のように宣うなど、あまりに浅慮でしかない失言だったと気がついた。ヴィクターはそこを省みたのだ。

 当の本人は気にしていない様子だったが、場の空気を下手に重くしないよう、真正ボッチを取り繕ってお茶を濁した可能性もある。本当にボッチな可能性もあるが。

 

 さておき、事の真偽は重要ではない。ヴィクターの失態を自虐でフォローさせてしまったならば、大なり小なり償いをせねば筋が通らないと考えた。

 

「……ふぅん? なら、お言葉に甘えちゃおっかなぁ」

 

 その意図を理解したのか、それとも別の思惑か。オーウィズは眼鏡の奥で掴みどころのない微笑みを浮かべながら、メニューに視線を滑らせた。

 

 初めて目にする名前の群れが好奇心をくすぐるのか、「これはなんだい?」「こっちはどういう食べ物なのかな?」と興奮気味に質問を繰り返していく。

 悩んだ末に「蜂蜜湖のパンケーキセット」を注文すると、ほんのり湯気を漂わせながらふかふかの太陽のような焼き菓子がやってきた。

 

 手慣れた手つき運ぶ熟練スタッフの腕前でも、ほんの僅かな慣性で揺れ動くほどふんわり柔らかな二枚の生地。

 白磁のプレートに段々重ねで座る姿は中々に愛らしく、ちょこんと被ったバターアイスの帽子が熱でじわりと溶けだしてゆく光景は、否応もなく食欲を刺激する。

 皿は少し奇妙な形をしていて、ソースか何かを添えるのか、端の方に小さなポケットが存在していた。

 

「わ、わ、フワフワだ、可愛いなぁ。食べるのがもったいない」

 

 平時は隈で縁どられたハイライトに欠けるオーウィズの瞳が、眼鏡の奥でキラキラと輝きを増した。

 

 喜びように気をよくしたか、壮年のスタッフが銀食器のピッチャーを軽やかに取り出して、黄金の蜂蜜をアイスの上からたっぷり降り注がせていく。

 するとどうだ。溶けたアイスクリームと混ざり合って、乳白の運河が生れ落ちたではないか。

 

 極上のソースはパンケーキを伝い、皿底のポケットに魅惑の湖を作っていく。

 これが蜂蜜湖の由来かぁと、二人は興奮気味に感嘆の声を唸らせた。

 

「ああなんて美味しそうな……! 目覚めてからギャップに驚かされてばかりだけど、特に食べ物は素晴らしいね。本当に目を見張る進化だよ。文明の潤いを計るのに最適な指標は庶民に浸透する食文化だが、まさかかつて貴族でも口に出来なかったようなご馳走を楽しめるなんて……良い時代になったんだなぁ」

 

 どこか感慨深そうな眼差しで、両手にナイフとフォークを握り締めながらパンケーキを眺めるオーウィズ。

 頬を綻ばせながら堪能していくその姿は、見た目相応の少女のようだった。

 

 

「…………」

「どうしたんだヴィクター君。あっちに何かあるのかい?」

「……いや、気のせいッス。それより、ギルドには寄らなくて良いんで? めっちゃ寄り道しまくってますけど」

「ああ、大丈夫。まだ事務所の営業時間に余裕があるからね、ギルドは最後で構わないよ。さてさて、次はあっちの方を見に行きたいな」

 

 カフェを発った後、二人はぶらぶらと町の中を散策していた。

 

 まず役所で地図を入手。それから図書館、交通機関のステーション、水路を巡り、港、市場、公園などなど、オーウィズの足が向かうままに歩き続けること数時間。 

 立ち寄っては何らかのメモを取り、時たま虚空へ文字を描くようなジェスチャーをしながら、オーウィズはふむふむほうほうと納得や感心の声を漏らしている。

 

 ヴィクターには彼女の心中は読めないが、とりあえず満足している様子なので良しとしていた。

 

「いやぁ素晴らしい、この町はファンタスティックなことばかりだね! ボクの知る時代とは何もかもが一線を画している。感動に打ち震えるようだよ」

 

 まるで春風が音色になったかのような、心の踊りようがルンルンと乗せられた声。

 

「町は美しく活気に潤い、多種族社会を前提とした配慮が隅々までいきわたっていて、インフラは充実し、水は清潔。食はただの栄養摂取ではなく、美味を追求するゆとりを持っている。何より子供がみんな笑顔だ、ちゃんと福祉も行き届いているんだろう。この治世ぶりには恐れ入った!」

 

 今にも拍手喝采を町中に響かせんばかりの賞賛の嵐。

 歓喜の底から込み上がってきた眩しい笑顔で、足取りを弾ませながらオーウィズは言った。

 

 どうやら町を観察して世の繁栄具合を確かめていたらしい。満足のいく調査結果だった様子で、この上なく上機嫌になっていた。

 

「サンプルがこの町だけだから一概には言えないが、片田舎でこの豊かさなら、少なくとも館で見た資料と世相が乖離している線は薄いか。うんうん、よきかなよきかな」

「やっぱ博士の時代って……その、相当凄かったんスか?」

「一本の雑草より身元不明の死体を見つける方が簡単だったよ」

 

 歴史が正しければ、オーウィズの生きた時代は人類史上最悪の大災に見舞われた暗澹の時だ。

 

 激動の坩堝を生き抜き、人類の存続と繁栄を賭けて戦ってきただろう彼女の目には、ヴィクターが見る光景よりも強く輝いた、鮮やかな景色で満ち溢れているに違いない。

 それは紛れもなく、彼女の慈しむような微笑みが証明していた。

 

(本物の笑顔だ。心の底から嬉しそうに笑ってる。魔王なんて化け物と戦って未来を掴もうと藻掻いた人だ、きっと平和な未来の光景が本当に本当に嬉しいんだな)

 

 ヴィクターは現在(いま)を生きる人間だ。過去は伝聞でしか知らない外野に過ぎない。

 百聞は一見に如かずと言うように、伝聞と実体験では解像度に雲泥の差が生まれる。

 

 けれど、青空の下でハミングを奏でながら心弾ませるその姿は、オーウィズという人間が歩いた足跡を垣間見せてくれる小さな窓のようで。

 

魔王(マグニディ)の災禍は読むだけで気分が悪くなるほど惨いもんだった。それを乗り越えなきゃいけなかった博士の苦難は想像もつかねえ。だってのに、この時代に生まれたかっただとか、平和ボケに辟易するみたいな妬みも嘆きもなく、純真に祝福を手向けている。……諦めなかったからだ。願っていたからだ。ひたすらに、平穏な世界が訪れることを望んでいたからなんだ)

 

 オーウィズは一見すると、掴みどころのない霞のような女だ。

 

 小柄で中性的な容貌。癖毛気味な灰色のウルフカット。翡翠を湛える山羊のように水平の瞳。

 ほの暗いながらも何処か陽気で、浮世離れしているようで人間臭く、型破りっぽくも常識がないかと言えばそうでもない。

 

 端的に言えば怪しさの塊だ。仮に第一印象だけで彼女と信頼関係を築けるかと聞かれたら、10人中8人は首を振ってしまうだろう。

 

 けれど、本当の彼女はこんなにも。

 

(綺麗で、尊敬できる人なんだ)

 

 ヴィクターは彼女の中に、確かな不屈の柱を見た。

 逆境の茨に縛られようとも、苦痛の過去に囚われようとも、決して挫けることのない強靭な精神。

 幾多の傷を負ったとしても、誰かの幸せを心から願い喜べる、そんな眩しい情景を。

 

「っと、そろそろ切れる頃合いか。一服良いかい?」

 

 腕時計に目を遣って、オーウィズはいそいそと懐から煙草を取り出した。 

 彼女が愛煙している特製のハーブシガレットだ。本人曰く、厳密には煙草に似ているだけの()()()()らしい。

 

 手慣れた仕草で咥え、スマートに火を着けていく。その一連がちょっぴりかっこいいと羨ましくなった。

 漂い始める清涼を孕んだ白い蒸気を感じながら、そういえば一体何の匂いを消しているのかと尋ねてみる。

 

「ボクは少々魔力が特殊でね。そのせいでコロポックルのような魔眼持ちには酷く奇特に見られてしまう。下手に怪しまれるのも厄介だろう? だからコレで中和しているというわけなん────」

「コラ────ッ!! 子供が煙草なんか吸ってんじゃねぇぞ────ッ!!」

 

 背後から突然、極大の怒声が爆発した。

 あまりの音圧にぶん殴られ、二人揃って電気を流された魚のように肩を跳ね上げながら仰天模様で振り返る。

 

 鬼の形相で走ってくる大男がいた。

 ドドドドドドドドドッ!! と猛々しい跫音を掻き鳴らし、恐ろしく砂塵を巻き上げながら迫り来る姿はまさに怒り狂う雄牛のよう。

 

 あまりの迫力に跳び上がって「へっ、えっ、なんだいなんだい!?」とヴィクターの背に縋りつくオーウィズ。

 一瞬ヴィクターも身構えるが、謎の突撃男の正体を把握して緊張を緩めた。

 

 何せかつて世話になった、仕事先の親方だったのだから。

 

「お、親方!?」

「おう坊主、久しぶりだな! 元気してたか!? オヤジが会いたがってたぜガッハッハ!! っと、んなことよりこっちで小せえガキが非行に走ってた気がしたんだが……?」

 

 鋭く目を細めながらキョロキョロと辺りを見回す親方。

 ヴィクターは「あー」と灰色の声を漏らして頬を引き攣らせながら、そういえばドがつくほどの嫌煙家だったなこの人と、背後にすっぽり隠れているオーウィズに意識を向けた。

 

 誤解とはいえ見つかったら面倒そうだ。親方の煙草嫌いは筋金入りで、ダモラスも渋々従ってしまうほどである。

 とは言っても、このままでは直ぐにでもバレてしまうのは自明の理だ。

 

 しかしそんな杞憂は、空気に溶けた煙のように消え失せた。

 というか、オーウィズが消えていたのである。

 

(ここだよ。まだ君の後ろにいる)

(博士!? えっ、姿が見えねえんですけど……!?)

 

 尻目に確認するが、目の錯覚でもなんでもなくオーウィズは見えない。

 声だけがうっすら聞こえる状態だ。

 

(『透明化魔法(ヒアリン・ヴェルム)』さ。ふふん、凄いだろう?)

(凄いッスけど、早く何処かに移動しないとあんま意味ないッスよ!)

(無理だ。無詠唱のまま粗雑に即興したせいで動くと半透明になっちゃう。彼とエンカウントするのは非常に面倒くさそうだからね、しばらくじっとしておくことにするよ)

 

 皮切りに、オーウィズは黙りこくって存在感ゼロに徹していく。

 

 何だかおかしなことになって来たが、あの一瞬で魔法発動の痕跡すら匂わせることなく完璧に姿を消すとはやはり大魔法使いは伊達ではないなと、ヴィクターは半ば現実逃避気味に再認識した。

 

「おかしい。忌々しいクソッタレ不健康悪魔の匂いがしねえ。でも確かに見たはずなんだよなぁ~っ! こーんな小せえガキンチョがよぅ、プカプカ煙ふかしてやがった衝撃の光景をよぅ! おい坊主、お前見てねえか!?」

「あー、えーっと、多分気のせいじゃないっスかねー? あはははは」

(おい何だその大根っぷりは!? ちゃんとしたまえよ、怪しすぎるだろ!)

「いーや、この俺がヤツの気配を間違えるハズがねえ! きっと近くにいるはずなんだ! くんくんくんくんくん…………臭う、臭うぜ。ほんの微かに草と紙の焼ける匂いがするッ! どこだ……どこだぁ……? ここだぁ────ッッ!!」

「ひゃあああああっ!?」

 

 眼光一閃。親方の眼が獲物を見定めた獅子の如く獰猛に光り、丸太のような両腕が砲弾の如く解き放たれたかと思えば、ヴィクターの背後にいたオーウィズを正確無比に鷲掴んだ。

 

「な、なななぁっ!? なんで分かったんだっ!? 匂い物質も完璧に遮断して、意識誘導ですぐ興味を失くすよう仕向けたのに!?」

「おおっ、本当に居やがった! 透明になる魔法なんて初めて見たぜ、凄えじゃねーかガッハッハ! だがこれしきの小細工で俺のセンサーを欺こうなんざ百万年早いのよ! どうだ、恐れ入ったかチビスケ!?」

「理解不能、意味不明、滅茶苦茶だ! 理に適ってない!」

 

 巨人に囚われた小人のように持ち上げられ、ぎゃあぎゃあと悲鳴を上げるオーウィズ。

 ヴィクターは誤解だと訴えるも、宿敵(タバコ)を前にした親方は完全に頭に血が昇って聞く耳を持とうとしない。

 

「おう小僧お前ぐらいの年の()()ならカッコつけたくなる気持ちは分かるけどな子供はあんなもん吸っちゃいけねえってルールで決まってんだ何より煙草は害にしかならねえ成長も阻害しちまう本当にカッコよくなりてえなら自分を虐めるんじゃなくて肉食って野菜食ってバシバシ鍛えて筋肉着けりゃいいんだよ筋肉は良いぞ強くなれるしモテるし見栄えも良くなるいいとこ尽くめのバーゲンセールだところでお前ちゃんと飯食ってんのか棒きれみてえに細っこいじゃあねえか!?」

「すごい早口で喋る!? いいから降ろしてよーっ! 誤解なんだよーっ!」

「おう、降ろしてやるぞ! だが残りの煙草は没収だ、全部出さなきゃ家に帰さねえからな!」

「きゃっ!? ちょっ、どこ触って……!?」

 

 恐ろしい速度の有無を言わさぬボディチェック。

 入念かつあっという間に施され、予備を含めて保有していたハーブシガレット三箱を取り上げられてしまう。

 

 ──その時だった。

 

「あなた」

 

 ぶるり。厳寒の冬将軍に身を撫で切られたような寒気が、親方の背後より訪れた鈴のような声と共に襲いかかったのだ。

 まるで声の形をした氷に閉じ込められたかの如く、親方は顔色を零度まで蒼褪めさせながら、パキンと硬直してしまう。

 

「大声を上げて何を……なさっているのです……?」

 

 氷結させた声の主は、おっとりとした雰囲気の女性だった。

 腰まで伸びたサラサラと美しい栗色の髪。泣き黒子がチャーミングな海色の瞳。ゆったりとしたドレス風ワンピースでさえ隠せない豊満さ。

 小柄でありながらピンと伸びた背筋と立ち昇る覇気が、幼気さより淑やかで強かな印象を纏わせていた。

 

「お散歩の途中でわたしを置き去りにしたかと思えば……まさか見ず知らずの()()に乱暴を働いていただなんて、ねぇ?」

「ビ、ビアンカ? 違うんだ、これはこの小僧が煙草を────」

「あらあらまぁまぁ。挙句の果てには可憐なレディを殿方だと勘違いする無礼まで。うふふ」

「えっ、レディ? この小僧が?」

「あなた」

 

 五臓六腑からぞっとするような微笑み。

 それはもう、怒りの矛先を向けられていないヴィクターですら縮み上がるほどに。

 

 今まで血で血を洗う死闘を繰り広げてきたが、ここまで鮮烈で凍てつくような恐怖を感じたことは無かった。

 元来笑顔は威嚇の機能を持つというが、納得に納得を厚塗りして三段重ねする勢いである。

 

(お、おっかねえ~……! 親方の奥さんか? てことは爺さん(ダモラス)師匠(ビビアン)の娘? えっ、全然似てねぇんだけど!?)

 

 深層の令嬢を彷彿させる容姿や佇まいは似ても似つかない。親方がいなければきっと分からなかっただろう。

 が、筋骨隆々の大男相手に一歩も引かないどころか圧倒する芯の強さは、豪放磊落なビビアンと通じるものを感じさせた。

 

「なるほど、子供が非行に走っていると勘違いして……ごめんなさい、主人が大変なご迷惑を。ほら、あなたも謝りなさい」

「すまなかったお嬢さん、この通りだ!」

 

 粛々と頭を下げるビアンカと呼ばれた女性。

 両手と頭を地につけて平伏するのは、顔面を百万匹の蜂に襲われたジャガイモみたいにされてしまった親方である。

 

 この世界は男より女の方が魔力量は多いとされており、身体強化魔法の存在も相まって、見た目からは想像もつかないパワーを発揮する女性がまま見られる。シャーロットがその筆頭だろう。

 が、流石にソニックウェーブを発生させる往復ビンタは驚天動地でしかなかった。自業自得とはいえ合掌を手向けざるを得ない。

 

「い、いや、誤解が解けたなら良いんだ。ハーブシガレットも返してもらったし。というか大丈夫かい? 骨格から変わってる気がするんだけど」

「いつものことです。この人は後先考えず行動することが多くて……。ですので、煮るなり焼くなりお好きなように。腹を切らせても構いませんから」

「そこまでしなくても……うう、目が本気だよ……」

 

 ちらちらと救援を求める眼差しに射貫かれ、ヴィクターは仲裁という形で助け舟を出した。

 親方は誤解による正義感が先走ってしまったゆえのアクシデントで決して悪意は無く、オーウィズも特に糾弾する姿勢を見せなかったため、双方和解という形で落着した。

 

「まったく。あなたの正義感は素敵な美徳ではありますが、時として目を曇らせるのが困りものです。今回は相手方がお優しい方だったから不問で済んだこと、ちゃんと肝に銘じてくださいね?」

「反省します……」

「是非そうしてください」

 

 しゅんと縮こまる親方。

 なんとなく普段からこんな感じなんだろうな、という空気感が伺えて、ビアンカには頭が上がらないらしいことが容易に想像出来るようだった。

 

「ところで、そちらの方はヴィクターさん……で合っておられますか?」

「アイアイマム!」

「恐ろしく屈服が早いな君は」

「こんな形でお会いすることになってお恥ずかしい限りですが、わたくしビアンカと申します。両親から話はかねがね。その節では父が大変お世話になりました」

「いやいやそんな。むしろ俺の方こそ、ご両親にも親方にも世話になりっぱなしで。お陰で大事な友達(ダチ)の妹が治ったんだから、感謝してもしきれないくらいですよ。今度改めてお礼に伺いますんで、よろしく伝えててください」

「はい、たしかに。ふふ、聞いていた通りの好青年さんですね。お会いできて嬉しく思います」

 

 先ほどまでの凍った茨のような雰囲気は失せ、おっとりと上品に微笑むビアンカは良家の令嬢のようだ。

 しかしよく考えてみれば、この港町ダモレークの発展を開拓期から支え続けたというダモラスの家は、町の名の由来になったほどの由緒ある家柄である。お嬢様というのは間違っていないかもしれない。

 

 

 一悶着も片付いたところで、ビアンカはぺこりと一礼し、親方を連れて踵を返していく。

 と。何か言い残したことがあったのか、踏み出した足をまた返しながらビアンカは言った。

 

「ああ、そういえば。ヴィクターさんは確か、この町には住んでおられない方でしたね?」

「あー……そうっスね。ちょっと離れたとこで暮らしてます」

「でしたらどうかお気を付けを。もう耳にしているかもしれませんが、近ごろ町の周辺で物騒な話が多くて……」

「物騒な話?」

「殺人鬼だよ」

 

 オウム返しに答えたのは、腕を組みながら神妙な表情を浮かべる親方だ。

 殺人鬼。不意に飛び出た物々しいワードに、ほんの少し体に力が入る。

 

「最近変死体が発見される事件が後を絶たなくてな。しかもここ数日だけで数件ってレベルの頻度だ。初めは魔獣か魔物が出たんじゃないかと持ちきりになってたんだが、どうも騎士団の連中は人間の仕業だと睨んでるらしい」

「それで殺人鬼と。うへえ、確かに物騒だな」

「ふぅん……? 興味深いねえ。騎士団が調査してるなら、提携先のギルドでデータを閲覧できないかな?」

新聞(ニュース)程度の情報なら可能かもしれませんが、奥まった詳細部分までは流石に難しいかもしれませんね」

「そういや坊主と彼女はどういう関係なんだ? 透明になれるなんてスゲー魔法、生まれて初めて使える人に出会ったぞ」

 

 一般的に魔法とは、正しく修めなければ使役することもままならないれっきとした学問である。

 生活に必要な基礎的な魔法は教育機関で教わるものの、それ以外は総じて専門分野の領域と言っていい。

 

 ましてや透明化魔法など、その道の高等教育機関で数年を費やさねば体得不可能な技術レベルだ。

 それを無詠唱かつ発動痕すら見せずに展開して見せたのだから、親方の目には大層な驚きと共に映ったことだろう。

 

 さておきどう答えたものかと、ヴィクターは頭を悩ませた。

 

 無論、オーウィズだなんて馬鹿正直に答えるわけにはいかない。かと言って友達というには、こう見えてかなり年上なんですと誤解を解いた弁明に矛盾が生じてしまう。

 シャロの家族だとでっち上げても、年の離れた友人の家族をわざわざヴィクターが連れて歩いている意味が分からないだろう。

 

 ぽく、ぽく、ぽくと考えて。

 

「あー、この人は俺の叔母さんです。最近こっちに引っ越してきて、近場を案内してたんスよ」

「え~っ? こんなうら若い乙女を叔母さんだなんてひっどーい。自分の兄妹を忘れるとか最低だぞっ? えへへ、ヴィクターお兄ちゃんの妹の()()ですっ、よろしくね~きゅるるんっ!」

「博士さぁ……」

「おい、本気で鳥肌立てて気味悪がるヤツがあるか。失礼だぞ君は」

 

 ヴィクター被告は無罪を主張。いきなりキャピキャピ声で語尾に星が飛びそうな喋り方をされたら誰だってそうなるからだ。

 咄嗟に嘘を吐いたヴィクターにも非はあるが、親方夫婦も苦笑いだったため3対1でオーウィズの敗訴が決定した。正義は勝つのである。

 

 

 

 お開きになって、当初の目的地だったギルドの方角へと歩き始めることにした。

 

「ヴィクター君。ボク疲れた。もう歩けない」

「ええ……」

 

 はずだったのだが、行脚再開から数分足らず。突然オーウィズが音を上げて、そばのベンチに座り込んでしまった。

 ぐでっと背もたれに体重を預ける姿は、まるでやる気のないスライムである。

 

「いやね? ボク的には頑張った方だと思うんだよ。万年モヤシ女がさぁ、お日様を浴びながら一日中歩き回ったんだぜ? これは表彰されて然るべき偉業だよ偉業。その上ゴリマッチョに乱暴されてもうガス欠通り越してスクラップだね。歩けない。ボクは一歩も歩けないぞー」

「はいはい、もう目の前なんだからあと少し歩きましょうねーおばあちゃん」

「虐待だーっ! 若者に虐待されてる! こんなの世間が許さないぞ! ……というか君、大分ボクの扱い雑になってきたよね? 今サラッと老人扱いしたな?」

「は? 難癖やめてくださいよ。偉大な魔法使い様を無下にするわけないでしょ? ほら行くぞババア」

「ほら! ほらぁ! ババアって言った! 言っただろ今!? バッチリ聞こえたもんね! あーあー繊細な乙女心が傷ついちゃったーもう動けないーうえーん」

 

 渾身の大根ウソ泣きを披露しながら、ベンチと一体化するように齧りつくオーウィズ。

 もう面倒くさいので引き剥がして連れて行こうかとしたが、どうにも様子が変だとヴィクターは一度冷静になって考える。

 

 傍目から見て疲労の色は濃くない。多少疲れているのは本音だろうが、この緩やかな坂を十数メートル登ってしまえばギルドに着くのだ。その程度なら問題ないはず。

 

 ならば何故、ここに来て急に我儘を言い始めたのか? 

 

(少なくとも博士は無意味にこんな真似をする人間じゃない。つーことは必然、意図があるはず。何が狙いだ……?)

 

 思い当たる節があるとすれば、ひとつだけ。

 カフェを後にしたぐらいからか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ボクはここで休憩してるからさ、代わりにギルドまで行って来てくれないかい? この封筒を提出して、メモに書いてある物を調べてくれるだけでいいから」

 

 有無を言わさぬ勢いで、オーウィズはメモ紙をヴィクターへと突きつけた。

 チラリとオーウィズの目が泳ぐ。それが示した方向は、今なお薄っすらと感じる視線の根元に他ならず。

 一人になりたがっているのだと、ここでヴィクターは勘付いた。

 

「……疲れが取れるまで待ちましょうか? 一人だとほら、心細いでしょ?」

「ボクを誰だと思ってるんだい? 全然平気さ。むしろ一人の方が気楽でいいよ」

「本当に良いんスね? 勝手にどっか行かないでくださいよ」

「誰が徘徊老人だ!」

「一言も言ってねえだろうが!」

 

 交渉してみたが、頑として動きそうにない。完全に単独で対処する腹積もりらしい。

 ヴィクターとしては一人にさせたくないのが本音だ。いくら彼女が賢者を冠する大魔法使いでも、みすみす危険に晒すような真似はしたくない。

 

 しかしこのまま平行線で話を長引かせれば、相手に気付いたと勘付かれてしまう可能性もある。

 それを避けたいのだろう。オーウィズの瞳が『早く行け』と強く訴えているように感じて、ヴィクターは渋々メモ紙をポケットに捻じ込んだ。

 

「すぐ戻ります」

「悪いね。我儘に付き合ってくれたお礼はするからさ」

 

 ヴィクターは努めて冷静を装い、坂を普段通りの歩調のまま上がっていく。

 その背が小さくなった頃合いに、オーウィズはパチンと指を弾きながら、ゆっくり腰を上げていった。

 

 

 

 

「調べれば調べるほど感心することばかりだったよ。今日この町を観察して尊敬の気持ちが一層強くなった。まったく大したもんだ、君たち天蓋領の働きぶりは」

 

 陰気な空気が立ち込める、薄暗く埃っぽい路地裏の奥。

 オーウィズはハーブシガレットに火を着けながら、袋小路で立ち尽くす女と対峙した。

 

「政治経済、インフラ整備、教育および技術革新、種族間における文化的緩衝、土地開発や魔物対策……ざっと並べただけでめざましい業績の数々だ。おまけにそれを可能とするほどの独裁的権限を持ちながら、種族ごとの小国や勢力を弾圧することなく均衡を保ったまま存続させていると来てる。感慨無量だよ。君たちのトップ──ドラゴレッド卿とやらはとんでもない傑物だ。この豊かな町がその証明の一端だろう」

 

 女の出で立ちは、ごく普通の一般市民のソレだった。

 種族は基人(ヒューム)。年齢は三十代ほど。人当たりの良さそうな垂れ目の丸顔で、少し着古された雰囲気のある服装を身につけている。

 

 本当に、どこにでも居そうな普通の女性だ。

 事実、さっきまで無地のバッグを片手に町中で買い物を楽しんでいた。

 

 ()()()()()()()彼女が炙り出され、こんな人気の無い路地裏に居座っているのは、無論オーウィズの仕業に他ならない。

 

「そんな優れた知恵と力を持った人物が、組織がさ、出来ないワケが無いんだよ。ヴィクター君たちが刺客(エマ)を退けた日から黄昏の森に到着した日時を逆算して、おおよその活動地域までの距離を割り出す程度の些事なんてさ」

 

 紫煙、舞踊。

 煙と共に、オーウィズは歩む。

 

「ほら、彼ら公共交通機関(ペガサス便)を使ったそうじゃないか。ダイヤルがきちんと整備されてるなら、計算も簡単だよねぇ?」

 

 女は答えない。

 答えることが、出来ない。

 

「だから彼を連れて町を歩き回ったんだ。君たちに見つけてもらうために。ヴィクター君、目立つだろう? 両腕に包帯を巻いた大柄の男なんて特徴の塊でしかない。目印にはぴったりだよね。で、アーヴェントの予測活動地域を調査するために張り込んでいた君は、ちゃんと発見してくれたわけだ」

 

 女は石像の如く硬直していた。

 僅かに震えているが、それはまるで渾身の力を込めて必死に動こうと抵抗している残滓のようで。

 指先一つまともに動かすことすら叶わず、ただ立ち尽くしたまま、鼻先まで迫ったオーウィズを見つめ続けることしか許されない。

 

「いつの間に術を? って感じだね。町を歩きながらスペルをバラ撒いてたんだよ。尾行ルートに目星をつけながら。そうして肉体の支配権を奪った。なに、安心したまえ。別に取って食おうとしてるわけじゃない。痛めつけようとも思ってない。残酷なことは嫌いなんだ」

 

 煙を吐き、ハーブシガレットを消滅させたオーウィズは、女の頬をそっと両の手で包み込んだ。

 

「ボクは情報が欲しいだけさ。パンフレットなんかじゃ手に入らない、ナマの天蓋領の情報が。まぁ君も末端だろうから、そんな大した代物は期待してないが」

 

 眼鏡のレンズが、奥に潜む山羊眼を鈍く歪めて爛々と透かせ。

 刹那、オーウィズに変化が巻き起こった。

 

 ざわざわと灰色の髪が蠢き始める。

 それは意志を持つように躍動し、引き伸ばされたわずか数本の髪が女の顔に張り付くと、目の隙間から頭の奥に潜り込んでいくではないか。

 

「抵抗しない方がいい。今、君の視神経を通じて脳にアクセスしてるところだ。下手に動くと失明するよ」

 

 オーウィズも瞼を閉じ、沈黙の中に意識を沈める。

 女の脳から奪取した情報を解析し、選別を行っていく。

 

「ふぅん……ふんふん……なるほどね……まぁ下っ端じゃこんなものか。近隣に潜伏してる仲間の数は……3人ね。本部への報告はまだか、よしよし。連絡手段は……耳の通信端末。へぇ、今はこんな道具があるんだ。ハイテクだなぁ」

 

 頬から手を離し、右耳に指を這わせる。

 ピアスを模した端末へ触れると、それを包囲するように小さな十二角形の魔方陣が展開された。

 陣を構成するルーンがひとつひとつ分離していき、端末の中へと吸い込まれていく。

 

 サブリミナル・スペル。無意識下から脳に干渉するオリジナルの術式だ。町中に仕掛けたトラップの正体がこれである。

 

 オーウィズはそれを人間の可聴域外の音波に変換し、通信端末を介することで派遣された諜報員全員の記憶を改竄、さらには潜在意識にヴィクターたちの追跡記録を破棄するよう命令を書き込んでいった。

 

「よーし終わり。協力ありがとう、持ち場に戻ってくれて構わないよ」

 

 目の間から灰色の髪が抜け、オーウィズの両手が離れていく。

 女は虚ろな目を湛えたまま、ふらふらと茫然自失に路地裏を後にした。

 

 記憶を弄った影響で少しばかり朦朧としているが、じきに正気へ戻るだろう。

 ヴィクターのことも、オーウィズのことも、ここで起こった何もかもを忘れ、港町ダモレークの調査結果は標的を発見できずという報告で片付けられることになる。

 

(これで当面の間は安全だろう。まぁ島を独力で見つけ出した彼ら相手じゃ、時間稼ぎにしかならないだろうが)

 

 しかしオーウィズの推測が正しければ、仮にこの町を利用していることが露見してしまったとしても、天蓋領がすぐにアーヴェントの心臓を狙いに来ることは無いはずだ。

 女の脳を見て、その確信がまた一歩強まった。

 

(彼女はドラゴレッド卿に対して強い忠誠心を抱いていた。魔法で拘束してなきゃ目を失ってでも逃げようとしてたくらいに、強固な覚悟を抱くほどの忠誠だ)

 

 それは洗脳によって植え付けられた養殖の忠義ではない。

 ただ純粋にドラゴレッド卿という人物を────ひいては、天蓋領という組織そのものに大きな信を置いているがゆえだ。

 

 当然だろう。オーウィズが世を離れてから約千年、発足された天蓋領の働きは完璧に等しいものだったのだから。

 

 あらゆる制約に縛られない絶対的な権力を手にしながら、独裁政治による一方的な圧政など微塵も敷かず、世論の操作や洗脳教育も施さず、世界中に暮らす数多の種族たちが手を取って平和に暮らせるよう均衡を保つという、絵空事を成就させた偉業。

 

 貧困も差別も、オーウィズの知る時代とは比べ物にならないほど減っている。

 かつては翼や角、体毛、鱗の有無に肌の色、体の大きさなど、あらゆる『個性』が格差を生み、争いを生んでいたものだった。

 魔王と言う人類共通の敵が現れるまでは──否、現れてからしばらくも、くだらない諍いは絶えなかったほど種族の確執は根深いもので。

 

 それを解消し、文明社会を潤わせ、魔物への対策も十全とくれば、もはや非の打ち所のない理想的名君であることは疑いようも無い。

 部下からの信頼は、青天井であって然るべきと言えるのだ。

 

(そんな人物がアーヴェントの心臓を狙いながら、わざわざ打開の余地を与えたり、手を引くような真似をしたり……ねぇ)

 

 だからこそ、ドラゴレッド卿の行動は不可解極まりなく。

 だからこそ、天蓋領が直ちに手を出して来ることは無いと踏んだのだ。

 

(天蓋領の目的はアーヴェントの心臓だけじゃない。ただ奪うだけじゃ駄目なんだ。時期か、熟れ具合か。とにかく別の要因を必要としている。それが整うまで、直ぐには手を出してこない)

 

 推理の発端となったのは、あの二人が黄昏の森で体験した出来事のチグハグさにある。

 

(天蓋領は黄昏の森に暗殺者と三聖を仕向けた。一見すると盤石の布陣を敷いたようにも見える。だが暗殺者はさておき、武聖グイシェンに関しては完全に二人を見逃す前提で配置されていた)

 

 血を流させれば見逃すという、腕試しとしか捉えようのない奇妙なシチュエーション。

 ドラゴレッド卿という存在が考えなしの阿呆でない以上、何か意図を孕んでいるのは明白だ。無意味に不利を被る必要など、天蓋領には存在しない。

 

 叡聖ヴァイスダム・エイブラハムが導いた推測までは、オーウィズも同様に辿り着いている。

 他に見えてくるものがあるとすれば、何故ドラゴレッド卿はグイシェンという切り札を、撃退されることを前提条件に据えるかの如く差し向けたのか、という点だ。

 

(……仮に心臓ではなく、彼らに関する何らかの要素が重要なのだと仮定して。三聖をけしかけた真の目的が、撃退させることそのものだったとしたら?)

 

 オーウィズは自らこう例えた。暗殺者(カースカン)と武聖グイシェンを同時に展開したその様相は、まるで盤石の布陣を敷いたようだと。

 

 これは客観的視野角からの結論だ。

 はた目から見れば、実力のある星の刻印持ちと頂点到達者という、過剰戦力を投入しているようにしか映らないという事実の一端だ。

 

 天蓋領が全力で二人の命を奪いにかかった。そのようにして第三者の目に映り込んだ状況は。

 ()()()()()()()退()()()()()()()()()()()()()()()()というファクターを噛ませた場合、少しだけ違った顔が見えてくる。

 

(あの二人はベテランの暗殺者を返り討って、三聖の腕まで奪い取った。聞くに武聖グイシェンは、恐ろしく防御に秀でた達人だという。そんな実力者に土を着けたという事実は、裏に対して絶大な抑止力となっただろうね)

 

 カースカンはヴィクターに言っていた。アーヴェントの心臓には、一生を遊んで暮らせるほどの莫大な懸賞金がかけられているのだと。

 裏社会の情報網は凄まじい。かつては与太話でしかなかったアーヴェントの存在は既に実在とされ、欲に目を晦ませた外道が虎視眈々と狙っている状況にあるだろう。

 

 しかし、汚職に塗れた闇の業界に生きる者は、まずリスクを重んじる。

 死と隣り合わせの生活を送るがゆえに、命あっての物種という言葉を最もよく理解しているのは彼らなのだ。

 必然、大抵の者は無用な危険を避けるため、分不相応な依頼など受けはしない。

 

 恐らく大多数は、三聖の腕を捥ぎ取った怪物など狙おうとも考えないだろう。

 仮に襲ってくるとしても自惚れた半端者のチンピラか、考える頭の無い馬鹿だけだ。そんなものは二人にとって敵ではない。

 

(つまりドラゴレッド卿は、外野から見れば全力で潰しにかかったよう立ち回りつつ、実際は三聖を退けさせて二人の実力を脚色し、()()()()()()()()()()()()手配した……ということになる。懸賞金までかけておきながら、マッチポンプで指名手配を潰したんだ)

 

 理解不能──浮かび上がった一文が、頭を過って虚空に消えた。

 

(こんなしちめんどくさい真似をする理由が分からない。掲げる目的と矛盾してる。本気で狙ってますよ、なんてアピールをしておきながら、どこの馬の骨とも知れない輩に獲物を奪われないために()()()()()しておくだなんて。誰に敵対姿勢を見せつけている? どうして遠回しに保護するような真似を? そのくせ、二人の実力が基準を満たさなければ躊躇なく命を奪うくらい容赦が無いのは何故だ?)

 

 まるで盛大な嘘を吐いているようだと、オーウィズは感じていた。

 そして嘘を成功させる秘訣とは、ほんの少しの真実を織り交ぜることにある。

 

 もし二人に三聖を下すほどの実力が備わっていなければ、心臓を奪っていたのは本当だ。

 その『真実』を添加しつつ、与えた試練を二人が乗り越えたならば、彼らは「三聖を倒した化け物」という庇護を自動的に得られるよう仕組んでいた。

 

 結果、ドラゴレッド卿は本気で心臓を獲りに行ったけれど、相手が思いのほかに強くて失敗した──なんて『嘘』が燦然と貼り付けられたのである。

 

 であれば当然、新たな疑問が浮上する。

 

 ドラゴレッド卿がそんな『嘘』を吐く必要があったのは何故だ? 

 行動と真意の齟齬を狙ってまで、『本音』を隠したかった相手とは一体誰なのか?

 

(……どうやら天蓋領とやらも、一枚岩では無いらしい)

 

 ナニカが居る。

 ドラゴレッド卿の裏には、正体の一端さえ掴めない未知の存在が居座っている。

 影の匂いを、オーウィズは仄かに感じ取った。

 

「うーん、現時点じゃこれくらいしか分かんないや。まだまだ情報が少な過ぎる。……さ、ヴィクター君と合流しなくちゃね」

 

 オーウィズは大きく伸びをしながら、靴音と共に路地裏から姿を消した。

 



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第三章「善悪のアマルガム」
37.「一縷の陽射し」


 罪とは何か。悪とは何か。

 そんなものが何故、この世に存在するのだろうか。

 男は物心ついた時から、ずっとずっと考え続けてきた。

 

 初めに辿り着いた答えは論理だった。高度な群れ社会を形成する人間という動物が、群れを維持するために産み落とした防衛機構というものだ。

 

 同朋を殺めること、犯すこと、盗むこと、騙すこと。

 それらは全て種の崩壊を招く危険因子に他ならない。

 ゆえに嫌悪という本能をもって排斥し、規律の線から踏み外した者を罰するというホメオスタシスが形成された。

 

 すなわち悪とは種の存続に必要不可欠な抗原であり、それを忌むからこそ秩序が生まれ、人々は統率された健やかな文化の砦に守られながら生きていくことが出来るのである──と。

 

 で、あれば。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、一体何だというのだろうか。

 

 

 悪を憎む心が必然の進化なら。穢れを忌む精神が在るべき人の姿なら。

 殺戮も、姦淫も、強奪も、虚言も、一切に踏みとどまれないこの魂は。

 生まれながらに腐敗しきった、最も罪深き冒涜の権化に違いない。

 

 

 ならば、ああ、ああ、この身に裁きを。浄罪の焔を。

 不朽たる信念の御旗の下、魔を滅せんとする慈悲なき救世の(ともがら)よ。

 あなたがこの汚穢を一刻も早く見つけ出せるように、ありとあらゆる呪いをもって手を汚しましょう。

 

 忌まわしき身。呪われた生命。匂い立つ魂魄の邪悪を清めんとする聖なる鉄槌を、どうか我が身に下したまえ。

 

 

 

 

 まだ日が昇って間もない朝。

 ヴィクターは初めてシャーロットと出会った泉のそばで、滝のような汗を流しながら筋力トレーニングにのめり込んでいた。

 

「きゅうひゃくきゅうじゅーはちっ! きゅうひゃくきゅうじゅう、きゅうっ! せんッ──かいッ! ぶはっ!」

 

 屈強な木を鉄棒代わりに懸垂の要領でぶら下がり、綺麗なL字を作るよう素早く足を90度に上げる。

 一拍置いて負荷をかけたら、足をゆっくりゆっくりと下げていく。

 それを千回繰り返し、力尽きたヴィクターは柔らかな草葉の絨毯に倒れ伏した。

 

「はぁっ、はぁっ、はーっ……ふーっ……」

 

 今にも全身が溶け出しそうな灼熱感。骨肉が鉄になったかのような重苦しい疲労感。

 恐ろしい負荷に肉という肉が悲鳴を上げている。特に上半身は酷い。千切れてどこかに旅立ってしまいそうだ。

 

 スタミナには自信があったものの、流石に限界まで追い込み過ぎたか。このまま泥のように眠ってしまいたくなる。

 それでも呼吸を整えながら気合を入れ、震える腕で上着を脱ぎ捨て、そばの泉に思いっきり飛び込んだ。

 

 どぼんっ。盛大に舞う泉の飛沫。

 巻き込んだ気泡と共に沈みながら、四肢をだらんと脱力させて、浮力に任せるまま浮かび上がる。

 ひやりと冷たい澄んだ水が、熱された鉄のような体を優しく揉み解してくれるよう。

 

「あー……気持ちい……シャロが泳ぎに来る理由も分かるな……」

 

 プカプカと水面に浮かびながら、降り注ぐ日差しの眩しさに瞳を閉じた。

 

 ──瞼の裏に浮かぶのは、かつての戦いの記憶。グイシェン・マルガン。

 

 それは天蓋領が誇る最高戦力、三聖の一角にして『星冠級(アステル)』を冠する頂点到達者。

 辰星火山で死闘を演じ、完膚なきまでの敗北をヴィクターに下賜した女の名である。

 

 降る星を拳で砕き、準魔王級の怪物を討ち取ったという正真正銘の生きる英雄。

 そんな傑物との戦いで痛感したのは、不甲斐なさで満ち満ちるほどの無力感に他ならなかった。

 

(俺は弱い。シャロやグイシェンに比べて、あまりにも弱すぎる)

 

 それは純然たる事実であり、受け止め難くも認めざるを得ない現実だった。

 あの戦いから時が経った今でも、まるで巨山そのものと相見えたかのような、圧倒的実力差の壁を目の当たりにした感覚は忘れていない。

 

 グイシェンとの戦いは、もはや戦闘の体を成し得てすらいなかった。

 一方的に嬲られただけだ。手加減の下で成立した遊戯に等しい。

 その気になれば数秒で締めくくられるはずの決着を、グイシェンに課せられていた命令が引き伸ばしていたに過ぎなかった。

 

 あの戦いでグイシェンから受けたのは、蹴り一発に寸勁二発。

 それだけだ。たった三発の──それも手心を加えられた打撃だけで、致命に等しいダメージを負わされてしまった。

 

 そんな化け物が、少なくとも他に二人もいて。

 そう遠くない未来で、戦わなければならないときた。

 

(我ながら泣けてくるな。今のままじゃ手も足も出ねえ。絶望的だ)

 

 勝てる勝てないの話ではない。次元が違う。見上げてなお頂きの片鱗すら見えないほどに、隔絶された格差がそこにあった。

 

 次に出会った時、戦った時、間違いなくヴィクターは死ぬ。 

 きっと抵抗する暇もない。驚くほど呆気なく、まるで気紛れに千切られる哀れな野花のように、いとも容易く命を手折られてしまうだろう。

 

 折角リリンフィーを治すという目的を達成したのに、見据えた敵との戦力差は最悪の一言だ。

 賢者オーウィズというこれ以上にない味方が加わったが、相手は世界そのものに等しい。これで対等だなんて楽観視にもほどがある。

 

 今は一時しのぎの休戦状態に過ぎない。これから訪れるだろう未来は黒一色の暗澹だ。

 希望もなにも無い。どう考えたって詰んでいるのだ。

 いっそ無駄な抵抗など止めたほうが楽ではないかと、ケラケラ笑えてしまうくらいに。

 

 ……なんて、普通は諦めるのが定石なのだろう。

 ましてやあんな戦いを経験したら、自暴自棄になって当然だ。

 

 しかしヴィクターという人間がそれほど利口だったなら、これまで生き残ることは出来なかった。

 

(ブルって縮こまってる場合じゃねえ。天蓋領との戦いは必ずやってくるんだ。もっともっと強くならねえとな)

 

 世界は広く、ヴィクターの上には海千山千の猛者がいる。

 それを嫌になるほど思い知らされた。ならばとことん足掻くだけだ。

 

 この男はそういう人間だった。素直に力の差を絶望視できるほど理知的ではなく、そびえ立つ壁の高さに根を上げるほど諦めも良くはない。狂っているとさえ言える。

 必然、己を鍛えんとするのは自明の理であった。

 

 

「よしっ、休憩終わり。浜辺でも走ってくるか」

「ちょいちょいちょい、待ちなさい。あんまり根詰めるとオーバーワークになって逆効果よ」

  

 泉から上がった所で、聞き慣れた声が耳をそよいだ。

 呆れ顔のシャーロットである。遊泳に来ていたのか、タオルと着替えを片手に立っていた。

 

「マジで? シャロを参考にしてたんだが、ダメだったのか?」

「あれは治癒力の高いアーヴェントだから出来るメニューなの。基人(ヒューム)のあんたが真似したらぶっ壊れるっての。というかあれだけ追い込んでてよく動けるわね」

「おお! ちょっぴりキツいけどな、まだまだ余裕だぜ」

「ほんとゴリラ……。とりあえず疲労対策にこれ飲んでなさい。あと目のやり場に困るから服着て」

「いやんエッチ」

「胸隠すな突き落とすわよバカ」

 

 突き落としてから言わないで欲しい。ヴィクターは切実に訴えたが、水中では文字通り泡沫へと消えるのみである。

 

 陸に上がって着替えると、青い液体の入った小瓶を放られた。咄嗟ながら両手でしっかり受け止めていく。

 いつもシャーロットが使っている水薬(ポーション)だ。黄昏の森でも世話になったこの薬は、治癒力の促進と栄養補給を同時に行える優れモノである。

 

 封を開け、中身を一気に流し込んだ。

 ツンとくる清涼感と独特の薬味が、喉を滑ってすり抜けていく。 

 薬効は直ぐに顔を出し、体の芯からポカポカと温かくなってきた。

 

「相変わらずよく効くな。もう体が軽くなった」

「我が家秘伝の調合薬だもの、当然よ。……で、鍛えてたのはやっぱり辰星火山の件?」

「ああ。グイシェンとの戦いで、自分の非力っぷりを思い知らされたからな」

 

 拳を握り込み、記憶の底へ耽るように視線を落としながらヴィクターは言った。

 ほんの少しだけ瞼を閉じる。そうすると、あの激戦が鮮明に蘇ってくる。

 

「俺が今まで生き残ってこれたのは、ぶっちゃけ悪運が強かっただけだ。このままじゃダメだと思ったんだよ。いつかまた、三聖と戦う日が来るかもしれねーし」

 

 グイシェンだけじゃない。エマの時も、カースカンの時も、運が味方したからこそ掴み取れた勝利だった。

 

 もし『純黒の王』の贄に選ばれていなければ、エマに心臓を刺された時点で死んでいた。

 カースカンがヴィクターではなくシャーロットを狙っていたら、成す術もなく黄昏の森の蒸気に殺されていた。

 

 完全な実力だけで勝てた戦いは一度も無い。命のやり取りにおいて、これは事実上の敗北に等しい。

 確かに運とは重要なファクターだ。しかし信用に値することはない。

 それを履き違えたが最後、傲慢の代償は死という形になって、今度こそヴィクターに降りかかるだろう。

 

「俺は強くならなくちゃいけねえ。今はまだ無理だが、いつかこの腕に頼らなくても良くなるくらい、もっともっと強く」

 

 ならばこそ、最善を尽くすことに躊躇は無い。

 強くなるための努力。それこそが、ヴィクターに課せられた責務と言えた。

 

「なにより、今の俺じゃシャロの足手まといになっちまう。ンなの御免だ。俺はお前の隣に立っていたいんだよ」

「……ふーん。殊勝な心掛けじゃない」

 

 胸の下で組んでいた腕をほどき、くるくる髪を弄りながらシャーロットは言った。

 

「なら明日から私のトレーニングに付き合いなさい。ちょうど練習相手が欲しかったのよね」

「お! 良いぜ、願ったり叶ったりだ。……って、練習相手?」

「ええ。……あの旅で私も思い知らされたのよ、一人の鍛錬じゃ限界があるんだってことを。特に実戦に関しちゃ、あんたの方が一枚上手だと思ってる」

 

 今までシャーロットは、一族の現代当主として相応しくあれるよう己を鍛え続けてきた。

 しかしそれは、あくまで理想の自分を体現するための必要努力に過ぎなかった。

 

 ギルドの依頼をこなすため、対魔物・魔獣戦を想定して一通りの戦闘訓練は積んでいる。

 けれど断固として、人を斬るために技を練り上げたことなど一度も無い。

 

 グイシェンは言った。他者へ刃を振るう戸惑いが、魔剣の太刀筋を鈍らせていたと。

 当前だ。シャーロットは人を躊躇なく切り伏せられるほど逸脱した精神を持ち合わせてはいない。

 それこそ、数ヶ月前までは誰かと血で血を洗うことになるだなんて考えもしなかった。

 

 魔剣を体得したのだって、アーヴェントが先祖代々受け継いできた立派な伝統だったからだ。

 シャーロットにとってダランディーバとは、両親の教え通り大切な人を守るための剣である。

 それは今でも変わらない。命を奪うための武器ではない。

 

 けれど、だからこそ。

 大切なものを守るためには、更なる力を身につけなくてはならないのだと、人一倍に痛感していた。

 

「島も家族も、天蓋領なんかに好き勝手させたくない。当然この心臓をくれてやるつもりもない。力を着けたいのは私も同じよ」

 

 そのために必要なものは何か? 即ち、実戦の経験である。

 戦いの空気に慣れること。それが彼女の課題であり、克服すべき弱点であった。

 

「だからヴィック、私と戦いなさい。強くなるのよ。一緒にね」

「……望むところだ。けど手加減しねえぞ? 痛い目にあってグズり出すとか勘弁だからな」

「ハッ、誰に向かって言ってんのよ。アンタこそ泣きべそかいたって知らないんだから」

 

 

 

 ────そんな会話があったのは、実に一月前にもなる。

 

 

 

 リリンフィーの呪いを解き、コロポックルや賢者たちを迎え入れ、新たな生活へと踏み出した二人は。

 あれから毎日のように、拳と刃を交えることとなった。

 

「だァらッッしゃあああ────ッッ!!」

 

 咆哮激震。黒腕に螺旋回転する空気の層を纏わりつかせ、ヴィクターは己が腕を地面へ鉄槌の如く叩きつけた。

 刹那、ヴィクターの前方へ放射状の亀裂が走り抜けたかと思えば、恐るべき衝撃と共に地が内側から爆発した。

 

 新たに生み出した龍颯爆裂拳の進化系。空気を掴み、腕に纏わせたまま地面に打ち込み破裂させる小規模のショックウェーブである。

 

 大地を殴り砕かんばかりの凄絶なインパクトは、重々しい破壊音と共に極小の津波となってシャーロットへ襲い掛かった。

 

「へぇ、『礫の雨(ラピス・プルヴィアム)』の真似? やるじゃない!」

 

 対する少女は勢いよく足踏みし、土魔法の岩盾を前方へ出現させて衝撃波を受け止める。

 即座に跳躍。空を独楽のように旋転しながら右掌に黒魔力を球体状へと収束し、回転と圧縮を反復させた。

 

 球体から魔力弾の流星群が解き放たれる。

 それは意志を持つかのようにヴィクターを狙い定め、恐るべき追尾性能を持って喰らいついた。

 

 刹那、爆音と共に地が爆ぜた。舞い上がる砂煙に溶け込むようにヴィクターの姿が消えたかと思えば、まるで瞬間移動の如く前方数メートルの距離を圧殺しているではないか。

 元居た場所には大きくめり込んだ確かな足跡。それは黒腕の力をほんの一瞬だけ解放し、恐るべき膂力をもって魔力弾を躱したことを物語る語り部であった。

 

 再びヴィクターが強く踏み込んだ。落下してくるシャーロットへ合わせるように、全身全霊のアッパーカットが叩き込まれる。

 それを黒魔力の盾が迎え撃てば、たちまち金属同士が激突したかのようなけたたましい轟音が耳を劈いた。

 シャーロットは間髪入れず、二の矢の魔剣(ダランディーバ)を薙ぎ払う。

 

「ッッ!!」

 

 首を逸らし、男は全力で一刀を回避した。

 掠った毛先がハラリと舞い散る。ヴィクターは背後へ跳ねるようにステップを繰り返し、一時戦線を離脱していく。

 

 ──否。フェイントだ。

 

 撤退と見せかけ、黒腕の力を用いた加速。瞬く間に肉薄する。

 シャーロットに着地の余暇を与えず、一気呵成に畳み掛けんと咆え上がる。

 

「おおォォああああッッ!!」

 

 爆ぜる豪速のハンマーパンチ。しかしこめかみを撃ち抜かんと(くう)を裂いたそれは、紙一重の差で躱されてしまう。

 

 終わらない。一撃だけで終わりはしない。

 拳を振り抜いた勢いを遠心力として再循環、軸足を流転させ、刀の如き回し蹴りを叩き込んだ。

 

「ぐッ!!」

 

 硝子が砕けたような高周波。剛脚が今度こそ完全にシャーロットを捉えた音だった。

 少女の頭を守る決闘用のバリアに蜘蛛の巣状のヒビが駆け巡る。

 バリアは蹴りのインパクトを相殺しながら受けるべき痛みを換算し、刺すような激痛という代償を装着者(シャーロット)から容赦なく取り立てた。

 

 大きく体勢を崩す少女。薄紫に明滅する頭部のバリア。

 逃さない。掴み取った勝機を力強く手繰り寄せるように、ヴィクターは更に深く踏み込んだ。

 

「ここだァッ!!」

 

 全体重を乗せた渾身の正拳突き。

 鳩尾を抉り抜くように放たれた拳の砲弾は、一直線にシャーロットの中心へと吸い込まれて。

 

「!?」

 

 転瞬。ヴィクターは鼻っ柱で火花が弾けたかと錯覚した。

 遅れてやってくる重い痛み。顔の奥まで鉛の塊を突っ込まれたに等しい鈍重な苦痛が、霧のように視界を白くかき混ぜた。

 

 気付いた時には、ヴィクターは地面を寝転がっていた。

 自己主張の激しい疼痛が、グズグズと背中全体を嬲っている。

 息が苦しい。呼吸器全体が悲鳴を上げている。肺の空気を丸ごと絞り出されたみたいに、口がパクパクと酸素を求めた。

 

 悟る。

 完璧に決まったはずの正拳をいなされたばかりか、一本背負いの如く投げ飛ばされたのだと。

 

 敗北を証明するように、顔のすぐ隣にダランディーバが突き刺さっていた。

 

「だぁーっ、ちくしょー負けた! 絶対勝ったと思ったんだがなぁーっ!」

「ぜぇ……ふぅっ……フフン、これで私の二十一勝ね!」

 

 熱い息を切らし、流れ落ちる汗を拭いながらも、シャーロットは胸を張って勝者の笑みを湛える。

 応じてバリアが解除され、残滓の魔力が風に吹かれた砂のように消えていった。

 

「この私に勝とうなんざ百万年早いってことよ。次はせいぜい頑張りなさい」

「おいおい、俺の二勝無かったことされちゃ困るぜ! それに最近結構イイ線いってるだろ!」

「えー? マグレでバリア割れただけの勘違いじゃなーい? まぁなんにせよ、私の勝ち越しには変わりないし? 張り合いたいなら文句なしの完勝ぐらいして貰わなきゃね!」

「クソ……いつかぜってーブチのめす……!」

「アーハッハ! 負け犬の遠吠えが心地良いわ!」

 

 高らかに、快活に、揚々と笑うシャーロット。

 ヴィクターは悔しさを滲ませながら、くっそー! と大の字になって寝転がった。

 

 しかしながら、収穫物は決して敗北感だけではない。

 ほんの少し、ひとつまみ程度ではあるが、確かに強くなっているという実感があった。

 この純黒の拳がシャーロットを捕えようとした刹那、彼女が流した冷や汗をヴィクターは見逃していない。

  

 間違いなく焦りを植えたのだ。かつての決闘のような何重にも仕込んだ搦め手ではなく、正攻法で勝利に迫った。

 特殊な腕を持つとはいえ魔法もロクに使えない男が、数多の力を自在に操る少女へと窮迫したのだ。

 それは例えるなら、完全武装した兵士を膂力だけで追い詰めたようなもの。これだけでも大金星である。

 

 が、それはそれとして負けは負け。プライドが無ければ全力で駄々をこねたくらいには悔しいので、いつか絶対にパーフェクトな勝利を下してやるとリベンジを誓うのだった。

 

 

 そんな時、ホヨヨヨンっと静かに水を波打たせるような異音が、二人の耳へと入って来た。

 他に類を見ない独特の音色は、反重力魔法の発動に伴う無二のもので。

 音源へと目を遣ればやはりと言うべきか、森の中を空飛ぶ安楽椅子に腰かけてふよふよ漂う、白髪の少女の姿があった。

 

「あ、見つけたっ。おねえちゃーん! おにいさーん!」

「リリン?」

 

 二人を視認したリリンフィーが、朝花の笑顔を咲かせながら元気よく手を振ってやってくる。

 シャーロットはそんな愛妹を、少しばかり驚いた様子で出迎えた。

 

 というのも、日が出て間もないこの時間帯のリリンフィーは、いつもならベッドの中でぐっすり眠っている頃合いなのだ。

 彼女は朝にめっぽう弱い。こんな時間に目覚めたとしても、ぽやぽや微睡んですぐに寝息を立ててしまう。

 早起きの姉に着いていきたいと意気込みながらチャレンジしては睡魔に負け、あっという間に毛布芋虫になってしまうその愛らしさに毎朝骨抜きされているのだから間違いない。

 

「どうしたの? まだ寝てる時間じゃない。怖い夢でも見ちゃった?」

「んーん。今日は自分で起きられたんだよ。えへへ、凄いでしょ」

「うっわウチの妹天才だわ、間違いなく未来の大魔法使いね。ヴィックもそう思うでしょ?」

「姉が天才的にアホだってことしか分かんねぇ……」

 

 しかしどうやら、ただ偶然寝覚めが良かったというわけではないらしい。

 なんでも小さな地震らしき揺れを感じた途端、自分でも不思議に思うくらいぱっちり目が冴えてしまったのだとか。

 

「それに変な声も聞こえたの。人が叫んでるみたいな? 気になって様子を見に行ったんだけど、そしたら賢者様が書斎で紙を巻き上げながら大笑いしてて」

「朝っぱらから何やってんだよ博士」

 

 リリンフィーが大袈裟に両手を広げ、目をカッと見開きながら『やったー、やったぞー! 遂に導出完了だ! 流石ボクってば天才だね! いやぁ七徹した甲斐があったというものだよ、不死身万歳ハーッハッハ!』と迫真の物真似を繰り広げた。

 

 ここ数日、オーウィズが書斎に籠りっぱなしだったことは確かだ。

 缶詰めになる前、ナニナニ理論のウンタラカンタラがーなどと説明していた気はするが、ヴィクターの脳ミソは早々にシャットダウンしたためまるで理解出来なかった。

 

 一体なにが彼女をハイにさせたのかは知らないが、恐らく引きこもっていた理由が解決したからなのだろう。

 疲労困憊と青ざめる肌に血走った眼で、限界まで絞り出されたアドレナリンが誘うままに高笑いを爆発させるオーウィズの姿は、ありありと目に浮かぶようだった。

 

「とても喜ばれてるご様子だったから、何があったのかお訊ねしてみたの」 

 

 そしたらね、と興奮気味な一拍が置かれて。

 

「見つかったんだって! おにいさんを生贄にしなくても陛下を──『純黒の王』様を蘇らせる方法が!」

 

 予想の埒外からぶん殴ってきた言葉の衝撃に、ヴィクターとシャーロットは同時にシャットダウンした。



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38.「冠接ぎ」

「結論から言うと、王を復活させるためには冠接(かんむりつ)ぎの器を集める必要があるんだ」

「博士がノノの抱き枕に話しかけてる……」

 

 王を復活させる方法が見つかった──そんな眠気も吹っ飛ぶ驚天動地を朝一番にリリンフィーから告げられ、案内のもと辿り着いた先に待っていたのは、特大抱き枕に向かってがっくんがっくん船を漕ぎながら喋り続ける異様な女の姿だった。

 

 いわく七日間の徹夜敢行。例え不死身であっても、致死量の疲労が脳に蓄積すれば正気を失って当然だ。

 

「えっと、とりあえずお休みになられては? 目とか手足とかもろもろ痙攣してますけど……」

「心配ご無用だともシャーロット君! こちとら不老不死だぜぇ? たかが睡魔如きに後れをとるわけ無いってうわぁ何だこの枕ボクの顔から離れないぞ!?」

「ふふん。ノノ自慢のお昼寝セット。誰も逃げられない」

「ああああ、やめたまえノノ君! 駄目だよそんなっ、干したての毛布なんか掛けられたら誰も勝てるわけが……ああ……お日様の匂い……」

「完敗じゃねーか」

 

 無理もない。三度の飯よりお昼寝大好きなノノが、初めてのお給金を全て突っ込んで手に入れた至高の寝具、綿雲羊の毛をふんだんに使った特製安眠枕と毛布なのだ。

 その効果たるや凄まじく、まるで身を雲に埋めるかのような夢見心地のふかふかっぷりは、オーウィズを一瞬にして眠りの海へと撃沈せしめたほどだった。

 

「大往生って感じだな」

「よっぽど疲れてたのね。そっとしておいてあげましょ」

「んぅ。ノノもノノも」

 

 どさくさに紛れてノノもオーウィズの毛布に潜り込んでしまった。

 子供体温のゆたんぽまで追加され、もはやその快眠性能は計り知れない。館が崩れでもしない限り目覚めそうにないほどである。

 

「ではでは、マスターに代わりましてワタクシがご説明いたしましょウ。涎を垂らし散らす我が主のだらしねえ御尊顔でもツマミにしながらご清聴くださイ!」

 

 どこからともなく浮遊する石板を携えてやってきたイレヴン。

 意気揚々に筆を取り出したかと思えば、カカカカッと軽快な音を走らせて何やら石板に描きこみ始めた。

 

 絵だ。真っ黒な人間が椅子に座っている絵だ。

 矢印で「おうさま」と補足されているところから、地下で眠る『純黒の王』のことだろうか。

 

「お嬢はご存知かと思いますが、今のおうさまは端的に言うと抜け殻でありまス」

「誰がお嬢よ」

「肉体を何重にも封じられ、魂を引き剥がされ、物言わぬ塊になっているのでス。しかし死んではおりませン。いわば仮死状態なわけですネ」

 

 そばに翼を生やして飛んでいく人魂の絵が付け足される。肉体から魂が離れている比喩らしい。

 

「おうさまを復活させるには肉体に魂を戻す必要がありまス。ですが、おうさまの体はボロボロもボロボロでもはやどうしようもありませン。そこでアーヴェントたちは、新しい器を用意して魂を移植しようと考えましタ」

 

 その唯一の成功例が貴方でス、とイレヴンはヴィクターを指し示した。

 彼の言う通り、ヴィクターには『純黒の王』の器に変わる資格がある。その証こそ、包帯に巻かれた漆黒の両腕に他ならない。

 

 かつてエマに腕と心臓を破壊された刹那、欠損した肉体が『純黒の王』のものへと転化されたことでヴィクターは一命をとりとめた。

 

 転化の原因──即ち、何故ヴィクターが贄の適性を示したのかは未だに不明だ。

 

 歴代のアーヴェントが誰一人として掴めなかった王器の資格。

 一族千年の悲願に等しいそれを、アーヴェントの血縁でもなければ魔力すら持たない男が示した特異性は、オーウィズの分析を持ってしても不透明のままである。

 

 しかしこの問題は、今となっては完全に沈静化の一途を辿っていた。

 言わずもがな、現代当主であるシャーロットにヴィクターを生贄にする意志など皆無だからだ。

 

「まぁ誰一人として賛成しないでしょうが、彼を贄に捧げるやり方は却下ですよネ?」

「当然。誰かが犠牲になる方法は絶対ダメ」

「であれば、復活の儀式には別方向からアプローチを仕掛けねばなりませン。そんなわけでマスターが考案したのが、冠接ぎの器による新しい肉体の創造なのでありまス」

「その冠接ぎの器ってのは何だ?」

 

 聞き慣れない言葉を問い返せば、お答えしましょウ! とイレヴンが力強く教鞭を叩いた。

 応じて目にも止まらぬスピードで石板に筆を疾走させていく。描かれたのは5つの物体だった。デフォルメされているが、兜や鎧、剣などの武具の類に見える。

 

「以前マスターが魔力因子の法則についてお話したのは覚えてますカ? はいヴィクター様!」

「へ? あーえっと、魔力には宿主を記憶する能力がある……ってやつか?」

「正解! ちゃんとお勉強しているようですね素晴らしイ! それでこの法則、もちろん黒魔力にも当てはまるわけでしテ。非ッッッッ常に複雑煩雑アタマ爆発な術式が必要ですが、膨大なおうさまの魔力さえ掻き集めれば、肉体を複製することも可能となるのですヨ」

 

 ──つまるところ、オーウィズが缶詰めになっていた理由がこれだった。 

 魔力に宿る記憶因子の応用、人体錬成術式の構築。

 王の魔力を掻き集め、それを素材に新たな肉体を創造するという前代未聞の荒業である。

 

 ありえない。そう異を唱えたのはシャーロットだった。

 

「ちょっと待って、話が無茶苦茶過ぎる! 魔力だけを触媒に生身の体を創るですって? いくら賢者様でもそんな、人造生命(ホムンクルス)の製造とはワケが違う!」

「おねえちゃんおねえちゃん、それってそんなに凄いことなの?」

「例えるなら海水を集めて別の海を作ろうとしてる感じ。お魚も海藻もそっくりそのまま」

「? ??」

 

 ぽやんと小首を傾げる妹に、化石を集めて生きてる古竜を作ろうとしていると例え直していたが、ヴィクターもいまいちピンと来ない。例えが独特すぎやしないかと思う。

 

 ともあれ、イレヴンの断言っぷりからして嘘を吐いているわけではないらしい。

 シャーロットからしてみれば机上の空論、与太話も良いところの様子だが、彼の口振りからして条件さえ整えば実現可能なところまで煮詰められたようだ。

 

 ぐるぐる目を回すシャーロット。そんな姉の様子を、膝の上で抱っこしているコロロと一緒に真似するリリンフィー。

 

「で、でも仮に実現可能だとして、必要な魔力が無いわ。千年も経ってるのよ? 陛下本人の魔力なんてどこから調達すれば」

「ですから、冠接ぎの器を集めるのでス」

 

 はいここ注目、とイレヴンが石板を筆で叩く。先ほど描いていた武具のイラストだ。

 兜、外套着きの鎧、両篭手、具足、剣と盾。王の持ち物らしきそれが、冠接ぎの器というものなのだろうか。

 

「最初に言いましたように、かつて『純黒の王』はアレン=アーサーと『白薔薇の聖女』率いるマルガンの連合軍に討たれ、マスターですら解除不可能な多重封印を施されたうえに、魂を引き剥がされ抜け殻にされてしまいましタ」

 

 しかし裏を返せば、とイレヴンは繋げる。

 

「連合軍の力をもってしても王を完全消滅させることは叶わなかったのでス。せいぜい力を分断させ、封印するのが関の山。では分けられた力はどこに行ったでしょうカ?」

「その武具に、ってことか?」

「正解花丸100点デース! 彼らは王の所有物を封印の器とし、そこに力を閉じ込めましタ。正真正銘『純黒の王』の魔力をでス。それは千年経った今でも変化することなく、器の中で生きていまス。地下の遺骸のようにネ!」

 

 力を封入された武具たちは、手にした者へ恐るべき王の権能を授ける宝具となった。全てを揃えた暁には、『純黒の王』全盛の王威を戴冠するのだとか。

 しかしそれは人の身に余る代物。天蓋領の前身たる連合軍によって世界各地の『禁足地』へと封印され、今なお厳重に守護されているという。

 

「もうお分かりですネ? おうさまを蘇らせるためには、世界中に散らばった冠接ぎの器を集める──いいえ、取り戻さなければならないのでス」

 

 石板を亜空間へと仕舞いながら、イレヴンは言った。

 

「しかし当然、物事には順序ってモンがありまス。器の場所を突き止める情報収集はモチロン、火の中水の中森の中、ありとあらゆる『禁足地』に足を運べるようにならねば話になりませン!」

 

 それも天蓋領の目を掻い潜ってネ! と無茶苦茶な条件を着け足しながら、道化染みた笑顔で他人事のようにイレヴンは宣った。

 

「というわけで、当面の間はギルドの依頼を沢山こなしましょウ。階級を上げて探索可能な禁足地を広げるのでス。さすれば自ずと、情報もやって来ますからネ!」

 

 

 人類生活圏の外側に存在する『禁足地』では、通常手に入ることのない有益かつ特異的な資源の数々が眠っている。

 千年果花はその筆頭だ。リリンフィーを蝕むエマの呪いを容易く解いた世界樹の花雫は、立派な『禁足地』の恵みと言えよう。

 

 だがしかし、安易に立ち入ることが叶わないからこその『禁足地』なわけである。

 まず大きな危険を伴う。特殊な気候、地形、生態系で織り成される極めて過酷な大自然は、侮りをもって挑めば最後、無慈悲な洗礼が情け容赦なく来訪者の命を刈り取ってしまう。

 

 それでも人類はたくましいもので、試行錯誤の末に数多の探索法を導き出した。ここ千年の間で、『禁足地』に対する理解は飛躍的に向上している。

 だが安全な探索法で危険を排せたとしても、敬意なき開拓は環境を摩耗させ、土地の魔力を奪い、魔物の発生率を上昇させてしまう。

 

 それらの問題を避けるため、『禁足地』の秩序として生まれたのがギルドという管轄組織なのだ。

 依頼の仲介、会員制導入による探索者の管理および人材の選抜、探索者の『禁足地』流入数の調整などなど、その業務は多岐に渡る。

 

 そんなギルドで採用されている機構のひとつが、階級制度なのだ。

 

 探索者の能力、依頼達成率、探索実績、人格といったスコアを評価した、『銅冠級(ブロンズ)』に始まり、『星冠級(アステル)』を頂点へと据える七つの階位。

 昇級すればするほど受注可能な依頼幅が広がり、探索許可が下りる『禁足地』の範囲も広がっていくというシステムである。

 

(俺の階級は『銅冠級(ブロンズ)』だ。まだまだ手の届く範囲は狭い。少なくとも『金冠級(ゴールド)』くらいにゃ上がらねえと話にならねえ)

 

 ヴィクターの階級では、人類生活圏とほど近い『禁足地』しか探索許可は下りることがない。

 例外として黄昏の森の時のように、『白金冠級(プラチナ)』であるシャーロットが同伴すれば活動領域を広げることは可能だが、無論限度は存在する。

 

 少なくとも冠接ぎの器を探すためには、ザルバと同じ『金剛冠級(ダイヤモンド)』まで昇格することが最低条件だった。

 であれば必然、実績と経験を積む以外に道は無い。

 

(時間はかかるだろうが、まずはコツコツやっていくのが一番か。ランクアップには人格面も評価されるらしいし、焦ってドジ踏んでマイナス着けられたんじゃお笑い草だ)

 

 捉えた目標を離すまいとするように、ヴィクターは拳をぐっと握り込んでいく。

 

(よーし! 明日からバンバン働いてジャンジャン登り詰めてやろうじゃあねーの! へへ、燃えてきたぜ)

 

 気合十分と奮い立つ。

 やはり目標が見つかるとやる気も湧いてくるものだ。特にヴィクターは顕著である。何もやることが無い宙ぶらりん状態だと、どうにも調子が上がらない。

 

 黄昏の森から帰還して以降、鍛錬以外さして目標も無くエネルギーを持て余していたが、階級のランクアップという新しいミッションに費やせると思うと気分も上々だ。

 収入源にもなるし、シャーロットの役にも立てる。一石二鳥である。

 

(外も暗い。今日は早めに寝て体力温存しておこう)

 

 食事も入浴も済ませ、ぶらりと発った静寂(しじま)の散歩も、気付けば混んだ夜になっていた。

 ひやりと心地いい澄んだ風に、カエルの歌が乗っている。

 

 忙しくなるだろう明日に備えて床に就くのが先決だろう。しかし沸いた血の熱気がどうにも収まらなくて、夜風で冷ましてからにしようと足を運んだ。

 

 館から庭へと乗り出して、夜闇を漂う彩り豊かな精霊たちの間に入っていく。 

 この島は夜もにぎやかだ。ふよふよと繰り広げられる幻想的な七色の舞踊は、満天の星海が支えるステージと相まって、いつ見ても飽きが訪れることはない。

 不思議と気分も落ち着いてくるのだ。ぼうっと焚火を眺める感覚に近いかもしれない。

 

「……ん? おっ」

 

 庭の中を歩いていると、見覚えのある背中。

 シャーロットだ。いつもリリンフィーの傍に着いていた最近にしては珍しく、独りでベンチに腰かけて空を見上げている。

 

 何をセンチメンタルに浸ってやがるんだと、そろりそろり近づいて、後ろからポンッと肩に手を置いた。

 

「よーうシャロ! 元気かー?」

「ひゃっ!? ちょっ、いきなり脅かさないでよビックリしたぁ!」

「悪い悪い。で、何してんだこんな時間に? 一人なんて珍しいじゃん」

「私にだって一人になりたい時くらいあるわよ。ちょっと考えごとしてたの」

「ああ、邪魔しちまったか? すまん、退散するよ」

「……ん、いい。別に居ても」

 

 空気が読めていなかったかと去ろうとしたヴィクターの裾が掴まれ、その場に引き留められる。

 尻目を向ければ、シャーロットはベンチの中央から少し横に移動して、隣をちょんちょんと指で叩いていた。

 

「もう一人って気分じゃないし。ここ、空いてるから」

「んじゃ遠慮なく」

 

 腰を下ろし、一息。

 背もたれに腕を回しながら空を見上げれば、煌めく星の大河があった。

 

「良い夜だな」

「ええ。こういう日は星を眺めるのが好き。静かで落ち着くから」 

「なんつーか、ロマンチック? やべぇな。デートっぽいじゃん」

「なにそれ。口説いてんの?」

「かもな」

「……下手っぴ過ぎ。ばーか」

 

 マジかよーと大袈裟に項垂れれば、笑い声がクスクスと夜を撫でた。

 口元に手を当てて微笑む仕草に、どうやら湿っぽい気は晴れたようだと安心する。

 

 シャーロットの背を見つけた時、何か抱えているらしいことは直ぐに分かった。

 幸い()()()は解れたようで、表情からツンとした冷たさは抜けている。

 

「んで、何を悩んでやがったんだ?」

「あはは、やっぱお見通しかぁ。相変わらず鋭いわね、ホント」

 

 苦笑。

 ほんの少し気まずそうに頬を掻きながら、「別に何でもないのよ」とシャーロットは付け加える。

 

「ねぇ。らしくないことを言うけど、聞いてくれる?」

「もちろん」

「……迷ってるの。陛下を蘇らせることについて」

 

 ぽつりと零れた言葉に、ヴィクターは瞼を小さく開いて驚いた。

 

 まさか彼女の口から『純黒の王』の復活を思い悩んでいる、なんて言葉が出てくるとは露程も予想していなかったからだ。

 初めて出会った時、シャーロットが使命感に身も心も燃やされていたあの執念を知るヴィクターからしてみれば、到底考えられないセリフである。

 

 なるほど確かに()()()ない。しかし彼女が何の理由もなく、かつて願い焦がれた一族の大願を易々と天秤から降ろすような人間ではないことは重々承知だ。

 

 一体どんな心境の変化か。ヴィクターは黙って、静かに耳を傾けた。

 

「朝に賢者様の案を聞いた時、本当に凄くビックリしたわ。そんな方法があったんだ、しかも可能だなんて……って感じ。ひっくり返るかと思ったくらい」

 

 あの話がよほど衝撃的だったのだろう。今でも完全に呑み込めていないと言うかのように、膝の上に置いた手へと視線を落としていた。

 

「アーヴェントが長年求め続けてきた願いが叶うかもしれない。これで両親の死も報われるかも。初めはそんな風に舞い上がってたの。……でも、でもね。ふと思ったのよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……? どういうこった?」

 

 どうにも噛み砕けず、ヴィクターは首をかしげて疑問符を浮かべた。

 

 天蓋領への宣戦布告。彼女は確かにそう言ったが、既に天蓋領とはいがみ合う関係にある。もはや今さらと言っていい。

 友好的ならいざ知らず、心臓を狙われるほどの間柄だ。だというのに、ここにきて敵対意思を見せることを何故迷う必要があるというのか。

 

「私たちは一方的に狙われてる立場にある。でもそれは、天蓋領のほんの一部だけの話なの。お尋ね者みたいな公の的になったわけじゃない」

 

 仮にアーヴェントの存在が一般に露見し、天蓋領が追っているなどと声明が出ようものなら瞬く間に情報は拡散されているはずだ。

 しかしそんな噂はまるで耳に入ってこない。少なくとも、手配書のようなものが発行されたという話は聞かなかった。

 

「あくまで一方的に、なのよ。私たちが罪を犯したからでも、天蓋領を害したからでもなく、勝手な理由で着け狙われているだけ。それも秘密裏にね。天蓋領の末梢組織なんかは、私たちの存在すら知らないと思う」

 

 そも、天蓋領とは平和維持を役割とする公的機関だ。

 独裁を敷かず、不徳を正し、救われぬ者に救いの手を差し伸べるその潔白な姿勢が全幅の信頼を寄せ集め、今の時代を支えている。

 

 ゆえにこそ、そんな組織が目立った理由も大義名分もなく、シャーロットたちをわざわざ目の敵にするような真似はしない。

 数多の種族が共存するこの世界において、かつての大罪人の血族という烙印を押されたアーヴェントであろうとも、排斥する姿勢を見せることは大きな悪手だ。

 天蓋領が成し遂げてきた輝かしい功績に矛盾の泥を塗るばかりか、軋轢を生む結果となってしまうのは自明の理だろう。

 

 仮に罪状をでっちあげるならとっくの昔にやっている。

 今なお音沙汰が無い以上、あくまでドラゴレッド卿はアーヴェント捕獲の任務を極秘で行う腹積もりなのだ。 

 

 つまりシャーロットの言う通り、天蓋領の全てと敵対しているわけではない。

 あくまでごく一部の暗部。それもドラゴレッド卿に近しい上層部のさらに上澄みに、影から密やかに狙われているという状態にある。

 

「だけど冠接ぎの器を集めるようになったら、天蓋領の懐に潜り込むことになる。彼らの領域を侵して、千年も守られ続けた秘宝を盗み出すの。どうなると思う?」

「!」

「晴れて正式な大罪人よ。レッテルじゃない。天蓋領の一部どころか、騎士団が総力をかけて追ってくるようになるかもしれない」

 

 夜に隠れてしまいそうな翳りのある面持ちで、零すように彼女は言った。

 

「……昔は陛下を蘇らせることが、どんな手を使ってでも叶えたい夢だった。家族の死に意味を与えたくて必死だったから。でも今は違う。リリンがいて、コロポックルのみんながいて、博士も、イレヴンも、何よりあなたがいるんだもの」

 

 膝を抱えて瞼を細め、湿った土に目を落とすシャーロット。

 すとんと腑に落ちるように、ヴィクターは憂いの正体を理解した。

 

 シャーロットは恐れているのだ。

 天蓋領を──ではない。咎人として日の元を歩けなくなった時、島の住民まで巻き込まれてしまうことが恐ろしいのだ。

 

 彼女は一度家族を失っている。生涯癒えることのないその傷は、深く、深く、心の奥底に喰らいついて離れない。

 彼女はもう一度やり直そうとしている。新たな従者、取り戻した肉親と共に。

 

 門出は経た。だからこそ迷うのだ。

 王を蘇らせるために奔走すれば、シャーロットを狙う毒牙が大切な者にまで降りかかることになるかもしれないと。

 

 それだけは駄目だ。それだけは、絶対に許してはならないのだ。

 

「私が強くなりたいのは三聖と戦いたいからじゃない。自分の身を、大切な人を守りたいからよ。なのに冠接ぎの器を探そうとしたら、自ら進んでみんなを危険に晒してしまう。そんなの嫌。絶対耐えられない」

 

 一月前。ヴィクターと共に更なる力を求めたのは、あくまで自衛のためだ。

 

 例え血と灰を望まなくとも、三聖を筆頭とする暗部と戦う日は必ずやってくる。

 そうなった時、土壇場で命を守るのは自分の力だ。しかし今のままでは抵抗する間も無く殺されてしまうとグイシェンに教えられたから、強くなることを決意した。

 

 断じて、天蓋領と戦争を行うためではない。

 

「でも陛下の復活は(アーヴェント)の使命。それを果たすためにご先祖様は、辺境の島で屈辱に耐える道を選んだのよ。千年も積み重なった想いに背くなんて、許されるわけがない」

 

 彼女は既に、ヴィクターと出会ったばかりの時のような、妄執に近い血の呪いからは解放されている。

 しかしそれでも、シャーロット・グレンローゼン・アーヴェントは『アーヴェント』なのだ。王の魔力を受け継いだ一族の末裔、現代当主の座に君する血統の子なのだ。

 

 肉親への情が強い少女にとって、血に宿るルーツは使命という名の架となる。

 昔のような、家族の死で病んでしまった心を繋ぎ止めるために、悲運の死に意味を捧げんとしていた狂気的な使命感とは違う。

 これは、アーヴェントであることに誇りを持つがゆえの宿痾だった。

 

(板挟みになってたのか。成すべき務めと、守るべきものの間で)

 

 ルーツを持たない、過去を虚無に呑まれた自分には想像もつかない重荷なのだろうとヴィクターは思う。

 同時にそれは、決して手放していいものではない大切な葛藤なのだろうとも。

 

「それで悩んでたんだな」

「……うん」

「そうか」

「……」

「……」

「えっ?」

「ん?」

「いや、なにも言わないんだと思って。……呆れられちゃうと思ったから」

「何でそうなる」

 

 シャーロットはバツが悪そうに前髪を弄りながら、だって、とかぼそく繋げた。

 

「我ながらウジウジし過ぎだなって感じるの。同じようなことをいつも悩んでばっかりで。あなたみたいに強く芯を保っていられたらいいのに、情けないったらないわ」

「シャロ。デコ出せ」

「へ? ぁ痛ッ!?」

 

 バチッと弾かれたみたいな衝撃が少女の額を疾走した。びっくり驚いて頭を抑えながら、「な、なに!?」とシャーロットは狼狽える。

 対するヴィクターは少々眉を八の字に曲げながら、中指にフッと息を吹きかけていた。

 

「悩むのはそれだけ皆を大切に想ってるからだろ。何も悪いことなんかじゃない。ンなことも分からず情けねー奴だって呆れると思ったのか? ちょっとイラッと来たぞ」

「う……ごめん。でも、あなたはとっても強いから。何があっても揺るがないその精神力、本当に尊敬してるの。だから、意気地のない女に見えちゃうんじゃないかって」

「馬鹿言え。むしろ皆の安否が自分にかかってるかもしれねえってのに、頭を抱えない方がどうかしてる。俺はただ何も考えてねえだけだよ。本当に強いのは、その重荷から逃げずに向き合ってるシャロの方だ」

「……そう、かな」

「そうだ。つーか、いつも威張ってる癖して妙に自己肯定感低いよなぁ。もうちょいシャキッとしやがれ。前にも言ったが、お前は凄い奴なんだよ」

 

 喝を入れるように力強く背を叩く。ちょっぴり噎せたシャーロットが膨れっ面で「もう」と零すも、すぐ困ったように頬を解きほぐした。

 

「ほんと褒め上手よね。カウンセリング向いてるんじゃない?」

「だろ? ポジティブさなら誰にも負けねーぜ」

「ふふ。見習わなくちゃね」

 

 シャーロットはベンチから立ち上がって、大きく伸びをしながら息を吸った。

 吐息。腕を後ろで組んで、一歩。

 

「陛下の件、もう少しよく考えてみる。焦って答えを出そうとしちゃ、あんまり良くない気がしてきた」

「それがいい。例えどんな選択をしても、俺は着いていくから安心しな」

「……うん。ありがとう」

 

 少女はくるりと振り返って、晴夜の銀湾を飾る星彩のような眩い笑顔。

 

「あんたも何かあったら言いなさいよっ。私に出来ることなら何でもしてあげるからさ」

「マジ!? 何でも!?」

「常識の範囲内なら、何でも」

「そんな……おっぱい……」

「台無しよアホンダラ」

 

 項垂れる男の脳天に軽めのチョップ。エロ猿は期待を裏切られたのがショックだったのか膝を抱えてしまったが、普通に最低なので無視した。

 

「取り合えず陛下については、賢者様ともまた話し合ってみることにするわ。ただそれとは別に、ギルドの依頼をこなしていくってところについては賛成なのよね。収入にもなるし、位を上げてて損は無いもの」

「ああ、いざという時の備えにもなるしな。幸い俺たちの個人情報は博士がなんか細工してくれたらしいから、仕事自体は安全に出来るだろう」

 

 以前オーウィズをギルドまで案内した際、彼女が書類手続きを通して何らかの隠蔽工作を施したらしく、天蓋領へ情報が抜けないようになったのだとか。

 そもそもシャーロットはアーヴェントであることを伏せ、あくまで一般市民を装ってギルド会員となっており、ヴィクターも同様のため大した問題では無いのだが、念には念をということである。

 

 一体どんな方法で細工したのかはあまり教えてくれなかった。伝染性サブリミナルスペルがどうとか言っていた気がする。

 

「さ。夜も遅いしもう上がりましょ。明日から忙しくなるわよ」

「だな。さっさと寝て英気を養うとするかー」

 

 ヴィクターは大きく欠伸を浮かべながら、少女と共に館の中へと歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから程なくしてのことだった。

 リリンフィーが行方不明になったのは。



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39.「あたりまえという名の憧憬」

 リリンフィー・ウェンハイダル・アーヴェント。8歳。

 倍近く年の離れた姉がいる。将来の夢はお医者さんになること。

 

 先天的に体が弱く、彼女の半生はベッドの上だけが世界の全てだった。

 歩くだけで息は詰まり、心臓が痛んで目が眩む。食事もほんの数口で内臓が拒絶する。たびたび襲われる発作のせいで、引き裂かれるような激痛や高熱にうなされるなど日常茶飯事。

 強烈な悪夢を見てパニックを起こし魔力が暴走、『純血』のもたらすパワーで自室を半壊させたこともあった。

 

 あの頃を考えれば、今は天国のようだとリリンフィーは思う。

 

 まだ満足に歩くことは出来ないが、浮遊椅子を使えば好きに移動できるようになった。

 食事量も見違えるほど増えたし、逆に薬の量は減った。何を口にしても砂を味わうようだった舌は随分と彩り豊かになって、栄養補給が楽しみに変わった。

 

 なにより体力が段違いだ。熱が出てもほんの微々たる程度で、少し眠ればすぐ治る。

 激しい運動は難しいものの、コロポックルたちとカードやボードを使って遊べるようになった。それだけでも革命が起きたに等しい。

 

 千年果花の霊薬は、まさしくリリンフィーを生まれ変わらせた。

 世界樹の花蜜に含まれる強力な薬効がエマの呪いを解いただけでなく、持って生まれた望まぬ枷まで緩めてくれたのだ。これが想像以上の恩恵だった。

 

 それもこれもシャーロットが命を賭けて、狂暴な魔物や三聖という恐るべき実力者に打ち勝ったからなのだとリリンフィーは知っている。

 ヴィクターが内緒話のように明かしてくれたことは記憶に新しい。しかし当の姉は知られたくなかったようで、珍しく彼に怒っていたが……。

 

 それでも、真剣な表情で「姉貴の頑張りを忘れずに覚えててくれ」と言ったヴィクターに頷き、決して忘れてはならないものなのだと心の宝箱に仕舞い込んでいる。

 

 リリンフィーにとって、シャーロットは大好きな自慢の姉だ。

 

 世界一の姉だと思っている。病に苦しんでいた時はいつも傍に居てくれし、退屈なベッドの世界を、絵本やお話、摘んできた草花で美しく彩ってくれていた。

 両親を亡くした時も励ましてくれた。自分だって辛いはずなのに、そんな気持ちをおくびにも出さないで、何よりも誰よりもリリンフィーのことを案じていた。

 

 食い扶持を稼ぐために毎日汗水垂らして働いていた姉が心配だったし、嬉しかった。何も出来ない自分が惨めだったし、穀潰し同然の身を恨んだこともある。

 

 姉の負担になることが耐えられなくて見捨てても良いとお願いしたら、生まれて初めて頬をひっ叩かれたのは今でも鮮烈な記憶の一部だ。

 二度とそんなことを言うなと本気で怒られて、涙ながら力いっぱいに抱きしめられた時、声を枯らして泣いた夜をリリンフィーは生涯忘れない。

 

 そんな唯一の肉親が、またしても自分を救ってくれた。リリンフィーにとって、シャーロットはこの世の誰よりも偉大で尊敬するヒーローだ。

 

 だからリリンフィーは、今の暮らしでも十分すぎるくらい満足だった。

 新しい家族。健やかになった体。何より笑顔の増えたシャーロット。

 これ以上は何も望まない。望んだらバチが当たってしまうと思うほどに。

 

「ねぇリリン。お出かけしてみたい?」

 

 そんな思いとは裏腹に、シャーロットは今日もリリンフィーに優しくしてくれる。

 お昼ご飯を食べながら唐突に提案された申し出も、そんなプレゼントのひとつだった。

 

「おでかけ?」

「うん。ダモレークに」

 

 ダモレーク。話にはよく聞いている。姉やヴィクター、ひいてはコロポックルたちも懇意にしているという港町である。

 田舎ながら活気に賑わう、美しく素敵な町だとのことで、リリンフィーは土産話を聞くのが大好きだった。 

 

「なになに? どうしたの急に?」

「ほら、私やヴィックはよく行き来してるでしょ? 最近はコロポックルたちも。リリンだけずーっと島に居るから、たまには気分転換でもと思ったのよ」

「うーん……行けるなら行きたいよ。でも……」

 

 喜びと同時にちょっぴり寂しい気持ちも出てきて、しゅんと目を伏せてしまう。

 落とした視線の先には、言うことを聞かない自分のか細い足があった。

 

 シャーロットやヴィクターの協力もあって、リハビリは順調に進んでいる。しかしまだ十全に動かせる段階ではない。浮遊椅子が無ければ、たった数歩程度が限界だ。

 完治まで長い目で見た方がいいとはオーウィズの弁だった。滅茶苦茶になった神経の修復と再起動、筋肉や骨組織の発達を待たなければならず、こればっかりは時間に頼るしか方法がない。

 

 こんな体では、たかがお散歩だろうが姉の大きな負担になることは想像に難くない。それが悩みの種だった。

 

 問題は足だけではない。リリンフィーの魔力は『純血』の黒魔力なのだ。

 この世に二つとない超特殊な形質であり、何の拍子にアーヴェントだとバレてしまうか見当もつかない。

 

 リリンフィーを取り巻く状況は複雑だ。『純血』のアーヴェントを狙う刺客がどこに潜んでいるかも分からない上、いざという時に足手まといになってしまえば、シャーロットを危険に晒してしまう。

 それは大好きな姉と遊びたいという、強く揺れ動く子供心を抑えつけるには十分過ぎる動機だった。

 

 しかしリリンフィーの心配などシャーロットにはお見通しだったらしく、「心配しなくて大丈夫」と優しく頭を撫でられて。

 

「ダモレークは安全よ。賢者様が頑張ってくれたお陰でね。それに万が一に備えて、あなたの魔力を隠す方法も見つかったの」

「ボクのシガレットと同じものを服用すればいいのさ」

 

 噂をすれば、シャーロットの背後からひょっこり現れたのは灰色のウルフカットだ。

 枝垂れた前髪と眼鏡の二層から、山羊のような翡翠の瞳を得意気に輝かせているオーウィズである。大盛りのクリームと分厚いパンケーキが乗ったトレーを大事そうに抱えていた。

 

「賢者様?」

「やぁやぁリリンフィー君、久しぶりだねえ。元気にしてたかい?」

 

 カラコロとえくぼを作りながら、オーウィズはシャーロットに了承を貰いつつ二人の間に着席した。

 

 久しぶりという挨拶通り、最後に顔を合わせたのは実に数日も前になる。

 というのも、七日におよぶ徹夜明けの果てに眠りに就いた彼女は、三日近く目を覚まさなかったからだ。

 

 目覚めたら目覚めたで眠り過ぎた反動かグロッキーになり、元気になるためと称して謎のカラフルな栄養剤を注射した結果、何の副作用か体が虹色に光って鼻血が止まらなくなり……。

 そんなこんなで二日間の療養を経て、ようやく元通りになったというわけだ。

 

「お体はもう大丈夫なのですか?」

「もちろん平気だとも。しかし君たちには迷惑をかけたね。不死に胡坐をかいて無茶してしまうのがボクの悪い癖だ。絶対真似しちゃダメだぞ?」

「できませんよぅ……。でも、ご無事で何よりでした。心配したんですからね? 次はメッですよ!」

「優しいなぁリリンフィー君は。労わってくれたお礼にパンケーキをあげよう」

 

 クリームを絡めた一切れを差し出され、リリンフィーは雛鳥のように口で迎え入れる。

 コック長会心の出来だと噂のパンケーキは、やっぱり甘くて蕩けるようだ。

 

「だよねだよねぇ、美味しいよねぇ。ボクもお気に入りなんだ。蜂蜜とクリームでヒタヒタになった生地が特に好きでさ」

「そういえば賢者様、ずっとパンケーキ食べてますよね」

「以前ヴィクター君が連れて行ってくれたカフェで知ってから虜なんだ。毎日食べても飽きな……あっ」

 

 しまったという顔。己の失態をありありと悟った目の色だった。

 オーウィズの視線に座っているのは言わずもがな、シャーロットである。

 

「? なんです?」

「いや、その、本当に他意は無いんだよ? 彼が気を利かせてご馳走してくれただけで……件のカフェも君のためにリサーチしてた所らしいから、ある意味下見に付き合ったというかだね」

「何故急に早口で言い訳を……?」

「だってほら、大切な彼を取ったと勘違いされたら困る」

「──は? はぁーっ!? なななっ、何言ってるんですか!? そもそもあいつとはそんなんじゃないですし!! べっ、別に二人がお茶したくらいで何か思ったりしません!!」

「でも一瞬とても怖い顔してたじゃないか!」

「しーてーまーせーんー!!」

 

 耳まで真っ赤に染め上げて、テーブルから身を乗り出さんばかりに憤慨するシャーロット。ばんばんっと叩かれたテーブルの弾みで紅茶が跳ね、クロスに小さなシミが生まれてしまった。

 お行儀が悪いよおねえちゃん、と妹に諫められれば、しゅんと縮こまって大人しくなる。全く可愛らしい生き物だとリリンフィーは生暖かい顔。

 

「そっ、そんなことより! リリンですよリリン!」

「あ、ああそうだね! コホン。ええと、ボクが愛煙してるシガレットがあるだろう? 君も同じものを服用すれば隠せるから、気兼ねなく出かけても大丈夫という訳なんだよ」

 

 胸ポケットからハーブシガレットを取り出し、くるくる指で遊ぶオーウィズ。彼女がいつも匂い消しと称して吸っているものだ。

 なんでも内在魔力の属性を()()()()薬らしい。小人(コロポックル)の魔眼のような、他人の属性を判別する力を防ぐことが出来るのだとか。

 

「あぅ……でもわたし肺が弱くて……煙を吸うと具合が悪くなっちゃうと思うんです……」

「心配ご無用! サプリメントタイプを作っておいたからね」

 

 と声高に言って取り出したのは、薄ピンク色の小さなケースだ。

 中に錠剤が入っている。これがハーブシガレットと同じ成分の薬らしい。

 

「こいつを1錠、1日2回飲めばいい。あとは髪を魔法で染めれば変装も大丈夫さ。気兼ねなくお姉さんと遊びに行けるよ」

「! ほ、本当ですかっ。賢者様ありがとうっ!」

 

 受け取ったケースを大事そうに抱えて、リリンフィーは心の底から咲いたような笑顔を見せた。

 

 リリンフィーは前提として子供だ。同年代よりは少しばかり達観しているかもしれないが、まだまだ遊びたい盛りの甘えたい盛りである。

 自分の特異体質や諸々の障害を克服できるのなら、もちろん遊びたいに決まっている。

 小人(コロポックル)やヴィクターが外出するのを羨しく思っていたのは、紛れもない事実なのだ。

 

 そこに思いがけない贈り物が降ってきた。こんなに嬉しいことが他にあるだろうか。

 幸せで、幸せで、身も心も温かくなるほどに。

 

「そういうわけだけど、どう? 久しぶりに」

「うん……うん、行きたい! ううん、絶対行く! えへへ、楽しみ……!」

「その意気だとも。子供にとって遊びとは終生の宝だ。美しき宝箱を作りたまえよ。──ああそれと、二人にもうひとつプレゼントを用意してある。是非活用してくれ」

 

 

 雲一つない突き抜けたような晴天。気温はちょっぴり高めだが、ほどよい風が良い塩梅を生んでいる。絶好のお出かけ日和といっても過言ではないだろう。

 リリンフィーは純白の髪を黒に染め、鍔の広い帽子とワンピース、ピンクのポーチを身につけて、シャーロットに浮遊椅子を押されながらダモレークの景色を味わっていた。

 

 清潔で麗らかな石造りの町並み。瑞々しく活気に溢れた市場の喧騒。

 陽射しをキラキラと照り返す小川の水面。橋を駆ける子供たちの笑い声。道路を行きかう(キャルゴ)独特の駆動音。

 

 新鮮。鮮烈。驚愕。感動。興奮。 

 あらゆる感情が激流のように胸を流れ去り、「わぁ……」「わ……わわ……!」と言葉にならない感嘆となって口から零れた。

 目を輝かせながら小さく手を動かして、食い入るように港町を眺め続ける姿は年相応の子供らしい。

 

 はしゃぐ妹の微笑ましさについ破顔したシャーロットに気付いて、リリンフィーは少し照れたように指先をもじもじと交わらせた。

 

「だってだって、お昼の景色を眺められるのがとっても新鮮で……!」

 

 過去の数少ない思い出の中では、宵から夜にかけての()をシャーロットと出歩いた記憶しかない。

 人混みと日差しを避ける必要があったからだ。昔のリリンフィーにとって、昼間に歩くというただそれだけでも命がけだった。

 

 だからだろう。目に映る全てが宝石のように美しく感じるのだ。太陽の下で、人々の営みが渦巻く中で、一員として居られるということが眩しいほどの感動を呼んだ。

 

「ねぇおねえちゃん、あれなに? とっても良い匂い」

「セーダンのお店ね。生クリームとかジャムにアイス、果物なんかを薄い生地で巻いたお菓子よ。食べたい?」

「うん!」

 

 小さな屋根付きワゴンのような店だ。背後には熊を模したキャラクターがセーダンを食べているイラストが描かれた(キャルゴ)が控えている。移動式の売店らしい。

 

 シャーロットが浮遊椅子の向きを変え、店の前へと連れて行く。

 するとカラフルなストライプの衣装に整ったヒゲがポップな店主が、すぐにリリンフィーへメニューを渡してくれた。

 ワゴンの傍にも表は飾られているが、リリンフィーから見え辛いことを察してくれたらしい。

 

 少女ははやる気持ちをそわそわと表しながらも、絵を見るだけで優しい甘さが舌に伝わってくるお菓子のイラストに目を滑らせた。

 ミックスベリーとクリームのセーダン。リリンフィーの両目がぴたりと吸い付く。

 

「おねえちゃん、これっ。これがいいな」

「ミックスベリー&クリームと、ダブルチョコをひとつ」

「まいど!」

 

 スマイルと共に、薄く引き伸ばされた円盤状の生地が手を触れずして宙を舞った。

 火魔法の術式を内蔵した反重力加熱コンロだ。実用性よりパフォーマンスに重きを置いたそれは、出来上がるまでの時間をエンターテインメントとして華やかに飾ってくれる。

 

 無邪気に拍手を沸かせてリリンフィーは喜んだ。

 くるくる踊りながら香ばしく色づいていく円盤。スムーズな身のこなしでクリームや果物を乗せ、見るものを圧倒する手捌きで完成させゆく猪人(オーク)の店主はまるで宮廷手品師のよう。

 

 そうして見事に出来上がったセーダンを、リリンフィーは両手でしっかり受け取った。

 目を輝かせ、恐る恐る一口。

 

「! !! !!!」

「ふふ。こーら、慌てると喉に詰めるわよ」

「喜んでくれておじさんも嬉しいよ。また来ておくれ」

 

 お釣りと一緒にチケットを添えられた。どうやら割引サービスらしい。

 

 店を後にした二人は、川沿いを歩きながら散策を続けていった。

 途中、大通りで見知った店がシャーロットの目に留まる。

 ダモレークきっての衣服店(アパレル)こと、スワンクロークだ。

 

「ねえリリン、折角だから寄っていかない?」

「衣服屋さん?」

「そうそう。服だけじゃなくて靴も化粧品も置いてるところよ。どう?」

「うん! 見たい見たい!」

 

 言うが早いか、リリンフィーは肘置きにある半球状のコントロールパネルへ手を添えると、シャーロットを離れてふよふよ店内に吸い込まれてしまった。

「おねえちゃんはやくー!」と、興奮を隠しきれないソプラノが響く中、シャーロットは慌てて追いかけていく。

 

「ちょっと、勝手に行っちゃダメだってば! というか意外に早いわねその椅子!?」

「えへへー。だってだって、このお店すっごく素敵なんだもん」

「うわ可愛い許した──じゃない。逸る気持ちはわかるけど、一人で先走っちゃ危ないから気をつけなさい。いいわね?」

「ごめんなさーい。……でもわたし、たまにおねえちゃんが心配になる」

 

 おかしい。はしゃぐリリンフィーの愛らしさに無条件降伏しかけたのを鋼の意思で持ち堪え、妹を諫めて姉の役目を果たしたというのに微妙に呆れられてしまった。シャーロットは小首を傾げる。

 

 さておき、兎にも角にも衣装である。

 レディースコーナーへ突入した二人は、クリーム色にライトアップされた瀟洒な空間を堪能していく。

 

「ねぇリリン見て見て、このワンピース素敵じゃない?」

「うぁー可愛い、すっごく好き! こっちのスカートと合わせたら良い感じかも……! あっ、このカーディガンもいいなぁ」

「折角だから試着してみましょうよ。着換え手伝うからさ」

 

 幾つか目星を着けた服を手に試着室へ向かおうとすると、察した店員が荷物を持って同行してくれた。

 礼を言いつつ、シャーロットはリリンフィーに手を貸して立ち上がらせ、ゆっくり中へと入ってカーテンを閉める。

 

 手すりのような補助さえあれば、立つだけならリリンフィー1人でも可能だ。

 幸い備え付けがあったため、それに掴まっている間、シャーロットが素早く着替えさせていく。

 するといつの間にか魔性の天使が降臨していたとは、他ならぬ実姉の談である。

 

 トップスはベージュのシャツワンピースに紺色のブレザーを羽織り、ボトムスは白妙のプリーツスカートとワインレッドの革靴を。

 全体的に淑やかで少々背伸びした雰囲気だが、しかしだからこそ、リリンフィーという素材の味が遺憾なく発揮されると言えよう。

 

 元々線が細くスラッとしていて、幼いながらに足が長く見える彼女には、少し大人びた服装の方がよく似合うのだ。

 

 リリンフィー自身の繊細な雰囲気と年相応の幼気(いたいけ)も合わさって、ガーリーな清楚さに小悪魔チックな艶やかが絶妙に融合された結果、どこに出ても恥ずかしくない可憐な少女が出来上がった。

 

「うー。どう、かな。変じゃない?」

「は? 可愛すぎてキレそうなんだけど」

「なんで……?」

 

 文句のつけようがない。姉贔屓を抜きにしても麗しいが過ぎた。

 仮に彼女が学校へ通っていたなら、男子連中など丸ごと骨抜きにされていただろう。

 確信せざるを得ないほどに、その浮世離れした端麗っぷりは恐るべきものだった。

 

 キレそうになった。嫉妬ではない。リリンフィー最過激派であるシャーロットの頭脳が、妹に言い寄る男を想像して血管という血管を弾けさせそうになっただけである。

 間一髪「リリン可愛い」で思考を埋め尽くし一命を取り留めた。つまり致命傷だった。

 

「も────っ、最高で最高で熱出ちゃいそうなくらい綺麗よリリン! ぶっちぎりの世界一じゃない! かわいいかわいい!」

「大袈裟だってば恥ずかしいよぉ……。でも、この服大好き。とっても素敵。ありがとうおねえちゃん、大切にするね!」

 

 鏡に映る自分の姿を見て、それがまるで別人のように綺麗に思えて、リリンフィーは頬を赤らめながらはにかんだ。

 

 今までは寝巻を兼ねたような、動きやすい服装しか着る機会など無いに等しかった。精々シャーロットが買ってくれたものを屋敷の中で使う程度だろうか。

 

 けれどこの服は、シャーロットと一緒に自分の意思ではじめて選んだものだ。

 

 不思議な心地だった。ただ衣服を身につけているだけで、温かい気持ちになるのは初めてだった。

 綺麗になった自分に浮かれているのかもしれない。けれどそれ以上に、誰かと一緒にショッピングしてお洒落を楽しむというような、年相応で当たり前の幸せを噛み締められることが何よりも嬉しかった。

 

「決めた。今日はこの恰好のまま遊ぶ! せっかく一緒に選んだんだもん、おねえちゃんにいっぱいいっぱい見て欲しいな。……えへへ、ちょっぴり浮かれすぎちゃってるかも」

「お姉ちゃんは幸せ過ぎて寿命なんじゃないかと思えてきました」

「大袈裟だってばぁ……。ところで、おねえちゃんは新しい服買わないの?」

「私は大丈夫。今の服が気に入ってるのよね」

「……あーなるほど! おにいさんに買ってもらったからだね」

「!? ちっ、違う!! そんなんじゃないから!!」

「嘘だ―。すっごく大事にしてるのわたし知ってるもん」

「リーリーンー!!」

 

 これ以上刺激すると噴火しそうだ。活火山状態になった姉から逃げ出すように、きゃーっ! と笑い混じりに叫びながらリリンフィーは浮遊椅子に乗って試着ゾーンを後にした。

 が、呆気なく追いつかれ、頬をモチモチこねられてしまうのだった。

 

 

 

「えっ、なにあの二人超可愛くない?」

「うわほんとだオーラやっば。やーん車椅子の女の子お人形さんみたーい」

「姉妹かなぁ? お姉さんも足なげーし顔良すぎだし……」

「てか車椅子じゃなくて椅子浮いてね?」

「マ? 飛ぶ椅子とかマジ欲しいんだけど」

 

 

 店を出てしばらく。あちらこちらから視線を感じるようになった。

 すれ違えば振り返られ、風に乗って男女問わず興奮気味の内緒話が聞こえてくる。無論自分たちについてだ。

 

 幸いネガティブなものはないが、リリンフィーはまさか自分が注目の的になるなど夢にも思わず、照れて小さくなってしまう。

 

 一方のシャーロットはご満悦の極みである。それはもう鼻歌が聞こえてきそうなくらい気分上々だった。

 

「フッフッフッフ、誰も彼も圧倒されちゃってるじゃない。まっ、こんな星冠級美人姉妹を目の当たりにすれば必然の結果! 仕方のないことよねーっ、アーハッハッハ!」

「うぅ、すっごく見られてる。わたし変じゃないかなぁ?」

「何言ってるの、むしろ見せつけてやるくらい堂々としてなさい。……と、言いたいところだけど」

 

 おもむろに浮遊椅子を止められ、小さな慣性がリリンフィーの体を通り抜けた。

 どうしたのかと顔を上げれば、心配そうに覗き込む姉と目が合って。

 

「大丈夫? 緊張して気分悪くなったりしてない?」

 

 おでこにひんやりと冷たい感触。シャーロットの手が触れていた。

 

 いくら体力が増したとはいえ、昔のリリンフィーは大勢の人気に当てられただけで弱ってしまうほどの虚弱体質だった。

 それを知っているがゆえの懸念なのだろう。実際疲れのせいか、どうにも熱っぽさを感じていた。

 

 きゅっと、胸に小さな焦りが芽生える。

 せっかくのお出かけが自分の不調で中止になってしまうこと、それだけは避けたいと思うからこその焦りだった。

 

 だからリリンフィーは「大丈夫」と微笑み返す。しかし、シャーロットの目にはそう見えなかったようで。

 

「うーん、ちょっと疲れちゃったみたいね。あっちの公園で休憩しましょうか」

「あぅ……ごめんなさい」

「こら、謝らないの。久しぶりの外出なんだから疲れやすくて当然じゃない」

 

 慈しむように髪を優しく撫でる、柔らかな手のひらの感触。

 大好きな感触だ。体の奥からトクトクと多幸感が溢れてきて、すぐに元気になれるから。

 

「それに疲れたっていっても、限界じゃないんでしょ?」

「うん。少し休んだら大丈夫だと思う。」

「決まり。じゃあ、休憩が終わったら博物館に行くわよ! まだまだ遊ぶぞー!」

「ほんと!? うれしい!」

 

 思わず声が上ずって、小さなガッツポーズが出た。

 昨晩町の地図を読んだ時、強く興味を惹かれたのが、ダモレーク博物館だったからだ。

 

 寂れた漁村から港町に変わったこの地の歴史編纂を主軸に、近海に生息する水産資源などが展示された、博物館と水族館を合体させたような施設らしい。 

 リリンフィーは魚が好きなのだ。もっと言うと、実はヘビや虫のような冷血動物が好みだったりする。どことなく親近感が湧くのである。

 

 期待に胸が膨らむものの、興奮してガス欠になっては元も子もない。

 まずは一休みすべく、公園を一望できる木陰の休憩ベースに辿り着いた。

 

 浮遊椅子からベンチに座り直したリリンフィーは、水筒を手に取って喉を潤す。

 冷たい水が体の隅々まで沁みるようだ。太陽が真上に佇むこの時間帯は格別に気持ちがいい。

 

「丁度いい頃合いだし、お弁当にしましょ。コック長に作ってもらったの」

「やったー。ふふ、お外でご飯食べるの夢だったんだ」

 

 亜空間ポーチから出て来た大きなバスケットには、彩り豊かなサンドイッチが。

 シャーロットはロースハムと葉野菜、トマトを挟んだものを。リリンフィーはチーズ、コーン、オニオンのサンドに手を伸ばして──

 

「こんちわーっ、美味しそうなもん食べてますね」

「これお姉さんが作ったの? やば、めっちゃ上手じゃん」

 

 ──聞いたことも無い男の声から、遮られるように手が止まった。

 

 ビクッと肩が跳ねる。予期せぬ事態に、サッと血が冷えるような錯覚に襲われた。

 声がした後ろを振り返れば、いつの間にか複数の若い男がベンチを囲むように集まっているではないか。

 

 理解が追いつかず、リリンフィーの手が不安の行き場を探そうと姉の方へ彷徨っていく。

 受け止めるように手を添えられた。シャーロットの大丈夫だと安心させる意志が伝わってくる。少しだけ安堵。

 

 対する男たちは、怯えるリリンフィーへ弁明するように手を振った。

 

「ごめん、怖がらないで! さっきそこの通りで見かけた時、スゲー美人だと思ってさ。思わず追いかけちゃったのよ」

「お姉さんモデルとかやってる? こんな田舎に住んでる人じゃないでしょ絶対。撮影で来たの?」

「小っちゃい子は妹? 可愛いねー!」

 

 一瞬刺客の類かと警戒したが、どうも一般市民らしい。

 それも若者だ。年はシャーロットとそう変わらないだろうか。

 

 どれもこれも奇抜ではないが遊び慣れた服装をしていて、セットされた髪はバッチリ染められている。

 種族は基人(ヒューム)森人(エルフ)蜥蜴人(リザードマン)と様々だが、一貫して若く浮ついた雰囲気の連中だった。

 

 なにより人当たりの良さそうな笑顔は一見気さくそうにも窺えるが、裏にうっすらとギラついた獣性が垣間見えるのだ。

  

 もはや一目瞭然だ。目立ち過ぎたか、とシャーロットは小さく吐息。

 ひとまず引っ込み思案な妹が怯えないよう、出来るだけ身を寄せて庇いにいく。

 

「ごめんなさい、この子体が弱いの。知らない人相手だと緊張しちゃうから遠慮してもらえる?」

「大丈夫大丈夫ー。俺ら、誰とでも仲良くなれるのが長所なんで!」

「オレたち子供好きだし。なんならもうダチだし? ねー?」

 

 頬が引きつる。まるで退く気配が無い。

 どころかリリンフィーの前に回って膝を折り、目線を合わせて笑いかけてくる者もいた。逃がすつもりはない様子だ。

 

 あっさり折れてくれればまだ不幸中の幸いだったものの、この手合いは面倒だ。短期決着が無難かと、シャーロットはほんの少し語気を強める。

 

「悪いけど妹から離れてくれる?」

「大丈夫だって。妹ちゃん良い子だし、怖がってないもんね? お名前は何ていうのかなー?」

「足が悪いのに頑張って偉いねえ。皆で遊び相手なったげるよ」

「お姉さん不自由な妹さん相手して大変っしょ? オレたち手伝うからさ、一緒に遊ぼうよ。荷物持ちしてもいいよ」

「────────」

(あ、まずい。おねえちゃん怒ってる)

 

 リリンフィーは小さく唾を呑んだ。

 なにせ姉の手に血管が浮いている。それはもうビッキビキに。今にも暴れ出そうとするのを抑えているかのように。

 顔を見た。笑顔だった。ただしニコニコの接待顔。目が全く笑っていない。

 

「別に大変じゃないから結構よ。気持ちだけ受け取っておくわ。この後も予定あるしね」

「えーいいじゃん。人数多い方が絶対楽しいって!」

「妹ちゃんもそう思うでしょ?」

「あぅ、あの……えっと……」

 

 パキゴキッ、という異音。

 シャーロットの指の骨が唸り声を上げたものだった。

 リリンフィーはどんどん強張っていく姉の腕にしがみ付いた。もはや男たちに恐怖はなく、カウントダウンに入った姉を止めるための行動だった。

 

 そんなリリンフィーの内情など露知らず、彼らは能天気に笑うのみで。

 

「お姉ちゃんに甘えてるーかわいー」

「大丈夫だよーオレたち怖くないよー」

「優しく言っても通じないみたいだからハッキリ言う。邪魔。お呼びじゃないのよ。失せなさい」

 

 百万カンデラの眩しいスマイルから放たれた刃物のように鋭い言葉に、思わず呆気に取られて言葉を失う男たち。

 

 茫然自失の衆を余所に、シャーロットはあわあわ混乱するリリンフィーを流れるように抱きかかえて浮遊椅子へと座らせた。

 大丈夫よと頭を撫でながら、さっさと公園を立ち去るべくシャーロットはグリップに手を掛ける。

 

 が、しかし。

 

 椅子の反重力術式を起動させた瞬間、シャーロットの時が静止した。 

 背後からボソボソと惨めたらしく吐かれた捨て台詞が。聞き捨てならぬ言の葉の矢文が。シャーロットの鼓膜を音速でブチ抜いたからだ。

 

 調子に乗ってんじゃねえぞブスーだの、ちょっと下手に出りゃ気取りやがってアバズレがーだの、そんな罵倒は些細な問題だ。

 相手にされなかった負け犬の遠吠えでしかない。気に掛ける価値も、噛みつき返す必要性もない。

 

 だが。だが。

 ロクに歩けもしねえ不良品なんか表に出すな──この侮辱だけは、どうしようもなくシャーロットの逆鱗に触れた。

 否。堪忍袋が切れたと言ったほうが正しいか

 

 思えば最初から鼻についたものだ。内気なリリンフィーに礼儀も弁えず距離を詰めて圧をかけ、遠回しに負担呼ばわりする始末。

 挙句の果てに不良品だと。リリンフィーのことを、ハッキリとそう言った。

 

「────」

 

 前提。シャーロットは非常に家族愛の強い少女である。

 その想いは両親を亡くした地獄を経て、何もかも失ったと絶望した果てに、唯一取り戻せたリリンフィーという光によってさらに強固なものとなった。

 

 必然。許せるわけがなかったのだ。

 これは一線だった。例え軽はずみ程度の暴言であろうが、絶対に踏み込んではならない一線なのだ。

 

 ましてやリリンフィーの体を──望まずして刻まれた呪いの疵を、何も知らない人間から貶されて頭に来ないほど、シャーロットは大人ではない。

 

「ごめん、ここで待ってて。ちょっと話つけてくる」

「お、おねえちゃん? 乱暴はダメだよ」 

「分かってる」

 

 ベレー帽をリリンフィーに預け、親指で示して木陰に移動を促したシャーロットは、ゆっくりと男たちの元へ歩み寄っていった。

 

 空気が歪むような重圧。魔力も何も由来しないソレは、純然な怒気が見せた蜃気楼か。

 異様な雰囲気と共に戻ってきた少女に、男たちは一歩後退る。

 

「な、なんだよ」

「構って欲しいんでしょ? 気が変わったから相手してあげる。ゲームをしましょう。一人でも勝ったら私のことを好きにしていいわ。どう?」

 

 一瞬、空白。

 耳から入ってきた情報が処理されゆくと、男たちは思っても見ない申し出に揃って口角を吊り上げた。

 

「好きにして良いって、言葉通りの意味?」

「ええ」

「意味分かって言ってる?」

「当たり前じゃない。二言は無いわ」

「……くく。ああ分かった、いいよ。何すンの?」

「腕相撲」

 

 飛び出した嘘のような提案に、全員がぽかんと口を開いて。

 一拍遅れた大爆笑が、公園中に響き渡った

 

 狼の群れに飛び込んできた兎。男たちの目にはまさしくそう映ったことだろうか。

 絶好の好機到来。もはや下卑た下心を隠そうともせず、ニタニタと薄気味悪い笑みを浮かべながらシャーロットを取り囲んでいく。

 

 このチャンスを逃がす手があろうか。獲物がむざむざ巣に飛び込んできたのだ。牙を潜める捕食者など存在するはずもなかった。

 

「おいおいお姉ちゃん大丈夫? オレ蜥蜴人(リザードマン)だぜ?」

「腕相撲って本気で言ってるのか? それとも介護疲れでおかしくなっちゃった? 基人(ヒューム)の女が無謀にも程があるだろ」

「ごちゃごちゃ五月蠅いわね。受けるの? 受けないの?」

「イイよー、やろうやろう腕相撲。後で泣いても遅えからな」

「あっち行こうぜ。丁度いい台があるからよ」

 

 

 その後。腕相撲で錐揉み回転する謎の集団が目撃された。

 

 

 ああなったシャーロットは止められない。リリンフィーはそれをよく知っている。

 しかし腕相撲程度で済ませているのは、まだシャーロットに理性が残っている証拠だろう。

 

 思うが儘に力を振るえば騎士団沙汰になるのは必然。ゆえに、煮えくり返った腸の落とし所としてアームレスリングを選んだ。きっと大事にはならないはずだ。きっと。

 

 ぐぎゃるぶぎゃるとかいう嘘みたいな悲鳴と共に豪快に回転して吹っ飛ぶ男たちへ心の中で合掌しながら、リリンフィーは視線を公園へと滑らせた。

 

 砂場や遊具で遊んでいた子供たちが、いつのまにかシャーロットと男たちの行く末に注目していた。

 中にはボールをぎゅっと抱きしめて、「ゴリラ……?」と固唾を飲みながら迫真の眼差しで見守る男の子もいる。

 

 時間にして数分あまり。全員薙ぎ倒された。

 何故か湧き上がる拍手と歓声。手を振って応える姉。

 「クソッ、どうなってんだよ!」「なんつー怪力だこの女!」と、土を舐めた男たちが悪態と共に立ち上がる。

 再び挑戦状を叩きつけて、リベンジマッチが始まってしまった。

 

 しばらくかかりそうだなと苦笑。食べかけだったサンドイッチを取り、はむっと一口。

 

 ふと。一陣の視線が髪を撫でた。

 

 釣られるように右を向く。

 公園中の子供たちがシャーロットに注目する中、リリンフィーをじっと見つめる黄金の双眸と目が合った。

 というかほとんど真隣に居た。全く気配も感じさせず、いつの間にか浮遊椅子の傍へ立っていたのだ。

 

 少年だ。背格好からして、年はリリンフィーと同じくらいだろうか。

 だがその風貌は公園の中で際立って浮いている。あまりにみすぼらしいのだ。まるで家無し子のようで、微かに饐えた異臭が鼻を突いた。

 

 ボロボロのフードを目深く被っているせいで顔はよく見えない。

 しかし暗い中でもはっきりと金色に輝く瞳だけは、その存在をはっきりと誇示していた。

 

「……」

「えっと、こんにちは?」

「…………」 

「……あの。どうしたの、かな?」

 

 無言。ただただじぃっと、穴が開くようにリリンフィーを見つめている。

 いや、もしかしたら見ているのはリリンフィーではないのかもしれない。手に持っているサンドイッチが欲しいのかと、フードの少年とサンドイッチを交互に見やった。

 

 よく観察すれば、少年のシルエットは異様に細かった。

 虚弱体質なリリンフィーと変わらないくらい細い。いくら幼いとはいえ、男の子でこれは異常だ。

 もしかすると何か事情があって、食べるものに困っている子なのかもしれない。

 

「た、食べる?」

「…………」

 

 ちらり。差し出したサンドイッチに少年の目が泳いだ。

 しばしの沈黙が間を挟み、少年の手がそっと伸ばされる。

 

 長袖から覗く腕は、うっすらと蒼銀の体毛に覆われていた。

 獣人系の種族らしい。ほんのり獣臭さがあったのもそのせいだろうか。

 

 リリンフィーは伸ばされた手に応え、サンドイッチを譲渡する。

 すると少年はそばのベンチに勢い良く座り込んで、がつがつとサンドイッチに齧りつき始めた。

 

「お腹減ってたの?」

「……」

「いっぱいあるから食べていいよ。あっでも、こっちはおねえちゃんのだからダメ」

「……」

 

 バスケットを差し出せば、少年は夢中になってサンドイッチを頬張った。

 両手に持って交互にかぶりつく姿に、よほど空腹だったんだろうかと切ない気持ちになる。

 

「お水もあるよ。いる?」

「……ん」

「どうぞ。美味しい?」

「……うまい」

 

 たった一言だが、初めて少年の声を聴いた。

 夜風のように透き通った声だ。なんとなくもう一度耳にしたくなるような、涼しくて静かな声だった。

 

「……ごっそさん。ウマかった。ありがとよ」

「よかった! それね、うちのコックさんが作ってくれたんだよ。凄いでしょ」

「……オマエ、金持ちの子か?」

「えっ。うーん、どうなんだろう? 普通だと思う」

「……普通なもんか。メシも服も上等だ。その椅子だって見たこともねえ」

「そうかなぁ」

 

 小首を傾げたものの、思い返せばお金に困った話なんて聞かない。蓄えも贅沢したとて響かない程度にはあるという。

 何より賢者オーウィズが住んでいる。そう考えると確かに普通ではないし、富んでいることは明白か。

 それもこれも両親を亡くしてから東奔西走し続けたシャーロットの努力の結果である。つくづく自分は恵まれているのだと再確認させられた。

 だったら将来は絶対恩返しするんだと心に決め、そっと胸に手を当てる。

 

「うん、そうかも。そうだよね。貴方のおかげで大切なことに気付けたかも。ありがとう」

「……は? 急にどうした。変な奴だなオマエ」

「えー? 変じゃないよぅ」

「変だろ。空飛ぶ椅子に乗ってるし、見ず知らずの小汚えガキに笑顔で飯まで……変人だ」

「むぅ、変じゃないもん」

 

 頬を膨らませて威嚇する。ぷにっと指で突かれて空気が漏れた。

 カラカラ笑われたので、おかえしに脇腹を突っつき返す。ビクッと仰け反った姿が面白かったので、両者相討ちとなって終戦した。

 

「ところで、貴方のお名前は? わたしはリリ──」

「……()()な。オマエ」

 

 脈絡も無く唐突だった。少年がおもむろに鼻を鳴らしたかと思えば、リリンフィーの言葉を遮りながらぐっと距離を詰めてきたのである。

 

 予期せぬアクションに思わず声が詰まり、肉体全ての動きが停止した。

 しかし少年はまるで構うことなく、リリンフィーの首元に顔を埋めるのではないかと思うほど近づいて、スンスンとしきりに鼻を鳴らし始めるではないか。

 

「ふえっ。えっ? なになに? 止めてっ、なにするの?」

「…………」

「匂うって、クサいってこと? うう、やだ、離れてよぉ」

「血だな……血に混じってる……? 昔嗅いだことがある……これは……万癒薬(エリクサー)……の……」

 

 ガバッとばねのような勢いで顔を上げた少年と目があった。

 フードが反動で大きく捲れ上がり、不明瞭だった素顔が白日の下に曝け出されていく。

 

 金色の月のような瞳があった。蒼みを帯びた銀の髪があった。星砂のように白い肌があった。

 しかし何より目を惹いたのは、頭頂部にぴょこんと生え揃ったもふもふの耳だ。

 それは紛れも無く獣人種──狼人(ワーウルフ)の特徴に他ならず。

 

 少年は信じられないものを目の当たりにしたように大きく広げた瞳を、ゆっくりと閉じながら再び開いて。

 決心をつけたように、重い唇を紡ぎ出した。

 

 

「……オマエ、オレと一緒に来い」

「え?」

 

 

 

 

 

 

 

「頼むよ姐御! 話を聞いてくれぇ!」

 

「俺たち完全に惚れちまったんだよ! 格闘技齧ってるんだけど、あの体捌きは並のモンじゃなかった! 手も足も出ないなんて初めての経験だったんだ!」

 

「お願いだ、この通り! 舎弟にしてくれよ姐御ぉ!」

 

「だぁぁぁ────っ!! しつッッこいうるッッさい黙りなさい!! 舎弟なんかいらないって何度も言ってるでしょ! というか何だ姐御って!?」

 

「頼む姐御! 一生のお願いだ!」

 

「パシリでも何でもしますからぁ! 貢ぎますからぁ!」

 

「美人で強い達人にシゴかれたい!」

 

「本気でシバき回すわよこのナンパ男ども! 負けたんだからさっさと潔く散りなさい!! 私はこれから妹と用事が────リリン?」

 



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40.「レントロクスの医師」

 ──アーヴェント姉妹がダモレークに到着した頃。

 とある『禁足地』近郊に広がる、あたり一面を瑞々しい草葉や野花に覆われた長閑(のどか)な平原にヴィクターは居た。

 

「バアちゃーん、頼まれた薬草採ってきたぞー!」

「まぁまぁこんなに沢山。ありがとうねえ」

 

 

 平原には家があった。ダモレークと『禁足地』の狭間にぽつんと佇む、アンティークな木造住宅だ。

 ヴィクターは袋いっぱいに詰め込んだ新鮮な薬草を、そこに住まう老婆へと手渡していた。

 つまるところ仕事である。たった今、ギルドで受理した依頼を完遂したところだった。

 

 依頼人の老婆は、なんでも『禁足地』から自力採集した植物のみを使った生薬を販売している鳥人(ガルーダ)の薬屋らしい。

 元々夫婦で切り盛りしていた店だったが、数年前に夫を亡くし、自身も年のせいで足腰や翼が弱って採集が難しくなったためギルドに依頼を出したのだという。それを今回ヴィクターが引き受けたというわけだ。

 

 薬草の自生する『禁足地』は黄昏の森と比べて危険性は低く、ターゲットもそう珍しい種類の薬草ではない。

 ピカピカの『銅冠級(ブロンズ)』であるヴィクターが基礎的な依頼のプロセスを経験するにはうってつけの仕事だった。

 

「おかげで良い薬が作れそう。すぐに達成証明するから、タグを貸してちょうだいな」

 

 ヴィクターは首にぶら下げていた銅色のタグを外し、老婆へと手渡した。これはギルドに会員登録した時に発行されたタグだ。身分証のようなものらしい。

 

 受け取った老婆は真ん中の窪みに指を押し込むと、微弱な魔力を流し込んだ。

 するとタグがほのかな光りを帯び始め、一瞬だけ幾何学的な文様を浮かび上がらせた。

 それはすぐに消失したものの、代わりに青色の丸がひとつ、名前の横にある小さな無色の水晶珠に篆刻された。

 事前説明の記憶を掘り返すに、これが達成証明のようだ。

 

 ギルドは基本、個人や組織を問わず、クライアントの手で保証された達成証明をギルドに提出することで依頼主からの報酬が支払われるようになっている。

 ヴィクターにはよく分からない理屈だが、タグの水晶珠に篆刻されたサインを、あらかじめ控えられた依頼者の魔力紋と照合するのだとか。

 

「本当に助かったよ。もし縁があったらまたお願いねぇ」

「もちろんッスよ。いつでも依頼してください」

 

 兎にも角にも、これで依頼は無事達成された。あとは最寄りのギルドへ寄って報酬を得るだけである。

 

「……」

 

 とは言ったもの、このまま踵を返すにはどうも後ろ髪を引かれるような感覚があった。

 それは家の中を覗いた時だ。店内の端の方にぽつんと置かれた不自然なバケツが、歯に詰まった小骨のように気になって仕方がない。

 

(この店……年季は入ってるけど綺麗な店だ。家具も小物も商品も、キチンと考えてレイアウトされてる。なのにあのバケツだけ見栄えもへったくれもない。まるでそこに置かざるを得なかったみたいな)

 

 この薬屋は老婆にとって、今は亡き夫と共に二人三脚で続けてきた店だ。彼女の人生が詰まった唯一無二の宝物と言っても過言ではない。

 そんなかけがえのない場所だからこそ、自ら材料を調達できなくなっても店を閉めまいと奮闘している。

 彼女は言っていた。ここで働いている時だけは、まるで夫がそばに居るような気がするのだと。

 

(だからずっと綺麗にしてるんだ。亡くなった旦那さんのために、二人の思い出を風化させないように。これだけの品数、揃えるだけでも大変だろうにな)

 

 なのにあのバケツだけが彼女の聖域で浮いている。

 事情あってのことなのは当然だろう。バケツという道具の用途からして、理由は難しく考える必要もない。

 

「お店、雨漏りとかしてるんです?」

「あらやだ、よく見てるねぇ。目立たないようにしてたつもりだったんだけど……実はそうなの。古いから屋根が傷んじゃったみたいで、ほんと困っちゃう」

 

 老婆は頬に手を添えて困ったように溜息を零しながら、「昔はおじいさんが直してくれたんだけど」と独り言ちた。

 

 彼女は足腰が悪く、自慢の翼も衰え、既に飛ぶ能力を失っている。魔法は老いた心臓に負担をかけるからあまり使えない。高所で無理な作業をすれば危険を伴うのは自明の理だろう。

 かといって、ここは辺鄙な田舎の奥地。業者を手配するには時間もお金もかかる。だから最低限の応急処置で場を繋ごうとしたのだ。

 

 ヴィクターはもう一度、中を覗き込んで見渡した。

 鳥人(ガルーダ)は俗にいう長命種だ。平均寿命は基人(ヒューム)の倍にも及ぶ。

 そんな彼女が夫と二人三脚で続けてきたという店には、古いなどと短絡的な一言では言い表せない、染み付いた年月の重さが感じられた。

 

 壁や床や天井、商品棚から置物いたるまで、この薬屋を構築する全ては一時代前のものだろう。

 しかし大切に使われてきたがゆえか、材質が老いてなおまるで生きているかのような艶があった。

 

 窓枠の修繕痕。目を凝らさねば分からない程度の小さな床の傷。張り替えられた壁紙の真新しさ。軋む薬棚の戸の音。古屋独特のノスタルジックな香り。

 長年の時を過ごした物には魂が宿るというが、まさにそれだ。今日という日まで薬屋の夫婦と共に歩んできた時間の足跡がそこにあった。

 

 どこか懐かしく、そして似ていると思った。アーヴェントたちが様々な想いと共に過ごしてきたという、島の館の雰囲気と。

 だからだろうか。なんとなく、このまま放っておける気分ではなくなったのは。

 

「そういうことなら任せてください。俺こういうの得意なんスよ」

「え?」

「修理に使えそうな材料とかありますか? 出来れば梯子とかあれば有難いッスね」

「……直してくれるのかい? そんな、悪いよ。気持ちだけで十分さ」

「気にせず気にせず! 俺こういうの好きなんスよ。それになんとなく、このお店のことが気に入っちゃってて。一目惚れって言うんですかね? だから放っておけないっていうか」

 

 老婆は少しだけ考えて、「じゃあお願いしちゃおうかしら。お礼は弾むよ」と小さく笑った。ヴィクターはどんっと得意気に胸を叩いて承諾する。

 一通り道具を拝借したが早いか、店の裏へと回り込んで梯子をかけ、身軽によじ登って作業を始めた。

 

 手先の器用さには自信があった。いまだに痛ましい焼け跡が残る館の修復作業を何度もこなしてきたし、親方の現場で働いた経験もある。

 なにより罠作りが得意だ。小細工を駆使して切り抜けた死線はいくつもあった。

 

 それを思えば雨漏り程度などお茶の子さいさい。あっという間に修繕は進んでいった。

 ババッと仕上げまで突き進んでいて、納得の出来栄えに一段落。

 

「バアちゃーん、終わったッスよー」

 

 梯子を滑るように地面へ降り立ち、手を叩きながら声を飛ばす。

 返事はない。が、代わりに何やら話し声が聞こえた。店の入り口からだ。誰かと玄関先で喋っているらしい。

 

 しかし既に話の幕は下りていたのか、相手らしき青年が爽やかな笑顔と共に一礼して去っていく後ろ姿が見えた。

 老婆は屋根から降りてきたヴィクターに気付き、驚いたように眉を上げる。

 

「あらもう終わったの? 仕事が早いねぇ」

「漏れてる場所が分かりやすかったッスからね。ところで、さっきの人はお知り合いで?」

「ううん。騎士団のお巡りさんよ」

 

 騎士団の? とオウム返し。

 そう言えば確かに、パリッとした濃紺の制服に身を包んでいたような気がする。

 

 騎士団は天蓋領を──ひいては三聖を頂点に据える治安維持組織の通称だ。

 人々の安寧を守ることを柱とする秩序の代行者であり、魔を払う盾であり、悪を裁く剣でもある。

 

 とは大袈裟にいうものの、上層部から末端までその存在はピンキリだ。

 天蓋領の手先ということで一瞬警戒してしまったが、なんてことはない。恐らく辺境に住む老婆の安全確認を兼ねた見回りのようなものだったのだろう。

 

「ほら、最近何かと物騒でしょう? わざわざこんな所までパトロールに来てくれたみたいなの。本当ありがたいわねえ」

「あー、殺人鬼がどうのって話ッスかね」

「そうそう。早く捕まって欲しいもんだわ」

 

 老婆は「ああ恐ろしい恐ろしい」と身を震わせながら、怖気を振り落とすように腕をさすった。

 

 以前、親方夫婦から聞かされた話を思い出す。

 なんでもダモレークを含む近郊の町々を恐怖に陥れているという、連続怪死事件の噂だ。

 

 当時はたった数日で数件という異常極まる頻度で変死体が発見され、強力な魔物や人食いと化した魔獣の出現を疑われた。

 しかし調査にあたった騎士団の見解によると、驚くべきことにどうも人間の仕業らしい。

 それが殺人鬼の存在を匂わせる所以となっており、日常にまぎれ潜む悪意の発覚に、人々の恐怖は膨れ上がってしまっているという。

 

(噂を耳にしたのって、確か一月近く前だったよな? マジかよ、まだ解決してなかったのか)

 

 老婆いわく、未だ犯人の足取りも掴めてすらいないらしい。

 件の殺人鬼とやらが相当な手練れなのか、それとも騎士団の捜査能力が思ったよりも低いのか。

 どちらにせよ、ヴィクターとしては一日も早く町の平穏が戻ることを祈るばかりである。

 

 

 

「へっへっへ、初依頼コンプリートだぜー。この調子この調子」

 

 ダモレークに戻ったヴィクターは達成手続きをギルドで完了させ、無事報酬金を受け取っていた。

 銅冠級(ブロンズ)の依頼であったため額は少ないが、初めて手に入れたギャラである。硬貨の詰まった小袋を揺らせば、ジャラジャラという音と共に何となく感慨深さが湧いてくるものだ。

 

 ギルドを出る途中で偶然出会ったザルバにそのことを報告すると、まるで自分のことのように喜んでくれた。

 相変わらずの悪人面で口は悪かったが、やはり根っこの人の好さは隠せないようである。この前も黄昏の森から帰って来た時は随分気にかけてくれたものだ。

 良い先輩を持ったな、と今度一緒にオオイワトカゲの狩猟依頼に行く約束を交わしてザルバとは別れた。

 

「折角の初報酬だ、何かみんなに買って帰るか。そういやコック長(モニル)が調味料用の小棚欲しがってたっけなぁ。畑担当(コロロ)も鎌用の砥石がいるって……そういうのどこに売ってんだ? うーん、雑貨屋でも寄ってみるか」

 

 確か近所に大きめの店があったはずだと見回していると、遠目の住宅街の中に異彩を放つものが目に入った。

 

 なんとなく近寄ってみる。掲示板だった。町内のイベントやゴミ出し日程など、生活に紐づく情報の数々が掲載されている。

 しかしヴィクターの目が吸い寄せられたのは、隣の物々しい雰囲気を漂わせる一枚の張り紙だった。

 怪しい人物にご用心──鎧で武装したしかめっ面の騎士団と悪だくみをする悪人のイラストが描かれたそれは、例の怪死事件についての概要や、身の安全を守るよう促す文言が載せられている。

 

(殺人鬼……か)

 

 掲示板をぼうっと眺めながら、不安そうに吐息を零していた薬屋の老婆を思い出した。

 

 変死事件の騒動はピークと比べてめっきり減ったようだが、未解決の事件であることに変わりはない。

 恐ろしいはずだ。自分の住む町のどこかに、もしかしたらすぐ傍にでも、大勢を手にかけた殺人鬼の悪意が潜んでいるかもしれないのだから。その不安たるや想像を絶するものだろう。

 

 事件現場はダモレークではないらしいが、いずれもほど近い集落や小さな町の片隅で起こっている。決して他人事でいられる状況ではない。

 

「懸賞金までかけられてンのか。騎士団も本気だな」

 

 注意喚起の張り紙のすぐ傍に、黒塗りされた人間の絵と金額が明示された手配書まで張られていた。

 いわゆる賞金首だ。稀にこうした騎士団も手に余る悪質事件が起こった場合、ギルドメンバーに犯罪者の捕縛を許可する制度があるらしい。

 見事貢献した場合には、多額の報酬金とランクアップへの強い推薦が与えられるのだとか。

 

「……」

 

 現状ヴィクターたちの大まかな目標は、ギルドで階級を上げることである。

 ランクが上がれば受理できる依頼の幅も広がり、必然収入も増えていく。さらに『禁足地』の探索許可も多く解放され、冠接ぎの器へと繋がる手掛かりを得ることが出来る。

 

 シャーロットはあまり冠接ぎの器に積極的ではない様子だが、それでもランクは上げておくことに越したことはない。

 これらの事情を踏まえれば、賞金首の確保はハイリスクだがリターンも大きい選択肢のひとつと言えよう。

 

(だがそれより、町の安全を守ることに繋がるって方が重要だ。血生臭い雰囲気なんてダモレークにゃ似合わねえ)

 

 ヴィクターはダモレークが好きだ。記憶の無い自分にとって、泉で目を覚ましてから楽しかった思い出がこの町に詰まっている。 

 シャーロットの凍った心を解きほぐせたのはこの町のお陰だ。ダモラスやビビアン、親方夫婦にザルバたちと出会えたのもこの町だ。

 お洒落な食べ物も、面白い場所も、初めて知ったのはダモレークだ。

 

 そんな町の平和がイカれた悪人の手で乱されている。黙っていられるはずがない。

 例え現実的ではないとしても、ヴィクターとはそういう人間だった。

 

(そうと決まりゃあ、絶対にとっ捕まえてやるぜ殺人鬼! まずは事件の情報を集めなくちゃな────ん?)

 

 ふと。聞き覚えのある声が吹き抜けるように耳を掠めていった。

 方角へ顔を向ければ、これまた見覚えのある老人の後ろ姿が。ダモラスである。誰かと会話している様子だったが、話し相手はヴィクターの知らない男だった。

 

 声をかけようと思ったものの、取り込み中なら邪魔したら悪いかと思い直し、日を改めようと踵を返す。

 しかし去ろうとしたヴィクターの首根っこを「おーい、お前さん」と呼ぶ声が引き留めた。

 

「久しぶりだね。元気にしてたかい?」

「お久しぶりでッす! もちろんバリバリ元気ッスよー! 爺さんも心臓の調子は? あれから悪くなったりしてませんか?」

「ああ、問題ないさ。最近とても具合が良いんだ。彼のお陰でね」

 

 言いながらダモラスが指差したのは、先ほどまで話をしていた壮年の男性だ。

 

 全体的に色素が薄い。尖った耳に彫りの深い顔、日焼けを知らないような白い肌に、陶器と似た滑らかな艶を持った頭髪の持ち主だった。特徴からして種族は森人(エルフ)だろうか。

 年齢は基人(ヒューム)で言うところの40代後半ほどで、落ち着いた大人の貫禄が微笑みの皺へと滲んでいる。

 優し気な垂れ目でゆったりとした雰囲気の持ち主だが、ピンと伸びた背筋にオールバックで整えられた金髪や、染みひとつ無い白衣を纏う姿からパリッとした伊達者な印象を受けた。

 

「イシェル・マッコールと言います。ダモラスさんの担当医をしている者です。はじめまして」

 

 男は右手を差し出しながら、にこやかな挨拶をヴィクターに手向けた。

 快くそれを受け取りながら、ヴィクターも自己紹介と共に握手を交わす。

 

「担当医! すげー、お医者さんの先生なんスね!」

「ははは、先生なんて大したものじゃないよ。しがない医師の端くれさ」

「謙遜することはないよマッコール。彼は腕の立つ医者でね、普段は中央街(レントロクス)の大きな病院で働いてるんだ。ありがたいことにダモレークまで訪問診療してくれて、いつも世話になってるんだよ」

 

 中央街レントロクス。ここダモレークを含むアルボルッド地方の中枢を担う都である。

 通称『街』と呼ばれ、盛んな商工業と発達した文化が集約された大都会だ。ペガサス便で数時間ほどの距離ではあるが、その盛況ぶりはダモレークの比ではない。

 

 昔シャーロットが家を失った時に出稼ぎしていた場所というのもあって話には聞いていたが、なるほど確かに洒落た土地なのだろうと、イシェルを見たヴィクターは肌で感じた。

 なんというか、雰囲気が違うのである。オーラとでも言うべきか。

 繊維からして上質な衣服に、ピカピカに磨かれた鏡面のような靴、気品ただよう香水のかおりと、身に纏う全てから都会独特の磨かれた空気感があった。

 

「君のことはダモラスさんから伺ってるよ。彼の命を救ってくれたそうだね?」

「あはは、大袈裟ですよ。当り前のことをしただけッス」

「だが実際に行動できる人はとても少ない。胸を張って誇るべきだよ。一人の医者として、お礼を言わせて欲しかったくらいなんだ」

「な、なんか手放しに褒められると照れ臭いッスね」

「それだけ尊ぶべき、勇気ある行いだったってことさ。命を救うというのは想像以上に難しいんだ。私はそれをよく知っている」

 

 柔かく微笑むイシェルの目にお世辞の色は無い。紛うことのない本心から出た言葉なのだろう。

 医者という生き物は死の隣人である。心臓を患うダモラスの担当医ということは、イシェルは特に生死と縁深い循環器の専門か。

 

 ならば当然、彼の医者人生の中で救えなかった命があったはずだ。

 現代の医学薬学、魔法水準、患者の容態、何より己の実力不足で、取りこぼしてしまった命の存在。

 その重みを知っているからこそ、見ず知らずの若造であろうと、曇りひとつない尊敬を手向けられるのだろう。

 

 真摯な人だと思った。誰かの命を心から大切に思える、根っからの医者魂を持った人間なのだろうと。

 出会ってほんの数分足らずでも十分なほどに、イシェルという人間が身に纏う白衣に恥じない男だと理解できた。

 

「っと、すまない。初対面なのにいきなり重い話をしてしまったね。職業柄かな、君のような子に会えるとつい嬉しくなってしまうんだ。まったく気持ち悪いおじさんだよ、ハッハッハ」

「ンなこと言わないでください。命に対して凄く真剣で、とても良いお医者さんなんだって思いましたもん。俺、先生みたいに自分の中に芯がある人、めっちゃ尊敬します。カッコイイです」

「カッカッカ。どうだいマッコール、良い男だろうコイツは。まだまだ若いモンも捨てたもんじゃないよなぁ」

「なるほど確かに、噂に違わぬ好青年だ。明日からも仕事を頑張れそうだよ」

 

 言いながら、イシェルが腕時計にちらりと目を遣った。どうやら帰りのペガサス便が近いらしい。

 レントロクスまでは時間がかかる。到着する頃には恐らく夕方へ差しかかっているはずだ。この便を逃すと少々痛手になってしまう。

 

「では私はこれで。ダモラスさん、この調子で薬を忘れずに。しっかり飲んでくださいね」

「相分かった。またよろしく頼むよ」

「ええ、お大事に。それじゃあねヴィクター君、今日は会えてよかったよ」

 

 会釈しながら帽子を被り、イシェルはひらひらと手を振りながら駅の方へと去っていった。

 残された二人は、折角だから昼食でもどうかという話に変わる。ダモラス曰く、近場に美味いパスタ料理の店があるのだとか。

 

 早速向かおうと足を動かす。しかしヴィクターの爪先は、再びイシェルが去った方角へと急旋回した。 

 踵を返す直前、視界の端が捉えたのだ。遠くのイシェルの様子が何やら怪しい雲行きになっていることに。

 

「ん? なんだいお前さん、どうかしたのか?」

「いえ、先生の様子が気になって。どうもおかしいんです」

「なんだって?」

「転んでる……? いや、あれは転んでるってより……」

 

 双眸のピントを合わせると、彼は白衣を土埃で汚していた。

 躓いて転倒した具合ではない。まるで誰かに突き飛ばされたような体勢で崩れ落ちている。イシェルの周囲にはどよどよと騒がしい人だかりが出来ていて、ただ事ではない雰囲気を一層強調していた。

 

 居ても立っても居られなくなったヴィクターは、ダモラスへ詫びを告げながらイシェルの元へ一直線にすっ飛んでいった。

 

「先生ッ、大丈夫か!?」

「いたた……あ、ああヴィクター君か。情けないところを見られちゃったな、ハハハ」

 

 小さな人混みに割って入り、苦笑いするイシェルに手を貸してゆっくり体を起こす。

 笑って誤魔化してはいたが、右手を派手に擦りむいていた。出血は浅いものの、痛々しい生傷に野次馬から小さな悲鳴が上がる。

 足首も痛めているのか、壁に寄りかからないと満足に立てない様子だった。相当派手に転倒したらしい。

 

「ひでえなこりゃ。一体この一瞬で何があったんスか?」

「わからない。突然誰かに突き飛ばされたんだ。しかも、ああ最悪だ、カバンを奪われてしまった」 

 

 言われて、イシェルが持っていた革のアタッシュケースが何処にも見当たらないことに気付く。

 引ったくりか──野次馬やイシェルの視線から鞄を盗んだ犯人が去っていったらしい方角の見当をつけながら、ヴィクターは眉間に皺を刻んだ。

 

「参ったな。あのカバンには大事な仕事道具が……」

「盗人が逃げたのはあっちですか?」

「え? あ、ああ、確かそのはずだ。あの路地に向かって逃げたんだ」

「任せてください。絶対取り返してきます」

 

 イシェルの返事は待たなかった。 

 心配そうに見ていた周囲の人々に介抱を任せ、ヴィクターは足に力を込めると、疾風の如く引ったくり犯の追跡を開始した。



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41.「Reasoning」

 リリンフィーが消えた。

 何の前触れもなく。一切の音沙汰もなく。

 声を張り上げようと返事は皆無で、どこを見渡せど影も形も捉えられず。

 まるで最初から存在していなかったかのように、忽然と姿を消してしまった。

 

 

「リリン……っ!」

 

 気を緩めていた自覚はある。久しぶりの妹との外出だ、浮かれていたことは認めるしかない。しかし油断は断じてなかった。それだけは誓って言えるのだ。

 例えオーウィズの手によってダモレークが安全地帯と化そうとも、今日はリリンフィーの病が治って初めてのお出かけだった。緊張の糸は常に一定の張力を保たれていた。慢心などあろうはずがない。

 

 周辺で魔法を使われれば一発で勘付く。敵意や殺気に対しても同様だ。

 もし悪意を持った人間がリリンフィーに近づこうものなら、腕相撲など放り出して即座に対応できた自信はある。

 

 ならばどうやってリリンフィーは姿を消した?

 芥ほどの前触れも感じさせず、シャーロットの監視網をどうやって搔い潜って────

 

(いや、もしかしたらリリンが自分で動いたのかも……って馬鹿! あの子が浮遊椅子を置いてどこかに行くわけないじゃない! ああもう落ち着け! こういう時こそ冷静にならなきゃダメなのに……!)

 

 焦りが思考を搔き乱す。心臓が急き立てるように暴れているのを実感する。

 一度深く息を吸って、吐いて、シャーロットはおもむろに右手の腕時計へと手を伸ばした。

 

 時計の縁のスイッチを押し込む。すると文字盤に小さな光が燈り始め、それを合図とするように明瞭な変化が巻き起こった。金属の腕時計だったそれが、水晶と酷似した質感の大小様々な歯車に姿を変え、独りでに分解されていったのである。

 水晶歯車はまるでそれぞれが独立した生き物のように動き出すと、カチカチ音を立てて噛み合いながら、シャーロットの腕を舞台に全く新しい姿を作り出していった。

 

 やがて歯車たちは液体のように溶融し合い、ブルークリスタルの液晶で出来たリストバンドへと変形を遂げる。

 それは腕に装着するタイプの可変式通信端末。オーウィズが島の住人達に与えた発明品であり、この星を巡る冥脈の巨大な魔力経路を利用した無線通信機である。名をフォトンパスという。

 

 バンドを指でスライドすれば、液晶に表示された文字や画像が流動的に踊っては消えていく。内蔵された機能の項目か何からしい。

 シャーロットは焦りで震えそうになる手を必死に御しながら、液晶の中の何かを血眼になって探していった。やがてひとつの記号の羅列に辿り着くと、迷わずそれをタップする。

 言わずもがな、リリンフィーの呼び出し番号だった。

 

「お願いお願いお願い……! お願いだから出て……リリン……!」

 

 フォトンパスは装備者の腕から魔力経路を介し、直接脳へテレパスを介入させることで通話を成立させる道具である。

 シャーロットの視界の端には『通信中』のホログラムが浮かんでおり、それがやんわりと明滅するたびに焦りが拍動するのを実感した。早く出てくれと願うほど、胸元で握り締める手に力が入っていった。

 

 しかし無情にも、リリンフィーが応えることは終ぞなく。「通信中」が「応答なし」に切り替わった瞬間、首筋からさぁっと流氷が滑り落ちたかのような悪寒が四肢末端まで広がった。

 

 再度かけ直す。出ない。またかけ直す。やはり出ない。

 段々と手先の感覚が曖昧になってくる。強烈な眩暈がシャーロットを襲った。気を抜けばぺたりと膝から崩れそうになるのを必死にこらえて、干上がった喉に唾液を流し込んでいく。

 

「あ、姐御? どうしたんスか? 顔色が真っ青ですよ」

 

 心配そうに背後からかけられた声が、いやに頭蓋の中で響き渡った。

 シャーロットはフォトンパスを降ろし、三人組の男たちから背を向けたまま、冷え切った声を絞り出す。

 

「……アンタたち、さっき舎弟にしてくれなんて言ってたわよね?」

「え? あ、ああ」

「丁度良いわ、命令をあげる。私の妹を探しなさいッ!! 全身全霊全速力で!! 今すぐにッ!」

「うぇっ、い、妹? 探す?」

「さっさと動く!! 顔は知ってるでしょ? 町中駆けずり回って探せ!! 見つけたらここに戻ってくることッ! 以上!!」

「押忍!!」

 

 怒声に等しい、有無を言わさぬ喝を浴びた三人組は、背中に火を着けられた鼠の如く一目散に走り出していった。

 

 シャーロットの推測では、彼ら三人は妹の行方不明にかかわっていない。仮に彼らが天蓋領の手先だったとして、あの暴言と挑発がリリンフィーから意識を逸らさせるための作戦ならあまりにもお粗末だ。

 身のこなしもプロのソレではない。今まで対峙してきた天蓋領の刺客たちは、悔しくも一流ばかりだった。ここに来て素人を差し向ける理由が無い。

 

 ただの雇われだとしても、あの手の小者はリリンフィーという人質を手に入れた途端、優位性を盾に態度を豹変させるのが目に浮かぶ。

 ましてやここは昼の町のど真ん中。騒ぎを立てるにはあまりに不向きなシチュエーションだ。ならば十中八九、彼らの仕業ではないはずだ。

 

(どうする……? 闇雲に走り回っても無駄に消耗するだけ……いやそれより、まずどうしてリリンは消えたの? 理由が分かれば後を追えるかも……ああもう、思考が纏まらない!)

 

 ぐしゃぐしゃと、頭に溜まった不安や焦燥の汚泥を削ぐように髪を掻きむしる。

 ハッとするように深呼吸。胸に手を当て、酸素をバランスよく取り込み思考の洗浄を狙った。

 今の自分は冷静ではない。その事実をきちんと認める。どれだけ頭を冷やそうとしても、まるで絶えず焚き続けられる火のようにすぐ熱を持ってしまう。

 

 このままでは決して良くない方向へ向かってしまうと火を見るより明らかだった。暴走すればするほど、自己解決で推し進めようとすればするほど、事態は悪化の一途を辿っていく──過去の経験が、一度シャーロットを踏みとどまらせていた。

 だからシャーロットは再びフォトンパスに手を伸ばした。通信先はリリンフィーではない。現状最も頼れるだろう至高の叡智、オーウィズである。

 

 発信はすぐ受理された。視界の端の「通信中」が即座に「接続」へと切り変わり、次いでぬるりとした煙のような少女の声が頭に響いてくる。

 

『はーいもしもし、オーウィズさんだよ。さっそく使ってくれたみたいだねぇ、フォトンパス。どうだい使い心地は? 今後のアップグレードの参考にぜひ意見を聞かせておくれよ』

「博士っ……! お願い、助けてください……!」

『……何があったんだい?』

 

 只事ではない雰囲気を感じ取ったか、オーウィズは静かに聞きの姿勢に入った。

 リリンフィー失踪の経緯を話していく。説明を終えると、ほんの少しの間を開けてオーウィズが口を開いた。

 

『なるほど、状況は把握したよ。よく相談してくれたね、怖かっただろう? 一人で抱え込まなかったのは偉いぞ、シャーロット君』

 

 通話越しにぎゅうっと抱き締められ、優しく背中を撫でられたような感覚。

 安堵を覚える声色に慰められ、胸に溜まっていた不安という汚泥が濯がれるように軽くなっていく。

 

『安心したまえ、ボクを頼った君の判断は実に正しい。それを今から証明してみせようとも』

「ありがとうございます博士、本当にありがとう、とっても心強いですっ……! 私に出来ることがあったら何でも指示してください。どんな無茶でも構いませんから」

『ああ、是非ともね。君の協力は必要不可欠だ。さっそくだがフォトンパスを見てくれ。メニュー画面から装備者権限という項目があるはずだ。それを潜って欲しい。奥にボディアクセスの解放という実行コマンドがあるだろう?』

 

 言われるままに指を動かし、要求された画面を開く。

 そこにはフォトンパスに備わった様々な権限の許可、あるいは拒否するための項目がずらりと並んでいた。中でもオーウィズが指示したものは、フォトンパスを介して装備者の肉体に外部の人間が干渉することを許可するという、非常に重い権限の解放項目だった。

 

『フォトンパスは装備者の魔力経路に直接干渉する機能がある。通信状況を視界に反映するみたいにね。ボディアクセスの権限とは、つまるところその機能を拡張させて干渉レベルを引き上げるためのものだ。これを許可して、君の視界をボクと共有(リンク)させて欲しい。(ナマ)の現場を肉眼で確かめたいんだ。他人に自分の体を相乗りされるのは抵抗を覚えるかもしれないが────』

「アクセス許可しました。これで大丈夫ですか?」

『──あ、ああ、ええっと……うん、視界共有問題無しだね。ではリリンフィー君が失踪した現場まわりを観察してくれたまえ。出来る限りじっくりと、隅々までね』

 

 すぐさま浮遊椅子の傍へと移動し、指示通り周辺をくまなく注視していく。

 最中、「地面を見てくれ」や「隣のベンチを一周するように観察して欲しい」といった具合で、矢継ぎ早に飛んでくる要求を消化しながら、シャーロットは椅子を中心にぐるぐるぐるぐると周り続けた。

 

 やがて、オーウィズからの指示が止まる。

 

『うん、うん、絞り込めてきたぞ。朗報だシャーロット君、結論から言えばリリンフィー君は無事だ。少なくとも現状は、だがね』

「!?」

 

 シャーロットが驚愕に言葉を失うのも無理はなかった。

 体感にしてほんの数分足らず。たったそれだけの時間で、限りなく断定に近い答えをオーウィズは放ったのだ。

 彼女の声には一切の澱みが無く、ゆえに虚飾も忖度も何も感じない真っ白な解だった。

 シャーロットからしてみれば、ただ椅子の辺りを言われた通りにじろじろ見回っていただけである。どこにリリンフィーへ繋がる手掛かりがあったのか、まるで理解出来なかったのだ。

 

「どうして分かるんです……? いえ、決して博士を疑ってるわけじゃないんですが、私にはわけが分からなくて」 

『観察さ。真実とは可能性という不純物を濾過した精製水のようなものだ。現場に散っていた手掛かりを基に推理した。だがそんなことより、まずは北北東に向かいたまえ。君が走ってる最中でも話は出来るからね』

 

 急いで──背中を押されたシャーロットは、迷いを切り捨てるように足へ力を込め、脱兎の如く駆け出した。

 呼吸のリズムを最適化する。魔力の循環出力を引き上げ、四肢末端までエネルギーを浸潤させて筋力を補正。体重移動を効率化し疲労の蓄積を軽減しながら、島の砂浜を日々走り続けて練り上げたスタミナをフル活用して疾風と化す。

 

 そうしてダモレークの町並みを過ぎ行きながら、シャーロットは脳内に響くオーウィズの声に耳を傾けた。

 

『いいかい? まず移動したのはリリンフィー君の意思ではなく、魔法によるものでもなく、物理的に攫われたとみえる。犯人は獣人系亜人種の子供だ。しかし悪意から出た行動じゃない。動機は子供じみた衝動的なもので、恐らく彼女の血液に含まれる薬理効果を狙ったものだろう。だから無事だと仮定したのさ』

「何故そこまで分析が!?」

『順を追って説明しようか』

 

 瞬間、フォトンパスに様々な画像が表示されたかと思えば、オーウィズの合図と共に立体ホログラムとなってシャーロットの眼前に投影された。

 それは椅子の周辺に散らばっていたという、オーウィズが気付いた痕跡たちの拡大写真のようなものだった。

 

『これは君の視界映像を切り取ったフォトグラフだ。左上を見てくれ。足跡が見えるかい?』

「えっと、はい!」

『足跡の深さは体重を、明瞭さは鮮度を、サイズは年齢を、形状は人種を表す証明書だ。浮遊椅子の周辺に残された足跡のうち一種類は君のものだったが、もうひとつ子供のものがあるだろう? 無論リリンフィー君のものじゃあない。これはワーウルフの子供の足だ。さあ、ちょっと注目してみたまえ。この足跡、なにか変だと思わないかい?』

「変? ……あっ、靴じゃなくて裸足?」

『その通り。公園で遊んでいる子供たちは皆しっかり靴を履いていた。今時の子供が裸足で外を遊ぶことは衛生面や怪我防止の観点から滅多に無い。では何故裸足か? それはこの子が、靴を買うお金に困るほど困窮した状況にあるからだ』

「困窮って、たまたま靴を履いていなかったとかでは」

『無いね。まず、足の形態的特徴からこの子は獣人系亜人種だ。肉球の配置と比率で狼人(ワーウルフ)だと分かる。サイズからしてリリンフィー君と同年代だが、踵部分の深さと土の柔らかさ、足のサイズを加味して導き出されるおおよその体重を考えると、種族別標準値より酷く痩せているんだよ』

 

 それだけじゃない、見たまえ。オーウィズは続ける。

 

『傍に体毛が落ちてるだろう。だが一様に毛は細く、艶が褪せてて毛根も脆弱だ。十分な栄養が取れていない証拠さ。この豊かな時代で子供が栄養失調になる原因とくれば家庭的な経済事情あるいは病だが、削瘦するほどの病状ならまず出歩けない。つまり前者だ。そんな子供が裸足でいるのは、なけなしの金銭を衣類より食べ物に回しているからだよ』

 

 恐らく孤児なんじゃないか、とオーウィズは言う。

 かつての魔王大戦の頃と比べ、比較にならないほど豊かで美しい時代になった。しかし全てではない。様々な要因から苦境に見舞われてしまった人々も少なからず存在する。

 ギルドや天蓋領を中心に社会的セーフティネットも充実しつつあるが、取りこぼしがあるのも否定できない現状だ。特に『禁足地』から移住してきた亜人は、そもそもの制度を知らないというパターンもある。

 オーウィズのいう獣人の子供とやらは、そうした人々の一人なのかもしれない。

 

『ワーウルフの嗅覚は亜人でもトップクラス。リリンフィー君の体内に残存している千年果花の成分を感知出来たとしても不思議じゃない。そして貧しさに喘ぐ亜人の子供なら、出身は『禁足地』の線が濃い。ダモレーク近辺の『禁足地』で最もワーウルフの人口が多いのは、アルボルッド地方北部の天満月(あまみつつき)大峡谷だ。そこは辰星火山とそう遠くない地理関係にある』

「辰星火山って、私たちが行ったあの?」

『そう、世界樹が自生しているあの火山さ。その近隣で暮らしている亜人なら、千年果花の霊薬の知識は生活の中でしっかりと受け継がれているだろう。それも貴重な薬としてね。ひょっとすると神格化されているかもしれない』

 

 確かに、とシャーロットは心の中でうなずく。

 千年に一度しか得られない稀少な花蜜にも関わらず、黄昏の森で暮らしていた小人(コロポックル)たちは霊薬のことを知っていた。

 厳しい自然環境で生きる亜人たちにとって、薬に使える動植物の知恵は生きるために欠かせない宝である。辰星火山の近場で暮らす亜人の子孫なら間違いなく知っているはずだ。

 

「──ということは、ちょっと待って下さい! リリンの血を狙ってるならやっぱり危険なんじゃ!?」

『可能性は否定できないが、命に別条があるほど危険な目に遭ってる線は限りなく薄いよ。言ったろう? 犯人の子に悪意は無いって』

「だとしてもっ!」

『落ち着きたまえ、大事なことを忘れているよ。まず、何故リリンフィー君は無抵抗のまま攫われたのかな?』

「……あ」

 

 完全な盲点だった。見逃していた思考の死角を指さされ、シャーロットは空いていた穴にかっちりとパズルが嵌りこんだかのような感覚を得た。

 言われてみれば確かにそうだ。リリンフィーは気弱で内気な少女だが、黒の『純血』たる潜在能力はシャーロットをも上回る。しかも彼女はまだ子供で、魔力コントロールの精度が甘い。

 

 かつて千年果花の霊薬を手に入れ、呪いを解くために眠っていたリリンフィーを目覚めさせた時、彼女はパニックを起こし館の一室を魔力だけで破壊した事がある。

 もし何者かに危害を加えられようものなら、間違いなくリリンフィーの力は恐怖によって暴発しただろう。特にリリンフィーは人の悪意に敏感だ。エマによって肉の苗床にされ、家族を滅茶苦茶に破壊されたトラウマは、人の負の側面に対し過剰なほど神経質にさせてしまった。

 

 であれば間違いなく、リリンフィーが攫われる前に魔力暴走によってシャーロットは気付いたはずだ。

 しかし暴走の気配など微塵も無かった。仮に薬や魔法で眠らされるようなことがあったとしても、千年果花の霊薬が体内に残存するリリンフィーを一瞬で昏倒させることは不可能である。

 

 にも関わらず暴走の兆しすら無かったということは、リリンフィーは相手に対し少なからず警戒を解いていた、と推測できるのである。

 

『いくら獣人系とはいえ、痩せて弱った子供が軽々と人を攫うことは出来ない。前提としてリリンフィー君がまったくの無抵抗である必要がある。そんな条件下で魔法も使用せず攫われたということは、突然のアクシデントでも暴走した方がまずいと、リリンフィー君がブレーキをかけられる程度に冷静でいられる相手──傷つけたくないと思えるような人間だったからだよ』

「だからあの子は無事ってことなんですね……! 相手が直接的な危害に出るような子じゃないから!」

『そういうことだ。しかし突発的に人を連れ去ってしまう衝動的な子供が犯人なら、想定外が起こり得るのも決して否定できない』

 

 その通りだ。オーウィズの推理はあくまで現状の分析であり、予測不能に満ちた未来を的中させているわけではない。いくら可能性が低くとも、犯人と思しき獣人の子が血を目的としているなら最悪も想定し得るわけだ。

 急がなければならない。一刻も早く見つけ出すことが、不安要素を掻き消す唯一にして最善の方法だ。

 

『気になるのは人攫いの根本的な動機だが……『禁足地』出身の孤児が一人で生きているとは考え難い。恐らく小さなコミュニティがあるはずだ。もしかすると仲間が深刻な病気で、薬を欲しがっているのかもしれない。そんな状況下で万病の薬を目にしたら、衝動的になるのも頷ける』

「っ……病気」

 

 少しだけ、ほんの少しだけ、昔の記憶が蘇る。

 リリンフィーを治すため、我武者羅に治療法を探し続けた時──もしあの時の自分と同じ気持ちだったなら、目の前に仲間を治せる薬が現れたら、周りが見えなくなるのも無理はない。

 

『ひとまずお喋りはこのくらいにしようか。次は目の前の曲がり角を左に行きたまえ。入ってすぐ先に灯台が見えてくるはずだ。それを登って高い位置から町を一望して欲しい。そこでまた推理する』

「分かりましたっ!」

 

 もうシャーロットの中にオーウィズへ疑問を唱える気持ちは欠片もなかった。

 あれだけの短時間で僅かな痕跡から手掛かりを見つけ出した観察眼も、瞬く間に活路を導き出した分析力も、これ以上にない傑出した頭脳たる証明だ。

 彼女が島の一員で本当に良かったと、胸から滲み溢れる感謝と尊敬を和えながら、シャーロットは港の灯台を目指して一気に速度を跳ね上げた。

 

 

「マスター、マスター、ンンンマァ~スタ~ッ。貴女の忠僕がただいま帰還しましたァ~ヨ~」

 

 アーヴェント邸書斎、本の森林の最奥にて。安楽椅子に深く腰を下ろし、ハーブシガレットを嗜みながらシャーロットに指示していたオーウィズの耳へ、まるで激情的な恋を唄う声楽家のように大仰な声が飛び込んできた。

 煙をふかしながらフォトンパスの音声通信を一時的に遮断する。オーウィズ側からシャーロットへ声が漏れるのを防ぎ、余計な混乱を与えないようにするためだった。

 

「イレヴン……今取り込み中なんだ、後にしてもらえるかい? というか入る時にまずノックをしろと何度言えばわかるんだ君は」

「えーッ!? ダモレーク周辺の殺人事件と自殺関連のネタ片っ端から調べ上げてこいだなんて無茶ぶん投げやがった癖に労いのひとつも無いんですカー!? 三日三晩不休で働いたのニ! これ今の時代だとブラック労働で一発アウトなの知ってまス? 裁判でボコボコにしてやりますよ裁判デ」

「元はと言えばボクのパンケーキを全部平らげやがったのが悪いし、君は人間じゃないから人の法は適用されない。はい勝訴」

「キーッ!! これだから無駄に知恵の回る老害レベル100は手に負えねーんだワ!」

 

 ハンカチを噛み地団駄を踏みながら悔しがるイレヴン。オーウィズは背を向けたまま手招きを繰り返し、暗に「早くしたまえ」と催促を促す。

 応じてイレヴンはどっしりとした紙束と空色のインゴットをデスクへ置いた。ついでに土産屋で買って来た木彫りの叡聖人形ビキニパンツVerをスッ……と添えた。普通に退けられた。

 

「ふぅん……」

 

 シャーロットの道案内をこなしながら、パラパラと紙を捲り文字の海原を航海していく。

 オーウィズの記憶力は瞬間記憶に近い。一度目を通せば内容は全て頭の中に編纂され、かつ並列思考を可能とするために、視覚共有によるシャーロット側の状況と合わせて同時処理することなど造作も無かった。

 

 書類の束をデスクに置き、次いで手に取ったのは手のひらサイズの薄い延べ棒だ。金属のようだが質感は樹脂に近く、サイズ感以上にずっしりとした重みを伴っている。色合いも蒼空をぎゅっと固めたようで、およそ天然のものではない不思議な素材で出来ていた。

 

 その名をメモリーインゴット。魔晶鉱石の特殊合金で鋳造された記憶装置である。一定の周辺風景を360度立体的に撮影し記憶するという魔法道具であり、現代では主に簡易的なモデルルームとしてや、騎士団が事件現場を保存するために活用されている代物である。

 

 調査書とメモリーインゴット。これはイレヴンの言葉通り、最近ダモレーク周辺で起こっている怪死事件や、()()()()()()()()()について纏められたデータだった。

 不可解な連続殺人事件に興味を持ったオーウィズが、殺人鬼の正体を探るべくイレヴンに依頼して集めていた情報の数々である。

 

 そう。このメモリーインゴットには、騎士団が捜査したダモレーク周辺での怪死事件および自殺事件の現場風景が当初のまま封入されているのだ。

 

「んもー大変だったんですからね、騎士団のアジトに忍び込んでコピーするノ。まったく無茶振りが過ぎますわヨ」

「変な土産買ってくる程度には余裕あるくせによく言うよ。もう少し苦労してる風を出したらどうだね」

 

 インゴットに魔力を込め、封入術式を作動させる。

 瞬間、赤と青の入り混じる光の網目のようなものがインゴットを中心に放たれた。それは書斎一面を内側から覆い被さるように張り付き、立体ホログラムのテクスチャとして記録映像を室内に反映させていく。

 

 そうして現れたのは、最も記録の新しい殺人現場だった。

 一見すると普通の住宅内の様子に見える。適度に散らかったダイニングや洗い物の貯まった水回りなど、リアルな生活感をそのままに保存された光景は、まるで誰かの日常をそっくり切り取ったかのように鮮明で詳細だった。

 

 だからこそ、居間のソファで寝入ってしまったように項垂れている、首から夥しい血を流した遺体の存在が異様なほど浮き彫りになっていた。

 

「被害者は30代男性の基人(ヒューム)。職業は記者。独身。人格は普遍的。この時期に首から上と手を日焼けしているってことは、最近まで南に居てダモレークに帰って来たばかりだった。死因は頸動脈を金属魔法で負傷したことによる失血死」

 

 遺体のそばをゆっくりと回り、観察によって得た情報を言葉にして整理していく。

 満足すると、オーウィズはおもむろにインゴットを指でなぞった。すぐさま新しいテクスチャに塗り替えられ、今度は自殺として処理された最も古い記録現場の風景が映し出された。

 

「死亡者は40代女性の基人(ヒューム)。離婚歴あり。原因は夫の浮気によるものだが、指輪を捨てられないところから元夫に未練がある。職業は医療系の事務職。死因は睡眠薬の過剰摂取(オーバードーズ)と急性アルコール中毒によるショック症状」

 

 時折フォトンパスの音声通信を再開し、シャーロットへ指示を飛ばしながらインゴットをなぞる。

 今度は屋外の風景が現れた。場所は薄暗く廃墟のように見える。今までの二つとは違い、明確な殺人現場とはっきりわかるほど荒れ果てた有様で、まるで体の内側から破裂したかのような血塗れの男性鉱人(ドワーフ)が倒れ伏していた。

 

「──ああ、リリンフィー君を攫った犯人のおおよその移動速度を考えて────可能性として『禁足地』から移住者した者たちの集まる────」

 

 指示通り灯台へ登ったシャーロットと話し、そこから得られた情報を基に推理した目的地を伝え、束の間の一段落を得る。

 そうして彼女が移動を終えるまでの間、オーウィズはインゴットを操作しながら様々な事件現場へと目を通していった。

 

「なるほど、実に面白いね」

 

 インゴットを指で叩く。すると部屋を覆っていたテクスチャがインゴットの中へと吸い込まれるように消えていき、書斎は元の姿を取り戻した。

 ハーブシガレットを一度深く吸いこんで、オーウィズは安楽椅子にどっかりと腰を落とす。

 

(最初に見た現場の被害者は一見魔法で自殺したような状況だった。家は完全な密室、しかも抵抗した形跡がまるで無い。なのに殺人として処理されたのは、被害者が左利きだったから。所持品は全て左利き用で、魔法杖はしっかり左手で握っている。なのに傷は右側から着いていた。明らかに不自然だ)

 

 奇妙なのはこの事件に限った話ではない。最も古い自殺現場も、オーウィズの目には異彩を放って映り込んでいた。

 

(彼女は服毒自殺として処理されている。動機は離婚や職場でのいざこざを発端とした心労によるもの。しかしこれは間違いだ。自殺するほど追い詰められた人間の家がこんなに整頓されていることはない)

 

 入れ物に灰を落とし、吐息。

 

(かと言って、消毒剤などの掃除用具の過剰ストックはなく、浴室の端々に残ったカビや水垢からも、強迫観念から来る潔癖症の疑いも無い。それに元夫が映った写真立てを伏せ、指輪を目の届かない棚の端に追いやっている。体型は肥満でも痩身でもない標準値。以上を踏まえると、彼女の精神はむしろ良化傾向にあり、過去を振り払って前を向こうとしている最中だったと言えるね)

 

 そんな女性が衝動的に睡眠薬を致死量まで、ましてやヤケ酒まで煽りながら自暴自棄に摂取するだろうか。

 限りなく可能性は低いとオーウィズは踏んでいる。即ち、これは自殺に見せかけた密室殺人である、と。

 

(最も日付が新しい現場はそれまでと比べてかなり派手だな。廃墟のケースが特に異色だ。被害者は反社会組織に所属している賞金首の男性。外傷は無く、肉体が内部から破壊されている。凶器は魔法の類だろう。証拠は犯人に繋がる生体的痕跡のみ隠滅されているだけで、死体を隠して事件そのものを発覚させまいとする意志は見当たらない。とてもシンプルな殺人現場だ)

 

 前者二つのケースと比べて、この事件はあまりにも稚拙で粗が目立つものだった。

 自殺に見せかけられた殺人現場の数々は、どれも犯人の知性を匂わせる巧妙な手口で実行されたものだ。しかし廃墟の事件にはそれが無い。例えるなら素人の猿真似で、それ以前と比べてあまりにお粗末と言える。

 

 だからこそ、実に奇妙だったのだ。

 

 仮に全て同一犯による犯行だとする。その場合、普通は時系列の古い方が荒々しいものだ。

 何故なら殺人とは、被害者のみならず犯人側の精神も大きく揺れ動かす社会屈指のタブーであり、経験が浅ければ浅いほど、動揺から必ず現場に爪痕を残してしまう傾向にある。幼い肉食獣が上手く狩りを成功させられないのと同じように。

 

 しかし、このインゴットに記録されている事件の数々は全くの逆。

 古ければ古いほど恐ろしく入念かつ緻密な犯行でありながら、新しくなればなるほど詰めもやり口も荒くなってしまっている。

 これではまるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(こういう場合は得てして承認欲求によるものだが、それだと辻褄が合わないんだよな。自殺として処理されるほど巧妙に仕組む理由が無い。世に腕前を認めさせたいのなら、偽装なんてもっての他だろうに)

 

 ならば何故、日を追うごとに事件の精緻さは失われていったのか?

 犯人はどうして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()痕跡を残すようになったのか?

 

 

 考えられるとすれば、それは────

 

 

 



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42.「呪われたゴブリン」

「クソッ、ひったくり野郎め。一体どこに行きやがった……?」

 

 奪われたイシェル・マッコールの鞄を取り戻すため、ひったくりが逃げたであろう路地裏に突撃したヴィクターだったが、しかし犯人の姿はどこにも見当たらなかった。

 あるのは閑散とした行き止まりだけだ。建物に囲まれた袋小路で、逃げ場など何処にも見当たらない。

 

(エマやカースカンみたいに道具(アイテム)でも使って座標転移(テレポート)したか? いや、だとしたら魔法の発動痕が光になって見えたはずだ。それにそんな魔法が使えるってンなら、わざわざ走って路地裏に逃げる理由がねえ)

 

 空間座標の転移は高い技術と能力を必要とする高位魔法だ。無計画な転移は使用者を土中や建造物の壁中などに誤転送させ、容易く死に至らしめてしまう可能性がある。

 そのような事故を防止するため、空間魔法の個人使用は原則禁止とされており、実行する際は安全な始点と終点を定めた道具を介する場合が多い。特別なオベリスクで転送先を設定する島のポータルのような具合だ。

 

 つまり、ひったくりが空間魔法などという高尚なものを使うとすれば道具以外にはまず有り得ず、仮に持っていたとしても、あらかじめ行先を設定されてある道具ならばカバンを奪ったと同時にテレポートするはずなのだ。

 それをしなかったということは、わざわざこの袋小路に入った理由があるはずだとヴィクターは踏んだ。

 

(よじ登るにしちゃ壁が高すぎる。ああでも、リザードマンとかだったなら行けるのか? いや、それにしたって登った形跡がねえ。となると……)

 

 見上げていた視線を下に降ろしていく。

 その先にはマンホールがあった。路地裏の奥にひとつ、ぽつんと鎮座する重々しい金属の円盤だ。

 言うまでも無く、ダモレークの下水道に通じる出入り口である。

 

「下か」

 

 まさかとは思った。しかしいざ近づいてみれば、蓋をズラした真新しい痕跡があるではないか。

 溝に指を引っ掛ける。持ち上げてみるとすんなり開いて、暗い地下に続く縦孔がぽっかりと姿を現した。

 

「うげっ……流石に冗談キツイぜ」

 

 降りるのは簡単だ。穴に溶接された梯子を使えば子供でも侵入できる。

 だが問題は別にあった。下水道の入り口ならば当然の如く、夥しい数の不快害虫がびっしりと来訪者を歓迎するわけなのだから。

 こんな道を使って逃げたのかと、顔がしかめっ面に歪んでいく。しかし手掛かりからして、ここに逃げた以外には考えられないならば。

 

(シャロなら悲鳴上げて焼き払いそうな光景だな……。でも先生に絶対取り返すって啖呵切ったんだ、虫如きでへこたれるかっ! 根性ッ!!)

 

 もし見つけられなかったらすぐ引き返せばいい。気合で骨子を塗り固め、カサカサと蠢く虫たちを足で払い除けながら、梯子を使って暗闇の奥へと潜っていった。

 中は意外にも悪臭の類は感じられなかった。せいぜい埃っぽいだけである。下水道ならば近隣の生活排水全てが流れ込んでいるわけで、とてもじゃないがまともに呼吸出来るような環境ではないはずなのだが。

 

(よく考えてみりゃ、あのマンホールは蓋も古いし目立たない路地の端にあった。もしかして今は使われてない旧下水道みたいな場所なのか?)

 

 腕時計に手を伸ばし、スイッチを押し込んでフォトンパスを起動する。

 リストバンド状に変形した液晶を指で叩き、光源モードを選択した。するとフォトンパスから浮遊する光球が生み出され、暗かった旧下水道にランタンのような明かりをもたらしてくれた。

 

(俺には魔力がねえから、皆みたいにずっとは使えねえ。魔力石のストック(バッテリーの残量)には気をつけねえと)

 

 ポケットの中の魔石の数を指の感触で確認しつつ、足元に気をつけながら闇の中を歩いていく。 

 不気味に反響する靴音だけが存在する世界。汚水の流れていない水道の脇を沿うように作られた通路には、ヴィクターのものではない足跡が埃の上にしっかりと刻み込まれていた。

 

 こんな場所を頻繁に人が出入りしているとは考え難い。ますますひったくり犯が逃げ込んだであろう確信が強まっていく。 

 だが同時に、何故このような所に逃げたのかという疑問が浮かぶ。

 犯人は追い詰められた末の苦肉の策で地下への逃避行を選んだのではない。まるで慣れ親しんだ帰路を辿るかのように、自ら望んで薄暗い旧下水道へと飛び込んだのだ。

 どこか隠れ家のような場所に通じているのか。はたまたヴィクターには及びもつかない思惑があるのか。

 

(……ん?)

 

 ふと。水路の行き止まりが見えてくると、何やら奥で小さな明かりが漏れていることに気付く。

 光の源はドアだった。旧下水道の最奥、突き当りの壁に設置されたドアだ。古錆びて赤茶色になったドアの覗き窓から、柔らかい暖色の光が差し込んでいるのだ。

 

 足音を、息を殺して近づく。

 距離を縮めるごとに声が聞こえてきた。複数人だ。焦りをふんだんに孕んだ野太い怒鳴り声が、ドア越しにくぐもって反響しているではないか。

 

『一体なにを考えてるんだど!? おおおっ、女の子を攫ってくるなんて! いくらなんでも度が過ぎてるど!』

『そういうオマエだって医者からカバン盗んで来てンだろうが!! 自分のこと棚に上げて説教かましてンじゃねえよクソデブ!!』

『うぐっ……そっ、それは、そうだけどもっ! でもっ!』

『分かってるだろ!? ホルブを治すためにはもう時間がねえ、四の五の言ってる場合じゃねーんだってことくらい! だからパクッて来たんじゃねえのか!? オレだってそうだ、コイツの血からは万癒薬(エリクサー)の匂いが────』

「オラァッ!!」

 

 自然と体が動いていた。イシェルの鞄を盗んだ犯人がいて、しかもどうやら女の子が囚われているらしいと来れば、もはや黙っていられる道理など欠片も存在しなかった。 

 曇った覗き窓から状況を把握。ドアの直線状に攫われた娘らしき影が居ないことだけを確認したヴィクターは、渾身の力でドアを蹴り破った。錆びついた鉄のドアを轟音と共に吹っ飛ばし、握り固めた拳で牽制をかけるように作業員休憩室と書かれた部屋に突撃する。

 

「おいコラァッ!! 大人しく盗んだもんを返しやが────あ?」

 

 鼻息を荒々しく吹き散らし、怒れる雄牛の如く飛び込んだヴィクターの全神経が急停止した。

 無理もなかった。頭の中を隅々まで焼き尽くさんばかりの、絶対に有りえるはずの無い光景が、あまりにも堂々と広がっていたのだから。

 

「リリン、フィー? 何でお前がここに」

「あっ、おにいさん!」

 

 よく見知った幼い少女がいた。

 太陽を知らない玉の肌の女の子が、空の蒼を綴じた瞳をぱちぱちさせている。変装のために魔法で染めていたはずの黒髪は、雪を梳いたような白妙に戻っていた。

 それは見間違えようも無く、リリンフィー・ウェンハイダル・アーヴェントそのもので。

 ああ、でも、何故だ。今頃はシャーロットと一緒に町で遊んでいるはずのリリンフィーが、なぜ小汚いソファの上で縮こまっている? 

 

「だ、旦那? もしかして、ヴィクターの旦那だど?」

 

 ヴィクターが困惑を問うより先に上がったのは震える声。窟人(ゴブリン)の男だった。緑色の肌と頭頂部にちょこんと乗った松明のような髪が特徴的な小太りの男が、驚愕に目を剥き額をびっしょりと汗で濡らしながら、真逆に干上がりきった喉から呻き声を絞り出していた。

 

 既視感が脳裏を駆け抜ける。

 なんとなくだが、この男に見覚えがあったのだ。

 

「お前、ブーゴか?」

 

 記憶の蔵をひっくり返すと、やはり昔会った事があるようで、名前が口から滑るように飛び出てきた。

 あれは確か、シャーロットと初めてダモレークに行った日のことだ。彼女がヘアサロンに行っている間、暇を持て余していたところを空腹で行き倒れていたこの窟人(ゴブリン)──ブーゴを発見し、食べ物を与えたというのが事の顛末である。

 

 わけが分からなかった。リリンフィーがこんな場所に居るのは無論ながら、それにブーゴが関わっていることも、先ほどの会話からイシェルの仕事道具を盗んだ犯人で間違いないことも、全てが理解不能だった。

 

 かつての第一印象で言えば、ブーゴはとても盗みを働くような人間ではない。もし軽はずみな行動を起こすような男だったなら、空腹で倒れる前に騎士団の世話になっていたはずだろう。

 

 現にブーゴはリリンフィーとヴィクターの関係性を察したのか、顔を蒼褪めながら口をぱくぱく空回りさせ両手を必死に動かしている。それは後ろめたさからくる焦りではない。誤解だと懸命に訴えるようなせわしなさだった。

 

「あああっ、あの、その、旦那、これは違うんだど! 信じてもらえないかもしれないけど、この子がここにいるのは事故みたいなもんでっ!」

「……一旦落ち着け。んで順を追って話してくれ。嘘だけは吐かないでくれよ」

「誓って! 誓って嘘は言わないど!!」

 

 必死に首を縦に振るブーゴに免じ、一旦のクールダウンを設けた。

 どうやらブーゴはリリンフィーの件に関わりは無いらしく、見知らぬ狼人(ワーウルフ)の少年に事情を聞くべく詰め寄っている。

 彼らの話が済むまでの間、ヴィクターは混乱しているリリンフィーへ寄り添うように隣へと座った。

 

「一体何があったんだ? シャロはどうした?」

「えっと、えっと、ごめんなさい、わたしにも分からなくて。あの子に突然連れて来られて……おねえちゃんとはぐれちゃったんだ。フォトンパスも動かないの」

 

 視線を自分の腕に落とすリリンフィー。そこには不思議なことに、真っ黒に染まったフォトンパスがあった。

 まるで息絶えてしまったかのように、腕輪型の通信機は一切の反応を示さずにいる。

 

(壊れてるのか……? あの博士が作った道具が、こんな簡単に?)

 

 フォトンパスは水晶のような見た目に反し、非常に頑丈な作りをしている。

 一度オーウィズに耐久テストと称して殴って欲しいと頼まれたことがあったが、全力で叩き壊そうとしてもビクともしなかった。

 

(なのに故障したってのは多分、リリンフィーの魔力が原因か。いきなり連れ去られてびっくりした拍子に、漏れ出た黒魔力で焼かれたのかも)

 

 リリンフィーに宿る純血の黒魔力は、物理・魔導を問わずあらゆる法則性に縛られない一方的な干渉を強いるエネルギーだ。

 この独裁の権能は、例えオーウィズであろうとも完璧に対処することは出来ない。対黒魔力機構のセーフティは組まれてあるが、せいぜい力を弱めさせる程度だ。

 

 それが何の意味も成さない程度に、リリンフィーの宿す力は強大なのだろう。

 恐らくほんの少し漏出した程度だろうが、フォトンパスを壊すには十分だったに違いない。髪染めの魔法が切れているのも、余波を受けたのだろうと推察出来る。

 

「あっ、でも、二人を怒らないであげて! なんだか事情があるみたいなの」

「事情?」

「けほっ、けほっ……うん。お友達が病気だとか聞こえたんだ」

 

 少し咳き込んで、しかし平静に振る舞いながらリリンフィーは経緯を語る。

 千年果花の霊薬でずいぶん体が丈夫になったとはいえ、この不衛生な環境では負荷が強いらしい。 

 小さな背中をさすりつつ、胸ポケットからハンカチを取り出して渡す。マスクとしては心もとないが、無いよりはマシだろう。

  

(しっかし、こんな訳の分からない状況に巻き込まれたってのに冷静だなぁ。流石はシャロの妹か)

  

 まだ8歳の子供にも関わらず、アーヴェントの系譜であることを悟らせる肝の据わりようである。内心感心しながら、ヴィクターは自分のフォトンパスに手を伸ばした。

 

 シャーロットに連絡を試みたが、画面には『通話中』の文字が浮かぶだけで繋がらない。

 やむを得ず、リリンフィーが体調を崩さないか注意しつつ二人を待った。

 

 やがて話が済んだのか、汗をかいたブーゴと目を潤ませて歯を食いしばる狼人(ワーウルフ)の子供が並んでやってきた。

 

「ヴィクターの旦那、それとリリンフィーちゃん。今日は本当に申し訳なかったど」

「…………」

「なに黙ってんだライアン! お前も早く謝れだど!」

「……ごめん、なさい」

 

 頭をブーゴに押し下げられ、ライアンというらしい狼人(ワーウルフ)の少年が()()()を嚙み潰すように謝罪を吐いた。

 

 しかし、姿勢が引っかかる。心から納得していない様がありありと伝わるライアンの姿は、まさに大人の理不尽さに歯痒さを味わわされた子供のそれだ。

 小さな拳に筋を立てて、ぼろ切れのような服を強く強く握りしめる彼の胸には一体何が渦巻いているのか。ヴィクターにはどうにも気になって仕方がなかった。

 

 騎士団に突き出すのは簡単だ。既に証拠は嫌になるほど出揃っている。

 だがその前に、彼らが早まった真似をした事情を聞いておきたかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という点も含めて。

 

「聞きたいことが二つある。ひとつはブーゴ、お前が先生から鞄をひったくったワケを。もうひとつは、彼女(リリンフィー)をここに連れて来た理由だ。何故こんな真似をした?」

「仲間の病気を治すためだ」

 

 うつむきながらぼそりと口にしたのはライアンだった。

 再び沈黙した彼に代わり、継ぎ足すようにブーゴが言う。

 

「オラたちは色々あってここに流れて来た身なんだど。オラとライアンともう一人、ゴブリンのホルブの三人で暮らしてただ。だけどホルブが病気になって、治すための薬が必要になったんだど」

「……オレがその女の子を連れて来た理由はそれだ。彼女の血から万癒薬(エリクサー)の匂いがした。ホルブにはもう時間が無い。ほんの少しでも可能性があるなら、それに賭けたかった」

「オラたちは飯を買う金すらロクにない浮浪者だ。薬なんか買えっこない。満足に治療を受けさせてやることも出来ない。仕方が無かったんだ。他に方法が無かったんだど」

「だからって、盗みを働いたり人を攫ったりってのはダメだよな」

 

 ヴィクターは腕を組んで息を落としながら、嗜めるように言った。

 

「事情は分かったが、先生は大事な手に怪我を負った。彼女(リリンフィー)は凄く身体が弱い。下手したら死んでたかもしれねえんだぞ」 

「っ、それはもう本当に、本っっ当に申し訳ありませんでしたど!」

 

 話を聞いた限り、病気の仲間とやらはかなり危うい状態にあるらしい。

 それに焦って手段を選ぶ余裕が無くなったというが、だからと言って誰かを害して良い理由にはならない。それとこれとは話が別だ。

 

 金が無くても役所に行けば補償はある。仕事ならギルドに幾らでも転がっている。そうした先で病院の戸口を叩けば解決だった。たったそれだけで、誰も不幸にならずに済んだはずだ。

 

 そもそもこんな不衛生な場所に住んでいれば、病気のひとつやふたつ貰ってしまうというものだろう。

 

 だが、しかし。

 

「違う! あれはただの病気なんかじゃねえ……! 病院に行って寝りゃ治るような、風邪だとか流行り病とはわけが違うんだよ……!!」

 

 慟哭のようなライアンの怒声が両断し、部屋の中を跳ね返った。

 ふーっ、ふーっ、と荒い息が空気を震わす。油ぎった前髪から覗く少年の黄金の瞳には、行き場の無いやるせなさで満ちた褪せ色が浮かんでいた。

 

「あれは呪いだ! 魔物に変わっていく呪いなんだ!! 医者なんかに診せてみろ、すぐ騎士団にチクられてホルブが殺されちまう!! 何も知らねえ奴が知った口きいて説教なんかしてんじゃねえよ!」

「落ち着けライアン、二人に当たるのは筋違いだど!」

「うるせえ!! オレだってっ、オレだって分かってるよ、そんなことっ……!! クソッ!」

 

 ぎりっ、と食いしばる歯の悲鳴が聞こえそうなほど腹立たしさに塗れた表情だった。

 ライアンはリリンフィーとそう年の離れていない子供だ。感情の制御がまだ未熟な面はある。だがしかし、それを差し引いても異様と言える焦燥っぷりだ。

 

 魔物に変わっていく呪い。確かにライアンはそう口にした。

 黄昏の森で辛酸を舐めさせられた魔物(カプディタス)の記憶がよみがえる。星を穢す不浄の権化にして、命ある者の天敵。森に住まう小人(コロポックル)たちを貪り喰らい、シャーロットを追い詰めた正真正銘の化け物だ。

 

 あんな醜悪で悍ましい、この世のものではない存在が関わっているというのか。

 そう思うと、神経に火を着けられたようなピリリとした緊張感がヴィクターを駆け抜けた。

 

 魔物は騎士団にとって最優先討伐対象だ。時に()()にされて魔物に作り変えられてしまった哀れな被害者は、正義の刃にかけられることもあると聞く。

 リリンフィーの言う通り、どうにものっぴきならない事情が彼らを取り巻いているのは確からしい。

 

「病気の子って、どこにいるの?」

 

 疑問を投げたのはリリンフィーだった。空色の目でしっかりと二人に向き合って、ヴィクターの服をつまんで勇気を貰いながらそう言った。

 応じるようにライアンが指差したのは部屋の奥──仮眠室と書かれたドアだった。

 

 不穏な気配がする。ヴィクターはざわつく己の勘に眉をひそめながら、ドア越しに中を覗き込むようにじっと見つめた。

 魔物になる呪いなどという物騒な言葉を耳にしたせいではない。傍から見て異様な空気を感じるのだ。

 

 ドアの隙間から一切の光が漏れておらず、ここと違って暗闇なのが外からでも分かる。中に人がいるにしてはおかしい。

 音が漏れやすく響きやすい環境なのに、まるで気配が感じられないのも妙だった。仮に寝ているとしても、これだけ騒いで何のアクションが無いのも怪しく思えてくる。

 不気味で無機質な雰囲気が、ドア越しにぬるりと伝わってくるようだった。

 

「……ブーゴ。そのホルブって奴を見せてくれないか?」

「えっ? ど、どうする気だど?」

「何もしないさ。ただ状況を知っておきたいだけだよ。もしかすると、治せる病気かもしれないからな」

「っ!? それは本当だど!?」

「言っておくが約束は出来ないぞ。ただ、不可能でも可能にしちまいそうなスゲー人を知ってる。賭ける価値だけは保証するぜ」

 

 魔物は災厄と同類だ。いいや、むしろこの世のものではないぶん自然災害よりタチが悪い。

 いたずらに命を奪うことだけを目的とする怪物。そこに意志も論理も無く、ただ目の前の生命を食い潰すだけの悪逆である。

 

 彼らがその理不尽な不幸を被り、仲間を想う心と騎士団の処遇との間で板挟みになって追い詰められていたのならば、その苦労が少しだけ報われるくらいなら許されるはずだと、ヴィクターは思った。

 

「……分かった。お見せするど」

「おい本気か!? こいつが騎士団だったらホルブが殺されるんだぞ!? 嘘かもしれないのに信じるのかよ!?」

「いや、旦那は騎士団じゃないど。もしそうなら出会い頭にオラたちをしょっ引いてる。そもそもオラたちが逆らえる立場か? どの道詰んでるんだ、このままじゃ何も変わらねえ。旦那は良い人だ、見ず知らずのオラを助けてくれた。オラは旦那を信じる」

 

 ブーゴはヴィクターを先導し、ドアノブへと手を掛けた。

 

「ひとつだけお願いがあるだ。ホルブを怖がらないでやって欲しいんだど」

「分かった」

 

 一拍の間をおいて、暗闇へと足を踏み入れる。

 ブーゴは電気を着けようとはしなかった。ドアを開けて作業員休憩室の明かりを招き入れるだけだ。

 

 けれど。

 それだけで十分なほどに、直視し難い光景は網膜へとこびり付いた。

 

繧ェ繝槭お縺ッ隱ー縺??」

 

 それは、本当に人が発していい音なのだろうか。

 もはや声などという枠組みに当てはまらない、腹の底から生理的嫌悪感を引きずり出す悍ましい濁音を放つ物体は。

 人という存在を忘れかけた、醜い肉の塊とでも呼ぶべき異形だった。

 

 ベッドの上に横たわる、かつて窟人(ゴブリン)だったもの。

 小太りなブーゴとは違い細身で、恐らく背丈もやや高い。代わりに鷲鼻が特徴的である。

 しかし彼について分かる身体的特徴は、たったそれだけだったのだ。

 

 顔の右半分は巨大なイソギンチャクに寄生されたかのように無数の触手が生え伸び、それらひとつひとつが意思を持つように蠢いている。先端にはネオン灯のように輝く眼があった。うぞうぞと不揃いに身をくねらせながら、不意に訪れたヴィクターへとぴったり照準を合わせている。

 

 口はまるでヤツメウナギのように捲れ上がり、びっしりと白い歯で覆われていた。本来生えるはずの無い頬肉や硬口蓋にまで大小様々な臼歯が芽吹き、永遠に嚙み合わさることの無い残酷な歯ぎしりを奏でているのだ。

 右腕には眼球や口、鼻といったパーツが不規則かつ無数に発生していた。腕の形そのものはもはや人のソレではなく、肉で作られた木の根とでも言うべき歪さだ。

 

 この醜悪さ、この度し難さ。強烈な見覚えがある。

 黄昏の森を襲ったカプディタスと全く同じ、この世にあってはならない禁忌の具現そのものだ。

 

 思わず眼を背けたくなる惨たらしい有様に、ヴィクターは喉が干上がっていくような錯覚を覚えた。

 幼いリリンフィーにだけは見せまいと、ドアを自分の背で覆って視線を遮るように立つ。

 

「一体何が……彼の身に?」

「旦那と初めて出会った七日ほど前のことだど。最初は顔に出来た小さなコブだっただ。それがどんどん広がって、あっという間にホルブを侵して」

「■■■■■■■■!!」

 

 突如、獣のような唸り声が粘液を撒き散らして炸裂した。

 出て行けと怒鳴り散らすように放たれた名状し難い咆哮を受けて、ブーゴは「す、すまねえホルブ!」と慌ててドアを閉める。

 

 閉まり切る直前、ヴィクターはこちらを睨むホルブが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()身を縮めているのが見えた。

 

「……それからホルブはああなった。引きこもって出て来なくなっちまったんだ。飯も食わねえし、水も飲まねえ。ずっとずっとあのままだ。ただ弱っていくだけだ」

 

 言いながら、ブーゴはヴィクターへ向き直ると、おもむろに床へと膝をついた。

 倒れ込むように手もついて、額を床にこすりつける。我武者羅な懇願を示すブーゴの姿勢に、思わずヴィクターはたじろいでしまう。

 

「お願いだ旦那! ホルブを、ホルブを助けてやって欲しいんだど!!」

「……ブーゴ、お前」

「自分勝手なことを言ってるのは分かってる! 滅茶苦茶なのは百も承知だ! でも、本当に可能性があるのなら、恥を忍んでお願いしたい! 盗んだものは返すし、騎士団にも自首する! オラの人生全部捧げてもいい! 召使いにでも何にでもなるからっ────ホルブを、助けてくれ……!!」

 

 

 

 ブーゴとホルブは元々、『禁足地』で生まれた亜人だった。厳しくも豊かな森の中で育ち、窟人(ゴブリン)の村でひっそりと生きて来た。

 

 村での暮らしは、文明的な現代社会とは縁遠い原始的なものだった。夜が明ければ男は狩りで日々の糧をつなぎ、女は家を守り、定められた村の掟に従うまま働き、日が暮れれば森の精霊に祈りを捧げて床に就く。

 

 毎日毎日がその繰り返し。けれど別に不満は無かった。無くて当然だった。それが彼らにとっての普通であり、足りるを知って満たされる彼ら窟人(ゴブリン)の日常だったから。

 

 そんな二人に転機が訪れたのは、村の外から珍しい客人がやって来た時のことだ。

 

 男は『禁足地』の恵みを求めてやってきたという探索者だった。危険な夜の森で迷っていたところを、偶然窟人(ゴブリン)の村を見つけて飛び込んだのだとか。

 彼は村に滞在させてもらう代わりに、外の世界の様々なものを村人へと与えた。食べ物、書物、道具、そして森の外の世界の話を。

 それらは全てブーゴたちにとって、未知の刺激で満ち溢れた人生最大の革命だった。

 

 これまで食べて来たどんなご馳走も霞んでしまう食べ物や、色彩豊かで躍動的な挿絵と共に綴られた心躍る物語、見たこともない摩訶不思議で便利なアイテムの数々に、雄弁に語られる外の世界の壮大な話。

 

 好奇心の強い若者であったブーゴたちに、文明の灯火はあまりにも眩し過ぎた。

 それはまるで依存性を孕む薬物のように、ブーゴたちは男の持つありとあらゆるものにのめり込んだ。魅力的だと強く感じた。

 そして同時に、村での生活が途端に窮屈だと感じるようになってしまった。

 

 外の世界は楽しい。外の世界は美しい。外の世界は自由だ。

 一度思い込めば止まらない。憧れを追い出すことはもう叶わなかった。

 男が滞在したわずか数日足らずの時間だけで、ブーゴたちは村の外に焦がれるようになったのだ。

 

 そんな折に投げかけられた、「一緒に来るかい?」という鶴の一声。

 うなずく以外の道などあろうはずもなく。掟破りだのなんだのと野次を飛ばしてきた村の老いぼれなど構うはずもなく。

 二人は鳥籠から放たれた鳥のように、男の後を着いて村を飛び出していった。

 

 

 

 

 

 ────ザ──────

 ザザ────ザ────ザ―

 

 

 ■■────■■■■■■──────―■■■■──■────―

 

 

 

 

 

 

 いたい。

 くるしい。あつい。

 きもちわるい。

 たすけて。いやだ。

 だれか。

 

 

 ────■■■──■■■■■──―

 

 

 

 気がついた時にはどこかの町の下水道に横たわっていた。

 頭がぼーっとする。記憶が雲みたいにふわふわだ。けれど、夢見心地にしては最悪な気分だ。

 

 確か男に連れられて、村を出て、それで。

 ええと、どうなった?

 

 分からない。思い出せない。

 そばに二人の人間が転がっている。眼を背けたくなるくらいボロボロだ。

 一人は幼馴染の窟人(ゴブリン)で、もう一人は確か、ライアンとかいう狼人(ワーウルフ)の子供だったか。

 いつの間に知り合ったのか分からない。けれど彼の名前は記憶にある。知り合った過程の部分だけが、霧に呑み込まれたみたいに不鮮明だ。

 気分が悪い。まるで自分が自分じゃないみたいに。

 

 

 ああ、けれど。何故だろう。

 胸の奥から湧き出てくるマグマのような衝動が、いいや、強迫観念のようなものだけは、自分の中ではっきりとした輪郭を感じられる。

 

 ────()()()()()

 

 アマルガムに見つかるな。

 アマルガムという言葉を口にするな。伝えるな。

 アマルガムに関わった時、次は絶対に、必ず自分の命は終わりを迎える。

 

 

 心しろ。刻み込め。例え口が裂けても絶対に言うな。何が何でも関わるな。

 アマルガムにだけは、呪われた善悪の混沌にだけは見つかってはならない。

 誰も信じるな。誰にも見つかるな。

 誰の目にも当たらないようひっそりと生きていけ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 待て。

 そうじゃない。違う。

 

 違う。違う違う違う、それじゃ駄目だ。そうじゃないんだ。

 誰かに伝えなければ。誰かに止めてもらわなければ。

 大勢の命が失われる前に。もうこれ以上、誰も犠牲になんかさせないために。

 

 アマルガムを、あの最悪の怪物を、誰でもいいから止めてくれ。



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43.「宵闇、信ずるは何処」

 仄暗い旧下水道を脱した地上、ダモレーク路地裏の外れ。

 すっかり陽が落ち込んだ夕の刻。建物たちの影が茜色の残光にのっぺりと引き伸ばされ、ただでさえ薄暗い路地は深い陰りに満ち満ちていた。 

 そんな人影すらも溶け混ざるような奥地に立っているのは、くぅくぅと寝息を立てるリリンフィーを大事に抱きかかえた()()()()()()である。

 

 一日を動乱に揉まれたせいか、体の弱いリリンフィーはガス欠を起こしてしまったらしい。姉と合流して張り詰めた精神が緩んだのだろうと、表情を見れば一目でわかる安心っぷりだ。

 

 反面、シャーロットは眉間に皺を寄せ、如何にも御立腹な面持ちである。

 そんな彼女の前には地に頭をめり込ませんが如くひれ伏している窟人(ゴブリン)の男と、うつむき影を落とす狼人(ワーウルフ)の少年の姿があった。

 

「このたびは本当に本当にほんとーっに! 申し訳ありませんでしたど!!」

「……ごめん、なさい、でした」

「まったく、怪我が無かったから良かったものの。うちの妹に何かあったらタダじゃおかなかったわよ。きちんと反省しなさいよねっ」

 

 ぷんすこ毒づいてはいるものの、しかし怒り心頭というには程遠かった。

 激情に荒れ狂って罵詈雑言を浴びせかけている様子など微塵もない。子供の悪事を叱っているようなそれは、リリンフィー絡みとなると我を忘れがちな少女像とはどこか乖離している。

 というのも、彼らを取り巻く状況をヴィクターから知らされたがゆえである。

 

 彼女の肉親に対する溺愛っぷりは相当なものだ。オーウィズの推理に導かれ、下水道に突撃してきた時など、それはもう怒髪冠を衝かんと憤怒に髪を逆立てた激昂ぶりだった。

 だがシャーロット・グレンローゼン・アーヴェントという少女には、かつて家も家族も失い、唯一残された妹のために血を吐きながら奔走した痛みが、魂の奥底へ深く深く刻まれている。

 

 重なったのだ。過去の自分と、彼らを取り巻く過酷で凄惨な境遇が、他人事には到底思えなかった。

 

 命より大切な存在を失ってしまうかもしれないという恐怖、焦燥、不安の重みと苦しみは、誰よりも克明に理解している。

 彼らは同じだ。あの時のシャーロットと同じなのだ。

 まるで鏡を見ているようだと、冷たくて刺すような痛みに胸が締め付けられる思いだった

 

 病に倒れた仲間を助けたくて、でもどうすることも出来なくて、どうしていいかも分からなくなって……そんな絶望に覆われた暗雲に幽かでも希望が降り注げば、藁もすがる思いで掴み取ろうとするに決まっている。

 

 だから彼らはリリンフィーを攫った。シャーロットもそうだった。あの時の自分に手段を選ぶ余裕など無かった。挙句の果てには、何の関係もないヴィクターの命すら利用するところまで堕ちかけたほどだ。

 だからもう、これ以上彼らを責めることなど、出来るはずもなかったのだ。

 

 そんな内心と反して、ブーゴはひたすら頭を下げ続けていた。

 

「オラたちに出来ることがあれば何でも言ってくだせえ。幼い妹さんを怖がらせちまったんだ。しかも体が弱いってのに、危険に晒しちまった。ケジメを着ける覚悟はありますど」

 

 脂汗を流しながらも、その瞳に嘘偽りやおべっかの色は無い。ただただ誠心誠意の謝意をブーゴは一心に捧げていた。

 ふぅ、と吐息をひとつ。

 もはやシャーロットの胸に怒りは無い。あるのはただ、アーヴェントの血に相応しく在るための羅針だけだ。

 

「ふーん。何でもしてくれるの?」

「もちろんですだ。……これは償いってだけの話じゃねえんです。姉御と旦那はオラたちの言葉に耳を傾けてくれた。こんな、どうしようもねえオラたちを助けてくれた。感謝してもしきれねえ」

 

 ホルブは現在、旧下水道の作業員休憩室にてオーウィズの処置を受けている。

 シャーロットの視界を通してヴィクターから説明を受けた彼女は、魔物の芽に侵食された犠牲者の存在を知るや否や島からすっ飛んでやってきた。そのまま嵐のような勢いでヴィクターに助手を命じると、ホルブに巣食う悍ましい魔を引き剥がすべく治療に取り掛かったのである。

 

 ふと。タイミングを見計らったかのように、無事処置は成功したという連絡がフォトンパスに入ってきた。五体満足無事で、後遺症も見られないとのこと。

 シャーロットも旧下水道に突撃した時、ホルブの容態は目にしていた。肉体の半分近くを侵食されたあの絶望的状況をひっくり返すとは、流石は大魔法使いだと舌を巻く。

 心配事は露と消えた。ならば方針は決まったも同然だ。

 

「じゃ、私の家で働いてちょうだい」

「……え?」

「困ったことに人手が全然足りてないのよね。お家の修繕だとか掃除とか、とっても広いから滞っちゃってて。三人とも来てくれたら凄く助かるんだけど」

「あ、姐御。それは一体どういう……?」

「あなたたちを雇うって言ってるの。もちろんお給料もお休みもあげる。衣食住は保証するから安心して」

 

 何でもするんでしょ? とシャーロットは花のように微笑んだ。

 ブーゴはかけられた言葉を呑み込めず、酸素を求める金魚のように口をぱくぱくさせて狼狽える。ライアンの困惑ぶりは、白黒する目にありありと表れていた。

 当然か。罰せられると思いきや、耳を疑うような救いの手が伸びてきたのだ。きっと自分の耳が腐ってしまったんだと思い込んでいるに違いない。

 

 そんな彼らにくすりと頬を綻ばせ、宥めるように少女は言う。

 

「言っとくけど拒否権なんて無いからね。吐いた唾、そう簡単には呑み込ませないわよー?」

「む、むしろ願ったり叶ったりだど! でもどうして、赤の他人のオラたちにそこまで?」

「……私も同じだったから。他人事とは思えなかっただけよ」

 

 で、どう? と今一度問いかける。無論ブーゴは首が千切れんばかりに首肯して、シャーロットの手を握り返した。

 

「全人全霊、精一杯働きます! どうぞよろしくお願いしますだ!」

「決まりね! ライアン君も大丈夫?」

「…………」

「ライアン、返事くらいするど!」

「……お願い、します」

「こちらこそ。ああでも、皆にはまず初めに健康になってもらわなくちゃね。ふふ、うちのコックの料理は美味しいわよー」

 

 と、眠っていたリリンフィーがもぞもぞ動き始めた。体勢が辛いらしい。流石に抱えられたままでは負担が大きいかと、フォトンパスに魔力を流して公園に置いてきた浮遊椅子を召喚する。

 連絡手段になるところといい、このようにマーカーを着けた物体を呼び寄せる機能といい、つくづく便利なアイテムだと腕時計型の魔法道具を見る。

 

 欲を言えば、浮遊椅子のように人間も召喚出来ればこの騒動も早く片付いただろう。だが座標移動には何かと危険を伴う。だからオーウィズは実装しなかった。

 しかし裏を返せば、リスクさえ排除できれば人の転移も可能ということだ。今回の事件を鑑みてオーウィズは術式を改善すると言っていた。賢者を冠する大魔法使いならば、すぐにでもリスクは排除されるに違いない。

 

 そうなれば、今回のようなアクシデントも早急に解決できる。まぁ、誘拐なんてそうそう起こってたまるものではないのだけれど。  

 

「さーて、あとは地下の二人を待つだけね」

「……ん? 地下? あっ。あーっ!?」

「えっなに? どうしたの、急に蒼褪めたりなんかして」

「ちょっと忘れ物というか何というか……と、とにかく、旦那に相談しなくちゃ!」

 

 

 

「やれやれ。まさか千年後の未来で禍憑きを見ることになるとは思わなかったよ。魔物という存在はまったくしぶとくて敵わないな」

「博士、ホルブの容態は?」

「安心したまえ、落ち着いてるよ。ただかなりの栄養失調でね、しばらくは医者の世話になるだろう。まぁ峠は越えたさ」

「ああ、よかった……」

 

 旧下水道、作業員休憩室に安堵の声が木霊した。

 かび臭いソファーにどっかりと腰を落とす。傷んだクッションが軋む音に支えられながら、ヴィクターは肺の中身を空っぽにせんばかりの空気を吐いた。

 

「君がいてくれて助かったよ。ホルブ君にダメージを残すことなく魔物の芽を剥ぎ取るとはね。お陰で後処理が楽だった」

「王様の力に感謝ッスね。黄昏の森でもこの腕に助けられたなぁ」

 

 包帯に巻かれた腕を見る。『純黒の王』の権能、万物干渉を秘めた王の腕を。

 この腕はヴィクターの意思に従い、触れるものを自在に取捨選択することを可能とする。かつて小人(コロポックル)に埋め込まれた魔力爆弾だけを殴り壊し、今回は禍憑きのみを引き剥がしたように。

 存外ヴィクターが思っている以上に、この力は繊細な調整も可能とするらしい。

 

 そこに賢者の補助(アシスト)が組み合わさったのだから、効果の覿面(てきめん)ぶりたるや語るまでもない。死の瀬戸際にあったホルブの病は、瞬く間に小康状態まで良化を辿ることとなった。

 一時はどうなるかと気を揉んだものの、文句なしの結果を掴み取ったと言えるだろう。

 

「でもギリギリだったよ。もしホルブ君が友達の髪の毛一本でも食らっていたら、ダモレークは最悪の事態になっていたかもしれない。芽のもたらす飢餓感に抗った精神力は賞賛に値するね」

 

 禍憑き。それは魔物の芽と呼ばれる呪毒を何らかの形で取り込んでしまった人間が発症する、病の形を成した災厄である。

 寄生した芽はまたたく間に宿主を侵し、その骨肉を邪悪な魔へと作り変える。侵された宿主は強烈な飢餓感を覚え、最も魔力因子の近しい人間──即ち肉親や同族を喰らい、完全な魔物へと羽化を果たしてしまうのだ。

 

 一度(ひとたび)芽吹けば最後、宿主は手当たり次第に一帯を血と臓腑で塗り変えながら、新たな肉の畑を求めて久遠のように世を侵していく。黄昏の森で暮らしていた小人(コロポックル)たちを襲った悲劇のように。

 それが地獄を生み出す死の冒涜。禍憑きという災いなのである。

 

「うげえ、あと少し遅かったらダモレークの住人全員が喰われてたかもしれないのか。ゾッとするぜ」

「安心するのはまだ早いよ。禍憑きなんてものはこの世にあっちゃいけない禁忌だ。それがここ最近だけで黄昏の森とダモレークの二箇所で発生している。由々しき事態だよ、これは」

 

 手慣れた仕草で指先に熱を灯し、ハーブシガレットに火を移しながら、オーウィズは忌々しそうに口角を曲げて頭を掻いた。

 

「天蓋領の治世ぶりは舌を巻くほどの腕前だ。しかし何事も完璧は存在しない。一見澄んで見える川の底にも汚泥が溜まっているように、君も世の暗部を目撃したことがあるはずだ」

「……カースカン」

 

 オーウィズの言葉が、喉に引っかかる魚の小骨のようにヴィクターをちくりと突いた。

 思い起こされるのはかつての死闘だった。ヴィクターとシャーロットの命を狙った一人の暗殺者の存在である。

 

 あの男は言っていた。自分は裏の世界に身を置く闇の住人であると。

 平和に富んだこの世界であっても、人知れず他者を食い物にすることを生業とする悪は存在する。

 彼はまさにその筆頭のような人物であり、己の欲望を満たすためだけに無関係の小人(コロポックル)たちを巻き込んだ大虐殺を引き起こした。

 

 その発端となったのは、彼が何処かで仕入れて来たという魔物の芽で。

 

「あいつ、確か言ってました。魔物の芽は運よく手に入れる機会に恵まれたって」

「裏を返せば、禁忌(それ)を流している大元が存在するということだ。ホルブ君の件も無関係とは考え難い。あまりにスパンが短すぎる」

 

 魔物の芽は裏稼業にどっぷりと浸かっていたカースカンですら、運が良かったと口にするほどの希少性を誇るという。当然だ。魔物の殲滅に日々心血を注ぐ天蓋領の管理下で、そんなものがおいそれと世に出回るわけがない。

 そんな手段も数も限られた代物が立て続けに現れた。関連性は疑いようもないと言える。

 

「それってつまり、魔物の芽を流すようなクソッタレが、俺たちの身近に潜んでるかもしれないと?」

「可能性は高いとボクは踏んでる。それにきな臭い殺人鬼の噂といい、一連の騒動には何か繋がりがあるようにも感じるんだ。……()()()()()、という言葉が引っ掛かってね」

「アマルガム? 何スかそれ」

 

 聞き慣れない単語を反芻すると、オーウィズはシガレットを咥えながら、懐から数枚の写真をヴィクターへと手渡した。

 写っているのは血文字で記されたなんらかの記号や数列だった。書かれている場所も文字も一枚一枚てんでバラバラだが、どことなく暗号のような統一性を感じる。

 

「実は殺人鬼の件を独自に調査してたんだ。これはごく最近の現場に残されていた犯人からの暗号さ。答えは全てアマルガムという言葉だ。……先ほど目を覚ましたホルブ君も、同じことを譫言(うわごと)で繰り返していた。偶然とは思えないだろう? だから脳ミソを覗いてみようとしたんだけど」

 

 サラッととんでもない事を言っているような気がしたが、敢えて何も触れなかった。今に始まったことではない。

 それより、彼女は『覗いてみようとした』と言った。つまり完遂したわけではないのだ。

 あらゆる魔法技術の叡智を修めた賢者があえて未遂に終えたのは、間違いなく何か理由が存在する。

 

「彼の頭には複雑な精神ブロックが掛けられていた。恐らくだが、星の刻印によるものだ」

 

 ひゅっ、と乾いた空気が唇から漏れて。一瞬、喉の奥が干上がったような錯覚がヴィクターを襲った。

 星の刻印。魔法とは異なる先天性の異能力だが、ヴィクターはこれに良い思い出がまるで無い。

 触れるだけで人体を自在に改造する力も、描いた絵の中に対象を閉じ込める力も、さんざん辛酸を舐めさせられてきた。もはや耳にするだけで神経がヒリつくほどだ。

 特に、精神干渉などとくれば。

 

「大丈夫、諜報員(エマ)の力じゃない。シャーロット君に残存していたものとはまるで異なる性質の術式回路だった。刻印に同一の能力はふたつと存在しないから、彼女の仕業でないことは間違いない」

 

 否定の言葉が沁みるように、ほっと安堵の息をつく。

 星の刻印による精神干渉は、かつての怨敵を嫌でも想起させられてしまうキーワードである。まさかエマが関わっているのかと、背筋の産毛が総毛立つようだった。杞憂だったことに心底安堵を覚えたほどだ。

 

 しかし裏を返せば、エマとは別の何者かがホルブの禍憑きに関わっていることに他ならない。

 

「エマの刻印は対象人物の肉体そのものを書き換える能力だった。それを応用して脳機能を一部阻害し、認識阻害魔法と重ね掛けすることで記憶や認知能力を歪ませていたわけだ。ホルブ君にかけられていたものは、もっと直接精神に干渉するものでね」

「心を操る能力、って感じッスか」

「まさしく。それがホルブ君の精神に絡みついていた。まるで雁字搦めになった釣り糸だよ。無理やり剥がそうとすれば彼が廃人になる。お陰で干渉できなかったんだ」

「ンな物騒なもん、誰が何のために?」

()()()()()()()さ。ボクみたいな魔法使いが犯人(答え)に辿り着けないようにするためのね。きっとブーゴ君とライアン君にも同様の術が掛けられている。ホルブ君を匿うためとは言え、あんな下水道で暮らしてたのは極めて異常だ。人目を避けるよう思考を誘導されていたんだろう」

 

 言われてみれば確かにおかしい。禍憑きというタブーを抱えていて、騎士団に仲間を処分される可能性に怯え隠れていたとしても、別に下水道を住処とする必要性はない。

 むしろ不衛生な環境は仲間の寿命を縮める一因になる。一時の隠れ家として利用するならまだしも、長く滞在するにはあまりに不適切だ。

 

 金銭面もそうだ。少なくともライアンとブーゴの二人がいるなら、出稼ぎと看病で役割分担は可能だったはずだろう。 

 禍憑きという未知の呪いに怯え、一時でも仲間と離れたくない気持ちがあったのかもしれないが、しかし瘦せこけるほどの飢えに耐え続けるというのは想像以上の苦痛を伴う。

 あの作業員休憩室には残飯や食べ物の包装など、食事の形跡がまるで見られなかった。彼らの容態と状況を合わせた場合、つまるところ()()()()()()()()()()()()()()ことになる。

 

 あまりにも不合理な話だ。それこそ、何らかの魔法で頭を弄られでもしていなければ。

 

「するってえとつまり、ホルブに芽を植え付けたのも、頭を弄ったのも、巷を騒がせてる殺人事件も、全部同じ奴の仕業ってことなのか……? おいおい、早く騎士団に報告しないと大変なことになるんじゃ!?」

「そうしたいのは山々だが、駄目だ。明確な証拠も揃っていない状況で『禍憑きが出ました、殺人鬼と関係がありそうです調べてください』なんて伝えてみたまえ、真っ先に疑われるのは君だぜ? 騎士団には天蓋領の息もかかってるんだ、なるべく接触は避けた方がいい。殺人鬼でピリついてるこのご時世、一度でも疑われたらまともに身動きすら取れなくなってしまう」

 

 ハーブシガレットの煙をふうっと空気に馴染ませながら、オーウィズは宥めるように言った。

 

「何も君たちの保身に限った話じゃない。犯人は相当頭の切れる人物だ。なにせ、何年も前から痕跡ひとつ残さず命を奪ってきたような輩だからね。警戒されて逃げられでもしたら二度と足取りを追えなくなってしまう。……正直、殺人鬼(アマルガム)のことは腹に据えかねていてね。それだけは避けたいんだ」

 

 シガレットから灰を落としながら淡々と述べるオーウィズの瞳の色に、ヴィクターの汗が青ざめる。

 怒りの色があった。激情に燃える炎のような赤熱ではない。それは冷たい、冷たい、血の一滴まで凍り付かんばかりの、極北の氷塊のような底冷えする群青だ。

 

 初めて見る顔だった。普段の彼女はカラコロと笑顔を絶やさず、森の陽だまりのように穏やかで優しい人物である。怒ると言っても精々イレヴンの悪戯を叱る程度で、こんな、怒りの矛先に居ないヴィクターですら(はらわた)から底冷えしそうな怒気を滲ませる姿は見たことがない。

 

(……考えてもみりゃ当然か。博士は世界を守るために戦い続けてきた英雄なんだ。流したはずの血も、味わったはずの苦しみも、全部全部飲み込んで、平和になった世の中を心から祝福できるような人なんだ。許せるわけがない)

 

 彼女が最も忌み嫌うのは、いたずらに命を弄ぼうとする下衆である。それも魔物などという最悪の存在を使役して、なんの罪もない民草の安寧を奪おうなど、言語道断の悪逆非道に他ならない。

 何が何でもこれ以上殺人鬼の好きにはさせまいとするオーウィズの意志をひしひしと感じた。彼女の心が波となって肌を薙ぐようだった。

 それは激励のように、殺人鬼を止めんとする決意の骨子となって胸を打つ。ヴィクターは自然と拳に力がこもるのを実感した。

 

「さておき、一先ずここを出ようか。こんなかび臭い場所にホルブ君をほったらかしにしておくのは可哀想だ」

「ッスね。まだ一人じゃ立てないだろうし、俺がおぶって行きます」

「必要ないよ。イレヴンがいる」

 

 パチンと指を弾く音。同じくしてオーウィズの影に変化が起こった。まるで石を投げられた湖面のような揺らめきが走ったかと思えば、影が一人でに立ち上がり、どや顔満面のイレヴンが現れたのである。

 

「じゃじゃ~ン」

「どぅえっ!? お、おまっ、どっから出て来た!?」

「ほらワタクシ、陰からお仕えする身ですかラ? いつでもどこでも即時に万事に役立てるよう、マスターの影にずっと潜んでいたのでス! いや~これが窮屈極まりなくテ! でも前より影が広くなった気がしますネ。もしかして面積が増え──失礼、クソデブりましタ?」

 

 野太い絶叫が下水道中を走り回った。無詠唱金属魔法を尻にぶち込まれたイレヴンの亡骸が無惨にも崩れ落ちていく。

 

「クソ執事、君は彼を島まで。それと、薄めのスープを用意するようコック長に。あの衰弱ぶりだと固形物はしばらく食べさせられないからね」

「へ、島? ホルブを連れてくんです?」

「ああ。ちょうど今、シャーロット君が彼らを雇うと決めたそうだ。彼らも島の一員になるみたいだよ」

「マジッスか! こりゃ賑やかになりそうッスねえ」

 

 シャーロットの性格上、彼らを放っておけないだろうとは思っていた。ましてや自分の境遇と重なる部分があれば、手を差し伸べたとして何ら不思議ではない。

 彼女はそういう人間だ。見ず知らずの記憶を失った男を無条件で介抱してくれるような少女なのだ。

 決定に異論はない。シャーロットが決めたのなら従うし、仲間が増えるのは大歓迎だ。

 

「じゃ、後は二人に任せるよ。ボクは少し調べ物をしてから帰るとシャーロット君に伝えてくれたまえ」

「アイアイマスター」

「了解ッス。お気をつけて」

「……あ、そうだ。ヴィクター君、ちょっとフォトンパスを貸してくれないかい?」

「? どうぞ」

「ありがとう」

 

 腕からフォトンパスを外し、オーウィズに渡す。

 受け取った彼女は小さな魔方陣を指先に展開させつつ、何を閃いたのか、おもむろにフォトンパスを弄り始めた。

 

 パチパチと音を立てて、青い火花のような魔力が散る。腕時計の形をしていたフォトンパスが空中で分解され、内蔵されていた術式の大元らしい水晶盤があらわになった。

 オーウィズはそれを生まれたての赤子を取り上げるかのように丁寧に扱いながら、魔方陣を介して細かな作業を行っていく。

 当然、ヴィクターには何やっているのか綺麗さっぱり分からない。

 

「アップグレードだよ。リリンフィー君の件を省みて、新しく機能を追加しようと思ったんだ。本当は手っ取り早く位置情報を搭載したいんだけど、もし天蓋領に解析されでもしたら島の空間座標を逆算されてしまうからね……ええと、この式をこうして……はい出来た」

 

 バラバラだったフォトンパスが再び腕時計の形を取り戻し、吸い寄せられるようにヴィクターの腕へと巻きついていく。

 一体どんな機能を追加したのか。たずねるより早く、「術式の更新に少し時間がかかるから、使い方は帰ってからね」とオーウィズは言い残して去ってしまった。

 

「では、我々も帰りますかネ。ワタクシはポータルオベリスクまで直接座標移動(テレポート)しますが、どうされまス?」

「俺はシャロたちと合流するよ。お前はホルブを早く暖かい寝床に連れて行ってやってくれ」

「承知しましタ。ではまた来世」

「勝手に殺すな」

 

 イレヴンとホルブが光に包まれて消えていくのを見送って、ヴィクターは大きく伸びをした。

 俺もいい加減この陰気な下水道から出よう。思いながらドアノブに手を掛ける。

 

 ふと、何か大事なことを見落としているような気がして。

 なんとなしに、ふらりと後ろを振り返る。

 ソファーの傍にぽつんと置かれたまんまの、立派な仕事カバンが目に入った。

 

「…………あっ、あああ────っっ!!? 先生のカバン!! やッッべえ!!」

 

 

 

「最悪だ……約束すっぽかしちまった。しかも取り返して来るって約束までしておいて! ちくしょう、完全にやらかした」

「いやいや、落ち込む必要ないど! もとはと言えばオラが盗んじまったのが悪いんだ、旦那のせいじゃねえっ」

「そうじゃねーんだ、ブーゴ。忘れてたってのが駄目なんだよ」

 

 すっかり夜の帳に包まれてしまったダモレーク。寝床に帰った律儀な太陽に後をまかされた月明かりと飲み屋の賑わいが懸命に闇夜を彩る中で、ヴィクターはがっくりと肩を落としながら項垂れていた。

 気が重い。未だ持ち主と再会を果たせない鞄が、まるで泣いているようにすら思えてくるほどに。

 

「見ろこのカバン、年季が入ってるのに新品みたいにピカピカだ。傷ひとつねえ。きっと長い間苦楽を共にしてきた、先生の大切な相棒なんだと思う。そいつを取り返してくるって大見得切っておきながら、ド忘れだぞ。不義理にもほどがあるだろ」

「旦那……」

「先生は命に対してめちゃくちゃ真剣で、真っ直ぐな信念持った人でさ。これが無かったせいでもし患者さんに何かあったら、きっと自分を責めちまう。もしそんな事になってたら俺、耐えられる自信ねえよ」

「オ、オラは何てことをっ……! 旦那は何も悪くないだ、もしそうなっても全部オラが盗んだせいなんだから!」

「そこは普通に反省して貰いつつ、まぁ、なんだ。二人で一緒に謝ろうぜ。許してくれるかは分からねえけど、きっと理解はしてくれると思うからさ」

「っ……うぅ……旦那ぁぁ……」 

 

 おんおん嗚咽し始めたブーゴに苦笑していると、昼間にイシェルと別れた場所まで辿り着いた。

 至極当然の話ではあるのだが、彼の姿は何処にもない。人っ子一人見当たらない閑散具合だ。

 イシェルは元々、遠く離れた中央街(レントロクス)から遥々やって来た身の上である。しかも多忙極まる医者なのだ。これだけ時間が経っていて、未だ留まっているわけがない。

 

「どうするかな。夜分遅いけど、じいさんの家に寄ってみるか。きっとじいさんなら先生の病院とか、連絡先も知ってるだろうし」

 

 

 確かじいさんの家はあっちだな、と方角を変えようと踵を返し。

 ふと、夜の町並みを一瞥して。

 ヴィクターの動きが時を止められたように停止した。

 

「…………おかしい」

「? 旦那、どうしたんだど?」

「静かすぎる。何で誰も人がいない?」 

 

 言われ、ブーゴはきょろきょろと窺うように辺りを見渡した。

 ぼんやりと夜を楽しむ暖色の魔力灯たち。団らんの一時を過ごしているだろう、カーテンから漏れている住宅の光。騒がしい酔っ払いたちの歌声が聞こえてきそうな、飲み屋の中で蠢く人影。

 当たり前に広がる夜の風情には、人々の営みが交差する静謐な活気にあふれていた。

 

 ()()()()()()()()()()()。全くもって異常極まる。 

 どこもかしこも人の気配で満ち満ちているのに、町を歩く人間の姿がどこにもない。

 まるで二人の視界を占める夜景の全てが、精巧に作られたハリボテではないかと思い込まされてしまうほどに。

 

「ダモレークは田舎だが過疎地じゃない。まだ日も跨いでねえのに、こんなに店が賑わってるのに、通行人の一人も居ねえってのはどういう────伏せろブーゴ!!」

「ほぇ? どぅおわっ!?」

 

 唐突だった。星空を劈くような絶叫が破裂し、ヴィクターがブーゴを庇うように押し倒した刹那。闇を食い破る一条の閃光が二人の頭上を掠めるように過ぎ去ったのだ。

 いいや違う。()()()()()()()()()。何の前触れもなく襲い掛かって来た彗星のような青い殺意は、明確にブーゴを狙って放たれたものだった。

 

「なっ、ななななんっ!? い、今のは一体なんだど!?」

「分からねえ! とにかく後ろに隠れてろ!!」

 

 ブーゴを背で庇いながら拳を構え、光の矢が飛んできた方角に射殺すような視線を向ける。

 同時にこの町を包む違和感がより濃厚な気配へと変っていくのを肌身で感じた。今の騒ぎを経てなお、誰も窓から外を覗くような人間がいない。

 

(魔法で人払いでもしてるのか? それともカースカンみたいに結界のような力で空間を覆ってやがるのか)

 

 黒腕に意識を集中させ、空間を掴めるか試してみる。しかしカースカンの時のような、空間を別のベールが覆っている感触は伝わってこない。

 であれば恐らく、これは幻覚か人除けの空間隔離か。いずれにせよ相当強力な力だろう。

 再び腕の力に集中し頭を触る。が、魔法の類を仕込まれた形跡は感じなかった。幻覚の線は消え、この異常事態は町の空間を別の異空間に転写した空間隔離だと判断する。

 

(博士から魔法習っててよかったぜ。こんな仰々しいもんを町中で使ってくるってことは、間違いなく敵は俺たちが狙いだ。誰だ? 天蓋領か?)

 

 いや、その線は薄い。仮に天蓋領が放つ刺客だったなら、こんな町中で騒ぎは起こさないはずだ。

 空間隔離とはそこまで万能ではない。効果持続が短い上に、空間内で起きた影響がコピー元に少しばかり反映されてしまう。つまり不必要に痕跡を残す結果となる。

 奇襲前提の暗殺が目的なら、ヴィクターが仕事で『禁足地』に行くまで泳がせてから仕留めた方が堅実だ。

 

(しかもあの魔法、間違いなく矛先はブーゴだった。何でこいつを狙う?)

 

 考えられるとすれば、それはひとつしか思い当たらない。

 ホルブに魔物の芽を植え付けた何者か。ブーゴとライアンに精神干渉の異能を仕込んだ張本人。

 即ち──巷を騒がせている正体不明の殺人鬼、アマルガムだ。

 

「おい!! 聞こえてるんだろ!? 出て来いよ、俺たちは逃げも隠れもしねえぞ!!」

「旦那!? なんで挑発するような真似を!? 逃げた方が良いだ!」

「駄目だ、相手はどこに居るかも分からねえ飛び道具持ちだぞ。背を向けたらやられる。しかも理由が分からねえが、アイツはどうもお前を狙ってるらしい」

「へぇッ!? オラぁ!?」

「そうだ。お前、走って遮蔽(あそこ)まで逃げ切れる自信あるか?」

「むむむ無理だどぉ~~~~!!」

「だよな。この暗闇で的確に狙撃してきたような奴だ、下手に逃げてもぶち抜かれちまう」

 

 一見すると元気にも見えるブーゴだが、長い下水道生活のせいでかなり弱っている体だ。

 禍憑きに見舞われたホルブや幼いライアンよりは遥かにマシだが、決して万全ではない。正確無比に飛んでくる豪速の閃光が相手では、間違いなく逃げ切れないだろう。

 

 腕の力を使った高速移動ならブーゴを安全な場所まで運べるかもしれない。ポータルオベリスクまでは保てないだろうが、振り切れる確率は高い。

 しかしそれでは根本的な解決にはならない。ヴィクターを踏みとどまらせる最たる理由は別にある。

 

 今まで血生臭さとは無縁だったダモレークに殺人鬼が現れた。ダモラスが、ビビアンが、親方夫婦が住む町に。シャーロットの心を治す憩いの場をくれたこの町にだ。

 例えブーゴと逃げたとしても、殺人鬼が無関係の人々を襲わないなんて甘ったれた道理は全くない。

 ならば見過ごせるわけがあるものか。ダモレークに危害が及ぶような可能性が毛の一本でも存在するのなら、それが目の前に転がっているのなら、逃げ出せるわけがあるものか。

 

「安心してくれ、絶対に守り通す。俺を信じろ」

「うううう…………!! そうは言っても旦那、あんな恐ろしい魔法からどうやって身を守れば」

 

 言葉を殺意で遮るように、再び光の矢が到来した。

 ヴィクターの影から恐る恐る顔を覗かせたブーゴの頭へ、嘲笑うように風穴を穿たんと放たれたそれを、包帯に巻かれた拳が豪速と共に叩き落とす。

 

 一度ではない。二度、三度と暗闇から牙を剥いてきた魔法の矢を鷲掴み、そのまま握り潰して塵に変えた。

 何が起こっているのかまるで理解出来ないブーゴは、顎が外れんばかりに大口を開いて愕然の渦中に閉じ込められてしまう。

 

「信じろ。必ず守る」

「は、はひ」

 

 どの道逃げられないなら傍にいた方が安全だ。ブーゴも理解したらしく、せめて邪魔にならないようにと、近くの大きなゴミ箱の裏へ身を隠した。

 もし迂回されて射線を広げられようとも余裕でカバー出来る距離だ。視線をブーゴから外し、されど意識は緩めぬままに、ヴィクターは拳を鳴らして静寂の闇と相対する。

 

「来いよ、逃げも隠れもしねえぞ! それともなんだ!? 大勢の命を奪っておいて、たった一人の俺が怖いのか!?」

 

 夜を掻き混ぜんがばかりに怒声を張り上げ、わざと挑発を轟かせた。

 

(さっきの攻防で遠くからじゃ殺害は不可能だと理解したはずだ。なら奴が取る行動は逃亡か接近の二つ。でもって、殺人鬼の野郎はブーゴに執着してやがる)

 

 息を吐いて、吸って、十分に酸素を巡らせ思考を混ぜる。

 敵の考えを。行動を。その先を読み解いていくために。

 

(近づいて来るだろ。折角の獲物を逃がしたくないもんな? なにせお前は、今まで狙った標的を仕留め損ねたことが無い。腐った美学を抱えるクソ野郎は絶対に執着心に負ける)

 

 ヴィクターは知っている。他者の命など何とも思っていない下衆の思考を、その美学を。

 これまで経験してきた死闘が確信めいた先読みを生んだ。執着心を持つ異常者を相手に、そのプライドを毟るような挑発をぶつければ、間違いなく喰らいついてくるはずだと。

 

「オラ出て来いよ、バーカ! 臆病者! ボケナス! 目の前の俺一人殺せないとか殺人鬼やめちまえ! アホー!」

「旦那、煽るにしても語彙がっ!」

「うるせえっ! 狙って悪口言ったこと無いんだからしょうがねーだろ!?」

 

 流石に無茶かと、半ば諦めたその時だった。己の語彙力を呪うヴィクターの予想を覆すように、あるいは嘲笑うかのように。暗闇の奥から魔力灯が照らす明かりの下へ、小さな靴音を連れながら現れた人影の姿が目に映ったのだ。

 

 長身痩躯の男に見える。目深く被った鍔の広いハットに、闇夜を羽織るかの如く巨大な外套。顔は何やら黒い布で覆われていて、素顔の片鱗すらうかがえない。

 どころか、肌の見える場所がひとつも存在しない。頭の先から足の爪先まで黒ずくめの衣装に包み込まれ、人種や年齢どころか性別さえも不明瞭な、個人的情報源を全て遮断されていた。

 

 不気味だ。吹けば折れそうな針金のように細いシルエットなのに、堂々と仁王立つその姿には一切のブレが無い。無機質で、冷めていて、どこかゴーレム染みた印象を受ける。

 いいや、違う。これは断じて無機質などではない。夜の中に溶け消えてしまいそうな漆黒の大男からは、相対した者だからこそ感じられる、激しいコントラストを孕んだ意思の波濤が放たれていた。

 

 憎悪。

 

 ぶすぶすと死臭を噴き上げる腐乱死体のような、あまりに悍ましく強烈で、直視し難いほどの常軌を逸した憎しみの感情。

 それが引き絞られた弓矢の如くギリギリと張り詰めて、ただひたむきなまでに、ブーゴの命へと狙いを定めているのだ。

 逆立ちゆく産毛の悲鳴と共に、ヴィクターはそれを如実なまでに感じ取って。

 

(なんだ、この、ズシンと骨の奥まで響いてきやがる凄まじい圧迫感は。こいつの何がそこまでブーゴを憎ませて……?)

 

 無言のまま立ち尽くす男の真意は読めない。一体全体何がここまでの殺気を生み出しているのか見当もつかない。

 けれど、少なくとも。いっそ純粋に思えてしまうほどの研ぎ澄まされた殺意を、傍若無人のままに死を振る舞わんとする人間が正常とは言い難く。

 バキゴキッ──拳の骨を揚々と掻き鳴らし、ヴィクターは牙を剥いた。

 

「てめえがアマルガムか」

 

 男は応えない。

 身動ぎひとつせず、橙色の魔力灯に浮世離れした姿を曝け出しているのみ。

 

「御託はねえ。ブチかまして吐かせるぞ」

 

 迷いなど塵芥ほども皆無だった。

 黒腕を最大解放。時の流れが歪むような流動感が訪れ、一帯の全てが遅緩されゆくスローモーションの世界へと突入する。

 闘志を薪と()べて猛り吠え、砲弾の如く握り固めた純黒の鉄拳を叩き込まんと先手必勝の火蓋を切った。

 

 

 だが。

 

 

「だんな」

 

 葉音のように細やかな掠れた声が、背後からヴィクターの襟首を掴むように縫い留めて。

 一瞥するように振り返れば。

 ヴィクターの全てが、毛の先から心の臓腑に至るまでの全てが。一瞬時を止められたかのように停止した。

 

「な、ん……!?」

 

 濁流に呑まれるような混乱。その源流はブーゴだった。

 ()()()()()()()()()()。生まれたての赤子と病に伏した老人をぐちゃぐちゃに混ぜたような醜悪な人間の顔が、蒼褪めたブーゴの首元から、まるで己こそが肉体の持ち主だと主張せんばかりに生え伸びていたのだ。

 それは金切り声とも断末魔ともつかない絶叫を破裂させながら、留まるところを知らない悪夢のようにみるみる膨れ上がっていて。

 

(禍憑き!? 馬鹿な、何でブーゴがッ!? 殺人鬼(アイツ)は何もしちゃいねーのに!)

 

 間違いなく黒づくめの男は一切のアクションをしていなかった。

 魔法の形跡も、暗器を使った仕草も、何らかの罠が発動した気配もない。あれば間違いなく気付けたはずなのだ。

 王の腕の力を振るい、全てがスローと化す独裁の世界に入ったヴィクターは、かつてグイシェンの猛攻を完膚なきまでに捌き切った。

 もしあの男が何かしたなら、絶対に見逃すはずが無い。

 

 ならば何故、ブーゴが禍々しき魔に呪われた?

 

 考える暇など無い。思考に割く須臾すら勿体ない。 

 ならばと地を蹴った。床石を踏み砕かんばかりに蹴り抜いて、崩れ落ちかけているブーゴの元へと駆け寄った。

 

 醜い頭を鷲掴み、肉に食いつく魔を引き剥がすため腕に全神経を集中する。

 やり方はホルブの時に嫌というほど学ばされた。この禍憑きは断然ホルブより侵食が浅い。今なら容易く剥ぎ取れる。

 重要なのはイメージだ。物理も魔法もあらゆる法則性を度外視するこの腕は、持ち主のイメージのままに触れた対象の選別と掌握を行うのだから。

 

「すまんブーゴ、ちっと痛むぞ!」

 

 全身全霊。禍憑きを一呼吸の間にブーゴの首から引き剥がす。金切り声を爆発させて暴れ狂う化生を地に捻じ伏せ、拳の絨毯爆撃を叩き込んだ。

 黒腕の力を解除すれば、赤黒い肉塊が水風船の如く爆砕した。粒子状に消滅しゆく禍憑きを見届けて、すぐにポーチから水薬(ポーション)を取り出す。

 

 布に含ませ、首元の傷口にあてがう。幸い傷は軽い。あっという間に塞がったが、ショックのせいか気を失ってしまった。

 だらりと力を失くしたブーゴを静かに寝かせる。無論背後への警戒は緩めずに。

 

 何故ブーゴに禍憑きが顕れたのかは分からない。ヴィクターは魔物の専門家ではない。

 けれど。この状況下で。眼前に佇む空虚な殺人鬼以外に、道理の導きようなどあるはずもなく。

 

「てめえ……!! ホルブに飽き足らずブーゴまでッ!! どこまで腐りきってンだコラァッ!!」

 

 黒腕を解放、万物干渉の権能を招来。大気を渾身の力で鷲掴み、殺人鬼めがけて全霊の龍颯爆裂拳を馳走する。

 即座に二発目の空を掴む。しかし撃ち放つことはせず、腕に纏わりつかせた空気の螺旋を地面に刺し穿ち、瓦礫の散弾へと変貌させて解き放った。

 大気の砲弾と大地の榴弾。一握の容赦をも持たない苛烈の権化が、男めがけて降り注ぐように到来する。

 

「『従え、空と地の精霊の名において(エイクァーエルタス・セクウェーレ)』」 

 

 だがしかし、ノイズの入り混じった奇妙な声が悍ましくも凛と響き渡ったかと思えば、攻撃の一切が男の眼前で静止した。

 どころか龍颯爆裂拳が、瓦礫の散弾が、まるで主に歯向かうことを恐れた飼い犬のように殺人鬼に付き従い、周囲をくるくると旋回し始めているではないか。

 

 悟る。()()()()()()()()()()()のだと。

 この世界を構築する万物に宿る微かな魔力。殺人鬼は空気や瓦礫に含まれていた僅かな魔力を精霊と定義し、疑似的な支配契約を結び付けることで支配権を簒奪していた。

 それは漆黒に塗り潰されたあの男が、高位の魔法使いであることを雄弁に物語っていて。

 

「『敵を穿て、勇ましき五界の(フォルティベリトゥス・イゴニミ)────、ッ!?」

 

 詠唱を練り上げ、奪い取った空気と大地の凶器を跳ね返さんと企む殺人鬼が、布に覆われた顔に一抹の焦りを浮上させた。

 射線上からヴィクターの姿が消えていたのだ。

 それどころの話ではない。既に懐へと潜り込み、巌の如く握り固めた拳を限界まで引き絞っているではないか。

 

 ──光の矢に襲われた時点で、腕の立つ魔法使いなのは理解していた。

 

 龍颯爆裂拳が効かないことも。それらを奪われるかもしれない可能性も。既に予測はついていた。

 知っていたからだ。賢者の下で魔法を学び、ある程度の使い手には物理に頼った手段など何の意味も成さないのだと。

 

 

 瓦礫も空気弾も目晦ましに過ぎない。

 シャーロットとの特訓で生み出した龍颯爆裂拳の波状攻撃に紛れ、一瞬のうちに肉薄することが本懐だ。

 

「悪ィが、魔法(てめえ)のノリに付き合ってやるつもりはねえよ」

 

 賢者オーウィズによる対魔法戦術その1。距離を殺すべし。

 魔法という(のり)は性質上、中距離戦においては無類の制圧力を発揮する。

 だが至近距離では自らを巻き込むリスクを孕むがゆえに、大きく力を削ぎ落とされるという決定的な弱点を持つ。

 

 即ち。

 この距離は。拳が届く射程距離内は。ヴィクターの領域そのものだ。

 

「だァァらァァあああああ────―ッッッ!!」

 

 刹那、大砲の如き肉弾が殺人鬼の鳩尾へと突き刺さった。

 破裂音とも破壊音ともつかない恐るべき衝撃が轟き奔る。あまりのインパクトに殺人鬼の体が重々しく浮かび、苦悶が絞り出されるように呻き声となって溢れ出した。

 

 だが浅い。手応えの違和感を認めざるを得なかった。

 直撃する寸前に防がれていた。さながら空気のクッションのような不可視の緩衝材を挟み込まれ、大幅に威力を削り殺されていたのだ。

 

「しゃらくせえッッ!!」

 

 関係ない。拳が届く距離にある以上、依然何の問題もない。

 重要なのは認識だ。王の腕はヴィクターの意思を反映して力を発揮する。不可視の防御壁だろうとも、その存在さえ認識すれば、守りごと貫いて渾身の一撃を見舞ってやれる。

 

 距離を取ろうとする殺人鬼の右手を掴んだ。  

 布に覆われた顔から()()()()()()()()が漏れた。

 身体能力はそこまでなのか、少し引き寄せただけで簡単に体勢を崩しよろめいて。

 

 

 否。これは身体能力云々の話ではなく。

 この挙動はまるで、この男が初めから足を負傷していたかのような。

 

(……え?)

 

 脳裏を掠める、怪訝の匂いを帯びた一陣の風。

 躊躇という名の杭がヴィクターの影に突き刺さる。

 それが足を呪いのように縫い止めて、張り詰めた戦線に幽かな余白を生み出した。

 

「転血」

 

 ぐるん、と。

 なにかが捩じれる音がした。

 

「ぁ」

 

 瞬間。全身の皮膚を引き裂くように、血潮で出来た大輪の華が咲き誇った。

 心臓が捩じり切られたかと錯覚した。血の流れが逆流したかのような激痛が四肢末端まで骨肉を侵し、視界が暗転と白光に塗り潰された。

 

「がッッッ!? ば、ぁがっ!?」

 

 平衡感覚が一瞬にして喪失する。五感は痺れ、もはや立っているのか倒れているのかも分からない。

 息が熱い。心臓は暴れ狂っていて今にも飛び出しそうだ。喉奥から競り上がってきた鉄臭い津波が堰を切ったように溢れ出て、バタバタと地面を赤黒く塗り潰した。

 

(なんッ、なんだ、何を、されたッ……!?)

 

 暗器や魔法道具を使った形跡は無かった。

 ただ呟いただけだ。ひとつの単語を。それも魔法詞(スペル)ではない。転血という言の葉一枚、ただそれだけだった。

 星の刻印か? いいや、()()()()()()()()()()()()。少なくとも最初の一撃は確実に防げたはずだ。

 

 ならば、これは何だ。体の内側から破裂させられたかのような未知の絡繰りは。

 

 あまりに唐突で理解不能な一撃が脳を濁す。オーウィズから学んだどの魔法や異能にも当てはまらない不可解が、失血で著しく摩耗した脳機能を加速度的に低下させた。

 

 だがヴィクターにとって、身を八つ裂く痛みもその原因も、まるで重要では無かった。

 戦いの中で動揺が生まれたこと、それが一番の問題だった。今までどの死闘でも感じたことの無いためらいが動きを鈍らせ、拳を遅らせ、闘志を揺るがせ、殺人鬼の反撃を許してしまったことが度しがたいのだ。 

 しくじったことはどうでもいい。問題はその大元にある。

 動揺の原因。躊躇の根源。苦虫を舌の上で磨り潰されたような、やり場の無い感情の篝火──その火種こそがら、真に。

 

(冗談だろ、こんなの)

 

 男の正体の一端が、思考を切り裂く刃のように脳裏を薙ぎ払ったからだ。

 それが拳をなまくらに変えて、逆転を譲る切欠の落とし穴となってしまっていた。

 

(こいつは、この、殺人鬼はっ)

 

 ヴィクターの推測が正しければ。胸の内に萌芽した憂いが真実ならば。

 隙を生まない方がおかしかった。こんなの、想像だって出来るはずも無かったのだ。

 

(──今は考えるな)

 

 思考を切り捨てる。生死の瀬戸際に無駄なノイズは必要ない。

 集中すべき局面は目の前に広がる今現在だ。死の王手をかけられた無慈悲の盤を前にして、どうして後を考えることが出来ようか。

 

 破裂した毛細血管が視界を滲ませ、思うように前が見えない。鼻も濃厚な鉄の匂いに塞がれている。ズキズキと神経を搔き毟る激しい痛みに呼吸が荒らされる。

 問題無い。黄昏の森に比べたら掠り傷も同然だ。

 精神論で闘志を繋ぐ。痛みという名の活力剤で意識を縫い合わせる。

 再び拳を構えて前を向き、血の混じった唾を吐き捨てながら殺人鬼と相対し────。

 

「……あ?」

 

 萎れる風船のように気の抜けた声が漏れた。

 臨戦態勢に突入したヴィクターとは裏腹に、殺人鬼の姿が忽然と消えていたのだ。まるで妖精にでも化かされて、最初から存在していなかったかのように。

 

「まさか、ブーゴ!?」

 

 最悪の事態が過り、冷や汗と共に振り返る。

 しかし血が凍るような憂いを余所に、ブーゴは五体満足無事だった。むしろ意識を取り戻したのか、のっそりと起き上がってぼうっと辺りを見回している。

 

(……どこにもいねえ。退いたのか?)

 

 結論付けるほかに無かった。

 殺人鬼の気配がどこにも無いのだ。おまけに閑散としていた夜のダモレークへ、活き活きと人の流れが生まれ始めている。

 空間隔絶の結界が効果を切らしたのだろう。目撃者が大勢生まれてしまう状況での暗殺は、流石に不利だと判断したのかもしれない。

 

『ヴィクター君、無事かい!?』

 

 ふと、よく見知った声がフォトンパスからキンキンと響いてきた。

 オーウィズだ。なにやら慌てているようで、珍しく声色があらぶっている。

 

「博士? どうしたんスか、そんなに慌てて」

『君のバイタルが異常値を叩き出したんだから慌てもするよ! ブーゴ君も一緒なんだろう? 彼の身に何か変化は!?』

 

 察する。オーウィズの焦燥ぶりには、ブーゴの身に起こった異変とも関係があるのだと。

 ブーゴは殺人鬼に触れられずして禍憑きに呪われた。それは絶対の自信を持って言える確かな事実だ。明らかな不可能が目の前で起こった謎の正体を、彼女は握っているに違いない

 

「……実は、禍憑きが出ました。すぐに引っこ抜いて叩きのめしたんで、大丈夫だとは思いますけど」

『ああやっぱりか! すまない、ボクの責任だ。魔物の芽が潜り込んいたことに気付けなかった』

 

 通話越しでも酷く憔悴している様がありありと浮かぶほど落ち窪んだ声。絞り出すような懺悔には、どうもブーゴを襲った異常について知っているらしいことが伺える。

 今は沈黙に徹し、次の言葉を待った。

 

『あの後、ポータルオベリスクがライアン君を拒絶したとシャーロット君から連絡があったんだ。調べてみたら、彼の奥底にほんの小さな芽が仕込まれていた』

「っ!」

『しかも特定の言葉で発芽するよう、緻密な起爆術式と隠蔽魔法にくるまれていて……。そんな最中に君のフォトンパスから警告が入ったんだ、血が凍ったかと思ったよ』

 

 納得の音がストンと落ちる。何故あの状況でブーゴが発症したのか気掛かりで仕方がなかったが、靄を払う答えをオーウィズがもたらしてくれた。

 

 既に魔物の芽が潜伏していたのだ。それはオーウィズの目をもってしても識別不可能だった隠れようで、虎視眈々と発芽の時を狙っていた。ご丁寧に導火線まで添えられたおまけ付きで。

 起爆条件は特定の言葉──恐らくソレを口にするか耳にすれば発動するような仕掛けだろうと、素人直感ながらヴィクターは推測する。

 

 考えられる言葉としては、やはりアマルガムか。

 ヴィクターが口にした瞬間ブーゴの芽が目を覚ましたのなら、あのタイミングで殺人鬼が何のアクションも無く禍憑きを見舞ったのにも説明がつく。

 

『本当にすまない、完全に盲点だった。まさか魔物の発芽を操作する方法が編み出されてたなんて……ああくそ、まだ信じられない』

「ちょちょちょ、博士のせいじゃないッスよ。気負う必要なんてどこにも」

『いいや、ボクの責任だ。あれは奴の嗜好と口封じを含ませたトリガーだった。彼らがアマルガムと関わった時、一帯を巻き込んで虐殺を引き起こすための爆薬だったんだ。そんな大事に気付くことすら出来なかった。ボクは賢者失格だ』

「違う。悪いのは三人に魔物を仕込んだ大馬鹿です。この話はこれで終いッスからね」

 

 有無を言わせぬよう、澱んだ空気を強気に払う。

 殺人鬼の悪事で自責の念を抱く必要などどこにもない。既に彼女はホルブの命を救っているのだ。見知らぬ人のために惜しまず尽力を注げる素敵な人が、どうしてそんな悔いを噛み締めなければならない。

 そんなものが正しいわけがないと、絶対の自信をもって断言できる。

 

『……ありがとう。少し気持ちが楽になったよ』

「ところでライアンは? あいつは大丈夫なんですか?」

『もちろん。具合はいたって良好さ。ああしかし、本当に君たちが無事でよかった。一時はどうなることかと……いや、本当に大丈夫かい? フォトンパスに失血の表記が出てるんだけど』

「あー、えーっと、後で話します。今から帰りますンで、皆に伝えててください」

 

 言い終えて、逃げるように通話を切った。

 殺人鬼のことは話せない。アマルガムに怒るオーウィズだからこそ、今この時だけは伝えることが出来ない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()。まずはそれを済ませてからだと、ヴィクターはフォトンパスから無造作に転げてしまった鞄に視線を移す。

 

 イシェルの鞄を拾い、ブーゴに手を貸して立ち上がらせる。

 気付けば人の目がちらほらと。夜のおかげで血糊が目立たないのが幸いだが、騒ぎになるのも時間の問題だろう。すぐにでも退散するのが吉か。

 そんな時だった。よく見知った声が耳を煽ったのは。

 

「お、おいおいおい、お前さん! どうしたんだいその怪我は!?」

「ちょっ、まって、ヴィクターちゃん!? 何があったのさ、そんな酷いことになって……!」

 

 ダモラスだ。ビビアンも連れている。二人で夜の散歩でもしていたのか、偶然居合わせたらしい。 

 まずいところを見られたな、と頬が引き攣った。全身血塗れな上に、一帯は破壊の名残が残っている。ダモラス夫婦からしてみれば目を見張るような異常事態だろう。

 

「あー、えーっと、大丈夫ッスよ! 見た目はアレかもだけど全然平気なんで! 薬飲んで寝りゃ治りますから!」

「あのなぁ……お前さんの性格上、心配をかけまいと振舞っているんだろうが、舐めて貰っちゃ困るよ。そんなんで誤魔化されるわけないだろう」

「その通りだよ全く! アタシたちの事なんか気にしなくていいから、何があったのか全部話しな! 大人は素直に頼っとくもんだよ!!」

 

 窘められ、しゅんと縮こまる。

 この二人だけはどうあっても勝てる気がしない。けれど、だからこそ告げるべきか迷いが生まれる。

 例の殺人鬼と戦っただなんて、どう話せばいい。そもそも話すべき相手は彼らではなく騎士団だ。無暗に巻き込むべきではない。

 それにヴィクターの考えが正しければ、あの男の正体は────

 

「とにかく、まずは手当てが先さね。ビビアン、頼めるかい?」

「任せな! 昔はよくやんちゃ坊主どもの怪我を治してやったもんよ! ヴィクターちゃん、覚悟しな!!」

「……えっ、覚悟? なんで手当てで覚悟ってんぎゃああああああああああ沁みる沁みる沁みる沁みる!!」

「喚くんじゃないよ、高等水薬(ハイポーション)さね! 痛いのが嫌なら無茶しないことさ、まったく!」

 

 開いた傷口に黄緑色の液体を吹きかけられた。それはもう凄まじい沁みようで、唐辛子を塗りこまれた方が百倍マシと断言できるレベルである。

 しかし効き目はこれ以上なく抜群だった。痛みが引いた頃には、ほとんど傷が塞がっている。恐らくかなり高価な応急用魔法薬なのだろう。入れ物もどことなくゴージャスな見た目をしている。

 

「それで、だ。いったい何があったんだい? そちらの連れも随分と……おや? お前さんたしか……」

「うえっ!? かかか、会長!? お、お久しぶりですだ!」

 

 急にうやうやしく頭を下げ始めたブーゴ。知り合いなのかと問えば、「ホルブが倒れる前まで会長さんのところで働いてたんだど」とのこと。

 ピンと記憶が蘇る。そういえば親方の現場で世話になった時、急に二人辞められて困っていたと言われたことがあった。もしやブーゴたちの事だったのだろうか。

 だとすれば何とも奇妙な縁だと、ビビアンに血汚れをごしごし拭かれながら驚きを覚える。

 

 いや、今はそんな事はどうでもいい。話を戻さなくてはと、ヴィクターはダモラスに向き直った。

 傷を負った経緯ではない。むしろヴィクターの方が、ダモラスに訊ねなければならないことがある。

 

「……じいさん。話す前に、ひとつ聞いておきたいことがあるんです」



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44.「義心解剖」

 善き人々いわく、復讐は愚かな行為だと言う。

 失ったものは戻って来ないだとか、心にぽっかりと虚しさが残るだけだとか、私刑を認めるわけにはいかないだとか。

 理由は様々だが、間違った言い分でないことは共通している。復讐心の生まれる過程が如何に残酷で無慈悲な惨劇だったとしても、斯様な野次は決して頭ごなしに否定出来るものではない。

 

 大脳新皮質は理解する。

 

 善き人々いわく、復讐は尊ぶべき権利だと言う。

 心の痛みを和らげる妙薬だとか、辱められた者たちの慰めになるだとか、悪は相応しき報いを受けるべきだとか。 

 理由は様々だが、間違った言い分でないことは共通している。復讐を晴らすことが社会に軋轢と無秩序を生む事になるとしても、斯様な野次は決して頭ごなしに否定出来るものではない。

 

 大脳辺縁系は共感する。

 

 ()にとってはどちらも正しく、どちらも否。答えなど存在しない問題だった。重要なのは尺度を計る()()であり、生じる損得のどちらを重く()るかの違いでしかない。 

 そも、大衆はいつの日だって無関係だ。世を賑わせる記事の向こう側に自らを重ね、訪れてもいない未来を、過ぎ去ってもいない過去を、シナプスの悪魔が水飴のように混ぜ込んでいるだけに過ぎないのだから。

 

 ある日突然人生というレールを壊されてしまったとして、進むのも止まるのも逸れるのも直すのも、結局は持ち主ただ独りだけ。

 果てに手にする損も得も、感情も道理も、理解も共感も、全てを()べて孤独に受け止めるべき十字架だろう。

 だから()にとって大事なのは納得だ。選んだ道がどんな結果になったとしても、納得できるかどうかが重要なのだ。

 

 静かに(とこ)で笑って死ぬことは出来なくても、満ち足りた灰になるのならそれでいい。

 例えそれが、善き人々が悪逆と罵る腐敗だったとしても。

 この身に煤を塗りたくるどす黒い復讐心が、赤子のように眠るその日まで。

 

 

 

 中央街レントロクスは一大都市である。

 

 立ち並ぶ高層住宅や巨大なショッピングセンター。光のレールをホバリングしながら滑るように行きかう魔炉機関車(キャルゴ)。背広、仕事着、私服姿と、それぞれの事情を衣装として着こなしている多様な種族の人々。

 のどかな港町ダモレークとは異なる研磨された街の空気感は、まさに都市特有の鋭さだ。しかし決して無情で冷たいものではなく、高められた人々の熱意や活気がエレガントに渦を巻く、賑わいに溢れた(みやこ)だった。

 

 そうしたアルボルッド地方の中枢には、穢れを知らない純白の外装と赤い星のロゴを掲げた巨大な施設が存在した。

 あくなき病と闘い続ける医療の最前線、レントロクス総合病院である。

 

 浄化魔法による洗浄粒子を浴びながら入り口を抜けると、外界と隔絶された無機的な清潔感に支配される世界が広がっていた。

 病院独特の消毒液のツンとした匂いで満ちている。あちこちに赤い星のロゴマークが散らばった内装は、まるで病魔に向けられた挑戦状のようだ。

 曇りなく磨かれた床は鏡の如く艶やかで、歩けば靴がキュキュッと音を立てて、その気高い在り様を強調してくれるほど。

 辺りにはこれまたシミひとつ無い白衣を羽織った人々の姿が伺える。彼らを頼るべく訪れたらしい人々も、波のようにごった返していた。

 

 そんな病院のエントランスホールに、頭一つ大きな人影があった。屈強な肉体と額に生えた角が特徴的な亜人、鬼人(オーガ)の親子である。 

 顔に大きな傷跡の残る猛々しい大男と、無垢な玉のように朗らかな男の子だった。およそ病とは無縁そうな彼らは、何やら巨大な土産品を手に一人の医者を引き留めている様子だ。

 

「先生! イシェル先生! いやあ、この間はどうもお世話になりました! 先生のお陰で女房もすっかり元気になって、なんとお礼を言えばいいか……ほら、お前もお礼を言いなさい」

「せんせー! まま、なおしてくれて、あぃあとぉ!」

「ははは、どういたしまして」

 

 午前の診療を終え、他の地域へと訪問診療に向かうべく病院を後にしようとしたイシェルを引き留めた彼らは、以前イシェルが担当した婦人の家族だった。

 過剰魔力心融症という、魔力の過剰生成で()()()()()()()()()稀な難病を患った患者だったものだから、イシェルも昨日のことのように覚えている。

 

「あのねー! ままね、おそとでね! あそんでくれるようになったんだよ!」

「本当かい? それは良かったなぁ。元気になってくれておじさんも嬉しいよ。でもまだ無理はさせないように気をつけてね? お母さんを守ってあげなさい」

「うん!」

 

 太陽のように笑う無邪気な男の子。タッチがしたいと手を出してきたので、イシェルは微笑んでそれに応えた。

 

 手術の成功率は良くて五割だった。成功したとしても、良化するとなれば確率はさらにそれを下回る。誠心誠意を尽くした後は、天に祈るのみという状況だった。

 だが婦人の回復力はイシェルも舌を巻くほどの勢いを見せつけた。彼らがその証拠だ。元気に生活を送っている様子が親子の仕草からありありと伝わってくるようだった。

 

 大男とその息子は、そんな奇跡を起こしたイシェルに感謝を伝えずにはいられなかったのだろう。袋を片手に訪れたのはそういうことだ。

 

「こいつはせめてものお礼です。うちで作ってる鬼甜瓜(オーガメロン)の中でも、特上中の特上を持ってきました。是非召し上がってくだせえ」

「せんせーこれねー! あのねー! すっごくあまいんだよ! おいしーの!」

「おお、これはこれは……ははは、この距離からでも甘くて上品な香りがしますね。とても美味しそうだ、ありがとうございます。ですが当病院では──」

「お礼を言うのはワシらの方ですって! たらい回しにされてた女房を救ってくださったのは先生だけだった。こんなんじゃ全然足りないくらいでさぁ」

 

 有無を言わさぬ勢いで渡された袋を受け止める。と、思った以上に中身が重くて腕を持っていかれそうになった。

 落とさないよう慌てて両手に持ち変える。袋の中に座っているのは、人の頭より大きな果物だ。

 特上の鬼甜瓜(オーガメロン)。目玉が飛び出るほどの高級品である。イシェル自身、こうして手にするのは初めてのことだった。

 

「先生、何かあったらまたお願いします。あなたはワシら家族の恩人だ」

「ばいばーい! またねせんせー!」

 

 用が済むが早いか、鬼人(オーガ)の親子は頭を下げながら病院を後に去っていく。

 見送ったイシェルは贈り物を竜の卵のように抱えながら、さてどうしたものかと困った笑顔。

 

「先生。贈り物の受け取りは禁止ですよ」

「ああ……セレナ君。不味いところを見られちゃったね」

 

 背後から投げられた小言の主は、若い森人(エルフ)の女医だった。

 凛とした雰囲気の麗人だ。年は二回りも下の後輩なのだが、その負けん気の強さと律を重んじる誠実さが詰まった切れ長の瞳は、まるで歴戦の猛者のように鋭く光っている。

 イシェルはこの眼がどうも苦手だった。じっと見据えられると頭が上がらなくなってしまう。自分よりしっかり者だから、先輩として不甲斐なく思うせいだろうか。

 

「先生は押しが弱いんですよ。例え断り辛くても、決まりなので受け取れませんとハッキリ伝えないと」

「ははは、面目ない。言おうとはしたんだけど、圧に押し負けてしまってねぇ」

「まったく……。で、どうするんです? 今から訪問ですよね?」

「そうなんだよ。というわけで、すまないが後を頼めるかい? 時間があったら切り分けてくれると助かる。リーベン氏の手術に関わった皆で分けてくれ」

 

 落とさないよう「重いからね」と忠告しながらゆっくり譲り渡す。

 が、意外にもセレナは余裕そうだった。この果物の重量感はまさしく大岩のソレなのだが。腰をやられかけた身空とはえらい違いである。

 やはり若さなのか。イシェルは老いを感じて哀愁の影を落とした。

 

「先生の分は?」

「余ったらでかまわないよ。気持ちは十分受け取ったから」

「ちゃんと残しておきますよ。先生じゃなきゃ、あのオペは成功しなかったんですから」

「ははは……君のような立派な子に褒めてもらえると、医者としてちょっぴり自信が持てる気がするな」

「ご謙遜を。先生は十分すぎるほど優秀です」

 

 頭を掻いて気恥ずかしさを誤魔化す。

 彼女とて優秀な医者だ。天才と言っていい。研修生時代から既に頭一つ抜きんでていた彼女は、経験不足をものともしない頭脳と精神力の持ち主だった。

 

 反面、第一印象は氷のように冷たかったことは記憶に新しい。

 相手がベテランだろうが一切物怖じせずズバズバと切り込んでいく強気な姿勢に、トラブルに見舞われようとも揺れる事を知らない鉄面皮と、窓枠に溜まった埃のような小さなミスすら許さない徹底した完璧主義。

 他人とは常に一線を引いているようだったその孤高ぶりは、よく言えばクールであり、悪く言えば冷酷な人間の様相だった。イシェル自身、やれルーズだの弛んでいるだのよく小言を言われたものである。

 

 そんな新人時代を考えれば、今の彼女は見違えるように柔らかい人柄になったものだ。

 他人を気にかけてくれる優しい子になったんだなぁと、親のような感慨深い気持になる。あの手術の件から一層丸くなったように感じるのは気のせいだろうか。

 

「そういえば、手足の具合はどうなんです? 転んで痛めたと聞きましたが」

 

 セレナの視線は、軽く包帯の巻かれたイシェルの右腕と右足首を往復していた。

 少し前、ダモレークでひったくりにあった時のものだ。幸い軽い擦り傷と捻挫で済んでいるが、年のせいか昔より治りが遅くてまだ痛む。仕事に支障が無いのが救いと言ったところか。

 

「あぁ、平気平気。七日もすれば綺麗に治る」

「治癒魔法を使えば早いでしょうに。難治性の疾患でもない、ただの外傷なんですから」

「なるべく頼りたくないんだよ。あれは治癒力の前借りだからさ。普通に治した方が長い目で見ると良いんだ」

「……先生はそういう方針でしたね。とにかく、ご無理なさらぬよう。あなたは大事な主戦力なんですから、居なくなると困ります」

「ははは、ありがとう」

 

 セレナはぺこりと一礼し、鬼甜瓜(オーガメロン)の入った袋を抱えてその場を後にした。

 一息ついて、イシェルはちらりと腕時計に目を落とす。

 予定のペガサス便が迫っていた。少しだけ急ぎ足に病院を抜け出して、駅に向かって歩いていく。

 後輩の忠告を無下にしないよう、足のご機嫌を伺いながら。

 

 

「ああ先生、今日もありがとうねえ。先生はいつもこんな辺鄙な所まで来なすってくださるから、ほんと助かるわぁ」

「ははは。なーに、こう見えて鍛えてますから。坂道くらいへっちゃらですよ」

「そうは言っても、お忙しいんでしょう? そろそろ自分で通院しようか迷ってるんだけれど、どうかしら」

「お気になさらず。帰りにダモレークへ用事があるのでね、寄り道して帰れるから丁度良いんですよ。通院はもう少し良くなってからにしましょう。折角治ってきてるんだから、ここで無理すると大変だ」

「そう……? じゃあ次もお願いしようかしら」

「ええ、また診に来ます。薬の飲み忘れに気をつけて、お大事に」

 

 ダモレーク近郊の田舎に住まう老婆の訪問診療を終えたイシェルは、長い長いなだらかな坂道を沈みゆく太陽と共に降りていた。

 

 麓にはペガサス便の駅。学業を終えた子供たちの集団が駅から飛び出して、和気あいあいと坂道を駆けあがってくる姿がよく見える。

 この距離だと豆粒のように小さい。まだ発育途中の子供たちにとって、この坂はさながら霊峰の登山道に匹敵する雄大さだろう。

 しかしそんな障害など物ともしない無尽蔵にすら思える活力は、遠く離れたイシェルにも声の波となって届いていた。

 

(子供は元気だなぁ。疲れを知らないみたいだ)

 

 壮年の身にはかなり堪える田舎道。けれどイシェルは坂を上がった者だけが眺められるこの景色が好きだった。

 特に今のような夕暮れ時は格別だ。頬を撫でる涼やかな風。茜色の哀愁。真っ赤な太陽を背に悠々と空を飛ぶペガサス便は、何度見ても見飽きない魅力がある。

 

「さぁて、もうひと踏ん張りだ。ヴィクター君から鞄を返してもらわないと」

 

 ダモレークでひったくりにあった時、スケジュールの都合でレントロクスに戻らざるを得ず、やむなく見捨てることしか出来なかった仕事鞄。

 それが戻ってくると耳に入ったのはつい今朝の事だ。連絡をくれたダモラスいわく、ひったくりを追いかけて行った少年が無事に取り返したらしい。

 彼は約束を果たしてくれたのだ。自ら危険に飛び込んでまで。

 

(ダモラスさんは彼を気骨のある男だと評価していたが、嘘偽りは無かったみたいだ。嬉しいなぁ。誰かのために動くことのできる優しい強さを持った若者が、一人でも世にいてくれることが)

 

 けれど。だからこそ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それはきっと、不本意という名の味だった。

 

「……次の便まで時間がある。少し散歩でもしようか」

 

 下り坂の途中、イシェルは徐に脇道へと進路を逸らした。

 林の中を続いていく一本道。そばの石には森林公園と刻まれている。

 イシェルは整地された落ち葉と土の小道を踏みしめて、緩やかに歩を進めていった。

 

 はやくも公園の遊具で遊ぶ子供たちの声が聞こえる。

 それを通り過ぎる。打って変わって荒れた林道が現れる。

 薄汚れた木製の看板には剥がれかけの地図が。このまま進むと、大きなグラウンドに出るらしい。

 ただし今は林道に倒木があって、安全のため立ち入り禁止となっているが。

 

「よいしょっと」

 

 乗り越える。白衣に木くずが着いたが、特に気にはならなかった。

 今更汚れを気にしたところで、意味など無いと分かっているから。

 

「……私は古い家系の森人(エルフ)でね。子供の頃は『禁足地』出身の祖父から色々な魔法を教わったんだ。例えば森の中で迷わないための測位魔法だとか、獣を避けるための探知魔法だとか」

 

 周りに人は誰も居ない。けれどイシェルは独り言ちる。まるで誰かと共に歩いているかのように。

 いいや違う。間違いなく誰かが居る。

 イシェルの後を追って、ずっと着いてきている何者かが。

 

「気付いたのはほんのついさっきさ。実に見事な透明化魔法(ヒアリン・ヴェルム)だよ。……姿を見せてくれないかい? ヴィクター君」

 

 生え伸びた芝生が我が物顔で跋扈する、寂れたグラウンドの中央で。若草の匂いを乗せた春風を嗅ぎながら、イシェルは背を向けたままそう言った。

 応えるように、小さな電子的起動音が虚空を駆けた。

 腕時計のような形をした魔導駆機(ゴーレム)らしき道具に指を添えたヴィクターが、淡い光の明滅と共に現れたのである。

 

「やぁ。鞄、届けに来てくれたんだね」

「……」

「って、そんなわけないか。ははは」

「……」

 

 ヴィクターは答えない。ただただ静謐に、身動ぎひとつ揺らがせずに。微笑むイシェルの碧眼を矢のように真っ直ぐと射貫くだけ。

 夕焼けに深く影を彫られたその表情は、掻き混ぜられた空のように複雑な色を浮かべていた。

 

「いつから()けてたんだい?」

「……朝から。病院にいる時から、ずっと」

「何故? わざわざ病院にまで忍び込まずとも、私は鞄を受け取るためにダモレークまで行っていたのに」

「あなたがどんな人なのか知っておきたかったからです」

「ははは。参ったな、スキャンダルを撮られた有名人みたいな気持ちだ」

「…………」

「そう怖い顔をしないでくれよ」

「何で笑っていられるんです?」

 

 言葉に鋭利があるとすれば、ヴィクターのそれは刀剣のようだった。

 けれど、イシェルに動揺はない。

 ただ涼やかに、どこか諦念のような濁りを露わにしながら、藍色の微笑みを浮かべて空を仰いだ。

 

「私がどんな人なのか知りたいと言ったね。君の目にはどう映った?」

「……とても良い、お医者さんでした」

 

 ぽつりと、雨粒のように零れる言葉。

 

「患者さんの心に寄り添って、病と戦う人々に真正面から向き合って、力のある限り精一杯を尽くして……医者の鑑みたいな人だった。誰より命を大切に想ってるのが伝わってくる、強くて優しい背中だった。思わず男として憧れちまうくらいっ……!」

「──そんな人間が人殺しなんてするはずがない。そう言いたいんだろう?」

「ッ!!」

 

 陽が沈む。

 闇の黎明がやってくる。

 

「後学のために教えてくれないか。何故私だと分かったんだい?」

「……殺人鬼の右手を掴んだ時、まるで焼けた鉄に触ったみたいに腕を引っ込めようとしたんです。振り解こうとしたんじゃない。痛みで思わず反射的に出た反応だった。体勢を崩した時も、最初から足を痛めてたような不自然さがあった」

 

 右手と右足。気づきの火種となった二つの起爆剤。

 しかしそれだけではないと、ヴィクターは静かに鞄を突き付ける。

 

「殺人鬼は明らかに俺たちを──いいや、ブーゴを狙って現れてました。偶然じゃない。狙って来てたんです。ならどうやって俺たちの居場所を? この鞄が答えだ。何か位置情報を発信する道具(アイテム)を忍ばせてたんでしょう。あなたが今、()()()()、それを証明してくれた」

「ほう? 今?」

「探知魔法って言いましたよね。俺が身に付けてるこの道具、フォトンパスには魔法的干渉を防ぐ機能がある。探れるわけが無いんですよ。賢者オーウィズを超えるような魔法使いでもない限り」

「ッははは、賢者様と来たか。御伽噺の英雄と比べられたらなぁ……。うん、私もまだまだ未熟に違いない」

 

 降参だ、とイシェルは苦笑いと共に両手を上げる。

 左手には小さなプレート状のモニターが握られていた。方眼紙のような升目が表示された画面の中には、赤い光が一定のリズムで明滅を繰り返している。 

 言うまでもなくそれは、ヴィクターの持つ鞄から発せられたシグナルで。

 

「凄いね、君は。自分の生き死にがかかったあんな状況で、細かい所までよく見ている。接近戦に持ち込んだ私の判断ミスかな。参ったよ、命を助けるのは得意なんだけど荒事は苦手でさ」

「……すか」

「聞こえないよ」

「何でこんな事をしてるんですかッ……!? あなたはこんなッ! 馬鹿げた真似していい人じゃなかったはずだ!!」

 

 慟哭のような訴えが、薄暗い宵のベールを吹き飛ばさんばかりに駆け抜けた。

 けれど。相も変わらず困ったような微笑みを崩さないイシェルの瞳は、どこか掴みどころのない仄暗さを湛えるのみ。

 

「ヴィクター君。さっきの坂から見た景色、どうだった? 私はあれが大層お気に入りでね」

 

 一帯を支配する殺伐とした緊張感など、微塵も匂わせない穏やかな口調。

 ただの世間話でも広げるように、イシェルは淡々と続けていく。

 

「健やかな善き人々の営みが形作る社会。その縮図こそがあの光景だ。家族のために働く親、夢を追う若人、若者を導く先人、無邪気に遊ぶ子供たち……それぞれの明かりがダモレークを、レントロクスを、この世界を彩っている。そんな今の世界が私は大好きなんだ。あの景色を見ると、疲れてても気力が湧いて来るんだよ」

 

 一転。イシェルの表情が濡れた憂いを帯び始め。

 いいや違う。この感情は。暗く冷たい情動の茨は、憂いなどという生易しいものではなく。

 

「しかし完璧なんてものは存在しない。この世には度し難い病魔が潜んでいる。健康な人間の体内でも、癌細胞が日々生まれているのと同じように」

 

 憎悪。

 鬱蒼と茂る憎しみが、まるで大木に寄生するヤドリギのようにイシェルを覆い始めていた。

 

「私はね、世の中を穢す悪の存在が許せないんだよ。殺したいほど憎いんだ。何の罪もない人間を食い物にする、そんな悪性新生物どもが」

 

 纏う空気に昼のイシェルの面影はない。

 あるのはただ、夜闇に溶け込んで消えてしまいそうな、漆黒の意思を羽織る幽鬼の姿で。

 

「覚えておきたまえ。この世に唯一存在する万病の薬……それは()()なのさ」

 

 

 

 医者を目指した理由は単純で、けれど劇的なものだった。

 

 小児性過剰魔力心融症。それは幼いイシェル・マッコールを蝕んだ死神の名前。心臓の未成熟な子供がごくごく稀に発症する指定難病である。

 発達しきれていない未成熟な心臓が、本来のキャパシティを超えた魔力を生成してしまうことで心臓が崩れてしまう恐ろしい病。今でこそ治療法が確立されているものの、イシェルが幼かった当時はその完治率の低さから死の病だと恐れられたほどだった。

 

 例に漏れず、イシェルは生と死の狭間を彷徨い続けた。過剰魔力がもたらす生命エネルギーの暴走、それに伴う心臓の激痛に高熱、毛細血管の破裂による出血など。幼い身空を襲うには、あまりに過酷な悪魔の洗礼を嫌というほど味わわされた。

 

 遠い過去のことなのに、当時のことは今でもハッキリと記憶に焼きついている。

 苦しみのあまり幼くして死にたいと願い続けた辛酸を。どうすることも出来ない無力さから憔悴しきった両親の顔を。

 

『手術の成功率は良くて3割。例え成功しても再発リスクが高く、辛い話ですが、あと数ヶ月が山場かと思われます』

 

 朦朧とする意識の中でも覚えている言葉の意味は、なんとなく絶望なんだろうなと、顔を覆って泣き叫ぶ母親の姿から察していた。

 もう駄目なんだと悟った。やっと終われると安堵した。悲しませてごめんなさいと、無性に涙が出てくるようだった。

 

 しかし、ここで途絶えるはずだったイシェルの人生は、ある日を境に大きな逆転を見せることとなったのだ。

 

『大丈夫。君は必ず助かる。君の体は、まだ生きようと死に物狂いで頑張っているんだから』

 

 匙を投げられ続けたイシェルが最後に辿り着いたレントロクス総合病院。そこでただ一度だけ、手術の日に顔を合わせた老医師がいた。

 悔しいことに顔は思い出せない。けれど、イシェルに寄り添いながら手をそっと包む暖かさと、不安をまるで感じさせない力強さを秘めた皺枯れ声だけは、魂の底に焼きつくくらい鮮明に覚えている。

 

 その老医師は一切の弱音を吐かなかった。限りなく生存率の低い難病を前にしてなお怯まず、必ず治すという言葉を曲げず、あろうことかそれを実現してみせたのだ。

 自分は助かった──実感したのは、体中に繋がれていたチューブや生命維持魔法の駆動機(ゴーレム)が外れて、初めて食べた病院食の味を噛み締めた瞬間だった。

 

 美味しかった。なんの味も着いていない、白く濁ったドロドロの流動食なのに、涙が止まらないくらい美味しかった。

 無我夢中で頬張って、空っぽに出来た器を見て、もう死にたいと思わなくて良いんだって、声を上げて泣いた日のことを、イシェルは一生忘れることはない。

 

 医者を目指したのはそれが理由だった。命というものの価値と、生きることの奇跡。そして自分を救ってくれた老医師への強い憧れが、イシェルを医学の道へと推し進めたのだ。

 

 それからは何てことの無い、清く正しい人生だった。

 

 勉学に励み、日々に感謝し、両親を敬い、人に優しく在り続けることを心掛けて生きてきた。

 道端にゴミをポイ捨てるような、小さな悪事にすら手を染めたことは無い。清廉に、廉直に、あの老医師と両親に生かされたこの命に報いるために、ひたむきに生き続ける毎日だった。

 

 道中、運命を共に出来る女性と出会った。無事に学院を卒業し、医師としての資格を得た。首席に名を飾ったことは小さな自慢だ。

 けれど驕ることはしなかった。ひたすら真面目に真剣に、自らの務めと向き合ってきた。

 

 自分を医者だと胸を張って名乗れるようになった頃に、付き合っていた女性へ結婚を申し込んだ。死んでしまうかと思うくらい緊張したけれど、不思議と不安は感じなかった。

 

 子供も生まれた。目に入れても痛くない、珠のような娘だった。 

 この子はどんな人生を歩んでいくんだろうかと、早くも親馬鹿に片足を突っ込んだ。宝物を増やしてくれた妻への愛が一層深くなっていくのを実感した。家庭を持った父としての重みが、新しい人生のスタートを切ったのだと教えてくれた。

 

 普通で、けれど尊くて、毎日が輝きに満ちたような『生』だった。

 

 

 歯車が狂ったのは、まるでつい先ほどのようにすら感じるある日のことだ。

 妻と娘を奪われた、忌まわしい運命の夜だった。

 

 

 

「ヴィクター君。君は自分の命より大切な人を失った経験はあるかい?」

 

 懐から取り出したのは、その一箱を随分と長く吸っているのだと察せられるような、くたくたになった煙草のケース。

 

 中から一本取り出すと、不慣れな手つきで火を着けた。

 吸って、少し噎せて、構わず吸って、「まずい」と零す。

 それでも止めようとしないのは、まるで胸の中に巣食うどす黒い澱みを、煙に巻こうとしているかのようで。

 

「私はある。妻と娘だ。顔も知らない、出会ったことも無い、頭のイカれた男に殺された。本当に突然の出来事だった」

「……、」

「家に帰ると、明かりが着いて無かったんだ。妻がまだ起きているはずなのにさ。不思議に思いながら玄関を開けたら、職場で味わう血生臭いにおいが鼻を殴ったんだ」

 

 紫煙が溶けていく。

 煙草の端を焦がす赤熱が、すっかり暗くなったグラウンドに寂しく咲いた。

 

「リビングに行くと妻が倒れていた。庇った娘を抱きかかえたまま。二人とも全身に無数の刺し傷を負っていた。……初めて自分の職業を呪ったよ。認めたくなくても頭が勝手に診断するんだ。ああこれは、もうどうしようもないってね」

 

 底冷えするような冷たい声。

 声の形をした暗闇のようだと、ヴィクターは冷めた汗を頬に伝わせた。

 

「風を感じてふと横を向いたら、窓が割れてたんだ。そこに知らない男が立っていた。焦点が合って無くて、不潔で、明らかに普通じゃない様子だった。返り血で汚れたシャツが、いやに色濃く見えてさ」

「ッ……」

「ついカッとなって……気付いたら男が虫の息になっていた。私も傷だらけで、家の中は滅茶苦茶だった」

 

 君も見ただろう? と光の球がイシェルの手のひらに現れる。

 ブーゴを襲った光の矢。それを暗示する片鱗だけで、ヴィクターはまるで彼の記憶を覗き込んだかと錯覚するほど、凄惨極まる過去の情景が脳裏に浮かぶようだった。

 

「我に返ったんだ。こんなことをしてる場合じゃない、妻子を助けなければと。男が這いつくばって逃げていくのを知りながら、私は無我夢中で蘇生を試みた。その結果どうなったと思う?」

 

 吸殻を光の球に放り込む。ぶすぶすと断末魔が燃え上がった。

 紙煙草の遺灰が、風に吹かれて消えていく。

 

「騒ぎを聞きつけたご近所さんが犠牲になったんだ。私が男を見逃したせいで。挙句、妻子の命も助からなかった」

 

 光の球を握り締めるように手を閉じる。

 ぼんやりと宵を照らしていた明かりが消え、闇に再び深みが訪れていく。

 

「男は酷く錯乱していた。重度の精神疾患の所見があった。騎士団に連行されていく時も、自分が何をしたのかすら理解していない様子だったよ」

「先、生」

「妻も、娘も、一度だって罪を犯したことの無い人間だった。ご近所さんもそうだ。本当に良い人でね……。誰も悪くないんだ。道端に唾を吐いたことすらない、至極真っ当な人間だった。ずっと清く正しく生きて来た。それがどうだ? ある日突然、風に吹かれた蝋燭みたいに命を奪われてしまった。()()()()()()()()()

 

 ぞわり、と背筋を舐められるような怖気。

 

「わかるかい、ヴィクター君。この世の中には、どうしようもない癌細胞が一定の確率で存在しているんだよ。それは善き人々を巻き込んで肥大化し、無作為に身勝手に食い潰していく。初期症状なんてない。ある日突然発症して、人生を奪うんだ」

「だから殺戮に手を染めたと……!? ()()のために、悪事を犯した人間を片っ端から!?」

 

 ──ヴィクターはようやく、イシェル・マッコールという男の内に秘められた狂気の正体を、その一端を、垣間見ることが出来たような気がした。

 

 あの夜、イシェルがブーゴを狙ったのは彼が鞄を盗んだ人間だからだ。窃盗を働いた『悪』だからだ。

 ビリビリと肌を搔き毟られるうだった尋常ではない憎しみの波動は、ブーゴ本人に向けられたものではなかった。

 

 罪を犯す人間の『悪性』。それを目の当たりにしたがために、病魔撲滅の信念(狂気)を掲げて燃やした、ドス黒い正義感だったのだ。

 

「世の中には必要なんだよ。悪性腫瘍を初期ステージで切り落とすための人間が。騎士団では駄目だ。発症してからでは何もかもが遅すぎる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「だからってあなたが手を汚す必要は、その道理は! どこにも無いじゃないですか!?」

「いいや、ある。これは復讐なんだよ。世に潜む病害全てに対する復讐だ。家族へ捧げる弔いのための戦いなんだ」

「妻子のため……!? そんなのっ──」

「喜ぶはずがない、死んだ人間は帰ってこない、とでも言うつもりかね」

 

 ヴィクターの口を縫い付けるような言葉の縫合糸。

 有無を言わさぬイシェルの圧力は、まるで声に硬度が存在するかのようで。

 

「違う、違うよ、ヴィクター君。復讐は私の魂の清算に必要なんだ。未来を向くための行為なんだ。妻子に捧げるのは、私が手を汚した分だけ訪れる、少しだけ綺麗になった()()なのさ」

 

 しかし彼の放つ言葉の全てには、さながら英雄の演説のような、心を手繰り寄せる力があった。

 

「気を落とさないで欲しい。君は間違いなく正しいよ。けれど、正しさだけが人を救うとは限らない。私は私のために、私と同じ思いをする人間が一人でも居なくなるように、悪の芽を根こそぎ切除する。病はいつの時代だって、予防こそが(かなめ)なんだから」

 

 不思議な気分だった。頭では否定したいのに、間違ったことなど何一つ言っていないかのような錯覚に陥ってしまう。正しいと思わされる引力があった。

 不条理に人生を壊された男が、同じ境遇の人間を作らないために自ら手を汚す道を選んだ復讐譚。

 血塗られた悲哀と医師としての矜持を抱くその瞳は、高潔さすら感じるほど揺るぎ無い決意の証明だ。

 

 彼は快楽殺人鬼ではない。世間が生んだ社会悪でもない。ましてや心を喪った廃人ですらない。

 この男は、イシェル・マッコールの正体は。どうしようもなく悲しい()()なのだと、ヴィクターは奥歯を砕かんばかりに噛み締めながら理解した。

 

「だから、おじさんに教えてくれないか。(ブーゴ)がどこに隠れているのか」

 

 ──だがヴィクターは、決してイシェル・マッコールを肯定しない。

 

「君はこの世に一人でも多く必要な存在だ。善き人々の命だけは奪わないと決めている。でも、病巣はしっかり摘出しなくちゃね」

 

 彼を正しいと認めることは、よく見知った大切な少女が血を吐くような苦しみの末に掴んだ道を、それに手を添えた自分自身を、否定することに繋がるから。

 

「先生。俺は別に復讐でご家族が悲しむとか、帰ってくるわけじゃないだとか、そんなことを言うつもりはありません。むしろやればいいとすら思ってる。世の中には死んだ方がマシなクソッタレが居ることも、よく知ってるつもりです」

「……へえ?」

「復讐したいならすればいい。それであなたが前を向けるようになるのなら、責任を負う覚悟があるのなら、そいつは個人の問題だ。俺が口を挟む余地なんて何処にも無い」

「意外だね、そんな言葉が出てくるなんて。てっきり相容れられないものだとばかり」

 

 ヴィクターは清廉恪勤な人間ではない。イシェルが言うような善人だなんて欠片も思ってはいない。

 正しいと信じるもののためならば生死をかけて戦うことも辞さない男だ。例えイシェルと同類だと蔑まれたとしても、決して否定できないとさえ感じるほどに。

 

「でも、あなたのやり方は完全に個人の範疇を超えている」

 

 しかし決定的に異なるのは、ヴィクターが自分のために戦ったことは一度だって無いことだ。

 

 心を病み、人の道を踏み外しかけたシャーロットを止めるため。

 大義の名の下に、多くの人生を踏みにじったエマの悪逆を止めるため。

 危険な『禁足地』に踏む込む覚悟が、決して偽りでないことをザルバに証明するため。

 邪悪な欲望を叶えるためだけに虐殺を決行した、カースカンを止めるため。

 呪いに冒されたリリンフィーを救い、シャーロットの人生を取り戻すために、武聖グイシェンと戦った。

 

 そこにあったのは己の信念と、それに反するものを見過ごせないという義気だけだ。

 記憶を失くした怪しい男を救ってくれた一人の少女が、空っぽの自分にくれた『誰かのために手を伸ばせる優しさ』に報いるためなのだ。

 

 イシェルは違う。彼は復讐心の被膜で壊れかけた心を包み込み、正義という麻薬で痺れさせて、行き場の無い憤りを『悪』と断じた仮想敵に叩きつけているだけだ。

 

「正義と悪の極論だけで人を見て、仮初の仇を断罪することで慰めを得て、それを復讐なんて言葉で誤魔化しているだけだ。あなたがやっているのは、ただの盛大な八つ当たりだ」

 

 そうして生れ落ちたのが、イシェル・マッコールという殺人鬼。

 孤独と理不尽に象られた、帰るべき場所の無い復讐心の(ともがら)だったのだろう。

 

「あなた自身の過去と何も関係の無い人間を巻き込んじまった時点で! そこに正当な復讐なんてふざけた大義名分は存在しない!」

「言ったじゃないか。私の復讐は正しい行いではない。大義なんて最初から掲げてないんだよ。けれど、今以上に世界を良くするためには必要なことなんだ。だから──」

「だったら何で手足の傷を治さなかったんですか。どうして正体を暴かれるリスクを承知の上で、俺の前に姿を現したんですか」

 

 突き付ける。

 イシェルの行動に点在していた、水面に浮かぶ油膜のような不自然さを。

 

「…………医者としての方針なんだよ。治癒魔法は確かに効果は高いけれど、細胞の寿命を大きく前借りするし負担もかかる。だから自然治癒を支持している。それだけの話さ」

「嘘だ。自分の痕跡を徹底的に隠して騎士団を欺けるような人が、悪を裁く使命感に囚われた人間が、そんな理由で大局的な判断を見誤るもんか」

 

 前提として、彼は頭の悪い人間ではない。

 卓越した頭脳を要求される医者として長年キャリアを積み続け、数多の魔法を習得し、あまつさえ騎士団の目を掻い潜りながら殺人を犯してきた彼が、ただの愚か者であるはずがない。

 

 なのに彼は、自らの正体を探られかねないピース──怪我という特定要素を消さずして、ヴィクターの前に現れた。

 イシェルからしてみれば痛恨のミスだ。薬や治癒魔法など、短時間で全快させる術なんて幾らでも知っているにも関わらず。

 

 正体に繋がりかねないリスクは徹底的に排除するはずだ。今までの事件がその証明を下している。

 仮に医者のポリシーがそうさせたとしても、怪我に関わったヴィクターの前に姿を現すなんて大きな危険を伴う必要性は皆無だった。

 

 何より決定的だったのは、ヴィクターに正体がバレたと気付いた時の反応だ。

 酷く冷静で落ち着いていた。一貫して微笑みを崩さず、むしろ()()()()()()()思える態度で、淡々と自らが犯した過ちを語っていた。

 

 ヴィクターがいつでも騎士団に通報出来ると分かっていたはずなのに。既にされている可能性の方が大きかったのに。

 

 それを全て理解して、その上で、わざわざ会話を交わすことを選んだのは。

 

「誰かに止めて欲しかったんでしょう……! 先生の言う善き人々に、自分という『悪』を断って欲しかったから! その怪我を残して俺の前に現れたんだ!」

「……!」

「もう気付いてるはずだ! 自分のやっていることがッ、同じ境遇の人間を増やすことに繋がってしまう矛盾に! だから止めて欲しいと思ったんでしょう!? 他でもないあなた自身が! 行き過ぎた暴走だって認めてるからッ!!」

「仮にそうだとして、君に何の義理がある?」

「……さっき聞きましたよね、自分の命より大切な人を失くしたことがあるのかって。俺はまだ経験したことは無い。けど失ってしまった悲しみを背負う人を、俺はよく知っている」

 

 言葉の裏に浮かぶのは、深海色の瞳をした少女の姿。

 

「俺の知る女の子も、同じように理不尽で家族を亡くした人でした。心を病んで、人の道を踏み外す寸前まで追い詰められてしまった。俺はそれを止めるために全力で戦ったんです。優しいその子が一度でも手を汚してしまえば、もっと苦しむと思ったから」

 

 失くした家族の弔いのため血に眠る宿痾に縋り、外道に堕ちてまで一族の願いを叶えようとした一人の少女。

 もし彼女がヴィクターを生贄に捧げて、純黒の王を蘇らせて、アーヴェントの復興を成し遂げたとしたら。

 その未来の先で、彼女は笑っているだろうか。

 

 いいや。二度と笑えなくなっていた。

 

 断言する。これまで共に過ごしてきたヴィクターだからこそ、それは絶対にあり得ないと断言する。

 手にかけた命の影に追われ続け、永遠に笑顔を失って。日陰の中に閉じこもる。 

 優しい人間だからこそ、刻まれた十字架から逃げることは叶わない。

 

 イシェルも同じだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだ。

 

「あなたを見過ごせば、彼女にした事を俺自身が裏切ることになる。自分の因縁と何の関係もない人々を巻き込んでまで振りかざす正義を、あの子のためにも、俺は絶対に認めるわけにはいかない」

 

 だったらもう、見過ごすわけにはいかないじゃないか。

 ここで彼を見捨てたら、それはシャーロットを止めるために戦った過去を、彼女の痛みを分かちあおうとしたあの夜を、白紙に帰してしまうから。

 

「先生、あなたは優しい人だ。心が歪んでしまっても、誰かの幸せを願えるような人間なんだっ! そんなあなたが、自分を悪だと蔑むような十字架を背負う必要なんて無い。もう十分苦しんだはずだろ」

「……ははは。君は、人殺しを思い遣るのか。全く本当に……眩しいよ」

 

 心の底から嬉しそうにイシェルは笑った。

 しかし同時に、これだけは避けたかったとでも言うような、悲哀の陰を湛えていた。

 

「答えはノーだ。私はあまりに手を汚し過ぎた。今さら真っ当な道なんて歩めはしない。歩むつもりもない」

「っ、先生!」

「だからこれは警告だよ、ヴィクター君。今日見たことは全て忘れなさい。回れ右をして、そのまま家に帰るんだ」

「出来るわけ無いでしょう……!! あなたがその狂った正義を貫くならッ! 俺は俺が正しいと信じるもののためにあなたを止める!!」

「……残念だ。君とは戦いたくなかったのに」

 

 光が現れる。そっとイシェルを抱きこむベールの如く。

 全身に纏わりついたそれはまるで繭のよう。内側から浮かぶ仄かなシルエットが、イシェルの姿をみるみるうちに作り変えていることを如実に物語っていた。

 

「私は世の病巣を取り除くために戦う。君の正しいと信じるものは何だい?」

「これ以上犠牲は出させない。あなたも含めて。それだけです」

「結構」

 

 光の膜が破れて消える。 

 現れたのは、黒衣に塗り潰された長身瘦躯の大男だった。

 

 空を覆う夜のように大きな外套。肌の隙間すら一片も見せない漆黒の装束。鍔の広いロングハット。

 ブーゴを襲った時と異なるのは、大きな嘴のついた梟のような仮面だ。

 瞳の存在しない空洞の眼窩は、魂を吸い込む深淵へと通じているかのような暗黒を湛えていた。

 

「『従え、燦然たる刃が仔らよ(ルクスフェルム・セクウェーレ)』」

 

 詠唱残響。稲光の如き明滅と共に、光の矢の大群がイシェルを囲うようにして顕現した。

 否。それは矢と呼ぶにはあまりに小さく鋭利な、雷光を纏うほど強大な力を秘めた必殺の軍隊で。

 

「私は善人を殺しはしない。ただししばらくの入院生活は送ってもらう。私にはまだ、やるべき事が残っているのでね」

 

 堕ちた医師は統べる。

 命ある者への敬意を示す白衣を、悪を撃滅せんとする復讐の劫火で焦がしながら。

 

「正義を執刀する」



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45.「異端なる獣」

「『朧々たる城塞(カストラム・オカルトゥス)』──これで一帯は隔絶された。誰ひとり中の様子を知ることは無い」

 

 漆黒の医師が握るのは、捻子くれた金属の杖だった。

 それは太古より魔法使いの象徴として在った無二の友。超常の則を従える指揮者の証明である。

 

「『従え、燦然たる刃が仔らよ(ルクスフェルム・セクウェーレ)』」

 

 光が叫ぶ。嵐に爆ぜた雷霆のように。

 光が堕ちる。落屑しゆく流星のように。

 (まなこ)をまばゆく貫かんばかりの煌々の破壊が、たった一人の少年に向けて一斉に解き放たれた。

 

「だァァららららぁああああああああ──────ッッッ!!!」

 

 血潮を滾らせ、少年は怒号と共に迎え撃った。

 ありったけの拳を放つ。迫り来る光の刃をさばき、砕き、叩きのめして道を拓く。

 だが無尽蔵に等しい光の大豪雨は、どれだけ抗おうとも晴れる気配など微塵もない。

 

 落としきれなかった光刃が肩を滑走するように滑り抜けた。

 焼けた鉄を肉に押し込まれたかと錯覚するほどの激痛がヴィクターを襲う。血肉が焦げる刺激臭が鼻を転げ回り、奥歯を砕かんばかりに噛み締めた。

 

「君の力、いまだに原理が分からないな。魔法を殴り壊したり掴んだり……どういう理屈だ? その腕の包帯の下に星の刻印でもあるのかな」

 

 イシェルが操る光の刃は、人間など簡単に骨ごと焼き切るほどの灼熱と鋭利を秘めている。

 にもかかわらず、ヴィクターは生身で殴り返す。無論一切の負傷も無く。その異常性は医師(イシェル)の瞳に驚愕の満ち潮をもたらすには十分だろう。

 だが、未知の能力に対する警戒心はヴィクターも同じだ。『転血』という常軌を逸した攻撃方法の正体がまるで明かされないからだ。

 

 ゆえに腕の力を発動し、緩やかな時の世界で豪速をまとう判断に舵を切れない。

 あれはヴィクターの敏捷性(スピード)を飛躍的に向上させるが、無敵になったわけではないのだから。

 

(クソ、この猛攻じゃ近づこうにも近づけねえ! かと言って無理やり突っ込んで転血を食らったら……いや、()()()()()()()()()()()! 重要なのはタイミングだッ! なにか発動の予兆さえ掴めれば────)

「『稲妻よ(トニトルス)』」

 

 雷鳴が轟く。

 掲げられたイシェルの杖──魔法使いの象徴に、怪物の如き雷電が招かれる。

 

「『水よ(アックア)』、『大樹よ(アルボス)』、『焔よ(フランマ)』、『地よ(テラ)』──『従え、空と地の精霊の名において(エイクァーエルタス・セクウェーレ)』」

 

 詠唱は森羅万象に号令を下し、本来混ざり合うはずの無い五つの属性を圧縮させる。

 (ことわり)の埒外に踏み出したそれは、極彩色の膨大なエネルギーとなってイシェルの頭上に実りを成した。 

 黒衣の腕がゆっくりと落ちゆき、杖の先がヴィクターをぴたりと捉えて。

 

「『敵を穿て、勇ましき五界の徒よ(フォルティベリトゥス・イゴニミスタ)』」

 

 ──イシェルを中心とする極大の魔方陣から、産声と共に顕現する巨影がひとつ。

 現れたソレを形容するなら、大蛇の形をした災厄か。

 

 五属性全ての魔力を触媒に創造された見上げるほどの巨体。それはまるで燃え盛る津波であり、肥大しゆく生きた落雷であり、海を食う大地のようだった。

 反発しあう属性が絶えず悲鳴を上げて破裂し、調和しあう属性が融け混ざって癒合する躰は、まさしく異形の(いびつ)そのもの。

 相反し結合するという矛盾を超えて生誕した、この世のものではない怪物が光と共に現れた。

 

「冗談だろ、こいつはッ……!?」

 

 オーウィズから教わった魔法学の一端が、異形の正体を解き明かさんとヴィクターの脳裏で躍動する。

 

 魔力とは生物の心臓や豊かな自然が生み出す生命エネルギーの総称であり、それは時に精霊や妖精、亜種の小人(コロポックル)のような命となって形を成すことがある。

 この魔法の根源的理論はそれだ。魔力が持つ命としての性質を利用し造り出された、即席の人造生命なのだ。

 

 術者の魔力を糧に生まれ、主命のままに絶大な破壊を馳走する虚像の獣。

 人は、それを召喚獣と呼んだ。

 

「■■■■■■■■──────!!」

 

 大気が破裂したかと錯覚するほどの、命なき獣の雄叫び。

 途端に全細胞が警鐘を鳴らし、本能が逃げろと間髪入れず訴えかけた。

 刹那。嵐に匹敵する風の暴威が一帯を薙ぎ払うと、ヴィクターを芥のように大空へと攫い上げてしまった。

 

 ただの風ではない。竜巻の如く合切を吹き飛ばす恐るべきエネルギーの奔流は、雷を孕み、灼熱を纏う蹂躙の権化だった。

 爆熱と轟雷の大演武が、ヴィクターを完膚なきまでに八つ裂いていく──!

 

「がッッああああああああああああああッッ!!?」

 

 熱風が皮膚を焦がし、稲妻が臓腑を搔き毟った。筆舌に尽くしがたい激痛に全身を殴られ、視界がバチバチと白熱化していく絶望的な音響が頭蓋を揺らす。

 呼吸が出来ない。方向感覚が消し飛ばされる。巻き込まれた石つぶてが皮膚を裂き、血潮が竜巻に入り混じっていく。

 

 それでも、少年の思考は崩れぬままに。

 

()ってえ! クソ痛ってえしバカ熱ィ! けどッ、先生に俺を殺す気はないのなら! ただ痛めつけようとしてるだけだ!!)

 

 イシェルの目的は殺害ではない。悪人のみを裁くという執念のもと、ヴィクターの命を奪うことだけは決行出来ない。

 大仰な魔法のオンパレードだが、全て抑えられている。そうでなければ、今頃ヴィクターは破砕機にかけられた家畜のように挽肉と化しているだろう。

 

(それにこんな冗談みたいな召喚獣、いくら先生が腕の立つ魔法使いでも一般人の領域を超えてる! 五属性を全力全開で一気にブッ放せるわけがねえ!)

 

 黒魔力という既存の法則に囚われないイレギュラーを操るシャーロットですら、五つの魔力を一挙に操作するなんて技は不可能だ。

 卓越した魔法技能を持っていたとしても、あくまでイシェルは一般人。常識を逸脱した魔法の裏にカラクリが存在するのは自明の理。

 

 考えられるとすれば、イシェルは医者だ。ならば薬理にも精通しているはず。

 となるとこの大技の源は、恐らく薬物による一時的強化(ドーピング)か。

 あの長い嘴状のマスクに魔晶石や植物の粉末でも忍ばせて、無理やり魔力を底上げしているに違いない。

 

 しかし、薬による魔力上昇効果はあくまで一時的なものだ。永続的に引き上げられるわけではない。

 それは肉親を食らう禁忌でしか成し得ないものだと、ヴィクターはよく知っている。

 

(つーことァ、この召喚獣は見掛け倒しのハリボテ! 中身が詰まってないんだ! 見た目よりずっと脆くて不安定なはず! ──だったらッ!! 力の核をブッ叩けばッ!!)

 

 拳を開き、鉤爪のように指を曲げて力を込める。

 万物を掌握する王の腕へ、燃え滾る闘志の焔を宿す。

 

「おおおおおおおォォあああああああああああああああああッッ!!」

 

 咆哮一陣。ヴィクターは己を翻弄する嵐を掴むと、力任せに引き千切った。

 腕に灼熱が、轟雷が絡みつく。ズバヂィッ!! と落雷のようなエネルギーの絶叫が爆発した。

 今にもヴィクターを呑み込まんと暴れ狂う奔流を捻じ伏せ、拳に纏わせたそれを、乱気流ごと吹き飛ばさんばかりに召喚獣へと殴り放つ。

 

 さながらそれは、狂飆(きょうそう)の徹甲弾。

 大蛇の召喚獣の喉元を穿ち抜き、巨体を大きく仰け反らせた。

 

「よっしゃあ一発命中!! ンでもってえ、まだまだブチかますぞコラァッ!!」

 

 召喚獣が怯んだ影響か、渦潮のような乱気流が弱まった。

 その隙を逃さない。再び嵐を引き裂いて拳に纏わせ、一気呵成に叩き込んだ。

 

 爆ぜた。爆ぜた。爆ぜた。

 莫大な召喚獣の力を逆に利用した龍颯爆裂拳は、はりぼての巨獣に無数の風穴を抉り抜き、砂塵と共に光の粒子へと消滅させた。

 

 途端、自由落下。ヴィクターは空気を掴み、減速することで軽快に着地する。

 一部始終を目撃していたイシェルは呆気にとられ、言葉の在処を喪っていた。

 

「……まさか、ゼノアニマを破るとは。君の(ソレ)は何だ? 見たことも聞いたこともない」

 

 イシェルからしてみれば、ヴィクターの行動は驚愕の一言に尽きるはずだ。

 理解不能な力で強引に嵐を打ち破り、あまつさえ召喚獣を破壊したその不可解は、魔法に精通するがゆえに色濃く異端となって映りこむだろう。

 

 少年を殺すつもりはなかった。傷つけて、恐怖を植えて、戦意を削ぎ落とし行動不能にする──そのための召喚獣(ゼノアニマ)だった。

 ゆえに手心は加えた。だが生半可にしたつもりなど微塵もない。

 ゼノアニマの嵐はヴィクターを完膚なきまでに痛めつけたはずだ。医師としての知恵が徹底的に計算し尽くした、人体ダメージを最小限に留めながらも最大限の苦痛を味わわせる方法で。

 

 なのにこの血濡れの少年は、未だ瞳を濁らせていない。 

 普通なら立っていられるはずがないのに。痛みと恐怖の楔が、四肢を縫い止めるはずなのに。

 

「……能力じゃない。真に驚くべきはその精神か。いくら加減されていると理解しても、嵐に飲まれながら機転を利かせるなんて並大抵じゃないよ。肝が太いなぁ、若いのに大したもんだ」

「そいつはどーも! じゃ、図太いついでに転血とやらのタネを聞いても!?」

「もちろん、駄目だ」

「ッスよねえ!!」

 

 光が煌めき、夜を駆ける。

 それは意志を持つ彗星のような無軌道を描いて、四方八方からヴィクターめがけて襲い掛かった。

 

「だらァッ!!」

 

 砕く。砕く。砕く。

 右から、左から、背後から。音を裂くように到来する静謐な凶器を正確無比に叩き落していく。

 光の粒子が舞い散った。

 きらきらと無邪気に踊るそれは、まるでご機嫌な朝霧のようで。

 

(──待て)

 

 気付き。

 釣り針が脳裏を引っ掻いたような、そんな錯覚。

 

()()()()()()()()()()()()……!? 指向性を失った魔法は空気に溶けて消えるはずじゃッ)

 

 例外はあれど、魔力とは単一で存在できるエネルギーではない。ヒトの血、水、土や鉱石、空気といった媒体を必要とする。

 豊かな自然のように魔力濃度の極めて高い飽和空間でもない限り、魔法としての()()()を失った魔力はすぐに霧散してしまう。

 

 だからこれは、あり得るはずが無いのだ。

 砕いたはずの光の矢が、雪原を踊るダイヤモンドダストのように残存するなんて。

 

「この粒子、まさかッ──!!」

「手で口を覆ったところでもう遅いよ。『燦然たる刃の子(ルクスフェルム)』は既に君の体内へと潜り込んでいる」

 

 ヴィクターの胸中に萌芽した危機感を掬い上げるように、イシェルは淡々と言い放った。

 

「お察しの通り、この光の粒ひとつひとつが極小の術式だ。呼吸を通じて血に混ざり、術者の意のままに血液を操作する……それが転血の本質だよ。本来は医療用なんだが、まぁ、用途を誤れば害に変わるのは薬と同じさ」

「っ……!」

 

 先ほど彼は荒事が苦手だと口にしていた。

 

 それは戦闘経験の乏しさからくる不慣れへの自覚だ。しかしイシェルは聡明な魔法使いである。欠点を克服せずして、悪への復讐などという大それた行動は起こさないだろう。

 

 恐らく、そうして生まれたのが『転血』の正体だ。

 第一陣の光の矢や召喚獣のような分かりやすい脅威を使わずとも、分散させた微粒子状の術式を吸い込ませれば、生殺与奪の決定権を強引に奪い取ることが出来るのだから。

 

「君のその腕輪……フォトンパスだったかな? 魔法の干渉を防ぐとは言っていたけど、万能じゃないよね。恐らく呪い(アナテマ)概念干渉(カース)の類だけで、魔法が引き起こす二次的な物理現象は遮断できない」

 

 ヴィクターの重々しい無言が肯定を露わにする。

 図星も図星だ。全ての魔法を断つなどという常軌を逸した力なら、召喚獣の攻撃などそよ風に等しい些事だったことだろう。

 

 フォトンパスはあくまで道具だ。それも魔力を原動力とするマジックアイテムである。

 他の魔法使いと違い、魔力というエネルギーを供給出来ないヴィクターは、必然的に機能を魔力貯蔵管(バッテリー)が許す範囲に制限されてしまう。

 それに例え使用者がシャーロットであっても、ある程度魔法を弱めるに留まるのみだ。全てを掻き消すわけじゃない。

 

「つまり、君の勝機は完全に潰えた」

 

 自らの心臓を親指で指しながら、イシェルは診断を告げた。

 それはある種の余命宣告だった。指をひとつ弾けば最後、ヴィクターは無数の刃に体内を喰い破られ、切り裂かれることになるのだから。

 

「もう降参してくれないか。これ以上傷つけるのは本望じゃない。昨夜の傷だって、まだ癒えてないんだろう? そんなボロボロの体で転血なんか受け止めたら、死にはせずとも後遺症が残ってしまう。分かったらさっさと帰りなさい。手遅れになる前に」

「先生が殺しを止めるってンなら、すぐにでも」

「ヴィクター君……!」

「つかよ、このままじゃ手遅れになっちまうのは先生の方だろ」

 

 拒絶と共に、ヴィクターは砂利と血の入り混じった唾を吐き捨てた。

 

「本当のあなたなら、イシェル・マッコールなら。俺の安全と自分の意志なんて、天秤にかけることすらしなかったはずだ。そうやって揺れちまってる時点で、いつか必ず先生は『善人』を手にかけちまう時が来る。自分の信念を歪めちまう瞬間が!」

 

 右肩に鋭い痛みが走った。

 ぬるりと背に伝う生温かい感触。皮膚が裂け、新鮮な()が零れたか。

 転血の部分発動──牽制の意志は明白だった。

 

「ぐっ、ぅ……! ほら、痛めつけることに躊躇が無くなってきてるだろ……! 最初は光の矢で威嚇するだけでも、たじろいだハズなのに!」

 

 それでも、例え五臓六腑を引き裂かれても。

 ここで退くわけにはいかないと、ヴィクターは力強く青い芝を踏みしめる。

 

「分かってンだろ、今のあなたがッ! 憎んで憎んでしょうがない外道に堕ちかけてることくらい! そんな先生をッ……!! 放っておけるわけねえんだよ!!」

「私は覚悟と信念をもってこの道を進むと決めた。だが生憎、理想主義じゃあない。『善人』の命を奪う──その線引きさえ超えなければ、多少の損耗はやむなしだよ」

「覚悟……? 信念? ならその手は何だ! ずっと震えてることに気付いてねえのか!?」

 

 言葉を叩きつけられたように、イシェルは重さを伴う沈黙に圧されるまま下を見た。 

 震えていた。少年の言う通り、杖を握る手がすすり泣く赤子のごとく。

 

「先生、もう止めろ……! 今のあなたは自分を拒んでるみたいで、見ていられない……!」

 

 自覚した途端、強張った手からズキズキとした痛みが伝わって。

 無意識の内に相当な力を入れていたのか、杖を握る黒い手袋にうっすらと鉄臭さが滲んでいた。

 

 左手で右手を包み、揉み解す。

 視線を手に吸い寄せたまま、小さく吐息。

 

「……ただのストレス反応だよ。荒事は苦手と言ったろう? 不慣れな喧嘩で筋肉が無意識に緊張した結果だ。的外れだね」

「いいかげん誤魔化すなよ、イシェル・マッコール」

 

 鷹の如く鋭い気迫で、少年はマスクに隠された復讐者の目を睨みつけた。

 それはひとえに、男が嘘のベールで心を覆い隠していると悟ったがゆえに。

 

「なぁ先生。今のあなたに、本当に覚悟と信念なんてあるのか? こんなことを繰り返して、本気でご家族の弔いになるとでも思ってるのか!?」

「思っているからこうしてる。何度も言っただろう? 悪をひとつ消すたびに、世の中の景色はもっと美しくなる。悲劇の予防を重ねた数だけ、私と同じ痛みを味わう人も減る。説得は無駄だよ」

「だから、()()()()()っつってんだろ! それだけは絶対にあり得ねえんだ! だってよ先生、本当にそれが正しかったら! あなたのご家族は愛する人の居場所が無くなっても喜べる、薄情な人間になっちまうじゃねえか!」

 

 一拍。

 時計が息を止めるような、空白。

 

「……なにを、急に」

「その美しくなった景色とやらにあなたが居ないのに、弔いになるのかって聞いてンだよ」

 

 傷だらけの少年は、強く一歩を踏み出した。

 復讐に燃える悪鬼は、ほんの少しだけ後退(あとずさ)った

 

 ──初めから違和感はあったのだ。

 イシェルは自らの理想と執念を物語るが、亡き家族の言葉を、あるはずの残された想いを、口にしたことは一度もなかったのだから。

 

 死に別れの果てに残された人間は、胸の内に死した人々の『生きる想い』を抱くことが出来る唯一の存在だ。

 

 あの人が生きていたら何て言うだろう。今の自分を見てどう思うだろう。

 悲しむだろうか。幸せを願うだろうか。背中を押そうとしてくれるだろうか。それとも怒るだろうか。

 そんな亡き者たちの魂が胸にあるから、命ある者は身を裂かれるような別れの痛みを受け止められるようになる。

 歯を食いしばって、心の中に託された想いに力を借りて、精いっぱい未来に踏み出していくのだから。

 

 当然、それはイシェル・マッコールの中にもあるはずだ。

 なのに彼は徹底的に、死者の魂に想いを馳せようとしないでいる。

 まるで後ろめたさの陰を認めまいと、目を背けているかのように。

 

「俺は亡くなったご家族の代弁者になるつもりなんて毛頭ない。最愛の人を失った苦しみと痛みは、あなただけの物だから」

 

 寄り添うように、支えるように、ヴィクターはイシェルの内側に踏み込んでいく。

 無礼なのは百も承知で。心の傷を抉る蛮行であることも呑み込んで。

 

「けど、ちょっとは考えるんだよ。あなたをそこまで憎しみに衝き動かすほど愛していたご家族は、きっと素敵な人だったから。今のあなたをみて納得なんてするはずがないって、どうしてもそう思っちまうんだ」

「たらればは無意味だ。死者は語らないし、考えない。彼女たちは憂う権利すら、悪に奪われたんだから」

「そうやって目を背け続けるのか、先生。亡くなった人の想いをこの世に生かすことが出来るのは、遺されたあなただけの力なのに」

 

 厭わず突く。イシェルが最も嫌うだろう、古傷の膿を。

 ここでイシェルの奥底に触れなければ、取り返しのつかない未来になると確信しているがゆえに。

 

「もし俺が的外れな世迷言を言ってると思うなら、あなたのその口で斬り捨てて欲しい。今の自分に家族は納得すると。想い馳せることは無意味だと。一番の理解者である先生が断言するなら、俺はもう何も言わない」

「……喋り過ぎだよ。状況を分かっているのかい」

「言えるはずだ。死者の想いが無意味だと、本気で思っているのなら」

「ヴィクター君……!!」

「言えよ、言ってみろ!! イシェル・マッコール!!」

 

 

 

 

 

 ぶしゃ、と。

 生肉の塊が弾けたような、みずみずしい残響。

 

 

「っ──」

 

 緊張が解けた手の中から、呆気なく杖が地に落ちていく。

 

「……、……?」

 

 熱を帯びた吐息が鼻から抜けて。

 不思議と、息が途切れ途切れになって。

 少しだけ、視界の靄が晴れた気がした。

 

 どくどくと巡る血潮の音が耳を衝く。こんなに働いていたのかと驚くほどに。

 まるで生の感覚を取り戻した亡者のような、目覚めに似た錯覚だった。

 

 けれど。

 熱を得た血が再び凍りつくような光景を前に、イシェルの瞼は閉じることを放棄した。

 

「ヴィクター君!」

 

 血濡れの少年が倒れていた。

 刃物で思い切り引き裂かれたように皮膚が割れ、中身がめくれている。

 腕や足の一部は外から骨が見えるほど肉が花開いていて、あふれ出る夥しい血潮が小さな湖を生んでいた。

 

 惨状の原因は、疑いようも無く自分自身。

 一切の加減も無い転血の発動が、一人の少年の体をここまで壊し尽くしたのだ。

 善人を手にかけてしまう瞬間が来る──そう突き付けられたばかりだったのに。

 

(なんて馬鹿な真似をっ、たかが子供の言葉に惑わされて、こんな衝動的にっ……! とにかく止血だ、出血が多すぎる!)

 

 落とした杖を拾い上げ、急いでそばに駆け寄った。

 裂傷部位と出血量から損傷した血管を識別。右脇の動脈が最も重い損傷と判断した。

 治癒魔法を施そうと倒れ伏す少年に杖を当てる。

 

 その時だった。

 

「!?」

 

 イシェルの腕が大蛇に囚われたかの如く、突如自由を奪われたのだ。

 原因など言うまでもない。眼前。虫の息の少年だ。

 もはや指一本動かすことすら叶わないはずのヴィクターが、イシェルの腕を掴み取っていた。

 

(何故動け──、ッ!?)

 

 培ってきた知識が告げている。

 この男はもう立ち上がれない。血管の大部分を破壊され、膨大な失血を抱えた状態で動けるものか。

 だが目の当たりにした不可解の仕掛けは、決して根性論などではない。

 

 ()()()()()()()()()

 

 まるで時が逆行しているかのように、体中に開かれた傷が瞬く間に塞がっていくではないか。

 理解できなかった。理解できる(よし)もなかった。

 こんな現象(もの)はイシェルの頭に存在しない。治癒力に乏しい基人(ヒューム)がここまで急速的に組織を再生させるなど、最上位の治癒魔法や千年果花の霊薬でも使わなければ不可能だ。

 

(待て、千年果花……? そういえば星屑ヶ原から霊薬を持ち帰ったとダモラス老が言っていたが、まさか!?)

 

 考えられるとすれば、腕のフォトンパスという道具か。

 もしあの水晶状の腕輪に薬が仕込まれていて。それを任意に注入できるとして。

 転血を食らった瞬間、即座に投与を実行していたとしたら。

 

(彼は一度転血を受けている! 警戒と対策を練るのは必定! だがッ、()()のではなく()()()ことを前提としたのは────!)

 

 彼は肝の据わった男だ。恐るべきゼノ・アニマの脅威にまるで怯まず、的確に弱点を撃ち抜いてみせた精神力は常軌を逸しているといっていい。

 彼は洞察力に優れた男だ。ダモラスがどこか誇らし気に語っていたことが思い起こされるように、出会って間もないイシェルの本質を見抜いた確かな『目』がそなわっている。

 

 つまり、彼は想定していた。

 自分が瀕死の重傷を負えば、()()()()()()()()()()()()と。

 

 全ては確実なる虚を穿つために。

 彼は医者(イシェル)の『信念』を信じ抜いたのだ。

 

「ッッッ────―!!」

 

 全力で振り払わんと抵抗する。

 だが動かない。ヴィクターの五指が、喰い込んだ牙のように捕らえて離さない。

 

 およそ重傷を負った人間のものではない怪力に、冷たい汗が額に滲んだ。 

 いいや。イシェルの背筋を這う怖気の源泉は、あれほどの痛みと死への肉薄を味わいながらも、まるで弱まることを知らない少年の瞳に対してか。

 

「先、生」

 

 骨肉のきしむ唸り声がした。

 握り固められた鉄拳が、イシェルへと狙いを定めた音だった。

 

「──『銀鏡たる守護よ在れ(プロテゴ・リフレクタ)』!!」

 

 あらゆる物理衝撃を鏡のように跳ね返す魔法の盾を、即座に展開せんと杖を振るった刹那。

 包帯に巻かれた拳の一撃が突き刺さって。

 まるでガラスが殴り割られたような盾の絶叫と共に、いとも容易く破壊された。

 どころか杖を叩き落とされ、魔法使いとしての武装を奪われて。

 

「だァらァあああああッ!!」

 

 暗血色のレンズに映りこむは、砲弾の如き男の拳。

 勢いは衰えることを知らず、吸い込まれるようにイシェルの右頬へと突き刺さった。

 

 







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46.「憎悪を騙る愛の男」

 重い、重い、重く鮮烈な衝撃。

 鋭い痛みが、久遠のように男を貫く。

 

 

「ッッ、ぐ、ぅ!!」

 

 恐るべきインパクトが頭蓋を揺らした。

 マスクを吹き飛ばされ、新鮮な空気が肌を撫でた。

 嘴に詰めていた魔力素材の吸入源を失い、心臓がさらに速まっていく感覚が生々しく血潮に響いた。

 

 

(……殴られるなんて、生まれて初めてかもしれないな)

 

 時間の流れが遅く感じる。 

 酷くゆっくりと、しかし確実に、体が崩れ落ちていくのがわかる。

 

 なんとなく、このまま倒れたら起き上がれないような気がした。

 気力の問題ではない。あれほど固執していた『悪』への憎悪まで、ぽっきりと折られてしまうように思えたのだ。

 

(ああ、ヴィクター君。君は正しい。この眼には眩し過ぎるくらいに。私は妻と娘から……逃げていたんだ)

 

 想いを生かせるのは遺された人だけ。

 その言葉が、矢のように突き刺さって抜け落ちない。

 

 患者の命を生かすために、イシェルは数えきれないほどの病と戦い続けてきた。

 それはただ肉体の生命活動を維持するためだけの行いだったのか。骨肉が、血潮が、臓腑が、正しく機能するように調整するだけの仕事だったろうか。

 

 違う。

 医者が生かすのは細胞の塊ではない。医者(イシェル)が生かすのは人の命だ。

 

 病に苦しむ人々を救い、もう一度生きる希望を芽吹かせること。それこそが治療の本懐にあたる。

 患者だけではない。家族もそうだ。愛する肉親を失う恐怖を拭い、幸せを取り戻す手伝いをする。

 それがイシェルの見出した、病と闘う者としての在り方だった。

 

 心臓を患い、迫る死の足音に泣いた孤独と恐怖は今でも鮮明に想起できる。

 一人の医師に救われ、自分の人生を歩めるのだと知った時の喜びと感動は、なにものにも代えがたい宝物だ。

 あの地獄があったから、イシェルは生きる喜びを知った。あの奇跡があったから、医者になる道を選んだのだ。

 

 だからイシェルは、患者の心に寄り添う医師であろうとした。

 助けを求める声があれば全力で応えた。どんな僻地にでも飛んでいった。

 完治したと診断を下せるまで、なにより患者が本物の人生を取り戻すまで、力を惜しんだことは一度もなかった。

 医者が治すのは、人だから。心を持った人間だから。

 

 

 救えなかったこともある。

 技術の限界。患者の容態。あらゆる不幸が重なって、命を取りこぼしてしまう瞬間は決して少なくはなかった。

 安らかに眠る遺体の傍で、張り裂けそうなほど泣き腫らす遺族の背中は、どれだけ年を重ねても耐えがたい苦痛だ。

 

 

 ああ。

 ()()()()は、果たしてどうだっただろうか。

 薄暗い部屋の中心で。嘘みたいに真っ白な布で顔を覆われた、二度と目を覚ましてはくれない二人の眠りを。

 どんな風に、見届けていただろうか。

 

 鉛のように。

 記憶が重い。

 

(……涙は……出なかったなぁ)

 

 思えばあの時から、家族を失った事実に眼を背けていたのかもしれない。

 棺に花を添えた時も。火にくべられる二人を見送った時も。どこか遠くから傍観しているような、現実感の無い空虚さだけが心にあった。

 

 イシェルという男の歯車がわらを噛んだように回らなくなったのは、きっとその瞬間からだ。

 いいや。家族を奪った男を倒したあの日から、イシェルの何かが狂っていた。

 

 

 

『いってらっしゃい。お仕事、しっかり頑張ってね』

『ぱぁぱ! はやくかえってきてねぇーっ!』

 

 

 

 今も、狂ったままだ。

 

 

「ぐ、ぅぅ、ぅ……!! うぅおぉおおッッ!!」

 

 

 地に足を杭撃って踏ん張りとどまる。

 倒れそうだった上体を精神で持ち堪え、跳ね上げるように体勢を立て直す。

 顔の血管が今にも切れそうだ。食いしばった歯から血が滲んでいるのが分かる。体の奥が無性に熱くて、火を吐きそうな激しさが蠢いている。

 

 火花が散る視界。揺れる意識。

 地震でも起きたかのように不安定な頭を、自分の(もも)に光刃を滑らせた痛みで無理やり抑え込んでいく。

 

 バタタッ、と。青い草葉を鉄臭さが塗りたくった。

 

「……認めるよ。家族のことは考えないようにしていた。一度でも想いを馳せたら重みに潰される。それが、怖かったんだ」

 

 手の甲を突く、冷たい感覚。

 雨粒が。ぽつりぽつりと。

 

「妻と子を喪った夜。私は家族の救命より暴漢を叩きのめすことを優先してしまった。変わり果てた二人を見て、もう助からないなんて思い込んで、頭が真っ白になって……衝動的に。今まで数百人の命を救ってきたはずなのに、もっとも重要な局面で治療優先順位(トリアージ)を見誤った。これは完全な()()だ」

 

 口の中の血をツバと共に吐き捨てる。

 怨嗟の赤が、雨水に薄れて消えていく。

 

「妻も娘も私にはもったいないくらい出来た家族だった。彼女たちならきっと、仕方なかったと宥めてくれるかもしれないと思えるほどに。だが、だが、彼女たちの魂へ寄り添う資格なんてどこにある? 妻子を見殺しにしたも同然なこの私に。なぁ、どこにあるって言うんだよ」

 

 イシェルは、鬼気迫る執念と共にヴィクターを睨んだ。

 

「そうだとも、ああそうだとも! 私は逃げていた! 考えないようにしていたさ! 屁理屈をこねて、大義なんてもので掻き消して! 彼女らの遺志を受け止めようとしなかった! 受け止めてしまえばっ、現実を納得するしかなくなるからだよ! 私が家族を殺したんだとッ!! そんなのっ、納得出来るわけないじゃないかぁッッ!!」

 

 右腕に雷を宿す。それは一振りの稲妻の剣をイシェルに与えた。

 無理やりな魔法発動が柄を握る指を焼き、バチバチと骨肉が悲鳴を轟かせる。

 

「私たち家族が何をしたんだ!? ただ穏やかに暮らしていただけだ! なのにあんなっ、あんなにも呆気なく……!! ほんの少し前まで生きてたんだぞ!? 娘は託児園を卒業したばかりだったのに!!」

 

 指を焼く苦痛なんてもはや露程も感じない。

 イシェルの歪んだ信念が、憎しみで己を焼き潰す限り。

 

「鳴りやまないんだよっ……!! 仕事に行く私を見送った二人の、最期の言葉が……っ……ずっと……ずっと……!!」

 

 けれど。その声は、叫びは。

 身を八つ裂く苦しみと痛みを、どうしようもなく掻き鳴らしていた。

 

「……ずっと囚われていたんですね。それほどの自責と憎しみの茨に」

 

 対するヴィクターは、ただ穏やかにイシェル・マッコールを見つめていた。 

 憐れむでも、悲しむでも、怒るでもなく。ただ静かに。

 言の葉が実らせた慟哭を、受け止めているかのように。

 

「悲運を背負う人を減らすための悪の予防策。それも疑いようのない本心だった。でもそれ以上に、先生は自分の犯した()()を認めることが出来なかった。だからご家族を失った時のように、悪を裁くことに救いを求めたんだ」

 

 ──イシェルの心を歪めたのは悪のみに足らず。自分自身が犯した取り返しのつかない過ちもまた、腐敗を誘う悪疫だった。

 本当は家族を助けられたかもしれないという、答えのない永遠の呪い。ある日突然人生を奪った、悪に対する尽きることのない憎しみ。

 心優しかった一人の男を狂わせた、忌まわしき診療録がそこにある。

 

 全てはただ、愛深きゆえに。

 

「……初めて人を殺したのは、私から何もかも奪った男だった。心神喪失で移送された病院先を突き止めてね。そうしたら奴は、自分を担当していた女性に乱暴を働いていることが分かった。妻の最期と強烈に重なってさ、一気に血が昇ったんだ。その晩、転血で心臓を破裂させた。別に何の感慨もわかなかった」

 

 雨が降る。

 大粒の雫が、ぽつりぽつりと音を立てて。

 

「二人目はならず者を使って弱者に恫喝を繰り返し、不当な負債を背負わせていた個人金融。三人目は若者に違法薬物を売りさばいていたドワーフ。どいつもこいつも、救いようの無いロクデナシの屑ばかり」

 

 黒ずんだ雲が月を覆う。青ざめた夜が完全な闇に覆われる。

 その中にただ一筋、イシェルの雷剣のみが暗黒を喰らう。

 

「命を救うのはとても難しい。何をどうしたって取りこぼしてしまう瞬間がある。それでも医者(こっち)は繋ぎ止めようといつも必死だ。なのに奪うのは、驚くほど簡単なんだ」

 

 暗く冷たい夜雨は好都合だった。

 今の自分は、泣いているのか笑っているのか分からないくらい、ぐちゃぐちゃな酷い顔をしているんだろうから。

 

「私が一人治す間に、悪はその何倍も人生を奪える。たかが数百人救った程度で喜んでた自分が馬鹿みたいに思えて、分からなくなってしまった」

 

 くしゃり、と。湿った草葉を踏みしめて。

 

「だからさ、膿のような奴らを殺して、もっとたくさんの人生を救えたら……私が犯した過ちにも、家族にも、少しは意味が生まれるかなって、思ったんだ」

 

 肉が焼けることも厭わず。痛みを甘く受け止めることを選んで。イシェルは両手で、雷の剣を力強く握りしめた。

 もうこの道から退くことなど叶わないのだと、漆黒の意思を少年へ突き付けながら。

 

「許せないよ、世に蔓延る悪どもが。何よりも自分自身が。私は病巣(わたしたち)を取り除くことでしか、二人に報えない」

「それは違う!」

 

 透き通るような否定の言葉が、稲妻よりも強く(いなな)いた。

 

「自分で言ってただろ、()()()()()()()()()()()()って! 何年も何年も、誰よりも誰よりも人の病に向き合ってきたあなたが諦めちまうくらい、どうしようもない状態だったんだって! 先生は誤診なんかしちゃあいない! いきなり人生ぶち壊されて心を病んじまった、一人の父親がいただけなんだよ!」

「知った風な口を利くなぁッ!! 君に何が分かる!?」

「わかるさ! 医者(じぶん)の魂ズタズタにしてまで愛する人の死に意味を持たせようとした人間がッ! 狂っても忘れなかったほど深いあなたの愛が! ご家族の死を絶対に間違えないことくらいッ!!」

 

 それはまるで、暗雲を破く陽射しのような。

 イシェルに絡みつく悔恨と憎悪のしがらみを払い除ける、力をもった言の葉の光。

 

 けれど。

 

「もう遅いよ……私はッ……もう戻れない……! 三人も殺したんだ、この手で! 命を救ってきたはずの手でっ! 例え悪人だろうとも、人の命は誰かに支配されるものではないと分かっていたのに! だったらもう、最期までやり通すしかないんだよ……!! この血に染まった手で、悪疫を消し潰すしかッ」

「──先生。あなたが命を狙ったゴブリンの男を覚えてますか」

「ッ」

「彼は確かに盗みを働いた。でもそれは重い病に伏した友達を救うために、貧しい身の上で薬を手に入れようと必死だったからなんだ」

 

 ──心臓に刃を突き立てられたかのような錯覚。

 

「あいつのやり方は良くなかった。でも、斬り捨てられますか。悪だなんだと単純な一言だけで。その先に生まれるご家族の死の意味に、納得できるんですか」

 

 少年はゆっくりと、包帯に巻かれた拳を水平に上げた。

 

「戻れるよ、先生。あなたはまだ、医者にだって父親にだって戻れるんだ。一人じゃ無理だってンなら俺がいる。俺があなたを引っぱり上げてみせる」

 

 半身を逸らし、腰を落とし、構えを取って。

 強く、強く、何者にも砕かれんと示すように、金剛の意志を握り固めて。

 

「言っただろ、ぶん殴ってでも止めるって」

「────ははは」

 

 瞬間、稲妻の剣が太陽に匹敵せんばかりの閃光を解き放った。

 魔力が迸る。磁励音に似た波動が草葉を揺らす。漆黒の医師を中心に起きた爆発現象は、彼の者が持つ刀身を天を衝かんばかりに引き伸ばした。

 

 稲光の雄叫びを爆ぜて猛り狂うその姿は、まさに黄金の龍が如く。

 イシェルは龍の尾を掴む腕にありったけの力を込めて、全身全霊の一刀を振り下ろした。

 

「おおおおおおおおおッッッッ!! だァあああああああらッッッッッしゃああああああああああああああああああああああ────ッッッ!!!!」

 

 迎え撃つは巌の鉄拳。

 大きく下から振りかぶり、空を穿たんと天空へ弾けた少年の拳は、迫り来る金色の稲妻を喰い破らんばかりに衝突した。

 

 刹那、大気の破裂が巻き起こった。

 

 金属同士が衝突したかと錯覚するほどの耳を(つんざ)く音の津波。

 芝生に波濤がなみ打ち(はし)る。拳と刃の鍔競り合いが火花の大豪雨を噴き散らす。

 産み落とされた凄絶なインパクトは、狂瀾怒濤と夜の闇を無慈悲なまでに引き裂いた。

 

 力は拮抗。互いに退かぬ死線の渦中。

 勝負の分け目は、砕けぬ意思の果てに在り。

 

 

 然らば。

 灰生まぬ焔に、敗北の道理は一片も無し。

 

 

「イシェル・マッコール。あなたに憎しみは似合わない」

 

 パァンッ、と。

 硝子が命を終えたような悲鳴が散って、稲妻の剣が光の粒へと溶け去って。

 

「目ェ覚ましやがれよ馬鹿野郎──その悪夢、ここで終わらせてやるからなぁッ!!」

 

 

 音も砕けた静謐の最中、イシェルは幽かな微笑みと共に瞼を閉じた。

 この夜を駆ける流星が、とても眩しかったから。

 

 

 

 

 

 

「君はどうして……私のためにそこまで……?」

 

 芝生に仰向けで倒れ込んだままのイシェルが、掠れた声で呻くように問いを投げた。

 

「友達の女の子を裏切りたくないから……って、君は言っていたけれど……それでも……一貫して私を()()()ことに尽力したのは……性善説があってこそだ……。人殺しの私に何故……最後まで情を貫けたんだ……?」

「何故って言われても……先生が良い人だから?」

「……は?」

 

 少しだけ頭を持ち上げて、イシェルは驚いたように目を開いた。

 草葉の絨毯にどっかりと座って肩を揉むヴィクターは、逆にきょとんとした表情。

 

「私は……人殺しだぞ……? 良い人だなんて、そんな馬鹿なことが」

「ンなこと言ったら俺だって間接的に一人の命を奪ってる。ちょっと前にとんでもないクソッタレとやり合いになって、その時に」

「……!」

「俺、先生みたいに頭良くないんで、善だ悪だって線引きがイマイチ分かんないんです。キッカケさえあればどっちにでも転ぶものだって思ってるくらいで」

 

 ──かつてのシャーロットは、イシェルの言う『悪』に堕ちかけた人間だった。

 しかしエマとの死闘の果てに血脈の鎖から解き放たれたシャーロットは、今や一人の少女として暮らしている。

 あの時なにかの食い違いがあれば、シャーロットはヴィクターを生贄として命を奪い、暗澹の底へと転落していたことだろう。

 

 武聖グイシェン・マルガンは、ヴィクターとシャーロットの()()のために遣わされた天蓋領の刺客だった。

 しかし彼女は虐殺を良しとせず、アーヴェントの心臓を奪う主命を受けながらも、三聖という臣民の盾としての役割との矛盾に葛藤を抱いていた。

 いわく、敵だが悪人じゃない。シャーロットが出した結論だ。

 

 だから人は善悪の二元論で語れないものなんだと、ヴィクターはぼんやりながら考える。 

 

「病院にいた時の先生はすっげー眩しかった。患者からも仕事仲間からも、信頼を置かれていた大きな柱だった。爺さん(ダモラス)も言ってましたよ、あなたほど患者のために命を削ってる医者はいないって」

 

 

 殺人鬼の正体に気付いたあの夜、ヴィクターはダモラス夫婦に介抱されながらイシェルの素性を訊ねていた。

 出てくるものは賛辞と感謝ばかりだった。陰ったものはひとつもない、真っ白で美しい言の葉の束だ。

 多忙にもかかわらず遠くまで面倒を見に来てくれる誠実さ。患者が納得と安心を得るまでとことん付き合ってくれる真摯な姿。どんな難病も最後まで諦めない不屈の心。

 まさに医者の鑑だと、太鼓判を押すように彼らは言った。

 

 病院で影から見ていた時も、二人の評価を裏付けるような光景だけがそこにあった。 

 誰一人として無下にせず、壁を作らず、決して驕ることなく、ただひたむきに病と闘い、患者を守ろうとする白衣の戦士。

 その大きな背中には、一人の男として憧憬を抱いたほどだったのだ。

 

「俺はまだ青二才のガキっスけど、大事なのは心の在り方だと思うんです。道を踏み外してしまった先生も、人間性まで失くしちゃいなかった。それだけです」

「……ははは。まったく、完敗だよ」

 

 イシェルの声から、瞳の奥から、粘ついた暗い澱みが消えていた。

 過去を乗り越えただとか、そんな大層なものではない。彼の抱える傷は大きなものだ。これだけはどんな名医であっても治すことは難しい。

 

 でもきっと、もう大丈夫だろうとヴィクターは思うのだ。

 鉄茨のように絡みつくしがらみから解放された安らかな微笑みは、前にも見たことがあったから。

 

「……あっ。そうだ先生、ひとつ聞きたいことが────」

「お前たち! そこで何をやっている!」

 

 ヴィクターの声を遮るように、聞き慣れない男の声が駆け抜けてきた。

 

 反射的に振り返る。途端、目を刺すような光が網膜を突っついた。

 人だ。手にカンテラを持っている。それも視界が白くなるほど強烈な、きっと光魔法を内蔵してる特別なものだ。

 

 手で光を遮りながら注目すると、夜闇を照らすカンテラを掲げているのは、どこか身に覚えのあるシルエットだった。

 かっちりとした紺色基調の礼装に身を包んだ一人の青年である。胸元のバッヂには白薔薇と聖女のマークがあった。

 それは彼が騎士団の一員であるという、無二の証に他ならない。

 

「大きな爆発音があったと通報を受けたぞ! 二人ともその場で大人しく──お、おい、なんだその怪我は!? ここで何をしていた!?」

「ああ、まってくれ。騒ぎの原因は私だ。彼はたまたま巻き込まれただけだよ。全て話すから、杖を下げてくれないか」

「な、なら両手を上げてこっちに来い。妙な動きはするなよ」

 

 膝に手を突き、「あいたた」と呻きを漏らしながら、イシェルはゆっくりと起き上がった。

 そのまま両手をあげて無抵抗を示しながら、騎士団の青年へと投降していく。

 

(……ん?)

 

 イシェルの背を見届けていたヴィクターは、ふと腕のフォトンパスが何かを訴えていることに気がついた。

 矢継ぎ早にメッセージが送られているのだ。送信元はオーウィズとシャーロットらしい。通知を伝える小さな振動が、ぶるぶると手首を震わせている。

 

 考えてみればもう真夜中だ。しかもレントロクスへ向かってから一切連絡を入れていない。

 これはまずいか、と無意識に頬が引き攣る。

 

(あちゃー、めちゃくちゃ心配させちまってるな……。夜も遅いし、フォトンパスを通じて俺の生体数値(バイタル)を見てるはずだから、今ごろ血相変えてるかも。悪いことしたな)

 

 念のためフォトンパスを起動し、水晶盤をなぞってメッセージを掘り進んでいく。

 やはりというべきか、『大丈夫?』『また失血のシグナルが送られてるんだけど』『返事をくれ』と身を案じる言葉が大量だ。しかも現在進行形で新たな通知が届けられている。まるで洪水である。

 

 ヴィクターは魔力回路を持たないがために、他の使用者と違って視界に情報を反映するような機能が使えない。

 ゆえに手動で確認や返信をするしかないのだが、ヴィクターはどうも魔道具というものが苦手だった。いまいち操作に慣れないでいる。 

 今も指先一つで丁寧に丁寧にメッセージを読もうとしては、誤操作で画面を閉じたりと四苦八苦だ。

 

 やっとの思いで一番過去の未読履歴を掘り当てたが、何やら様子のおかしい文が飛び込んできて、ヴィクターはきゅっと眉をひそめる。

 

『生体情報からして、悠長に返信する余裕がないのは把握している。だから返事は要らない。ただどうか、機を見てこのメッセージを読んで欲しい』

 

 オーウィズからのものだった。

 どうにも怪訝な雰囲気だ。思わず水晶盤をなぞっていた指が止まるほどに。

 

『君は昨晩、ポータルでブーゴ君だけを送り届けて館に帰らずそのまま消えた。ボクたちに相談もなく、島にも帰らず、二夜も続けて戦闘状態になっているのは、絶対に見逃せない敵の正体が事を大きくさせたくない相手、つまり君の知り合いだったからなんだろう』

(ん? は? ちょっと待ておかしいぞ、なんだこれ)

 

 オーウィズの推測が──ではない。むしろ的を射ている。

 殺人鬼の正体がイシェルだと知ったヴィクターは、オーウィズやシャーロットの介入を避けるためにあえて相談の道を選ばなかった。

 それは彼との戦いが命を奪い合う死闘ではなく、説得に重きを置くがゆえだ。

 

 1対多数の状況なんて作れば最後、イシェルは絶対に心を開かない。人の魂に根付く闇は、公に晒されることを何よりも嫌う。

 これはイシェルとヴィクターの問題だ。二人だけの対等な空間があって初めて対話は成立する。

 互いの中身をぶつけ合う場を設けなければ、イシェルを救うことは出来ないとヴィクターは考えていた。

 

 だから、問題はそこじゃない。

 ()()()()()()()()という一文が問題だ。

 

(馬鹿な、俺は確かにブーゴと一緒に家に帰った。みんなには後で話すって約束して、それで)

 

 ザザ──と、記憶という砂の城を熊手でゆっくり削られるような、脳の奥に響く異物感。

 冷や汗が伝う。瞳孔が開く。

 言葉で表せない気持ちの悪い感覚が、口の中の水分を奪っていく。 

 

 

『君が戦っているのはきっと殺人鬼(アマルガム)だね。もしそうだったら、敵の職業が何かを見定めて欲しい』

(職業、って)

『一連の殺人事件にはどうしても点と点が繋がらない不自然さがあった。一方は自殺に見せかけられた巧妙な手口。もう一方は証拠こそ無くとも、事件性そのものを隠す気はない荒いもの。被害者も一貫性のない無作為なものと、洗えば真っ黒な経歴ばかりの悪人に絞られたもので二分されている。一つの事件に二つの色。恐らく、君は後者の殺人鬼と戦っているはずだ』

 

 胸の中がざわざわと騒ぐ。

 読み進めていくたびに、不正咬合のような無視しがたい違和感を拭えなくなっていく感覚。

 

『初めは知能犯の承認欲求がわざと事件発覚に導いているのかと思っていた。けれど違ったんだ。信じ難いことだが、これは同時期に全く別の殺人事件が重なって起きていたものなんだよ』

 

 フォトンパスをなぞる(スクロール)手が止まらない。

 

『騎士団が暴けないのも無理はない。あれは自殺に見せかけた殺人じゃなくて、()()()()()()()()()なんだ。アマルガムは直接手を下さずに被害者自らに命を絶たせた。それもあえて殺人を匂わせるために、奇妙な状況を産み落とさせる常軌を逸した手口で』

 

 止められないまま、ヴィクターの中に降り積もっていた真実の一端が、少しずつ顔を覗かせてくるような錯覚。

 

『ライアン君ら三人に仕掛けられていた記憶操作でピンと来たんだ。被害者は皆、星の刻印に精神を操られて自殺に追い込まれたのではないかと。だが問題なのは、精神干渉法は魔法であれ異能であれ、ある程度の発動条件を必要とすることだ。例えば全くの無警戒。警戒心という心の守りが失せた状態だ』

 

 ──かつてエマがアーヴェント一族の精神や記憶を操れたのは、彼女の持つ異能力の性質によるところが大きい。

 人錬の刻印は触れた人間の肉体を自在に操る力。それを応用し、エマは脳の海馬や頭頂葉の電気信号を直接いじることで認知機能を操っていた。

 

 しかし、人間の精神とはそう容易く篭絡できるものではない。事実シャーロットは自力で二度も打ち破っている。

 例え魔法の心得の薄い一般人相手であっても、警戒した人間の心を魔法ひとつで崩すなんて真似は不可能に近い。

 

 裏を返せば。

 相手に信を置いた無防備な心であれば、精神干渉の難易度は劇的に下がる。

 

『つまりアマルガムは、出会ったばかりの他人だったとしても、容易く懐に入りこめる状況を作りやすい立場の人間だ。ある日突然、家を訪ねてきても不審に思われない役回り。この社会で全幅の信頼を置かれている仕事はなんだ? 答えはただひとつ』

「────騎士団だ」

 

 天蓋領が有する、この世界唯一の公正実力組織。

 三聖を筆頭に据えられた臣民の盾にして、魔を払う泰平の刃。

 

 そう。大抵の人間は騎士団に無二の信頼を置いている。

 薬屋の老婆がそうであったように。

 

 

 

「なぁ、君」

「ん? なんだ、質問はこちらが済んでからにしろ」

「通報があったという話は本当なのかい?」

 

 背後で事情聴取を受けていたイシェルの声が、やけに鮮明になって鼓膜を打った。

 

「当然だろう。何故そんなことを?」

「いやね、『朧々たる城塞(カストラム・オカルトゥス)』がまだ消えていなかったものだから、ちょっと気になってさ。知ってるだろ? 外界と空間を隔絶する魔法だよ。もちろん音も光も外に漏れることはない」

「────」

「それに騎士団は二人一組行動のはず。見たところ一人だけのようだが?」

「何が言いたい」

「例の殺人事件、まだ解決していないよね。このピリついたご時世に爆発騒ぎなんて、もっと人員を寄越すものだと思うんだが……君、()だい?」

 

 

 言葉は火蓋を切るように、イシェルの周囲一帯が『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』の産声を響かせて。

 ぐち、と。仏頂面に塗り潰されていた青年の口が、一転して三日月に裂かれ始めた。

 

 

 だがしかし、ヴィクターの全神経を駆けずり回る雷管を弾かれたような警告は、イシェルに離れろと絶叫を張り上げていた。

 

「どけぇ先生ッッ!! そいつから離れろォォおおおおおお────―ッッッ!!!」

 

 時の緩む加速世界に突入し、騎士団を名乗るナニカへ龍颯爆裂拳を叩き込まんと振りかぶって。

 瞬間。深海の底へ突き落とされたかのような暗黒が、ヴィクターの視界を塗り潰した。

 



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47.「罪なるかな」

 思えばヒントなんて、いくらでも転がっていたように思う。

 

 決定的だったのは人を魔物に変える災厄、禍憑きの存在か。

 あれは特定の人間を狙うなどという器用な真似を可能とする代物ではない。

 ひとたび芽吹こうものなら無作為に命を貪りつくし、あっという間に虐殺の坩堝を生み出てしまう禁忌なのだから。

 

 オーウィズは言っていた。

 ブーゴ、ホルブ、そしてライアンの三人に植え付けられていたそれは、特定の言葉に反応し周辺一帯を()()()すべく仕掛けられていたものだったと。

 

 ()()()()()()()()()。ああ、矛盾にもほどがある。

 

 イシェルは虐殺をよしとする人間ではない。彼を蝕んだ憎悪には、悪の予防によって善き人々を守るというたしかな目的があった。

 大勢の市民を死の水底(みなそこ)に沈めかねない魔物の芽なんか、絶対に手を伸ばすはずがない。

 

 手口だってそうだ。イシェルは転血という、殺傷特化に改造した独自の医療魔法を行使して暗殺を行った。

 しかしオーウィズが見せた資料には、イシェルが手を下したらしき体が内側から弾けた死体と、自殺に見せかけられた他殺体──否、()()()()()()()()()()の二種類が存在している。

 

 言うまでもなく後者の遺体は、星の刻印によって精神を蝕まれた犠牲者たちのもの。ところがイシェルには徹頭徹尾、そんな力を発揮する場面など存在しなかった。

 

 ブーゴたち三人に残されていた精神汚染は星の刻印と同様の力だった。

 ならばこの時点で、三人組を襲った()()とイシェルは、切り離されなければならなかったハズなのだ。

 

 

 気付くべきだった。気付かなければならなかった。

 いいや。()()()()()()()()()()()

 

 

 ──殺人鬼(アマルガム)は、二人いる。

 

 

 

「う……」

 

 冷たい。

 湿った匂いがする。まるで冷えた洞窟にでも放り込まれたかのような寝心地だ。

 腕が痛い。変な方向に寝違えているのに似た、強張った筋の違和感がある。

 

「……ンだ、ここ?」

 

 重い瞼をこじ開けて、霞む眼球が精いっぱい捉えた景色は、まるで覚えのない場所だった。

 古い建物の中だ。独房のような部屋に閉じ込められている。

 寂れていて、満足な明かりもないせいで薄暗く埃っぽい。ひんやりじめじめした嫌な不衛生感が充満しており、ほのかに尻が湿っていた。

 

 それ以外に情報は無い。窓がないせいで外の様子もうかがえないし、(キャルゴ)が走る音も、生き物の鳴き声も聞こえない。

 

(地下っぽい雰囲気がする。まるで牢獄だな。ご丁寧に縛られてるし)

 

 腕を上げれば、じゃらっと金属がいなないた。

 両手首を縛る太い鎖だ。乱雑に絡められていて、拘束具というには荒々しく粗雑である。

 しかし、手を抜こうとしても抜ける気配はない。

 壁の亀裂と繋がっている鎖の根元を引っ張ってみるが、どういう理屈なのか、まるで割れ目にひそむヘビを引きずり出すようにズルズル伸びてきてキリがなかった。

 

 仕方なしと、力技に移る。

 

「ふんぬッッ! ぐぎぎぎッ、だぁッ!!」

 

 腕の筋肉を爆ぜさせるように力を注ぎ、鎖を無理やり弾き飛ばした。

 ばらばらと音を立てて転がる金属片の亡骸。それらは不思議なことに、煙のように溶けて消えてしまった。

 魔法の鎖か。拳を握り、開いて、手の調子を確かめながら腕を見る。

 

「……フォトンパスは無事か。蓄魔石(バッテリー)は奪われたみたいだが。ああクソ、魔力が切れそうじゃん。これじゃ通信できねえ」

 

 フォトンパスには防護機能がついている。所有者以外が持ち主の許可なく外そうとすると、内蔵された魔術的反撃が発動するという仕組みだ。

 

 盗まれなかったのはそれのお陰だろう。不幸中の幸いと言えるが、しかし動力源を奪われたのは痛かった。

 魔力の無いヴィクターでは、蓄魔石(バッテリー)がないとエネルギーを充填出来ないからだ。

 

 水色のクリスタルのような質感だったフォトンパスが力なく明滅を繰り返している。今にも動力が切れそうなのか、液晶の端から墨色に染まりつつあった。

 叩き起こすように指を這わす。この時ばかりは魔導駆機(ゴーレム)オンチを呪いながら、どうにかオーウィズへと短いメッセージを飛ばすことに成功した。

 

 これで伝わってくれと願いを込め、力尽きたフォトンパスに手を添える。

 ……記憶が正しければ、まだ残魔力に余裕はあったはずなのだが。はて。

 

(考えたって仕方ないか。ひとまず優先すべきは先生の安否だ。きっと一緒に連れて来られているはず)

 

 善は急げと、この部屋で唯一のドアに手を伸ばす。 

 呻くような錆び音。建付けも少し歪んでいるのか、感触が重い。

 半ばこじ開けるようにドアを開いて、恐る恐る顔を出した。

 

 明かりひとつない細い廊下だ。かなり長く奥まで続いている。

 太陽光の迎え口がひとつもない閉塞感は胸に響くような重苦しさがあった。

 無数に点在するドアはまるで独房のような情景を作り出し、言いようのない不気味さがざりざりと神経にヤスリがけしてくる。

 

「なんなんだここは。廃墟にしては普通の建物に見えないぞ」

 

 窓が全くないところからして、やはり地下なのかもしれない。そうであればこの湿っぽさも冷ややかさも合点がいく。

 であれば一体、気味の悪い雰囲気が常に肌をぬぐうこの施設は、一体なんのために作られた場所なのか。

 なんとなく。なんとなくだが、人をまともに生かすような、人間の住処としての機能性を感じなかった。

 

「……ん? お、おい、大丈夫か!?」

 

 覗き窓をひとつずつ確認していると、中で力なく横たわっている小さな影が見えた。

 ドアを開ければ、そこには鎖に繋がれた小人(コロポックル)の姿が。

 痩せこけた体。青白い肌。限りなく褪せた水色の髪に、宇宙のように澄んだ銀河模様の瞳。

 

 島にいる金髪紅眼の子たちとは異なる容姿。きっと黄昏の森とは違う、別の『禁足地』出身の小人(コロポックル)だろう。

 

 今にも途絶えてしまいそうな浅い呼吸を繰り返す小人(コロポックル)は、ヴィクターを視認しても何の反応も示さなかった。  

 むしろ目が見えているかどうか怪しい。視線はどこか虚ろで、焦点が定まっていないように思える。

 

「待ってろ、今助けるから」

 

 小さな亜人を繋ぎ止めている鎖を掴む。

 瞬間、バヂッと電気のような衝撃と共に指を弾かれた。

 

「いってえ、魔法かクソッ! だが認識すりゃあ問題ねえ、よっと」

 

 王の腕に宿る万物干渉の力。接触対象の選択を可能とする異能は鎖から魔法のみを引き剥がし、改めて破壊を成功させた。

 

 腕が自由になった小人(コロポックル)は、小さく瞬きを繰り返しながら弱々しくヴィクターを見上げる。 

 ふらっと体が傾いた。とっさに背中へ手を回して支える。

 軽い。軽すぎる。いくら子供のように小さな種族とはいえ、片手ですらまるで重みを感じないことに驚きを隠せなかった。

 

 一体いつからここに閉じ込められていたのか。

 惨たらしいまでの衰弱ぶりに、奥歯が軋む。

 

「今までよく頑張ったな、もう大丈夫だぞ。一緒にここを出よう」

「……ありが、とう」

 

 しかし蚊の鳴くような声を発した直後、小人(コロポックル)の姿が忽然と消えた。

 まばたきのような一瞬の出来事だった。この手で確かに支えていたはずの小さな体が、まるで空気に溶けた煙のようにいなくなったのだ。

 

 部屋中を見渡してもいない。声をかけても反応が無い。

 透明化魔法(ヒアリン・ヴェルム)かと元居た場所に手を伸ばしても、ただ虚空を掠めるだけだ。

 

「幻覚でも見てるのか?」

 

 幻覚。 

 零れた言葉が小さな発想の芽を生やす。

 二人目の殺人鬼……状況からしてあのニセ騎士団は、精神干渉系の刻印使いであるアマルガムで間違いない。

 もしかするとこの非現実的な世界は全て幻で、異能が見せている妄想の中なのではないか?

 

 

 ────ザ──ザザ──

 

 

「……いや、星の刻印ならフォトンパスが弾いてくれる。さっきまでエネルギーが残っていた以上、効果はあったはずだ。つまりこれは現実か」

 

 オーウィズは言っていた。精神干渉は無防備な心でなければ、限りなく効果が薄いのだと。

 賢者の加護(フォトンパス)と警戒心。二つの防壁が健在だった以上、偽物の世界である可能性は低いと考えるのが妥当か。

 となると消えた小人(コロポックル)が気掛かりだが、探そうにも手段がない。仕方なく部屋を後にしたヴィクターは、イシェルの捜索に注力することにした。

 

「先生、どこだーっ! 居たら返事してくれ、先生ーっ!」

 

 名前を廊下の奥まで響かせるように声を張って、ずらりと並ぶ部屋をひとつひとつ覗いていく。

 いない。どこにも。影も形も見当たらない。

 

 あるのはとても理解できない、奇妙で不愉快なナニカばかりだった。

 

 先端に金属のリングが癒合している指のような触手のかたまりが蠢く部屋。

 全身にびっしりと目玉が生えた豚らしき生物が、壁一面に綴られた意味不明な文字をぎょろぎょろと読み続けている部屋。

 異常な肥満で、異様に目が小さい年老いた赤子のような怪物が、「あーっ」と抑揚のない鳴き声をあげている部屋。

 

 口にすることすら憚られるような醜悪が、さながら囚人のように閉じ込められている光景が続いている。

 まるで地獄の見学施設だ。もしかして自分は死んでしまったのかと疑うほどに。

 

「一体なんなんだここは……? あいつらを閉じ込めて何を……?」

 

 込み上がる生理的嫌悪を呑み込みながら、一歩一歩と進んでいく。

 やがて終点に辿り着いた。ついぞイシェルの姿はなく、あるのは酷く異彩を放つ真っ青なドアのみ。

 

 恐る恐る触れ、開き、足を踏み入れる。

 眼前には階段が。深淵のような闇が手招く、下降のみが許された道筋がヴィクターを出迎えた。

 

 

 その時だった。

 階段の下を覗き込んでいたヴィクターの背後から、猛烈な重低音が爆発した。

 

 凄まじい勢いでドアが閉じた轟音だった。反射的にノブを掴んだが、回るどころかビクともしない。

 閉じ込められた──悟った瞬間体当たりしたが、無駄だ。まるで帰路など最初から存在しなかったとでもいうように、完全に退路を塞がれてしまった。

 

「……降りろってか」

 

 しぶしぶ階段を進んでいく。

 永遠に続くかと錯覚するほどの暗闇だ。足を踏み外せば無間の底へ落ちてしまいそうな怖気があった。

 しかし不思議なことに、足元のまわりだけは光源に包まれている。お陰で慎重に下れば安全だ。

 問題なのは、一向に終点がみえないことか。

 

 ──刹那。足場の感覚が雲を踏んだように消滅した。

 

「ッ!? うぉおおおおおおおおおおおっ!?」

 

 落ちる。落ちる。

 大口を開けた暗闇を真っ逆さまに落ちていく。

 上下すら曖昧になる亜空の中で、ヴィクターは指に意識を集中させた。

 ()()()()()。万物干渉の力で闇に指を引っ掛け、どうにか減速することに成功した。

 

「ッぶねえ! なんだってんだよ!」

 

 背を冷やすじっとりを嫌になるほど感じながら、宙ぶらりんのまま下を見る。

 ほんの数センチ先に真っ白な地面があった。

 ポカンとしたまま手を放す。すり抜けることなく着地した。

 かと思えば、足が触れた場所から水面を走る波紋のように、暗黒が反転し純白の平原が現れたではないか。

 

 変化は留まるところを知らなかった。

 真っ新な空間が色づき、質感を帯び、マーブルと酷似した床模様に変わっていく。

 果てには石柱が竹の如く生え伸びてくると、古びた石造りの内装に姿を変身を遂げたのである。

 

「何が──、ッ!?」

 

 状況を掴めず静観に徹していると、不意に赤い影が降ってきた。 

 

 バチバチと脂が弾ける異音。突如として鼻を突く異臭。

 炎だ。炎の塊だ。じりじりとヴィクターをあぶる炎熱に呑まれた、人間大の物体だ。

 違う。物体ではない。橙に揺らめく悪魔の舌のような焔になぶられているのは、正真正銘人間の男だった。

 

 床に倒れ伏した姿勢から、緩慢な動きで起き上がる炎の男。

 咄嗟に身構える。だがソレの顔を見た瞬間。ヴィクターの全細胞が動きを止めた。

 だってこいつは、この男は、

 

「カースカン!? 何でお前がッ!?」

 

 忘れるはずもない。忘れられるわけがない。

 黄昏の森で相見えた狂気の芸術家。美学のために無辜の命を弄び、森の炎によって最期を迎えたはずの男が、再び目の前に現れたのだ。

 

 反射的に拳を引く。いつでも叩き込めるよう、全神経を右腕に集中させる。

 燃える男は溶け落ちた瞼の間からヴィクターを見ていた。

 いいや。笑っていた。まるで旧い友と再会したかのような朗らかさで、地獄の炎熱に肢体を弄ばれながら笑っているのだ。

 

 カースカンは何もしなかった。ただじぃっと、ヴィクターに微笑みを手向けるだけだ。

 やがて火の勢いが止まる。炭の塊と化した男は、自重に耐え切れずそのまま床に崩れ落ちた。

 砕ける音。散らばる煤。

 足元に転がってきた頭の欠片を、おっかなびっくり拾い上げる。

 

「……感触がある。幻じゃない?」

 

 頭部の欠片が雪のように解け始めた。

 小さな風に攫われる。焼き潰された成れの果てが散り散りになってゆくのを見届けながら、ヴィクターはこの異常な空間が何らかの能力によって作られたものではないかと、

 

 

 ──ザ──ザザ────―ザ──

 

 

「いや、ありえねえ。幾らなんでもこんな大掛かりな幻覚なんて作れるわけがない。感触も本物だし、博士だって精神干渉の条件は────待て。違うだろ。どう考えたってこいつは変だ。現実のはずがねえいや、そうだからそうなんだ何も違わねえ、違う、いや、違う、違う違う違う!!」

 

 おかしい。

 頭の中で何かがズレている。それも決定的に。

 

 歯車の間にワラが噛んだような違和感がずっとずっと拭えない。

 なのにそれが正しいと思えてくる。考える必要などないんだと誰かが諭している気さえするほどに。

 頭がおかしくなりそうだった。異常なのに異常だと思えない。無理やり首の方向を固定されているような違和感は、肥大と縮小を繰り返してヴィクターの脳漿を掻き混ぜた。

 

 間違いない。これは、刻印の力にやられている。

 一体いつ仕込まれたのか。先生をニセ騎士団から助けようとした瞬間か。

 思い返せばオーウィズのメッセージには記憶に無い自分の行動が記されていた。もしかすると、想像よりずっと前から()の支配下にあったのだろうか。

 

 

 どうでもいい。

 理解したなら、やるべきことは変わらない。 

 

「ふんッ!!」

 

 凄まじいインパクトが頭蓋を揺らした。

 根源は己の拳。全力全霊で振り抜かれた純黒の鉄拳がこめかみを撃ち抜いた反動だった。

 

 重々しく響く激痛。崩れた平衡感。反して気分は抜群に良かった。

 脳ミソの表面にこびりついていたカビのような不快感が消え失せて、一気に世界が晴れたような気がするほどだ。

 

「がぁー()ってえ! 超イテえ!! けど()()()()()()! ったく、人様の頭を玩具みたいにいじくりやがってよォーッ!」

 

 万物干渉が頭から引き剥がしたのは、形容しがたいモヤのようなナニカだった。

 それはヴィクターの思考を歪めていた犯人に他ならず、既にアマルガムの支配下にあったという動かぬ証拠である。

 

 床でうぞうぞと蠢く意思をもった黒いモヤを踏み潰し、ようやくクリアになった頭を撫でる。

 

「星の刻印だな。危うく気が狂うかと思ったぜ。……景色に変化が無いのは妙だが。あー、あー、空は青い、水は冷たい、岩は硬い」

 

 念のためオーウィズに教わった精神干渉の見極め方とやらを試してみる。

 空は青い。水は冷たい。岩は硬い──あたりまえを口にして、違和感を覚えなければ思考誘導の心配はないという応急処置だ。

 もっとも、気休め程度のものらしいが。

 

 しかし実際に頭を蝕まれた鮮烈な経験から、刻印の呪縛は解かれたと確信した。思考の濁りぐあいに天と地ほどの差があったからだ。

 

「間違いねえ、この景色自体は本物だ。あの野郎俺たちをどこに連れ去って……。ん? あッ!? 先生!」

 

 石柱が立ち並ぶ薄暗い広間。その奥の柱の影にピントが定まる。

 半身が隠れて見えないが、見知った白衣の背中をみつけのだ。

 

 だが、しかし。

 ヴィクターの知るイシェル・マッコールは、柱から見えた()()()()だった。

 

「先、生?」

 

 棒切れのように立ち尽くす彼の左半身は無数の刃に覆われていた。

 刺さっているのではない。生えている。

 金属質なのにクリスタルにも似た透明感をもつ細長い刃物が、イシェルの半身にフジツボの如くびっしりと生え揃っていたのである。

 

「なんだよこれ、どうなってッ……!?」

 

 刃に触れる。イワシの鱗のように簡単に剥がれ落ちた。

 

 ずるり、と怖気を呼ぶ水音。

 

 刃の持ち手に粘質で暗い赤がべっとりとこびり着いている。うっすら脈打つ生臭い塊は肉片か。

 刃の剥がれた場所から黄色い膿のような液体が流れ出した。

 どころか、イシェルの肌を喰い破って新たな刃が飛び出してくるではないか。

 

「おいしっかりしろ先生! 何があったんだ!? どうしてこんなことに!? 先生!」

「──、────れ」

「え?」

「許してくれ。すまなかった。許してくれ。すまない。すまなかった。許してくれ」

 

 

 悪夢になぶられ絞り出される譫言(うわごと)のような言の葉たち。 

 まるで罪に溺れ苛む咎人のようなその面持ち。だがしかし、彼が懺悔を供える先には何もない。石柱ばかりの屋敷模様が広がっているだけだ。

 焦点のあっていない瞳で虚を視る彼の世界に、何が映っているというのか。

 

 

 

 

 

「いやはや全く素晴らしい。かつて命を奪いあった怨敵の復活を前に、混乱どころか分析を繰り広げるとは。流石は僕の見込んだ男、解釈一致にもほどがある!」

 

 

 

 ぱち。ぱち。ぱち。

 乾いた手拍子が、石柱を縫って木霊した。

 

 

「ヴィクター、ヴィクター、ヴィクター……。嗚呼、美しい人よ。僕という災禍をはらう焔の君よ。この日をずっと待ち望んでいた」

 

 石柱が石を持ったように動き出す。

 不揃いに乱立していた柱が規則ただしい整列を覚え、一本の道筋をヴィクターの前に切り開いた。 

 くるくると赤い絨毯が足元まで転がってくる。薄黒いコケとヒビに装飾されていた寂しい石柱は、磨かれた大理石特有の輝く白を帯びはじめ、さながら帰国の英雄を迎え入れる宮殿のような、豪奢な内装へと様変わりしていった。

 

「ようこそ、罪なる我が城へ。麗しの救世主様」

 

 呆気にとられるヴィクターを前に、悠々と姿を現したのは一人の男だ。

 

 不気味なほど耽美な顔立ち。黄金色に煌めく髪。透き通る乳白の肌。 

 片側だけ異様に伸びた前髪は左目を隠しているが、露わの右目は金糸のまつ毛に華を生けられ、空の蒼が形になったような大きな瞳だった。

 細身の体を紺色の礼装(スーツ)で着飾って、胸元に輝くのは白薔薇の聖女を刻んだ銀のバッヂだ。

 てっぺんが平らで前に張り出している特徴的な帽子をかぶり、恍惚に濡れた笑みを貼り付けるこの男は、紛れようもなく。

 

「お前、さっきの騎士団野郎!」

「そう、僕がアマルガムだ」

 

 日常の影に潜みながらいくつもの命を奪い、町の平穏を乱した殺人鬼。

 ブーゴたち三人に禍憑きを植え、頭を弄った刻印の持ち主。その張本人が彼なのか。

 

「嗚呼ヴィクター、ずっとずっと会いたかったよ! この瞬間を幾度夢見たか分かるかい?」

 

 男はまるで憧れの芸者と視線を交えた信者のように、うっすらと頬を染めながら恍惚を声に変えて絞り出した。

 

「焦らされ、焦らされ、悶えるしかなかった今までの日々が、どれほど苦役と甘美に満ちた素敵な時間だったか。嗚呼、愛しの君! この昂ぶりが分かるかい!?」

「うげえっ……なんなんだお前、気持ちワリィ奴だな。俺にソッチの気はねえぞ!」

「フハッ、突き刺さるような蔑みの眼……! 光栄、いや、恍惚か?! 嗚呼、かくも人の言葉は脆いものだ。この気持ちに正しい輪郭を与えることすら叶わないのだから」

 

 体をエビのように反り返らせ、唾を吐き散らしながら身を震わせ悦に悶える奇行人間。

 冷酷な殺人鬼という風評に対しあまりに滑稽で、しかしどこか、人として決定的なナニカが欠けているような言動は、名伏しがたい生理的嫌悪をヴィクターのみぞおちに縫いつけた。

 

「けっ、まるで見知った仲のように吹いてるがよォーッ、あいにく殺人鬼のファン囲った覚えはないんだわ! 詩文(ポエム)吐きてえなら小鳥でも食ってろスカタン!」

「いいや知っているさ。僕はずっと見ていたよ。黄昏の森で君を見つけた日からずっと、ずーっとね」

 

 黄昏の森。

 恍惚に表情を歪ませる男の口から洩れた言葉が、小さな疑惑の苗を植えた。

 

「知ってるだろ? カースカンって芸術家。さっき君の前で燃えカスになったおじさんさ」

「……!」

「彼に与えた監視ゴーレムで君の存在を知ったんだ。けっこう良いビズネス相手でさ、()()()()()をよく見つけてくれた太客だったんだ。その一人が君だった」

「そうかお前、カースカンの同業か。──じゃあ手加減する必要はねぇよなァーッ!!」

 

 刹那、肉薄。

 一呼吸のうちに距離を殺す。

 

 ヴィクターは鉄拳に纏う一切の加減を捨て、見下ろすアマルガムの顎を殴り抜けるようにありったけの力で振り抜いた。

 凄まじい破壊がアマルガムを襲った。下顎どころか首から上ごと吹き飛ばさんばかりの恐るべきインパクトが顎骨を粉砕し、およそ人体から発生するものではない、筆舌に尽くしがたい轟音が炸裂する。

 

「てめえが刻印の使い手なら、とりあえずブッ飛ばせばよォーッ!! 先生は元に戻るんじゃねーか!?」

 

 猛烈な一閃をまともに受け止めたアマルガムは、まるで乱雑に蹴り飛ばされたボールのように石柱へと激突した。

 大きな亀裂がアートのごとく石柱を這った。

 散乱する潰れたトマトのような血潮。慌てた硝煙が空気を白く濁し、それを裂くようにアマルガムは倒れ伏して動かなくなる。

 

 はずだった。

 

「ああ、素晴らしく速い判断の舵切り……! 解釈通りだ……!!」

「ッ!?」

 

 ──倒れ伏したアマルガムが、まるでバネ細工のようにグバンッと起き上がったのだ。

 それだけではない。破壊された顔面がみるみる再生していくではないか。

 

「慢心に満ちた敵への先手必勝! だがそれは決して猪突猛進じゃあない! ()使()()の本領を潰しつつ力量を分析するには、初見殺しの君の敏捷性(スピード)を活かすことが最適解だからね! それを実行に移せる豪胆さ、実に解釈一致ィィ──!」

 

 時間が巻き戻るような怪現象は、アマルガムを掠り傷一つない真っ新な体に再生させたのだ。

 

(ッンだこいつ!? 拳は間違いなくぶっ刺さった! 手ごたえは百パーセントあったんだ! なのにこいつ、まるで水をかけられたスライムみてーに効いちゃいねえッ!? 精神干渉系の刻印なら、魔法も使わずに自己再生なんて不可能なはずだろ!?)

「──と君は考えてるね!? ああ嬉しいよ、僕で頭を満たしてくれることが! もっとだ、もっと知恵を絞って、脳ミソをこねて! 僕という罪を滅ぼす(かい)を見つけてくよなァーッ!!」

 

 

 気持ちが悪い。

 なんともシンプルな理由で、ヴィクターは表情筋を捻じ曲げた。

 生理的嫌悪とはこういう感情なのか。まるでゴミ溜めの中に人間の形をしたウジ虫を見つけたような、おぞましさで肌が粟立つ未知の大剣がヴィクターを襲った。

 

 今まで許せない悪逆非道に烈火の怒りを抱いたことはあったが、ここまで明確に拒絶したくなる人間は初めてだった。

 いいや。そもそも彼を人間と呼んでいいのだろうか。 

 

 あの男が殺人鬼(アマルガム)の正体ならば、数多の命を悪戯にうばってきた唾棄すべき悪党なのは間違いない。

 けれど、同じ分類であるはずのエマやカースカンとは、何かが決定的に食い違っているような違和感があるのだ。

 

「……てめえ、一体何が目的だ?」

 

 だから問う。

 指を突き付け、屈することを知らぬ心で。

 相対するだけでざわざわと胸騒ぐこの異常な男を見極めんと、本質に釣り針を垂らしていく。

 

「手の込んだ殺人を繰り返して、禍憑きをバラまいて、先生をこんな姿に変えて。そのうえ、きゅーせーしゅ? 罪を滅ぼせ? 全ッッ然ワケわかンねえよ! 何の狙いがあってこんなことしやがる!?」

「嗚呼ヴィクター。この世で最もおぞましい悪はなんだと思う?」

 

 思考の歯車が止まった。

 跳ね返ってきた返事が、アマルガムの不可解さをさらに加速させるようなものだったから。

 

「僕はね、悪を悪と思わない無自覚ゆえの加虐にこそあると思うんだ。殺戮、姦淫、強奪、虚言……あらゆる暴力を膿と理解しない人間性の欠落。それこそが、この世の最たる悪の素顔なのさ」

「……さっきから本当に何言ってんだお前? イカレてんのか。意味不明にもほどがあるぞ」

()()()()()()。僕は裁かれなければならない存在だ。星が堕としたもうた、先天の災禍そのものなんだよ。こんな風に」

 

 アマルガムの隠された左目が、髪の下で怪しく輝く。

 途端、彼の足元が命を吹き込まれたみたいに蠢きだした。

 

 ぐねぐねと蠕動する床はまるで苦しむ腸のよう。

 一際強く波打つと、べしゃりという生々しい水音を響かせて、地下からナニカを吐きだした。

 

 腐臭。

 赤黒く濡れたズタ袋だった。膨らんでいるから中身があることがわかる。

 滲み出す腐った肉汁のような液体は目を刺すほどの激臭で、思わず顔をしかめて鼻を覆う。

 

 しかし次の瞬間、匂いなど感じる暇もない驚愕の槍がヴィクターを一直線に貫いた。

 

 両目が大きく開かれて、物体の解像度を引き上げた先。

 袋の表面。濡れて、汚れて、綿のような質感を失って張り付いている無数の付着物は。

 ()()のようなそれは、どこかで、たしかに、見覚えのあるものだったから。

 

「なんだかわかるかい? それ」

 

 頭の中で点と点が繋がっていく音がする。

 それはいつかの記憶の形に変わる。嫌になるほど鮮明に、()()()()()()()()()()()()()()()の光景が浮かんでくる。

 この時ばかりは絶対に思い出したくなかったと、唇から鉄の味がした。

 

 

 ──老婆の店まで巡回に来ていた一人の騎士団。

 ──爽やかな笑顔が眩しかった青年は、どんな顔だった?

 

 

「薬屋さんだよ。ガルーダのおばあさん。ほら、君が薬草を届けた」

 

 ぐちゃ。 

 

 磨かれたブーツが腐った肉をかかとで踏みしめる、生理的嫌悪を掻きだす水音。

 脳の奥が、火を放たれたみたいに熱くなった。

 

「なん、で」

「君に分かってもらうためだよ。僕がどういう存在なのか」

 

 ──ぐちゃっ。

 

「愛する夫に先立たれたおばあさん。伴侶の生きた証を健気にも残そうと頑張っていたおばあさん。君のはじめての依頼主だったおばあさん」

 

 ──ぐちゃり。

 

「笑顔が優しい素敵な女性だったよね。なんというか、年の功? 包容力のある暖かさをもった人だったなぁ。あんな風に年を取りたいなって思えるようなさ」

「やめろ……!!」

「生まれつきの癖みたいなものなんだ。例えるなら、子供がバッタの足をちぎって遊ぶのに近い。別に好きとかじゃなくて、ついやっちゃうだけ。鳥の干し肉の残りカスみたいな人生ひとつ奪ったところで、僕にはその程度でしかないんだ」

「やめろっつってんだろうがァ────ッッ!! その足をどけろてめえェ────ッッ!!」

 

 足を杭撃ち、全力で腕を引き絞る。

 纏う空気を砲弾に変えて、凌辱を肴に悦へ浸る怪人をボロ切れのように吹っ飛ばした。

 猛風の砲撃が石柱ごとアマルガムを叩き潰す。がらがらと盛大に崩れる瓦礫に追い打ちを受けたアマルガムは、赤い水たまりを鉄臭さと共に吹き散らした。

 

「バアちゃん、バアちゃん! ……クソッ!!」

 

 ズタ袋に駆け寄って、腐臭の塊を抱き上げた。

 凍ってるように冷たい。持ち上げた場所が粘々と糸を引いている。

 

(これがっ……これがほんの数日前まで生きてた人間の姿なのか……!? ぐずぐずに溶けて、袋の中で皮膚がズレて、ッ、バラバラになった羽の感触が……!)

「最悪だろう。でも僕はなにも感じない。欠けてるんだ。生まれた時から無いんだよ。()()()()()()()()()()

 

 瓦礫の中から這い出る声。

 噴き出した血液も、削げた肉片も、砕け折れた骨も、巻き戻っていく怪物の姿。

 

「僕という汚穢(おわい)を浄滅する裁きが欲しい。いかに影を落とそうとも、最後に悪魔は滅びるんだという証明が欲しい。人の世が健全で正しいなら、僕は存在を許されないはずなんだ」

 

 何事もなかったかのように元に戻る。

 髪の毛。顔。四肢。五本の指。肌を隠す衣服さえも。

 憂うように微笑んだアマルガムは、無造作に頭を搔き毟った。

 

 無理やりこそぎ落とされた皮膚が爪に詰まって赤黒く染める。染み出す赤が幾重も伝って血化粧のように頬を染める。

 再び戻る。まるでこの世界が、アマルガムが傷つくことを許さないかのように。

 

「僕は悪事を働いたと思ったことはない。だって僕は何十人も殺してるけど、いまだ捕まってすらないだろ? 人々は悪いことをすれば必ず裁きが下ると口にする。因果は巡ってくるのだと。じゃあ僕はなんなんだ? 良心の呵責もなければ制裁を受けることもない。筋が通っていないじゃあないか」

 

 悪寒。

 ごくごく平凡そうな好青年のものとは思えない、悍ましい異質な気配がじっとりと心臓を舐めてきた。

 それは魔物に近しい、決して相容れることのない邪悪の臭気そのものだ。

 

「僕は悪だ。なぜなら人間社会という群れを壊しかねない危険分子だからだ。僕は人間だ。なぜなら二足歩行で言葉を扱う人類だからだ。だったら裁かれるべきだろう。それが道理ってやつだろう。この心臓に杭を打たれて然るべきだろう。──なのにッ!!」

 

 突然、決壊したダムのように滂沱の涙を流し、心の底から悔しそうに歪めた顔をアマルガムは覆った。 

 赤子のように嗚咽を響かせ、憂き世を嘆く神の代弁者とでもいうかのように、天を仰いで絶叫をほとばしらせたのだ。

 

「誰も僕を裁けない! 誰も僕の正体を掴めない! 誰も僕の悪逆を止められない! こんなことがあっていいのか!? かつて命を世界にくべてまで平和を掴み取った救世主、白薔薇の聖女が残した世界に! こんな汚点が存在してもいいのか!? 不甲斐ないだろうそんなンじゃァあああさァああ────ッッ!!」

 

 身にまとう騎士団衣装から胸元のバッヂを引き千切り、アマルガムは刻まれた聖女のシンボルを高らかに掲げた。

 濁りを知らない澄んだ瞳は、吐き下す言の葉に一切の疑念を映さない。

 

「ああ聖女よ! 貴女の教えは僕の人生と共に在った! 心を知らない僕が人を知れる唯一の拠り所だった! けれど貴女の御心を解すれば解するほど、僕がいかに罪深い存在か分かってくる! なのに誰もッ! 僕を止められないッ!! 存在すら許されない魔物に等しい悪疫なのに!!」

 

 狂う。喚く。嘆く。叫ぶ。

 ただひたすらに、ヴィクターには欠片も理解できない濁音の羅列を吐き続けていく。

 

「だから大罪を裁くに相応しい()()()に見つけてもらえるように動いたんだ。僕が罪を犯せば犯すほど、正義は()を探しやすくなるだろう? まるで暗い海を照らす灯台のように!」

「……ちょっと待てよ、まさかお前ッ、()()()()()()()()()()()()だとかいう目的のためだけに彼女を殺してッ、禍憑きをばらまいて! 先生をあんな姿にしやがったってのか!?」

「そのとぉーりィ! 陰の濃さは光の強さと比例する! 悪が増長すればより輝きを放つ正義が! いつの日か必ず僕を見つけて裁いてくれる! この魂が救われるんだッ!」

 

 破綻している。

 大義の名の下に虐殺を起こしたエマも、美学のために命をもてあそんだカースカンさえも霞むような、常軌を逸した狂気がそこにあった。

 

 言葉で(かたど)るならそれは、ある種の破滅願望者か。

 教義に背き聖女を穢す吐く己を許せず、正しく裁かれねば極楽には行けぬとでもいうような、捻じ曲がった信仰心が狂気の源なのだろう。

 

 けれどそれは。

 はたして狂信などという、一言で片づけてよいものなのか。

 

 

 一抹の違和感が拭えないのだ。ヴィクターにはどうしても、アマルガムが聖女へ敬意や崇拝を抱いているようには思えなかった。

 

 一見すると聖女の直系(マルガン)を筆頭とする騎士団に化けた彼は、聖女信仰の深層心理が表出しているようにも受け取れる。

 だがそれだけだ。それだけに過ぎないのだ。

 

 口にするのは善と悪の二極論。己が認める清く正しい人間に裁かれたいという一点しか行動原理の柱がない。

 教義に自己を依存し、異端をことごとく誅伐する信徒のような、歪んだ正義を振りかざす敬虔の暴走とはナニカが違う。

 

 ──この男は、聖女を信仰していない。

 

(アマルガムが信じているのは()()()()()()! 大昔に数多の種族と聖女が団結して魔王に立ち向かった人の善性! こいつはそれを信仰している! 正気か!? こんなイカレ野郎がッ、性善説の信奉者だってのかよ!?)

 

 かつての魔王大戦はバラバラだった種族を結託させ、今の多様社会を生み出す礎になったという。

 純黒の王、白薔薇の聖女。二人の元に集ったのは、魔を砕き平和を取り戻さんと命を賭けた人々の黄金の魂だった。

 

 アマルガムの望みはそこにある。

 己という極悪が、先人から受け継がれた気高さに滅せられる審判の日。彼は終末の時を祈りの中で待つ信徒のように、その日が来るのを待ち続けている。

 

 けれどアマルガムは、審判の日を速めるべく数多の悪事を重ねることを選択した。

 身勝手に、常軌を逸した自己中心性で。自らの罪を悔い改めることも、正しい道を歩もうという努力すら放棄して。呆れ返るほどの他力本願で。

 

 人はそれを、最悪と呼ぶ他にあるのか。

 

「だけどさ、哀しいことに人々は昔の正義を忘れてしまった。弱くなり過ぎたんだよ。ちょっと心を追い詰めただけで小動物みたいに泣き喚きながら死ぬか、簡単に悪の道に走ってしまう。そこの醜い医者はまさにソレだった」

 

 

 蔑むような眼差しで少年の背後を刺すアマルガムが、重い吐息と共に捨てた言葉が。

 時の流れを凍らせて、ヴィクターの全てを縛りつけた。

 

 

「彼、えーと、名前なんだったけ。とにかく、すばらしい素質を持ってたから期待してたんだよ。誰かのために身を捧げられる気高さも、幸せを願い愛せる心も、腐り果てた惰弱どもが蔓延るこの世の中じゃ一級品だった。際立って輝いて見えたんだけど」

 

 瞳が開く。

 伝う汗が零度を帯びる。

 アマルガムの舌が鼓膜を裂くような旋律を奏でるたび、頭蓋に雪解けを注がれるような冷ややかさに襲われる。

 

 だって。

 なぜこの男がイシェルを知っているんだ?

 どうして、()()()()()()()()()イシェルを語れるのだ?

 

「結果はこの有様だ。たかが肉親を奪った程度で悪に堕ちた。もっと高潔だと思っていたのに、期待外れもいいところだったな」

 

 絶対に認めたくなかった想像が、刃物になって脳裏を抉った。

 

「な、にをッ、何を言ってるんだお前……!? 先生の家族を、奪った? 今そう言いやがったのか、お前は!?」

「そうだよ。僕がやった。心を壊した男を仕向けたのは僕だ」

 

 あっけらかんと言い放たれた肯定が、答えを結ぶ線になって無邪気に繋がる。

 

 ──イシェルが道を踏み外した発端は、正気を失った異常者に家族を奪われた事件だった。

 ──殺人鬼(アマルガム)の能力は精神に干渉する力だと推測されていた。 

 

 ああ、どう考えても、どんなに認め難くとも。

 この二つが導き出す答えなんて、ひとつしかありはしないじゃないか。

 

「正義を善たらしめるものはなにか? それは折れることを知らない信念だと僕は思う。何者の言葉にも染まらず、どんな逆境にも負けない、正しいと信じる道を拓ける覚悟だ。だから僕は正義をふるいにかける。不幸や災難を乗り越えさせて、救世主に足りえるかどうかテストするのさ」

「てッッ……めえッッ……!!」

「君をのぞけば最高の逸材だったのになぁ。散々だったよ。家族を救うことさえ出来なかったし、近隣住民もひとり巻き込んで死なせた。挙句、心の傷をいやすために僕と同類になるなんて……本当に最近の人間は腐ってる。聖女が救った美しい世界の子孫だなんて思いたくもない」

 

 

 ぶち、と。

 決定的なナニカが、千切れるような音がした。

 

 

「……答えろ、アマルガム」

「なんだい? ヴィクター」

「先生は誰もが認める医者の鑑だった。命を尊んで、誰かの幸せを喜べるような人だったんだ。……今にして思えば、そんな人間が復讐のためとはいえ簡単に人殺しを決意するとは思えない。人生の重みを知るあの人ならなおさらだ」

「!」

「答えろよ。()()()()()()()()()()()()

「にひ。正解」

 

 本当に本当に、心の底から嬉しそうな笑顔。

 

「もう気付いてるみたいだけど、僕の能力──『心淵(しんえん)の刻印』は他者の精神を操作できる。トラウマを掘り返すなんて朝飯前だし、ほんの少し心の方向を変えさせたり、記憶だって弄れるんだぜ。凄いだろう」

「……」

「彼には囁いただけさ。悪魔の誘惑を跳ね返せるかどうか知りたかった。人は追い詰められた時に本性を見せるものだからね。彼が正義の器か、はたまた見掛け倒しの偽善者なのか、ちょちょいっと確かめた。結局、救世主なんてほど遠い腐った悪の一味だったわけだけど」

「もういい。黙れよお前」

 

 血が燃えるように熱い。 

 ぎちぎちと音を立てる拳が今にも破裂してしまいそうだ。

 

「人でなしのクズが、一丁前に人を語ってんじゃねえぞ」

 

 噛み締めた奥歯が悲鳴を上げる。

 体中の血管が破れたような錯覚が心臓を唸らせた。

 瞬きを忘れた瞳に朱が()ちて、刻まれる眉間のしわは山脈のようで、吐き出す息は熱を孕んで。

 

「なにが追い詰められた時に見せるのが人の本性だ……! 追い詰められた人間が見せるのは弱った心の姿だろうがッ!! 正義だ悪だの救世主だの、オママゴトで他人の人生食い潰すしか出来ないクソッタレがお高くとまってんじゃあねえぞコラァッ!!」

 

  

 アマルガムの罪はイシェルに限った話ではない。

 浮かぶ水泡のようにオーウィズの話を思い出す。ブーゴたち三人に仕込まれていた禍憑きは、黄昏の森にカースカンが持ち込んだものと何か因果関係があるという仮説を。

 

 この男は自ら口にしていたではないか。カースカンは良き商売相手だったのだと。

 

 ならばカースカンに魔物の芽を流し、大勢の小人(コロポックル)の命をもてあそび、島の子たちの故郷を奪った原因も。

 

 三人を下水の底に追いやって頭をいじり、魔物を植え付けて、痩せ細るほどの飢えと孤独の苦しみを味わわせ続けたのも。

 

 人の心を追い詰めて、何の罪もない大勢の人生を奪ったのも。

 

 全ては──────

 

(こんなイカれた野郎の、遊び同然の狂気のせいでッ……!!)

 

 もはや理解の余地はない。この男は、人を人たらしめる精神の輪郭がまるで別の形で出来ている。

 人種だとか思想が違うだとかそういったレベルの話ではない。異常なんて言葉すら生温い人間の突然変異だ。

 エマやカースカンに感じたモノとは違う、いっそ純粋さすら覚えるほどの下劣の極みは、まるで本能でしか生きる術を知らない昆虫のような無機質さに匹敵する。 

 

 こんな男を、断じて認めるわけにはいかない。

 

「てめえはッ! てめえだけは許さねえ! 例え聖女が許そうとも黙っちゃあいねえ!」

 

 怒髪は既に天を衝いた。

 眼前の悪魔を。数多の人生を奪った元凶を。ここで断つという決意と共に。

 

 

「──てめえは、俺がぶッ裁く!!」

「──解釈一致(すばらしい)!」

 

 



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48.「Abyss/Phobia」

 初めて手にかけたのは乳母だった。

 

 

 細かい年なんて覚えちゃいない。けれど、うんと小さかった時なのは確かである。

 自分に宿る特別な能力。()()()()()()()()()()()()力をもって生まれた少年は、自他ともに認める実に裕福な環境で育った。

 

 親は大きな商家だった。その地域の物流に多大な影響を与える力があって、もちろん富もあって、欲しいものは何だって買ってもらえた。

 かと言って、よく金持ちは高慢ちきで鼻に突くと言うけれど、両親は決してそんな不出来な人間じゃなかった。

 

 病に苦しむ人。魔物に人生を壊された人。災害に故郷を追われた人──そんな人々に両親が手を差し伸べることを惜しんだ時は一度もなかった。

 莫大な資産も、保有する商会も、力を持つ者の責務と謳って、世のため人のためと使い続けていた。

 

 当然のように、両親に向けられる心たちは全幅の信頼一極だった。

 慕われ、敬われ、感謝される。それらを受け取るに相応しい二人だったし、誰しもが認め焦がれる輝きを持った父と母だった。

 

 心を読める自分がなんて美しく真っ白な人間なんだろうと、太鼓判を押したんだから間違いない。

 

 ある日、母から教典を貰った。白薔薇の聖女について纏められた聖書だった。 

 かつて世界を救った大英雄。彼女の精神を文字に変えて綴じた本に、少年はぞっこんになった。

 擦り切れるくらい読み続けたし、毎日欠かさず平和への想いを祈り紡いだ。まさかここまで熱中すると思わなかったのか、少し両親が困り顔だったのは印象深い。

 

 彼らが教典を渡したのも、善良な人間に育ってほしいという親心からだ。

 優しくあれ。憎むことなかれ。幸いであれ。

 救われぬ者を救いなさい。人と星を愛しなさい。愛する者の涙を拭いなさい。

 悪しき道は必ず挫ける。ゆえに正しく在ることに務めなさい。

 さすれば巡る善因が、あなたを幸福へと導くから。

 

 

 この精神が両親を象ったのはすぐにわかった。

 少年にもそうなってほしいのだと、彼らの想いを直接的に理解していた。

 

 だからこそ、少年には皆目理解できないことがあった。

 

 ある日、兄弟が死んだ。

 まだ生まれたばかりの弟で、病弱だったがゆえの、どうしようもない不幸だった。

 

 両親は泣いた。従者たちも泣いた。それはもう川でも作るのかと言わんばかりに涙した。

 対して、少年の心は凪いでいた。むしろ面白いとさえ思っていた。

 心の読める少年には不可解だった。どうして自分はこの人たちと違う心の形をしているのだろう? なぜ弟の不幸に悲しむことが出来ないのだろう?

 

 

 違和感は次第に増し、それはやがて好奇心へと姿を変えた。

 だから乳母を殺した。不慮の事故に見せかけて。

 

 誰も幼い自分がやったとは思わなかった。

 むしろ生まれた時から付き添ってくれた第二の母を亡くした不幸を、両親は抱き締めながら慰めてくれたほどだった。

 

 違和感は、確信に変わった。

  

 自分は何も感じない。人の不幸を悲しめない。躊躇なく人生を奪うことが出来る。

 聖女の教典と真っ向から反する、最悪の人間性が宿っている。

 嗚呼、しかも。()()()()()()()()。乳母を殺したと自供しても、「自分を責めなくていい」「仕方ない事故だったんだ」と寄り添う言葉を吐くばかり。

 

 なんだそれは。教えと違うじゃないか。

 悪はいずれ朽ちる定めにあるのだと、そう書いてあったじゃないか。

 言っていたはずだ。正しい精神の在り方を説くこの本があったから、清廉恪勤な人間になれたのだと。両親は言っていたはずだ。

 

 ああそうだ。教典は正しい。

 人は正しく在れる。聖女が守った世界は今も美しく続いている。

 だって先人が命を賭して守った善き人々の魂が、こんなにもこの世を輝かせているのだから。 

 

 両親や、従者や、友達がその証明だ。

 こんな間違いは、ただの一過性に過ぎないはずだ。

 

 

 

 父を殺した。

 母を殺した。

 飼っていた犬も。その子供も。仲良くしてくれた近所の女の子も。

 

 なのに誰も、(ぼく)を疑うことさえしなかった。

 

 

 

「ヴィクター。英雄に必要な資質とはなんだと思う?」

 

 清々しさすら覚えるほどの爽やかな声。

 

「信念だよ。どんな困難があろうと正しい道を照らし続ける強靭な意志、信念こそが英雄の証だ。……だが、古来より信念の証明には試練が付きまとう」

 

 まるで友人との一時を楽しむような軽やかな音色で、おぞましき邪悪は独り言ちる。

 

「僕が試練だ。君は乗り越えなくてはならない。裁きを下すに相応しい英雄であると証明しなくてはならない。さぁ見せてくれ、我が愛しき浄罪の焔よ! 悪逆無道に勇ましき鉄槌を下したまえ!」 

「やかましい。寝言は夢の中で好きなだけほざきな。覚めねえ夢の中でよォーッ!」

 

 ──アマルガムの能力には謎がある。

 

 心を操る『心淵の刻印』。それは他者の精神状態のみならず、記憶の改竄、認識阻害、果てには洗脳に至るまで、あらゆる心理操作を可能とする能力──らしい。

 

 らしいと言うのは、あくまでオーウィズの推測の範疇でしかなく。

 それだけでは説明のつかない現象が、今まさにヴィクターの眼前で巻き起こっているからだ。

 

「『心淵(アビスフォビア)()夜啼く髄液の夢(クライメア)』」

 

 アマルガムの金糸のような前髪に隠された左目が輝き、どくんと幽かに鳴動した。

 緑に波打つその光はさながら呼び水のように、周囲一帯へ信じ難い変化を到来させる。

 床が。石柱が。天井が。真っ白な大理石(マーブル)で造形される城の一部が、まるで生き物のようにアマルガムの意志に応じて姿形を変えていくのだ。

 

 やがて現れたそれは、さながら石で出来た大ミミズか。

 

 頭部がドリル状にねじくれ、ごりごりと骨を削るような異音を立てながら僅かに回転し続けている。

 体表は荒々しく、鮫肌をより凶悪にしたような質感だ。おまけにガラス質の棘らしきものが首をエリマキ状に覆って()()になっている。

 

 一度喰らいついた獲物は確実に肉塊にせんとする、主の邪悪さを受け継いだ人造生命。

 獰猛な石ミミズの群れはアマルガムの足元を起点にうぞうぞと蠢き、鎌首をもたげて無色透明の殺気を垂れ流していた。

 

(こいつの刻印、心を操る能力じゃないのか……? 星の刻印は一人ひとつのはず。じゃあなんで物質操作みたいな真似が出来る!? しかもあの再生能力、なにもかも説明がつかねえ!)

「考えてる暇があるのかいヴィクター! 心無きこの子たちが今、君の足を食い千切ろうと動き回っているというのに!」

 

 弾かれたように下を見た。  

 いつの間に潜り込んだか──否、いつ足元で命を芽吹かせたのか。

 とぐろを巻いた石ミミズが、まるで己そのものをバネとするように、体を縮こまらせ発射態勢に入っているではないか。

 

「しゃらくせェッッ!!」

 

 間髪入れず拳を撃った。射出された石ミミズをそのまま殴り落とし、轟音と共に木っ端微塵に打ち砕いた。

 だがしかし、一体だけでは終わらない。

 無数。まさしく雨に誘われ地上に這い出てきた群れのように。

 何十はくだらない無機物の殺意が、躰をうねらせてヴィクターを喰い破らんと這い出てくる。

 

「だらッしゃああああ────ッッ!!」

 

 拳を打つ。(はら)う。薙ぐ。

 掴んで握り潰し、砕いた石礫を散弾の如く叩きつける。

 時に(かわ)す。外れた石ミミズは石柱に着弾すると、恐るべき勢いで回転しながら頑強な大理石に清々しいほどの風穴を穿ち抜けた。

 しかも、ひび割れすら植え付けずに。

 

(こいつは厄介だ……! この城中が奴らの巣に変えられてる! 上からも下からも馬鹿みたいな速さですっ飛んでくるのに、あんな奴が一匹でも体に潜り込んだらッ!)

 

 緊張が全神経に火を放ち、集中力の火力を限界まで引き上げた。

 呼吸を整え、まぶたを開き固定する。

 腹の下に力を籠めて、雨霰も同然と襲い掛かる石ミミズを正確無比に捌き続けていく。

 

(だが真の脅威はミミズじゃねえ! いつでも俺の背中をぶっ刺せるアマルガム本体だ! 奴に隙を晒すわけにはいかねえ! かといって攻め手を失えばジリ貧になる! 能力の底が見えない以上ヘタな攻撃は避けたかったが……殺される前にぶっ飛ばす!!)

 

 大きく息を吸って腹を括る。

 拳を振り上げ、床めがけて一直線に振り下ろした。

 

 着弾。しかし破壊が起こらない。

 轟音も弾けず、亀裂も生じず、石床を殴ったにしては似つかわしくない、ぐぷぷっと軟質な水音だけが腕を伝う。

 

 それでいい。

 王の腕が柔らかな泥へ突っ込んだように呑み込まれた、この状態が良い!

 

「おォおおおおおおおッッ!!」

 

 喉の血管が爆ぜかねんばかりの渾身を籠め、男は咆えた。

 突き刺した腕をまるでシャベルとするように、ヴィクターは全力で石床をえぐり飛ばした。

 

「ッ!? なんだ、床を溶かしたのか? それを撒き散らして……────ッ!?」

 

 信じ難いことが巻き起こっていた。()()()()だ。

 ヴィクターの触れた石床がどろどろに液状化して、振り抜かれた勢いを殺さぬままアマルガム目掛けて解き放たれたのだ。さながら掬った泥をかけるように。

 

 しかも。

 

()()()()()()()()()()!? 抉られた城の床がッ! 水飛沫みたいになっていた床が、鋭く固まって飛んでくるッ!? 馬鹿な!?」

 

 驚愕に瞼を剥き、アマルガムは絶叫した。

 きらきらと踊る水飛沫のような白い石液の一粒一粒が、細く鋭い獰猛な凶器へと硬化し迫り来る光景など、理解が及ぶわけがない。

 

「龍颯爆裂拳は俺の意思に応じて殴った空気を魔弾みてーに変えている。だが、効果の射程距離っつーのかな。俺から離れ過ぎるとただの空気に戻るんだ。だったらよォーッ! 殴って空気を固めたように、床を柔らかくしてぶち撒きゃあ、避けようがねえ石矢雨(いしやさめ)の完成ってとこだなァーッ!!」

「なんだそれ、僕の事前知識に無──がッ!? あぼッ!?」

 

 虚を突かれ、成す術もなく礫の散弾はアマルガムの肢体を穿ち抜いた。

 右目。左頬。右腕。胸。右脇腹──赤黒い肉片が削ぎ落とされ、血潮が一帯をおぞましく彩る。

 

 アマルガムの体が弓なりにしなった。

 後頭部が床に接しそうなほど反り返って、しかし今にも崩れ落ちそうな段階でぴたりと止まる。

 

「ぐぁが、か、あは、良い! 実に! 良い!! こうでなくっちゃ面白くない! 機転の早さは英雄に必要な資質のひとつだ!」

 

 体がバネのように跳ね返った。

 傷が巻き戻る。穿たれた穴は塞がり、零れた臓腑は舞い戻り、血液が故郷の川を遡上する鮭のように帰っていく。

 

 魔法の痕跡すら見せない再生能力。心を操る星の刻印だけでは説明のつかない未知の力。

 しかしそれも最早どうでも良かった。

 ああそうだ。どんな絡繰りで再生しようが関係ない。 

 この世で不死者はオーウィズだけだ。アマルガムの再生には必ず限界があるはずなのだ。

 再生を上回る攻撃を叩き込めば、なんら問題はない。

 

 そして。石床の矢雨をまともに喰らったアマルガムは。

 どうしようもなく完璧に、ヴィクターへ隙を晒している────!

 

「だァららららァァァァ──────―ッッ!!」

 

 突き刺さった。拳が。空気を裂かんばかりの恐るべき豪速を伴った鉄拳が。

 アマルガムの右頬を思いきり捉え、メギメリッと頬骨の断末魔を炸裂させた。

 

 終わらない。ただの一撃で終わるわけがない。

 瞬間、両腕が破壊と化した。

 人間の動体視力では捉えられぬほどの凄まじい連打(ラッシュ)がアマルガムに襲いかかる。

 狂瀾怒濤が炸裂した。およそ人体から発せられるものではない凄絶な衝撃波が殺人鬼を蹂躙し、血のスコールを爆発させて白亜の大理石(マーブル)を朱に染め上げる。

 

 大きく右腕を振りかぶり、全霊を込めたフィニッシュブロー。

 それは正確無比に、アマルガムの心臓部へと打ち込まれた。

 

 はずだった。

 

「良い、良いよ、ヴィクター! その容赦のなさ、実に解釈一致だ……!」

 

 ──拳を止めた眩い光。

 稲妻のような輝きを纏う、アマルガムの腕を柄とするように生え伸びたソレは。光の刃は。

 どこか強烈に、記憶を抉られんばかりの既視感をヴィクターの脳裏から釣り上げた。

 

(これはッ、先生の『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』!?)

「『心淵(アビスフォビア)()賜るは冒涜者の才覚(スクウィズ ザ パペット)』」

 

 鈍く輝く、金髪の中の緑眼。

 弾かれる拳。舞い散る黄金の火花。

 徹底的に叩きのめしたはずなのに、みるみる復元していくアマルガムの体。

 

 ここまでやってまだ再生するのか──驚愕に開かれた目が干上がるようだが、ならば何度でもやってやると杭の如く足を踏みしめる。

 体重を存分に乗せ、肉弾という凶器と化した左拳を振り抜いた。

 

 金属同士が衝突したような高周波。

 アマルガムの光の剣が拳を弾き返した、反撃を轟かせる凱歌だった。

 

「なッ──!?」

「ゾッとしたみたいだな。不思議だろ? 僕の身体能力は君より劣っていたはずなのに、どうして返すことが出来たのか」

 

 本能が叫ぶ。危機の到来を。

 腕をクロスさせ急所を庇った刹那、四つの光がヴィクターの四肢を撫でるように切り裂いた。

 

「がッッあッ!?」

 

 がくんと膝から力が抜ける。

 その隙を食むようにアマルガムの凶刃が襲いかかった。

 間一髪。飛来する刃の側面に裏拳を打つように払い、即座にアマルガムの体勢を崩さんと足を蹴り飛ばす。

 だが寸前、アマルガムは地を跳ねて躱し、そのままヴィクターの頭を串刺しせんと一気に刃を振り下ろした。

 

「うぉおおおッ!?」

 

 寸前で剣を白刃取る。

 包帯がじりじりと燃える焦げ臭さが鼻を突き、刃の先端が鼻の頭をぷつりと刺した。

 

(こいつッ……巧くなってやがる! さっきまで素人同然だった体捌きが! まるで武人の魂でも乗り移ったみてーに卓越して────いやまさか、まさかこいつッ、()()()()()()()()()()()()()()()!?)

「へぇ。もう理解したのか、その表情。フフフフ、鋭いなぁ! 良いぞ、流石は僕の見込んだ男!」

「ぐ、うぅ、おおおッ……!!」

「僕の刻印は心を操る。けどそれだけじゃあないんだぜ? お察しの通り、僕は()()()()()と同調し、それを介して記憶、経験則を自分に上書きすることが出来る。心淵に一度でも呑み込まれれば、たとえ三聖の能力(ちから)であっても僕の物になるのさ」

 

 これはどこぞの剣豪の力だよと、舌なめずりしながらアマルガムは力を込めた。

 全体重を乗せて脳髄を貫かんと押し込まれる光の刃を瀬戸際で食い止める。

 だがしかし四肢を裂かれたせいか、それとも体勢のせいか、思うように力が入らない。

 

 少しずつ刃が迫ってくる。 

 鼻の頭を焼き切る剣先が、その侵入を強めてくる。

 けれどヴィクターに、焦燥の発汗は皆無だった。

 

「ハッ。人の心に付け込むのは得意みたいだが、喧嘩のカンって奴は落第も良いとこだな!」

 

 徐々に、徐々に。

 食い込んでいた刃を、押し戻しつつあったからだ。

 

「っ!? その傷で、抗うかッ──」

 

 傷が裂ける。赤が吹き出す。

 構わない。ありったけ肉の鎧を膨張させ、光の剣を押し返す。

 そうして余白が生まれれば、更に力を籠められる。

 

「てめえがどんな達人を模倣(コピ)ろうとも、てめえ自身の(パワー)は変わってねえだろうがよォォ────ッ!!」

 

 完全に形勢は逆転した。

 光の剣を叩き折った。支点を失って崩れたアマルガムの首へ、迎え撃つように肘打ちを突き刺した。

 肉を叩くものではない異音が咲き、男は後ろに大きく仰け反るように跳ね飛ばされる。

 

 ぐるん──アマルガムの眼がヴィクターを見下ろし、砂煙を上げながら倒れることなく踏ん張り留まった。

 

 首の負傷などまるで意に介していない。

 折られた光剣を即座に再生。剣豪の如く瞬時に距離を殺し、冰のように静謐で、いっそ美しさすら覚えるほどの流麗な斬撃の嵐を見舞ってくる。

 それら全てを、包帯の拳が迎え撃った。

 

「ぶちッ! かますッッ!!」

「やってみせろ、ヴィクター!!」

 

 戟が飛び交う。

 火花を散らし、(かね)を打つ悲鳴が爆ぜる。一歩も譲らない熾烈な攻防は波濤を生んだ。

 衝撃は波となって一帯に噛みつき、石柱へ、壁へ、床へ、天井へ無数の破壊を刻んでいく。

 

「嗚呼、素晴らしきかな救世主! その負傷でなんたる気迫! なんという憤怒! 鈍ることを知らぬ拳の冴えよ! 君はいつも最高を超えてくれるな、僕のヴィクタァァッ!!」

「喋り過ぎだ。クソ野郎」

 

 均衡を崩したのはヴィクターだった。

 斬撃四閃。一呼吸の内に放たれた恐るべき殺人妙技を、ヴィクターは何もない空間を殴りつけて弾き飛ばしたのだ。

 空気だ。空気の障壁だ。龍颯爆裂拳のように殴った空気を硬質化させ、不可視の盾を生み出していた。

 

 ならば。

 剣を(はた)かれたアマルガムの前方は、伽藍の堂が如く。

 

「隙だらけと思っただろう?」

 

 殺人鬼の顔貌は、全てが想定の内であると表情筋で物語るように。喜色満面を貼り付けていた。

 余裕の源泉は、ヴィクターの背を狙い定める石ミミズの集団だ。

 

「認めるよ、君相手に真っ向勝負は分が悪い。だが『夜啼く髄液の夢(クライメア)』はこの城の姿形を対象のトラウマに変える。君のトラウマだ! ミミズになにか悪い思い出でもあるのかい? 嗚呼ヴィクター、僕の手足が君の全方位にあるってのを忘れたのか!?」

 

 獰猛が獰猛が唸り、悪魔が牙を剥く。

 無数の石ミミズが飛びかかった。ヴィクターの背を、蜂の巣よりおぞましい肉塊へと加工するために。

 

「忘れてるのはお前の方だ。この腕は俺の意思で、この世の在り方を捻じ曲げるんだぜ」

 

 石ミミズが刺さる。 

 ドリルを喰い込ませ、肉を食い千切るワニのように回転する。

 にもかかわらず、どういうわけか血の一滴すら絞り出せない。 

 どころか、むしろ石ミミズの頭が潰れていく。まるで壁に押し付けたグミのように。

 

「もうひとつ言ったぞ。射程距離! さっき床を抉り飛ばした時、与えといたんだ。足元がスライムみてーな弾力を持つようにッ!」

「なッ──!?」

「石ミミズの材質はこの城だ! 柔らかい床からは柔らかいミミズしか生まれねえ! だったら次は天井か? 石柱からか? やってみろよアマルガム、俺の拳がてめえの顔面を叩っ壊す前によォ──ッ!!」

「──『心淵(アビスフォビア)()夜啼く髄液の夢(クライメア)』! 彼を縛り上げ」

「だァァらァあああああああ──────―ッッッッ!!!!!」

 

 右拳が顔面を砕いた。

 左拳が鳩尾に突き刺さった。

 

 赤混じりの唾が飛ぶ。

 蛙が潰れたような濁音が吐き下される。

 体がくの字に折れ曲がって、かちあげるような右のアッパーカットがアマルガムを宙に吹っ飛ばした。

 

 止まらない。顔面を鷲掴む。流れるように床へ叩きつける。

 猛烈な轟音。床に亀裂を放射状に走らせながらゴム鞠の如く跳ね返ったアマルガムに、必殺を込めた拳の砲弾を撃ち放った。

 

 命中。石柱に激突。

 柱の慟哭と共に崩れ落ち、硝煙に呑まれながら地に伏せた。

 

 ──再生。

 

 ぐじゅぐじゅと破裂した筋線維が元の形に戻る。折れ曲がった骨が正しく組み直されていく。

 花咲いたように散った周囲の赤も、全てアマルガムの元へ帰っていく。

 

「……よーやく分かってきたぜ。お前の力の秘密ってやつが」

 

 構えは解かない。

 もはやこの程度で、アマルガムを倒したとは思っていない。

 

「心を支配する能力……なるほどこいつは厄介だ。人の頭弄るだとか、ンな小細工は力の切れっぱしに過ぎねえ。先生の『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』を奪ったように、てめえの真価はとことん人間を食い潰すことに集約されている」

 

 さらなる怒りが込み上がる。

 地の底より来たるマグマのように、喉から今にも飛び出さんばかりに。

 

「磨き上げた頭脳も、大切な思い出も、積み上げてきた努力さえお前は奪い取る! そうして出来上がったのがこの城だ。ここはいわばてめえの精神世界ッ! 今まで喰ってきた人間の心が城を作るエネルギーになってるんだろう! だからテメエはこの城を意のままに操れる! 不死身でいることが出来る!」

 

 まだ謎はある。

 精神世界がゆえに不死身ならば、同環境にいるヴィクターが負傷したままなのが説明できない。

 

 もっと不可解なのはその力の恐るべき出力だ。

 星の刻印は長所と短所表裏一体。いくら非常に強力でも、何らかの制約があるのが摂理である。

 

 絵に対象を閉じ込めるカースカンの力は、封じ込める範囲と反比例して干渉力が弱まった。

 人体を意のままに改造するエマは、触れなければ能力を発動できなかった。

 

 だがこれだけの力を自在に操れるアマルガムには、恐らく能力の干渉に制限が無い。

 

 ほんの少しアマルガムと出会っただけで、ヴィクターは記憶操作と認識阻害を打ち込まれた。挙句、こうして奴の精神世界に引きずり込まれてしまっている。

 仮説にすぎないが、あの左目と()()()()()()()()で能力の対象になるのだろう。

 そうでなければ、エマの魔法を破ったように認識阻害を看破できるヴィクターの性質と矛盾が生まれる。いつの間にか城にいた理由が説明できない。

 

 それに刻印の力と『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』を同時発動したにも関わらず、無尽蔵の肉体再生まで可能とする能力使用は、何の絡繰りもなく成せる魔力の要求量ではないはずなのだ。

 

(いくらこの城が自陣(フィールド)とはいえ、何故ここまで強大な力を扱える? 先生の召喚獣(ゼノアニマ)みてーに威嚇目的のハリボテでもない、正真正銘全力のパワーだ。何か補助道具でも使ってやがるのか? だとしたら、そいつをぶち壊せば倒せるかもしれねえ……!)

「くぁ、か、はは。まったく、僕相手じゃ試練にもならないな。素晴らしいよ」

 

 アマルガムが立ち上がる。

 既に傷は治り、ボロボロだった衣服さえ綻びひとつ存在していない。

 ゆらり。幽鬼の如く揺らめいて。

 

「試練とは……心の強さを試す行為だ。英雄は不屈でなくてはならない。弱い心は判断を鈍らせ、取り返しのつかない失敗を生む」

 

 アマルガムの瞳が光を放ち、ヴィクターは到来する攻撃に備え構えを固める。

 だが、しかし。

 それは城を化け物に変えて襲い掛からせるだとか、誰かの才覚を奪って振るうだとか。

 そもそも、攻撃ですらないものだった。

 

「ひとつ問題だ。この状況、君ならどうする?」

 

 ──アマルガムが示す指の先に、薬屋の老婆が転がっていた。

 

 目を疑った。だって彼女は死んだはずだ。

 袋詰めにされて、見るも無残な姿に変えられて、腸が煮えくり返るほどの怒りをアマルガムに覚えたのは幻じゃない。

 

 しかし彼女は生きていた。涙に目を潤ませ、わけのわからない状況にパニックになって震えているではないか。

 ただし石ミミズに簀巻きのように纏わりつかれ、身動きどころか呻き声すら許されぬ状態で転がされている。

 

「人質は対象の知人である方が効果は大きい。嗚呼ヴィクター、(ぼく)がさぁ! いざという時に有用な人材をさぁ、あっさり殺すと思ったかい?」

「てめえッ!」

「あの死体は別のガルーダだよ。背格好が同じくらいの別人を用意してたんだ。フフ、気付かないのも無理はない。腐乱死体入りのズタ袋なんて、わざわざ開けて確認したりはしない。知人であれば尚のことだ!」

 

 その時だった。肌を殴りつけるような熱風が、二人の合間を駆け抜けるように通り過ぎた。

 風の源は縛られた老婆の至近。一本の柱が、まるで地獄に生え伸びる大樹の如く業火に包み込まれたのだ。

 しかも、柱の根元には亀裂が走り、老婆めがけて残酷な死を倒れ込ませようとしている。

 

「ッ──」

「さぁどうする!? 老婆を助けに向かうか!? だが火から老婆を救えても、『夜啼く髄液の夢(クライメア)』の石ミミズは君を老婆ごと八つ裂きにする! あれを庇いながら捌くなんて不可能だろう! ならば老婆を見捨てて僕との確実な決着を望むか!? 答えてみろよ、君の信念を賭けてさぁあああ────―っっ!!」

「──両方だ。てめえをぶちのめして彼女も救う。それ以外に答えなんかあるか」

 

 ぐんっ、と。ヴィクターは何かを手繰り寄せるように、大きく腕を振り上げた。

 刹那、アマルガムががくんと崩れ落ちる。

 まるで罠に引っ掛かった獣の如く、未知の力に足を掬われて。

 

「は」

 

 アマルガムは見た。いいや、体で確かに感じ取った。

 己の足首に絡みつく不可視のナニカを。その存在を。

 

「これはっ……何だ? 見えない何かが巻き付いてッ!?」

「何度も言わせるなよ……俺の拳は物の在り方を捻じ曲げるんだ。こんな風に空気をロープ代わりに練って、てめえの足元に括り付けるなんざ造作もねえことだ」

「い、いつの間にッ……!?」

「さっき殴り合った時にちょちょいとな。こう見えて手先は器用でよォー、罠作りとか得意なんだぜ!」

「うぉっ、お、おおおおおおおっ!?」

 

 人間を分銅鎖のごとく振り回す。

 遠心力を存分に蓄えて、一気に解放。アマルガムを炎の柱に叩きつけた。

 老婆を焼き潰す寸前だった柱は大きく着弾地点を逸らし、粉々に爆砕しながら大きく炎を噴き上げる。

 

 ヴィクターは瞬時に老婆の元へと駆け寄って、迫る爆炎を殴り飛ばした。

 そのまま老婆に巻きつく石ミミズを、一匹残さず引き千切っていく。

 

「ばあちゃん、大丈夫か? 怪我は?」

「あ、ありがとう。もう駄目かと思ったわ。お陰で無事よ、なんとも無いわ」

 

 涙ながらに礼を述べる老婆を、淡い光が包み込んだ。

 暖かい光だ。アマルガムの能力とは違う何かを感じる。

 直感だが、心淵の拘束を解かれ、魂がこの悍ましい精神世界から解放されているように思える現象だった。

 

「ねぇ、何が起こってるの? 気付いたらこんな所に居て、もう何がなんだか……。っ、待ってあなた、酷い怪我じゃない! すぐにお医者さんを呼ばなきゃっ」

「大丈夫ッス、ただの悪い夢ですよ。すぐに目を覚ましますから」

「……そういえば、何だか、凄く眠いわ。ああだめよ、イシェル先生を呼ばなきゃ……大丈夫だから……ね……もう少しの……辛抱……」

 

 ゆっくり横たわるように淡雪と消えた老婆を見送る。

 膝に手を突き、立ち上がる。振り返って、炎の柱と共に崩れたアマルガムを見やる。

 

「ぐぁあああああっ…………そ、そそ、想定外だ……こ、こんな荒業で突破してくるとは、なんて常識が通用しない男だ君はッ……! 嗚呼、胸が抉られたみたいに痛む! 血が止まらない! こんなの初めてだ、これはッ、これが敗北感ってやつか……!?」

 

 瓦礫の中から、血濡れのアマルガムが姿を現した。

 額をぱっくり切ったみたいにどくどくと鮮血を垂れ流し、顔を赤く染めている。

 初めて見せる表情だった。苦痛に歪んでいる。普通の人間と同じように、傷がもたらす激痛に喘いで苦しんでいる。

 

(こいつ、傷が治ってないぞ。だが()()()()()()()。背中から思い切り柱に叩きつけたってのに、骨も折れてないし燃えてもいない。額を切ってるだけだ)

 

 春の新芽のように仮説が芽吹く。 

 アマルガムが口走った敗北感という言葉。この異常極まる精神の世界。

 もしやこの世界における負傷は、直接的な攻撃に限らず精神へのダメージも反映されるのではないか。

 

(俺の傷も開いたままだが、いつの間にか完全に止血してるし痛みもねえ。そういや人間って、思い込みだけで火傷することもあるんだっけか。人間の持つ思念の強さが魔法の発展に寄与したとかなんとか……)

 

 つまり、アマルガムへの怒りが傷への意識を上塗りした結果、ヴィクターの傷は半分治癒したような状態になっている。

 完全に治っていないのは、いわゆる潜在意識という奴だろう。無意識下で『切られた』ことを認めているからこそ、完全に癒えるに至っていない。

 

(じゃあアマルガムの傷が完全に治ってたのは、無意識下ですら傷の存在を否定出来るからなのか? ……妙だな。そんなシンプルな気がしねえ。こいつ、何か絶対に裏がある。ロクでもねえ何かが)

 

 現にアマルガムは不治の傷を負って苦しんでいる。

 あれほどの重症を瞬時に治せるほど常軌を逸した精神制御を可能とするなら、敗北感などという感情ひとつでのた打ち回るのは矛盾ではないか。

 

(だが、これで突破口は見えたぞ! 精神ダメージ! これが鍵だ。奴の目論見を徹底的にぶち壊せば──)

「と、君は考えている」

 

 怖気。

 脊髄の椎骨ひとつひとつを舌で舐めとられるような悪寒が、なめくじの如く這い回る。

 

「確かに想定外だったよ。僕の思い通りに動かなかった人間は君が初めてだ。けどそれは、あくまであの老婆を無傷で助けられたことだ。あれにはビビッた、嘘じゃない。老婆の命を救う代わりに君がズタボロになるか、無傷の代わりに老婆を見捨てるか。ふたつにひとつだったんだ」

 

 けど──アマルガムは嗤う。

 夥しい血潮で足元を汚しながら、魔力切れのゴーレムのようにぎこちない動きで立ち上がって。

 

「僕の目的は……燃料切れだ。君のその力ってさ、無限じゃないだろう。魔力量(リソース)制限時間(リミット)かは知らないけど相当短い時間しか使えない。だから永続的に行使してないんだ。小刻みに発動することで消費を抑えている」

 

 見破られている。ヴィクターの持つ王の権能、その弱点を。

 それだけじゃない。刻限が近づいているという、決して知られてはならない優位性(アドバンテージ)まで剥奪されている。

 

「そこで(ぼく)は考えた。君の抵抗手段を徹底的に削ぎ落とす方法を。更なる試練を与える方法を!」

 

 アマルガムが両腕を大きく仰ぐ。それは楽団の指揮者が如く。

 悪魔の指揮は城にさらなる変化をもたらした。

 天井が引き上がっていく。高く、高く、摩擦で石が削れるような重々しい音響を連れて。

 

 そうして変化の果てに現れたソレは。

 あまりに度し難く、この世のものではない地獄の様相を生き写した光景だった。

 

「騎士団の真似は警戒心を解くのに実に都合がよかったよ。おかげでレントロクスとダモレーク、大勢の人々と()()()()()()ことが出来た! 瞳は魂の窓口だ、僕の眼を見た者は心淵に接続される!」

 

 ──天井からだらりとぶら下がる、首吊り死体のようなナニカの群れ。

 十数どころの話ではない。上昇した天井に何百もの、下手をすれば千はくだらない人間の魂が、悪趣味な標本箱のように吊るされているではないか。

 

 最悪は想像を絶する悪辣な光景に留まらない。

 己の視力を恨むほどに、見知った顔ぶれが囚われているのが、はっきりと見えてしまったからだ。

 いいや。アマルガムはあえて、ヴィクターと所縁のある人間を見せつけたか。

 

「ダモラスの爺さん!? 師匠も! 親方に奥さんまでっ……!!」

 

 よくよく観察すれば、ダモレークの行きつけで見かける店員や、どこかで見たことのある人間の顔が確かに紛れ込んでいた。

 信じ難いことにブーゴたち三人組の魂まで囚われている。アーヴェントの孤島という完全隔絶領域で安静にしているはずの彼らまでが。

 

(馬鹿な、島にいれば絶対に安全のはずだ! 星の刻印の影響なんざ及ぶわけがねえ!)

 

 しかもこれほどの人数を同時に影響下に置くなど、常識では考えられない能力の発動規模だ。

 だが幻ではない。証拠を示すと言わんばかりに、アマルガムは自らの頭を石ミミズで打ち抜いたのだ。

 

 噴水のように粘質な赤が、ぶよぶよした塊が、ずるりと零れ落ちるように吐き落とされる。

 同時に天井の一角で異変が起こった。

 見ず知らずの魂が耳をつんざくような金切り声を張り上げて、どす黒く泡立つ汚濁を撒き散らしながら消滅していったのである。

 

「不思議だったろう? 僕の不死性の正体が」

 

 反比例するが如く、アマルガムの致命傷が再生していく。

 その現象が示す先は。あまりに認め難い真実の一端は。

 

「この世界では精神のダメージが魂に反映される。もちろん斬った張ったのような直接的負傷もある。けど、別にメンタルが強ければ不死身の世界ってわけじゃあない。治すには対価が必要なんだよ」

「まさか、まさかお前ぇッ!!」

「そうだよ。君が僕をタコ殴りにするたびに、僕はどこかの誰かさんを喰って魂の傷を補っていた」

「ッッ……!! 一体どこまで、人を食い物にすりゃ気が済むんだコラァッ!!」

「ま、安心しなよ。魂って意外に頑丈でさ、少々食い散らかした程度じゃ死なないんだ。病院送りが良いとこかな」

 

 さて──万全を期したと語外にうそぶく笑みを見せ、アマルガムは言う。

 

「君の能力、あの医者との戦いもあって猶予はないだろう? その残りカスみたいな制限時間(リミット)で、果たしてこの人数を救うことが出来るだろうか。参考までに、接続の弱い彼らは拘束を解けば僕の支配下からは解放される。君が助けたガルーダの老婆やコロポックルのようにね」

「っ…………要求は何だ」

「へえ、察しが良いじゃあないか」

「人質は取引材料だ。俺の能力を削ぎつつ絶対に逆らえなくする場を整えたっつーことは、どう考えても俺に何かを必要としてるからだろ。それも任意のナニカだ」

「話が早くて助かるよ。僕の要求は至極単純、君の腕の道具だ。そいつを渡してほしい」

 

 アマルガムが指差したのは、墨色のオフモードになっているフォトンパスだった。

 

「数多の心と触れてきた僕が思うに、人間にとって最も困難な試練とは、己の精神的弱みを克服することにある。トラウマとか、コンプレックスだとかね。しかしそれを乗り越えた時、人は黄金の魂を手に入れるんだ」

「何が言いたい」

「その腕輪が僕の干渉を邪魔している。本当はもっと深い部分まで取り込むつもりだったのに、どういうわけか完全な干渉を防がれてしまった。おかげで君の試練を最適な形で用意できなかったんだよ」

 

 一抹の驚きが萌芽する。

 オーウィズの言葉通り、不完全ながらフォトンパスは刻印の影響を遮断していたらしい。てっきり防げていなかったと思っていたら、事実はその逆だったのだ。

 むしろここは、オーウィズの守護を貫通してきたアマルガムの異端さに目を向けるべきか。

 能力の規模と言い、やはりアマルガムの力には何か裏がある。

 

「さぁ、腕輪を渡すんだ。そして真の試練に挑め。自身の弱さを克服し、君は救世主としての資格を得るんだ。そうすれば君の勇気に敬意を表して、彼らに手出しはしないと約束しよう」

「…………」

「わかるだろ。僕はやると言ったら本当にやる人間だ。この数、一気に始末すれば今度こそ騎士団に足取りを掴まれるだろうが、同時に大混乱に陥るだろう。街中が不審死体で溢れかえるんだぜ。その混乱に乗じて僕は身を隠せる。そうやって何度でも救世主を探し続けるよ、これからもずっと」

 

 脅しではない。これは言うなれば犯行声明、確実に決行するという邪悪な意志の表明だ。

 アマルガムはやる。この男には躊躇が無い。

 まるで蟻の巣に水を流し込む子供のような無邪気さで、大勢の人生を一瞬にして奪い取れる。

 魔物よりも悍ましい、悪性の権化がここにある。

 

(クソッタレが、奴が手を出す暇も無いくらい一瞬で倒すのは現状無理だ! かと言ってあの人数を助けるのも俺には出来ねえ……! 腕の力はもうたった15秒程度しかもたない! 緩やかな時の世界でも不可能だっ……! せめて()()()()()()()()()()()が活きさえすれば……!)

 

 もはや迷う暇も、考える猶予もない。

 ここで腕輪を渡さなかったら、大勢なんて言葉じゃ生温い無関係の人々が虐殺される。

 ならば答えはひとつだけだ。それだけは、絶対に阻止しなくてはならないのだから。

 

「……カースカンは君を正義の味方ではないと言っていた。だが僕の解釈は違う。絶体絶命のコロポックルを手にかける可能性を厭わず頭の爆弾を壊したのは、紛れもない勇気の決断だ」

 

 嗤う。嗤う。

 

「人は最良の選択を選び続けられない。多くの場合、最良を掴むには危険(リスク)を伴うからね。だから人々は最良(ベスト)ではなく優良(ベター)を選ぶ。傷つきたくないから、傷つけたくないから、なぁなぁな結果ばかりを掴み取ろうとする。なんと脆く醜い心か」

 

 悪魔は嗤う。

 舌の上の命を、尊厳を、飴玉のように転がしながら。

 

「君は違う。君は最良を掴むために足搔く。どんな危険も犠牲も責任も、自分が被るなら構わないと思っている。そうして人を救うために動ける君は、紛れもない黄金の勇気を持つ正義の人だ。……嗚呼、腕輪をありがとうヴィクター。そしていってらっしゃい、深淵なる君の世界へ」

 

 受け取った腕輪を握り潰しながら、アマルガムは我が子を送り出すようにそう言った。



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49.「悪魔の巣は玉座を騙る」

 ──時はヴィクターがアマルガムと激突した頃。場はアーヴェントの孤島にて。

 

 

 陽が落ちた夜の刻。月光がカーテンを越えて夜闇にうっすらと帳を作る最中、妹の背中を規則正しいリズムでとんとんと寝かしつけながらも、シャーロットは内心混乱に陥っていた。

 

 深海色の前髪が目にかかっても払うことすらせず、瞳を投石された水面のように揺るがせて、それでも薄桃の小さな唇をきゅっと結び、寝入っている妹に悟られまいと感情に蓋を被せている。

 けれど肝の強い少女にしては珍しく、完全に狼狽を隠せてはいなかった。

 

 動揺の原因は様々だ。色々ありすぎて、頭がこんがらがりそうになっている。

 まず、ヴィクターが帰ってこなくなったのが第一の事件。

 殺人鬼に命を狙われたうえに、禍憑きで衰弱してしまったブーゴを島に送り届けた彼は、何ゆえか姿を消した。

 オーウィズどころかシャーロットにすら行先を告げず、いつの間にか島を出ていたのだ。

 

 外に出かけただけなら良かったかもしれない。実際、ヴィクターがふらりと島を出ることはたまにある。

 仕事だったり、ダモラス老やザルバとの交流だったり、はたまた気紛れな散歩だったりと理由は様々だ。

 

 しかしオーウィズのフォトンパスに山のような生命情報(バイタル)の危険信号が送られてきた挙句、どれだけ連絡しようがうんともすんとも言わないとくれば話は別だ。

 反射的に島を飛び出しそうになったものの、手掛かりなく探しても時間を無駄にするだけだとオーウィズに窘められ、こうして大人しく待っている状況にある。

 

(ああもう、なんで通信が繋がらないのよっ! メッセージも返ってこないし……うぅ……)

 

 逐一フォトンパスを見るのが止められない。返事が返ってきたか確認しなければ落ち着かない。

 自分でも何故こんなに心乱されているのかが分からなかった。

 心配なのは確かだが、いや、物凄く心配でどうしようもないのだが、彼のタフネスに信頼を置いているのも確かだ。むしろ誰よりもヴィクターという男のしぶとさ、強かさを知っている自負さえある。

 

 だから今回も大丈夫だろうと信じている。

 信じているけれど、不安で不安で仕方がない。

 彼の強靭さと同じくらい、彼が信念のために命を落としかけた瞬間を、何度もこの目で見てきたからか。

 

(ヴィックは無鉄砲な真似はしない。何か考えがあっての行動のはず。だからきっと平気。絶対に無事。……なのに、どうしてこんなに生きた心地がしないの)

 

 場所が分かればすぐにでも飛んでいくのに。力が必要ならどれだけでも貸すというのに。

 何も出来ない歯痒さとは、こうも胸を裂く痛みなのか。

 

「ん。んぅ」

「あっ、起こしちゃったかな」

 

 穏やかではない姉の気配を悟ったのか、リリンフィーが毛布の中でもぞもぞと動き出した。

 青空色の寝ぼけ眼をぽやんとさせてシャーロットを探している。隣の姉を見つけると、小さな指でシャーロットの手を握ってきた。

 

「おねえちゃん……?」

「大丈夫、平気よ。ごめんね心配かけて」

 

 リリンフィーの白絹のような髪を撫でる。

 くすぐったそうにする幼い妹を見ると、少し気分が落ち着いた。 

 昔から彼女の頭を撫でると不安が和らぐ。つくづく姉馬鹿だなと我ながら思う。

 

「おにいさん、まだ帰ってないの?」

「うん……まだ」

「大丈夫かなぁ?」

「大丈夫よ。絶対無事に決まってる。この私に食らいつくくらい強いんだもの。すぐにでも帰ってくるわ」

 

 言い聞かせて、毛布を掛け直しながら胸元に抱き寄せる。優しく背中を叩くと、リリンフィーの瞼はすぐに降りた。

 少しだけシャーロットにも睡魔がやってくる。子供の体温は絶妙に眠気を誘うものだ。小さな欠伸が出て、ついでに仮眠しようかと瞳を閉じる。

 

 ──その時だった。目覚まし時計よりも鮮烈なドンドンという連打音が、シャーロットの寝室に響き渡ったのは。

 

 まるで高いところから落ちた夢でも見たように体が跳ねて、眠りかけの意識が一気に覚醒した。

 驚いて音源を向けば、どうも誰かが寝室のドアを猛烈な勢いで叩いているらしい。

 小人(コロポックル)の誰かのようだが、ずいぶん慌てている様子がドア越しからでも伝わってきた。何事かと眉が怪訝に曲がる。

 

 びっくりして飛び起きたリリンフィーを宥めながら入室を許可すれば、黒白の給仕服を纏ったエルルが勢い余ってすっ転びながら部屋に飛び込んできたではないか。

 

「た、たいへん! お嬢さま、たいへん!」

「ちょっと大丈夫? どうしたのよ血相変えて」

「倒れたの! さんにん! ゴブリンとワーウルフのさんにん! まるで病気になっちゃったみたいにっ!」

 

 

「博士、一体なにが起こってるんです!? 三人とも急に倒れるなんて!」

「全力で解析中だよ、シャーロット君!」

 

 エルルの報告を受けたアーヴェント姉妹は、賢者オーウィズの待つ医務室へと押し掛けた。

 部屋に入って、まず言葉を失ったのはリリンフィーだ。

 

「ひどい……どうしてこんな……!」

 

 小太りの窟人(ゴブリン)、ブーゴ。同じく窟人(ゴブリン)だがブーゴより長身で痩せっぽちのホルブ。そして蒼銀の毛並みに狼の耳が頭頂にぴょこんと生えた狼人(ワーウルフ)のライアン。

 旧下水道の一件で保護した三人組が、整列したベッドの上で皆一様に死人のように青ざめ、白目を剥き、激しく痙攣しながら白濁した唾液をぼろぼろと零しているではないか。

 

 尋常の様子ではない。熱病にうなされているだとか、悪夢に苛まされているだとか、そんな次元の苦しみ方ではなかった。

 満足に息が出来ないのか、喉を搔き毟って呻いている。不思議なことに、首をぐるりと囲う真っ黒な痣が浮かんでいた。

 

 謎の痣は圧力を伴っているのか、肌を凹ませ、彼らの気道を狭めるように圧迫している。

 これではまるで、透明な荒縄が彼らをゆっくりと絞首刑にでもかけているかのようだ。

 

「まだ断定は出来ていないけど、きっと彼らの魂に仕組まれた星の刻印が悪さしている。まるで強烈な呪詛(アナテマ)だ。急いで緩めようとしてるんだけど、いかんせん効果が薄い!」

「星の刻印って、ここはアーヴェントの孤島ですよ!? なぜ外界の影響が!?」

「わからない……説明がつかないんだ! こんなの、普通の魔法原理じゃあり得ない!」

 

 無数の魔法陣を展開させ、三人を蝕む正体不明を明かすべく解析術式を操作しながら、オーウィズは眉間にしわを寄せて歯噛みした。

 ただ事じゃない、とシャーロットは青ざめた。だってオーウィズは世界最高峰の魔法使いだ。不可能なんて存在しないのかと思わされるほど、何でも実現させる常軌を逸した力がある。

 

 そんな彼女が汗を浮かべ、瞬きひとつせず集中して魔法陣を操り、三人の治療に取り掛かっている。

 しかも効果が薄いのか、険しい表情は崩れないままだ。

 普通じゃない。賢者オーウィズがここまで焦るなんて、これはただの事件ではない。

 

「考えられる可能性としては殺人鬼(アマルガム)だ。フォトンパスが示すヴィクター君の生命情報(バイタル)に精神汚染の警告が発せられて、間もなく連動するように彼らが倒れた。十中八九何かしたんだ。それも彼らだけじゃない、アマルガムの支配下にある魂全てに!」

 

 シャーロットは魔法や刻印に対してある程度の知見がある。館の蔵書で学び続け、最近はオーウィズから直々に理論体系の手ほどきを受けてきた。

 だから分かる。彼女の言葉が孕んだ重大さが。アマルガムの能力の恐ろしさが。

 

「っ、早くアマルガムを止めないと……!」

「落ち着きたまえ、闇雲に行動しても無駄に時間を浪費するだけだ。それにあと少しで……よし!」

 

 最も衰弱が著しいホルブに何かを施していたオーウィズは、汗を拭いながら快闊な笑みを見せて、己のフォトンパスに視線を落とした。

 

「彼らに悪さしている刻印の逆算に成功した。剥がすことは出来ないけど、これでボクからアマルガムにある程度干渉でき────、っ!?」

 

 完全な不意だった。

 何の前触れもなく、バヂィンッ! と空気が破裂したような絶叫が轟いたのだ。

 

 術式を制御していたオーウィズの手が、突然黒い稲妻のようなエネルギーに弾き飛ばされた異音だった。

 手のひらから煙が立ち昇っている。皮膚がどす黒く炭化し、肉の焦げる匂いが瞬く間に部屋へたむろした。

 大人しく見守っていたリリンフィーが甲高い悲鳴を上げた。オーウィズは心配させないよう、「大丈夫」と即座に手を隠して、両手を迅速に治癒させていく。

 

「信じられない、こいつ賢者(このボク)を弾いたぞ。しかもこの逆性魔力、君たちアーヴェントと同じ性質の……!」

 

 全身を驚愕に染め上げられたみたいに、末端に至るまで血潮が凍った。

 今、オーウィズは何と言った? 逆性魔力──オーウィズに抵抗したアマルガムの魔力がアーヴェントと同じものだと、そう言ったのか。

 

「ちょっと待って博士、それって()()()()()()()()()()使()()()()()ってことですか!?」

「……信じ難いが、そうだ。理由も理屈も経緯もまるで分からないが、どういうわけか黒魔力を使っている。だからボクの干渉を弾けたのか、こいつ」

 

 凍っていた血が一気に沸騰した。

 シャーロットの五臓六腑が、地獄の釜で煮立たせられたように熱くなった。

 

 無理もない。こんなの、何があったって認めるわけにはいかない。

 王の血脈を継ぐ者にのみ許された由緒ある力を、あろうことか下劣な殺人鬼が手にしているというのだ。

 度し難い。最悪の一言に尽きる。例え真実であっても絶対に許せるものではない。

 

 少女にとってアーヴェントの血は誇りそのものだ。

 例え歴史の正中線で世界を裏切った逆賊と貶められていようが、父母から気高さと愛と共に受け継いだ血統の贈り物である王の魔力は、何人たりとも侵せないアーヴェントの威光にして高潔の証明である。

 

 それをあろうことか、薄汚れた殺人鬼が使っているときた。

 血族の現代当主であるシャーロットにとって、これほど屈辱的なことがあるか。両親の墓を暴かれ、亡骸に排泄物でもかけられているに等しい侮辱そのものだ。

 震える手を押し殺すように握り固める。姉の煮立つような怒りを案じて、リリンフィーが裾をそっと握りしめてきた。

 

 恐る恐る、リリンフィーが声を上げる。

 

「博士、あの、その、あまるがむって人はアーヴェントなんですか?」

「それは違う。刻印を逆算して彼の生命情報を垣間見たけど、アーヴェントじゃないことだけは確実だ。けれどこれで島にまで影響を及ぼしてきた理由も説明できる。世の理を意のままに捻じ曲げる王の力なら、高次元断層結界をすり抜けることだって可能だ。唯一の方法と言っていい」

 

 問題はなぜアーヴェントではない人間が黒魔力を使役しているかという一点に尽きるが、謎を解いている暇など無い。

 可及的速やかにアマルガムを撃破する必要がある。時間をかければかけるほど、三人の魂が取り返しのつかない傷を負い、ヴィクターも危険に晒されてしまう。

 解決の算段は既に整った。ならば実践するだけだと、オーウィズは姉妹へと目を向けた。

 

「彼らを救うには君たちの協力が必要不可欠だ。協力してくれるかい?」

「ええ、もちろん。何でも言ってください」

「が、頑張ります!」

「ありがとう。じゃあさっそくリリンフィー君、僕の手に触れて」

「? こうですか?」

 

 差し出された手を、リリンフィーは小さく握って応えた。満足そうにオーウィズはうなづく。

 

「そのままボクに魔力を流してくれ。君とボクの手で川を作るようなイメージを浮かべるんだ。ほんの少しで良いから」

「わかりました……むむ……」

「ッ、博──」

 

 制止を口走ろうとしたシャーロットの唇が、縫われたように動かなくなった。

 オーウィズが封じたらしい。彼女は眼鏡越しに山羊を彷彿させる水平の翠眼をほんの少しだけ目配せして、「心配ない」と言葉無く押し付けた。

 

 しかし姉の動揺に不安を覚えたのか、リリンフィーの体からぱちぱちと瞬いていた魔力痕が消えてしまう。

 

「あの、本当に大丈夫なんですか?」

「もちろん。君が持つ『純血』の黒魔力がなくちゃ絶対にダメなんだ。やってくれるかい?」

「……わかりました。無茶はしないでくださいねっ……!」

 

 覚悟を決め、リリンフィーは血の潮騒に意識を集中させる。 

 再び魔力痕が奔る。ばちばちと、ばちばちと、空気が弾ける音が鳴いた。

 

 腰元まで伸びた白妙の髪が水中のように浮かび始める。すると、紙に染みこむ墨のごとく白髪が一瞬で黒に染め上げられた。

 変化は髪に留まらない。赤みひとつない真っ白な莢膜(しろめ)までもが漆黒に染まって、空色の瞳に金色の円環が出現した。

 幼いアーヴェントに顕現したのは、かつてシャーロットが魔物(カプディタス)との戦いで垣間見せた、王族の証に他ならない。

 

「もう少しです、今魔力を練ってますから……!」

 

 『純血』の黒魔力が脈打つ心臓のように鳴動する。日頃の魔力操作の練習が功を奏したか、暴走は起こらない。力は完璧に安定している。

 言われた通り、練った魔力をほんの少しだけ流し込めば、繋いだ手を通り道に純黒のエネルギーがオーウィズの腕を登っていった。

 

「うん。ありがとう、リリンフィー君。……イレヴン」

「あいあいマスター。さぁ妹様、ワタクシと一緒にお散歩にでも行きましょうネー」

「ふぇ? あっ、ちょ、執事さん!?」

 

 突如オーウィズの影から現れたのは、静脈血のような禍々しい赤色に染まった燕尾服の執事長だ。

 薄紫の地毛に黒のメッシュが入ったオールバック。真っ赤な唇。濃いアイシャドウ。黒く染まった白目に黄金の瞳──およそ召使いとは思えない華美な出で立ちの男は、リリンフィーの浮遊椅子の持ち手を掴むや否や、有無を言わせず部屋の外へと連れ出してしまう。

 

 

「……行ったね」

 

 リリンフィーが部屋を外れて、一拍。

 ブツッと肉の筋が切れたような異音が咲いた次の瞬間、オーウィズの体がまるで破裂した水道管のように、凄まじい血潮を撒き散らした。

 

「がふっ、が、ばっ、ぐうぁあああっ、()ぅううう……!!」

「博士!? アーヴェントじゃないあなたがリリンの『純血』を取り込むなんて、無茶な真似をっ!!」

「げほっ、えほっ、ぎ、ぃあ……うぅ……し、仕方ないんだ……こうするしか、げほっ、アマルガムに対抗する方法は無い……! ま、まぁ、心配無用だ、ボクは不死だぜ? ちょいと中身が滅茶苦茶になったくらい、問題はない、よ」

 

 腐った内臓のような血の塊を吐き出して、それでもオーウィズは無理やり口角を吊り上げた。

 

 これだ。これこそがアマルガム最大の謎でもあるのだ。

 アーヴェントではない人間が王の魔力を体内に取り込めば、体中を滅茶苦茶に食い荒らされて絶命する。『純血』の主であるリリンフィーすら、虚弱体質を余儀なくされるほどの絶大なエネルギーなのだ。資格無き人間に扱える代物ではない。

 

 強がってはいるが、想像を絶する苦痛に身を引き裂かれているはずだ。

 何年もリリンフィーの苦しみようを見てきたシャーロットには分かる。純粋な黒魔力が人体に如何にして牙を剝くか、嫌というほど知っている。

 

 だがそれを承知の上で、オーウィズが覚悟の元に決断を下したのならば。応えなければアーヴェントの名折れであろう。

 

「……分かりました、私も全力で補助します。出来ることがあれば何でも言ってください!」

「ありがとう、助かるよ。いやぁ、思ったより体を壊されるスピードが速くてね……流石は陛下と同等の魔力だ。ははは」

 

 オーウィズは即座に治癒魔法を重ね掛けした。シャーロットも同様に、彼女が集中できるよう水薬(ポーション)の塗布や簡単な治癒魔法でサポートをはかる。

 それでも肉体の崩壊を辛うじて止めているだけだ。もとより黒魔力は森羅万象の理に支配されない独裁の権能である。どんな手段も焼け石に水に等しい。

 

 十分だ。オーウィズにとって大切なのは意識レベルの維持に過ぎない。例え四肢末端まで腐り落ちようが、脳が働きさえすれば魔法は操作できるのだから。

 

「アマルガムは恐らく……蜘蛛の巣のように張り巡らせた星の刻印から、影響下にある魂を養分に巨大な精神世界を構築している。ヴィクター君も、彼ら三人も、きっとその世界に囚われている」

 

 吐血。ゼリー状の赤黒い粘液で服を汚して、しかし眼光は決して掠ませることなく、オーウィズは魔法陣を多重展開していく。

 すると、色とりどりの術式に黒が混じった。それは純水に落とされた一滴の墨のように、鮮やかな陣たちをたちまち一つに染め上げていく。

 

「その世界をこじ開けて、囚われた魂を救い出す。だが精神世界に入れるのは精神だけだ。魂でしか活動できない。君がやるんだ、シャーロット君。君が彼らを救い出せ。ボクが道を作るから」

 

 首肯。シャーロットの快諾に「よし」と微笑んで、オーウィズは展開した術式を胸から体内に吸い込んでいく。

 心臓を一突きにされた魚のように体が跳ねた。動揺するシャーロットに「大丈夫」とだけ口にして、オーウィズは肩に手を置くよう、少女にハンドサインを送る。

 

(バイパス)は出来た、成功だ。シャーロット君、フォトンパスのボディアクセス権限を解放してくれ。それで君の精神をあちらに送ることが出来る」

「もう解放してます、いつでも大丈夫です!」

「早いね、助かるよ。……これは凄く危険を伴う行為だ。魂の死は人間性の喪失、即ちあちらの世界での死は現実の死と同義になる。十分気を付けてくれよ」

「覚悟の上です。ええ、絶対無事に帰ってきますから、安心してください!」

「くっく、頼もしいな君は」

 

 オーウィズの肩に手を置いて、少女は意識を集中する。

 深く、深く、精神の奥底へと潜って、オーウィズの魔力経路をくぐるようなイメージを立体化させて。

 

「すまない、ボクは黒魔力の安定化と道の維持のために最低限しか力を貸すことが出来ない。こんな酷なこと、君のような若者に背負わせたくなかったが……どうかよろしく頼む。無茶はしないでくれ、シャーロット君」

 

 

 

 

 まぶたを閉じて、再び開く。

 すると、生まれ育った館ではない場所に立っていた。

 

 城だ。真っ白な大理石を基に造形された美しい城の、エントランスホールにあたる空間にいる。

 多少古びてはいるが、どこか気品を感じさせる研磨された空気があった。

 いたるところに生えた石柱が通常の建造物とは異なる違和感を育んでいるが、それ以外は観光名所にでもなっていそうな趣のある純白の古城である。

 

(ここがアマルガムの……想像よりずっと綺麗ね)

 

 殺人鬼の精神世界なんてろくでもない場所かと思いきや、意外にも小綺麗な様相に衝撃を受けた。

 ただし、すぐに上書きされる程度の驚きでしかなかったが。

 

 

「あぁああああああッ!! うわぁあああああああああ!! ばッ、馬鹿な、馬鹿な馬鹿な馬ぁああ鹿なあああああッ!! ここっこ、こんなッ、こんなこと有り得ない!! ぼっ、僕の救世主がッ! 愛しい君がァッ!! ()()()()()()()なんて有り得ないィいいいい──────ッッッ!!!!」

 

 

 絹を裂くような絶叫が城中を跳ね回った。

 

 阿鼻叫喚の爆心地には男がいた。美しい純金の髪を振り乱し、日の光を知らないような真珠肌を血抜きされた死体のように青くして、端正な顔を夜叉の如く歪め、両手の爪をがりがりと嚙み潰しながら叫ぶ異様な男だった。

 

 様子がおかしいという次元ではない。騎士団の礼装と酷似した紺色のスーツを、己の赤で染めせんばかりに血を噴き散らしている重傷者だ。

 男の絶叫と苦悶に比例して傷が広がっているように見えた。精神世界がゆえにもしかして精神のダメージが直接反映(フィードバック)されているのかと、異常極まる光景にかえって冷静になってしまう。

 

 男は叫ぶ喉を止めない。

 割れ鐘のようなけたたましい悲鳴で城を揺るがさんばかりの勢いだ。

 

 ──消去法からして、恐らくこの異常者がアマルガムか。

 

「か、かかかっ、解釈違いだぞッ……!? 君は不屈の男だろう!? どんな困難にも屈しない皇鋼(アダマント)の精神を持つ勇者だろう!? それをよくも、よくもこんなッ! 薄汚れたゴミムシの糞にも劣る惰弱者(だじゃくもの)がッ、よくも僕の期待を裏切ってくれたなぁぁああッッッ!!」

 

 怒り狂っている。それも尋常ではない。

 親の仇だとか、夢を食い潰した権力者だとか、自分を裏切った最愛の恋人だとか、そんな対象に向けられる極限の憎悪を濃縮された怒りの声色だ。

 

「あんまりだ……こんなのってないよ……! やっと(ぼく)を裁ける資格を持った人間をッ! 正義の人を見つけたと思ったのに……!! 救われると思ったのにぃ……!!」

 

 肺の中の空気を全て絞り出さんばかりに叫んだ男は、まるで酸欠で失神したようにぺたりと座り込んだ。

 瞬きもせず、ぼたぼたと涙を零しながら譫言だけを繰り返すゴーレムのようになってしまう。

 

(一体なにが起こってるの……? あの男は何にあんな動揺して)

 

 崩れ落ちた男が凝視していた方角へと、釣られるように視線をやって。

 夥しい石柱の裏に、一目でわかるほど慣れ親しんだ人影を視界にとらえて。

 

「……………………は?」

 

 シャーロットの深海色の瞳が、透明に凍り付いた。

 

「……ヴィック?」

 

 彼がいた。

 たった一日顔を見なかった程度でしかないが、久方ぶりの再会を果たしたような気持ちになる、ヴィクターがいた。

 

 全身の筋肉が部位ごとにはっきり盛り上がるほど絞られた、180cmはあろう大柄の肉体。

 もみあげや襟足をさっぱり剃って全体的に短く()いている黒髪は、整髪料でいつものソフトモヒカンスタイルに整えられてある。

 ボロボロに破れたシャツの下から顔を覗かせる隆々の肉体をぴっちりと覆うアンダーウェアも、彼の愛用品だと知っている。

 なにより純黒の腕を隠すために巻かれた両腕の包帯が、彼がヴィクターであるという唯一無二の証明だろう。

 

 唯一の違いは。

 顔が跡形も無くなっていることか。

 

「あなた、なの? 」

 

 ツリ気味の三白眼も、長い睫毛も、高い鼻も、太陽みたいに快闊な笑顔を作っていた口もない。

 真っ黒だ。靄とも粘液ともつかない、どす黒い未知のナニカに顔全体を覆われていた。

 

「■■■■■■」

 

 彼と思わしき存在から発せられた音は、もはや人の声と呼べるものではなかった。

 叫び声だろうか。すすり泣く声だろうか。それとも笑い声だろうか。

 人間の情緒をぐちゃぐちゃに搔き混ぜたようなノイズを放つヴィクターは、ただ茫然と、上を向いて立ち尽くすのみだ。

 

「何があったのよ……!? ねぇ!?」

 

 答えは無い。どころか、人間の生気すら感じられない。

 命令中枢を失った魔導機(ゴーレム)のように、ひたすら単調な手の開閉を繰り返しているだけ。

 ぐ、ぱ、ぐ、ぱ──と。ただただ機械的に、不気味に、少女の血の気を奪うように。

 

 魂の死は人間性の喪失。

 オーウィズの言葉が、ぐにゃりと現実を捻じ曲げた。



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50.「銘も無き灰よ」

 戦うことは怖くなかった。

 傷つくことだって怖くなかった。

 怖いのはいつだって、孤独にこそあったのだから。

 

 

 

 自分が何者なのか、一度も考えたことが無かったかと言えば噓になる。 

 

 記憶の始まりは柔らかくて青い水の中だ。それ以前の「自分」は泡になって消えている。

 どこで生まれて、どんな名前で、何をして暮らして、どうやって記憶を失い、孤島の泉で目を覚ましたのか。その全てが白く塗り潰されて読み解けない。

 

 ■■■には何もない。過去を教えてくれる家族や友達もいない。

 無色透明の、人の形をした空箱だった。

 

 記憶がないということは、存在していないことと同義だ。

 性格、趣味嗜好、あらゆる癖や知識は、経験という集積物が生み出す珠である。それこそが人を人たらしめている核であり、己は唯一無二であると肯定する存在証明と言っていい。

 

 ■■■にはそれがない。

 どうしてこんな性格なのかも、何が好きで嫌いなのかも、どんな人生を歩んだのかも、何一つとして。

 果たしてそれは、胸を張って『生きている』と言えるのだろうか? 

 

 

 だから、自分がわからない。

 だから、自分を証明できない。

 だから、自分を認めることが出来ない。

 

 

 親切な女の子から『ヴィクター』という形を貰って、見ず知らずの男を助けてくれたその善性が眩しくて、憧れて。

 だから自分も善く在ろうと、空っぽの中身を彼女から借りた輝きで埋めようとした。

 

 シャーロットと違って由緒正しい血筋はないけれど。彼女のように過去からの矜持(おくりもの)もないけれど。

 彼女に貰った『正しい心』は尊くて気高いものだから、それが自分の一部になるのなら、きっと幸せなことだと思った。

 

 だからこそ、残酷で悪辣な非道を見過ごせなかった。

 人でなしの悪性を前にした時、絶対に認めるなと叫ぶ魂の声が頭を貫く実感があった。

 

 

 正しいと信じるもののために戦った。

 

 

 

 目の前で繰り広げられる悪魔の所業が許せなかった。何の罪もない人間が食い物にされて黙っていられるわけがなかった。

 誰かの幸せを守りたかった。誰かの人生を壊そうとする存在が我慢ならなかった。

 シャーロットがくれた輝きに報いたかった。彼女が助けたこの命が無駄ではなかったのだと証明したかった。

 

 だから、戦った。

 信念の旗本に。義気の炎を焚き上げて。

 

 

 

 本当にそれだけか? 

 死闘を超えるたびに凍っていく(これ)はなんだ? 

 記憶を失ってなお根付く闘争心など、人は怪物と呼ぶのではないか? 

 

 

 いつか記憶が蘇った時。

 その拳が守るべき人に向かないって、どうして決めつけることが出来るんだ。

 

 

 ◆

 

 

「……これが俺の心の底だってのか?」

 

 どこまでも白い、シミひとつ居座ることさえ許されない世界に、唯一の色彩であるヴィクターは独りぽつんと放られていた。

 

 純白の平原が広がっている。

 地平線すら存在しない白亜の空間。上も下も曖昧になりそうな、立っていることさえおぼつかなくなる真っ新な大地だった。

 

 おかしい。アマルガムの能力によって精神の底へと落とされたはずである。だが底と呼ぶにはあまりに明るく、おどろおどろしさの欠片も無い。

 むしろ既視感に満ちたこの空間には、場違いな親しみさえ感じるほどだ。

 

「夢と似てるな。あの化け物がいた場所……うろ覚えだけど、確かこんな感じだった」

 

 まだエマが居た頃、毎晩のようにうなされた怪物の夢と酷似している。

 あの世界も同じように、自我さえ胡乱になりそうな純白の空間だった。

 違いと言えば、天蓋に無数の杭と鎖で縛り付けられた巨大な化け物がいたことだろうか。

 

「怪物はいないな。本当に何もねえ」

「何もない人間だからな。(おまえ)は」

 

 ──背後からの声に叩かれ、反射的に振り返る。

 振り返って、心臓がどくんと仰天する呻きが聞こえた。

 勢いよく巡った血潮が、目を閉じるなと頭を殴りつけてくるようだった。

 

「……!? なんだ、お前!?」

「失礼な奴だな。俺は(おまえ)だよ」

 

 顔の無い自分が立っていた。

 

 背格好も、髪型も、服装も、声色さえ何もかもが全くの同じ。

 顔が癇癪を起した子供の落書きのように黒く塗りつぶされていることを除けば、まさに生き写しそのものだった。

 

「幻覚だと思ってるだろ? 違うぞ。試したいなら殴ってみな。(おまえ)も同じように傷つくから」

「しッッ!!」

 

 一切の迷いなく。拳を放つ。寸分狂わず右頬へと突き刺さる。

 瞬間、激痛が側頭を突き抜けるように走り去った。

 視界に星が滲む。平衡感覚にノイズが混じる。

 重々しい衝撃が頭蓋を揺らし、たまらずよろめいて頭を抑えた。

 

 反して、ポケットに手を突っ込んだまま平静な様子の()()()()()は、気怠そうに肩をすくめている。

 

「ほんと躊躇が無いよなぁ。我ながら馬鹿だと思うよ、(おまえ)の決断の速さ」

「痛ってぇ~~っ!! クソ、どうやらお前の言ってることは本当らしいな! つーことはなんだ? 俺の心の別側面が具現化したとか、そんなもんか」

「だいたい合ってる。くそったれのアマルガムに形を与えれたっつー感じだ。けど勘違いすんな、俺はずっとここにいた。俺は(おまえ)自身だ」

 

 気付かなかったとは言わせねえと、()()()()()は言う。

 けれど当然、そんな記憶は微塵もない。二重人格だった覚えはないし、シャーロットやオーウィズからそれらしき何かを言われたこともない。

 

 押し黙っていると、呆れたように()()()()()は額に手を当てて溜息をついた。

 心底うんざりする。そんな辟易した心情が見てとれる仕草だった。

 

「そうだろうな。(おまえ)はそういう奴だ。周りには目を光らせてるくせに、自分にゃまるで見向きもしやがらねえ。つくづく腹の立つ野郎だ」

「……そんなことより、さっさと戻ってアマルガムの野郎をぶちのめさなきゃならねーんだ。心の弱みって奴を乗り越えりゃ良いんだろ? お前が俺だって言うのなら教えてくれよ。どうすりゃ戻れる?」

「戻る? なに寝惚けたこと言ってんだ?」

「あん?」

「もう二度と戻れないよ。弱みを克服? 夢物語は寝言で語りやがれ。(おまえ)なんぞに出来っこないんだからな」

 

 ──剛脚を飛ばす。

 踵が槍のように()()()()()のみぞおちへと突き刺さった。

 しかし当然、熾烈極まるインパクトが自身にも爆発する羽目になる。

 肺を潰されたかと錯覚するほどの激痛に襲われ、胃内容物を無理やり搾り上げられたかのように饐えた匂いが逆流した。

 

「ご、ふっ……!?」 

 

 寸前で押し留める。ドッと背中にあふれた冷たい汗で髄を冷やす。

 対する()()()()()は、くだらねえと一蹴するように、

 

「学習しねえのかこのタコ。無駄だって言ってンだろうが。俺は(おまえ)なんだぜ、わかるか? あー?」

 

 変だ。何かおかしい。

 酷く胸がざわざわする。この顔の無い自分を見ていると、唾を吐きかけてやりたくなるような気持ちが湧き上がってくる。

 舌が苦い。自然と眉間に皺が寄る。最悪な胸やけに襲われたみたいにむかつきが止まらない。

 

 激しい嫌悪感を抱くのだ。まるで気持ち悪い虫を見た時のような、腐った生ごみでいっぱいのゴミ箱を開けてしまった時のような、一瞬だって視界に入れたくない生理的嫌悪と似た何かが、胸にへばり付いて離れなくない。

 

 絶対悪に対する怒りや侮蔑とは違う。

 こんな感情は、こんな()()()()()は初めての経験だった。

 

「つくづく自分を省みねえ奴だ。大方、俺が気味悪くて仕方ねえってところだろ」

「なんなんだお前……! 一体、どういう……!?」

「だぁーから、何度も言ってるだろうが。俺は(おまえ)だよ。おい、いつもの聡明さはどうした? あー、それとも本能的に認めまいとしてンのか? 俺が(おまえ)だってことをよォー」

「…………」

 

 思考の風向きを変える。

 ヴィクターにとって必要なのは、さっさと試練とやらを終わらせて今度こそアマルガムを叩きのめすことだ。

 そのためにはまず、この場を脱出しなくてはならない。

 では脱出の条件とはなんだ? 

 

 目の前の自分モドキを倒すのは無理だ。奴が言っていたように、ダメージは全て自分に返ってくる。

 ならば腕の力で無理やり空間でもこじ開けるか。これも無理だ。どさくさに紛れて試してみたが通用しなかった。きっと元の城へ繋がる道を明確にイメージ出来ないからだろう。

 

 ならばアマルガムの言うように、己の心の弱みとやらを探り出して克服するべく努めるか。

 だが弱みとは? 自分で言うのも変な話だが、精神的弱みにこれといって覚えがない。克服するに値する弱点がわからない。

 

 考える。考える。

 顔の無い自分から目を逸らして、考え続ける。

 

「少しは(おまえ)に目を向けたらどうだ」

 

 無理やり顔の向きを変えられるような叱咤。

 頬を掴まれて、強引に()()()()()へと目を合わさせられるような声だった。

 

「結論から言ってやろうか。(おまえ)の弱みは()()()()ことだ。顔の無い俺のように、(おまえ)には確固たる()が無い。どこまでも虚ろしか詰まってない、人間らしさを真似することで自分を繋ぎ止めてるってだけの、空っぽの生き物なんだ」

 

 空っぽの生き物。

 言葉が大きな銛みたいに、胸の一番深くまで突き刺さって息が詰まった。

 

「人間ってのは誰しも()を持って生きている。両親のもとに生まれ、名前を授かり、酸いも甘いも経験を積み上げて()を魂に刻んでいく。幸福かどうかは関係ない。人生という過程が象る唯一無二の存在証明、自己の形、それが()だ。()があるからこそ人は己を認識できる。……だが(おまえ)には何も存在しないだろう?」

「っ……!」

「思い出してみろよ。え? 親に甘えた経験は? 怒られたことは? 兄弟はいたか? 喧嘩したことは? 嫌いなヤツはいたか? 親友は? 子供の頃から好きだった本とか食べ物はどうだ? 懐かしさに浸れるような故郷があるか? 恋をしたことは? それになにより、自分の本名が分かるのか? どうなんだよ、おい」

 

 心臓にゆっくりとメスを入れられているような心地だつた。

 どんどん脈が速くなる。喉奥に籠った空気が熱くなる。

 聞きたくない。何故だか無性に逃げ出したい。1秒だって奴の言葉を耳に入れたくない。 

 なのに体が、影を縫い止められたみたいに動かない。

 

「なぁーんにも無いだろ。(おまえ)には何も無い。過去に縛られないだとか耳障りの良い文句で現実を濁して、ただ気丈っぽく振舞ってるだけだ。見ず知らずの記憶喪失男を助けてくれたシャーロットの優しさを、自分も真似して取り繕ってるだけだろうが。そこに『自分』はあるのか? ええ?」

「──だからなんだ、どうでもいい! 俺はヴィクターだ、ここにある今が俺自身だ! 俺にどんな過去があろうが無かろうが関係ない! 俺の在り方は俺が決める!」

「ほら、言い聞かせて目を背けてる。そうしないと自分を保てない臆病者のくせに」

「違う!」

「何が違う? 周りを見ろよ、真っ白だろうが。ただのホコリひとつだって落ちちゃいない、不気味なくらい真っ白だ。ここはお前の心の一番深い部分だってのを忘れてねーか?」

 

 両手を仰いで高らかに、しかしどこか悲痛を孕む抑揚の外れた声で、()()()()()は語る。

 

「言っただろ、人間には()がある。本来この白い場所には、その人間だけの色や形が宿るはずなんだ。人生で一番嬉しかったこと、怒ったこと、哀しかったこと、楽しかったこと、怖かったことでも何でもいい。記憶の色彩が上塗られていくはずなんだよ。……この白さがどういう意味か理解出来たか?」

 

 ざり、と砂のようなものを踏む音がした。

 それが自分の足が下がった音なのだと、後ずさりを終えてようやく気付く。

 けれど、なぜ退がったのか理解出来なくて。こめかみを伝う汗が、顎を伝って落ちてもわからなくて。

 

 

「館の泉で目覚めてからこの日まで、色々あったよなぁ。だがそのひとつとして、(おまえ)が心を動かされた瞬間は一度も無かったってこった」

「何を、言って」

「言葉にしなきゃわからねえか? アーヴェント邸であった事件も、シャーロットを外に連れ出した日も、黄昏の森の冒険も、今直面してる殺人鬼の事件さえ! 何も感じてないんだよ(おまえ)は! いや、自分の記憶(いちぶ)にするのを拒絶してると言った方が正しいか?」

「何を言ってんだよお前……そんなわけっ……!」

 

 後ずさる。後ずさる。

 無意識だ。自分の意志じゃない。

 なぜ離れようとしているのか、自分でも理解できない。

 

 ひょっとして、気圧されているのか。

 今まで一度たりとも、三聖を相手取った時でさえ、こんなことは無かったのに。

 

「それだよ。まさにそれだぜ、(おまえ)

 

 まるで思考を見透かしているとでも言わんばかりに、心の正中を()()()()()は指さした。

 標本箱に針で留められた昆虫みたいに、体がぴくりとも動かなくなった。

 

(おまえ)はよく笑うし怒るしたまーに泣く。実に感情豊かな人間だよ。だが、おい、一度でも死に恐怖した経験があるか? (おまえ)が恐怖を覚えたのは、泉で目覚めたあの瞬間だけだ。むしろ命の駆け引きじゃ、頭がすぅっと冷える瞬間があっただろ。心の熱が届かなくなる、凍え果てた瞬間が」

 

 

 ──貴殿、命の奪い合いで恐怖を感じた経験が無いだろう。

 ──それは異常だ。恐怖を感じぬ生物など存在せぬ。我らはただ、恐怖を我がものとする術を知っているだけに過ぎない。

 ──恐れを知らぬということは、生きておらぬのと同義なのだ。

 

 

 なぜか、武聖グイシェン・マルガンの言葉が脳裏をえぐるように過ぎ去った。

 ふつふつと記憶が蘇る。「正義の味方ではない」と得体のしれないものを見た表情で吐き捨てたカースカンが、怖気に呑まれた顔で「イカれてる」と口走ったエマの姿が。

 

 

 自分の異質さに覚えがないわけじゃない。

 ()()()()()の言う通りだ。戦いの最中に訪れる冷えきった時間は、今までに何度も体感してきた。

 不要な感情(ノイズ)がすべて消えて、目の前の敵を撃滅せんとする透き通った闘志だけの澄んだ瞬間。

 それがあったからこそ、今まで死闘を切り抜けることが出来たのだ。自覚が無いわけがない。

 

「なぜそんな冷酷さがあるかわかるか。それはな、執着が無いからだ。(おまえ)は生きることに対する執着心がない。心の中に大切なものが何も無いから、躊躇なく命を投げ打つことが出来るんだよ」

「ッ──」

「自分だけじゃない。必要なら他人だって切り捨てられるさ。カースカンに爆弾埋められたコロポックルの命にだって躊躇しなかっただろう? 運よく助けられたがそれは結果論だ。この白亜の世界がその証明だ」

「そんな、わけ……!!」

「そんなわけないって? 自分でチグハグだと思わねーの? 命を賭してまで人のために戦える熱血野郎が、魂まで凍った冷血男ってのはよ。(おまえ)はどうしてそんな人間なんだ? ルーツが気になったりしないのか? ええおい」

 

 古傷を抉り直されるような痛みが止まらない。

 息が浅くなって、頭が重い。

 自分の一番醜い部分を、醜態を、鏡で見せられているかのような最悪の気分だ。

 

 ──跳ね除ける。

 耳障りな言葉を、胸を抉る戯言の数々を。腕を払って拒絶する。

 今重要なのは、己の中の空白の過去などではない。

 

「どう……でもいいっ……!! 俺がどんな人間だろうが、関係ねえ! こんな俺にでも救えるモンがあるってンなら! 大切な人を守れるのなら、なんだって構いやしねえッ!!」

「バカが。()()()()()()()()()()()。大切な人ぉ? そりゃ(おまえ)、彼女しかいねえよな。後ろの彼女しか」

 

 ()()()()()が指差すのは自分ではない。背後に立つ誰かだった。

 感じる。後ろに誰かが立っている。

 この気配は、誰よりもよく知っている。

 

「シャロ……?」

 

 見知った少女がそこにいた。

 魔剣ダランディーバを握り締め、まるで眼前の人間を魚の如く捌かんと大きく振り上げるシャーロットが。

 

「うォおおおおおおおおッッ!?」

 

 脳天めがけて墜落してきた刃を殴り弾く。

 少女の表情は波風ひとつ揺るがない。人形のように冷たい瞳で、心無き透明な殺意で、ヴィクターを輪切りにしようと企んでいる。

 

(こいつは幻覚だ! アマルガムか()()()()()の仕業か知らねえしどうでもいいが、間違いなく本物じゃない! 幻だ! やられる前に仕留めるッ!!)

 

 決断は迅速(はや)く、ヴィクターは振り抜かれる魔剣より先に幻影の顔面を叩き潰した。

 破壊された顔から真っ白な血のようなものを噴き出して、シャーロットとうりふたつの幻が吹っ飛んでいく。

 

「……普通はさ、殴れねえよ。幻だって分かってたとしても、惚れた女の顔面ど真ん中なんて。こういう時は躊躇するもんだぜ。それが人間ってもんだろうが。違うか?」

 

 地面に墜落すると同時に、少女だったものは粒子となって霧散した。

 

「そもそも本当に惚れ込んでンのか? あんな別嬪と同じ屋根の下で暮らしておきながら、ちょっかい出す素振りすらねえ。心拍ひとつ揺らぎもしねえ。普通じゃねえだろ。こりゃ元から興味すらあったのか疑問だよなぁ」

「傷つけるような真似なんか言語道断だろうが……!! 俺は彼女を尊敬してるんだ、信頼を裏切るようなことはしない!」

「だーから、(おまえ)が何をしたかじゃねーんだ。(おまえ)がどう思ってるのかってのが問題なんだよ」

「大切だよ、当たり前だろ! シャロ以上に信じられるやつなんか居るか!」

「じゃあこの白い世界はなんだ。幻覚を躊躇なく殴り倒した(おまえ)は何なんだ」

 

 背から心の臓腑を刺し抜いてくるような、言の葉の刃。

 打ち返したくとも、何故か反論を紡げない。

 まるで唇を縫われてしまったかのように痺れて、頭が漂白されたみたいに空っぽで。

 

「これで分かったろ。(おまえ)にとって大切だとか何だとか(うそぶ)いてるモンの価値ってのは所詮その程度だ。その気になりゃ(おまえ)は誰だって殺せる。シャーロットも、島にいる仲間も、ダモレークの連中だって。()()()()()()()()()()

 

 呼吸が暴れる。息が切れたみたいに浅くなる。

 喉がひりつく。いやな汗が止まらない

 酸素で脳が焼かれたみたいに、目の前がどんどんボヤけていく。

 

「もう一度聞くぞ、(おまえ)は何者だ! 記憶喪失のくせに必要とありゃあ大事なもんまで即破壊できる人間は、魂までその本質に塗り潰されてるってことだ! 分かるか? (おまえ)は記憶を失くす前から! 非情な決断を迷わずぶん取れるような人間だったんだ!!」

「ッ……ぐ、ぅ……!!」

「今の(おまえ)は化けの皮だ。記憶が戻って剥がれりゃあ、どんな醜いツラ拝ませるか分かりゃしねえ怪物なんだ! 薄汚ぇ空っぽの脳無しが、何かを守れるだなんて適当コイてんじゃねぇよ! 無意味なんだよ全て! (おまえ)(おまえ)である限り、結局最後は大事なもんまで傷つける結果になるってことが分からねえのか!」

 

 

 うるさい。黙れ。

 そんなこと、言われなくたって分かっている。

 

 

 ヴィクターには記憶が無い。泉で目覚める以前の過去が無い。

 ゆえに保証が無い。シャーロットの味方であることも、天蓋領が送り込んだスパイである可能性も。

 

 ある日突然記憶が戻った時、シャーロットに牙を剝かないという確証がどこにある? 

 心の底から燃え尽きることのないこの闘争本能が、大切な人たちを脅かす凶器にはならないなんて、どうすれば断言できる? 

 

 吐き気がするほどの悪党どもと戦うたびに、彼らの持つ悪性の原動力には、常人ならば到底理解できない執念を孕んでいることを嫌というほど思い知らされた。

 大義を掲げたエマも、芸術を謳うカースカンも、救いを求めるアマルガムも、確固たる執念こそが悪性を加速させる風だった。

 

 

 だったら。過去を失くした魂にすら沁みつくこの穢れは。

 誰よりも冷たくなれる、如何なる障害をも破壊できる、己の敵全てを撃滅せんと透き通る、決して砕けることを知らない金剛の意志は。

 何かの拍子に覆れば、たちまち人道を踏み外せる狂気と相違ないのではないか。

 

 

 ああそうだ。『ヴィクター』は爆弾だ。

 いつの日か暴かれる記憶の次第では、善にも悪にも傾きかねない不安定な混ざりもの(アマルガム)なのだ。

 

 そんな奴がどの面下げて、シャーロットの傍に居たいと願えるんだ。

 

「……………………どうでも、いい」

 

 

 言い聞かせる。

 意思を塗り潰す。思い出せと叱責を飛ばす。

 迷っている場合か。こうしている間にも、アマルガムに苦しめられている人々がいることを忘れるな。

 今この手で成すべきことは、一体なんだ。

 

 ──突き付けられた一切合切を全て握り潰すように、固めた拳で呑み込んだ。

 

「どうでもいいって言ってんだろうがッ……! 今大事なのは、重要なのは! あのアマルガムをぶっ飛ばしてみんなを助けることだ! これ以上無関係な人々が、あいつの毒牙にかからねえようにすることだッ! 俺が何者かなんて、どんな奴かなんて、今はどうだっていい!」

「────」

「お前を倒せば俺もダメージを負うといったな! なら根競べと行こうじゃねえか! 例え俺自身の心が壊れようとも、この白い世界をぶっ壊してでも、俺はここを出ていくぞ!」

 

 決意の焔を燃え上がらせ、ヴィクターは吼える。

 己を名乗る顔の無い男を叩き伏せんと、地を蹴って跳ぶように肉薄する。

 

「……折れねえよなぁ。だから(おまえ)はイカレてるんだ、■■■」

 

 その時、()()()()()の足元から何かが姿を現した。

 次元の裂け目を破るように地を割って出現したのは無数の手だ。ばちばちと火花を散らし、近づくだけで蒸発しそうな炎熱をめらめらと纏う、燃え盛る腕の群れだった。

 

 声が聞こえる。

 頭にこぽこぽと注がれるように響いてくる。

 呻き声か、金切り声か、泣き声か。耳をつんざく叫びの束が、白の世界を化膿させていく。

 

 声の主は、今にも灰に還らんばかりに燃ゆる亡者の集合体だった。

 

 炭化した継ぎ接ぎの体をうねらせて、死んだ星空のように光無き白濁の瞳たちを蠢かせて、体のあちこちに裂けた乱杭歯の口を大きく開いて、()()()()()を守ろうとするかのように立ちはだかってくる。

 

(おまえ)は自分に執着がない。簡単に命を投げ捨てられるし、必要なら冷酷な決断だって下せる。大切なモンに一線引いてンのはそれを本質的に理解してるからだ。拒絶されたくねーからだ。空っぽの冷たい自分をな」

 

 燃える亡者が唸る。無念の灰に生者を道連れにせんと腕を伸ばして。

 少年は叫ぶ。揺るがぬ魂を燃え上がらせて、無尽蔵の魔手を叩きのめさんと拳を放つ。

 

「気づけよ。例え(おまえ)が一歩下がっていても、(おまえ)を大切に想ってくれる人間はいるんだぜ。(おまえ)の命はもう一人の物じゃない。それを理解しなきゃ、いつまでも空っぽの()無しのままだ。……()()()()()()()()()()()()

 

 

 亡者へ取り込まれることも厭わず飛び掛かった刹那。

 紅蓮の大輪が、純白の世界を津波の如くのみ込んだ。

 



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51.「焔のあなたへ、一等星の花束を」

『いいかい、シャーロット君。精神世界では魂という自己の輪郭が映し出した、いわば仮初の肉体が存在する。だが仮初と言っても傷を負えば現実に反映されるし、精神へのダメージが魂を直接傷つけるんだ。冷静さが肝要だよ。何があっても平静を保つよう努めるんだ』

 

 

 視界共有しているオーウィズが何か口走っているが、全く頭に入ってこない。

 

 顔を落書きのように潰されたヴィクターがいた。

 殺人鬼の異能力が生んだ精神世界で、魂の形が歪むまで心に傷を負って。

 天井を仰いだまま手のひらを開閉するだけの、壊れたゴーレムのようになってしまった彼が、そこに在った。

 

「──」

 

 

 こんなのありえない。嘘っぱちだ。きっと幻に違いない。

 だって彼は誰よりも強い心の持ち主だ。折れたところなんて見たことがない。

 例え命が消えかけようとも、どんな強大な敵が相手であっても、ただの一度だって挫けたことはなかった。なかったのだ。

 

 そんな彼の心が歪んでしまうだなんて、一体どれほど惨いことが。

 一気に血が沸騰した。ぶわっと髪が浮くような灼熱が、腹の底から昇る龍となって臓腑を焦がすようだった。

 

「ああクソッ! クソッ! クソクソクソッ!! 全部イチからやり直しだ、この城はもう要らない! 新たに救世主を探し出さなくてはッ……僕は救われない……!」

 

 張本人であろう半狂乱の男は、ばたばたと鉄臭い赤で大理石の城を上塗りしながら、前髪に隠れた左目を妖しく緑に発光させた。

 途端、そばの石柱が水を吸った海綿のように大きく膨れ上がると、人一人通れる程度の穴が裂けるようにして姿を現した。

 階段だ。上へと続く階段が見える。石柱の内部を通じて上に逃げるつもりか。

 

 だが老人のようにおぼつかない足取りで身を隠そうとするアマルガムを、シャーロットは追おうとはしなった。

 白衣をまとうボロボロの男が、アマルガムの行く手に立ち塞がったからだ。

 

「……なんだ、心淵の底から自力で這い上がってきたのか。完全に呑み込まれてただろう? どうやって脱出した?」

「はぁっ、はっ、かふ、ッ」

 

 壮年の森人(エルフ)だった。息も絶え絶えな満身創痍の男だった。

 

 半身が鋭い刃物で滅茶苦茶に切開されたみたいにズタズタで、きっとこの城より白く清廉であっただろう白衣を見る影もない赤黒さで汚している。

 オールバックに整えられていたらしい黄金の頭髪は、まるで何日も風呂に入っていないかのように脂ぎって、バラバラにほどけた有様だ。

 ただでさえ森人(エルフ)特有の色素が薄かったろう顔色は、血の代わりに氷水でも詰めたみたいに真っ青である。

 立っているのが不思議なくらい苦痛に圧された猫背姿で、喉が笛のようにひゅうひゅうと喘鳴を奏でているのが離れていても聞こえるくらい呼吸が酷い。

 

 彼に何があったのか想像もつかないが、尋常の様子ではなかった。

 風が吹いただけで崩れそうな、子供にじゃれつかれただけで命を落としそうなほど、脆く痛々しい出で立ちだった。

 

 けれど、そんな容態に不釣り合いなほどの力強さを、マリンブルーの瞳に宿していて。 

 

「どけよ医者。ろくに正義も貫けない半端者の死に損ないが、一丁前に僕の前を塞ぐんじゃない!」

 

 破裂せんばかりに充血した目を見開いて、アマルガムは唾を吐き散らし激昂した。

 いつの間にか右腕に刃状のエネルギーが顕現している。雷属性の魔法剣だ。

 ズジバヂッ!! ──空気抵抗を蹂躙する雷鳴が猛り爆ぜ、白衣の男を真っ二つに両断せんと落雷の如く振り下ろされる。

 

「ルクス……フェルム」

 

 刹那。眩い閃光が(つんざ)いた。

 それはアマルガムの雷剣が、大輪の火花と共に砕け散った残響で。

 

「『従え、燦然たる刃が仔らよ(ルクスフェルム・セクウェーレ)』……!」

 

 殺人鬼を退けた叛逆の正体は、アマルガムと同質の──いいや、さらに純度の高い白熱の光で鍛造された輝く刃だ。

 男の周囲を守護するよう無数に展開された十の光刃が、自由自在に(くう)を舞いアマルガムの一閃を弾き返したのだ。

 

「酷い夢を見たよ……ああ、まったく最悪の夢だった。君の力が一瞬緩んだおかげで、打ち破れたが」

 

 男はぼそぼそとスペルを唱え、手元にねじくれた金属の杖を召喚する。 

 握り締める手の震えは限界を迎えつつある魂の悲鳴か、それとも胸を掻き鳴らす激情の表れか。

 ただひとつ確かなのは、男の瞳にはごうごうと荒れ狂う執念があった。

 

「よくも私の家族を、記憶を、穢してくれたな。よくも大勢の人生を、踏みにじってくれたな」

 

 滲む。滲む。自らの魂を灰燼に帰してでも使命を成し遂げんとする、修羅のような怒りの断片が。

 だがそれだけではない。憤怒の火元には、輝く黄金の高潔さがあった。

 ヴィクターと同じ強靭な意志の光を、シャーロットは確かに目撃した。

 

「なんだその眼は? 僕と同類の分際で、この(ぼく)の前で、正義の英雄を気取るつもりか?」

「……そんな高尚なものじゃないさ。ただ、響いたんだよ。私を、()()()()守るために戦ったヴィクター君の意思が、君の力を通じて」

 

 男は構える。

 

「若者があんなに頑張ってるのにさ、おじさんが立ち上がらないわけにいかないじゃないか」

 

 ねじくれた杖の先に、煌々と灯火を宿しながら。

 

「行かせはしない……! 君の暴虐に、これ以上誰も犠牲は出させん!」

「──こ、ここっ、くォッ、この家畜にたかるハエより惨めで卑しい道化風情がァあああ────ッ!! その驕り切った魂、深淵の苗床にしてくれる!!」

 

 激突が始まった。

 片や雷剣を達人の如く縦横無尽に振るう殺人鬼。片や無数の光刃を使い魔の如く意のままに操る白衣の男。

 白熱の火花が咲き、舞い散る血華は霧となって消し飛ばされる。あまりの熾烈さに一本の石柱が悲鳴を上げて崩れ落ちた。

 一帯を眩い純白に潰すほどの電光雷轟が、二人の男を中心に城の造形に亀裂を植えていく。

 

『シャーロット君!』

「っ、ごめんなさい! 混乱してしまって……!」

『いや、いいんだ、取り乱すのも無理はない。けれど今はヴィクター君に集中を。どうやらアマルガムに心を崩されて……少々不味い状態にある』

 

 言葉の枝で殴られたようにヴィクターを見た。

 顔を塗り潰された彼は、激しい戦いの余波を間近で浴びながら平然と立っている。

 まるで幽霊だ。生気が感じられない。きっとシャーロットにも気付いていないのだろう。

 咄嗟に駆け寄りそうになったが、オーウィズがそれを制した。

 

『精神世界で歪められた魂は次第に人の形を失っていく。完全な異形と化せば、それは自我の崩壊だ。もう二度と戻ることはない。幸いヴィクター君はまだ人の形を保っているから、ギリギリのところで踏みとどまっているらしい。しかし急を要することに変わりはない』

「どうすれば!?」

『彼の深層意識に飛び込んで魂を修復すればいい。けど……』

 

 苦渋と共に絞り出されたような答えだった。

 いつ如何なる時でも平常心を崩さない彼女にしては珍しく、歯切れの悪さが言の葉の行く手を詰まらせているように煮え切らない。

 

『正直言って、難しい。物理的に修復できる体の負傷とはワケが違う。精神のダメージは持ち主が克服しなきゃ意味が無いんだ。いくらボクたちが手を尽くしても、彼自身が逆境を跳ね返さなきゃ全て無為に帰してしまう。相当な危険も伴う。下手をすれば二人とも死んでしまうかもしれない』

「危険なんて承知の上です! 彼が苦しんでいるのに、黙って見過ごせるわけがない!」

『その通りだ。ボクだって諦めるつもりは毛頭ない。ただ……辛い役回りを君一人に押し付けてしまうことになる。それでもいいのかい?』

「当たり前です、何だってしますから!」

 

 辛い役回りだなんて欠片も思ってはいない。

 シャーロットにとって何よりも辛いのは悲劇だ。仲間や家族に最悪の事態が迫っているのに、指をくわえて見守ることしか出来ないことだ。

 

 喪失の苦痛は何度も味わってきた。

 あの身を引き裂かれるような思いは、内臓を絞られるような痛みは、永遠に魂から消えない絶望は、二度とだって味わいたくない。もうたくさんだ。

 

 それを覆すためなら、例え竜の口にだって飛び込んでやる。

 

『始めるよ。覚悟はいいかい?』

「はい!」

『では彼に触れたまえ。場所はどこでもいい。そうしたらボクが君と彼の魂を接続させて、彼の深層世界に送り込む。だがボクに出来るのはそこまでだ。励ますでも何でもいい、とにかく彼と接触して心の死を食い止めてくれ。それしか助かる方法はない!』

「ようは元気づければいいってコトですね……! ええ、任せてください!」

『彼の精神は今、死の瀬戸際にある。死にかけの心は負の感情の吹き溜まりだ。君まで呑み込まれてしまえば、二人ともども終わりだということを忘れないでくれ』

「了解です!」

 

 覚悟を決め、すぐさまヴィクターに駆け寄った。

 握っては開くを繰り返している包帯の手を取った。

 

「っ」

 

 冷たい。氷で出来た人形のようだ。

 生きた体温ではない。死人だ。いや、死体より酷く凍てついている。

 刺すような冷感が容赦なく噛みつくのだ。まるで極北の氷塊を撫でているような常軌を逸した冷たさは、激痛となって手から体を登るように蝕んできた。

 

 それがなんだ。例え指が腐ろうとも絶対に離したりなんかするものか。

 触れて分かった。直感的に理解した。

 こんな状態では満足に動かすことも叶わないはずだ。それなのに手を動かし続けていたのは、ほんの少しでもこの冷たい体を温めようと、必死に抗っていたからなのだと。

 

(戦っているんでしょ、ヴィック! あなたの心はまだ死んでない! 大丈夫、絶対に助けてあげるから!)

 

 少年の魂が刻む生への鼓動。その意志を確かに受け取って、シャーロットは深き心の冥府へと飛び込んだ。

 

 ◆

 

「────…………わ、白」

 

 まぶたを開くと、真っ白な世界にいた。 

 大理石の豪奢な城も、鎬を削り合う二人の男もいない。

 どころか、フォトンパスを通して視界共有していたオーウィズとの通信状況も途絶えている。

 

 

「ここが彼の深層世界……ずいぶん綺麗ね」

 

 ちょっぴり驚く。人の形を失いつつあるほど傷を負った魂に飛び込んだのだから、もっとドロドロした地獄のような光景が広がっているかと思っていた。

 なのに拍子抜けするほど殺風景だ。ヴィクター本人はおろか、髪の毛の一本だって見当たらない。

 唯一知覚できるものがあるとすれば、靴の裏から伝う、公園の土を踏んでいるような砂っぽい感触か。

 

 いや、少し違う。

 砂というには柔らかすぎる。足踏みすると少し粉が舞うのだ。

 なにか妙だ。ムズムズする。既視とも違和ともしれない、勘の蜘蛛の巣に引っ掛かったような覚えが胸に粘着いて離れない。

 

「? なにこれ」

 

 直感に従ったシャーロットは、屈んで地面に指を這わせた。

 さらさらしていて、肌に吸いつく。しっとりした粉末の感触がする。

 払っても粉が仄かに指に残るほどきめ細かい。まるで上質な小麦みたいだ。

 

 なんとなく、どこかで触ったことがあるような。

 

「…………あ。遺灰だ、これ」

 

 不鮮明だった答えが、海馬の中で破裂したみたいに解像度を一気に引き上げた。

 大昔、島の邸宅が火事に見舞われた記憶がフラッシュバックする。

 焼け跡から家族を掘り起こした、思い出すだけで胸を裂かれるどん底の一端を。

 

「っ、ぅ……なるほど、精神ダメージが反映されるってこういうことか」

 

 ちょっぴり血を吐いた。けれど、胃が少し焼けたくらいだ。大したことじゃないと喝を入れる。

 昔とは違う。例え生涯消えない古傷だとしても、もう過去は乗り越えた。いつまでも蹲っているだけのシャーロットじゃない。

 

 気を強く保つと、腹を煮立たせた灼熱感がすうっと引いた。博士のアドバイスに助けられたなと、口元を汚す赤を拭う。

 

「にしてもどうなってるの? 辺り一面灰まみれじゃない。それ以外には何も……そもそも何の灰なのこれ?」

「よぉ。探し物か?」

「! ヴィッ──……ク?」

 

 馴染む声が聞こえて、花を咲かせたように振り返ったら。

 顔の無い彼が、灰と白妙の空間にぽつんと佇んでいた。

 

 サイドを刈って軽く整髪料で整えられたソフトモヒカンスタイルの黒髪。健康的に焼けた肌。

 前を開けたグレーのシャツと白いインナーが肉の形をぴっちり主張する鍛え抜かれた大柄は、それでいて全体的に鋭利なシルエットに統一されている。絞られた肉体、という表現が的確だろうか。

 彼いわく『超イカす』らしい純黒の王の腕を隠す包帯は健在で、紺色のジーンズもブラウンの靴も、先日買ったばかりのお気に入りなのは知っている。

 

 どこからどう見ても、ヴィクターそのものだ。

 けれど、何かが決定的に異なる。顔が無いという意味ではなく、雰囲気がいつもと違うのだ。

 

 ポケットに手を突っ込んで気怠そうにしている。こんな態度見たことが無い。

 端的に言えば冷めている。時に暑苦しいほど快闊な彼が、厭世観に揉まれた老人のような木枯らしの空気を纏っていた。

 

「くっくっ。お前誰だって顔してるな」

「……あなたなの?」

「正確には一部だ。残念ながらね」

 

 顔の無い男は肩をすくめる。

 敵意は無い。しかし友好的とも言い難い。

 探りを入れかねていると、彼は静かに地面を指さして、

 

(あいつ)ならここだよ」

「!」

「すげー灰だろ? 全部(あいつ)の仕業だぜ。ったく、無作為に何でもかんでも燃やしやがってあの馬鹿。処理すンのはいつだって俺なのによ」

「……下を掘ればいいってこと?」

「ん? え? おいおい、随分あっさり信じるんだな。俺がからかってるとは思わねーの?」

「アンタは私に嘘つかないでしょ。だから信じる」

「……」

 

 顔が無いから表情は分からないが、なんとなくポカンとしていることは分かった。

 

「あー、えーっと、俺が怪しくないのか? (あいつ)が居ない元凶だとか、実はアマルガムが見せた幻覚とかさ、普通疑わねぇ?」

「確かに普段のアンタっぽくはないわね。けど、何となくわかるのよ。あなたはヴィクター。正確にはその一部だって、さっき言ってたことが全てなんでしょ」

 

 女の勘って奴よ、と胸の下で腕を組みながら得意げに切って捨てる。

 ぽかんを通り越してあんぐりと顎を落としている。相変わらず顔はないけれど、なんとなくそんな感じに固まっていた。

 

「……気持ち悪いと思わねえのか? 俺は(あいつ)の負の側面だぞ。(あいつ)の心の灰汁で作った煮凝りみたいなもんだ。嫌な気分にならねえのか?」

「どうして? 人間誰しも暗い部分はあるじゃない。私だってそうよ。これくらいで目が曇るほど、このシャーロット・グレンローゼン・アーヴェントが(やわ)な女だと思う?」

 

 呆気。たじろいで、行き場のない両手を泳がせて、顔の無い彼は息を詰まらせて呻く。

 

「…………なん、で、そんな無条件に信じられるんだよ」

「無条件なんかじゃない」

 

 いまさら何を言っているのかと、真っ直ぐ射貫くように彼を見た。

 あなたに対する信頼は日々の積み重ねがあってこそだろうに──シャーロットは少しだけ苦笑を向ける。

 

 彼はエマの魔の手を払ってくれた。腐敗するのみだったシャーロットの心を救ってくれた。最愛の妹を助けるために力を貸してくれた。

 自分のせいではぐれてしまったリリンフィーを保護してくれたのも、つい先日のことである。

 少し無茶をするのは控えて欲しいけれど、他人のために戦う背中を何度も見てきた。

 

 普段だってそうだ。妹や小人(コロポックル)たちの面倒を見てくれるし、館の修繕にすら積極的だし、鍛練も快く手伝ってくれる。

 それに誠実だ。男の子だからちょっぴりスケベなのは仕方ないけど、同じ屋根の下で暮らしているのに軽はずみな真似は絶対にしない。

 

 頑張り屋なのも知っている。オーウィズの授業は欠かさないし、魔法書や課題相手に夜遅くまで書庫で唸っていたのを見かけたのは一度じゃない。 

 おまけにギルドランクを上げるんだーと意気込んで労働にまで精力的だ。正直ちょっとは休んで良いんじゃないかと思う。

 

 大きなことも、小さなことも、色々な行動が積み重なって今の信頼がある。

 だから決して、無条件なんかじゃない。

 

「あなただからよ、ヴィック。あなただから何があっても信じる。信じられるの」

「────」

「とりあえず掘ればいいのよね。ほら、あなたも手伝って」

「っ、何で俺が」

「嫌ならいいわ。あなたが負の心なら気乗りしないでしょうし、無理強いはしない」

 

 言うが早いか、己が内に宿る魔力に意識を注いだ。

 黒魔力を操作、形成、シャベル状に変えて手元に顕現させる。

 深層心理の世界でも魔力が使えたことに少々驚きつつも、すぐに灰を掘り始めた。

 

「~~っ! あぁもう分かった、俺の負けだ!」

 

 ガジガジと頭を掻き毟って、心底げんなり色を混ぜた吐息と共に()()()()()は指をひとつ弾いた。

 すると、不意に地面が蠢いた。

 灰の下からだんだん人の形が盛り上がってくる。それと同時に赤熱した炭が近くにあるような熱気が、じりじりと強まってくるのを実感した。

 

 やがて、彼が現れた。

 まるで水の底から浮かんできたみたいに、灰の中から姿を現して。

 だが。

 

「!? ウソ、なんで燃えて……!?」

 

 焚火が笑うような、弾ける火花の音がした。

 けれど()べられているのは薪じゃない。ヴィクター自身だ。

 全身を悪魔の舌のように揺れる炎に覆われ、ばちばちとドス黒く炭化しつつあるヴィクターだった。

 

「『水よ(アックア)』!」

 

 間髪入れず水魔法を発動、ヴィクターを丸呑みするほどの巨大な水球を叩きつけるように被せた。

 が、一瞬にして水球がボコボコと泡立ち、凄まじい熱を孕んだ蒸気雲となって消えてしまう。

 

「無駄だ。そいつは消えねえよ」

 

 すぐさま次の水球を作ろうと魔力を練るシャーロットを、()()()()()は首を鳴らしながら制止した。

 

「それは(そいつ)に宿る闘志そのもの。決して尽きることのない無窮の焔だ。例え叡聖の極水魔法でも絶対に消すことは出来ない」

「そんなっ……! このままじゃ魂が燃え尽きてしまう! どうすれば……!」

「言っておくが頼るなよ。俺も消し方は知らねえ。まぁ案外目覚めのキスでもすりゃ消えるんじゃねーの? なんてな」

「──いや、それ良い線行ってるかもしれない」

 

 ここが深層心理で象られた世界なら、この炎はヴィクターの無意識が表出した現象だ。

 ならば彼の意識さえ取り戻せば、無意識の炎を止めることが出来るかもしれない。

 何かしらの刺激を与えて意識を浮上させる。ある種のショック療法だ。試す価値は十分ある。

 ただし、キスなんてロマンチックなものじゃないけれど。

 

「ッ!? おい、何をしているシャーロット!?」

 

 シャーロットは燃える少年を躊躇なく抱き上げた。

 恐ろしい爆熱が嘲笑う渦中へ、自らを薪として()べんとするかのように。

 

「づ、ゥ、ううううう……!!」

「正気か!? お前まで燃えちまうぞ! 今すぐ手を離せ!!」

「あなたもさ、彼の一部なのよね……!? だったら多少は自我を共有してるんじゃない? あなたを通してこれをみせれば、私が来てること、無意識下にも伝わるんじゃないかなっ!!」

「馬鹿が……!!」

 

 毒づく()()()()()に反比例して、空気を焦がすほどの灼熱が鳴りを潜めていくのを実感した。

 火が弱まっている。火種を食いつくした炎のように、だんだんとその大きさを萎ませている。

 やがて彼を覆っていた悪魔の炎は、焼け残った炭にしがみつく小さな種火のように弱体化して。

 炭化した瞼が、少しずつ開き始めた。

 

「! ヴィッ──」

 

 刹那、シャーロットの背に蜘蛛が這うような悪寒が襲った。

 

 完全に反射だった。頬が喜びに持ち上がるよりも早く、脊髄が叱責するまま首を傾けると、元あった場所を豪速の物体が通り過ぎたのだ。

 それが拳だと気付くまでに、数秒をも必要とした。

 

「ハァ……ハッ……幻覚……幻覚がッ……!」

 

 ──白紙化された思考回路が、眼球の解像度を著しく引き下げていく。

 

「今さらッ、シャロの幻ごときで、惑わされると思ってんのか……!!」

 

 白く濁った(まなこ)を血走らせ、掠れた声を血糊と共に吐き出して。

 炭になりゆく体を鞭打ち、錆びついた鎧のように無理やり動かしながら、凍えるほど透き通った殺気の槍を突き付けてくるヴィクターは。

 少女の知る人物像とは、あまりにかけ離れた修羅の形相で。

 

 正気じゃない。完全に我を忘れている

 認め難い現実の汚泥が、頭蓋の裏にへばりつくような不快感となってシャーロットに襲いかかった

 

「消えろ幻、ガフッ、ぁ、ぶっ飛ばしてや、る……!!」

「待ってヴィック! 私よ、本物のシャーロット! 博士の力でアンタを助けに来たの!」

「消えろ、消えろ、消えろ消えろ消えろォおおおおおおッ!!」

 

 炎が再び息を吹き返した。

 広がっていく。広がっていく。

 彼の闘志が醒めゆくほど、自らの魂すら焼き滅ぼしかねない爆熱の大渦が、おぞましい目覚めを告げて蘇る。

 

「■■■■■■■■ッ────────!!」

 

 喉を引き千切らんばかりの雄叫びは、もはや人の声ではなかった。

 一心不乱に己の敵すべてを撃滅せんとする、身の毛がよだつほどの闘志の顕れ。

 まさしく、無窮の焔が如き永遠の紅蓮がそこにあった。

 

「気味悪いだろ。それがこいつの本質だよ」

 

 顔の無い男が嘲笑と共に囁いた。

 

「どこまで行っても戦うことを止められない、何度繰り返したって炎は消えない。自分の命より大事だとのたまう女に躊躇なく拳を振るえるイカレ野郎だ。心に(きず)もなけりゃ思い出もない、お前にすら()()を感じない薄情者だ。この真っ白な灰の世界が奴の正体だ。……救う価値なんかあるのかよ、シャーロット」

 

 襲い来る鉄拳の嵐にあっても、()()()()()の言葉だけは酷く大きく耳の中に滑り込んだ。

 

 確かに、正しいと信じるもののために戦う信念の男の姿はどこにもない。

 闘争の悪魔が卑しく歯を剝くような狂気だけが、白妙の世界を焼きつくさんとしているのみだ。

 

(……ヴィック)

 

 だがしかし、変わり果てた彼を前に恐怖など皆無だった。

 嫌悪も、拒絶もない。ましてや失望なんてあるものか。

 シャーロットが胸に抱くのは憂いだけだ。こんなにボロボロになってしまったヴィクターの姿が、慨嘆の茨に絡みつかれたように心が痛ませるのだ。

 

 だって、彼が自らを焼くほどの闘争心に呑まれたようには見えなかったから。

 構えもくそもない滅茶苦茶な動きで拳を振り回して、必死に脅威を退けようと足搔く姿は。

 まるで身を守ろうと怯える、子供のソレに映るのだ。

 

「大丈夫だよ」

 

 拳の縫い目を潜るように懐へ飛び込んだ。

 そのまま静かに、腕を回して抱き止める。

 灰も、炎も、全てを受け入れんとするように。

 

「大丈夫、大丈夫、怖くないわ。落ち着いて、深呼吸して」

「■■■■■……ッッ!!」

「……ダモレークで星を見た日のこと、覚えてる?」

 

 シャーロットの首を圧し折らんと伸びた手が、石膏に囚われたように動きを止めた。

 

「あの時もさ、こんな風に、ぎゅってしてくれたわよね」

「────」

「お蔭でとっても安心したんだよ。……あなたも、そうだったら良いな」

 

 ヴィクターは動かない。

 魔物のような雄叫びも、煮えたつような殺気も、水をかけられた篝火のように杜絶(とぜつ)した。

 無音の世界で、二つの心音だけが交わっていく。

 

「私の声、聞こえてるんでしょう?」

 

 反応は無い。

 けれど、抵抗も無い。

 

「聞いて、ヴィック。あなたを助けたい。あなたを苦しめてるものが何なのか知りたいの。教えてよ、裸の心。きっと力になれるから」

「……………………」

 

 ──腕が下がっていく。

 蛇の口のように開いていた手のひらは萎み、灼熱が消えて、ヴィクターを蝕んでいた炎たちが途端に活力を失って息絶えた。

 不思議とシャーロットの火傷も引いていく。立ち昇る炎の白煙(なごり)が、二人の蜃気楼を連れ去ったかのように。

 

「……………………シャ、ロ?」

「っ! そう、私! シャーロット! 私が分かる?」

「……本物、なんだな」

 

 行き場を失くしたヴィクターの手が、今にも折れそうな枯れ枝のように揺れた。

 シャーロットの肩に触れようとして、微かな震えがそれを拒んで、意を決したように少女を引き離すと、彼はそのまま背を向けてしまう。

 合わせる顔が無い──燃え尽きた灰混じりの真っ黒な背が、声に代わって物語る。

 

「あいつは?」

 

 絞り出したような問いだった。

 きっと顔の無いヴィクターのことだろう。いつの間に姿を消したのか、影も形も見当たらない。

 

「見たか。あいつを」

 

 尻目にシャーロットを見やりながら、彼は恐る恐る訊ねてきた。

 まるで蚊の鳴き声だ。床に伏した老人のように掠れて弱った小さな声だった。けれど内包されている圧迫感に空気がひりつくのを実感した。

 

 絶対に知られたくない秘密の露見を怖れているような、彼の胸の内が伝わってくる。

 シャーロットは戸惑ったが、嘘は吐けなかった。それを望んではいないと解っていたから、こくりと首肯することしか出来なかった。

 

 頷く少女から視線を外し、ヴィクターは上を仰ぐ。

 

「……シャロだけには、見られたくなかったな」

 

 風化した岩が崩れたような音がした。

 炭も同然なヴィクターの右足に亀裂が走って、真っ二つに砕けた音だった。

 

「ヴィッ────」

「来るな!!」

 

 灰の絨毯へ倒れた彼に駆け寄ろうとして、拒絶が壁のように足を縫い止めた。

 

「頼むから、来ないでくれ。頼む」

「っ……!」

「俺はどうやら、イカれてるらしい。こんな状況なのに、胸の一番奥のところが痛いくらい冷たいんだ。お前は本物じゃない、幻だ、倒せ、倒せって囁いてくる。きっと傷つけちまう。傷つけたくない」

 

 がらがらと、がらがらと、彼の体から絶えず小さな欠片が剥がれていく。

 灰の世界を乾いた煤が汚す。けれど煤はすぐに白の中に溶けて飲まれて消えていく。

 やがてヴィクターの全てが真っ白に焼け落ちていきそうな、崩れる心の慟哭がそこにあった。

 

「っ、あっ、けど大丈夫! すぐ治るよ! きっとこの世界も抜け出せるさ。シャロが来てくれたんだからな、百人力だ。落ち着けば、大丈夫だから」

 

 なのに、苦しいはずの彼は笑った。

 魂が爛れて、今にも焼滅しかねないくらいボロボロの心で、見たことないくらい青い笑顔を貼り付けて。

 それでも彼は、シャーロットを安心させようと笑っていた。

 

(なんで、アンタは)

 

 そんなバレバレの嘘で出来た蝋で、自分を人形に変えているんだ。

 

「──っ」

 

 不愉快だ。

 どうしようもなく。これ以上にないくらい腹が立つ。

 

 拒絶されたことに対してじゃない。腹の底から頭に来るのは、こんな時でさえ頼ってもらえない己の不甲斐なさだ。

 お前には彼の苦しみを払うに値しないのだと悪魔に囁かれるようで、悔しくて悔しくて仕方がない。

 

 ヴィクターにとって、きっとシャーロットはまだ守るべき存在なのだ。 

 だから強がる。身を八つ裂きにする苦痛も誤魔化して微笑む。

 弱音を吐いている所を見たことが無いのは何よりの証拠だ。

 

 

 今のシャーロットは、彼と対等ではない。

 

 

 鼻の奥がつんと沁みる。

 胸に詰められた慙愧の綿が、火を着けられたみたいに目頭を燃やした。

 けれど。

 

(──いじけてる場合か。辛いのは彼のほうでしょうが)

 

 ぱちんと頬に喝を入れる。覚悟と共に唇を結ぶ。

 尻込みする暇なんてあるのか。大切な人が苦しんでいるってのに、自分の無力さにかまけている場合か。

 ふざけるな。アーヴェントの女が、そこで終わってなるものか。

 

 

「悪かったな、心配かけて。もう平気だ。けど少しだけ……そっとしててくれると助かる」

「……あの時アンタが言ってた言葉の意味、今やっとわかった気がするわ」

「え?」

「却下よ却下! そっとしてなんかやらない。あなたがどん底に沈んでいく姿を黙って見てるだけなんて無理。嫌だって言っても放っておかないから」

 

 いつだって鮮明に思い出せる。

 冥暗の瀬にいたシャーロットの心を引っ張り上げてくれた光の時間は、一生忘れない輝くような記憶だから。

 

 身も心も絶望に貪られ、妹もろとも全てを終わらせようとした少女は、一度ヴィクターの手を払い除けたことがあった。

 けれど、彼はその拒絶すら吹っ飛ばして言ったのだ。「逆の立場だったらどうする」のだと。

 力強く少女の手を握って、明るくて暖かい世界に連れ出してくれて、膿んだ人生に希望をくれた。

 

 シャーロットは今、『逆の立場』に立っている。   

 ならば今こそ、この場で証明してみせよう。

 あの時の貴方は、世界の誰よりも正しかったということを。

 

「傷つけるのが怖いなんて、私に勝ち越してから言いなさいよね。この私を誰だと思ってるの?」

「っ、シャロ……!」

 

 力を失くしたゴーレムのように座り込んでしまったヴィクターを、少女はもう一度、背中から包み込むように抱擁した。

 

「私を頼ってよ。苦しいなら助けてって言っていいんだよ。それを教えてくれたのはあなたでしょ。……独りで抱え込むな、ばか」

 

 今度は絶対に離させない。

 回した腕にぎゅっと力を込める。苦しいとヴィクターが呻いたが、知らないと肩に顔を埋めた。

 

「──離してくれ」

「やだ」

「離せッ……!」

「やだよ」

「離せよっ! こんな姿、お前にだけは見られたくない……!」

 

 呻くような懇願で、怯える子供のように揺れる瞳で、けれど振り絞られたのは拒絶の意志で。

 それでも良かった。だってこれは、なんの噓偽りもない裸の心だったから。

 

 シャーロットは沈黙のまま、清も濁も包み込むべく背中に体温を預けた。

 彼の氷を溶かすためには、きっと一番の方法だと直感した。

 

「大丈夫、全部受け止めてあげる。何があったって見捨てたりなんかしない。頼ってよ。信じて貰えないことの方が、身を切られるみたいに辛いんだよ」

 

 炭の手が、お腹に回して結んだ指を解こうとしてくる。

 全然力が入っていない。ヴィクターよりずっと細い指を、力づくでも動かせていない。

 きっともう、解く気なんてさらさら無かったのだと思う。

 

 いつしか拒絶を示す少年の指は、縋るように少女の手と重なっていた。

 

「……俺には、記憶が無い」

 

 ──ぽつり。

 

「名前も、親の顔も、兄弟がいたのかもわからない。どうして島の泉で溺れていたのかも知らない。シャロに助けられたあの日からしか、俺は存在してないんだ。俺は空っぽの人間だ」

 

 ──ぽつりと。

 

「シャロも一度は思ったことがあるはずだ。俺は普通じゃない。記憶が無いってのに、俺は最初から戦える人間だった。命の奪い合いになるとすげえ頭が冴えてさ、怖いとか怯えみたいな気持ちがさっぱり消えるんだよ。どんどん、どんどん心が冷えて、最後に残るのは如何に相手をぶっ倒すか。根っこからイカれてるんだよ」

 

 ──雨粒のような、胸懐の落屑。

 

「昔の俺のことを考えるのが怖くなった。もし天蓋領の刺客だったら? もっと別の敵対関係にある勢力だったら? もし、もし記憶が戻って、シャーロットを裏切ることになったら……俺は……!!」

 

 震えて、縮こまって、罪を告白する咎人のように彼は言う。

 澱み、歪んで、脱することも叶わない心淵の牢獄へと、自らを投じるかのごとく。

 

「あいつが、もう一人の俺が言ったんだ。お前には執着が無い、誰も大切になんか思っていないって。この白い世界がその証拠だって。()()()()()()()()。ただのひとつも、まともに反論できなかったんだ。……こんなの、裏切りを認めてンのと同じだろ」

「裏切ってなんかいないよ」

 

 魂魄に注ぐ澱みの雨から守るように、シャーロットは言の葉の傘を差し伸べた。

 十分だ。ヴィクターを苦しめるものの正体はよく分かった。

 

 それはかつて少女を蝕んでいたものと同じ。傾き切った思考の天秤から漏れ出した汚穢が、慙愧の毒となって心身を蝕む自家中毒。己の欠陥を呪う病である。

 

「吞まれちゃダメ。今のあなたは星の刻印のせいで、心の負の部分が増幅されちゃってるだけ。気を確かにもって」

「……あれは俺の本心の具現化だ。俺自身が目を背けてた問題なんだ。これは刻印のせいなんかじゃない」

「ううん違う、違うよ。ね、聞いてヴィック。アレは作られた負い目なの。自分を否定するために作られたまやかしの答え。既に出してしまった答えを覆すなんて出来ないでしょう?」

 

 ──もう一人の()()()()()は、常に『本体』を蔑み、自己の不甲斐なさを忌み嫌うカウンター的存在だった。言うなれば受肉した『負の結論』だ。

 持論に持ち主が異を唱えるなんて、土台無理な話であろうに。

 

 ゆえにこそ、シャーロットに出来ることもある。

 濁りきった固定観念にメスを入れられるのは、外側に立つ第三者の特権だから。

 

「だから、私があなたの答えになる。あなたは冷たくなんかない。大切な誰かを傷つけることだって絶対にない。アーヴェントの血にかけて、絶対を誓ってあげるから」

「っ……シャロ」

「だっておかしいじゃん。ヴィックはさ、一度でも()()()()()()()()の? 違うでしょ?」

 

 これはいわば捉え方の問題だ。

 今のヴィクターは自らの曖昧な記憶、自己の不完全さというコンプレックスが全てをマイナスに引きずり降ろしている状態にある。ゆえに全てが醜悪に映る鏡となる。

 

 しかしだ。彼が本当に狂った人間ならば、凍った心の冷血漢ならば、はたして命を賭けてまで誰かを救うことなど出来ただろうか。

 英雄の所業を、根底から歯車を失くした人間が成し遂げられるとでも? 

 

 否。否だ。それだけは違う。絶対に違う。

 彼に救われた少女だからこそ、その勇姿に心を焦がれた身空だからこそ、魂に誓って断言できる。

 

「狂ってなんかいないよ。他人(ひと)の悲しみに迷わず手を差し伸べられる、立派な強さを持った人なんだよ。そうじゃなきゃ、あなたを慕う皆はどうなるの?」

「……買いかぶり過ぎだ。俺はただ、シャロを真似してただけだ。見ず知らずの男を救ってくれたお前の優しさに、報いたかっただけなんだよ」

「人を作るのは思想じゃなくて行動。……これお母様の受け売りなんだけど、良い言葉でしょ」

 

 そも、行動原理の由来とは誰にでもあるものだ。シャーロットの持つ高潔さだって、父母の面影があってこそである。

 心の一部を受け継ぐことはごく当たり前の過程に過ぎない。だからこそ、人間の価値とは何を考えたかではなく、何を成したかによって決まるとシャーロットは思うのだ。

 

 例えどんな悪人だと揶揄された人でも、救われた側からすれば英雄だ。

 ならば、沢山の悲劇を打ち破ってきたヴィクターは、

 

「きっかけは私でも、みんなを助けるために動いたのはあなた。一歩を踏み出したのは間違いなくあなたの意思。あなた自身の決意。大事なのはそこなのよ」

 

 勇気を振り絞るのは並大抵のことではない。ましてや危険を伴うと来れば、二の足を踏むなんて当然のことだ。

 けれど彼が、人の涙を拭い、苦しみを晴らす決意を曇らせたことが一度でもあっただろうか。そんな人間が、冷酷だなんてどうして宣えるというのか。

 

 記憶を失っても残る戦いの極意が狂気の源泉? 違う。過去の全てを失っても、誰かのために命を燃やせる義気の人だから戦えたのだ。

 誰かの幸せを願うために走る背中も、誰かの不幸を払うために足掻く姿も、そこにあったのは眩しいくらい真っ直ぐな善性の輝きに他ならない。

 

 

「この白い空間もそう。虚ろな心象世界でもなんでもない。だって透明じゃないんだもの」

「……!」

「むしろ綺麗でびっくりしたのよ? 人の酷い部分をたくさん見てきたはずなのにさ、歪みも澱みも無いなんて。どこまでも純真で真っ白な心だから、直向(ひたむ)きなあなただから、きっとこんなに綺麗なんだって思うな」

 

 シャーロットには分かる。ヴィクターはきっと、記憶を失くす前から勇気の焔を宿した人間だった。

 誰よりも思いやりに溢れた人だから、自らの過去が凶器となる可能性を拒絶せずにはいられない。誰よりも仲間思いだから、想えない冷感を憎らしく蔑んでしまう。

 

 心を壊す自縄自縛の正体が妬み嫉みどころか、ましてや憎しみですらない『優しさ』だなんて、こんなに素敵な心が他にあるのか。

 きっとそれは、愚直なまでに人と向き合おうとする真摯さの裏返しなんだと少女は思う。

 

「ねぇヴィック。私、決めた。今決めた」

「……何を」

「私があなたの記憶になる。例えあなたの記憶が上書きされたって、何度でも思い出させてあげられるように」

 

 ──錆びついていた少年の瞼が、油を差されたみたいに広がった。

 

「あなたの全部を覚えるよ。楽しいことも、辛いことも、一緒に覚えていこ。空っぽなんかじゃないって、私が証明してあげるから」

「──」

「ふふ、何だか変な話だけどさ、今ちょっぴり嬉しいのよね。あなたを守れるかもって思うと、やっと対等になれた気がして」

「対……等?」

「そうよ。ずっと守られてばかりだったもん。だからかな、支えてあげられるのが嬉しいの。もっと頼ってくれていいんだからね? ……言ったでしょ。全部受け止めてあげるって」

「っ……!!」

 

 

 ぱきん、と。薄氷が割れるような音がした。

 白い世界に亀裂が駆けた。雲に差す陽のような光を浴びた。

 黒く燃え尽きた少年の肌が、時を巻き戻すように蘇っていく。

 

「……ずっと隣には立てないと思ってた。俺は空っぽの男だから。けど、そんなの思い上がりでしかなかったんだな」

 

 首に回す腕に、そっと手を重ねられて。

 

「ありがとよ。もう大丈夫だ。俺は二度と、『ヴィクター』であることを迷わない」

 

 目元の雫を拭いながら、ヴィクターはゆっくりと振り返った。

 その表情に雲影などあろうはずもない。

 日輪すら霞むほどの、いつもの笑みがそこにあった。

 

 

 

「ほんと、シャロには敵わねえなぁ。世界で一番カッコいいよ。……ああ、うん。今度こそ惚れた。やっぱり好きだ。俺は、お前のことが本気で好きだ。シャーロット」

「…………………………………………ふぇっ?」

「二度は言わねぇ」

「ちょ、待っ、いっ、今のどういう意味──」

 

 

 ──光が、白を包み込んで消える。



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52「悪夢の終わり」

 刺されるような光が止んで、焼け付いた視界がぼんやりと解像度を引き上げてきた。

 ふらり、ふらり、頭が赤子のように揺れる。船酔いに似た悪寒が喉の奥でとぐろを巻いて、口を覆った。

 吐いた方が楽だったけれど、気合でこらえて頬を叩く。

 

「シャロ、いるか?」

「ええ」

「無事か?」

「誰に言ってんのよ」

 

 語気とは裏腹に褪せた少女の声がとどく。

 音は下から。ほんの少し目線を傾けると、足元でへたり込んでいるシャーロットの姿があった。

 一瞬で胃を絞る不快感が上塗りされた。慌てて手を貸そうとするが、「大丈夫」と汗ばんだ微笑みでふられる。

 

「ほんとに大丈夫、ちょっとしんどいだけ……。たぶん博士とあなたの魂に同時接続したから、疲れちゃってるんだと思う」

「あれか、ボディアクセスなんちゃらとかいう」

「そそ。少し休めば動けるから……っというか、それより!」

 

 少女の頬が湯に放られたカニみたいになる。

 立てないせいか、ぺしぺしと鏡のような石床を叩いていた。

 

「さっきの! さっきのやつ! あ、あれってどういう」

「うぐっ……に、二度は言わねえって」

「はぁ!? ふざけんなっ、もっかい言ってよもっかい!」

「わかった、わかったから落ち着けって! でもとりあえず全部片付いてから! な?」

「う~……絶対だからね! 絶対よ絶対!」

 

 すごいめつきである。獲物を見定めた猛禽類とはこのことか。焦らすような真似をしたのは悪手だったかもしれない。

 だが致し方ない。うつつを抜かしている場合ではないのだ。解決すべき問題は、まだ山のように残っている。

 

 全てが終わったら……は、少し早いか。ちょっぴり心の準備が必要かもしれないけれど。ああ、意識した途端、今まで感じたことのない緊張感に胸を引き絞られるけれど。

 いつかは必ず。絶対に。

 

「えーっと……取り込み中のところすまないが、いいかい?」

「っ、先生!」

 

 割って入った声から背中を叩かれたみたいに振り返る。

 苦笑いで柱にもたれかかるイシェルがいた。場違いな気恥ずかしさに殺されそうになるけれど、ふと彼が死の瀬戸際にあったことを思い出してそれも消える。

 

「意識が戻ったんスね! ってか大丈夫ッスか!? 体が刃物まみれになってましたけど」

「見た目ほど酷くはないよ。……それよりアマルガムだ。すまない、逃してしまった」

「謝らないでください、無事でなによりッス。後は俺が片付けますから。奴はどこに?」

「あの柱の階段だ。どうやら逃げに徹するつもりらしい。あの男は何かを取りにいって、この精神世界ごと私たちの魂を消そうとしている。()()()()()()()()()()

 

 言われて、頭の片隅で明滅する奇妙な感覚に気づく。

 体験したことはないが、おそらくフォトンパスの精神同調(ボディアクセス)に近いものだった。

 

 アマルガムの思考が読めるのだ。あの男がこれから何をしようとしているのか、朧気だが理解できる。

 心淵の刻印。他者の精神と干渉・同化し操る能力。今までは一方通行の支配だったが、逆にアマルガムの心が覗けるようになっていた。

 

 星の刻印は長所と短所表裏一体の能力。恐らくこれが心淵の刻印のデメリットか。

 心を持つ相手においては無敵の能力だが、一度覆せばアマルガムの思考を一部共有できるようになるのだろう。

 つまり、奴はあらゆる優位性(アドバンテージ)、労した策の数々を一気に失ったに等しい。

 

「シャロ、ここで待っててくれ。先生を頼む」

「……ん。無茶しないでね」

 

 アマルガムが逃げた先に足が動く。

 しかし踵を返したところで、少女の声が「待って」とヴィクターの歩みを縫い止めた。

 

「気を付けて。あの男、私と同じ黒魔力を使ってる。油断しちゃダメよ」

「は? あいつがアーヴェントだってのか?」

「ううん。けど、直接見てわかった。感じるの。彼は間違いなく──冠接ぎの器を持ってる」

 

 

 ◆

 

 それを手に入れたのは偶然だった。

 

 親を殺し、奪った商家としての人脈(コネ)を使い、さらに裏社会の深くまで市場を拡大せんと手を伸ばしていた時期だ。

 とある闇市の商人が、いわくつきの物体をあつかっているという噂を耳にした。

 

 聞くに、ソレの出自は不明。製造方法も不明。

 確かなことは、ずっと昔から人々の手を転々としてきたことだけ。

 

 光を吞むようなリングに心臓のごとき赤い玉石がはめこまれた、闇をも喰らう純黒の指輪だった。

 身につけたものの命を奪うそれは、不思議なことに主を(うしな)うと必ず商人のもとへ戻ってくるのだという。

 まるで真の持ち主を求め、さまよっているようだと彼は言った。

 

(アレと出会った瞬間、運命だと直感した。()()()()()()()、アーヴェントの王が残した遺産なのだと一目でわかった)

 

 指輪は魔力を持たない。正確には、測れないといったほうが正しいかもしれない。

 この世のどんな計測器具だろうと判定できない未知のエネルギーをはらむ道具。ゆえに誰もその正体に勘付く者はいなかった。

 

 だがアマルガムは違った。己が純粋悪だからこそ気付けたのだと思った。

 それはかつて人類根絶を目論んだとされる虐殺者、『純黒の王』の遺産なのだと、巡り合うべくして巡ったのだと肌身で感じたのだ。

 

(あの指輪は私に力をくれた。人の心を操るだけの刻印が、街ひとつぶんの魂を掌握できるほどの力を)

 

 指輪は人の身では扱えない。だからアマルガムは精神世界に指輪を封じ込めた。

 空間の核となるように。力の恩恵を授かれるように。触れずして自身と接続させるように。

 

(指輪)を使えば、今まで捕らえた2314の魂へ一気に干渉できる。生殺与奪も思いのまま!)

 

 特殊な指輪を制御するため、アマルガムは精神世界の断層を何重にもおおって管理している。

 柱の階段は(ロック)のひとつだ。一枚一枚ベールを剝がしていくように、()を目指して進まなくては『制御盤』にはたどり着けない。

 

 そうして着いた終着点は、中央に石柱がひとつ鎮座するだけの空間だった。

 

 奇妙な形の柱だった。人の手が空に焦がれて伸びたまま、志半ばで石化してしまったかのような形をしている。

 石の手に収まるのは小さな指輪だ。浮いている。鼓動のようにエネルギーを明滅させる不思議な金細工が施された、光を食む純黒のリングだった。

 

 頬が吊り上がる。

 石柱へ触れる。まるで聖夜に贈り物をもらった子供のように目を輝かせて。

 

 

「僕の期待を裏切ったことを後悔するがいい。君の脆弱な正義が、多くの命を奪う絶望を味わわせてやる」

 

 

 一拍。脈打つ心臓のような波が石柱を中心に狭間を泳いだ。

 それは指輪という核を通じて、捕らえた魂に毒牙をかけた無慈悲の号令に他ならない。

 

「饗宴の時だ、ヴィクター!」

 

 悲鳴が聞こえる。響いてくる。

 どんどんどんどん大きくなって、老若男女の金切り声が玉座の間を走り回るように反響する。

 

 きっと今頃、アルボルット地方のいたるところで不審死体が断末魔の産声を上げていることだろう。

 能力を通して伝わってくる。命の終わり、最後の刹那が、この空間に搔き集められてくるのを実感する。

 ひとり、ふたり、ごにん、じゅうにん──大人も子供も男も女も分け隔てなく。絶対的に平等で慈悲なき悪意が、花畑のように咲いて嗤っている。

 

 引き裂いた魂から垣間見る光景は絶景の一言に尽きた。

 逢瀬の最中、突然倒れた恋人を前にうろたえる混乱と焦燥の表情。

 晩餐に舌鼓を打ちながら息を止めた子供を必死に呼び起こそうと揺さぶる親の顔。

 道端で倒れた人間を介抱しつつ騎士団を呼ぼうとする青ざめた通行人。

 

 嗚呼、罪なるかな。罪なるかな。罪なるかな。

 祝福すべき虐殺の潮騒が、アマルガムに満ち満ちていく。

 

「嗚呼、聴こえるよ、感じるよ、見届けているよ、みんな! うふ、ふふふ、ははははは、あっはははははははははは!! 冥脈にすら還さない! 皆殺しだ! この僕を失望させれば如何なる厄災が降りかかるか、死をもって思い知るがいい! 不出来な正義しか生まない世を呪って無間の地獄へ落ちていけええええええ──────はっはははははははは!!」

「落ちるのはてめえ独りだ。クソッタレが」

 

 ──石柱に座していた指輪が忽然と姿を消した。

 

 アマルガムは何もしていない。

 一瞬、ほんの一瞬、影のようなナニカが前をよぎった。そして指輪を奪い去った。文字通り目にも止まらない速さで。

 

 ああ、しかも。何かが変だ。

 痛い。痛みを感じる。激痛だ。

 顎をめちゃくちゃに砕かれたような鋭い衝撃が、ゆっくりと嬲るように襲いかかった。

 

「がッッッッ!? ば、あがッッッッ!?」

 

 錐揉み回転して吹っ飛んだ。情け容赦なく地面に叩きつけられた体は蹴られたゴム玉のように跳ね転がって、石柱の玉座に衝突して木っ端微塵に粉砕した。

 

「あが、ご、ぉあ」

 

 気づけば床と視線が平行になっていた。

 吹っ飛ばされていたと自覚したのは、さらにその数秒後だった。

 

「うぐ、ぉおおおおおお……!!」

 

 血反吐で床を汚しながら、腕に力を籠めて上体を起こす。

 頭が痛い。割れそうだ。生暖かくて鉄臭い液体がべっとりと顔を覆っている。

 

「なぁ王様。あいつに引き裂かれた魂をもとに戻してくれ。あんたの力ならそれが出来るはずだ。まだ間に合うだろ? 頼む。奴の思い通りになんかさせないでくれ」

 

 ぐらぐらと揺れる意識の狭間、しかしその荒波の中でもハッキリと男の声が聞こえた。

 明確な異変を感じる。()()()()()()()()()()()()()()異常事態を。

 まるで開いた傷を縫合するように、バラバラにしたはずの魂が元の姿へ戻っていくのを感じるのだ。

 

「魂は完全に囚えたはずだ、どうやって心淵から……! あの医者といい、今回はイレギュラーばかり起こる」

 

 怒りとも困惑ともつかない、ミンチのようにぐちゃぐちゃな激情で震える体を叩き起こして、砕けた顎を力技で治しながら振り返る。

 目を剝いて、歯を剝いて、声を絞った。

 

「だがそんなことはどうでもいい……! それよりもッ、どうして君が指輪を使えるんだ!?」

 

 両腕を包帯に覆われた男。刻印の力に敗北し、心を折られたはずの偽善者。

 その手の中に、大罪人の指輪が収まっていた。

 

 しかも当の本人に異常はない。

 王の魔力を内包する指輪なのに。触れただけで魔力回路は侵食され、心身に異常をきたし、肉体は目も当てられないほど破壊されて即死するはずなのに。

 ()()()()()()()。ヴィクターの魂は、触れたそばから粉々になって消えるはずなのだ。

 

(まさか、まさかカースカンが口走っていた『純黒の王』の腕とは真実だったのか!? ばかな、荒唐無稽にもほどがある!!)

 

 ただの妄言だろうと気にも留めていなかった。あらゆる物質に干渉する腕の力は、星の刻印によるものだろうと決めつけていた。

 だってありえるはずがない。すり切れるほど読み返した聖女の書には、王は滅ぼされたと明確に記述されてあった。あらゆる史書でも同様だ。

 

 アーヴェントは滅びた。『純黒の王』は勇者アレン=アーサーと白薔薇の聖女によって倒された。それは紛れもない歴史上の事実のハズだ。

 そうでなくては王の遺産になど巡り合うわけがない。そもそも王の腕を持つ人間など存在するものか。

 

 だがしかし、そうでなければ目の前の光景に答えが出せない。

 カースカンが正しくなければ、あの男が指輪に触れても五体満足で、あまつさえ力を引き出せた現象に説明がつかない! 

 

「その腕はっ、ほ、本当に王のものなのか……!? どこで手に入れた!? なぜ生きていられるんだ!?」

「答える必要はねえな」

 

 大罪人の腕。かつて世界を私欲のもとに滅ぼそうとした愚王の腕。

 それをあろうことか、アマルガムを裁くはずだった正義に宿っているなんて。

 

 

 ──ザ──ザザ──ザ──

 

 

「どこまで……僕をコケにすれば気が済むんだ、君は」

 

 体中の血管が引き千切れたかと錯覚した。

 血肉を燃やさんばかりの怒りが、はらわたにトグロを巻く感覚なんて初めてだった。

 ああそうだ。初めてだ。アマルガムは生まれて初めて、裏切りへの失望と憎悪を知った。

 

 脳髄が、殺意の泥に沈む。

 

「くれてやるよ、そんなもの。もはやどうでもいい。ああ、魂だって解放してやるさ」

 

 悪夢の終わりを告げるような、ひび割れゆく世界の悲鳴が轟いた。

 城の天井が乾いたクッキーのようにばっくりと割れる。

 精神世界の崩壊が始まった。核を失ったせいだ。大黒柱を壊された家屋のように、力の支点を失って不安定化している。

 

「だが、だが、君だけは殺す。必ず仕留めてくれる。この僕の期待をソデにした罰だ、けがれた忌み王の眷族め。生まれたことを後悔するほどの苦痛を与えて殺してやる」

「勝手な野郎だな、てめーは」

 

 呆れを隠すこともなく、ヴィクターは冷めた眼ざしを手向けながら言う。

 

「哀れだよ、アマルガム。お前は本当に()()しか生きる道がないんだな。罰を望みながらとことん利己的で、誰かを害することでしか生きられない。お前ほど救いようのない奴は初めてだ」

(ぼく)にはそれしかないんだッ! 真なる英雄の手で滅ぼされる結末だけを望んで生きてきた! だがそれを君が奪ったんだ! たかがトラウマなんかに敗北して! 鋼鉄の正義を歪ませて! やっと解放されるはずだった悪逆(ぼく)を見捨てた! 僕は裁かれる権利さえ失ったんだぞ!」

「失った痛みを嘆くってンなら、どうして人の苦しみを理解してやれなかったんだ。誰よりも心というものに寄り添える力を持ちながら」

「なにをいまさら、僕は(ぼく)だぞ。薄ら寒い」

「そうかい。とことん吐き気がする」

「他人事だな。君だって同じだろう? 世界のどこかで暮らしてる顔も知らない誰かさんの不幸なんざ興味はないはずだ。人は生まれながら、自己以外におそろしく冷酷になれる動物なんだよ」

 

 ヴィクターはもう、かつて恋焦がれた白く輝く真の英雄ではない。

 心の弱い、惰弱で蒙昧な凡百だ。アマルガムがもっとも嫌う半端者だ。

 ゆえに突きつける。さも自分は関係ないと言わんばかりの正義ヅラに、己と同じ穢れた人間の一味でしかないという醜悪さを。

 

「僕は罪の写し鏡、僕は君の心に巣食う闇そのものだ。一度信念を折った君の正義に価値など無い! しょせん同類に過ぎんクソにも劣る下等生物が、澄まし顔でお高く止まってんじゃないぞッ!」

「だぁーから、極端なんだよテメーは。白か黒かでしか人を見てねえ。いや、見ようとすらしねえ。言っとくけどな、お前は悪だとかンな大層なもんじゃないぞ」

「なに?」

 

 細胞が動きを止めたような錯覚が、アマルガムから全ての動きを奪った。

 

「人は冷酷になれる動物? 顔も知らない誰かの不幸に興味はない? 本当にそうかな。少なくとも俺は知ってるぞ。身元もわからねぇ怪しい男の命を救ってくれた人を。会ったこともない女の子を助けるために力を貸してくれた人たちを。誰かの命を繋ぎ止めるために血のにじむような努力をしてきた人だって……俺はたくさん知ってる」

「──くだらない! 実に稚拙な戯言だヴィクター! これ以上失望を重ねてくれるなよ、君のいう善人の一人は殺人鬼に堕ちただろう!? 唾棄すべき偽善だ、ハリボテに過ぎやしない!」

「それを言うならボロボロの体でお前に立ち向かった先生の行動はどう説明する? 家族を奪われた復讐のためじゃない。これ以上犠牲を出させないために、お前を止めるために戦ったんだ。まぎれもない勇気の証明じゃねえか。そいつは都合よく無視するのか?」

「愚者は詭弁を吐く口だけはよく回るものだな……!!」

「なぁ、アマルガム。人はどっちにでも変われるんだよ。正義だとか悪だとか白黒だけの単調な世界じゃない。決めつけてるのはお前だ。悪事を働く自分に酔った男の妄言でしかない」

 

 

 裂けゆく悪夢の中心で、少年は拳を握り固めた。

 断固とした決意を燦然と照らし出すように、瞳に宿る光芒がアマルガムを射貫く。

 忌々しくも、勇ましき者の片鱗を瞠目するほどに。

 

「思想が歪んで偏った過激な人間。お前を表すのはそれだけで十分だろ。……来いよ道化(ピエロ)。いい加減、てめえの三文芝居にゃうんざりだ」

「────殺す」

 

 魔力を練る。研ぐ。先細らせる。

 前髪に隠された左目が輝きを放つ。

 生まれ持った天然の術式、『心淵の刻印』が唸りを上げる。

 

 精神世界の中核はヴィクターの手に渡ったが、能力を奪われたわけではない。

 他者の経験を自らに上書きする力も、心を読む力も、欠けることなく健在だ。

 もう試練などという加減はいらない。捕らえた魂のストックによる無限再生(うしろだて)を失った今、手段を選んでいる暇はない。

 

 だから、全てを発動させる。

 

「『心淵(アビスフォビア)()賜るは冒涜者の才覚(スクウィズ ザ パペット)』」

 

 注ぐ。注ぐ。注ぐ。

 顔も覚えちゃいない誰かが積み重ねてきた知恵を、経験を、修練を盗む。

 何十年何百年もの血と汗の結晶をすり潰し、己に上塗り、重ね、凝縮して、アマルガムを全知全能の怪物へと進化させていく。

 

「もう加減はしない。これは試練じゃない、一方的な誅罰だ。君の全てを奪いつくしてやる! 後悔する時間さえ」

「ごちゃごちゃうるせえ奴だな。威勢のよさだけで勝ってきたのか?」

 

 ──嗚呼、本当に愚かだヴィクター。心を持つ生きものが、心を操る存在に勝てるわけなどないのに。

 

 もはや滑稽にすら感じる。この男はアマルガムの真髄をまるで理解していない。

 今まで数多の勇気ある正義たちを心淵に堕とし、戦い、全て葬り去ってきた。

 腕自慢の戦士。剣の道こそ人生と言い切った剣士。数百冊の魔導書を脳に綴じた魔法使い。そろいもそろって『白金冠級(プラチナ)』以上の猛者どもだ。

 

 だがアマルガムを罰するには至らなかった。誰一人として。

 

 理由は簡単。アマルガムは人の心を読めるからだ。

 防心術で心を守ろうが意味はない。どれほど腕の立つ実力者であっても、アマルガムにはかすり傷ひとつ着けることすら叶わず生涯を終えてしまった。

 すべては、己の弱さを克服できぬ脆弱さがゆえに。

 

(だから探してたんだ。真に心の強い絶対の正義を。僕の力に屈しない黄金の魂を。己に巣食う闇すら叩き潰せるほど強固な信念を持つ者だけが、この(ぼく)を討つ資格がある)

 

 ヴィクターは一度心を折った。折れ目のついた鉄板はもう二度と平たく戻ることはない。

 ゆえに、彼の未来は敗北を宿命づけられたも同然だ。

 

(どんな手を使おうが無意味だ。君の手の内はすべて見えている。君を殺すための道筋も)

 

 踏み込んでの正拳突き──光刃で弾きそのまま心臓を貫く。

 光刃を叩き落とし蹴りを見舞う──反射魔法で衝撃をかえし足を砕く。

 ならば『純黒の王』の拳で反射魔法ごと殴り抜け────

 

「──あ?」

 

 まて。おかしい。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 

 

「おい、どういうことだ? なぜ僕の心が読めている!?」

「……気付いてなかったのか。お前の能力、一度破ればお前の頭が覗けるようになるみてえだぜ」

「っ!?」

「今まで誰にも負けなかったことが仇になったな。無敵ってのも考えもンだ」

「…………それがどうした! 心を読まれる不利(ハンデ)を相殺したところで、この身に無尽蔵の能力(スキル)があることを忘れたのかッ!! 僕はなんにでもなれる! 剣豪にも、武術の達人にも、大魔法使いにだって」

「博士はお前を頭の切れる男だと評価してたけど、どうやら違ったらしい」

 

 うんざり色に濁された胸中を隠すことなく、ヴィクターは目を細めながら頭を掻いた。

 

「かかってこいっつってンだろ。どれだけ頭を覗き込もうが結果は変わらねえ」

 

 血管が破裂しそうだ。

 鼻の奥から鉄の匂いがする。唇が震える。ここまでの怒りを覚えたのは生まれて初めての経験だった。

 

 望みを叶えてやることにする。

 思考を読み、彼の打つ行動を解析し、対処に最適な能力(スキル)で潰す。それだけだ。

 勝てるはずがない。手札はアマルガムの方が多いのだから。

 

 なのに。

 そのはずなのに、どうして勝ち筋が見えてこない。

 

(刺突、切断、絞首、粉砕、圧殺)

 

 ダメだ。突破される。

 

(炎魔法、水魔法、樹魔法、雷、地、金属)

 

 壊される。かわされる。阻止される。

 どれだけ卓越した技を駆使しようと、どれほど緻密な術式を用いようとも。

 

「なぜだ……なぜ、なぜ」

「お前の弱点は戦闘経験の希薄さだ」

 

 最後は必ず、ヴィクターの拳が届く未来がみえる。

 

「お前は人から奪った力をゴーレムみてーに規則正しく振るうことしかできない。一方的に心を読める状況なら十分だったんだろうがな。弱い者いじめしかしてこなかった報いだ」

「黙れ……! この世界の僕は神に等しい存在だッ! 出来損ないの偽善者に、この(ぼく)が敗れるものかァッ!!」

 

 全魔力を開放、『賜るは冒涜者の才覚(スクウィズ ザ パペット)』をもって得たあらゆる魔法を絨毯爆撃の如く解き放つ。

 破壊の大渦だった。大火が、津波が、土砂が、稲妻が、たった一人の男を潰すためだけに空間を埋め尽くし、大質量の暴威をもって襲いかかった。

 

 だが、破壊の目指す先にヴィクターの姿は既になく。

 蜃気楼のように消えた少年は、一息の内にアマルガムの隣に立っていて。

 ありったけの力を込めて引き絞られた拳はただ一点、アマルガムへと照準を定められている。

 

 ──光が爆ぜた。

 

 燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)。医師の頭から奪い取った無尽蔵の光刃を、少年を囲う檻のように展開。

 間髪入れず地魔法を発動、ヴィクターの尋常ではない敏捷性を奪うべく足場を砂の城のように崩壊させた。

 宙に放り出されれば最後、少年の魂は『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』によってサイコロ状の破片へと加工される。

 

「だァらあああああ────ッッッッ!!!!」

 

 瞬間、ヴィクターは躊躇なく足元めがけて拳を振り下ろした。

 殴ったのは空気だ。空気を殴り飛ばしていた。

 凄まじい衝撃波が怒号のように爆ぜた。拳を中心に解き放たれたインパクトは、光刃の包囲網をまとめて吹き飛ばしてしまう。

 

 それだけではない。衝撃はヴィクターに推進力を与え、大きく宙に打ち上げた。

 転移魔法で距離をとったはずのアマルガムに、正確無比に着弾する軌道を描いて。

 

「愚かだなヴィクター! 逃げ場のない空中を選んだのは悪手だぞ!」

 

 口を三日月に引き裂き迎え撃つ。

 風魔法を発動、音速を超える真空弾を無尽蔵に生成し、散弾の如く一斉に浴びせかけた。

 

 対するヴィクターは迫りくる殺意の軍勢に拳を打ちつける。何度も、何度も、残像の尾を引く鉄拳の機関銃で相殺せんと空を裂く。

 衝突、爆砕が起こった。

 およそ大気を殴りつけたものではない、ガラスの壁が破城槌に喰い破られたようなけたたましい絶叫が突き抜ける。

 空間の断末魔と共に衝撃の波が駆けた。それはもろともを連れ去る嵐のように、風の魔法を粉々に破壊してしまう。

 

 だがミサイルの如く飛来するヴィクターの推進力は奪った。

 落下した先から態勢を整えられる前に足場を崩す。今度こそ無間の奈落へ追放してくれる。

 

(──ダメだ! 速すぎる!!)

「おおおおおおおおおおおおおッッッッ!!」

 

 崩れはじめた足場を蹴り、闇に吞み込まれゆく瀬戸際を駆けて、雄叫びと共に男が迫る。

 アマルガムは刻印の(リソース)を切り替えた。精神世界の崩壊を加速させるのではなく、かつて奪った達人たちの能力を身に宿し再現するために。

 

 ()()に打って出た。

 

 退きはしない。迎撃を構える。一直線に突き進んでくるこの男を、真正面から粉砕してやる。

 金属魔法を発動。高名な魔法使いの脳から盗み取った、金属のいばらを蛇のごとく操る術式がうなりを上げた。

 

 アマルガムの背に白銀の魔方陣が花開く。巨木のように頑健な鉄大蛇の群れが飛び出していく。

 まるで自我を持つような縦横無尽の無軌道。アマルガム自身ですら予測不能な金属のヒュドラは、主が定めた獲物を喰い破らんと恐るべき速さで這い寄った。

 

 だがかわされる。すり抜けられる。

 電光石火の敏捷性と圧倒的な身体能力で、掠れば丸ごと人をミンチに加工する殺意の波を、あの男は乗り越えてくる。

 

 ──肉薄。

 

 アマルガムは拳を弓引く怨敵を目前に、両の手へ白銀に輝く直剣を二振り召喚した。

 (はさみ)のごとく胴を分断せんと振り抜く。

 当たらない。刃を視認した瞬間、ヴィクターはあろうことか指の力だけで両刀とも白刃取って食い止めた。

 

 想定の範囲内だ。思考を読むまでもない。

 計画通りだ。この上なく順調過ぎるほどに。

 

 彼の両手は塞がった。彼の武器である王の腕が。

 だがアマルガムには()()()()も残っている。

 

「かかったな」

 

 何かが(くう)を縫った。鋭く細長い、無数の人骨を繋ぎ合わせたクモの足のようなナニカだ。

 それはアマルガムの背からずるりと糸を引きながら生え伸びると、人の骨肉などまとめて抉り砕かん凶悪な切っ先で脇腹めがけて喰らいつかせた。

 

「考えを読まれようが関係ない! ()()()()()()()()()()()に誘導するだけのこと! 君の行動を制限するくらい赤子の手をひねるより────」

 

 ──否。当たっていない。

 

 ヴィクターは銀剣を掴んだまま地を蹴り飛ばしていた。あろうことか逆立ちの要領で身を跳ね上げ、豹のような身体能力で、不可避の一閃から紙一重をくぐって逃れたのだ。

 ぬめりを帯びた凶器が虚しく空ぶる。

 入れ替わって、遠心力を存分に引き連れたかかと落としがアマルガムの脳天に墜落した。

 

「か、ふっ」

 

 ばぢんっ。視界が弾けた。真っ赤に染まった。

 割れる。頭が割れる。いや、ひょっとすると脳が零れたのではないか。

 錯覚せざるを得ない、鈍痛などという表現では生ぬるい、頭蓋を真っ二つに砕き割られたかの如き激痛に魂を喰い破られそうになった。

 

 ぐらりと平衡感覚の諦念が聞こえる。意識の糸がギチギチと悲鳴を上げている。

 それすら許さないと断ずるように、豪速をともなう鉄拳が間髪入れず襲いかかる──! 

 

「だぁぁあああらァァあああ──────―ッッッッ!!!!」

 

 神速のラッシュがアマルガムを蹂躙した。

 津波だった。拳の津波だ。苦痛を感じる暇も無い。一撃一撃がまるで砲弾の如き鉄拳が狂瀾怒濤と襲いかかり、アマルガムは嵐にさらわれた子供のように軽々と吹っ飛ばされた。

 

 

 ──ザザザ──ザ──ザザ──

 

 

「かかったなと、言っただろうが……!」

 

 もはや原型を留めぬ顔貌に加工され、血飛沫の軌跡を残しながら(くう)を舞うアマルガムは。

 しかしなおも筋書き通りであると、崩れかけの笑みに嘲弄を深く刻みこんだ。

 

「たかが心を覗けるだけで僕を出し抜けるとでも思ったのか!? この人心掌握の王を! 刻印の弱点くらい知っていたよ、()()()()()()()()()()()()!」

 

 

 ああそうだ。心などすべて偽りだ。

 

 ヴィクターを仕留めるために企てた作戦も、濃厚な殺意さえ捏造された虚像に過ぎない。

 自らの精神に細工を加え、さながら潮の流れを無理やり捻じ曲げるように偽の独白(モノローグ)を読み取らせた。

 

 常人ならば自我を保つことすら曖昧になる力技だ。精神の改竄など発狂を招いても不思議ではない。

 だがアマルガムにとって、自らの意識を焼いた鉄を打つように捻じ曲げるなど造作もない。

 

「君の命なんてどうでもいい! 他の有象無象など知ったことじゃない! だが君は僕から希望を奪い去った。なら(ぼく)は、それを上回る絶望を与えてやるのさ!」

 

 アマルガムが吹っ飛んでいく先には、ぽっかりと大口を開けた空間のひずみがあった。

 崩壊しゆく精神世界の亀裂に紛れて現れたそれは、現実の肉体へと魂を送り返すための出口で。

 

「礼を言うぞヴィクター! 君のお陰で労せずしてこの場所まで辿り着けた! 君が僕を導いたんだ、大殺戮の饗宴へなぁっ!!」

 

 

 ──世界が反転する。

 渦潮のような亜空に吞まれ、アマルガムは凱歌の如き高笑いを引き連れて現実へと帰還を果たしていく。

 

 

 瞼を開けて初めて訪れた感覚は、夜露の香水独特の青くささだった。

 体中が痛い。節々が老朽化した木造家屋のようにきしむ。精神世界で受けたダメージの一部が反映されているせいだ。

 

「この体はもういらない」

 

 息を吸うだけで胸に電気が走る体を無理やり引き上げるように起こし、スーツの内ポケットに手を突っ込む。

 取り出したのは結晶のようなナニカだった。夜中であっても闇を吞むような暗い色をしている。

 そっと耳元に近づけると、結晶の中から歯ぎしりとも呻き声ともつかない歪な音色がこぼれていた。

 

 魔物の芽だ。禍憑きを引き起こす災厄の種だ。

 肉を食み、血を啜り、この世ならざる魍魎へと命を作り変える冒涜の堕とし仔を封じたカプセルへ、アマルガムはまるで我が子のように慈しみを籠めて指を這わせる。

 

「特等席で見ているがいい。あの夜景が悪夢の海に沈むサマを」

 

 結晶を握り砕いた瞬間、爆ぜた臓物のように腐臭をまとう赤黒い粘液が飛び散った。

 それはまるで巣を見つけた鳥のように、アマルガムの体の中へ瞬く間に潜り込んで。

 

 刹那、花が咲いた。

 

 アマルガムの背を内側から破るように産声を上げたソレは、さながら肉と骨で出来た醜悪なラフレシアだ。

 獣の金切り声とも赤子の悲鳴ともつかない耳を腐らせる汚濁を撒き散らす化生は、アマルガムの肉体を急速に侵食し、禁忌の邪悪へと作り変え始めていく。

 

 ブーゴたちに植えた、ほんの欠片程度の芽とはわけが違う。

 羽化に人肉を喰らうような『触媒』は必要ない。刻印の能力をフル稼働させ、魂への侵食をシャットアウト。

 己が肉体を魔へ差し出さんとするように変異を受け入れた。

 

 ──『心淵の刻印』は精神を操る能力。己の魂さえ無事であれば、肉体などひとつにこだわる必要はない。

 (スペア)なんていくらでもいる。このまま町に降りて、健康そうな人間を乗っ取って、あとは身を隠すだけ。

 

 突如出現した魔物相手に、平和ボケした愚物どもが対処など出来るはずがない。

 訳も分からぬまま貪り食われる腑抜けきった民草を背に、新たな救世主を探す旅に出よう。

 

「ハハハハハハハハハハ!! 大ッ殺戮だ!! 男も女も子供も老人も! 全員不浄の供物としてくれる!!」

 

 

 ──パキン。

 

 

 不意に頭の中を跳ねたのは、熱湯を注がれた氷が亀裂を走らせたような異音。

 次いで。右腕の感覚が消失した。

 

「え」

 

 ()()()()()()()()()()

 

 太陽が寝静まった真夜中であっても朧に輪郭を映す、闇を吞むような漆黒の剣。

 魔物の変異とはまるで異なるナニカが、アマルガムの右腕から地を裂いて生え伸びる樹木のように現れたのだ。

 

「な、ん」

 

 腕はある。なのに剣が生えた箇所の感覚がない。

 水分を全て奪われたミイラのように萎んで、今にもぽとりと落屑しそうだ。

 

「なんだ、これは!? か、からだが動かない!? なにがっ……!?」

 

 パキン。またも異音が体に響く。

 体を裂いて剣が飛び出す。パキン、パキンと唄を奏でて、胸、足、背、腹、顔、大小様々な黒剣がアマルガムを覆い始めていく。

 

「っ、ば、バカな、この力はっ、この魔力はぁっ!?」

 

 悲鳴が夜を搔き混ぜた。アマルガムではない。生まれようとしている魔物の断末魔だ。

 骨肉を苗床にすくすくと育ちつつあった禍憑きが、毒を盛られた赤子のように苦しみ始めていた。

 

「まさかっ」

 

 アマルガムを冒していたはずの魔が、あっという間に消滅した。

 さながら免疫に追いやられた病魔のように。灰に変わって夜風にさらわれ無へと還った。

 

「……知っていたよ。俺の命を直接狙って来ないことくらい。お前みてえな救いようのない馬鹿が最後に選ぶのは、徹底した嫌がらせだってことくらいな」

 

 ──夜明けの(とき)

 山々の背から黎明の篝火が世界を照らした。

 焼かれるようなオレンジを背に立ち上がる影が、アマルガムを逃がすまいと包み込んだ。

 

「心なんざ読むまでもねーんだよ、下衆野郎の考えることくらいよォーッ!」

「ヴィクター……! 仕込んだな!? あの連撃(ラッシュ)の最中に、僕に王の加護を与えたんだな!? 指輪の力を使って禍憑きを封じるための加護を!」

「気になるんなら俺の頭を覗くといい。得意なんだろ」

「ッッ……!!」

 

 口の奥から鉄の味がする。

 食いしばり過ぎた奥歯がギリギリと呻いていた。

 

 謎だ。不可解だ。意味が分からない。

 だってヴィクターの思考は常に読んでいた。アマルガムが仕組んだ()()()()にまんまと踊らされて、脱出の手助けをしていたのだ。

 

(企めるはずがない! もし僕に指輪の力を差し向けようと考えたならすぐに分かる! どうやって能力の網をくぐり抜けて──)

「俺ァもともと考えて動くタチじゃあねーんだよ。だから作戦を立てるンだ。本番であーだこーだ考えなくて良いように」

 

 体が動かない。

 影を地に縫われたみたいに、指ひとつ動かせない。能力さえもまともに発動できずにいる。

 許されているのは口と目だけだ。魔力の流れがぐちゃぐちゃで、指先に火の玉ひとつ出せるかどうかも怪しい。

 ゆっくりと歩み寄るヴィクターを、ただ瞳に映し続けることしか出来ない。

 

「お前は人の嫌がる真似をする天才だ。俺への憎悪がダモレークに向かうだろうってのは簡単に予測できたさ。だったらどさくさに紛れて精神世界を脱出しようとするはずだ。必ず俺を利用してな。人心掌握に長けた悪党が選ぶのは、敵のプライドを最も踏みにじる方法だ」

「っっ……!!」

「お前には逆立ちしたって心理戦で勝てやしないよ。()()()()()()()、騙されていい! てめーから『冠接ぎの器』さえ奪えればそれでいい! あとは流れに身を任せるだけだ、余計なことは考えねぇ! それでお前を出し抜けるんだからな!」

 

 

 敗因という名のブサイクな顔料を、体中に塗りたくられたような気分だった。

 

 信じられるか。この男は、思考を捨てたのだ。

 考えを読む怪物に対抗するため、まるで命令を書き込まれたゴーレムのように、あらかじめ叩き込んだ作戦という命令に機械的に従う()()()()で、不要な情報を頭から切り離して戦っていた。

 

 ふざけるな。そんなの机上の空論だ。

 人は考える。ゆえに人は在る。それはどんな状況だろうと変わらない。

 例え極限の状況であったとしても、人間の脳髄はその場を生きるために必ず思念をこねる。

 だからこそ、アマルガムは数多の達人や魔法使いの命を奪ってこれたのだから。

 

 紙一重の判断が生死をわけるあの状況で。余分を捨てて思考を絞るなんて真似が本当にできるのか。

 アマルガムの作戦(あたま)を読んで、それに対策を示していた時でさえ、()()()()()()最初から予期していたから雑念を払えたとでも? 

 

「~~~~ッッ!!」

 

 

 敗因は()()()()()だ。

 王の腕の力でも、王の指輪でもない。どれほど強大な力があったとて、持ち主が活かせなければ何の意味もないのだから。

 

 山のような岩をも砕く怪力も、万を超える書を頭蓋に収めた魔法使いの御業も、心を持つというただ一点だけでアマルガムの前に散った。誰もこの(ばけもの)を止められなかった。

 

 それを克服したこの男には、力を磨くだけの老いた能無しどもとは異なる決定的な違いがある。

 平和ボケした今の世界からは消えてしまった、かつて白薔薇の聖女と共に世界を救うべく戦った英雄たちと同じ、純粋無垢な戦士としての素養が──

 

「違えよ。お前は自分が勝てる相手としか喧嘩しなかっただけだ。救世主だなんだと(うそぶ)きながら、結局いたぶる人間を選んでいた。正真正銘、ただの卑怯モンでしかない」

 

 精神世界を脱した今、もうアマルガムの頭は覗けないはずなのに。

 思考を両断する否定の言葉は、巌のように力強く。

 

(嗚呼、君は、そうか、やはり僕の解釈は正しかった! 君はっ、君の魂はまさしくっ……!)

 

 拳が迫る。

 流星の如く尾を引いて、裁きの鉄槌が振り下ろされる。

 

「勇者────」

 

 直前だった。

 握り固められた拳がアマルガムを屠る寸前。豪速を引き連れた一閃が、ぴたりと動きを止めたのだ。

 拳圧で生じた風が、前髪をふわりとすくい上げた。

 

「……お前に奪われた人生は片手じゃ効かねえ」

 

 抜き身の刀のような眼光が、アマルガムを撫で切るように一瞥する。

 

「お前が流した禍憑きのせいでコロポックルたちは仲間と故郷を失った。ブーゴたちは命の危険にさらされた。何より先生は、てめえのくだらないママゴトに人生を丸ごとぶっ壊された」

「そうだ、全ては(ぼく)が招いたことだ。なぜ迷う? さっさとトドメを刺せよヴィクター! 今の君になら、この僕を裁く資格がある!」

「だがそいつは()()()()()()()()()()だろう? お前の思い通りになるのは心底気に入らない」

「──まて。ヴィクター、やめろ、考え直せ! それだけは口にするんじゃあないッ!!」

「お前に慈悲の気持ちなんざ欠片もねえし、このままタコ殴りにしたってちっとも心は痛まねえよ。だが、それじゃダメだ。お前は騎士団に引き渡す。……法と秩序の裁きを受けろ、アマルガム」

 

 ──嗚呼、もう。本当に。

 君は一体、どこまで失望させれば気が済むのか。

 

「うんざりだ……うんざりだぞヴィクター! 君にはほとほと愛想が尽きた! 後ろを見ろマヌケがァあああああ────ッッ!!」

 

 刻印の宿る(みどり)の瞳が爛々と輝く。

 王の指輪に魔力を阻害された中、針の穴に糸を通すように緻密な魔力操作で掴んだ最後の能力発動。

 矛先には、未だ横たわるイシェル・マッコールの肉体があった。

 

「医者の肉体を乗っ取った! 指一本でも動かせばこいつの心臓を破裂させる! 『転血』なら一秒も要らない! べらべらと能書き垂れる暇があれば僕を始末しておけば良かったものをなぁッ!!」

 

 指輪はアマルガムから大きく力を奪い去った。だが人間一人を操る程度ならば造作もない。

 イシェルから奪った知識をもとに血中へ極小の魔方陣──『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』を発現させていく。

 さながら爆薬の信管のように、ほんの一息で命を奪う準備を整える。

 

「選択だ。僕にかけた指輪の加護を解除しろ。そうすれば医者は重症で済ましてやる。僕を追えば確実に手遅れで死ぬ! ここはお互い痛み分けと行こうじゃないか!」

「────」

「馬鹿だよヴィクター、本当に君は大馬鹿だ! 僕を殺せる最後のチャンスだったのに……! 恨むなら下らない反骨精神でチャンスをふいにした己の浅はかさを恨むがいい!」

「指輪の加護……? 何言ってんだ、加護なんか授けちゃいねえよ。俺はただ返しただけだぜ。そもそも指輪の使い方なんざ知るか」

 

 音が死んだ。

 そう錯覚するほどの耳が痛むような静寂は、アマルガムの意識が、ヴィクターの声を除くすべてを雑音(ノイズ)として排除したががゆえだったのか。

 

「魂を修復できたのは、お前の頭を読んで能力の核だと知ってたからだ。だから俺の腕で干渉して力の向きを変えられた。ハンドルを捻るようなもんだ、簡単だったよ。だが別に指輪の力を理解していたわけじゃない」

「な、に?」

「知ってることはひとつ。()()()が人体にとっちゃ猛毒だってことだけだ」

 

 ──心臓をねじられたような音がした。

 

「指輪は『純黒の王』の遺産だ。お前がどう解釈してるかは知らねえが、かつて魔王を討った魔滅の騎士王の魔力が秘められている。だから初めは禍憑きだけを優先的に祓った。だが」

「……っぁ、が、がぶっ!? ばはっ!?」

「純粋な黒魔力は不死者でもなけりゃ耐えられる代物じゃない。そろそろ効いてくる頃合いだろうな」

「ぎぁっ、が、がああああああああああッッ!!?」

 

 肉が裂ける。骨が捲れる。

 内側から若木をへし折るような耳を塞ぎたくなるほどの異音が響いた。

 魔力が搔き混ぜられる。心臓を木べらで捏ねられているみたいに。

 

「しゃ、べっていたのはっ、時間稼ぎか……!? ゆゆ、指輪の魔力が僕に流れ込むまでの!? き、騎士団に、引き渡すって、言ったくせに……この大噓つきがぁあッッ……!?」

「一緒にするな、命までは取らねえよ。だが刻印の力を残しておけば、お前は確実にまた暴れる。それだけは阻止しなくちゃならねえ」

 

 刻印の左目が熟れたトマトのように破れる感触がした。

 王の魔力は宿主の魔力を優先的に侵食して破壊する。天然の術式回路である刻印は言うなれば格好の餌だ。実験に使った刻印使いの末路が鮮明に脳裏を過ぎ去った。

 

 

 終わる。

 (ぼく)が、終わる。

 よりにもよって、白薔薇の聖女に倒された叛逆の愚王(あく)の力で。

 この生まれ持った腐敗の魂が救われることもなく、永遠に。

 

「ヴィクタァあああああ────ッッッッ!!!!」

 

 認められない。断じて。

 救われるまでは。救世主に裁かれるその日までは。白薔薇の聖女の下に集った正義の焔に焼かれるまでは。

 

 残された全魔力を開放。これまで奪い続けてきた数多の叡智を総動させ、強制的な魔力の逆流循環を引き起こす。

 血に混ぜられた毒を血液ごと瀉血するかのような荒業だが、効果はあった。黒魔力を強引に排出。指輪の結合を引き剝がし、治癒魔法の重複で造血を無理やり補うことに成功した。

 

 牙を剝く。

 自ら棄てた血を触媒に、命を薪に、王の力を傀儡へ変える。

 

 両の手のひらに極限圧縮した闇魔法の大渦を召喚。万物を喰らい呑み込む破滅のつぶてが産み落とされた。

 例えるならばそれは、極小のブラックホールのようなものか。

 

「正義がなくてはならんのだ! 僕など虫けらに等しい、大いなる邪悪の時代がやって来る! 今の世の軟弱な魂では抗えない! 必要なんだよ、世界を救う英雄が! 魔を祓い輝く勇気の証明がッ!! 救世主を見つけるまで、僕は、僕はぁっ!!」

 

 ザリザリと自らの手を吞み込ませながら、アマルガムはヴィクターもろとも山一帯を消し飛ばさんと振りかぶる。

 

「てめえに裁定される筋合いなんざ、誰にもありはしねェんだよ」

 

 しかし、突き刺さる。

 闇が解き放たれるよりも(はや)く、雷の拳が暗黒の渦を砕き割る。

 

 刹那。空を裂き、龍が哭いた。

 神速の一閃が邪悪の中央(みぞおち)に喰らいついた。

 深く、強く、一縷の望みすら断たんばかりの暴威をもって。

 

「贖え、アマルガム。てめえが奪った人生をその心に刻みながら、永久に」

 

 

 

 ──強引な黒魔力の流用が招いた副作用か、それともヴィクターの拳が何かを仕込んだのか、もはやアマルガムには分からないけれど。

 刻印の完全消滅と共に、アマルガムの世界から一切の光が消えた。

 

 

 生きているのか死んでいるのかも曖昧な、真っ暗になった世界の底で。

 瞼の裏に焼きつくように、朧と浮かび上がったそれは。

 辱め、喰らい、踏み潰してきた死者たちの、張り付いたような笑顔の群れ。

 

 

 

 

 ◆

 

「……ヴィクター君」

「! 先生、目が覚めたんスね」

「……アマルガムは?」

 

 問いかけに、少年はゆっくりと首を振った。

 

「奴はもう、何も出来ませんよ」

 

 鉛のように重い悪夢から解き放たれて最初に目にしたのは、壊れた魔導駆機(ゴーレム)のように茫然自失となってへたり込むアマルガムと、それを前に佇む少年の背中だった。

 

 決着はついたのだと直感が告げる。

 憎むべき(かたき)の容態を見て、もはや手の施しようがないと理性が断ずる。

 

「ぼくは、ぼく、ぼくぁ、悪、あ、救われない、世界が、魔の手に、ぼく、ぼくの魂は、救われっ」

 

 知っているはずの男がいた。

 髪は抜け落ち、蒼褪めるを通り越して真っ白で、何十年も風雨に晒されたかの如く老けて、瞳は掴みどころもなく虚空に焦点を探している。

 重度薬物中毒の末期患者のような風貌には、邪悪の限りを尽くした若人の面影は見当たらない。

 

「……」

「先生」

「わかってる」

 

 不思議と殺意は湧いてこなかった。

 あれほど憎んだはずなのに。今でもあの時を思い返すと、八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られるはずなのに。

 手元に『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』を呼び寄せて、喉元に刃を突き付けても、滑らせようとは思えなかった。

 

 遠くから殷々(いんいん)と声が聞こえる。

 既に『朧々たる城塞(カストラム・オカルトゥス)』は消えていた。

 騒ぎを聞きつけた近隣住民が通報したのだろう。あの声は、きっと慌てた騎士団のものだ。

 

 朝焼けに、吐息。

 

「……やっと、終わるんだな」

「……ええ」

「……そうか」

 

 

 

 ──悪夢の終わりとは、なんて沁みるような茜色だ。

 



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53「今までも、これからも、ずっと」

「怪我の具合はいかがですか?」

「絶好調さ。痛みも引いてほらこのとおり痛ててて、あいや、これはただの四十肩で、本当に怪我は大丈夫なんだ。君のお陰だよ、セレナ君」

「まったく。まさか先生を患者として迎える日が来るとは思いませんでしたよ。一体何があったんです?」

「いやぁ……恥ずかしながら酔ってトラブルに」

「何をやってるんですか、いい歳してみっともない。ボロ雑巾みたいな先生が搬送されてきた時の私の気持ちが分かります? 二度としないでくださいね」

「返す言葉もないよ……」

 

 濁すように苦笑を浮かべ、イシェルは気まずさを誤魔化すべく頬を搔いた。

 

 言えるわけがない。まさか自分が医者の皮を被った人殺しで、それを止めに来た少年と小競り合いになっただなんて。

 ましてやもう一人の殺人鬼まで現れていざこざに巻き込まれたなど、どう説明ができようか。

 

 しかし、セレナは確かな腕と目を持つ医者だ。傷の数々がどんな理由で負ったものか、おおよその予測はついているに違いない。

 口ごもるイシェルに追い打ちをかけようとしないのは、事情を察してのことなのだろう。

 

「この具合だと明日には退院できそうかな?」

「そうですね、問題ないかと。必要でしたら手続きしておきましょうか?」

「助かるよ。……ところで、話は変わるんだけどさ」

「?」

「実は、その」

 

 一拍。しどろもどろと、声が澱んで。

 

「辞めようと思ってるんだよね。今の仕事」

「…………え」

 

 セレナの大きな瞳が、さらに大きくなった気がした。

 いつも冷静な彼女が初めて見せる表情だった。あまりの瞠目ぶりにいたたまれないような、申し訳ないような、なんとも言いがたい居心地の悪さが芽生えてくる。

 

「……そう、ですか。寂しいですね」

「追求しないんだね」

「ご自身が決められたことですから。私に口を挟む権利などありません」

「ははは、流石だ。相変わらず若いのにしっかりしてるよ」

「知ってますもの。先生が間違った決断をしないことくらい」

 

 心臓を小突かれたような感覚。

 間違った決断をしない──なんて。今の自分が被るには、なんと重い言葉だろうか。

 

「……君、前々から私のことを買い被りすぎじゃない? そんな大した人間じゃないよ。間違えるさ、嫌気がさすくらいだ」

「そういう意味ではありませんよ。ただあの日、自分の力を絶対と疑わなかった小娘の、取り返しのつかない過ちを正してくださったのは他でもない先生でした。一歩間違えれば患者さんの命を奪っていた。許されないことです」

 

 言葉の背景に映るのは、過剰魔力心融症(心臓が溶ける病)を患った鬼人(オーガ)の女性のカルテだろうか。

 

 当時、セレナは今ほど柔らかな人物ではなかった。

 名門首席にして代々医者の血統。その類稀な才能と知識、そして膨大な努力に裏打ちされた実力は、能力と相応の完璧主義に塗り固められた孤高の天才であった。

 

 それはもう優秀だった。医者の原石にして金剛と太鼓判を押せたほどだ。

 当時研修生であったにも関わらず、あまりの才覚にベテラン同等の扱いを認められ、戦場のような医療の最前線で獅子奮迅の働きを見せていたと言えば、この若き彗星の凄まじさを一端くらいは理解できるというものだろう。

 

 しかしゆえにこそ、イシェルにしてみても、あのミスは仕方のないことだったと断じられる。

 

「経験則ばかりはどうしようもないさ。あの患者が神経遮断術式に潜性型悪性高熱を起こすなんて予測できるわけがない。稀有な特異体質だし、診断も難しい。無理もないよ」

「もう、先生は前々から謙遜が過ぎます。これだけじゃないんですからね」

 

 口先を尖らせてむくれるセレナ。

 どう返したらいいのか分からなくて、乾いた笑みだけが頬を(かたど)る。

 

 するとどういう訳か、セレナの目の色がくるりと変わった。

 怪訝の色だ。まるで核心を目前にした探偵のように、鋭い色を帯びていた。

 

「…………先生、何か無理をしていませんか?」

「うん? そんなことないよ。どうして?」

「なんとなくいつもより……いえ、最近ずっと疲れている気がして。今日は特に辛そうで」

「そりゃあ怪我人だからねぇ。もう若くないし、体力がないんだよ」

「……ご家族のことと、何か関係があるんですか?」

 

 ずきり。

 相変わらず勘のいい子だなと、イシェルは跳ねた心臓を悟られないよう無難な笑みを貼り付けていく。

 

 しかし逆効果だったかもしれない。さらに目つきが鋭くなった。

 耐えられなくて、思わず窓の外へと顔を向ける。

 

「ごめんなさい、踏み込み過ぎました」

「いいんだ。それより仕事なんだけど、私の引き継ぎを君に頼みたいんだが。良いかな?」

「え。私ですか?」

「君しかいないよ。直属で一番能力があるのは間違いなく君だ、セレナ君。大変かもしれないけど、お願いしたいんだ。頼まれてくれるかい?」

「──ええ、もちろん、もちろんです。決して期待は裏切りません」

「あー重い重い。もうちょっと肩の力を抜くことを覚えようね。いつか潰れちゃうよ?」

「大丈夫です。重力魔法は得意ですから」

「そうじゃなくてねぇ……」

「冗談です」

 

 くすくすと、セレナはカルテで口元を隠しながら微笑んだ。

 初めて冗談を言っているところを見た気がする。成長したなぁと感慨深くなってしみじみ。

 

 エースとはいえ、彼女はまだ若い。正直この判断は早急に過ぎるのではないかと思っていたけれど、不思議と不安な気持ちは湧かなかった。

 きっとこれから多くの人々を癒し、治して、救っていく立派な医者になる。まるで未来が視えるかのような確信があった。

 

 この身はもう、誰かを救うことは出来ないけれど。資格はとうに失くしたけれど。

 彼女たち若人が担う時代は、今よりきっと明るくて素敵だ。それが分かるだけで十分だった。

 

「後は任せたよ、セレナ君」

「任せてください、イシェル先生。…………今まで、お世話になりました」

 

 深く、深く、彼女は粛々と頭を下げた。

 幽かに潤む瞳を悟られまいとするかのような一礼。足早に踵を返したセレナは、病室を後にする最後まで、イシェルに表情を見せることはなかった。

 

「……まだ引き継ぎのために数日は出勤するんだけどなぁ」

 

 なんだか今生の別れみたいになってしまった。あとで顔を合わせる時の気まずさを前借りして、イシェルは小さく頬を搔く。

 

 けれど、ある意味ではこれが最後の会合になるかもしれない。

 イシェルは罪を犯した。人を救うべき立場にありながら、三人の命を奪ってしまった。

 

 悪業には、相応しき報いというものがある。

 

 

 ◆

 

 

「無罪放免…………って」

「言葉通りの意味ですとも、マッコールさん。騎士団(われわれ)はあなたを拘束しないし、罰しない。司法議会はそう判断を下しました。もう帰宅してくださって結構ですよ」

「ちょ、ちょっと待ってください! それではあまりにっ!」

 

 椅子を蹴とばすように立ちあがって、イシェルは書類を淡々とめくる壮年の騎士団員に息を荒げた。

 

 

 ──退院を経たイシェルが真っ先に向かったのは、騎士団の詰所だった。

 自らの罪を贖うためだ。証拠を揃え、一連の事件と己の業に終止符を打つべく足を運んだ。

 

 拘留されること数日。帰ってきたのは無罪という漂白剤のような二文字だけ。

 どころか保護観察処分など、理解の範疇を超えた展開に脳のしわが引き伸ばされるように混乱した。

 

「納得がいきません! 私は、私は間違いなく三人もの命を奪ったんです! 証拠だって十分に──」

「入院中、()()を行ったでしょう? 貴方には強力な精神操作が施されていた。精神に干渉する魔法はすべて禁術指定に定められています。理由はご存知ですよね?」

「っ……しかし……!」

 

 彼の言う通りではある。精神干渉系の魔法は全て、非常に厳格な条件下でなければ使用を禁じられている魔法──禁術指定にあたるのだ。

 

 本来ならば抱かないはずの強烈な欲求や感情を引き起こし、外部から意図的に思考を捻じ曲げることを可能とするそれらは、悪用すればいとも容易く争いを誘発させうる危険極まりない魔法だ。

 

 その昔、強力な精神魔法の使い手だったある王族が、兵士を恐怖も罪悪感も感じない無敵の軍団に仕立て上げ、戦争を頻発し多くの血を流させたという忌まわしい歴史も存在する。

 

 事実、イシェルはアマルガムの能力によって重度の精神汚染を受けていた。

 家族を奪われた惨劇をトリガーに、悪に対する異常なまでの復讐心と憎悪に囚われ、悪人を殺害することで世を正すという妄執に憑りつかれてしまった。それが事の発端なのだ。

 

 禁術指定の被害にあった人間はまず査定が施される。術者と協力関係にないか。故意的ではないか。普段の素行は──事実関係を洗い流され、有害性の有無を徹底的に調査される。

 

 しかし当然ながら、イシェルはアマルガムと共謀関係にあるわけもなく。ましてや、反社会的活動に従事していたわけでもない。

 となれば、騎士団が剣を抜かないのは確かに筋が通っている。

 

「貴方に必要なのは我々ではなく病院だ。精神操作の被害者は心療福祉(メディカルケアサービス)の対象になる。まずは心の傷を癒すべく、治療に専念することをお勧めしますよ。貴方の場合は通院義務が発生しますので、しかるべき施設で診察を受けてください」

「バカなっ……! 医者の身にありながら多くの命を奪ってしまったんだ、報いを受けるのが当然だろう! なのにお咎めなしで帳消しだなんて……!!」

「それが精神操作の恐ろしいところなのですよ。被害者は操られている間の記憶を失うわけじゃない。望まぬ形で汚された手に、良心の呵責で延々と苦しむことになる。ゆえに、この世で最も残酷な魔法なんだ」

 

 男は机の下から一枚の紙を引き出してきた。

 紹介状と書かれてある。騎士団と提携している心療科への案内だ。

 

「マッコールさん。いや、()()。貴方に救われた人々はこの街にゃ大勢いる。かくいう私の父もその一人でね」

「……っ」

「誰もが認める偉大な医者だ。手を汚させられた心の傷は計り知れない。ご家族のこともある。想像を絶する苦痛だろう。だからこそ、まずは治療が必要なんだ。今の貴方は医者じゃない。ましてや囚人でもない。患者なんだよ」

「私が……患者?」

「そう。病を治すべき患者だ。今はゆっくり時間をかけて、休むことが仕事なんだ。体の傷はすぐに治るが、心はそうはいかないんだから」

 

 違う、私は人殺しだ──反論しようとして、けれど放つべき言葉が堰き止められた水みたいに出て来なくて。

 詰まった声を吐きだそうとすればするほど、唇は赤子のごとく震えるのみ。

 イシェルは行き場を失った胸の内を圧縮するように、机の上に両手を重ねて握り固めた。

 

「それにしても、件のアマルガムと名乗る男……ヴィゴス商会の跡取りだというが、魔力因子も遺伝子も一致しなかったそうだ。どころか戸籍も名前もまるでデタラメ。出自不明の連続殺人鬼(シリアルキラー)ときた。大方、何百何千もの魂と繋がり続けた影響で自我の境界線を失ったんだろう。この世の話とは思えないね」

「……」

「だからさ、そんな奴に負けちゃダメだぜ、マッコールさん。貴方の力を必要としている人間は数え切れないほどいる。貴方は明日を夢見る人々にとっての希望なんだ。辛いだろうが、どうか頑張ってほしい。私に言えることはそれだけだ」

「…………もったいない言葉だよ。本当に」

 

 鉛のような吐息。

 

(重すぎる。重すぎる言葉だ。今の私には、もう)

 

 誰かの人生を治す資格なんて、どこにもありはしないというのに。

 

 

 

 ◆

 

 

「……ただいま」

 

 ノブを捻るだけで軋むドアが、今ばかりはおかえりと返してくれているかのようだった。

 

 古い借家だ。ほとんどダイニングひとつの間取りで、風呂と御手洗が一緒になっているうえに、キッチンは反自炊派がふざけて設計したのかと疑うほど狭い。

 

 私物と呼べるものも、ベッドひとつに仕事用の服が何着か。信じられないほど小さな自動氷室(れいぞうこ)の中身は空っぽだ。

 

「帰ってくるのも久しぶりだな。当然か」

 

 なにせ、元の家は死臭がこびりついて住めなくなった。ひとまず借りただけの家だ。

 ほとんど宿直室で暮らしていた身からすれば、ごくたまに眠りに帰ってくる程度の使い道で、住人と名乗ることすら憚られる我が家と言えよう。

 

 中もご覧の有様だ。うっすら埃の層が床を覆っている。足跡がつかないだけマシな方か。

 

「ふぅ」

 

 カバンをベッドへ放り、どっかりと腰を下ろす。

 このまま横になりたくなるが、眠ると起きられなくなりそうだった。

 

「…………」

 

 これからどうしようか。

 仕事は辞めた。出戻りをする気もない。

 かといって、別の病院で働く気力もない。

 血に染まった手で人の命を扱おうなど、傲慢不遜も甚だしい。

 

「これからどうしようか」

 

 牢獄で罪を償うつもりだったのに、まさか贖罪の機会すら奪われるとは。

 あの殺人鬼は大した奴だと、鼻で笑ってやりたくなる。

 

 

 ──コンコンコン。

 

 

「?」

 

 規則正しく、三度。玄関を叩く音がした。

 気のせいじゃない。また鳴った。安い家だから隣の音が響いたのかと思ったが、間違いなくイシェルの家を訪ねてきている。

 

 この家を知る者は少ない。

 仕事の同僚も前の家しか知らないはずだ。宅配だって頼んだ覚えはない。

 

 ぴりりとした警戒心が喉を鳴らし、唾を押し流した。

 先のこともある。アマルガムが裏社会に浸かった怪物である以上、仲間が報復のために訪れてきた可能性だって考えられるか。

 

(いや、奇襲ならわざわざノックなんかしないよな。誰だ?)

 

 手のひらに『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』の魔方陣を忍ばせ、背に隠し、ゆっくりと玄関に近付いていく。

 

「はい。マッコールですが」

『先生、俺です! ヴィクターっス!』

「……ヴィクター君?」

 

 ドアを開けると、見知った少年が爽やかな笑みを浮かべて立っていた。

 彼だけではない。覗き窓からは見えなかったが、知らない少女が同伴している。

 

 背のあるヴィクターと比較するせいか小柄に見えるが、およそ十代後半だろう。

 古い魔女を彷彿させるゆったりしたローブと貴族風紳士服(スーツ)を組み合わせた珍しい格好をしているが、間違いなく女の子だった。

 

 水色の髪を一束に纏めてポニーテールにしてある。ところどころ満月色のインナーカラーが入っているが、最近の子の流行りだろうか。

 瑠璃珠のような瞳は竜人を思わせる縦長の瞳孔で、何故か片眼鏡(モノクル)をかけていた。

 魔女っぽいとんがり帽を被っているし、なんだか風変わりな貴族、あるいは古い時代の魔女のコスプレみたいだ。

 

「紹介します。彼女は──」

「やぁやぁ初めまして。ボクは()()。彼の保護者みたいなものだ。君の話は聞いてるよ、なんでも腕利きのお医者さんだとか。会えて嬉しいよ」

「はぁ。これはどうもご丁寧に」

 

 手を奪われるように握られ、ブンブン元気に握手を交わさせられる。

 珍妙奇天烈な雰囲気に吞まれていると、一転、オズと名乗った少女は恐る恐るといった具合にイシェルを覗き込んで、

 

「ところで、会ったばかりでなんだけどさ……ボクの髪、金髪かな?」

「え。いや、水色に見えますが」

「んなぁーっ! もう! もうもう! いつになったら憧れのプラチナブロンドを手に入れられるんだよぉ!」

「だーからさっき違うって言ったじゃないスかー」

「諦められないものがあるんだ……! ボクが鏡を見るまではまだ決まったわけじゃない! うぅ……」

「な、なんだかよくわからないけど、素敵な髪だと思いますよ……?」

「ありがとう。優しいんだね」

 

 えぐえぐ涙を拭う少女。悪い子ではなさそうだが、変な子ではありそうだ。

 

 というか、待て。さっき保護者と言ったか。

 歳はヴィクターとほぼ変わらないように見えるが、なんなら幼くすら見えるのだが。長命人種だろうか? 

 少なくとも、髪色や瞳孔はイシェルの知るどの種族とも合致しない特徴だった。

 

 謎に髪色を悔しがる少女のせいで呆気にとられてしまったが、気を取り直して向き直る。

 

「一体何の用だい? というか、どうしてここが」

「調べたのさ。ボクの得意分野でね。要件はもちろん、君だよ。イシェル・マッコール君」

「えーと、単刀直入に言うと、先生を勧誘(スカウト)に来たんですよ」

「…………なに?」

 

 勧誘。確かにそう言った。まるで理解が追いつかないが。

 締まり方を忘れた口がポカンとほったらかしにされていると、補足せんばかりにオズと名乗った少女が続ける。

 

「ボクたちは独自の()()()を運営しているんだが、医療に精通する人材に欠けていてね。困った事に傷病者や体の弱い子もいるんだけど」

「? 博士、クランって()──むごぉっ」

「君はとても腕の立つ医者だそうじゃないか。ぜひとも力を貸してもらいたくてさ」

「むごごむご」

「あの……彼……」

 

 なにやら口が接着されているが、少女は完全無視である。

 大丈夫なのかと目を向けたが、存外平気らしかった。

 

「どうだろう。話だけでも聞いてもらえないかな?」

「……すまないが、遠慮しておくよ。今は仕事をする気になれない。恩のある君の申し出を断るのは、心が痛むけれど」

「罪を償う機会を奪われたからかい?」

「っ、どうしてそれを」

「観察だよ。自宅にも拘わらず仕事着のままなのは──」

「ちょちょちょ、博士ストップ! むやみに人の心を暴こうとしちゃいけません! 推理禁止!」

「怒られちゃった……癖なんだ、ごめんよぉ」

「こほん。先生、確かに俺たちはスカウトに来ました。でもただ仲間として誘いに来ただけじゃない。約束を守るために、ここに来たんです」

「約束、って」

「言ったでしょ。あなたは医者にも父親にも戻れるって。あれは誓って、その場しのぎで出た言葉なんかじゃないんだ」

 

 胸が波打つ。

 彼の声以外の音が全て排除されるほどの静寂が、たかが数歩程度の空間を支配した。

 

「これをお渡しします。どうか受け取ってください」

 

 手を取られ、握り込ませるように渡されたのは小さなハンドベルだった。

 銀色の可愛らしいベルだ。オリーブとフクロウの彫刻──賢者オーウィズの紋章が彫られている。

 

「今はまだ難しいかもしれません。でも、前に進みたいと思えるようになったら、その鈴を鳴らしてください。きっと力になるはずです」

「鳴らすとどうなる?」

「……あなたとの約束を果たします」

 

 どういう意味なのだろう。とんと理解が及ばない。

 困惑をぶつけるように受け取った鈴へと視線を落とす。

 何かしらの魔法が封じられた道具の様子だが、それ以上のことは分からなかった。

 けれどきっと、いいや、悪いものでないことは確かだろう。

 

「先生。最後にひとつだけ。あらためて、お礼を言わせてください」

「え?」

「あなたがアマルガムを足止めしてくれたおかげで、最悪の事態を免れることが出来ました。大勢の命を救ったのは俺じゃない。あの悪夢を跳ねのけて、たった一人で立ち向かった先生の覚悟と勇気です」

「────」

「あなたのお陰でみんなが救われた。やっぱり、誰かの命を守るために戦う先生はカッコイイです。一人の男として尊敬してます。本当に、ありがとうございました」

 

 言って、一礼を手向けると、ヴィクターは静かに踵を返した。

 少女もまた「ボクからも、ありがとう。君のお陰で仲間が助かった。勧誘の件、ぜひ考えてくれたまえよ」と微笑みを残し、少年を追いかけるように去っていった。

 

(……まったく。君には本当に、かなわないな)

 

 手のひらの鈴を握り締め、受け取った気持ちをしまうようポケットに入れて。

 それでもまだ殻を破ることは叶わないのだと、音もなく閉まる玄関は告げるのみで。

 

 

 ◆

 

 目を閉じて、開いたら、日を跨いでいた。

 無心に日々を過ごし続けて、気づけば5日も経っていたのだから日付を見た時は驚いたものだ。

 

 部屋は入居したてのようにピカピカになった。

 出来る限り持ち物は捨てた。残ったものといえば、家族に関わる思い出の数々。

 あとは──仕事道具くらいか。

 

「捨てられないな。こればっかりは」

 

 手放すべきだとは思う。

 それでも放すことが出来ないのは、やはり魂が沁みつくほど連れそった相棒ゆえか。

 それとも残りカスのようなプライドが、未練がましく縋るものを求めているせいか。

 

(ここまで来て私は、まだ医者でありたいと?)

 

 きっと、自分の中身が()()しか無いからだ。

 家族を亡くして、仕事も辞めた。贖罪の道も絶たれてしまった。

 

 残ったのはただ、自分が成し遂げてきたことの残滓だけ。

 これを捨ててしまった日が、正真正銘イシェル・マッコールの最後なのだろう──と。

 

「…………」

 

 ああ、そういえば。もうひとつ手放していないものがあった。

 少年からもらった鈴だ。

 

 複雑な術式回路が施された、青い光沢を持つ銀の鈴。きっと鳴らせば魔法が発動するような代物だ。

 どんな魔法が封入されているかは分からない。少しだけ調べてみたが、あまりにも難解で手がかりすら掴めなかった。

 

「前に進みたいと思えるようになったら鳴らせ……か」

 

 彼は言った。あなたは父親にも医者にも戻れるのだと。

 この鈴は、その約束を果たすためのものなのだと。

 

「ふふ」

 

 どこまでも真っ直ぐに人と向き合える子だなぁと思う。

 若者の熱さとは素晴らしいものだ。彼がいなければきっと、とっくにイシェルは凍えていただろう。

 

 命を賭けてまでイシェルの暴走を止めて、アマルガムの悪逆非道に終止符を打った。汚泥のような憎悪の呪いを断ち切ってくれた。

 自らの罪と向き合えるようになったのは、他でもない彼のおかげだ。

 

 まだやり直せるとは思っていないけれど、少しずつ少しずつ、やるべきことを見つけていこうと前向きに思えるようになってきた。

 鳴らさずとも、鈴は十分働いてくれているよ。

 

「さて」

 

 鈴をポケットに入れて立ち上がり、そのまま玄関から外に出た。

 ペガサス便で向かったのは、どこまでも草原がつづくなだらかな丘。レントロクス郊外の墓地だ。

 すなわち、家族の眠る墓である。

 

 

「や。久しぶり」

 

 悪への復讐を決意した夜から一度も墓参りが出来ていなかった。家族と顔を合わせるのが怖かったのだ。

 血みどろの父親の姿なんて、彼女たちに見せられるわけがない。

 

「すまない、来るのが遅くなってしまった。ああこんなに汚れて……忘れてたわけじゃないんだよ。君たちのことを忘れた日なんて一日たりともなかったさ。本当だ」

 

 墓標を磨き、苔や雑草を抜いていく。

 返ってくるはずのない返事を期待して、独り言が止まらず滑る。

 

「よし綺麗になった。これからはよく来るようにするからね。約束だ」

 

 墓の前へと座って、道中買ってきた花を枯れた花と入れ替える。

 

「良い花束だろう? パパのお気に入りなんだ。もちろんママも大好きな花さ。……それともうひとつ、お土産を持ってきたよ。きっとエリンも気に入ると思う」

 

 懐からオーウィズ印の銀鈴を出し、娘に見せる。

 

「友人から貰ったんだ。とてもカッコいい少年でさ。彼みたいな男の子だったら、エリンがお嫁さんに行くのも許しちゃいそうなくらい素敵な人なんだ。……ナターシャにも紹介したかったよ、本当に」

 

 娘をあやそうと思って、無意識に鈴を鳴らしていた。

 ちりん、ちりん──透き通る空のような、輝く銀盤のように美しい音色が、元気に()()()()を走り抜けていく。

 

「綺麗な音だね」

 

 きっと気に入ってくれたはずだ。あの子は綺麗な音がする玩具に目がなかった。

 家のピアノを(ナターシャ)と一緒に弾いていたのは昨日のように思い出せる。将来は天才音楽家だろうなと、親バカにも本気で想像していた。

 

 冥脈で眠る彼女たちにも、この音色は届いていることだろう。

 

「────」

 

 びゅう、と風が凪いだ。

 ふわりと擽るのは、甘くも涼しい花の香り。

 

 

「……………………………………………………え」

 

 

 ──ああ。きっと疲れているのだろうな。

 ここ最近極度のストレスに晒され続けたせいだ。脳機能になにか誤作動が起きているに違いない。

 

 だってさ。

 こんなの、どう説明すればいい。

 

 

「なん、で」

 

 

 あの夜、無惨にも命を奪われたはずの家族が。

 眠る娘を抱いて、ちょっと驚いたような顔をして、すぐに微笑みを浮かべる妻の姿が。

 

 目の前に。手の届く場所に──

 

「アマルガムの……後遺症か……? バカな、解呪治療は済んだはずだ……!」

『イシェル』

「っ」

 

 声。

 二度と耳にすることは決して叶わないはずの、記憶の外からは失われたはずの、彼女の声。

 それは幻影と切って捨てるには、あまりにも鮮やかで。

 

「ありえないっ……君は死んだ、死んだんだ……! 今もその墓の下でっ……!」

『待って、落ち着いて。大丈夫だから。そんな顔しないで、エリンが怖がっちゃうよ』

「やめろ、やめてくれ! もうこれ以上、私を惑わせないでくれ……!」

 

 手元に『燦然たる刃の仔(ルクスフェルム)』を呼び、刃を手のひらに押し当てるようにして皮膚を裂いた。

 痛みが走る。生きた赤がこぼれていく。

 

 なのに、何故だ。

 痛みという覚醒剤を用いたはずなのに、どうして幻が消えない。

 どころか絹を裂いたような悲鳴を上げて、ナターシャは大慌てでイシェルの手を取り上げてきたではないか。

 

『ちょっと何してるの!? 信じられない、自分の手を切るなんて!』

「…………触、れ……え?」

『「癒しよ(サナティオ)」──まったく。戸惑う気持ちはわかるけど、大事な手なんだから傷つけたりしちゃ駄目でしょうが。怒るよ』

 

 傷が塞がっている。()()()()()()()()

 

 ──治癒魔法はいわば、細胞を活性化させる魔法だ。治りを早送りするのに近い。

 過程が同じである以上、傷痕はどうしても残ってしまう。

 

 腕の立つ治癒師であれば傷痕をほとんど作らずに処置することが可能だが、それには熟達した魔法の制御技術と、天性の才能が要求される。

 すなわち、イメージの力である。

 

 魔法の発動において、イメージは重要なファクターだ。その昔、賢者オーウィズによる体系化によって才あるものにしか扱えなかった魔法は、万民が修得できる技となった。

 それは魔法を理論化することにより、抽象的だった概念に術式という輪郭を与え、誰もが学べば適切にイメージすることが可能となったからだ。

 

 しかし魔法の本質として、現代においてもイメージが効力として反映されることに変わりはない。

 それは意識下ではなく、無意識下の潜在的な解釈力の差異だ。

 

 酸素が無ければ物を燃やすことが出来ないという常識が存在する以上、誰もが真空では火の魔法を使えないように、医者として学べば学ぶほど、『深い傷には傷痕が残る』という機序が植え付けられる。

 ゆえに、どんな名医でも必ず痕跡は残る。小さくすることは出来るけれど、決して無くすことは叶わないと理解しているから。

 

 

 ナターシャ・マッコールは、そんな常識を覆す才能の持ち主だった。

 傷痕を残さずして治癒を施せる、類稀なイメージの力を持った、誰よりも優しい女性だったのだ。

 

(傷がない。どこにも、小さな痕すら。私には不可能な技術だ。彼女にしか出来ない、方法だ)

 

 もはや既に痛みの存在しない手が。乾いた血だけが名残を示すだけの、この手が。

 目の前に存在する彼女が、ナターシャであることの唯一無二の証明で。

 

 

「生き返った……のか?」

『……ううん。残念だけど違うよ』

「じゃ、じゃあ、君は一体なんだ? 抱いているエリンも、なんなんだ!?」

『あなたが呼んだんじゃない。その鈴でさ。どこで手に入れたの?』

 

 ハッとして、握り締めていた鈴を見た。

 イシェルですら理解することの叶わない複雑な術式がほどこされた銀の鈴。

 

 魔法の発動痕は感じなかった。

 けれど確かに、鈴に内包されていた魔力は空になっている。

 

 信じ難いがこれは、交霊術の道具なのか。

 それも死者の残留思念(ゴースト)を操るようなレベルではない。遥かに高位の、冥脈に直接干渉する星冠級の魔法だ。

 

「君は本物の、ナターシャの魂か」

『うん。不思議な感じだよね。自分が死んだ後のことがさ、ざっくりとだけど理解できてるの。なんだか自分の人生を本で読み終えた後みたい。冥脈が森羅万象の情報の塊、ってのは本当なんだろうね』

「っ……」

『なぁにその顔。まだ信じられない?』

「…………あたりまえさ。信じられるわけがないよ」

 

 目を背ける。

 彼女を妻だと認識した途端、合わせる顔がなくなってしまった。

 磁石の同極を合わせるみたいに、顔が逸れていってしまう。

 

()()()。何かあったんでしょ』

 

 心臓を針で突かれたような錯覚。

 

「鋭いな、君は」

『いやいや、明らか普通じゃないじゃん。今のイシェル、後ろめたいことがあるみたいに目を合わせてくれないんだもん』

「っ……」

『話してみなさいって。今ならなんだって聞いてあげるよ』

 

 まるでいつもの日常に戻ったみたいに、彼女はからりと笑って。

 思わず流されるように口が滑りかけて。でも澱んでしまって。

 

 一呼吸。

 貯めた空気を、吐き出した。

 

「…………許されないことを、したんだよ」

 

 鈴を握り締める手の力が、ぎゅうっと強まっていく。

 

「道を踏み外してしまった。命を救う立場にありながら、禁忌を犯したんだ。この手は血で汚れてしまった。今の私に君と向き合う資格なんてない」

『……イシェル』

「それに私は、君たちを見殺しにしたも同然だ。あの時迷わず救命措置を行っていたら……!」

『違う。それだけは違うよ。聞いて、イシェル』

 

 頬に手を添えられる。

 

『残念だけど、あの時の私たちはどうあがいても助からなかった。たとえ聖女様がいたとしても無理だったんだよ。あなたのせいなんかじゃない』

「だがっ……!」

『不思議だけどさ、亡くなる前にエリンを寝かしつけていた記憶はあるのに、その後がすっぽり抜けてるの。即死だったんだと思う。本当に突然で、ぶっちゃけ命を落とした実感がないくらい』

 

 ひんやりと冷たい手だった。

 生きる者のぬくもりを失くした、冷たい月の肌のような感触だった。

 

『むしろ謝るのは私のほう。せめてこの子さえ守ることが出来ていたら、あなたをここまで追い詰めなかったはずなのに』

 

 なのに不思議と暖かく感じるのは、あまりに大きなエゴだろうか。

 

『ごめんなさい、イシェル。本当にごめんなさい。あなたを独りにしてしまったことが、心残りで』

「謝らないでくれ。君はこれっぽちも悪くない」

『あなたもだよ、イシェル。あなただって悪くないんだ。本当に腹立たしいけどさ、悔しくて悔しくてしょうがないけどさ。運が悪かったんだよ、私たちは』

 

 噛み締めるような、砕いて吞み込むような。

 けれど決して悲観に吞まれたものではない、力のある言葉だった。

 

「……強いな、君は」

『昔から切り替えが早いタイプだからね。幽霊上等さ』

 

 得意げに胸を張るナターシャ。つられてクスリと苦笑が出た。

 

「ああ、そうだな。君はいつもそうだった。風のように爽やかで強かな女性だった。けれど他人を思いやる気持ちは人一倍で……そういうところに、惚れたんだ」

『ふふ。でもね、イシェルは私よりずっと優しい人だよ。誰かの命を救うために、どこまでも頑張ることが出来る素敵な人。そのために絶対曲げない信念を持った強い人。私の大好きな、あなたのとっても良いところだ。それは今も変わってないみたいだね』

「っ、いや、私は」

『はい、ネガティブ禁止。妻の睦言くらい素直に受け止めろ~?』

 

 唇に人差し指を押し当てられる。

 ニカッと、ウィンクを添えた春風のような笑顔。

 

『だからさ、イシェル。そんなに思いつめないで。あなたは間違いを犯したのかもしれないけれど、それが本意じゃなかったことくらい見れば分かるよ。きっともう十分に悔いて、恥じて、苦しんだんでしょう?』

「……わた、し、は」

『だから、あなたの罪は私が全部持っていく。もう新しい人生を歩んでも、きっと赦されるんじゃないかな』

「そんなこと出来るわけないだろ! 君たちを亡くして、こんな、新しい人生だなんて……!」

『残酷なことを言っているのはわかってる。だからこれは、ただのお願い』

「っ」

『救ってよ、イシェル。たくさんの人を救って。あの世で自慢の夫ですーって、胸を張って誇れるくらい。冥王様があなたの罪を帳消しにしてくれるくらい、たくさんの人をその手で救って。エリンの立派なパパでいて。それが私の、私たちの、心からの願いです』

「…………!」

 

 唇が震える。

 息が詰まる。

 瞳は濡れて。

 顔はもう、どんな形をしているか。

 

 

 

『ぱぁぱ?』

 

 雨の中みたいにぼやけゆく視界の中で。

 妻の腕で眠っていた一番の宝物が、眩しいくらい光った気がした。

 

『あーっ! ぱぁぱだ! ぱぁぱーっ!』

「エリ、ン」

 

 妻の腕から飛び出すように、小さな娘が無邪気な笑顔と一緒に抱きついてきた。

 足にぐりぐりと頭を押し付けられる。

 もう二度と味わうことはなかったはずの、懐かしい感触が。

 

『? ぱぁぱ、ないてるの? いたいいたい?』

「っ、ち、ちがう、ちがうよ。パパどこも痛くないよ。っ、ごめんね、心配しないでね」

『……ん! えりんねー、おいしゃさんなの。ぱぁぱ、よしよーし、してあげるねっ!』

 

 背伸びして、頭をぺちぺちと叩くように撫でる小さな手。

 

『よしよーし。ぱぁぱ、だいじょーぶ! いたいいたい、ばいばーい!』

 

 小さくて、幼くて。

 けれどとっても大きな、精一杯の思いやり。

 

『ぱぁぱ、だいすきよー』

「────ぁ、あ」

『いっぱい、いっぱい、だいすきよー!』

「っ、ぅ、あ、あぁ、あああっ…………!!」

 

 失われてしまった小さな宝を腕の中に迎え入れる。

 共に成長することも、思い出を作ることも、未来の行く末を見守ることすら奪われてしまった、たった一人の愛娘。

 その存在を魂の奥の奥にまで記す。力強く、たしかに、この世界に存在していたんだと記憶する。

 

 ああ、こんな残酷なことが他にあるか。

 奪われたものの愛おしさを古傷を抉りなおすように知ることになるだなんて、あまりに苦しすぎるじゃないか。

 

 それでも愛さずにはいられなかった。

 離したくなかった。

 離したいわけがあるものか。

 

 

 

 ならば、せめて。

 例えこのひと時が、すぐにでも醒めゆく夢まぼろしであったのだとしても。 

 愛しいこの子を。こんなにも素敵なこの子を。涙なんかで曇らせないように、こみあがる嗚咽を嚙み殺す。

 

 だって私は、この子のたった一人の父親なんだから。

 

 

 

「パパも、パパもだよ、っ、大好きだ、愛してる、愛してる、エリン……!」

『ぱぁぱ、げんきなった? いたいいたい、ない?』

「元気になったさ、もうどこも痛くないよっ……! ありがとう、ありがとうな、エリン……! 忘れないよ、絶対に忘れない……! ああエリン、私の娘に生まれてくれて、っ、ありがとうなぁっ……!」

『んー! ぱぁぱ、くるしいー!』

『……イシェル』

 

 二人で娘を包むように、ナターシャはそっとイシェルに寄りそった。

 流せないはずの雫を分かち合いながら、遺される最愛の人へ。

 限りある時間の中で、どうかたくさんの希望がありますようにと、祈りを込めて。

 

『大丈夫だよ。いつかまた会える。あなたは決して独りなんかじゃないんだよ』

「ああ、ああ……!」

『ねぇ、イシェル。あなたとこれからを一緒に過ごすことが出来ないのはとても悲しいけれど、でも、でもね。私は胸を張れるくらい、あなたと出会えて幸せだった。本当に幸せだったんだ』

「私もだ、私もなんだよ、ナターシャ。君がどれだけの幸せをくれたかっ……ありがとう、本当に、ありがとうっ……!」

 

 ──二人の輪郭が曖昧になる。

 まるで春を前にした雪のように、少しずつ、少しずつ、魂の形が綻び始めていた。

 

『ぱぁぱ、まぁま、えりんねむいー』

『……そろそろみたいだね』

 

 時間だ。

 あっという間の、久遠のような。

 けれど決して忘れはしない、永遠の瞬間が終わりを告げる。

 

『ね、もしもだけどさ。何百年、何千年先かは分からないけどさ。もしも生まれ変わることが出来たなら、今度こそ三人で一緒に暮らそうね』

「もちろんだ。何度生まれ変わったって君を探すよ。探してみせる」

『へへ。じゃあ、未来の世界が今よりもっともっと良くなるように、たくさんの人を救ってね。あなたの力で、みんなの幸せを守ってあげて』

「っ──はは。責任重大だな」

『出来るよ。イシェルならきっと出来る。だってあなたは、誰よりも命の価値を知っている人だから』

 

 眠ってしまったエリンの頭を、二人で優しく一緒に撫でた。

 やわらかい。さらさらとした子供の髪だ。

 もう触れることは叶わなくなったはずの我が子に、溢れんばかりの慈しみを。

 

『ま、寂しくなったらその鈴で呼んでよ。いつでも頭撫でてあげるさ』

「ははは。そんな都合のいい道具かなぁ、これ」

『さぁね。でも、悲観的に考えるよりはいいじゃん?』

「ふふ。違いない」

『それと、もう自分を傷つけたりしちゃダメだからね。約束だよ? 破ったら会ってあげないから』

「嫌だよ、やめてくれ。約束するよ。必ず守る」

『ん。よし』

 

 ──口づけをひとつ。

 

 ひやりと冷たい。冬のようなキス。

 けれど確かな証が、彼女の存在がここにある。

 

『イシェル』

「……ナターシャ」

『愛してる。今までも、ずっと』

「愛してる。これからも、ずっと」

 

 

 去りゆく妻の微笑みは、この世界の何よりも輝いていた。



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幕間Ⅲ「其は甘き蒼天の断章」
54.「どっちつかずの恋空予報」


 血液数値、問題なし。

 呼吸音、脈拍、共に正常。腹部触診異常なし。

 水晶体禍肉芽の浸潤なし。転移も見られず。

 魔力測定値も安定。離散魔力量は標準値をクリア。

 

「……うん、文句なしの健康体だね。薬も止めて大丈夫だろう」

「ほんとだか先生!? やったー! 治った治った! ホルブが治ったどー!」

「おいおい大袈裟だで。とっくの前に体は治ってるんだべよ」

「それでもお墨付きが出たんだどよ!? ライアンも治ったし、これでみんな復活だ! オラ快気祝いにバカみたいにでかいチキン買ってくる!」

「あっ、おい! ……ったく、そそっかしい奴だべ」

「ははは。元気でなによりじゃないか。彼も完全に回復したみたいだし、よかったよかった」

「割と瀕死だったはずなのに飯食ったらすーぐ復活したからなぁ。さすがはゴブリンいちのデブだべ。格が違う」

 

 鷲鼻のゴブリン、ホルブは呆れたように息を吐いた。

 が、表情は心なしか嬉しそうだ。「本当によかった」と零れた呟きは、彼なりにブーゴやライアンを案じていたがゆえの吐露なのだろう。

 なにせ、彼はたった独りで禍憑きがもたらす飢えと渇きに抗っていた男なのだから。

 

「先生、あらためてお世話になりやした。おかげさまで命が助かった。先生は命の恩人だべ」

「いやぁ、お礼はこの館のみんなに言ってくれ。私がやったのは最終調整みたいなものだよ。彼らが禍憑きを適切に処置していなかったら手も足も出なかった」

「あぁ、恩人がたくさん出来ちまったなぁ。本当に感謝してもしたりねぇべよ。こりゃ、一万倍で恩返ししなくっちゃあな!」

 

 

 

 

 

 ──あの事件から早くも二十日と少々。

 イシェル・マッコールはアーヴェント宗家の医療顧問として、世にも不思議な島に往診する大役を一任されていた。

 

 本業は個人診療所の院長である。新しく病院を作り、一からやり直すことを目標に再出発を始めたのだ。

 三日に一回ほどポータル・オベリスクでこの島にやってきて、リリンフィーの定期健診を主に館の医療業務へ従事するという契約である。

 

(しかし、凄いなここは。外界から完全に隔絶された環境にもかかわらず設備は最新。おまけにまさか……あの子が賢者オーウィズご本人だったなんて)

 

 正式に協力関係を結ぶにあたって、アーヴェントの素性などなど諸々について知らされたのだが、度肝を抜くような内容ばかりでめまいがしたものだ。倒れなかった自分を褒めてやりたい。

 

 正直、到底はいそうですかと信じられる話ではなかった。

 

 だが賢者オーウィズ──初対面でオズと名乗った不思議ちゃん──が最高クラスの医療魔導駆機(ゴーレム)()()()()()指先ひとつでひょいひょい造設するなどという意味不明な光景を目の当たりにし、さらには黒魔力で作られた魔剣を操る少女や、なによりヴィクターの持つ王の腕を見せつけられた暁には、ゆで上がる脳ミソに氷嚢を5ガロンぶち込んででも信じざるを得なかった。

 

(この島だけで歴史がひっくり返るよ。まったく、君はとんでもない人だったんだな。ヴィクター君)

 

 彼には大恩がある。口が裂けても、彼らをとりまく事情を吹聴するつもりはない。

 ないのだが、しかしそれはそれとして、こんな一大事を知ってしまったプレッシャーに胃がキリキリと痛むのは許してほしい。

 

 歳だろうか。いや、きっと普通の感覚だ。

 史書の中でしかお目にかかれない歴史の裏側の当事者になってしまったのだから。緊張するなという方が無理であろう。

 

「さて、次はリリンフィーちゃんのカルテを作成して……」

 

 イシェル診療所出張室と看板のかけられた部屋で、パチパチと板状の情報制御盤に文字を打っていく。

 昔はすべて手書きでカルテを作っていたのだが、便利な時代になったものだ。

 このツルツルした板のようなゴーレムが一枚あれば、担当する全ての患者のデータベースを一括で管理できるのだから、まさに夢の道具である。

 

(ふーむ、検査結果上は特筆して悪い部分はないな。しいていえば心肺機能と肝機能が少し弱いところだが……まぁ、このくらいなら投薬と魔力調整療法でコントロール可能だろう。今後の肉体の成長分も考えれば、少しずつ良くなっていくに違いない)

 

 だが、『純血』の黒魔力についてはデータが少なすぎるのがネックだ。

 魔力の属性によって大きく治療方針が代わるといった事例は極めて少ないが、属性が属性だ。なにせ世界から失われたロストブラッドに等しい。

 エビデンスに基づいた治療計画を立てられない以上、慎重に事を運ぶよう注意せねば。

 

(偉大な大魔法使いであるオーウィズ女史が頭を悩ませるのも頷ける。私を必要としてくれたのはこの部分が大きいんだろうな)

 

 幸い、黒魔力についての基礎的なデータはオーウィズがまとめてくれていた。

 これがあれば手探りで治験していくといった高リスクな方針は免れるはずだ。まだ幼い女の子だし、負担をかけるのは避けてあげたかった。

 

「……医者になりたい、か」

 

 初めてリリンフィーの検診をした時、なんだか興奮気味に「お医者さんになるにはどうしたらいいですかっ」と尋ねられたことを思い出す。

 

 なんでも、将来の夢が医者なのだとか。

 自らの虚弱体質ゆえに、おなじ病弱な子たちを助ける仕事がしたいのだという。

 

(ふふ。エリンもよく、おいしゃさんになるーって言ってたっけ)

 

 娘よりは少し年長さんだが、まさかここにきて医者を志す少女と巡り合うことになるとは。人生とはわからない。

 少しだけ。ほんの少しだけ、娘と重ねてしまうくらいは、許してほしいものだ。

 

「お古の医学書、あげたら読むかなぁ。……って、あの子はまだ八歳だ。早い早い」

 

 

 いや、本当に八歳なのだろうか。

 

 正直、お話しているとたまに子供だと忘れてしまうことがある。大人びているし、理路整然とした会話はまったく八歳児には思えない。

 

 識字力も非常に高い。ついさっき検診のかたわら、そこそこ大人向けの分厚い恋愛小説(ハードカバー)を熱心に読んでいた気がする。

 確か、証明不可の病シリーズだったか。妻が好きだった本だ。

 内容はさておき、少なくとも幼子が安易に読めるほど簡単な文章ではない。

 

「……今度治癒魔法の本でも買ってあげようか。こども向けのものがあったはず」

 

 もし。もしもだけれど。彼女の願う医者への道に、少しでも良い影響を与えることが出来たなら。これ以上に嬉しいことはきっとない。

 力になってあげたいと思うのは、流石に親馬鹿の履き違えだろうか。イシェルは書き終えたカルテを保存しながら苦笑した。

 

 

 ◆

 

 リリンフィーの今後について、保護者でもあり姉でもあるシャーロットに報告しようと、イシェルは館中を歩き回っていた。

 が、広い。この館、とても広い。土地勘なんてまるでないイシェルには迷路も同然だ。

 

 なんだか同じところをぐるぐるぐるぐる回ってる気がする。

 今すれ違った給仕(メイド)小人(コロポックル)、さっきも挨拶を交わしたはずだ。間違いない。

 

「うぅ……ええと、フォトンパス? だっけ。確か案内もしてくれるらしいが……どうやるんだ……?」

 

 教えて貰ったはずなのにもう忘れている。

 というか、イシェルはどうも今時のゴーレムに着いていけないのだ。タブレットカルテも徹夜で覚えたほどである。

 従来のものと似た医療器具ならばなんとなく培ってきたノウハウで分かるのだが、通信機器にも地図にも時計にもメモ帳にもなれるスペシャル腕輪なんて、どう扱えばいいのやら。

 

「もうダメだぁ。私は時代と方向感覚に取り残されたおじさんだぁ。ここで朽ちて死ぬのだろうか」

「あれー? お医者さま? またまたこんにちは。どうしたの?」

 

 さっきの小人(コロポックル)とまた出くわした。

 流石に三度も顔を合わせれば様子がおかしいと思ってくれたのだろうか。それとも半泣き一歩手前の壮年男性が異様で心配だったのか。恐らく両方だろうか。

 

「あぁ、えーっと、道に迷ってしまってね……」

「わかる。ノノもいっぱい迷子になった。辛く苦しいみちのりだった」

 

 腕を組み理解先輩顔でうなずくノノ。なんだか謎に得意げである。

 

「任せてほしい。ノノ、迷子のプロ。どんとこい」

「不安しかない」

「お医者さま。どこに行きたい?」

「あ、ああ。談話室に行きたいんだ。シャーロットさんに話があって」

「ん。かしこまり」

 

 

 

 最初はどうなるかと思ったが、意外にもすんなりと談話室まで案内してくれた。

 何度も引き返したのはご愛嬌か。

 

「シャーロットさん、いるかい? イシェル・マッコールだ」

 

 談話室をノック。

 返事がない。不在だろうか。

 

 いや、微かに声が聞こえる。

 どうもヴィクターと一緒にいる様子だ。

 

 再度ノック。またも返事がない。

 よほど話が盛り上がっているのだろうか。意外にも防音がしっかりしてる造りなのもあってか、聞こえていないらしい。

 

「シャーロットさん、失礼するよー……?」

 

 念のためもう一度ノックしてから、ゆっくりとドアを開いていく。

 

 

 

 

「おいシャロ」

「ん」

「シャロさん。おーい」

「ん」

「なぁなぁ、近ぇってばよシャーロットさんよ」

「んー?」

「んー? じゃなくてな。最近どうしてそんなに距離が近いんですかね? 何ごく自然に腕にすっぽり収まって俺を座椅子代わりにしてるわけ? どうしてそうなるの」

「なに? 嫌なの? こんな美少女とくっつけてるのに?」

「嫌じゃねーけど……こう……密着されるから色々ヤバいんだよ……!」

「ふーん……」

「本を読み始めるな退きなさいって。今博士の宿題してるんですのよあたくしは」

「このままでいいじゃん。分からないところあったら教えてあげるし」

「集中できねーって言ってんの!!」

「なに。私のこと嫌いなの?」

「ちょ、それはズルくねー……? 嫌いなわけないでしょうが……」

「じゃあなんなの?」

「なにって」

「だから、どう思ってんの」

「……おまっ、言わせたいだけじゃねーかよ!!」

「どうなの!」

「そりゃ、ほら」

「ん!」

「……………………好きだよ」

「っ……んー?」

「……ちゃんと惚れてるって」

「っっ~~…………んー、んふふ。そうなんだ。へぇー、へぇぇー……ふふっ」

「だぁーっ!! どけってんだよこの野郎!! いいかげん顔から火魔法出そうなんだが!?」

「んふふふ。へぇー、ヴィック私のこと好きなんだ。そっかそっか。へぇーふーん。…………もっかい言って」

「言わねぇ!! どけ!!」

「やだ!! もっかい言いなさいよもっかい!! 減るもんじゃないでしょ!?」

「じゃあ返事聞かせろよなぁ!? シャロはどうなんだ!? ええ!?」

「……………………もっかい言って」

「お前最近そればっかじゃねえかよもぉぉおおおおお──────ッッ!! なんなのぉぉおおお──────ッッ!?」

 

 

 

 

 そっ閉じした。

 

 

 

「若いなぁ……」

「にしても限度があると思わないかい? 見てるだけで糖尿病になりそうなんだよね」

「うわびっくりしたぁ」

 

 いつの間にか背後にオーウィズが立っていた。

 目が死んでる。「はは、はっはっは。へぇっへっへ」と誤作動したゴーレムみたいな引き笑いつきだ。

 煙管(キセル)型のハーブシガレットをすぅぅぅ~~っ……と吸って、ぶわはぁぁあ~~~~っと目とか口とか鼻から煙を吐き出している。

 ガンギマリである。中身が普通の煙草と違ってもそんな吸い方をする道具ではないと思う。

 

「いやね、まぁ、ね。わかるんだよ? シャーロット君はこれまで肉親以外からの好意とまるで縁のない人生だったからさ。そんなことにかまけてる余裕のない生活を送ってきたんだ。当然、恋だなんだの色事とは無関係。知識としては知っていても、恋心というものを本質的に理解できていない。彼女の心の一部は未熟なまま。恋愛感情だけバブちゃんなんだよ。そんな中、この前の一件でどうも進展があったそうだ。それもそーとー革新的なナニカだ。けれど彼女はどうしたら良いかわからない。ただ向けられる好意そのものは悪く思っていない。むしろウェルカム、もっと聞きたーいもっともっと状態に陥った。その結果とんでもない魔術反応が起きた。想い人から好き好きコールを頂戴しまくるひな鳥になってしまったんだよ。それがあのオキシトシンジャンキーだ」

「急にすごい早口で喋る」

「最初はさぁ、微笑ましいもんだったよ。ああ、彼女も現代アーヴェント当主のしがらみだけじゃなくて、シャーロット君としての幸せを追求できるようになったんだなぁって。嬉しかったさ。本当にね。でも、でもね? もう二十日以上もこの調子なんだ。隙あらば二人きりになってこうなる。別にいいんだよ? イチャイチャするのは良いことだ。彼らにとって素敵な思い出作りだ。仲睦まじさは誰に侵害されるべきものでもない。でも、でもさ、なぁ。ヴィクター君は好意を伝えてるのに、さぁ。ずっとずっとああでさぁぁ────ねえちょっと大きい声出していい? 出すね。なんで付き合わないんだクソがッッッッッッッッッッッ!!!!」

「わ、わぁ~」

 

 長年医者をやってきたが、バカップルが人の脳を破壊した瞬間は初めてみた。ある意味貴重な症例かもしれない。

 

「おかしいだろ!? くっつけよッッ!! ンで好きなだけ乳繰り合えよ!! なんでずっと生殺しなんだ!? 意味が分からない!! 理解できない!! どう見たって両想い1000%なのに!! 脳みそが演算を拒絶してる!! あああああああああああああああああ!!」

「ま、まぁまぁ落ち着いて。彼らなりのペースがあるんだよ、見守っていればそのうち在るべき形に落ち着くさ」

「確かに君の言うとぉーうりだイシェル君。だが、だがねえ、毎日毎日毎日毎日『博士、その、彼……私のこと好きみたいで……どうしたら……』ってノロケられる身にもなって欲しい。ねぇねぇ」

「充血が深刻ですねぇ」

「いや付き合いたまえよ好きなんだろと言ってもね? 顔真っ赤にして『でもっ、でもぉっ、よくわかんなくてっ』と。はぁ!!?!? 可愛いなぁ恋する乙女オイ!!! だが何でそうなる!!???!」

「わぁぁ~……」

 

 なんだか凄くたいへんそうだ。魔法体系学の祖をここまで狂乱させるとは、げに恐ろしきは若さなのか。

 

「頼むよイシェル君~~~~助けてくれよぉ~~~~大人枠がボクしかいないから相談窓口一極集中でもう気が狂いそうなんだよぉ~~~~そもそも恋愛沙汰は専門外なんだよぉぉ~~~~ボクどこに出しても恥ずかしい喪女なのぉ~~~っっ!!」

「気の毒に……。あぁ、リリンフィーちゃんの今後の診療計画については関係者各位のフォトンパスに送信しておきますから。ではまた後日」

「待ってくれえええええ置いてかないでええええもう糖分強制給餌はいやだぁあああああああ」

 

 

 ◆

 

 

「おねえちゃん。お話があります」

「はい」

 

 お風呂に入って。寝巻に着替えて。さぁもうお休みとベッドに入った頃合い。

 シャーロットはなぜか妹に正座を強いられていた。

 

「あの……リリン? なんで怒って……」

「おにいさんとのことです」

「はい」

 

 こんなに目が笑っていないリリンフィーは初めてみた。

 いつもと同じニコニコ笑顔なのに、まるで純黒の王の力を解放したが如き威圧感と黒いオーラが出ている。

 

「わたしはね、二人のことを応援したいなって思ってるの。今もその気持ちは変わらないよ。おねえちゃんには絶対幸せになって欲しいし、二人の仲が良くなるのは、とっても素敵なことだと思うの」

「うう、恥ずかしい」

「でもね、おにいさんがね、ちゃんと好きって言ってくれてるのにね。はぐらかし続けるのはよくないよね?」

「……」

「酷いことしてるって自覚、ある?」

「…………いや、でも」

「でもじゃない」

「はい」

 

 こわい。妹がこわい。

 三聖との死闘の方がマシかもしれない。

 

「わたしね、おねえちゃんが心配なの。本当はこんなこと言いたくないんだけど、このままだと凄く後悔することになると思うから」

「……え?」

「おねえちゃん、おにいさんの好意に甘えてるんだよ。今はおにいさんがおねえちゃんのこと大好きだから大丈夫だけど……でも、ずっとは続かないよ?」

「え。え?」

「いつか愛想尽かされちゃうってこと」

「あいそ。つかされちゃう」

「そう。おねえちゃん、このままだと捨てられちゃうよ」

 

 ぴしゃーん。妹の舌雷撃に全身を撃ち抜かれた。

 

「この島から出てっちゃうかも。おにいさん、一人でも全然やっていけるし。たくましいし」

「え、え。え」

「それに絶対モテるもん。かっこいいから引く手あまただと思うけどなー。フラッと出て行って、彼女さん作ってどこかで幸せになっちゃうかも」

「い、いや、ない。絶対ない。彼はそんな、そんなことしない」

「そう? だって不安だと思うよ。好きだって伝えてるのに、おねえちゃん一向に振り向いてくれないんだもん」

「うっ」

「人の心は永遠じゃないんだよ。燃料がなきゃ燃え尽きちゃうの」

「ううっ」

 

 ぐさぐさ。言葉のナイフがシャーロットを襲う。心の中で血を吐いた。

 

「知ってるよね? おにいさんがさ、前はおねえちゃんに想いを伝えるのを止めてたこと。すっごくすっごく気を遣ってくれてたんだよ。でも、今は違うよね。それはさ、思わずポロっと口に出ちゃったくらい、本気だってことなんだよ。わかる?」

「う、うぅ」

「自分の置かれてる状況、理解できましたか?」

「はいぃ……」

 

 ボコボコだ。もう許してほしい。殴れる場所が残っていないくらい殴られている。

 全面的に悪いのは自分なので、縮こまるしかないのがどうしようもなかった。

 

「でも、でも、どうしたらいいか、分かんないのよぉっ……!」

「付き合っちゃえばいいじゃん。何がわかんないの」

「…………好きって、なに」

「え」

「わかんない。そんな気持ち、持ったことない。持とうと思ったこともないもん。わかんないの」

「……えーっと。じゃあさ、もしおにいさんがさ、他の女の子を好きになったらどう思う?」

「どうしてそんなこというの?」

「いいから。どう思う?」

「……やだ。絶対やだ」

「目で追っちゃう? ふとした時に考えたりしない?」

「……す、する、かも」

「一緒にいたい? そばにいると安心する?」

「っ……うん」

「できれば自分だけを見ててほしい?」

ひぅ……」

 

 熱い。顔が熱い。

 心臓がばくばくする。もう殺してほしい。

 

「好きじゃん。大好きじゃん。もう認めるだけじゃん。なにしてるの本当に」

「だ、だって……! もし、もしよ? か、かかっ、仮に、私と彼が、つ、つつ、おつきあい、したと、したらよ?」

「うん」

「な、なななにしていいのか、わかんないしっ、彼の想像とか、期待とかと、違っちゃうかもだしっ! も、もし、愛想つかされてさっ、つまんないって、ふ、ふられちゃったら……ぐすっ、ひっ……ヴィック、どこかに行っちゃうんじゃ、ないかなぁって……」

「……あー」

「やだよぉっ……離れたくないもんっ……! 一度特別になっちゃったら、好きって、認めちゃったら、ひっ、いつか、終わっちゃうかもしれない……! 終わったら、もう戻れないんだよっ……! だったらずっと、このままがいいっ……! ずっと一緒にいたい……!」

 

 好きは、特別だ。

 関係をひとつステップアップさせるブースターだ。きっと、今以上にお互いを知ることが出来るようになれる。

 だがその代償は、訣別のミゾの深さにある。

 

 友達の喧嘩とはワケが違う。一度壊れたら、もう二度と以前のようには戻れない。

 怖いのだ。たとえ考えすぎだと言われても、先の未来が怖いのだ。

 初恋は実らない、なんて先人の言葉が悪夢にすら思えるほどに。 

 だからこの気持ちを。彼を。受け入れることが出来ない。

 

 命を、妹を助けてくれた恩人で。辛かった時に支えてくれて。その存在があるだけで安らぎを覚えるような人が、いなくなってしまうかもしれないなんて。

 

 大切な人が去っていくのはもうたくさんだ。あんな思いをするのは二度とごめんだ。

 だったらもう、このままでいい。

 

 でも。

 

「わかってる。リリンの言う通り。どっちみち終わっちゃうかもしれないことには、ひっ、変わりないよね。こんな状況、永遠には続かない。でも変わるのが怖い……! 怖いの……!」

「おねえちゃん……」

「もうやだぁっ……! ひっ、酷いことしてるのは私なのにっ、泣いちゃうのも最悪っ……! ぜったい見せらんないっ……! 昔はこんな、想像だけで、胸がぐちゃぐちゃになったりしなかったのにっ……! こんな面倒くさくて重い女じゃ、ひっ、なかったのにぃっ……! これじゃいつか絶対嫌われちゃうよぉっ……!」

「……おねえちゃんにとってのおにいさんの存在は、それだけ大きいってことなんだね」

 

 ぎゅっと抱き寄せられる。

 ちいさな心音を感じるほどに、近く。

 

「昔は誰も信じられなかったから、何も感じなかったんだよね。でも今のおねえちゃんは、誰かに心を預けられるくらい人を信じられるようになったんだよ。それってとっても素敵なことだと思うよ」

「グスッ……リリンはすごいね……なんでそんなに大人なの……いつの間に大きくなって……」

「いやー、これはほら、慌ててる人を見ると逆に冷静になっちゃうヤツっていうか。えらそーなこと言ったけど、わたしも人を好きになったことなんてないからわかんないし、本の受け売りだし。あとは、いつもわたしを守ってくれたおねえちゃんを真似してるだけ」

「っ……リリン~っ!」

「うん。うん。ごめんね、追い詰めすぎちゃった。おねえちゃんもいっぱいいっぱい悩んでたんだね。ごめんね」

 

 抱き寄せられる。そっと頭を撫でられた。

 なんだかリリンフィーの存在が大きく感じる。こんなに立派になって──と、感慨深さがさらにぼろぼろ涙を加速させた。

 

「でもこのままだと良くないよね。現状維持は悪手だとおもう」

「スン……うん、私もそう思う。思うけどっ……」

「だからもう、ここはおねえちゃんの勇気次第だよ。おにいさんを信じるか、何が何でも虜にさせてやるーって、おねえちゃんが頑張って自信をつけるとか」

「……できるかなぁ」

「できるよ! おねえちゃん可愛いもん。贔屓しなくてもすっごい美人さんだもん。おにいさんもおねえちゃん大好きだし、本気出せば悩殺だよ悩殺」

「…………じゃあ別に今のままでも」

「それは流石にくそざこだよね」

「く、くそざこ……!?」

「逃げたら終わりだってば。それこそ負け筋確定だから。絶対ダメ」

「うぅ……でもどうすれば」

「うーん、おにいさんに好き好き言わせてる時の押し押し強気なおねえちゃんがそのままレベルアップしたら絶対成功すると思うんだけどなぁ……何かきばくざいがあれば……あっ、そうだ」

 

 ぽん、と。一計を案じたらしきリリンフィーが、手を叩いて電球を散らした。

 

「三日後にね、おにいさん外へ遊びに行くんだって」

「……それに着いていけと?」

「半分正解。その日さ、一日おにいさんを尾行してみてよ」

「はい?」

「んっふっふー、わたしの見立てじゃあねー、多分面白いことになると思うんだよねー。きっと良い刺激になると思うな~? ふふふ」

 

 

 もしかしてリリンフィーは思っていたよりとんでもない子なのかもしれない。

 百戦錬磨の悪女のようにほくそ笑む愛妹。シャーロットは生まれて初めて妹に恐れおののいた。



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