あけぼのさがし (広田シヘイ)
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第一話『寮の章』

 

 

 

 

 抜け殻のようだ──と思う。

 私はベッドに寝転んで、茜色に染まる部屋の中をただ見つめている。

 多分、この状態のまま数時間は過ぎている。

 黄昏時の海は凪いでいるようで、波音や海鳥の鳴き声が丁度良い距離感で聞こえていた。

 穏やかである。

 昔は、夕暮れのこの時間帯が嫌いだった。陽射しにデリカシーがないからである。浅い角度で照り付けて、全てのものを夕焼けで染めていくのが、とても無神経に思えたのだ。

 しかし、今はそれも悪くないと思っている。

 私みたいな者は、そうした陽射しに責められているのが相応だと思うし、何より日が傾くということは、夜が近いということでもあるからだ。

 

 私は夜が好きだ。

 

 こう言うと川内(せんだい)に影響でもされたのかと思うが、多分、川内とは好きな理由が違う。

 夜は、こうしているのが当たり前の時間だからだ。

 いくら私のような塵芥(ごみ)でも少しくらいの感情は残っていて、皆が訓練や遠征に励んでいる時に何もせず寝たきりでいることは、多少の罪悪感を伴うのである。

 夜間の訓練や演習もあるのだが。

 少ないから、それは。

 何処で何時やっているのかも、今は知らないし。

 それどころか、第一艦隊の編成も、遠征艦隊の編成も知らない。

 今日は一体、何曜日なのだろう。

 もう月は変わったのだろうか。

 食堂の拡張工事は、終わったのだろうか。

 七駆の皆は、元気でやっているだろうか。

 

 

 ──私がこんな状態になってから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。

 

 

 そんなことを考えていたら、何だか久しぶりに憂鬱になって、私は空間に背を向けるように寝返りを打って壁との距離を縮めた。

 もう一度寝てしまえ、と決めたのである。

 そうして目を瞑っても、夕方の光は壁に反射して私の瞼を透過して来る。カーテンは閉めておくべきだったと後悔した。今の私に、起きてカーテンを閉めるという選択肢は存在しないから、もう日が落ちるまで耐えるしかない。

 昨日の夜、星を見ながら眠るのも悪くないとカーテンを開けたまま寝てしまったのである。

 気の迷いだ。本当に気の迷いだ。

 私などは闇に包まれたまま何もせず何も考えず、こうしているのがいいに決まっているのだ。

 このまま無為に時間を潰していれば、そのうち皆も私を見放して、鎮守府から追放してくれるだろう。その時はその時で成るように成るだろうし、その後のことなんてどうでもいいのだ。本当にどうでもいい。

 所詮、艤装(ぎそう)を装備出来ない私には、何の価値もないのだから。

 

 本当にもう眠ってしまおうと深く息を吐き出すと、こちらに向かってくる足音が聞こえてきた。ここは駆逐寮三階の角部屋で、階段からこちら側はこの部屋以外空室だから、多分、七駆の誰かがご飯を持って来たのだろう。

 申し訳ないような情けないような、よく判らない気持ちになるから、この音は聞きたくなかった。ゆったりとした足音から察するに(うしお)だろう。(おぼろ)は男の子のようなしっかりとした歩調で、(さざなみ)は何処か不安定な音がするのですぐに判る。

 足音だけで誰かを判別出来るくらい近くにいた仲間を、私は今まさに裏切り続けているのだ。

 死んでしまえ、と呟いた。

 無論、私自身に放った言葉である。

 足音は部屋の前で止まった。

 いつものように、トレイを置く音、そして遠ざかっていく足音が続くと思いきや、次に聞こえてきたのは、ドアをノックする音だった。

(あけぼの)ちゃん」

 と弱々しい潮の声がする。

 今は誰にも会いたくなかったし、何よりこんな姿を潮に見られたくないので、寝たふりを決め込むことにした。潮であれば、返答が無ければ帰るだろうと思ったのも(つか)()、ドアは開かれた。

「曙ちゃん、起きて、る?」

 私は驚いてしまって布団を引き寄せてしまったものだから、もう狸寝入りは通用しない。

「起きてるんだね。いい、かな?」

 そう言って潮はドアを閉めた。

「その、体調は、どうかな、って」

「良いように見える?」

 うまく発声出来ず、咳払いをした。

「そ、そう、だよね。ごめん」

 沈黙が流れる。

 振り返らずとも、モジモジしている潮が容易に想像出来た。

 それにしても、潮にしてはいやに積極的な気がする。漣や朧ならば、どこかデリカシーに欠けている部分もあるから、まだ解るのだけれど。

「あの、ね」

 たっぷりと間をとって、潮は再び喋り出した。

「あの、昨日漣ちゃんがね、砲撃訓練で勝負しようって言い出してね。その、一番駄目だった人は晩御飯のおかずを一位の人に分けなきゃいけないってルールなんだけど、朧ちゃんがね、漣ちゃんは元々食が細いから不公平だって言うんだよ。あ、でもね、私は、楽しそうだからいいんじゃないかな、って思ったんだけど」

 ひたすら辿々(たどたど)しく潮は話す。この懐かしい感覚が、何故か今の私には辛かった。

「さ、漣ちゃんは、今日はコロッケだから、好きな料理だから、自分にとっても十分な罰だって言ってね。それで、結局、漣ちゃんが負けちゃうんだけど──」

 面白いよね、と言って潮の話は唐突に終わった。

 以前の私なら、このオチのない話を聞いて笑っていたのだろう。

 しかし、今は笑えない。面白くない。

 そんな話をするために訪問した訳ではないのだろうと、本来の意図を隠している潮に腹が立った。

「それで」

「そ、それでって」

「それが何だって言うのよ」

 え、とか、いや、と発声して潮は沈黙する。

 訳も解らず、頭に血が昇るのがわかった。

「どうせ私を馬鹿にするために来たんでしょ? そんな下らない話をするために来たなら帰って!」

「そ、そんなことない!」

 今にも泣き出しそうな声で潮は言った。

「そんなことない。曙ちゃんがいたら、その場に曙ちゃんがいたら、どうだったのかなって、思ったんだよ。寂しいんだよ」

 怒りが急速に萎えて、自己嫌悪が頭をもたげてくる。

「あれから、三ヶ月経ったね」

 三ヶ月も経っていたのか。

 あれから。

 

 

 ──あれは、春先のことだった。

 

 

 阿武隈に率いられた我々第七駆逐隊は、当番の哨戒任務を終えて帰路に就いていた。

 その日の海は穏やかで、陽射しも風も波も、何もかもが柔らかかった。良い日、というのはこういう日のことを言うのだろうなと、そんなことを考えていたと思う。

 哨戒中に会敵することもなく、漣などは阿武隈が前髪を気にする度に「切ればいいんだよ」と軽口を叩く余裕があった程だ。

 今にして思えば、油断があったのだろう。

 ソナーが魚雷発射音を捉えた時には既に遅く、八時方向から近づく魚雷の航跡が見えた。

 覚えているのは、腹の中で内臓が上昇する感覚と、私は本当に死ぬのか、という恐怖だけだ。

 目が覚めると、私は鎮守府のベッドに寝ていた。

 混濁した意識と、全身を襲う激痛のアンバランスな感覚が酷く不快だった。修復材で外傷は癒えても、神経が痛みを訴えるのだ。私の肉は綺麗なまま削がれ、骨は形を保ったまま砕かれていた。

 それでも、皆の懸命な看病のおかげで、私は数週間で歩けるまでに回復した。

 当時は、日に日に良くなっているのが実感出来たし、食べられるご飯の量が増えたことや、一人で階段を上り下り出来たりというような些細なことが、嬉しくてたまらなかった。

 そんなある日、リハビリの一環として、少し海に出てみないかという話になった。私も早く復帰したい一心だったし、これ以上皆に迷惑はかけられないと思っていたので、心待ちにしていた瞬間だったのだが──。

 

 ドックに足を踏み入れてすぐに、体が異変を起こした。

 

 脈拍が速くなって、呼吸が荒くなって、目眩がした。自分でも訳が判らなくなって、苦しくて襟元を引っ張り続けていたら、朧が「大丈夫?」と聞いて来たので、やはり私は大丈夫ではないのだなと判った。

 その後、皆にやたらと心配された記憶はあるが、自分がどのように応対したか覚えていない。

 艤装の重みが伝わると同時に、胃液が逆流した。

 

 それから私は、一度も艤装を装備していない。

 

 もう、戦えない。

 戦いたくない。

 海も怖くなった。

 沈みたくない──。

 

 だから私は、こうして無為に日々を過ごしている。

 何も出来ないし何もしたくない。何か出来ることのある者に干渉されたくない。

 雲が陽を薄く(さえぎ)って、部屋が暗くなった。

 寂しい、と潮が言う。

「急にごめんね。あ、今更、だよね。ごめん」

 潮が悪くないことなどよく解っている。しかし、腹が立つ。

「今日はね、晩御飯を一緒に食べたいな、と思って」

 むしろ、私を目一杯に心配してくれてのことなのだと、よく解っている。しかし、腹が立つ。

「じ、実は、その──曙ちゃんに、聞いて欲しいことがあって」

 潮はこんなに優しいのに。気を遣ってくれているのに。何故なのだろう。

 本当に──腹が立つ。

「帰って!」

 布団を払って身を(ひるがえ)し、溜まっていた正体不明の感情を吐き出すように声を張り上げた。

 夕食のトレイを抱えている潮の身体がぴくりと痙攣(けいれん)した。

「そ、相談が」

「こんな私に何の相談があるって言うのよ!」

「ご、ご飯を。ふ、二人で」

「食べたくない!」

 潮の目が次第に潤んでいく。

「あ、曙ちゃん」

「帰って! 今すぐ出て行って!」

 表情が完全に崩れる寸前で、潮はごめん、と言って部屋を走って出て行った。

 私は放心したまま動けずにいたが、雲が流れ再び侵入してきた夕日に腹が立ち、動物のような奇声をあげて布団を窓に投げつけた。

 しかし、布団は重くてずれただけだった。

 情けない。

 テーブルを見ると、そこには二人分の夕食が置いてあった。

 こみ上げる涙を堪えて顔が歪む。

 私は布団に顔を(うず)め、声を押し殺して泣いた。

 

 本当に死んでしまえ──と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二話『工廠の章』

 

 

 

 

 

 明石さんの工廠は、寮からやや離れた場所にある。

 夜は柔らかい月明かりと、絶え間のない虫の音に包まれていた。

 久々に外を出歩いた私は、基地内とはいえ辿り着くだけで疲れてしまった。

 レンガ造りの工廠からは光が漏れていた。まだ作業をしているのだろう。工廠を目の前にして足が止まる。帰ってしまおうかとも思った。

 そもそも、私は何故こんなところに来てしまったのだろうか。

 

 潮の訪問が昨日のことである。

 潮に盛大な八つ当たりをした後、いつも以上の自己嫌悪や脱力感に襲われ、その感情をシャットアウトするためにベッドで目を瞑り続けた。

 散々寝た後だったから、そう簡単に眠りにつけるはずもなく、結局眠ることが出来たのは日が昇ってからだったと思う。そして起きたのがつい先程の午後十一時半頃。二十時間近く眠っていたことになる。

 後頭部を襲う猛烈な頭痛に耐えられず、仕方なくベッドを出た。

 誰の姿もない浴場で湯船に浸かり、頭痛も少し和らいだ頃にふとした疑問が頭に浮かんだ。

 

 曙、とは私のことではなく、艤装のことではないのか。

 艤装を装備出来ない私は、とても無力で無価値なものだからだ。

 

 ──だとすると。

 

 私は一体何者なのだろう。

 艤装とは、何なのだろう。

 

 鈍重な私の思考は、湯から沸き立つ水蒸気と共に揺らいで霧散し、解答に辿り着くことはなかった。

 ただ、明石さんなら知っているかもしれないと思った。

 何故明石さんを一番に思い浮かべたのかは知らない。

 それでも、聞いておかなければならないと思った。

 そう思うといてもたってもいられなくなって、急いで湯船から離脱して工廠に向かうことにしたのである。

 しかし、工廠を目の前にした今冷静になって考えてみると、何と切り出したらいいか判らない。今まで(かたく)なに閉じこもり続けてきた私が突然現れて、「私とは何ですか。艤装とは何ですか」などと聞ける訳もない。図々しくて失礼だ。

 本当に帰ってしまおうかと思ったが、今戻れば二度とここに来ることはないような気がした。あの部屋を世界の全てとして生き続けるにしても、鎮守府から追い出されて忘れ去られるにしても、もう一度、明石さんには会っておきたいと思った。世話になったのだし。

 ふと、夜風が優しく吹き抜ける。

 背中を押された気がした。

 覚悟を決めて、私は工廠の入口へと歩みを進めた。

 

 大きく開いた入口から覗くと、明石さんの他にもう一人の姿が見えた。

「あぁ、もうわかんない!」

 椅子の背もたれに身体を預け、天井に向かって大声をあげたのは夕張だった。

「もう明日にしたら? 時間も遅いし」

「私、明日から二日間の遠征任務なんですよぉ」

「余計寝なきゃダメじゃない」

「睡眠時間は短くていいタイプなんで。今日のうちにアイデア固めておきたいし」

 そう言って夕張はこちらを見た。隠れようとも思ったが、今更逃げる訳にもいかず、挙動不審になりながらも、こんばんは、と消え入るような声で挨拶した。

「曙じゃない!」

 明石さんもこちらを見た。少し驚いた様子だったが、すぐに優しい笑顔を浮かべ、久し振りだね、と言った。

「お、お久しぶりです」

「入りなよ。夜は冷えるから」

 失礼します、とこれまた消え入りそうな声で応答した。

 工廠の天井は広く、足音は軽く反響していた。デスクや棚にはあらゆる工作機械が並べられ、大掛かりな機械に吊るされた艤装もいくつか見えた。

 私がどう話を切り出したらいいのか判らず困っていると、明石さんは優しい笑顔のまま、こう言った。

「曙も修理? どこが壊れてる?」

 私は、どこが壊れているのだろう。

 それは多分、心が。

 そう言いかけたその時、夕張が椅子のバランスを崩して後方に倒れていくのが見えた。両手で空気を掻くのも虚しく、工廠中に大きな音を轟かせながら倒れた夕張を見て、私と明石さんは笑った。

 とても久しぶりの感覚だった。

「いったぁ! 曙も何笑ってんのよ!」

「そんな馬鹿なことしてないで、ほら、机を片付けて。お茶淹れてくるから」

「お茶? あぁ、今日はもう終わりなんですね!」

「せっかく曙が来たんだから、それはまた今度出来るでしょう?」

 お茶は何が残ってたかな、と言って明石さんは工廠の奥へと進んでいった。

 夕張は不満げな顔をしたが、まぁそれもそうか、と言って腰をさすりながら立ち上がった。

「曙も手伝ってよ。あ、それは火薬だから気をつけてね」

 そう言って夕張は、ニヤリと笑った。

「火薬? 何をしているの?」

「興味ある?」

 夕張は目を輝かせた。

「私はね、火力が欲しいのよ。火力が」

「大和さんみたいな?」

「そう。大和さんみたいな。でも、私たちは四十六センチなんて積めないでしょ? 積んだら動けないし、撃ったらひっくり返っちゃうし。だから、連射速度を高めようと思ったんだけど、それは何か普通でマトモすぎるでしょ? 嫌だなって」

 普通で真面(まとも)なことが何故いけないのかわからないし、火力が高まればそれでいいんじゃないかとも思ったが、それは夕張の美学に反するのだろう。私は火薬には触れずに、工具を箱に戻しつつ聞いた。

「そこで私は、砲弾を散弾にすることを思いついたの!」

「散弾」

「そう、散弾」

「あの、猟銃的な」

「その猟銃的な」

 それはどうなんだろう。

「制圧力、ヤバそうじゃない?」

「ヤバそうって言っても、そもそもそんなに近距離で戦うことなくない?」

「ないけど」

 認めるんだ。そこは。

「だったら、意味ないじゃない」

 夕張は、何故かとても嬉しそうな顔をした。

「わかってないなぁ曙は。ロマンだよ、ロマン。格好いいでしょ散弾って。当たれば凄いんですっていう感じとか、ショットガンって響きがさ。あ、でも砲だからガンではないのかな。何て言うんだろ」

「カノン」

「カノン? 砲ってカノンって言うの? んじゃ、ショットカノン? ショットカノン! 何それ、凄く格好良い!」

 テンションの上がった夕張の手から、火薬がポロポロと零れ落ちた。

 危ないな。この工廠。

「火薬落ちてるよ」

「その名前貰っていい?」

「いいよ。いいから、火薬が」

 ショットカノン、と呟きながら、夕張は卓上の火薬を集めて木箱に戻した。

「それで、出来たの」

「何が?」

「その、ショットカノン」

「全然」

 全然なんだ。

「シェルは作ったんだけどね。砲身から何から新しく作らないといけなくて、これがなかなか資材を使いそうなんだよね。おかげで全く提督の許可が下りない」

「そりゃそうでしょうよ」

「だから、今は別の開発を進めてるんだ」

 そう言って夕張は、机上に置いてあったスケッチブックを開いた。

 それは、とても微妙にセンスのない絵だった。

 ページの真ん中あたりに海面が描かれており、水上にいる夕張であろう艦娘が、水中の潜水艦に散弾を発射している場面を描いたらしく、潜水艦には吹き出しで「痛いでち」と書かれていた。全く下手という訳でもないが、ゴーヤなのは台詞で漸く確認出来るという半端さだった。

「何これ」

「何って、今開発を進めてる新装備」

「わからないな」

「何でわからないのよ。このままじゃないの」

 何がこのままなのか理解出来ずに固まっていると、もう仕方ないなぁ、と言って夕張は溜息をついた。

「だから、ショットカノンの対潜水艦バージョンよ。主砲の代わりに、爆雷を散弾にするの」

「爆雷を、散弾に」

「そう。一つの大きな爆雷を投射するより、何個も小さな爆雷を落とす方が潜水艦には有効だと思わない?」

 それは、いいかもしれない。

「でもこの爆雷、主砲から発射されてる」

「絵のことはいいのよ」

「何でゴーヤなの?」

「ゴーヤにアイデアの感想を聞いたから。凄く嫌でち、だってさ」

 自分を攻撃する装備の感想なのだから、当然の評価のような気もした。

「そうだ。完成したら、曙に一番に使わせてあげるよ」

 私が、一番に。

 そんな機会があるのだろうか。

 ないような気がする。

 戦場に出るどころか、もう、海にさえも。

 そんな私の気持ちを察してか、夕張は、ショットカノンも一緒に、と付け足した。おかげで私は、少しだけ微笑むことが出来た。

「夕張何やってんの? また資材と時間の無駄遣いの話?」

 明石さんがお盆に湯呑みを乗せて戻って来た。

「酷い言いようですね。画期的で天才的な革新的新装備の話です!」

「やっぱりそうじゃない」

「全然違いますよ。ってこの香り、これ紅茶じゃないですか!」

「そうよ。ちょうど金剛さんに貰ったのがあったから」

「いやいや、湯呑みでですか」

「変わらないわよ。味なんて」

 そう言いながら、明石さんはお盆を机に置いた。

 思ったよりも大雑把な人である。

「大体、こんな時間に紅茶なんて飲んで大丈夫なんですか?」

「問題ないわよ。私は朝まで作業があるし、どうせ夕張も寝ないんでしょう?」

 曙は、と言って夕張がこちらを見た。

「私は、さっき起きたばかりなので」

「ほら、大丈夫じゃない。飲みながらゆっくり休憩しましょう。美味(おい)しいわよきっと。金剛さんがくれたんだから」

()(あか)ですもんね。金剛さん」

 夕張がよく解らない根拠をお茶に付与したところで、私達は湯呑みに口をつけた。

 美味しいけど何か変な感じ、と夕張は困ったような顔をした。

「明石さんは、いつも夜遅くまで?」

「そうね。大体朝まで。出撃なんかしなくたって、みんな訓練や演習で小さな傷の一つや二つ付けて帰ってくるでしょ? 私の手に負えない大きな修理でも、その後の調整やなんやでなかなか忙しいのよ」

 夕張が変なことしないか見張ってなきゃならないし、と言って明石さんは夕張を見る。

「何が変なことですか。私は本気でやってるんですから」

 話を聞いた限り、自分の趣味の世界を満たすためとしか思えなかったが。

 私と明石さんが疑いの視線を向けていると、夕張は何ですか、と言いながら紅茶をすすった。

「そ、そりゃ、こういうことで自己表現というか、自分の趣味というか、道楽でやってる部分も当然ありますけどね。ほ、本当に思ってるんですよ! 私の作った装備で、鎮守府のみんながもっと楽に戦えるようにならないかなって!」

 明石さんが笑う。

「何が可笑しいんですか!」

「ごめんごめん。そういうことじゃないのよ。曙は聞いた? 夕張が新しい爆雷を作ってる理由」

「ちょ、ちょっと明石さん!」

「ショットカノンに、挫折したからではないんですか?」

 明石さんは首を横に振る。

「あなたが、潜水艦にやられたからよ」

 夕張は赤面して、もう! と言ってそっぽを向く。

「曙が大破したって聞いて、いてもたってもいられなくなったのよ。大破が出たのも久し振りだったからね。夕張も動揺してたのかもしれないけど。挙げ句の果てには提督室にまで怒鳴り込みに行ったのよ。対潜装備の開発と充実が急務だって。そんなの、提督だって解ってるに決まってるのにね」

 夕張は恥ずかしそうに目を伏せる。

 夕張が、私のために。

 知らなかった。考えもしなかった。

 私は一人だと、ずっと思っていたのに。

「な、何よ」

 ありがとう、と言わねばならないと思った。しかし、私も嬉しかったり恥ずかしかったり情けなかったりして、よく判らなくなって黙って俯いてしまった。

「曙、今日は何か話があって来たんじゃないの?」

「あ、その」

 俯いたまま頰を掻く。

「言いなさいよ。私だけ恥ずかしいことバラされて。不公平じゃない」

 こういうことに公平も不公平もないような気がしたが、話すなら今しかないと思った。

 

 艤装とは──。

 

「明石さん、艤装って、何なのですか」

「道具」

 道具。即答された。

「だってそうでしょう。機械って言い直してもいいけど、機械も道具だし」

「明石さんは変なところでドライですね。曙が聞きたいのはそういうことじゃなくて、工作艦明石にとって艤装とは、みたいな、人生です、みたいな。そうでしょ?」

 違うけども。

 明石さんは少し微笑んで、工廠の奥に吊られている艤装を指差した。

「曙、あれなんだと思う?」

「あ、綾波の艤装です」

「うん、そう。あれは綾波の艤装。綾波、じゃないよ」

 全て見透かされていた。

「ふぇ。どういうこと?」

「夕張、あれが綾波に見える?」

「いえ、全く」

「そういうことよ」

 はぁ、と生返事をして夕張は湯飲みを口に運ぶ。

「悩んじゃうのもわかるけどね。曙は今、疲れちゃってるだけよ。考えてもいいことない」

「すみません。全然話がわからないんですけど」

 夕張は鈍感ね、と明石さんは笑った。

「私が話していいのかわからないけど、要するに、艤装を装備して戦えない自分に何の価値があるのかって思っちゃってるのよね。自分は空っぽなんだから、艤装こそが本体なんじゃないのか、艤装こそが本来の自分じゃないのかって。間違えてない?」

 黙って頷く。

「え、あぁ、そういうこと!」

 そう言って夕張は、強めに湯飲みを卓上に置いた。

「価値なんてくだらないこと言わないでよ! アンタは仲間じゃん。掛け替えのない私の仲間じゃん! 掛け替えがないんだから、無意味とか無価値とか、そんな話じゃないじゃん!」

 夕張が大声でまくし立てる。言った後で恥ずかしくなったのか、尻すぼみになりながら、勘弁してよね、と言った。

「曙、私は別にあなたがもう海に出なくたって何だっていいと思ってるよ。私はこの姿で戦ったことがないから、攻撃される恐怖も、攻撃する恐怖も知らない。曙の辛さも解ってあげられない。あなたを責めることなんて、絶対にしない。だから、こうしてたまに元気な顔を見せてくれれば私はそれで嬉しい」

 だけどね──と明石さんは続ける。

「自分が一人だなんて、絶対に思わないでね。夕張が不器用な形で、曙のことを考えていたのと同じように、鎮守府のみんながあなたのことを思ってる。艤装なら私がいつでも直してあげる。海に出ないなら、たまに私のところへ来て頂戴。手伝ってもらうことがいっぱいあるんだから」

 視界が滲んでいく。

 艤装のない私なんて。

 

 いや──。

 

「艤装のない私でも」

「当たり前じゃない」

「何の役にも立たない」

「そんなことない」

 現に今、曙がいて私と夕張は嬉しい、と明石さんは言った。

 涙が零れる。

 私は、ここにいても許されるのか。

「焦らないで。あなたは今、艤装を装備出来ないんじゃなくて、装備したくないだけなんだと思う。そのうち自然と海にも出られるようになる。だから、大丈夫」

 焦らないで、と明石さんは繰り返す。

 涙が止まらなかったので、俯いたまま明石さんと夕張の手を握った。

 二人の手は、とても温かかった。

「どうしたの?」

「あ、あり、がとう」

 言葉が詰まる。

 もう一度、ありがとう、と言ったところで感情が抑えられなくなって、泣き叫びながら夕張に抱きついた。

「ちょ、ちょっと曙! 鼻水っ!」

 私は引き離そうとする夕張にしがみ付いて、涙や鼻水、そして涎が入り混じった(おぞ)ましい混合液を擦り付けていた。

 

 多分、明石さんは笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三話『食堂の章』

 

 

 

 

 

 

 早朝四時半。

 私は、割烹着に三角巾、そしてマスクという完全装備で食堂を目指していた。

 朝の麗らかな陽射しとはいえ私には辛い。このところずっと屋内で過ごしていたし、この間久し振りに外出したのも深夜だった。

 息が苦しいのでマスクは外してしまいたかったが、少しでも露出面積を少なくしたいという気持ちが勝っていた。

 このような気分を体験すると、自分がいかに閉じ篭っていたかを実感する。

 マスクは、外出しなければならないとする私と、こんな爽やかな空の下を歩くのは(はばか)られるとする私の(せっ)(ちゅう)案だ。

 色々と手続きが必要な、面倒臭い艦娘になったものだ。

 食堂のある庁舎までもう少しの辛抱だと、自分に言い聞かせるように深呼吸したその時、前方に人影を確認した。

 それは、ランニングをしている長良(ながら)だった。

 朝からトレーニングに励んでいることは知っていたが、こんな時間から走っているのか。

 バレないように目線を下げる。何も悪いことはしていないのだが、何故だかとても後ろめたい。

「おはようございます!」

 すれ違いざま元気よく挨拶をする長良に会釈をして応える。おはようございます、と発したつもりだったが、声が弱すぎてマスクに全て吸収された。

「あれ?」

 やり過ごしたと思いきや、長良は後退し足踏みをしたまま私の顔を覗く。

 目線が挙動不審になり鼓動が早くなる。訳が判らなくなって、右手で顔を隠しつつ、どうもと言ってまた頭を下げた。

 二、三歩の沈黙の後──。

「あ、あけぼのっ!」

 長良に叫ばれた瞬間、私は全速力で走り出していた。

 

 

 庁舎のエントランスホールで、私は息も絶え絶えに冷水機の水を飲んでいる。

 とにかく息が苦しい。マスクなどしている場合ではない。

 冷水機のペダルを踏んでいる右足が痙攣する。

 情けない。

 少し走ったくらいじゃないかと自分に呆れる一方で、追いかけてきた長良にも多少腹が立っていた。長良が追跡を諦めたタイミングはよく覚えていないが、多分、百メートルは追いかけられた。

 私は全力で走っていたのに、長良は私の名前を呼びながら、余裕を残しつつ併走していたのである。

 こんな朝から。

 私がちゃんと事情を説明していればそれで良かったのだけど。

 他人と話す準備が出来ていなかったのだ。そんなことに準備が必要になるなんて、これも空白の三ヶ月間の成果だろう。

 水を飲み終えて床に座り込む。もう帰りたいと思ったが、明石さんの工廠を訪れた時にもこんなことを考えていたことを思い出して、小さな自己嫌悪の波に襲われる。

 もうここまで来てしまったし、これで帰ったら今日は長良に不審な格好で歩いていたところを発見されただけで終わるので、多少身を奮い立たせても食堂に辿り着かなければ決意との採算が合わない。

 それでも、今までの生活よりは随分とマシなものだろうが。

 私は自虐的に少し笑って、何とか立ち上がり食堂へ向かった。

 

 食堂はこの庁舎の東側に新設された。以前は二階の西側だったから逆方向である。

 私が元気だった頃から食堂の移設工事は始まっていた。旧食堂の座席数をしっかりと数えたことはないが、多分座れて五十名だろう。

 総員数は当時で百名を超えていたから半分も収容できない。遠征や演習、訓練などそれぞれ当番があるので、同じ時間に全員が集中することはないのだけど、それでもかなり窮屈だった。廊下に席を設けるなどして対応していたのだが、見た目も悪いし、こと食に関することは士気に直接影響するという判断で工事が決まったのである。

 移設が決まって一番喜んでいたのは意外にも青葉(あおば)だった。旧食堂のスペースは青葉新聞の編集部として使用して良いとの許可が下りたからである。

 報せを受けた青葉が狂喜していたのを私はよく覚えている。

 そういえば青葉新聞もしばらく読んでいない。記事の内容はゴシップ寄りだったが、その日の担務表が載っていたので結構便利だったのだ。毎週火曜日と金曜日に掲載される秋雲(あきぐも)の四コマも楽しみだったし。

 十九世紀のアメリカのゴールドラッシュで一攫千金を夢見る日本人を描いた『定吉ラッシュ』というタイトルの作品で、これがなかなか侮れない。

 時々四コマ目で敢えて落とさないのがたまらなくツボだった。定吉がジョン万次郎と偶然出会ったところを最後に私は読んでいないのだが、定吉は今頃どうなっているのだろうか。

 

 そんなことを考えているうちに、新しい食堂の入り口に到着した。

 準備中と書かれた看板を擦り抜けて中に入る。

 そこで、私は思わず息をのんだ。

 落ち着いた焦茶色を基調としたホールは吹き抜け構造で、百名どころか二百名を収容しても余裕がある程の広さだった。中庭に面した曲面はガラス張りで、朝日を柔らかく反射する緑が見える。軍の施設というより、リゾート地の高級宿泊施設だ。

 私はただただ圧倒されて、すごい、と呟いた。

 皆はこんな場所で食事をしていたのかと思うと、何だか悔しいような気持ちになった。

 閉じ篭っていた自分が悪いのだけど。

 それは解っているのだが。

 口をだらしなく半開きにしながら、中空を見上げ呆然としている自分に気がついて、頰を叩いて気合いを入れ直す。食堂内を散策してみたいとも思ったが、それではいけないのだ。それは後からでも出来る、と決意を新たにして厨房を探す。

 辺りを見回すと、二階席の下、開店前の酒保の横にカウンターが見えたので、その奥が厨房なのだろう。

 私は軽く息を吐いてから、歩幅も広くそちらへ向かった。

 近づくにつれ、コーンスープの甘い匂いが鼻腔に侵入して来る。

 今日の朝食Bのメニューだろう。ちなみに、Aが和食でBが洋食だ。定食は朝昼夜それぞれこの二種類しかないが、毎日献立は変わるし、麺類やサイドメニューもそこそこ豊富なので艦娘達からの不満もない。

 大体、百名を超える艦娘の食事をたった二人の給糧艦が賄っているのである。その労働量たるや推して知るべしである。感謝こそすれ不満の出ようはずもない。

 私達にも食堂当番という重要な任務があるのだが、二人の補助や、食堂の新設に伴って明石(あかし)さんの工廠から食堂に移ってきた酒保の管理をするだけで、二人の代わりには到底なれない。

 偉大なのだ。彼女達は。

 多分、第一艦隊の旗艦を長く務める長門(ながと)や、我々艦娘の象徴たる大和(やまと)さんよりも。

 何処の世界でも食堂のおばちゃんは強いのである。

 おばちゃん、というのは二人に失礼かもしれないが。

 

 厨房に足を踏み入れる。

 私は少し緊張していた。明石さんの工廠を訪れた時もそうだったが、今や私は立派なストレンジャーだ。

 伊良湖さんの後姿が見える。しゃがんで火力の調節をしているようだった。

「お、おはようございます」

 ぎこちのない挨拶だと、我ながら思う。

「おはようございます」

 しゃがんだまま、笑顔でこちらを振り向く伊良湖(いらこ)さんの表情が一変する。

「あ、曙さん!」

 私は照れながら、どうも、と言ってまた頭を下げた。

「ま、間宮(まみや)さん! ちょっと、間宮さん!」

 伊良湖さんは立ち上がって、奥に向かって間宮さんを呼んだ。こちらを指差し、足踏みしつつ少し跳んだりしている。

 そんなに大ごとなんだ。

 顔を見せただけでこれだけ反応されると、何だかこそばゆい気持ちになる。

 伊良湖ちゃん何かあった、という声が聞こえてすぐに顔を覗かせた間宮さんと目が合う。

 私は苦笑して会釈をする。

「どうしたの!」

 間宮さんも伊良湖さんと同様、とても驚いた様子だった。

 まるで家出娘が帰って来たみたいだ。私は家を出なくて困っていたのだけど。

 間宮さんは駆け寄ってきて、両手で私の頬に触れた。

「曙ちゃん、大丈夫なの! 体は良いの!」

「えぇ、まぁ」

「あら、汗かいてるじゃない! 具合悪いの?」

 それは長良のせいである。

「大丈夫です。さっきちょっと走ったので」

「そう、良かった。外に出られるようになったのね!」

 良かった良かったと繰り返して、間宮さんは私の頬をつねって左右に広げる。

 ふぁりがとうごあいます、と私は言った。

「本当に良かったですね。それにしても、今日はどうしたんです? そんな格好して」

「あら本当。食堂当番みたいじゃない」

 間宮さんは頬から手を離して、しげしげと私の服装を見る。

「えぇ、と。その」

 私は二人から目線を外して頬を掻いた。

 お手伝いさせて下さい、という言葉がすんなり出ない。

 格好も格好だからほぼバレてはいるのだろうが、何だかとても恥ずかしいような、図々しいような複雑な気分だ。

 というのも、食堂の手伝いをするという元々の発想が、私のものではないからである。

 

 

 明石さんの工廠を訪れて散々泣き腫らした夜に、私は工作艦になるという決意を固めていたのである。

 実際その場で宣言もした。弟子にしてください、とも言った。

 そうなったら夕張は私の兄弟子になるのだろうか、いや、夕張は軽巡のままなのだから本格的な弟子ではないはずであり、よって私が一番弟子である、というようなよく判らない想像もした。

 それを聞いた明石さんは大層喜んでくれて、私を思い切り抱きしめてくれたのだが。

 結果、断られた。

 もう少し待って秋になっても海に出ることが叶わないのなら、その時また考えようと言われたのである。

 私はすぐにでもスパナを持ってボルトを締めたかったので、何だかお預けをくらった心持ちだったが、師匠がそう言うのなら仕方がないし、そもそも迷惑をかけた関係各所への挨拶は済んでいるのか、とも言われた。

 潮と漣、朧の三人の顔が頭に浮かんだ。

 しかし、合わせる顔がないと思った。

 その事を明石さんに言うと、じゃあ顔を合わせられるようになってからだね、と言われた。

 確かにその通りなのだが。

 本当に、どんな顔をして会えばいいのか判らないのである。

 潮には、あんな酷いこともしてしまったし。

 その時の私は相当に憂鬱な顔をしていたのだろう。明石さんは考えなくていい、自然体でいい、と言ってくれた。続けて明石さんはこう言った。工廠は時々でいいから、曙の出来る範囲でいいから、他所(よそ)を手伝いなさい、例えば──。

 

 ──食堂とか。

 

 私は多分、憂鬱な表情から苦虫を噛み潰したような表情に変わった。

 食堂がどれだけ大変かは当番をこなすことで理解していたつもりだし、間宮さんと伊良湖さんの力になれるのならそんな嬉しいことはないとも思ったのだが、如何(いかん)せん閉じ篭るようになってからというもの、「食べ物」が苦手になったのである。

 臭いで具合が悪くなるし、酷い時には見ただけで気分が悪くなった。

 食堂手伝いということは、料理される前の「食べ物」とも対峙しなければならず、それは今の私が耐え得るものだろうか。

 明石さんはそんな逡巡を知ってか知らでか、いいから行きなさい! と抜群の笑顔で私の背中を叩いた。

 あんな笑顔で背中を押されると、何でも出来そうな気になってしまうのが不思議である。

 

 私が食堂にいるのは、そんな経緯だ。

 

 言葉に詰まったまま、二人に目線を戻す。

「ほら、言ってみなさいよ」

 間宮さんはニヤけながらそう言った。

「間宮さん、そんな意地悪しなくても」

「伊良湖ちゃん失礼ね。意地悪でも何でもないわよ。何だって伝えないと伝わらないんだから」

 伊良湖さんがこちらを見て苦笑した。

 私は観念して話そうと思ったのだが、口が「お」を発声する形のまま一、二秒固まった。

 往生際が悪い。

「──お、お手伝いさせて下さい」

 そう言うと、間宮さんは満面の笑みを浮かべて私を抱き締め、頭を撫でながら偉い偉い、と繰り返した。

 照れる。

「助かります。有難う、曙さん」

「そうと決まればどーんとやってもらうわよ。曙ちゃんが残したご飯見て、どれだけ心配したことか──」

 その言葉を聞いて、ほぼ毎食残していたことに気がつく。

 先日、潮が持ってきた二人分の夕食も手をつけなかった。

 もしかしたら、私は想像以上に他人を傷つけていたのかもしれない。

「その分、返してもらうんだから」

「す、すみませんでした」

「いいのよ。さぁてと、何をやってもらおうかなーって、そういえばみんなはどうしたの?」

「みんな?」

 二人がきょとんとする。私もきょとんとした。

「当番で来たんでしょ?」

「とうばん?」

 鸚鵡返ししかしていない。

「もしかして、曙さん知らないで来たんですか?」

 二人は何を言っているのだろう。

 脳が高速で回転を始める。

 

 

 ──みんな。

 ──知らないで来た。

 

 

 一つ思い当たる節がある。

 しかし、それは結構最悪だ。それは本当に結構最悪だから、そんな真逆(まさか)があっていい訳がない、と思っていたら後方から声がした。

 悪い予感はあたるものである。

「おっはよーございます」

 振り返り背後を見る。

 そこにいたのは、漣と朧だった。

 今日の食堂当番は七駆だったのか。

 血の気が引いて軽く目眩がした。

「あぁ! あけぼのっ!」

 私は咄嗟に逃亡を図ったが、その経路を朧がカバーリングして塞ぐ。キッチンの台を挟んで朧と私は対峙した。

「何やってんのよ! こんなところで!」

「私の勝手じゃない!」

 軽く右側にフェイントを入れたが、朧は引っ掛からない。

 重心を低く保ち、私の目線を注視している。

 本気だ。

「勝手って。どんだけ勝手すれば気がすむのよ!」

「知らないわよ! いいから通して!」

 一瞬、朧の重心が左足に乗ったので、その隙を突き左サイドへの突破を試みたのだが、朧は戦闘中でも見たことのないような瞬発力を見せて、私の行く手を阻む。

 急制動に床が鳴り、台の上の調理器具も音を立てて揺れる。

 危ない。朧のフェイクに引っ掛かるところだった。

「絶対逃がさないから」

 目を逸らしたら負ける。

 朧と睨み合いながら、ステップを踏み台の中心へとポジションを戻そうとしたその時。

「漣をお忘れですかぁ」

 そうだ、こいつも居たのだ。

 不意を突かれた私は右側から強烈なタックルを喰らって倒れる。そのままマウントをとられて両手を押さえつけられた。

 照明を遮って漣は不気味に笑う。

「おかえりぃ、あけぼの」

 私は声を張り上げて抵抗する。

 左手が外れたと思ったその瞬間、援軍に駆けつけた朧にアームロックを決められ勝敗は喫した。

「逃げられると思ったの!」

「私たち、しつこいから」

 肘がみしり、と音を立てる。込み上げる悔しさに、私が「畜生!」と叫ぶと──。

「あなたたち、何やってるの?」

 とても静かな、しかし強烈な怒気の籠った間宮さんの声がした。

 まるで号令が掛かったように、私達は素早く整列した。

「ここ──食事を作るところなんだけど」

 恐いなんてものじゃない。

「すみませんでした!」

 私達は多分、もの凄く綺麗な角度で頭を下げていた。

 横の漣は指先を伸ばしすぎたせいで、指が外側に()ねていた。

 ひよこか。

 

 三人並んでジャガイモの皮を黙々と剥く。

 叱られた後は、何時だってバツが悪い。

 食べ物と向き合うことを不安に思っていたが、あまり嫌な気分はしない。

 芋は生き物ではないからだろうか。

「あのさ──」

 剥いた芋をごろんとボールに投げ入れて漣が言う。

「一心不乱におジャガを剥くのはいいんだけどもさ。曙、アンタ私達に何か言うことあるでしょ」

「悪かったわよ」

「私、割とマジで怒ってる。何で秘密にしなきゃいけないのよ」

「だから悪かったって。私だってまだ自分の調子をよく解ってないの」

「でも、一番に私達のところ来て欲しかったなぁ」

「心配したよね」

「ねえ?」

「タイミングが無かったの!」

「あ、出た出た。デレのフリが出ましたよぉ」

「ツンだね。懐かしい」

「あんた達本当に怒ってるの! 巫山戯(ふざけ)てるの!」

「巫山戯ながら怒ってるの」

「私は怒りながら巫山戯てる」

 肩の力が抜ける。確かにこの感覚は懐かしい。漣に(もてあそ)ばれている感じと、あくまで真面目にそれに乗る朧の感じ。朧は真剣に天然で乗ってくるから、ぞんざいに怒れないこの感じ。

 疲れるようで、落ち着くような、不思議な感覚だ。

「ごめん。本当にごめん、許してよ。分かるでしょ? その、近いから逆に、みたいな」

「全然解らないっす」

「私も」

 こいつら。

「だから、一番心配かけて迷惑かけた一番大事な仲間だから、なかなか会い辛いっていうの解るでしょって!」

 漣がニヤリと笑う。

「何て? 一番、何て?」

「心配かけたなって」

「その次だよ」

 右も左も敵だ。

 両舷から二人に見つめられる。

 やっぱりこいつらムカつくかもしれない。

「一番、大事な仲間でしょ!」

 漣がフーと声をあげて外国人みたいなリアクションをした。

 朧は冷静に、恥ずかしいと言う。

 悪魔か。

「まぁまぁ、とりあえずはそれでいいか。朧はどう?」

「許すよ」

 許してもらったらしい。

「で、今日から帰ってくんの?」

「帰るって、何処に」

「部屋に」

 あぁ、忘れていた。私達は四人部屋で文字通り寝食を共にしていたのだった。

 しかし──。

 私はまだ皆と同じ任務をこなすことは出来ないし、正直、七駆に復帰することは無理なのではないかと思っている。

 こうして一緒にジャガイモの皮を剥くのが精一杯なのだから、海に出ることなど。

 ましてや戦闘など──。

「まだ、無理かな。戻りたいけど、お互いのためにも別の方がいいよ」

 工作艦への艦種変更を考えていることは黙っていた方がいいと思った。

「待ってるよ」

「早く戻って来てね」

 作業を続けながら二人は言う。

 二人は、私が戻らない可能性を考慮しているのだろうか。

 いや、多分していないのだろう。私が遠くない未来に必ず復帰すると、信じて疑っていない。

 この信頼を私はどう受け止めたらいいのだ。

「それにしても寂しいんだよなぁ。今は朧と二人だもんねぇ」

「ねえ」

 朧と二人。

 潮は。

 そういえば潮はどうした。

「潮は? 風邪でも引いたの?」

「ほい? 風邪は引いてないと思うけど」

「じゃあ、何でいないのよ」

「何言ってんの。作戦行動中だからに決まってるでしょ」

 朧の言葉が頭の中で意味を成すのに時間が掛かった。

 作戦行動とは何だ。

「何よ、それ」

 漣は少し考え込んで、訝しげに私を見る。

「もしかして、潮から聞いてない?」

「何を」

「やっぱり。あの子言ってないんだ。あの時、潮ちょっと変だったもん」

「何のことよ!」

 色々とこじれてるなぁと漣は言う。

 

 

「あのね、あの子第一艦隊に編入されたの」

 

 

 第一艦隊。

 潮が──。

「本当に聞いてないの?」

 聞いていない。

 何の話だ。

「正式に決まったのっていつだっけ?」

「えーと、一昨日だったかな。んで、出撃が昨日の朝」

 目眩がして倒れそうになる身体を、右足を半歩下げて支えた。

 私の知らないところで、一体何がどうなっているのだ。

「だって潮が最終的に決めたのって曙の部屋行ってからじゃん。それまで散々悩んでたのにさ」

「だから、あの時潮ちょっと元気なかったもの。その事で喧嘩でもしちゃったのかなーって思ってたんだけど、真逆言ってないとはねぇ」

 

 ──相談が。

 

 相談とは──そのことだったのか。

 

「七駆離れたくないって煩瑣かったのに。曙、部屋で何があったのよ」

 二人が作業を止めこちらを見る。

 私は、あの日相談に来た潮を怒鳴り散らして追い返したことを話した。

 それを聞いた漣と朧は同時にため息をついた。

「何でそうなるかなぁ」

「反省してるわよ」

「とりあえず潮が帰って来たら仲直りしないとね」

「いつ戻ってくるの?」

「二週間くらいだっけ。十日?」

「予定では十日間だね」

「潮、大丈夫だよね?」

 急に不安になった。

「大丈夫でしょ。第一艦隊だよ? ウチの精鋭だよ」

「よくよく考えたら、潮凄いな」

「差をつけられちゃったなぁ」

 漣は何故か嬉しそうに言った。

 元々、潮は極端に自信がないだけで、センスで言えば七駆で一番なのである。

 それに比べて私は、といつしか癖になってしまったネガティヴな思考に陥るところだったので、頭を軽く振ってそれを振り払った。

 今は、この芋でサラダを作ることが私の仕事なのである。

「次茹でるんだっけ? おジャガは鍋に入れていいの?」

 朧が言う。さっきも少し気になったのだが「おジャガ」という呼び方は今の七駆の流行りなのか。

「まだ水じゃん」

「もう入れていいんだよ。確か」

 私も自信はない。

「どうすんのさ? ジャンケン?」

 よーし、と漣が気合を入れて腕を捲ったので私は急ぎ制止した。

「待って待って! この二択をジャンケン任せにするのはマズイわよ」

「なんでさ」

「恨みっこなし、だもんね」

「いやいや、鎮守府全体から恨まれる可能性があるでしょうよ」

 ノリでやってしまってはいけないことがこの世には沢山ある。おジャガを茹でるタイミングもそのうちの一つだ。

 大体、エキスパートがすぐ近くにいるのだから。この場合。

「聞こうよ。間宮さんに」

 聞いてくる、と言って場を離れようとしたその時、漣に腕を掴まれる。

「一緒に行こうよぉ」

「一人でいいでしょうに」

「曙、もう単独行動はなしだよ」

 朧がもう片方の腕を掴んで言った。

 そんな大袈裟な、と途中まで言いかけて止まった。

 朧の顔は真剣だった。

 漣がにひひと笑う。

「もう逃げられないよぉ」

 観念して二人に従った。

 面倒だが不思議と心地が好い。

 

 私がどんなになっても、二人はこうして離さないでいてくれるだろうか。

 ここに潮がいれば、どんな顔をして笑っていただろう──。

 

 帰って来たら謝らなければならないなと、当たり前のことを思った。

 

 

            ※

 

 

 午後二時過ぎ。

 昼の混雑も落ち着き始めた頃、間宮さんから今日は上がっていいと言われた。

 私としては最後までやり抜きたかったのだが、初日から根を詰めてしまっては保たないからと伊良湖さんからも言われたので、二人の配慮に甘えて部屋に戻ることにした。

 漣と朧には、空いた時間を極力七駆で過ごすことを約束して別れを告げた。

 久し振りに会った割には、思った以上に自然に振る舞えたと思う。

 私の考え過ぎだったのかもしれない。二人には感謝せねばなるまい。

 しかし、潮のことが気がかりだった。

 潮の性格からして、今も不安でいっぱいだろう。

 不安でいっぱいなのに、それをひた隠しにして、必死に作戦を遂行しているに違いない。

 友人失格だな、と庁舎の外に出て空を見上げる。夏の陽射しが容赦なく私を襲った。

 足が重い。

 食堂当番で立ちっぱなしだったこともあろうが、考えてみれば今日の一日は長良に追いかけられたことから始まっていたのである。

 その後、漣と朧とも大立ち回りを演じたし。

「長良のやつ」

 と呟いて疲労の全てを長良のせいにしたその時。

 前方を走る人影を確認した。

「嘘でしょ」

 背中に悪寒が走った。

 向こうも私を確認して速度を上げる。

 

 ──それは長良だった。

 

 何故こんな時もトレーニングをしているのだ。

「あけぼのっ! 待ちなさいッ」

 長良が叫ぶと同時に私は百八十度回頭して、もはや逃げる理由も判らないままに全速力で走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四話『個人商店の章』

 

 

 

 

 

 陳列された本を前に、私はただただ呆然と立ち尽くしていた。

 どの本を手に取ろうかと迷い始めて、かれこれ一時間は経っているに違いない。

 思うに、この書店のディスプレイが良くないのである。

 基本、版元ごとに分類されてはいるのだが、作家名で五十音順にきっちり並んでいないし、純文学的なタイトルが続いているかと思えば、急に料理本が挟まっていたりする。それでは探索するこちらのリズムも崩れようというものである。

 まあ、手に取った後元の場所に戻さない不心得者も多いのだろうが。

 見たところ店の主人も立派な爺だから、直す気力もないのかもしれない。

 このままだと本を探しているだけで日が暮れる。そんな事態は何としても回避したい。

 

 気分を変えるため、店の奥の棚に移動する。

 そこには参考書や資格本が並んでいた。

 

 海に出られなくなった私には打って付けかもしれないが、今はそういう読書をしたい訳ではない。忘れかけていた未来への不安が押し寄せてきて、何だか鬱屈した気分になった。

 溜息を吐いて隣の棚を見る。

 全体的に何だか黒い。それは如何(いかが)わしい内容の小説群だった。

 恥ずかしさで顔が火照るのが判った。不潔である! という嫌悪感と同時に、何だかカロリーの高いそれらのタイトルに興味を唆られているのも事実だった。

 中腰の状態から、その本棚に手を伸ばしかけたその瞬間──。

「あー、給糧艦の曙だー」

 という何とも間延びした声が聞こえた。

 私は身体に電気を流されたかのように痙攣して、反射的に回転し後方を振り返った。

 そこにいたのは北上(きたかみ)だった。何故か半帽のヘルメットを被っている。

「な、何してんのよ北上!」

「奇遇だねー。あは、曙こそ何やってんの?」

 私の背後の棚を見て北上はニヤける。

「何もしてないわよ!」

「えー、だってそれエロいやつじゃーん。超エロいやつじゃーん」

「静かにしなさいよ!」

 そして二回も言うな。

「お子ちゃまはまだ読んじゃダメなんですよー」

 ケタケタと笑いながら北上は言った。

 何だか最近妙にツイてない気がする。それもこれもあの日潜水艦から魚雷を喰らったせいである。まあ、あれに関してはツイてるツイてない以前に死にかけたのだが。

「それにしても珍しいね、曙が本を探してるなんて。どういう風の吹き回しさ?」

 もの凄くバカにされた気がしたが、確かに本は読まないので反論出来ないのが情けないところである。

 北上の言う通り珍しいのだ。私が本屋にいることは。

 それも、酒保ではなく鎮守府外の個人書店に。

 

 

 食堂を手伝い始めて五日経った昨日、間宮さんから明日は非番だと告げられた。

 私は休みなどいらないと言ったのだが、しっかり休むのも仕事だと譲ってはくれなかったので仕方なく了解した。

 休みが嫌いな訳ではない。ただ、一人で休日をどう過ごせばいいのか判らなかったのである。

 潮は出撃中でいないし、漣と朧も今日は演習で夜までいない。

 鎮守府内をぶらつくのも、今は何だか恥ずかしいのである。

 毎日日替わりの食堂当番にいじられまくったのも影響しているのかもしれない。大破して三ヶ月閉じ篭っていた駆逐艦がひょっこり現れたら珍しいのも解るし、皆が本当に心配してくれていたのも痛いほど判って嬉しかったのだが。

 やはり何処か、恥ずかしいのである。

 注目して下さいと喧伝(けんでん)しているみたいじゃないか。完全なる自意識過剰なのだが。

 かと言って部屋で暇を潰すのも、思い出したくもない地獄のようなあの日々に戻ってしまいそうで、とてつもなく嫌だった。

 そういった消極的な理由で外出し、十分ほど歩いて目に付いたこの本屋に衝動的に入店した。

 読書は、こういった時間を潰すもののような気がしたし。

 

 そんな経緯は説明していられないので、

「いいじゃない、別に」

 とだけ言った。我ながら端折(はしょ)ったな、と思った。

 しかし、それを言うなら北上が本屋にいることだって珍しいのである。いつも大井(おおい)と一緒にいる印象しかない。

「北上も人のこと言えないでしょ。何だってこんなところにいるのよ」

「私はこの本屋に結構来るよ」

「嘘つきなさいよ」

「北上様は文学少女なんですよー」

「だから嘘つきなさいって」

「本当だよ。信用ないなー」

 少し()ねた様子で北上は言う。

 いつものように、のらりくらりと適当なことを言ってはぐらかしているのだろうと思ったのだが、この反応だと違うのかもしれない。

「北上が本当にブンガク少女だとして、何でこんな本屋に来るのよ。品揃えも良くないし」

 本が見つからない不満も乗せて北上へぶつける。

 店の親父さんに聞こえちゃうよ、と北上は笑った。

「近くに大きいショッピングモールあるでしょ。あそこに行けばいいのに」

「確かにあっちの方が揃ってるけどさ、何か趣がないよねぇ。それに近いって言うけど、地味に遠いんだよー。バイクで二十分近くかかるよ」

 ──バイク。それでヘルメットを被っているのか。

「でも、趣じゃ品揃えをカバー出来ないでしょ」

「この店ね、実は詩集が充実してるんだ」

 詩集。

 ほらこっち、と言って北上は角の棚に移動する。

「これ全部詩集だよ」

 確かに店舗のサイズと比べてこの占拠率はおかしい。

 私もこの棚に目を通していたはずなのだが、あまり記憶になかった。詩など私が読むものではないと最初(はな)から除外していたのかもしれない。

「個人商店って、何気に侘び寂びよねー」

 そう言って北上は本を手に取り、ぱらぱらと捲り始めた。

「え、っていうか北上は詩なんて読むの?」

「うん、読むよ」

 意外。すっごく。

「何で」

 私は身も蓋もない質問をした。

 北上は本に目を落としたまま少し考え込む。

「うーん、何だろうな。私たちのやってることと、対極にあるものって感じがするから──かな」

「私たちがやってること?」

「主砲をどーん、魚雷をばーん、みたいなさ」

 そう言って北上は微笑んだ。その微笑が微かな哀愁を含んでいるように見えたのは、私の気のせいだろうか。

「そういう真逆のものに触れることって、何か大事なことのような気がするんだよね」

 北上の意外な一面を見たような気がして、私は少しだけ動揺した。

 何となく見てはいけないもののような気がしたからだ。

 正気の沙汰ではない魚雷の搭載数と、それによって叩き出される圧倒的な火力からは想像もつかないようなふわふわした性格こそが北上であり、まさに掴み所がないという言葉がぴたりと嵌るのが北上なのだ。

 そんな北上の──掴み所に触れてしまったようで。

 大井はこの一面を知っているのだろうかと、よく判らないことを考えてしまった。

「私はこれ買うよ。曙は何も買わないの?」

 北上が本を閉じて言う。

「べ、別に関係ないじゃない」

「あ、さっきのエロいやつ買うんだ。先に出てった方がいいかねえ」

「買わないわよ! うっさいな!」

 自分でも顔が赤くなっているのが判る。

 そんなに怒らないでよ、と北上は笑った。

「迷ってるんだったら、曙も詩を読んでみたら?」

 詩──。

「え、わ、私には解らないし、似合わないわよ」

「そんなこと言うんだったら、元々読書自体が似合わないよ」

「北上もでしょ!」

「いいからいいから」

 そう言って北上は一冊の詩集を私に手渡した。

 何だか表紙からして難しそうである。白黒のあからさまに古い写真と控え目な解説文。教科書で見たような見なかったような、そんな詩人の名前。

「私には、本当に解らないよ」

 こうして北上に渡されなかったら、多分一生手に取ることのなかった種類の本だ。

「わからなくていいんだよ。全然──わからなくていい」

「どうして? 解らなかったら、面白くないじゃない」

「私が今言ったことの意味も解らなくていい」

「どういうこと?」

 北上は私から本を取り上げて、買ったげる! と言ってレジに向かって歩き出した。

「いいわよ! 私なんて本当に解らないんだから!」

「いいんだってー。可愛い給糧艦が読書しようって言うんだから、北上様奮発しちゃうぞー」

「奮発ってそんな高くないでしょうが! わ、私そんなことされたって読まないんだから!」

「あはは。給糧艦を否定しないねー」

「一応まだ駆逐艦よ!」

 私はそう言って一足先に店を出た。

 密度の高い空気が私の身体を包む。

 

 暑い──。

 

 店の前には、北上が乗って来たであろうバイクが停めてあった。郵便新聞出前の配達でよく見る型のバイクだ。

 私は、(おもむろ)にそのシートに座って溜息を吐く。

 何だかリズムを崩される。

 まぁ、元々北上とはそういう感じだから仕方ないのだが。

 漣と似ている部分もあるが少し違う。漣は敢えてそうしていることが多いのだが、北上は多分ほぼ天然であのノリだ。漣の場合、根っこは私たちと同じところにあるのが判るのである。

 以前朧が北上を評して「人間がでかい」と呟いたことがあったのだが、当たらずと(いえど)も遠からずであろう。

 焦点の定まらない目で揺れる舗装路を見ているうちに、店の戸が開いて北上が出てきた。

「おまたせー」

「待ってないわよ」

「拗ねちゃって可愛いんだからさー」

「やめなさいよ」

 北上がヘルメットを脱いで髪を軽く整える。私はシートに腰掛けていたことに気づいてバイクを離れた。

「あ、いいのいいの。それよりさ、曙、付き合おうか」

「は?」

「この北上様に付き合おうか」

「だから、は?」

「むぅ。何か用事あった?」

「べ、別にないけど。何処か行くの?」

「ちょっと、いいとこさ」

 北上は何故か誇らしげにそう言うと、ミラーの根元であご紐を閉じヘルメットを掛けた。

「バイクは?」

「置いてく。もしかして乗りたい? 一応三十ノットくらい出るよ。主機が辛そうな音出すけど」

「結構よ」

 んじゃ歩いて行こうか、と言って北上は店の入り口に戻り戸を開ける。

「おじさん、バイク置いてっていい? 夕方頃には取りに来るからさ。──あ、ホントに? ありがとね!」

 こちらを振り返って北上は笑う。

 こんなに素直に笑う北上を見たのは初めてかもしれない。

 何だか私はまた動揺してしまって、少し照れた。

 

 

            ※

 

 

 十分ほど国道を歩いたところで北上は止まった。

「この坂道の上だよ」

 細い横道を見て北上は言う。

 結構な傾斜の坂である。私は露骨に嫌な顔をした。

「こんなところに何があるのよ」

「登ってからのお楽しみだよー」

 正直足が辛くて気が重い。

 それにしても、本当に何の変哲もない住宅街である。国道を挟んで後方にコンビニ、横は、小学校だろうか。坂の向こう側は道が緩く曲がっていて見えないのだが、ひたすら住宅が立ち並んでいるだけである。この先に何があるとも思えない。北上に案内されなければまず来ない場所だった。

「この校舎の中も坂になってたら面白いよね」

「そんな訳ないじゃない」

 敢えて冷たくあしらってみる。

 北上は笑う。

「何が面白いのよ」

「いやいや、大井っちと反応が全然違うからさ。何か可笑しくて」

「あのね、アンタ大井と一緒にいすぎなのよ。私の対応が普通なんだから。もっと他の艦娘と絡みなさいよ」

「あはは、曙に言われたくないな」

 確かに他人の事は言えないのである。

「わ、私はいいのよ。第七駆逐隊で行動するんだから。駆逐隊の中でコミュニケーションがとれていればいいの。北上は第一艦隊だ何だって忙しいんだから」

 自分で言っていて恥ずかしくなった。今まさに七駆の中でコミュニケーションがとれていない。

「あ、そうそう。阿武(あぶ)(くま)が気にしてたよ」

「何よ急に」

「いや、仲良いの誰かなーって考えてたら思い出した」

 北上の中で阿武隈は「仲が良い」という認識なのか。北上が阿武隈にちょっかいを出している様子を傍から見ている感じでは、本気で嫌がられているように思える。

「気にしてたって、何を」

「曙が大破した時の旗艦だったでしょ?」

 北上がこちらを振り向いて言った。

 確かにあの時の旗艦は阿武隈だったが、阿武隈に過失など全くない。むしろ、大破した私を抱えながらも艦隊をよく無事に帰投させたと称えられて良い。

 実際、見えない敵の恐怖にパニック寸前だった七駆を鼓舞し、冷静に指示を出して何とか艦隊行動を維持させたのは彼女である。

 阿武隈じゃなかったら私たちもやられていた、と漣、朧、潮の三人が口を揃えて言っていたのをよく覚えている。私は早々に気を失っていたから知らないが、想像は出来る。

 阿武隈はああ見えてエリートだ。水雷戦隊の旗艦をやるために生まれて来たようなものなのである。

 まぁ、趣味が何となくチャラついてるし天然だし、声も妙に甲高いから、駆逐艦からは完全に舐められているけど。

 それでも、彼女が優秀なのは皆知っている。

 阿武隈が責任を感じる必要などない。

 

 あれは私が悪いのだ。すべて──私が。

 

「そ、そんなの関係ないわよ。私が(どん)(くさ)かったからいけないのよ」

「曙、そんなことないよ。自分をそんな風に言わないで」

 北上は前を向き直して、優しい調子で言う。

「それにさ、旗艦って多分そういうものなんだよ。私はちょっとしか務めたことがないから判らないんだけど、阿武隈見てたら何だかそういう気がするな。艦隊で起こったことの責任は、全部自分なんだよね」

「そうだとしても、阿武隈は──」

「だからさ、曙だってそれなりに元気になったでしょ? 阿武隈が帰って来たらその姿を見せてあげて欲しいなって」

「帰って来たら?」

「阿武隈、今は第一艦隊だから」

 そうなのか。潮と一緒か。

 それにしても、私がどれだけ周囲に気を使わせてしまっていたのか改めて痛感する。

 食堂手伝いに追われて忘れていたし、それで充足感を得てしまっていたからある意味満足もしていたのだけれど。

 それだけでは、いけないのかもしれない。

「とまぁ、優しい北上様はそう思ったりする訳なんだなー」

 いつもの調子で北上は言う。

 北上も照れ隠しをするのだと思うと、何だか可笑しい。

「まぁ覚えていたらね」

 と笑いながら言った。

「可愛い阿武隈のためにもお願いしますよーって、ほら見えてきた」

 坂の頂上が何となく見えてきた。

 あれは──学校か。

「何、また学校?」

「違うよ」

「あれ、中学校か高校でしょ?」

「だから違うって。その手前」

 手前。

 特に何も見えない。あるのは住宅と、何かの商店だろうか。とりあえず特筆すべきものは何一つない。

「本当に何もないじゃない」

「曙の目は節穴なんかねぇ」

 そう言うと北上は駆け足になって、やがてボロボロの古い商店の前で立ち止まり、両手で商店を指差した。

「ほら、ここだよ」

 私は自分のペースを崩さずに歩き、北上に追いつくと怪訝(けげん)な顔で商店を見た。

「何よこれ」

「駄菓子屋」

「駄菓子屋。有名なの?」

 北上はくすっと笑う。

「全然。そんな訳ないじゃん。ごくごく普通の駄菓子屋」

 普通の駄菓子屋。

 一応「ちょっといいところ」という触れ込みでこんな急な坂道を登ってきたのに、ごくごく普通の駄菓子屋。

 私は、急激に撫で肩になった。

「帰る」

 坂を下ろうとする私を、北上はヘッドロックして捕まえた。

「待ちなさいな給糧艦見習い。北上様に付き合うって約束じゃない」

「何がいいところよ。人を騙して!」

「まだ中に入ってもいないのに」

「入らなくても判るわよ!」

「曙は全然解ってないね。ごめんだけど強制連行だよー」

「ちょ、ちょっとやめなさいよ!」

 首を固定されて、私は文字通り引き摺られた。

 ジタバタと抵抗するのも虚しく、後方でガラガラと戸が開く音がした。

「ごめんくださーい」

 不思議な間をおいて、いらっしゃい、と老婆のか細い声が聞こえた。

「ほら、曙も挨拶しな」

 北上は首根っこをより一層強く引っ張って私を回転させる。

 およそ人権なる言葉からは縁遠い扱われようだ。

 色々と抗議したい気持ちはあったのだが、目の前の老婆に罪はないのだから、挨拶はするべきであろう。

「どうも」

「あなたは初めてね。妹さん?」

 まさか。

「あはは。おばさんったらやだなぁ後輩だよ」

「そう、いらっしゃい。ゆっくりしていって」

 そう言って老婆は椅子に腰掛けた。

「何食べようかな」

 北上はご機嫌な様子でアイスケースを覗き始める。

 私には北上のテンションが理解出来なかった。何故こんな今にも潰れそうな狭い商店で高揚出来るのか。連れてこられた経緯も影響しているのだろうが、正直この場所で滅入ることはあっても浮かれることはない。

 私は何だか一気に疲れてしまって、傍にあったソファに腰を下ろした。

 年季の入った店内を見回すと、懐かしいという感覚より不安が押し寄せた。

 まず商品のディスプレイの間隔が矢鱈に広いのである。

 正面のガラスケースには主にスナック菓子が並べられているのだが、基本各種類一個ずつである。一袋ウン十万でないと辻褄が合わない陳列である。さらにその横にはこれまた時代を感じさせる淡い青色の棚があって、胡椒、山椒、ロケットの順で並んでいる。

 

 ──ロケット。

 

 ロケット型のお菓子だとか容器とかではなくて、ただのロケットだ。最早売り物かどうかすらも判別がつかない。どれにも値札が付いていないから本当に判らない。ロケットの印象が強すぎて、塩と砂糖を何故置かないのかという疑問が浮かんだのは結構後になってからだ。

 果たして商売は成り立っているのだろうかと思ったが、その疑問はすぐに解決された。

 ソファのすぐ横の壁は色紙で埋まっている。それは学生の寄せ書きだった。部活動の生徒たちだろう。年号と大会成績なども書き込まれている。

 隣の学校の生徒たちが帰り際に寄って行くのだ。何がある訳でもないが、立ち寄らないとそれはそれで物足りない。多分、ここはそういった場所だし、この店はそれだけで成り立っているに違いない。

 

 色褪せた警察官募集のポスターが目に付いた。

 卒業生が貼っていったのだろう。もう、十四年も前のものだ。

 

 広告の意味はない。だが、店の老婆にとってそんなことはどうでもいいのだ。

 空間は「思い出」で溢れている。

 それは老婆のものなのか、かつての生徒たちのものなのか──私にはよく判らなかったのだが、とにかく私の居場所でないことは確かだった。

 私は少し不安定な気持ちになった。そして、空間に自然に溶け込んでいる北上の意味が解らなかった。

「これにしよ! 曙はどうする?」

「何でもいいわよ」

「んじゃ同じのねー。おばさん、これちょーだい」

 じゃらじゃらと小銭の音がする。北上は会計を済ませて私の横に座った。

「はい、また奢ってしまったねー」

「はいはい、ありがと」

 北上が買ったのは瓶型のチューブに入った二本入りのアイスだった。

「二本あるなら一個で良かったんじゃないの?」

「曙はせこいなー。リッチに行こうよー。お金ない訳じゃないんだし」

 確かに、北上の言う通り蓄えがない訳ではない。それはこの仕事が高給だからではなくて(むしろ背負っている責任とリスクに比べて安すぎると思うし、他の職業と比較して実際安い)、単純に使う暇がないのである。寮住まいで家賃も光熱費もほぼないに等しいし、食費も毎月食券が配布されるので基本いらない。お金を使う機会といえば酒保で買う雑誌とお菓子くらいである。

 非番の日は街に繰り出して衣服や装飾品等のショッピングを楽しむ艦娘もそれなりにいるが、着る機会もないし、そもそも休みがそんなにないから高が知れている。

 我々には香水よりも油と硝煙の匂いの方が似合っているのだろう。

「曙はさ、もう海に出ないの?」

 唐突に北上が言った。

 チューブを切り離した手が一瞬止まる。

 出られるものならば出たい。

 しかし、今でも海を見ると心がざわつく。まだ正気を保っていられるだけ改善はしたのだろうが、そんな状態から戦闘をこなすまで快復するとは思えない。

 正直、今の私が人並みの生活を送れるようになったのは、その問題を忘れることが出来ているからで、真剣に向き合っていたら──それこそ正気を失う。

「まだそんな段階じゃないわよ」

 チューブの突端をぞんざいに千切り捨てて中身を吸う。

「そうかなぁ。もう大丈夫な気はするけどな。曙だって、また出たいんでしょ?」

「どうかしら」

「七駆に戻りたくないの?」

「もう諦めてる。駆逐艦としてはもう無理よ。今、明石さんに弟子入り志願中なの。難しいだろうけどやってみるわ」

「ふーん」

 私の結構な告白を北上は軽く受け流した。

「ふーんってアンタ、人をバカにして」

「いやいや、ちゃんと考えてんだなって感心してたのさ」

 アイスを咥えながら言われても。

 本当に適当な艦娘である。

「でもさ、七駆の子たちには言ってんの? それ」

「言ったって解ってもらえる訳ないでしょ」

「黙っていられる訳もないじゃん」

「そりゃ、そうだけど。た、タイミングってもんがあるでしょ」

「曙が一番に相談するべき子たちだと思うけどなー。一人で抱え込んだってどうしようもないじゃん」

 北上はそう言ってソファに身体を深く沈ませた。

「こっちはこっちで色々あんの。解った風な口きかないでよ」

「何があんのさ。ケンカ?」

 図星。

 妙に恥ずかしくなって赤面する私を、北上は気怠そうな目で見る。

「くだらなーい」

「うっさい!」

「まぁまぁ、どういうケンカなのかは知らないけどさ、そんなんで壊れるカンケイでもないでしょうに」

 繊細だこと──と言って北上はアイスの吸入を再開した。

 こんなに飄々と返されると、真剣に悩んでいた自分がバカみたいに思えてくる。

「あのさ──」

「ん?」

「北上にとって、大井ってどういう存在なの?」

 北上は突拍子もない質問に目を丸くしていたが、やがて少し考え込み、

「友達じゃない?」

 と言った。

「それだけ?」

「それだけ、って言われるとなんだか不安になるけど──まぁ、友達だよ」

 それ以上の繋がりに見えるが。特に大井はそれ以上の関係を望んでいるように見えるが。

 北上は怪訝な表情で見つめる私に苦笑した。

「確かに大井っちの友情表現はちょっと変わってるかもしんないけどさ、曙を含めた七駆の関係と変わらないよ」

 姉妹艦ってところも一緒だし、と北上は言う。

「じゃあ、大井は、北上が工作艦になるって言いだしたら、許してくれると思う?」

「思うよ。私が真剣に考えた結論ならね。──あ、いや、許してくれないかな」

「どっちよ」

「あはは、ごめんごめん。状況がよく想像出来なくてさ。まぁでも、真剣に聞いてくれることは確かだよ。だから、それは七駆と一緒だって」

「潮も、許してくれる?」

 潮とケンカしてんだ、と言って北上は笑った。

「もちろん、潮だってそうだよ」

「そうかな」

「そうだって」

 北上はチューブをぺしゃんこにして中身を全部吸った。

「曙さ、友達って作るもんじゃないじゃん? 勝手に、気づいたらそういう関係になってるもんでしょ? だから、上手く言えないけど──あーだこーだ言ってないで自然に振る舞うのが正解だと思うんだよね。そっから始まった繋がりなんだからさ」

 ね、おばちゃん、と北上は突然老婆に話を振った。

 老婆は話をよく聞いていなかったのか、こちらを向いて笑顔で頷くだけだった。

「おばちゃん、友達ってそういうもんだよね?」

 北上がもう一度話を振り直すと、老婆はまた小さく数度頷いた。

「卒業しても一緒だねえ。あなた達も今年卒業かい?」

 北上と私は目を合わせて苦笑する。

「卒業は──まだかなぁ」

 老婆は、そう、と言って卒業生の寄せ書きで埋まった壁を一瞥(いちべつ)した。

 私は、寄せ書きの中に北上と私の名前があったらどうだろうと想像する。

 

 

 色褪せているなら悪くない──と思った。

 

 

            ※

 

 

 夕方、鎮守府に戻った私は、自室のベッドに倒れ込んで北上に勧められた詩集を読んでいた。

 正直言うと、内容はよく理解出来ない。

 しかし、だからと言ってつまらない訳でもなく、自分なりに情景や心情を想像してみるのは思いの(ほか)楽しい作業だった。

 北上の言っていたことは、こういうことだったのかもしれない。

 ふと廊下から足音が聞こえてくる。七駆のものではない。歩調が強いのか少し音が大きい。

 やがてドアがノックされる。どうぞ、と言うとドアが開き、壁に寄りかかって斜に構える人影が見えた。

 それは大井だった。

 部屋の中に入るでもなく私を睨みつけている。

「珍しいわね。何か用?」

「あなた、自分のしたことが判ってるの?」

 何かしただろうか。

 思い当たることが何もなかったので、素直に、

「ごめん。何も」

 と言った。

 大井は大きく溜息を吐いた。私はよく判らないままに呆れられているらしい。

「三時間と十二分よ」

「何が」

「ここまで言っても解らないなんて呆れたものね。これからは曙と書いてオロカと読みなさい」

 訳が判らな過ぎて怒ることも忘れていると、大井は少し早口になって、

「北上さんの拘束時間よ!」

 と言い放った。

 

 ──くだらないなあ。

 

「北上さんの貴重な時間を無駄にして何の罪悪感もないの?」

 大井は今、私の貴重な時間を無駄にしている。

「悪かったわよ。以後気をつける」

 諦めて謝った方が良さそうだ。

「当たり前よ。十分反省なさい」

 はいはい、と応えて本に目を戻す。

 しかし、大井はそこを動かない。

 気になって仕様がない。

「何よ?」

「何を話したの? 北上さんと」

 もう病気としか思えない。私も他人のことは言えないが今は棚に上げていいだろう。

「そんなの覚えてないわよ」

「嘘おっしゃい!」

「本当に覚えてないって! いちいち覚えてる方がおかしいでしょ!」

 そう言うと、大井は本当にわからないという顔をした。

「信じられないわ。なんてもったいないことをするの」

 本当に覚えてないのね、と念を押して、大井は舌打ちをした。

「まぁ、私も鬼ではないから北上さんと二度と会うなとは言わないわ。その代わり、これから北上さんと話す時は私に許可書を提出なさい。必ず二日前までに!」

 私は再び、はいはい、と脱力しきって返事をする。

 何が大井をここまで突き動かすのだろうか。

 納得しないままに部屋を去ろうとした大井を呼び止める。

「大井、ちょっと」

「もう、何よ」

 ドア枠から顔だけ出して大井は言った。

「北上のどこがそんなにいいの?」

「何言ってんのよ。そんなの、北上さんだからに決まってるじゃない」

 そう言い残して大井は去って行った。

 考えたこともない、というような反応だった。大井にとってそれは自明なのだろう。大井の過剰反応は迷惑以外の何物でもないが、それはそれで気持ちの良い返答である。

 開けっ放しのドアを閉めるためにベッドから立ち上がる。

 本に目を落としたまま、もう片方の手でドアを押した。

 

 それにしても、(おか)のことを書き綴ったものばかりだ。

 著者は艦娘ではないから当たり前なのだけど。

 私も、なんだかんだと言いながら海から世界を見ていたことに気がつく。

 ドアがカチャリと音を立てて閉まった。

 

 やはり私はもう一度──海に出るべきなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五話『岸壁の章』

 

 

 

 

 

 予報では、夕方から未明にかけて荒れるらしい。

 西の空から、邪悪と形容したくなるような黒く重い雲が迫っていた。

 一方、こちらはまだ風も波も穏やかで、直上には抜けるような青空が広がっている。

 その境目は余りにも明瞭で、空に線が引かれているかのような錯覚を覚える。

 私は、その段階を踏んでいくという発想のない空に辟易として、ただただ呆然と水平線を眺めているのであった。

 私は、岸壁に立っている。

 あれほど怖かった海も、こうして眺めている分にはなんともなくなった。

 私は気付いたのだ。

 海に出よう、海に出なくちゃ、と思うから心が乱れる。

 諦めてしまえば、なんでもない。

 このコンクリートの内側で生きるのだと思えば、全く平静を保っていられる。

 何も難しいことはなかったのだ。

 食堂当番も先ほど御役御免になった。間宮さんと伊良湖さんから、卒業おめでとう、と言われた。二人が言うには、私は次の段階に進む時期に来たらしい。

 二人に謝辞を述べた後、その足で工廠に向かった。明石さんに正式に弟子入りを申し込むつもりでいたが、夕張がピリピリしていてそんな空気ではなかった。なんでも、新型爆雷の最終調整をしていたらしく、私を見るなり、デリケートな作業だから喋らないで、と言い放った。

 挨拶さえ許されないのなら弟子入り志願など絶対に出来ない。

 そのくせ他人に喋るなと釘を刺しておいて、聞いてもいないのに、これは対潜兵器の革命だ、完成した暁にはこれを《夕張式対潜弾投射機》と名付けようと思う、などと譫言(うわごと)のように呟いているものだから、明石さんと私は目を合わせて苦笑していたのである。

 岸壁にいるのは、夕張の作業が終わるまでの暇つぶしだ。

 しかし、予定が変わってしまうかもしれない。

 

 

 ──今夜、二三〇〇(フタサンマルマル)に潮のいる第一艦隊が帰投予定だ。

 

 

 夕張の進捗状況次第では、先に七駆の面々に艦種変更を報告しなければならないかもしれない。それを考えると大変に気が重かった。また、皆を落胆させてしまうかもしれない。

 いっそ、青葉にわざとこの話を漏らしてしまおうかと思うほどだ。

 青葉のことだから、新聞に書くだろう。

 オフレコで、と念を押しても書くだろう。

 そんなくだらないことを考えていたら、桟橋にある人影に気が付いた。

 誰だろうか。鎮守府の中だから関係者である筈だが、艤装は装備していないようだ。髪が長いから女性であろう。椅子に腰掛け釣りをしているようだ。

 釣り。

 鎮守府で。

 私は、(おもむろ)にその桟橋に近付いていった。

 

 人影が誰か判別出来る距離まで接近して、私はなんだか呆れてしまった。

 それは、我が鎮守府の第一艦隊旗艦、長門だった。

 ジーンズに白のタンクトップという出で立ちで、くわえ煙草をしながら虚ろな目で水面を見つめている。余程釣れないのだろう。私が発見してから微動だにしていない。

 そりゃ釣れないだろう。聞いたことないもの、鎮守府で釣りなんて。

「何してんのよ、長門」

 そう言うと長門はこちらを向いて、おう、と言った。その拍子に煙草の灰が落ちる。

「曙か。何してるって、見て判らんか、釣りさ」

「何で釣りなんてしてんのよ」

「してはいけないか?」

「いけなくはないけど、理由は聞きたいわ。いないわよ、魚なんて」

「いなくはないだろう。海なんだから」

 そう言って長門は、(かたわら)に置いてあったバケツをひっくり返して、座れと言った。

 ほら、もう釣る気ないじゃん。釣果もなかったんじゃん。

 私は一応、有難うと言って腰掛ける。

「で、第一艦隊旗艦様が何で釣りなんてしてんの?」

「お前もしつこいな」

「だって第一艦隊は出撃中でしょう。なのに旗艦の長門が鎮守府で釣り糸垂らしてたら、そりゃ気になるわよ」

 長門は自虐的に少し笑って、休暇さ、と言った。

「私だって好きでこんなことしてる訳ではないんだよ。今の旗艦は金剛だろう」

「だったら休まなきゃいいじゃない」

 そう言うと長門は困ったような顔をした。

 長門は、こんなに表情豊かな艦娘だったろうか。

 見慣れない私服姿と相まって、私はドキリとした。

「提督が休暇を取れと煩瑣(うるさ)いのだよ。私はそんなものはいらないと断り続けてきたんだが、ついに強制的に二週間も空けられてな。こうして困り果てているところだ」

 空き缶に煙草の灰を落とす。空き缶が酒ではなくジュースなのが長門らしい。

「何処か旅行でも行けばいいのに」

「実はもう行って来たのだ。一週間ほど滞在する予定が二日で帰って来たがな」

「え、二日で?」

「そう、二日だ」

 そう言って長門は笑う。

「情けないものだな。やはり陸は合わないんだよ。山間(やまあい)の温泉場だったんだが、湯に浸かった後に何をしていいのかも判らないし、何より海が見えないと落ち着かなくてな。なんだか、自分が異質な存在に思えてくるのさ。自意識過剰なのかもしれないが、周りに見られているような気がして居心地も悪かった──」

 艦娘とバレている筈はないのだが、と長門は言う。

 多分、見られていたのは事実だろう。

 ただ、それは艦娘だからではなくて、長門の容姿がずば抜けているからに違いない。

 長門は、今でこそ魚のいない海に釣り糸を垂らしている残念な艦娘だが、第一艦隊旗艦を務める様は同性の私でも見蕩れるほど美しい。

 容姿端麗、才色兼備、文武両道、一騎当千。良い意味の四字熟語は概ね長門に当て嵌まる。早い話が完璧なのだ。一方で、お酒が全く飲めなかったり、小動物や可愛いものが好きというとても女の子な一面も持っている。

 このギャップも含めて完璧だ。

 私みたいな者にタメ口をきかれるような隙を作っているところも、皆から尊敬を集めている一因だと思う。

 そんな日本人女性の一つの到達点である長門が歩けば、視線がそちらに集まってしまうのも仕方のないことである。

 異質ではあるのだ。確かに。

「それで、やることがないからこうして呆けているわけ? なんだか、人生の終末みたいな雰囲気だったわよ」

「確かに、隠居にはまだ早いな」

「しっかりしてよ。長門はウチの看板なんだから、私達だって困るのよ。あそこの鎮守府旗艦は私的時間の有意義な使い方も知らない、なんて噂がたったら目も当てられないんだから」

 長門は苦笑して煙草を空き缶に投げ入れる。すぐさま二本目を咥えて火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出した。

「曙、私はな、実は空っぽなんだ」

「空っぽ?」

「ああ、空っぽだ。〈第一艦隊旗艦戦艦長門〉という仮面を取り上げられてしまっては何もない。薄々気付いてはいたが、今回ばかりは痛感したな。提督があれだけ休めと言っていたのも今は解るよ。こういうことを伝えたかったのだろうな」

 淡々と長門は言う。

 しかし、長門が空っぽだというのなら私は一体何なのだ。駆逐艦という役割も全う出来ず、第七駆逐隊という帰る場所すら捨てようとしている。

 中身どころか、外側もない。

 ひたすら胡乱(うろん)だ。

 自分は、一体何者なんだろう。

「ねぇ、長門。〈自分〉って、何なのかな?」

 長門は私を一瞥した後、水面に目線を戻して、竿をくいっと数度動かした。

「それは、多分言葉の綾だよ」

「言葉の──綾?」

「言葉に出来ると在るように思ってしまうんだよ。その程度のことさ」

 しかし、それでは。

「じゃあ、自分、なんてないってこと? でも、私はここにいるじゃない」

「だから、それでいいのさ。自分とは何か、などと考える必要もないだろう」

 求めていた回答と違って困惑した。

 その様子を横目で見て長門は微笑む。

「そういった問題には曙くらいの年頃に陥り易いんだよ。自分探しとよく言うが、それは結局現状に納得していないか暇なだけだろう。言い換えただけで、実は単純なことなのさ」

「で、でも」

 なんだか言い包められているような気がして腑に落ちない。しかし、言葉が先に続かない。反論出来ず、力んだ指先だけが不規則に動く。

 私の言葉を待っていた長門だったが、そんな私を見兼ねたのだと思う。

「曙も経験はあると思うが、航行中、大雨に打たれてこのまま溶けてしまいそうだと思ったことはないか?」

「もちろん、あるけど」

 何度もある。

 足下は海、上空から数え切れないほどの雨粒にこれでもかこれでもかと打たれて、そのうち何も感じなくなるし、何も考えたくなくなる。

「普段、外界と自分を隔てている境界が曖昧になるんだろうな。私はそんな時いつも思うよ。自分が世界の一部のように思える、のではなくて、実際に世界の一部なんだ、とな」

「世界の、一部」

「そう、全部繋がっているんだよ。それくらい曖昧なものなのさ。だからそんな問いに解答は存在しないし、存在するとするなら、それはとても当たり前すぎて気付いていない、というだけだ」

 コンクリートの上に座っているからそういう考えになる、と言って長門はつま先で地面を二度叩いた。

 意外だった。

 長門があれだけ勇猛果敢に敵を打ち倒していけるのは、確固とした自分を持っていて、揺らぐことのない自信を持っているからだと思っていた。

 長門に〈自分〉はないのだそうだ。

 あるとするなら、それは当然すぎて語る必要のない次元のものだそうだ。

 私は想像する。

 世界に揺らいで、形を変えて、時を超えて──。

 不安じゃないのだろうか。

 不安じゃないのか。

 不安とか不安じゃないとか、そういう話ではないのか。

 

「艦種変更の件に関係してるのか?」

 私は驚いて現実に引き戻された。

「な、何で長門が知ってるのよ!」

「北上から聞いた」

 あの魚雷バカめ。

「か、関係ない訳じゃないけど。ってこの話何処まで広がってるのよ?」

「さぁ、それは判らないが北上もその辺は心得ているだろうさ。曙を心配しているんだよ。気を悪くするな」

 確かに北上は他人のプライヴェートに立ち入らない主義だと思うから、言い振り回すことはしていないだろう。駆逐艦嫌いを公言している北上に心配されているかと思うと、こそばゆいような、恥ずかしいような、嫉妬に狂った大井に刺されるかもしれないと不安になるような、複雑な気持ちになった。

「工作艦でも、海に出る機会はあるぞ」

「それだけが理由じゃないの! 何よ、文句でもあるの?」

 痛いところを突かれて少し攻撃的になった。

「いや、そんなことはないさ。曙の決めたことに口を出すつもりはないし、確かに明石は一人で大変そうだからな」

 ただ──と長門は続ける。

 

 

「結局お前は、駆逐艦であることを捨てられないと思うけどな」

 

 

 指で弾いた煙草が、缶にするりと吸い込まれた。

 何という呪いの言葉だ。

 風が急に冷たくなって、強さを増す。

「どうして──」

 もう決めたことなのに。

 やっと諦められたことなのに。

 長門にそんなことを言われたら。

 この決意が──揺らいでしまうじゃないか。

「どうしてそんなことを言うのよ!」

 そう叫んだその時。

 

 ──サイレン。

 

 それは、緊急事態を告げるサイレンだった。

 頭に上った血がすっと下がって、私と長門は多分同時に鎮守府庁舎の方を見た。

「え、演習?」

「いや、その予定はない。演習のアナウンスは聞いたか?」

「聞いてない」

「曙、すぐに戻るぞ」

 何があったのだ。

 不安が押し寄せてきて、脈が速くなる。

 長門は釣り道具をぞんざいに纏め担いで歩き出した。その顔は、今までとは打って変わって戦闘中の表情になっている。長門は思ったより早足だったので、付いていくのに初め少し駆け足になった。

「何かあったのかな」

 長門は無言で歩き続ける。

 サイレンの音に掻き消されたのかと思い、私は再度問うた。

「ねぇ、長門」

「曙、今遠征に出ているのは誰だ?」

「え、えっと──天龍(てんりゅう)と六駆がタンカーの護衛で、由良(ゆら)と二駆が輸送船団の護衛の引き継ぎ、だったと思う」

「そうか」

 不安を掻き立てるサイレンの音色は、何度聞いても慣れない。

 私はいてもたってもいられなくなって、駆け足で長門の横に並ぶ。それに気づいた長門は立ち止まって、私の頬に触れた。

「曙、安心しろ。皆がそれぞれやるべきことをやれば大丈夫さ。お前も出来るな?」

 私は無言で頷いた。

 よし、と言って長門は遠くを見つめた。私もその視線の先を見る。

 出撃ゲートの警告灯が点滅し、ブザーを鳴り響かせながらハッチが開き始めていた。重々しくて仰々しいその光景を見つめていると、ハッチが完全に開く前にツインテールの艦娘が飛び出して来た。遠目でも明瞭に判る。それは利根(とね)だった。筑摩(ちくま)球磨(くま)睦月(むつき)如月(きさらぎ)がそれぞれ続く。

 待機任務中の即応艦隊だ。

 それを見た長門の表情は、より一層厳しいものになったように思えた。

「急がないといけないな」

 そう言って長門が歩き始めようとしたその時、倉庫の陰から飛び出してきた陸奥(むつ)が、こちらを見つけて走り寄って来た。

「長門!」

「陸奥、何があった!」

 陸奥の顔色が少し青ざめているように思えて、胸騒ぎがする。

 息を切らした陸奥の言葉は、途切れ途切れになる。

「だ、第一艦隊が──帰投中の、第一艦隊が!」

 

 ぽつぽつと、雨が降り始めた。

 

「て、敵潜水艦と遭遇! 潜水艦の魚雷を受けて、阿武隈が中破!」

 

 大きな雨粒が、不気味な間合いを空けて地面を円形に濡らす。

 もう──聞きたくない。

 

「う、潮が大破! 航行不能!」

 

 全身に震えが走って、視界は闇に覆われ何も見えなくなる。

 

 

 私の世界には──ただただ不快なサイレンの音が響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六話『出撃の章』

 

 

 

 

 出撃ゲートに隣接している装備保管庫で、私は(おの)が艤装と対峙していた。

 固定具に吊るされたそれは〈No・68 曙〉と書かれたプレートの下で、静かに、そして鈍く照明を反射していた。

 自分自身の鼓動に上半身を揺さぶられている。前髪や顎から滴り落ちる水滴は、雨なのか脂汗なのか最早判別不可能だった。

 息が苦しい。顳顬(こめかみ)を襲う鈍痛が酷く不快で、頭が圧し潰されそうだ。

 それでも──。

 私は行かなくてはいけないのだ。

 そうして覚悟を決めるように目を瞑ると、何やら幻聴のようなものが聞こえてくる。

 

 (無理だよ。また怖気付いて嘔吐するのが関の山さ)

 潮を助けに行かなければ──。

 (お前じゃなくても)

 阿武隈を助けに行かなければ──。

 (他の誰かが行くよ)

 此処で行かなければ、私は本当のクズじゃないか──。

 (どうしたってクズはクズさ)

 

 艤装に伸ばす手が震える。

 

 (ほら、そんなんじゃ無理だよ足手まといだよ邪魔なんだよ)

 煩瑣い。

 (どうせ沈むんだよ。潮も。阿武隈も。お前も)

 本当に煩瑣い。

 

 (どんなに頑張ったって、どんなに繰り返したって。みんなみんな、沈むんだよ)

 

「黙れッ!」

 

 

 私は多分、人生史上最大音量の独り言を放った。身を(ひるがえ)して、不愉快な幻聴に対する怒りをぶつけるように、ベルトを引っ張って艤装を背負い込む。安全装置を乱暴に切り替えてスイッチを叩き、艤装のロックを解除した。

 艤装の重みが身体に伝わる。右足を半歩下げて、後方に倒れそうになる身体を支えた。

 踏ん張った影響で胃液が逆流しそうになったが、なんとか飲み込んで耐える。

 一層、息が荒くなる。

 私は履いていたシューズを蹴るように脱ぎ捨てて、推進装置を兼ねたブーツへと履き替えた。両足を奥まで入れると、ストッパーが作動して足首を固定する。

 行かなくては。

 よたよたと覚束(おぼつか)ない足取りで、出撃ゲートを目指し歩き始めた。

 艤装が重い。ブーツが歩き難い。

 両舷に林立する無数の艤装が、私の精神を圧迫する。

 呼気が勝手に声帯を振動させて、私は多分、呼吸の度に解読不能の音声を発していたが、最早そんなことは気にしていられなかった。

 連絡通路の二重扉を抜けて、出撃ゲートに到着した。

 それまでとは違った生温い空気が私を覆う。

 ゲートには数機のカタパルトが設置されていて、三十メートル程のスロープを下ると後は海面だ。その先のハッチは閉まっていた。

 開けなければ。

 こちらで開ける場合はどうするのだったか。

 もうハッチなど主砲で吹き飛ばしてしまおうか。

 主砲──。

 あぁ、私は主砲など持っていないじゃないか。

 それどころか、何の装備も携行していない。

 なんと愚かなのだ私は! これは正規の任務ではないのだから装備が用意されている訳などないじゃないか!

 行くのか、それでも。

 あの海に。

 丸腰で。

 あの海に──。

 

 瞬間、迫り来る雷跡がフラッシュバックした。

 

 全身に凄まじい悪寒が走って、私は強烈な吐き気に襲われて地面に(うずくま)った。

 胃の中に何も残っていなかったのか、私はただただ世界を拒絶するように空吐きを繰り返した。

 世界がまわる。視界が狭くなる。頭痛が酷くなって、世界そのものが鈍痛に襲われているようだ。

 僅かばかりの視界に映る地面には、涎や汗が混じり合った正体不明の液体が垂れ落ちていた。

 やはり無理なのか。

 私には──無理なのか。

 

 再度、胃が引っ繰り返りそうな吐き気を催して、消化器官の強烈かつ無意味な蠕動(ぜんどう)運動に身体を捩らせていると、世界の遠くから声がした。

 

 ──何をしている。

 

 何をしている?

 見て判らないのか。

 何も出来ず地面に這いつくばってただただ踠いているんだよ。

 

 

 私は、充血した目で声のした方向を睨みつけた。

 其処に立っていたのは、艤装を装備した鎮守府旗艦長門だった。

「何をしている」

 腕を組み、眼光鋭く私を見下している。

「お前に出撃命令は出ていないな」

「め、命令が何よ。私の勝手でしょ!」

「行くのか?」

 長門のその言葉に覚悟が問われているような気がして、私は回答を避ける。

「──文句ある?」

「行くのか、と聞いている」

 冷淡に長門は続けた。

「う、煩瑣いわね。今は少し体調が──」

「お前の体調など知らん」

 私の言葉を遮って長門は言った。

「そんなことはどうでもいい。行かないなら其処を今直ぐに退け。邪魔だ」

 畜生。

 畜生畜生畜生。

 腹が立つ。

 長門にも。

 世界にも。

 この吐き気にも。

 この、クズでバカで「クソ」みたいな自分にも──。

 

 私は、およそ人とは思えないような奇声を張り上げて立ち上がった。

 もう、どうにでもなれよ。

 

「行くって言ってんでしょこのクソ長門! 対潜能力もない癖に人が弱ってりゃいい気になってこのクソ戦艦がッ!」

 

 軽い吐き気は頬を膨らませて堪える。長門にぶち撒けたところで今更知るものか。

 そんな私を見て長門は、何故かニヤリとわらったような気がした。

「それだけ元気なら十分だな。詳しくは長良から聞け。私達は先に出るぞ」

 あいつらに感謝するんだな、と言って長門は私の傍を通り過ぎていった。

 長良? あいつら?

「何のことよ。ねぇ、長門!」

 こちらを振り返らずに、長門は右手を上げてひらひらと振った。

 宇宙をもう一つ創造出来る程の怒りを発散した(はず)なのだが、反応に手応えがない。呆然と長門を見送っていると、陸奥、飛龍(ひりゅう)蒼龍(そうりゅう)の三人が私を追い越していった。三人もそれぞれ艤装を装備している。緊張した面持ちだったが、私を振り返って表情を崩し手を振ってくれたので、私も肘から先だけを上げてそれにぼんやりと応えた。

 この編成は対潜水艦の編成ではない。敵は、潜水艦だけではないのか。

「なにボケっとしてんのよ!」

 その声に驚いて振り返ると、膨大な数の魚雷を搭載した北上と大井が立っていた。

「シャキッとした方がいいよー」

 緩みきったトーンで北上は言う。

「あ、アンタ達も?」

「もちろんだよー」

「酷い顔ね。とりあえずその汚い涎を拭きなさいな」

 大井がハンカチを差し出した。

「あ、ありがと」

 いまいち状況が把握出来ないままに、そのハンカチで口許を拭いていると、耳を(つんざ)くような大音量でブザーが鳴り響き、身体を震わせる振動を伴ってハッチが開き始める。

 私は二人に、早く行きなさいって、と大声で叫んだが、聞こえていないようなので、カタパルトを指差したりして身振りで伝える。

 すると大井は何故か、ふん、と拗ねたような感じで出撃準備に取り掛かった。

 北上は私に何か言おうとして立ち止まったが、この状況では聞こえないと諦めたのか、私の頭を撫でながら何がしかの合図を送るように微笑んでカタパルトへと向かった。

 やがて一番カタパルトのグリーンライトが点灯して、長門が射出される。続いて陸奥と二航戦、少しの間をおいて北上と大井も勢い良く海へと飛び出していった。

 北上を射出したカタパルトが所定の位置に戻ってくる様子を、私は放心しながら眺めていた。

 大井から手渡されたハンカチをポケットにしまう。

 

 吐き気は、いつの間にかおさまっていた。

 

「曙ッ!」

 背後を振り返ると、そこには長良と漣、朧が立っていた。

「単独行動はなし、って言ったのにさぁ」

 呆れた様子で漣が言う。

「私達だって行くに決まってるでしょ! このクソ曙」

 多分、朧は本気で怒っていた。

「どうして」

「保管庫に入ってくところ二人に見られてんのよアンタ。まぁ、考えることはみんな一緒だよね。それより、本気で大丈夫なの?」

「大丈夫よ」

「行くのね?」

「当たり前よ!」

 長良は私の言葉を受けて、壁に備え付けられた受話器を手にとって耳と肩で挟む。小銃(ライフル)のような外観をした主砲の薬室を確認しつつ、何やら話をしている。

 やがて長良は、私を振り向いて言った。

「曙、司令官が本当に行くのか、って」

「だから行くって言ってんでしょこのクソ提督ッ! 何度も聞かれたらこっちが心配になるから聞かないで!」 

 長良は微笑んで、行くそうです、と受話器の向こう側に報告した。その後一言二言言葉を交わした後、いってきます、と主砲の薬室を閉鎖しながら元気に言って受話器を元に戻した。

「さぁ、助けに行くよ」

「しかしまぁ、この子は何の装備も持たないで」

「後ろ向きな。セットしてあげるから」

 漣と朧はそれぞれ片手にカートリッジを持っている。多分、ソナーだろう。私は言われるがままに背面を向けた。

「九三式と三式ね。ほいじゃ、スロットに入れるよ」

「ガン積み?」

「主砲も魚雷も持ってかないよ。私達の相手は潜水艦だからね」

 よいしょ、という朧の声と共に、艤装の内部で装備が固定される感触が伝わる。

「うし、セット完了。接続状況は?」

「あ、ごめん、まだ火入れてない」

「何してんのよ。そんなことも忘れたの!」

「煩瑣いわね! 色々あってそれどころじゃなかったの!」

 艤装の側面下部にあるカバーを雑に開けてスタータースイッチを押す。程なくして、機関は順調に動き始めた。

「ソナーは、うん、ちゃんと認識してる。で、爆雷は?」

「ない」

「は?」

「もうない。私達ので最後だった」

「どうやって戦うのよ!」

「ないんだから仕方ないでしょ! 文句なら提督に言って!」

「朧の寄越しなさいよ!」

 装備を強奪しようとして朧と取っ組み合いになった。

「やめなさいよ! 病み上がりは大人しく索敵してなって!」

「あいつらは私がやるの!」

「こんな時に()(まま)言ってる場合じゃ──」

「間に合った!」

 朧の言葉と私達の争いを遮ったその声に、全員がそちらを向いた。

 そこにいたのは、台車に奇妙なものを載せて息を切らしている夕張だった。

「ゆ、夕張。なにしてんの」

「曙、間に合ったよ! この子、持っていって」

「何よそれ」

 台車に積まれていたのはどうやら装備のようだ。数十からなる小さな弾頭がボックスから飛び出している。祭りの屋台で見る飴みたいだ、と思った。

「新型爆雷よ。これまでの爆雷と違って潜水艦の直上まで行かなくていいし、広範囲にばら撒く必要もない。大体射程は二百から二百五十。一発でも潜水艦に当たれば誘爆してこれが全部爆発する。だから深度の調定も必要ないし、当たればほぼ確実に沈められる。名付けて〈夕張式対潜弾投射機〉よ! 約束通り、曙が一番に使っていいよ」

 息が切れている上に早口だったし、結局何を言っているのかよく理解出来なかったのだが、対潜兵器であるということと、明石さんの工廠で交わしたあの些細な約束を、夕張が守ってくれたことは解った。

「本当に大丈夫なの?」

「当たり前じゃない失礼ね。私の腕を信用しないわけ?」

「ちゃんと試験した?」

「だからしたって!」

 本当にもう、とぶつくさ言いながら、夕張は私の太腿にベルトを巻き付けて、持参した装備の装着を始める。

 照れ隠しで悪態をつく私の癖は、あまり良くないな、と思った。

「接続完了っと。曙、ジャックちょっと錆びてるわよ。ちゃんと整備しなさいよ。繋がってる?」

 艤装のコネクタを指で叩いて夕張は言った。

「問題はないみたい」

「なんだかよくわかんないけど良かったじゃん」

「ったくもう、少しは落ち着きなって」

 そう言って朧は、私の頬に人差指を押し付ける。

「ま、熱くなっちゃうのも解るけどねぇ。私も今、敵潜水艦に対するヘイトが溜まりに溜まってどうにかなっちゃいそう」

 漣が柄にもなく凶悪な顔をして言った。

「よし、じゃあ行こうか。曙、簡単に状況を説明しとくね。詳しくは道中でも話すけど」

 長良が私の正面に立って言う。

「帰投中の第一艦隊から救援要請が入ったのが三十分くらい前。敵潜水艦の雷撃を受けて阿武隈が中破、潮が──大破」

 長良は最後、少し言い淀んだ。

「旗艦の金剛さんによると敵潜水艦は少なくとも二隻、もしかしたら三隻いるかもしれないって話。私達はこの憎ったらしい潜水艦を叩くよ」

「でも、そしたら何で長門達が出たの? 潜水艦相手にあんな重い編成組んだって──」

「敵の増援が確認されたの。最悪よね」

「ぞ、増援」

 本当に、なんて最悪なタイミングだ。

翔鶴(しょうかく)瑞鶴(ずいかく)の索敵機が見つけたの。艦型までは報告受けてないんだけど、戦艦二、空母三、巡洋艦二、駆逐四の編成。結構な大艦隊ね。多分、こっちが主力艦隊」

 事態は、私が思っていたより深刻だった。

「大まかな流れとしては、即応艦隊で出てった球磨と睦月と如月が阿武隈と潮を護衛して退避させる。そして利根と筑摩が第一艦隊にそのまま編入。その後第一艦隊は長門、陸奥、二航戦に雷巡コンビと合流して敵増援を叩く。解った?」

 長良が私の目を覗き込む。

 解っている。

 やるべきことをやれば大丈夫。

「第一艦隊のもう一人は誰?」

那智(なち)

 そう、彼女達は強い。

 阿武隈と潮だって、絶対に沈まない。

「解ったわ。二度と浮上出来ないようにしてやる」

 報いを、受けさせてやる。

 長良は力強く微笑んで、私の頬を軽く叩いた。

「よし、行くよ!」

 そう言った長良の後に続こうとすると、漣と朧に止められて肩を組まれた。

「何よ」

「円陣だよぉ」

「曙、足についてるの邪魔」

「仕方ないでしょうが」

 私達は艤装をぶつけながら円陣を組んで、前屈みになった。

「やっぱ、一人足りないよねぇ」

「私達の劣等感を煽る胸がない」

「朧はまだある方でしょ。なに、この期に及んで嫌味?」

 私達は笑った。

「絶対、連れて帰ってくるよ」

「必ず四人で帰ってこようね」

「それ以外有り得ないわね」

 あの海から、潮は私を連れて帰ってきてくれた。

 恐怖と、絶望と、悪意に満ち満ちたあの海から。

 今度は当然、私の番だ。

 どうしたって潮には敵わないかもしれないが、あの優しさと暖かさで、今度は私が、潮の海を塗り替えてやる。

 希望で──埋め尽くしてやる。

 待ってて、潮。

「行こう、潮が待ってる」

 その言葉を合図に、私達は地面を盛大に鳴らして声を張り上げた。

 円陣を解いてそれぞれ出撃準備に取り掛かる。

「曙──」

 振り向くと、突然夕張に抱き締められた。

「曙、無理しちゃダメよ」

「わかってる」

「みんなを、助けてきてね」

 そう囁く夕張の声は震えていた。

「わかってる」

 私は再度そう言って離れ、夕張の左胸を拳で突いた。夕張は少しきょとん、としていた。

「大丈夫、この装備がきっと私を助けてくれる!」

 夕張式対潜弾投射機を叩いて笑ってみせる。

 夕張も、目許を拭って笑った。

「後で、感想聞かせてね!」

 後方で、長良が射出される。続いて、小気味よく漣と朧も射出されていった。

 

 

 カタパルトにブーツを固定する。

 外は、雨と風で荒れていた。

 でも、大丈夫。

 私は曙で、

 駆逐艦だから、

 第七駆逐隊で、

 潮は大切な友達だから、

 漣と朧もいるし、

 仲間を助けに行くのは、

 当たり前のことでとても自然なことだから、

 何も、

 何も怖くはないことだから、

 大丈夫。

 そう──大丈夫。

 

 

 私は目を見開いて前方を睨みつけた。

 四番カタパルトの信号が赤から青に変わる。

 

「曙、出撃します!」

 

 

 私の世界は、急速に動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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最終話『曙の章』

 

 

 

 

 

 

 すべて私が悪いのだ。

 

 私の身勝手な行動で、皆を危険な状況に追い込んでしまった。

 艦隊行動とは常に集団行動なのだと、何度も何度も耳が痛くなるほど教えられてきた筈なのに。

 那智さんの水偵から敵潜水艦の潜望鏡を発見したとの報告が入った時、旗艦の金剛さんは海域からの離脱を指示した。私達は既に作戦を終えていて、目立った損傷はないものの弾薬と燃料はかなり消費していたし、潜水艦への攻撃能力を有していたのは私と阿武隈さんの二人だけだったから当然の判断なのだけれど。

 ──解ってはいるのだが。

 何故だか、頭に血が上った。

 気がついた時には、艦隊から離れて敵潜水艦へと舵を切っていた。

 多分、あの時と近い場所だったから。

 曙ちゃんを──雷撃した潜水艦に重なって。

 

 結果、潜水艦は一隻だけではなかった。

 目の前しか見えなくなっていた私は、三時方向からの突然の魚雷に対応出来ず、そのまま横腹を抉られた。魚雷の第二波を阿武隈さんが身を挺して守ってくれていなかったら、私は今頃海の藻屑だ。

 あぁ。

 私はなんて愚かなのだろう。

 私はなんて鈍間(のろま)なのだろう。

 私はなんて──バカなのだろう。

 

 自力で航行することが出来なくなっていた私は、那智さんの腕に包まれながら己の無力さを呪って歯を食いしばった。全身を襲う痛みも、ほぼ半分が欠落した艤装も当然の報いだ。何も不満はない。

 だけど。

 私が愚か者だった責任は私が勝手に沈んでしまえばいい話だ。では、私が愚か者だったが故に被害を被った他人の責任は、どうやって取ればいいのだ。

 私を庇って中破した阿武隈さんは、今や艦隊唯一の対潜攻撃能力保有艦だから、自らも傷ついているにも拘わらず、一人で複数の潜水艦を相手に戦っている。無線を通じて聞こえてくる彼女の甲高い声色は、私を妙に穏やかな気分にしてくれると同時に、呵責の沼に私を引きずり込んだ。感情を抑えているとはいえ、緊迫している様子は否が応にも伝わる。

《こちら阿武隈、爆雷投射位置に着きました。これより爆雷攻撃開始します!》

《了解。阿武隈、なるべく広範囲に撒いて下さいネ。威嚇でいいから全部使っちゃダメよ。OKネ?》

《了解!》

《瑞鶴、索敵機からの報告はどうデスか?》

《報告なし。異常ありません》

《了解》

《爆雷投射開始!》

 無線が途切れる。

 なんだか落ち着かなくて、那智さんの胸により深く顔を沈めると、那智さんは私を支える腕に力を込めてそれに応えてくれた。

 数秒、いや数十秒経って、水中で爆雷が炸裂する音が薄く聴こえた。

 花火のようだ、と場違いで能天気なことを思う。

《爆雷投射完了。成果不明》

《了解デス。阿武隈、戻って》

《了解》

 那智さんは大きく息を吐いて、

「少しでも当たっていればいいのだが」

 と言った。

 私達は現在、那智さんが私を曳航(えいこう)している(曳航というより最早抱えている)影響で海上を数ノットで移動中だ。体感では七ノットくらいだと思う。水中では極端に足の遅くなる潜水艦でも十分に追跡可能な速度だし、何よりこちらは敵の位置をほぼ見失っている。先ほどの爆雷攻撃も、とりあえず無闇矢鱈に撒いてみた、という感覚に近い。回避行動に多少の時間を使ってくれたら儲け物というところだろう。

「ごめんなさい」

 と呟いた。何に対してという訳ではない。謝らなければならない項目が多すぎて、私は既に自分の責任が何処にあるのかも判らなくなっていた。

「謝るな潮。自分を責めるのも果てのない説教も無事鎮守府に帰ってからだ。解ったな?」

 そう言って那智さんは優しく微笑んだ。

 涙が頬を伝う。わかりました、という一言をなんとか振り絞った。

 那智さんの手が、私の頭を柔らかく叩いた。

「もう寝てしまえ。起きていたって生産性のない自責の念が頭を駆け巡るだけだ。警戒は我々でしっかりやるさ。この調子では、鎮守府に帰還するのも大分先の話だからな」

「那智さん、私──」

「もういい。あぁ、言ったそばからこれだ。煩瑣いのが来たぞ」

 那智さんの目線をゆっくり追うと、高速で接近する艦影が見えた。いつ見ても戦艦には見えない。その軽やかさは、まさに巡洋艦のそれだった。

 ヘーイ潮! と叫びながら私達の背後に回り込み、水面に対して鋭角に身体を倒して急制動をかける。盛大な水飛沫(しぶき)を上げたと思った次の瞬間には、何事もなかったかのように那智さんの傍に位置を取っていた。

 その一連の動作は、恐ろしく鮮やかだった。

「潮、泣いているのデスか?」

 呆気にとられている私を覗き込んで、金剛さんは言った。

「あ、いえ、これは」

「金剛、少しは静かに移動出来ないか。仮にも戦闘中なのだからな」

「ナッチーは厳しいネ。向こうのソーナーが復帰するのもまだ先デス。そんなことより、いち早く潮の様子を確認することの方が、フラグシップとしての重要な役目デース!」

 金剛さんは、右手を腰に当て左手をピンと伸ばしてそう言った。

 いちいちオーバーアクションというか、状況とは乖離(かいり)したその所作に那智さんはフフッと軽く笑った。

「ナッチーにウケても仕様がないデス」

「仕様がないとは何だ」

「潮、身体は痛みマスか?」

「わ、私は大丈夫です。それより、ごめんなさい。私、命令を無視しました」

 そう言うと、金剛さんは少し困ったように微笑んだ。

「それについては、私も悪いのデス」

「金剛さんが、どうして」

「ボーノが大破したのもこの辺りデショ? 同じような場所でまた潜水艦だもんネー。潮へのケアが足りなかったデース」

 フラグシップ失格ネ、と言って金剛さんは遠くを見る。

「そんな、金剛さんは、何も悪くないです。もっと、もっと私を怒鳴りつけて下さい。しっかりと、罰して下さい。でないと、私」

「潮、シリアス過ぎるのも良くないヨ。人は他人に迷惑をかけるもので、他人から迷惑をかけられるものデス。それを繋がりと言うのデース。艦娘の私達も同じだヨ?」

 そう言って、金剛さんは私の額に指を差した。

「もちろんオーダーを無視したペナルティはあるヨー。今考えているのは、ティータイムの強制参加と比叡(ひえい)の手料理毒味係の二つデース!」

「後者は本当に辛いな」

 那智さんが酷いことをさらっと言う。

「何にせよ北上やモッチーを見習うことデス。失敗したって顔色一つ変えないんだから──って翔鶴?」

 金剛さんの目線が私の後方へと移った。強張った身体に抵抗して振り返ると、近づいてくる翔鶴さんが見えた。

「金剛さん!」

「翔鶴、どうしたのデスか?」

 翔鶴さんの表情からして良い報告ではなさそうだ。翔鶴さんは私たちの付近に停止すると、息を整えることもなく口を開いた。

「索敵機からの報告です! 方位040、距離三三○キロメートルの海域で敵艦隊を発見! 約二○ノットで西進中、戦艦や空母も複数いる模様です!」

「何だと!」

 驚く那智さんの傍で、金剛さんは静かに俯き、そして鋭い目つきで前方を見つめていた。

「大丈夫、It’s easyネ。それに今更騒いだところで成るようにしか成らないデス。サンキュー翔鶴、警戒を厳に、と索敵機の皆さんにも伝えて下さい」

 まだ間に合いマス、と金剛さんが自分に言い聞かせるように呟いたのが聞こえた。

 自らの罪の大きさに天を仰ぐと、追い討ちのように瑞鶴さんからの無線が入る。

《索敵機より入電! 十時方向、距離二五○○で潜望鏡を発見! 避けて! 来るわよ!》

「チイッ! ホンっトーに小賢しいデス! 回避行動!」

 

 あぁ、本当に。

 すべて私が悪いのだ。

 

 曙ちゃん、お願い。

 どうか──みんなを助けて。

 

 

            ※

 

 

 日付が変わっても尚、海は時化(しけ)ていた。

 一時に比べればまだ収まってはいたが、それでも私の頭の高さに迫ろうかという波が次々と押し寄せていた。

 正直、航行どころではない。

 旗艦の長良を先頭に、朧、私、漣の単縦陣を組んでいるのだが、朧に付いて行くのがやっとで周囲の警戒をする余裕は全くない。朧との距離は縮まったり離れたりを繰り返していて、その度に主機の回転数を上下させているから、なんだか行儀の悪いバイクみたいで嫌になる。

 あれだけ訓練を重ねていたのに、たった数ヶ月休むだけでこんなに練度は落ちるものなのか。

 自分の不甲斐なさに苛立ちを募らせていると、一際高くて変拍子の波が襲いかかる。私は完全に不意を突かれて、波に飛ばされバランスを崩したまま着水した。転覆しないよう必死に姿勢を保つ様は、(はた)から見ればさぞかし滑稽だろう。泥酔したサラリーマンだとか初めてのスケートとか、くだらない比喩が頭に浮かぶ。そうして重心を前に戻しすぎて前のめりに転倒しそうになった時、次の一波に身体の前面を殴打され、私の姿勢は強制的にその平衡(バランス)を取り戻した。

 口腔内に大量に侵入して来た塩辛い海水の味が、私のフラストレーションを爆発させた。

「あぁっ! もうなんなのよっ!」

《曙下手すぎワロタ。何か入隊したての頃より酷くない? 引き籠るとゼロじゃなくてマイナスからのスタートにでもなんの?》

「うっさい漣ッ! アンタ帰ったらぶっ飛ばすからね!」

《アタシ、振り向いても曙いないような気がしてきた。一人で違うところ彷徨(さまよ)ってない? 大丈夫?》

「いるわよバカにすんな!」

《まーた身体に力入ってるんでしょ。力抜いて膝を柔らかく使いなさい! 頭が上下してたらバランスも取れないし照準も合わないよ!》

「解ってるわよ新人じゃないんだから!」

 そう言いつつ、自分が新人並みの航行をしていることは誰よりも理解していた。荒れる海面も私を苦しめる要因の一つだが、何より空間認識能力を失わせるほどの暗闇が不安を増大させる。朧には是非航海灯を点けてもらいたい。

 数日前まで、夜が好きだ、などと吐かしていた自分を棚に上げていることを承知した上で、やはり川内はバカなんじゃないか、と激しく思う。

 これから相手にするのは潜水艦なのだし。

「それでいつ着くのよ! もうそろそろ第一艦隊と合流出来てもいい頃でしょ!」

《まぁねぇ。ポイントの近くにはいる(はず)なんだけどな。私達はともかく、利根達は合流しててもいい頃なんだけど》

《何にも連絡ないのです?》

《ないよ》

《長良さん、一度聞いてみた方がいいんじゃないですか?》

 んー、と長良の唸る声が数秒続く。

《ま、いいか。状況が判らなくてモヤモヤしてるよりはいいよね。チャンネル変えるよ》

 長いこと悩んだ割りにはあっけらかんとしすぎじゃないか、と思いつつ私も無線の周波数を変更した。

《利根、聞こえる?》

《ん? お、長良か。聞こえとる聞こえとる。ちょうど良かった》

 まるで通信が入ることを予期していたかのようなレスポンスの良さで利根は応答した。

《ちょうど良いって、何よ?》

《見えとるぞ、お主ら。三番艦は曙じゃな? 下手くそじゃのー。おかげで判別し易かったぞ》

《良かったね曙、役に立ったって》

 朧が自然に煽ってきた。

「どいつもこいつもッ!」

《近くにいるの? 何処よ? こっちからは見えないわよ》

《お主らの──十時方向じゃ、な。信号灯点けるぞ》

 左舷前方を注視すると、チカチカと灯りが点滅していた。正確な距離は判らなかったが、それほど近い距離でもなかった。よく自身の索敵能力を自慢気に語っている利根だが、実際伊達ではない。

《見えた。今から向かうよ》

 左に三○度転針、と長良から指示が下りる。

 転舵の最中に左足が軽くスリップして姿勢を崩す。私は己の未熟さに舌打ちをした。

 しかし、利根隊は何故こんなところにいるのだろうか。今頃は第一艦隊と合流して潮と阿武隈を退避させていなければならない時間である。

 胸騒ぎがした。作戦がその初期段階で大幅な変更を迫られていることは確かだったし、救助作戦である以上いつにも増して時間が惜しい。

 やがて、闇の中にぼんやりと五人のシルエットが見え始める。

 主機の回転数を落として減速する。筑摩、球磨、睦月、如月の四名はこちらに背を向け、半円状に広がって周囲を警戒していたのに対し、利根は何故か中心で腕を組み仁王立ちしていた。

《皆も周りを見てて》

 長良はそう言って利根に接近していった。私は無線を生かしたまま散開して位置につく。如月がこちらを向いて手を振ったので、私も右手を上げてそれに応えた。

《利根、どうしたのよ? 何でこんなところにいるの? 第一艦隊は?》

《第一艦隊は合流ポイントにおらんかった。潜水艦を撒くために予定航路を外れたのかもしれんが理由は判らん。九時間以上通信を途絶しておるしの》

《そ、それって》

《長良、考えても仕方ないことは考えないのじゃ。彼奴らの健在を信じて動くことしか我輩たちには出来ん。それにな》

 会話が気になって二人のいる後方を振り向く。長良は利根に寄り添って何かを覗き込んでいた。

《見ろ。南東の約三○キロメートル、敵味方識別装置(IFF)に応答しない反応が多数じゃ》

《これは、敵の》

《増援じゃな。細かく針路を修正して西へ進んどる》

 利根と長良は顔を見合わせた。

 

 

《おそらく第一艦隊はこの先じゃ》

 

 

 全身がざわついて鳥肌が立つ。敵の増援艦隊が何処かを目指しているということは、そこに第一艦隊がいるということであり、また第一艦隊の居場所を敵増援艦隊に報告している者がいるということである。敵潜水艦は、今も尚第一艦隊の追跡を続けているのだ。

 しかし、何より第一艦隊が無事である可能性が高いことに安堵を覚えた。

《あと少しで長門たちが敵増援との砲雷撃戦距離に入る。作戦を変更して我輩達もそれに加勢する。第一艦隊へはお主らが向かえ。良いな》

 長良は大きく頷く。

《解った。利根も気をつけて》

 みんな行くよ! と言って長良は身を翻し、こちらへ向かって来る。その様子を眺めていると、利根と目が合った。

《曙、何じゃその脚に付いてるヘンテコな装備は》

《バリ式ですよー》

 私の代わりに漣が答えた。

《ばりしき?》

 浸透していないのに略したものだから、案の定伝わっていない。

「夕張式対潜弾投射機よ。夕張から貰った対潜装備なの!」

 ぽん、と装備を叩いて言った。

《ほぉ。大丈夫なのか? そんなんで》

「自分の心配してなさい!」

 私の(かたわら)を長良が通り過ぎていく。

 振り向きざま見えた利根は、少し微笑んでいるように見えた。

 

 

           ※ 

 

 

 第一艦隊の予定航路を辿り始めて一時間ほどが過ぎた。

 もうすぐ夜が明けるが未だ発見には至っていない。明るくなれば捜索は容易になるだろうが、合流を果たせていない今となっては敵航空戦力による被害の拡大が懸念された。私たちだってスロットの(ほとん)どを対潜装備に()てているから、水上艦艇はもちろん、航空機には丸腰も同然である。

「何処にいるのよ全く」

 焦りが苛立ちとなって吐き捨てるように言った。

《ぼのたん、イライラしたって見つからないよぉ。気持ちは解るけど》

《でも、本当にそろそろ会えないとおかしいよね。やっぱルート外れてるんじゃないかなぁ》

 漣と朧も不安なのは同様らしい。

「潮が大破してから半日以上経ってるのよ。早く合流しないとあの子──」

《曙、静かに》

 長良が私の言葉を遮って言う。

《私語をする暇があるならソナーに注意しなさい》

 簡潔で完璧に正しい長良の注意が私の感情を逆撫でする。常に正しい言葉を受け入れられる訳じゃない。正しい言葉だからこそ受け入れられない時がある。

 私にとって、今がその時だった。

 唇を噛み締めてマイクの出力を切る。

「だって早くしないと──早く見つけないとあの子──沈んじゃうかもしれないのよッ!」

 天に向かって思い切り叫んだ。

 叫んだからといって何も進展しないことは解っている。ただ、そうせずにはいられなかった。

 時化の海での航行と闇の中での艦隊行動に一杯で、それまで紛れていた一番の不安が夜明けを間近にした今になって噴出した。

 ソナーに耳を澄ましたって何も聴こえないじゃないか。

 四隻のスクリュー音が混じり合って、まるで洗濯機に頭を突っ込んだみたいだ。

 こうしている間にも潮は──。

 あぁ、潮に会いたい。

 

 なんだか急に疲れてしまって、ソナーを切って私は項垂(うなだ)れた。

 生温い風は快適とは言い難いが、それでも過熱した私の頭を冷却するには十分だった。

 目許がやけに冷たい。

 一度大きく深呼吸をして、ソナーを再び接続しようとしたその時、ぱらぱら、という乾いた破裂音が遠くから聴こえた。

 慌ててマイクの出力を戻す。

「──今の聞こえた?」

《何、潜水艦?》

「違う。少し静かにしてみて」

 目を瞑る。

 波音、風音に混じって、薄く、細く、遠くから。

 

 

 ──ぱらぱら。

 

 

《あ、聞こえた》

《どうやら、始まったみたいね》

《どっちの音だろう》

 それは砲撃の音に違いなかった。敵味方どちらの発砲音か判らなかったが、戦艦の主砲だろう。いずれにしろ先制するに越したことはない。長門と陸奥の41センチ連装砲であることを祈るばかりである。

 破裂音は、やがてその頻度を増していった。

 砲雷撃戦では何も出来ないことへの複雑な感情を抑えつつ、今まさに戦闘が行われている東の水平線に気を取られていると、私たちの針路のほぼ真正面から、先ほどまでの破裂音とは明らかに異なる種類の爆発音がした。

《何ッ! 攻撃!?》

「いや、この音は──」

 聞き慣れた発砲音、35・6センチ砲。

「金剛だッ!」

《ようやく見つけた!》

《みんな、速度上げて!》

 武者震いがして全身の毛が逆立つ。我を忘れて速度を一杯にした。

 対潜警戒も何もあったものではないが構うものか。

 とにかく早く会いたい。第一艦隊が、潮が、そこにいる。

《金剛さん! 金剛さん、聞こえる!?》

 発砲炎が目視出来る距離まで接近しているが応答はなかった。

「やっぱ無線壊れてんのよ! 聞こえてない!」

《ええいっ! 気づいて!》

 長良は信号灯を点滅させて合図を送った。数秒経って金剛からの応答があり、こちらへ向かって来る。

 鼓動が速くなるのを感じた。

 やがて対面しようというところで前にいた朧が急減速したため、追突しそうになって身体を捻り、ギリギリのタイミングで回避する。体勢を崩したまま急制動をかけると、私は半回転して後ろ向きのまま大きな弧を描いた。

 やっとの思いで停止すると、その後方から首根っこを掴まれて振り回される。

「Oh my ボーノ! アメイジングなタイミングデース! よく来てくれました!」

「金剛、怪我はない!?」

「All rightネ! 問題Nothingデス!」

 装甲の解れ具合からして小破しているのだろうが、それを感じさせない気丈さで金剛は言った。

「良かった。それで潮は? 他の皆は何処?」

「向こうネ! 潮も無事デス。早く行ってあげて下さいネ!」

 金剛の指差した方向を確認する。薄っすらとではあるが艦影が確認出来た。

「ありがとう! 漣、朧、向こうだって!」

 身振りを交えつつ二人に伝える。私たちは金剛の許に到着した長良と入れ違いでその場を離脱する。

 陣形も艦隊行動も無茶苦茶に、それぞれがただただ一杯で海面を疾走しているカオスな状況ではあったが、この場で冷静を保つ余裕は私達になかった。

 潮の手を取り、何があろうとも二度とその手を離すまいと、そのことしか頭になかった。

 私達が、この先もずっと──私達でいられるために。

「潮ッ!」

 那智に抱えられている潮はぐったりとしていて、無事だと聞いてはいるが気が気ではない。その光景に軽い眩暈を覚える。

 漣と朧と私は、ほぼ同時に急停止の水飛沫を上げた。

「貴様ら、よく来てくれた!」

 エッジの効いた威勢のいい声で那智が言う。那智も中破しているようだった。

「潮の状態は!?」

「心配するな、気を失っているだけだ」

 そっと触れた潮の頬は、柔らかくて温かった。

「艤装もこんなにボロボロになっちゃって。これ排気口塞がってない? やってくれるなぁ」

「よく頑張ったね、潮」

 数ヶ月振りの四人だった。

 以前は当たり前だった、四人の第七駆逐隊。

「ごめんね、潮」

 私、帰って来たよ。

「色々心配かけたけど、もう大丈夫。私達で何とかするからね」

 蹴散らしてやるから。

 目許を拭って気を入れ直す。まだ泣く時じゃない。

「皆さーん、こんなところで固まってたら危ないですよ!」

 やけに甲高いその声に、無性に懐かしさを覚えた。

 私たちの許に、こちらも中破した阿武隈が駆け寄って来た。

「阿武隈、久し振り。大変だったみたいね」

「わぁ、曙じゃない! そうそう聞いて、潜水艦ったらものすっごくしつこいの! どんだけ付いて来るのって感じ! 爆雷も残ってないし髪型も装甲も崩れるしもう最悪なんですけど」

 話が妙な着地をしたことにハッとして、違う違うそんなこと言いに来たんじゃないの! と地団駄を踏むように阿武隈は言う。

「まだ近くにいるから散開して! 纏めてやられちゃう!」

「数は判るの?」

「私が一つ沈めたと思うから、多分、二隻だと思う」

 那智と目が合う。

「曙、大丈夫だ安心しろ。潮は何があってもこの那智が守る」

 その言葉に私は無言で頷く。

 依然として目を瞑ったままの潮の顔を撫で、大きく息を吐く。

「漣、朧、行くわよ!」

「いよいよか!」

「ほいさっさー!」

 私たちは姿勢を低くして、クラウチングスタートを切るように急加速してその場から散っていく。

 ふと見た東の水平線は、赤く染まり始めていた。

 その光景は此処が戦場であることを忘れさせるほどに澄みきっていたが、風音や駆動音を破って再び聴こえて来る金剛の発砲音が、その思いを吹き飛ばした。

「距離取って三手に分かれるわよ!」

《曙が指揮執り始めちゃってるけどいいのかなぁ? ねぇ、長良さん》

《いいよ別に。私は金剛さんの護衛をするから、そっちはあなた方でしっかり頼むわよ!》

《曙、アタシ、ピンガー打ちたいかも》

「まだダメ。明るくなってきたから、九三式とその目でなんとかしなさい!」

《何も聴こえないよぉ》

「喋ってるからよッ!」

 確かに朧の気持ちも解らなくもない。これだけ派手に動いていればソナーに耳を澄ましたって雑音だらけだし、私達の状況は敵にほぼ知られているだろうから、アクティブソナーを使用したところで失うものは何もないように思える。

 しかし、ピンガーを打つにはもう少し潮から離れておきたいと思った。

「あとちょっとしたら私が打つわ。囮になるかもしれないし」

《あ、自分だけいいトコ取りしようとしてる!》

「あのね、今そんな場合じゃないでしょ。何で私がそんなセコイことしなきゃいけ、な──」

 漣の幼稚な発言に呆れていると、夜明けの角度の浅い太陽に何かが水面で反射した。

 波頭、波間。

 あれは──。

 

 

「潜望鏡ッ! 私の三時、距離七○○!」

 

 

 全身から声を振り絞るように叫び、私は面舵一杯で転舵して敵へと突撃する。

 夕張式対潜弾投射機──通称「バリ式」のセーフティを解除し発射準備を整えた。

 潜望鏡は既に見えない。

 撃たれる前に撃ってやる。

 私の頭の中は、そのことで埋め尽くされていた。

 早く、もっと速く。

 もう、いつ正面から魚雷が来たっておかしくない。

 焼き付いてしまいそうな勢いで主機を回して、三式水中探信儀のピンガーを打つ。

 十二時方向の距離三○○に反応があった。

 ソナーとバリ式が同期して、弾頭の角度が調節される。

「いっけぇえ!」

 左脚に装着したバリ式から、いくつもの弾頭が一瞬のうちに連続して射出される。弾頭は放物線を描き円状に広がって着水した。

 やがて轟音と共に巨大な剣山のような水柱が立って、その後僅かな余韻を残し辺りは急速に修復していった。

「──す、すごい」

 私は放心してそう呟いた。

《何今の! 曙がやったの!?》

《ヤバイじゃん! バリ式超ヤバイじゃん!》

 本当にやばい。

 爆発で巻き上げられた海水が、風に乗って霧雨のように降り注ぐ。数秒の間呆然としていたが、戦闘中であることに気がついて声を張り上げた。

「あ、あと一隻いるはずよ! あぁっ、もうピンガー打ちまくって!」

《了解!》

 返答があってから間もなく、朧が発振したと思われるコーン、というピンガーの音がソナーに響く。

 私はパッシブソナーに耳を澄ましながら周囲を見回すが、聴こえるのは自分の鼓動の音だけで、見えるのは大海原と朝焼けに染まる空だけだ。落ち着け落ち着け、と言い聞かせるがそう簡単に落ち着けるものでもない。

 焦りが募るばかりの私のソナーに、三回目の発振音が聴こえたその時、

《感あった! 逃がさないよッ!》

 と朧が叫んだ。

《キタコレ!》

「見つけた!? 朧、何処よ!?」

《アタシの近くよッ》

「だからそこが何処なのよッ!」

 朧からの返答がない。これ以上聞いても無駄と判断した私は、朧のいる西側に向けて舵を切った。

《ぎ、魚雷撃ってきた! さ、三本、魚雷三ッ!》

「朧、避けて!」

《アタシは大丈夫だと思う多分だけど! 漣、一本そっちに行ってるから気をつけて!》

《おk!》

 無線から朧の唸り声がした。回避行動中なのであろう。それは加速度や海水の抵抗に耐えている声であり、同時に恐怖に耐えている声でもあった。

 次第に、派手なウェーキを残しながら海上を疾走している朧の姿が見えてくる。

《よ、よしっ。避け切った。今度はこっちの番ね。爆雷投射! 沈みなさいッ》

《あーっ! 待ってぇ、間に合わないぃ!》

《待てる訳ないでしょ! バカなこと言ってんじゃないわよ!》

 朧は高速で移動しながら、その航跡上に爆雷を散布していく。数十秒後、爆雷が炸裂し始めて、朧の後を追うように水柱が上がっていった。

《どうかな? やったと思うけど》

「私が確認する」

 未だ爆発の余韻が残る海面を注意深く観察すると、大量の油と深海棲艦のものと思われる艤装の残骸を発見した。

 

 

 ──私は、空を見上げて大きく息を吐いた。

 

 

「終わった。撃沈確認した」

 無線は漣と朧の叫び声で一杯になった。声が強すぎて音が割れている。いつもは不快に感じるクリップノイズも、この時ばかりは心地良かった。

《やった、やったぁ!》

《あー、なんも言えねぇ》

《曙、漣、朧、よくやったね! こっちも大分優勢に進められてるから、潮と一緒に離脱しなさい》

「了解。ありがとう、長良」

 私はなんだか疲れてしまって、指示を出すことも忘れて潮の許へと向かい始めていた。

 無線越しの大騒ぎを柳に風と受け流し、海上をトロトロと移動する。

 あぁ、艤装が重たい。

 脹脛が()りそうだ。太腿もダルい。背中は張って炎症を起こしているみたいだ。

 そんな私を気遣ってくれたのか、阿武隈と那智は静かに祝福してくれた。

「よくやったな。大したものだ」

 私は頷いて応えて、中腰になり潮の顔を覗き込む。

「終わったよ、潮。早く帰ろう」

 そう囁くと、潮の瞼が僅かに震えて小さな声が漏れた。

「潮、気がついた!?」

「あ──曙ちゃん」

 潮は弱々しい声でそう言って、薄っすらと目を開けた。

「もう大丈夫よ。私達が全部やっつけたから。さぁ、帰るわよ」

「曙ちゃん──」

 目頭が熱くなる。そんな自分に照れ臭くなった。

「しっかし潮は本当にドジね。ったくもう、近くにいてやらないと危なっかしくて見てられないんだから」

「曙ちゃん、まだ──」

 言葉の最後は風に溶けて聞こえなかった。

 潮の表情に一抹の不安を覚えて、潮の唇に耳を近づける。

 潮は、擦れた小さな声で言った。

 

 

「まだ──もう一隻いる」

 

 

 その時だった。

《魚雷ッ! 雷跡四!》

 私は後方を振り返る。

 迫り来る白い線が四本見えた。

 回避、と叫ぼうとして言葉を飲み込む。

 私たちは避けられても、潮は避けられない。

 そのことに気がついて、私は戦慄した。

 身体が、動かない。

《曙ッ! 私と朧が体張って止めるから、アンタが彼奴(あいつ)をやりなさい!》

 漣。

 朧。

《曙、返事は!? 解ったの!?》

「いや、でも──」

《腹括りやがりなさいって!》

《漣、衝撃に備えて!》

 魚雷と私達の間に割って入った二人は、大きな爆発に包まれた。

 私は訳が判らなくなって、大声をあげ機関をフルに回して走り出した。

 潜水艦は、海上に姿を曝していた。

 異形の口許から上半身を乗り出すようにして、長い頭髪を海面に浸らせている。

 その深海棲艦は、(わら)っていた。

 

 

 お前か。

 お前だろう。

 あの時も。

 私だけではなく、大切な仲間まで。

 絶対に沈める。

 お前だけは──何があっても。

 

 

 敵は、続けて魚雷を二本発射した。

 このまま突進すれば直撃するが、そんなの構うものか。

 バリ式を照準する。

「沈めえぇっ!」

 弾頭が勢い良く飛び出していくと同時に、潜水艦は潜航を始めた。

 接近する魚雷に防御姿勢をとる。

 直後、悪意の塊としか形容出来ない衝撃が全身を襲う。

 私は空中に放り出されて、姿勢も場所も損傷も判らないままに海面に叩きつけられた。

 起き上がる気力など湧き上がってこない。

 

 朦朧とする私の許に、バリ式の炸裂する音と衝撃が海を伝って届く。

 

 私はただ、ざまあみろ──と心の中で呟いて、その意識を手放した。

 

 

            ※

 

 

 早朝の太陽は柔らかかった。

 角度的には日没前と変わらないと思うのだが、陽射しに凶悪さがない。一体何が違うのだろうと考える。まぁ、何と言っても夕方はとにかく紅い。その色味からしてなんだか未練がましい。その光も熱量も、身体に纏わり付くようだし。

 その点、今はどちらかというと青いというか白いというか。さっぱりしているのである。太陽にも余裕があるというか。

 これから昇るばかりだものな、と太陽に対して何故か上からの目線で結論を下した。

「曙ちゃん、何か、考え事?」

 ぼうっと水平線を眺めていると、岸壁の上で隣を歩く潮に尋ねられた。

「いや、別に。この艤装、何か軽くて変な感じだなって」

「あはは、そう、だよね。私も、変な感じ。演習、上手く出来るといいね」

 私たちは揃って駆逐艦用訓練艤装を背負っていた。

 この艤装は、新人の駆逐艦が基本的な操作や水上航行に慣れるために使用するもので、装備したのは何年振りか判らない。とにかく軽くてオモチャみたいだし、装着した感触の違和感で背中がむず痒くなるような気がする割には、全く収まりが悪い訳ではない、という何とも半端な感じがするのである。

 つまり訓練用としてはとても優秀なのだろうが、専用の艤装に慣れた私達としては物足りなさを感じてしまうのだ。馬力もないし操作感がマイルド過ぎて普段の機動は出来ない。

 

 なんだか、まるで自分が自分ではないような、そんな気がするのである。

 

「私達の艤装、いつ帰って来るんだろうね」

「どうかしら。一から作り直したほうが早いくらい派手に壊れてたみたいだし、秋頃まで掛かるかもね」

 あれから、十日ほど経過していた。

 あの戦いで私と潮の艤装は大破して、鎮守府の工廠では修理不能と判断されメーカー修理に回された。漣と朧の話では、大幅な近代化改修も施されて戻って来るらしい。オーバーホールのついでなのだろうが、綾波型は陽炎型や夕雲型に比べて古くなっている部分もあったし、いい機会かもしれない。

 一つだけ心配なのは、その話を一緒に聞いていた夕張が「へぇ。大破したら改修してくれるんだ」と真面目な表情でぽつりと呟いていたことである。

 近いうちに、緑色のリボンを着けた兵装実験軽巡が謎の大破をするかもしれない。

「まだ、工廠は作業してるんだね」

 右手に見える工廠を一瞥して潮が言う。

 工廠からは、低域と高域の入り混じった機械の作動音が聴こえていた。

「夕張もバリ式の導入評価試験が本格的に決まったから張り切ってんじゃない? 明石さんも大変よ」

 私は他人事のように言う。

 夕張式対潜弾投射機──通称「バリ式」はその性能を高く評価されて、開発の継続をクソ提督から正式に命じられたらしい。

 夕張は自らの業績が認められたことと、趣味でやっていた頃とは桁違いの予算と資材を使えることに歓喜していた。あの夕張のことだから、与えられた資材も別のことに使い込みそうである。

 まだ諦めていないのだろうか。「ショットカノン」とかいう訳の判らない試作艦砲。

 

 一方、明石さんは一転して地獄である。

 結局あの作戦で轟沈は出さなかったものの、大破三、中破、小破共に五、という甚大な被害を出したその皺寄せは一体何処に行くのかというと、鎮守府での修理や調整を一手に引き受ける明石さんのところなのである。

 明石さんの工廠は常に、訓練や演習で破損した箇所の細々とした修理から、装備と艤装の定期点検、艤装の調子が悪い、装備の性能を活かしきれていないような気がする、等々の相談に訪れる艦娘のカウンセリングでフル稼働状態であり、普段から猫の手どころか多摩の手も借りたいほどの過酷な労働環境なのである。

 それに加えてこの殺人的な要修理艦の数だ。明石さんは錯乱して、全部メーカーに回せ私を殺す気か、とクソ提督と壮絶な修羅場を展開したそうだが、気持ちは解らないでもない。

 つい先日も私のいた病棟に、

「あけぼのぉ、アナタ工作艦になりたいって言ったよねぇ。確かに言ってくれたよねぇ」

 と、スパナを片手に焦点の定まらない目で踏み込んで来たから限界は近いのだろう。朝方、ゾンビのようにふらつきながら鎮守府を徘徊する明石さんは、最早我が鎮守府の日常風景だ。

 皮肉なことに工廠の仲良し二人組は、一方が狂喜して一方が発狂しているのである。

 まぁ、どちらも狂っていることに変わりはない。

 しかし、私も元気になったのだから少しは手伝いに行かないといけないな、とは考えている。

 工廠の二人には、返しきれないほどの恩があるのだし。

「曙ちゃん、変わった、よね」

 変わった。

 私が。

「そう? そんな気はしないけど」

「いやぁ、変わったよ」

「どの辺が」

 私がそう問うと、潮は俯きながら微笑んだ。

「だって、お見舞いに来てくれた長門さんとか、北上さん大井さんとか、間宮さんに伊良湖さんとか。なんか、すごく仲良さそうに話しててさ。前はもっと恥ずかしがって、つっけんどんにしてたのに」

「そ、そんなことないわよ!」

「何か、あったの?」

 あったと言えばあったのは確かである。

 私が立ち直ることが出来たのは皆のおかげ以外の何物でもないし、潮を無事救助出来たのも、長門達が敵増援艦隊を完璧に抑え込んでくれたからに他ならない。

 敵の航空戦力がほぼ機能せず、制空権を安定して確保したまま戦況を有利に進められたのは、夜明け前の長距離砲撃で長門が敵空母に打撃を与えていたからだし、最後まで激しく抵抗して、利根や筑摩を中破にまで追い込んだ戦艦ル級にトドメを刺したのは、北上と大井の雷撃だったらしい。

 敵とはいえ最後の一艦に一人二○射線、計四○射線の魚雷を撃ち込むその様は、戦闘というよりもむしろ一方的な虐殺に近かった、と証言したのは長門隊に同行していた飛龍だったが、やっぱりあの二人はちょっとおかしいのである。

 見舞いに来てくれるのは有り難いのだが、手土産に官能小説を持ってきた北上は本当に沈めてやろうかと思った。ニヤけながら「曙好きだもんねー」と剝き身で差し出してくるものだから、長門は勘違いするし大井は「アナタはそっちなのね!」と急に興奮しだすし、事態を収拾するのに骨が折れた。

 曙が本屋でエロ本を物色していた、と北上は吹聴しているが、あれはたまたま私のいた前の棚がそういう本を置いている棚だったというだけであって──。

 大体何だよ、大井の言う「そっち」って。

 そんなことを思い出しつつ私は、

「まぁ、色々とね」

 と一言で雑に纏めた。

 

 そうなんだ、と潮が呟いたところで、私達は桟橋に差し掛かる。

 

 

「曙ちゃん」

 呼ばれて振り向くと、潮は何故か顔を赤くしてこちらを見つめていた。

「やっぱり、変わったよ。か、格好良くなったよね。あ、いや、前から格好良かったんだけど、前よりもっていうか。その──」

 そう言って潮は黙ってしまった。

 なんだか私まで恥ずかしくなって、赤面して目を逸らす。

「あ、あの、潮?」

「は、はいぃ?」

「──ごめんね」

 潮の、え、という声が風に溶ける。

「どうして、曙ちゃんが謝るの?」

「潮に酷いこと言ったでしょ。心配してもらってたのに、気づかないふりして甘えて、潮だって大変な思いをしてたのに、それなのに潮を傷つけた」

 私が、殻に閉じ籠っていた時。

「そ、そんなことないよ! あれはタイミングを考えなかった私が悪いんだよ。私が、曙ちゃんに会いたくて、話したくて、我慢出来なかったのが悪いんだよ」

 潮の両肩を抱く。

「それはないよ、潮。私嬉しかった。けど、どうやって表現していいか判らなくて。ごめんなさい。その、許してくれるかな」

「も、もちろん」

「そう、よかった。ありがとう」

 私は恥ずかしさが許容量を遥かに超えているのを感じていたが、今言わなければと思って、一気に(まく)し立てた。

「ついでにもう一つ! 潮、だ、大好き。これからもずっと、私のそばにいてくれる?」

 こんなのただの告白じゃないか、と言った後で気がつく。

 潮は驚いたようで唖然としていたが、決して私から目を離さなかった。

 その潤んだ目に、次第に吸い込まれてしまいそうな感覚がする。

「ど、どういたしまして」

 そんな潮のズレた返答に、危うく変な空気になりかけた私たちに笑いが込み上げて来る。

 私が先に吹き出してしまって、やがて潮も笑い出した。

「あはは、やめやめ! 漣と朧も待ってるだろうから、早く行こう」

「そ、そうだね」

 私は桟橋に腰を下ろし、訓練艤装の機関を始動させる。

 両手で身体を押し出して、両足で海面に着水した。

「曙ちゃん!」

 私は振り返る。

 

 

「曙ちゃん、私、第一艦隊に来ないかって誘われてるの! どうしたらいいかなっ!」

 

 

 潮が発しているとは思えないような、大きくてはっきりとした声だった。

 私は微笑んで言う。

「やめときなさい! 潮はずっと、第七駆逐隊にいればいいの! 私が近くにいないと、危なっかしくて見てられないんだから!」

 潮は満面に笑みを(たた)えて頷き、私の後に続いて海上に降り立った。

「曙ちゃんには、やっぱり朝日が似合うよね」

 

 

 そう言って、潮はそそくさと先に行ってしまった。

 その先には、漣と、朧と、太陽が──。

 

 あぁ、大切なものはすべてそこにあるな、と。

 

 素直に──そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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