碁石アレルギーとはなんぞや【完結】 (Una)
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第1話 逆行
まず、父さんが若くなっていたことに衝撃を受けた。
気にしていた白髪が黒一色に戻り、ほうれい線も薄くなっていた。
母さんも随分と若々しくなって、一瞬親戚の誰かかなと思ってしまった。
時間が戻っている。
恐らく、10年ほど。
記憶を振り返る。自分は昨夜どこにいたのか、もちろん覚えている。
自分の中にある最後の記憶は、棋院の書庫だ。
秀作の、つまり佐為のかつての棋譜に初めて目を通したのだ。
読み進めていくうちに、気づけば時間を忘れた。
その美しさに魅せられ、流麗さに心を奪われ、苛烈さに恐れ。
跡に残ったのは、身を焦がす罪悪感。
取り返しのつかない罪に怯えた。あいつと出会って、囲碁が大好きになって、プロ棋士になって、初めてあいつが囲碁界にとってどれほどの価値を持つ存在なのかに気づいた。
だから自分は、時間の逆行を願った。
そして気づけば10年も時間を遡って、若返った両親に向かってどちら様ですか? などと言ってしまい、親に向かってなんて言い草だと父さんに叱られた。母さんもちょっと泣いてた。
ほんとごめんなさい。
グレたわけではないんです。
それから数日、五月の春気分である自分の感覚ではありえない真冬日が続き、雪まで降って、テレビや新聞で冬季オリンピックやらなにやらのイベントなどを見聞きして、ようやく自分が時間を逆行したのだということに納得した頃。ヒカルは祖父の家にある蔵に足を向けた。
ハシゴのような階段を登り、その奥へ。
時間が戻ったのなら、また佐為に会える。そんな期待を胸に。
今度はたくさん打たせてやる。絶対邪魔しない。小遣いは全部囲碁関連に当てるし、望むなら院生にもなるし、塔矢先生に土下座して弟子入りしてもいい。全部全部、お前に打たせてやるから。
息をわずかに切らせて辿り着いたそこにはちゃんとあの碁盤があった。佐為が宿っているはずの、虎次郎所縁の碁盤。
でも、碁盤に血の跡がついていなかった。
顔から血の気が引くのがわかる。
ひっ、と。喉の奥で悲鳴が響いた。
碁盤に向けて、どれだけ呼びかけても、佐為の声も聞こえず、姿も見えず。
「どうして、だよぉ……!」
そのまま碁盤に突っ伏し、どれだけ泣いていたのか。気づけば泣き疲れて眠っていたようだった。外はとっくに陽が沈んでいて、じいちゃんが様子を見に来てくれてやっと目を覚ました。
これは罰だ。
佐為をないがしろにした自分への。
三日間自分の部屋に引き篭もったヒカルは、自分の身に起きたこの現象をそう結論付けた。
自分は罪を犯した。
だから自分は罰を受けなければらない。
囲碁を辞める? それはとても辛い。でもだめだ。辞めてしまってはいずれ忘れてしまう。忘れてしまえば罰にならない。
自分は何をした? 囲碁を愛し、千年間囲碁を渇望し続けた佐為に。
碁を打つ機会を奪い、目の前で見せびらかすように打ち続けた。俺みたいなヘボとしか打てない状態で生殺しにした。あれだけ碁に飢えていたのに。
罰の基本は、目には目を、だ。
囲碁を忘れる、じゃあだめなのだ。
碁を愛し、碁を傍におき、常に碁を考え、そして打たない。
佐為がそうであったように。
碁盤の中でそうしていたように。
なにより、自分が佐為に強いていたように。
自分の愚かさにうんざりする。
この世のなによりも、誰よりも碁を愛していた佐為の前でこれ見よがしに碁を打っていた自分を、彼はきっと恨んでいただろう、妬んでいただろう。そんな自分が碁盤に向かって呼びかけて一体どうするつもりだったのか。
仮に再会できたとして、どのツラ下げて会うつもりだ。
自分は、罰を受けなければならない。
そうでなければ、佐為に会わせる顔がない。
口から吐き出された白い吐息が、夜の闇の中でいつまでも目に付いた。
「それなに?」
当たり前の話ではあるが、父さん母さんと同じように、あかりもまた若返っていた。
前の時間では、碁に熱中するに従ってあかりとの接点は薄れていった。今思うと申し訳なかったと思う。前回の人生で、あかりが碁に興味を持った原因は自分なのだ。それなのに結局碌に相手をしてやれなかった。もう少し碁を打ってやればよかったと思う。
「碁盤だよ」
あの後、じいちゃんに頼んで、押入れにあった折りたたみの囲碁セットを一つもらったのだ。
とはいえ、じいちゃんには申し訳ないが、自分は碁を打つつもりはない。碁を身近に置き、それでなお打たないという状況を作りたかったのだ。自分への罰として。
「ごばん? てなに?」
「囲碁っていうゲームで使うんだよ。白と黒の石をこれの上に交互に置いて、多く陣地を囲った方が勝ち」
「ふーん、面白いの?」
「…………おもしれーよ、すごく」
これは、これだけは偽れない。もう碁は打たないけれど、碁を愛し続けると決めたから。
碁が好きだ。碁は楽しい。碁を愛してる。
俺は、碁を一生愛し続けなければならない。
「じゃあ、私もやってみようかなぁ」
「え、碁やんの?」
「ヒカルもやってるんでしょ? 教えてよ」
「ん〜…………」
「なによぉ、ヒカルにできるなら私にもできるもん」
できるようになることは知っている。
碁は、そのルールや定石は至ってシンプルで、故に奥が深い。覚えるのは容易くしかし極めるには人類が千年の時間をかけても未だ道半ば。
でも自分は碁を打つ気は……いや。
そうか、とヒカルは思い至る。
碁を側に置き、碁を愛する。そのために、人に碁を教えるというのはいい案であるように感じた。
佐為と同じように、弟子と打つのはありとしようか。
あかりとだけ打つ。
あかり以外には、俺が碁を打てるということを知らせない。
俺みたいな下手くそとしか打てなかった佐為の歯がゆさを、少しでも味わえればいいと思う。
「でも悪いんだけどさ」
「ん? なに、ヒカル」
ヒカルは折り畳みの碁盤を広げながら、あかりに説明を始めた。
「この木のケース、あるだろ? 中にこうして、白と黒の石が入ってるんだけどな?」
「うんあるね」
「これって碁に使う石だから碁石って呼ぶんだけど」
「まんまだね」
蓋を外せば、ジャラジャラとした艶のある石がたくさん入っていた。あかりはなんだかワクワクしてきた。
子供らしい好奇心と女の子らしい綺麗なものを好む部分が刺激されたのだ。
「俺って碁石アレルギーでさ、碁石に触れないんだ」
「え?」
こてん、とあかりは首を傾げた。ツインテールが揺れる。
あいつは碁石に触れなかった。だから自分も触ったらだめだ。
俺とあいつの関係を再現するなら、絶対に俺は碁石に触れてはだめだと思った。
「じゃあ、どうやってヒカルは碁をやるの?」
「ん、まあこう、相手に石を置く場所を示してだな」
「……私がやるの?」
「考えてみたら面倒くさいよなぁ」
よくかつての自分はこれを了承したものだと思う。まああいつのためなのだからその程度文句言わずやれ、という話なのだが。でも小学生にそれは厳しいかもしれない。
「やっぱやめるか?」
「う、ううん! やる。だから教えて!」
ぐい、と碁笥を二つともヒカルから奪い取ったあかりは、両方の石を一掴みずつ碁盤に適当に広げて、
「ほら、どうやるの?」
こいつこんなにパワフルだっけ、とヒカルはちょっと引いた。
「でもヒカル、碁石持てないのにどうして碁が面白いってわかるの?」
「……碁を知ってる人はみんな面白いっていうから」
小六になって、つまり5年ほどあかりを鍛えて。
一応プロである自分と毎日のように碁を打たせて、棋譜を並べながら解説して。
プロとは言っても大手合いを数えられる程度にしか打っていない、院生に毛の生えた程度のなんちゃってプロではあったけど。
しかも自分はあかりの指導において、結局一度も碁石を持たなかった。佐為が碁石を持たなかったからだ。いろいろと不便だったけど、碁石アレルギーで押し通した。指で石を置く場所を指定したり、詰碁の課題を紙に書いて宿題にしたり。
出来る限り佐為の真似をしようとして、上手くいっていたとはとても言えないけれど。
そんなひどい教え方なのに、あかりはとても熱心に碁を勉強してくれた。かつての自分とは大違いだ。自分はもっぱら佐為と打つばかりで、詰碁や棋譜並べのような一人で勉強するのが苦手だったな、なんて思い返す。
真面目に勉強するあかりに感化されて、自分も詰碁や棋譜の勉強をするようになったし、棋譜を付けるようにもなった。
あかりと打ったものだけじゃなく、前の人生で打った自分と佐為の対局だとか、saiとして打ったものだとか、覚えている限り全ての対局を棋譜に起こした。それを基本にあかりに教えてきた。
これは自分にとってもいい勉強になった。かつての自分では気づけなかった、佐為の布石や意識の先が見えてくる。目を凝らすほどに見えてくる、綺羅星のように輝く創意工夫の数々は、佐為が自分との対局でも決して手を抜いていなかった証拠だ。
つくづく思う。
自分は、碁を覚えるべきではなかった。佐為にだけ碁を打たせるべきだったのだ。
今更後悔しても仕方ないけれど、この美しい宇宙を作り上げる彼に、もっともっと碁を打たせてやるべきだった。棋譜を通して彼が残した宇宙を見るたびに、碁の楽しさと自分の罪深さを自覚してしまうのだ。これもまた罰だろうと思う。
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第2話 外出
ここに入ろう、とヒカルが言い出した時、あかりは躊躇いを覚えた。
あかりはヒカルと打つだけで満足だった。ヒカルは落ち着きがあって、成績も良くて。あかりは囲碁を優しく教えてくれるヒカルのことが好きだった。どんなひどい手を打ってしまっても、呆れることなく真剣に受けてくれるヒカルのことを、いつの間にか好きになっていた。まだそれは友愛と恋愛の境界も曖昧な淡い感情で、自覚するには至っていないけれど、もっとヒカルの側にいたいと、もっとヒカルに褒められたいと、そんなことを思っていた。碁はもちろん楽しいけれど、心の比重はヒカルの側に偏っているのだった。
だから囲碁の大会だとか、打つ相手を増やすだとか、そういうことに興味はなくて。ヒカルに連れられてやってきたその碁会所なる場所に、あかりは大きく動揺した。
デートじゃないんかーい。そう心の中で突っ込んだ。
「碁会所?」
「そ。いろんな人が碁を打つために自由に出入りできるんだ」
「うーん……」
「強くなるにはいろんな人と打つのも大事なんだよ。それにここは塔矢名人が経営しているとこだから客のレベルも高めらしいし」
会話をしながら、あかりの心に黒いもやもやとしたものが浮かんできた。
端的に言うと、いらっとした。
ヒカルは、自分がヒカル以外の人間と打っても平気なのだろうか。自分はヒカルと二人きりの時間がすごく大事で、碁は二人を繋ぐ絆のように感じていた。ヒカルが碁を打てることを秘密にするところとか、いつもこっそり二人きりで内緒で碁を打つとか、そういうのをなんとなくいい感じに思っていたのだ。そこでいきなり他人と、というのはなんだろう、自分たちの関係をすごく軽く扱われているように思えてしまう。
というか誰だよ『とうや名人』て。
変な名前。
「特に、ここにいる塔矢名人の秘蔵っ子がな、塔矢アキラっつーんだけど。そいつにあかりも挑戦してみたらいい頃合いだと思ってな」
「……強いの?」
「え、ああ。噂によると、俺らと同じ年でプロ並みなんだってさ」
「ふぅん」
ヒカルがビクッと振り向いた。なに今のふぅん。怖くない?
対してあかりはヒカルの表情から察した。
ヒカルは自分との関係を軽んじているんじゃない、その『とうやあきら』とやらが特別なのだ、と。
話し方は伝聞形で、まるで会ったこともないような言い方をしているけれど、幼馴染歴十年は伊達じゃない。ヒカルが嘘を吐くのがクッソ下手だということもあるが、わかる。噂によると、なんて言っているけれど、間違いなくヒカルは『とうやあきら』を知っている。ヒカルのうちにある感情がどんなものかはしれない。怒りや憎しみというわけではないようだが、なんだか複雑な感情をその『とうやあきら』に向けている。その感情は、碁を介して生じていることは間違いなさそうだ。
なんだか悔しい。こちとらヒカルとは五年以上も碁を打ってきているのに。毎日打っているのに。それなのになぜその『とうやあきら』とやらをそんなに気にするのか。
まさかそいつは、『あきら』ちゃんだったりするのだろうか。三年生の時に同じクラスにあきらと言う名前の女の子がいたのだ。母さんに聞くと、そう言う名前の子もいるわよ、と言われた。まさかその『とうやあきら』も女の子なのではないか。
「行こっか」
あかりが足を踏み出す。
「え?」
「なに? ヒカル」
「行くって」
「あきらちゃんと打つために来たんでしょ? 早く入ろうよ」
道場破りもかくやといわん勢いで碁会所の扉を開け放ち、初めての場所にも関わらずなんの物怖じもせず店内を睥睨するあかりの様にヒカルはちょっとビビった。なんでいきなりやる気満々なんだろうか。ビビりすぎて、あきらちゃんってなんだよと聞き損ねた。
「あらいらっしゃい。君たち、小学生?」
声をかけて来たのは受付のお姉さんだ。ショートの似合う活発そうな女性だ。
「はい、六年生です!」
「元気いいわね。碁を打ちに来たの? それとも誰か、お父さんかおじいちゃんを迎えに?」
おじいちゃんなんて年じゃないぞー、なんて声が奥からかけられる。
「とーやあきらちゃんと打ちにきました」
「ちょ、あかり」
あかりの宣言に、周りの客から視線が飛んでくる。あかりは鋭いそれらをものともせずに視線を右、左と巡らせて、一番奥に陣取って碁石を並べるおかっぱ頭を捉え、思い切り指で指して。
「ヒカル、あの人?」
「あ、ああそうだけど」
のしのしと碁盤の並ぶテーブルを横切り、塔矢アキラの正面に立つ。唖然とするアキラ。周りのお客さんもなんだなんだと好奇の視線を向けている。
「はじめまして」
「う、うん。はじめまして」
あかりはあきらのツヤッツヤなおかっぱの髪をしばし見つめること数秒。
んん? あかりは首を傾げて、
「……どっち?」
「な、なにが?」
その後ろではヒカルが市川に500円を払っていた。俺は打たないんですすんません、と頭を下げながら。
「……男の子?」
「え、うんまぁ」
「っしゃ」
いきなり現れてガッツポーズかます女の子にアキラは困惑した。ちょっとおかしい子なのかな。
そんなアキラの視線に気づいたのか、あかりはゴホン、と咳を挟んでビシリと指を突きつける。
「いっしんじょーの都合により、私はあなたを倒さなくてはならなくなりました」
「そ、そうなんだ。えっと、碁の話だよね?」
「? もちろん」
もちろんと言われても、なんだか今にも拳での一騎打ちを挑まれそうな雰囲気である。愛らしい顔に不釣り合いなほど両目を釣り上げている。なんだろう、僕はこの子に何か恨まれるようなことをしたのだろうか。
ともかく、対局を望まれているのだ。こちらを倒すと言う以上、石を置く必要はないだろう。並べていた石を片づけ、僕が握るよ? と声をかければ彼女はそれが当然と言うように碁笥から白石を二つ手に握りこんだ。
並ぶ黒石を見つめながらあかりは思う。
この少年の何がヒカルを惹きつけているのか、それはわからない。でも、それが碁に起因するものであるのなら、私がこの人をけちょんけちょんのぼっこんぼっこんにしてしまえばいい。私のほうが強いとヒカルに教えてやればいいのだ。プロ並というこの『とうやあきら』が気にするほど強くないと証明してやれば、ヒカルは私だけを見てくれるようになるはずだ。
先番はあかりになった。
「おねっします!」
「お、お願いします」
黒石を一つとり、藤崎あかりが生まれて初めて外に向けた一手は、右上スミ小目。
見た目に似つかわしくない攻撃的な棋風にアキラは面食らう。それが初心者の力碁か、実力を背景にした力戦か。布石は流れるように置かれていくが、それだけではまだどちらなのか判断がつき難くて、様子見のノゾキを打ったのが失着だった。ノータイムで噛み付かれ、互いにどこもかしこも薄いままに乱戦に突入した。
対局が進む。黒と白の石が広がっていく。互いが陣地を広げあい、鬩ぎ合い、隙を見つけては削り合う。二匹の獣が互いの喉元を喰らい合うがごとき荒々しさと緊張感。あかりの打つ早さに釣られて、アキラも手拍子のようにあかりの手を受けていく。ほとんど早碁だ。本当はもっと考えながら打つべきだとアキラもわかっている。それでも目の前の少女が発する気迫に押されて手が早くなる。
これだけ早い進行の中で、それでも少女の手筋に粗が見られない。薄氷を踏むような手順を正確に読んでくる。ことここに至って、序盤に打ったノゾキの一手が悔やまれる。
すごい。塔矢アキラは背筋を凍らせた。同門のプロとの練習手合いでは味わえない緊迫感。一手ごとに研磨される己の思考。全ての手が巧手と失着の天秤に乗せられている感覚に指先が震える。汗で張り付くシャツの感触も気づかずに、アキラは心の中で歓喜した。
すごい。
怖い。
でもそれ以上に、楽しい。
──こんな碁が、あるんだ。
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第3話 碁盤
──参りました。
終局。一進一退の攻防の末、ヨセに入っては互いにミスなどなく、中盤でひっくり返された差が最後まで響き、結果3目半の差でアキラに軍配が上がった。
辛勝である。
あかりのつむじを見ながら、アキラはいつの間にか張り詰めていた息を吐いた。
冷や汗をかきながらも思わぬライバルの登場に心が踊った。強引に取られた左下を取り返すために中盤で随分と無茶をした。そこの受け手の緩手が勝敗を分けた。
だが、端的に言って、すごく楽しかった。
「ありがとうございました。すごく強いんだね」
それは塔矢アキラの心からの賞賛だった。こんな素晴らしい対局を終え、火照る頬の熱のままにさらに言葉をかけようとして、アキラは凍りついた。
「え?」
打っていた相手が、涙を流していたからだ。
「……う、ぐすっ」
アキラからの賞賛は、あかりからすればなんの意味もないものだった。
負けてしまった。
自分は、『とうやあきら』に及ばなかった。
これで自分はヒカルに見限られてしまう。ヒカルにたくさん教えてもらったのに負けてしまったのだ。きっとこれからヒカルはこの人に教えるようになるだろう。
「う、ひっく……」
「あかり、泣くなよ。いい一局だったぞ?」
あかりは泣き止むことができない。この一局だけは、絶対に負けるわけにはいかなかったのに。これが最後の優しさだと思うと、ヒカルが優しくすればするほど涙が溢れて止まらない。
「す、すみません。今日はこれで」
「え、ええ。あ、これあげる」
アキラは呆然と、市川に辞去する二人の後ろ姿を見送ってしまった。アキラと一度も言葉を交わさなかった少年は、少女の頭を背伸びして撫でながらするりと店の外へと連れ出していった。
「あらら」
「アキラ先生の相手はまだ早かったね」
市川と広瀬が二人の消えた扉を見ながらそんなことを言う。アキラは混乱状態の脳で情報処理が追いつかず、しばらく動くことができなかった。
普段から大人に囲まれ、人当たりのいいアキラは、女の子を泣かせる経験などなかったのだ。
夕日で赤く染まる道を、二人は連れ立って歩いていた。
その足取りは遅く、空気も重い。その原因であるあかりが俯く隣で、ヒカルはなんと声をかければいいのかわからず一人おろおろしていた。
佐為がいたら助言の一つもしてくれたかな、なんて未練たらしいことを思う。
「ごめん、なさい……」
「ど、どうした? なにがごめん?」
「……負けちゃって」
……?
なんだそれ。
「あー、いやそんな謝ることじゃねえだろ。あかりもすごい強くなってるってわかったし。さっきも言ったけどさ、塔矢アキラはもうプロ並、というか、下手な低段よりよっぽど強いよあれは。そんなやつに三目半だ、むしろ自慢していいぞ?」
俯いたままのあかりの横でヒカルは首を捻る。なぜそこまで落ち込んでしまうのか、普段から自分に指導碁打たれているのに。
「ヒカルは、とうや君と打つの?」
ヒカルに渡されたハンカチで涙を拭いながらあかりは思い返す。
『とうやあきら』について語る時も、本人を前にした時も。ヒカルの目に見たことのない感情が見えた。
悲しみとか、焦りとか、後ろめたさとか。いろんな感情が混ざった不思議な目。
ヒカルが見せたあの目はなんなのだろう。
ヒカルにあんな目を向けられる『とうやあきら』は、一体どんな関係なのだろう。
嫌だ。
『とうやあきら』を見るヒカルを目の当たりにして、初めてあかりは自分の感情を自覚した。
独占したいのだ。
私の知らない目で他の誰かを見ないで欲しい。
ヒカルの目が他所に向いてしまうのが嫌なのだ。
ずっと自分だけを見て欲しいのに、ヒカルは碁を打つ時以外はいつも遠くを見ている。何かに耐えるように、懐かしむように、何かを探しているように。
今日、とうや君に見せたような目で。
ヒカルが探していたものは、とうや君なのかもしれない。
一度も自分に向けられることのなかったヒカルの目は、とうや君に向けられることになるのか。
それが、なにより悔しい。
「俺が? いーや? まさかぁ」
顔をあげた。
「俺は、塔矢とは打たねえよ。というかそもそも碁を打てないんだって、碁石アレルギーなんだから」
「……うん」
そんなの全部嘘だ。あかりは思う。
そのわざとらしいほどに明るい声はなんだ。
というか碁石アレルギーてなんだ。ほんと今更だけど。
なんで嘘をついて、周りにも碁を打てることを隠して、打ちたいはずの『とうやあきら』と打つのを我慢するのだろう。
直接聞いても教えてくれない。何を探してるの? と聞いたことは数知れない。けれどヒカルは、一度もその問いかけに答えてくれなかった。こうやって、聞いていて辛くなるほど明るい声で誤魔化すのだ。
でも、いつか、きっと。
これからもっと、もっと強くなって、『とうやあきら』にも勝てるようになれば、きっとヒカルは私を見てくれるようになってくれる。
そんなあかりの懊悩などまるっと無視して、ヒカルは当たり前のようにこう言った。
「あいつと打つのはあかりだよ」
アキラは先の一局を、片付けずに眺めている。
一手一手を思い返し、そこに込められた熱を噛みしめていた。そこに、白い影が碁盤を覆う。
「よう」
「あ、緒方さん」
碁盤から顔をあげると、同門の先輩であるトッププロ、緒方がいた。
相変わらず色は白い。
「棋譜並べか?」
「いえ」
お茶を運んで来た市川が口を挟んだ。
「さっき打った一局ですよ」
「さっき? アキラが打ったのか?」
見れば、碁笥は白だけがアキラの手前に置かれている。黒は対面だ。誰かと対局した直後なのだろうが、これが今打たれたものだとするなら。
「相手は誰だ? お客かい?」
「まあ、そうです」
「子供ですよ、かわいい女の子でした」
小さな男の子も付き添ってましたけど、などという言葉は緒方の耳には入らない。
子供だと? そんなバカな。
驚愕とともに改めて碁盤を見れば、どこもかしこも危うくて、どうにも手順がわからない。これだけの接戦を演じて、結果は盤面で二目。ほぼ互角だ。
「互先か?」
「はい」
アキラと互角の棋力を持つとはつまりプロ級ということだ。アキラの棋力は塔矢行洋の英才教育のもと、門下のプロやセミプロに長年揉まれてきたが故だ。アキラと同年代の子供を持つプロなどがいれば話題にもなろうに、そういった話は一切聞かない。
「何者だ?」
緒方の呟きにアキラが答えた。
「わかりません。あかり、と呼ばれていましたが」
それだけの情報ではなんとも言えない。
「……連絡先は聞いていないのか?」
「いえ、聞ける空気ではありませんでした」
「その子、対局後に泣いちゃったんですよ」
塔矢アキラに負けて泣く、とはまた随分な話だ。
「……楽しかったんです」
「ん?」
「僕はあの子と、もっと打ちたいって思ったんです。でも泣かせてしまいました。もう彼女と打つ機会はないかもしれません」
碁打ちにとって敗北は当然のことだ。敗北無くして上達はないし、自分より歳上のプロばかりを相手にしてきたのだ、負けて悔しいという経験を味わったことがなかった。敗北も勝利も次の対局のための糧であり、重要なのは一手一手を適切に判断できたかであり、できなかった場合自分に足りないものはなにかの検討である。
アキラにとって勝敗は実力向上の目安であり、勝敗そのものに価値を見出していなかった。
だから、自分に負けたあかりが何を泣くことがあるのか、全く理解できなかった。
「これほどの棋力を持つなら、いずれプロになるだろう。随分と攻撃的な棋風だが、それだけの情熱を持っているともとれる。一度負けたくらいでやめる程度なら、そもそもここまでの棋力を持ち合わせていないさ」
「……はい」
泣かせてしまった自責の念に、自然と下を向いてしまう。
もう一度会いたい。
そうしたら、泣かせてしまったことを謝って、もう一度彼女と打つことができればいいと。あの子と打ちたい、という生まれて初めての情熱を胸に、アキラは熱の源である碁盤を見ながらそんなことを思うのだった。
あかりは茜に染まる自室で一人、物思いにふけっていた。
ベッドの上で壁にもたれ、膝に抱えた枕に顔を埋めている。実はこんな光景はかなり珍しい。普段であれば、夕食の時間まではヒカルを部屋にあげて碁を打っているのが常だ。あかりの母はそれを微笑ましく思っているが、父などはたまに帰宅した時に玄関ですれ違う前髪金色の少年に昔からヤキモキしていたりする。
そんなことはつゆ知らず、今あかりが考えているのはヒカルのことだ。
ヒカルは一体何を考えているのだろう。
碁は、あかりにとってヒカルとのつながりなのだ。唯一と言ってもいい。ヒカルと関わりを持てる唯一の絆。碁を打っているときは、自分を見つめてもらえるのだ。
碁が強くなれば、いつか振り向いてもらえると思っていた。
それなのにヒカルは、これからは他の人と碁を打てという。
ヒカルにとって自分の存在はそこまで軽いものなのだろうか。
碁は、ヒカルにとってそんなに軽い存在なのだろうか。
じわりと涙で滲む視界で、ローテーブルに置いている、ヒカルから譲ってもらった折り畳みの碁盤を見ながらあかりはずっと悲観的な思考に嵌まり込んでいた。
ヒカルは部屋で棋譜を書いていた。
あかりとアキラの対局である。
前の世界では存在しなかったものだ。
机に座り、二色ボールペンで書いていると、書き込んでいたノートにポタリと水滴が落ちた。
水滴は自分の瞳から落ちていた。
知らず、涙が溢れていた。
ぐしゃり、と指がてんかんのようにノートを握りしめてしまう。
「あ……」
書き直さないと。
ぐちゃぐちゃになったページを切り取り、また一手目から書き込もうとしたところで、心が折れた。
「あ、う……うぁぁ」
涙が止まらない。大切に扱っていたあかりとの棋譜ノートに降る雨に頓着できない。
机の上で頭を抱えて、ヒカルは吐き気を催すほどの嫉妬で頭を掻き毟った。
羨ましかった。
自分もアキラと打ちたかった。
ずっと追いかけてきたのだ。得意だったサッカーもやめて、小馬鹿にされた目で笑われて。囲碁部も辞めて。それでも、負けたくない、ライバルとして認められたい、それだけを思って碁を打ち続けた。
自分にとって、塔矢アキラとの因縁が全てだった。
過去に戻って、本因坊秀策の棋譜をはじめとしたあらゆる棋譜を勉強して、現代の棋士を研究して、それを咀嚼してあかりにもわかるように説明して。そんなことを繰り返した今の自分は、おそらくあの頃より力が付いている。それを試したい。俺はこんなに強くなったぞとあいつに向かって叫びたい。
自分を見て欲しい。
自分はここにいるんだと、お前を追ってここまで来たんだと、全力をぶつけて伝えたい。
この無念さを、佐為も味わっていたのか。
これからあかりは塔矢を通じて多くの棋士と知り合うことになるだろう。プロになる力は十分にある。華々しくプロで活躍するだろう。
それを俺は隣で見続ける。嫉妬と無念さに身を焦がしながら。
それが、それこそが、自分への罰。
時を超えて、佐為のいない人生をやり直す意味だ。
だから、そのために。自分の全てをあかりに捧げる。コネも、時間も、ライバルも、碁打ちとしての力もなにもかも。
自分は、あらゆるものを捨てるべきなのだ。
だって、佐為は。何も得ることができないまま逝ったのだから。
ふらり、とヒカルは席を立った。
部屋の真ん中には、祖父からもらった碁盤がある。
かつて倉の奥に鎮座していた、佐為が住んでいた碁盤だ。
あかりに折り畳みの碁盤をあげてから、霊が出るからと渋る祖父に無理を言って譲ってもらったのだ。
「ごめん……ごめんな、佐為……」
覚束ない足取りで近づき、倒れるように床に座り、碁盤にすがりつく。
溢れる涙を拭いながら、ヒカルは碁盤を見つめ続けた。
血のシミが浮き出てくることを願いながら、ずっと碁盤を撫でていた。
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第4話 笑顔
夢の中は碁のことでいっぱいだった。
佐為が打った棋譜を、脳が睡眠中だろうとひたすら繰り返す。
無論ただ棋譜を送るだけではない、一手ごとに佐為と交わした検討へと派生し、分岐していく局面が並列で展開してく。
分岐して、分岐して、分岐して。脳全体が佐為で埋め尽くされる。
これが禁断症状の一種だとヒカルは理解している。碁を打つことに飢えた脳が、毎夜毎夜警告を発しているのだ。
満たされない欲求を満たせと。
早く碁を打てと。
それもただ打つだけではない。
脳全体に展開した盤面が収束していく。無限に等しいそれらが一枚一枚削がれ、定石ごとに集い……最後に残ったのは、序盤で終わったあの棋譜だった。
それは、佐為と交わした最後の一局。自分としか碁を打てない佐為を相手に、ぞんざいに打った手筋。消えゆく佐為が消える最後の瞬間に望んだ対局を、自分はあしらうように流しながら打ったのだ。
言ってみればこれこそが自分の罪の象徴。
自分がもっとも打つべき相手は、あかりでも、塔矢アキラでもない、佐為だった。
ただ打つだけではなく、佐為だ。佐為と打ちたくてたまらない。
それはもう一生叶わない願望。
途中で打ち掛けとなったこの対局は永遠に終わりがこない。それと同じように、自分の罰も永遠に終わらないのだ。
「……朝か」
棋譜の奔流でかき回された重い頭を振る。
体を起こすと、また自分は碁盤に突っ伏したまま寝ていたらしい。
時計を見れば七時三十分。
「学校、行かないと」
これでも一応小学校では優等生で通っている。
勉強を先取りしてあかりに教えることで勉強の負担を減らしたり、宿題を代わりにこっそり終わらせたりしていると自然とそうなったのだ。いや、小学校の勉強で優秀だったらなんなんだ、という話ではあるが。
それに成績が良ければ母さんに口煩く言われなくて済む。
自分とあかりの成績が悪いと、あかりと碁を打つことも止められてしまう。というか一度テストの点数が悪くてあかりの家に行くことを禁止されかけたのだ。あかりちゃんに迷惑かけるんじゃない、などと言われて。それ以来あかりと一緒に勉強も頑張り、先生の受けもいいような言動を装ってきたのだ。
「行ってきます、佐為」
誰にも聞こえない声で呟き、ヒカルは部屋を出た。
◯● ◯● ◯●
次の日にはあかりは復活していた。
朝、 洗面所で鏡の前に立つ。泣いたせいで少し目元がむくんでいたが、冷たいシャワーを浴びたおかげでそれも引いた。
ぱあん、と両頬を張る。
「おっし!」
落ち込んではいられない。
ある意味ではチャンスでもあるのだ。
ヒカルが夢中になる相手がいた。それはいい。いやよくないわ。全然よくない。が、現実は現実として受け止めなければならない。受け止めた上で戦いに備えなければならないのだ。現実逃避は勝利から最も遠い愚行である。
同じクラスのサヤカも以前言っていたではないか。
『聞いてあかり。孫子は形篇にてこう語っているわ。是故勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝、てね』
お前は一体何を言っているんだ。
まごこって誰だよ、と思わないでもないけれど、サヤカの説明を聞けばなるほど、いいことを言っていると思う。
つまり、戦いは戦う前の準備こそが大事ということだ。
有名な言葉である、敵を知り己を知れば……はその一環だ。多分。
現実逃避などしている暇はないのだ。
髪をドライヤーで丁寧に撫で、寝癖を一本も許さない。姉が買うシャンプーと同じものを使っているため仄かな花の香りが鼻腔をくすぐる。髪を左右で束ねるゴムは色も吟味して、沈みがちな気分を上げる赤色を選んだ。準備に抜かりはない。見ていてくださいまごこ先生。
「あかりー、早く鏡あけてよ」
「はーい」
姉が後から覗き込んできていた。昨日の今日だから、身嗜みを整えるのに時間をかけすぎてしまった。
さくっと朝食を食べて、最後に忘れ物の確認をして外に出れば、ちょうどヒカルがインターホンを押すところだった。
「お、おはようヒカル!」
「おはよ。その、大丈夫か?」
「え? う、うん! もう全然平気! ごめんね、昨日のうちに検討したかったのに」
「体調悪かったんならしょーがねーよ。あかりには出来る限り無理させたくないしな。無理を押して勉強したって意味ないし」
ほわ、と胸が暖かさで満たされる。
ヒカルが自分のことを思ってくれている。そう思うだけで嬉しいと感じる藤崎あかり小学六年生の冬である。
「行くかー」
「おー! ……そういえば今日って宿題あったっけ?」
「今日締め切りのはないな。明日までに算数のドリル提出だけど」
「あーそうだったね」
ヒカルと会話しながらあかりは横目で標的の隙を窺う。
聞きたいことは山ほどあるが、それを直接聞いたとして、果たしてこやつは正直に教えてくれるだろうか。
「ねぇヒカル」
「んー?」
「塔矢君ってさ」
ピク、とヒカルは一瞬背筋を震わせた。わかりやすいなぁ、なんて思う。
「いつヒカルと会ったの?」
「いやいや、あれが初対面だよ。言ったろ?」
あ、心の扉が閉じる音がする。
ヒカルはいつもの仮面のような笑顔で。何かを覆い隠す、見るのも辛い笑顔だ。
難敵だ、とあかりは心の中でため息を吐く。
知ろうにもヒカルに直接聞いたところでこうして誤魔化されてしまうだけだ。
この顔を見るのは私も辛い。
「……そっか」
「おう」
「そういえば昨日の対局の中盤でね、私ツイだところあったじゃない?」
「あー、そこだな。その前に右上の隅にオイておかないとな。そしたら白はオサえてーで、そこでまず三子は違うな」
「だよねー」
しかたない。
しばらくは、ヒカルに直接聞くのはやめにしよう。
むしろヒカルに聞くことを戦いと捉えれば、聞くための準備を入念にしなければならない。
しかしヒカルに聞かずにどうやって情報を得ようか。
敵を知るにはどうすればいいかとサヤカに聞いてみたところ、サヤカ答えて曰く、
『用間有五、有因間、有内間、有反間、有死間、有生間』と。
なんて? と聞き返せば、ようするにスパイは五種類あるよ、とのこと。
そのうち、敵側の人間から仕立てたスパイを内間というそうだ。
そうだ。
ヒカル本人から聞き出せないなら、ヒカル側の人間から聞けばいいんだ。
というわけで、放課後。
あかりは駅前まで歩いて来ていた。
「ここがアキラ君の碁会所ね」
とかいってみたり。一日振り二回目である。
学校が終わってそのまま来たのだ。もちろん背中にはランドセル装備である。
本当ならヒカルと図書館に行って算数の宿題を終わらせて、その流れで週刊碁の棋譜をチェックする予定だったのだが、あかりは予定が入ったと断って碁会所まで来たのだ。
こういえば授業もサボれるんだよ、などといういらないことを宣った姉の言葉を鵜呑みにして、あかりは「今日女の子の日だったのごめんね!」の一言でブッチしたのだった。その意味をもちろんあかりは知らない。ヒカルがその意味を知っていることも知らない。世の中知らなくていいことは沢山あるのだ。
あかりがそんないらない恥をかいてまで碁会所までやってきた目的はもちろん塔矢アキラである。
通りから囲碁サロンの看板を見上げ、よしっと気合を入れ、
「……あ」
「え? あ」
声が聞こえて振り返れば、そこには泥棒猫がいた。違った塔矢アキラだ。
昨日と同じおかっぱだ、間違いない。
「こ、こんにちは塔矢君」
「う、うん。こんにちは。えっと、藤崎、さん?」
「あれ」
私名乗ったっけ、
「受付に名前書かれてたから」
「受付? ああ、あのお姉さん」
「あそこにあった中で女の子の名前は一つだけだったから。藤崎あかりさん、でいいんだよね?」
「……うん」
またヒカルか、とあかりは頬を緩めた。
常々そうなのだ。掃除当番や日直だとか、なにかとヒカルは自分の世話を焼いてくれる。任されていたゴミ捨てがいつの間にか終わっていたり、先生に出すクラス分の宿題ノートの束が職員室に運ばれていたり。そういったことを、ヒカルはこっそりやって、しかも誇らない。当たり前のように手伝って、一緒に帰ろうと誘ってくれるのだ。
それを思い出して、あかりは嬉しくなってしまってえへへと笑った。
そしてその笑みは、アキラを赤面させるには十分な愛らしさを湛えていた。
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第5話 魔性
あかりがなんかとんでもないことを叫んでどこかに行ってしまった。一部の女子生徒と一緒に口を半開きにしてその背中を見送ったヒカルは、ボーズ頭のクラスメイトから、
「お前の彼女どしたん?」
などと声をかけられ、
「い、いや、俺もよくわかんね。あと彼女じゃねーから」
と返すので精一杯だった。
雛祭りはまだ先だよな、なんて言われても気の利いた返しなんて思いつくわきゃねーのである。
ボーズの後ろから近づいたスポーツ刈りが、
「嫁いないなら進藤もサッカーやる? 進藤って体育得意だよね。幅跳びめっちゃ跳んでたし」
「進藤走るのも速いしな」
「いや、ちょっと用事あるから。ごめん。あと嫁でもねーから」
そっかあー、と二人は声を上げるがそれほど残念そうでもなかった。予想できていたのだろう。
窓から外を見れば、あかりがすでに校門から外に出るところだった。赤いチェック柄のマフラーを靡かせながら、家とは逆向きに走っている。マジでどこ行くんだあれ。
まあいいや。
あかりだって女の子だ、そういう日もあるだろう。いや女の子の日とかいう話でなく。
じゃあなー、とクラスメイトたちに軽く挨拶しながらヒカルはランドセルを背負い直して、帰路についた。
家までの道を歩きながら一人考える。
主な内容は、あかりの今後についてだ。
「すげえ強くなってたな」
あかりの実力は把握できた。塔矢と互角に戦えるのだ、プロ試験に合格できる力は十分身についている。予想外の成長だ。
……正直に言えば、あかりがこれほどの実力を身に付けることになるとは思っていなかった。
当初の計画では、部活レベルの対局をあかりとずっと続けていければそれでよかったのだ。
「ちょっと、本気で教えすぎたなぁ」
ところがあかりが予想外の才能を開花させて、ついつい自分も熱をあげて指導してしまったのだ。指導するにあたり自分も勉強しなければならず、それもまた罰として辛いものだった。
自分の中に佐為の片鱗が残っていることをまざまざと見せつけられるから。
こんなとき佐為ならどこに打っただろう、どう導かれただろう、どんな言葉をかけられただろう。ただ対局するだけであった時よりもずっと佐為のことを考える日々で、ずっとずっと碁に対して真摯に向き合う時間だった。
佐為に何もしてやれなかったくせに、自分は佐為から多くのものを奪ってしまっていたのだと、自分の罪深さを再認識させてくれた。
だから、これからもあかりと打ち続けていればいい、なんて思っていたけれど。
「それも潮時かもなあ……」
白いため息が自然と漏れた。
あかりは強くなりすぎた。
部活レベルなんてとっくに超えたレベルの技術の応酬。今では自分でもひやりとする手を打ってくる。自分で棋譜を調べ、詰碁から学び、新手を研究して対局の場で試してくる。その活用について検討しながら互いに勉強して。
「すげぇ楽しいんだよな。あかりと打つの」
あかりと碁を打つのが、楽しくなってきてしまったのだ。
楽しくて、ワクワクして、もっともっと打っていたいと、そんな気持ちになってしまうのだ。
佐為を蔑ろにしたくせに。佐為から碁を奪ったくせに。
自分に、碁を楽しむ資格なんてないのに。
そういう意味でも、あかりがプロになるのはいいと思う。
あかりと打つ回数を自然と減らしていきつつ、あかりは自分の才能を活かせる仕事に就くことができる。年収はうまくすれば一千万を超える。
いいことづくめだ。
あとはどうやって説得するかなのだけれど。
「……ダメかもなあ」
昨日、別れ際に言葉を交わした時のあかりの顔を思い出す。アキラと打つのはあかりだと、これからはいろんな棋士と打っていくべきだと。そうヒカルに言われた時の真っ青な顔をしたあかりの感情に気づけないほど、ヒカルは鈍感ではなかった。
どうしたもんかな。
漏れた溜息は、灰色の空に溶けて広がっていく。
◯● ◯● ◯●
塔矢行洋の経営する碁会所に、あかりは塔矢アキラに手を引かれて連れ込まれた。
はた目には手を繋いで歩く小学生カップルである。それを見た市河の衝撃は筆舌に尽くしがたい。「アキラ君いらっしゃああああぁぁぁ⁉」と、注ごうとしていたあっついお茶をドバドバとテーブルに溢した。しかしアキラの前で粗相を晒す訳にはいかない。ささっと拭き取り、アキラとついでに泥棒猫のために新たにお茶を入れ直す。その表情がつい仏頂面になってしまう。
「あ、ごめんね手を握っちゃって。痛くなかった?」
「う、ううん。大丈夫」
「コート貸して。掛けるから」
そんな市河の前でアキラはあかりが羽織っていたコートを衣紋掛けに甲斐甲斐しく掛けていた。掛けながらアキラは今し方触れたあかりの指先を思い出す。自分や父と同じような、特殊なタコと爪の形。毎日何時間も碁石を触れている棋士の手だ。きっと自分と同じように碁が好きなのだろう、それを思ってアキラは嬉しくなった。その喜びの発露である微笑みを横目で見た市河の機嫌はさらに下がった。市河の目には、少女のコートを掛けることが嬉しくて笑っているように見えるのだ。
「……どうぞ、お茶よ。熱いから気をつけてね」
「ど、どうも。いただきます」
なるべく怒りを抑えた声を心がけるも、そうするとどうしても抑揚のない冷たい声になってしまう。せめてとばかりに言葉の内容だけは女の子を気づかうものにした。
「来てくれてありがとう、寒かったよね? あ、ここに座ろうか」
「あ、うん。いや、それほどでもないよ? 走ってきたし」
「走って? そっか。ありがとう、お疲れ様。市河さん、御茶菓子まだある? うちからお裾分けした羊羹」
「……あるわよアキラ君。ちょっと待っててね」
あかりは首を捻る。
なにが、ありがとう? まあいいや、と思い直して昨日と同じ席に着いてお茶で唇を湿らす。
にが、と呟くあかりを見ながらアキラが苦笑する。ちょっと濃かったね、と。
一分ほどまったりして、羊羹を載せた皿がテーブルに置かれ、アキラが重たげに口を開いた。
「その、さ」
「? うん」
「昨日僕、藤崎さんをその、泣かしちゃったよね」
ボッ、とあかりが赤面した。両手をパタパタ振りながら、
「や、やー、ごめんね⁉︎ いきなり泣いちゃってね⁉︎ 意味わかんないよね⁉」
「え、いや、わかんないっていうか、対局で負けたからかなって」
「いやいや、違うの! 塔矢君に負けたこと自体が原因じゃなくてね? うん」
「あ、そうなんだ? 僕、次に会ったら謝らないとって思ってたんだけど」
「いやいやいや! 塔矢君が謝ることはないよ! だって、私が弱いのが……悪いんだし」
言葉が萎む。沈黙のまま二人とも俯いてしまう。なんだこの空気、と市河は受付の奥で舌打ちして、禿頭の広瀬という客にちょっと市河さん、と窘められていた。
アキラの瞳にグッと力が入った。
「じゃ、じゃあこれからも僕と打ってくれる?」
「え」
意を決した表情でアキラが詰め寄る。凛々しい眉も相まって、背の低いヒカルにはない男らしさがあった。
「昨日の対局、すごく楽しかったんだ。ピリピリ痺れて、今までにないくらい頭が回って。碁を打つことはこんなに楽しいことなんだって、改めて気づけたというか」
無論アキラは碁を楽しいものだと思っていたし、今まで手を抜いていたわけではない。それでも今までプロに打ってもらう指導や、あるいは碁会所のお客相手の指導碁などが主で、しかも父の方針でアマの大会には出てこなかった。
だからアキラはずっと焦がれていたのだ。
「君と、もっともっと打ちたいんだ。君とならきっと、僕らは今よりずっと強くなれる。神の一手にも届くはずだから」
周りにいるプロや父が見せる、精神を擦り減らすような、ヨセを終えるまで勝敗の読めないような相手との真剣勝負を。
負けたくないと互いに思い思われる相手を。
それを叶えてくれる、自分の強敵手足る打ち手が現れたのだ。こんな相手が現れてほしいと、いないままプロになってもいいのだろうかと、漠然とした不安を抱えて、プロ試験を先送りにしてきた。
──この子だ。
──きっとこの子が、僕の生涯のライバル。
絶対に逃がさない。断固とした覚悟でアキラはこの場に望んでいた。
わざわざこうして、翌日に来てくれたのだ。きっとこの子も自分と同じ気持ちに違いない。そう思っていた。
だから。
「ごめんなさい」
その場で、即答で断られるだなんて、アキラは思ってもいなかったのだ。
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第6話 財力
ひゅっ、と。
窄まった喉からか細い空気が漏れた。
なんで。どうして。混乱が思考を占める。なにか声を出そうと思うも、痙縮した喉がそれを咎めた。そんなアキラを置き去りに、目の前の少女は言葉を並べる。視線を逸らし、申し訳なさそうに。
「私、あまり他の人と碁を打ちたくないの。塔矢君だけじゃなくて。今日ここに来たのも塔矢君と打ちたいからじゃなくて、聞きたいことがあっただけで」
「……聞きたい、こと?」
自分の顔から血の気が引くのを自覚しながら、アキラは震える声を辛うじて絞り出した。
うん。とあかりが頷くのを眺め、その聞きたいことを問われるのを待つ。
「塔矢君って、ヒカルとどういう関係なの?」
「……え?」
ヒカル?
「ごめん、言っている意味がよくわからない。ヒカルって?」
「……ほんとにわからない? 昨日私と一緒にいたあの」
「あ、ああ。あの、前髪が金髪の」
「うん。ね、どうなの?」
静かな、落ち着いた声である。でもそこに滲む鬼気迫る気迫は、つい先日交わした対局で感じたそれと同等のものだった。
嘘を許さない、と告げる強い視線を正面から受けて、ごく、と唾を飲み込む。しかし暖房のせいか、乾燥でカラカラになった喉を潤すことはできなかった。少しぬるくなったお茶を啜ってから口を開いた。
「関係、と言われても……多分初対面だと思うけど」
「嘘」
「いや嘘って」
むー、と如何にも私納得してませんと言わんばかりに頬をむくれさせるあかりに、アキラは苦笑を漏らす。
断られたショックもスルリと抜けた。
「本当に知らないよ。今聞くまで名前も知らなかったし」
「……そう」
うーん、と考え込むあかりのつむじを見ながら、今度はアキラから質問を投げかけた。
「僕とは打ってくれないの?」
「え? うん。私にはそんなことしている時間ないの」
そんなこと扱いされて、アキラは僅かに唇を噛む。
「それは昨日言ってた、一身上の都合ってやつと関係する?」
「うーん……そう、と言ったらそう、かな。うん」
「なんで昨日は打ってくれたの?」
「なんで、てヒカルが」
「彼が?」
ヒカルが、なんと言えばいいだろう。あかりは悩む。だって、ヒカルが碁を打てることは二人だけの秘密だからだ。そのことを言わずになんと説明すればいいだろう。
「……ヒカルが、打ってみろって言ったから」
「ふぅん? だから僕とどんな関係があるのかって聞いたんだ」
「うん。でも……」
今更な疑問があかりの脳裏に過ぎる。
「なんでヒカルは、塔矢君と打ってみろって言ったんだろう。本当に、初対面なんだよね?」
「うん。もしかしたら噂は聞いていたのかもしれないけど」
「噂って?」
「こういう言い方はしたくないけど、僕は塔矢名人の息子だから。たまにね、僕に挑戦したいって人がこの碁会所に来るんだ」
「へー? ……まあ、強いもんね塔矢君」
あまりわかってなさそうだった。自分に興味がないのかもしれない。それが歯痒かった。自分のもつものがなに一つとして目の前の少女の興味を引くに値しないのでは、なんて恐怖が胸の奥を黒く染めた。
「本人には聞かないの?」
「誤魔化されるの。いろいろ聞いてみたけど、結局笑って、いつも誤魔化すのよヒカルってば」
よくわかんないな、と思いアキラは質問を変えた。
「君はプロにはならないの?」
彼女がプロ試験をいつ受けるのかをアキラは知りたかった。事情があって自分と打たないというなら、一緒にプロ試験を受ければいい。それなら否応なく自分と対局せざるを得ないはずだ、と。しかし。
「プロ? 碁の? まっさかあ、考えたこともないよ」
あかりはへらりと笑って言った。これもまたアキラには衝撃だった。自分にとって、碁を打つことは即ちプロを目指すことと同義だからだ。むしろ、プロになりたいというモチベーションもなくてどうしてここまでの棋力を身につけるに至ったと言うのか。
「……碁を打ってきたんだよね? 囲碁歴はどれくらい?」
「え、うん。五年くらいかな」
「何のために? プロになりたいって気持ちはなかったの?」
「何のため……」
理由を問われれば、それはもちろん、ヒカルと一緒にいるためだ。
小学六年生に過ぎないあかりでは、碁を打ってる時と、あと学校の宿題をしている時くらいしか、ヒカルと繋がりを保つ方法を思いつけないのだ。でもそんなことを言ってしまえば秘密が秘密でなくなってしまう。
「どうやってそんなに強くなったの? 師匠は?」
そんなもの決まっている。ヒカルだ。全部ヒカルだ。ヒカルのために碁を覚えて、ヒカルが教えてくれるから強くなったのだ。
でも、もちろん言えない。
なんだか言えないことだらけだ。
「えっと、その……自己流? 我流っていうの? そんな感じ?」
「なんで疑問形」
「あ、秀策! 本因坊秀策の棋譜はいっぱい並べたよ! あと詰碁でも勉強したけど、師匠って言われたらやっぱり本因坊秀策、かな」
「ふうん」
アキラは半目になってあかりを見つめ、
「ヒカル君は碁を打つの?」
ビクン、とあかりは体を震わせ、
「……ううん? 打たないよ? 碁石に触ったこともないよ。ほんとだよ」
絶対嘘だ。アキラは思った。
先までの受け答えは、全てあの『ヒカル』という男の子が碁を打てることを隠してのものだ。きっとこの子は、ヒカル少年とのみ碁を打ち続けていたのだろう。棋譜並べだけで自分に迫る実力を身に付けたなんて不自然にもほどがある。いや、小学生二人で、というのもおかしな話だけども。
同時にアキラは確信する。この子が外で対局をしないという理由や、昨日言っていた一身上の都合というのは、ほぼ間違いなくあの少年のことだ。
先程、彼女は言った。「他の人とは打ちたくない」と。
他、とはどの範囲を指しているのか。
もし彼女が碁を学んできた五年間、本当に棋譜並べと詰碁だけで学んできていて、誰とも対局したことがないというなら、それは『人と打ちたくない』『誰とも打ちたくない』となるはずじゃないか。
つまりこの子が言う『他の人とは』というのは、『ヒカル以外の人とは』という意味なのだ。
そうか。
ぎゅ、とアキラはテーブルの下で、半ズボンの裾を巻き込むように拳を握った。
──あの男の子がいるから、藤崎さんは僕と打ってくれないんだ。
あかりは話を逸らそうとした。アキラからただならぬ気配を感じたのと、これ以上ヒカルについて突つかれるといろいろばれるかもしれないと思ったからでもある。すでに遅い。
「碁のプロって、つまり碁を打ってお金を貰うってこと?」
そこからか、という若干の呆れとともに、アキラは喜びも感じた。ヒカル少年に関すること以外であかりの興味を引ける話題かもしれないからだ。
「そうだね。一回の対局で低くても十二万円。タイトルのリーグ入りすればそれで500万円以上、かな」
「五百!」
碁を打つだけで! とあかりは目を見開いた。とはいえ、小学生であるあかりには五百万という額がどれほどの価値を持つかは正確には量れていない。
「もちろんリーグ戦はすべてのタイトルで行われてるから、八大タイトル全てでリーグ入りすればそれだけお金が入る」
「タイトル?」
「うーん、大会の名前、て考えればいいかな。名人戦ってタイトルで優勝すると二千八百万」
「二千八百ぅ⁉」
「全部のタイトルで優勝すると総額で一億二千万円だね」
ガタッとあかりは立ち上がる。一億二千万。一億二千万!
「わっ、どうしたの?」
「いいこと思いついたの!」
「いいこと?」
「関門捉賊!」
なんて? とアキラが聞き返すより早く、あかりは吐き捨てた言葉をそのままに、衣紋掛けから外した自分のコートを抱えて碁会所から飛び出した。
カンカンと音を立てながら階段を駆け下りる。途中で真っ白なスーツを身に纏ったそっち系なヴィジュアルの男の人とすれ違ったが、そんなものに構っている場合ではない。
サヤカが以前言っていた。
『関門捉賊。ただ留意すべきことにこうも語っているわ。故用兵之法、十則囲之、五則攻之、倍則分之、敵則能戦之、少則能逃之、不若則能避之』
そうだ。
敵を倒すには、圧倒的な力でもってヒカルを囲ってしまえばいいのだ。囲って、自分以外の何も目に入らない環境に置いてしまえばいい。ヒカルが塔矢君とも関わりを持てないように閉じ込めて、あの目を独占してしまえばいいんだ。
現代の力の代表、すなわち財力でもって。
──見てて、ヒカル。
──ヒカルのために、私は碁のプロになる。
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第7話 目的
そもそも。
あかりに全てを譲ろうと思うようになったのは、あかりがプロとして通用するレベルに至ったのではないか、という疑念からだ。
強くなって、ワクワクするような手を打つようになったあかりに、全てを譲ってから遠ざけようと思ったわけだ。
それまではあかりがまさかプロを目指せるほど強くなるとは思っていなかったから、今まで誰にも碁について言っていなかった。じーちゃんくらいだ、あかりや自分が碁を打てると知っているのは。小学生が、誰にも教わらずにプロ級の腕を持っているなんて不自然にも程がある。だから、変な疑いや追及を避けるために、なるべくあかりの実力を表に出すべきではなかった。
一生隠して二人だけで碁を打っていくか、あかりをプロに導くか。二つの選択肢を乗せた天秤はヒカルの中でフラフラと揺れていて。
しかし、ついにあかりの実力を解禁した。あかりをプロに導くことに決めた。
理由は単純。
佐為が現れなかったからだ。
小学六年生の、正月あけの晴れた日曜日。冬の割に暖かかったことを覚えている。
前回なら、既に佐為と出会っていたはずだ。碁盤から現れた烏帽子の幽霊に驚いて、取り憑かれ、意識を失ったあの日と同じ日付を迎え、それでも佐為は現れなかった。
もしかしたら、という願いがあったのだ。シミが見えていないけれど、もしかしたら時期の問題なのではないかと。かつてと同じ日が来れば、ひょっとしたら、なんて。
まあ……万に一つ、程度の期待でしかなかったけれど。それでもその期待が外れたことはなかなかのショックで、だから結局自分が佐為と再会する可能性があるとすれば、
──お邪魔します!
──あらあかりちゃんいらっしゃい。いつもヒカルがお邪魔してごめんなさいね?
──大きくなったらうちから出さないので大丈夫です! ヒカルは部屋ですか?
──え、ええいるけど。
ドダドダドダドダ、ガツッ!
──いったあああ、くない!
──あかりちゃん大丈夫⁉︎
「……なにごと?」
「ヒカル!」
どばん、とドアを蹴倒すように開け放ったあかりの剣幕にヒカルの背筋がビクンと伸びた。
薄く滲んでいた涙を袖で雑に拭って、あかりへと椅子をくるんと回した。
ぜはー、ぜはーと荒い息を吐きながら手を支える膝は若干赤くなっている。
「な、なんだよ。どした? とりあえず座れよ、ほれそこに座布団」
「座ってる場合じゃないの!」
ずんずんと部屋を横切り直進してくるあかりの剣幕に、ヒカルは椅子に座ったまま腰が引ける。あかりの背に目を向ければ、母がドアからこちらを覗き込んで、なにごと? と口の動きとハンドサインで語る。
「あのね、私決めたの」
「な、なにを?」
すぅう、と大きく息を吸い、吐いて、あかりはキッとヒカルを強く見据える。
「私、プロになる」
「……碁の?」
「碁の」
「本当に⁉」
もちろんヒカルは喜んだ。どう説得すればいいかを考えていたところなのだから。しかし、はた、とヒカルは思う。
随分と飛躍している気がする。
もちろんヒカルは自分の全てを捧げるつもりなのだ、ゆくゆくはプロになる可能性だって高かっただろう。その後押しもするつもりだった。
けど、いくらなんでもちょっと急すぎやしないだろうか。
「うん。すごいいいと思う。でもどうしたんだよ? 昨日は他の人と打つの嫌そうだったろ?」
「……まあ、昨日は」
「そりゃな、あかりには才能があると思う。碁にひたむきに頑張れる真剣さとか、俺が出す詰碁の宿題も毎日解いてくれるし、そういうところ俺すげえって思う」
えへへ、とあかりは笑った。自分が頑張っていることを、ヒカルが気付いてくれていたのだ。勝手に頬が緩んでしまう。それを後ろから見るヒカルの母はあらー、と頬に手を当てる。うちの子ったらいつの間にこんなやり手になってたのねーなんて思いながら頭を引っ込めた。
ヒカルも、これ以上の追及はやめようと思った。何をきっかけに心境の変化が起こったのかは気になるところだが、下手につついてヘソを曲げられても困る。
急ではあるけど、自分にとっては都合がいいのだ。
それなら乗ろうこの流れに。そうヒカルは割り切った。
「プロを目指すのは、もちろん辛いことも多いと思う。でもあかりが自分から言い出したんだ。協力するし全力で応援するぜ、その代わり途中で飽きたから辞める、てのは無しな」
「ほ、本当⁉ 協力してくれる⁉」
「おーするする。任せとけって」
「絶対だからね!」
俺の目的のために、とはヒカルは口にしなかった。
私の目的のために、とはあかりは口にしなかった。
プロになるには勿論プロ試験を受けなければならないわけだが、それには平日に対局する必要が出てくる。学校を休む必要が出てくるのだ。
椿さんもプロ試験のために仕事辞めたって言ってたな、なんてヒカルは思い返す。
小学生の娘がいきなり『碁のプロになりたい』と言い出したところで、碁の業界について何も知らない両親からすれば『なにあかり、学校で将来の夢を作文に書く課題でも出たの? いいじゃない、そのためには今のうちにいっぱいお勉強しなきゃね』てなものである。
僕宇宙飛行士にないたーい、と同じ扱いだ。
そんなのでは、プロ試験のために学校を休ませてくれるはずがない。
──前回俺ってどうしたんだっけ?
首を捻って考えるも思い出せない。というより、もしかしたら学校を休むという話をろくにしていない気がする。
何も説明しないままプロ試験を受けたし、そういえば合格した後、確定申告も母さんにやってもらっていたんだった。
「甘えすぎだなあ」
「何が?」
「あ、ごめん独り言」
「ふぅん?」
座布団にぺたんと腰を降ろしたあかりが、こてん、と首を左に傾げた。
ヒカルは椅子の背もたれに顎を乗せながら思う。
何でもかんでも母さんに任せきりで、そのくせ全くありがたみを理解していなかった。我ながら赤面ものだ。
さすがにあかりの両親を不安にさせるのはどうかと思う、頻繁にあかりの家に上がらせてもらっている身としては。
じゃあ、不安にさせないためにはどうすればいいか。
「碁について知ってもらう、てのが一番かなぁ」
「誰に?」
「あかりの母さんに。プロ試験って、二十人とか三十人って数の受験生全員と碁を打つんだよ、何日もかけて」
「へぇ」
でな、と前置きして、
「それって平日にも打たないといけないから、学校を何日も休まなきゃいけないんだよ」
「え、ずる休みしちゃうの?」
「いや別にズルじゃないって。公欠、て言ってもわかんないか。つまり、やむを得ない理由で休む時はちゃんと学校も許してくれるんだよ」
「へー!」
「でも、それにはちゃんと理由がないとダメだし、親から連絡してもらわないとダメなんだよ。ずる休みなのかわからないから」
なるほどー、とあかりは笑った。
「じゃあお母さんに言えばいいんだね! 言ってくる!」
「え、言ってくるって」
「サヤカは言ってたわ、『兵聞拙速、未睹巧之久也』! 行ってきます!」
「なんて?」
ダダダ、とあかりは部屋から飛び出て行った。ドドド、と階段を駆け下りてドデデとコケて、心配して慌てる母さんの言葉を遮ってうちの電話を借りていた。
『お母さんお母さん! あのね、私ね、碁のプロになる! ……うん……うん、いや違うの、将来の夢とかじゃないの。うん違う、学校の勉強はしないの、うんだからね、そうじゃなくてね、学校を休んで碁を打つの……なんでって、プロのね、試験がね……ちがうの、宇宙飛行士は関係ないの』
だめくさい。
しばらくして電話を切る音がして、来た時とは打って変わった、しょんぼりとした足取りであかりは戻ってきた。
座布団の上に、今度は体育座りになって、この世の終わりが来たような顔を膝に埋めてポツリと一言、
「……だめだった」
でしょうね、以外の言葉が思いつかない。
「そりゃあ、あかりの母さんはあかりが碁をそこまで打てるなんて知らないだろ。小学生がいきなりプロって言ったって信じてもらえないって」
「そこまでと言うか、全然知らないと思う。折り畳みの碁盤はいつも隠してるし」
「あ、ああそっか。でもこれからは隠す必要ないぞ。でな、作戦があるんだ」
「作戦? なになになに?」
近いから座れって、と迫って来たあかりの肩を押した。
「大会に出よう」
「大会?」
「そ。大人も参加するような大会で勝ちまくって、優勝トロフィーとか貰いまくってあかりの父さん母さんが見える場所に飾ってやるんだ。あかりはこんなに強いんだぞ、プロにもなれるくらいだぞーってアピールしていけば、話をちゃんと聞いてくれるようになると思う」
「わぁ! いいねそれ!」
だろー? とヒカルも上機嫌になって、あかりと二人手を繋いでくるくる回った。
「ヒカル、私頑張るよ!」
ヒカルを独り占めするために。
「ああ、頑張れよ! 俺もどんどんあかりを鍛えてやるから!」
あかりを遠ざけるために。
そして願わくば、一縷の望みを繋ぐために。
贖罪の果てに、もしかしたら、佐為が自分を許してくれるんじゃないかと。
そうしたらきっと、佐為がまた会ってくれると、自分と碁を打ってくれると、ヒカルは願っている。
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第8話 観覧
大会に出るにあたり何が必要かとか、出場資格とか、そのあたりの情報をヒカルは全く持っていない。
かつての自分は身一つで棋院に乗り込んで、なぜだか緒方に庇ってもらって院生試験を受けることができたわけだ。プロ試験も院生であったために特に手続きもなく受験できてしまい、しかもそのままストレートで合格。そんな経歴の自分は、アマの大会があることすら知らなかったのだ。
「へー、図書館に碁の本って置いてるんだね」
「将棋とか麻雀の本もあるんだな」
碁のプロになる! とあかりが宣言してからすぐ、二人は図書館に来ていた。
『趣味』の項目でまとめられた本棚には詰碁や定石について書かれた書籍が並べられているが、今自分たちに必要なのはそこではない。雑誌コーナーへと向かって、図書館で定期購読されている囲碁雑誌『囲碁ワールド』をあるだけ棚から引っこ抜いて円形テーブルに座った。
「あ、表紙の人も『塔矢』だって。すごい偶然だね。『塔矢名人、天元に挑戦』」
「……それ、塔矢の親父な」
「えっ! あ、確かに目元が似てるかも!」
そこかよ、と苦笑しながらヒカルは、あかりが見つめるものとは別の、一番新しい囲碁ワールドを手に取った。
開けばまず倉田さんのインタビュー記事があった。飛ばす。
次に天元戦第一局の棋譜が載っていた。飛ばす。後で読もう。
死活の問題が載ってるページはあとであかりに解かせようと決め、後半に差し掛かったところに目当ての記事を見つけた。
津々浦々催し案内、とある。日本各地のイベントや大会について大雑把な内容の説明が記載されているのだ。
「段位認定戦、てなに? 段が貰えるの?」
「アマチュアの人が、プロと打ったり詰碁解いたりして自分が何段か測ってもらうんだ」
「んー? それ、何段になったらプロになるの?」
「いや、プロとは関係ないんだよ。ただアマ何段って免状……つまり賞状をもらえるんだよ」
かっこいい! とあかりは思うも、あれ? と首を傾げた。
「プロになれないの?」
「なれないな。プロ試験とは別物だから」
「じゃぁいらないね」
「いらないけどさ、でもハッタリにはなりそうなんだよな。あ、最後の方に免状の取り方書いてら」
どれどれ? とあかりが椅子ごと体を寄せてくる。左から紙面に顔を寄せてくる距離感の近さに、ヒカルはドギマギしてしまった。確かに精神年齢は自分の方が上だが、身長はあかりの方が頭一つ分大きいのだ。小学校を五年繰り返した程度で培った精神性など、身長差から感じてしまう大人っぽさの前には何の役にも立たなかった。
なんか距離近くね? いきなりじゃね? 昨日からちょっとおかしくね? というかあかりってこんなに大人っぽかったっけ? まだ小学生じゃん!
身長差マジックである。
あとヒカルは気づいていないが、あかりが姉からこっそり借りた香水をうっすら使っていることもドギマギの原因であったりする。
「『認定問題の得点が表1の合格基準点に達していれば、その棋力の免状・認定状を取る資格があります』……認定問題?」
「えっと、あーもっと前のページだな。段級位認定コーナー。へー、免状って横670ミリ? でか」
「ちょっと問題解いてみようかな。ヒカルその本貸して」
すすっと雑誌をスライドさせてあかりの前に置く。級位コースは難なく解いていく。段位コースの最後の問題に多少苦戦するも、結局全部の問題でヒカルと同じ答えに辿り着いた。
「5ーCで切って白がツケるでしょ、そしたらA–7にホウリ込んで。白はいくつかあるけどB–6でダメヅマリを突いてコウに持ち込める。だから答えは5ーC!」
「うん正解。最後は結構難しいのによく解けたな。これを何回か葉書で送って、点数に応じて段位認定になるのか……時間かかるなあ。満点なら六段で、免状料金22万⁉ そんなにすんの⁉」
しーッ、と隣で新聞を読んでいたお爺さんに叱られる。二人はごめんなさーっと頭を下げてから声を潜めて、
「……ねぇヒカル、これと認定大会ってなにか違うの?」
「……さぁ? 雑誌には大したこと書いてないな」
うーん、と二人そろって首を捻る。よくわかんね、と諦めてページをめくっていく。
「あ、子ども大会ってあるんだね。全国子ども囲碁大会。次の日曜日だって」
「そういえばチラシ貰ったな。でも参加できないぞ、それ全国大会だから。地方予選を勝ち上がってきた人たちが集まっての大会なんだよ」
「そっかー、残念」
「それにお前はもうそんなレベルじゃないから。相手の才能潰すことになるから、子どもの大会には出るべきじゃねーよ」
えー? とあかりは眉に皺を寄せた。
「でも私塔矢君に負けたよ? ヒカルにも勝ったことないし……私って本当に強いの? 今回は無理でも、子どもの大会から経験積んだ方が良いと思う」
確かに、とヒカルはしょぼんとしたあかりを見て思う。
あかりには勝ちの経験がほとんどない。指導碁で思わぬ手を打たれてヒカルを負かしたことはあるが、そうなれば次の局から置石を減らして打つわけで。五年間打ってきてあかりが勝ったのは恐らく五回にも満たない。
「そっか、勝ちの経験を積む必要はある、か? 自分に自信を持たせて相手に踏み込む訓練は必要だし」
かつて自分が佐為に指摘されたように。
「でもそれって碁会所でいいしなあ。塔矢に並ぶ実力で子ども大会に参加しても……というかこれ、直接棋院の人に聞きに行った方が早いな。今月の日程しか書いてないし。年間予定表と出場資格のもっと詳しいの欲しい」
「棋院? てなぁに?」
なんと言ったらいいかとヒカルはしばし考え、
「囲碁の、お役所? 学校の職員室みたいな。プリント出したりとか、わかんないことあったらそこ行けば大体教えてくれるはず」
「へー! じゃあ行ってみようよ! どこにあるの?」
「市ヶ谷。地下鉄乗らないとだめだな」
「え、地下鉄? 私お母さんと一緒でないと乗れないよ」
大丈夫だって、とヒカルは自分の胸を叩いた。
「ちゃんと俺が案内してやるから」
棋院までの道案内などお茶の子さいさいである。何度も何度も通った道だ。
◯● ◯● ◯●
翌日曜日。
子ども囲碁大会の当日である。
どうせ棋院に行くなら、一緒に大会も見学したほうが効率いいよね、というあかりの発案で、あれから2日たった日曜日、あかりは家に迎えにきたヒカルと一緒に出かけて行った。
「はい切符。なくすなよ」
「あ、ありがと……」
電車に乗る、という日常的なことも、小学生二人だけでとなるとちょっとした冒険感がある。ちょっとだけ不安を感じていたあかりだったが、ヒカルが当たり前のように切符を買ってきてくれたりだとか、どのホームに並べばいいかを何の迷いもなく判断して先導してくれたりだとか、さりげなく見せてくれるヒカルの頼もしさに不安はあっという間に消えて、道中の9路盤での目隠し碁も楽しむことができた。
対局も三局目を終えたところで市ヶ谷の駅に付き、3番出口から地上に出た後もはぐれないようあかりと手を繋いで日本棋院へと迷いなく進む。
「ここだ」
白い建物だった。
入り口の上部には『日本棋院会館』の文字があり、子連れの大人が中へと吸い込まれるように入っていく。
その流れに沿って二人も棋院の中に入った。
「いっぱい人いるんだね」
「ああ、皆参加者と、あとその親御さんだな。プロも注目してるんだから、親の気合の入り方も違うわ」
「プロが? なんで? 子どもの大会でしょ?」
「この大会で勝ち上がった人からタイトル取った人もいるんだって。だからプロ側も、才能ある子どもを真剣に探してるんだってさ。しかもこの大会で優勝すると、大人も参加するアマチュア本因坊戦にも参加できるんだと」
ヒカル物知りー、なんてあかりは感心しているが、これは数日図書館に通って囲碁雑誌を読み耽った成果である。
受付に参加者ではない旨を伝えて、矢印看板に従って大会会場になっているホールへと向かう。決して狭くないその空間には敷き詰めるようにテーブルと碁盤が並べられている。壁際で目を閉じて立っている子どももいれば、父親らしき男性と対局している子どももおり、会場の緊張感がピリピリと伝わってくる。そこにマイクを持った、スーツに日本棋院の腕章を付けた男性が会場に入ってきた。
ぽんぽんとマイクを叩いてから、
「皆さん、本日は全国子ども囲碁大会にご参加いただき、誠にありがとうございます」
開催のあいさつが告げられ、続いて一人ずつ参加者の名前が呼ばれていく。会場の前には大きなトーナメント表が貼られており、名前を呼ばれた子から順にクジを引いて、書かれてある数字を係の人に告げていく。
最初は相田、次が赤城、磯部。五十音順でどんどん呼ばれていく。
そこで、ヒカルは懐かしいものを見た。
今時珍しい丸メガネに、小柄な自分よりもさらに小さい背丈。髪の色は薄目で、何よりわかりやすい、キノコのような髪型。
「遠藤くん、越智くん、加藤くん……」
越智、と呼ばれた時に立ち上がったそのキノコカットが列に並ぶ。間違いない。
「越智じゃぁん……」
あいつもこの大会に出てたのか、と。ヒカルは遠目にも一目でわかる、懐かしのキノコヘアを見ながら思った。
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第9話 激昂
全国子ども囲碁大会は小学生の部と中学生の部に分かれて行われる。
トーナメント形式で、全国から予選を勝ち抜いた小中学生各64人計128人の碁打ちが争い日本一の座を目指す。
日本棋院が主催するだけあって規模も大きく、現役のトッププロの中にもこの大会で優勝したことでプロに注目されるようになった、なんて者が何人もいる。それだけにプロ棋士達の注目度も高く、囲碁界の発展に貢献することを義務付けられている彼らは持ち回りでこの大会に大会委員として顔を出しているのであった。
今年は塔矢一門が当番ということで、緒方も未来を担う才能を求めて対局を見て回っていた。
荒削りながらもきらりと光る才能の片鱗。
ダイヤの原石。
それを探すのは砂漠で砂金の粒を一つ探し当てるに等しい。特に塔矢アキラという才能を目にしてる緒方の持つハードルの高さも相まって、彼の興味を引く様な打ち手は、どうやらこの大会にはいないようだった。
──今回はハズレか。
なんて印象を彼は持ってしまっていた。
誰も彼もが、定石に沿って正しく打つことに躍起になっている。無論定石を学ぶことは重要だ。だがそれは始まりに過ぎない。定石とは利用するものだ。定石ならどう打つか、ではない。定石を使うのではなく、囚われているようでは足りないのだ。その意識の差が才能の有無の分水嶺であり、言葉ではなく体感として理解できない人間には一生わからないところである。
退屈で、なんとなく親御さんがはらはらと応援している観覧スペースへと視線を移すと、二人の子供がいた。
アキラと同じ年頃か、一組の男の子と女の子が寄り添うように立っていた。寄り添いながら、女の子が持つ手帳のようなものを二人で覗き込んでいた。
随分と熱中している。小声で何を言っているのかわからない。しかし二人のやりとりを、その後に立つお父さんがたもその手元を覗き込んで二人の話を熱心に聞いている。
何だ?
自分の子供の対局を上回るものがあるのか?
興味を惹かれた緒方は対局場を巡回するフリをしてこっそり二人組に近づいた。
その手元を覗くと、そこにはマグネットの小さな碁盤があった。
女の子が碁石を並べ、少年が指で示して何事かを解説する。碁盤の並びは、今目の前にある対局の、左上辺の並びが再現されていた。
それはプロでも手が止まる局面である。
とはいえ緒方はじきにタイトルを取るだろうとされる若手のホープだ。2秒とかからず急所を見抜く。1の二。
その緒方に遅れて3秒、少し悩んで、少女が緒方と同じ1の二に黒を置いた。
ほう、と緒方は感心する。
この歳の子供が即座に判断できる手ではない。アキラならできるだろうが。
が、ここでさらに驚く事態が起きた。
見事に急所を当てた少女が、隣の少年に不安そうな顔で振り向いて、
「ここ?」
「ああ、正解。やっぱ大分実力ついてきたな」
「えへへ、ありがと」
ん? と緒方は不思議に思った。
正解? それはそうだ。プロである自分と同じ判断をしたのだから。
だが、少年の口ぶりは、まるで答えのある詰碁の説明をしているかのようで。
ぱち、と音がした。
顔をあげれば、眼前の対局が一手進んでいた。
黒は惜しくも急所を外し、1の三に打たれていた。
それを見て二人はその場を離れた。すーっと見て周り、緒方から見ても比較的レベルの高かった、メガネをかけた「越智」と書かれた名札を付けた少年の後ろで止まった。
また先程と同じように、少女が石を並べて、横から少年が解説する。
やはりあの小柄な少年は、先の急所を見抜いた少女に碁を教える立場なのだ。
「名札がない。参加者ではないようだが……」
惜しい、と思う。
参加者であれば、大会委員として話を聞くくらいはできただろうに、ただの見学であるなら部外者に過ぎない。問題を起こしているわけでもない一般人に声をかけるのも躊躇われる。完全に職務外だ。委員としてここにいるプロの自分が、大会に参加している子供達を差し置いて部外者に声をかけるのも外聞が悪いだろう。
「仕方ない、な」
焦る必要はないか、と緒方は思う。
実力があるのなら、いずれは自分たちの前に現れるだろう。
ともかく今は大会の運営をこなさなければ。そう決めて緒方は他の委員の元へと向かった。
◯●◯●◯●
前回と異なり、大会は何ごともなく終わった、らしい。
らしいというのは、大会の途中でヒカルだけで棋院の事務に話を聞きに行ったからだ。
自分の子供が対局に負ければ用は無くなるわけで、時間が経つごとに事務のある一階は人通りが増えていくのだ。そうなる前にヒカルは自分だけで話を聞きに行き、あかりにはそのまま大会を見学してもらった。
「あ、ヒカル!」
「お、終わったか」
最後の対局が終わったようだ。一階の売店横の自販機で待っていたヒカルは、エレベーターで降りてきたあかりと合流して出口に向かった。
大会では、越智は準優勝だったようだ。決勝で別の子に半目で負けていた。終局してすぐ会場から出て行ってしまったとあかりに聞き、ヒカルは越智を懐かしく思う。
絶対トイレ行ってるんだろうな、と思って思わず笑みが溢れた。壁を叩きながらぶつぶつぶつぶつ、先にトイレに入っていた時に隣からそんな音が聞こえてきたことがあって、何事かとひどく驚いた記憶がヒカルにはあった。
優勝したのは六年生の男子で、院生時代にも見かけたことのない人だった。
もしかしたら自分が院に入る前にプロ入りした人なのかもしれない。
そんなことを考えながら、ヒカルは事務から聞き出せたアマの大会についての情報をあかりと共有する。
加えて、プロ試験の日程も。
なんと外来でプロ試験を受ける場合、6月中に申し込みをしないといけないのだ。
「プロ試験って夏のイメージがあったからさ、もっと遅いと思ってた」
「そうなんだ?」
夏のイメージ? とあかりが首をかしげる。確かに意味わかんねーよな、とヒカルは苦笑した。
ともかく、事務員さんに聞きまくって、今後の大会について情報を得ることができた。
2月中旬には女流アマ選手権の東京・千葉予選。
4月上旬にはアマ十傑戦の東京予選。
6月上旬にはアマ本因坊戦の東京予選。
これらの大会は、東京在勤・在学のアマチュアであれば誰でも参加できると規定ではなっているが、しかしこの『在学』はあくまで大学生や専門学校のこと、というのが暗黙の了解らしい。世界大会につながる大会なのだ。拘束時間も長くなる。プロでもない、義務教育中の小学生……いや、来年度には中学生になるのだった。ともかく、小・中学生の参加はそもそも想定していないのだそうだ。というか、小学生向けのジュニア本因坊戦などがあるのだからそちらに出なさい、というのが事務員さんのお言葉である。
「でも、ジュニアって子どもってことでしょ? 子ども大会で優勝してもお母さんプロ試験受験を許してくれるかな?」
「無理かもしんない。だからまず、アマの大会に出る前にこの段級位認定大会に出よう」
春季認定大会は2月上旬、女流アマの予選の1週間前だ。
「こないだ言ってたやつだね」
「六段までなら本当に誰でも受験できるんだって。免状も、全勝で合格すればタダで貰えるみたいだし。六段なら子どもでもアマの大会にも出させてもらえると思う」
多分。
事務員さんはどうせ無理だよ、みたいな感じでそのあたりちゃんと答えてくれなかったけど。
まあ、どこかのプロに弟子入りしているわけでもなし。生意気な子供がイキっているようにしか見えなかったのだろう。
「で、大会はどうだった?」
「うーん……なんか、ね」
「微妙だったか?」
「あまり言いたくはないけど、みんな手がぬるいというか、え? そこいっちゃう? みたいな」
心なしか小声にして、囁くようにあかりは言う。
「正直、ヒカルが前に言ってたことわかったかも」
「前?」
「私が子どもの大会にでたら才能を潰しちゃうってやつ」
そう語るあかりの俯いた表情は、少し嬉しそうだった。口元には笑みが浮かんでいるのが、小柄なヒカルには見えていた。
ガラス扉に手をかけながらヒカルは思う。なんで笑うの? 怖くない?
ヒカルの背筋に薄ら寒気が走ったところで、棋院全体に響くような大声が、ヒカルとあかりの背後から叩きつけられた。
「ふざけるな!」
思わず振り返れば、そこには一人の少年がトイレの入り口に立っていた。
丸いメガネの奥から、充血した目が鋭く、憎悪すら込めてこちらを睨み付けていた。
少年は、越智は、ズカズカとこちらに、正確にはあかりへと大股で近づいてきた。
「お前、バカにしているのか⁉」
「あ、いや」
「お、おい」
「才能を潰す⁉︎ ここに来た選手は、みんな予選を勝ち上がってきたんだ。今回は子ども大会のなかでも最も大きい大会だぞ。それに参加した僕らの対局を本当に見たのか!」
「ご、ごめんなさい」
あかりは頭を下げた。それでも越智の剣幕は治らない。興奮の昂りで、止まったはずの涙がまたじんわりと溢れていた。
「あやまって欲しいんじゃない。今の言葉、本心なんだろう? 言い過ぎたとは思っても、間違えたとは思ってないだろ。そんなデカい口叩けるなら、準優勝の僕程度簡単に負かすことができるはずだ」
ビッ、と越智は背後、棋院の建物の奥を指差した。
そっちにはフリーの対局スペースがある。そういえば俺も一回通りすがりのおじさんと一局打ったな、と場違いなことをヒカルは思い出す。
越智はあかりを強い力の籠もった目で見つめ、言った。
「逃げるなよ、今すぐ、そこで打とう。僕らをバカにできるくらい強いなら!」
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第10話 理由
「え、と……」
「なにを躊躇うんだよ? まさかさっきの言葉は嘘っぱちか?」
「そうじゃなくって、あの」
越智に詰め寄られ、タジタジになったあかりは、助けを求めてヒカルを見た。それを受けてヒカルが慌てて二人の間に入る。
「ま、まあ待てよ越智。悪かったって、悪気はなかったんだ」
「気安く名前を呼び捨てするなよ。なんでボクの名前知ってるんだ、表彰式にいたの? というか、悪気があったかどうかなんて関係ない、これはボクのプライドの問題だ! それともなに、お前が打つのか?」
メガネの蔓に指を押し当て、越智は嘲るように言う。
「あ、いや俺は」
いきなり向けられた矛先に思わず口籠ると、越智は鼻で笑った。
「ふん。まさか、ボクの準優勝って肩書きにビビった? 言っておくけど、決勝でもたった半目差だし、相手は六年生だ。お前、何年生? 四年か五年? 何年でもいいけど、お前ごときじゃボクには敵わないよ」
ヒカルの口が引きつった。確かに自分は小柄であるが、まさか二つも年下の越智に同い年扱いされるとは。
「それともお前、碁石の持ち方もわかんないとか? そんなチャラチャラした髪だもんね、デカい口叩くしか」
「オチ君」
越智の言葉を遮って、あかりの声が小さく響いた。
「黙ろうか」
決して声を荒げているわけではない。
だがその瞳に宿る力の強さに、越智は口をつぐんだ。
つ、と汗がこめかみを伝う。
そんな越智から視線を外して、あかりはその横を素通りする。
「な」
「あかり?」
「? どうしたの」
振り返ったあかりは首を傾げて、
「向こうに打つ場所があるんでしょ?」
それだけ言ってあかりは視線を切り、棋院の奥へと歩を進める。
「っ、こ、こっちだ!」
ムキになった越智が早足であかりを追い抜いていく。
ヒカルは二人に取り残された形になってしまった。
「……えぇ」
いきなりどうした、というのが素直な感想だ。
「なんでいきなりテンションフルスロットル?」
最近あかりがわかんねぇ、とヒカルは独りごちた。
「何がわかんないの?」
「え?」
なんだか、懐かしい声が背後から聞こえた。誰? と振り返ると、やっぱり懐かしいオカッパ頭が棋院のガラス扉を開けて入ってきたところだった。
「と、塔矢⁉︎なんでここに?」
「あ、いや……」
「お、お前って子ども大会に出ないよな? なんで棋院に?」
おかしい、とヒカルは驚愕する。前回、大会から追い出された自分と鉢合わせたのは『偶然』だったはずだ。塔矢はアマの大会には出ないのだから、早めに棋院に入っていた自分とアキラが出くわすことはないはずだ。
「いや、先週市河さんが君に大会のチラシを渡したって聞いたから、もしかしたら君と一緒に藤崎さんも出ているかと思って」
もしかしたら? 思って?
「それだけでここまで来たの? まさか前回も俺を」
「前回?」
「な、なんでもねーよ。で、わざわざあかりに会いに来たわけ? チラシの件だけで?」
「うん」
怖っ。
そんな、当たり前だよね、みたいな顔でうなずかれても。これ以上重要なことがこの世にあるのか、とでも言わんばかりの堂々とした態度だ。
そういやコイツってこんなやつだったな、とヒカルは思い出しながら息を飲んだ。佐為を追って中学の大会にまで出てきたのだから。前回は自分が追いかけるばかりですっかり忘れていた。
「で、藤崎さんは来てるの? それともここには君だけで?」
「あ、あー……いるよ、あかりも。奥の、フリースペースで対局しようって」
「君と?」
「越智と。てわかんねーか。えーっと、ああそうだ、この大会で準優勝したやつと」
へぇ、とアキラは目を見開いた。
「強いんだ? その人」
「……どうだろ。まああかりが勝つだろうけど」
「確かに藤崎さんは強いものね。中押しで終わるかな?」
「まあそのくらいの差はあるな」
ふぅん、とアキラは呟く。
「打つ前からわかるなら、なんでわざわざ打つことになったの?」
「なりゆき?」
「なにそれ」
くす、とアキラは笑った。これにもヒカルは衝撃を受けた。笑うんかコイツ。初めて見たわ。
「じゃあ行こうか」
「え?」
「中押しで勝てるなら、早く行かないと終わっちゃうよね」
そう言ってアキラは先導するように行ってしまった。
なんか、なんだろう。
俺の周りって猪突猛進なタイプばっかだな、なんてヒカルは思った。
◯●◯●◯●
「……あり、ません」
即落ち2コマ、という謎の単語がヒカルの脳裏に浮かんだ。
やはりというかなんというか、越智とあかりの対局は中押しであかりの勝ちだった。
アキラと対局スペースに到着したときには既に終わっていた。
清々しいほどの一刀両断であった。
「ありがとーございました」
あかりも越智の声に応えて頭を下げた。そのまま流れるように黒石を回収しジャラジャラと碁笥に納めた。そのまま椅子に掛けたコートを持って席を立った。
「あ、ヒカルいたんだ。向こうで待っててもよかったのに」
「お、おう。いや、お前検討しねーの?」
ちらりと見れば越智は席に座ったまま俯いている。その後ろには禿頭の男性が青い顔をして越智の背を撫でている。親、というには年嵩すぎる。祖父だろうかとヒカルは思う。
「んー……検討はいいかな。するほどの内容もないし」
うわ言っちゃった、とヒカルは引いた。
確かに、対局は中盤に差し掛かる前、というより布石の段階で形勢が決まってしまっている。どんだけ容赦ねーんだよ、と思わなくないが、上手としか打ったことのないあかりに手加減を期待する方が間違っている気もする。
「あれ、塔矢君」
「こんにちは、藤崎さん」
ぺこり、とアキラは会釈する。ぴくり、と越智が動いた。恐らく『塔矢』の名前に反応したのだろう。
「どうしたの、棋院に。用事? 大会には出てなかったよね?」
「うん。藤崎さんは? 藤崎さんも大会出るレベルじゃないよね?」
ビク、と越智が痙攣のように震えたのをヒカルは視界の隅で捉えた。
こいつもデリカシーないとこあるよな、とヒカルはヒヤヒヤしながら越智とアキラを交互に見た。前回も、葉瀬中に来た時に『学校の囲碁部なんかに』とか言ってたんだよな、筒井さんのいる前で。
あ、越智のやつ、石も片付けないで走って行ってしまった。多分またトイレだろう。
代わりに石を片付けて、越智の祖父らしき人に行っていいですよとジェスチャーで伝える。
「す、すまんね君」
そう言って右の手刀で切りながら越智の後を追って行ってしまった。
その一方であかりとアキラは依然と会話を続けている。
「うん。今日は子ども大会じゃなくてね、他のアマチュアの大会の日程を棋院に聞きに来たの」
「他の大会? アマの?」
「うん。とりあえず今月はね、段位認定戦と女流アマの予選に出るの!」
「女流、か」
うーん、とアキラは唸る。
「どうしたの?」
「藤崎さん、また碁会所には来ないの?」
「え?」
「ボクは毎日、放課後は大体あそこにいる。君ならどう打つか、もしかしたらこう打たれるかも、そんなことばかり考えている。君とまた打ちたいんだ」
真摯な目であかりをまっすぐ見つめて告げるアキラの言葉に、しかしあかりは難しい顔をして、
「うーん……なんのため?」
「……………………え?」
首を傾げるあかりの顔は、本当に不思議そうだった。
「なんの、ため?」
「うん。塔矢君って、塔矢名人の息子さんなんでしょ? じゃあわざわざ私と打たなくても家でお父さんと打てばよくない?」
「ち、違うよ。お父さんと君とでは違うんだ。君と、打ちたいんだ。君とならお父さんや他のプロの人たちと打つのとは別のものが得られるかもって」
アキラが早口で言葉を紡ぐ。その剣幕には、側から見てもわかるほどの焦りが見えた。
「それとも、ボクとは打ちたくないの? ボク、君に何かしてしまったかな。今も別の人と打ってたのに」
「それは理由があったからで。塔矢君とは打ちたくないってわけじゃないけど」
ちらり、とあかりはヒカルを見た。
「でも碁会所遠いし、わざわざそこまで行って打つ理由もないかなって」
あかりは、戦う意味の所在を問うた。
アキラは、戦わない理由の所在を問うた。
二人の会話は、思いは、ずっと平行線だった。
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第11話 虚言
自分の言葉がキツくなっている自覚はあった。
こんな最悪の気分で人と会話するべきではないとも思っていた。それでも、あかりの口は止まってくれなかった。
端的に言って、あかりは非常に、腹が立っていたのだ。
「……遠いから打ちたくない? でも、大会に出るんだよね? そっちの方が、その」
「うん。大会の方が碁会所行くより面倒だよ。でも、一身上の都合でね、私はプロになるの。そのために、いっぱい大会に出ないといけないの」
「なぜ? プロになるならプロ試験を受けるだけでいいじゃないか」
なんだかめんどくさくなってきたなぁ、とあかりは思い始めた。
「お父さんとお母さんを納得させないと、プロ試験に受けることもできないじゃない? 何日も学校休まないといけないんだから。だから、プロ試験に合格できるくらい実力あるよって証明しないといけないの。塔矢君にはわからないかもしれないけど」
その理屈は、確かにアキラには理解しがたかった。周りの人間からいつプロになるのかと言われ続けている子どもだから。囲碁があって当然の環境で育ったアキラにはとても理解できないものだった。
わからない。なぜあれほどの実力を持ちながら、彼女の両親はプロ入りを認めないのか。
「……ボクはそれに協力できる。ボクのお父さんは知ってるよね? お父さんから君のご両親に君の実力を説明してもらえれば、きっと納得してもらえる。だから」
だから、代わりに自分と打って欲しい。そう続けるつもりだった。
「えー……それ、意味ないと思うよ」
「な、なぜ? 意味ないことはないだろう」
「だってお父さんもお母さんも、塔矢名人なんて知らないもん。名人がうちに来ても、着物着た変なおじさんが変なこと言ってるーくらいにしか思わないよ」
アキラは、あかりの言っている言葉の意味がわからなかった。
知らない? 塔矢行洋を? 日本囲碁界で文句なく現代最強のプロを? まさか、これだけの実力を持つ少女の親が囲碁について無知なのか? 自分の碁は我流だと以前この子は言っていたが、ひょっとしてそれは真実なのか。
というかこの娘、塔矢行洋を変なおじさんとか言ったか今。
「それに私には、自分でやらないといけない目的があるの。他人の力を借りちゃうと目的を独り占めできないじゃない? だからできるだけ自分だけの力でやり遂げるの」
あかりの後で、ヒカルは口元を引きつらせていた。
以前自分はアキラを突き放した。わざわざ中学校まで来たアキラに対して、お前とは打たないと宣言して、カーテンを閉めて拒絶した。
それに比べればまだマイルドだし、この程度で傷つくような男ではないと思うが、それでもヒカルはあかりの肩を突きながら小声で言う。
「あかり、おいあかりってば。もっとオブラートに包んで。言葉のトゲすごいから。ツンツンにもほどがあるから」
そいつはお前のライバルになるんだから、とは言えなかった。
「ヒカルはちょっと黙ってて」
背後からこそこそと声をかけられるも、あかりは振り向きもせず黙らせた。
今日は、ヒカルとのデートのつもりだったのだ。
囲碁に関わることでしか外出できないけど、それでも二人でいろんなところを回るつもりだったのだ。絶対今日を楽しい1日にする。そう決心していたのだ。
それがまず、あの越智とかいう少年のせいでケチがつき。
ついでアキラがやってきてこの問答である。
その後ろにヒカルを連れて。
そして、またヒカルは、あの形容し難い目で塔矢アキラを見るのだ。
それは越智を見つけた時にも見せた瞳で、そのせいで彼に対しても必要以上に冷たく当たってしまった。
──どうしてヒカルは、彼らに対してあんな切なそうな目を向けるのだろう。
──なんでヒカルは、私には見せない瞳を彼らに向けるのだろう。
あかりは自覚している。自分の今の行動が、嫉妬による八つ当たりだと。
そんな感情が顔に出ていたのか、アキラが明らかに傷ついた顔をしたのをヒカルは見た。自分の思いが空回りしていることを自覚し、無意識に近づいていたあかりから体を放し、一歩、力ない足取りで下がった。
その目は親と逸れた迷子のように心もとなく、途方に暮れていた。
そんな目を、ヒカルは初めて見た。
いつだってこいつは、鋭く前を見据えて突き進んでいた。それは佐為を追う時もそうだし、プロになってからもそうだ。
その瞳に宿っていた炎のように強い意志に惹かれて、自分はあいつを追いかけることを決めたのだ。
なんでお前が、そんな弱々しい目をするんだ。
自分でも驚くほどにショックを受けたが、その直後、アキラがこちらをキッ、と睨みつけてきた。
それは、強い瞳ではあった。
でも以前の、自分に向けられていたものとはかけ離れていた。そこには憎しみすら宿っていた。初めて向けられた感情に思わずヒカルはたじろぐ。そんなヒカルに、アキラは叫ぶように言う。
「君は、藤崎さんと打つんだろう?」
「え、は?」
なぜそれがわかる? ヒカルは混乱で咄嗟に言葉が出ない。
「藤崎さんが他の人と打たないと言うのは、君と打つためか? それとも君が縛り付けているのか?」
「ちょ、ちょっと塔矢君。違うよ、こないだも言ったでしょ? ヒカルは碁を打てないの」
こないだってなんだ? と思うも口を挟む暇はなかった。
「嘘だ」
アキラが間髪入れずにあかりの言葉を否定したからだ。
「ヒカル君は正確に君と越智君? さっきの人との実力差を把握してたよ。越智君が投了する前に、対局が大差で終わりかけてると一目で理解していた。ボソっと言ってたけど、即落ち二コマ、だっけ?」
それにアキラは、ヒカルの口から直接自分は打てない、とは聞いてない。『フリースペースに来たのは藤崎さんと打つためか』とアキラが聞いた時、本当に自分が打てないならその旨を口にした方が会話としては自然ではないか。わずかな違和感ではあるが、自分については何も言わずただ『越智と』と答えたのは、まるで自分が打てるのは当たり前の前提とした受け答えのようにアキラには思えるのだ。
「なぜ打てることを隠すのかは知らない。でも、ボクが藤崎さんと打つのを邪魔しないでくれ」
それは、命令ではなくむしろ懇願に近かった。
なぜこれだけ必死になるのか、その理由をヒカルは知っている。だからヒカルはあかりに、打ってやれよ、と言葉をかけようと思った。あかりの実力向上のためにも、切磋琢磨するライバルは絶対に必要だと思うから。
しかしあかりは、ヒカルの思惑を知った上で無視した。
アキラとも、越智とも、二度と打つつもりはないのだ。
それより何より、今はヒカルが秘密にしたいと思っていることを隠さなければならない。
自分とヒカルの間だけの秘密だ。
私たちの間に、入ってくるな。
「あのね、塔矢君。ヒカルが打てないと言ったのはね、ヒカルが碁石を触れないからなの」
「触れない?」
「ヒカルは碁石アレルギーなの」
「……なんでそんなくだらない嘘までついて」
あ、やべ、とヒカルは思った。アキラの目つきがさらに鋭くなる。
「何よ、嘘じゃないもん」
「ヒカル君は、さっき碁石を片付けていたじゃないか」
ばっ、とあかりは振り向いた。ヒカルを見、碁盤を見て、碁石が片付いていることを確認してからまたヒカルを見た。
その目には困惑がありありと浮かんでいる。
じわりと冷や汗がにじむのをヒカルは感じた。
越智がトイレに駆け込んだ時、つい院生時代の癖が出てしまった。負けた側がショックを受けて、石を片付けずに立ち去ることはままあるのだ。
加えて越智への心配と碁石の片付けとで迷う越智の祖父への気使いとか、碁を愛し続けると言う誓いから碁石を雑に扱うことに対して忌避感すら覚えていることとか、碁石が少なかったことも相まって、ささっと碁石を片付けてしまったのだ。
どうしよう、とヒカルは迷う。
後ろめたさが今更のように襲ってくる。
自分の決めた贖罪のために、ずっとあかりに嘘をつき続けていたのだから。
怒るだろうか、失望されるだろうか。
嫌だ、とヒカルは感じた。
それは自分の心の底から湧き出た、紛れもない本心だった。
あかりに、嫌われたくない。
がし、とあかりに両肩を掴まれる。決して痛くはないそれにヒカルはビクンッと過剰に反応した。そんなヒカルに、あかりは若干腰を落としてヒカルと視線を合わせて、
「ヒカル、碁石触ったの⁉」
「……あ、うん」
ヒカルは正面から迫るあかりの剣幕についと目を逸らし、か細い声で辛うじて相槌を返した。
それを聞いて、あかりは再びアキラへと向き直る。
「ごめん塔矢君、ヒカルを病院に連れて行かないと!」
「え?」
それはアキラとヒカル、どちらの声だったのか。
言葉に詰まる二人を置いてけぼりに、あかりはまくし立てる。
「ヒカルは碁石に触るとね、1時間で全身真っ赤になって、2時間で喘息出てゴホゴホってなって、三時間で呼吸できなくなって死んじゃうの! だから三時間以内に病院でステロイドジョーチューってのをしないといけないの! ほらヒカル行こ!」
もちろんヒカルにそんな疾患はない。しかしあかりの勢いに飲まれて、ヒカルは本当に自分が危篤状態にあるのではないかと言う錯覚に陥った。
ヒカルはあかりに腕を掴まれ、引きずられるように駆け出した。その途中でヒカルはちらりと横目で塔矢アキラを盗み見ると、既にあかりの勢いから心を立て直していて、憎々しげな視線をこちらに向けていた。
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第12話 決意
すでに日が暮れかけていた。
夕暮れの冷たい空気の中を、あかりに手を牽かれて、逃げるように暗い街路を走っていた。足元には水溜りが点在していて、昼ごろに一雨降ったのだろう。パシャリ、パシャリ、と踏むごとに靴下まで染み込んでくる。
そのまま滑り込むように地下鉄へと乗り込んだ。
ちょうど帰宅ラッシュにぶつかってしまったようで、車内はほぼ満員だった。あかりは腕を引っ張るままにヒカルを壁際に立たせ、あかり自身は向かい合って立ち、両腕を壁に突っ張った。まるで、と言うよりまさしくヒカルを満員の客から守る位置に立った。
正直男として恥ずかしいと言う気持ちはあるが、今はまだあかりの方が頭一つ大きいため自分があかりを守れるかと言われると微妙なところだ。
ごとん、と慣性とともに列車は動き出す。
二人の間に会話はない。まっすぐこちらを見下ろすあかりの視線に耐え切れず、ヒカルは視線を逸らす。そこにはあかりの腕しかなかった。
気まずい。
と言うか、あんな剣幕で病院に行こうと言っていたのに、なぜ普通に地下鉄に乗っているのだろう。本当に急病だと思っているなら、途中ですれ違った棋院のおとなの人に救急車を呼ぶよう頼めばいいのだ。
そもそもヒカルは、碁石を触っただけで発疹が出ることもなければ喘息が出ることもない。自分からそんな症状が出るとあかりに言ったことはないのに、どうしてあかりはあんなペラペラとアレルギー症状を並べ立てることができたのか。
ちらり、とあかりを横目で見上げれば、その顔は眩しい笑みを浮かべていた。
「あ、あかり?」
「ん、なあに?」
ニッコニコのまま首を傾げて聞き返してくる。その声にこちらのアレルギーを心配するような色はまるでない。
自分の顔の両側に突っ張るあかりの腕で左右の視界を塞がれ、今ヒカルに見えるのはあかりの笑顔だけだ。
……正直、怖い。
一体あかりは、何を考えているんだろう。
この笑顔は、まさか怒りを隠すための仮面なのだろうか。
「その、俺の、さ。アレルギーなんだけど」
でもあかりのことより重要なのは、自分のことだ。
自分にはホントはアレルギーなんてないのに、五年以上もあかりに嘘を吐き続けていた。
それが、多分ばれたのだろう。
だからあかりはこうして自分を追い込むようにしてこちらを見つめてくるのだ。
だったら、今のうちに自分から謝っておこう。そして許してもらおう。
嫌われたくなかった。
あかりに嫌われるのだけは嫌だと、叫ぶ自分が心の中にいる。
「俺本当は……」
「いいの」
あかりは人差し指でヒカルの口を押さえて、小さく首を振った。
「ヒカルはアレルギーなの。でも今日はちょっとしか触らなかったからたまたま喘息が出なかったの。それでいいじゃない」
ね? と言って、あかりはさらに笑みを深めた。
それは、まるで子供に言い聞かせる母親のような穏やかな口ぶりで、ヒカルはなんだか自分が駄々をこねている気分になってしまった。
ああ、そうか。ヒカルは思う。そう言うことか、と。
罪悪感はいまだに心の底に残っているけれど、恐怖や緊張は、安堵の溜め息と一緒にふわりと体から抜けていった。
「……わかった」
その声に普段の柔らかさが戻ったことに気づいたあかりは、殊更に明るい声で、
「それにしても塔矢君しつこかったねー。なんでそんなに私と打ちたがるんだろ」
「ライバルだと思ったからじゃねーの? やっぱ碁が強くなるには一緒に高め合う存在とか目標って大事だと思うし」
「じゃあ私にはヒカルがいるから大丈夫だね」
「……そう、だな」
ヒカルは、あかりの言葉に即答できなかった。
あかりに嫌われたくない、あかりと離れたくないと願う自分がいる。
だからこそ自分はあかりから離れるべきだろうとヒカルは思う。
だって、佐為は。
人類史上最も碁を愛したはずのあいつは、もう二度と碁を打つことができないのだから。
思い出される、最期の対局。
あの一局が、あの石の並びが、罪悪感とともにいつまでも心に残っている。
あんな一局を最期に消えてしまった佐為の無念を思えば、その原因である自分が何を思う、と言う話だ。
──ヒカルなんか私に勝てないくせに
──ヒカルなんかまだ私に勝てないのに!
消える数日前に投げつけられた言葉が、今も耳に残っている。
消えゆく自分を自覚しながら、悲鳴のように叫んだあの時、佐為はどれほどの絶望を覚えていたのだろう。焦燥と苦悩に満ちたそれを、自分はまるで相手にせず、ふてくされて碁を打つことを拒絶した。
眉をしかめる。
自分のような罪人が、あかりと離れたくないだなんて……なんて、おこがましいことを考えているんだろう。
「ヒカル? どうしたの?」
「……あかり」
「なに?」
「絶対、プロになろうな」
あかりは一瞬キョトン、とした顔を見せた後、すぐ笑顔になって、
「うん!」
と頷いた。
◯●◯●◯●
「おっと」
バタバタと連れ立って駆けていく二人組の子供に、緒方は二人を避けながら記憶を辿った。
「確か、見学してた子たちだったな」
途中から男の子の方は会場から出て行ってしまっていたが、大会が終わるまでずっと女の子の方を待っていたのだろうか。
大会が終わり、棋院の担当者との挨拶も済ませ、名人と二人で帰ろうとしていたところだった。子ども二人が来た道を見やれば、棋院に来た客が自由に対局できるように開放されているスペースから出てきたようだ。部屋として区切られている場所ではなく、観葉植物や棚などで軽く仕切られているだけで、それらの隙間からそこに誰がいるかは苦もなく把握できる。
そこには見知った顔がいた。
見慣れたおかっぱ頭に、通っている小学校の制服姿だ。
「先生、アキラくんですよ」
「アキラ?」
緒方は対局スペースに歩を進める。当然行洋もその後を追い、入ってきた二人の姿にアキラは、あ、と呟いた。
「お父さん、緒方さん」
「どうしたアキラ、わざわざ棋院まで。大会に興味でもあったのか?」
「あ、いえ。大会ではない、です」
父親の問いかけに、アキラはバツの悪い顔で視線を泳がせた。そこで緒方が、
「そう言えば、今子どもが二人ここから走って行ってしまったようだが、何か知っているかい?」
「あっ」
アキラはあからさまな反応を見せた。それを自分でもわかったのだろう、アキラはしまった、と言う顔をしてすぐに俯いてしまった。
それから数秒、沈黙の時間が三人の中に流れる。
「アキラ、私たちはもう帰るが、お前はどうする?」
「……少し、棋院の方に用事ができました」
「用事?」
緒方は怪訝な顔をした。行洋も同じような顔をしているだろうと思う。
もしかして、と緒方は思い、
「もしかしてアキラくん、ようやくプロ試験を受けるのかい?」
「いいえ」
これだ、と思って問い掛ければ、しかしアキラは首を横に振る。
俯いていた顔をあげ、アキラは今まで父親にも見せたことのない強い瞳で行洋を見据える。
「それより先にやらなくてはならないことができました」
「それは? プロ試験より優先することとは?」
緒方が右にずれ、塔矢親子の会話の邪魔にならない位置から二人を見やった。
今までアキラは、どちらかと言えば気遣いのできる母親に似ていて、勝負師としてはどこか物足りない、礼儀正しくおっとりとした空気を纏った人間だった。
緒方はニヤリと笑う。
それがどうだ。今朝塔矢名人を迎えに来た時にはなかった、鋭利な日本刀を思わせる冴映えとした空気は、まさに今目の前にいる日本最強のプロ棋士、塔矢行洋とそっくりではないか。
なにがあった。そう思うと同時に緒方はあの二人を思う。一体彼らは何をしたのだろう。
「アマの大会に出たいと思います」
「アマ?」
「はい。とりあえずは来月の段級位認定戦に出ようかと」
「段位?」
親子の会話に、緒方はつい口を挟んでしまった。それくらい予想外だったのだ。
間違いなくプロ並、プロ試験を受ければ合格確実と言える棋力を持ちながら、なぜアマの段位認定を求めるのか。
同じ疑問を行洋も抱いたのだろう、珍しく目を見開くと言う感情の発露を見せ、
「なぜだ?」
と端的に疑問を口にした。
それに対して、アキラはグッと両手で拳を作り、一つ呼吸を挟んで言った。
「どうしても、打ちたい相手がいるんです。その相手が、次の段位認定戦に出ると言っていたんです」
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第13話 賭碁
「今日は碁会所に行くぞ」
「碁会所?」
ヒカルの言葉にあかりは首を傾げた。
子ども囲碁大会の翌日、授業が終わっての放課後である。今日は二人とも掃除も委員会もなく、何も言わずに並んで帰路についた。クラスメイトからすればそれはいつもの光景で、初めこそ二人が連れ立って歩く様をからかっていたヤンチャ坊主どもも、今ではギリリと歯軋りしながらあかりの手を引くヒカルを睨むようになっていた。
「また塔矢君と打つの?」
歩きながらあかりが聞く。じゃあ昨日打つべきだったのか? と。
それに対してヒカルは首を横に振った。
「別の碁会所。塔矢のところはなんつーか、お客さんがみんなお行儀良すぎてさ」
何せあの塔矢行洋がオーナーを務め、たまにその門下も客の相手をしに来るような場所なのだ。そんな場所に、バッチンバッチン碁盤を凹ませながら打つようなイキリ客などいようはずもないのである。
「あかりはもっと、威圧してくるような相手にも平常心を持って打つ練習が必要だと思うんだよ」
「威圧、ねぇ」
「あかりは怖い大人と打った経験てないからさ」
「まあ、ないよね」
そりゃね、と二人でうなずいた。
俺もそれで苦しんだなぁ、なんてヒカルは思い出す。ヒゲゴジラこと椿さんは別に威嚇しようと声がでかかったわけではないが。
それでも、相手の意図せぬことでこちらが萎縮してしまうことはあるのだ。
「塔矢と打った時も、勇足というかさ。普段通り打てればもっといい勝負できてたと思うし」
「……うん」
「だからもっといろんな相手と打って、勇足にならない訓練とか、逆に手が縮こまったりしないようにするとかさ」
歩く先は自分たちの家ではない。途中で横道に逸れ、住宅街から離れていく。
「あと置き碁も打っておきたいよな」
「いつも打ってるじゃない、ヒカルと」
「いや、逆だよ。お前が相手に置かせるんだ」
え、とあかりが強くヒカルの手を握り締めた。
「で、できるかな私に。相手は大人なんだよね?」
「できるさ。あかりなら」
それにな、とヒカルは続ける。
「劣勢になった時に地を奪い返す技術を身に付ける必要があるのは、塔矢と打って感じただろ?」
「……うん。中盤のノゾキが、すごいこっちを格下に見てたよね。その時のリードを守り切れば勝てたのに、結局削られて、取り返せずに負けちゃった」
「普段打ってても、布石はしっかりしてるし、リードを守る力も十分身についてる。あと足りないのは強引にでも地を奪う力と、相手の強引さを咎める力だ」
そう言った点は、正直自分は弱いだろうな、とヒカルは思っている。佐為と打っていた時は、自分の拙い力碁など容易く捻り潰されていたし、実力差がありすぎて佐為から強引に詰められる場面だってろくになかったのだ。
そのまま自分はろくに対局もしないまま五年が過ぎて、そろそろあかりに教えることも少ないと感じているのだった。
「だから格下の相手に石を置かせて、ハンデを負った状態で打つのはすごい勉強になったし、碁会所の客ってみんな大体我流だから思いもしない手を打ってくることもあるし」
「ふぅん。楽しかった?」
「そりゃ……」
ヒカルは、あかりへと振り向いた。
あかりは、ヒカルをじっと見つめていた。
その目がにこりと微笑む。ヒカルは思わず後ずさる。その手をあかりが引いて、問う。
「で、どこの碁会所に行くの?」
「あ、えっと……」
何か言ってくれよ、と思うも、先を促されればそれに答えるしかない。
二人の足は繁華街へと入っていった。居酒屋などの飲食店が多く目に入る。そこを出入りするのはスーツを着たサラリーマンが主で、あかりには少しハードルが高い場所だった。
「ここだ」
周囲の空気に気後れしていたあかりには、ヒカルに示された場所がギャングの巣窟にしか見えなかった。
塔矢アキラと対局した碁会所とはまるで違う、細くて急な下りの階段。ポストやら電光掲示板やらがガムテープで補強されていたりして、その雑さがアンダーグラウンドな雰囲気を感じさせる。
「こ、ここ? ヒカル、なんだか怖いよここ」
「大丈夫だって。ほれ行くぞ」
カンカンカン、とヒカルは軽い足取りで降りていく。その背中にくっつくようにしてあかりも降りれば、そこには『囲碁さろん』と書かれた扉があった。その周囲の壁にはヒビが入っていて、ビルの古さを如実に表している。尻込みするあかりの手を引いて、ヒカルは扉の中へと突入していった。
「おやいらっしゃい。二人? 打つなら子どもは五百円だヨ」
受付には細身の老人がいた。口髭の豊かな、穏やかな口調の男性だった。子どもの間で碁が流行ってるのかい? なんて嬉しそうに呟くその雰囲気にあかりは少し安堵する。
店内を見渡せば、やはり古い建物らしく、ビニル素材の床が剥がれたり歪んだり。換気扇も随分と古い型で音が少しうるさい。
碁を打っている客は六人。皆対局中だった。
「あれ、子どもだ」
「……そうだな」
すぐそばの、扉に一番近い席で、自分たちと変わらない年齢の子供がおじさん相手に碁を打っていた。
オレンジがかった癖っ毛と、猫のような吊り目が特徴の少年だ。おじさんが吐き出すタバコの煙も意に介さず、パチリパチリと調子良く碁石を打っていく様子は実にこの場に馴染んでいて、あかりにはひどくその少年が大人びて見えた。
「……負けました」
とはいえ碁の実力は年相応の、実に微笑ましいものだった。終盤に差し掛かったところで少年から頭を下げて対局は終わった。あかりからすれば少年の指す手はどれも素直で、彼の実直な性格が透けて見えるようだった。
「おじさんの方も楽しそうに打ってたね」
「え、そうか?」
小声でヒカルにそんなことを話しかける。まるで息子とキャッチボールする父親のような心境でこのおじさんは打っているのだろうとあかりには感じ取れたのだ。
しかし。
「ほれ、百円だぞ」
「クソォ……はい」
「え?」
その光景に、思わずあかりは声をあげた。
負けた少年が、勝った大人の人に百円玉を差し出したのだ。
つまり、賭けている?
「ひ、ヒカル? 私、その、賭け事は」
「大丈夫。あかりに賭けはさせないよ」
完全に尻込みしてしまったあかりに、ヒカルは安心させるように肩を軽く叩く。
「おじさん、はい五百円。打つのはこっちだけ、俺は見学」
「はいヨ。今お茶入れるからネ。饅頭食べるかい?」
「あ、いただきます」
「ちょっと、ヒカル悪いわよ」
いいからいいから、なんて笑う席亭のおじさんはお茶を入れるためか受付の中へと戻る。
「ああ、ちょうどいいから三谷クンと打ったらどうだい? 子どもが揃うなんて珍しいからネ」
おじさんの言葉に、三谷と呼ばれた少年が、その猫目をこちらへと向けた。たった今碁石を片付け終えたところだった。
「何、打つの?」
「え、えっと」
「打つのはこっちな」
躊躇うあかりの背をヒカルが軽く押し出す。
「負けたら百円な」
「いいぜ、払ってやるよ俺が」
「ヒカルっ!」
「でもその代わり」
ごそっ、とヒカルは背負っていたランドセルから小さな段ボール箱を取り出した。手のひらにギリギリ収まるか、というくらいの縦長の大きさだ。
「負けたらカンパ代ここに入れてくれよ」
「……? 何が、その代わり、なのかわかんないんだけど。なんだよカンパって」
「大会参加費のカンパ。棋院でやるアマの大会」
「いや、それって賭けと何が違うんだよ」
三谷が眉根を寄せ、訝しげな顔を見せる。ヒカルは箱を掲げて、
「賭けじゃねーよ。大会に参加したい子どもに、実力を認めた周りの大人が自主的にカンパしてくれるだけだから。目指すは来月ある段位認定大会の参加費1万と送料五百円」
「なんだそりゃ。賭けじゃないってのなら負けたらどうすんだよ? 払うってお前言ったよな?」
「あかりが負けたら、俺が迷惑料として千円払うよ。まあそんなことないだろうけど」
ぴくり、と三谷の眉が上がった。ふぅん、と笑って、
「そんなに強いんだ、そいつ」
「まあね」
「いいよ、打とうぜ」
その展開に慌てるのはあかりだ。
「ちょ、ちょっとヒカル。私賭けるなんて聞いてないって」
「賭けじゃないって。あくまでカンパだから。お金は大会にしか使わないし、なんなら受付のおじさんに預かってもらおう。小遣い稼ぎじゃないから、な?」
「うー……確かに、お母さんにおねだりするには1万円って高すぎるけど。また宇宙飛行士がとか言って、出してくれるとは正直思えないし……うん、わかった。ヒカルが言うなら打つよ」
二人のやりとりを聞いていた、三谷と対局していたおじさんが席を立ち、先の百円で缶コーヒーを自販機で買ってから三谷の後に回った。
「打つなら席に着きな、嬢ちゃん。でもこの坊主は結構やるぞ? まだ小学生だけどな」
「おじさんに今負けたけどね」
三谷の言葉に、お茶を運んできた席亭のおじさんが、
「そりゃ神崎さんはここで一番強いからネ。ほぼ毎回ここの大会で優勝してるもの、三谷クンじゃまだまだだヨ。ほらお茶。あとお饅頭」
「ありがとうございます」
「おじさん、俺は?」
「三谷クンはさっきあげたでショ」
ちぇ、とわざとらしい舌打ちをして、三谷は手元にあった碁笥から黒石を握った。
「互い先でいいよな」
「う、うん……8個。私が白だね。お願いします」
「お願いします」
二人が頭を下げる。静かに対局が始まる。店内の客がなんだなんだと集まって、二人の周りを取り囲んだ。それに多少狼狽しつつも、手を進めるうちにあかりはだんだんと囲碁の世界に没入していった。
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第14話 勉強
碁は手談とも言われる。
碁を打てば、言葉を交わさなくとも相手の心が、為人がわかるという。
三谷という少年は、口こそ生意気で挑発的であったが、その手は意外なほど素直だった。
塔矢アキラの様なこちらを見縊る様な意図もなく、越智の様なツンケンした攻撃性も感じられず。
いまだ腕は未熟であるため、自分が持つ狙いを手順として表すことができていないが、それでも伝わってくる意思は実に心地いいものだった。
素直で、まっすぐこちらに向かってくる愚直な気質。
それを向けられる事は、あかりにとってとても心地いいことだった。
それでも、三谷という少年が持つ素直さがあかりの中にいくつかの感情を生む。
こう打ったらどう返すの? という好奇心。
ほらそれじゃあダメだよ、という嗜虐心。
もっとこの対局を続けたい、導いてみたい、という不思議な感覚。
それらを統括して一言で表すなら、楽しい、の一言に尽きる。
序盤を越えて中盤に入る頃には、正直一刀の下に斬り捨てる事は可能だった。
こちらが手加減している事はもう気付いているだろう、しかしその事に怒らず、応酬の中から何かを学び取ろうとするひた向きさがある。
一手ごとに、目の前の少年の成長が見て取れる。
相手を導く。それは言い換えれば相手を自分の色に染めるということなのだと、あかりはこのとき初めて知ることができた。
自分の打った石の意図を真剣に考え、それに応えようと必死に頭を絞るその眼差しは、自分と打つときのヒカルには見られないものだ。
もしかして、とあかりは考える。
もしかしたら、ヒカルは自分と打ちながらこんな楽しい気持ちになっているのだろうか、と。
「負けました」
「ありがとうございました」
一応、というべきか。せっかくなので整地まで打ち切って、七目半の差であかりの勝ち、という結果に終わった。しかし実際の実力差がこんなものではないと、三谷を含め店内にいた全員が気付いている。
指導碁など打ったことのないあかりには、相手に気づかれずに手加減をするという技術など身についていないのだ。
「じゃあちょっと並べてみよっか」
「……ああ」
大雑把に石を左右にどけて、黒白交互に石を置いていく。
「ここでちょっと地にこだわり過ぎたね。ここは小さく生きるだけで十分だったの。だからその分中央に盛り上げていけば、全体的にはこっちが得するんだよね」
「……でもよ、ここでツケたら白はこっちに行くかなって」
「うーん、そういう手はない、かな。そこはこっちをキるのがすごい大きいし」
あーだこーだと続く小学生二人の検討を、周りの大人は黙って聞いていた。三谷がこの碁会所でもそこそこに強い位置にいる事は皆知っていたが、その三谷を相手に指導できる小学生、という存在の実力を見定めようと解説に耳を澄ませていた。
「と、こんなところかな」
「……なあ」
何? とあかりが小首を傾げて返せば三谷は照れ臭そうに視線を逸らして、
「お前、名前は? 俺は三谷」
「私? 藤崎あかり」
「藤崎は、どうやってこんなに碁が強くなったんだ? もしかして、プロに弟子入り、とか?」
プロ云々は冗談めかした口調だったが、その眼差しは真剣そのものだった。
こうやって聞かれるのは、塔矢アキラに続いて二人目である。
一度目の時はしどろもどろになってしまったが、二度目ともなればシミュレーションもある程度はできているのだ。
「勉強は本が基本だね、棋譜並べとか詰碁とか。秀策の棋譜なんて結構並べるよ。あとたまにお小遣いで碁会所行ったりだね」
碁会所を利用したのはまだこれで二回目だけれど。
「本、か……」
それからしばし、何か考え込んでから三谷はカンパ箱に百円玉を放り込んでから席を立った。
「ありがとうございました」
「うん、ありがとうございました」
頭を下げたところで横から、
「よし、次は俺だ」
「いやいや、順番なんて決めてないじゃろ、次は年齢順でワシだ」
次に誰が打つかを巡って争い始める大人たちを尻目に、三谷は受付に一番近い隅の席まで離れた。
腰を降ろし、ふぅ、と息をつく。
そこに、席亭のおじさんがお盆を持ってやってきた。
「お疲れ様三谷クン、はいお茶とお饅頭」
「え、饅頭はもうもらったって」
「いいからいいから」
疲れたでしょ? と言われて、三谷はお言葉に甘える事にした。饅頭にかじりつけば、甘味が疲労した脳を優しく労った。
「三谷クン、これいるかい?」
「どれ?」
ぬるめのお茶を一気飲みしたところでそんなことを言われ、湯呑みを置きながら顔を向ければ、おじさんはビニールヒモで縛られた雑誌の束を見せた。そこから一冊抜き出して、
「去年の囲碁雑誌なんだけれどネ。ほらタイトル戦の棋譜と解説載ってるし、詰碁の問題もほら。あと付録の詰碁集もあるヨ」
広げられる雑誌を覗き込んでみる。
白10のノゾキは流行形。黒1のツギなら白2のスベリが相場。右上の黒が強くなったので、黒aと受けずに黒3など大場に受ける展開──
三谷の胸が一度跳ねた。
「これ、くれるの?」
三谷はおじさんを見上げる。普段はクールを気取っているが、この時は口元が綻ぶのを抑えきれなかった。
三谷は今まで碁の勉強といえば碁会所で打つばかりで、基本的な定石を覚えて以降は碌に勉強というものをしていなかった。それでも碁は打てるし、大人相手にも結構打てる様になってきたし、正直碁の勉強なんかより実践だろ、と思っていた。
でも、これで勉強すれば、もしかしたら俺はもっともっと、あの娘みたいに。
「これで勉強するといいヨ。あと定石については一冊本があればいいんだケド」
「……うん。じゃあ、貰ってくよ」
三谷は席を立って、雑誌の束をランドセルに上からごそっと突っ込んだ。
「じゃあ、今日は帰るよ」
「頑張ってネ」
「……藤崎!」
「え、何? 三谷君」
ランドセルを背負った三谷があかりの側に近づく。誰から最初に打つのか決められず、結局二面打ちをする事になった様だ。盤面を見ればどちらもあかりの白が優勢だ。相手のおっさん二人にはまだ自分はどちらにも勝ったことがないのに。
「明日も来るのか?」
「えっと」
あかりはチラリと背後に立つヒカルを見て、
「うん、そのつもり」
「分かった。またな」
「ま、またね」
後向きに手を振りながら、三谷は碁会所から帰っていった。
別に、負けた事にふてくされているとか、そういうことではない様だ、とは思う。
「大丈夫、だよね?」
あかりの声に、多分、とヒカルは答える。
「むしろちょっと嬉しそうだったけど。なんでだ?」
「さあ……」
「まあ、またなって言ってたし、明日も来るだろ。それよりほら集中しねーと、多面打ちなんだから」
「う、うん」
この後、三面打ち・四面打ちまで無敗で終えたあかりは、カンパ総額九千百円獲得するに至った。カンパという事で、お客さんたちが気前よく一局につき千円ずつ払ってくれたのだ。こいつらあかりにデレデレしすぎじゃねーかなとヒカルは若干イラッとしたが、また明日も来ると約束して碁会所を後にした。
◯⚫◯⚫◯⚫️
碁会所から帰宅し、自分の部屋に入ってすぐ三谷はおじさんから貰った囲碁雑誌を開いた。
緒方と芹沢のリーグ戦の棋譜があり、記載されている数字の順に石を並べていく。
途中で止めて、次は自分ならどこに打つか、を考えながら。
それは、知識の宝庫だった。
今まで自分は、経験から得た教訓を基に打つ場所を決めていた。
自分が持つ思考は、言ってみれば断片的で、行き当たりばったりなところも多かった。
しかし、雑誌に書かれている棋譜や定石集は、そんな自分にはまさに蒙を啓くというに相応しい閃きを与えてくれた。
断片的だった知識が、体系だった理論に統括され。
感覚的だった曖昧な理解が、明確な言葉の教訓として具体化し。
知識と情報が有機的に結合していく爽快感。
その夜三谷は、いつまで起きているのかと呆れた母親が扉をノックするまで雑誌を読み耽っていた。
そうして、次の日。
学校が終わり、ランドセルを背負ったまま三谷は碁会所へと向かっていた。
足が自然と早くなる。
自分が学んだことを、一刻も早く誰かを相手に試したい。
そんなワクワクで胸が躍り、しかし碁会所にいく前に、と三谷は繁華街の角を曲がった。
そこにはショッピングモールがあった。
通路を突き進む。
そのモールには家具屋があり、家電の量販店があり。しかし三谷はそんなものに興味はない。大型テレビの前を素通りし、VHSのプレーヤーを無視し、新型MDプレーヤーに一瞥もしないで、奥にある本屋へとまっすぐに向かっていった。
財布の中には千円札が3枚。
三谷は、昨日言われた定石集が欲しかったのだ。
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第15話 染色
「三谷君はね。打ち始めて早いうちに実力差に気付いてたの。その後もね、相手の方が強いって素直に認めて、こっちから何か学べないかって必死になってた。私の手にどんな意味があるのかって。すごい素直でいい子だよ」
「素直、ねえ」
そうだったろうか、とヒカルは内心首を捻る。
あまりそんなイメージは持っていない。むしろ捻くれツンデレ系ではないか。
前回は自分のせいで囲碁部から距離を置くようになって、その半年ほど後にまた戻ってくれて。その経緯を金子を経由してなんとなくは聞いていたけれども。
あかりは三谷と金子は顔を合わせれば喧嘩ばかりで相性が悪い、なんて言っていたけれど、はたから見ている限り、三谷と最も仲が良かったのも金子だった。金子が勉強を見る一方で三谷から指導碁をしていたり。その間三谷はずっとめんどくさそうに振る舞っていたけれど、本当に嫌なら囲碁部とも金子とも離れていたはずで。
そんな、口と内面が一致しないやつなんだな、なんて思っていたわけだ。
ああそういうことか、とヒカルは気づく。
三谷のあのぶっきらぼうな口調は、素直な内心を隠すベールだったのだ。
つまり、囲碁部で数ヶ月一緒にいた自分では気づけなかった、わかりづらい三谷の内面を、あかりは一局打つだけで見抜いたということだ。
「でもあれだな、越智には随分塩対応だったけど」
「越智君はずっと『なんでこんなやつに』、てそんなのばっかりだったの。打ってて気が滅入っちゃうよ。それにヒカルの事悪く言ったし。優しくする理由がないよ。三谷くんはいい子だから、丁寧に教えてあげるの」
「そんなもんかね」
三谷が素直とか、いい子とか、碁を打つだけでそんなことまでわかるものなのか。
正直、自分にはよくわからない領域の話だ、とヒカルは思う。
碁会所に到着した。
先日はビクビクしていたあかりは、今日はニコニコ笑いながらてんてけてんと階段を降りていく。
扉を開ければ三谷はすでにいて、お客だろう白髪混じりのおじさんと対局していた。昨日席亭の人に、ここで一番強いと言われていた人だ。
三谷の背後から碁盤を見れば、対局はもう小ヨセに入っていた。中々に細かい。
あ、とあかりが小さく声をあげた。対局に集中している二人は気づかなかったが、三谷がツケを誤ったのだ。昨日神崎と名乗ったおじさんはもちろんそこをとがめ、三谷の顔を曇らせる。
「ここまでだな」
整地に入る。あかりの目算では、三谷が若干足りない。ヨセでのミスがなければわからなかったが、勝負にたらればの話をしても意味がない。
「コミ入れて四目半俺の勝ち、だな」
「ぐぬぬ……」
悔しそうに百円玉を差し出す三谷に、神崎は笑いながら受け取って、
「にしても坊主、一日で随分手応えが変わったな」
「そ、そう?」
「おお。シュウさんからなんか色々貰ったんだって?」
「……雑誌とか。付録の詰碁の問題集とか。問題集は手のひらサイズだから、授業中も読んでた」
悪いやつだな、と神崎は笑った。
「だがまあ、まだまだだな。付け焼き刃で全然使いこなせてねえ。もっと経験積まねえとな」
「ちぇ……あ、藤崎」
「こんにちは」
ここで、三谷の素直になれない性格がもろに出た。
「き、今日も来たのかよ」
「うん。来るって約束したからね」
「……」
「坊主お前何緊張してんだ」
おじさんは三谷の頭をガシガシ撫でて、
「嬢ちゃん、打ってやってくれよ、なんでか知らんが照れちまってよ」
「何言ってんだおっさん! 誰も照れてなんかねーよ!」
「なんだ、打たんのか? じゃあ俺が先に打つが」
「ぐぬっ」
三谷は悔しげに口をつぐみ、視線を右往左往させながら逡巡し、目を右下に逸らしながら一言。
「お、俺と打ってくれ」
二十円貸してくれと同じテンションだ、とヒカルは笑った。
「うんいいよ」
「というかな、そっちの金髪の坊主はなんだい? お前は碁は打たねえのか?」
受付から昨日のカンパ箱を受け取ったヒカルはいきなり話を振られて、
「え、はい。俺は碁は打たないんだ、です」
「ふぅん? じゃあこっちの坊主が嬢ちゃんと打っても良いんだよな?」
「そ、そりゃ、まあ」
この時、ヒカルの背筋を冷気が走った。
肩にのし掛かる莫大な圧力。膝が笑うほどの重圧に辛うじて耐えながら、ヒカルは席に着いたあかりを見た。
あかりは、ヒカルへと笑顔で振り向いていた。自分の唾液を飲む音が大きく響く。
「ほら神崎さん、あんまり下世話なことしないの。趣味悪いヨ」
そんな、あかりとヒカルの間に広がった空気を、お茶を組んでくれた席亭さんが横から意図せず諫めてくれた。
あかりはヒカルから三谷へと向き直った。そこにはヒカルに向けていた重圧は消えている。三谷やおじさんは気付いてすらいない。
「とりあえず石二個置こうか。それとおじさんも一緒に」
「なんだ嬢ちゃん、今日は置き石ありで多面打ちか?」
「はい」
おじさんの顔色が変わる。
「よし、じゃあまずは二個だな。坊主は四個置かせてもらえ。負けたら二千円カンパするぞ。坊主は二百円な」
「え、四つもか?」
「私はいいよ、それでも。お願いします」
三人が頭を下げて、あかりの白石が打たれて対局が始まる。
打ちながら、あかりは三谷の実力の変化に気づいた。
ほんの十手で、たった一日で実力が上がっていることがよくわかる。
とは言えもちろんまだまだで、その手からは必死に何かを思い出そうとする迷いが見て取れる。迷いのせいで、昨日までの思い切りの良さが消えてしまい、局面によっては前回の一局よりも悪手が目立つところもある。
それを矯正していくのもまた楽しいだろう、とあかりは思うも、同時に少し残念に思うところもある。
それは、三谷の中に別の色が混ざってしまったことだ。
自分の色、言い換えれば思考回路とでもいうのか、それを写しとるべき三谷の中に別の回路が雑音のように混ざってしまっている。
このまま三谷を指導し続けていても、彼を自分一色に染めることはできなくなったのだ。
残念だと思う。
相手を自分色に染める喜びに気づいたのに。
ただ、とあかりは手を進めながら一人ごちる。
染める、という意味では、自分はヒカル一色だ、と。
詰碁もヒカルが用意したもの。
棋譜もヒカルが教えてくれたものか、秀策が遺したもの。
ヒカルはどこから調達してくるのか、すでに自分はヒカルから千を超える棋譜を教えてもらっているが、その打ち手が全て共通している事に大分前から気付いていた。
その人物は秀策流の打ち手で、棋譜から伝わる圧倒的な実力と、驚異的な視野の広さに背筋が幾度も凍った。
自分の実力が上がるにつれて見えてくる、富士山の如き実力の高さ。
故に彼は、千余の対局を越えて無敗。
その彼をあかりは、秀策流を好んで使うことから内心で『秀策さん』と呼んでいる。
秀策さんの相手にはヒカルと同格か、それ以上の実力の持ち主もいた。にも関わらず、その秀策さんは全ての対局に勝利し続けていた。
何者なのだろう。
秀策さんについては、熱狂的なまでに碁を愛しているという事以外、その人物像はようとして知れない。
それでも辛うじて推測できることがある。
三谷を指導してようやく気づくことができたこと。
生まれつき碁が強い人間なんていない。
つまり、恐らくこの秀策さんは、ヒカルの中にある碁の全てを担っている人物なのだ。
ヒカルに碁を教え、導き、そしてヒカルの前から消えた人、なのだろう。
ヒカルの中は秀策さん一色で。塔矢アキラや越智に向ける視線の根幹に、秀策さんへの思いがある。
五年以上共にいて、いまだ藤崎あかりという存在はヒカルの中にちっとも残っていないのだ。
普段の対局から伝わってくる、秀策さんへの渇望と、後悔、罪悪感。手筋の中に色濃く残る、秀策流の残渣。
あかりは思う。
ヒカルの中に自分を混ぜたい。
ヒカルを構成する因子の中に、藤崎あかりという存在を溶かし込みたい。
そしてゆくゆくは、ヒカルの中から秀策さんを追い払い、藤崎あかり一色に染め上げたいのだ。
三谷という初対面の相手を染めるだけでもこれだけの喜びがあるのだ。相手がヒカルとなれば、自分はどれだけの快感を得られる事だろう。
対局が終わる。三谷は隣のおじさんより早く見切って手を止めた。
「ありません」
うーぬ、と口惜しげに唸る三谷に、あかりは一言告げた。
「ありがとね、三谷君」
「え、あ、おお」
あかりは、笑った。柔らかな微笑みは、クールを気取る三谷を赤面させるだけの破壊力を秘めていた。
「じゃあ並べていこうか。昨日より大分良くなってるけど、まだうろ覚えだよね?」
「わかるのかよ」
その微笑の裏で、あかりは思う。
あなたのおかげで、私は自分の欲求に気づく事ができた。
ヒカルを閉じ込めるだけでは足りない。
閉じ込めて、碁で打ち負かして、藤崎あかりという存在に目を向けさせたい。
今三谷とやっているように、私に勝ちたいと願わせ、私の手の一つ一つに想いを馳せさせ、私の手筋から学ばせる。
それでようやく、ヒカルの全てを手に入れる事になるのだ。
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第16話 六段
十日ほど碁会所に通い詰め、四人相手に三子置かせて勝利できるまで成長したあかりは、万全の態勢を整えて日本棋院に向かった。
その日は火曜日、建国記念日の祝日だった。
「よぉし!」
綺麗な青空の下であかりは声を上げる。吐き出された声は白くなって宙に溶けた。
「緊張するなよあかり、実力出せれば大丈夫だから」
「うん!」
グッ、と両手で拳を握り、気合を入れて棋院の受付に向かう。
行事案内の掲示板に記載されている『春季級段位認定大会』の場所を確認してから、参加費を払うために事務に向かう。
事前に配送された対局カードを、事務に立っていたぽっちゃりしたメガネの中年男性に提出した。すると、事務員さんは怪訝な顔をする。
「六段なのかい?」
「六段だよね?」
あかりが振り返り、ヒカルに確認すれば大きく頷かれる。事務員に向き直って、あかりは笑顔でもう一度、
「六段です」
と告げた。
「六級じゃなく?」
「六段です」
「うーん、お嬢ちゃんにはまだ早いんじゃないかなぁ。参加するの、大人の人ばっかりだよ?」
事務員さんはあかりに見せられた対局カードを見ながら苦笑する。
「一応、今からでも認定受ける段位は変えられるんだけど。この大会がどう行われるかわかる?」
「えっと、五回対局するんですよね?」
「うん。基本的には同じ勝ち数の人同士で当たる様にしてるんだ。だからね、一つの勝星が大きく影響するんだよ」
「はい、そうですね」
「そうですね、じゃなくてね?」
ああ、とヒカルは天井を仰いだ。子供の冷やかしと思われているのだ。参加費が当日支払いなのが災いした。しかもそのことが微妙にあかりに伝わってない。
「あの、あかりは六段の腕は十分あるんで、大丈夫です」
そうヒカルが横から言っては見たものの、この身だって小学生、しかもあかりよりも頭一つ小さい。そんな子供が実力を保証したところで何の意味があるのかという話だ。
「うーん……今は何段なの?」
「いえ、認定は今回が初めてで」
「師匠は? どちらのプロに教わってるのかな?」
「い、いないです。碁会所で打ってました」
「……じゃあ、級から一つずつ上がっていったらどうかな? 自信あるならとりあえず三級くらいから、ね?」
親切心から言っているのだろうことはわかる。試験の参加費は高段の方が高額なのだ。棋院としてはできるだけ高段の受験者が多い方が微額とはいえ儲けになる。それを止めるのは、囲碁好きな子どもが大人にボコボコにされて碁を辞める、ということを防ぎたいのだろう。
どうしたものかな、とヒカルが腕を組んで悩んでいると、その背後から、
「どうされましたか?」
「あ、緒方先生。おはようございます」
振り返れば、見覚えのある白スーツがいた。事務員は頭を下げて緒方の質問に答える。
「いえ、この子たちが、今日の認定大会で六段を受験したいと。他の大会で実績がある訳でもなく、まだ時期尚早ではないかと、思いまして、せめて級位から順に受験すればいいのではと」
「でも、三級じゃお母さんもお父さんも説得できないの」
「説得?」
緒方が尋ねるとあかりがヒカルに小声で、
「この人誰?」
「緒方っていうプロの先生」
それを受けてあかりは納得したのか緒方に対して言葉を並べる。
「プロ試験受けるのには、両親の同意がいるんですよね? だから、合格できるくらい実力あるって言いたいから、いろんな大会に出るんです。なのに三級とかをもらってもあまり意味が……」
「ふむ……」
緒方は何事かを考えこんで、あかりとヒカルを見比べ、声をかけた。
「君たち、先月の子供囲碁大会を見学していた子だね?」
あかりは初対面の大人からの意表を突かれる質問にたじろぐ。そこでヒカルが前に出て、
「はい、見学に来ました」
「では、もしかしてそっちの女の子が、アキラ君と打ったという子かな?」
「あ、はい。え、でも何で」
何で分かったんですか? と聞こうと口を開くも、緒方のさらに後ろにいた若い女性職員が緒方を急かした。何か対局なり取材なりがあるのだろう。緒方は事務員へと顔を上げて、
「この子たち、ちょっと知っている子なんですよ。実力は十分あると思いますので希望通りに受験させてくださいませんか」
「え、あ、はい。わかりました」
「お願いします、では失礼」
それだけ告げて、颯爽と去っていく緒方の後ろ姿を眺める。呆気に取られていたあかりとヒカルがありがとうございます、と頭を下げた時には、緒方の後をついてきていた女性職員がその背中を慌てて追いかけていた。
事務室を出たところで、職員が緒方に声をかける。
「お知り合いですか? 今の子たち」
「直接はないですが、まあ。ところで、段位認定大会は何時まででしたっけ」
「えっと、夕方ですね。先程の、六段であれば5時半までかかりますね」
「余裕だな」
最後の言葉は、緒方の独り言だった。
◯⚫◯⚫◯⚫️
無事に受付を終え、大会の会場へと入る。先月子ども大会が催されたのと同じ場所だ。
段位ごとに分かれて座り、五段以上の認定では合わせて五回の対局を行う。それに勝ちこせば段位が得られる。
全勝である必要はない。
しかし全勝であれば、段位の免状を無料で得ることができるのだ。
当然あかりは全勝を狙っている。碁会所で得たカンパにも限度があるし、三谷を含めたお客さんたちが出してくれたカンパなのだ、無駄遣いはしたくない。
何より、ヒカルの前でかっこ悪い姿を見せたくないのだ。ヒカルを完璧に負かして見せる。そのためには、こんなところで負けてなどいられないのだ。
必勝の決意を胸に、碁盤の横に置かれた番号札を見て席に着く。
一局目の相手は、まるでカエルの様な顔をした、中村と名札をつけた高齢の男性だった。
鼻の頭が油でテカっていて、イボもあり、こちらを見てぐふふと笑う様はイボガエルそのものだ。
あかりは思わず視線を逸らす。
対局が始まれば集中できるが、それまでこのおじさんの粘っこい笑みを眺めるのは耐えられなかった。
しかし、カエルおじさん以外からの視線も自分に集まっていることにあかりは気付いた。周りは、自分以外は皆大人だった。向けられる視線は高段の受験者からのものが多く、ほとんどが非好意的なものだった。
こそこそと、小声で自分のことを噂されているのがわかる。
「初めて見る顔ですね」
「六段の認定って、ひょっとして院生ですかね」
「院生はアマの大会は出られませんよ」
「冷やかし?」
「まあいいじゃないですか。当たったら一勝儲けた、てことで」
直接罵倒されたわけではないが、ぐっ、とあかりは歯を食いしめた。膝の上に置いた両手を握りしめる。
視線を巡らせれば、ヒカルが部屋の隅に立っているのが見えた。ヒカルに向かって軽く手を振れば、ヒカルが同じ様に返してくれる。
深呼吸。
落ち着いた。
『時間になりましたので、一局目始めてください』
マイクでアナウンスが流れ、合わせて席につく参加者たちが、お願いします、揃って頭を下げる。
対局が始まれば、対局相手の気味が悪い笑い声など耳に入らなくなる。
碁石の並びと、そこに込められる意思だけを感知する、あかり独自の世界へと没入していく。
いつもなら、四面打ちであってもその世界に居座れるものだが、今回はその世界にヒビが入った。
あまりにもこちらを見縊った打ち方。
意地の悪い手ばかりを打ち、こちらが困る様を笑いながら眺めたい。そんな、小学校にもいたいじめっ子の様な思考が感じ取れる。これが小学生であれば、あかりはしょうがないなぁ、なんて思いながら流すのだが、今回はずっと年上のおじさんである。
余の気持ち悪さに集中が乱れて、つい緩手を打ってしまった。
指が離れてからそれに気づく。
しまった、と言う感情が顔に出た。右辺の応手はケイマではなく大ゲイマで応じるべきだった。
恐る恐る相手の顔を上目遣いで伺えば、カエルおじさんは腕を組んで唸っていた。
え、とあかりは思う。
これがヒカルであれば、ノータイムで咎めてくる様な場面だ。何を迷うことがある。
そんなことを考えていること自体が集中が欠けている証拠であるが、そんなあかりを他所にカエルおじさんはあかりのミスを咎めることなく、右辺を諦め右下へと手を広げていく。
何だそれは。
もしかして罠なのか。
何があるのか、自分には思いもしない戦略で逆転されるのではないか。
ビクビクと手を進めていくと、相手の手がどんどん遅くなる。あっという間に持ち時間を使い切り、焦りと屈辱で顔を真っ赤にしながら乱暴に碁石を打ち付けてくる。その全てをスルーして、あかりは罠の可能性に警戒したまま応じていく。
「……あ、ありません」
「え?」
結局。
罠なんて何もないまま、対局は中押しで終わってしまった。
◯⚫◯⚫◯⚫️
「緒方先生」
「どうしましたか」
王座戦の三次予選、御器曽プロとの対局を五目半の勝利で終え、緒方は上機嫌でエレベーターに、棋院の職員と一緒に乗り込んだ。
帰り際に、段位認定大会に寄ろうと思っていたのだが、予想以上に時間がかかってしまった。御器曽プロが無駄に時間をかけたからだ。あれで盤外戦のつもりだったのだろうかと一瞬思うも、それほど興味もなかったため、彼の思考は自身の持つ興味へとすぐに移っていった。
塔矢アキラと並ぶ実力を持つ小学生。その子を指導する、さらに年下の子ども。
興味が尽きない。
何より、自分の師である塔矢行洋もまた、息子と自分の話を聞いて興味を持っている。
「午前中はありがとうございました」
見れば、話しかけてきたのは朝方大会の受付をしていた職員だった。
「と言いますと?」
「いえ、先生が推してくれた女の子いたでしょう? あの子がまあ強かったわけですよ」
「ほう」
「私は所用で午前中の結果しか知らないのですがね、その時点で二連勝、しかもどちらも中押し勝ちでした。三級からなんてとてもとても」
「それはそれは」
その後どうなったかはわかりませんがね、と言っているところでエレベーターが止まった。開くボタンを押しながら降りて、職員と共に会場に向かう。その足が自然と急かされた。急がねば終わってしまうかもしれない。
会場に入れば、そこは常とは違う熱が籠もっていた。
認定大会は、四段以下は一局少ない四局で行われる。五段以上の認定大会とは同じ会場で行われるも、終了時刻は90分は早いのだ。それが終われば四段以下の参加者は皆先に帰るのが通例である。
が、この日は参加者全員が残っていた。
その全員が、一つの対局を囲っている。
なんとなくそうだろうな、と言う確信に近い予感をもって、緒方はその人だかりに近づいていく。
掲示を見れば、そこは四勝同士の受験者が対局する列の一角だ。
「……わ、緒方プロ」
「あ」
碁打ちの集まりだけあって、緒方を知らない者はこの場にはいなかった。ついとばかりに緒方の前から人が控え目にはけ、とりあえず緒方の立つ位置からも碁盤が見える様になった。
打っているのは、午前中に話をした少女だ。
その相手も、六段の認定を受けようと言うだけあり、緒方の目でも院生の上位、若獅子戦に出場できるレベルに達している中年の細身の男性だった。
その相手を圧倒している。
パチ、と碁石が軽やかに少女の手から放たれる。
四方を睨む、鮮やかな一手。
ごくり、と喉を鳴らす音がした。
集まった人だかりから音が消えた。
誰一人として身動ぎもしない。
たっぷり考えて10秒、対戦相手の男性が、小学生の少女に頭を下げた。
「ありません」
その日。
あかりは無事五連勝で六段の認定を受け。
棋院の職員の間で、とんでもない実力の小学生がいると言う噂が駆け回ったのだった。
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第17話 緒方
「……足りない」
「え?」
青い顔をしてそんなことを宣うヒカルに、あかりは間の抜けた返事しかできなかった。
「だから、その、お金がな、足りないんだ」
免状について、ヒカルは事務に手続きをしようと一人向かった、その帰り。一日対局しっぱなしで疲れているだろうからと手続き諸々を買って出てくれて、しかも自販機で甘いお汁粉を買ってもらった。あかりは事務室から見やすい場所で熱々の缶をすすりながら、ヒカルに頼もしさを感じつつ戻ってくるのを待っていた。
そこでこの発言である。
ヒカルは何を言っているんだろう、とあかりは思った。
お金が足りない? なんのために全勝で認定大会を終えたと思っているのか。
「な、ないってどう言うこと? 碁会所のおじさんたちにいっぱいカンパしてもらったじゃない。まさかヒカル、横領……」
「ちが、違うって。最初から免状の送料と参加費しか持ってきてなかったんだよ、あと電車賃」
「え、ちょっと待って。それ、私が一敗でもしてたらどうしてたの。何万円もかかるんでしょ」
「いや、あかりなら全勝するってわかってたし」
ヒカルの言葉のせいで、あかりの頬からふにゃっと力が抜けた。いかんいかん、と頰肉をこねて表情を戻す。
「えっと、ともかくお金は用意してるんだよね? なんで足りないの」
「そのな? 免状を送ってもらうには、日本棋院の会員にならないといけなくて、それには年会費? を払わないといけなくて」
「……いくら?」
えっと、と言いながらヒカルはポケットから紙を取り出した。
「あかりは中学生以下だから、ジュニア会員ってことで、千円」
「もう一円もないの?」
「ないわけじゃ、ないんだけど……これ払っちゃうと電車賃が足りなくなる、百円」
スッと、二人の目線があかりの持つお汁粉に集まった。
だから、お金貸してください、と。ヒカルは蚊の羽音のようなかすれる寸前の声で言った。
なんでもっと余裕をもってカンパ箱から持ってこないの、とか。任せろと言うからお金についてはヒカルに任せていたのに、とか。言いたいことはいろいろあるが、しょんぼりと落ち込むヒカルを見て気がそがれてしまった。
まぁ仕方ない。
ふぅ、と小さく息をつく。
ビクッと反応するヒカルを見て、その怯えた様子に心の奥から湧き上がる名状しがたいワクワクと背徳の入り混じった感情を強引に抑え込みながら、あかりはショルダーバッグから財布を取り出そうとして、その手が止まった。笑みが溢れる。
「あかり?」
「ご、ごめんヒカル。私、お財布忘れちゃってた」
もちろんバッグには二千円ほど入った財布が、ハンカチやティッシュ、加えてマグネット囲碁と一緒にキチッと詰められている。
「うん、忘れちゃったのはしょうがないね」
「え?」
「足りないものは足りないんだし、会費払って歩いて帰ろっか。しょうがないしょうがない」
「え、いやそれは、結構遠いしさ。電車賃も一人分なら足りるから、あかりだけでも電車でさ」
「は?」
「え?」
沈黙は一瞬のこと。崩れた表情をあかりは一瞬で立て直して、
「いいじゃない、二人で歩くのも気晴らしになるよ。六段認定のお祝いってことで」
「お祝いって言うならますますあかりを歩かせるわけには」
あかりは、ぷい、と顔を逸らして、
「いいの! 今日は歩きたい気分なの!」
「でも外もうすぐ暗くなるし、寒いしさ。勘違いしてた俺が悪いんだし」
こやつめ、とあかりはヒカルを横目で見る。
どうにもヒカルは、内罰的に過ぎるな、とあかりは思う。
否、内罰的と言うよりか、自分を罰する方法を探している、と言うか。
理由はなんでもよくて、とりあえず自分を辛い状況にもって行きたがる癖があるのだ。
それは普段の対局からも読み取れるヒカルの思考で、あえて複雑で読みにくい、自分にとっても利が少ない手を選ぶ傾向にある。
手加減をしている、と言うことではなく。まるで茨の道を歩むことを、自分に強いているような悲壮感が滲み出る手ばかりなのだ。
最近は特にそうだ。
自分の実力がヒカルに近づけば近づくほど、ヒカルからは切なくなるほどの悲しみが滲み出るのだ。
おそらくは『秀策さん』に起因する感情なのだろうけれど。
なんとかしなくてはならない。
そう思うも、一体どうすればいいのか、判然としないままひたすら対局を積み重ねる毎日なのだった。
「どうかしたのか、君たち」
押し問答になっているヒカルとあかりの頭上から、大人の声が降りかかってきた。
振り向けば、彼がピシっと着こなしている白いスーツがまず目に入った。スッとした顔貌にメガネを乗せて、見る相手によっては冷たい印象を相手に与えるたたずまいだ。
軽く事情を説明(と言うほどでもない、金がないから帰れないと言うだけのことである)すると、緒方はふむ、と顎をなで、
「じゃあ俺の車で送ってやろう。少し狭いが、子供の君たちなら乗れなくはない」
そんな申し出にヒカルは一も二もなく頷いてしまった。あかりはむぅぅと膨れっ面である。
それでも客観的にはありがたい申し出であることには変わりないので、仕方なく、いやいや、渋々、あかりは不満を顔に出さずに緒方にお礼を言った。
「礼には及ばんよ。代わりに、君たちにちょっとお願いがあるんだ」
「お願い、ですか?」
あかりが首を傾げて問うと、緒方はもったいぶった口調で告げる。
「塔矢名人が君たちに興味を持ってね」
緒方に先導されて駐車場に向かえば、そこには真っ赤なスポーツカーがデデンと鎮座していた。リアにはRX–7の文字が刻まれている。日本棋院の雰囲気にあまりにもそぐわない。母親が運転する軽との迫力の違いに、あかりは何かコメントするべきなのかと迷い、
「赤なんですね」
「ん?」
「車」
「好きな色なんだよ」
じゃあなんでスーツは白いんだろう、とあかりは思った。紅白饅頭かな。
後部座席は圧倒的に狭かった。ファミリー用ではないのだから当然だろうと言わんばかりの気遣いのなさである。あかりはヒカルと一緒に後ろの席に乗ろうと思っていたが、そのスペースのなさから小柄なヒカルだけを後部座席に押し込み、あかりを助手席に座らせることになった。
シートベルトを締め、アクセルが踏まれる。駐車場から出て左折したところであかりが口を開いた。
「私が、塔矢名人と打てばいいんですね?」
「ん? ああ。君だけではなく、後ろの彼にもお願いしたいところだがね」
「え」
「君たち、名前は?」
戸惑いながらも二人は名乗り、
「あの、なぜヒカルもなんですか? 今日大会に出たのは私だけですよ?」
「ああ、俺が見ることができたのは最後の一局だけだったが、見事なものだったよ。あれが藤崎さんの実力だと言うならプロ試験も十分に合格圏内だろう」
「はぁ、ありがとうございます」
「そんな藤崎さんに指導しているのが進藤君なんだろう?」
ちらり、と流し目でヒカルを見やる緒方の視線に、ヒカルはびくりと背筋を震わせた。
「な、なんで、ですか?」
「子ども大会でのやりとりを聞いていてね。アキラ君は藤崎さんに注目しているようだが、俺からすれば進藤君、君の方が興味深い」
ニヤリと笑う緒方の目は、如実にこちらへの執着を語っている。逃さんからな、と語るそれは猛禽類の眼光である。
まさかあれを緒方に見られていたとは。観客席にいたのに、なぜプロの彼がこちらを気にするのだろう。
「実はアキラ君は、今日の認定大会に参加するつもりだったんだ」
「えぇ? 塔矢が?」
「な、なんのためですか? 塔矢君って今年にでもプロ試験受けられるんですよね?」
驚く二人の声を聞き、ふ、と緒方は笑った。なんのため、か。
そんなもの、一つしかあり得ない。
「もちろん君と打つためさ」
「え、怖い」
あかりはシンプルに引いた。
だよなぁ、と緒方はため息をつく。
「まあそう言ってやらないでくれ。アキラ君にとって、自分と対等に打てる相手と言うのは貴重なんだ。今回は流石に俺と先生とで止めたがな。アキラ君がアマの段位を取る意味はないし、他の参加者の成績に影響が出る。君たちが何段を受けるのかもわからない状態でどうやって申し込むつもりだ、と言ったら不服そうに取り下げてくれたよ」
緒方は苦笑して、
「そうは言っても無断で受けにくる可能性も考えて、受付を軽く張っていたわけだ、対局の予定もあったしな。加えて、実際どの程度のものか直接この目で見ておこう、と言うのもあった」
「またそんなストーカーみたいな」
「ストーカー? なんだそれは。別にアキラ君みたいにつけ回していたわけじゃないぞ、一階の喫茶店で、対局前にコーヒーをゆったり飲んでいただけだ。君たちやアキラ君が来たら声をかけられるようにな」
塔矢一門はこんなんばっかか、とヒカルはかつての塔矢の剣幕をフラッシュバックさせた。
目の前で信号が赤になった。ゆっくりと車が停止する。まだ6時になったばかりだというのに、辺りは薄暗く、信号の赤色が無闇に目についた。サイドブレーキを上げ、緒方が口を開く。
「そこで、君たちが受付で揉めているのが目に入ったわけだ」
「あー、そんな感じだったんですね。今日はありがとうございました、何度もお世話になって」
あかりが頭を下げる。いいさ、と緒方は笑い、信号が青に変わったのを確認して車を発進させた。
「その代わりにこうして、こちらのお願いを聞いて貰ってるわけだからな」
そのまま都内を走り、風景がヒカルにも見覚えのあるものになってきた。
着いたぞ、と近場の有料駐車場に車をとめ、緒方の後を着いていけば、そこは当然と言うべきか、塔矢名人の経営する碁会所だった。
3人で階段を昇り、自動扉から中に入れば、そこには着物を着た壮年の男性が客相手に指導をしていた。巌のような無表情のままに碁石を並べるその様はそれだけでただものではない圧力をあかりに叩きつけた。
それはあかりの持つ感受性の高さがそうさせたのかもしれない。
雑誌やテレビ越しでは決して伝わらない、本物を目の前にしたからこそ感じ取れるオーラとでも言うべきものを正面から受けて、あかりは一歩後ずさった。
「どうしたかね緒方君」
男性、塔矢行洋が、入店した緒方を一瞥し尋ねた。
「棋院で縁ができまして、アキラ君が気にしている子たちを連れてきました」
「……無理やりではないだろうね?」
「はは、もちろんです。電車賃がないとのことで、車で送ってあげる代わりに、と言うことで」
「ふむ」
名人は指導を区切りのいいところで切り上げ、ヒカルとあかりの二人を正面から見据えた。
「君たち、名前は?」
「ふ、藤崎です」
「進藤です」
「アキラと互角に打った少女というのは君かね、藤崎君」
声を荒げているわけではない。むしろ静かで落ち着いた声音だ。それなのに重々しく、有無を言わせぬ迫力がある。カクカク、とコマ送りのようにあかりは頷いた。
「君とアキラの対局は見させてもらった。その年で、素晴らしい実力だと言える」
「先生、今日の認定大会でも、六段を全勝で獲得しました」
「そうか。もしかしたら島野君といい勝負をするかもしれないな」
それにしても、と名人はヒカルに目を向ける。
「それだけの腕を持つ子どもを育てたのもまた子ども、というのはにわかには信じがたい」
塔矢行洋が、近場の碁盤の席を引いた。
「座りたまえ、君の実力が知りたい」
その言葉はどこまでもまっすぐに、青い顔で立ちすくむヒカルへと向けられていた。
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第18話 前進
真っ直ぐに自分を射抜く視線を受け、ヒカルは身じろぎもできずに立ちすくんだ。
どうしたのか、と行洋と緒方が怪訝そうな目を向ける。それらを受けてヒカルは、その顔を土気色に染めながら、笑った。
溜め込んで、今まで必死に堰き止めていた感情が、行洋を見た途端に溢れ出した。
「進藤くん?」
「俺、は」
行洋の言葉に返事をしようとするも、のどがいつの間にかカラカラに乾いていてまともに声が出なかった。
塔矢行洋は、今のヒカルにとって特別な存在だった。
なぜなら彼は佐為が最も執着した人だから。
塔矢行洋を一目見た時からずっとあいつは塔矢名人と打ちたいと訴え続けていた。
塔矢アキラでもない、桑原本因坊でもない。塔矢行洋だ。塔矢行洋こそが佐為の執念の到達点であり、自分の罪の象徴だ。
真っ青な顔色のままで笑みが深まる。
自嘲の笑みだった。
こうして行洋を目の前にすればまざまざと自分の罪深さが自覚できる。
だって自分は、この期に及んで『碁を打ちたい』などと望んでいるのだ。
碁を打ちたい。
自分がこの数年間積み上げてきた定石と戦略を、現代最強の棋士にぶつけてみたい。
あかりを相手にするときとは違う、全力を出し尽くす、ひりつくような真剣勝負を。
そんな自分の愚かしさにヒカルの顔にはつい笑みが浮かんだ。
一体何様のつもりだ。
まさか佐為を差し置いて、塔矢行洋と直に対局するつもりか。
ネット越しの対局しかさせられなかったくせに。
対局するチャンスを幾度も棒に振らせたくせに。
「俺は、碁を打ちません」
「何故だね」
ヒカルはむずがる乳児のように首を振り、思う。
まだ足りない。
苦しみが胸を締めつける。
でもこれじゃあ足りないんだ。
この苦しみをもっと与えて欲しい。
碁を前にして我慢しなければいけない苦痛と、あの塔矢行洋との対局を断る苦悩。
この苦しみの果てにきっと贖罪はあるはずだから。それを思えば笑みも深まろうと言うものだ。
ヒカルは自身の思考に浸り、そこに緒方が焦りを露わに口を挟む。
「しかし君、そちらの藤崎さんに指導していただろう? 碁を打たないとはどう言うことだ? 体調が悪いということならまた別の日にでも」
「打ちたくないんです」
佐為。
佐為、見ているか。見てくれているか。
断ったよ。あの塔矢行洋との対局の誘いを、はっきり断った。
今度の笑みは、喜びの発露だった。
罪を償って、お前が許してくれたなら、また出てきてくれるよな?
苦しめば苦しむほど、佐為と再会できる可能性が上がるはずだから。
佐為。佐為。佐為。
頼むから、お願いだからそうだと言ってくれ。
俺が罪を償い終えるのを待っているんだって、そうしたらまたお前と打つことができるんだって。
それともまだ足りないか? もっと罰を受けないとダメか? あの塔矢名人との対局を断った、それでもまだ足りない? そうに違いない。きっとまだ佐為は俺を怒ってるんだ。だから出てきてくれないんだ。足りないって。もっと罰を受けろって。足りない。足りない。もっと罰を、もっと苦しみを。
「ヒカル?」
「あか、り」
意識が飛んでいた。気づけばいつの間にかあかりがヒカルの俯いた顔を屈むようにして覗いていて、彼の視界を塞いでいた。
「大丈夫? 顔色悪いよ?」
「あ、ああ。平気」
「ねえ」
あかりはヒカルの両肩に手を添えた。
「本当に、打ちたくないの?」
あかりの表情は不安げで、でもその一方でヒカルの内面を覗き込むその鋭い眼光に、ヒカルは思わずたじろいだ。
まるでこちらを見透かしてくるような瞳。
この視線には見覚えがある。
前回の人生で、名人との2度目の対局の時だ。
新初段シリーズ。あの時は佐為に打たせて、十五目のハンデを自ら背負っての、不完全燃焼な対局で。誰にとっても後悔しか残らない一局だったし、誰の目から見ても不満の残るものだった。
そんな一局を終えた直後、名人だけが佐為の意図を見抜いてくれた。
あの眼差しと、あかりがこちらを見つめるそれは、とてもよく似ていた。
見抜かれる。漠然とそんな不安を覚えた。
まさか、とヒカルは思い至る。まさかもう自分の中にある佐為のことまで見抜いているんだろうかと。
元々あかりはこう言ったことに非常に目敏い。嘘やこちらが隠した本心、初対面の相手がどんな性格かを見抜く術に長けていることは、この数年でわかっている。
かつての塔矢名人と同じように、自分との対局を通して佐為の存在を認識しているのかもしれない。
一瞬、全てをぶちまけてやろうか、そんな衝動がヒカルの中に湧き上がった。
逆行のことも、佐為のことも、佐為に対して自分がやらかした仕打ちも。
今までアレルギーだなんだと嘘ついてきたことも、全て。
それができたらどれだけ楽になるだろうと思う。
もちろん、そんなことできるわけないけれど。
そもそも信じてもらえないだろうし、仮に信じてもらえても、嘘をついていたとあかりに知られたら、きっと嫌われてしまうから。
「……打たない」
ヘラりとした笑い顔のまま、心を閉ざすように視線を足元に落として、血が出るほどに両手を握りしめてヒカルは答えた。
沈黙が降りる。二人のただならない雰囲気に、緒方と行洋のみならず先まで行洋の指導を受けていた高齢の客達も、一体何事かと二人の小学生に注視していた。うち何人かはあかりを見て以前アキラと対局した女の子だと気づくも空気を読んで沈黙を守った。
本当は打ちたいんじゃないのか、と問いかけるあかりの視線にヒカルは心を閉ざして沈黙を守った。
5秒ほどの攻防を経て、あかりが一言、
「そっか」
それだけを告げてあかりはヒカルの肩を解放した。
行洋に背を向ける形でヒカルと向き合っていたあかりは、ヒカルの肩を解放して緒方へと向き直った。
「緒方先生、送ってもらったのに悪いんですけど、ヒカルはちょっと体調が悪いみたいで」
「あ、ああ。まあ先生だって無理にとは言わない。多忙ではあるが日程を合わせて」
「なので私が代わりに打ちます」
キッ、と鋭い目つきで緒方を見上げ、ついで和服の袖の中で腕を組む行洋を見つめた。それで勘弁してくれませんかと。ヒカルは見逃してくれませんかという意思を込めて。
緒方は判断に困り、あかりと行洋を交互に見やる。行洋は巌の如き表情を変えぬまま頷いた。
「よかろう。君とて興味深い打ち手だ。座りたまえ。進藤くんはどうするかね? 横になりたいなら向こうにソファがあるし、なんなら先に君だけでも緒方くんにご自宅まで送らせるが」
「……いえ、俺もここで見ていきます」
席に着く。向かい合えば、その背筋の伸びや頬に刻まれた皺などからそこらへんのおじさんとは一線を画す存在であることがわかる。
「石を3つ並べたまえ」
「3つ、ですか? たったの」
「アキラとはいつもそれで打っている」
む、としてあかりはこここんと黒石を三つ碁盤に並べた。
「お願いします」
「うむ……いくぞ」
バチッと白石が行洋の手から打たれた。
びくりとあかりの背筋が伸びる。
碁石を持たないヒカルとの対局では味わえない、気迫とでも呼ぶべきものを感じ取って、あかりはまるで行洋の指先が光っているかのように見えた。
気圧されるな。
塔矢行洋がすごい人だなんて、前から知っていたじゃないか。
行洋の手に答えるようにあかりもパチリと黒石を打つ。
それに間髪入れずに行洋が打つ。
凄まじい気迫。
これが塔矢行洋。神の一手に一番近い人。
碁の勉強をするうちに、図書館や碁会所で囲碁雑誌に載せられたいくつもの塔矢行洋の棋譜を見た。
ヒカルや秀策さんとは違った強さ。繊細さと力強さを両立させた打ち筋。何より驚くのはその読みの深さ。相手の思惑を読み切った上でその流れに乗り、しかし繊細な筋で流れを少しずつ変えていき、気づけば流れを完全に自分のものに変える。そして急所を見極めれば洪水のような圧倒的な力強さでねじ伏せる。流水のような気風の持ち主だ。
相手の石から意思や思惑を敏感に感じ取る力がなければ成立しない打ち筋。
その壁はあまりに高い。自分は今、ヒカル相手に二子でいい勝負するようになってきて、もうじき石を置かずに打つことになろうかというレベルまで来ている。そんな自分でも塔矢名人を相手にすれば、たった三つの置き石がとても心細く思える。
いや、とあかりは内心で首を振る。
心細いのは相手が塔矢名人だからというだけじゃない。
その最大の理由は、ヒカルのあの目の意味を理解したことだ。
以前ヒカルがアキラに向けていた、悲しみと焦りと後悔をない混ぜにしたような瞳。
その時はわからなかったけれど、今じっと正面からあの瞳を見つめることができたおかげで大まかにだが理解できた。
ヒカルの中にあるのは罪悪感だ。
秀策さんに対してヒカルが罪悪感を覚えていることは感じていた。その秀策さんへの感情をアキラくんや塔矢名人を通して思い出しているのだ。
そうか、とあかりは思う。
だからヒカルはあんなにも内罰的なのだ。自分が悪いことをしたと思っていて、ずっと自分を罰しているのだ。碁を打たないのも、打てることを秘密にしているのもそう。
そして、私と距離を開けようとしていることも。
多分秀策さんに何か悪いことをしてしまって、そんな自分が許せなくて罰を与えているんだと思う。
碁だけじゃなかった。ヒカルに碁を教えたのだけじゃなくて、あの不思議な瞳も、内罰的なのも、みんな秀策さんだった。
私が本当に戦うべきはアキラくんではなかった。塔矢行洋でもなかった。秀策さんなんだ。
対局が進む。
三子の貯金はあっという間に尽きて、対局も折り返しというところでジリジリと陣地が削られていく。それになんとか抗おうと守りを固めるも、一部を厚くしすぎて手が回らなかったり。
わからない。
どうすればいいの?
どうすればヒカルは私を見てくれるの? 頑張りが足りないの? ヒカルと打つ以外にもいっぱい碁の勉強してるよ?
敵はあまりにも強大だ。しかも勝ち筋がまるで見えてこない。
それに、気づいてるよヒカル。もしかしたらってレベルだったけど、最近のヒカルの碁からなんとなくわかる。今日だって帰りを別々にしようとしてた。
私が碁のプロになるのを応援してくれているの、本当は私と離れるためだってこと。
だったら私は、なんのために碁を打っているんだろう。
「よそ見かね」
あかりは顔を上げた。
「友人の体調が気がかりなのはわかるが……それだけじゃない、君は何を気にしているのかね」
「は、いえそれは……」
「悩みがあるようだが」
そこまで見抜かれたか、とあかりは恥ずかしくて俯いてしまった。
「棋風やどう打つべきかを悩むのなら、まず課題を事前に決めて検討したい打ち筋を設定しておき……つまり、打たなければ始まらないということだ。悩みとは循環論法になってしまうが、碁に関する悩みは実力を付ければ解決するものだ」
「……はい」
行洋は気遣わしげに眉を下げて、
「集中できないようならここで打ち切りにしてもいいが」
「いえ」
あかりは顔を上げた。
「すみませんでした。最後まで打たせてください」
ピシッと、あかりが一際高い音を立てて石を置いた。
雰囲気が変わったあかりに行洋は満足げな表情で頷き、あかりの手に答えた。
そうだった、とあかりは思う。
結局自分は前に進むしかないのだ。
碁盤を見る。集中できていなかったなんてなんの言い訳にもならない、惨憺たる有様だった。
勝ち筋なんかまるで見えなくて、その上相手はとんでもない強敵で。
それでも、私は前に進まないといけないのだ。
一月末に人生左右するレベルの試験があったのですが見事に失敗して留年リーチやばいけど現実逃避で投稿します。
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第19話 勧誘
「ここまでだな。目算はできているかね」
「……はい」
対局が終わった。当然のようにあかりの敗北である。
三子置かせてもらって最終的に12目差がついてしまった。
悔が残る一局だった。
集中が欠け、後半から挽回を図るも序盤で崩れた布石が足を引っ張る。我ながらどうしてこんなところに石を置いたのかと首を傾げるところが多々あり、なんとかヒカルの真似をしてそれらを利用しようと嵌め手じみたことを試みるも塔矢行洋の読みの前には敢えなく見透かされ、結局ジリジリと差を広げられて終局となった。
勝てたとは言わない。だけど、とあかりは目尻を拭う。
もっと良い碁を打てるはずだった。
せめてもう一局打たせてもらえないか、そんなことが頭によぎるも相手は多忙な現役トップのプロである、とてもそれは望めないだろう。こんな恥ずかしい碁を打ってしまって、自分に指導してくれたヒカルの顔にも泥を塗ることになってしまう。それが何より悔しかった。
「序盤については自分でもわかっているだろう」
「……はい」
「だが中盤以降は私の攻めによく耐えた。例えばここの石の厚みを活かして攻めに転じようとする姿勢も良かった。そのためにこちらは深く荒らそうにも警戒を深めなければならなかった」
パチパチと行洋が手を並べ直す。
「特にここは良くサバいた。このシノギの一手でこちらは黒を切断できなくなった、結果右辺は白が若干損をした形になったな」
「ただそこで地をこだわりすぎた結果右下の手入れが遅れました」
「そうだな。だが手を抜くわけにもいくまい。せめて中央まで戦場を広げてマギレを求めるのがせいぜいだろう」
一通り検討が終わり、ありがとうございましたと頭を下げてあかりは石を片付ける。あかりの頭頂部を眺めながら腕を組み何事かを考えていた。その視線に気づいたあかりが顔を上げて、
「あの?」
「藤崎くんは、碁の勉強は普段どうしているのかね? 進藤くんの指導を受けていると緒方くんから聞いたが」
「えっと」
どうしよう、とあかりは戸惑った。普段であれば秀策大好きアピールしとけば納得してもらえるのだが、すでにヒカルとのやりとりがバレてしまっているのだ。
どうしよう、とあかりはヒカルを振り返れば、ヒカルにちょいちょいと手招きされた。
「ヒカル、ど、どうしようか」
ヒカルは断固たる口調で、
「なんとしても誤魔化さないとダメだ。俺が指導してるって緒方さんにバレたら全力で追い詰めてくるぞあの人」
「そうなの? 緒方先生って親切なおじさんじゃない、そんなこと言っちゃダメだよ」
お前こそおじさんって言ってやるなよ、とさらに小声でヒカルはあかりを諌めた。
うーむ、と唸る。
緒方のしつこさや強引さは前回の人生で何度か味わった。特にsai関連の話題ではなんでそこまでという剣幕で詰め寄られたことがあって、ヒカルからすればあれはちょっとしたトラウマであり緒方への苦手意識が植え付けられた一件であった。
「まだ緒方さんだって確信持ってるわけじゃないだろ多分。マグネット碁挟んで話してるところを見ただけで指導してるなんて。つっても俺が碁を打てるってところはバレてるから、まあ二人で練習してる感じで」
しょうがないか、とヒカルが行洋へと声をかける。
「さっきは言い損ねましたけど、別に、俺があかりを指導しているわけじゃないです。対局して、検討して、棋譜を一緒に並べたりくらいで。あとは碁会所に一緒に行ったりとか」
「ふむ……他にプロから指導を受けたりはしていないのかね? 弟子入りしてなくとも家に呼んだりだとか」
「……ないですね。じいちゃんが碁が得意なので教わりましたがそれくらいです」
ヒカルの言葉を聞いて行洋は再び考え込み、そして一言。
「ならば、うちの研究会に来ないか」
ヒカルのみならずあかりも、緒方も揃って「えッ」という顔をした。
研究会への勧誘、つまりは塔矢門下に入らないかという誘いである。
行洋からすればもちろん未来を担う若者を正しく導きたいという想いもある。自分と同じ手の読み方、共感性とでも言うべきそれを持つ少女をもっとも適切に指導できるプロは自分だろうという考えもある。似通った理論を持ち、かつ碁の道に迷う少女を導きたいと願った。
が、それと同じくらい自分の息子を思っての提案だった。
このままではアキラの暴走が止まらないだろうと。今日だって本当は認定戦に出たかったと言い、未成年なら女流の大会にも出られないかなと言い。
それならと、行洋はその目当ての少女を研究会に誘ったのだ。
もちろんその提案はあかりにとってもメリットの大きい、win-winなものだ。
研究会に参加すれば塔矢名人をはじめとした多くのプロと対局する機会が得られる。彼らの検討を横で聞くだけで勉強になるだろう。
それに先輩プロ棋士と交流を持っていれば何か仕事を多く振ってもらえるかもしれない。ヒカルを監禁するための費用を作るためにプロを目指すあかりにとって仕事を斡旋してもらえるか否かはとても重要なポイントである。
さらに緒方が笑みを浮かべて提案をしてきた。それはいい考えですね、と。
「先生、藤崎くんはご両親が碁の業界に関して全く知識がないそうで、プロ試験を受ける説得もできないと。つまり碁のプロに指導を受けている、というのはご両親を説得する大きな材料になるでしょう。なあ藤崎くん?」
それもごもっともだ。
でもなぁ、とあかりは眉を寄せた。
秘密にしているとはいえ、あかりは自分のことをヒカルの弟子だと自認している。塔矢名人の言葉に頷いてしまえばそれはヒカルへの裏切りになるのではないだろうか。
ヒカルと二人で碁を打つ時間を失うだろうことも、塔矢門下に入ることで生じる大きなデメリットである。
どうしようか、とあかりがうんうん唸っているとヒカルがこんなことを言ってのける。
「いいじゃないかあかり、参加させて貰えば」
また此奴は。
そうやって私をさりげなく遠ざけようとしよる。
しかしそこに、さらに緒方が続けて、
「進藤くんもどうかな、参加しては」
え、とヒカルは目を見開いた。うわこっち来た、と小さくつぶやいたのがあかりにも聞こえた。
緒方の目には絶対に逃がさんという強い意志が浮かんでいるのが見える。それにヒカルも気づいたようで、声に若干の怯えを滲ませながら、
「お、俺が参加しても何もできませんよ」
「そんなことはないだろう」
行洋が間髪入れずに答える。
「藤崎くんの実力は十分に伝わった。その彼女と対等以上に碁を打てる進藤くんも相応の実力があることはわかる。子供二人で高めあったと言うのが信じられないほどに」
「いえ、あかりが自主的に頑張って強くなったからで、俺のしたことなんてほんと横から口出ししていただけで全然」
恐縮しているように塔矢名人の提案を断ろうとするが、しかしはた、とヒカルは何かに気づいたように言葉を止める。
「あの」
ヒカルが伺うように上目遣いで尋ねる。
「俺、参加しても碁石に触れません。ただ門下の皆さんが対局しているのを横から見ているだけになります。それでもよければ」
「触れない?」
碁石アレルギーなんです、と言って通用するとはあかりには思えない。ここで緒方から一言碁石に触ってみろと言われれば終わりだ。そのことにヒカルも気づいたのだろう、一瞬口籠ってしまうもそれでもヒカルは強引に、
「碁石アレルギーだからです」
はあ、とあかりの口からため息が漏れた。
相変わらず自分を苦しい環境に置きたがるのね、と。
塔矢名人や緒方先生などの対局を目の前で見せつけられてそれでも碁を打てないと言う状況に自ら置こうとしている。
本当は碁が大好きなくせに。打ちたくてたまらないくせに。そうやって秀策さんへの罪悪感を刺激する環境に身を置きながら碁を我慢しなければならないと言う塔矢名人の研究会は、まさにヒカルが望んだシチュエーションなのだろう。
ぐ、とあかりは拳を握る。
あかりの根っこにある感情は独占欲だ。
ヒカルを独占したい。ヒカルの中にいる秀策さんを消し去ってしまいたい。
でもそれ以上に、私はヒカルに苦しんでほしくないのだ。
前に進むべき、と塔矢名人は言う。
碁が強くなれば解消されることも多いと。
そうだ、今考えるべきは大金を得る手段を手に入れることだ。
なんのために碁を打つのか、なんてふわふわした悩みなんか抱いている場合ではない。
碁が強くなって、できるだけ早くプロになってお金を稼ぐのだ。
そうしてヒカルを閉じ込めて、ヒカルの身の回りから罪悪感を思い出させるものを一切取り除いてしまえばいい。自分から辛い環境に身を置こうとするヒカルを救うのだ。
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第20話 決裂
「今日はありがとうございました」
真っ赤なスポーツカーの後部座席に詰め込まれ、二人はヒカルの自宅へと送られた。
「研究会は毎週土曜日の午後1時からだ。あと、アキラは基本的に学校が終われば碁会所にいるだろうから、時間があれば会ってやってくれ」
「はい、わかりました」
窓を閉め、二人を置いて車が走り出す。低くエンジン音が響く車内で緒方が口を開いた。
「正直意外でした」
「何がかね?」
「あの二人を研究会に誘ったことです」
緒方は右にウインカーを立てる。視線を右に向けながら、
「今日の藤崎の一局は粗が目立ちましたし、進藤に至っては対局もしていません。二人ともを誘う理由が私には……」
私は誘おうとは思ってましたが、と緒方は言う。
「藤崎くんは問題ない。先の対局こそ集中できていなかったようだが、終盤での粘りは大したものだったよ。私の攻めを凌いで終局まで至ったのだから、守りについてはなかなかだ。上手相手との対局に慣れているようだった」
上手。それがおそらく進藤と名乗った少年であることはなんとなくだが想像できる。
「まあ、そうですね。それに今日彼女は認定大会で五局も打ったあとですし。後ほど私が見た棋譜を並べましょうか」
「ああ頼むよ」
沈黙。先の信号が黄色から赤に変わる。静かにブレーキが踏み込まれ、二人がのる車は穏やかに減速する。
「しかし進藤はなぜ? 先生との対局も断って実力も不明瞭、やる気もあるのか分からないではないですか」
「やる気?」
「碁石アレルギーなどと訳のわからない嘘で碁は打たない、研究会はただ見てるだけなら参加する? 参加したくないならそう言えばいい。プラスチックもガラスもマグネットも碁石に限り駄目って、そんなアレルギーがありますか。幼稚園児でももう少しマシな嘘つきますよ」
「確かに打たない言い訳にしてはお粗末すぎるな」
ふ、と行洋は笑った。
「まあ精神的なトラウマで碁石に触れないという可能性もなくはないな」
「はは、それなら打つ場所を指で示すなり口で言うなりすればいいではないですか」
笑い、緒方がガチャガチャとサイドブレーキを下げる。アクセルが踏まれ、静かに加速する背もたれに身を任せながら行洋が、
「まあ彼自身あんな言い訳でこちらを騙せているとは思っていないだろうが、やる気はあるようだったよ」
「はぁ……?」
「進藤くんは碁を打てないように振る舞ってはいるが、本人は対局を渇望していることがその目つきから見て取れた。友人である藤崎くんが対局する間も凄まじい集中力で盤面を見ていたよ。言葉にできない、空気というか気迫は隠しきれていなかった」
気づいていたかね? と尋ねられ緒方は、はぁ、と自分の師に対して気の無い返事をしてしまう。自分にはそうは見えなかったが、あの塔矢行洋が言うのであればそうなのだろう。
「ではなぜ彼はあのような稚拙な嘘を?」
「打たない、というより打ってはいけないと考えているのではないかね。必死に我慢しているような、そんな目だった」
行洋は腕を組み、
「何か理由があって打ってはいけないと思っているのだ。自分にそんな資格はないと。私にも経験はあるよ。先輩棋士に大敗して自分に碁の才能などない、こんな不出来な人間が棋士を名乗るなど烏滸がましいのではないかと悩んだ時期が」
「先生が、ですか?」
彼の悩みはそれとは違うだろうが、と行洋は前置きして、
「よほどのことがあったのだろうが、それでも碁から離れることも、忘れて生きる決断もできない。本当に打ってはならないのなら藤崎くんとも打たずにいれば良い。それができず、なんらかの言い訳で自分が碁に関わることを正当化するのは、結局未練があるのだ」
かつての私と同じように、と行洋は思う。否、自分だけではないし、囲碁棋士に限った話でもない。道を極めんとする者は須く壁にぶつかる。挫折もする。そこからどれだけ早く立ち直れるかが才能の有無の境界である、と行洋は考えている。
「先も言ったが、打たねば解決しないのだ。どこを探したって答えは自分の中にしかない。その点で碁打ちは恵まれている。打てば、自分の中に答えを見出すことができるのだから」
逆に、と行洋は続ける。
「逆に、打たないと言い続ける限り彼の悩みが解決することはないのだがね」
ふぅ、と行洋はため息を吐いた。
「だからこそ彼は打つことになる。解決したいと彼自身が願っているのだから」
そういうものですかね、と緒方は微妙な表情で頷いた。
ただいまー、とあかりが玄関扉を開いた時にはちょうど藤崎家は夕飯時だった。
「おかえりあかり、手を洗ってきなさいすぐ夕食だから」
「はーいっ」
洗面所を経由して食卓に入れば、すでに父と姉が味噌汁とおかずになるトンカツをテーブルに並べていた。ただいま、と二人に声をかけてからすぐにキッチンに向かい米をつがれていた茶碗をお盆に乗せて持っていく。
いただきます、と口に箸を運んでいると1週間ぶりに顔を合わせた父があかりに声をかけた。
「あかり、楽しそうだけど何かいいことあったか?」
ウキウキした雰囲気が出ていたのか、それとも単に娘に話しかける話題に困ったからか、父は当たり障りのない話題で年頃の娘との会話を試みた。
「んー? うん、実はね?」
あかりは両親に今後について報告をすることにした。
「囲碁のイベントに出て優勝したの。そこで碁の先生とお話できてね、先生がやってる碁の教室に来ないかって誘われたの」
「……碁? って、あの黒白の石を並べるあれか?」
「うんそれ」
姉が目を見開いて、
「あんた囲碁なんてやってたの? 今日はヒカルくんと遊びに行くって言ってたじゃない」
「だからヒカルと碁のイベントに行ったの。と言ってもヒカルは見てるだけだけど」
「まあ、ヒカルくんは碁とか将棋って感じじゃないわよね。いつも数字の5って描いてるシャツ着てるけど」
母が味噌汁のお椀から口を離して、
「というかあかり、優勝したの? 子供の大会?」
「ううん、大人も出る大会だよ。来週くらいに大会の人から賞状送られてくると思う」
「へぇえ、あかりが碁をやってたなんて知らなかったわ」
「ん? あかり、みんなに秘密にしてたのか? 優勝するってことは結構やってるんだろ?」
どのくらいの規模の大会か知らないけど、と父の問いかけにあかりは頷く。
「今まであんまり人に言ってなかったの。でもこれからちょっと本気でやろうかなって」
「中学校から囲碁部でも入るの?」
姉の問いかけにあかりは首を振って、
「プロになりたい」
キョトン、とあかり以外の三人が箸を止めた。
母が、
「プロって、碁のプロ? 碁にプロってあるの?」
「あるよー。だから、今日プロの先生がプロになるために研究会に来ないかって言ってくれたの。と言うか前に言ったじゃない」
「何を?」
「碁のプロになりたいって。電話で。覚えてないの?」
あー、と母は記憶を掘り返した。そういえば進藤さん家から電話してきたことがあったな、と。
と言うかプロ? あまりにも現実感がない、小学生相手に何を言っているのだろうそのプロの先生とやらは。
まあ、大会でいい成績をとった小学生相手にやる気を出させるためにお世辞を言ったのだろうと母は納得した。
「学校の囲碁部じゃダメなの? 葉瀬中にあるんでしょう?」
あるよ、部員一人しかいないけど、とは姉の談。
「それでも大会には出れるんでしょう? わざわざプロの、研究会? てのに行かないでも、学校の先輩に教わればいいじゃない」
と言うか、お世辞を真に受けてプロの先生とやらの家に突撃されたらたまらない。
しかしあかりは大層不満そうに唇を尖らせて、
「プロと学校の先輩じゃ全然違うもん」
「でも月謝とかかかるんでしょう? 月いくらくらいなの?」
「お金はかからないよ、塾とか習い事と違うから」
ますます胡散臭い。
「週に一回、土曜日だけだから。お願い!」
そう言って両手を合わせておねだりしてくるあかりを見ながら、母は夫と目線を交わす。
「……まあ、いいんじゃないか?」
「あなた」
「土曜日だけだろ? 部活に入るよりむしろ時間は使えるだろ」
「そうだけど、普段からヒカルくんと遊んでばかりなのよ?」
母の言葉にあかりが口を挟む。
「ヒカルとは一緒に勉強もしてるもん。宿題だって忘れたことないし」
「でもねえ」
母親としては碁やら将棋やらの趣味に時間を費やすくらいなら学習塾にでも行ってほしいと言うのが本音だ。
「いきなりプロって言われてもねえ」
「目指すだけならただじゃないか」
「勉強する時間が減るって言ってるのよ」
「勉強はするさ。な? あかり」
「も、もも、もちろん!」
嘘くさい。
けど、まあいいか、と母は折れた。
「成績悪かったら辞めさせるからね?」
「うん! あ、あとね、プロ試験も受けたいんだけど……」
「小学生が受けれるものなの?」
「受けるなら何歳でも受けられるみたい。小学生からプロになってる人も少ないけどいるって聞いた。ただ、それが2ヶ月くらいかかる試験で、週1で学校休まないといけないの」
それを聞いて母は閉口した。
「それは残念だったわね」
つまり諦めろ、と言うことだ。プロだかなんだかの言葉を真に受けて1ヶ月も学校を休むなどお話にならない。
その母の意図が伝わったのか、あかりも拗ねたようにむぅぅと唸った。
思う。やはり説得するには賞状やトロフィーをいっぱい取って母に見せつけてやらないとダメだ、と。
そんな二人の間で父は視線を右往左往させ、姉はジャニーズが歌って踊るテレビに釘付けだった。
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第21話 母親
ノイズの中に埋もれていたものが、認識ひとつで意味を持ち明確な形をとって浮かび上がることがある。
囲碁なるものに関する情報が、まるで騙し絵のように形を持って日常の中に見えるようになった。
囲碁とは、実は驚くほどに日常の中に散らばっていた。
そのことに生まれてこの方36年近く気づかなかったのは、自分が囲碁というものにまるで興味がなかったからで。他のノイズと同じ不要な情報としか思っていなかったからだ。
きっかけは賞状だ。
あかりが囲碁のイベントで優勝したということは聞いていた。プロの先生の教室に通いたいとも。その時点では、私はあかりが中学に行って趣味に没頭して勉強を疎かにするのではないかという不安が大きく、大して真面目に取り合っていなかった。
元々あかりは視野が極端に狭くなる傾向がある娘だった。昔からだ。特に最近の、幼馴染とも言える間柄のヒカルくんに対する感情は常軌を逸しているところがある。
ヒカルくんの行動パターンが毎日みっちりと書き込まれたノートが机に広がっていたことがあった。
机の一番下の引き出しにはヒカルグッズと書かれた箱に、折れた鉛筆やらペットボトルのキャップやら、ゴミと判別つけがたいアイテム群が日付ごとにまとめられていた。
押し入れの下段はヒカルくんの写真が所狭しと貼られていた。ヒカルくんの顔で壁ができていた。布団がその中に敷いてあるというのはつまりここで寝ているということだろうか。写真はどうやら学校の教育研修旅行や運動会など行事で業者によって撮影され販売されていたもののようだ。盗撮ではないことに一応の安堵をする。
やべえなこいつ。
それが腹を痛めて生んだ娘に対する感想である。
このままではダメになる。
ヒカルくんのことしか眼中にない生き方なんて健全とはいえない……というか多分生きていくことができないだろう。それで将来ヒカルくんと結婚して進藤あかりになって養ってもらえるというならともかく、そううまくはいかないだろうと思う。こんな趣味を持っているとバレたら破局は免れないだろうし、ここまでの過剰な執着をいつまでも隠し切れるとも思えない。
それにヒカルくんはなんだかあかりのことを避け始めているようだし。
だからせめて勉強は最低限させて、短大くらいは出て生活に困らない程度の収入が得られる職に就けるようにはなってもらいたい。親心として。
収入もなく、後先なくなってヒカルくんを刺して刑務所に永久就職なんて冗談ではないのだ。
閑話休題。
賞状の話だった。
イベントで優勝したからということで郵送されてきたのだ。
大きい。文房具屋で売ってるようなしょぼいものではない、上質な紙面と立派な額縁が送られてきたのだ。
賞状には段位認定・六段と書かれている。
そんな大層な大会だったのだろうか、町内会の子供大会とかそんなものかと思っていたのだけれど、それにしてはずいぶん本格的だ。
学校から帰ってきたあかりに届いた賞状と額縁を渡すついでに聞いてみた。
「えらい立派な賞状ね? 子供大会とかじゃなかったの?」
「んーん。違うよ。私が出たのは大人しかいなかったよ。最初係の人にね、子供にはまだ早いって止められそうになった」
なんでも先週参加した大会は賞状に書いてある通り日本棋院なる囲碁のための組織が、段位を認定するために碁の実力を審査する、基本は大人の参加するものなのだそうだ。
「……その大会で優勝したの?」
「うん。あ、正確には優勝っていうかね、六段を貰いたいって参加者相手に五連勝したらその賞状をタダでもらえるの」
「タダ?」
なんだ、やっぱり大したことないのか。
「じゃあ一回でも負けたらどうなっちゃうの? 賞状もらえないの?」
「四勝でも六段は取れるけど、賞状をもらうのに22万円かかるんだって」
「22万!?」
何者だ、日本棋院。ずいぶん強気な商売をしているではないか。
そんなやりとりがあって、以来なんとなく囲碁という単語が目につくたびにそれに注視するようになった。
新聞は政治面と社会面しか普段見なかったから気づかなかったが、日曜版には間違い探しの隣に囲碁の模式図的なイラストと解説が書かれている面があったり。昼には国営放送チャンネルで碁盤を挟んで対戦しているところが中継されていたり。民放でもたまたま塔矢名人なる人物について特集が組まれていた。
大陸で情熱を語るあれだ。
塔矢名人が四冠を達成するかもだとか、その弟子の緒方というイケメン風の白スーツももうすぐタイトルを取るだろうとか、名人は息子さんにも期待を寄せているとか。
特集番組だけでなくワイドショーでも幾度か取り扱われていた。まだ四冠を取ったわけではないが三冠というだけで一般のニュースでも報道されるくらいすごいことであるらしい。
あと、緒方プロって人はずいぶんと若くてイケメンだ。九段というのも凄そうだ。碁ってもっとおじいちゃんが打つものだと思ってたわ。この桑原なんちゃらって人みたいな。
居間の本棚を見れば月刊碁ワールドなる雑誌が2年分ほど並べられていた。あかりの仕業だろうが、その意図に乗ってやろうと一番新しいものをペラペラと読んでみた。
……囲碁って難しいのね。何これ。
あかりはこんなことを大人に混じってやっているというのだろうか。
小学生が?
ちょっと信じがたいものがある。その熱意をもう少し勉強に向けてくれればいいのに。
ふと気づく。
ヒカルくんのことしか眼中になく、ほぼ毎日彼と行動を共にしているあかりは、一体いつの間に囲碁なんて覚えたのだろう。
まさかヒカルくんまで碁を打てるのだろうか。
あの前髪で?
それは流石にないだろう、イメージと合わなさすぎる。
「ただいまー」
二月中旬の、日曜日のことだった。
いつも通りにあかりは朝から迎えにきたヒカルくんと外出して、夕食直前になって帰ってきた。少し日が落ちるのも遅くなってきたので帰りが遅いという印象はないし、帰りもヒカルくんに家まで送ってもらっているらしい。
甲斐甲斐しいことだ。
碁の塾とやらでもあかりの送り迎えをしてくれているし。
そのくせ精神的には一線を引いているというか踏ん切りがつかないというか、お互いに踏み込もうとしないもどかしさがある。一体彼はうちのあかりとどういう関係を求めているのだろう。
まあ、わざわざ大人が口出しするような問題でもないけれど。
「おかえりー、もうすぐご飯だから……ん? どうしたのあかり、その大きいの」
帰ってきたあかりは大きな白い箱を持っていた。
縦長の直方体を、憲兵隊が担ぐライフルのように肩に立てかけている。
聞けばあかりはうふふ、と嬉しそうに楽しそうに笑った。
「これはね、実はね……ジャーン!」
箱から現れたのは、大きなトロフィーだった。
小学校のマラソン大会で用意されていたような掌サイズのあれとはまるで違う。
「おかえりあかり。何だこれ、どうしたんだ?」
2階から降りてきた旦那が、あかりの掲げるトロフィーを見て声をあげた。
「今回の大会で優勝したの」
ゴトッとあかりは食卓テーブルにトロフィーを置いた。
「大会って囲碁のか?」
「うん囲碁」
旦那が指二本で碁石を打つジェスチャーをしながら聞けば、あかりも同じジェスチャーで返した。
「へえー、すごいなあ。居間に飾ってある賞状も囲碁のやつだろ?」
「うんそうだよ。それとはまた違う大会なの」
「これからもトロフィーが増えていくならそれ用の台を買ってこないとなぁ。な、母さん」
「そうかもねぇ。ねえあかり」
まじまじとトロフィーを見ながら気になったことを聞いてみる。
「何? お母さん」
「これ、どんな大会で優勝したの?」
まあこんなに立派なトロフィーをもらえたのだ、それほど規模の小さな、町内会規模ではないかもしれない。足立区大会とかだろうか。
「女流アマの東京予選だよ。正確には東京・千葉予選だけど」
ジョリュウ、とは女流、つまり女性だけの大会のことだったか。
「思ったより大きいのね……予選?」
「そう。来月に全国大会があるの」
「出るの?」
「え? もちろん。予選で勝ち抜いたんだから」
全国大会ってすごいことなのでは……ああ、小学生の大会なのだろうか。
「すごいなあかり! その全国大会ってどこでやるんだ?」
旦那が聞けば、
「日本棋院っていうね、えっと千代田区にある建物でやるの」
出たな日本棋院。
段位認定だけではなく、こういった大会の運営もやっている組織ということか。
その日の夕食は、あかりのその日の活躍をあかりの口から聞く時間であった。
実に楽しそうに囲碁について、そしてヒカルくんについて語る娘と、久しぶりに娘との会話が盛り上がって喜ぶ旦那を見ながら思う。
それにしても全国大会か。
電車一本で行ける距離だし、一度あかりが参加する大会というやつを見に行ってみようかしら。もちろん旦那も連れて。提案すれば旦那は喜んで賛成してくれることだろう。
そして、翌月。
旦那に車を出させて、あかりと、なぜか当たり前のようにあかりが連れてきたヒカルくんを後部座席に乗せて私たち四人は、あかりが日本棋院と呼ぶあの組織の本拠地へと向かった。
「お父さんそこ右」
「おう。んー、ここみたいだな」
地図を片手に辿り着いたそこは、思っていたよりも普通の建物だった。
囲碁なんて純和風な雰囲気のあるそれを統括している組織なのだから、もっと近寄りがたい、和風の屋敷的なものを勝手にイメージしていた。
駐車場に入ればすでに出遅れていたか、止める場所がなかなか見つからない。
「ずいぶん人が多いな」
「全国大会だからだよ」
父と娘の会話を聞きながらぼんやりと外を眺めていると真っ赤なスポーツカーが止まっているのが見えた。あんな派手な車を乗り回す人も囲碁をするのか。
「しょうがない、お父さんが止める場所探してくるからあかり、お母さんと進藤くんで先に受付済ませておきなさい」
「あ、そうだね」
というわけで私は子供二人を連れて日本棋院の建物へと乗り込んでいった。
ガラス扉を開けて入った中も、意外とというか、普通だった。近所の市役所よりずっと綺麗だ。観葉植物があって、その奥では碁盤が並べられていて碁の対局をしている人たちが何組もいる。
「じゃあ私受付してくるから、お母さんはそこで待っててね」
「ええ」
頷いてあかりを見送ればその背中に当たり前のようにヒカルくんもついていった。
自動販売機の横で壁に背を預ける。
……というか。
今回は女の人だけの大会だから、ヒカルくんは関係ないのではないだろうか。
ただ付き添いで来ただけ? 休日に?
……まあ、ありがたいことだ。
これであかりを将来嫁にしてくれたら、娘が犯罪者にならずに済むのだけれど。
それまでにあかりのヒカルくんに対する諸々をやめさせないといけない。バレてしまえばヒカルくんにドン引きされること請け合いだ。というか純粋にやめていただきたい親として。
とはいえ無理矢理写真やヒカルくんグッズを処分してしまうとあかりが一体どんな反発を起こすか予測がつかない。一度それとなく片付けるように言ってみたが、その瞬間あかりの目に浮かんだ静かな怒りに、あぁこれは触れたらダメなやつだ、と悟ったのだ。
以来私はあかりとの距離を測りかねている。
ため息が漏れた。
あかりの内にある情念を受け止められるのは、恐らくヒカルくんしかいない。
ああやってあかりのそばにいてくれるところだけを見れば安心できそうなものだが、ヒカルくんがあかりと距離を開けたがっていることはなんとなくわかる。
恐らくあかりもそのことに気づいているだろう。あの子は人の感情に聡い。嘘が苦手そうなヒカルくんの考えなど、四六時中一緒にいればお見通しのはずだ。
それなのに、何も言わずにヒカルくんを連れ回すだけでいるのはどうにも腑に落ちない。
不安が過ぎる。
何かとんでもないことを考えているんじゃないか、これはその嵐の前の静けさなのではないか。そんな不安が。
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第22話 熱量
「あの、失礼ですが」
あかりを待っている間に声をかけられて視線を向ければ、そこにはあかりと同じ年頃の少年がこちらを見ていた。
おかっぱ髪という今時変わった髪型をしているが、その下から覗く眼光の鋭さは子供らしさが感じられない凛々しさだ。背筋の伸びた佇まいも相まってずいぶんと大人びた雰囲気が漂っている。さぞかし学校では級友との会話に困ることだろうと勝手に思う。
「藤崎あかりさんのお母様でいらっしゃいますか?」
言葉遣いまで小学生のそれではない。何者だこのおかっぱ。
「ええ、そうですが」
「初めまして、日頃よりあかりさんにはお世話になってます、塔矢アキラと申します」
「もしかして囲碁の?」
にこりとおかっぱこととうやアキラ君は笑みを見せた。
とうや、という変わった名字に聞き覚えがある気がする。どこでだったか。
「はい、平日にはほぼ毎日碁会所で相手していただいています。土曜は検討が主ですが」
「あらそうでしたの」
なんだかよくわからないが、うちの娘はヒカルくんだけでなくこんな凛々しい男の子とも深い関わりがあるらしい。
んん?
「あ、塔矢くん」
「藤崎さん」
職員のいるカウンターから戻ってきたあかりとヒカルくんが、おかっぱの少年に気づいた。あかりの胸元には番号と名前が書かれたネームプレートがつけられていた。
あかりと少年が向き合い、明るい雰囲気で会話が始まる。
「どうしたの? 今日は女流大会だよ? 出るの?」
「で、出るわけないじゃないか。出ようと考えたこともないよ。未成年と言っても無理に決まってるじゃないか」
「そうだよね当たり前だよねそんなこと」
「…………」
なぜかおかっぱ少年が沈黙した。
「きょ、今日は藤崎さんの応援に来たんだよ」
「あ、そうなんだ。わざわざありがとう」
ニコッとあかりが笑顔で礼を言えば、とうや少年は薄く赤面して「頑張ってね、今日は父さんたちも審査員として来る予定だから」と言った。
先ほど私に挨拶をしていた時のキリッとしていた少年の態度が、あかりを前にしてなんとも軟化してしまった。
どういうことだ。
こんな事態を前にしてヒカルくんはどうした、とそちらの方に目を向ければ、ヒカルくんは気まずそうにアキラくんから視線をそらしている。
思わず首を捻る。
どういう関係だ?
囲碁関連だというのはわかるけれども。
ええと? 最近ヒカルくんはあかりと距離を置こうとしていて? アキラくんはあかりに対してかなり距離を詰めていて? ヒカルくんは気まずそうな視線をアキラくんに向けていて?
んんん?
その後駐車場から遅れてきた夫と合流し、私たちは小学生たちの先導で大会の会場となるホールへと案内された。
会場は多くの、五十前後の碁盤が綺麗に並べられている。すでに三十人ほどが会場にいて碁盤を前に着席していて、座っている彼女たちの胸にはあかりと同様に名札が付けられている。
「じゃあ私はもうすぐ時間だし席に着くね」
「頑張ってね藤崎さん」
「うん」
とうや少年の言葉に返事を返すあかりは、しかしその視線はヒカルくんに向けられていた。
ヒカルくんが頷く。それに返すようにあかりも頷く。
言葉はなかった。
それだけであかりは視線を切り、自分が指定されている、観客席から見て手前から二列目の席へと向かっていった。
そんなやりとりをとうや少年は苦々しく眉根を寄せて見つめていた。
少年の瞳に宿る熱は普段あかりがヒカルくんを見詰めている時のそれと同じ危うさを孕むもので。
んんんんん?
ちょっと待ってなんか胃が痛い。
それから参加者が全員指定された席に着き、規定の時間になったところで開会式が始まった。
大会の参加者は女性九十六人、そのほとんどが大人であり子供はあかりだけである。
町内会レベルか、なんて思っていたけれどとんでもない。大会委員長とやらが挨拶している間もピリピリした緊張感が参加者たちから漂っていて、気の弱い旦那は少し顔色を悪くしている。
「あ、あかりは大丈夫なのか? もっとこども向けの大会とかあるんじゃないのか、なんだってこんな」
それは私も全くの同意見だ。
何を焦っているのか知らないが、この建物の掲示板に貼ってあったように子供向けの大会はいくつもあるのだ。子供囲碁大会とかジュニア名人戦とか。そうでなくても中学校に上がれば囲碁部もあるわけだし、碁の大会に参加したいだけならもっと身の丈にあったものがあるのではないか。あまり年上の強い人と対戦して心を折られるなんてことは……。
そんな親の心配など杞憂だと言わんばかりに、あかりは対戦相手を真っ直ぐに見据えていた。
へえ、と思う。
全く気後れしていないではないか、と。
わずかな安堵を得ながら開会式の方へと意識を向ければ、今度は大会審判なる役職の紹介として塔矢名人が壇上に上がっていた。
以前テレビで見た、四冠の挑戦権獲得と言って話題になっていた人だ。
塔矢、と聞いて傍に立っていたおかっぱ少年を見やる。
そういえばテレビで聞いた話、塔矢名人には自慢の息子がいるのだったか。
すでにプロ試験に合格できるだとか。
大人相手に指導できるレベルだとか。
そんな子供と知り合いなのか、うちの娘は。
もしかしてこのプロ級と言われる子供に普段から碁の指導を受けているのだろうか。
だから全国大会に出られるだけの実力を身につけることができたのだろう。
大会役員の説明によれば、大会は二日間にわけて行われ、1日目のほとんどはリーグ戦、その後はリーグの成績の良い選手でトーナメントが行われるとのことだった。
あかりの佇まいから、緊張で実力が出せず惨敗、ということはないだろうが、まあ子供であることだし、恐らく本戦のトーナメントに進むことはないだろうと思う。
初戦の対戦相手も随分と強そうな女性だ。
歳のころは私よりひとまわりは上であろうか。体格も細身の私より縦も横も大きい。ある意味威厳がある。そんな女性と向かい合って、お願いします、と頭を下げ合い、女性側からの一打から対戦が始まった。
バシリ、と一際大きな音が響く。その豊満な外見に似つかわしい、しかし荒かったり粗雑な印象を受けるわけではない。丁寧かつ重々しい石の置き方だった。
おお、かっこいい。
そんなことを呑気に思う。
いかにも強者らしい勢いのある石の置き方だ。
それを受けてあかりの一打は、とても静かなものだった。
落ち着いているというにはあまりにも柔らかい石の置き方。
強く強く打ち込んでくる相手の石を、あかりはまるで意に介さず、まるで柳に風というべき静けさを持って石を広げていく。
息を呑む。
碁石を取るあかりの指の滑らかさ。
碁盤を見据える娘の凛とした視線。
伸びた背筋は、普段の小学生らしい背丈よりもずっと大きく錯覚させられる。
子供だと、思っていたけれど。
隣に立つ夫からため息が聞こえた。いつの間にか息を詰めていたのだろう。私もそうだ。
子供らしい幼さや穏やかな性格を脱ぎ捨てて碁盤に集中する様は実に凛々しくて。
娘の集中がいつの間にかこちらにも感染していた。
私の娘は、いつの間にこんなに成長していたのか。
そんな風に思った。
その対局は途中で対戦相手が降参したため、比較的早くあかりの対戦は終わった。
ヒカルくんや塔矢くんがあかりをねぎらい、しかしあっという間に二戦目、三戦目へと進んでいく。
それら全てにあかりは勝利し、1日目最後に本戦トーナメントの一回戦を勝利で終えて、二日目も見学にくることを約束しながら塔矢くんと別れの挨拶を交わし私たちは帰路についた。
上機嫌に車を運転する夫の横で思う。
本戦のトーナメント、その一回戦で戦った相手の言葉が忘れられない。
彼女もまた全国大会に出場するだけある強者だ。そんな女性があかりとの対局を終えた直後、娘の背後に立っていた私の横を通るその刹那に呟いた一言。
──なんであんな強い子供がアマの大会に出てるのよ、勝てるわけないじゃない。
もしかして、と胸に熱いものが灯る。
もしかして、私の娘はとんでもない才能を秘めているのだろうか。
翌日の日曜日。
昨日と同じように日本棋院へと向かい、当然のように塔矢アキラくんが合流し、トーナメントを一緒に観覧することになった。
周りを見れば、対局時間が一戦ごとに伸びているのがわかる。
昨日のリーグ戦の段階では途中で降参して中座する人も多かったが、ここまでくると実力は拮抗するようで、ほとんどの対局が制限時間いっぱいまで使っての長丁場になっていた。
そうなれば、やはり子供の身では不利であるようで、準決勝ともなると1日目の抜けきれていない疲労も影響するらしく、みるみる体力と集中力が尽きていくのが見て取れた。
それはそうだ。
あれだけの集中力を持続させて、昨日はリーグで三局、加えてトーナメント一回戦の計四局を打ったのだ。そこに追い討ちのように、今日の対局は一局2時間。午前中を勝ち切っただけで褒めてやりたい想いに駆られる。
身を削り、心を消耗させてまで続ける必要はないのではないか、と止めてやりたくなる。
それでも、あかりは続けようとしている。
絶対に負けたくない、そんな強く熱い意志が疲れているはずの瞳に宿る様を見ては、親として止めるわけにはいかないと思い直し、準々決勝の対局を終えて目を閉じて休むあかりに声をかけようとする夫の脇腹に肘を入れて止めた。
とはいえ。
結果は結果である。
あかりは次の、準決勝で負けてしまった。
その相手は60歳を恐らくは超えていようかという女性で、群青の着物がよく似合う、背筋の恐ろしくシャンと伸びた女性だった。他の参加者と話しているときは顔の皺を柔和に緩めているのに、いざ対局が始まるとギンと目を開いて碁石をピシピシと打っていく。
その勢いに負けたわけではないだろうが、矢継ぎ早に打たれていく相手の手にあかりの疲労した頭はついていけなかったようで、最後は十目半の差で負けてしまったそうだ。
半ってなんだよとか十目半ってどのくらいの差なのかと疑問に思うも、その間に対戦相手の女性があかりに表情を和らげながら声をかけた。
「お嬢ちゃん、院生にはならないのかい?」
「いえ、なるつもりはないです。プロの先生に弟子入りしているので必要ないかなとも思いますし」
「そうかい。まぁそうかもね、それだけの実力ならね」
そう言って女性は笑い、和服の袖から飴玉を取り出してあかりに渡した。
院生?
知らない単語でのやりとりを終えて二人は席を立ち、ようやく私と夫は大会を終えた娘に今日初めての労いの言葉をかけてやれた。
「残念だったなあかり」
「……うん」
あかりはどこか眠そうに夫の言葉に答える。
「すごく強かった、あのおばあちゃん」
そこで塔矢くんが、
「良い一局だったよ。美しい一局だった」
仄かな嫉妬を滲ませながら彼は告げる。どうして相手が僕じゃないんだろう、と。
「塔矢くんとはいつも碁会所で打ってるじゃない」
「でもいつものは練習手合いだ。僕らは本当の意味で本気で打ったことは、あの一回しかない。今日君が見せてくれたあの熱が僕に向けられることはあまりないんだ。それが口惜しい」
「真剣だと負けてばっかりだね私」
ちょっと不貞腐れたようにあかりが言えば塔矢くんは苦笑して、
「相手の方は去年の女流アマ世界大会で優勝した方だ。その方を相手にこれだけ渡り合えるなら十分だよ」
「そうなんだ」
あかりはそう答えて、少し苦味の混ざった笑みを浮かべた。
無事に進級決まりました
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第23話 承諾
大会に優勝したのは準決勝であかりを下した、中島と名札をつけた方だった。
今回で二連覇だそうだ。
組み合わせで準優勝の可能性もあったと思うとあかりにとっては惜しかった結果だ。
組み合わせといえば、トーナメントの一回戦で当たった若い女性も実は昨年の準優勝者で、今年は中島さんへのリベンジに燃えていたのだそうだ。近々プロ試験を受けるつもりだったのに、とも漏れ聞く話にあった。
そんな人たちに勝利してしまうあかりは何者なのか。
そういえば、と思い返してみれば。
あかりはプロの先生がやっている研究会に通いたいと言った。
それに頷きはしたけれど、あの時はプロとやらが経営している碁の塾に通っている、くらいのものだと考えていた。
でも先ほど中島さんと話した時、プロに弟子入りしている、と言っていた。
弟子入りってなに?
門弟制度があるの? 囲碁の世界には。
それとも能楽や華道みたいな家元制度だったりするのだろうか。
というかどのプロの弟子になったのだろう。親として挨拶に伺わなくても良いのだろうか。
閉会式であかりも他の受賞者と一緒に壇上に上がってトロフィーなんかをもらっている。その時に惜しかったね、なんて声をかけられていた。
その後の写真撮影なんかも終え、ようやくあかりは観覧席にいた私たちの元へと戻ってきた。
その後ろから、二人の男性が一緒に歩いてきている。
どちらも見覚えがある。一人は閉会式でも大会審判として挨拶をしていた、あの塔矢名人だ。その奥には白いスーツを着たメガネの男性、囲碁雑誌の表紙にもなっていた緒方というプロ。
隣に立っている塔矢アキラくんに用があるのだろうか、と思っていれば名人は私にピタリと視線を合わせて、その威厳はそのままに、
「初めまして、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。藤崎あかりさんを預かっております塔矢行洋と申します」
そんなことを言いながら私と夫に対して頭を下げたのだ。
あの塔矢行洋が、である。テレビなんかでもたまに見るし、新聞でも話題に上がることが多い、現代最強の碁打ちと言われる方が、だ。
ことの重大さにいまいち実感のない夫は呆けた顔で突っ立っていた。その脇腹に肘を打ち込んで腹をくの字に曲げさせる。遠目にはお辞儀に見えなくもないだろう。
「いえ、こちらこそ普段からあかりが息子さんにお世話になっているようで」
「息子のアキラだけではありませんよ。うちの研究会でも鋭い意見で私たちプロをハッとさせることが多い。若手のプロもまだ数回ですが勝ったことがあるのですよ。息子のアキラとも互角に打ちますし、あかりさんを迎えたことでこちらも得るものがたくさんありました。お世話になったとこちらも言わなければなりません」
「まあそんな」
研究会、とはそんな、プロと何度も対局できるような場だったのか。
今まで研究会とは塾というか、たくさんの子供がプロにあれこれ指示されながら子供同士で碁の対戦をする程度のものだとばかり思っていた。近所にある白……なんとかいうプロの先生がやっている囲碁教室もそんな感じだった。
話の流れ的に、あかりが弟子入りしたプロというのは塔矢名人のこと、なんだろう。
その繋がりで息子のアキラくんとも碁を打つようになったのか。
このあたりは後であかりに要確認だが。ヒカルくんとの関係も含めて。
いやほんと、ヒカルくんが塔矢アキラくんに向ける視線の内訳によってはひどいことになる。
「ところであかりさんは今年プロ試験を受けられるのですか?」
父さん、とアキラくんが慌てたように声を上げた。
「息子のアキラはすでにプロ試験に合格する力があります。その息子と対等に打てるあかりさんも同じこと。せっかく受けるのなら一緒に受験して同期として囲碁界を盛り上げていただければ、と愚考している次第でして」
「プロ試験、ですか?」
夫が素っ頓狂な声をあげる。プロを目指すだけならただだろう、なんて呑気なことを言っていた夫だ、まさか目の前に娘の現実的な進路として囲碁のプロなんてものが提示されるとは思っていなかったんだろう。
対して私は塔矢行洋の言葉を冷静に受け止めることができていた。
もしかして、と仄かな期待を今日抱いたのは確かだ。娘のあかりはプロになれるくらい強いのではないか、と。
「あの、失礼ですが」
私は周りに視線を巡らせる。特にこちらの会話に注視している人はいないようだ。それでも一応私は声を小さくして、
「碁のプロって、収入はあるんですか?」
キョトンとされたが、これは当たり前の疑問ではないか。
いやプロを名乗る以上お金をもらっているのだろうが、それは野球のように企業が所有するチームに所属しているとか? それともテニスのように選手個人にスポンサーが付くのか。あるいはK–1やボクシングのように1試合ごとにファイトマネーでも?
塔矢先生はしばし考えた後に口を開いた。
「もちろん収入はあります。スポンサーは主に新聞社ですね。企業が大会を主催し、対局すれば見あった対局料が得られますし、勝ちを重ねれば大会で勝ち残り、対局数が増え、収入が上がります。つまり活躍すれば1千万や2千万、大会で優勝すれば億に届くことも」
「では成績が悪ければ年収がゼロ、ということもあるわけですか?」
問題はそこだ。
あかりがどのような将来を進むかは神ならぬ人間の身にはわかりようもないが、食いっぱぐれる可能性はできる限り少ない将来を選んで欲しいのだ、家から犯罪者を出さないためにも。
収入の最高額という夢よりも、最低ラインはどのくらいかという現実の話がしたいのだ。そのことを塔矢先生も把握してくれたようで、
「対局料は勝敗に関わらず同額が支払われます。あくまで勝利すれば対局数が増えるというだけで。棋戦、つまりプロが参加できる大会は賞金の大きい七大棋戦の他にも十以上あります。それに加えて大手合という昇段のための対局でも対局料は支払われますし、その対局料も一番安くても数万から」
ふむ、と塔矢先生は顎を撫で、
「加えてプロ棋士の仕事は碁を打つだけではありません。イベントでの指導碁や解説、今日の私のように大会のスタッフとして参加して収入を得ることもできますし、囲碁の教室を開いたりする者や碁会所の経営、本を出しての印税……収入を得ようとすれば方法はいくつもあります。よほど仕事を休んだりしなければ生活に困ることはありません」
飢えたら研究会で食事は出しますし、と笑った。
「それにあかりさんであればそのようなことは杞憂に終わると思いますよ」
才能があれば10代で年収が400万円いく棋士も珍しくありませんよ、と塔矢先生は言った。
アキラくんはそのまま塔矢先生と合流し、私たちとは別れとお互いに帰路についた。
皆、夫の運転する車内では沈黙しっぱなしだった。
皆が、あかりの将来について考えているのだ。本来関係のないヒカルくんも口を開かなかった。
ヒカルくんを進藤さんの家まで送り、帰宅した頃には午後6時を回っていた。
「あかり」
「……うん、なに?」
私と夫、そしてあかりの三人で食卓につく。
口火を切ったのは私からだ。
「あかりは、プロになりたいのよね?」
「うん。なりたい」
そう言ってこちらを見つめるあかりの目は、とても強いものだった。
鼻から大きく息を漏らす。
認めよう。
あかりには、碁のプロになれる実力があるのだと。それに伴う強い気持ちがあるのだと。
そのことはこの二日間でよくわかった。そして今確認もできた。
とはいえ、プロになったところでそれで生活していけるかは別問題だが。
「十分プロになれるくらい強い、てことはお母さんもお父さんもよくわかったわ」
「じゃ、じゃあ!」
「でもね、もしかしたらプロになれないかもしれない、何年もプロ試験を受けて合格できないかもしれない。ただ強いだけでなれるわけじゃないでしょ?」
「……うん」
「それにプロになっても全然活躍できなくて、普通に就職した方が生活できるってこともあり得るわけじゃない」
「……」
もちろん生きていけるだけの収入を得られるのであればよし。
しかしダメだった場合の逃げ道を作っておかなければならないだろう。
「だからね、プロ試験を受けるのは良いと思う」
「いいの?」
「ただし」
指を一本立てる。
「まず第一に、プロ試験を受けるのは高校1年生まで。それまでにプロになれなかったら2年生からは学校の勉強に専念すること」
指をもう一本立て、
「もしプロになれてもなれなくても、高校には絶対行くこと」
そして三本目の指を立て、
「高校卒業までに年収が150万円以上行かなかった場合は、プロの引退も含めて将来のことをもう一度考えること。これが守れるなら、プロ試験を受けてもいい。確か、学校を休まないといけないんだったわよね?」
「うん。2ヶ月くらい、週に一回。火、土、日の週三回対局していかないといけないんだって。夏休みも入るから実際に休むのは一月くらい」
「そう」
まあ、週に一日くらいなら良いだろう。中学生のうちにプロになれる確率は高いそうだし、公立の高校に進学できる程度の学力を維持してくれればいい。
「頑張れる?」
「うん!」
力強く頷いて、あかりは笑った。
空気だった夫は、私たちの会話がまとまるのを見計らって「今日は外食にしよう」と提案した。
「大会頑張った記念と、これからプロを目指す激励ってことで」
「そうね。これから用意するのも面倒だしね。あかり、お姉ちゃん呼んできなさい」
はーい! とあかりが階段を駆け上っていく。私は夫とどこに何を食べに行くかの相談を始めた。
店に着いたら、ヒカルくんやアキラくんについて聴き出さなければなるまい。藪蛇になるかもしれないが、実はちょっと楽しみだ。
怖いもの見たさともいう。
プロ棋士の収入についてはちょっと調べきれませんでしたので、ああそんな感じなんだー程度で多目に見ていただければ。
また、プロになる方法についても何通りかあるため、本作では東京では夏のプロ試験で三人という原作の形式のみでいこうと思います。女流特別採用枠などは扱わない方向で。
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第24話 部活
よしよし、とあかりは上機嫌に笑いながら歩いていた。
4月3日、中学校の入学式の朝である。
あかりの心を表すかのように晴れ晴れとした青空と眩しい朝日があかりと隣を歩くヒカルを照らす。
買ったばかりの新品の制服は袖を通すだけで心が踊る。
初めての制服にまるで自分が少し大人になったように感じる。ウキウキをそのままにあかりはヒカルに声をかける。
「なんだか久しぶりだね、こうして二人で歩くの」
「そうだっけ?」
「1週間ぶりくらいじゃない?」
「あー……」
女流アマ大会が3月の26日。その後すぐ春休みに入り、一緒に登校することがなかったのだ。中学への入学準備もあって碁会所に通うにも日程が合わず、しかも土曜日に予定されていた研究会も塔矢名人は地方の棋戦のために関西へと行ってしまい中止になっていたのだ。
「まあ電話もしたしね。その時も言ったけど、改めて報告するね」
「うん」
「無事お母さんとお父さんを説得して、プロ試験を受けられるようになりました!」
いえーい! とピースサインをヒカルに向ける。
やはりこういうことは直接ヒカルに言いたいのである。
「ありがとね、ヒカルが協力してくれたおかげだよ」
「そんなことはねーよ、あかりの頑張りだよ」
「やっぱり? やっぱりそう思う?」
えへへ、と頬がゆるむ。
実際うまくやったと自分でも思う。
塔矢先生にテレビの出演スケジュールを聞いて、居間のテレビのチャンネルをその時間にこっそり合わせていたり。
日中、母はテレビをつけっぱなしで家事をするので、登校前に録画していたケーブルテレビの囲碁チャンネルのビデオ(塔矢先生宅からお借りしたもの)を流しっぱなしにしておいたり。
囲碁雑誌も塔矢先生や緒方先生が表紙になっているものを中心にいろんなところに広げておいたり。もちろん新聞でその手の記事や日曜版の棋譜や詰碁が載ってる紙面も逐一探して食卓に広げておいた。
一家団欒の食事時もおりに触れて囲碁囲碁ヒカル囲碁プロ囲碁。なるべくさりげなさを装いながら碁に関する話題を家族の会話のネタに提供した。
そういった地道な根回しを1ヶ月以上積み重ねた結果、全国大会に出ることを伝えると今までにないくらい関心を寄せてくれるようになった。
日本棋院が電車ですぐ行ける距離にあることも良かった。これが東京の外だったら母さんも面倒くささが勝ってしまっただろうことを考えると自分は運がいいとあかりは思う。
運に恵まれたとか、自分の棋力が上がったのはヒカルのおかげだとか、そういった要因はあるにせよ、母親から承諾の言葉をもぎ取ったのは確かに自分の力だと思う。
本当は大会に優勝してプロになる宣言をした方が格好良かったし一番スムーズだっただろうけど、そこは塔矢先生のフォローのおかげもある。
「ともかく、さ」
ヒカルが曲がり角の先に見える中学校の校舎を見ながら言う。
「これからあかりはプロに向けて本格的に動き出さなくちゃいけないんだよな」
「もちろん!」
あかりはグッと両手の拳を握る。やるぞ ! というやる気に満ちた少女を見て、ヒカルは思わず笑った。
「もう、何を笑うのよ」
「ごめんごめん」
そう言って、ヒカルは俯き気味に、
「頑張れよ」
と告げた。
あかりは軽く首を捻った。
そこは、頑張ろう、じゃないのか、と。
しかしさっさと前を歩くヒカルに追い縋ることに気を取られ、あかりは違和感に蓋をした。
玄関前に張り出されたクラス分けによれば、ヒカルとあかりは別のクラスになってしまったようだ。
廊下に置かれた看板に従ってヒカルと別れて自分のクラスに向かったあかりはちょっとしょんぼりした。
小学校の時は六年間同じクラスだったのに。
せっかくいい気分だったのに水を差されてしまった。
クラスごとに体育館へと向かい、並べられた席に着く。途中で三谷を見かけたので手を振ると目を見開いて一瞬硬直し、目を逸らしながらも会釈してくれた。
そうか、同じ中学だったのか、とあかりは頷いた。
入学式が終わり、その流れで部活紹介が行われた。
野球部、バスケ部、サッカー部などメジャーなスポーツのクラブがほとんどで、文化系といえる非スポーツものの部活は新聞部と文学部、美術部の三つだけだった。
おかしい、その中に囲碁部がない。
どういうことだ、とあかりは教室へと戻る廊下を歩きながら首を捻る。確か姉はあると言ってたはずなのに。
入る気は流石にないけれど。
プロ試験を受けようという自分が入ってもね。
本格的に動かないといけないな、なんてヒカルに釘を刺されたばかりだ。
とはいえ、三谷くんとの対局は続けたいな、とあかりは思う。
三谷も大分強くなった。碁会所で一番強いという神崎さんにも最近は勝ち越し、ごくたまにふらりと立ち寄るダケさんと呼ばれるおじさんとの対局にも辛勝した。
そのおじさんは確かにそこそこ強かった。数ヶ月前の三谷では手も足も出なかっただろう。まるでスポンジのように定石を身につけメキメキと腕を上げる三谷を育てるのはとても楽しかった。
だけど、流石にあっちの碁会所に通うのはもう時間的に厳しいかもしれない。
教室で自分の席に着き、担任の先生の挨拶を聞き流しながら、
「あ、そっか。学校で打てばいいんだ」
思いついた。
三谷とは同じ学校にこれから通うことになるのだ。
それなら放課後に開いた教室や図書館なんかで打てばいいし、なんならヒカルも誘って三人で囲碁部に行こう。囲碁部に籍を置けば三谷と打つ場所を確保できる。中学校の大会に参加するわけにはいかないけれど。
「まあ、週に何局かだけって感じになっちゃうけど」
やはりプロ試験前にはヒカルと多く打っておきたい。最近では二子での勝ち星も増えてきた。そろそろ互い先でもいいかもしれない。
「なんて、調子に乗れることでもないんだけどね」
どうにもこの頃、ヒカルの対局は不満が残るものが多い。
対局中、ヒカルからまるで覇気を感じないのだ。
それはもしかしたら対局中に塔矢くんから向けられる殺気とも言えるような迫力に慣れてきたからかもしれないし、アマの大会で実力のある人たちとの真剣勝負をいくつも越えてきた成果かもしれない。
そういった、自分が成長したから、ということもあるにはあるだろう。
なんか最近やる気なくない? とヒカルに聞いたこともあり、その時ヒカルはそう答えたのだ、あかりが成長したからだろ、と。
しかしやはり、それ以上に問題はヒカルにあるとあかりは思う。
対局に身が入っていないのだ。
だからこちらの勝ち星が増えているのだ。
ふぅ、とため息が漏れる。
ヒカルがどういうつもりなのか、やっぱりよくわからない。
ヒカルが私から離れようとしているのは薄々感じていた。
しかし自分から離れてしまえばヒカルは誰とも碁が打てなくなるではないか。
ヒカルが囲碁を止めるなんてありえない。
それにも関わらずヒカルが自分から離れようとするのは、私が下手だからではないか、とあかりは思っていたのだ。打ってもつまらないからではないか、と。
確かに今まで自分はへっぽこだった。初心者同然で、大して強くもなく、対局の中で同じようなミスを何度も繰り返して、布石の段階で終わってしまうことも多くあった。
でも時間をかけて、少しずつ実力を身につけてきた。
ヒカルとの対局は全てノートに棋譜を残して毎日毎日読み返している。ノートの冊数は数え切れないくらいで、押し入れの下にヒカルの写真と一緒に詰め込んでいる。ヒカルの写真に囲まれながらヒカルと積み上げてきた棋譜を振り返ることが楽しくて気持ちよくて、もうほとんどの棋譜を頭に思い浮かべられるくらいだ。
ヒカルが見せてくれた秀策さんの棋譜も同様だ。
他にも、読み込んだ詰碁の問題集は新しいものが出るたびにチェックして、お小遣いで買えたものは読み込みすぎてページに手垢が残るくらいだ。表紙が外れてしまったものもある。
そのくらい碁に生活のほとんどを捧げて、塔矢名人にプロ試験合格並というお墨付きをもらえるくらいまで実力を身につけたのだ。
ヒカルに満足してもらうために。ヒカルにこちらを見てもらうために。
それなのにだ。
それなのにヒカルは離れようとする。最近になっては特にだ。
この程度の実力ではまだヒカルは満足してくれないのだろうか。
電話口でも言っていたのだ、プロ試験を受けられると報告した時に。
もう俺とは打たない方がいいな、と。
全くふざけている。
その時は、何言ってるの? と言い返した。打つに決まってるじゃない、と。
けれど、もしかしてあれは本気だったのだろうか。
なぜ最近になって。
最近、具体的にはここ3ヶ月ほどで、何かあっただろうか。
「あっ」
教室なのに、ことさら大きな声が出てしまった。
ここでもう一つの可能性を思いついた。
天啓とも言うべき閃き。
もしかしてヒカルは、私がプロ試験を受ける上で、ヒカルとの時間が邪魔になると思っているのではないだろうか。
ヒカルの態度が顕著になったのは、プロ試験を受けると決めて、アマ六段を獲得したころからだ。
プロ合格という夢が現実的な目標となった時期だ。
私がプロ試験合格をより確実なものにするために、私との対局を我慢するということではないか。碁が大好きなのに、私のために我慢すると。
「そんなこと気にしなくていいのに。むしろどんどん打って欲しいのに」
まったく。と、あかりはニンマリと笑う。
あやつめ、乙女心というものをまったくわかっていない。
プロ試験を間近に控え不安に思う女の子が目の前にいるのだから、むしろ側で支えてくれないとダメではないか。
「これは一度、じっくり話し合わないとだめだ」
うん、と一人頷き、ぶつぶつ聞こえる独り言に隣の席の男子から異常者を見るような目で見られたところでチャイムがなり、その日の日程は終わった。
その足であかりは囲碁部の活動場所を探すことにした。そのためにヒカルの在籍する1組を覗いたが、なぜかヒカルは自分を待たずにすでに教室から出ていたようで、中には数人の女生徒がキャイキャイと雑談に興じているだけだった。
「どこ行ったんだろ。まあいいや、とりあえず囲碁部探そ」
場所を確認してからヒカルや三谷を誘った方が話が通りやすいだろう。そう思い目の前の廊下を歩いていた、メガネをかけ白衣を着た女の先生に声をかけた。
「すみません、囲碁部ってどこで活動してますか? 今日の部活紹介で出てなくて」
「ああ、囲碁部? ずいぶん耳が早いのね」
「え?」
「囲碁部作ろうって頑張ってる子がいてね、今年三年生になるんだけど。その子が新入生二人連れて、場所を貸してくれないかって言うから理科室の鍵を貸してあげたの。そのことでしょ?」
正確にはまだ部活じゃないんだけどね、と先生は教えてくれた。
「理科室ですね、ありがとうございます」
「理科室は二階の西側だからね」
「はい、失礼します」
頭を下げてあかりは階段を降りて理科室へと向かった。
新入生までいるのか、とあかりは小さく笑った。
人に教えることは、楽しい。
自分であれば碁会所でやったように多面打ちもこなせる、先輩と、新入生二人と、三谷くんを入れて四人だ。四人を同時に指導していくのは、とてもとても楽しそうだ。ワクワクする。
そう考えるあかりの足取りは軽やかで、スキップするように理科室の引き戸の前へとたどり着いた。
とりあえず今日は挨拶だけしておこう。
明日からもう二人新入生を連れてきますって。
扉をノックしようと拳を握り、叩く寸前であかりは凍りついた。
扉の、格子で4つに区切られた覗き窓から見られる理科室の光景に目を見開く。
呼吸が浅くなる。じんわりと冷や汗が背中を薄く覆ってシャツを濡らす。
理科室では、黒髪でメガネをかけた人と、癖っ毛な茶髪という特徴的な三谷の背中があって。
その二人の前には、碁盤を挟んで向き合っているヒカルがいた。
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第25話 絶望
え?
どうして?
状況が理解できない。
なんでヒカルが囲碁部にいるの?
男子二人の前には折りたたみの碁盤が二面置かれていて、ヒカルの手元に碁石はない。黒と白、どちらも対局相手である三谷と先輩であろうメガネの人のそばにあり、ヒカルは普段自分と打つ時と同じように石を置きたい場所を指で指し示している。
碁石アレルギーの設定はここでも守っているようだ。
そんなことはどうでもいい。
なんでヒカルは碁が打てることを隠していないの?
ヒカルと対局できるのは自分だけの特権だったはずだ。
ヒカルの実力は自分たちの間の秘密だったはずだ。
なんで三谷くんに指導碁を打ってるの?
三谷に指導するのは自分だ。自分が教えて、導き、自分色に染めるのだ。そのつもりでずっとあの碁会所に通っていた。
混乱のあまり視界が歪む。息が上手く吸えない。バクバクと心臓が暴れて、思わず右手で制服の胸ぐらを握りしめた。
碁石が打たれる音に混じって、彼らの楽しげな声が聞こえる。
何を話しているんだろう。自分を差し置いて、ヒカルは何を。
あかりは目を血走らせながら屈み、扉に耳を近づける。一体ヒカルがどういうつもりなのか確かめなければならない。そばを通る男性教師の怪訝な視線は気にもならなかった。
「負けました……強かったんだなお前。途中から指導碁になってるし」
「僕もここまでで投了かな。これ六子くらい置かないと勝負になんないよ」
「ありがとうございました。筒井さんはまず定石集を置くところから始めようか」
「え、でも僕これ持ってないと不安で」
対局が終わったらしい。パチパチと矢継ぎ早に音がする。並べ直しているのだろう。
「進藤くんが大会に出てくれれば団体戦に出られるんだけどなあ。それどころか海王にだって勝てるかも」
「海王?」
三谷が尋ねる。
「囲碁部が全国でもトップレベルのとこ。元院生とかもいるようなレベルなんだってさ」
「院生ねぇ」
「で、進藤くんは……」
「うん、ごめんね筒井さん。さっきも言ったけど、俺大会には出ないよ」
「アレルギーねぇ」
いかにも疑っています、と言わんばかりの声色で三谷が呟けば、それを遮るように筒井が、
「まあ事情はあるものね」
となだめた。
「新入生から探すとか、性格悪いけど碁の強い友達もいるし、それにまあ大会は個人戦もあるしね」
「ごめんね筒井さん。出れない代わりにいっぱい対局しよう。対局しまくって実力アップだよ」
「確かに筒井さん対局自体に慣れてない感じあるな。碁の本片手に対局とか初めて見たわ」
「いや、だって開いてないと不安で」
わいわいと、男子三人で楽しそうに碁の話をしている。
ヒカルが、私以外の人と碁の話をしている。
私以外の人と。
ぶち、と口元から繊維質な音が聞こえた。
何事かと唇に触れると、指に真っ赤な血がついていた。無意識のうちに唇を巻き込んだまま歯を食いしばっていたみたいで、口の右端から顎へと血が垂れていた。
「そういえば進藤、新入生といえば藤崎はどうしたんだ?」
背筋が跳ねる。私の名前が出た。
「入学式で見たけど連れてこなかったのかよ、進藤と藤崎の対局見てみてーんだけど」
「藤崎? だれ?」
「進藤の友達の女子。めちゃくちゃ碁が強い。今打った感じ進藤と同じくらい」
「女の子かぁ。団体戦は男女別だからなあ。それでもそんなに強い子なら入ってくれると嬉しいんだけど。進藤くん声かけてくれないかい?」
「あー……」
しかしヒカルは数拍の間を置いた。バリバリと頭をかく音がする。何を躊躇うのか。明日連れてくるよと言えばいい。そもそもなんで今日私に声をかけてくれなかったのか。まるで私を仲間外れにするかのように。
「あかりは、今年プロになるから、部活は無理だなぁ」
……え?
「プロ? その藤崎って子は院生なの?」
「院生じゃないよ。プロの先生に直接教わってて、プロ試験は合格する実力あるって先生に言われてるから院生にならないでそのままテスト受ける形」
「マジかよ藤崎、プロに弟子入りしてたってことか?」
「二月からな」
「あ、最近か」
理科室から響く喧騒も耳に響かない。
あかりは頭が真っ白になって、まるで白痴のように何も考えられない。
「プロ試験受けるなら少しでも弟子入りしたとこのプロたちと打つべきだし、俺らと学校で遊んでる場合じゃないんだ」
「あー、まあそりゃそうか。碁会所のおっさんたちもまるで歯が立たないしな、そんなところで遊んでる暇はねーか」
「そっか。残念だけどしょうがないね」
何それ。
ヒカルは何言ってるの。
なんでそんなこと勝手に決めちゃうの?
なんで?
ガラリ、と。
気づけばあかりは理科室の扉を開けて入室していた。
視線は茫洋として表情はなく、幽鬼のような足取りでヒカルへと近づいていく。
「ふ、藤崎?」
「え? この子が今言ってた人?」
あかりの異様な雰囲気に三谷と筒井の二人は左右にはけて道を開けた。その先には当然ヒカルがいて、しかしヒカルは静かな表情でふらふらと近づいてくるあかりを見つめていた。
手が震える。
寒い、とあかりは感じた。春になって桜も咲いている季節なのに、寒くて歯の根が合わない。
なくなっちゃう。
あかりは思う。
自分が今まで、人生のほとんどをかけて築き上げてきたものが失われようとしている。
自分の自我の根幹を形成する何かが、なんの配慮もなく引き抜かれようとしている。
その喪失感に体が震える。
「どうしたんだあかり」
失くしちゃう。失くしたくない。
ヒカルと碁を打っていいのは私だけなんだ。
私だけだから、碁が好きなヒカルは私を遠ざけるなんてできるはずないって。
なんでだめなの。
なんで取り上げるの。
なんでそんなこと言うの。
私ずっと頑張ってきたじゃない。ヒカルの言う通り定石を覚えて、毎日何局もぶっ続けで対局もしたじゃない。ヒカルの指す場所にいくつもいくつも碁石を置き続けて、指の爪の形変わっちゃったんだよ? さやか達と遊ぶことも減らしたし、ヒカルが待ってるから毎日まっすぐ帰るようになったの。読む本もヒカルが教えた棋譜集か詰碁の問題集ばっかりで、みんなが読んでるようなファッション誌もあんまり持ってないんだよ?
頑張ったじゃない、私すごい頑張ったんだよ。
だって、ヒカルが私のことを見てくれさえすれば他に何もいらないから。
なのに、
「なんで」
あかりの胸に渦巻いている激情に、ヒカルは平素とまるで変わらない口調で、
「なんで、じゃないだろ。あかりはプロになるんじゃないのか?」
と言った。
その感情の籠らない声は、まるで、死刑判決を読み上げる裁判官のようだった。
「それじゃあ、もう俺と打つ時間はないはずだろ」
あかりは弱々しく首を振る。
「ヒカルと、打ちたい」
「俺と打って何になるんだ? プロ試験前には邪魔になるじゃないか」
「き、鍛えてほしい」
「それはプロの先生に打ってもらったほうがいい。俺があかりに教えられるものはもう何もないよ、全部あげた。あとはあかりの努力次第だ」
違う。そうじゃないの。考えあぐねながらあかりは言う。
「先生たちとは何子も置いて打つの。でも試験では互い先でしょ、だから」
「なら塔矢に打って貰えばいい。いつも碁会所で打ってるじゃないか」
なんで。
なんでそんな意地悪言うの。私はヒカルと打ちたいからずっとずっと頑張ってきたのに。
ヒカルの中から秀策さんを追い出すために強くなったのに。
「俺みたいな中途半端な素人相手にするより、研究会とかで勉強した方が絶対あかりにとってプラスじゃないか」
「でも、不安なの。プロ試験で緊張しちゃうから、ヒカルと打ちたいの」
「プロになってからの方がずっと緊張するぞ? 何せ生活がかかってるんだ。タイトルのリーグ戦に上がれるかどうかで年収は全然変わるんだ、あかりも知ってるだろ」
「それでも、打ちたい」
「プロになってからもか? プロと一般人じゃ日程が全く合わないぞ? あかりの実力なら対局も多くなるし、学校に来る時間すらなくなる。そうなったらどうするんだ」
「た、対局は休む」
ヒカルはため息を吐いた。
「最初に聞いたよな? プロを目指すなら中途半端はダメだって、途中でやめるとかはなしだって」
言った。言ったけど、それはヒカルがずっと自分と碁を打ってくれると思っていたからで。
声が震える。
「もうちょっとでヒカルに勝てるの。互い先で打てるようになる。だから」
そういった途端、あかりは気づいた。
ヒカルが心を閉ざそうとしている。
この問答では一切ヒカルは譲らない。頑なに本心を隠して、その心のうちを明かさないだろう。
なぜそんなことを言うのか。
なぜそんなに冷たいのか。
その意図も、目的も一切明かさないまま、ただただ正論であかりを頷かせようとする。
ダメだ。このままじゃダメだ。
そう思うのに、どうすればヒカルと打ち続けられるのかあかりにはわからなかった。
秀策さんのことはどうなるの、そうあかりは思う。
秀策さんをヒカルの中から追い出すには、ヒカルを碁で圧倒的に負かしてしまわないとダメなのに。それがもうすぐで叶いそうなのに。なのにヒカルはもう自分と打たないという。
あかりがプロになるから。
プロでない素人の自分と打つ時間はないから。
そんな理屈で、打たない自分を正当化し、あかりの今までの努力を無為にしようとする。
塔矢先生は言った、碁の悩みは強くなることでしか解決しないと。
しかし、ヒカルと自分の問題は、自分がこれ以上強くなっても解決しない。
むしろ強くなるべきではなかったとさえ思えてしまう。
それは、あまりに恐ろしい考えだった。自分の半生を丸ごと否定することになるのだから。
だが、認めよう。
自分が強くなって、プロになっても解決しない。
ではどうするか。
それならヒカルもプロになればいいじゃない。
あかりはそう思った。
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第26話 思惑
あかりとずっと打ち続けていればいいと思っていた。
口元から血を垂らしたあかりが部室に乱入し、結局何もせずに踵を返して出て行ってしまって。
それ以上対局を続ける気には流石になれず、囲碁部初日の活動はそれで終了ということになった。
物言いたげな二人の視線を丸っとスルーして、ヒカルはまたなと告げてさっさと部室である理科室を出た。
もしかしたら物陰にあかりが待ち伏せているかもしれない、と思っていたがそれは杞憂だった。
なんとなく、自分の部屋に帰りたくなくて、ヒカルは祖父の家にある倉へと向かった。
2階の小窓を開ければ、春の陽気を程よく吸ったかぜがヒカルの前髪を揺らした。
カバンを床に放り投げ、適当に腰を下ろした。
あかりは碁は初心者で、中学の三年間囲碁部にいてもさして実力が上がることがなかった。
だから、油断していたのだとヒカルは思う。
あかりは自分が想定していたよりもはるかに熱意を持って碁に打ち込んでくれて、自分如きが持っていた囲碁の技術を、知識を、ノウハウをついに全て吸い尽くしてしまった。
元々は、自分への罰のつもりだったのに。
碁を愛し、碁を側に置き、常に碁を考え、そして打たない。
それは、佐為と同じ環境に自分の身を置くため。また、初心者に碁を教えることで、自分の中に残った佐為の残滓を自覚するため。
それはとても辛い日々で。単に碁を忘れるよりもずっとずっとキツくて。
それなのに、あかりの実力が自分に近づくにつれて。拮抗した対局ができるようになるにつれて。
すっかりあかりと碁を打つことが楽しくなってしまった。
佐為をあんなにぞんざいに扱っておきながら。
自分の生で現世に戻れた佐為に苦痛だけを与えて、楽しいことなんて何一つしてやれなかった自分が、碁を楽しんでしまっていて。
あかりは強くなりすぎた。
一手一手がヒリヒリとする緊張と失着の恐怖に揺れる緊迫感。自分の全霊を賭しての判断を要求してくる混戦。あれを、あかりとの対局で味わえるようになってしまった。
なんて有様。
自分を罵倒する声が聞こえる。
お前は佐為に何もしてやれなかったくせに。佐為から多くを奪って苦しめておきながら碁を楽しむだなんて。なんの資格があってお前はそんなマネをするのか。
身の程を知れ。
お前など、素人相手に面白くもない指導碁もどきをしているのがお似合いだ。
肺の奥から鉛色の溜息が漏れる。
潮時だ。
もう自分から教えられることは全て捧げた。
あかりにはもう自分の代わりになる師ができた。なんとあの塔矢名人だ、碁の師としてこれ以上は望めない人選だ。
しかも塔矢アキラというライバルまであかりにはできた。日々の対局で切磋琢磨し、互いが互いを高め合う理想的なライバル関係だ。
しかも両親からプロ試験を受ける許可まで得ることができて、金銭的な問題も無くなった。
あかりのあの実力だ、プロにさえなればどんどん活躍していくだろう。一年目から棋戦でリーグ入りを果たすかもしれない。
順風満帆。
あかりの行先に不安など一つもない。
あかりが進藤ヒカルにどんな感情を抱いているのかおおよその予想はついている。しかしそれは、碁を打つ楽しさとプロの世界で揉まれる忙しさの中に埋もれてすぐに忘れてしまう程度のものだろう、そうヒカルは考えていた。
「頑張れあかり」
小窓からの差し日しかない暗い倉の中で小さく呟く。
声には満足感が漂っていた。
自分が佐為から奪ったものを、その全てを伝え切った満足感。
「頑張れよ、あかり」
震える喉から溢れるその呟きは、もちろん、誰にも届かない。
あかりは塔矢名人の経営する碁会所へと向かう道を歩いていた。
ぼうっと考え事をしていたあかりは、いつの間にか碁会所の前へと辿り着いて『囲碁サロン』の看板を見上げていた。
考えるのはもちろん、先ほどの理科室でのヒカルとの会話だ。
ヒカルは言った。プロが一般人と打つ時間はないだろうと。だから打たないと。
へっ、とあかりは鼻で笑った。
「じゃあヒカルもプロになればいっぱい打てるって理屈だよね」
単純な話だ。
私ってあったまいー、とあかりは自画自賛である。
ヒカルの唐突な突き放しに泣き寝入りするほどお上品に育てられちゃあいねーのである。
行動あるのみ、兵は拙速こそを尊ぶのだ。
なぜ逃げようとしているのかは知らない。でもそんなことは捕まえてから吐かせればいいことだ。
「その理由によっては、私がプロ入りを諦めるって方向もありだけど……うーん」
悩ましいところだ。
それだとヒカルを閉じ込める部屋を用意できないし、囲碁と秀策さんのことで頭がいっぱいのヒカルの心を独占することはできない。
とはいえとりあえず取るべき方針の一つとして頭の片隅に置いておくべきではある。ヒカルと碁を打てないとそもそもお話にならないのだから。
まず自分がすべきことは、ヒカルが自分から逃げられないように囲い込んでしまうことだ。
その上で自分と打たない理由を吐かせて解消させるなり、プロになることを無理矢理にでも承諾させるなりすればいいのだ。
囲い込むのはプロになってお金をがっつり稼いでから、と考えていたけどそれはあまりに悠長な甘い考えであったとあかりは反省する。
「だってヒカルは私から逃げるつもりなんだもんね。のんびりしてちゃダメだよね」
もしかしたら高校はどこか別の県の全寮制の男子校に入学してしまうかもしれない。どころか中学のうちに別の学校に転校してしまう可能性だってある。
冗談ではない。もたもたしてはいられないのだ。
ヒカルの実力は間違いなくプロ級である。
研究会で何人ものプロやプロ級と言われるアマの大会上位常連の人と対局してそれに気付いた。
その気にさえさせればヒカルは今年中にもプロになれる。
じゃあどうすればヒカルをその気にさせることができるのか。
うーん、とあかりは腕を組み、そして思いつく。
暗いところに閉じ込めてずっと「あなたはプロになる」と囁き続ければいいんじゃないかな、と。
うん、と頷きつつ、では場所はどうしてやろうか、と思考を巡らせる。
今、例えば家に帰って電話したところでヒカルが家に来てくれるとは思えない。
母も日中は割と外出することが多いし、その日程も今のカレンダーに書いていくれている。決行日については問題ない。
問題は場所だ。
自分の部屋でもできないことはないけれど、緒方先生に頼めばどこかマンションの一室でも借りてくれないかな、なんてことを思い、
「でもそこまでヒカルを呼び出す手段がないんだよね、そこも含めて緒方先生か塔矢先生に相談しないと」
「藤崎さん?」
声をかけられて、振り返れば制服を着こなした塔矢アキラがいた。
「あ、塔矢くんこんにちは。海王中だったっけ、似合うね制服」
「あ、うんありがとう、藤崎さんも制服だと大人っぽく見えるね……その」
「どうしたの?」
言い淀むアキラにあかりが首を傾げると、アキラは口のあたりを指差して、
「それ、血?」
「あ」
そういえば、ここに来るまで考え事をしたせいで拭うのを忘れていた。
ずっと口や顎を汚したままここまで歩いてきたのだと思うとあかりはたまらなくなってポケットのティッシュで口元を乱雑に拭った。
「取れた?」
「うーん、乾いちゃってるみたいだね、拭くだけじゃ無理だよ」
「えー」
「碁会所で水道借りよう、というかここに立って何していたの? いつも先に上がってたのに」
あー、とあかりは言い淀む。
時間にしてほんの3秒。その間にあかりの脳細胞がかつてないほどスパークする。初めてアキラと対局した時よりもはるかに思考を回転させたせいで頭に熱がこもり意識が一瞬飛ぶ。おかげですでに瘡蓋になっていたはずの口の傷から再び出血が始まる。傷口から溢れた血の雫が顎に伝って足元のアスファルトに血痕を残した。
「なんとなく? 入り辛くて」
「……何か悩み事? 顔色も悪いし、僕でよければ相談に乗るよ?」
「……ごめんね、塔矢くん」
「え?」
言葉を詰まらせ、血を拭うティッシュで口元を隠しながらあかりは俯き視線をアキラから逸らす。
「私、もうここには来れない」
「……え?」
キョトン、とした表情を浮かべたアキラは、その時あかりの言葉の意味がよくわからなかった。意識が言葉の意味に追いついてようやく、
「どういうこと?」
「もしかしたらだけど、プロ試験も……受けない、かも」
「どうして!?」
アキラからすれば驚天動地の事態である。
あかりを生涯のライバルと定め、あかりと打つためなら女装して女流の大会に参加しようとまで思い詰めたのだ。ともにプロ試験を受けて、プロとして競い合う未来を確定したものとして考えていたのだ。それをプロ試験の直前ともいえるこの時期にそんなことを言われ、アキラの動揺はマグニチュードで言うと8.0を超える。
「な、何があったの? ご両親からは許してもらえたんだよね?」
「うん。お母さんじゃなくて……ヒカルが」
ヒカル? あの、よく研究会に顔だけ出して何も言葉を発さずお茶だけ飲んで藤崎さんと帰る前髪金色の彼のことか。
「進藤くん? 彼が、何か言ったの?」
「……やっぱり、なんでもない!」
そう叫んで、あかりはアキラから逃げるように背を向けて駆け出した。思わずアキラはその細い手首を掴む。
「待って!」
「離して!」
腕を振り払ってアキラの手を解く。叫ぶようなあかりの剣幕にアキラは動きを止めてしまい、あかりはその隙に駆け出して行ってしまった。
男女の修羅場を展開する中学生を見る好奇の視線に囲まれながら、アキラはしばし呆然とその場に立ち尽くした。
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第27話 疾走
電話で塔矢先生へと連絡をとる。
色々と相談、連絡があるためだ。
使えるアパートの空き部屋はないか、後援会の中に不動産を扱っているかたはいないか。
もちろんなぜそんなことを知りたいのかと聞かれるが、理由は言えない。大丈夫です悪いことには使いませんから。
無理だと断られてしまった。
仕方ないので緒方先生にも連絡してみる。
緒方先生はマンション住まいですよね? 同じ階に空き部屋なんてありませんか。それか先生は都合のいい愛人いませんか? しばらく部屋を貸してくれそうな感じの心が広い包容力のある女性。いないですかそうですか。
では愛人にマンション貸してたりしてませんか? そんなノリで私にもどうか一部屋、いえ違います先生の愛人になりたい訳ではありません、大丈夫損はさせないです、理由はちょっと言えません、でも悪いようにはしないです。
メタクソに怒られた。
解せぬ。
損はさせないと言っているのに。
はーぁ、とため息が漏れた。
今日も今日とて部活に出る。三谷と筒井さんの二人相手に相変わらずの多面打ちだ。筒井さんはヨセには自信があるようだけれど、残念ながら基本的に中押しなのでヨセまで盤面が行かない。
穏やかな日々だった。
何か言いたげな二人の目線が痛いが誰がなんと言おうと穏やかな日々だった。
4月の下旬、桜も徐々に散り始めた頃である。
ここ2週間ほどあかりの姿を見てなくてちょっと怖いなと思っていても、この穏やかな日々は嘘ではない。休みがちなのはきっと碁の勉強が忙しいのだろう。なんせプロ試験の前だものな、とヒカルは一人頷く。
三谷と筒井さんの二人と打つ碁は、ヒリヒリすることも冷や汗が出ることもない。ワクワクもドキドキもない実に平穏なものだった。
三谷と筒井が口ぱくとハンドサインで何か会話している。
筒井が小さくヒカルを指差して、
──あなた、先日、話、聞けた?
三谷は右手を左右に激しく振り、
──無理無理無理無理。怖い。藤崎、最近、会う、なし。あなた、先輩。聞く、頑張れ。
筒井は両手の人差し指を交差させて、
──だめ。自分、部外者。あなた、以前、付き合い、ある。君、聞く、OK。
──無茶言うなよ。
──というか実は藤崎さんのことちょっと好きだったんでしょ。
──な、何言ってんだよ、そんなわけねーだろ。
──またまた、藤崎さん可愛かったじゃない、優しく教わってたら好意の一つや二つ抱いてもしょうがないよ。
──いやどう見たって進藤とデキてるじゃん、二人揃って碁ばか強いし俺が入り込む隙なんかねーよ。
──いやいやそうやって諦めれば傷つかないし楽かもしれないけど、得られるものもないよ、まずは自分の気持ちに正直になって前に進んでいかないと。
──いやいやいや今人生相談的な雰囲気出すのやめてくれる? というか藤崎ヤベェやつじゃん、筒井さんは藤崎に告白されたら付き合うのかよ?
──ははは。
あかりに碁を教え始めた頃のことを思い出す。
こーやって逃げる、は正直笑ってしまった。小学校低学年だったあかりは笑われたことにむくれて不貞腐れてしまったが、なんとか宥めて碁のルールの基本を教えたのだった。
あれもこんな晴れの日だったように思う。
まさかあの状態からプロ試験受けるまで行くなんてなぁ。しみじみとヒカルは過去を振り返る。
佐為は見てくれているだろうか。
塔矢と打つ機会を手放した。塔矢先生との対局だって投げ捨てた。あかりとの対局すら他者に譲った。
それでもまだ、佐為は帰って来てくれない。
やっぱり素人相手の指導碁すら許されないってことなんだろうか。
そうかもしれない。
佐為の怒りと憎しみを思えば、指導碁だろうとなんだろうと碁に関わるだけで嫉妬の対象だろうから。
いや、とヒカルは首を振って否定した。
だって、自分は辛いんだから。アキラやあかりと打つチャンスを棒に振ることは、碁を忘れるよりずっと辛いことだから。きっと佐為もそのことはわかってるはずだ。
「進藤くん」
誰に呼ばれたのかと思った。
室内の三人が碁盤から顔を上げて視線を交わし、お前が言った? 違うよ筒井さんじゃないの? 違うよー、なんてやりとりを無言で回した後、再び「進藤くん」と声がした。
碁の集中が途切れていた三人はその声の発生源に同時に気付き、視線をそちらへと揃って向ければ、窓の外からこちらを睨みつけるおかっぱ頭の少年がいた。
今度は誰だよ、そんな思いを瞳に乗せて三谷と筒井がヒカルを見れば、ヒカルは驚きに目を見開いて、
「塔矢、なんで」
「え、もしかしてあの塔矢アキラ、くん? そういえば囲碁雑誌で見たことあるような」
「あー、そう言えば去年の号で見たかも」
なんで、塔矢がここにいる。
窓からこちらを睨むその様子は、かつての人生でも見た光景だ。もっと打とう、ライバルとして高め合おう、そんな誘いをよその中学校に乗り込んでまで正面から告げてきたあの日のことを、ヒカルはつい先日のことのように覚えている。
しかし、どうして?
もしかして、また自分を誘いに、なんて意味のわからない期待が一瞬だけ胸の底から勝手に湧き上がって、それを自嘲と共に飲み込んだ。
「話がある」
アキラの声色は、驚くほどに冷たかった。声を聞いた囲碁部の三人が揃って背筋を凍らせた。
ビクビクとヒカルが窓へと近づいていくと、アキラは声を落としてこんなことを尋ねる。
「藤崎さんはどこにいる?」
「え?」
どこ?
「碁会所じゃないのか? なんでそんなことを聞くんだよ」
「なんで、だと? 君が……君がそれを聞くのか」
低く、唸るようなその声にヒカルは困惑する。どう言うことかと混乱して返事を返せない。
その背後では筒井と三谷がまた無言で会話している。ほらやっぱり藤崎さんは人気あるんだよ、ヤベェやつどうしで気が合うんだろキレ過ぎだろ。
初対面の二人にヤベェやつ認定されたアキラは苛立ち混じりに、
「藤崎さんはあれから研究会にも碁会所にも来ていない」
「……え?」
「何を戸惑っているんだ? 君が、そうさせているんだろう、もう碁を打つなって。暴力で言うことを聞かせているんだろう?」
何を言っているんだ。ヒカルは心から混乱した。アキラの言っていることがまるで理解できない。日本語と認識できるかも怪しい。
「ま、待ってくれ塔矢。なんのことだよ、俺はずっとあかりのために」
「彼女のために、なんだ。わざわざ研究会にまでついてきてずっと監視をしていたのが彼女のためとでも言うのか? ずっと見張って、そんなに彼女が碁を打つことが気に入らないのか?」
監視? そんなつもりはない。ただ自分は、佐為のようになりたかっただけで。
「そんなつもりは……だ、大体暴力ってなんの話だよ」
「口元から血を流していた。2週間前のことだ。口元をティッシュで抑えながら、プロ試験を受けないかもしれない、と悲痛そうに言って走り去ってしまった。それ以来藤崎さんとは会えていない。あんな悲しそうな藤崎さんなんて」
く、とアキラは無念そうに視線を切った。もちろんその出血は囲碁部の活動場所として使う理科室に入る前からのことであるので、アキラの勘違いであることは囲碁部三人はわかっているのだが、アキラの剣幕にそれを言い出せずにいる。
「たいして碁を打たない君には理解できないだろうが、彼女は才能があるんだ。その才能にあぐらをかかず、日々修練を重ねていた。あれほどの熱意を持って碁に打ち込む姿勢はプロの方たちだって感嘆するほどだ」
語るにつれて、アキラの視線に苛烈さが増す。
「それほどの情熱を、藤崎さんは捨てるつもりだ」
「捨てる?」
「プロ試験も受けないかもしれないと言っていた」
ガン、と。
アキラの言葉はヒカルに衝撃を与えた。
プロ試験を、受けない? どういうことだ。だってあかりは、プロになるために頑張って来たんじゃないのか。
どうして。
「だから、君のせいだろう」
驚愕に目を見開く。
「な、何言って」
「僕の前から去る直前、彼女は君の名前を言っていた。以前も君は、僕と藤崎さんの対局を邪魔していたじゃないか」
「邪魔なんて……するわけ、ないだろ」
混乱のせいで常にない弱々しい口調のヒカルの態度をどう捉えたのか、アキラはその瞳に憎悪すら滲ませる。それを見て三谷はドン引きしながら筒井に顔見てごらんなさいキチガイの顔ですわとジェスチャーを送る。
「俺は邪魔なんてしてない。ずっと、あかりのために」
あかりのため?
本当に?
ヒカルは自分の思考に体を凍りつかせ、手で顔を押さえた。
自分は、本当にあかりのことを思っていただろうか。
「何が彼女のためだ。確かに、藤崎さんが碁を始めたきっかけは君だったんだろう。そのことは彼女から聞いた」
そうだ。俺は佐為になりたくて。佐為と同じことをして、同じ立場になって、佐為の苦しみを少しでも味わいたくて。そのためにずっとあかりに碁を教えて、鍛えてきた。
ずっと。人生が巻き戻ってから、小学生の頃からずっと。
俺が佐為と共にいた時間よりも長く。
「これからプロになる彼女とは、君は会う機会が減るだろう。だからと言って、藤崎さんから離れたくないからって碁を辞めさせるだなんておかしいだろう。君のその態度がずっと彼女を苦しめていたんだ」
離れたくないから? 違う。俺が離れたくなかったのは佐為とだ。ずっと佐為と一緒にいるんだと、それが当たり前なんだと考えていて。
当たり前だった。
それが当たり前じゃなくなって、初めて自分の罪深さを知って。
それからはずっと佐為のことばっかり考えていて。
最後の、途中で終わってしまった対局が、後悔と名を変えてずっと心にこびりついていて。
寝ても覚めても、夢の中でも佐為のことしか考えてなくて。
「君は自分のことしか考えていない。自分の都合の良いように藤崎さんを扱っているんじゃないか。そして自分から彼女が離れようとすればそれを邪魔して! 少しでも藤崎さんの立場に立って考えれば、君と言う人間が彼女にとってどんな存在か自分でわかるだろう!」
その言葉は言い換えれば、お前はあかりの才能を損なう足枷でしかないと喝破していた。
でも真相は逆だ。
あかりが、自分から離れることを厭ったのだ。
自分が、佐為との別れを認められなかった時のように。
ああだめだ。ヒカルは愕然とする。
ほとんど塔矢の言う通りだ。
なぜ気づかなかったのか。
あかりのためと口にして。あかりのためと本気で思っていて、その実自分はずっと佐為のことしか考えてなくて。
あかりの立場になって考えれば、自分は一体何をしているのか。
あかりにとって自分はなんだ?
6年以上、ほとんどつきっきりで碁を教えた。学校の勉強だって率先して教えた。碁石アレルギーなんて嘘を何も言わずに肯定してくれて、いろんな相談に乗って、両親からプロ試験を受ける許可を得るための作戦も一緒に練って。
佐為のような立場を心がけてきた。
自分にとっての佐為のように。
じゃあきっと、あかりにとっての自分は、自分にとっての佐為なのだ。
気づけばヒカルは走り出していた。
胸に湧く衝動がヒカルの足を突き動かしていた。
理科室を飛び出し、真っ直ぐに玄関へと向かう。
節穴か、とヒカルは自身を罵倒する。外靴を投げるように玄関に放り、走りながら踵を靴にねじ込む。
少し考えればわかることだったのに。
自分だって、佐為がいなくても森下先生がいるんだから良いだろ、なんて到底認められるわけがないのに。
俺が辞めても塔矢先生がいるだなんて、なんて的外れな考え。
そんなつもりはなかった、なんてただの言い訳だ。
あかりのことなんてまるで知ろうともしないで、ただ自分の贖罪のために利用して。その皺寄せをあかりに全ておっ被せて。
俺はいつも配慮が足りない、そうヒカルは思う。
自分のやりたいことばっかりで。周りの人のことを何も考えていない。
あかりがプロにならないと考えるのも当然だ。
自分だって、佐為がいないのにどうしてプロを目指そうと思えるものか。
どうしてもっとあかりの側に立って物事を考えられなかったのか。
佐為が消えてしまった時の苦しみは、今もジクジクと心の中で乾きもせずに血を垂れ流し続けている。
佐為に会いたい。謝りたい。あの続きを打ちたい。佐為に許してもらいたい。もっと他の人と打たせてやりたい。
そんな怨念とも言うべき願望が今も色褪せず心のほとんどを占めていて。
校門を抜け、左に曲がり、信号も無視して駆け抜ける。
俺があかりから離れようとしている理由を、あかりは誤解しているかもしれない。
俺があかりを嫌いになったから、とか。あかりと打つことが楽しくないから、とか。
俺が人前で打たないことが、あかりに罪悪感を抱かせていたのかもしれない。
もっと俺に他の人と打って欲しいと考えていたのかもしれない。
違うんだあかり、そうじゃないんだ。
全部全部、俺の贖罪のためのわがままなんだ。
あかりは何も悪くない。
それなのにあいつは一人罪悪感を抱いて苦しんでいるのかもしれない。
そう思うと、いてもたってもいられなかった。
あかりが自分と同じ苦しみを味わっているのかと思うと、とても耐えられなかった。
この時、恐らく佐為が消えてから初めて、ヒカルは佐為のことを忘れた。
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第28話 泣顔
息を切らせて、膝に手を当て呼吸を必死に整える。
顔を上げれば、そこには藤崎と記された表札があった。
あかりの家である。
車が2台ともない、つまりあかりの両親はどちらも仕事に出ていると言うことだ。
つまり今藤崎家にはあかり一人しかいない。
ゴクリ、とヒカルの喉が動いた。
飲み込む唾液の粘度が高くて、乾いたのどに張り付き逆にむせた。
ここまで全力で駆けて来たから、ではない。
藤崎邸から放たれる、ともすれば黒くも見える威圧感に、ヒカルは知らずのうちに緊張していたのだ。
ちなみに、ヒカルの後を全力で追いかけていたアキラは途中の交差点で力尽きて足を止めてしまった。幼少から囲碁に熱中していた彼と前世ではスポーツ少年として暴れていたヒカルでは走り方からして差があるのだ。
2階を見上げる。
あかりの部屋にはカーテンがかかっていて、あかりがいるかどうかわからなかった。
藤崎邸が醸し出す威圧感は、どうやらその部屋の窓から放たれているように感じられる。
入りたくない、入るべきではないと、動物としての本能が全力で危機を訴えている。
意味がわからない。
最近ではめっきり頻度が減ったが、小学5年生までは頻繁にお邪魔していたのだ。今更緊張しているわけでもあるまいし。
あかりと、話をしなければならないのだ。
気後れなどしてどうする。
息を落ち着かせ、震える指を伸ばし、インターホンを、押した。
……。
返事はない。
いないのだろうか。
もう一度スイッチを押そうとして、それを制するように玄関が開いた。
ビクリと指が痙攣する。驚きすぎて変な声が出た。
玄関から現れたのは、ジャージ姿のあかりの姉だった。
一本に髪をまとめたポニーテール以外、あかりによく似ている。
「あれ、ヒカルくん。うちに来るの久しぶりだね」
言いながらあかり姉は玄関の横に立てかけられていた自転車の鍵を外していた。
「あ、はい、お久しぶりです」
「私はこれから部活だけど勝手に上がっていいよ」
あかりー、ヒカルくん来たよー、とあかり姉は家の中に向かって叫ぶ。そのまま自転車に軽く飛び乗り、じゃねーと一言告げて学校へと向かってしまった。
あかり姉の背中を見送り、ヒカルは考え込む。
入って良いらしい。
姉のおかげで、あかりにも自分の来訪は知らされた。
ならいいか、とヒカルは玄関のドアのぶを握り、
「お邪魔しまーす……」
ギィ、と蝶番が音を立てる。
昼間なのに薄暗い玄関と、そこから伸びる居間への廊下と階段。見慣れたはずのそれらが、2階から侵食する黒い気配のために不気味なホラーハウスへと変貌していた。
あかりの家族はこんな家で暮らしていて精神に異常をきたさないのだろうか、そんなことをヒカルは思う。
それとも、この威圧感はもしかして自分にしか認識できないのかもしれない。
それは、あかりが自分に対してだけ拒絶の意思を抱いているから。
拒絶、なのだろうか。
自分だって佐為が突然消えてしまった直後は、勝手に自分から離れやがってと独りよがりにも怒りを感じていた。
傲慢な、と今では思う。
自分に、佐為に怒りを覚える資格なんてないのに。
それはあかりと自分の違う点だ。
あかりには自分を怒る資格がある、と今のヒカルは思っている。
あれだけそばにいて、時間を共有しておきながら、これからプロ試験を受けなければならないという段階で、自分の都合で放り出したのだから。
階段を上がる。一段ずつ上がる度にヒカルの身にまとわりつく圧が、まるでタールの海に浸かっているかのように重くなっていく。
それを乗り越えてヒカルはあかりの部屋の前に立つ。
ドアには『あかり』と書かれた可愛らしいデザインの表札が掛けられている。
また、喉が鳴った。緊張で若干呼吸が早くなるのを自覚する。
意を決しヒカルはノックしてみた。
「あかり?」
やはり返事がない。
もう一度ノックする。それでもやはり返事はない。中からも音は全くしない。
その代わり、ドアが一人でに開いた。
もちろんヒカルはドアノブに触っていない。
ゆっくりと視界に広がっていくあかりの部屋は、カーテンが締め切られた上に照明も完全に消えていてヒカルの目にはほとんど中を見通せない。
「は、入るぞ?」
開けてくれたということは入っても良いということだろう、そうヒカルは判断し、半開きになったドアを押して中にそっと踏み込む。しかし照明のスイッチの位置がわからない。壁をどれだけ手探りしても辿り着けなかったので、仕方なく、記憶にある部屋の間取りを思い出して窓を覆うカーテンへと足を進める。
扉の正面、ベッドが置かれている壁に窓があったはずだ。
暗闇になれれば、カーテンの縁からかすかに差し込む夕暮れの日差しが毛布の桃色を照らしていた。
「あかり、寝てるのか? いや、ドア開けたよな」
あかりはもしかしたらベッドで寝ているのかもしれない。
カーテンを開けるにはベッドに乗らないといけない。割と幅の広いベッドで、寝相が悪い私でも落ちないで済むんだ、なんてあかりは笑っていた。
そのベッドにあかりが寝ているかもしれないのだからと、ヒカルはすり足で慎重にベッドがあるはずのところまで近づく。カサリ、カサリ、と紙を踏む感触が靴下を通して指に伝わる。膝がベッドのふちにあたり、そっとベッドの上を端から弄る。
指先に膨らみが感じられない。毛布は綺麗に整っていて、ぬくもりもない。あかりはベッドに寝ていないようだ。
「よっと」
ヒカルは四つん這いでベッド上を這い、シャッとカーテンを開けた。
夕日が顔を直撃して思わず目を顰める。
それと同時にヒカルは一瞬で重力を見失い、気づけばベッドに仰向けの状態で、夕日に照らされたあかりの顔を見上げていた。
「あか、り?」
一体自分がどんな力を受けて仰向けになったのか全く見当がつかない。ベッドに叩きつけられた衝撃から覚めれば、自分はあかりに両の手首を上から押さえつけられている。加えてジーンズに包まれたあかりの細い脚が自分の腰骨と脇腹を挟み込んでいてまるで身動きができない。
抵抗できない自分を真っ直ぐ目を逸らさず見下ろしてくるあかりの顔は、明順応を終えていないヒカルの目にもどこか嬉しそうに映る。
その表情に背筋が凍る。
あかりに見つめられることに耐え切れなくて、ヒカルは目を逸らした。夕暮れの日差しにようやく慣れた目に入る部屋に、ヒカルは体をビクリと一瞬震わせた。
部屋は囲碁一色だった。
先まで歩いていた床に広がっていたのは碁の雑誌や新聞だ。ここ1年の記事が並べられ、掲載されていた最新の棋譜が見やすく並べられている。
本棚にも、枕元にも囲碁関連の書籍がこれでもかと積まれていた。
どれもこれも残酷なほどに読み込まれ、本としては冥利に尽きるだろうが、ページに手垢の跡がつくだけでなく、ものによっては背表紙すら掠れてタイトルがほとんど読み取れないものまであった。
視線を彷徨わせれば押し入れが開いていた。
あかりはヒカルに対し、ここだけは開けてくれるなと口酸っぱく言っていた。その中をヒカルは初めて見た。
ガサガサと押し入れから雪崩のように崩れて部屋に転がったのは、ノートだった。
何冊も何冊も、表紙には日付が書かれており、一番古いものは5年前。バサバサと床に落ちて広げられたページに書かれていた内容は、ヒカルが以前あかりに出したオリジナルの詰碁の問題だったり、あかりに教えた佐為のネット碁の棋譜だったり、自分とあかりとの対局の棋譜だったり。その押し入れの奥にはヒカルの写真が所狭しと並んで貼られている。
壁のみならず天井に至るまで棋譜が隙間なく貼り付けられている。一枚一枚は手帳ほどの大きさだ。それらが一つの棋譜から分岐する手筋まで細かく時系列順に並べられている。一枚一枚に赤ペンで注釈が事細かに書き込まれていて、よく読めばどれも見覚えのある内容だ。
全て、ヒカルがあかりに教えた内容だった。
壁も、天井も、まるで悪霊退散の御札のような棋譜で埋め尽くされているのだ。
塔矢はこれを情熱と呼んだ。だがこれはそんなものではないとヒカルは思う。
まるで怨念だ。
未練を残す幽霊の残す無念。
自分の教えを一言も漏らさず書き込み、何度も何度も読み込んできたのだ。
頑張っていた。あかりはずっと、ずっと、小学一年生の頃から頑張ってくれていた。
それを自分は、捨てさせようとした。あかりを捨てようとした。
これだけの思いを抱かせたのは、自分だ。
自分があかりを、碁のことしか考えられないように変えてしまった。
その怨念とも呼ぶべき思いの根幹には、進藤ヒカルがいるのだ。
自分にとっての佐為のように。
そんなあかりを、自分は突き放そうとした。
その罪悪感に押しつぶされそうになって、その重荷から逃げたくて、ヒカルは思わず、
「……ごめん」
と呟いた。
「何が?」
あかりは、相変わらず嬉しそうだった。その狂気が垣間見える笑みがさらにヒカルの罪悪感を刺激した。
「俺の勝手で師匠を辞めようとして、佐為……あいつのときと、同じ」
あかりを前にして、ヒカルの頭の中は罪悪感と後悔でぐちゃぐちゃだった。
思考もまとまらず、ただ自分の中に渦巻く重苦しい感情を何も考えずに吐露していく。
「あいつがいなくなって、辛くて、なのにあかりに同じことして……あかりだって」
……?
ヒカルは何を言っているんだろう?
そうあかりは思った。
別に私はヒカルを師とは思っていないんだけど。
私にとってヒカルは将来の伴侶であり、ターゲットであり、捕食対象だ。
あいつというのが誰かわからないし。同じことって何のことだ。
でもなんか大事そうなことを言ってるし、とりあえず深刻そうな顔で頷いておく。
「……そう、だね」
それを聞いて、ついにヒカルの目から涙が溢れ出した。
ちょっとまずったかもしれない、とあかりはヒカルを拘束したまま内心焦っていた。
本当はどこか自宅の外に場所を確保してからここまで追い詰めたかったのに。
親が帰ってくるまでせいぜい5時間。これでは完璧に洗脳できないかもしれない。
急がなくては、あかりはヒカルの泣き顔にゾクゾクニコニコしながら巻きで洗脳を進めることに決めた。
図書館で洗脳の仕方は勉強したしいけるいける。
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第29話 最期
「悪いことをしたんだ」
瞳を涙で潤ませながら、震える声でヒカルは告げた。
それをあかりは、口を挟まず、馬乗りの状態でただ聞くに徹する。
長い時間をかけて、さまざまな戦略を重ねて、ようやくヒカルの心の扉が開こうとしているのだ。余計なことをしてまた心を閉ざしてしまう愚行は避けたかった。
「あいつは俺の師匠で、ずっと俺に碁を教えてくれて……あいつは、俺としか碁が打てなかったんだ」
はっ、とヒカルが息を吐く。窓から入る夕日の中でもヒカルの顔色が悪い。
「それなのに俺はあいつのことを適当に扱って。碁が打ちたいって訴えるあいつの必死の言葉を無視して自分だけが! ……あいつの前でこれみよがしに碁を打って」
あいつの方が打つべきだった。
もっともっとあいつに打たせてやるべきだった。
「でもそれに気づいたのは、あいつが消えちゃった後で」
唇を噛む。あかりに抑えられている両手を震わせながら強く握る。
「だから、もう謝れない。それでも謝りたくて、自分で自分に罰を与えてた。そうしたらいつかまた会えるかもしれないって思って」
ヒカルの吐血のような告白を聞き、あかりは首を傾げて問う。
「ヒカルの言うあいつって秀策さんのこと?」
「秀策さん?」
「あ、ごめん。えっと、ヒカルが教えてくれる棋譜の人のこと。秀策流の打ち方でとっても強いから秀策さんって勝手に呼んでた」
ヒカルは半ば閉じていた目を見開いてあかりを見上げた。
「なんで」
「あの棋譜ってほとんどがヒカルと秀策さんの対局だよね。それ以外のもあるけど、部屋に貼ってる棋譜はみんなヒカルが打ってるやつだよ」
見れば、壁や天井に貼られている棋譜は、少なくとも目につく範囲ではどれも自分と佐為の対局のもののようだった。
たくさんの対局を教えた。いくつもの棋譜をあかりの前で並べて見せた。
その中にはもちろん自分相手だけではない。ネット碁の中で生まれた棋譜も何割かは含まれている。しかしその棋譜は、この部屋からは除かれているようだった。
佐為が生み出した棋譜はどれも美しくて、実力差があるものだって佐為は指導碁を打っていたからあかりとの勉強にはもってこいで。でも、それらの棋譜の対局者について、あかりには名前を教えたことはなかった。
だって、佐為とは何者だ、なんて聞かれても答えられない。自分の師匠、と言ったところでじゃあ四六時中あかりと一緒にいる自分が一体いつ他の人間から指導してもらう時間があるのか。そう聞かれたら答えられないから。
それなのに。
「何で、わかるんだ? 俺と、あいつの対局だって」
「何で? って、何が? だって同じ人じゃない。見ればわかるよ」
それは空は青いでしょ、とでもいうような、自明の理を子供に諭すような口調だった。
あかりはその類稀なる感受性から、ヒカルが隠していたそれを一眼で見抜いていた。
「ヒカル、どんどん強くなっていってるよね。教えてくれた棋譜、初めは今の三谷くんくらいの強さだったけど、秀策さんの打ち方に影響されてってる。秀策さんも一時期から定石に古臭さがなくなって、ただでさえ強かったのがもっと強くなってる」
部屋を見渡す。
壁や天井に敷き詰めて貼られている棋譜は、よく見れば時系列順に並べられているようだった。
あかりには、特に時系列や打った順なんて意識せず、思い出したものから並べて見せていたのに。
まさかあかりが、こんなにも明確に佐為の存在に気付いていたなんて。
「羨ましいな、秀策さん」
「え?」
あかりはどこか寂しそうに言った。
「ヒカル、秀策さんのことをずっと見てるよね。碁の打ち方も、ヒカルの中は秀策さんでいっぱい」
それが羨ましいの。あかりに言われ、ヒカルは言葉に詰まる。自分にのしかかり、真上から落ちてくるあかりの言葉は、夕焼けに照らされてとても穏やかで、それなのに言葉にできない感情が込められて、ヒカルの胸が押しつぶされそうになる。
「私はね、ヒカル」
「……あぁ」
「ヒカルの中から秀策さんを追い出したくて碁を打ってるんだよ」
え、とヒカルの口から意図せぬ声が漏れた。
「どういう、ことだ?」
「私は碁が好きだったわけじゃないの。碁のプロになるのだって私にとっては手段でしかないの」
「手段? 何のための?」
「ヒカルを振り向かせるための」
それはとても真っ直ぐな言葉だった。
自身の抱いている感情を何一つ偽らずに言葉にして相手に伝えようという真摯さがあった。
私を見て。
お願いだから私を見て。
そんな真摯で、切実な願いがその言葉には込められていた。
「ヒカルはずっと秀策さんしか見てないじゃない。対局してる時だってちゃんと私を見てないでしょ」
そんなことは、とまで口にして、しかし最後まで言い切ることはできなかった。
あかりの言う通りだった。
自分は対局中も、食事中も、トイレでも、寝ても覚めてもずっと佐為のことしか考えてなかった。
打たせてやりたかったという後悔と。
もっと打ちたかったという未練と。
その象徴である佐為との最後の対局が、ずっと脳裏をチラついているのだ。
「秀策さんを追い出すにはどうすればいいのかなって、ずっとずっと考えてた。でも、多分、碁をどれだけ打っても無理だよね。私がヒカルより、それか秀策さんより強くなってヒカルを負かしても、ヒカルはそんなこと関係ないもんね」
だから、とあかりは言う。
「だから碁はもういいかなって思ったの」
「そんな、だって、せっかくそんなに強くなったのに」
「強いのはヒカルだって同じじゃない。ヒカルが打たないなら私も打たない。意味がないから」
どうすればいい、ヒカルは悩む。
あかりにはプロになって欲しい。絶対にプロになってからも活躍できるはずだから、あまりにももったいない。それにあかりをライバルと認識した塔矢だって可哀想だ。
でも、それを覆させるには、自分がちゃんとあかりと対局しなければならないのだろう。あかりを見て、あかりの打つ手の一つ一つからあかりの意図を探ろうと頭を巡らせて。
「どうしてヒカルは私と打ってくれないの?」
「どう、して」
「どうすれば私を見てくれるの?」
どうすればいいのだろう。
そんなこと、ヒカルだってわからない。
私を見て、とあかりは言った。
自分もあかりのことをちゃんと見て、考えてやりたいと思う。
佐為のことをよく見ず、考えなかった結果が今だから。
でも。
「ごめん、無理だ」
あかりから目を逸らしてヒカルは言う。
理屈じゃないのだ。自分でどうにかできるものではないのだ。
自分の中を占める佐為が。
佐為の無念さが、ずっと自分を離さない。
きっと自分は、あの対局を最後まで打ち切るまで、本気で碁に向き合うことはできない。
「頭から離れないんだ。何をしていたって目の前から消えてくれないんだ」
「何が?」
今も瞼の裏にチラつく。
佐為の必死に消滅を訴える顔が。
自分に向かって叫ぶ悲痛な声が。
そして、
「あいつとの、最後の一局が。ずっと頭に残ってるんだ」
だから、ヒカルは教えることにした。
佐為が遺した最後の一局を。途中で終わってしまった、ヒカルの後悔の象徴を。
この程度の手数ならあかりなら余裕で追えるだろうと、あかりのベッドに横たえられたまま、口頭で棋譜で読み上げることにした。
あの対局を教えることがあかりを説得できる材料になるとは思えないけれど、それでも、自分の中にあるものを全てあかりに晒したいと思った。それがせめてもの誠意だと。
「右上スミ小目」
この数年間、人生をやり直し始めてから毎日毎日、頭の中で棋譜を再現し続けたそれを、あかりを下から見上げながら読み上げた。
「17の四ツケ」
読み上げるヒカルの声が徐々に震えていく。
佐為がこの対局を、どんな気持ちで打っていたのか、想像するだけで身が震える。
「9の三ヒラキ」
読み上げる一手一手が自分の罪を責め立てる。
もっと打ちたかった。もっと碁を楽しみたかった。
お前のせいで。ヒカルのせいで。あんなに言ったのに。もうすぐ消えるって何度も言ったのに。
そんな恨み言が聞こえてくる。
世界の誰よりも碁を愛した佐為の呪詛が、その石の流れに宿っている気がする。
「18の五ハネ」
それをこうしてあかりに教えることは、自分の罪深さを曝け出すようで、心底怖かった。
罪深さと、愚かさと、傲慢さを人に見せることが、恥ずかしくて恐ろしくて、でもそれもまた罰になるだろうかなんて、そんなことを思いながら。
「8の三ツケ……ここまで、だ」
ヒカルの体感では数時間にも及ぶ苦痛の読み上げは、その実ほんの数分で終わっていた。
「ここで、気づいたらあいつは消えていた。それからはずっと後悔してた。もっとあいつに打たせるべきだった、俺が打ちたいなんてわがまま言わなければよかったって」
そして、何より。
「あいつに恨まれてるのが、辛い」
「恨む?」
「打ちたい打ちたいって言うあいつを蔑ろにして、わがまま言うなってあしらって。打たせないで、あいつの目の前で俺だけが碁を楽しんでた。あいつは俺を恨んで、怒ってる。だから俺の前から消えたんだ」
「怒ってるからいなくなったの?」
「そう、だよ。だから俺は自分に罰を与えてるんだ。佐為が許してくれるまで」
「でも」
あかりが、佐為とヒカルの対局の棋譜を完全に覚えている少女が、首を傾げながら言った。
「でも相手の秀策さん、とても楽しそうだよ?」
楽しそう?
「今までの棋譜でも、今教えてくれたやつでも、ずっと秀策さん楽しそうだよ」
何を、ヒカルはカッと頭に血が昇った。
何を言っているんだ。そんなはずないだろう。
佐為は俺のことを恨んで、憎んで、俺が他の人と打たせなかったから仕方なく俺と打っていただけで、だから、
──ああそうだヒカル
ふ、と。
あかりの言葉が呼び水となって、かつての記憶が溢れ出した。
──ねェヒカル、あれ?
それは、佐為と言葉を交わした最後の日。
寝ぼけていて、極小となっていた脳のリソースを盤面の展開予測に費やしていて、か細い佐為の声を聞き逃していた。
──私の声とどいてる?
でも、確かに自分は聞いていたのだ。
囲碁漬けのイベントと寝心地の悪い薄い布団、数時間の新幹線での移動。疲労が溜まった体と寝不足の頭が、佐為の言葉を聞き逃したまま忘却して、しかし脳の奥深くにひっそりと刻まれていた。
──ヒカル
忘れてなんていなかった。
思い出せなかっただけなのだ、佐為が消えてしまった衝撃で。
最後の瞬間、俺は夢現で。
それでもあのとき。
確かに佐為は、こう言った。
──楽しかった
「──あ」
自分は一体、どれほどの遠回りをしていたのだろう。
佐為を探して広島まで行って、東京の秀策の墓も巡って。
挙句に時間まで巻き戻して、小学生からやり直して。
「あ、ぁぁぁ」
贖罪なんて自己満足のために塔矢との関係を壊して、あかりとの繋がりも蔑ろにして。
本当に大きな遠回りで、多くのものを犠牲にした。
そのほとんどはもはや取り戻すことができない有様で。
それでも。
思い出した佐為の言葉があまりにも衝撃的で、ヒカルはただ声をあげて泣いた。
それが何の涙か、ヒカルにはわからなかった。
楽しかったと。
あんな仕打ちをした自分に最後に遺した言葉が、楽しかったの一言だった。
恨まれてると思ってた。
憎まれてると、怒っていると思ってた。
でも佐為はそんなこと思っていなくて。
自分なんか存在しなければいいと思っていた。
自分の意思なんかない、佐為に言われた通りに石を置く人形であればよかったと思っていた。
でも佐為は。
自分なんかと共にいた時間が、佐為にとって楽しい時間だったのだと。
その事実にただただ感情が溢れて、涙となってヒカルの心を揺さぶって。
あかりも、気付けばヒカルの腕を解放していて。
いまだ小柄なヒカルの体を抱き上げて、そのままヒカルの頭を抱き寄せた。
「……辛かったんだね」
あかりの肩に顔を埋めながら、ヒカルは嗚咽を漏らしながら頷いた。
そのまま、日が暮れ部屋が暗闇に満ちるまで、ヒカルはあかりに体を預けたまま泣き続けた。
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最終話 未来
塔矢くんを誘導してヒカルを誘い出す、という作戦自体は概ね成功していたと言える。
昼食後の教室、退屈な数学の授業を聞き流しながらあかりは昨日のことを振り返っていた。
惜しむらくは、自分の伝では監禁用の部屋を確保できなかったことだ。
あの後、ヒカルが泣き止むまで抱きしめていたら、姉と両親が帰ってきてしまったのだ。
母のただいまーと言う声に我に帰ったヒカルは、自分の背にしがみついていた両腕を離して照れ臭そうに笑った。
目元を真っ赤にして、少し鼻も出ていた。中学生とは思えない泣き顔で、でもそれは今まで見たことがない、心からの笑顔だった。
あの笑顔を思い返して改めて思う。
あと2時間家族の帰宅が遅ければ、ヒカルを完全に自分に依存させることができていただろうに、と。
しかもあの後、母からドチャクソに叱られたのだ。
時計を見れば7時を回っていて、日も暮れてすっかり暗くなった部屋で灯りも点けておらず、そんな娘の部屋から目元を真っ赤にしていかにも泣いた跡を残すヒカルが出てきたのだ。
何をしたの? と静かに尋ねる母の目は疑心に溢れていて、自分の娘がよその男の子を傷物にしたのではと疑っていた。
ヒカルと二人で必死に誤解を解きはしたものの、疑われるようなことをするんじゃないと結局怒られた。
普通そういう疑いは男子の方に向けるものじゃないですかね。
解せぬ。
まあ、なんだかんだでヒカルが過去の柵から解放された感があるのは結構なことだ。
おかげでヒカルはプロになると決めた。
その成果をとりあえずは喜ぼう。
よしよし、とあかりはニンマリ笑う。
これで一緒にいられる時間が確保できるぞ、と。
2度と私とは打たないなんて世迷言は言わなくなるだろう。
とはいえ、これから忙しくなるだろうなとあかりは窓の外に広がる桜吹雪を眺めながら思う。
これからヒカルはプロへの道を歩み始める。
あれだけの実力だ、多くの囲碁関係者の注目を集めるに違いない。
ヒカルも、藤崎あかり以外に視線を向けることになる。
自分以外の存在がヒカルの目に止まることには身の毛がよだつほどの苛立ちを覚える。
お金さえあればさっさとアパートなりを借りてヒカルと二人で暮らすのに。
しかしヒカルと二人でさっさとプロになってお金を稼げば同棲するための部屋を借りることも簡単になるだろう。
ヒカルを監禁するかどうかは、部屋を借りるまでに決めよう。
あまりにもヒカルがよそ見ばかりするようだったらしょうがない。手錠とおまるの出番だ。
まあ、たとえば? 周りに魅力的なものがたくさんあって、それでも私だけを見つめてくれるとかね、そんな状況が一番優越感に浸れるってゆーかぁ?
誰を愛そうが汚れようが最後に私の隣にいれば良いとか、なんかそんな気持ちがある。いや流石にそこまでは割り切れないか。
その一方で、昨日みたいに、子供のように泣くヒカルの頭を撫でながら誰とも会わずに二人きりで暮らすのも悪くないな、なんてことも思ったり。
正直どちらも捨てがたい。どっちに転んだとしても私は嬉しい。
くふくふくふふ、と妄想に浸りながらあかりが笑っていると、数学の先生に「藤崎どうした気持ち悪いぞ」と注意された。
失礼な先生だ、と憤るも、周りの生徒が一様にこちらをドン引きした顔で見ていたので、まあ、ヒカルが悪いな、とあかりは納得した。
パチリ、パチリ、と碁石の置かれる音が室内に響く。
授業が終わって放課後。理科室では恒例となった囲碁部の活動である。
あれから筒井・三谷・ヒカルの三人は積極的に囲碁部の部員集めに精を出し、夏目という碁に興味を持つ同級生を見つけたのだ。とはいえ彼はまだルールや基本も曖昧でまともな対局には程遠いが、それでも部員は部員。団体戦で参加できる! と喜びながら三人がかりで夏目に碁を教えていた。
今は夏目に基本的な詰碁の課題を与え(三谷が以前碁会所でもらったものの一冊だ)、三谷と筒井は対局している。
その横で、ヒカルは入学式の日以来二回目に理科室にやってきたあかりと対局していた。
対局している筒井と三谷は気もそぞろだ。
再びやってきたあかりは前回とはまるで違う、この世の春が来たと言わんばかりの輝く笑顔で理科室にやってきた。その隣にヒカルを引き連れて。
いやお前ら前回とんでもない修羅場演じてただろうにどうした。
囲碁部の空気をどん底に暗くしておきながらそんな幸せそうな顔で当たり前のようにやってこられるとこちらとしては納得できないものがあるのだ。
「ありません」
「ありがとうございました」
あかりとヒカルが頭を下げ合う。
対局はヒカルの勝ち、というか、そもそもこれはあかりが二子置いての指導碁なのだから勝敗に意味は特にないのだけれど。
しかしその結果を見た三谷は半ば呆然と口を開き、
「……藤崎が石置いて負けるのかよ」
「三谷くん、藤崎さんって強いの?」
「俺が通ってる碁会所のおっさん相手に四面持碁とかやってた」
「その碁会所のお客さんは強いの?」
「俺と勝ったり負けたり」
ほぁー、と筒井は感心の声をあげた。三谷相手に自分は三子置いていい勝負なのだ。それと同じレベルの大人相手に同時に持碁だなんて相当である。自分には逆立ちしても真似できない。
横で二人の検討を覗き見していても、そのレベルの高さに半分もついていけない。
局面ごとに石を並べては戻すを繰り返す二人に三谷が、
「つうか進藤、お前アレルギーはどうしたんだよ普通に打ってるけど」
「あー……治った」
「雑か。じゃあ、まあお前が大会出れるってことじゃねーの?」
「いや、俺プロ試験受けるから大会はちょっと」
ヒカルの言葉に三谷と筒井、加えて詰碁の解説を読んでいた夏目も、えっ、と顔をあげた。
「進藤くんプロ試験受けるの⁉」
「マジかよお前」
「プロ試験って中学生が受けられるの?」
三人がヒカルに詰め寄る。それをあかりがヒカルの前に出て食い止める。
「ほらほら、いきなり距離詰めちゃだめだよ皆。ヒカルと話したかったら私を通してくれないと」
「藤崎さんは進藤くんのなんなの?」
「マネージャー気取りかよ」
三谷が、けっ、といじけたように吐き捨てた。それを聞き咎めたあかりが、
「まあどうしてもヒカルと対局したいっていうなら5分だけ許してあげなくもないけど」
「いやそこまでではねーわ」
「はー? 三谷くんってばヒカルの価値わかってないの? 今年中にプロになるヒカルと打てなくて本当にいいの?」
「いや次は三谷と打つよ、筒井さんも夏目も」
「は?」
ヒカルの言葉に一瞬であかりの目からハイライトが消えた。
「なんで?」
「え?」
ポカンとするヒカルに対し、他の男子三人は体を縮こまらせて身を寄せ合った。吹雪をやり過ごすペンギンの群れに似ている。
「なんで私以外と打とうとするの?」
あかりの声は平坦で、なんの感情も宿していなかった。それがなお恐ろしいと三人は怯え、三谷と夏目が手と口の動きだけで筒井に流血沙汰になる前に止めるよう訴える。なんとかしてよ先輩でしょ。
「ねえなんで? やっぱり私を捨てるの? じゃあやっぱりおまる」
「捨てるわけないだろ、俺にはあかりしかいないんだから」
「えっ」
お? と三人が顔をあげた。
「俺が碁を忘れずにいられたのも、碁をまた打とうと思えるのもみんなあかりのおかげなんだ。二人でプロになって、ずっと死ぬまで碁を打っていこうぜ」
「う、うん……」
あかりが死んだような無表情から一転、赤面して俯く様子に三人は目を見開く。まるで女子中学生みたいだと三谷は失礼なことを思った。
「よし、じゃあ三谷打とうぜ」
「は?」
ドスの利いたあかりの声に、うわこっちきた、と三谷は蒼白になった。筒井に助けを求めるも、じゃあ僕は夏目くんと打つよなんて言いながらさっさと碁盤を広げて石を握った。
「いや、俺はまだお前を独り占めできるほどの実力ないから、うん、遠慮しとくわ」
「は? 三谷くんヒカルと打てる機会を自分から捨てるってどういうこと?」
「どういうことっつーか、どうしろっつーんだよ」
「三谷くんはヒカルに自分と打ってくださいって縋り付いてよ。その上でヒカルは私と打つからって断るの」
「もうめんどくせーよお前!」
うーん、とヒカルは考え、
「じゃあこうするか」
言いながらガチャガチャと折りたたみ式の碁盤を二面広げ、ヒカルはあかりと三谷の両者と打つ二面打ちの構えをとった。
「これなら三人で打てるだろ。あ、筒井さんと夏目も入る? 四面打ちもできるよ俺」
「違うそうじゃない、そうじゃねーよ進藤」
「どうしよう、ヒカルがちょっとおバカになった」
あかりが両手で顔を押さえて嘆いていると、窓から声が聞こえた。
「藤崎さん」
そこにはおかっぱがいた。
うわまた来た、なんて三谷と筒井は思う。
窓からこちらを睨むおかっぱ頭を横目にしながら夏目が、
「筒井先輩、あれ誰ですか? 海王中の制服着てますけど」
「塔矢アキラ。塔矢名人の息子で、小学生の時点でもうプロ並の実力があったって噂」
へー、と夏目がおかっぱ海王生をまじまじと眺めていると、そこにあかりが近づいていった。
「久しぶりだね塔矢くん」
「……久しぶり。あれから、どう?」
「あれ?」
あれってなんじゃい、とあかりは首を傾げる。
アキラはヒカルにその鋭い視線を向けて、
「進藤くん。君は、相変わらず藤崎さんにまとわりついているんだな」
「え?」
「付きまとうだけでなく、囲碁部なんかに引き込んで。藤崎さんはプロになれる逸材なんだ、こんなところで時間を潰す暇も、君に邪魔される筋合いもない。わからないのか?」
えぇ……と囲碁部内に微妙な空気が流れる。男子三人がまた身を寄せ合う。
「筒井さん、藤崎って入部届け出したっけ?」
「いいや、まだ」
「え? あの藤崎さんって部員じゃないのに理科室の真ん中で碁打ってるの?」
自分から乗り込んできたんですけどそいつ、と三谷がアキラに向かって小声でぼやく。
それを一切無視してアキラはヒカルに宣言した。
「勝負だ、進藤」
なんか言い出したぞ、と男子三人が視線を交わす。
「僕が勝ったら、2度と藤崎さんに近づくな」
「……俺が勝ったら?」
「好きなことを命令すればいい。なんでも言うことを聞いてやる」
「勝負の方法は?」
「もちろん、碁だ。五子置いてもいい。ハンデとしては足りないかもしれないけどね」
理科室に並ぶ碁盤を指差してアキラは告げた。
「筒井先輩、あの人ズルくないですか? プロ級の実力で素人に勝負を申し込むって」
「うん、まあ……それだけ必死なんじゃないかな。藤崎さんが出血した理由をまだ勘違いしてそうだし」
「遠くから眺めてる分にはおもしれーなあいつら、たまにこっちに飛び火するけど」
アキラの宣言にヒカルは笑った。
「いいぜ、打とう。来いよ塔矢」
ヒカルは、それは嬉しそうにアキラを誘った。アキラと打てることが、アキラから打とうと誘われたことがこれ以上ないほどの喜びだと言わんばかりの笑顔だった。
その笑みをアキラは挑発と捉えたらしく、眉間に深いシワを寄せて不快感を露わにした。
アキラは窓の桟を乗り越えながら桟に腰掛け靴を脱ぐ。
靴下の状態で理科室に飛び降り、靴を窓わくに置いたアキラは、碁盤の前で椅子に座るヒカルを睥睨する。アキラの鋭い視線を見上げるヒカルの目は期待に満ちた暖かさがある。
そんな二人のぶつかり合う視線を遮る女が一人。
「待って!」
あかりだ。あかりは両手を胸の前で組んで、
「私のために争わないで!」
ヒロイン気取り出したぞあいつ、と三谷があかりを指差す。筒井と夏目は苦笑いだ。
しかしアキラは大真面目に、あかりに慌てて言葉を紡ぐ。
「藤崎さん、安心して。僕は君を」
「どうしてもヒカルと打ちたいなら私を倒してからにして!」
「え?」
え? と男子三人組も首を捻る。
祈るように組んでいたはずのあかりの両手の指は何故かするりと解かれて、がっしりと腕組み状態でアキラの前に仁王立ちだ。
我が屍を踏み越えていけと言わんばかりの漢らしい背中だった。
うぐ、と喉を詰まらせたアキラは、数拍の逡巡を見せ、しかしヒカルにかけられた声に思考を断ち切った。
「あのな、塔矢」
「な、なんだ」
「あかりはちゃんと今年のプロ試験受けるぞ」
「……そ、そうなのか?」
狼狽えながらあかりを見れば、あかりは腕を仰々しく組んだまま大袈裟にウム、と頷いた。
「で、でもだったらなおさら部活なんてしている暇は」
「大丈夫だよ塔矢くん、碁の勉強はちゃんとできるから。それに研究会には今週からまた行かせてもらうし。前回は休んじゃったけど」
「そ、そうか!」
ぱあっ、と明るく顔を綻ばせたアキラは、しかしさらにあかりとの対局の機会を増やそうと言葉を重ねようとする。
しかし背後の窓から声をかけられ言葉に詰まった。
「ん? おい君、他校生がなんの用だ、何を騒いでいる。スリッパは? 玄関の窓口で入校許可は取ったのか?」
生活指導の先生だった。
くっ、とアキラは悔しそうに呻き、ヒカルを指さす。
「今日のところはこれで勘弁してやる。だがくれぐれも藤崎さんの邪魔は、いえすみません所用があったもので、はい帰りますお邪魔しました、失礼します」
いかつい生活指導の先生の、窓から伸ばされた筋骨隆々の腕にまるで猫のようにつまみ上げられたアキラは、ぷらりと吊り上げられたままキリッとキメ顔でヒカルに釘を刺した。
唖然とした一堂の凍りついた空気の中で、いち早く再起動したのはあかりだ。アキラの行く末にさほど興味がないからかもしれない。
「ねぇヒカル」
「ん?」
あかりはまた瞳からハイライトを消して、首を過剰に傾けながら、うっそりとヒカルに迫った。ふらり、ふらり、と左右に揺れる頭に煽られる長い髪があかりの表情を覆い隠した。
真っ黒な髪の隙間から覗き込む眼球は血走っていて、小柄なヒカルを見下ろすその苛烈さに、ただそばで見ているだけの三谷たちすらその悍ましさに怖気立った。
「ヒカルはずるいね……」
「ずるい?」
「ヒカルがね、あんまり他の人ばっかり構っちゃうとね、私寂しくて、ヒカルのこと、部屋に閉じ込めたくなっちゃうの。誰の目にも留まらない部屋にね、鍵は私だけが持ってて、ヒカルの世話は全部おまる」
「じゃあ卒業したら部屋借りて一緒に住もうぜ」
「えっ」
まじで? と三人がガタリと起立した。
あかりの狂気が一瞬で霧散する。
ヒカルの言葉でビクンと頭が上がったおかげであかりの髪が正位置へと戻る。
その下から出てきたのは、顔を真っ赤に染めた少女の顔だ。
「プロになったらできる限り対局する時間増やしたいしさ。だったら今までみたいにどっちかの家とか図書館に集合じゃなくて同じ家に一緒に帰った方が時間や手間が掛からなくていいし。それに同じ部屋で生活してたら時間も気にしないで対局できるしな」
総員着席。
うわぁ、と三人組は引いた。
こいつ、女子と同棲する目的が碁を打つためだけって男としてやばくない? こいつの頭には囲碁以外ないの? そんなことを同時に思う。
嫁の方はどう思ってるんだ。恐々とあかりの方を伺うと、あかりはぽわっと赤面したまま無言でコクコクと人形のようにただただ頷いていた。
あんなんでいいんだ。そう三人は思った。
「伊角さん」
場所は碁会所の近くにあるファーストフード店。窓際のカウンター席でポテトをつまんでいた伊角は、待ち人の声に丸椅子ごと振り返った。話しかけてきたのは、院生として割と付き合いの深い和谷だ。
「おお和谷……どうした? しかめっつらして。もしかして、予選がダメだったのか? まだ三日目だろ」
「いや、俺は3勝したよ。来月はよろしく」
「あ、ああ。でもじゃあどうした?」
「フクが落ちた」
え、と伊角は声をあげた。
フクとは、今年初めてプロ試験を受ける小学生の院生である。その年ですでに院生の一組で、手はまだまだ荒いし読みも危ういが、早碁などでは伊角でもおっと思わせる手を打ってくる将来が楽しみな子供である。
そのフクが三日目で落ちた。つまり予選で三連敗を喫したと言うこと。
「調子悪かったのか? それとも組み合わせが悪かったか? 相手は誰だよ」
「フクの相手は三人とも外来だった」
「外来? 強いのか?」
伊角の問いかけに和谷は数瞬の躊躇を挟んで、こくりと頷いた。食いしばる口元はいかにも悔しそうで、どうしたことかと伊角は首を捻る。
「三人とも、俺より一個下。中一」
「中一? あ、もしかして塔矢アキラ?」
「ああ。一人は多分そうだった。外来の女子に塔矢くんって呼ばれてた」
あー、と伊角は呻く。それはブルーにもなるだろう、と。
和谷が所属している森下プロの研究会は、師匠の因縁から塔矢門下をライバル視しており、先輩のプロ棋士が何かにつけ塔矢門下の同期プロを意識させられるのだと以前和谷の口から聞いていた。
その秘蔵っ子たる塔矢アキラが噂通りに強く、プロ試験という場で対局することが決まってしまったのだ、心中お察しする。
「やっぱ強かったか?」
「……強かった。フクに並べてもらった。噂以上だ」
「そっか……」
それは気を引き締めていかなければなるまい。もちろん初めから手加減や油断など誰が相手でもするつもりはないが。
「負けてたんだ」
「? 誰が」
「塔矢アキラが、負けたんだ。今日負けて2勝1敗だ」
「負けた?」
「さっき言った外来の一人。もう一人の外来も馬鹿みたいに強い。それこそ、塔矢アキラ並に」
ゴクリ、と伊角の喉が鳴った。
なんだそれは。
プロ並と言われる塔矢アキラと、それと互角かそれ以上の実力者がさらに二人。
つまり、
「今年、院生からは合格者いないかもしれない」
つぶやくような和谷の一言が、キュッと伊角の心臓を握った。
「ありま、せん」
対局を終えた受験生に周囲を囲まれた中での一局だった。
噂の塔矢アキラがどれほどのものかと、敵情視察のため皆真剣な眼差しで石の並びを追っていた。
その打ち筋は、さすが塔矢名人の息子。
鋭く、苛烈で、相手を殺さんばかりの気合いを込めた打ちこみに、見ている受験生たちに己との力の差をまざまざと見せつける。
しかし、その相手は、院生ですら戦意を喪失させるような攻め手の数々を、なんとも鮮やかに躱していった。
初めはまるで早碁かという速さで手が進む。塔矢アキラの打つ勢いの強さに碁盤が甲高い音を立て、対局している周りの受験生たちも、今日はやたらと塔矢アキラは気合いが入っているなと感心していた。
しかし時間が経つにつれて塔矢アキラの気勢が削がれていく。石を打つ音が弱々しくなり、長考が増え、あれだけ早く手が進んでいたはずなのに気づけばそこ以外の全対局が先に終わることになっていた。
「くっ」
塔矢アキラが苦しそうに呻き、劣勢を凌ごうと右辺を厚くしていく。しかし相手の前髪メッシュは中央へと手を伸ばし、それを失着と見た塔矢が光明を見たと言わんばかりの勢いで噛みつく。息を吹き返した塔矢が俄然張り切って上辺へと手を広げようとしたところでしかし彼の手が止まる。
なぜ? と、和谷を含めた観衆が心の中で首を捻る。ちらりと和谷が塔矢へと目を向ければ、彼の盤面を睨みつけていた鋭い眼差しは驚愕に目を見開いていた。
何事か、と思っている間にも手は進み、さらに7手ほど進んだところで数人が、あっ、と声を上げた。
それに続くように和谷も気づく。
同時に、全身に寒気が走り抜ける。
先の、明らかに失着と見られた前髪くんの一手が、いざここに至って塔矢の攻め手を厚くするために打つべき、絶対に必要と思われる場所に陣取っていた。
そこを取れなければ塔矢の陣容はどこもかしこも薄いままで、しかし前髪くんは先の失着の一手を軸に広げていけばそれだけで盤石。苦々しく歯を食いしばり、塔矢が最後の抵抗とばかりに左辺から下辺へと攻め立てるも結局それすら潰されて、塔矢は中押し負けを喫した。
対局が終わり、院生たちは口々に今の一局の感想を言い合う。検討はしないのかと期待の目が向けられる中、当の本人たちは身じろぎもせずまた一言も口を開かない。
俯いたまま、膝の上で握りしめる手が震えている。
しばらくして、ふっと塔矢アキラが体から力を抜いた。
目線をあげ、前髪メッシュを視界に捉えた。
「進藤くん」
「ああ」
しばし、塔矢アキラは言い淀み、しかし意を決してガバッと頭を下げた。
「ごめん」
「え、おお?」
進藤と呼ばれた彼は戸惑うように疑問系で応じる。その表情は身長相応の幼さで、対局中の厳しい顔とのギャップに和谷の脳が一瞬混乱した。
「藤崎さんの邪魔をするななんて、失礼なことを言った」
「ん、ああ。いや気にすんなよ。俺だってアレルギーがどうのって言ってたし」
「そう言ってくれると助かる」
はあ、と塔矢は息を吐いた。一体なんの話をしているのか部外者にはよくわからない。この二人は以前から関わりがあったのだろう。いきなり謝罪から始まるあたり、良好な関係では無かったのだろうが。
「もしかして、緒方さんにはバレていたのか? 君が碁をここまで打てるってこと」
「あー、まあ、うん。あかりに教えてるとこ見られて」
「そうか。いや、君たちの話をしていたとき、緒方さんがなぜかニヤニヤと笑っていた気がしてね。そのときは気にしていなかったが、今考えると……まったく」
あの人も人が悪いな、と塔矢は苦く笑った。
「進藤くん」
「あ、くん付けしなくていいぞ。同い年なんだし進藤って呼び捨てで」
「では、進藤。どうだろう、あれから君は研究会に来なくなっていたが、これからは君も」
そこまで塔矢が言いかけたところで、進藤と名乗る少年の小さめな体が浮き上がった。
後ろから脇の下に手を差し込んだ少女が進藤を持ち上げたのだ。
「ほらヒカル、帰ろ? じゃあね塔矢くん」
「え、あかり待ってくれ俺は結果書かないと」
「もう書いておいたよ、中押しでしょ」
ぬいぐるみのように持ち上げられた進藤は、今度は山賊に攫われる町娘スタイルで肩に担がれ、そのまま出口へさっさと運ばれてしまった。
唖然と見送る受験生の面々は、このまま突っ立っていてもしょうがないと徐々に捌けていき、最後はぼんやりと終局を迎えた盤面を眺めていた塔矢だけが残った。
やがて石を片付け始め、碁盤ごと持ち上げた塔矢アキラの顔を、和谷は直視した。
そこには負けた悔しさも、黒星に対する焦りもない。
そこには、新しいおもちゃを見つけた子供のような輝きと、まるで獲物を見つけた猛禽類のような鋭さが同居した、碁を打つことと碁を打つ相手の存在にただただ喜ぶ13歳の姿があった。
「あかり、もう降ろしてくれよ。いい加減腹に肩がめり込んでキツい」
「あ、ごめんねヒカル」
ビル街に出たところで運ばれ方に不満を漏らしたヒカルをよいしょと自分の正面に降ろし、あかりはその肩を両手で掴んだまま正面から見つめた。相変わらず背は低い。来ているシャツはいつも通りの「5」シャツだ。
「どうした?」
「……ううん。ヒカルはやっぱり強いんだなあって思ったの。今日はすごかったね」
行こ? とあかりが右手を差し出せば、ヒカルは当たり前のように左手で握った。
そのまま二人並んで歩き出す。
まだ日が高く、休日であるためか人通りが多い。すれ違う人とぶつからないように歩けば、夏の日差しの下、剥き出しの肘どうしが軽く当たった。
「二人で予選突破だね」
「ああ、俺たちが当たらなくて良かったな」
「今日はお祝いだね」
えへへと笑う。対してヒカルの表情に一瞬影が差した。
もちろんそれを見逃す藤崎あかりではない。
「どうしたの?」
「ん、いや……」
口ごもるも、今さらあかり相手に隠す意味もないと思い直し、ヒカルはすぐに言葉を並べ始めた。
「碁ってさ」
「うん」
「一人じゃ、できないんだよな」
「? そりゃね」
どうした急に。
「俺は、佐為はずっと一人だったって、そう思ってた」
「うん」
「俺がそうしたんだって、俺のせいで佐為は碁を打てなくて一人だったって」
「うん」
でも、とヒカルは首を振る。
「佐為は、俺といたんだ。ずっと一緒にいて、いっぱい教えてもらった」
受け継いだのだ。
たくさんのものを受け継いで、それは今も自分の中に溢れんばかりで。
「佐為は一人じゃ無かった。俺と一緒にいて楽しかったって言ってくれた」
はあ、とヒカルの口からため息が漏れる。
「俺も、一人じゃ無かった」
俯き、誰かに語りかけるようにヒカルは言う。
「俺は、自分がずっと一人だと……いや、一人でいないといけないって思ってた。佐為は俺を恨んだまま消えて、それからずっと佐為のことだけ考えてた。いつか死んだとき佐為に赦してもらうため、そのときまで碁を楽しんじゃいけないってずっと考えてた。そんなこと、あいつは望んでないのに」
碁を蔑ろにすることをあいつは望んでないと、そう気づくことができた。
ふ、とヒカルが顔をあげる。あかりへと振り返り、その瞳にあかりの顔を収めた。
「あかりのおかげだ」
「な、何が?」
ぎゅ、と手をつなぐ力が強くなる。
「今日改めて思ったんだ。俺のそばで、俺と碁を打ってくれる人がいる。それがとてつもなく嬉しいって」
あかりは勝手ににやける口元を抑えるのに必死だった。
ヒカルの中は佐為と呼ばれる誰かでいっぱいだった。その心に他者が入り込む隙なんかまるで見えなかった。
一時は諦めかけたときもある。
それでも諦めないで、ずっとずっとヒカルの心をノックし続けた。
その結果、ヒカルは6年締め切られていた心の扉を、やっと外へと開け放ってくれた。
ヒカルの苦しみが晴れたことも、その目が私を向いてくれていることも。
今のヒカルのあり方が、長年の努力が認められたようで、この数年を思い返すだけでじんわりと涙が溢れそうになる。
だから、とヒカルが万感の思いであかりに言葉を告げた。
「これからも、たくさん塔矢と打っていくよ」
……。
…………は?
「今日塔矢と打って思ったんだよ。やっぱり俺は塔矢とライバルでありたいって。もちろん塔矢だけじゃない、他にもいろんなプロもいて、塔矢先生だってまだ現役だし。すげえ人たちとタイトルを目指してぶつかり合って、前はできなかった対局をいっぱいしていくんだ。たくさんたくさん碁を楽しんでいいんだ。それがすげえ嬉しいんだ」
手を繋いだまま踊るように語るヒカルを、あかりは冷めた目で見つめていた。やはりおまるの出番なのだろうか。
他の人に目移りしますなんて宣言をされて私が喜ぶとでも思っているのだろうか。というかなんでそのライバルの中に私がいない。そんな憤りをヒカルに向けんと睨みつけようとしたところで、
「そんな風に思えるようになったのは、全部あかりのおかげだ」
ありがとうな、とヒカルに笑いかけられた。
その朗らかな笑顔を見ただけで、やさぐれた気持ちが一瞬で融けてしまった。
やっぱりずるい、とあかりは思う。
そうやって上げたり下げたり、まさか自分を弄んで楽しんでいるんじゃないだろうか。
「大好きなんだ」
「……碁が?」
「碁が。碁が好きで、碁を打つのが楽しい。だから、俺は碁を続けていくよ」
好きだから打つ。
楽しいから打つ。
そんな単純なことを言えるようになるまでに、随分と遠回りをしたものだ。あかりは半ば呆れながらそんなことを思った。
ふぅ、とあかりも息を吐いて、
「私も打ち続けるよ、ヒカルのライバルになれるように」
いつか塔矢くんも視界に入らないくらいの存在になってみせる。そう空を見上げて、決意を固めるようにグッと左の拳を握った。
「あー……」
「? 何よ、私じゃライバルにはなれないって?」
「いや、というかあかりはライバルというより……仲間というか?」
「仲間?」
「いや違うな、仲間じゃなくて、ライバルでもなくて、しっくりくる言葉が見つからないけど、うーん」
うんうん唸るヒカルにあかりは首を傾げて、
「えー? なになに、なんて? 私とヒカルはどういう関係なの?」
「……よくわかんねーや。まっ、あかりがこれから一番多く打つ相手だってのは決まってるけどな」
「うん」
「ずっと打っていこうな。プロになっても、引退しても、ヨボヨボの爺さん婆さんになっても碁を打ち続けような」
「うん!」
「さっさと帰ろーぜ、今日の塔矢との対局並べてやるよ、検討しようぜ」
二人は手を繋いだまま、並んで歩いていく。
たくさん打とう。
神の一手を目指して。
佐為がよく言っていた、神の一手を。
正直、まだ後悔は消えない。
簡単に消えるわけがないのだ。
きっと、死ぬまで佐為のことを忘れることはないと思う。
それでいい、とヒカルは思う。
佐為のことを忘れないように、これからも生きていこう。
ごめんなさいとありがとうを一緒に抱えながら、自分は碁と共に生きていく。
活動報告に後書き載せました
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