制作スタジオに勤めてるんだが、俺はもう限界かもしれない (実質勝ちは結局負け)
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第一話
『月刊ALL ROCK 八月号 巻末コラム
──あれから二年、追悼の意を込めて──』
2010年代の後半、2015年から18年にかけて日本の音楽業界は、常にあるバンドを中心に回っていた。
『AnP』という名を聞いて、電気信号の増幅器より四人組のバンドメンバーの顔が思い浮かぶという人の方が多いだろう。
ダウンロードコンテンツの増加によって音楽が量産されるようになった。可もなく不可もない万人受けするような楽曲がありふれた商業音楽の中で、彼らの楽曲は一際輝いて見えた。
突然として現れた彼らは、抜群のメロディセンスと感情に響く天性の声で瞬く間に日本の音楽シーンを席巻した。
彼らは二年前、人気絶頂にも関わらず突如として解散を発表した。解散の理由は明らかにはされていない。これは信憑性の無い噂に過ぎないがギター兼ボーカル、AnPの作詞作曲全てを手掛けるフロントマンのカエデが歌う事が出来なくなったからと言われている。
現在カエデを除いたバンドメンバー3人は、それぞれスタジオミュージシャンとして活動しているが、未だにカエデは表舞台から姿を消し行方を知るものはいない。
解散から二年が経った今でも、活動再開を望む声は多く筆者もその一人だ。
今日、八月二十五日は七夕である。筆者は短冊にあの伝説的なバンドが再び始動する事を願って筆を置く。
☆☆☆
スタジオ大黒天は東京の某所にある小さな小さな制作事務所だ。事務所にしては比喩じゃなく吹けば飛ぶくらいボロい。いや、まじで。
雑多に並べられた三つのデスクのそれぞれに、デスクトップのPCと乱雑に積まれた資料の山。来客用のテーブルと一対のソファはかろうじて清潔を保っているが、老朽化した電灯のせいか未だ昼だというのに室内は薄暗い。
そのデスクの一角に一人の青年が座っていた。
三つあるデスクのうち、彼のモノだけにMIDIキーボードと呼ばれるピアノの鍵盤のようなものがある。このキーボードはめっちゃざっくりいうと、音を作曲ソフトに打ち込むためのコントローラーである。
ヘッドホンに両耳を塞いで、真剣な表情でキーボードの鍵盤を弾く。
そんな彼の名は、佐々木楓。かつては名の知れたバンドのフロントマンだったこともあるが、現在は安月給で従業員が片手で数えても二本指が余る弱小制作事務所のサウンドクリエイターであった。
白いシャツから覗く、日焼けしてない青白い指。キーボードを弾く手が止まり、マウスを操作し打ち込んだ情報をファイルに保存し万が一に備え二重に保存したところで、ヘッドホンをデスクに置いた。
深く息を吸い込んで一言。
「はぁ……あの忌々しいディレクターに不幸が訪れますように」
「ちょっとせんぱい、物騒な事言わないで下さい」
振り返ると長袖ジャージにクラブショーツという機動性だけを考えた装いの女性が此方を胡乱気な瞳で見つめてくる。
名を柊雪。飾り気のない端正な容姿。肩に掛かる程度の亜麻色の髪をヘアゴムで一つ結びにした彼女は、このスタジオ大黒天の助監督兼映像制作担当である。
雪が楓をせんぱいと呼称するのは義務教育の間、小中と同じ学校で家も近所といういわゆる幼馴染の関係だからだ。
楓はバンドマン、雪は映画監督とそれぞれ違う将来に進んだにも関わらず、今は同僚として働いている。世の中とは狭いものだ。
「……ギリのギリギリ納期に間に合いましたね、直前にリテイクを出された時は間に合わないと思いました」
「殺してやろうかと思ったわ、納期とリテイクは俺の三大嫌いなワードに入るからな」
「もう一つはちなみに何ですか?」
「やりがい」
雪の渇いた笑いが室内に響く。
今回、楓が引き受けた仕事は外注の依頼であった。我が社の雇用主である黒山墨字が仕事を引き受けない場合、楓と雪は他所の制作会社様の依頼を受け仕事をこなす。
そうしないとまじで無収入になってしまうからだ。世知辛い。
「スタジオ大黒天改めクソミソ大貧民に改名しよう」
「せんぱい言い過ぎですよ……ちょっと人手が足りなくて、結構仕事が無くて、めちゃめちゃお金が無いだけじゃ無いですか」
「それはもう、クソミソ大貧民なんだよなぁ」
今月の給料も振り込まれるか定かではない。それがクソミs……スタジオ大黒天の現状であった。
それもこれも全ては二人の雇用主である黒山墨字のせいである。
カンヌ・ヴェネツィア・ベルリンと世界三大映画祭全てに入選しているが、日本では未だ無名な映画監督。それがスタジオ大黒天の演出家、黒山墨字である。
墨字が仕事を選り好みしまくるのが、我が制作スタジオ困窮の原因だ。ふざけるな。
頑張って働いてるのに、こんなの絶対おかしいよ! ブラック企業には奇跡も魔法も無い。ついでに血も涙もない残酷社会である。
「そういえば墨字居ないけど、何処ほっつき歩いてんの」
「さぁ、オーディションがどうとか言ってましたけど」
「事故って死んでる可能性あるな、一応0.2秒くらいは黙祷してやるか」
「せんぱい、それはただのまばたきです」
「おい、勝手に殺すな」
不機嫌そうな低い声が扉から聞こえて来る。
視線をやったその先には、安物の白シャツにジーンズ姿の男。前髪をヘアゴムで上げただけのさんばら髪。切れ長の瞳に顎髭。
彼こそ黒山墨字だった。
「墨字さん! 私が持ってきた仕事また断ったでしょ?! 貴方が仕事しないと会社利益出ないんですよ! せんぱいの外注の仕事だって、単価めちゃくちゃ安いんですからねっ!」
「……えっ、嘘マジで?」
柊雪は激怒した。必ずかの邪智暴虐の映画監督を取り除かねばならぬ。
墨字が事務所に戻って来るなり、雪のお説教が始まる。つい二日前に見た光景を懐かしむように見ていた楓だったが、雪は最後に衝撃の事実を伝えてきた。
楓には訳がわからぬ。徹夜までした仕事の単価がめっちゃ低かったなんて。
もぅマヂ無理。ちょぉ頑張ったのに。つらたにえんの無理茶漬け。ぴえん通り越してぱおん。
「何より私とせんぱいの給料も──……」
「仕事してる場合じゃなくなったんだよ」
「はぁ!? そんな場合あります──……」
ぶっちぶちに切れてる雪に臆することなく、黒山墨字は言葉を繋ぐ。
切れ長の瞳が見つめる先は、縦長の硝子のさらに向こう。ビルとビルの隙間から差し込む陽の光を、まるで一筋の光明のように目を細める。
「なぁ……いつか必ず歴史に名を残すだろう役者の原石、そんな才能を見つけたらどうする?」
「……それは、自分のものにして育てますけど、そんな夢みたいな話──」
「夢じゃねぇよ」
それだけ言って墨字は歩き出した。ガサゴソと自分のデスクから車のキーを取り出して、再び事務所の扉を開く。
「ちょっと! 今日これから久々に撮影でしょ!? どこ行くの!?」
「どこって……原石を磨きに」
やけにいい顔をした墨字が再び事務所の扉を閉めた。
バタンという音と共に、雪の盛大なため息が響く。
「はぁぁぁぁ、映画監督って生き物は全員ああなんですかね、せんぱい?」
「…………」
「あれ、せんぱい?」
「……」
楓は現実を受け止められないでいた。
まじかよ、ほんとに。めっちゃ頑張ったのに。これにはつらみざわしんごもビックリだ。
☆☆☆
ハンドルを握る手に力が入る。
継ぎ接ぎだらけの一軒家の前でスタジオ名の入ったミニバンを停車し車を降りた。
男の黒いざんばら髪から覗く切れ長の瞳が、一人の少女を捉える。
──見つけた、やっと。
見る者を魅了する優れた容姿。平均より少し高めのスラリとした身長。均整の取れた身体。
そして何より、スターズ新人発掘オーディションで見せた異質な才。
自分以外の誰かになる、歪な演技法。
制服姿の少女に近づくにつれ、ヘッドライトに照らされた男の影が大きくなる。
こちらを視認した少女の視線が交差する。
「一本の映画の為に70億人からたった一人を探し続ける。そういうバカを映画監督というんだが、俺もその一人なんだよ……随分苦労している」
この身一つで海を渡り、幾つもの作品を作り上げてきた。日本に来たのは、ただ一つ。
「どうしても撮りたい映画があるんだ。その為に仲間を探している」
墨字が撮りたい映画。その為の仲間。己が要求に応え得る人材を集めるのは容易ではない。
何しろ数年がかりでたった二人。
阿佐ヶ谷芸術高校という映画専門の高校で、自ら弟子入りを志願してきた柊雪。
二十歳という若さの彼女はカメラワークなどの技量は未だ発展途上ではあるが、墨字と比べ円滑に人間関係を構築することが出来る。スタジオ大黒天がギリギリ潰れないのは、一重に彼女の直向きな努力の賜物であった。
そしてもう一人。佐々木楓は、かつて日本を席巻したロックバンドのフロントマンだった。二年前人気絶頂のなか突如解散を決めた理由は、歌えなくなったからだと過去に語っていた。
もともと好きで始めた音楽活動の筈が、名が知れ渡るにつれて多くの人の力や支えになっていることを知って怖くなったのだという。
それを知って、かつて一度だけ彼らのミュージックビデオを撮った事のある墨字は楓を仲間に引き込んだ。
自分の撮る映画には楓の作る音楽が必要で、大黒天での仕事はいわば彼をこの業界に引き留める為のものだった。
「ずっと待っていた。お前のような奴がこっち側に来るのを」
映画監督は利己主義を具現化したような生き物だ。
たった一つの作品のために多くの人を巻き込む事を厭わない。
身体の内側に潜むエゴイズムの化物が、また一人うら若き少女をこちら側の世界に引き込めと囁いてくる。
「黒山墨字、映画監督だ。お前は?」
「夜凪景、役者」
☆☆☆
「場所が場所だから基本的には信用したけれど」
精緻な人形の様に整った容姿をした黒髪の少女の言葉。それを聞いてスタジオ大黒天助監督、柊雪はほっと胸を撫で下ろす。
久々の仕事に予定時刻より遅れてきた墨字が、うら若き女子高生を連れて来た時は流石にドン引きだった。
『もしもし、ポリスメン?』
『おいこら雪っ、通報はやめろ』
『話は署でゆっくり聞いてくださいますよ、誘拐犯』
『俺はこいつに芝居を教えてやるだけだ!』
『犯罪者はみんなそう言うんですよ』
『んな訳あるか!』
どうやら彼女が件の原石ちゃんらしい。
原石ちゃん……もとい夜凪景ちゃんの視線の先にあるのは、白と黒を基調としたキッチンのセットとそれを取り囲む数多くの撮影器具と大人達。
撮影準備でごった返す現場の中央で長机とパイプ椅子を並べて、雪と墨字は景と向かい合うようにして席についていた。
「では改めて、スタジオ大黒天の黒山と柊です。今はまだ三人しか人が居ないけど、一応ちゃんとした会社なの」
「……三人? 二人じゃなくて?」
「うーん、せんぱいもう来ても良い筈なのになぁ」
現場に向かう前。スタジオ大黒天で楓の言っていた事を思い出す。
『……ここは俺に任せて先に行け』
『意訳すると、徹夜で眠気が限界だから先に現場行っててって事ですか?』
『アッハイ(´・ω・`)』
敵に囲まれた勇者の仲間が全滅を避ける為に、死を覚悟で勇者を助ける時のセリフNo.1のセリフだ。
まかり間違っても来客用のソファに横になって、毛布に包まった人の言う台詞では無かった。
一応会社を出る前にタイマーを設定しておいた雪だが、もしかしたらまだ眠りこけている可能性がある。
待ち人の姿を探して琥珀色の瞳が人の出入りの激しい搬入口を見つめていると、キーボードケースを携えた細身の男性がゆったりとした足取りで現場入りしてくる。
視線が合い手招きをすると、彼我の距離は縮まった。
「はよーざいまーす」
「うぃーす」
「おはようございます」
「……?!」
楓の気怠げな挨拶に墨字と雪は応える。
太陽は既に天頂を通過しお昼過ぎと言ってもいい時間帯にも関わらず、一日の始まりを告げる挨拶に景が戸惑っているのが分かる。
「ふふ、夜凪さん……この業界ではどんな時間帯でも挨拶はおはようございますなんだよ」
「不思議……何故かしら?」
「それはこの世界で二番目に意味のない質問だ、少女よ」
「なら一番目は何よ?」
「その質問d……イテッ」
「分からないんなら黙ってて下さいね、せんぱい」
雪が丸めた企画書で楓の頭をこづくと、楓は大人しくなった。隙あらば小ボケを挟んでくるのは楓の悪癖の一つだと、雪は内心で溜息を吐く。
目にかかる程度の長さで切り揃えられている髪は、脱色剤で色素を抜いていてプラチナブロンドに近い。バンドを解散する二年前までは黒髪だったが、本人曰く周囲には過去を知られていない方がやりやすいのだと言う。
人並みに焼けていた肌はこの二年間の仕事で青白く、激しいライブで締まっていた身体は痩せ細ってしまった。正体を知る者以外は、『カエデ』と『佐々木楓』を結びつけることは難しいだろう。
何か事情があるのか楽曲の印税は使っていない様で、雪と同じく貧しい生活を送っている不思議な人だ。
「ご、ごめんね夜凪さん。せんぱいの変なボケは無視してくれていいから……あっ、紹介するね! この人がウチのサウンドクリエイターの佐々木楓。せんぱい、彼女が夜凪景さんです」
「よろしくね、原石ちゃん」
「……げ、原石?」
「君が墨字が見つけた役者の原石なんだろ?」
「その通り、そしてこれから荒削りの原石を主演にCMを撮ってやる」
景は戸惑いながらも、楓の差し出した手をとって握手を交わす。一通り名前と顔が一致したタイミングで、頃合いを図ったかのように墨字は景をここに連れてきた理由を明かした。
景自身ほぼ拉致同然で無理やり連れてこられたことを鑑みて思うところはありそうだったが、さすがに主演CMとなると素直に墨字の言葉を聞いていた。
──父の日にシチューを──
新発売となるシチューのウェブCM。
初めて一人でキッチンに立った少女は、仕事から帰ってくる父のために慣れない手つきで手料理を作っている。
喜ぶ父の顔を思い浮かべながら、味見をして終わる。
「……とこんな感じの企画だが、ここで弊社のサウンドクリエーター様に二つほど連絡事項がある」
「あいたた、どうしよう墨字ポンポンが痛くなってきた」
「演出家に仮病を使うその根性は大したものだ……良い知らせと悪い知らせがあるが、どっちから聞きたい?」
「どっちも聞きたくない」
黒のパーカーに同系色のパンツ姿の楓が、何かを察したように腹痛を訴えている。
しかし演技に関してはずぶの素人である楓の芝居が、世界三大映画祭全てに入選している墨字の目を誤魔化せるはずもなくあっさりと看破された。南無。
「なら悪い知らせだが、今からここで一つ作曲をしてもらいたい」
「寝言は寝て言うものだぞクソ髭、絶対引き受けないからな!」
「ちなみに良い知らせは、この仕事は上手くいけば大金が入ってくる」
「ふぅ……オーケー引き受けた、今日もお髭がチャーミングだね黒ちゃん」
恐ろしく早い掌返し、雪でなければ見逃しちゃうかもしれない。
大金というワードに分かりやすく気をよくした楓は、意気揚々とノートパソコンにMIDIキーボードを接続しせっせと情報を打ち込みにかかる。
読んで字の如く現金な人だ。
撮影用に組まれた偽りのキッチンに立ち、説明が長いと墨字にグチる景とそれに噛み付く監督を宥めてカチンコを鳴らす。
さてさてあの黒山墨字の御眼鏡にかなった金の卵……お手並み拝見!
──チャチャチャッ! (手際よく人参の皮を剥く音)
──カカカカッ! (手際よく玉ねぎをみじん切りにする音)
──ボォォォォォン! (突然のフランベ)
「カァァァット!!!」
あれ、この撮影やばいかも……。
☆☆☆
伝説の料理人の如き腕前を見せた景に、現場は不信感に包まれる。
芝居というものを履き違えた景の演技は、信用で成立しているこの業界において拙かった。
やばいかも、このままでは雪達は干されてしまう。
「私父親に料理を作った事がないの……戻るべき過去が無いわ」
「この際相手は誰でもいい、初めて料理を作った日の事を思い出せ……俺が撮りたいのはお前の愛情、誰かの為に努力するお前が観たいんだ」
芝居とは何か、墨字にそう問われた景は思い出す事と答えた。
景は自らの記憶の海を探り、そして訥々とその日の事を語り出す。
カレーライスだった。
ずっと料理を作ってくれた人が突然いなくなって、弟妹は毎日泣いていた。
景はただ二人に笑って欲しくて、母親がよく作ってくれたカレーライスを作ろうと思ったそうだ。
包丁なんて初めて持ったものだから、二人は心配そうに景を見つめていて……。
瞳を閉じゆっくりと語られる景の思い出。その最中、まるでタイミングを図ったように、音楽が流れた。
初めは二本の静かなヴァイオリン。次にチェロの重低音。そしてヴィオラの落ち着いた音色。
弦楽四重奏だった。音色が重なり合うにつれ、次第に曲が厚みを増して初めて聴く筈なのに何処か懐かしくて切ない。
その音色に呼応するかの如く、次第に景の纏う雰囲気が変化する。
「……良い曲だなぁ」
「当たり前だ、仕事柄色んな作曲家を見てきたが……こと音楽に関して俺はアイツ以上の天才を知らない」
琥珀色の瞳が、満足げに机に突っ伏す楓の姿に目を細める。普段の所作からは考えられないほど、楓の作る音楽は繊細で酷く感情を揺さぶってくる。
思わず溢れでた言葉に、隣にいた墨字が尊大な言葉で肯定した。
良くも悪くも嘘がつけない性格の墨字にさえ認めさせてしまう事こそ、楓に類稀な天賦の才がある事の証左だ。
雑誌でコラムを書いているような音楽評論家が、演奏技術等を持ち出して素人には『分からない音楽』がさも崇高であるように語る。
しかし本当に素晴らしい音楽は、たった一小節たったワンフレーズを耳にしただけで良いものだと分かってしまうものだ。
楓の音楽に引っ張られるように、景の動きが変わった。
急に子供みたいに不器用になって、玉ねぎを切る際に包丁で指を切ってしまう。
「とても痛かったけれど、二人が泣くといけないから笑ってごまかしたの」
景の演技に息を呑まれ静まりかえった空間に、四重奏の音色だけが響いている。
それはまるで人が変わってようで……。
やはりこの人の、墨字の判断は正しかったのだと実感させられる。
──この子は本物だ。
一体どんな半生を過ごせば、こんな表情が出来るのだろう。
「味は?」
「コゲて苦くて皆で笑っちゃった」
☆☆☆
「流石は黒山墨字と言いましょうか」
「たった一日であの子から、こんなにも繊細な表情を引き出すなんてね……」
スターズは都内の一等地に事務所を構えた、業界でその名を知らない者はいない程の一流芸能プロダクションだ。
広大な敷地面積を使い建造された、質の良い高層ビル。
その最上階の一室でスターズの全てを束ねる女社長、星アリサはモニターに映し出された少女の変貌に下唇を軽く噛んだ。
「とても先のオーディションと、同じ人間とは思えませんね」
「役者のポテンシャルを、最大限に引き出すのが演出家の仕事……公開前に手に入れておいてよかったわ」
液晶画面に繰り返し映し出されているのは、黒山墨字率いるスタジオ大黒天が制作をした食品関係のWEBコマーシャルだ。
『父の日にシチューを』というテロップの後に、覚束ない手つきで包丁を握る黒髪の少女が映されている。
彼女……夜凪景は先日スターズで行われた新人発掘オーディションで、最終選考まで残り迫真の演技を披露してみせた。メソッド演技と呼ばれる得難い技術を独自に身につけた景を、たった一日で墨字は見事に使いこなしてみせたのだ。
役者にとって相乗効果を生み出すのが、演出家の役割だ。演出家の腕が良ければそれだけ、役者は素晴らしい演技をする事が出来る。
──もっとも、必ずしもそれが役者にとって幸せとは限らないけれど。
かつてどんな色にでも染まる事ができた天才女優は、それ故に自らの色を忘れてしまったのだから。
「スミス」
「清水です」
「我々も早々に手を打たなければいけないわね」
アリサのその言葉に、屈強な身体に浅黒い肌の男、清水は僅かに目を見開いたようだ。
「カンヌ・ヴェネツィア・ベルリンと世界三大映画祭全てに入賞している稀有な日本人、黒山墨字……それでも未だ国内で彼を無名たらしめているのは、彼が今まで金も名声も求めていなかったから」
脳裏にあの尊大な髭面が浮かぶ。
『役者としての幸福を思い出させる』なんて事を言っていたけれど、アリサがスターズの子供達に与えたいのは役者としてではなくて人生の幸福だ。
「それに……まさかこんな所に居たなんてね」
一流事務所の社長たるアリサが業界の人脈を使って入手した、未公開のWEBコマーシャル。
スタッフのミスで恐らくは使われないであろう画に、とある人物が映り込んでいた。
線の細い身体。色素の抜けた白金の髪。
アリサの記憶にある二年前の姿とは幾分か変わってしまったが、かつて彼を育てデビューさせた彼女には彼の正体が一目でわかった。
いや、間違うはずがない。何故なら彼は、二年前までスターズに所属していたのだから。
二年前のスターズといえば、あの『AnP』の所属する事務所として有名だった。
AnPのカエデ。本名、佐々木楓。
彼は聴くものを一瞬で引き込む天才的なメロディセンスで、当時の音楽シーンを席巻した伝説的なバンドのフロントマンだった。
覚束ない手つきで包丁を握る少女の映像から流れる弦楽四重奏は、聴くものの感情を揺さぶってくる。まるでカエデの唄う曲のように。
「厄介よ……奴は野望のために私たちの業界を壊しに来るわ。そのための武器を手に入れてしまった」
夜凪景。
はっきり言って彼女は底が知れない。
メソッド演技。その役割を演じるために、その感情と呼応する自らの過去を追体験する演技法。
役者の中でもほんの一握りしか習得していないそれを、恐らく独学で極めた末恐ろしい少女。
彼女が墨字の元で育てられれば、恐らく同世代では右に出る者のいない役者へと成長するだろう。
黒山墨字。
彼は演出家として世界に通用する数少ない日本人だ。
そんな彼がどうしても撮りたい映画があるという。その為だけに日本に来て会社まで作って、理想の人材を集めている。
きっとそれが完成すれば、素晴らしい映画になるのだろう。
それこそ既存の業界を壊すくらい、鮮烈なものを。
一流の演出家が一流に育てた役者が主演を飾る映画。
そんなものに一流の音楽が……カエデが作る楽曲が加わったらどうなってしまうのだろう。
きっと傑作が生まれる。
他に類を見ないような傑作が生まれてしまう。
それを見た世間は過去の作品と比べて傑作を絶賛する。過去の役者と比べて夜凪景を称賛する。
その時、比較対象とされた作品に関わったものは……夜凪景と比較された役者は、果たして幸福と言えるのだろうか。
赤井ヒカリという少女がいた。
少女は3万人を超えるスターズの新人発掘オーディションにおいて、最終審査まで残っていた。
彼女は最終審査の直前に辞退し、赤井ヒカリに代わって最終審査に加わったのは夜凪景だった。
圧倒的な才能の差からは絶望が生まれる。
黒山墨字が業界を壊すということは、つまりそういう事なのだろう。
☆☆☆
撮影終了後に景を自宅へと送り届けた後、雪は楓と墨字と共にスタジオ大黒天へと戻ってきた。
帰社してすぐに所用があると言って墨字が出て行った為、現在ここには雪と楓の二人しかいない。
到着してすぐに来客用ソファにダイブした楓に、雪は困ったような微笑みを浮かべた。いつもなら小言の一つでもいっていた所だが、今日の楓は本当に頑張っていたから見逃す形となった。
「Fooo⤴︎ 疲れたぁぁぁ!」
「お疲れ様でした、せんぱい」
「今日は我ながら頑張った! 10段階評価で11はあげたいくらい、頑張った!」
「じゃあそれ、11段階評価ですよね」
雪は簡素なキッチン越しに、楓を労った。
雪の手元にはコーヒーサイフォンが置かれていて、漏斗からフラスコへと澄み切った褐色の液体が移ろっていき、室内がコーヒー特有の香りで満たされていく。
一般的なドリップ式と比べて淹れる時に手間が掛かるのだが、スタジオ大黒天にはこれしかないのだから無いものをねだっても仕方がない。ドリップ式を買うお金もない。
最後の一滴が雫となり、褐色の海に波紋が広がる。
それを契機にして、雪はフラスコをサイフォンから分離させる。マグカップに出来上がったコーヒーを注ぐと、白い湯気が渦を巻いて立ち昇り天井へと消えていく。
出来上がったものを楓に手渡して、雪も対面のソファに腰掛けた。
「どーぞ、せんぱい」
「ありがたき幸せ」
「はい、どういたしまして」
しばらく嬉しそうにコーヒーを飲む楓だったが、何か思いついた様にマグカップをテーブルに置いた。
「そうだ! 雪っ」
「今度は何ですか? せんぱい」
「今日の仕事で大分お金も入った事だし、金銭的な余裕は出てきただろ」
「そうですね」
「だから明日は休んでもいい?」
「ダメですね」
「……えっ」
楓はまさか断られるとは夢にも思っていなかったのか、目を丸くして驚いている。
訳がわからないと言った様子の楓に、雪はため息を一つ吐いて口を開く。
「あのですね、せんぱい。今まで私たちがどうして外注の仕事をしていたか分かりますか?」
「あの髭男が仕事を選り好みして、全然依頼引き受けないからだろ?」
「その通りです、でも今日夜凪さんがウチの事務所に所属しました。彼女を役者として育てる為には何をしたらいいですか?」
「今日みたいに制作の依頼を受けて場数を踏ませるとか?」
墨字が現在活躍している俳優では納得出来ない、そう言ってずっと探し続けてきて、やっと見つけた原石が夜凪景だ。
当然成長させる為にあらゆる手を尽くすだろう。
「そうですね。依頼を受けるとどうなりますか?」
「……仕事が増える」
「仕事が増えると?」
「……休みが無くなる」
「その通りです」
「くぁwせdrftgyふじこlp」
☆☆☆
俺はもう限界かもしれない。
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第二話
スタジオ大黒天の美人制作、柊雪はいつもの様に珈琲を入れながら物思いに耽っていた。
悩みの種はもっぱら仕事の事であった。
悩みの種その壱!
原石ちゃんこと夜凪景ちゃん。ウチに所属した初めての俳優。ぴちぴち現役JKの超美人さんで、何よりその才能は化け物級。
なのだが少しだけ変わった性格をしているせいか周囲から誤解を招きやすく、ちょっとこの先大丈夫かなぁと思っていたりする。
ぽたぽたと音を響かせる褐色の液体が落ちきって、珈琲の完成を知らせてくる。
出来上がった珈琲をマグカップに注ぐと、雪はそれを持ってキッチンを離れた。
「や、やっと……終わった」
「お疲れ様です、せんぱい」
三つあるデスクのうちの一つ。MIDIキーボードという楽曲制作に必要な機材が置かれたデスクに、マグカップを持って近づく。
脱色剤で色素をバシバシに抜いた白金の髪に線の細い身体。
せんぱい改め佐々木楓は、スタジオ大黒天のサウンドクリエイターである。
本日楓が行っていたのは楽曲制作。
先日時代劇のエキストラに参加した景がベテラン俳優に蹴りをかます等々の無茶をした埋め合わせとして、楓は帽子が印象的な監督の仕事を手伝わされていた。
「せんぱい、珈琲が出来ましたよ」
「ゴホゴホ、いつもすまないねぇ、雪 こんな時、おっかさんが居てくれてたら……」
「や、これはお薬でもお粥でもないですし、せんぱいのお母さんまだ普通に元気ですから」
椅子を回転させて振り返る楓にマグカップを差し出す。
いつも通りの楓の小ボケに、仕方ないなぁといった様子で雪はツッコミを入れた。
幼馴染の関係にある雪と楓の両親は仲が良く、楓の母親は雪の実家の二軒隣で元気に過ごしていることだろう。
嬉しそうに珈琲を受け取る楓に、雪は小さく息を吐いた。
──調子だけはいいんだから。
冗談ばかり言って雪を困らせる楓は、悩みの種その弐である。
「あ、そういえば豆良いのに変えたんですよ、分かりますか?」
「雪、俺はこうみえてもコーヒーには少しうるさいんだぜ」
「なるほど、では食レポをしてみて下さい」
「ふん、いいだろう…… アチチ」
何でちょっと偉そうなんだろう。
あ、火傷した。何だろう、締まらないなぁ。
「うーん、これはコーヒーの……いや苦味の……あっ、口の中がコーヒー畑やぁ!」
「そのまんまだし、下手くそですね」
「ぐぬぬ」
某グルメリポーター風のコメントは、平凡な一言に尽きる。雪のせんぱいは、音楽という才能以外はポンコツらしい。天は二物を与えずとはよく言ったものだ。
「せんぱい、明日は久々にお休みですね」
「ああ、そういえばそうだったか……三十連勤した辺りから、次の仕事をこなす事しか考えてなかったわ」
「……じゃあ明後日の予定は何もないんですか?」
「特にないなぁ」
「ならココに一緒に行きませんか?」
雪はそういって、二枚のチケットを取り出し楓に見せる。
それは舞台演劇のチケットだった。タイトルを、『そのマタギ』という。
世界に通用する数少ない演劇界の重鎮の一人。舞台演出家、巌裕次郎。そのマタギは劇団天球という巌裕次郎が集めた選りすぐりの役者達によって演じられ、それを観劇する事は演出家を志す雪にとっては非常に興味をそそられるものであった。
「俺舞台とか見てもあんまわかんないぞ」
「ゔっ……別にいいじゃないですか、偶にはかわいい後輩のお願い聞いてくださいよ」
「まぁ予定も特にないし付き合うよ。で、何時からにする?」
雪達の業界はまず間違いなく不定休だ。先方の都合やスケジュールの変更は良くあることで週休2日なんて夢のまた夢である。
なので友人と休みの予定が合う事はかなりのレアケースであり、たまの休日は楓と過ごす事が必然的に多かった。
「午後の公演なので、お昼からにしましょうか……あ、ランチ奢ってください」
「えー、じゃあマックでいいか?」
「マクドナルドですか? 普通に嫌です」
「や、マックスバリュー」
「マックスバリューをマックと略す人はこの世にせんぱいだけですよ!」
お惣菜を食べるつもりなの? この人は!
「なら、鎌倉パスタは?」
「まぁ、ギリギリ良しとしましょう」
ちょっと子供っぽい気もするけど、まぁ安くて美味しいので雪は妥協した。本当はイタリアンとか食べたかったけど!
☆☆☆
それから三日が経過して、またまたスタジオ大黒天である。
雪は回転式のオフィスチェアに逆さ向きに座って、背もたれに顎を付けながら俳優の原石ちゃんに向かって語りかけていた。
いやもう原石ちゃんというあだ名は適切では無いのかもしれない。
つい先日まで夜凪景はスターズが主催するデスアイランドという映画の撮影の為、離島で暮らす日々を過ごしていた。
無人島に漂流した二十四人の生徒達が最後の一人になるまで殺し合う、所謂デスゲームもの。タイトルのまんまである。
景の話を聞く限り、天候のトラブルに見舞われたものの大成功でクランクアップを迎えたらしい。
芸歴たった数ヶ月で映画の主役級を演じきってしまうのだから、彼女の成長速度は異常である。
「……でね巌裕次郎が見出したのが明神阿良也なの。巌さんのお気に入りなだけあって色んな賞を総なめしててね、テレビ俳優ほどの知名度は無いかもだけどとんでもない実力者だよ」
「…………」
「舞台もすごかったでしょ?」
「…………うん」
琥珀色の視線の先には、スタジオ大黒天に急遽設置された児童スペースがある。
広さは2畳ほどでクッションやぬいぐるみがいくつか置かれて、子供が怪我をしないように配慮されていた。
そこにいるのは景と双子の妹弟。
ルイとレイは景の家族で、彼女の家庭環境を鑑みスタジオ大黒天で面倒を見る事が多かった。
それはともかくとして、雪の言葉に対する景の応答はひどく鈍かった。
「何でそんなテンション低いの!? 私も阿良也の舞台見たかったの我慢して、チケットけいちゃんのデートに譲ったのに!! 」
そう。雪が楽しみにしていた舞台演劇のチケットは、楓と約束を取り付けた次の日に、悩みの種その参である黒山墨字によって景に渡ってしまったのだ。
翌日予定の空いてしまった雪と楓は、お昼にパスタ食べて映画見てボーリングして安い居酒屋でちょっと飲んで解散した。なんだこれ。
「本当に凄かったわ。千代子ちゃんのお芝居は画面の向こうで輝いてる感じでしょ、綺麗すぎて手が届かない感じ。でも阿良也くんは違った、彼が泣くと悲しくて彼が笑うと嬉しくて、
どうやら景も阿良也の芝居がどのようなものかは見てきたらしい。
そもそも映画俳優と舞台俳優では役者の種類が違う。
初めてみる本物の舞台俳優に、景はひどく感銘を受けたようだった。
「なのに実際会ってみたら失礼なセクハラ男だったのよ! 舞台の上では素敵だったのに騙された気分だわ!」
「あーそれで不機嫌だったのね……」
「悔しいわ……私あんなお芝居できないわ」
「できねーじゃねーよ、するんだよ」
天才と呼ばれるものは人より優れた側面が存在するが、反面どこか変わった一面も兼ね備えているものだ。
景の話によると阿良也は意外と色を好む性格なのかもしれない。
どこか不機嫌そうな声に振り向くと、自らのデスクで作業をしていた黒山墨字が声をかけてきた。
墨字によると阿良也にあって景に欠けているものは、観客への意識らしい。
映画はカメラが役者に寄り添う。役者は内面だけに集中していても、かえってそれが武器になりえる。しかし演劇はそうはいかない。舞台上にモニターやカメラはなく、あるのは演者とセットのみ。自らの表現をダイレクトに観客に届けなければいけない。
「つーことで新しく仕事を紹介してやる」
「仕事!? お芝居の!? 私オーディション受けてないのに!」
「良い鼻を持った演出家は時にオーディションなんて必要としないもんだ、阿良也の芝居に近づきてぇならココに行け」
お膳立ては済んであると続ける墨字。
ずっと探していた才能の為か、墨字の手際は迅速であった。
墨字の示す場所とは、言わずもがな劇団天球のことだ。阿良也を筆頭に巌裕次郎が認めた役者達が数多く在籍している。
景に場所の書かれた紙切れを手渡したのち、墨字の矛先は自らのデスクで取引先とメールのやり取りを行なっていた金髪の青年に向かった。
「ちなみに楓も音響のサポートとして劇団天球にいってもらうからな」
「オーウ、ワタシニホンゴワカリマセーン」
「Enough talking. Shut up and follow my orders *1」
「…………Oh my god*2」
金髪の青年こと佐々木楓は、肩をすくめてひどくわざとらしい片言日本語で応答する。
それに対して墨字は発音の良い世界共通語で返した。世界を渡り歩いてきただけあって墨字の英語はネイティブのそれに近い。
綺麗に返された楓は、神に嘆き自らの不幸を呪った。
本日もスタジオ大黒天は賑やかである。
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第三話
線の細い金髪の男と、うら若き黒髪の少女はスタジオ大黒天の社用車で東京の某所を走る。
運転席に座る金髪の男は佐々木楓。かつては日本の音楽シーンを席巻した人気バンドのフロントマンであったが、今は小さな制作スタジオのサウンドクリエイターとして、サービス残業に精を出してる。つらい。
黒髪の少女は夜凪景。スタジオ大黒天の代表、黒山墨字にスカウトされた現役女子高生兼役者である。漫画を実写化したデスアイランドではオリジナルキャラを見事に演じきり、役者として徐々に頭角を表してきた。すごい。
そんな二人が向かう先は、劇団天球。世界的な演出家である巌裕次郎が代表を務める日本有数の劇団である。
景は客演として、楓は外注の音響スタッフとして劇団天球に雇われる事となった。
「劇団天球ってどんな所なのかしら?」
「あの巌裕次郎の劇団だから、日本ではトップクラスの知名度だな……そもそも劇団で売れるのって凄い難しいんだ」
「なぜかしら?」
道すがら。景が楓に訪ねてくる。
大黒天に来るまではオーディションに落ちていたという景だが、ウチにきてからは初出演がwebCM。その後映画オーディションにも受かり今や話題の役者である。
そんな景は楓の言葉に疑問を持ったようだ。
クリエイターの中じゃ有名な言葉で、役者と乞食は三日たったらやめられないというものがある。
役者になる為には免許や資格が存在しない。
収入の殆どをバイトから得ているような者が、端役しか演じる事が出来ないにしても、芝居を続けている限りは役者を名乗れてしまう。
そうやって惰性的に役者を続けてしまうことを意味する言葉である。
そんな役者が蔓延る演劇の世界はピラミッド構造だ。
劇団だけで食べていける者は一握り。
下位層の殆どがバイトや仕送りで食い繋ぎ、団員のカンパで劇団を成立させている所が殆ど。
動員観客数が千人を越えればちょっとしたマイナーメジャーと呼ばれてしまうほどに、劇団の運営は難しい。
そんな界隈で公演すればチケットは即完売、メディアにも取り上げられるほどの劇団天球はピラミッドの頂上に坐する一線級の劇団だ。
大黒天で働き出して身につけた知識を掻い摘んで教えると、景は興味深そうにうんうんと首肯していた。
「ところでササキさん」
「なんだよ後輩」
「さっきから運転がとてもぎこちないのだけれど、免許持ってるのよね」
「もちろん持ってるさ。しかも無事故無違反のゴールド免許……ただ」
「ん? なによ」
「教習車以外運転した事がない」
「ペーパーだったの?!」
☆☆☆
景と楓はそれぞれ演者と裏方での顔合わせを終えて、スタジオ大黒天へと帰ってきた。
楓の方は滞りなく平穏に済んだのだが、景は何やら一筋縄ではいかなかったようだ。実際に帰る道途、うんうんと悩んでいた。
「帰ったぞー! ただいまー!」
「ふー……疲れたわ」
「あ、おかえりなさーい! せんぱい、景ちゃん」
オンボロの扉を開けると、年季の入った仕事場が姿を表す。
ふわりとした微笑みで出迎えてくれたのは柊雪。スタジオ大黒天では制作を任されている。
二人を出迎えた後、雪はパタパタとキッチンに向かった。
今お茶入れますねーという柔らかい声音が、キッチンから響いてくる。
そして五分もしないうちに、お盆に三つの湯飲みを乗せて来客用のソファへと持ってきてくれた。
ソファに座り夜凪共々お礼を述べて、茶をすする。
おいしい。
制作進行という役割上、スケジュールが遅れていれば雪は容赦なく残業をしいてくる。
しかし仕事さえこなしていれば雪はとても優しい。
まるでDV夫のような飴と鞭。
楓がこのブラックスタジオを辞める事が出来ない原因の一つでもあった。
「どうでしたか? 劇団天球」
「聞いてくれ、雪! あそこは素晴らしい所だ、ホワイト企業だ」
「あー、まぁ大手ですから、お金も人材も余裕もあるんでしょうね」
「ああ……大黒天に無いものが全部あった」
余裕を持って無理なく組まれた公演までのスケジュール。
某有名な青森をディスった曲ではないが、人手も無エ! 余裕も無エ! 毎日残業すーるする♪ な大黒天とは偉い違いだった。
なにこれ、最悪の職場すぎる。
「何処が金も人手も余裕も無い制作スタジオだぁ?!」
「げ、墨字居たのかよ」
「いいか? 他所様にはやりがいのある職場って言うんだぞ、分かってるな? あと労基には行くなよ?」
「はぁ……それブラック企業の定型文なんだよ」
紙を丸め筒状にしたもので頭をこづかれる。
振り向くとそこに居たのは、スタジオ大黒天代表の黒山墨字だった。
墨字の言葉に対し、楓は深いため息が出た。問題点を口に出したところですぐに改善には至らないからである。
もう諦めたといったほうがいいかもしれない。
かろうじてスタジオ大黒天の良いところを上げるなら、職場関係が良好なところだろう。
墨字も根っから悪い奴では無いし、雪も仕事さえしていれば優しい。
景に至っては付き合いが浅い為まだ読めない所はあるが、楓からみれば演技好きのかわいい高校生だ。
「入る事務所を間違えたかしら」
「手遅れだ、後輩」
「あはは、まぁお給料が毎月出るようになっただけウチも成長しましたよね」
この業界では事務所を変える事や独立する事は簡単に出来るものではない。
つまり景の後悔は、楓が言うようにまさに手遅れだった。
しかし雪の言うように大黒天の労働環境が、かなり改善されたのは間違いない。
景が大黒天に入ってからというもの、大黒天へのオファーが増え毎月給料が支払われるようになったのだ。
ほんとによかった。
涙ちょちょ切れるほどうれしい。
「で、さっきから夜凪は何悩んでんだ?」
「う……どうして分かったの? 墨字さん」
「そんな腕抱えて悩んでたら、俺じゃなくても分かる。話してみろよ」
「実は──」
景曰く、芝居がリアル過ぎるとダメ出しを受けたらしい。
初顔合わせで即興劇を披露した際に、景の芝居は共演者にしか伝わらなかった。
感情の激しい派手なモノ以外の芝居は、景は大根役者なのだそうだ。
「でもさ墨字、webCMの時は夜凪ちゃんと演技出来てたじゃん」
「俺から言わせればあの芝居も半端だが……テレビならカメラが役者に寄り添ってくれるからな。その分芝居が伝わりやすいんだよ、その分マシに見えるってだけだ」
「ふ、ふーん」
「あっせんぱい、分かってないのに分かってるフリしてますね」
雪ちゃん、そこは分かってても分からないフリして欲しかったな。
かつては日本を席巻する有名バンドのフロントマンとして活動していたことから、芸事に携わる界隈については楓も少しは分かる。
しかしながら音楽以外に関しては、専門的な事は門外漢。
芝居についても素人に少し毛が生えた程度の知識しか持ち合わせていなかった。
チラリと横を見ると、景の黒く澄んだ瞳が胡乱気に此方を見つめている。
知ったかぶってごめんなさい。
☆☆☆
星アキラ熱愛ではなく共演?
胸を撫で下ろしている女性ファンも多いのではないでしょうか?
先日明神阿良也さんの舞台挨拶で謎の美少女を連れた姿を目撃された星アキラさんでしたが、あれは今秋公開予定の舞台の宣伝だったという事で──
青く透明な瞳に映るのは、最新のスマートフォンの液晶画面。
写っているネット記事には、先日の夜凪景とのスキャンダル。
スターズに所属する星アキラの俳優生命を守る為に、アキラは巌裕次郎が代表を務める劇団天球に放り込まれた。
「……やっぱり歓迎はされなかったな」
初日の稽古を終えたアキラは稽古場から少し離れた休憩所に、座り込んでいた。
世界で通用する演出家である巌裕次郎に認められた舞台役者達は、アキラを良くは思わないだろう。
受ける仕事は特撮や若者に受けるよう狙って作られたドラマが殆ど。
親であり所属事務所の社長である星アリサによって引かれたレールを唯唯諾諾と進んでいるアキラは、明神阿良也に言わせれば臭いのしない役者と揶揄されるのも仕方の無い事なのかもしれない。
一流の演出家。
一流の役者。
彼らと一緒に芝居をする機会はこれを逃したらもう訪れる事は無いだろう。
たとえそれが夜凪景とのスキャンダルを揉み消すための政治的なキャスティングであったとしても、これはチャンスだ。
浅く息を吸って稽古場へと戻ろうとした時、不意に聞き覚えのある何処か懐かしい音が聞こえてきた。
音の行方を辿って劇団天球の施設を巡っていくと、俗に裏方と呼ばれる製作部へとたどり着く。
小道具や舞台装置などが置かれた廊下を抜けた先にあったのは小会議室。
窓やドアが開け放たれ音が漏れている室内には、巌裕次郎を筆頭に数人がパソコンやノートを広げて話し合っていた。
おそらく劇団天球のスタッフだろう人達の中に、見覚えのある人物を見つけた。
「……カエデさん、ですよね? どうして此処に?!」
「げ、アキラ?」
黒だった髪は、脱色剤で色素の抜け落ちた金髪に。
鍛えられていた身体は、線が細くなってしまっていて。
健康的だった肌は、日に当たっていないのか白くなっていた。
しかしそれでもアキラの瞳には、彼が二年前まで同じスターズの事務所に所属していた『AnP』のカエデだという事を確信していた。
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第四話
時計の針を楓がアキラと遭遇する前に巻き戻す。
齢と共に筋力の衰えたやせ細った老体。杖に縋らなければ歩くことさえ満足にできない病に蝕まれた身でありながら、しかし切れ長の瞳だけは若い頃と変わることなく、もしかすればそれ以上に強烈な意思を伴っていた。
世界に通じる舞台演出家である巌裕次郎の仕事は、何も役者経験も人生経験も浅い青二才達の演技指導をするだけではない。
演技指導以外の主な仕事の一つが、外注のスタッフとのイメージのすり合わせである。
外注スタッフは大きく分けて、舞台監督、美術、照明、そして音響。
演劇の世界を知らない者は、すべて劇団員だけで一つの舞台を公演すると思っているかもしれない。
しかし舞台というものは存外、多くの人間が関わっているものだ。
例えば舞台演出家である裕次郎と、外注のスタッフである舞台監督。役職は似てるようで、本質は全く異なる。
あるシーンで沈む夕陽を背景にすると決めるのが舞台演出家である裕次郎の役割。
実際に裕次郎が思い描く夕陽を、舞台に再現するのが舞台監督である。
夕陽一つとっても、哀愁を秘めた夕陽、不気味な夕焼け、雲間から覗く淡い陽光と、様々な演出がある。
外注のスタッフはそういった演出の知識とそれを実行する技術を持っている。
付け焼刃や独学で劇団員が覚えれば形にはなるが、本職には敵わない。
クオリティの高い舞台を作り上げるには外注のスタッフの協力が必要不可欠であり、特定の技術を持つ彼ら専門家を特殊技能職と呼ぶ。
稽古場での演技指導を終えたのち、裕次郎は稽古場から離れた会議室で外注のスタッフとの打ち合わせを行っていた。
裕次郎がイメージする演出を実現するべく、舞台監督美術照明音響のそれぞれの代表四人が集まり予算の範囲内で最大限に出来る事を打ち合わせていく。
簡素な折り畳み式の長テーブルが正方形になる様に並べられた部屋。
裕次郎を上座に、外注スタッフ代表の四人は適度に距離を開けながら席についていた。
四十代後半である舞台監督の男。二十代後半から三十代前半の美術と照明の女性二人。
彼等に比べ音響を務める男はかなり若い。
他の三人が手帳や台本を広げるなか、その男だけはノートパソコンとそれに繋がる電子鍵盤をテーブルに鎮座させていた。
「じゃあ次はジョバンニとカムパネルラが車窓から、銀河を眺めるシーンだ」
「第二幕最初の山場と言えるシーンですが、舞台監督の立場からすればあまり凝った装置は作らない方がいいと思いますね」
「そうだな……強いて言えば音響だが、佐々木」
裕次郎が振った議題に関して、舞台監督の男が彼の立場から意見を具申する。
このシーンに豪奢な舞台装置は必要ない。それどころか邪魔にすらなつてしまうだろう。
何故ならジョバンニとカムパネルラを演じる二人が阿良也と景、突出した才能を持つ役者達だからだ。
手を加えられるのは音響くらいのもので、裕次郎は音響担当の外注スタッフである佐々木楓に問いかけた。
「あー、じゃあちょっと今弾いてみましょうか」
「準備がいいな、事前に考えて来ていたのか?」
「いや考えてないっすよ。今日な打ち合わせ聞いたら、大体のイメージ固まってきたんで」
まるで事前に用意していたかのような楓の言葉に、舞台監督が関心したように問いかけた。
しかしそうではないようだ。
小一時間しか経っていないこの会議の間で掴んだ作品のイメージを基にして、一曲弾いてみるらしい。つまりは即興という事だ。
「じゃあ始めます」
淡々と。
何の気負いもなく、柔らかな運指で楓は演奏を始めた。
ハ長調。
明るく真っ白なまるで初めて見る銀河に夢中になっているジョバンニを想起させるような主旋律。
それを引き立てる副旋律には何処か陰のあってでも注意して聞かなければ気づかない。繊細で透き通る音は、裕次郎が思い描くカムパネルラそのもの。
「おいおい、まじかよ」
「巌さん、本当に即興で弾いてるんですよね?」
「……ああ」
──とんでもない才能だ。
たったワンフレーズを耳にしただけで、楓の作る音楽は演出家として音楽に精通する裕次郎から見ても、突出したサウンドクリエイターである事が分かった。
即興で情景を想起させるようなメロディラインを奏でる音楽性。
更に恐ろしいのは彼の音楽は素人が聴いても、良い曲だと思わせる所にあるのだろう。
裕次郎と同じように音楽には多少精通する舞台監督の男だけでなく、あまり音楽に関しての造形が深くないであろう美術と照明の女性陣までが楓の奏でる音楽に息を呑んでいるのが何よりの証左だ。
一介のサウンドクリエイターの圧倒的な技量に、裕次郎を除く三人が驚くのも無理もない。
以前までの面影が無いが、佐々木楓は二年前まで日本を席巻する人気バンドのフロントマンであったのだから。
裕次郎でさえ楓の所属するスタジオ大黒天の黒山墨字から、彼の経歴を事前に聞かされて居なければ三人同様に驚いていただろう。楓の経歴を知らなければ、裕次郎は彼に仕事を任せなかったのだが。
楓が一曲を引き終わる寸前のタイミングで会議室の扉が開かれる。
「……カエデさん、ですよね? どうして此処に?!」
「げ、アキラ?」
会議室に突如響く声。振り返った先にいた人物は星アキラだった。
精緻に整った容姿が驚愕に染まっている。
少し出てきますと言い半ば強引にアキラを外へと連れ出す楓。
知名度では若手俳優の中でもトップクラスのアキラとファーストネームで呼び合う仲のようだ。
たしか黒山の話では、バンド時代の所属事務所はアキラと同じスターズだったか。きっとその時の縁なのだろう。
「……巌さん彼、何者ですか?」
「さぁな」
一介のサウンドクリエーターにではあり得ないその様子に、裕次郎を除いた三人は楓の素性を訝しんでいた。
☆☆☆
楓に無理やり手を引かれ、会議室から人気のない踊り場へとアキラは連れ出される。
室内の公演を控えるスタッフ達の喧騒は、室外の日に照らされた踊り場には聞こえづらい。人に聞かれたくない話をするには持ってこいの場所だった。
楓は石の壁に背を預けて、バツの悪そうに人工的に色の抜かれた髪を弄る。そして浅く息を吸って、アキラに視線を合わせた。
「あー、久しぶりだな」
「まさか裏方になっているなんて思いませんでした……カエデさんが急にスターズから居なくなってから、二年経ちますね」
「あの時は悪かったな、何にも言わずに出ていって」
「何か理由があったんですよね……聞かせてくれませんか?」
「……ああ、────」
バンドを辞めた理由は単純で、歌おうとすると声が出なくなったからだという。
楓は音楽が好きで気の合う仲間とバンドを組んで、歌いたい歌を好きに歌っていた。
最初は東京の地下。三十人も客が入らないような小箱のライブハウスで、その日の飯代にもならないような安いギャラでしか貰えないにも関わらずステージに立てるだけで幸せだった。
それが口コミで徐々に有名になっていって、星アリサにスカウトされてから、楓のバンドは瞬く間に日本のミュージックシーンを席巻した。
きっと星アリサが母が見つけて居なくても、芸能界に五万といるスカウトマンが見つけ出していただろう。
それくらい楓の作る音楽は魅力的だった。
アリサに従い子役から長く芸能界にいるアキラは何人もの芸能人を見てきたが、こと音楽に於いて楓よりも才能のある者は居ないしこの先も現れないのではないかと思うほどだった。
だが売れていくにつれ、楓の音楽には沢山の人が関わるようになった。
楓が一つ曲を出すだけで何億円という金が動く。
CMやドラマのタイアップなども次々と決まっていき、スポンサーが増える度に制約が増えて歌えば歌うほどやりたい音楽が出来なくなっていった。
自分が曲を作らなければ、関わっている人達に迷惑が掛かる。
その頃から曲を作るのが苦痛になっていって、その数ヶ月後に歌う事が出来なくなった。
──勿体ないな。
楓の話を聞いてアキラがそう思ってしまうのは、アキラに才能が無いからなのだろうか。
「今は劇団天球で働いているんですか?」
「いいや、この仕事は外注の雇われ。今は最近やっと給料が出るようになった零細の制作スタジオで慎ましく働いてる」
「……大丈夫なんですか、そこ」
「……労基に訴えたら、1000ゼロで勝てるくらいにはブラックだな」
過去を語り終えて現状の愚痴を言う、楓の顔に後悔の色は見えない。
裏方の仕事では収入面も二年前の十分の一にも満たないだろうに、あっけらかんとしていた。
「今の仕事がやりづらくなるから、俺の正体は秘密にしておいてくれないかな?」
「それは構いませんし言いふらすような事はしませんけど、百城千世子……彼女には一度会ってあげて貰えませんか? スターズでカエデさんを一番慕っていたのは彼女ですから」
百城千世子。今のスターズを象徴する、若手トップの知名度を誇る女優。
彼女のデビュー作は、楓達のミュージックビデオだ。
ミリオンセラーが当たり前だった楓達の楽曲。そのミュージックビデオに百城千世子が起用された事で、彼女の名は一気に世間に広まることになる。
天上の楽園をモチーフにした楽曲の中で、誰よりも自分の魅せ方を知っている彼女は新人ながら無垢な天使を見事に演じ切る。
その後も度々、バンドのミュージックビデオに出演していった。
必然的に楓と千世子が接触する機会は多くなり、誰にでも笑顔でありながらしかし一定の境界線を踏み越えないようにしていた千世子が、唯一兄の様に慕っていた事をアキラは覚えている。
「怒ってるかな? 千世子のヤツ」
「……一時期はかなり荒れてました」
「この仕事がひと段落したら、顔見せに行くか」
事情があったとはいえ楓が居なくなってから、アキラは千世子は楽しそうに笑わなくなったように思う。
笑顔が求められる場面で機械的に酷く綺麗な微笑みを貼り付けているみたいで、何か大切な物が抜け落ちたような伽藍堂だった。
千世子は楓が居なくなった事を、どう思っているのだろうか。
「刺されないようにして下さいね」
「いやいやあの千世子がそんな事するわけ……え、刺されるの?」
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第五話
「ぷはぁぁぁ! 仕事終わりのビール、最高やん?」
「うわぁなんで関西弁使ってるんだろう……出身埼玉なのに」
「ん? 雪なんか言った?」
「いえ、おつかれさまでした。せんぱい」
スタジオ大黒天の本来は来客用であるソファに沈み込むように座る。
片手にビール、机におつまみ。
仕事もプライベートも充実するなんて、涙ちょちょぎれるほど嬉しい。
劇団天球のホワイト企業ぶりは、某洗剤メーカーもびっくりの驚きの白さ。
サウンドクリエイターとしての楓の仕事は、週の半分を楽曲制作に費やして残りの半分を劇団に赴き巌裕次郎をはじめとしたスタッフと打ち合わせをするというものだった。
労いの言葉をかけてくれる幼馴染であり同僚の雪が、片手にマグカップを持ちながら隣にちょこんと座る。楓とはまた別の外注の仕事を請け負っているらしく、日中は大黒天を離れ現場に向かうなど忙しそうにしていた。
雪とたわいもない話をしていると、玄関の扉が開いて当社唯一の役者である夜凪景が疲れ果てたような面持ちで帰ってきた。
「夜凪おつー」
「おつかれさまっ! 景ちゃん」
「……ええ、お疲れさま」
帰ってくるやいなや、楓と雪が座っている物と対面のソファに倒れ込む。
言葉にならない呻き声を上げながら必死に考えている様子から、劇団天球の演出家である巌裕次郎から出された感情表現の課題に苦しんでいるのだろう。
「景ちゃん、だいぶ苦戦してるね」
「ええ。今日で七日あと三日で感情表現の課題をクリアしないと降板なの私……早く何とかしないと」
景の言葉は続く。
曰く若手屈指の舞台俳優である明神阿良也は、偶に芝居を見てくれるがよく分からない事を言う。
巌裕次郎は台本に入るまではもう言うことはないと助言は無いそうだ。
そしてヒゲは一度アドバイスのようなものをくれてから、ニヤニヤするばかりで何も教えてくれないそうだ。
「まじかよ墨字最低だな」
「ええ、全くよ」
楓の言葉に景が同調する。
とそこで、隣に座る雪が何かを思い出したようにマグカップを置いた。
「あっそういえば今日墨字さんから言伝を預かったよ……景ちゃんがあまりに悩んでるなら、明日は井の頭公園で単発バイトさせろだって」
「意味が分からないわ」
「あはは、ちなみに私とせんぱいも付き添いでバイトしてこいってさ」
え、せっかくのオフなのに? わけがわからないよ。
☆☆☆
中央線に乗り吉祥寺駅で降りて、だいたい五分程度歩いた所に井の頭公園はある。
夏に煌めく新緑の若葉。木々の隙間から溢れる光が、首筋の汗を光らせる。
楓達三人はとある熱中症予防のキャンペーンイベントのスタッフとして、公園内で清涼飲料水を配る仕事をしていた。
雪はスタッフTシャツを着た裏方。景は青を基調にしたコスチュームを着た演者として。そして楓はクマともネコともわからない青いゆるキャラの着ぐるみを着て、うだる暑さの炎天下愛嬌を振りまいていた。
「ぬわああああん疲れたもおおおおん」
「……まさか着ぐるみ役の人が前日になって貰い事故、代役を音響スタッフをするはずだったせんぱいが勤めるとは思いませんでしたね。はいせんぱい、タオルどーぞ」
「さんきゅー、ゆっきー」
「ゆあうぇるかむ、あと変な呼び方しないでください
午前の分のイベントが終わり休憩時間。
木陰のベンチに燃え尽きたように座る楓の隣で、雪が気の毒そうに声を掛ける。
炎天下の中。風がほとんど通らない着ぐるみは、熱が篭りまくって信じられない暑さになる。
二年間ロクに身体を鍛えていないヒョロガリの楓にとって、着ぐるみとして接客をする事はとんでもないハードワークであった。
足を投げ出し服の襟元をパタパタとして涼をとっていると、やや深めに麦わら帽子を被った景がペットボトルを抱えて此方に向かってくる。
景の服装は簡素な白Tに半ズボンと、今時のJKとは思えない色気の無さ。ぼくの夏休みかな?
「お疲れさま二人とも、これ貰ったの。スタッフさんが飲んでいいって」
「わー、スポドリだ! ありがと景ちゃん」
「まじでありがとう夜凪──ゴクゴク……ぷはぁ生き返るぅぅっ!」
「どういたしまして。佐々木さん、今まで死んでたの?」
「人は働き過ぎると心が死んでしまうんだ、夜凪」
「そう、よく分からないわね」
景はスタッフからの差し入れのスポーツドリンクを、持ってきてくれたようだった。やさしい。
経口摂取で身体から失われたウォーターとスウェットを補給する。
ベンチに座る楓と雪は少しずつズレて、景が座るスペースを確保。楓はヒョロガリ雪も景も華奢な体躯をしている為、三人がベンチに座っても特段狭いという事はない。
そもそもこんな単発バイトが、景が直面している感情表現の課題を解決する糸口となるとあの黒ヒゲは本当に思っているのだろうか?
景に残されている時間は残り僅か。健気に頑張る後輩が、舞台を下されるというのは楓も良い気はしない。
「あ、せんぱい。イベント中、近寄ってきた子供にクソガキとか言っちゃ駄目ですよ……あの後フォローするの大変だったんですから」
「馬っ鹿。だってあいつら俺が着ぐるみなのを良い事に、殴ったりドロップキックしたり……非行に走る少年を正すのは大人の役目だろ」
「それは……確かにそうですけど、大前提として着ぐるみは喋っちゃいけないんですから、暴言も罵りもダメですからね」
「仕方ねぇ。二十三歳、拳で抵抗するわ」
「ぜったいダメです!」
光沢のある青を基調にした衣装に、同系色のキャップ。
後ろで縛った髪を揺らしながら、夜凪景は午後のイベントに臨んだ。
後にはスタッフTシャツの雪に手を引かれながら、猫にも熊にも見える青色の着ぐるみに身を包んだ楓が鉛でも付いているのかと思うくらい重そうな足取りでスタンバイを始める。とてもダルそう。
仕事内容は非常に簡単なものだ。
道行く人に熱中症対策の注意喚起と共にスポーツドリンクやプラスチックで出来た団扇を渡す。
この団扇には広告が載っていて、ジャンルで言えば街頭で行われるティッシュ配りと同じである。
イベントが始まると周囲は一定の賑わいを見せる。昼下がりということもあってか午前よりも盛況。幼稚園帰りだろうか子連れの親が多く、その子達の興味を引くのはスポーツドリンクや団扇よりも楓が扮する着ぐるみだ。
「わー、なにこいつ!」
「へんなのー!」
「退治してやろーぜ! おらぁっ!」
どうやらクマともネコとも付かない着ぐるみは、子供達の眼鏡には叶わなかったよう。楓はポカポカと叩かれている。ちなみに午前中に楓がキレかけた子供とはまた別の子供だ。
休憩時間の様子から見るに、楓はもう限界寸前。
うまくサポートしなければ、イベントが大惨事になる事は必至だ。
景は浅く息を吸って、子供達に近づく。
イメージは弟や妹に接する時のように。
子供達はまだ未熟で細かな感情の揺らぎを受け取る事は出来ない。
彼らが良い事をした時は、自分も嬉しいのだと一緒になって喜ぶ。
彼らが悪い事をした時は、自分は悲しいのだと眉を下げて悲しむ。
膝を折り、声色を震わせて。
自分は悲しんでいるのだという事が、この子達に伝わるように言葉を投げかける。
「ねぇ君たち……そんな事をしちゃダメ。クマにゃんが可哀想だよ」
ふと巌裕次郎の言葉が脳裏によぎる。
──芝居は妄想じゃねぇ。表現である事を知れ。
目の前の壁が崩れ落ちて、道が開けたような気がした。
ずっと芝居とは表現とは、もっと難しいものだと思っていたけれど。
ふと黒山墨字の言葉が脳裏によぎる。
──人間誰しも本能的に出来てる、忘れてるだけさ。
そう、忘れていただけだったんだ。
「ほら見て。 クマにゃん、痛がってるでしょ?」
そう言って楓に視線を送ると、ぎこちないながらもお腹をさする仕草をする。
本当はもっと自然に痛がれるといいけれど、楓は役者じゃないから仕方ない。
景の言葉は子供達に伝わったようだ。
彼らは着ぐるみにトテトテと近づくと、痛くしてごめんなさいと抱きついた。
「ちゃんと謝れて偉いね……よしよし」
ふわふわとした髪。子供達の頭を撫でる。
深く役を掴む事。それを丁寧に伝える事。
簡単な事だったんだ。
だって。
──こんなにも自然に感情を表現できる。
☆☆☆
その後。
滞りなくイベントの午後の部は終了した。
雪や他のスタッフ達が機材や天幕のパイプテントを片付けるなか、楓扮するクマにゃんはすっかり子供に懐かれてしまったようで、鉛のように重い足取りの中鬼ごっこに付き合わされている。
しかも鬼役。
「わっ! 久しぶり」
「千世子ちゃ──」
「しーっ! その名前で呼ばないで、周りにバレちゃうでしょ?」
景も撤収作業に入ろうとすると、後ろから声を掛けられる。
黒のキャスケットにサマーガーデン。伊達眼鏡にマスクの装いの百城千世子が、白く細い指を一本口元に当てて小さくウインクした。
「えっと……どうしてここに?」
「うん。たまたま今日撮ってるスタジオがこの近くでね、ちょっと気晴らしに来たら夜凪さんが居るんだもんビックリしたよ。夜凪さんはどうしてイベントスタッフなんてしてるの?」
「私はね芝居の深さと伝わりやすさの両立に悩んでいたら、黒山さんがここでバイトしてこいって」
「えぇっと……それってこのイベントスタッフのバイトで解決出来るものなの?」
「ええ、出来たの! ちょっと見ていてっ」
意気揚々と。
青いキャップを整えて、浅く息を吸う。
千世子から離れて、逃げる子供達ともうほぼ歩いて追いかける楓に近づいて、景は声を掛ける。
飽くまで自然体。
「みんなー! そろそろクマにゃんは帰らないといけない時間なの」
「えぇ、まだいいじゃんかよぉ」
「そうだ、お姉ちゃんも一緒にあそぼ!」
「わがままばっかり言っちゃダメだよ? ほら、みんなのお母さん達も待ってるじゃない、ほら、一緒にお母さんのところ行こう?」
そう言って子供達の手を引いて、母親の元まで連れて行く。
楓も一緒にと思って目線をやると、着ぐるみの手でバツマークを作り首をぶんぶんと横に振った。動けないみたい。
母親達に引き合わすと、子供達は家路へと着いていく。
名残惜しそうに振り返りながら手を振る子供達に、景は笑顔で振り返した。
「お疲れ様クマにゃん」
「だ……誰がクマにゃんだ。んで夜凪がさっき話してたの誰?」
「ん? 千世子ちゃんよ?」
「…………Oh no」
「ほら立って、雪さんに千世子ちゃんとちょっと話してくるから遅れるって言っておいてくれるかしら?」
「ウン、ワカッタ」
「なんで片言なのよ」
楓に声を掛けると、どうやらまだ少しは元気があるみたいだった。
千世子と話してから戻る事を伝えると、何故が動揺した様子。
もしかしたら楓は、千世子のファンなのかなと景は考えた。
有名だし可愛いしなんなら景も千世子のファンである為、珍しい事じゃない。
楓を連れて、後ろで手を組み待っている千世子の元に向かう。
「お疲れ様、夜凪さん……声は遠くであまり聞こえなかったけど、身振りとか表情で分かったよ。派手な芝居以外の演技も上手くなったんだね」
「そうなの! もっといっぱいお芝居を続けて上手くなるわ!」
「あはは、私も負けてられないなぁ」
流石は百城千世子。景達の世代を代表する女優の観察眼は、景の伝えたかった事を、しっかり汲み取ってくれたようだ。
負けてないと綺麗に微笑んでいた千世子が、居心地が悪そうにしていた着ぐるみもとい楓に向く。
「着ぐるみさんもお疲れ様でした、随分疲れていたみたいですけど、大丈夫ですか?」
気遣うような千世子の声に、楓はあわあわとしながら必死でゼスチャーをした。
ファンだもんね、仕方ないね。
コクコクコク! (大きく三回うなずく音)
しゅぱっ! (片手を上げて、バイバイのポーズ)
たったったっ、どてーん! たったったっ! (走ってこけてまた走りさる姿)
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第六話
父親の付き合いで連れてこられたパーティで、スクリーンの向こうの憧れだった人に初めて会った。
膝を折って目線を合わせて、頭を撫でられた事をよく覚えている。
「役者に向いている」
嬉しかった。
☆☆☆
未成熟な起伏のない肢体。身に纏っているのは、純白のワンピース。
肌は透けるように白く、サラサラとした色素の薄い髪はツーサイドアップに結われてる。
幼くも精緻に整った容姿は何処か浮世離れして、下界に舞い降りた天使を思わせる。
今年で小学校を卒業し来年の春からは中学生になる百城千世子が、星アリサに導かれるまま芸能事務所スターズの末席に加わる事になって一ヶ月は経つだろうか。
千世子は星アリサから直々に、役者になる為の演技指導を受けていた。表情や発声、所作に至るまで基礎的な事を叩き込まれる。
レッスンを一通りこなした千世子は事務所内の談話室のソファに座り、ぼんやりとニュース番組を見ていた。
スポーツの試合結果やタレントのゴシップに続いて、音楽の情報を女子アナウンサーが楽しげな声で発信してくる。
『結成から半年、人気バンドグループのAnPがデビューして初のファーストアルバムをリリースしました! なんと週間アルバムチャートで一位を達成し、今後とも更なる活躍が期待されていますっ』
少し上ずって半トーン上がったアナウンサーの声。
これまで伝えたニュースと今のトピックでは、声色が少し違っていた。わずかに上がった口角からは、喜びの感情が読み取れる。
──ああ、きっと彼女はこのバンドが好きなんだろうな。
生まれつき人の感情を読み取る事に長けた千世子は、画面の向こう側のアナウンサーを分析する。
そんな事をしていると、背後から気配を感じた。
振り返るとそこに立っていたのは、星アリサ。
スターズの女社長にして、元女優。
スラリとした手足。伸びた背筋。質の良さそうなタイトスーツを身に纏い、かきあげた髪は肩の辺りでウェーブしている。
美しくも近寄りがたい雰囲気を放つ薔薇のようなその人は、切れ長の瞳にスクリーンに映るバンドのミュージックビデオを映していた。
「おはようございます、アリサさん」
「ええ、おはよう千世子」
「人気ですよね、彼ら。所属はウチの事務所らしいじゃないですか、やっぱりアリサさんがプロデュースしたんですか?」
「プロデュースというよりも、見つけただけと言った方が正しいかもね」
同じ空間に居て、黙ったままというのもおかしな話。
千世子が話題を振ってみるも、いまいち釈然としない答えが返ってきた。
アリサは千世子から視線を外し、談話室に備え付けられている自動販売機で飲み物を二つ購入した。一つはブラックの缶コーヒー、もう一つは──。
「牛乳かぁ」
「添加物と合成着色料のジュースを飲むよりよっぽど身体にいいわ」
「……ありがたく戴きまーす」
紙パックの小さな牛乳を手渡して、千世子の対面にあるソファにアリサは腰掛けた。
ストローをパックに突き刺して牛乳を飲む。飲めないことは無いが、後味があまり好きでは無い。
アリサが缶コーヒー飲んで、一息ついた後口を開く。
「芸能界でプロデュースをする場合、時間とお金を掛ければ売れる事ってそんなに難しくないわ……アイドルも歌手も役者もね」
「そういうものなんですか?」
「そうね。宣伝費と事務所のコネだけで売れるなんてことも、別に珍しい話じゃない。この世界、新人をダイヤの原石って呼んだりするでしょう? プロデュースはそのダイヤの原石を加工してラッピングして、如何に価値のある宝石に見せるようなものなのよ」
「じゃあ演技指導を受けてる私は、ダイヤの加工段階なんですね」
千世子がそう尋ねると、アリサは綺麗な微笑をたたえる。無言は肯定ということだろう。
別に悲観する事じゃない。石ころはどれだけ磨いても石ころ。宝石になる可能性があるだけ、千世子は恵まれている。
「……でも時々あるのよ。加工もラッピングの必要もないトリプルエクセレントのダイヤモンドを、偶然見つける事が」
「アリサさんにとってのダイヤモンドが、あのバンドなんですね」
「半分正解、半分不正解ね」
辺りに人の気配がない事を確認して、アリサは言葉を繋いだ。
「バンド全体じゃなくて、ボーカルただ一人。カエデだけが輝いてみえた。二百人も入らないような薄汚れた小箱のライブハウスで、観客なんて二十人も居ないステージの上で、心の底から楽しそうに歌ってた」
ふーん、意外。
千世子はそう思った。
アリサは処世術として喜んだり驚いたりする事はあっても、自分の感情を表に出す事の無い人だと思っていたから。
大きな瞳で、感情を隠し切れていないアリサを観察する。
「その日のうちにスカウトして契約して、一週間もしない内に音楽番組の生放送に新人枠としてねじ込んだら、あっという間にこの国の音楽シーンを席巻した……お喋りはこのくらいにしておきましょうか、迎えの車を裏口に付けておくから気を付けて帰りなさい」
「はーい。アリサさん」
送迎の車の後部座席。
小さな体を大きな背もたれに預けて、窓の外を眺めながら千世子は考える。
「どんな人かな? 」
☆☆☆
通路の脇に寄せられたホワイトボード。
派手な蛍光色で塗装された長尺台車には、段ボールが積み重なっている。
視線の先では、黒いシャツを着たスタッフの人達が慌ただしく作業をしていた。
ピンと伸びた背筋で前を歩くアリサの背中を千世子は追いかける。
スタッフ用の通路を抜けて階段を上がると、騒めきのような音が漏れ聞こえる。
一階から二階へ。上りきった先。アリサによって開かれた扉の向こうは、関係者席と呼ばれるものだった。
「カエデさんのライブ、私も行きたいってワガママでしたか?」
「私も顔を出すつもりだったし、一人増えたところで構わないわ」
「なら良かったです」
お台場海浜公園やビックサイトの展示棟がある東京某所。
商業施設の中にあるキャパ3000弱のライブハウスで、カエデがフロントマンを務めるバンドAnPのファーストライブが行われようとしていた。
バンドの人気に対して箱の規模が小さいのは、有事の際にスタッフが対応出来るようにという事だろうか。
彼等のチケットは販売から僅か五分でソールドアウト。
AnPがスターズ所属でなければ千世子が彼等の後輩でなければ、こうやって会場に来ることは出来なかっただろう。
騒めきや熱気がうねりとなって会場を支配する中。
──暗転。
繊細で柔らかなギターの音。
それに歌声が重なると、会場から音色以外の一切の音が消えた。
美しい音だけが響く空間にベースの音が加わって、ドラムが優しいグルーヴを生み出していく。
たったワンフレーズたった一小節を耳にしただけで、一瞬で引き込まれた。
暗闇からスポットライトが当てられ、カエデの姿が映し出されると同時に曲はサビに入る。
その歌声は雨粒が落ちた時の水面のように、波紋となって感情を揺さぶる。
千世子の胸を無性に締め付けてきて、天性の歌声とはこういったものなんだろうと思った。
一曲目が歌い終わると、一拍おいて割れんばかりの拍手と歓声が会場を包む。
素晴らしい音楽に出会った高揚感や、歌声に心を揺さぶられた衝撃や、さまざまな感情の発露がうねりとなって爆発した。
あまりの観客の盛り上がりに驚きながらも、嬉しそうにフロントマンであるカエデがMCに入り、バンドメンバーの紹介を始める。
そのときにはもう、千世子はカエデの音楽に心を掴まれていた。
☆☆☆
スターズに入って半年。千世子は未だ世に知られぬまま、ひたすらに自らの魅せ方を追求した。
表情の作り方。言葉の選び方。服装所作体型、すべてを調整する。
カメラごとの性能、レンズサイズの感覚、千世子を映す媒体についても徹底して調べ上げる。
あの日。彼の音楽に感情を揺さぶられて、千世子には一つの欲求が芽生えた。
──彼が創る音楽を演じてみたい。
たったそれだけの理由が、千世子を突き動かしていた。
彼が創る音楽を演じる。
当面の目標が出来た千世子は自らを綺麗に魅せる技術の他に、事務所の後輩という立場を利用してカエデとの距離を縮めていった。
敵を知り己を知れば百戦危からず。ではないが、彼の音楽を演じたいならば、彼のことを知る必要があると思ったからである。
学校が終わって友達と別れると、目立たないところに見慣れた送迎の車が停めてあって、後部座席に乗り込んで事務所に向かってもらう。
車窓を開けて外の風に当たりながらぼんやりと外を眺める。
赤信号で車が止まった窓の外。
道路脇にギターを持った男の人が目に留まった。通行人に向けてギターをかき鳴らしながら、カエデが作った曲をカバーして歌っている。
──なんて耳障りなんだろう……うるさいなぁ。
演奏技術が拙く張り上げた声は音程がズレて、聞くに堪えない。同じ曲の筈なのに、カエデの千世子の心は全く揺れなかった。
雑音を消すように、車の窓を閉めた。
コンビニに寄りたいから。ドライバーにそう言って、事務所の少し手前で降ろしてもらう。
板チョコを二枚購入。レジ袋をぶら下げながら、事務所に入った。カエデへの差し入れのつもりで買ったが、別にいなければ誰かにあげれば無駄にならない。
未だデビューしていない千世子が事務所に向かう理由は、演技指導のレッスンに他ならない。
だが警備のおじさんにカエデが来ていること、レッスンまでにはまだ時間があることを確認した千世子は、三階にあるレッスン室ではなく、地下のある部屋へと向かった。
天井が高く仕切りのない部屋。
背の高い棚が何個も造り付けられている特殊な部屋は、元々は倉庫だったという。
では今は何かというと、カエデが事務所内に作った作曲スペース。
造り付けの棚の奥には、ピアノ、ベース、ギター、アンプ、マイク、オーディオ類といった音楽機材の他に、PCを始めとした録音機材が揃っていた。
そっと扉を開けると、薄暗い部屋の中で青白い光がリノリウムの床に一つの影を映す。
静かに近づくと質の良さそうな回転式のオフィスチェアに浅く座り、シンセサイザーに音を打ち込んで作曲に没頭しているカエデの姿があった。
ゴツゴツとしたヘッドホンに付けて、真剣な面持ちでモニターに向かうカエデを、千世子は少し離れた棚に背を預けながら見守る。
五分ほど経っただろうか。カエデはぐっと伸びをして椅子を回転させると、そこで千世子に気づいたようだった。
「来てたなら、声かけりゃいいのに」
「あははー、カエデさん集中してたし、ほら邪魔しちゃ悪いじゃん?」
「別にいいのに。で、何か用か?」
「んー、ちょっと早く着いたから、カエデさんの顔見に来ただけ」
特に要件もなく訪れた千世子に対し、カエデはあまり驚いた様子はない。
それは千世子が半年という時間をかけて、カエデとの距離を縮めた成果だった。学校が終わり事務所を訪れるたびにこの倉庫兼作曲スペースに立ち寄っては、宿題をやったり他愛もない話をした甲斐はあったようだ。
カエデが倉庫の奥からオフィスチェアを出してきて、千世子に座るよう促した。
お礼を言って、さっき購入したチョコを渡す。
「ありがとー。あ、これ差し入れのチョコ、一緒に食べよ?」
「おー、さんきゅーな。じゃあなんか飲み物持ってくるわ」
「わたしバニラクリームフラペチーノがいいなぁ!」
「おっけー、リンゴジュースな」
「えー、味気なーい」
半年間で培った表情の使い方と声の使い方。
小さく肩を落としてコミカルに落ち込んで見せると、カエデは少し笑って席を立つ。
部屋の隅には小さな冷蔵庫が設置されていて、その隣に電子レンジと電気ケトル、包装された紙コップだけが置いてある折り畳み式の長机があった。
缶コーヒーと紙パックのリンゴジュースをカエデが持ってきて、一方を手渡してくれる。
「いっつもブラックコーヒーだけど、美味しいの?」
「ふふふ、コーヒーは大人の味……千世子にまだこの美味しさは分かるまい」
「じゃあ、一口ちょーだい……──なにこれ、まずーい」
「まだ子供だな、千世子は」
顔をしかめる千世子を、カエデは可笑しそうに笑って包装を取ったばかりの板チョコを口直しに差し出してきた。
チョコを齧りながら、千世子は思う。
──まだ子供でよかった。
千世子とカエデの歳は七つ離れている。
もっと歳が近かったら、半年でここまで距離を詰めるのは難しかったかもしれない。大人になればなるほど、人間関係には打算や利害が付きまとうようになるから。
宿題を見てもらったり、ワガママを言えるのは子供の特権だ。
幼い見た目で妹のように接するから、警戒心が解くことが出来た。
他愛もない話をしながらチョコを食べ終わって、一息ついたタイミングで千世子は言った。
「さっき作ってたのって新曲だよね?」
「あー、まだ途中までしか出来てねーけど」
「わたし聞いてみたいなぁ……ところでチョコは美味しかった?」
「……なるほど、そうきたか」
上目遣いでワガママを言うと、カエデは困ったように笑ってギターを取った。
カエデのライブに行くまで、千世子はクラシックなどは聞いても、音楽番組に出ているようなバンドやポップスはあまり聞かなかった。
悪くはないけれど何処か似たような曲調の音楽が多く、何となく耳馴染みがいいだけで新しい感動はないと思っていたからだ。
だからカエデの奏でる音楽には衝撃を受けた。
他と比べ飛びぬけたメロディセンスから作られた旋律に、まるで心臓に直接手で触れてくるみたいに、心を震わせる天性の歌声。
トリプルエクセレント。最高位のダイヤモンドに与えられる称号で、星アリサがカエデの才能を例えたのも、頷けるほどだった。
弾むようなメロディが倉庫に響く。
たった四小節のイントロの後、天上の楽園をモチーフにした歌が軽やかでありながら何処か寂しげなメロディと共に続いていく。
どうしようもなく心が揺れた。
☆☆☆
「じゃあ、レッスン行ってくるね」
「おお、頑張ってこいよ……あ、そういえばこれ、渡すようにアリサさんに言われてたんだ」
「ん……企画書?」
そろそろレッスンの時間になり、部屋を出て行こうとする千世子をカエデが呼び止める。
手渡されたのは、ホッチキスで止められた何枚かの企画書だった。
「アリサさんの話だと、今度出す新曲のMV演じる役者をオーディションで決めるらしいんだ」
「へぇ……そうなんだ」
手渡された企画書にざっと目を通す。
企画書の内容は、楽園の天使の配役をオーディションで決めるというものだった。
おそらく千世子と同年代の子役が何人も受けに来るだろう。
彼らのMVは動画サイトで何百万回も再生されている。その新曲のMVに出たとなれば、一気に顔を売ることができる。
「で、興味があったら千世子も受けてみたらってアリサさんが──」
「受けるね、カエデさんの曲……わたし演じてみたい」
「お、おう。応援してるぞ」
「あははー、頑張らなきゃ」
素直な気持ちを伝えると、カエデは少し戸惑ったように言葉を返してくる。
これまで真剣な声音でカエデと話した事がなかったから、驚かせてしまったかもしれない。
意図的に声を少し弾ませて、口角を上げて千世子は微笑んだ。
倉庫の玄関まで見送られて、エレベーターに乗る。
扉が閉まると、千世子は手渡された企画書を愛おしそうに撫でた。
「……必ず受かるから」
火を掛けたフライパンでドロドロに溶けたバターみたいな色をした目を細めて笑う。
気に入って貰えたら感想や評価を頂けると嬉しいです
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