MH ~IF Another  World~ (K/K)
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斬り裂くモノ

 鬱蒼と繁る木々。地面には多種多様の短く伸びた草がまるで絨毯のように隙間無く生えている。

 見渡す限り植物で覆われた森。緑の香りがむせかえる程に充満している。

 高く伸びた木々の重なった葉の間からは、空から燦々と輝く太陽の光が木漏れ日となって光の少ない森の中を暖かく照らす。

 そんな木漏れ日を眩しそうに見上げながら、佇む青年。年の頃は二十歳前後。

 青年は革と金属でできた鈍い銀色をした鎧を身に付け、腰には一本の剣を携えていた。

 青年は何処か余裕の無い真剣な表情を浮かべ、ポツリと一言漏らす。

 

「何処だ……出口は……!」

 

「この間抜けが!」

 

 そんな台詞の言う青年の背中を背後から現れた人物が容赦無く蹴り飛ばす。

 

「がっ!?」

 

 受け身も取ることも出来ずに青年は顔面から地面へと倒れ込んだ。

 青年を蹴り飛ばしたのはショートカットの赤毛の女性。青年と比べると軽装であり、髪の色と同じ赤い装飾を施された服に膝までの丈のズボンを纏っている。

 女性はまだ怒りが治まらないのか、倒れ込んだ青年の襟首を掴むと無理矢理起こす。

 

「だ! か! ら! さっきの道は左に行くべきだったでしょうが! 無視して自信満々で右進んでいって最後に出てきた台詞がソレ!?」

 

 女性はつり目気味の目を更に吊り上げさせて、怒涛の怒りの言葉を青年に放ち続ける。

 

「お、落ち着けシィ。な、なんと言うか此方からは冒険の匂いが――」

 

「そう言って昨日丸一日森の中さ迷ったでしょうが! おかげで簡単な仕事の筈なのに野宿する羽目になって! このバカエイス!」

 

 シィと呼ばれた女性はエイスと呼んだ青年をガクガクと揺さぶり、冷めない怒りをぶつける。

 

「この……歯を食い縛りなさい!」

 

 拳を造るシィ。その拳には赤、青、黄といった様々な色をした石が嵌め込まれた指輪を着けている。

 それを見て顔から血の気を引かせるエイス。

 

「止めて! そんなので殴られたら僕死んじゃう! 助けてゼト! 助けてエルゥ!」

 

 エイスの救いを求める必死の声。反応はすぐにあった。

 

「やれやれ……。本当に仲がいいなお前ら」

「えーと、シィさん。エイスさんも反省するはずですし出来れば穏便に……」

 

 一人は三十前後程の長身の男性。無精髭を生やし、長く伸びた髪を一括りしている。エイスと同じく革と金属で出来た鎧を纏っているが、エイスの鎧と比べると金属よりも革の面積の方が大きい。担ぐようにして自分と同じくらいの長さの槍を持っていた。

 もう一人は女性――といってもまだ少女といっても差し支え無いほど容姿をしている。シィとは対照的に長く伸びた黒髪、上質そうな布で出来た白の衣服を着ており、その手には先端に水晶を付けた杖を持っていた。

 

「助けてゼトぉぉ! このままだと顔の原型が変わる!」

 

 必死の形相を浮かべるエイスに、ゼトと呼ばれた男性は呆れた表情を浮かべながら無精髭を撫でる。

 

「自業自得だろうが……シィの気が済むまで大人しく殴られてろ。なぁエルゥ?」

 

 突然話を振られた少女――エルゥはあたふたとした様子で答える。

 

「えーと、その、こういったことは何度も有りましたし……その、エイスさんの習慣というか癖というか病気というか……と、とりあえず暴力では今のこの状況は解決しませんし、エイスさんを殴るのは後回しにして出口を探しましょう!」

 

 しどろもどろになりながら強引に話を変えようとするエルゥ。しかし、彼女の言葉にも一理あるのかシィは不満気様子ではあるがエイスの襟首から手を放し、拳を解いた。

 

「とりあえず一旦保留にしてあげる。森を出たら覚悟しておきなさい」

 

「今のうちに腹をくくっておきます」

 

 解放されたが、先のことを思いガックリとした様子のエイス。そんな彼を慰めるかのようにエルゥは近付き、軽く肩を叩く。

 

「まあ、出口が見つかる頃には怒りも冷めていますよ。それより早くこの森を出ましょう」

 

「どうした? 少し焦ってないか?」

 

 ゼトの問いにエルゥは表情を少し固くする。

 

「少しですが、この森……嫌な感じがします」

 

「嫌な感じか……」

 

「それはちょっと怖いな」

 

 エルゥの言葉にシィ、エイス、ゼトは真剣味を帯びた表情を浮かべる。

 エルゥは、代々祈祷や占いといった呪いを扱う一族の出身であり、この一族は皆、第六感とも言うべき感覚が常人とは比べものにならない程発達しているという特徴を持つ。

 シィが過去に今と同じような言葉をいったときには、強い地震が起こったり、穀物を食い荒らす害虫が異常発生したり、疫病が発生したりと数々の問題が起こっていた。

 そんな彼女が言う『嫌な感じ』という感覚、無視出来る筈がない。

 

「分かった、ごめん。素直に出口に行こう。嫌な感じの元に会う前に」

 

 先程とはうってかわり真剣な顔で謝罪の言葉を言うとエイスは歩き始めた。

 

「ちょっと!出口は何処か分からないのに勝手に歩いたら危険じゃ――」

 

「えーと、ごめん、シィ。……実はこの森の地理は事前に見ておいたから大体分かるんだよね……」

 

 シィの言葉を途中で遮り、気まずそうに、エイスは目を泳がせながらとんでもないことをいう。

 

「あんた……! わざと……!」

 

 シィの顔が怒りで真紅に染まる。

 実はわざと迷っていたという事実を聞かされたことに対する正常な反応である。それに対してゼトは「またか」と言わんばかりに額に手を当てて呆れ、エルゥは苦笑いをする。

 

「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 後で何発でも殴っていいから! とりあえず! とりあえず森からは出よう!」

 

 怒るシィに頭を下げ、懇願する。

 

「シィ、気持ちは分かるが、とりあえず、な?」

 

 エイスに一応の助け船を出すゼト。

 シィはゼトに視線を向け、エイスに戻すが、やがて溜め息を吐き、歩きだす。

 

「早く出るよ。エイス」

 

 先を歩くシィにエイス慌てて後を追い、隣に並ぶ。

 

「やれやれ、それじゃあとっとと行きますか」

 

 髭を撫でながら側にいるエルゥに呼び掛ける。が、返事が返ってこない。

 エルゥの方へと目を向けると、エルゥは青ざめた顔をし、寒さに耐えるかのように小さく震えていた。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 再度声を掛けると、エルゥは驚きの声を上げ、ゼトへと顔を向ける。

 

「あ、あ、す、すみません!」

 

「どうした?様子が変だったぞ?」

 

 エルゥは、すみませんともう一度と謝ると不安げな様子で喋りだす。

 

「さっき『嫌な感じ』がするって言いましたけど……何だか今回は『少し変』なんです」

 

「変というと?」

 

「上手く言えませんが……何だか酷く恐くて……いつもの感じと違って、いつもならもう少しハッキリと感じられるのですが、今回はモヤモヤとぼやけているのに、なんというか冷たくて鋭いイメージが付きまとうんです」

 

 自ら感じたものを何とか言葉にするエルゥ。ゼトは神妙な表情をし、眉間に皺を寄せる。

 

「いつもと違う感じか……こりゃあ危なくなるまえにとっとと退散するか。行くぞエルゥ。エイスの奴には遊んでた分、馬車馬よりも働かせて出口を探させよう」

 

「あ、はい! あ、でも程々に――」

 

 ゼトたちもまたエイスたちを追い掛け、その場を後にした。

 

 

 ◇

 

 

 某時刻、森の奥地

 空からの光が届き難くなり、湿気を帯びた空気が漂う場所。

 だが今は、地に転がる一匹の首の無い動物の死体で血生臭い匂いが辺りに充満し、常人ならば吐き気を催す空間と化し、緑の大地は流れる血で赤く染まる。

 少し離れた場所に転がっていた死体の頭部は光の無い虚ろな目で体に覆い被さる『ソレ』に蹂躙される姿を映し、その命亡き肉体を搾取される様を見続けていた。

『ソレ』の牙は容易く死体の肉を裂き、それにより胃袋を満たし、流れる血で喉を潤していた――が、突如として食事を止め、視線をある方向へと向けた。

『ソレ』は感じ取っていた。

 今現在、自分の縄張りに対し、侵入してくる不届きな存在がいることを。

『ソレ』は唸り声を上げると同時に飛び上がり、近くにある樹の枝の上に着地すると、凄まじい勢いで樹々を伝って駆け出す。

 縄張りに入る敵を排除するために。

 

 

 ◇

 

 

 数十分程、森の中を歩いていたエイス一行。やがて、歩いて行く先に開けた空間へがあるのを見つけた。

 今まで歩いて来た場所とは違い、葉が日の光を遮っておらず、その空間だけ切り取ったかのように周囲とは浮いた印象を与える。

 エイスは振り向く。

 

「一旦ここで休憩に――」

 

 そこでエイスの声は切れ、鋭い視線を開けた空間、正確には更に奥の樹々に向ける。

 ゼトもほぼ同じタイミングで何かに気付き、シィとエルゥの肩を押さえ、無理矢理しゃがませ、身を隠させた。

 

「ちょ、ちょっと!」

 

 いきなりの行為にシィが咎めるような声を出すが、それを言う前に、姿勢を低くしたエイスが人差し指を立て『静かにしろ』とサインを送る。

 流石に、状況が呑めたのかシィは口を閉ざす。

 

「シィ、『結界』を張ってくれ」

 

 ギリギリまで音量を絞ったエイスの声を聞き、シィは頷くと、その口から口笛のような音を出す。するとシィの手に嵌められた指輪の一つである赤い石の指輪が輝く。その光はそのまま拡がっていき、エイスたちを包み込んだ。

 詠唱による結界の発動。これにより内部の人間は外部に、視覚、聴覚、嗅覚では感知されることはない。

 息を殺し潜む一行。やがて重い足音が鳴り響き、エイスたちの前方にある樹を薙ぎ倒しながら、足音の主が現れる。

 全身を鉛色に染め上げ、真っ直ぐに伸びた二本の角を持つ全長十メートル程の竜。

 

「アースドラゴン……」

 

 緊張に満ちた声がエイスの口から漏れた。

 アースドラゴン――主に山に生息していると言われている竜種の一種である。その中でも最も固い鱗を持つと言われており、生物の肉ではなく主に鉱物等を食べていることから、その鱗は鋼鉄に匹敵する強度を持つ。

 性格は他の竜種と同様に他の生物に対する敵対心が強く、視界に入るものなら容赦なく襲い掛かる程に凶暴である。

 通常の依頼ではまずお目にかかることのない大物である。

 

「どうしたものかな……」

 

 軽い口調とは裏腹にエイスの顔には一辺たりとも余裕は無い、他の三人も同様である。

 竜殺しは冒険家にとっては最上位の名誉ではあり、一度その名誉を手にすれば、一生仕事に困ることはない。しかし、それは竜殺しに対する難易度を示している。

 アースドラゴンは竜種の中では上位に位置する個体であり、現状のエイスたちの戦力を考えると勝てる確率はかなり低い。

 大人しく撤退しようかという考えもあるが、逃げようにもアースドラゴンは出口に繋がる道に陣取り、暢気に日光浴をし始める。かといって迂回して逃げようものなら、シィの張った結界を一度解かなければならない。この結界は移動用ではなくあくまでその場で身を隠す為のものであり、術者が動くとその途端、効力がなくなってしまう。

 他の生物に対して敏感な竜種ならば、数十メートル以内ならまず確実に感付かれる。

 八方塞がりの状態にエイスは頭を悩ませ、シィは軽く溜め息を吐き、ゼトは肩をすくめる。

 

「エルゥの『嫌な感じ』が当たったかな……?」

 

 そう言ってエルゥに声を掛けるが返事がない。

 

「エルゥ……?」

 

 エルゥは俯き、自分の両肩を爪を立てるように強く抱き、寒さを耐えるかのように震えていた。

 

「おい……エルゥ!?どうした!?」

 

 声を抑えながら、ゼトがエルゥに呼び掛ける。

 

「……ます……」

 

「え……?」

 

 掠れたエルゥの声。

 

 グォオオオオオオオオ!!

 

 先程まで日を浴びていた筈のアースドラゴンは突如として立ち上がり、咆哮を上げる。それはこの場にいない何かに対する牽制の威嚇のようであった。

 

「な、何? どうしたの!?」

 

 急変していく事態にシィは戸惑いを露にする。

 

「……もうすぐ……ここに来ます……!」

 

 頭を抑え、恐怖の感情を見せ、上擦った声を出すエルゥ。彼女の見せたことの無い態度にエイスたちの心にも恐怖が芽吹き始める。

 

「一体……『何が』来るんだ……?」

 

 その時、エイスたちの頭上にある樹々の枝たちが悲鳴のような音を立てて大きく軋み、その枝の上を黒い大きな影が疾風のように走る。

 

「今、『恐ろしいモノ』が来ます!!」

 

 叫ぶように答えるエルゥ。そして、走る黒い影が樹から飛び出し、アースドラゴンと距離にして数メートルの位置に地を砕きながら着地。

 降り注ぐ日の光の下、その姿を見せた。

 

「なんだ……こいつは……!」

 

 その顔付きを見たとき、エイスたちはまず最初に獣を連想した。地面に四肢をつく格好、頭部に生やした黒味を帯びた青い体毛にピンと伸びた二つの耳、それは獣特有のものである。しかしソレの全身は竜種のように鱗を纏い、ソレの前肢は翼と一体化したような形状をしており飛膜までついている――が、その翼の外側はまるで刃のように鋭く輝き、見るものの背筋を凍らせる。

 そして最も目についたのは――

 

「大きい……!」

 

 生物の大きさであった。軽くみても全長は二十メートル近くあり、目の前に立つアースドラゴンが子竜であるかと錯覚してしまう程の体格差があった。

 恐ろしい。この場に居るメンバー全ての胸中にその言葉が浮かぶ。ただ大きいから恐ろしいのではない、ただ鋭い刃や牙を持っているから恐ろしいのではない、その生物を前にして本能が訴えるのである。

 

『自分はこの生物の獲物でしかない』と

 

 アースドラゴンが目の前の未知の獣に対し威嚇の咆哮を上げる。竜の咆哮を聞けば千の兵が逃げ出すと言われる程のものであり、事実それを結界越しで聞いたエイスたちも全身が震えだしていた。

 だが次の瞬間――

 

 ゴオオオアオオルアアアオオオオ!

 

 その震えすら打ち消す程の更なる咆哮が未知の獣から発せられる。

 

「きぃっ――」

 

 ただの咆哮で生命の危機を感じてしまったのかシィの口から悲鳴が溢れ出しそうになる。それを反射的に感じ取ったエイスが強引に手で口を押さえこみ、無理矢理それを止める。

 

「落ち着いてくれ! 大丈夫! 大丈夫だから……!」

 

 激しい動揺は結界に綻びを生み出す。今、気付かれる訳にはいかない。

 何とか宥めようとするエイス。しかし、エイス自身も咆哮の恐怖から歯の根が合わずガチガチと歯が音を鳴らしそうになるのを噛み締めて耐えていた。エイスの背後に居るエルゥも湧き立つ恐怖を必死に抑えようと服の袖を噛み締めて声を殺し、年長者でありこの中で最も経験の長いゼトは震えてはいないものの額からは絶えず冷や汗を流していた。

 自分の威嚇に全く動じない相手にアースドラゴンは警告から攻撃へと転じる。首を持ち上げ胸を大きく膨らまると竜種固有の技『吐息〈ブレス〉』の体勢へと入った。

 それを見て獣は身を低くし、軽く唸るだけでその場から移動しようとはしない。

 やがて限界まで膨れ上がった胸から喉を通過しアースドラゴンの口から『吐息』は発せられる。アースドラゴンの『吐息』は圧縮された空気の中に外部から取り込んだ鉱物の礫を混ぜることで鋼鉄の鎧すら容易く打ち抜く、単純ながらも恐ろしい威力を秘めているものであった。

 それがアースドラゴンの口から飛び出してきたとき、エイスたちはそれが獣へと直撃すると思った。だが、その考えは易々と覆される。

 放たれた無数の礫が獣触れるかと思われた瞬間、獣の姿が消え去る。次の時には『吐息』射線上から外れ、正面に立っていた筈の獣はアースドラゴンの側面へと立っていた。

 巨体から考えられない疾風を彷彿とさせる驚異的な速度。その速度にアースドラゴンの思考は付いて行けず、獣の姿を見失ってしまう。

 その決定的な隙を獣は見逃さなかった。

 前脚の爪を深々と地面へと食い込ませ上半身を低くし、下半身を高くする。その姿勢から四肢の力を瞬時に爆発させ先程の比では無い程の速度でアースドラゴンに飛び掛かると、その刃の如き翼を一閃した。刃がアースドラゴンの鱗へと触れると弾かれることも止まることもなく、獣の刃の前にアースドラゴンの鱗はあまりに無抵抗であった。

 獣が通り過ぎると音も無く、苦鳴も無くアースドラゴンの動きは止まる。そして獣が咆哮を上げるとアースドラゴンの首に赤い一筋の線が浮かび上がり、やがてそれが首回りを一周するとアースドラゴンの首が地に落ち、その鮮やか過ぎる切断面から大量の血液が噴き出し、緑の地を赤く染め上げていった。

 

「なんだ、あれは……速すぎる……」

「アースドラゴンが一撃で……」

 

 獣とアースドラゴンとのあまりに離れた実力差にエイスたちはただ驚き、慄くしかなかった。アースドラゴンの倍以上もある体格から生まれる目で追えない程の速度。加工すれば百年は変形しないとされるアースドラゴンの鱗を、容易く切断する程の切れ味を持った翼と腕力。今まで見たことの無い未知なる恐怖に全身の細胞が恐怖を訴え続ける。

 

 ゴオオオアオオルアアアオオオオ!

 

 獣は自らの勝利を誇示するかの様に咆哮を上げる。その咆哮を聞きながらエイスたちはただひたすら獣が去ることを祈り続けていた。そうでなければいずれこの恐怖で発狂しかねない。

 何度かの咆哮の後、獣は外敵を排除したことに満足したのかアースドラゴンを喰らう事無くその場で跳び上がり、現れたときと同様に木々を伝わって何処かに去っていた。

 獣が去ってからどれくらい時間が経ったのであろうか、その感覚が麻痺してしまう程の恐怖の中でようやくエイスたちは結界を解き、斬殺されたアースドラゴンの亡骸へと近付く。

 

「な、なんだったのあれ……!」

「色々な文献は見てきたつもりだけど、あんな生物は僕も初めて見た」

 

 恐怖を忘れられないシィの震える声。それに応えるエイスの声にもシィ程ではないが動揺が含まれていた。

 

「とても恐ろしい……あんな恐ろしい気配を持つ生物は初めてです」

「そう容易くいるもんじゃねえさ……竜種を一撃で葬る奴なんてな……」

 

 エルゥは小刻みに震え、死んだアースドラゴンの亡骸を見ながらゼトは渋い表情を浮かべる。

 エイスは懐からガラス玉のようなものを取り出すと、それをアースドラゴンの死体に向ける。するとそのガラス玉の中にアースドラゴンの姿が映し出され、ガラス玉をアースドラゴンから離してもその姿が映り続けていた。

 

「このことをギルドに一刻も早く報告しよう。そしてこの辺り一帯を閉鎖するように頼もう。あれは危険過ぎる」

 

 エイスの言葉に皆が頷き、獣に気付かれない内に急いでその場から立ち去っていった。

 

 これが後にこの世界で長年の間語り継がれ、恐れられていく『竜の変』。その最初の目撃であった。

 そして、これを切っ掛けとし各地で災厄が目覚め始めるのであった。

 

 某時刻、アールフア大海。

 

「艦長! 三番艦が撃沈されましたぁ!」

「敵は! 敵は何処だ!」

 

 慌ただしい声が艦内で広がる。

 

「今だ海中です!」

「砲撃は!」

「駄目です! 相手の速度が早すぎます!」

「艦長! 二番艦が……二番艦が!」

 

 若い船員の声に苛立ったような声で壮年の艦長が返す。

 

「何だ! どうした!」

 

 外を指差す若い船員。そこには二つに断たれ、縦に沈んでいく戦艦の姿があった。

 

「ま、真っ二つに……!」

「馬鹿な! 戦艦を切断するなど……!」

「艦長! あの背びれがこっちに向かってきます!」

「迎撃しろぉ!」

「無理です! 間に合いません!」

「こ、この化け物が……! うあああああああああ!」

 

 最後に残った戦艦の乗組員が見たものは、こちらに向かって飛び込んでくる鋭い牙の群であった。

 

 某時刻、ベター火山。

 

「う、うああああ! 取ってくれ! こいつを取ってくれ!」

 

 冒険者の全身に緑色に発光する粘着質な物体が付着する。それを見た他の冒険者たちの顔色が変わる。

 

「やめろぉ! 俺に近付くな! 巻き添えにするな!」

「嫌だぁ! 取ってくれ!」

「皆こいつから離れろぉ! 爆発に巻き込まれるぞ!」

「行かないでくれ! 俺を独りにしないでくれぇ!」

「離れろぉ! とにかく距離を取れぇ!」

 

 泣き顔を歪める冒険者を置き去りにして、皆一斉に駆け出していく。物体を纏った冒険者も何とか追い縋ろうとするものの、その物体のせいで満足に走ることが出来ず、途中転倒してしまう。そして物体の色が緑から橙へと変色した。

 

「行かないでくれぇ! 助けてくれぇ!」

「色が変わった! もうすぐ爆発するぞ!」

「やだぁぁぁぁ! こんな死に方嫌――」

 

 最後の言葉を言うよりも先に冒険者の肉体は爆発へと飲み込まれる。

 

 某時刻、マガン雪山。

 

 二人の兵士が口は半開きにした状態で目の前の光景を見ていた。

 

「……なあ?」

「……なんだ?」

「……こんな穴空いてなかったよな? 昨日まで」

「……ああ、無かったな」

 

 縦横共に数十メートルはあろう大きな穴。それは山を貫通して向こう側の光が見える程であった。

 

「……一晩で出来ると思うか?」

「……普通は無理だろ」

「……じゃあ、なんでこんな穴があいているんだ?」

「……普通じゃないことが起こったんだろ?」

 

 そのとき山の奥から鳴き声の様なものが聞こえてくる。それはまるで雪崩を彷彿とさせる響きと重さを持った鳴き声であった。

 

 

 




出てくる飛竜たちは完全趣味で選んだものです。
増える可能性もあります。


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愚者からの供物

「あー! 腹が立つ!」

 

 ギルドでの報告を終え、ギルド本部から出てきたシィが開口一番に発した言葉がそれであった。

 

「シィ! 取り敢えず落ち着いて! ここじゃギルドの誰かに聞こえ――」

「聞かせてやればいいのよ! 金だけピンハネして碌に動こうとしない連中にね!」

 

 エイスの制止を無視しシィは大声を出し続ける。余程頭にきているらしく何度も地団駄を踏みながら、自分の頭を激しく掻きむしる。

 

「あの老害! 金食い虫! 置物! 無ッ――!」

「分かった! 分かったから! そこまで言いたくなる気持ちは痛い程分かるけど今は落ち着いてくれ! これ以上騒いだらギルドの警備に捕まるぅ!」

 

 強引にシィの口を手で押さえ何とか黙らせることが出来たが、無理矢理黙らされたシィは凄まじい眼つきでエイスを睨みつける。その心臓に悪い眼つきを至近距離で浴びせられながら、エイスは何度も懇願する。シィもそのエイスの態度に毒気を抜かれたらしく、短い溜息を吐いた後、降参するように両手を上げこれ以上大声を出さないという意思を見せた。それを見てエイスは口を塞いでいた手を離す。

 

「まあ、シィの嬢ちゃんの腹が立つのは分からなくもないがな。あんだけ露骨に疑われちゃあな」

「あまり私たちの証言を信じている様子ではありませんでしたからね……」

 

 ゼト、エルゥも表情には出さないものの言葉には隠しきれない不満が込められていた。一行が何故こんなにも不快感を露わにしているのか、それはギルドの幹部たちの彼らに対する接し方の問題であった。

 時間は少し巻き戻り、エイスたちがこの街に帰還した直後のことである。

 命からがらと言っていいほど必死になって戻ってきたエイスたちは荒い息を吐きながら、ギルドの受付に緊急の報告があると言ったのであるが、幹部たちは会議を行っているという理由で待機するようにとあっさりとあしらわれてしまった。

 必死になって事の重要性を教えようとする一行であったが、受付の態度は一切変化する事無く挙句の果てにはこれ以上騒いだら摘み出すとまで言われる始末であった。仕方なくエイスたちは会議が終わるまでの間待つこととなり、一秒でも早く報せる為に態々会議室の前で待機していたのであるが、会議室から時折聞こえてくる会話の内容はどう聞いても世間話などといったギルドとは関係ないものばかりで、会話の途中で談笑が聞こえてくるときもあった。

 そんな会議の内容なら今すぐに飛び込んで行きたい衝動に駆られる一行であったが、両端で目を光らす警備の者の手前、行動することが出来ず沈黙を保ったまま会議室の前で待つしかなかった。

 会議が終わったのはそれから二時間後のことである。

 会議室から出てきた幹部たちにすぐさま森であったことを伝え、その時の証拠として映った姿を記録する『映石』を見せる一行であったが、返ってきた反応は冷たいものであった。

 

『君たちは夢でも見ていたのではないかね?』

『アースドラゴンを一撃で葬る竜? 話を作るにしてももう少し現実味がある話を造れないのかね? それでは子供の戯言以下だ』

『そもそもあの場所にアースドラゴンが現れること自体考え難い。ひょっとして簡単な依頼をこなせなかったことを隠すための虚言かね?』

『ハハハハ! その可能性もありますな。なにせこの石を使った詐欺もありますし』

 

 嘲笑、冷笑を浴びせ報告について碌に考えることなく疑い嘘だと切り捨てる。シィはベテランとまではいかないが数年以上この道で生きてきた身として、腸が煮えくり返る程の屈辱であった。エイス、エルゥは生来の性格からあまり怒りを露わにすることはなかったが、内心では不快感を覚えていた。ゼトはベテランの域に入っており感情をコントロールすることは容易なため、落ち着いた態度を取っている。尤もギルドの幹部の体質を十分に理解している為、一々腹を立てること自体無駄だと割り切っている部分もあった。

 話が終わった後、エイス、エルゥ、ゼトの三人が押さえつけなければそのまま殴り掛かってしまっていたシィを無理矢理引き摺り、今へと至る。

 

「あぁ! あああ! ああああ!」

「おいおい、エイス。お前の相棒はとことんご立腹みたいだぜ。早く鎮めてやったらどうだ?」

「無茶を言うなぁ。これっぽっちも出来ると思ってないくせに……まあ、ある意味でこの結果は必然だったかもね。正直、一縷の望みに賭けて話してみたけど……やっぱり上と下とじゃ意識に差があるなぁ……」

 

 苦笑するエイスであったが、彼の口にした言葉はギルドの幹部とそれに属する人間との間で長年ある問題を表していた。

 各方面から様々な依頼を受けて冒険者に仲介するのがギルドの仕事であるが、ギルド自体は国の管理下に置かれており、監視という名目で国から派遣された人間を幹部に置くことが決まっている。その幹部というのが国に長年仕えている貴族の面々であり、そこから適当に選定しているのであるが、この貴族の幹部というのがかなり厄介な存在であった。

 まず第一に冒険者という仕事に対して一切の理解が無かった。貴族たちの目からすれば冒険者など根無し草の最底辺の人種というのが大体の見識であり、良くても自分たちに利益を運んでくる働きアリ程度の認識でしかない。その偏見のせいで冒険者は過酷な任務を強制的に任されることがあり、命を落とすというケースも多々あった。仮に断ったとしても難癖をつけてギルドから追放されるというケースも決して少なくは無い。

 その結果ギルドの上下の仲は最悪に等しく、ギルドの幹部が定めた規則を敢えて破る冒険者は後を絶たない。そういった劣悪とも言える環境の中、真面目に冒険者としてギルドの仕事をこなす存在は稀有とも言え、エイスたちのグループはその稀有の中の一部であった。

 

「ああああ! 本当にくやしぃ!」

「そう怒るな。折角の美人が台無しになるぞ?」

 

 怒り続けるシィを宥める第三者の声。その声は渋く落ち着いたものであり、長年生きてきた証が込められたように深い響きを持っていた。

 

「何! あたしは今……」

 

 そこまで言い掛けてシィは言葉を止め、固まってしまう。シィを宥めようとしていたエイスたちも同様であった。

 声を掛けたのは黒髪を後ろに撫でつけた髪型をした壮年の男性。だがその顔は年齢以上に生気に満ちた顔をしており、言葉を失っているエイスたちを灰色の眼で優しく見ている。顔の左側には火傷の跡があり、そのせいで左目は閉じられ隻眼であることがわかる。女性としては長身であるシィを見下ろす立派な体格をしているが右腕が肘から下が無く、風によって右袖が靡いていた。

 

「すまないな。他の幹部の面々が君たちに無礼を働いたようだ」

「と、とととととんでもございません! ワイト様! ですからあたしなどに頭を下げないで下さい!」

 

 謝罪するワイトという男性に、シィは声を裏返しながら心底とんでもないといった様子で頭を上げて貰うよう懇願する。

 

「い、いらっしゃっていたんですね、ワイト様」

「別件で少しギルドを離れていたのだが……どうやら私が不在の間に会議を行っていたみたいだな……やれやれ、一体どんな中身の無い会議をしていたのやら……」

 

 緊張した面持ちで尋ねるエイスに嘆息しながらワイトは応じていた。

 ワイトの一挙一動に体を硬直させ緊張を露わにする一同。しかし、それは無理もないことであった。何故なら彼らの目の前に立つ存在は『生きた伝説』『全ての冒険者の頂点』『この世で最も成功した冒険者』『冒険者の代名詞』など数え切れない程の異名と功績を持つ全ての冒険者の憧れであり、目標であるからだ。

 ワイト・メガ。引退をしている為、元冒険者であるがその偉業を認められ、貴族でないにも関わらずギルドの幹部として名を連ねる有名人である。腐敗している幹部の中で唯一と言っても言い程冒険者のことを第一に考える人格者であり、また国相手にかなりの影響力を持つ人物でもある。

 顔を見ることがあっても、直接会話することは初めてであるエイスたちは憧れの存在を前にしてただ直立していた。その様子を苦笑しながらワイトは柔らかな口調で四人に話し掛ける。

 

「何か幹部に対して重要な要件があるみたいだな。良ければ私が聞こう。まあ、ここでは立ち話もなんだ、私の部屋で詳しい内容を聞こう」

「は、はい!」

 

 声を震わせながらエイスは答える。その頬は興奮で赤く染まっているが、誰もそのことを囃し立てることは無かった。皆も同じような表情をしていたからだ。一番年長であるゼトも年甲斐も無く興奮しているようで、頬を紅潮させていることは無かったが目がしきりに泳ぎ落ち着きが無い様子であった。

 

「では行こう」

 

 ワイトがギルドに向かって歩き始めるとその後ろを慌てて付いて行くエイス一行。

 ギルド内にある階段を昇り、先程会議を行っていた階よりも更に上の階。そこは幹部と許可がある者のみ出入り出来る階であった。

 階段付近で鎧を着た衛兵が数人立っている。ワイトはその衛兵たちに二三言何かを言うと衛兵たちは敬礼する。ワイトの付いてくるようにという声にエイスたちは階段へと足を乗せるが、衛兵たちは敬礼した姿のまま微動だにしなかった。

 ワイトに案内され入った一室。そこは幹部の部屋にしては質素と言える内装であった。踏むのを躊躇う様な金糸の刺繍が施された絨毯も職人が長い年月掛けて織った壁掛けも無く、あるのは乾燥した植物の入った複数の小瓶、年数を感じさせる背表紙が並ぶ本棚、動物の骨格の標本といった何処か幼い日を思い起こすような部屋であった。

 

「掛けたまえ。茶を淹れよう」

「い、いえ! とんでもございません! 招いて頂いただけでも光栄なのにその上持成されるなんて……!」

「はははははっ! 気にすることはない、他人に茶を振る舞うのも私の数少ない趣味の一つでね。ここは一つ私の趣味に付き合ってくれないか?」

「ええ、その……はい」

 

 こう言われてしまったのならばエルゥも首を縦に振らざるを得ない。ワイスは微笑を浮かべると部屋の隅に行き、そこで茶を淹れる準備をする。その背中を見ながらエイスたちは心臓の鼓動を押さえ、ただ室内に置かれた机の前で大人しく椅子に座っているのであった。

 数分後、ワイトが盆の上に五つのカップを持って戻ってくる。そして座っている皆の前に一つずつ置いていった。

 

「い、いただきます!」

 

 恐縮した様子でエイスは琥珀色の茶が満たされているカップを手に取り、口を付けるとそのまま流し込んだ。今まで味わったことのない香りが口と鼻を漂い、ほのかな茶の苦みと甘い香りが緊張をほぐしていくようであった。

 

「それで君たちは幹部に何を報告しにいったのかな?」

「……はい、実は――」

 

 エイスたちは森での一件を出来るだけ詳しくワイトに話した。

 

「大きさは二十メートル程あり、今まで見てきた獣の中でも一番大きかったです」

「二十か……記録書に載る程の大きさだな」

「図体が大きいのも厄介ですが、素早さも相当なものだったぜ――いや、でした」

「君の話しやすい喋り方で構わない――ふむ、大きさに似合わない俊敏さか」

 

 エイスとゼトの話を頷きながらワイトは真剣な表情をしていた。

 

「正直に言えば初めて感じる気配でした……何といいますか、『この世のもの』とは思えない鋭く強大な気配を持った生物です」

「鋭い牙や爪も持っていましたが、一番恐ろしいと思ったのはその獣の翼でした……竜種の鱗を簡単に切断する切れ味を持った刃なんて、あたし初めて見ました」

 

初めて見たときの衝撃と恐怖。アースドラゴンを容易く葬ったその強さ。ワイトはただじっとその話を聞き続けていた。

 

「成程、アースドラゴンを一撃で倒すほどの未知の生物か……」

「信じていただけますか?」

「この世にはまだ私の知らないことが多く眠っている。自分が知らないからといってそれを否定することは出来ないさ。もしよければその生物の姿を大まかでいい、描いてくれないか?」

 

 ワイトが紙とペンをエイスたちに渡す。それを受け取ったのはエイスであった。この中で唯一絵心があるのは彼のみである。

 

「では簡単にですが……」

 

 紙を自分の前に置き、ペン先をインクに付けるとそのまま一気に描き始める。エイスの手は淀みなく描き続け数分経った後、絵は完成した。

 

「見事なものだな」

「い、いえ! 大したことは無いです! 趣味の延長線で少しかじった程度です!」

 

 絵が描かれた紙を渡されるとワイトは真剣な表情でそれを凝視する。

 

「見覚えがあるんですか?」

 

 慣れない敬語を使いながらゼトが尋ねるがワイトは首を横に振る。

 

「このような姿をした生物は初めて見るな。ただ……」

「ただ?」

「ドラゴンを圧倒する程の力を持った生物ならば、私も一度だけ会ったことがある」

「ほ、本当ですか?」

 

 生態系の頂点に立つドラゴンを圧倒する生物。それがこの間見た獣以外に存在することがエイスたちにとって驚くべきものであった。謂わば既存の常識が覆されるようなものである。

 

「この生物のように獣の姿はしていなかった。あれはどちらかと言えばワイバーンに近い姿をしていたな……だが大きさはワイバーンの三倍以上あった。私もソレを初めて見たときは衝撃的だったよ。何せフレアドラゴンを一方的に蹂躙しているところに出くわしたのだからな」

 

 ワイスの話に出てきたフレアドラゴンとは、アースドラゴンと同じく竜種であるがその性格は竜種の中でも一、二を競う程に凶悪である。赤く頑強な皮膚を持ち、その背には飛ぶための翼を生やしている。他の竜種とは違い固有の縄張りを持たない為に常に狩り場を求めて飛翔しており、獲物を見つけるとその名の通り火を吐き焼き殺してから食すという習性を持つ。

 その行動範囲と被害の大きさから『害獣』に数えられている竜種である。

 

「出くわして……どうなったんですか?」

「ふふ、このざまさ」

 

 軽く笑ってから今は無き右腕に触れる。ワイトの回答に、自分が失言をしてしまったと思い込んだエイスは勢いよく頭を下げる。その拍子で置かれたカップの中から茶が少し跳ねた。

 

「口が過ぎましたぁぁ!」

「この大馬鹿! 人の、よりにもよってワイト様のデリケートな部分に踏み込んでんじゃないの!」

 

 しきりに謝り続けるエイスの頭を怒りながら何度も手刀で叩くシィ。その隣では慣れた光景なのかゼトとエルゥが苦笑いしている。

 相手の過剰な反応に少しの間言葉を失っていたワイトであったが、頭を下げ続けるエイスの肩を軽く叩き、面を上げるよう促す。

 

「ははは! 元気のいいことだ。私のことを思ってくれての反応だが気にしないでくれ。私自身この眼と腕を失ったことには納得している」

「ですが……」

「気にするなと言ったぞ、私は? それよりも今後の話をしよう。君たちの情報を基にして森での調査部隊を決めよう。未知の獣が相手だ、人員の数と質を充実しておかなければならないから少し時間が掛かると思うが」

 

 ワイトの言葉を聞き、あらためてエイスたちは頭を下げた。

 

「お願いします」

「そう律儀に頭を下げなくてもいいさ。冒険者のことについてあれこれ考えるのが幹部として当然の仕事だ。まず差し当たっては調査が終わるまで森の立ち入り禁止を喚起しなくてはな……」

 

 同じ冒険者出身とあってか、ワイトへの信頼は他の幹部とは比べものにならないものであった。彼がこうするといったら必ず行動に移るという実行力がある。

 あのとき遭遇した獣との恐怖もワイトという頼れる存在がいることで少しだけ和らぐのであった。

 

「では僕たちはこれで……」

「もう少しゆっくりしていてもいいのだが?」

「あはは、何といいますか……あの獣と出会ってから今まで気が張り詰めていたんですが、ワイト様と会話していたらそれも解れてきたみたいで……」

 

 遠回しな言い方であったが、ワイトはその言葉でおおよその察しがついた。おそらく今のエイスたちは張り詰めていたものが緩んだことで強烈な眠気を感じている様子であった。必死になって表情に出さないようにしているが。

 似たような経験があるワイトは当時を少し思い出し、微笑を浮かべる。

 

「そうだな。必死になって情報を届けてくれた君達に今一番必要なのは休養だな。引き止めて悪かった。後のことは私が進めておこう」

「はい。ありがとうございます! お茶、ご馳走様でした」

「あ、あのお話出来て光栄でした!」

「ここらで俺らは失礼します」

「お気遣いありがとうございました」

 

 ワイトの言葉に一同安堵しそれぞれ深々と礼をした後、部屋から退室をする。すると――

 

「おんやぁ? 何故この階に冒険者などがいるんだぁ?」

 

 勘に障るような高い声、その絶妙な音域と口調は聞く者にとってまず不快感を与えるものであった。

 

「ここはお前たちのような存在が踏み入ることを禁止されている場所だがぁ?」

 

 声の主はまだ二十代ぐらいの若者であったが、日頃から十分な食事と不十分な栄養バランスのおかげで肥えており、そのせいで更に十歳ほど上乗せしたような貫禄のようなものがあった。

 若者もワイトと同じく幹部の一人であるが。典型的な貴族出身の幹部であり、その証拠にエイスたちを見る眼はワイトと違ってこちらを見下すものであった。

 会議の際にもこの顔を見た様な記憶があったが名前までは知らなかった。というよりもこのギルド内でワイト以外の幹部の名前を知っている冒険者など極少数である。

 

「分かっているのかぁ? これは罰則事項に当たることだぞぉ?」

 

 嬲るような口調。一言一言に言い様の無い苛立ちを覚える。蛇蝎の如く嫌っている相手ではあるが、最低限の礼を持ってエイスは応じた。

 

「申し訳ありません。誤解を招いてしまいましたが、僕たちは許可を貰ってここに上がっているので」

「許可ぁ? お前たちのような輩に一体誰が許可を出すのだぁ? どこの愚か者だぁ?」

 

 嘲笑を混ぜた言葉。『お前よりも立派な人からだよ』と言葉が口から出るのを懸命に抑えつつ返事を返そうとすると。

 

「私ですよ」

 

 会話が聞こえたのか部屋の中からワイトが出てきた。先程まで嘲笑を浮かべていた幹部は表情を蒼褪めさせあたふたし始める。

 

「こ、これはワイト殿のご友人でしたか!」

「申し訳ない。本来なら要らぬ誤解を招かないよう私が率先して動くべきでした」

「い、いえ! こ、こちらの早とちりなので! では私は失礼します!」

 

 慌てて背を向ける幹部であったが振り返った彼の表情は妬みに塗れたものであった。一連の行動、どちらに非があるか冷静に考えれば簡単に分かるものであるが、このときこの幹部は内心でこう考えていた。

 

『下賤な冒険者たちの前で恥をかかされた』

 

 どう考えてもただの逆恨みでしかないものであったが、元より彼は貴族でないにも関わらず人望も地位もあるワイトの存在に妬み僻みを持っていた。

 いつか目に物見せてやると考えながら立ち去ろうとした彼の耳にある会話が入ってくる。

 

「済まないが下の階の者にこれを届けてはくれないか?」

「何ですか、これは?」

「君達が言っていた件についての仮申請の為の書類だ」

 

 これを聞いた幹部の顔に邪笑が浮かぶ。頭に浮かび上がるよからぬ考えを示していた。

 このとき思いつきで行った幹部の行動。それは後にギルドの歴史上最悪の失態と呼ばれる事件へと繋がるのであった。

 

 

 

 

「森、森、森。どこへ行ってもずーと森。緑ばっかで目がおかしくなりそうだぜ」

 

 足下に広がる光景を見ながらまだ少年とも言える容姿をした男子が愚痴をこぼす。彼が現在居るのは森を見下ろす高さである上空であった。

 なぜ彼がその高さに居られるのか。

 

「お前もそう思わないか、相棒?」

「ギャア」

 

 答えは彼が跨っている生物の存在であった。全長5メートルの体に緑が混じった青色の鱗、大きく広げられた翼膜。長く伸びた口吻からは時折鋸状の牙が見え隠れする。

 世間一般からはワイバーンと称される生物、それこそ彼が相棒と呼んだものの正体であった。

 竜種と遠い繋がりを持つ生物であるワイバーンであるが、気性は竜種に比べれば大人しくその飛行能力から移動の手段に用いられている。ただやはりというべきか気難しい性格をしており気に入った相手しか背中には乗せず、乗り手には才能が必要とされていた。

 少年がワイバーンを操っているということは、すなわち才を持って入る証拠である。

 

「にしてもまいったねぇ。上の奴らの人使いの荒さには。いきなりこの森で探索しろって……」

「ギャア」

 

 ギルドの仕事を終えたところに入ってきた、太った幹部からの急な依頼。手当たり次第と表現してもいい程に適当な人選であり、まだ冒険者として一年経ったか経っていないかという自分まで選ばれたときは流石に目を丸くしたが。

 

「一通り見回したら他の人達と合流するか、もう一頑張りしてくれよ」

「ギャア」

 

 そう言ってワイバーンの首を撫でた時、突如下から突風が吹き上がり、少年は思わず目を瞑ってしまう。そのとき何か生温かいものが頬へと付着した。

 

「何だ?」

 

 頬に付いたものを手で拭い、瞑っていた目を開くと手が赤く染まっている。間違いなく血であった。

 なら、この血は一体何の血だろうか、それを考えるよりも先に飛翔していたワイバーンが落下し始めた。

 

「どうし――!」

 

 その言葉の続きは言えなかった。空を飛ぶためのワイバーンの翼、それが半ばで断ち切られ血を宙へと撒き散らしていた為に。

 落下するワイバーンから少年が放り出される。空中の為視界が激しく変化していく中で少年は見た。落下していく自分たちを追う様にして降りてくる黒い獣の姿を。

 それを見たとき少年は叫んでいた。

 

「うああああああああああああああああああああ!」

 

 本能から来る恐怖に怯える叫び。それは落下することよりも遥かに恐ろしく、ただただこの黒い獣の前から逃げ去りたいという願いで頭が埋め尽くされる。

 だが獣が追い付くよりも先に、少年の体は下に一本の木の枝に叩きつけられた。勢いで枝は折れ、その下の枝に落下しては折れを数回繰り返す。意識が飛びそうになる程の衝撃を何度も受けながらも、死ぬことなく少年は地面へと辿り着いた。

 しかし、それだけでは終わりでは無い。少年は打ちのめされ傷付いた体を引きずりながらこの場から一刻も早く逃げようとする。早くしなければあの獣がやってくる。

 そのとき――

 

「おい、今の音を聞いたか?」

「ビートとかいう新人の竜騎手が落ちたみたいだな」

「おーい! 生きてるか!」

「返事しろ!」

 

 近付いて来る他の冒険者たちの声。この声を聞いた時、ビートは助かったとは思わなかった。寧ろ不味いと考えた。

 だからこそ渾身の力を込めて叫ぶ。

 

「こっちに来ちゃダメだぁぁぁぁぁ!」

 

 だが――

 

「うあぁ!」

「何だ、何だよこいつは!」

「構えろ! 早く構えろ!」

「で、でけぇ!」

 

 願い空しく獣の矛先は冒険者たちに向けられた。

『竜の変』と呼ばれた時代。それを語る上で外すことの出来ない事件、『ナナ森の惨劇』と呼ばれた悲劇の幕開けであった。

 

 




大分間が空きましたが続きを投稿しました。


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蹂躙するモノ、されるモノ

 ある世界において『迅竜』という異名で呼ばれる竜がいた。その名の由来として『影でさえ追い付くことが出来ない』と謳われる程の驚異的な速度を備えていることから付けられている。

 獰猛にして好戦的、そして狡猾な性格をしており、ある世界において数々の生物を苦しめていた。

 だがそれほどの強さを持っていたとしてもその『迅竜』が生物の中で頂点になることは無かった。何故ならその世界には『迅竜』を上回るほどの存在がいた為であった。

 竜はどこまでも竜であり、『龍』には至れない。

 山よりも大きな龍、荒れ狂う風を操る龍、炎と熱を操る龍、あらゆる竜を狂わせる龍、常に獲物を探しひたすら同じ龍の命を喰らう龍。しかし、その龍たちですらも狩る天敵と言える存在もまたその世界にはいた。

 だが今、『迅竜』のいる世界にはそれら全てが存在しない。その竜の特性や特徴の知識も狩る為に必要な武器も道具も知識も、天敵といえる存在もいない。

 あらゆることが無い世界において『迅竜』とその世界に住む人々が接触したとき、いかなる惨劇が生まれるのか、それはこれから明らかになる。

 この世界において誰もが名を知らぬ『迅竜』。ある世界ではナルガクルガと名付けられた竜がこの世界で初めて人へと牙を剥く。

 

 

 ◇

 

 

「で、でけえ」

 

 二十代後半のまだ若いといえる男が、目の木々を斬り裂いて現れた黒い獣を前にして声を震わせながら言葉を洩らす。

 

「びびってないで構えろ!」

 

 弱音を洩らしていた男よりもやや年上の男が叱咤する。その声に正気に戻ったのか、男は慌てて腰に差してある長剣を抜いた。

 今いる数は四人。目の前の巨大な獣を前にしてはやや心許無い人数であるが、他のメンバーはまだ少し離れた場所に居る。落下した新人の音が聞こえている筈であるが、合流するにはまだ時間が掛かる。

 兎に角時間を稼ぎつつ近くにいる筈のビートも救出しなければならない。冒険者たちが各々の武器を構えながら、四肢を付きこちらに殺気立った視線を向ける獣を取り囲む形を作っていく。

 獣はじりじりと移動する冒険者たちを見定めるようにして睨んでいた。やがて冒険者たちが取り囲んだとき、獣が動きを見せる。

 刃のような翼が付いた前脚が地面に沈み込む。飛び掛かってくる、そう思い冒険者たちの神経が張り詰めた瞬間――

 

 ゴオオオアオオルアアアオオオオ!

 

 並外れた咆哮が場に響き渡った。周囲の木々の葉が揺さぶられるほどの声量で放たれた獣の鳴き声。その鳴き声が冒険者たちの耳へと入り込んだとき、ある変化を齎す。

 大の男たちが一斉に手に持った武器を落とし、その手で両耳を押さえて赤子の様に身を縮める。膝から力が抜け、歯は根が合わず、全身が震え続ける。耳から脳へと伝わった咆哮は聞く者の原初的な恐怖を無理矢理呼び起こし、強制的な恐慌状態にさせていたのだ。

 

「う、あああ」

「あ、あああ」

「うおあああ」

 

 無意識に口から恐怖に慄く声が出てしまう。先程まであった戦意はみるみる内に萎えていき、ただ恐れに染まっていく。

 

「ち、畜生!」

 

 しかし、そんな中にも咆哮中に気力を振り絞り立ち上がろうとする者もいた。震える膝を何度も拳で叩きながら縮めていた身を起こす。恐怖の中でも果敢に戦おうとする意志。

 そして恐怖を振り撒く獣を睨みつけようとしたとき、獣の姿が一瞬霞んだ。

 いまだに動けない他の冒険者たち。そのとき咆哮が止まり頭上で風を斬る音がする。直後に響く何かが爆ぜるような音。例えるなら若木を何十と束ねて一気に折った様な音に近かった。そして、その後に再び音が鳴る。今度は熟した果実が潰れる音に近かった。

 咆哮の恐怖からいきなり解き放たれた冒険者たちが顔を上げたとき、そこにあったのは上半身を失った人間と近くの木に叩きつけられ原型を失ったかつて上半身だったものであった。

 咆哮が止めた後に獣がしたのは、身を翻しながら繰り出す尻尾での一蹴。重く固くそして何より速いそれをまともに受けたのは、皮肉にも勇気を見せた冒険者であった。

 一瞬の間に仲間が一人殺された。その事実に咆哮のときとは違う恐怖が湧き立ってくる。

 

「そんな、そんな!」

 

 咆哮から立ち直った冒険者の一人――どこか神経質のような印象を受ける男――は目の前で惨殺された死体に震えはじめる。不幸なことに彼は冒険者としての経歴は下から二番目というほど若い冒険者であり、そして何よりも冒険の最中で同業者が死ぬという現実と出会ったことのない者であった。

 依頼の品として何度か小さな動物を狩り、それの皮も剥いだことがある。そのとき感じた血と臓物のニオイに気分を悪くしたこともあったが、回数を重ねる内にそれも無くなった。だが目の前で上半身と下半身と別れた人間の死体を目の当たりにして、心の底から彼は恐怖した。

 小さな動物と酷似した血と臓物のニオイ。なのにそのニオイを吸い込むたびに胃液がせり上がり、心臓が跳ねる様にして鼓動を早める。

 経験の無い彼は気付くことが出来なかった。血と臓物以外にも鼻孔へと流れ込んでくるあるニオイについて。それを嗅いでしまえば未熟な者なら否応なく竦みあがってしまうニオイ。

 彼は『死臭』というものを知らなかった。

 

「うう! うううう!」

 

 唸るような声が怯える冒険者の口から出て来る。目の前の獣の注意を引くかもしれないというのに、彼はずっと唸っていた。正確に言えばあまりの恐怖に満足な呼吸が出来ず、必死になって息を吸い込んでいる音が唸り声のように他へ聞こえるのだ。

 その行動がやはりと言うべきか獣の注意を誘ってしまう。只でさえパニック状態となっている男に対し、更に追い込むようにして向けられた獣の眼。その眼光を向けられた男の精神状態は遂に限界へと達した。

 

「ああああああああ!」

 

 恥も外聞も仲間を捨てての逃亡。奇声を上げながら獣に背を向けて一気に逃げ出した。残された仲間は咎めるよりも呆然としてしまい、小さくなっていく男の背を見ているだけ。

 だが獣はその細やかな逃亡すらも許すことは無かった。

 獣は右半身を後ろに一歩下がらせながら前傾の体勢となる。そしてそこから引いた右半身で大きく踏み込むと、体をその勢いで反転させた。

 先程も見せた尻尾での攻撃。しかし逃げていく男との距離を考えれば尾の長さは足りない。しかしそんなことに構う事無く獣は尾を振るった。

 その瞬間、振るわれた尾が勢いによってその長さを伸ばす。太く強固に見えた尾は鞭のようにしなりながらその先端を逃げる男まで届かせ、尾が男の頭に触れたかと思えば男の体がその場で側転し宙で二回ほど回った後、地に落ちる。

 落下した男の首は歪な形に歪んでおり、皮膚越しでも中の骨が折れていることが分かる。うつ伏せで寝ている男の体に反して首が空を見上げている状態ならば、誰が見ても絶命しているのは明らかであった。尾自体は軽く掠めた程度にしか見えなかったが、成人男性一人の体重を軽々と浮かせ尚且つ絶命させる程の力が込められている。その全身はまさに暴力そのものであった。

 

「ああ、あああ!」

「ぐうう! くう! 逃げるぞ!」

 

 弱音を吐いていた男は瞬殺された仲間の遺体に激しく恐れ、双眸からは涙が溢れていた。年上の男はまだ動揺が少ないらしく、何とか正気に戻そうと怒鳴りつけるが、正気に戻すには目の前の獣の存在感があまりに大き過ぎた。

 

「おい! おいッ!」

 

 それでも声を掛けるが相手の恐怖を収まらない。年上の男は苦渋に満ちた表情をした後に、怯える男に背を向けてその場から走り出していった。

 一刻も早くこの獣の存在を教えなければならない。見捨てるという冷酷な選択をした彼であるが、冒険者としての考えとして決して間違ってはおらず、非が有るとすれば恐怖を前にして何も出来ず無力な存在の方に非があると言ってもいい。

 冒険者として彼の決断は正しい。ただそれでも人としての道徳、罪悪感が疼いたのか男は走りながらも首だけ振り返り、怯えているもう一人の冒険者を見た。

 振り向く男の眼に入って来たのは戦意を失った男では無く、こちらを見据えている獣の双眸。その眼を見てしまったとき、男の中にあった罪悪感や他者を心配する心も全て消え去り、残ったのは振り向いてしまった自分に対しての後悔のみであった。

 黒い獣は低く唸ると再び前傾の姿勢に移る。その眼には近くにいる怯える男の姿は映ってはおらず、逃げる男の姿だけが入っていた。

 四肢に体重が乗り、獣を支える大地がその力と重みで潰れていく。人の身では到底成し遂げられないような力、そして一生学ぶことが出来ない生まれ備わった天性の身体操作によって、獣の体には人には想像がつかない程の力を秘める。

 やがて溜めた力が限界まで達したとき獣が動く。

 大地は瞬時に抉れたかと思えば、その場から獣の姿が消える。そして次のときには座り込んでいた男の側を突風が駆け抜けていく。巨体が生み出す圧倒的な速度は地に映る影すらも置いていってしまうかと思える程に早く、瞬く間に獣は逃げる男の背後へと迫り、そして抜き去って行った。

 逃げた男は耳の近くを通り過ぎていく轟音に驚き、そして前方にいきなり現れた獣の姿を見て二度驚く。

 すぐに立ち止まり別の場所へと逃げようと男が急停止しようとしたとき、男の体は投げ出すよう様に前のめりになる。

 

「えっ?」

 

 自分でも想像出来なかった事態なのか、男は呆気にとられた表情のまま地面へと倒れ伏す。

 何故こうなったのか、自分は確かに両足に力を入れて止まろうとしていたのに、そう考える男はあることに気付く。

 ある筈の感触が無い。

 男は震えながら顔を上げて後ろを振り向く。そこにそれが無いことを祈って。

 しかし、現実は男に非情を突き付けた。

 

「ああ、あああ! あ゛あ゛あ゛あ゛!」

 

 地面立つ二つの足。だが足首の上には何もない。そして逆に倒れている男の足首から下はそこには無かった。

 

「足がぁぁ! 足がぁぁぁ!」

 

 ようやく気付く両足首の切断。事実に気付いた瞬間から、男には発狂するのではないかと思ってしまう程の痛みが襲い掛かってきた。

 斬られた側が実際に見るまで痛みの感触も無く、まさに神速というべき速度で肉や骨を斬っていった獣の刃。一切の抵抗も無く切り落としていった切れ味は、人の手で生み出すのはまず不可能と言ってよく、まさに人外の領域であった。

 喚く男に獣はにじり寄っていく。男は痛みと恐怖でそのことに意識が向けられない。

 離れた場所で逃げた男の叫びを聞き、怯えていた冒険者はようやく正気へと戻る。しかし、戻ったのはいいが今の彼には叫ぶ男を救う勇気など無かった。

 寧ろ獣を引き寄せてくれたことに卑屈な感謝をしながら、逃げようとその場から立ち上がる。

 その時――

 

「あれ?」

 

 視界が反転し上下が逆さまになった。

 立ち上った筈なのに気付けば下へと落ちていく。これはどういうことなのかと考えようとしたとき、軽い衝撃が頭に走る。地面へと頭をぶつけたと思った男の視界に入ったのは、見覚えのある皮製の防具を着た人物の姿。

 視界の向きが悪いせいで顔が見えない。視界を動かそうとしても何故か体も動かなかった。

『俺はどうなったんだ?』と目の前に立つ人物に話しかけようとするも、声も出なかった。自分の身に何が起きたのか理解できない男。しかし、目の前の人物の服装を見続けていくとあることに気付き始める。

 

(あれ? これって俺のから――)

 

 そこまで考えたとき、男の思考は糸が切れる様に途絶えた。それを見計らったかのように目の前の人物が男に向かって倒れ掛かる。

 ちょうど守るような形で切り離されていた体は、持ち主である男の首の上に覆いかぶさるのであった。

 自分がいつの間にか殺されていたことも、それに気が付く前に死ねたことも、ある意味この場に於いて幸運な死に方だったのかもしれない。

 

「はぁ! はぁ!」

 

 両足を切り落とされた男は、残った両手で地面を這いずり必死になって獣から逃げようとする。それ自体無駄な足掻きだと自覚していても、逃げずにはいられなかった。獣から感じる恐怖が無理矢理に生を喚起させ、無駄だと分かっていても本能によって体が動き続ける。

 獣はそんな足掻く男にあっさりと追い付くと前肢を上げた。

 そのまま踏み潰して絶命させるのかと思いきや、その肢を男の背に乗せると少しだけ体重を加える。まともに乗れば一瞬で潰れるほどの体重を持っている獣であるが、何故か加減をしていた。

 

「がああ! うああああ!」

 

 前肢を乗せられた男は上から掛かる重みによって苦しみ叫ぶ。内臓が徐々に重みで潰れていき、骨も軋みを上げる。その苦しみを少しでも忘れるかのように男の口からは苦鳴が溢れ続けていた。

 その叫びは森の中で良く響く。そしてその声に反応するものがあった。

 獣の耳はこちらへ向かって来る複数の足音を捉えていた。叫びが大きくなるにつれ歩く間隔は狭まり、早足でこちらに駆け寄ってきている。

 獣は知っていた。足下で踏みつけている生き物の叫びは、同じ生き物を呼び寄せるのに使えることを。

 草を踏みしめる音、落ちた枯れ枝が折れる音の距離によって、複数の得物が既に自分の間合いに入ったことを知る。

 獣は再び四肢に力を込める。その拍子に足の下にいた男が一際大きな声を出した後に黙ってしまったが、獣にとって既にどうでもいいことであった。

 一足で地面から跳び上がり近くの大木の枝に飛び移ると、そこから跳躍する。重なった木々の枝を突き抜けた先に獣の獲物がいた。

 その数は先程仕留めた獲物の三倍以上いる。誰もが突然ざわめき出す動植物に戸惑い、音源の方へと訝しげな視線を向けていた。

 そんな中で頭上からいきなり現れた獣は、獲物である冒険者たちの中心へと降り立った。恐怖よりも先に混乱が起こり、そして混乱に思考が追い付いた瞬間に混乱は畏怖へと変化する。

 獣は顔色を瞬時に変えていく冒険者たちを見渡しながら、正確な数を把握した。全部で十四。どれもこれも先程仕留めた獲物と代わり映えしない。獣が動こうとしたとき足下から水が跳ねるような音がする。一瞬だけそこに目を向けると前肢の下に血だまりが出来ており、指の隙間から血に染まったいろいろなものがはみ出していた。

 獣は把握した数を訂正する。全部で十五、残り十四。

 

「何だ! こい――」

 

 先程の冒険者たちと似たような言葉を吐こうとした男が、最後まで言い終えるよりも先に振るわれた獣の刃翼で上半身と下半身が断たれた。

 呆気なく絶命する仲間の姿を呆然と見ていた男も、返す刃で脇腹から肩に掛けて斜めに斬り裂かれ、その上体が宙へと飛び散った。

 飛び散る血飛沫が突然の乱入者に動揺している冒険者たちの感情を更に加速させ、それぞれが自分勝手な行動に移っていく。

 行動は大まかに二つに別れ、片方は獣に挑む者たち、もう片方は獣に怯え逃げ腰になる者たちであった。

 先に挑む者たちから狩ろうと獣が構えたとき、獣の首筋辺りが突如として燃え上がった。いきなり感じた熱。それは獣が嫌う火の熱であった。

 獣は知らなかったが、この世界における技術の一つで『魔法』というものが存在する。己の中に流れる魔力という力を呪文あるいは道具を媒体として変換し、通常ではありえない現象を起こすというもの。このとき発生した火は、獣に挑もうとした冒険者の一人が、手に持つ特殊な加工を施した剣を媒体にして引き起こしたものであった。

 火が着弾した場所から黒煙が上がる。煙の下では獣の頑強な鱗から生えた黒い体毛が焼け焦げている。

 初めて味わうこの世界の魔法に獣はしばし立ち尽くす。それを怯んでいると解釈した冒険者たちはすかさず火の魔法を使用した。

 次々と体に火の球が直撃し至るところ焼けていく。そんな中でも獣は微動だにしなかった。

 獣は火を恐れているのではなかった。実際、火による痛みなど蚊に刺された程にも感じず命を奪うには程遠い。狩る側が受ける狩られる側のささやかな抵抗、獣の裡に人には理解しがたい怒りが芽生える。

 いいように火を当てられていた獣であったが、突如その場から大きく跳躍し冒険者たちの頭上を越えて距離を開ける。

 逃げるのか、そう考えた冒険者たちであったが次に向けられた獣の眼を見たとき、その考えは一瞬にして消え去った。

 

「ひっ!」

 

 射殺すような赤い光。

 獣の眼が冒険者たちを瞳の中に捉え、映る冒険者たちの未来を暗示するかのように赤い輝きを放っている。

 その眼を見ただけで冒険者たちは瞬時に理解する。自分たちが獣を本気で怒らせたしまったことに。

 獣は前傾姿勢となり尻尾を高く掲げる。そして立てた尻尾をゆったりとした動きで旋回させ始めた。

 その奇行に冒険者たちは武器を構えたまま疑問符を浮かべている。

 獣は一回、二回と同じ速度で尻尾を回していたが、三回目となったとき先端が目で捉えきれない速度で振り回したかと思えば急停止し、それと同時に尾から何かが飛び出した。

 放たれた何かに触れた冒険者の一人が後ろへと吹き飛ばされる。吹き飛ばされた冒険者の胸には人の腕ほどの太さがある棘が突き刺さっている。

 そしてそこからは阿鼻叫喚の地獄であった。人体を容易く貫く獣の棘は次々と冒険者たちを刺し貫いていく。ある者は頭に刺さり一瞬にして絶命するが、これはまだいい方であった。別の者は手足を貫かれ、痛みによる苦しみを味わった後に後続の棘で心臓を貫かれて死ぬ。またある者は刺された勢いで後方に飛ばされ、背後に立つ木にそのまま打ちつけられ、生きたまま磔にされていた。

 獣の棘によって半数以上の冒険者が死亡、あるいは戦闘も逃亡も困難な状況に追い込まれる。

 そして、運良く棘から免れた残りの冒険者たち。

 獣は赤い目でそれらに狙いを定めると身を低くし、最大の速度で飛び掛かる。

 最早、獣が何をしているのか、次に何をするのか、それすらも理解出来ない程の身の動き。頭が把握し体を動かすよりも先に、冒険者たちは獣の刃の錆と化していく。

 唯一共通して死に際に思い描くのは、獣が放つ赤い残光のみ。

 

「あ、赤い――!」

 

 迫る残光に引き攣った声を洩らす冒険者は、次の瞬間に体を三つにばらされ地に無残に落ちる。

 全ての冒険者を葬ったと思った獣であったが、絶命している或いは呻き声を出している冒険者たちの姿を見て違和感を覚えた。

 そこで獣はその場で鼻を動かす。むせかえるような血のニオイが漂っているが、獣に嗅覚はあることを捉える。

 この場から遠ざかっていくニオイが一つある。

 自分の縄張りに入ってきた侵入者であり獲物である冒険者を獣は見逃す筈も無く、ニオイが動いていく方向に向かって走り出していった。

 

「はあ……! はあ……! はあ……!」

 

 冒険者は独り走り続ける。宛ても無くただ必死になって走り続ける。走る冒険者の腹部には獣が発射した棘が深々と刺さり、地面に足を踏み出す度に棘と肉との隙間から血が噴き出し、内臓が引き攣るような激痛が襲うが、それでも耐えて冒険者は走り続けた。

 何としてもこのことをギルドへと報告しなければならない。冒険者としての譲れないプライドが生を掻き立て、歩を進ませる。

 だがどんなに気力があっても肉体を誤魔化し続けることは出来ず、流血によって体温はどんどん失われていき走る足ももたつき始めていく。

 

「このことを……必ず……!」

 

 目が徐々に霞み、凹凸のある森の地面に何度も足を捕らえられながらも冒険者はただ気持ちのみで前へ前へと行く。だが遂に冒険者の足は地に張り巡らされた木々の根に捕らえられ、その場で前のめりに倒れていく。

 このまま転倒するかと思われたとき、横から現れた腕が冒険者を掴み、その体を支えた。

 

「大丈夫か!」

「お前は……新人の……」

 

 彼を救ったのは最初に獣に襲われたビートであった。

 

「この傷! あの獣に」

「へっ! お前だって……俺ほどじゃないがやられたみたいだな」

 

 青痣だらけの顔をしたビートを見ながら、強がった笑みを浮かべる。

 ビート自身体の至る所に打撲を受け最初の内は動くことが出来なかったが、幸か不幸か仕留められるのを後回しにされたことで何とか動けるまで痛みは治まり、今の様に怪我人を支える程の余力が残っていた。

 ビートは傷付いた冒険者の肩を首に回して支えるとその場から走り出す。

 

「早くここから離れるぞ! 残った皆にこのことを――」

「……もう全滅したよ」

 

 ビートは冒険者の言葉に目を瞠り言葉を失う。だが強く目を瞑り唇を噛み締めた後に目を開くと既に動揺の色は無かった。

 

「なら生き延びるだけだ!」

「はっ! 生きがいいな」

 

 冒険者は引き攣った笑みを浮かべながらビートの走る速度に合わせて、先へと進む。

 

「お前の相棒のワイバーンは?」

「……あれに落された」

「そうかい……」

 

 お互いに大きなものを失ったと思いつつ、是が非でも生き残ろうと必死になって森の中を駆けていく。

 だがどんなに足掻こうと必死になろうと、それに対し獣は同情など覚えず、そして慈悲も覚えなかった。

 逃げる二人の耳に小枝が折れていく音が聞こえてくる。それも一本や二本ではなく、無数に折れていく音。二人の背に一気に冷や汗が流れ始める。

 そしてそれはすぐに現実となって現れた。

 

 ゴオオオアオオルアアアオオオオ!

 

 咆哮と共に木の上から獣が飛び降り、二人の行く手を遮る。

 二人は湧き上がる恐怖を押し殺しながら、目の前にそびえる獣から逃げ切る方法を必死になって考えていた。それこそ一生分脳を働かせたであろうが、出てきた結果は『逃げ切れない』というものであった。

 数十名の冒険者たちを一蹴する程の実力を持つ獣に対して、こちらは怪我人が二人。どう考えても勝てる見込みは無い。

 獣が身を低くし攻撃の体勢へと移った時、生きる為に足掻いていた二人はどうすることも出来ず、半ば死を覚悟する。

 そして獣が飛び掛かろうとした時、獣の動きが急に止まった。獣が振り向いた先に居たのは、獣の尾に噛みつく片翼のワイバーン。

 

「相棒ッ!」

 

 ビートは思わぬタイミングで現れた相方を見て声を上げる。呼ばれたワイバーンは目だけをビートたちに向け、すぐに戻しひたすら獣の尾を引っ張り続ける。

 その姿を見てビートは一瞬泣きそうな表情となるがそれを堪え、側に立つ冒険者の肩を強く掴むと先に進むよう促した。

 

「走るぞッ!」

「いいのか? あれは――」

「うるせぇ! 言われなくたって分かってんだよぉ! それでも走るんだよ!」

 

 有無も言わせぬビートの言葉。しかしその言葉に含まれる隠しきれない感情に触れると冒険者は俯き、それ以上何も言わず黙ってビートに従った。

 

「クソ! クソ! クソ! 畜生! 畜生!」

 

 誰に対しての罵倒であるか定かではないが、ビートは感情を言葉として吐き出しながら獣たちに背を向けて走り去って行く。

 ワイバーンは去って行くビートの後ろ姿を目を細めて見つめながら、より一層強く尾を噛んだ。

 獣は尾に噛り付くワイバーンを鬱陶しそうに振り払おうとするが、中々離れない。左右に大きく振って近くの木々に叩きつけるが噛む力は弱まることは無く、鱗が剥がれ血だらけになりながらも抵抗し続けていた。

 種族の違う者同士が一方の命を救う為に命を懸ける。それは美談のような美しさを秘めているものであったが、この場に居る獣にはそんなものに対し一片の憐みも同情も湧く筈も無く、ワイバーンの抵抗にただ怒りと殺意しか覚えない。

 獣の目に再び赤い光が灯る。そしてその怒りに反応するようにワイバーンが齧りついた部分が一斉に逆立ち、無数の棘を生やす。棘はワイバーンの口腔を貫き内から外にまで何本も突き破っていく。

 それでも緩まないワイバーンの牙。しかし本当の無慈悲はこの後に繰り出される。

 獣は四肢を深く沈ませると、その場で高々と跳び上がる。尾にワイバーンが付いた状態でも数十メートルの高さまでその体を持ち上げた。

 そして獣は尾を振り上げてそのまま落下する。振り上げた尾が叩きつけられる場所はもちろん地面。

 意識が途絶えそうになる中でワイバーンの脳裏にあったのは、死への恐怖や諦観ではなく相棒であるビートの安否についてであった。

 

『ギャア!』

 

 ワイバーンは心の中で咆哮を上げた。届かないと分かっているがビートの無事を祈る最期の声無き咆哮。

 数秒後、大きな地響きが鳴る。

 地響きの中心では軽くなった尾を振るう獣の姿があった。

 




ひたすらナルガクルガが暴れ狂う話でした。
この話の人たちが弱いんじゃないんです!MH世界のハンターたちが人外過ぎるだけなんです!


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惨劇の終わり

 ソレが目を覚ましたのはある意味で必然であった。

 ソレはいつもの様に森の中にいた動物たちを喰らい飢えを満たした後、その後からやってくる睡眠欲に身を任せて骨や木の枝で出来た自分の住処で微睡んでいた。

 だがソレは眠っていていても不穏な気配を感じ取ることを怠ってはいなかった。

ソレは鱗越しに感じる別の存在の殺気を敏感に察し、閉じていた眼を開く。

 この森の中を気に入っている故、そして自分の縄張りの中に入ってこなかった為、その殺気を放つ存在とはことを構えることは無かったが、どういった訳かその殺気がこちらの縄張りに向かって迫ってきている。

 どういった理由でこちらの縄張りに侵入してこようとしているのかは分からない。だが傲慢にも踏み込んでくるのならばそれ相応の対応をするだけと考え、それを縮まっていた体を開き始める。

 深緑を彷彿とさせる緑の鱗、斑の紋様が浮かぶ巨大な翼、無数の棘を生やし凶悪な拷問器具を連想させる尻尾、そしてそれらを収める巨体。ソレは閉じていた翼を広げ、その場で大きく羽ばたく。翼が大きく上下する度に砂埃が舞い上がり、その風圧によって周囲の木々の枝が激しく揺さぶられ、先にある葉を落としていく。

 ソレが数度羽ばたくとその巨体は数十メートルの高さまで飛翔し、そのまま飛び去って行く。

 狙うはソレの視線の先に居る侵入者。

 

 

 

 

 ビートのワイバーンの身を張った時間稼ぎにより何とか獣から逃げる隙を得た二人は、深い森の中を全力で駆け抜けていった。

 常人の倍近い速度で走る二人。彼らは冒険者がよく使用する基礎魔法である『強化』の術式が刻まれたブーツを着用している。『強化』とはその名の通り身体能力を上げる魔法であるが、比較的簡単かつ少量の魔力でも発動出来る手頃の魔法である為、冒険者間で広い普及率を持っていた。

 その『強化』で得た脚力で疾走するものの、二人の表情から一向に負の感情が抜けない。

 一方はつい先程身内に等しい程の愛情を注いでいたワイバーンを失い、怒りと悲しみが混在した表情をしており、もう一方は常に背後を気にし、いつ来るかも知れない獣の恐怖に焦りを浮かべていた。

 

「――まだ大丈夫か?」

 

 走りながらも肩を担いでいる隣の冒険者に声を掛けるビート。まだ相棒を失った感情が消え失せた訳ではないが、相手を気に掛ける心も失った訳では無い。寧ろ、誰かのことを無理矢理でも考えなければ心が押し潰されそうであった。

 

「へへへ……ルーキーが気にする程じゃねぇよ」

 

 強がって笑うが、その顔色は蒼白く生気が抜けてきている。流れていく血は止まる筈も無く、心なしか量が増えている気さえあった。

 腹部にあの獣が放った棘を突き刺している状態で走っているのだから無理も無い話であったが、あの獣がこちらを狙っている以上全力で動かない訳にはいかない。

 動き続けても命が縮み、立ち止まれば命を失ってしまう最悪な状況。この事態をどうすればいいのか、ビートは頭を兎に角働かせた。

 息苦しくなり、どんどんと体力が失われていく現状をどこか客観的に判断しながら隣で苦渋に満ちた表情をしているビートを、冒険者は横目で見ていた。その顔からいかにしてこの現状を脱しようかと苦悩しているのが手に取るように分かる。

 冒険者はそんなビートの様子を見て小さく笑う。恐らくビートは怪我人である自分を含めて二人でどうやってこの危機を乗り越えようかと考えていると推測した。そしてその前提が間違っていることも理解している。あるいはその選択が浮かび上がってこないことが、冒険者としての日の浅さの証明なのかもしれない。

 

「最初っから選択は一つしかないぜ……新人」

「何だって? もう少し大きな声を出してくれ」

 

 ぼそりと洩らした言葉を聞き逃さず、ビートは聞き返す。

 

「――いいか、ルーキー。 今から俺の言うことを良く聞け。この危機を抜け出す最後の賭けだ」

 

 真剣な表情で話しかけてくる姿を見て、ビートは口を強く結びその言葉に頷いた。

 

「じゃあ、話すぞ?」

 

 

 

 

「――どういうことだ?」

 

 受付嬢の前でワイトはぽつりと言葉を洩らす。

 

「で、ですから、既に編成されて、げ、現場に向かっています」

 

 無表情で怒鳴っている訳でもないワイト。しかし、その全身からは隠しようも無い殺気立った気配を放っており、それに触れた受付嬢は傍から見ても哀れに思える程震えていた。ワイト自身には脅かす気など毛頭無いが、聞かされた内容に感情の高ぶりを抑えることが出来ない。

 

「もう一度聞く。私は確かにあの森への派遣を当分の間、禁止すると仮申請した筈だ。調査する為の人材が揃うまでの間な」

 

 その人材に目途が立ち、調査する人材の名簿を持って申請の更新をしようとしたワイトであったが、名簿を受け取った受付嬢から出てきた言葉は予期せぬものであった。

 

『あれ? ワイト様、この森の調査の人員はもう決まっていますし既に調査に向かっていますよ?』

 

 受付嬢の言葉を聞いた瞬間、不覚にもその場で数秒程棒立ちになってしまう。だがそれは無理も無かった。自分の知らぬ間にことが進んでいたのだから。

 

「そ、それが別の方が新たな申請書と参加者名簿を持ってきたので……手渡された時点で既に、ぼ、冒険者の方たちは送られていた状況で……」

 

 声を震わせ、ワイトの顔色を窺いながら受付嬢は慎重に言葉を選びつつ経緯を話す。話を聞いたワイトの表情がますます険しさを増したのを見て、受付嬢は更に震え上がった。元より穏やかな気質であるワイトであるため、ここまで怒りを見せるのは珍しく、それがより恐ろしさを際立たせる。

 

「申請書と名簿を見せて貰おうか……」

「は、はいっ!」

 

 受付嬢は慌てた様子で整理されている書類の束を漁り、その中から必死になってワイトの要求した文書を探す。

 その姿を見てワイトは、彼女を必要以上に怯えさせてしまったことを内心悪く思うが、今はそれについて謝罪している余裕は無く、一刻も早く自分以外が提出した申請書の中身を知りたかった。

 

「こ、これです」

 

 数十秒後、受付嬢から申請書と参加者名簿が手渡される。それを受け取るとその二つに目を通し、数分後眩暈のような感覚を覚えた。

 まず申請書の方にはワイトがエイスたちから得た情報について一切記載されておらず、適当としか言い様の無い無駄に長く回りくどい文章で中身が無い。要約したとして『何となく危険であるから調査する』という具体性の無い酷いものであった。

 そして参加者名簿には当然、参加する冒険者たちの名前と冒険者として活動してきた年数が記載されているが、その年数を見てワイトは目を疑う。

 最年長だとしても二年半、一番浅い年数で一年未満というほぼ新人のみで構成されたメンバーであった。

 その名簿を掴む手に無意識に力が込められ、用紙に皺が出来ていく。これまで杜撰な管理などを色々と見てきたが今回はその中でも特に酷く斜め上を行く。またエイスたちの情報も事前にあってか笑えない状況であった。

 無言で立ち尽くすワイトの姿を見て、誰も声を掛けることが出来なかった。全身から溢れ出る鬼気によって口を噤む。普段は冒険者たちの雑談で騒がしいギルドの一階も、ワイトの存在によって別世界のような静寂を保っていた。

 

「この印……」

 

 目に止まったのは文書の最後に押されている申請者を示す赤いインクで押された印。幹部が個々で所持している印であり、当然一人一人印の形は違う。書類を申請する為には必需となるものであり、書類の作成者は必ずこの印を押さねばならず、印の無い書類は誰であろうとも受付嬢は受け取らない決まりになっている。

 この書類に押されている印の形を見てワイトの頭にある貴族の姿が浮かぶ。全ての幹部が所持する印の形を記憶しているワイトにとって造作もないことであった。

 しばらく黙っていたがやがて書類から目を離すと受付嬢の方に顔を向ける。

 

「すまないが緊急事態の為、特別措置を取らせてもらう。書類等は後で提出する。構わないかね?」

「え、ええ! はい!」

 

 首を縦に振るのを見て、ワイトは急いで現場へ向かう為の準備を始めようとする。急遽の為用意できる人材、人員共に不十分であるが、それでも現場まで足を運ばなければならない事態であった。

 今すぐ対応できる可能性がある冒険者たちの名前を頭の中で素早く並べ、それらに連絡をしようとしたとき、二階から降りてくる足音が聞こえてきた。

 

「おんやぁ? どうしたのですかな、ワイト殿? 血相を変えて」

 

 足音と共に只でさえ精神的にあまり余裕の無い状況で更に神経を逆撫でする声。ワイトは目線だけを声の方に向ける。

 

「天下に響くワイト殿がそのような余裕の無い態度をとっていると他の者たちに示しがつきませんぞぉ」

 

 姿を見せたのはことある毎にワイトに突っかかってくる貴族の幹部であった。その癖こちらが少しでも強気に出ると拍子抜けするほど腰が引けた態度になる為、正直相手すること自体徒労と思っている人物である。

 だがこのときばかりはその人物に正面から向き合わなければならなかった。この人物こそ、ワイトが本来依頼する筈であった調査を先走って独断で先行した人物であるからだ。

 

「……随分と勝手な行動をしましたね」

 

 静かな言葉であったが、それを端で聞いていた冒険者たちは心底震えあがった。ギルドの依頼の最中何度か命の危機などを経験している故に鍛えられた感覚が、ワイトの言葉を聞いた途端に最大限の警鐘を鳴らし始める。それほどまでワイトの言葉には重圧が秘められていた。

 

「いやいやぁ、差し出がましい真似をしましたが、何分ワイト殿は色々とお忙しい身。ですから少しでもその重荷を減らそうとしたまでですよぉ。同じ、ギルドの、幹部として!」

 

 どこかしてやったりというにやついた表情を浮かべ、自尊心溢れる態度で喋る幹部の姿に、他の冒険者たちは声にならない悲鳴を上げていた。それほどまでに幹部の態度は命知らずであった。

 死線を掻い潜ってきた冒険者すら恐怖を覚える重圧を放つワイトを前にして、その幹部は特に動じることなくいつも通りに接する。傍から見れば肝の据わった神経の太い人物のように見えるが、実際は危険や命の危機などという言葉が遥か彼方にある絶対安全な温室で育った者特有の鈍感さであった。危険から遠ざかって育った故の危機管理能力の退化。恐らくこの人物は、刃物や鈍器などの見て分かる直接的な危険にしか反応しないであろう。

 

「……の決まりはご存じで?」

「はい?」

 

 呟くワイトの声を聞き取れず貴族の幹部は聞き返す。

 

「未知の地及び生物の探索、調査においての決まりはご存じで?」

 

 いきなり振られた内容に、貴族は質問の意図が理解出来ないのか目を瞬かせていた。

 

「いきなり何を――」

「質問を返すよりも先に答えて頂きたい。未知の地及び生物の探索、調査においての決まりはご存じで?」

 

 有無を言わさぬワイトの言葉。このときになってようやく重圧の片鱗を感じたのか、にやついた表情を引っ込める。

 

「えー、それは……」

 

 聞かれたことに対してすぐに答えることが出来ず、しどろもどろな様子になる。目が泳ぎ続け、口が開いたり閉じたりする様子は、誰の目から見ても答えを知らないと体で表現しているのが分かる。

 

「あ、あはははははは! いやいや! どうもド忘れをしてしまったようですなぁ! いやー覚えている筈でしたが、いざ聞かれるとすんなり出てきませんなぁ! 失敬失敬!」

 

 幹部の口から出てきたのは言い訳にしてはあまりに陳腐な言葉であった。

 

「結構。申し訳ないが私はこれから私用で忙しいので失礼する」

 

 その問いが何を意味するのかは聞いたワイト自身にしか分からないものであったが、ワイトが幹部を見る目は冷たく、どのような感情を秘めているのか窺えない。

 

「そ、そうですか! 足止めして申し訳ないですなぁ! 私も、ヒっ!」

 

 あっさりと退いたワイトに幹部は露骨なまでにホッとした様子であったが、去り際に向けられたワイトの視線に言葉を詰まらせ引き攣った声を洩らす。

 

「規則を創る側の人間がそれを自ら破るという罪、いずれ罰という形で降りかかることを肝に銘じておいてもらいたい」

 

 それだけ言い残すとワイトはギルドの外に向かって行った。その背後にはようやくワイトの恐ろしさを理解し、腰を抜かしている幹部の無様な姿があった。

 ギルドの外へと出たワイト。そこには数人の男女がおりワイトが出て来たのを見て近寄って来る。ワイトのことを待っていた様子であった。

 

「悪いが緊急の用事が出来た。すぐに準備をして出掛けてくれないか? 私と一緒に」

「何か、嫌なことでもあったんすかぁ旦那? 眉間にこれでもかってくらい皺がよってますよ? ふぐっ!」

「この礼儀知らず」

 

 リーダー格と思わしきバンダナを巻いた青年が茶化す様に言うが、隣に立つ金髪の女性が戒める様に脇腹に肘鉄を当てた。

 

「今からすぐにナナ森へ向かう」

「それって俺らが調査に向かう筈の森っすか? まだ全員集まってませんよ?」

「分かっている。だが事情が変わった。あの森には別の要請で動いた冒険者たちが現在調査している筈だ。……人数は20人、最長経験者は二年半、勿論上級ランクの冒険者はいない」

 

 ワイトの言葉に、その場にいる全員が性質の悪い冗談でも聞いたかのように目を丸くしポカンとした顔となる。

 

「調査に必要な人数、経験年数、クラスどれも基準を満たしていないということですか?」

「そうだ」

 

 金髪の女性の言葉に、ワイトは苦み走った表情で頷く。

 

「失礼は百も承知で言わせてもらいますが、その依頼を出した人物は馬鹿ですか?」

 

 金髪の女性はこの場にいる全員の気持ちを代弁する。

 

「何も言えないな」

「それで旦那が尻拭いって訳ですか? かぁー! やっぱ上の奴には碌なのいねぇー!」

 

 バンダナの男は額を押さえて天を仰ぎながら毒吐く。しかし、この場でバンダナの男を咎める者は誰も居なかった。

 

「色々不十分で行く。正直、無理強いはしない。あくまで私個人の依頼だ」

「旦那にゃあ色々世話となってるんですぜぇ? 水臭いことは無しで行きましょう」

 

 あっけらかんとした男の態度に、ワイトも少し気持ちが和らいだのか小さく微笑んだ。

 

「エッジ――とワイト様じゃないですか、どうしたんです? こんなに集まって」

 

 バンダナの男をエッジと呼んだのは、ギルドへとやってきたゼトであった。他にもエイス、シィ、エルゥもいる。

 

「ゼトか、どうした御一行様でピクニックにでも行くのか」

「それはこっちの台詞だ。こんな多人数で、何かあったのか?」

 

 ワイトの姿を横目で気にしつつゼトとエッジは軽口を言い合う。それは長年見知っている顔だからこそ出来るものであった。

 

「あの、どうかしたんですか?」

 

 エイスがワイトの顔を見ながら恐る恐るといった様子で尋ねた。事情は知らないが何となくワイトが焦っているような雰囲気を感じ取っていた。

 ワイトは答えず、暫しエイスたちをじっと眺める。その視線が何を意味するか分からない為、少しの間エイスたちは緊張で身を固めていた。

 

「……君たちは、これから依頼があるかね?」

「え! いや、無いですが……」

「よければ私の依頼に付き合って欲しい」

「ワイト様の依頼ですか?」

「これからあの森に行く」

 

 その言葉にエイスたちは息を呑んだ。

 

「君たちにあの森へ入れとは言わない。入る人間は決まっているからね」

「なら僕たちは何を?」

「万が一のときの為に君たちには――」

 

 

 

 

 思いの外しつこく喰らい付いてきたワイバーンを振り払い、獣は逃げた獲物たちを追う為にその場から駆け出す。

 走りながら獣の嗅覚は去って行った獲物のニオイの跡を追っていた。獣自身が放った棘によって出来た傷から流れ出る鮮血の濃いニオイが、例え相手が離れていようと目印となって獣を正しい方向に導いていく。

 森の奥に進んで行く獣。辿っていた血のニオイはどんどんと鮮度を増していき、獲物たちに近付いていることを示している。やがてニオイはある場所に留まり、そこから周囲に血のニオイをばら撒いていた。

 そこにあるのは大きな樹木であり、獲物のニオイはその陰から漂ってくる。

 獣が樹木へ一歩ずつ歩みを進めていくと、木の陰から獲物のものと思える哄笑が上がった。

 

「ははは、あははははは! こうも簡単に引き寄せられるなんてなぁ! 意外と単純じゃあないか!」

 

 木の陰、そこにはビートと一緒にいた冒険者が木に背をもたれさせて座っていた。周りにビートの姿は無く独りである。

 男の腹部には刺さっていた筈の棘が無く、それによって塞き止められていた血が大量に流れ座っている男の周囲の土は赤黒く変色していた。

 その血の量と死人に近い顔色は、間もなく男が事切れることを如実に表している。だがそれでも男は笑い続けた。

 

「ははははははは! はははははは! あはははははは!」

 

 正気を失ったから男は笑い続けているのではない。正気故に足下まで迫ってきた死の恐怖に怯えない為に、自らを鼓舞する為に笑い続ける。

 獣は何故、男が笑うかなど理解出来ないし、もとより理解する気など無かった。ただ一匹がここに留まり、もう一匹は別の方へと逃げたという認識しかなく、速やかにこの一匹を葬ることのみ考え即座に行動に移る。

 獣は前脚を振り上げ、その刃を樹木へと向ける。

 

「はははははは……ははは……」

 

 木越しでも獣が何をしようとしているのか感じ取ったのか、男の笑い声は徐々に小さくなり、やがて――

 

「うくっ! うう、うううう……」

 

 ――嗚咽へと転じる。

 最期の最期になって男の胸中には迫る死による恐怖、そしてある心残りによって満たされてしまっていた。

 獣が木に向け、その刃を振り下ろす。

 

「――おふくろ」

 

 最期に呟いた声を消し去る様に斬られた樹木は音を立てて倒れていった。

 

 

 

 

「はあ! はあ! はあ!」

 

 同時刻、ビートは手に男から渡された二つのものをしっかりと握り締め、森の中を全力で走り続けていた。

 息を吸う度に肺が痛み、喉の奥から鉄のニオイがするがそれでも進む足から力が抜けることは無かった。

 額からは体の内に篭った熱により汗が滝の様に流れる。そしてその双眸からも同じく流れるものがある。

 ビートは走りながらも頭の中ではずっと男と別れた際の会話が延々と繰り返されていた。

 

『置いて行けって言うのかよ!』

『少しでも生きる可能性を高める為だ。――ここからは別の道を行く』

『なら俺でも!』

『こんな死に掛けの奴と、目立った傷の無い奴、どちらが生き残る可能性が高いかガキでも、分かる』

 

 男はそう言うと腹部に刺さった棘に掴み、ビートが止めるよりも先に一気に引き抜く。それにより傷口から洩れる血が一気に溢れ出す。

 

『くっ! ――これとお前の証言が揃えば、少なくともここで、死んでいった奴らの死が無駄じゃ、無くなる……持って行け』

 

 棘を手渡そうとするがビートは躊躇し、手を伸ばさない。

 

『取れ! お前にしか、出来ないんだよ!』

 

 その剣幕に押され、ビートは納得し切れない表情ながらも棘を受け取った。

 

『それで、いい……ガキは素直に大人の言うこと聞くもんだ……』

『何が大人だよ……あんただって俺とそんなに齢、変わらねぇじゃねぇか……!』

 

 ビートよりも二、三歳上程度にしか見られない、まだ幼さが抜けきらない顔付きで男は小さく笑い、懐に手を伸ばすと服の内側からある物を取り出す。それは削った木で出来た素朴な飾り物であった。

 

『もし、生き延びたらこれを俺の親に渡してくれ……それとゴメンとも……』

 

 男はビートの返答を聞かず強引にそれを押し付けると、ビートから離れ別の方向へと走り出していく。重傷を負った身とは思えない勢いで走り去る後ろ姿。それは微かに残る命を燃やし尽くすような文字通りの必死の走りであった。

 小さくなっていく男の背に掛ける言葉が見つからず、今にも泣き出しそうな顔をしていたビートであったが、堪えるように奥歯を噛み締めると去って行く男に背を向け走り出すのであった。

 そしてそこからどれほどの時間が経過したのか分からないが、ビートは宛ても無く森を彷徨い続けている。

 今、自分が森の奥に進んでいるのか外に進んでいるのか分からない。地図も方位磁石も空から落とされた際に紛失している。

 食料も水も微量しかなく空腹と喉の渇き、そして疲労に耐えながらビートはひたすら走り続けていた。

 が、やはり体は正直なのか疲労、そして馴れない道を走り続けてきたことで蓄積したダメージで膝が急に折れ、その場で躓き転倒してしまう。

 すぐに立ちあがろうとしたとき、彼の耳に不吉な音が入り込んでくる。

 木々の枝がへし折れる音。近くではないが遠くからでも無い。

 

(――ただの折れる音だ。きっと他の動物が折ったか何かしたんだ。きっと、恐らく)

 

 自分にとって都合のいい想像を並べている自覚はあった。だが現実はその都合を冷徹に打ち砕く。

 折れた枝の音が無数に重なって近付いて来る。それに強い既視感を覚える。音はぶれることなく一直線にビートへと向かっていた。

それは明らかにあの獣が自分の存在を見つけたという証。心臓も血も凍りつくような寒気が全身に走る。

 震える手を動かし立ち上がろうとするビート。その前を塞ぐようにして獣が木から飛び降りる。

 獣の瞳がビートに照準を合わせる。

 恐怖からビートは呻き声一つ出すことが出来なかった。震えが止まらずただその場で立ち尽くしてしまう。

 終わった。そう心の裡で確信してしまう。死んでいった者たちへの詫びの言葉も思い浮かばず、その犠牲に報いることも出来ず、ここで自分も犬死すると諦めてしまった。

 獣が前脚を引き、斬撃の構えをとる。

 それをどこか他人事のように見ていたビートであったが、次の瞬間、あることで無理矢理正気に戻される。

 

ゴアアアアアアアアアア!

 

 何かが爆発したかのような轟音。だが紛れも無くそれは生物の咆哮であり、頭上から聴覚を殴りつけるように入り込んでくる。

 その直後に獣へと降り注ぐ複数の火球。獣は素早くそれを避けるが、ビートは着弾した衝撃で数メートルほど吹き飛ばされた。

 うつ伏せの状態から顔を上げたビートが見たのは、獣と変わらない大きさをもつ緑のワイバーンであった。

 緑のワイバーンはその巨大な翼を掲げ、明らかな敵意を獣へと向ける。獣もまたその敵意に応える様に身を低くし、いつでも飛び掛かる姿勢になる。

 

「う、うああああああああああああああ!」

 

 ビートの恐怖は遂に臨界に達し自分でも理解出来ない叫びを上げ、その場から一秒でも早く逃げる為に訳も分からず走り出す。幸い緑のワイバーンと獣の意識はお互いに向けられた為、ビートの絶叫は雑音以下にしか聞こえず目すら向けられない。

 あまりに生物として格が違う為に辛うじて逃げ出すことが出来た。

 

「あああああ! うあああああ! ああああああ!」

 

 ただひたすら叫びながらビートは逃げる。背後で何が起きているかなど恐ろしくて見たくも無いし聞きたくもなかった。

 

「ああああああああ!」

 

 逃げながら急に出てきた何かにぶつかり倒れそうになるが、その何かに腕を掴まれ転倒を免れる。だがパニックを起こしているビートはその腕に纏わりつくものを振り払おうと、乱暴に振り回した。

 

「あああああ! ああああああ!」

「――け! 落ち着け!」

「ああああ! ――ひ、と?」

 

 そこでようやく自分の腕を掴んでいるのが人の手であることに気付く。よく見れば、周りには掴んでいる男性以外にも数人居た。

 

「他に、君以外に誰も居ないのか!」

「み、みんな……し、死んだ」

 

 ビートの言葉に男は強く唇を噛む。

 

「ワイトの旦那ぁ! 早くここからずらかりましょう! キユウの老いぼれじじい! 転送の準備はまだか!」

「慌てんなクソガキ。あと一分待て」

 

 バンダナの男がキユウと呼んだ杖を持つ小柄な老人を罵声混じりで急かす。キュウは瞳を閉じたまま杖に額を当て何か呟き続けつつも罵声を返す。

 

「え? え? 何アレ? 何アレ! うわ! 怖い! やだやだやだ!」

 

 片目を閉じている金髪の女性が急に怯え始める。

 

「アル! 何が見えた!」

「うわっ! うわっ! 命が大きすぎる! 本当に生物? 怖い、泣きそう!」

 

 金髪の女性――アルはエッジの言葉を無視し独り混乱している。

 

「だから! 何が見えてんだよ!」

「来た! やばいこっちに来た! 二匹まとめてこっちに来た!」

 

 何が来たかと問おうとしたエッジ。だがそれを遮るように、周囲の木々の葉が揺れる程の二つの重なった咆哮が聞こえる。

 

「――じじい! まだか!」

 

 咆哮に危険なものを本能的に感じ取ったのか、エッジは更に急かす。

 そのとき木々がへし折れる音が聞こえてきた。それも一本や二本ではなく何本も続けざまに折れていく音。その音は確実に近づいてきていた。

 

「やばい、来た」

 

 アルの言葉通り、折れた数本の木が吹き飛ばされて、ワイトたちの周囲に落ちる。そして現れたのはもつれ合う二匹の巨大な生物。

 緑のワイバーンは黒い獣の腕に噛みつき、獣はワイバーンの脚に牙を突き立てている。

 

「これが――」

「跳ぶぞ! 近くに寄れ!」

 

 ワイトがその光景を目に焼き付けているとき、キユウは合図を出す。すると彼を中心にして円形の光が生み出され、その内にいるワイトたちの身体が光に包まれたかと思えば、次の瞬間には姿を消していた。

 犠牲者数十九名、生存者一名。犠牲者内、経験年数一年未満の冒険者十五名。二十歳未満十四名。多くの若い命を散らし、後に『ナナ森の惨劇』と呼ばれる事件はこうしてギルド幹部と上級クラス冒険者たちの介入により最後の生存者を救出したことで、その幕を閉じた。

 

 




今後とも新しい竜が追加されていく予定です。


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命を砕くモノ

『ナナ森の惨劇』から数日前。とある山付近に複数の冒険者たちがギルドからの依頼を受けてやってきていた。

 かつては活火山であったその山で採取することが出来る、希少な鉱石を一定量取ってくるというのが今回の依頼の内容であった。派遣されたのは誰もが中堅以上の冒険者であり、それなりの手練れが揃っている。何故これほどの手練れを揃えたかと言えば、目的の品である鉱物にある問題があったからであった。

 特定の山でしか採取出来ないこの鉱石は、武器や防具、装飾品と幅広く利用できる物であるが、同時にとある生物が好んで食するものでもあった。

 その生物こそ竜種の中でも随一の鱗の堅牢さを持つアースドラゴンであり、この鉱物がある山は必然的にアースドラゴンの縄張りでもあった。だが逆に言えばアースドラゴンが目撃された山には必ずと言っていいほど、この希少な鉱石が眠っているということを指し示しており、危険を覚悟で冒険者たちを送り込むケースも多々ある。

 今回もそういったケースであり、依頼の成功率を上げる為に中堅以上の冒険者たちが揃えられたという訳であった。

 冒険者たちは常に周囲に気を配りながら、目的の鉱石が眠る場所を探して山を探索していく、小さな物音一つに過剰とも言うべき反応をしながら、どんどんと奥へと進んで行った。

 だが奥へと進んで行く毎に冒険者たちの頭にある疑問が湧いてくる。

 

『静かすぎる』

 

 竜の習性上、自分の縄張りであることを誇示する為に日に数回は咆哮を上げる。特に気性が荒く十数頭の群で行動するアースドラゴンならば、とっくに咆哮の一つでも聞こえていい筈である。しかし今回に限りそれが一切聞こえず、冒険者たちはその静寂さを不気味に思っていた。

 やがて目的となる鉱石の発掘場へと来たが、やはりというべきか周囲にアースドラゴンたちの姿が見えない。流石に餌場であるこの場所ですら一匹も見えないということは異常事態であった。

 

「なあ、お前は前にもここで採って来たよな? こんなに無警戒だったか?」

「そんな訳ないだろ。前回のときは囮になる奴らが大きな音立てて引きつけその隙に頂いたんだ。採る側も囮の方も寿命が縮む思いしたんだぜ」

 

 前回この山で鉱石採取の経験がある冒険者は、そのときのことを思い出しているのか表情を顰めながら当時のことを話す。

 その話のせいで現状がより不可解なものであることを強めた。

 しかし、いつまでもこの場で状況についての推測を立てていても無意味なので、依頼の為に出来る限りの鉱石を袋に詰め込む。皮製の袋はすぐにはち切れんばかりの大きさになっていた。

 

「へへへ、大量! 大量!」

「あんまり詰め込み過ぎるなよ。重くて思った通りに動けなくなるぞ」

 

 思ったよりも楽に事が運んでいることに気を良くした冒険者が上機嫌な様子であったのを、別の冒険者が窘める。まだ折り返し地点に辿り着いただけに過ぎず、無事に生還するまでが依頼であるためだ。

 

「わーってますよ」

 

 その言葉を受け止めつつ半笑いを止めなかったが、急に笑うのを止め表情を顰めた。

 

「このニオイ……」

 

 その呟きに他の冒険者たちも異臭に気付く。どうやら風向きが変わったことで漂ってきたらしい。

 血と肉が腐った腐敗臭。通常ならば動物の死骸から漂ってくるものと判断し特に珍しいと思うことはないが、どういう訳か通常の場合と比べものにならない程その腐敗臭は濃いものであり、動物の死骸一匹や二匹程度では済まないものであった。

 

「少し見てくるか?」

 

 冒険者たちの間では大量狩猟や密猟といったものは基本的に禁じられている。だが冒険者たちの中にも黙ってそれを行う者は決して少なく無く、それを見つけた場合報告することを義務付けられていた。今回の場合もそれの類かもしれないと思い、周囲のメンバーへと尋ねる。

 他のメンバーはすぐに同意の意志を示した。

 ニオイを頼りに元を探しに行く一行。ニオイの元は鉱石の発掘場から思いの外近くの場所にあったが、そこに広がる光景に一同絶句する。

 一面に並んだ死体の群。それは冒険者たちが恐れていた筈のアースドラゴンたちであった。その数は十を超え、ちょうど群一つ分の頭数が亡骸となっている。

 冒険者たちは腐敗臭で鼻や口を押えていた手を思わず垂れ下げ、互いに目の前の光景が信じられないといった様子で目を合わせる。その衝撃は辺りに漂う悪臭を感じさせない程強いものであった。

 

「密猟……ってな訳じゃないよな?」

「竜種をこれだけの数狩れる奴がいたら会ってみてぇよ」

 

 冗談を口にしてみるが返ってきた反応は冷たいものであった。ただそんな冗談を口にしてしまいたいほど異常な事態が起こっているのだ。

 

「鱗が剥がれていたり、焦げていたりしているな……火薬か爆発系の魔法でも使ったのか

?」

 

 冒険者の一人がアースドラゴンの死体の一つに近付いて、死因を調べ始める。冒険者の観察通り横たわっているアースドラゴンの鱗の三分の一が剥がれており、その下にある筋組織が剥き出しになっている。そしてその筋組織自体も周囲の鱗と同じく焦げた跡が有った。

 

「竜狩るのにそんな乱暴な方法取るのか? 竜の鱗は貴重なんだぞ?」

「だから不自然なんだよ。利益が目的だとしたら狩り方が雑と言うか豪快過ぎる」

「だったらこっちの方がもっと豪快だぞ」

 

 奥の死体を調べていた冒険者が他を者たちを手招きする。

 

「見てみろ」

 

 顎で指す冒険者。その先にあったのは無残に破壊されたアースドラゴンの死骸であった。先程の死骸同様に爆破された跡があるが、それ以上に目についたのは平たく潰されているアースドラゴンの頭部であった。

 陥没した地面の中心に横たわるそれは頭蓋が上からの圧力によって完全に押し潰されており、頭頂部からは押し出された脳みそがはみ出ている。それと同様に眼球が両方とも外へと飛び出しており、放置されていたせいで水気を失い乾いていた。

 冒険者たちの頭の中に馬車で轢殺された虫や小動物の死体の姿が過ぎっていくが、少なくともアースドラゴンの生命力や強さはそれらの比では無い。

 

「あれも見てみろよ」

 

 頭部を破壊尽くされた死骸に顔を顰めていた一同は、次に指された死体を見て更に表情を顰める。

 他と同じく横倒れになっているアースドラゴンの死体。この死体は腹部が陥没しており、そこから内臓が外へとはみ出ていた。損傷としては他のと似たようなものであったが、最も注目すべきはその死体は他のアースドラゴンと比べ二回り以上小柄な死体であることだ。

 それはアースドラゴンの子供の死骸である。

 

「子供まで容赦無しか……」

「人の殺り方じゃないな。恐らく異種間による縄張り争いだな」

「子も含めて根絶やしってのは珍しくないな、確かに」

 

 同じ動物同士の戦いと推測するが、それによって新たな疑問も生じてくる。アースドラゴンをここまで破壊し尽くす程の生物がこの山にいるのかということ、そしてその生物は単独あるいは複数で襲い一匹も死ぬ事無く一方的にアースドラゴンたちを殺害する程の力を持っているのかということ。

 

「――ここらで考えても無駄だな。取り敢えずこのことはギルドの耳に入れておくか」

 

 そうまとめこの場から去ろうとしたそのとき――

 

イイィィィィガァァァァァァァァァ!

 

 けたたましい咆哮が冒険者たちの耳へと入ってくる。

 

「な、何だ!」

 

 その咆哮の最も近くにいた二人の冒険者が咆哮の方へと体を向けたとき、その視界全てが蛍光色に染まる。

 

「ウボッ!」

「うわっ!」

 

 反応し切れない二人の体に纏わりつく蛍光色をした物体。それは粘度がある物質らしく糸を引きながら体から地面へとゆっくり落ちて行った。

 粘液が降って来たのは山の上の方であるが高さのせいで声は聞こえたが咆哮の主の姿が見えない。

 

「くそ! 何だこれ! 気持ちわりぃ!」

「毒……では無いみたいだが」

 

 体に付いた粘液を必死になって擦り落とそうとするが中々取れ無い。他の冒険者たちも取るのを手伝おうとしたとき、粘液に変化が起こる。

 先程まで蛍光色であった粘液が橙色へと変色したのだ。その変化に、歩み寄ろうとしていた冒険者たちの足が思わず止まる。

 

「ああ? 何だ――」

「変わっ――」

 

 言い終える前に二人の身体が一瞬閃光を放ったかと思えば、それは瞬時に爆発へと変わる。二人を見ていた冒険者たちに音と衝撃がぶつかり、それによってその場で尻餅をついてしまう。

 激しい爆音で耳鳴りがする中、冒険者たちが見たものは上半身を失った二人の無残な姿。それは先程のアースドラゴンたちと同じ損傷を受けている。

 

「何だ……何だ! 敵か!」

「辺りを見回せ! 間違いなくさっきの声の主がこのドラゴンたちやこいつらを殺ったんだ!」

「何だよあの爆発は! 魔力なんて感じなかったぞ!」

「なら魔力無しであの粘液自体が爆発するんだろ!」

「そんなもんがこの世にあるのかよ! 俺は知らないぞ!」

「俺だって知るかぁ!」

 

 初めて見る攻撃方法に、一同口では混乱を現しているものの積み重ねた経験によって既に各々が武器を構え、それぞれの方向を見つつ警戒をしていた。

 

イイィィィィガァァァァァァァァァ!

 

 再び聞こえてくる咆哮。全員がその声がする方に視線を向ける。

 

「こいつは……」

 

 現れた存在を見て洩れてきた言葉。

 そこから結末まではあまりに早く。戦いではなく一方的な殺戮であった。

 冒険者の一人が宙に舞う。その体は大きく変形し、一目見ただけで即死であることが分かる。

 別の冒険者の身体が爆発に呑み込まれる。死ぬ直前まで纏わりつく粘液を必死になってとろうとしていた。

 吹き飛ばされた冒険者が近くに生えた木に体ごとぶつかり、その衝撃で木が倒れる。折れるほどの勢いで衝突した冒険者の命は当然無い。

 上から浴びせられる圧力によって冒険者の身体は地に叩き伏せられる。叩き伏せたものが退くと、そこには大きく凹んだ痕とその中心に真っ赤に染まった肉塊が広がる。

 悲鳴、絶叫が入り乱れる中でそれらの行為は繰り返される。それが行われる度に声の数は減らされていき、間もなくして聞こえなくなる。

 冒険者たちを葬ったソレは大きく口を開くと、仕留めた冒険者たちの身体を捕食し始めた。食事の最中、ソレの口が止まる。口を数回動かした後、何かを吐き捨てた。それは鉱物の入った皮袋であり、破れた箇所から鉱石が零れ落ちるのであった。

 とあるギルドにて、冒険者複数名が期限を過ぎても帰還していないという報告がされる。依頼内容の難易度及び依頼品のことを考慮し、依頼中に死亡あるいは依頼品を持ったまま失踪したと判断され、このことが大事になることは無かった。

 このときの判断により後に新たな事件が引き起こされる。

 

 

 

 

 とある山道。普段はぽつぽつとしか人の歩く姿が見えない場所であるが、今日だけは普段とは違っていた。

 何十、あるいは何百という足音が重なり合い一つの巨大な音と化していた。行進している人物たちはいずれも鎧を装備しており、それだけで一般の者ではないことを標している。

 鎧を纏っている人物たち以外にも馬に乗った人物や旗を持った人物もおり、その旗に描かれた紋章と同じものがその者たちの鎧にも描かれていた。

 彼らはこの国の兵士たちであり、とある重要な人物を護衛する為にこのような行進を行っていた。

 そして護衛の対象となる人物、それはこの行進の丁度中央にある馬車の中に居た。

 

「やっぱり馬車での移動というのは退屈ですわね」

「ここから少し離れた山は地竜たちの縄張りですので、少しばかり遠回りしなければなりません」

「本当に暇ね」

「ならば私が提示した宿題を今なさってはいかがですか?」

「それは暇潰しじゃなくて拷問よ」

 

 豪華な内装が施された馬車の中で、絢爛とした衣装を纏った少女が退屈さからか欠伸を噛み殺しながら愚痴る。

 

「姫様。はしたないですよ」

 

 それを咎めるのは、向かい側に座る女中の服を纏う栗色の髪をした女性。ただ一般の人間とは違い耳が長く先が尖っている。

 

「こんなときこそ私も姫様らしくじゃなく人間らしくいたいのよ、ケーネ」

「カカカカカ! 王族も人の子というものだケーネよ。つまらぬ城勤めから解放されたのだ。姫様の立場に立ってたまには大目に見よ」

 

 姫と呼ばれた少女の反論を、ケーネの隣に座る白髪の老人が肯定する。

 老人は長く伸ばした白い髪と髭をそれぞれ三つ編みにしているという奇抜な格好をしているが、何処か好々爺という印象を受ける顔立ちをしていた。

 

「オー様は姫様を甘やかし過ぎです。大体いつも――」

「何と、ワシまで説教を受けそうになるとは! 姫様、どうかこちらに飛び火しないように態度を改めて貰えませぬか? ケーネの説教はこの老骨にはちと堪えます」

「えー、私はさっきオーの言った通りこの中では人の子として過ごしたいなー」

「何と殺生な」

 

 半笑いで二人小芝居めいたことをする。そして、そのままケーネの前で芝居がかった口調で会話し続ける。

 

「ティナ様、オー様」

 

 そんな二人に冷水でも被せるかのようなケーネの冷たい言葉。付き合いの長い二人だからこそ分かることであったが、姫様という呼び方を改め名前で呼んだことは、本気で説教をしてくる前兆である。

 

「言わせてもらいますが――」

 

 そこから始まる怒涛の説教。特に言葉を荒げる訳では無いが、正論を積み重ねていくことで聞かされている方も中々口を挟むことが出来ない。

 

「――という風に息抜きすること自体私も否定はしませんが、ティナ様の場合は少しばかり気を抜き過ぎている訳です。そういった気の緩みはいずれどこかで綻びを生み出すことになるかもしれませんし、もう少し小出しに――」

「ケーネよ、姫様のことを思っているのは重々承知であるが、こう、もうちょっと手心というものを」

「ティナ様が将来、王族の中で最も輝く存在になるその日までケーネは命を賭けてティナ様を教育していく所存です、オー様。そもそもオー様は――」

「やーれやれ。この齢で耳にたこが出来るとは思わなんだ」

 

 齢九十に迫る老人に対し、二十歳前後の女性が本気で説教をする光景。傍から見れば滑稽なものに見えるかもしれないが、これが彼女らにとっては日常であった。

 

「それにしてもお父様も心配性ね。ギルドの査察程度でこれほどの人を付けるなんて……ケーネとオーさえいれば十分なのにね」

 

 説教から解放されたティナが小声で呟くが、耳聡くケーネが聞きつける。

 

「査察といえどもティナ様にとっては重要な使命です。王族にとって貴族たちを戒めるのは責務ですから」

「こんな継承権が端の端にある小娘が行った所で、あまり影響を与えられるとは思えないのだけれど?」

「何事も小さなことを積み上げてこそ、です。それに口ではそう言っておりますがティナ様にギルドの貴族たちが行う不正を見逃せますか?」

「それは……できないけど」

 

 ケーネの言葉に口を尖らせながらも否定の意を示す。それを見て鉄面皮であったケーネは少しだけ微笑んだ。

 

「結構です。その御言葉を聞けばワイト様もお喜びになりますよ?」

「ワイト様の名前は出さないでよ……」

 

 頬を赤く染め、ティナは顔を背けた。いかにも乙女といえる反応を見せる。

 

「これからワイト様の在籍するギルドに向かうのに恥ずかしがってどうするのです? ティナ様は十一、ワイト様とは一回りどころか二回り以上も離れています。――異性として特に認識されていませんよ」

「うーるーさーい!」

 

 羞恥で赤く染まっていた顔が今度は怒りの赤へと変わる。言われなくても分かっていることをわざわざ口にするケーネに抗議するように、ティナは側に置いてあったぬいぐるみを投げつけた。

 しかしケーネはそれを難なく受け止め、座席へ丁寧に置く。

 

「はしたないですよ? ティナ様」

「誰が原因よ!」

 

 再びぎゃあぎゃあと騒ぐティナ、それに冷徹な反応を見せるケーネ。いつもどおりの二人にオーは喉の奥で笑っていたが、不意に笑うのを止めた。

 

「姫様。しばしお静かに」

「何よ! オー……」

 

 出かかった言葉は途中で喉の奥へと消えていった。普段穏やかな表情をしている筈のオー、だが今の彼の表情は真剣なものであり、良き話し相手としての顔では無く王族を護るための護衛としての表情を見せていた。

 

「敵……ですか?」

「強い……出会ったことのない程の命の強さを感じるな……ただ……」

 

 ケーネの問いを眉間に皺を寄せながら険しい顔つきで答える。そのこめかみからは一筋の汗が流れ落ちる。

 ティナも何度かこのような表情を浮かべるオーを見てきた。そのときは必ず命を狙う者たちが現れる。あるときは山賊、あるときは暗殺者、あるときは獰猛な獣。だがそんなときは必ずオーやケーネが助けてくれた。

 

「ただ、何ですか?」

「人ではない」

 

 オーが呟いたのとほぼ同時刻、隊列最後尾。

 そこには旗を持った兵士が前の歩幅に合わせて行進をしていた。そんなときに聞こえてくる地響きのような音、それに最初に気付いた兵士が何気なく振り返った時、眼前一杯に広がった光る壁のようなものを見た直後、意識が断たれる。

 最後尾の兵士から少し遅れ近くにいた他の兵士たちも地響きの音に気付き、背後を振り向く。

 そこで見たものは、十数メートルもの大きさを誇る巨大な竜らしき生き物が兵士を殴り飛ばしている姿であった。

 人一人隠れてしまいそうな程太く、手甲のような形をした生物の腕に殴られた兵士は、瞬時に纏っていた鎧を変形させられそのまま紙片のように宙へと舞う。人がこれほどまで軽々しく空を飛んで行く姿に兵士たちは呆然としてしまうが、兵士と同じく飛ばされていた旗が地面へと落下した時、正気に戻る。

 

「敵襲! 敵襲ぅぅぅぅ!」

「一人殺された! 前の部隊に早く伝えろ!」

「姫様の安全が最優先だ! 真っ先にここから離脱させろ!」

 

 兵士たちはすぐに臨戦態勢を取り、情報を伝播させていく。そして各自剣、あるいは槍を未知の竜へと向けた。

 

「でけぇ……」

「怯えるな! 護衛兵としての名が泣くぞ!」

 

 味方を鼓舞する声が上がるが、それでも目の前に立つ竜の姿は凶悪に見えた。

 竜としては珍しい体勢をしており、四肢を地面に着けるのではなく後ろ足二本で立っており、前足は地面に着けない前傾姿勢であった。ただ、その巨大な身体を支える後ろ足は太く発達しており、人一人を軽々と踏み潰せる大きさがある。そして先程兵士を撲殺した籠手の様な前足は蛍光色を放っており、それはまるで脈打つかのように光の強弱を変えていた。

 全身の群青色の外皮は凶悪な姿からは想像出来ない程、滑らかな光沢を放ち美しく見えるほどであったが、特徴的な突出した前足と同じ蛍光色に包まれた角のような額や、刃を埋め込んだ拷問器具を彷彿とさせる形状をした尻尾が、そんな心の余裕を与えない。

 排他的な色を浮かばせながら、竜は無数の兵士たちを前にして咆哮を上げる。その咆哮は兵士たちが今まで聞いてきた中でどんな音よりも大きく、そして恐ろしいものであった。

 地が震えるような咆哮を上げた竜は、それを開戦の合図とするかのように前足を振り上げる。

 兵士たちもそれを見ると同時に表情を一気に引き締めた。

 

「かかれぇぇぇぇぇ!」

『おおおおおおおおおおおお!』

 

 竜の威圧を跳ね返すかのように一斉に雄叫びを上げ、兵士たちは竜へと突撃していった。

 

「待て待て」

 

 それを遮るようにして突如土が盛り上がり、竜と兵士たちとの間に壁を造り上げる。兵士たちは戸惑ったもののその壁の頂上に立つ声の主の姿を見て、緊張に満ちた表情に微かな安堵が混ざる。

 

「オー様! 何故ここに!」

「不穏な気配を感じてな……こやつはワシが引き受けた」

 

 その言葉に兵士一同は驚き、すぐに異を唱える。

 

「オー様は姫様を護るという大命があります!」

「その姫様から頼まれたんだがのう」

「なんと……」

 

 オーと兵士が話している最中、そんなことをお構いなしに竜は前足を振り上げ飛び掛かろうと後ろ足に力を込める。だが会話の中でも竜の動向から目を離さないオーは、飛び掛かる寸前に魔力で土の壁を操り、壁の表面から圧縮し硬度を増した棘状の土塊を射出する。

 当たるかと思われた土塊であったが、竜は溜め込んでいた力の向きをすぐさま反転させ、後方に跳ぶ。その巨体に見合わぬ素早さであった。

 

「でかい上に早いときたか、これは手を焼きそうだ……殿はワシに任せ早くここから離れろ。兵士たちの犠牲は最小にする。これが姫様の意志である」

「了解しました……オー様、ご無事を祈っております!」

 

 兵士たちは一斉に敬礼したのち、オーに背を向けて走り出す。

 去って行くのを感じたオーは片手を素早く動かす。指を二本立てたり、立てた指を戻したりなどといった独特の動きであったが老人とは思えない機敏なものであった。この一連の動作は魔法を発動させる為の式である。

 最後に舌打ちの様な短い音がオーの口から放たれると再び土が盛り上がり、竜を中に納めてしまいそうな巨大な手を造り出す。

 

「しばしこの老体と戯れてもらうぞ、見知らぬ竜よ」

 

 土で出来た手が拳を作ると竜に向けて繰り出される。

 直後に木霊する轟音。その音は遠く離れた場所にいる小鳥たちが恐れて一気に木々から飛び立ち、周囲の獣たちも驚き一目散にこの場から離れていくほどであった。

 竜に土の拳を叩きつけたオーであったがその表情に余裕は無い。寧ろ先程よりも厳しい表情をしていた。

 確かに土の拳は竜に触れていた。だが竜は自身を上回る質量を叩きつけられても、その発達した後ろ足でしっかりと地面に根を張りその場から微動だにしていない。

 それどころか叩きつけた筈の拳の方に亀裂が生じていた。

 

(少なくとも鉄よりかは頑丈な筈なんだがのう……)

 

 白い髭を撫でながら相手の屈強さに内心で舌を巻く。冷静に相手を分析するが、その分析もまだ甘かったことを次で知ることとなる。

 亀裂の隙間から見える橙色の物体。それにオーが気付いたその直後、土の拳が内側から爆発する。

 

「何とまあ……」

 

 呆気にとられるオー。その前には土の拳を砕いた竜が両前足を突き出した構えで立っていた。

 

(本腰入れねば敗けるな、これは)

 

 オーは座ったままの状態で宙へと浮き上がると、今度は両手で魔法の式を繰り出していく。

 

「見知らぬ竜よ……いや、その呼び方だと少々味気ないか……とりあえずはワシの魔法を真っ向から砕いたことに敬意を表して、『砕竜』とでも呼ばせて貰おうかのう」

 

 軽口を言いつつオーは動かしていた手を最後に胸の前で合わせる。すると先程のように土から手が現れるが今度は一回り小さい、だが出てきた数はその数十を超える。出てきた手はそのまま地面を掴み勢いをつけると、手だけではなく全身が現れる。

 頭と首が一体と化した丸みを帯びた姿をした数メートルもある土の人形。この世界において『ゴーレム』と呼ばれる、魔法によって創られる命無き人形である。一流の魔法使いでも三体作れれば上等と評されているが、オーはその数倍のゴーレムを一度に創り出す。

 

「ではでは『砕竜』殿。しばらくの間、この老人の人形劇に付き合って貰おうかのう」

 

 ゴーレムがオーの指の動きに合わせ飛び掛かる。対して相手は両前足を構え、咆哮を上げながらそれを迎え撃とうする。

 オーが何気なく付けた『砕竜』という名。奇しくもそれはその竜が別世界で持つ異名であった。

 『砕竜』ブラキディオス。それこそが竜の本当の名。

 そしてブラキディオスと相対するのは、この世界に於いて五指に入る最高峰の魔法使いであり、ゴーレム創造に特化した能力から『偽命』の異名を持つ王族護衛魔法使いオー。

 砕くモノと創るモノの戦いが今ここに始まった。

 




今回で三体目の竜が出てきました。
個人的には強い者同士の対決が好きなのでこのような展開にしました。
ブラキは結構気に入っている竜です。


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一竜当千

 御者が激しく鞭を打つ。それによって打たれた馬たちは全速力で道を駆け抜けていく。碌に舗装されていない道である為、道には大なり小なり石が至る所に転がっており、その上を馬車が通る度に車輪が跳ね、馬車が激しく揺れる。

 その揺れる馬車の中で転げ落ちないよう座席をしっかりと握りながらも、ティナは苦悶に満ちた表情をしていた。

 馬車の激しい揺れに気分を悪くしたことで顔色を変えているわけではない。寧ろ今の彼女は馬車の揺れなど微塵も気にしていなかった。

 彼女は自分が出した命令のことで、ただ後悔に似た感情を抱いていたのだ。

 オーが人では無いものが迫ってきていると言った直後、この世のものとは思えない程大きく恐ろしい咆哮を聞いた。近くで聞いていないにも関わらず、その咆哮を耳にした途端全身が震えそうになる衝動が奔った。かつて山賊や強盗などといった者たちと相対したこともあったが、その時の比では無い程の恐怖が胸の中に生まれた。

 オーとケーネはティナとは違い、咆哮が聞こえた方角にすぐさま顔を向け声の大きさで大体の位置を把握していた。

 

「最後尾……じきにこちらに来ますね」

「なんちゅう声を出す奴じゃ。兵士たちには荷が重い相手じゃな」

 

 その言葉を聞き、ティナは心臓の鼓動が増した様な気がした。姿は見えないがその咆哮だけで脅威であると直感させる存在。そんなものと戦うとしたらどれほどの犠牲が出るのであろうか、そう思った次の瞬間には口が勝手に動いていた。

 

「オー、貴方ならばこの相手に勝てるかしら?」

 

 ケーネは目を丸くしティナを見る。オーは驚くことはせず、口の端を吊り上げニヤリと笑う。

 

「姫様が望むのであればこのオー、如何なる御首も取ってごらんにいれましょうぞ」

「ならば命じます。兵士たちが退避するまでの時間を稼いで下さい」

「了承致しました。ではではしばしの間おさらばです」

「オー、一言だけよろしいかしら?」

「何でしょうか?」

「貴方も必ず……必ず生きて戻って来てください」

 

 絞る様に出されるティナの声。オーはその言葉を聞くと、さっきまで浮かべていた好戦的な笑みから孫を見る祖父の様な微笑へと表情を変える。

「姫様にそこまで言われて戻らなければワシの名前が廃るというものですのう。その命、謹んでお受けいたします」

 

 そう言ってオーは呪文を口早に唱えると馬車の中から姿を消した。

 そのときから今に至るまでティナはずっと同じ表情のまま固まっている。

 

「ティナ様。御自分の判断に疑問がお有りですか?」

 

 その姿を見兼ねたのかケーネが少しだけ柔らかい口調で尋ねる。

 

「無い、と言えば嘘になるわ」

 

 出てきた言葉に偽りはない。だが絶対に間違っているとも言えない。自分の決断の正誤を割り切れる程、ティナは人としても上に立つ者としても成熟してはいなかった。

 

「ならば今日のことは後の経験として覚えておきましょう。そのときは私とオー様とで話し合うとしましょう」

 

 オーの生還を信じるケーネの言葉にティナは思わず顔を上げる。それは自分の判断を少しでも軽くしようとするケーネの気遣いに思えた。

 

「オー様も大事ですが兵士たちも大事です。ティナ様の判断を聞いてオー様は笑っておりました。それはその判断の成否にではなく、ティナ様の言葉だからこそ『納得』して行ったと思っております」

「私の言葉だから……?」

「今はオー様の無事を祈りましょう。大丈夫です。オー様はお強い方ですから」

 

 そう言ってケーネは震えているティナの手に自分の手を重ねた。その暖かさは僅かではあるが、ティナの心の中の不安を和らげる。

 ティナは心の中で願う。味方の兵士たちの無事を、オーの無事を、またいつものように笑いあえるときがくることを。

 

 

 

 

 飛び掛かってくる無数のゴーレムたちに、砕竜はその鈍器のような太い尻尾を身を翻しながら叩きつける。一体目のゴーレムの身体が真横に曲がったかと思えばそのまま砕かれ、上半身と下半身に分かれてしまう。そしてその勢いでもう一体のゴーレムの上半身を完全に粉砕、立て続けに三体目の胴体にもその尾がめり込んだ。

 だが二体のゴーレムのせいで大分威力が殺されたのか、胴体を断ち切る程の破壊は出来ずゴーレムの胴体半ばの部分で尾が止まった。

 通常の生物であれば致命傷と言えるものであったが、砕竜が相手にしている者たちは命無きゴーレムである。体の半分まで尾が喰い込んでいるゴーレムは、その状態で両腕で尾をしっかりと掴み動きを封じるよう試みる。

 それを鬱陶しく思った砕竜はもう一度身を翻して振り払おうと後ろ足を動かそうとするが、急にその動きを止める。見ると砕竜の後ろ足には先程両断した筈のゴーレムの上半身がしがみ付き、動きを止めていた。

 

「すまんすまん。ワシのゴーレムは中々しつこくてのう」

 

 冗談のような言葉をいいながら素早く指を動かす。すると粉砕された筈のゴーレムの一体が時を巻き戻しされたかのように、散らばった無数の土塊が自らの意志があるかの如く集い始め元の形へと戻り始めた。

 オーの魔力が尽きぬ限りゴーレムは何度も蘇る。砕竜の動きが止まっているうちに修復させようと考えていたオーであった。

 策としては決して間違ったものではなく、定石というべきものだったかもしれない。だがオーは未知なる敵、砕竜のことをまだこのとき侮っていたのかもしれない。この世界における強さの基準で計ったことによる認識の甘さ。

 それを次に見た光景で痛感させられることとなった。

 砕竜は尾にしがみつくゴーレムと足にしがみつく半壊のゴーレムを睨む。そして軽く唸り声を上げた次の瞬間、尾にしがみついていたゴーレムの身体が浮き上がる。

 

「なんとまあ……」

 

 その姿にただ驚くしかない。ゴーレムを構築するのには大量の土砂などを要し、それを圧縮して人型に留めている。土で出来ているとはいえ見た目以上の重量を持っている筈であるが、目の前の砕竜はそれを尾の力のみで容易く持ち上げている。

 オーの見ている前で砕竜を持ち上げたゴーレムを半壊したゴーレムの背に叩きつけ、今度こそ二体を完全に粉砕した。

 

「やってくれるのう……」

 

 オーの表情は冷静であるが内心では苦い表情をしていた。

 半壊、欠損などの状態であるならば少々の魔力で修復することが出来るが、魔力の依代になっているゴーレムが完全に破壊された場合、一から作り直さなければならず、その魔力の消費量は一気に跳ね上がる。 

 今までゴーレムを何度か破壊された経験はあるが、こうも簡単には破壊されたことは無かった。

 それ故に目の前の砕竜はオーの経験したことがない未知の強さを秘めていることとなる。

 

(ゴーレム一体で少なくとも百の兵は相手に出来るのだがのう)

 

 かつて大きな戦いが有った際、オーは十数体のゴーレムで千以上の兵を足止めし、相手を戦慄させた経験がある。そのゴーレムたちが一頭の竜によって圧倒されていることに、今度はオーが戦慄を感じていた。

 

(まさかこの眼で一騎当千などというものを目の当たりにするとは……いや、この場合は一竜当千の方が正しいかのう)

 

 最初に抱いていた認識を改め、オーは奏者のように指を動かし残りのゴーレムたちに指示を下す。

 ゴーレムたちはそれに従い、人のような滑らかな動きで砕竜を左右から挟むようにして組みつこうとするが、砕竜はその動きを嘲笑うかのような俊敏な動きで大きく後退する。

 その跳躍は明らかに自分の全長よりも長く、一足で数十メートルのもの距離を開けた。ゴーレムの中では動きが素早いオーのゴーレムでも、流石にその動きについていくことは出来ない。

 砕竜が大きく距離を取った直後、その口から長い舌を伸ばしそれを自分の前足に這わせる。見方によれば凶器を舐り、相手を挑発する姿に見えるかもしれない。だが相手は人でなく竜である。ましてやその全身から溢れ出る程の凶暴さが見える竜が、そのような遊びをするようには見えなかった。

 恐らくは何か意味のある行為だとオーは推測する。舐められ唾液に塗れる砕竜の前足、そのときオーは前足に付いている蛍光色の部分が蠢いたように見えた。

 

「んん?」

 

 ただの光では無いのかと考えるオーの都合を無視し、砕竜が今度は離れた分だけ前方へと跳躍し、その最中に拳を振り上げる。

 飛び掛かる砕竜の前に居たゴーレムは両腕を交差し防御の構えをする。砕竜は相手が防ぐ体勢に入ったことに構わず振り上げた前足を振るう。

 動作の大きい横殴りの一撃。だが持ち上げた状態から振られるまでの間が殆どなく、目で追い切れない速度の打撃であった。

 殴打されたゴーレムの体は地面の上を滑り後方まで下がっていった。衝撃が突き抜けたのかゴーレムの背に亀裂が入るのをオーは見た。しかし、殴打の勢いが弱まったことで下がるのを止めたゴーレムは五体満足の状態であり、打撃を直接受けた両腕も地に落ちることは無く粉砕されていないことを示している。

 見た目は先程破壊されたゴーレムと変わりは無い。変わっている点があるとすればその内に込められた魔力の量が上がっていたことだ。見た目では分からない変化であるが、オーとゴーレムたちは見えない魔力の線で繋がっており、オーが魔力を送り込むことによって攻撃に特化させたり防御に特化させることが出来る。

 殴られたゴーレムも防御特化させたことにより倍以上の硬度を得て、砕竜の拳に耐えることが出来た。

 尾でゴーレムたちが破壊されたことを反省し、砕竜が飛び掛かるまでの間に変化させておいたがその行動はそれなりの成果を出していた。

 だがそれでもオーの気が晴れることはない。破壊されることは無かったが亀裂が生じた。防御特化させたゴーレムをここまで壊した相手は今回が初めてであり、その膂力にはただ驚かされる。

 オーは空中を浮遊し、位置取りを変えながら両腕が罅割れたゴーレムを修復しようとした時、気になる物が目に入ってくる。オーの視点からでは見えなかったが、交差しているゴーレムの両腕に付着する蛍光色の粘液。それは砕竜の前足が放つ光と同じであり、このときオーは砕竜の拳がこのような粘液を纏っていたことを知る。

 ならば何故このようなものを相手へと付着させるのか、その答えはオーの目の前で蛍光色から橙色へと変色する粘液を見て理解する。

 その色は先制の魔法を使った際、罅割れた土の手の隙間から見えた光であった。次に何が起こるのかを察したオーはすぐにゴーレムの側から離れる。

 その直後、ゴーレムの身体が爆炎に包まれた。爆発の衝撃でゴーレムを構成している土砂は吹き飛ばされ、そのまま転倒する。倒れたゴーレムの上半身は完全に爆砕されており、死に掛けた虫の様に下半身のみが痙攣しているかのように動いていた。

 

「桁外れの身体能力に加えて、爆発まで操るか……手を焼くどころか骨の折れる相手だのう。しかし――」

 

 砕竜が爆発を起こしたときに一切の魔力を感じられなかった。通常の魔法ならば発動する前に魔力の波動のようなものを感じ取ることが出来る。魔法の扱いに長けている者ならばそれを巧みに隠して発動することが出来るが、少なくとも目の前の砕竜の凶暴さや荒々しさを見るにそんな繊細なことなど出来るとは思えない。

 ならば今目の前に居る竜は魔力を使わずにこれほどまでの爆発を引き起こした、ということになる。

 その考えに至ると同時にある疑問が浮かび上がる。

 

(これほどの竜が何故、今になって姿を見せたのかのう?)

 

 その獰猛さや排他性、そして一線を画す強さがあればとうの昔に有名になっていてもおかしくは無かったが、少なくともオーの知識や今まで生きてきた中ではこの竜に関わる話など一切聞いたことが無い。

 静かに思考しながらもオーの眼は砕竜から離れることはない。砕竜もオーの視線に気付いたのかゴーレムたちよりもオーの方を睨みつける。

 

「怖い怖い。そう怖い目で睨まんでくれるかのう」

 

 軽口を言うオーに、叩きつけるかのように砕竜が咆哮を上げる。咄嗟に魔力の壁を周囲に張り直接聞くのは避けたが、何十もの修羅場を潜り抜けてきたオーも砕竜の咆哮に僅かに心を揺さぶられたのか、こめかみから一筋の汗が流れる。

 

「まったく。耳が遠くなってきて助かったのう。まともに聞いていたら心臓が止まっていたかもしれん」

 

 冗談を口にしながらオーは指先を弾く。すると粉砕されたゴーレムたちの残骸が更に細かい砂となり、それが生き物のように蠢きながら隆起する。

 そしてそれは砕竜の顔面目掛け勢いよく伸びる。

 砕竜もその砂の動きを見て前足を交差し防ごうとするが、砂は僅かに出来た隙間から入り込み砕竜の顔面に付着する。

 両目を覆うような形で砂は砕竜の顔に張り付きその視界を奪った。砕竜は手甲のような形をした前足の部位の下から爪の生えた手を出し、張り付いた砂を落とそうとする。

 爪で引っ掻くたびに砂は落ちていくが、その度に剥がれた砂は舞い上がり再び重なって元の形に戻る。

 鬱陶しそうに何とか砂を剥がそうとやけになるが、その隙をオーは見逃さず残ったゴーレムたちを一斉に動かす。

 全てのゴーレムが拳を振り上げ砕竜へと走り寄る。その足音に砕竜も反応し、砂を剥がすのを止め構えをとるが、複数の足音のせいで狙いが絞り切れていない。

 一体のゴーレムが砕竜の横顔に拳を振るう。目が見えずとも気配でそれを察したのか砕竜の腕がそれを受け止めた。深く後ろ足の爪を喰い込ませることでその場に固定されたように動かない砕竜の体。だが次の瞬間にはその顔が大きく横に向く。

 砕竜の頬に叩き込まれる拳。それは一体目のゴーレムの身体から新たに生えた別の腕によるものであった。定まった形が無い故に自由にその身体を変化させる。砕竜の視界を封じたこともあり、より当てやすくなっていた。

 四本腕のゴーレムはそのまま畳み掛けようとし、両指を組んで砕竜の脳天に叩きつけようとするが、殴られた砕竜は僅かに顔を背けた程度で止まり、顔を戻す勢いと共に右前足が腕を振り上げた体勢のゴーレムの胴体に撃ち込まれる。

 ゴーレムの身体はくの字に折れ曲がりへし折られる寸前までいくが、辛うじて壊れることだけは避けられた。

 殴られた衝撃でゴーレムの身体は仰向けに倒れる。オーはすぐに修復し立ち上がらせようとするが、そこに砕竜の追撃の前足が胴体にめり込む。

 砕竜は一発では終わらず、同じ勢いで二発、三発と前足を倒れたゴーレムに浴びせ続ける。それを止めようと他のゴーレムたちが砕竜の腕や足にしがみつくが、その重みなど存在しないかのように何度も何度も前足を叩き込む。

 ゴーレムの原型は崩れ、まともな形を維持できない程殴打されたが、そこに更に爆発する粘液が前足で殴りつけた箇所に付着していた。

 このままでは他のゴーレムたちも巻き込まれると思い、オーはすぐにしがみついているゴーレムたちを離す。その直後に付着していた粘液は爆発し、ゴーレムは残骸すらも残らない程跡形も無く消し飛ばされる。

 その容赦の無さと気性の荒さに、オーは何度目かの冷や汗が背中を伝わっていくのを実感する。怒るという行為は人間からすれば冷静さを失うものであり危機を招く。だが相手がこれほどまでの身体能力を持つとなると話は別である。攻撃を受ける度に与える攻撃の苛烈さが増していき、怯みもなければ恐れも無い。まさに『暴力』という言葉を体現しているようであった。

 オーは残りのゴーレムたちを動かし、爆破し終えた直後の砕竜に向けて突進させる。未だに目を封じられているが砕竜はその聴覚で相手の動きを察知し、一体目のゴーレムが最接近したタイミングで前足の片方を地面に叩きつけると、それを軸にして身体を九十度反転させる。見た目からは想像出来ない技巧的な動きによって最初のゴーレムの攻撃はあっさりと回避され、それによって砕竜の前に無防備な姿を曝け出してしまう。

 そこにまるで見えているかのような前足の一撃が胴体の中に沈み込んでいくが、回避も反撃も想定内であったのかゴーレムはその状態で砕竜へとしがみつく。そしてそのまま人の形が崩れ、土砂となって砕竜の身体に覆いかぶさった。

 体に纏わりつく土を払おうとするが、意志があるかのように砕竜の甲殻にへばりつき簡単に落ちない。そこに後追いのゴーレムたちが砕竜に向かって飛び掛かり、先のゴーレムと同様にその身体を崩して土砂へと還る。

 降り注ぐ土砂は砕竜の身体を包み込み、土砂の中へと沈ませていく。砕竜も抵抗して前足を振り回すが形の無い土砂に触れてもただ散るだけであり、散った土砂もすぐに元へと戻って再び被さってくる。

 ゴーレム数体分の土砂はやがて砕竜の身体を完全に覆いつくし、そのまま球体状の形に変化する。

 土砂で出来た砕竜の為の拘束衣あるいは牢獄。もしくは――

 

「これに耐えきれるかのう」

 

――処刑場。

 オーが両掌を胸の前で叩き合わせると、砕竜を包む土砂が内側へと向かって収縮を始める。魔力を込めた土を操作し、中に入っている対象を圧殺する魔法。やり方がやり方だけにあまり好んで使用する魔法ではないが、強敵を前にしてそのような甘い考えは続けている場合でもないし、余裕もない。

 何層にも重なった土の壁が砕竜の身体を圧し始めていくが、ある程度まで球体が縮まると変化があった。

 球体状の土が形を変え始める。本来ならば最後まで球体で在り続ける筈であるが、徐々に丸みは消えていく。その形は砕竜を模ったものへとなっていった。

 

「どれだけ固いんじゃあ、お主は」

 

 オーの言葉が示す通り、中に居る砕竜が土による圧迫に逆らい潰れずに形を保ち続けている。竜種すらも完全に閉じ込めることが出来るこの魔法に筋力、あるいは甲殻の強度のみで耐えているということになる。

 戦えば戦う程に知る、生命としてあるまじき強靭さ故にオーはこう言わざるを得ない。

 

「一体どのような環境に身を置けば、そこまで至ることが出来る……」

 

 その満ち満ちた途方も無い生命力に敬意を払えばいいのかそれともただ呆れ果てればいいのか、そう考えているオーの前では圧縮する土の力に逆らいながら砕竜は両前足を動かそうとしていた。

 砕竜は耐えるどころか抵抗する力を見せ付ける。土の拘束の中でぎこちない動きながらも確実に前足は動き続け、その先端を胸の前で合わせようとする。

 オーもただ見ている訳ではなく更なる魔力を送り、土の圧力を増していくがそれでも砕竜の動きは止まらない。オーの額に血管が浮き出て、いつ千切れてもおかしくないほどに魔力を込めて土を操るが、どうしてもその動きを止めることが出来ない。

 やがて砕竜の胸の前で両前足が軽くぶつかり合う。ただそれだけのことであったが次の瞬間、土が内側から一斉に盛り上がった。

 それによって吸いつくように張り付いていた土と砕竜との間に隙間が出来たのか、さっきよりも更に強い力で前足が胸の前でぶつかり合う。

 再び膨張する土。だが内側からの圧力に耐え切れなくなったのか至る所に亀裂が生じ始め、その隙間から黒煙が漏れ出て来る。

 三度目が打ち合わされたとき、凄まじい爆音と共に土の膜は弾け、周囲に散らばっていく。

 爆風を受け、思わず腕を翳して身を護るオー。まさか脱出する為に自爆紛いの方法をとるとは予想出来なかった。

 黒煙を突き破り、閉じ込めていた砕竜が姿を現す。目を覆っていた砂も先程の爆発で完全に取り除かれていたが、それよりも注目するべきことがあった。

 閉じ込めるまでは蛍光色の光を前足や頭部から放っていたが、今の砕竜は黄と赤を混ぜ合わせた光を纏っており、それは爆発寸前の粘液に近い色をしていた。

 

「寿命が縮むのう……」

 

 肌に感じる凄まじい怒気。どうやらさっきの魔法で完全に相手を怒らせてしまったらしい。空気が乾燥していないにも関わらず、周囲にばら撒かれる砕竜の怒気のせいで口や喉が緊張で乾いていくのが分かった。

 オーは散り散りとなった土を掻き集め再びゴーレムたちを造り出そうとする。魔力が送り込まれ土がその形を変え始めたとき、砕竜は咆哮を上げてその頭部を地面に突き刺す。

 初めて見せる動作。だが考察する間も無く地面に頭部が接触したかと思えば、それを中心にして周囲を吹き飛ばす程の爆発が起こる。

 以前は時間を置いてから爆発していたが、今は殆ど間も無い状態で即時に爆発。この爆発により作り始めていたゴーレム、そして砕竜の近くにいたゴーレムたちも巻き込まれ衝撃でその身が砕かれていく。

 

「やれやれ……」

 

 砕けて四散するゴーレムたちを見てオーは軽く首を振る。正直な話、相手がここまで格上となると残された手段は残り少ない。だがそれですらこの竜に対して通じるという未来が見えなかった。

 全魔力、否全生命を注ぎ込んだとしても勝てると思えない敵。苦戦、死線を何度も味わってきたが今回ほど活路が見えない戦いは初めてであった。

 しかし、それでも――

 

「試してみないといかんのう……」

 

 その呟きに応じ、残っていたゴーレムたちが崩れ元の土に還る。

 ゴーレムを維持する力を全て断ち切り、今から全魔力を以て砕竜に最後の一撃を放つ。

 細く長いオーの両指が素早く絡み、その形を瞬く間に変えていく。動作による魔法術式の形成、そこに口頭での呪文、そして身に付けている装飾品に施された術式も重ねていく。

 三重魔法術。方法としては様々なものがあるが、発動するには大量の魔力と繊細な技術、そして並外れた集中力を必要とする上級魔法である。

 戦いの最中、それも今まで出会ったことの無い凶悪な相手を前にしても意識を乱さず、その洗練された技が発動していく。

 砕竜の身体が微かに震えはじめる。それは砕竜自身が震えているのではない。砕竜の立つ大地が震えているのだ。

 砕竜の見ている前で大地が隆起していく。足下の土すらもその隆起に巻き込まれ集まっていくので砕竜はその流れから離れる。

 周囲の木々や岩も根こそぎ集まっていき、盛り上がっていく大地の中へと取り込まれていく。その時点でオーの作り出したゴーレムの倍以上の大きさがあり、更にそこから大きさを増していく。

 集ったものはやがて形を変えていく。ゴーレムのときとは違い表面は幾層もの土が重なり合いより頑丈さを増し、顔の無かったゴーレムとは逆に今度は兜のような頭部を生やしている。

 砕竜も見上げる程の巨体。『土人形〈ゴーレム〉』を超える性能を持つ存在を生み出す『守護者〈ガーディアン〉』と呼ばれる魔法、それがオーの発動したものであった。

 本来ならば全体が出来ている筈であったが、今のガーディアンは上半身を大地から生やした格好をしている。オーの全魔力を消費したのならば完全な形で出せていたが、砕竜との戦いによって魔力をかなり消費してしまい中途半端な状態となってしまった。ただしこの魔法、通常ならば巨大な手足を一本生み出すのが限界の魔法であり、このように人の形までもってくること自体、逸脱している証であった。

 完成されたガーディアンがその巨大な腕を広げ砕竜を威圧する。砕竜も自分を上回る巨体を前にしても怯みを一切見せず、未だその気は昂り続けていた。

 ガーディアンが大きく腕を振り上げる。すると肘の部分に大きな穴が開き、そこから魔力を噴出させることによって緩慢な動きを加速させ、巨体に見合わない機敏な拳打が繰り出される。

 自分の姿が完全に隠れてしまうほどの巨拳を前にして砕竜は両前足を振りかぶり、迫る拳に向けて叩きつけた。

 接触した瞬間、凄まじい爆発が起こりガーディアンの拳に亀裂が入る。だがその状態でもガーディアンの攻撃は止まらず、爆発を貫いて砕竜の身体に拳が叩き込まれた。叩きつけられた巨拳を後ろ足の爪を地面に突き立てて耐えようとするも拳の圧力に負け、砕竜の身体はこの時初めて地面を転がる。

 二度、三度と地面を転倒し、立ち上がろうとするがそこに被さる影。砕竜の頭上でガーディアンは組んだ手で拳を作る。

 

「このまま押し切らせてもらうぞ」

 

 組んだ拳を転がる砕竜に向けて振り下ろした。その一撃で大地は割れ、土や砂煙が巻き起こる。通常の生物ならば即死に繋がる攻撃であるが、オーは砕竜の生命力を侮ってはおらず立て続けに拳を振り下ろし、完全に息の根を絶とうとした。

 舞う粉塵に轟音。砕竜が声すら上げられないような拳の連打。このまま押し切れば勝てるかもしれないと微かに思ったそのとき、オーはある異変を察知する。

 ゴーレムと同様にガーディアンとも感覚を繋げ、ガーディアンが触れた触感などを自分で触っているかのように感じることが出来る。そして今、先程まで拳から伝わっていた感触が消えた。より正確に言えば、手応えがなくなったのだ。

 その感覚に従い、オーはガーディアンを動かすのを止める。そして舞う土煙を魔法で発した風で吹き飛ばした。

 

「なんと……」

 

 いくつもの拳の跡が刻まれた大地。その中心には大きな円形の穴が開いており、砕竜の姿が見えない。中心に開いた穴から砕竜が逃げたのは分かるが、この土自体簡単に掘れるような柔らかさではなく、大小様々な石も混ざっているので寧ろ困難と言える。しかもそれをあの拳の雨の中、それも極短時間で十数メートルの巨体が隠れる程の穴を掘るなど想像出来る筈がない。

 相手の理不尽なまでの能力の高さに文句の一つでも言いたくなるが、すぐに消えた砕竜を探さなければならない。少なくともオーの中ではこのまま相手が逃げるという選択をするという考えは無かった。あれほどの怒りを腹に抱えたまま逃げる相手には思えない。

 すぐにガーディアンの体勢を立て直そうとしたとき、ガーディアンの背後で轟音と共に土砂が上空に向かって噴き上がる。

 そしてそこから砕竜が姿を現した。身を隠す速度も早ければ土中を移動する速度も桁外れである。

 飛び出した砕竜はそのまま前屈みの姿勢となっているガーディアンの背に飛び移ると、容赦なく右前足を叩きつけ爆発を起こす。重い一撃と爆発の衝撃で、ゴーレムよりも遥かに硬いガーディアンの体に大きな窪みとそれを中心にして亀裂が生じる。だが砕竜の攻撃はそれだけに留まらず、傾斜になっているガーディアンの背を駆けると同時に左右の前足を叩きつけながら登り始めた。

 立て続けに起こる爆音と爆発、そしてそれによって発生する煙を突き破りながら猛然とした勢いで頭頂部目掛け一気に走り抜ける。

 

「――全く、常識外れだのう……砕竜殿」

 

 ガーディアンを破壊しながら突き進む砕竜の姿を見て、オーは自らの敗北を悟った。どう足掻いても勝てない。その結論に至ってしまった。

 だが、敗けを認めたオーの眼には最後の意地が残っていた。

 

「ただでは敗けんよ……この方法はあまり好みではないがのう」

 

 呟くオーの前では、頭部まで登り詰めた砕竜がその橙に光る頭を振り上げていた。

 砕竜がガーディアンの頭に自らの頭を叩きつける。ガーディアンの頭は砕け、その中に砕竜の頭部の先端が入り橙色の粘液を一気に流し込む。

 一秒も満たずに起こる縦一直線の爆発の連鎖。登る過程で付けた亀裂と連鎖爆発により、オーのガーディアンは縦に裂けていく。

 自ら生み出した守護者が倒れていくのを見ながら、オーは馬車の中で交わしたティナとの会話を思い出す。

 

『オー、貴方ならばこの相手に勝てるかしら?』

『姫様が望むのであればこのオー、如何なる御首も取ってごらんにいれましょうぞ』

『ならば命じます。兵士たちが退避するまでの時間を稼いで下さい』

『了承致しました。ではではしばしの間おさらばです』

『オー、一言だけよろしいかしら?』

『何でしょうか?』

『貴方も必ず……必ず生きて戻って来てください』

 

「姫様、済みませぬ」

 

 自嘲気味にオーは笑うと短く呪文を呟いた。すると、縦に裂けて今にも崩れ落ちそうなガーディアンに変化が起こる。その巨体が激しく震え始め、所々に出来ていた亀裂が一気に全身に走る。

 その変化に不穏なものを感じ取ったのか砕竜はガーディアンから離れようとするが、既に遅い。

 

「ではでは、老いぼれの最後の足掻きに付き合ってもらおうかの、砕竜殿」

 

 オーがガーディアンを制御から意識を完全に離す。それによりガーディアン内部に残された魔力は制御を失い暴走を始める。

 魔力の意図的な暴走、それによって起こる魔力の爆発。かつてゴーレムたちで行った戦法であり、これによりオーは砦や防護壁などを破壊していた。しかし前と今では注ぎ込んだ魔力の量が明らかに違い、どれほどの破壊を生み出すかオーですら分からない。

 ニヤリとオーが笑った瞬間、ガーディアンの体が一瞬膨れ上がりそして大爆発を起こす。

 強烈な閃光の中に砕竜とオーの姿は共に呑みこまれていくのであった。

 

 

 

 

 馬車が揺れる程の振動と後から聞こえてきた爆発音にティナは思わず立ち上がった。

 思わず従者のケーネを見る。ケーネは何も言わず強く目を瞑っていた。

 オーの時間稼ぎにより全ての兵士たちは逃げ延びることが出来た。だが肝心のオーはまだ姿を見せない。

 ティアの脳裏に過ぎるのはいつも優しく、いつも暖かく護ってくれたオーの顔。

 知らず知らずの内に双眸から涙が零れ落ちる。頬を伝う感触を無意識に拭い、それが涙だと自覚したとき、ティナは声を押し殺し顔を伏せて泣いた。それは少しでも自分の不安が外の兵士たちに伝わらないようにする為の、精一杯の努力であった。

 俯いて泣くティナの側に寄り、ケーネは慰めるように、そして同じ哀しみを分かち合うように優しく抱き締めるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 砕竜とオーが戦っていた場所から数キロ以上離れたとある林の中。

 無数に生えている木の一本が激しく揺れ、その振動で木の葉を何枚も散らしていた。一際強く揺れ、何本もの枝が折れると共に木から何かが落下してくる。

 

「あたたたたた……」

 

 腰から落ちたその人物は痛めた場所を撫でながらゆっくりと立ち上がる。

 

「やれやれ、あれほどでかいことを言ってこの様とは生き恥を晒してしまったのう……」

 

 自分の不様な姿を笑うのは閃光の中に消えた筈のオーであった。

 あの爆発の中、残った魔力を全て使って防御壁を張ると爆発の勢いに乗じてその場から逃亡していた。

 想像以上の爆発であったが、何とかオーは命を失わずに済んだ。だが完全に魔力を切らしており、今はただの老人に過ぎない。

 取り敢えずの時間稼ぎは済んだと考えるオー。少なくともあの爆発で砕竜が死んだとは微塵も考えてはいなかった。少々の手傷ぐらいは与えた、というぐらいの確信しかない。

 

(早く姫様たちと合流しなきゃのう……)

 

 そう考えてみたものの、この辺りの地理についてはオーもあまり詳しくなく、周囲を把握しようにも魔力も無い。

 仕方なくオーは林の中を歩く。しばらくすると街道に出たのでオーは道なりに進むこととにした。

 歩いて間も無くして、オーの側を凄まじい勢いで馬車が通り過ぎていく。その車輪が巻き上げる砂埃を鬱陶しそうに払っていると、走り去っていった馬車が急停止した。

 何事かと思うオーの前に、見覚えのある人物が馬車から降りてやってきたので目を丸くし驚いた。

 

「ワイト殿?」

「オー殿? どうしてこんな場所に?」

 

 

 

 

 




物理対魔法(物理)の戦いでした。
今回は前ほど血生臭い話ではありませんでしたが、次のモンスターの話は再び血生臭くなる予定です。


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強襲するモノ

 ナナ森から少し離れた場所に止めてある馬車の前で、エイスたち一行は森の中に入って行ったワイトたちのことを待っていた。

 彼らがここに連れてこられたのは、もしワイトたちが森の中から帰って来られなかった時に備え、ギルドに報告するという役目を担うためだ。そのためにここまで付いて来ていた。

 ただワイトたちの帰還を待つ。それだけのことではあるが、ゼトを除く他のメンバーは落ち着きがない様子を見せていた。

 

「少しは落ち着けお前ら。お前らが焦ってもあの人らは早く帰っては来ねぇぞ?」

 

 皆の様子を見兼ねて御者台に座っているゼトが声を掛ける。それに対し馬車の前で左右にうろついていたシィは目を吊り上げてその発言に噛みつく。

 

「落ち着けって言われて落ち着けるわけないでしょうが! ワイト様たちにもしものことがあったらどうするのよ! あんたもあの竜の強さを見たでしょ! いくら上級の冒険者が揃っていたとしても遭遇して勝てるとは言い切れないのよ!」

「……心配しているのはわかるけど、それじゃあ八つ当たりだよ、シィ」

 

 馬車の荷台に座り、エイスがシィの態度を窘める。

 

「っ! 分かってるわよ! 分かっているけど……」

「シィさんの気持ちはよく分かります」

 

 先程まで気を紛らわせる為に指を忙しなく動かしていたエルゥが、冷静でいられないシィに同意を示す。

 

「無力だと分かっているからこそ、何も出来ずに待っていることがただ歯痒いんです……」

「大丈夫……きっと大丈夫な筈だ。あの人たちは僕らの何倍もの修羅場を生き抜いてきた人たちだ。信じよう、今はただそれだけが僕らに出来ることだ」

 

 他者にも自分にも言い聞かせるような言葉を呟きながら、エイスはワイトたちが入って行った場所から視線を外さない。

 シィはエイスの言葉を聞き、まだ胸の奥底には苛立ちが残るもののそれをしまい込んでエイスと同じく荷台に座った。

 そしてそのまま沈黙が流れ始める。落ち着きは少し取り戻したものの会話をする程までの余裕までは得ることは出来ないままであった。

 一秒が何倍にも引き延ばされたかのような長い間隔。その間木の葉が擦れる音、鳥が木々から飛び立つ音にすら敏感に察知し、勢いよく立ち上がろうとするシィの姿がたびたび見られたが、その度にエイスやゼトに軽く窘められる。

 これがいつまで続くのか、と誰もが思ったときエルゥが顔を勢いよく動かし、とある箇所に視線を集中させた。

 

「魔力の気配……皆さん! 恐らくワイト様たちが跳んで来ます! すぐに馬車を走らせる準備を!」

 

 持ち前の第六感が働き、事前にワイトたちが転送魔法で跳んでくることを感じ取る。

 その直後にワイトたちが姿を現す。入って行ったときはワイトを含め四人であったが、今は見知らぬ少年を含めて五人いる。

 

「いますぐここから離れる!」

 

 ワイトの余裕の無い声。連れて来た少年以外にも冒険者はあと十九名居る筈であったが、それらを助けることなくこの場から離れる。それは残りの冒険者たちがもう助からないということを言外に現していた。

 その事実に気付き、一瞬エイスたちの表情が曇るもののすぐに表情を引き締めて馬車へと乗り込む。

 そのとき馬車の床に何かが落ちる音がし、皆の視線がそこへ集中する。床に転がったのは、人の腕くらいの太さがある硬質な黒い棘。落ちた場所から見て助け出した少年が持っていたものであり、助け出すことに必死であったワイトたちはそこで初めて少年がそれを持っていたことに気付いた。

 

「う、あああ……」

 

 それを見ていた少年に異変が起こる。先程まで呆然としており、されるがままであったのだが、急に頭を抱え込み震え始めた。

 ワイトたちは未だ知らないことであったが黒い棘は少年――ビートを恐怖の底まで引き摺り下ろした黒い獣の一部であり、精神が極限状態を迎えてしまったビートはそれを一目見ただけで、只でさえ弱っていた心に追い打ちを掛けるように、襲われた時の記憶が嫌になる程鮮明に浮かび上がる。

 既にいない筈の黒い獣と緑の竜。だがビートの脳にはそれが焼きついて離れない。そして湧き立った恐怖が脆くなった心に満ちたとき、聞こえない筈の獣と竜の声、感じる筈が無い気配、あるはずの無い血のニオイがビートの五感に伝わってくる。

 それはただの幻覚に過ぎない筈であるが、摩耗した精神状態のビートが正常に判断できる筈も無く、それらを消し去りたいが為に手や足を振り、激しく暴れ始めた。

 

「ああああああ! 来るなぁ! 来るなぁ! いやだああああああ!」

 

 半狂乱となって暴れ始めたビート。その姿に一瞬は驚くものの何とか落ち着きを取り戻させようとする。

 

「落ち着くんだ! 君はあそこから生き延びたんだ! もう君を襲うものは居ない! 少しだけでもいい、私の言葉を聞いてくれ!」

「助けて! 助けてよ! 僕を助けてくれ!」

 

 ワイトの説得にも耳を貸さずビートは口に指を咥え、音を鳴らす。それはワイバーンの乗り手が相棒のワイバーンを呼び出すときの合図であった。だが既に相棒のワイバーンを失っている為に、いくらビートが呼び出しても応えることはない。ビートも相棒の命が失われたことを知っている筈であるが、恐怖で麻痺した思考がその記憶を封じていた。

 

「うるせえぞ。クソガキ」

 

 だが暴れるビートを見兼ねて小柄な老人――キユウが言葉を吐き捨てながらビートの額を持っている杖で小突く。するとビートの目がすぐさま虚ろなものとなる。その後すぐに瞼が落ち、糸が切れたかのように馬車の床に倒れ伏した。

 

「おい、じじい」

「てめぇもうるせぇぞ、エッジ。喧しいのは嫌いなんだ。声がでかくなる前にこうやって眠らせるに限る」

 

 キユウは荒い口調でバンダナの男に、ビートに何をしたのか説明すると不機嫌そうな表情で馬車の壁面に背を預けて座る。

 キユウの言った通り寝息を立てているビートを見て、一同安堵の息を吐いた。あれ以上恐怖に駆られていたら何をするか分かったものではない。最悪の場合、折角助かった命を恐怖から逃げる為に自ら捨てる危険すらあった。

 

「この子を運ぼう。誰か手を貸してくれないか」

「あ、はい!」

 

 ワイトの申し出にエイスたちが応え、寝ているビートの手足を掴むと慎重に馬車の奥へと運ぶ。

 

「こんな硬い床に寝かせてたら、寝つきも悪いわよ。せめてここに頭でも乗せなさい」

 

 金髪の女性アルは微笑みながら座り、自分の大腿部を軽く叩く。

 

「いいんですか?」

「いいのよ。子供を寝かしつけるのは得意だから。それに……」

 

 アルは眠っているビートの頬を優しく撫でる。

 

「こういう状態の子は人肌恋しいものよ」

 

 眠るビートの頭を撫でながらそう言うのであった。

 

「感謝します、キユウ殿」

「ああ? 礼を言われる筋合いはねぇぞ。ただ俺はガキの泣き声が嫌いなだけだ」

「それでも感謝します」

「はっ! 真面目なこった」

 

 礼を言うワイトの姿を鼻で笑い、キユウはもうこれ以上会話する意志が無いことを示す様に顔を背けて目を瞑る。

 

「気にしねぇで下さい、ワイトの旦那。このじじいはいつもこんな感じで愛想と口が悪いもので」

「幹部連中の慇懃無礼な態度よりかは遥かにマシだ」

 

 小さく笑い、ワイトはこの先のことについて考える。ビートのこと、目撃した謎の竜たちについての対策、今回の失態を招いた幹部の処罰。考えれば考える程に陰鬱になることばかりである。

 特に幹部の処罰については早めに対処しなければならない。時間を掛ければあの幹部が『あの人物』に泣きつくかもしれない。そうなると事態はややこしい展開となる。

 そんなことを考えながら、ワイトは何気なく馬車に備えられた窓から景色を見ていた。馬車の速さで普通ならば流れて線のように見える景色も、ワイトの磨かれた眼には普通の景色のように捉えられていた。

 その中にポツンと見えた人影。初めは見間違いだと思った。その人物がこのような何もない場所に現れる訳がないと思ったからだ。

 だがその考えに反して、ワイトは反射的に馬車を止めるように御者を務めているゼトへ呼びかけていた。自分でも何故止めたのかよく分からない。だがそれは冒険者であったときに度々あった無意での選択であり、それによって何度も命を救われていた。

 今回もそれに従い、急停止した馬車から降りて窓から見えた人影に近付く。そして自分が見間違いをしていなかったことを知った。

 

「ワイト殿?」

「オー殿? どうしてこんな場所に?」

 

 

 ◇

 

 

 馬車の中でオーとワイトは今まで何があったのかを話し合う。

 

「そうですか、オー殿も……未知の敵を相手に生き延びることが出来るとは流石でございます。五大魔法使いの力には感服するばかりです」

「よしてくれるかのう。ワシは必死になって逃げたに過ぎんよ。それに生き延びられたのも必要以上に臆病になったからでのう……寧ろ名に泥を塗ったかも知れんのう」

「謙遜しないでください。今は何よりも少しでも多く情報が必要です。オー殿が命懸けで得た情報の価値は量り知ることが出来ません。そして彼も……」

 

 そこで言葉を止め、ワイトは視線を横に向ける。オーも同じく視線をそちらの方に向けた。

 アルの膝の上で眠るビート。眠るビートの顔には涙を流した跡が残っていた。

 

「この子も生き残りかのう……」

「ええ……唯一のですが」

「この老骨にも堪える程の殺気を放つ竜だからのう……仲間の死やそれを受けて心にどれほどの傷を負ったか……まだまだ幼いというのに」

「連れて戻って来てから、恐怖で混乱していたので魔法で強引に眠らせました。あのまま放っておいたら自我が崩壊していたかもしれません」

 

 惨い話だのう、と言いながらオーは髭で撫でる。未来ある少年の痛ましい姿を見て、オーの顔には悲痛な表情が浮かべられていた。

 

「まともに話が聞けるかは分かりません。もし、聞けなかった場合、今後のことも考えこの少年には忘却術を施すかもしれません」

「それしかないが……」

 

 相手の記憶を消却する忘却術は、心に傷を負った者や過去のトラウマに苦しむ者を助ける為に生み出された術であるが、副作用としてその記憶と関連する記憶すら消し去ってしまう効果があった。仮にビートにこの術を使用した場合、確実に未知の竜に関連する記憶は消え去ってしまう。

 

「あらゆる犠牲を無にするかもしれんと分かって言っているかのう?」

「――もしもの場合です」

 

 固く絞り出すような声。しかしそれを聞いてオーは小さく笑う。

 

「相変わらず表情を造るのが下手だのう、ワイト殿」

「……そう見えますか?」

「お主もいい歳なのだから腹芸の一つや二つ出来ないと苦労するぞ?」

「どうにも私はそういった芸が根っから出来ないようです」

 

 オーの言葉にワイトは苦笑と自嘲を混ぜたような表情をした。

 

「まあ聞き出せなかった場合、ワシの方で何とかしよう。幸い、記憶を探る術に長けた知り合いが一人いるからのう」

「もしや……『天眼』殿を呼んでくださるのですか?」

「あやつは捻くれ者だからのう……確実にとは言えんが声を掛けてはみる」

 

 オーと同じく五大魔法使いに数えられる人物『天眼』。その異名の由来は、この世のありとあらゆるものを見通せる魔法を使うことから来ている。オーとは違い滅多に人前には出ない人物であり、その詳細はあまり詳しく知れ渡ってはいない。ワイトですら異名しか知らない。

 

「重ね重ね感謝いたします。オー殿」

「いやいや、ワシが出来る範囲のことをしたまでだ。――まあ、それでも礼をと言うのなら一つ頼まれてくれぬか?」

「何なりと」

「今度、うちの姫様に茶でも御馳走してくれるかのう?」

「はぁ……別に構いませんが……」

 

 オーの頼みごとの意図が理解出来ず、ワイトはただ首を傾げるのであった。

 

 

 ◇

 

 

 街へと無事戻ることができたワイトたちは、一旦ビートを病院へと預けた。そして万が一の場合に備えエッジたちを護衛につけ、糾弾すべき人物がいるギルドへと足を運ぶ。

 ギルドの扉を開けてすぐにワイトたちは違和感を覚えた。いつもならば冒険者たちの雑談で騒がしい一階が、水を打ったように静まり返っている。

 扉から現れたワイトの姿を見て、静まりかえっている冒険者たちの中の一人が何かを言いたそうに立ち上がるが、すぐに側に居る仲間たちに肩を押さえられ無理矢理椅子に座らされ、真剣な表情で何もするなと注意を受けていた。

 ギルド内の様子にオーやエイスたちは困惑していたが、ワイトだけは心当たりがあったのか、眉間に皺を寄せ険しい表情を造っていた。

 

「厄介なことになったかもしれん」

 

 ぽつりとワイトが呟いた直後、二階に昇る階段から足音が聞こえる。ギルド内が静まっているのでその足音は良く響き、音が重なって聴こえたことから少なくとも二人降りて来ていた。

 

「これはこれはお久しぶりと言っておきましょうか、ワイト殿。おや? そちらに居る御方はオー様ではありませんか、このような場所へようこそ」

 

 最初に姿を見せたのは黒髪を後ろに撫でつけ、見るからに上物の衣服を纏い片眼鏡を掛けた、鋭利な感じがする三十歳前後の男性。丁寧であるが尊大さを感じさせる口調。その人物とワイト、オーは面識があった。

 

「……確かに久しい再会ですね。エヌ殿」

 

 ワイトにエヌと呼ばれた幹部はギルド内における貴族の中でも頭一つ抜けた存在であり、ギルドの『資金』を管理する立場にある。同時に貴族の中でもトップクラスの資産家であり、その豊富な金を使い、貴族相手に金貸し紛いなことも行っている。このギルド内の貴族の大半はエヌに金を借りている身であり、それはエヌに逆らえないことを意味していた。

 だがエヌはこの街のギルドだけでなく他の街のギルドの幹部も兼任しており、ワイトの言った通りこのギルドに顔を出すことは年に一、二回程度しかない。

 

「こんにちは。ワイトさん、オー様。こうやって顔を合わせるのはいつ以来でしょうね。ねぇ、兄さん」

「おおよそ半年といった所だ。まあ、祝う程の期間じゃあないな、エム」

 

 少し間を置いて姿を見せたのは同じく黒髪を後ろに撫でつけ、エヌとは色違いの衣服を着た、柔和な感じがする見た目二十歳程の若者であった。会話で分かる通りエヌとは兄弟の関係であるが齢はさほど離れてはおらず、エヌと比べてその顔はかなりの童顔である。

 兄が『資金』を管理しているならば弟はギルドの『情報』を管理しており、その情報網の広さは桁外れなものであり、その気になれば生い立ちどころか昨日の夕食のメニューまで調べ尽くすことが出来ると噂されている。管理するものが管理するものなので、多くの貴族たちの良からぬ情報や表に出したくない弱みを握っており、兄エヌと同じく幹部貴族の中で彼に逆らえるものはいない。

 ワイトは二人の登場に内心舌打ちをしたくなる。この二人はワイトが最も警戒している『あの人物』と常に行動を共にしており、兄弟揃ってこのギルドに居るということは間違いなくその人物もここにいる。

 ワイトは意を決したように二人に尋ねる。

 

「エクス殿はこちらに?」

「私ならばここに居りますよ」

 

 返答は兄弟からではなく別の人物から返ってきた。こつこつと階段を降りてくる足音。それが一歩一歩刻まれていく度にワイトは口が乾いていく感覚を覚えた。ワイトの側に居るエイスたちも似たような表情をしている。

 エヌとエムが左右に分かれると、その中央に現れたのは片手に杖を持った初老の男性。髪は既に白く染まっておりその髪を丁寧に整えている。顔に刻まれた深い皺はその人物が過ごした年月を現しているが、その人物が浮かべる柔らかな微笑みのせいで年齢通りの齢を感じさせず若い印象を他者へと与える。

 

「話は既に聞いております。ワイト殿自ら動いて下さるとは、貴方のような有能な方が私のギルドにいることを誇らしく思いますよ」

 

 ワイトを讃える言葉。しかしワイトは素直にそれを受け取ることは出来なかった。目の前の人物こそワイトが最も警戒し最も苦手とし、未だに超えることが出来ていないと認識している人物。

 ギルドマスター、エクス・アーヴァイン。

 このギルドのみならず他のギルドの代表を務める人物であり、実質的にほぼ全てのギルドを掌握していると言っても過言では無い。

 ギルド創設者の血を引く者であり、貴族の中でも最も古く歴史がある。それ故に王族とは勿論のこと様々な分野の人達と太い繋がりを持っており、顔が効く存在でもある。

 そしてワイトが冒険者からギルド幹部へと昇格することが出来たのも、このエクスの口添えがあったからである。当初はほぼ全ての幹部たちがワイトの幹部への就任を反対していたが、どういった訳かエクスはそれに対して一人だけ賛成の意を示した。これにより反対を決めていた他の幹部たちは意志を変えざるを得なくなり、ワイトは幹部になることが出来た。

 そのことに対しての恩義はあるものの権力を有しながらもギルド幹部、冒険者の関係等を改善しようとしないエクスには複雑な胸中を抱いており、その為にワイトはエクスに対して一線を引いていた。

 

「それで被害の方はどうでしたか?」

 

 丁寧に尋ねてくるエクスにワイトは森であったことを素直に報告し、一名を除いて全滅していたことを告げた。一言一言に細心の注意を払いながらの報告。この人物と少しでも会話すれば分かることであるが、どんな些細な隠し事もエクスの前には薄紙よりも容易く見破られる。

 報告を聞き終えたエクスは笑みを消し、沈痛な表情を浮かべる。

 

「――とても悲しいことです。未来ある有望な若者たちの命が一度にこんなにも多く失われてしまうとは……」

 

 普通の幹部たちがそのような表情をすれば見え透いた芝居と思われるものだが、エクスという人物が行うだけでまるで本心から悲しんでいると思わせる。感情の一つ、言葉の一言それら全てに他者がそう思える程の言いようのない説得力があった。

 

「ええ……ですから我々はこれからその竜に対する対策、そしてこの事態を招いた彼についての処遇を――」

「その心配には及びませんよ」

 

 ワイトの言葉をエヌが遮る。

 

「どういう意味ですか?」

「彼についての処分は我々が既に規定に応じて処分を決めました。これがその内容と他の幹部たちの同意書です」

 

 エヌから渡された紙を受け取り、ワイトはそれに素早く目を通す。紙には今回の責任を負って幹部が払う、死亡した冒険者たちが今後受け取る筈であった報酬額の予想金額と遺族に対する慰謝料の金額が書かれており、内容としては妥当と思われるが肝心な部分が抜けている。

 

「どういうことですか……これは?」

「おや? 何か不備がありましたか? 特に問題の無い内容と思われますが?」

「書かれているのはあくまで賠償の金額のみ。あの幹部に対しての処罰が書かれていません。少なくとも幹部としての資格の剥奪、もしくは貴族としての称号を剥奪する処分を含めてまでが妥当ではないのでしょうか?」

 

 静かな怒りを込めて言うワイトに対し、エヌは冷笑を浮かべる。

 

「全財産の2/3以上を失う程の額を払ってもまだ足りないと言いますか。ワイト殿は些か厳しい、いや潔癖な部分がありますね」

「金の問題では無いのですよ」

「気持ちや誠意の問題だとでも? 結果的に遺族が納得すれば、問題を起こした人間が責任をとってついでに頭を下げるのも金を積むのも同じことですよ」

「結果が全てだと言っても、どんな方法も許される訳にはいかない」

 

 茶化すような物言いにワイトは鋭い眼光を向ける。普通の貴族幹部ならば怯える程の威圧感にも、エヌは口の端を歪めて笑みを形作る余裕を見せた。

 一触即発とも言える場の空気。ワイトの側にいるエイスたちの表情には緊張が走るが、対照的にエヌの側に居るエムは笑みを絶やさず、寧ろこの状況を愉しむ様に傍観していた。

 互いに譲らないものを抱えている為に話は平行線になるかに思えた。

 

「そこまでにしましょう。エヌ、少し口が過ぎますよ」

 

 だがこれ以上過熱するよりも先にエクスが口を挟む。すると窘められたエヌは嘲笑を潜めると、少し熱くなりましたと言いエクスへ素直に頭を下げた後に引く。

 

「ワイト殿の気持ちは良く理解できます。だが早合点はしないで下さい。これは暫定的に決めたことであり、きちんとした処罰については今後の会議において正式に決める予定になっています」

「何せ近々姫様直々のギルド査察がありますからね。その場で裁いた方が色々と良いのじゃありませんか? 姫様の功績として加えるのもありだと思いませんか、オー様?」

 

 エクスの言葉を継いでエムが問い掛けるようにオーへと言葉を向ける。

 ギルドの査察に関しては訪問ということを建前として秘密裏に行う予定のものであったが、エムはそのことについてどういう訳か知っていた。

 ただそうなるとエクスたちがこのギルドに前触れも無く戻って来た理由も理解出来る。そして査察に備えて戻った時、偶然にもあの幹部の失態を知ったのであろう。運悪くそれらが重なり合ってしまったせいでワイトは後手に回ることになってしまった。

 

「お気遣い痛み入りますのう。しかし少しばかり話が錯綜していますな。今回はあくまで訪問に過ぎませぬ。ギルドを訪ねたぐらいでは姫様に功績など付きませぬよ、ほっほっほっ」

「おや? どうやら僕としたことが聞き間違いでもしたかもしれませんね。すみません、オー様。気を害したのならば謝罪しますが」

「いやいや、間違いなど誰にもありますよ。ほっほっほっ」

「そう言って下さると助かります。あははははは」

 

 友好的に見えて白々しいほどお互いに腹芸を見せ合う。オーの年季とエムの面の厚さの比べ合いであった。

 

「そうそう。ついでにですがその姫様一行は急いでこちらに向かっているらしいですよ。本来ならばいくつかの街を経由して来る筈ですが、無視して一直線にこちらへ。一体何があったんでしょうかね?」

 

 事情を知っているような口振りで敢えてオーへと探る様な言葉を掛ける。それに対しオーは素直にあの砕竜について話しておくかと考えたが、意外にも話を振ったエムの方から話を切り上げてきた。

 

「まあ、オー様やワイトさんも忙しい身。ここで引き止めていても悪いですね、すみません。ああ、ちなみに姫様たちは恐らく明日までにはここに辿りつくと思いますよ」

 

 にこりと笑いながらエムはオーが今一番欲しがっているであろう情報を聞かせる。それを聞き、オーの白い眉が一瞬動いたのを見てエムの笑みが深くなる。素に近いオーの反応を引き出せて愉しんでいるようであった。

 

「積もる話は色々とありますが私はこれからすべきことがあるので、申し訳ありませんが私はこの辺で――」

「ああ、言い忘れていましたが彼ならギルドにはいません。色々と締め上げるつもりだったのでしょうが、その辺りのことは私たちが済ませたので。業務停止命令を下しているので今頃は大人しくしている筈ですよ、ワイト殿」

 

 ワイトの内心を見透かしたようにエヌはあの幹部の不在を告げた。ギルドを離れている間に完全に手を打たれていた。

 表情には出さないもののワイトの胸の裡で苦いものが込み上げてくる。その心中を知ってか知らずかエクスが優しげな声で話し掛ける。

 

「まあまあそう焦らず、私の部屋で今後について話でも致しましょう。お茶でも飲みながら積もる話を色々と」

 

 

 ◇

 

 

 燦々と照らす太陽の下、青く輝く海原に浮かぶ一隻の船。錨を下ろされ波に揺られる船の甲板では、派手な装飾が施された衣装を纏った男が日傘の中で椅子に座り、優雅に飲み物を飲んでいた。

 その男は謹慎を言い渡されている筈のあの幹部貴族であり、本来ならば自宅で反省していることになっている彼は、優雅に船の上で海を満喫していた。

 

「いい景色だ。仕事も煩わしい存在も居ない」

 

 一人愉しげに呟く。正確には周りに付き人や雑用の人間が数名居るが、貴族の彼から見れば殆ど路傍の石のようにしか見ておらず視界に入っても気にもしない存在であった。

 彼が何故、この海を満喫しているのか。それは彼の上司にあたるエクスたちからの勧めであった。

 そのときのことを波に揺られながら彼は思い出す。

 ワイトたちが派遣された冒険者たちの救出に向かってまもなく、エクスたち一行がギルドに現れ、そして幹部はそのままエクスの部屋へと呼び出されることとなった。

 呼び出された理由に関しては聞く必要も無く、部屋へ着くまでの間に必死になって言い訳を考えていたが、いざエクスの部屋へと着くとまるで現場を見ていたかのように問題の発生までの流れをエムが口頭で話し、最後に修正すべき点は無いかと質問された。本来ならばここで言い訳の言葉を並べるべきであったが、エムの浮かべる笑みに圧力に押され、一切の反論もせず間違いありませんと首を縦に振ってしまった。

 そして次にエヌから洋紙を手渡され、そこに書かれた金額を見て全身の汗腺が開き、冷や汗が流れると共に血までも流れて出ていっているのではないかと思える眩暈を覚えた。

 

「冒険者たちが全滅していた場合、君が払う罰金の額だ」

 

 涼しげに言うエヌであったが書かれた金額は彼の家の資財、そして家や土地を売ったとしても足りるものではなく、それこそ貴族としての『最終手段』をしなければ到底賄えない額であった。

 

「こ、ここここれほどの額を……」

「残念なことにギルドが得た仕事では無く、個人で行う仕事に関してはトラブルあるいは死傷者が出たときの保証は全て依頼を出した人物が払うことになっている。特に今回、君は大きなミスを犯したね」

「ミミミ、ミスというと……」

「未知の場所及び生物が確認された場合、派遣するのは上級、もしくは経験年数が十年の冒険者の編成で行うこと、それが規定だ。今回は新人のみの編成、そして必要な最低人員数も満たしてはいない。――言い逃れは流石に出来ないな」

 

 口の端を吊り上げて笑うエヌ。エムとは異なる笑みであるが与える威圧感は同等のものであった。

 

「そ、それは……それは……」

 

 続く言葉が出てこない。失う恐怖から歯がしきりに震えかちかちと音を鳴らす。意味も無く手を握り締める。そしてその手の裏は汗で濡れ、湿っていく。

 

「ですが、大丈夫ですよ」

「へぁ……?」

 

 エクスの言葉に男は呆けた声を思わず出してしまった。

 

「今回の件、こちら側もある程度資金を出しましょう。それこそ『貴族の名』を売らずに済むように」

 

 それは暗雲の中に光が射すような言葉であった。貴族として最も避けたい『最終手段』、それは『貴族の名』つまり称号を他人に売るということである。これを売った途端、その人物は貴族から庶民へと転落し、長く続く家名や伝統を潰しあらゆる権利を失ってしまう。一度売ってしまえば再び手に入れることはほぼ不可能に等しい。

 

「ほ、本当ですか!」

「ええ。同じギルドに務める者同士、失敗も成功も分かち合うものですよ。――ただ、表向きは貴方に処罰を下さなければなりません。取り敢えずしばらくの間はギルドの仕事を控えて貰えますか? なに、少し休みを取る程度と思ってくれて構いませんよ」

「休暇を取るならばここの海はいかがでしょうか? 丁度この海では取れる魚たちは旬を迎えていますよ。気晴らしには最高ですよ」

 

 地図を広げある海を指差す。そこはアールフア大海の近くであった。

 そのとき回想に耽っていた貴族の耳に爆音が入り込み、追い打ちを掛けるように船体が揺れ一気に現実へと引き戻される。

 

「ど、どうした!」

 

 動揺しながらも怒声を上げて椅子から立ち上がる貴族が見たのは、こちらに大砲を向けている一隻の船。

 

「な、なんだあの無礼な船は!」

「あ、あれを見てください!」

 

 従者が震えながら襲ってきた船のマストに指を向ける。するとそこには潮風に揺れてはためく黒く染まった旗。そしてその中心には片目に剣を刺した髑髏のマーク。

 

「かかかか、海賊だと!」

 

 震え上がりながらも貴族は声を絞り出して指示を出す。

 

「は、早く逃げろ!」

「駄目です! 錨を降ろしているので巻き上げるまでに時間が掛かります! 間に合いません!」

 

 悲痛な声を出す従者に貴族の顔から血の気が失せていく。

 そして瞬く間に海賊船は貴族の船に取りつき、剣などで武装した荒くれ者たちが一斉に乗り込んできた。

 

「おやおや、貴族様じゃねぇか。こんな場所にバカンスか?」

 

 剣先を突き付けられた貴族は両手を上げ、無抵抗を示す。

 

「か、金ならいくらでも出す……だ、だから命だけは……」

「へへへへ、話が早くて助かるぜ。うちの船長は基本金さえ出せば危害はくわえねぇからな……」

 

 その言葉を聞き貴族は少し安堵する。

 

「ただ……」

「ただ……?」

「貴族の連中は例外だ! うちの船長は貴族が大嫌いだからなぁ!」

 

 海賊の一人が笑いながら剣を振り上げる。その姿に周りの海賊も囃し立て、早く殺れと急かす。

 

「ああ、ああああ、あああ!」

「じゃあな!」

 

 ザンッ。

 

 貴族は恐怖から目を瞑る。だがいくら時間が経っても剣を振り下ろされる気配が無い。恐る恐る貴族が目を開けると、そこには剣を持ったまま固まる海賊の姿。やがて海賊は目や鼻、口から血を流し、貴族に向かって倒れ掛かった。

 

「ひっ! ……ひぃぃぃぃぃぃ!」

 

 海賊が倒れたことに恐怖し、そしてその海賊の身体を見て更に恐怖の声を上げる。海賊の身体に背面が無かった。前と後ろが綺麗に切断され、その断面図を外に曝け出している。

 一体何があったのか、それは仲間を殺害された海賊たちが見ていた。

 

「下だ! 下に何かいるぞ」

「探せぇ! 探せぇ!」

「おい、何だ! あれは……背鰭か!」

 

 混乱する船上だが更なる混乱が起こる。船体が急激に傾き出したのだ。

 斜めになっていく甲板に何とかしがみつこうとするが、どんなに爪を立てても滑っていく。

 

「うわぁぁぁぁぁ!」

「船が! 船が折れる!」

 

 上がる叫び声。その叫び声が言っているように船は真横に切断され、断面に向かって垂直に折れはじめていた。

 

「どうして! 一体、どうして!」

 

 海賊に襲われ、その海賊が死に、そして自分の船が切断される。立て続けに起こる理不尽に貴族の頭は追い付かない。

 やがて貴族は力尽き甲板から海へと滑り落ちていく。着水と同時に纏っていた服に水が染み込み、どんどんと体が沈んでいく。

 

『嫌だ! 溺れて死ぬなんて嫌だ!』

 

 もがきながら必死にそう願う貴族。そのとき貴族の目があるモノを捉える。

 群青色の鱗を纏い巨大な鰭を各部に生やした巨大な魚。それは大きく口を開き、船体から落ちていく海賊や従者たちを飲み込むように喰らっていく。

 やがてその眼が貴族へと向けられる。

 

『違う! 違う違う違う違う! 溺れて死ぬのは嫌だと思ったけど――』

 

 水を裂くような速度で巨大な魚は移動し、一瞬にして貴族を自分の間合いに捉えた。

 

『こんな死に方――』

 

 貴族が最期に見たものは無数に並ぶ魚の巨大な牙の群。

 奇しくも貴族の願いは叶い、溺死することは無かった。

 

 

 ◇

 

 

「何……それは本当か?」

 

 赤銅色の肌をした隻眼の大男はある報告を聞き、表情を険しくする。

 

「ええ……コーザの乗っていた船はばらばらにされていました」

「助かった奴らは居たのか?」

「……周辺を捜しましたがあったのは手足の一部分です。恐らくは……」

 

 そこまで聞くと大男は立ち上がり、手に持った酒瓶を壁に叩きつける。

 

「野郎ども! 俺達の兄弟が殺られた! この報いは必ずそいつの命で晴らせ! この海を隈なく探せ! いいな! 分かったな!」

『おおおおおおおおおおおおおおおおお!』

 

 大男の声に雄叫びが一斉に返って来る。

 

「なら行くぞ!」

 

 拳を突き上げる大男の背後には、片目に剣を刺した髑髏のマークが描かれた黒い旗が飾られているのであった。

 

 




長い前振りからようやく登場まで漕ぎ着けました。
次回の対決は前回のようにはいかないかもしれませんね。


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海原を朱に染めて/海に生きるモノたちの意地

 深く澄んだ海の底。海上から降り注ぐ光が海底を僅かに明るくする。音も無くただ時折魚たちが泡を生み出し、それが弾けて消えるだけの静寂の世界であった。

 そんな人の手が届かない海底、その岩壁に出来た大きな横穴の更に奥。自然が偶然創り出した大きな空間の中で、ソレは身体を折りたたみ惰眠を貪っていた。空間の壁にある無数の小さな穴は外へと繋がっているらしく空気が流れ込み、その穴から通じて来たのか岩床には仄かに光る植物が所々生え光の無い空間を僅かに照らす。そんな絶好の場所で、ソレは空腹を満たしたことでくる眠気に従って眠っていた。自らの欲求にこれでもかと忠実に従う。

 弱肉強食の世界ではあるまじき無防備な姿。だがこの場に於いて無防備を晒すソレに襲い掛かるものなど存在しない。それどころかこの世の全てから探し出しても、ソレに襲い掛かる気概を持つ生物など皆無に等しい。

 頭部から尾にかけて、約三十メートルはあろうかという巨体。寝息代わりに泡を立てる口からは鋭利な歯が無数に並び、どれもがその巨体に見合った大きさがあった。その横たわった巨体を覆い隠す程の翼は泳ぐ為に特化したのか膜が張ってあり、あるいは水かきにも見える。

 それの身体に生えた群青、黄、白といった三色に分かれた鱗は一枚一枚が通常の魚の鱗と比べることが烏滸がましく思える程分厚く、上から降り注ぐ光によって鮮やかな輝きを放っていた。

 その横穴の周囲には無数の魚たちが遊泳しており、中には肉食の魚も居る。だがどの魚たちもその横穴の前を通過していくことはせず、それの機嫌でも窺うように静かに息を殺すように泳ぎ去って行く。岩壁の穴を横切ることすら恐れ多いといった様子で。

 まさにソレはこの空間において絶対的存在であり、その圧倒的な力によってこの海を我が物としていた。

 このまま何事もなければソレはただ睡眠を貪り、平穏が続く。しかし、その平穏は呆気ない程簡単に終わりと告げた。

 周囲の壁から細かに伝わってくる振動を敏感に察知し、ソレは閉じていた眼を開く。目を開けるというただそれだけの動作にも関わらずソレれが眼を開いた瞬間に周囲にいた魚や魚群は一斉にその場から離れ、ソレの視界に入らないように必死に逃げる。

 周囲の慌ただしさなど目もくれず、それは寝かせていた首をもたげ、その眼を頭上に向ける。

 岩越しに遠く離れた海上。しかしソレの鋭敏な感覚は伝わってくる振動を受け取り、大きな何かが通ることを視覚以上にはっきりと捉える。

 振動の正体は、ソレが何度も襲い掛かったことのある海上を移動する物体。それが波を裂いて動く音であった。

 ソレは音の正体が分かり、首だけでなく体を起こす。

 最初は襲うつもりなどは毛頭無かった。ただ邪魔なものが近くを泳いでいるといぐらいの感覚であったが、そのまま通り過ぎようとした時、あろうことかいきなり攻撃を浴びせられた。幸いにも相手の攻撃が貧弱であった為に怪我を負うことは無かったが、攻撃を受けた怒りを抑えることが出来ず、複数いたその物体をソレは一つ残らず海に沈めた。そしてそこで、その物体を破壊すると中から餌が出て来ることを理解する。

 ソレの巨体を維持するには大量の餌が必要である。先程も満腹になるまで喰らったが、一度寝て目覚めるともう既に空腹を感じている。

 ならばもう一度腹を満たそうとソレは考え、翼を大きく広げると岩床に叩きつけるようにして羽ばたき、そのまま海水の中へと飛び込む。そして穴の中を通り、その勢いに乗って海上まで一気に上昇していった。

 

 

 

 

「何か見えるか?」

「いや、何も」

 

 十数回は繰り返されているやりとり。しかし両者にはそれに対してうんざりした様子は無く、その表情は真剣そのものであった。

 海上を走る海賊船。マストの頂上付近に作られた見晴台の中では、望遠鏡を覗いている数人の海賊が眼を光らせていた。

 複数ある海賊船の内の一隻が何かしらの原因で沈められ、それによって何十人もの仲間たちの行方が分からなくなった。

 そのことに対し、海賊たちの頭である船長は激怒し、残った船を全て動かして犯人を捜すこととなった。

 しかし犯人がどういった存在なのか一切の手掛かりは無く、探す方法もただ闇雲に探して犯人らしき存在を見つけるという非常に大雑把なもの。だが海賊たちはそれに不満一つ洩らさず、懸命に形の見えない犯人を捜し続ける。

 

「あん?」

 

 そのとき望遠鏡を覗いている海賊の内の一人が怪訝そうな声を出す。

 

「どうした?」

「いや、ただの漂流物――」

 

 そこで言葉が途切れる。隣に居る仲間の様子を不審に思い、一旦望遠鏡を覗くのを止めて隣を見ると、その海賊は目や口を大きく開いた状態で絶句していた。

 

「おい、どうした?」

「おいおいおい……嘘だろ……」

 

 望遠鏡越しの光景を否定したいかのように呟く仲間を見て、自分もその方角を望遠鏡で眺める。

 海原を滑るように流れていく巨大な物体。最初に見た時は、隣の仲間と同様に木か何かの漂流物であるかと思えた。しかし、枝に見えた部分はよくよく見てみると黄と青の体色が混じった鰭状であり、見え難いが膜も付いている。

 それは間違いなく魚などが持つ背鰭であったが、今まで見たことの無い程の大きさである。そしてその背鰭はこちらへ一直線に向かってきている。

 

「敵襲! とんでもない速さでこっちに向かってきている! 距離を開けろ! 水流石を使え!」

 

 望遠鏡から素早く目を離すと、声を張り上げて他の仲間たちに危機を知らせる。

 

「敵は! 他に船は見えないぞ!」

「海中を泳いで来ているんだよ! とんでもねぇ大きさの魚みたいな奴がな! いいからとっとと水流石を動かせ!」

 

 怒鳴りつける様子に只事ではないと理解した海賊は、急いで指示にあった通り水流石を動かす為に船の下層まで移動する。船の下層には蒼色の大きな円形の石が置いてあり、それに手を翳すと青色の石が輝き始め、水色に近い色と化す。

 その途端、立っていた海賊たちがよろける程の勢いで船が加速し始める。

 周囲の水の動きを操作して、帆などでは生み出すことの出来ない速度で動かすことの出来る魔法道具の一つである水流石。本来は軍艦などの高級な船などにしか積まれていないが、どういう訳か最近になって大量に漂流しているのを発見し、全部の海賊船へと装備することが出来た。

 急加速する船にしがみつきながら海賊は望遠鏡を覗き、巨大な背鰭の動きを見続ける。背鰭は船が速度を上げたのを見て、同じく速度を上げ後を追い始めていた。その速さは水流石を使った船以上であり、最初にあった距離の差が徐々に詰まれつつあった。

 

「大砲を用意しろ! このままじゃ追い付かれる!」

「馬鹿野郎! この勢いのままで大砲をぶっ放したら下手すれば船が倒れちまうぞ!」

「馬鹿野郎はてめぇだ! 追い付かれたら何されるのか分からねぇんだぞ! あっちは確実にこっちを狙っている! 少しでも距離を遠ざける方法をとれ!」

 

 海賊の鬼気迫る様子に納得し切れない様子の仲間であったが、凄まじい水しぶきが上がるのを見て慌てて音の方へと目を向ける。

 

「うわぁ!」

 

 水しぶきから飛び出してきたのは、海賊たちの乗る船と変わらない大きさを持つ巨大な魚。それが鰭を翼の様に広げずらりと並ぶ牙を見せながら海上を滑空して迫って来ていた。百戦錬磨の海賊も思わず情けない悲鳴を上げてしまう程の光景。

 飛び上がった巨大魚はそのまま船の最後尾に噛みつこうとするが、船の速度の方が僅かに早く、噛みつかれるよりも先に巨大魚の身体は再び海に沈んでいく。

 

「何だあの魚――魚かあれ!」

「知らねぇよ! 鱗も鰭もあったから魚だろう!」

「魚なのにあんだけでかいんだぞ!」

「でかい魚だっているだろう!」

「魚なのに飛んだんだぞ!」

「魚だって飛ぶだろう! というか俺に聞くな! 俺だってあんなの見るのは初めてなんだよ!」

 

 想像以上に巨大な魚に襲われ海賊たちも軽くパニックになっているのか、言い争いをしている者たちもいる。

 

「いいからさっさと大砲を準備しろ! 今度は避けられる保証は無いぞ! 回れ回れ!」

「あれがコーザたちの船を襲った奴か!」

「分からん! だが船を落とすような奴がそうそう居る筈も無ぇ! 可能性は高い!」

 

 辛うじて避けることで出来た隙を狙い、船に巨大魚の側面へと回るように指示する。言い争ってはいたが長年同じ生き方をしていた者同士、その指示に素早く従い、船に設置されている水流石を巧みに操作し普通ではありえない速度で船が向きを変えていく。

 

「大砲準備出来たかぁ!」

「とっくに出来ている!」

「良し! ならちゃんと狙えよ!」

 

 船の側面が開き、そこからいくつもの砲門が顔を覗かせる。本来ならば停船した状態で撃つものだが、相手が相手なだけにそんな猶予が無い。

 巨大魚は向きを変えてすでに船に向かって来ている。

 

「撃てぇぇぇぇ!」

 

 掛け声を合図に爆音が一斉に響き、砲門から無数の弾が飛び出していく。しかし、動きの速い巨大魚は砲弾が着弾点に当たるときには既にその場を通過していた。

 

「外れたぞ!」

「一発目は様子見だ! これであいつの動きは大体把握した! 二発目は当てる!」

 

 そう豪語し、海賊たちは二発目の為の準備をする。その間にも巨大魚は距離を詰めつつあり、また飛んでこないかと海賊たちは警戒しながら大砲係の海賊たちへ急かすように声を掛ける。

 

「まだ準備できねぇのか! 鈍間!」

「うるせぇ! 大砲はお前らみてぇのとは違って丁寧に扱わねぇといけないんだよ!」

 

 急かす声に怒鳴り声が返って来る。言われずとも大砲係の海賊たちは一秒でも時間を短縮させる為に、最小の手間で準備を進めていた。

 

「次弾の準備が出来たぜ!」

「よし! 今度はきちんと狙えよ!」

 

 砲門が再び巨大魚に向けられる。

 泳ぐ巨大魚も再び飛び掛かる準備が出来たのか、背鰭が先程よりも浮かび上がっており、水面にぼやけてはいるが姿も見える。

 そして再び巨大魚が飛び上がり、船に齧りつこうとしたとき合図の声が上がった。

 

「撃てぇぇぇぇ!」

 

 白煙が噴き、爆音が響く。その中を突き進む無数の砲弾。当たる面積が最少となった正面からの砲撃のせいで一発目は当たらず、二発目も当たらない。だが三発目は確実に巨大魚の背中部分に向かっている。

 誰もが着弾を予想していた次の瞬間、思いもよらない光景を目にすることとなる。

 

キィィン

 

 それが一体何の音なのか海賊たちは分からなかった。そしてそれと同時に弾けた火花が、一体何と何が衝突したことで生じたのか分からなかった。巨大魚の鱗に穴を開ける所かその上を滑るようにして弾かれ、軌道を変えられた砲弾が水面へと着水し、巨大魚が砲弾の衝撃でバランスを崩し海に落ちて砲弾よりも派手な水柱を上げたのを見た時、海賊たちは一斉に何が起きたのかを理解した。

 

「嘘だろ! どんな鱗してんだよ! あの魚!」

「どうなってんだよ! 大砲が効かない魚なんて知らねぇぞ!」 

 

 常識外れの相手にさしも海賊たちも混乱するが、それでも日頃から身に沁みついているのか船内で動きを止めることはせず、パニックを最小限に抑えていた。

 

「次弾、とっとと準備しろ!」

「大砲効かない奴に撃ってどうすんだよ!」

「効かなくても牽制にはなるだろうが、間抜け! それと狼煙の準備もしろよ! 場合によっちゃ他の仲間も呼ぶぞ!」

 

 それぞれが指示に従い準備をしていく。何とか巨大魚に沈められないようにはしているがそれもいつまで持つか分からない。時間が進んで行くごとに状況は海賊たちにとって不利なものへとなっていく。

 

「水流石の魔力がそろそろ尽きる! 速度を落とさないとあと数分も持たないぞ!」

「速度は落とすな! その瞬間に追い付かれる! 大砲、まだか!」

「今、出来た!」

 

 大砲の準備が整えられ、撃退ではなく距離を開ける牽制の為に放とうとするが、そのタイミングで巨大魚が飛び上がるのではなく水面から上体だけを出す。

 そして首を後ろへと逸らした。次の瞬間には逸らした首を前へと突出し、それと共に大きく開いた口から何かを吐き出した。

 泡立つ液体が宙に白い線を描きながら直進する。恐るべきことに放たれる液体は巨大魚から距離が離れ続けても先端が弧を描かず失速もしない。ただ真っ直ぐに飛ぶ。

 そしてそれが船の側面へと触れたとき、側面を覆う板はまるで濡れた紙を破くかのように容易く貫かれ、その奥に居た大砲を準備する海賊たちを数人呑み込みながら直進し、反対側の側面まで到達すると再びそれを貫いていった。

 巻き込まれた海賊たちは巨大魚の放った液体の圧と壁によって瞬時に磨り潰され、流れ出た血が貫いていった液体を赤く染め上げ、その飛沫と一緒に海賊たちだった破片もばら撒いていく。

 あまりに簡単に貫通された船、そして甲板へと降る赤い飛沫、その一連の流れを海賊たちは半ば口を開けて見ていた。

 

「おいおい……魔法まで使うのかよ……あの魚……」

「おい! 大丈夫か! 何人殺られた!」

「畜生! 四人も巻き込まれた! くそ! くそ!」

「間違いねぇ! あいつがコーザ達の船を沈めた奴だぁ!」

 

 各々が感情を含めた声を上げるが、どの声にも巨大魚への怒りが込められている。

 

「狼煙を上げろ! 船長たちにこいつのことを報せる!」

「わざわざ危険に船長たちを巻き込むのか?」

「へっ! 『船長たちを危険な目に遭わせる訳にはいかない!』なんていう青臭い理由でこいつのことを黙ってたら、船長にぶっ殺されるぜ!」

「はははははは! 違いない!」

 

 海賊たちは恐ろしい敵の前にしても豪快に笑い、その内に一人が手に持った筒に付いた紐を引っ張る。すると筒の先端が破裂し、空に向かって赤色の煙が昇って行く。

 

「なら俺らは船長が来るまで一秒でも長くあいつを引き止めなきゃなぁ」

「全く、人生の最期が魚に食い殺されるなんて思ってもみなかったぜ」

「ひっひっひっ! 散々わりぃことをしてきたんだ俺らにはそんな死に方が相応しいぜ」

「ま、想像してたのよりかはましだな」

「海で死ねるんだったら海賊としちゃ本望よ!」

 

 それぞれがどこか達観した様子で会話しながら、腰に差したサーベルを引き抜く。

 

「水流石に残った魔力をありったけ使え! あいつにこの船をぶつけてやれ!」

「船に風穴開けた分、あいつのどてっ腹にも穴を開けてやるぜ!」

 

 船が水の流れを操り急速に反転する。そして追い駆けてきた巨大魚へと正面からぶつかっていく。

 

「かかってこいやぁぁぁぁ!」

 

 

 

 

 

「あれは!」

 

 遠く離れた場所で海賊たちを束ねる隻眼の船長は空へと昇って行く赤い狼煙を発見する。

 

「どうやら犯人らしき奴が見つかったみたいだな! すぐに向かうぞ! 水流石を使え! 予備はきちんと積んである! 出し惜しみするな!」

『おおおおおお!』

 

船長の乗る海賊船は他の海賊たちが乗る船よりも一回り程大きく、その御蔭で多くの物資や武器を積むことが出来た。

 船長の指示に野太い声が応じ、それぞれが迅速に行動を開始する。船の底に備えられた水流石が起動し、風を受けて走るよりも何倍も速い速度で現場へと向かう船長一行。途中、船長たちと同じく赤い狼煙を発見した部下たちの船も合流し、合計で五隻の船が目的の場所に向かって走る。

 赤い狼煙を発見しておよそ十数分後。現場へと辿り着いた一同は現場の惨状を見て誰もが顔を顰めた。

 

「……くそったれ!」

 

 怒りを込めて吐き捨てる船長。彼の目に映るのは四散し破片を海へと浮かべているかつての部下の船であった。

 海は船員たちの血で所々赤く染まっている。波で拡散していないところを見ると、船が破壊されてからそれほど時間が経過していないことが分かる。

 

「野郎ども! この周辺を――」

 

 続く言葉を掻き消すほどの音を立てて海水が激しく噴き上がる。一体何事かと誰もが驚愕するが、その驚きは更なる驚きに重なる。

 水しぶきから現れたのは見たことも無い巨大な魚。それが船の一隻に飛び乗る。その重量で船は一気に軋み、船全体に歪みが生じまともに航行出来ない状態にされた。

 

「何だこいつは!」

「魚に……! 魚に足が生えていやがる!」

 

 海賊の一人が指摘したように、巨体魚は船と変わらない程の巨体を二本の水かきがついた足で支え、船の中央付近に立っていた。その見たことも無い異形な姿に誰もが唖然とし、目を限界まで見開いて巨大魚を見ていた。

 しかし巨大魚の方は周囲の驚きに構う事無く、片足を軸にしてその巨体を躊躇なく振るう。尾鰭がついた巨大魚の尾が振るわれ、その尾の一撃は容易く船のマストをへし折りそのまま海へと飛ばす。それでも止まることの無い尾は周囲にいた海賊たちも巻き込んでいく。

 最初の海賊が太い尾に叩きつけられた瞬間、全身に走る衝撃によって体中の骨は小枝のようにあっさりと砕け、痛みを感じる間も無く絶命する。そしてその海賊を尾に張り付けたまま、同じように一人、二人と巻き込み合計にして八人ほど巻き込むと尾を振り切り、海賊たちの死体を海へと投げ捨てた。

 

「くそったれ!」

 

 襤褸切れの様に海へと放り出される部下たちの姿を見て、船長は怒りに任せて叫ぶ。しかし、叫ぶだけであり攻撃の指示は出さない。未だ生きている部下たちが乗っている船に向けて砲撃することなど出来なかった。他の船も同様である。

 巨大魚はそんな海賊たちの仲間意識を嘲笑うかのように喉を膨らませると、船体の端へと顔を向け、口から勢いよく水を放出するとそのまま反対側の端まで一気に首を振るう。

 圧縮された水は、刀剣などとは比べものにならない程の切れ味を以て船を易々と通過していき、首を振り切ったと同時に船体が真っ二つに割れた。

 

「うあああああ!」

「おおおおおお!」

「あああああああ!」

 

 二つに切断された船から海賊たちが次々と海に放り出されていく。すぐにでも助け出したいが巨大魚の存在がそれを阻む。

 巨大魚は海賊たちの怒りの視線を浴びながらも、我関せずと言ったように沈み行く船を踏み台にして大きく跳躍し海へと飛び込んだ。

 その泳ぐ速度は尋常ではなく、飛び込むと同時に巨体が見えなくなるほど深く潜行する。

 次にどの船が狙われるのか、それぞれに大きな緊張が走る。本来ならばこの場に留まる訳にはいかないが、まだ海に放り出され生きている仲間たちがいる。

 

「船長ぉぉぉ! 俺らに構わないでください!」

「すぐにここから離れてくれぇぇ! このままじゃもっと犠牲が出る!」

 

 だが海へと放り出された海賊たちはもがきながら助けを求めるのではなく、自分たちを見捨てろと叫ぶ。

 

「馬鹿野郎! くだらねぇこと言ってんじゃねぇ! すぐに引き上げるから待ってろ! おい誰かロープを持ってこい!」

 

 海賊の一人が見捨てろと発言した仲間に激怒し、助けようと救助用のロープを探そうとするがその肩を誰かに掴まれた。

 

「何ですか、この手は? 本当にあいつらのことを見捨てるんですか、船長!」

 

 掴まえた手の主は船長であり、その顔は恐ろしい程に真剣であった。

 

「――このまま船を反転させる! 反転させると同時に水流石を使って一気に離脱するぞ!」

「船長!」

 

 冷徹な判断に非難の声を上げるが、船長を聞く耳を持たず指示を出し続ける。周りもその指示に従い行動に移る。

 

「本当に……! 本当に見殺しにするんですか!」

「散々、好き勝手やって来たんだ。その報いを受けるときが来たんだよ。あいつらに。そして――」

 

 小声で最後に何かを呟いたが何を喋っているかは船長にしか分からなかった。

 

「だからって」

「うおおおおおお!」

 

 そのとき海でもがいていた海賊の一人が海中へと引きずり込まれる。

 

「奴が上がってきたぞ! 急げ!」

 

 掴んでいた手を離し、相手がこちら側に向かって来る前にこの場から離れようとする。船長の声で海賊たちの動きは更に早くなる。その間にも次々と海上にいた海賊たちが海の中へと姿を消していった。

 

「こい! こっちに来い!」

 

 腰に差してあった剣を引き抜き、それで水面を叩きながら未だに生き残っている海賊たちが巨大魚を挑発する。少しでも長く相手の注意を引く為の命懸けの挑発であった。

 

「ぐうっ!」

 

 その音に反応したのか、海中から顔を出した巨大魚はその鋭い歯を生き残っている海賊の胴体に突き立てる。易々と人体を貫通し、そのまま食い千切ろうとするが喰らい付かれた海賊は口から血泡を吐きながらも腕を伸ばし、手に持つ剣を巨大魚の顔に突き立てようとする。

 

「これ、でも、喰らってろ!」

 

 渾身の力を込めての一突き。だが最後の足掻きも巨大魚の鱗に容易く弾かれ、無情な結果に終わる。

 

「ちく、しょう……!」

 

 悔しげに呟くと同時に、喰らい付いていた巨大魚の上下の牙が合わさったことで海賊の身体は半分に食い千切られ、その半身が海中へと沈んでいく。

 非情にして残酷な光景。だがやっている巨大魚自身には悪意など全く無い。ただ獲物を襲い喰らうという生物が持つ当たり前の行動であり欲求。あまりに圧倒的な力の差がある故にそう見えてしまう。

 現に海賊たちには巨大魚が悪魔の化身のように見えた。その時点で捕食者と被食者の立場が明らかなものとなる。

 

「全船反転完了しました!」

「すぐに出せ!」

 

 報告と同時に素早く船長は指示を出す。全船は船底に仕込まれている水流石を一斉に起動させこの場から素早く逃げ始めた。

 しかし巨大魚の方もこの場から逃げていく海賊船たちに気付き追おうとする。

 

「まだここに残っているぞ!」

 

 その巨大魚の行く手を遮るかのように生き残っていた海賊が声を上げ、少しでも船との距離を開かせる為に時間を稼ごうと巨大魚の注意を引こうとする。

 それを見た巨大魚は水中で大きく羽ばたく。それによって得られた加速を用いて巨大魚は一気に海賊に接近すると、その側を加速した状態で通り過ぎて行った。

 

「待て! 俺は――」

 

 そこまで言い掛けて海賊は言葉を止めた。今までずっと沈まない為に足をばたつかせていたのに急に足の力が入らなくなり海へと沈み始めた為に。

 どんなに力を込めても足が動かず体は沈んでいく。自分の身に一体何が起こったのかと視線を下に向けたとき男は絶句した。

 血に染まる海水。その向こうに在ったのは血煙を出しながら先に沈んでいく男の下半身であった。

 巨大魚はあのすれ違いの時、その刃すら凌駕する切れ味を持った鰭状の翼で男の肉体を両断していたのだ。海賊が痛みを感じなかったのはその翼から滲み出ている強力な麻痺毒のせいであり、それによって海賊の痛覚は完全に遮断されていた。

 だが事情を知らない海賊には何故こうなったのか理解出来ない。夥しく流れる血を見ながら思考する暇も無く海賊は海の底に向かって沈んで行った。

 多大な犠牲を払ったものの辛うじて巨大魚との距離をとることに成功した海賊一同。しかし未だ油断出来る状況では無く。今もなお離れた場所から背鰭が海賊たちの後を追って付いて来ていた。

 

「いずれは追い付かれるな……」

 

 船を加速させる水流石もいずれ魔力が尽きる。この場に集合するときにもかなり消費していたので切れるのも時間の問題であった。

 

「船長、どうします?」

 

 海賊の一人が今後について尋ねてきた。表面上は冷静な表情をしているものの長年人を見てきた船長には、その内から不安が滲み出ているのが分かる。

 

「時間が無ぇ。今から俺の言うことをよく聞け」

 

 そして船長の口から語られる今後の行動。それを聞いた海賊たちは一斉に抗議の怒声を上げた。

 

「こんなときにふざけたことを言ってんじゃねぇよ! 船長!」

「そんなことをしたらどうなるか分かってんでしょうが!」

「頼みますから、別の方法を考えましょう!」

 

 それぞれが聞いた内容を批判するが船長は首を横に振る。

 

「さっさと他の船にこのことを伝えろ」

「ですが!」

「……部下も船も多く失った。まあ、散々悪いことをしてきた罰をようやく受ける時が来たってことだな。奴は海の神様が送り込んだ死神かもしれねぇ」

 

 船長は自虐的な笑みを浮かべながら言う。

 

「――でもなこれ以上は思い通りにはさせねぇ。まだ罰が残っているんならまとめて全部俺が責任を持って引き受ける。それが頭としての最期の務めだ」

 

 自虐的な笑みは消え、本来の海賊らしい荒々しい笑みへと変わる。

 

「なぁに、只では済まさねぇ。派手にやってやるぜ!」

 

 

 

 

 逃げる船たちに追う巨大魚。最初は開いていた距離も巨大魚の速度でじりじりと詰めていった。

 巨大魚は海中で見つめる先にある四つの船後尾に狙いを定める。

だがそのとき、並んで移動していた船の一隻が突如方向を変えて残りの三隻から離れて進んで行く。

 群れから離れていく船の存在を怪訝に感じる巨大魚。一隻の方を追い駆けるか三隻の方の後を追うか選択しようとしたとき――

 

キィィィィィィィィィィィン

 

 巨大魚の聴覚を震わす甲高い音が離れていく一隻から聞こえてきた。聴覚の奥が痛むような不快な音。

 明らかにこちらを挑発するようにそれを何度も鳴らす。その度に巨大魚の中で怒りが蓄積していく。

 すぐにでもこの不快な音を絶たねばならないと思い、狙いを一隻に絞り込み、その後を全力で追い始めた。

 

 

 

 

「へへへへへへ。来たか!」

 

 離れていく一隻に乗っている船長は、後ろに付いてくる巨大魚の背鰭を見て上手く誘うことが出来たと確信する。

 海中で鳴らしていた音。本来ならば海獣などの生物を遠ざける為のものであったが、あれほどの大きさを持った巨大魚ならば逆に挑発するのに持って来いのものであった。

 

「よーし良い子だ。来い、来い。しっかり付いて来い」

 

 甲板には船長以外誰一人おらず、ただ舵を持つ船長が船に一人。船が分かれる直前に、船長以外の人間は他の船に乗り移っていた。

 舵を取りながら時折巨大魚との距離を確認し、ひたすら全速力で走る。いずれは水流石の魔力が切れ止まってしまうが、いつ止まるかなど船長には関係なく、どれほどこちらに引きつけておけるかが重要であった。

 

「最期の最期でお前に迷惑をかけちまうが、許してくれよ。相棒」

 

 話し掛けるのは長年乗って来た船。雨の中、嵐の中、戦いの中、命を乗せてきた唯一無二の存在。

 

「でも最期にあんな大物とやり合えるんだ。男だったら燃えるってもんさ。まあおとぎ話のように最期はあいつを倒してめでたしめでたしってことにはならないだろうけどな」

 

 船長は周りに並べてあるいくつもの樽のうちの一つに触れる。これこそ船長が考えた策の為の必需品であった。

 

「襲って、奪って、斬って、殺してばっかの人生だったが、やっぱ報いってやつはきちんとくるんだな。今度は俺らが襲われて、殺される立場になってる。だがそれもこれで終いにしないとな。あいつらには二度と海に戻って来るなってきつく言ってあるしな」

 

 独り淡々と語る船長。

 やがて魔力が切れかけてきたのか船の速度が落ち始め、頬に当たる風や髪を靡かせる勢いが弱まったのを感じる。

 

「さて。これで愚痴る時間も終わりだ。それじゃあ、いっちょやるか!」

 

 鼓舞するように声を張り上げると、船長は周りに置いてある樽を肩に担ぎ上げた。

 船の速度は最速のときと比べると半分ほどまで落ちている。あの巨大魚の速度ならばもう間もなく追い付く筈。

 船長は背後を見る。そこに巨大魚の背鰭は無かった。

 船が海原を裂いて走る速度も弱まり、波打つ音も同時に弱まり、周囲は驚く程静かになった。頭上を飛ぶ鳥の泣き声、そして自分の心臓の鼓動音がやけにはっきりと聞こえてくる。

 何度も危険な橋を渡って来た。修羅場もそれなりに経験してきた。だが今、船長が味わっている静寂はそれとは比べものにならない程緊張し、気を抜くと膝が震え出してしまいそうになる。

 頭上で鳴く鳥たちの声が急に止まる。それが巨大魚が現れる前兆だと船長は察した。

 

(来る……!)

 

 船のすぐ側で膨大な量の海水が空へと向かって噴き上がる。桁違いの大きさ水柱を突き破り中から飛び出してきた巨大魚は甲板を滑るようにして着地し、それだけで大きく船を揺らす。

 

「くらいやがれ!」

 

 それと同時に船長は担いでいた樽を巨大魚に向けて投げ放つ。樽の栓は既に開いた状態であり宙を飛びつつ、中身である琥珀色の液体を撒き散らしながら巨大魚の身体へとぶつかった。ぶつかった拍子に樽が割れ中身の液体が巨大魚へと掛かるが、樽が当たっても琥珀色の液体が掛かっても巨大魚は微動だにせず、首を動かし丸く瞳の無い目を船長へと向ける。

 相手が全く動揺しないのも想定内のことであり、船長は怯むことなく周りに置いてある樽を次々と投げつける。切れ込みを入れている為、少し強い衝撃を受けるだけで樽は割れて中身をぶちまけていく。

 その液体を浴びる度に元々、光沢のあった巨大魚の鱗はより艶を増していく。

 ある程度樽を放った後、船長は次なる行動へと移った。上着に手を伸ばすと懐から一本の小さな棒を取り出す。

 だがそれと同時に巨大魚の方も動き始める。船長に体の側面を見せた状態で首と尾を軽く丸める。弓なりになった格好で足を横へと滑らせるかのように踏み出したかと思った瞬間、その巨体が一気に加速した。

 それを見た船長は事前に距離を取る為に大きく後方へと下がった。

 

「なっ!」

 

 驚愕する船長の声。距離をとったにも関わらず全身を奔る衝撃。何が起こったのか理解をする前に背中から船のマストへと叩きつけられた。

 距離もあった。回避したタイミングも間違ってはいない。だが当たっていないかに思われた巨大魚の体当たりは船長に接触していた。触れた箇所はほんの少しの筈であるが考えられない程、勢いよく突き飛ばされた。

 

「ごほっ! おふっ!」

 

 喉をせり上がってくるものに耐え切れず船長は吐いた。吐き出されたのは胃の内容物、そこには赤い色も混じっている。たった一撃で内臓に損傷を与えられたらしい。

 

「こ、の……!」

 

 ほんの少し身体を動かすだけで体の内に杭でも刺し込まれたような激痛が走る。内臓だけでなく骨にも損傷があるらしい。折れているのか罅が入ったのか、そんなことを考えるのも馬鹿らしくなるほど全身が悲鳴を上げる。

 船長は崩れそうになる身体を無理矢理マストへと押し付けて支え、なんとか立ったままの状態を保つ。

 そんな船長を見て巨大魚は悠然とした態度で歩み寄って来た。

 大きさからたった数歩で目の前に来る距離。その距離こそ船長に残された最後の時間。船長は痛みで朦朧としながらも自らの手を見る。そこには先程懐から取り出した小さな棒が握り締められていた。巨大魚の体当たりを受け、折れなかったのも手放さなかったのも奇跡のように感じられた。

 

「へっ」

 

 船長はその細く軽く力を込めれば容易く折れてしまいそうな棒を、もたれかかっているマストへ押し当てると悲鳴を上げる身体を酷使し、一気に擦る。すると擦った部分に煙が立ち昇ったかと思えばすぐに煙が火へと変わる。

 巨大魚に比べればあまりに小さく儚げな火。だが船長にはその火が巨大魚を追い込む為の希望の光に見えた。

 

「お熱いのはお好きか?」

 

 冗談を口にしながら船長は手に持った火を巨大魚に向けて投げる。しかし投げられた火は巨大魚には届かずその手前で失速し甲板の上へと落ちた。

それでも船長の顔から笑みは消えない。

 歩み寄ってくる巨大魚にいとも容易く踏み消されそうになる小さな火。そのとき巨大魚が踏み消すよりも先に火へと触れたものがあった。それは巨大魚の体から滴り落ちていく琥珀色の液体。それが棒の部分に触れそこから火の部分へと伝わっていったとき、琥珀の液体が紅蓮の火へと変わる。

 液体の流れに逆らうように液体に火が奔る。逆らって奔る火は勢いを増して炎へと転じ、やがて本体の巨大魚の身体を灼熱で包み込む。

 全身を包み込む炎に堪らず巨大魚は身悶えする。

 

「くはははは! 特性の海獣油だ! 海に飛び込んでもちょっとやそっとじゃ消えねぇぜ!」

 

 海獣の脂肪から作りだした特性の油。非常に燃えやすく消えにくい点から主に灯りなどに用いるが、海賊の彼らは商船相手に使用する焼き討ち用に大量に保管していた。

 体に付着した炎を飛ばそうと何度も身体を揺するが炎は消えず、小さな火があちらこちらへと飛散し船に燃え移っていく。

 

「熱いか! 苦しいか! 少しは俺の仲間が味わった痛みが理解出来たか! この魚野郎ぉぉぉぉ!」

 

 部下を殺された怨みと怒りを込め、ありったけの声で叫ぶ。

 巨大魚にその言葉などは理解出来ない。だが今も味わっている苦しみを与えた人物が今、何処にいるかは正確に把握していた。

 そして同時に自分が纏っている鱗が熱によって急激に脆くなっていくのを理解していた。このままではいずれ砕けて剥がれ落ちていく。

 この痛みへの報復か。それとも大事をとって逃亡するか。

 

巨大魚の選択は――

 

 

 

 

 巨大魚は大きくその場から踏み出す。しかし向かう先は海ではない。その足が向かう先にいるのはマストへともたれ掛かる船長。

 巨大魚は再び一歩踏み出すとその口を限界まで開き、踏み出した勢いのまま船長をマストごと喰らい付いた。

 太いマストが瞬時に半分程の細さまで噛み締められる。当然巨大魚とマストに挟まれている船長は無事では無く、巨大魚の鋭い無数の牙が体を貫きそこから血を大量に流している。もたれ掛かったマストのおかげで辛うじて体が喰い千切られることだけは避けられていた。

 牙が内臓にまで届いたのか船長の口から血塊が吐き出される。だがそれでも船長の顔には海賊としての荒々しい笑みは消えない。

 挟まれてはいるが唯一動かすことの出来る右腕を動かし、腰から剣を抜き取ると燃え盛っている巨大魚の丸い眼へと向けそれで刺し貫いた。

 

「へへ……これで、御揃いだ……」

 

 流石に目までは鱗のような硬さは持っておらず、剣を突き刺された眼球は破裂し巨大魚は血の涙を片目から流すが、それでも噛む力は弱まらない。何があろうと確実に殺すという強固な意志があった。

 

「殺し合いは……お前の……勝ちだな……」

 

 命の光が消えていく瞳で見つめながら、船長は自分を殺そうとしている巨大魚に対し負けを認める。

 

「だけどな……」

 

 そしてその瞳は同時に別の物を見ていた。船のあちこちに飛び移った火。そのうちの一つが床に撒かれている黒い粉へと触れると、その黒い粉は激しく延焼しながら導火線のように引かれた粉を伝わっていく。

 撒かれている黒い粉の正体は砲撃に使用する火薬であった。

 船長の残した本当に最後の手段。それが成功する保障は無く賭け同然の手段であった。その賭けに船長は己の命を賭ける。

 このまま火が上手く伝わるとは限らない。途中で途切れてしまっているかもしれない。だがもし万が一思い通りにいったのならば、火薬の伝わった先にあるのはこの船に積まれた全ての火薬が保管されている火薬庫。そこに引火すればさぞかし凄まじいこととなるであろう。

 

「――てめぇも道連れだ」

 

 最後の台詞を吐くと同時に船長の瞳から生命の光が消える。だが間も無くしてその眼に再び光が映り込んだ。

 荒々しく輝く紅蓮の光。すなわちそれは――

 

 

 

 

 ピチャピチャと波打ち際を歩きながら、浜辺で拾った木の棒を振り回して遊んでいる一人の子供がいた。

 何か新しいものはないかと目を光らせ、引いては押し寄せてくる波や濡れた砂の感触を楽しんでいた。

 そのとき子供の目に入り込んでくる、丸まった黒い布らしき物体。

 それを躊躇う事無く拾うと子供は大きくそれを広げた。そしてそれに描かれたものを見て子供は大きく目を輝かすと、黒い布の端を持っていた棒の端へと結びつける。

 そして完成したそれを嬉しそうに眺めながら、子供は棒を高々と掲げて砂浜を走り出した。

 風に揺れてなびく黒い布。それには片目に剣が突き刺さった白い骸骨のマークが描かれているのであった。

 

 




題名が二つある様にこれとは別の終わり方をする話を書いていて思いついたので二つにしました。
これがノーマルエンドとしたら次はトゥルーエンドといった感じです。
別のエンドはもう少しお待ちください。


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海原を朱に染めて/海神の気紛れ

「お熱いのはお好きか?」

 

 冗談を口にしながら船長は手に持った火を巨大魚に向けて投げる。しかし投げられた火は巨大魚には届かず、その手前で失速し甲板の上へと落ちた。

それでも船長の顔から笑みは消えない。

 歩み寄ってくる巨大魚にいとも容易く踏み消されそうになる小さな火。そのとき巨大魚が踏み消すよりも先に火へと触れたものがあった。それは巨大魚の体から滴り落ちていく琥珀色の液体。それが棒の部分に触れそこから火の部分へと伝わっていったとき、琥珀の液体が紅蓮の火へと変わる。

 液体の流れに逆らうように液体に火が奔る。逆らって奔る火は勢いを増して炎へと転じ、やがて本体の巨大魚の身体を灼熱で包み込む。

 全身を包み込む炎に堪らず巨大魚は身悶えする。

 

「くはははは! 特性の海獣油だ! 海に飛び込んでもちょっとやそっとじゃ消えねぇぜ!」

 

 海獣の脂肪から作りだした特性の油。非常に燃えやすく消えにくい点から主に灯りなどに用いるが、海賊の彼らは商船相手に使用する焼き討ち用に大量に保管していた。

 体に付着した炎を飛ばそうと何度も身体を揺するが炎は消えず、小さな火があちらこちらへと飛散し船に燃え移っていく。

 

「熱いか! 苦しいか! 少しは俺の仲間が味わった痛みが理解出来たか! この魚野郎ぉぉぉぉ!」

 

 部下を殺された怨みと怒りを込めありったけの声を込めて叫ぶ。

 巨大魚にその言葉などは理解出来ない。だが今も味わっている苦しみを与えた人物が今、何処にいるかは正確に把握していた。

 そして同時に、自分が纏っている鱗が熱によって急激に脆くなっていくのを理解していた。このままではいずれ砕けて剥がれ落ちていく。

 この痛みへの報復か。それとも大事をとって逃亡するか。

 

巨大魚の選択は――

 

 

 

 

 巨大魚は怒声を上げる船長を無視し、背を向けるとその場で倒れ込み、身を捩りながら器用に前進する。

 

「待てよ! おい!」

 

 戦うよりも逃げることを選んだ巨大魚に船長は声を荒げるが相手は一切聞く耳は持たず、そのまま船の端へと到達すると立ち上がって海に向かって飛びこんだ。

 燃え盛る体に海水が被さりその勢いを弱めていくが、船長の言った通りただ海水を浴びただけでは完全に消えない。しかし巨大魚は飛び込むと全速力を以て海中へと潜行する。それによって炎で脆くなった鱗が炎や染み込んだ油ごと剥げていく。

 鱗の剥げた部分の下から筋組織が露わになり、そこから血が流れ出していくが、構う事無く炎が触れた部分を削ぎ落していく。

 そして大部分を削ぎ終えると同時に反転し、今度は海上目掛けて泳いでいった。

 

「ああ、くそ」

 

 目の前でみすみす相手に逃げられてしまった船長は、甲板でふらつきながら船の端へと向かって歩いていく。

 巨大魚が暴れた際に撒き散らされた火種の一つが、予め撒いておいた火薬へと引火しているのを見つけた為に、少しでも生き延びる確率を上げる為に海へ飛び込もうとしていた。

 本来ならば船長が命懸けで引きつけ、船ごと自爆するという賭けであったが、相手が船から去ってしまったことでものの見事に賭けに敗けてしまった。

 自分で仕掛けた罠に自分で嵌って無駄死にする訳にもいかず、船長は悲鳴を上げる身体をに鞭打って亀のような鈍い動きで必死になってこの場から逃れようとしていた。

 いつ爆発するかなど船長にも分からない。

 船の端まで辿り着いた船長はそのまま縁を掴み乗り上げようとする。だが身体を持ち上げようとすると、マストに叩きつけられたときに痛めたのか腕の筋肉が萎縮するような痛みを感じ、力が抜けてしまう。

 そのとき前触れも無く、船長のすぐ側にある船の壁が砕け散った。

 

「は?」

 

 あまりに急なことに何が起こったのか分からない船長の頬に、砕けた木の破片や何故か水の礫がかかる。

 その直後、今度は先程までもたれ掛かっていたマストの根本付近が抉られる。一瞬にして半分以下の細さまでになったマストは自重を支えきれず、メキメキと木がへし折れていく音を立てながら倒れてくる。運が悪いことにそのマストの倒れる先には船長の姿があった。

 

「おいおいおいおい!」

 

 自分に目掛けて倒れてくるマストに、船長は驚きの声を上げながら必死になって船の反対側に向かって駆け出した。そのまま海中へと逃げ込めばいいものの、先程身体を持ち上げられなかったことから足を使って逃げることを本能的に選んでしまった。

 全力で駆けた為に体の内側から軋む音が聞こえ、激痛が走るがそんなことなど圧殺されるかもしれない現状に比べれば些細なものであり、意識の片隅へと無理矢理押し込み、船長は半ば身体を投げ出すようにして船の反対側まで辿り着き、縁に被さるようにしてもたれ掛かり痛みを訴える身体を支えた。

 そして船長はそこで見た。

 海上から体上半分を出し、こちらに顔を向ける傷だらけの巨大魚の姿を。その大きく開いた口から飛び出て来る水のブレスを。

 吐き出された水は本当に水なのか疑問を抱く程、簡単に船の一部を貫きそのまま削り取っていく。ただ直進するだけならばまだ被害は抑えられたが、水を吐き出しながら巨大魚が少しでも頭部を動かすと水のブレスはたちまち水の刃へと変わる。

 巨大魚の頭が斜め下に向かって振られる。すると船の先端から船底まで斜めに斬り裂かれ、先端がずり落ちて海へと沈んでいくと空いた部分から大量の海水が流れ込み、船が急激に傾き始める。

 

「俺の代わりに火消しをやってくれるのか! ありがたいぜ! くそたったれ!」

 

 半ばヤケクソ気味に叫びながら、船長はバランスを崩し始める船へとしがみ付き何とかこらえようとするが、その間にも巨大魚は次々と水のブレスを吐き続け、船長の逃げ場をどんどん縮小させていく。

 

「おおおおおおおおお!」

 

 やがて船の傾きも最高点となり、ほぼ海面に対して垂直の状態となる。そんな中で船長は両手両足を絡ませて何とか耐えていたが、限界への時間はもう間もなくに迫っていた。

 

「飛び込むしかないよなぁ」

 

 触れればその箇所から穿たれるであろう水の凶器から逃れる場所は、最早そこしか残されていない。自分がこれから飛び込むことになる海原を眺め、自然と額から冷たい汗が流れていくのを感じた。

 今日ほどこの青い海原を恐ろしいと思ったことは無い。

 海の側で生を受け、最古の記憶では既に泳いでいた自分。そしてそこから今に至る記憶の中で海に関わらなかった記憶など皆無であった。そんな海と密接な関係にある自分が今、海を見てそこに恐ろしさを覚えている。

 立ち止まっていればいずれ穴だらけか真っ二つになって殺される。だからと言って海へと逃げ込めば十中八九あの巨大魚に食い殺される。

 どの選択を選んでも待っているのは死。

 自分が完全に詰んだ状況にあることを思い知らされ、船長は諦観からか小さく笑う。

 

「格好つけたが結局は無駄死、犬死のようなものか……」

 

 そう呟いた船長は腰に差してあった剣を抜く。それと同時に縁を掴んでいた両手を離し、足で船を蹴りつけると思い切り良く海へと頭から飛び込んだ。

 小さな水柱を上げて着水した後に勢いよく海面へと上がり、声高らかに叫ぶ。

 

「おらぁぁぁぁ! お前のご自慢の鱗を焼いてやった奴はここにいるぞ! わざわざお前の舞台に飛び込んでやったんだ! 泣いて喜べ! 魚野郎!」

 

 せめて死ぬ時ぐらい心を折らさず、怯えも見せず、これでもかと言うぐらい虚勢を張って死のう。

 巨大魚がそれを見て何の感慨も抱かないことは百も承知である。だがそれでも意地を張らなければ、死んでいった仲間たちにあの世で笑われてしまう。

 長年乗って来た船が二つに割かれて海へと沈んでいく。船があった名残は最早、沈まずに波に揺られて浮かぶ船の破片のみ。

 船長はその内の自分に向かって流れてきた板を一枚手にする。沈まない為の浮板代わりにも見え、あるいは船の共に最期を遂げるという覚悟にも見える。

 船長は先程まで巨大魚がいた方を見るが、そこに巨大魚の姿は無い。どこにいったのかなど考えなくても分かっている。

 浸る海水の温度が急激に下がってきたかのように、船長の身体に寒気が走る。何一つ変わっていない筈なのは分かっているが、その寒気こそ迫る敵が放つ殺意であり、寒気が強くなればなるほどに接近してくるのを理解した。

 船長から数メートル離れた場所で海水が盛り上がり出す。同時に盛りあがった海水の中に浮かぶ鮮やかな色。

 上がった海水が全て落ちたとき、そこには巨大魚の顔があった。

 

「よお。近くで見たら中々の二枚目じゃねぇか」

 

 常人ならば恐怖で発狂してしまうかもしれない状況で船長は冗談を飛ばす。

 口腔から覗く鋭い牙は唾液によって艶を見せ、間近にいるせいか巨大魚の血生臭い吐息のニオイすら感じる。

 船長は持っていた剣を掲げる。この巨大魚の前にしては小枝のような存在であるが、ただではやられないという意思の表示でもあった。

 それに応じるかのように水中から折り畳んでいた翼が飛び出し、左右に大きく広げられる。そして独特の鳴き声を上げ、流線形の顔を前に突き出し、開いた牙で船長を噛み砕かんと開いた翼を水面へと叩きつける。

 

「来い!」

 

 最期と言わんばかりに水平線の彼方まで届くような大声を張り上げ、剣を突き付ける船長――が何故か巨大魚は水面に翼を叩きつけた状態のまま固まり動こうとしない。

 相手の不審な行動に決死の覚悟をしていた船長も眉間に皺を寄せ、怪訝そうな表情となる。

 しかし巨大魚は船長の存在など眼中に無いかのようにその大きな頭を持ち上げ、どういう訳か周囲を警戒し始めた。まるで何かに恐れを抱いているかのように落ち着きが無い。

 

「どうしたんって――うぷっ!」

 

 理解出来ない相手の行動に船長を思わず言葉が出そうになったとき、その言葉を遮るように波が顔に当たる。

 口に入った海水を吐き出す船長であったが、続けざまに海水が何度も船長の顔に当たり続ける。先程まで波など無かったのにどういう訳か海水の動きが慌ただしくなり始めていた。

 明らかに何かが起きるであろう前兆。それに対し逸早く行動に移ったのは船長では無く巨大魚の方であった。

 巨大魚は船長に背を向けるとそのまま海に潜り込み、振り返ることもせずどこかへと去ってしまった。

 天敵の存在など考えられない程の体躯をした巨大魚が、尻尾を巻いて退散していく。それにより落とす筈であった自分の命が救われた。だがそんな光景を目の当たりにしても、自分の現状を把握した船長は痛快な気分など微塵も湧くことが無かった。

 船を容易く沈めていった巨大魚が逃げ出していく。その異常事態に船長の鼓動は次第に早まっていく。

 変化は唐突であった。船長の正面、十数メートル先で水面が盛り上がり始める。初めはそれほどの高さでは無かったが、時間が過ぎるにつれてみるみるうちに高さが上がり見上げる程の高さへとなっていく。それにつれて周辺の海水の動きが激しくなっていく。まるで海全体が震えているかのような錯覚を覚えながら、船長は船の板をしっかりと握り締めその盛り上がる水面から目を離すことが出来なかった。

 やがて海水は限界まで上り詰める。そのとき盛り上った海水を突き破りあるものが現れる。それを見た時、最初に船長は大きな岩か何かだという感想を抱いた。しかしそれが徐々に全容を見せ始めたとき、それが生物の角であることを理解しただ絶句した。

 言葉を失い、現実への理解が消化しきれない船長に追い打ちを掛けるようにして、その巨大な角の持ち主は海水からその全体を露わにした。

 牡牛を彷彿とさせる白く立派な左右対称の角。その巨大な角に負けない程の身体が水面から飛び出し宙で弧を描く。先程の巨大魚よりも倍以上の大きさの身体が飛び上がった光景は、目が覚めているにも関わらず夢か幻を見ているような錯覚を起こす。

 船長は呆けた顔で口を半開きにしながら、現れたその巨大な生物を瞬きすることなく見つめ続ける。

 その生物の腕には指などは無く泳ぐ為に特化した鰭の形になっており、また足も無く代わりに二又に分かれた尾鰭があった。首から胸にかけて鬣のような白い体毛を生やし、水から飛び上がった拍子にその体毛から弾かれた水だけで周囲に土砂降りのような水滴が落ちている。巨体を覆う鱗は一枚一枚が人を覆い隠してしまう程大きく、そして体皮の至る所に藻を付けており、それが生物の歴史を現しているようであった。

 神話、あるいは伝説の中からそのまま抜け出てきたような生物。その身から溢れ出る圧倒的な生命力は、自分が如何に矮小な生き物であるかを否応なしに自覚させる。

 

「あれは――」

 

 無意識に言葉が出てきたとき、飛び上がった巨体が海水へと着水する。それによって海に波紋が広がっていくが波紋の一つ一つが津波と呼べるほど大きく、それにより船長は成す術も無く飲まれ、海中でひたすら海流に弄ばれる。上下左右が分からなくなるほど体勢が変わり続けるが、それでも手に持った板切れは離さず掴み続けてはいた。だが、やがて押さえていた息も限界に達し、口から水泡となって吐き出していくと船長の意識が黒く染まっていく。

 意識が遠のいていく中で船長はぼやけた視界に映り込む大きな光を見た。

 

(あの光……やっぱり……み……さ……)

 

 それが何なのか理解する前に船長の意識は途絶える。そして大きな光もまた遠ざかっていくのであった。

 

 

 

 

「――長」

 

 遠くから何か音が聞こえてくる。

 

「――長!」

「――長!」

「――長!」

 

 それも一つや二つでは無く沢山の音であった。

 

「――長!」

 

 お世辞にも綺麗とは言い難い音。どの音も擦れていたり、低かったり、唸る様であったりと正直耳障りとも言っていい音であった。

 

「うるせぇ……」

『船長ぉぉぉぉぉ!』

 

 思わず呟いた言葉に何十という野太い声が重なる。

 閉じていた瞼を開ける。最初に目に入り込んで来たのは空から降り注ぐ太陽の光。それに目を細めながら徐々に視界が回復してくる。そこで初めて筋骨隆々とした複数の男たちが自分の顔を覗き込んでいるのに気付き、一番近くに居た男の頭を叩きながら船長は上体を起こす。

 

「近い」

「痛ぇ! でも良かった! 船長が無事で!」

 

 叩かれた部分を押さえながらも男は船長の無事を喜ぶ。

 

「ここは……」

 

 はっきりとしていない頭で周囲を見回すとそこにいたのは別れた筈の部下たちであり、自分が乗っているのが自分たちの海賊船の一隻であることを理解する。

 

「すみません。俺達どうしても船長のことが見捨てられず……」

「……俺は助けに来るなと言ったし、二度と海には戻って来るなと言った筈だぞ」

 

 船長は怒気を込めながら言う。海から引き揚げたのは間違いなく部下たちであり、それを無視して怒ることは恩知らずとして他人の目に映るかもしれない。だが一度約束しておいたことを破り、あまつさえ折角拾った命を捨てるような真似をした部下たちの行為に静かに怒る。

 

「分かってます! 船長のお怒りは御尤もです! ですが俺達も海の男としての端くれ! 死ぬときは土の上では無く海の中と決めているんです!」

 

 殺されるのを覚悟で船員たちは自らの決断を述べる。しかし、予想外なことに船長はそれ以上言及せず、溜息を吐くと何処か呆けたように空を見上げる。まるでそれは何かの残像を追っているかのようであった。

 

「船長、結局あのでかい魚はどうしたんですか?」

「……どっかに行っちまったよ……まあ、二度とこの辺りには戻って来ないな」

 

 妙に確信をしたように語る船長に船員たちは皆、首を傾げた。普段の船長を知るならばあまりに覇気がない。

 

「――なら! 海賊団の解散も無しですよね! あんな奴が居なくなったなら……!」

「……いや、言った通り今日で俺達は解散だ」

「そんな! どうして!」

 

 一斉に抗議の声が上がるが、船長はそれらを無視して見上げていた目線を広く大きな海原へと向け、独り呟く。

 

「あんな神様がいる海で二度と悪さなんてできやしねぇさ……」

 

 




これがこの話のもう一つの終わり方になります。どちらの終わり方が良いかはお好みで。
そして一瞬ですがようやく古龍種も出すことが出来ました。
ガノトトスの二倍の大きさを持つナバルデウス――の倍近い大きさがあるジエン・モ—ラン――を四体並べた大きさを持つダラ・アマデュラとラヴィエンテ
こう書くとナバルが小さく思えますね。


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画伯が愛した光

今回は本筋と繋がっていない話です。


 小さい頃から絵ばかり描いていた。傍から見れば好きだから描いていると思われるが、正確に言えば絵を描くことしか自分には出来なかった。

 これといって人よりも突出した才能が無いことは子供のときから自覚していた。走れば誰よりも遅く、喧嘩をすれば誰よりも弱く、会話をすれば誰よりもつまらない。

 そんな自分を他人は馬鹿にし嘲笑う。そんなことがあれば自然と他人との交流が無くなり、気が付けば独りで出来ることばかりしている。

 そんな独りで出来ることの中から選んだのが、絵を描くということであった。

 初めはそこら辺りに生えている草花を適当に描いていていた。鉛筆で描き上げた絵はお世辞にも上手いとは言えず、このとき自分には絵画の才能も無いことを実感した。

 だが不思議なことにそれでも絵を描くことを止めず、黙々と描き続けることにした。別に好きであった訳では無いのに何故描き続けていたのか思い返しても心当たりが無く、実に訳の分からない行動である。

 描いた絵が百を超えたとき、最初に描いた絵と見比べ少しだけ上達したのが分かった。最初に描いた絵がただ線を走らせているだけのものだが、百枚目の絵はぱっと見ても草花を描いているのだと分かる。

 そのことが少しだけ嬉しく思い、その日からいつもよりも真面目に絵を描くことを意識した。

 日に日に増えていく描いた絵。だがその中に人物画だけは一枚も無かった。描く機会が全く無かった訳では無いが、昔苛められていたことが根本となっているのか、人を描こうとすると必ず筆が止まってしまい何度も中断するという結果に終わっている。故に溜まっていく絵はどれも風景画ばかりである。

 そんな日々を繰り返していくうちに齢も重なっていき大人と呼べる年齢となった。

 周囲の人間はそれぞれの道を歩み始めていく。ある者は農業の職に就き、あるものは商業の職へと就く。

 その中でも一番目指す人が多い職業と言えば冒険者であった。あたれば一攫千金、一生喰うに困ることが無くなる職。だがその反面、命を失うリスクもあった。

 一度、冒険者を目指す人間に何故当たり外れのでかい職を目指すのかを尋ねたことがある。返ってきた答えは実に俗と憧れに塗れた定番のものであり、理解出来ないと言うと逆に嘲笑われた。体力が無く、魔力も限りなく零に近く子供でも簡単に動かすことが出来る魔法具すら血管が千切れるのではないかと力を込めなければならない人間がいう言葉など、忠告などでは無く只の僻みにしか聞こえないのであろう。

 そんな連中に背を向け、いつもの様に絵を描き続ける。そんな自分を見てやはり負け惜しみだと指を差して笑う者がいるが正直どうでも良かった。

 これといって定まった職には就かず、その日あるいは次の日まで喰っていける程度の日銭を稼ぐ日々を送りながら、空いた時間が出来ればいつものように鉛筆と紙を持って適当な場所で適当な絵を描く。

 そんなことを繰り返していると、いつしか周りの人間が自分のことを『画家』と称するようになった。ただし『画家』の前に『売れない』という言葉が付くが。

 周りが言ったように自分は確かに売れない画家と言っていい。だが勘違いをしないでもらいたいが、絵を自分から売ることなど数えるぐらいしかしていない。それも二束三文といった安値である。今頃、その絵がどうなっているのかは分からない。今も飾られているのかそれともとっくにちり紙にでもなっているのか。しかし自分にとってはどっちでも良かった。まだ『画家』と名乗れるほど誇りを持って絵を描いている訳では無いので。

 そんなだらだらとした日々を繰り返し、数年が経った。数年が経過してしても自分の変化も周りからの評価も一向に変わらず、馬鹿にされた日が続く。

 悔しくないのかと聞かれれば悔しいと答えるだろうが、今を変えたくないのかと聞かれたのならば別にそれほどでも、と答えるだろう。

 基の能力が低い癖に向上させようとする意志が希薄なのには自覚があったし、それが自分にとって最大の欠点であることも分かっていた。

 人生を賭けられるほど本気にはなれず、だからといって今までやってきたことを全て捨てさることも出来ない。

 中途半端で駄目な人間。それが自分であった。

 この性格は一生賭けても治ることは無いだろうと思っていた。

 

 あの日あの時あの瞬間までは。

 

 

 ◇

 

 

 空を見上げると灰色の雲が一面に広がり、今にも降り出しそうな気配を漂わせている。事実、空からは時折重く響く雷音が唸るように鳴り、雲の中で青白い光を篭らせていた。

 空気も湿気を帯び、足下の土や周囲の木々の匂いが一層濃くなることを感じながら、自分は心なしか早足といった程度の速度で家を目指して帰る最中であった。

 いつものように日課としての絵描きをする為に今日は遠出をしていた。朝一番は快晴であり注ぐ光も鬱陶しさを感じさせる程に眩しく、熱いものであったが昼過ぎになると徐々に天気が崩れ始め空に雲が重なり始め、気付いたときには太陽の光は完全に遮られていた。

 雨を遮るものは当然持っておらず、周囲に雨を凌げる場所は無いかとしきりに探しながら帰路に着いていたが、やがて頬に冷たい雫が落ちるのを感じた。

 まだ本格的に降ることはなかったが、それでも雨が降る前兆を感じ更に歩く速度は速くなっていく。

 砂利道を踏みしめる音を聞きながら黙々と歩いていたが、そのときある違和感を覚えた。踏み締める砂利の音が心なしか多いような気がしたのだ。

 そのことを確認する為に一旦足を止める。すると後方から砂利を弾く音が複数聞こえてきた。一人や二人では無くもっと多くの数である。

 踏み締める音の間隔の短さからその足音の主たちが走っていることが分かる。音も徐々にではあるが近付いてきている。

 特に何か気になったという訳では無いが後ろを振り返る。足音の主たちの姿はまだ見えなかった。

 

「……ん?」

 

 だが暫くすると、歩いてきた道の向こう側から黒い服を着た複数の人影らしきものが見えてくる。それを見て自然に眉間へと皺が寄った。

 走っていることは走っているがその集団はやけに体勢を低くしており、まるで四つん這いで走っているかのように見えたからだ。まさかと思いもう暫く見ていたが、近付くにつれて分かってきたことがある。

 その集団は衣服などを纏ってはいなかった。黒い服と思っていたのは全身を覆う黒い体毛。そして最初は見間違いだと思っていたが、その集団は間違いなく四足歩行で走ってきている。

 そこまで分かった瞬間、背を向けて走り出していた。

 どうして。何故だ。という言葉を何度も繰り返しながら全力で駆ける。それにつられて背後にいた集団の足音も早くなったような気がした。

 先程見た奴らについて記憶違いがなければ、奴らは獣人のワードッグである。その名の通り人に犬を足したような外見で、常に群れを作って行動しその鋭い牙と爪を使い獲物を狩るという存在。『人』の要素はあるが知能は獣が多少賢くなった程度しかなく、意志疎通、会話などは当然不可能。家畜を襲い、畑を荒らす害獣と呼ぶべき存在。そして何よりも厄介なのは好んで人を襲い喰らうということである。

 一説には彼らの中には独自の思考回路が有り、賢そうな存在を食べることによってその知力を得るなどと言う考えもある。それが本当かどうかは知らないがワードッグに襲われた人間は必ずといって言い程、その頭蓋を砕かれ中身を全て喰われている。

 かつて一度だけ被害者の遺体を見たことがあるが、それは凄惨の一言に尽きた。

 人を襲う為、ギルドの冒険者たちが定期的に数を減らすなどして町や村などの被害を抑えているが、それでも運が悪ければ出会うときには出会ってしまう。

 まさにそれが今である。

 極限状態にも関わらず、思い出さなくてもいいことを思い出し自分で自分の恐怖を煽ったことに、心底馬鹿であり不運な自分を蔑みながら後ろに首を回す。

 先程よりも集団との距離が縮み、迫ってくる連中の容姿が良く見え始めてきた。

 全身から生やした同じ色の体毛が顔のあちこちから植え込まれたように不規則に生え、目は殆ど人と同じ形をしているが、口吻は犬ほど長くはないが突き出ている。そしてその中途半端な口吻の端からは人よりも長い舌がはみ出していた。

 獣人という分類に入る為、その顔はやはり獣に近い容姿をしているが中途半端に人間の要素もあり、その為一層嫌悪感を覚える怖気の走る顔をしている。

 走ったことで上昇した体温のせいで汗が流れ始めるが、血の気が引いている身体にはその汗がやたら冷たく感じ、それのせいで衣服が肌に張り付くことが余計に苛立ちを煽る。

 久しぶりに全力で走る自分の速度は自分の想像よりも遥かに遅く、いつの間にこんな風に足が遅くなってしまったのかと嘆きたくなるほどであった。ただでさえ運動能力が秀でていない為、どんなに走っても後ろから迫る恐怖を拭い去ることが出来ない。

 そんな不安に更なる追い打ちを掛けるように、ワードッグの鳴き声が耳へと入り込んできた。獣の鳴き声というよりも人が獣の鳴き声の真似をしているかのような酷く歪な声であり、純粋に気持ち悪さしか感じられない。

 突如体が前のめりになる。反射的に片手を突き出すも、地面に接触すると同時に突き抜けるような衝撃が奔る。腕の骨と肩の骨が互いに潰し合ったことで生じた痛みに、突き出していた腕は倒れる身体を支えることも出来ずにあっさりと曲がり、地面を滑るようにして倒れ込んだ。

 突き出した掌。地面に着いた両膝。どちらも擦って皮膚が捲れるがそんな痛みにかまけている時間は無い。すぐさま立ち上がろうとするが、その途端に両膝が折れそうになる。

 たったあれだけの距離を走った程度で足の筋肉が震えはじめていた。改めて突き付けられる自分の力と体力の無さに絶望しつつも必死になって体勢を立て直し、その場から駆け出そうとした。

 その直後、肩から背中に掛けて今まで経験したことのない熱が生まれる。

 ただただ肩から背中に掛けて煮え滾るような熱のような感触。思わず背後を振り向くと、そこには四足で駆けていた筈のワードッグの一体が人のように二本足で立っていた。

 そしてその手に当たる指先部分には何かがこびりついている。白い布と肌色と赤の入り混じった物体。

 それが人の肉であることに気付き、それが誰のものであるかを理解したとき熱は痛みへと転じ、思わず絶叫を上げていた。

 少しでも近くにいる害獣を遠ざけようと無茶苦茶に手を振るうが、その手は空を切るだけであり掠めることすらなかった。

 そして更なる不運として空振った勢いで再び体勢が崩れ、そのまま道の端へと倒れていく。前方に生い茂る草に頭から突っ込んだかと思えば、体全体に一瞬だけ浮遊感を覚えた。

 何事かと考えるよりも先に目の前に広がる曇天の空。次の時には斜面となっていた草の向こう側を勢いよく転げ落ちていく。

 頭をぶつけたかと思えば、背中に痛みを覚え、足首がこれでもかというぐらい捻る。ありとあらゆる場所に激しい痛みを訴え、どこかどうなっているかも分からないまま転げ切った体が斜面の下で大の字になって横たわる。

 眩暈、嘔吐感を覚えながらも体を何とか起こそうとする。だがその途端、先程抉られた傷が思い出させるように痛みを放ち始める。

 胃の内容物を吐き出してしまいそうになる苦しみ。今まで受けてきた傷の中でも一番の大怪我であった。

 芋虫のように身体を蠢かせながらも、何とかこの場から移動しようと試みるも体が言うことを聞かない。

 ふとこのときになって初めて気が付いたが、自分の手の中にはスケッチブックが握られていた。無意識ではあるが余程強く握っていたせいか、表紙や中の紙が皺くちゃになっている。

 不運に不運が重なる事態と、こんなときですら後生大事そうにスケッチブックを手放さなかった自分の滑稽さに、諦めの笑いを溢しそうになる。

 それが出来なかったのは唸る声が耳へ嫌でももぐり込んできたからであった。

 横たわったまま視線だけを動かす。そこに映り込んだのは自分を追い駆けてきたワードッグたちの姿であった。

 ここまでくればもう諦めるしかない。

 逃げる意志は完全に折れ、害獣たちの前にその身を無防備に晒す。その姿に食欲でも湧いてきたのか、どのワードッグたちも口の端からだらだらと涎を垂らし始めた。

 それを見て、今からこんな奴らに食い殺されると考えると、嫌悪感と空しさで思わず泣きたくなってくる。

 一歩一歩ワードッグたちが寄ってくる度に、頭の中で過去から今に至るまでの記憶が走馬灯として流れてきた。最古の記憶は村のガキ大将に殴られて泣いた記憶、その次は一人だけ仲間外れにされて寂しく遊んでいた記憶、あることないこと村の中で噂された記憶などなど、思い出としてはどれも碌でもない記憶であった。

 そんな記憶を抱いたまま、これから最低な奴らに最低な殺され方をされる自分。積み上がった不幸に全てを呪いたくなってくる。

 ワードッグの一匹が大きく口を開くのが見えた。

 その時こう思ってしまう。

 

『ああ……死にたくないな……』

 

 これ以上醜悪な獣人たちの姿を見たくなかったので目を閉じる。広がるのは只の闇。だが野蛮な獣人を見続けるよりは遥かにましであった。

 閉ざされた視界の代わりに聴覚がワードッグたちがにじり寄ってくるのを報せる。あとどれくらいこの恐怖に身と心を晒していなければならないのかと考えたとき、瞼越しにでも暗闇が白く染まる閃光が生じ、そして耳の奥が壊れるのではないかと思う程の轟音が響き渡る。

 それに驚き、体が反射的に委縮し閉じていた眼も開いてしまう。

 目を開けたとき周囲の光景は一変していた。並んでいた木々はどれもが大きく縦に裂け、燃え上っている。周囲の草むらも同様に焼け焦げ、所々に炎が上がっていた。

 初めは落雷があったのではないかと考えた。だが視界を少しずらした時にその考えは違うと確信し、同時に体の感覚が全て消え失せるような衝撃を覚えた。

 倒れている自分から数メートル先に突如として現れた一頭の獣。馬に似た姿をしていたが大きさも全身から放たれる威圧感も、そして言葉で言い尽くせないその美しさのどれもが既存の動物からは掛け離れていた。

 まるで命を与えられた雷。それが最初に抱いた感想であった。

 額からは真っ直ぐに伸びた角が一本生えており、それが時折蒼白い光を帯びる。全身を覆うは白銀の体毛。一本一本が銀を溶かして作られた銀糸で出来ているのではないかと錯覚を覚える程の美しい毛が、微風によって滑らかに揺れることで官能に近い感情を与えられる。

 そしてその体毛からは白光が放たれており、その光もただの光では無く空気中に舞う僅かな塵がその光に触れようものならば爆ぜるようにして燃え、一瞬にして姿形も無く蒸発する。一見すれば恐ろしい現象であったが、自分にはさも当然のことのように思えた。あれほど美しい存在に汚れなどが触れていいものではない。

 足下から角の先、尾の先端まで何一つ文句が付けられない程に完璧な造形によって作られたその生物は、人が思考の中で思い浮かべる完璧の更に上を行くような未知と不可侵的な美を秘め、そこに立つだけでこの世のありとあらゆるものがこの生物を引き立てる存在に過ぎず、ただ周囲を飾る為だけのものに成り下がる。

 そう思ってしまう程にその生物は一つの芸術として完結していた。

 痛みを全て忘れてしまう衝動に駆られ、這いずる様に身体を起こす。仰向けからうつ伏せの姿勢になったことで視界がより広がったとき、その生物の足元に転がる煤の塊のような物体が眼に入った。

 全てが黒一色に燃え尽きた物体。辛うじて残った原型をよく見れば、四肢らしきものを天に向けているように見える。その燃え尽きた物体が元ワードッグだと気が付いたときには、白く輝く生物の足がそれを踏み砕き、今度こそ完全に原型を失う。

 仲間をむざむざと殺されたことで残りのワードッグたちが毛を逆立てて怒りを示す。

 だが自分から見ればワードッグたちの怒りや殺意はあまりにも矮小なものに見えた。普通の人間ならば死を覚悟するだろうし、冒険者たちならば腹を括って戦う覚悟を決めるだろうが、その生物はワードッグたちの殺気を受けても涼風、否周囲に舞う塵以下にしか感じていない。つまりは全く何も感情を抱いていないということである。

 一斉にワードッグたちが吠えるとその生物を囲むような陣形を作る。

 それを見たとき、目の前の獣人たちに心底憐みの情を抱いてしまった。仲間が殺されたことで怒りを覚えるのは理解出来る。だがその怒りに任せてあの生物に戦いを挑むという愚かな行為は全く理解出来ない。生き死になどと無縁な人生を送ってきた自分でも直感的に分かるあの生き物との格の違い、それが分からないワードッグたちの頭の悪さに心の底から同情する。

 周囲を囲まれようとも、光を放つ生物は地面を踏みしめながらゆったりと歩き、まるで何も起きていないかのように振る舞う。

 ワードッグたちは歯を剥き出しにして低い姿勢になると、いつでも飛び掛かれる状態となる。それでもなお、その生物は構えるどころか眼中に無いといった態度を続ける。

 ワードッグたちの怒声が重なり、殺意を力に変えて一斉に飛び掛かった。

 その瞬間だけ、まるで世界の時が停滞し始めたかのようにゆっくりと見え、一枚一枚絵を重ねていくかのように動いていく。

 一匹はその長い爪を生物の首に突き立てようとする。別の一匹は口を開き、その不揃いに並ぶ歯を胴体に喰い込ませようとする。また別の一匹は両手を大きく開きどの箇所でも良いからその生物の肉を抉り取ろうとする。

 それぞれがそれぞれの殺意に従い、本能的に考えた殺し方を試みようとする。

 白光の生物は動かない。いくつもの殺意が突き立てられようとしている状況の中でも、まるで彼方の出来事かであるかのように無視し続ける。

 あの美麗な生物に野獣たちの汚らしい爪や牙が触れようとしている。それを想像しただけで胃が捲れ上がるような不快感が湧き立ち、衝動的に身体を起こそうとするが己の非力さからすぐに崩れる。

 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。

 無駄なことだと分かっていても数秒後に訪れる未来を消し去るように言葉が重なっていく。

 引き延ばして見える全ての光景がもどかしく、その中で無力にも足掻くしかない。

 やがて獣人たちの爪牙がその生物に触れるか触れないかまで接近したとき、初めて生物が動きを見せた。

 紅玉を彷彿させる眼を獣たちに向ける。それだけの行為。しかしそれを見た瞬間、目に映る全ての世界が白一色と化す。その刹那、聞こえてきた嘶く声。それがあの生物の鳴く声なのかと思った直後、轟音によって余韻が全て掻き消えた。

 目の中に太陽を放り込まれたかのような閃光によって両目は何も映さなくなり、耳も又火薬を直接流し込みそこで爆発させたような衝撃で一切聴こえなくなる。

 視力と聴力。それらを同時に奪われ、何も見えず何も聞こえなくなった世界で意味も無く手足を動かしてしまう。

 一体どれほどの時が過ぎただろうか。五感の内の二つが使えなくなったことで焦る心が時間の感覚を狂わせる。

 やがて白一色に染まっていた視界は徐々に色を取り戻し始め、ぼやけてはいるものの周りの形が分かり始めてきた。

 そのときになって目の前に黒焦げの死体が転がっていることに気付き、思わず悲鳴を上げて身体を仰け反らせる。そして仰け反らせたせいで受けた傷が開き、その痛みで再び地面の上で悶える。

 まだ聴覚は回復しないものの、少しずつ戻る視力のおかげで今どうなっているのかが理解出来た。

 地面が焼け焦げ、それを中心にしてワードッグたちの死体が雑に置かれている。焼けて間もないせいかその身体からはいまだに煙が昇っていた。

 思わず空を見上げる。中で青白い稲光を篭らせていた黒雲は裂かれるようにして外へと稲妻を放出しており、激しく点滅していた。

 あのとき、生物が眼を動かした時に確かに稲妻の音を聞いた。それと同時に凄まじい閃光が場に満たされたことから、あのとき落雷があったのだと理解する。しかし本来の雷ならばワードッグを含め自分も焼かれていてもおかしくは無かった筈なのに、まだ生きているどころか雷を浴びてすらいない。まるでワードッグたちだけを狙って落とされた雷。自然を操るなど高名な魔法使いですら出来ない芸当である。

 そんなことを考えていたとき、前に転がるワードッグの死体が踏み砕かれる。そこには光立つ獣の脚。

 全身の汗腺が開き、止めどなく汗が流れ始める。心臓は今まで経験したことがない程の鼓動で動き、口の中は枯れ果て舌が張り付きそうであった。

 圧倒的な恐怖と威圧。それでも視線を下から上へと向ける。

 直ぐ近くには、この惨状を引き起こした張本人が何事も無かったかのように立っている。初めに見たときよりも更に距離は縮まっており、流れる銀毛の一本一本、体に刻まれる皺まで見える程の距離であった。

 言葉など出ず指の一本、瞬きの一つ、眼球の一動すらも出来ない。

 その生物は人が草木でも踏み潰すかのように何の感慨も抱かず、焼き殺された死体を踏みながらこの場を離れようとしていた。

 最初から自分のことなど路傍の石、あるいはそこらに生えている雑草ぐらいにしか思っていないようで文字通り眼中に無いといったものであった。

 生物が離れて行くのをただ何もせずに見送る。このまま何もしなければ何もされない。そんなことは分かっている筈なのに何故か体が何かをさせようとする。

 何か一つ声でも、音の一つでも上げたい。

 去って行く生物の後ろ姿を見たとき、全身の力を奮い立たせ僅かに出来たことは――

 

「あ……」

 

 自分の想像していた何百分の一ほどの大きさで放たれる、蚊の羽音にも劣る声が体の内に響く。

 全身全霊を込めてその程度。自分という存在に嫌悪を覚えるほど弱いと自覚したのはこのときが初めてであった。あまりの情けなさに顔を地面へと伏せる。浮かべているであろう情けない表情を誰にも見せない為であった。

 きっと届くことは無い。きっと仮に届いても羽虫のような囁きに意識を傾けることはない。そう考えたとき――

 地面から一定の間隔で伝わって来た振動が止まる。それを感じたとき、弾かれるように面を上げた。

 視線の先、立ち止まった白銀の雷の双眸がこちらへと向けられていた。魂が吸い込まれそうになるほど曇りが無く、あらゆる宝石をもただのくず石へと下げるような瞳、言葉では言い尽くせない美しさに息が止まる。

 やがて興味を無くしたかのように視線を外すとその生物は再び歩き出し、やがて姿が見えなくなった。

 見つめられていた時間はほんの数秒程度。だがたった数秒ではあるがその時間は生涯忘れられない時間であった。

 気が付けばスケッチブックを開き、用紙に鉛筆を走らせていた。この感情をこの想いを一秒でも劣化させないうちに刻み込む為に。流れる血も痛みを訴える傷も何もかもが意識の彼方へと追いやられる。

 真っ白な紙の上に黒の線が絶えることなく走り続ける。周りの音すら聞こえなくなる程に集中しながら、頭に浮かび上がった姿をそのまま腕、手、指先、そして筆先まで通じさせる。

 恐らく十数分もかからずに一枚の絵が完成した。それは最後に見たあの生物の横顔を模したものであったが、出来上がった絵は想像したものと比べ遥かに稚拙で雑なものであった。

 何一つ満足する点が無い一枚目を早々に捲り上げ、すぐに二枚目へと取りかかる。

 一枚目と同じほどの時間で二枚目が出来たが最初に比べて毛程の差が無い。

 それもすぐに捲り上げ三枚目に移る。

 三枚目が終われば四枚目、それが終われば五枚目。描けども描けども理想には追い付かず、描いているうちに視界が滲んでくる。理想に追い付けない自らの画力の無さに涙が出てきた。

 今、このときほど絵が上手くなりたいと心の底から思ったことは無い。

 五枚目が終わり、六枚目に入る。目から大量の涙を流し、悔しさで表情を歪ませながらも走る鉛筆の速度は一向に緩まない。淀むことなく動き続け、一つの像を描き続ける。

 それを何回も繰り返したとき、不意に鉛筆を動かしていた腕が掴まれた。

 思わず掴まれた腕を引っ張ろうとするが、引く相手の方の力が強いのかびくともしない。背後を振り向くと戦いの為の装備一式を纏った複数の人間がおり、自分に対して何かを言っていた。

 内容は分からない。ただ口だけを動かししきりに喋っている様子であったが、声など全く聞こえなかった。このとき、自分の耳があのときの落雷のせいで聞こえなくなっていたことに気付く。集中して周りの音を置き去りにしてしまったかと思ったら全く違い、そんな重大なことに気が回らなかった自分の鈍さを自嘲する。

 その途端、急に視界が狭まってきた。瞼も意志とは関係なく下がってくる。

 もっと沢山の絵を描きたい為にそれに抗おうと意識を保とうとするが、その甲斐も無く火を吹き消すかのように一瞬にして意識が途切れるのであった。

 

 

 ◇

 

 

 次に目が覚めたとき、自分は白いシーツの敷かれたベッドの上で目覚めた。体を起こそうとするが背中から激痛が走り、すぐに中断される。

 すると誰かが自分の顔を覗き込んでくるのに気付く。それは涙で表情を歪めた両親であった。目覚めた自分に何かを言っているが全く聞こえない。

 身振り手振りで両親の声が聞こえないことを伝えると両親はすぐにハッとした表情となり、父が近くに置いてあった紙を手にするとそこに伝えるべき言葉を文字にして書き始める。用意の良さを見るに、聞こえないことは最初から分かっていたらしい。

 書き終えた紙を見せられる。そこには現在の体調について質問する文章が書かれていた。それに対して背中が痛むことと聴力を失ったままであることを伝え、ついでにいつになったら治るのかを聞いた。戻って来た答えは共に一月は掛かるというものであった。

 背中の傷はワードッグの雑菌などに塗れた不潔な爪で裂かれているため、傷口が炎症を起こしているらしく定期的に薬を摂取しなければ化膿し、病気が発生する危険があるという。耳の方も鼓膜が破けてはいるものの完全に機能が破壊された訳では無く、治療を施したので背中の傷とほぼ一緒に回復するらしい。

 治療用の魔法を使用する魔法使いに頼めばもっと早く完治出来るかもしれないという考えが頭を過ぎったが、すぐにそれを消し去る。医者にかかることでさえ大金が掛かる上に自分の家は裕福ではない。

 ついでに両親はあのとき何故ワードッグたちに襲われたかについても説明し始めた。何でも冒険者たちが定期的に行っている駆除から逃れた連中であるらしい。それを聞くと何故あのとき冒険者たちが自分を助けたのか理解出来たし、同時に自分が襲われたのが駆除に対する八つ当たりであることも理解した。

 そのままワードッグたちの無残な死体がある中で一心不乱で絵を描いていたことについて両親が尋ねてくるが、正直あのときをことは誰にも話したくないという独占欲が働いたせいで適当な嘘でその場を誤魔化す。

 そのまま親たちと中身の特に無い会話を続けるもののやがて話が底を付き、会話も沈黙が続くようになった。それを見兼ねて疲れたのでもう眠りたいという意志を両親に伝えるとすぐに了承し、一旦帰宅する準備を始める。

 病室から去る時、両親が何か必要なものはないかと聞いてきた。考える間も無く口から出て来たものは絵を描く為の道具であった。

 

 

 ◇

 

 あれから半年以上の月日が流れた。あのときの傷も完全に治り後遺症も無い。

 あの日以降、外で適当な草花などの風景画を描くことは無くなり同じ絵ばかりを描き続けている。勿論、絵のモデルはあのとき見た輝く生物である。

 何百という絵を描き続けるもどうにも一歩先に進めない状況が続く。試しにキャンバスや絵具などを買い本格的な絵を描いてみたがすぐに駄目だと感じ止めた。色や額をつけた程度であの生物を再現できる筈など無い。そもそも模写をしたいのではなくあの生物の神秘的な美しさを現したいのである。

 今日も目の前の用紙に向かい唸りながら、どうすればあれに近付くことが出来るのかを脳を絞り尽くすようにひたすら熟考する。どれもこれも満足には程遠い絵ばかりであり、自分の進歩が感じられない。

 そのとき遠くから雷の轟音が聞こえてくる。それを聞いた途端、鉛筆やスケッチブックを手に取り一目散に外へと飛び出した。

 見上げる空は曇天。あのときを彷彿とさせる。あの日以降更に加わったものとして今にも雷が落ちそうな日にはあの生物が現れるのではないかと思い、曇天の空が消え去るまでひたすら外を駆け巡ることをしている。

 もう一度あの生物を見れば、もっと完成度の高い絵を描けるのではないかという思いと、この眼であの生物の光を見てみたいという個人的な思いからであった。

 この行動と絵画の為に引き籠る生活のせいで、周囲の人々からは雷に撃たれて頭がおかしくなり奇行に走るようになったと陰口を囁かれるようになったが、最早気にも留めない。

 いつの日か役に立つかと思い、少しずつ貯蓄した金を削りながら眠って起きては絵を描き、疲れたら眠り、天候が悪くなれば外へと駆け出していく日々を続けていく。

 そんな生活をし続け一年以上が過ぎようとしたとき、ある変化があった。

 親以外に自分のことを尋ねてくる人物がいたのだ。その人物は会うなり絵を見せて欲しいとせがんできた。全て失敗作であり特に断る理由も見たらなかったので、描いた絵の一部を見せると何故かその人物は感嘆とした声を洩らす。

 聞くところによると、この人物はとある場所で自分の絵を見て気に入り尋ねて来たと言う。要らない絵を何枚か他人にタダで譲ったことを思い出した。その内の一枚をたまたま見たのであろう。

 その人物はいきなり自分の絵を売ってくれと申し出てきた。思いもよらない言葉と、そして提示された金額に思わず呆然としてしまう。正直な話、自分の視点から見て今まで描いてきた絵にそこまでの価値を見出したことなど無かった。どれもが自分の思い描く理想とは程遠い絵である。

 呆然としているのを渋っていると勘違いしたのか、その人物は延々と自分の絵の良さについて褒め始める。やれ躍動感があるなど、やれ神秘的など、やれ魂が込められているなど、聞いている身としては本当にそう思って言うのか首を傾げてしまうものであったが。

 賞賛の言葉を聞くのにも次第にうんざりし始め、早く絵を描きたいが為に最後まで話を聞くことなく、描いた絵を何枚か適当に見繕って渡し、遠回しにさっさとここから帰るように伝える。

 こちらの気持ちを知ってか知らずかその人物は満面の笑みを浮かべ、絵を手に取り代わりに提示していた額の金を置くとそのまま帰って行った。

 いつか場所が圧迫されるようならば捨てようと思っていた絵が思わぬ形で資金へと変わったことは、嬉しい誤算であった。これで当分、雨水で空腹を満たす心配がなくなる。

 数日後、再びその人物が家へと尋ねてきた。何でもこの間渡した絵が好評であったらしく結構な値で売れ、今日はその内の何割かを持ってきたという。

 その話を聞いたとき、初めは嘘ではないかと疑いの眼差しを向けてしまったが、目の前にその何割かの金を置かれたときは正直声を失った。

 ここで初めて、その人物の身分が画商であることを明かされる。画商が言うには、自分の絵は何十年に一度生まれるか生まれないかの天才的芸術性が秘められているらしい。

 芸術性、あまりに自分と縁の無い言葉で思わず失笑しそうになる。

 画商は、これからも絵を提供してくれれば売り上げの何割かを渡す、という仕事の話を持ちかけてきた。

 食うにも画材を買うにも金が要る。どうせ完成には程遠い失敗作のみを渡すのならば、別に痛くも無い。それどころか処分に困っていたこともあって寧ろそっちの方が助かる。

 画商の言葉を二つ返事で了承した。

 画商は喜び、また来ることを告げて家から去って行く。

 これで当分金稼ぎに時間を割くことは無くなり、今まで以上に絵に集中することが出来る。そういった意味ではあの画商は幸福の使者のように思えた――だが話を聞いているときに一つだけ気に食わないことがあった。

 自分の絵に描かれたあの存在を独自性溢れる存在と評したことだ。まるで架空の存在だと言わんばかり、それどころか作者である自分が生み出したかのように言う。あのときばかりは声を大にして主張したかった。

 

『この生物は実在する』と。

 

 とは言っても心の中ではあの生物の存在を独占したいという感情もある。実在していると言いたいが誰にも知られて欲しくない、自分以外が本物に目を触れて欲しくないという矛盾した欲求。

 己の幼稚性を認識しながら、この悶々とした感情を目の前に置かれた白い紙にぶつける。

 その日の絵はほんの少しだけではあるが、思い描いたものに近付いたように見えた。

 

 

 ◇

 

 

 あれから十年が経った。

 貧困だった生活のときと比べ、今は見違えるほどに裕福な生活をしている。全ては絵に価値がついたからであった。

 この頃から画伯などと呼ばれ始められていた。大層な呼び方に戸惑いを覚える。

 しかし、自分は相変わらず真っ白なキャンバスに向かい合い、曇天の空の時は外へと駆け出すという日々を送り、あの頃と全く変わらない生活をしている。

 金が溜まったから失敗した絵の置き場に困らないように大きな家を買った。余った金は両親に上げた。それでもまだ残った金は広い家を掃除したりするのが面倒なので、身の回りの世話をしてくれる人間を雇った。

 天と地ほどの生活の違い。雨水や野草で飢えをしのいでいたときが遠い過去のように思えてくる。

 だがそれでもあの時見た生物の姿は色褪せることなく記憶の中に刻み込まれており、それを基にあの姿を描く。最初のときと比べれば二歩、三歩ほど理想に近付いたような気がした。しかし、まだ満足には程遠い。

 この頃になると少しではあるが焦りというものを感じ始めてきた。二十代だった自分も今は三十代。時間の有限さをひしひしと感じ取りつつある。

 自分が老い果て、記憶が曖昧になる前に果たして追い求めた絵を描くことが出来るのか。夜寝る前にそんなことを度々考えるようになる。

 どんなものであろうといずれは色褪せて元の輝きを失う。思い出の中に刻まれたこの美しい記憶がいずれ掠れた記憶になることを考えると、恐ろしくてしょうがない。

 だからこそ筆を振るう。不安を拭い去るように、少しでも完成に近づく為に。

 

 

 ◇

 

 

 あれから数十年が経った。

 振るう筆や鉛筆に重みを感じるまでに体が衰えてきた。自分の腕や手を見る度に朽ちる前の枯れ木を連想する。

 そしてこの頃から満足に絵を描くことが出来なくなった。体力の衰えは勿論のことであるが、何よりも若かりし頃に刻まれたあの生物の姿をぼんやりとしか思い出せなくなってきたからだ。

 ある日、キャンバスに向かい合ったとき白い面に筆が触れた瞬間、頭の中に空白が生まれた。自分は今から何を描こうとしているのか、そう考えてしまったのだ。数秒後には描くべきものを思い出したが、今までならばそんなことをせずとも描くことが出来た。

 理想の絵にあと数歩と近付いたときの出来事である。

 最も恐れていた事態。だがどうしようもないことであった。

 そこで絵を描くことを止めた。曖昧な記憶で描いてアレを歪めたくなかったからだ。

 絵を止めても、幸い今まで溜めてきた金のおかげで死ぬまで食うに困ることは無い。

 初めて絵を描くことを止めた日、その日は感覚が狂う程長く退屈であった。これ程までに一日という時間は長かったのかと思う程。

 絵を描いていたときは朝日が昇ると共に絵を描き始め、気付けば日が沈んでいた。それを見る度に一日がもう一時間、二時間長ければと切に願っていた。

 退屈な時間は心を腐らせる。一日描かなかっただけで心身共に朽ちていくような感覚を覚えた。その耐えがたい感覚に翌日にはすぐにキャンバスへと向かい合っていたが、残酷にも筆が動こうとはしない。

 このとき自分の全てが終わったことを悟る。老い過ぎたのだ、何もかもが。

 体から急速に生気が抜け出していくのを実感する。思い描いていた理想には最早届かないという絶望。

 それが自分の心を完全に殺した。

 

 

 ◇

 

 

 あれからどれくらいの月日が経ったであろう。

 画伯や天才などと一時期持て囃された自分も、ベッドの上でただ死を待つくたばり損ないと化していた。

 全てを注いできた絵も描けなくなり、無意味な日々を過ごす余生。妻も子供もいない為、死ぬときは独りであることも決まっている。

 窓から見える外の景色をただ無意味に眺め続ける日々。

 そして時折使用人たちが自分の陰口を囁いているのを聞くことぐらいしかすることがない。もう終わった人、ただの老人、金以外何もない人、そんなことをぼそぼそと囁き合っている。こちらの意識が無いと思って好き勝手言っている様子であったが、生憎意識の方ははっきりとして、まだ耄碌はしていない。いっそのこと何も考えられない程、頭の中身が空になってしまえば楽であったが、そこまでは衰えることはなかった。

 ただ大事な、本当に大事な記憶だけがぼやけた状態。つくづく人生というものは残酷なものを用意する。

 いっそのこと自らの手で自分の人生に幕を下ろすことも考えたが、往生際が悪いものでいつか元に戻るのではないかと根拠の何もない希望を抱き、惰性で今まで生きてきた。

 しかしそれももう終わりが近い。自分でも寿命が近いことを何となくではあるが悟っていた。

 いつもの様に眺める窓の外の景色。曇天の空が広がっている。

 今までの自分ならば真っ先に飛び出していたであろうが、絵を描けなくなってからはそれも自然としなくなった。

 雲の中で青白い雷が篭り、内から照らしているのが見える。今にも落ちてきそうな雷を見ても、それの下に走っていく気力が無い。

 このまま何もせずあの雲が消えるのを待つだけ。

 そう思っていた。

 このときまでは――

 

 閃光。轟音。そしてその狭間に聞こえた微かな嘶く声。

 

 気付けばベッドの上から跳ね起きていた。たった一つの声。それであの日の記憶が蘇る。――否、そんな生易しいものではない、あの日の記憶だけが頭の奥底から抉り出されたような感覚。音、光、匂い、それらが一気に掘り起こされる。

 跳ね起きた次の瞬間にはベッドの側に置いてあったスケッチブックと鉛筆を手に取り、部屋から駆け出していた。途中、何人かの使用人が自分の姿に驚き慌てて止めようとするが、乱暴に振り払って先へと行く。

 寝間着、裸足、そんなことなど構う事無く雷雲の下に向かって走り出す。

 不思議な感覚である。死に掛けていた筈の身体だったのに、今は信じられない程の活力に満ちている。現にこれほどまでに力強く走れている。

 全てはあの声を聞いたせいである。もしかしたら自分が朽ちる前に聞いた都合のいい幻聴だったかもしれない。だが構うことは無かった。どうせは尽きる命、無駄であったとしても最期に馬鹿の一つでもやって散らせた方が清々しく終われる。

 走る、走る。全力で走る。風を切るように走る。不思議と疲労も息苦しさもしない。だからこそ全力で走り続けることが出来た。

 街を抜け、人道を抜け、森を抜ける。

 やがて走り続けていた足が止まる。もう走れなくなったからではない。探すべきものがそこにあったからだ。

 雷雲の下、そこに居たのはあの日から寸分も変わらなく同じ輝きを放つあの生物。あの全ての穢れを浄化する様な光も銀糸のような鬣も言葉に現せられないぐらいに整った美しさも、何一つ変わっていない。

 一目見ただけで失われた筈の記憶が掘り起こされ、そして未だ翳りの無い存在であることに双眸から知らず知らずうちに涙が零れてきた。

 気付けばしゃがみ込み、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。今なら描ける、本当に描きたかった絵が描けるという確信があった。

 鉛筆を走らせる度に高揚感が増していく。まるであの日まで若返ったような感覚であった。

 蘇る。蘇る。鼓動が、命が、魂が。

 絵を描きながらも、あの生物がこちらに近付いてきていることを察する。相手が何をするか理解しつつも、その場から離れようとはせず、今まで止まっていた時を加速させるようにひたすら腕を動かす。

 あと十分、いやあと五分、いや三分ほどの猶予が欲しい。その間までに生涯で最高の一枚を完成させる。

 紅い目と自分の目が合う。それだけで相手がこちらをそこらの石程度にしか思っていないことが分かるが、それで結構であった。

 あれほどの生物が自分のような矮小な存在にそれ以上の意を向ける必要は無い。それでこそ超越した存在の証である。

 迫る距離が、残された絵に費やせる時間と命の刻限。刹那とも言える時間の中で己の全てを一枚の絵に描き起こす。

 やがて眼前にその生物が立つ。近付くだけで肌が焼けるような存在感。だが今は恐怖よりも歓喜の方が優っていた。

 あれほど焦がれた存在が手に届く距離まで来ている。

 それと時を同じくして、白紙の上を走らせていた鉛筆の動きも止まる。完成した絵を見て頷く。

 生涯最後の絵。それは初めてこの生物を描いたときと意図せず同じ構図であった。だがその完成度は比べものにならない。

 

 ようやく――ようやく追いつくことが出来たかな。

 

 密かに満足するとスケッチブックを閉じ、遠く離れた場所に向けて放る。折角出来た絵である、あの世まで持っていくのは忍びない。

 生物の青白い光が輝きを増していく。これから何をするのか考えなくても分かる。

 

「ならせめて」

 

 記憶の中に焼き付いて離れることの無い光。それに老い、朽ちた手を伸ばす。

 

「その光に――」

 

 

 ◇

 

 

 ある国に一人の高名な画伯がいた。

 その画伯は変わりものとして有名であり生涯たった一つの絵を描き続け、曇天のときには嬉々とした様子で外へ出かけるという奇行もあった。

 しかし晩年体調を崩し全く絵を描くことが無くなったが、ある日雷が鳴り響く空の時に突如として家を飛び出し、そのまま行方をくらませてしまった。

 必死に捜索をしたが見つかることは無く、唯一見つけることが出来たのは画伯が愛用していたスケッチブックのみ。

 画伯が最期に描いた一枚。それは鉛筆のみで描かれたものであったが、どういった訳か見る者全てがその絵が光を放つような錯覚を覚えるという。

 鬣を持ち雄々しくも美しく命に満ち溢れた生物。画伯が一生を掛けて描き続けたもの。

 誰かは言う。

 きっと画伯はこの生き物の下へと旅立ったのだと。

 そして旅立った画伯はきっと幸せだっただろう。そうじゃなければこんな絵を描くことなんて出来ないから。

 だってこんなにもこの生き物のことを愛おしく思っているのだから。

 

 

 




キリンさんが好きです。でもキリン装備の方がもっと好きです。
今回の話は初期に考えていたものを形にしてみました。初めはこんな風に一話完結で登場人物に名前など一切ない感じの話でした。
設定的には国や時系列が全く異なるというもので書いています。
連続した話がメインストーリーならこういった話はサブストーリーでサブはこんな形で書いていきたいと思っています。


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見通す者と崩すモノ

「どうやら彼はいい餌になってくれたみたいですねぇ」

 

 機嫌の良さそうな表情を浮かべながら、エムは開かれている地図の海の箇所へと赤い×印を描く。それをソファに座るエヌが見ていたが、エヌの表情はエムとは違い露骨な不快感が現れていた。

 

「てめぇのことだからその場所を選んだ理由があると思っていたが……そこに『アレ』の同類が潜んでいるんだったら最初から言っておけ」

 

 慇懃無礼な口調を捨て、乱暴な話し方をするエヌ。彼を少しでも知るものであったならばその態度に瞠目するであろうが、この喋り方こそがエヌ本来のものである。尤も彼の本性を知る者は片手で数える程しか存在しない。

 

「いやいや。情報を扱う者としては不確かなものを兄さんやエクス様に教える訳にはいかないよ。今回は結構強固に情報が守られていたからね。まあ、自慢の軍艦を数隻喪失、それもたった一匹にやられた、なーんてこと他所には知られたくないよね。面子に関わるし。しかし、彼も最後の最後で非常に役立ってくれたね」

 

 兄の乱暴な言葉も簡単に受け流し、今回の件で亡くなった貴族へ賞賛の言葉を向けるが形だけの褒め言葉であり、それ故に感情が込められていないことが浮き彫りとなる。

 

「何が役に立っただ。とんでもない置き土産を置いていきやがった奴に褒める言葉なんざ必要ねぇ」

「あはははは。死んだ人間を悪く言うのはどうだろう?」

「死ねば全てチャラになるっているんだったら後十数回は死んでも貰わないと割にあわねぇよ。チッ! せいぜいアイツの残した財産は有効活用させて貰うさ。遺族に支払う金にギルドの資金や俺の金を使うなんて馬鹿馬鹿しいからな」

「兄さんは金銭関連には厳しいねぇ」

「わざわざ尻拭いをしてやろうとしてんだ、文句なんて誰にも言わせねぇよ。本当なら、幹部会で吊し上げて二度とこんなことが起きないように見せしめにしてやる予定だったんだがな、尻尾の振り方を忘れて生意気にもこっちの言うことを無視した犬がどうなるかってやつをよ。……どっかの誰かさんのおかげで御破算したがな」

「要らない手間を省いただけさ。どうせ遅かれ早かれギルドから離れる人材だったし」

 

 エヌの不快感。自分たちに対し隠し事をしていただけでなく自分の思惑から外れることをされたことも含まれていたが、エムはしれっとした表情で言葉を返す。互いに顔付きが変わることはなかったが、場に漂う空気に重みと熱が混ざり始めていた。

 

「そこまでですよ」

 

 しかしそこに介入するエクスの声に、場の空気は瞬時に払拭される。

 

「先のことを真剣に考えてくれるのは嬉しいですが、それで仲違いしてしまえば元も子もありませんよ」

 

 穏やかな声は風に揺れる大樹の葉々が擦れ合うような心地よさを感じさせる。互いに本格的に熱が入る前に止められたことで急速に頭が冷えてきたらしく、エヌはバツの悪そうな顔となり、エムはエクスに頭を軽く下げた。

 

「色々と申し訳ございません。エクス様まで欺くような真似をしてしまい」

 

 このとき顔を背けていたエヌが小声で『俺ならいいのかよ』と愚痴る。

 

「いえいえ。エム君は昔から聡明な子でしたからね。きっと多くのことを考えた結果が今回の選択なのでしょう。エヌ君もきちんと話せば分かってくれますよ。――しかし彼には申し訳ないことをしましたね」

「その言葉感謝致します。まあ、必要な犠牲ですよ。これまで消えていった命の中にまた一つ加わるだけのこと。エクス様にそう思われるだけでもあの貴族も地獄で報われた気持ちになりますよ――あと申し訳ないのですができれば君付けは止めてください。僕もそれなりの年齢になるので……」

「ふふふふ。すみません。どうにも昔からの呼び癖は中々抜けない」

「……それでこれが今の『奴ら』の取り敢えずの住処でいいんだな?」

 

 エクスの一言で毒気が抜けたのか、まだ顔は顰めているもののエヌは話を先に進める。

 

「情報と『あの人』の言葉が正しいのなら、これで間違いないと思いますよ」

 

 エムの前に広げられた地図には、先程描かれた×印以外にも既に何箇所か印が描かれていた。とある孤島に一つ、とある砂漠に一つ、そして惨劇のあったナナ森にも×が描かれている。

 

「それなりの時間と人員を割いて分かったのはこの程度ですけどね。言い方は悪いですが正直な所、ナナ森での一件は、僕からしたらあの程度の犠牲でかなりの成果を持ち帰って来たと評したいな。前に編成したときはベテランが二十以上死んで、得られた成果が鱗一枚だけですからね。今回は本当に運がいい」

「俺らがそう思っても周りは納得しねぇよ。特にあのワイトは、な。けっ、俺らと同じで『奴ら』の怖さを知っている筈なのにな」

「あの人は良い人ですからねー。こっちの世界にはあまり向かない人ですけど、仕事を抜きにしたらお友達になりたいと思っているんですけど。僕、あの人をモデルにした小説を愛読しているんで」

 

 表向きは敵対的な態度をとっているものの、内心ではかなり高い評価をしている二人。その評価には彼らにしか理解出来ないある事情が含まれていた。

 

「……いい加減あの人をこちら側に招いてもいいんじゃないですか? あの人の人望はこっちにとっても有り難いものですし。――何より表向きとは言え相対する態度を取り続けるのは、僕らにとってあまり好ましいことではりませんし」

 

 エムの言葉にエヌは背けていた顔を向ける。その顔に険しさは抜けていたが、代わりに触れれば裂けてしまいそうな鋭さを持った冷徹な表情が露わになっていた。

 

「まだ早い。確かにあーだこーだと喚きあっているのは疲れるし鬱陶しいが、引き入れるには時期尚早だ。こっち側なんていつ沈むか分からない泥船だからな」

「私もエヌ君の意見に賛同します。我々は未だに全貌を掴んではいません。確かに彼の能力は魅力的ですが、このまま招いたとしてもその能力を十全に発揮できる環境は整ってはいません。高い能力の者を飼い殺しにする訳にはいきませんからね」

 

 エクスとエヌの言葉を聞き、エムは残念といった様子で肩を竦める。ただ二人に反論をしなかったことを見るに彼自身あくまで希望を述べただけに過ぎず、却下されることを前提に話したようであった。

 

「仮にこっち側のことを教えるにしても、彼奴が『アレ』を見つけるまでは教えることは出来んな」

「『アレ』……本当にあるんでしょうか? それを手に入れる為にわざわざここにいくなんて……」

 

 エムは地図に描かれたある地点に目を落とす。そこには他に箇所と同じ×の字が描かれている。

 

「ま、彼奴の目を信じろ、としか言えないな」

 

 

 

 

 同時刻。マガン雪山。

 周囲一帯が氷に包まれた山に囲まれ、春夏秋冬関係なく一年中零を下回る気温を保ち続ける氷の世界。そこで生息する動物は少なく、同時にその地方に住む人々も少ない。故にここは殆どが未開の地と化していた。

 そんな未開の地で、何層にも重なった氷の上に薄く雪が積もった雪原の真ん中で、一人の男が立っていた。見た目はおよそ三十代半ば。およそと曖昧な表現が入るのは、男の格好に問題があるからである。顔の上半分が、目の部分に色付きのレンズが嵌められた白の面で隠されているからである。更に男は凍死してしまうかもしれない気温の中で普通の衣服の上に白衣のみを纏うという、奇抜さと常軌を逸した格好が同居している。しかし、どういった訳かそんな薄着にも関わらず男は身震い一つもせず、そして低温の中であるのに吐く息が白くない。男は足下の雪の感触を確かめるように二度、三度踏み締め、そして――

 

「全く以ってクソつまらん景色だ」

 

 目の前に広がる景色に悪態を吐いた。

 

「何だ何だ何だ目の前に広がるこの光景は! 白! 白! 白! 代わり映えのしない白ばかりだ! つまらな過ぎて目が腐りそうだ! おまけに動物の一匹すら見つからない! つまらんところだと思っていたが実際に来てみると本当につまらん場所だなここは! 退屈過ぎて吐きそうだ!」

 

 悪態に悪態を重ね、物言わぬ自然を罵倒する。息吐く暇無く捲くしたてる男性の背後から、複数の足音が聞こえてきた。

 

「申し訳ないが勝手な行動は慎んでくれないか?」

 

 現れた男たちは全員共通した防寒用の帽子を被り厚手の白いコートを纏い、腰には柄の部分に印章が刻まれた剣を携えている。その内の一番年上の男がやや苛立った様子で白衣の男の行動を咎めた。

 

「すまないすまない。だがこんな阿呆みたいに同じ景色が連なる場所を歩いていると、いい加減嫌気が差してくるのでね。ついつい気分転換をしたくなるのだよ。君らは嫌気を覚えないのかい?」

「……その阿呆みたいな景色が見えるこの地こそ我々の故郷ですので」

「失敬失敬。そう言えばそうだった。君らの祖先も物好きだ――あるいは被虐嗜好が有るのかな?」

 

 悪びれた様子も無い白衣の男の態度に、白コートたちから殺気立った気配が湧く。誰もが白衣の男に対し憎々しげな眼差しと嫌悪の感情を向ける。しかし白衣の男はそんな情を向けられても口の端を吊り上げて笑う。排他的な感情に鈍感なのではなく、分かっていての行動であった。

 

「ヴィヴィ殿。些か口が――」

「すまないが名を呼ぶときは後に『先生』と付けてくれないか? そう呼ばれるのが好きなのだよ私は」

 

 呼び方を強要する白衣の男ことヴィヴィに、男たちは更に苛立ちを募らせる。

 

「……ヴィヴィ先生殿。改めて言わせてもらうが……」

「にしても本当に殺風景だなここは、彩が少ないとこうも心がささくれそうになるのか。他の連中を連れてこなくて正解だったな。ギルドの荒くれ者たちはただでさえ心がささくれている所か、腐っているような連中ばかりだからな。その点君らのような清廉潔白を体現したような兵士たちが護衛だと私も心強い。ああ、本当にあのとき心底くっだらないことで揉めてこのような形になって正解だった」

 

 会話を膨大な会話で遮り自分勝手に言葉を並べて行く。その中には自分を囲む男達――兵士――への皮肉や嫌味が込められていた。好感を覚えさせる気など微塵も無く、下手をすれば腰に差した剣に手を伸ばされてもおかしくはない言動である。

 

「……ここは我々の土地です。如何に貴方方の権力が強大なものであったとしても誰もかれもが好んで尻尾を振る訳では無い」

 

 ヴィヴィや兵士の代表が言っているように、本来ならばこの場所に来ていたのはヴィヴィと彼が連れて来たギルドの冒険者たちであった。他国に大勢の人間を連れ、しかも事情も詳しく教えない内密状態で勝手に調査をするという横暴極まりない行為をこの地でする筈であり、ソレに目を瞑るようにこの国の権力者の何人かの袖にそれなりの金品を送り込んでいた。だがいざこの国へと着くと思わぬ事態が発生する。国直属の兵士たちが監視の為に派遣されたのである。

 黙認される予定であったのにそれを裏切る行為。すぐに金を渡した連中へと連絡を試みたが返ってきたのは知らぬ存ぜぬといった回答であり、あろうことか賄賂を贈られたことにすらシラを切ってきたのである。

 この事態にヴィヴィはある推測を立てた。恐らくは金を貰った権力者のうちの誰かがこのことを洩らした。それを咎められたが賄賂を受け取ったことを見逃すとでも言われて洗い浚い情報を吐いたと思われる。罪に問われず、金も入るという浅はかな思考の末の行動。

 金を送るならばもっと悪知恵が働かない程頭の中身が空な奴にすれば良かったと、このときヴィヴィは後悔するのであった。

 だからといって仕事を放棄する訳にも行かず、そこでヴィヴィはある行動にでる。それは連れて来た冒険者たちを見逃してくれるならばそれ相応の礼を支払うというもの。時間を掛ければもっと別の方法をとるのであったが、とある事情であまり時間を掛けることが出来ないため、手っ取り早い方法を選択した。

 当然ながら兵士側に反発が起こる。何故自分たちが得体の知れない連中に手を貸さねばならないのかと、しかしそこは兵士に対し破格とも言える報酬を支払うというかなり強引な手段をとったのである。

 金に糸目を付けない方法。それに対し国側は金では無くそこまで必死になって探す対象の方に興味を持ち、一体何を探すのか調査することを決断した。

 国側は冒険者たちの自由な行動を禁ずることを止めなかったが、代わりに同じ数の兵士たちを同行させることを提案する。

 それを聞いた時点で相手の思惑を察したヴィヴィであったが、拒否せずにそれを承諾した。だがそのとき二つの条件を提示する。

 一つは代表者である自分が先導すること。そしてもう一つの条件は――

 ザクザクと雪を踏み締める音が兵士たちの背後から聞こえてくる。

 ただの足音。にも関わらずその音は重く、意識せずとも足音の持ち主に注意を向けさせるあるものが含まれていた。

 そのあるものとは威圧、あるいは本能的な恐怖。聞く者誰もが足音の持ち主からそれを感じ取っていた。

 最後尾から姿を見せたのは短く刈り揃えられた白髪の頭髪、そして口の周りを覆う長い白髭をたくわえた初老の男性であった。これだけならば誰も危機感など覚えはしなかったが、その初老の男性は見上げる程の巨漢の持ち主であった。

 少なく見積もっても二メートルはあろう身長。しかも体が長いのではなく大きい。全身に防寒用の毛皮の衣服を纏っている為に通常よりも大柄に見えるが、それでも子供の胴体ほどの太さだと見て分かる腕や脚。脂肪などの肥満による膨張では無く、明らかに研鑽によって積まれた筋肉による膨らみであった。

 そして何よりも目に付くのが彼の背負っている物体。自分の身長と変わらない長さを持ち横幅も人の胴体程ある筒状の物体。全体を白い布で巻かれている為、詳細は分からないが一見するだけで異様だと分かる。

 彼こそがもう一つの条件として同行を許可された人物であり、唯一ギルドの冒険者ではないという。その老いを全く感じさせない直立的な姿勢から、兵士たちは同じ軍出身の人物ではないかと推測していた。

 老人は目の前の揉め事にも口を挟まず黙ってその場にいる。兵士たちも最初に出会ったときから一度も彼の声を聞いてはいない。不気味なまでに寡黙であり名すらもヴィヴィから間接的に聞いたぐらいである。

 

「ディネブ殿もここで突っ立って喋っていないでさっさと先に行けと催促している。文句は後でまとめて聞くので先に行きましょう? 君らもこの先に何があるのか知りたいんだろう?」

 

 発作的に殴り飛ばしたくなる程の底意地の悪い笑みを浮かべ、兵士たちが何か言うよりも先に振り返って先へと進む。その態度に何人もの兵士が奥歯を噛み締めたり、拳を強く握ったりしていたが直接的な行動には移らず大人しくその後を追う。

 元より勝手に国に入ってきたことで印象など良くは無かったが、出発前に彼が言った――

 

『自分の命は自分で守りましょう。私も私の命を最優先で護るので。例え君らが目の前で死ぬことがあったとしても助けるつもりは無いので淡い期待は持たないでくれるね』

 

――という台詞で底辺まで落ちている。

 数々の敵意と殺気を受けながらも、鼻唄を唄う余裕を見せながらヴィヴィは雪原を進んで行く。

 上り下り。段差。亀裂。道中で行く手を妨げる困難な障害。この地に住み、日頃から鍛錬をしている兵士たちですら疲労を覚えるものであったが、筋骨隆々としたディネブはともかくとして痩身のヴィヴィは鼻唄を絶やすことなく軽々とした足取りでそれらを余裕で踏破していく。それは明らかに異常な姿であった。

 しかし兵士たちも誇りからか、弱音や愚痴などを洩らさずひたすら黙々とヴィヴィの後を追い続けて行く。

 だが追って行く内に兵士たちの胸中である疑問が湧いてきた。出発前に目指す地点を知らされていたが、距離を考えるとそろそろ中間地点を通り過ぎる筈であるが、地図で確認した目印となる山が見当たらない。前に進んでいるが明らかに最短距離ではなく、遠回りをする道を選んでいる。

 そのことに兵士たちは不信感を覚えていた。

 食糧などは十分に持ってきているが、悪戯に体力を消耗させるようなことをさせるヴィヴィに対し理由を問おうかと兵士長が声を掛けようとしたとき、ヴィヴィは急に鼻唄を唄うのを止め振り返る。

 急なことに兵士たちも驚くが、ヴィヴィの眼中には兵士たちの姿は無く、何処か遠くをみつめ口の端を不愉快そうに歪める。

 

「鬱陶しいな……」

 

 ぼそりと呟く言葉。そこには陽気など無く苛立ちが込められている。兵士たちも気になってヴィヴィが向いている方向に目を向けるも、そこには何もなく白い大地が広がるのみ。

 見ればディネブもまたヴィヴィと同じ方向を向いている。しばらく視線を左右に向けた後、ヴィヴィの方を見た。

 

「取り敢えずはほっときましょう。あれらと戯れるのが私たちの仕事じゃない」

 

 口を真一文字に固く結んだ無表情だというのに言いたいことが分かるらしく、間違っていないのかそれを聞いたディネブは視線を伏せた。

 

「一体どうしたのいうのですか?」

「大したことはないんですがね。ちょいとばっかし気になったもので。あ、別に気にしなくてもいいですよ。今の段階では実害はないので」

 

 それ以上は語るつもりは無いらしく、すぐに反転すると先程よりもやや歩調を早めて動き始めた。

 明らかに何かあったのだと分かるが、説明する気が相手にないので追及も出来ない。兵士たちはもう一度ヴィヴィたちが見ていた方角を見るが、雪の白さが見えるだけで何も分からなかった。

 仕方なく兵士たちはヴィヴィの後を付いて行く。

 ヴィヴィたちが去って間も無くした頃、ヴィヴィとディネブが見ていた白い大地に変化があった。積もる雪が隆起し、ヴィヴィたちの追って雪を盛り上がらせながら先へと進んで行く。

 その数は一つでは無く、複数であった。

 

 

 

 

 両脇にそびえ立つ山壁。ようやく目的地まで残り半分という場所に到達した。かなり迂回したルートで来たせいもあり、兵士たちに多少の疲労が見える。しかし、それでも弱音一つ洩らさない辺りを見ると精神的な屈強さが垣間見える。

 そのとき前方を歩く足音が止まる。釣られて兵士たちの足も止まった。

 声を掛けず立ち止まったヴィヴィ。休憩でもとるのかという考えが一瞬脳裏を過ぎるが、すぐにその考えは消え去った。短い時間しか一緒に行動していないが、少なくともヴィヴィという男は他人を気遣うような性格ではない。そしてなにより、立ち止まるヴィヴィからは声を掛けることすら躊躇われる程の刺々しい気配が撒かれていた。

 

「脅しも効果なしか……仕方ないな」

 

 呟くヴィヴィから殺気染みた気配が消失する。意図して放っていたらしい。

 

「剣、抜いた方がいいですよ」

「……何ですと?」

「ここで一戦交えますんで」

 

 何気なく言われた言葉に兵士たち全体に緊張が走る。

 柄に手を添えたまま前を見るが敵の姿は無い。後ろを見るがこちらにも敵の姿は無い。

 ならば何処から来るのか。その答えは――

 かつんという音を立て小さな氷の塊が壁の上から転がり落ちる。

 見上げた兵士たちが見たものは自分たちに向かって飛び掛かる複数の影であった。

 

「回避ぃぃ!」

 

 兵士長の声に、考えるよりも先に訓練で体に染みつかせた動きが兵士たちの身体を突き動かす。ある者は転がるようにしてその場から離れ、ある者は地面に体を投げ出すようにして避ける。

 全員が影の落下地点から逃げのびた直後、影たちの着地と共に積もっていた雪が水柱のように舞い上がる。

 

「抜剣!」

 

 号令に合わせ兵士たちは一斉に剣を抜く。この速やかな行動が兵士たちの命を繋げるものとなる。

 甲高い声を上げ、舞う雪を突き破りながら姿を見せる襲撃者。

 全身を白い体毛で覆い、顔に青、橙といった皮膚の色を持った猿に似た生物。それらが牙を剥き出しにし爪を掲げながら、自分たちから見て一番近い位置にいた兵士へと襲いかかった。

 

「おおおおお!」

 

 雄叫びを上げ、剣を構える兵士。それに怯える事無く白い猿は兵士の喉を狙って爪を振るう。それをとっさに剣の腹で受け止めるが、人並みの大きさを持つ白い猿の一撃は予想を上回る程に重く、両腕で受け止めることが精一杯であった。

 突進の勢いで押し倒される兵士。その間に白い猿は大きく口を開き、その鋭歯を兵士の喉元に突き刺そうとするが、その前に助けに入ったもう一人の兵士が馬乗りになっている白い猿の胴体に横薙ぎの一撃を叩き込んだ。しかし刃は喰い込むものの猿の体毛によって斬り裂くには至らず、結果として鈍器で殴りつけたような状態となってしまう。

 白い猿は苦しそうな叫びを上げて乗っかっていた兵士の上から飛び退く。

 窮地に追い込まれているのはこの兵士だけではなく、他の兵士たちもそれぞれ白い猿に襲われていた。だが幸いにも兵士たちの数が上回っている為に、一匹に対し複数で当たれる為に少し押されているものの怪我人はいなかった。

 しかし――

 

「くぅぅぅ!」

 

 数が優っていても当然の如く援護が間に合わない兵士も居る。奇襲を受けた際、最初の一撃は剣で防げたもののそこから腹部を蹴り飛ばされ、雪の上を滑り転がる。その拍子に握っていた剣が手から抜けてしまい戦う術も失ってしまう。

 何とか立ち上がろうとする兵士。そこを猿が追撃と言わんばかりに大口を開いて襲い掛かってくる。

 駄目だ。そう思った次の時、大口を開いた猿の口の中に白い物体が叩き込まれた。口の大きさよりも大きなそれを突き込まれた猿は歯が殆どへし折られ、衝撃で外れたらしく下顎がだらりと下がる。

 兵士が振り向くと背後には無言で立つディネブがおり、背中に担いでいた白い筒状の物体をあろうことか片手で軽々と突き出していた。

 その状態から猿の口に突っ込んであった筒を抜く。赤い血の糸を引き折れた歯を撒き散らしながら抜かれた筒を持ち上げると、痛みに悶える猿の脳天に躊躇なく叩きつける。

 重さと振るわれた勢いによって生まれた威力を叩きつけられた猿の頭は容易く割れ、その中身を外へとはみ出させるがそれでも破壊は止まらず、上からの圧力によって猿の眼球は飛出し、首は胴体の中へと押し込まれる。叩きつけた筒を持ち上げると、そこには頭が胴体に完全に沈み込み胴体の一部となったかのような死体があった。

 ディネブは撲殺した猿の死体に目もくれず、筒に巻かれている布を取り外す。猿の血と脳漿で汚れた布の下から現れたのは、果たして武器と呼称していいのか疑問を抱かざるを得ないものであった。

 布に巻かれた状態でも筒状のものであると分かっていたが、いざ布を取り外すと出てきたのはまさに大砲の筒そのものであった。

 全体は鉛色であり、大砲の側面と後部に持つための握りが備わっている。そして砲門の上下には挟むようにして折り畳まれた物体。ディネブが握りの部分を掴むと折り畳まれた部分が展開し、銀色に輝く刃が現れた。銃剣ならぬ砲剣とも言うべき装備である。

 ディネブは展開した武器を構えると、視線だけを動かし最初の狙いを定める。

 灰色の瞳に映る獲物は、二人の兵士に乗り掛かり何度も爪を突き立てている猿。二人の兵士も懸命に剣や腕に装備された籠手などで防いでいるものの、突破されるのは時間の問題であった。

 ディネブは後部に備えられた握りを持つ右腕を振り上げる。下から掬い上げるような形となった砲剣。そして左足を前に一歩踏み出し体の右半身を引くような構えをとった。

 大きく息を吸い、噴煙を彷彿とさせるような白い息を吐き出すと、衣服越しでも分かる程に両脚の筋肉が膨張する。

 溜め込まれた力。それが対象に向かって一気に爆発する。

 地を蹴り飛ばす右足。それによって積もる雪が爆ぜるようにして飛び散る。疾走する巨躯は瞬く間に最高速へと達すると勢いを全く殺さず、乗り掛かっていた猿の胴体目掛け刃の先端を突き立てた。

 猿の脇腹に埋め込まれた刃はいとも容易く反対側にまで貫通する。兵士たちですら刃を突き立てることが出来なかった体毛の鎧など、まるで無いかのように。

 貫いた刃もディネブもそれだけでは止まらず、更にもう一匹の猿を狙う。仲間の悲痛な叫びを聞いていた別の猿は兵士に攻撃を加えるのを止め、素早く距離をとろうとするがそれを上回る二歩目の加速が間を広げる所か縮め、逃げる暇すら与えずにその猿の脇腹に刃を捩じり込む。二匹の猿の悲鳴が重なり、白い平原にこだまするもディネブは眉一つ動かすことはない。

 二匹を貫いたままディネブは砲剣を真上に掲げる。猿は人と変わらない体格をしている為、少なく見積もっても数十キロはあり更に砲剣の重さを加えるならば百キロは超えている。にも関わらず持ち上げるディネブの身体は芯が一切ずれず真っ直ぐとしており、大地に根を生やしているのではないかと思える程ふらつかない。

 その体勢でディネブは大きく息を吸い込む。ただの呼吸である筈が周りの全ての空気が吸い込まれているのではないかと錯覚を覚えてしまう。

 それに呼応するかのように鉛色の砲身にも変化があった。砲身に白色の文字が無数に現れる。最初から刻まれていたものらしく、血管を流れる血液のように下から砲口に掛けて次々と文字が浮かび上がっていく。

 それが砲口まで辿り着いたとき、砲口から白色の光が漏れ出したかと思えば吹き付ける風を思わせる音が砲口から響き、白色の光が発射された。

 離れていた兵士たちの顔に雪国ではありえない温かい風が当たってくる、それは白色の光が放出する熱による余波であった。

 近くにいなくても感じる熱。それを直に浴びせられている猿たちはどうなったのか。

 その答えは雪の上に落下する複数の音が示していた。

 雪の上に転がる猿たち。しかしその身体が上半身と下半身が分かれた状態であった。高熱によって焼き斬られた切断面は完全に炭化しており、零れる血も内臓も無い。そのせいか地面に仰向けに倒れる猿たちは意識があるのか、瞬きや手を動かすなどしていたが、間もなくしてそれも出来なくなり絶命した。

 残酷とも言える所業。しかしそれを行ったディネブは眉一つ動かさない。最初から最後まで同じ表情のまま淡々と殺害を行っていた。

 場に漂う焼けた肉の薫り。それに敏感に反応するは猿たち。仲間を殺されたという情報の伝播が彼らに動揺と隙を生み出す。

 

「はああああ!」

 

 動きが鈍くなった猿に突進し地面へと押し倒す兵士。すぐにそこへ二、三人の兵士たちが駆け寄り剣を構えると、刃が刺さり難い胴体ではなく毛に覆われていない顔面に向けて一声に剣を振り下ろした。

 眼球、額、口など脆い部分に剣は刺さる。だが猿たちを侮らない兵士たちはそれで殺したとは考えず、剣を素早く抜くと再び剣を突き下ろす。

 傍から見れば残酷と言える光景であるが、生き抜こうとしている兵士たちにとって格好を気に掛ける余裕など無かった。事実、似たような姿があちらこちらで繰り広げられている。

 誰もが鬼気迫る形相で敵を排除していく中、ヴィヴィだけが身構えることも身を隠すこともせず顎に指を当てた姿で一人棒立ちしていた。

 その視線は襲ってきた猿たちに向けられ何かぶつぶつと呟いている。

 

「ブヤンゴ? ……いやドュリャンゴか? ……ブラングォ?」

 

 名らしきものを何度も呟くが、どれもしっくり来ないのか呟く度に首を傾げている。

 そんな無防備状態のヴィヴィを敵が放っておくわけも無く、一匹の猿がヴィヴィへと狙いを付け、牽制の為か手慣れた動きで地面の雪を掬い取り、それを握り締めて手の中で玉にするとヴィヴィに向けて投げ放つ。

 並外れた腕力で投擲された雪玉は、一直線でヴィヴィへと向かう。しかしヴィヴィの目には雪玉など入ってはおらず、ひたすら他の猿たちに向けられていた。

 雪玉が直撃する。そう思われた瞬間、ヴィヴィは視界を固定したまま首だけを動かしそれをあっさりと回避してみせた。

 

「うーむ……いまいち判り辛い……」

 

 まさに眼中に無いといった態度を取り続けるヴィヴィに対し、先程雪玉を投げつけた猿が今度は爪を振りかざしながら駆け寄ってくる。

 雪玉が当たらないならば直接攻撃を加えるまでといった考えからの行動。殺気立った様子で接近する猿にヴィヴィは未だに棒立ちを続けている。

 地を走る猿が間合いまで近寄り、ヴィヴィに飛び掛かろうとした瞬間、初めてヴィヴィの視線がその猿へと向けられる。仮面越しから浴びせられる視線。それを受けた猿はどういった訳か飛び掛かることはせず、その場で転び勢いのまま地面を滑って行く。

 数メートル程滑ってから猿は止まるが、猿は飛び掛かろうとした体勢のまま固まっており、動けないのか体を細かく震わせていた。

 

「ふぅ……ふぅ……一体何なのだ。こいつらは……」

 

 兵士長が荒い息を吐き額から汗を流しながら、猿に突き刺していた剣を引き抜く。既に残りの猿たちも兵士たちによって狩られていた。兵士長は戦い終えた兵士たちを見回す、細かい傷を受けたものは居るが動けない程の大怪我を負ったものはいない。数で優っていたことが幸いした結果であった。

 

「運が良かったな」

 

 戦いに不参加であったヴィヴィは笑いながら兵士長へと話しかける。その手には痙攣して動けない猿が掴まれていた。

 

「こいつらは本来ボス猿を中心にして動くみたいだが、そのボスとは離れてここに来たみたいだ。道理で判断と動きが悪い訳だ」

「……この獣のことをご存じで? 私たちは初めて見ますが……」

「いや、私も初めて見るよ。――だが私には分かるのだよ」

 

 仮面に填め込まれたレンズが光を反射し、きらりと光る。

 

「名はブヤンゴ、ドュリャンゴ、ブラングォのどれかだろうな。はっきりとは断定出来ないがどれかが近い筈だ。ここの気候と近い所に生息していたみたいだ」

 

 分かるといった割には曖昧な表現が混ざっている。

 

「はっきりとは分からないのですか?」

「済まないが無理だ。何せあっちの言葉はよく分からないからね」

 

 あっちという言葉に兵士長は怪訝そうな表情をする。ヴィヴィの言葉が正しいのならばこの猿たちは別の場所からここに住みついたということとなる。

 

「ああ、それと誰かこの猿を運んでくれないか? 研究用に役立つと思ったのでね。なぁーに、少なくともこの仕事が終わるまで動きはしないさ」

 

 そう言って猿を突き出す。それを見た兵士たちは誰もが嫌そうな表情をした。ついさっきまで殺し合いをしていた獣など運びたいとは思わない。

 動こうとはしない兵士たち。すると兵士たちを割って無言でディネブが近付いてきた。

 

「おー、流石ディネブ殿。やはり頼り――」

 

 そこまで言い掛け、ヴィヴィの言葉が止まる。同時に掴んでいた手が離され猿が地面へと落ちた。

 ヴィヴィの反応にディネブもまた背中に背負う砲剣に手を伸ばす。

 

「なんてこった……」

 

 声を洩らすヴィヴィ。その表情には明らかに焦りが見えた。

 ヴィヴィは一気に振り返るとその場から駆け出す。ディネブもまた何も言わずその後を追う。

 

「な! お待ちを!」

 

 いきなりの行動に兵士たちも驚くがすぐにその後を追って走り始めた。

 

「一体、一体何があったんですか!」

 

 走りながら叫ぶ兵士長。

 

「死にたくなければとっとと走れ! 少なくともあそこに生えている木よりも前に行けぇぇぇ!」

 

 指し示した方向には一本の枯れ木が立っている。余裕に満ちた声では無く必死な声での指示。その豹変に兵士たちの中に動揺が生まれる。

 

「あー、何てことだ! 折角会わないように道を選んできたのに! それは反則だろうがぁぁぁぁ!」

 

 ヤケクソ気味に叫ぶヴィヴィ。何かに恐怖している様にも見えた。

 そのとき兵士たちの体勢が一斉に崩れる。足元から伝わってくる浮遊感。それが走る兵士たちのバランスをおかしくしていた。

 

「地面が揺れている……?」

「くっ! 兎に角今は忠告通りにあの木まで走れ!」

 

 何かが起こっている。それを肌で感じた兵士たちはただひたすら全力疾走を続けた。

 そして全員が指定された枯れ木を超えたとき、それは起こった。

 先程まで前を通っていた崖。それが大きく揺れ動いている。崖からは大中小と大きさがバラバラな岩が落ち、長年張り付いていた氷塊もその揺れに負けて崩れ落ちて行く。

 背後からの轟音に怯え、振り向いた兵士の一人が見たものは今まさに目の前で崩れていく山の姿。

 

「何だ! 何だこれは!」

「ああ、ああ……。最短距離で来やがった……」

 

 虚ろに笑うヴィヴィ。口振りからして何かを知っている様子である。

 

「あれは一体何なんだ!」

「甘くは見ていないつもりだったんだけどなー……まさかそう来るとは……」

 

 兵士長の怒声も聞こえないのか独白するヴィヴィ。

 崩れ落ちて行く雪が舞い白く覆い尽くされる山。しかし、その中から明らかに岩や氷塊が落ちる以外の音が聞こえてくる。一定の間隔で聞こえてくるそれは足音のように聞こえた。

 

「まさか山一つくり貫いてくるなんて……」

 

 直後、崩落の音も消え去る程の咆哮が雪山へと響き渡る。その咆哮は舞う雪を吹き飛ばし咆哮の主を露わにさせる。

 全身を覆う甲冑を彷彿とさせる、いくつも連なった甲殻。大木よりも更に太く巨大な四肢。顎の部分は鋭角な形で発達しものを掬い上げるのに適した形になっている。

 極めつけはその体格。既存の生物を遥かに凌ぎ、軽く見ても三十メートル程の大きさがあった。

 山を突き破り別の山が出てきた。そう思える程に巨大な生物。

 

「準備運動は大丈夫か? ここからが本番だ」

 

 その生物を一目見て、ヴィヴィは覚悟を決めるように嗤った。

 

 




大きな武器と少女は萌える。大きな武器と老人は燃える。この作品は戦う爺とおっさんを応援しています。
という訳でようやく最初に出す予定だったモンスターを全員出せました。
読み返して見て思ったことですが自分の作品はおじいちゃんか中年が戦ってばかりですね。華が無いです。
そのうち若い年齢の人たちが活躍する話を書くかもしれないです。


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超越するモノ(前編)

長くなりそうなので前後編に分けることにしました。


 山を突き破り現れた巨大な生物。それを見た者たちの反応は様々であった。

 一度見てから顔を前に戻し二度と振り返ろうとはしない者。呆然としながらその生物をただ凝視する者。何度も何度も振り返り、その生物との距離を確認する者。

 それぞれが心に受けた衝撃を体現していくが、それでも共通していることが一つだけあった。皆足を止めずその生物からひたすら距離をとろうとする。

 誰もが規格外の生物に味わったことの無い恐怖を抱いていた。

 

「走れ走れ走れぇぇぇ!」

 

 先頭を走るのは真っ先に逃げ始めていたヴィヴィ。その後ろをディネブが無言で付いて行く。とても運動が出来るようには見えないヴィヴィであったがその足は俊足であり、身軽とはいえ鍛えている兵士たちも見失わないでいるのが精一杯なほどの速度で走る。

 

「このまま、目的地に、行くつもりですか?」

 

 三番目に付いて来ている兵士長は、走りながらもこの先の動向を尋ねる。宛ても無く逃げても意味など無い。

 

「駄目だ! あいつを目的地には連れて行けない! どこかで必ず振り切る!」

 

 ヴィヴィの言葉に兵士一同目を見開く。

 

「しかし――」

 

 反論しようとしたとき地響きが聞こえる。しかしそれは一回に留まらない。二回、三回と一定の間隔で聞こえてくる。

 

「来たぁぁ! 追って来ましたぁぁぁ!」

 

 兵士の一人が恐怖で引き攣った声を上げる。

 振り向く暇など無いと分かっているにもかかわらず背後の脅威から目を逸らし続ける恐ろしさに負け、兵士長並びに他の兵士たちも背後に首を向けてしまう。

 人など容易く踏み潰し、大地との境目など無いぐらい圧することが出来そうな巨大な四肢と、そこから生える巨体を前へと押し出す爪。引裂くような鋭い鉤爪のような形はしておらず、押し出す度に削れていったのか先が均一な平面と化していた。

 遠くに居る筈なのに近くに居るかのように詳細が見える。それほどまでにその生物は桁外れの大きさをしている。

 一歩踏み出すだけで兵士たちが数十歩走った距離分前進する生物。首が短く顔と胴体が一体化したような姿をしており、亀を連想させるがその鈍重そうな見た目とは裏腹に前脚、後脚を動かす速度は速く、最初に開いていた距離がたった数歩で三分の一ほど縮められた。

 

「びびってないで足を動かせっ!鈍っているぞ!」

 

 白い生物の迫力に呑まれていた兵士たちが苛立つヴィヴィの声に正気を取り戻し、振り向くのを止めて逃げることに意識を集中させる。

 

「ここから先に行った場所に道が少し狭まっている場所がある! そこに逃げ込む!」

 

 声を大にして周りに指示をするヴィヴィ。その切羽詰った様子に誰もが首を縦に振らざるを得なかった。

 

「……ディネブ殿もここは大人しく逃げに徹して下さいね」

 

 ディネブにしか聞こえない程度に声量を抑えるような声。ヴィヴィしか気付いていなかったが、ディネブの砲剣を掴む手はこれ以上握れば拳の方が壊れるのではないかと思える程、強く硬く握り締められていた。

 無言、無表情ではあるがそこには隠しきれない激情が秘められている。

 走る者と追う者の距離は最初に稼いでいた分もあり、少しずつ狭められているものの完全に追い付かれるにはまだ時間が掛かる距離であった。

 地響きを起こしながら走る生物に山が迫ってくるような圧迫感、恐怖感を覚える兵士たちであったが、その僅かな距離の差が震える心にほんの少し程度の安心感を与える。

 しかし、そんな中でも厳しい表情をし続けながら心の裡で一分一秒たりとも集中を途切れさせない者たちが居た。それは先頭を走るヴィヴィとディネブである。

 極寒の地に於いて異常な程の汗を流す二人。走るディネブなら兎も角として、衣服の内側に周囲の温度調節用魔法陣を描いているヴィヴィが本来汗など描く筈も無い。

 彼が汗をかく理由、それは彼が密かに行っているある行動のせいであった。

 そのとき前方を走っていたヴィヴィは大きく叫ぶ。

 

「死にたくなければ今すぐ倍以上の速度で走れッ!」

 

 ただでさえ限界に近い状態の兵士たちにしてみれば、ヴィヴィの言葉は無茶にも程があるものであった。

 足場に装備と疲労。それらの要素でかなり速度は削げられているものの今でもかなりの速さで走っており、少なくとも常人以上の速さではある。

 一体彼は何を思ってこのような警告をしているのか。兵士たちの頭にそんな疑問が過ぎる。

 だがその言葉から数秒後、彼らはヴィヴィの警告を実行できなかったツケを支払う羽目となる。

 背後から聞こえる地響き。そこに破砕音が混じる。割れるなどという生温いものではない、幾つもの音が重なって鼓膜を揺さぶるような耳障りな音。

 兵士の一人がそれに慄き、思わず生物の方を見てしまう。

 彼が見たものは走る生物が鋭角な顎を地面に突き立てた姿。地面に刺さる顎は長年凍り続けてきた凍土を容易く砕き割り、それによって盛り上がった氷の塊が生物の前で山を作っていく。走る速度に合わせて凄まじい速度で氷の山は大きさを増していった。生物を前にしてみれば氷の礫が集まっているような錯覚を覚えるが、実際の大きさは一つ一つが人の身体を覆い隠せそうな程の大きさがある。

 

「3……いや4人死んだか……」

 

 誰にも聞こえない程の小さな声でヴィヴィが呟いた直後、生物の前に積もって出来た氷山が弾ける。

 正確に言えば生物がその顎で掬い上げただけの行為に過ぎないが、あれ程の氷塊がまるで重さなど無いかのように宙に舞う光景など、非現実過ぎて思考がついていけなくなる。

 しかし本当の恐怖はその後にやってきた。

 舞い上がる氷塊がヴィヴィたちの方に向かって飛ばされて来ているのだ。一個の大きさを考えれば接触すれば無事では済まない。しかもそれが無数に降り注いでくる。

 大きな音と共に最後尾を走る兵士のすぐ後ろに自分の背丈ほどある氷塊が落下した。思わず飛び上がってしまいそうになる衝撃に兵士の表情が固まるが、更に無数の氷塊が自分の走る道へと降り注いでくる。

 何処にどんな大きさのものが落ちて来るのか確認する暇も無く、心の中で祈りながら氷の砲撃の嵐を突っ走るが、間も無くして怖れていた事態が起きる。

 

「があっ!」

 

 兵士の一人の背中に抱きかかえる大きさの氷塊が直撃した。例え鋼鉄製の鎧だろうと変形してしまいそうな勢いと重量を持った氷塊に、雪山用の装備など薄紙程度の妨げにしかならず、受けた兵士は目や口を限界まで見開いたまま転倒し、その場から動けなくなってしまう。

 手を伸ばせば助け起こせるであろう距離にいた数名の兵士たちは皆、脳裏に助けなければという考えが過ぎるが、降り注ぐ氷塊、地響く足音、背後から迫る圧倒的存在感と恐怖によって一瞬にしてそれが霧散してしまった。

 見捨てて行く兵士たちは心の中で無意味だと分かっているにも関わらず、倒れた兵士に謝罪の言葉を叫ぶがこのとき皮肉にもその行動が明暗を分けることとなった。

 倒れ伏せた仲間に対し謝罪の言葉を心の裡で吐くことも無く、ただ全力で走り続けることを考えた者が生き残ることが出来、反対に謝罪の言葉を吐いてしまったが為に全力で走るという行為からほんの僅かな時間、意識を離してしまったものが死を迎える。

 走り続けた者たちとそれから意識を反らしてしまった者を区切るかのように、成人男性の背丈程もある氷塊が複数着弾する。

 突如目の前に現れた氷の壁に急停止出来ず、逃げ遅れた兵士たち三名が氷塊に激突した。その反動で大きく後ろへと弾かれる三名。ほぼ全力で走っていた為に衝突の際の衝撃によって視界が定まらず、咄嗟に立つことが出来なかった。

 その間にも地響きはどんどんと近付いて来る。

 横たわった体に伝わる大きな振動に恐怖心を掻きたてられた兵士たちは、上手く動かない身体を無理矢理動かして身体を起こす。

 そのとき彼らの目に入って来たものは最初に氷塊の直撃を受けた兵士の姿。だがその姿も次の瞬間には城を支える柱の様な脚によって潰され、その姿を完全に見えなくなってしまった。

 人が虫を潰すかのように躊躇の無い踏みつけ、もしかしたら踏みつけた生物自体何かを踏んだという感覚も無いのかもしれない。それを証明するかのように踏みつけた足が何の余韻も無く前進してくる。ただ持ち上げられた脚と大地の狭間で血が糸のように引かれ、踏み潰された兵士の体の中にあったものが冷たい外気に触れ白い蒸気を出しているのが分かる。

 あっけなく仲間の一人が死んだ。それも全身を潰されて死ぬという無惨な死に方で、氷塊の向こう側に逃げ延びた兵士たちにはそれを見ることが出来なかったが、逃げ遅れた兵士たちはそれを目の当たりにしたことで未来の自分の姿を見せられているような気分であった。

 最早風前の灯火となった三人の兵士たちの命。残酷な結末を突き付けられた三人の行動は三者三様であった。

 一人はもう助からないことを悟り、その場でしゃがみこんで完全に諦めた態度をとる。

 一人は覚悟を決め、逃げることも諦めることもせず腰に差してある剣を抜き、迫る生物に向かってその剣先を向ける。

 一人は最後まで生きることを諦めず、何とか逃げようとして生物へと背を向け走り出した。

 諦観、無謀、足掻き、それぞれがそれぞれの決めた行動をとるが、それは辿る道が違うだけであり待つ結末は全て同じものであった。

 最初に結末を迎えたのは剣を向け、生物に斬りかかった兵士であった。

 巨大な生物を前にして兵士が握る剣は余りに小さく、頼りない。そして決死の覚悟で巨大生物に斬りかかる様も、同等の相手であったならば英雄譚の一節を彷彿とさせる雄々しいものだったかもしれなかったが、現実の光景はあまりにかけ離れた大きさの差のせいで兵士の姿はある種の滑稽さがあった。

 間近まで迫り、振り上げた剣を生物に向けて叩きつけようとする兵士。鬼気迫る表情をした兵士に対し生物が行ったことと言えば、ただ軽く首を上げるという動作。

 しかしそれだけで決着は付いた。

 生物が首を動かした瞬間、兵士の姿が地上から消える。次に兵士の姿が現れたのは地上から数十メートルの高さが有る空中であった。

 生物がやったことはその顎を跳ね上げるという行為のみ。だがそれだけで兵士の死は確定した。

 兵士が宙を舞っている間に生物は次に諦観して地面に座り込んでいる兵士を踏み潰す。あまりに呆気なく兵士の身体は地面に広がる赤黒い染みと化した。

 そして最後に狙われるは逃げようとした兵士。前方を塞ぐ氷塊を避けて何とか先に逃げた兵士たちの背が見えた直後、生物が氷塊を砕きながら前進してきたことにより砕かれた氷塊に潰され、更にその上から生物に圧せられ氷塊の一部と化した。

 

「……少しは足止めになったか?」

 

 予言通りに四人の兵士が死亡した後にヴィヴィはそう呟く。死んでいった兵士たちに対する憐憫の言葉など無く、ほんの僅かでも生物の歩みを遅めることが出来たのかどうかの方が重要であるらしい。

 ヴィヴィの言葉が耳に入って来たのか一瞬兵士長の顔が赤い憤怒の形相に染まるが、すぐにその顔から怒りが消え、代わりに深く眉間に皺を寄せ哀悼の表情となった。

 部下が死んだ直後に慈悲の無い言葉を聞かされ怒りを覚えたものの、自分もまた部下を見捨てたという事実を思い出し心中で深く詫びる。

 国の為にいつでも命を投げ捨てる覚悟で日々、心身を鍛えてきた。しかしその為の命が国とは全く関係の無い場所で意味も無く散らされていく。それは耐えがたい苦痛であった。

 ヴィヴィは苦悶する兵士長の顔を一瞥するが、何も言わず先頭をひたすら走り続ける。

 やがてヴィヴィが言った通り、目の前に両脇を山と山に挟まれた道が見えてきた。山を崩して現れたあの生物がこのような場所を前にして諦めるとは思えなかったが、それでも走る速度を遅らせることが出来る。

 背後の生物の気配を感じながらヴィヴィたちはその道へと入る。

 入った道は側に立つ山のせいで日が当たらず薄暗く、そのせいで気温も低い。その低温のせいで道には薄い氷が張られており、走る度に氷が割れ小気味よい音を鳴らすが、今はそれに耳を傾ける余裕は無かった。

 暫く走った後ヴィヴィたち一行は違和感を覚え、背後を見る。あれほどまでに荒々しく響いていた足音が無くなり、追って来ていた生物の姿も無い。

 この道に入ったことで諦めたのかという淡い期待が兵士たちの頭を過ぎるが、それとは対照的にヴィヴィとディネブは警戒する態度を崩さない。

 

「近くには……居ない? 姿が消えた?」

 

 信じられないといった様子でヴィヴィは呟く。何かに集中しているせいか走る速度が若干緩んでいた。

 

「……ディネブ殿。済まないが見失った。……だが決して油断はしないでくれ。『奴ら』はこちらの考えの上を行く」

 

 ヴィヴィの警告にディネブは無言で頷く。

 いつ敵が現れるのか分からない狭い道をひたすら走る。誰も声を出すことは無く走る音だけが中で反響する。

 言葉にせずとも、誰もが内心であの巨大な生物がいつ襲ってくるかもしれないという恐れを抱いていた。

 十分後、一分後、あるいは十秒後。山を突き崩し自分たちの前に姿を現すのではないかという幻想が頭の中から離れない。

 耳の奥にこびりついた生物の足音。今は聞こえず静かになっているが、その静けさのせいで気を紛らわすことが出来ず、頭の中で何度も反響する。

 逃げている。距離も開いている。姿も見えない。なのに恐怖が薄れることが無い。追い駆けられた時間は短いものであったが、兵士たちの心の中に根付く恐怖は深い。

 やがて狭い道の先に光が射すのが見えた。薄暗い道を通って来た兵士一行にはその日差しの眩しさがあまりに美しく見え、恐れや怯えで凍てつく心にほんの僅かな安心と言う温もりを与えてくれる。

 狭い道を抜けたときヴィヴィたちが見たものは、目の前に広がる凍り付いた巨大な湖であった。

 ヴィヴィは道から出るとしきりに周囲を確認する。しかし何も見つからないのか重たい息を吐き走るのを止め、早歩きへと変えた。

 表情には出さないもののあの生物から逃げる為に数分間以上全力疾走していた為、ヴィヴィ自身もそれなりに体力を消耗していた。一応、補助魔法をかけていたので疲労などを抑えていたが、本来身体を激しく動かすことは専門外である。ヴィヴィは歩きながら少し乱れた呼吸を整え、さりげなく白衣のボタンを二つほど開き内に篭った熱を外に出す。

 一方、ディネブの方はというとやはり激しく動き続けたせいで額から汗を流し全身からも熱による蒸気が立ち昇っていた。しかしヴィヴィとは違い呼吸は一切乱れてはおらず平常時と変わらない間隔で呼吸をしている。魔力は持っているが魔法などの技術を一切使用できないディネブの本来の身体能力であり、背負う砲剣の重さも加味すれば壮年の男性とは思えない化物染みた体力であった。

 足早に歩きながらヴィヴィは後ろをついてくる兵士たちの様子を見る。ヴィヴィやディネブとは違い激しく呼吸が乱れており、一回一回空気を吸う量が大きく頻度も多い。顔色は赤く染まり、そこから滝のように汗を流し、踏み出す一歩が重い。

 怪物に追われているという状況のせいで感覚が麻痺していたが、一旦それから解放されたことにより限界以上酷使していた反動が出ていた。

 その上しきりに周囲を見回す兵士が何名かいた。せわしなく首や眼球を動かし、周りに過敏なまでに注意を払っている。

 どさりという小さな音が鳴る。通常の状態ならばそれが木々に積もっていた雪が地面に落ちたというものだと分かるが、精神が恐怖によって昂っている彼らにとっては小さな音一つでも内にある恐怖を弾かせる切っ掛けとなる。

 

「う、うああああああああ!」

 

 雪の落下音と同時に兵士の一人が奇声を上げて腰の鞘から剣を抜く。そして別の兵士がそれを見て恐怖を触発され身を護る本能からかこの兵士も剣を抜いた。

 短時間の間に深く刻まれた恐怖によって起こる連鎖反応。屈強な兵士であろうとも恐れや怯えからは逃れられない証明であった。

 

「そいつらを黙らせてくれるかね?」

 

 奇声や抜剣行為にヴィヴィがやや苛立った口調で兵士長に頼む。

 

「――分かっている」

 

 醜態を晒す兵士たちの姿を見ながら、兵士長は唇を強く噛んだ後に了承の言葉を吐いた。今まで鍛えてきた兵士たちが一回の遭遇でここまで精神的に追い詰められるとは予想外であったと兵士長は思っていたが、兵士長もまた心に深く恐怖が根付いていた。

 仮に今起こっている兵士たちのパニックを見て気持ちを冷めさせていなければ、自分が目の前で繰り広げられていることをしていたかもしれないという思いがあった。

 兵士長はパニックを起こしている兵士の一人に近付くとその腕を掴む。腕を掴まれた兵士はビクリと体を震わせ、反射的に兵士長の方へと顔を向けた。

 兵士長は兵士の顔が自分の方を向いたタイミングでその兵士の頬を叩く。あまり強い力で叩かず手首の動きだけでの平手打ち。

 雪原に乾いた音が響く。

 叩かれた兵士は思わず呆然としていたが、それによって自分が取り乱していたことを自覚したらしく顔が羞恥で赤く染まる。叩かれた頬の赤みが消える程、兵士の顔は真っ赤であった。

 

「も、申し訳ありません」

 

 素早く剣を納め、兵士長に深々と頭を下げる。

 

「落ち着いたか?」

「は、はい!」

「ならいい」

 

 それ以上は責めず兵士長は他の兵士たちを見回す。

 

「自分もして欲しいという奴はいるか?」

 

 兵士長の冷静な声。叱られた兵士の姿。その二つがパニックを起こしていた他の兵士たちの頭を冷水でもかけたかのように冷やす。

 兵士たちは抜いていた剣を納め、叩かれた兵士と同じように兵士長に向かって頭を下げた。

 

「流石、流石」

 

 兵士たちに背を向けながらヴィヴィは軽く手を鳴らす。褒めているのか嫌味なのか判り辛い口調であり、醜態を晒した立場としてそれに強く反発することも出来なかった。

 

「部下が御見苦しい姿を見せました」

「いやいや。アレに追い駆けられてその程度で済んでいるのならば大したものだよ。私の知り合いも似たような経験をしたことがあるらしいが、あれは酷かったな。まだ二十代だったというのに老人と見間違える程に一気に老け込んでしまって、部屋から一歩も出なくなってしまったよ。まあ、一晩中追い駆け回されたのならば精神に異常をきたすのも分からなくはないがね」

 

 まさに他人事として話すヴィヴィであったが、兵士たちの顔色がまた優れないものとなる。

 

「いたずらに恐怖心を煽らないで欲しいのですが?」

「追い駆けられた程度で済んで幸運だったと言いたかったのだがね。更に不安を煽るようで恐縮だがあんなのは序の口だと言わせてもらおう。もしアレが私の知っている奴らの同類ならば、まだ実力の一端も見せていない筈だ」

 

 警告するヴィヴィに兵士長はある点について疑問を抱く。

 

「奴ら……以前にもあの様な存在と遭遇したことが?」

「――まあね」

 

 兵士長の問いをヴィヴィ肯定する。

 

「ならばアレは一体――」

 

 そこまで言い掛けたとき全身を突き抜けて行く様な冷気を浴び、その冷たさに言葉が途中で止まる。

 続けて頬へと当たる冷たい感触。それは肌の熱で溶け、一瞬にして水へと変わった。

 

「吹雪いてきたな」

 

 ヴィヴィの言った通り先程まで穏やかであった天気が変わり、空は厚い雲に覆われそこから雪が降り、山の方角から冷たい風が吹き、雪を吹雪へと変える。

 視界が一気に白く染まり見える範囲が狭まる程の吹雪。衣服には次々と雪が積もっていく。

 

「何処か避難する場所を」

「いや、このまま行く。一秒でも時間を無駄にしたらアレに追い付かれるかもしれない」

「この吹雪では遭難する方が先です」

「私の背中を黙って付いてこればいい。付いてくる限りは遭難などしない」

 

 確信を持ったように言うヴィヴィに兵士たちは懐疑的な視線を向けるが、あの生物から逃げる際見えている筈も無い場所から山によって狭まれた道のことについて知っていたことを思い出し、不本意ではあるが大人しく従うことを決める。

 舞う雪と吹く風は歩く兵士たちの身体から容赦なく体温と体力を奪っていくが、先頭を歩くヴィヴィは魔力で熱を一定に保っているので特に問題は無く歩き、ディネブの方も雪が体に積もっていっても身震いすることなく淡々と歩く。

 

(このまま少しでも距離を――)

 

 周囲を警戒しながらそんなことを考えていたヴィヴィであったが、あるものを視てしまい頭を殴られたかのように思考と足が止まる。

 急に立ち止まるヴィヴィに皆が不審な眼差しを向けるが、その疑問も次の時には一気に解消される。

 大地を揺るがすような足音。一度聞けば二度と耳から離れないように重く、腹の奥底まで響く。

 

「う、嘘だろ……」

 

 兵士の一人が今起こっている現実を否定するかの様な震えた声を出す。

 

「私が甘かった……」

 

 後悔が込められたヴィヴィの台詞。しかし、それを誰も咎めることはしない。

 皆が背後に向けて最大級の警戒を抱いていた筈なのに、どういった方法をとったのかその足音はヴィヴィたちの前方から聞こえてくる。

 あのときと同じように一定の間隔で刻まれる足音。やがて吹雪の中で巨大な影が姿を現す。

 ディネブは背負っていた砲剣を構え、他の兵士たちも腰から震える手で剣を引き抜く。

 臨戦態勢が整った次の瞬間、その場に居る誰もが戦いの前であるというのに呆然としてしまった。

 何故なら吹雪の中に現れた影が突如として倍近い高さへと姿を変えたからだ。

 これ以上何を自分たちに見せつけるというのだ。

 皆の胸中にそのような言葉が浮かんだ次の瞬間――

 

 ――世界が揺れた。

 

 山が、体が、大気が、地面が全て揺れ動く程の咆哮。例えここから数十キロ以上離れていようと必ず聞こえる程の圧倒的声量。

 それを間近で聞くヴィヴィたちは堪った者では無い。

 反射的に耳を閉じても音が弱まることはなく全員が歯を食い縛り、眉間に皺を寄せ、脳に無理矢理入り込んでくる音の暴力を必死になって耐える。

 音に殺される。冗談では無く本気でそのようなことを考える者もいた。

 兵士の中には音に耐え切れなくなり膝を折り、地面に頭を付けて身体を胎児のように丸める者も現れる。

 人を殺しかねない程の咆哮。しかし、本当に圧倒されるのはこの後訪れる。

 容赦なく吹きつけていた筈の吹雪が咆哮によって次々と吹き飛ばされていく。雪は消え、風も弱まり、後に残るのは名残のようなそよ風のみ。

 人が抗うことなど出来ない自然の猛威を、その咆哮のみで真っ向から捻じ伏せていく。

 耳を抑えながらも視線を離すことはなかったヴィヴィやディネブの目には、不覚にもそれがまるで神の御業のように思えてしまった。

 長い咆哮が終わると吹雪もまた止む。

 吹雪が消え、良好となった視界には二本足で立ち上がるあの生物の巨体が写り込んでいた。

 

「……全く、嫌になる」

 

 圧倒的かつ底知れない実力を見せつけられたこと、その実力を目の当たりにして一種の感動すら抱いてしまった自分を嘲りながら、ヴィヴィは付けている面に手を当てる。

 しかし、それよりも先に生物の方が行動を起こす。

 大きく息を吸い込みながら顔を仰け反らせ、戻すと同時に口から何かを吐き出した。

 一直線に進む白い液体らしきものが、分厚い湖の氷を砕きながらヴィヴィたちに迫る。

 ヴィヴィとディネブは素早く左右に移動しそれを回避し、兵士たちも同じようにして避けるが、兵士の中には再び現れた生物の姿に半ば放心状態となってしまった兵士がおり、それにより他の兵士たちよりも行動が遅れてしまう。

 

「――あ」

 

 間の抜けた声を上げ、ようやく正気に戻ったときには生物が吐き出した液体に呑み込まれ、湖の氷と同じようにその身は瞬時に砕かれて周囲に撒き散らされる。

 このとき避けられた兵士にとって不運だったことがあるとすれば射線からややずれた位置にその兵士が立っていた為、完全には巻き込まれずその身が完全には砕かれず、大中大きさはまばらではあるが一目見ただけで人の死骸であることが分かる状態であり、生き延びた兵士たちは仲間の死体をまざまざと見せつけられることとなる。

 

「くっ! 固まるな! 狙いを分散させろ!」

 

 兵士長が叫ぶ。一か所に固まれば今のように殺害されるのを考慮し、一人でも生き延びられるようにする為の指示であった。

 

「これは――」

 

 ヴィヴィは避けた際に頬に付着した液体を指先で拭う。皮膚が爛れるようなことも刺激臭もない。あの生物が吐き出したのは紛れもなくただの水であった。

 

「やれやれ、桁外れな力を持っているとただの水さえこれほどの凶器か」

 

 愚痴るヴィヴィの前で、後足二本で立っていた生物が立ちあがるのを止め四足へと戻る。その際周囲にいたヴィヴィたちの身体に宙へ浮いたかと錯覚させる程の揺れが起きる。

 

「いちいちやることが冗談みたいだ」

 

 四足となった生物は再びその場で大きく口を開く。また水を吐き出そうとしている様子であった。狙いの先に居るのは三人の兵士。固まるなと指示はされたものの生物へと恐怖感のせいで動きが遅れている。

 生物はその動きの遅さを見過ごす筈も無く三人の兵士に向けてその口から液体を吐き出した。

 ちょうど射線上にいた兵士の一人はまともにそれを浴び瞬時に体が砕かれ絶命する。少しずれた位置に立っていた別の兵士はかすめるようにして当たった筈だが、水に触れた胴体は鎧ごと抉られ、駄目押しと言わんばかりに細かい氷の礫が体の至る所にめり込んでいた。

 そして最後に残った兵士は、直撃は避けたものの他の兵士たちに当たって飛散した液体を頭から被ってしまう。

 

「う、うああああ!」

 

 浴びた液体が兵士に触れた瞬間、氷へと状態を変え兵士の体を氷漬けにしていく。

 

「寒い……! 寒い……!」

 

 ただでさえ気温の低い雪山。その中で文字通り身の凍らせられた兵士は少しでも体に温もりを戻すように自分の手で自分を抱きしめ、ガタガタと震える。

 瞬時に三人の兵士を戦闘不能にされた状況を見ながらも、ヴィヴィは冷静に分析を続けていた。

 生物が吐き出した液体は紛れもなく水であったが、その中には大小様々な氷の礫が混じっており人を軽々殺せる水圧の破壊力をより凶悪なものへと変えていた。そして、水の温度は付着すれば瞬時に凍り付いた点から氷点下を下回っていると考えられる。

 だが普通、ある程度水の温度が下がれば氷へと変わるものだが、何故か生物が吐き出すまで液体の状態を維持できていた。

 

(あの生物の体内には液体を固体に変えない特殊な物質でもあるのか?)

 

 そんなことを考えているうちに、氷漬けにされた兵士は蹲った状態のまま動かなくなった。死んだのかあるいはまだ生きているのか、見ているだけでは他の兵士たちは判断出来ない。

 

「くっ!」

 

 耐え切れず兵士長が助けに動こうとするが、それをヴィヴィの鋭い言葉が制止させる。

 

「行っても無駄だ。――もう死んでいる」

 

 かなり離れているにも関わらず確信に満ちた言葉。しかし、その言葉だけでは納得し切れない。

 

「何故言い切れる!」

 

 ここに来るまでに三人の部下を見殺しにした。そしてここに着いてから二人の部下を失った。五人とも名も知っているし、一緒に酒を酌み交わしながら食事もした。そんな部下の命を呆気なく散らせてしまった罪悪感から、兵士長は可能性が少しでもあるならば無謀は承知で何としてでも部下の命を救いたいという強迫観念に駆られていた。

 

「私には見えるんでね」

 

 兵士長の怒声に冷めた言葉を返しつつ、ヴィヴィは生物に目を向けたまま付けていた仮面を外した。

 仮面の下から現れた素顔は三十前後といった容貌。これといって美形という訳でもないが不細工とは程遠い平均以上といった顔立ち。

 ただそんな顔よりも更に目立つのが顔左半分に刻まれた裂傷の跡。額から目蓋を通り頬から耳付近にかけて刻まれている。

 そして、さらに注目すべきはヴィヴィの右眼。傷跡はあるが通常の左眼とは異なり、右眼には白目が無く、墨を流し込んだかのように黒一色に染まっている。

 殆ど瞳と同化したような状態であったが、あろうことかその黒い部分は生き物のように眼球の中で蠢いていた。

 その眼の色と蠢きに驚く兵士長の前で黒い部分は形を変え、文字のような姿へと変わると瞳を中心にして円形の魔法陣を目の中へと描いた。

 

「ディネブ殿。ここで一戦交える。勝たなくても負けなくてもいい時間を稼いでくれるかね?」

 

 圧倒的実力を持つ生物へと挑めとディネブに言うヴィヴィに、兵士長は正気を疑った。あれほどの差を見せつけてきた相手に単騎で挑むなど無謀でしかない。

 しかし、ディネブはそれに首を縦に振って応じ、背中から砲剣を下ろすと肩に担ぎ、生物に向かって歩き始める。

 

「馬鹿な! 死ぬつもり――」

 

 歩いていくディネブを追い、その無謀を咎めようと兵士長は前に立ち塞がり、考え直すよう説得の言葉を言おうとしてそこで止まってしまった。

 彼は見てしまった。今まで何があろうとも表情一つ変えることが無かったディネブが口の両端を吊り上げ、犬歯を剥き出しにしながら嗤っている顔を。ヴィヴィの言葉を心待ちにしていたかのような凶笑、あるいは悪鬼の笑みであった。

 ディネブの笑みを見た兵士長は何も言えず、横を通り過ぎて行くのを黙って見ているだけであった。

 歩む速度を徐々に上げながらディネブは担いでいた砲剣を構える。そして、歩みが走りと呼べる速度となったときディネブは吼えた。

 

「うおおおおおおおぉぉぉぉぉ!」

 

 兵士長も初めて聞くディネブの声。最早人の声というよりも獣の咆哮に近い。あるいは人という種が進化の過程で失った動物としての咆哮に近いのかもしれない。

 生き残った兵士たちはディネブの吼える声に驚き、生物もまたその目をディネブへと向ける。

 ディネブの目と生物の目。このときになって初めて両者の視線は交差した。

 

「尾が来る! 跳べ!」

 

 それと同時にヴィヴィが叫ぶ。声が聞こえたディネブは何の躊躇いも無く、砲剣を持った状態でその場から跳び上がった。

 直後、生物はディネブに背を向けるような格好をしたかと思えば、人の姿など容易く隠してしまいそうな程の縦の幅を持つ尾を体の動きに合わせて振るう。本体の動きは鈍重に見えるが体全体を使って振るう尾の速度は風切り音が発生するほどであり、直撃すれば即原型を留めない威力を秘めていた。

 しかし、どんなに破壊力を秘めていようと当たらなければただの空振りでしかなく、事前に跳び上がっていたディネブの足元を僅かに掠めただけに終わる。

 跳び降りたディネブはそのまま走る速度を緩めずに生物に接近すると、尾を振って無防備になっている腹部分に向け、砲剣を突き出す。

 だが突き出した砲剣から返って来たのは、鋼鉄でも叩いたかのような甲高い音と痺れるような手応え。

 見た目通りの強固さ、刃が全く通らない。

 僅か一撃を入れただけでディネブは自分の武器が通じないことを悟ると、すぐに攻撃の手段を変える。

 腹を突かれた生物は体勢を戻し、ディネブを正面から見ようとするがそれよりも先に砲剣の砲身部分に魔術用の文字が浮かび上がる。

 先端を生物に向けると同時に砲口から火球が飛び出し、生物の額に直撃した。上がる黒煙、だがそれも煙から顔を出した生物がすぐに掻き消してしまう。

 直撃したものの生物の白く荒々しい外皮に僅かな焦げ目を付けた程度。その気になれば竜の皮膚すらも焼くことの出来る砲撃であるが、この生物にとっては目晦ましぐらいの効果しか望めない。

 砲撃が効かないと分かってもディネブは次々と生物に向けて火球を放つ。倒すことなど最初から叶わないという考えがあった故に、すぐに自分に敵の注意を引きつけ時間を稼ぐ手段に移っていた。

 生物も傷は負わないものの顔面付近に絶えず放たれる火球を嫌がったのか顔を背け、背面で受けようとするがディネブもまた砲撃を繰り返しながら移動し、顔から狙いを逸らさない。

 あわよくば視力を奪うという考えからの攻撃であった。

 それを見ていたヴィヴィであったが、次の瞬間に目を丸くする。何か彼にしか見えないものが見えたらしい。

 

「ディネブ殿! そこから全力で離れろ!」

 

 ヴィヴィの大声を聞き、砲撃をしていたディネブはあっさりと砲撃を止める。

 直後、全員が見ている前で生物は予想もしない行動に出た。

 特徴的な鋭角の平たい顎を氷へと突き刺してから顎を突き上げ、氷を深く抉る。それによって出来た穴に今度は大きく螺旋状の形をした爪を突き立てる。氷はいとも容易く削られ、大小様々形に変えられてから掻き出される。生物はその場で左右の前足で氷をありえない速度で掘削し始め、見る見る内にその姿を氷の中へと隠していく。

 通常、人間ならば自分が隠れる程の深さの穴を掘るのに道具を使用しても数時間は必要とするが、この生物は自分の体一つでたった数秒という考えられない速度で地面に潜行していく。

 何度目かとなる現実離れした光景に兵士たちはただ沈黙するが、それを見ていたヴィヴィは声を出して笑う。

 

「あっはっはっは! 成程! あの狭い道を通って尚且つ先回りも出来たのはそれのおかげか! そう言えば初めて見たときも山を突き崩してきたものなぁ! ――ふざけんなっ!」

 

 笑った末にヤケクソ気味の罵倒。

 

「どうしてそんなに早く潜れる? どうしてそんなに容易くこの氷を堀ることが出来る? 全く非常識な奴らだよ、お前らは! こっちが真面目に考えているのにすぐにその斜め上を行きやがって! こっちは常識の世界に住んでいるんだ。 お前の非常識を態々見せるな! 頭がこんがらがる!」

 

 髪を搔き乱しながら早口で言葉を羅列する。

 その間にも生物の身体は氷中へと埋まっていき、やがてその全身は完全に氷の中へと隠れた。

 

「まだだ! まだまだ! 走れ! ディネブ殿! 次の非常識が来るぞ!」

 




ウカムルバスの無双状態が続く前編でしたが、後編も無双していく予定です。


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超越するモノ(後編)

 生物の様子を確かめる為に背後へと顔を向けるディネブであったが、それを見たヴィヴィの鋭い声が飛ぶ。

 ヴィヴィの声の余韻を掻き消す破砕音。その音源の方を見ると氷が内側から外に向かって割れ始めている。すると氷の裂け目から見える鋸状の白い背鰭と頑強な甲殻が連なった白い背。

 氷中から露出する生物の一部分。それが氷を砕きながら走るディネブへと向かう。

 生物が氷中を掘り進む速度は地面を走っていた時と殆ど変らない。つまり走るディネブよりも生物の方が早い。

 次々と地表の氷を砕きながら徐々にその距離を縮めていく。

 ディネブは背後を気にしながら全力で走るが、そのとき前方に複数の兵士たちの姿を目にしてしまう。

 背後に気を取られ過ぎて兵士たちが固まっている方向へと意図せずに走っていたことに気付き、自分の失態を恥じる様にディネブは僅かに口の端を歪ませる。

 そこでディネブは兵士たちを巻き添えにしない為に九十度直角に方向転換し、兵士たちから生物を引き離そうとする。

 だがこのとき予想だにしないことが起きる。

 

「違う! お前たちは動くな! その場でじっとしていろ! 動くな! 動くなって言っているだろうが!」

 

 ヴィヴィの怒声にディネブの視線はまずヴィヴィへと向けられる。声を荒げながら何かに向かって叫ぶヴィヴィの姿を見て、ディネブの視線もヴィヴィが見ている方へと向けられた。

 そこでディネブが見たのは先程の兵士たちが一斉に走っていく姿と、その走っている兵士たちの方に方向転換する生物の背。

 狙いが自分から兵士たちに切り替わる瞬間であった。

 ディネブが兵士たちに近付いてしまった為、迫る生物の重圧に押し負けてしまったことによる精神的敗走。

 何故狙いを切り替えたのかは分からない。複数の足音をうるさく感じたのか、あるいはディネブよりも力が劣る兵士たちを先に潰しておく気になったのか、推測を上げればきりがないうえにこの場においては何の役にも立たない。

 ヴィヴィの制止も空しく兵士たちは散り散りになって走っていく。

 老体でありながらも常人を遥かに凌ぐ身体能力を持つディネブですら距離を詰められるほどの生物の掘削速度に、並よりもやや上といった程度の兵士たち。ましてや氷山の寒さと生物への恐怖によって体は十分な機能を発揮しない。

 追い付かれるのは時間の問題であった。

 

「ぐぅ!」

 

 そんな悪い予感を的中させるように、兵士の一人が足に足を当てて転倒してしまう。そこに迫る白い背。まるで氷の中を泳ぐように波打つ動きをしながら接近すると転倒した兵士を何故か背に乗せる。

 弾き飛ばすとも空高く突き上げることもせず、下から掬うようにして背に乗せた光景を見てヴィヴィたちは一瞬、訝しむ様な顔でそれを見ていたがすぐにそれがどういったことを齎すのかを知る。

 生物が兵士の一人を乗せたまま再び氷中へと潜る。その際に兵士の身体は氷と生物の背に挟まれ、その身を容赦無く押し潰されていく。

 兵士にとって不幸なのは、足から先に入って行ったことで身体の中心に至るまで意識が途絶えず、そして死に至ることも出来ない。

 時間にすればほんの数秒の出来事。しかし、それは見ている側にとっての数秒であり、当人である兵士にとってはその数秒の出来事は地獄にも勝る。

 肉が潰れ、骨も砕かれ、体が紙よりも薄く引き伸ばされていく。

 苦痛、恐怖、絶望。あらゆる感情が爆発し、それらが絶叫となって喉から出かかったとき、兵士の身体は完全に氷中に引き込まれていた。

 自分の身に起こった不幸を嘆く暇すら与えられず、次に生物が氷の中から姿を見せたときには背に残る僅かな赤い染みと化し、死に様すら奪われる。

 無慈悲としか言いようのない所業。だが、生物は兵士一人惨殺したところで何一つ感慨など抱かない。生物にとっては邪魔者を排除するという行為をしただけである。

 そして、それを見ていた兵士たちもまた、それを咎めることも罵声を浴びせることも出来なかった。生物が恐ろしい故に、生物があまりにも強いが故に。

 ある人物らを除いて。

 地表に姿を見せた生物の背に紅蓮の炎が上がる。

 炎の主はディネブであった。放った砲撃で焼き痕一つ付かなかったが、それに構う事無く何度も撃ち込む。

 生物の意識を兵士たちから自分に向ける為の挑発を目的としたものである。

 氷中を進む生物に並走し、ディネブは重い砲剣を体に押し当てるようにして固定し、体で反動を受け止めながら連射する。

 本来の砲剣は連発するような代物ではなく、並みの人間が魔法などの補助無しで使用した場合、反動で関節が外れる、骨に罅が入るなどの危険性があるが、それをディネブは強靭な肉体で押さえつけ本来以上の性能を発揮させる。

 

「ディネブ殿! そいつが潜っているのもあと僅かだ! 数秒後に氷の中から完全に姿を現す!」

 

 ヴィヴィも生物の強さに怯むことなく、自分が狙われる可能性を無視して声を張り上げてディネブへと指示を飛ばす。

 まるでこの先の展開が分かるかのような内容の指示。実際にヴィヴィはこの先の動きが視えていた。

 術式が描かれたヴィヴィの瞳。ヴィヴィ本人にしか分からないが、その瞳には今から数秒先の出来事が揺らめく蜃気楼のように映っていた。

 ヴィヴィの瞳にはある特殊な術式が施されている。一般の魔法使いたちの間で広まっているような術式では無く、魔法という概念が出来てそれが体系として形になって間も無い頃に編み出された古い術式である。

 世間に広まり、特異性が薄まることを嫌がった魔法使いが誰にも知らせずに秘匿し、心許した一部の者たちだけに教え、語り継がせたもの。

 ヴィヴィから言わせれば、人として器が人並み以下の割には才能が人一倍あった者たちの遺産。

 それが宿っているのがヴィヴィの瞳である。

 普段はこの特徴的な瞳を人目に晒すのを嫌がって仮面で隠しているが、完全に力を発揮するときのみ外す。尤も仮面自体に特別な術が施されている訳では無い。あくまで気持ちを切り替える為の儀式のようなものである。

 そして、今使用しているのが未来視であり、これを使用することによって十数秒先の未来を知ることが出来る。ディネブに警告して生物の尾の一撃を避けさせたのもこの力であり、白い猿の群れに襲われた時事前に察知したのもこの力である。

 数秒後、ヴィヴィの予言した通り生物が氷の中から一気に飛び出し、隠していた全体を晒す。氷の中で追うことよりも地表で追うことを選択したらしいが、その方がヴィヴィたちにとっても有り難かった。

 全体が硬い甲殻に覆われた生物に損傷を与えるとしたら、甲殻の無い目か口の中を狙うしかない。氷の中に潜られていたらそのどちらも狙えない。

 地表に出てきた生物は身体を震わせ、纏わりついていた氷を落とす。一つ一つが人の頭よりも大きなサイズの氷塊であるが、その生物はまるで水滴のように周りに散らす。

 そして、生物の眼がディネブや兵士たちの方に向けられる。その眼が何を意味するのかは分からないが、ディネブは自分に注意を引きつける為に砲口を生物に向けると火球を放つ。

 効果はさほど期待していないので、次なる一手を――と考えるディネブの思考は生物の行動によって軽々と打ち砕かれる。

 生物が四肢に力を込めたかと思った次の瞬間、その巨体が跳ねた。

 比喩でも何でも無く、本当に脚に力を込めて前方へと跳ぶ。まるで体の重さなど感じないように少なくとも自分の体長の倍の距離を跳んだ。

 呆気にとられそうになるが、その生物が跳んだ先にあるものに気付き無理矢理意識を正気にしてヴィヴィは叫ぶ。

 

「来ているぞ! 避けろ!」

 

 心の裡ではもう間に合わないと分かってはいるものの咄嗟に叫んでしまっていた。

 ヴィヴィの未来を視ることは出来る強力だが、やはり強い能力には制限がある。十数秒先の未来を視た後、未来視した同じ時間だけ未来が視えなくなるという能力の制限が架せられていた。

 もし、あのとき数秒だけ先を見ることを遅らせていたなら。

 既に変えようの無い事実だと理解していても、反射的に行動へと移ってしまっていた。

 しかし、どんな足掻いたとしても現実は非情なものであり、そして生物もまた弱者に対し一片たりとも慈悲の心を持つことは無かった。

 逃げる兵士たちは自分たちの周囲がいきなり暗くなったことに驚き、空を見上げる。その眼に映るのは白く棘の様な突起物が並ぶ生物の腹部。

 声すら上げる暇も無く兵士たちは生物の下敷きとなった。

 生物の着地と同時に重みで湖面の氷に亀裂が生じ、衝撃で隆起する部分もある。

 生物は何事も無かったかのように立ち上がる。生物の腹部の下では一体どのような惨状が広がっているのか想像し難いものであったが、幸いというべきか生物の重みで着地点は深く沈み込んでおり、ヴィヴィたちからは中がどのようになっているか見えなかった。

 

「……もはや私一人か……」

 

 力無く呟き、兵士長は戦いの中であるにも関わらず脱力したかのように肩を落とす。兵士長が言ったように、街から連れて来た部下の兵士たちは先程の攻撃によって全滅した。

 部下を失ってしまったことと、生物に対する畏怖のせいか、兵士長の顔は最初の頃よりも十ほど老けて見える。

 

「落ち込むのは結構だが、少しシャキッとしてくれないかね?」

 

 立て続けに部下を失った兵士長に対し、ヴィヴィは気を遣うことなどせず最初のときのように冷たい言葉を投げ掛ける。

 だが、そんな言葉を受けても兵士長は睨みつけるわけでも反論するわけでも無く力無く、項垂れるのみ。それを見てヴィヴィは溜息を吐く。

 

「顔を上げたらどうだ? あちらはこちらを見ているぞ?」

 

 兵士を圧殺した生物は次なる狙いとしてヴィヴィたちへと視線を向ける。

 その視線を受け、兵士長はびくりと肩を震わせた。

 体躯のせいで小さく見えるがそれでも人の頭ほどの大きさはある瞳。その瞳から感情などは全く読めなかったが、向けられるだけで寿命が縮み、極寒の地であるにも関わらず衣服が吸い付くような量の冷たい汗が皮膚から染み出してくる。

 理性も本能も生物が放つ圧迫感、威圧感、命あるモノとしての格の違いを敏感に覚り、肉体を使って警鐘を鳴らす。

 

「全く嫌になる」

 

 自分の現状を呪う言葉、あるいは今の立場を嘆く言葉を吐きながらもヴィヴィの表情には絶望など無く、傲慢且つ嫌味に満ちた笑みを口元に浮かべている。

 圧倒的絶望を前にして笑みを一つ浮かべている時点で、並の胆力の持ち主では無いことが分かる。

 生物は狙いをヴィヴィたちへと定めたのか、視線だけでは無く体の向きも変え正面からヴィヴィたちを視る体勢となる。そして、そのままその口を大きく開いた。

 最初に見せた絶対零度のブレスを吐く体勢へと入った生物を見たヴィヴィは、逃げる素振りを見せず真っ向から生物を睨みつける。

 やがて生物がブレスを吐く直前までいったとき、不意にその動きが止まった。

 自然に動きが止まったのではなく何か別の力が働いて生物の動きを止めたのか、急に動きを止めた生物は小刻みに震え、身体を動かそうと抵抗しているような動きを見せる。

 その直後、生物の顔面に紅蓮の華が咲いた。

 ディネブが砲剣から放った火球が生物の顔面に直撃したのである。

 目を狙って放たれたが、炎が消えるとそこには目元に僅かな焦げ跡を付けられた生物の姿。ディネブの砲撃は外れてしまっていた。

 生物は舞う黒煙を鬱陶しがる様に首を振り掻き消す。

 機会を逃してしまったディネブは僅かに表情を顰め、生物に注意を向けつつ横目でヴィヴィの方を見る。

 ヴィヴィは苦痛に耐えるように顔を顰めていた。その表情が現すように、今のヴィヴィは激しい頭痛に襲われていた。

 あのとき生物が僅かに動きを止めたのはヴィヴィの魔術によるものである。ヴィヴィの目に備わった複数の魔術の中に、相手の記憶を探る力が在る。白猿たちに襲われた時、彼らの名を曖昧ながらも呟いたのはこれによるものであった。

しかし、獣の考えを人が理解することは出来ない。その為ヴィヴィが視たものは白猿たちが集団で襲い掛かったときの記憶。そこで襲われた者たちが口にした異国の言葉から白猿の名前をおおよそ把握したのである。

 先程も短時間ではあるもののヴィヴィはあの生物の記憶を探っていた。だが、得られたものは無い。何度か生物と対峙する巨大な武器を持った人間たちの記憶を視ることが出来たが、何も情報を口にしないまま生物によって葬られていた。

 そして、ヴィヴィが生物の動きを止められたのはこの能力の応用である。探っている記憶の中にヴィヴィの魔力を叩き込むことによって相手の頭の中を短い時間掻き回し、真面に考えられさせなくするというものであった。

 しかし、それにも代償ともいうべきものを払う。

 相手との実力の差があればあるほど、叩き込んだ魔力が送り込んだヴィヴィの下へより強い力で跳ね返されるのである。

 白い猿のときにはヴィヴィが格上であった為にその反動が無かったが、この生物は全力で叩き込んだヴィヴィの魔力をほんの数秒で跳ね返すという、生き物として桁違いの我の強さをヴィヴィの身体に刻み込んだ。

 その結果、ヴィヴィは脳が弾けるのではないかと思える程の頭痛を覚え、そして無理矢理魔力を弾き返されたことで鼻の片穴から鮮血を流していた。

 数秒動きを止めた代償としては重過ぎるものである。

 だが、それでも膝を屈せずに立ち続けているのは、持ち前の精神力とこのような相手に対し絶対に負けられないという意地であった。

 

「もう少し……もう少しだ……」

 

 頭が割れるような痛みに耐えながらも、ヴィヴィは生物と対峙していたときから続けていた『ある行為』を途切れさせていなかった。それこそが現状、ヴィヴィたちを生き残らせる策であり、そして唯一の希望であった為に。

 

「耐えてくれよ……」

 

 生物に砲撃を乱射するディネブを見ながら、ヴィヴィは一秒でも早く『ある行為』を完成させるために意識を集中させる。

 体の至る所に砲撃を受けながらも、速度を緩めることなく生物はディネブに向かって突進する。山一つが迫って来ている様な圧迫感と重圧の中でもディネブの照準は狙いを外さず、全ての弾が生物へと直撃していった。

 しかし、いくら放とうとも生物の甲殻は分厚く堅牢であり、ディネブの砲撃を通さない。せいぜい外殻に張り付いている氷を剥ぐことしか成果を見せてはいなかった。

 生物との距離が縮まったときディネブが構えている砲身の向きを僅かにずらす。その状態で砲撃を放つと火球は生物の肩付近へと当たるが損傷は無い。それはディネブにとって分かり切った結果であり、狙いはそれではない。

 砲撃の反動でディネブの身体が真横へと滑る。地面に根付くようにして踏ん張っていた足から力を緩め、砲撃の熱で僅かに解け始めていた足元の氷を利用しての回避であった。

 ディネブの狙い通り、生物は先程までディネブが立っていた位置を通過していく。一度付いた加速は中々止めることが出来ないのか、生物は四肢を突き立てて急停止しようとするもののそこから十数メートルの距離を滑っていく。

 その隙にディネブは懐からあるものを取り出す。出されたものは金属で出来た杭のような物体。

 重量が有る為少数しか携行出来ないが、その金属の杭こそディネブが持つ砲剣専用の弾である。

 相手が体勢を変えている内に弾を筒の中へと押し込む。時間にすれば一秒にも満たない作業であったが、その間だけでも生物から目を離すと言う行為は精神に重圧が掛かるものであった。

 弾を装填し、砲口を生物へと向ける。丁度、生物も旋回し終え正面からディネブを睨みつけている体勢であった。

 間髪入れずディネブは自身の魔力を砲身へと注ぎ込む。それに応じ、砲身に刻まれた魔力文字が輝きを放ち流し込まれた魔力を変換し、砲身の中でそれを爆発させた。

 つんざく音と共に砲身から込められた弾が発射される。全体に特殊な加工で造った溝が刻まれており、向かい風に反応し弾全体を錐揉み状に回転させ貫通力と命中精度を上げる効果がある。

 大気の壁を穿ちながら飛ぶ弾は生物の肩口付近へと命中する。硬い甲殻と鋼の弾。それらが衝突し合ったとき、雪山に破砕音と金属音が同時に鳴り響く。

 激しく回転しながら杭状の弾が生物の白い甲殻にその先端を埋め込む。戦いが始まって初めて損傷らしい損傷を与えた瞬間であった。

 だがそれを見ていたディネブは表情を険しくし、短く舌打ちをする。

 旋回して一見先端を埋めているかのように見える弾であったが、よく見れば削れて巻き上がっているのは白い甲殻の屑ではなく鉛色に輝く鉄片である。

 徐々に回転が弱まり始めると、やがて埋没していたかに見えた弾が肩口から落ちる。その先端は平らに削られており、刺さっていた肩口部分は僅かに凹みが出来た程度であった。

 対ドラゴン用に開発され、一度刺さればその硬い鱗すら貫通していく弾であったが、この生物の甲殻にはほんの少し傷を付ける程度の効果しかなかった。

 今ある武器が全て使えないことを悟るディネブであったが、その眼に諦めの色は無い。常人ならばとっくに心が折れていてもおかしくない状況で強い生をその目に宿し、真正面から見てくる生物を睨み返す。

 自分の使える武器は無くなってしまったが、まだヴィヴィの策が残っている。全て諦めるにはその策が通じなかった後でも遅くは無い。尤もディネブは仮にその策が破られたとしても諦めるつもりは全く無かったが。

 二射目の為に弾を装填しようとするが、そのとき生物が二本足で大きく立ち上がる。

 只でさえ大きな図体が倍の大きさとなり、自然と見上げる格好となった。

 見上げた先に見える者は大きく口を広げる生物の顔。それを見た瞬間、装填の動作を中断しその場から駆け出す。

 直後、生物の口から絶対零度の水流が吐き出される。

 触れれば即凍り付くが、それよりも先に触れた箇所から水圧によって抉り取られる。

 仮に掠めることがあればその箇所は肉、あるいは骨ごと削ぎ落とされであろう。そして傷口は超低温に晒されることで血が一滴すら流れることなく、受けた本人は凍り付いた断面を視る破目となる。

 そのような事態を想像しながらも身を竦ませることなく、吐き出されたブレスの射線から外れるようにして素早く移動する。

 ディネブの後を追う様にしてブレスが足元の氷を砕きながら迫る。ディネブが十数歩走る距離も、生物にしてみれば首を僅かに傾ける程の距離でしかない。しかし、老体とは思えぬほどの快速で迫るブレスから逃れるディネブ。

 生物との距離はあるものの、ブレスの速度やその射程の長さのせいで、余裕を持って移動してもかなり際どいタイミングであった。

 長時間吐き出すことが出来ないのか、生物のブレスによる攻撃は数秒吐き出された後に止まり、二本足で立っていた生物も元の四足に戻る。

 ディネブもまた氷上で急停止しつつ、目線を生物の方に向けながら軽く服を引っ張る。すると服の表面から薄い氷が剥げ落ち、足下へと落ちていく。直接触れてもいないのに、ブレスの余波で身体の表面に薄い氷の膜が張られていたのだ。

 脳裏についさっき起こった兵士の惨劇を思い浮かべる。だがそれでもその精神は恐怖に縛られない。その恐怖に抗う為にディネブは心の奥底に沈ませている『怒り』を滾らせる。

 溶岩のように煮え滾る怒り。それに触発されてディネブの頭の中に過去の出来事が断片的に蘇る。

 最初に浮かぶのは自慢の優秀な部下たち。次に浮かぶのはその優秀な部下たちの焼き尽くされた姿。流す涙すら乾いてしまう灼熱の中で咆哮を上げる一匹の龍。

 屈辱、憤怒、哀しみ。全ての感情が混じり合い、怒りとも嘆きとも言えない凶相がディネブの顔に浮かび上がった。

 

「オオオオオオオオオオオオオッ!」

 

 魂の奥底から吐き出すような叫び。裡に蠢く感情を込めた声が雪山へと響き渡る。

 砲剣に残り全ての魔力を注ぎ込む。

 それと同時にディネブが掴む砲剣の砲身は輝き始め、外へと向けて放たれる光は魔術の影響を受けて熱を持ち、周囲に張る氷を融解させていく。

 二撃目、余力といった考えを全て捨て去った渾身の一撃。外れようと当たろうと構わず己の全てを今から放つものに込める。

 砲口から巨大な火球が放たれる。漂う冷気すら熱気へと変えてしまう程の熱を秘めた一撃が生物に向かう。

 だが生物は目の前に迫る膨大な熱量を前にしても逃げようとも隠れようともせず、再びその口を大きく開く。

 そして生物も放つ絶対零度のブレス。熱と冷気がぶつかり合い、それによって周囲を包み込む程の水蒸気が発生し視界が一気に閉ざされる。

 辺りを包み込む靄の中でディネブは歯を食い縛った。長年戦いの中で身を置いてきた者だからこそ分かる手応えの無さ。

 渾身の一撃は届かなかった。視界が晴れていない状態からでもそれを悟ってしまっていた。

 心の裡ではこうなることは分かっていた。どのように肉体を鍛えようともどのように技を研鑽しようとも、相手は生き物として別次元の段階にいる存在だと。

 倒すべき仇の前に、あれと同類の存在に対しどれほど自分の実力が通じるのか試してみたが、結果としては何一つ通用していない。

 完全な敗北である。

 そんなことを考えるディネブを肯定するかのように白い靄を突き破り、生物の尖った顎が姿を見せる。靄の中から現れた生物の身体には外傷など無くディネブの感じた手応えの通り、全く通じてはいない。

 山や氷塊すら容易く砕く顎がディネブの眼前まで迫る。

 風を大きく斬り裂きながら鋭くも分厚い顎が天に向かって突き上げられた。これによって一名の兵士が空へと打ち上げられた後に絶命している。

 ディネブもまた同じ運命を辿る――かに思われたがディネブの姿は未だに地上にある。

 それもそのはず、生物の顎はディネブとの距離約一メートル辺りで振り上げられていたからである。当たらなければ致命傷にはならず、せいぜい出来たことは振り上げた勢いでディネブの髪型を僅かに乱した程度である。

 何故目測を誤ったのか。その答えは生物の後脚にあった。

 大木よりも太い脚が氷の上にめり込む、否、沈んでいる。それによって生物は無理矢理後ろへと仰け反らせられている格好となっていたのだ。

 ディネブは自分の足元を見る。先程まで霜が降り、完全に凍り付いていた湖の氷であったが今は霜も消え始め、表面が溶けて濡れ始めていた。

 気温は一切変わらないにも関わらず溶けて行く湖の氷。明らかな異常現象。だがそれを見てもディネブは焦らない。

 こうなることは予め分かっていたからだ。

 

「時間稼ぎお疲れ様です。ディネブ殿」

 

 いつの間にか側にはヴィヴィの姿。その手には半ば放心状態の兵士長が掴まれている。

 

「もう少し早く出来てればここまで追い込まれずに済んだんですがね」

 

 ヴィヴィたちの前でどんどんと生物が湖へと沈み込んでいく。

 ディネブに時間を稼いで貰っていた理由は、この術式を発動させる為のものであった。

 通常はこれほどの質量の氷を融解させるのには多くの人員と大規模な魔法陣などが必要であるが、ヴィヴィは己の眼を最大限にまで利用してたった一人で行った。

 魔力を見ている対象に流し込む能力を応用し、湖中に魔力による魔法陣を刻み込むことで相手に悟られずに今のような状況を作り出していた。

 氷は生物を中心にして次々と水へと変わり、生物の身体を湖中に沈めて行く。何とか耐えようと前脚を突き立てるものの濡れた氷の上ではただ滑るだけであり、容赦なくその身体を呑み込んでいく。

 

「これで逃げる時間を稼げる」

 

 正直な所、ヴィヴィもディネブも完全に生物を湖に沈めた所で死ぬとは微塵も思ってはいなかった。この雪山に来たのはあくまで『とある目的』の為であり、生物との交戦ではない。

 少しでも逃げる時間を稼ぎ、相手がこちらを見失えばそれで良かった。

 だが、最後の最後まで相手はこちらの思惑通りに動かないということを、この直後に悟らされることとなる。

 沈み行く生物は天へと向かい、今までで最大の咆哮を上げる。

 声の振動だけで身体が大きく震える。幸いにもヴィヴィたちに向けられていなかったのでその程度で済んだが、もし直接向けられていたら命に関わるかもしれないほどの轟音であった。

 やがて生物の巨体は湖へと沈んでいく。

 最後の足掻き。そう考えることが自然であった。手も足も出ない状態でやったことと言えば大声を上げる程度。

 だというのにヴィヴィもディネブも表情が優れない。彼らの表情にあるのは勝者としての顔ではなく追い詰められた者の顔であった。

 そのとき地響く音と細かな震動が身体を揺さぶる。

 音も震動も時間が経つ度にその大きさを増していく。

 

「これは……!」

 

 考えるよりも先にヴィヴィは眼の力を使い音と振動の源を探る。

 答えはすぐに見つかった。

 雪山の斜面に積もる大量の雪が崩れ、それがこちらへと向かって凄まじい勢いで移動してきている。

 

「雪崩かっ!」

 

 ヴィヴィたちの頭に浮かぶのはあの生物の放った最後の咆哮。もしそれによって引き起こされたものならば――

 

「最後の最後まで楽をさせてくれないな」

 

 何処までも豪快なことをするあの生物に向けて忌々しげに吐き捨てる。

 放心状態の兵士長、疲労が限界に近いディネブ、ただでさえ真面に動けない二人がいる上に雪崩の速度はこちらの移動速度を完全に上回っている。

 迷う事無くヴィヴィはディネブと兵士長の腕を掴み、凄まじい速度で言葉を紡ぐ。息を継ぐ間も無く並べて行く言葉の羅列は、一つの音のように聞こえた。

 それから数十秒後、圧倒的質量を持った雪崩がその場を呑み尽くしていく。その場に在ったものを全て押し潰し、雪の下へと埋まらせていく。

 

「やれやれ……」

 

 それを上空から眺めるのはヴィヴィたちであった。ヴィヴィたちの足元には円形の魔法陣が描かれており、それが宙に居るヴィヴィたちの足場となっている。

 雪崩に呑み込まれる寸前にヴィヴィが詠唱したのは浮遊の魔法であった。

 

「このまま目的の場所まで飛ぶ――といきたい所だが流石に無理だ。適当な場所で降りてあとは徒歩で行く。あの怪物が埋もれている間にね」

 

 多量の魔力を消費している為、額から汗を流し顔には疲労の色を浮かべているヴィヴィは簡単な指示を出す。それにディネブは無言で頷くが、兵士長の方は殆ど反応しなかった。生物や仲間の死で精神がかなり消耗しているらしい。

 足元に描かれた魔法陣を動かし、魔力が続く限りなるべく遠くを目指す。その間もヴィヴィやディネブは生物への注意を怠らなかった。

 湖に沈み、更にその上に大量の雪が被さった状態であるが、二人は生物が生存していることについて微塵も疑いを抱かなかった。

 

 

 

 

 生物から逃げた後、どれほどの時間が経過したであろう。

 時折、周囲を確認しながら生物が後を追って来ていないことを確認しつつ、ヴィヴィたちの足は先を目指していた。

 ヴィヴィ、ディネブの表情には疲労の色が浮かんでいるもののその眼は足を進める度にギラつき、爛々とした輝きを放つ。

 それに追従する兵士長は対照的に、まるで人形のように淡々とした歩みであり、最初のときと比べるとその精悍であった表情は数十歳齢を重ねたように老け込んでいた。生物の重圧と恐怖、部下の全滅、それらが彼の肉体と精神を限界まで追い詰め、廃人寸前まで来ており、ヴィヴィたちに付いて行くのもただ少しでもそれらの記憶を紛らわせたい一心と、独りで居ればこのまま本当に壊れてしまいそうになる怖れからであった。

 

「……着いた」

 

 ヴィヴィの足が止まる。彼が止まった先には雪山に偶然出来た洞穴があった。

 躊躇う事無くその中へと入るヴィヴィ。その後ろをディネブと兵士長が付いて行く。

 光源など無い道であったが、何故か薄暗い程度。よく見れば洞窟の奥の方から光が見える。

 光の指す方を目指し、洞窟を抜けて行く。やがて目の前には自然かあるいは人の手によって出来たのか広がった空間が出てきた。天井には大きな穴が開いており、そこから日の光が入っているらしい。

 だがそんなことを気にする暇など三人には無く、その空間の中心で横たわるものに釘づけとなっていた。

 

「こ、これは……!」

「見つけた……ついに見つけたぁぁぁぁ!」

 

 それを見て慄く兵士長とは違い興奮した様子でヴィヴィは叫ぶ。それこそ周りに人がいなければ小躍りしそうな程であった。

 

「これだ! これだ! ようやく……ようやく! この時が来たぁぁぁぁ!」

 

 その場から駆け出し、それに駆け寄るヴィヴィ。

 

「これが……これがお前たちの目的なのか……! その化物が!」

 

 震える指先で示した先にあるのは真紅の鱗を持つ一頭の竜。大きな翼を畳み、眠るようにして横たわる体には霜が降りており、長い年月誰にも触れられていなかったことを現している。

 ヴィヴィは霜の降り立つ、岩壁のように荒々しい鱗に触れた。

 

「怯える必要は無い。こいつはとっくに死んでいる。死因はなんだろうな? 寿命か? 病気か? それともこっちの食い物は合わなかったか? まあ、どれでもいいか。これほど完全な状態で残っていることにこそ意味が有る」

 

 どこか危うい笑みを浮かべながら、舐めるようにしてその全身を眺めるヴィヴィ。その姿には狂気的なものが感じられた。

 

「あ、あいつといい……こいつといい……一体何なんだ……」

「知らんよ」

 

 兵士長の問いに対しあっさりとした態度で答える。だがその後に「――ただ」と付け加えた。

 

「基本的にこいつらは強い。いや、『強過ぎる』。この世界で生きる上で不必要なぐらい過剰な力を持っている。……どういった訳かね」

「何故、そんな生物が……」

「あくまでここから先は推測に過ぎないのだがね。もしかしたらこの生物たちはこの世のものではないのかもしれない」

 

 思いも寄らない言葉に兵士長の眼が見開かれた。

 

「馬鹿な――」

「馬鹿な話だと思うかね? だがそうでなければ納得が出来ないのだよ。この世のものでなければどこぞの魔法使いの優秀な弟子たちが皆殺しに遭うことも、その師が片目を失うことになることも、一騎当千とまで言われた部隊が成す術も無く全滅することも納得出来る。――そう、納得出来るんだよ!」

 

 語りながらヴィヴィは、今は無き己の片目に爪を突き立てるようにして触れる。指先から伝わってくる義眼の下の空虚。それに触れる度に思い出すのは嵐と共に現れ、全てを吹き飛ばし斬り裂いた鋼の龍の姿。

 ぎちりと奥歯を噛み締めるヴィヴィの顔は歪んだ笑みを浮かべている。

 

「だがようやくその力に手を届かせることが出来るかもしれない! この死骸はその為の一歩だ! この一歩の為にどれだけ血が流れ、屍が重なったのかは分からない。しかし、それは決して無駄じゃなかったという訳だ!」

 

 昂揚し演説を思わせるような声高な喋り方。最初のときの飄々とした雰囲気は既に無く、底知れない狂気が滲み出ており、その雰囲気に兵士長は呑まれつつあった。

 

「お前たちは……何者なんだ……?」

「ただの馬鹿だよ。大事なものを奪われ、勝てるはずの無い相手に戦いを挑む馬鹿――いや、狂人と言ってもいいかもしれない」

 

 自らを正気では無いと語るヴィヴィ。ディネブもその言葉を否定しない。

 

「――それで君はどうする?」

「何……?」

 

 言葉の意味が理解出来ず、呆けた言葉を返す。

 

「私たちと同じくアレに奪われた立場だ。……復讐したいという気持ちは湧かないかね? もし、そうだと言うのなら私たちの仲間に入ってもらいたい」

「わ、私は……」

 

 ヴィヴィが言うように兵士長はあの生物によって部下を全て皆殺しにされた。怒り、憎悪を抱いてもおかしくはない

 だが――

 

「わ、わ、私は……!」

 

 声が震える。あの生物の姿を思い出すだけで心の底から恐怖が湧き上がる。部下の死やそれに対する思いを全て塗り替えてしまうほどの恐怖が。

 

「まあ、普通の反応だ」

 

 兵士長の態度を見て、ヴィヴィの顔に浮かんだのは軽蔑や失望ではなく当然と言わんばかりの納得した表情であった。

 

「だとしたら私がすることは一つだ」

 

 突如、兵士長の顔を両手で挟み、頭を固定するとその眼を覗き込む。

 

「アレに関してはまだ公にするのは危険だ。功名心から先走って要らない犠牲を出す輩がいるかもしれないのでね。――少しいじらせてもらう」

「な、何を、私に何を!」

 

 ヴィヴィの眼が白い閃光を放ったように見えた瞬間、兵士長の記憶はそこで途切れるのであった。

 

 

 

 

 目を覚ます。見えるのは白い天井。目だけを動かす。周りを囲む白いカーテン。記憶に間違いが無ければここは兵士用の医務室である。

 

「目を覚ましたか」

 

 カーテンを開け、中を覗きこむ初老の男性。兵士長の更に上の階級であり、全てを総括する総隊長の位にある男性である。

 

「私は……?」

「大変な目に遭ったな……慰めの言葉にはならないが、君だけでも生き延びてくれて良かった」

 

 安堵する声を聞き、兵士長は何故自分がここにいるのか段々と思い出してきた。

 

「そうだ。私は雪崩に巻き込まれて……部下は全滅を……」

「監視目的であったが、まさかこのような不運が訪れるとはな。彼らの話ではたまたま君が近くにいたので助けることが出来たというが……」

「はい。それで間違いありません」

 

 雪崩によって部下が呑み込まれていく中、魔法使いの彼によって自分は救われた。それで間違いない。そう記憶している。

 

「当分はあの山へ行くことを禁止すべきです。いつ雪崩が起きるか分かりません」

「ああ、分かっている。既に手配をしている」

 

 総隊長はそういって白いカーテンを開く。開かれたカーテンの先にあるのは白い雪山が見える開放された窓であった。

 

「小さな頃よりずっと眺めてきた山だが、やはり自然というものは恐ろしい」

 

 日の光を受け、白く輝く雪山を見ながらしみじみと呟いたとき――

 地響きのような音が山の方から聞こえてきた。まるで大地を揺るがすような、深く染み込むような音。

 

「また雪崩か? なあ――」

 

 そこで言葉が止まった。

 声を掛けようとした兵士長が総隊長の目の前で頭を抱え込み、暗闇に放り出された幼子のように震えていたのだ。

 

「あれは……! あれは……! 雪崩だ! 雪崩の音なんだ! そうだ! そうなんだ! そうでなきゃいけないんだ!」

 

 まるで自分に言い聞かせるように声を荒げる兵士長。

 雪崩に怯えるのではなくそれ以上の何かに怯えていた。

 

 

 

 

「何か用かな?」

 

 一仕事終えたヴィヴィは、急遽連絡が入ってきた通信用の水晶石を耳に当てていた。

 

『ようやく繋がったか。お主、一体何をしていた?』

「何でもいいだろうが。一々報告するほど親しい仲でもないだろう、オー?」

『相変わらず態度が悪いのう……』

「まだすることが沢山あるんだ。要件は手短に言え」

『分かった、分かった』

 

 旧知の間柄であるオーの話を聞き、ヴィヴィは僅かに眉間に皺を寄せた。

 

「いいだろう。ちょうどそのギルドに向かうつもりだったのでね。ついでに視よう」

『感謝する。『天眼』よ』

「そのダサい二つ名で呼ばないでくれるか? それにとっくにその名は返上した」

 

 そう言うと相手の返答も聞かずに通信を切る。

 

「さて、ディネブ殿。どうやらまた新しいアレが出て来たらしい」

 

 それを聞くとディネブは置いてあった砲剣を無言で担ぐ。

 

「まあ、私たちのやることは変わらないか」

 

 そのときヴィヴィとディネブの耳に、風に乗って地響きのような音が聞こえてきた。それは間違いなくあの生物の咆哮である。

 それを聞き、ヴィヴィは口の端を吊り上げて笑う。

 

「今の所はさようならと言わせてもらおうかね。――だが、いつかお前たち殺してやる。必ずな」

 

 




ようやく後編が終わりました。
これで当初から出す予定だったモンスターたちの話を書き終わることが出来ました。
次回はまた番外の話になる予定です。


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狂蝕の山

 この手紙を誰かが読んでいる頃には、私はもうすでにこの世にはいないかもしれません。この手紙は、私がこの数日の間に経験したことの全てを書き記したものです。これを読み少しでも危機感を覚えたのであれば、ギルドの冒険者たちでも国の兵士たちでもいいので報せて下さい。 

 私が生まれ、育ち、これから先一生を過ごすと思っていた故郷の惨状を。

 私が暮らしていた故郷の村は地元では×××山と呼ばれている山の中にあります。そこで、私たちは山に住む獣を狩り、その肉を食料にし、残った骨や皮、油を業者などに売って生計を立てていました。

 決して裕福とは言えない生活ではありましたが、今になって思えば日々の充実を感じていました。

 しかし、ある日を境にその日々は崩れていきました。

 切っ掛けは何だったのか。こうやって書きながら私はふと思い出しました。

 全てが変わり始めた日の前日。この地域では珍しく台風が襲ってきたのです。

 激しい雨風に襲われ、家が軋みを上げる中、家が壊れないようにずっと祈っていた記憶があります。

 そして、翌日になって雲一つ無い晴天を皆で見上げ、村人たちと無事であったことへの安堵を共有していたとき、一人の子供がこう言ったのです。

 

 

 ◇

 

 

「悪魔を見た?」

「うん。あたし見たの! すっごい雨や風の中を鳥さんのように自由に飛ぶ真っ黒な悪魔を!」

 

 昨日までの暴風や豪雨が止み、狩り場の確認をする為に集まった狩人たちを前に一人の幼子が興奮気味に告げる。

 流石に真に受ける筈も無く、狩人たちは互いに顔を見合わせ軽く笑ったり、肩を竦めるなどしてそれぞれが子供の戯言だと思っていた。

 

「本当に見たんだってば!」

 

 自分の言葉が軽く取られていることを感じ、地団駄を踏みながら顔を赤くして大声で言う。

 

「そのときのことを詳しく聞かせてくれないかな?」

「おいおい。子供と話している場合か?」

「何かと見間違えたのかもしれないとは思うが、『私』はこの子が嘘を吐くような子だとは思っていないのでね」

 

 若い狩人――『私』は膝を曲げ、幼子と同じ視線の高さにする。

 

「聞かせてくれるかい?」

「うん!」

 

 自分の話を真剣に聞いてくれるのが嬉しいのか幼子は満面の笑みを浮かべて頷いた。

 

「あのね。昨日、寝ていたときなんだけどね。雨や風がすっごくうるさくて途中で起きちゃったの。そのときにね、今どれだけ雨が降っているんだろうなーって思って窓を開けちゃったんだー。そしたら、風がビュービュー入ってきたり雨がザバーって入ってきて濡れちゃうって思ってすぐに窓を閉めようとしたの。そしたらそのときにね、空を見たら羽をバサバサ動かして飛んでく真っ黒が飛んでたんだよ!」

 

 あっちに、と言って指を差した方向を見たとき、思わず『私』と他の狩人たちは顔を見合わせた。

 そこはいつも狩猟用の罠を仕掛けている場所であったからだ。

 

「成程、気をつけるとしよう」

「真に受けるなよ? 気にしていたら仕事になんないぜ?」

「用心に越したことはないさ」

 

 『私』とて幼子の話を鵜呑みにしている訳では無い。ただ、いくら子供が突飛なことを言うにしても、それにはきっと何らかの理由や根拠があってのことだと思っている。嵐の中で飛んで行った悪魔、それが一体何を意味するのか。

 不謹慎ながら少しだけ好奇心が湧いていた。

 話を喋り終えた幼子に礼を言い、『私』と狩人たちはそれぞれ狩りの道具を持って狩猟用の罠が仕掛けられている場所を目指す。無論、幼子の話を確かめに行く訳では無い。

 台風の影響で恐らく壊れているであろう罠を仕掛け直す為に向かっているのである。

 村を出て、山道を登りおよそ二時間が経過したとき目的地へと到着する。

 

「あ~あ……」

 

 着くと同時に何人かの狩人は壊れている罠の状態を見て、顔を顰めるか、溜息を吐くなどをしていた。

 時間を掛けて仕掛けた罠が完全に使用できなくなっているのを見れば無理も無い反応であった。『私』も表情や態度には出さなかったものの内心では落胆していた。

 

「まあ、こうなっていることは予め予想は出来ていたことだし、さっさと直そう」

「はぁ……そうだな」

 

 気持ちを切り替えて壊れた罠を修復し始める。狩りの道具で獣を狩ることが主な方法ではあり収入源ではあるが、罠や仕掛けなどで獲れる獲物も馬鹿にできない程度には稼ぐことが出来る。そもそも今の両方での狩りによって村は裕福ではないが貧困とは言えないぐらいの水準を保っているので、どちらかが機能しなくなると一気に貧困へと傾いてしまう。

 そのことを分かっている狩人たちは、愚痴を溢しつつも作業の手を抜くようなことはしなかった。

 

「ん……?」

 

 そのとき一人の狩人が作業の手を止め、軽く顔を顰める。

 

「どうした? 手が止まっているぞ」

「さぼるなよー」

「ああ、分かっているけどちょっと待ってくれ。……何か臭わないか?」

 

 若い狩人のその言葉を聞き、他の狩人は鼻を鳴らしながらニオイを確認する。『私』もまた他の狩人と同じようにしてニオイを嗅いでみるものの、鼻の中に漂うのは木々の匂いや湿った土の香りぐらいであった。

 

「別に変なニオイはしないなー」

「もしかしてお前自身のニオイじゃねぇの?」

「茶化すなよ。確かに一瞬だけど臭ったんだよ。いやな臭いがな」

 

 直後、周りの木々の葉が激しく揺れる。台風の名残を感じさせる強い風が吹いたのだ。それと同時に『私』を含め、狩人全員が反射的に顔の下半分を手で覆った。

 吹き抜けて行く風の中で確かに感じたのだ。鼻を衝くような生臭さが混じった強烈な血のニオイを。

 

「こいつは……」

「近くに死体があるな……『獣の』だといいが」

 

 冗談っぽく言うがその言葉を聞いて誰も笑うことはしなかった。村があるからといって基本的には人の目が少ない山である。実際にそういったことに遭遇した狩人も少なくない。

 本音を言えば獣以外のそういったものを見たくも無ければ触れたくも無いが、知っていて放置することは人として心の欠けた行動である。

 何よりも狩人たちの間ではそういったものは速やかに対処する決まりがあった。山というものは自分の山で育ったもの以外の穢れを払うことが出来ず、他所から来た穢れは山を弱らせ獣などが獲れなくなるという迷信が混じったものであり、これによって狩人たちは山で見つけた獣以外の死体はどんな状態であるにせよ山の麓まで運んで埋葬しなければならない。

 大きく息を吸い、吐いた後気持ちを切り替え『私』はニオイがした方へと向かい歩いていく。その後ろ姿を見て、他の狩人たちは溜息を一つ吐いた後、後に続く。

 ニオイのした方には道が無く草木が茂っていたが、それらを掻き分けながら先を進む。やがて漂うニオイがより強く、鮮明になってくるのを感じた。

 場所は近い。

 前方に積み重なった木々の枝を携帯していた鉈で斬り払い、その先を見たとき『私』は言葉を失った。

 

「どうした?」

 

 立ち止まる『私』を見て、心配して仲間が声を掛ける。

 

「一体何が……こいつは!」

 

 他の狩人たちもそれを見て絶句した。

 先に広がる空間。そこには無数の獣の死体が横たわっていた。それも一体や二体ではない。軽く見ても二十は超えている。

 

「何てこった……!」

「若い雌から子供まで無差別かよ……」

 

 その光景を見て何人かが天を仰ぐ。だが決して彼らは獣の死を悼んでいる訳では無い。全く無いとは言わないが、彼らの中にあるのは自分たちの生活のことであった。

 死体の群となっている獣は彼らが狩猟の主にしている獲物である。肉や骨、皮など全てにそれなりの価値が付けられているものである。

 故に乱獲などしないよう村の掟で一度に狩る量は定められており、狩る獲物の性別すら決められていた。

 しかし、目の前の惨状はそういったものを全て無視しており、狩人たちは自然にこれがどれほどの影響を自分たちに与えるのか考えていた。

 

「惨いな……」

 

 横たわる一匹に近付き、その亡骸を観察する。

 

「どこの馬鹿だ……! こんなことをするのは!」

「山のルールを知らない余所者か! もしくは頭がとち狂った奴かのどちらかだ!」

 

 現状、肉食の獣に食い荒らされたようには見えない為、人間の仕業だと思い怒りを露わにする狩人たち。

 しかし――

 

「……違うかもしれない」

「ああん?」

「違うって……どういうことだ?」

 

 亡骸を見ていた『私』が人の仕業を否定する台詞を言ったので、他の狩人たちは訝しんだ表情となる。

 

「これを見てくれ」

 

 指差したのは亡骸の腹部。そこには半月状の窪みが無数に出来ていた。

 

「おいおい……どういうこった?」

「こいつは……」

 

 その痕を見て狩人たちは目を丸くする。腹に刻まれた痕は間違いなくこの獣たちの蹄の痕であった。

 

「こいつだけじゃない。他にも同じ痕が残っている奴もいる」

「おい、待て。そうするとなるとこいつらは殺し合ったっていうのか? 自分たちの群の中で? ありえないだろう!」

 

 縄張りやボス争いで戦うことはあったとしても死ぬまで戦うことはまずない。そんなことをすれば自分たちの個数を減らすことになってしまうからだ。本能的にそれを理解している筈の獣が殺し合いをするなど、今までに前例の無いことであった。

 

「……あながち間違いではないようだぞ」

 

 別の狩人が他の獣の死体に近付き、その口を開ける。だらりと中から垂れる舌、そして滴る血と何故か転がり落ちる肉塊。その肉塊には獣と同じ体毛が生えていた。

 

「見ろ。食い千切られた肉片だ。踏み殺すだけじゃなく噛み殺そうともしていたようだ」

「……嘘だろ? こいつら草食だろうが……」

 

 牙を持たない獣が草木を磨り潰す為の歯を用い、相手の肉を噛み千切る程の力を行使する。まさに異常であり、言いようの無い狂気が感じられた。

 

「体の武器になるものなら何でも使って殺し合ったのか……」

 

 想像するだけで嫌悪が湧く。

 一体どういった切っ掛けがあればこのような事態が起きるのか、全く見当も付かなかった。

 無数の死体を前に陰鬱な空気が狩人たちの間に流れる中、奥の茂みが激しく揺れる。

 その音を聞き、狩人たちは皆、反射的に携えていた武器を構えた。

 草木の擦れる音が近付いて来る。相手との距離が縮まっている証である。

 何が出て来るのかは分からず、狩人たちの表情に緊張が走る。

 やがてそれが姿を現した時、皆が一斉に息を呑んだ。

 現れたのは死骸となっている獣たちと同種の獣であった。だがその姿は壮絶の一言に付きる。

 四肢の内、一本は真横に折れて曲っており三本の足で身体を支え、胴体の至る所には血が付着し、所々抉られた箇所がある。その内の一つは内部まで達しておりそこから内臓がはみ出ていた。

 満身創痍。一目見ただけでもう長くは無いことが分かる。身体を支える三本の足は震え、その震えに合わせて抉られた傷から血が滴り落ちていく。体から流れ落ちる血は通常の血とは異なり、数時間外気に触れていたかのようにどす黒く変色しており、その血に塗れた獣の姿は横たわる獣たちの死体よりもくすんで見えた。

 一見すれば半死半生。だがその獣を前にして狩人たちは動くことが出来なかった。折れた足も血塗れの身体も些細なことに思える程、強く意識を向けさせられたのはその獣の眼であった。

 赤く輝く眼。通常の獣ならばまずありえないことではあるが何故かその獣の眼は輝いていた。その輝きには美しさなど皆無であり、その眼を覗くだけで背筋から汗が流れ落ちる。怒りも苦しみも映さない眼、何を考えているのか一切自分たちに悟らせない。

 

『キィィィィィィィィィィ!』

 

 赤い眼の獣が吠える。それだけで全身から鳥肌が立ち、武器を持つ手が汗で湿る。

 およそ草食の獣には似つかわしくない歯を剥いた顔を見せる獣。その口からは血が混じった涎がだらだらと滴る。その表情に正気の欠片すら感じられなかった。

 いつでも飛び掛かれる体勢を見て、狩人たちはより警戒を増す。

 だが、鳴き終えた獣が次に見せたのはその場で崩れ落ちる姿であった。倒れた獣は口から血を吐いた後、痙攣した後そのまま動かなくなる。

 暫しの間、警戒して様子を見ていた狩人たちであったが、やがてその中で『私』が手に鉈を持って横たわる獣に近付き、鉈の先端で二度、三度獣の身体を突く。

 

「……大丈夫だ。死んでいる」

 

 既に事切れていることを確認した後、周りを安堵させるようにそのことを告げる。途端、緊張の糸が緩み、何人かが大きく息を吐いた。

 

「何だったんだコイツは……」

「もしかしたら、殺し合いで生き残った奴がコレなのかもしれないな……」

 

 怪我の後が他の獣の死骸と同じことからそう推測する。

 

「でも目ん玉があんなに赤く光ってたんだぜ? 俺はあんなの初めて見たよ」

「俺だってそうだ。いくら変な病気を貰ったからって目玉が光るかよ」

 

 先程の獣の姿を思い出しながら、獣の死体を眺める狩人たち。絶命している獣の眼は既に赤い光を放ってはおらず、生気を失った眼をしていた。

 他に何かおかしな点はないかと『私』や別の狩人が獣の死骸を探る。

 

「何だ?」

 

 探っていた狩人が訝しげな声を出す。

 獣の死体に触れていた狩人の指先には黒い粉が付着していた。

 狩人は徐にその黒い粉を鼻先に近付け、その匂いを嗅ぐ。

 

「毒……って訳でもないようだが……」

 

 何も匂いがしなかったのか軽く首を傾げ、手に付いた粉を不思議そうに見つめた。

 

「どうかしたのか?」

「ん? いや……」

 

 何かを見つめている姿を見て『私』は覗き込むようにして尋ねる。そこで『私』は狩人の手に黒い粉が付いていることに気が付いた。

 その狩人は特に粉について気にした様子も無く反射的に手に付いた粉を払う。

 そしてそのまま他の狩人の話の輪の中へと入っていった。

 

「それでこの死体はどうする?」

「処分するしかないな」

「やっぱりそれか……勿体無い」

「こんな状態じゃあ、売れもしないし肉も喰う気がしないよ。それともお前が喰うか?」

「やめてくれ。俺だって食べる気がしないよ」

「だったら日が暮れる前に処分しよう。何人か村に戻って道具や油を取ってきて、残りはここで見張りだ。またさっきのような変な奴が出て来るかもしれない」

 

 年配の狩人が指示を出す。特に反対する者は出なかった為に皆、指示通りに動くこととなった。

 それから数時間後。

 狩人たちは掘った穴に全ての獣の死体を入れ、そこに油を撒き、火を点けて焼却していた。

 大きな火柱が立ち、獣の焼ける匂いが場に満ち、肉や骨が爆ぜる音が場に響く。

 そんな中で『私』は思い出したようにあることを呟いた。

 

「そう言えばこの辺りでしたね。あの子の言う真っ黒な悪魔が向かって行った場所というのは」

 

 それを聞き、何人かの狩人が『私』に視線を向ける。

 

「……なあ、お前だってそんな話を本気で信じている訳じゃないよな」

「心の底から信じているという訳じゃないさ。……だけどあの子が指した場所にこんな異様な死体が転がっていた。偶然、で片付けるのはちょっとね……」

「やめろよ、薄気味悪い。ならこいつらが悪魔の呪いで殺し合ったって言うのか? 馬鹿馬鹿しい!」

「あくまで可能性の話さ。私も本当に悪魔が居るなんて思ってはいない。――ただ」

「ただ?」

「もしかしたらこの世には悪魔のように見える生き物が居るかもしれない、と思っただけさ」

 

 『私』の言葉を聞き、会話をしていた狩人は何とも言えない表情をしていた。強く否定したいが否定し切れない。煮え切らない感情が顔に出ていた。

 

「ふん。ならここらで悪魔探しでもするか? お前の話が正しかったら、もしかして見つかるかもしれないぞ?」

 

 それを聞き、別の狩人が口を挟む。

 

「話に熱が入るのは仕方ないがあんまり馬鹿なことを言ってんじゃないぞ。こいつらがこんだけ数を減らしちまったんだから、当分は他の獲物を狩ることに専念しなきゃならないんだからな」

「分かっている。冗談だよ」

 

 本気で受け取るなよ、と愚痴りながらその狩人は『私』から離れていった。

 『私』とて決して本気で悪魔の仕業などとは思ってはいない。このまま何事も無く、普段と同じ日々を送るのが一番望ましい。

 だが、それでも一抹の不安が心に張り付いていた。本当に元の日々を送れるのであろうか、という不安を。

 

 

 ◇

 

 

 翌日。獣の処理の為に後回しになってしまった罠の修復をする為に再び昨日と同じ面子の狩人が集まっていたが、『私』はそこであることに気付いた。

 

「あいつはどうした?」

 

 『私』の言うあいつとは昨日、狩人たちの目の前で息絶えた獣の死体を調べていた狩人のことである。

 

「ああ、あいつなら今日は休みだ」

「休み?」

「何でも疲れが全く抜けなかったそうだ。それでも本人は行くって言っていたが俺が止めとけって言って無理矢理休ませた。あんな顔色を見せられたら休めってしか言えねぇよ。二日酔いしていたみたいに悪かったぜ」

 

 少しおどけた態度で言うものの眼が笑ってはいなかった。こちらを心配させまいと敢えて症状を軽めに言ったのではないかと『私』は考えた。それをわざわざ指摘するのも無粋で在る為、『私』は嘘であると分かりつつもその冗談に乗り、『なら二日酔いに効く薬草を後で届けないと』と自分も冗談を言った。

 他愛の無い会話であるもののほんの少しではあるが、不安が和らぐ。

 

「いつまでも喋ってないで行くぞー」

「ああ、分かった」

 

 他の狩人もとっくに準備出来ていたらしく『私』たちに催促するので、『私』は頷き、村を出て再び山へと向かうのであった。

 だが山の中を進むごとにある違和感を覚えていく。普通の人間ならば気付かない程細やかなものであったが、山で生活をする狩人たちはその違和感を敏感に感じ取っていた。

 誰も口には出さなかったが皆、心の中である共通の感想を抱く。

 

『静かすぎる』

 

 絶え間なく聞こえる鳥の鳴き声、時折、聞こえてくる獣の遠吠えや草木を踏み締める音。山に入れば必ずと言っていい程聞こえてくるそれらの雑音が、一切聞こえてこない。

 自分たちが落ち葉を踏みしめる音。衣服が擦れる音。それだけが耳に入ってくる。

 この不気味な沈黙が何なのか分からず、彼らは漠然とした不安を胸に抱いたまま昨日の罠場に到着すると、中断していた作業を再開した。

 その間に狩人は皆、冗談や軽口などを言い合っていた。一見すれば明るい雰囲気に包まれているようだが、その内心はいつまでも続く山の沈黙に耐え切れず、それから逃れる為の空元気であった。

 それは狩人たちも自覚していることであり、誰もが顔に笑顔を張り付けているものの心から笑っている者は誰一人としていなかった。

 台風で壊された罠を全て修復した帰り道、狩人たちは来た道を帰っていた。山はまだ静かであり、狩人たちの間でも会話が無い。

 罠の修復時に話の話題を全て話しきってしまった為、会話の種も無く空元気も底をついてしまっていた。

 大して疲労をしていないのに狩人たちの雰囲気は重く、それに合わせたかのように足取りも重い。

 何でもいいから山の音を聞きたい。そんなことを誰しも考えていた時、ある音が狩人たちの耳に届く。

 

 チチ、チチチ、チチチチチ、チチチチ。

 

 それは紛れも無く鳥の鳴き声であった。それもかなり近くから聞こえてくる。

 自然の音に飢えていた狩人たちの足は自然と声のする方に向けられる。

 茂みの向こうの地面近く。声で位置を把握した狩人たちは逃がさないように音を殺しながら接近し、その茂みの向こうを覗いたとき――

 

「なっ!」

 

 誰もが絶句した。

 血塗れの野鳥を取り囲む同種の野鳥たち。取り囲んだ野鳥たちは最早、羽ばたくことの出来ない血塗れの野鳥を執拗に啄む。

 

 チチ、チチチ、チチチチチ、チチチチ

 

 啄まれる度に上がる野鳥の苦鳴。だがそんなことなど一切構う事無く周りの野鳥たちは執拗に嘴を突き刺す。

 何度も何度も繰り返される攻撃。その都度鳴く野鳥。

 肉食ではない野鳥が行う残虐な所業は、狩人たちには悪夢のように見えた。

 やがて血塗れの野鳥は苦鳴すら上げなくなり、完全に息絶えてしまう。だがそれでも周りの野鳥たちは攻撃を止めず、野鳥の原型を崩すように啄み続ける。

 

「くそっ!」

 

 あまりに不愉快な光景に耐え切れなくなったのか狩人の一人が茂みから飛び出し、周りの野鳥を追い払おうとする。

 狩人が飛び出した音に反応し、啄むのを止め、野鳥たちは狩人の方に顔を向けた。

 野鳥たちの顔を見たとき、狩人たちは戦慄する。

 振り向いた野鳥の眼が赤く輝いていた。それは昨日見た獣と同じ症状である。

 

「こいつも……」

 

 飛び出した狩人の脳裏に昨日の光景が蘇る。

 そのとき、赤い眼の野鳥たちが狩人の動揺している隙を狙い、一斉に飛び掛かってきた。

 

「うわっ! くそっ!」

 

 慌てて手を振り回し、追い払おうとするが野鳥たちはそれをするりと避け、頭や目などを狙い嘴で突いてくる。

 

「待ってろ!」

 

 それを見た他の狩人は手に鉈や小刀を持ち、襲われている狩人に走り寄ると手に持つ武器を振るう。

 相手が小さい為に中々当たらなかったが、野鳥たちが逃げることをせずに距離を詰めてひたすら攻撃を繰り返していることもあり、やがて狩人の振るった武器がその身体へと命中する。

 首を半ば切断されるもの、胴体が半分千切れかかるもの、片翼が完全に斬り落とされるもの、とどの野鳥も致命傷を負いながら地面に落下する。

 しかし、それでも野鳥は赤い目を輝かせ、這いつくばりながら狩人たちの下へ行こうとするもすぐに限界を迎え、どす黒い血を吐き絶命する。

 

「なあ、これって……」

「ああ、昨日の奴と同じだ……」

 

 野鳥の死体を見て尋ねてくる狩人に『私』は同じことを考えていたのですぐに肯定した。

 木の実や虫などを食糧としている野鳥が同種の仲間を死ぬまで嬲り、人間相手に怯まずに襲い掛かる。昨日の獣と同じく、尋常では無く凶暴になっていた。

 

「一体どうなっているんだ!」

 

 事態について行けず半ばヤケクソ気味に言う狩人。だが、それを咎めるものはいない。誰もが同じ心境であった。

 

「分からない。……本当に分からない」

 

 恐ろしい早さで変貌していく山に『私』はそう言葉を漏らすしかなかった。

 

 

 ◇

 

 

 言葉に出来ない不安を抱えたまま狩人たちは野鳥を昨日の獣と同様の方法で処分をした後、いつものように獲物を探す為に山を駆け巡る。だが、静けさに満ちた山の中では全く獲物が見つからず、結局日が暮れるまで粘ったが成果を得ることは出来なかった。

 村にはそこそこの食料の貯蓄は有るが、村人全員で分けるとなると数日も持たない程度でしかない。

 

「今日の夕飯は干し肉だな」

 

 そう言って狩人の一人が無理矢理笑みを作る。それを見た他の狩人たちも似たような笑みを浮かべた。勿論、『私』も同じく笑みを浮かべる。

 言ったことが面白かったからではない。ただそうしなければ陰鬱な気持ちを引き摺ったまま村人たちに会いたくなかったからだ。

 空しい作り笑いであることは自覚している。しかし、自分たちの今抱えている不安を村人たちに伝播させたくなかった。

 村の入り口にまで帰ってくると出迎えの村人が何人か立っていた。今日の成果がゼロだったことを告げると村人たちは気にするな、こういう日もあると言ってくれた。

 気を遣わせてしまったことに申し訳無さを感じつつ、その温情を甘んじて受け、明日は必ず獲物を獲ろうと心の中で誓う。

 他の狩人たちと別れると『私』は一人自宅へと戻る。以前までは両親と暮らしていたが今は二人とも他界している為、独り暮らしをしている。

 自宅の扉を開ける度、昔の習慣でただいまという言葉が喉まで出かかる。それを抑えながら『私』は狩猟用の道具を全て置き場へ戻し、土や草などで汚れた衣服を取り換える。

 着替え終わると保存していた食糧を取り出し、簡単に調理してから食す。保存を優先している為、味も歯触りも良くは無いが贅沢も言えないので我慢しながらそれらを胃へと落とした。

 食後は、今日使用した狩猟道具の手入れをする。明日は必ず成果を出したいのでいつもよりも念入りに行う。

 道具の手入れを終えるともう既に星が輝く夜になっていた。

 夜更かしをして明日、十分の力を発揮出来なかったら困るのでいつもよりも少しだけ早く床へ着く。

 これで今日が終わる。『私』はそう考えていた。

 ――このときまでは。

 

 キャアアアアアアアアアアア!

 

 深夜。女性の叫び声で目を覚まし、転げ落ちるようにベッドから出る。

 目覚めたての頭が一気に覚醒する程の絶叫。明らかに普通では無い。

 獰猛な獣が村の中に迷い込んだのかと考え、『私』は狩猟用の道具を手にして家から出る。

 外には叫び声を聞きつけ、他の狩人たちも家から出ており、『私』と同じく狩猟道具を持っている。

 

「何処だ! 誰が叫んだ!」

「おい! 無事か! 返事をしろ!」

 

 日が出ていない為、月明かり程度しか照明の無い状態なので周囲を確認出来ず、呼びかけてみるが返事は無い。

 

「おい! 灯りを! 早く!」

「待て! 焦らせるな!」

 

 松明に火を点けようとしている狩人を急かすが、こういう非常事態に限って火の点きが悪い。

 

「――待て。静かにしろ」

 

 狩人の一人が何かに気付き騒がないように指示を飛ばす。それに従い、皆口を閉ざすと微かにではあるが音が聞こえてくる。

 まるで生肉でも叩いているかのような湿った音の混じった殴打音。

 

「こっちだ!」

 

 音の場所を聞き分けたのか、狩人の一人が走り出し、全員後に続く。

 間も無くして音源の場所へと着いた。そこは――

 

「あいつの家か?」

 

 今日、体調不良を理由に狩りに参加しなかった狩人の家であった。確かに家の中から先程の音が聞こえてくる。

 

「どうした!」

 

 勢い良く扉を開ける。だが何故かそこで立ち止まってしまった。

 

「何をしている!」

 

 入ろうとしないのを見兼ねて他の狩人が強引に押しのけて入ろうとするが、扉の向こうを見たとき同じく固まってしまった。

 灯りの無い部屋に何故か輝く二つの赤い光。それは正気を失っていた獣や野鳥と同じ光であった。

 まさか、という考えが狩人たちの脳裏に過ぎる。

 

「大丈夫か!」

 

 松明に火を点けていた狩人がようやく点いた松明を持って少し遅れて合流する。

 その灯りが部屋の中を照らした時、狩人たちは声を上げそうになった。

 双眸を赤く輝かせるのはやはり体調不良を訴えていた狩人であった。そしてその足元には顔の原型が無くなるまで殴打された女性が横たわっている。

 横たわる女性はその狩人の妻であった。

 

「何を考えている!」

 

 自分の妻にこのような真似をしたことに仲間の狩人は怒号を上げるが、双眸が赤く染まった狩人は獣のような声を上げると、怒る狩人目掛けて飛び掛かった。

 一瞬にして地面に倒されたかと思えば、跨れたまま頭を鷲掴みにされそのまま後頭部を何度も地面に叩き付ける。

 

「止めろぉぉ!」

 

 突然の凶行に仲間の狩人たちは一瞬反応が遅れてしまったが、跨る狩人を引き離そうと腕などを掴む。

 だが跨る狩人の膂力は凄まじく、狩人の二、三人が止めようとも動きが止められない。

 ついにはしがみ付く狩人たちを腕力で振り払い、自由になった両腕を下にいる狩人へ容赦無く叩き付ける。

 最初の一撃で歯と血が舞う。殴られた狩人の顔が拳の形へと変形した。ただ殴った方の手も無事では無く歯によって肉が裂け、その部分から骨が露出している。よく見れば指の方も何本か歪に曲がっており、明らかに折れていた。

 実の妻を殴打したときに骨折したらしいが、折れた指で拳を作っていることを理解した常人の神経を持つ狩人の何人かはそれだけで腰が引けてしまう。

 そのまま容赦無く殴り続ける狩人。それを止めようと『私』を含め、他の狩人たちがその身体にしがみついて止めようとするもののその度に振り払われる。

 

(どうする!)

 

 『私』は狂った狩人の腕に体を押し付け、辛うじて止めながらもどうやってこの暴走を抑えるか頭を働かせる。

 そのとき――

 

「そのまま離すな」

 

 しわがれた声。この中で最も年配の狩人の声である。

 何か策があるのかと、言われた通り押さえ続けた。

 ダンッという軽い音がする。あれ程まで強く暴れ続けていた狩人の腕から急速に力が抜けていく。

 この瞬間、『私』は呼吸をすることすら忘れてしまう程の衝撃を受けた。

 暴れていた狩人の顔を半分に割る鈍色の鉈。頭頂部から顔の半ばまで入り込んだそれは言い訳のしようが無い致命傷であった。

 鉈の柄を握る狩人はゆっくりと鉈を引き抜く。それに合わせて狩人だったものの体勢がぐらりと崩れた。

 血と肉、そして薄紅色の液に濡れた刀身が露わになり、やがて完全に抜かれると鉈の先端部分に見慣れない灰色の肉片が付着していることに気付く。それが何の一部かを悟ったとき、猛烈な吐き気が込み上げてきた。

 

「う、うおえっ!」

 

 堪えることが出来なかったのか若い狩人の一人が人目を憚ることも忘れ、嘔吐する。普段、獣などの解体などをして血や肉などに見慣れている筈であったが、やはり人と獣とでは受け取る衝撃が違い、割り切れなかったらしい。

 何度も吐く狩人に別の狩人が手を差し伸べ、死体を見ないように何処かへと連れて行く。

 『私』も気を緩めれば吐いてしまいそうになるのを懸命に耐え、腕にずしりと圧し掛かってくる狩人の死体を慎重に地面へと寝かせた。

 

「お前……」

「分かっておる。だが話は後だ。そっちの具合はどうだ?」

 

 年配の狩人は何か言いたげに話しかけられたがそれを後回しにし、先程まで殴打されていた狩人の体調を尋ねる。

 

「息はしているが、不味いな……骨までいっているかもしれない。山を下りて街の医者か術師に見せないと……」

「そっちは?」

 

 妻の方を尋ねるが、様子を見ていた狩人は無言で首を横に振る。既に手遅れであったらしい。

 

「なら早くそいつを医者に見せないとな。ワシが運ぼう。街までの最短距離を知っている」

 

 年配の狩人の申し出に狩人たちは思わず目配せをした。理由はどうであれ人を殺めている。この機に乗じて逃げるのでは、という考えが頭に浮かんでしまった。

 『私』も他の狩人と同様のことを考えてしまう。村の者が村の者を殺めた場合、村から追い出すという掟があるが、今回のような状況ではそれをそのまま適用するのは難しい。年配の狩人のおかげで救われた命もある。

 

「別に逃げはしない。裁くのであればきちんと罰を受ける。それに一人で行くわけじゃない。最低でも後二人は必要だ」

 

 皆の考えを見透かしたように年配の狩人は苦笑を浮かべながら、逃げる気など無いことを説明する。

 ここで議論していても仕方がないし、その間にも傷付いた狩人の命は弱まっている。

 狩人たちは素早く手伝う者たちを選別し、重傷人を運ぶための道具を用意、道具が準備できるまでの間に出来るだけの応急処置を重傷の狩人に施す。

 やがて即席で出来た担架の上に怪我人を乗せると、年配の狩人を先頭にして山を下りる準備が整う。

 その去り際、怪我人を運ぶ狩人の一人に『私』は近付き、小声で言った。

 

「仮に逃げるような真似をしたら……そのときは何としても引き止めてくれ」

「……分かっているよ」

 

 殺した理由が理由なだけにこのまま追放というのはあまりに酷である。ましてや年配の狩人には身内が居らず、追い出されでもしたら天涯孤独の身になる。同じ村で生きてきた者としてはそのような目には合わせたくなかった。

 松明で道を照らしながら数人に狩人たちが山を下りていく。

 そのとき『私』は指先から何かが滴るのを感じた。滴る液体に鼻を近づけると鉄と似たニオイがする。暴れ狂う狩人が殺された時、血が飛んだのを思い出し、そのときの血が付いたのだとすぐに分かった。

『私』は血を綺麗に拭う為、暗い場所から松明の近くに行く。そして、汗などを拭く為の布を取り出し、手に掛かった血を見たとき『私』は絶句した。手に付いた血は本来の赤色では無く、真っ黒な色をしていたのだ。時間が経てば血も黒くはなるが、血が付いてからそれ程の時間は経過をしておらず、またこのように光すら反射しないほどどす黒い色にはならない。

 付いた血の不気味さに慌ててそれを拭う。肌が痛みを感じるぐらい強く拭き、少しの汚れも残さないようにした。

 やがて完全に拭い終えたとき、ふと『私』は下りて行く狩人たちの方を見た。

 その背は既に小さくなっている。拭い終えた血と同じ色をした夜の暗闇の中に消えていくその後ろ姿を見ながら、『私』は何故か漠然とした不安を胸に抱くのであった。

 

 

 ◇

 

 

 松明の灯りを頼りに整っていない山道を怪我人を担いでひたすら走る。怪我の状態は時間が経過すればするほどに悪化していく為、少しの間も速度を緩めることが出来ない。

 通常の人間ならばすぐに疲労が溜まり動けなくなってしまうが山で育ってきた狩人たちにとってみれば慣れた道であり、担ぐ怪我人の重さも獲物を運ぶのに比べれば軽いものであった。

 山の麓にある街に最短で目指す一行。このまま行けば数十分後には医者に怪我人を見せることが出来る。

 だが事はそう思い通りには進まない。それどころか当人たちが望まない方向へ勝手に進んで行く。

 

「待て」

 

 年配の狩人が突如、止まるように指示する。その声に他の狩人はつい足を止めてしまったが、一刻を争う状況である為、すぐに指示の意味を問う。

 

「一体、どうしたんだ?」

「いる……何かがこの先に……姿は分からないが……こんな感覚は初めてだ……」

 

 声を潜めながら語る年配の狩人の顔からは血の気が引いており、明らかに緊張した状態であった。他の二人は何も感じなかった気配。長い年月を狩りに掛けてきた年配の狩人のみが、言い知れない恐怖を覚えていた。

 

「お前たち、道を変えろ。出来るだけここから離れた道を行け」

「そんなことは出来ない。今から道を変えるとこいつの命が危うくなる」

「変えなければ、死ぬのは一人じゃ済まなくなる」

 

 年配の狩人は腰に差してある鉈を引き抜いた。それを見て、狩人二人はびくりと肩を震わせる。しかし、その刃は二人には向けられない。

 

「……気付かれた。こうもあっさりと。鼻がきくのか、あるいは耳がいいのか……」

 

 気付かれたことに気付いた彼は、鋭い声を二人に飛ばす。

 

「いますぐ行け! ここでワシが少しでも時間を稼ぐ!」

 

 険しい表情で言うものの、いまいち現況を掴めていない二人は迷うような表情を浮かべる。もしも、年配の狩人が人を殺していなかったのであればすぐに従っていたであろうが、今の彼は人殺し。それ故に不信感が芽生えてしまい、その言葉を素直に受け取ることが出来なかった。

 哀しいかな老人の命を賭した行為はただの空回りとなっていた。

 だが、彼の焦りもすぐに狩人二人に伝わるものとなる。明らかに変化していく周囲の状況によって。

 最初に起きた変化は暗くなっていく周りの光景であった。いくら夜であっても、木々がそれほど生い茂ってはおらず空から月光が注ぐ中、それなりの明るさがあった。しかし、徐々にその光は薄暗いものとなっていく。月が雲に隠れた訳では無い、月光と狩人たちの間を覆う何かが光を遮り始めていた。

 周りどころか近くにいる者すら見えなくなっていく。手に持つ松明の光も周りを照らすことなく光を吸収されているかのように役立たずとなっていた。

 

「お、おい! 何だこれ!」

「し、知らねぇよ!」

 

 黒く塗り潰されていく中、見えなくなっていく仲間の存在を確かめるように大きな声を出し互いの存在を確認し合う。

 

「アレは……」

 

 狩人二人が混乱する中、年配の狩人は暗く染まっていく光景の中、前方に見知らぬ光を見つけた。

 最初は紫色の小さな光であったが、その光が大きくなるにつれ色が変化していき紫から青色へと変わっていく。

 

「不味いかもしれんな……」

 

 狩人として培ってきた経験が最大級の警鐘を鳴らすが、同時に最早手遅れであることを否が応にも悟ってしまう。

 やがて光は更に大きくなり、青から赤紫へと変色したとき――

 

 

 ◇

 

 

「遅いな……」

 

 怪我人を送り出してからかなりの時間が経過していた。夜が明け、既に日も高くなっている。

 だというのに誰一人、容態を伝える為に戻ってくることは無かった。

 必要以上に治療に手間取っているのかとも考えたが、それでも遅すぎる。

 結果が良いか悪いのか、未だに分からず待機していた狩人たちは気分が落ち着かなかった。

 

「……こっちから向かうか?」

 

 痺れを切らしたのか『私』は皆にそう提案する。他の狩人たちも『私』と同じことを思い、それを誰かが言うのを待っていたのか反対する者は無く、数名の狩人が選ばれ山を下りることが決まった。

 勿論、言い出した『私』も山を下りる面々の中に入っている。

 一応の準備を整え、『私』たちは怪我人を送る為に通ったと思われる道を辿りながら、万が一のことも考えながら年配の狩人たちの姿も探す。

 昨日と同じく相変わらず静まり返った山の中を見渡しながら、『私』たちは進む。

 しかし、特に何の発見も無いまま街までの残り三分の一程までの距離となっていた。

 このまま何事も無く、無事街に辿り着き、街医者の所に年配の狩人たちが居ることを願いつつ歩を進める。

 

「うっ!」

 

 そう思った矢先、風の流れの中に混じって耐えがたいニオイが鼻孔を刺激し、『私』は反射的に鼻を押さえた。

 強い鉄のニオイ。山の中で何度かそれを嗅いだことがある。ニオイを辿ると必ずと言っていい程、肉食の獣に襲われた獣の死体がある。

 ならばこのニオイを辿った先になにがあるのか。

 普通に考えれば、恐らくは獣の死体である。だがこのとき『私』はその考えを安易に肯定することが出来なかった。

 『私』は他の狩人たちに目配せをする。このニオイが何なのか探るという意味を込めて。

 狩人たちは首を縦に振り、先行する『私』の後ろに付いて行った。

 ニオイは街への道から外れた方向から漂ってくる。少なくとも『私』の記憶ではこの方角には何も無かった筈であった。

 生え茂った草を掻き分けて奥へ奥へと進む。先を進む毎にニオイが強くなってくるがそれに比例して道も険しくなり、垂れた蔦が進行の妨げをしたり、木々の間に張られた虫の巣が体に張り付き不快な気分になる。

 ある程度、奥まで進んだとき道なき道にある変化があった。

 折れた小枝、草を掻き分けた跡。明らかに人が通った形跡がある。その跡を辿り、更に奥へと進む。

 それから間も無くして目に映り込んだ光景。『私』はこれを生涯忘れないであろうと思いながら呆然と立ち尽くす。

 赤黒く変色した肉塊。本来がどのような形であったのか分からない程に原型が崩されていた。これだけならばまだよかった。元が何であったのか分からずに済んだ為に。だがその肉塊に混じり、あるものの切れ端が幾つも飛び出していたのである。

 動物の体毛や植物を加工して作られた布。それはとある村の女性たちが編み込み、衣服の材料となっている。

 『私』も良く見知ったものであった。何故ならば『私』もまた同じ材質の衣服を纏っている故に。

 更に追い打ちを掛けるように肉塊の近くには血で赤黒く汚れ、しわくちゃになった布。その近くには砕けた二本の棒がある。

 どう見ても怪我人を運ぶ時に『私』たちが急いで作った担架の残骸であった。

 認めたくはないが認めざるを得なかった。目の前に放置された肉塊がかつての村の仲間のなれの果てであることを。

 

「うっ!」

「ああ……あああ!」

 

 遅れてきた他の狩人たちも肉塊を見て顔を顰め、それの正体に気付き表情を蒼褪めさせる。

 ふらふらとした足取りで仲間の遺体とも呼べないものへと近付く『私』。怪我人を送った皆が全滅しているという現実に上手く体が動かせない。

 そのとき『私』は奥の茂みで何かが光るのを見た。よく見ればそれは狩人たちが持っている鉈である。

 慌てて近寄ると鉈とそれを持つ手が見え、そしてその先には茂みから飛び出して横たわる年配の狩人の姿があった。

 

「大丈夫か!」

 

 声を出し、横たわる年配の狩人の両肩を持ち上げる。

 

「あ……」

 

 そこで『私』は固まってしまった。何故なら持ち上げた狩人の重さが自分の想像よりも遥かに軽かったからである。

 両肩を持ったままよろめくように後ろへと下がると、年配の狩人の『上半身』が茂みから出て来た。

 そう上半身のみである。腹部から下はそこには無かった。

 

「つっ! う……! くう……!」

 

 僅かに開かれた瞼から覗く光の無い眼を見て絶叫を上げそうになる。いっそ喚きたくなる。胃の中のものをすべて吐き出し、何もかも見なかったことにして目の前の現実を全て否定し逃げ出したくなる。

 どうしてこうなったのか。何故、こんなことが起きたのか。考えても分からない。

 心の一部が死滅したかのような気分で『私』は年配の狩人の上半身を完全に引き摺り出すと、奥の茂みに入り残りの下半身が無いか探す。

 ここまで来ると半ばヤケクソであった。

 目的のものはすぐに発見することが出来た。

 上半身のみの遺体から数メートル程離れた先に下半身が残っていた。

 だがその残された下半身も普通では無い状況に置かれている。

 人の胴体よりも遥かに太い切り株に背を預けるようにして年配の狩人の下半身が残っていたが、切り株のすぐ側には倒木があった。

 明らかにその切り株のものと思われたが、そうするとおかしなことになる。

 切り株を見る限り何度も切り付けた痕跡は無く、明らかに一撃で倒されたとしか思えない程の切り口であった。

 つまりこの木は年配の狩人ごと切り倒されたということになるが、どう考えても異常である。

 『私』が知る限りこれほどの大木を一撃で倒す生物など記憶には無い。敢えて候補を挙げるならば竜種であるがこの地域に竜種などは存在せず、竜種であってもこれほど綺麗な断面を残して切断など出来る筈が無かった。

 一体何に襲われたのか。考えれば考える程、分からなくなってくる。

 そのとき『私』はふと遺体の下半身を見てあることに気付いた。衣服の一部に何か黒いものが付着している。

 『私』はその辺りに生えている葉を一枚取ると手に鉈を持ち、慎重な手付きで衣服に付いた黒いものを鉈で擦り、葉の上に落す。

 葉の上に広がる黒い粉。鉄粉、あるいは炭を細かく砕いたもののように近い。

 この粉を『私』は一度見たことが有る。山での最初の異変の時、後に凶暴化した狩人が見つめていた黒い粉と酷似していた。

 黒い粉。何故か『私』にはこの一連の異変に深く関係しているように思えた。

 何か特別おかしいという訳では無いが、『私』は自分が感じたまま注意深く観察をする。

 すると――

 

「おい」

「うわっ」

 

 観察の最中に声と共に肩を叩かれ、つい驚きの声を上げ、その拍子で手に持っていた葉を地面に落してしまう。

 

「何をぼうっとしてんだ。……早くこいつらを土に埋めるぞ。このままだと獣たちに食い荒らされるかもしれない」

 

 連れの狩人に言われて『私』は随分と気が抜けていたことを自覚する。血や臓物のニオイは野生の獣を引き寄せる。『私』たちから見れば仲間の死体ではあるが、獣たちにとってはただの餌でしかない。

 連れの狩人が言ったように一刻も早く土に埋め、ニオイを隠さなければ無惨な仲間の死体がこれ以上惨たらしいものとなる。

 色々と気になることはあるが、今はまず死んでしまった仲間たちの誇りと尊厳をこれ以上汚さないようにしなければならない。

 『私』たちは道具や木の棒、手などを使い適度な穴を掘るとそこに仲間の死体を入れ、土を被せる。

 仕上げに獣たちが嫌がるニオイを放つ木の実を潰し、土の周辺に撒いた。これで土を掘り返される可能性は低くなる。

 

「……行こうか」

 

 土に埋まった仲間たちの姿を目に焼き付け、『私』たちはこのことを伝える為に村へと戻る。

 葬った彼らをきちん埋葬するには人手が必要であり、どうしても一度は村に戻らなければならない。

 後ろ髪を引かれる思いで『私』たちはこの場から去るのであった。

 

 

 ◇

 

 

 村に到着する頃には既に日は大分傾いており、茜色の陽光が村を一色に染め上げていた。

 村に着くと村人の何名かが『私』たちの姿に気付き、近寄って来る。何故かその手には焼けた肉が載った大きな皿が持たれていた。

 『私』はその手の上に乗っているものに注目してしまう。

 

「それは――」

「おかえりなさい!」

 

 『私』が言うよりも先に村の女性たちから迎えの声が掛けられる。その声に気付き、狩人仲間も近付いてきた。

 

「どうだった?」

 

 そう尋ねられたので『私』は無言で首を横に振る。

 

「……全員か?」

 

 『私』の首が今度は縦に振られた。

 それを見た狩人仲間は沈痛な面持ちとなる。『私』にはその気持ちが良く理解出来た。彼らの無惨な遺体を見たときおそらく同じ表情を浮かべていたであろう。

 

「聞かせてくれ」

 

 狩人仲間に応じ、『私』は何があったのかを報せる為に他の狩人たちを集め、『私』たちが何を見て、何をしてきたのかを伝える。

 話が終わるまで他の狩人たちはそれを神妙な顔をして聞いていた。

 

「……そうか、分かった。明日、みんなであいつらを迎えに行こう」

「しかし、一体何に襲われたっていうんだ?」

「長いことこの山で生きてきたが、そんな化物なぞ見たことが無いどころか話すら聞いたことが無いな」

「山狩りでもするか?」

「ならもっと人を集めなくちゃならない。……適当なことを言って街の奴らやギルドの冒険者でも呼ぶか?」

「街の奴らはともかくギルドはな……足元を見られるかもしれないな、特に俺らみたいなもんは」

 

 全てを聞き終えた狩人たちは口々にこれからのことについて話し合う。故人を悲しむ素振りを見せないのは単に薄情だからではない。故人にとってきちんと葬ること、そして仇が居ればそれを討つこと、そのことが最上の供養であると分かっている為、先のことを考えているのである。

 話が大分煮詰まってきたとき、ふと『私』はあることを尋ねた。

 

「ところであの肉はどうしたんだ? 何か捕まえたのか? 最近、全く獲物を見なかったんだが……」

 

 『私』たちが山に入っていたときですら鳥の声一つ聴こえなかった状態で、しかもかなりの量の肉があることから大物もしくは大量に狩猟したことに『私』は驚きを感じていた。

 

「それがな……」

 

 彼らが言うには今日、山に入ったところ偶然にも特大の獲物を発見したという。それも数年に一度出会えるかどうかの獲物だったらしい。その獲物がこちらに気付かないうちに狩人たちが一斉に仕留め、今に至るという。

 その話を聞いたとき、『私』は漠然とした不安に襲われた。ここ数日の間、異常な行動を見せる獣を見たせいで神経が過敏になっているのかもしれないが、それでも聞かずにはいられなかった。

 

「獲ってきたやつに……何か変な部分は無かったか? ……例えば変なものが付いていたとか……」

 

 脳裏に過ぎるのは年配の狩人に付着していた黒い粉。それがどんなものであれ、山の異変の原因という確信は無い。しかし、黒い血を流す獣の姿を見ていた『私』には何らかの関連性があると思っていた。

 

「ああ、もしかしてここ最近、変な獣ばかり出ているから気にしているのか? 安心しろ。ちゃんと調べているし、食べている肉だってきちんと火を通してある。前のみたいに目だって赤くなかった」

 

 何も考えずに食べている訳では無いと告げる狩人。

 

「……そうか」

 

 『私』は差し出された肉の皿に目を落とす。厚めに切られた肉は炭火で良く焼かれており、赤身の部分や脂身の部分からは良質な獣の油が浮き出ている。

 人としての本能から肉のニオイが鼻孔に入っただけで喉が鳴り、口には唾液が溜まる。

 しかし――

 

「……すまない。今日は遠慮しておくよ。……仲間の遺体を見たせいか食欲が湧かなくてね……」

 

 本音と嘘が半分半分混じった言葉で差し出された肉を受け取らない。

 他の狩人たちも『私』が断る理由に納得したらしく、それ以上は強く勧めなかった。

 そして、『私』は先に家に戻ると言い、皆の集まりから一人離れて行く。

 仲間の死のせいで食欲が無いというのは決して嘘では無い。しかし、肉を食べなかった理由の全てでは無かった。他の狩人たちは十分に調べた後に安全であると判断して食べているが、『私』はそれに僅かな疑念を持ち食べるのを断った。

 果たして目に見える程の変化が無かったとして本当に身体に影響が無いのか。この山に起こった異常事態。何十、あるいは何百という年数を変わらずに送ってきた平穏を、僅かな間で狂わせていく姿無き存在。

 それが火で焼いた程度で無くなってしまうのか。

 全てが考え過ぎであり、ただの杞憂であって欲しいと願いながら『私』は独り家の中で保存用の燻製肉を齧るのであった。

 翌日。起床し、昨晩約束した通り他の狩人たちと共に亡くなった仲間をきちんと供養する準備をしていた。

 穴を掘る為の道具を用意し、村の中央に行く。しかし、どういう訳か『私』以外誰も居なかった。

 思わず首を傾げる。決して早起きをした訳では無く、この時間ならば既に二、三人程来ている筈であった。

 暫く待つと狩人の一人がやって来たが、その顔を見て『私』は思わず目を剥く。

 生気の無い土気色の肌と目。足取りは重く、『私』と同じ道具を持っている筈なのに両肩が下がり今にも落としてしまいそうであった。

 

「一体、どうした!」

 

 声を荒げて尋ねてしまう。それほどまでに真面な状態では無かった。

 

「……おう」

 

 一拍子遅れて返事を返す狩人。見た目だけでなく反応もおかしい。

 

「……何だか体が重くてな……うちの女房も子供も似たような感じになっちまってる……病気でも貰ったかな……」

 

 眼の焦点が合わない状態で淡々と話していくが、『私』はその姿が恐ろしくてしょうがなかった。

 直接視た訳では無いが彼から聞かされた症状はあの狂った狩人がかかっていた症状と良く似たものであったからだ。

 考え過ぎだと思っていた可能性、それが急に現実味を増していく。

 

「それなら……今日は止めにしよう。無理をして病気を長引かせてはいけない。いますぐ家に帰って養生してくれ」

「だけど――」

「いいから! 他のことよりも自分のことを気遣ってくれ!」

 

 引き下がろうとしない狩人に対し、『私』は声を荒げて帰るように言う。いきなり大声を出す『私』に狩人は面喰う。

 その態度を見て『私』はハッとしすぐに謝罪の言葉を言うと改めて丁寧な口調で帰宅を促す。

 狩人は『私』の様子に首を傾げつつも大人しくしたがい、家へと帰っていった。

 姿が見えなくなるまで見送った後、『私』はその場で膝から崩れ落ちる。その身体は寒くも無いのに震えていた。

 

(まさか……まさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさか!)

 

 既に手遅れなほどにことが進んでしまっていることに『私』は気付いてしまった。

 あの日、あの時、己の感じたものを信じて止めていればこのような段階まで進むことがなかったのではないか、という遅すぎる後悔と罪悪感が背に圧し掛かってくる。

 どんなに悔恨しても時計の針を戻すことなど出来ない。

 ふらふらとした足取りで『私』は家へと戻る。

 家に戻るとすぐにベッドに入り頭からシーツを被る。

 もしも『私』の考えている通り、昨晩食べた獲物が黒い粉によって侵されていたのであれば、後に起こる惨劇は容易く想像出来た。

 だが、今の『私』にそれを防ぐ方法など何一つない。

 ただ自分の想像がただの空想に過ぎず、全てが偶然であったと空しい祈りをするだけしかない。

 

(どうすればいいんだ? 本当に……本当に起こるのか? もしかしたら、もしかしたら……)

 

 根拠の無い希望に縋りながらただ時間は過ぎていく。

 やがて日が傾き、窓から射す光が紅色へと変わったとき、『私』の思い描いた最悪は現実を侵食し始める。

 始まりを告げる鐘の音は窓ガラスの割れる音であった。次に聞こえてくるのは悲鳴と怒号。

 『私』はそれを聞くと家から飛出し、恥も外聞も捨てて村に背を向けて逃げ出した。

 何処か遠くへ。村人たちの声が聞こえなくなる場所まで。

 耳を押さえ、後を振り返らず、ただ背を向けた現実から逃げ出す。

 

(何も出来ない……私には何も出来ない……)

 

 走って走って着いた先に獣が作ったらしい横穴を見つけ、そこに潜みひたすら時間が過ぎるのを待ち、震え続ける。

 灯り一つ無い夜の闇。一秒が永遠に感じられるような感覚を独り耐えながら、ひたすら時間が過ぎるのを待った。

 やがて朝の日差しが夜の闇を消し去っていくのを見て、横穴から出るとふらふらとした足取りで村の方を目指して歩く。

 数時間後、着いた村は『私』の知っているかつての村では無かった。

 咽かえる程に血のニオイが漂い、老若男女全てが死体と化した光景。原型を留めている死体など殆どなく、どれもが顔の形が変形していた。

 殴打の跡、噛み傷、引っ掻き傷、人間の持つ武器を使い死ぬまでひたすら殺し合ったのが分かる。

 『私』は堪らずその場で嘔吐した。

 

「地獄だ……ここは地獄だ……」

 

 不安定になる感情を抑えながらその場で座り込み途方に暮れる。自分がこれから何をすればいいのか全く分からない。

 暫くの間、その場でただ茫然としていたが、やがて何でもいいからしようとその場から立ち上がろうとしたとき――

 

「あっ」

 

 立ち上がる脚に力が入らず尻餅を突く。気を取り直してもう一度立ち上がろうとするが何故か脚に力が上手く入らず、立ち上がっても足元がふらつく。

 

「まさか……」

 

 『私』はこのとき逃れられない現実を知らされた。

 

 

 ◇

 

 

 これが私の村で起こったことの全てです。間も無く私もじきに正気を失ってしまうでしょう。もう既に山を下りる力もありません。

 この手紙を読んで下さった方、どうか黒い粉を見かけたら決して近寄らないで下さい。

 そして出来ればその黒い粉がなんなのかギルドに頼んで調べてくだされば、未練も無く逝けると思います。

 どうかこの手紙が誰かに読まれることを祈って。

 

 そこまで書くと『私』はよろよろとした足取りで手紙を瓶に詰める。

 そして残された体力を振り絞って村から少し離れた場所にある川まで行くと、その瓶を川へと流した。

 山を降りられない程不調な体では、これぐらいしか方法が無い。

 

(せめて……死ぬなら……家で……)

 

 徐々に混濁していく意識を辛うじて保ちつつ、村へと戻る。

 重い足取りで着いた村。しかし、迎える者はおらず、在るのは朽ちていく死体のみ。

 それを避けながら家へと向かう『私』。そのとき聞こえる羽ばたく音。

 音の方へと目を向けた『私』が見たものは、天空から舞い降りる『悪魔』の姿であった。

 全身が艶の無い黒へと染められ、目や鼻といった器官が無く黒一色に染められた顔。鋭い爪を持つ四肢は太く、『悪魔』の巨体を支えるのに十分なものであった。

 舞い降りた際に閉じられた翼は外套を纏っているようであった。

 そしてその『悪魔』が身体を少しでも動かす度に黒い粉が舞う。

 『私』はその姿を見て絶句するしかなかった。

 

(これが……こんな生き物が……)

 

 『悪魔』の周囲に漂う黒い粉を見て、一連の異変の元凶が何なのかを悟る。だが知ったところで何一つ出来ない。

 見ただけで心が折れる。生物と自分の間にどうすることも出来ない格の差を本能で分かってしまった。

 

「あ……あああ……」

 

 恐怖でその場から動くことの出来ない『私』。黒い悪魔は、周りの死体を落ち葉の上を歩くかのように何の感慨も無く踏み付けながら震える『私』へと近付く。

 『私』は気付くことが出来なかったが、黒い悪魔が近付く度に外套のような翼の内側の色が変わり、今は紫から青へと変色していた。

 『私』は理解する。この村、否、この山は滅びる運命ににあったのだと。悪魔に魅入られ、呪われた山に未来など無いのだ。

 やがて黒い悪魔が『私』のすぐ目の前に立つ。最早、終わりは決まっていた。

 黒い悪魔は『私』の前で悪魔としての本性を露わにする。

 本来ならば目がある部位を突き破って二本の角を生やし、引き摺っていた外套のような翼は大きく開かれ、その内側から赤紫色の光を放つ。

 翼には巨大な鉤爪が備わっており、それを地面に叩き付けるように着地させると四脚から六脚という異形から更なる異形の姿へと変わった。

 悪魔が変貌すると待っていた黒い粉は更に量を増し、周囲が暗く染まっていく。

 

「ははは……はははは……」

 

 力無く笑う。笑うしかない。絶望が形となって現れたことにただただ笑うしかなかった。

 

「悪……魔……」

 

 『私』がそう呟くと同時に悪魔はその大きな翼を振り上げるのであった。

 

 

 ◇

 

 

「んん?」

 

 川辺で遊んでいた少女が何かを見つけ、その場でしゃがみ込む。

 

「どうしたんだ?」

 

 少女と遊んでいた少年は何をしているのか覗き込んできた。

 

「これ」

「瓶?」

 

 少女の手にはコルクで封がされた瓶が握られており、瓶の中には手紙らしきものが入っていた。

 気になってコルクを開けようとするが固くしまっており、子供の力では開けることが出来ない。

 

「あかなーい」

「大人の手を借りなきゃダメみたいだな」

「どこから流れてきたんだろう?」

「この川だったらあそこの山から――あれ?」

「どうしたの?」

「あの山って……あんな黒い靄に覆われていたっけ?」

 

 

 




ゴア・マガラというよりも狂竜ウィルスがメインとなっている話となっております。
飛竜ですら狂うウィルスを短時間で克服するハンターって……もしかして元から狂って……


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盾と剣(前篇)

 とある砂漠にて大きな戦いがあった。多くの武力を用いて行われた戦い。しかし、それは戦いとは到底呼べるものではなく一方的な蹂躙であった。

 

「退け! 退けぇぇぇぇぇ!」

「応援はまだかぁぁぁぁぁ!」

「足が! 俺の足が!」

「嫌だぁぁぁ! もう嫌だぁぁぁぁ!」

「そんな馬鹿な……アレが負けるだなんて……」

「化物だ! こいつらは本当の化物だ!」

 

 阿鼻叫喚の叫びと死屍累々となった砂漠。死体から流れ出す血は砂漠一面を赤く染め上げる。

 そんな生き地獄のような光景を、離れた場所で見詰める複数の影が有った。地獄で悶え叫ぶ者たちとは格好からして違い、重厚な鎧と絢爛な刺繍と装飾の施された衣服を纏っている。

 

「ここまでか……」

「……申し訳ございません。『アレ』らを可能な限り投入しても叶いませんでした。……これ以上『アレ』を失うこととなれば数を揃えるのに数十年の時が必要となります」

「よい。この戦い、我々の負けだ」

 

 一際豪華な衣装を纏う壮年の男性が負けの言葉を述べると、その周囲に座る臣下と思わしく面々は悔しさのあまりか目に涙を浮かべる。

 

「あと一歩! あと一歩で陛下がこの地の全てを手に入れられたといのに!」

「陛下! どうか我々に命を下され! さすればこの命! いや魂すらも捧げてあの怪物共を道連れにしてみましょう!」

「どうか、どうか! 我々に命を!」

 

 血を吐くように出て来る無念の言葉。叶わないと分かりつつも一矢報いようとする意地。最後まで貫き通そうとする忠義。

 だがそれでも壮年の男性は首を横に振る。

 

「よいと言った。お前たちの気持ちは嬉しい。だがここでその命を失わせるのは惜しい」

 

 壮年の男性の言葉に周囲に並ぶ者たちは涙を流し、声を押し殺してはいるが耐え切れず嗚咽が漏れる。

 

「良く戦い、良く生き、良く抗った。後悔が無いと言えば嘘になるが、我が夢を果たせなかったのも運命。だが我が道を阻む為にあれほどのモノを送りつけて来るとは、運命とやらも些か焦ったように見える」

 

 視界に映る光景を見ながら壮年の男性は薄らと笑みを浮かべた。諦観などから来る笑みではなく、心の底から納得しているような爽やかさを感じさせる笑みであった。

 

「我が覇道を阻んだ『朱き盾』よ、我が野望を断ち切った『青き剣』よ。お前たちの強さは私が今まで戦ってきた中で最強であった!」

 

 賞賛の言葉を上げながら壮年の男性は自らの野望〈ゆめ〉の終わりを高らかに叫んだ。

 この日、ある国が大敗を喫した。その日以降、この国は衰退していき間も無くして地図から名を消すこととなる。

 歴史上類を見ない大国が何故突如として衰退していったのか、それは誰にも分からない。

 そしてこの日から数百年の時が流れる。

 

 

 ◇

 

 

 周囲に遮蔽物など何も無く見渡す限り広がる、砂、砂、砂。

 天から注ぐ強い日光と雨が全くと言っていい程無い気候のせいで、植物が殆ど育つことが無い不毛の大地。砂が舞い、それによって色の付いた風が吹く。

 その大地を知る者からは『大砂海』と言う名でと呼ばれる場所であった。

 砂が擦れる音、風が吹き抜けていく音しか木霊しない土地でその二つの音に混じり、聞こえてくる別の音があった。

 

「あ~あ~晴れた青空と~! あ~あ~流れ行く雲~!」

 

 少しずれたテンポで唄う歌。聞く者が居ればお世辞にも上手いとはいえないその歌に眉を顰めるであろうが、大砂海で在る為当然のことか歌を歌っている人物の周囲には殆ど人がいない。唯一居るのは歌い手の後をついてくる一人の少女のみ。

 その少女は歌のせいで、うんざりという言葉が顔に浮き出る程に疲れた表情をしていた。

 

「ししょー、いい加減その歌止めてくれませんか? もう何十回も聞いているんですが?」

 

 少女の咎める声に師匠と呼ばれた――先程まで歌っていた――男性が立ち止まり、背後へ振り向く。

 

「やれやれ……この歌の良さが分からないとは我が弟子ながら芸術に疎い奴だ」

 

 困った風に首を振る男性。見た目の年齢は二十代後半から三十代前半。意志の強そうな目をした精悍な顔つきをしている。

 強い日差しを遮る為に茶色のマントで身体を覆っているが、その隙間からは使い古された白の半袖の服、そして裾が擦り切れている深緑色のズボンが見える。

 皮製のつば広帽子を被り、その背には大きな皮袋を背負っている。

 そんな男性を後ろで愚痴る少女は十代前半といったところで砂のせいで、薄汚れてはいるが可憐な容姿をしている。男とは違い頭部まで覆うフード付きのマントを纏い、日差しで焼けないように男と似た白い長そでのシャツと深緑色のズボンを履いている。

 その背にはやはり男と同じ皮袋を背負っているが、男と比べると一回り程小さかった。

 

「芸術云々なんてどうでもいいですよー。そんなに大声出して唄っていたらすぐに喉が渇いちゃいますよー」

 

 少女は気遣うような言葉を言いつつ、背負っている皮袋へ手を伸ばす。そして中から楕円系の膨れ上がった袋を取り出した。袋の一部には金具が嵌められており、そこに口を付けて吸う。すると中から水が出て来た。

 この袋は動物の胃を加工して作った貯水用の袋であり、少女の背負う皮袋の中身の殆どがこれである。重量を考えれば相当なものと思われるが、事前に魔術師によって重量軽減の魔法を掛けられているので実際の重さは通常時の十分の一程になっており、小柄な少女でも背負うことが出来ている。

 

「ピリム。お前こそ飲むペースが早いぞ。もっと計画的に飲め。ここじゃ水は命と同等と思え。水を失うことは命を失うことに繋がるぞ」

 

 男の言葉にピリムと呼ばれた少女は少しバツの悪そうな顔をし、袋の半分程の水を飲むと背中の皮袋にしまう。

 

「そんなこと言っても乾くものは乾いちゃいますよ」

「先のことを考えて行動するのは結構だが、あまり目先のことだけに捉われてもっと先のことを考えろ。お前、自分がどれだけ短い間隔で水を飲んでいるか分かっているか? いつも言っているだろう、冒険者の心得その一『冒険者たる者――』」

「『自分の欲をきちんと抑えること』ですよね? 分かりましたよー」

 

 男の苦言にピリムは口を尖らせながらも反省の意を示す。

 

「なら良し。おお~、麗しき光~。それは奇跡の如く~」

 

 それ以上の説教はせず、気を取り直したように別の歌を歌い始める男。相変わらずテンポのずれた歌い方にピリムは顔を顰めるのであった。

 

「ところで師匠ー、本当にこの方角であっているんですよねー? さっきから建物どころか、木の一本すら見えないんですがー?」

「ああ、多分な」

「え? 多分って……自信満々でずっと同じ方角を進んでいたじゃないですかー!」

 

 男の言葉に顔色を変え、思わずその言葉に噛み付く。しかし、男は弟子の咎める言葉にもケタケタと笑うだけであった。

 

「人の噂話を掻き集めて大よその位置を推測して歩いているだけだ。それに誰もが知っているような手垢の付いた場所を俺が探す訳無いだろうが。何年俺の弟子をやっているんだ?」

 

 目的地の明確な場所が分からず、下手をしなくてもこの大砂海で野垂れ死ぬ可能性があるというのに笑う男に、ピリムは心底疲れたような溜息を吐いた。

 

「もしも死んじゃったらあの世でも怨みますよー」

「似たような経験を何度も積んできたじゃないか、今度も上手くいくさ」

「今度こそ駄目かもしれないじゃないですか!」

 

 楽観的な台詞に思わず怒鳴り声を出して抗議する。

 

「冒険者の心得その七『後ろ向きな考えは程々――』」

「『前向きな考えも程々』って言っても師匠は考え方が前向き過ぎですよー!」

 

 再度抗議するピリムに男は五月蠅そうに耳の穴に指を入れ、外部の音を遮断する。

 

「はいはい。分かった分かった」

「絶対分かってないですよー! 大体いつも!」

「はいはいはい――はい?」

 

 ピリムの愚痴を聞かされていた男が突如立ち止まり、その場からある方向に視線を固定する。

 

「師匠?」

 

 動きを止め、凝視し始めた男を見てピリムも男が見ている方向に目を向ける。

 大小様々な砂の丘が果て無く続いている。

 

「んんー?」

 

 最初は何も見えなかったが、目を細めじっと観察すると徐々にではあるが見えてくるものがあった。

 砂漠を疾走する複数の影。それはこの砂漠地帯では移動の手段として重宝されている動物、砂馬であった。その名の通り馬に似た外見をしているが全身を砂色の体毛で覆い、首筋に大きな瘤を持つという特徴がある。

 暑さに強く、砂地では平地の馬並に走れるとして砂漠に住む者にとっては無くてはならない存在であった。

 余談ではあるが大砂海を渡る前、ピリムは砂馬を借りることを提案したが予算を理由に却下されている。

 砂馬に跨るのは、頭から下まで布に包まれた砂漠の住人特有の格好をした男たち。

 ピリムはそこから砂漠の男たちが走っていく方向に視線をずらす。するとそこには男たちから追われているらしき人の姿。白地のローブを全身に纏っている為、確証は持てないが走り方から女性と思われる。

 

「師匠! 女の人がって――って、あれ!」

 

 ピリムが助けに行こうと言うよりも前に男の姿は無く、そこには置かれた荷物のみ。あまりの早業に驚くしかない。

 

「もう行っちゃったんですか! 私を置いて!」

 

 周囲を見るが姿が見えない。もう既に見えない位置にまで行ってしまったらしい。いまだ見習いの自分が行けば足手纏いになることは分かっているが、それでも弟子であり、またか弱い女性である自分に何も言わず置いてけぼりにすることを大いに不満に感じつつ、ピリムは男が向かってであろう女性の方へと再び目を向けた。

 

「あっ」

 

 そこで彼女は追われている女性が転倒する瞬間を目撃した。

 

 

 ◇

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 柔らかい砂に足を奪われ、顔から砂地に転倒する。顔に砂が付き、口の中にも砂が入るが女性はそれを取ることも吐くこともしない。否、する体力がもう既に無かった。

 延々と当ても無く逃げ続けていたが、途中で見つかり追われることとなった。

 足場の悪い砂地では走るだけで体力を消耗、更に暑さで消耗は加速し女性は脱水症状手前の状態となっていた。

 痛む頭、焦点が定まらなく目。自分の命が急速に萎んでいくのが分かる。

 しかし、そんな女性の状態など構おうとはせず、砂馬から降りた男たちは女性の頭を乱暴に掴み上げる。

 

「我々から逃げ切れると思っていたのか? 馬鹿な女だ」

 

 憔悴した女性の顔を覗きこみながら男は下卑た笑みを浮かべ、女性を嘲る。

 

「大人しく我らの長に従っていればこのように苦しむことなく、安穏とした地位を得られたものを」

「……です」

「何だと?」

「貴方たちに……従う……ぐらいなら……死を選びます!」

 

 擦れた声でありながらもきっぱりと自らの意志を述べる女性。それを聞いた男の眼は細まり、冷徹な光を宿す。

 

「そうか……ならば死ね」

 

 腰に手を回し、そこから一振りの短剣を取り出す。短剣の剣身が反射し、そこから見える銀光に女性は覚悟を決めた様に目を瞑った。

 そのとき――

 

「づあっ!」

 

 空気の爆ぜるような音と共に上がる男の苦鳴。掴み上げられていた手が離れ、女はうつ伏せに倒れそうになるが最後の力を振り絞って、何とか耐える。

 何があったのか、それを確かめる為に女性は僅かに首を回し背後を見る。そこには短剣を握っていた手を押さえている男の姿があった。押さえている手の隙間からは血が流れており負傷している様であった。

 

「感心しないな。か弱い女性を寄って集って追い回すなど。ましてや凶器を向けるなど以ての外だ」

 

 新たな人物の声。女性が声の方に目を向けるとそこには鍔広の帽子を被った男が手に鞭を持ち立っていた。

 男はそのまま女性の方へと歩み寄る。

 

「大丈夫ですか、御嬢さん。私が来たからにはこのような悪漢共が指一つ貴女に触れることは無いでしょう」

 

 帽子を取り、赤銅色の髪を見せながら男はやや気障な仕草で女性へと手を差し伸べる。

 

「あなた……は……?」

「これは申し遅れました。私の名はジェイナス・ジェイドと申します。しがない冒険家です」

 

 白い歯を見せながら微笑む男、ジェイドに女性はやや困惑した眼差しを向ける。

 

「何だ、貴様は!」

「我々の邪魔をするな!」

 

 突然現れたジェイドに男たちは怒声を浴びせるが、ジェイドはそれを雑音以下と言わんばかりに全く聞こうともせず、女性に優しげな言葉を掛け続ける。

 

「このような砂漠でさぞお辛かったでしょう。ですが私が来たからにはもう安心です。ささ、こちらに。安全は私が保証しますし、水もあります」

「無視するんじゃない!」

 

 怒る男が短剣を抜き、ジェイドへと襲い掛かる。しかし、ジェイドは男の方に向きもせず、腕をただ振るう。その動きに合わせ、鞭が生き物のようにうねると、走り寄って来る男の膝にその先端が叩き付けられる。

 

「ぎゃあ!」

 

 布製のズボンは容易く破れ、その下の皮膚が鞭の威力で抉られる。血に塗れているせいで詳しくは分からないが、骨が露出していてもおかしくない程の傷であった。

 そのままジェイドは手首を返し、仲間がやられたことに動揺しているもう一人の男に向け、鞭を振るう。

 鞭は男の太腿を抉り、その痛みで男は地面へと倒れ絶叫を上げた。

 

「うあああああ!」

 

 傷口を手で抑え、痛みで悶える男。そんな男の様子を見て、最初に傷付けられた男が震えた声を上げる。

 

「き、貴様! い、一体何なんだ!」

 

「言っただろう? しがない冒険家だと。さてどうする? まだやるのかい?」

 

 相手の意を削ぐように鞭を振るい、爆ぜる音を鳴らす。それを見た男たちは悔しげな表情をするものの、負傷した状態でこれ以上戦うのは不利だと考えたのか、背を向け砂馬の方へと走る。

 二人が乗馬し、残りの一人が馬に手を掛けた瞬間、その間を裂くように鞭が目の前を通過。それに驚いて男は思わず尻餅を突く。

 

「この御嬢さんの為にも砂馬が一頭欲しいと思っていたところなんだ。譲ってはくれないかな?」

 

 頼むような口調であるが、その間にも鞭を振り回しながら男を威圧する。完全な脅迫であった。

 

「くっ!」

 

 男は屈辱に顔を歪ませたまま砂馬から離れ、仲間が乗っている砂馬に飛び付く。

 

「この屈辱と痛み! 決して忘れない!」

「はいはい、帰れ帰れ」

 

 男たちの憤怒に塗れた表情からの捨て台詞も興味無しといった様子で軽く流し、去って行く男たちの姿を碌に見ず、弱っている女性の方へと既に意識を向けていた。

 

「大丈夫ですか? 賊は追い払いました。もう貴女を脅かすような輩は居りません」

 

 さっきとは対照的に紳士的な口調で女性を労わるジェイド。するとそこに荷物を持ったピリムが現れる。

 

「はぁ、はぁ……もう! 一人で先に行っちゃわないでくださいよ!」

「緊急事態だ。それに一人でも何とか出来るように常日頃色々と教えてきたつもりだが?」

「こんな砂漠で置いて行かれたときの対処なんて知りませんよ!」

「吼えるな吼えるな。それよりも水を出してくれ。この御嬢さんに早く飲ませないといけない。脱水症状の一歩手前だ」

 

 そこで倒れている女性に気付いたらしく、怒りの表情を驚きへと変え背負っていた布袋を降ろすと慌てて中を探って水が入った皮袋を取り出し、それをジェイドに渡す。

 皮袋を受け取ったジェイドは女性を仰向けに抱きかかえる。

 

「この人は誰なんですか?」

「知らん。名前はまだ聞いていないからな」

「追われていた理由は?」

「それも知らん」

 

 ジェイドは丁寧な手付きで女性の顔を覆う白布についた砂を払う。

 

「ただ一つ確信を持てることがある」

「何ですか、それ?」

 

 失礼、と一言断った後、ジェイドは顔を覆っていた布をずらす。布の下から現れたのは滑らかな褐色の肌、形の整った眉に長い睫と切れ長の目、紅の引かれた唇はまだ艶と潤いがあり扇情的な気分へとさせる。

 

「やはり美人だ」

 

 品の良い形をしたその口に皮袋の飲み口を当てると水を注ぐようにして飲ませる。

 

 

 ◇

 

 

「ん……」

 

 女性はパチパチという火が爆ぜる音を聞いて目を覚ます。寝起きのぼんやりとした思考の中で自分は今何処にいるのであろうかと思い、少し前までのことを思い返す。

 大砂海で男たちに追われて掴まり、命の危機に瀕した状況で誰かに助けられた。その後、その人物から水を飲まされたことまでは覚えているが、そこで疲労と緊張の糸が切れたせいで意識を失ってしまった。

 

「はっ!」

 

 そこまで思い出した時、女性は慌てて身を起こす。

 

「まだ起きちゃ駄目ですよー」

 

 勢いよく起き上がる女性を宥めるようにピリムが話し掛ける。それでも女性は警戒するように周囲を見回す。

 既に日が落ち、星が見える時間となっていた。大砂海では滅多に見ない草や木が生え、少し離れた場所には小さな池がある。

 ここがオアシスであると認識した女性が更に目線を動かすと、そこには焚火を前に座るジェイドがいた。

 

「お目覚めですか? 丁度良かった。目覚めに一杯どうです?」

 

 ジェイドは爽やかな笑みを浮かべながら女性の側に寄り、手に持った少し変形したコップを手渡す。

 

「……ありがとうございます」

 

 つい受け取ってしまった女性。コップの中を覗くと黒い液体が入っていた。液体の表面に映る自分の顔を見ながら、口よりも先に鼻を近づける。鼻孔に入ってきたのはコーヒーの香ばしい薫りであった。

 その匂いに釣られてコップに口を付け、中のコーヒーを飲む。ほろ苦い味と砂糖をかなり入れたのか甘い味が舌へと伝わり寝起きの頭に熱を入れ、そこから舌を通り、喉を過ぎ腹へと流し込まれたとき、体に熱が入る。日が落ちて一気に気温が下がった大砂海ではその熱が心地よさを与えてくれる。

 

「……美味しい」

「ええ、いい豆と砂糖を使っているので。まあ、私の腕の良さが殆どでしょうが」

 

 ジェイドは冗談っぽく言うと女性は少し警戒心が薄れたのか、微笑を浮かべた。

 

「――礼が遅れましたが、昼間は助けて頂きありがとうございます」

「いえいえ。か弱い女性を助けるのは男として当然、あるいは義務のようなものですから」

 

 頭を下げる女性にジェイドは手を振り、謙遜する。

 

「……あっ、申し訳ありません。まだ名乗っていませんでしたね。私の名はトウと申します。確かお名前はジェイド様、でよろしかったでしょうか?」

「ええ、覚えて貰えて光栄です。ついでにこっちの方は私の弟子のピリムといいます」

「……ついでって何ですか、ついでって」

 

 紹介のされ方が気に入らなかったのか、不満気な表情をジェイドへと向ける。

 

「ピリム様ですか。ピリム様、助けて頂き有難うございます」

「い、いえいえ! 殆ど師匠がやっちゃったんで、私は特に何もしてませんし!」

 

 様付けで呼ばれたことに照れたのか、顔を赤くしながら慌てて大したことなどしていないと主張する。

 

「……あの、気になったのですが……師匠、弟子とは? お二人はどのような関係でいらっしゃるのでしょうか?」

 

 会話の中に出て来た単語が気になったらしく、二人に問う。その質問にジェイドは朗らかな笑みを浮かべて答えた。

 

「特に深い意味はありません。言葉通りの関係です。私が冒険者であり、この娘はその私に従事する見習いの冒険者なだけです」

「『冒険者』……!」

 

 ジェイドの答えに対し、トウは普通ではない反応を示す。『冒険者』という単語を聞き、目の輝きが増した。

 

「それならばギルドの方々とも連絡がとれますか! 一刻も早く依頼したいことが!」

 

 興奮した面持ちで迫るトウに対し、ジェイドとピリムは気不味そうに目を逸らす。

 

「あー……申し訳ない。冒険者と言っても私たちはその……ギルドに所属している冒険者ではなく……『フリー』の冒険家なので……」

 

 その言葉を聞いた途端、明らかにトウの身体から力が抜けたのが分かった。

 冒険者にも大きく分ければ二つの種類がいる。ギルドに所属する冒険者と所属せずに活動するフリーの冒険者。

 前者はギルドが依頼を取ってくるので仕事に困ることはないが、その分の仲介料を取られるため決して有名になるまでは裕福とは言えない生活を強いられる。

 後者は自分で依頼を探す為仲介料などを取られることは無いが、ギルドという信用を得る看板が無いことから仕事を得ることがかなり難しい。個人で安定して依頼を受けるにはかなりの実績が必要となってくる。

 当然、ギルド側からすればフリーの冒険者の存在はあまり面白くなく、フリーの冒険者も仕事を奪って行くギルドに対し良い印象を持っていない。両者ともに犬猿と言える間柄であった。

 

「フリーの……そうですか。申し訳ございません……一人ではしゃいでしまって……」

 

 意気消沈する。

 

「まあ、それでも間を持つことぐらいなら出来ます。ここからギルドのある街までかなりの距離がありますが、それまで私たちが護衛を――」

「それだと間に合わない」

 

 暗いトウを励ます言葉を掛けようとするジェイドであったが、最後まで言い切る前にトウが遮る様に言葉を漏らす。

 

「間に合わない? 一体何が間に合わないのですか?」

 

 気になって言葉の意味を質問すると、トウはハッとして表情をして反射的に口を手で覆う。無意識に出てしまった言葉であるらしい。

 

「お、お気になさらないで下さい! 貴方方とは無縁のことですので!」

「そうはいきませんね。私も冒険者と名乗る身、何となくですがわかるのですよ、貴女の言葉に私が求めるものがあると。改めて質問させて貰えますか? 一体何が間に合わないのですか?」

 

 誤魔化そうとするトウであったが、ジェイドは引き下がらず食い下がる。

 口元には柔和な笑みを浮かべているが、その眼は刃のように鋭く光り、一切の嘘も沈黙も許さないと言外に告げているようであった。

 ピリムはジェイドが女性大好きな似非紳士からスリルと冒険を財宝よりも好む筋金入りの冒険者へと切り替わるのを見て、心の中でトウに同情する。こうなってしまうとジェイドが意志を曲げることは絶対に無い。

 

「そ、それは……」

「それは?」

 

 燃える焚火の光がジェイドの瞳の中に映り、あたかも目の中に炎が灯っているようにトウには見えた。しかし、その比喩が間違っていないと思える程、ジェイドの全身から他者を圧するような殺気だったものが放たれている。

 それに中てられているトウは呑まれ、上手く口を動かすことが出来なかった。

 

「それはの続きは何ですか? 是非、詳しく、丁寧に――」

「ししょー、ギラつき過ぎですよー、トウさんが怯えますよー」

 

 身を竦ませているトウを憐れに思い、ピリムが助け舟を出す。その言葉を聞いてジェイドはしばし固まった後、前のめり気味になっていた体勢を戻し、まっすぐと座り直す。

 

「申し訳ない。少し、熱くなりすぎました。相手を怯えさせるような真似をするとは私もまだまだ未熟だ」

 

 そう言って詫びるジェイドからは先程纏っていた荒々しい気が消えていた。殺気のような気が消えたことでトウの蒼褪めた表情にも赤味が戻っていく。

 

「――いえ、命を助けて頂いて貰っておきながら、何一つ理由を話さない私に非があります」

 

 彼女はそこで手に持つコーヒーを一口飲む。

 

「聞いてくれますか?」

 

 彼女は自分の身に起こったことをポツリポツリと語り始めた。

 ことの起こりは今から一週間前まで遡る。

 彼女は砂海で先祖代々からの伝統を守りつつ健やかに生きるとある村の村長の娘であり、その村を創った先祖の子孫であるという。

 いつも通りの生活をしていた彼女であったが、突如として村が襲撃されるという事件が起こった。

 襲撃の犯人は同じ先祖の血を受け継ぐもう一つの村の若き村長であり、何十人もの手下を連れて村を焼き、村人を殺害したという。

 

「何で親戚と変わらない人たちが襲ってきたんですか?」

「……心当たりはあります。きっと私たちが『砂の民』の数少ない生き残りだからです」

「『砂の民』?」

「この大砂海を統一寸前までいった昔の大国の異名だ。圧倒的な力で他国を侵略していったが、やり方が強引過ぎたせいか、最終的に支配した筈の国々から逆襲を受けてあっという間に滅んだと伝えられている」

 

 ピリムの疑問に対しジェイドが補足を入れていく。

 『砂の民』の中でも戦争を嫌い、国が疲弊し亡びる前に袂を別った者たちの末裔が自分たちであると語るトウ。しかし、それならば何故同じく戦争をから逃げた者の末裔が同じ末裔を襲うのかが分からなくなる。

 

「……ですが事実は違うのです」

「ほほう?」

 

 その言葉にジェイドの目に好奇心の光が宿る。

 確かに彼女たちの先祖は国を捨てて逃げたが、同時に国からある『遺産』を渡されたという。既に国が亡びることを予期していたらしく、いつか時が経った後にその『遺産』を使い、国を再建することを託して。

 だが結局、その願いを叶えることはせず先祖たちはその『遺産』をとある場所へと隠してしまったという。

 しかし、それから時が経ち今になって再び野心に燃える者が村の中から出て来た。

 

「それが今回の首謀者という訳ですか」

「……はい」

 

 首謀者である若い村長が村を襲ったのは、代々村長にのみ伝われていく『遺産』に関わる言い伝えが目当てであった。

 

「遺産に関する言い伝え、それはその遺産を隠した場所を指し示すものなんですか?」

「……いいえ。場所への言い伝えは二つの村に伝わっています。恐らく私たちが襲われたのはその『遺産』を消し去る方法を知っているからです」

「消し去る方法?」

 

 トウが言うにいつか『遺産』の力に溺れ、暴走し始める者がいるかもしれないことを危惧した彼女の祖先は、『遺産』と同じ場所にそれを葬る力を眠らせたらしい。

 

「『遺産』を狙う者たちにとってはその葬る力が邪魔であり、だからこそその力を継承しているかもしれない貴女の存在が疎ましいという訳ですか」

「その通りです」

「成程、成程」

 

 一通り事情を聴いたジェイドは愉し気な様子でニヤニヤとした笑みを浮かべる。

 

「貴女としては『遺産』が相手の手に落ちる前に葬りたかったという訳ですか」

「はい。それが私の役目です」

「貴女は実に運が良い。貴女の目指すべき場所、それこそ今回、私たちの目的の場所かもしれない」

「え?」

「そうなんですか?」

 

 ピリムとトウが驚いた顔をする。

 

「どんなに口が固かろうとちょっとした緩みでポロリと口から出てしまうことがある。貴女の村やその襲撃してきた村は他所との関係を全く断ってはいないんですよね?」

「え、は、はい。節度ある暮らしをしていても、やはり他の村や大きな街と交流しなければ食べる物に困ってしまうので……」

「やはり。つまり今回私が掻き集めた噂は、交流しにきた村人が洩らしてしまった秘密の断片なのかもしれません。何せ『大砂海にはこの土地全てを手に入る程の宝が眠っている』という噂なので。ちなみに私たちが砂漠を渡っていたのもその宝が目的なんですよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、トウの目に警戒する色が宿る。

 

「貴方も宝が目当てなのですか?」

「いえ、別に宝自体に興味は無いです」

「え?」

 

 即答するジェイドにトウは思わず気の抜けた様な声を出してしまった。

 

「冒険者が宝探しを目的にするなんて格好が悪いじゃないですか。冒険者が求めるのは名の通り冒険そのもの! 冒険あってこその冒険者! 冒険者あってこその冒険! 金銀財宝? この世の全てが手に入る力? 不老不死の秘術? そんなもの一切興味が無いです!」

 

 きっぱりと断言するジェイドにトウは困惑してしまう。トウが聞いた冒険者とはジェイドが否定したものを見つけ、それを金銭へと変えるのを主な利益としている筈である。だというのにそれらに一切興味が無いと言われると、戸惑うしかない。

 

「すみません。うちの師匠って筋金入りの冒険マニアでして……『金より経験』というのが信条でして」

「そ、それだと生活に困らないのですか? 収入なんて殆ど手に入らないことになりますが……」

「ご安心を。私は自らを得た経験を金に換える方法を知っているので」

 

 そう言うとジェイドは側に置いてある荷物を探り、中から一冊の本を取り出す。

 

「どうぞ。宣伝用に何冊かは持っているので」

「はあ……」

 

 ジェイドの勢いに呑まれて思わず本を手に取った。

 『ジェイド冒険譚』と金文字で書かれた表紙。心成しか幼い印象を受ける題名である。

 表紙や紙を指先で触れる。村長の娘としてそれなりに裕福な生活をしていたトウですら初めて触れる感触。上質な素材を使っているのが分かる。

 

「私の活動に深く賛同してくれる援助者〈スポンサー〉がいるので、ね」

 

 トウの反応を見て、先回りするように言う。ジェイドが言った通り、これほどのものを一介の冒険者が出版出来る筈も無い。余程、裕福な人物が彼の背後に居ることとなる。

 合って間もないがますます謎が深まっていく目の前の人物のことを考えながら、トウは本の表紙を開き、中を見て、そして絶句する。

 

 きづけばぼくのめのまえにおおきくてひろいもりがひろがっていました。

 それをみてぼくは『わー、すごい』とおもいました

 もりのなかをあるいているとしゅーしゅーとふしぎなおとがきこえてきました。

 ぼくは『なんだろう?』とふしぎにおもっているとぼくのちかくにいたひとがおおごえをだしました。

 

「わー! だいじゃだ!」

 

 そのひとのいったとおりぼくのちかくにやまのようにおおきなへびがでてきました。「おおきい!」ぼくはおもわずおおきなこえでさけんでしまいました。

 

「あの……これは……?」

「どうです? 色々な年代に読まれていますが特に子供たちにはかなりの人気なんですよ」

 

 自信満々と言った様子で誇らしげな顔を見せるジェイドに、トウはそれ以上何も言えなくなる。

 そんなトウの内心を悟ってかピリムが近付き、小声で話し掛ける。

 

「うちの師匠、文才はからっきしなんですが逆にその拙い文章のおかげで子供にはウケているんですよ。読み易いって理由で」

「ああ、そうなんですか……」

 

 鼻唄混じりで自分の書いた本を読み返すジェイドを見ながら、トウは何とも言い難い不安な気持ちを抱くのであった。

 

 

 ◇

 

 

 翌日。日が完全に昇る前にジェイド一行は出発する。目指す場所は『砂漠の民』の遺産が眠る遺跡。

 昨日の時点でトウから場所についての詳細は聞いており、現在の位置から逆算すれば少なくとも日が落ちる前には目的の場所に着くことが出来る。

 昨日、トウを襲っていた男から奪った砂馬にトウを乗せ、一行は無限に広がっているような錯覚を覚える砂漠をひたすら歩き続ける。

 その間にもジェイドはトウに会話もとい口説き続け、その様子をピリムはただ呆れた様子で眺めている。

 そんな行為を延々と繰り返していていく中、やがて昇り始めていた太陽は真上まで昇り、そして、黄金色の太陽が茜色へと変わり地平線の向こうへとその身を隠し始めたとき、それは現れた。

 

「おやおや?」

 

 目の上に手を翳し遠くを見つめながら、ジェイドは何かを見つける。トウとピリムも倣い、ジェイドが見つめている方向を見た。

 何も無い砂漠の真ん中にぽつりと佇む小さな建物。如何にも人の手で生み出されたそれは自然のみの砂漠に於いて浮いていた。

 

「あれかぁ!」

 

 長時間荷物を背負って歩き続けていたとは思えない程の俊足で砂漠を走り出すジェイド。慌ててピリムが静止の声を掛けるが聞く耳など持たず、『ヒャホー!』と子供のようにはしゃいだ歓声を上げて一人先に行く。

 そんな様子に溜息を吐きながらピリムは後を追い、トウもまたいきなり昂揚し出したジェイドに驚きながらも遅れまいと砂馬を走らせる。

 ピリムとトウが建物へと着いたとき、ジェイドは一足先に建物の周りを調べ始めていた。

 ピリムもまた建物を観察する。大きな国の遺産が眠っているとは思えない程、簡素且つ小さな遺跡であった。

 四角の形をし、せいぜい大きさは小金持ちが建てた一軒家程度。高さ、奥行はそこそこといったものであった。

 派手な装飾など一切無く、岩を削って造られたと思われる扉によって入口が閉じられている。

 

「見た目は至って普通。これといった文字や絵が刻まれている訳でもない。ふーむ、ここまで特徴の無い遺跡も珍しい。――というか本当にこれが目当てのものか不安になってくるな」

 

 『砂の民』が造ったものであるという痕跡が一切無い為に、本当に目の前にあるものが目当てものか自信が揺らぐ。

 すると砂馬から降りたトウが閉ざされた入口の前に立ち、手を扉に押し当てると聞き慣れない言葉を紡ぎ始める。

 時間にすればほんの数秒であったが言い終えた途端、閉ざされた岩の扉が擦れる音を響かせて開き始めた。

 

「おおー」

「開いちゃいましたよ、師匠!」

 

 いとも簡単に扉を開けてしまったトウに二人は驚きと喜びを混ぜ合わせた声を上げる。

 

「父から教えられた言葉です。ずっと昔、『砂の民』の間で使われていた古い言葉です。この言葉自体がこの遺跡を開ける鍵なのです」

 

 既に故人となっている父のことを思い出したのか、トウは陰りのある顔を見せた。

 

「そうですか。貴女が御父上から授かったものはしっかりと貴女の中で根付いている様子だ」

 

 それを知ってか知らずか、ジェイドは励ますような言葉を掛けながら開き始めている扉の前に立つ。

 

「――ええ、そうだったら嬉しいです」

 

 その言葉を聞いて陰りのある表情を微笑に変えたトウは、ピリムと一緒にジェイドの後ろに並ぶ。

 重い岩の扉が時間を掛けゆっくりと開くのを見て、子供のようにそわそわとするジェイドであったが、ふと視線を下げたときあることに気付き眉間に皺を寄せる。

 岩の扉が動く度に設置してある岩の床と擦れ、石の粉となって床へ零れていく。それだけであれば何も問題は無かった。

 問題なのはまだ扉が開ききっていないにもかかわらず、岩の床には扉の端から端までに盛り上がった石の粉が線のように引かれていたことだ。これはジェイドたちが来る前に一度以上扉が開いていることを示している。さらに石の粉など風が吹けばすぐに飛ばされてしまうもの。だというのにまだ残っているということは、この扉が開いたのはジェイドたちが来る少し前であることも示していた。

 

「二人とも――」

 

 背後に立つピリムたちに声を掛けようと振り返ると同時に扉が完全に開く。そしてジェイドは二人の表情がみるみるうちに蒼褪めていくのが分かった。

 ゆっくりと振り返るジェイドが見たものは、自分たちに向かって突き付けられる刃とそれを構える殺気立った男たち。

 

「どうも申し訳ない。間違えました」

 

 そう言ってピリムたちを連れて帰ろうとするが、そんな冗談など通じる訳も無くあっという間に四方を囲まれた。

 

「ど、どどどど、どうしましょう! 師匠!」

「どうもこうもない。お前も冒険者ならば腹を括れ」

「そ、そんなぁ! こんな若さで死ぬだなんて……せめて恋の一つでもしたかったなー……」

「だったら今すぐ俺に惚れたらどうだ?」

「死んでも御免です」

「よし、死ね」

「お前たち、状況が分かっているのか?」

 

 本気なのかふざけているのか分からない緊張感が欠けたジェイドとピリムの会話に、囲んでいる男たちの一人が呆れを混ぜながら話し掛ける。

 

「こんな状況になってしまったら潔く――」

「また会えたな」

 

 ジェイドの声を遮る別の声。それには明らかな怨嗟が込められている。

 男たちの中から三人前に出る。その内の二人は片足を引き摺っていた。

 前に出て来た男たちの顔にはジェイドたちも見覚えがある。昨日、トウを追い駆け、ジェイドに撃退された男たちであった。

 

「これはこれは、昨日ぶりで。足の加減はどうですか?」

「貴様の御蔭で絶不調だよ」

 

 今にも斬りかかりそうな眼で睨みつける三人。

 

「それはお気の毒に。こんな所で詰まらないことなどせずに家で静養していたらどうですか?」

 

 皮肉を込めた台詞をジェイドが言った直後に鈍い音が響き、ジェイドの顔が真横に向く。男の一人がジェイドの頬を殴打していた。

 

「減らず口を叩くな」

 

 威圧するように言うが、ジェイドは頬を赤くしているが何も無かったように変わらない薄ら笑いを浮かべている。

 

「生憎、これは生まれ持ったものなので」

「なら二度と喋られないようにしてやろうか」

 

 別の男が剣の腹でジェイドの頬を叩き、挑発する。

 

「止めて下さい! 彼らは私に同行していただけです! このことには関係ありません!」

 

 刃がジェイドに向けられたのを見て耐え切れなくなったのか、トウが庇うように叫んだ。

 

「貴方方の狙いは私だけの筈です! 貴方方の言うことには従いますのでどうか彼らだけは!」

 

 懇願するトウ。それを聞いて周りの男たちの中には下卑た笑みを浮かべる者が出て来る。美女であるトウの言葉に良からぬ考えを思い浮かべた様子であった。先程、ジェイドを殴りつけた男もその内の一人である。

 

「ほう、言うことに従うか……」

 

 男の手がトウの線が整った顎を指先で持ち上げる。

 

「愉しませ――」

「おい」

 

 ドスの利いた低い声。一瞬誰のものか分からないそれを聞いて、男が反射的に声の方に顔を向けたとき――

 

「汚い手で彼女に触れるんじゃない」

 

 ――薄ら笑いを消したジェイドが男の股間を蹴り上げる。蹴り上げた勢いは凄まじく男の両足が一瞬地面から浮き上がる程であった。

 

「こっ!」

 

 奇妙な声を発した後男は口から泡を吐き、白目を剥いて失神する。

 

「き、きさがぁ!」

 

 仲間をやられたことに激昂するジェイドの頬を殴った男は最後まで台詞を言う事無く、口に拳を叩き込まれ、その場で血と歯を撒き散らしながらぐるりと半回転して頭を地面に打ちつける。

 短時間で二人もやられたことに呆然とするジェイドの剣で頬を叩いていた男は他の二人とは違い何かしている訳でも叫んでいる訳でも無く、ついでと言わんばかりに顎を拳で突き上げられ、地面で眠る他の男たちと同様に動かなくなった。

 

「し、師匠!」

 

 下手な真似をすれば命が危ぶまれる状況であるにも関わらず下手な真似所か、敵を三人も戦闘不能にしてしまった自分の師にピリムは驚きの声を上げる。

 

「ああ、ついうっかり」

 

 弟子の声で気付いたのか惚けるような声を出すジェイド。周囲の男たちは、まさか向こうの方から手を出すとは思っていなかったのか絶句していたが、すぐに正気に戻り威嚇するように怒鳴った。

 

「状況が分かっているのか貴様ぁ!」

「取り囲んだぐらいで勝った気になるんじゃない。吠えるぐらいなら掛かってきたらどうだ?――何人かは道連れにしてやるがな」

 

 怒声に対し静かな声ではあるがジェイドは威圧を込めて言葉を返す。

 他の男たちとは違い修羅場を何度も経験してきたジェイドの言葉の重みに男たちはやや気圧され、剣は向けているもののそこから足が一歩も出ない。先に動いた者から殺しに掛かってくる。そのような考えが男たちを躊躇わせていた。

 そこに場違いな乾いた拍手の音が響く。

 それを聞いた男たちの一部が動き、隙間を作るとそこを通って一人の男性が現れた。

 

「お見事。このような状況でそこまでの啖呵が切れるとは大した胆力だよ」

 

 見た目は三十前後。褐色の肌に線の細い体型。尖った顎や鼻、そして細い眼はどこか狐を彷彿とさせ、狡猾な印象を与える容姿であった。

 

「貴方は……!」

 

 男の登場にトウは怒りを混ぜた言葉を吐く。トウと周りの男たちの態度から、目の前に現れた男こそ今回の騒動の元凶である若い村長であることが察せられた。

 

「貴女もここまで来られるとは驚きだ。砂漠で野垂れ死ぬか、追手に殺されるかのどちらかと思っていたのでね」

「使命を果たすまで死ぬつもりはありません!」

「結構結構。『遺産』を消し去るのにそれほどの意気込みがあるのは素晴らしい――ですが厄介でもあります」

 

 パチンと村長が指を鳴らすとトウの背後に立つ男たちが素早くトウの口に布を噛ませ、猿轡をし喋れなくする。

 それを見たジェイドはその場から一歩踏み出そうとするが、牽制するように四方から剣を突き付けられる。

 

「そう怒らないで下さい。彼女の言葉はこの遺跡では力を持ちますからね。その対処をしただけですよ。これ以上無い程に穏便に済ませているつもりです」

「――まだ生かしておくという訳だな?」

「ええ」

「アンタの部下をそんな風にしてしまったというのに?」

 

 ジェイドは横たわっている三人を顎で指す。

 

「自分が有利な状況であるからといって調子に乗るのは別ですからね。自業自得です」

 

 あっさりと言い切ると気絶している三人には目もくれない。

 

「貴方方も拘束させてもらいますよ? 下手に暴れれば――」

 

 村長は切れ長な目でトウの方を見る。

 

「……分かった。俺達の負けだ」

 

 降参の意を示し、ジェイドとピリムは大人しく手を縄で縛られる。

 

「師匠……私たちこれからどうなっちゃうんですか?」

「ああ、きっと今からこの遺跡をこの方々と一緒に探索するんだ。道に罠が無いか調べる道具代わりに」

「ええ! 本当ですか!」

「はい。本当です」

 

 あっさりと肯定する村長にピリムの顔から血の気が引く。

 

「では行きましょうか」

 

 抵抗も拒否も一切認めないと言った態度で道を譲るように脇へと移動する村長。村長の姿で隠れて見えなかったが、背後には地下へと続く階段があった。

 

「それじゃあ先に行かせてもらおう」

 

 そう言うとジェイドは怯えた様子を見せずに階段へと向かって行く。

 

「何があるか分からないというのに勇気のある方だ」

「罠を掻い潜っていくのも冒険者の醍醐味さ」

「頼もしいことで」

 

 階段の前に立つジェイド。灯りなど無く先には暗闇が広がっている。一歩段差を降りた瞬間、いきなり左右の壁に灯りが点き、真っ暗であった階段を照らしていく。左右の壁には蝋燭が備えられており、人が踏み込むと同時に魔法が自動的に作動して火が灯る仕組みになっていた。魔法が生活の要であった古い時代の文化を垣間見る仕掛けである。

 そこから先は一歩ずつ階段を降りて行く。罠が仕掛けられているかもしれないというのに、ジェイドの歩みは慎重さを感じさせない程一定の間隔で進んでいた。

 

(思ったよりも空気が悪くないな……)

 

 埃のニオイを感じさせない遺跡の内部にジェイドは内心でそんな感想を抱く。そんなことを考えているジェイドの背後では、ピリムとトウがジェイドの降りた場所をなぞって恐る恐る進んでいき、更にその後ろを男たちが慎重に進んでいく。

 そのせいでジェイドと背後に並ぶ者たちとの距離はどんどんと離れていき、その度に立ち止まって後ろがついてくるのを待つのを繰り返す。

 

(何か起きないかなー)

 

 それがあまりに退屈である為、罠の一つでも発動しないかと物騒なことを考えるジェイドであったが、彼の期待とは裏腹にそこから数百段もの階段を降りても罠が発動することは全く無かった。

 最後の段を降りたとき、ジェイドは前方に石で出来た扉を発見した。上部から中部まで見たことが無い文字らしきものが刻まれ、文字の下には絵が刻まれている。

 長い蛇のような生き物を挟むように二つの盾が並んだ絵と交差した二本の剣の絵。何かを現したものであることは間違いないが内容は全く理解出来ない。

 暫くしてようやく階段を降りきった背後の者たちが来ると、興味深そうに扉を眺めているジェイドを押しのけ村長が扉の前に立つ。

 

「遂に……遂にここまで来たか……この日、この時から我々の国と誇りが取り戻される」

 

 感極まった熱の籠った口調。出会ったときは冷静な性格という印象を受けたジェイドであったが、その姿を見て考えを改める。意外と感情的になり易いのかもしれない、と。

 

「感動している所、申し訳ないのですがその壁には何と書いてあるんですか?」

 

 今の立場上、そんなことを聞くなど命に関わることは百も承知であるが、どうしても好奇心から聞かずにはいられない。ジェイドにとって未知なるものは知ることは時として女性や自分の命よりも最優先になる。

 

「『この地に我らが財を封じる。我らの血を受け継ぐ者よ、その身に流れる血に誇りを抱くのであれば我らが遺したものを使うが良い』」

 

 だが村長は特に不満を見せることなくあっさりとジェイドの頼みを聞き、壁に刻まれた文字を読み上げた。あるいはジェイドの言葉など最初から耳になど入ってはおらず昂揚した気分を抑える為、目の前にあるものが幻で無いことを確かめる為に口にしたのかもしれない。

 

「『そして同じくしてこの地に盾と剣を眠らせる。引き継がれる力に恐れを抱いたのであれば、二つを目覚めさせ血を断ち、野心を阻め。ただし心せよ、盾と剣は『諸刃』故に』」

 

 不吉さを感じさせる言葉で最後が締めくくられる。

 トウが求めていた遺産というのがこの盾と剣であるならば、使う側はそれ相応の覚悟を決めなければならないことを暗示しているが、不謹慎ながらもジェイドは鼓動が高まるのを抑えられなかった。

 

(どんなのかなー?)

 

 そんな子供のような好奇心を隠す。

 全員が階段から降りたのを見て、村長は徐に懐から短剣を取り出すとその刃を手の平に押し付け刃を軽く走らせる。スッと刃が通った後には血が赤い線のように残り、村長は血が流れる手の平を扉へ押し当て、最初にトウがしたように古い言葉を放つ。

 すると扉はゆっくりとした動きで左右に開き、向こう側を皆に見せるのであった。

 

「おお……」

 

 村長が感嘆の声を洩らす。

 何十件以上の家を建ててもまだ余裕があるほど広がった空間、天井も数十メートルほどの高さがある。一面に敷き詰められた砂。そして辺りに散らばる大小様々な水晶。その水晶自体が発光しており扉の先は通って来た階段よりも明るい。

 想像していたよりも簡素とも呼べる中であり、何かを祀る祭壇も無い。

 トウやピリム、そして男たちがキョロキョロと周囲を確認している中でジェイドは独り冷静に内部の観察をしていた。

 

(岩肌が剥き出しになっている……階段とは違って人の手が殆ど入っていない。天然の洞窟をそのまま利用したのか?)

 

 ジェイドがそんなことを考えている中、村長は一人砂地の中心へと駆けていくとそこで懐から何かを取り出す。黒く光沢のある筒状の物体。村長はその筒の端に口を付けると息を吹き込む。すると場には甲高い音が響いた。

 どうやら村長が取り出したものは笛であるらしい。

 何を思って笛を鳴らすのかはジェイドには分からない。空間内に満たされていく笛の音。音程など皆無に等しく、ジェイドやピリムのような素人が聞いてもただ強く笛を吹いているようにしか聞こえない。しかし、トウが拘束された状態で激しく抵抗している姿を見るに、良くないことが起ころうとしているのは明白であった。

 その考えを肯定するかのように足元が揺れ始める。いきなりの地響き。その揺れで天井から埃が落ちてくる。

 が、そんなことが気にならなくなるほど一際強い揺れが起きたかと思えば、大量の砂を巻き上げ砂の中から巨大な何かが飛び出してきた。

 砂漠の砂と同じ体色。砂色の肌には手足は無く長く伸びた体には無数の棘が付いていた。全長は十数メートルあり、胴の太さは人の幅よりも遥かに太い。

 目も無く耳も無い。あるのは大きく開かれ、牙が並ぶ円形の口のみ。

 

「こいつは……『砂蟲〈サンド・ワーム〉か?』

 

 砂から出て来た異形に心当たりがあったのか名を口にするジェイド。それが正解であったらしく村長は片眉を僅かに上げる。

 

「ほう、物知りですね」

「まさか、とっくに絶滅した生き物をこの眼で拝めるなんてね。高く売れそうだ」

「生憎、ペットなどではこれの真価は発揮できませんよ」

「だろうね。何せ場所を限定すれば竜種をも上回る力を見せるらしいからな。これが先人の残したものか……嫌なものを残す」

「伝説を築いたこの力、見てみますか?」

 

 目的を果たしたことでもう既にジェイドたちを生かしておく価値は失っている。この後どうなるか考えなくても分かる。

 故にジェイドの行動は早かった。

 村長が笛に口を付ける前にジェイドはその場で強く足踏みをする。そして、背後に立つ男の脛目掛け踵を叩き付けた。

 

「ぎゃあああああああああ!」

 

 その瞬間、男の口から絶叫が上がる。軽く叩き付けたようにしか見えなかったので何を大袈裟なと、他の男たちはそんな表情をしていたが、しゃがみ込み脛を押さえる男の手の隙間から血が流れているのを見て顔色が変わる。

 

「ロマンがある作りだろう?」

 

 ジェイドの靴の踵から鈍色に輝く刃が飛び出していた。

 

「ふっ!」

 

 踵を上げると同時に上体を後ろに反らして刃を拘束している縄へと当てる。縄は切断されなかったものの半分程裂かれた。そこから更に腕の力を加えることで縄は完全に引き千切れ両腕が完全に自由になるとジェイドは腰に手を回し、そこに巻き付けていた鞭を引き抜くと同時に周囲に向かって振るう。

 鞭は意志を持ったかのように自在に動き、トウとピリムの周りに居た男たちを薙ぎ払う。

 

「ピリム!」

「はい!」

 

 掛け声に反応しピリムが背中を向けると精密な操作で鞭が縄を引き裂き、ピリムの拘束を解く。自由になったピリムはすぐにトウの側へと駆け寄りそのまま担ぎ上げると、人一人持っているとは思えない速度で走り出した。

 

「何をしているんだ! 馬鹿者共! 追え!」

 

 男たちの失態に怒りを見せながら村長は笛を吹く。笛から来る音を体から生やした棘で感じ取った砂蟲は村長の指示に従い、ジェイドたちの後を這って追う。久方振りの獲物を目の前にしているせいか開いた口は粘液のような唾液が糸を引いており、生理的な嫌悪を与えてくる。

 

「来た来た!」

「ししょー! この先どうするんですかぁぁぁ!」

「ここから先はもう一つの『伝説』に頼るしかないな。今すぐ彼女の口枷を取るんだ!」

 

 ジェイドの指示に従い、ピリムは片手で器用に布を解く。

 

「ふぅ。――ここから先は何が起きるか分かりません。命の保証も……」

「どうせこのままだったらアレの餌になるのがオチです。だったら賭けてみましょう。盾と剣に――諸刃であっても」

 

 ジェイドの言葉にトウは頷き、受け継がれた言葉を放つ。内容は分からないがそれは歌のようであり、洞窟内へと響き渡る。

 歌が洞窟内に木霊すると変化はすぐに起こった。

 岩肌全体に青白く輝く文字が夥しく浮かび上がる。文字を用いた魔法はその量によって効果が比例していくが、この量は尋常では無い。

 村長及び男たちも洞窟の変化に驚いている。

 

(『砂蟲』のときとは明らかに様子が違う。どれだけ危険視していたんだ?)

 

 厳重と呼ぶには足りない程に施された魔法文字。それがどんどん輝きを失っていく。輝きの消失は魔法文字が只の文字へと変わっていくことを現していた。

 

「まだですかぁ! まだですかぁ!」

 

 封印は解かれているものの依然危機的状況は続き、洞窟の変化も我関せずといった様子で砂蟲はしつこく追尾してくる。

 

「追い付かれます!」

 

 残りの距離は数メートルも無い。後少しだけ砂蟲が速度を上げれば容易く追い付かれる――かに思われた。

 

 キシャアアアアアアアアアア

 

 砂蟲が奇声を上げながら突如急停止する。

 

「何をしている!」

 

 村長が声を荒げ、笛を吹くが砂蟲は動こうとはしない。

 

「な、何ですか! あれ!」

 

 ピリムが声を震わせながら叫ぶ。

 砂蟲は動こうとしないのではない。動けないのである。地中から突然現れた巨大な二つの先端で胴体が挟まれている為に。

 砂蟲の下が盛り上がっていくことで二つの先端が何なのか露わになっていく。分厚く幅のある盾を思わせるもの、赤い殻に白い縞が入ったそれは巨大な鋏であった。

 

「おおお!」

 

 そして砂の下から盾を彷彿とさせる平たい頭部を持ち、鼻の先端に巨大な角を持つ竜種が姿を見せる。

 

「おおお……おお?」

 

 感嘆の様な声を上げていたジェイドであったが、その声は途中で困惑したものへと変わっていく。現れた竜種には皮膚や眼球などが無く、どう見ても骨にしか見えない。

 その竜種の顔からはみ出てくる四本の脚。鋏と同じく赤い殻に白い縞が入っているが、竜種とは違い脚に節がある。

 顔から直接鋏や脚が生えているように見える異形の竜種。それが砂蟲を掴まえたままゆっくりと振り返り、背部を見せた。

 

「あれ?」

 

 背中を見せたかに思えたが目が合った。細長く伸びた黒い目に。

 振り返った竜種が見せたのは、長く垂れ下がった触覚、そして同じく長い目、その目の下には左右から伸びた顎と口があり、更に鋏と脚を生やした赤の地と白い縞の胴体。

 

「あれって……あれですよね?」

「あれだな」

 

 想像とは全く違う伝説に拍子抜けしたような声を出すジェイドとピリム。

 その直後、今度は男たちの絶叫が上がった。

 

「うわああああああああ!」

「殺られた! 一人殺られた!」

 

 入口付近に居た男の一人が、地面から突き出た弧を描く青い剣のような形をした突起物に胴体を貫かれている。

 

「離れろぉぉぉぉ!」

 

 その声を合図に男たちは一斉にその場から離れる。

 すると砂を撒き散らしながら青い剣の本体が姿を見せる。

 丸みを帯びた殻に刃のように鋭い突起があり、さながら斧か鉈を連想させる青い殻に包まれた爪。十数メートルはあろう巨体を支える四本の脚。最初に現れたモノと似たような形をした触覚、口、目。背中には岩から削り出したかのようなごつごつとした形をした竜種の頭骨を背負っている。

 姿を見せたそれは頭部を軽く振るい、刺さっていた男を振り飛ばす。

 

「あれが……盾と剣なのですか?」

「なのですか? って言われても……ねぇ、師匠? あれって間違いなくあれですよね?」

「ああ、そうだな。間違いない」

 

 数百年の時を越え、蘇った伝説の盾と剣を見て心の底から思ったことを口にする。

 

「『蟹』、だな」

 

 

 




久しぶりの投稿となります。
今回は出番が終盤だけでしたが後編の方は蟹無双になる予定です。


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盾と剣(後編) ※1/20加筆

 封印を解いたことによって現れた二匹の巨大な蟹。過去に最大規模の領土を支配していた国が残し、大仰な伝説で謳っていた割には想像の斜めを行くその姿に、暫しの間ジェイドたちは呆けてしまった。

 だがその呆けも二匹が動き始めるとすぐに消え去る。

 砂蟲を挟んでいる朱い蟹――盾蟹は鋏の中で必死にもがく砂蟲を地面に叩き付けると、そのまま鋏に力を込める。

 砂蟲は口から黄土色の体液を吐き出しながら更に暴れるが、砂蟲の身体に喰い込む鋏は微動だにしない。

 単純な構造ではあるが全身が筋肉で出来ているといっても差し支えない砂蟲の動きを、片手だけで押さえ込む盾蟹の力は竜種すらも超えるかもしれない。

 一方で青い蟹こと剣蟹は触覚を揺らしながら、周囲で戸惑っている男たちをその黒い目に映していた。

 表情というものなど全く無く、何を考えているのか判別する要素が皆無。故に剣蟹が次に移った行動には誰もが反応出来なかった。

 剣蟹が楕円形の形をした鋭い爪を持ち上げる。盾蟹の爪とは違い細長く先端が尖っており、挟むという行為に適していない形状をしている。

 ならばその爪はどのように使用するのか。その答えは剣蟹が持ち上げた腕を振り払ったときに出た。

 数メートルは軽く超える巨大な爪。その巨大さから重量もそれ相応のものに思えるが、剣蟹が振るった爪の速さはそれが如何に浅はかな考えであったのかを突き付けてくるものであった。

 見て逃げ始めようとしたときには既に遅く、振るわれた爪の軌道状にいた三人の男の体を爪が通過していく。

 

「ッ! ……あれ?」

 

 吹き抜けていく剣風の勢いに身を硬直させる男たちであったが、その場から吹き飛ばされることも無く立ち尽くすだけ。確かにあのとき剣蟹の爪は自分たちを捉えていたというのに。

 何が起こったのか分からないといった様子で、男の一人が我が身の無事を確認するように自分の両手を持ち上げた次の瞬間――

 

「――あ」

 

 ――ずるりと肘から先が地面に向かって落ちるのを見て、間の抜けた声が男の口から出た。

 

「何で……」

 

 現実に起こったことを認められないのか呆然とした声を出しながら、落ちた腕を拾おうとしてその場から一歩踏み出す。

 

「あれ?」

 

 気付けば天井を眺めていた。前に進んでいた筈なのにどうして自分は上を見上げているのであろう、と思った次のときには男の意識は黒く塗り潰され、二度と意識が蘇ることはなかった。

 

「うああああああ!」

 

 下半身から落ちた男の上半身を見て二人の男が絶叫を上げる。すると一方の男の腹部に赤い線が浮かび、もう一方の男の首にも赤い線が浮かび上がる。

 

「あ?」

「え?」

 

 短い言葉を放った後、二人の男の体から線よりも上の部位が切断され、最初の男と同じく地面へと落下する。

 突然のことに自分の身に何が起きているのか理解していないのか、地面に転がる頭部は数度瞬きし、上半身が切断された男は助けを求めるように手を伸ばすが、すぐに力を失い地に落ちる。

 自分が死んでいることすら分からない程、鋭い剣蟹の斬撃。

 冷たさを感じさせる青い甲殻、そして一瞬にして凄惨な死体となった仲間の姿を見て、周りの男たちは自分の体温が急激に下がっていくのを感じる。だというのに額からは暑くもないのに汗が流れる。

 剣蟹は三人を瞬殺した爪を左右に広げる。只でさえ大きな体は爪を広げることによって更に大きく見える。まるでその爪の中から逃れられないと錯覚させる程に。

 男たちは今すぐにでも逃げ出してしまいたくなるが、地上への出口は今の所一つしかなく、更にその出口の前には剣蟹が立ち塞がっている。

 逃げるにはあの恐ろしい爪を掻い潜らなければならない。

 一斉に飛び出せば数人ぐらいなら逃げ延びる可能性があるだろう。だがそんな勇気も度胸も男たちには無かった。立ち塞がる剣蟹の無機質かつ容赦の無い威圧に男たちは完全に呑まれていた。

 

「何ですかぁ! 何なんですかぁ! あれ!」

 

 逃げるのを止め、惨劇が起こっている場所から可能な限り離れた位置でジェイドたちは周りを見ていた。封印を解いたことで現れた二匹の巨大な蟹。それが瞬時に見せた圧倒的な強さを目の当たりにして、ピリムは悲鳴のような声でジェイドに尋ねる。

 

「何って――蟹だろ?」

「私の知っている蟹はあんなに大きくて強くて怖くないです!」

 

 さらっと返された答えをピリムは強く否定した。

 

「まさか……あのようなモノたちがここに眠っていたなんて……」

 

 『砂の民』がこの地に於いて支配者となった最大の理由にして最強の武器である『砂蟲』。それが一匹の蟹によって為す術も無く蹂躙されている。そしてもう一匹の蟹は一切の容赦無く男たちを斬殺していた。

 死体を見ることは初めてではないトウであったが、生々しく、そして惨たらしく死んでいった男たちの姿に顔を蒼褪めさせ、出す声も震えている。自らの命を守る為とはいえ、その結果人の命を奪うことに間接的に関わってしまったことに罪悪感を覚えている様子であった。

 ジェイドはそんなトウの様子を横目で見つつも何も言わない。下手な慰めは余計にその罪悪感を心に食い込ませるというのが分かっているからである。

 

(さて、どうしたものかな?)

 

 悔いるよりも罪悪感を覚えるよりも、まず最初にすべきことはここからの脱出である。

 ざっと周囲を見ても脱出出来る場所は自分たちが入ってきた場所のみ。しかも今その場所には剣蟹が陣取っている。

 

(あれを攪乱して上手く抜けるか? ――無理だな)

 

 思い描いた案を数秒で即却下する。

 剣蟹の動きを一目見ただけでジェイドは悟ってしまっていた。『コレは策など通用する段階ではない』と。それほどまでに自分たちとあの蟹との力量の差は別次元のものであった。

 数々の冒険を熟し、あらゆる危機を脱してきたジェイド。太古の怨霊が乗り移って動く骸骨の兵士、大木よりも太い胴体を持つ蛇、岩をも持ち上げる単眼の巨人といった怪物たちが相手でも、持ち前の身体能力と冒険で培った経験で出し抜いてきた。だが、剣蟹と盾蟹という存在はその過去の強敵たちを遥かに凌駕しており、直感が『無理』と囁く。

 

(こんなことは生まれて初めてだ……)

 

 冒険。その二文字を前にすれば何時如何なるときも好奇心で胸を躍らせるジェイドだが、今の彼の胸にはそのような高鳴りとは異なった心臓の鼓動が響く。そして背中から止まることなく冷たい汗が流れ落ちていく。

 

(まさかこいつらは『あの人たち』が言っていた怪物なのか? やれやれ、縁なんてないと思っていたんだがな……)

 

 圧倒的存在感を放つ二匹の蟹について心当たりがあるジェイドは一人黙考するが、その間にも事態は動き続ける。

 ぎりぎりと砂蟲を巨大な爪で鋏み続ける盾蟹。砂蟲の分厚い体皮は破られ、そこから体液が流れ落ち、砂へと吸い込まれていく。一説によれば砂蟲の表面は灼熱の日差しや潜った際の砂の圧力に耐え切れるよう、鉄と同じくらいの硬さを持つという話ではあるが、そんな説などまるで嘘だと言わんばかりに盾蟹の爪は砂蟲の体に食い込んでいく。

 伝えられているよりも砂蟲の体が柔らかいのか、あるいは鉄の硬さなどものともしないほどの怪力を盾蟹が秘めているのか。後者であるのならばより一層脅威が増すこととなる。

 

「くっ!」

 

 折角呼び出した砂蟲が一方的にやられているのを見て、村長は焦りの表情を浮かべながら手に持っている笛に唇を当て、甲高い音を鳴らした。

 笛の音で砂蟲を操ろうとしているのだろうが、肝心の砂蟲の方は盾蟹に押さえ付けられて身動きを取ることが出来ない。

 そのとき、盾蟹のすぐ側の砂が爆破されたかのように巻き上がり、巻き上がった砂の中から太い尾が現れ、盾蟹の体を強打する。

 不意の一撃であったのか、盾蟹の体が傾く。その拍子に爪の挟む力も弱まったらしく爪の中で砂蟲が勢い良く身を捩って拘束から抜け出し、砂地に降りるとすぐさま距離を取った。

 巻き上がった砂が地に向かって落下すると同時に、砂の中から強襲したモノの姿が露わになる。

 現れたのはもう一匹の砂蟲であった。

 

「くく、はははは! いきなり襲われたときは少々動揺したが何てことは無い! まだまだ遺産は残されている!」

 

 村長が笛を鳴らす。すると砂の中から更にもう一匹の砂蟲が出現する。

 

「個の力が上なのは認めよう。ならば数の力で補うだけだ」

 

 三対一という数では勝っている状況。村長の口ぶりからすれば、まだこの砂の中には砂蟲たちが眠っているようであった。

 大きな力を操ることで気まで大きくなってきたのか、傲慢さが滲み出る口調で話す村長。だが話し掛けられている盾蟹の方は何事も無かったかのように傾いた体勢を元へと戻し、感情など微塵も感じさせない無機質と呼べる黒い二つの目を現れた砂蟲へと向ける。

 

「伝説などまやかしだと私が証明してくれる!」

 

 村長が笛で指示を出すと二匹の砂蟲が盾蟹に向かって突進。負傷している砂蟲も、他の二匹より少し遅れて動き始める。

 まずは先行した二匹が左右に分かれ挟み打ちの恰好で盾蟹へと襲い掛かる。二匹同時で攻められたことでどちらから攻撃しようかという迷いが生じたのか、一瞬盾蟹の動きが鈍った。その隙に付け込み、砂蟲たちはその体を盾蟹へと叩き付ける。

 分厚い甲殻を割ることは出来なかったが、その衝撃で盾蟹は地面を滑るように後退していった。

 盾蟹との距離が開くと出遅れていた砂蟲が砂地に口を押し付け、そこから砂を吸い込む。そして、押し付けていた口を上げると盾蟹目掛け、球体状になった砂の塊を吐き出した。

 凄まじい速度で吐き出されたそれは盾蟹の胴体へと直撃し、その巨体を震わせる。

 砂地で地上も地中も自在に移動出来る砂蟲。それだけでも厄介であるが、もう一つ恐れられているのが先程の砂弾である。

 吸い込んだ砂を体内で体液と混ぜ合わせて圧縮することで鉄並みの強度へと変え、それを大砲並みの速度で吐き出すことが出来る。砂を用いる為弾切れを起こすことは無く、短い間隔で連射することも可能であった。

 他の二匹も同じように砂を吸い込み、吸い込んだ砂を固めて盾蟹へと発射する。三匹から繰り出される砂弾の連射は、嵐のように盾蟹の全身に叩き付けられていく。

 砲弾を近距離で受けている様な状況。それでも甲殻に罅が入らないのは、盾蟹の甲殻が鉄以上の強度を持っていることを証明している。

 だがいくら守りが硬くても、絶えず撃ち続けられる砂弾に身動きがとれなくなってしまう。

 延々と撃ち続けられればいずれは終わりが来る。

 そして、その終わりは意外にあっさりと訪れた。

 今まで真っ向から砂弾を受けていた盾蟹。するとその口からぶくぶくと泡が出始める。初めて見せる動きにジェイドらと村長は警戒した。

 次の瞬間、ガシンという大きな音を立てて二つの爪が盾蟹の前で揃えられる。更に身を低くして構えている為、盾蟹の体はその大きな爪によって隠されていた。

 数発の砂弾が両爪に当たる。分厚い爪によって守られていることで先程とは違い盾蟹は怯む所か微動だにしない。

 盾蟹はまさに巨大な盾と化していた。

 砂弾がまた吐かれる。それを難なく防ぐ。すると盾蟹が砂蟲たちに向かって前進し始めた。

 

「迎え撃て!」

 

 笛を鳴らし、攻撃を集中させるように指示する。

 砂蟲たちは集まり、砂弾が集中出来る陣形となると同じ個所を狙って砂弾を連射する。

 城すら打ち抜くであろう砂弾の連射。だがそれを受けても盾蟹の前進が止まらない。それどころかさっきよりも速度が上がっている。

 衝突する。それを感じ取った砂蟲たちは急いで散開し、回避しようとする。だが負傷していた砂蟲が出遅れてしまった。

 その砂蟲にぶつかる盾蟹の巨体。砂蟲の体は湾曲し、口から大量の体液が吐き出される。ただの勢いと重量に任せた体当たりだというのに、必殺の域へと入っていた。

 盾蟹は砂蟲と衝突してもその脚の勢いを緩めず、砂蟲を両爪に載せたまま壁に向かって走る。

 これから何が起こるのか想像するのも容易であり、トウに至っては顔を手で覆い目を背けていた。

 間もなくして洞窟内に響き渡る轟き。

 

 ギアアアアアアアアアアアアアアアア。

 

 そして、思わず耳を閉じてしまいたくなる砂蟲の絶叫。

 ジェイドは何が起こったのか目を離さずに見ていたが、それでもその凄惨さから眉間に皺を寄せ、未熟な冒険者であるピリムは蒼白となり吐き気を堪えていた。

 盾蟹と壁に挟まれた砂蟲の体は、口から下の部分が僅かに隙間から飛び出しているが、体の方は完全に潰されていた。

 それでも生来の生命力で辛うじて生きているが、その命は極々僅かなものであった。

 盾蟹が壁から離れる。砂蟲の体液と内容物のせいで黄土色の糸が引かれる。

 亀裂が無数に生じた岩壁。その中心には潰された砂蟲の胴体が張り付いている。口と尻尾の先がまだ生きていることを証明するように小さく動いていた。

 あと幾ばくも無い時間で消え去る命。動けず、反撃も抵抗も出来ないまさに死に体。だが、まだ動いているという事実のみを認識した盾蟹は閉じていた爪を広げ、その片方を振り上げると、痙攣している砂蟲の頭部に叩き付ける。

 一撃目で砂蟲の頭部は岩壁にめり込み、原型を失う。そこに容赦の無い二撃目。岩壁の破片と共に砂蟲の体液や一部が周囲に飛ぶ。

 

「ひっ!」

 

 足元に飛んできた砂蟲の牙に驚き、飛び上がるようにしてピリムはジェイドにしがみつく。

 

「容赦ないなー」

 

 ピリムとは違いジェイドは過度な反応を見せなかった。口では盾蟹の過剰な攻撃を否定しているようであったが、内心ではそれは当たり前のことであると認識している為。

 所詮、倫理観など人の持つ考え方。人以外のものが敵対するものに対し可哀想などという感情を持ち合わせる訳が無い。あの砂蟲があれほどの攻撃を受けたのも、ただまだ息があったということ。突き詰めれば盾蟹よりも弱かったせいである。

 砂蟲を撲殺した盾蟹。だがそれによって隙が生まれたと判断したのか、散開していた砂蟲たちが再びその口を盾蟹に向ける。

 しかし、砂弾を吐かれるよりも先に盾蟹が動く。

 砂蟲らに背を向けたまま脚が沈んだかと思えば、それを勢い良く伸ばして低空ではあるがその巨体から想像できない速度で跳ねる。

 一蹴りで片方の砂蟲との間合いを半分以下にまで詰め、そこからもう一蹴りすると盾蟹が背負う竜の頭蓋骨から衝突。竜の骨から伸びる鋭い角が砂蟲の胴体に刺さり、そのまま貫いた。

 体を串刺しにされ、砂蟲は奇声を上げながら悶えるが深々と突き刺さった角は抜けず、身を捩る度に貫かれた傷から体液が撒かれる。

 もがく仲間を助けようとしたのか、もう片方の砂蟲が盾蟹に口腔を向けた。

 既に発射準備が整っている。回避しようとも今盾蟹は砂蟲一匹背負っている状態。

 真面に受けたとしても堅牢な殻が破られる訳ではない。盾蟹の人知を超えた硬さを既に知っている者たちはこのまま甲殻で防いだ後、距離を詰めて屠るのであろうと考えた。

 しかし、盾蟹はその想像の上を行く。

 盾蟹の口で立ち続けていた泡が更に激しさを増したかと思えば、その口から砂蟲に向け一本の白い線が放たれる。

 白い線は細かな泡の集合であるが、それが線に見える程の密と勢いを得ていた。

 竜種が持つブレスと良く似た、泡のブレスと呼ぶべきそれは開かれていた砂蟲の口腔へと飛び込むとその膨大な量の泡で砂蟲の口部を倍以上まで膨らませたが、最後はブレスの威力によって口から背までが貫通し、砂蟲は口と大穴が開いた背から体液混じりの泡を流しながら倒れ、そのまま絶命する。

 盾蟹が砂蟲たちを蹂躙する一方で剣蟹の方もまた一方的な蹂躙を行っていた。

 

「うああああああああ!」

 

 絶叫を上げながら逃げる男たち。その背後からは両手の爪を広げて走る剣蟹。

 必死になって走る男たちだが、男たちが数歩地を踏んで走る距離は剣蟹にとって一歩の距離にしか過ぎず、逃げようともその距離は無常に縮まっていく。

 一人の男は兎に角走って逃げようとした。別の男は鎌のような爪から逃れる為に右に曲がって逃げた。もう一人の男は真っ直ぐ逃げた男と右に逃げた男を見て、彼らが囮になればいいと考え左へと逃げた。

 その結果は――

 

「う″う″!」

 

 右に逃げた男の腹に剣蟹の右爪が食い込む。

 

「あがっ!」

 

 左に逃げた男の腰には左爪に備わった鋭利な刃が刺さる。

 真っ直ぐ逃げた男は左右から聞こえた男たちの声を聞き、思わず背後を振り返ってしまったとき左右から迫る二つの爪の影を見たかと思えば、次の瞬間、体に鈍い衝撃が走るのを感じた。

 

「あっ」

 

 自分の身に何が起きたのか理解出来ていない間の抜けた声が彼にとって最期の言葉であり、左右に逃げた男たちが中央へと寄せられると爪はそのまま交差する。

 剣蟹の前で三人の男たちは物言わぬ肉塊と化した。

 

「うああ! おえっ!」

 

 無残に殺された仲間の姿、そしてそれを何の感慨も無く行う剣蟹の恐怖。それらの心的重圧に耐え切れなくなり、男の一人が我慢できずその場で吐いてしまう。

 こんなことをしている場合ではないと理解しているものの、一度出てしまったものを止めることが出来ず胃の内容物を限界まで吐き出してしまう男。

 吐き終わると口元を拭うこともせず、すぐに剣蟹の方に目を向けた。

 

「なっ!」

 

 先程まで剣蟹が居た場所の剣蟹の姿が無い。あるのは仲間の死体だけ。

 右を見ても左も見てもあの巨体が見当たらない。

 何処へ消えたのか、そう思ったとき仲間の一人が不自然な行動をしているのが目に入った。

 どういう訳かその男は天井を見上げて唖然としている。

 まさかそんな筈は、馬鹿げている、と思いつつももしかしたらという恐怖を抱きながら、男もまた天井を見上げた。

 何十メートルという高さにある天井。見上げた男は目が合ってしまった。地上より遥か上から見下ろす巌を彷彿とさせる竜の頭蓋の空っぽな眼窩と。

 閉じていた頭蓋骨の口が開く。まるで生きているかのような動きに一瞬男の動きが止まってしまった。

 それがこの後の明暗を分けることとなる。

 開かれた口から発射される何か。勢い良く噴射されたそれが何なのか男には分からなった。

 それが液体であったことに気付いたのは間近にまで来たほんの少しの間のこと。気付くと同時に男の体は上から降ってきた液体の圧によって潰される。水流の中で首は胴体にめり込み、背が臀部に密着するまで折れ曲がる。後に残るは世にも珍しい『縦』に圧殺された死体であった。

 

「何て規格外な……」

 

 天井に張り付く剣蟹の姿はまるで白昼夢でも見ているかのようだ、とジェイドは半ば信じ難い気持ちでいた。

 剣蟹が体を深く沈め、そこから一気に脚を伸ばして跳躍したが垂直に跳び上がった高さが数十メートルであり、冗談だとしても笑えないものであった。

 天井付近まで跳び上がると素早く体勢を変え、脚から天井に着くとその杭のような脚を岩で出来た天井に突き立て、体を固定したのだ。一連の動きを見ていたジェイドであったが、きっとこの話を冒険譚の中で書いても誰も信じないであろうと想像を超えた現実を見ながら思った。

 剣蟹は背中付近から発射した体液らしきもので一人屠ると、そのまま天井を地面のように移動する。

 岩を突き破りながら移動し、その度にパラパラと岩の欠片が地面に落ちていく。運の良い者はこれによって剣蟹の追跡に気付くが、逃げることに集中している者たちは気付かずに進路上に先回りしていた剣蟹による水の噴射を真上から受け、その体を無理矢理折り畳められていった。

 短時間で既に集団の三分の二を殺害した剣蟹。伝説の剣と謳われているが、その残酷さ、無慈悲さ故、高尚さを感じることなど出来ず『魔剣』と称するのが相応しく思えてくる。

 数人を殺害した後、剣蟹は天井から脚を離し、地面に向かって落下。その巨大さの為、着地と同時に凄まじい振動が洞窟内に響き、大量の砂が巻き上がる。

 

「んん?」

 

 このときジェイドの視線は着地した剣蟹ではなく先程剣蟹が走り回っていた天井の方へと向けられていた。

 パラパラと降ってきた少量の砂が顔に当たって思わず見上げてしまった。天井に刻まれた剣蟹の足跡。まだ何かが起こっている訳ではないが、経験から来る直感がジェイドに見えない危機を囁く。

 

「危険かもしれないが、そろそろここから逃げるぞ」

「ええっ! で、でもあの蟹たちが居たんじゃ……」

「奴らの意識があいつらに向けられているうちに逃げた方が助かる確率は高くなる。――全滅するのも時間の問題だ」

 

 注意を散漫にさせるための囮。聞こえが悪いかもしれないが、この場で生き残るにはそれが最善の策であった。そもそも村長たちとジェイドたちは敵対関係にある為、見捨てる理由はあっても助ける理由は皆無である。

 そんなことを話している内に巻き上がった砂煙が消える。

 

「ど、どういうことだ?」

「何処だ? 何処にいる!」

 

 男たちから動揺の声が上がった。

 砂煙が晴れた場所にあの剣蟹の巨体がないのだ。

 着地した場所にあるのは落下した衝撃で出来たと思える浅い窪みのみ。

 

「し、師匠! 今なら――」

 

 逃げられるかも、と言おうとしてピリムがジェイドの方を見ると悪鬼のような形相で睨まれ、口を噤んでしまった。

 

「馬鹿が。冒険者になろうとしている者が安易に動こうとしやがって貧相体娘が……お前はあの蟹が最初にどう出てきたのをもう忘れたのか? この鳥頭娘が」

 

 罵倒をしつつも、何故すぐに動かないのか、という理由を直接言わずヒントを交えてピリムに投げ掛ける。

 

「――あっ」

 

 理由はすぐに思い至った。あの蟹は登場時、地中から奇襲しながら姿を見せたのだ。つまりあの蟹は地中をある程度自由に動くことが出来ると考えられた。

 つまりこの瞬間にもあの剣蟹が自分の足元に迫っているかもしれない。そう考えるだけでピリムとトウは全身に鳥肌が立ち、背筋に汗が流れる。

 

「落ち着ついて下さい――お前も落ち着け」

 

 トウに対しては肩に手を置いて宥め、ピリムの方は後頭部を叩いて無理矢理宥める。弟子の方はあまりの扱いの差に涙目で睨んでくるが、それ以上に凶悪な目付きで睨まれて慌てて視線を落とす。

 

「動かないでいれば、恐らくはばれない。ああいった地中に潜る生物は足音といった些細な音でこちらの位置を把握する。絶対動かないこと。そうすれば痺れを切らして向こうから姿を見せる」

 

 断言するジェイドにトウとピリムは反射的に『はい』という言葉を言いそうになるが、慌てて呑み込み、代わりに頷く。経験者としての言葉は重く、二人の不安を少しだが和らげてくれた。

 

(――だといいんだがなー)

 

 自信満々といった態度で話していたジェイドであるが、実際の所はほとんど推測でしかない。何せ初めて見る生物だからである。

 似たようなことをしているから似たような性質である、という思い込みははっきり言えば危険である。しかし、怯える二人を落ち着かせるには多少なりとも嘘を混ぜた言葉を言うしかなかった。と言っても少なくとも下手に動かない、というのはこういった状況ではほぼ間違いのない行動である。

 見えない重圧をジェイドによって軽くしてもらい落ち着きを取り戻した二人に対し、村長側の男たちには剣蟹の重圧を和らげてくれるような人物がいない。

 消えた剣蟹。それによって開かれる出口への道。仲間の死、そしていつ訪れるか分からない自分の死に恐怖する者たちにとってはその道は唯一の救いであり、死からの解放、生還を甘く匂わす耐えがたい誘惑であった。

 一刻でも一秒でもここから逃げ出したい者たちはその道を求めてなりふり構わず走り出す。

 誰もが最短距離を求めて走る為、必然的に起こる道の奪い合い。一歩引けば誰も衝突し合わずに済むが、そんな余裕など彼らには無かった。

 

「どけっ!」

「離せ!」

「邪魔だ! 邪魔だ!」

 

 ある者は顔に肘鉄を受け、鼻血を流しながら転倒。ある者は脚を蹴り飛ばされて転び、ある者は服を引っ張られて倒れる。

 

「必死だなー」

 

 さっきまで仲間だった者たちの内輪揉めを見て、そんな言葉が出てくる。それを醜いとは思わない。そんな光景などジェイドにとっては見慣れたものである。誰であろうと死にたくはない。死んだらそれで終わりなのである。ましてやあんな怪物に無惨に殺されるなど誰でも拒否する。

 

「だがな――」

 

 ジェイドの中にあるのは憐憫の感情であった。必死になって死に抗おうとすることこそ――

 争う集団の中から一人抜け出し先を行く男。出口まであと僅か。生への希望を掴みかけたかに思えた。

 直後、砂を突き破るようにして出てくる剣蟹の青く鋭い頭部。言葉を発する暇も無く男の胸部を突き、そのまま一気に突き上げた。

 ――死を招く結果に繋がっていく。

 最初の一撃で男の胸部は潰れ、大きく陥没する。それだけで致命傷だが、即死に至るほどではない。だからといってそれが男にとって幸運とは呼べない。

 突き上げられた体は地上から十数メートルの高さまで上げられていた。風に翻弄される木の葉のように錐揉みしながら飛ぶ男はやがて最高点へと達した後、地面に向かって頭から落下していく。

 上昇から落下までの数秒、男の頭の中に過るのは何か。死への恐怖か、諦観、過去の記憶か、未練か、あるいはこの地獄から先に抜け出せる喜びか。

 間もなく男は頭から地面に落下。いくら砂地とはいえ落下の衝撃を吸収することは出来ず男の首は真横に折れ曲がり、背も歪に曲がった状態で死を迎えた。

 男を撥ね上げた剣蟹はすぐに地中に潜り、姿を消す。

 生きる為の道を断ち切られた男たちは散るようにして走り始めた。何処へ逃げるのかなど考えない、考えることが出来ない。兎に角あの剣蟹から少しでも早く離れたい。その一心で逃げる。

 だが――

 

「ふぐぁ!」

 

 男の一人が高々と打ち上げられる。

 

「あがっ!」

 

 また別の男も宙に打ち上げられた。

 逃げる男たちの足音を探知し、恐るべき精度で次々と地中から強襲する剣蟹。その度に悲鳴が上がり、男たちの体は宙に舞い、そして地面へと落下していく。

 そして最後の男が打ち上げられたとき――

 

「うっ!」

 

 ジェイドは肌に鳥肌が立つ。砂中から上半身を出している剣蟹の黒真珠の様な目が自分たちを見ていたことに。瞳が無い目であるが、ジェイドは本能的に狙いを付けられた、と感じ取った。

 地中に再び姿を消す剣蟹。次は必ずこちらに向かってくる。例え、動かなかったとしても目で位置を把握されている為、無意味である。

 

(時間が無いな)

 

 残された時間は短い。ジェイドはある決断をするとピリムとトウの肩を掴み、引き寄せる。

 

「今から出口に向かって走れ。振り向かずに真っ直ぐ。ピリム、このレディのことはお前が護るんだ。それぐらいの基礎は今のお前にはある」

「え? どういう――」

「質問は受け付けない。頼むぞ!」

 

 そういうとジェイドは走り出す。『出口』とは反対の方向に向かって。

 

「し、師匠!」

「ジェイド様!」

 

 そのとき地面が細かく震えていることに二人は気付いた。だがその振動はすぐに離れていく。それが向かう先にいるのは走るジェイド。

 

「行けぇぇ! 今だ! 走れぇぇぇ!」

 

 ピリムは一瞬、泣きそうな顔をするがすぐに表情を引き締めるとトウの手を引いて走り出す。

 

「行きますよ!」

「で、でもジェイド様がっ!」

「師匠はそんな簡単に死ぬような人じゃないです! だから、だから今は!」

 

 ジェイドは少だけ後ろを振り向き、ピリムたちが出口に向かって走る姿を見届ける。

 

(そうだ。それでいい。少なくとも二人は助かる)

 

 二人の助かる確率が高くなったことに安堵するが、その安堵もすぐ側まで迫ってきている剣蟹の重圧によって塗り潰されていく。

 

(本当、どうしようか……)

 

 二人が逃げるまでは計画通り。しかし、その後の自分の助かる方法については全く考えていない。全くの無計画である。

 どうすれば逃げ延びられるのか、そう思ったときジェイドの目に盾蟹と戦っている村長の姿が入ってきた。

 既に三匹の砂蟲が倒されているが、そこで笛を鳴らし今度は五匹の砂蟲を地中から喚び出している。

 

「成程」

 

 ジェイドの頭に一つの案が浮かぶ。尤も、それは案というには全く練られておらず、殆ど運任せのようなもの。案というよりも賭けという方が相応しいものであった。

 

「試してみるか!」

 

 自然と口角が上がっていくのが自分でも分かる。この様な状況で本来笑みを浮かべることなど人として可笑しいと自覚しているが、なってしまうものはしょうがない、と自分に言い訳をする。

 ある学者の説に、人は極限まで追い込まれるとその恐怖を打ち消す為の感情が自己防衛の為出てくる、という話を聞いたことがある。自分はまさしくそれであるが、少し違う点があるとすれば自分からその極限状態に向かっていっている点であろう。

 ジェイドが走り込んだ先、そこは砂蟲たちと盾蟹が相対する丁度、真ん中の位置。

 いきなり現れ、しかも最も危険な位置へと立つジェイドに村長は目を丸くして驚く。

 その直後、ジェイドのすぐ背後の土が盛り上がり、そこから剣蟹が鋭角の頭部を突き上げながら姿を現した。

 背中で感じる下から上に駆けていく風圧。あと一歩先に進んでいなかったら間違いなく先程の男たちと同じように宙へと舞っていたであろう。

 攻撃を空振りしたと分かった剣蟹はそのまま脚を伸ばし、砂中から這い出てくる。そして目の前にいるジェイドに爪を振るおうとしたとき、突如身震いし、動きを中断させる。

 震えの原因は背後から当てられた砂蟲の砂弾であった。砂から出てきた剣蟹への先制攻撃のつもりなのであろうが、剣蟹の背負う頭骨は盾蟹の甲殻と変わらない程の強度を持っているらしく、何度当てられようとも頭骨には罅一つ入らない。

 剣蟹の口に泡が出始めるのをジェイドは見た。

 

 ギジャジャジャジャジャジャジャ

 

 石や岩を擦り合わせたような不快音が剣蟹から発せられる。最初何の音なのかジェイドは分からなかったが、やがてそれが剣蟹の鳴き声であると分かったとき、剣蟹は背に砂弾を受けながら後退。そして砂蟲たちから数メートル離れた場所で旋回し、背後に並ぶ砂蟲らに向かってその爪を振るう。

 明らかに間合いの外であった。だというのに剣蟹が爪を振り切った瞬間、二匹の砂蟲の頭部が宙に舞っていた。

 振り抜かれた剣蟹の爪を見て、何故そんなことが出来たのかを理解する。

 剣蟹の爪の形が変わっていた。折り畳まれていた爪が展開することで爪は倍の長さになり、斧、あるいは鉈を彷彿とさせる爪が今は大きな曲線を描き、内側には無数の突起を生やし鎌の形をしていた。

 不意を突かれたこと。横槍を入れられたこと。それらが剣蟹の逆鱗に触れたのか、より一層攻撃的姿勢となっている。

 剣蟹が向きを変える。まだ砂蟲たちが残っているというのに視線は何故か、ジェイドに向けられていた。

 当初の目的では砂蟲たちに標的を移すつもりであったが、世の中そうそう思った通りにことは進まないらしい。

 

「おいおいおいおい。そんな目で見るなよ」

 

 仕留め損ねた獲物を改めて仕留めようとしているのか、更に間合いが伸びた

 両爪を構えながらジェイドに突進してくる。

 村長の部下たちを追ってきたときより明らかに脚の速度が上がっており、開いていた距離もあっという間に縮まっていく。

 全速力で真っ直ぐに走るジェイド。右にも左にも曲がれない。方向を変える為に少しでも速度を緩めてしまえば即爪の間合いである。

 やがてジェイドの逃走劇も終わりを告げる。目の前にはそびえ立つ岩壁。

 壁ギリギリまで逃げ、後ろを振り返るとそぐそこには剣蟹が爪を左右に構えて立っている。

 

「いやいや、ここは一つ落ち着いて話でもしようじゃないか。ミスター? いや、それともレディかな? 生憎、人間以外の性別には疎いもので」

 

 自分で言っていて馬鹿ではないのか、と思える程の無駄口。だがこうでもしなければ目の前に立つ剣蟹の圧力で思考が麻痺しそうになってしまう。口を動かしている間はまだ頭が動く。ジェイドはまだ考えているのである。生き残る為の術を。

 剣蟹の両爪が持ち上げられる。それを見たとき、ジェイドは形振り構わず横へと飛んでいた。

 その直後、振り下ろされる両爪。間一髪で避けたジェイドは靴底に爪で巻き起こった風が当たるのを感じた。

 横に滑るようにして飛ぶジェイドは視線だけは剣蟹から離すことは無かったので、その後の光景が時間を引き延ばした様に目に焼き付く。

 空振りの両爪が壁に突き刺さる。そしてそのまま下に向かって一気に引き裂かれた。岩は決して柔いものではない。だというのに剣蟹の爪は刺さってから引き裂くまでの間、一切止まることは無かった。

 恐ろしい切れ味だとは分かっていたがここまで鋭利であると見せつけられると、分かっていても血の気が引いていく。これ程の切れ味ならば鉄すらも切断出来るのではと思っていたとき、ジェイドは顔から砂へと飛び込んでいった。

 顔中砂塗れになり、口の中は砂粒でじゃりじゃりと不快な音と食感がする。すぐにでも口の中を水で注ぎたい衝動に駆られるが、今はそんなことをしている時間も余裕も無い。

 そのとき小さな何かが額に当たる。反射的に落ちてきたものを手で受け止めてしまったが、それは石の欠片であった。

 砂に混じっていたものではない。明らかに色も大きさも違う。剣蟹が天井を這っていたときこれと同じものが砂と一緒に上から落ちてきたことを思い出す。

 もしやと思い、ジェイドは剣蟹が爪を突き立てた壁の方を見た。壁に刻まれた裂け目。目を凝らして見ると細い亀裂が裂け目から上に伸びているのが分かる。

 それらの要素が頭の中で並んだとき、ジェイドは新たな賭けもとい策を思いつく――が思い付いた途端、激しい後悔に襲われる。

 上手く行けば生き延びられるかもしれない。だが失敗すれば今まで以上の恐怖の中で死ぬこととなる。

 剣蟹が壁から爪を抜き、こちらの方を見たのを感じた。

 迷う時間は無い。策を思いついたのは一瞬、それに葛藤するのも一瞬、そしてそれを実行するのも一瞬である。

 自らの命を守るには、命懸けになるしかない。矛盾しているように聞こえるかもしれない。だが命を救うにはそれに見合った対価、つまり命を賭けるしかない。そうしなければ生き延びられない。

 ジェイドは腰に手を回すとそこに巻き付けていた鞭を抜き取りつつ、それを剣蟹の方に向かって振るう。

 人の皮膚など簡単に裂いてしまう鞭ではあるが、砂蟲の砂弾を受けてもびくともしない剣蟹には無力である。

 しかし、それはジェイドも重々承知。狙いは剣蟹ではなく、岩壁を裂いたときに出来た岩の破片であった。

 鞭が破片に蛇のように巻き付く。手首を動かして鞭を操り持ち上がると、そのまま力の限り振るう。

 空を奔る鞭。その勢いで巻き付いていた部分が解け、石の破片が飛んで行ってしまう。

 飛んだ先にいるのは盾蟹。放たれた石は盾蟹の目の下部から伸びた触覚に直撃した。

 恐らく痛みなど皆無であろうが、生物にとって感覚を司る部分に攻撃されたことで盾蟹の意識がジェイドへと向けられる。

 左右の爪で掴んでいた砂蟲らを地面に放り捨てる――足元には既に絶命している砂蟲が踏みつけられていた――とその感情を読ませない無機質な目をジェイドに向けた途端、口から大量の泡を噴射した。

 

「うひぃ!」

 

 情けない声を上げながら壁際を疾走する。狙いが外れた泡のブレスは岩壁を砕き、そのまま逃げたジェイドの後を追って横薙ぎに振るわれた。

 背中に感じる冷たい感覚。汗と岩壁に反射して飛んだ泡の飛沫の二つによるものであったが、その冷たさはこの世のどんなものよりも冷たく感じた。

 その飛沫の向こうでは剣蟹もジェイドを追い始めている。

 

「はぁ! はぁ! はぁ! ――はははははははははは!」

 

 追われながらジェイドは声を上げて笑う。危機的状況に似合わない哄笑であった。

 彼は決して今の状況で発狂してしまった訳ではない。本当に追い込まれているときに行っているジェイド流の気持ちの上げ方であった。

 冒険者の心得その二『笑えない状況でこそ笑え』。彼がピリムにも教えていることである。

 恐怖というものはほっとけばどんどんと精神を蝕み、やがて思考を停止させていく。だからこそ、その恐怖を紛らわせる為に真逆のことをして精神を保たなければならない。

 その為の『笑い』である。

 抗い、もがき、足掻き続ける。往生際の悪さをこれでもかと見せつける。

 泡のブレスを吐き終えたのを背中で感じた。だが今度は鋭利な鎌を持つ剣蟹の圧力を背中に感じる。

 息も苦しくなり、脚も重くなる。走る速度を維持するのが困難になってきた。

 あと十歩走ったら速度を緩めよう。十歩走ったが、まだ走れる気がするから、あと十歩走ったら、速度を緩めよう。十歩走った、まだ――

 何度も囁いてくる諦めの誘惑に耐えながら真っ赤な顔でジェイドは疾走し続ける。

 だがやがてそれも限界を迎える。走ろうという意思に反して両脚が前に進もうとしなくなる。

 がくん、と膝が折れてしまったジェイド。こうなればもう剣蟹の間合いから逃れることが出来ない。

 振り向くとすぐそこには爪を振り上げた剣蟹。そしてその側には同じく爪を構えた盾蟹までいる。

 

「ここまで、か」

 

 腹を括り、それでも笑みを崩さない。どんな最期であろうと笑って受け入れるというのが冒険者になったときに誓った決め事である。

 

(まあ、流石に蟹に殺されるなんて微塵も思わなかったけどな……)

 

 そんなことを考えながら今、振り下ろされそうとしている鎌を見上げる。

 

「――あ」

 

 間の抜けた声が出る。見上げた視線が鎌から更に上へと向けられる。

 ジェイドの不審な行動を気にすることなく剣蟹が爪を振り下ろそうとしたとき――

 

 ゴゴゴゴゴゴゴゴ

 

 ――擦れ合う大きな音。直後、剣蟹の頭部に巨大な岩が直撃する。

 重みと衝撃で前のめりになる剣蟹。盾蟹が何事かと上を見上げたとき、大量の砂が盾蟹へと降り注いだ。

 この瞬間、ジェイドは全身の力を絞り出すようにして走り出していた。

 落石の直前、ジェイドが見たのは天井に刻まれた無数の罅であった。一か八かで考えたジェイドの策、それが成功した証でもある。

 砂の中に広がる洞窟。それを剣蟹や盾蟹を利用し内側から壊す。ある程度壊せば、あとは洞窟の周りの砂の圧力によって崩壊が始まると考えたが、正直半信半疑な策である為成功する確率は極めて低いと思っていた。

 この策が上手くいったのは、皮肉にも剣蟹と盾蟹の力が予想を大きく上回るものであったからと言える。

 真っ直ぐに出口を目指すジェイド。途中、洞窟が崩壊し始め慌てている村長の姿が目に入ったが構っている暇など無い。

 

「馬鹿な! こんなことが!」

 

 遺産が眠る洞窟が崩れ始め、村長は蒼褪める。

 このままでは折角の砂蟲たちが永久に砂の中で眠っていることになる。

 慌てて全ての砂蟲たちを目覚めさせようとするが、笛に口を付けようとしたとき背後から凄まじい衝撃を受け、前のめりに倒れてしまう。

 見ると人程の大きさがある岩が落ちていた。

 

「――無い! 無い!」

 

 村長は手の中にあった笛が無くなっていることに気付く。転倒した際に手放してしまっていた。

 

「何処だ! 何処――」

 

 必死に探すと一メートル程先に転がっているのが見えた。慌てて手を伸ばす。

 が、手で掴んだとき上から落ちてきた岩が笛ごと村長の手を押し潰す。

 

「がああああああああ!」

 

 絶叫が上がる。岩は少なくとも両手で抱えきれない程に大きい。人ひとりでは持ち上げられない。ましてや片腕が使えない今の村長が持ち上げることなど不可能であった。

 

「誰か! 誰かいるか!」

 

 既に全滅している部下たちを呼ぶ声が洞窟内に空しく響き渡った。

 降ってくる大小様々な岩を辛うじて避けながらジェイドは必死に出口を目指す。体力も限界な上、砂に足が取られ速度が出ない。だが確実に出口には近づいていた。

 

「あと少し……あと少し……」

 

 息も碌に吸えなくなるぐらい肺が痛く、喉の奥からは鉄のニオイがする。

 

「あと――」

 

 岩が砕ける音が背後から聞こえる。振り向かなくても分かる振動。落石を払った剣蟹が逃げるジェイドの後を追って来ていた。

 

「しつ、こい! いい加減、見逃せ!」

 

 ここまで追いかけてくると恐怖よりも怒りの方が増してくる。

 空っぽに近い体力をこれでもかと振り絞り、更に脚を動かす。その速度は蝸牛の歩みが蛞蝓の歩みになった程度の微々たるものであった。

 距離は離れているものの、ジェイドの速度と剣蟹の速度を比べれば無いに等しいもの。

 出口までもう少しだというのにこのままでは剣蟹に追い付かれる。そう思ったとき――

 

「師匠ぉぉ! 鞭を!」

 

 名を呼ぶ弟子の声。その声に反応し、ジェイドは手に持つ鞭を出口の方に向かって伸ばす。すると出口に立つピリムの方も鞭を取り出し、ジェイドの鞭に向かって振るった。

 二つの鞭が絡んだとき、ジェイドはありったけの力を込めて地面を蹴り飛ばす。ピリムもジェイドの動きに合わせて力の限り鞭を引っ張った。

 剣蟹の鎌が靴の爪先を軽く削っていくのを感じながら出口まで引っ張られていくジェイド。

 その後を追おうとする剣蟹であったがそれを防ぐように目の前に岩が落ちてきた。そのせいで追う気が削がれたのか、あるいはそこまで追う程価値のある獲物ではないと思ったのか、そのまま出口に背を向けて行ってしまう。

 出口にまで引っ張られたジェイドは仰向けになりながらこちらを涙目で見下ろしているピリムとトウの顔を見た。

 

「馬鹿弟子め……逃げろと……言った筈だぞ……」

「出口まで行けと言われましたけど逃げろとまでは言われてないです!」

「柔軟さの……足りない奴め……」

「はい! だからまだ師匠に色々教えて貰いたいです!」

「ふっ」

「ジェイド様、無事で、無事で何よりです!」

「喜んで頂いて……光栄ですが……ここは間もなく崩れます……早く……脱出を……」

「分かりました!」

「師匠、失礼します!」

 

 ジェイドの脇を肩で持ち上げて立たせる。

 

「私もお手伝いします」

 

 反対側もトウが持ち上げた。

 

「やれやれ……情けない格好だ……」

 

 息も絶え絶えといった様子で、ジェイドは己の不甲斐無ない姿を嘆きつつ地上を目指して階段を昇っていくのであった。

 崩壊していく洞窟の中に独り残された村長。必死になって岩に潰された手を抜こうとしてもびくともせず、痛みで踏ん張ることも出来ない。

 そのとき村長を覆う影。影の主を震えながら見上げる。

 四つの目が村長を見下ろしている。

 

「な、何だ……」

 

 カシャカシャと動く剣蟹と盾蟹の顎。その動きに村長は否応無く察してしまう。2匹の蟹が何を考えているのかを。

 

「やめろ……やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ! やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 

 千切る。刻む。斬る。運ぶ。砕く。噛む。食す。千切る。刻む。斬る。運ぶ。砕く。噛む。食す。千切る。刻む。斬る。運ぶ。砕く。噛む。食す。

 剣蟹と盾蟹は崩れ行く洞窟の中で村長が『無くなる』まで延々と繰り返すのであった。

 

 

 ◇

 

 

 洞窟から逃げ出し、遺跡から脱出したジェイド一行はすぐに遺跡から離れた。洞窟は砂の中に埋まってしまったが、あの二匹の蟹がその程度で死ぬなどとは微塵も考えてはおらず、このことを広く報せる必要があると考え、街を目指す。

 街に着き、最初に訪れたのはこの街のギルドであった。

 ギルド前でピリムは不安そうな顔でジェイドの顔を見る。

 

「本当に大丈夫なんですか?」

「無理をなさらなくても……」

「まあまあ。ここは俺に任せて。二人はここで待っていてくれ」

 

 躊躇うことなくギルドへと入っていくジェイド。

 中に入った途端、ジェイドの顔を見て何人かの冒険者が顔を顰めた。フリーの冒険者として名が売れている為、顔を覚えられているのである。

 

「すいませーん! 偉い人なら誰でもいいんで出てきて貰えますかぁ!」

 

 いきなり大声を上げ、幹部を呼び出すジェイド。その行動に周囲の冒険者たちは目を丸くする。

 

「すいませーん!」

「うるさいぞ」

 

 その大声を聞いて身なりのいい男が二階から降りてくる。あからさまに不機嫌な表情をしていた。

 

「ああ、良かった。ちょっと幹部専用の通信魔法具をお借りしたいと思いましてね」

「貴様、ふざけて――っ!」

 

 答えを聞く前にジェイドは懐から一枚の紙を取り出す。そこには角を生やした赤と緑の獣の刻印があった。

 それを見た途端、身なりのいい男は言葉を詰まらせ震え始める。

 

「な、何故、お前がそ、それを!」

「理由なんてどうでもいいでしょう? 俺の頼みを聞いてくれるのか、聞いてくれないのか、そっちが重要なんですよ」

「わ、分かった! 今すぐ用意する!」

 

 慌てて二階に駆け上がっていく男を見て、他の冒険者たちはポカンとした表情になるのであった。

 ジェイドが案内されたのはとある一室。幹部の部屋らしく豪華な家具が置いてある。

 身なりのいい男を退室させ、机の上に置かれている特殊な紋様が刻まれた水晶――通信用魔法具を耳に当て、とある言葉を紡ぐと目的の人物専用の通信魔法具に繋がる。

 

「どうも、ごぶさたしています。――ええ、おかげさまで。――はい。今回はそのことで報告があります」

 

 通信魔法具の向こうの相手に礼儀を以って接している。

 

「会いました。――はい。戦いはしませんでしたが、あれは人の手に負えるものではないですね――ええ、寿命が何年も縮みましたよ。――はい。得た情報を出来る限り伝えさせてもらいます」

 

 通信魔法具の向こう側から労いの声が掛けられると、ジェイドはニヤリと笑う。

 

「いえいえ。スポンサー様の希望にはきちんと応じますよ、エヌ殿。エム殿、エクス殿にもそう伝えておいてください」

 

 

 

 

 

「く、ぐう……くそ!」

 

 毒を吐きながら遺跡から出てくる三人の人影。ジェイドたちが遺跡の最深部に行く前に伸されてしまった男たちである。

 顎を殴られた男は殴られた箇所をさすりながら別の男に肩を貸していた。

 肩を貸してもらっている男は股間を蹴り上げられた男であり、片方あるいは両方とも潰れてしまっているのか三人の中で最も顔色が悪く、土気色をしており呼吸もひゅーひゅーとか細いものであった。

 その二人の後ろに歯の抜けた男がとぼとぼと歩いている。歯の折れた部分が痛むらしく苛立った声を上げていた。遺跡から出てきた際に毒吐いていたのもこの男である。

 三人はジェイドに気絶させられた後、そのまま遺跡入口付近で放置されていた。目を覚まして周りに村長たちがいないことに気付き、急いで地下へと降りて行ったが、あろうことか『砂の民』の遺産がある筈の扉は砂によって埋まっており、中に入ることが出来なくなっていた。

 仲間も指導者である村長もいない。途方にくれながら三人はとりあえず遺跡の外へと出ることにした。

 遺跡を出た途端、降り注ぐ灼熱の太陽。この砂漠で生き残る為の食料や道具は最低限持っているが、人のいる場所に行くまでこれからどれぐらい掛かるのであろうかと考えると嫌気がさす。更に未だに体を蝕んでいる痛みも共になることを思うと嫌気が倍となる。

 

「くそ! くそ! 奴らめ! 奴らめ!」

 

 グチグチと恨み言を吐き続ける男。背中越しに聞いていて最初のうちは仕方ないと思っていたが、徐々にそれが鬱陶しくなる。

 それでも我慢だと思い、肩を貸す仲間に合わせてゆっくりと歩いていた。

 するといつの間にか男の愚痴が聞こえなくなった。流石に言い続けるのは疲れたのであろうと思い、水でも差し入れるかと振り向く。

 

「これでも飲んで……」

 

 絶句する。背後にいる筈の男の姿がどこにも無かったからだ。周囲を見渡すが何処にもいない。迷ったのか、と一瞬考えたがこんなひらけた場所で見失うことなどありえない。

 

「おい! 何処だ! 何処にいる!」

 

 呼びかけるが返事は無い。ただ声が砂漠に響き渡っていくだけ。

 

「ここで待っていろ!」

 

 肩を貸していた男を座らせ、来た道を見る。

 砂地に確かに足跡が刻まれていたが二人分しかない。三人目の足跡を探し逆走する。

 三人目の足跡はそれからすぐに見つかった。

 距離にして数十メートル程。その足跡の位置をいなくなったことに気付いた位置と比べて時間を推測しても、ほんの数分の間に目の届かない位置に行ったということになる。

 こんな広い場所で見つからなくなる場所まで行ける筈が無い。

 一体何が起こったのかと焦りながら置いてきた男の方を見る。

 

「なっ……」

 

 言葉が詰まる。その男も何処かへと消え去ってしまっていた。

 三人の中で最も重傷であり、手助けがなければ上手く歩くことも出来なかった男が視界に入らない場所にいけることなど不可能である。

 得体の知れないことに触れ、背筋に悪寒が走った男は反射的に懐から短剣を取り出していた。

 何故抜いたのかは分からない。だが抜かなければならない事態が起きているのが本能的に分かった。

 

(何だ……! 何が起きているっていうんだ!)

 

 息を荒げ過敏なぐらい周りを警戒する男。

 しかし、このとき男は知る由も無かった。

 自分の背後の砂が盛り上がっていることに。

 そして、その砂の下から分厚く頑強そうな朱色の爪と鋭く冷たい色をした青紫色の爪が覗かせていることに。

 

 

この地に我らが財を封じる。我らの血を受け継ぐ者よ、その身に流れる血に誇りを抱くのであれば我らが遺したものを使うが良い

そして同じくしてこの地に盾と剣を眠らせる。引き継がれる力に恐れを抱いたのであれば、二つを目覚めさせ血を断ち、野心を阻め。ただし心せよ、盾と剣は『諸刃』故に

 

 

 

 




これにてダイミョウザザミ、ショウグンギザミ編は終了となります。
次回は少し違った方向性の強さを書いていきたいと思っています。


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群れをなすモノたち/

最後の文章はアンケートではないです。


 一本一本の樹々が太く大きく育っている為、見渡す限り緑が一面に広がっている広大な大地。それは雨が多く降り、強い日差しが降り注ぐこの土地特有の気候によるものである。

 多くの植物が生息している土地である為、それに惹かれて草食動物たちもこの地に集まり、更にその草食動物たちを餌とする為に多くの肉食動物たちもまたこの土地へと集う。

 そして、その肉食動物をとある目的で狩る為に訪れている者たちがいた。

 ヒュン、という風を切る音がした後、木の枝から何かが落ちてくる。

 木々の根元に落ちてきたのは黒い毛並みをした一匹の獣であった。艶かな黒い毛、三角の耳、鋭い牙、縦に割れた瞳。気品さえも感じさせる獣。だが今、その獣は息絶えようとしている。

 胸に刺さった一本の矢によって。

 

「ははははは! 命中だ!」

 

 大きな笑い声を上げながら恰幅の良い男が獣へと近付いていく。背には矢筒、手には弓が握られており男が矢の主であることを示していた。

 恰幅の良い男を挟むように二人の男が並んであるく。湿気の強いこの地に不似合いな金属性の鎧を纏い、手には槍を携えている。

 鎧の男たちは手負いの獣に前に立ち、その背後から恰幅の良い男がニヤニヤと意地の悪さを顕している笑みで見下ろしている。

 

「惜しい、惜しいな! あとちょっとで心臓を貫いていたというのに……」

 

 弱りつつある獣に対し何の負い目も無いらしい。逆に上手く射られなかったことの方が重要であるらしい。

 獣が傷ついた体に鞭打ち立ち上がろうとする。だがそれよりも先に護衛の男たちの槍が獣の首を貫き、今度こそ絶命させる。

 

「次はもっと上手く当てられそうだ! お前たち! さっさとこれを処分しろ! 待つ間に腕が鈍る!」

 

 上機嫌そうなさっきとは打って変わって、きつい口調で背後に立つ人物たちに声を掛ける。恰幅の良い男の背後には十数人の男たちが立っていた。護衛をしている男たちとは違い、革製の防具を纏った質素な格好をしている者が殆どである。

 その中から三人の男が前に出てくる。

 

「分かりましたー」

 

 如何にもやる気が無いという喋り方をする赤茶色の髪をした二十代半ばの男。口調と同じくらい表情にもやる気が無い。

 そんな男の態度に両隣に立つ同じくらいの男たちが注意するように片方は肘で突き、もう片方は脚を軽く爪先で蹴る。

 幸い恰幅の良い男は弓の手入れの方に夢中になっており、返事の方を碌に聞いていなかった。

 三人の男たちは息絶えた獣の前にしゃがみ込み。

 

「ああいった態度は止めておけよ、ヒス」

 

 男の一人が小声で咎める。

 

「気が乗らないんだよ」

 

 ヒスと呼ばれたやる気の無い男は露骨に嫌そうな表情で獣に触っている。

 

「嫌でもやるんだよ。これも飯のタネだ。なあ、ボウ?」

「フラッグの言う通りだな」

 

 ボウと呼ばれた男は三人の中で最も体格が良く頭一つ分だけ抜けている。短く揃えた短髪に衣服越しでも分かる太い手足をしており、鍛えているのが分かる。

 フラッグはヒスと変わらない体格であるが、頬には獣によって付けられたのか斜めに走る三本の傷痕があった。

 

「金持ちの道楽の後始末か……泣ける仕事だぜ」

 

 三人とも幼い頃からの知り合いであり、ギルドに属していないフリーの冒険者であり、彼ら以外の者たちもそれぞれの事情でギルドに属していないものばかりである。

 何故、これほどの数が集まっているのかというと、単にこの仕事の報酬が良いからである。

 内容は今も弓を弄っている富豪――名はアセという――の趣味に付き合い、その処理である。

 狩猟を趣味としているアセ。度々、この様な辺境の地に来てはその土地に住む獣たちを飽きるまで狩っていた。

 狩った獲物は証として牙や毛皮にして自宅に飾っている。その獲物の牙を抜いたり、皮を剥いだりする役目としてそういった経験の多い冒険者を同伴させているのである。

 アセの両隣に立っているのはアセ直属の護衛であり、冒険者たちとは一線を画しているのを表すかのように上等な装備を纏っていた。

 息絶えた獣の前に立つ。生気を失ったガラス玉のような目にヒスたちの姿が移り込んだ。

 

「そんな目で見ないでくれよ」

 

 顰めた表情のままヒスは短剣を取り出し、その切っ先を獣の体に刺す。手に伝わってくる感触に表情を更に歪めた。

 

「嫌な感触だ」

 

 獣の皮を剥ぐのは初めてという訳ではない。何度も経験がある。だが、ヒスはこの作業に慣れなかった。

 漂ってくる生臭い血の香り。残っている生暖かさ。短剣から伝わってくる肉の感触。時折、当たる骨の硬さ。どれもこれもが不快にさせる。

 

「そういうことは一々口にするな」

 

 愚痴を吐くヒスを窘めながら、ボウは手慣れた手付きで獣を解体していく。

 

「こういう作業も嫌いだが、いけすかない金持ちの道楽に付き合うってのがほんと情けなくなるぜ」

「だからそういうことを口にするなって言っているだろうが」

 

 小声で話しているが、いつ聞こえるかもしれないとアセたちの方に注意を向けながら、さっきよりも強めの口調で自重するように言う。

 

「文句を言うのは結構だが、そのいけすかない金持ちの金で食い繫いでいるのは、どこのどいつだって話になるんだがな?」

「だからこそ情けないって話だ」

 

 皮肉を言うフラッグに対し、ヒスは現状を理解はしつつも納得出来てない様子であった。

 

「口よりも手を動かせ」

 

 会話が長くなりそうな気配を察したのか、ボウはさっさと作業を終わらせるように言う。フラッグの方はそのまま何も言わずに作業に集中し始めたが、ヒスの方はため息を一つ吐いた後に作業に入った。

 皮と肉の間に刃を走らせ丁寧に剥いでいく。余分な肉を付けないようにし、毛皮にも傷を付けないように気を配る。

 湿気の多い場所ではニオイもひどいことになったが、それでも与えられた作業を熟していく。

 十数分後。毛皮は綺麗に剥ぎ取られ、後に残るは肉や骨が剥き出しとなった獣の死体だけである。

 流石にこのまま放置するのは哀れだと思い、何の慰めにもならないが土にでも埋めてやろうと考え、ヒスが行動に移ろうとしたとき――

 

「ほら、さっさと次に行くぞ」

 

 アセの方から移動をする指示が飛ぶ。

 

「あの……この死体は?」

「うん? 放っておけ。 早く行くぞ。ここは臭くてたまらん」

 

 不機嫌そうに顔を顰めて言うアセに『てめぇが出したもんだろうが!』という言葉が喉まで出かかる程の怒りを覚える。

 が、結局言葉にすることは出来なかった。狩りを止めず、それどころか皮剥ぎなどという加担までしている自分に彼を咎める権利など無く、行き場の無い怒りの炎は胸の裡にあった後ろめたさですぐに鎮火してしまった。

 後ろ髪引かれる様な思いだが、ヒスは獣の死体に背を向け立ち去ろうとする。他の二人も同様であった。

 しかし、そのとき――

 

「ん?」

 

 歩き始めようとしたヒスが立ち止まり、振り返って背後を見る。

 

「どうした?」

 

 ボウが声を掛けてくるがヒスは答えずにじっと一点を見つめている。

 獣の死体の向こうにある茂み。そこから何か視線のようなものを感じた。

 ヒスはそれが気になり茂みへと近付いていく。

 

「おい、どうしたっていうんだ?」

 

 もう一度ボウが聞いてくるが、無視して茂みの前にまで行くと、腰に収めていた剣を引き抜く。

 一度深呼吸をした後、剣を使って茂みを掻き分けた。

 ガサガサと擦れ合ってなる草木の音。掻き分けた隙間に一歩踏み込もうとしたとき――

 

「ここにはもう用はないぞ」

 

 背後から伸ばされたフラッグの手によって引き戻される。

 

「いや、何か居たような気が……」

「何かって何だよ?」

「それを今、確認しようとしてたんだよ」

「今もいるのか?」

 

 そう言われて茂みの方を見る。さっきとは違い今はあのとき感じた視線が無くなっていた。

 

「――今は無い」

「なら長居する理由も無いな。居ないんだから」

 

 そのまま強く引っ張られ無理矢理後退させられる。気になることは気になったが、これ以上長居をすればあの富豪がどんな癇癪を起すか分からず、ヒスは仕方なくされるがまま茂みから離れ、次の狩場に移動する為の馬車に乗った。

 

「さてさて、金と時間は有意義に使わないとな」

 

 次なる獲物のことを思ってニタリと嫌らしい笑みを浮かべながらアセも馬車に乗り、御者に指示を出し走らせる。その後に続き、冒険者たちが乗った馬車も走っていくのであった。

 アセたちが去って間もなく、ヒスが覗き込んでいた茂みの奥がざわつく。

 茂みの裂け目から覗く眼。縦に割れた瞳がアセたちの去っていく方向を見ると、茂みの中からけたたましい咆哮が上がる。

 すると草木が激しく揺らしながら何かが移動し始めた。それも一つではなく十数もの数が一斉に馬車が走っていった方角に向かって動いている。

 それらが移動していくのを見届けてから咆哮の主もまた移動し始めた。

 踏み出すとその振動で枯れた木の葉が木から落ち、先行していったモノたちが潜っていった木の枝を折りながら進んでいく。

その移動は先に移動していたモノたちに比べると荒々しく騒がしいものであった。

 

 

 

 

 悪路の上をガタガタと揺れながら馬車は走る。

 馬車内では十数名の冒険者たちが座っていたが冒険者同士での会話は殆ど無い。フリーの冒険者故に他人と共に行動することが殆どなく、また行動していてもすぐに離れることになるのを知っているが為にフリーの冒険者たちは必要以上の干渉はしない。三人で行動しているヒスたちの方が珍しいのである。

 気分転換に外を眺めようにも馬車には窓は無く、出入りする為の扉だけしかない最低限の作りである。

 重苦しさを感じさせる空気の中、ヒス、ボウ、フラッグはなるべく声を抑えながら暇つぶしの会話をしていた。

 あとどれくらいのこの揺れに身を任せなければならないのか。そんなことを頭の片隅で思っていたヒスであったが、突然馬車が激しく揺れた。

 

「うおっ!」

「うぐっ!」

 

 右に大きく振られたことで馬車内にいる冒険者たちは次々と馬車の壁面に体を叩き付けられ、驚きや呻きの声を上げる。

 

「何してんだ! 下手くそ!」

 

 壁面に顔を打ち付けた冒険者の一人が顔を抑えながら怒号を上げると、走行中にも関わらず扉を開けてしまう。

 そしてそこから身を乗り出す。

 

「きちんと運転を……」

 

 御者が座っている台の方を見て言葉を詰まらせる。

 

「どこだ! どこに行った!」

 

 激しく動揺した声。男の言葉が何を意味しているのかを皆が察し、その動揺が馬車内で一気に広がる。

 今、この馬車は御者無しで走っている。

 そんな状況が続けばどうなるか容易く想像出来る。現にこの馬車は凄まじい速度で蛇行しながら走行しているのである。

 いつ転倒するかも分からない。

 

「おい! 探していないでお前が手綱を握れ! すぐに止めろ!」

「お、俺は馬車なんか動かしたことねぇよ……」

「情けないことを言っている場合か! 手綱を引けば止まるように躾けられているから早くしろ!」

 

 扉の前に立つ男に他の冒険者がすぐに停止させるように指示する。やったことのない作業に弱腰を見せるが、必死になって怒鳴る冒険者の剣幕に押され、渋々といった態度で扉から身を乗り出し、慎重に御者台に移ろうとする。

 

「何てこった……ついてねぇ」

 

 突然の事態に天井を見上げながら嘆くヒス。そんなヒスの隣で、表情は変えないものの組んだ腕をせわしなく指先で叩くという一目見て分かる動揺をするボウ。

 

「馬車から落ちたのか? 一体どうして?」

 

 いつ馬車が事故を起こすか分からない状態の中で、自分の安否よりも姿を消した御者という不自然な事態に疑問を抱くフラッグ。

 三者三様の姿を見せる。

 

「くそ! 何で俺が……」

 

 愚痴りながらも不安定な状態となっている馬車から御者台に必死に移ろうとしている男。

 だが――

 

「ん? 何だあれ!」

 

 外に身を乗り出していた男が何かを見て驚いた声を上げた。その瞬間、男は引っ張られるように扉から外へと飛び出していく。

 

「嘘だろ!」

「おい! 何やってんだ!」

 

 更に馬車から落ちた男を見て、周りの冒険者たちは信じられないといった顔をする。直後、馬車内が横へと傾く。内部で起こる浮遊感、誰もが馬車が転倒したことを悟る。

 

「身を守れぇぇぇぇぇぇ!」

 

 思わずヒスが叫ぶ。

 激しい音と共に馬車は横転。その中にいた冒険者たちは一斉に壁に叩き付けられ、人が人に押し潰される状況となる。

 横転した馬車は地面を滑っていくがやがて速度を落とし、止まる。

 盛大な事故を起こした馬車内部では冒険者たちの呻き声が重なっていた。

 

「生きてるか……?」

 

 顔に靴底を押し付けられた状態のヒスが仲間の安否を尋ねる。

 

「生きてるよ……気分は最悪だがな」

 

 頭に乗せられている腕をどかしながら不機嫌そうな口調でボウは答えた。

 

「――こっちも生きている」

 

 フラッグもまた無事の報告をする。幸い三人とも目立った傷は無い様子であった。

 頭を振りながらヒスは上を見上げた。転倒した馬車は扉を上にして倒れているが、幸い少し背を伸ばせば手が届く程の高さである。半開きになった扉からは光が差し込んでいた。

 

「早く出るぞ」

 

 そう言って三人の中で一番背の高いボウが扉に向けて跳び上がると縁を掴み、そのまま腕の力のみで体を持ち上げ、馬車の外へと出る。そして、中にいる者たちに手を伸ばした。

 

「来い」

「おう」

 

 続いてヒスがボウの手を掴み、持ち上げられる。

 馬車の外に出るとヒスは周囲を確認する。転倒した拍子で怪我でもしたのか馬車を引いていた馬は横たわって動かない。

 先頭を走っていたアセたちの馬車はこちらの事故に気付いていなかったらしく、先へと進んでしまっており姿も見えない。

 

「少しは気を配れよ」

 

 舌打ちをしながら薄情なアセを謗るヒス。その間にも馬車からは次々と冒険者たちが引き上げられていた。

 

「ん?」

 

 何気無く後方を確認したヒスはあるものを見つける。

 十数メートル離れた場所にうつ伏せに倒れた人。恰好から見て、間違いなく転倒前に馬車から落ちた冒険者であった。

 

「おい! あれ!」

「何だ? おっ!」

 

 ヒスに言われてボウも気付く。

 

「悪い。様子を見てくる」

「ああ、こっちは俺がやっておく」

 

 馬車から飛び降りるとヒスは倒れている冒険者に駆け寄る。

 倒れた冒険者の前に立ち、無事を確かめる為にしゃがみ込もうとしたとき、ガサガサと近くの茂みが鳴り、そこから――

 

①赤い鶏冠に青い鱗に黒い縞が入った見たことも無い生物が、四肢に付いた鋭い爪を見せつけながら現れた。

②緑と橙色の縞模様が入った鱗に一対の鶏冠を持った見知らぬ生物が、口外まで伸びている長く尖った牙を見せながら現れた。

③朱色の鱗に黒の斑模様が入った外観を持ち、鼻先が瘤の様に膨れ上がった初めて見る生物がこちらに口を開けながら現れた。

 

 




取り敢えず三匹全部の話を書く予定です。


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        /蹂躙する爪牙

 赤い鶏冠に青い鱗に黒い縞が入った見たことも無い生物が、四肢に付いた鋭い爪を見せつけながら現れた。

 身の丈が成人男性程もあり、ヒスの顔を見た途端、嘴のような口からずらりと並ぶ牙を見せた。

 

「なっ!」

 

 驚き思わずその場から飛び退く。するとその生物は縦に割れた瞳を細めながらギャアギャアと喚くような鳴き声を上げる。

 すると別の茂みから同じ個体が現れたかと思うとうつ伏せに倒れていた冒険者の体にその爪を突き立て、そのまま茂みの中に引き摺り込んでいく。

 止める暇など無かった。それよりもすぐ近くに現れたこの生物から目を離すことが出来ず、それどころではなかったのだ。

 

「気を付けろ! 変なヤツがいるぞ!」

 

 腰に差してある剣を引き抜きながら馬車の方にいるボウたちに警戒の声を出す。しかし、返ってきた返事はギャアギャアという鳴き声であった。

 思わず馬車の方を見てしまう。

 そこで見たものは、十を超える生物が馬車から出た冒険者たちに襲い掛かっている光景であった。

 生物の一匹が鳴き声を上げながら冒険者の一人を威嚇する。

 

「来るんじゃねぇ!」

 

 その冒険者は短刀を突き付けながら怒鳴るも、その声は生物の鳴き声にあっさりと打ち消されてしまっていた。

 それでも何とか近付かせないように必死に声を荒げながら短刀を見せつける。

 

「ぐあっ!」

 

 しかし、目の前の生物に気を取られている隙に背後からもう一匹が飛び掛かって来たことには気付くことが出来なかった。恐るべきことに飛び掛かった生物は一回の跳躍で数メートルもの距離を跳んでいた。

 大人一人と同等以上の体格を持つ生物に背後から圧し掛かられ、為す術もなく冒険者は地面に倒れ伏す。そしてその生物は無防備な男に背中に容赦なく足爪を突き立てた。

 

「ぎゃああああ!」

 

 冒険者の男が苦鳴を上げる。突き立てられた爪は布地の服など簡単に貫き、その下にある肉を裂く。見る見るうちに男の背中は血で真っ赤に染まっていく。

 

「離れろぉ! 離れろぉぉぉ!」

 

 泣きが混じった必死の声を出しながら男は手に持つ短刀を背後に向け振ろうとする。だがその腕も先程まで対峙していた生物に噛まれた。突き立てられた牙は肉を穿ち、その奥にある骨に食い込む。それによって生じる激痛に動きを止められてしまう。

 

「ああああああああ!」

 

 男の絶叫。しかし、それに構うことなく生物は頭を左右に振る。牙が深く食い込みそれによって傷口は更に広がり、男の腕から夥しい量の血が流れる。

 背中に乗った生物は足の爪や手の爪で激しく肉を掻き毟り、その度に絶叫を上げさせていく。

 

「やめろぉぉ!」

 

 剣を引き抜いたボウが生物に斬りかかろうと走り寄るが、生物はボウの接近に気付くと男の背を踏み台にして跳び、すぐに距離を取る。腕に噛み付いていた方も同じくすぐに離れた。

 剣を構えながらボウは男の様子を見る。呼吸は小さく正に虫の息といっていい状態であった。

 すぐに治療しなければ助からない。だがそんな余裕は今のボウには無かった。

 そのとき、ギャアアという鳴き声を上げて、生物の一匹が足爪を立てて飛び掛かってくる。咄嗟に剣の腹でそれを受け止めるが跳躍の勢いと生物の重さに耐え切れず、かなりの勢いで背中から倒れてしまった。

 

「うっ!」

 

 衝撃で息が詰まる。だが目の前には大きく口を開く生物の姿。思わず剣を押さえていた手を離し、生物の顎を下から掌打で打ち上げた。

 ガチンと音を鳴らして閉ざされる生物の口。しかし、すぐに押さえ付けている手を顎の力だけで押し返そうとする。

 閉じた口が徐々に開いていく。片手だけでは押さえ切れない。尤も両手であろうと押さえ切れなかったかもしれない。

 

「ぐう!」

 

 思わず声を出してしまう。顎を押さえている手を生物がその長い爪で引っ掻き始めたからだ。腕には革製の防具を装備しているものの、生物の爪はそれを簡単に削っていく。一度目の引っ掻きで防具は大きく裂け、二度目の引っ掻きで革を破り爪先が生身の部分に触れたのが分かった。

 そのせいで手から力が抜け、口の隙間から唾液に塗れた牙が見え始める。口を押えるだけでなく圧し掛かっている足爪も押しのけなければならない。

 このままではいずれ殺られる。そう思ったとき――

 

ギャアアアアアアア

 

 絶叫が生物の口から上がった。

 ボウに意識を向けている内に横から現れた剣が生物の首を貫いたからだ。突き刺さった剣が引き抜かれると同時に生物の横腹に強烈な蹴りが刺さる。

 ボウの上から蹴飛ばされる生物。倒れているボウに手が差し伸べられる。差し伸べたのはフラッグであった。

 

「大丈夫か!」

 

 すぐにボウを引き起こすとフラッグは剣を構えて周囲を見る。いまだに十匹程の生物がおり次々と冒険者たちを襲っている。

 

「この野郎ぉぉ!」

「死ねぇ!」

 

 生物を三人で囲っている冒険者たち。一人に注目しているうちに背後から斧で頭を叩き割り、もう一人の冒険者は手に持つ槍で胴体を串刺しにしていた。

 かと思えば別の場所では一人の冒険者が生物に首を噛まれ、口から血混じりの泡を吹きながらもがいている。

 更に別の所では全身に爪痕を刻まれ、虫の息となっている冒険者が生物に足を咥えられて茂みの中に連れ込まれている。

 

「来るな! 来るな!」

 

 四方を生物たちに囲まれた中年の冒険者が、剣を無茶苦茶に振り回しながら必死に威嚇している。

 生物たちは剣の間合いに入らないようにしながら様子を見つつも、その場から離れようとはしない。

 

「はぁ、はぁ、はぁ!」

 

 考えも無く剣を振り回し続けたせいで中年の冒険者の体力は限界近くまで追い込まれ、剣速も格段に落ちている。

 それを見計らったように中年冒険者の前に立つ生物が大きく鳴く。

 

「ひぃ!」

 

 反射的にそちらに剣を向ける。すると今度は背後から大きな鳴き声が上がる。慌てて今度は背後に剣を向けようとするが、間髪入れず右から上がる鳴き声、右が鳴くと今度は左が鳴き、更に前方も鳴き声を上げ、重ねるように後ろも鳴く。

 

「うあああああああああああ!」

 

 逃げ場など何処にも無いという突き付けられた恐怖に、中年冒険者は半狂乱となって剣どころかなりふり構わずといった様子で手足も無茶苦茶に動かす。

 そのせいで限界に近かった体力が無駄な動きで一気に空となり、自分で振り回した剣の勢いに負け、仰向けで地面に倒れる。

 見る見るうちに動ける冒険者が減っていく惨状。

 生物一匹に対し冒険者が二、三人でようやく倒せるという戦力比。間違いなく冒険者側が圧倒的に不利な状況であった。

 

「くそ! 何だこいつらは!」

「分からん。俺も初めて見る!」

 

 強襲してきた謎の生物たち。数も個の力も上回られている。

 生物の一匹がフラッグに向かって飛び掛かってきた。

 

「くっ!」

 

 それを見てすかさず回避するフラッグであったが、これにより生物がボウとフラッグを分断する形となる。

 

「フラッグ!」

 

 すぐに飛び掛かってきた生物に斬りかかろうとするボウであったが、背後でギャアギャアと鳴く声を聞き、反射的に振り返ってしまう。

 振り返るとすぐそこに立つ生物。フラッグを助ける為に振るおうとしていた剣を思わずそちらの方に向かって振るってしまう。

 生物は横に素早く飛び退き容易く避けると、大口を開けてボウに噛み付こうとした。

 避けられない。そう思ったとき数発の石礫が生物の顔に当たり、生物は鳴き声を上げながら後退する。

 フラッグを襲っていた生物も同じように石礫を当てられて怯んでいた。

 

「大丈夫か!」

 

 荒い息を吐きながらヒスが二人の下に駆け寄ってきた。

 

「悪い! 助かった!」

「こちらも助かった」

「礼はいいさ。寧ろ、ごめん」

 

 二人の礼を聞いて何故か、ヒスが謝る。何故かと考えるよりも先にヒスが走ってきた方向から新たに二匹の生物が走ってきた。

 

「おいおい! こっちに連れて来るなよ!」

「仕方ないだろうが! 一人で勝てるか!」

「三人でも勝てる訳でもないだろうがぁ!」

「うるさい! 言い争いなら生き残った後にしろ!」

 

 ヒスとボウの言い争いをフラッグが怒声で無理矢理中断させ、目の前の敵に集中するように言う。

 周囲を囲む五匹の生物。こちらの動きを警戒しているのか、あるいは遊んでいるのか歩いては立ち止まるといった動作を繰り返している。

 いつ襲ってくるか分からない。故にどう動くべきかを口早に話し合う。

 

「どうする?」

「ここを抜けて雇い主たちの後を追う。悔しいが向こうの方が装備は上だ」

「俺たちが後を追っていないことを不審に思って止まっているかもしれないからな」

「気にも留めずに止まってなかったら?」

「そのときはそのときだ」

 

 方針が決まると同時に生物たちが飛び掛かってきた。

 防いでも勢いと重さに負ける。だからこそ守りではなく攻めていく。

 飛び掛かる生物たちに向け、ヒスたちは剣を振るう。

 ヒスが身を屈めながら振るった剣は一匹にカウンター気味に当たり、その胴体に裂傷を刻む。

 ボウの方は剣を突き出すように構えていた為、足爪を立てながら飛び掛かってきた生物の足を貫き、そのまま相手の勢いを利用して脇腹辺りにまで剣を埋める。

 フラッグは横に避けると同時に剣を横薙ぎに払い、生物の腕を切り飛ばした。

 一瞬にして三匹に傷を負わせたものの残りの二匹は攻撃に加わらず、様子を見ている。

 胴体を切られた生物はその傷口から臓物を零し、よろよろと動いた後に倒れ、脇腹を貫かれた生物はすぐに後退したものの傷は深いらしく動きが鈍っている。腕を切られた生物は鳴き声を上げながら大きく後退した。

 

「今だ!」

 

 ヒスが叫ぶと共にボウたちは一斉に駆け出す。

 背中からギャアギャアという生物の鳴き声が聞こえるが、そんなものは無視して全速力で走る。

 

「おい! 何処へ行くんだ!」

「待て! こっちの手、うわあああああ!」

 

 生物たちの声だけではなく他の冒険者たちの悲痛な叫びも背中越しに聞こえてきた。

 生きることに優先順位があるとすればまず第一が自分であり、第二が長年連れ添ってきた仲間である。それ以下は無慈悲と思われるかもしれないが生きる為に切り捨てるしかない。

 平気な訳ではない。寧ろ罪悪感すら覚える。だが全てを救うには力が足りないのである。

 

「悪い。本当に悪い」

 

 ヒスは謝罪の言葉を自然に口に出してしまう。そんなことは死に行く者たちにとって何の慰めにもならないと、分かっていながら。

 ボウは背後を見る。意外にも追って来ている生物たちは居なかった。ヒスたちを追うのは止めて残っている冒険者たちの方を優先して襲っている。

 今はただ援軍を呼ぶために逃げるしかない。背後から聞こえてくる断末魔を必死に堪えながら、前だけを見てヒスたちは走り続けた。

 それから十分程走り続けるヒスたち。息が切れ、空気を求めて顔が上がっていく。喉の奥から鉄のニオイがし、鼻の奥に痛みを感じる。

 脚も重くなり始め、だるさと鈍痛を感じ始めていた。

 

「あっ」

 

 先頭を走っていたヒスが声を上げる。少し遅れてボウたちもまた小さな声を上げた。

 数十メートル先に見える目的の馬車の後部。幸いなことに停車していた。

 ヒスたちにとって心底気に入らない男であったが、このときばかりは心の底から感謝の気持ちを送りたくなっていた。

 疲労も吹き飛んだような気分になった一行は数十メートルの距離を十秒程で駆け抜け、馬車の後ろに立つ。

 恐らくは中にいるだろうと考え、前へと回り込もうとするヒスとボウ。

 フラッグもまたその後に続こうとした。

 

「ん?」

 

 数歩進んだとき、ぬるりとした感触が靴底から伝わってきたので思わず足を止め、下を見る。

 靴底からはみ出している赤黒い液体。全身に鳥肌が立つ。踏んでいた足を退けると粘着質な音を上げ、短いながらも赤い糸が引かれた。

 靴底にあったものを見てフラッグは胃が裏返しになったかのような嘔吐感を覚えた。

 液体のみであったのならばここまではならない。赤黒い液体こと血溜まりの中心には一塊の肉片。赤黒い血に染まっているが肌色の部分も見える。

 人の皮膚が肉ごと抉られていたのである。

 吐き気を抑え込みながら前にいるヒスたちに声を掛けようとする。『ここにも奴らが居る!』という警戒の言葉を。

 だがそんな言葉もヒスたちが茫然と立つ姿を見て喉の途中で止まってしまった。

 前に立つ二人の隙間から奥を覗き込むフラッグ。そこで前の二人と同じく絶句し、茫然と立ち尽くしてしまった。

 辺り一面血の海と化し、その上ではかつて人だった者たちがヒスたちが襲われたときの倍以上の生物たちによって食い散らかされている。

 千切れた足を奪い合う生物。光の無い目をした護衛の腹に頭を突っ込み、そこから臓物を引き摺り出す生物。爪で遺体を切り刻み、食べ易くしてから噛み付く生物。

 生物たちの咀嚼音だけが周囲に響き渡り、そこはこの世に現れた地獄と化していた。

 

「あ……あ、あ……助けて……くれ……」

 

 そんな地獄の中で聞こえてくる人の声。思わず声の方を見ると、そこには血塗れになったアセが這いずりながらこちらに手を伸ばしていた。

 

「助け……て……くれ……礼なら……いくら……でも……」

 

 必死になって助けを求めている。アセの片足は失われており、その流れる血の量からどう見ても長くは持たない。

 どうすればいいのか。決断を迫られる三人であったが、すぐに答えなど出す必要も無くなる。

 大地を踏みしめる音。その音に伴い馬車が揺れる。

 足音の主に目を向けた一同は血の気が引いていくのを自覚した。

 現れたモノの姿形は周囲にいる生物と殆ど変わりない。しかしその体格は一回り以上大きい。自己主張するかのように発達した半月状の大きな鶏冠。

 誰が見ても分かる。今、現れたこれがこの生物たちのボスであることが。

 ボスはそのまま這いずっているアセへと近付いていく。

 ボスの存在に気付いて悲鳴を上げながら懸命に手足を動かして逃げようとするが、一人と一頭の追い掛けっこは絶望的なものであった。

 アセが痛みを堪え十数センチ程前進する間にボスが一歩で追い付く所か、追い抜いてしまう。

 正面に回ったボスは這いずるアセを見下ろす。

 

「やめて――」

 

 言葉の通じない相手への命乞い。それが如何に空しく無意味なものであるか、その直後に身を以って知ることとなる。

 ボスが軽く足を持ち上げる。そして、その足を足元にいるアセの頭目掛けて下ろした。

 果実のようにアセの頭部は弾け、頭部に詰まっていたものが噴き出す血と共に辺りに飛び散っていく。

 絶命したアセの遺体に部下たちが群がっていく。

 

「あ、あああ……」

 

 惨劇を目の当たりにしてヒスたちはじりじりと後退していく。今すぐにでも駆け出したいが、相手を刺激しないように徐々に離れていくつもりであった。

 だが群れのボスはそんな動きを見落とす筈が無い。既にヒスたちはボスにとって狩るべき獲物であった。

 ボスの目がヒスたちに向けられたとき、極限まで高まっていた緊張と恐怖が爆ぜる。振り返り全力で走り出す。

 なりふり構わず、何処へ逃げるかも考えない。そんな余力があれば全部逃げる為に脚に注ぐ。

 少しでも脅威から距離を取ることに死力を尽くす。

 既に酷使されていた脚ではあるが、生死に深く関われば驚く程良く動く。

 ボスたちとの距離があっという間に数メートル開いた。

 

『このまま逃げ切れるのでは?』

 

 頭の片隅に過る言葉。だがそれが如何に甘いものであったかを、この後身を以って知ることとなる。

 横並びに走る三人。そのときヒスとフラッグは、視界の端に高速で通り抜けていく青縞の影を見た。

 思わず隣を見る二人。そこにいた筈のボウの姿は無い。替わりに立っているのはあのボスの姿。

 何故、と考えるよりも先に二人の視線がボスの顔から足元に向かって下げられていく。

 見るべきではない、と直感が警告するがもう止めることが出来なかった。

 ボスの足元を見たとき、二人は声にならない絶叫を上げる。

 そこにはボスの重量によって頭部を地面に埋め込まれたボウの変わり果てた姿があった。

 あまりに、あまりに呆気無く死んだ。

 子供の頃から知っており、二十年以上もの長い付き合いがあり、多くの修羅場を共に潜り抜けてきた戦友であり、親友でもある者の死。

 その衝撃は計り知れないものであり、事実ヒスとフラッグは生死が係る状況だというのに棒立ちになってしまっていた。

 この行為が彼らの命運を決定付けた。

 茫然としているフラッグに飛び掛かる青い影。生物はフラッグを押し倒すと同時にその喉に牙を突き立てる。

 死を免れない致命傷。受けたフラッグもそれが分かっているらしく、潰されて声が出てこない喉を震わせ、近くにいるヒスに血を吐きながら『逃げろ』と声無き叫びを上げる。

 それが伝わったかどうかは分からないがヒスは漸く正気を取り戻し、その場から駆け出そうとした。

 ギャアギャアとボスが大きく鳴く。

 するとヒスの退路を塞ぐように何匹もの生物が現れ、取り囲んでくる。

 

「はぁ! はぁ! はぁ!」

 

 まともに呼吸が出来なくなる。心臓が潰れそうな勢いで動く。恐怖で思考が動かなくなる。手足から力が抜けていく。

 何も考えられない。何もすることが出来ない。もう既に取り返しのつかない状況になっていた。

 ボスがもう一度鳴き声を上げる。それに反応し、生物たちは一斉にヒスへと飛び掛かった。

 

「うああああああああああああああああ!」

 

 襲い掛かる青い影はその絶叫すらも呑み込み、蹂躙する。

 絶叫の余韻が消える頃には、後を追うようにして無数の咀嚼音が響くのであった。

 

 




ドスランポス編の話となります。
卵運びのときの恨みは絶対に忘れない。絶対に、絶対に!


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        /無慈悲なる死

 緑と橙色の縞模様が入った鱗に一対の鶏冠を持った見知らぬ生物が、口外まで伸びている長く尖った牙を見せながら現れた。

 

「うわっ!」

 

 思わず飛び退くヒス。

 その間に生物は茂みの中から出て、全身を見せる。

 

(でかい!)

 

 自分の身長とほぼ変わらない大きさをした生物。慌てて剣を抜いて向けるが、生物の持つ長い牙と鋭い爪を前にするととても頼りなく見えた。

 一対一では不利だと考えたヒスはすぐに仲間を呼ぼうとする。大声を出す為に口を大きく開いた瞬間、生物がいきなり爪を振り上げて飛び込んできた。

 

「ぐあっ!」

 

 剣を振るう暇も無く、反射的に仰け反ってしまう。するとそのままバランスを崩し、無様にもその場で尻餅を突いてしまうが、これが運良く生物の強襲を躱す形となり、直撃する筈の爪はヒスの左腕を掠めるだけであった。

 生物を見上げる体勢のまま剣を突き出し、間合いに入ってこない様にするヒス。

 注意を払いつつ左腕の具合を見る。衣服を易々と裂き、その下の肌に浅いが切り傷を付けていた。赤銅色の肌に薄ら浮かぶ、三本の線。

 これが直撃していれば腕が落とされていたかもしれないと想像し、背筋を冷たくしつつ、すぐに援軍を呼ぼうと再び口を開き――

 

「――ッ! ――ッ!」

 

 ――そこで初めて自分の体に異変が起きていることを知る。

 舌が動かない。喉が動かない。口自体に感覚が無かった。

 異常はそれだけに留まらない。

 手足の触覚はあるというのに力が全く入らない。地面に付いた手足をまるでゴムの塊に置き換えられた様な感覚であった。

 力を入れようにも手足にどれほどの力を加えているかまるで分からず、通常ならばすぐに地面を突いて簡単に起き上がれる筈の動作も筋肉が上手く操作できないことによって、尻餅を突いた格好から仰向けになって倒れてしまう。

(立たないと! 早く! 早く! じゃないと!)

 

 頭の意思ははっきりとしているのに、体中が動かない。腕は肘を曲げられず真っ直ぐに伸びたまま。脚の方は逆に膝を曲げたまま真っ直ぐに伸びない。

 まるでひっくり返ったカエルの様な無様な体勢。

 手や足、その指先に至るまで懸命に力を込めるが全く反応しない。唯一動くのは眼球のみ。しかし、首も動かせないので見える範囲も極限られたものであった。

 動けないヒスの耳に砂が擦れ、小石が跳ねる音が聞こえる。一定の間隔で聞こえてくるそれは間違いなく足音であった。

 

(動け! 動け! 動け動け動け動け!)

 

 血管が切れそうになる程力を込めても微動だにしない体。

 その間にも迫ってくる足音。すぐ近くに聞こえるというのに、眼しか動かせないのでその足音の主を視界に収めることすら出来ない。

 近くにいるというのに遠い。

 やがて足音が止まる。どうして足音が止まったのか。その答えを既にヒスは知っていた。

 何故ならばその足音の主がヒスを真上から見ているからだ。

 逃れられない恐怖からヒスの眼球は忙しなく動き続ける。どう足掻いても目の前の恐怖から目を逸らすことが出来ず、否応無しに向き合わなければならない。

 

(見るな! 見るな! こっちを見ないでくれ!)

 

 縦に割れた瞳孔が真っ直ぐヒスを見る。それだけで心臓の鼓動はかつて無い程に早まる。

 口に収まりきらない程長く鋭い牙、その先端からは溢れ出た唾液が滴っている。それが突き立てられたとき一体どのような苦しみを味わうことになるのか。想像したくもないのに次々と過去に受けた痛みを参照として、空想がヒスに幻の痛みを与える。

 

(くそっ! くそっ! くそっ! 殺るならやれ! さっさと殺れ!)

 

 突き付けられた絶望に自暴自棄となる。いっその事、一思いに殺してくれとさえ思った。

 だが、相手はそんなヒスの内情など知らない。知ったとしても理解を示さない。

 見下ろしていた生物が突如、顔を上げ、シャアシャアと鳴き声を上げた。

 それが何を意味するのか。その答えは地面から伝わってくる振動によって教えられることとなる。

 覗き込む目が更に四つ増える。計三体の生物がこちらを見下ろしていた。

 声を出せるならばきっと最高に情けない悲鳴を上げていたに違いない。

 ヒスは間もなく訪れるだろう地獄に声無き絶叫を心の中で何度も何度も上げた。

 

 

 ◇

 

「畜生! 多い!」

「くそっ! こいつら一体何匹居る!」

 

 フラッグとボウは互いに背を合わせ、背後からの奇襲を防ぎながら周りにいる生物たちに剣を向け、必死に抵抗をしている。

 横転した馬車から他の冒険者たちを救出し終えると同時に茂みの中から姿を見せ、問答無用で襲い掛かってきた。

 転落した冒険者の様子を見に行ったヒスのことも気掛かりだが、今はそれどころではない。自分たちの身を護るだけで精一杯であった。

 

「でああああああああ!」

 

 冒険者の一人が手に持った斧で生物に切り掛かる。咄嗟に後ろへ飛んで回避しようとする生物であったが、僅かに反応が遅く、胸に斜めの傷を付けられる。だが、傷は浅く、出血も少ない。体に生やした鱗やその下にある皮膚は、見た目以上に頑丈であるらしい。

 刃の通りの悪さに舌打ちをする冒険者。次の瞬間、その口から絶叫が上がった。

 仲間に気を捉えている隙を狙い背後から接近した生物が、その長い牙を冒険者の背中に突き刺していたのだ。

 

「ぎっ!」

 

 刺された痛みで冒険者は背を仰け反らせる。するとその姿のまま体を硬直させ、地面に向かって横倒れになる。

 

「なっ!」

 

 その様子を見ていた冒険者たちの口々から驚愕、動揺、恐怖といった声が上がった。勿論、その中にはフラッグもボウも含まれている。

 

「――毒か?」

「ああ、それも即死するような優しいもんじゃない。あいつの目を見て見ろ」

 

 ボウの言った通りにフラッグは、倒れた冒険者の顔を見た。

 手足や体に棒でも刺し込まれたかのように固まっているが、僅かに胸は上下している。そして眼球が忙しなく右へ左へと一秒足りとも止まることなく動き続けている。

 まるで助けを呼ぶかのように。

 フラッグは背中に冷や汗が一斉に浮き出てくるのを自覚した。自分が想像していたよりも遥かに残酷なことが起きていることを実感して。

 

「体の自由を奪う毒か……」

「気を付けろ! 毒が仕込まれているのは牙だけとは限らないからな! 奴らの攻撃はなるべく避けるようにしろ!」

「無茶を言う!」

 

 先程の冒険者の様子から、毒を流し込まれたらほんの数秒で身動きが取れなくなるのが分かった。

 そんな毒を持ち、体格は同等以上。素早さは上、数も上。爪と牙という立派な武器を持っている。これ程の難敵を相手に無傷で勝つなど熟練の冒険者でも至難の業である。

 

「うあああ!」

 

 生物に向かって切り掛かる別の冒険者。素早く横に飛び、それを難なく回避する生物。避けた生物は威嚇するように切り掛かった冒険者に吠える。

 

「この!」

 

 意識が完全にそちらへと向いた瞬間、生物の仲間が別方向から飛び掛かり、冒険者を強襲する。

 

「うぐあっ!」

 

 軽く見ても成人男性程の重量がある生物に圧し掛かられ、地面に叩き付けられる冒険者。それでも剣を離そうとはしなかったが、更にそこへ生物の仲間が加わり、剣を持つ腕に噛み付く。

 

「ああああ! 止めろ! 止め――」

 

 絶叫しながら振り払おうとする冒険者であったが、間もなくしてその動きが止まる。悲痛な表情のまま固まる冒険者に三匹の生物が群がり、爪と牙を突き立てていく。

 冒険者が一人、一人減っていく度に無事であった冒険者の襲われる頻度が上がっていく。

 一人に対し三匹以上で掛かっているというのに控えている生物の数はこちらを上回っている。

 

「うおおおおおおお!」

 

 槍を持った冒険者が生物の喉にその穂先を突き刺す。喉を貫かれ、血泡を吐き出す生物。だが、生物は貫いている槍に噛み付いた。

 

「なにっ!」

 

 傷口が広がり、流れる血の量も増える。最早助からないのは、誰の目で見ても分かる。しかし、この決死の行動によって僅かな時間とはいえ相手の動きを制することが出来た。

 横から現れた生物が冒険者の足に噛み付く。更にもう一匹現れ、今度は腕に噛み付いた。

 

「うぐあっ!」

 

 槍に貫かれた生物は絶命するものの、倒した冒険者も道連れに倒される。

 一対一ならば辛うじて戦える。だが、その隙に他の生物に襲われる。

 同数ならばもしかしたら拮抗していたかもしれない。だが、所詮は『もしも』の考え、この戦いに最初から平等なものなど無かった。

 

「くそっ! 畜生! 畜生! 何なんだよ! お前らは!」

 

 理不尽なまでにあっさりと命を奪っていく生物たちに対し、ボウは怒りの声を上げるが、生物は一切怯まない。言葉が通じないから怯まないのではない。ボウの怒声で命の危機も恐れも抱かなかったからである。

 

「落ち着け! 取り乱すな!」

「来いよ! 掛かって来いよ! 一匹残らず殺して皮を剥いでやる!」

 

 フラッグの忠告を無視してボウは吼える。

 するとその声に反応したのか、囲んでいた生物たちが急に動き出し、円形に囲んでいた一部に穴を開ける。

 まさか声に怯んだのか、そんな楽観的な考えをしてしまう二人。しかし、その考えがあまりに甘かったことをすぐに実感することとなる。

 最初に異変に気付いたのはフラッグであった。

 構えていた剣が左右に揺れる。初めは緊張からくる震えだと思っていた。だが、良く見ると震えているのは剣や腕だけではない、体全体が震えている。

 恐れから全身が震えているというのであろうか。

 確かに危機的状況なのは間違いない。しかし、一人前の冒険者であると自負している自分がここまで露骨な恐怖を見せる筈が無い、というプライドがそれを否定する。

 そこで気付く。この震えは、自分自身が起こしたものではないことに。震えの原因は地面から伝わってくる振動が伝わって起きているということに。

 ならばその振動の源は何か。

 答えは凄まじい鳴き声と共に現れた。

 

「……マジかよ」

 

 呆然と呟くボウ。新たに現れたそれに先程まで怒りの熱で燃え上がっていた怒りは完全に鎮火し、代わりに恐怖という冷たさで全身を強張らせていた。

 他の生物たちと比べ倍以上の体格。それに比例して頭部にある一対の鶏冠は、自分の存在を象徴するかのように大きい。爪、牙もまた長く、大きく、鋭い。

 今まで襲って来ていた生物たちが皆、子供のように見える程であった。

 一目見ただけで確信する。今現れた生物こそ、この集団のボスであることを。

 止めようも無い恐怖が二人の全身を支配する。生まれて初めての感覚であった。自分の死を確信してしまう。

 恐怖で二人の動きが鈍ったのをボスは見逃さなかった。

 その巨体を支える脚で地面を蹴り付けた瞬間、巨体が軽々と宙を飛ぶ。

 二人との距離は約十メートルあった。だというのにこのボスは助走を一切せず、ましてや人よりも重量があるというのに脚力のみでその距離を飛ぶ。

 飛び掛かってくるボスの非現実的さに、戦いの場であることを忘れてしまう程、唖然とする二人。

 今見ているものは夢ではないのであろうか。そんな考えを刹那思ってしまう。だがすぐに理解するこれは夢であると、どうしようもない悪夢であると。

 ボウの胸部にボスの足が当てられたかと思えば、足の爪が深々と胸に突き刺さり、そのまま跳躍の勢いと体重により地面に激しく叩き付けられる。

 

「ごはっ!」

 

 周囲に砂埃が舞う程、背中から強く押し倒されたボウ。地面とボスに挟まれて胸骨は折れ、それが内臓を傷付ける。

 

「がはっ! はっ! はっ!」

 

 口から零れる血の泡。傷付いた臓腑からの血が口から溢れ出している。

 刺さった爪を引き抜くボス。湿った音と共に赤い血が糸のように引かれた。

 内側から溢れる血を何度も吐くボウであったが、爪によって送り込まれた麻痺毒がすぐに体の自由を奪っていく。

 

「――っ! ――っ!」

 

 血を吐くことすら出来なくなり、それでもこみ上げてくる血は器官を塞ぐ。どんなに苦しかろうが、指一つ動かすことも出来ない。

 間もなくしてボウは自らの血に溺れ、その意識を永久に失うこととなった。

 

「う、うああ……」

 

 友の死の形相。それはあまりに惨たらしいものであり、フラッグの心を更なる恐怖で揺さぶる。

 色々とやった。人が見れば残酷とも言えることもした。少なからず人道に背くこともした。

 だが、だが、だが。

 

「こんな、こんな死に方をさせられるようなことはしなかった!」

 

 友人の人柄を知っているからこそ、この非道な死に納得が出来なかった。ここまでされる謂われは無い、こんな無惨なことを認められない、という思いで。

 しかし、それは所詮、人の感情。彼らは自分が残酷なことをしているという自覚など微塵も無い。

 餌がある。狩る手段がある。ただそれだけである。

 餌の痛みも苦しみも恨みも怒りも憎しみも彼らは感じない。

 餌を前にしてせいぜい思うことがあるとすれば、食べる順番くらいであろう。

 

「うああああああああ!」

 

 絶叫を上げてボスに切り掛かるフラッグ。剣がボスの肩に食い込む。

 肉に刃が食い込んでいる。血も流れている。しかし、それだけである。

 どんなに力を込めようとも刃は、それ以上深く食い込まなかった。

 お返しと言わんばかりにボスがフラッグの肩に噛み付く。長い牙が深々と突き刺さる。

 

「ああああああ!」

 

 再び上がる絶叫。しかし、今度の絶叫は先程とは意味が違う。耐え切れない恐怖から上がった叫びであった。

 ボスは噛み付いたまま頭を振り、投げ飛ばす。

 飛ばされた地面をフラッグは地面を数度転がって、仰向けに倒れた。

 そして、見上げた光景。そこにはフラッグ〈エサ〉を見下ろす無数の目。

 

「やめ――」

 

 毒が回り、命乞いをする声をすら出ない。

 身動きが取れなくなった獲物に、生物たちは一斉に掛かる。

 意識が断たれるまでの数十秒の間、フラッグの経験したものは地獄という言葉ですら生温いものであった。

 生きたまま喰われ、その間、痛みも意識もある。

 地獄をもたらしたモノたちに悪意は無い。ただ食欲のみがあった。

 

 ――ああ……俺が……空っぽになっていく……

 

 意識が完全に消える刹那、それがフラッグの最期に思ったものであった。

 

 

 ◇

 

 

「う、ぐ、ぐ、ああああ……」

 

 横転した馬車から這い出て来たアセは体中に痛みを感じながらも必死になって逃げていた。

 馬車の周辺には倒れた護衛たち。そのどれもが生物たちに群がられ、貪られている。

 切っ掛けは付いてきている筈の冒険者用の馬車の姿が無かったことであった。

 確認の為に馬車の速度を緩めた瞬間、突如馬車が暴走。慌てて外を見ると御者の姿が消えており、御者を失ったことで馬たちの操作が出来なくなり、結果横転してしまった。

 横転した馬車から護衛たちが外に出ると、突如として茂みから謎の生物が強襲し、瞬く間に護衛たちを無力化して自らの餌にしてしまった。

 その光景を馬車の中から一部始終見ていたアセは恐怖し、横転で激しく打ち付けられた体に鞭打って必死にこの場から逃げ出そうとしていたのである。

 生物たちが食事に夢中になっているうちに何とか離れる。そんな考えをもっていたのであろうが、すぐにそれが浅はかな考えであったことを思い知らされることとなる。

 生物の一匹が逃げるアセを見て、鳴き声を上げた。すると茂みの中から更に十数匹の生物たちが現れ、アセを取り囲んでしまう。

 

「ひぃ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

 

 退路を断たれ、風前の灯となるアセの命。

 

「や、やめろ! やめてくれ! な、何でもする! ほ、欲しいものならば何でもやる!」

 

 死にたくない一心で出てきた命乞い。言葉の通じない相手に対し、それが如何に空しく、無意味な行為であるかを追い詰められて余裕の無いアセは理解出来ていなかった。

 ただ助かりたいという一心で必死になって相手に縋るアセ。

 しかし、悲しいかな、既に生物たちはアセを捕食対象にしか見ていなかった。

 どんなに無様に慈悲を乞おうとも生物たちの心は微塵も動かない。そもそも情けなどという考え自体が無かった。

 獲物を前にして彼らは何も思うことは無い――かに思われたが、この獲物を前にして彼らは共通して一つだけ思ったことがあった。

 十数匹の生物が一気に群がる。

 

「助けてくれ! 助けてくれぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

 

『この獲物は食い出がありそうだ』

 

 

 




これだったらこんな感じで暴れて、そしたらこんな風にやられちゃうんだろうなー、と考えていたら何か悪趣味な話になってしまいました。
グロも鬱も別に好きではないんです! 話と設定の流れなんです!
本当です! 信じて下さい!


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        /束ねられた毒

 朱色の鱗に黒の斑模様が入った外観を持ち、鼻先が瘤の様に膨れ上がった初めて見る生物がこちらに口を開けながら現れた。

 姿を見せた瞬間、ギュオ、ギャオと首を絞められているような鳴き声を上げたので、ヒスはそれに驚き、慌ててその場から駆け出し、ボウたちの方に一目散に逃げる。

 

「お、おい、どうした?」

 

 横転した馬車から全ての冒険者たちを引き上げた直後、必死な形相で駆け寄ってきたヒスを見て、ボウが戸惑った様子で声を掛ける。

 

「あ、あ、あれを!」

 

 走った後なので呼吸が乱れたままヒスは先程まで居た場所を指差す。その方向を見るボウとフラッグ。それに釣られて他の冒険者たちもそちらを見た。

 ヒスが走って来た方向から見たことも無い生物が走って来ていた。

 大きさは人ぐらいもある斑模様の生物。その毒々しい外見に否が応にも視線が釘付けになってしまう。

 大き目な頭部に反して手足は小さく。手に至っては指が二本しかない。

 

「何だ、こいつは?」

 

 冒険者の一人が、皆が思っていることを口にする。

 

「見たことが無いな……」

「新種か? ……こういう珍しい奴の皮は、高く売れるのかねぇ?」

「さあ? 売ってみないと分からんな」

 

 初めて見る生物に対し、冒険者たちの反応は軽いものであり、それどころか倒した後の算段まで考え始めていた。

 そこまで緊張感が無い理由としては現れた生物が一匹しかいないからであった。

 各々持参している武器を構え、警戒しつつもじりじりと生物に近寄っていく。

 だが、生物は逃げる素振りを見せず、その場に立ったまま動かない。

 周りの冒険者たちを脅威と思っていないのか。あるいは自分の状況を理解できない程、鈍感なのか。

 やがて、冒険者たちの間合いに生物が入ろうとしたとき、ギュオ、ギャオと突如鳴き声を上げる。

 その声に思わず硬直する冒険者たち。すぐに周りに視線を巡らせ、警戒するものの予想に反し、何の姿も見当たらず拍子抜けする。

 

「脅かしやがって……! ぶっ殺してやる!」

 

 忌々しそうに舌打ちをする冒険者の一人。意味の無い鳴き声に思わず驚いてしまった自分を隠すように、威勢の良い言葉を言いながら集団の中から一人突出して、生物の前に立つ。

 そして、持っていた大剣を生物の頭部に叩き付けようと振り上げたとき――

 

「ぎゃああああああ!」

 

 ――生物が口を大きく開き、そこから紫色の粘液を冒険者の顔面に吐き掛けた。

 顔面を粘液で覆われた冒険者は絶叫を上げ、武器を放り捨てながら地面に倒れると、そこで左右に転がりながら激しく身悶えする。

 そして、その絶叫を合図に茂みから生物の仲間が次々に現れる。

 最初は一匹であったのに気付けば冒険者たちの三倍は超える数がいた。

 

「嘘だろ……」

 

 その光景に思わず呆けたような声を出してしまうヒス。

 戦いに於いて数が多ければ多い程、有利になっていくのは常識である。ヒスたちは戦う前から自分たちが絶望的状況に追い込まれていることを突き付けられていた。

 そんな中で粘液を受けた冒険者は、周りや自分がどのような状況に置かれているかも分からずに、絶叫し続けていた。

 良く見れば、抑えている指の隙間から見える皮膚の色が赤黒く変色しており、異様に腫れ上がっていた。それだけで浴びせられた粘液に強い毒性があることが分かる。そんな毒の直撃を受けたこと考えると冒険者の目は既に潰れているであろう。

 叫ぶ冒険者を疎ましく思ったのか、それとも元から仕留めるつもりなのか、最初に現れた生物が一声上げる。すると男を囲むように生物たちが動き、苦しんでいる冒険者に向けて、次々と毒を吐き掛けた。

 

「うあ! あああ! おあああ!」

 

 光を失った状態で四方から浴びせられる毒。肉体的にも精神的にも追い詰められた冒険者は意味も無い叫びを上げながら体を胎児のように丸め、本能的に身を守ろうとする。

 しかし、毒の前にそのようなことは無意味であり、事実、毒を受けた箇所は次々と変色と膨張を起こし、その身を変化させていく。

 人としての原型が崩れていく光景に誰もが息を呑んだ。そして、何よりも恐ろしいのは、そんな状態であるにもかかわらず、まだ生きているということである。

 毒で出来た液溜まりの中でもがく冒険者。最早、声すら出すことも出来ないがそれでも足掻く。

 やがてもがくように動かしていた手足は止まり、完全に動きを止めた。

 最初がどんな姿であったか想像出来ない程、変わり果てた死体。その姿はきっと身内が見ても誰であるかは分からないであろう。

 冒険者たちはそれを見て、呻くような声しか上げられなかった。

 仲間が殺されたという怒りは勿論ある。しかし、それを上回る程の恐怖が彼らの胸中にあった。自分もあのように無惨に殺されるのでは? という分かり易い死を目の前に置かれたことで、彼らは躊躇ってしまう。

 そんな消極的な動きを生物は見逃さない。無数の生物が一斉に鳴き声を上げる。一匹一匹の声が束ねられたことで、大声量の咆哮となり、空気を震わす。

 鳴き声が鼓膜に入った瞬間、冒険者たちの全身に鳥肌が立ち、身が竦んでしまう。本能的か生理的な反応かは分からない。只言えることがあるとすれば、彼らは生物たちを前に致命的な隙を晒してしまった。

 群れ為す生物たちの中から何匹かが冒険者たちに向かって飛び掛かる。

 

「うおっ!」

 

 襲い掛かってくる爪に反応し、ヒスはその場から飛び退くように移動して回避する。ボウ、フラッグもまた辛うじて回避することが出来た。

 

「がああああああ!」

 

 しかし、中には反応し切れなかった冒険者もおり、腕に噛み付かれている者、足を爪で裂かれた者、胸元を抉られた者などがいた。

 だが、爪で傷付けられた者たちの傷は、深くは無く、そのおかげで流れる血の量も思っていた以上に少ない。

 吐き出す毒は脅威かもしれないが、それ以外の武器は然程恐れるものでは無い。と、ほんの僅かの間、楽観視してしまった。だが、その考えも刹那に消える。

 

「痛い! 痛い! 痛い痛い痛い痛い!」

 

 生物に腕を噛まれた者が、傷口を押さえながら子供のように喚く。その痛がり方は尋常では無い。

 指の隙間からは絶えず血が流れ続け、滴り落ちた血によって、短時間で地面に血溜まりが出来ていく。

 太い血管が裂けた訳ではない。傷が大きいか、深く抉り取られているという訳でも無い。だというのに流れる血の量が異常に多い。

 明らかに冒険者の身に異常が起こっているのが分かるが、それを気にしている暇は無い。何故ならば、飛び掛からなかった残りの生物たちがこちらに向けて顔を上げ、喉をふくらませている姿が、目に入ったからだ。

 

「逃げろぉぉ!」

 

 誰かが叫ぶと同時に生物たちが一斉に毒を吐き出す。

 紫の塊が一直線に飛んで来る。速度自体は、避けられないものではない。だが、数が多い。更に先に飛び掛かってきた生物たちによって逃げ場所が制限されていることで、回避の難易度が一気に跳ね上がる。

 

「くそっ!」

 

 苛立った声を上げながらヒスは、その場で咄嗟に身を伏せた。直後、頭上を毒液が通り抜けていく。

 ボウもまたヒスと同じような体勢で毒液を回避した。

 そして、フラッグは――

 

「……やっちまったか」

 

 自嘲する言葉。ヒスとボウが慌ててフラッグの方を見ると、彼の腕と足には、紫の液体がべったりとへばり付いていた。

 生物たちが毒を吐く直前、彼の前には冒険者が一人立っていた。その冒険者が遮っていたことで生物の動きに対し、一瞬反応が遅れてしまい完全に避けることが出来なかったのだ。

 

「ううう……」

 

 フラッグは眉間に深く皺を寄せ、歯を食いしばる。その額からは汗が浮かび始めていた。

 皮膚に付いた毒液が染み込み出し、皮膚の下にある肉を蝕むことで激痛を生み出す。先程冒険者が騒いでいた理由を身を以って理解する。

「うあああああああ!」

 

 別の冒険者が、叫び声を上げる。その冒険者の腕に生物が噛み付いていた。

 

「離せ! 離せ!」

 

 武器を手に取り、無理矢理引き離そうとするが、武器を振り下ろす前に生物が頭を捻り、冒険者を地面に投げ倒す。

 

「うぐあっ!」

 

 背中から地面に叩き付けられる痛み。そして、投げる際に深く抉られた傷の痛みで呻き声を上げる。

 一瞬身動きが出来なくなる冒険者。そこに生物が容赦無く毒液を吐き掛ける。

 

「ぐああああああああああ!」

 

 激しい叫び声。吐き掛けられた毒液は冒険者の顔に掛かり、最初の犠牲者のように悶え苦しむ。

 その声を聞き、更に三匹の生物たちが加わり、動けなくなるまで毒液を浴びせ続けた。

 弱まっている者から確実に仕留めていく。一見残酷に見えるが、この生物たちは狩り方を熟知していた。

 

「くそっ!」

 

 剣を持った冒険者が生物の首に刃を叩き付ける。深々と食い込み、そこから血と毒液が混じった赤紫の体液が迸る。

 生物はそのまま地面に倒れ痙攣しているが、まだ息があった。

 

「これで!」

 

 止めを刺そうとする冒険者。すると背中に押されたような衝撃が走る。

 思わず剣を振り下ろすのを止め、振り返ってしまう冒険者。彼がそこで見たのはこちらに向けて大口を開いている生物であった。

 それを見て悟ってしまう。自分の背に、今何が張り付いているのかを。

 脳裏に浮かぶ醜悪な死体。それを考えてしまうともう既に平静でいられなかった。

 

「このっ!」

 

 吐き掛けてきた方を狙って剣を振り上げる。その途端、別の方向から足に毒液が掛けられる。

 

「チクショウ!」

 

 今度はそちらに向く、と同時に腕に毒液が掛けられた。

 少しでも視線を逸らせばそちらの方から毒液が飛んで来る。

 

「くそ! くそ!」

 

 体に染み込む前に毒液が付いた服をどうにかしなければならない。焦りと恐怖で、冒険者の視界が極端に狭くなる。

 周りを状況が把握出来なくなる。それは致命的な隙であった。

 

「があっ!」

 

 背後から飛び掛かった生物が首筋に喰らい付く。そして、そのまま地面に押し倒される。

 

「あがっ! あああ!」

 

 手足を激しく動かし、無様であろうとも何とか抜け出そうとするが、食い込む牙から流し込まれる毒が神経を冒し、更に血の流れに乗って全身を駆け巡る。

 激しい痙攣の後、冒険者は動かなくなった。

 生物たちと冒険者の攻防。冒険者は必死に抵抗して一匹一匹と倒していくが、その間に二人、三人と倒れていく。

 最初からあった数の差は縮める所か広がり続け、気付けば冒険者たちの数は三分の一まで減っていた。

 これを見て、フラッグはある決断をする。

 

「……お前ら、ここから逃げてアセの下に行け。俺が何とか時間を稼ぐ」

 

 その提案に二人の顔色が変わる。

 

「お前、何を言っているんだ!」

「……本気なのか?」

 

 ヒスとボウの反応は似ているようで異なっていた。ヒスは、フラッグの発言に少し怒りを込め、正気かどうかを確かめるもの。ボウの方は、本当に実行していいのか確認するものであった。

 

「構うな。どちらにしろ、この手足じゃ碌に動けない。足手まといになるだけだ」

 

 長年連れ添っているからこそ分かる。フラッグは本気である。命懸けでこの場から二人を逃がすつもりであると。

 

「だからって……!」

「――行くぞ」

 

 食い下がるヒスの肩をボウが掴み、強引に連れ出そうとする。

 

「そんなことが――」

 

 薄情な友に文句を言おうとしたヒスであったが、ボウの苦悶に満ちた表情を見て、言葉が出てこなくなってしまった。

 

「お喋りはそこまでだ。合図を出したら全力で走れ」

 

 そう言いながらフラッグは袖口を引き千切り、捩じって棒状にする。そして、いつも懐に仕舞っている携帯用の酒瓶を取り出してコルクを引き抜き、代わりに布を挿し込んだ。

 布で栓をした酒瓶を一回逆さにする。すると布に中の酒が染み込んでくる。

 更に懐に手を伸ばそうとするが、噛まれた傷が激痛を生み、上手く動かすことが出来ない。

 

「……使え」

 

 フラッグの意図を理解して、ボウが小さな箱を差し出す。指先で箱を押すと中が押し出される。中にはマッチ棒が入っていた。

 

「助かる」

 

 フラッグは微笑を浮かべながら、震える指先でマッチ棒に手を伸ばす。既に細かい動きも出来ないのか、箱の中に指先を捻じ込んで数本のマッチ棒を束にして掴み上げた。

 そして、そのまま箱の側面でマッチ棒を擦る。束ねたマッチ棒に一斉に着火し、大きな火となるとそれを酒が染み込んでいる布に点ける。

 フラッグは、火が点いた酒瓶を振り上げる。狙うは生物たちが最も密集している場所。

 全力を込め、それを投擲する。

 自分たちに向けて迫ってくるものに気付き、生物たちは左右に広がる。これにより投げられた酒瓶の軌道上に生物たちは居なくなってしまった。

 だが、それでもフラッグから不敵な笑みは消えなかった。元より生物たちを狙っていた訳ではない。

 酒瓶が勢い良く地面にぶつかるとガラス製の瓶が砕け散る。そして、中に入っていた酒が飛散すると同時に燃え盛る布の火が引火、着弾点を中心にして周囲が燃え上がる。

 その火を恐れ、生物たちは大きく飛び退く。

 

「今だ!」

 

 フラッグが叫ぶと同時にヒスとボウは走り出していた。

 即席の火炎瓶によって無理矢理抉じ開けた脱出路。この機を逃すわけにはいかない。

 多少の火傷は覚悟し、前方にある火の海を突き抜ける。

 衣服に燃え移っていないかを確認しながら、ヒスたちは背後を見た。生物たちはまだ火を恐れて追ってはこない。

 

「そうだ……それでいい……」

 

 二人の為に道を開いた。残るは一秒でも長く二人が逃げる時間を稼ぐだけである。

 フラッグは上着を脱ぎ、手早く剣に巻き付ける。そして、燃え盛る火に走って近付きその火を巻いた服に点火させた。

 油などではなく酒を用いているため、火は徐々に弱まっていく。それに伴い火から離れていた生物たちも近寄ってきた。

 

「来いよ。このトカゲもどき共」

 

 体中が激しく痛み、流れる血も止まらない。残っている冒険者はおらず、戦力はフラッグ一人のみ。

 それでもフラッグは燃える剣を構えて、生物たちを威嚇する。

 

「先に行きたければ俺を殺ってからにしろ!」

 

 咆哮のような叫びを戦いの合図とし、十数匹もの生物たちがフラッグへ一斉に襲い掛かった。

 

 

 ◇

 

 

 アセたちの馬車を追ってひたすら走る二人。幼馴染であり、戦友を犠牲にしてしまった後悔が胸に重く圧し掛かるもそれを無駄にしない為に必死に走る。

 前へ前へ。徐々に疲労が溜まっていく足をその思いだけで突き動かす。

 走れど走れど馬車の姿は見えない。だが、それでもヒスたちの脚は止まらなかった。

 そのとき、ガサガサと木々の葉が擦り合う音が道の脇から聞こえてくる。

 

「止まらないで走るぞ!」

「分かっている!」

 

 追って来たのではないか、という疑念が胸の裡に湧き同時に焦りと恐怖が再び宿ってくる。

 先へ先へと走る二人。それを追う音。付かず離れず、その絶妙な間が二人の心を蝕んでいく。

 歯を食い縛りながら走るが、突如ヒスが足を止めた。

 

「おい!」

「調べてくるから先に行け!」

「何を言って――」

「こいつらを連れて行ったら何が起こるか分からない! 仕留められる内に仕留める!」

 

 足を止め咎めようとするボウであったが、ヒスの気迫に押され言葉が止まってしまう。

 

「一人でも! 一人でも辿り着ければいいんだ! 俺は残る! お前は行け!」

 

 何か言いたげな様子でボウは顔を歪めるが、結局何も言うことが出来ずヒスに言われたまま先へ行く。

 ヒスはボウが離れて行くのを背中越しに感じながら腰に差してある剣を抜く。足音の主があの生物かどうか最早どうでもいい。姿を確認するよりも先に殺すことを決意していた。

 足音が近付いた瞬間、その音の方に向かってヒスは飛び掛かっていた。

 草木を折りながら飛び掛かった先に居たのは、やはりあの生物である。急に現れたヒスに驚いたのか、その場で硬直する生物にしがみつくと同時にその胸元に刃を突き立てる。

 絶叫を上げて身を捩る生物。ヒスは足も絡ませて振り解かせないようにすると刺した剣を引き抜き、再度刺す。

 

「くたばれ! くたばれぇぇぇ!」

 

 何度も何度も怒りを込めて突き刺す。引き抜く度に血が噴き出し、体に掛かるが構う暇など無かった。

 やがて生物は絶叫を上げるのを止め、その体は力を失いゆっくりと傾いていく。しがみついていたヒスもそれに巻き込まれて地面へと倒れる。

 すぐに体を起こし、剣を引き抜くと倒れた生物の顔に向かって剣を繰り返し突き刺す。

 生物が絶命していることに気が付いたのは、突き刺す回数が十を超えた辺りであった。

 

「はぁ! はぁ! はぁ! はぁ!」

 

 心臓が今まで経験したことがないぐらいに早く動いているのが分かる。

 気付かなかったが全身が汗で濡れている。激しく動いたせいで流れた汗か、あるいは生死の挟間にいたことへの恐怖からくる冷や汗なのか、今になっては分からない。

 

 ――勝った。

 

 その実感が動かなくなった生物を見下ろして数秒経った後に湧いてくる。

 胸に込み上げてくるのは喜びではなく生を繋げることが出来たという安堵であった。

 本当ならばずっと浸っていたいところであったが、先に行ったボウの安否が気になりすぐにこの場を離れようとする

 刺していた剣を鞘に戻した。

 次の瞬間、ヒスの肩に激痛が走る。

 

「があっ!」

 

 苦鳴を上げ、急いで目を向けるとそこには肩へ喰らい付く生物の姿。

 完全に油断していた。冷静に考えれば、群れで動いていたあの生物が単独で動くことに違和感を覚えるべきであった。

 先行していた一匹にまんまと釣られ、もう一匹に対し隙を見せてしまった自分の迂闊さを呪うしかない。

 

「が、ぐう! あああ!」

 

 傷口に熱した鉛でも流し込まれたような、熱に似た激しい痛み。声を我慢することすら出来ない。

 その痛みに心が折れそうになる。だが、このときヒスは思った。

 あのときフラッグはこの痛みに耐えながら自分たちを逃してくれたのか、と。

 

「うぐあ! あああああああああ!」

 

 そう思うと折れそうになっていた心が激しく燃え上がる。自分に、そして戦友にこのような苦しみを与える生物に対する怒りを燃料にして。

 気付けばヒスは走り出していた。肩に喰らい付く生物を抱えたまま。

 木の枝をへし折りながら、雑草を踏みつけながらどこに向かっているのか自分でも分からないまま夢中で走る。

 すると、目の前の道が突如途切れる。

 ヒスの視点では分からないが、そこから先は崖になっており数十メートル下には生い茂った森が広がっている。

 

「おおおおおおおおおお!」

 

 ヒスは一切の躊躇はせず途切れた道を進み、生物にしがみつかれたまま崖から飛び出す。

 恐怖が無いと言えば嘘になる。だが、この生物に噛まれたときから半ば助かることを諦めていた。

 限り少ない命。どうせ使うならば戦友の為に、そして、この憎き敵の為に投げ捨てようという決意がヒスを突き動かしていた。

 一瞬の浮遊感の後、ヒスと生物は数十メートル下にある森へと向かって共に落下していった。

 

 

 ◇

 

 

 走ること数分。その間にボウは何度も背後を見ていた。先に行けといったヒスの姿がそのうち見えるのではないかという淡い希望から来る行為であった。

 しかし、何度振り返ってもヒスの姿は見えない。

 冒険者とは常に危険と隣り合わせの職業である。いずれはこんな日が来ることは覚悟していた。だが、実際にその日が来てみれば常日頃からしていた覚悟など何の意味も無いことを痛感させられる。

 

(くそっ! チクショウっ! 何でだ! 何故だ! どうしてだ!)

 

 行き場の無い憤りが心の中で何度も繰り返される。無意味と分かっていても少しでも感情が冷めるようなことをしなければ、頭がどうにかなってしまいそうであった。

 そのとき前方に停車している馬車を見つけた。相当な距離を走る覚悟をしていたが、思っていたよりも近い距離にあった。

 恐らくは付いて来ない後方の馬車に気付き待っていたのであろうと考え、ボウは急いで駆け寄る。

 このとき彼は、もっと冷静になって考えるべきであった。

 停車している馬車の周りに人の姿が全く無いことを不自然に思うべきだった。だが、戦友たちを失ったことで心身共に弱っている彼には、不自然に止まっている馬車ですら光明に見え、一筋の希望にしか見えなかった。

 この直後、その希望が潰えることを知らずに。

 停車した馬車の側まで行き、中のアセたちに救けを求めようとしたボウ。しかし、彼は見てしまった。馬車の陰によって遮られていた、その先の光景を。

 

「う……ああ……」

 

 無様に呻くことしか出来なかった。

 鎧を纏い、上質な武器を持っていたアセの護衛たちが、その身を紫の毒液によって侵され変わり果てた姿で地面に横たわっている。そして、物言わぬ肉塊となったそれを貪るのは撒いたと思っていた生物たち。

 その中で一際目立つのは、他よりも一回り以上大きな鼻先の瘤、そして体格を持つ生物の姿であった。

 文字通り頭一つ抜けた大きさの生物を見てボウは確信する。

 

(こいつが……こいつが群れのボスだ!)

 

 勝てない。戦う前から心が折れてしまう。あの体格さ、数、どれを見ても勝ち目など皆無。ここまで何も望みが無い状況は初めてであった。

 

(に、逃げないと……)

 

 何処へなどいう考えは一切無かった。ただ一秒でも早くあの生物たちから離れたかった。

 ゆっくりと後ずさりをしたとき、パキリという音が足元から鳴る。

 慌てて視線を落とす。足裏に折れた枝が見えた。

 体中から汗が噴き出す感覚を覚えながら落としていた視線を元に戻す。

 獲物を喰らっていた生物たちは食事を止め、一斉にボウの方を見ていた。群がっていたせいで分からなかったがボスたちが食べていたのは雇い主のアセであった。尤もかつての面影や原型など無く、分かった理由も趣味の悪い目立つ衣服の御蔭である。

 捕食者たちの視線を一身に浴びたボウは反射的に踵を返す。

 それを見た瞬間、真っ先に動いたのは統率者であるボスであった。

 両脚の筋肉が瞬時に膨れ上がる。そして同じく瞬時にそれを開放させるとボスの巨体が宙を飛ぶ。

 高々と飛んだボスはボウの頭を超え、彼の眼前に降り立つ。

 いきなり現れたボスに理解出来ず、その場で急停止してしまう。

 ボスの喉が膨れ上がる。その動きを見て毒を吐こうとしているのが分かるが、理解していても咄嗟に体が動かない。

 そして、喉からせり上がってきた毒液がボウに向かって吐き掛けられた。その量は生物たちが一度に吐く毒液の量を遥かに上回っており、浴びせられたボウの足元に一瞬にして毒溜まりが出来上がる程である。

 

「あが…が……が……」

 

 全身に浴びせられた毒は直ぐに体に染み込んでいき、血や肉を融かしていく。その際に生まれる痛みは筆舌し難く、まともに声すら上げられない。

 毒溜まりの中で悶えるボウ。苦しむ彼の周りには既に十を超える生物たちが取り囲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一体どれくらい気絶していたのであろう。体中に走る激痛と共にヒスは目を覚ます。

 傍らには首をへし折られた生物の死体。その周りには折れた枝や葉が落ちていた。

 あの高さから落下して助かったのは、この生物と木によって勢いが殺されたおかげらしい。

 

「へっ……ざまあみやがれ……」

 

 死んでいる生物に罵る言葉を吐くとヒスは立ち上がるが、その途端痛みと眩暈が起こる。

 生物に噛まれた傷。そこから夥しい量の血が今もなお流れ続け、横たわっていた場所は血の溜まりが出来上がっている。

 最早、自分の命は長くは無い。それを悟りながらヒスはその場から歩き始めた。

 行く当てなど何も無い。だが、ただ黙って死を待っていることなど出来はしなかった。

 道なき道を方角も分からずに歩き続ける。一歩踏み出す度に血が地面に落ち、真っ赤な軌跡を残していく。

 体が徐々に冷たくなってくる。視界が狭まってくる。音が遠くに離れて行く。あれ程の痛みを感じなくなってくる。

 死人へと近付いていく体。しかし、それでもヒスは歩みを止めない。

 

「誰か……誰か……伝えないと……」

 

 譫言の様にそれを繰り返す。襲ってきたあの生物のことを誰かに伝えなければ、いずれ大きな厄災となる。

 纏わり付くような草木を掻き分けて進む。すると開けた道に出た。明らかに人や馬車が通る為に施工された道。

 希望が見えた。

 その道を歩くヒス。だが歩けど歩けど何も見えない。

 

(不味い……このままだと……)

 

 あとどれくらい持つのか分からない。手足に感覚は殆ど無くなり、辛うじて体が動いているだけである。

 やがてそれも限界を迎え、ヒスは力無く地面に倒れた。

 

(すまない……すまない……)

 

 仲間たち詫びの言葉を言いながらヒスの意識は途絶え――

 

「おい。聞こえるか?」

 

 ――る前に起こされ、誰かが話し掛けてきた。

 最期の最期で幸運がやって来た。最早目が見えないので誰が起こしているのか分からないが、今はそんなことをどうでもいい。伝えなければならないことがある。

 自分の身に起こったことを話そうとした瞬間、声が出ないことに気付き愕然とする。

 結局最期の機会すら潰してしまった自分の情けなさに涙が出そうになる。

 

「喋られないか? それでもいい。何が起こったのか思い出せばいい」

 

 相手が何故そんなことを言うのかは分からなかった。だが、言われた通りヒスは自分の身に起こったことを思い出す。

 

「――そうか。分かった。良く生き延びた。もう眠れ。君は十分頑張った」

 

 最後にそう言われ、どこか安堵した気分となり、ヒスの意識はそこで途絶えた。

 

 

 ◇

 

 

 名も知れない冒険者の瞼を閉じ、彼は立ち上がると後ろにいる者たちに声を掛ける。

 

「彼も連れて行く。丁重に扱えよ」

 

 そう指示された者たちは嫌な顔一つせず、その亡骸を運んでいく。

 

「あと君たちは暫くここで待機していてくれ。一時間程で戻る」

 

 そう言って彼は乗って来た馬車に行くとその扉をコンコンと指先で叩く。

 

「一仕事終えた後で申し訳ないんですが、もう一仕事手伝って欲しいんですが?」

 

 すると扉が開き、中から白い布で包んだ筒を持った初老の大男が降りる。

 

「……」

「ちょっと敵討ちに付き合って貰えませんか? ディネブ殿?」

 

 素顔を隠す仮面からは隠し切れない眼光が放たれていた。

 散って逝った冒険者たちの無念が、確かな希望へ結びつく。

 




これにて鳥竜種編は終わりとなります。
バッド、バッドと来たので最後はビターな感じのエンドとしました。
今まで名前付きのキャラは死ぬことはありませんでしたが、今回の話は名前付きでも死ぬ話となっております。
まあ、名前の由来が
ヒス→HIS→SHI→死
ボウ→BOU→亡
フラッグ→フラグ
アセ→ASE→ESA→餌
となっておりますから。
我ながら酷い名前の付け方ですね。
暗く絶望的な話ばかりだったので次は希望のある話にする予定です。


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解放の咆哮

 何度見上げてきたであろうか。

 目の前にそびえ立つ高い壁。それが生み出す影の中で少女がその壁をぼんやりと見つめていた。

 粗末な格好をし、貧相な体型をしている。

 そんな少女の背後では同じような格好をした大人たちが黙々と地面を耕し、野菜に水を撒き、収穫などをしていたが、誰も彼も死人のような澱んだ目付きをしている。

 岩や土を砂よりも細かい粒に変え、それを固めて出来た頑強な壁。ただ高いだけではなく果てが見えないほどの広さに建てられていた。

 その壁を立てたのはとある大国であり、壁はこの地をぐるりと囲むようにして建てられていた。

 この土地は大国の食糧を安定して供給する為の農地であり、そこで働く彼らは大国に敗れた国の末裔、あるいは大国によって捕えられた作業用の奴隷である。

 最低限の衣食住を与えられ、日が昇り沈むまでの間ひたすら農作業の為に酷使される。それが彼らの存在意義であった。

 この状況が出来て長く、かれこれ何十年と続いている。当然、この囲いの中で死を迎える者も居れば、囲いの中で生を受ける者も居る。

 壁を見上げる少女もまたこの囲いの中で生まれた存在であり、生まれてから一度も壁の外を見たことが無かった。

 少女の知る自然は、緑の少なく赤茶色の土に覆われ四方を囲まれた大地。土埃が混じった乾いた風。農地の為に引かれた用水路の濁った水。

 それが少女の知る全てであった。

 

(この向こうには何があるんだろう……)

 

 壁を見る度に少女はそんなことを考えていた。緑の草原が延々と続くのか、草木一本も無い荒野が広がっているのか、あるいは話だけでしか聞いたことが無い海という大きな水溜まりがあるのか。

 そんな空想を頭の中に描き、思いを馳せる少女であったが、その空想は背中に走る痛みによって無理矢理中断させられた。

 

「あうっ!」

 

 痛みと衝撃で少女は前のめりになって倒れる。背中の強い痛みのせいでうつ伏せのまま立ち上がることが出来ない。

 すると誰かが少女の長く、黒い髪を掴み無理矢理顔を上げさせる。

 

「何をさぼっているんだ? 貴様は!」

 

 少女を怒鳴りつけるのは黒く染め上げた鎧を纏う男。その手に鉄の棒が握られていることから少女の背中を打ち付けたのがこの男だというのが分かる。

 

「休憩など許可していない! さっさと作業に戻れ!」

 

 少女の髪を掴んだまま、農地にずるずると引き摺っていく。

 男と同じ装備をした別の男たちが、それをニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべながら眺めている。

 男たちは、この農地と奴隷を監視する大国から派遣された兵士たちであった。主な仕事内容として奴隷たちが作業を怠けていないか確認し、怠っているようならば速やかに作業速度を上げさせるというものであった。

 ここで重要なのは、その怠っているという判断は各兵士が個人で判断し、更に作業速度を上げさせる方法は各兵士が自由に行っていいという点である。

 それによって起こるのは兵士たちによる奴隷たちの虐待であった。例え仕事を怠っていなくても、反抗的、不審な行動といった自分たちにとって都合の良い解釈をし、不満の捌け口として一方的に痛めつけ、集団で暴力を振るう。容姿が良い奴隷が居れば、自分たちの慰みモノとして道具のように扱う。暴力によって死ぬ者、耐え切れずに自殺する者など後を絶たない。

 故に今起こっている暴力、罵倒が当たり前のものとなっている。しかし、それを咎める者など誰も居ず、その矛先が自分に向けられないように黙って俯くか、農作業に集中し見て見ぬ振りをするしかない。

 

「あうう!」

「とっとと働け!」

 

 畑に向かって投げ捨てられる少女。顔から地面に突っ込み、土で汚れる。

 口に入った土を吐きながら少女は叩かれた背中の痛みに耐えつつ立ち上がると、置いてある農具を手に取り、周りの大人たちと同じように地面を耕し始めた。

 黙々と終わりの無い農作業を繰り返す。周りの人間と会話することすら許されず、もし喋っているのが見つかれば、酷い暴力を受けることとなる。

 監視している兵士たちの視線に怯えながら、奴隷たちは静かに仕事をするしかなかった。

 過酷な労働環境。当然逃げ出そうと考える者たちも居る。大国によって奴隷へと堕とされた者たちは脱走を企てていることが多かった。

 だがいずれも全て失敗に終わっている。

 失敗の主な理由としてまず外に出さないための高い壁。この壁は特殊な技術によって作られている為並みの道具では傷一つ付けることが出来ない。そして、岩や木で作られた壁とは違い凹凸が無いのでよじ登るのは不可能であった。

 次に農作業場や宿舎には奴隷たちを監視する為の監視塔が置かれている。高い所から常に兵士たちが奴隷たちの動きを監視し、不自然な行動をしていないか目を光らせている。

 三つ目はこの広大な土地である。果てなど分からない程広いこの場所は中にいくつもの農地や奴隷たちの集落が点在しているが、正確な場所は兵士たち以外知らない。

 収穫した食糧を外に運ぶ為、外に通じる扉が必ず何処かに存在する筈であるが、これもまた兵士たち以外詳細は分からないものであった。

 仮にこの場所から逃げ、この土地を彷徨うこととなれば待っているのは野垂れ死にか、あるいは逃亡した奴隷たちを狩る為に放し飼いにしてある陸蜥蜴〈グランド・リザード〉という竜の遠い親戚の餌になるかのどちらかである。

 日々向けられる理由無き暴力に怯えながら、奴隷たちは目を向けられないように沈黙を保ちながら作業を続ける。

 日が完全に落ち、空が夜の闇に覆われたとき鐘の音が響き渡る。それは今日の作業の終了を告げるものであった。

 疲れ切った体を引き摺るように動かしながら少女は夕食の配給に向かう。

 窪みのある盆に空の器を二つ置き、配給を待つ列に並ぶ。

 配るのは同じく奴隷たちであり、兵士はその奴隷が食事をこっそりと隠していないかすぐ後ろで監察している。

 列は進み、やがて少女の番となる。

 盆の窪みに豆を潰して出来たペーストが載せられ、空の器には塩のみで味付けされた野菜くずのスープと小麦を牛乳で煮た粥もどきが入れられる。

 これが少女や奴隷たちが食べる本日の食事であり、似たような食事が朝、昼、夕の三食続けられる。

 美味さなど皆無であり、ただ空いた腹を慰める為の食事。しかし、この地獄のような環境にとって数少ない愉しみの一つであった。

 少女はそれを持って自分の家へと戻る。家と言っても土と石で出来た壁と藁の天井で作られた簡素なものである。そこでは既に少女の両親が食事を始めていた。

 

「無事だったか」

 

 戻って来た少女の顔を見て、少女の父は安堵した表情を浮かべる。隣にいる少女の母も同じ表情をしていた。両親とは離れた場所で作業している為、その間の安否は全く分からず、夕食で戻ってくる娘の無事な様子を見て、胸を撫で下ろしていた。

 

「うん!」

 

 背中を棒で叩かれたことを伏せて、元気良く返事をする。少女の怪我を見る度に両親が悲し気な表情をするので、それを見たくない少女の精一杯の我慢であった。

 今日どんなことがあったのか両親と出来るだけ小声で会話をする。声が大きいと中に兵士たちが来て、殴ってくるからだ。

 あんなことがあった。こんなことがあったという他愛も無い会話。だが、それをする度に今日も生き延びたことを実感出来た。

 食事が終わると食器を洗い、その頃には日も完全に落ちた就寝の準備をする。一応、蝋燭も支給されているが限りが有るのであまり使用しないことになっている。

 両親に就寝前の挨拶をして、地面に敷かれたボロボロな布の上に寝転がり、同じぐらいボロボロな布を被る。

 地面の固さを直接感じているのとほぼ変わらない寝心地ではあるが、もう既に慣れてしまっていた。

 少女は眠りに落ちる前に頭の中で物語を読み上げる。その物語は、少女に読み書きを教えてくれた祖父から聞かされたものであった。

 昨年風邪をこじらせて亡くなった祖父は、奴隷になるまで外の世界で生きていた為壁の向こうにしかないものを色々知っていた。

 砂漠に眠る秘宝の話。戦争をたった二頭で終わらせた炎の獅子の話。大海原に住む大きな神様の話。悪人を懲らしめる島に住むとても怖い悪魔の話など数え切れない程である。

 物語を思い返す度に祖父の優しい声が頭の中で木霊していく。かつての優しさに浸りながら少女は、深い眠りにつくにのであった。

 翌日。本来ならば目覚めの警鐘が鳴る時間であったが、この日はどういう訳かどんなに待っても鐘が鳴らなかった。

 両親は不思議そうな顔をしながら外に出ようとする。

 

「今日は家でじっとしていろ」

 

 入口には不機嫌そうな表情の兵士が立っており、外に出ようとしていた父の肩を強く押して家の中に戻す。

 今までに無かったことなので両親は戸惑い、少女もまた首を傾げていた。

 強い風の日も雷雨の日も欠かさずに作業が行われてきたが、一日中止というのは初めての事態である。

 両親は言われた通り家の中でじっとしていたが、少女は好奇心が抑えきれず、窓に耳を当てて外の兵士たちの会話を盗み聞きし始めた。

 

「――が昨日――された――全滅――奴隷だけじゃない――他の――も皆やられている」

「――手は?」

「分からない。だが――らしい」

 

 途切れ途切れで聞こえてくるので全容は全く分からないが、大国側にとって何かしら不都合なことが起きているのだけは分かった。

 例え奴隷が目の前で死んだとしても虫の死骸を見るかのように動じない大国の兵士たちが、明らかに動揺していた。

 兵士たちに対し良い感情など無い少女にとっては、焦燥感のある兵士たちの姿は新鮮であり、同時にざまあみろと舌を出して笑ってやりたい衝動に駆られる。尤もそれは奴隷たちが共通して兵士たちに持っている感情である。

 結局その日は、一日中家の中に押し込められたままであった。しかし、そのせいで食糧の配給が無く、空腹を抱えたまま床に就くこととなってしまった。

 翌日。空腹によって目を覚ました少女。両親は既に起きており、眠そうに眼を擦る少女におはようと声を掛けた後、不安そうに外を眺める。

 それを不審に思い、少女も両親を倣って外を見る。そして、絶句した。

 兵士たちの数が昨日よりも倍以上増えているのだ。それもただの兵士ではない。重武装を纏い、三メートルを超えた巨大な生物に跨っている兵士たちもいる。

 戦闘用に調教された竜、陸竜〈グランドドラゴン〉。大国にとって要とも呼べる生きた武器である。本来ならばプライドの高い竜を従えるのは、才有る者が幼い頃から共に生活し、心を通わせて初めて出来る。

 だが、大国はその過程を踏まなくても可能とし、尚且つ大量に保有している。

 それを可能としているのが陸竜の首に巻かれている首輪である。中央に填め込まれた妖しく光る石は意識を混濁させる魔石であり、大国は捕まえた陸竜をこれで洗脳し、そして卵を産ませ、産まれてきた幼い竜にもそれを填めて意のままに操っていた。

 本来の竜種に比べれば血の薄い竜ではあり、ブレスも吐けず空も飛べない。しかし、弓矢を容易く跳ね返し、剣や槍でも貫けない頑強な鱗は十分過ぎる武器であり、おまけに馬以上の早さで走ることが可能である。

 少女も何年か前に兵士たちが陸竜に乗っている姿を見たことがあった。そのときは脱走した奴隷を探す為であり、数時間後には脱走した奴隷がこの場所に戻って来た。ただし、陸竜に咥えられて血に塗れた状態で。ここから逃げ出したらどうなるかという格好の見せしめにさせられていた。

 陸竜の唸り声と重武装の兵士たちによる圧迫感のせいで嫌な緊張感に満ちた空気の中、少女は農具を手に取り作業を始める。

 いつもの様にザクザクと土を耕す音と水を撒く音、そして作物を採る音が聞こえてくる。この音が延々と続くかと思えたそのとき――

 

「貴様ぁ!」

「ひぃあっ!」

 ――兵士の怒号が上がった。

 声の方を見ると頭から血を流して怯える中年の男。周りに水汲み用の桶が転がり、地面を濡らしている。

 

「これは我々に対する嫌がらせか!」

「違います! 違います! 手を滑らせてしまっただけです!」

 

 兵士の衣服の一部が濡れている。どうやら奴隷の男が水を零し、それが掛かってしまったらしい。

 

「黙れ!」

「あがっ!」

 

 鉄棒が男の頬を殴る。血に混じって白い歯も飛ぶ。そこで終わりかと思いきや、倒れ伏した男の頭に何度も鉄棒が振り下ろされる。

 

「奴隷が! 奴隷如きが!」

「がっ! ――ッ……」

 

 一瞬呻いた後、男は沈黙する。すると他の兵士たちがやってきて殴り続けている兵士を後ろから羽交い締めにした。

 

「馬鹿野郎! やりすぎだ!」

「落ち着け! 落ち着け!」

「うるせぇ! 放せ!」

 

 周りの声も異常なまでに興奮状態になる兵士には届かない。すると別の兵士が現れ、暴れているその兵士の頭に鉄棒を叩き付けた。

 兜を被っていても衝撃を完全に殺すことは出来ず、暴れている兵士は頭を押さえながら苦悶の声を上げる。

 兵士の一人が、頭から血を流して倒れている奴隷の首筋に手を当てる。その後に口の前に手を翳す。両方やった後にその兵士は舌打ちをする。

 

「手遅れだな」

 

 兵士を一人呼び寄せると、奴隷の両足を持って引き摺っていく。

 少女が何度も見た光景。あの奴隷が死んでしまったらしい。

 初めて人が死ぬ光景を見たときは、理由も分からない恐怖で全身が震え上がった。目から涙が溢れ、すぐにでも泣き出してしまいそうになった。だが、慣れてしまった今では震えも涙も無い。

 死に対する嫌悪感はいまだに感じることは出来るが、いずれは周りの大人たちのように人が死んだとしても『人手が減った』程度の感想しか抱かなくなるであろう。

 

「何であいつはあんなに取り乱していたんだ?」

 

 死亡した奴隷に何の感慨も抱かず、加害者である兵士の方を心配する様子を見せる。

 

「例の『アレ』だよ。あそこにはあいつの弟が居たんだ。……今朝、安置所で対面したらしい」

「ああ、道理で」

 

 会話し合う兵士たちの前で、暴れていた兵士が引き摺られていく。

 

「おい! ぼうっとしていないでさっさと作業に戻れ!」

 

 暴行の現場を見ていたせいで手が止まっている奴隷たちに、兵士が鉄棒を地面に叩き付け作業を再開するように脅す。

 奴隷たちが慌てて作業に戻ろうとしたとき、警鐘が鳴った。

 脱走者が出たときに鳴る鐘の音。しかし、兵士たちの様子がいつもと違う。

 

「出たのか!」

「何処だ! 何処に出た!」

「早く情報を回せ!」

 

 慌ただしく動き始める兵士たち。明らかに脱走者を狩る為の準備ではない。

 

「今日の作業は中断だ! すぐに寝床に戻れ!」

 

 兵士がそう怒鳴りつける。

 奴隷たちはざわついた。

 昨日もそうだが、連日で前例の無いことが起こっている。

 

「とっとと戻れっ!」

 

 動物に命令するかのように鉄棒を地面に叩き付ける。

 大人しく家に戻った少女たちであったが、兵士たちの不安、焦り、怒りが伝播して皆落ち着かない。

 そういう嫌なこと不安なことがあると少女は、必ず壁を見て空想の世界に耽る。見たことも無い世界を描きそこへ浸ることが少女にとって唯一の楽しみであった。

 ただの逃げなのかもしれない。しかし、そうしなければきっと少女は早い段階で心を磨り減らし、生きる屍になっていたかもしれなかった。

 だが空想から戻ってくる度に嫌でも現実を突きつけられてしまう。

 壁によって閉ざされた世界。これが、自分が死ぬまで生き続ける世界なのだ、と。

 日が傾き、やがて夜が訪れる。

 床に入り、目を瞑り、そして眠りに入る。目が覚めたとき、きっと変わらない現実が待っていると分かっているのに、明日が今日よりも違う日であって欲しいと願わずにはいられなかった。

 

 

 ◇

 

 

 翌日。少女はいつものように目覚め、何気なく外を見たとき驚いた。昨日を遥かに上回る重武装の兵士たちが居た。

 誰も彼もが異様なまでに殺気立っており、まるで戦争を始める前のようであった。

 先に目覚めていた両親も外の異様な光景を見て、表情を蒼褪めさせている。

 ここ数日、兵士たちの様子がおかしかいことは分かっていた。自分たちの知らない所で一体どんなことが起こっているのか、不安に駆られる。

 

「お父さん、お母さん」

 

 不安気に両親を呼ぶ。

 

「今日も作業は中断みたいだ。お前はもう少しお眠り」

 

 両親は少女を安堵させるように優しく言うが、二人の言葉には隠し切れない不安があるのを少女は敏感に悟った。

 少女は言う通りに再び床に入るものの眠れなかった。

 ただ硬い地面の上で丸まって、時が過ぎるのを待つだけ。こういうときこそいつものように空想に耽る。

 頭に浮かべるのは見たことも無い壁の向こう側。そこにどんなものがあるのか、少女は乏しい知識を働かせながら朧気な形を創り上げていく。

 今日もこうやって時間が過ぎていくと思っていた。

 この時までは。

 切っ掛けは小さな異音であった。

 

 ガガガ

 

  地面に横になっていた少女だからこそ気付いた小さな音。砂が削れるような音。

  特に珍しい音では無かったので、少女は特に気にしなかった。

 

 ズガガガガガ

 

 砂が削れるような音が、次第に石が削れるような音に変わる。少女は音が気になり始め、耳を地面に押し当てた。

 

 ドガガガガガガ

 

 石が削れるような音が、今度は大地が削れていくような大きな音になる。耳がおかしくなければ、音の源がどんどん近付いてきている。

 地面の中に『何か』が居る。そう思った少女は、思わず両親に呼び掛けた。

 初めは空想癖のある自分の娘が、何か勘違いをしていると小さく笑っていたが、少女があまりに必死な様子で訴えてくるので、少女の父がしょうがないといった様子で地面に耳を当てた。

 

 ゴガガガガガガガガガ!

 

 大地が裂けていくような音を聞き、少女の父はすぐに耳を離す。少女の言った通り、地面の中で何か途轍もないことが起きている。

 言いようの無い恐怖が胸の中に湧き、そのせいか意識していないのに全身が震える。娘もまた自分と同じ心境なのか、体を震わせていた。

 と最初は思ったが、違う。カツカツと机の上で音を鳴らす食器。パラパラと上から落ちて来る埃。

 体が震えているのではない。家が地面ごと揺れているのだ。

 少女もまた地面の異変に気付き、このまま家の中に居るのは不味いと考えたが、もし外に逃げ出したとして緊迫状態にある兵士たちに何をされるか分からない。

 二つの恐怖で身が縮み上がっていく。詳細の分からない異変を杞憂と思い込み、家の中でじっとしているか、それともすぐにでも家を出るか。

 そのとき父が立ち上がり、母と少女の腕を掴み、外に連れ出そうとする。

 

「何が起こった後では遅い。安心しろ。兵士たちが何をしてこようと全部私が背負う」

 

 安心させるように微笑みかけてから、二人を引っ張って家の外に出た。

 その途端、兵士たちが一斉に少女たちに駆け寄っていく。

 

「貴様! 待機していろと命じていた筈だ!」

 

 陸竜に乗った兵士が怒鳴る。それに合わせて威嚇するように陸竜も低い唸り声を出した。

 

「何かおかしいんです! 地面の中で変な音がしますし、家が揺れているんです! もしかしたらとんでもないことが起きるかもしれない!」

 

 いつもならば兵士は奴隷の言葉を一笑し、手に持った鉄棒で立てなくなるまで打ち付けていたかもしれない。だが、このとき兵士たちは、少女の父の言葉で一斉に顔色を変えた。

 

「何だと……」

「それは本当なんだろうな?」

 

 兵士が少女の父に詰め寄ろうとしたとき、異変が起こる。

 普段は鳴き声一つ上げない陸竜たちが一斉に騒ぎ始めた。洗脳し、恐怖とは無縁の存在である筈の陸竜たちが、まるで何かに怯えているかのようであった。

 同時に激しく大地が揺れ動く。それは、少女が家で感じたときの比ではない。

 

「来たぞ! 『奴』が来るぞ!」

 

 少女たちは、何が起こっているのか分からずに戸惑っているだけであったが、兵士たちは何が起きているのか把握しているらしく全員腰に差してある剣を抜き、臨戦態勢に入る。

 そのとき突如揺れが収まる。すると風が無いにも関わらず、大地の上を砂埃が走っていく。

 兵士たちは、その砂埃の行方を自然に眼で追っていた。それほどまでに不自然に舞い上がっていたのだ。

 やがて砂埃がこの集落の中心地まで移動したとき、大地を裂いてそれは現れた。

 舞い上がる土と砂煙。砂煙が風によって吹き消されると、そこには見上げる程の巨体を持った生物が立っていた。

 巨体を支える二本の足は、大木の根のように太く逞しい。

 皮膜を持った一対の翼を持っていることから最初は竜かと思えた。だが、少女の知る竜とは異なる点がいくつもある。

 砂色の鱗――ではなく鉄板や鎧を彷彿とさせる艶消しされた外殻で全身を覆っており、背中には更に厚みのある甲で覆われている部位がある。

 尾の先まで覆われた頑強そうな殻。尾の先端は膨らみ楕円形になっており、見るからに凶悪そうな棘で覆われている。尾の先端だけでも人と同じくらいの大きさがあった。

 その竜の後頭部は盾のように広がった形をしており、尾の先端と同じく棘が生えている。別の角度から見ると襟飾りをしているようにも見えた。

 口は通常の竜とは異なり鳥類と似た嘴の形をしている。

 数々の異なる部位が目に入ってくるが、その中でも少女が最も注目したのは、竜の鼻先から伸びた一本の角であった。

 真紅に染まった一本角。まるで削り出されたような荒々しい外見をしているが、太陽の光が反射し生まれる紅の輝きは、宝石など見たことも無い少女にとって初めて美しいと思える美麗さがあり、未知の竜に圧倒され恐怖するべき場面に於いて放心し心ここにあらず、といった状態となってしまった。

 呆ける少女を他所に兵士たちは一瞬呆然としていたが、すぐに正気となり現れた角の竜を前にして威嚇するような怒号を上げる。

 

「出たぞぉぉぉぉ! 出たぞぉぉぉぉぉぉ!」

 

 その声が響くと同時に見張り台に立つ兵士が警鐘を激しく打ち鳴らす。未だに異変に気付いていない兵士たちに異常を報せる。

 

「こいつが集落を襲っていた奴か!」

「でかい……何て大きさだ……」

「怯むな! ここで引いたら祖国の誇りに泥を塗ることになるぞ!」

 

 口々に感情を吐き出しながらも、武器を構え続ける兵士たち。一方で角の竜は、兵士たちの殺気にも大して警戒せず、体を震わせて付いていた土や砂を払っていた。

 その呑気とも呼べる態度に舐められていると判断した数人の兵士たちが、跨っている陸竜の手綱を操り、角の竜に向かって一斉に走り出す。

 

「奴はここで仕留めろ! 壁の外に出すな! この場所を奴の墓場にしてやれ!」

 

 疾走する陸竜。鈍重そうな見た目とは裏腹に四本の脚が素早く動き、馬並みの速さで一気に距離を縮める。

 顎を開き、ずらりと並ぶ牙を見せる陸竜たち。接近して一気に喰らい付く考えらしい。陸竜の噛み付きは鉄製の鎧すらも貫通するほどの威力がある。

 体の汚れを払い終えた角の竜が、その視界に迫ってくる兵士たちの姿を捉えた。

 角の竜が体を翻し、兵士たちに背を向ける格好となる。すると体の動きに追従するようにその長く太い尾が振るわれる。

 

「え」

 

 間の抜けた声が最期の言葉となった。側面から角の竜の尾が叩き付けられると、その尾の棘が兵士とそれが乗っていた陸竜へと突き刺さる。勢いはそれでは収まらず、そこから隣にいる兵士を巻き込み、更にその隣の兵士すら巻き込む。

 尾はそのまま振り抜かれ、巻き込まれた兵士たちは宙へと放り出され十数メートル先にある壁に衝突。兵士三人と陸竜三匹は一つの肉塊となって壁にへばり付き、赤い軌跡を描きながらゆったりと壁をずり落ちていった。

 先程まで士気を高めていた兵士たちは、目の前に突き付けられた理不尽さすら感じる力を見せつけられ言葉を失う。

 強いということは何度も襲撃を受けていたことから知っていたが、いざ目の当たりにするとまるで夢でも見ているかのような馬鹿げた力であった。

 

(人ってあんなに飛ぶんだー)

 

 現実でありながら非現実的なものを見せられた少女は、そんな場違いな感想を抱きながら尾を振るった角の竜を見ていた。

 すると急に手を引っ張られ、体勢がガクンと崩れる。

 角の竜の登場で暫しの間呆けていた両親が正気に戻り、避難しようと娘の手を引っ張っていた。

 

「ここは危ない! 逃げるぞ!」

 

 父が血相を変えて言うが、少女はその言葉についこう返してしまった。

 

「逃げるって、何処に?」

 

 両親が言葉を詰まらせたのが分かった。

 仮に逃げ込む場所があったとしても、せいぜいこの集落の中にしかない。奴隷である自分たちは、この集落の外では生きられないのだ。

 集落の外に出れば、待っているのは別の危険である。ここに居ようが居まいが死しか無い。

 少女の父が何かを言い掛けた瞬間――

 

「うわっ! 何だあれは!」

「で、でけぇ……」

 

 悲鳴が上がる。他の奴隷たちが、外の騒ぎを聞いて痺れを切らしてつい外を見てしまったのである。

 突然現れた角の竜の存在は、瞬く間に奴隷たちに恐怖として伝播し、家の中で待機していた奴隷たちは次々と外に出て来る。

 

「お前らぁ! 中で待機していろと言っておいた筈だ!」

 

 この期に及んでも兵士としての職務を真っ当しようとしているが、兵士への恐怖も角の竜の存在感に掻き消され、誰も耳を貸さない。

 阿鼻叫喚となり一気に騒々しくなる場。

 これを疎ましく思ったのか、角の竜は地面の土を後方に蹴り飛ばしながら尻尾で地面を叩き、前のめりになって短く鳴く。

 何か仕掛けてくると警戒する兵士たちであったが、角の竜の前にそんな警戒など無意味。警戒するよりも先にこの場から逃げるという選択をすべきだった。

 鼻先の角を突き出す格好で地を蹴り付け角の竜が駆け出す。恐るべきことに一足で最速へと達し、二足目で兵士たちとの距離が零となる。

 巨体からは想像出来ない陸竜を上回る駿足。間を瞬時に詰められた兵士たちに為す術は無かった。

 角の竜に最も近い位置にいた兵士と陸竜に角の竜の真紅の角が突き刺さる。圧倒的質量と速度から繰り出される一突きは硬い筈の陸竜の鱗を容易く突き破り、更に騎乗している兵士を鎧ごと貫く。

 だが、そこで角の竜の速度は緩まらず、直線上にいる兵士と陸竜たちが次々に狙われていく。

 二頭目の陸竜を巻き込むが速度は緩まず。三頭目も巻き込むがまだ緩まず。四頭、五頭が同時に巻き込まれるが何一つ変わらない。遂には六頭目も巻き込まれる。

 六頭の陸竜。それに乗った重装備の六人の兵士を地面で削るように押し出しながら、そのまま奴隷の家に突っ込んでいった。

 粉砕される家。家の破片と一緒に飛んで行く兵士と陸竜。高々と打ち上がったそれは、やがて地面に打ち付けられ二度と動かなくなった。

 残骸と化した家に頭を突っ込む形となっている角の竜。頭を振り上げて、覆っていた残骸を取り払う。

 角の竜にしてみれば邪魔な物をただ除けたということに過ぎないが、周囲にいる人間らにとっては、人の頭よりも大きい土の塊や木の柱が空から降り注いでくるという脅威に映る。

 悲鳴を上げながら頭を抱えて逃げ惑う奴隷たち。兵士たちは逃げ惑うという無様な真似はしなかったが、立て続けに仲間が殺されて士気が一気に下がっていた。

 

「え、援軍は、援軍は無いのか!」

「援軍は……来ません。そもそも私たちがその援軍ですから……」

 

 焦る兵士に対し、消え入りそうな声で現実を話す蒼褪めた兵士。

 瓦礫を払った角の竜は次に、翼膜の付いた前足で地面を掘り始める。

 農具でも何度も耕さなければ柔らかくならない硬い地面に、一掘り、二掘りしただけで頭が収まる程の大穴を開け、そこから更に鼻先の角を巧みに使って堀進めていく。

 十秒もかからずに角の竜の体は穴に入っていき、唖然とする兵士たちや奴隷たちの前で最後に残った尻尾も地面へと入っていき完全に地中へと姿を消してしまった。

 初めに現れたときのように地中を潜行する角の竜。何処から来るのか神経を尖らせる兵士たち。奴隷たちは何が起こっているのか思考がついていかず戸惑う。

 騒がしかった筈のこの場に突然訪れる沈黙。

 すると――

 

「あっ」

 

 ――沈黙を破る少女の声。

 少女が見たのは地表から起こっている不自然な砂埃。それは、角の竜が現れた時の前兆であった。

 異様な速度で移動する砂埃を見て、角の竜が現れたときの光景が脳裏を過った兵士たちは、すぐに砂埃の直線上から逃げ出したが、角の竜が現れたときの光景を見ていない後詰めの兵士たちは、反応が遅れる。

 それが明暗を分けた。

 迫ってくる砂埃を見て逃げ出そうとする兵士たち。しかし、兵士たちに到達する寸前にそれが唐突に消える。

 虚を突かれた兵士たち。だが、それも地面を突き破って強襲してきた角の竜の一撃によって全て吹き飛ぶ。

 爆音のような音と共に地面が外側に向かって弾けるように散り、その周囲にいた兵士たちが陸竜ごとひっくり返る。

 その中で最も不幸なのは角の竜の真上にいた兵士であり、地中を突き破って現れた真紅の角で陸竜ごと体を貫かれていた。

 

『があ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!』

 

 即死には至らず、絶叫を上げる兵士と陸竜。二つの絶叫が混ざり合い、思わず耳を閉じたくなるほどの悲痛な叫びとなる。

 地面から飛び出した角の竜は、難なく着地すると勢い良く頭を振った。それによって刺さっていた角が抜け、振られた勢いのまま兵士と陸竜が見張り台へと向かって投げ放たれる。

 

「うあっ!」

 

 監視塔にいた兵士たちに降りる暇など無い。飛び降りようとも地上から十数メートルも離れているので咄嗟に飛ぶことも出来ない。

 どうするか迷っている内に、投げ放たれた兵士たちが監視塔の柱へと叩き付けられた。柱と陸竜に挟まれた形となった兵士は、当然即死。陸竜の方も全身を強く打ち付けられて、体の至る箇所が不自然な方向に折れ曲がっていた。

 その衝撃で支柱の一本が折れる。それによって監視塔のバランスは崩れ、地上に向かって倒れていく。

 

「うああああああああ!」

 

 監視塔に居た兵士が叫ぶが、周りはどうすることも出来ず、地面に叩き付けられると同時に監視塔は破壊され、砕けた残骸の中に消えてしまった。

 倒れた監視塔を見て立ち尽くしてしまう兵士たち。だが、角の竜はそんな兵士たちの感傷など一切介することなく、監視塔が倒れたと同時に動き始めていた。

 俊足を以って地を駆け、逃げる暇も与えずに接近すると、顎が地面を擦る程頭を下げたかと思えば、そこから上半身を上に向かって仰け反るとうに伸ばす。

 下から上へのすくい上げに数人の兵士たちが巻き込まれ宙へと打ち上げられる。まるで放られた小石を彷彿とさせる光景。

 しかし、十数メートルの高さにまで上げられた兵士たちに助かる術は無い。そもそも角の竜にすくい上げられた時点で、体中の骨がひしゃげ、内臓が押し潰される衝撃を受けており半死半生であった。

 空中で意識が無い者は幸運であった。少なくとも地面に落ちるまでの数秒間に味わう死への恐怖が無い。並み以上の精神がある者は不幸であった。どう足掻いても助からない現実を思い知らされながら、死という永遠に至るまでの短くも長い数秒間を体感するのだから。

 兵士の一人が、地面に落下する直前の兵士の顔を見てしまった。救いを求める血走った眼。何もすることが出来ず、瞬きをした後、その兵士は頭から地面に叩き付けられた。

 首や手足が直角に折れ曲がり即死であった。しかし、仰向けになったその顔は、目が見開いた状態であり、まるで他の兵士たちに、未だに救けを求めているかのようであった。

 度重なる無惨な死。それを目の当たりにして兵士たちは、二つの行動に別れた。

 

「無理だ……こんな奴、勝てる訳が無い!」

「嫌だ! 俺はもう嫌だぁぁぁぁぁ!」

「死にたくない! お、俺には家族がいるんだ!」

 

 一方は恐怖に駆られ、武器や防具を捨てて角の竜から逃げ出す兵士たち。彼らの大半は、兵役が浅いか、もしくは家族や恋人がいる者であり、大国に対しての忠誠心が薄く、戦いに於いて命を懸けられない者たちであった。

 

「逃げるな! 臆病者どもが!」

「こんな竜一匹がどうしたぁ! 我らが恥は、祖国の恥! 兵士としての名誉を守れ!」

「殺してやる! 殺してやるぞ! 貴様ぁぁぁぁぁ!」

 

 もう一方は、国に対し絶対的な忠誠を誓っている者たち、また角の竜に戦友や仲間を殺され、怒りと復讐に燃える者たちであった。

 手に持つ武器を固く握り締め、萎える所か昂った闘争心を見せ、逃げる兵士たちを罵りながら、角の竜と対峙する。

 そんな光景を離れた場所で息を殺しながら見守る奴隷たち。

 自分たちを虐げていた兵士が次々に殺され、無様に逃げて行く。状況が状況ならば、手を叩いて大喜びするか今までの鬱憤を晴らすかのようにを指差して嘲笑っていたかもしれない。だが、奴隷たちはしなかった。

 兵士を遥かに上回る重圧と恐怖を撒き散らす角の竜に完全に委縮していたからである。

 虐げられてきた故に、彼らは本能的にどうすれば相手を刺激しないのか分かっていた。それは、何もしないことである。逃げ出すことも戦うこともせず、相手が満足するまで好きにさせ、その間徹底して無抵抗でいる。

 卑屈とも呼べる対応。しかし、武器も力も無い彼らにはそうするしかなかった。それだけが一日でも長く生きる術であった。

 だからこそ彼らは物陰に隠れて息を殺し、路傍の石のように何もしない。今起こっている惨劇からも眼を背け、耳を塞ぐ。

 そんな奴隷たちの中で、唯一少女だけが角の竜を凝視していた。いつも思い描いている空想よりも空想のような現実の生物。

 生気が無く無気力とも言っていい大人たちに囲まれて生きてきた少女が初めて見た、生命に満ち溢れた存在。

 膨大な生命によって膨れ上がった巨大な体。それでも尚足りず、漏れ出した命は暴力となって兵士たちを蹂躙する。

 目を背けるような光景も、既に多くの奴隷たちの死を見てきた少女にとってある種見慣れたものであり、嫌悪感を覚えない。

 少女は、無意識に惹かれていた。正体不明の角の竜が放つ雄々しい生命という力に。

 眩さすら感じる角の竜の生命。そんな存在の前に立つのは、その何百、何千分の一ぐらいの輝きしか放たない兵士たち。少女には、それがあまりに矮小に見えた。

 あまりに広い両者の差。ここまでくると比較することすら烏滸がましく思え、角の竜の前に立つ兵士たちに同情すら覚えてしまった。

 角の竜の強い輝きに、束ねても劣る兵士たちのそれが呑み込まれるのも時間の問題であった。

 離れた場所から送られる少女の同情の念を他所に、力強く立つ角の竜に屈せず奮起する兵士たちが、それぞれの得物を構えて突撃していく。

 陸竜に乗っている兵士は槍を構え、陸竜の俊足によって得た速度を加えた突きを角の竜の人間で言う脹脛の部分を狙って突き出す。

 巨大な体躯を支える脚を傷付け、自由に動けなくさせようとする。

 槍の穂先が角の竜の足へと刺さる。かと思いきや、鉄製の穂先はそれ以上先に進むことはせず、それでも無理に刺そうするが、そのせいで槍の柄が大きく曲がり、限界を迎えて柄が音を立ててへし折れる。

 唖然とする兵士。最も柔らかそうに見えた箇所であったが、血を流させるどころか傷すら付けることも出来ない。

 いきなり破綻する戦法。

 角の竜は側面にいる兵士たちに目線だけを向けると、その状態から体ごと兵士たちにぶつかる。

 何の変哲も無い体当たりであるが、人外の瞬発力と驚異的な体格、圧倒的硬度から繰り出される体当たりは、人間という小さな存在には必殺に等しく、事実体当たりを受けた兵士たちは体を半分の大きさに圧縮されながら宙を吹っ飛んでいった。

 そこから先は、一が多を蹂躙するという光景であった。

 絶えず人や陸竜が宙に飛び上がり、あるいは壁に叩き付けられて原型を砕かれ、押し潰されて大地の一部と化す。

 砂地が血によって赤く染まり、場には咽る程の死臭が漂う。

 惨劇を前にして奴隷たちは、皆震え上がり、角の竜の矛先が自分たちに向けられるのではないかという恐怖に縮み上がっていた。

 数十分も経たずに大国の兵士たちは全滅してしまった。敵など居ないと思われていた屈強な兵士たち。だが、結果を見ればまるで羽虫のように角の竜を何一つ傷付けることなく一方的に潰されてしまった。

 最早この場に戦う力を持った者たちは居ない。もしかしたら逃げた兵士たちが援軍を呼んでいるのかもしれないが、それがあとどれくらいの時間で来るのかなど分からない。

 そもそも来たとしても兵士たちがこの角の竜に勝つ姿を想像出来なかった。ましてや自分たちのような奴隷など触れただけで消し飛ばされるのは目に見えている。

 そんなことを考えている内に角の竜の視線が奴隷たちに向けられる。

 はっきりと瞳の中に捉えられた奴隷たちはそれから逃れるように目を瞑り、全身を強張らせ、震え上がった。

 ただ一人、少女だけは角の竜の瞳を見返す。角の竜は何もすることはなく、あっさりと視線を外した。

 それを見て少女は理解した。

 角の竜は自分たちを見ているようで全く見ていない。

 蹂躙された兵士たちですら排除する敵と認識していたが、奴隷である自分たちは敵に見られていない。そこらに生えている雑草、あるいは落ちている小石、もしかすれば宙を舞う塵を見ているかのように自分たちの存在を全く認識していなかった。

 少女は兵士たちが抗っている姿を見たときちっぽけだと思った。しかし、角の竜によって自分たちは更にちっぽけな存在であることを突き付けられる。

 角の竜が何もしてこなかったことに気付き、喜ぶ大人たちがいる。少女も素直に命が助かったことを喜べば良かったのかもしれない。だが、そんな気持ちなど微塵も湧いてはこなかった。

 ただ悲しいと感じた。何故悲しくなったのか少女自身も言葉にすることは出来なかったが、自分の胸の奥にある何かが傷つけられたような気持ちであった。

 角の竜は、そのまま白い壁の方に向かって歩み寄る。

 何をするつもりか、と見ている奴隷たちの前で、角の竜は壁までの距離をある程度詰めると、地面を蹴り付けて駆け出し頭から壁に突っ込んだ。

 腹の奥底に響くような衝撃音が集落に響き渡り、あまりの音の大きさに奴隷の何人かは耳を押さえてしゃがみ込んでしまう。

 残りの奴隷たちは、角の竜が壁を壊す姿を見て立ち尽くす。

 

「無理だ……」

 

 奴隷一人がそう呟く。

 どんなに強靭な力を持っていようともあの壁を破壊することは出来ない。それが奴隷たちに長年染み付いた真理であった。

 事実、あの角の竜の体当たりを受けても壁が揺さぶられただけである。

 ――そう思っていた。

 

「あっ」

 

 少女が声を洩らす。

 角の竜が、頭を左右に強く振りながら壁から離れる。すると角の竜が体当たりした箇所には角の刺突によって穴が丸く穿たれていた。

 

「あ、穴が……」

「壁にあんな大きな傷が……」

 

 壁の強度を知っている奴隷たちは、あれ程深く付けられた傷を見るのは初めてらしく、信じられないといった様子であった。

 再び壁に向かって突進する角の竜。その度に壁に穴が穿たれていく。

 しかし、何度突進しても穴が増えるが、壁はびくともしない。

 壁の厚さの前に角の竜の力もあと一歩届かない。

 見ていた奴隷たちも最初の驚きから冷め、やはりという諦観した空気が戻っていた。

 少女は、何度も同じことを繰り返す角の竜をじっと見ていた。他の奴隷たちとは違い、あの竜ならば、という希望を消してはいなかった。

 だが、そんな少女の願いとは裏腹に何度目かの突進した後、角の竜は突進するのを止めて壁から離れていく。

 それはまるで壁を破壊するのを諦めた姿に見えた。

 

「やっぱりか……」

「あれでも無理か……」

「仕方ない。誰であろうと無理なものは無理なんだ」

 

 奴隷たちは、口々に諦めの言葉を吐く。

 少女は離れていく角の竜をじっと見ていた。本当に諦めてしまったのか、本当にこの壁を壊せなかったのか、本当に――

 そこで少女は考えを止めた。それ以上を考えることが出来なくなった。壁に向き直った角の竜の形相を見て、恐ろしさから思考が凍り付く。

 飾り盾のような頭部に赤い斑点がいくつも浮かび、口から洩れる鳴き声。

 一目見て理解した。角の竜が怒っていることに。自分の自由を妨げる壁に対し凄まじい怒気を向けていることに。

 向けられている訳でも無いのに、奴隷たちは角の竜の全身から発せられている怒気に触れて、誰もが口を閉じて怯える。仮にその怒気が自分たちに向けられるのであれば、人としての本能は恐怖で簡単に屈服し、それから逃れる為に即自害してしまうであろう。

 角の竜が足元の砂を蹴り払う。それは突進を繰り出す前の動作であった。

 顔を突き出しながら壁に向かって短く吼える。そして、内に溜まっていた怒りを全て力へと変換し、壁に向かって駆け出す。

 大地を踏み締める一歩一歩の重み。離れた場所で見ている少女たちにも伝わってきており、まるで小さな地震が連続して起こっているかのようであった。

 瞬時に最高速へと至った角の竜は、自らが傷付く恐れなど微塵も抱かず、最速を維持し続ける。頭部から胴体に掛けて体勢が直線となり、最大の武器である角は骨、甲殻によって支えられ、さながら一本の巨大な槍と化す。

 巨大かつ頑丈な体。それを支える為に発達した筋力。この竜にとっての武器はその二つであった。たった二つではない。この二つ以外不要なのだ。

 火を吐くことも風を吐くことも水を吐くことも必要無い。己の体こそが唯一にして最大の武器。

 角の竜は、その最大の武器を以って壁に全力を叩き付けた。

 更に増した速度から繰り出された突進。壁とそれが衝突し合った時、それによって生じた風が奴隷たち全員の顔に叩き付けられ、それに驚いて目を瞑ってしまう。

 やがて奴隷たちは風がおさまると閉じていた目を開く。目を瞑っていた時間はほんの数秒程であった。

 奴隷たちが見たのは壁に角の突き刺している竜の姿。数十秒前と変わらない光景。

 だとこの時、皆が思っていた。

 

「……崩れる」

 

 少女の言葉に他の奴隷たちが驚き、壁に目を凝らす。そして気付く。角の竜を中心にして蜘蛛の巣のように亀裂が生じていることに。

 角の竜は、角を突き立てた状態から更に地面を蹴り付けた。亀裂が更に増えたかと思った次の瞬間、角の竜の体が壁に沈む。

 直後、破砕音。轟音。崩壊音。様々な音を立てながら白い壁が壊れ、角の竜はその向こう側へとその巨体を消す。

 誰も言葉を発することが出来なかった。長年自分たちの自由を奪ってきたあの壁が壊されたことを受け入れることが出来ず、ただ呆然と立ち尽くす。

 しかし、そんな奴隷の大人たちを掻き分けるようにして少女が壊れた壁に向かって走り出した。

 両親が戻ってくるように叫ぶが、少女は止まらない。

 全力で、一秒でも早く、壁の向こうを見たかった。

 

「ああ……」

 

 壁があった場所に立つ。そして、そこから見えた光景に意味の無い言葉が洩れた。

 所々に生い茂った緑がある大地。ごつごつとした岩山。初めて見る形をした木。遠くの方で霞んで見える山々。そして、何処までも遠くへと広がっている青空。

 

(――こんなに広かったんだ)

 

 初めて触れる世界に対し、そんな言葉が少女の頭に浮かんだ。少女が想像していたよりもずっとこの世界は広かった。

 夢にまで見た景色。それに向かって歩み出そうと少女は壊れた壁を乗り越え――ようとしたが、何故か足が動かない。

 

(あ、あれ?)

 

 自分でも不思議に思ったが、どうしても前に進むことが出来なかった。

 少女自身気付いていなかったが、広い世界を目の当たりにして二つの感情を抱いていた。閉じ込められた世界しか知らない少女にとって何もかもが未知で埋め尽くされている世界は、憧れを抱くと同時に恐怖でもあったのだ。

 どうやっても動かない体。汗が流れ、口の中が乾いていく。ずっと憧れきたものが目の前にあるというのに動けない自分を情けなく思い、涙も滲んでくる。

 そんな涙でぼやけた光景にあるものが入り、思わず涙を拭う。

 数十メートル先を歩く角の竜。動けない少女を嘲笑うかのように広い大地を闊歩していた。

 どうすればあんな風に生きることが出来るのだろうか。

 嫉妬とも羨望とも言える感情を胸に抱いたその時――

 

 ギュアアアアアアアアアアアアアアア!

 

 遠く離れている少女が反射的に仰け反ってしまう程の咆哮が角の竜から飛んだ。

 空気が震え、遠くにいてなお耳元で放たれたかのように聞こえる大音量。体の芯から揺さぶられたような気がした。

 まるで世界に自分の存在を刻み込むかの如く、角の竜は鳴く。そして、満足でもしたのか地面に穴を掘り、角の竜はその中に消えていった。

 最初から何も居なかったような沈黙。夢でも見ていた気分であった。だが、間違いなくあの角の竜は存在した。少女の裡に木霊する咆哮の残響が何よりの証拠であった。

 少女が壁に向かって一歩踏み出す。少女の中に世界に対しての恐怖は無かった。あの角の竜の咆哮で何処かに吹き飛ばされてしまっていた。

 囲まれていた世界と広がっていく世界の境界に立ち、少女は大きく息を吸い込む。

 

「わああああああああああああああああああああ!」

 

 そして、角の竜に倣うかのように大きな声を上げながら広がっていく世界へと一歩踏み出した。

 少女の咆哮は、新しい世界で生きることを決意したもの。

 自分がここにいることを新たな世界に教える産声であった。

 

 

 ◇

 

 

 これより十数年の後、大国の横暴に対抗する反乱軍が現れる。

 赤い角を持った竜が描かれた旗を掲げ、大国に囚われた奴隷たちを次々と解放し自由を与えていく。

 そんな反乱軍を率いるのは、若く美しい女性であったと言われている。

 




無印ではオフラインでラスボスポジションであったのに、出番があんまり鳴く妙に影が薄い気がするモノブロス。
好きなんですけど、どうにもディアブロスに居場所を取られた感じですよね。


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一頭猟断(前編)

「例のモノに関しての報告なのですが……」

 

 ギルド内にある幹部専用の部屋でとある会話が密かに起きていた。

 高級感溢れるソファーに座ってエムからの報告を聞いているエクスとエヌ。エヌの方は貴重な鉱石を掘って作り上げられたテーブルに足を乗せ、あまり行儀の良いとは言えない態度をとっている。

 全ギルドの頭であるエクスを前にしてこの態度。普通の幹部らが見れば卒倒しかねない光景である。ただ、逆に言えばそんなことをしても許される程互いに気心が知れた仲であるとも言えた。

 

「非常に良い保存状態で手に入ったらしいですね。ディネブ殿とヴィヴィ殿は大変良い仕事をしてくれました」

「はっ! 高い金や良い人材を出しているんだ。それぐらいの成果を見せて貰わなきゃ、割に合わないって話だと思いますよ? エクス様」

「そんなことを言わないで下さい、エヌ君。私たちに出来るのがせいぜいその程度のこと。命を懸けて貰っている彼らには敬意を払わないといけません」

「そういうもんですかね?」

 

 興味無さそうに頬杖を突くエヌ。

 

「話の続きをしても良いかな? 兄さん」

「いちいち許可なんて聞くな。お前の好きなように進行しろ」

 

 柔らかな笑みで丁寧に尋ねるエム。一方で手を振ってぞんざいな態度をとるエヌ。

 

「簡単に調べてみた結果なのですが……あまりこちらにとっては良いとは言えない結果ですね」

「やはり、あの竜から武器や防具を作り出すことは難しいですか?」

「はい。保存状態は申し分無いですが、皮や鱗、骨、爪、牙を加工し道具を作り上げるには、こちらの技術が圧倒的に足りません。鱗や皮を丁寧に剥がすのさえ困難ですね」

「ちっ! 高い金を払って一流の技術者を呼んだつもりが、どうやら自称一流どもだったらしいな」

 

 自分たちにとって不利益な報告を受け、エヌは忌々しそうに吐き捨てる。ギルドの金銭面を担当している故に投資した資金が無に帰したことが許せないのであろう。

 

「仕方ありません。エム君、もし加工するにしてもどれくらいの時間が必要ですか?」

「技術者の見立てでは、素材を全て剥ぐだけでも数年は掛かるそうです。そこから更に加工する技術を確立するとなると、どれくらいの年月が掛かるか見当もつかないそうです」

 

 折角、反撃の為の手段を手に入れたが、それを実戦に用いるには途方もない年月が必要だと言う。

 密かに力や情報を蓄えてきたエクスたちにとってはそう長いとも感じないが、現状がそれを許すとは限らない。

 

「だとするとやはり『あの方法』に頼るしかなさそうですね」

 

 エクスの言葉にエヌは顔を顰める。

 

「あの爺に頼らなきゃいけないってことですか? かなり難しいと思いますよ。何せ金で動くような人間じゃあないですから」

 

 あまり乗り気な様子では無い。

 

「第一居場所が分かるんですか?」

「それが丁度良いことに、手掛かりがあるんですよ」

 

 そう言ってエクスは懐に手を伸ばし、そこから一枚の手紙を取り出す。

 

「一週間前にあの方から送られてきたものです。何処にいるかきちんと詳細も書いてあります」

 

 エクスから手紙を渡されたエヌは書かれている文字に目を走らせる。数秒で読み終わるとエムに向かって雑に投げ渡す。

 

「俺が知らん地名が書かれている。お前は、このど田舎のことを知っているか?」

 

 自分よりも情報の扱いに長けている弟に詳細を尋ねる。答えはすぐに返ってきた。

 

「ああ、知っているよ。ここのキノコを使った料理が名物らしいね。ここから馬車を走らせると一ヶ月以上掛かるけど、転送用の魔法陣を使えばすぐに着くよ。だけど……」

 

 そこで言い淀む。何かしらの問題があるのが先を言わずとも分かる。

 

「少々厄介な問題が……」

「『こっち』絡みの問題か? それとも『あっち』絡みの問題か?」

「両方だよ。兄さん」

「最悪だな」

 

 不機嫌そうに顔を歪めて吐き捨てる。

 

「まあ、それは仕方ありません。既に起こっていることを私たちがどうこうすることはできませんからね。では行きますか」

 

 杖を突いて立ち上がるエクスを見て、エヌとエムは揃って目を見開いた。

 

「エクス様が直々に迎えに行くんですか? いやいやいや! それなら俺が行きますよ!」

「そうですよ。ここは我々に任せて貰えば――」

「いえいえ。頼み事が頼み事ですから、こちらも誠意を以って接しなければなりません。となると私が行くのが出向くのが一番かと。あの方とは長い付き合いですからね」

 

 あくまで自分が行くことを譲らないエクス。

 エヌとエムは顔を見合わせる。誰に対しても物腰の柔らかく丁寧に接するエクスであるが、誰に対しても一度決めた意思を曲げる様なことはしない鋼のような精神を持っている。例え王族であろうが、面と向かって断ることの出来る人物である。兄弟があれこれ言った所で変更することなど出来ない。

 

「はぁ……分かりました、分かりましたよ。ですが俺とエム、そして護衛を何人か同行させます」

「エクス様はギルドの要です。決して失うことの出来ない柱です。この条件だけは譲れません」

「いやあ、年甲斐も無く我儘を言って申し訳ないですね」

 

 微笑を浮かべるエクス。

 それに対してエヌは暴言も謗る言葉も吐かない。内心ですら欠片もエクスを貶すようなことを思っていない。

 エヌとエムにとっては幼い頃からエクスの庇護の下で生きてきた。とある事情で家族と故郷を失い、天涯孤独となってしまった兄弟にとって自分たちを拾い、育てくれたエクスの存在は、実の父以上に大きな存在であった。

 故にどんな命令であっても二人は従う覚悟を持ち、エクスに仕えている。

 

「なら行くとなると少し急いだ方がいいかもしれませんね」

「急ぐ? 俺たち以外で動いている連中でもいるのか?」

「その通りだよ、兄さん。『教会』の人間が『こっち側』の問題で動いているって情報があるからね」

 

 『教会』という言葉を聞き、エヌは露骨に顔を顰めた。

 

「最悪だな。俺の嫌いな奴らだ。金で顔を引っ叩いても言うことを聞かない連中が動いたのかよ。『あっち側』に絡んだら碌なことにならねぇな」

 

 もしもの未来を想像し、エヌはますます不機嫌な顔となる。

 

「ならエム君の言う通り早く動くとしましょう。要らない犠牲が出る前に」

「……俺としては教会の連中ごとアレに消されてもらった方が楽なんですがねぇ」

 

 小声で物騒なことを呟きながらエヌはソファーから立つ。

 

 

 ◇

 

 

「ねえねえ、聞いた? あの話?」

「また荒らされていたそうね。今度は十人も盗まれていたらしいわよ」

「ホント、怖いわね……」

 

 日常生活で必要な水を汲む為の井戸。その周りで三十代ぐらいの女性たちが何やら話をしている。

 

「この間何て、二十人以上も盗まれていたらしいじゃない。一体何が目的なのかしら……」

「そのことなんだけどね……これは私の旦那が知り合いから聞いた話なんだけど……」

 

 誰が聞いている訳でも無いのに声を潜める。

 

「夜中に会ったらしいわよ?」

「会ったって何と?」

「その旦那の知り合いの弟さん。一ヶ月以上前に落馬して亡くなっていた、ね」

「嘘よね、それ……もしかしてその弟さんも盗まれていたの?」

「半月程前にね」

「嫌だわ……私、鳥肌が立ってきた」

 

 女の一人が寒がるように腕を擦る。

 

「でね――」

「失礼ですが、その話に私も混ぜて貰えませんか?」

 

 すると会話を遮り、その女たちに話し掛けてくる別の声。

 女たちは、声の方に目を向け、そして絶句する。そこに立つ人物の美麗な容姿のせいで。

 黄金で出来ているのではないかと思える程煌びやかな金の長髪が風で靡いている。その柔らかで滑らかな動きは官能的であり、それだけで女たちを扇情させる。

 青い瞳は宝玉すら霞む輝きを持ち、その眉は歴史に名を残す画家が生涯を賭して振るった一筆の如く完璧にして美麗。

 男性とも女性とも言える容姿。中性的というよりも性別という枠を飛び越えており、男性であるか女性であるかなど細やかな問題に思えてしまう。

 

「お時間よろしいですか?」

 

 耳朶に入る言葉が脳を甘く蕩かせる。鼓膜を震わす美声だけで主婦らの女の部分が激しく揺さぶられた。

 彼女たちは自分たちに起きた突然の幸福に声を出すことも出来なかった。生涯、否何度人生をやり直しても一度出会えるか出会えない美に完全に心を奪われていた。

 陶酔している主婦らの前に近付く。

 風に乗って漂う香り。甘く匂うそれは、数多の花の香りを一つに纏め、それを凝縮させれば僅かに近寄れるであろう

 人から発せられるものかと疑わしく思えるそれ。只でさえ蕩けている思考は、その刺激を受けて最早原型が無くなる程に蕩け切り、五感全てが目の前の人物を感じる為だけのものへと成り下がる。

 

「な、なな、なんでも、き、聞いてくだ、さささい!」

 

 辛うじて意識を保つことが出来ていた主婦の一人が何度も言葉を噛みながらも答えることが出来た。

 

「ありがとうございます」

 

 微笑む、それだけで辛うじて残っていた主婦たちの理性が全て消し飛んだ。最早、主婦らは目の前の存在の求めたことに応じる為だけのものに成り下がる。

 

「では――」

 

 そこまで言い掛けて言葉が止まり、何を思ったのか立っている場所から半歩横に移動した。

 その直後、先程まで立っていた場所に矢のような勢いで飛び込んでくる人影。それが地面に接すると石畳が叩き割られ、分厚い破片が宙に舞う。

 破砕音に驚き主婦らの蕩けていた脳が正気に戻る。そして見た。突っ込んできた人影がまだ十代半ばぐらいの少女であり、『教会』の者が正装として纏っている紺色の修道服を纏っていることを。そして知った。石畳が何かの道具で割られたのではなく、少女の足で割られていたことを。

 

「どこに消えたかと思えば、何をしていやがるんですかぁ? この野郎は?」

 

 可憐とも言える容姿からは、想像出来ない程無理矢理な丁寧語と威嚇するように低い声。

 少女は刺すような視線で隣に立つ人物を見る。

 

「立派な情報収集ですよ。折角、いい情報が手に入るかと思ったのに……邪魔をしないでくれますか?」

 

 少女の言葉から男性と分かった美の化身とも言える存在。彼は少女の乱入にやれやれといった様子で頭を軽く振るう。

 

「邪魔しますよ。貴方を放っておいたら一体どれだけの被害が出るのか分かりませんからね。首輪でも付けておきたくなります」

「犬や猫じゃあるまいし必要ありません。首輪だったら貴女の方が相応しいと思われますが?」

 

 男が主婦たちの方を見ると顔面蒼白となって困惑していた。男の色香が恐怖によって冷めきっている。

 

「本当に申し訳ありません。うちの狂犬は躾が行き届いていないので怖がらせてしまいました。行きますよ」

 

 主婦らの態度から聞き込むのは無理だと判断し、男は乱入してきた少女の腕を掴むと足早にこの場から離れていく。

 

「まったく折角有用な情報が手に入るかと思ったのに……貴女の短慮が原因で聞きそびれてしまいましたよ、エスタ」

「きっと貴方のことですから情報収集程度では止まらないですよ。人のモノに手を出すのは程々にしないといつか酷い目に遭いますよ、ジン」

 

 ジンと呼ばれた美男子とエスタと呼ばれた少女。共に『教会』に属する人間であり、若くして『教会』の使いに選ばれた者たちでもある。

 

「酷い目? 私はこの身に止められない愛をあの方たちにも分けて与えようとしていただけです。この身に宿る愛は全て我らの神が与えたもの。何一つ罰せられるようなことはしていない筈だと思われますが?」

「あっそうですか」

 

 聞き飽きたと言わんばかりに顔を背けながらそう言うとエスタは袖口に手を伸ばし、そこから鉄製の瓶を取り出す。瓶の蓋を捻って開けると開け口に口を付け、中身を一気に呷る。

 数秒程、瓶の中身を嚥下すると口を離し、満足したように息を吐く。吐いた息には多量なまでに酒精のニオイが混じっていた。

 

「こんな日が高いうちから酒ですか? いい加減断った方が賢明だと思いますが? それに貴女の見た目だと良からぬ誤解を受けますよ」

「大人が大人の飲み物を飲んで何がいけないんですか?」

 

 見た目十代の少女に見えるが、極端に発育が悪いだけでエスタの実年齢は二十代半ばであり、同行者のジンと同じ年である。

 

「それに私が飲んでいるのはお酒じゃありません。神が生み出した奇跡に神の祝福を受けた聖水を混ぜた神聖な飲み物です」

「ただの水割りでしょうが」

 

 漂う酒のニオイに顔を顰めながら若干距離を置く。

 色欲が強い男に酒に依存している女。本来ならば鼻つまみ者になっていてもおかしくはないが、彼らは自分たちの悪癖を卑下しなければ、周りの視線も一切気にしない。

 それこそ彼らが所属している『教会』の教えである。

 

『人よりも強いモノを持つことはそれだけ神から強い恩恵を受けた証。隠さずに伸ばせ』

 

 この教えを受け、その美貌から幼少の頃より周囲から欲に塗れた視線を送られていたジンは、気付けばそれを己の武器にして男女問わずに手玉にとるような強かな人物となり、貧民街で育ち、行く先に見えない将来に不安を覚えて酒で現実逃避する癖に自己嫌悪していたエスタは、吹っ切れて立派な中毒者となっていた。

 人として内面にかなりの問題を抱えている人物らではあるが、実力の方は本物であり今回の件についてもその実力を買われて派遣されている。

 教会の主な活動は三つ。

 一つは自分たちの教えの普及。世界でも最多の信者を持つが、日々一人でも信者を増やすべく活動している。

 二つめは弱者の救済。病で動けない者たちに治療を施し、災害で家や家族を失った者たちに暮らせる場所を提供し、飢えで喘いでいる者たちに食料を供給する。教えの普及の過程で派生した慈善活動である。

 三つめは人命を脅かす者たちの排除。そして、これがジンとエスタがこの地に訪れた理由であり、彼らは教会の処刑人であった。

 

「それで貴女の方は、何か情報を掴めたのですか?」

「まあそこそこ。やっぱり日に日に増しているみたいですよ? 墓荒しが」

 

 彼らが派遣された理由、それはこの地に於いて頻繁に起こっている墓荒しの為であった。その日に埋葬された遺体、あるいは何年も前に埋葬された遺体が一晩の内に何処かへと消えていく。

 これだけならばまだ只の事件として放っておくが、何人かが死んだはずの人間が歩いていたという証言をしていたのだ。

 死人を扱う術。正確に言えばとある魔術師が何百年も前に生み出した特殊な魔術だが、時代と共に正確に受け継ぐ者たちが居なくなり、気付けば劣化。死んだ人間、あるいは死んだモノの魂を弄ぶ術へと成り下がった。

 それは教会の教義に反するものであり、真っ先に葬らなければならないと考えられている外法である。

 

「やれやれ。死んだ後、きちんと燃やして灰にしていればこのような事態にはならなかったのですがね……」

「それは無理ですね。こちらの風習では大地に還すのが主流ですから。尤もそんな地域だからこそ、そんな輩が目をつけたのでしょうが」

「ほんと最低ですね」

 

 エスタは、まだ見ぬ外道に対し不愉快そうに罵る。死体を弄ぶという行為に強い嫌悪を露わにしていた。

 

「これからどうします?」

「夜まで情報収集といった所ですね。夜になったらまだ荒らされていない墓地を見つけてそこで待ち伏せするのが、当分のやり方になると思います」

「うへぇ」

 

 ジンの案にエスタは露骨に嫌そうな表情を浮かべる。尤もそこから反論しなかったことから、エスタ自身も虱潰しにやるしかないということを自覚しているようであった。

 

「ねえねえ」

 

 不意に声を掛けられる。二人同時に振り向くと、そこには屈託の無い笑みを浮かべた十台前後の少年がいた。あどけない中性的な容姿は一瞬男女どちらかと迷わせるが体つきから何とか性別が男だというのが分かる。

 

「お兄さん達って『教会』の人たちだよね?」

 

 尋ねてくる少年に対し、ジンは身を屈め少年と同じ目線に合わせる。

 

「はい。そうですよ。私たちに何か御用ですか?」

「あのね。ボク、お兄さんたちが探していることに心当たりがあるよ」

 

 いきなりそんなことを言われて二人は内心動揺するが、表面上は平静でいることを努める。

 

「探していることというと?」

「毎晩墓地から死体を盗んでいる人のことでしょ?」

 

 取り敢えず惚けてみたが、会話の内容はばっちり聞かれていたらしい。誤魔化すのは止め、折角なので向こうから来た情報を聞くことにする。

 

「君の仰る通りですが、君はどうしてそのことに興味があるんですか?」

 

 そう問うと少年は顔を俯かせ、悲しそうな表情を浮かべる。

 

「ボクのお父さんも盗まれちゃったんだ……」

 

 どうやらこの少年も墓荒しの被害者らしい。

 

「それは辛いですね……」

「だけど、どうして貴方は墓荒しの犯人を知っているんですか?」

「ボク、お父さんが盗まれた日から毎晩ずっと探してて、それでこの間やっと犯人が墓を荒らしている所を見たんだ」

 

 期待していた以上の情報に二人の意識は自然と少年に集中していく。

 

「どんな状況でしたか?」

「あのね、墓を荒らしていたのは一人じゃなかった。その日は月の明かりも弱かったから良く見えなかったけど、何十人もいたと思う。でも皆なんかボロボロの格好をしてた。あと物凄く嫌なニオイもしてたなぁ」

「やはり」

「厄介な者が相手ですね」

 

 それを聞いて確信した。間違い無くそれは外法の一つの死操術である。亡くなった者の身体を媒体にして特別な術式を施すことによって意のままに操る術。少ない魔力で大量の死体を操れることから、戦争末期の時代この術を用い互いに敵国の兵士たちの死体を操作し、原型がなくなるまで戦い合わせ泥沼のような戦争を行っていたことで有名な術である。

 

「それでその中の一人が呟いてたのを聞いたんだ。『次は、北の墓地だ』って」

 

 それを聞いてジンとエスタは顔を見合わせる。

 

「その北の墓地というのはどの辺りでしょうか?」

 

 少年の前に地図を広げ、場所の詳細を尋ねる。少年は地図に記されたある点を指差した。そこは二人が集めた情報ではまだ荒らされていない墓地がある場所である。

 少年の言葉に信憑性が増す。

 

「それを聞いたのは何時ですか?」

「昨日の晩だよ」

 

 だとすると今日中には北の墓地で待ち伏せしなければならない。荒らされていない墓の数は残り少ない。早い所見つけなければこの土地を後にし、別の土地へ逃げられてしまう。

 

「どうするんですか?」

 

 少年の情報を信じるか信じないかエスタが小声で聞いてくる。

 

「信じましょう。これも神の導きです。それに今の所、これぐらいしか具体的な情報が有りません。時間を費やす価値はあると思います」

「分かりました」

 

 元より反対する意思が無かった為、エスタはあっさり同意する。

 

「ありがとうございます。貴方の有力な情報は大事に活かさせて頂きます」

 

 老若男女問わず、あらゆる人種すら蕩かせる極上の微笑みを少年に向けながら礼を言い、ジンたちは去ろうとする。

 

「ちょっと待って」

 

 少年の声に二人は足を止める。

 

「何でしょうか?」

「お願いがあるんだ」

「お願い?」

「ボクも連れていって」

 

 決意に満ちた表情で少年が懇願する。

 実の父の遺体を弄ばれ、尊厳を踏み躙られたことへの怒り。大切な人の亡骸を取り戻したいという強い願いが顔を見れば一目で分かる。

 ジンは微笑を浮かべ、少年の目線の高さまで身を屈めると――

 

「駄目です」

 

 ――少年の願いを一蹴し、懐から取り出した厚みある本で少年の頭を軽く叩く。すると少年の目は眠気を覚えているかのような焦点が合わさっていない半眼となる。

 

「君はこれから自分の家に帰ります」

「ボクは……自分の……家に帰る」

「私たちと出会ったことは綺麗さっぱりと忘れてしまいます」

「全部……忘れる……」

「明日の朝まで君はベッドでぐっすり熟睡します」

「熟睡……する……」

「分かりましたね? ではさようなら」

「さようなら……」

 

 ジンの言葉を呆けたように繰り返した後、フラフラとした足取りで二人から離れていく。

 

「あんな小さな子に術を掛けたんですか?」

「掛けなければ無理矢理でも付いてきますよ。私たちのせいで若い命が無惨に散って逝くのなんて貴女も見たくはありませんでしょう?」

「まあ……そうですが……」

「……やっぱり子供と接するのは苦手です」

「自慢の御顔も子供相手じゃ一切通じませんからね」

「そうですね。貴女みたいに一部の方々に需要のある容姿ではないので」

 

 両者は無言で睨み合った後――

 

『チッ』

 

 ――同時に舌打ちをして目を逸らした。

 

「……では日が暮れない内に行きましょうか」

 

 待ち伏せする為に北の墓地へと向かう二人。このとき彼らは気付かなかった。二人が去って行くのと同時にフラフラと歩いていた少年が急に歩みを止めたことに。

 

 

 ◇

 

 

 ズルズルと引き摺る音を立てながら、ソレは腐臭を撒きながら身を隠すようにして歩いていた。

 人の何倍もある巨体は目立つので、ソレは人目に付かないように森の奥を中心にして動く指示を出されていた。

 もしソレが本来の性格であったのならばそんな指示などに聞く耳を持たず、指示を出した相手を噛み殺すぐらいのことはしていたであろう。

 だが今のソレにはそんなことは出来ない。そんなことを考える心は肉体の死と共に消え去ってしまっていた。

 今のソレの心を埋めているものは、ソレを蘇らせた者の命令のみ。

 与えられた命令に何の疑問も抱かず、ただ同じことを繰り返すだけであった。

 だが、その繰り返しにも変化が起きる。

 何かが大地を踏みしめる音。遠くにあったそれは徐々に近付き、やがて引き摺る音を掻き消す程の足音となる。

 通常の生物であれば、この足音に恐れ逃げていたであろう。しかし、ソレからは生物の本能がとっくに失われていた。それどころか与えられた命令の一つに姿を見た者は排除しろというものがあった為、逆に足音の持ち主を迎え撃とうとしていた。

 腐敗し始めた喉から掠れた咆哮が飛ぶ。

 ソレは気付かない。多種族の中でも指折りの体格を持っているにも関わらず相手を見上げているという状況に。

 腐り落ちた脳髄では気付かない。生きるモノとしての格の違いに。

 腐敗した神経では気付かない。自らに迫る蒼く煌く一閃の光に。

 

 

 ◇

 

 

 日がすっかり落ち、鳥や獣の鳴き声すら聞こえない深夜。

 手入れのされていない木々の中心には、少しだけ盛り上がった土に木の柱が刺さった簡素な墓が並んでいた。

 街や都市のものと比べれば粗末そのものと言えるが、人も金も少ない田舎ではこの墓が主流であった。だからこそ死操術師が狙う訳であるが。

 二人は木の陰に隠れ、息を殺しながら目的の人物が現れるのを待っていた。

 周りに明かりなどなく光源があるとすれば上空から照らす月明かりのみ。しかし、二人は術によって視力を強化している為、暗がりでも彼らの目には真昼のような明るさで見えていた。

 

「本当に来るんでしょうか?」

「さあ? 今日来るかもしれないし明日か明後日かもしれません」

 

 待つことに飽きてきたのかエスタがジンに声を出さず口だけ動かして話し掛けてくるが、ジンは素っ気ない態度で接するだけであった。

 

「暇ですね」

「こういう仕事には付き物ですよ、暇は」

 

 エスタは溜息を吐くと、袖口から鉄瓶を取り出し中のものを呷る。

 

「――こんな時にも酒ですか?」

「酒じゃありません。神の奇跡の聖水割りです」

「だから只の水割りでしょうが」

 

 頑なに酒と認めないエスタ。満足そうに飲む姿を見て呆れたのかそれ以上何かを言うことは無く、ジンは目線を墓地の方に向けた。

 日が暮れて数時間が経つ。そろそろ姿を見せても良い時間帯ではあるが、一向にそんな気配は無い。

 今日は外れかと思い始めた時、変化が起きた。

 

「うっ」

 

 エスタが顔を顰め、手で鼻を覆う。

 鼻の奥まで突き抜けていき、一度嗅げば恐らく生涯忘れないであろう独特のニオイ。血と肉と臓物が腐り、そして混ぜ合わされた強烈な腐敗臭。

 何度嗅いでも慣れないニオイ。間違いなく死臭であった。

 ニオイの後を追うようにしてある音が聞こえてきた。普通に地面を歩く音、引き摺りながら歩く音、それらが何十に重なって聞こえてくる。

 

「どうやら当たりみたいですね」

 

 悪臭の中でも表情を歪めず、平然とした様子のジン。彼の目線の先には月明かりに照らされて浮き上がる群れ為す人影があった。

 白く濁った眼に皮膚が変色した無数の人間。中には皮が剥がれ落ちてその下の肉が露出している者もいる。他には体から茶褐色の体液を流している者、眼球の無い空の目と骨に肉がこびりついているだけの者や、完全に乾き切った皮膚を纏っているミイラのような者もいた。

 衣服を纏っている者もいれば全裸の者もいる。尤も清潔という言葉から程遠い茶色く変色した衣服である為、着ていようが着ていまいがどちらも見る者に不快感を与えるものであった。

 死人の群れ。間違いなく死操術によるものであった。

 死人たちはゆっくりとした動作で墓に近付くと、土に指を立て掘り返し始めた。新たな仲間〈ぎせいしゃ〉を加える為に。

 

「数は……ざっと六十といった所ですか。まだ隠しているかもしれませんが」

 

 ジンが目算で死人の数を計る。

 

「行かないんですか?」

 

 死人たちに目を向けたまま、エスタが今にも飛び出したいとソワソワし始めていた。その横顔がジンには獲物を前にした猟犬を彷彿とさせた。仮にジンがいなければ、死人たちが姿を見せた途端飛び掛かっていたであろう。

 

「もう少し待って下さい。出来れば術師が姿を見せるまで」

 

 死体が掘り起こされれば術を施す為に必ず死操術師が姿を見せる。今出てしまえばその機会は失われる所か、この地から逃げ出す危険すらあった。

 エスタもそのことを理解しているらしく待機を続けていたが、奥歯をぎりぎりと噛み締める音が隣にいるジンにまで聞こえてくる。

 死人たちは黙々と土を掘る作業を行う。脆くなった指が折れようが取れようが構わず、術師から命じられたことを繰り返す。

 やがて土の下から死体が現れる。

 まだ新鮮なもの、腐りかけたもの、骨と化したものとばらばらであるが五体揃った死体であった。

 掘り返す作業が終わると死人たちは急に列を為して並び始めた。すると森の奥からローブを纏った人物が現れる。

 顔まで黒のローブで覆っており表情が見えない為、男か女か分からない。ならば体型から推測しようとしたがそれも無理であった。細身の体型であったがひどい猫背であり、どれ程の背格好なのかいまいち判断出来なかった。

 

「あれが術師ですね」

「そうですね。如何にもという姿ですよ。あの陰気な格好は」

 

 ジンの表情に嫌悪の色が混じる。死体を弄ぶ人間に碌な人物などは居ない。それがジンの経験上での認識であった。

 ローブの人物は土から掘り起こされた死体の側に寄ると、呟き始める。恐らくは死操術の呪文なのであろうが、ジンとエスタの耳には虫の羽音をいくつも重ねたような不快音に聞こえる。

 

「そろそろ出ますよ」

「その言葉を待っていました」

 

 準備しようとしたとき、背後から木の枝が折れる音が聞こえた。咄嗟に振り向く。そこには何故か昼間に会った少年がいた。

 

「何――」

 

 不意打ちに驚き、声を発しようとしていたエスタの口を押え、代わりにジンが押し殺した声で尋ねる。

 

「どうしてここに居るんですか?」

 

 その声は若干殺気立っていた。自分から危険な場所に踏み込んできた少年の軽率さは勿論のことだが、術を施したというのに効いた様子の無いことに警戒を抱いていたからでもあった。

 ジンに気圧されのか、少年は怯えた表情をしながらびくびくとした態度で説明し始める。

 

「あ、あの後、ボーっとしながら帰ったけど、家に着いた途端に急にお兄さんたちのことを思い出したんだ。お兄さんは駄目だって言ったけど、やっぱり僕お父さんを取り戻したくって……」

 

 目に涙まで溜めるのを見てジンは殺気を引っ込め、取り出したハンカチで少年の涙を拭う。

 

「どうやら私は、貴方の父を思う気持ちを甘く見ていたようですね」

 

 苦笑を浮かべるが、内心では溜息を吐いていた。

 偶に記憶操作の術に対して先天的な耐性を持つ者がいる。それのせいで術のかかりが浅かったのではないかとジンは推測した。

 少年がきちんと帰宅するまで確認するべきであったと、無駄だと分かっていても後悔してしまう。

 ここに来るべきではない少年が来てしまったのは自分のミスである。

 

「ごめんなさい……」

 

 流石に自分のしでかしたことの重大さに気付いたのかしゅんとした態度で謝る。

 

「親を思う子の気持ちに罪なんてありませんよ」

 

 励ますようにエスタは少年の頭を撫でる。貧民街出身の彼女は、似た境遇の子供たちと寄り添うように生きてきた。その為、子供には非常に甘い。

 

(まあ、見た目が子供ですし色々と合うんでしょうがね)

「何か?」

「いえ、見た目が子供ですし色々と合うんでしょうがね、と思っただけです」

「こんな時に喧嘩を売ってくるんですか? この馬鹿野郎が。タイミングの悪い。悪いのは頭と下半身に止めておいたらどうですか?」

 

 エスタがジンを凄まじい目付きで睨む。ジンの内心を直感で読み取ったエスタも大したものであるが、それを臆面も無く口に出すジンの面の厚さも並のものではなかった。

 本命を前にして仲間同士で見えない火花が散り始める。

 元よりこの二人仲が良い訳では無い。

 魅惑の美貌を持ち、男女問わずパートナーとなった相手に手を出すジン。そんなジンの食指が唯一動かないのがエスタであった。エスタも同様に異性同性問わずに虜にするジンの美貌が全く効かない相手である。

 相性が悪い為に敢えて組まされている二人なのである。故に相手の感情など全く気にしない。

 殺気立ったものも混じり始める。少年はオロオロとしながら二人を見ているしかなかった。

 

「どうやら鼠が忍び込んでいるらしいな」

 

 詠唱が止まる。気付かれたらしい。

 

『あなたのせいでバレましたね』

 

 二人が口を揃えて言うと同時に死人たちが押し寄せてきた。

 

 

 ◇

 

 

「ふん。つまらん邪魔が入ったな」

 

 死人たちをけしかけた術師は、自分にとって神聖な儀式に水を差され不愉快そうに鼻を鳴らす。

 どんな相手かは見ていないので分からないが、大方墓荒しを探しにきた村人か偶然居合わせた野次馬のどちらかと考えていた。でなければあれほど気配を撒くという愚行などしない。

 死人数人がいれば十分だと思い、再び儀式を始めようとする。すると先程死人たちを向かわせた林から何かが転がり出て来る。

 白く濁った眼。変色した皮膚と抜け落ち掛けた頭髪。先程向かわせた死人の頭部であった。

 

「あーあ。面倒なことになっちゃいましたね。貴方のせいで」

 

 愚痴りながら出て来たのはエスタであった。片手で死人の頭を鷲掴みにして引き摺っている。いくら腐っていても数十キロはあるというのに、重さなど感じている様子は無かった。

 死人を掴む手には黒い手袋が填められており、手の甲の部分には手の形に合わせて金属板が付けられている。

 エスタが手を離すと死人の体がぐらりと傾く。と同時にエスタの裏拳がその死人の側頭部に叩き込まれ、頭部が果物のように弾け飛ぶ。

 

「面倒なことになりましたね。貴女のせいで」

 

 ジンは聖書を取り出すと、適当なページを開きそこから一枚抜き取る。手に取った聖書のページを淀み無い動きで折り、捻り、形を変えていく。

 瞬く間に聖書の紙が葉、茎、蕾が揃った花の形となった。

 紙の造花を一番近くにいた死人に向けて投げ放つ。紙の造花が死人の腐った肉へと刺さる。その途端、死人の体が急速に萎み、乾いていく。

 数秒も待たずに死人の肉体は原型を止められなくなり、砂の様ように崩れる。

 最後に残るのは花弁が開いた造花だけであった。

 あっさりと死人たちを葬った異能、そして二人の格好見て術師は確信する。

 

「『教会』の狗か。私のことを早速嗅ぎ付けてきたか?」

「外道相手に何も言うことはありません」

 

 一方的に会話を打ち切るとジンは再び聖書を開く。開かれた聖書から大量の紙片が飛び出していく。不思議なことにどれだけ出ても聖書の厚みが変わらず、また尽きる気配も無かった。

 宙に飛び出した紙片はそのままヒラヒラと宙を舞っていたが、突如形を変え始める。見えざる手で折られているかのような光景。

 紙片は鳥、犬、猿といった動物の形に折られ、鳥の折り紙たちはそのまま宙で羽ばたき、犬と猿の折り紙たちは地面に降り立つと、本物と同じ動きをする。

 死操術師も初めて見る術であるらしく、ローブの下で目を細めていた。

 

「大道芸か?」

 

 それでも皮肉を言う死操術師。

 ジンは何も言わずに両手を打ち合わせた。それを合図に動物の折り紙たちが一斉に動き始める。

 鳥の折り紙たちが宙から死人たちに襲い掛かる。鳥の折り紙が死人へと触れた瞬間、その箇所が穿たれ貫通する。

 地を走る犬の折り紙が死人の体に触れると、嚙み千切られたかのようにその箇所が抉れて消失。

 猿の折り紙が飛び上がり死人の腕に触れるとその箇所が引き裂かれ、腕が宙を舞う。

 愛らしい見た目とは裏腹に凶悪な手段で死人たちの体を破壊していく。

 

「これが大道芸だとしたら、それに蹂躙されている貴方の術は三流以下の人形劇、いやお人形遊びといった所ですね」

 

 先程言われた皮肉に対し、艶美な笑みを見せながら皮肉で返す。

 

「三流? ……三流とほざいたか……」

 

 声に殺気が混じる。それに呼応して死人たちの動きが活発となった。

 

「余計なことを……」

 

 無駄に挑発するジンにエスタは顔を顰めながら、迫ってくる死人に拳を放った。

 拳は簡単に死人の頭蓋を割り、その中身を外へと撒かせる。

 続いて別の死人に対し足元を狙って下段蹴りが振るわれた。風圧で捲れる長いスカート。露わになった足は、膝の部分まで鋼鉄の防具によって覆われていた。

 死人の膝横にエスタの足の甲が触れた瞬間、膝から下が千切れ飛ぶ。いくら死体とはいえ腐敗にも良し悪しがある。脆くなっているものもあれば生前とほぼ変わらない状態のものも。だがエスタの拳足はそんなことに関係無く容易く人体を破壊していった。

 十体目の死人の顎に掌打を打ち込み、下顎から上を全て吹き飛ばした段階でエスタは軽く息を吐く。

 

「ちまちまやるのも面倒ですね」

 

 すると大きく息を吸い込んだ後、酒瓶を取り出して中身を一気に飲むと死人たちに向かって含んだ酒を霧状にして吹き付けた。

 酒の霧に包まれる死人たち。空中ではまだ霧状となった酒が漂っている。そこに向けて両拳を突き出し、素早く擦り合わせる。すると金属同士の摩擦によって火花が散り、その火花が霧状の酒に引火。死人たちの体が炎に呑まれる。

 

「浄化、浄化ー」

「野蛮な」

「そっちも十分エグイやり方ですけどね」

 

 互いに相手の戦い方にケチをつける。

 かなりの数の手駒を無力化された死操術師であったが、焦りの気配は伝わってこない。

 

「まあまあやるとだけ言っておこう。エン・ドゥウを相手にして」

「エン・ドゥウ?」

 

 初めて聞いたといった表情をするエスタであったが、ジンの方は僅かに表情を顰めていた。

 

「死操術、というか死操術の元となった術を生み出した人の名ですよ。歴史上初めて死者の蘇生を行った人物と言われています」

「それって大昔の人じゃないですか」

「一説には不老不死の術を完成させ、それを自らに施し何百年という時を生きていると噂されています」

「まさか、その人物が目の前の……」

 

 戦慄するエスタに、死操術師は気を良くしたのか口角を吊り上げる。

 

「まあ、絶対に嘘だと思いますがね」

「なっ!」

 

 あっさりと否定したジンに死操術師が絶句する。

 

「こういった界隈では有名な名ですからね。誰も彼もがあやかってエン・ドゥウを名乗っていますよ。因みに死操術師でエン・ドゥウを名乗ったのはあなたで五人目です。それ以外の含めると十一人目ですね。……というかいい年して恥ずかしくないんですか? 自分が過去の人物だって主張するのは?」

 

 否定だけでなく馬鹿にもされ、死操術師は怒りで体を震わせ始める。

 

「く、くくく、はははははは! いいだろう! 貴様らは死ぬまで、いや! 死んだ後も嬲ってくれる! 来いっ!」

 

 死操術師が何かを呼ぶ。すると地響きを思わせる足音が聞こえてきた。

 一歩踏み込むだけで伝わってくる相手の大きさ。踏み込む音、足音の間隔。それだけで相手が巨体であることが分かる。

 

「大きいですね……十五――二十メートル程あるかもしれません」

 

 足音だけで大凡の体格を推測するジン。ジンの予測を聞いてエスタは顔色を変えた。

 

「それぐらいの大きさだと竜が相手ってことですか?」

 

 この世界に於いて、最も体格の優れた生き物として真っ先に思い浮かぶのは竜種しかいない。エスタは負けるつもりはないが、戦って勝てるとは断言出来ない相手である。

 足音がどんどん近付いてくる。自然と二人の表情が引き締まってくる。

 それを見て死操術師はニヤリと卑しい笑みを浮かべた。

 

「さあ! その姿を見せろ!」

 

 死操術師が声を上げると、応えるようにがさがさと木々の枝が揺れ動き、重なる葉を突き破って姿を見せる。

 捩じれた角。突き出た口。その口からはみ出す大小様々な牙。濁った白い眼と土気色に変色した鱗。明らかに生きたそれでは無かったが間違いなく竜の頭であった。

 

「フェエレドラゴン……」

 

 人が思い描く竜をそのまま形にしたような竜と呼べる竜種。際立つ様な特性は無いが、空を飛び、火の息を吐き、鉄の武器を通さない鱗を持つという弱点らしい弱点を持たない竜であった。

 この地でこれ程の相手が出て来るとは予想外であり、ジンとエスタに緊張が走る。

 

「ははははははは! 幸運にも手に入れることが出来たこの竜の力! お前たちで存分に試してやろう! やれ!」

 

 死操術師の命令に従い、林の中から出て来た――

 

「……え?」

 

 ――のは、フェエレドラゴンの頭部だけであり、首から下は切断されて何処にも無かった。

 意味が分からずジンたちは死操術師の方を見る。死操術師も理解が追い付かないのか、魚のように口を何度も開閉していた。

 フェエレドラゴンは死操術でまだ意識があり、口を動かし、目を動かしている。そして、その目はある一点に向けられていた。

 それは自分が出て来た林の中である。

 ドン、という足音が再び聞こえてくる。

 

「もっと……違和感を覚えるべきでした」

 

 今さながら思い出してしまう。フェエレドラゴンの大きさは平均で十メートル前後。先程の足音から推測した体格とはずれがあったのだ。

 つまりこれから出て来るモノはフェエレドラゴンよりも大きく、そして強い存在。

 そのとき、月光を反射した何かが暗闇の中を走る。と同時に生い茂っていた木々が一斉に吹き飛び、ジンたちも顔をぶつような勢いの風を浴びせられた。

 数本の木々がまとめてなぎ倒されている――と最初は思ったが、違う。数本の木々がまとめて斬り倒されている。

 斬り倒された木々を踏み付けながらソレは現れた。

 竜に良く似た姿をしており、体中に蒼と赤に染まった二色の鱗を生やしている。背中には逆立つ数本の鋭利な突起。前脚は小さいが、その分後脚が太く、大きく、二十メートルを超える巨体を支えている。

 その巨体も注目すべきだが何よりも注目すべきがその尾。全長の内の半分近くが尾と呼べる程長く、そして先端から半ばに掛けて研ぎ澄まされているかのように蒼色の輝きを放っており、尾というよりも『剣』と形容すべき形をしていた。

 尾に付いた刃を見て、ジンとエスタは背筋を凍らせる。尾からニオイ立つように見える死の姿。相手を殺す為だけに生み出され、殺意と力、そして相手の命によって磨かれた刃。その輝きの冷たさには二人とも吐き気を覚えそうであった。

 経験を積み重ねてきた二人だからこそ分かる、これまで経験したことが無い相手の危険性。

 刃の竜は木々を踏み進め、フェエレドラゴンの頭の前に立つ。

 驚くべきことにフェエレドラゴンの頭部は怯えていた。しきりに目を動かして目の前の恐怖から目を逸らし、舌でも顎でも何でも動かしてこの場から逃げ出そうとしていた。

 一度死んだモノすら脅かす程の存在は、足掻くフェエレドラゴンに向かって無言で後足を上げると躊躇なくそれを下ろす。

 頭部は骨と肉が砕けながら地面に押し潰される。

 飛び出した眼球が地面を転がり、ジンたちの前で止まる。濁った眼球を見て、ジンとエスタは一緒に行動するようになってから初めて心の底から意見を合わせた。

 

『逃げましょう』

 

 

 




久方ぶりの投稿となります。
今回の話は新作のモンスターが主役となっております。
謎の墓荒し! その謎を追う二人の若き処刑人! 襲い掛かるゾンビたち! そしてそこに現れる第三の脅威! その名も斬竜〈スラッシュ・ドラゴン〉!
前人未踏の戦いが今始まる! 

ゾンビVS処刑人VS斬竜〈スラッシュ・ドラゴン〉

近日公開……こうやって字面にするとZ級映画ですね。


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一頭猟断(後編)

 突如として現れた謎の竜。その実力は未知数であるが、竜の足元で無惨に砕け散っているフェエレドラゴンの頭部『だった』ものを見れば、実力の一端を感じられるであろう。

 文字通り腐っていてもドラゴンはドラゴンである。それを軽々と屠ったこの竜を敵にするのは不味いと考え、ジンとエスタはこの場から撤退する準備を密かに進める。

 

「私があれの気を逸らすものを何体か作ります。合図を出したらあの少年を連れて逃げますよ」

「分かりました」

 

 この時ばかりはいがみ合うのを止め、ジンは最適な案を出しエスタはそれにケチをつけずに同意する。

 なるべく相手を刺激しないようにさりげなく、そして静かな動きで聖書からページを数枚抜き取る。

 エスタの方は、待たせている少年の様子を見た。少年は現れた竜に目を丸くして驚いてしたが、刺激しないように口を手で押え、声が洩れないようにしていた。咄嗟とはいえ賢明な判断と言える。

 このまま何も起きずに計画通りに進んでくれたら、そんな淡い思いは一人の人間によって脆くも崩れ去ってしまう。

 

「何者だ、貴様は!」

 

 声を荒げる死操術師。よりにもよってことを起こそうとしていた最悪のタイミングで相手を刺激する。

 

(馬鹿なのか? 本当に馬鹿なのか? 空気を読め! 状況を読め! 死んでしまえ! 三流!)

(死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!)

 

 声を出して罵倒してやりたいが、それが出来ない状況なので心の中でありったけ罵る。

 そして案の定、剣の竜は死操術師の言葉に反応し、動き始める。

 

 ギュオアオオオオオオオオオオオオオオオオオオ。

 

 尾を地面に擦り付けながら咆哮する剣の竜。その大声量は思わず体が仰け反り、四肢が強張る。

 今まで聞いたことも無いその咆哮にジンもエスタも言葉を失ってしまうが、それでも戦いの経験を積んできた二人はあることを見逃さなかった。大剣のような尾が地面に擦りつけられたとき、どういう原理か分からないが間違いなく、一瞬ではあるが炎が発生していた。

 

(この竜、もしかして魔術も扱えるのでしょうか?)

 

 長年生きた魔物は人のように魔術を使えるようになることが稀にある。もしかして、目の前の剣の竜もその類かもしれないと考えた。だが不思議なことに、あの炎が上がったとき竜からは魔力の気配を感じることは無かったのだ。

 

「ふ、ふん! 吼えたところでどうだというのだ!」

 

 剣の竜の咆哮に気圧されていた死操術師が逆に吼える。術師としてのプライドが目の前の竜に怯えることを許さないらしい。大した精神力とも言えるが、逆に危機管理能力が絶望的に低いともとれる。

 この時、ジンとエスタは一分でも早くこの死操術師が死んでくれることを神に祈った。

 

「行けっ!」

 

 術師の号令に合わせて死人たちが一斉に駆け出す。その動きはジンたちに襲い掛かった時よりも素早かった。その速さはジンたちも目を見張るものであったが、その動きの差の理由はすぐに分かった。

 死人の足が地面を蹴り付けると同時にひしゃげる。走っていた死人が腕を勢いよく振った瞬間、その腕が肩から千切れ飛んでいく。走った衝撃で腐った腹が裂け、中から臓物が飛び出し、それが足に絡まって転倒する死人もいた。激しく動く度に体の一部が崩壊していく。

 腐敗の度合いによるが死体は死体。生きていた時以上の動きをすればたちまち無理が生じる。死操術師は、それを承知の上で死人たちに無理な動きをさせていた。

 消耗の激しい動きをさせていることから、表面上は強気であるものの内心では焦っており、先程の啖呵も虚勢であるのが分かる。

 体を崩壊させながらも死人たちは一斉に剣の竜の体へ張り付くと、爪や歯などをその荒々しい皮膚に突き立てる。が、どんなに力を込めようとも顎が裂ける程力を入れようとも傷一つ付けることが出来ず、文字通り歯が立たなかった。

 群がる死人たちを、体を震わせて振り落としていく剣の竜。

 剣の竜の意識が死人たちに向けられている内に、ジンたちはこの場から離脱することに決めた。

 

「あの子を連れてとっとと離れますよ」

「分かりました」

 

 エスタが子犬のように蹲って震えている少年を抱きかかえようとしたとき、周囲から青白い光が急に現れる。

 下から上に向かって昇る光。間違いなく魔力による光である。目線を落とせば、地面には魔力によって描かれた魔法陣。見間違いでなければそれは転送用の魔法陣である。

 

「げっ」

 

 思わず品の無い声を出してしまう。魔法陣から何が出て来るのか簡単に想像出来てしまった為のものであった。

 案の定、青白く輝く魔法陣の中から腐敗した無数の腕が現れ、這い出るように魔法陣をその黒く変色した指先で引っ掻く。

 一つの魔法陣から最低でも五体の死人たちが身を捩りながら出て来る。その際に腐った肉が擦れ合い、潰れていく音はエスタの嫌悪感を最大にまで刺激し、全身くまなく鳥肌を立たせる。

 

「性格は小物染みていましたが、魔術の腕はエン・ドゥウを名乗るだけあって中々のものみたいですね」

「この場に於いては最悪ですけどねっ!」

 

 死操術と転送魔術の組み合わせを見て評価を改めるジンに対し、エスタの方は言葉を吐き捨てる。

 さっさと少年を連れてこの場から去りたいというのに、行く手を阻む死人たちに八つ当たりとは分かっているが殺意が湧いてくる。尤も既に死んでいる相手にそんなものを湧かせること事態が冗句のようなものであるが。

 エスタは少年を強く抱き締め、離れないようにすると最も距離が近い死人の頭部目掛けて脚を振り上げる。

 小柄な体格をしているが柔軟な体を持つエスタは足を自分の頭を超える高さ程まで上げ、爪先で死人の側頭部を打ち抜いた。

 金属製の靴先は死人の頭に深々と刺さる。エスタはその状態から爪先を抜かずに死人を地面に無理矢理倒しながら、爪先を引き抜く。

 そして、目の前にある小石や土を蹴るような軽い仕草で足を振るうと、横たわる死人の腹に命中。そのまま片足で数十キロはある筈の死人の体を蹴り飛ばした。

 球のように蹴り出された死人は他数名の死人を巻き込み、その衝撃で肉体が破壊される。後にはどれが誰の部位か分からない程混ぜ合わさった死体が残った。

 だがこれでも召喚された死人たちの極一部を無力化したに過ぎない。周囲にはまだ動ける死人がうようよいる。

 

「まったく! 邪魔な人たちですね!」

 

 死者への尊厳も無く吐き捨てる。最初のうちは可哀想などという情も抱いていたが、見た目やしつこさのせいでとっくにそんなものは無くなっていた。

 口の端が裂けるほどの大口を開けた死人が噛み付こうとしてくる。エスタは一瞬腕が消失して見える速度で腕を振るう。

 手の甲が死人の下顎に当たり、その部位が千切れ飛ぶ。その際肉片の一部がエスタに向かって飛んできたので、わざわざ少年を片手で抱きかかえてその場から跳躍して回避する。

 大袈裟とも呼べる回避行動。死人の肉片が当たるのが不快だからという感情的な理由では無い。理由はもっと深刻である。

 炎によって焼かれていない死体は疫病の温床である。地面に埋めて放っておくだけでも病を流行らせる。ましてや動く腐敗した死体など病が人の形を成したものといっても過言ではない。その爪や歯に傷付けられでもしたら、そこから病を発症する可能性が高い。体液も同様である。

 傷は治癒の魔術によって治すことが出来るが、病は治癒の魔術では治すことは出来ない。病をうつされた時点で死と同義なのだ。

 

「すぐにそこから離れなさい!」

 

 ジンの鋭い声が飛ぶ。回避に意識を傾けていたエスタは、そこで剣の竜に不用意に近付いていたことに気付く。距離として十メートル近く離れているが、あれほどの体格をもった相手には不十分と呼べる距離である。

 剣の竜がその場から一歩後退する姿が見えた。それと同時に持ち上がる尾。何気無いその動きを一目見ただけで、エスタの頭の中で激しい警鐘が鳴り響く。

 少年を抱えたまま駆けるエスタ。逃れる場所など何処でも良かった。一メートル、一センチでも剣の竜から離れることに集中していた。

 剣の竜が前方に踏み込むと同時に体を反転させる。これにより纏わりついていた死人たちは体から振り払われた。そして、その長く鋭い尾は剣の竜の正面に向かって横薙ぎに払われる。構えから振るわれるまで瞬く間の出来事であった。

 最初にジンやエスタは顔に砂埃や小石が当たるのを感じた。剣の竜とはそれなりに距離をとっている筈だというのに。それと同時に鼻腔を襲う腐った血のニオイ。

 尾が振り抜かれたかと思った瞬間、剣の竜の正面にいた死人たちは消失していた。尤も完全に消えた訳では無く、尾が通過した場所には持ち主を失った脚の一部や腰から上の無い下半身が残っている。

 消えた上半身は何処へ行ったのか。その答えは空から降ってきたモノが示していた。

 水を含んだ布を壁や床に張り付けた時のような音が間を置かずに鳴り続ける。地面に横たわるのは無くなっていた死人たちの残りであった。

 腹部から臓物を零し、その腸を意図せずに纏っている者。膝から下を失い立てなくなった者。腰から斜め上に切断され、残った片手で地面を引っ掻いている者。凄惨な光景が広がる。

 振るわれた剣の竜の尾。その巨大さと重圧感から戦場で用いられる斬る為でなく叩き潰す為の剣を彷彿とさせる。しかし、実際の切れ味は並の剣を遥かに凌ぎ、熟練の鍛冶師が生涯を懸けて造り上げた名剣の如き鋭さがあった。

 ジンはしっかりと見ていた。尾の刃に死人たちが触れた瞬間、まるで実体の無い煙か靄でも裂くかのように抵抗も無く死人たちの体を滑る剣の竜の尾。刃が通過し終えると斬り抜けた勢いで上半身がその場で舞い上がっていく光景が目に焼き付いてしまう。

 恐ろしい。ただ恐ろしい。ただぶつけるだけでも軽々と人を殺せそうな尾に、凶悪且つ美すら感じてしまう刃が備わっていることに。振り抜かれた尾の刃に死人の腐った黒い血が一滴も付着しておらず、まるで達人のような太刀筋を恐らく修練では無く、生まれつき修めているこの竜に恐ろしさしか感じられない。

 技ではなく常識外の力によって生み出される斬撃。それは何十年という血の滲むような修行をしてきた達人たちの非力さを嘲笑うかのようであった。

 

「くっ! ぐっ……! 貴様……!」

 

 手駒の死人たちをあっさりと無力化されたことに憤怒の表情を浮かべる死操術師。だが、彼は顔を怒りで引き攣らせたまま小声で何かを唱え始める。すると今まで呻いていた死人たちの声が一斉に止まり、損壊していた死人たちも含め一カ所に向かって集まり始める。

 剣の竜は、黙ってそれを見ている筈も無く咆哮を上げて集まろうとしている死人たちを薙ぎ払おうとしたが、それを妨害すべく新たに召喚された死人たちが剣の竜に向かって飛び掛かる。これにより剣の竜の攻撃対象は移ってしまい、その間にも死人たちは一カ所に集い、身を寄せ始める。

 死人の一人が別の死人の顔に手を当てる。その途端手の皮膚と顔の皮膚が一体化し、溶け合わさるように繋がる。他の死人たちも同様に触れた箇所が融合し始めていた。

 グチャグチャと潰れ合い、混ぜ合わせていく音。大量の死人たちが巨大な肉塊へと変貌していく。

 短時間で集まった死人たちは一つの肉塊となった。だが、見た目は綺麗なものとは遥かかけ離れており、所々から手足が飛び出て、頭髪があちこちからはみ出ており、死人たちの顔が張り付けられているように外を見ている。

 巨大な肉塊は蠢き、ぶちぶちと筋繊維を引き千切る音を立てながらいくつもに分裂していく。

 分裂した肉塊から肉体の一部が伸び、それが手足などの部位を形成。人形〈ゴーレム〉の姿となった。

 大量にあった死体も今では五体のゴーレムとなっていた。

 

「おえぇぇぇ……」

 

 その姿にエスタは今にも吐き出しそうな声を洩らす。ゴーレムとは土、金属、水、木などの形あるものから火、雷、風といった形の無いものを使う場合もあるが、その中でも人を使ったゴーレムは見た目的に倫理的にも最悪の部類であった。

 体中に付いた顔がギョロギョロと目を動かし、丸太のように太い手足からは材料となった死人たちの手足が突き出ている。そして何よりもその身から放つ悪臭。腐った血や肉、臓物のニオイはそれだけで病に冒されそうになる。

 人の継ぎ接ぎで出来たこのゴーレムにはまず嫌悪感しか抱かないだろう。

 

「吐くなら見えない所で吐いて下さいね。これ以上気持ち悪いものは見たくないので」

「――吐くときは貴方の顔にぶちまけてあげますよ」

「そういう真似は需要のある方にして下さい。きっとお金が貰えますよ」

 

 こんな状況でも互いに謗ることを止めない二人。尤も互いの顔は見ず、ゴーレムと剣の竜に注意を払って警戒は緩めていない。

 地面を窪ませながら剣の竜に向かっていくゴーレムたち。材料に人を使っているせいか、その動きは滑らか且つ素早いものであり、嫌悪感を抱くが人の動きそのものであった。

 迫るゴーレムたちへ、死人たちを薙ぎ払った時のように尾の剣を振るおうとする竜。その動きに反応し、並んで歩いていたゴーレムの一体が斬撃の軌道を遮る形で前に出る。

 高速で振るわれたそれを避けることなく胴体で受ける。そのまま両断するかと思われたが、ゴーレムの胴体を三分の二程裂いた所で刃が止まった。

 腐った死体を材料にしているせいで脆いと思われがちだが、圧縮され、固められた人間の肉は相当の頑丈さを持っており、衝撃への耐性、そして今のように斬撃への耐性も兼ね備えていた。

 胴体に突き刺さる尾を抱き締めて動きを止めるゴーレム。

 その間に接近した他のゴーレムたちが、動きを止められている剣の竜の体を殴る、蹴るなどして攻撃を加えていく。

 一発一発が重い打撃音を出すが、剣の竜の鱗もその打撃に耐えられる程の硬度を持っており、ゴーレムたちの攻撃を集中して受けても鱗一枚割れはしなかった。

 想像以上に頑丈な剣の竜。しかし、一方的に受け続ければどうなるかは分からない。仕掛けている相手はおよそ疲労などと言う言葉とは無縁の存在である。

 剣の竜は何度か尻尾をうねらせて抜こうとするが数体で押さえつけられている為抜くことが出来ない。

 すると剣の竜が短い咆哮を上げた。痛みによる苦鳴とは思えない、何かの前兆ではないかとジンとエスタの勘が囁く。それを肯定するかのように剣の竜の喉が赤く光り始める。

 尾を突き刺しているゴーレムに向け、大きく口を開く。どれほどの高温に達しているのか口を開けた瞬間、そこから炎が噴き上がった。

 そして、吐き出される赤色の粘液。ゴーレムはそれを頭から被ってしまった。

 ジンたちは、それを始めただの粘液だと思っていたが、すぐに思い違いだということを気付かされた。粘液を被ったゴーレムが燃え始める。元から赤いのではない。高温によって赤く染まっているのだ。

 

「よ、溶鉄!」

 

 高熱を発し、粘るようにして垂れていくそれを見て、エスタはそれを溶かした鉄だと判断した。

 ゴーレムを燃やしながら垂れていく赤熱した粘液。ある程度までゴーレムを包み込むと、一瞬だけ膨れ上がった後爆発した。

 後に残るは上半身を爆砕されたゴーレムだけ。

 ジンとエスタは唖然とするしかない。尾の剣ですら厄介なのに更にあんな能力まで持っているなど悪夢でしかない。

 ゴーレムが一体機能しなくなったことで尾を拘束している力も緩み、剣の竜が先程のように尾を強く揺さぶると他のゴーレムたちの手が離れ、突き刺さっていた胴体を裂きながら尾を引き抜く。ゴーレムを斬った尾は血と脂によって汚れており、明らかに斬れ味は落ちている様子であったが、例え斬れなくなったとしても鈍器として十分脅威である。

 未だに殴り続けているゴーレムに頭部を叩き付けて突き飛ばしながら、抜けた尾で地面を擦る。すると尾と地面の間に激しい火花が散り始める。

 その場で体を丸めるように身を捩り、力を溜めると擦りつけていた尾を弾くようにして斬り上げる。火花は大きな螺旋を描く炎をと化し、射線上に立っていたゴーレムを焼くと共に木に叩き付ける程の勢いで吹き飛ばした。

 

「火の精の加護でも受けているのですか? あの竜は……」

 

 溶けた鉄を吐くだけでなく、魔法剣士のように剣撃から炎を生み出す様を見て、思わずそう呟いた。規格外の体格や力だけでなく多彩な技。理不尽の一言に尽きる。

 死操術師の方もジンらと同じ心境らしく、次々と見せる圧倒的力に口を半開きにしている。だが、すぐに意識を戻し、高笑いを上げる。それは自らを鼓舞させる為のように見えた。

 

「くく、ははは、はははははは! まさかこの様な場所で私の本当の切り札を出すことになるとはな!」

 

 半ば自棄を起こしている死操術師は、怒りを織り交ぜ殆ど絶叫に近い声で詠唱を唱え始める。すると空中に魔法陣が浮かび上がった。

 

「滅しろ! 化け物め!」

 

 叫ぶと同時に魔法陣から現れるのは船の舳先。続いて所々に穴が開いた船体と破かれたマストが現れる。マストの頂上には穴が開いたせいで半分になった髑髏のマークが描かれていた。

 船は魔法陣から出ると、そのまま落下せず船底に青白い靄のようなものを出して、その上に乗り宙に浮いていた。

 

「海賊船!?」

 

 一目見た印象はそれであった。

 

「いえ、違いますね」

 

 だが、それをジンは否定する。するとその直後、漂ってくるニオイ。エスタは最初に嗅いだとき海のニオイと錯覚したが、ニオイの密度が濃くなるにつれて別のニオイも混ざっていることに気付く。何かが腐っている腐敗臭。しかもこの腐敗臭は記憶に新しいものであった。そのニオイにエスタは鼻を押さえる。

 

「あれは幽霊船ですよ」

 

 ジンが船底に漂う靄を指差す。エスタが靄に目を凝らすとすぐに呻いた。

 漂う靄かと思われたそれは無数の人間の顔の集まりであり、絶えず蠢いていた。どれもが苦悶に満ちた表情をしており救いを求めるように声なき声を上げている。

 

「本当に性根は三流の悪党の分際で、腕だけは一級品のようですね。いや、外道だからこそこの術と相性が良いのかもしれません」

 

 褒めつつも貶しながら、宙を走る幽霊船に嫌悪の眼差しを向ける。

 物に魂を宿らせる方法は然程難しいものではない。宿らせる対象に宿らせたい者の一部を埋め込めばいいだけである。

 だが死操術になると話は変わってくる。この術の外法と呼ばれる所以は、操る魂に対し道を外れた行いをする点にある。逃れられない苦しみ、痛みを延々と与え続けることによって魂を怨みと憎しみに染め上げ、それを力へ変える。

 今、目の前の幽霊船こそまさにその外法そのものである。船自体に救われぬ魂を縛り付け、それが放つ力によって自在に動いている。

 エスタは気付いてはいないが、恐らくあの船の中には隙間も無く埋め尽くされているであろう。

 幽霊船に縛られている魂たちの骸が。

 

「くふ、くはははははは! これこそ我が最大の切り札! その力は例え竜種であろうと葬ることが出来よう! 私に恥をかかせ続けた忌々しい存在よ! ここで呪い殺されよ!」

 

 死操術師の言葉を号令にして、船体を突き破りながらいくつもの砲塔が現れる。その砲口全てが剣の竜へ向けられていた。

 砲塔から砲撃が放たれるが、それは普通の砲撃とは大きく異なるものであった。炸裂音の代わりに絶叫のような声が響き、放たれたのは砲弾ではなく人の顔が集まって出来た半透明の球状の物体。

 得体の知れないそれを受けるのを避け、剣の竜は大きく後退する。外れたそれは地面に着弾。地面を抉るなどの破壊は無かったが代わりに火柱のように地面から伸び上がり、それぞれの顔が怨嗟の言葉を吐き続ける。

 

「うぷっ……」

 

 聞いているだけで魂が穢されそうな声に影響を受け、エスタは吐き気を覚える。

 幽霊船から放たれたのは捉えている怨霊を砲弾とした高密度の呪いである。声を聞くだけで呪い等に耐性を持っている教会の人間に影響を与えるとなれば、直撃すれば一瞬にして魂を呪い尽し即廃人となるであろう。

 

「撃て撃て撃て撃てぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

 口角泡を飛ばしながら幽霊船に指示を飛ばす死操術師。幽霊船の砲はすぐに向きを修正し、追撃の砲撃を剣の竜に放つ。

 最初のうちは回避していた剣の竜であったが、砲撃の数に徐々に逃げ場を狭まれていく。

 そして、その時は来た。

 一発の呪いが剣の竜の胴体に直撃する。それによって止まる足。動きが止まった隙を狙い雨のように呪いが降り注ぐ。

 

「ふはははははは! 呪われろ! 壊れろ! 穢れろ! 後悔しろ! この私を敵に回したことを!」

 

 初めて損傷らしき損傷を与えたことに死操術師は高揚し、意気揚々とした声を上げる。

 だが、この時死操術師は勿論のことジンやエスタも思い違いをしていた。

 

「ははははははは――はっ?」

 

 降り注ぐ呪いの中で剣の竜は身悶えすることなく動き始める。幾百の怨念は剣の竜にとって足を止める障害にすらなっていなかった。

 彼らは知らない。弱肉強食の世界に身を置いてきたモノにとって、たかが死者の声がどれほど無意味なものかを。根本的な精神の構造が違う。彼にとって脅威となるものは自分よりも強い存在、即ち生あるモノのみ。

 彼らは知らない。彼が自らの力を高める為にどれだけの生を糧にしてきたのか。その剣でどれだけの死を積み重ね、どれだけ流れる血で自身の剣を磨いてきたのかを。

 生きたモノへの恨み、憎しみ、死んだモノの声など羽音にも劣る雑音。耳を傾けるだけ無意味。ただ耳障りなだけに過ぎない。

 故に剣の竜は怒る。しつこく不愉快な音を聞かされることに。

 この音の源を断ち切らねばならない。

 

 咆哮。

 

 音がまるで暴力のようにジンらに叩き付けられる。生物としての本能がその一声を耳に入ると同時に、神経が細胞に恐怖を伝播させ、それにより屈服し許しを乞うように身を縮めさせようとする。

 特殊な訓練を受けているジンとエスタすら反射的に体を丸めてしまいそうになるが、意図的に恐怖を遮断させる術を心得ている為寸でのところで耐えることが出来た。一方で死操術師は、その咆哮に耐え切れず頭を抱え、その場でしゃがみ込んでしまっていた。

 何より最も影響を受けていたのは剣の竜に纏わりついてした死霊、怨霊たちである。何も守るものが無い剥き出しになっている魂に圧倒的恐怖をぶつけられた瞬間、苦しみ、恨む顔らがどれも恐れに染め上げられ、散り散りになって消えていってしまった。

 見ようによっては囚われの魂が浄化されていったようにも見えるが、少なくとも消える直前の表情は決して救われた者がする表情ではない。

 咆哮を上げた剣の竜の全身に光る、張り巡らされた血管のような筋。口からは黒煙が吐き出され、風に乗って運ばれたそれは煤のような焦げたニオイがした。

 剣の竜はその尾を地面に叩き付けるように擦る。それも一度だけでなく二度、三度と。

 青みがかっていた筈の剣の尾が、擦る度にその色を変えていく。その際に巻き起こる風がジンらの顔を撫でる。

 最初は温く、次に暖かく、最後に熱く感じる。

 擦り終えた尾は燃え盛る炎と同じ紅蓮色に染め上げられていた。同時に纏わりついていた血と脂が高熱によって焼き尽くされている。

 火とは古くから穢れを清め浄化の力として考えてられていた。事実、怨霊化した魂などは火やそれが放つ光などを嫌がる傾向にある。だが剣の竜が宿した炎は清めるなどという生易しいものではなく、浄化、救済という優しいものでもない。

 爛々と橙色に輝くそれは万物を断ち切る力を剣の形に押し固めたようであった。

 剣の竜の眼光が空を飛ぶ幽霊船に向けられる。その目に恐怖と同時に悪寒を覚えた死操術師は、慌てて幽霊船をもっと高い場所に移動させようとするが、判断した時には既に手遅れであった。

 剣の竜が立っていた位置から数歩下がる。そして、力を込めるように前傾姿勢となると元いた位置に向かって跳んだ。地面から一メートル程離れた低く短い跳躍であったが、その僅かな跳躍の時間に空中で尾を真上に上げながら体勢を百八十度回転。

 天を突くようにして持ち上げられた剣の尾。赤く滾るそれが夜の闇の中で掲げられる光景は、まるで夜の闇が裂かれているように見えた。

 跳躍が最高点に達し、落下し始めると持ち上げられた尾もまた振り下ろされる。

 巨体の半分の割合を占める長い剣の尾は、地上から十数メートル上に停滞している幽霊船の胴体部へとその刃先を埋めた。

 木で出来た胴体部は刃に触れると燃え上がり、隙間から死霊たちの絶叫が溢れ、夜の空に木霊する。

 

 アツイ! イタイ! クルシイ! タスケテ! ダレカ! ダレカ! イヤダ! ヤメテ! ヤメテクレ! アアアアアアアアアアアア!

 

 男。女。子供。老人。あらゆる声が混じった叫び。死して囚われたモノたちが救いを求め縋るように叫ぶ。

 だがそんな声に剣の竜は微塵も揺るがない。そもそも最初から彼の行いは救いでは無い。ただ断つ。ただ斬る。ただ屠る。自分の行く手を遮るモノ、即ち敵を。

 刃が胴体部半ばまで到達する。跳躍も終わり地面に両足が接着し、力を込められる体勢になった瞬間、船一隻を尾一本で空から地面に引き摺り落とす。

 剣の竜の剛力に船体が悲鳴の如き軋みを上げながら地面へと叩き付けられる。

 体が浮き上がるのではと思える程の振動がジンらの足元へと伝わり、視界が遮りそうになる程の土煙が舞う。この状況下で剣の竜から視線を逸らすことは死に等しい。目を凝らし、邪魔な土煙越しに剣の竜の動向を窺う。

 地面に叩き付けられた幽霊船は見事に両断され、その中身を外へ零す。中身については悍ましいの一言であった。最初は何か分からなかったが、その色とニオイから何かすぐに理解する。船体の中に限界まで納める為であろう。彼らは原型を留めない程に『加工』されていた。

 だが哀れな犠牲者たちのなれの果てに慈悲の心を向ける余裕は今のジンたちには無い。既に剣の竜が動いているからだ。

 幽霊船を真っ二つにした剣の竜は、尾を引き抜くとそのまま体を丸め、尾を口の前に持って来る。未だ灼熱を帯びた尾に躊躇いなく噛み付き、牙を立てた。

 その行為を見た時、ジンとエスタは胸元に冷たいものが通り抜けていくような錯覚を覚える。彼らが立つ位置は、幽霊船を挟んで剣の竜の向かい側。距離は十分に取っていると認識しているが、体が震える。

 ジンは聖書から十数枚紙片を破り取っていた。冷静な判断からくるものではない。気付けば握り締めていた、という本能的な行為であった。

 剣の竜は尾に噛み付いた構えから尾を振り抜こうとする。当然、牙で止められている尾は動かない。力は解放を求めるがもう一つの力がそれを阻む。その拮抗は牙の隙間から飛び散る火花という形で現れていた。

 発せられない力が尾の中で蓄積されていく。

 爆発寸前の力。それを前にして舌を噛まず、もつれることもせずに詠唱を唱えられたことは奇跡だと思いながら、ジンは力を込めた紙片を目の前に放る。

 紙片は空中に張り付き、そこから白い光を出して他の紙片と繋がり、ジンたちの前に障壁を創り上げた。

 紙片の結界は竜種のブレスすら防ぐほどの防御力を誇る。これで何とか守りを固めようと考えたジンであったが、結果的にこの判断は浅慮と言えるものであった。

 金属が擦れ合う音が断絶せずに聞こえる。それが剣の竜が力を溜めていることを示すものあったが、それがまだ聞こえているうちは――

 

 音が消え、世界が朱い線によって裂かれた。

 

 ――少なくともエスタにはそう見えた。

 剣の竜の牙が刃から離れた瞬間、解放された力は剣の竜の巨体を振り回しながら進み、前方にある両断された幽霊船を更に真横に斬り裂きながら吹き飛ばす。残骸と化した幽霊船は四散し、辺りに散っていく。

 救われない魂の哀しみも、苦しみも、嘆きも、恨みも、怒りも、穢れも、後悔も、執着も、諦めも、弱さも、強さも、抜けば断ち切る鉄火の刃。

 幽霊船を斬り飛ばした剣の竜。しかし、その動きはまだ止まらない。船の残骸を踏み締め、旋回しながら振るわれる刃。その先端がジンの張った結界へと届く。

 切っ先が結界に触れる。抵抗は刹那。破壊は瞬く間であった。

 刃が結界へ沈み、斬り裂く。あろうことか只の力技で術による結界が裂かれていっているのだ。それは理をも超える力であった。

 結界が裂かれていく光景がジンにはひどくゆっくりと見えた。要となっている紙片が力に耐え切れずバラバラになり、他の紙片への負荷が増すと連鎖して破れ散っていく。それを見ていたジンは、自分はここで死ぬというのを確信した。してしまったのだ。

 灼熱の刃がジンを二つに裂く――直前、後ろから押し倒され地面に顔から着地。首筋に刃が通り過ぎていった時の熱を感じる。

 痛みや怒りよりも自分が助かったことをどこか呆けた気持ちで実感し、目線を落とすと腰に抱き着いているエスタの姿を見つけた。

 彼女に助けられたらしい。

 エスタは朱い線が見えたと同時に、ジンに飛び掛かっていた。身に染み付いた本能的行動。ジンが術者として無意識に動いたように、エスタは戦う者として無意識に動いていた。

 そして、この行為は結果的に正解であった。

 解き放たれ、船が完全に破壊され、結界が破壊されるまでの一連は一瞬の出来事だった。

 

「はぁ! はぁ! はぁ!」

 

 心臓の鼓動が今まで体験したことがない程早く鳴る。このまま止まるのではないか、と思ったがそれはそれで救いのある終わり方だとジンは考える。少なくともこの恐怖から逃れることが出来るからだ。

 頭上を通過した尾が徐に持ち上げられる。このまま叩き付けられるかと思ったが、そうはせずに剣の竜は再び口の前まで尾を持ってくる。

 灼熱を帯びていた筈の尾の刃は、すっかりと冷えており、煤を纏った刃からは輝きが失われていた。

 明らかに斬れ味が落ちていると思ったが、剣の竜はそれに牙を立てるとそれを滑らし、あろうことか尾を研ぎ始める。

 鍛冶師が竜にでも転生したのか! と叫びたくなるが、気まぐれとはいえ僅かながら時間に猶予が出来た。一秒でもあればこの場から逃げ出す準備に取り掛かれる。

 結界を張る時に意図的に一枚だけ手元に残していた紙片。それを使えば――

 

(あ、あれ? こ、これは?)

 

 折ろうとした指先が激しく震えていることに気付く。指だけではない、手も腕も震えている。ジンはこの時初めて自分の全身が震えていることに気が付いた。

 

(は、早く、動かさなければ! 早く! 早く!)

 

 焦ろうとも指は上手く動かない。

 彼は見て見ぬ振りをしているが、彼は既に剣の竜の恐怖に呑まれていた。

 僅か数十センチ上を通過していった刃。耳に残る風切り音。体に触れていった風圧。肌の表面を炙っていった熱、その僅かな情報でジンは剣の竜の恐ろしさを、絶望的な差を十二分に感じ取ってしまった。

 彼が臆病だからではない。教会の名の下に戦ってきた者だからこそ、多くの経験を得ているからこそ理解してしまう、勝てないという事実。

 彼の魂〈こころ〉は、既に剣の竜によって斬られていたのだ。

 心と体が斬り裂かれている故に体が上手く動かない。どんなに気を確かに持とうとも裂かれた傷は深く、繋がらない。

 剣の竜は、その間にも刃の汚れを研ぎ降ろしていく。激しく散っていく火花から何度も研ぎ直す必要が無いことは明白であった。

 研ぎと共に削られていく時間。狭まる可能性。消え行く命。だが、それでもジンは恐れに打ち勝てない。震える指先で紙を折れない。

 その時、腰にしがみついていたエスタが一層強く抱き締めてきた。

 

(こんな時に……)

 

 掴む手から伝わってくる震え、自分と同じ恐れを抱いているのが分かる。

 

(――全く)

 

 同時に感じるエスタの熱。自分以外の命がここにあるという証。

 

(馬鹿らしい上に――)

 

 思い返せば彼女が飛び掛からなければあの斬撃で死んでいた。非常に不愉快な話ではあるが、彼女に一つ借りが出来ているということである。

 

(腹立たしい!)

 

 彼女に借りを作ったままでは死ねない。このまま死んだら彼女なんぞに借りを作ったという不甲斐無さから死霊へと堕ちてしまう。

 

(全く腹立たしい!)

 

 指先の震えが止まったことも、生きる気になったことも、単純な自分の何のかもがジンには腹立たしかった。

 尾を研ぎ終えた剣の竜が地面に伏しているジンたちに鼻先を近付けていく。ある程度まで近付けると、敵と判断したのか牙が並んだ口腔を見せる。

 ジンは目の前に突きつけられた牙を真正面から見ながら、右手に持っていた紙片に左手を一閃させると、長方形の紙片が一瞬にしてその形を変わる。

 完成したそれを素早く上に向かって放り投げる。投げられたそれは高く上がり、丁度剣の竜の目線の高さの位置にまで上がった。

 直線が鋭くジグザグに折れ曲がった形。すなわち稲妻の折り紙。

 

「あなたにプレゼントです、お嬢さん」

 

 ジンが気障な台詞を吐くと同時に、夜の闇が真っ白に染め尽される閃光が奔り、四方八里に雷鳴が轟く。

 間近でそれを受けた剣の竜の眼は灼かれ、耳は轟音によって麻痺させられる。

 視覚と聴覚を封じられた剣の竜は身を捩り、その場で暴れ始めた。

 尾を無茶苦茶に振り回し、狙いなど一切定めていないが、それでも触れればただでは済まない。

 ジンは、エスタを腰に付けた状態で素早く立ち上がり、尾が近くの大木を薙ぎ倒している瞬間を狙って離脱する。

 走り出す際にエスタの服の腰部を掴み持ち上げる。その際に悲鳴を上げられたが無視した。

 その時、視界の端に死操術師が身を翻して走り去る姿を捉える。手持ちを全て出し切り通じなかったのでこれに便乗して逃げるつもりらしい。

 ジンは、懐から聖書を取り出す。

 

「ああ、目が……」

「何時まで運ばれているつもりですか?」

 

 チカチカする目を擦るエスタ。前置きも無くジンが力を使ったせいで、エスタも光を見てしまい視界が一時的におかしくなっている。

 光が点滅し、網膜に点々として残るが見えないこともない。涙を流しながら何度も瞼を瞬かせた彼女が最初に見たのは、懐に聖書を戻しているジンの姿であった。

 

「いい加減一人で走って下さい。重いんですよ」

「失礼なっ!」

 

 相変わらずの憎まれ口に気を害しながらも、助けられた手前強く出ることが出来ない。

 さっさとジンにしがみついていた両手を離すと、ジンも服から手を離し、エスタは地面に着地と同時にジンと並走する。

 

「あの竜は?」

 

 ジンが答える代わりに後方から剣の竜の咆哮が聞こえてきた。声の大きさからして大分距離が開いている。

 

「死操術師はどうしました?」

「逃げました」

「はあ!? そんな簡単に!」

「でも、まあ、多分問題無いと思いますよ?」

「どういうことですか?」

「それは――」

 

 言い掛けたジンはそこで急停止する。エスタは、立ち止まったジンを咎めようとしたが、彼女もあることに気が付いて足を止めてしまった。

 

「あの子が――!」

 

 

 ◇

 

 

 ほぼ同時刻。

 死操術師は、ローブを激しく揺らしながらはただ走り続けていた。突き出した木の枝にローブが引っ掛かって裂けても、顔に蜘蛛の巣が張り付いても、全身を汗で濡らしながらも、脇目も振らずに逃げ続ける。

 こんな筈では無かった。その言葉が逃げる彼の頭の中でぐるぐると回り続ける。

 いつものように材料となる死体や魂を集め、それによって自らの術の精度を高めて力を付け、いずれ魔術の歴史に自分の名を刻み込む。それが当たり前のことだと思っていた。

 だが、結果として彼は今、無様に逃亡している。

 培ってきた技術も高めてきた魔力も溜め込んできた戦力を全て注ぎ込んでも、あの剣の竜には勝てなかった。そのせいで逃走の為の魔力も無くなってしまい足を使って逃げる羽目に。

 しかし、魔力が無ければ彼は中年の男性とほぼ変わらない体力。寧ろ研究ばかりしていたせいで体力も筋力も並以下と劣っている為、限界はすぐにやってきた。

 足がもつれ、右足で左足の踵を蹴ってそのままつんのめり、森の湿った土に顔から突っ込んでしまう。

 口に入った土を吐きながら急いで立ち上がろうとする。

 

「がっ!」

 

 悲鳴が上がった。右足首に鋭い痛みが走ったからだ。転倒の拍子に痛めてしまったらしい。

 

「あまり無理して立たない方がいいよ。きっと捻挫している」

 

 頭上から声を掛けられ、ビクリと全身を震わせながら、死操術師は上を見上げた。

 地上から数メートル程の高さにある木の枝に誰かが腰掛けているが、暗闇のせいではっきりとした姿は見えない。ただ、声の高さからして少年だということが分かる。

 

「な、何者だっ!」

「そう怯えなくていいよ。僕は君に危害を加えるつもりはないから」

 

 声を上擦らせる死操術師に対し、宥める少年の声は年不相応の落ち着きがあった。

 

「本当だったら関わらないつもりだったんだけどね。でも、エン・ドゥウなんて名乗っているからどんな人か気になって、気になって」

「そ、そうだ! わ、私は偉大なる魔術師、エン・ドゥウだ! こんな場所で! こんな目に遭うなど間違っている!」

 

 すると、その言葉を聞いて少年は鈴の様な声で笑う。

 

「何が、何が可笑しい!」

 

 切迫している状況下で、少年の笑い声は死操術師の余裕を容易く剥ぎ取る。

 

「あはははは。ごめん、ごめん。奇遇だなって思って。だって僕も『同じ名前』だから」

「……え、あ?」

 

 少年が最初言っていることが理解出来なかった。一秒、二秒と呆然とした後、走ってかいた汗とは違う、冷たく重い汗が全身から噴き出る。

 

「いや! 馬鹿な! 嘘だ! そんな筈は! そんな筈は!」

 

 突き付けられたことを全力で否定する。認める訳にはいかない。認めてしまえば更なる窮地に追い込まれることとなる。

 

「嘘か本当かは君が決めていいよ。どっちにしろ、いいじゃないか。世の中エン・ドゥウと名乗る人はたくさんいるんだ。一人ぐらい増えたって大したことじゃないよ」

 

 皮肉を混ぜた冗談。笑えなどしない。死操術師は、その声を聞く度に心臓が潰されて行く様な緊張を強いられていた。

 嘘だと願いたい。だが、エン・ドゥウは命を統べる術を極め、死者の蘇生は勿論のことだが自分自身を不老不死に変えたという伝説もある。

 もしかしたら。そう考えてしまった時点で、ただでさえ罅割れている心に、それが恐怖となって染み込んでくる。

 

「わ、私をこ、殺すのか? 勝手に名乗った不届き者として!」

「最初に言ったじゃないか。僕は君に危害を加えないって。それに――」

 

 木々が激しく擦れ合う音。落ちた枝が纏めて折れる音。そして、耳にこびりついているあの咆哮。

 

「それは彼、いや彼女かな? まあ、どっちでもいいか。兎に角向こうの役目だから」

「馬鹿な! 何故!」

 

 剣の竜が自分の後を追って来ている。あの閃光と爆音で視覚も聴覚もまともに使えない状態であったというのに、正確に自分を追って来たことが理解出来なかった。

 

「それ、お洒落だね」

 

 闇の向こうから指を差される。何を言っているのか分からず、指差した方に目を向け、死操術師は驚愕した。

 ローブの裾に突き刺さる紙で出来た一輪の花。慌てて抜き取ろうとするが、ローブに根付いた様に取れない。紙の花だというのに、花からは甘く、濃い芳香が放たれていた。

 視覚も聴覚も使えない状況で剣の竜が辿ったのはニオイ。あの場には死体による腐敗臭と血のニオイが満ちていた。その中で紙の花のニオイは逆に浮き、更に移動していることから剣の竜の注意を引き付けた。

 

「教会の狗どもめぇぇぇぇぇ!」

 

 ありったけの憎悪を込めて叫ぶ。夜に吸い込まれて消えていく声は、死操術師に無駄だと告げているかのような無情さがあった。

 

「でも別におかしいことじゃないよね?」

 

 激昂する死操術師にとって少年の声は冷水のようであった。

 

「君だって力にモノを言わせて好きにやってきたじゃないか。まあ、その行為自体は否定しないよ。それは人の性の一つだから。でもね、世の中には順番というものがあるんだ。好きにやっていた君が今度は好きにされる側になった。そういう順番」

 

 少年の諭す声が恐ろしい。突き放す訳でも宥める訳でも無く淡々と言葉を重ねている。

 

「だからさぁ、今起こっていることも受け入れようよ」

「ふざけるなぁ! 私は! 私は! こんな所で死ぬ器ではない!」

「それは僕じゃなくて向こうに言おうか」

 

 今起きている現実を否定しようと叫ぶが、少年の対応は至って冷静であった。

 

「じゃあ、そろそろ僕は行くよ。巻き添えには遭いたくないしね」

「待て! 待ってくれ! あ、あんな怪物なんて相手に出来るか!」

「大丈夫、大丈夫。僕が昔見た『彼ら』に比べれば、まだ勝てる可能性があるから。頑張ってね。エン・ドゥウさん」

 

 少年の体が闇に溶けるようにして消えてしまった。

 少年が居た場所を呆然と見上げていたが、背後に聞こえる足音で我に返りすぐに逃げようとする。が、鋭い痛みが足首に走り前のめりに倒れてしまった。

 それでも地を這い逃げようとする死操術師。

 足音は段々と近付き、地面の振動が体に伝わってくる。

 

「私はここで死ぬような存在じゃない、そんなちっぽけな存在じゃない」

 

 ブツブツと自分が如何に高尚な存在かを自分自身に言い聞かせる。傍から見れば現実逃避にしか見えない。

 その間にも接近してくる足音。少しでも遠くへ逃げようと泥まみれになりながらも前に進む死操術師。

 ふと、急に足音が止まった。

 死操術師は、つい背後を振り返ってしまう。

 そこで彼が見たのは、自分に向かって振り下ろされる巨大な刃であった。

 

 

 ◇

 

 

「はあ……ようやく帰って来られましたね」

「疲れました……」

 

 薄汚れた格好をしたまま食堂の席に座るジンとエスタ。食堂に入った際に店主が一瞬顔を顰めたのが見えたが、金に物を言わせて黙認させた。

 

「大丈夫? お兄さん。お姉さん」

「……貴方は元気ですね」

 

 二人の正面に座る少年を見て、エスタは羨望とも妬みとも呼べる視線を向ける。

 少年を連れて来なかったのが分かったとき、ジンとエスタは探す、探さないかで意見を衝突させたが、間もなくして茂みの中から少年が姿を現した。

 少年曰く、怖くなって先に逃げ出してしまったらしい。

 状況が状況な為、その場でとやかく言うことは無く少年を連れて一目散に逃げ出し、村に戻って来た時には日が昇っており、緊張と疲労から空腹を覚えた二人は少年を連れて今に至る。

 

「ここはキノコ料理が美味しいんだよ」

「そうですか。店主」

 

 店主を呼ぶと、メニューからキノコ関連の料理を適当に三人前ずつ頼む。

 テーブルに置かれた水で喉を潤し、生還を実感するジンとエスタであったが、いきなり席の余った椅子が引かれ、そこに誰かが腰を下ろす。

 

「ここに居たか。探したぞ」

 

 そして、詫びなどなくいきなり話し掛けてきた。その失礼な態度に抗議しようとするも座っている人物を見て、言葉を失う。

 

「あれ、エヌ君? どうしたの?」

「手を貸せ、爺」

 

 唖然とする二人とは反対に少年は親し気に話し掛け、エヌは邪険に返す。

 

「な、な、な!」

「……ギルドのお偉い方とここで会うとは思いませんでしたよ」

 

 冒険者ギルドの幹部の中で莫大な財力を以ってナンバー2と謳われている大幹部エヌ。それほどの大物がこの田舎町に現れとは夢にも思っていなかった。

 

「急だね。何か良いことがあったのかい?」

「四の五の言わずに手伝え。こっちに色々と借りがあるだろうが」

「うーん。それはそうだけど……」

 

 困惑する二人などまるで眼中に無い様に話を進めるエヌ。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい。いきなりきて何なんですか?」

「黙れ。五月蠅い。失せろ。消えろ。教会の飼い犬どもに一々説明する理由なんて必要か? 話す前に気付けないのか? ああ、すまん。そんな頭が無さそうなのは見て分かるな。見落としていた」

 

 出会って一言目が罵詈雑言。いきなりのことにエスタは、ポカンとしてしまう。

 

「やれやれ。流石は冒険者ギルドの幹部。言動が粗野でいらっしゃる」

「犬に礼儀なんて見せたら馬鹿だろうが? 分かるか? 男娼みたいな面したてめえ」

 

 無言でジンは立ち上がる。するとエヌもまた立ち上がり、互いに殺気立った視線をぶつけ合う。

 

「私が礼儀を教えてあげましょうか?」

「はっ。教えられるのか? 躾けられる側だろうが、お前らは」

「はいはい。兄さん。いきなり喧嘩腰はダメだよ」

 

 そんな二人の間に割って入る人物。その人物にジンとエスタは更に驚く。

 エヌと同格の大幹部エム。あらゆる情報を網羅し、全ての情報は彼に集まるとまで言われている。

 

「ごめんなさい。ジンさんとエスタさん。兄さんは人見知りが激しいので」

 

 エヌに変わって謝るエム。だが、その言葉に二人は戦慄する。名乗っていないのに名前を知られていた。噂通りなら恐らく名前以上の情報も既に掴んでいるだろう。

 

「ご無沙汰しています」

「エム君も来たの? かなり大事なことが起きているのかな?」

 

 少年に頭を下げるエム。二人の来訪に、少年は次第に事の重要性に気付き始める。

 

「長い時間を掛けてきたことで得た転機。これを大切にしたいと思っています」

 

 コツコツと杖を突きながら現れた人物。もうこれ以上驚くことは無いと思っていたジンとエスタは、頭を殴られたかのような衝撃を受ける。

 数多のギルドの頂点に立つ人物。王族よりも名と顔を知られているとまで言われた男、エクス。

 ギルドの頂点たちが今この場に勢揃いしている状況は、悪い夢でも見ているかのようであった。

 

「エクス君まで来るなんて……よっぽど大事なことなんだね」

 

 微笑を消し、年不相応な表情を見せる少年。

 

「ええ、出来ることなら――」

 

 エクスは、一瞬だけ横目でジンとエスタを見た。

 

「ああ、そうだね。場所を変えよう」

「ありがとうございます。御二方、ここの代金は私たちが支払いますので、どうぞごゆるりと」

「え、いやちょっと待って下さい!」

「じゃあね。お兄さん、お姉さん」

 

 少年が腕を掲げ、パチンと乾いた音を鳴らすと――

 

「……何で立っているんですか?」

「……そういう貴方こそ」

 

 二人は揃って席に着く。

 与えられた死操術師討伐の任を終え、祝勝を兼ねてこの食堂に食事をしにきていた。それは間違いない。だというのに何故か言葉に出来ないモヤモヤとした違和感を二人は覚えていた。

 

「はい。お待ち」

 

 そこに店主が現れ、注文していた料理が席に置かれていく。しかし、二人はすぐに料理に手を付けず、並べられた料理を凝視する。

 

「……何で三人前何ですか?」

「さあ?」

 

 三つずつ置かれた料理に二人揃って首を傾げるのであった。

 

 




ようやく後編を投稿しました。
次の話は、また本編に関わらない話となります。
MHXXも発売されて、新モンスターをどうしようかなーと悩んでいます。


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白色の使い

 べちゃべちゃと道を歩く複数の足音。あまり舗装されていない道である為、水はけが悪く、歩く度に湿った音がする。

 足音の主は五人の男女。会話をしながら歩いている光景は和気藹々としたものだが、それぞれ腰や背中に携帯袋と武器を所持している点から一般人でないことが分かる。

 

「なあなあ。まだか? まだか?」

 

 伸ばした赤毛を後ろで一本に束ね、そばかすが少し目立つ二十歳前後の青年が前を歩く男の肩を指先で叩く。

 

「もう少しだと思うけど」

 

 青年に急かされながら、前を歩く男は地図を開いて現在位置を確認する。男も赤毛でそばかすがあり、後ろにいる男とよく似た顔立ちをしているが、こちらは赤毛を短く切り揃えている。

 

「ちょっと私にも見せて下さい」

 

 黒髪の長髪に眼鏡を掛けた女性が地図を覗き込む。するとその端正な顔を顰めた。

 

「この地図、逆さまじゃありませんか? ローグ?」

 

 黒髪の女性に指摘され、ローグと呼ばれた短髪の男は少しの間地図を睨むように見る。そして、小さく『あっ』という言葉を洩らした。

 

「しっかりしてくれよー。兄貴」

「あれ? 一体どこから間違えていたんだ? お前は分かるか? レオ?」

「俺が知る訳ないじゃん」

 

 ローグの質問にレオと呼ばれた青年は肩を竦める。呼称と顔立ちから分かる通りレオとローグは一つ違いの兄弟であり冒険者でもある。二人揃って冒険者となったという過去を持つ。

 地図を正しく持ち直して改めて見てみるものの、既に自分たちが何処にいるか分からなくなっていた。周りに目立つものもなく一行は完全に迷子になったことを悟る。

 

「はあ……困りましたね」

 

 黒髪の女性が額に手を当て、疲れた様に溜息を吐いた。

 

「今日は野宿になりそうだね」

 

 特に困った様子も無く言うのは、茶髪を肩にかかる程度まで伸ばした女性。小柄である為、少女にも見える。

 

「ネイはそれでいいかもしれませんが、こう何日も野宿が続くと私もそろそろベッドが恋しくなってしまいます」

「あはははは。リヨナは繊細だねー」

 

 黒髪長髪の女性の名はリヨナ。この集団の副リーダー的存在。そして、ネイと呼ばれた小柄な女性こそが皆を率いるリーダーである。見た目と体型のせいで幼く見えるが、この中で年長者である。

 

「ナハだったら、街までの道が分かるんじゃない?」

 

 ネイは集団の中で最後尾にいる人物に話し掛ける。その人物は、見た目の年齢は二十代半ばの若者であるが、異様な風体をしていた。

 まずはその衣服。上から下まで何故か左右非対称なのである。上着は右袖が長袖で左手袖は半袖。色も右側が濃い茶色に対し、左側は薄紅色をしている。履いているズボンも片方は裾が足首まであるが、もう片方は膝下までの中途半端な長さをしていた。

 頭には何種類ものの鳥の羽で飾られた冠を被っており、両頬には赤い顔料で三本線が引かれている

 

「……我々は今分岐に立っている。……運命によって流され、たどり着いた分岐に。……先にあるのは安寧か苦難。……安寧を取るのならば日々を変わらずに生き、大いなる流れから外れて生きることとなる。……苦難を選ぶならば我々は触れてはならない流れに呑まれていくだろう。……だが、それはどうしようもない。……全て運命。……例え、それが異なる運命と重なるものであろうと」

 

 ブツブツと独り言のように吐かれた言葉は、抽象的であり回りくどく難解とも言える内容であった。

 

「相変わらず何を言っているのか……」

「うーん。つまりは、普通の事か悪い事が起きるってことかな?」

 

 とある民族の出身であるナハ=ニクは、常に常人には理解不能なことばかり喋っている。運命の流れを読む力がある一族――奇抜な格好もその一族の伝統衣装らしい――であるが、傍から見れば良くて変人。悪くて狂人の類にしか見えない。

 仲間も言っていることの殆どが理解出来ない有様であった。

 

「……異なる運命と交わる。……即ち既にある運命と違うということ。……逆らうことは出来ない。……我々の運命、宿命、流点、分岐、選択は既に始まり、同時に終わっている。……全ては運命の糸を操る神々の手の中」

 

 悟ったように独り言をし続けるナハ。リヨナは、それを不気味そうに眺めている。

 

「いい加減もっと分かり易く言ってもらえると助かるのですが……」

「まあまあ。ナハの言うことって大概当たるじゃん。私たちが気を付けていれば、良い事があるかもしれないよ?」

 

 前向きな意見を言うネイ。

 

「当たるかもしれないけど、それって僕たちがそういう風に捉えているから当たっているって感じというのが近いかも」

「俺は正直あんまり信じていないね。占いよりもはっきりしない言い方だから」

「こらそこ! 茶々入れない!」

 

 隣に内緒事のように囁くような体で皆に聞こえるような声量で話し合う兄弟に、ネイはびしりと指差しして注意する。

 彼らがパーティーを組んでまだ三年も経っていない。個人の経験もまだ新人の域を出ていない冒険者である。今回の仕事もとある森から薬草や鉱石などを採取してくるという簡単なものであったが、些細なミスで余計な時間を食う羽目となっていた。

 行きは気を張り慎重になるが、仕事帰りに怪我や失敗をするのは新人冒険者特有のものである。一流と呼ばれるには最初から最後まで完璧に熟してこそ。

 

「でも本当にどうしましょうか。食料も薬も大分消費していますし、あまりここら辺りは詳しくありませんし、どんな魔物が出るかも分かりません」

 

 野宿するにもそれなりの事前情報が必要となる。夜行性の魔物が多い土地で野宿などほぼ自殺行為に等しい。

 幸いまだ日が高いが、あとどれほどこの森を彷徨うのか分からない。早いうちに打開策が欲しいところであった。

 

「……兆しだ」

 

 ナハが空に向かって指を向ける。皆がその方向に目を向けると、空に向かって一筋の煙が昇っているのが見えた。

 

「人か、もしくは家があるのかもしれませんね」

「いざという時には頼りになるねぇ! ナハは!」

 

 ネイは褒めながらナハの肩を軽く叩く。褒められてもナハの表情は微動だにしない。

 

「これでもっと愛想が良ければなぁ」

「いやいや。これも彼の持ち味なんだよ」

 

 ナハの無愛想に兄弟がそれぞれの感想を洩らす。

 

「兎に角早く行ってみよう!」

 

 ネイの号令に皆が煙の方角に向かって歩き始める。

 

「……始める。……分岐点が。……不幸は無数の羽音に運ばれ、禍は闇に紛れて襲い掛かってくる」

 

 小さく呟くナハの声は、皆の足音に掻き消され誰の耳にも届くことは無かった。

 

 

 ◇

 

 

 煙の下に辿り着いた一行は目の前の光景に少し驚いた。人一人、小屋一つでも居れば十分であったが、そこにあったのは多くの家。働いている人たちも沢山居り、明らかにそこは村であった。

 

「おや? 旅の方々ですか?」

 

 村の入口に立っているネイたちに気付き、白髪の老人が人の良さそうな笑みを浮かべながら声を掛けてきた。

 

「あの……実は私たちは冒険者でして……」

 

 少しだけ言い淀みながらネイは自分たちの素性を明かす。言い辛そうにしていたのは、冒険者という人種は一般人からの好き嫌いがはっきりと分かれている職業なのだ。

 個人の差などがあるが基本的に冒険者はプライドが高い。自分たちが特別な仕事をしていると自負していることからくるものであるが、そのせいか、一般的な職に就いている者達を見下す傾向にある。その結果小さな村などで横暴な振る舞いをし、問題を起こすことも多々あった。

 そのせいで村や特定の施設が冒険者の立ち入りを禁止にしたり、冒険者だと分かった途端、問答無用で外に叩き出すなどのことが起きている。

 格好からすぐに冒険者だとばれるのが分かっていた為、ネイは隠さずに素直に素性を話し、誠意を見せることにした。

 

「ああ、そうでしたか。あの森を歩くのは大変でしたでしょう?」

 

 老人の態度は温厚そのものであった。それどころかこちらへの気遣いさえ見せている。身分を明かす度にあまりいい顔をされないネイたちにしてみれば、ある意味新鮮な経験である。

 

「実は、少し休める場所を探しているんですが……?」

「それなら、この村の奥に食堂を兼ねた宿屋があります。そこに行くといいでしょう。食事も中々のものですし、宿代も安いですよ」

「そうですか! ありがとうございます!」

 

 礼を言い、老人の言う宿屋に向かおうとするが、ネイはふと気になったことがあり老人に尋ねる。

 

「宿屋があるって言いましたが、この村は結構外から人が来ているんですか?」

 

 あまり大きいとは言えない村の中にある宿屋。食堂を兼ねているというが、村の人間が頻繁に利用するとは考えにくい。やはり商売として成り立たせるには、それなりの理由があると考え、それと同時に何らかの益なるものがあると冒険者の直感が囁く。

 

「あの宿屋は親子で経営しているのですが、まあ、半分趣味のようなものもありますね。それでも、そこそこお客さんは入っていますよ」

 

 期待した答えは無かったが、それでもこの村には何らかの理由で来訪者が多いというのは分かった。

 

「そうですか。ありがとうございました」

 

 一礼した後、ネイたちは村の奥に向かう。

 移動の間に村の様子を観察する。決して大きい村とは呼べないが、それでも結構な人数の村人が確認出来た。

 誰も彼もが入口の老人と同じく、ネイたちの姿を見ると挨拶をしてくる。今まで無かったと言っていいほど気さくな人達であった。

 

「何か随分と感じが良いですね」

「珍しいな、こういうのは」

「いつもなら、顔を顰められるか無視されるのが多いからね」

 

 本来ならばこれが普通と呼べる対応の筈が、冷遇に慣れてしまったネイたちは悲しいことに違和感を覚えてしまう。決して嫌な気分では無いのだが。

 

「いつもこんな感じだったらいいのにね?」

 

 ネイが普段のことを思い出し、苦笑する。

 皆がやや戸惑っている中で、ナハだけは普段と変わらず、呟き続けていた。

 

「……渦巻くのは業。……哀しみ、怒り、憧憬、崇拝が混沌としている。……既に魅入られているのか? ……否、望んでその道を歩いている。……根は何処までも深い」

 

 不吉さが漂う言葉も声が小さ過ぎるせいで誰にも届かない。

 しばらく道なりに沿って歩いていると、目の前の民家よりも一回り以上大きな建物が見えてきた。

 

「あそこのようですね」

「行こ行こー!」

 

 少しだけ歩く速度を上げる。

 建物の前に着く。建物には看板など無く、前もって情報を聞いていなかったら宿だと分からない。

 

「すいませーん!」

 

 扉を軽く叩きながら、中の人たちに聞こえる程度の声で呼び掛ける。

 反応はすぐにあった。

 扉の向こうからタッタッタと足音が聞こえてくる。

 

「はい! お待たせしました! 御用は何でしょうか?」

 

 現れたのは清楚な衣服を纏う二十歳前後の女性。栗色の髪を横で束ね、肩に掛けるように垂れ下げている。

 

「実は、今日ここで泊まりたいのですが……」

「お客さんですか! ちょっと待ってて下さいね! お父さーん! お客さーん!」

 

 奥に向かって呼ぶと、少し経ってから男が一人やってきた。

 歳は見た目からして四、五十歳。少女と同じ栗色の髪をしているが、所々に白髪が混じっている。恰幅が良く、捲られた袖から出ている二の腕は、冒険者としても通用するのではないかと思える程太く、逞しい。

 女性の言葉や事前に老人から聞いていたことから、この男性が女性の父親らしい。

 男性は目を細め、鋭い目付きで品定めをするようにネイたちを見る。

 

「ああ、よくおいで下さいました。さあさあ。どうぞこちらへ」

 

 厳つい顔に反して物腰の柔らかい態度。外見に少しだけ威圧されていたネイたちは、表情に出さずに安心した。

 ネイたち女性は娘の方に連れられ、男性陣は娘の父に連れられて泊まる部屋へと案内される。

 

「ここです」

 

 部屋の前に立った娘がそう言いながら扉を開ける。

 

「わあ」

 

 思わず感嘆の声を出してしまう。

 決して内装が豪華な部屋では無い。ベッドが二つ置かれ、椅子やテーブル、クローゼットと最低限の家具が置かれただけの簡素な部屋であったが、木の枝を屋根に、敷き詰めた草をベッドに、自分の腕を枕にして野宿をしてきたネイたちにしてみれば十分過ぎる程の部屋であった。

 

「良い部屋ですね!」

「そうですか? ありがとうございます」

 

 社交辞令と取られてかもしれないが、紛れも無い本音であった。

 

「これからどうしますか? 食事を先に済ませるなら、今から一時間後にお出しできます。もしよろしければお風呂の方も準備しますが……」

「ぜひお願いします!」

 

 身だしなみ。清潔とは嫌でも疎遠となってしまう冒険者業だが、やはり女性として自分が日々薄汚れていくのは我慢出来ない。

 

「ではすぐに準備しますね」

 

 一礼して去って行く娘。残った二人は、このままベッドの上に飛び乗りたい衝動に駆られるが、綺麗とは言えない格好をしている為それをグッと堪える。丁寧な扱いをしてくれる相手には、それに見合った態度でいなければ申し訳ない。

 しばらくの間、部屋の中で無駄話をしながら時間を潰す。そして、三十分程経ったとき娘が部屋を訪れた。

 

「待たせて申し訳ありません。お風呂の準備が出来ました」

「はい!」

 

 ネイは嬉しそうな態度を隠さず、リヨナも表面上は落ち着いているものの、内心ではネイと同じぐらいに喜んでいた。

 娘に風呂場まで案内されると、脱衣場で装備を外す。この時二人とも短剣を一本だけ持って風呂へと入った。これは、宿屋の親子を信じていないからではない。冒険者にとって身に染み付いた習慣とも言える。実際、彼女らには無意識の行動であった。

 湯船に浸かる前に体を湯で流す。そのまま体を洗おうとしたとき、リヨナが気付く。

 

「石鹸がありますね」

「そうなの? 取ってくれる」

 

 リヨナからネイに石鹸が手渡され、それをタオルで擦る。泡が立つと同時に花の香のような甘いニオイも立ち始めた。

 

「良い香り……もしかしてこれって高いやつかな?」

「かもしれませんね。でも、こう言ってはなんですが、この宿にはあまり似合わないものかと」

 

 きめ細かい泡立ちから、一般的に売られている様な石鹸とは考えづらく、それこそ貴族たち相手に売られているような高級品である。

 

「自家製?」

「その可能性も否定できませんね」

「まあ、どっちでもいいじゃん。せっかくだから使わせてもらおうよ」

「そうですね」

 

 汚れた肌を石鹸の泡で清めた後、湯船に入り疲れと汗を流す。三十分程湯を堪能した後、ネイたちは風呂から上がった。

 脱衣所には、宿屋の物らしき簡素な着替えが置いてある。折角綺麗にしたのに、薄汚れた衣服を再び纏うことに抵抗があったネイたちは喜んでそれを着る。この服からも風呂場にあった石鹸のニオイがした。

 脱衣所の外に出ると、ネイたちと同じ格好をしたローグとレオが立っている。彼らからもまた花の香りが漂ってきた。

 

「遅いなー。女の風呂は長すぎじゃないのか? あんなもんさっさと洗って入って終わりだろ」

「レオ。あんまりとやかく言うもんじゃないよ。女性には女性の事情があるんだから」

 

 ローグが文句を言うレオを窘める。

 

「ごめんごめん。待たせたね。あれ? ナハは?」

「あそこにいる」

 

 レオが指差す方に目を向けると、ナハが壁に背をもたれさせて瞑想している。他とは違い宿屋が用意した服を着ておらず、いつもの姿をしている。

 

「何で着替えてないの?」

「それどころか、風呂にすら入らないぞ」

「どうかしたんですか?」

「何か色々言っていましたが、要約すると『気が進まない』らしいそうです」

 

 相変わらず掴み所が無いというべきか、本心が分からない仲間の行動。悪人でないことは間違いないが、時折ついていけなくなることがある。

 

「……とりあえずご飯を食べに行こうか」

 

 仲間の奇行はひとまず置いておくとして、腹が空腹を訴えつつあるのでそれを満たすことを優先とした。

 食堂へ行くと、大きなテーブルの上に様々な種類の料理が置かれ、出来たてだと誇示する様に湯気を上げている。

 野菜をふんだんに使ったサラダ。厚く切られた肉のステーキ。燻製肉と野菜が入ったスープ。小麦の香り漂うパン。

 

「おおー!」

 

 レオが目の前の料理に目を輝かせる。他の面々もほぼ同じであった。個人の宿屋である為、そこまで豪勢な食事を期待していなかったが、予想を大きく上回る料理を出されれば無理も無い。

 

「さあ、どうぞお席の方に」

 

 娘が言うと同時にネイたちは飛び掛かるような勢いで着席する。唯一、ナハだけは急がず慌てずマイペースで空いた席に向かっていた。

 皆が席に着くと同時に四方から手が伸び、テーブルに置かれた料理が次々とネイ達の手元に運ばれたかと思えば、次の瞬間には彼女らの口の中へと消えていった。

 

「んー」

 

 舌が多彩な調味料、香辛料、旨味を感じ取るとそれが一気に脳まで駆け抜け、感動で脳が震える。ネイ達が、ここにくるまで食べてきたものといえば乾燥させ日持ちを良くした塩辛い肉と、小麦粉を練って固め、食べる時に水でふやかすパンもどきだけ。

 秘境、荒地など人の手が及んでいない土地、文明の無い場所で仕事をすることから冒険者にとって食事とは数少ない楽しみである。何せ場所が場所ならば、得体の知れない植物や動物、虫などを嫌でも食べなければならない。焼いて食べる、塩をかけて食べるなどまだ良い方で、最悪生のままで食べなければならない状況もある。殆ど獣の所業である。

 手の込んだ料理は人であること、人の文明を思い出させる。

 美味しい、美味いという世辞を出す余裕が無い程、勢いよく食事を腹の中へと放り込んでいく。傍から見れば品が無いが、娘の方は顔を顰めることなく忙しなく食べる様子を嬉しそうに眺めていた。

 大量の料理がネイたちの食欲によって瞬く間に消えていく。そんな中で、ナハだけはパンを千切り、それを一定のペースで黙々と食べている。呑み込むようにして食べる他とは違い、一欠けらのパンを数十回咀嚼してから呑み込むという非常にゆっくりとした食べ方であった。

 ナハがパン一つ食べ終わる頃には、テーブルの料理はほぼ完食されていた。仲間に気遣われなかったように見えるが、ナハ自身の食がとても細いことが仲間内で理解されているからこその結果である。

 彼は信仰上の理由で殆ど食事をしない。しても数日に一回程度。飢えない理由は、彼曰く目に見えない何かに力を分けてもらっているかららしい。

 

「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです!」

 

 限界寸前まで食べたネイが満足した表情で、料理の感想を言う。

 

「お口に合ってなによりです。父も喜びます」

 

 食欲が満たされると、今度は別の欲がネイ達の中で湧き上がってくる。瞼が重いとかんじる程の眠気。睡眠欲である。

 大口を開けて欠伸をするレオ。ローグも目を瞬かせている。リヨナも口を手で隠しながら欠伸を噛み殺していた。

 

「お疲れのようですね。どうぞお部屋の方でお休みになって下さい」

 

 娘の言葉に従い、ネイたちは自室へと向かっていく。

 

「あれ?」

 

 その途中で気付く。ナハの姿が無い。

 

「何処へ行ったんだろ?」

「また散歩じゃないですか? 寝る前によく外をぶらぶらしているのを見ますし」

 

 多少心配であったが、よくあることであり、いつの間にか戻ってきていることも多々あったのでナハならば大丈夫であろうと思い、特に焦ることなく部屋へと戻っていった。

 

 

 ◇

 

 

 仲間から一人離れたナハは、村の中を一人歩いていた。既に日が沈み、月が顔を出しているので村の外には誰一人居ない。家の中で一家団欒し、食事をしているのかもしれないと考えるが、どういう訳か周りの家からは会話も物音も聞こえない。あまりに静かなのである。

 各家の閉じられた窓の隙間から零れる光。まだ眠ってはいないのが分かるが、ならば何故これほどまでに静かなのか。

 ナハは立ち止まり、目を閉じ、意識を両耳に集中させる。すると掠れ、掠れであるが声が聞こえてきた。

 

『偉大――――よ――――白――――よ――――――我ら―――――救い―――――』

 

 何かに対し、何かを唱えている。それが祈りの言葉であることが、自然や運命を崇拝するナハには分かった。

 聞こえてくる声は、それ一つだけではない。小さく、囁くような声で全ての家から何かへ祈っている。

 常人ならば、まず不気味に思うであろうが、ナハは表情一つ変えずに黙って歩き始める。

 目的が無く彷徨っている訳では無い。彼には彼にしか聞こえない声、見えない何かによって導かれており、その意思に従って動いていた。

 そして辿り着いた場所は、村から少し離れた所にあった。

 家の焼け跡。燃え跡からかなり大きな家であったと推測されるが、完全に燃え落ちており原型は殆ど残っていない。せいぜい家を支えていた黒焦げの柱が刺さっているだけ。

 木々のせいで村からではまず見えない位置にある家。しかし、見れば違和感を覚える箇所が多々あった。

 焼けた土から青々とした雑草が生えている。このことからこの家が火事になったのはつい最近のことではない。そうなると何故村の者たちは、それほどの期間この建物を放置しているのかという疑問が出てくる。人手が無いというのなら分かるが、それでも一切手付かずなのが不自然であった。

 まるでこの場所は――

 

「……墓標」

「どうかしました?」

 

 独り呟くナハに答えるように声が掛けられる。それに驚くことなく、ナハは至って冷静な態度で視線を後ろに向ける。

 そこには笑みを浮かべる宿の娘。ネイたちを迎えた時と変わらぬ笑みであったが、ナハはそれを無表情で見ていた。

 

「散歩ですか?」

「……」

 

 ナハは答えない。娘は気を害することなく話を続ける。

 

「ここには立派なお屋敷が在ったんですよ。すごく綺麗で大きな屋敷が」

 

 ニコニコと笑いながら、まだ在った頃の屋敷のことを思い出しているようであった。

 

「そこに住む人たちは、みんな優しくてとても親切な方達ばかりでした。村の人たちも、色々としてもらって皆感謝している筈です」

「……」

「でも、あんな不幸が起きるなんて……本当ならここを綺麗にしてちゃんとした場所にしたかったんですが……あまり私たちの村は裕福では無いので……」

 

 哀しみと申し訳なさからか目を伏せる娘。

 

「……全ては虚ろの言葉」

「え?」

「思いに敢えて蓋をし、心の無い言葉を紡いでも無意味。この地、この跡を見れば真実が分かる」

 

 ナハは、この場所に着いた時からある強烈な思念を感じ取っていた。それは『怨み』『憎しみ』『怒り』という負の感情。

 感じ取ったまま考えると、この場所はこれで『完成』なのである。朽ち果てた残骸が広がるこの場所は、渦巻く負の感情を向けられた者にとっての『墓標』なのだ。

 

「……おっしゃっている意味が分かりません」

「……それもまた虚言だ」

「やっぱりおっしゃっている意味が分かりません」

 

 あくまで娘は笑顔を浮かべ続けている。ナハは、感情を感じさせない瞳でそれを見ていたが、やがて目を離して何処かに向かって歩き始める。

 

「何処へ行くんですか?」

 

 娘の問いに答えず、ナハの姿は夜の闇の中へと消えていった。

 ナハが消えていった方向をしばらく見ていた娘であったが、浮かべていた笑みが消えると同じタイミングで視線を外す。そして、今度は朽ちた焼け跡へと目を向けた。

 娘は冷え切った眼差しで焼け跡を見ていたが、いきなり建物の残骸を蹴り付ける。一度では収まらず、何度も何度も蹴り続けた。

 静まり返った夜の空に、娘の蹴り付ける音が木霊し続けていく。

 

 

 ◇

 

 

 翌朝。眠りから目の覚めたネイはベッドの上で仰け反るように背を伸ばす。柔らかなベッドで寝ていたおかげで背筋から指先まで芯が通ったように伸びる。

 

「ううーん!」

 

 動きが滞っていた血液が全身を一気に駆け巡り、半覚醒であった脳に活力を与えて覚醒させる。

 

「おはようございます」

 

 既にリヨナの方は目を覚まして着替えも済ましており、起きたネイに声を掛ける。

 

「おはよう。ベッドはいいねー。ぐっすり眠れる」

「同感です」

 

 人前に出られる様に軽く髪を整え、部屋の外に出る。すると、ドアの前に衣服が入った籠が置かれていた。籠の中の服は、風呂に入った際に娘が洗濯すると言って回収したものである。

 服を手に取り広げる。丁寧に洗ってあり、汚れも無ければ土や泥、草、モンスターの血のニオイすら無い。まるで新品同様であった。

 洗濯された服を籠ごと持って再び部屋に戻る。数分後、冒険者としての装備を纏った状態でネイたちは部屋を出る。

 少し歩くとローグたちと会う。彼らもまた冒険者としての格好をしている。ネイ達と同じく卸したてのような光沢があった。ただナハだけは洗濯に出さなかったらしく昨日と同じ薄汚れた格好である。

 

「行こうか、そろそろ」

「そうですね」

 

 十分な休息を取らせて貰ったネイ達は、礼を言う為に宿の親子を探す。

 軽く探してみたが姿が見えない。他の客がいるかもしれないのであまり大声を出して迷惑を掛けたく無かった一同は、静かに探索する。

 いくつかある部屋の前を通り過ぎていったネイであったが、ある扉の前で足が止まる。その扉は他の部屋とは少しだけ作りが違っていた。

 この部屋が親子の部屋なのかと思い、ネイは扉を軽く叩く。

 

「はい!」

 

 中から娘の返事が返ってきた。

 

「ちょっといいですか?」

「すぐ行くのでお待ち下さい!」

 

 扉越しでも慌てているのが分かる程の足音。

 娘は扉を少し開けると、その隙間から滑るようにして身を出し、外に出るとすぐに扉を閉めた。

 

「どうしました?」

 

 余程中を見られたくないのか、娘を扉の前に立つ。その姿に若干の違和感を覚えるものの世話になった手前深く追求することも出来ず、また再び訪れることは無いと思っていたので無かったように振る舞う。

 

「私たち、そろそろ出ようと思っているんだけど……」

「あっ、そうなんですか?」

「宿代の方を払いたいと思うの。いくら?」

「五人での宿泊となりますと、これぐらいですね」

 

 娘の提示した料金に一同驚く。はっきりといって破格とも呼べる程の値段であり、安く済んだことを喜ぶ半面、やっていけるのだろうかという余計な心配もしてしまう。

 

「本当にこの金額でいいの?」

「はい。構いません。殆ど趣味でやっているようなものなので」

 

 娘の笑顔にそれ以上何も言えず、素直に宿代を払う。

 

「冒険者さんたちは、これから街の方に向かうんですよね?」

「うん。そうだよ」

「それだったらいい近道があるんですよ」

 

 娘はそう言って別の部屋に入っていき、そこから箱と一枚の地図を取り出す。

 

「村から出て、この道を真っ直ぐ行くと大きな洞窟があります。その洞窟を真っ直ぐ抜けると街への近道になっているんです」

 

 娘は分かり易いように地図に線を引いて、その地図をネイたちに渡す。

 

「洞窟の中にはモンスターなど出ませんが、中は暗くなっているのでこれを持っていって下さい」

 

 ネイたちに箱を手渡す。中を開くと、先端が布で包まれて膨らんだ子供の腕の太さ程の棒が入っていた。

 

「携帯松明だ」

 

 この松明は先端に特殊な薬品を染み込ませており、強く擦れば発火し、通常の松明よりも長持ちする。暗い場所での探検する時の必需品である。

 

「貰っていいの?」

「はい。私たちにはあまり必要の無いものですから。必要な方々に使って貰った方が断然良いです」

 

 にこやかに笑う娘にネイは頭を下げて礼を言う。

 

「何から何まで本当にありがとう!」

「いえいえ。そんなに大袈裟なことをしないで下さい」

 

 娘は照れるように謙遜する。

 

「じゃあ、私たちは行くね」

「お世話になりました」

「いい宿だったぜ。ありがとよ」

「縁が在ったらまた会いましょう」

「……」

 

 口々に別れの挨拶をする中、ナハは終始無言であった。

 宿を出るネイたち一行。その背中が見えなくなるまで娘は宿屋の前に立っていた。

 

「行ったか?」

「うん」

 

 娘の隣に父が立つ。その顔は欠落しているかのように表情が無い。見送る時に笑顔を浮かべていた娘も同様の表情であった。似ていないと思われた親子だが、皮肉にもこの時の表情は血の繋がりを感じられる程によく似ていた。

 

 

 ◇

 

 

 宿屋の娘に教えられた道を歩く一行。先日の失態からか地図を持つのはローグではなくリヨナが持っていた。

 特に問題も無く目的の場所へと到達する。

 

「おお……」

 

 広がった穴は大きく、大人数人を縦にも横にも並べてもまだ余る程のものであった。差し込む光は穴を数メートルしか照らさず、その奥には何も見えない闇によって塗り潰されている。

 ネイは、想像していたよりも倍以上の大きさに感嘆とも緊張ともとれる声を洩らしてしまう。

 

「わっ!」

 

 洞窟に向かって大声を出す。声は洞窟内を何度も反響しながら奥へと吸い込まれていった。

 

「かなり広いね」

 

 勿論大声を出したのは遊んでいるからではない。反響音によってどれほどの洞窟かを大凡調べる為である。

 

「ここを真っ直ぐだっけ?」

「そうです。暗いですからね。気を付けて行きしょう」

 

 携帯松明を取り出し、近くの岩に擦りつける。シュボボボという音を立て白く発光すると、そのまま白い炎出しながら燃焼し続ける。その際、煙が立つがそのニオイに一同顔を顰める。

 

「うえっ」

「こんなに煙が出るなんて、相当放置されていたのかな?」

「あんま気分の良いニオイじゃないな。燻製にされているような気分だぜ」

 

 

 松明に不満を漏らしつつ、ネイたち一行が洞窟内に足を進める。

 洞窟の影に入るとひやりとした冷たい空気が肌を撫でていく。

 

「暗いね……」

 

 松明を掲げても数メートルしか照らされず、更には足元まで光が届くのはせいぜい二メートル以内である。何があるかは分からない為、慎重に進まないといけない。

 すると、誰よりも先にナハが前に出る。いつもは後方で大人しくしている彼が、積極的に前に出るのは珍しいことであった。

 

「先に行ってくれるの?」

 

 ナハはネイたちを見なかったが無言で頷く。

 

「じゃあ、頼むね」

 

 ナハを先頭としてネイたちは洞窟内を進み始めた。

 明かりで照らしながら一歩一歩確かめるようにして進む一行。かなり遅い歩みであったが、未知の場所を進むにはこれぐらいで十分とも言えた。

 先に進む度に入口の光が遠ざかっていく。太陽の明るさと暖かさが徐々に無くなり、代わりに先の無い暗闇と冷めきった空気がネイたちを包んでいく。意識しても不安、緊張が募っていくのが分かる。

 もしかしたらあと一歩踏み込んだら足元が抜け落ちるのではないか。もしかしたら暗闇から何かが襲ってくるのではないか。不安と緊張からネガティブな妄想が浮かんでくる。

 尤もこれが非常に馬鹿々々しいことであるのはネイたちも自覚していた。あくまで妄想は妄想。深く考えれば馬鹿を見ることになる。

 いつまでも馬鹿げた妄想を引き摺っていないで前向きにいこうとした。そのとき――

 

「あうっ」

 

 急に立ち止まったナハの背中にネイが鼻をぶつけ、軽く呻く。前置きも無く止まったナハに文句を言おうするが、それを遮ってナハが独り言のように言葉を呟いた。

 

「来る」

 

 何が? と問おうとする前に洞窟内に反響する音。耳の奥に突き刺さるような高音。聞くだけで背筋が粟立ってくる。それも一つではなく複数重なっているので、その音量も不快感も並のものではない。

 

「何コレ!」

 

 片方の耳を手で覆い音量を抑えながら不快音の正体を探る為に松明を掲げる。

 天井に向かって伸びる灯り。すると一瞬だけであったが灯りの前を通り過ぎていく影があった。

 子供、下手をすれば成人男性に近い程の大きさの生物が羽を羽ばたかせて横切る。先程から鳴り響くこの高音は羽音によるものらしい。

 

「でかいぞ! あれ!」

「しかも一匹ではありませんね! 何匹かいます!」

 

 羽音に掻き消されないように自然と声が大きくなる。

 

「散らばらずに固まって! なるべく後ろから狙われないようにして!」

 

 ネイが指示を飛ばし、円形の陣を作る。暗闇という視界が限られた場所で戦うには出来るだけ死角を消さなければならない。その為には仲間同士の連携が不可欠である。

 集まることで松明の光も強まり周囲を照らす。これにより少しだけだが視界が広まる。

 皆が一斉に武器を取り出す。

 ローグは、刃渡りが一メートル程ある冒険者の間で最も使用されている長剣。レオは手入れが面倒くさく、刃毀れするのが嫌だという理由からそれらが無い鉄の棍棒を武器としていた。魔術を扱えるリヨナは、先端に赤い宝石が埋め込まれた杖。ナハは剣身が大きく曲がった狩猟などにも用いられる鉈。そして、ネイは長剣の半分ほどの長さの短剣を武器にしている。

 上を漂っている音が下へと降りてくるのが分かる。既に音は四方から囲むようにして聞こえていた。

 ネイたちは灯りを音の方へと向け、音の主たちが姿を見せるのを、固唾を呑みながら待つ。

 やがてその時が来た。

 掲げた松明が反射し、無機質な光を放つ目。その下には一対の鋭い顎。黒味がかった茶色の胸部前から六本の足。後部には細かく震える羽。そして体の大きさの三分の二は占めるであろう腹部。

 初めて見るその生物に驚き、そして生理的嫌悪を覚える。

 巨大な昆虫が人の歩み程度の速度で、それも複数迫ってくる。並みの感性を持っているのであれば強い拒否感を覚える光景であった、事実、ローグとレオは顔を顰め、ネイとリヨナはそれ以上の嫌悪感を露わにしている。唯一、ナハだけが無表情を続けていた。

 

「何だこいつら! 新種か!」

「どうでしょうね? ただもし新種ならギルドに持っていくとお金になりますよ!」

「それはいいな! 一匹か二匹捕まえていくか!」

「私は絶対に触りたくありません」

「私も絶対やだ!」

 

 未知なる相手を前に怯まないように冗談を交えた会話をする。敢えて大きな声を出すことによって不安を消し飛ばす。冒険者らが戦う前に良くある行動の一つである。

 人程度の大きさで飛ぶのに多くの体力が必要なのか、昆虫たちは一気に距離を詰めずじれったさを感じる速度でじりじりと迫る。

 どんな攻撃手段を持っているかは分からないが、待ち続けることに業を煮やしたのかレオは鉄棍棒を振り上げ、真っ先に攻撃を繰り出した。

 鉄棍棒の先端が昆虫の頭部に命中。頭部は砕かれ、その勢いのまま地面に叩き落されると衝突の影響で体液をまき散らしながらバラバラに四散した。

 叩いた本人も驚くほどの結果である。

 

「こいつら脆いぞ!」

 

 巨大昆虫を一匹退治したレオが皆に声を掛ける。倒せない相手ではないことが分かり、警戒していた他の面々の士気が上がる。

 レオに続くようにローグもまた昆虫に向けて剣を一閃。だが、今度は先程とは違い羽の動きを変えたのか素早く飛び上ってローグの攻撃を回避しつつ松明の灯りの外へ姿を消してしまう。

 

「どうやらその気になればかなりの速さで動けるみたいです!」

 

 倒せなかったが情報を得ることは出来た。戦いに於いて敵の情報を知ることは非常に重要なことである。動きを知れば、必然的に対策も浮かんでくる。

 リヨナが短く言葉を紡ぐ。すると杖の先端にある宝石が赤く輝き始めた。リヨナが昆虫に向けてそれを振るうと、宝石から拳大の火球が飛び出し昆虫に命中。

 

 キィィィィィィィィィィィ

 

 鳴き声と焼ける音が重なる。全身を火で覆われた昆虫は足を上に向けた状態で地面に落ち、しばらくしてから動きを止めた。

 ネイもまた接近してくる昆虫の頭部と胴体の節を狙い短剣を振るう。短剣の刃は、昆虫の首半ばまで食い込む。一撃で切り落とすことが出来なかったが、ネイは更に松明の柄を短剣に叩き付け、その衝撃で止まっていた刃は更に食い込み昆虫の頭部を切断する。

 頭部を切り落とされた胴体は地面に落下したが、それでも手足や羽をばたつかせており、頭部の方も転がり落ちた先で顎を何度も開閉させていた。

 昆虫特有のしぶとさに辟易するネイ。が、このときネイは意識を昆虫の一匹に向け過ぎていた。

 視界の端に横から来る別の昆虫を捉えたとき、既に危険な間合いに入り込まれていた。

 咄嗟に短剣を振るうが短剣は昆虫の胸部に当たり足を一本切断するものの、胸部に刃が少ししか通らない。片手だけで振るったという理由もあるが、それでもこの昆虫はかなり固い外殻を持っている。

 胸に刃が食い込んだ状態で昆虫はガチガチと顎を合せる。人の肉すら容易く引き裂けそうなそれにネイの背筋は寒くなる。

 すると、昆虫は腹部を大きく後ろへ引く。ネイはそれを何かの予備動作と判断し、正面に立っていることを危険と感じると片足を引いて半身の体勢となる。昆虫が腹部を突き出すと先端から針が飛び出し、ネイが居た場所の空を貫く。

 尾の先の針。似たような生態を持つ昆虫を知っている者からすれば、そこに何らかの毒が含まれているのが容易に想像出来た。それでなくともあの大きさの針で体を貫かれたなら無事では済まない。

 針を外した昆虫は、再び腹部を引く。もう一度同じ体勢となる。

 何度も避け切れる自信が無いネイはすぐに離れようとするが、刃が外殻に思った以上しっかりと食い込んでいたのですぐに離れられない。武器を手放すことも考えたが、正確な敵の数が分からずしかも囲まれた状態、それこそ自殺行為であった。

 迷うネイの判断を嘲るように、針を突き出そうとする昆虫。だが、それよりも早く動く影があった。

 ネイの真横から何かが突き出され、腹の前を通っていく。それに反応してビクリと体を震わせて硬直するネイ。松明の光の下、突き出されるそれがナハの鉈であることに気付く。

 直後、昆虫が針をネイに突き刺そうと腹部の先から伸ばすが、ナハがそのタイミングに合わせて今度は逆に鉈を引く。引かれた鉈の曲線部分が、昆虫の針を引っ掛けてそのまま切断。ナハは引いた鉈を指に掛け、柄を回転させて持ち方を変えると昆虫の頸部を切り落とす。一連の行動は全く淀みの無いものであった。

 

「ありがとう! 助かった!」

 

 礼を言うネイであったが、ナハの耳には届いておらずしきりにぶつぶつ呟き続けていた。

 

「声が聞こえない? いや、声として認識出来ていないのか? 『波』が違うとでも言うのか? だがこの『波』の違いは誤差の範囲を超えている……」

 

 聞いていても何一つ理解出来ない内容であったが、ただ一つ分かったことがある。普段、無に等しい程感情の揺れが無いナハが明らかに動揺している。一体何が彼をこれ程動揺させているのだろうか。

 そんな疑問も近付いて来る羽音によって吹き飛ばされる。考えるよりも先にこの窮地を脱しなければならない。

 

「気を付けて! こいつら尻尾の先に針を持ってる! 毒があるかもしれない!」

 

 得た情報をすぐに仲間に伝える。

 

「毒ですか。一体どんな毒なのでしょうね?」

「そんなこといちいち考えてどうすんだよ! どっちにしろ体に悪いもんに決まっている!」

「無駄口を叩かない!」

 

 少しだけ余裕が出来てきたのか会話が増える。未知の敵が未知では無くなってきたことで緊張感はあるものの恐れは薄れ初め、体の強張りが無くなり、舌もよく回るようになってきた。

 

「陣形を崩さないでこのまま倒すよ! 地面に落としても、もしかしたら這って来る可能性もあるからきちんと止めを刺してね!」

 

 ネイは地面に落ちて蠢いている昆虫の背に短剣を突き刺し、実践してみせる。

 初めは浮き足立っていた一行であったが、相手の動きに慣れ始めてくると次々と昆虫を倒していく。

 特にナハの活躍は目覚ましく、暗闇だというのにまるで見えているかの様な動きを見せていた。

 今も昆虫の胸部に鉈を突き刺している。貫いた刃先からは昆虫の体液が滴り落ちていた。

 そこから脚を振り上げ、足底を昆虫に叩き付ける。蹴り飛ばす勢いで刺していた鉈を抜き、その鉈を今度は真横に向けて振るう。鉈の刃が別の昆虫の頭を真っ二つに割る。それだけでは止まらず、手に持っていた松明を頭上に掲げる。すると上から来ていた昆虫の腹部を焼き、そのまま炎上。地面に落ちた所を鉈で両断した。

 ネイたちが一匹倒している間にナハは三匹倒してみせた。

 だが、ナハの成果を見せられてもネイたちは特に反応を見せなかった。何故ならば彼女らにとっては見慣れた光景であったからだ。

 独り言が多く、他人とはあまり会話せず、会話したとしても意味の分からない言葉を言い続ける変人であるが、戦いの腕前はパーティーの中でも頭一つ抜きん出ている。

 数十分間の戦いの後、洞窟内に木霊する羽音の音が消える。全滅したのか、あるいは何処かへ逃げ去ったのかは分からないが、取り敢えず戦いは終わった。

 戦い終えた皆は、全身の表面が濡れていると分かる程の膨大な量の汗を流していた。動き続けていたこと、視界の暗い中で戦ったという緊張感から普段以上の疲労が感じていた。

 だが、負傷者無しという成果を考えれば代償としては軽いものである。

 

「はあ……はあ……どうする? 少し休むか?」

「ふぅ……ふぅ……いえ、少しでも早く洞窟の外に出よう。ここにいるのがあの虫だけとは限らないし」

 

 多少の無理をしても安全な場所を目指すという考えを示す。

 

「……そうだな」

 

 反論せず、レオはネイの意見に同意する。他の者たちが声を上げないことから他も賛成らしい。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 いつでも戦える様に武器を構えながら、ナハ、ネイ、リヨナ、レオ、ローグという順番で先へと進んで行く。

 最初の時よりもやや重くなった足取り。速度を緩めた分、体力の回復に回す。

 

「――ん?」

 

 足を擦るようにして歩いていた最後尾のローグが爪先に何かが当たったのを感じた。松明で照らす。暗闇が照らされ、出てきたのは金属性の具足。作りの具合から見てそこそこ値の張る物であった。

 

(何故ここに?)

 

 疑問に思うローグ。もう少し詳しく見てみようと灯りを向ける。すると灯りで照らされるギリギリの場所に反射する何かを見つける。近付いてみると、今度は金属の手甲であった。具足と同じような作りから同一の甲冑の部位だと推測出来る。

 松明を動かし、周囲を探索する。すると壁際に寄り掛かっている甲冑一式を発見した。

 甲冑の側により、しゃがみ込んでバイザーをずらす。

 

「う……」

 

 髑髏の空っぽな目と合ってしまい思わず呻く。

 

(だけど、どうしてこんな所にこんな立派な甲冑を着た人が?)

 

 あの昆虫にやられてのかと思ったが、その割には綺麗に残り過ぎている気がした。ならば別の要因があるかもしれない。

 もう少し詳しく調べてみる。すると甲冑の胸に気になる刻印を発見する。それは貴族、あるいはそれに属する者にしか許されない特別な刻印であった。

 

(この印は……! ますますおかしい! 嫌な感じがする!)

 

 広く、暗い洞窟に放置された遺体に得体のしれないものを感じ取ったローグ。

 しかし、彼は見落としていた。

 

(取り敢えずこのことを皆に――)

 

 だが、それを後悔する時間はもう彼には残されてはいなかった。

 

 

 ◇

 

 

 背中にゾクリと冷たいものが奔り、レオは足を止める。

 

「兄貴?」

 

 何故、ローグのことが気になったのかは分からない。ただ、頭の中で糸が千切れるイメージが不意に浮かんだ。

 

「兄貴?」

 

 振り返り呼ぶが返事もなければ姿も無い。だが、今いる場所から数十メートル離れた位置に光るものを発見する。皆が持っている筈の松明がどういう訳か地面に置かれていた。

 心臓の鼓動が早まるのを感じた。慌てて松明の置かれている位置に走っていく。

 

「兄貴……!」

 

 しゃがみ込み、置かれている松明の周辺を探すがローグの姿は無い。何処へ行ったのか、焦りながら立ち上がろうとしたとき――

 

「……え?」

 

 ――灯りが闇から映し出したのは間違いなく兄の一部。兄の靴の爪先。

 

(何だ? 何だ? 何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ何だ!)

 

 当然の疑問が湧いて来るが答えを出すことを恐怖が拒ませる。もし、彼に正常な思考があったのならばこう思うだろう――

 

『何故、足が宙に浮いているんだ?』

 

 ――と。

 呼吸が真面に出来なくなる。視界がおかしくなる。全ての音が遠くに聞こえる。

 レオは震える手で徐々に松明を掲げていく。足、膝、下半身、手の指先が灯りによって照らし出され、そして上半身を照らそうとする。――がそれは出来なかった。

 出来る筈が無かった。ローグの上半身は、天井から伸びる白くブヨブヨした筒のようなものに呑み込まれていた。『いた』というのは正確ではない。呑み込まれて『いる』のだ。

 

「うあああああああああああああああああああ!」

 

 耐え切れなくなりレオは絶叫を上げた。しかし、そんな絶叫など意に介することなく白い死は、ローグをその命ごと呑み込んでしまう。

 あまりに唐突で、あまりに残酷で、あまりに呆気無い終わり。だが、それを想う猶予など彼らには無かった。

 暗闇に潜む白い死はまだ満たされてはいない。

 

 

 




真っ暗な場所でフルフルと戦ったらどうなるかなーというゲームをやっていた時に考えていたシチュエーションを実際に書いてみました。
ランゴスタはおまけみたいなものです。大して強くないですが、状況に状況が重なると凄まじい憎しみを抱く虫ですよね。
因みにこの話は、終わりを二通り書くつもりです。


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白色の使い/夢の続き

「うああああああああああああああああ!」

 

 仲間の絶叫を聞き、ネイたちは慌てて振り返る。見れば離れた場所に居るレオ。彼が掲げる松明によって白く長い得体の知れないものが闇の中から浮かび上がっていた。

 

「な、何ですか、あれは……?」

 

 リヨナが声を震わせる。未知の存在への恐怖からくるものであったが、ネイもまた恐怖に震えていた。だが、彼女の恐怖は未知の存在に対してのものではない。

 白く長い筒のようなものの先端が大きく膨れ上がっている。その膨らみが上に向かって移動していた。冒険者としてそれなりの実戦を熟してきた筈のレオの見たことも無い激しい取り乱し方、いなくなっているローグの姿。その二つを照らし合わせ、出てきた答えが頭を過った瞬間、胃が裏返ったかのような嘔吐感を覚え、その場で前屈みになってしまう。

 悪夢のような光景だった。

 遠くから見ているネイですらこうならば、間近で、それも身内であるレオであったのならばどうなるのか。

 絶叫を上げ続けるレオの思考は白く焼き尽くされていた。ただ、ただ声を上げることしか出来ない。

 実の兄が喰われたという事実を受け入れるには、あらゆる感情の量がレオの許容を超えてしまっていた。

 叫ぶレオの前で呑み込まれたローグがゆっくりと昇っていく。

 白く、弾力の有りそうな表皮にはいくつもの血管が透けて見える。そして、呑まれていくローグの姿もまた皮膚越しに見えた。否、見えてしまっていた。

 半狂乱のレオは、呑まれていくローグと目が合う。いくら透けているとはいえ、ローグの姿は鮮明に見えている訳ではないので只の錯覚にしか過ぎないが、この時のレオにはそう映っていた。

 

 ――レオ……レオ……

 

 こうなってしまったのなら次には聞こえない筈の兄の声が聞こえてくる。

 

 ――助けてくれ……苦しい……助けてくれ。

 

 救いを求める兄の声。レオが自らの内に生み出した幻聴にしか過ぎないが、聞こえてしまったのなら、最早レオの選択は一つしかない。

 

「兄貴を返せぇぇぇぇぇぇ!」

 

 絶叫がそのまま怒声へと変わり、手に持った鉄棒を筒状の物体の側面に叩き付けた。鉄棒を叩き付けられた箇所が鉄棒の形に凹むが、すぐに元の形へと戻り、その弾力性で鉄棒を押し返す。

 返ってきた手応えにレオは違和感しか覚えなかった。骨などの芯に全く届いていない。液体でも殴りつけたような手応えの無さ。あれほど燃え盛っていた憎悪や怒りから一瞬我に返ってしまう程不可思議な感触。

 だが全く無意味に終わった訳では無い。下に向かって垂れていた筒が、その先端を持ち上げるという動きを見せた。

 正面から見せつけられた顔にレオは言葉を失う。

 目が無い。鼻が無い。耳が無い。唯一あるのは顔の幅一杯に広がる赤い唇だけ。白い肌と対照的な色合いのせいで唇だけが嫌に鮮やかに見えてしまう。

 閉ざされていた唇が開く。糸を引く唾液。それに濡れて光る剥き出しの歯茎とそこから生える不揃いの牙。その奥では唇と同じ赤い舌がうねっていた。

 なまじ人と近い構造をしている為、生理的嫌悪が凄まじい。怒りで震えていた筈の身体から嘘のように熱が消え、本能を揺さぶるような怯えによる震えが、怒りの震えを上書きする。

 見たことも無い生物。味わったことも無い恐怖。レオには目の前の生物がこの世のものとは思えなかった。

 

「このっ……悪魔がっ!」

 

 まるで御伽噺や小説に出てくる悪魔を連想させる。

 異形の姿に呆然としていたレオであったが、すぐに我に返り、手に持っていた鉄棒を異形の頭――と思われる部分――に叩き付けた。

 やはりというべきか叩き付けた鉄棒は、異形の身体にめり込むがそれだけ。叩き付けているというよりも身体に沈み込んでいるようであった。

 異形が軽く頭を振ると鉄棒が弾かれる。そして、そのまま頭ごと長い首を天井に向かって持ち上げたかと思えば、一気に加速をつけて振るう。

 しなった首から放たれた一撃が、レオの胴体を強打。咄嗟に鉄棒を間に構えるが、それごと胴体に押し込まれる。体の内側から何本も骨が折れる音を聞いた次の瞬間には壁面に後頭部を打ち付け、意識が途切れた。手元から曲がった鉄棒と松明が転がっていく。

 倒れたレオに白い悪魔は天井にぶら下がったまま口を近付けていく。しかし、突如として伸ばしていた首を縮めた。

 その直後、さっきまで口があった場所を、松明の光を反射し銀色に輝く物体が通過した。輝くは狩猟鉈。それを振るうはナハである。

 レオが殴り掛かったと同時に走り出していたナハであったが、一歩及ばずレオを助け出すことは出来なかった。

 狩猟鉈を突き付けた状態で両者の間に割って入る。

 相手の動きを警戒しつつ、倒れているレオの様子を耳で探る。身動きする音は無かったが、呻き声は聞こえた。まだ生きている証拠である。

 だが。だからといって安心は出来ない。ナハたちから見て、一瞬姿が消えて見える程の殴打を受け、頭も強く打ち付けている油断のならない状況。ましてや、目の前には得体の知れない悪魔の如き生物もいる。

 レオを救うのも、ナハ自身も生きて切り抜けるのも至難の業と言えた。

 白い悪魔が身を丸める。すると体を振って地面に向かって降りる。その際、素早く体勢を変えて足から着地し地響きを洞窟内に響き渡らせた。

 ナハの松明の明かりによってその全体がようやく露わになり、離れた場所で見ていたネイ達もその姿を捉える。

 口しかない頭部から下は凹凸の無い丸みを帯びた胴体。その胴体からは左右対称の翼が伸びており、体を支えるのは指先が丸く膨らんだ二本の足。

 部位だけ見ると竜や飛竜〈ワイバーン〉を彷彿とさせるが、全てを一つとして見ると全く似ていない。これを竜に似ていると評するのは、竜たちにとって最大級の侮辱になるだろう。

 

 キュアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。

 

 地面に降り立った白い悪魔の最初の行動は咆哮であった。口から放たれているから咆哮と称したが、音そのものは竜の咆哮とはかけ離れたものであり、断末魔の悲鳴あるいは金切り声を混ぜた絶叫といったもの。

 ネイやリヨナがその声を耳に入れた途端、あまりの不快音に全身の鳥肌が立ち、背筋に今まで経験したことがない程の悪寒が走る。丸一日も聞いていたら正気を失ってしまいそうになるこの音から、少しでも逃れるように両耳を塞ぎ、体を小さく丸める。

 痛みに苦しむレオも白い悪魔の叫びに堪らず体を縮こませる。骨や内臓から激痛が襲ってくるが、それでも止まらない。生物としての本能的行動であった。

 唯一、ナハのみが白い悪魔の声に耐えていたが、それでも苦痛に耐えるように眉間には深い皺が寄り、額からは幾筋もの汗を流している。

 自由を奪う声の中でもがくようにナハは踏み出し、振り翳した鉈を白い悪魔の頭部に向け振り下ろす。

 ナハの動きに気付いた白い悪魔は叫ぶのを止め、頭を僅かにずらす。狙いである頭部からは外れたが、鉈の刃は白い悪魔の首に叩き付けられた。

 しかし、当たると同時にナハは舌打ちをしてすぐに鉈を抜く。そして、服の内側から瓶を一つ取り出すと、後ろに飛び退くのに合わせて白い悪魔に向けて放った。

 投げられた瓶は白い悪魔に当たるが、弾力性に長けた皮膚に弾かれて地面に落ち、割れる。

 割れた際に中身が零れ出す。地面に突っ伏していたレオの鼻に、獣と皮脂が混じったニオイが入ってくる。

 地面に何が零れたのか理解しかけた時、いきなり襟首を掴まえられ、引っ張られる。首を絞められる苦しさと体を強引に動かされたことで起こる激痛に、思考が中断された。

 白い悪魔は、相手が逃げるのを感じ、追いかけようと一歩踏み出す。するとペチャリという異音が足元から聞こえた。音からして瓶の中に入っていたのが液体だったのが分かる。

 白い悪魔は濡れた足元を気にすることなくそのまま歩を進めようとするが、その足元に向かってナハは松明を放り投げた。

 暗闇の中で光の残像が放物線を描き、白い悪魔の足元に落ちると同時に暗闇が一気に明るくなる程の炎が起きる。

 突然の炎上に驚いたのか、白い悪魔は進むのではなく後退。炎から距離を取った。

 ナハが投げたのはランプなどの燃料に使用される獣油である。特殊な加工をしているので通常の獣油よりも激しく燃える。主に外で火を起こす際に使用している物であった。

 相手が怯んでいるうちにナハはレオを引きずりながらネイたちの下に戻る。

 ネイはレオの容態が気になったが、今は確認している時間も惜しい。

 引き摺られているレオの両足を掴み、体を浮かせる。不格好だが、兎に角一分一秒でも早くあの怪物から離れないといけない。

 

「逃げるよ!」

 

 その言葉を合図にネイたちは駆け出す。背後がどうなっているか気になるが、今はまずこの洞窟から出ることが先決であった。

 真っ直ぐ続く道を全力で走る。いつ襲い掛かって来るか分からない重圧に耐えながら。暗闇の中でポツリと輝く松明の炎だけが唯一緊張を少しではあるが和らげてくれる。

 

「……適当な間隔で松明を捨てるよ」

 

 だが、同時にこの灯りこそが敵に位置を教える格好の印でもあった。

 僅かの間だが、ネイたちは白い悪魔の顔を見ていた。最も印象に残ったのは、その顔に眼が無いことである。悪魔以外にも眼が無い生物は存在する。生きる過程で不必要として光を捨てた代わりに、ほんの少しの熱を探知する程の敏感な触覚や、湖に数滴垂らされた血ですら嗅ぎ付ける嗅覚を得ている。この盲目の悪魔もその類の可能性があった。尤も本当に悪魔ならば何処かに目でも隠しているかもしれないが。

 松明が放つ熱。感知するには十分過ぎる目印であった。恐怖はある。自分の手すら見えない黒一色の世界の中で、あの白い悪魔と命懸けの追いかけっこをしなければならない。しかし、今は少しでも助かる確率を上げる為に敢えて危険を冒す。

 ネイの言葉にリヨナは反論することなく、案を受け入れることを示すように手に持っていた松明を放り棄てる。

 残りの松明は一本だけ。一気に心細い灯りとなる。

 そこから先へ先へと走るネイたち。自身の松明をリヨナに手渡し先導を任せる。

 十分以上走り続けたとき、ある変化が起こる。

 激しく燃えていた筈の松明の灯りが徐々に小さくなってきたのだ。

 

「早過ぎる……!」

 

 小さくなる灯りを見て、リヨナは悲痛な声を上げた。実際にリヨナが言っているように松明の灯りが切れるのは早過ぎた。特殊な物質を燃焼させているので少なくとも半日は持つ筈である。仮にあの白い悪魔に襲われなかったとしたら、洞窟の前半部でネイたちは暗闇の世界に放り出されることになっていたであろう。

 最早虫すら寄って来ないほど小さな光となった松明を八つ当たり気味に壁に投げ付ける。壁にぶつかり地面を転がる松明。その小さな灯りは消え、辺りは完全な暗闇に呑まれる。

 白い悪魔の為の場が完全に整った。

 右も左も足元すら何があるのか分からない。この中を全力で走ることすら恐怖だというのに、あまつさえ追っ手すら居る。

 状況は最悪である。

 

「げほっ!」

 

 運んでいるレオが苦しそうに咳き込む。走る度に揺らされているので傷ついた彼の体には絶えず痛みが襲い掛かっているのであろう。

 一定の感覚で咳き込んでいたレオであったが、段々とその間隔が短くなっていく。

 

「げほっ! げほっ! かはっ!」

 

 最後の咳に水を含んだ時のような音が混じっていた。最悪だと思っていたこの状況、まだ先があるらしい。

 

「どうやら、折れた骨が、刺さったみたいだ、ははは」

 

 自分の状態を冷静に分析し、力無く笑う。あるいは諦観の笑いなのかもしれない。

 

「大丈夫! 大丈夫だから! ここさえ抜ければすぐに治せる!」

 

 必死になって励まそうとするネイ。

 

「ありがとよ……でも、ダメだ」

 

 応える声には、今ある苦しみは感じさせない吹っ切れたものがあった。だからこそネイたちは悟ってしまう。レオが既に自分の命を諦めてしまっていることに。

 ネイとナハに回していた腕が外れ、今までの重みが二人の肩から消え、地面に倒れる音がする。

 

「ダメだよ! レオ!」

 

 勢い余って前に出てしまったネイがすぐに戻ろうと振り返る。しかし、辺りは暗闇。足元すら見えない。倒れているであろうレオの姿を一瞬で見失ってしまった。

 

「ナハァァァ! ネイたち連れて先に行けぇぇぇぇぇ! こんな俺でも少しだけ時間稼ぎは出来るっ!」

 

 重傷を負った体から放たれているものとは思えない程の大声量。敢えて大声を出し自分に惹きつけさせようとするレオの自己犠牲にネイの双眸から涙が溢れ出す。

 

「ダメだって! そんなこと出来ない!」

 

 レオを助けようとネイが駆け出そうとするが、その手を誰かが掴んで止める。

 ネイを止めたのはナハであった。

 

「ここで戻ったら彼の決意は無に帰す。彼の魂まで殺すのか?」

 

 すぐにでも反論したかった。声が喉まで出掛かる。だが、それ以上出ることは無かった。心の何処かでどうしようもないと受け入れてしまっている自分がいるからだ。

 

「早く行けぇぇぇぇ!」

 

 血を吐くようなレオの叫び。それを聞いてしまったらこれ以上戻ることは出来なかった。ナハにされるがままネイの体は引っ張られていく。

 

「……それでいい」

 

 遠く離れていく仲間たちの足音。それとは逆に近付いて来る悪魔の足音。ペタペタと張り付いては引き剥がされていく音。それが天井から聞こえて来る。

 やがてその足音が頭上で止まる。

 

「来いよ、悪魔!」

 

 吼えると同時に武器を構える。せめて傷一つでも負わせてやろうと意気込む。

 そのとき、腹の上に何かが落ちた。衣服が濡れていく感触。最初は水滴かと思っていた。

 

「っ!」

 

 冷たかった感触が徐々に痒みへと変わり、それが熱に変わる。

 

「ぐああ!」

 

 そして熱は痛みを伴ったものへと変わった。明らかに普通の液体では無い。感覚からして強い酸性を帯びた液体である。

 一体それが何なのか考えるよりも先に、レオの全身を砕くような重圧が圧し掛かる。

 体の中にあるものが纏めて口から飛び出しそうになる衝撃。

 全身に張り付く様なブヨブヨとした感触。白い悪魔の全体重をその身に受けたレオは虫の息であった。

 抵抗など一切出来ずただ己の死を待つだけの状態。

 その時はあっさりと訪れた。

 暗闇を照らす青白い光。爆ぜる音と共に光が強さを増していく。その光は白い悪魔を中心として放たれていた。

 それが何の光かレオが理解する前に輝きは最高点に達する。

 枝分かれしたかのように伸びる光。爆ぜる音は爆音と化して洞窟内を駆け抜ける。

 天から降り注ぐ雷光。それを同じ光が白い悪魔から放たれていた。

 雷の一撃はレオの身を電光の速度で駆け抜け心の臓を破壊し、体の内側を徹底的に焼き尽くす。

 体の内外から白煙を昇らせ、レオは屍と化した。

 自然が起こす奇跡をその身一つで起こす。神の御業あるいは悪魔の所業か。

 それを諮る者はこの場に居ない。

 

 

 ◇

 

 

 仲間を置いて逃げるネイたち。暗闇の中明かりも無い状態で走り続ける。やろうと思えばリヨナが魔法で熱の無い灯りを灯すことも出来るが、目が無いからといって僅かな光を感知出来ないとは限らない。出来る限り目印となるものを無くしたかった。

 洞窟内に轟音が響き渡る。そのあまりの音量にネイとリヨナは跳び上がりそうになった。

 

「ら、落雷!?」

 

 何故こんな場所でと疑問に思うも、それを考える時間を二人に与えないようにナハは二人の手を引いて暗闇を駆ける。

 まるで見えているかのように淀みの無い走り方で先導するナハ。ネイとリヨナは躓かずに走るので精一杯であった。

 時間の感覚が分からなくなる闇の中でどれだけ走ったのだろうか。ネイたちはナハに引っ張られて地面に座らせられる。

 ネイは背中に硬い感触を覚えた。手で触ると凹凸があり、かなり大きい。初めは岩壁かと思ったが、手を目一杯伸ばすと縁に触れることが出来た。落石かあるいは元からあった岩の陰に隠れているらしい。

 

「どうしたの?」

「ニオイを消す」

 

 そう言われネイとリヨナは自分たちの体に鼻を近付ける。洗濯してもらった時に付いた石鹸の香りと松明の煙のニオイが混じり合い一種独特のニオイとなっていた。この洞窟内でこのニオイは浮いており、まさに探してくれと言わんばかりのものである。

 

「このニオイが有る限り奴は追い続けて来る」

 

 そう言ってナハはネイの胸元に何かを投げつけた。胸元に冷たい感触が広がっていくと同時に青臭さと土が混ぜ合わさったニオイがする。

 

「これは?」

「苔だ」

 

 一言返されただけであったがすぐに真意は分かり、手探りで周囲を探す。ゴワゴワとしたものを見つけるとすぐにそれを毟り取り、衣服だけでなく顔などに塗りたくる。

 石鹸と煙のニオイが苔のニオイで上書きされていく。元からある苔のニオイならば洞窟内に紛れることが出来る。

 体のニオイを消す作業をしていく中でナハは独り呟く。

 

「精霊の声が悪魔から聞こえない。あれはこの世の理の物ではない。未知の理を宿したもの。故に悪魔と呼ぶのが相応しいのかもしれない」

 

 この世のものではない。確信を持ってそれを言うナハ。

 

「この世のものではない、って……ならば本当にあれは召喚された悪魔なのですか?」

「ただ悪魔としては俗過ぎる。声が完全に聞こえた訳では無いが、どういう意思を持っているのかは凡そ察せた。――否、あれは本能と呼ぶのが正しい。『喰う』と『増やす』という単純であり当然の本能だ」

 

 悪魔の見た目をしているがあるのは獣と変わらない本能。だからこそ厄介であった。少なくとも話し合いなどでは解決出来ない。

 

「これが流れか……身を委ねた先にあったのは暗黒。結末はもう見えない。流れを不明確にするあれは異分子なのだろうか……分からない、分からないな」

 

 普段は口数の少ないナハが、あの白い悪魔に襲われてから饒舌になっているのが分かった。常に冷静であった彼も今の状況に緊張あるいは恐れを抱いているのかもしれない。

 その時、来た方向から微かな物音が。

 誰もが一斉に口を閉ざし、息を殺す。あまりに小さく聞き取り難かったがどうやら音は天井から聞こえてくる。

 

 ペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタ。

 

 どんどんと近付いてくる足音。音が近付くにつれて心臓の鼓動も速さを増していく。身動き一つとっていないが、自分の内で鳴る鼓動音で位置がばれるのではないかと思える程うるさく聞こえた。

 天井から聞こえた音が止まる。すると大きな音と共にネイたちの体が揺れた。天井から地面に降り立ったらしい。

 着地した白い悪魔はその場から動かずしきりにニオイを嗅ぎ始める。途中まであったニオイがここで消えたのを感じ辺りを探っている様子であった。

 雑音の無い洞窟内で白い悪魔が探る音だけが嫌という程聞こえて来る。

 その音が聞こえる度に何か自分たちはミスを犯していないかという疑心暗鬼に囚われる。今すぐにでも走って逃げ出したい衝動に駆られるが、それをすれば間違いなく餌食となる。

 早く何処かに行ってくれと強く願う。

 その願いが通じたのか白い悪魔がニオイを嗅ぐのを止めた。

 こちらを見失ったのかと安堵した瞬間――

 

 キュアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。

 

 ――白い悪魔が咆哮を上げる。

 全身の筋肉が萎縮する精神を削る悍ましい絶叫。獲物を取り逃がしたことへの怒りの現れかと思えた。

 

「――見つかった」

「え?」

 

 断言するナハにネイは虚を突かれた思いであった。ニオイという目印を消し去ったというにもかかわらず、何故あの悪魔に自分たちを見つけることが出来るのか。

 

「音で視られたか」

 

 ぼそりと呟くナハの言葉の意味を二人は深く聞くことは出来なかった。止まった足音がこちらに向かって迫ってきているせいで聞く暇など無かった。

 生物の中では特殊な音を出し、それを物などに当てその反響で形を探るものが存在する。白い悪魔はネイたちのニオイが消えたと判断すると咆哮を洞窟内に反響させ、音で探ることに切り替えたのだ。

 そして見つけた。岩陰で身を潜める三人の姿を。

 白い悪魔が助走をつけて飛び掛かるのとネイたちが岩陰から飛び出したのはほぼ同じタイミングであった。

 さっきまで立っていた岩が倒れる音を聞き、ナハの言う通り自分たちの居場所が完全にばれていたことを思い知らされる。

 逃げなければならない。だが一体何処に? 未だに出口が何処にあるのかすら分からないというのに。

 その時、微かに頬を撫でるものをネイは感じた。勘違いかと思える程の微風。しかし、この状況ではそんな些細なことでも縋るしかない。

 

「ナハッ!」

「私も感じた」

 

 思っていることを先回りして答えると、ネイの手を掴む。そして、ネイもまだ近くにいるリヨナへと手を伸ばした。

 

 

 ◇

 

 

 悪魔と呼ばれたソレは、自分から離れていく複数の足音の方向を正確に見ていた。

 足音が向かう先には、それが出入りに使用している穴がある。そこに辿り着けば逃げられる可能性があった。

 走っても飛び掛かっても既に届かない距離にいる獲物たち。だが、ソレに焦りなど無かった。

 自分の間合いの中で足掻く獲物たちに焦る必要など無い。

 ソレは獲物たちに向け、口を開く。乱杭歯と赤い歯茎が剥き出しとなり、歯の隙間からこぼれ落ちる唾液が地面に落ち、一瞬音を立てて岩を溶かす。

 ソレの体内にある特殊な袋によって生み出された力がソレの喉をせり上がる。青白く輝く雷の力。それが口内で留まり空気を焦がす。

 短い尻尾の先端が円形状に開き、地面に向かって伸びる。円形の先端がしっかりと地面に吸着すると同時に両前足を地面に着け体勢を固定させた。

 地面に叩き付ける勢いで振るわれる首。顎が地面に接地した瞬間、限界まで溜め込まれた雷は爆ぜた。

 口内から飛び出した雷は球体となり、三つに分かれて地面を走る。これこそがこの悪魔が放つ雷の吐息である。

 電光の速度で地表を滑っていき、その内の一つが獲物に直撃した。

 倒れ伏す音。生き残った獲物が何か喚いているが、その声も遠ざかっていく。

 ソレは倒した獲物の側に寄り、ニオイを嗅ぐ。もし、この悪魔の感情を読むことが出来るのであれば不機嫌と称する感情であろう。

 死んでいる。焦げ臭いニオイの中から確かに命無きもののニオイが混じっていた。

 ソレはいつも通りに狩っている筈だが、ここに来てからというものすぐに獲物が死んでしまう。

 本当ならば半死半生が望ましいが新鮮ということには変わらない。

 アレらの腹を満たすことが大事である。

 倒れた死体を頭で叩く。死体は岩壁付近に飛ばされた。

 岩壁にはいくつもの亀裂があり、その亀裂からウゾウゾと何かが這い出て来る。

 足は無く鰭のような小さな手を生やした白い筒状の生物。目が無く赤い歯茎とそこから生える乱杭歯は、ソレの顔そっくりであった。

 亀裂から何匹も這い出て来るソレの子らは、与えられた餌に群がり食していく。

 子らに食事を与えることが出来たが、まだ足りない。

 与えるべき獲物はまだ二つ残っている。

 

 

 ◇

 

 

 またもや仲間を失った。差し伸ばした手を取ることなく青白い光の球をその身に受けて。光の球に触れたとき、一瞬リヨナの体が闇の中で浮かび上がった。背骨が折れるのではないかと思えるほど仰け反り、声を上げることなく倒れ伏した。

 まだ生きているかもしれないという浅い希望を抱くことすら出来ない。光の無い闇一色の空間は、心の中も暗く染め上げていく。

 今自分たちに出来ることがあるとすれば一刻も早くここから出て、ここで起きた惨劇を皆に報せることであった。

 微かな風を感じた方向に向かって確証も無く走り続ける。その間ナハとネイは互いに無言であった。会話することが出来ない程精神的にも体力的にも消耗していた。

 一体あとどれくらいこの暗闇の中を彷徨えばいいのか。そう思いながら壁伝いに曲がる。

 

「……あっ」

 

 曲がった先にあったのは暗闇を引き裂く光。その光に向かってネイは思わず駆け出す。

 ようやく見つけた外への出口。暗闇に慣れた目には外から注がれる光は、目が痛くなるぐらい眩しい。

 ようやくこの悪夢のような場所から解放される。その思いだけで光の下に向かい――

 

「……え」

 

 ――絶望する。

 光は頭上遥か上、数えるのが馬鹿らしいぐらいの高さにある穴から降り注いでいた。周りには垂直の岩壁。凹凸はあるものの素手ではとてもじゃないが登ることなど出来ない。仮に登ったとしてもあの悪魔に追い付かれる前に登り切ることなど不可能であった。

 外と繋がっているというのに。光に触れることが出来るというのに。突きつけられた現実はあまりに無情。ネイはその場で崩れ落ちるように膝を突く。

 

「もう……ダメかもしれないね……」

 

 立て続けに仲間を失い、悪魔から逃れられない現状に諦め、弱音を零す。

 

「……いや、全てが終わった訳では無い」

 

 ナハは、静かにそれを否定する。

 その言葉に、ネイは縋るようにナハを見た。

 

「最後の犠牲を払えば一人だけだがここから逃れられる。……逃れられるのは君だ」

 

 ナハが自らを犠牲にするという宣言に目を見開く。

 

「運命の糸は私よりも君の方に絡み合っている。辿れるのは君しかいない。避けようの無い暗闇の中で君の運命だけが唯一見えた」

「ど、どういうこと? それに自分が犠牲になるって……!」

「あまり時間が無い。重要なことだけ言っておく。今からひたすら壁伝いに走れ。止まるな。真実を探せ。この三つを守ればきっと君の未来が繋がる」

 

 これ以上話すことは無いと言わんばかりにナハは狩猟鉈を引き抜く。するとそれを合図にしたかのように来た道から張り付くような足音が聞こえてきた。

 あの悪魔が追い掛けてきたのだ。

 逃げ道は頭上の穴のみ。行き止まりに追い詰められた。

 死の恐怖に震えるネイ。そのネイの前にナハが立つ。

 

「言った筈だ。あと一人犠牲になれば君だけはここから出られる」

「そ、そんな……」

「話し合う余地は無い。これは運命の流れだ」

 

 闇の奥から徐々に白い悪魔の姿が浮かび上がってくる。悪魔がある距離まで近付いたとき、ナハは走り出していた。

 一直線に悪魔へと向かう。悪魔は口を開き、ナハに噛み付こうと首を振るう。するとその動きにいち早く反応し跳び上がり、そのまま悪魔の背に跨り、狩猟鉈を突き刺した。

 ブヨブヨした表皮にめり込む鉈の先端。強い弾力が跳ね返そうとするが歯を食い縛り必死の形相で鉈を押し込む。

 弾力性に富んだ皮がやがて限界に達したとき、表皮を突き破ってその奥にある肉に食い込んだ。

 初めて損傷らしい損傷を受けた悪魔が絶叫の如き咆哮を上げながら暴れる。負わされた傷から血が溢れ、暴れる度にそれがまき散らされていく。

 

「行けっ!」

 

 白い悪魔の上で抵抗するナハが、ネイが今まで聞いたことが無い程の大きな声を飛ばす。

 また仲間を置き去りにして逃げる罪悪感からネイの足は上手く動かない。

 

「……早く行くんだ。これまでのことを無意味にしてはいけない」

 

 一転し、静かな口調で諭すナハ。その言葉にネイは強い願いを感じとった。

 

「う、ぐぅ……! うぅ!」

 

 ネイは涙で顔を濡らしながら暴れる悪魔の隙を掻い潜って来た道に向かって駆け出す。

 ネイが暗闇の中に消えていくのを見て、ナハは肩の荷が下りたように少しだけ微笑んだ。

 

「この世ならざるもの。私はきっとお前には勝てないだろう」

 

 自らの死を悟りながらもナハは鉈を更に押し込む。血がより激しく噴き出す。

 だが、振り落とそうとする悪魔もただ暴れるだけでは無かった。悪魔の白い表皮に青白い光が走る。

 ナハは咄嗟に鉈から手を離し悪魔から飛び降りるが、悪魔の放つ茨のような光は遅れたナハの足に絡みつき、毒のような熱でナハの体を内側から蹂躙する。

 声すら上げることが出来ず体の至る所が焼け爛れた状態で地面に落下したナハ。

 彼にとって最大の不運があるとすれば直撃を避けてしまったことだろう。あと数秒逃げるのが遅れていたら痛みも無くこの世から去ることが出来た。

 指一本動かせない状態で倒れたナハに悪魔は顔を近付ける。ナハのニオイを嗅ぐと、彼の腕に噛み付き、そのまま引き摺り始める。

 動けないので抵抗することも出来ずされるがまま洞窟の暗闇へと引き摺り込まれた。

 しばらくの間、連れられていたがやがて何処かへと放り投げ捨てられる。

 光一つ無い中、ナハは感じていた。漂う死臭と自分に向けられる複数の気配を。

 何かが這い出て来る音がした。数は十を超えている。それは白い悪魔の気配とよく似ていたが、大きさはかなり小さい。

 

(子、か……)

 

 感じ取ったものからナハはそう判断した。

 悪魔の子らがナハへと近付き、鋭い牙を突き立て血を啜り始める。

 ナハの一族にとって野生の動物に食されることもまたこの地に還ることとされ、埋葬方法の一つとされていた。だが、この世ならざるものたちに食われるのであれば話は別である。きっと自分の魂は永遠に囚われ続けることになるだろう。

 だからナハは別の選択を選ぶ。

 

「お前、たちが……何の目的をもって……彷徨い出てきたのかは……私にも、見えない。……だが、覚えておけ。いつか、お前たちが伸ばした糸を手繰り寄せる者が、現れる……。それはきっと、お前たちを滅ぼす者だろう……」

 

 最期に見えた運命の一片。きっと伝わることは無いだろうと思いつつも呪詛のように残す。

 

「骨は水に……灰は風に……魂は土に……」

 

 悔やむべき人生では無い。恐れることも無い。今ある自分を還すだけのことだ。

 

「命は……炎に」

 

 最期の言葉を紡いだ瞬間、彼の体に刻まれていた術が発動し炎に包まれる。

 自らの人生の終わりを悟ったときの為に施される自決用の術式が、彼の血を啜っていた悪魔の子らを纏めて焼く。

 慌てて炎を消そうとする悪魔であったが、炎は一瞬で高熱に達しナハたちを焼き尽くす。

 ほんの数秒間の炎上であったが、炎が消えた後には欠片一つ残らず、焼け焦げた跡だけが地面に刻まれるのみ。

 少しの間の後、白い悪魔は悲鳴のような咆哮を延々と上げ続けた。

 

 

 ◇

 

 

 暗闇の中、壁伝いに先の見えない道を走る。涙はとうに枯れ果て、それでも絞り出そうとするかのように目の奥が痛む。

 途中何度も転倒し、その度にこのまま死んでしまいたいと思ってしまう。だが、物音一つしただけで体はバネ仕掛けのように起き上がりそのまま駆け出す。

 仲間が死んだ哀しみよりもあの悪魔に襲われる恐怖の方が上回っているからこその反応であった。

 自分が浅ましい人間であることを嫌でも思い知らされる。

 背後あるいは頭上からの残像のような恐怖に怯えながら、走り続ける。

 

「あっ……」

 

 暗闇の奥に小さな光が見えた。

 疲労する体を動かして、その光を求めるように走る。

 光を潜った時、刺すような閃光に思わず目を瞑る。しばらくの間瞼越しに光を感じていたが、やがてゆっくりと瞼を開ける。

 目の前には緑の森が広がっていた。

 助かった、という言葉が浮かんだがそれ以外の感情が湧いてこない。失ったものの大きさに生還の喜びなど消し飛んでしまう。

 全て夢であってほしかった。只の悪夢であってほしかった。だが、草木のニオイ。風の感触。降り注ぐ太陽の熱。五感を刺激するもの全てが現実だと言ってきた。

 ふと足元に目を向ける。そこには複数の足跡があった。見覚えのある足跡。周りの景色も同じく見覚えがある。

 そこで、ここが自分たちが最初に入った入口であることに気付く。

 ならばこの道を戻れば――

 最後の力を振り絞って森の中を進む。

 そう長くない距離の筈なのに、何十キロも歩いて来たように感じながら目的の場所に辿り着き、目の前の扉を叩く。

 

「はーい……え! ど、どうし――たんですか?」

 

 扉を開けた宿屋の娘は、ボロボロのネイの姿を見て驚き声を詰まらせながらも介抱しようとしてくる。

 素直に宿屋の娘の肩を借り、宿屋の中に連れられると入口付近にある椅子の上に座らせられる。

 

「ちょっと待ってください」

 

 そう言って一旦娘は姿を消すと、水の入ったコップを持って現れる。

 

「どうぞこれを飲んで下さい」

 

 ネイの手にコップを握らせる。

 すぐにでも飛びついて飲み干したかったが、疲労し切った体は中々動かない。

 

「ありが、とう……」

 

 取り敢えずまだ動く舌を使い、礼だけは言う。

 

「私、お父さんを呼んできますね」

 

 娘はそう言って宿屋の外に出ていく。

 少し間脱力しながらも今後のことを考える。まずはギルド本部にこのことを話さなければならない。そして、戦力を集めあの悪魔を討伐するか、二度と出られないようにあの洞窟を塞いでしまうか。

 自然と手に力が込められる。冷たい水をコップ越しに感じ、疲れている頭に少しだけ喝が入り、ようやく悪夢が終わったことを実感した。

 そんなことを思いながら渡された水を飲む。

 今は少しでも体力を回復しなければならない。

 命を落とした仲間たちの為に――

 一刻も早く――

 あの悪魔への――

 対策を――

 策を――

 たいさ――

 たい――

 い……

 ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――え?」

 

 頬への冷たい感触で眼が覚める。いつの間にか眠っていたらしい。

 だが、おかしい。目覚めた筈なのに目を閉じているように暗い。

 

「……何で?」

 

 夢を見ているのかと思った。

 

「どうして……?」

 

 最悪の悪夢を。

 

「ここは……」

 

 ありえない。あってはならない。

 

「あの、洞窟……?」

 

 必死になって逃げ出した筈の洞窟にまた戻ってくる筈など無い。

 

「ね、ねぇ? う、嘘だよね? わ、私、夢を見てるんだよね?」

 

 認められない現実に居ない誰かに話し掛ける。

 

「これは、全部、夢だよね?」

 

 夢か現実か。その答えを教えてくれる存在(悪魔)は、静かに、ゆっくり、確実に彼女へと迫っていた。

 

 ペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタ。

 

 




取り敢えずバッドエンドから投稿しました。こんな感じのラストですけど女性に酷いことをして興奮する趣味はありません……本当ですよ
もう一つのエンドは近いうちに投稿します。
因みに登場キャラの名前は
ネイ→NEI→NIE→贄
リヨナ→リョナ
ローグ→グロ
レオ→REO→ERO→エロ
ナハ=ニク→ナハNIK→十八KIN→十八禁
という感じでつけました。前の死亡フラグ以上に酷い付け方ですね。


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白色の使い/いつかの未来

 暗闇の中、壁伝いに先の見えない道を走る。涙はとうに枯れ果て、それでも絞り出そうとするかのように目の奥が痛む。

 途中何度も転倒し、その度にこのまま死んでしまいたいと思ってしまう。だが、物音一つしただけで体はバネ仕掛けのように起き上がりそのまま駆け出す。

 仲間が死んだ哀しみよりもあの悪魔に襲われる恐怖の方が上回っているからこその反応であった。

 自分が浅ましい人間であることを嫌でも思い知らされる。

 背後あるいは頭上からの残像のような恐怖に怯えながら、走り続ける。

 

「あっ……」

 

 暗闇の奥に小さな光が見えた。

 疲労する体を動かして、その光を求めるように走る。

 光を潜った時、刺すような閃光に思わず目を瞑る。しばらくの間瞼越しに光を感じていたが、やがてゆっくりと瞼を開ける。

 目の前には緑の森が広がっていた。

 助かった、という言葉が浮かんだがそれ以外の感情が湧いてこない。失ったものの大きさに生還の喜びなど消し飛んでしまう。

 全て夢であってほしかった。只の悪夢であってほしかった。だが、草木のニオイ。風の感触。降り注ぐ太陽の熱。五感を刺激するもの全てが現実だと言ってきた。

 ふと足元に目を向ける。そこには複数の足跡があった。見覚えのある足跡。周りの景色も同じく見覚えがある。

 そこで、ここが自分たちが最初に入った入口であることに気付く。

 ならばこの道を戻れば――

 最後の力を振り絞って森の中を進む。

 そう長くない距離の筈なのに、何十キロも歩いて来たように感じながら目的の場所に辿り着き、目の前の扉を叩く。

 

「はーい……え! ど、どうし――たんですか?」

 

 扉を開けた宿屋の娘は、ボロボロのネイの姿を見て驚き声を詰まらせながらも介抱しようとしてくる。

 素直に宿屋の娘の肩を借り、宿屋の中に連れられると入口付近にある椅子の上に座らせられる。

 

「ちょっと待ってください」

 

 そう言って一旦娘は姿を消すと、水の入ったコップを持って現れる。

 

「どうぞこれを飲んで下さい」

 

 ネイの手にコップを握らせる。

 すぐにでも飛びついて飲み干したかったが、疲労し切った体は中々動かない。

 

「ありが、とう……」

 

 取り敢えずまだ動く舌を使い、礼だけは言う。

 

「私、お父さんを呼んできますね」

 

 娘はそう言って宿屋の外に出ていく。

 少しの間脱力しながらも今後のことを考える。まずはギルド本部にこのことを話さなければならない。そして、戦力を集めあの悪魔を討伐するか、二度と出られないようにあの洞窟を塞いでしまうか。

 自然と手に力が込められる。冷たい水をコップ越しに感じ、疲れている頭に少しだけ喝が入り、ようやく悪夢が終わったことを実感した。

 そんなことを思いながら渡された水を飲――もうとしてその動きは途中で止まる。

 ネイがコップに口を付ける直前で動作を止めた理由は何か。彼女の視線はある一点に向けられていた。

 親子の部屋と思われる部屋のドア。余程ネイの来訪が急であったのか僅かに開いている。

 この時、何故かネイの頭の中にナハの言い残した言葉が頭を過った。

 

『あまり時間が無い。重要なことだけ言っておく。今からひたすら壁伝いに走れ。止まるな。真実を探せ。この三つを守ればきっと君の未来が繋がる』

 

 前二つはあの洞窟から逃げることを指しているとして、最後の真実というのはどういう意味なのか。

 真実ということは、何か嘘があったということになる。その嘘とは何なのか。

 

『冒険者さんたちは、これから街の方に向かうんですよね?』

 

 自分たちがあの洞窟へ行くことになった切っ掛け。

 

『それだったらいい近道があるんですよ』

 

 もしも、もしもあの時、彼女があの悪魔のことを知っていたら? 知っていてわざとあの洞窟のことを教えたのだとしたら?

 鼓動が早まる。乾き切ったと思っていた体から汗が噴き出す。

 ネイはただの考え過ぎだと思った。疲れた体、仲間を失って弱り切った精神が後ろ向きな考えをさせているに違いない。

 だというのに喉が乾いている筈なのに手渡されたコップを椅子に置き、疲労困憊なのに親子らの部屋に向かって歩き始める。

 ドアの前に立ち、ドアノブを握り締める。

 体が震える。この先にある何かに自分が怯えていた。しかし、いつまでも躊躇していられない。あの娘がいつ戻ってくるか分からない。真実を見つける前に見つかったら、永遠に答えを知ることが出来ないような気がした。

 一度だけ深呼吸をした後、ドアを開け中に入る。

 最初に目に入ったのは、机と椅子。視線を横に滑らせると壁際に二つ並んだベッド。その視線を今度は反対側に向けたとき――心臓が凍り付いたかと思った。

 壁際に置かれた棚。いくつもの蝋燭が並べられ照らされている。その棚に鎮座するのは、あの洞窟でネイたちを襲った白い悪魔の像であった。

 

「何、で?」

 

 意識がごちゃごちゃになりそうになる。彼女らは知っていたのだ。あの存在を。知っていて、居ると分かっていてあの洞窟を教えたのだ。

 そう分かった瞬間、色々なことが腑に落ちる。古いせいで大量の煙が出てきた携帯松明。そもそも前夜のあの石鹸からして仕組まれていたのかもしれない。ニオイで獲物を探る白い悪魔に見つかり易くするようにニオイ付けをしていたのだ。

 途中で松明が消えたのもそうだ。暗闇にすることで洞窟内から逃げられなくする為の細工。

 ならこの宿に戻って来た時、娘が驚いたのは生きて戻ってきたからということになる。

 

『はーい……え! ど、どうし――たんですか?』

 

 あの言葉を詰まらせた後、次に繋ぐべき本当の言葉は――

 

「どうして生きているの?」

 

 ――次の瞬間、ネイは後頭部に強い衝撃を受け地面に倒れ伏す。

 混濁する意識の中、首筋にかけ血の生暖かい感触が伝わっていくのを感じた。

 

「あーあ。あのまま水を飲んでいたらこんな痛い思いをしなかったのに」

 

 頭上から聞こえて来る声に、何とか体を捻じって視線を向ける。そこには宿屋の娘が父を伴って立っていた。

 人当たりの良さそうな笑みは消え失せ、親子共々家畜でも見るような無感情の瞳でネイを見下ろしている。娘の手には薪が握られており、それでネイを殴ったようであった。

 

「あな、た達が仕組ん、だ……!」

「そうですよ。貴女たちはあの御方への生贄なんです」

 

 隠すことなくあっさり肯定する娘。それどころか、あの悪魔を御方などと敬った言い方をする。

 

「どうして、こんな、ことを……」

「そうですね。何処から話しましょうか……」

 

 

 ◇

 

 

 娘は語る。あの悪魔が現れる前の村の惨状を。

 この村には、統治する貴族の一族が居た。元々は村人から慕われる聡明な貴族であったが、先代が無くなってから状況は一変した。

 当代の貴族は、重税を村人たちに課し、あらゆる財を絞り取るようなことをし始めた。

 当然抗議する村人も居たが、その村人も貴族の兵士によって襤褸屑のようになって帰って

 くるか、物言わぬ屍となって戻って来るかの二択であった。

 圧倒的な権力と暴力によって村は支配され、誰もが貴族に逆らうことが出来なくなった。

 男は重労働。女は、貴族が気に入れば慰みモノ。

 

「あれは本当に嫌だった……」

 

 娘は無表情で当時に自分の身に起こったことへの感想を洩らす。

 地獄のような日々。だがあることで状況は一変した。

 あるとき、娘は森の中で貴族に追い回されていた。嬲るための下準備のような趣味の悪い遊びの為に。

 泥まみれになりながら貴族から逃れ、木の陰で身を隠す娘。貴族は下卑た笑い声を出しながら、どこだどこだと娘を探す。

 その時、貴族の背後の草木が揺れた。貴族は、そこかと喜々とした態度で草木の中へと飛び込んで行った。

 まったく正反対の場所に隠れていた娘はしばらくの間、その揺れた草木の方を眺めていた。

 すると草から貴族の足が突き出る。だが不自然な形であった。明らかに地面と水平の位置にあり、もがくように両足をばたつかせている。

 次の光景に娘は絶句した。

 草木の中から現れた白い生物。それが大きな口で貴族の上半身を丸呑みにしていた。

 貴族は逃れようと足を何度も動かして抵抗するが、徐々に口の中に体は吸い込まれていき、最後には白い生物の腹の中へと収まってしまった。

 あの傲慢な貴族の呆気無い最期。だが、皮肉な最期とも呼べた。

 村人たちを喰い物としていた男が、文字通り食い物にされたのだから。

 娘は全身を震わせながら両手で口を押える。それは未知なるものに対しての恐怖からくるものではない。

 

「本当に苦しかったですよ。お腹が痛くって」

 

 内から出る笑いを、嘲笑を、喜笑を抑えるのに必死であった。解放された喜び。無様に最期を遂げた貴族への嘲り。それらが合わさって哄笑となり外に飛び出そうになる。

 貴族を丸呑みにした白い生き物は、それで満足したのか娘に気付かずにのそのそと何処かに向かって歩き出す。

 娘はこのとき、村に逃げるのではなく生き物の後を追った。

 ばれないように遠くから息を殺して静かに静かに後を追う。後にニオイで獲物を感じ取ることを知ったが、このとき娘は運良く泥まみれでありそれによって自分自身のニオイを消しており、気付かれることは無かった。

 生き物が洞窟内に消えていくのを見て、そこが住処だと分かると急いで娘は村に帰り、自分の身に起こったことを父に話した。

 最初父は娘が貴族を耐えかねて殺め、作り話をしているのではないかと思ったが、すぐにそれが真実だと知ることとなる。

 貴族の行方を捜して兵士たちが村人たちに行方を訊ねに来た。

 娘は父に囁く。嘘を言って洞窟へ向かわせようと。

 父は娘の案に悩んだ。もし、その生き物が兵士たちによって退治されたら報復の先は自分たちになる。

 だが、娘は言う。あれは普通の生き物ではないと。

 結論から言えば父の心配は杞憂に終わった。

 洞窟にまんまと向かわされた兵士たちは、白い生き物によって蹂躙される。

 ある兵士は木の葉のように吹き飛ばされ、ある兵士は地面に埋まる程叩き潰される。

 何よりも驚いたのは、生き物が天の力である筈の雷の力を操り、幾人もの兵士を焼き尽くしたことだ。

 自分たちに圧制していた兵士たちが虫けらのように潰されていく光景。遠くからそれを眺めていた父と娘は、背中に言いようのない興奮が駆け抜けていくのが分かった。

 あの圧倒的力と雷を自由に扱う力。あれはきっと自分たちの境遇を痛ましく思い、救いにやってきた天からの使いではないか。

 そう思うと白い体は無垢であり穢れに染まらない清らかなものに見え、目の無い顔は、不浄なこの世を見ない為の不要なもの。絶叫のような咆哮は、この世の理不尽を嘆く声、そう全てが神々しく思えるようになってきた。

 そこから先のことは早かった。村人たちを説得し協力体勢を作る。渋る者にはあの天の使いの圧倒的な力を見せ、信奉させる。

 残った貴族の兵士たちも纏めて天の使いに裁いてもらい、忌々しい貴族の屋敷も燃やしてしまった。

 当然、不審に思い調べに来る貴族関係者もいたが、それら全て上手い事洞窟に案内し、天の使いの裁きを与える。

 気づけば村人全てがあの天の使いを崇拝するようになっていた。

 裁く者が居なければ生贄を捧げる。村人たちは天の使いの望むがままに生きるようになっていった。

 

 

 ◇

 

 全てを聞き終えたネイは絶句する。あの悪魔を天の使いとして祈っているその神経が全く理解出来なかった。

 だからこそ怒りが湧いてくる。

 

「貴方、たちの、せいで、私の、仲間が、化け物に……!」

「化け物?」

 

 娘は手に持った薪をネイの脇腹に叩き付けた。

 

「あがっ!」

「何が化け物だって言うんですか! あの御方に無礼な! 生贄のくせに! 捧げものの分際で!」

 

 突如激昂し、薪でネイを滅多打ちにする。

 

「あの御方は天の使いなんです! 神聖な存在なんです! あの御方が居れば私たちは怯えることなんてないんです!」

 

 足を腕を背中を腹を兎に角打ち続ける。ネイがどんな苦鳴を上げようとも打つ力は弱まらない。ネイは身を丸め、その暴力を耐える。

 

「この! この! この! この――」

 

 その手が突然止まる。娘の父が腕を掴んでいた。

 

「それぐらいにしておけ。あの御方は、死体は好まない」

 

 ネイの為では無く、あくまで天の使いという白い悪魔の為に娘の暴行を止めた。

 荒い呼吸をしていた娘であったが、深呼吸をして気分を落ち着けると手にしていた血塗れの薪を床に捨てる。

 

「そうだったね。ごめん」

「気にするな。お前が殴っていなかったら、俺がやっていた所だ」

 

 父の手に握られた斧が鈍い輝きを放つ。

 

「う、あう……」

 

 呻くネイ。体中が痛むが、幸い娘にそこまで力は無く骨折までには至っていない。

 

「どうしようか? あそこまでもう一度運ぶ?」

「村の奴らには、何人か声を掛けてある。今日中には終わる」

 

 会話からこの父娘だけでなく村そのものがあの悪魔を信奉しているのが分かった。仮にここを抜け出したとしても、他の村人たちに捕らえられてしまうかもしれない。

 

「でもまあ、次は逃げられないように脚の一本ぐらいは切り落としてしておくか」

「そうね」

 

 ネイの体から血の気が引いていく。

 

「縄と火を持ってきてくれ。すぐに止血出来るように」

「はぁーい」

 

 まるで日常の会話のように軽い口調。故に狂気を感じさせる。

 

「さて、と」

 

 娘が部屋の外に出ると、父が斧を持ち上げながらネイに近付いていく。

 

(これで、終わりなのかな……)

 

 絶体絶命の状況にネイは自らの命を諦め始めていた。

 

「だ、誰ですか!?」

 

 だが、事態は娘の切迫した声で急変する。

 

「はいはーい。邪魔だよ邪魔。どいてくれるか?」

「ま、待って下さい!」

 

 娘の声を無視してどかどかと足音を立てながら誰かが部屋へとやって来る。

 

「穏やかじゃないねぇ?」

 

 傷付き倒れているネイと斧を構える娘の父の姿を見て、バンダナを巻いた男が入って来た。

 

「調査で済まそうと思ったら怪しさ満点じゃねぇの。アルー、早く来い。負傷者一名だ」

「ちょっと待ってよ」

 

 バンダナの男の背後から金髪の女性が現れる。

 

「あの子は?」

「キユウが魔法で眠らせた」

 

 謎の来訪者たちに娘の父は叫ぶ。

 

「何だお前たちは!」

「冒険者だよ。何なら証拠も見せようか?」

 

 バンダナの男はそう言って懐から金属性の長方形のプレートを出す。そこには冒険者のランクとエッジというバンダナの男の名前が刻まれていた。

 

「貴族関係や冒険者関係できな臭い話があるもんだから調べに来たが……当たりかぁー。悪いが色々聞かせてもらうぜぇ?」

 

 娘の父は躊躇することなく斧を振り上げてエッジたちに襲い掛かる。

 エッジも腰に差した剣に手を伸ばし、抜く――かと思いきや娘の父の腹に靴底を叩き込み、部屋の端まで蹴り飛ばした。

 

「得物なんて振り回すなよ。思わず斬りそうになったじゃねぇか」

 

 娘の父はそのまま意識を失ってしまう。

 

「貴女、大丈夫?」

 

 アルが心配そうにネイの顔を覗き込む。

 散々耐え切ってきたネイの緊張の糸はここで途切れ、そのまま意識は暗闇の中に消えていった。

 

 

 ◇

 

 

「そんなことがねぇ……」

 

 エッジは不快そうな声を洩らす。

 街に向かう馬車の中で治療を施されているネイから今まで何があったのか聞かされた後の感想であった。

 

「これが奴らの神様か……」

 

 先程まで手の中で弄んでいた白い悪魔の像を忌々しそうに眺める。そのまま捨ててしまいたい衝動に駆られるが、姿を模った貴重な情報である為残念だが出来ない。

 あの後、村はエッジたちが連れてきた兵士たちによって占拠され、村人全員が重要参考人として連行されていった。

 白い悪魔に関してもネイからの情報で、洞窟周辺の出入り口を全て封鎖することとなっている。

 

「大した信心深さだよ。こんな変な奴の為にあれこれ奉仕するなんてな」

「それもどうだかな?」

「ん?」

 

 エッジの意見に馬車の隅にいた老人キユウが異を唱える。

 

「奴らの信仰自体が、自分たちがやっていることへの目晦ましかもしれねえ。罪の意識から逃れる為にもっと大きな存在に全部責任をおっ被せたかったのかもな。神様が裁いているから仕方ない、神様の意思だから仕方ないってな」

「何だそりゃ? ただの都合の良い存在だったって訳か? これが?」

「何も語らない神様なんだ。だったらこっちが色々と考えて設定を作ってやらねえとな。尤もあの様子じゃ、凝り過ぎて現実と虚像がごっちゃになっているかもな。――まあ、あくまで推測だ。答えなんざどっちでもいい」

「誰も救われねぇな、それ」

「救われたと思えたら、それで十分なんだよ」

 

 そう言うともう興味は無いといった様子でキユウは目を閉じる。

 

「私は……これから、どうなりますか?」

 

 治療中のネイが今後のことを聞いてきた。

 

「街についたら、まずはきちんと治療をしないとね」

「治ったら、お前には嫌なことかもしれないが起こったことを詳しく説明してもらうことになる。――最近、お前の見たような新種のモンスターの被害が増えてきているからな」

「そう、ですか」

 

 声に生気が無い。エッジはこのまま彼女が仲間の後を追って自殺するのでないかという不安を覚えた。

 

「……お前は、これからどうする?」

 

 だから聞いてしまった。ネイが今後どう生きていくのかを。

 

「私は……」

 

 ネイはそこで一旦言葉を止めた。すると彼女の目から涙が流れ出す。

 

「私は、必ず、あの洞窟に行きます! 仲間を、きちんと、弔う為に! どれだけの年数が、かかっても!」

「……そうかい」

 

 先程の不安は思い違いだったらしい。

 

「まあ、そんときは俺らにも声を掛けな。これも縁だ。手を貸すよ」

「ありがとう、ございます!」

 

 彼女の意思は、未来(さき)に向けられているのだから。

 

 

 




これがトルゥーエンド版といった感じです。
この話は前に書いたモノブロスの話と対になる感じで書いてみました。
あと今年で本筋の話は終わらせようと思っています。


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七つの国、七つの災厄、そして七つは鍵

「はあー。これは立派なもんだねー」

 

 目の前に置かれた霜が張り付いている大きな死骸を見て、少年――エン・ドゥウは感嘆の声を出す。

 赤い鱗に大きな翼を持ち、嘴の様に曲線を描きながらも鋭い先端を持つ口には凶悪な牙が並んでいる。死んだ直後に氷漬けになったらしく瑞々しさが残っており、眼窩に残っている白く濁った眼球も今にも動き出しそうであった。

 

「ええ。これを手に入れるのに色々と手助けをしてもらいました。特に、ヴィヴィ殿とディネブ殿には感謝し切れません」

 

 その隣に立つエクスが、これを手に入れる為に尽力した者たちの労を労う。

 

「ヴィヴィ君が? 未だに若いねぇ、彼は」

「あんたに若いなんて言われても皮肉にしか聞こねぇよ、爺」

 

 更にその隣に並ぶエヌが悪態を吐くが、エン本人はそれを笑って流していた。

 

「寒いからってエン・ドゥウ様に八つ当たりは良くないよ、兄さん」

「別にしてねぇよ」

 

 白い息を吐きながら兄を窘めるエム。

 エムの言う通り彼らの居る場所は、氷漬けの竜の死骸を保存する為に魔術によって低温を維持されていた。エクスらが厚着をしなければ短時間も居られない程の極寒。だというのにエンは普通の薄着であり、それどころか吐く息が全く白くない。

 

(やっぱり人間じゃないな、この爺)

 

 再度隣にいる人物を人外だと認識する。

 

「それで、この子をどうしたいんだい?」

 

 躊躇せず氷漬けの死骸をペタペタと触りながら本題に入る。

 

「貴方にしか出来ないことです。――この竜の肉体を蘇らせてくれませんか?」

 

 死体の蘇生。動かすだけならば二流、三流の死操術師でも可能である。しかし、彼らが望むのは生前の再現。失っているであろう竜の機能全ての復活。これ程の巨体、それも未知の竜にそれが出来るのは世界広しと言えど、生命に関して知り尽くしているエン・ドゥウしか出来ないことであった。

 頼まれた内容が予想の範囲内であったのか特に驚いた様子は見せない。

 

「肉体を蘇らせる、か。流石に中身〈たましい〉まで蘇えらせる、何てことはしないか」

「こんな奴を完全復活させても得なんてあるかよ。ただでさえ多いのにこれ以上敵を増やせるか」

「まあ、そうだね」

 

 口振りからして、やろうと思えば出来るという可能性を匂わせる。

 

「で? 体だけ蘇らせてどうするんだい?」

「初めはこの竜の鱗や骨、皮を使用し武器や防具を開発しようとしましたが、どうにも技術や知識不足で頓挫してしまいました。技術を確立するまであとどれほどの期間が必要になるかは分かりません。我々はそこまで待っていられない。ならばいっそのこと、この竜を兵器に転用しようかと思っています」

 

 生物を兵器に変える。聞く者がまともな倫理観の持ち主ならば生命を冒涜するような行為に怒り、あるいは嫌悪を感じるだろう。

 だが、生憎とだがこの場に於いてはまともと呼べる者は居なかった。そもそもな話、まともならば抗うという選択など出来ないだろう。

 

「成程ね」

 

 エクスの言葉をその一言で流し、再び目の前の死骸を触り始める。

 

「それで? 出来るのか、出来ないのか? やるのか、やらないのか?」

 

 答えを言わないエン・ドゥウに対し、エヌが露骨に苛立ってみせる。何事も有限であると思っているエヌにとって曖昧な反応ほど時間の無駄且つ腹立たしいものはない。

 

「そうイライラしないでよ、エヌ君。やるよ、やるやる。だから今こうやってこの子の体を調べているんだよ」

 

 エン・ドゥウの術の一つに、死体から過去の映像を見ることが出来るというものがある。手で直接触れることでその相手の生前を、それの視点から見ることが出来るのだ。

 触れた瞬間からエン・ドゥウの脳内にこの生物の生前の行動が映し出される。

 吐き出される火の玉によって焼き尽される面長で四足の大人しそうな竜らしき生き物。

 空から強襲によって爪で裂かれる二足で立つ青色の蜥蜴。

 空中にて激しく炎を打ち合う、同じ姿ではあるが異なる青い鱗を持つ竜。

 

「成程成程。色々とやんちゃしていたみたいだね、この子は」

 

 映像を見ての感想は年寄り染みたものだった。尤も見た目のことを考えなければ年相応の感想とも言えたが。

 

「出来るよ。この子の肉体の蘇生。君たちの言っていた兵器の転用にはピッタリかもしれないね。炎を吐くみたいだし」

 

 エン・ドゥウの言葉にエクスたちはそれぞれの意見を交わし始める。

 

「炎を吐く――戦わせるよりも砲台として使用した方が良いみたいですね」

「蘇らせた体を壊すリスクを考えれば、そう割り切って使った方が良いってことですね」

「そうなると移動の手段などを考える必要があります。やっぱり転送魔術は勿論ですが、これそのものを運ぶ車も容易しないと。自力で歩かせるのも有りかもしれませんが、替えが効かない現状、肉体を痛めることは避けたいですし」

 

 既に目の前の亡骸をどう扱うのか三者の中で凡そ形になっていた。

 三人の会話を背中で聞きながら、エン・ドゥウは目の前の竜の死体を複雑そうな表情で見つめていた。

 彼らはこれによって一筋の希望を手に入れたと思っているのかもしれない。しかし、エン・ドゥウは知っている。

 もし、この竜が彼らと同郷のものならば、その一筋の希望はあまりに儚い光であることを。

 彼の記憶は、遠い昔へと遡る。

 

 

 ◇

 

 

 当時、世界は七つの大国による戦争が起こっていた。

 日々どこかで争いが起き、血が流れ、屍が重ねられていく。

 小国はどこかの国に属することを強制され、それを断れば地図からその名を消す。今振り返って思えば、地図職人にとっては楽な時代だったのかもしれない。何せ地図に記す国の名が七つで済むのだから。

 終わりの見えない不毛な戦争。このまま行けば人の時代は終わり、人が滅ぶのは間違いなかった。だが勘違いをしてはいけない。七つの国は決して人々を滅ぼすことも不幸にすることも望んではいない。戦争の切っ掛けなど分からないが、最初にあったのは間違いなくこの世を良くしたいという善意であった。

 ただ惜しむらくは、七つ国はこのように考えていたのだ。

 

『自分たちが統治すればより良い時代になる』と

 

 自分たちが最も優れているという自負の下、戦争は加速度的に技術を飛躍させ同時に被害を拡大させる。

 日々積み上がっていく人の業。誰もそれを気にすることなく、気にしたとしても誰もそれを止める術を持たない。

 やがてそれが限界に達した時、それは起こった。

 あるいは起こるべくして起きたのかもしれない。

 

 

 ◇

 

 

「――よ。――よ。返事をしなさい」

 

 名を呼ばれ、読んでいた本を閉じる。十にも満たない少年が読むにはその本は分厚く、表紙には難解な言葉が記されていた。

 

「何ですか? 父上」

 

 返事をし、自分が何処にいるかを報せる。それから間も無くして壮年の男性が姿を現した。整えられた口髭に精悍な顔立ち、身なりの良さから一目で上級の暮らしをしている者だと分かる。

 

「また本を読んでいたのか?」

「はい。久しぶりに新しい本を見つけたので」

 

 少年の読んでいた本に目を落とす。その本を手に取った。

 

「『既存の魔術と新しい魔術の融合による新たなる法則の発見』か。本を読むのは結構だが、あまりこういう本を読むのは感心しないな。これは理論だけ先行した空論の面が強い」

「その荒唐無稽さが面白いんです」

 

 苦言を呈する父。少年は純粋な笑みを浮かべているが言葉に底意地の悪さを感じさせる。

 

「これでもお前にとっては良い暇つぶしか」

 

 ため息を吐きながら持っていた本を少年に手渡す。

 

「それで何か御用ですか?」

「宮殿で新たな魔術の実験を行うらしい。……そこにお前も立ち会ってもらいたい」

 

 用事を口に出す際、ほんの少しだが父は表情を曇らせた。些細な変化であったが少年はそれを見逃さない。こういう表情をするときは決まってそれが父にとって不本意なことだと分かっていた。

 

「そうですか」

 

 嫌な顔一つせずに少年は立ち上がる。

 

「すまんな」

「いえ。ここに住む者の義務ですから」

 

 少年たちがいる国。それは遥か昔から魔術の研究、研鑽を積みながら歴史を紡いできた魔術国であった。この国に住む者全てが魔術師でありそれを誇りにしていた。

 故にその考えが自分たちを苦しめていることになっているが。

 

「……お前にはもう少し子供らしい生き方をさせたい」

「戦争が終われば出来ますよ。……きっと」

 

 明るく言うがその表情に陰が見える。

 少年は口ではそう言っているものの今起こっている事の先に明るい未来など見ていない。

 魔術に対する絶対的信奉。それを扱う自分たちは神の代行者あるいは人を導く為に生まれた上位者。この国に住む者たちの殆どがそんな選民思想に侵されている。

 だからこそ選ばれた自分たちが導く為に戦争を起こす。しかし、現実は彼らが思っているよりも単純なものでは無かった。

 

「新たな魔術など研究して一体何になるというのか……そんなことよりも一刻も早くこの戦争を終わらすのが先だと言うのに」

「きっと勝って終わらせたいのでしょう。上の方々は」

 

 戦いは勝って終わらなければ意味が無い。戦後の主導権を握る為に。それ以外の和平や停戦は全て妥協。それがこの国を動かしている者たちの総意であった。

 

「また不要な血が流れるな……」

「勝つ為に必要な血、とでも思っているのでしょうね」

 

 国の先を思い、憂う父とは対照的に大人びたとも冷めているとも言える態度の少年。

 

「お前が大人になる前に一度でも良い、平和な時代を見せてやりたいな」

「僕も願っています。一日中本が読める日を」

 

 父は疲れている顔に微笑を浮かべ、少年の頭を撫でた。

 

 

 ◇

 

 

 国の中央に位置する場所に建てられた大きな建造物。周囲には何十人もの警護が立っており厳重に警備している。

 ただ纏っているのは一般的な番兵が纏うような金属の鎧ではなく一目で魔術を扱う者だと分かる裾の長いローブであり、手には槍や剣ではなく杖が握られていた。

 一見すれば貧弱そうに見えるが、この格好全てに魔術の加護が施されており纏うローブは槍の穂先や剣の刃を通さず、矢など触れることなく弾いてしまう。

 

「許可証を」

 

 父と少年は大きな扉の前に並んで立つと、扉の前にいる警備に掌に収まる程の金属の板を見せる。その板には何行か文字が刻まれていた。

 渡された金属板に目を滑らせる。その途端、警備の顔色が変わった。

 

「し、失礼しました!」

 

 先程よりも真っ直ぐ背筋を伸ばす警備。彼と父とでは天と地ほどの身分の差がある。

 警備が手を振ると扉が自動的に開き始める。

 扉に向かって歩く父。その後ろに少年が付いていく。

 少年たちが歩き去って行くのを見てから、番をする魔術師の一人が先程親子を止めた魔術師に走り寄り、その脇に軽く肘鉄を飛ばす。

 

「いてっ。何をするんですか?」

「馬鹿野郎。ここを警備するなら出入りする人間の顔を覚えておけって言っただろうが」

 

 喋り方で二人の上下関係が分かる。

 

「いやー、ボク入って間も無いもんで……」

「前以って調べておけって何度も言っただろうが。冷や冷やさせやがって。これだから卒業してない奴は……」

 

 反省の色を感じさせない態度に、先輩魔術師は表情を歪める。最後の愚痴は後輩魔術師に聞こえないぐらい小さなものであった。

 

「まだあの方だから良かったものの……あの方以外だったら何されていたか分からなかったぞ、俺もお前も」

「ええ……まさかー」

「ただでさえ戦争で苛ついているんだ。そこに更に苛つくことがあったら簡単に爆発するぞ? 比喩抜きでな」

 

 後輩魔術師の目の前で握っていた拳を開いてみせる。それを見て彼の顔色は面白いぐらい簡単に変わった。

 

「分かったらもっと真剣にこの仕事に取り組めよ?」

「は、はい!」

 

 ◇

 

 

 門を潜り、長い廊下を歩き、その廊下の先にはまた扉があった。限られた者にしか開くことが出来ない強固な魔術が施されている。当然、少年の父はその限られた者の一人である。

 少年の父が扉に触れる。短く何かを呟くと閉じていた扉が自動で開いた。

 扉の先には地下へと続く階段と僅かな灯りのみ。二人はその階段を下りていく。

 最初は日の当たらない所特有の冷たい空気と湿気ったニオイ。だが、段々と階段を下りていくと徐々にその空気の中に複数のニオイが混じっていく。

 甘さ、刺激、形容し難いニオイ。どれもが魔術関連に使用される道具や材料のニオイであり、少年の鼻腔がそのニオイに触れる度にどんなものを使っているのか頭の中に像として浮かんでくる。

 長い階段の末、彼らを待っていたのは広々とした空間であり、その中央には魔法陣が描かれ、その周囲にローブを着た者たちが並んで立っていた。

 全員少年の父と同じ位を持つ者たちである。

 

「ようやく来たか」

 

 その中の一人が少年の父に声を掛けてきた。年は父とほぼ変わらない筈だが、肥えた胴体。それに反し細い手足。後退した前髪のせいで父よりも一回り老けて見える。この中でリーダー格に当たる魔術師である。

 

「今日も実験か?」

 

 ウンザリとした態度を隠さず父が問う。

 

「如何にも。一刻も早くこの戦争を終わらせる魔術を完成させなければならない」

 

 さも当たり前のように言う肥えた魔術師に、父は溜息を吐いた。隣にいる少年もまた溜息を吐かなったものの似た様な心境である。

 

「あの愚か者たちには早急に魔術による裁きを下さねばならない」

「鉄や火薬などといった外法などに頼る者たちの末路など滅びに決まっている」

「嘆かわしいことに戦いに出た魔術師たちは、これに押されているというではないか。やれやれ、魔術師の質も落ちたものだ」

 

 口々に好き勝手を言う他の上位魔術師たち。

 父も少年もその言動に強い嫌悪を覚えた。現実を見ているものならばそもそも魔術一つだけで戦争に勝つことなど無理に等しい。どんなに凄まじい魔術を扱おうが所詮は人。消耗もするし疲労もする。

 砲撃や矢を絶えず撃ち込まれれば魔術師など呆気無く死ぬ。

 それでも戦争を続けられてきたのは、優秀な魔術師たちが戦いの前線に送られ続けたからに過ぎない。

 若く優秀な魔術師たちが死地へと送られる中、国に残るのは少年の父のような、居なくなると本当に困る支柱的存在である魔術師。実力は高くないが保身と口が上手い魔術師たち。そして、実力の低い未熟な魔術師たち。

 目の前の魔術師たちは、その保身に長けた者たちである。

 戦況を理解出来ず文句を言う姿は醜悪であったが、残念なことにこの考え方は典型的な魔術師のものであり、この国に於いては少年やその父の考え方の方が異端であった。

 

「だからこそ我々が一刻も早くこの戦争を終わらせる魔術を生み出さなければならない」

 

 魔術師たちの愚痴は肥えた魔術師のその一言で締められた。

 彼らがここに集まる理由、それが新たな魔術の創造であった。過酷な戦争を瞬く間に終わらせる夢のような魔術。浪漫溢れる試みだが、結局のところ夢想で終わらせることを現実で行うという愚行である。

 少年の父は、すぐにでもこんなことを止めてもっと現実的なことをしたかったが、これを拒否するとただでさえ余裕の無いこの状況で彼らは徒党を組んで嫌がらせや足を引っ張る行いをしてくる。不本意であったが彼らに対するご機嫌取りをしなければ、為したいことも為せなくなるのだ。

 

「さあ、始めるとしよう。来たまえ」

 

 誰かを呼ぶ。現れたのは長身痩躯の男性だった。視点が常に定まらず、右往左往してしきりにこちらの顔色を窺っており、全身から卑屈さを放っていた。

 

「ほ、本日はお招き頂き#$%&#」

 

 徐々に下がっていく声量のせいで後半何を言っているのか聞き取れない。

 少年の父は男性の弱弱しい態度に強い不安を覚えるしかなかった。

 

「彼は新たな転送魔法陣を開発した。これさえ成功すれば、その気になれば大陸の一角、海の一部といった大質量のものさえ相手側に送ることが出来るのだ」

「は、はい。そ、そういうことです」

 

 男の言葉を引き継いで魔術師が説明する。

 

「そうですか。それは凄い」

 

 特に関心を惹かれる様子も無く社交辞令で返す少年の父。

 

「そして、その魔法陣がこれだ」

 

 床に描かれた巨大な魔法陣を指差す。

 

「ではいつもの通り『記憶』しておいてくれるかね?」

「分かった。――いいか?」

 

 父の問いに少年は首を縦に振った。

 少年は床に目を向け、円形に描かれた魔法陣の中にびっしり書かれた文字をその眼に映す。少年の頭の中にその文字が見たまま刻まれていく。

 一度見たものを完璧に記憶することが出来る。それこそが少年の特異な能力であり、この場に呼ばれた理由である。紙など記録に残る物が発生せず、それ故に外部に洩れることなく秘匿される。逆に情報が必要ならば少年に聞けばいい。この能力を知る者はごく一部の者たちだけであり、この国にとって少年の存在は無くてはならないものであった。

 他人がこの能力についてどう思っているかは知らないが、少年は内心ウンザリしている。いくらどんなものでも記憶出来るからと言っても、少年も記憶に残したいものもあればそうではないものもある。

 今、目の前で記憶している魔法陣がそれである。全体的に見て、非常に癖のある文字で書かれており見辛い。あまり品の良い字ではなく、凝視していると目の奥に鈍い痛みを覚える。

 膨大な量の記憶から、魔法陣やそれを構築する文字や記号を見るとその人物の内面が透けて見えてくることがある。この魔法陣からは、凄まじいまでの虚栄心や承認欲求、他者への不満が感じ取れた。というよりも、少年にはこの魔法陣の書き方に既視感を覚える。その既視感を辿るとすぐに答えに行き当たった。

 少年が先程まで家で読んでいた本の内容。つまり、あそこに居る魔術師は、あの本の著者ということである。

 あの魔術師は弱弱しい外見だが、内面には溶岩の如き劣等感が煮詰まっている。

 そんな感想を抱きつつ、魔法陣に目を走らせる。

 

(……ん?)

 

 ある箇所で目が止まる。書かれた文字の中に一つおかしな点を発見した。読んでいた本の内容と照らし合わせると明らかな誤字である。このままでは、術が発動するか分からない。

 

(……)

 

 刹那の間考えた後、少年はこれを見て見ぬふりにすることとした。

 指摘して激昂されるのも面倒であり、発動しなければしないで後の仕事が減るだけである。

 

「――全部覚えました。もう大丈夫です」

 

 何食わぬ顔で暗記したことを告げる。

 

「では始めるとしよう」

 

 少年の報告を聞き、魔術師たちは魔法陣を囲む。

 今回の目標は、この魔法陣を使用し指定箇所の一部を切り取ってこちらに送るというものである。

 少年の父もその輪に並び、魔法陣に魔力を送り始める。

 

(何が起こるかな?)

 

 少年は、離れた場所でそれ眺めていた。魔法陣は精密なものである為、十中八九失敗すると思っていた。

 だが、少年は知らない。この世には奇跡に等しい偶然があることを。

 偶然その日が、隣り合う世界と最も接近する日だった。

 偶然発動させた術が、隣り合う世界に干渉する力を含んでいた。

 偶然術の考案者がこの世など滅んでしまえばいいという破滅願望を持っていることを。

 偶然書かれた誤字が術に攻撃性を与え、隣り合う世界との壁に僅かな傷を付けた。

 偶然その小さな傷の向こう側に途方も無い力を持った存在が居たことも。

 そして、奇跡というものが必ずしも人々を幸福にするとは限らないことを。

 少年も誰も知らない。

 

 

 ◇

 

 

 多くの人々が溢れかえる道。それを挟むように様々な店が並ぶ。どの店も活気づいており、常に人々の声が絶えない。

 ここは七つの国の中で商業、工業が最も栄えた国。

 戦争という血生臭いことを行っていても未だ日々の営みが萎えることはなく、まるで最初から無かったかのようにどの人々にも生気があった。

 

「ん?」

 

 何かが裂けるような音が聞こえ、誰かが空を見上げる。周囲の人たちもまた同じように空を見上げていた。

 

「なんだあれは?」

 

 空に走る一筋の亀裂。それを見て、人々はざわつき始める。

 

「何だ? どうした?」

「あれを見てみろ。あれを」

「兵士さんたちを呼んだ方がいいんじゃないかい?」

「私らに見えるんだ。とっくに向こうも気付いている筈さ」

「――なんか大きくなってないか?」

 

 誰かが指摘した通り、空の亀裂は初めは徐々に、段々と亀裂が生じていくのが分かる程早くなり、最後には途方も無い長さとなる。

 

「何か……何か、不味くないか?」

 

 言葉に表せない不安が自然に湧いてくる。亀裂の向こう側に想像も付かない恐怖を感じた。

 あれほど賑やかであった道は今や静まり返り、誰もが空を凝視している。

 

「――は?」

 

 空が急に暗くなった。

 何故、と考えた者たちはその答えを知る前に圧殺された。

 それに危機感を覚えた者たちもまた逃げ遅れ、発生した衝撃により壁や地面に原型を留めない勢いで叩き付けられて死んだ。

 少し離れた場所でそれを見ていた者たちは、舞い上がった瓦礫や破片を頭上から浴びせられ半分が死に、もう半分は重傷を負った。

 更に離れた地点で見ていた者たちは、急に起きた大地が割れる鳴動、大量に巻き上がる土煙を浴びせられ視界を塞がれ混乱する。

 国を囲む壁の上から亀裂を見ていた兵士たちは、その裂け目から途方も無い怪物が産み落とされるように降ってくるのを見た。

 死。轟音。混乱。平穏はほんの数秒で完全に粉砕される。誰かが痛みで叫び、誰かが助けを呼んで叫び、誰かがただひたすら叫ぶ。

 阿鼻叫喚の地獄。しかし、それすら序章に過ぎない。

 何千もの叫びが全て消え失せる程の咆哮が、土煙の中で放たれる。

 近くでそれを聞いた者たちは意識を一瞬で断たれ、離れた聞いた者たちは恐怖で萎縮する。

 土煙が全て晴れ、その中から現れたモノに恐怖は更に重なる。

 長く伸びた口に均等に並ぶ鋭い牙。それを挟むようにして生える二本の一際大きな牙。後頭部と思わしき場所から一対のヒレが生え、その全身は橙、黒、白の色が散りばめられた鱗で覆われている。

 一見すればドラゴンと酷似しているが、決定的に違うものがある。それはその体格。

 大きい。あまりに大き過ぎる。巨大な頭部から下の胴体は太く、長く、小山すら覆い隠せそうなほどであった。

 近くで見た者たちは、あまりの大きさにその全長を視界に収めることが出来ず、居る位置によっては突然壁が降って来たと思っている者すらいる。

 遠くで眺めている者は、周りの建物が一瞬にして縮んだのではないかと錯覚、あるいは現実逃避をする。

 巨大な生物は、周囲で立ち尽くす人間たちの姿を視界に捉える。琥珀色の瞳が怒りの色に染まった瞬間、圧倒的力による蹂躙が始まった。

 頭部を持ち上げ、開口する。紅蓮の光が零れたかと思えば、巨大な火球が放たれ、呆然と見上げていた街の人々に着弾。炎に全身を焼かれ、衝撃によって砕かれる。

 繁栄した街が、それを築き上げた者たちと共に破壊されていく。

 誰もが混乱し、逃げ惑う。

 北へ向かった者たちは多少幸運であった。巨大なドラゴンから逃れる可能性が少しだけ上がったからだ。

 南に逃げた者たちは不運であった。逃げた先には必ず待ち構えているものがあるからだ。城壁の様に横たわるドラゴンの胴体。そびえ立つそれはどんな絶壁よりも容易く希望を砕く。不運はそれだけでは終わらない。ドラゴンが体を微かに揺らしたとき、その体から鱗と同じ色の粉が撒き散らされる。

 それが何か認識する時間など逃げ惑う者たちには無かった。粉が宙を漂い数秒経過すると爆発し、それに巻き込まれ命を消し飛ばされる。

 ドラゴンが移動するだけで圧殺される命。移動の度に撒かれる粉の爆発によって消える命。吐かれた火球によって滅せられる命。

 全ての命が塵芥の如く消えていく。

 だが、ドラゴンは容赦無く蹂躙し続けていく。腹の底から湧く怒りによって目の前に映る矮小な命を潰していく。

 理不尽な所業。しかし、そのドラゴンもまた同じく理不尽な目にあっていた。

 突如、前触れも無く見たこともない場所に無理矢理連れて来られ、放り投げられた。これに怒らない訳が無い。

 だから壊す。目に映る全てを。怒りのままに。

 この怒りは、彼らと共通するものであった。

 

 

 ◇

 

 

 空。それは蒼く続く果てしなく、遠いもの。

 数百年前、とある一族は、安住の地を彷徨い求めた末に誰の手も届かない空に手を伸ばし、それを唯一手にした。

 雲を大地とした空の国は、少しずつ民を増やしながら誰からの侵略も許すことなく降り注ぐ太陽の煌めきを独占し、平穏に過ごしていた。

 だが、数百年という時間は彼らに平穏を与えると同時に、小さな歪みも与えた。

 歪みは民が増える度に徐々に大きくなり、大地で争いが起きればまた大きくなっていく。

 

 地上を見下ろす我々こそが真に地上を制するべきなのではないか

 

 やがて歪みは彼らに一つの解答を与える。

 この日を境に彼らは天空人と自らを名乗り、空を制する自分たちこそが大地を統治するのに相応しいと戦乱の中で名乗りを上げる。

 当然各国は反発するが、空に住む彼らを攻める手段は無く、天空人の方は雲を自在に操り、それを移動手段として神出鬼没に現れては空から魔法や兵器を降らせていく。

 圧倒的優位な戦況は、彼らに優越感と自分たちは正しかったという慢心、傲慢さを生み出させる。

 この優位は絶対に変わらない。そう彼らは確信していた。この日までは――

 

「うああああああ!」

 

 絶叫を上げ、男が飛ばされる。飛ばされる先には分厚く、そして渦巻いている灰色の雲。その中に呑み込まれ、悲鳴ごと消え去ってしまった。

 だが、その最期を見届けた者は誰一人居ない。そんな余裕などこの場に居る者たち誰もが持ち合わせていないからである。

 痛みすら感じるほど激しく降り注ぐ豪雨。何かに掴まっていないと吹き飛ばされてしまうほどの暴風。

 暴力に等しい嵐に彼らは蹂躙されていた。

 雲よりも高い場所に住む彼らが嵐に遭うなど本来ならば在り得ないことである。天候の上に立つからこそ天空人と名乗っている。

 しかし、その在り得ないことが起きてしまった。アレが嵐と共に現れたことで。

 嵐すら霞む咆哮が響き渡る。直後、直線状に束ねられた何かが風を、雨を斬り裂き、雲の大地に突き刺さった。

 それは雲の大地を貫き、下まで達すると縦に、横にと動き、大地を切り分けていく。

 大地に描かれた線。その線と線とが繋ぎ合わさったとき、その内にある建物、人、物が空から切り離される。

 

「きゃああああああ!」

「誰か! 誰かぁぁぁぁぁ!」

 

 救いを求める声も暴風で掻き消され、絶望に満ちた顔も豪雨で覆い隠される。

 彼らは思い知らされる。天空の真の支配者を。神に等しいその存在を。

 荒れ狂う暴風の中、それはまるで微風の中に居るかのように静かに、そして揺らぐことなく空の大地に降りてきた。

 後方に向かって生える冠のような黄金の角。白と黒が入り混じった甲殻。全身に生えているヒレはまるで衣を纏っているかのようであった。

 その姿はドラゴンに似ていたが、その身から放たれる神々しさと威圧感はドラゴンの比では無い。

 空の大地に降り立ったそれは、決して地面にその身を着けようとはせず、宙に浮き続けている。まるでこの大地が不浄のものだと言わんばかりに。

 現れたそれに危機的状況だというのに天空人たちは目を奪われる。まるで神が降臨したかのような光景。

 ならば神は何をしに降り立ったのか? その答えは現状からすぐに察せられる。自分たちを天の支配者だと勘違いし、自惚れた者たちに罰を与える為である。

 神がその長く伸びる胴体を捻じり上げる。すると、荒れ狂う風が、雨が、神の意に操られるかのように一点に集い始めていく。

 それだけではない。人々もまた集う力に引っ張られ、神の下へと引き寄せられていく。

 何かにしがみつこうと、必死になって走ろうとも、抵抗を嘲笑うかのように引き寄せる力はそれらを上回る。

 引き絞る力はやがて解放され、ドラゴンはその身で螺旋を描く。

 描かれた螺旋に沿うようにして解放された力は渦巻き、瞬く間に全てを飲み、砕く竜巻へと変貌する。

 竜巻の唸る音がまるで怪物の咆哮を思わせ、竜巻は引き寄せていた者たちを次々にその中へと引きずり込んでいく。

 それだけに留まらず、竜巻は地面と化した雲すら取り込み始め、どんどん巨大化していく。

 呑み込み、砕き、破壊する。やがてそれが限界を迎えたとき――

 

 

 地上。強い風と雨に晒されるとある民家。中では板などで内側から補強し何とかこの嵐を耐えようとしていた。

 補強の為に張った板の僅かな隙間から、その民家に住む子供は外を見る。初めて経験する嵐に恐れよりも、外がどうなっているかという好奇心が勝っていた。

 木々が真横になるまでしなり、地面は全て水浸し。その上を空の桶が勢い良く転がっていく。

 ふと子供は空を見上げる。そこには先程までの光景が全て忘れてしまうほどものがあった。

 

「お母さーん! 見て見て!」

 

 それが何を意味するのか分からず無邪気に呼び掛ける。

 

「お空が落ちてくるよー!」

 

 

 ◇

 

 

 人を人たらしめるものは何か?

 その問いに対し一人の人間はこう答えた。

『それは法だ』と。

 争うことも傷つけ合うことも獣でも魔獣でも出来る。ただ、自らの生き方に法という制限を与え、己を律することが出来るのは人にしか出来ないことである。

 故にその答えを出した者は、絶対的な法を作り、法によって全てに判決を下す王国を築いた。

 全ては人々の幸福を考えて。

 だが、時間が経てば原点にあった思いは徐々に薄れていく。

 法を絶対視するあまり、それを神と同等と考えてしまい、法の名の下にこの世の全てを管理しようとする者たちが王国の中に現れた。

 最初は少数。しかし、時が過ぎていく内に三分の一に。やがて半数。最後に多数と化す。

 多数と化した時点で王国は全てを法の中に収める為に戦いを始める。

 属する者たちには慈悲を。敵対する者たちには裁きを。

 全ては法によって築かれる理想郷を信じて。

 

「うるあああああああああ!」

 

 獣の咆哮が白亜の王国で木霊する。おかしなことにその獣には毛皮も鋭い爪も牙も尾も無い。まるで人のような姿。だが、その行いは人のものではない。

 倒れ伏した同族に跨り、奇声を上げながら何度も殴打するその姿に何の理性も知性も無い。

 こんな者が人である筈がない、と見る者が居れば叫んでいただろう。

 だが、その人物も、そしてそれが跨っている者も間違いなく人であった。

 

「あああああああああああ!」

「がああああああああああ!」

「じゅらああああああああ!」

 

 見れば所々で同じような光景が繰り広げられている。

 老人が子を殴り殺し、女が男の喉元に喰らい付き、子供が手に持つ刃で母を刺す。誰もが自らの行っている行為に疑問も躊躇も無い。

 狂気。その言葉だけで誰もが動いている。

 法の下に生きていた者たちは、それが何なのかすら理解出来なくなっているほどの狂気に身を任せ、ただひたすらに殺し合う。

 ほんの少し前まで彼らは人であった。ならば何が彼らを獣以下の存在へと堕としたのか。

 異変。それは、この白亜の王国が黒い闇に覆い尽くされたときから始まった。

 太陽が落ちて生まれる闇とは違う。極小の黒い粉のようなものが王国全て覆い尽し、日を遮り、闇を作り出した。

 闇を生み出す粉を吸い込んだ者はたちまち理性を失い、周りの者たちに襲い掛かる。極短時間でそれは国民全てを蝕む。

 最早、誰一人としてまともな思考が出来る者は居ない。かつて法と理によって管理されていた王国は、狂気と暴力によって崩壊していく。

 誰もが暴れることしか考えられない。だからこそ気付かない。暗い闇に染まった空に浮かぶ黄金の光に。

 太陽の輝きとも月の輝きとも違う、それ自身が放つ眩い黄金の輝き。

 しかし、目を奪われる煌きの下で理性を奪われた者たちの壮絶な殺し合いが繰り返される。その輝きが狂気を生み出しているかのように。

 それは災禍の輝き。

 だが、それを理解出来るほどの知性を持った者は、既にこの国には残されていなかった。

 

 

 ◇

 

 

 大きな山を、丸ごと使って創られた国がある。山の中央に街が栄え、それを守るようにして天然の防御壁に囲まれており、敵対者の侵入を拒む。

 過去に四つの国に七度攻められながらも決して陥落されることなく、逆に攻めてきた国を疲弊させ追い返した。

 難攻不落。その言葉はこの国にこそ相応しい。

 しかし、絶対とも呼べる守りを持つ国は、今圧倒と呼ぶに相応しい脅威によって危機に陥っていた。

 

「大砲を! もっと大砲と砲弾を!」

 

 防御壁の上で、国を守る兵士が叫ぶ。その声にせかされて砲弾を持って兵士が走り寄ってくるが、突如として転び、鉄の弾が地面を転がっていく。

 しかし、叫んでいた兵士はそれを咎めない。そんな余裕すら無い。必死の形相で大砲にしがみつき、何とか踏みとどまっている状態の彼。

 一体何に耐えているのか。その答えは転がっていく砲弾が示していた。

 轟音が響く。すると転がっていた砲弾が轟音に合わせて何度も跳ねた。

 まともに立っていられない程の揺れ。それが兵士たちから自由を奪っていたのだ。

 

「早く! 早く砲弾を――」

 

 急かす声。だが、残る言葉は破砕音によって掻き消される。

 倒れていた兵士は、転がる砲弾を何とか拾い上げ、顔を上げる。

 

「あっ」

 

 最初は大木が根を下ろしている様に見えた。太い根が大砲ごと兵士を押し潰し、そこから更に太い幹が続いている。

 だが違う。根に見えたそれには鋭く、太い爪が生え、根から幹にかけて鱗が連なっている。

 それが大きな手であった。しかし、常識がそれの認識を拒ませる。腕だけでこれほど大きいのならば本体はどれほどの大きさだというのか。

 その答えは、腕の主からすぐに教えられる。

 

「来たぞぉぉぉぉぉぉ!」

 

 別の兵士が叫ぶ。

 見上げたその先にあるのは、鋭い刃が連なる巨大な胴体。人が縦にどれだけ並べられるのか分からない程に太い胴体が捩じれながら城壁にその体を押し当てる。

 途端、触れた箇所が抉り取られていく。この巨体には岩がまるで焼菓子のような脆さへと成り下がってしまう。

 巨大な胴体はその兵士側だけにではなく、反対側にも右側にも左側にも見え、国を囲んでいる。巨大なだけで無く、途轍もなく長い。

 城壁が抉られる度に、山にその巨体が押し当てられる度に立っていられないほどの揺れが国全体を襲う。

 

「化物めぇぇぇぇ!」

 

 圧倒的存在を前にしても気力を失わず、大砲で果敢に反撃する兵士たちも居た。だが、決死の思いで撃ち出した砲弾も、鱗に直撃させても突き破ることが出来ず、逆に鱗の硬さに負け潰れてしまう。

 絶望的なまでの力の差。兵士たちの戦意は見る見るうちに萎んでいく。

 だが、相手は手を緩めることなど無かった。

 捩じりながら動いていた胴体が、その動きを止める。

 大樹のような手が、もう一本城壁に振り下ろされた。

 頭上から迫る膝を屈しそうになるほどの重圧。その重圧に身を震わせながら、兵士たちは上を見上げた。

 その瞬間、兵士たちは自分たちの心が折れる音を聞いた気がした。

 胴体よりも更に密集して生える刃。首や胴体の区切りなく長く伸びた頭部は、蛇と酷似したものであり、実際赤い目に縦に裂けた形の瞳孔、先の割れた舌を口から出し入れしている様子は蛇そのもの。

 しかし、いくら蛇に似ていようと何の救いも無い。化物、怪物という言葉など生温い伝説と呼ぶに相応しい巨体。

 この国の方がこの蛇よりも大きい筈だというのに、蛇が放つ存在感はこの国を矮小な存在に変えてしまう。

 兵士たちは誰も構えることはしなかった。目の前の存在に何をすればいいのか分からない。何一つ考えが浮かばない。

 兵士たちの前で蛇はその口を大きく開く。上顎と下顎がほぼ直角に開かれ、口中の連なった牙が露わになる。

 蛇の口内に蒼白い炎のような光が溢れ出る。

 その光が何なのか。兵士たちが知ったとき、彼らは蒼白い光によってこの世から消え去っていた。

 間も無くして国中の者たちは、大きな折れる音を聞いた。

 それは、この国が山ごとへし折られた音であり、難攻不落という誇りが折れる音でもあった。

 

 

 ◇

 

 

 最強とは何か?

 それを考え追求した国があった。

 その国が最強に対して出した答えは、質と量の両立である。

 数が多くても烏合の衆では役に立たず、質が良くとも数が上回れればいずれ負ける。

 故に国は多くの兵士を備え、同時に質を高めさせる為の訓練を行わせた。

 訓練だけに留まらず、優れた武具も兵士たちに与えた。死ににくい兵士を生み出せば、後の質の向上に繋がることが分かっているからである。

 やがて国は唯一無二の軍事国家となった。

 だが、軍を維持するには多くの資金が必要になってくる。その為に他国と戦争し、勝ち、あらゆるものを奪い取り、やがて吸収する。

 これを繰り返した結果、常に戦争をしなければ成り立たない国と化してしまった。しかし、国民はそれを嘆かない。そうならないように幼い頃から今の形こそが幸福であると教え込まれているからだ。

 戦争は幸福の為の過程であり、手段である。それこそがこの国の総意。

 それが揺るぐことのない真実であった。

 その日までは――

 

 天を震わせるような咆哮が国中に響き渡る。

 その咆哮を耳にした誰もが恐ろしさに身を縮ませ、赤子同然と化す。

 咆哮を上げた主は一頭のドラゴンであった。

 光を吸い取ってしまいそうな漆黒の肉体には逆向きに生えた鱗が生え揃っており、更にそのどれもが刃の鋭さを備えていた。

 その巨体を四肢によって支え、背には一対の翼。ドラゴンの頭部には、重なって出来たであろう王冠の如き角が前方に突き出すように生えている。

 そのドラゴンの大きさは、決して大きいものではない。このドラゴンと同程度のドラゴンを何度も倒した経験を兵士たちは持っている。

 だが、その内に秘めた力は並のドラゴンの比では無い。

 ある兵士は、焼き尽された死体となり、ある兵士はその肉体を三つに分割され、ある兵士はその体に蚯蚓腫れのような火傷を残して死亡し、ある兵士は氷の彫刻と化していた。

 全て一頭のドラゴンによって行われたものである。

 兵士たちが武器を構え、果敢にも突撃する。

 ドラゴンの体に紫電が走ると天に向かって吼える。すると空から雷が降り、突撃してきた兵士たちを貫いた。

 一瞬にして数十の命が散る。

 ドラゴンの体に再び変化が起きる。黒い体表に赤い線が血管のように伸びると、ドラゴンの口から灼熱の火炎が吐き出された。

 辛うじて落雷から逃れた兵士たちがこれに呑まれ、炎の渦に閉じ込められその身を焼かれる。

 火、雷、氷を操り、屈強な兵士たちを容易く屠っていくドラゴン。勿論、ドラゴンの対象は兵士たちだけでは済まない。国民すら容赦無く葬っていく。

 最強と信じていた力が、更なる最強によって蹂躙されていく。

 あってはならない惨劇。起こってはならない悲劇。だが、一つだけ救いがあるとすれば――

 今日、この日戦いの輪廻が終わる。

 

 

 ◇

 

 

 歴史というものは過去から今に伝えられていく思いである。

 亡き先人たちの想いを引き継ぎ、後の世に伝える。これほど誇らしいことがあるだろうか。

 あらゆる国の中で、最も歴史の古い国。かつて栄華を極め、世界の殆どをその手中に収めた大国でもあった。

 しかし、時が進めば全てが変わっていく。かつての大国も、今では一つの国に過ぎなかった。

 歴史の語り手として、正しい歴史を知るこの国の者たちは、今置かれている自分たちの状況を甘んじて受け入れることが出来なかった。

 かつて全てを支配した者たちの一族。故に全てを治める正統な資格が自分たちにはある。

 皮肉にも紡がれた歴史は、彼らに誇りと共に野心も与えてしまった。

 しかし、生まれた野心も繋がれた歴史も終わり、途切れる日が来る。

 だが、その日はあまりに唐突であった。

 

「ああ、ああ……」

 

 老人は目の前で繰り広げられる光景を、その老いた眼で見ていることしか出来なかった。

 伝統ある建造物も、先人が彫り出した石碑も、長い歴史を収めた書物も、ある厄災によって失われていく。

 正確に言えばそれは生物であったが、それの行いは厄災そのものであった。

 視界に収め切れ無い体格に、山肌を彷彿とさせる凹凸のある外皮。胸の中央には太陽を収めているのではないかと錯覚するほどの橙色の核を持っており、そこから体全体に血のように橙の光を巡らせている。

 ドラゴンのような姿だが翼は無く、代わりに一対の山のような突起。その突起の先端からはマグマらしき炎の塊が噴き出していた。

 ドラゴンが歩く度に、その身から放たれる熱で周囲の物が燃え始め、落下する溶岩は呑み込んだ全てを焼滅させていく。

 まるで生きた火山であった。

 ただ進むだけで、あらゆるものが灰塵と化していく。

 伝統が、歴史が、未来に伝えるべき知識が全て大地へと還る。

 老人はそれを見て悟る。自分たちは長く存在し過ぎたのだと。

 長く続いた歴史をゼロに戻す為に、神から使者が送られてきたのだと。

 全てが還る。人も、物も、歴史も、灼熱の大地の中に還っていく。

 後に残るのは美しさすら感じさせる灼熱の平野のみ。

 

 

 ◇

 

 

『……』

 

 魔法陣に魔力を流し込んでも何も起きず、場に居心地の悪い空気が流れる。

 

「失敗、か……」

 

 皆が考えていることを、少年の父が代弁した。

 

「こ、こんな! こんなことが!」

 

 魔法陣の作成者はただでさえ悪かった顔色を更に悪くしながら、ヒステリックに叫んだ。

 

「な、何かのま、間違いです! こ、これは! 何かの!」

 

 必死に弁明するが周りの上位魔術師たちの視線は冷めたものであった。

 

(まあ、実際に間違っていたんだけどね)

 

 間違いを黙っていた少年であったが、その魔術師の狼狽ぶりを見て流石に可哀想に思えてきた。

 

「時間の無駄であったみたいだな?」

 

 肥えた上位魔術師の言葉にびくりと体を震わせる。

 

「もう一度! もう一度だけ機会を! こ、今度こそは必ずせ、成功を!」

「我々は暇ではないのだよ」

 

 突き放す言葉に、最早死人に等しい顔色となる。

 

「もう一度だけ!」

「分かった」

 

 見兼ねたのか少年の父が、その頼みを了承する。

 

「勝手なことをしないでもらえるかな?」

「あと一回ぐらいならば、暇の無い我々でも大丈夫でしょう?」

 

 皮肉に聞こえる言い方に、上位魔術師たちは顔を一瞬顰めるが少年の父の実力を知っている為に強くは出られなかった。

 

「……あと一度だけですぞ」

「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」

 

 何度も頭を下げ、礼を言う。

 父が再実験を許したのを見て、少年は間違っていた箇所をこっそりと修正しようとし――

 

「ん?」

 

 ――足を止める。

 魔法陣の上にいつの間にか別の魔法陣が浮かんでいた。地面に描かれた魔法陣と同じ文字が描かれている。

 失敗したかと思われたものが時間差で起動しているようであったが、少年は何か違和感を覚えた。

 この魔法陣は転送する為の魔法陣である。もし、この宙に描かれた魔法陣が本来転送先に現れるものならば、一体何が送られてくるのだろうか。

 

「あ、あれ?」

 

 時間差で成功したことに喜んでいた魔術師であったが、作った張本人である彼も魔法陣に違和感を覚えていた。

 

「ち、違うぞ? ど、どういうことだ? こ、この感じは……? 向こうから、何かが来る?」

 

 描かれた魔法陣が激しく震え始める。やがて、その魔法陣から――

 

 

 ◇

 

 

「え……?」

 

 見渡す限りの大地。ここに自分が前触れも無く立っていることに気付き、戸惑いの声を洩らす。

 さっきまで魔法の実験の為に地下に居た筈なのに何故自分はここに居るのか。

 前後の記憶が無い。完全な記憶力を持つ少年にとって在り得ないことであった。

 思い出そうと記憶を辿る。

 

「痛っ!」

 

 途端、針を刺されるような痛みが少年の脳内に走った。思い出すのを拒むかのように。

 

「父上! 父上ぇぇぇぇ!」

 

 父を呼んでも返事は無い。この広い大地に少年ただ一人であった。

 

「戻らなきゃ……」

 

 一刻も早く国に帰らなければならない。何が起きたのか知る為に。

 少年は丸一日掛けて周囲の地形を調べた。そして、脳内に記憶した地図と照らし合わせて自分が今何処に居るのかを調べ出す。

 記憶ある地図だと少年が居る地点は、国から数十キロ離れた場所であった。

 乗り物を使えば一日か二日で辿り着けるが、生憎そんなものは無い。

 少年は歩いて目指すことにする。誰かが通り掛かるのを待つなど悠長なことなど出来なかった。

 幸いにも少年は、初歩的な魔術が扱えた。火を出し、水を出すことが出来る。

 火により獲物を狩って食料とし腹を満たし、水の魔術で喉を潤す。

 子供の足では一日に進める距離はたかが知れており、更には食料を確保する時間も必要であった。

 少年が故郷に辿り着いたのは、見知らぬ場所に飛ばされて一週間ほど経ってからであった。

 

「あれが……?」

 

 故郷を目視したとき、初めは冗談に思えた。仕方のないことだろう。全て焼け落ちて、廃墟と化している場所と少年の記憶の故郷は重ね合わなかった。

 

「嘘だ……」

 

 呆然としながら少年は廃墟の中に入っていく。

 中には無事なものなど何も無かった。全てが破壊され、炎で焼かれ、黒く染まっている。

 

「こんな、何が起こって……あう!」

 

 足に何かが引っ掛かり、少年は転倒する。少年が足元を見る。黒く焼け焦げた塊。良く見れば、見覚えのある形をしている。

 

「うっ!」

 

 それが人だと気付いた瞬間、少年は嘔吐していた。

 見渡せば同じようなものが至る所に転がっている。

 漂う焼け焦げたニオイは人が焼けたニオイ。肌に纏わりつくような空気は、焼けた人の脂が混ざり合ったもの。

 不幸にも完全な記憶力を持つ少年は、それら全てを記憶してしまう。

 胃の中のものが無くなるまで吐いた少年は、口を拭いながら立ち上がる。

 ここで折れる訳にはいかない。まだ父を見つけていない。

 勇気を奮い立たせ、実験を行った建物を目指す。

 

「ああ……」

 

 目的の場所に着いた少年の口から出たのは、絶望の声であった。

 荘厳な建物は潰れていた。それだけでなく、大きく凹むように潰れているのだ。それは地下も完全に潰れている何よりの証拠であった。

 

「一体何が、何が起きたんだ?」

 

 問いてもその答えをくれる者は誰も居ない。

 ――否、一人だけ存在した。

 

「思い出せ……! 思い出せ……!」

 

 少年だけがあの時何があったのか全て見ている。

 意を決し、あの時の記憶を蘇らせる。

 その途端、針を刺すような痛みが走る。構わず記憶を辿る。

 針は釘に変わり、釘は剣と変わり、その度に痛みが増していく。

 

「うぐ! うああああ!」

 

 地面を転がりながら、その痛みに耐える。

 貫く痛みが、彼の脳内から記憶を抉り出そうとする。

 

「ああああああああああ!」

 

 ――何だあれは?

 ――ドラゴン?

 

 記憶の断片が蘇ってくる。

 

 ――お、大きい! こ、このようなドラゴンが存在したとは!

 ――素晴らしい! これほどの存在が召喚されるとは!

 

 歓喜の声。だが、それはすぐに絶望の声と化す。

 

 ――うああああああああ!

 ――逃げろ! 逃げろぉぉぉぉぉ!

 ――ま、魔術が! い、一切効かぬ!

 

 逃げ惑う魔術師たち。絶望は加速する。

 

 ――と、扉が!

 ――誰か! 誰かここを開けろ!

 ――来る! 奴が来る!

 

 声が一つ一つ消えていく。

 

 ――ここまでか。せめてお前だけは!

 ――逃げろ。お前が生き延びてここであったこと全てを伝えろ!

 ――奴は逃さん。この地下ごと押し潰す。

 ――遠くへ。危険の無い遠くへお前を飛ばす。

 ――お前の成長を見届けられなかった父を許せ、エン。

 

 最後に思い出したのは、少年の名を呼び、微笑む父の顔。

 

「思い、出した……! うあああああああああ!」

 

 忘れていたのではない。自ら封じていたのだ。父の死ぬ間際の顔を。

 あの黒いドラゴンの恐怖を。

 魔王の如き四本の鋭角。黒よりもなお黒いその姿。

 全てを黒く塗り潰す次元の違う強さ。

 思い出しただけで、心が恐怖で壊れそうになる。

 

「うあああ! ああああああ! ああああああああああ!」

 

 内に溢れ出る恐怖を叫びに変え、地面の上で身悶える。何度も、何時間もそれを繰り返し、やがて喉が枯れ果てたとき、少年は立ち上がった。

 

「……伝えなきゃ。誰かに。このことを……」

 

 幽鬼のように力無く立ち上がり、ふらつきながら少年は歩み始める。

 少年の第二の人生は、黒く塗り潰されたこの場所から始まった。

 

 

 ◇

 

 

「……さっきから何ボーっとしてんだ、爺。ついに耄碌したか?」

 

 千年ほどの過去へ思いを馳せているエン・ドゥウに、エヌが憎まれ口を叩く。

 

「もう。失礼だよ、兄さん」

「けっ」

 

 エムが咎めてもエヌは反省した様子は無い。

 エン・ドゥウは、それを見て小さく笑う。

 

「どうかしましたか?」

「いや、この時だけは平和だな、と思って」

「寝言は寝て言え。外には訳の分からん奴らがうじゃうじゃしているし、あんたの目の前にも平和とは無縁の奴が居るっつーのに」

 

 氷漬けの竜を顎で指す。

 

「まあ、ごたごたしていた昔に比べれば、ね」

 

 故郷を去ってから分かったことだが、敵対していた国も謎の生物の襲撃を受け、壊滅状態となっていた。

 その国の文化、文明は全て跡形も無くなり、各国がそれを独占していたせいもあって、あらゆる技術が数百年後退してしまった。

 国を滅び尽くすまで暴れた強大な生物が何処に消え去ったのか、今でも謎である。

 あの黒いドラゴンのように召喚され、術の効果が切れて元の場所に戻ったのかもしれないというのが、エン・ドゥウが憶測で出した答えである。

 しかし、時が進み、あれ程の脅威では無いが未知の生物たちが姿を見せ始めてきた。

 彼らを見た時、エン・ドゥウは彼らが黒いドラゴンと同じ場所から来たと直感した。

 今はまだ大丈夫だが、いずれは――

 

「事は急ぐに越したことはないね」

 

 その日が来るまでに力を蓄えなければならない。

 あの時の惨状を繰り返さない為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年――エン・ドゥウが廃墟と化した故郷から立ち去って間も無くした頃、瓦礫と化した建造物の上に歪みが起きる。

 大人の掌ぐらいの大きさで、揺れる水面のような歪みから何かが地面に落ちた。

 地面に落ちたのは一匹の蟻であった。

 蟻は触覚を動かし、その体には見合わない立派で頑丈そうな顎を数度動かすと何事もなかったように何処かへ向かって這っていってしまった。

 

 世界はまだ繋がっている。

 

 




久しぶりの投稿となります。今年中に本編終わらせたいと書きましたが無理そうな感じです。
この話では古龍を七頭出しましたが、他にもゴグマジオスや、ミラボレアスと一緒にミラバルカン、ミラルーツを出そうと考えましたが止めにしました。収拾がつかなくなりそうだったので。
とりあえず本編にこのクラスの古龍を出したら、こんな感じで一方的に終わってしまうと思って下さい。


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打ち壊すモノ

「はあ……」

 

 窓枠に頬杖を突きながらティナは溜息を吐く。何度目か数えるのも面倒な程それを繰り返していた。

 

「姫様。少し横になられた方が……」

「眠れないわ。今の私は」

 

 心配し、休むよう促してくるケーネの言葉を、ティナはにべもなく却下する。

 

「早く出発出来ないの?」

 

 少し苛立った口調でティナは現状を聞く。

 

「何分予定よりも早く行軍したせいもあって、兵たちは皆疲労しています。それにこの間のこともありますので動揺もまだ残っています。――兵も命を落としているので。暫くの間は補給や休養で動けないかと……」

「そう言って何日もこの町で足止めしているじゃない!」

 

 苛立った声は荒立ったものへと変わる。

 

「その間にもしあの時の怪物がまた現れたらどうするの! オーは居ないのよ!」

「まだオー様が死んだと決まった訳ではありません」

「でも! だって! 何も――」

 

 そこまで言ってティナは言葉を呑み込んだ。

 

「……ごめんなさい。八つ当たりだったわね。こんなことしても何の意味が無いっていうのに……。私だけが焦っている訳じゃないのにね。兵士たちにはきちんと休むように伝えておいて。結局、私は兵たちが居なければなにも出来ないっていうのに」

 

 感情を昂らせた自分の醜態を客観視してしまったのか、別人のように気落ちする。

 

「姫様の気持ちは御理解出来ます。……私も不安で仕方ありません」

 

 オーとケーネの付き合いは長い。彼女の人生の記憶の三分の二にはオーと共にあった。血は繋がってはいないが、ケーネにとっては人生の師であり、祖父のような存在である。だが、ティナとオーの付き合いはケーネよりも更に長い。

 ティナが生まれたときから常にオーは側に居た。国を治める立場で多忙な父母や近隣諸国との政治で忙しい兄や姉たちよりも一緒に時を過ごした。立場の為、声を大にして言えないがティナにとってオーは育ての親である。

 そんな身内よりも強い絆で結ばれたオーが生死不明の状態とあれば、精神的にまだ大人に達していないティナが焦り、不安になることはおかしくない。当然と言える。

 

「……ケーネ」

「はい」

 

 ティナは無言でケーネの胸に顔を押し当てる。ケーネはそんな彼女を優しく抱き締める。昔からティナが泣きたくなったときや傷付いたときは、今のようにケーネが慰めていた。

 しかし、今回ばかりはケーネも泣きたい気持ちであった。感情を何とか制御出来たのは、偏に年の功であろう。

 ケーネはティナを抱き締めながらも、ティナの頭に額を当てる。彼女の体から漂う花の香りが、心の悲しみを少しだけ和らげてくれた。

 

 

 ◇

 

 

 それなりの規模の町には、いざという時の為に兵士が休めるよう兵舎が置かれている。が、そこで休められる兵士の数は決まっているので収まり切れなかった兵士たちは、国営の兵舎よりもワンランク下がる個人が経営している宿屋に泊まり、更にそこにも入り切れなかった者たちは、町の外で野営となる。

 実地訓練という名目でこの野営となるのは大概が新兵たちであった。

 町から少し離れた森の近くで軽鎧を纏った新兵たちが、寝床となるテントを張る光景が見られる。

 

「はあ……羨ましいよ。上の連中が」

 

 新兵の一人が焚き火をしながら同期の新兵に愚痴を溢す。

 

「そういうなよ。兵になる前から分かってただろう? こういう損は俺たちに回ってくるって」

 

 慰めるように肩を軽く叩く。

 

「ここじゃ何にも楽しめるものなんて無いっつーの。町の中じゃ、今頃酒や女で愉しんでいるかもしれないんだぜ? 俺らのやることなんてテントを張るのと火の番ぐらいだ」

 

 乾いた枝をへし折り火の中に放る。

 町に寄る兵士がやることと言えば新兵が言ったように酒を飲んで陽気になり、女と戯れて嫌なことを忘れるのがお決まりであった。

 

「……今回はどうかな? 死人が出ているしな。流石に羽目を外さずに自重するだろうさ」

「あれのことか……。お前は見たのか? 俺は前の列に居たから見ていないだが……」

「俺は、直接は見ていない。見ていないが……死んだ奴なら見た。……あんな死に方はごめんだな」

 

 脳裏に死んだ兵士のことを思い出す。あまりに強い一撃で、詳細は省くが本来ならば収まっている筈の体の内側の色々なものがはみ出てきていたという有り様。

 

「オー様には感謝しないとな。あの人が一人で引き受けてくれたおかげで犠牲も最小で済んだし、その犠牲になった奴もちゃんと墓に入れてやれた」

「凄いじいちゃんだよなー」

「気安く呼ぶな。俺たちとあの人じゃ、天と地以上の差があるんだぞ」

「へいへい」

 

 咎められても大して反省した様子もみせず、新兵は枯れ枝を火にくべる。

 そのとき、肩に何が落ちる。見ると白い液体に粒上の固形物。

 

「うへえ!」

 

 新兵は顔を顰める。肩に付着したのは鳥のフンであった。

 

「ははははは! 気安く呼んで罰でも当たったか?」

「うるせえよ。くそっ。何か拭くもんは無いか?」

「ほらよ」

 

 擦り切れたボロ切れが投げ渡される。ボロ切れも薄汚れていたが、無いよりもマシである。

 

「ったく。ついてねぇなー!」

 

 文句を言いながら、フンで汚れた箇所を拭う。

 

「はははは! 俺も気を付けないとな!」

 

 笑いながら上を見上げる。すると、笑い顔は消え、訝しむ表情となる。

 同期の急な表情の変化に、新兵は思わず尋ねる。

 

「どうした?」

「――上」

 

 空を指差すので、その指につられて空を見上げる。

 

「何だありゃあ……」

 

 青を埋め尽くす程の鳥の群れが空を渡っている。

 

「こんな時期に渡り鳥か……?」

「いや、違うだろ……」

 

 すぐにその言葉は否定される。同じ種類の鳥で形成された群れでは無く、種類を問わず大小様々な鳥たちが一斉に飛翔していた。

 

「お、おい! あれ!」

「うお……ワイバーンも……」

 

 鳥たちの群れに混じって大きく翼を羽ばたかせるワイバーンの姿。注意して見れば、ワイバーンだけでなく翼を持つ様々なモンスターも群れの中に混じっている。

 異種の大群が次々に頭上を通過していく。

 

「何であんな大移動を……」

「住処を追い出されたとか?」

「あんな一斉に逃げ出す奴なんているのか?」

「そんなの俺が知る訳ないだろうが……」

 

 モンスターたちの空の大移動。見ている側に言いようの無い不安と不吉さを与える。

 

「……なあ」

「何だよ?」

「……すげえ嫌なこと考えたんだけど」

「だから何だよ?」

 

 そこで彼は唾を呑み込み、乾いていく喉に一時的な潤いを与える。

 

「あんだけのモンスターが空を飛んで逃げるんなら、飛べない奴らも逃げるよな?」

「まあ、そうだろうな」

「地面を走ってさ、一直線に」

 

 何が言いたいのか分かってくる。

 

「あの鳥たちの進路方向に俺たちや、町が有るんだよな」

「まさか……」

 

 カタン、という崩れる音に驚いて反射的にその方向を見る。積んであった枯れ枝が崩れる音であった。

 大袈裟に反応してしまったことに、二人とも内心で恥ずかしがりながら落ちた枯れ枝を積まれた山に戻す。

 

「何だよ、ビビッてんのか?」

「お前もだろうが」

 

 互いに茶化し合う。胸の中に棲みついた恐怖を紛らわせる為に。

 再びカタン、という音が鳴る。積まれた山から枯れ枝が転がり落ちる。

 またかと思い、その枯れ枝を山に戻そうしたとき、積まれた山が一斉に崩れた。

 地面を転がる枯れ枝が、新兵の爪先で止まる。その枯れ枝は何もしていないのに細かく震えていた。

 新兵たちの顔からゆっくりと血の気が引いていく。そして、恐る恐る地面に顔を近付け、大地に耳を当てた。

 絶え間なく聞こえる地鳴り。無数の足音が重なり、巨大な音と化す。

 

「誰かー! 誰か警鐘を鳴らせ! 隊長たちに報せろ! 凄い数のモンスターがこっちに向かって来てるぞ!」

 

 

 ◇

 

 

 カーン、カーン、カーンという激しい鐘の音が急に聞こえティナたちは驚く。

 

「な、何事!」

「すぐに聞いてまいります!」

 

 ティナたちが居るのは兵舎から少し離れた場所にある貴族専用の建物である。数分もせずに往復出来る距離のため、ケーネは急いで兵たちに事情を聞きに行こうとする。

 

「よろしいでしょうか!」

 

 その前に建物周りを護衛していた兵士が扉の前で声を張り上げる。

 

「何があったのですか? この鐘は?」

 

 扉越しにケーネが問う。

 

「詳しい事情はまだこちらに伝わっておりません! 今確認している最中です! どうやら鐘は野営をしている者たちが鳴らしているようです!」

「野営……何か森付近であったのでしょうか……」

「確認が終わるまで姫様たちはここで待機を!」

「分かったわ。貴方たちも気を付けてね」

「はっ!」

 

 慌ただしい足音が扉から離れていく。

 

「急な警鐘……まさか、あの時の怪物が私たちを追い掛けて……?」

「まだ分かりません。兵たちが情報を持って来るまで今は待ちましょう」

 

 震えるティナをケーネは抱き寄せる。ケーネの暖かさを感じ、ティナの震えは少しだけ治まった。

 

 

 ◇

 

 

 野営周辺では兵士たちの怒号が行き交っており、殺気立っている。

 

「おい! 隊長たちは呼べたのか!」

「今行っている最中だ!」

「偵察しにいった奴らは!」

「まだ戻っていない!」

「早くしないと間に合わないかもしれないぞ!」

「うるせえ! 喚いてないで準備しろ! 戦いのな!」

 

 警鐘を鳴らして数分の間に、兵士たちは装備を整え、偵察班を編成して様子を見に行かせた。

 

「思い過ごしだったらどうする?」

「俺たちが隊長たちにぶん殴られるだけで済む。――でもな、入隊した時に嫌でも覚え込ませられただろう? 『少しでも異変を感じたら即皆に伝えろ! 後のことを考えて動かない方が問題だ!』ってな」

 

 確証が有る訳では無い。それは今確認している。思い過ごしなら思い過ごしで会った方がいい。ただ、前兆と呼べるものを見せつけられたせいで嫌な方向で予感はしていた。

 

「でんれーい! でんれーい!」

 

 偵察に向かっていた兵士の一人が血相を変えて戻って来る。汗だくの顔に、着ている筈の鎧や武器が全てなく衣服だけの姿。

 その姿を見ただけで兵士たちは悟った。装備を全て捨て、身軽にならざるを得ないほどの緊急事態。

 

「か、数は不明! 途轍もない数の、モ、モンスターたちがこっちに、む、向かって来ている!」

「距離は!」

「距離は――」

 

 倒れる音。折れる破砕音。それも一つや二つのではなく無数。森の木々が蹂躙されていく音が、偵察の兵士が走って来た方向から追い掛けるように聞こえてくる。

 

「今すぐ町に向かうぞ! 姫様と町人たちを避難させろ!」

「急げ! 急げ! 時間が無いぞ!」

 

 最低限の荷物を持って兵士たちは町に向かって駆け出す。背後から聞こえる倒木の音は更に近くに聞こえ、倒木の音に混じって獣の鳴き声も聞こえてくる。

 脅威がすぐ側まで接近していた。

 町の入口まで来ると、警鐘を聞いていた町に待機をしている兵士たちが彼らを待っていた。

 

「何があった?」

 

 他の兵士たちと比べ、作りの良い鎧を纏った兵士――彼らの隊長が事情を聞いてくる。

 

「この町に向かってモンスターの大群が押し寄せて来ています! 今すぐに町人たちの退避を!」

「何だと……確かなのか?」

「この目で見てきました! 悠長なことを言っている暇は有りません! すぐに緊急避難を!」

 

 本来ならモンスターが町に向かってくることは稀有である。そういった危険なモンスターたちが生息する場所にはそもそも町など作らない。それに襲われないように町の周囲にモンスターが避けるニオイを撒くなどの対策をしている。

 それを無視して襲ってくるということは、見えないところで何かが起こっているのかもしれない。

 

「すぐに町の者たちに声を掛けろ! 安全な場所を確保しろ! 姫様もすぐにここから離れさせろ! 動け! 動け! 一秒も無駄にするな!」

 

 隊長の判断は迅速であり、兵士たちの行動も迅速であった。

 すぐに避難誘導をする者、避難場所確保に動く者、ティナの護衛に向かう者と指示されずに分かれ、それぞれが役目を果たす為に動き出す。

 安全な場所を発見し確保することは簡単であった。町から少し離れた場所に丘があり、町人たちは全てそこに避難させることが決まる。

 問題は町人たちの避難であった。言うことを素直に聞く者たちが大半であったが、兵士たちの言葉に素直に従わない町人たちも存在する。

 

「急に何だよ。家を出ろってさあー」

 

 あからさまに不満気な表情をする中年の男性。

 

「だからモンスターの群れがこっちに向かって来ているって言っているだろうが!」

 

 言うことを聞かない中年男性に兵士が怒鳴りつける。すると、ますます意固地になったのか、兵士の言葉を鼻で笑う。

 

「俺が今までこの町で生きてきて、そんなことは一度も無かったんだがなー」

「知るか。なら今日が初めてだ。記念日にでもしておけ」

「なら荷物を纏めさせてくれよ」

「ダメだ。置いて行け」

「なんだそりゃあ! ちょっと横暴じゃないかぁ?」

 

 嚙みついてくる中年男性に、自然に剣の柄へ指先が伸びていく。暴力で脅したくは無いが、一刻を争うときにごちゃごちゃと文句を言う相手には剣を抜くときの滑りが良くなる。

 民と兵士の関係は良くも悪くも無い。守ってくれる存在ということで一定の敬意を見せる者も居れば、国の暴力の象徴として敵意を向ける者も居る。

 今回の場合は後者であるが、更に町に突然来た余所者ということで、そこに警戒心も加わっている。

 

「いいから。お前と喋っている暇は無いんだよ。とっとと指定された避難場所に向かえ」

「この野郎……!」

 

 自分よりも若い兵士の上からの言い方に、中年男性の顔が怒りで赤く染まっていく。

 

「言っとくけどな――」

 

 そこから先の声は、兵士には届かなかった。咆哮が中年男性の声を掻き消す。町の外から放たれているというのに、空気を伝わって兵士たちの体を震わす。

 

「な、何だよ……」

 

 さっきまでの怒りが面白いほど簡単に萎んでいく。人の怒号など野生の持つ本物の叫びの前には、この程度のものである。

 

「ああもう! 時間切れだ! 来い!」

 

 兵士は中年男性の服の襟元を乱暴に掴むと、家の中から引き摺り出す。文句を言いたげな顔をしているが、首が締まって声が出せない様子であった。

 中年男性を家から無理矢理出した兵士は、声のした方をすぐに見る。

 目を凝らした先にいるのは、群れ為すモンスターたち。

 しなやかな体躯に長く伸びた四肢。突き出た口吻に頭に二本の角。

 兵士は、知識としては有るが咄嗟にそのモンスターの名前は出てこなかった。ただ思い出せたことが二つある。

 一つ目はこのモンスターは草食であること。人を襲うことは無い。

 二つ目は、このモンスターは人なんかよりも遥かに足が速いことである。

 

「逃げるぞ! 立て!」

「ああ? う、おおおお!」

 

 中年男性も、モンスターの群れに気付き、慌てて駆け出そうとしてこける。

 

「何やってんだ!」

 

 鈍臭い男の服を引っ張って立たせようとする。

 

「うああああああああ!」

「いやああああああ!」

 

 男女の声が混じった悲鳴が聞こえる。

 兵士は見た。モンスターの群れの前を走って逃げようとする数名の男女を。兵士の避難が間に合わなかった町人たちである。

 必死になって走る。文字通りの足搔き。しかし、それも僅かな抵抗。

 この時になって兵士はもう一つ思い出した。人の走る速さが十だとすれば、あのモンスターが走る速さは三十である、と。

 モンスターたちの無慈悲な蹄音が、悲鳴ごと町人たちを巻き込み、蹄の蹂躙によって二度と叫べないように砕く。

 温厚な筈のモンスターたちが情け容赦なく町人たちを踏み殺す姿に戦慄を覚える。が、その戦慄にいつまでも浸っている訳にはいかない。動かなければ自分たちも町人たちと同じく地面と一体と化す。

 

「あ、ああああ!」

 

 顔見知りでもいたのか、中年男性の口から裏返った悲鳴が聞こえる。兵士は悲鳴を上げ続けている中年男性の腕を掴み、道脇へ力任せに放り投げる。

 無様な悲鳴と姿で顔面から地面に倒れ伏す中年男性。距離が足りなかったのでついでに散々手を焼かせてくれた恨みを込めて尻を蹴飛ばした。

 ぎゃっという短い声を出しながら道脇に入っていく。兵士もすぐに後を追って道脇に身を隠す。

 足の速さからして逃げきれないと判断した兵士は、モンスターたちが一直線に走っているのを見て、一か八かここでやり過ごすことを決める。

 家と家との間にある短い通路。ここにあのモンスターたちが入ってくるかは運命次第である。

 足音が地崩れのような轟音となって迫って来る。戦争の経験は無い兵士は、かつてない恐怖と重圧に全身が冷や汗で濡れていくのが分かった。中年男性など地面に蹲って頭を抱え、腕で耳を押さえながら見事なまでに現実逃避の構えをとっている。

 間もなくして騒音の濁流が側を通過していく。舗装された道が踏み砕かれる音。剥き出しになった地面を踏み付けて均す音。モンスターたちの息遣いと鳴き声。そして、時折混じる人の悲鳴。

 全てが合わさって出来上がったそれは、ただひたすら人の心を削り落としていく。

 長い時間この音の中で晒されれば、人は確実に恐怖で発狂するだろう。

 時間にすれば数十秒の出来事であった。だが、その音の中に囚われていた者たちにはその何倍もの時間に感じられたであろう。

 騒音が遠ざかり、兵士は道の脇から顔を出す。走り去って行くモンスターたちの群れの背。ここでの惨劇は終わったが、行く先には再び惨劇が起ころうとしている。新たな悲鳴がそれの予兆であった。

 しかし、今は取り敢えず生き残ることが出来た。兵士は道脇から出る。

 モンスターたちが踏み荒らした場所を見る気にはなれなかった。どんなものがひろがっているのか、見たくも無いし想像もしたくない。

 

「はあ……」

 

 流れ出る冷や汗を拭い取る。

 

「おい」

 

 未だに縮こまっている中年男性に声を掛ける。しかし、完全に自分の世界に閉じこもってしまったせいか、兵士の声は届かない。

 

「おい! 今のうちに安全な――」

 

 その声を妨げるように、兵士と中年男性の間を何かが家の壁を突き破り、地面を砕く。

 地面を砕いたのは、子供程の大きさのある岩であった。

 

「な、に……?」

 

 再び聞こえてくる足音。今度は先程のモンスターたちのように軽快なものではなく、一足一足が重く響き渡るものであった。

 心底見たくはないが見なくてはいけない。意思に反して硬直する首を動かし、岩が飛んできた方を見る。

 先程のモンスターと同じく四足であるが、足も体も太さも大きさも違うモンスターたち。

 盾のように平べったく広がった頭部。頭部の下には掬い上げる為に弧を描いた角が無数に並んでいる。

 その特徴的な頭部を使用した戦い方が、盾を用いた人間の戦い方に似ている為にシールドバッシュと呼ばれているモンスターたちである。

 先程のモンスターと同じく草食性だが、気性は激しく自分たち以外の生物は全力で排除しようとするモンスターである。

 群れの先頭を走るシールドバッシュたちは、荒らされた地面を後ろの仲間たちが走りやすくする為に掃除する。

 その掃除方法は、頭部を地面に向けて傾け、瓦礫や岩などを掬い、強靭な首の力で投げ飛ばすというものである。

 

「う、おおおおおお!」

 

 兵士は中年男性のことを放って走り出す。いくら上からの命であっても自分の命は惜しい。そもそも、上から雨のように降って来る瓦礫や岩を防ぐ手段など持ち合わせていない。

 砲撃のように残骸が降り注ぐ。その残骸の雨の後、誰が生き残ったのか確認出来る者などこの場には居なかった。

 

 

 ◇

 

 

 目まぐるしい。

 ティナが現状を言い表すのならその一言であった。

 待機をしていてくれと言われて数分後に避難するように言われ、荷物も持たずに兵士に護衛されながら建物から出る。

 そして、彼女は見た。町がモンスターたちの大群によって破壊されていく様を。

 中には町人や兵士が群れの中に飲み込まれていく光景もあったが、ケーネが咄嗟に目を隠してくれたおかげで最後まで見ることはなかった。ただ、絶望に満ちた最期の声は塞ぐことは出来なかったが。

 モンスターたちの群れに近づかない為に、遠回りとなるが安全なルートで避難場所を目指すこととなった。

 いきなりのことでティナはドレスという長い距離を移動するのに向いていない格好だったが、文句一つ言わずに兵士たちの言うことに従う。

 モンスターたちの声を遠くに聞きながら、民家を壁にして避難するティナ一行。

 危険なモンスターたちと遭遇することなく順調に避難場所へ向かっていた。この時までは――

 

 カチカチカチカチ。

 

 地面を引っ掻くような足音。それを聞いた兵士たちは一斉に剣を抜く。ケーネもティナを守る為に自分の後ろに回す。

 足音。それも複数。それが曲がり角の向こうから聞こえる。

 数名護衛に残し、残りの兵士たちが曲がり角の向こうに出る。

 

「これは……」

 

 そこに居たのは複数の虫と思わしき生物であった。思わしきというのは、彼らの知る虫とは比べものにならない程に大きいからである。犬ほどの大きさがある虫は、全身を黒い外骨格で覆い、足は既存の虫と同じく六本脚だが、一番後ろの脚は前の二本より倍以上長く、関節部を頂点として鋭角に曲がっていた。

 頭頂部と目と目の間から角が突き出しており、兵士たちは自分たちが知る虫を掛け合わせたような姿だと思った。

 

「虫、か?」

「気持ちが悪い……早く追い払おう」

 

 かなりの大きさが有る為、嫌悪感を覚えた兵士の一人が剣で虫たちを追い払おうとする。

 するとその内の一匹が、背の甲殻を広げ、中から出した薄羽を羽ばたかせながら後ろ脚で地面を蹴る。

 そして、兵士の体にぶつかる。

 

「うっ」

 

 呻きながら後退する兵士。

 

「おい。虫相手に良いように――」

 

 言葉は続かなかった。後退する兵士の胸に大きな穴が開き、そこから血が流れ出ている。支える暇も無く、兵士の体は崩れ落ちた。

 

「なっ!」

 

 量産品とはいえ鎧すら貫通する虫の角に、兵士たちは驚くしかない。

 

「この!」

 

 仲間がやられたことに怒り、虫に向けて剣を振り下ろす。背に叩き付けた一撃目で関節部から体液が流れ、二撃目で胴体から首が外れ、耳障りな鳴き声を上げながら脚だけがもがくように動く。

 思いの外簡単に倒せることが分かり、仲間の弔いのこともあって戦意が高まる。

 すると、視界の隅で虫がこちらに向かって飛び掛かろうとするのを捉える。

 上体を反らした直後、角を突き出した虫が通り過ぎていく。完全に避け切れことは出来ず、首に薄羽が当たったが、その兵士とっては大したことで無かった。

 着地した虫を背後から叩き潰そうとしたとき、足元に赤い点が広がる。赤い点、間違いなく血であった。ならその血は何処から流れ出ているのか。

 目線を落とすと再び血が垂れるのが見えた。血の軌跡を追って震える指先が上に向かって伸びていく。

 指先が首筋に触れたとき、ぬるりとした感触が伝わってきた。

 

「お、おい」

 

 仲間が血相を変えてこちらを見ている。その蒼ざめた顔を、もっと蒼ざめた顔が見返していた。

 羽が掠っただけ。その程度の筈なのに、兵士の首は裂け、そこから大量の血が流れ出している。

 大量の失血で首を斬られた兵士は倒れる。

 仲間が呆気無く死んだことに、兵士は数秒間だけ呆けてしまった。戦い中で思考に空白を生むことは死を意味する。今の彼には無数の羽ばたきの音は届かなかった。

 

「だ、大丈夫なの?」

 

 曲がり角の向こうに兵士たちが向かって少し経つが、まだ誰一人戻って来てはいない。

 護衛の兵士たちも、この事態に落ち着きが無くなっていく。

 

「――信じて待ちましょう」

 

 本当ならばこんな悠長なことを言う余裕など無い。しかし、焦りは連鎖する。その連鎖を断つ為には誰かが冷静に振る舞う必要がある。その役目をケーネは自ら買って出た。

 すると、曲がり角から長く伸びる影が地面に映る。背格好からして兵士の影であった。

 影の主である兵士が曲がり角から現れ――そのまま倒れる。その背には角を突き刺した虫が三匹、脚を蠢かせていた。

 

「い、いやあああ!」

 

 目の前の無惨な兵士と、巨大な虫からくる生理的嫌悪感にティナは悲鳴を上げてしまう。

 兵士たちが構える。しかし、それよりも早く動く者がいた。

 ケーネは足元に転がる小石を数個拾い上げ、その石に息を吹き掛けた後に虫たちに向けて投げ放つ。

 凹凸のある小石は投げられている中で鋭角状の形に変化し、虫たちに突き刺さる。

 キィィィという鳴き声を上げる虫。ケーネがもう一度短く息を吐くと、刺さっている石が破裂し、虫たちをバラバラにする。

 

「姫様、大丈夫です。――確認を」

 

 ケーネに促されて兵士たちは倒れた兵士に駆け寄った。しかし、ケーネの方を見て首を横に振る。既に息絶えていた。

 

「……早くここから離れましょう」

 

 泣きそうなティナを抱き締めながら先に進むように言う。仲間の遺体を置いていくことに一瞬だけ名残を見せる兵士たちだったが、すぐにケーネの指示に従った。

 周囲を警戒しながら曲がり角の向こうに行く。そこには先程の兵士と同じくあの虫に殺害された兵士たちの死体と虫たちの死骸が転がっていた。

 ケーネはティナの目を死体が見えないように遮る。しかし、漂う血のニオイは隠すことは出来ず、ティナは血臭に顔色を悪くさせていた。

 絶えず聞こえる破壊の音。悲鳴、苦鳴、絶叫、怒声。獣の叫ぶに人の叫び。ついさっきまで平穏であった町は地獄の底のような混沌に満ちていた。

 

「一刻も早く抜け出しましょう。ここはあまりに危険過ぎます」

 

 それにティナに見せたくも無いものを多く見せてしまう、と心の中で付け加える。オーがいなくなったことで精神的に弱っているティナに、これ以上心が傷付くものを見せたくは無かった。

 

「――そうですね。早く行きましょう」

 

 兵士たちも他の仲間の安否が気になるが、与えられた使命を全うする義務がある。ここでティナに万が一のことがあれば、仲間の犠牲が無駄になってしまう。

 

「ここから――」

 

 思わず膝が折れそうになる振動。突如として近くにあった民家が崩壊する。

 

 ゴオオオアオオルアアアオオオオ!

 

 今まで一際大きな声が響き渡る。声は近い。すぐ側から聞こえた。

 全員一斉に声の方を見る。崩壊して巻き上がる土埃を突き破るようにして姿を見せるのは、全身に黒味がかった青い体毛を生やし、猫のように立った二つの耳、獣特有の姿であるが、竜種の特徴である鱗も体毛で覆われていない箇所に生やしている。前肢は翼と一体化しており、その翼は鈍い輝きを放っていた。

 彼女たちは知らない。目の前の獣のような竜が、ナナ森という場所で何十人もの冒険者を屠るという惨劇を起こしたモノだと。だが、その身から漂う死臭だけで彼女たちの本能が今まで体験したことが無い程の警鐘を鳴らす。身が竦み上がり、恐怖の声すら上げることが出来ない。

 故に動けたのは一手出遅れてからであった。

 土埃から現れた獣は、まず手始めに獲物に噛み付く。

 

「ぃああああああああああ!」

 

 一番近くにいた。ただそれだけの理由で標的にされた兵士の一人は、鎧ごと胴体に牙を突き立てられ絶叫を上げる。獣はそのまま兵士を持ち上げ、弱らせるように何度も頭を左右に振る。

 突き立てた牙はより深く刺さり、傷口を抉る。獣が頭を振る度に血が辺りに撒かれた。

 兵士の絶叫を聞かされ、硬直していた体がようやく動く。

 

「行き、ますよ!」

 

 誰もケーネの判断に異を唱えなかった。目の前の獣に対し、自分たちがあまりに無力であることを悟っていたからである。

 ケーネはティナを抱きかかえ、絶叫する兵士を残して逃げ出した。

 兵士の叫びが聞こえる間、彼女たちはひたすら心の中で犠牲になった兵士へ謝る。

 やがて、その絶叫が途絶えたとき――

 

「うあっ!」

 

 兵士の一人が転倒する。背中に何か重いものが衝突したのだ。

 

「つつっ――うわあああ!」

 

 転倒した兵士は思わず叫んだ。背中に当たったもの、それは食い千切られた兵士の上半身だった。生気を失った瞳が、兵士を見つめる。まるで見捨てて逃げたことを恨むかのように。

 恐怖に呑まれる兵士。だが、その恐怖の時間も唐突に終わる。

 獣がその場で跳躍し、離れていた距離を一気に詰めると着地と同時に地面に転んだ兵士をその前脚で踏み潰す。

 陥没する地面と足の間から血が染み出してくる。誰がどう見ても即死であった。

 ティナは最早叫ぶ言葉すら出ない程に怯えていた。いっそのこと気を失ってくれた方が、どんなに彼女の為か、とティナを抱えるケーネは思う。

 残された兵士はあと一人。

「は、早く、ひ、姫様たちは、お、お逃げを……!」

 

 ガタガタと奥歯を鳴らしながらも、使命を全うしようとする兵士。たった一人で獣に立ち向かうとする。震えながら構える剣は、獣に備わっている刃翼と比べたら哀れなほど頼りない。

 剣を向けられた獣が唸る。その重低音だけで兵士は心が折れそうになった。だが、全てを捨てて逃げるような臆病者にだけはなりたくないという気持ちが、一線を超えさせない。

 

「うああああああ!」

 

 裏返った声で恐怖を振り解く為の叫びを上げながら兵士は獣に斬りかかる。

 獣もまたそれを迎え撃つ為に、前脚を振り上げ――いきなり民家の壁から生えた石柱によって胴体を突かれて吹き飛ばされる。

 

「はあ……間に合ったか……。寿命が縮んだのう」

「はっ! 縮むほど残っているのか?」

「喧しいわ」

 

 ティナたちと獣を挟んで反対側に立つ二人の人物。

 聞き慣れた声。その声を聞いただけでティナとケーネは涙を流す。

 

「オー!」

「オー様! ご無事だったのですね!」

「ほっほっほ。姫様とケーネの花嫁姿を見るまでは死ねないと決めておりましたからな」

 

 編まれた白髭を撫でながら、オーもまたティナたちの無事を喜ぶ。

 

「はいはいはいはい。感動の再会はそこまでにして、とっとと逃げてくれないでしょうかねー。そこの漏らしてそうな兵士君、姫たち連れてあっちに向かえ。ギルドの冒険者たちが来ている」

 

 顔半分に傷を負った男――ヴィヴィは小馬鹿にしたような口調で向かうべき方角を指差す。

 

「姫様を前に無礼な奴じゃのう」

「生憎、私はこの国出身じゃないのでね。他国の姫への礼儀作法なんぞ知らん! というか早く動けっ! 向こうはもう動くぞ!」

 

 話している最中にヴィヴィの言葉は怒声に変わり、彼の言ったように突き飛ばされた獣が動き始める。

 

「――なので姫様方はお逃げを。なあに、今度は待たせませぬ」

 

 無事だと知った直後に、すぐさま危険の中にオーを置いていかねばならない。だが、ここに居てはオーたちの足手纏いになることは十分分かっていた。

 

「――待っているわ」

 

 ティナはその言葉だけ残し、ヴィヴィが指した方向に向かう。

 

「やれやれ。姫様を見つけたと思ったら、とんだオマケがついていたのう。あの『砕竜』と同じ類か? 似たような気配がする」

「やれやれと言いたいのは私の方だよ。姫の居場所を探したらついでに貧乏くじを引かされた気分だ。真面目は損だ! 命懸けの戦いを何度もするなど、馬鹿らしいというか阿呆らしい――右っ!」

 

 愚痴るヴィヴィの鋭い声が飛ぶ。オーが杖で地面を突く。右側に何重にも重なった土壁が現れると、地面を蹴って右側から攻めてきた獣の刃が土壁に突き刺さり、貫通する。

 

「密度が足りないぞ! 密度が!」

「咄嗟ではこれが限界だわい。相手が速過ぎる」

「老いたか? って壁張れ! 何か飛んで来る!」

 

 獣が長い尾を持ち上げ、掲げるとその先端を揺らし始める。すると、尾から棘が隆起し、無数の棘が放たれる。

 ヴィヴィの未来視によって事前に知らされていたオーは、自分たちの前方に土壁を地面から生やす。

 放たれた棘は土壁を貫き、オーたちから数十センチの所で勢いを殺されて止まる。

 

「すぐに突っ込んで来るぞ。――手痛いのを食らわしてやれ」

 

 土壁の向こうで、獣が四肢に力を込めると、直線ではなく右、左と切り返して相手を惑わすように動きながら接近してくる。

 

「左から来る。ごー、よん、さん、にー、いち――」

 

 来るタイミングを数えるヴィヴィ。ぜ、と言い終え前に獣は土壁を突き破り、刃翼を振り上げながら現れ、ドンという鈍い音が響いた。

 飛び掛かる獣に対し、土から生えた巨大な拳がその腹に重い一撃をねじ込んでいる。相手の勢いをそのまま返した反撃にさしもの獣も呻く声を出しながら、地面を接近したときと同じ速度で転がっていく。

 転がった先で立ち上がろうとするが、獣の周囲に無数の土の手が現れ、獣の体を掴んで拘束する。

 

「――それでどうする?」

「ギルドが、とっておきを用意したらしい」

「とっておき? 何じゃそれは?」

「まあ、見てのお楽しみということで」

 

 知っているような口振りでニヤケ面となるヴィヴィ。

 

「そのとっておきをここまで運んでくるのか?」

「――いや」

 

 バキリ、という音と共に獣を拘束していた手の一本が獣の力に負けて折れる。

 

「私たちで誘導する。既に準備をしてある」

「――最初から想定済みか」

 

 一本、一本と土の手が折れていく中で、拘束された獣の目の周りが赤い光を放ち始める。

 

「おー、おー。怒っている、怒っているな。怒っているが――どういうことだ?」

 

 ヴィヴィは獣の怒りに対し、首を傾げた。怒りの感情の中に別の感情が混ざっているのを彼の目は見抜いていた。別の感情、それは――

 

「おい! いつまでも見つめてないで行くぞ! そのとっておきの場所まで案内せい!」

「はいはい。怒鳴られでくれ。親以外に怒鳴られるのは嫌いなんだ」

「この甘ったれめ」

 

 

 ◇

 

 

「もうじきか……」

 

 町のとある一角でエヌはその時を待っていた。エムやエクスは居ない。万が一のことを考えて二人にはギルドで待機してもらっている。

 彼の周囲には冒険者たちが待機していたが、その目はあるものに釘付けになっていた。

 荷車ごと鎖で縛られた竜の死体らしきもの。らしきと表したのは、その竜が一切動くことも鳴くこともしないこと。しかし、一切の腐敗臭は無く、生きているように瑞々しい鱗が連なっていることから、死体かそうでないか曖昧であった。

 

「まさかぶっつけ本番になるとはね」

 

 エヌの側で少年――エン・ドゥウが苦笑する。

 

「失敗したらどうする?」

 

 からかうようにエン・ドゥウがエヌに聞いてくる。

 エヌはそれを鼻で笑った。

 

「俺を含めてこの場にいる連中が死ぬだけの話だ。後は地獄で、てめえのことを無能と叫び続けてやるよ、爺」

「あはははは。責任重大だね」

 

 エヌの嫌味もエン・ドゥウは笑って流す。

 

「まあ、全滅してもてめえだけは生き残るだろうな。そん時は、これを絶対にギルドに持ち帰れよ?」

 

 エヌは荷車を爪先で軽く蹴る。

 

「分かっているよ。エヌ君は真面目で頑張り屋さんだねー」

「うっせえよ」

 

 事情を知らない他の冒険者たちは、エヌとエン・ドゥウの会話を冷や冷やしながら聞いていた。エヌに対してこんな口の利き方が出来る者など殆どいない。

 

「あー。来るね」

 

 エン・ドゥウが誰よりも早くそれに気付いた。

 先に見えたのは、地面を跳ねるようにして移動するオーとヴィヴィ。その後ろを猛追する獣の姿。

 獣を見た途端、冒険者たちがざわつく。

 

「来たか……準備だ!」

「じゃあ、いこうか」

 

 エン・ドゥウが竜に触れる。エン・ドゥウの手から竜に魔力が流し込まれたとき、今まで微動だにしなかった竜が首を持ち上げる。

 白く濁った眼を開け、弛緩したように顎を開く。

 

「お前たちも準備しろ!」

 

 エヌの言葉で冒険者たちはざわつくのを止め、事前に言われ通りに動き出す。

 荷車の車輪に車輪止めを置き、十数人の冒険者たちが荷車の端を押さえる。

 

「ギリギリまで引き付けろよ……」

 

 少なくとも十メートル以内まで近付けたい。

 距離が段々と狭まってくる。獣の重圧とそれを迎え撃つ緊張で、一部を除いて誰もが心臓の鼓動を限界まで高めていた。

 あと三十メートル。オーたちと獣の距離も縮まっていく。

 あと二十メートル。汗を流しながら獣を誘き寄せるヴィヴィとオー。

 そして、残り十メートルを切ろうとしたとき、獣が竜の存在に気付いて左右どちらかに動こうとする。

 固定されている為、方向転換が難しい。ここで移動されたら確実に狙いが外れる。

 獣が片足を軸に横移動しようとしたとき、その動きが硬直した。

 ヴィヴィの眼から放たれた魔術が獣の動きを一瞬だが停める。

 これこそ最大の好機。エヌは叫ぶ。

 

「撃てっ!」

 

 竜の口内から火の粉が零れ落ちると、竜の喉が蠢き、その奥から灼熱を纏めた火球が放たれる。

 火球が放たれときの反動を、冒険者たちは体を張って受け止める。

 獣の肩に火球は着弾し、燃え上がらせる。

 

「二発目っ!」

 

 再び放たれる火球。狙う箇所も着弾した箇所も同じ。獣を包む炎が更に大きくなる。

 

「三発目っ!」

 

 三発目の火球が獣に着弾したとき、ヴィヴィの魔術も切れ、獣が着弾の衝撃で地面を跳ねるように転がっていく。

 獣は身を捩りながら地面に体を擦りつけ、引火した火を消そうとする。

 そのまま火と格闘する光景を、誰もが緊張した顔で見つめていた。

 獣が体を起こす。冒険者たちは一斉に武器を構える。

 着弾した箇所は、体毛も鱗も焼け落ち、赤黒い肉体が露出している。一部など炭化していた。

 獣はしばらくの間エヌたちを睨んでいたが、やがて大きく跳び上がり、翼を広げて何処かへ飛んでいってしまった。

 逃げた。皆が共通して思う。

 

「まあ、初めてにしては上々だ」

 

 エヌのその言葉をきっかけにして、冒険者たちから歓声が上がった。

 エヌも表面上は冷静であるが、内心ではあの未知の敵に対し一矢報いたことへの喜びがあった。

 苦難はあった。犠牲もあった。だが、その長い積み重ねによって自分たちはようやく力を手に入れることが出来たのだ。

 

「これからだな」

 

 喜びに浸らないように、自分を戒めながらエヌは後始末の指示を冒険者たちに出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、おい、おいおいおいおいおい!」

 

 喜びの余韻を壊すヴィヴィの声。

 

「嘘だろっ! 何だこれはっ! ふざけてんのかっ!」

 

 頭を掻き毟りながら取り乱すヴィヴィに皆が瞠目する。

 

「ど、どうしたんじゃ?」

 

 オーが心配した様子で声を掛ける。すると、ヴィヴィは顔を左右に振り、何かを探し始め、避難場所である丘を指差す。

 

「――見れば分かる」

 

 エヌたちが丘の上に辿り着いたとき、そこでは誰も彼もが口を開けて呆然としながらある一点を見つめていた。

 その視線の先をエヌたちも見て、そして絶句する。

 

 山が動いていた。

 

 いや、もしただの山であったのならどれほどマシであったか。

 茶褐色の棘を生えた甲殻と思わしき背。長く伸びた尾。その尾と同じぐらいに長く伸びた首。その首の先は竜によく似ており、鼻先から角を生やしている。

 生きている。命がある。生物だというのに、既存の概念を全て打ち壊すほどの圧倒的巨体。

 その姿を見た時、全てを悟る。今回の異変は、この巨大な存在から逃れようとして起こったのだ。あの獣ですら。

 

「あーあ……」

 

 エヌはその場で仰向けになった。

 長いこと費やしてきたことに一筋の光が見え、やっと報われようとしたときにこれである。

 思わず本音が零れ出る。

 

「少しは加減しろ……」

 

 

 




今年最後に投稿出来ました。
前から言っていましたが、次で本筋の話は最終話となります。


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29話

これにて本筋の話は終わりです。


 本来ならば人々の声が行き交い、常に生活音が絶えない筈の街が、今日ばかりは静寂に満ちている。まるで街そのものが死を迎えたように。

 ただ、死を迎えたという表現は些か不適切であった。正確に言えばこれから死を迎えるのである。

 冒険者たちの喧騒、あるいは罵声が外まで聞こえる筈のギルド前に立つワイト。ここもまた人気が無くなり、物音一つ無い。少し前まであった騒々しさが懐かしく思えてくる。

 ワイトがギルド内に入る。必要な物は全て持ち去られており、あるのは使い古された机や椅子、そこそこの年季が入った冒険者の装備一式。或いは逃げることを優先してわざと置いていったのかもしれない。

 人の居た名残を見ながらワイトはギルト二階に上がる。ギルドの幹部のみ立ち入ることが許された二階もまた下と同じ状況であった。

 ワイトはギルド最奥の部屋――ギルドマスターの為に用意された部屋へと向かう。

 扉の前に立つワイト。

 

「どうぞ。鍵は開いています」

 

 すると扉の向こうから返事があった。出払っている筈のギルド内にまだ人が残っている。しかし、ワイトに驚く様子は無かった。彼は中に人が居ることを分かっていたし、そもそも部屋の向こうにいる人物と会う為にここへ来たのだ。

 

「失礼します」

 

 一言断ってから入室するワイト。室内に居る四人がワイトを出迎える。

 エクス、エヌ、エム、そしてワイトも知らない少年。四人の中で少年の存在がひどく浮いていた。

 少年の存在も気にはなるが、それよりも先にすべきことがある。

 

「住人たちの避難は既に完了しました」

「そうですか。わざわざご報告ありがとうございます」

 

 エクスが柔和な笑みでその報告を受け取る。

 

「しかし、それだけを言いに来たのではありませんよね。どうぞ、君も座って下さい」

 

 机には誰も座っていない五つ目の椅子が置かれてあった。エクスたちは、ワイトの来訪を予期していたらしい。

 言われるがままワイトは椅子に座り、エクスたちと向き合う。

 すると、チャポンという水が跳ねるような音がした。見るとエヌが、瓶に口を付け中の赤色の液体を直接飲んでいる。

 

「――酒ですか?」

 

 非常事態に酒を飲んでいるエヌに非難の目を向けるが、エヌはそれを鼻で笑う。

 

「はっ! 葡萄のジュースだよ。俺は、酒は飲まん。金を払って馬鹿になるなんざそれこそ馬鹿馬鹿しい。俺がこの世で最も見苦しいと思っているのが酔っ払いだ」

 

 喋るエヌからは、言う通り酒気が感じられない。それよりも、エヌはいつもの慇懃無礼な喋り方を止め、荒々しい口調となっている。

 無礼と言える態度だが、ワイトは別の取り方をする。取り繕うのを止め、素の状態で話している。ならば、この場では一切隠し事無しで話を聞けるかもしれない、と。

 

「こちらの問いに、全て答えてくれますか?」

「あんなのが出て、今更隠すことも出来ないだろ?」

 

 あんなのと言われ、ワイトの脳裏に数日前に現れた山そのものと表現しても過言ではない巨大龍の姿が映し出される。

 意思を持った竜巻からの逃走。人喰い蟲の巣への単身突入。竜の群れの突破などなどあらゆる死地から生還し、何度も命の危機を乗り越えたワイトでも思い出すだけで身震いする。

 鋼の如く鍛えられた精神ですら容易く震わせるあの巨大龍は、命の成り立ちそのものが別次元に感じられた。

 

「――やはり、昔からあの存在についてはご存知だったのですね?」

「そうです。私は遠くから眺めた程度ですが、私の祖父は若い頃にあれと邂逅し、運良く生き延びたという話です。――ワイト殿も経験があるのでは?」

 

 エクスの言葉に、ワイトは無意識に無き右腕を力が入る。

 

「……あの町であの竜を見た時は心底驚きました。かつて私がこの眼と腕を失った相手と酷似していましたから。尤も、私が戦った竜は赤では無く蒼でしたが」

 

 ワイトが冒険者を引退する相手は蒼い鱗の飛竜であった。口から高熱の炎弾を吐き、爪からは猛毒を仕込み、鱗は強固という悪夢の様な相手である。

 爪を振り下ろされたときに毒を右腕に受け使い物にならなくなり、その右腕ごと飛竜の口に爆薬を詰め込んで撃退した。代償として片目、片腕を失うこととなったが、命には代えられない。

 

「戦って尚且つ生き延びられるなんて流石だねー。最高の冒険者って言われているだけのことはあるね」

 

 少年がワイトの話を聞き、称賛する。讃えられること自体悪い気はしないが、それよりも少年の存在が気になって仕方が無い。

 

「……ところで、この少年は一体誰なのですか?」

「ああ、この方ですか?」

「初めまして。エン・ドゥウです」

「……は?」

 

 伝説に等しい存在を名乗る少年に対し、ワイトはその言葉しか返すことが出来なかった。

 暫くして――。

 

「……まさか生きているうちに伝説の存在と会えるとは思いませんでした。エン・ドゥウ殿」

 

 エクスから事情を説明され、ワイトは信じ難いと思いながらも目の前の少年をエン・ドゥウと認める。この場に於いてエクスたちがワイトを揶揄うなど考えられない。

 

「そんな固くならなくても大丈夫だよ。それに伝説って言ってもあんまり良くない話でしょ? 不老不死の術を編み出したせいで国同士を戦争させたとか、とある国の王子を蘇えらせて王と妃を発狂させたとか」

「いや、そんなことは……」

 

 名を聞いて真っ先に思い付いたことがまさにそのことだったので、ワイトは少し困ったように言葉を返す。

 

「間違っちゃないけどさー、人に教えた不老不死の術はあくまで基礎的な部分だけなのに周りが勝手に盛り上がっちゃって大変だったよ。挙句、戦争のせいでそれも消えちゃったし。あと王子の話も、僕は完璧に蘇らせたんだよ? 王妃も喜んでた。でも、王様の方は疑り深くてねー。ずっと偽者じゃないかって疑ってたんだよ。それである日、王子が怪我をして足を引き摺ってたら、『やはり偽者かっ! 王子にそんな癖は無い!』とか何とか言って王子を殺しちゃってね。王妃はそれを間近に見たせいで――」

「話がなげーよ、ジジイ」

 

 エン・ドゥウの話をエヌが遮る。

 

「ああ、ごめんごめん。ついつい。そうだ、ワイト君、ジュース飲む?」

「え、 ええ、頂きます」

 

 特に気分を害した様子は無く、笑顔まま葡萄ジュースを勧めてくるのでワイトはエン・ドゥウからグラスを受け取り、葡萄ジュースが注がれていく様をじっと見ていた。

 

「私もそうですが……御三方もあれに襲われた経験が?」

 

 グラスに満たされる葡萄ジュースを見ながら、ふと思ったことを口に出す。

 

「私は幸いにも経験はありません。ですが、私の先祖は遭遇したらしいです。冒険者のギルドを作ったのも、それを監視もしくは倒す為の力を蓄えるのが理由です」

「そうだったのですか!」

 

 まさかギルドの発足にまで関わっているとは知らず、ワイトは素直に驚いた。

 

「戦場であった二頭の炎の獅子らしいです。私の先祖が出会ったのは。たった二頭で戦場にいた兵士たちを全滅させたという話を、私は幼い頃から御伽話のように何度も聞かされましたよ。先祖はその戦場での数少ない生き残りでした」

 

 エクスはそう言いながら手に填めた家宝の指輪を撫でる。そこに描かれた二頭の獅子の絵。それこそがエクスの先祖が見た炎の獅子であり、そのときの記憶を焼き付け、絶やさない為に創られたエクスの家を象徴する紋章であった。

 

 今度はエヌが口を開く。

 

「つまんねえ話だよ。親と故郷を喰われて滅ぼされた。それだけだ」

「それは……無神経な質問でした」

「気にすることなんてねえよ。無力なガキ二人がクソ塗れになって惨めに生き延びながら、故郷を好き勝手された、つまらない話だ」

「兄さん……」

「たまにこうやって話して傷口抉らないとな、本当に忘れちまいそうになるんだよ。時間ってやつは本当に厄介な薬だな!」

 

 エヌとエムの二人は同時に過去を思い出していた。

 森に囲まれ、川が流れ、人々で賑わい、笑顔が絶えなかった故郷。人生で最も幸福であった時間。しかし、その幸福は二頭の悪魔によって破壊し尽くされた。

 一頭目の暴食の悪魔は底の無い食欲によって全てを喰い尽した。平穏を享受していた人々を、悪魔に抗おうとしていた兵士たちを、エヌとエムを庇った両親を喰らい、なおも命あるものを喰い続ける。

 その限りない暴食に引き寄せられて現れたのは黒い滅びの悪魔であった。圧倒的な暴力によって暴食の悪魔に襲い掛かり喰らおうとする。両者は終わりの見えない共喰いを始める。

 結果としてエヌたちの故郷は滅んだ。エヌとエムは、それを堆肥の山に身を隠し、震えて見ていた。流石の悪魔たちもそれは食えなかったらしい。

 

「……全くもってつまらない話だ」

 

 僅かな感傷を含ませながら、エヌは吐き捨てた。

 

「まあ、過去ことはここまでにして、これからのことを考えましょう。姫様方は無事に王国へと帰ったのですね?」

「はい。オー殿も御一緒です」

 

 住人の避難よりも優先して姫――ティナを国へ帰したことについて全く抵抗が無いと言えば嘘になる。だからといって全て平等に扱うというのも無理だとワイトは理解していた。

 早々にティナを無事に帰したのは、エクスたちが今後のことを考えての行動だと分かっている。いくらエクスが王族に顔が利くとしても、姫に何か危害があれば責任問題となる。

 というよりも王族やそれに仕える貴族たちがそれを弱みとして付け込んでくる可能性が高い。エクスは味方も多いが、それを快く思わない者たちもそれなりに居る。

 避難した住人たちの安全の確保。今回だけでなく先のことも想定すると、なるべく周りのしがらみが無い方がいい。

 

「……それであの巨大龍の動向はどうなっていますか?」

「真っ直ぐこちらに向かっていますよ。律儀なくらい一定の速度で。明日辺りにはここを通過していきますね」

「明日、ですか……そういえば国が兵士を出したという話を聞きましたが?」

「結果を聞きたいですか? 巨大龍が予定通り明日に来るのが結果ですね」

「……だから嫌だったんだよ。あれの存在が公になるのは。無謀、蛮勇、無知共がそれを勇気だと勘違いして人材、資材、資金を無駄にする」

 

 エヌが悪態を吐く。遠回しに諫めているのかもしれない。

 ワイトが言う様に、巨大龍の進行に対して国は軍を出した。二度巨大龍撃退を行った。しかし、それはエムの言う通り無意味に等しい暗澹たる結果であった。

 一度目。開けた平地で兵士たちはまず巨大龍に対し砲撃を行った。何十、何百もの砲門から放たれる一斉発射。だが、巨大龍の巌の如き鱗を砕くことが出来ず、砲弾は全て弾かれた。せいぜい出来たことと言えば巨大龍の体に生えた苔を落としたぐらい。

 莫大な金を大勢の人を使って出来たことが巨大龍を磨いてやったという事実。

 巨大龍は蚊に刺された程度も感じずにただ一定の歩幅で前進し続けた。この時点で兵士たちの誇りは深く傷付く。

 二度目。今度は巨大龍の進路先に町が有り、何としてでも進路を変えなければならなかった。

 一度目の倍以上の大砲を設置し、多くの魔術師たちを集め、最大級の魔法をぶつけた。

 そして、彼らが目にしたのはそれらを浴びせられながら歩み続ける巨大龍の姿であった。進路を変えるどころか歩みを遅らせることも出来なかったのだ。

 巨大龍は前に建つ建物を雑草のように踏み付け大地に均し、その巨大な一歩で生まれる揺れによって周囲の家屋を崩壊させる。巨大龍が通った後は全てが瓦礫の山と化した。

 と同時に巨大龍の蹂躙は、兵士たちの誇りを完全に潰し、彼らから戦う意思を奪い、代わりに諦観を与えた。

 もし、巨大龍が兵士たちの攻撃に対し怒りなどの感情を見せたら少しは変わっていたかもしれない。だが、巨大龍は彼らを終始無視していた。視界に入っていても眼中に無く認識すらしていない。矮小以下、漂う埃にも劣る扱いをしていた。

 巨大な生命にとって小さな生命など存在の外。兵士たちは徹底的に格差というものを思い知らされたのであった。

 

「――エクス殿たちは昔からあれと戦っていたのですね」

「戦っていたなどと烏滸がましいですよ。我々がしていたことは、あれを調べることと、対抗策を見つけようとしただけです。戦う以前の問題です」

「折角、手段が見つかったと思いきやすぐにあれだからなー、全く努力っていうのは報われないもんだっ!」

「でも、折れる気は無いでしょ? 兄さん」

「当たり前だ! 俺は負けるのが一番嫌いなんだよ! 余所者が自分たちの庭で好き勝手しているのを、指を咥えて見ているのなんざまっぴらだ!」

 

 次に繋がる希望が見えた直後に、それを吹き飛ばす巨大な絶望が現れたときは流石にエヌも気力を萎えさせたが、寝て、食べてを繰り返して意地でも気力を上げてみせた。

 精力的に動くエヌを見て、エムもまた折れることなく自分が出来ることをする。

 精神的に逞しい二人をエクスとエン・ドゥウは微笑ましく見ていた。

 

「――さて、名残惜しいですがそろそろ私たちも出るとしますか。ワイト殿にもまだ話したいことが山ほどあるので」

「ええ。私も聞きたいことがまだまだあります」

 

 二人の会話を聞き、エヌは瓶の中に残っていた葡萄ジュースを一気に飲み干し、口元を乱暴に拭う。

 

「拠点は決まっているし案内しますよ、ワイト殿。隠し事はもう無しだ。あんたの手を借りたい」

「貴方の存在は、我々にとって非常に頼りになりますからね」

「既に争いごとから引いた身だが、この死に損ないがどれだけ貢献出来るか、一つ試してみましょう」

 

 失うものもあったが得るものもあった。反発している者同士であったが、この非常時に於いてはそれを過去として手を結ぶ。

 ほんの少しの前進が大きな一歩に繋がることを信じて。

 

 

 

 

「はい、はい。成程、それはそれは大変そうで」

 

 とあるギルドの幹部部屋内で通信魔法具を用い、連絡を取っている男性――ジェイド。

 

「こっちが何かすることは? ――そうですか。変わらず調査を。わっかりました、頃合いを見てまた連絡しますね。じゃあ、さよならー」

 

 通信を切るジェイド。その顔をいつにもなく真剣なものであった。

 

(エヌ殿じゃなくて代理人が出たか……そうとう切羽詰まった状況みたいだな)

 

 ジェイドの報告は、必ずエヌ本人もしくはエムが受け取っている。代理の者が受け取るなど初めてのことであった。風の噂で良からぬことが起きていると耳にしたが、信憑性が増してくる。

 

(とは言っても俺が行ってもなー。あのときの蟹と同類だと凄腕冒険者で天才作家という天が二物を与えた俺が行ってもなー)

 

 エヌたちには恩義があるジェイドは、内心で凄まじい自画自賛をしながら、どうするべきか悩みながらギルドから出る。

 

「あ、師匠。ギルドの用事は終わったんですか?」

「――ん? ああ、終わったよ」

 

 弟子のピリムの言葉に一瞬だけ間を置いた後に答える。考え事に没頭し過ぎて存在を忘れていた。

 

「用事って何だってんですか?」

「大したことじゃない。ちょっと袖の下を、な」

「あー、それですか」

 

 フリーの冒険者である為、ギルド所属の冒険者に疎まれることが多い。その衝突を避ける為にギルドの幹部に賄賂を贈るなどして事前に厄介事を遠ざけるのも長く生き残るコツである、とジェイドはピリムに何度か教えていた。勿論、これは本当の目的を隠す為の完全な嘘である。ジェイドは一度も賄賂など送ったことは無い。

 

(本当にどうしようか……)

 

 冒険者として、自分が望むままに冒険をすることを信条としているジェイドであるが、義理も持ち合わせている。支援してくれるエヌたちを放っておくのは気が引けた。

 

(俺が行くとなるとこいつも付いてくるのか……?)

 

 小言の多い弟子を凝視する。すると、ピリムは嫌そうに顔を歪めた。

 

「何ですか? 人の顔をジッと見て……止めて下さいよ、そういう目で私を見るのは……」

「……お前に欲情出来たら、俺はきっと全ての根菜類に欲情出来るな」

「何ですか! それ!」

 

 侮辱的な言葉を返され憤慨するピリムを放って、ジェイドは決断する。

 

(――言われた通り大人しく調査の方に専念するか。まだ、この弟子を一人にする訳にもいかないしな)

「師匠は私に対してデリカシーというものが――」

「あーはいはい。分かった分かった。ごめんごめん。という訳で早速目的地を目指すぞ」

「もう! 勝手に!」

「目指すは森の奥! 世にも不思議な二足歩行の喋る猫たちの発見だ!」

 

 

 

 

「本当に私たちは城へ戻るべきなの?」

 

 揺れる馬車の中で、ティナはオーとケーネに問う。自分だけ安全圏へ逃れることへの罪悪感からつい聞いてしまう。

 

「私たちがあの場に居ても出来ることは何もありません」

 

 ケーネはきっぱりと言い切った。ティナの未練を断つ為に敢えて厳しい口調で。

 

「姫様も危うい目に遭いました。御父上も御母上様も心配なさっていると思いますぞ?」

「それは……」

「少しでも早く無事な姿を見せるのが、今の姫様のお役目です」

 

 オーの言葉に、ティナは目を伏せる。言っていることは理解出来ても納得し切れていない様子であった。

 

(まあ、エクス殿たちも姫様には無事城に戻って欲しいと願っておるはずだしのう……)

 

 エクスたちがティナにさっさと帰って欲しいと思っているのを、オーは分かっていた。

 結果的に見ればティナの窮地を救ったのは、エクスたちの手柄である。その手柄をティナの口から王族たちに伝えてもらい、王族に借りを作ることがエクスたちの目的だとオーは考える。

 

(これからのことを考えれば王族と太い結び付きがある方が良いからのう。尤も、王族だけとは限らんが)

 

 あの巨大龍の出現とその脅威であらゆる国が浮足立っている。村、街などを捨てる難民も出ている。それを一時的にでも受け入れさせるには、そういった繋がりが必要であった。

 

(姫様の気持ちも分かるがの……)

 

 街を出る前にオーは密かに自分に出来ることは無いかエクスたちに聞いていた。

 エクスたちが答える前に良く知るヴィヴィが、非常に厭らしい笑みを浮かべて――

 

『老い耄れは老い耄れらしく子守りに精でも出していろ』

 

――と言われた。

 今思えばヴィヴィなりの気遣いなのかもしれない。言われた瞬間顎に拳を叩き込んでしまったが。腹が立ったからしょうがない。

 

(どうなるかのう……)

 

 経験の富んだオーであっても、この先がどう転んでいくのか全く見当がつかなかった。

 

 

 

 

「周囲の確認は大丈夫?」

「ええ。今のところは問題ありません」

「はあー……護衛の仕事は初めてじゃないけど、これだけ多いと気が滅入るね」

「そりゃ仕方が無いことだ。俺だってこれだけの数は初めてだからな」

 

 エイス、シィ、エルゥ、ゼトは目の前をゆっくりと進んで行く長蛇の列を見ながら、嘆息する。

 巨大龍の襲来のせいで街から避難をする人々を護衛する為に、ベテラン、新人を問わず多くの冒険者が駆り出されていた。

 エルゥの先天的な能力によって常に襲撃が無いか備えている。

 何せ巨大龍の厄介な所は、進むだけでその進路にいる数多の動物、魔物問わずそれから逃れる為に一斉に動き出す。それによって本来なら街に近寄らない筈の動物、魔物の襲撃を受けて壊滅状態となった街も出ていた。

 ここにもいつそれが襲ってくるか分からない。常に神経を張り詰める必要がある。

 

「そっちは大丈夫かい?」

 

 ベテランの冒険者であるエッジが話し掛けてくる。

 

「あ、どうも。こっちは大丈夫です。そっちは?」

「アルとキユウが言うには、数百メートル以内は安全だとよ。まあ、何時襲ってくるか分かったもんじゃないがな」

「当分は安全と……そっちの子は新入りか?」

「ん? ああ、ちょっと面倒を見ている」

「初めまして、ネイと言います」

 

 赤毛の女性が頭を下げる。

 

「あ、どうも」

 

 エイス、シィ、エルゥも頭を軽く下げ、ゼトは軽く手を振った。

 

「色々とよろしくお願いしますね」

「ああ、同じ冒険者としてよろしく!」

 

 軽く挨拶を済ませると、エッジとネイは持ち場へと戻っていく。

 

「――悪いな。まだ心の整理が出来ていないのに仕事をさせて」

「大丈夫です。私も冒険者ですから。……それに今は何かしていた方が、気が紛れるので」

「……そうかい」

 

 冒険者である以上自分や仲間の命が失われることを覚悟しなければならない。しかし、いくら覚悟していても実際に味わうとなるとそんな覚悟など空しいことをエッジは経験から知っている。

 心の隙間を埋める為の代替行為であったとしても、何とか前に進もうとする姿は眩しく見えた。

 

(この仕事が一段落したら、飲みにでも連れて行ってやろうかな?)

 

 ネイの背中を見ながらエッジは少し先のことを思う。

 

 

 

 

「あっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しないことだと思わないかい? ディネブ殿」

 

 大きな荷車を囲むようにして複数の馬車が道を進んで行く。その馬車の中でヴィヴィは一方的にディネブに話し掛けていた。

 

「全く、心の底から忌々しい存在だよ、奴らは! こっちが命懸けで手にしたものをあっという間に台無しにしてくれたのだから! 腹立たしい腹立たしい! 何より腹立たしいのが、こちらから手を出せないと心底納得してしまっているところだ!」

 

 あれの類のことを思い出すと尽きぬ怒りに更なる復讐の火が注がれる。だが、同時に冷静に判断しているところもあった。

 ヴィヴィもディネブも復讐者であるが、後先考えずに復讐へ走ることはしない。何故なら絶対に失敗が出来ないからだ。失敗し、命を落とした時点で後に続く者は居なくなる。果たすべき復讐は二度と叶うことが無くなる。

 臓腑が焼け爛れるような怒りを押し殺しながら確実に果たせる好機を狙う。その為ならば何千、何万回も苦渋を舐めるつもりであった。

 

「だが、希望が潰えた訳じゃない。これからだ、これから! 私たちはまだ未知に対して無知だ。知らなければならない。もっと奴らの詳細を! 生態を! 弱点を!」

 

 ヴィヴィが捲し立てる中、ディネブは無言を貫く。偶に二人のやりとりを見て仲が悪いのではと思われることがあるが、実際は逆であり同じ目的を持つ無二の親友と言っていい間柄である。ただ、ディネブが元々無口であることと、ヴィヴィがディネブの僅かな表情の変化で何を思っているのか察せるので、このような一方通行でも会話が成り立っているのだ。

 

「その為にはきちんとあれを届けないといけないな」

 

 あれと言いながら中央の大きな荷車を見る。布を被せられて見えないが、中にはヴィヴィたちが雪山で手に入れた竜の遺体が載せてある。

 エクスたちが指定した場所に極秘に運ぶのがヴィヴィたちに与えられた任務であった。

 生きた大砲として扱うのは間違ってはいなかったが、巨大龍相手では効かないと判断しさっさと保管することとなった。

 唯一手に入ったあちら側の竜である。これから先の為に大事に保管し、丁寧に扱い、徹底的に調べ尽くす必要がある。

 

「まあ、簡単に事が運ばないことは嫌でも分かっていたこと。気長にやるつもりはないが、辛抱強く行きましょう」

 

 ヴィヴィの言葉にディネブは無言で頷く。

 弟子、戦友たちの亡骸に誓った言葉は、どんな脅威が相手でも容易く撤回出来るものではない。

 

 

 

 

 時間を忘れる程の激動であろうと、陽は落ち、夜となり、やがて朝が来る。大災害がやって来る朝が。

 人々の声が完全に消え去った街。代わりにその静寂を消すのは遠くから聞こえる足音。完全なる破壊を齎すモノの音である。

 まだ音は遠くだが、音が響く度に屋根に積もった塵が滑り落ち、地面に転がる砂利が左右に揺れる。

 向かって来ているモノがどれほど強大かとい予兆に見えた。

 

「世界の終わりって、こんな感じなのかな……」

 

 誰も居ない筈の街に染み渡っていく一人の声。

 まだ幼さが抜けきっていない顔立ちの少年が、寝間着のような薄手の服を着て、外に置いてある椅子の上に座っている。

 

「でも、全部終わるにはいい日なのかな……?」

 

 少年――ビートは生気を失った眼で空を見上げながら、失った相棒に話し掛ける。

 ナナ森で多くの死を経験し、己の半身と呼べるワイバーンを亡くしたときから、ビートの心は死んだも同然であった。

 全ての光景が色褪せ、食べる食事に味を感じず、どれだけ瞼を閉じても眠ることが出来ない。

 ビートは街の住人たちが一斉に避難する際にこっそりと抜け出し、街の中へ隠れていた。理由は一つ、今日で自分の人生を終わらせる為である。

 生に対して前向きになれなくなったビートは、死んだ心に引っ張られ自分の人生に幕を閉じようとしていた。

 この先、何か希望が見えるようなこともなく、あの森で会ったような怪物たちが何処かに潜んでいると考えると、未来など黒く塗り潰された絶望にしか見えない。

 ならばその絶望に自分の身が八つ裂きにされる前にとっとと終わらせようと思う。

 生きていたって、灰色の人生に彩りが戻ることは無い。

 ビートは椅子に座り、遠くから来る死を待つ。どれだけ長くなろうと待つ。既に彼の中では時間の感覚など無くなっていた。

 どれだけの時間が経過したのか。遠くに聞こえた足音が大分近付いてきた、まるで地響きである。自然災害に形を与えたらこんな足音がするかもしれない。

 大地を踏み躙る足音。微かに聞こえる地表の削れる音。

 大地を踏み砕く音。微かに聞こえる石を蹴る音。

 大地を圧する音。確かに聞こえる足音。

 

「――え?」

 

 我が耳を疑った。確かに聞こえたのだ、人の足音が。それも一人では無く複数の足音が。そして何よりおかしいのは遠ざかっていくのでは無く、近付いて来ている。

 

「な、何で……?」

 

 思わずそんな言葉が口から出ていた。その足音が避けるべき災害に向かっているように聞えたからだ。

 ビートは自分の耳が完全におかしくなったと思った。死を前にして逃れたいという思いがありもしない幻聴を聞かせていると。

 だが、それでも足音は聞こえる。

 

「違う! 違う! 僕はっ!」

 

 ビートは目を閉じ、耳を閉じ、頭を抱える。今起こっている現実から逃れる為に。自分は本当に死を覚悟していると頭の中で何度も反芻させる。

 何度も。何度も。ありもしない希望を断つ為に。

 

(僕は……僕は、相棒の下にいくんだ……!)

 

 生は投げ捨てた。在るのは相棒との死後の世界での再会という願いのみ。

 もう幻聴を聞くことは無いと思い、顔を上げる。

 

「……え?」

 

 目の前を通り過ぎていく四人。見たこともない装備を全身に纏い、誰もが身の丈ほどもある武器を担いでいる。

 自分の背よりも大きな剣。折り畳まれた大砲のような弩弓。身を隠せる程の大盾に、それに見合った長槍。取り回すことが困難に思える分厚く、大きい一対の剣。

 素人が見てもまともに扱えることが出来ないと思え、もはや狂気すら感じさせる武器をその背に背負っている。

 

「あ、あ……」

 

 色々な感情が吹き飛んでいく気分であった。これほどまでに生に満ちた人間を見たことが無く圧倒される。

 真っ直ぐと巨大龍に向かう足は臆することなく一定。圧倒的存在に向かう彼らに恐怖など一切感じられなかった。

 

「だ、誰、なんだ……?」

 

 ビートの呟きに四人の内の一人が一瞬だけ足を止め、横顔を見せながら短く呟く。

 

『――』

 

 後に伝説と謳われる戦いを一部始終見ていたビートから語られるその名が、歴史に於いて初めて出た瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 人の過ちによってこの世界に多くの脅威が解き放たれた。

 それは痛みを生み、苦しみを生み、悲しみを生み、恐怖を生む。

 誰もが願った。救いを。誰もが望んだ。助けを。

 多くの血で染められた世界。

 だが、最後に現れたもの、それは――

 

 

 

 

 

 最終話 『狩る者』(ハンター)

 

 

 

 




一応本筋の話はこれにて完結となります。俺たちの戦いはこれからだENDとなりましたが、この作品はモンスターが主役となっているのでここから先の話は逆転劇となるので、こういう形で締めることにしました。
時間があれば、また外伝の様に本筋と関わらない話を書く予定です。


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外伝 最初のクエスト

 私があの人と出会ったのは、全くの偶然でした。

 私の故郷は、周囲を森と山に囲まれた小さな村でした。でも、活気があって村全体が家族みたいなものでした。

 そんな大家族の中の子供の一人が私です。

 私はどちらかというと浮いていました。生まれつき人見知りだったからなのと、村の子供は女の子よりも男の子の方が多かったからです。

 男の子たちが走り回って遊んでいたり、女の子たちが人形で遊んでいる中で、私は本ばかり読んでいました。

 本当はどちらでもいいから声を掛けて欲しいとは思っていたんですが……あ、でも、いじめられていたって訳じゃないです。私が本に夢中になっていると思って声を掛けづらかったんじゃないでしょうか。

 そんな訳で、私の友達は何冊もの本。遊びと言えば読んだ本の物語を頭の中に思い浮かべることぐらいでした。

 まあ、私の話はこれぐらいでいいじゃないですか。一人ぼっちだったなんて話は恥ずかしいですし……それよりもあの人の話ですよね? 

 切っ掛けは……そう、切っ掛けは雨でした。

 私はその時、両親と山に山菜を採りに行っていたんです。両親から少し離れて採っていたんですが、その時に凄い雨が降ったんです。

 慌てて雨宿りする所を探し回ったんですが、やっとそれらしい場所を見つけた時に、私気付いたんです。両親とはぐれてしまったことに。

 あの時は心細かったですね。その雨宿りしたのが洞窟だったせいで、暗くて寒くてますます不安になって、とうとう大声で泣き出しちゃったんです。どうしたらいいのか分からなくなって。

 泣いていたってどうにもならないのに、私はずっと泣いていました。

 どれくらい泣いたのか分かりません。泣いていたら足音が聞こえてきたんです。

 それを聞いて、私は村の大人が探しに来てくれたんだって思い、洞窟から飛び出したんです。

 そしたらそこに、あの人がいました。

 最初見た時は、怪物だと思って腰を抜かしちゃいましたよ。だって、見たことも無い格好をしているんですから。何て言うか……モンスターが人の形になったらこんな姿になるんじゃないかっていう姿で、あれを見たら誰だって怖がりますよ。

 その時の私は、もう驚き過ぎちゃって目の前が真っ暗になっちゃったんです。──はい、そうです。恥ずかしいですけど怖くて気絶しちゃいました。

 それで、目が覚めた時には自分の家のベッドで寝ていて、周りには心配そうに見ている両親が居ました。

 思いっ切り怒られて、思いっ切り泣かれちゃいましたね。

 聞いた話によると、私はいつの間にか村の入り口で横になっていたそうです。村の人たちが総出で私を探していたので、誰が私をそこに置いていったのかは見ていないそうです。

 気絶する寸前に見たことを話すと、村の大人たちは私が山の神様に助けられたって言っていましたが、私はどうしてもあれを神様とは思えなかったですね。

 第一印象ですけどそういうのとは違う感じというか……ああ、悪いものっていう意味では無いですよ。何て言うか……神様すら倒しちゃいそうな迫力がありました。

 それで、家に戻ってから暫くは外出禁止にされちゃいました。だいたい二週間ぐらいは家の中で本を読んでいましたね。

 でも、私は本の内容は頭の中に入ってきませんでした。私が洞窟で会った怪物のことをずっと考えていました。

 怖いんですけど知りたい、みたいな子供ながらの好奇心というものなのでしょうか。

 それで、ようやく外出が許されると私は森の中で怪物を探し始めたんです。正直、見つけたらどうしたいかなんて全く考えていませんでした。でも、もう一度会いたいという気持ちだけは強く在りました。

 子供が行ける範囲なんてたかが知れていますし、あんまり遠くに行くと両親にまた外出禁止にされると思ったので、村の近くをひたすら探しました。

 両親は、本ばかり読んでいた私が急に森で遊ぶようになったから驚いていましたよ。

 ずっと、ずっと、森の中で探していました。何であんなに夢中だったのか良く分からないぐらいに。

 もしかしたら、あの時に見た怪物が、私が本で見た物語に出てくる存在とよく似ていたからかもしれません。村という代わり映えのしない光景の中に突然出て来た異物というのでしょうか、それに私の心は良くも悪くも惹かれていました。

 だいたい一ヶ月ぐらいですかね、探し始めて変化があったのは。

 偶然見つけてしまったんです。見たことも無い人が森の中で草やキノコを集めている姿を。あの時に見た怪物かどうかはその時は分かりませんでした。だって、動物の皮で出来た服を着ていましたし、顔も私たちと変わらない人間のものでしたから。

 それでも、私はその人のことを陰から見ていました。村人以外の大人を見たのが初めてでしたから。

 それで、採取を終えたその人の後をつけたんです。ついていけば、住んでいる場所も見つかると思って。

 追い掛けている時はドキドキしました。何せ、今まで入ったことのない場所まで行きましたから。親や村の大人たちは、子供たちに森の奥には入るなってよく言い聞かせていたので。

 私の住んでいる所は、凶暴なモンスターが生息していない地域でしたけど、それでも念の為ということでしょうね。

 どんどんと森の奥に入って行くと、その人が住んでいるらしい場所を見つけたんです。とは言っても、自然に出来た横穴でしたけどね。穴の入り口に何かを燃やした跡や、集めてきた薪が置いてあったから、ここに住んでいると思ったんです。

 穴の奥に入って暫くすると、その人は手ぶらで穴から出てきました。採ってきたものを置いてきたんでしょう。そうしたら、また採取をする為に何処かに行ってしまいました。

 私は、その時が絶好の機会だと思って、いなくなると同時に穴の中に入っていったんです。今思えばかなり危険なことをしました。でも、その時の私は恐怖よりも好奇心の方が勝っていたと思います。

 穴の中には吊るされた魚や燻製された肉、採ってきた草やキノコなどの食料が保管されていました。

 それで、更に奥の方を見た時に私は見つけたんです。あの時、洞窟で見た怪物を。

 壁際に立っているのを見て、思わず声を上げそうになりましたが、よくよく見ると立っているんじゃなくて、壁に立て掛けてあったんです。ええ、外見だけで中身は無かった。つまりは、私が追い掛けていたあの人が怪物の中身だったんです。

 それで、その怪物の外身の側には見た事の無い物が色々と置かれていたんです。色の違う木の殻で作られた物や、小さな樽、金属や生き物の鱗や骨で作られた二つ折りの大きな物とか。

 初めて見る物ばかりでつい夢中になっていると、後ろから急に声を掛けられたんです。

 その時は、心臓が止まるかと思いました。

 振り返ったら、出掛けたと思っていたあの人がこっちを見ていたんです。

 後から知ったことなんですが、私が後をつけていたのを最初から気付いていたらしいです。子供でしたからね、自分で葉を鳴らしたり、木を折ったりする音を出していたことに全く気付いていませんでした。そんなに音を出していたらバレバレですよね。

 それで、その人に見つかった私は食べられる、って思っちゃいました。だって穴の周りに動物や魚の骨が落ちていましたから、もう怖くて凄い勢いで泣き喚いちゃいました。

 そしたら、その人はしゃがんで私に目線を合わせると森の果物を私に差し出してくれて、困った表情で喋り掛けてきました。

 今思うと「怖がらせてごめん、これで泣き止んでくれ」って言っていたのかもしれないです──私の推測ですけど。

 危害を加えるつもりは無いっていうのを見せていたんでしょうけど、結局私、「お父さん! お母さん!」っていう調子でずっと泣いていました。

 どれぐらい泣いていたのかは分かりませんが、その間ずっとその人は黙って側に居ました。その人からすれば見ず知らずの子供を放ってはおけなかったんでしょうね。

 それで、泣き疲れて喉が渇いたときにようやくその人が果物を差し出していることに気付いて、現金なもので思わず飛びついちゃいました。

 貰った果物を食べ終えた時になってやっと私も落ち着いて、その人に聞いたんです。「貴方は、誰ですか?」って。

 そしたら、その人は難しい表情をして固まっていました。だから、もう一度同じことを尋ねたら、聞いたことの無い言葉が返ってきました。

 そこで分かりました。言葉が通じないんだって。

 だから、私は喋る代わりに地面に文字を書いて筆談を試みようとしました。でも、それもダメでした。文字も読めなかったんです。

 どうすればいいのか途方に暮れましたね。向こうも似たような感じでした。

 言葉も文字もダメ。だったら絵ならどうだって思って私は地面に絵を描き始めたんです。

 自分が何者かを伝える為に。雨の絵、洞窟の絵、泣いている女の子の絵を描いてそれが自分だって指差したんです。

 そしたらその人、ハッとした表情になって、その時に自分が助けた子供が私だって気付いたみたいでした。

 それで少しの間、その人と絵で筆談していました。私は、「貴方はどんな人?」といった質問をしていたと思います。でも、その人は私に早く村へ帰るように急かしていました。

 今になって考えるとその人は、自分が他所者であることを自覚していて、私が居たら揉め事が起こると思ったのかもしれません。

 でも、当時の私は子供だったから、そんな考えに至ることは出来ませんでしたし、その人の伝えたいことを上手く察せることも出来ませんでした。

 なんか凄く困った表情をしていたのが印象に残っています。

 それで描いていて私、唐突に思ったんです。まだ助けて貰ったことへのお礼を言っていなかったって。

 だから、私はその人に「助けてくれてありがとう」ってお礼を言いました。でも、言葉が通じないからその人は首を傾げていましたね。それだけで何にも伝わっていないって分かりました。

 たぶん、その時に私は決めたんだと思います。この人とちゃんと話がしたいって。ちゃんとお礼が伝わるようにしたいって。

 そう思ったら私、明日もまた来るって一方的に言って穴から村に帰りました。言葉や文字を教える為の準備をする為に。

 引っ込み思案だった私がどうしてそこまで積極的になれたのか分かりません。もしかしたら、当時の私は興奮していたのかもしれませんね。生まれてきて今まで村とその周りと本のことしか知らない私が、初めてそれ以外のものに触れたことで。

 次の日、私は絵本を持ってその人が住んでいる穴に行きました。何故、絵本かというと私が文字を覚えたのが絵本だったので。

 穴の前でその人は肉を焼いていました。炎の上で骨付き肉の肉をクルクルと回しながら鼻歌を歌っていましたね。

 鼻歌を歌い終えると同時に肉を火から離して、「■■うずに■■ま■た!」だったかな? 発音が合っているかは分かりませんが、そう言っていたと思います。

 その焼き上がった肉が本当に美味しそうで、焦げ目が付いた表面に肉汁が滴っていて、それをかぶり付く姿を見た時は本当に涎が垂れそうで──あっ、すみません。どうでもいい話でしたね。でも、今でも記憶に焼き付いているぐらい美味しそうでした。

 それで、食事を終えたその人の前に私が出ると、その人はまた困った顔をしていました。ここは遊び場では無いと言いたかったのかもしれません。

 私は、その人の前で持っていた絵本を広げました。

 その行為が何を意味するのか分からなかったのか、その人は本と私を何度も見返していました。

 それで私は、その人が持っていた肉を指差した後に、地面に肉の絵を描いて、肉を意味する文字を書いた後に文字を指でなぞりながら「肉!」って読んだんです。

 そうしたら、その人は近くにあった花を摘んで私に見せました。だから、私は花を意味する文字を地面に書いて「花」って言ったんです。

 私が何をしたいのか、その人に通じた瞬間だったと思います。

 その人は、木や草、石などを指差し、私は指差したものを文字で書いて声に出して読み上げました。

 その人も文字とか言葉とかが知りたかったんだと思います。だから、色々な私がやろうとしていたことに素直に応じてくれたんです。

 私は、その人を指差して地面に文字を書く動作をしました。名前を教えて欲しいという意味を込めて。

 

「■■■■」

 

 その人はそう名乗っていました。久しぶりに声に出したから発音が合っているか自信が無いですけど。そして、私も自分を指差して自己紹介をしました。

 その日から、私とその人の交流が始まりました。

 朝、朝食を食べてからその人の所に向かい、基本的な文字や言葉を教えて、昼に昼食を食べに家に一旦帰ります。昼食を食べた午後からも引き続き文字や言葉の勉強をしていました。

 私もその人が住んでいる場所の言葉や文字を教えてもらいましたね。その人は、詳細は分からないですけど何かの事故に巻き込まれてここにやって来たと言っていました。それがどんな事故かは分かりませんが、故郷が何処にあるのか分からず迷子になっていたらしいです。

 日が暮れる前に私は家に帰りました。それが私とその人との一日の流れでしたね。

 それが長く続くと、私もその人も大雑把ですが通じ合えるようになりました。その人は狩りを生業にしている人で、とっても上手でしたね。

 投げナイフで飛んでいる鳥を落としてみたり、手作りの竿で魚を釣ったり、食べられる草やキノコを見分けたりして。ああ、でも狩りの時には穴の中に仕舞ってある怪物みたいな鎧や、大きな武器? みたいな物は私の前では使いませんでした。

 何故かと聞くと「危ない、大袈裟、動物、寄り付かなくなる」って言っていました。普通の狩りに使うには危険過ぎるみたいです。その人が言う普通じゃない狩りって何なんでしょうね? 

 初めは色々と緊張していました。でも、さっきも言ったように言葉が通じ始めるといつの間にか緊張も無くなっていって、私はその人と一緒に過ごす時間が楽しみになっていきました。

 一緒に勉強をしたり、その人が捕った動物の肉や魚、果実を一緒に食べたり、狩りの手本を見せてもらったり、あんまり友達が居なかった私にとってその人と過ごす時間は新鮮でかけがえのないものでした。不思議ですよね、その人と私では大分歳が離れていたのに。

 以前まで毎日が灰色に見えた私は、ずっとこんな日が続けばいいと願わずにはいられませんでした。

 でも、終わりっていうのはいつも唐突に始まるんですよね。

 ある日のことです。山に薪用の木を採りに村の大人が慌てて戻ってきました。その内の一人が血塗れになって怪我をしていて、他の大人たちが肩を貸して運んでいるのを私は見ました。

 そういう血生臭いこととは無縁の村でしたので、皆騒然としていました。

 それで、すぐに村長によって村の皆が集められたんです。

 村長曰く、この村は狙われているということでした。

 モンスターの中には、特定の住処を持たずに常に移動を繰り返す習性を持つものが居るってご存知ですか? はい。私たちの村を狙うのはその類です。

 私たちの村に狙いを付けたのは『村喰い』っていうモンスターでした。村喰いっていうのは通称で、もっと長い名前があったと思いますがそれはまあどうでもいいことですよね? 正直覚えたくないのが本音です。

 村喰いは大きくても大人ぐらいの身長ですが、剣とか槍とかの人の武器を扱うぐらいの知能と器用さがある肉食のモンスターです。

 村喰いの名前通り、やることは村を襲ってそこにいる村人たちを食い殺し、道具を略奪し、村の跡地を繫殖用の一時的な住処にするっていう、私たちみたいな小さな村に住む者にとって悪夢みたいなモンスターですよ。

 村の大人の人は偶々偵察役の村喰いに遭遇して怪我を負わされたみたいでした。

 村喰いは群れで行動していて、襲う村を事前に下見をする習性があるんです。

 その下見に出会えたのは幸運と言えました。下見をして一、二日後の夜に襲撃してくるのが村喰いのやり方らしいので。村喰いは夜目が利くみたいです。

 村長は、明るい内に村から全員逃げ出すことを提案しました。村は破壊されるかもしれないが、命には代えられないと。戦おうという意見もありましたが、冒険者でもない素人が戦っても無駄に犠牲を出すだけだと言われ、それよりも生き延びてギルドの冒険者に依頼する方が賢明だと説得されていました。でもね、皆分かっていたんですよ。自分たちに村喰いを退治する程の冒険者を雇うお金が無いことなんて。きっと私たちは戦う前から心が折れていたんです。

 村を捨てる、という案に誰も反対することは無くなりすぐに村から出る準備が始まりました。

 最低限の荷物とお金だけを搔き集めて、なるべく荷物は少なく。行く当てなんて無かったですよ。ただ逃げることだけを優先した、明日の分からない逃亡です。

 それでその最中に私は思い出したんです。あの人のことを。村から離れた場所に住んでいましたが、もしかしたら村喰いに襲われるかもしれないって思って、周りに見つからないようにこっそりと村から抜け出して、急いで教えに行きました。

 私がその人に会うと、びっくりした表情をしていました。何で驚いた表情をしているのか最初は分かりませんでしたが、少し経って気付きました。

 私、泣いていたんです。驚くぐらいですから凄い泣き顔だったんでしょうね。

 向かう途中ずっと考えていたんです。これから先のことを。考えれば考える程不安と悲しみが込み上げてきました。小さくてちっぽけな村のことなのに、私はそれを失ってしまう事が酷く悲しかったんですね。自分でもこんな気持ちを持っていたことを知りませんでした。

 私は泣きながらその人に事情を説明しました。村が狙われていること。村を捨てること。もう会えなくなるかもしれないこと。危険だから何処かに避難した方がいい、などしゃくり上げながら私が話すのを、その人は黙って聞いていました。

 話し終えると、その人は私に一つ質問をしてきました。村を捨てたくないのか、と。

 私が頷くと、その人は自分の国の言葉で何かを呟いた後に、私に帰るように言いました。

 

「■■■■として、その■■を受け■」

 

 何を言っているのかよく分からなかったですが、その時のあの人は、初めて見る顔付きになっていました。……こんなこと言うのは失礼なのは分かっていますが、とっても怖かったです。

 だから、私、その後は何も言えずに帰りました。

 村に帰ると私も村を出る準備をしました。とは言っても持ち出す物なんて殆ど無かったです。せいぜいよく読んでいた本ぐらいでしたね。何冊か持ち出したんですが、お気に入りの一冊だけが見つからなくて、あちこち探したんですが結局時間切れになって、皆と一緒に村から出ました。

 親に手を引かれて何年も過ごした村を出ました。子供たちは大泣きして、大人の中にもすすり泣く人たちも居ました。

 でも、誰も喋ることはなく泣き声だけがずっと聞こえていました。

 日が暮れて、空に月が昇ると私たちは火を起こして身を寄せ合いながら野宿をしました。大人の男の人たちは、私たちを守る為に見張りと火の番をしていました。

 夜の森は不気味でしたね。あちこちから動物の鳴き声が聞こえていましたし、村喰いが襲ってくるんじゃないかっていう恐怖を皆が抱いていたと思います。

 でも、子供っていうのは自分が思っているよりも単純で、夜が更けてくると自然と眠くなってくるんですよね。

 気付いたら私は寝ていました。でも、ある音を聞いて跳び起きたんです。周りの子供や大人たちもそうでした。

 動物でもモンスターの鳴き声でもない、物凄い大きな音です。私は最初雷が落ちたのかと思いましたが、大人の一人が「まるで大砲だ」って言っていました。

 それが夜中にずっと聞こえてきたんです。連続して聞こえたかと思ったら、間を置いて聞こえたり、それが何度も何度も繰り返して。

 皆、その音に怖がって身を寄せ合いました。どれぐらいの間、その音が鳴っていたかは分かりませんが、気付いたら鳴り止んでいたと思います。でも、皆は怖がって夜が明けるまで震えていました。

 あの時に一体何が起こっていたのか、私に知る術はありません。

 

 

 ◇

 

 

 踏みならされていく大地の音。獣とも人とも判別の付かない鳴き声を上げながら、数十もの影が闇夜の中を行進していく。

 村喰い。そう呼ばれる彼らの姿は、常人が見れば醜悪と言えるものであった。白い頭髪も体毛も無い皮膚。目は小さく、白眼が無く黒目のみ。鼻は高さがなくそぎ落とされたように低く、耳は人のものと比べると倍近いほど大きい。

 夜行性故にそれに適した姿をしているが、それ以外は殆ど人と変わらない。夜目の利かない人間が彼らを夜に見たら人間と誤解するだろう。

 だが、衣服代わりに体に纏わせた皮は、獣のものであったり人のものであったりする。

 鋭い牙も爪も無い代わりに人と変わらない手足を持った彼らは、全員武器を手にしていた。剣、柄が折れた槍、欠けた斧、鉈、錆びた包丁など武器らしい物を持っているかと思いきや、薪や鍋などを武器代わりにしている者も混じっている。

 武器に統一性など無い。しかし、道具を使えば人間を傷付けることが出来るという知恵は持っている。それに数が合わされば、戦いの経験の無い者たちなど軽々と蹂躙するだろう。

 村喰いの集団は、やがて目的としていた村へと着く。人間の気配が無いことに気付き、何匹かが残念そうな鳴き声を上げた。彼らにとって人間はそれなりに食いでのある獲物だからである。

 無ければ無いで村人が保管していた食料を喰い漁ればいい事だが。

 村の入り口を通り、中央に位置する場所まで移動したとき、先頭を歩いていた仲間の一人が鳴き声を上げる。何かが居るという鳴き声であった。

 足を止め、全員が前方を見る。そこには人間らしきものが腰を下ろして座っていた。らしき、と思ったのは彼らの記憶にある人間とかけ離れた姿をしていたからだ。

 生物の鱗か、あるいは金属か。どちらとも思える見た目であり頭から足先までそれで覆われていた。

 そして、何よりもニオイがおかしい。人のニオイではない。漂うのは火が燃え尽きたようなニオイと濃厚な血のニオイ。一つ、二つなどでは済まない。数え切れない程の血が混ぜ合わさっている。

 肉食を好む彼らですらそこまでのニオイはしない。

 村喰いが現れたのを見て、その異形は徐に立ち上がる。立ち上がった瞬間、金属が擦れ合うような音がした。村喰いからは体で隠れて見えないが、何かを背負っている。

 異形は、村喰いたちに向かって何かを放った。小石を投げるように軽い動作で。

 足元へと転がってくるのは小さな球体であった。何を意味するのか分からず、村喰いたちの視線がその球体に注がれる。

 刹那、球体から強烈な光が発せられた。夜の黒を白く塗り潰す程の閃光。

 

「ギャアアアアアアアア!」

 

 夜行性の彼らにとって、その光が凶器そのものであり、直視してしまった者たちは両目を押さえて絶叫を上げる。

 間髪入れずに無数の絶叫を掻き消す程の爆音が発生し、水が撒かれたような音が鳴った。

 以前、村喰いたちがある村を襲おうとしてそこの村に雇われていた冒険者たちが使っていた火薬と同じ音が響く。

 続けて鳴り響く火薬の音。その後に何かが倒れる音も聞こえてくる。

 村喰いたちは混乱していた。視力を奪われた挙句、謎の音にまで苦しめられているせいで。

 音は鳴り響き続け、倒れていく音も増えていく。

 パニックを起こした村喰いの一匹が逃げようとして何かに蹴躓いて転んだ。

 徐々に視力が回復し、足元に転がっていたものを凝視する。最初はぼやけていたが焦点が合ってくると、それが顔半分抉れて死んでいる仲間の死体なのが分かった。

 ガコン、という聞いたことが無い音に村喰いは音の方を見る。

 異形がこちらに向けて何か大きな物を構えていた。それを見た瞬間、背中が総毛立つ。幼い頃に遠くから見たドラゴンの姿とそれが何故か重なった。

 そう、あれはドラゴンである。口を開け、ブレスを吐く前のドラゴン。

 ドラゴンが咆哮と共に何かを吐き出す。途端、近くにいた仲間の首から上が吹き飛んだ。

 よく見れば周りには似たような仲間の死体が転がっている。中には手足を失っただけでまだ生きている者も居た。

 異形は抱えているドラゴンのブレスで次々と仲間を殺めていく。その動きに一切の躊躇が無い。

 何発かブレスを吐き出させた後、異形はドラゴンに何かを詰め始める。

 それを機会と見た仲間の一匹が、異形に向かって咆哮を上げながら走り出す。その手に棍棒を持って。

 しかし、異形は慌てることなく淀みない手付きでドラゴンに何かを詰め終えると、走り寄って来る仲間にドラゴンの口を向ける。

 吐き出されるドラゴンのブレス。

 

「ギィィィィィィィ!」

 

 ブレスを吐き掛けられた仲間は即死していなかったが、全身に細かい破片が突き刺さった状態で血塗れになって悶え苦しんでいた。

 異形は腰に付けていた小さな樽を取り、苦しがっている仲間の口にそれを捻じ込む。

 小さな樽から伸びる紐に火が付き、それが樽に到達すると爆発し、頭を木端微塵にする。

 その容赦の無い行為は、村喰いたちに少なからず恐怖を与え、動けなくする。その隙に異形はドラゴンの口を向け、そこからブレスを放った。

 ドラゴンの口から放たれる無数の破片は、棒立ちとなっている村喰いの体に突き刺さっていく。

 

「ギャアアアアアアアア!」

「アギャアアアアアアア!」

 

 一つ一つが小さい為、死に至ることが出来ずに叫ぶ。細かく大量にあるからこそ目などの重要な器官を潰し、体に埋め込まれれば内から刺す痛みで村喰いたちの動きを止める。

 村喰いたちは徐々に気付き始める。異形が優先的に狙っているのは、村の出入口に近い者、もしくは逃げ出そうとしている者たちだと。

 この場所で自分たちを全滅させるという、一人の存在が放つものではない強過ぎる殺意をぶつけられる。

 ここから生きて出るには、目の前の異形を殺すしかない。

 彼らの覚悟も決まった。

 

『オオオオオオ!』

 

 覚悟を決めた彼らは勇ましい咆哮を上げながら異形に向かって一斉に突撃していく。

 それを見た異形は、再びドラゴンに何かを詰め始めた。

 詰め終えると振り回すような勢いでドラゴンの口を村喰いたちに向け、ブレスを放つ。

 最前列を走っていた村喰いに当たったかと思えば、その後ろ、更にその後ろの村喰いたちの胴体に風穴を開けた。

 まとめて三匹も貫通してみせたドラゴンのブレス。異形はドラゴンにそれを連発させる。

 ブレス一発につき、四、五匹の村喰いが犠牲となる。彼らの数は既に最初の頃から半数以下にまでなっていた。

 だが、どれだけ仲間が息絶えようとも彼らの進行は止まらない。

 その時は来た。異形がドラゴンの口に詰める作業を行おうとしている。

 

「オオオオオオ!」

 

 先頭を走っていた二匹の村喰いは、更に加速し接近するとその内の一匹が手に持っていた包丁を異形の首元へと突き立てた。

 ガキン、という音が鳴り突き立てた包丁が折れる。一体何が起こったのか理解する前に、その脳天に異形がドラゴンを叩き付けた。

 脳天が割れ、首が胴体の中にめり込む。一撃で絶命する村喰い。もう一匹がその光景に絶句している内に顔面をドラゴンで殴打する。

 顔の原型が歪み、折れた歯を撒き散らして崩れ落ちる村喰い。異形はその顔面に追い打ちの蹴りを放つ。

 蹴り飛ばされ転がっていく村喰い。転がり終えた彼は首の骨が折れて息絶えていた。

 二匹をあっさりと返り討ちにした異形は、すぐに詰め込み作業を終えるとドラゴンの口を村喰いたちに向ける。

 ブレスが吐かれると身構える村喰いたち。しかし、いつまで経っても来ない。

 異形を見ると何か焦ったような動作で頻りにドラゴンを揺さぶっていた。何か異常事態が起きた様子。

 二、三度揺らした後に異形は初めて今居る場所から後退する。

 下がる異形を見て、村喰いたちはようやく反撃の機会が巡ってきたと思うと同時に復讐の怒りを燃やす。

 散々好き勝手なことをし、仲間を殺めてきたことへの借りを何倍にもして返すことを決め、後退していく異形の後を追う。

 全速力で追い掛け、異形が先程まで立っていた地点を通り抜けようとしたとき、一瞬の浮遊感の後、地面に体を引き摺り込まれた。

 

「ガアアアアア!?」

 

 土の中でもがく村喰いたち。その土はまるで沼地のように沈む程柔らかく、足も底に付かない程深い。

 かなりの数の村喰いたちが柔い土の中に囚われてしまった。

 そこに下がった筈の異形が戻って来る。その手にドラゴンを構えて。ここで彼らは自分たちが誘い込まれたことを理解した。

 ドラゴンからブレスが吐かれる。吐かれたブレスは、村喰いたちが埋まっている穴の中心に命中し外れたかと思った瞬間、複数の爆発が生じて彼らを紅蓮の炎で焼いた。

 間近で起こった爆発に身を守る方法も無く、異形の罠に嵌った村喰いたちは全滅してしまう。

 残された村喰いたちは数え切れる程度。しかし、既に彼らの戦意は完全に折れていた。異形を倒すこと、仲間の敵討ちなどどうでもいい。一刻も早く、あの怪物から逃れることだけを考え、背を向けて逃走し始める。

 異形は逃げる村喰いたちの背を、冷静に、そして冷徹に撃ち抜いていく。

 村の出入口まで然程距離は開いていないというのに、途方も無く遠くに感じられる。

 仲間の悲鳴が、爆音一つ鳴る度に消えていく。それでも足を止めることが出来ない。仲間の心配よりも恐怖が足を突き動かしていく。

 やがて、村喰いの一匹が出入口を抜けていく。先を行く仲間の姿は無く、後に続く足音は無い。

 村から脱出出来たのは彼一匹のみ。

 その事実を恐怖と共に味わいながら、その村喰いは全力で逃げ続けた。

 村から離れ、やがて森の中へと入って行く。森の中は暗く、木々の隙間から月の光が差すぐらいの灯りしかない。

 村喰いは、ある横穴まで辿り着くと、そこに滑り込むようにして入っていく。

 

「ギャア! ギャア!」

 

 横穴の中には、村を落とすまで待機させていた残りの仲間たちがおり、勢い良く入ってくる彼に皆が驚き、事情を尋ねてくる。

 

「ガアア! ガアアア!」

 

 あの村には恐ろしい怪物が住んでおり、仲間は全員殺られてしまったことを伝え、今すぐにでもここから離れるように言う。

 

「ギャア?」

 

 仲間の一人が、彼の背中を指差し、何だそれはと聞いてきた。

 言われて彼は気付く。いつの間にか背中に夜でも鮮やかに輝く色の染みが出来ていることに。

 仲間の一人がその染みに鼻を近付けて顔を顰める。染みからは一種独特の強烈なニオイを発していた。

 ガコン、というあの音がする。仲間は聞き慣れない音に驚いて横穴の入り口を見た。だが、彼は振り返ることが出来ない。

 体が震える。悲鳴すら上げることが出来ない。

 仲間が一斉に威嚇し始める。お前は誰だと鳴き声を上げる。

 奥からも仲間がやって来て、震える彼に接触する。その衝撃で彼は振り返るように倒れてしまった。

 咄嗟に顔を上げる。

 横穴の入り口。背中に月の光を浴びて浮かび上がる黒い輪郭。

 恐ろしい怪物が、恐ろしいドラゴンを引き連れて追いかけて来た。

 それが、彼が最期に思ったことであった。

 

 

 ◇

 

 

 朝日が見えた時、あんなにも安心したことはありませんでした。太陽の光ってこんなにも心を落ち着かせるのかと初めて知りました。

 夜の内に聞こえた大砲のことなんですが、聞こえた方角が私たちの村の方から聞こえたこともあって、何か起きたのかもしれないと村の大人の何人かが調べる様に村長に訴えていました。

 初めの内は村長も危険だからと調べるのを躊躇っていましたが、少人数で危険だと判断したらすぐに戻ると言って村長を説得し、村長も最後にはそれを了承しました。

 何人かが調べに行って、私たちは数時間ぐらい待っていると調べに行った一人が慌てて戻って来て、村の中で村喰いたちが全滅しているって大声で言ったんです。

 皆、耳を疑いました。でも、嘘を言ってる様子はなく皆、捨てた筈の村に戻ったんです。

 村の中は凄いことになっていましたね。私もチラリと中を覗いたんですが、すぐに怒られて子供たちは村の外に出ているように指示されました。

 家畜の肉を食べる為に絞めることは何度か見た事がありましたが、あれだけキツイ血のニオイは初めてで少し気分が悪くなりましたね。

 大人たちは全員混乱していました。大量の村喰いたちが何かしらの方法で全滅させられていたんですからね。

 大型のモンスターが偶然やって来て全滅させたんじゃないかと言う人も居ましたが、それにしては家などの被害は少なかったですし。

 その時、私は唐突にあの人の姿が頭を過りました。狩りが上手なのは知っていましたが、まさかここまで凄いとは全く思っていませんでしたが。

 でも、何故か私は急に会いたくなって、いつもの場所に向かったんです。大人たちの制止を無視して。

 あの人の住処に着いた時、中には誰も居ませんでした。奥に仕舞ってあったあの怪物みたいな鎧や、大きな道具も全部無くなっていました。

 私はとても悲しくなって泣きました。だって、お礼も言っていないのにお別れしたんですから。

 泣いて、泣いて、泣いて、ぼやけた目で気付いたんです。

 壁に何か書いていることに。それは、あの人の文字でした。あんまり上手じゃない字でこう書かれていたんです。

 

『いらいかんりょう ほうしゅうはもっていく ありがとう さようなら』

 

 あの人はきっと村を捨てたくない私の為に戦ってくれたんだと思います。そして、きっと今も戦っているんですよね? だからあの人のことをこうやって調べているんですよね? 

 ──そうですか。やっぱり、あの人は凄いですね。

 あ、そうだ。『ハンター』さんに会ったら伝えてくれますか? ──え? どのハンター? どういうことですか? ……あはははははは! そういうことですか! 私、ずっとあの人の名前を『ハンター』だと勘違いしていました。だって、自己紹介の時に自分を指差してそう言っていたから、あはははははは! 

 ──やっぱり、自分で直接言うことにしました。お礼だけでも伝えたかったけど、ちゃんと顔を見て、しっかりと自己紹介をして、きちんとお礼をすることに決めました。

 あ、でも、これだけは伝えてくれますか? 

 

 私は毎日勉強しています。あなたは、こっちの言葉の勉強は続けていますか? 

 

 

 

 

 

 世界にその圧倒的存在を思い知らせ、後に『竜の変』と呼ばれた日。

 世界に絶望が落とされると同時に希望もまた落とされた。

 異界からくるそれらを狩る『ハンター』と名乗る者たち。彼らの存在はこの世界にとって一筋の光となる。

 彼らと協力関係を結ぶことは思いの外簡単であった。何故ならハンターの内の一人が、この世界の言語をほぼ完璧に修得していたからである。それにより意志疎通を問題無く深めることが出来た。

 何故、そんなにも語学が堪能なのかと尋ねられた時、そのハンターが無言で子供向けの絵本を出したのは今でも語り草となっている。

 




本編最終話で最後に答えたハンターが、作中のハンターとなっています。



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喰らうモノ(前編)

久しぶりの投稿となります。


 とある街の話をしよう。

 その街は最初小さな小さなとても小さな村であった。これといった目ぼしいものもなく地図に載る価値も感じさせない名も無き小さな村。

 その小さな村で起こった変化の切っ掛けは些細なことであった。

 

『最近、害獣が多いから村の周りを柵で囲もう』

 

 その村の長の一言により、村の者たちは協力して村の周りを柵で囲んだ。幸い小さな村だったので特に時間も掛からなかった。

 これにより害獣の被害が少なくなると作物が安定して収穫出来るようになり村は潤った。

 村が潤うとその評判を聞きつけて別の村から移住してくる者がいた。その村はその者たちを歓迎し、村は少し賑やかになった。

 人が増えると新たな土地を開拓することとなる。人が増えていたので土地の開拓にも然程苦労することはなかった。新しく拓いた土地には当然柵が置かれる。

 土地が広がれば作物の収穫量も増え、それによって村は豊かになり、更に村人も増えていく。

 すると、今度は別の村から妬みや恨みを買うこととなった。ある村は発展するこの村に嫉妬し、ある村は村人を奪われたことでこの村を憎悪する。

 どれもこれも逆恨みであったが、放っておけば血が流れることを察して村の長は言う。

 

『もっと頑丈な柵、いや壁を作ろう』

 

 その声に村人たちは同意し、村は石造りの壁に囲まれることとなった。

 石壁は襲撃してきた村人たちの武器などを弾き、見事に彼らを返り討ちにする。そして、敗れた村はその村の一部となった。

 それを何度も何度も繰り返していった結果、村は大きな街となり囲っていた壁は聳え立つ外壁へと変わった。

 ある者は言う。『この壁の厚みこそがこの街の歴史を物語っている』と。

 最初は地図にすら載っていなかった小さな村。だが、気付けば地図に載るのが当たり前となり誰もがその名を知る大きな街。

 この街に住む者は、繁栄が延々と続くと誰もが思っていた。

 だからこそ、この先に待つ未来など誰も予想など出来ないだろう。

 この街が地図から消える、などという未来は。

 

 

 ◇

 

 

 人々が賑わう街を駆け抜けていく二人の小さな子供。街の人々はそれを迷惑がることなく微笑ましく見ている。

 

「遅い、遅いぞー!」

「待ってよー! 兄さーん!」

 

 同じ背丈、よく似た容姿。二人の子供は歳の近い兄弟であった。しかし、性格は全く異なるもの。兄は活発で積極的なのに対し、弟は控えめで消極的であった。事実、兄の方は周りの目など一切気にすることは無かったが、弟の方は注目されることを恥ずかしがっている。

 

「今日がお父様の御帰りになる日ですか、坊っちゃんたちー!」

 

 街人の一人が通り間際に声を掛ける。

 

「そうだ! だから僕たちが最初に出迎えないといけない!」

「そ、そうです……」

 

 溌剌とした声の兄。弟の声は最後の辺りが消え掛けていた。

 この兄弟らは貴族の子たちであり、彼らの父は領主であると同時にこの村の長を祖とする高名な貴族であった。

 常に街の人々のことを第一に考え、高慢ではなく謙虚。それでいて皆を導く力に優れており、街を発展させたのも兄弟の父の力が大きい。故に兄弟は勿論のこと、街の人々の誰からも尊敬されていた。

 そんな兄弟の父が王国への出張から本日戻って来る。本来ならば屋敷で帰りを待つものだが、我慢出来ずに兄が弟を引っ張り出して門の前に迎えに行っているという訳だ。

 この街の代名詞となっている巨大な外壁近くまで来る。魔法と技術によって隙間なく埋め尽くされ、固められた石造りの壁は高く厚い。城を守る城壁以上の頑丈さを誇っており、この壁が出来た時から外敵の侵入を一度たりとも許していない。

 当然、空から来る魔物も存在するが、壁の上には対空用の兵装が揃えられており、侵入する魔物が居れば瞬く間に空中で矢によって穴だらけになるか大砲で粉々になるかのどちらである。

 歴史と伝統を重ねてきた壁にある重厚な門がゆっくりと開いていくと、向こう側から兵が乗った何頭もの馬に囲まれた数台の馬車がやって来る。

 馬車が見えると街の人々は足を止めて、口々に出迎えの声を上げた。

 

「父上ー!」

「ち、父上……」

「おい! もっと腹から声を出さないか! それでは父上には届かないぞ!」

「ち、父上ー!」

「そうだ! それだ!」

 

 街の人々に負けまいと兄弟は父を呼びながら大きく手を振る。すると、双子たちの前で馬車が止まる。

 扉が開くと髪と口髭を整え、仕立ての良い服装の壮年の男性が顔を出す。

 

「おお。お前たち。迎えに来てくれたのか」

「はい! 息子として父を出迎えるのは当然です!」

「そ、そうです……!」

「家で待っておれば良いのに。さては言い出したのはお前だなぁ? ──全く、やんちゃな兄を持つと弟としては苦労するな?」

「そ、そんなこと無いです……に、兄さんと居ると毎日が楽しいです……」

「だ、そうです父上!」

「はははははは。そういうことにしておこう」

 

 兄弟は父の馬車に乗り込み、我が家へと向かっていく。

 商店が並ぶ道を少し行った先にある大きな屋敷。それが彼らの家であった。

 

「御帰りなさい」

 

 清楚なドレスを纏った黒髪長髪の妙齢の女性が侍女と一緒に待ち構えていた。女性は兄弟の母であり、その美貌と優しい性格から兄弟の父と同じく街の人々から慕われている。

 

「お疲れでしょうに。すぐに湯の準備をさせます」

「ありがとう。だが、その前に確認しておきたいことがある」

「……例の行方不明者事件のことですね」

「ああ」

 

 父は真剣な表情となり母は表情を曇らせる。さっきまで父の帰宅にウキウキしていた兄弟も、二人の様子に顔を見合わせて困った表情となった。

 行方不明事件というのは、ここ数週間の間に起こり街を悩ませている事件である。

 最初の被害者は別の街に買い出しにいったこの街の住人であった。予定の日に帰らないのを不審に思い、探索をするとその住人は馬車ごと行方不明になっており、見つかったのは馬車の破片のみであった。

 魔物に襲われた可能性が高く、兵士たちが周囲を探索したがそれらしい魔物は見つからず、空振りに終わってしまった。

 次の被害者はこの街から帰る商人一行であった。腕の立つ冒険者たちを揃えていたが、彼らもまた何処へと消えてしまった。

 流石に見過ごすことが出来ず、他の街と連携して捜索部隊と討伐部隊を編成し、徹底的に探すこととなった。

 犠牲者となったのは討伐部隊であった。数十名で構成された武装兵士たちは跡形も無く消え去ってしまった。

 以来、度々この街を出入りしている者たちが行方不明になっている。行方不明者の探索も怠っていないが、その探索者が行方不明になっていることもあり捜索難航していた。

 

『あの街に行くと悪魔に攫われる』

 

 そんな噂も段々と広がってきており、外の者たちも街に近付かなくなり始めていた。兄弟の父が国へ出張したのも、噂の誤解を解く為と国の力を借りて行方不明事件を解決するのが目的であった。

 この街の長い歴史の中で大きなトラブルが無かった訳ではない。いずれは解決出来る問題ではあろう。とはいえ父が領主となって初めての大きな問題である。ここできちんとした手腕を見せなければ住人の心が離れてしまう可能性もあった。

 生真面目な父は代々受け継いできたものを自分の代で絶やす訳にはいかず、休む間も惜しんで事件解決に心血を注いでいた。

 溜まっている報告書を確認する為に自分の書斎へ向かっていく父の背中を、心配そうに見ることしか出来ない兄弟。

 そんな二人の心情を察して母は二人を後ろから抱き締めた。

 

「何も心配ありませんよ。貴方たちの父上は強い御人ですから」

「……母上。僕は早く大人になりたいです。早く大人になって父上のお役に立ちたいです」

「ぼ、僕もです!」

 

 健気に将来の夢を語る兄弟を愛おしそうに抱き締める母。母は二人の中に後の代を照らす光を見た。

 

「さあ、貴方たちも夕食にしましょう。今日はご馳走ですよ」

 

 母はそう言って兄弟の手を引いて屋敷へと戻る。

 今は苦難の時なのかもしれない。しかし、同時にこの苦難の先には幸福な未来が待っている。兄弟たちはそう信じていた。そして、この輝かしき日々がいつまでも続くと心の底から信じていた。

 だからこそ兄弟たちは思い知らされるのだ。少し先の未来に永遠など無く、幸福も無く、ただひたすら見通すことの出来ない闇が広がっていることに。

 

 

 ◇

 

 

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 

 その日の朝、凄まじい音と共に兄弟がベッドから跳ね起きた。

 

「な、何だ! 何の音だ!」

「ば、爆発? 何かが爆発したの?」

 

 弟が言うように爆音としか思えない巨大な音。しかし、何故かその音を聞いた兄弟は全身に鳥肌を立て、冷たい汗を流し、その冷たさのせいか体を細かく震わせていた。

 

「と、兎に角着替えろ! 何か事故があったのかもしれない! 早く着替えて父上たちの元へ行くぞ!」

「う、うん!」

 

 すぐに寝間着から最低限見せられる格好へ着替える。普段はもっと着飾っているが従者たちが現れないので時間を優先してある程度省く。

 急いで部屋の外に出ると屋敷内は混乱状態になっており、父が大声で指示を飛ばし、使用人たちがその指示に従ってあちこちに走り回っていた。

 兄弟は急いで父に駆け寄る。

 

「何があったのですか!」

「詳しくは分からない。だが、正門で何かが起こっている。兵士たちも慌ただしい。私も向かわねばならない」

 

 危うい場所に父が向かう。その言葉で兄弟は心臓が縮み込む思いであった。

 

「ち、父上……! い、行かないで下さい……! 嫌な予感がします……!」

 

 弟が父の服を掴み、行かないよう懇願する。しかし、その手は兄によって引き離された。

 

「止めろ! 父上はこの街の主として役目を果たそうとしているんだ! 泣き言を言うな!」

 

 兄の鋭い声に弟は今にも泣き出しそうになる。

 

「私の事を思ってのことだ。そう怒鳴るものじゃない」

 

 兄を窘めながら父は二人の頭に手を置く。

 

「私に万が一のことがあれば、これを持って何処のでもいい、ギルドへ行け。きっとお前たちの力になってくれる」

 

 父はそう言って付けていた指輪を外し、兄へ渡す。決して豪華な指輪ではなかったが、一族の紋章が入った代々伝わる由緒ある指輪である。

 手渡されたそれには僅かに父の温もりが宿っていた。だが、すぐに金属の冷たい感触へ戻る。その変化は弟ならず兄にも不吉な予感を与えた。

 しかし、それは父も同じ事であった。兄弟が感じた不吉な予感を父もまた感じていた。だが、街の代表として逃げることは許されない。だからこそ父は兄弟に指輪を託したのだ。

 

「すぐに皆で裏門へ行け。あそこは狭い。早く行かねば人の壁で通れなくなる」

 

 裏門とは正門が何かあった時の為に用意された非常用の門である。住人たちは誰もが知っている。ただし、あまり目立つ箇所に設置しておらず、父が言ったように正門に比べたら遥かに小さい。混雑するのはまず間違いなかった。

 

「父上……ご無事で」

「御帰りを待っています……」

「ああ。行って来る」

 

 父は従者を何人か引き連れて正門へ向かう。

 兄弟が見送るその背中。小さくてなっていく背中。何故だろうか。父の背がもっと遠くへ行ってしまう気がしてならなかった。

 

 

 ◇

 

 

「い、一体どうしたんでしょうか? この街で何が?」

「私は十年この街に住んでいますが、こんなことは初めてです!」

「だ、大丈夫ですよね?」

「心配するな。まずは状況を確認する。お前たちは避難をするのだ」

 

 不安がる住人たちを宥めながら正門へ行く父。

 その耳にある音が入って来る。

 

「これは……大砲の音だと……?」

 

 正門付近から聞こえる轟音。それは間違いなく大砲が発射された音であった。しかも一度では終わらずに合間を潰すように連続して砲撃が行われている。それが必要な外敵が迫っている証でもあった。

 正門へ近付くごとに兵士たちの必死な声が聞こえて来る。一切の余裕が無くどの声も恐怖で震えていた。

 

「くそっ! 何だあいつは!」

「撃て! 兎に角撃ち続けろ!」

「チクショウ! 足止めにもなりゃしねぇ!」

 

 砲撃が絶えない。つまり敵は砲撃程度では倒すことの出来ないもの。

 

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 

 それが聞こえたのは二度目であった。この場に居る全ての者。戦う兵士、逃げる住人、現状に翻弄されて右往左往する者、それらが体を硬直させ身動き出来なくなる。

 

「こ、これは……鳴き声、だと言うのか……?」

 

 まともに動かない舌で何とか言葉を出す。咆哮一つであらゆる者を恐怖で縛り付ける魔物など聞いた事が無い。

 同時にこの咆哮によって砲撃という兵士たちの細やかな抵抗も止まってしまう。

 故に──

 

「離れろぉぉぉぉ! 突っ込んでくるぞぉぉぉぉぉ!」

 

 壁の上に立っている兵士が生命を振り絞るような叫びで警告を飛ばす。

 誰の目も正門へ集中する。同時に重い足音が近付いて来るのが分かった。重厚な正門に対し未知なる存在が放つ初撃。

 凄まじい衝突音と共に巨大な門が吹き飛ばされる。その光景に誰もが啞然とした。守護の象徴とも言える正門がたったの一撃で破壊されたのを見て、悪い夢を見ている気持ちになる。

 しかし、その直後に起こった惨劇に悪い夢ではなく悪夢よりも酷い現実であることを思い知らされた。

 まず破壊され、飛んできた正門に兵士たちが巻き込まれた。断末魔の叫びも無く正門の下敷きになり圧死する。

 次に正門が破壊されたことにより、その衝撃で壁上に居た兵士たちが次々に壁から落ちていく。

 

「うああああああ!」

「あああああああ!」

 

 高所からの落下により助かる者は居らず、落ちた兵士たちは残骸の一部と化した。

 正門の破壊の影響は壁にまで及び、正門付近の壁に亀裂が生じたかと思えば崩壊を始め、積み上げられた壁は瓦礫となって突破された正門跡を埋め尽くしてしまう。

 壊れても尚この街を囲もうとする光景は皮肉にも質の悪い冗談にも思えた。

 それら全てのことがほぼ同時に起きていたが、誰もそのことに意識を向けることが出来なかった。

 それを生み出した惨劇の主から意識も目も背けることを許されずにいた。

 暗緑色の鱗が覆う全身。その体には数え切れない棘が生えており特に口周りに集中している。

 見上げる程の巨体を支えるのは二本の足。体型に比べれば細く見えるがあくまで本体と比較したからであり、実際は成人男性よりも巨大である。それに反して前肢は異様に小さく、地に着かない程短い。

 胴から伸びる尾には先端まで棘が連なっているが注目すべきはその尾の太さであり、胴との境目が分からないぐらいに太く、長い。

 全く未知の魔物。強いて似ている魔物を挙げるとすればドラゴンに近いだろうが、ここまで巨大で恐ろしいドラゴンなど彼らの記憶には無かった。

 

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 

 その未知のドラゴンは口を開け、咆哮を上げる。正面から見れば巨体が隠れてしまいそうなぐらいに開かれる大口。上顎と下顎を繋げる赤い皮膜が限界まで伸び、その皮膜は首らしき辺りまであった。

 未知のドラゴンは大口を開けたまま、咆哮によって動けない兵士たちを纏めて数人も喰らい付き、顎を閉じて鎧ごと咀嚼し出す。

 ものの数秒で嚥下してしまう未知のドラゴン。兵士のたちの装備を吐き出すことなく飲み込んでしまった悪食っぷりは現実離れしていた。

 未知のドラゴンは口を開く。だらりと滴る唾液。そして、言葉が通じなくとも伝わって来る飢餓感。未知のドラゴンの目に映る全てのものが捕食対象であることを恐怖と共に理解させられる。

 

「逃げろっ! 早く逃げろ!」

 

 すぐに逃げるよう父は叫ぶ。あれはドラゴンに非ず、あれは悪魔。全てを貪り尽くそうとする貪欲なる悪魔である。

 次の瞬間には悪魔は大口を開け、下顎で地面を削りながら地を舐めるようにして兵士たちに噛み付く。

 そして瞬く間に食し、次なる獲物を狙って捕食を開始する。

 十を超える人間を食べても満足するどころかますます飢える悪魔に、誰もが慄いて裏門を目指して逃げ始めた。

 

「う、うわああああああああ!」

「化け物だぁぁぁぁぁ!」

 

 逃げる人々の中には兵士も混じっていたが、誰がその行為を咎めることが出来ようか。あのような光景を見れば誰でも心が恐怖で折れてしまう。

 すると、悪魔は両足で地面を蹴る。巨体から予想も付かない軽々とした跳躍を披露し、逃げる人々の頭上を越え、或いは足先で薙ぎ倒しながら先回りして着地。振り向き様にその尾で近くに居た何人かを吹き飛ばす。

 攻撃の意図すらない振り返りだけで、数人が壁に叩き付けられて呆気無く絶命する。

 そして悪魔は食う。喰う。捕食(くう)。己の飢えを満たす為に人々を喰らい続ける。

 終わりの見えない暴食により街の人々や兵士たちが無惨に死んでいく。叫ぶ言葉も祈りも許しを乞うことも最期に想い人を恋しがることもさせず一切の躊躇なく嚙み砕き、その胃に流し込む。

 悪魔は人々が最期に見せる行動に何も反応しない。無惨な最期をスパイスにして暗い愉悦を味わうような下卑た感性は無く、ただ生きた命を腹に詰め込んでいくという作業のような行動。故に無慈悲。悪魔は己の為に散った命に何も思わない。

 

「うわぁっ!」

 

 人を食う悪魔の口から飛び散った唾液が一人の男の腕に掛かる。

 

「ひぃ! ひぃぃ!」

 

 肌に付いたそれを必死で拭い取ろうとする男。悪魔の唾液など汚らわしいものでしかない。

 

「あ、あれ……?」

 

 透明な筈のそれが段々と薄紅色に染まっていく。そして、その色がどんどんと濃くなっていく。

 慌てて拭うとし手に力を込めるとずるりと腕から何かが剥がれ落ちた。

 

「あ……? ああ……?」

 

 見覚えのある肌色。それが段々と赤くなっていく。そして、それに重なるように付いている細長いもの。

 

「あ、あれって……」

 

 男は自分の腕と手を見た。そこにあるべき皮も肉も無く、あるのは白い──

 

「う、あああ──」

 

 悲鳴は頭上から被ってきた悪魔の口の中で木霊することなく噛み潰された。

 

「地獄だ……地獄がこの世に現れた……」

 

 目の前で繰り広げられる光景に父は呆然とした様子で譫言を洩らす。

 だが、そう考えると妙に納得してしまう。悪魔が居るのならそこは地獄そのもの。

 父が見ているのに気付いたかのように悪魔が父の方を向き、息を吸い込み始める。

 悪魔から逃れる術は無い。最早、助かることは叶わないと悟った父が最期に行ったのは、息子たちと妻が無事に生き延びることを祈ることであった。

 悪魔が吸い込んだものを吐き出す。黒い気体に赤雷が生じ、さながら雷雲であった。

 雷雲に呑み込まれる寸前まで父の祈りは途切れることは無かった。

 

 

 ◇

 

 

 案の定というべきか裏門への道は人々の混雑によって一向に進まなかった。砲撃や何度か聞こえた恐ろしい咆哮のせいで、どうしても我先にとなってしまいそれが返って道を詰まらせる。

 

「最悪だ……」

 

 兄は思わず愚痴を零す。さっきから脱出が遅れている。これでは父や兵士たちが何の為に頑張っているのか分からない。

 いっそのこと貴族特権を行使して脱出しようかとも思ったが、それを実行する程兄は浅慮ではない。周囲も苛立ち、殺気立っている状況でそんなことを言えば自分たちに苛立ちの矛先が向けられる。

 

「大丈夫ですよ。きっと貴方たちの父が解決してくれますからね」

 

 母が二人を慰めるが母本人もまた顔色が悪く、心の裡では不安と葛藤しているのが分かる。

 

『はい……』

 

 兄弟もそれが分かっていたので母に心配を掛けまいと大人しくする。

 こんな混乱は一時的なもの。これも過ぎれば元の日常が戻って来る。この時まではそう思っていた。

 

「うわあああああああ!」

「きゃあああああああ!」

「ひぃああああああああ!」

 

 絶叫が後ろから聞こえてきた。何が起こったのかと振り返ろうとした時、突然人の波に襲われて母と離れてしまう。

 

「なっ!」

 

 左右へと分かれ、引き離される母と兄弟。直後、引き裂かれた人波を喰らい進んでいく悪魔が現れた。

 悪魔はそのまま掬うようにして人々を喰らい続け、最後には唯一の脱出口であった裏門に全身でぶつかる。

 逃げようとしていた人達はその体当たりで裏門を詰める肉の栓となり、追い打ちを掛けるように周囲の建物が崩れて完全に塞がれる。

 

「な、何あれ……?」

 

 弟は味わったことの無い恐怖に震えながら捕食する悪魔を見た。悪魔は目に映る者たちを片っ端から喰らっていく。

 

「に、逃げるぞ……!」

 

 兄は恐怖で震える体を使命感で突き動かし、弟の手を引っ張ってここから離れようとする。

 

「は、母上がまだ!」

 

 言われて兄は正気に返る。恐怖で一刻も早くここから逃げようと思っていたせいで、大事な母のことを失念していた。

 急いで母の姿を探す兄弟。幸い母はすぐに見つかったが、人波に呑まれたせいで地面に伏せている状態であった。

 急いで助けようとし、その場から一歩踏み出す。次の瞬間、横たわる母に悪魔の大口が覆い被さっていた。

 

『えっ……?』

 

 意味が分からない。悪魔が母を食べた。嚙み砕いた。吞み込んだ。それで終わり。終わり? これで? だって母はさっきまで、永遠のお別れ? こんなに呆気無く? こんなに突然に? こんなに理不尽に? 何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で。

 事態に頭が追い付かず、現実が曖昧になって何も考えられなくなる。

 そんな兄弟の心情など関係無く、食欲を満たす為に悪魔は兄弟たちを次なる餌にしようとした──

 

 グオァァァアアアア! 

 

 ──新たな咆哮が頭上から聞こえ、悪魔が空を見上げる。

 地面を砕きながら降り立ったそれは、悪魔を前にしてもう一度咆哮する。

 漆黒の体には全身余すことなく棘を生やし、己を支える四肢にも棘、空を駆ける両翼にも棘、尾に至るまで棘が生え尽していた。

 頭部には左右に伸びる四肢よりも太く白い角。先端のみが黒く染まっている。

 その姿もまた悪魔を連想させる。貪欲な悪魔に対峙する漆黒或いは棘の悪魔は、悪魔に相応しい凶相で牙を剝いて威嚇する。

 強い力が強い力を招き寄せ、この地にて二匹の悪魔が出会ってしまう。

 片や命ある身でありながら、底知れぬ食欲と恐暴さによって厄災に成ろうとしている(イビルジョー)

 片や厄災に生ある物の姿を与えた存在ながら、その厄災すらも喰らう(ネルギガンテ)

 二匹は出会った瞬間に相手を喰らうことを決めた。視界を広げれば目の前の相手よりも遥かにか弱く、喰らい易い存在がいるにも関わらず。

 だが、そんなことは両者にとっては些細なこと。命が在る。だから喰う。それのみ。

 

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 グオァァァアアアアアアアアア! 

 

 この二匹は(いのち)ある限り喰らい続ける。

 




続きはゴールデンウイークが終わるまでに投稿したいですね。


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喰らうモノ(後編)

モンハンライズにネルギガンテとイビルジョーの参戦はあるんでしょうかね?
設定的にはそこまで不自然な感じはしないと思うので。


 顎の悪魔の暴力、殺戮に導かれてこの地獄に現れたのは棘の悪魔。だが、その二匹は決して仲間ではない。顎の悪魔と棘の悪魔が互いに向けるのは、尋常ならざる殺気と相手を喰らうという欲望。

 顎の悪魔と棘の悪魔は敵同士であった。だが、それがこの地獄に引き摺り込まれた人々にとって一体何の救いになるというのか。厄災に厄災をぶつけた所で被害が収まるなどという楽観的なことなど起こらない。

 顎の悪魔に殺されるか。棘の悪魔に殺されるか。その割合が変わるだけであった。

 逃げ惑う人々など眼中に無く棘の悪魔が低く唸る。倍とはいかないが一回り以上大きな相手を前に一切の臆する様子が無い。それを蛮勇、無謀と見えないのは棘の悪魔が放つ禍々しい存在感にあった。

 一方で顎の悪魔は棘の悪魔と同じく相手から視線を逸らさない──などということはせず、敵が居るにも関わらず近くを通る人間を喰らっていく。一見すると相手を舐めた行為に見えるかもしれない。しかし、もしこの顎の悪魔の生態を知る者が居れば、それは当然のことと言えた。

 満たすことの出来ない常に付き纏う飢餓は何よりも優先され、喰えるモノがあるのならそこに喰らい付く。それが顎の悪魔にとってその体に染み付いた習性であった。

 欲望に抗うことなく人を食べ続ける顎の悪魔。棘の悪魔は相手が食事中だろうと礼儀を払うつもりは無い。

 咆哮と上げ、棘の悪魔が四足を駆使して走り出す。これに巻き込まれるのはパニックを起こして逃げ惑っていた人々。

 人生の中で味わったことの無い最上の恐怖のせいでまともな判断をすることが出来なくなり、結果として自分が何処に逃げるのか分からずに走っていた。それが棘の悪魔の進路上であることも分からないまま。

 棘の悪魔の真正面に出てしまった者は比較的に幸運であった。十数メートルもの体格を持つ棘の悪魔に撥ね飛ばされ、一撃で即死することが出来たのだから。

 棘の悪魔の左右に出てしまった者は不幸であった。棘の悪魔の突進を直撃することは無かったが──

 

「あっ……あっ……」

「いでぇ! いでぇよぉぉ! 脚が! 脚がぁぁぁ!」

 

 乱杭となっている棘に触れた箇所が抉られ、ある者は脇腹の一部を失い、ある者は大腿部の一部が無くなっていた。いずれは死に至るがすぐに死ぬことは出来ず、状況からして誰にも助けてもらえず、激痛の中で悶え苦しみながら地面に横たわり、死ぬ寸前まで顎の悪魔と棘の悪魔の恐怖を目に焼き付けさせられるという終わりを約束される。

 前方に出て来た人間など木っ端同然。そもそも居たのかすら認識することなく棘の悪魔は加速し、最高速に達すると同時に右前足を振り上げながら跳ぶ。

 人を食べることに夢中になっていた顎の悪魔は、この時になって自分へ飛び掛かってくる棘の悪魔に気付いた。尤も、最初から気付いていたとしても避けられたどうかは疑問が残る。

 棘の悪魔のフレイルと化した掌打が顎の悪魔の横っ腹に直撃。鱗を裂くと共に自分を上回る巨体を殴り飛ばす。

 顎の悪魔は涎をまき散らしながら横転。その際に何人か下敷きにして圧死させる。両悪魔とも何かする度に死人が生じていた。

 ほぼ無防備な状態の顎の悪魔に打ち込んだ強烈な一撃。人の身なら数度死んでも足りないものであった。だが、一撃の重さに反して顎の悪魔の胴体に刻まれたのは浅い傷であった。

 顎の悪魔の鱗の下にあるのは異常に発達した筋肉。既存の常識では測れない程の密度を持ったそれは、第二の鎧として棘の悪魔の攻撃を軽減させていた。

 そして、攻撃した棘の悪魔の右前脚には何本も折れた棘が見える。顎の悪魔の筋力と自身の持つ力の強さが合わさって自らの武器を破壊してしまう。

 すると、前脚から音を立てながら白い棘が生え出してくる。折れた部分を埋め尽くすようにたった数秒で新たな棘が生え揃ってしまった。

 自切した尾を再生させる生物は存在する。折れた牙や角を生やす生物も存在する。腕が無くなっても脱皮することで再び生やす生物が存在する。再生自体は珍しい事では無い。しかし、その速度が異常なのだ。既存の生物には当てはまらず、それらを嘲るが如き驚異の再生。まさに悪魔と呼ぶに相応しい所業である。

 自らの食欲を優先し、あっさりと一撃を貰ってしまった顎の悪魔。しかし、何事もなかったかのように立ち上がり、食事の邪魔をした棘の悪魔を睨み付けるとその場から走り出す。

 棘の悪魔も同じく駆け出し、両者が体ごと衝突。生々しい衝突音と共に二匹は弾けるように後退する。

 体格差はあれど力は互角。そう見ると地力の強さは棘の悪魔に軍配が上がる。だが、両者とも無傷では済まず、顎の悪魔の体には新たな傷が生まれ、棘の悪魔は頭部や翼の棘が折れていた。

 棘の悪魔の体から音が鳴る。前脚と同じく頭部、翼の棘が再生していく音である。

 顎の悪魔は唸り、棘の悪魔は叫ぶ。戦いの終わりは未だに見えない。

 

 

 ◇

 

 

 人というものは命というものに対して思っている以上に素直だと知る。

 他人が死ねば恐怖し、身内が死ねば何も考えられなくなり、自分が死にそうになれば前の二つを忘れて無我夢中で生きようとする。

 そんな現実を幼い自分たちは今日知った。

 耳に飛び込んでくる咆哮。恐怖によって揺さぶられる生存本能が母を目の前で喰い殺され、呆然としていた兄を我に返させる。

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 

 呼吸が乱れる。当たり前の動作なのに一瞬呼吸の仕方を忘れてしまった。上手く吸い込めず、吐き出せず、浅く乱れた呼吸をしながら兄は周りを見る。

 見渡せば死屍累々。舗装された石畳を濡らす大量の血。手足などの一部。破壊された建物の瓦礫によって大怪我し、か細い声で助けを求める者たち。瀕死の重傷を負い、辛うじて息をしている者など、短い時間で凄惨な光景が作り上げられていた。

 その光景を生み出した二匹の悪魔は、互いを否定するかの如く争い合っている。

 兄はすぐにその二匹から目を逸らす。見ているだけで心が恐怖に喰われそうになる。

 まだ兄から距離が離れているが、あの巨体からしたら大した距離でもない。急いで逃げることを決め、すぐそばに居る弟へ声を掛ける。

 

「おい! ……おい!」

 

 弟に声を掛けるが反応が無い。弟は母の死のショックにより、目を見開いて涙を流したまま固まって動けなくなっていた。

 声無き声で何かを言い続けている弟。兄にはそれが『母上……母上……』と言っているのが分かってしまった。

 生半可なことではショック状態の弟を正気に戻すことは出来ないと悟った兄。時間を掛けている暇も無い。

 とるべき手段は一つだけであった。

 

「いい加減にしろ!」

 

 弟の頬を拳で一切の手加減も無しで殴り飛ばす。指関節に伝わる鋭い痛みと初めて経験する頬の肉が潰れる感触。

 人生で最初に全力で殴ったのが実の弟という事実に吐き気を覚えるが、今はその感情を押し込める。

 

「に、兄さん……?」

 

 強い痛みが弟の生存本能に届き、虚ろであった意識を目覚めさせる。

 殴られたせいで口の中を切り、端から血を流している弟に罪悪感を覚えながら、ようやくこちらに意識を向けた弟の手を強く引っ張る。

 

「行くぞ! ここに居たら死ぬ!」

「で、でも! は、母上が!」

「うるさいっ!」

 

 兄は弟の頬を引っ叩く。強引だが決して暴力を振るうことはしなかった兄。そんな兄からの平手打ちに弟はボロボロと涙を流す。

 

「泣く暇があるなら走れ!」

 

 兄は弟を引っ張ってその場から走り出す。

 

「う、うう……うぇぇ」

 

 嗚咽を洩らす弟。

 

「泣いてどうする! 父上はここに居ない! そして母上はもう居ないんだ! 死んだんだ!」

 

 弟の腕が外れるのではないかというぐらいに兄は強く手を引っ張って走る。弟は何とかバランスを保ちながら兄に追従して走る。転んでも引き摺ってでもこの場から連れ出すという意志が、強く握る手から伝わってくる。

 

「だからこそ僕たちは二人でも生き抜かなければならないんだ!」

 

 叫んだ後、兄は心の中で母に詫びた。何も出来ず、仇を取ることも考えず、ただ自分たちの命を優先して逃げることを。

 裏門は悪魔たちによって文字通り潰された。残されている脱出口は正門しかない。しかし、正門からあの顎の悪魔がやって来たことを考えると、そちらも潰されている可能性が高かった。だが、幼く無力な彼らには思い付いた可能性に縋ることしか出来ない。

 悲鳴を上げながら散り散りになって逃げる人々に紛れ込んで兄弟は走る。

 逃げる兄弟の背後では顎の悪魔に棘の悪魔が持ち上げられていた。棘の生えた翼にも関わらず、それ以上に密集した棘を持つ顎で翼に喰らい付く顎の悪魔。口蓋を貫く筈の翼の棘が音を立てて折られていく。顎の悪魔の桁外れの筋力にものを言わせた力技。

 棘の悪魔も黙ってぶら下げられている筈もなく、顎の悪魔の首や胴体に掌打を打ち込む。打ち込む度に腕の棘が折れるが、棘の悪魔は構う事なく何度も打ち続ける。

 途轍もない膂力で同じ箇所に何度も衝撃を加えられたことで顎の悪魔の嚙む力がほんの少し緩み、そこへすかさずもう一撃を与えることで翼を解放され、棘の悪魔は地面に四肢を着ける。

 僅かに後退する顎の悪魔であったが、そこで体を反転させ棘の悪魔と大きさの差が無い尾を振るった。

 だが、それは棘の悪魔に避けられたことで空振り。すると、空振りした尾が近くの建物へ叩き付けられる。

 顎の悪魔の尾は建物で止まることなく振り抜かれた。綿でも掃うかのように軽々と破壊される建物。しかし、被害は建物の破壊だけでは済まなかった。

 顎の悪魔が尾を振り抜いたことで建物の瓦礫が一斉に飛び散り、逃げる人々の方に向かって飛んで来たのだ。

 

「と、飛べ!」

 

 その光景を目の当たりにした兄は弟の手を引き、扉の空いていた家の中へ飛び込む。

 開いた扉から見える光景は残酷の一言であった。

 数キロもしくは十数キロはある瓦礫が雨のように降り注ぐのである。

 

「がはっ!」

 

 背中に拳大の石が命中して転倒する者。

 

「あがっ!」

 

 自分の頭よりも大きな石が頭部に当たり、痙攣して起き上がれなくなる者。

 

「い、痛い……痛いよ……」

「お、起きろ! 目を開けてくれっ!」

「誰か! 誰か手を貸してくれぇぇぇ!」

 

 老若男女を問わず多くの人々が負傷するか死亡する。

 

「うわああっ!」

「頭を低くしろ!」

 

 兄弟たちが居る家も無事ではない。無数の礫が窓を叩き割り、屋根に何度も瓦礫が降り、積もっていた埃が落ちていく。

 瓦礫の雨が収まると兄弟はすぐに外に出る。

 

「うっ」

 

 家から出た直後に見えた光景に兄は呻く。

 負傷し這いずりながらも遠くへ逃れようとする者。既に死んでいる家族にすがりついてその場から動けない者。ただ助けを求める者。

 つい昨日まで活気に満ちていた道が血と死に塗り潰される。

 

「う、うぇぇ!」

 

 弟は死と恐怖のストレスによって吐く。

 

「吐いてる場合か!」

 

 兄は自分も吐き気を覚えていたが我慢し、弟の手を乱暴に引っ張って逃走を続ける。

 恨まれても憎まれても構わない。まずは生きなければそれも出来はしない。

 逃げる兄弟の耳に飛び込んで来る轟音。嫌でも目線がそちらに向いてしまう。

 建物が並ぶ向こう側で凄まじい勢いで建物の破片や粉塵、瓦礫が巻き上がっており、それが兄弟と並走していた。

 何が起こっているのか建物が壁になって分からないが、あの二匹の悪魔が破壊と死をまき散らしているのは間違いない。

 

「走れぇぇぇ!」

 

 成長し切っていない足を必死に動かし、少しでもその音から離れようとする。

 次の瞬間、建物を突き破って二匹の悪魔が現れる。兄弟との距離はたった数メートルしか離れていない。

 棘の悪魔が翼を盾のようにして顎の悪魔に体当たりしており、自身と突き破った先にあった建物の間に顎の悪魔を挟み込む。

 兄は思わず叫びそうになったが、悪魔たちに見つかると思って反射的に口を手で押さえた。

 

「──ッ!」

 

 弟は恐怖が飽和してしまったせいか声すら上げられない。

 顎の悪魔を建物に押し付けた状態で棘の悪魔は後足で立ち上がる。そして、振りかざした前脚を顎の悪魔に叩き付ける。

 顎の悪魔の体重と棘の悪魔の掌打によって倒壊する建物。だが、棘の悪魔の悪魔は前脚を顎の悪魔に押し付けたままで更に押し込む。それに合わせるかの様に脚に生えていたようが飛散した。

 

「うわあああっ!」

 

 兄はその場で滑り込む。手を引っ張られていた弟も同じく滑り込んだ。石畳の上で行ったので脚や腕などを擦ったが、頭上を飛んで行った棘に感じた寒気に比べれば些細なこと。

 すぐに立ち上がった兄弟が真っ先に見たのは、飛散した棘に貫かれて壁に標本のように磔にされた男の姿。

 刺さったのは肩であり、致命傷には程遠い箇所であった。

 

「あ、あ、ぬ、抜いて、くれ……」

 

 兄弟たちと目が合い、助けを求めてくる。

 兄はすぐに目を逸らし、弟を引っ張ってこの場から逃げ出す。

 

「ま、待って……」

 

 自分たちが地獄にいることを改めて思い知らされる。無力な自分たちは己の命惜しさに全ての命を見捨てる。普通ならば地獄へ行く行為だろう。だが、既にここが地獄ならば何の問題もない。そう自分勝手に言い聞かせる。

 目に映る人、人であった物、物と化そうとしている人。全部見て見ぬふりをし、吐き気のする罪悪感だけを背負って兄弟は地獄を走る。

 

 

 ◇

 

 

 棘が抜け落ちた前脚に、何度目かになる新たな棘が生えてきた。前脚の下では顎の悪魔が呻いている。

 棘の悪魔は止めを刺すべく翼を広げて飛翔。一気に数十メートル飛び上がるとそこから急降下。顎の悪魔の頭部を砕くつもりで前脚を叩き込もうとする。

 その時、顎の悪魔は体を起こす。その場から移動することはせずに急降下する棘の悪魔を睨むように見上げた。

 振り下ろされる前脚。そのタイミングに合わせて顎の悪魔は大口を開け、前脚に噛み付き、落下の勢いのまま棘の悪魔を地面に叩き付ける。

 石畳が砕け散り、細かい粉塵が巻き上がる。その粉塵を吹き飛ばすように棘の悪魔を持ち上げ、もう一度地面に叩き付けた。

 棘の悪魔は振り回されながらも抵抗し、顎の悪魔の嚙み付きから逃れようと翼を嚙まれた時と同様に掌打を打ち込む。

 顎の悪魔は噛み付いた状態から唸ると突如背中が隆起する。人間が腕に力を込めれば力瘤が出来ると同じ筋肉の膨張だが、顎の悪魔の筋肉は桁外れの密度を持っているので表皮が限界まで引き伸ばされ、首から胴体に掛けて鮮やかな筋肉の赤が薄皮一枚越しに見えるようになる。

 そこから顎の悪魔は鬱憤を晴らすが如く、棘の悪魔を使い捨てる物のように乱暴に扱う。

 右に叩き付ければ今度は左に。左に叩き付ければ次は右に。建物を、石畳を、人たちを棘の悪魔で叩き潰していく。

 逃れることの出来ないまま棘の悪魔は暴力的に使われ、最後には勢いよく放り投げられ建物を何棟も破壊しながら転げ回って行く。

 ようやく解放された棘の悪魔であったが、すぐに立つことは出来なかった。何度も叩き付けられたダメージが残っているせいもあるが、顎の悪魔に噛み付かれていた前脚が絞り切られた布のようにぐちゃぐちゃに変形させられていたせいもある。

 それでもまだ動ける棘の悪魔だが、棘の悪魔が敵に容赦がないように顎の悪魔もまた敵に容赦しない。

 顎の悪魔がその場で跳躍。着地地点は棘の悪魔の背中。全体重を乗せて棘の悪魔を地面に埋め込む。

 体半分が石畳に沈み込んだ棘の悪魔。それでもまた呻いている。その頭部を顎の悪魔が踏み付ける。

 地響きが起こり、店に飾ってある小物が落ち、走って逃げている者たちの中ではその揺れで転倒するものがいた。

 棘が生えているのも構う事無く顎の悪魔は何度も頭を踏み付ける。棘の悪魔の呻き声が聞こえなくなり、動かなくなるまで。

 地響きは数度起こり、やがて止まる。声も動きも無くなった棘の悪魔の背から降りる顎の悪魔。

 今すぐにでも目の前の量のある餌を食べようかと口から涎を垂れ流し、滴った唾液で石畳に穴を開ける。

 が、逃げている住人たちの悲鳴が聞こえて顎の悪魔の食欲はそちらの方に向けられる。棘の悪魔に嚙み付いた時に感じたことだが、棘と鱗と外殻が思っている以上に堅くて食べ辛い。手間取るよりももっと安易に食べる相手を狙うことにした。

 食欲のままに住人たちの後を追おうとするが、その時棘の悪魔の方で石ころが一つ転げ落ちる。

 それは些細なこと。しかし、顎の悪魔はその音を聞き逃すことはしなかった。

 顎の悪魔は向き直り、棘の悪魔を見下ろすと口から黒煙に似た力を洩らしたかと思えば、体内で生成した力を一握りの可能性すら吹き飛ばすべく一気に吐き掛けた。

 

 

 ◇

 

 

 このまま逃げられるのだろうか? 逃げた後にどうすればいいのか? 母は死んだが父は? そんなことを考える暇があれば逃げろ! でも、だって、やっぱり、それでも──

 

 逃げ続けている兄の思考はずっとこの言葉がグルグルと回り続けている。先のことを思えば不安。だが、たった一分先のことも不安。不安、不安、不安。未来というものはこれ程までに息苦しく、辛く、目を逸らしたいものだっただろうか。昨日までの自分には無い思いであった。

 上がっては消え、また上がっては消えて行く悲鳴。逃げる時には大勢いた周りの人々も今は見当たらなくなっている。

 かつては響いていた笑い声は悲鳴に上書きされ、その悲鳴もやがて静寂に変わろうとしている。

 そんな中でも顎の悪魔の咆哮は変わることなく聞こえ、耳に入り込む度に体が竦む。

 大きな地響きが何度かあった後に棘の悪魔の咆哮が聞こえなくなった。恐らくは顎の悪魔が勝ったのだろう。しかし、悪魔が二匹から一匹になった所で倒す術の無い自分たちには何の意味も無い。喰われる相手の二択が一択になっただけのこと。

 

「に、兄さん……ぼ、僕はも、もう一人で、走れるから……」

 

 没頭する兄に弟がしゃくり上げながら話し掛けた。未来の不安に圧し潰されそうだった兄は走る速度を緩めながら弟の方を見る。

 

「だ、大丈夫! ぼ、ぼ、僕は父上とは、母上の子で、兄さんの弟、だから……」

 

 兄はその時見た弟の顔を一生忘れることはないだろうと思った。泣き腫らした目を細め、涙を止めようとして頬を紅潮させ、口の端を上げようとして上手く出来ずに痙攣させている。

 兄に泣き顔を見せまいとし、弟の精一杯の強がりで作り上げた歪な笑顔。

 

「……安心しろ。お前は僕がちゃんと守ってやる」

 

 その精一杯の努力に誓う兄としての決意。この世で信じるべきは今目の前の存在しか居ない。

 だからこそ支え合い──ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 決意の空気を吹き飛ばす悪魔の咆哮。未来を憂う兄の頭の中を消し飛ばし、弟の精一杯の仮面を無理矢理剥ぎ取る情緒無き飢えの叫び。

 

「あっ……」

 

 建物の角から顔だけを出し、こちらを見ている顎の悪魔と目が合う。どれだけの人を喰らってきたのか、顎の悪魔の口周りは鮮血により紅がさされていた。

 たった二人の小粒な獲物。食い出など顎の悪魔の巨体からして無いに等しい。しかし、二人を視界に収めた瞬間、顎の悪魔は衝動のまま涎を垂らす。

 叩き付けられる食欲を伴った殺意。数秒先の惨たらしい未来が兄弟の脳裏に幻視される。それが幸運とも言えた。

 恐怖が彼らの中の生存本能を強く刺激し、考えるよりも先に体が動きその場から走り出していた。顎の悪魔の恐怖に吞み込まれる前に動けたのだ。

 顎の悪魔から少しでも離れる為、反転して来た道を戻る。顎の悪魔の咆哮が大気を伝わって兄弟の背を撫でた。

 逃げる為に、喰われない為に、兄弟は必死に頭と体を動かして方法を探る。喰われる恐怖で頭と体が働かなくなる前に。

 

「に、に、兄さん! みみ、右!」

 

 呂律の回らない舌で何とか言葉を出す弟。言われた通りに右を見ると店と店の間に子供が通れる幅の細い道があった。

 逃げ込むにはあそこしかないと判断し、兄弟はその細い道へと入る。

 兄弟を見失うもその後を追う顎の悪魔。当然のことながらその道は顎の悪魔の体では入れない。なら、入れるようにすればいい。

 顎の悪魔は店の中に頭を突っ込み、首を振るだけで破壊。振った首をそのまま隣の店に叩き付け、こちらも倒壊。

 首を左右に振るだけで二軒の店を破壊し、細い道を通れるようにする。

 細かった道を抜けると様々な店が並ぶ別の歩道に出る。兄弟の姿は見えない。すると石畳に鼻を近付け獲物の匂いを探り出す。

 匂いを辿り、行き着く先には荷台を草で織った被せもので覆った荷車が置かれてあった。

 顎の悪魔はその荷車に近付き、荷車ごと喰らおうと大口を開け──直後に止まる。

 何を思ったのか急に興味を失い、口を閉じて背まで向けてしまった。

 遠のいて行く足音。やがて、被せものをどかして兄弟が荷車から出る。

 

「う、うおぇ……」

「げほっ! げほっ! おえぇぇ!」

 

 二人は自らが放つ匂いに吐き気を催していた。兄弟が隠れた荷車は野菜を育てる為の堆肥が積まれていた。家畜糞を腐熟させて作り上げるそれだが、完全に匂いが消えておらず、更には急いで身を隠す為に飛び込んだので頭からそれを被ってしまった。

 二人の上等な服も今では汚物によって汚されている。だが、汚した甲斐もあった。あの顎の悪魔から逃げられたのだ。

 いくら飢餓や食欲に支配されている顎の悪魔も排泄物までは食えない様子。

 

「い、行くぞ!」

「う、うん……!」

 

 顎の悪魔が完全に二人を見失っている内に二人は正門を目指す。

 やがて辿り着く正門。そこは既に顎の悪魔によって食い荒らされていた。そして、正門も──

 

「あ、ああ、門が……」

 

 破壊され、崩れ落ちている正門の様子に弟は絶望に満ちた声を上げる。

 

「──いや、待て!」

 

 兄はじっくりと正門を観察し、気付いた。瓦礫が重なり合う正門だが、隅に小さな隙間が見えていた。

 奇跡的な重なり合いによって出来た外への脱出口。だが、通れるのは子供ぐらいしかいない。

 

「あそこだ! 行くぞ──」

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 

 見えてきた希望。それを瞬時に絶望へ塗り替える咆哮。振り返れば顎の悪魔が兄弟に向かって全力疾走してきていた。

 間に合わない。二人が諦めかけた時──

 

 グオァァァアアアアアアアアア! 

 

 飛翔してきた棘の悪魔が顎の悪魔の首に噛み付き、そのまま地面へ押し倒す。

 一度は負けたかと思われた棘の悪魔。しかし、何もなかったかのように復活している。顎の悪魔に捻り折られた前脚も元に戻っており、それで顎の悪魔を何度も殴りつけている。更には全身に生えていた白い棘は黒く変色しており、より禍々しさを増していた。

 数度殴りつけた棘の悪魔はそこから突然飛び上がった。押し倒されていた顎の悪魔がすぐに立ち上がる。

 飛び上がった棘の悪魔は、翼を羽ばたかせると顎の悪魔目掛けて急降下。そこから繰り出すのは至って単純。黒い暴力の塊が顎の悪魔にぶつかる。

 己の全てを一体化させたようにして放つ体当たり。だが、そこに棘の悪魔の速度も質量と力が完全に統合されることにより、悉くを破壊し滅ぼし尽くす唯一無二の技へと昇華される。

 体当たりと同時に顎の悪魔へ突き刺さる全身の棘。その棘はかなりの硬度を持っていたが衝突の際の衝撃と棘の悪魔の自身の力によって広範囲に飛び散る。

 威力を物語るように顎の悪魔の巨体が数度地面を跳ねながら転がっていく。ようやく止まった時には十を超える建物が顎の悪魔によって押し潰されていた。

 体に深々と棘が突き刺さる顎の悪魔。痛々しい姿であるが、その状態で尚立ち上がる。

 

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 

 戦意が萎えることなく底知れぬ怒りに満ちた咆哮。その怒りに肉体が応え、筋肉の一部が隆起していく。だが、今回はそれだけに留まらない。顎の悪魔は口元に黒煙を燻らせると隆起した筋肉が内側に宿る力で赤く照らされる。

 膨張する筋肉によって突き刺さっていた棘が押し出されていく。それだけではない。表皮の一部が内側からの圧力に耐え切れずに裂け始めた。

 顎の悪魔の全身に浮かび上がる傷。それはかつての戦いによって出来た古傷。古傷が次々と裂けていく痛みに、顎の悪魔は絶叫のような咆哮を上げた。

 この傷こそが生きながらにして厄災と成ろうとしているモノへの代償。自身でも歯止めの効かなくなった力は顎の悪魔に永遠に満たされることのない飢餓感を与えると同時に、永遠に傷が癒えることのない呪いも与えた。

 力を得たことで飢えを生み、飢えを満たす為に戦いを生み、戦う度に傷を生み、傷が痛む度に怒りを生み、怒りのまま暴れる度に力を生む。

 命尽きるまで終わる事の無い暴力と健啖の環。

 怒りと痛みと食欲のままに顎の悪魔は暴力を繰り返す。

 その怒りに勝るとも劣らない破壊と渇望によって迎え撃とうとする棘の悪魔。

 終わりなど分からない悪魔たちが紡ぎ出す物語。

 しかし、そんなものは巻き込まれた人間にとってはどうでもいいこと。

 兄弟たちは二匹の悪魔が争っている内に正門の隙間へ入り込み、何とか街の外へ逃げ出した。

 少しでも街から離れる為、街を出ても全力で走り続ける。

 背中に悪魔たちの咆哮が聞こえた。兄は思わず吐き捨てた。

 

「勝手にやっててくれ……!」

 

 

 ◇

 

 

「……うん?」

 

 唐突に目が覚めた。色々と金勘定をしている内に疲れて眠ってしまっていたらしい。最近、色々とあって寝不足であった。

 

「兄さん」

 

 ノックと共に弟の声がする。

 

「入れ」

 

 寝起きなので短く返すと部屋の中に弟──エムが入って来る。

 

「ちょっと聞きたいことがあって──寝てた?」

「ああ」

 

 兄──エヌは少し不機嫌そうに返す。

 

「もしかして、あの時の夢を見てた? 兄さんは昔の夢を見るといっつもそんな顔をしているからさ」

「まあ、な……」

 

 貼りつけたような笑みで言うエム。エヌはそんな弟の顔を少し眺める。

 あの日を境に弟は泣く事は無くなった。その代わりに今のような笑顔ばかりを浮かべる様になった。あの時のことが今でも忘れられない、顔に書いてある代わりにそう貼ってあるようにエヌには思えた。

 

「それで話なんだけさ──」

「それよりも先に飯だ。話は何かを食ってからだ」

「えー、はいはい分かったよ」

 

 エヌはかつての悪夢を見た後、必ず何かを食べることに決めていた。それが彼なりの過去の克服の仕方なのだ。

 切っ掛けは故郷から逃げ出した後のこと。ひたすら歩き続け、ようやく別の街のギルドへと辿り着いた兄弟。薄汚い姿の兄弟をすぐに追い返そうとしたが、兄が見せた指輪によってギルドの様子は一変した。

 その時に二人の保護を名乗り出てくれたのがエクスであった。そして、二人にエクスは食事を用意してくれた。

 だが、二人はすぐに料理には手が伸びなかった。腹の中が空っぽな程飢えている筈なのに、あの街のことであったことを思い出すと吐き気すら覚える。

 そんな二人にエクスは優しく、そして厳しく言った。

 

『食べなさい──』

 

 その後の言葉を、エヌは生涯忘れないだろう。

 エクスに保護された二人は街であった時のことをエクスに話した。エクスは二人の言葉を信じて街に兵を送ってくれた。

 送られた兵たちが見たのは外壁と共に破壊され尽くした街であった。住人らは全滅。だが、その惨劇を行った二匹の悪魔の死体は見つかることはなかった。

 報せを聞き、兄弟は父が生存しているかもしれないという淡い希望を諦めた。

 その後、あの悪魔たちがどうなったのか詳細は二人ですら知らない。

 噂程度だが、海を渡る棘の悪魔を見たとか、とある大きな孤島に顎の悪魔が主として君臨している、という話は聞いたが真偽は今も不明である。

 エヌの机の上に出来上がったばかりの料理が置かれていく。湯気を出す料理を見て、エヌはポツリと零す。

 

「──(いのち)ある限り食べ続けなければならない、か」

 

 その言葉を胸に、エヌはフォークとナイフを手に取った。

 




という訳でイビルジョーとネルギガンテの勝敗は不明な感じで。
またいずれ余裕があったら別のモンスターの話でも書きます。
書くとしたらラージャンかテオ、ナナ辺りでも。


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始まりは炎から

一年ぶりの投稿となります。


 漂うのは血と脂と汗を混ぜたニオイ。それに加えて風によって時折混ざる腐った肉や臓物のニオイ。

 これらを全部混ぜ合わせたら何のニオイになるのか? と聞かれたら俺は死のニオイと答えるだろう、と仲間か敵か分からないぐらいにぐちゃぐちゃになった死体を横に飯を喰らう俺は頭の片隅でそう思っていた。

 正直、そんなことを漠然と考えていないと悪臭で飯も喉を通らない。下らないことを考えている時は五感が鈍ることをここ最近知った。

 

「う、うぉえ!」

 

 誰かが吐く声が聞こえて来る。ただでさえ少ない食欲がより失せた。仕方がないので残りを口に押し込み、あとは水で無理矢理流し込む。どんなに食欲が無くとも食べなければ体力を維持出来ない。

 心がすり減っても体力さえ尽きていなければそこそこ生きられるのだ。

 この戦場では。

 

「はぁーあ」

 

 俺は戦場で何百、何千回目の溜息を吐く。戦場での数少ない楽しみとも言える食事を最悪の気分で終わらせた後、ゆっくりと立ち上がった。

 ガシャガシャと安い金属で作られた鎧が鳴る。喉と心臓と最低限の身を守るだけの粗悪品だ。返り血で錆びて見た目も最低になっており、その癖通気性も最低で汗で蒸れる。最初の頃はそのせいで体のあちこちが痒くなったが今はもう慣れた。

 思い返せばかなりの月日水浴びすらしていない。今、水に入れば確実に水の色は真っ黒になるだろう。垢と汗と血で悍ましいニオイも放っている筈だが、そんなものはとっくに麻痺してしまった。

 座りっぱなしで硬直した足の筋肉をほぐす為に俺は目的も無く歩く。

 数歩歩くと何か柔らかいものを踏んだ。味方の死体であった。特に気にすることなく踏み付けて先へ進む。少し前なら怖気が走っていただろうが、今では些末なこと。多くの死体を見ればそんな感覚になる。

 歩きながら他の兵士の顔を見る。どいつもこいつも目が濁っており、光の無い死んだ目をしている。

 数か月前までは『俺たちが祖国を救うぞ!』と息巻いていたが、そんな面影は最早無い。戦争の現実に圧し潰され、誰もが恐怖で目は死に重圧で実年齢以上に老け込んでいる。

 かく言う俺もまたきっと戦争へ行く前よりも老け込んでいるだろう。

 そもそもの話、何で俺たちの国と敵の国が戦争しているのかすら良く知らない。

 土地を巡ってだの、金の貸し借りなど、恥や誇りがどうこうと出発前に王が演説で語っていたが、長ったらしい上にやたら難しい言葉を並べているせいで内容まで理解出来なかった。

 こっちは一市民の出である。貴族様やお偉い人にしか通じないような話は止めて欲しい。

 戦場に行かされると聞いた時は初めは冗談かと思ったが、特訓や武器を与えられたことで日々現実味を帯びていき、やがて戦地に送られる順番が巡って来た。

 逃げようとはしなかった。所詮は国という囲いの中で育った身。国に対して恩や愛国心を抱く程満たされた生活はさせて貰えなかったが、今まで生きて来た世界の外に逃げ出す勇気も持つことは出来なかった。

 俺が戦争に行く理由を一言で言えば『諦め』だろう。たった独りじゃどうにもならない。

 俺は歩く。理由も無く歩く。体力の無駄遣いだと分かっているが、そうしないと落ち着かない。ジッとしていると暗い雰囲気のせいで頭がおかしくなる。或いはこんな事をしている時点でおかしくなっているのかもしれない。

 さっき潤したばかりの喉がもう渇いてきた。この辺りには火の山があるらしい。

 見た事が無いが、何でも溶岩という野菜の煮物のようにドロドロになった岩が流れているらしい。それが本当だとしたらすぐに喉が渇くし、蒸し暑さも覚える筈である。

 歩いているとふと顔見知りが座り込んでいるのが見えた。戦場に出て知り合った相手であり、つい昨日の夜も話をしていた相手である。

 

「おい」

 

 声を掛けるが返事は無い。

 

「おーい?」

 

 もう一度声を掛ける。やはり返事は無い。

 俯いているので顔を覗き込んでみる。半眼となった眼に羽虫が這っていた。

 そいつの体を軽く押してみる。そいつはゆっくりと横倒しになった。

 

「死んでんのかよ……」

 

 よく見ると腹に刺された傷がある。これが致命傷となり飯の時間の間に力尽きだのだろう。そいつの手元には手が付けられてない食料と水があった。

 

「要らないならもらうぞ」

 

 一言断って食料と水を頂く。誰も食べなければ腐るのみ。だったら誰かが食べるべきだ、と自分の中で言い訳をしておく。

 最近、こういう言い訳が多くなった気がする。以前の俺なら死人の食べ物に手を伸ばすようなことはしなかったが、今では普通に出来る。

 腐り難くした乾いたパンと干し肉を咀嚼。それを皮袋に入った水で喉の奥へ一気に押し流す。

 ふと、倒れている知人の濁り始めた瞳と目が合う。

 

「そんな目で見んなよ」

 

 苦笑し、ほんの少し残った水をせめてもの手向けでそいつの顔に掛けてやった。意味がある訳では無いが、これも言い訳の一つだろう。

 死んだこいつは丁寧に埋葬される筈も無くここで朽ち果てるが、せめて俺だけは見送ろうと思った時、重大な事に気付いた。

 俺はこいつの名前を知らない。知る機会は幾らでもあった筈だが、何故か聞きそびれてしまった。

 

「ああ……うん……まあ、迷わずあの世へ行けよ」

 

 一応の声を掛けて死体から離れようとした時、陰鬱とした場に似合わないよく通る声が響き渡る。

 

「休憩は終わりだ! この場を移動するぞ!」

 

 一人だけ妙に凝った鎧を纏い、馬に跨る二十代の男。この男こそが俺たちを率いている男である。

 とある貴族の次男坊か三男坊かだったか。威勢だけは一人前だが如何にも戦争どころか喧嘩すらしたことの無い色白でやや太り気味の風体の男。今着ている鎧も似合っておらず、鎧に着られている様にしか見えない。

 

「敵国の兵は今も何処かに潜んでいる! 仕掛けられる前に見つけ、こちらから攻めるのだ! 流れは我々に来ている!」

 

 何をどう見たらそんな台詞が吐けるのか心底不思議に思ってしまう。

 つい数時間前の戦いに勝ったことで勢い付いているのかもしれないが、こちら側が数百に対してあちら側は数十名の兵しか居なかった。勝って当たり前の戦いである。

 どうも最初の戦いから連敗続きだったせいで初めての勝利に興奮している様子。あまり嬉しくない状態である。

 この男、戦い方というものがまるで分かっておらず馬鹿の一つ覚えで無謀な突撃ばかりさせており、そのせいで兵の数も最初の時と比べて三分の一にまで減ってしまった。

 まあ、この男の立場を考えると焦っているのは丸わかりである。

 戦争に駆り出される貴族というのは、要は仮に死んだとしても問題の無い奴が出されるのだ、周りへの面子の為に。長男が生きていればそれでいい。

 この男もそれを自覚しているのだろうが、だからこそ何が何でも手柄が欲しいのだろう。

 戦争時に於いて貴族がする選択は二つ。金を出すか、人を出すかである。

 戦争の為の資金を国へ出すことで身内の徴兵を見逃してもらうのだろうが、この貴族の場合はきっと金が足りずに人を出したのだろう。──出さない方が良かったのに。

 意気込みだけなら認めるが、やる事が兵士に命令して、無駄死にさせて自分は血を流さないだけなのが頂けない。

 何回心の中で『死んでくれ』と祈ったか分からない。まあ、仮に指揮官であるこいつが死んだら俺たちも同じような命運を辿るのだろうが。

 言っておくが俺は決して貴族を嫌っている訳では無い。国にいる時は世話になったことだってあるし、その貴族には素直に感謝しているし尊敬もしている。

 ただ純粋にこいつが嫌いなだけだ。嫌いな奴が偶々貴族だっただけだ。

 

「いいか、良く聞け! 我々は──」

 

 貴族様のありがたーい演説が始まったのですぐに耳通りを良くして聞いたふりをする。体力を消耗している時に精神まで消耗するのは馬鹿らしい。

 というか誰も彼もが生きた屍のような状態で、よくもまあ周りの目も気にせずにペラペラと喋られるものだと思う。そして、元気も無駄に有り余っている。

 捨て駒同然に駆り出されてもそこは貴族の子。ご丁寧に専用のテントと簡易だが就寝用のベッドまで用意されており、そこらの兵士が食べる物よりも数倍豪華で栄養が豊富な物を食べている。

 戦争出発の初日に貴族のベッドやテントを運ぶ係を任命している光景を見て、驚愕したと同時に戦いへの強い不安を覚えたのが懐かしい。今になって思えばその感想は正解であり、今も正解し続けている。

 いい加減間違っていたと思わせてくれ。

 貴族様本人は意気揚々と喋り続けている。心なしか顔が紅潮しているように見えた。まさかと思うが、自分の演説に感動しているのだろうか? 

 だとしたら勘弁してくれと心底思う。お前が感動しているのとは反対に他の兵士たちの目がどんどん死んでいく。低過ぎて底にあった戦意が底を突き抜けてしまっていた。

 だが当人は気付いていない。その空気の読めなさはある意味では才能である。

 演説を聞き流している最中、頭の中で脱走、投降、捕虜という言葉が頭を過る。いっその事そうすれば楽になるかもしれないと思ったが、すぐに思い直した。

 そこら辺に居る様な一兵士を捕虜にしても何の価値も無い。捕虜にして価値があるとすれば、得意げに喋っているあの貴族様ぐらいだろう。人質にして色々と交渉の材料となる。

 俺たちはせいぜい捕まった後に殺されてそこら辺に捨てられるか、運が良ければ土に埋められるかのどちらかだ。

 一応、戦争の決まり事として投降した相手は丁寧に扱い、捕虜には危害を与えないというものがあるが、そんなものだーれも守っちゃいない。

 考えて欲しい。こんな戦いの最中に捕虜なんていう足手纏い且つ無駄飯喰らいに、居場所なんてあると本当に思っているのか? 

 さっさと殺してバレないように処分した方が手っ取り早い。俺ならそうする。というか実際にやった。

 投降してきた敵兵士を皆で刺して、近くの川に流した。

 敵兵士を初めて殺ったときから碌な死に方はしないだろうと思っていたが、それをやった時点でまともな死に方はしないと確信した。

 別に殺したくて殺した訳じゃない。上から命令されて仕方なく、というやつである。従わなければ自分が殺される羽目になっていた。流石にそこで命を懸けられるほど俺は聖人ではない。

 嫌らしいことに命令した貴族様は、直接的な命令ではなく遠回しで殺すように命じて来た。いざ、ばれた時はこっちに責任を擦り付ける気なのだろう。

 その時はこいつを殺してやろうかと殺意が芽生えたが、すぐに消沈した。貴族の部下には高い金で雇われた腕利きの兵士が部下兼護衛として付いている。

 実戦重視の質の良い鎧や武器の前では、俺が着ている鎧など紙のように貫かれ、粗末な剣と槍は鎧を突いた瞬間に折れてしまうだろう。

 嫌だ嫌だと思いながらも感情を押し殺して従うしかない。どんなに理不尽でふざけんなと叫びたくなる命令でも。

 

「──さあ! 奮い立て! 我らの勝利は我が国への勝利と繋がる!」

 

 考え事をしていたらいつの間にか演説が終わっていた。

 さぞかし感動する内容であったのだろう。周りの連中が剣を掲げて獣のような雄叫びを上げている──空元気で。

 俺もまた周りに倣って剣を掲げて叫ぶ。心底馬鹿らしいと思うが、やらないと浮いてしまい目を付けられる可能性があった。

 目を付けられたら何をされるか分かったものではない。良くて一思いに殺されるか、悪くて嬲り殺しにされるか。

 因みにこれは冗談ではない。戦争に出て良く分かったことがある。

 死が溢れかえった場所では自分以外の命など微塵も気に掛けなくなるということだ。敵だろうが味方だろうが。

 こういう例がある。戦争に出て数日経過した後、とある一兵士は勇気を振り絞って貴族らに進軍についての意見を述べた。

 貴族らはその兵士を笑顔で招き寄せ、親し気に肩に手を置き、自分たちのテントへ連れていった。

 翌日、その兵士は見るも無残な姿で発見された。

 敵兵に見つかってこうなってしまったと貴族が言っていたが、誰がどう見てもお前らの仕業である。

 でも、誰もそのことは言わなかった。言ったらズタボロで死んだ兵士と同じ運命を辿ることになる。

 その兵士の死は警告であった。逆らうな、という強烈な意味を込めた。

 おかげさまで誰も文句を言う事は無くなった。その代償として士気は駄々下がりで不信感がこれでもかと高まったが。

 

「さあ、奴らを根絶やしにするのだ!」

 

 休憩は終わり、進軍が始める。何処へ行くのか、何をするのか、誰を倒すのかすら分からない。暗闇の中に突っ込んで行くような進軍が。

 

 

 ◇

 

 

 俺は何をしているのだろうか。そんな疑問が頭の中で何度も反響する。

 黙々と歩いているとそんな事ばかり考えてしまう。

 密度の高い行進。蒸し暑さ。疲労。酷使されている肉体から精神が切り離され、現実逃避をしている。

 馬に乗った貴族やその取り巻きが何か言っているが、言葉として認識出来ない。

 先の分からない行進は俺から正常な状態を奪ってしまう。……この戦争に来てからとっくにおかしくなっていると言われたら否定出来ない。

 いつになったら戦争が終わるのだろうか、とぼんやり考えていた時、隣を歩いていた兵士が前のめりに倒れる。

 ぼんやりしていた意識が現実に返って来た。

 このまま倒れていたら何をされるか分からないので、倒れた兵士を起こそうとする。

 

「──あ?」

 

 そこで気付いた。兵士の後頭部から何かが伸びている。

 それが矢羽だと気付いた時、風切り音と共に別の兵士が倒れる。

 

「敵襲ぅぅぅぅ!」

 

 誰かが叫び、兵士らの悲鳴が上がるがすぐに途絶えていく。

 何故なら直後に矢が雨のように降り注いで来たからだ。

 弧を描きながら山なりになって襲い掛かる大量の矢。

 俺はそれに気付いた時、なりふり構わず起こそうとしていた兵士の死体の下に潜り込んだ。

 

「がっ!」

「いてぇ!」

「がはっ!」

 

 兵士たちの苦しむ叫びや断末魔が聞こえて来る。しかし、俺は死体の下でじっとしていた。悪いが他人をどうこう出来る余裕なんて無い。

 時折被せている死体に矢が刺さって軽い衝撃が背中に伝わって来る。

 暫くして矢の雨が止む。だが、俺はそれを助かったとは思わない。

 急いで死体の下から這い出る。盾にしていた死体は親が見ても判別出来ないぐらいに矢が刺さっていた。

 

「うう……」

「いてぇ……いてぇよ……」

「助けてくれ! 誰か、誰かぁ!」

 

 矢の雨が止んだ後は惨状であった。急所に矢が命中して絶命する者が居れば、手足や胴体などすぐには死なない箇所に命中し、激痛で動けない者たちも居る。

 

「動け! 次が来るぞ!」

 

 声を掛けたのはせめてもの情けであった。

 何度も戦いを経験していれば、この後に何が来るのか予想が付く。

 先程の矢は牽制である。こちらの動きを止める為の。本命はこの後なのだ。

 

「走れ! 逃げろ!」

 

 俺は声を上げながらその場から駆け出した。それに釣られて走り出す兵士もいたが、仲間を見捨てられずにその場に留まっている兵士も居た。

 そんな彼らの慈悲を踏み躙るかのように空が赤く光る。

 

「魔法が来たぞぉぉぉぉ!」

 

 誰かが叫ぶ。次の瞬間、空から落ちて来た火球が爆発を起こす。

 

「うおっ!?」

 

 爆風を背に受け前のめりになる。転倒しそうになるが手を地面に着けて態勢を直して走り続ける。

 矢と比べて魔法の速度は遅い。だから矢で牽制して相手を動けなくしたところで魔法による止めを刺すというのが一般的な戦い方である。また、魔法を扱える者は貴重な人材なので後方で控えさす必要もあるからだ。

 実に有効的な戦い方である。身を以ってそう思う。うちにも魔法を使える兵が居れば色々と便利だっただろうが、生憎そこまで期待されている部隊ではないので貴重な魔法使いは回されなかった。

 また爆発音が聞こえた。数メートル先に何かが落ちて来る。爆発に巻き込まれて吹っ飛んだ味方兵の上半身だった。

 落ちる途中のそいつと目が合う。ポカンとした表情であり、自分の身に何が起こったのかも分からないといった表情である。

 だが、突如目の焦点がおかしくなる。そいつが頭から地面に落ちる少し前であった。

 ようやく死が追い付いたのだろう。死ぬと認識する前に逝けたのは最後の幸運であったのかもしれない……いや、死ぬ時点で等しく不運だ。こんな場所に居る時点で運が悪い奴ともっと運が悪い奴しか居ない。

 俺はどっちだろう? 

 癖になっている現実逃避をしながらも足は常に動き続け、全力疾走。

 とにかく走って魔法の射程外まで移動する。

 目の前に林が見えた。あそこまで行けば少なくとも魔法の直撃は避けられる。

 俺は飛び込むように生い茂った緑の中へ入り込み、ようやく背後を確認する。

 魔法の火が降り、人間が面白いぐらいに吹っ飛ばされていく。実に愉快で悪夢染みた光景であった。

 幸いにも魔法の射程外まで逃げ延びたらしく魔法はここまでは飛んで来ない。

 そう思うとどっと汗が噴き出す。疲労がやっと感覚に追い付いてきた。

 

「どうやらお前も生き延びたようだな」

 

 声を掛けられたのでびくりとしながら振り返ると、そこには同じ鎧を着た兵士が居る。よく見ると何人も林に身を隠していた。あの貴族たちも居る。

 俺は隊列の後ろ辺りに居たので、それより前は矢や魔法から真っ先に逃げられたみたいであった。

 先に死んだ奴を盾にしたおかげである。心の中で名も知らぬ兵に感謝する。おかげで生き延びられた。

 と言ってもほんの少しだけ命を繋いだに過ぎない。

 矢による牽制。魔法による爆撃。その後に待っているのは──

 

「ああ……やっぱ来たか……」

 

 進軍の足音が聞こえて来る。頭から足元まで完全武装した兵たちによる完全制圧を告げる合図でもあった。

 兵士らが雄々しい声──最早獣に等しい──を上げ、偶然の上に偶然を重ねて生き延びることが出来たこちらの兵士を蹂躙していく。

 命乞いをしようが、瀕死だろうが関係無い。剣や槍を多方から突き入れ確実に止めを刺していく。清々しいまでに容赦が無く徹底している。数合わせではなく長期的な訓練を熟した本物の兵士であった。

 兵の熟練度に加えて、どれだけ来ているのか数える必要も無いぐらい数の差。おまけに武器も鎧も充実している。ついさっき倒した奴らとは装備の格が違った。

 かなり名のある将が率いている軍なのだろう。もう終わった、というのが俺の感想だった。

 

「覚悟を決める時が来たか……!」

 

 貴族様が何やら腹を括っているが、その覚悟に水を差すようだが、あんたはかなりの確率で捕虜になると思うよ? 見た目が如何にも『そこそこ名のある貴族の出です』という恰好だもの。

 まあ、決死の覚悟で挑む辺りは少し見直した。今までの無茶苦茶な指揮を考慮して帳消しにはならないが、マイナスからゼロには近付いた。

 

「皆の者! 今こそ国にその命を捧げる時だ!」

 

 人の血も脂も吸っていない高価な剣を掲げて叫ぶ。

 本音を言えば今すぐにでも逃げ出したいが、逃げた瞬間には後ろから仲間に刺されるだろう。大軍に磨り潰されるか、仲間に殺されるか、どちらが惨めかは選ぶまでもない。

 ああ、出来ることならもっと長生きしたかった、と心の中で泣く。

 短い人生だった。心の何処かで自分が死ぬということを、いつかの遠い日のことだと思っていたが、どうやら勘違いだった。

 今日、俺は死ぬ。いつかは今日だった。

 貴族の号令を待ち、俺は貧相な槍を握り締める。

 

「行──」

 ゴアアアアアアッ! 

 

 貴族のなけなしの勇気を振り絞った号令をあっさりと打ち消す程の大声量。全身が竦み上がり、身動きが取れなくなる。

 それは敵兵も同じであった。あれだけ雄々しい敵兵たちが声一つで足を止めているのだ。

 バサバサと羽ばたく音と共に空から声の主が現れる。その姿に誰もが言葉を失った。

 赤紫色の鱗を全身に付け、全長二十メートル近い巨体が一対の立派な両翼によって浮いている。

 その容姿は昔見た絵本に描いてあった獅子という生物に似ていた。だが、絵本に描かれていたよりも威風堂々とした立派な赤毛の鬣があり、額の二又に分かれて後方へ伸びる角はさながら王冠であった。

 それは四足を地面に着き、敵兵の前に立ち塞がる。そして、後ろ足二本で体を起こして再び咆哮。

 二度目の咆哮にも慣れることが出来ず、敵兵は魂が抜けたように動けないままであった。

 吼えたそれの体が炎に包まれる。周囲の温度が上がるのが分かる程の熱を持った炎だが、それ自身は焼かれることは無く寧ろ自在に操っている。

 炎の王。そう形容するしかない存在。

 この場に居る全員が炎の王の登場に混乱している。何、何故、何者という言葉が頭の中で巡っているのが遠目でも分かる。俺も似たような心境だ。

 だが、炎の王にとってはそんな混乱など関係無い。四足で地面を蹴ったかと思えば真っ直ぐと突き進む。

 一人では止めらない。二人でも無理。五人でも速度は緩まず、十人以上が立ち塞がっても炎の王は構わず突進していく。

 道があろうが無かろうが関係ない。自分が進む方向が道だと言わんばかりの直進は、重装備の兵士たちを纏めて吹っ飛ばす。

 体当たりを受けた者の末路は二つ。骨が砕けて動けなくなる者。吹き飛ばされなかったが炎の王が纏っている炎の衣のせいで全身を焼かれる者。一目で多くの兵士たちが戦闘不能状態になる。

 撥ね飛ばされ、踏まれ、焼かれ、炎の王が進んだ後の轍は絶命した者たちによって作られる。

 挨拶代わりの蹂躙により敵兵たちは恐怖と仲間を殺された怒りで体の硬直が解け、得物を構えて怒号と共に炎の王に挑もうとするが、ある程度接近すると足を止めてしまう。

 理由は炎の王が纏う炎の衣である。当たり前と言えば当たり前の反応であった。自分から炎へ突っ込む人間はまず居ない。

 

「う、うわああああああっ!」

 

 誰もが臆した中で一人の兵士が勇敢にも炎の王目掛けて剣を振り下ろす。恐怖の殻を突き破る為の勇敢なる行動。

 しかし──

 

「ぎゃあああああっ!」

 

 ──結果の伴い勇敢なる行動は蛮行、愚行へと転じる。

 振り下ろされた剣は炎の王の鱗によって弾かれ、傷すら付けることも叶わなかった。逆に兵士は炎の衣によって絶叫を上げる。

 金属で出来た腕の防具が炎の衣の熱によって炙られたことで腕の皮膚が防具に張り付き、皮ごと剥がれたのだろう。そんな事が想像出来る悲鳴であった。

 兵士の悲鳴は長くは続かなかった。炎の王が喧しいと言わんばかりに前足で兵士を払うことで強制的に黙らせてしまった。

 表現出来ない程にひしゃげた兵士の体を見て、他の兵士たちはより一層恐怖に包まれている。困難の前に徹底的に潰された勇気は、他の者たちからも勇気を奪ってしまうのが良く分かる。

 屈強な兵士たちが動くことも出来ない案山子と成り果てると、炎の王は徐に口を開き、直線状に炎を吐き出す。

 悲鳴を上げる兵士たちもいたが、炎に呑まれると一瞬にして聞こえなくなる。

 空気が焼けるニオイがした。その後に人の焼けたニオイがする。

 炎の王の吐き出した炎の後には焼かれた兵士らの焼死体が転がる。数秒焼かれただけなので焦げる程ではなかったので全員が生焼けで気分が悪くなる。だが、ちゃんと中まで火が通っているので無駄に苦しむことなくきっちりと絶命していた。

 炎の王が炎で薙いでいく度にそれが出来上がっていく。

 

「何と凄まじい……」

 

 全員の気持ちを代弁するように貴族が呟く。全く以って同意見であるが、そろそろ見学を止めてここから退却するべきだと俺は思う。

 あの炎の王が敵を惹きつけるどころか圧倒している今こそ最大の好機である。

 そんな俺の気持ちとは裏腹に貴族が退却を指示する素振りを見せない。

 目を輝かせて炎の王を見詰めている貴族に俺は嫌なものを感じ取った。

 俺がそんな事を考えている間にも炎の王は兵士らの命を次々と奪って行く。一体彼らの何が炎の王の癪に障ったというのか。大勢で群れているせいか? 大声を出していたせいか? 魔法で何度も爆発音を出していたせいか? 

 いつ矛先がこちらに向かうかも分からない位置で俺がそんな下らない事を考えていると、炎の王が体を激しく震わせる。

 何処に溜め込んでいたのか分からないが、体を振るった瞬間に炎の王から橙色に光る鱗粉のようなものが放出され、辺りに散っていく。

 敵兵たちも辺りに漂う鱗粉に戸惑っている。

 炎の王が口を開く。上向きに伸びる長い牙が良く見える。

 開いていた口を閉じガキン、と牙と牙を打ち鳴らす。一瞬火花が散ったのは錯覚では無い。

 打ち鳴らした音に詰めるように閃光、爆発が生じた。

 

「っ!」

 

 耳の奥が痛くなる程の爆音。その後に耳鳴りがして暫くの間、周りの音が聞き取り難くなる。

 恐ろしいことに炎の王がばら撒いていた鱗粉は、火薬のような特性を持っていたのだろう。それに自前の牙で着火し、爆発を引き起こしたのだ。

 鱗粉が届く範囲に居る敵兵はほぼ全滅。爆発によって体が吹き飛んでおり、中には生きている者も居たが、手足などが欠損した状態になっており辛うじて生きている状態である。

 範囲外に居た者も爆発の影響によって立てなくなっていた。爆発を恐れて腰を抜かしている者や爆音の近距離で浴びせられたせいで耳がおかしくなっている者。

 一番不運なのは誤って鱗粉を吸い込んでしまったのか、口から煙を出して悶え苦しんでいる者が居た。いずれ死ぬのだろうがかなり時間が掛かりそうである。

 炎の王の爆発により残りの兵士たちが逃げ腰になる。無理も無い。

 段々と耳鳴りも回復していき、敵兵らの必死の声が聞こえて来る。

 

「隊長はどうした!? 早く残りの兵を!」

「弓兵は!? 魔法兵は!? 接近戦は無理だ!」

「それよりも撤退を!」

 

 敵兵の足並みはバラバラになっている。援軍を待つ兵も居れば、心が折れて一刻も早い撤退を望んでいる兵も居る。意志が統一されていない。

 悲劇なのは、指示が定まらずに混乱している敵兵の事情など知ったことではないといった様子で、炎の王は敵兵を当然のように殺めていることだ。

 立ち止まっているだけで命が散っていく。

 

 ゴアアアアアアッ! 

 

 そんな状況でも転機が訪れる。敵兵にとっては最悪の転機だが。

 響き渡る咆哮は炎の王が発したものではない。しかも、それは敵兵らが来た方角から聞こえて来た。

 翼が空気を裂く音と共にソレは現れた。

 

「嘘だ……噓だ噓だ嘘だ」

 

 目の前の現実が夢や嘘であって欲しいと強く願う敵兵。気持ちは良く分かる。こんな史上最低についていないことが重なるなんて誰が予想出来るだろうか。

 現れた二頭目は炎の王と対になるような存在であった。

 姿は酷似しているが所々違う箇所もある。炎の王が赤色に対し、二頭目は青い鱗を持っており、炎の王は赤い鬣を顎下まで生やしているが、二頭目は青い鬣の毛量が少なく首から左右に垂らしている。

 炎の王は一対の角を生やしているが、二頭目の額の角は鱗から発達したように境界がなく、翼のように左右に広がった形状をしていた。

 

 ゴアアアアアアッ! 

 

 もう一頭の登場に炎の王は待ちかねたと言わんばかりに咆哮すると、もう一頭の方もそれに応えて咆哮を上げた。

 炎の王と比べての俺の個人的な印象だが、もう一頭の方は女性的な印象を受ける。炎の王の反応からしてもしかしたら、つがいなのかもしれない。ならば、もう一頭は炎の女王ということになる。

 炎の女王が現れたことで敵兵らの表情は絶望に満ち、死人と変わらないような顔色となっている。

 気付いてしまったのだろう。炎の女王は敵兵が来た方角から飛翔してきた。そこには恐らく待機させていた残りの兵──指揮官、弓兵、魔法兵が居た筈。もし、それらを全滅させてここに来たとしたら? 

 炎の王の強さを知っているのなら炎の女王も変わらない強さを持っている可能性が高く、あながち間違った推測とは思えない。

 そうなると、王と女王に挟まれた敵兵たちは孤立無援となったことを意味する。俺たちと同じだ。

 炎の女王が炎を纏う。炎の色は蒼。まず自然では見ない色の炎であった。珍しく感じると同時に高貴な印象を受ける。

 続いて周囲に鱗粉を散らす。鱗粉の色も蒼であったが、空中で時折橙色へと変化するのが見えた。

 炎の女王は口から一瞬だけ炎を吐く。吐いた炎の色は普通の炎の色と変わらない。

 敵兵にも届かない極めて短い炎。威嚇の類かと思われた時、炎の女王は両翼を羽ばたかせ強風を生み出す。そして同時に地獄のような光景も生み出した。

 

「ぎゃああああああっ!」

「熱い! あづぃぃぃぃぃ!」

「消してくれ! 誰かぁぁぁぁぁ!」

 

 風が通った後に起こる蒼炎。燃えるものなど無いにも関わらず油でも撒いていたかのように燃焼する。

 地面が燃えるだけでは済まず、敵兵の体にも引火しており、纏わりつく蒼炎の中で敵兵は生きたまま焼かれる苦しみを死ぬまで味わっている。

 恐らくは炎の王が起こした爆発と似たようなものだろう。炎の女王の鱗粉は燃え易く、それでいて暫くの間燃え続ける性質を持っており、そこに小さな炎と強風を合わせることで燃料要らずの上消えない蒼炎を生み出していると思われた。

 しかし、炎の王の爆発と炎の女王の延焼。どちらの死に方がましなのだろうか。そんな事を一瞬考えたが、すぐに止めた。結局どちらも碌でも無い死に方だ。

 王と女王により敵兵の数は凄まじい勢いで減って行く。今こそ逃げる時である。追手が来る心配も無い。

 

「今こそ好機!」

 

 貴族もそのことが分かっているのか指示を飛ばす。

 

「奴らを全滅させる時が来た!」

「──はあ?」

 

 思わず声に出してしまった。貴族が何を言っているのか本気で理解出来ない。

 全滅させる? 退く時ではないのか? 

 

「見よ! 我らの真摯なる願いが天へと届き、神から援軍を与えられた! あの雄々しき姿はまさに天の遣い! そして、我らを救う為に戦ってくれている! この機を逃すな! 神の意志と正義は我らにある!」

 

 何ともトチ狂った演説である。どうやら炎の王と女王の熱に中てられてとんでもない思い違いをしているようだ。

 確かに凄い力だが、どう見たってこちらの味方になんか思えない。

 どうしてそんな都合良く考えられるのか理解出来ない。

 

『オオオオオオオオオッ!』

 

 が、俺のそんな考えとは裏腹に殆どの兵士たちが貴族に賛同するように声を上げていた。

 どうしたんだお前らは? どう考えてもおかしいだろう? 疲れているのか? 

 他の兵士たちの顔を見ると、顔色は悪い癖に目だけはギラギラと危うい輝きを放っている。

 

「ああ……」

 

 唐突に理解してしまった。そうか。こいつらは疲れているんだ。心も体も。

 殺し殺される極限状態が続く日々。誰か終わらせてくれ、誰か救ってくれ、と心の中で何度も祈っていただろう。

 そんな中で起こってしまった目を疑うような光景。憎き敵兵が雑兵のように殺されていく。

 願いが通じた! と思ってしまったのかもしれない。

 それがどれだけ都合の良い考えであっても現実から目を逸らし、自分の目を通して歪められた奇跡に縋ったのだ。

 熱に中てられ、浮かされているのは貴族だけでは無い。あの光景を見た殆どの者がそうなってしまっていた。

 だからこそ、貴族の戯言にも心の底から賛同してしまうのである。

 俺は……俺はそこまで心酔出来ない。そうした方が楽なのだろう。でも、俺にはあれがそんな都合の良い存在にはどうしても思えなかった。

 

「行くぞ! 勝利は我らに有り!」

 

 熱に中てられた連中が、貴族の号令によって突撃して行く。

 殆どの者が突撃していく中で俺は立ち止まっていた。何となく理解する。ここから先が自分にとって命懸けの瞬間なのだろうと。

 最早人の声とも判別出来ないような狂った叫び声を上げながら、突撃して行く味方兵。

 炎の王もそれに気付いた時、宙へと飛び上がる。

 炎の王から放たれる鱗粉。その量は先程爆発を起こした時はと比較にならず、密度と量によって炎の王が覆い隠されていく。

 次の瞬間、炎の王を中心として大爆発が生じる。

 炎と音と光による過剰なまでの暴力。発生はほんの刹那であったが、その刹那で大勢の人間が命を永遠に奪われる。

 熱と衝撃によって近くにいた者たちはまず形も残らず、少し離れた場所に居ても原形を留めていない。

 この大爆発によって敵兵は全滅。そして、考えもなく突撃して行ったこちらの味方兵も爆発に呑まれて消え去った。

 分かりきっていた結果である。あの二頭はこちらにとって都合の良い味方なのではないと。

 そう思っていたのは俺だけではない。僅か数名だが俺と同じく足を止めていた者たちが居た。こいつらもまた都合の良い現実を見ていなかったのだろう。

 そして、もう一人。

 

「何故?」

 

 あの貴族も生きており呆然としていた。勝手に期待して勝手に裏切られたと思っている者の末路である。

 俺は腹を括った。

 

「なあ? 生きて故郷に帰りたいよな?」

 

 生き残った兵士たちに問う。誰もが一拍置いた後に頷いていた。

 

「なら、これからすることは墓場まで持って行け」

 

 そう言って俺は貴族へと近付く。今はこいつを守る連中も居ない。皆、口車に乗せられて跡形もなく消し飛んだ。

 俺は貴族の背後に移動すると一瞬の迷いも無く後頭部に槍を突き立てた。

 誰かが息を呑む音がしたが、俺は手首を捻りながら貴族の背を蹴飛ばして槍を抜く。

 貴族は声もなく倒れる。そんな彼を仰向けにし、帯剣していた高価そうな剣を取る。

 俺は死んだ貴族の顔を拝む。何が起こったのか分からない、という顔をしていた。

 

「生き残る為だ。悪いな」

 

 一応謝罪はしておく。そして、俺は兵士たちの方に顔を向けた。どいつもこいつも蒼褪めている。

 真っ直ぐ故郷に帰るにはこの貴族の存在がどうしても邪魔だ。ここは退いたとしても名誉や誇りを重視して戦場に留まる可能性が大いにあった。余計な問題も起こされたくないし、巻き込まれたくもない。

 だから死んでもらった。

 

「さあ、帰るか」

 

 返事はない。

 

「それとも戦うか?」

 

 まだそこに居る炎の王と炎の女王を指差すと、兵士たちは取れそうな勢いで首を左右に振る。

 その動きが滑稽で思わず笑ってしまう。

 戦場に来て久しぶりに笑った。

 

 

 ◇

 

 

 帰国までの間、俺たちは口裏合わせをしていた。どうやって生き延びたのかボロを出さないように。

 そして、国へ帰ると勝手に帰って来たことを問われた。

 俺は涙ながらに語った。勇敢なる貴族様が身を呈して俺たちを国へ帰してくれた、と。そして、故郷に居る両親にこれを渡してくれと頼まれた、と言ってあの剣を差し出した。

 根も葉もない美談、英雄譚を語る俺は、我ながら自画自賛してしまうぐらいの名演技であったと思う。だが、実際は心臓は止まりそうなぐらいに早く動き、冷や汗も背中ににじみ出ていた。

 一歩間違えれば首が飛ぶ。俺にとって一世一代の賭けであった……が、そんな気持ちとは裏腹にあっさりと受け入れられた。

 それどころかあの貴族の親に涙を流して感謝までされた。

 茶番だ、と心が冷えていくのか分かる。きっとこういった名誉の死になった方が国にとってもこの貴族の親にとっても有り難いのだ。中途半端な結果よりも面子が保てる。

 所詮は不要と思われて戦地に行かされた。死んで箔が付いたのだからマイナスではなく寧ろプラスなのだ。

 褒美として幾らか貨幣を受け取った。表面上は笑顔を浮かべながらも心の裡では無表情であった。手の中の貨幣に何の魅力も感じない。

 馬鹿馬鹿しい。どいつもこいつも、何もかもが馬鹿馬鹿しい。

 

 

 ◇

 

 

 あれから数年が経った。

 俺はあの後何度か戦場に出て、その度にそれなりの活躍をして報奨も貰った。

 それを元手に商売を始めたら、予想以上に儲け、平民だった時には想像も出来なかった程の金を手に入れた。

 俺は炎の王と炎の女王を見た時から恐れというものが麻痺してしまったらしい。そのおかげかは知らないが、戦場では恐れ知らずの動きができ、商売でも一歩間違えれば破滅するような危ういことも平然と出来た。

 それもこれも全ては炎の王らのおかげ──とは思わない。所詮は偶然。運が良かっただけだ。そもそも俺は運命など信じない……信じないが、最近は自分のこれからについて意味を持たせようと思い始めていた。

 後に調べたがあの炎の王と女王についての情報は一切なかった。全くの未知なる存在。俺はあれに対して危機感を覚えていた。

 いつかは人間に対して牙を剝き、蹂躙して来るだろう未来を予想している。根拠などない。あんだけ強ければ人間に遠慮することはしないだろう、という考えだ。

 それに対抗するには多くの優れた人間が必要となって来る。

 俺は将来的にそういった人間が集まり易い場所を作ろうと考えている。

 まあ、俺に出来るのはその基盤を作り上げることで、対抗する人材や技術が揃うのは俺の子孫の頃ぐらいだろうな、と長い目で考えていた。

 もしかしたら、その前に人は滅びるかもしれないが、その時はその時として諦めるとする。これぐらい割り切った方が賭け易い。

 そんな事を考えながら俺は今朝届いた指輪を指に填める。そこに刻まれている紋章は二頭の獅子。決して忘れないように、そして後の世代に伝えていく為の戒めだ。

 

「さてさて……」

 

 足音が聞こえて来る。俺の事を呼びに来たんだろう。これから俺の襲名式だ。あれだけ嫌っていた貴族の一員に成る為の。

 大量の金を積んで買った貴族の名だが、これから先きっと必要になって来る。王族とかのコネも作る必要があるからな。

 

()()()()()()様。御時間です」

 

 貴族としての新たな名を呼ばれると、俺は俺が思い描く『理想の貴族』の仮面を顔に張り付け、我ながら鳥肌が立ちそうなぐらい穏やかな声を出す。

 

「分かりました。行きましょう」

 

 先導されながらも俺はこの日に誓う。

 俺はきっと成し遂げてみせる、と。

 




今回も過去話となります。
モンハンの新作楽しみですね。


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誰も知らない

内容が内容だけに短い話です。


男は狩った獣の肉と皮を売って生計を立てる猟人であった。

 寡黙で表情は乏しく無愛想であり、そのせいで友人と呼べるような者は存在しなかった。

 だが、猟人としての腕は確かなものであり、人から狩猟を依頼されることもあった。そして、依頼された狩猟を失敗したことは無かった。

 最初は数か月に依頼が一件あればマシであった。しかし、数を熟していくうちに依頼の件数は増えていく。それは腕が評価され、信頼されていく証でもあった。

 やがて、男の腕前を聞きつけ弟子を志願する者が来た。初めは断っていたが、志願する者の熱意や依頼の件数が増えてきたこともあって弟子をとることとなった。

 独りでしていた狩猟が一人、二人と増えていく。

 ある日、男は女を紹介された。無骨な男とは対称的な育ちの良い女である。紹介したのは何度か依頼を受けた依頼人であり、その依頼人の娘である。

 依頼人曰く男に一目惚れしたと言う。

 何かの冗談かと思っていたが、女の方があまりに熱烈に迫って来るので冗談ではないことだけは伝わった。

 女性と縁の無い生活を送っていた男は、どう接すれば良いのか分からず素っ気無い態度を繰り返していた。しかし、女はそんな態度にもめげずに何度も男にアプローチをしてきた。

 男は言った。『この仕事はいつ命を落としてもおかしくはない。自分が死んだらどうするのか?』と。

 女は答えた。『貴方の居ない世界など耐えられないので、私も死にます』と。

 何とも世間知らずで直球な女の回答に呆れたが、そこまで言わせてしまったからには蔑ろにするのは男として恥ずべき行為だと思い、男は女の気持ちを受け入れることにした。

 初めて会ってから五年。男と女は夫婦となった。

 そして、翌年。男と女の間に子供が生まれた。女の子であった。

 男は我が子を抱いたとき戸惑った。早くに両親を亡くしている男にとっては自分の血を分けた子というものに現実感が無く、どうしていいのか全く分からなかったのだ。

 妻ができ、子が生まれても夫として父親としてどう生きるべきなのか答えが見つからない。

 見つからないので正直に女へ言った。

女は笑って答えた。『そのままの貴方でいて下さい』と。

それで良いのか男には分からなかったが、他に答えも無かったので男はただ真面目に猟人としての生き方を全うした。

獲物を狩り、金を作り、弟子を育て、また狩りをする。それを何年も繰り返した。

気付くと男は大所帯の狩猟集団の頭になっていた。娘も大きくなりいつの間にか歩き回って言葉も喋っている。

 娘が初めて喋ったとき、男は娘に父と呼ばれた。

 長い時間を掛けてようやく自分が父親であることを自覚出来た。これが家族だというのを再認識出来た。

 一度失ったものを取り戻した男の働きは目覚ましいものであり、今まで以上の成果を上げた。

 男にとってこの時が紛れもなく絶頂期であった。

 しかし、頂点に辿り着くということは、それからは下がって行くということ。

 下がり方は人それぞれであったが、男の下がり方、否、落ち方はは酷いものであった。

 初めに失ったのは数人の弟子であった。

 ある日、帰りが遅く探しに行ったところ、惨たらしい姿となって発見された。誰が誰なのか分からないぐらいに滅茶苦茶になっていた。

 その惨劇の場所には今まで見たことのないぐらいに大きな足跡が残されていた。

 次に失ったのは妻と子であった。

 惨劇を引き起こした犯人を見つける為に男が不在だったときに起こった。

 空振りで男が家に戻ると家は破壊され中には赤い大きな染みが広がっていた。

 それが嘗て妻と子だと理解してしまったとき、男は絶叫を上げて絶望した。

 亡骸を抱き締めることも掬い上げることも出来ず、赤い染みに縋りつくようにして泣いた。

 周辺には弟子を惨殺した犯人と同じ足跡が残されていた。

 男は仇を討つ為に全てを捨てることを決意した。平穏も地位も金も家も何もかも捨て、復讐のみに生きることを誓う。

 その日から男は姿を知らぬ仇を探す日々が始まった。

 手掛かりは足跡と残忍な手口。相手はただの獣ではない。必要以上に獲物を食い散らかしており、まるで弄んでいるかのようであった。

 探し始めてすぐに仇の正体を知った。

 仇は片目の無い獣だという。

 見たこともない程の巨体を持ち、獲物を喰らうこともあればただ殺すだけという野生ではあるまじき行為をする最早魔獣とも言うべき存在。

 話を聞けば、その魔獣は多くの被害を生んでいた。当然ながら討伐に動いた者たちもいたが、全て返り討ちにあったという。

 男も命が惜しければ関わらない方がいいと忠告された。

 男にとってそんな忠告は意味を為さない。何故なら命など惜しくはないからだ。

 男は歩き回り、話を聞き、魔獣を探す。

 そして、遂に見つけた。黒々とした鋼の体毛を持ち、見上げる程の巨体を持った魔獣を。

 男は魔獣に挑んだ。命など最初から捨てた戦い。

 結果として男は片足を失った。惨敗であった。

 武器は殆ど通じず、歯が立たなかった。

 だが、一矢報いて魔獣の片耳を切り飛ばしてやった。魔獣はそれに怯んで男にトドメを刺さずに何処かへ行ってしまった。

 瀕死の重傷を負った男は、それから一年近くを怪我を治す為に費やすこととなった。

 すぐにでも魔獣を追い掛けてたかったが、男の執念とは裏腹に体は言う事を利かない。四肢の一つを失うということはそれだけ重大な欠損であった。

 怪我が治った後の男に待っていたのは、無くした足を補う為の訓練であった。

 木製の義足を付け、歩くという訓練。全てがもどかしく感じられる訓練。

 だが、男は訓練に耐えた。耐えて、耐えて、耐え続けて僅か一年で片足を失う前の動きを取り戻した。

 二年間の療養の末に男は再び魔獣を追う。

 まだ魔獣が討伐されたという話は聞かない。二年間、いつかその話を聞いてしまうのでは、というのが男にとって最大の恐れであった。

 二年間、男は身体能力を取り戻す為に費やしたのではない。魔獣を倒す為の武器も作っていた。

 試行錯誤を重ねて作り上げた武器。これならば確実に仕留められるという確信と自信があった。

 そして、決着の時は訪れる。

 

 

 

 

 その獣はどこにでもいるような普通の獣であった。

 肉食ではあるが小さな小動物しか狩らず、性格も比較的に温厚であった。

 幼い子供であった獣は母に狩りの仕方を教わりながら毎日を過ごしていた。

 やがて、その日に終焉が訪れる。

 終焉を齎したのは猟人たちであった。

 肉や毛を求めていたのだろう。獣の母は猟人たちの武器によって呆気無く命を奪われた。

 残された獣は何が起こったのか分からず、猟人たちを恐れて逃げ出した。

 あまりに夢中で逃げたせいで獣は道が途中で切れ、崖になっていることも気付かなかった。

 一瞬の浮遊感の後に獣は崖から転がり落ちた。崖肌に何度も体を打ち付けたときに運悪く片目が潰れ、最後に脳天に強い衝撃を受けて意識を失った。

 獣が目覚めたとき、獣の世界は一変した。

 全てが曖昧に見えたのだ。何もかもドロドロに混ざったように境界が無くなり、分からなくなった。

 残された目を通して見える光景に獣は恐れることを知らず、寧ろ子供のようにはしゃいだ。獣の知性は赤子のように純真無垢とも言えるものへ変わってしまった。

 それから獣は独りで摩訶不思議となった世界を生き始める。

 獣がお腹が空いたと思えば、曖昧な世界に食べ物が現れる。獣が遊びたいと思えは玩具が現れる。

 獣はそうやって何でも与えてくれる世界を楽しんだ。

 実際のところ、世界は獣に何も与えてはいない。強く意識することで曖昧になってしまった世界で認識出来るようになったに過ぎない。

 食べ物も玩具も本当はどんな形や姿をしているのか知らずに。

 食べて遊び寝る生活を送り続ける獣。すると、獣の体に不思議なことが起こる。

 食べれば食べる分だけ獣は大きくなっていき、体は強く逞しくなっていくのだ。

 本来ならばとっくに成長が止まってもおかしくはない年齢に達しても獣は大きく成り続けいった。

 壊れて見えるものが見えなくなると同時に獣の中にある枷も壊れ、獣は際限無く成長し続ける。

 大きくなればお腹が空く。そうすれば一杯餌を食べる。

 お腹が一杯になれば眠る。

 退屈ならば玩具で遊ぶ。

 獣はそうやってずっと過ごしてきた。そして、いつの間にか魔獣と呼ばれるようになっていた。

 ある日、何かが魔獣にじゃれついて来た。

 遊び相手が来てくれた魔獣は喜んで一緒に遊んだ。何かが飛んでいったが気にしない。相手が遊び疲れるまで一緒に遊んだ。

 すると、急に耳が痛くなった。魔獣は痛みに驚いてその場から逃げ出してしまった。

 赤子よりも純真な魔獣にとって痛みはとても苦しいもの。悲しくなって、悲しみが薄れるまで走り続けた。

 悲しくなくなると魔獣は立ち止まって遊んでくれた相手を探す。でも、見つからない。

 魔獣はまた悲しくなって歩き続けた。

 そして、二年後。魔獣ははぐれてしまった遊び相手を見つけた。

 魔獣はとても嬉しかった。また遊んでくれる。

 

 

 

 

 自分を遥かに上回る魔獣が猟人の前に立っている。片方しかない目で猟人を睨んでいた。

 猟人は臆せず睨み返す。彼の腕には身の丈よりも長く、猟人の腕よりも太い槍が握られていた。

 猟人がこの日の為に作った特製の武器であり、これならば魔獣の頑丈な体を突き抜ける。

 息を荒げている魔獣。餌にありつけるので興奮している様子。

 そんなに喰らいたければ喰らわせてやる。ただし、代償として命を貰う。

 未来など見ていない捨て身の男に最早恐れるものなど何も無い。

 魔獣が走る。男は武器を構える。結ばれた因縁が一つに重なる。

 

──瞬間、空から降って来た赫い彗星が男と魔獣を纏めて吹き飛ばした。

 

 原形など残らず肉は礫となって辺りに散って行き、血煙は衝撃の余波によってニオイと共に彼方へ。

 出来上がった大きな穴。男と魔獣がいた名残は大地の染みとなり、その上で踏み躙るようにして立つのは銀色の龍。

 『裂く』という言葉を体現させたかのような全身の鋭さ。

羽ばたくことに全く適していない銛のような両翼。それでどうやって飛ぶのか想像も出来ない。

空のような水色の眼が自分の足元を一瞥。たったそれだけで興味を無くす。

 両者の因縁が銀色の龍の介入で呆気無く終わる。しかも、龍が現れたのは至って単純なもの。

 自分の縄張りに入って来たから。それだけである。

 あまりに無慈悲な結末。復讐も因縁も恩讐も関係無く消し飛ばされた。

 無粋の極みである龍の所業。だが、それを咎めるものなど存在しない。例え、真実を知る第三者が居たとしても咎めることは出来ないだろう。

 銀色の龍が圧倒的な強者故に。

 縄張りに入って来た邪魔者を消した龍は、胸を赫く輝かせながら空気を吸い込む。

 両翼の後方から赫い光が噴き出したかと思えば一瞬で空へ飛び上がり、音を置き去りにして彗星のような赫い尾を残して飛び去ってしまった。

 龍が飛び去った後、何も残らない。

 誰も知ることはないだろう。男の復讐の物語を。魔獣の無邪気な物語を。

 そして、銀色の龍のそれらを無に帰す強さを。

 誰も知ることは無い。知る由も無い。

 




長い前置きがありますが、バルファルクがヒュー、ドカーンと彗星を放つ話です。


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死を纏うモノ

久しぶりの投稿となります。
以前書いた話と似たような雰囲気になりました。


 この世には数多の職業が存在する。家を建てる大工に金属を鍛錬する鍛冶屋に畑を耕して農作物を育てる農家。そして、金を対価にして危険へ自ら踏み入れる冒険者。

 私はそんな数多の職業の一つである薬師であった。

主な仕事は薬草の知識を生かし、病や怪我に効く薬を作ることであるが、そんな私が今は冒険者のように装備を整え、多くの仲間と共にとある森へと向かっていた。

薬師としてのもう一つの仕事、珍しい、稀少な薬草が生えている場所へ足を運び、採取する。或いは未知なる薬草を見つけ出して新たなる薬を作り出すこと。それが薬師としての私も使命でもある。

 勿論、人があまり踏み入れない場所へ入るので危険も伴う。人を喰う怪物が潜んでいることも珍しいことではない。

そんなに危険ならば依頼を出して冒険者に頼むのが安全だと思われるが、実際そう上手くはいかないのだ。薬草についての知識が無い者たちに頼むとそこら辺に生えているような雑草を持ち帰って来たり、依頼していたものとは全く違う薬草を採ってきたりなど散々な内容。金の無駄遣いである。

 それ故に私は冒険者を信用していない。所詮は一握りの華々しい冒険譚に身の丈に合っていない夢を抱いているだけの現実を見ていない連中である。元から節穴な目に知識を必要とする薬草の採取は荷が重すぎる。

 だからこそ代わりに私が行く。実際に私はこれまで幾度となく遠征し、その度に新種の薬草や稀少な薬草を手に入れ、それから新たな薬を作り出していた。最近作った骨折の治りを早くする薬は自分でも傑作だと自負している。

 そして、今回もいつものメンバーで目的地を目指していた。

 いつものメンバー、一人目は私の助手でもあるナワン。私に次ぐ薬草の知識を持つ若い女性であり、公私共に私の支えになってくれている女性である。

 二人目はトゥワイス。筋骨隆々とした逞しい壮年の男性であり、元冒険者という肩書きも持っている。私は冒険者という人種はあまり好ましく思っていないが彼は例外である。彼は非常に勤勉であり、冒険者の頃から薬草についての知識を学んでいた。最初会ったときは軽んじていたが、そこらの薬師よりも豊富な知識を持っていたので仲間として勧誘した。彼の主な仕事は私たちの護衛と荷物運ぶである。

 三人目はスーリーという魔法使いの男性である。素性は不明であり、見た目は四十代ぐらいの男性というぐらいしか分からない。彼は私が良く雇うギルドに所属していないフリーの魔法使いであり、腕は確かなので重用している。口数が少なく滅多なことでは喋らない点も気に入っている。

 私を入れてこの四人が薬草探しのメンバーである。少ないと思われるかもしれないが、人数が多くなると余計なトラブルも増える。主に採集物の山分けだの取り分など金関連の問題だ。これには私もウンザリしている。だからこそ、今までの経験上これが一番の数だと思っている。この三人が最も信頼、信用が出来るからだ。

 私はこの三人を連れて数日掛けてある森を目指している。殆ど人の手が入っていない未開の地。こういった場所にこそ今まで発見されたことのない新しい薬草を見つけることが出来る。当然、未開の地だからこそ危険もある。だが、人伝で聞いた話によるとその森には原住民が住んでいるとのこと。

 未開の森を探索するにはこの原住民たちの協力が必要となる。交渉は難航するかもしれないが、そこは辛抱強く何度も繰り返すつもりである。最悪、今回の旅が顔合わせ程度で終わることも覚悟している。

 日も傾き始めた頃、私たちは村へ到着する。この村は目的の森に最も近い場所にあり、聞いた話によれば原住民との交流もあるとのこと。

 立ち寄ったのは休息もあるが、森の原住民の情報も集めるという理由もあった。

 私は村の宿に荷物を置き、一息入れた後早速村人たちに原住民のことを聞いて回る。

 しかし、返ってきた反応は私にとっては予想とは違うものであった。

 

「あの人たちか……最近見ないね……」

 

 よそよそしい態度。外から来た私たちを怪しんでいるから、という理由ではなく原住民たちのことをあまり触れたくないように感じられた。

 

「さあ? 俺は知らないね」

「他の人の方が詳しいんじゃないかしら?」

「知らんよ。俺は知らん」

 

 何人もの村人たちにも同様の質問をしたが、皆似たり寄ったりな答えが返ってくるだけ。森への第一歩どころかその手前で躓いてしまった。

 しかし、私たちはこの程度では諦めない。新たな薬草を見つける為に何日も地を這うように過ごしてきたことが何度もある。忍耐力と粘り強さには自信があった。

 冷たい態度の村人たちに臆することなく何度も何度も尋ねてみる。

 

「……ワシから聞いたと言わんでくれよ?」

 

 すると、ある老人から原住民についての情報を聞き出すことに成功した。

 

「以前はなぁ……動物の肉や珍しい植物などを分けてくれる気のいい連中だったんだがなぁ……」

 

 数年前までは村と原住民たちとの間では物々交換での交流があった。原住民は森の奥でしか獲れない珍しい動植物を、村は原住民たちの入手が難しい塩や酒などを交換し合っていた。

しかし、ある日を境に原住民たちは村に顔を出さなくなったという。

 

「本当に突然だったんだよ。一週間に一度は必ず顔を出していたのに二週間、三週間を過ぎても来る気配が無かったんだ」

 

 一月経っても現れなくなった時点で村人たちは心配になり、もしかしたら病か何かで原住民たちが全滅しているかもしれないと考え、村の中でも森に詳しい男に頼んで様子を確認させに行ったと話す。

 それでどうなったんですか、と私が聞くと老人は表情を暗くする。

 

「帰って来なかった……そいつは」

 

 老人が言うに様子を確認させに行ったっきり男は村へ戻って来なかった。

 

「その……村を捨てて原住民の村に移り住んだという可能性は……?」

 

 ナワンが失礼を承知でとある可能性を挙げてみた。

 

「そいつはもうじき子供が生まれると喜んでいた……妻と子を捨てていきなり他所の村に住むか?」

「まあ……考え難いですね……」

 

 よっぽど人格に問題が無い限りはまずしないだろう。

 

「そいつだけではない……確認しに行った村人は全員帰って来なかった……ワシの息子もそうだ」

 

 随分と深刻な状況になっている。

 

「原住民に襲われたという可能性は?」

 

 次なる可能性を挙げたのはトゥワイス。文化の違いで争うのは珍しいことではない。私もそれが理由で襲われたことがある。

 

「少なくともワシが生まれてから今までこんなことは起こらなかった」

 

 両者の関係は良好であったらしいが、本当に突然おかしなことになったらしい。

 

「……もし、森に行くのなら止めておけ。あんたらも同じ目に遭うかもしれん」

 

 老人がこちらへ忠告してくれるが、幾度の危険を掻い潜ってきた私たちにはその程度では止まらない。或いは未知なるものへの好奇心は自分の命よりも優先しているのかもしれない。

 

「そうか……」

 

 私たちの態度を見て忠告は無駄だと悟り、老人は溜息を吐くとこれ以上話すことはないと言わんばかりに離れて行く。だが、途中で足を止めた。

 

「……もし、息子を見つけたら村へ帰るよう言ってくれ」

 

老人は私たちに息子の特徴を言う。何でも腕に木の葉のような痣があるとのこと。諦めているようで諦め切れない。そんな思いが伝わって来る。

私はその背に向かって礼を言うが、老人は最後まで振り返ることはなかった。

 今から行く先に危険が待っているかもしれない。しかし、私たちは止まらない。止まることが出来ない。私の性なのか、それとも薬師としての性なのか。最早、分からなくなっていた。

 村で一晩を過ごし、翌日私たちは早朝から例の森へと向かう。

 村から二、三時間程歩いて目的の場所へと着く。

 視界一杯に映る青々とした木々。未開の地らしく人が出入りしている痕跡は少なくとも私の目に入る範囲には無かった。

 私たち適当な場所から侵入を試みる。草や低木の藪を踏み締めながらそれを掻き分けるようにして中へ中へと入り込む。

 腰まである草木が侵入を拒んでいたのは森の外の数十メートルだけ。それ以降はあまり草木が生えていなかった。

 理由は長く伸びた木々。これにより日の光が殆ど遮られており、十分な日光を得ることが出来ず成長が出来ないのだ。そのせいで森の中は薄暗く、空気が冷たい上に湿っぽい。草木が少なくなった代わりに日陰でも育つことが出来る苔やキノコなどが大量に生えている。ざっと見てみると毒キノコもあるが、中には食用のキノコもある。いざというときは食料に困らない。

 私たちは森の中を進みながら人が出歩いた痕跡を探す。それを見つけることが出来たら原住民たちの居場所も見つけられると思ったからだ。しかし、この広大な森でそれを見つけるのは至難の業。前情報によるとこの森の広さは世界で五指に入る程のものである。そこから人の痕跡を見つけることがどれほど難しいものなのかは容易に想像が付くだろう。

 とはいえ、そんなことは私たちも分かっている。入ったからには何も発見出来ないまま終わるつもりはない。何日、何週、何か月も掛かっても必ず成果を上げる。

 私たちは森の中をひたすら探索する。森の空気は冷たいが、それでも汗が出てくる程必死に探す。

 しかし、努力が必ずしも実るとは限らない。流した汗、歩いた距離の甲斐も無く痕跡らしい痕跡は見つからない。

 

「……見つからないな」

 

 今まで沈黙していたスーリーがぼそりと呟く。寡黙な男ですらも愚痴を零す程に成果が無い──と思っていたが、事情は少し違った。

 

「……生き物が見つからない」

 

 スーリーの言葉。それを聞いて私は思い返してみてハッとする。そして、改めて森に耳を澄ましてみた。

 スーリーの言った通りだった。この森には生き物の鳴き声が全くしない。それどころか虫の鳴き声すらも聞こえない。普通の森であったのなら鳥や動物、虫の声が聞こえてもおかしくないというのにそれらが一切聞こえないのだ。

 この森が少し不気味に思えてきた。ここまで生き物がいないとなると、もしかしたら何かしら有害なものが発生している可能性も考えられ、原住民や帰って来ない村人たちもそれにやられた可能性も出てくる。

 私はスーリーに頼み、周囲一帯に探知魔法を掛けるよう頼む。スーリーは頷くと目を閉じて意識と魔力を集中。そして、徐に両手を叩いた。

 乾いた音が森の中へ染み込むように響き渡る。魔力を音に乗せて広げることで広範囲を探知する魔法である。

 暫く黙っていたスーリーであったが、口を開く。

 

「……生き物が居たぞ」

 

 ささやかな発見ではあるが、今の私たちにはそんな些細な情報でも欲しい

 スーリーが歩き出したので彼を先頭にして生き物がいた場所へ向かう。

 歩いて十数分が経とうとしたとき、スーリーの足が突然止まった。

 

「……待て」

 

 何かを警戒しているスーリー。私も彼が見ている方を見る。そこには私たちの侵入を拒むかのような白い靄──先が見えない程の霧がかかっていた。

 正直、不自然に感じる。こんな森の中で霧が発生していることに。スーリーが警戒するのも道理であった。

 私はスーリーに頼んでもう一度探知魔法をかけてもらう。乾いた音が森の中で再び鳴った。

 

「……どういうことだ?」

 

 スーリーが困惑した声を洩らす。どうしたのか、その訳を尋ねるとスーリーは霧を指差した。

 

「……あの霧……生きているぞ」

 

 は? という間抜けな声が私の口から出てしまう。それ程までスーリーが言っていることは唐突であった。

 

「生きているって……」

「……俺の魔法はあの霧を生き物と判断した」

 

 私は戯言などとは微塵も思わなかった。彼の魔法の正確さは良く知っている。彼の御陰で危機を乗り越えたことも何度もあった。そんな彼がそう言うのならばそれは事実なのだろう。

 人間とは現金なものでそう言われた途端、目の前の霧が得体の知れないものに思えて背筋が冷たくなってくる。

 幸いというべきか霧はその場で留まっており、こちらへ来る様子は無い。或いは侵入者を拒むかのように私たちの行く手を遮っているように見える。

 

「どうしますか?」

 

 ナワンが不安そうな眼差しを向けて来る。私がこの霧に突っ込む、と言わないか心配なのだろう。そう思われるのは心外──と言いたいところだが、前科があるのでそう思われても仕方ない。稀少な花が咲く毒沼へ完全とは言えない防毒装備をして挑んだり、交渉決裂したとある民族たちの家から秘伝の薬を盗んだり、とあまり人には言えない命と道徳を軽んじる行為を何度かしたことがあった。

 本音を言うのならば先に進んで目的のものを探したいのだが、事前に村人の話を聞いているので慎重に行動する。勇気と蛮勇は違う。尤も時と場合によって私はそれを使い分けるが。今回は蛮勇を以って行動するべきではないと判断する。

 私はなるべく霧を避けて行動することに決めた。反対する声は無い。

 一旦離れて新たな痕跡を探そうとした矢先であった──何かが枝を踏み折る音が聞こえた。

 私たちの中で最も早く反応したのはトゥワイスであった。彼は胸に付けていた鞘から短剣を引き抜いて構える。彼は短剣を用いての戦いの達人であり、自分よりも遥かに大きな魔物を短剣一本で仕留めたこともある。

 

「誰ですか?」

 

 足音の主が発したのは人の声。それも若い女性のもの。見るとそこには二十歳前後と思われる女性が立っていた。

 布製の簡素な衣服を纏い、一瞬病人かと思うような白い肌をしている。

 

「誰ですか?」

 

 女性は私たち一行に恐れることなくもう一度同じ質問をしてくる。トゥワイスに至っては武器を構えているというのに全く怖がる様子が無い。気丈なのかそれとも無知から来る文字通りの怖いもの知らずなのか。

 だが、あてもなく彷徨っていた森の中で初めて出会った生物──人間である。この機会を逃す訳にもいかない。

 私はトゥワイスに短剣を仕舞おうよう指示し、驚かすような真似をしてことを謝罪する。女性を瞬きもせずに無表情でそれを見ていた。

 女性の反応の淡泊さに気味の悪さを感じながらも取り敢えずは自己紹介をし、この森に入って来た理由を説明する。

 そして、私は聞く。貴女はこの森で住んでいるのかと。

 

「はい。そうです。私は──」

 

 女性の口から舌が攣りそうな発音での名、というよりもほぼ音が出された。その音は私がこの森で探している原住民たちの名。私では発音出来なさそうだったので向こうから教えてくれて助かった。

 そんなことよりも探し求めていた原住民の一人と会うことが出来た。もっと長く掛かると思っていたが幸先が良い。

 私は相手の機嫌を損ねないようになるべく丁寧に、それとなく下手に出ながら交渉に入ろうとする。

 この森は未知なる効果を秘めた薬草の宝庫であり、生ける財貨のような場所であるなどと煽ててみるが、女性の表情は変わらない。

 手応えを感じない。私は少し焦りを覚える。

 色々と讃える言葉を出してみたが、女性はほぼ無反応であった。いよいよもって焦りが強くなってくる。

 苦戦している私を見て助手のナワンも何かすべきだと思ったのか、私たちの会話に入り──

 

「それにしても、発音がお上手ですね。勉強をなされたのですか?」

 

 ──私たちとスムーズに意思疎通が出来ることを褒めた。私、トゥワイス、スーリーは思わずナワンを凝視してしまった。遠回しに言語の通じない未開人と馬鹿にしていると捉えかねない発言である。

 皆の視線が集まったことで自分の失言に気付き、顔色を蒼褪めさせる。

 

「……村の外とも交流があるので」

 

 考えてみれば当然と思える答えが返ってきた。彼女は自分の浅はかさにますます縮こまってしまう。

 彼女を責めるつもりはない。私の焦りが伝播した結果がこれである。彼女なりに助けようとしてくれたのだ。裏目に出たが。

 言ってしまったものは仕方ない。どう言い繕うか考える。

 

「ここで話していても仕方ありません。私たちの村に来ませんか?」

 

 思いもよらないことに彼女の方から村への案内を提案してくれた。

これは嬉しい──と手放しには喜べない。村に案内し、大勢で囲って襲い掛かろうとする、ということも何度か経験したことがある。そのときは危うく工芸品か夕飯に成り掛けた。

 親切にしてくれたからといって心を許すことも油断も出来ない──悲しいことに。目的を果たすまでは慎重に接する必要がある。

 いざというときの考えながらも私は彼女の提案を受け入れた。

 

「ついてきて下さい」

 

 そう言って彼女は村に向かって歩き出した。

 それにしても淡々としていて感情の起伏が無い女性である。何を考えているのか全く見えてこない。

 

「本当について行くのか?」

 

 トゥワイスが訊いてくる。無論、言葉に出して訊いている訳では無い。私たちはスーリーによって常に言語化という魔法を施されている。これは言葉を口に出さず、動作を見せることで言葉として認識させるという魔法である。今もトゥワイスが数度瞬きしたことで伝えられた。

 それに対して私は指を左右に振る。手掛かりが全く無い今は危険でもついて行くしかない、という言葉の代わりである。トゥワイスは何の反応も示さなかった。無反応は了承を意味する。

 声を出さなくともやりとりが出来る便利な魔法であるが、欠点として予め使用者と対象者に纏めて魔法を掛けないといけない。後から重ね掛けをして対象者を増やすことが出来ず、そうなった場合一度魔法を解除する必要がある。

二つ目の欠点として動作を見ていないと言葉が伝わらない。何か動作をすれば離れた場所の相手にも伝わる、というような便利さは無い。

とはいえ仲間内でなら堂々と密談し放題である。女性に案内して貰いながら、頬を掻く、眉をなぞる、こめかみを指で叩くなどの動作をして今後の方針を相談する。

 ふと、私はあることが気になったので思い切って女性に質問をしてみた。内容は森の中で見た生き物の反応がする不気味な霧についてである。

 

「……さあ? 分からないわ?」

 

 女性の反応はそれだけであった。私は仲間に目配せをする。決して心許すな、と。

 森の中に住むものが森の異変を知らないとは考え難い。何かを隠しているのかもしれない。

 私は警戒していることを表には出さず、そうかと言ってこの話を終わらせた。

 それから長い間無言の時間が続く。足場の悪い道を一時間ぐらい歩いたときであった。

 

「着いたわ」

 

 女性が足を止め、目的に着いたことを告げた。

 周囲を木々で囲まれた原住民の村は大きなものではなく、入り口辺りから一望出来るぐらいの小規模なものであり、木造作りの家が十数軒程乱雑に並んでいる。

 女性について村の中へ入ろうとし、私は思わず足を止めてしまった。

 女性と同じような衣服で白い肌をした老若男女が全員こちらをジッと見つめているのだ。

 怒っている訳でも警戒している訳でもなく、無感情な目を私たちに向けている。

 気色が悪い、というのが第一印象であった。今まで警戒されたり、威嚇されたことは多々あるがこんな目を向けられたのは初めてのことである。殺気を向けられるよりも何を考えているのか分からない原住民たちだ。

 

「……どうしました?」

 

 女性が催促してくるので私たちは仕方なく村へと入る。視線が途切れることはなかった。

 敵意でも興味でも好意でもない無としか言いようがない視線に晒されながら、私たちはある家の前まで連れて来られた。

 中に入ると簡素なベッドの上で横たわる老人がいる。薄っすら開いた目は生気が感じられず、口も半開きになっている。目は落ち窪んでいおり、こけた頬には蠅が這っている。

 死体。それにしか見えなかった。

 

「お客様を連れて来ました」

 

 女性が死体に話し掛ける。その目だけがギョロリとこちらへ向けられたのでナワンは小さく悲鳴を上げる。放置された死体かと思われた老人はまだ生きていた。

 

「ぁ……っ……」

 

 吐息のような言葉が老人の口から漏れる。

 

「はい。森の中を彷徨っていたところを見つけました」

 

 呼吸音にしか聞こえないが、女性には何を言っているのか分かっているらしい。正直、疑わしく思えてしまう。

 

「ぅ……ぉ……」

「はい。森の薬草の調査をしたいらしいです」

 

 こちらの疑念を余所に女性と老人は不自然な会話を続けている。

 私はつい訊ねてしまった。この老人は誰なのか、と。

 

「この村の長です」

 

 これが? という言葉が口から飛び出しかけたので慌てて呑み込む。

 

「ぁ……ぁ……」

「はい。そのようです」

 

 口を微かに動かして出る微かな音と会話する女性。傍から見れば異常である。

 

「長から許可が出ました。村への滞在を許すそうです」

 

 思いの外あっさりと了承をされて安堵すると共に拍子抜けする。一波乱あってもおかしくないが、私は許可してくれたことへの礼を言う。

 

「丁度空いた家があります。皆さんはそこを拠点にして下さい」

 

 家まで用意してくれた。有り難い限りである。

 

「……一つだけ約束して欲しいことがあります」

 

 女性はギョロリと眼球を動かす。

 

「……この村では決して火を使わないで下さい」

 

 火を使うことへの禁止。周りが木造の家ばかりだからなのだろうか。だとしても火が使えないのは厳しい。飲み水の浄水や食べ物を焼くなど安全な食の為には火が必要である。

 

「……私たちは信仰上火を使いません。使用するならば村の外で」

 

 信仰。そう言われると文句が言い難い。個人的に理解出来なかったとしてもそれに対して否定するような発言をすれば碌でもない結末しか待っていない。そこの規則があるのならそれに従うのが最も穏便に済ませられる。それに村の外でなら火を使っても良いと言っている。

 

「……もし、村の中で火を起こしているのを見つけたら覚悟はしておいてください」

 

 女性が脅してくる。冗談には聞こえない。

 そういうものだと私たちは納得し、女性の案内で用意された家へ向かう。

 村に着いたときは全員こちらを凝視してきたが、今はまるで見えていないかのように私たちに全く視線を送らない。極端過ぎる反応の差にますます気色悪さが募っていく。

 そのまま家へと案内される筈であったが、私はあるものが目に入り、思わず足を止めてしまった。

 一人作業をする男性。その男性の腕に木の葉のような痣があるのが見えたからだ。それは森に入る前に教えてくれた老人の息子の特徴。

 私は女性に一言断ってからその男性に近付く。

 男性に訊ねた。貴方は外の村の人ですよね、と。

 

「……誰だ?」

 

 男性は虚ろな目でこちらを見て来る。顔を良く見ると老人の面影があった。

 貴方の父親が貴方の帰りを待っていることを伝える。男性の表情はピクリとも動かない。

 

「……そうか」

 

 あまりに素っ気ない反応であった。

 

「そうかって……貴方には帰りを待っている親と恋人がいるんですよ!」

 

 ナワンが少し強めな口調で言うが、男性には全く届いていない様子。顔色どころか眉一つ動かさない。

 

「……俺はここの村が気に入った。あの村には帰らない」

 

 私たちを見ているようで見ていないガラス玉を思わせる目。人ではなく人形と喋っているような気分になる。

 

「……どうしましたか?」

 

 私たちが付いて来ないことに気付いた女性が呼びに戻って来た。色々と訊きたいことがあるが、今は事を荒立てるべきではない。

 食い下がることは止め、家への案内へと戻る。

 少しして着いた家は他の家と同じような見た目をしていた。

 

「どうぞ」

 

 家の中へ入る。埃っぽいニオイと冷たい空気。それなりの間、人に使われていないことが分かる。

 

「……何か必要なものがあったら言って下さい」

 

 それだけ言うと女性は戻っていた。

 家の中で私たちは言語化魔法で会話を始める。声を出さないのは外で聞き耳を立たれていないか用心しているからである。

 

『あの人、明らかに様子がおかしかったです。この村の人たちに何かをされたのかも』

『薬か魔法による暗示か洗脳。人を操る方法は幾らでもある』

『……魔法の気配は感じなかった』

 

 そうなると薬物による洗脳が有力候補となる。人の意識を混濁させ、都合のいいように操る植物やキノコなどが存在する。この森の中にも生えていてもおかしくない。

 思っていたよりも危険な村であるので、なるべく早めに調査を切り上げる方針にする。場合によっては人心を操っている証拠を見つけ、周辺の村人たちを強制従属させている危険な村として国か冒険者ギルドに報告する必要がある。

 明日から調査を始めるが、なるべく単独行動を控えるように忠告すると、その日は家から出ることはせず、寝ずの番を置いて交代しながら一晩を過ごした。

 

 

 

 

 翌日、私たちは早朝から行動をしていた。まずは食料の確保からである。村人たちが提供してくれる食料は危ういので口にしないようにしていた。

 森の中へ入ると私とトゥワイス、ナワンとスーリーの二手に別れて食料を探す。幸いというべきかこの森は豊かな森であり私が知っている食べられる食料が豊富に存在する。

 安全な木の実やキノコなど採り、後は飲み水を手に入れる為に川がないかを探す。ついでに魚などが獲れれば幸いである。

 そんなことを考えているとトゥワイスが急に振り返る。私もつられてそちらの方を見て思わずギョッとした。原住民と思わしき男性が木の陰からこちらをジッと見ているのだ。

 何か? と私が話し掛けると男性は何も言わずに去っていってしまう。後には気持ち悪さが残るのみ。

 

「監視されているな」

 

 この様子ではナワンたちも同じように監視されているだろう。

 私たちは監視の目を気にしながら森の中を進んで行く。やがて、木々のニオイに混じって水のニオイがしてきた。

 ニオイを辿って先へ進む。少し歩いた先には池があった。澄んだ色をしており、中では魚が泳いでいる。

 何匹か獲っていこうと思い、水の中へ手を伸ばす。

 

「待て」

 

 その手をトゥワイスが掴む。どうして止めたのか訳を訊く。

 

「……見た事が無い色をしている」

 

 そう言われ、私は改めて池の中の魚を見る。泳いでいる魚自体は森の外でも生息しているごくありふれた魚である。しかし、言われた通り見た事が皮の色をしていた。

 この森の中にのみ生息する新種なのでは、と私は思ったがトゥワイスはそれでも首を横に振った。

 

「怪しいと思った時点で手を出すべきではない」

 

 そう言われると私も手を引っ込めるしかなかった。彼の直感には今まで何度も助けられてきた。彼の言う通り少しでもおかしいと思ったのなら食すのは止めるべきである。

 取り敢えず魚を獲ることは諦め、飲み水を掬ってその場から離れた。しかし、何故だろうか。あの色の異なる魚が私の中でやけに印象に残った。

 私たちは食べられる木の実や山菜、茸を持てる限り採取する。新種の薬草などもないか探していたが、残念ながら見つけることは出来なかった。

 それにしても探索を始めてから随分と時間が経つが、未だに監視の目が離れている様子がない。姿は見えないが今も私たちを何処から見ている。

 十分な収穫を得た私たちは集合場所として予定していた大木の根元にいた。まだナワンたちの姿は見えない。私たちは暫くの間、待つことなる。

 太陽が真上を通り過ぎた辺りだろうか。雑草を掻き分けてナワンたちが戻って来た。妙に疲れた表情をしている。

 何かあったのか、と私は訊ねる。

 

「襲われました」

 

 ナワンから返ってきた答えに驚く。原住民に襲われたのかと思ったが、違った様子。

 

「……これだ」

 

 スーリーがロープで何重にも巻いた大きなトカゲの死体を見せた。森に生息するトカゲだが、人を襲う程の凶暴性は無い。そのトカゲにも奇妙な点があった。

 

「色が違うな……」

 

 既存の種類とは異なる鱗の色をしている。あの魚と同じように。

あの魚同様にこの森にのみ生息する新種なのかもしれないが、見ているとどうにも言い様の無い得体の知れなさを覚える。

 

「調べるか?」

 

 トゥワイスが確認してくる。確かに解剖して中身を調べるのは有効かもしれない。だが、私はなるべくこのトカゲに触れたくなかった。

 何か未知の病気を持っているかもしれない、という理由でこのトカゲを燃やしてしまおうと提案する。三人は私の提案に反対することはなかった。彼らもまた私と同じことを考えているのだろう。

 私たちは周囲に落ちてある枯れ木や枯れ葉を集める。木々が陽を遮っているので湿った枝や葉が多い。だが、私たちは構うことなくそれらを集めた。

 十分な量が集まったらそれらを組み、後はスーリーに任せる。彼が短く呪文を唱えると木や葉から水分が抜け、芯まで乾燥した状態となる。スーリーがもう一度呪文を唱えると小さな種火が発生し、瞬く間に焚き火となった。

 まずは採取した食べられる茸や山菜などを焼く。同時に汲んだ水を沸騰させて消毒をする。

朝昼兼用の食事を済まし、沸騰させた水を冷まさせて喉を潤す。そして、最初に比べると火の勢いが弱くなった焚き火にトカゲを放り込んだ。

 トカゲの死体が音を立てて焼け焦げていくのをジッと見つめる。

見つめる、で思い出した。いつの間にか監視の目が無くなっている。何処かへ行ってしまったらしい。そういえば信仰上火を忌避していると言っていた。もしかしたら、目にするのも嫌なのかもしれない。そう考えると徹底しているな、と思う。宗教など所詮は意思を統一させ、人を御し易くする程度のものだと私は思っているからだ。

 黒焦げになったトカゲが炎の熱により身を丸くしていく。その光景を見ながらふとある事を思い出す。

 古の占いの中には物を火で燃やし、それの変化によって未来を占うというものがある。人の手が及ばない自然が起こす結果こそが運命によって齎されたものという理屈とのこと。

 勿論、私はそのようなことは信じておらず、それを知ったのも暇潰しの間に読んだ本の知識程度のこと。

 火を見て偶然思い出した私は、試しにトカゲが焼ける様を見て未来を占ってみる。すると、焼けたトカゲの体が膨張し弾けた。

 それを見た私は反射的に火に水を掛ける。私の急な行動に周りは訝しんでいたが、そろそろ動こうという私の指示に若干の疑念を残しながらも従う。

 燃やしていたものが弾けて原形を失う。それは破滅する未来の暗示。馬鹿馬鹿しい。気分転換のつもりでやったことが裏目に出た気分である。所詮は試し程度でやったこと。気にする必要は無い。

 再び行動を始めた私は心の中で何度もそう呟き続けた。

 

 

 

 

 調査を始めて一週間が過ぎた。この森は私が思っていた以上に珍しい薬草の宝庫である。傍から見れば雑草かもしれないが、私からすれば宝の山だ。

 険しい山々を超えた先に生えていると思われていた解毒の薬草や危険な魔物たちが蔓延る谷の奥で自生している滋養強壮の薬草。それらが易々と入手出来る。それだけでなく見たこともない薬草も幾つも発見した。持ち帰って実験するのが今から楽しみである。

 私は浮かれながらも決して油断はしていない。常に村人たちに警戒をしていた。相変わらず監視の目はあるものの接触等してこない。夜など交代で見張っているも近寄ろうとする気配も無かった。未だに不気味な村人たちという印象は変わらないが拍子抜けという思いもある。

 変化の無い日々が続くかと思いきや、それを望んでいたことかそうでないかは別として、その日はいつもと違っていた。

 日が暮れ始めた頃に私たちが村へと戻って来たとき、大勢の村人たちが村長の家を囲っているのだ。

 暫くして中から複数の男たちが出て来た。大きな板に丸太を括り付けた物を担いで。

 板の上に村長が置かれていることに気付く。

 近くに居た村人の声を掛け、何が起きているのかを聞こうとしたとき、私たちはギョッとした。

 今まで人形のように無表情であった村人が満面の笑みを浮かべている。どんな理由で喜んでいるのかは知らないが、あまりに度が過ぎて見えるので私たちには狂気的に映る。もしかしたら、狂喜という意味では合っているかもしれない。

 言葉を失っている私たちに村人は笑みのまま『何か?』と聞き返してきた。

 私はその笑みの圧を跳ね返すように訊ねる。今、何が起きているのか、と。

 すると、村人は喜びに満ちた──という言葉では物足らない程の反応を見せる。

 

「満たされたんですよ! 成ったんですよ! 長は! 満ちた! 成った! 成った! 羨ましい! 実に羨ましい! 早く私も満ちたい! 成りたい!」

 

 数日前まで無反応に等しかった村人とは思えない過激な反応。この村人が狂ってしまったのかと思われたがそうではない。長を運ぶ村人、それを見守る村人たち全員がこの村人と同じような笑みを浮かべ、長を讃えていた。

 

『長! 長! 長! 祝福の日! 果たされる日! 約束の日! 還ろう! 還ろう! 還ろう! 偉大なるものへ!』

 

 狂喜乱舞とはまさにこのこと。全ての者たちが一心不乱に同じ喜びを共有している。傍から見るとそこには狂気しか感じない。一体何がそこまで彼らを興奮させているのだろうか。掲げているのは今にも死にそうな老人だというのに。

 村人たちは喜びの声を上げながら長を何処かへ運んで行く。それを他の村人たちも付いて行く。

 何処へ行くのですか、と私はこの森で初めて出会った村の女性に声を掛けた。その女性もまた例外に洩れず笑みを浮かべている。初めて会ったときの差を感じ、正直気持ち悪いとしか言いようが無い。

 

「捧げに行くんですよ! 長は十分に満たされましたから! ああ……! 羨ましい! 喜ばしい! 妬ましい! 嬉しい! 私はまだ成っていないのに!」

 

 最初に会ったときの印象が百八十度変わる感情の爆発。喜ぶ反面、彼女は両眼から涙を流し続けている。何が嬉しいのか、何が妬ましいのか事情を知らない私たちからすれば村の女性の反応は意味不明にしか映らない。

 

「何か祭りのようなものを行うのですか?」

 

 ナワンが興味本位で訊ねてみると、女性は首をグルンと動かして彼女の方を見る。

 

「……興味がありますか?」

「ええ……まあ……」

 

 女性の圧力に押されながらも頷くナワン。すると、女性は離れていく村人たちへ声を掛ける。

 

「皆さん。彼らもまた長の旅立ちに興味があるようです」

 

 村人たちは一瞬黙った後、歓声を上げた。少し前まで静かで生気を感じられない村という印象だったが、今では百八十度認識が変わる。これ程までに異様な熱気と狂気を内に宿していたとは。

 彼らの言う旅立ちというのが余程重要な儀式らしい。

 

「……本当にいいのか?」

 

 トゥワイスが小声で話し掛けてきた。得体の知れない連中の得体の知れない儀式に参加することを危険視している。

 彼の心配は尤もである。しかし、彼らという存在を良く知るには彼らの内に入り込む必要がある。

 いざというときにはきちんと逃げる準備はしておくと目で告げると、トゥワイスは一応納得してくれた。似たような状況を何度も経験しているので彼も対処の仕方は心得ている。ナワンもスーリーも同様である。

 

「さあ、行きましょう! 長の旅立ちを見送りましょう!」

 

 女性が号令を掛けると、村人たちは奇声同然の叫びを上げて長を運び始める。

 長を運ぶ村人たちを先頭にして村人たちが一列になって行進していく。私たちは列の丁度真ん中に位置し、列から離れないように前後から挟まれている。

 これで儀式が行われるまで身を隠すことは出来なくなった。望むところである。

 しかし、出発する前はお祭り騒ぎだったのに行進している今は一言も喋っていない。落ち葉を踏み締める足音だけしか聞こえない。この静けさは葬列に相応しいが、村人たちの極端な差に不気味さが募っていく。

 森の奥に進むにつれて変化が起こる。まず真っ先に気になったのはニオイであった。

 

「うっ……」

 

 ナワンが口と鼻を押さえながら気持ち悪そうな声を洩らす。私も彼女と同じ行動を取っていた。

 木々の青いニオイが塗り潰され、黴臭さと動物の死骸のようなニオイが混じった不快な臭気が漂い始めて来たのだ。

 長時間吸えば精神だけでなく肉体にも影響を及ぼすような悪臭。しかし、村人たちは顔色を変えることもせずこの悪臭を空気同然としている。

 もっと奥に進んで行くと嫌なものを目撃する。

 

「あれは……」

 

 スーリーが何かに気付く。彼が見ている方に私たちも視線を向ける。木と木の間を漂うあの生きた霧が発生していた。

 よく見ると広範囲に発生しているのではなく間隔を開けて発生しているのが分かる。初め見たときは霧と思っていたが、もしかしたら違うものかもしれない。

 私はどうしても気になったので思い切って村人たちにあの霧擬きについて聞いてみることにした。

 あの霧のようなものは何ですか、という私の問いに対してその村人は穏やかさすら感じる表情で言う。

 

「私たちの仲間です。彼らは」

 

 正直、言っている意味が分からない。同じ森に生きる仲間ということを指しているのかもしれないが、それとは意味が異なるように思えた。まさか、本気で同じ仲間だと思っているのだろうか。

 私は答えてくれた村人に礼を言い、口を閉ざす。結局、謎が深まるだけの結果に終わる。

 森の奥へ進む。臭気は濃くなり、霧擬きが溜まっている場所を頻繫に目撃するようになってきた。私たちは深淵に向かっている。そうとしか思えない。

 ふと、あるものが私の目に入る。

 木の根元を覆っている黒っぽい色をした綿のような物体。注意深く観察する。それは胞私の知識の中で胞子というものと結び付く。しかし、私が今まで生きてきた中であれだけ巨大な胞子は見た事が無い。

 この森独自のものかと思っていると、それが点々と辺りに見つかり出す。

 

「酷い光景だ……」

 

 トゥワイスが呻くように言う。先程の胞子は木の根に寄生していたが、辺りに散らばっている胞子は生物を苗床にしており、産毛のように生える胞子に覆い尽くされた死骸が横たわっている。

 胞子に喰われた死骸を見て顔を顰める私たちであったが、注意深く観察する更に顔を歪めることになる。

 動物の死骸の中には明らかに人骨を思われるものが幾つも存在した。長を皆で運んでいる今のこの状況を考えれば、どうしてここにあるのか容易に想像が付く。

 自然に還すという意味で人の命を捧げる儀式は珍しくもない。文明と隔絶した秘境などでも今も行われている。私も見た事がある。この村や村人たちもまたそういった類の人種であった。何を信じるのかは自由であるが、私はそれに同調するつもりはない。

 茂みが揺れる音がする。茂みの中から牙を生やした獣が顔を出す。その獣は人を襲う凶暴性を持つ種であり、私たちは反射的に身構えた。だが、獣はこちらを見ているだけで何もしてこない。

 ふと上を見上げる。木々には多種多様な鳥たちが止まっており、こちらを見下ろしていた。意思が統一されているかのように全ての鳥たちが凝視してくる光景に私たちは寒気を覚える。

 森の住人たちの歓迎──というより監視を受けながら私たちは目的地と思わしき場所で辿り着いた。

 そこは少し開けた場所であるが、特に特別な場所には感じられない。相変わらず周囲には胞子に満ちた死骸が転がり、霧擬きが辺りに漂っている。霧擬きの濃度が増しており、数メートル先がぼやけて見えにくくなっていた。

 村人たちは担いでいた村長を地面に下ろし、離れる。そして何もしない。何かしらの儀式を行うと思っていた私たちは拍子抜けする。だが、よく観察していると村人たちは佇んでいるのではない。何かを待っているようであった。

 そのとき、私は足元に違和感を覚えた。意識をそちらへ向ける。すると、足裏に微かな震動を感じた。地震か何かかと思ったが、震動は一定の間隔で起こっている。

 

「……何か揺れていませんか?」

 

 ナワンたちも足元の揺れに気付き始める。震動は最初に感じたときよりも確実に強くなっている。

 これは震動ではない。生物の歩行。しかも、かなり大きい。

 私はスーリーに探知魔法を使うよう指示する。スーリーは言われるがまま魔法を発動した。次の瞬間、彼の顔色が瞬時に蒼褪める。

 

「な……何だ……これは……!?」

 

 冷静沈着なスーリーが滅多に見せない動揺。信じられないものを感じてしまった。彼の表情がそう物語っている。

 

「こ、これは生きているのか……? あ、あまりにも違う……! 異常だ……!」

 

 震えている。恐怖で体を細かく震わせている。彼を恐れさせる何かがこの揺れと

共にやって来ている。

 そのとき、私の髪がふわりと靡いた。風が吹いている。私だけでなく他の者たちの髪も揺れている。特にナワンは分かり易く、長い髪が正面に向かって靡いている。

 おかしなことに気付く。ナワンの髪の揺れを見れば背中の方から風が吹いている筈なのだが、私は背中にそんな感触を感じない。

 生物の死骸に生えている胞子などが森の奥へと引き寄せられていくのが見える。それだけではない。周囲にある霧擬きもまた森の奥へ向かっていく。

 風が吹いているのではない。何かが凄まじい力で吸い寄せているのだ。

 すると、地面に置かれた村長の体から煙のように何かが立ち昇る。それは周囲から噴き出している霧擬きと全く同じ色をしていた。村長の体から出た霧擬きもまた謎の力に吸い寄せられ、森の奥へと消えていく。

 村長の霧擬きが全て抜き取られると、辛うじて動いていた村長は完全に動かなくなり、謎の吸い込みも収まった。

 すると、村人たちは歓声を上げる。

 

「おおっ! 召された! 召された!」

「村長もまた大いなる力の一部となったんですね!」

「素晴らしい! 素晴らしい! 羨ましい!」

 

 狂気を伴う歓喜。見ているだけで気持ちが悪くなってくる。

 だが、それをいつまでも気にしている余裕は無い。いよいよ震動が強くなってきた。

 そして、それは現れた。

 今まで見た事が無い程に大きく、そして今まで見た事が無い程悍ましいドラゴン。

爛れた皮のようなものを全身から垂らし、更にそこに胞子の塊を付けている。もしくは共生しているのかもしれない。全身の殆どを皮と胞子で覆われており、僅かに覗く鱗らしき部分は悍ましい見た目に反して光沢を放っている。

巨大な両翼を持っているが、老朽化した衣服のように被膜に無数の裂け目が出来ており、飛べるかどうか分からない。

 頭部は一際大きな胞子嚢で覆い尽くされており目が隠されている。長く鋭い牙を持っており、牙先からは唾液が滴っている。

 悍ましいドラゴンが外見に不似合いな雄々しい咆哮を上げる。その際に長く突き出ている下顎が開かれるが、底部はくり抜かれたように無く外格のみしかない。しかし、内側にも更なる下顎が存在しており、その特徴的な構造が恐ろしさに拍車をかける。

正体の分からないこの悍ましい存在の咆哮を訊くだけで全身の細胞が震え上がり、体が防衛反応で縮こまってしまう。だが、それに反応しているのは私たちだけ。村人たちは何故か縮こまらず、崇拝するように仰ぎ見ている。

 悍ましきドラゴンが歩く。それに添うようにして移動するあの霧擬き。このドラゴンがこの森の支配者であり、全ての元凶であると直感した。尤も、あのドラゴンを見てそう思わない方がどうかしている。

 今目の前に凄まじい脅威が存在するというのに村人たちは逃げようとしない。全ての村人たちの目はあのドラゴンに奪われている。

 

「長よ、長よ……そこに居るのですね」

 

 その言葉は横たわっている村長の亡骸ではなくドラゴンへ向けられていた。あのドラゴンは村長の中にあった何かを吸い取り、村長の命を奪った。見たままの印象を言えば生気、命なのかもしれないが、霧擬きと同じ色をしていたのが腑に落ちない。

 スーリーは霧擬きを生きていると言っていた。ならば、村長の体の中に霧擬きが宿っていたとしたら? それが村人たちを狂わし、外の人間の正気を奪って村に閉じ込める原因だとしたら? それらは全てあのドラゴンと繋がることとなる。

 恐怖に麻痺しそうになる頭を働かせながら導き出した私の推測。それが合っているかどうかは分からない。冷や汗を流し続ける私たちを余所に村人たちは拍手をしたり、歓声を上げたり、歌ったりなどしてドラゴンを讃え続けている。あの悍ましい姿の何が村人たちを惹きつけるというのだろうか。

 

「今日は素敵な日だ……長は召され、そして──」

 

 今までの喧騒がピタリと止み、全員の視線が私たちに注がれる。

 

「──新たな仲間が増えるのだから」

 

 その一言と同時に村人たちが一斉に私たちに掴み掛かってきた。

 私の肩や腕を掴む村人たち。振り解こうとするが異様に力が強く、簡単には振り解けない。すると、銀色の線が走り、掴んでいた村人たちの腕が斬られる。

 斬ったのはトゥワイスであり両手に持つ二本の短剣でナワンやスーリーを助け、近付いてきた村人たちを次々に斬り付けた。腕や脚などに傷を負う村人たち。だが、痛みに怯んだのは一瞬だけであり、またすぐに掴みに掛かって来る。村人たちは斬られることを全く恐れていない。

 そこへスーリーが呪文を唱え、私たちを守るように炎を起こした。時間稼ぎの為のものであったが、村人たちは異様な反応を示す。

 

「ひ、ひぃああああああああっ!」

「火だ! 火だぁぁぁぁぁぁぁ!」

「やだ! やだ! 燃える! 熱い! 怖い!」

 

 斬られることを恐れなかった村人たちが火に対して過剰なまでに恐れている。それこそ発狂死しそうなぐらいであった。

 そういえば監視をされていたときに火を起こしたらいつの間にか監視の目が無くなっていたことを思い出す。村で火を扱うことを禁じていたのは、理由は分からないが彼らが極端に火を恐れているからだ。

 私は近くに落ちていた丈夫そうで長めな折れた木の枝を何本か拾い、その内の半分をナワンに渡した後にスーリーを呼ぶ。

 

「……そういうことか」

 

 私が何をしようとしているのかすぐに察してくれたスーリーに、その考えが正しいことを証明するように木の枝を掲げる。スーリーは素早く魔術を発動させ、木の枝に火を点ける。私がやろうとしていることに気付き、ナワンも私に倣って枝に火を点けてもらった。

 私たちは火が点いた枝を村人たちに突き付けながら後退する。最初に放った火は大分弱まっているがそれでも村人たちは恐れてその場から一歩も踏み出せない。

 火という効果的な弱点を知った私たちは、火で村人たちを脅しながら徐々にこの場から離れようとする。

 そのとき、今までこちらに関心を示していなかったあのドラゴンが咆哮を上げた。悲鳴のような、金切り声のような叫び。全身に鳥肌が立ち、足が震える。今までの冒険で鍛え上げてきた精神力が抗うことも出来ずに屈している。

 咆哮の後、ドラゴンは胞子嚢を脈動させ全身から煙を噴出させる。胞子と霧擬きを混ぜ合わせた未知なる物質を放出した際に発生した風圧により私たちにとって生命線であった火が消し飛ばされる。

 風圧を追うようにして広がっていく胞子と霧擬き。咆哮のせいで身動きがとれない私たちは迫り来る絶望を眺めているしかない。

 

「う、おおおおおおっ!」

 

 必死の叫びと同時に私たちは突き飛ばされた。私たちを突き飛ばしたのはトゥワイス。冒険者として幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼は、私たちよりも恐怖に対する免疫があり、早く立ち直ることが出来たのだ。

 身を呈して私たちを胞子の範囲外へ押し出してくれた。しかし、次の瞬間には村人たちが一斉にトゥワイスへしがみついていた。火が消えてしまったせいで村人たちを足止めするものが無くなり、再び襲い掛かってきたのだ。

 屈強な肉体の持ち主であろうと十を超える人間にしがみつけられれば身動きが出来なくなる。逃げられなくなったトゥワイスが胞子に呑み込まれる。

 息を止めて胞子を吸わないようにしていたが、すぐに異変が起こる。

 

「が、あがああああああああっ!」

 

 獣を思わせる声を上げ、村人たちがしがみついたまま地面に倒れる。そこで陸に上げられた魚のように体を激しく跳ね上げる。

 吸い込んでしまった胞子に猛毒性があるのか、トゥワイスは自壊しそうな勢いで何度も何度も仰け反りながら跳ねている。今すぐにでも救い出したいが、トゥワイスは身を呈して私たちを救ってくれた。

 ここで立ち止まったら犠牲が増える。私たちは非情な決断を下した。

 苦しむトゥワイスを置いてこの場から逃げ出すことを決める。このことを一刻も早く誰かに伝えなければならない。そうしなければトゥワイスの犠牲が無駄になる。

 私は残った者たちを連れ、急いで走り出す。

 しかし、私たちは気付くべきだったのだ。相手が人一人犠牲になったところでどうしようもない存在であることを。代償を払えば報われるなど思い上がりだということを。

 離れ際に私はあのドラゴンを見た。ドラゴンを首を持ち上げ、左右にうねらせる。その口が開かれ、私たちに向けられたときドラゴンの口から大量の胞子が吐き出された。

 先程の噴出の比ではない量の胞子が私たちに迫る。為す術もなくブレスが直撃する。

 全身がバラバラになりそうな衝撃を受け、地面を勢い良く転がっていき最後には木の幹に叩き付けられる。

 衝突の痛みは無い。それよりも経験したことが無い未知の感覚に私は襲われていた。

 体の半分が削られたような感覚の後、内側で消失したものを埋めるように何かに置き換わっていく言葉に出来ない嫌悪感と拒否感。

 気付けばトゥワイスのように私は絶叫を上げ、体を痙攣させていく。私が私で無くなっていく恐怖。それから逃れられない絶望。ナワンもスーリーも私と同じような状態になっている。

 やがて、私は──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この村は素晴らしい。

 この村人たちは素晴らしい。

 日々生きていくことは素晴らしい。

 日々を過ごしていく度に私の中の私が成長していく。

 私の仲間たちもこの村で健やかに暮らし、成長していく。

 今日、喜ばしいことがある。村人の一人が成ったのだ。

 とても素晴らしい。

 とても嬉しい。

 私も一日も早く成り、この身を捧げたい。

 




この世界の死を纏うヴァルハザクは、この森の寄生菌と共生関係にあります。
ヴァルハザクが撒いた菌が人に寄生、人を苗床にして成長、増殖した後に終宿主であるヴァルハザクに還るというサイクル。
ヴァルハザクが終宿主なので菌に寄生された人間は、ヴァルハザクに食べられることやその為の菌を成長させることに多幸感を覚えるようになっています。


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