田中琴葉への頼みごと (パンド)
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『噂笠』
『噂笠』其ノ壹


 

 誰かを、好きになることは大切だ。

 その感情のために、人は時に自分の限界すら超えるのだから。

 だから、人を好きになることは大切だ。

 しかし、それと同じくらい……いや、実はそれ以上に大切なのは。

 

 ──自分を、自分自身を、好きでいることだ。

 

 そんなことを考えながら、田中琴葉は思い出す。

 高校三年生の、あの一年を思い出す。

 高校生活最後の一年を、アイドルとしての最初の一年を、不思議で不可思議な経験ばかりした一年を。

 大変な目にあったけれど、苦しいことも悲しいこともあったけれど、確かな意味のあった一年間を思い出す。

 神に覆われた高坂海美を。

 蟻に噛まれた周防桃子を。

 鳥に奪われた馬場このみを。

 狐に懐かれた北上麗華を。

 貝に挟まれた自分自身を。

 摩訶不思議な体験を共にした仲間たちと──そして、彼女があの一年を思い出すとき、欠けてはならない人物を思い出す。

 あの偏屈で捻くれ屋で胡散臭い、妖しげな国語教師を。

 大したことなど知りはしない、妖怪じみた先生を。

 ぶっきらぼうで思いやりに欠けている、そのくせ思い出には欠かせない恩師を思い出す。

 彼がいたから、彼に出会ったから、自分は今の自分でいられる。

 たとえ頼り甲斐がなくても、時には頼みを断ることがあっても。

 自分らしく、『本当の私』でいられる。

 

 田中琴葉で、いることができる。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「じゃあ、よろしく頼むよ田中」

「はい。出来る限りのことはしてみます」

「ははは、君は本当に頼り甲斐のある生徒だ」

 

 言うだけ言って、担任の教師はいそいそと去っていった。いかにも重荷から解放された人の背中だなと、彼女は思った。

 自分に頼めば、なんでも解決すると本気で思っているのだろうか。

 だとすれば、それは些か過大評価で、自分を大きく見過ぎていて、付け加えるなら結構無責任な話だ。

 確かに彼女はクラスの委員長で、ついでにあだ名も委員長で、長髪カチューシャに落ち着いた態度と、いかにも委員長然とした委員長らしい雰囲気の持ち主ではあったが、だからといってクラスの問題を全て解決できるわけではない。

 解決できるわけではないのだから、あんな頼みは断るべきなのに。

 

 彼女──田中琴葉は頼まれると断れない性格だった。

 

 昔からそうなのだ。

 どれくらい昔か、なんてのは思い出せないけれど、彼女は頼みごとにめっぽう弱かった。

 過去に通っていた習い事も、運動会の応援団長も、合唱コンクールのソロも、両親や先生や同級生に頼まれたからやってきた。

 それは高校生なっても、高校三年生になっても変わらない。

 クラスの委員長だって頼まれた立場だし、思えば演劇部へ所属していた頃に部長を務めたのだって周りからの声があったからだ。

 自分には自主性がない──わけではない。と田中琴葉は自負している。

 学芸会で主役に立候補したのは自分の意思だし、演劇部にだって演じることが好きだからこそ好きで入った。

 そして何より、今の仕事を選んだのは他の誰でもない自分自身だ。

 自分が、田中琴葉が選んだからこそ、今の彼女がある。

 それを思うと、琴葉の心に力が入る。

 気合が入る。と言ってもいい。

 ただし、それがあったとしても、気合があったとしても。

 あんなことを頼まれたって、どうもこうも仕様がないというのが、琴葉の正直な気持ちであった。

 きっと、担任はこれから事あるごとに彼女へ進捗を確認するだろうし、問題が大きくなれば責任の一端を問われかねない。

 田中琴葉は責任感の強い生徒だ。

 それは事実であるけれど、担任もそう見ているから頼んだのだろうけれど、琴葉だってできることなら責任を持って解決したいけれど。

 やはりこの案件は荷が重いし、先を思うと気が重くなる。

 ……このままじゃダメだと、琴葉はいったん気持ちを切り替えることにした。

 

(来月はライブもあるんだし、お客さんにこんな顔を見せちゃダメ)

 

 それに、あの何だかんだで世話焼きな友人たちにだって、会う時は笑顔でいたい。

 琴葉が壁にかかった時計を見ると、もうじきに下校時刻へ差し掛かろうとしていた。

 今日は仕事仲間とプライベートな約束があるのだ。

 と、こう言えばプロフェッショナルな感じがするが、実際のところは友達と待ち合わせて映画を観る予定、になる。

 待たせてはいけない、と琴葉は一回玄関へ向かおうと一歩を踏み出した。

 踏み出して、しかし二歩目を踏み出す前に、彼女は足を止める羽目になった。

 

 ダンボールが、こちらに向かって来ていた。

 より正確には、三段に積まれたダンボールが向かって来ていた。

 さらに詳しく言うのなら、三段に積まれたダンボールを抱えた男性が琴葉の方へと向かって来ていた。

 三段に積まれたダンボールは男性の顔を隠していて、前など見えていないはずなのに、男性は横から覗いて前方確認なんてする訳でもなく、淡々と步を進めていく。

 その姿が、なんだか異様で、異質で、不可解で、琴葉は自然と一歩後ろへと下がっていた。

 やがて男性は彼女の前を横切り、横切る途中で足を止めた。

 ちょうど、横向きのまま琴葉の正面に立つように。

 そしてぴったり90度、男性の首が回わった。

 グルリと、まるで機械か絡繰かのごとく。

 当然ながら、当たり前のように、琴葉と男性の視線がぶつかって。

 

「そこの女学生、資料運びを手伝ってはくれないか」

 

 彼は気だるげに胡乱げに、たまたま目が合ったからだと言わんばかりに、抑揚のない声で頼んできた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 追釜(おいがま)大知(たいち)は四月に赴任してきた国語教師だ。

 あだ名は『ガマ妖怪』『ガマ先』などなど。

 名前の釜とカエルを意味する蝦蟇をかけて付けられたあだ名で、その名の通り彼はどこか妖怪じみている。

 顔色は常に悪く青白く、それこそカエルのようで。

 身体はヘビのように細身で、縦に長い。

 若白髪の混じる黒髪は無秩序に、ボサボサに好き放題伸びていて、どこか鳥の巣を思わせる。

 おまけに表情らしき表情を浮かべることがなく、常に壁を見るような目で人を見る。

 そんな妖怪じみた、妖怪のような風貌の先生である。

 そして田中琴葉は、頼まれたら断れない高校三年生女子は、追釜大知と二人資料運びの真っ最中というわけであった。

 

「しかし、話に聞いてはいたが田中、お前は本当に頼まれたら断らないのだな」

「えと、そんなこともありませんよ。追釜先生の荷物、多くて大変そうだなって思っただけですから」

 

 嘘だった。

 琴葉は、できることなら今すぐにでも校舎を後にしたかった。

 友達との約束があるし、生徒の大半が思っているのと同じく、彼女もこの追釜という男性教師を苦手としていたからだ。

 何を考えているのか分からない、この父親と同年代くらいの先生が、先生だけれど不気味な雰囲気を持つこの人が。

 琴葉は決して、人を見た目や肩書きで判断するタイプの人間ではない。

 だと言うのに、4月に初めて見た時から、2ヶ月が経過した今でも、彼女はろくに会話もしたことがない追釜を怖がっている。

 それだけ、追釜大知という人物には近寄りがたいものがあった。

 

「……そうか。それにしては何やら思い悩んでいた様子だったが、他にも頼まれごとをされていたんじゃあないのか」

 

 本当、そこまで察していたのなら放っておいて欲しかった。

 平坦でのっぺりとした声に尋ねられながら、琴葉は内心げんなりとしていた。

 こちらとしては早いところ友人の元へ駆けつけたいというのに。

 頼みごとをされて悩んでいる相手に、更に上乗せでものを頼むだなんて、この人は普通に嫌な人なのでは、とすら思えた。

 すると追釜はしばし考え。

 

「礼といってはなんだが、私で良ければ話を聞こう。これでも、田中の倍以上は生きているなのでな」

「追釜先生に、ですか?」

 

 意外というか、想定外だった。

 悩んでいるなら相談に乗るぞ、と。

 教師が生徒にかける言葉としては、ごく普通でありふれたはずの文句を言われたことが。

 追釜の口から出ただけで、どうしてこうも意外性のある言葉に聞こえてしまうのか。

 田中琴葉は考えた。

 追釜大知が不穏な空気をまとっていること、自身が彼を苦手としている大前提を忘れて、この現状について考えてみた。

 これはもしかして、もしかすると。

 

「あぁ。私は大したことなど知りはしないが、なにか分かるやも知れない」

 

 自分が悩んでいたことに気がついて、資料運びを口実に相談を受けてくれようとしているだけなのでは。

 仮にそうなら、琴葉は今の今までとんでもない勘違いをしていたことになる。

 琴葉はチラッと、横目に追釜の顔を伺う。

 彼はいつも通りの、ともすれば寝不足にも見える虚ろな表情をしていた。

 やっぱり、なにを考えているのか分からない人だ。

 しかし事の真相はさておき、聞いてくれるというなら話すだけ話そうかなと、琴葉は決めた。

 

「最近、ここ2週間くらい、不思議というか……その、おかしな噂がクラスで流れているんです」

「噂、か」

 

 追釜のあっさりとした相槌に、琴葉は話を続ける。

 

「はい。追釜先生は『噂話』と聞いたときに、どんな話を思い浮かべますか?」

「ふむ。学生の噂話だとするのなら……そうだな、誰が誰のことを好いているだとか、逆に嫌っているだとか、そういう人間関係についての話が広がるんじゃないか」

 

 追釜の答えは、おおよそ琴葉の予想していた通りのものだった。

 高校というのは大勢の、それも年頃の男女が生活する場だ。

 当然、惚れた腫れたの話が出てくる。

 A組のあの子は誰々が好き、とか。

 B組の何々くんはあの子と付き合っている、とか。

 C組とD組のあの二人が別れた、とか。

 そんな噂が、友達から友達へ、クラスからクラスへと、気がつけば広がっていく。

 それ自体は、おかしなことでも不思議なことでもない。自然なことで、自然のことだ。

 なのに、と琴葉は本題に入り始める。

 

「今流れている噂は、そうじゃないんです」

「そうじゃない、な。そうじゃない噂とは、一体どんな噂なんだ」

「例えば、A組のあの子は誰々が好き、」

「それだけか?」

「だけど本当は他の人が好きで、その人のことは本命を隠すための嘘、」

「……それだけなのか?」

「というのもフェイクで、A組のあの子はもう2年生と付き合っている。とか、こういう噂がいくつも──それも、私のクラスにだけなんです」

「そいつは、凄いな」

 

 追釜の言う通り、凄い話だ。

 凄くて、あり得なくて、気味の悪い話だ。

 もはや噂話の域を大幅に超えている。

 あの子は二重に予防線を張っているけど2年生に本命がいて実はもう付き合っている、なんてレベルの掘り下げられた噂が短期間で拡散されているのだ。

 確かに、明らかに、明確におかしい。

 まるで誰かが生徒の個人情報を調べて、意図的に拡げているようではないか。

 それが琴葉のクラスにだけ起こっているという事実が、これは人為的なものだと思わせる要因になっていた。

 

「それで、クラスの雰囲気というか、皆んなの仲が拗れてしまって」

「委員長の田中が、解決を頼まれた。と」

「……はい、その通りです」

 

 皆んなが皆んな、互いに互いにを疑いあって、犯人は誰だと目を凝らし耳を澄ませている。

 ギスギスとしたあの空気を思い出すだけで、琴葉は頭痛がしそうだった。

 幸い色恋沙汰に縁もゆかりもない琴葉自身の噂は今のところ流れていないが、それだって時間の問題に思えたし、万が一を考えると気が気ではない。

 一通り話し終えて、琴葉は再び追釜の顔を伺ってみる。

 果たして、この妖しげな教師は琴葉の抱える問題をどうするつもりなのか。

 待つこと数秒、追釜はため息をついて。

 

「うむ……すまない田中、どうやら私では力不足のようだ」

「そう、ですか」

「いかんせんご覧の容姿なのでな、生徒と話す機会もなく噂の類には疎いのだ。期待に添えず、申し訳なく思う」

「い、いえ、そんな。話を聞いてくださっただけでも十分です」

 

 あまりに申し訳なさそうに謝られて、琴葉は素直に驚いた。

 この人見た目が妖しいだけで実は良い先生なのではと、そんな風にさえ思った。

 相変わらず平坦で起伏のない喋り方だけれど。

 根が真面目で心優しい琴葉からすれば、今の追釜は自分の担任よりも先生らしく見えたのだ。

 

「しかし大変だな、そんな噂話のもみ消しを頼まれるとは」

「……私も、今の状態でいいとは思っていませんから」

 

 この2週間で、彼女のクラスはすっかり変わってしまった。

 なんとかしたいと思う、けど何をすれば良いのか分からない。

 こんなこと、普段学校に居ない人には相談できない。

 両親や仕事仲間、それに自分を今の居場所へ連れてきてくれたあの人にだって、話せない。

 琴葉の暗い表情に、追釜はやはり事務的な口調で話す。

 

「もし、もしもの話だが。担任に急かされるようなら言いなさい、口添え程度なら私にも務まるだろう」

 

 正直、ホッとした。

 味方になってくれるのだと気がついて、琴葉は安堵した。

 我ながら単純だとも思ったが、それほどまで彼女は精神的に追い詰められていたのだ。

 クラスメイトは目をギラつかせ、担任は自分に丸投げ、そんな中で頼っていい大人が学校にいるのだと、少し気が楽になった。

 

「あの、ありがとうございます。追釜先生」

「構うことはない、必要なことだ」

 

 ぶっきらぼうに彼は言う。

 それがなんだか、優しさの裏返しに見えて、琴葉は笑ってしまいそうだった。

 心なし、足取りも軽くなる。

 話せてよかったと、琴葉はこの数分を振り返る。

 確かに追釜は妖しい風貌で、話し方も親しみを感じるものではないが、話してみれば生徒の力になろうとしてくれる立派な先生だ。

 今日まで見た目見かけで避けてきた自分を、恥ずかしくすら思った。

 

「よし、ここだ。ここに置いてくれ」

 

 話しているうちに、二人は目的地へ着いていた。

 扉の上から、廊下へ突き出るパネルには『視聴覚室』と刻まれている。

 琴葉は任されていたダンボール箱を置いて、制服のシワを正す。

 

「助かったよ田中、礼を言う。引き止めて悪かった」

「い、いえ。私の方こそ話を聞いてくださって、ありがとうございます」

 

 すると、追釜は半開きの目で琴葉を見つめ、こう言った。

 

「頼り甲斐があるというのも、考えものだな」

「えと、追釜先生?」

「いや、気にするな。これは今する話でもない……視聴覚室は何かから逃げるにはうってつけの場所だと、今はこちらを覚えておけ」

「は、はぁ。分かりました」

「あぁ、時間も時間だ。気をつけて帰りなさい」

 

 急に視聴覚室に逃げ込む話をされても、意味が分からない。

 追釜は優しいところもあるけれど、やはり変なところがあるのだなと琴葉は再認識した。

 と、言われて時計を見てみれば、時間はしっかり進んでいて、今から急いで待ち合わせにギリギリ間に合うか、というタイミングであった。

 

「あ、もうこんな時間っ。し、失礼します、追釜先生」

 

 やや急ぎ足で、琴葉は視聴覚室を後にする。

 彼女は焦っていたし、頭の中ではすでに間に合うか否かの計算が始まっていた。

 たがら気がつけなくても、それは琴葉の責任ではない。彼女が去る後ろ姿を見て、追釜が呟いた言葉を聞き逃しても、それは仕方のないことだ。

 

 

「さて、あとは食いつくのを待つとしよう」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 なんとか、約束の時間には間に合えそうだった。

 視聴覚室から西階段を二階降りて、廊下をまっすぐ進み、突き当たりを右折してまた直進、そして玄関に到着。

 靴を履き替え、扉に手をかけて──。

 

 あれ、おかしいなと、琴葉は思った。

 扉が、開かない。

 誰かが鍵を閉めたのかと確認してみても、施錠はされていない。

 なにかが引っかかっている様子もない。

 誰かが抑えているわけでもない。

 なのに、それなのに。

 ガラスの扉はピクリともしない。

 

「なんで、こんな……これじゃあ他の皆んなも──」

 

 出られない。

 そう言おうとして、誰かに現状への共感を求めようとして、田中琴葉は気がついた。

 というか、そもそも。

 この玄関に、自分以外の人間がいないことに。

 いや、それ以前に。

 自分は追釜と別れてから、一度でも誰かとすれ違ったか?

 

(……おかしい、あり得ない)

 

 この時間の玄関に、他の生徒も先生すらも居ないのはおかしい。

 3階にある視聴覚室から、ここまでの道中で誰とも会わないなんてあり得ない。

 掃除を済ませた生徒に部活動を頑張る生徒、生徒会の面々に先生たち。

 この時間帯に居るはずの人の、姿も声も、なにも感じ取れなかった。

 これではまるで、この校舎に自分一人しか居ないみたいじゃあないか。

 そう思った瞬間、そう思ってしまった瞬間、琴葉は今更ながら、自分が冷や汗をかいているのだと自覚した。

 バカな話だと、自分に言い聞かせる。

 たまたま、偶然そうなっただけで、自分が変に意識しているんだと説き伏せる。

 だけど、どんなに説得しても、分からせようとしても。

 校舎にあるべき音は聞こえず、自分の心臓が独りでに高鳴っているばかりだ。

 普段生活しているはずの校舎が、今は自分を閉じ込める檻のように思えてくる。

 

「そ、そうだ携帯。携帯で連絡をとればっ」

 

 カバンから携帯を取り出し、今も学校内で演劇の練習をしているであろう友人にコールする。

 頼むから、繋がって。

 そう願いながら数秒が経過し。

 コール音が止まった。

 止まったということはつまり、電話が通じたということだ。

 あぁなんだ、やっぱり自分の勘違いだったんだ。

 学校中から人が消えて、自分一人が閉じ込められるなんて怪奇現象、あるはずがない。

 そういうのは創作の中の出来事で、創作として楽しむものだ。

 現実じゃない、リアルに起こることなんかじゃない。

 そう安心して、友人に声をかけようと──。

 

「ウ シ ロ ダ ヨ」

 

 少年のような、少女のような声だった。

 まるで中高生が、噂を囁くような、そんな声だ。

 声に釣られてゆっくりと、琴葉は後ろを、つまり下駄箱側へと振り向いた。

 球体が、そこにはあった。

 直径2メートルはある、表面は何だかぼんやりとしていて、色は薄茶色で薄汚れた棉の塊みたいだった。

 呆然とする琴葉の前で、球体はゆっくりこちらへ進み。

 

 球体に触れた下駄箱が、グズグズに腐り溶けて崩壊した。

 

「────ぁ」

 

 琴葉は、声を失った。

 携帯を持つ手が震えて、強張って、動かし方が分からなくなる。

 溢れる唾が、うまく飲み込めない。

 浅い呼吸が連続して、心臓が締め付けられているかのようだった。

 分からない。訳が分からない。

 自分の目の前で起こった現象が、なに一つとして分からない。

 ただ一つ、彼女にも分かる確かな事実は。

 

 逃げなければ、次に溶かされるのは自分だということだ。

 

 

 

 



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『噂笠』其ノ弍

 

 

 

 アイドルになれて良かったと、田中琴葉は自分を選んでくれたプロデューサーに心から感謝した。

 アイドルになってから前にも増して体力が付いたし、効率的な体の動かし方も習えた。

 その成果もあって、しばらくは全速力のまま走っていられる。

 ありがとうプロデューサー、あなたのおかげで私はまだ生きています。

 

「はぁ、はぁ──あああぁっ!!」

 

 走る、震える足にムチを打ってひたすら走る。

 後ろを振り向く余裕など微塵もないが、雰囲気で分かる。

 あの正体不明な球体は、触れたものをドロドロに溶かしてしまうぼんやりとした球体は、執拗に自分を追いかけている。

 アレの正体がなんなのか、琴葉には皆目見当がつかない。

 触れたらマズイというのは、下駄箱を思い返せば明らかであったが、それ以外の情報が全くといって良いほどない。

 学校から出られない事実と関係しているのか。

 校舎から人気が感じられず、こうして走っていて誰とも会えないのは──つまり、つまりアレが、触れたものをドロドロに溶かすあの球体が、他の人たちを下駄箱と同じように。

 

「……うぅ、うあぁっ!!」

 

 想像しただけで、涙が溢れそうになる。

 動悸が激しくなり、身体中から嫌な汗が止まらない。

 それでも、琴葉は走り続けた。

 生きるために、生き延びるために走った。

 どうすれば逃げきれるのか、そんなことは分からない。

 けど、このまま死んでしまうなんて、何も出来ずにただ死ぬなんて、彼女にはとても耐えられない結末だった。

 こんな、なんの前触れも現れた意味不明な球体に、ドロドロに溶かされて死ぬなんて。

 アイドルになったばかりで、アイドルにしてもらったばかりで、これから仲間たちと一緒にやりたい事も沢山あって、なりたい未来が沢山あるのに。

 

(考えて……考えて田中琴葉。本当に、本当に前兆はなかった?)

 

 田中琴葉は考える。

 球体と出会う前に、何かおかしな、いつもと違うことはなかったか。

 この事態を予見させる出来事はなかったか考える。

 2週間前から流行り始めた謎の噂。

 壊れ始めたクラスの関係。

 琴葉に問題を背負わせた担任。

 資料運びを頼んできた追釜先生。

 見た目は妖しくて、不気味な国語教師に頼まれて、視聴覚室にダンボールを運んだ。

 道中では彼が相談に乗ってくれて、イメージが変わった。

 特に何事もなく視聴覚室に着いて、追釜とはそこで別れた。

 それだけだ。

 

(いや、違う。それだけじゃない、追釜先生は何かを言っていた)

 

 確かにそうだ。

 追釜は琴葉に、別れ際の挨拶……というか、よく分からない話をしていた。

 それこそ唐突に、後ろの球体が現れた時のように。

 彼は、追釜大知は、そう。

 

『視聴覚室は何かから逃げるにはうってつけの場所だと、今はこちらを覚えておけ』

 

 こんなことを、言っていた。

 まるで、こうなることを予知していたかの如く。

 溺れた狐は藁にもすがる。というが、琴葉はまさしく藁にもすがる思いで廊下を駆け抜けた。

 視聴覚室へと、全速力で。

 残りの体力を使い切る勢いで、思い切り。

 階段を駆け上がり、廊下を走り突き当たりを左に曲がって、『視聴覚室』のパネル目指してラストスパートをかける。

 背後ではドロドロに溶かされて、支えを失った棚が、廊下へ崩れる音がした。

 ここまでキープしていた距離が、詰められつつある。

 

(お願い、間に合ってっ。お願いだからっ!!)

 

 ガタンッ!! と、扉を壊しかねない勢いで開き、琴葉は視聴覚室に転がり込んだ。

 もう限界だった、これ以上は走れない。

 仮に追釜がこの件には全く関係していなくて、あれが助言ではなく戯言だとしたら、自分はここで溶けて死ぬ。

 そして、肩で息をする琴葉へと。

 

「どうした田中、下校時間はとっくに過ぎているぞ」

 

 彼女がやって来るのを待っていたように。

 廊下で話しかけられた時と、なんら変わらない平坦な声で、追釜大知はそう言った。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 よかった、生きている人間に出会えた。

 琴葉は心底ホッとした。

 ホッとして、今はそれどころじゃないことを思い出した。

 

「っ追釜先生!! 大変です、校舎の人が消えてしまって、私たち閉じ込められて、それに──」

「そのようだな。異界化で次層がズレ、やつは胞子でお前を追いかけ回しているようだ……おい、田中」

 

 淡々と、機械的に、抑揚のない語り部だった。

 彼女の鬼気迫る声に、彼は一ミリも動じていないようで、台本を読み上げるように琴葉へ声をかける。

 声をかけられて、琴葉はようやく、視聴覚室の様子がおかしいと気がついた。

 視聴覚室に置かれていたはずの机や椅子は、部屋の後方に山と積まれ、作られたスペースに追釜はしゃがみ込んでいる。

 彼は手に持った筆を滑らせて、部屋の床にいくつもの模様を描いていた。

 すると追釜はそのうちの一つ、直径1メートルほどの円を指差し。

 

「お前は円の内側にいろ、そこなら安全だ」

「あ、安全って。追釜先生、アレは本当に危ないんですっ!!」

「おいおい、お前は私の言葉を頼りにここへ来たのだろう。だというのに、この言葉は信頼しないのか」

 

 それを言われると、琴葉は反論できなかった。

 追釜の言う通りだ。

 他にあてがなく、追釜の言葉頼りに視聴覚室へ逃げ込んでおいて、そこで待ち構えていた追釜の話に耳を貸さないというのは、筋が通らない。

 言われるがままに、琴葉は円の中へと踏み入る。

 それと同時に、ドロドロと扉を溶かして、輪郭のぼやけた球体が室内へ侵入した。

 出かかった悲鳴を飲み込んで、琴葉は追釜を見やる。

 球体を見ても、彼の顔色はあらかじめ描いてあるかのように変わらない。

 やがて球体はある一点、つまり琴葉のいる円に狙いを定める。

 いくら安全とは言われても、球体が今までに溶かしてきたものを思うと、彼女は背筋に氷柱を差し込まれたようだった。

 

「お、追釜先生。あの本当に大丈夫なんですか?」

「あぁ、私の目を見てみろ。これが嘘をついている人間の瞳に見えるのか」

「半目じゃないですか!!」

 

 半分しか信じられない目ですよね、と。

 そんなツッコミを入れている間に球体は速度を上げ、一気に琴葉の元へと突っ込んできた。

 恐怖に押され、思わず目をつむる。

 あの下駄箱や棚のようなドロドロの液体にされるのかと、喉の奥がキュッと閉まる。

 しかし、いつまで経っても五体は満足で感覚もしっかりしている。

 彼女が恐る恐る、まぶたを開くと。

 球体は依然としてそこに在った。

 けれど、そこに在りはするけれど、球体はその場から動かずにいた。

 見てみれば球体の下、つまり視聴覚室の床に、球体を囲む形で正方形が描かれており、閉じ込めているようだった。

 

「捕獲完了だ。おかげさまで予定通りといえる、礼を言うぞ田中」

 

 追釜に感謝されても、琴葉はちっとも実感が湧かなかった。

 現実が分からなくなっていた。

 円の内にいるのだが、蚊帳の外だった。

 とりあえずの危険は去ったようだが、球体は床に描かれた正方形から抜け出せないようだが、追釜に問いただしたいことが山ほどある。

 しかし、琴葉が質問をしようと口を開く前に、追釜の顔がズイっと迫ってきた。

 彼は琴葉の五体を確認すると。

 

「お前は俊足だな、どうやら保険は無駄になったようだ。まぁ保険というのは、使わずに済むならそれに越したことはない」

「あの保険って、追釜先生はいったい何の話を……いえ、そもそもこれはどういう事なんですか?!」

 

 見るからに、明らかに、追釜は今校舎で起こっている怪奇現象の当事者だ。

 当事者で、介入者だ。

 閉じられた校舎、消えた人々、謎の球体。

 これらのことを把握した上でアクションを起こしている、そんな口ぶりだった。

 一応の安全が確保されたからか、琴葉の中では、事件に向かい合う気持ちが恐怖を上回り始めていた。

 だが追釜はそれどころではないと言わんばかりに。

 

「それは今話すことではないな。田中、死にたくなければ円から出るなよ。こいつは単なる胞子で、謂わば端末だ」

「これで、終わりじゃない……?」

「あぁ、そうだ。今から胞子を媒体に、本体を引きずり出す」

 

 追釜が球体を囲む正方形の、その手前に描かれた、小さなひし形に手を置く。

 すると球体はボコボコと形を崩し始め、やがて完全に霧散してしまった。

 床には球体を形作っていたのであろう粉が散らばり、そして追釜は言った。

 

「そら、お出ましだ」

 

 正方形の模様が薄れ、それと反比例するようにしてナニカが実体化している。

 田中琴葉は思い出す。

 追釜大知の言葉を思い出す。

 彼は球体を『胞子』と呼んでいて、また『端末』とも呼んでいたことを思い出す。

 ならば、球体が胞子で端末ならば、その『本体』に当たるのは。

 

 

「なに……これ」

 

 巨大な茸が、そこには在った。

 直径4メートルはあろうかという、毒々しい赤紫色の笠を広げて、悠然と。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「『噂笠』──名前の通り笠を広げて噂を広げて、人の輪に不和を生む妖怪だ」

 

 

 まるで一般常識を説くような口調だった。

 非現実的な存在を、現実のものとして定義している語り口だった。

 妖怪という言葉を、琴葉はその意味を咀嚼する。

 自分は実在する妖怪に襲われたのだと、ここへ来るまでに起こった事実を思い出し、今目の前に現れたオバケ茸を確認し、認識する。

 

「ここ2週間、田中のクラスに噂をばら撒いていたのは、こいつだ」

「こ、この茸が噂を?」

「そういう妖怪だからな。人間関係の亀裂から生じる、一種のエネルギーを啜っている。そういう、化け物だ」

 

 だから、人と人との関係を壊すために噂を広げる。

 真偽に関わらず、欺瞞の胞子を撒き散らす。

 この茸が、噂の大元であり諸悪の根元。

 退治すべき化け物なのだと、追釜は断言する。

 

「ちなみに人間を直接襲うタイプではないが……腐食性のある胞子を操る、再三にわたるが絶対に円から出るな」

「だったら、追釜先生も円の中に入った方が良いんじゃ……」

「お前は分からんヤツだな、この状況で私の心配か。だがまぁ、無用な心配だ」

 

 などと話しているうちに、噂笠は広げた笠を震わせ、無数の胞子を漂わせる。

 握りこぶし大の球体が拡散され、室内に積まれていた椅子を溶かし始めた。

 対して追釜は、胸ポケットから一本の万年筆を取り出し、ただ握り締めるだけだ。

 けれど、その格好があまりに熟れていて、琴葉の目には彼が武器を構えているような、そんな錯覚を受けた。

 

「こいつが姿を現した時点で、もう終わっている」

 

 その言葉を合図に、胞子が雪崩れ込んでくる。

 触れたものをドロドロに腐らせ溶かす、悪夢の球体が飛んでくる。

 

「追釜先生っ!!」

 

 こんな状況でも、こんな状況だから、琴葉は追釜の身を案じて叫んだ。

 それが、田中琴葉という少女の在り方だったから。

 そして琴葉は見た。

 追釜の握る万年筆からインクがほとばしり、しかし其れ等が重力に逆らいある形を模すのを。

 黒々としたインクが作り上げた、それは。

 

「……鎌?」

 

 それは、草刈りに使うような手持ち鎌だった。

 刃の箇所は、黒々としたインクによって形作られており。

 追釜が、黙ってインクの鎌を振り下ろす。

 それだけ、たったそれだけだ。

 たったの、それだけだった。

 当たり前の物理現象として、ヒュンっと小さな風切り音が鳴って。

 

 ──荒れ狂う暴風が、全てを吹き飛ばした。

 

 冗談みたいな光景だった。

 迫っていた大量の胞子も、その胞子を飛ばしていた巨大な茸も、山と積まれていた椅子山も、何もかもが風に飲まれていく。

 それは、視聴覚室の壁も例外ではなかった。

 メキメキと数秒耐えた壁は、最後には壁材とコンクリートを撒き散らしながら、風の進路から消し飛ばされた。

 後に残されたのは、壁一面を失った視聴覚室と、いつのまにか普通の万年筆に戻ったそれを胸ポケットにしまう追釜と。

 

「えぇ、う、あっ…………」

 

 眼前の事実に口が開けず、絶句する琴葉だけだった。

 加えて言うなら、彼女の驚きはまだ終わっておらず。

 彼女の目の前で、残された校舎が淡く光り始める。

 すると、追釜は風の件には一切触れずに、無表情に無感情に切り出した。

 

「『噂笠』が消えれば、やつの形成していた世界も消える。当然の帰結だ」

 

 視聴覚に残されていた壁が、窓が、天井が、光の粒子と化して消えていく。

 

「世界が、消えるって……」

「つまりは、元の世界に戻るという意味だ。普通の校舎に、普通の人間が集まる、普通の世界に帰るんだよ」

 

 そんな、色々と突っ込んで掘り下げたい発言に触れる間もなく。

 やがて琴葉と追釜の立つ床も光に包まれ、琴葉は平衡を保てなくなり、意識が朦朧とするのを感じた。

 それでも、せめてこれだけは知りたいと、琴葉は言葉を絞り出そうとする。

 

「追釜……先生、貴方は、いったい──」

 

 続きを言うだけの時間は、すでになかった。

 だが、完全に感覚がなくなる、その前に。

 

「あぁ、不本意とはいえ、田中の問題でもあるとはいえ、素人を巻き込んでしまったからな……これは迷惑料だ、何か美味いものでも食べに行きなさい」

 

 

 ぶっきらぼうな、棒読みな追釜の声を、彼女は聞いた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 今日はなんだか、おかしな日だった。

 そんな風に、田中琴葉は今日という1日を振り返る。

 寝間着姿で、ベッドに横たわりながら振り返る。

 

 クラスに蔓延するおかしな噂の対処を、担任の先生に丸投げされて。

 帰ろうと思っていたら、妖怪じみていると噂の国語教師、追釜大知に資料運びを頼まれた。

 そして追釜先生から相談に乗ってもらい、力になるとも言ってもらった。

 案外いい先生なのかな、と思った。

 そのあとは友人との待ち合わせに間に合わせようと玄関に急ぎ……確か、何事もなく校舎を出た、はずだ。

 どうも、この辺りが曖昧で、頭の中に靄がかかっているようだった。

 結局、間に合わせには遅れてしまい、映画の上映開始時間にギリギリ滑り込む形になってしまったのだが。

 

(恵美とエレナには、今度埋め合わせをしないとね。そうだ、駅前にできたカフェで何か美味しいもの、でも……)

 

 と、そこまで考えて。

 あれこれ何処かで聞いた気が、と琴葉の脳裏に不思議な光景がよぎった。

 吹き荒れる風、消し飛ばされる茸の怪物。

 そして、気だるげに声をかけてくる追釜大知。

 琴葉は、ゆっくりとベッドから降り、鞄を開く。

 無意識にというか、開けなきゃいけない気がしたのだ。

 果たして、中身を探ればそこには見覚えのない、厚みのある封筒が入っていて。

 封を切ると、そこには。

 紙の束が、入っていた。

 日本の歴史的人物の顔が印刷されており、様々なものとの取引使える、そんな紙束が入っていた。

 ざっと見ただけでも、30枚は軽く超えている、紙の束だ。

 つまるところ、有り体に言えば。

 

 ──万札が、それはギッシリと詰まっていた。

 

 

 その晩、田中夫妻は娘の大声に驚き彼女の部屋へと駆けつける羽目になったが、琴葉は頑として理由を語ろうとはしなかった。

 

 

 

 



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『迅麻疹』
『迅麻疹』其ノ壹


 

 

 少女は、憧れていた。

 

 あの人のようになりたいと、そう願っていた。そう望んで、そうあろうと努めてきた。

 幼い頃から、あの人の背中を見て育った少女にとって、いつか並んで立つことが夢だったから。

 別々の道を歩き始めた今でも、ジャンルは違えど、あの人は少女にとって、羨望の的だった。

 あの人のように動ければ、どれだけ素晴らしいのだろう。

 自分にもあんなに早くて正確無比なステップができたら、自分にもあれだけの鋭いターンが決められたなら。

 そんなこと表には出さなかったけれど、無意識のうちに、少女の裏にはそういった気持ちが溜まっていって。

 憧れて、焦がれて。

 どうしようもなく、浮き彫りになる。

 

 少女の憧れは、止まらない。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 ──田中琴葉は、早く明日に、月曜日にならないかと切に願った。

 

 

 こんなにも休日が早く終わって欲しいと思ったのは、琴葉にとって初めての経験だった。

 彼女にとって土日休みというのは、子供の頃は友人と思い切り遊べる日で、部活を始めてからは演劇の練習に打ち込める日で、アイドルになってからは、今こうしているようレッスンに励む日であったからだ。

 しかし、金曜日の放課後に起きた、自分の経験したあの摩訶不思議な体験を、大事件を思い出すと、琴葉は居ても立っても居られなかった。

 それになにより恐らくは追釜大知が、カバンに忍ばせたのであろう札束を……50万円のことを考える。

 1日でも早くあの胡散臭い国語教師から、事の真相を聞き出さなければと考える。

 なんて、余計なことを考えていたせいか、ステップを踏んでいた足がもつれてしまい──。

 

「っとと!! 琴葉、大丈夫?」

「う、うん。ありがとう海美ちゃん、捻ったりはしてないよ」

 

 崩れかけた体勢を、支えてもらい立て直した。

 幸い、直ぐにカバーしてくれたおかげで大事にはならなかったが、今はレッスンに集中しなければと反省する。

 自分のミスで相方に迷惑をかけるわけにもいかない。

 けれど、茶髪と笑顔の眩しい相方──高坂海美は琴葉の手を引いて。

 

「そっかー良かったっ!! でも、念のため休憩しよっ。私も喉乾いちゃったし!! もうカラッカラ!!」

「あはは、ごめんね私のせいで……」

「気にしない気にしなーい!! それより琴葉、これ美奈子先生に教えてもらった特性ドリンクなんだ!! 一口あげるよ!!」

 

 彼女のこういうところが、琴葉は大好きだった。

 常にエネルギッシュな海美は、自由奔放に見えて周りをよく視ている。

 とっさに、バランスを崩した自分を支えることが出来たのだって、踊りながらもこちらを気にかけていたからだ。

 それでいて、気を使わせないように明るく接してくれる。

 高坂海美は、そういう女の子だ。

 琴葉は受け取ったペットボトルから一口飲むと。

 

「美味しいよ海美ちゃん、なんだが元気になってきちゃった」

「でしょー?! 元気な曲の練習だもんね、公演まで元気100%で頑張ろう!!」

 

 満開の笑顔に釣られて、琴葉も思わず笑みをこぼす。

 来月の公演で、彼女は海美とのデュエット曲を披露するのだ。

 格好の悪いところは、見せられないし、見せたくない。

 海美の隣に立つアイドルとして相応しい自分でありたいと、琴葉は思う。

 

「海美ちゃんは今日も元気一杯だね。私も頑張らなきゃ」

「じゃあ二人で元気に頑張ろうね、琴葉!!」

 

 メラメラと目が燃えているようだ。

 昨日も一緒にレッスンをしていて思ったが、昨日今日と海美の気合の入りようは凄まじいものがあった。

 なにか嬉しいことでもあったのだろうかと、琴葉は尋ねてみる。

 

「ふふっ、昨日からいつも以上にやる気一杯だよね。なにか良いことあったの?」

 

 すると、海美はここ2日の自分を振り返ったのか、やや頬を赤らめながら。

 

「えーっとね、お姉ちゃんが帰ってきてるんだ」

「海美ちゃんのお姉さんって……あの、バレエダンサーの?」

 

 海美の姉は、プロバレエダンサーだったはずだ。

 確か海美自身、昔はバレエを習っていたと、琴葉は記憶していた。

 尋ねられた海美は、燃えていた目を一転キラキラと輝かせると。

 

「そうなの!! すっごいダンスが綺麗で、私のダンスも見てもらったんだ!! でもお姉ちゃんはもっと凄くて!!」

「海美ちゃんより凄いって、流石だね……」

 

 海美は文句なしに765プロトップクラスのダンサーだが、やはり年季の違いというか、高坂姉の実力はそれを上回っているらしい。

 さぞかし心技体に優れた人なんだろうなと、琴葉は想像する。

 ただ、想像はするが、憧れもするが、自分が行き着きたい場所がそこかと問われれば、どこか違うようにも思えた。

 

「私達も、私達なりのパフォーマンスを完成させようね」

「うん!! お姉ちゃんに負けないくらい、私頑張るよーっ!!」

 

 対抗意識というよりは、強い羨望からくる、自分もあぁ成りたいという感情なのだろうか。

 なんにせよ、海美が姉をとても慕っていることは間違いなく。

 残りの休憩時間中、琴葉は海美のお姉ちゃんトークに付き合うのだった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 日曜日の夜ともなれば、学生の半分程度は明日からの学校に辟易とし、社会人の大半は迫りくる月曜日に鬱蒼な気持ちを隠せない。

 そんな日曜の真夜中に、追釜大知は一人河川敷を歩いていた。

 川の流れる音に、河岸の石を踏む音を混ぜながら、目的地へと進んでいく。

 

「まぁこの場合、目的地というよりは、目的人と呼ぶべきか」

「……おじさん、誰?」

 

 追釜が声をかけると、返ってきたのはそんな言葉だった。

 目的人。目当ての人。

 追釜が目的としている相手。

 それは少女だった。

 少女が一人、深夜の岸辺に立っていた。

 それだけでも景色から浮いているというのに、パステルピンクの寝巻き姿が、より一層違和感を加速させる。

 

「おじさんとはご挨拶だな。私は追釜大知という、近隣の高校に勤めている教師だ」

「──へぇ。センセイ、なんだね」

「そうなるな。なので深夜に一人で徘徊している未成年を、家に帰しに来たというわけだ」

 

 さもそれが当然のことのように追釜は言い、確かに教師が深夜徘徊をしている生徒に帰宅を促すというのは、至極当たり前のことではあったのだけれど、言葉のニュアンスに本来あるべき『心配』だとか『叱咤』はまるでなく、それこそ茶番を演じているようだった。

 そう、茶番。

 教師が生徒へ話しかけている。という茶番を。

 

「嫌だよ、嫌に決まってるよ。こんなに気持ちがいいのに、こんなに思い通りに身体を動かせるのに、どうして大人しくしていなきゃならないの?」

「ほう、想定よりも進んでいるとなると……よほど憧れが強かったと見える」

「センセイ、なんの話をしているの?」

「その痣の話をしている──といっても、この進行度だと、もはや自意識も気薄なのだろうが」

 

 痣。

 不思議な形の痣。

 十字に見えるの痣が、寝巻きの隙間からのぞく少女の体を、覆い尽くしていた。

 

「なぁんだ、見えてるんだね。知ってる人なんだ。この痣──私のことを」

 

 伸ばされた茶髪を夜風に靡かせて、少女は獰猛な笑みを浮かべる。

 その顔に、十字の痣を受けながら。

 ごく自然な動作で、追釜は胸ポケットから万年筆を取り出す。

 それを見て、ただの万年筆に見えるそれを視て、少女は腰を落とし構えをとった。

 空気が変わる。

 茶番から、本番へ。

 教師が生徒へ話しかけている。という茶番から。

 妖怪事の請負人が妖怪変化へ向かい合う。という本番へ。

 

「私は大したことなど知らないが、今のところ自由に動けるのは深夜帯のみだというのは知っている……まぁなんだ、拒絶される前に、一応出ていくことを勧めておこう」

「ふふっ、やってみてよ、やってみなよ!! この子の憧れは、そう簡単には止められないんだからっ!!!!」

 

 直後、真夜中の川辺で、二つの影が激突した。

 

 

 

 



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『迅麻疹』其ノ貮

 

 

 

 

 翌日。

 月曜日の放課後、今をときめく高校生アイドル田中琴葉はテキパキと帰り支度を済ませると、脇目も振らず真っ直ぐに職員室へ向かった。

 無論、高校生でアイドルの琴葉にはレッスンの予定があったが、なので時間に余裕があるわけではなかったが、それでも向かわずにはいられない理由があった。

 あの妖怪じみた国語教師を問い詰めるために扉を開き、追釜大知から先日のことを聞き出そうと室内を見渡した。

 カバンに入れられていた50万円をお返しするために見つけようとした。

 だが、しかし。

 いくら視線を巡らせても、目を凝らしても、あのボサボサ頭は見当たらない。

 

「あの〜、田中さん。急いでいるみたいだけど、誰か探しているの?」

「えぇと、その、追釜先生に用事があるんです」

 

 声をかけてきた女性教師に追釜の名前を出すと、彼女はしばし考え。

 

「そういえば……後始末がどうとか、言っていたわね」

「分かりました、ありがとうございます」

 

 お礼を述べて、スタタタと職員室を後にする。

 これほど分かりやすい手がかりもない。

 手がかりというか、ヒントというか、もう答えそのものだった。

 彼が後始末といったのなら、自ずと場所は限られるからだ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「私は大したことなど知らないが、ゆえに訳は知らないが……どうした田中、そんなに息を荒げて」

 

 それが視聴覚室の扉を、覚悟を決めて勢いよく開いた琴葉に、追釜から浴びせられた第一声であった。

 途方もなく白々しい、分かりきっていることを彼女に言わせようとする、そういう言い草だ。

 しかし、根っこのところが純粋な琴葉は、皮肉を言うのでもなく、悪態を吐くわけでもなく、単刀直入に切り出した。

 懐から例の封筒を取り出すと、教卓に腰掛けている追釜へ差し出して。

 

「追釜先生、この封筒の中身について、なんですけれど──」

「なんだ、50万では足りなかったか。その強欲さには好感を持てるが、過ぎた欲は身を滅ぼすぞ」

「返しにきたんですよ!! こ、こんな大金受け取れませんっ」

 

 そりゃあ琴葉はアイドルとして働いているわけで、いくら資金繰りの苦しさに定評のある765プロとはいえ、それなりのお給料は受け取っている。

 しかしだからといって、ポンと50万円を渡されて平気で受け取れるような金銭感覚を、彼女は持ち合わせていない。

 故に受け取れないと、琴葉は50万の詰まった封筒を追釜へ返そうとした。

 だというのに、当の本人は胡乱げな表情で彼女を見ながら、逆に言葉を返してくる。

 

「分からんヤツだな。金が無くて困ることはこの世にごまんとあるが、有って困ることなどそうはあるまい。大人しく取っておけ、それで終わりだ」

 

 確かに、追釜の言い分は一理ある。一理あるし、利益のある話だ。

 ただ、琴葉の理屈は、彼女がこの金を受け取れない理由は他にあるわけで。

 

「そういう問題ではないんです。昨日何が、この校舎で起こっていたのかも分からずに、ただ黙ってお金を受け取って、それで終わりだなんて……納得、できる訳ないじゃないですか」

 

 結局、そこなのだ。

 田中琴葉のたった一つ変えられない理由は。

 突き詰めてしまえば、納得がいかないという、その一点に尽きる。

 損得ではなく、説得でもなく、琴葉は納得を求めていた。求めていたからこそ、ここで引き下がるわけにはいかなかった。

 

「追釜先生。あなたは一体、何者なんですか?」

「……中々どうして。存外、我が強いのだな」

 

 相も変わらず胡乱げな声でそう言うと、追釜は琴葉の差し出した封筒を、つまり50万円を受け取り、代わりに一枚の小さな紙を取り出した。

 

「そこまで言うのなら仕方あるまい、この50万は私が預かろう。代わりに……と言ってはなんだが、これを持っておきなさい」

 

 そこに書かれていたのは追釜大知の名前に、電話番号。

 そしてもう一つ。

 『妖怪事、承ります』

 という一文だ。

 

「あの……これって」

「それが私の本職だ。妖しく怪しい出来事を、『妖怪事』を解決する。3日前のようにな」

 

 妖怪事。その言葉に、琴葉はあの不可思議な体験を思い出す。

 生徒の間に漂う妖しい噂、人の消えた校舎、奇怪に危険な胞子からの逃走、『噂笠』という妖怪との遭遇。

 そして、それらを跡形もなく吹き飛ばした、追釜の風。

 あれらを纏めて『妖怪事』と、追釜はそう表現した。加えて、自分はそれを解決する者だと。

 

「……あれは、夢じゃなかったんですね」

「そうだ」

「私の……勘違いでもなかった」

「そうだな」

 

 改めて知った、知らされた現実を、琴葉は噛みしめるように、飲み込むようにそう零した。

 追釜はそんな琴葉に相槌を挟み、重ねて問う。

 

「どうする、今からでも封筒の方を受け取って、夢だったことにしても良いのだが」

 

 言い方は相変わらずぶっきら棒で、こちらの答えにはまるで興味なんか無いような聞き方だった。

 だと言うのに、何故だろうか。何故だか琴葉は、彼女のプロデューサーと話している時のような、自分を試しているかのような意志を感じてしまう。

 しかし。で、あるのなら。そうであるのなら。

 

「いいえ。名刺の方を、受け取らせてください。一度目にしたものから、目を逸らしたくないんです」

「……そうか。やはり、分からんヤツだな」

 

 自分はそんなに分かり辛い人間なのだろうかと、差し出された名刺を受け取りながら、琴葉は思った。

 友人からはよく、琴葉は分かりやすいからね〜などと言われてしまう自分が。

 けれど、追釜へ語った言葉に嘘はなかった。その目に映した真実を、虚実であったことにしてしまっては、結局それは自分自身に嘘をついているのと同じだ。

 琴葉や、彼女の仲間たちは、そういうのが一番嫌いなのだ。

 それに、名刺を受け取ってあれを現実だと認めなければ、自分たちの大事にしている言葉を言わずに終わってしまう。

 

「ありがとう、ございます。追釜先生のおかげで、クラスの噂話はすっかり無くなりました。まだ少しギクシャクしていますけど……それは、時間が解決してくれると思います」

 

 今日になって、つまり追釜によってあの化け茸『噂笠』が退治された最初の月曜日。琴葉が教室へ入ると、あの何処からともなく囁かれていた噂は綺麗さっぱり消滅していた。

 無論、噂が消えても噂が流れていた過去は残っているため、拗れた人間関係の全てが修復されるというわけでもなかったが、それでもこれ以上悪化することはないだろう。

 経緯はともあれ、噂が消えたのは追釜のおかであることに間違いはなく、その点について、琴葉は彼に敬意を表した。

 すると追釜は、ゆっくりと目線を腕時計に合わせて、あくまで自然に淡々とこう言った。

 

「礼には及ばん。ところで田中、やけに急いでいた様子だったが、時間は大丈夫なのか」

「……えっ、あっ」

 

 言われるがままに自分も時計を確認してみれば、いつのまにか想定以上に時間が経過していた。というか、今すぐ出ないとバスに間に合わないまである。

 バスに間に合わない。それ即ち、遅刻である。

 まだまだ沢山、追釜には聞きたいことがそれこそ山のようにあるのだが。

 

「し、失礼します追釜先生──次はちゃんと聞かせて貰いますからね!!」

「聞きたいというのなら、好きにしなさい。満足のいく答えが得られるかは別としてだが」

 

 飄々とした返答を背中に受けながら、琴葉は仲間たちの待つ劇場へ向けて、小走りで歩を進めるのだった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「ど、どうしたの海美ちゃんっ。その怪我!!」

 

 その日、珍しくレッスンに遅れかけた琴葉は事務所に入るなり、開口一番にそう言った。

 彼女にしては珍しい大声も、今回ばかりは仕方がない。

 何故なら、765プロの仲間であり、ユニットの相方でもある高坂海美が、身体中に湿布やら絆創膏やらを貼り付けていた状態で、ソファーに座っていたからだ。

 しかも湿布で覆いきれなかったのか、首筋には十字のような形の痣まである。

 見慣れた相手の怪我をした姿というのは、それだけで動揺をしてしまうし、それが運動神経抜群の海美であったのも、琴葉の狼狽えっぷりに拍車をかけていた。

 しかし、当の本人はといえば。

 

「あはは……えっと、その、派手に転んじゃって。こう、ズシャーッてねっ!!」

「派手に転んだって……大丈夫なの?」

「平気だよー、骨にはなんの異常も無かったしっ。今からでも踊れちゃうくらいだから!!」

 

 右手を後頭部に当てながら、バツの悪そうにそう笑う。

 いやいや今からでも踊れるって、本当に大丈夫なのだろうか。そう思ったのは琴葉だけではなかったらしく。

 

「なぁ海美。先生も言っていたけど、しばらくは安静にしなくちゃダメだ」

 

 そう言ったのは、スーツ姿の若い男性。優しそうな雰囲気であるが、糸のように細い目には強い意志が見てとれる。

 彼は琴葉や海美、そしてこの劇場に所属するアイドルのプロデュースを一手に手掛ける、765プロのプロデューサーであった。

 そんな彼の制止の言葉に、海美は口元を尖らせると。

 

「えぇー、でも──」

「でももだっても無い、こればっかりは許可できない」

 

 諭すような口調ではあったが、プロデューサーは海美の反論を許さない。

 確かに今日は、というより今日も海美は琴葉とのユニットレッスンが控えていたが、怪我の程度からしばらくは様子を見るべきだと、プロデューサーは判断した。

 

「プロデューサー……」

「あぁ、分かってる琴葉。本当は病院から真っ直ぐ家に送るつもりだったんだけどな」

 

 心配を抑えきれない琴葉の言葉に、プロデューサーはそう苦笑しながら海美を見やる。

 

「琴葉には直接話したいって、海美がな」

「本当に、ゴメンね琴葉。大切なレッスンだったのに……」

 

 先ほどの元気な様子から一転して、叱られた子犬のような、シュンとした声色の海美。

 自分の不注意が原因で、スケジュールに穴を開けてしまったことを、彼女はとても申し訳なく思っている事が、痛いほど伝わってくる。

 わざわざ、これを伝える為に海美は劇場で待っていたのだ。

 ならばと、琴葉は彼女がこれ以上傷つかないよう語りかける。

 

「大丈夫だよ海美ちゃん。ほんの少し遅れたって、海美ちゃんなら──ううん、私達なら大丈夫」

 

 だから、今はゆっくり休んでね。と、そう言葉を続けて、琴葉は慈しむように微笑んだ。

 すると、そんな彼女の優しさに感極まったのか、海美は自分が怪我人であることをすっかり忘れて立ち上がりながら。

 

「琴葉ぁ〜っ!! 好き!! 大好きっ!!」

「おーい怪我人、そろそろ家に送るからな」

 

 そう言って、両手を広げて琴葉へ飛びついた。いや、飛びつこうとして、その前に両肩をがっちりとプロデューサーに抑えられた。

 

「そういう訳だから、今日のレッスンは一人で受けてくれ。トレーナーさんには俺から話を通してあるから、メニューを組んでくれているはずだ」

「はい、ありがとうございます。プロデューサー」

「あぁ。海美を送ったら、そっちにも顔を出すよ」

「琴葉っ、また明日ね!! 明日までには絶対治すから!!」

 

 どう見たって1日2日で治る怪我ではなかったが、最後まで元気たっぷりに、海美はプロデューサーに連れられて行った。

 最初は驚いたし、今だって心配しているが、あの調子ならそう遠くないうちに復帰できるはずだ。

 もともと強いフィジカルの持ち主であるのだから、きっと大丈夫だろう。

 と、そこまで考えを巡らせた辺りで、琴葉はふと──いや、いの一番に思うべきであった疑問を、今更になって思い出した。

 そもそも、765プロにおいてもトップクラスの運動神経とバランス感覚を持つ彼女が、高坂海美が、どうしてあぁも派手に負傷するような転び方をしてしまったのか。

 

(気にし過ぎ……なのかな。追釜先生とのことがあったから、不安になってるだけなのかも)

 

 さきほどは驚きが勝って聴きそびれたが、何故だかその謎について考えると、琴葉は嫌な予感がしてならなかった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 その晩、二つの影が対峙していた。

 二つの影が、夜の学校のグラウンドで、剣呑な雰囲気をまとい向かい合っていた。

 

「あぁ、昨晩ぶりだな。今夜は逃げてくれるなよ」

 

 影の片割れ──中年国語教師、追釜大知は面倒なテストの採点をするような声色で、目の前の影へと語りかける。

 

「センセイこそ、昨日の私と同じだって思ったら、大間違いの思い違いだよ」

 

 するともう片方の影──体に十字を背負った少女は、昨晩とは違う落ち着いた黒色の寝巻きから伸びた、スラリとした手足をしならせる。

 

「……そのようだな。一晩でよくそこまで積み上げたものだ。積み上げ──いや、思い詰めたというべきか」

 

 昨晩の戦闘は、とても戦闘といえるものではなく、途中からはただ一方的に追釜が少女を追いたてるだけで、完全に逃げの姿勢に入った少女を、追釜は追わなかった。

 けれど、確かに少女の宣言通り、今の彼女からは昨夜とは段違いのエネルギーを感じる。

 適度に痛めつけておいた傷も、ほぼ全快している様子だった。

 

「この子はね、本当に凄いの。才能があって、努力もしているのに──まだ憧れてる、まだ羨望が尽きない!! あはははっ、どれだけお姉さんが超人なのかって話だよねえ!!」

 

 両手を広げ、構えとも呼べない立ち姿のまま、少女は笑う。

 おおよその人間が可愛いと認識するであろう、整った顔立ちを禍々しく歪めて。

 

「だからね、私が連れてってあげるんだぁ。誰も届かない遙か高みまで、誰も追いつけない最高速で!!!!」

 

 少女の言葉に呼応してか、体に広がる十字の痣が桃色に光りだす。

 溢れんばかりの力が、彼女の体内を駆け巡る。

 その様子をただ眺め、しかし追釜はいつもと何ら変わらない、平坦な声でこう言った。

 

「それが──本人の望みではないとしてもか」

 

 笑顔が、凍る。

 少女の笑顔が、凍りつく。

 

「この子が望んだことだよ」

「いや違うな。こうなりたい。と、こうしたい。は全くの別物だ」

 

 だからな、と追釜は区切り。

 万年筆を構えて、半開きの瞳で少女を見据えながら。

 

「引っ込んでいろ、この出しゃばりが」

「────ッ!!!!」

 

 瞬間、グラウンドの地面が爆ぜ。

 二つの影は、再び交差する。

 

 

 

 



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『迅麻疹』其ノ參

 

 

 

 海美とプロデューサーを見送ってから一夜が明け、火曜日。

 放課後になると琴葉は再び視聴覚室を訪れてた。

 それは勿論、件の妖怪事について追釜に尋ねる為である。昨日の話ぶりからして、まともな情報を得られるかは正直自信が無かったが、それで引き下がる琴葉ではない。

 頑張って根気強く聴いていこう。

 そう気合を入れて、彼女は扉を開いた。

 扉を開くと、そこには頭に雑な包帯を巻き、頬や首筋に湿布を貼り付けた追釜がいた。

 デジャヴ、であった。

 

「えっと……大丈夫なんですか?」

「あぁ、田中か。無論無問題だ、心配には及ばない」

 

 ちっとも無問題には見えないお加減であるにも関わらず、追釜は平常運転だ。

 今日こそは根掘り葉掘り聴こうと意気込んで来たのは良いが、出鼻をくじかれてしまった。

 

「でも、その……病院に行かれた方がいいんじゃ」

 

 包帯は明らかに素人が巻いたもので、強いて言うなら追釜本人が巻いたものだろうし、彼が然るべき医療機関で治療を受けていないことは明らかだった。

 しかし、追釜はあくまで無感情に。

 

「気にしてくれるなよ。本業では良くあることだ」

「本業って、それじゃあまさか」

 

 この返答は、琴葉の危機感を煽るには十分過ぎた。

 本業。というのは、昨日渡された名刺に書いてある『妖怪事』を指しているはずで、仮にそうであるのなら、再び妖怪が現れたという話になってくる。

 あの化茸のような、危険極まりないこの世の理の外にいる存在が。

 

「で、でも。追釜先生がここに居るってことは、もう退治されたんですよね?」

「いや、それが取り逃がしてしまってな。次で止められると良いのだが」

「追釜先生でも、苦戦するような妖怪なんて……」

 

 自分がごく自然に『妖怪』という単語を使っていることに多少の動揺を覚えつつ、琴葉の表情は深刻さを増していく。

 思い出されるのは、あのおかしくなった校舎での一幕だ。あれだけの暴風で、教室ごと噂傘を吹き飛ばした追釜を以ってして、倒し切れない妖怪が、この街にいる。

 それはとても、途轍もなく危険な事実なのではないのか。

 そんな琴葉の顔色から、彼女の心情を察したのか、追釜は新たに湿布を貼りつつ話し始める。

 

「一つ、勘違い──いや、思い違いを正しておくとだ。暴力で解決する『妖怪事』なんてものは、実に少ない」

「そういうものなんですか?」

「そういうものだ。力尽くで解決しようしたところで、大抵はロクな結果にならん」

 

 そもそもにおいて、暴力による妖怪事の解決は、根本的な解決に至らないケースが多いと追釜は語る。

 

「私が今もこうしてこの部屋に居を構えていることが、その証左だ」

「……噂笠」

「その通りだ。本体は私が霧散させたが──胞子が、この校舎には残留している」

「じゃあ、後始末っていうのは」

「あぁ、残った胞子を活動不能に追い込む為の処理だな」

 

 だから、追釜は事件が終わった後も視聴覚室を根城としている。それが必要な処置だったからだ。

 

「今回の件についてもそうだ、力任せに終わらせたところで、事態は悪化する」

 

 それが分かっているからこそ、追釜は決着を先延ばしにしていた。

 あの──体に十字を背負った少女との決着を、強引に引き剥がそうとすれば、少女の方もただでは済まないと知っていたから。

 

「ところで田中、今日はなんの用事だったんだ」

 

 問われて、琴葉はすっかり忘れていた用事を思い出す。

 そうだ、そうだった。

 そもそも、彼女が追釜を訪ねたのは、彼に聞きたいことがあったからで。

 包帯姿の追釜に気を取られて、またもや時間切れになるところであった。

 

「私、その……妖怪事について、ちゃんと話を聞こうと思ったんです」

「──ほう、そいつはまた何故なんだ?」

「え、何故って……」

 

 質問に質問が返ってきて。

 けれど、琴葉はその質問に答えることが出来なかった。

 追釜に問い返されて、ふと思ってしまったからだ。

 

(……私、なんでそんな妖怪事に関わろうとしているんだろう)

 

 知らないままでいたくないと、昨日は思った。なにも知らないまま、ただ50万を渡されて、それで終わりだなんて自分には受け入れられないと。

 それは自分自身が事件の当事者で、被害者でもあり、ことの真相を知らなくてはならないという義務感があってのことだ。

 であれば、今の琴葉は。

 

「お前が妖怪についての見識を深めたところで、なにか意味があるようには思えないが」

 

 追釜の言うとおりだ。

 彼には力があり、妖怪事の請負人である。

 妖怪事に関わるプロとして、必要な知識や経験を持っているのは当たり前のこと。

 けれど琴葉は、田中琴葉は一般人だ。

 偶然、たまたま妖怪事に巻き込まれただけで、本来妖怪について知るはずもなかった一般市民である。

 力も、知識も、経験も、何もない。

 

「でも私は……一度知ってしまったら──」

「知らずにはいられない、か。普通なら、一度妖怪に遭遇した者は、二度と会うまいと避けるものだが……お前は本当に分からんヤツだ」

 

 そう言って、追釜は元々半分閉じかけていた目を瞑り、数秒だけ考えると。

 仕方なさそうに、しょうがなさそうに、琴葉へ言葉を投げかけた。

 

「もし……もう一度だ、田中」

「……追釜先生?」

 

 もう一度、なんなのだろうと琴葉は追釜の二の句を待つ。そんな琴葉に、彼はゆっくりと、身体の芯に響くような声で告げる。

 

「もう一度お前が妖怪に出会ったのなら、その時は──」

 

 

 また、ここに来なさい。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 田中琴葉は現役の女子高生であると同時に、現役のアイドルでもある。

 琴葉の職場、765プロライブ劇場(シアター)──通称シアターへは、最寄りのバス停から5分ほど歩く必要があり、彼女はその道中にあった。

 

(もう一回妖怪事に出会ったら……か)

 

 アスファルトの道を進みながら、琴葉は先ほどの言葉を思い返していた。つい1時間ほど前に、追釜大知からかけられた言葉を。

 18年間生きてきて、"初めて"遭遇した妖怪。

 あんな存在に、二度も会うことが果たしてあるのだろうか。

 というより、出会ったとして。そして、追釜から話を聞けたとして。

 自分はいったい、どうしたいのだろう。

 結局、その答えを見つける前に、琴葉はシアターの裏口に着いてしまった。

 今日はまた一人でレッスンを受ける予定なので、まずは事務室へ顔を出そうとドアを開けた。

 

「あ、琴葉!! ええところに、琴葉からも言うたってや〜!!」

「な、奈緒ちゃん?! どうしたの? そんなに慌てて」

 

 すると、ちょうどドアの向こう。廊下に続く玄関でスマホを弄っていた──今のところは自称大阪の一番星、横山奈緒が琴葉へ縋り付いてくる。

 

「どうもこうもヘチマもあらへん、海美が来とるんや!! 琴葉とレッスンするいうてな!!」

「海美ちゃんが? でも、あの怪我で動けるわけが……」

 

 彼女が見ているこちらが痛ましく思うほどの怪我を負ったのは、つい昨日のことだ。

 医者からも数日は安静にしているように、と釘を刺された海美が、なぜシアターに。

 

「あ〜、それなんやけど。なんや私もわけが分からんくて……様子がおかしいのは確かなんやけど」

「まって、どういうことなの? 奈緒ちゃん、わけが分からないって」

「実際見たほうが早いと思うわ。悪いんやけど琴葉、海美のこと任せても構わへん? 一応プロデューサーさんには電話で知らせたんやけど、私これから外に出ないとあかんくて……このとおり!!」

 

 両手を合わせて勢いよく頭を下げながら、申し訳なさそうに片目の上目遣いをする奈緒。

 そして琴葉は、頼みごとを断れない彼女は。

 

「分かったわ、海美ちゃんには私から話してみる」

「おーきに、ほんまおおきにな琴葉!! あの聞かん坊のこと、頼んだわ!!」

 

 言うが早いか、よほど急いでいたらしく、奈緒は駆け足で去って行ってしまった。

 

(海美ちゃん……どうして)

 

 またもや、嫌な予感が琴葉の脳裏を過ぎる。

 ここへくる直前に、追釜とあんな話をしたからだと自分に言い聞かせながら、彼女はレッスンルームへ急いだ。

 自分の思い違いだ。

 きっと彼女のことだから、元気が有り余っている海美のことだから、無理をして来たに違いない。

 だから、自分がちゃんと言い聞かせて、家に返さなきゃ。

 そう意気込んで、琴葉はレッンルームへの扉を開く。 

 はたして。

 

「こっとはぁーーっ!! 昨日はごめんね、私もう大丈夫だよ!!!!」

 

 そこには、高坂海美がいた。

 当たり前のように、当然の如く。

 昨日まで巻きつけていた包帯は解かれ、湿布も剥がしたいつも通りの姿で。元気に飛び跳ねる、高坂海美がそこにいた。

 そんな海美に、すっかり元どおりになったはずの高坂海美に。

 琴葉は、震えを押し殺した声で問いかけた。

 

「海美ちゃん……怪我は、どうしたの?」

「あんなの、ぐっすり眠たら治っちゃった!!」

 

 どこも痛くないと証明するように、海美の体がステップを刻む。

 今までの、どんな海美より速く鋭いステップを。

 

「奈緒ちゃん、心配してたよ。海美ちゃんの様子がおかしいって」

「あはは、なおーも琴葉も心配性だなー。見て見て琴葉っ、このターン!!」

 

 キュッと、レッスンルームの床が鳴る。

 海美がターンをするたびに、完璧なターンを決めるたびに。

 

「じゃあ、海美ちゃん」

「ん? どうしたの琴葉、まだなにか気になる?」

 

 こんなにも素晴らしいステップと、文句の付け所のないターンができる自分に、まだ疑問があるのかと海美は首を傾げる。

 そして、震える手で必死に、琴葉は海美を指差した。

 否、海美自身をでなく、正確には。

 

 

「──その、十字の痣はなに?」

 

 彼女の体を覆っている、十字の痣を。

 琴葉には、最初から見えていた。

 昨日見たときには首筋に一つあっただけの痣が、今はこうして海美の全身に広がっているのを。そしてそれが、今は薄らと桃色に発光している事実を。

 琴葉は驚愕し、しかし同時に疑問にも思った。

 なぜ、横山奈緒はこんな状態の海美を琴葉へ任せようと思ったのか。

 身体中に十字の痣ができていて、しかも光っているなんて、明らかな異常を琴葉へ伝えようともせずに、どうして。

 そして、そんな琴葉の疑問へ答えるように。

 いつの間にか、床を鳴らすターンの音は消えていて。

 彼女は、体に十字を背負った少女は、ピタリと静止した姿勢のまま。

 

「あ、なんだ。見えてるんだね、琴葉にも……ちょっとビックリ、2人目なんて」

「……あなたは、誰なの?」

 

 声が、震える。

 まさかと思った。

 そんな馬鹿なとも。

 自分が感じた小さな違和感が、嫌な予感が、こうも最悪な形で実現するだなんて。

 けれど現実だ。

 現実として、彼女目の前には。

 

「私は、私だよ? 琴葉もよく知ってるじゃん、ダンスが得意で、体が柔らかくて、お姉ちゃんのことが大好きな、高坂海美だよ?」

 

 高坂海美の姿をした、別の誰かがいる。

 別の誰かが、異なるなにかが、海美の体で琴葉の前に立ち、海美の顔で笑い、海美の声で語りかけてくる。

 

「だから琴葉、レッスンしよう? 完璧なライブにするために、私と一緒に──」

「違う」

 

 琴葉は彼女のセリフを遮って、そう断言した。

 違う、あなたは違うと。

 断じて、高坂海美ではないと。

 あぁ、きっと今の自分は酷い顔をしているに違いない。顔を青くして、額には汗をかいて、唇も無様に震えているんだろう

 それゆえに、田中琴葉は言わなくてはならなかった。

 

「海美ちゃんは、高坂海美は……あなたじゃない。海美ちゃんは休むように言われて無理をする子じゃないし、誰かの心配を蔑ろにするような子でもない」

 

 高坂海美は、プロデューサーの指示を無視したりしない。

 いつだって優しい彼女は、奈緒に心配されたことを軽んじたりは決してしない。

 それに。

 

「それになにより、今みたいな顔をしている私を見て、放って置いてくれる人じゃない……っ」

「…………」

 

 だからあなたは違うんだと、琴葉はそう突きつける。

 すると、突きつけられて、突き立てられた海美は──否、高坂海美の形をした彼女は、それまで浮かべていた笑顔を消し去り、感情のこそげ落ちた顔で、ただ一言。

 

 

「じゃあ、貴女は要らない」

 

 目の前に、海美がいた。

 拳を固めて、琴葉の頭を打ち抜こうとする海美が。

 数メートル離れていたはずの距離が、ゼロになっている。

 琴葉は、瞬き一つしていなかった。

 つまり彼女は、瞬き一つ以下の時間で、その距離を詰めたということで。今の彼女には、それだけの力があるという証拠で。

 当然、反応など間に合うはずもなく。

 自分はこれから死ぬのだという覚悟を決める暇もなく。

 琴葉は、彼女の振りかぶった拳を、ただ呆然と眺めることしかできなかった。

 

 

 

 



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『迅麻疹』其ノ肆

 

 

 

『琴葉は頼り甲斐がある』

 

 そんな言葉をかけられるようになったのは、彼女が10歳──小学校4年生に進級してからのことだ。その頃から、田中琴葉の周囲にはそういう風に言う人間が増えていった。

 以来、琴葉は周りから頼られ、色んな期待を背負ってきた。するとクラスメイトに先生、そして両親も、口を揃えて頼り甲斐があると言ってくれる。

 自分はこれだけ必要とされているのだと、琴葉はその度に実感することができた。

 ある種の生き甲斐を、琴葉は感じていたのだ。

 

 けれど、しかしよくよく考えてみれば。

 果たして、その前の自分はどうだったろうか。それまでの、頼り甲斐があるようになるまでの田中琴葉は。

 いったいどんな人間だったのだろう。

 8年前のことだから、思い出せなくても不思議ではない。

 ただ、不自然に靄がかかったように、琴葉は8年以上前の自分がどんな子供だったのかを、思い出せずにいた。

 まるで、どこか深いところへ閉じ込めてしまったかの如く。

 臭い物へと蓋をするように。

 

 深い深い、記憶の海底へ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 謎の十字をその身に背負った高坂海美。

 彼女の身体能力はすでに人の限界を超えており、細身の体躯からは想像もできないほどの力が、その拳には宿っていた。

 人間はおろか、コンクリートの壁だって打ち抜いてしまえるほどの力が。

 そんな拳を叩き込まれれば、人間は生きてはいられない。ましてや頭に受けようものなら、首ごと弾け飛んでしまうだろう。

 ゆえに、田中琴葉の生存は絶望的だ。

 彼女は人間であり、人間は悲しいほどに非力だ。

 万が一にも、億が一にすら、琴葉に対抗する手段はない。

 そう。

 

「──首筋がヒリヒリするっていうのかな……久しぶりに、本当に久しぶりに、そういう感覚がしたんで、走って(・・・)来たんだが」

 

 田中琴葉(・・・・)には不可能だ。

 

「……プロ、デューサー?」

「悪い琴葉、少し遅れた」

 

 そしてこの男は、田中琴葉のプロデューサーは、不可能を可能にしていた。

 信じられない光景だった。

 琴葉と海美の間に割りこんだプロデューサーは、彼女の拳をしっかりと受け止めていた。人外じみた威力の拳を、一歩も引かずに。

 

「嘘でしょ……3人目?!」

 

 海美の姿をした彼女の目にも、驚愕の色が浮かぶ。空かさずもう片方の拳も突き立てるが。

 

「どこぞの妖怪変化かは知らないけどな──」

 

 二撃目すら、止められた。

 スーツ姿の、平均身長と平均体重を地でいくような男に。いとも容易く平然と。

 

「それは海美の体だ、返してもらうぞ」

「この感じ……まさかっ」

 

 互いに両手を塞がれた状態で、それでも妙な圧力を感じさせるプロデューサーに、海美の体が全力で警鐘を鳴らす。

 次の瞬間、プロデューサーの瞳が妖しく光り。

 対して高坂海美は、その体を覆った者は、目を瞑ったまま──全力で体を捻り、その場で一回転した。

 単純な腕力では、この男には敵わない。

 しかし体の柔軟性ではどうだ。

 

「うお?! しまっ──」

 

 どれだけ力があっても、体の構造は人間の枠を超えていない。

 腕を捻られ、プロデューサーはたまらず手を離してしまう。

 一瞬の隙。

 それだけあれば、この体ならば十分過ぎる。

 

「あはははっ!! 危ない危ない、でもこれで誰も私には追いつけないよ!!」

 

 両足でバネのように跳躍し、天井を一蹴りして開いていた窓枠から脱出する。

 完璧なルートだ、いったん外に出てしまえば速度で負けるはずがない。

 速く、もっと速く、迅速に、憧れよりも更に速く。

 もう誰にも囚われてなるものか。

 十字の痣が一層強く光り輝き──

 

「させるかああぁぁっ!!」

「んな?!」

 

 プロデューサーの投擲したなにかが、僅かに早く窓枠へ衝突。

 コツンと小さな音が鳴って、それだけ。

 たったそれだけで、あり得ない事象が起こる。

 すなわち。

 それまで窓枠だった場所が、単なる壁になるという形で。

 窓枠からの脱出を企てていた海美は、突如現れた壁に阻まれて、足が止まってしまった。

 その時間があれば、この男にとっては十分過ぎた。

 数瞬遅れで追いついたプロデューサーは、海美を床に押し倒すと、肩を掴んで固定する。

 そして、プロデューサーと、海美の眼が合って。

 

「なんで、どうして……私はこの子の望みを叶えただけなのに!! なんで邪魔をするの?!」

「──悪い海美、後でたくさん謝るから」

 

 プロデューサーの瞳が、黄色に染まり、瞳孔が細くなる。

 それはまるで、獣の目のようだった。

 彼の瞳に射抜かれた海美は、やがて力尽きたのか大人しくなって、最後は意識を失った。

 小さな、海美の吐息がレッスンルームに零れて、ようやっと。

 

「──あの、プロデューサー」

 

 高坂海美の体を動かす何者かに襲われたこと。

 プロデューサーが助けてくれたこと。

 プロデューサーが見せた力の数々。

 突然の連続に、早過ぎる展開に、そして実際目で追えない速度で繰り広げられた攻防に、呆然とするほかなかった琴葉は、このタイミングで口を開くことができた。

 海美ちゃんは大丈夫なんですか、とか。

 今の力は何なんですか、とか。

 そんな質問が、彼女の口から飛び出す、その前に。

 ギクリと、プロデューサーは琴葉の声に固まった。

 彼自身、彼女に対してどんな説明をすれば良いのか全く考えていなかったからだ。

 何も考えずに、プロデューサーは兎に角がむしゃらに海美と琴葉の間に入っていった。そのため何処から、というより何から説明すべきかもまるで固まっておらず、彼は珍しく焦った。

 焦って、しまった。

 そして彼の焦りとリンクして、

 

「えっ」

「あっ」

 

 ポンっと、冗談のような音とともに。

 耳と尻尾が、プロデューサーから生えてきた。

 狐のような、耳と尻尾が。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「じゃあ……その、話をまとめると」

「……はい」

「プロデューサーは……妖怪憑き、なんですね。狐の」

「ああ、魂に妖怪狐を住まわせてる」

 

 プロデューサーが元通りにしたレッスンルームで、気絶した海美をマットに寝かせ、琴葉とプロデューサーは彼女の寝顔を見守るような位置取りで体育座りをしていた。

 あの後、つまりプロデューサーに耳と尻尾が生えた後、彼は流石に誤魔化せないと観念したのか手短に事情を説明してくれた。

 曰く、彼がその妖怪狐と出会ったのは高校生の頃。当時の友人と「コックリさん」 で遊んでいたことが始まりだったらしい。

 

「普通のコックリさんなら、そもそも何も起こらないはずだったんだけどな……後から知ったけど、時間やら場所やら面子やら手順やら、色々な偶然が重なっていたみたいなんだ」

 

 結果として、彼の身体には妖怪狐が取り憑いてしまった。取り憑かれて、ちょっとした事件を引き起こし──妖怪事の請負人に、助けられた。

 請負人は当たり前であるが妖怪狐を退治しようとして、けれど彼は、被害者であるはずの青年は、それに待ったをかけた。

 

「同情とか、そういうんじゃないんだ。ただ……取り憑かれていた間、心が解放されて好き勝手していたのは事実だし、こいつにだけ責任を負わせて消すのは、なにか違うと思ってさ」

 

 そして、彼は魂に狐を住まわせ、一生背負っていくことになった。

 ちなみに妖怪憑きの別パターンとして妖怪交じりがあり、妖怪憑きが魂に妖怪を住まわせるのに対して、妖怪交じりは肉体に妖怪を住まわせている。

 

「なら海美ちゃんは、妖怪交じりになってしまったんですか?」

「うーん、どうだろうな。俺も請負人ってわけではないから、正直わからない。こればっかりはプロに聞かないと」 

 

 妖怪のプロ。

 妖怪事の請負人。

 田中琴葉は知っている、追釜大知という妖怪事の請負人を知っている。

 彼なら、彼に聞けば、高坂海美の身体に起きた異変も解決してくれるのだろうか。

 校舎に住み着いていた蕈の妖怪──噂笠を退治したときのように。

 

「俺としては、琴葉の話も聞きたいところだけどな、妖怪のことは知っているんだろ?」

「……はい。先日、妖怪事に巻き込まれてしまって」

「──そうか、無事でなによりだよ。そっちはもう解決してるのか?」

「学校の先生が、請負人だったんです。それで……」

 

 今回の件についても、力を貸してもらえるかもしれないと、琴葉は説明する。

 無表情の無感情である人だけれど、請負人を名乗っている以上、依頼という形でなら動いてくれるはずだ。

 それになにより追釜は今日、シアターへ向かう前の琴葉にこう言った。

『もし、もう一度妖怪に出会ったその時は、ここに来なさい』と。

 追釜がどこまで知っていたかは分からない。けれど、琴葉にはどうしても、追釜と出会ってからの一連の流れが、偶然だとは思えなかった。

 

「……うん、そういうことなら急ぐべきだろうな。俺が一走り行ってくるよ」

「え? でも車が──」

 

 あるじゃないですか。と言おうとして、琴葉はプロデューサーがこのレッスンルームへ来たときに、なんと言っていたかを思い出した。

 確か、聴き間違えでなければ、走ってきたと、そんなことを言っていた気がする。

 

「あー、すまない。車は出先の駐車場に置いてきたんだ。走った方が早いから」

「……本当に、凄いんですね。妖怪の力って」

「頼り過ぎるのも問題だけどな、今回は相手が相手だ」

 

 道路を気にせず建物の屋根やらを使ったとはいえ、車よりも早く移動ができるというプロデューサーに、琴葉はどこか諦めの混じった声を出してしまう。

 自分が18年間培ってきた常識なんてものが、いかに薄っぺらい表面上のものであったのかを見せつけられて。

 

「でもやっぱり、私も行きます。その方が、話もスムーズに進むはずです、違いますか?」

「それは、その通りだが……時間をかけられないのも事実だ」

 

 海美の体になにが起きているのか分からない以上、急がなくてはならない。

 タクシーを拾うにしても時間がかかるし、琴葉のペースに合わせても同じだ。

 どうするべきか、プロデューサーは思考し思案し、やがて一つの結論を出した。

 しかし、それを実行するにあたってどうしても避けられない問題があり。

 

「琴葉、先に謝っておく。後で一つ、なんでも言うことを聞くから、それで勘弁して欲しい」

「えと、プロデューサー……なにを?」

 

 要領を得ない琴葉に、プロデューサーはまず意識を失っている海美を抱きかかえて、お次に体育座りをしていた彼女の膝裏と背中に手を添えて抱き上げた。

 

「つまり、こういうことだっ。本当にすまない!!」

「えっ? え、えぇ、ええええぇえっ!?」

 

 お姫様抱っこであった。

 どこからどう見ても、完全に。

 生まれて初めて、それこそ父親にすらされた事のない抱えられ方に、琴葉は素っ頓狂な声をあげてしまった。

 

(プ、プロデューサーの体がこんなに近くにっ……あ、やっぱり凄い力。全然不安な感じがしない──って、そういう話じゃなくて?!)

 

 顔を真っ赤にした琴葉へ、それ以上の言葉はどうやっても追撃にしかならない。

 なのでプロデューサーは、一刻も早くこの時間を終わらせるべく、レッスンルームの窓から跳躍し、琴葉の通う高校へと跳びだした。

 

 

 

 



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『神麻疹』其ノ伍

 

 

 

「なあ、琴葉……」

「駄目ですプロデューサー、まだ見ないで下さい」

「あっはい」

 

 10分後。

 車で向かえば早く見積もっても30分はかかるはずの琴葉の高校へ、田中琴葉とプロデューサーの2人はいた。

 かなり気不味い空気を纏いながら、2人で視聴覚室への道を歩いていた。

 正確には、プロデューサーに抱きかかえられた高坂海美もいるのだが、彼女は依然として眠ったままだ。

 10分間のお姫様抱っこは琴葉の心に深い爪痕を残していき、ゆでダコよろしく真っ赤に染まった顔はまだ戻っていない様子であった。

 なのでプロデューサーは琴葉の隣に並ばないよう、そして横顔が見えないよう、ピッタリ後ろを歩いている。

 

「ところでプロデューサー、その頭の葉っぱはどんな意味が?」

「ん? ああ、これは気配を隠す仕掛けだよ。見つかったら絶対騒ぎになるしな」

「なんでもありですね……本当に」

 

 その辺の木から葉っぱをとって頭に乗せたときは頭の心配をしそうになったけれど、実際この状態のプロデューサーには誰も話しかけないどころか見向きもしないのだ。

 まるで御伽話に出てくる狐や狸みたいだなと思って、そういえば本当に狐なのだと思い出す。

 プロデューサーが、狐。

 厳密には魂に狐が住んでいると彼は言っていたけれど、琴葉にはその違いが分からなかったし、最近は驚くことが多過ぎたせいか、なんだか一周回って落ち着いた気持ちでその事実を受け止めることができた。

 

「言い忘れてたけど……ありがとうな、琴葉」

「……プロデューサー?」

「いや、受け入れてくれてさ、俺のこと。アイドルの皆んなに話すのは、当然だけど琴葉が初めてだったから」

 

 咄嗟のことではあったけれど、あの姿を見られて特に変わらなかった琴葉の様子に、プロデューサーは少なからず救われていた。

 

「そんな、私の方こそ……その、助けてもらったお礼がまだでしたよね。ありがとうございました、プロデューサー」

「いや、それは当たり前のことだよ。俺はプロデューサーなんだから」

「だったら、私も当たり前のことをしただけです」

 

 2人が、2人で、2人ともお礼を言って。

 なんだか、不思議な雰囲気になって。

 

「……じゃあ、お互い様ってことにしておこうか」

「そうですね、その方が私達らしいと思います」

 

 自分と彼は、アイドルとプロデューサーだから、上でも下でもなく、横並びの存在だから。

 だから、やっぱり隣にいるのがいいのだろうと思い、琴葉は歩調を遅くしてプロデューサーの横を歩き始めた。

 

 

「──着きました、この部屋です」

「視聴覚室か、そういえばあったなぁこんな部屋」

「私も使うのは年に数回ですけどね」

 

 たぶん学校の中で影の薄い部屋Best3に入る、だからこそ追釜が占拠したところで大して問題になっていないのだろうが。

 ともあれ、ここまで来た以上は海美を元通りにする為にも、今度こそ追釜に話を聞いてもらって、聞かせてもらわなくては。

 

(今回はプロデューサーも一緒だし、きっと平気……うん)

 

 なぜか、根拠もないというのに、琴葉はプロデューサーが側にいてくれるだけで、それだけで勇気が湧くのを感じた。

 コンコンと、部屋の扉にノックをして、

 

「失礼します、追釜先生」

「────えっ」

 

 隣のプロデューサーがどういうわけか、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしているのを横目に、琴葉は扉を開いた。

 視聴覚室は、相変わらず机と椅子が乱雑に積み重ねられていて、中央の空きスペースを取り囲んでいた。

 そして彼は、妖怪事の請負人──追釜大知は、教壇に腰掛けて、まるで2人が来るのを待っていたかのように。

 

 

「数刻ぶりだな、田中。そして──数年ぶりだな、狐小僧」

「げぇ、ガマ先?!」

 

 琴葉と、ついでにプロデューサーへそう告げた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 プロデューサーにとって、追釜大知は恩人である。

 それは間違いない。

 狐狗狸(こっくり)さんに取り憑かれた、飲み込まれそうになっていた自分を引っ張り出してくれたのは彼だし、その後の身の振り方についても色々とアドバイスをしてくれたのも追釜だ。

 だから、彼にとって追釜は恩師であり、大きな恩がある。

 

「いやでもガマ先、あんた別れる時に『もう二度と会うこともないだろう』とかなんとか言ってなかったか?」

「私は大したことなど知りはしないが……言ったかも知れんな。そういうお前も『ああ、あんたには世話になった。ありがとう』だとか言ってい──」

「覚えてるじゃねえかバッチリと!!」

 

 渾身のツッコミが炸裂し、プロデューサーはがっくりと項垂れた。

 琴葉の話を聞いてまさかとは思ったが、本当にそのまさかとは、まさかこの人と再会するとは。

 

「でも、そっか。琴葉のことも助けてくれたんだな……ありがとう」

「成り行きだ、気にするな。故に金を取る気もない」

「俺の時には50万要求された気がするんだが……」

「お前は自分から首を突っ込んだ上に、面倒な後処理までさせたのだから、当然の金額だ」

 

 その50万の返済をする為に、プロデューサーの高校時代の半分は、追釜の使いっ走りとしての生活だった。

 危ない橋を何度も渡らされたし、あの世とこの世を反復横跳びする羽目にもなった。

 とはいえ、大切なアイドルである琴葉が同じような目に遭わされないのなら、それに越したことはない。

 

「もとより、今回は大口のスポンサーが付いている。この近隣で妖怪事を請け負う分には、あの女に請求するさ」

「へぇ、スポンサー」

「物好きな小説家だよ、まぁ今はその話はいい。問題は、だ」

 

 そう言って、追釜は改めて琴葉へ向き直り、平たい声で語りかける。

 

「よくもまぁ、昨日の今日で妖怪に出会えるものだ……これはいよいよだな」

「その、私も別に遭おうとして遭っているわけじゃ……」

「だろうな、そういう意味ではお前は非常に運が悪いが──狐小僧が居合わせた点で言うのなら、運は悪いがタイミングは良いらしい」

 

 狐小僧、というのは先程も言っていたがプロデューサーのことを指しており、琴葉にとっては頼りになる大人であった彼が、こうして小僧扱いされているのを見ていると、なんだか不思議な感じがした。

 それにプロデューサーと追釜は、どこか仲が良い──とは違うけれど、お互いのやり取りには親近感にも似たなにかを感じる。

 

「それで追釜先生、海美ちゃんのこと──助けて貰えるんですか?」

 

 プロデューサーに抱かれた海美を見て、琴葉は追釜へと尋ねた。

 その為に彼を訪ねたのだ。今は光を失っているが、あの十字の痣を消さないことには、同じことの繰り返しになる。

 もし彼女を助けられとしたら、追釜を置いて他にはいないと琴葉は考えていた。

 

「いや、助けない。正確には助けられない、私ではな」

 

 けれど追釜は、そう言い切った。

 高坂海美を助けることはできないと、あっさりと。

 

「そん、な。どうして」

「実を言うとな、ここ二日間私が相手をしていた妖怪というのが、この娘にあたる」

「………っ」

 

 追釜が相手をしていた妖怪。

 彼が取り逃がした妖怪、それが海美なのだとしたら、まさか追釜の手にも負えない状態なのかと、琴葉の頭に最悪の予想が過ぎる。

 

「待てよガマ先、あんたが海美を取り逃したって? 悪い冗談だぞ、それは」

 

 そう言ったのはプロデューサーだ。

 自分に捕まえられた海美を、追釜が捉え損ねるなど考えられない。

 この力の使い方を教えてくれたのは、他でもない追釜大知なのだから。

 

「そうだな、確かに無理やり引き剥がすことは可能だった」

「なら!!」

「ただし、そうした場合。ほぼ確実に後遺症が残る、これは避けられないことだ」

 

 後遺症。

 その言葉に、琴葉とプロデューサーは口を噤んだ。

 それがどんなものであれ、海美のアイドル生命に関わることだったからだ。

 重苦しい空気の中、しかし追釜は淡々と。

 

「だがまぁ、私はこうも言ったぞ。私には助けられないと」

「おいおい、あんたじゃなきゃ、誰が海美を助けるって言うんだ?」

 

 妖怪事の請負人である追釜でなければ、誰が。

 プロデューサーはそう言って、追釜に追求の視線を向けた。すると追釜はゆっくりと手を上げ。

 

「いるじゃないか、ここに適任が」

 

 田中琴葉を、指差した。

 

「わ、私が……?」

 

 琴葉は困惑した。

 自分が、海美を助ける。

 襲われた時も、ここに来てからも、ただ見ていることしかできなかった自分が?

 そんなこと、出来るわけがない。

 自分には、そんな力はない。

 それは追釜にだって分かっているはずだ。

 なのに、なぜ。

 

「なぁガマ先、それは──」

「兎に角、時間だ。狐小僧、その娘をいったん下ろせ」

 

 有無を言わせぬ口調に、プロデューサーは反射的に海美を下ろしてしまった。

 こればかりは習慣というか、条件反射というか、こういう時の追釜には逆らわない方が上手くいくという経験則に因るもので。

 

「では、お目覚めの時間だ」

 

 追釜がそう言った瞬間、海美の体を覆う十字の痣が光りだした。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「『迅麻疹』──迅速なる麻疹と書くが、時代によっては神なる麻疹とする見方もある。ある意味では、人の願いを叶える存在だからだ」

 

 迅麻疹、転じて神麻疹。

 人の憧れを食い物にし、身体能力を異常に強化することで、本人の意思とは関係のなく人の身のままで人外じみた力を与える神。

 ああ成りたい、こう成りたい。

 そんな憧れを、羨望を、曲解して、極大解釈して、ありもしない力を植え付ける。

 

「そいつが、海美の体を?」

「あぁ、仮に神だとしてもこいつは悪神だ……本人が願うことを止めない限り、こいつは娘の体に寄生し続ける」

「──随分と、失礼な口をきいてくれるね」

 

 追釜の説明に割り込んできたのは、紛れもなく海美の声だった。

 しかしその中身は本人ではなく、彼女の体を覆う者──迅麻疹による意志である。

 

「何度も言うけど、何度でも言うけれど……私は、この子の望みを叶えただけ。この子がああ成りたいと願ったから、私は神として(はやさ)をあげただけ」

 

 それだけだと、海美の声で迅麻疹は語る。

 彼女の望んだ速さを与えただけ。

 願った力を授けただけ。

 でも、それは。

 

「でも、海美は望んでないはずだ」

 

 プロデューサーは彼女の言い分を聞いた上で、それでも否定した。

 

「いいや、願った。この子は願った。そうでないと私は在れないんだから」

「──確かに、海美は願ったのかも知れない」

 

 こう成りたいと、願ったのかも知れない。

 だが、そうだとしても。

 仮に、海美が願ったのだとしても。

 

「けど『こんな形で願いが叶う』ことを、海美は絶対に望んでなんかいない」

 

 こんな、仲間を傷付けることを厭わない願いの叶え方を、高坂海美は望まない。

 それだけは絶対にあり得ない。

 

「ふん、そんなこと、貴方には分からないでしょ? 貴方は何も知らないんだから」

「かもな」

「だったら──」

「だから、本人に聞くとするよ」

 

 プロデューサーの瞳が黄色に染まり、獣の瞳が開く。グラっと、海美の体が倒れそうになって、琴葉は慌てて彼女を支えた。

 

「簡易催眠だ、今から少しだけ海美を呼び戻す」

「プロデューサー、私は……」

「たぶん、海美は琴葉に聞いて欲しいんだと思うよ。だから琴葉を狙ったんだ」

 

 琴葉なら、海美の願いを止めることができると分かっていたから。

 迅麻疹は、自分でも気がつかないうちに琴葉へ執着していた。

 

「こういうことで良いんだよな」

「上々だ、やはり田中が適任だろう」

「それは……まぁ、俺も同感だよ」

 

 大人2人がそう言う横で、琴葉は海美を膝枕している状態になりながら、その時を待った。

 やがて海美の目が薄らと開き、ポツリと。

 消え入りそうな声を、琴葉へ。

 

「……こと、は」

「海美ちゃん!! 大丈夫、私はここだよ」

 

 琴葉の返事に、海美はボンヤリとした声で、まるで独り言のように言葉を紡ぐ。

 

「ごめんね、琴葉……たくさん迷惑、かけちゃって……」

「ううん、気にしてない」

 

 本当に、そんなことは気にしてないよと、琴葉は海美の頭を優しく撫でる。

 

 

「……私ね、お姉ちゃんみたいになりたかったんだ」

 

 三日前に聞いた、海美の持つ姉への憧れ。

 超人的な姉と、それに憧れる妹の話。

 それが今回の発端であると、琴葉はやっと理解することができた。

 姉のように成りたいという、強い気持ちが、迅麻疹を呼び出したのだと。

 ああ成ることが、高坂海美の願いだったから。

 

「お姉ちゃんみたいに、もっと上手く踊れたらいいなって」

「……うん」

「私なんかより、ずっとずっと凄い、お姉ちゃんみたいに……成りたくて。でも、成れなくて」

 

 コンプレックス、である。

 高坂海美は優秀なダンサーだ。

 その事実に偽りはなく、シアターの誰もが彼女のダンスを認めている。認めているし、見習っている。もし仮に認められない者がいたとしたら、それは海美本人に他ならない。

 どれだけ努力したところで、その上をいく姉の存在が、無意識のうちに彼女の中にコンプレックスを生み出していた。

 コンプレックスはやがて願いとなって、願いが迅麻疹を現出させた。

 

「だから、私……私っ」

 

 いったい、自分は何をしているのだろう。

 虚しさが涙となって、海美の瞳から溢れだす。

 姉に、自分の凄いところを見て欲しかった。私は頑張ってるよって、だから安心してねって、そう伝えたかった。

 なのに、中々思い通りにいかなくて。

 頑張っても、頑張っても、姉は軽々とその上をいく。

 そんなとき、ふと頭に響いたあの声に、よく考えもせずに頷いてしまった。

 『貴女がそれを願うなら、私が叶えてあげるから』

 その結果が、この有り様だ。

 自分なんて、高坂海美なんて。

 嫌になる、自分のことが嫌いになりそうで、海美は──

 

「あのね、海美ちゃん」

 

 だから、田中琴葉は言わなくてはと思った。

 辛そうに涙を流す海美に、自己嫌悪に陥っている海美に、憧れることを止められない、願い続けてしまった海美に。

 

「私たちがいる、私たちが頑張ってるこの世界は、アイドルは、誰が一番凄いか──じゃなくて、誰が一番好きなのか、それが大事なんだと思うの」

 

 きっと自分が限界まで努力して、時間をかけて、vocal・dance・visual全てが全盛期を迎えたとして──それでも、自分より凄い人はいるのだろう。

 田中琴葉は、それを知っていた。 

 人には限界があって、上には上がいること。

 誰もがNo. 1には成れないこと。

 頂点は一つしかないこと。

 そして。

 仮にそうだとしても、『誰かの一番』には成れることを、琴葉は知っていた。

 ファンにとって、応援しているアイドルは誰がなんと言おうと自分にとっての一番星だ。

 その人より歌が上手いアイドルがいても、その人より完成されたダンスを見せるアイドルがいても、その人よりも高いビジュアルを持つアイドルがいたとしても。

 それは決して、アイドルを応援しなくなる理由には成り得ない。

 海美の姉がどれだけ優れた人であっても、海美のファンは、海美だけのファンだ。

 

「だって海美ちゃんは、海美ちゃんだから、高坂海美なんだから。皆んな、海美ちゃんだから好きなんだよ──それじゃあ、ダメなのかな……?」

 

 海美が、高坂海美だから、好きなのだ。

 代わりのいない、替えの効かない人だから。

 

「……琴葉は」

「うん」

「琴葉も、私のこと……好きでいてくれる?」

 

 それでも、不安そうな顔を浮かべる海美へ、琴葉は即答してみせる。

 

「好きだよ。私は、海美ちゃんのことが大好き」

「えへへ、そっか……よかったぁ……『この子のこと、よろしくね』」

 

 最後に、そう言って笑って、海美はまた琴葉の膝で眠ってしまった

 そんな海美を、琴葉は愛おしいそうに抱きしめる。もう二度と、彼女が不安になんてならないように。

 海美の体に、十字の痣は……もう、一つも残っていなかった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「結局、あれでよかったんでしょうか」

「あれで、というと?」

「海美ちゃんの記憶を誤魔化したことです」

 

 後日、とあるオーディションを終えた琴葉は、プロデューサーと2人車に乗っていた。

 迅麻疹は跡形もなく消え、海美はすっかり元気になった。今日もこれからシアターでデュエット曲の練習をする予定になっている。

 高坂海美は元通りになった。

 体も、そして記憶も。

 プロデューサーが催眠をかけて、海美の記憶を誤魔化したのだ。

 海美の記憶の中では、あの日は無理にレッスン出てきて、琴葉を待っているうちに寝てしまい、そしてプロデューサーに家まで強制送還されたことになっている。

 

「俺はよかったと思ってるよ。忘れられるなら、忘れた方がいい」

「確かに、無理に覚えておく必要はないのかも知れませんね……」

 

 自分が悪神に取り憑かれて、仲間を襲った記憶なんて、無いに越したことはない。

 

「それに全てを忘れたわけじゃないさ。琴葉の言葉は、ちゃんと海美に届いてるよ、きっとな」

「そうだといいんですけど、私も必死でしたから」

「でも、間違ったことは言ってない、そうだろ?」

「少なくとも、私は正しいと思ったことを言ったつもりです」

 

 琴葉は自分の本心を、海美に語ったつもりでいた。それが伝わっていればいいなと、彼女は願う。

 誰もが、誰かの一番なんだって。

 きっと誰かが、他の誰でもない貴女を待っているんだと。

 そう知って欲しかった。

 

「あ、そうだプロデューサー」

「ん、どうした?」

「学校へ私を連れて行ったとき、なんでも言うことを聞いてくれるって言いましたよね?」

「え? あー、言ったっけなぁ、どうだったか、俺も必死だったから──」

「言いましたよね?」

「はい、言いました……」

 

 運転しながら項垂れるという器用な真似をするプロデューサーへ、琴葉は珍しく悪戯っ気のある顔で。

 

「じゃあ、今日のオーディションに受かっていたら。撮影中の送り迎え、プロデューサーにお願いしてもいいですか?」

「えっ、いや構わないが……それでいいのか?」

「はい、いいんです」

 

 それがいいんです。

 本人に聞こえないよう、琴葉は心の中でそう付け加えた。

 

 

 

 



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『献花蟻』
『献花蟻』其ノ壹


 

 

 

「貴女の、そのお気楽な神経が気に食わないって言っているのっ!!!!」

 

 レッスンルームに、少女の声が響いた。

 高圧的で、高飛車な、相手を完膚なきまでに否定する声が。

 まるで心中の悪意という悪意を固めた塊のような、触れたものを皆傷つける声。

 反撃など許すものかと言わんばかりに、少女は次なる口撃を放つ。

 

「教養も行動力も覚悟もない、確固たる信念もない──なのになんで、どうして貴女が……」

 

 少女の唇がワナワナと震え、その瞳に憎悪が浮かんだ。

 なぜだ。

 なぜお前が選ばれた。

 彼に相応しいのは私なのに。

 彼に相応しい存在である為に、あらゆる物を犠牲してきた私のはずなのに。

 なぜ、お前が王妃に選ばれた。

 なぜ、なぜっ、何故だっ!!

 その身にまとう雰囲気はますます剣呑になり、そして。

 

「──殺してやる」

「はい終了、琴葉さんもっと心の闇を出していこうねー」

「えぇ、今のでも足りないの? 桃子ちゃん」

 

 映画監督よろしく丸めた新聞紙を叩いて、周防桃子のダメ出しが飛び出した。

 自分としてはかなり煮詰めてきたつもりでいたのだが、元名子役の目は厳しい。

 桃子は腰に両手を当てると、やや前のめりの姿勢になって、琴葉へ具体的な言葉を投げかける。

 

「当たり前だよ。あのね琴葉さん、この人は生まれた時からずっと、王妃になるべくして育てられてきたの。それがいざその瞬間になって、田舎から出て来たばかりの小娘に奪われたんだよ? もっと想像してみて、この人の心を」

「うん……確かに、そうよね。この人の憎しみを、私はまだ理解し切れていないのかも」

 

 『奪われた令嬢アリステル』

 田中琴葉は、先日行われたオーディションに見事合格し、舞台の主演を勝ち取った。

 内容としては今しがた桃子が語った通り。

 とある王国にて王子の許嫁として、つまり次期王妃として育てられてきた貴族令嬢アリステルは、その為にありとあらゆる努力を積んできた。

 愛国心のため、両親の期待に応えるため、一族の誇りのため、艱難辛苦の日々に身をやつし、王妃として相応しい人間であろうとした。

 そして、彼女はあっさりと裏切られた。

 彼女を選ぶはずだった男に。

 彼はアリステルではなく、他の女を選んだ。

 よりによって、彼女とはまるで正反対の女を。辺境の地で生まれ育った小娘を。

 「お前のような女は見たことがない」

 などと、あまりにも下らない理由をつけて。

 だから、これはアリステルによる復讐の物語だ。自分を裏切った王子を、選ばれたにも関わらず相応しくなるあろうともしない女を、地獄の底へ叩き落とすための。

 

「うーん、流石に同じ体験は出来ないけど……身近なことで考えてみるといいんじゃないかな」

「身近なことって、例えば?」

「そうだね、とある役のオーディションに向けて体作りもセリフの読み込みも完璧に仕上げて、当日誰の目から見ても合格だって結果を残したのに、スポンサーの意向で素人に毛が生えたような人に役を獲られた時とか」

「や、やけに具体的だね桃子ちゃん」

「ソンナコトナイヨ」

 

 あぁ、これはそんなことあったやつだ。と琴葉は遠い目をしだした桃子をなだめる。

 子役時代も色々と大変だったんだよ。なんて語っていた桃子だが、時折漏れ出すエピソードから察するに語っている以上の苦労があったらしい。

 

「でも、ありがとう桃子ちゃん。練習に付き合ってくれて、とても勉強になるわ」

「……桃子は1番のセンパイだもん、これくらいとーぜんだよ。主演は舞台の柱なんだから、琴葉さんにはしっかりして貰わないとだし」

 

 頬をほんのりと赤色に染めながら、桃子は視線をやや逸らし、照れを隠すようにそう返す。

 シアター組どころか765ASを含めた中でもトップの芸歴を持つ彼女は、琴葉同様に今回の舞台オーディションを受けており、王子の妹役を演じることになっている。そこで琴葉は経験豊富な桃子に演技指導を申し入れ、今もこうして合同レッスンの真っ最中。というわけだった。

 自分の役もある中で指導を引き受けてくれた桃子に、琴葉は心の奥底から感謝している。この恩には、演技で報いる他ないだろう。

 

「桃子ちゃん、私頑張るね。私の演じるアリステルが、舞台の柱になれるように」

 

 せっかく掴んだ主演の座なのだ。

 カッコ悪いところは見せられないし、それでは誰も魅せられない。

 だから、観てもらいたい。

 田中琴葉が演じる、他の誰でもない、琴葉だけの令嬢アリステルを。

 

「うん、桃子も楽しみにしてるからね。琴葉さん」

 

 演劇部に所属しているだけあって、琴葉はすでに演技力を高めるための下地が出来ている。自分との練習を重ねれば、今はまだおぼろげな令嬢アリステルが確かな形を持つのも遠くない。桃子はそう考えていた。

 そして彼女もまた、その中で王子の妹──アリステルを慕う姫としての意識を強く持てる。これなら一石二鳥だ。

 

「じゃあ続けよっか。ここのシーンをもう一度頭から──」

「こっとっはぁぁーーーーっ!!!!」

 

 通しでやってみよっか。そう続くはずだった桃子の言葉は、レッスンルームの扉をぶち抜く勢いで入室し、琴葉に向かって飛びついた少女の声に飲まれ消えていった。

 

「う、海美ちゃん?!」

「やっぱり琴葉だーっ。ももちんがレッスンルームにいるって聞いたから来たんだけど、琴葉の声がするって思って!!」

 

 それで辛抱たまらず抱きついてしまったそうだ。頬を寄せてくる少女に、琴葉は思わず苦笑した。苦笑しつつ、安堵した。

 元気のあり余る少女──高坂海美。

 彼女は3週間前、『迅麻疹』という妖怪に取り憑かれ、望まぬ力に、(はやさ)に振り回され苦しんでいた。

 この世の理から外れた、魑魅魍魎の存在に出会ってしまい、妖怪事に巻き込まれて。

 彼女が抱えていた憧れを、羨望を、良からぬ方向に解釈されてしまった。

 妖怪事そのものは請負人である胡散臭い教師と、彼女たちのプロデューサーと、他ならぬ琴葉の手によって解決したのだが、海美にはそのときの記憶がない。

 だから、琴葉は海美のその後をずっと気にかけていたのだが、海美はいつも通りの海美だ。

 ダンサブルで、愛嬌たっぷりな高坂海美だ。

 

「……なんか最近の海美さんと琴葉さんって、距離が近いよね」

「そ、そうかな……??」

 

 なぜかジトっとした目つきでこちらを見てくる桃子に、琴葉は内心を悟られまいと可能なかぎりの平常心で言葉を返す。

 海美のスキンシップが多いのは今更だし、ここのところデュエット曲の練習で一緒にいることも多かったから、それで海美との距離が近いように見えただけだろう。

 すると海美はフニャッとした笑みを浮かべて。

 

「あははっ、だって私は琴葉が大好きだし、琴葉も私のこと好きだもんねー?」

「え、えぇ?! 海美ちゃん、それって……」

 

 確かに言った。

 迅麻疹が消える直前、琴葉は海美に対して大好きだと確かにそう言った。

 まさか覚えているんじゃないのかと、琴葉の顔に冷や汗が浮かぶ。

 

「へー、琴葉さん海美さんには積極的なんだね。いつ口説いたの?」

「く、口説いてなんかないよ……ねぇ海美ちゃん?」

「えーっとね──あれ、いつ言ってくれたんだっけ? 覚えてないけど、大好きって言われたのは覚えてる!!!!」

 

 良かった、どうも細かいところまで覚えている様子ではい、少なくとも妖怪の存在についてはすっかり忘れている。

 あの非日常の怪しい事柄については。

 

「そういえば海美ちゃん、桃子ちゃんに用事があったんじゃないの?」

 

 ともあれ、この話題は不味い。話の風向きを変えるべく、琴葉は一石を投じた。

 桃子がレッスンルームにいると聞いて来たのだと、海美はそう言っていたはずだ。

 

「うん、そうなんだ〜。あのね、プロデューサーから『次の収録が早まったから、事務室に集合』ってももちんに伝言だよ」

「あ、本当だ。スマホにも連絡入ってる、ありがと海美さん」

 

 桃子が電車に乗る際にマナーモードにして、そのままだったスマホを見てみれば、メッセージアプリにプロデューサーからの連絡が来ていた。

 内容を確認すると彼女が所属する5人組ユニット、『リコッタ』の番組収録を前倒しで行うことになったので、スケジュールの調整も兼ねて一旦事務室に集まって欲しい。との話だった。

 

「ごめんね琴葉さん。そういう訳だから、今日の練習はここまでかな」

「ううん、仕方ないよ。ありがとう桃子ちゃん。お仕事頑張ってね」

 

 と、この場はお開き。そんな雰囲気になり、海美は本人に気が付きもさせない速さで、桃子を背中に乗せた。

 琴葉も、桃子も、突然の出来事に数瞬固まってしまい。

 

「……えっと、海美さん?」

「ももちんお一人様、事務所までご案内〜っ!!」

「ちょっと海美さん?! 事務室なんてちょっと歩けば着くのになんでおんぶされなきゃぃ──」

 

 桃子はセリフを最後まで言い切ることなく、海美の背に乗せられてレッスンルームから輸出されてしまった。

 ……なんというべきか、心配し過ぎていた自分が滑稽に思えるくらいには、いつも通りの高坂海美だった。

 いつも通りの、高坂海美。

 元気で楽しそうな、エネルギッシュな海美を想いながら、琴葉は考える。

 ならば果たして今の自分は、田中琴葉は。

 いつも通りと、言えるのだろうか?

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「一応言っておこう、よく来たな田中」

 

 本当に思っているのなら、もう少し感情のこもった声で言って欲しい。

 田中琴葉はそう心の中で呟きながら、今しがた開いた視聴覚室の扉を閉めた。

 『迅麻疹』の件から1週間が経過して、珍しく追釜の方から呼び出しがきたので、なんの話だろうと訪ねてみればこの反応だ。

 しかも知らないうちに視聴覚室は電化製品が増え、ちょっとしたワンルームのようになっていた。

 

「それで追釜先生、今日は……その、どういった話なんですか?」

「まぁ、そう急かすな。とりあえずコーヒーでも飲もうじゃないか」

 

 急かすもなにも琴葉を呼び出したのは追釜であるのに、当の本人は素知らぬ顔でコーヒーメーカーを作動させ二杯のコーヒーを注ぐと、明らかに視聴覚室の備品ではないテーブルに置く。ご丁寧にコースターまで用意してある。

 仕方ないので席に着き、言われた通りコーヒーを啜ると、琴葉は追釜が全くカップへ口をつけないことに気がついた。

 

「……飲まないんですか?」

「あぁ、私は猫舌なんだ。少し冷めてからでないと飲めたものじゃない」

 

 猫舌。

 あの人間らしからぬ風貌と言動と力を持つ追釜が、猫舌。

 なんだかその事実がツボにハマってしまい、琴葉は自然と口元が緩んでしまう。

 

「どうした田中」

「あっ、えっと……ごめんなさい、追釜先生が猫舌だって聞いて、意外だなって」

「…………いや、気にするな。昔はよく兄達にも笑われた」

 

 すると、追釜はどこか遠い場所を見るような眼差しで、琴葉にそう言った。今までで、一番人間味のある表情で。小さく笑っている風に見えなくもない顔だ。

 もしかすると、これが本来の追釜大知なのかも知れない。そう思わせてしまうほどに、穏やかな顔だった。

 

「お兄さんがいらっしゃるんですね」

「あぁ、私は三人兄弟の末っ子でな。とても優秀な兄達だった」

「お兄さん方も、請負人なんですか?」

「……うむ、追釜三兄弟といえば、業界では結構名の通った請負人だ」

 

 淡々と、平坦な起伏のない声で、追釜は兄弟について語る。

 兄弟揃って請負人ということは、つまり追釜の家は家業として妖怪に関わっているのかも知れない。

 だとすれば、彼の妖怪への手慣れた扱いや、妖怪事に対する知見の広さも納得だ。

 

「それで、話だったな。そうだ、私はお前に話があるんだ。とても重要な話だ」

 

 いつになく、ハッキリとした前置きまでして。

 ようやくコーヒーに手をつけ追釜は一息つくと、琴葉の瞳を確認し、やはり無感情に、そして無表情に、事実を事実として語るべく──しかし普段よりほんの少し重い口調で、田中琴葉へこう告げた。

 

 

「……田中、お前は集妖体質だ。(あやかし)を集めると書いて集妖、つまり──お前の周りでは、今後も妖怪事が起り続ける。これは避けられないことだ」

 

 

 

 



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『献花蟻』其ノ貮

 

 

 

 周防桃子の人生は、例えるならジェットコースターだ。

 ノロノロと登るのには時間がかかるけれど、落ちていくときは一瞬。幸せになるのは大変で、不幸になるのはとても簡単だった。

 親の期待を背負い、なるべくしてなった子役。芽が出るまでの間、我慢と努力を重ねて、両親の笑顔が見たくて、彼女は界隈でも名を聞く名子役まで登り詰めた。

 そして、たった一度の失敗──いや、失敗と呼ぶべきなのかも分からない挫折が、全てを台無しにした。

 結果として、彼女は居場所を失い、家族の心もバラバラになってしまった。

 そんな桃子にとって、765プロダクションは新しい居場所だ。

 少なくとも桃子は今、心からそう思っていた。

 劇場(シアター)に行けばアイドルの仲間がいて、他愛のない話も、夢に向き合った真剣な話もできる。

 誰も彼もが一癖も二癖もあるメンバーだけれども、彼女自身もそうあるけれど、皆んながアイドルに対して本気だ。本気で、トップアイドルを目指している。だから時にはぶつかる事もあるし、どうしても分かり合えない日だってある。

 けれど、だからこそ、彼女達はどこまでも高く高め合えるのだ。

 ゆえに、周防桃子はトップアイドルを目指す。プロとして、アイドルとして、そして。

 

(桃子が一番になったら……そしたらまた)

 

 ──家族三人で暮らせるのかな。

 

 そうなれば、どんなに素晴らしいことだろうと桃子は思う。三人で笑っていた、笑い合えていた、あの頃のように。あれは桃子にとって、紛れもない家族だったから。

 特にきっかけがあったわけでもない。

 なんとなくだ。

 ふと、道を歩いていたら楽しそうに手を繋ぐ同年代らしき親子を見つけたものだから、ちょっと感傷的になってしまっただけ。

 それで、桃子は物憂げな表情を浮かべ──

 

 

「うひょほーっ!! 桃子ちゃんセンパイの憂いを帯びた貴重な横顔いただきました!! ムフフ、これはお宝フォルダ行き決定ですぅ〜」

 

 パシャリと、シャッターを切る音が聞こえる。

 答えは分かりきっていたけれど、それでも一応音の鳴った方を確認すると。

 自前のカメラを構えながら、頬を紅潮させる赤髪ロングツインテールドルオタアイドル──もとい松田亜利沙の姿がそこにはあった。

 なので、桃子は簡潔に言った。

 

「今すぐデータを消すか、明日から桃子に空気として扱われるか、好きな方を選んでいいよ亜利沙さん」

「…………消しました」

「のり子、今の見とった? あんな質問に悩みよったで亜利沙、具体的には三点リーダー四個分くらい」

「そうだねぇ悩んだねー、具体的には2カウントくらい悩んだね」

 

 苦渋の選択の末、お宝写真を消去した亜利沙。

 その様子に呆れ半分面白半分のコメントを残したのは、同じユニットに所属する横山奈緒と765プロレスマイスターこと福田のり子だ。

 そして、この四人に。

 

「あはは……具体的過ぎて逆に分かりにくいよー。でもダメだよ亜利沙ちゃん、本人の許可はちゃんと取らないと」

 

 765ASの顔役、センターオブセンター天海春香を加えた五人。彼女たちは『リコッタ』という名のユニットで活動しており、今日も一仕事を終えての帰り道であった。

 いつも通りの帰り道。

 桃子の隣では奈緒とのり子が楽しげに笑い、春香は平常運転過ぎる亜利沙へ、困ったように眉を曲げる。

 そして困り眉の春香に、やんわりと注意された亜利沙はと言えば。

 

「亜利沙、反省です〜。ごめんなさい、桃子ちゃん」

 

 ペコリと頭を下げて、桃子へ謝る。心なしか触覚に見えるツインテールも、本体と連動してしょんぼりしていた。

 

「……もう、別に怒ってないよ亜利沙さん、嫌なときは嫌って言うから」

 

 今回のような顔は撮られたくないけれど、自分でも気がつかなかった表情を収めてくれる亜利沙の写真は、桃子としても決して嫌いではない。

 

「うぅ、桃子ちゃんセンパイの優しさが心に染みます……それに春香さんの困り眉を見られましたし、コレはこれで……ムフフ〜」

「無敵かて、説教もご褒美ってどないせぇっちゅうねん」

「次にやらかしたらコブラツイストいっちゃう?」

「あの……そのぉ、流石にそれをやられちゃうと亜利沙の明日が危ういといいますか……」

 

 おっかなびっくりの亜利沙へ、のり子は冗談冗談と笑いかけるが、日頃からプロデューサーへプロレス技をかけにいく彼女の姿を知るリコッタのメンバーとしては、笑うに笑えないやり取りであった。

 

「でもさ、なんか久しぶりな気がするよ。こうやってリコッタで散歩するのも」

「散歩じゃなくて仕事帰りだよ、のり子さん。でも久しぶりなのは、そうかも」

「そうだね、最近はニコマルの移動が多かったから」 

「ま、今日みたいのはレアケースやんな」

 

 ニコマル、というのは劇場が所有する八人乗りの公用車である。ナンバープレートが250なので、シアターの人間からはもっぱらニコマルと呼ばれていた。

 五人以上のユニットが移動する際には基本このニコマルを使用するため、仕事のタイミングが被らないよう調整しているのだが、今回は収録の前倒しがあったこともあって、田中琴葉率いる灼熱少女(バーニングガール)と時間が重なってしまった。

 なので運転手もといプロデューサーはそちらへ付いていき、比較的近場での収録だったリコッタのメンバーは、最寄りの駅からシアターまでの道をぶらりと歩いていたわけである。

 時間にして30分程度の道のりだ。

 駅から川に向かって進み、川沿いの開けた道を5つの影が連れ添って歩く。

 

「確かに車移動は楽ですし、身バレを防ぐ意味でも安全ですけど……亜利沙は結構好きです、こうして皆で歩いてる時間も」

 

 夕陽に照らされた道へ、長く影を落としながら、取り止めのない会話をして歩くこの時間が。

 そんな亜利沙の言葉に、桃子は無言で頷いた。頷いて、肯定した。

 桃子にとっても、今という時間はかけがえのない大切なものだったからだ。

 バラバラのシルエットが、落ちていく太陽の光に伸ばされて、それでも5つ並んでいる。

 それは、まるで本当の家族みたいで。

 

「……せやな、たまにはええ気がするわ。運動にもなるしなっ!!」

「奈緒、照れ隠しにしては強引なんじゃない〜? 気持ちは一緒だけどさ」

「ほっとけ!!」

 

 そっぽを向いた奈緒だったが、横から見える頬には朱が差していた。

 

「ふふ、じゃあ帰ったら皆でマドレーヌ食べよっか。新しい味にも挑戦したから、たくさん食べてね」

「やたーっ!! 春香さんのマドレーヌ……亜利沙っ、想像しただけで今日の疲れが抜けていきますぅ〜」

「げげ、今月美奈子のとこ行き過ぎて減量せなあかんのに……」

「昨日も同じこと言いながらクレープ食べてたじゃん」

 

 のり子の暴露にピシリと固まる奈緒、恐る恐る目線を隣に向けてみれば。

 

「奈緒さん、2週間後に、ライブがあるの、忘れてないよね?」

 

 1単語ごと区切るように桃子の忠言が突き刺さる。

 

「あ、当たり前やん。バッチリ覚えとりますって。こっからガンガン絞りますんで、見とってください」

「奈緒ちゃん、敬語敬語」

 

 敬語になってる。と春香に突っ込まれ、苦笑いする奈緒へジト目を向ける桃子。

 その様子をのり子はケラケラと笑いながら見守り、亜利沙は今度こそはとカメラを構えようとする。

 そんな五人の姿は、一枚のスナップショットのように輝いていた。

 肩肘を張らずに、素のままでいられる場所。自分の居場所。もう一つの家族。

 周防桃子にとって、リコッタとはそういう存在だ。

 だから。

 ほんの少し、ほんの少しだけ、気が緩んでいたのかもしれない。

 収録は無事に終わり、後はシアターに帰るだけ。もちろん765プロの就業規則では仕事終わりの帰り道だって勤務時間の一部であるし、もとよりプロ意識の高い桃子は当たり前のようにそれを弁えている。

 けれど、この暖かい空気に包まれて、前を向いた彼女をいったい誰が責められるのか。

 前を向いて、足元が見えてなくて、そして。

 ──クシャっと、なにか柔らかいものを踏んでいった感触に、桃子は足を止めた。

 今しがた通ったばかりの道を見てみれば、自分の歩いていた道の端っこに、包装された白いバラの花束が落ちていて……いや、落ちていたではなく、置いてあった花なのだろう。

 これは献花だ。

 桃子がそう気付けたのは、近くに背の低い台があって、そこにも花が置かれていたからだ。

 事故現場などに、死者を弔うために置かれる花。死者の安寧を願う花。

 

「あっ」

 

 それを自分が踏んでしまった。

 決してわざとではない。前方不注意というか、足元の花に気が回っていなくて、夕陽に気を取られていたから。

 

「ん? 桃子、どないしたん?」

「えっと、その……花が、」

 

 奈緒に聞かれて、桃子は咄嗟に返事ができず、言葉に詰まってしまった。

 責められてしまうかもと、仲間に──家族に、ほんの少しでも嫌われたくなくて。

 献花を踏んでしまったと、言えなかった。

 

「あれ、なんだろこれ」

「花……ですね、白いバラの花束です。これは──」

「献花、かな? ほら、隣にあるの小さいけど献花台だよね」

 

 桃子がまごついているうちに、他のメンバーも献花を見つけて集まってしまい、彼女はますます言い出し難くなっていく。

 

「ありゃ、これ踏まれとるやん。罰当たりやなぁ〜」

 

 さらに奈緒が、桃子の踏んでしまった花を台に戻しながらそう言ったものだから、彼女はつい──

 

「そ、そうだね。酷いよね、花を踏んでくなんて」

 

 嘘を、吐いてしまった。

 花を踏んだのが自分だとバレたくない一心で、それは駄目だと分かっていたけれど。決して許されない嘘を吐いてしまった。

 口にした後で、心に罪悪感が沸々と沸いてきて、立ちくらみのような感覚が桃子を襲う。

 言うんじゃなかったと思っても、もう遅い。吐いてしまった嘘は呑めない。零した言葉はすでに染み込んでしまっている。

 覆水盆に返らず、だ。

 後悔するくらいなら最初から言わなければよかったのに、どうして素直に告白できなかったのか。今からでも喋った方がいいんじゃないか。

 グルグルと思考が脳内で渦を巻き、桃子は両手を強く握りしめた。冷や汗が止まらない。自然と目線が下がっていって、そして彼女は見た

 

「────え?」

 

 自分の足元に群がる、まるで現実感のない、純白に染まった蟻の群れを。

 さっき自分が踏みつけた、バラのような白色をした、輪郭の曖昧な蟻の群れ。

 グラリと桃子の視界が揺らぐ、足が震えて自分の体重すら支えられなくなりそうで。

 薄れゆく意識の中、仲間が自身の名前を叫ぶ。その記憶を最後に、桃子の意識はプツリと釣り糸が切れるように途絶えた。

 まるで直滑降に落ちていく、ジェットコースターが如く。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「琴葉、まだ残ってたのか?」

「あ、プロデューサー。はい、帰ってきたら桃子ちゃんと自主練をする約束なんです」

「研究熱心だな、プロデューサーとしては嬉しい限りだが……ま、程々にな」

 

 分かってますよ。と、琴葉は苦笑するプロデューサーへ笑い返した。

 灼熱少女(バーニングガール)としての仕事を終えた琴葉は、他のメンバーを見送ったあと、中断していた桃子との演技指導を行うためシアターに残っていた。

 先ほど駅を出たと、琴葉の携帯へ連絡が来たのが20分前のことなので、もうそろそろ着くはずである。なので先に準備だけでも終わらせようと思い、琴葉はレッスンルームの床に箒をかけていたわけだ。

 少なくとも、こうして無心でいるうちは、あの日追釜に言われた言葉について、考えずに済むから。

 集妖体質という、言葉の意味について。

 その言葉が指す、彼女の身の周りで起こるであろう出来事について。

 すると、そんな琴葉の考えを覗いていたかのように。

 

「なぁ琴葉、ガマ先の話ならとりあえず頭の隅にでも置いといた方がいい、思い詰めるのはよくない癖だ」

「でも、気にしないわけにはいきませんよ……私のせいで、もしまた──」

 

 海美ちゃんのようなことがあったら、どうすれば良いのだろう。

 追釜曰く、集妖体質には先天的なものと後天的なものとの二種類があり、琴葉は後者であると告げられた。これは不幸中の幸いであるというのが、追釜の弁であった。

 つまり、後天的である以上はなにかしらの原因があるはずで、その事実は根元を断てば体質が変化する可能性を示している。

 だから気に病むなと、プロデューサーは琴葉を励ましたけれど、それでも彼女の心には痼りが残っていた。自分の体質が原因で、苦しむ人が出てきてしまうんじゃないかと、恐れずにはいられなかった。

 

「琴葉のせいじゃないだろ?」

 

 でも、だからこそ、プロデューサーは琴葉へ断言した。

 

「本当に……そうなんでしょうか。私やっぱり怖いんです、また他の誰かが妖怪事に巻き込まれてしまったらって、そんな事ばかり考えちゃって」

「その時はまたガマ先も巻き込んで解決するさ。それにな、妖怪ってのは在るべき理由を持ってそこに在るんだ。琴葉の体質は……まぁ、オマケみたいなもので、眠っていた問題を起こしただけなんだって俺は思ってるよ」

 

 確かに『迅麻疹』が現れたことで高坂海美は苦しんだけれど、その原因になった底なしの憧れは、もとより海美が持っていたもので、彼女の奥底に眠っていたものだ。

 迅麻疹と向き合うことで、自分の羨望と対峙することで、海美は今の自分を認めることができた。憧れ過ぎることをやめて、自分を好きでいてくれる人のために一所懸命になれた。

 問題の先送りならぬ、先取り。

 遅延させるのではなく、対面させる。

 いつかは解決しなきゃならなかった問題に、向き合う機会を作っただけ。

 

「だから、あまり自分を責めるなよ。余計なものまで背負うことはない、その辺の些細な問題は俺とガマ先にでも任せときゃいいんだ」

 

 プロデューサーはただでさえ色々と背負いがちで、気負いがちな琴葉に、必要以上の重荷を持たせたくなかった。

 本音を言えば追釜に文句の一つでも言いたい気分だったけれど、あの表情筋の死んだ国語教師は余計な嫌味は言っても無意味なことは口にしない。

 その点において、プロデューサーはある意味では追釜大知を信用していた。

 

「だいたい、そんな顔してたら桃子に心配されるぞ──琴葉さんやる気あるの? ってな」

「……ふふっ、そのセリフが心配している扱いになるのが、桃子ちゃんらしいですね」

 

 全く似てないプロデューサーの声真似に、彼の気遣いに、琴葉はようやく思い詰めていた表情を緩めることができた。

 全てに納得して、開き直れたわけではなかったけれど、今悩んでも仕方がないというプロデューサーの意見にも一理あると思ったから。今どれだけ琴葉が思い悩んだところで、この体質が変わったり、状況が好転したりもしない。

 なら、せめてこれまで通りの生活を真っ直ぐ送りたい。その上で、もしもの時に向けて、再び妖怪が現れるその瞬間への覚悟を決める。

 『噂笠』に襲われて追われた時、初めて妖怪と出会った時、琴葉は何もできなかった。それは仕方のないことだ、あの時点での彼女は当たり前の一般人で、抗う術を知らなかったのだから。

 けれど琴葉は、『迅麻疹』から海美を呼び戻した。たとえ妖怪が相手だとしても、自身の持つ信念を、仲間への気持ちを曲げなければ、その手が届くことを知った。

 で、あるのなら──

 

 

 ────pipipipipi!!!!

 

 着信音だった。

 極々ありふれた、携帯の初期設定にあるような電子音。それがプロデューサーのジャケット、正確にはそのポケットから鳴り響く。

 

「っとと、着信だ。春香からだな……もしもし?」

 

 桃子を含むリコッタのメンバーと一緒に、こちらへ向かっているはずの春香からの着信。

 なにかトラブルでもあったのだろうかと、疑問と不安の入り混じった表情で、琴葉はプロデューサーと春香の通話を見守る。

 

「あぁ、分かった。すぐに行くよ。すぐに行くから、落ち着いて待っててくれ」

「プロデューサー。あの、何かあったんですか?」

 

 通話を切ったプロデューサーは、緊張を滲ませた琴葉の問いかけに、いつも以上に真剣な顔色で。

 

「桃子が倒れた。救急車で病院に搬送されている最中らしい、俺はそっちに行く」

「──っ!! じゃ、じゃあ私も」

「いや、琴葉には一つ頼みたいことがあるんだ。とても大切なことだ」

 

 自分も病院に行きますと言おうとした琴葉を、プロデューサーは視線で制し、それ以上に重要なことがあるのだと語って、首筋へ手を当てながら言った。

 

 

「──追釜先生を連れてきてくれ。当たって欲しくないが……嫌な感じする」

 

 

 

 



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